赤彦全集第4巻、岩波書店、630頁、2200円、1930.4.15初版、1969.8.25.再版
 
第4巻 歌論歌話 2
 
寫生雑記………………………………………11
短歌小觀………………………………………13
新名につきて…………………………………16
寫生趣味について……………………………21
アララギ編輯便 1 …………………………26
アララギ編輯便 2 …………………………28
阜上偶語………………………………………34
寫生道 1 ……………………………………37
寫生道 2 ……………………………………43
短歌に於ける主觀の表現……………………49
短歌に於ける人事と自然……………………53
山房獨語………………………………………55
山房獨語 2 …………………………………58
田辺元氏の「歌道小見を讀む」について…60
歌論歌話………………………………………69
和歌漫語………………………………………71
眼に触れたる和歌を評す……………………78
短歌小觀………………………………………91
橘曙覽…………………………………………98
短歌小觀………………………………………116
新体詩に就て…………………………………122
短歌小觀………………………………………125
屠蘇漫言………………………………………134
漫言……………………………………………137
返書……………………………………………145
佐久間象山の和歌……………………………149
和歌の傾向……………………………………168
連作の歌………………………………………174
漫言……………………………………………187
歌壇隨感………………………………………194
短歌研究………………………………………197
「アララギ」を讀む…………………………203
同人評…………………………………………206
民部里靜君……………………………………206
齋藤茂吉君……………………………………209
木外居士の和歌………………………………213
堀内卓君逝く…………………………………216
短歌研究………………………………………218
アララギ雜言録………………………………223
十周年雜感……………………………………224
漫言……………………………………………227
「アララギ」第四卷の歌 …………………232
明治四十四年の歌……………………………236
漫言……………………………………………240
瞬間と微動……………………………………254
和歌の傾向……………………………………257
長塚さん………………………………………272
歌集「切火」諸家合評後言…………………278
土岐君に答へる………………………………280
乙字氏歌評に就て……………………………283
土岐兄に………………………………………291
本年の歌壇に就て……………………………293
阜上偶語………………………………………297
北原白秋氏に就て……………………………297
斬馬生の言に就て……………………………303
前田夕暮氏に与ふ……………………………307
阜上偶語………………………………………313
太田水穂氏に与ふ……………………………315
三井甲之氏の辯駁に就て……………………321
阜上偶語………………………………………327
三井氏の歌評に就て…………………………331
三井甲之氏に…………………………………333
「なむ」の議論につきて……………………337
阜上偶語………………………………………341
甲之氏の作歌例と批評例……………………342
獨創的批評を望む……………………………349
阜上偶語………………………………………352
大隈言道の歌…………………………………355
再び言道について……………………………360
大正七年の「アララギ」……………………364
俳句の藝術的價値……………………………374
「アララギ」巻頭言…………………………375
短歌と文壇……………………………………376
阜上偶語………………………………………379
齋藤君に就いて………………………………381
六杉園小谷古蔭………………………………383
齋藤君…………………………………………392
技巧に就きて…………………………………395
左千夫先生と信濃……………………………398
阜上偶語………………………………………407
大正八年の「アララギ」……………………418
個々の作に就て見よ…………………………423
三井氏に答ふ…………………………………425
「アララギ」卷頭言…………………………428
竹柏園歌話の一節につきて…………………429
西村陽吉氏に答ふ……………………………433
芭蕉の全心……………………………………435
問者に答ふ……………………………………438
齋藤茂吉………………………………………441
感想……………………………………………442
短歌と日常生活………………………………443
秋をうたつた歌………………………………448
子規の歌一首…………………………………452
山房獨語………………………………………453
水穗白秋二氏の歌……………………………455
白秋氏の歌ども………………………………460
水穗氏の歌を評す……………………………464
山房獨語………………………………………468
太田水穗氏の詞………………………………471
前田夕暮氏に質す……………………………477
再び北原白秋氏に言ふ………………………483
前田夕暮氏の答………………………………485
三たび白秋氏に………………………………492
前田夕暮氏の答 つづき……………………495
即感録…………………………………………506
白秋氏のことば………………………………508
歌道座談………………………………………515
山房獨語………………………………………539
新派の名………………………………………539
用語のこと……………………………………540
集團のこと……………………………………542
「灰燼集」卷末小言…………………………544
「アララギ」の発生時代……………………547
山房獨語………………………………………554
歩き話…………………………………………557
幽寂境…………………………………………559
雜纂
湯川寛雄氏編「しのぶ草」の序……………565
橋田東声氏編「現代名歌選」の序…………566
山田邦子氏著「光を慕ひつつ」の序………569
「萬葉集檜嬬手」重版について……………570
「灰燼集」はしがき…………………………572
村上成之氏著「翠微」序……………………573
「アララギ年刊歌集」はしがき……………575
雜稿……………………………………………577
質疑應答………………………………………594
 
(11) 寫生雑記
 
(13) 短歌小觀
 
 長塚氏近來寫生歌をはじめしより、古來餘り詠まれざる動物植物の名が大分根岸派の歌に見え來れるは、一の新現象と言ふべし。梅といひ、櫻といひ、萩といひ、尾花といひ、鶯といひ、時鳥といひ、鹿といひ、梟といひ、古より定まり來れる鑄型を捉へて歌人自らその中に跼蹐し、絶えて自家の新生面を發揮し得ざりし習弊に對して、根岸派の態度げにさもありぬべきなり。されど、陳腐を脱するは、全要件にあらずして一要件なり。陳腐を脱し得る位の事は、寧ろ乎々易々のわざにして、吾人の難事は如何にして陳腐を脱し得たる詩美を發見せんかに繋れり。極まり切つたる事の樣なれど、この心掛甚だ大切にして、且つむづかし。未だ詠まれざる草木花卉のをかしさを取り出でたりとも、そのさまによりては、必しも新しからざるべく、已に詠みふるされたるものなればとて觀察配合の如何によりて、新しき生命も生れ來ぬべし。且夫れ、新しきがよければとて、普通の人のあまり耳近かりぬものを、己が知るに從ひて濫りに取り出でんこと果して如何あらん。地球上の生物は、その數實に無限な(14)り。植物のみにても十數萬種を下らず。花咲くもののみにても十四萬種ありといへば、これに亞種亞變種などを加へなば、其の夥多しさ如何ばかりぞ。日本は寒温熱三帶の生物こそあれ。人々の知るに從ひて皆がら歌ひ示さんこと所謂一人よがりに陷る基なり。長塚氏は歳時記に多くの動植物あることをいへれど、俳句の季題なるものは、格別の規約の下に一種限定せられたる聯想を有するものにして、之を以て直ちに和歌に考へ合はすべきにあらず。「敢へて智識といはず、路傍に生ずる草花の一二を取つて之を詠ずるも、直ちに珍奇たり難解たるに至つでは決して誇るべき所以にあらず」といへど、路傍に普通生ずる草の種類は随分澤山なり。その名を知り悉さんにも數年の根氣にては能ふべからず。一二種を取り出でて、それを知るの人は、全般を知るの人ならざれば能はずとせば、註文に於て已に無理ありといはざるべからず。
 吾人は、必しも新しき動植物の名が、諸同人の歌詠に現るるを厭はず。否、その新動植物が、悉く我先輩偉人のかつて硝子窓花瓶等の新庶物までも詠じこまれたる如くに、よく消化し、よく活動し居らんには、雙手を擧げて詩美の開拓に驩喜の情を表すべし。されどその流弊が往々無意味なる新草名の排列に止まり、若くは、徒に多數人士の首傾けらるる蟲名の指示に止まるが如きに至つては、吾人は、寧ろ、根本よりその詩趣の涵養に新しき修養を望むを以て、適當にして、急務なりとせざる可からず。要は詩趣の開拓にあり。詩趣の涵養は根本なり。詩材の取捨は枝葉なり。枝葉も必要なれど、(15)根本は更に必要なり。吾人は斯く述べて寫生歌作者に一顧の勞を煩すものなり。   (明治三十八年「比牟呂」九月號)
 
(16) 新名につきて
 
 ここに所謂新名とは、新しく名付けたる物の意にあらず。近來寫生歌の發達に伴ひて、今迄あまり耳馴れぬ動植物の名が歌に現るるを假りに斯く呼びたるなり。寫生歌につき新名につきての愚見は、今囘發行の「比牟呂」誌上に少々述べ置きたれば略すとして、「馬酔木」二卷四號に載れる所謂新名の歌につきて、心づきたる一二を左に掲げて、長塚氏及び作者の高教を乞はんとす。新名といひても、必しも新名にあらず。寫生歌といひても、必しも他の主觀を加味せる作歌と分つ能はざるもの多ければ、予がここに擧ぐるものは、「馬酔木」中、長塚氏選のものに限ると承知あり度し。
 同じく新名を詠み入るるにも、そを主材とすると、副材とするとは用意異るべし。前者は隨分難事なり。その物の特徴と景情とが截然と表れ居らねば新しきものを選擇したる功全く滅却すべければなり。動植物の各種は、学問上より觀察すれば、皆夫々の特徴ありて、そを言ひ現さんことさして難事にあらざれど、詩美の上より見ては何等の價値も存せず。吾人はその詩美を發挿せざるべからず。景(17)情を活躍せしめざる可からざるが故に大なる苦心を重ぬるなり。此の苦心なくして漫然と新事物の題詠に從ふ。踏み外さずんば幸なり。勿論、寫生歌なるものは、久しき歴史を有せるものに非ずして、今恰も發達の途上に在るものなれば、完璧を以て之を律するの酷なるは云ふまでもなけれど、讀過の際作者の不用意歴々として指摘すべきが如きは、決して慶すべき所以にあらず。
   紫の外側の四ひら皆散りてなかの四ひらは咲かぬテダマキ 幾句拙
 「テダマキ」は虎耳草科植物の「テマリバナ」なるべし。
  外四片といへるは萼にして中の四片が花瓣なり。萼先づ散りて花未だ咲かぬといふことを説明的に敍したりとて歌にはならず。格別の工夫あるべきこと勿論なり。
   石垣のひまゆ生ひ立ち莖のびて黄色に咲けるクサノワウの花 胡桃澤勘内
 「クサノワウ」は罌粟科植物にして毒草なり。大抵の人皆知りたらん名なれど、特徴を捉ふるに難かるべし。この歌は如何にも「クサノワウ」らしけれども矢張り説明に傾けり。失敗と云はざるべからず。
   井戸尻の濁れる水の落ちたまる溝に生ひさく毒芹の花 同人
   犀川の岸になみ立つ胡桃の木雄花はさけど雌花乏しも 同人
 二首皆説明たるに過ぎず。何處に詩美のをかしさありや。「犀川の岸になみ立つ」と云ふ如き大景(18)に對して、胡桃の雌花を取り出でたる不釣合の極といふべし。
   安曇なる小倉松原赤松の花咲きみちて曇る此頃  同人
 松の花は極めて小さきものにして、普通人の注意を惹くにも足らぬものを「安曇なる小倉松原」といひて展望的語法に配合せんとしたる不用意といふべし。
   霜よくとまだき焚きたる松の葉の灰吹きつくる蒲公英の花 古屋夢拙
 茫漠捕捉し難き歌なり。何の霜よけかが第一不明なるは飽足らず。「まだき」とは何の意味なりや。「朝まだき」など云ひ、「まだき咲く」など續けたるを聞けど「まだき焚く」とは如何のものにや。且つ「灰吹きつくる蒲公英の花」にては主材なる蒲公英の位置多少等甚だ明瞭せず。從つて、一首誦了して、何等の印象をも讀者に與へざるに非ずや。
   錢になれと黄金になれと幼兒の丸めて甞めて手に打つ茅花 同人
 はし書なくては介らぬ歌なり。「丸めて甞めて手に打つ」と動作甚だ精察に寫してあれど、錢になれ黄金になれが、うまく連絡して分らず。茅花は、短き禾本科植物の花にして、葉を出づるとき已に穗状をなせり。それを丸めて甞めるといふ事もどうも解し難し。(食ふ事はあり)寫生の歌なるべけれど、斯る種類には端書《はしがき》が欲し。且つ、此の歌は一首の中第四句まで讀みたるにては何のことやら少しも分らず。第五句を得て、始めてその茅花なる事を解すべきなれば、更に茅花の歌として今一度讀ん(19)で見ざる可らず。頗る不用意往々ある事なり。戒むべし。
 此の外にも猶あるべけれど、省略して、序ながら長塚氏の歌につき一二の疑問を敍べて教を乞はんとす。
       炭焼くひまの内
   炭竈の灰掻き篩ふ垣の外の竹の林のなるこ百合の花
 第一「垣の外」と特別に斷りたるより見れば、作者は垣の内にありて之を見るか。若くは、自身が灰掻き篩ふとして、垣に對し、將た垣の内外に對して動作の關係を想ひ起さざる可からず。斯る想起は此の歌に対して必要なりや否や解し難し。若し「垣の外」に極めて輕き意味を持たしめんとならば、「炭がまの灰かきふるふ」の如き重き動作を冠せしむべきにあらず。
 第二 竹の林は大なる景物なり。灰かき篩ふは小局部の動作なり。二者の連絡果して順當なりや。
 第三 なるこ百合は、小さき百合科植物にして、叢生する者に非ず。その植物と炭がまの灰掻き篩ふと如何なる關係と配合とをなせるや不明なり。愚見にては「なるこゆり咲ける竹林の下に炭がまの灰かき篩ふ」とやうに順を追はば、或は穩當を得るに非ざるかと思はるるが如何。
   ※[木+解]木のふさに垂り咲く花散りて世の炭がまは燒かぬ此頃
「房に垂り咲く花」はあまりに説明めかずや。單に房花など言へば事足る心地す如何。「世の炭がま(20)は燒かぬ此頃」は他の炭竈は燒かずなりたれど、我炭竈のみ燒き居りとの意自ら表れ居り、複雜なれども却つて巧に過ぎざるか。
 「世」といふ詞も炭竈に對しては大袈裟なりおと覺ゆ。「大方」などあらまほしき所なり。
 我が言ふ所果して當れりや否や知らざれど、言つて見ねば、自らも介らずして終る譯なれば、紙上を借る事としたるなり。
 終りに寫生撰歌中氣に入らたるものを左に掲げん。
   はちす田の水を乏しみ新葉まく蓮が下の田がらしの花
   土かひて藁とりしける庭畑のオランダ苺花さきにけり
前者暑苦しき感よく現れたり。後者土かひて花さくを待ちしオランダ苺の實物を見る心地す。
   つみ藁の亂れくづれし垣の外に引きすて大根花莖立てり
「花莖立てり」がよく利き居る心地す。   (明治三十八年「馬醉木」九月號)
 以上二篇に「寫生歌」と言ふは、當時、長塚節氏が新動植物その他を取材として、特に寫生歌と自稱して作歌せしを指せるのである。   (大正十四年十月追記)
 
 寫生趣味について
 
 乙字・八風二君が、寫生趣味から出發した根岸派文學の徑路を系統的に分析して論ぜられたのは、甚だ明快に感じた。活現法から暗示法に進み、外面的印象明瞭から内面的感想描寫に移りつつあるは、確かに、根岸派文學の一進歩である。乙字氏は、暗示法は活現法よりも進歩してゐると云はれた。八風氏は、客觀的印象明瞭の俳句は、今後發展の餘地なきかの意味に説かれたやうだ。併しながら、主觀的敍法に踏入つたが爲に客觀的敍法を輕く見るといふ事は、今の所自分にはどうも氣が向かない。客觀的描寫と云つても只事物の並列ではない。必ず作者の性格に溶化せられた特殊の趣味を備へたものである。少くも根岸派文學は此の根據を確實に捉へて居る。(明星派の輕薄なるは此の根據の淺きに出づるものである)凡そ、吾人の情操は、單に主觀的に發表せねば濟まぬ場合もある。若くは壬觀的に發表せずとも、客觀物を假りて之が生命を活躍せしめんとする場合もある。斯の如き場合の客觀的敍法は、外面は靜象であつても、内湎は動象である。甲之氏は一木一草を描いても淫靡であると云(22)つて居る。其處である。一木一草を描いて淫靡なのは、畫家の性格が淫靡なる故でゐる。畫家の性格が高尚であれば、一木一草を描いても、猶其處に高尚な性格が躍るであらう。吾人が正岡先生の創められた寫生趣味に興味を持つてゐるのは、決して寫生其の物の外觀に興味を有するのではない。外觀を透して動きつつ見ゆる正岡先生の心持に興味を持つてゐるのである。
   縁先に玉捲く芭蕉玉解けて五尺の緑手水鉢をおほふ
 只縁先の芭蕉である。其の芭蕉の新葉が手水鉢にかぶさつてゐるのである。材料は夫れ丈けであるが、歌の生命が別に存するといふのは、正岡先生の性格の一部が雄健に渚高に一首の上に動いてゐるからである。
   松ながら折りて捧げし藤波の花は筵をひきずりにけり
 此の歌を讀んで莊重優麗の感を起さぬものはあるまい。藤の花が莊重でもない。筵がどうしたのでもない。只正岡先生の感じが藤や筵を通して、莊重優麗に我々に傳はるのである。斯る例は俳句を擧げても、和歌を擧げても、寫生文を擧げても同じであらう。客觀的作物に作者の性格が活動する位の事は甚だ陳腐の説であらう。併し乍ら、吾人が寫生趣味客觀趣味を輕く見能はざる理由は主として此處に存するから、勢ひ、斯樣なことを言はねばならぬ次第になる。已に客觀的作物も一種の主觀的發表である以上、又已に吾人の主觀は時々刻々に、而も永久に進歩發達すべき活物である以上、客觀的(23)作物は決して時期を限つて死滅し荒廢すべきものにあらずと信じたい。若し荒廢するとせば人類の進歩が止つた時である。人類の進歩が止つた時は主觀的敍法と雖も同時に死滅する時なりと信じたい。即ち主観的敍法、客觀的敍法と云ふとも、文學上の立脚地に於て、寸毫の梏桎あるものに非ずと信じたい。正岡先生は、自己身邊のもの悉く鋭敏なる趣味眼を以て觀察せられた。枕元の寒暖計も歌つて居られる。障子の影法師も歌つて居られる。机上に積み重ねた書物の有樣まで歌つて居られる。吾人の趣味を開拓進歩せしむれば、身邊の凡百皆詩ならざるはなし。嚴密に云へば、庭上見る所の一草一木と雖も、昨の見る所と、今の見る所と觀察に於て寸毫の差異なきは、已に其の人趣味の停滯を意味して居らねばならぬ。趣味の修養に刻々の停滯なき以上、客觀的描寫も亦永久に新しい生命を有する者と云はねばならぬ。此の意味に於て、主觀客觀などの問題に餘りに没頭すれば、往々趣味修養の根本義を失ふの惧ありと信ずる。
 寫生趣味について猶一言したい。寫生は一面吾人感情の發表法なると共に、一面吾人の趣味修養法である。主觀的敍述に偏する者は、往々、その詩想を貧弱にし菲薄にする。之に反して、客觀物の觀察注意は、吾人の詩想を常に豐富にする。元來主觀と云つでも、客觀の印象を根據とせねば成り立つ者でない。客觀の印象貧弱なる者は、その主觀も從つて貧弱菲薄であらねばならぬ。此の點に於て、寫生的觀察と寫生的描寫とは、吾人の主觀を常に健全に豐富に清新に導く者である。「馬醉木」の初期(24)に、石原純君が引力の理論を歌に作つたことがある。引力の歌など日本始まつて以來稀有の事であらう。處が、あの歌は非常に振つてゐた。詩人などは、事によると、物理學など云ふ面倒な者は大嫌ひに嫌ふものである。無味乾燥なものとして手を附けぬが普通でゐる。然るに、石原君は引力の歌を作つて立派に成功してゐる。之は石原君が詩を作らんとして物理學を學んだものでは恐らくあるまい。併し、君は物理學を學んだ爲に、引力説と君の趣味と相觸れて引力の歌が出來たのであらう。物理を學んだのは勿論寫生とは違ふ。違ふけれども、具象的の研究をしたのは同じである。寫生の第一義は、吾人思想の發表なるに相違ないが、第二義としては同時に又思想修養の要諦である。此の要諦を遺却して、漫然主觀的敍法の一途に腐心する、誤らずんば幸である。寫生ばかりして居れば健全な思想が形づくられるといふのではない。根本に更に深い修養あるべきは勿論である。只、此處には具象の研究を疎かにした主觀は貧弱なものであるといふ事を云へば夫れでよい。根岸派文學の新しき建築、即ち主觀的敍法に就て云はうと思つたが、寫生趣味の後半で大概云つてしまつたやうである。吾人は新しき建築は、何處までも舊建築と同一趣味の上に立つて貰ひたいといふのが第一の希望である。主觀客觀と云つても根本は同一である。吾人の眞に感じ得た興味の上に生活し活動し得る質實なる態度を失はぬ限り、主觀音も客觀も永久に健全なりと信ずる。一歩を失ふ時明星派に踏み入る事甲之氏の言の如しである。性格修養は第一問題である。發表は第二問題である。主觀客觀などは末の問題である。斯樣に(25)書いて來たら、もう云ふ事は無くなつたやうに思はれる。若し殘つて居たら次に書く。   (明治四十一年「アカネ」五月號)
 
(26) アララギ編輯便 一
 
 平福百穗畫伯の文部省展覽會へ出品せられたる屏風一雙「朝露」の批評に對し、諸先輩より多大の御好意を賜はり、所掲の如き盛觀を呈し候段感謝の至奉存候。
 生等畫に就て何等解する所なし。只「朝露」が少くも一昨年以來の苦心を經たる作なるを知るのみ。昨年の「鴨」及び「七面鳥」が亦斯の種の苦心を經たる作なるを知るのみ。畫伯の庭廣からず。地を劃し、圍むに金網を以てす。鴨と七面鳥と久しく此處に遊びたるを知るのみ。彼の如く複雜微細なる觀察と寫生が、如何にして此の如く單純なる材粁と形態となりて現れたるかは、生等の深く考へざるべからざる所なるを知るのみ。我等の生活に於て然り。我等の歌に於て然り。
 我等の歌の寫生に即くを嗤ふ者あり。鴨を一羽の鳥と思ふの徒なり。芒を一本の草なりと思ふの徒なり。我等秋毫も關心する所なし。
 疎大なる事象を駢列する歌、疎大なる主觀を吐き出せる歌、所在充塞す。市井の行人猶この底の心(27)を解すべし。我等に於て關心する所なし。我等はただ事象より深く澄み入らんことを冀ふ。益々深く澄み入らんことを希ふがゆゑに、益々深く事象の微動に觸入せんとするなり。我等の寫生斯の如きのみ。   (大正四年十一月「アララギ」第八卷第十一號)
 
(28) アララギ編輯便 二
      ――歌壇警語に就き・歌の寫生に就き
 
 土岐哀果氏の歌壇警語其一に射し、小生は「アララギ」一月號にて、小生として御答へすべきを御答へ申置候。第一、土岐氏が我等の詞を愛し詞を究むるのが外形的であると云はれしに對し、第二、土岐氏が「赤光」及び「切火」の比較に、特に茂吉、赤彦の職業を擧げたることに對し、第三、小生が複雜なる事象を單純化し得たる歌例を「詩歌」に載せたるを、土岐氏が批評して「複雜な人生を知らぬから斯んな歌を複雜と思つてゐるのだ」とやうの意見を述べられしに對し、右三點大要愚見申述置き候。然る處、土岐氏は「生活と藝術」二月號に於て、單に右三項に當れる問題に關し、「島木赤彦氏に寄す」とて橘諸兄卿の、
   ふる雪の白髪までに大君に仕へまつれば貴くもゐるか  萬葉集卷十七の例を擧げられ、此の歌「天平十八年正月、白雪多零。積v地數寸也。於v時、左大臣橘卿、率2大納言(29)藤原豐成朝臣及諸王諸臣等1、參2入太上天皇御在所1、供奉掃v雪。於v是降v詔、大臣參議并諸王者、令v侍2于大殿上1、諸卿大夫等者、令v侍2于南細殿1、而則賜v酒肆宴。勅曰、汝諸王卿等、聊賦2此雪1。各奏2其謌1。」の前書なければ歌の眞の光出で來ぬ由申され候。勿論の事に候。さればこそ、萬葉集には前記の如き前書候ふなれ。歌に前書の必要なる場合は我々現代の作歌者にもいくらもあり。併し乍ら、前書は何處までも前書にして歌の附屬物たらざる可からず。歌の價値批判は全然歌の上に存して前書の上に存せず。此の事思ひ誤らば大なる僻事なり。前書いかに心行けばとて、歌惡しければ歌として價値なきなり。況して、此の歌の作者は橘三千代の子にて、光明皇后の兄に當り云々の如き史實の探索は、歌の價値批判と何等の交渉もなし。名僧大儒高士などの惡歌が、歌としては採る能はざると同じ義に候。然らば、史實の探索、其の他作者生活一切の考察は、歌の鑑賞に不必要なるかと問はば必要なりと答ふべく候。必要なりと雖も、價値批判の上に必要なるに非ず。寧ろ、價値批判の後に起るべき、作品と作者の交渉問題に對する考奉に必要なるなり。ミレー偉きか。ゴツホ偉きか知らず。畫が偉大なれば畫の價値存し、畫が惡ければ畫の價値存せざるなり。ミレー、ゴツホの經歴を知らんと思ひ、或は、其の經歴と作品との關係を究めんとするは別途の問題なり。
 今一つ土岐氏は、生活といふ事を如何に考へ居られ候か。職業、位置、財産より喫飯放尿のたぐひに至るまで、凡百外形に現れたるものは、所謂外生活にして、夫れを似て直ちに内生活と爲すべから(30)ず。歌に作者の内生活が現れ居ると言はば、小生直ちに賛成すべし。(弖仁波つかひ方まで、最も緊密にこの内に入る)その内生活は我々の唯一重要視する心の命なり。此の命を以て、直ちに凡百外生活と同一視するが如きは、凡慮の早合點に過ぎず。「此一首によつで、全體として作者たる橘諸兄の生活を直感し得ない者は、遂に萬葉集の外形を崇拜するのみに陷らざるを得ないわけである」と云はるる「生活」は外生活の意か。内生活の意か。「左大臣」「奈良遷都」「精神病學着」「學校教師」等を列擧して、歌の價値批評と混同せんとする足どり、甚だ危げに見ゆ。さるにても、昨年七月「アララギ」誌上「切火」合評を乞ひし際、一首々々の批判に對し「歌集全體に現れた作者の生活は、それを研究する機會が縁遠くなり易いので、夫れが僕などは物足らぬ」と云はれし土岐氏が「一首によりて作者の生活を直感し得ないものは云々」と説かるるまでに變遷せられし事祝著と存候。
 以上の問題は、直ちに、小生等の所謂寫生問題と關聯致すべく候。小生等は一草一木の微をも寫生せんとす。箸の上下、気息の出入に至るまで、必要あれば之を寫生せんとす。雲の去來、草木榮枯、鳥獣動止、人間行住、噴嚔放尿の末に至るまで、凡そ吾人の歌材に入ら來るもの、必ず之を寫生するを務む。疎より微ならんを望み、至微至密、至深至妙の域に參して、只管吾人の歌材を寫生せんことを冀へり。即ち寫生せんことを冀ふと雖も、本願とするところは、外的條件の描出に非ずして、吾人の内的生命の集中せられたる活動に對し、至微至密室深至妙の表現を成さんとするに在り。
(31) 夫れ外物は一心より生る。我の一心なくて焉くに凡百の外物を認めん。一心の動きは、亦必ず何等事象の變化と運動とを意味す。事象の變化運動と合體せずして何に縁つてか吾人の一心を集中せん。事象の變化運動を伴はずして、一心を動かすといふこと絶對に之無ければなり。吾人の肉體にありては、細胞の消費補充、血液の運行、時々の變化微なりと雖も、猶且、吾人の心に影響す。況や、身邊の事象、日夕推移して苟且も止まらず。悲傷ここに生じ、哀樂ここに移る。涙數粒膝に至る時、我の諦念至り、我の諦念熟する時、膝なる茶碗の茶も冷ゆべし。膝なる茶碗の茶の冷ゆるは、我の諦念の伴象にあらずして、我に對して、直ちに諦念其の物の實相なり。
 此の意味に於て、吾人の寫生と稱するもの、外的事象の描寫に非ずして、内的生命唯一眞相の捕捉也。表現也。寫生の要諦斯の如し。
 哀しと云ひ、樂しと云ふ。斯の如き抽象されたる輪廓的言語を以て、主として歌作らんとする人々あり。比喩を以て吾人感情の眞相を説明せんとする人々もあり。前者、往々にして主觀の直寫を以て自ら居る。直寫に非ず。抽象描寫なり。後者、往々にして主觀の活寫を以て許さる。活寫に非ず。間接描寫なり。説明描寫なり。主觀活動の眞相、寫生を離れて現し得る者鮮し。(歌の聲調と主觀活動との關係よりこの事一概に言ひ得ざる場合あり。そは別に聲調と主觀との關係に於て考ふべき事にして、ここには言ひ及ばず)且夫れ、哀しと云ひ、嬉しと云ふ如き主觀的言語の使用は、男性より女性(32)に多く、且つ容易に行はれ、女性中にても愚痴下凡の女性に最も多く、且つ、容易に使用せらる。用ふること益々多くして、益々安價にして甘たるきを致す。何故なる乎。
 寫生の念とする所、已に、外的事象の描寫に存せずして、内的生命の直接なる表現にありとすれば、寫生の捉ふる所は、事象にして事象に非ず。事象なりと雖も、心と相觸るる事象の中核のみ。一心集中する事毎々尖鋭微細にして、相觸るる事象の中核は益々尖鋭微細を來すべし。恰も、レンズの焦鮎集中すること、一點なるに至つて遂に物を燒くに足るに至るが如し。此の時、捉ふる所は事象の輪廓に非ず。外形に非ず。生活事實なるか、天然事象なるかを問はず。況や、精神病學者なるか、學校教師なるかを問ふの暇をや。又況や、左大臣なるか、右大臣なるかを問ふの暇をや。繰り返し言ふ。吾人の寫生は事象を重ず。重ずと雖も、事象の中核に觸るるを重ずるのみ。腕を把つて賑に觸るるを重ずるのみ。刀を持して、命を制するを重ずるのみ。外的生活の羅列は、内的生活の集中せる把捉に非ず。日常の生活事實を羅列したりとて、直ちに以て内生活と尖鋭なる觸接ありとは爲すべからず。對象とするものの、自然物なりや、人事なりやの如きは、吾人の寫生に於ては、單に夫れのみにては何等價値の相違を認むる事なし。
 元來、寫生歌と云ふ名稱は、故長塚節氏に始まる。(馬醉木第十五號明治三十八年一月「寫生の歌に就て」長塚節)當時吾人は長塚氏及び長塚氏の寫生歌に集りたる人々の作歌に對し、寧ろ不賛成の(33)意を表明したる事あり。當時の作歌、往々にして、事象の羅列に傾かんとしたるを以てなり。而も、今にして之を見る。猶、
   我が手して獲つるかじかを珍しみ包みて行くと蕗の葉をとる  長家節
   芋植うと人の出で去れば濁り居て炭燒く我に松雀《まつめ》しき鳴く  同
   炭がまの熱さ堪へがたみはひ出でて水飲み居れば樫の花落つ  同
の如き傑作を選ぶに難からず。現今世上散見の歌、到底淺膚低卑、何等事象の中核に潜入するものなし。事象を歌ふもの、事象に對して低級なる表面的描寫に止まり、主觀を直寫すと稱するもの、主觀的抽象語の羅列に止まる。寫生を信じ、寫生を念じ、一途到來、寫生に歸依して、之が奥堂に參せんを願はざるに因るのみ。   (大正五年三月「アララギ」第九卷第三號)
 
(34) 阜上偶語
 
 去年九月三十日夜の暴風雨には、予は馬吉と共に夜明けまで二階の雨戸を押してゐた。風の正面に立つ戸は五枚である。その一枚が外れて風が二階から侵入したら自分の家はもう助からぬと思つてゐた。二人の手では、五枚のうち四枚しか押すことが出來ぬ。夫れも、時々大きなのが突き當つて來ると、二枚づつ受持つてゐる二人の力が、最も危い中央の一枚に集中されねばならぬ。危い戸は圓の弧を成してこちらに吹き撓められる。その弧の頂點を精一ばいに押し返さうとする力の、次第に疲れる時、予は少しく自然の運命を心に感じて居た。下には妻や子どもが逃支度をして土間に立つてゐる。二階から聲が掛らねば一歩も外へ出てはならぬと命令を下してあるのである。妻子に逃げ出すべき命令を下さうか、下すまいか。と思案し乍ら、刻々に、風の吹きつのる戸に向つてゐる予の口は、唾液が全く乾いてゐた。予は、斯樣な場合に、自分の心の落著きを發見し得た事と、妻子の恐怖心を少しでも薄らがせようと考へたことによつて、戸を押し乍ら、大きな聲で追分節を唄ひ出した。唾液の全(35)く乾いてゐることに氣づいたのは追分節を唄ひ出した時である。翌る朝、風が收まつて戸外に出た時、四隣の光景が、予の想像以上に荒れてゐるのを見て、今更に昨夜の危險を想ひかへして新しき恐怖を感じた。隣家の一軒は全く平《ひら》に吹き潰され、軒竝びの二階建の家は、何れもその二階と屋根とを吹きさらはれてしまつてゐたのである。
 予は、少々理窟を言ふために此の文章を書きはじめた。理窟を言ふためには、風の夜の敍述が少しく精細に亙りすぎたやうであるから此處で打ち切る。
 馬吉と予が一枚の戸を押し支へたのは、予の住せる全屋を押し支へたのである。嵐の夜の家を押し支へるためには、一枚の戸を押すことが必要にして充分なる條件であつたのである。一枚の戸を押すためには、風に吹き撓《しな》ふ戸の弧の頂點を押す事が必要にして充分なる條件であつたのである。圓の弧の頂點を押したと言へば只夫れ丈けである。一枚の戸を押したというても只夫れ丈けのことである。夫れが一軒の家を押し支へたのであると思ふ時、一枚の戸は單に一枚の戸でなく、弧の頂點は單に狐の頂點では無くなつてしまふのである。
 我々の寫生は、嵐の中の家から只一枚の戸を捉へんと念ずる。即ち物及び現象の中核に潜み入つて、直ちにその性命を捉へんとするにあるといふことは、取りも直さす、夫れが作者自身の性命を捉へんとすることである。丁度一枚の戸を押すことが、一つの家屋を押し支へることであると共に、夫れが(36)取りも直さず、一家族の生命を支ふると同じきの理と相違する所はないのである。
 歌に於ける寫生を以て、單に物及び現象を寫すに止《とど》まれりと爲すは、未だ深く寫生に没入せぬ人の一通り起す考へである。殊に、歌の取材が人事であり自然物であるといふ如きは、歌の上に少しも重要な區別を劃すべき意義を有せぬのである。寫生の道は、常に一枚の戸を捉へんとしてゐる。更に精細に立ち入つて言へば、一枚の戸が風に吹き撓ふ弧の頂點を捉へんと冀つてゐる。頂點を捉へ得て猶その頂點を支ふるの力が不足する時、我々は茲に始めて眞の恐怖を感ずる。吾人の苦しむ所は其處にある。その他の問題は當分予には閑散の問題である。   (大正七年三月「アララギ」第十一卷第三號)
 
(37) 寫生道 一
 
 喜怒哀樂の情が容易に外に現れるは男よりも女を然りとする。女の内でも愚痴な女を以て殊に然りとする。斯樣な女から悔しい、悲しい、懷しいといふやうな言葉を聞かされるのは萬人の隨時經驗する所で、萬人の隨時遺却して憾みとせざる經驗である。人の心を捉ふるは必しも露はなる感情の現れではない。叫喚嗚咽乃至怒號は、時あつて人の心を動すも、數々なるに至つて空隙を感じ、彌々數々なるに至つて滑稽を感ぜしむるあるは、叫喚嗚咽乃至怒號の稀にあるべくして常にある可からざるの自然なるを證するとも言ひ得る。況や日常動く所の喜怒哀樂の情を隨時悉く外に現すが如きは、現すの容易なると共に、感受の容易にして安價なるの當然である。吾人の感情は多く忍び深く藏する時、初めて人を動すの力となつで行住坐臥に現るるの場合が多い。行住坐臥に現るるは、忍び且つ藏するが故に潜かでゐる。潜かに現るる所ある行住坐臥は、往々にして衆多の窺ふを容さぬほどに洗錬されたる境地を持つ。後漢の劉秀が兄の喪に服せなんだ心はこの境地である。乃木將軍が親ら鍬を執つて(38)二兒の骨を葬つた心もこの境地である。兄の喪に服せず、兒の骨を葬るに嗚咽せざるの心を以て不自然なりとなし、冷かなりとなすものは、洗錬の境を窺ふに甚だ遠きものである。予の歌に露はなる情意の現れを避けんとする傾あるは如上の心と通ずる。予の歌に寫生を唱ふるも亦如上の心と通ずる。嗚咽歔欷の將軍を見んよりも、無言にして鍬を持つてゐる將軍を見んと欲する心である。
 如上の心は、亦口に頻に忠君愛國を唱ふる忠君愛國者の心と容れない。口に頻に仁義道徳を唱ふる仁義道徳者の心とも容れない。獻身犧牲乃至全性命の活動を呼號するに急なる一部教育者の心とも容れない。
 心深く行住に潜み、現るるの抽象的ならずして具體的ならんを冀ふは、寫生歌を念とする予の基底を成す心である。現るるの露《あら》はならず、歌ふ所の具象的なるを以て、直ちに主觀を没却すとなし、形骸を寫すに止まるとなすが如き異説は、今人の容易に我が寫生歌に加ふる非難でゐることを知つてゐる。
 元來寫生といふ語は由來を支那の畫論に發してゐる。支那の寫生説が日本に傳はり、日本の寫生説傳統久しくして、現に今發達しつつある日本畫西洋畫亦多く寫生の領域を開拓してゐる。之を初めて文藝上の運動に持ち來して新しき生命の開拓を榜示し、且夫れを實行したのは子規である。子規歿後十六年その間自ら變遷あるも、其の歌の徒が寫生を念とするに於て今猶昨の如しである。この間、寫(39)生を以て單に形象を寫すに止まるとなすが如き異説は間斷なく吾が寫生の徒に加へられてゐる。予は斯の如き異説に対して一々辯ずるの煩に堪へぬ状態にある。茲には古今畫論の寫生に關るものを一瞥して寫生の眞義を窺ふの一助とする。
 夫れ始めて八卦を畫するは畫を作すの鼻祖である。既に畫といへば形を象らぬはない。謝氏六法中に謂ふ所の應物寫形である。寫生の道はここに始まる。既に形を象るといふ。外よりすれば形を寫すの道である。内よりすれば心を寫すの手段である。心動くなくして形を寫す事なく、意至らずして物を象るの理がないからである。之れ謝氏六法中、更に氣韻生動を説く所以である。氣韻生動と應物寫形とは支那畫論の骨子にして、兩者説くに分つ可くして、徴するに介つ可からざるものである。唐の彦遠は
   夫象v物必在2於形似1、形似須v全2其骨氣1、骨氣形似皆本2於立意1而歸2乎用筆1、
といひ、元の湯※[后/土]は
   山水之爲物、稟2造化之秀1、」陰陽晦冥、晴雨寒暑、朝昏晝夜、隨行散歩、有2無窮之趣1、自v非d胸中丘壑汪洋如2萬頃波1−者u、未v易2※[莫/手]寫1、
というてゐる。支那繪畫に於ける寫生論は、必ず象物よら始まり傳神に至つて止まる。夫れ生を寫すは、性命を寫すもの、性命を寫すは神を傳ふるものである。之の故に蘇軾は、
(40)   邊鸞雀寫生、趙昌花傳神、
というてゐる。邊鸞は唐朝に於ける花鳥畫の巨擘、趙昌は徐氏體寫生畫の泰斗である。邊鸞の孔雀を以て生を寫すとなすの意と、趙昌の花を以て神を傳ふとなすの意と、蘇氏に於て一である。竹田の山中人饒舌に
   宋人寫生を論じて曰く、その形を寫すは、必ず其の神《たましひ》を傳へ、その神を傳ふるは必ずその心を寫す。否《しか》らざれば、則ち君子・小人|貌《かたち》同じく心異に、貴賤忠惡、爰に自《よ》りて別たん。形は似たりと雖も何の益かある。故に曰く、心を寫すこと惟れ難し。
といふ所論を引いて、寫生に傳心の難きを説いてゐる。寫生の傳神を須ち、傳神の寫生を須つは少しく潜心して領し得る所である。
 藝術に遊ぶの徒、気韻を尚ぶとなし、神を傳ふとなすはよし。気韻傳神の形象と始終する多きを忘れて、唱ふる所遂に空疎に歸するの例は今古東西皆在る。椿山が其の師※[華の草がんむりが山]山に送つた尺牘に
   私固より風韻等は聊も求めす。唯寫生にて眞物の性情を悟り、古畫と査照致し、其の描くに臨みて、南田翁の位置と筆墨運用とを按排致し、心に出さんと欲する所を得申候。我が畫を觀、世人品評致候者、眞に逼るとか(註曰、「眞に逼る」は寫生の接近に過ぎて俗に陷るを言ふなり)或は俗套に墮つとか可v申を、却て風韻・風趣ありと批評を受け候儀、全く(41)御教を恪守致候儀、自致其の場にも至り、自ら知らざる事、感歎に堪へず候。云々。
とあるに對し、※[華の草がんむりが山]山は
   風趣・風韻の事を今、世人稱し候は、ボツト致したる心得にて、その得る所も疎、その言ふ所も疎なる故に、雲を掴むが如くに御座候。云々。
といひ、更に
   僕常に風趣を以て人に教へ不申。所謂僞君子を鑄造致候也。徹底の場、相去る事益速相成候。詩家の法に、風韻高古を一の教に相立候。之をボツト心得候なるべし。風韻は風格、格調の事にて、高古は意高、法古なるを云ひ、所謂切近的當を忌むことに御座候。云々。
と言うてゐる。當時畫人の求むる風趣風韻を排して、意高く法の古なる寫生を目指してゐた※[華の草がんむりが山]山の見識を窺ふに足りると共に、風趣風韻を求むる者の用意疎なるを喝破したるは、予に於て痛快である。當時畫人の求むる風韻と、※[華の草がんむりが山]山の求むる所の氣韻とは全く種類を異にしたのである。この消息は畫人ならざる予にも少しく想像出來る心地がする。さるにても、椿山自ら寫生の接近に失して俗套に陷ちたりとなす畫を、世人が風趣風韻ありとなすは、聊か皮肉な滑稽である。抑も主觀の充實といひ、性命の叫びといひ、現今歌人の唱ふる所甚だ大袈裟にして做す所甚だ輕易なること、所謂狗馬の難くして、鬼魅の易きに類する。韓非子に曰く、
(42)  客有d爲2齊王1畫者u、齊王問曰、畫孰最難者、曰、犬馬難、孰易者、曰、鬼魅最易、夫犬馬人所v知也、旦暮※[磬の石が缶]2於前1、不v可v類v之、故難。鬼神無v形者、不v繋2於前1、故易v之也。
 今の歌人容易に鬼神を描いて性命の叫びなりといふ者、二千年前畫者の嗤ひを招かずんば幸である。
 寫生を以て形象を為すに止まるとなすが如きは、古來寫生論の那邊まで進んでゐるかを思はざる人の當面の考へでゐる。二千年來支那に發達し、日本に傳來して今日に及び、更に子規によつて文藝上の一主張をなせる寫生道が、爾かく容易なる當面の考へによつて左右せらるべきにあらざる事勿論である。予等の短歌に於ける寫生の主張は、繪畫に於ける寫生と自ら異る所あるも、相通ずるもの固より多きに居る。同じく短歌に於ける寫生といふも、子規の唱へた寫生、長塚節の唱へた寫生に比して推移する所亦自ら存する。主義は内容の伸ぶるに依つて進展するを常とするからである。如上、畫論を摘出したのは、予の寫生論填補の一部を成すのである。   (大正七年五月「アララギ」第十一卷第五號)
 
(43) 寫生道 二
 
 圓山應擧嘗て沈南蘋が黄鳥梅花に栖止する幅を論じて曰く、
   黄鳥大にして樹は甚だ短し。是、其の失、小幅中に全樹を寫すにあり。蓋し黄鳥は四五寸許にして、而して樹は三尺に足らず。豈此の理あらんや。古人往々この失あり。學者宜しく大小の介を考へ、主客の勢を審にし、而して後布置すべし。云々。
 夫れ※[令+羽]毛の微、花蕋の細、大小布置一々之を寫生して全きを得んとするは京派の能事にして、斯の如くにして、所謂神を傳ふるを得るは則ち亦氣を充たすに足る。然れども寫生の能事は形似に存して形似に終らず。寫意はその至極なり。傳神はその究極なり。所謂氣運生動といふもの、畫を作すの初めにして同時に又畫を作すの終りなり。既に氣運生動といひ傳神寫意といふ。氣は一なるに專らにして神は專らなるに動く。氣の一なる所神の專らなる所、衆象の前に必しも衆象なく、五彩の前に必しも一彩なし。捉ふる所は即ち衆象の中罕に一象、觸るる所は即ち核心なり。斯の如きは寫生究極の一(44)道にして、沈宗騫の所謂「得(レバ)v神(ヲ)筆數愈減(ジテ)而神愈全(シ)」とするものにして、予の曩に一柱を支ふるは一家を支ふる所以にして、寫生の要は一屋中に一柱を捉ふるに在りと言へるもの亦この意に外ならず。古へ李成墨を惜むこと金の如し。墨を惜み筆を惜むは墨を重じ筆を重ずる所以にして、用ふる所の一墨は衆墨の精、著くる所の一筆は衆筆の髓なり。衆象中に一象を捉ふるの意亦之に同じ。捉ふる所黄鳥に存する、即ち黄鳥大にして樹の短きを憂へず。捉ふる所梅花に存する、即ち花の著くして鳥の微なるを累ひとせず。芥子園畫傳に曰く、
   寫意なるものは筆を下す最も飛舞活溌なるを要す。書家張顛の狂草の如し。然れども草書を以て眞書に較ぶれば難しと爲す。故に古人曰く、匆々として草書に暇あらずと。草書を以て楷書に較ぶれば尤も難しと爲す。故に寫と曰ひて、而して必ず系て意と曰ふは、以て無爲に便ち筆を落す可らざるを見めす。必須らく目なくして觀る若く、耳なくして聞くが如く、一兩筆の間に旁見側出すべし。繁を刪り簡に就て而して至簡に就けば、天趣宛然として寔に数十百筆も寫し出す能はざる所の者あり。而してこの一兩筆忽然として方を得て微に入るとなす。
 歴代名畫記、顧・陸・張・呉の用筆を論ずるの篇に曰く、
   顧・陸(顧※[立心偏+豈]之、陸探微)の神、その眄際を見るべからず。所謂筆蹟周密なり。
(45)   張・呉(張僧?、呉道玄)の妙は筆纔かに一二のみ。像は已に應ぜり。離披たる點畫、時に缺落を見る。此筆周からずと雖も、而も意周きなり。若し畫に疎密の二體あるを知らば、方に畫を議すべし。
 芥舟學畫編の傳神篇に曰く、
   試みに古人の作る所の人物を觀よ。但落々たる數筆勾勒のみにして、絶えて※[さんずい+宣]染を施さざるが、但邱壑自ら顯るるのみならずして、且或は古雅を以てし、或は風韻を以てし、或は雄傑を以てし、或は雋永を以てし、神情・意態の間、斷じて尋常世人の易く得る所に非ず。
 李氏の「一兩筆忽然として方を得て微に入る」となすもの、張氏の「筆周からずと雖も而も意周きなり」となすもの、沈氏の「落々たる數筆勾勒のみ」となすもの其の意皆同じ。寫生を以て傳神の道となし、寫意の道となすに於て、究極即ち斯の如きのみ。飜つて思ふに、※[令+羽]毛の微花蕋の細に入つて之を寫生すとなすものも取捨する所固より存す。之を捨つべきに捨て、之を取るべきに取る。既に意を寫すの義あり。筆墨傳彩故に周密を致すもの是亦神を傳ふるをして全からしめんとするの道なるに於て、彼の疎なると是の密なると其の意相通じ、其の心相領す。これ彦遠の顧陸張呉の用筆を論じて疎密架を同じうせしむる所以なり。只、我が短歌に於ける寫生を論ずるは自ら畫を論ずると同じからず。短歌の詩形小なる一なり。筆墨と言語と等しからざる二なり。今の予を以て短歌と寫生との關係(46)を攷へしむるは、則ち密より疎に入らんことを望み、繁より簡に入らんことを望む。疎は張呉の疎なり。簡は一兩筆にして微に入るの簡なり。數筆勾勒のみにして邱壑自ら顯るるの簡なり。疎を説き簡を説く實は容易ならず。
 疎は形を離るるにあらず。要に中り髓を捉ふるをいふなり。學畫編中、肖像畫につきこの事を論じて曰く、
   形といひ貌といはずして神と曰ふは、天下の人、形同じきもの之有り。貌類たるもの之有れども、神に至りては則ち相同じき能はざる者あるを以てなり。作者若し但之を形似のみに求むる時は、則ち方員肥痩、即ち數十人の中、且さに相似たる者あらんとす。焉んぞ之を傳神と謂ふを得ん(中略)然れども神たる所以の故は、則ち又形を離れず(中略)則ち形得て而して神自ら來らん。云々。
 則ち初めに「形似のみに之を求む」といひしものは、要に中らず髓を捉へざるの形似を曰ひ、後に「形得て而して神自ら來らん」といひしものは、同じく形似にして神髓に當れるを指す。要に中り髓を捉ふるの機微是に於て果して容易にあらず。漫然として疎に就き簡を求むるものは空疎に終らん。畫法詳論に、渡邊※[華の草がんむりが山]山の稿本を敍するを見るに、※[華の草がんむりが山]山觀梅の稿本一幅中小紙を糊貼して圖體を改易する者數々。少きは三四を重ね、多きは八九を重ぬ。その苦心旦夕の爲す所にあらず。後にその成幅を(47)見るに、?本堅幅白描法を以てし、奇巧精妙を極めたりと。疏といひ簡といふもの始めよりこの苦心を經て達するにあらざればその到る所知るべきのみ。
 石川鴻齋日く
   宋元以來墨畫盛に行はれ、山水人物花卉※[令+羽]毛都べて墨を以て五彩を分てり。熟せりといふべし。蓋し墨畫なるものは設色の極、彩法精熟の後に非ざれば、一墨を以て五彩を發する事能はず。所謂易からんと欲せば難きを先きにし、簡淨を欲すれば繁縟に入るの法なり。蓋し難きを舍て易を取り、繁縟に入らずして簡淨を得んと欲する者天稟の才有るにあらずんば則ち能はざるなり。云々。
 又日く、
   形を寫すに熟して而して後意を寫すを学ぶべし。未だ形寫に熟せざるに寫意せんと欲す。安んぞ飛舞活溌の態を得んや(中略)今の南宗を学ぶもの復た文人の遊戯に擬してその好を取らずして其拙を取り、寫生を爲さずして而して寫意に安ず。此亦眞の寫意に非ざるなり云々。
 學畫編に又曰く、
   揣摩するに日あり。貫想すること多方、刻勵して以て求め、終に徹して始に徹し、鑽研し(48)て得、亦淺を見て深を見る、往復尋求、功深(クシテ)效見(ハレ)、爬羅抉剔、苦盡き甘來り、人十たびすれば己千たびし、魯なるもの獨り能く道を傳へ、難きを先きにし獲るを後にし、成る時方に功夫を信ずるは、此れ所謂久しきを經て之を得るものにして、蓋し功力に出で、質の能く限る所にあらざるなり。
 吾人の修むる所は必ず功力に出でざる可らず。未だ刻勵せずして早く精髓を捉へたりとなし、未だ繁縟に苦しまずして早く簡淨を得たりとなすの徒、到底寫生の精髓と簡淨とを語るに足らざるなり。   (大正七年十月「アララギ」第十一卷第十號)
 
(49) 短歌に於ける主觀の表現
 
 「うれしい」「かなしい」「なつかしい」などいふ種類の詞は、個々感情の實際活動から抽象された概念である。夫れを感情の直接表現であると思ふのは違つてゐる。感情とは、心が事と物とに對して活動する一種の状態である。心と事若くは物との互に交渉する状態を其の儘に現すのが感情の直接表現である。此の意味に於て吾々の唱ふる寫生は、最も多く感情の直接表現を目ざして、夫れに近づかうとしてゐるものである。「うれしい」「かなしい」「なつかしい」などいふ種類の詞は、心の活動の樣ざまの場合を現し得べき普汎的な詞であるだけ、感情活動に對し、表現の直接性を失ふ傾を持つてゐる。只一首の歌の具象的表現によつて、斯樣な詞が意味づけをせられて、特殊性を帶びて活動する場合は別である。世には具象的表現が感情の直接表現である事を知らずして、抽象的概念を竝べて、夫れを感情の直接表現であると思つてゐる人が多い。安易な表現に滿足する人々が、この抽象的表現法を多く取るのである。
(50) 感情の具象的表現が感情の直接表現であるだけ緊密な表現が甚だむづかしくなる。射的の的は、其の中心に近づくほど一分一厘の差が大きな差になつて來る。一分外れることが中心から外れることになるのでゐる。一分一厘の表現の差を爭ふのは、感情の具象的表現が感情の的の中心に位置してゐるからである。殊に、感情の精錬せられたる或る域に入つてゐるものは、感情の動いてゐるのか、ゐないのかさへも分ち難いほどの所に入つてゐるものがある。子規子の歌でよく擧げられる
   瓶にさす藤の花房みじかければ畳の上にとどかざりけり
などが夫れである。斯樣な域に入つてゐるものは、識別するものが只識別するのである。
 我々は久し振に逢つた人に對して、お互に「ヤア」位の挨拶で濟む場合がある。親しければ親しいほど、そんな場合が多い。重大な境遇を控へてゐる場合にはお互に無言の挨拶を交換することさへある。「なつかしい」「うれしい」など言つてゐる場合でないのである。「なつかしい」「うれしい」などの挨拶以外を知らぬ人に「無言の挨拶」が解せられる筈がない。寫生の歌は往々にして無言の挨拶の領分にまで近づかうとする。無言の挨拶を以て感情の動きがないとする人々には寫生の歌の究極は分らないのである。
 世には、又、題材の種類によつて歌の種類が分れると思つてゐる人がゐる。何かの便宜に左樣な分ち方をするのは構はぬ。歌の本質問題に觸れて左樣な分ち方をするのは多く無用である。主觀の活動(51)は何物をも捉へ何物をも迎へる。捉へるもの迎へるものの異るは、物の異なるにして主觀の本質の異るのでは無い。畫工が草木を描いても人物を描いても畫の本質に異る所はないのである。草木を描く必しも畫の靜かなるではない。人事を描くもの必しも畫の動なるものではない。假に草木を描けるを靜なりとし、人事を描けるを動なりとするも、靜と動との底を通じて一貫せる畫の本質がある。本質一にして靜となりて現れ動となりて現れる。現るるの異るを見るは外殻を見るものにして、現るるの一貫せるを見るは生命を見るものである。自然現象の歌、人事の歌などといふ分類によつて歌を品隲するは、指頭の外殻に觸るるに過ぎぬ人々である。
 以上予は多く感情の具象的表現を言つた。併し乍ら、吾々の感情は時あつて具象的にのみは働かない。若くは具象的に働いても、夫れが必しも具象的の表現法を取ると限らない。左樣な場合は歌に於て少かるべきであるが、少いことを以て少いものの價値を蔑にすることは出來ぬ。
   もの言はぬ四方のけだものすらだにもあはれなるかなや親の子を思ふ  實朝
   學ばでもあるべくあらば生《あ》れながら聖にてませど夫れ猶し學ぶ  宗武
などが夫れである。これらの種類の歌も、その表現に威力が現れてゐる點に於て、何等か作者の具象的感情の根據を持つて生れて來てゐるものであることは想像出來るが、現れてゐる所は抽象的概念的である。抽象的概念的であつても、その表現に威力が出てゐる限り、歌の價値は没却出來ぬのである。
(52) 元來短歌表現の威力は何によつて生れるか。第一に表現の目的に對して、各言語の意義と一首の意義との有機的渾一である。第二に各言語の響き乃至調子と、一首の響き乃至調子との一致より來る威力である。前者は意義である。後者は意氣込みである。意義であり意氣込みであるけれども、この兩者は、本質的に不可分のものである。響きであつて、意義である。意義であつて響きである。此の二者は、吾人が凡ての歌に對してその價値を評量するに必要にして離るべからざる要件である。具象的表現というても、此の條件に照して價値は左右せらるべきである。この世に有難き歌が少ない所以であり、吾々の刻々に苦心すべき所以である。   (大正八年四月「アララギ」第十二卷第四號)
 
(53) 短歌に於ける人事と自然
 
 ※[華の草がんむりが山]山の畫いた濤旭の圖と米※[草がんむり/合/廾]肖像とを比較して、一は自然物を取扱ひ、一は人事を取扱つたために、作者主觀の現れの相違を來したと感ずる人はないであらう。子規の歌「うららかにガラスを照らす春の日のにはかに曇り雹降り來る」と「ともし火のもとに長ぶみかき居れば鶯鳴きぬ夜や明けぬらむ」との關係も同じである。歌の人事であり自然現象であるといふ區別を、歌の命についての問題として考へること無益である。
 元來吾々の心が事象に對して感動する働きと、その感動を捉へて歌とする働きとは、兩者の關係極めて緊密でありながら、その働きが各異つた立場にゐる。感動と同時に歌は出來ぬのである。それは萬人に通ずる心理的事實である。予のこの言を以て作歌に於ける感動輕視説をなすとするものは誤つてゐる。自己を中心とする人事現象は、自己の感動が強烈であるため、その強烈な感動作用から作歌の執意作用に至るまでに餘計に時間を要する。予の子を失つた歌に一年半かかつたことに對して、釋(54)迢空君は予の態度に「卑怯」といふ名を冠らせた。予は何度も紙に對して歌の一句をも書き得なかつたのが事實である。作歌の心が感動にかへり、感動の心が涙を紙に落させるのが何月も續いたからである。涙を落すやうな予の心は弱い。その弱い心に名づけて卑怯といふならば、予は直ちにそれに承服する。予は自己を中心とする人事現象は感動が強烈であると言つた。強烈な感動が作歌の心となるまでには時間を要すると言つた。時間を要しても左樣な感動から生れ來た歌は猶且つ「生ま」であり易い。感傷的になり易くて、寫生が中途で腰をふらつかせてしまふのである。
 瘠せ犬は弱いから吠える。強い犬も時あつて吠える。吠える事は同じであるが力となる所は違ふ。感動の強烈さは同じであつても力となるに相違のあるのは心の強さの問題である。芭蕉のやうに鍛へられた心の所有者もこの強さを持ち得る。太古人の如く素直な心の所有者もこの強さを持ち得る。我々が太古人を讃し、芭蕉、子規等を尊ぶのは此の意味に外ならぬのである。
 本來から言へば、人事といひ自然といふも、吾々の心の働く範圍に於て言ふのであるから、兩者とも同じ意味を以て吾々の心の生活に落ち來るべきものである。その上に立つて人事と自然を分けて考へることは不都合ない。予は所謂人事の歌に就て、寫生の徹し得ない原因をここに少し考へて見たのである。   (大正八年九月「アララギ」第十二卷第九號)
 
(55) 山房獨語
 
 月並とは停滯の別名である。自己に滿足し、自己に甘える時、その人の内生活が停滯する。停滯する状態と、それから生れる諸現象に月並の名を付けて呼ぶのである。歌に月並のあるのは日常の内生活に月並があるからである。
 嚴密に言へば、我々日常の内生活には、必ず月並の一面がある。それから脱し得ない限り、月並の歌から脱することも出來ぬであらう。
 停滯は生動の反對である。生動は生命ある活動である。生命ある活動とは必しも推移と改變のみを意味しない。月並から脱しようとして、推移と改變とを目ざすは、推移と改變に甘えるに墮ち易い。是亦多く月並の亞流である。
       〇
 併しながら、推移と改變とは、常に藝術者の上にあるべきである。その反面に、一生を通じて推移(56)せず、改變せざる程の根蔕が深く根ざしてあらねばならぬ。
       〇
 左千夫先生は、俳人は悟りの顔をし、歌人は感傷の顔をすると言はれた。歌人の靜寂を言ふもの靜寂に甘え、親愛を言ふもの親愛に甘え、感傷を言ふもの感傷に甘える。是も亦月並である。只寫生にあつては、これを如何の程度に置くも、甘えることを意味しない。藝術の手段であつて、目的でないからである。
       〇
 一體に、藝術家が、藝術の目的諭を繰り返すことは多く月並に墮ち易いものである。言ふ所が高くて、至る所が低いからである。甚しいのは虚僞感をも伴ふことがある。言ふ所が常に立派で、爲す所が之に伴はぬからでゐる。藝術者は、今作り出す作品が現在の自己の全體であり至上である。それ以上の高さは、心の底で祷願してゐるといい。之を屡々口にするは、空虚感を伴ふに於て遂に月並に墮ちる。
       〇
 今人芭蕉を説けば説くほど、芭蕉の靜寂心を感ぜしめない。今人、良寛を説けば説く程、良寛の自然心を感ぜしめない。必要から生れた聲は、大きくても騷がしくない。聲の騷がしいうちは、芭蕉も(57)
 
の俳人である。芭蕉、良寛の生活の物眞似をして、今芭蕉、今良寛を氣取るといふやうな不謙遜な文士によつて、それらの道を更に新しい月並に墮すことなければ幸である。
       〇
 萩岡流家元某氏が、年老いて、只一人の子を亡した。
 谷中祭場で葬の式が終り、柩車が地に軋つて墓地に運ばれる時、老人は首をあげて其の軋る音を聞いた。老人は盲してゐたのである。耳に遙かに車の響を追ふことが、わが子を送る唯一の方法として老人の前に置かれた道であつたのである。その時の老人の姿勢が儔ひなく尊い感を與へたといふことを、嘗て岡麓氏より拜聽した。失明の不自由が、内心の集中と充實になつたのである。寫生の究極は斯ういふ所に入るであらう。物に離れて猶物に即してゐるのである。斯ういふ話が小生には有難い。   (大正十二年一月「アララギ」第十六卷第一號)
 
(58) 山房獨語 二
 
 小生が、寫生は藝術の手段であると言うたのは、寫生を藝術上の低いところに置いて考へたのではない。手段は目的の具體化されたものであつて、この具體化のみが藝術の生命である。具體化されない目的は、夫れがいかに高い目的であつても、單にそれのみでは藝術のいのちを帶ぶるに至らないのである。高きに至れる寫生は、其の中におのづから高い心相が現れてゐるのであつて、小生等が寫生道を尊重するのは、この意義に始終してゐること勿論である。然らば寫生を藝術の手段なりとして其の道に始終するは、微かながらも動く所ある自己心相の具體化を求めつつ、一筋に歩まうとする心である。これを藝術の低所において考ふるものとすべきでない。
 世に手段論を低所に於て考へるものが多い。これは藝術に於ける手段といふ言語の如何なる意義を有つてゐるかを省みない儕である。この儕には議論があつて藝術がない。説く所愈々騷がしくして作品愈々平俗に墮ちるに至つて虚僞感を伴ふこと前號所説の如くである。
(59)
 短歌に於て技巧を斥ける人々がある。この人々は、技巧を以て、無を有に見せ、醜を美に見せる方法であると心得てゐるらしい。それならば技巧は手品の別名である。この人々も時あつて技巧論をすることがある。技巧も幾分必要だ位に心得てゐるであらう。それならば手品も幾分必要といふことになる。斯ういふ人々の手に短歌が委ねられる時平俗の道に墮ちるのである。
 小生等は、技巧を以て、自己感動を的確に眞實に表現する道と信ずる故、微に入り細に入つて、表現の的確ならんことを目ざして、技巧の足らざるを恐れようとするのであつて、技巧の微妙所に到達せんことは念々の願ひとしてゐるところである。これを技巧尊重者と呼ぶ人あらば小生は甘じてその名を受けるつもりである。
 技巧の排斥者といふ如き人々は、自己の感動を疎大に取扱ふか。或は、自己の藝術を疎大に取扱ふか。兩者その一にゐる人々である。
       〇
 技巧が微細に入つて、氣魄が繊弱に落ちるといふことがある。これは技巧が微細である爲に繊弱に落ちたのではない。氣魄の缺陷が技巧に現れたのである。   (大正十二年二月「アララギ」第十六卷第二號)
 
(60) 田邊元氏の「歌道小見を讀む」について
 
 田邊氏が研鑽多忙の時間を割いて、拙者「歌道小見」のために意見を寄せられたこと感謝の至りである。氏は今春歸朝後、鎌倉に在る老親を京都から訪ねる機會さへも容易に見出し得なかつたほど多忙の身である。その中から時間を割いて意見を寄せて下さつたこと感謝に堪へない。小生は平素歌の道を歩むにのみ餘念なく、その道の上に思ひ得た所を記述することすら思ひ任せぬことがある。偶ま記述しても、それは多く結論の記述であつて、結論に到達する過程に系統を立てて考へることも、結論を理論の大系に置いて、その位置を考へたり、當否を考へたりすることも、皆能くし得ない所である。「歌道小見」一篇は、要するに、小生が自分の道の上に思ひ得た所の結論を記述したに過ぎぬものである。それに對して、氏の如き學界の精徹者から意見を寄せられたことは、小生を裨益し指導すること多大であつて、小生等の往々にして陷らんとする獨斷的傾向に對して反省の機を與ふるものであると信ずるのである。
(61)
つの体驗に對する自己全心の統率が長時に持續するほどの根強さをもつ時に、その統率し集中する所の一點が、藝術としての命を持ち得るのであつて、一時の發作的感動は、全心の集中に似て非なるものの多い所以を哲學的見地から詳説せられたのは、小生の所見に大なる裏書と補足を得た心地がするのであつて、忝く感ずる所である。これに關聯して、氏は、現今の歌人俳人が、往々にして、小さな詩形に淺く輕い感動を盛つて、その餘弊が、風流遊戯に墮するものあるの陋を指摘してゐるのは、氏の藝術に對する要求が、遙かに現今の詩歌人以上に出てゐることの一端を窺ふべきである。特に「表現の直接」が抽象的主觀的言語によつて爲されるよりも、寫生によつて爲されることの多かるべきことについて、精細透徹の説明を與へられたこと、短歌界にあつて稀有な大議論であつて、之を現今歌人が、寫生を以て、啓蒙運動なりとし、或は没主觀なりとし、或は形似以上に出でずとなすものあるに比して、その間に大なる距離を感ぜずには居られないのである。氏の炬火は、一たび掲げて直ちに大道を明照し得た感がある。歌界への寄貽これより大なるはない。
 氏は又、寫生の概念が客觀的自然の秘奥に參するに適して、主觀的人心の内奥に參するに不適當でないかと疑つて「人生の具體的なる生活體驗に沈潜し、底知れぬ我が心の奥底を凝視して、そこに宿る無限の不可思議を掴み出さんとする要求は、寫生といふ如き途に由つて滿されるであらうか」と言(62)つてゐる。これはアララギの徒に、天地山川草木といふ如き自然物の前に禮拜する傾向が多くて、自己内心の動亂苦痛沈潜といふ如きものに直面してそれを歌ひ現すことが少くはないかといふ實際的介意から、アララギの徒を策勵せんとする至情から發せられた詞であつて、「アララギの歌風の特色を尊重する私は、それが出來るだけ廣い立場に於て、その精神を推持しつつ、取材の範圍を廣め未開の歌境を開拓することを希ふ」と言つて居るのがそれである。小生等は斯くの如き忠言によつて刺戟せられ反省せしめられることの多大なるを信ずるものである。小生は「歌道小見」中の髓見録劈頭に、歌人の内生活統一は、人生の多面を包含した複雜な内容が盛られてあらねばならず。その複雜を統一純化するには多力者であり得ねばならぬことを説いてゐる。念とする所はそれであるが、至る所は往々にして一局所に偏在しようとする。偏在に安ずるではないが、散漫なる廣がりは歌人として嚴肅に戒めねばならず、不相當な開拓をも同じ意味に於て愼しまねばならない。愼しまねばならず、戒しめねばならないけれども、現在の到る處をよしとして、その上に晏居しようとは思つて居らない。この間の消息の難いことは田邊氏の諒とせられる所であらう。更に言へば多力なる内生活の統一は歌に於ける根柢的要素である。これ無ければ客觀物に對してもその奥秘に徹するを得ず、主觀的事象に對しても、同じ程度に於てその奥底に徹することが出來ない。客觀と言ひ主觀といふも、實は分け方であつて、動く所の主體は一如である。根柢的問題はここに歸著する。小生等は斯くの如き根柢所に意を(63)致すに於て從來弛緩を感ぜぬつもりであるが、居る所は往々にして淺く、行く所|動《やや》もすれば局在せんとする。之を人言に聽いて自ら省るの虚心と誠意とを失はぬつもりである。
 氏は又小生等の歩みつつある寫生の道が自然的現象を歌ふに適して、人事現象を歌ふに適せず。歌ふ所が自然現象に偏在するに至るではないかといふ憂慮を寄せられてゐる。この點については、寫生なる語の傳統が自然と人事とを分たない如く、これを歌に持ち來しても同じく自然と人事とを分たないのであつて、すべての心の命を盛るには寫生に始終することが最も眞實性と適切性とを具備し得る道であると信じてゐるのであつて、この點今猶ほ小生等の偏見と思はれないのである。氏はジヨツトーの宗教畫をも寫生畫と言ひ得るかと言つて居られるが、あの敬虔神秘な聖王者圖も、假にこれを歌に移し得るとしたならば同じく寫生の歌である。寫生は必しも今目に見てゐるもの、耳に聽いてゐるもの、體に觸れてゐるものを歌ふことに限らない。否、寧ろそれの經驗が或る根強さを以て保存せられて、更に表現の衝動を伴ふ時に如實に内心に結象せられる。結象せられるけれども、その結象は決して目で見たもの、耳で聽いたもの、體に觸れたものと同じくはない。寫生が接近を忌むといふのはこの爲であつて、實在と藝術と互に獨立し得るも亦この爲である。この獨立性は寫生によつて究極し得ると思はれるのであつて、その極まる所の或る場合に、全然形から離れた概念的なものへ踏み入ることもあるのでゐつて、左樣な概念歌は寫生歌と言ひ得ざるも、寫生歌と同じ系統の上にあるもので(64)あつて、藝術としての威力を有ち得る點に於て寫生歌に異らないこと「歌道小見」中概念歌の所で言及した。寫生道から生れた概念歌であるから熱と力と眞實性とから離れないのである。これは、概念歌に入るものが寫生の究極であつて、寫生歌にある間は究極的のものでないと言ふ意ではない。寫生の内包は多方でゐつて、初めより一象に即するもあり、數象を統べて一象を得るもあり、數象繼起して繼起に任ずるもあり、何れも内心の結象と表現の如何によつて高き意味の象徴に至り得るのである。田邊氏が、小生の寫生を唱道する餘り象徴の獨立性を輕視しはせぬかと心配せられたのは、小生の、初めより象徴を寫生の究極なりと思惟しつつ筆を下したため、「歌道小見」中の象徴の部では、主として、奇怪なる世上の比喩的象徴歌を排するに止《とど》めたためであつて、あの項の猶ほ詳述を要すること、田邊氏の指摘によつて氣づき得たところがあるのである。要は寫生の意味の廣狹にある。田邊氏は寫生を狹義に解し、小生は寫生を廣義に解するために前述の如き見解の相違を來したのである。寫生を廣義に解するのは、初めより廣義に解せんとして、意圖的に考へ定めたものではない。小生等が寫生道を歩いてゐるうちに自己の道から自《おのづ》から斯樣な意義を體得するに至つたのであり、自己としては自然の開展が順次寫生の意義を廣めて來たものであると信ずるのであつて、これが俄か作りの考へ方でないことは田邊氏の首肯する所であらうと思ふのである。例へば小生は萬葉集中、茅上娘子の
   かへりける人來れりと言ひしかばほとほと死にき君かと思ひて
(65)   君が行く道の長手をくりたたね燒き亡ぼさむ天《あめ》の火もがも
や、人麿の
   しきたへの袖|易《か》へし君玉だれの小市野《をちぬ》に過ぎぬ又も逢はめやも
   笹の葉はみ山もさやに騷げども我は妹思ふわかれ來ぬれば
の如きものを皆寫生の歌と思うてゐるのであつて、斯様な人事的主觀味の多く現れたものを、寫生の概念に有し得るとしたならば、氏の小生等に對して抱いた憂慮を解除することが出來るかと思ふ。併しそれは小生等の歌に偏りの有無如何の問題とは別であつて、その點に對する反省は依然として小生等の上に存すべきこと勿論である。猶、金原省吾氏の近著「東洋畫概論」では鳥羽僧正の戯畫や池大雅の南畫を寫生畫に置いて、畫の象徴性は寫生によつてのみ高所に到達し得られる所以を説いてゐる。これは寫生のために大なる闡明を得た感があるのであつて、序を以てここに附記する。
 氏は又、小生が、かつて現代に流行した官能的な歌を排斥したのを捉へて、明治時代に現れた歌の官能的傾向、末梢的享樂的傾向を葬り去るのはよいが、官能の持つ意義は、それ以上に深き人生の機微、人心の奥秘を象徴することが出來る點に於て輕視すべきものでない所以を説いて、注意を小生に促してゐる。小生が拙著に於て官能を説いて「官能のにほひは多くて構ひません。只、それらを通して中樞的に沁みて來るものあることを要求します」と言つたのは、官能に對して、言ひ方が消極的で(66)あつた。これは小生の性向から來てゐるか、或は性向必しも官能放れして居らぬ所より、それを煩とする實生活的志向から出た言葉であるかも知れぬ。アララギのうち中村憲吉君の歌の如きは、最も官能の氣象の濃やかなるものであつて、それが、いつも、中樞的に沁みて來るものが多いゆゑ、小生はいつも敬服の心を寄せてゐるのである。齋藤茂吉君にも往々異常な官能の現れがあつて、それが人を特殊象徴の世界に誘ふことが多いのである。只小生は官能的なものを肯定する意味を以て、萬葉の諸例歌を擧げた。その意とする所は氏の諒せられる所でゐらうと思ふ。氏が「單に寫生といふ立場から觀れば官能的表現は享樂主義に結び付くとも言へるであらう。只、一度象徴の立場から觀れば、それは到底他の方法に依ることを許さざる、靈の神秘を表はすものとなる」と言はれたのは、寫生を自然觀照に偏するものとして考へたのであつて、小生の解する如き寫生の意味では、官能をもその中に置いて保育し得るものであること、氏の首肯する所であると思ふ。
 氏の寄せられた評論は歌界に多く見ざる深刻明截な所説であり、特に寫生に対して正しく深き理解を下されたことは寫生道を九鼎大呂の重きに置き得た感がある。只寫生の範圍について小生等の思ふ所と廣狭の差別があり、その差別について言を用ひられた所は、小生等作歌の實際上に入つて反省を促すべき方面に突き入つて居るのであつて、アララギの徒を裨益すること多大である。寫生の範圍の廣狭について、主として小生の言を費したのは、小生等の遲々たる歩みを以て今迄に順次到達し得た(67)若干の所信を率直に披瀝して氏の參照を乞うたに過ぎぬのであつて、この點氏の諒とするを冀ふ所である。十月二十九日高木邑にて記す   (大正十三年十二月「アララギ」第十七卷第十二號〕
 
(69) 歌論歌話
 
(71) 和歌浸語
 
       一
 
 眇たる三十一文字の短詩形に對して、研鑽の勞を執る如きは、烏滸の骨頂であつて、吾人の全然與する能はざる所だ、と力み返つて桂園がなせウオーズヲースに匹敵出來ぬなどと、見當外れの矢を放つて居るのは、例の帝國文學記者である。ミーターを要する西洋の詩形が、何故長からざる可からずして、ミーターを要せぬ我國の詩形が何故短小なるをも許しうるか位は、苟も一寸比較研究を始めた先生には、直ぐ解釋し得可き問題である。我國語は、實に長歌、新體詩の如き長詩形にも、和歌俳句の如き短詩形にも適合し得るので、共の點は極めて多方面の興味を有して居る國語であるのだ。見よ、天保以來千篇一律なる月並調に移つて平板蝋を噛むが如く、人をしてその命脈の存在をも疑はしめた俳句が、近來根岸會一派の革新によりて、再び沛然たる聚雨を斯壇の上に注いで、生々たる活氣を文界の一隅に現出したではないか。事實は直に眞理を示して居る。和歌俳句は、決して無識なる赤門一(72)派のさしで口などで其の輕重を問はれる可き性質でないのだ。否此の二者は泰西に對する我國文學上の特有物として、むしろ彼等に対して誇示するに足る可き價値があると信ずる。
 今日の處、俳句に対して、和歌は其の發達が非常に遲緩である。殊に今迄徒に古人の糟粕を嘗めて無味陳套、姑息無氣力、あらゆる惡冠詞を頭上に載せて、而も靦然たる事牛の如くに文界の片隅に蠢いて居たのは所謂御歌所振と云ふ。俳句で云へば丁度月並振の如き歌人であつたのだ。
 彼等は到底文學なる意義をだに解釋し得ざる盲詩人であるので、誠に彼等に戯曲、小説、新體詩、俳句などの文學上の位置から、和歌の是等に対する關係などを問うたなら、片つ端から唖蝉であるのに違ひない。夫れ處ではない。彼等の多くは、この文学上の大立物である所の小説、戯曲などの眞味をばテンデ咀嚼し得るガラでないので、時によれば小説などは汚らはしいもので、高尚なる歌人(うたびと)の見る可きものでない。演劇などは、昔の河原乞食と云うて卑しめられたものだなどと、殆ど抱腹絶倒に堪へぬ事を云つて居る者さへある。斯る輩が和歌などと云ふ立派な肩書を有する文學上の製作をなし得可き理由は元より存しないので、云はば彼等は徳川時代に流行した厭ふ可き歌風の惰勢が殘つた幻影であつて、勿論眞正の文學眼よりは眞面目な論評は下されぬのである。
 是も事實が續々として證明を與へて居るので、決して吾人の獨斷から出た議論でない。試にそんぢよそこら〔七字傍点〕の和歌の雜誌を繙けば直ぐ分る。
(73) 一番早いのは御歌所の兼題の歌を見るのだ。平凡陳腐、千篇一律、古歌の燒直し位は未だ穩やかな評である。先づ美術品製作として一文の價値だに認められぬのが第一批評外である。彼等の稱して巧みだとか、上手だとか云ふのは、言葉の洒麗とか、理窟が籠つて居るとか云ふ俗的の小細工である。美と云ふものは、惜むらくは決して左樣な處には微塵も存しない。元來彼等は無暗に古人々々と云つて、神樣であるかの樣に其の前に膝を折るので、其の意氣地なき盲從の極は、遂に頭を古人の寰外に出す事が出來ないで、遂に平凡陳腐なる一種の痼疾を形づくつた。「古歌にそんな例證がない」とか「そんな措辭は古歌に見ない」とかいふ事は恰も彼等の口癖のやうになつて居る。だからその詩題も凡て月雪花とかいふ(而も陳套極つた趣向の)材料以外に出づる事を得ずして、同じ想が同じ法によつて、何遍となく排列されて居るに過ぎない。彼等は何故に一箇の批評眼を以て古歌を研鑽した上、更に自家の見識を以て、自家の立脚地を定むると云ふ事が出來ぬのであるか。併し乍ら今日にては、最早彼等をば文壇から誰もさう重く見るものはないので、大勢は已に新派と稱する兎に角一箇の見識を具へた所の立派なる歌人の上に移つて居るから、余はこれからその方面に向つて少し意見を述べて見ようと思ふのである。   (明治三十三年十二月「諏訪文學」第八號)
 
(74) 時代と文學とには、常に離る可からざる緊密な關係がある。夫れは或る時代が文學の先導をなし、或は文學が時代の氣運をつくる事があるので、一國の人文は、何時も趣味ある變化を求めて時代の轉動を促し、一國の文學は、時代の變動によりて、ここに獨持なる光彩を放ち來るのである。文學そのものによりて明かに時代の特徴が讀み得らるる理は、この點に存するので、畢竟今日の歌風が徳川時代の歌風から蝉脱し初めたと云ふのも、寧ろ人爲でなくて自然の大則が然らしむる所である。併し乍ら何事に限らず、革新の前には、常に頑迷なる保守の勢力が伴つて多大なる防遏を試みる事を忘れてはならぬ。これに依つて革新の氣運は益々一種の刺撃と亢奮とを起して、遂に大なる成果を危殆の上に成就せしむるのである。今日の和歌は實にこの兩虎奮闘の間にあるので、時期は恰も吾人をして過渡時代の大活劇を演ぜしめて居るのであるが、大勢の氣運は已に新派と稱するものの上に來て居る。吾人は今日「諏訪文學」が將に、此の氣運を捉へ來らむとするの微光を認め得るので、非常なる奮發を後來に望まねばならぬのである。
 新派の最先鋒となつて、兎に角呼號の聲を天下に擧げ始めたのは鐵幹である。「東西南北」と稱する一小冊子が公にせられた時、世人はその漢語交りの和歌を見て、殆ど抱腹絶倒の聲を合せた。尤も吾人は彼の其の當時の作物の眞價に向つて賞讃するのではないが、世人の嘲笑は作物其の物の批評でなくて、格調用語の奇怪に対して居たのだ。焉ぞ料らん、鐵幹の破格らしかりし産聲は、鐵幹自身の(75)ものでなくて天下の産聲であつた。其の後鐵幹は「天地玄黄」時代に少し弱音を吹きはじめたが(この當時は決して弱音でないと云つて大層の氣※[餡の旁+炎]を吐いて居た)大勢の推移は夥多しいもので其の後間もなく、根岸一派の研究となり、久保猪之吉等數氏の打出しとなり、鐵幹も亦「明星」によりて相變らずの「小生の詩」を鼓吹して居るうちに、萩の舍なども是が應援に出て來て、遂に今日の盛運を來したのである。
 ここには一概に新派と云ふけれども、各自の立脚は非常に相違して居る。現に子規と鐵幹との間に多少の議論が始められた位である。(惜むらくは中止の姿なるを)吾人は斯の如き議論を河處迄も深く繼續せられん事を切望するのである。
 今の處で有體にいへば、鐵幹は甚だごた〔二字傍点〕である。彼は才氣に勝つた所があつて、却つて研究の態度を缺如して居る。夫れだからまま面白い作物があつても全體に於ては非常の駄作が多い。「明星」誌上に連載されて居るものなどは、矢鱈に新奇を求めて少しも詩美を捉へて居らぬ。彼はどうしても、虎とか太刀とか云ふもので、意気に任せて何でも蚊でも臚列するから、藝術的用意の方面に非常の疎漏があるので、從つて趣味の淺薄を免れない。
 「………………………あはれや遂に劉坤一立たず」
とか
(76) 「…………………今の劉郎大町桂月」
とか云ふものに對して吾人は何程の美念を感得し得るか。作者は頻に「小生の詳」「小生の詩」と云つて棒を振り廻して居るが、文學と云ふものは、作者と讀者と評者との成立であつて、決して其の一を缺如したる片輪的の氣※[餡の旁+炎]を許さない。吾人は彼の才氣を認むると共に、今一段系統ある研究の態度を希望するのである。
 萩の舍氏の歌は、鐵幹に比して疵の少い代りに甚だ拙である。拙と云ふよりは寧ろ要領を得ない側である。氏の新しいと稱するのは、單に用語取材の上に存するので、想は依然として舊時代である。夥しき因果律で、理窟に陷つた厭ふ可き趣向と、駄洒麗多き句法とは、どうしても新舊兩派の合の子とより外は受けとれぬ。是によく似て居るのは佐々木信綱氏である。氏も用語や取材の著眠が比較的新しい方面に注がれるの故を以て、兎に角新派の部類に數へられて居る樣であるが、其の根柢は到底大の舊思想であると云ふのは矢張りさきの因果的理法を脱し得ない上に、材料の配合が用語の上から律せられて居るさまが、寧ろ新古今の歌風に私淑して居る樣であるのだ。元來用語が材料を支配すると云ふのは非常なる誤謬であつて、材料の排列から打算された用語でなければ、駄洒麗や、不締りな句の臚列になつて、非常な不始末なものとなり了る。換言すれば和歌の上に調は必要であるけれど、調の爲に詩趣を害してはならぬ。故に吾人の考ふる最上の調と云ふのは、材料と趣向とを最も多く美(77)の琴線に觸れうる樣に發揮されたもので、どうしても想が根柢にならねばならぬのである。   (明治三十四年一月「諏訪文學」第九號)
 
(78) 眼に觸れたる和歌を評す
 
 明星派とか新聲派が、信綱調とか躬治調とか直文調とか、正派とか舊派とか新派とか名前の色々附いて居るだけくだらぬ歌が多いのさ。まあ一錢八厘店の撰り取り位の所で、長短異同を云ふのが野暮なのだ。疑ふ人は短歌研究とか云ふ雜誌の二三冊も披いて見給へ。馬鹿らしさ極まつたものを人の鼻先へつき出して、大家ぶつた顔を見せてるから溜らない。才に任せて、碌々眞面目な研鑽もせずに、一寸素人こかしなすべつこい〔五字傍点〕事を並べて、無邪氣な中學生達を顧客にして、僕等の雜誌は何千賣れるなどと大廣舌を揮つて居る所は、御當人にはおめでたくて〔六字傍点〕結構だらうが、一面には往々不健全な學風の媒介となつて、戀だの蝶だの口づけだのと、香水漬の臭を撒布するには閉口するぢやないか。僕は一月頃から見當り次第、所謂大家先生方の和歌を日記の中へ書いて思ふ存分の批評を加へて居るが、更に本誌に載せて同人諸君研究の參考にする積りである。
 先づ佐々木信綱の歌、
(79)   幾年を雲井はるかに仰ぎつるそのいただきに今日やのぼらむ
之は一月の「心の華」誌上に出て居る。歌だけでは何のことだか分らないが、初めて富士登山をした時の作ださうな。全體想が平凡極まつたもので、初作者の口吻とよりは取れない。殊に下二句のたるみ〔三字傍点〕加減と云ふ者が話にならない。「その」などは不要であるのみならず、調をたるませる事が甚だしい。「や」も同樣で、折角の感嘆詞が却つて聲調を弱らして居る。それから上の句の「雲井はるか」も困つたもので「はるか」などと雲井を形容したのが少しも働かない。
 それから又「今日」と云つたのが極めて拙なので作者は「今日登るべく出かけよう」とか、「これから登りはじめよう」とか云ふ意味で云つたかも知れぬが、已にその上に「頂」とあるからは頂上に作者の足が印せらるる事は想像してなければならぬ。然らば作者は今御殿場に居るか、一合目に居るか知らぬが、兎に角頂上に達する日と、作者の歌つて居る日とは同日であるからは、「今日」の所は寧ろ午後とか夕方とか今夜とか云ふのが自然である。併し作者はこんな事は一向無頓著で、億劫ではあるまいに、今日中に頂上迄到著するしないなどの間題には考へが至つて居らなんだと見える。若し又「今日」が、上句「幾年」に對した詞であるとすれば、それこそ物笑ひに値するもので、月並的そつくりなる作者の趣味を憫まねばならぬ事である。
 次に同じく登山の歌、
(80)   富士の根は見る見る雲にかくろひて十里の裾野只秋の花
「只」とは「残るは只三人」とか、「思へ只」とか、「今は只思ひたえなん」とか云ふ「それのみ」の意味であるが、それから考へると十里の裾野には只秋の花ばかりと云ふので、從つて外に何物をも見ぬといふ事になるが、其れでも作者は左樣と答へる積りか。十里の裾野は廣い景色である。その中にはよし花盛りの季節とは云へ、近景としては石もあらう、細流もあらう、乃至樹木もあらう。遠景としては森もあらう、村落もあらう。それを「只秋の花」などと故意に飾り立てた所がくどく〔三字傍点〕、且嫌味たつぷり〔四字傍点〕である。作者は何故に正直なる實情に訴へないで、假令草花に他の物を配合する伎倆なしとするも、「秋の花さく」などと眞摯率直に構へなんだであらう。それから上の句「見る見る」とは「十里の裾野只秋の花」に對して、何等の詩的干係を有して居るかさつぱり分らない。如何となれば「見る見る」は時間的關係で「十里の裾野只秋の花」は空間的關係である。この時間的と空間的との關係が、ここには如何なる契合點を有して居ると思ひ得るかと問はれて、作者は何と答へる積りであるか。更に進んで著想を言へば、前と同じく平凡で富士の雲に隱れる壯美も補へ得ず、裾野十里の秋草の花のをかしさも寫し得ず、所謂虻蜂取らずと云ふもので、こんなものが歌ならば、小學校の兒童も立派な歌詠みになれるのだ。
   山姫の緑の裳裾匂はすと誰が畫きけん千ぐさ八千ぐさ
(81)登山の歌第三也。相變らず粗品である。
 或る景色に對して「誰が畫きけん」などと云ふ口上は少し歌をかじつたものの耳にはたこ〔二字傍点〕の當つた話で夫れも配合物の如何によつては活きても來るが、對象が山姫の裳裾と來て居るから、彌々黴臭くて鼻持ちならぬ。
   杖立ててかへり見すれば雲の上に頂うかぶ甲斐のむら山
登山の歌第四也。
 第一、二句と、三、四、五句との關係が一向に無意味である。第一、二句は單に作者放眸の來歴を(ちと變な詞なれど)説明して聞かせたのみで、夫れ以下の文字に対して聊かの重きをなすものでない。更に精密に分解すれば、第一雲の懸つたのは何時でゐるか。作者が瞰下した時、丁度雲が甲斐の山頂を殘して下界に瀰漫したのか、若くはそれ以前已に瀰浸して居たのを、作者が今休憩して見て居るのか不明瞭でゐる。若し後者とすれば「浮び居り」とやうにせねばならぬし、前者とすれば「見かへり居れば」とやうに改めて、次に甲斐が根に對する雲の時間動作を、例へば「甲斐が根に立ちはのぼらず夕雲わたる」とか、「雲ひろごるも」とか云ふ事にして、全體の氣脈を通ぜねばならぬ。それにしても多くもない三十一文字中に「杖立てて」の如き無意味(比較的)の五文字を割愛した作者の眞意が解し難い。
(82)   ゆきあひし白衣の群は影きえぬ白雲の中に鈴の音して
これを幽靈歌と云ふのだ。頭もなければ尻尾もない。作者は何處で行逢つて、作者はどちらへ行き、白衣の人は何方へ行くのだ。富士登山と表題打つて居るから、行逢つたのはまあ富士山の事として、白衣の人は登つて行くのか、自分は下りつつあるのか。え下句全體も上句の説明に用ひたらしい。が作者も其の積りであるか。如何となれば斯の如き場合には「ゆきあひし白衣の群は影きえて〔三字右○〕白雲の中に鈴の音する〔二字右○〕」(假に作者の想を崩さずに)の如くするのが常識で、原作のままならば誰でも下二句が、單に上句の説明と見るべきである。何處から推して見ても不用意な缺點だらけで、零碎殆ど態をなして居らぬ。
 富士登山は猶一首あつたと覺えて居るが、同じやうなものであるから佐々木氏のはここに止《とど》めて、次に服部躬治氏のに移らう。   (明治三十六年六月「比牟呂」第三號)
 
 近來新派と稱する或るものの間には、魔の神だとか、望みの星だとか、戀がどうしたとか、菫が萎んだとか、何とか云ふ事が、殆ど常套語のやうになつて居て、歌の中からそれらの言葉をとつた日には、絶えて何も出來さうもない程に思はれる。そしてそれらの歌人は自ら理想に活くるとか何とか云(83)つて、餘程自得した積りで居るらしいが、根柢を叩けば何でもない。理想と云ふ語は元來漠然として居るだけそれ丈け多く重寶で誤魔化しが利く。神だとか云ふと詰らないものへ配合して置いても、俗眼には一寸えらさうに映る。口づけなどと隈取つた看板を出せば、趣味卑猥な今の世の若者に賣れる事は請合である。併しいくら賣れるからつて、左樣に切賣りされた日には、理想や神樣がみじめなものである。 我々は何處迄も眞面目な研究的素地の上に立たねばならぬ。我々は決して理想を排斥せぬ。併し乍ら理想は必ず眞率なる實情に伴はねばならぬ。換言すれば理想は各個感情の綜合で、その各個眞率なる感情は、更に又各個眞摯なる觀察に基づくと云ふことを忘れてはならぬ。即ち理想の根柢は觀察にある。觀察が精緻周到にして、はじめて多趣多樣な感情も生れ、微妙宏遠な理想も生れるのであるから、吾人は文を學び、詩を學び、畫を學ぶの何方向に向ふにせよ常にこの用意を缺いたが最後、もうそれは浮氣な根柢なしな輕薄なものに收まつて仕舞ふと心得ねばならぬ。
 是に於てか吾人は現今に於ける我短歌界の病弊を闡明する事が出來る。それは寫實の缺乏である。彼等の或る者は、根岸振の同人諸士が盛にこの寫實のために苦心するのを見て、復古派とか萬葉模擬とか云つて笑つて居るやうだが、是等のものに限つてこけおどし〔五字傍点〕の理想や、齒の浮く神樣に隨喜して自ら喜んで居るのである。「明星」や「新聲」の中にこの類が多い。
(84)   天地に布かん情を家にしてはせめて一人の人いつくしむ
之は(以下も皆同じ)服部躬治氏の作で、本年元旦の「文庫」誌上に四號活字で大々的に掲げられたのだから、近作中の自信あるものだらうと察する。
 是も亦眞摯を缺いた、實情なきものの一例にする事が出來る。
 一首の意味は斯う云ふのであらう。我が同情は天地萬物あらゆる事物の上に及ぼして、その量無邊宏大である。この宏大なる情を渾べて一括して一人の上に濺ぐ。まあ大體斯やうである。そこでこの一人とは何であるか分らないが、それは妻とか子とかとして置いて、大體の上から考へてみよう。第一作者は天地間の萬物に寄する同情と、家人(妻か子か)に寄する愛情とは、種類が全然違つて居ると云ふ事に氣が附かない。同情と愛情とは心的作用が別種類である。だから萬物の上に濺ぐ同情を、妻子の如きものに及ぼすと云ふのは僞りの感情と云はねばならぬ。作者は言葉の上で何だか甘く言ひ親し得て、一通り聞えた事のやうに取れたから、直ちに以て佳作となされたに相違ないが、そこが實情から湧き出さなんだ悲しさで、根柢から考へて見れば、直ぐ矛盾の馬脚が現れるのである。次に前に略して置いた「一人の人」であるが、之は何故作者は妻とか子とか限定表示しないで、故ざと朦朧にしたのであるか。「一人の人」などと出られては、丸で謎にかけられたやうなもので、何處に趣味があるか薩張り分らない。それとも「一人の人」と云つて、その數字一を天地間の無限大に對比せし(85)めた積りであれば、猶更故更らめきて嫌味が出て來る。次に、
   神よ神よ我より高しさらばなど世の渦に陷らしめぬ
これでは如何とも評しやうがない。ただ神に對して理窟を竝べて見たのみで、何等の美的感興を惹起すものがあらう。「我より高し」も勿論意味不明了であるし、「世の渦」のみでは何の現象を指すのであるか一向分らぬ。
   おの妻すら人に頼みで撰ぶよに何ぞ我が名の存在《ありか》さだめむ
   生先もかねて知らるる推さるるよ子の名は他《ひと》につけしめざりき   なまじひに詩をな作りそ数びそ畢に世は世ぞ財嚢《たからぶくろ》縫へ   ひたぶるに獄舍《ひとや》營め獄吏《つかさ》増せ權ある人よ權を保つべく
四首皆同じである。第一首は我が名の存在論の樣であるが、曰不可解矣と云ふので懷疑派と見える。しかしその前提は我妻を人に依頼して選擇すと云ふのである。何うも自由結婚の出來ぬと云ふ前提から、斯樣な結論を得ようとは意外の話である。第二首にも前提がある。それは子の生先が自分に推量出來ると云ふので、そして結論はその命名を自分で行つたと云ふのだ。何うも我々の感情理性では讀みかねる事である。第三首はよく分る。併し一片の理窟で、その他何等の有難味もない。「世は世」などと作者は倫理哲學的に行つてゐるつもりであるらしいが、夫れが安價であるとともに凡て自分諒(86)解で、他人には何の事だか取りとめの付くものは恐らく一人もあるまい。第四首は前三首に比して比較的體を爲して居る。   (明治三十六年八月「比牟呂」第四號)
 
 此の間松本へ行つてみづほのや〔五字傍点〕を訪れた。挨拶も碌々濟まぬ中からもう議論が持ち上つて、夕暮になるが雙方中々意地を張つて居る。僕が與謝野一輩の歌を根柢から、浮氣で物にならぬとこなせば、みづほのや〔五字傍点〕も根岸派は固まり屋で、單純で、到底あらゆる人生の感興を寫すに足らぬと攻撃して居る。夫れも其の筈で、みづほのや〔五字傍点〕と僕とは九年前長野で初めて相逢つて、それから四年間寢食を共にした。その間一度も歌の調子が揃つたことがない。尤も調子と云つた處で、別に其の頃鹿爪らしい主義とか主張とか云ふものがあつたのでもないが、子供の時分からどうもかう云ふ風に、歌の上の趣味の異つて居たのであるから、相別れて五年餘もたつ今日、たまに行逢つて議論の沸騰するのは當然の事である。そこで夕方車を連ねて淺間に出掛けて、温泉の二階で酒を傾けながら、とうとう夜の十一時迄論じてみたが、雙方の鼻が益々高くなるのみで一向果てしが付かない。その時みづほのや〔五字傍点〕の處にあつた「明星」に鐵幹晶子の歌が載つて居たので、短歌小評の材料にと借りて歸つた内から少し書いて見よう。それで僕の明星派に對する批評が、みづほのや〔五字傍点〕の「桂花抄」的でないのは、どうも已むを(87)得ぬ次第である。
   尚も人戀を詈る歌ありや玉手は清き乳は温き  鐵幹
鐵幹子が近來虎や太刀の棒を振りまはさなくなつたのは、彼が變遷を知り推移を求め得る立廻を有して居るからである。
 此の立廻的敏才は慥に彼が今日迄「明星」なる旗幟の下に、歌壇の幾分を呼號し得た所以であらうと思ふ。併し乍ら鐵幹子の此の推移は、果して詩趣の進歩を意味して居るかどうかは、その近什二三を讀んで見れば甚だ容易に解るのである。ここに掲げた此の歌と、虎太刀時代の彼の歌とを對比して考へて見ても、彼の索然たる詩趣は、已に病の膏肓に入りつつあるもので、無條理と亂暴とが何處までもその全脈を貫いて居る事が明白に悟られる。「何も人戀を詈る歌ありや」これだけ讀んで見て大抵の人は最うウンザリ〔四字傍点〕する。此の文字の上から考へると、誰かが抽象的な戀愛と云ふものに對して罵詈したやうな歌を作つたので、そこで戀愛一手專賣の鐵幹が大怒りに怒つて、議論でも打掛けたやうに思はれる。そこでその議論の楯とする所のものはどんなものであるかと聞いて見ると、「玉手は清き乳は温き」といふ極めて馬鹿らしき言草である。
 如何に馬鹿にすると云つても程がある。こんな曖昧女が、客を呼び入れでもするやうな文句を竝べられて、誰が厭味を感じない者があらう。彼が近來の看板にして居るものを見るに、大抵はこの卑猥(88)なる下劣なる男女の關係へ、戀愛とか云ふ隈取りをとつて、一人よがりをして居るが、こんな事なら昔の太刀や虎時代の方がいくらサツパリして居て善いか知れない。それに此の四五の結句は、單にそれ丈けを取離して見ると、只或る事實を排列して見たに止まつて、上の句の對他的であるのと少しも承應した所がない。即ち上の句の飽迄對他的なるに對して、下の句は飽迄も偶語的である。斯樣に不用意な、無責任な、浮氣な、亂暴な歌を作つて、鐵幹調だの何のと嬉しがつて居る芽出度さ加減は、どうも呆れ入ると云ふより外はないことである。更に詳細なる各句の吟味を始めれば、上の句に於ける「尚も人」などは一首の上に少しも價値を加へぬ贅語であるし、「戀を詈る歌」なども隨分出鱈目の文句で、戀を詈る歌、戀を詈らぬ歌、戀を稱讃する歌などと分類を始めた處が、さつぱりをかしくもない話である。下の句の「玉手は清き」なども、玉手に對して御丁寧に清きなどと説明を附けてあるが、そんな説明が何等の價値もない位は、彼自身と雖も氣づかれさうの事である。「乳は温き」に至つては何とも手の附けやうがない。恐らくは乳房と云ひたいけれど、字餘りの惧れがあるので、かう胡魔化し附けたのであらうが、夫れにしても斯樣な作物を機關雜誌の上に盛に吹聽しつつある彼の勇氣は感心すべき者である。
   人にそひて椿捧ぐるこもり妻母なる人を御墓に泣きぬ  晶子
晶子先づ此の歌は自分の境遇を、主觀的に歌つたのであるか、若くは又他人の動作を客觀的に歌つた(89)のであるかと考へて見る。どうも薩張り分明しない。「こもり妻」などと云つて居る所を見ると、自分の事では無ささうであるし、「御墓に泣きぬ」とある所を見れば、或は自分の事でもありさうに見える。併しそれは皆こちらからの推量に過ぎぬので、歌其の物には何もそんな意味は表れて居ない。斯樣などちらとも附かぬやうな歌によつて、他人の感興同情を惹かうと云ふのは無理な註文で、恐らくは作者自身と雖も眞情から出でて歌つたものではないであらう。折角の「御墓」だの「泣きぬ」などの文字を連ねて見た所で、一向悲しい感情が表れてゐないのも、畢竟左樣な根柢から胚胎して居るので、作者よりもお墓やお袋さんが見じめなものである。「母なる人」も窮して居る。單に母とか垂乳根とか云へば充分であるものへ、こんな飴細工を施すのが此の種の人の十八番と見える。
   湯上りを御風召すなのわが上衣えんじ紫人美しき  晶子
「御風召すなの我上衣」とは何の事であらう。
 御風召すな、と云つて衣を著せたとすれば、著せた人が自分であるか、著せられたのが自分であるか、一向分別のないのは前の歌と異らない。「えんじ紫」は大方その上衣の色だらうが、すぐその下へ「人美しき」などと續けて居る窮屈さと云ふものは、カラお話にならない碎け方でゐる。正當に判斷しようとすれば、これらの歌は頭から歌になつて居らないから情けない次第である。
   人に侍る大堰の水のおばしまに若き憂の袂の長き  晶子
(90)「水のおばしま」とは何の事である。「若き憂の袂の長き」に至つて、最早筆の文てやうがなくなつて來た。餘程ひどい人達があつたものだ。
   狂ひの子我に焔の翼輕き百三十里あわただしの旅 鐵幹
「我に焔の」だけでは何の事だか分らない上に、直ぐ下へ「翼輕き」と持ち出したので、愈々味噌を附けて仕舞つた。從つて全首に亙つて取りとめある詩趣を發見し得ぬのは勿論である。他に猶何首も書き拔いて置いたが、いくら出した處が同じ事であるからまあ此の位にして止めよう。   (明治三十六年十二月「比牟呂」第六號)
 
(91) 短歌小觀
 
       其一
 
 或る時代の歌が、其の時代の氣風を代表して居ると云ふ事は慥であるが、夫れは自然的の現象で、故意的の細工では決してない。從つて歌が其の時代精神を表すと云ふのは、歌其の物の目的とは何等の關係を持たぬ事で、歌は歌として何處までも作者の美感を本とすべき者である。處が斯くして得たる歌風の結果は、矢張り其の時代精神に冥合して居る所から、歌は是非共時代精神を鼓吹せねばならぬ、發揮せねばならぬと早合點してる者がある。是は應用門から足を運ぶ者で、甚しきは和歌に對して一代の風教を維持し、國家的元氣を鼓舞して貰ひたい抔と、難題を持ちかける人さへある。どうも甚しいお門違ひだ。丁度畫工を尋ねて、風邪拂ひの爲朝をかいて貰ふ樣なものだ。諏訪明神の御柱の削屑が、瘧除になるのは差支へないが、御柱を立てるのは決して瘧除の爲めぢやない。この位の理窟は小学兒童にもよく解つて居る。露西亞問題が八釜しくなつて、國民の元氣は今や對外事件に向つて(92)張り詰めて居るのに、夫れを歌はぬ樣なイクヂ無しでは明治の詩人とは云はれない。こんな尻メドの小さい了見が出て來るのも、一種の時代風と云ふ可きかも知れぬ。吾人は勿論今日の歌人と稱するものの取材が如何にも狹隘で繊弱で、戀だの董だのと振り廻し續けの頼み甲斐なき有樣を慨して居る。併し乍ら吾人が彼等に向つてその著想を雄大にせよ、該博にせよ、斬新にせよと勸めるのは決して國家のため、道徳の爲め、乃至時代精神の鼓吹のためとやらに云ふのではない。只々詩美の開拓を渇望して、この詩のために新しき光ある領域を得たいと希ふからである。路西亞問題のために其の腕の鳴る人あらば、其の感興を寫す事大に宜し。露西亞問題につきて其の胸中に非戰論の鬱積抑へ難かる社會主義の人あらば、其の悒奮の情を歌はるる事亦大に宜し。吾人の批判は只詩美の如何を以て問ふべきのみである。(森田義郎氏の「歌に對する予が信念」を讀みて)
       其二
 森田義郎氏の歌活氣に富みて氣魄自ら他に頼せず。氏が研究の甚だ眞面目にして、常に新詩美の開拓を怠らざる態度は吾人の敬服する所。近頃突として「馬醉木」を去りしが如き、喜入は其の詳細の事情など問はんより、寧ろ、非常の興味を以て今後の活動を見んと欲する者なり。吾人は氏が生先の幸ならんを祈る情甚だ切なるを以て氏の作物に對して多大の注意を拂ひつつあり。
     嫂の同窓伊藤かめ女が肺を病みて逗子に籠れるに
(93)   すこやけき男の子擧げつと遊びたる九ツ十の昔を樂しむ
「九ツ十の昔を樂しむ」の云ひざまは甚面白い。併し乍ら上句は甚だ感心せぬ。三の句まで讀んで行つた處虞が薩張り何のことだか分らない。下の句を得て幼遊びの囘想と判じられたが、その幼遊びの説明を「すこやけき男の子擧げつ」と云つた處で、一首の上に如何ほどの重きをなすか覺束ないと思ふ。
      同
   滿つ潮のただ温き小春日の逗子からなれば痩せずに歸れ
一句二句甚だ嫌に感じる。「ただ」と云ふ詞は、近頃鐵幹派などが無闇に使つてゐるが、大概失敗して居る。ここでも「滿つ潮のただ温き」とは、何の事であるか殆ど意味をなして居らぬと思ふ。「小春日の逗子から」も窮屈である。「みつ潮に小春日和の温き逗子から」などと云ふべき所だらうと思はれる。「痩せすに歸れ」眞情惻々人に迫りてうれし。
      兄の軍艦松島にあるに
   人の國を蹈み躙る子の足とりてほほらかし來ば吾腹も癒えむ
義郎氏の持徴よく發揮せられて、完璧の作と云ふべからむ。同題にてその次のもよき歌なり。ここには略す。要するに氏の歌は創業的にして成功的にあらざれば、瑕瑾あるもの、平凡なるもの、興味索(94)然たるもの非常に多し。山中黄吻兒の贅語と雖も一笑に附し給ふ可からず。
       其三
 歌の用語は古語のみに限るべきかは、古語中にも俗的のものある如く、今日の俗語中にも面白きもの澤山あるべし。只今日使用されて居る俗語は、卑近の聯想多く件隨し居るを以て、使用にその注意を缺かば直ちに失敗すべきを、あながちに取材構想の配合に攷へ、一首句勢の前後に注意せば、などか聲調を助け感興を進むるの補ひたらざらんや。漢語の使用は俗語よりも猶容易なるべけれど、さりとて徒に無意味の排列に止まらば將た何にかはせむ。諸同人の研鑽を望む。
       其四
 柳の戸の近什甚だ新趣味の發揮に力むるに似たり。只其の用句甚しく俳句的にして、和歌として肯首すべからざるもの多きは惜むべきなり。俳句は極めて短詩形なれば省略法に獨持の法あり。和歌にても散文等に比すれば勿論省略の用意多けれども、俳句とは自ら異らざる可からず。
   雨まじり雪降りちらふ温泉の一日蛇の目小傘に縁おぼゆる
「温泉の一日」「蛇の目小傘に縁覺ゆる」皆俳句的より出で成功せざりしものと思ふ。
       其五
 余輩は田舍にゐて一度も其の道の大家に教へを乞ひし事なし。少しづつ研究して行くに、何か問題(95)に逢著すれば直ぐにハタと行き詰つて當惑すれども、獨自ら心を苦しむるのみ。吾人の誌上に掲ぐるものは皆此の類の發表にして、誰か何とか意見を寄せて呉れんかとの慾望甚だし。而して「つばな會員」とは絶えずこんな議論をして居れども、猶其の道の士の一言を寄せんこと至囑に堪へざるなり。   (明治三十七年二月「比牟呂」第七號)
       〇
 森田義郎氏書を寄せて曰く、一月の「心の華」誌上にある余の歌にて、東海丸船長を弔ふのが最秀の積り。貴説と異る云々。と、余は前號の「比牟呂」にて氏の歌を評したれど、氏の所詠を比較して優劣差等を判たんとにはあらず。只氏の近來走りつつある一種の傾向に對し、自分の考を述べんとして、氏の歌にて比較的斬新なる趣向用語の認めらるるものを借り來りしのみ。されどそんな事は何うにてもよし。
   もののふのいきまきむかふ矢越浦かへらぬ人の名を高く呼ぶ
 氏は此の歌を秀逸となせども、余はあまり感心する能はず。一二句は三句の序詞ならんと思へど、その用ひざま斯る追想的の歌にふさはしからず。却つて將來的の意に叶ひて、一二三句と打ち見たるのみにては、到底下句の悲觀的文字を豫期する能はず。從つて上下句の讀み接ぎも木に竹を押し付けたる樣にて、作者の動作感情甚だ碎けて見ゆる事慥なり。名を高く呼ぶの「高く」も故意めきてここ(96)には値なし。
       〇
 輕薄なる戰爭文學の流行こそ鼻つまみせらるる業なれ。何等の同情もなく、何等の思慮もなく、只ワイワイお祭り騷ぎに餘念なき國民思想の代表には、よく似合ひたるものなるべし。この分にて進まば戰爭と共に歌の價値は追々に下落すべし。
       〇
 禰牟庵は明治三十三年以來、吾等歌仲間、發句仲間の倶樂部なりき。吾等の歌會、俳句會、蠻食會は十日を隔てずして常にここに開かれ、菓子を食ひ、酒をのみ、雜魚寢をなし、碁を圍み四年の久しき常に諸同人の樂土として一日も渝る事なかりき。然るに今や蘆庵は辭して遠く伊那の郷土に隱れんとし、余も亦去つて父母の家に就かざる可からざるに至れり。離別に當つて懷舊の情を馳するは悲しくして且つ樂しき者なり。紀元節祝賀會に素人音樂隊が茲に開かれし夜、木外が空樽の底叩きて謳ひし時、不浙と余とは帶戸を撃つて完全なる大太鼓手となり、芋郊は火箸もて十能巧みに打ち鳴らして立派なる小太鼓手となりき。庵の向ひのカーネギーと渾名せりし家の垣根に、山椒の若芽乞ひ得て湯豆腐せし時、健食なる芋郊が如何に舌うち鳴らして貪り食ひけん。蘆庵の發議にて五平餅作りし時、伊那生れの蘆庵と不浙とは得意になりて郷土名物の賞讃掛りを勤めき。醉ひて必ず眠る者は木外。食(97)後直ちに茶を欲するは余。茶の子に菓子を呼ぶものは必ず雉夫。酒後に菓子を欲するものは蘆庵。クロツク上手は原。大食家の隨一は芋郊、不浙。放屁の堪能は不浙。小言を竝べるは溪雲。春華は黙々として常に笑ひ、止水は照々として常に謳ひき。げに相會ふものは相別るるなり。芋郊、春華、溪雲、止水さきに前後して相辭し、蘆庵と余と今又袖をつらねて歸らんとするに殘らんとする四氏亦離情を抱いて舊庵の燈下に語る。春寒うして啼鳥の悲みを聞き、人離散して相思の愁を寄す。諸氏と禰牟庵と願くば與に永く健在なれかし。(三月二十五日)   (明治三十七年六月「比牟呂」第八號)
 
(98) 橘曙覽
 
       一
 
 松籟艸(第一集)
      阿須波山にすみけるころ
   あるしはと人もし問はは軒の松あらしと云ひて吹かへしてよ
曙覽の歌として餘りよくない作とおもふ。山居の境遇を歌ふものとして「軒の松風」位は平凡に過ぎるのに「あるしはと人もし問はは」などと冠らせたのは益々陳腐に陷つて且つ詩趣を損じて居る。嵐と不在とを云ひかけたのも有難くない。曙覽全集中に折々この種のものの交つて居るのは、矢張り八代集引讓りの本居翁などから、多少歌風をも輸入されたのではあるまいか。併し「吹かへしてよ」は曙覽の人格其の儘を表して居て面白い。
      秋の頃人しけく來にけるにわひて
(99)   顔をさへ紅葉に染て山ふみのかへさに來よる人のうるささ
下句曙覽其の人を見るが如しである。しかし上句は一向感服出來ない。「顔をさへ」と云つて紅葉狩を表すなどは全く月並的趣向であるし、「紅葉に染て」と云つて、今度は、酒でも飲んだであらうと云ふことを人に推量させるのは、甚だ厭ふべき事である。それから又曙覽の歌が常に自己の直情に訴へて、直情其のままを三十一字に寫生するのは慥に彼の卓越した所であらうが、往々その直情を美の標準に依つて、取捨すると云ふ用意の缺けて居る如き觀あるは、惜しむべきであらうと思ふ。以下續出する内にたまたま左樣な種類が見える。
      朝きよめのついてに
   かきよせて拾ふもうれし世の中の塵はましらぬ鹿の松葉
これは厭味を脱して居る。技術の上から云へば平凡であらう。
      飛騨國にて白雪居の會に初雁
   妹と寢るとこよ離れて此あさけ鳴て來つらむ初かりの聲
飛騨國へ行つたのは前にあつた足羽山山莊に籠つた直ぐ後で、足羽山に入つたのが二十五歳らしいから、此の歌は三十歳よりすつと前のであらう。飛騨で教を受けた田中大秀は、本居の門人であるが、何う云ふ風な歌を作つた人だか僕は見たことがない。併し本居の弟子と云へば、大抵その歌風も推察(100)出來るとして、その門人たる曙覽が一代の風潮に立つて、異彩ある光を放つたのは誠に敬服すべきことである。
 此の歌はよい歌でゐる。一二句の想像が、初雁に對して緊密で「此あさけ」の文字もよく重く据つて居る。ただ「鳴きて來つらむ初からの聲」の「聲」だけは不要であるし、「妹と寢る」を「とこよ」と「床」とに通はせるために用ひたであらうが、單に妹を描くならば今少し何とかやりたく思はれる。
      同國なる千種園にて甲斐國のりくら山に雪のふりけるを見て
   旅ころもうへこそさゆれ乘る駒の鞍の高嶺にみ雪つもれり
よい歌である。月並的の歌人なら直ぐ山の名などへかけて、妙な洒灑や理窟を付けるに相違ない。甲斐國は信濃國の誤なる事明かなり。
      世をのかれてのちはそれとたのむべき生業もなく貧しう物しけれは人もやしなはす何わさも自うちしつつ辛きめのみ見つつきにけるを此ころひてりうちつつきつね汲む井の水涸れぬれはさらに遠きわたりより妻のくみはこひつつ苦しともせて物するをあはれに見なして
   汐ならて朝なゆふなに汲む水も辛き世なりと濡らす袖かな
(101)先づ山莊の生活と、賢夫人の面影とが思ひやられる。曉覽が如何なる材料をも捉へ得て、縱横に詩化せられた見識は、正岡先生の夙に唱道された所であるが、此の歌なども通常の歌人では中々手をつけぬ所である。
 作はどうも有難くない。此の頃はまだ年の若い時代であるから、斯樣なのがあつたらしい。後年のと比べればよく分る。「辛き世」を云ふために「汐ならで」と入れたのも利かない。全體に稚気滿面である。
      師翁のはるはる來てここに旅居せらるるあひたに敦賀にあからさまに物すとて行給ひけるかなたに久しうととまりおはしけれはまちとほに思ひてかくなむ
   角鹿のうみきよる玉藻をめつらしみ歸るの山は忘れましけむ
「角鹿」は「ツヌガ」で今は敦賀になつて居る。「歸るの山」は越前にある有名の山で、古歌などにもよく見えて居る。
 一首の意味は甚だ明瞭である。「かへる山」を序詞に用ひなんだのは遺憾である。上句の旅に出て居る人を想像する所は誠に感じがよい。
      遲日
   のとかなる花見車のあゆみにもおくれて殘る夕日かけかな
(102)花見車の歩みと、春日の遲々たる状との配合がよく調和して居る。洛外の道に花見車を牛が曳いて居る。その簾の透影に公達のきらびやかな狩衣姿がほのめいて居る。日は久しき前より岡の櫻に落ちかけて居るが、それが全く暮れ果つるまでには未だ未だ間がある。まあザツトこんな調子の所であらう。
  附言。余は橘曙覽全集を讀んで、其の時感じた有の儘を順次載せて行く積りである。只僕の批評が當つて居るか居ないかは、自らも覺束ないと思つて居るが、同人諸君と研究して行くには、丁度よい提案にならうと思ふ。それで諸君の意見をドシドシ書いて送つてくれ給へ、可成り多く。遠慮なしつこに。(十一月二十四日)   (明治三十六年十二月「此牟呂」第六號)
 
       二
 
      關花
   あららかにとかむる人のこころにも似ぬはせき屋のさくらなりけり
月並的なり。殊に四五句に至りては論外なり。
      刈菅
   敏鎌とりかりしかるかや葺そへて聞はや庵のあきの夜の雨
(103) 一二句全體に對し説明的にて趣味を添へず。三四五句興ありて句法緊密なり。
      閑居雪
   中々にふり捨てられてうれしきは柴の網戸をあけかたの雪
中凡陳腐。曙覽若年の作多く此の類を交ゆ。
      舟中雪
   枯のこる渚の蘆にこきふれて散らしつあたら柴ふねのゆき
作者が舟を漕いでるのか、他人の漕いでるのを作者が今見てゐるのか、實情が確と浮ばないのは題詠に往々見る弊害である。捉へた所の材料が凡て繊細に亙つて居るから、どうも作者が舟の主人公らしいが、柴舟など操つてる賤夫が雪の歌るを惜むなどは、風流過ぎて居るだけ故意らしい厭味に落ちる。畢竟この歌の病所は「あたら」の文字にあると思ふ。
      平泉寺の僧都と萬松山にゆくとて足羽川を舟にてくたりけり川つつきに見およほさるる物ともを題にして人々歌よみけるに、狐橋を
   川岸の崩れにかかるきつねはし葦の茂みに見えかくれする
彼の寫實的眞情的の傾向は已にこれ等の歌の上に顯れて居る。彼は決して歌の鑄型のために我想を製造しない。彼は我想の横溢によつて、生命ある歌の領域を開拓しようと黽めつつあるのである。從つ(104)て往々生硬なる作品を交へるのは、毫も彼の價値を傷つけぬのみか、却つて益々其の向上的の活動を認識し得て面白い。此の歌は大賛成ぢや。下句が非常に活動して居る。「かかる」は、やゝ上句を散文的にせし惧れあり。
      閑居月
   あはらなる屋所はやとにてすみわたる月は我にもさもにたるかな
矢張り埋れぬ作者の性格が見えて居る。歌としてはどうも有難くない。あばら家はあばら家として、我も住み月も澄むと云ふので、相似たる哉としたのだらう。理由付の相似と來てはちと恐入る。
   捨てられて身は木かくれにすむ月の影さへうとき椎かもとかな
木がくれてのみ月を見るかな、とか云ふ古歌があつたやうに覺えて居る。何しても厭な歌ぢや。
      竹内年名か藜もてつくりたる杖くれたる時
   仙人の手ふりにかなへ作り出て心つきよきつゑにもあるかな
平凡、厭味。
      述懷
   なかなかに思へはやすき身なりけり世にひろはれぬみねのおち栗
上句たるめり。「世にひろはれぬ」こじつけ也。
(105)      花さかりに玉邨江雪のもとにて
あたならぬ花のもとにはたえす來て年に稀なる人といはれし
「年に稀なる人も來にけり」の意以外に出でず。
      大行天皇の御はふりの御わさはてたる名殘を拜し奉りて
   ゆゆしくもほとけの道にひき入るる大御車のうしや世の中
直情脈々紙上に躍る。歌は感心せず。
      むすめ健女今とし四歳になりにけれはやうやう物語りなとしてたのもしきものに思へりしを二月十二日より痘瘡をわつらひていとあつしくなりもてゆき二十一日の曉みまかりける歎きにしつみてきのふまて吾衣手にとりすかり父よ父よといひてしものを
情即是歌。豈飾と細工とを挾まんや。曙覽のこの種の歌に對しては讀者も亦個中の人となつて等しく歔欷の聲を發せざる能はず。
      父の十七年忌に
   今も世にいまされさらむよはひにもあらさるものをあはれ親なし
   髪しろくなりても親のある人もおほかるものをわれは親なし
(106)二首乍ら第五句を得て締つて居る。月並的ならば必ずここへ理窟めいた事を擔ぎ出す幕になる。曙覽持獨の舞臺と云ふべし。
      墓にまうてて
   慕ひあまるこころ額にあつまりてうちつけらるる地上かな
主觀的敍情は厭味に陷り易いものであるがこの歌の「心額に集る」と云ふ甚しい奇抜な主觀の詞も、四五句の遒勁によりて活動して居るのには感服せざるを得ず。天稟的とや云はん。
      竹間霰
   村竹はことなしふなり碎けよと風のあられはうちかかれとも
第二句の意心得難し。誰か教へて呉れ給へ。
      幽人釣春水
   吉能川春のなきさに糸たれて花に鰭ふる魚をつるかな
「花に鰭ふる魚」とのみにては危ふかるべし。他に何か落花の状を併せざりしを遺憾とす。
   春風にころも吹かせて玉しまや此川上にひとりあゆつる
「春風」「玉島」「川上」「一人」「若鮎」等の材料が如何にもよく調和して居る。第四句「此の」の字非常に活動せる事注意すべきなり。
(107)      山家樋
   山さとのかけひの水のやりすてて心ととめぬよこそやすけれ
同題三首あれども他二首はつまらぬ歌なれば略す。この歌も平凡である。題にも添つては居らぬ。
      人にかさかしたりけるに久しうかへささりけれはわらはしてとりにやりけるにもたせやりたる
   やまふきのみのひとつたに無き宿はかさも二つはもたぬなりけり
滑稽歌として面白い。厭味もない。歌の畠の廣いには呆れる。
      母の三十七年忌に(おのれ二歳といふとしにみまかりたまへりしなりけり)
   はふ兒にてわかれまつりし身のうさは面たに母を知らぬなりけり
眞情流露せり。歌は全體にたるめり。第三句第五句など幼稚なるべし。
      紙をとちて米薪やうの物をはしめ日ことにとりまかなはん物にあつかれる何くれの事かいしるしおけと人のすすめけるにより此おきてはしめたりけり。とちたる物のうへにうは書のかはりに
   うるさくは思ふものからかきつめてあらましすなりあすの薪も
「かきつめて」は書き集めての意か。曙覽其の人の風采紙上に躍れり。上句は理り過ぎたり。その時(108)の状態を寫生的に敍したくあつた。
      (上略)あまりわつらはしさにおこたりさまになりにたり。(中略)とちたる物をもかたへにうちやりて
   夕煙今日はけふのみたてておけ明日の薪はあす採りてこむ
曙覽にして初めて此の歌あるべし。夕煙の「夕」はちと困りしものと思はる。   (明治三十七年二月「比牟呂」第七號)
 
       三
 
      早苗
   うつふしに多くの植女立ならひ笠もたもとも泥にさし入る
觀察斬新なり。「うつふし」は説明に過ぎて面白からず。寫生の歌は材料の取捨排列の當否を考へねば無意義投趣味に陷るべし。
      壬子元日
   物ことに清めつくして神習國風しるき春は來にけり
平凡陳套。
      歸雁
(109)   春かけて門田面に群れし雁一つも見えすなる日さひしも
題詞の厭味を脱せず。歸雁を表さんとして「春かけて」など入れし事故意めきて見ゆ。「群れし」も實情に遠き細工なり。四五句非凡の手腕を伺ふべし。
      菅原神の九百五十年の御祭に梅花盛といふ題をよみて奉りける
   うめの花匂ひ起さぬかたもなし東風ふきわたる春の神垣
菅公の詠を受けて詠めるもの一向有難からず。
      加賀國山中の温泉にて
   たをやめの袖ふきかへす夕風に湯の香つたふる山中の里
面白し。只主要なる五句にどちらでもよき邑名を持ち來りし爲に全首の活動を害せるの觀あるは惜むべし。
      秋田家
   ※[虫+乍]※[虫+孟]うるさく出てとふ秋のひよりよろこひ人豆を打つ
※[虫+乍]※[虫+孟]ははいなごまろ〔五字傍点〕とよみてバツタの事なり。寫生喜ぶべし。第五句力あり。
      新竹
   稀にきてすかる小鳥のちからにもひしかれぬへく見ゆる若竹
(110)風格遒勁凡手の企て及ぶべき所にあらず。
      戸川正淳か男兒うませけるに
   ますらをと成るらむちこの生さきは握りつめたる手にもしるかり
著想奇警曙覽獨擅の作物なり。五句の重からざるは遺憾。
      竹
   村雀をとれはわれもうかれつつそよめきたちてささといふなり
「そよめき」は心の坐ろに動くさまなり。「ささ」は笹と、囃の「ささ」とをかけたるなるべし。つまらぬ歌にやあらん。
      初秋月
   蟋蟀の聲もましりて此夜ころ秋つきかけぬ淺茅生の月
月が秋づきそめたと云ふ事を表すには、月に対する主なる材料を捉へて、その景物をここに描かねばならぬ。此の歌では只淺茅生の月が秋づきそめたと斷つてゐるのみで、讀者には月がどんな具合に何の上に照つて、どんな趣をなしてゐるか明瞭に積極的に表してないので、朦朧の歌になつて見える。「こほろぎの聲も交りて」の「も」は甚だ惡い。月並的を脱し得ざるものなり。
      苔徑月
(111)   露しけき※[草がんむり/毎]《こけ》ちにひとり月をおきてささるるものか夜はの柴の戸
一首の主眼となるべきは何にありや。取所なき歌なり。
      愛山
   人こころ高くなりゆくはてはては山より外に見る物もなし
趣向はじめより平俗、とんでもないものを作れり。
      樹間鹿
   あはれなり角ある産もたらちねの柞のかけを去うけに鳴く
「柞」とおきて直ちに母の事に通用させて、有意的の鹿にこじつけたる大に嫌ふべし。「角ある鹿」にて荒々しき鹿の意をいへるなるべけれど夫れも嫌味なり。失敗の歌なり。
      公につかふまつるつねのおきてとなるへき歌よみてくれよと人にこはれて
   世の中の憂きに我身を先たてて君と民とにまめ心あれ
教訓歌なり。
      越智通世が妻のみまかりけるとふらひに
   亡き母をしたひよわりて寢たる兒の顔見るはかり憂きことはあらじ
直情發露悲傷腸を斷つに餘りあり。全首の用語活動して句法緊肅敬服の外なし。足羽山莊の隱逸、世(112)を慨き人を思ふの熱情常に脈々として躍る。造り笑ひ、造り泣きの徒と歌の撰を異にする素より其の所なり。   (明治三十七年六月「比牟呂」第八號)
       四
      木屋四郎兵衝か父のもにこもりをるに
   言あらくいさめたまはむ聲をたに聞かまほしくやせめてこふらむ
意明かなり。斯樣な種類が中々多いのを見ても、曙覽の人となりはよく分る。      庭なる山吹の秋花さきけるを見て
   黄金色とほしき屋所といふ人に見せはや秋の山ふきの花
故意めきて面白からず。滑稽にせしならんがそれも厭味あり。
      與女見雪
   妹とわれ寐かほならへて鴛鴦の浮きゐる池の雪を見る哉
中々惡しからぬ所だ。妹背と鴛鴦と相對せしめたのであらうが、無理に左樣にせないでよいだらう。
      笠原元直のみまかりけるを悲みて
   今日のこのなけきさせむと同し世に魂さへあひて生れ來にけむ
(113)「魂さへあひて」は氣に入らぬ。單に「魂あひて」とか、若くは「睦魂あひて」など云つて貰ひたかつた。「來にけむ」も「來けんか」など更に重くしては如何と思はれる。
      山家
   白雪の行かひのみを見おくりて今日もさしけり蓬生の門
自らの境遇を歌つたのであらう。「行かひのみ」の「のみ」は有難くない。
      落葉深
   今朝見れは簀子つつきになりにけら夜一夜ちりし庭のもみち葉
陳套を脱し得て句法も清楚誦すべきである。
      島崎土夫が子の袴著に
   顔にさへつひによらせよしとけなく著なす袴の皺をさながら
袴の皺が顔に寄るまでにと祝つたので、隨分奇警の著想ぢやが、惜しい事にあんまり氣が利き過ぎて厭になる。歌はあまり理窟が合ひすぎて拔目ないのは何うも有難くないものだ。
      中根君の江戸よりせうそこし給ひける返りことに
   雪わけてとのゐしに行島の殿身も消いりてかなしかるらむ
慶永侯が安政の獄に靈岸島の邸に蟄居を命ぜられた時の事であらう。此の時侯の需によりて萬葉集中(114)の秀歌を選んで奉つたさうな。駄洒灑が少くて眞情がよく露れてゐる。
      辻春生が母のもにこもりをるに
   乳ふさこふ兒のむかしに身をなして泣まよふらむ母よ母よと
   母なしは我のみならと巣たちする鶯見てもうらやまるらむ
曙覽に此の種の急所を捉へられては堪らない。眞情以外の文字がないからな。      河崎致高君の江戸へ行くに
   旅ころも岐蘇は五百重の山つつきやとりおくるな朝出いそくな
益々出でて益々有難い。心にもないそら世辭を振り蒔く奴等には到底斯樣には出られぬ。格調も素朴遒健なり。
      虎畫
   聞しらぬ獣のこゑも吹たちて野かせはけしきもろこしか原
月並者流の巧者なくてうれし。
      牧笛歸野
   思ふことなけなるものははひ乘て牛の脊に吹く總角か笛
如何にも思ふ事が無ささうである。面白く出來てゐる。
(115)   歸路を牛にまかせて我はたた笛ふきふける里のあけまき
前と同題ぢや。「我はたた」はここになくもよい樣に思ふ。
      古溪螢
   み谷川水音くらき岩かけに晝もひかりて飛ふほたるかな
斯樣な題は何うも陳腐に陷り易い。晝の螢も新しく感じない。
      五月
   梅子のうみて晝さへ寐まほしく思ふさ月にはや成にけり
第一二句は倦みてとのみの意に用ひたるならん。珍しい縁語ぢやわい。只五月とのみ云つたのでは何に捲むのだか齒痒く思ふ。「はや成にけり」の「はや」も重きを成さぬ。何とか改めたい。
      馬
   ※[髪の友が耆]をとらへまたかり裸うまを吾嬬男子のあらなつけする取材縱横、用語自在、句法と材料とよく相協つて全集中の逸品たるを失はぬ。曙覽の獨創的天才が遺憾なく發揮されて誠に氣持のよい歌である。   (明治三十七年九月「比牟呂」第九號)
 
(116) 短歌小觀
 
       〇
 近來「馬醉木」その他根岸派の雜誌に見ゆる和歌が、往々文字句法の面白味を求めて得々たるが如き傾向あり。文字の研究、句法の錬磨、固よりさる事ながら、吾人の趣味は何處までも眞摯なる實情を以て立脚地となさざる可からず。事物境遇に對する趣味の觀察が、居常平凡疎漏にして偶ま筆を執り紙に向ふに及び、忽ち當座の趣向にその頭腦を絞る。平凡ならずんば陳腐なる固よりその所なれど、その平凡と陳腐とを強ひて糊塗粉抹せんとするより、強ひて字句を捻くりまはすの必要生ずるなり。こんな必要より生ずる句法の意匠は、粗漫ならざれば輕卒、不得要領ならざれば厭味たるに終らん事理義甚だ明白なり。余は子規遺稿「竹の里歌」をよみて殊に此の感を深うせり。子規先生の歌を何囘よみても感ずるは、趣味の觀察が實に多樣なる事なり。先生の歌は歌として特別に頭の中から湧き出したるものにあらで、すべての觀察が歌的なりしなり。否すべての生活が歌的なりしなり。
(117) 先生の眼の光のすべては是れ歌なり。先生の頭の活動のすべては是れ歌なり。斯の如くにして始めて眞に生命あるイキイキしたる歌は生れ出づ可し。鳥籠の中の木の枝、鸚、籠の覆のブリキ、障子のガラス、床の間の掛軸、枕元の寒暖計に至るまで歌に上せ得たる技倆に感服するは平凡なり。先生の觀察が常に如何なる事物にまで及び居たるかを考へば思半ばに過ぎん。月並的な思案に名利の賤奴となり、若くは無邪氣、無頓著(あまりに)なお人好生活を繼續し、自己の修養を疎んじて歌や俳句ばかり上等ならんを欲するが如きは蟲の好すぎる話と云ふべし。
       〇
 友人曰く、君等は竹の里人を神樣のやうに思つてゐるから、畢竟竹の里人以上に出づるの期無かるべしと、妙な話を聞くものかな。吾人は竹の里人を尊敬せり。されど全智全能の神樣と思ひし事もなし。竹の里人は明治の歌壇に於ては最も進歩せる成功せる人なり。されどそは全量に非ず、或る量なり。頂上にあらず、或る階段なり。他よりも大頭地を抽きたる或る階段なり。その進歩せる階段に對して、敬意を表すると云ふことは、それ以上の階段を豫想せぬといふ事とは、何の關係なき話ならずや。さ云ふ人果してよく竹の里人の趣味を解し得て居りや。屁理窟はやめて今つと研鑽するこそよけれ。詰らぬ辯解なれどそんな疑問もあれば序に云つて置きたく思へり。
(118) 一首の中に道具立のみ多くして散漫に流るるものあり。一つ宛の材料を取りはなして見れば結構ならぬにあらねど、綜合して全體の上より見れば何のとりとめ〔四字傍点〕もなし。一首の中に主眼とする所あれば、他は皆そを活動せしめんがための動脈管たらざるべからず。
   新玉の年の始と豐酒の屠蘇に醉ひにき病いゆがに
   年の端に梅の花活け〔九字右○〕豐酒の屠蘇に醉ひにき病いゆがに
   年の端に梅の花活け床清め〔十二字右○〕屠蘇に醉ひにき病いゆがに
など假にかくせば、零碎殆ど取るに足らざるべし。年の始に梅の花を活けるとか、床を清めるとか云ふ事は、夫れのみにて已に一首の趣向充分なれば、下の句と相対して兩々主位を占むるの觀を呈すればなり。而して一首中の主位を占むるものは、多くは第四、第五句にありたし。初句重くして、末句輕きは尻拔けの感ある事多し。此の事は子規先生もかつて説かれたりと思ふ。試に子規先生の和歌からその例を引かん。
   枝ながら折らてささげし藤波の花はむしろを引きずりにけり〔十二字右○〕
   仰むけに竹の簀の子に打伏して背ひやひやと雲の行くを見る〔十二字右○〕
   富士をふみて歸りし人の物語聞きつつ細き足さする我は〔十二字右○〕
(119)   浪速津は家居をしげみ庭をなみ凉みする人屋根の上の月〔十一字右○〕
八千ひろの淵の深きに住む龍の頤《おとがひ》にある玉の如き子や〔八字右○〕
   新室に歌よみ居れば棟近く雁がね鳴きて茶は冷えにけり〔七字右◎〕 (五句何等の秀拔ぞ)
   千早振神の木立に月漏りて木の影動くきざはしの上に〔十二字右○〕
   鎌倉の松葉が谷の道のへに法を説きたる日蓮大著薩〔十字右○〕
   人屋なる君を思へば眞晝餉の肴の上に涙落ちけり〔十三字右○〕
   歌をよみに集ひし人の歸る夜半を花を催す雨瀧の如し〔九字右○〕
       〇
 「竹の里歌」中にて
   曉の鴛鴦の小衾靜にて閨の外面は雪積りけり
は如何のものにやと思はる。上句は夫婦の間柄を敍したるものとすれば、作者の位置は無論屋内にあらざる可からず。然るに下句に至りて忽然屋外の景物を捉へ來りしは、作者の位置不明瞭なると共に、歌の全體が据らぬ心地す。如何にや。
   家へだつ遠の梢に咲く花をいぶきまどはし我庭に散る
第一句「家へだつ」は贅語ならずや。之を省きて完全に一首の趣をなせり。「家へだつ」を入るれば(120)却つて「我庭に散る」の説明めきて厭味を覺ゆる如し。之も如何にや。
   淺き夜の月影清み森をなす杉の梢の高き低き見ゆ
第三句「森をなす」も説明たるに止まりて、何等の詩趣を添へざるやに思ふ。            〇
 複雑なる思想を表す爲に長歌ありと云ふ人あり。一應さる事なれど、長歌は寧ろ聲調に於て重きをなすものなり。初めより事實の複雜など長歌に註文する積りならば、必ず失敗すべし。新體詩に至りては聲調を重んずるは固よりなれど、その聲調なるもの自ら長歌と異りて、其の上最も複雜なる構想に適すべし。和歌俳句長歌以外新體詩の研究こそ望ましけれ。
       〇
 藤村の新體詩は朦朧なる節多けれど、げに捨て難く覺ゆ。今少し句法を緊密にして冗語を省きては如何。さはれ今日の新體詩壇、藤村の壘を摩する程のものは一人もなし。泣董、有明、鐵幹等に至りては月並臭紛々近づく可からず。       〇
 貧に安んずるはよし。借金を積む可からず。歌人往々恬淡無頓著にして財を修理する法を知らず。首の廻らぬ所迄詰りては自らさもしからざるを得ず。貧すれば鈍する習、神ならねば誰の上にも有り(121)がちなり。斯くて自暴自棄となり、不始末となれば何事につき眞面目なる能はず。平靜なる能はず。あたら秀才の首を借金取りの前に下ぐる事、面白からざるにもあらねど所謂恆心を失ひて、何事にも腰折れ尻据らぬなど、如何に口惜しき事多かるべき。詩だの美だのと口にしたまふ諸君に、ちと如何はしき話のやうなれど余は誠にさる事と思ひ居れり。   (明治三十八年一月「比牟呂」第三卷第十號)
 
(122) 新體詩に就て
 
 偖新體詩についての愚見聊か陳列仕り候。俳句に敍事が恰適し、和歌に敍情が恰適する如く、新體詩には矢張り敍事が六ケ敷くして敍情が容易に候。明治十二三年頃矢田部、井上諸氏の手によつて、産聲を擧げたる新體詩が今日の發達を見るに至るまで、敍事側と敍情側とが如何程の發展を異にしたるかを見れば、それが甚だ明瞭に候。「孝女白菊の歌」や「比沼山の歌」が持て囃されたは、ホンの眼先の幻影にて、今日誰も思出しもせぬ中に、藤村氏の作の如きは、仮令朦朧の譏あり冗長ヒジキの行列に似たる嫌ありとするも、十年前の稚期に比すれば、雲泥啻ならざるの境を呈し居り候。正岡先生の「墓參」「微笑」「古白の墓に詣づ」「奈翁の圖」「病の窓」の如き(今小生の處に之きりなし)矢張り皆主觀を以てやられ居り候。然るに今囘の「諏訪行」は敍事の側に立たれ候事隨分難を負つて立たれたりと存じ候。(主觀が一向ないのではなし)尤も新體詩なるものが、必す主觀を主とせねばならぬと云ふ譯でないから、今後大に敍事の方面に立つて活動を開始せんとの御覺悟ならば賛成に候。(123)併しそれは別問題にて、小生の茲に申すは、只敍事の方面は俳句などと違ひ、和歌などにも違ひ、句法や用語や聲調が六ケ敷いと申すので候。
 今日新體詩家で候と顔を並べてゐる連中中々多く候へども、彼等の敍情詩の如きは概ね囁吐を催すべきもの、鵺文字や駄句や嫌味や月並的や理窟を並べて、スマシ込んでゐる有樣は、丁度短歌會で新派顔を振り廻して、キザなセリフを使つてゐるの現象と少しも異らず。此の新體詩界を革新して、敍情側敍事側併せて吾諸同人の開拓區域に入れたい希望だけは、小生も把持し居り候。近來「ホトトギス」誌上にて俳體詩を散見致し候が、諸君の意氣込中々壯大にして、面白き議論も飛び出す樣愉快に候。「ホトトギス」「アシビ」相率ゐて一新光明を發揮するは、實に愉快の事業と存じ候。只虚子氏の連句的俳體詩は御來示の如く、どうも賛成出來申さず、漱石氏の作も鍛錬不足と存じ候。それも草創のことだから必しも咎むるには足らざらんか。虚子氏が意味の終始略一貫せる連句を以て、一體を拓かんとする如きは、長篇のものに對する用意と、俳句などに對する用意との差別を混淆したる謬見に候。發句と脇句との干係だけならばその距離多少存するとも、兩者間の相關的趣味を會得せしめ得ざるに非ずと雖も、此の關係を及ぼして長篇のものに擬せんとするは、テンデ無理な註文に候。此の事今囘の「比牟呂」で論ずるつもりに候間御批評願上げ候。
 「諏訪行」は敍事詩として已に難きを負つて立てるものなるに加へて、今一つ六ケ敷き註文が加はり(124)居り候。それは全體十六聯一まとまりなれど、材料の内容を檢査すれば單位が(と申しては變なれど)幾つにも分れ居り候。即ち甲州より諏訪に入れる途上が其の一、諏訪の景物直觀其の二、舟遊其の三、湯汲女の境遇其の四、立科山登りその五に候。諏訪紀行と云つて一纏めにすれば、勿論大なる單位となるべきも、多くの單位を綜合すると云ふ事は、餘程苦勞の仕事と存じ候。此處が散文と韻文と難易の傾向を異にする所以ならんか。愚考にては「諏訪行」中には各句として、非常に面白き名句が見えてゐる割合に、全體とすれば飽足らぬ樣に見え候。若し之を前に小別したる如き單位に區別して、幾つもの短篇とせば更に成功したるべしと存じ候が、貴意如何に候か。尤も必しも六分せずともよろし。第二、三の如きは一括するも面白からんが、第五の如きは全く分離すべきものと存じ候。湯汲女の如きも取り離せば甚だ好き詩材なれど、斯る所へ挿入すれば却つて贅物となるの感なきか。吾人一生の出來事には喜怒哀樂樣々の詩材あるべきも、只一篇「我一生」なる題下に聯ねたでは詩にならぬと存じ候。白石の「折り焚く柴の記」を新體詩にしたらつまらぬものと存じ候。「諏訪行」を評するには大袈裟な對比なれど、理窟は同じ事かと存じ候。
 以上は「諏訪行」に對する大體上の愚見に候が、猶御高見拜承仕度候。(以下略)   (明治三十八年四月「馬醉木」第二巻第二號)
 
(125) 短歌小觀
 
       〇
 近頃の「馬醉木」にて氣に入りたる歌一つ二つづつ擧げて見ん。
      千本松原
   天雲の緑かざしてきほひ立つ奇しき老松數を知らずも  左千夫
   とこしへに富士と相寄る神松を見ればかなしも我人にして
      御用邸を拜す
   靜浦の浦遠長に帶をなす其の松原や大宮處  同人
   靜浦の千重の松原ゆふかすみあやに霞めり神ますらしも
      弟の從軍に
   大君の御楯仕ふる丈夫は限り知らねど汝をおもふ我は  節
(126)   我庭の植木のかへで若楓歸りかへらず待ちつつ居らん
      漁夫が妻に代りて
   松魚釣りあるみにやりて嘆かぬをいくさといへば心悲しも  同人
   清澄の隱るる沖に嵐吹きかへらぬ人もありとは思へど
      四尾連湖に遊ぶ
   高き枝に實を食む鳥の朝空になきのさやけき土手の上を行く  甲之
   諏訪口の北風防ぐ家うらの竹藪かげにさくら咲きけり
   山の上に遠見はるかす霞立つ狹野の若國つばらかに見ゆ
   見さくれば國原南傾きて八十河我にむかひて流る
   なづみ來し峰の木ぬれに碧空と依りて湛はす湖のささ波
   久方のあまつ女神の朝よそひ雲をのごへば湖あきらけし
甲之氏の歌非常に振ひ居れども一々擧ぐる能はず。
      歌成らざる歌
   はたた神おどろはためき両降らす時にか我に歌玉を落せ  里靜
   家の棟に一八咲ける家多き足柄ゆけば古おもほゆ
(127)一、二、三句猶あるべけれど一八にて活き居れり。
梅雨のふり續きたる庭さきの棚なし南瓜蔓延びにけり  桃村
「棚なし南瓜」新し。寫生より得てこなれたるものなり。
   蓼科の裏の谷々雪ながら櫻つぼみてうぐひすなくも  柳澤廣吉
材料を新しきに得たる功なり。
   枕べに置きたる鉢の花薔薇さかりを見ずていにし父はも  胡桃澤勘内
   たらちねもおほぢぢ君もさきくます君をうらやむ父なし我は
眞情是れ聲、故に厭かず。
   蒙古のや昌圖のたむろ日をへつつ豆腐賣る聲國おもはしむ  足立清知   苧桶の丘びに立てばわが足ゆ淺羽の野良はひろごりにけり  望月光男   平蜘蛛の釜かけ居れば苗束に結髪しけむ民等しおもほゆ  茶の湯釜なり  左千夫
   瓦けの土の器に酒くみし古きむかしの平蜘蛛の釜
   五百とせの昔鳴りけむさながらに煮え鳴る釜したふとかりけり
   秋山に西吹き起り空晴るる見の胸開く形よけき釜
      御手植の小松
(128)   春の海のなごめる朝け見そなはし植ゑし小松は萬世のため  蕨眞
   いたつきの病の床に半起きて粥すすり居れば鶯鳴くも  柳の戸
   益良雄となりたる我をかにかくに思ほすらしき父母は老いたり
   霜ぐもり朝日に晴れて八ケ岳八つの高峯に雪皆白し  上野一也
「雪皆」の皆は如何あらん。
   内日刺都の空はひた曇り春さむくして花後れたり  志都兒
   ぬば玉の小夜更けぬれど釜の音のさやさやなるにいをいねかねつ
別に想を巧まずして感興自から詩なるは志郎兒君の特徴なり。
   藤波の花ゆたゆたに鞍にさし駒たぎゆかす棧の上  石原阿都志
   毛絲もて小さき束につかねられ日にしをれたるげんげんの花  胡桃澤勘内
      悼野口先生
   相見ねば君が柩は送らねど名に聞き戀ひて吾は悲む  左千夫
   唐歌の千卷の書を貯へて詩を作りけむ君は今なし
思ひつきてしるしせりけるを斯く書きつけたれど果して如何にや。連作中より一二首位拔き書きせるは時に心なきわざなりけんも量り難し。
(129)       〇
 志都兒の歌は巧なくして感興多し。天稟的なり。弊は往々無用の文字を交ふるにあれど、何れも心底より歌ひ出でたらんと思ゆるは貴し。柳の戸の歌は朗々概ね唱すべし。時に天外の妙音を洩らすことあり。大膽突飛の筆を下して、零碎の譏を免れ得るの手腕決して凡ならず。只往々詞句の彫琢に過勞して、却つて目前に駢列せる事物の趣味を閑却し去るが如き傾向あるは缺點なるべし。竹舟は平易にして捨て難き節あり。俗謠を詩化したる如き趣あり。好箇の田園詩人近來「馬醉木」に一向見えぬは何故ぞ。大いに帶を締め直して貰ひ度し。柳津廣吉君は極めて新顔なれど、詠ずる所皆新しくして態を備ふ。一旦足を斯界に下せるからは、不撓眞面目の意気込こそ肝要なれ面白半分の取り付きにては、如何なる天才を包藏すとも無效なり。君の門出に餞する只この一語のみ。山水のは思邪なきものなれど、往々平凡に馳する傾あり。茅花會課題「學校」を詠じたる心掛を失はざらんを望む。釜溪近來頗る奮發すと聞く。長歌につき研究が急移なりと云ひ越されたれど、詳しき説を聞き得ざるを惜しむ。君の歌は觀察徐程超脱のをかしみあれど、詞を行る事佶屈敖齒敖齒に過ぎて價を煩はすの傾ある事、やゝ石原阿都志氏に肖たる所なきか。一段の工夫を切望する所以なり。唖水久しく作らず。日本新開に出たる病院雜詠の外消息なきは如何。蘆庵伊那に入りてより同じく作歌に懶し。「をかしきは桃さく鄙にさかり居て詩を作るより田を作る時」の天籟を再出再三出續々出せんことを切望す。思ふ(130)に蘆庵の歌は性格の歌なり。多く學ばずして自ら來るの歌なり。之に人爲の鍛錬を加へば造詣必ず測る可からざるものあらん。出でよ出でよ大いに出でよ。雉夫はあまり呑気過ぎて困る。趣味なくして安んする能はざるの人にして、君の如く作らざるは(然り君の如く不注意なるは)ヅク〔二字傍点〕なきが故なり。富士旅行一週日得る所何物ぞ。金剛杖つきて威張り歸り來るとも、只にては許さぬぞ。汀川の歌は流行以外自ら守る所あり。興動くに從ひて歌ふの面影作物の上によく現る。缺點は詞の工夫やゝ疎漏なるにある。「馬醉木」誌上に斷續あるは何故ぞ。
 記して斯くいふは、大いに諸同人の奮起を望みて已まざればなり。奇しき世の道行きにゆくりなきこの同伴あり。共に勵み、共に助け、共に喜ばんとするは、よにはらからの至情なり。古き友、新しき友手たづさはり行く道の長手に、落莫の思なかれとは、吾等が出立の願ひに非ずや。
       〇
 東筑の地由來文學に富む。しかも根岸派の作歌に從ふもの、かつて矢野一二君ありし以来杳としてその消息を聞くを得ざりき。然るに今年に至り胡桃澤勘内君捲土の勢を似て、奈良井川の畔に起てるは大いに吾人の意を強うせる所なるに、續いて望月光男君の出づるありて、筑摩の野是より大いに色めかんとするの徴あること慶賀至極なり。余かつて池田に在り。晩秋奈良井川に沿ひて島内の村道を過ぐ。楊柳葉落つる所民家點々、柑童柿の木に梯子して梢頭の赤果を摘めりき。今や二君相携へてこ(131)の閑境に歌ふを聞き欣喜に堪へず。松本平十里の地、願くば健全なる詩風の発達を期せよ。
       〇
 月並的といふことを和歌俳句の上にのみ氣にして、自己の處生觀に接觸して想到せぎるもの多きは訝しき事なり。趣味は人格なり、根本なり。和歌、俳句は發表なり。從つて寧ろ末梢に屬せり。根本は一なれども發表は多樣なり。和歌、俳句の如きは一部の發表にして全部の發表にあらず。日常の言語も發表なり、起臥寢食も發表なり、妻子と睦ぶも發表なり、他人と交際するも發表なり、生活の計をなすも發表なり。その發表に個々の矛盾ありて、和歌、俳句のみ月並的ならざらんを希ふ心底が訝しといふなり。
       〇
 趣味の對照は如何なる處にもあり。己が好む所を以て堅苦しく他を律すべきにあらず。生花のをかしさを知ると共に、掴み挿しのをかしさを知らざるべからず。端坐の靜肅を好むと共に、胡生かく呑氣をも排すべからず。一等客車内の閑却もよけれど、三等客車内の賑しさもおもしろし。酒好む人には酒の趣味あり、茶を飲む人には茶の趣味あり、晝寢する人には晝寢の趣味あり、碁を打つ人には碁の趣味あり、碁を打たず、晝寢せず、茶をのまず、酒のまずとて是れ將た何のかかづらひかあらん。趣味は活動なり。左樣に跼蹐せるものにあらず。
(132)       〇
 小池武俊なる人あり。つばな會課題の歌を寄せ來り、且つ云ふ。諸君の如き亂暴なる歌風には與みする能はずと。與みする、與みせざるは勝手なり。其の一人の進退が何程の痛痒をも吾人に感ぜしめざれば、遠慮なく自由行動をとり給ひて可なり。只左樣に氣に入らぬつばな會に何故に歌稿を寄せ來りしかは少し疑問なり。少壯寄稿者往々自分の名が雜誌上に現るるを無上の光榮として、何の雜誌にでも顔出したがる事、無邪氣には相違なけれど、一種縁なき衆生なり。立派なる見識なくば歸依する本尊位はきめて置くべし。阿彌陀樣を拜み、天理教を有難がり、丸山講にも顔を出したでは、第一本人が浮ばれぬ話なり。これ小池なる人のみの爲に云ふに非ず。鐵幹にも推參し、信綱にもお邪魔する没分曉先生隨分見當らざるにあらねば、筆の序にしるし置くなり。
 此の人「學校の火鉢かくみて大うそを我に聞かしし師の人おもほゆ」の歌の亂暴にして詩的材料にあらぬこと長々と書き送りたり。己が所信を忌憚なく述べ給ひしこと御苦勞千萬なり。この歌は左程よくもなけれど、詩的材料にならぬ程の見當外れにはあらず。櫻や處女や笛や琴ばからが詩だと思ひこんで居る人には少々話しにくし。君の如きは信綱や正風を大切に守つて居ること身の爲なるべし。
       〇
 歌を作るは消閑事業にあらず。八疊の座敷に晝寢の眼をこすりて趣向の頬杖つくなど、人の好過ぎ(133)る話なり。世に刻苦なき報酬なし。壬生忠忠岑が血を吐きしはつまらぬ競爭よりならめど、その熱心猶稱するに足るべし。歌人閑あらば去つて足を名山大澤に投ぜよ。名を知らぬ奇草足にまつはり、香高き喬木天に扛するの偉觀、直ちに歌靈の高きに參するの思あらん。飛瀑懸る岩根、異禽鳴く谷間、山苺の實は赤顆を垂れ、下草植物の花は紅紫を彩る。若し夫れ絶巓巨岩累々たる上に攀ぢて、滴る汗を大空の凉風に吹かせつつ、速く眸を天末の翠微に駑せて百里の山河を方寸の間に指顧し、時に火山灰に草鞋埋みつつ、オコマグサ、ムシトリスミレ、ミヤマキスミレ、シコタンサウ、ウルツプサウ、千島桔梗、千島ニンジン、長之助草、シマイケアケボノサウ等高山植物の花を摘むの快、惰眠者流の味ひ得べきにあらず。斯る間に身を置いて、猶歌の取材に苦しむといはば寧ろ歌の廢業を勸めん。
 〔編者曰〕本稿ハ本巻「寫生雜記」中ノ「新名につきて」ニ續ケテ明治三十人年九月雜誌「比牟呂」第三巻第十一號ニ「短歌小觀」トシテ發表セルモノナリ。
 
(134) 屠蘇漫言
 
 古今集以後十三代集各家集と眼を通すのもうんざりする。實際僕はこれらのものに餘り眼を通した事がない。五首か十首讀んで行けばもう眠氣がさす。日本人は氣短かだといふことぢやが、あんな陳腐な製造品を百年でも千年でも根氣よく繰り返して詠んで居る我々祖先は隨分氣長な者と驚かねばならぬ。明治の盛代各種方面に民心の活動を來して面目を改めつつある今日、猶株を守り船にきだするの徒蠢々として皆然りの有樣を見て日本の歌界もむしろ愍然の情を寄せたくなる。
   鶯もなかぬかぎりの年の内にたがゆるしてか春は來ぬらん 年内立春
 古歌復興を以て任じたる契冲阿闍梨のさくぢや。古今集の「去年とやいはん今年とやいはん」と好一對の理窟歌ぢや。歌は美を歌ふものぢや。感情を敍べるものぢや、理窟を云ふなら理窟を述べる文章にするがよい。鶯も鳴かぬに何故春は來ただらう、どうも未だ來る筈はない、誰に許されて來たのだらう、と斯う云ふのぢや。理窟にしてもたわ〔三字傍点〕いが無さすぎる。春が立てば直ぐ鶯、秋が來れば直ぐ(135)悲しい、斯樣に判を捺したやうに固定した融通の利かぬ趣味を月並趣味といふのぢや。
を筑波も遠つあしをも霞むなりねこし山こし春や來ぬらん
 これは眞淵の歌ぢや。筑波山も足尾山も霞める見れば嶺越し山越しに春の來ることであらう。と云ふのぢや。立春といへば直ぐ霞を持ち出すのが同じく月並趣味ぢや。立春といへば直ぐ霞が棚曳くものぢやない。それを霞まねばならぬ。霞むのが正しいと斯の如く月並先生に極られてしまつたやうぢや。筑波山も足尾山も霞んで來た。あの山こし、この山越して春は來る事であらう。と立春を霞攻めに生擒つたのらしい。筑波、足尾と竝べて、次に嶺越し山越しと竝べたのは極めて俗である。斯樣な文字上の技巧を弄するを見て、俗人は直ちに理窟の詰んだよい歌ぢやなどと稱讃する。この歌懸居翁の名歌として稱せらるるものださうな。
   あら玉のとしにふたたび二荒山立かさねたる春がすみかな 年内立春
 千蔭の新年歌ぢや。ふたたびと云ひ、二荒山と重ね、更に立重ねたると洒落て續けたのみぢや。こんな事を詠んでゐるより地口でも云つてゐる方がましぢや。一首の意味は年に二度春霞が立つたといふのみぢや。何等の面白味もない月並臭紛々たる歌といふべしぢや。
   物ごとに神世おもほゆあら玉の年の始めのてぶりほぎごと
 本居宣長の歌ぢや。何に神世の趣味が思ほゆるのか、只物毎など云つても分らぬ。新年の風俗祝事(136)とのみ云つてもどんな事が神代的で面白いのか樂屋落で分らぬ。斯る一人よがりのものを自選歌として遺して置いた宣長翁の見識餘りに低しと云はねばならぬ。新年行事のあるものに翁が實際興味を有してゐたならば、必ずこんな普汎散漫な敍し方をせずに具體的事物の活動を表したであらう。さほど熱心な趣味をも持たぬに強ひて歌をつくる連中の歌は概ね斯の如しぢや。
   さし出づる此の日の本の光より高麗もろこしも春をしるらん
 同じく本居翁の新年歌ぢや。俗的に下品な作ぢや。「敷島の大和心を人問はば朝日ににほふ山ざくら花」と共に俗人に喜ばれさうな歌である。
 香川景樹のも掲げるつもりであつたが長くなるからこのくらゐで止める。景樹のを掲げた處が前數者と大差ないものである。斯の如くして徳川時代古學復興の氣運は作歌の上に憐れな影を殘して消えた。借間す明治の歌人は如何。   (明治四十一年一月一日「甫信日日新聞」)
 
(137) 漫言
 
       一
 
 自己存在の意義を自覺するは、吾人の世に處する第一義である。田吾作でも杢兵衛でも夫れ相應の價値がある。草を刈る、炭を燒く、晴るれば耕し雨ふれば遊ぶ。吾人から見れば實に趣味多き生活である。しかし田吾作にはこの趣味が分らぬ。この價値が分らぬ。則ち自己存在の意義が自覺出來ぬ以上如何なる趣味の上に立つても、夫れは只吾人の問題でゐる。田吾作の問題ではない。選擧權を放抛する者は立憲國民でないと云ふが、自己存在の價値まで放抛して草を刈り、炭を燒て杢兵衝は實に憐れな人間と云はねばならぬ。天下の隨所に累々たる學者、官吏、教師、實芙家乃至美術家、音樂家、詩人その他凡百の種族を盡して、所謂自覺なき存在ならざるもの知らず幾人ぞや。文明とか開化とか學問とか憲政とかいふもの、此の第一義を離れて一文の價値だにないと信ずる。
 古人は醉生夢死と云つた。同じ事だ。誰でも醉生夢死はいやだ。いやでありながら第一義の上に立(138)たぬ。夫れで煩悶する。苦惱する。何の爲に苦惱する。名を得たい爲に苦惱する。權勢の爲に苦惱する。金を得たい爲に苦惱する。こんな苦惱の裏門には第一義が大欠伸をしながら、主人公の綱渡りを拜見してゐる。斯うなれば杢兵衛君の方が浮雲なく無くつて氣樂だ。無邪氣で愛らしい。
 自己存在の價値を自覺して、斯の價値を擴張するために奮闘するは、吾人の世に處する第二義である。價値の自覺は一歩より十歩に進む。十歩より百歩に進む。十歩を進むものは十歩の修養を要する、十歩の奮闘を要する。百歩を進むものは百歩の修養を要する、百歩の奮闘を要する。奮闘といひ修養といふ、皆苦痛である。併し乍ら此の苦痛は、世上凡百の苦惱とは解釋が違ふ。自己存在の意義を自覺して進むものは、十歩の奮闘は同時に十歩の快樂である。百歩の修養は同時に百歩の快樂である。是に至つて苦痛は印ち快樂の別名である。苦あれば樂ありぢやない。苦即ち樂であるのだ。未來の希望に生きると同時に、現在の快樂にも生きる。過去の追想の樂しきにも生きる。所謂几百の徒の苦惱にこんな餘裕はない。苦あれば樂ありなどと、俗的な夢想を畫いて、永久に苦惱して進む無意味な苦惱であるから、苦痛は何處まで行つても苦痛である。骨折損の草疲儲けをして一生を終れば、お墓の下でやつと安心立命が出來る。 吾々同人の文學はお慰み半分の文學ではない。文學は直ちに吾人存在の意義である。吾人は此の存在の意義のために、何處までも勇奮苦闘せねばならぬ。吾人の進歩は實に出立の発一歩に過ぎぬ。第(139)一歩には第一歩の快樂がある。第一歩の快樂に生くる吾人は、同時に第十歩、百歩の途上に勇奮苦闘する覺悟がなくちやならぬ。吾人の修養は一生の事業である。五十や六十や七十で老い込むつもりならば、今日の修養が已に輕薄である。昨日の吾人と今日の吾人とは、一日だけ相違して居らねばならぬ。十日進み百日進めば、十日の修養百日の修養が出來て居らねばならぬ。これだけの覺聡を持して立たぬ以上、根岸派でござるなど敦圉いて見た處が哀れなものである。「比牟呂」再興の發途に於て諸君の大奮勵を望む所以である。
       二
 田舍者は眞面目で正直で根氣強い。眞劔の仕事は田舍者でなくちや出來ぬ。昔から天下の大事は多く田舍者の手によつて處理されてゐる。派手な浮氣な見え妨な眞似は、一切都會者に委せて置いて、自分は鼻唄を唄つて馬を曳いて居る。悠然たるものだ。世間氣がないからコセツク事が嫌ひだ。處が一旦天下有事の秋に方れば、田舍者は猛然として立つ。名山大澤の潜勢力が、一巨人、數巨人、百千巨人の現勢力となつて、猛烈なる活動を始める。五大湖の水を切つて落せば、神と雖も支へる事は出來ぬ。田舍者の活動はナイアガラの瀑布のやうだ。藤原氏の惰眠は伊勢の田舍者に叩き破られた。平氏が都者の眞似をはじめた頃は、伊豆の田舍に膝丸の名劔を磨ぎすまして居る者がある。頼朝も平治の亂に田舍に追はれたのが好運になつた。民權政治の開祖など、田舍仕立でなくちや出來ぬ仕事だ。(140)信長も秀吉も田舍者だ。家康も三河の田舍武士だ。維新の大業を創建した者は、薩長の田舍者だ。日清戰爭や日露戰爭に勝つたのは、日本の田舍に居る百姓の子が勝つたのだ。眞面目な仕事は田舍者に限る。偉大なる活動は田舍者に限る。田舍者が自重せぬ時日本の天地は総崩れである。
 正岡先生は「四國の猿の子猿ぞ我は」と歌つて居られる。「燒芋の味を忘れて小説が作れるか」と喝破して居られる。吾黨の同人が都じみた薄つぺらな世間氣を出す時、根岸派の文學は總崩れであると信ずる。我々「比牟呂」同人は悉く田舍者である。我々が田舍者の價値を自覺して、奮勵と自重とを弛べざる限り、「比牟呂」は、水久に健全なる發展を續け得ると信ずる。   (明治四十一年二月「比牟呂」第一號)
          三
 眞面目な意味の或る感化を受け得る間、その人は心界に或る發達の餘地を存する人である。何を見てももう感激する事が薄くなるといふ時、その人は已に或る老熟の境に入れると共に、發達向上の餘地も目前に狹《せば》まつてゐる人である。老熟と云つても意味は色々に岐れる。高い老熟もあらうし、卑しい老熟もあらう、尊い老熟もあらう、――賤しむべき老熟もあらう。月並な老熟、俗的な老熟、大きな老熟、小さな老熟と斯んな具合に分類したらいくら書いても際限は無からう。併し只一つ吾人が茲に斷言し得る事は、現在に於て尊い意味の或る老熟を有するの人は、同時に又現在に於て或る一(141)面の感激を有する人である。換言すれば感激性の全く涸渇せる如き人の老熟は、直ちに其の老熟の陋劣卑俗である事を證明し得るといふ事である。
 人間の心靈が、日月の高きを望み得るものとすれば、その心靈を日月に弾く所の彈條《ばね》は只一つの感激である。此の弾條の弛るむ時、一尺の高きに居る心靈は、已に一尺の高さを保つ事の出來ぬ時である。彈條《ばね》の力が絶無となつた時、一丈の高さも十丈の高さも齊しく地平に墜下する時である。即ち感激性を失した老熟の卑俗になり、月並になる時である。之に反して、彈條《ばね》の緊張益々その力を加ふる時、一尺の高さは一丈の高さの途上である。一丈の高さは十丈の高さの途上である。此の意味に於ける老熟は、一面に未熟の餘地を存するが故に尊いと云ふ事が出來る。
 或る感化に接するといつても色々の方面がある。之を心的状態よりすれば或は沈痛であるといふ。或は莊嚴を感ずるといふ。或は莊美に打たれるといふ。重鬱であるといふ。快濶であるといふ。併し乍ら沈痛であるとか、莊嚴であるとか、斯の如き言語を以て發表し得らるる間は、その感激と稱する者も猶未だ淺きを免れない。感激の極まる所は絶對である。内よりいへば忘我である。外よりいへば自失である。無言である。斯の如き極致の感激に接し得る人は幸福である。只弾條の力強く奮勵心の盛なる人が此の幸福を享ける。
 感化の方面を對象によりて分ければ、人と天然物との兩者に分れる。吾人は偉大なる或る人格に接(142)するによつて、絶對の感激を起す事あると共に、深遠なる天然に接しても同じく絶對の感激を經驗する事が出來る。此の兩者は對象は別であつても感受は同一である。此の點に於て天然物に興味はあるが、人格開題に興味が無いといふ人があらば、その人の天然物に對する興味と稱するものも、甚だ如何はしいものぢやあるまいか。人格問題に興味はあるが、天然物に對して興味が無いといふ人も同樣ぢやあるまいか。骨董的に天然物を愛し、浮足的に人格問題を榜示するの徒は、此の種類の人ぢやあるまいか。兎に角吾人が此の世にあつて感激性を失する時は、已に精神上の死者であると覺悟せねばならぬ。名山大澤の跋渉も面倒であるし、偉人研究にも餘り興味が乘らぬと云ふ時、此の死者は追々金でもためて、子孫の計をする位が關の山である。
       四
 吾人が絶對の感受に入つた時の精神状態は、如何なる形を以ても現すことは出來ぬものである。若し強ひて形式の上に現さうとするとき、その感動は已に冷靜を帶びて來る。斯の如き感受は必しも形式に現すに及ばぬ。感受は只その物として貴いからである。歌にならぬから詰らぬことはない。繪にならず、音樂にならぬから詰らぬことはない。感受その物が直ちに歌にならずとも、全體の作物にその感受は自から現れる。「いや今度の登山は作物なしで恥かしい」などくだらぬ謙遜をするものぢやない。
(143)       五
 自己の樂しむべき境地を畫し得る人は幸である。此の境地に達時世に不平もなく、恐怖もなく、心は只うらうらと春の暖さである。暖さを知つて寒さを知らぬのぢやない。安心あるが故に恐怖が無いのぢやない。平かなるが故に憤りがないのぢやない。否斯る人にしてはじめて怒りの意味が深い。恐怖の意味も寒さの感じも深い。
       六
 反省なき自任は放漫である。自任なき反省は自屈である。放漫なるが故に大語し、自屈なるが故に狐疑する。
       七
 子規七周忌の夜、先生終焉の句の話が出た。
   をととひの絲瓜の水も取らざりき
とは何の意味だらうと麥雨がいふ。汀川がいふ。俳句をやりつつある人にしてこんな疑問を今頃出すのは迂遠である。僕は只「一昨日絲瓜の水を取らうと思つたに取らずにしまうた」といふ意味に思つて居た。それだけで面白いぢやないかと麥雨に云ふ。そんな事ぢやあるまいと麥雨が笑ふ。汀川も笑ふ。笑はれて見ると何だか自分の考が輕卒ぢやなかつたかとも思はれるが、併しいくら考へても未だ(144)これ以外に意味は分らぬ。木外、河柳に聞かうと思つて未だ聞かずに居る。   (明治四十一年十二月「比牟呂」第四號)
 
(145) 返書
 
       上
 紙上にて宮林君に御答へ申上候。
 一般的より特殊的に進まれたしと申し候は、作歌の上の大體方向を申したるにて候。一般的のもの交じり居り候とも、よき歌ならば非難も何も可無之候。國家主義の強度なる露國にトルストイ伯ある事、決して露國の恥辱に無之候。ゴルチヤコフもイグナチーフもトルストイも相待つて露國の威重を加へ可申候。是は只譬喩に候へども、主義の全く反對な人間を集めてすら斯く結合した觀察が出來候。況や作歌上に特殊的と云ひ、普汎的と云ふこと、主義の反對にても何でもなき事にて、根本は更に深き所に存する事御承知と存じ候へば、この歌は一般的だから直ぐ駄目ぢやないかなど窮屈に御考へなき樣希望いたし候。斯く申せば特殊的に進むがつまらぬかなど考ふる人あれば、彌々譯の分らぬ人に可有之候。
(146)   松の葉の細き葉毎におく露の千露もゆらに玉もこぼれず
とまで具體的に歌ひし子規先生が、
   九重の雲居を出でて藤咲けるしきなが濱に御舟はてけり
の如き普汎的材料にて矢張り成功して居ること御考へ合せ下され度候。
   山小屋に榾火かくみて濁酒うまらにくめり杣人と共に
朴葉のこの歌大して出色にも無之、さりとて惡しくも無之候。一般的ぢやないか丈けの御批評物足らず候。
   青柳の片町通り吾が來れば入江の空に凧あまたあり
峠でも越えて見たなら實際だらうとの御意見分らぬ事に候。片町通りを行きて入江を見ては何故實際でなきか。片町といへば場末などに候。場末を歩みつつ入江を見る位の事いくらも可有之候。此の歌「青柳の片町通」だけは新しくて寧ろ歌を活かし居り侯。「吾が來れば」の「吾が」などむしろ無意味にてつまらなく候。
       下
   市行くと朝けの岡をこえ來れば里の子はやも凧あげて居り
「朝け」といひて「はや」といふは理窟なりとは困つたことに候。早朝から凧など揚げぬが普通なの(147)を、里の子が早朝から揚げて居たことを面白く感じたるが、多少この歌の新しき見付所に候。「朝けの岡」も「はや」もなくては此の歌生命なかるべく候。理窟といふはそんな所へ用ふる詞では無之候。「はや」といふ大切な感じを現したる詞を理窟なりなど申す人に歌が分り候哉と存じ候。此の歌に缺點を求むれば「市行く」の第一句に候。これは斯くありても重きをなさぬ詞にて、今少し適當な事を求め度く候。
   學びやにわかれを告げて立ち出づる門べひろ道いゆきたゆたふ
「深ぬかり道」と第五句を改めたしとは何の事に候か。「わかれを告げて」と重く云へるを見れば卒業生などが免状を貰ひて母校を立ち出づる樣と見るべき事に候。この歌今少し深き云ひ方はあるべけれど、月並にては斷じて無之候。月並とか理窟とか流行の批評語を濫りに御使用困り入り候。月並なら月並の點を御指摘可有之候。
   いそのかみ古りし庄屋のやしきあと子供らつどひ凧あげて居り
「いそのかみ古りし屋敷跡」が何故分らす候か。草蓬々たる如き屋敷跡は古りし屋敷跡に候。誰にても明白の事に候。餘り新しき見付所ならぬは然るべく候。
   若草のねよげの野べに凧あげて遊ぶ男子《をのこ》らたぬしくあるべし「樂しくあるべし」が餘計な理窟で「見ればたぬしも」とすれば聞えるとは何故に候か。前者は子供(148)その者の心地を推測し、後者は子供に對し第二者の感興を現したるにて候。此の際どちらが適切にや御考へ願上候。
   若草の萌えにし野べの眞芝生に凧しあげんと朝つどふ子等
「若草の萌えにし野べの眞芝生」が分らぬとは何故に候や。讀み下せば直ぐ分ると存じ候。「若葉せし森の小立の……」など云ふと同樣に候。   (明治四十一年六月十一日・十二日「長野新開」〕
 
(149) 佐久間象山の歌
 
       一
 信濃から古來どの位の偉人が出てゐるかと折々考へて見る事はあるが、深く傳記の研究をしたことはない。地が僻遠で中央の文明と交渉の少なかつた爲め、偉人として天下に濶歩し得る資質を有し乍ら、空しく深山大澤の間に埋れ果てた人も隨分少くあるまいと思はれる。兎に角信濃の山中から飛び出して、六十餘州の耳目を相手に、何事をか働いたといふ人物だけを拾つて見ても知れたものであるやうだ。況や此のうちから多少吾人の感興を惹くやうな人物を拾つたら、甚だ少數のものに相違ない。余の狹い見聞で、今迄信州から出た人物の中興映多く思つてゐたのは木曾義仲と、一茶と、雷電爲右衛門と、立川和四郎(建築及び影刻家)位のものであつた。仁科信盛は無論この内に加はるべきであるが、余はどうも、斯の人は縱ひ信州を根據として活動した人であるにせよ、何うも甲州人のやうな氣がするのは何故だらう。それなら木曾義仲と雖も、同じく他國人でありさうなものであるが、斯の(150)人はどうも信州人の感じがする。甚だ矛盾の事であるが、そんな感じから信州の人物と云へば、矢張り前の四人が頭へ竝んで來る。木曾義仲と云へば、正直な人の好い田舍武士が想像される。一茶と云へば、沈痛深刻な思想家が想像される。雷電の相撲と云へば、古今獨歩である。古今獨歩の相撲取であり乍ら、日下開山にならなんだ所が雷電の拔け出た所である。立川和四郎の彫刻に至つては、今人多く知るなしといふ有樣であるに係らず、その人物性行につき多少多く余の知る所あるが故に、知己少き藝術家のために痩我慢にも、肩を持つてやりたいといふやうな意地が手傳つてゐるかも知れぬ。
 太宰春臺といふ人はよく知らぬが、隨分大學者であつたらしい。併し人間としてどんな性格を持つて居つたか薩張り知らぬ。自分の著した「産語」を持つて行つて、師匠の徂徠をだましたとかいふ小細工をしたやうな話を聞いて居る。學者一點張の先生などが學問を弄ぶために、自己の學殖を衒はんがために、月並的な氣取り方をするのは見苦しいものでゐる。春臺がこんな月並的學者であつたか、無かつたかよく知らぬ所である。河合曾良は眞面目な俳人であつたらしい。此の人の性行や製作は追迫調べて見たく思つてゐる。佐久間象山は信州の史的人物として最も偉大なるものであらう。明治文明の先驅者として、徳川末世暗黒時代の一大巨火として、彼の見識は天下後世萬人の齊しく仰ぎ見る所である。斯の如き偉大なる信州の名物に對して、余は今迄餘り多くの興味を以て對して居らなかつた。彼の一世に超越せる大見識に對して、尊敬の念を拂ひ乍ら、何處となく好かぬ所のある人のやう(151)に思はれて居た。別に彼の性行を調べて見て、斯んな考へが出來たといふ譯でもない。勝海舟が「象山といふ男は自分の持してゐる説を悉く他人に吹聽せねば濟まぬ男だ。徳川齊昭とよく肖た男だ。」とやうの事を言つたのを耳に挾んでゐた。他人に接するに極めて威儀を盛にして、すべての言論が隨分派手な發表であつたと聞いて居た。吉田松陰との初對面に、虎の皮の敷物で、威嚇しまくつたと云ふやうな事を聞いて居た。威儀を盛にしようと、虎の皮の敷物で威嚇かさうと、そんな事は構はぬ事であるが、只斯んな零碎な材料を以て、朧げに余の頭に描かれた佐久間象山は、何處となく世間氣の多い、そして卓絶せる知見を有し乍ら、その暴動に俗氣を超し得ぬ人間らしく思はれて居た。
 象山が獄中で著した省※[侃/言]録といふ書物は、彼の性行を窺ふに尤も良い書物であると人から聞いて居た。去年志都兒が來て、省※[侃/言]録の附録には象山の和歌百餘首を收めてあつて、中々立派な歌が見えてゐると云ふ事を話した。そこで急に省※[侃/言]録が見たくなつて諸方を探した末、此の春漸く或る人の藏書を借りる事が出來た。
 前述の如く省※[侃/言]録は、象山が嘉永甲寅の歳(即ち安政元年)吉田松陰渡航事件に關して、七箇月の禁錮を受けた時の牢内隨筆である。古より志士が牢内で書いたものと云へば、多くは慷慨激越なもので、悲憤一點張の調子で通して居るやうだ。象山の省※[侃/言]録も無論この調子で、張膽明目的に敦圉いて居るに相違ないと想像しつつ繙いて見た。處がこの想像は全く外れて居たので、第一に驚かされた。(152)無論非常の場合に處した時の製作に興奮的な分子の交らぬ筈がない。省※[侃/言]録にもこの分子は慥かに交つて居るけれども、夫れ以外更に大なる領分が拓かれてゐる。隣近所に火事があると聞いて、驚き立つは萬人共通の興奮性である。この間に老若男女の區別はない。ただ子供婦女子の驚き騷ぐ中に立つて、防火の用意に冷靜周到なる考慮を囘らすに於て、男子一匹の特色が發揮される。志士が入牢して慷慨激越の調を帶ぶるは、志士としての共通點である。差別點ではない。その慷慨激越の中に、別に自己の天地を存して無碍の領域を劃する。此處に安心の自由が存し、此處に冷靜なる修養が存し、此處に眞面目なる反省が存するに於て、はじめて各志士の面目に特色を生じて來る。省※[侃/言]録の特色とする所は、彼の動的興奮に非ずして、彼の靜的修養の工夫にある。彼の悲歌慷慨を聞かんと欲して、却つてその平靜なる修養的態度に接した余は、意外の感に打たれると同時に、從來の彼に對する概念を少々變更せねばならぬ事になつた。
 省※[侃/言]とは省※[衍/心]と同義なさうだ。自己の過を反省するの意味なさうだ。題目が已に悲憤的でなくて修養的である。開巻第一に斯んな意義の事が書いてある。
   おれの牢中記は世人に示さんが爲めではない。子孫に貽さんが爲めである。おれの行ふ所の道は自ら安んずるの道である。おれの修養は自ら樂しむ所以の修養である。罪の有無の如き問題は我に存して他に存せぬ所だ。他人がおれに罪を被らせる如きは他人の勝手であ(153)る。我に於て何等の痛痒も感ぜぬ。
 開卷第一、彼は自己修養の根本義から筆を著けてゐる。此の自覺を持して世に處する以上、牢獄と金殿とは單に境遇上の相違に過ぎぬ。自己の安心は自から他に存する。自己の眞生命は別に深き根據の上に立つ。此の自覺なき以上、學者でも政治家でも文學者でも乃至實業家、教育者に至るまで、凡て是れ無意義の生存である。理窟で悟つた積りでも、牢居などの苦痛に逢へば吾人の悟りも甚だ淺薄のものでありはせぬかと自ら危ぶまれる。省※[侃/言]録の筆頭にこの快文字を得て大いに嬉しかつた次第である。
   昔から國のために竭して罪せられたものは何人でもある。牢に入つた位の事は怨まぬが、同じく國家のために竭すなら、國家の未だ救ひ得べきうちに竭さねばならぬ。今國家の運命は已に危殆に瀕してゐる。おれの竭し方が晩かつたのだ。これが一生の怨みである。
 彼の眼中國家以外に何物をも見ぬ。彼の國家に對する心情は慈母の病兒に對する心情である。今日の教員などが、忠君愛國を口癖のやうに喋々して嬉しがつてゐる有樣を見れば、寧ろ哀れな感じがする。
   惟だ老母年已に八十である。飲食坐臥予に非ざれば安んぜぬ。予の入牢以來音問も通ぜねば、動靜も分らぬ。老母憂悶の情を思へば腸が九囘する。
(154) 豪らがる連中や、悟つた風をする仲間には決してこんなことは云へぬ。豪らさうな事や、強さうな事を盛に陳列して肩を怒らして、得々とするのが普通である。斯の如き連中に限つて、深刻な仕事は出來ぬものである。國家を見る、己を見るが如き眞情を持つてゐる象山が、おれに罪を被らせるのは他人の勝手だと云つて、平気で牢屋に居る象山が、半夜夢さめて遙かに白髪倚門の老情を想ひやつて泣いて居る所に、象山の眞面目は益々鮮かに躍つて居る。この人情の切々を有するの象山にして、はじめて眞箇身を挺して國家に竭すの深意義に接し得たのである。西郷が侯に侍して始めて江戸に旅立するといふ朝、老僕の病を訪つて旅立を忘れてしまつたと云ふ事を聞いた。一老僕のために旅立を忘れる西郷にして、始めて國家のためにあれだけの獻身的活動が出來たのである。この消息の解らぬ輩が、生ま悟りをする、空威張りをする。おれは女など大嫌ひだなどと云つてる連中が、實際は女に對して最も下等の趣味を有つてゐる連中である。僞善である。不自然である。拵へものであるから、何をやつても深刻な意義に接する事が出來ぬ。西行法師が出家すると云つて、其の子を縁から蹴落したさうな。こんな不自然な非人情な坊主に、碌な歌の出來る筈がない。山家集を讀んで感心してゐる連中が、省※[侃/言]録を讀んでも感心すると云つたでは、省※[侃/言]録が有難迷惑ぢやないかと思つた。
  予が若し牢屋に入らなんだなら、斯んな反省も自覺も無くて過ぎたらう。一跌を經て一知を長ず、といふ事は虚語でなかつた。振拔特立すべきだ。激昂忿戻すべきで無い。
(155)   古人は格物致知と云つた。予も久しく格物致知の工夫をした積りだ。家庭やら郷黨親朋に對して時々停調處置した事を、自分乍ら大いに當を得て居たらしく信じて居た。處が他日反省して考ふれば誤だらけだ。皆是工夫が未熟の所以だ。人情世故に通徹せぬ所以だ。格物致知だなど云つても未だ未だ若い。策勵せねばならぬ。
   天地造化の理を究めるより、人情世故を知るは難い。易いと思つて狃れてはならぬ。難いと云つて倦んではならぬ。
   身を行ふの規矩は嚴ならねばならぬ。是れ己を治むるの方にして、やがて人を治むる所以だ。人を待つの規矩は嚴に過ぎてはならぬ。是れ人を安んずるの道にして、やがて自ら安んずる所以だ。
   予は入牢以來勉勵克治して身心を鍛錬し、一時一日でも虚しく過さぬ。古人は斯う云つた。
   儻し間居して眞に日月を空過せねば、彼の我を錮するもの、皆我を成す者なり。と實に其の通りだ。
 彼の卒中記は概ね此の調子である。象山に対して牢獄は一種の學校である。彼はこの學校に居て、平氣で自己の修養に腐心しつつある。腕を扼して空成張りをする徒とは全く趣を異にしてゐたことが明瞭である。
(156)   予は門閥高き家に生れた譯ではないが、兎に角暖飽の中に成長したのだから、未だ牢錬苦身の経験を有たぬ。一旦媛急あるの時、起居飲食に堪へぬ樣な事はあるまいかと内々心配してゐた。去年の夏米艦が來て、藩命によつて軍務を經理した時は、七晝夜眠りつこなしに働いた。處が心身共に少しも疲勞せぬ。今年入牢してから粗食鹽を噛んで、重囚と伍する事已に數十日であるが、別に苦痛も感ぜぬ樣だ。この鹽梅ではこの體も中々使へさうだ。天の賜物と喜んでゐる。
 愈々出でて愈々切實なものである。此の位眞面目に考へて居れば、その一言一句むしろ無邪氣に感ずる。無邪氣であるから幾ら喜んでも讀者の厭味を惹かぬ。象山の喜びは、直ちに讀者の喜びとして響くの力を有つてゐる。誇らうとか、威張らうとかいふ事になると、何うしても斯んな眞摯な書き方は出來ぬ。眞面目と無邪氣とは付き物である。詩三百、一以て之を貫くは、無郭氣であると云つてゐるが、思邪なき詩經は、直ちに古人眞面目の聲なるが故に尊いのである。古人心を以て詩を成し、今人手細工を以て詩を成すが故に、今日の詩に才氣あつて眞情がないのは其の所である。是は象山の論でない。詩の論であるが詩の論でも、人格論でも、處世論でも其の間に何等の區別なき筈であるから、序を以て一寸餘論に及んだのだ。男子世に處するの道翩々として塵を吹く如きの輩が、詩を以て人を動かさんと企つる當世であるから、詩人だの小説家だのいふ徒輩は今日世人から除け物として、馬鹿(157)者視され、厄介者視されて居るのである。牢内の苦境に處して、自己修養の結果を喜ぶに餘念なき眞面目な無邪氣な象山に、立派な歌を發見し得るのは固より當然の事である。
   君子に五つの樂みがある。富貴などはその仲間でない。
   一門禮義を知つて、骨肉に釁隙なきは一の樂である。
   取予苟もせず、廉潔自ら養つて、内は妻孥に愧ぢず、外は衆民にはぢぬは二の樂である。
   聖人の學を講明して大道を識り、隨時義に安んじて險に處する、夷に居るが如きは三の樂である。
   西人窮理を積んだ後に生れて、古聖と雖も知らぬ理窟を識るのは四つの樂である。
   東洋道徳と西洋藝術と精粗遺さず表裏兼該して、民物に澤し國恩に報ずるは五の樂である。
 言ふ所の道徳が東洋的であるから、多く消極的に出て居て面白くない。いさくさがないとか、人に恥かしからぬとか、他人の知らぬ理窟を知るとかいふ事、何れも消極的若くは世間的の事柄である。孟子三樂の眞似をして振はぬものであらう。一生の境遇特に牢居の境遇などが餘程影響して居るかも知れぬ。兎に角面白く感ぜぬから面白くないと云ふより外はない。
 是から後は多く海防論、砲術論等で持ち切つて居る。最後に斯樣な事が書いてある。
   予年二十以後乃ち匹夫も一國に繋るあるを知る。三十以後乃ち天下に繋るあるを知る。四(158)十以後乃ち五世界に繋るあるを知る。
 一結象山の気宇を想見せしむるに足りる。象山にして此の言の空論にあらざるを覺えしむるの重さを備へて居る。
 是から附録として、省※[侃/言]賦と漢詩と和歌とがある。賦や漢詩は余には分らぬ。和歌は多大の興味を以て開卷の眞先きに讀んで見た。   (明治四十一年五月「比牟呂」第二號)
       二
 省※[侃/言]録に載つてゐる象山の和歌は百十六首ある。其の中吾人の取り得るは僅かに幾部分に過ぎぬ。取り得るものの少ないが爲に、直ちに象山の和歌はつまらぬなど斷定するは輕卒である。芭蕉の俳句にもつまらぬものは隨分ある。蕪村句集に駄句の少ないのは不思議な事だと、子規先生が其の著「俳人蕪村」で云つて居る。名山大澤は其の規模の大なるだけ夫れ丈けつまらぬ景色も交つて居る。つまらぬ景色が交つてゐるから、名山大澤の値打がないと云ふのは馬鹿げてゐると同じ事である。隅から隅まで氣の利いた公園は、全體に纏めて見れば必ず小規模であるに相違ない。大規模の公園には鬱樹密叢の中に、野糞位は出來る處が包容されてあるのが當り前である。野糞があるからあの公園は取るに足らぬなどと云ふ連中は、大佛の膝に蠅のとまつてゐるを氣にする連中である。日常生活、他人と(159)の交際すべて斯の如しだ。隅から隅まで氣の利いた積りでゐるうちに、小才子にはまり込んでしまはねば僥倖である。根岸派歌人も俗だの、月並だのとそんな詮議だてばかりに没頭してゐると、終には箱庭の造り松のやうな、こましやくれた者になつてしまふ。正岡先生も「君等はそんなに月並が恐いか」と云うて笑はれた事があつたやうに記憶してゐる。劈頭から話が逸れて來たから、再び象山の和歌に戻る。
 象山の時代は徳川の末世、和歌の墮落時代である。歌學者、國學者と稱する者が、徒に古人の形式に泥んで陳腐な、固陋な死歌を弄んで居た時代である。この潮流の中に立つて少くも自己の感懷を生命として、束縛なき活動を一歩たりとも歌史の上に印したといふだけで、珍とするの價値は充分にある。實朝が定家や家隆全盛時代に生れて、その渦流から脱出してゐたといふ事が、縱ひ金槐集中に定家式の駄作が交つて居るにもせよ、抑も實朝が非凡の天賦を包藏してゐた或る高さを感ぜしむる所以である。象山が專門の歌詠みでなかつた事が、即ち※[(來+犬)/心]ひに歌學者等との交渉が無かつた事が、却つて自己の眞生命の上に立ち得るの自由を作つたかも知れぬ。否恐らくさうであるまい。象山がもし眞に專門の詩人として立つたなら、鎖國論充溢の中に、開國國是を絶叫せるの見識と勇氣とを移して、驀然和歌革新の急先鋒となつて、眞淵、宣長等の立場を根柢から顛覆したに相違ない。吾人は多く象山の和歌を見ることは出來ぬ。併し乍ら千載の下彼の行動が遣る。彼の著書が遣る。其の行動、其の文(160)章、其の和歌すべてのものを通じて、統一ある或る人格、或る趣味に接せんとするが吾人研究の本望である。和歌は此の意味に於て研究の一部である。
       獄中聞子規歌
   遠知許知爾 奈久寶土騰宜數 妣等那良婆 波播乃美己等耳 許登都天麻思乎
   遠近になくほととぎす人ならば母のみことに言づてましを
 省※[侃/言]録本文に於ては、惟北※[門/韋]年滿八十、飲食坐臥、非予不安、白子逮繋、音問不通、動靜不知、其憂慮苦悶、常如何哉、一念乃之、尤難爲情。云々と言つてゐる。
 象山が獄中にあつて如何に老母に對する情の切々であつたかが分ると共に、眞情を吐露したこの歌が、直ちに讀者の心を捉へて、三十一文字の何處にも不自然な感じを起させぬ。同じ形であつても伊勢物語の、
   栗原のあねはの松の人ならば都のつとにいざといはましを
などになると、松に対する不自然な作り物めきた感じを起させるに對して、象山のこの歌が一見平凡なるが如くして、至情自ら全面に活躍してゐるのは吾人の注意すべき點である。「遠近になくほととぎす」と第二句で切つて、時鳥へ感じの強みを與へ、第三句「人ならば」と轉じて「母のみことに言づてましを」と自己の感情を直敍してゐる句法などは、一首の調子整然として、森嚴犯すべからざる(161)の重みが自然に備つてゐる。道具立てばかり新しきを求めて、全首の精神に何等統一した重みをも有せぬ歌が、明治の輕薄兒に歡迎されてゐる今日、是等の歌は吾人の眞面目に省慮すべきものであらうと考へる。
   伎乃布氣布 阿春登宇都路婦 與能比等乃 許己呂爾仁多流 安治佐爲迺破奈
   きのふけふ明日とうつろふ世の人の心ににたる紫陽花のはな
 感じがすらすらと表れてゐるのが面白い。大して振つては居るまい。どの歌を見ても悠揚迫らぬ調子で一貫して、長者らしき氣品を備へてゐる。是は象山の歌の大なる特徴である。以て順次掲ぐる歌に注意しで貰ひたい。
       憂思世事歌
   豫能奈可乃 安伎乃之留之加 武散志能也.於保叡乃美等耳 幾里多知和多流
   世の中の秋のしるしか武蔵野や大江の水門に霧たちわたる
   故登之安禮婆 久爾毛留飛等母 夜末多目流 曾保都爾爾太里 宇例波之乃與耶
   事しあれば國守る人も山田もるそほづに似たりうれはしの世や
 前者は憂世の苦衷を客觀約によせ、後者は自己の主觀をその儘直敍してゐる。詩人が感想を發表するに此の二面がある。直敍せんと欲するには、後者の如く大膽に直截に鋭利でなくてはならぬ。客觀(162)的に寫さんとするには、前者の如くに氣品ある適切なる外物を捉へて、而もその各材料を通じた一貫せる感じが最もよく緊密に表れて居らねばならぬ。技術でさう行くのは小部分である。品格の力が大部分である。募府の牢にあり乍ら、平然として將軍以下三百諸侯を案山子なりと罵倒してゐる象山にして、斯んな歌をよみ得るは造作もないことであらう。前者「世の中の秋」といひ、「武蔵野や」といひ「大江の水門」といふ其の各材料が、すべて或る大らかなる調子を以て一貫せるに對し、結句「霧たちわたる」の句法が立派に据つて充分に之を受けてゐる。後者「うれはしの世や」の結句も、普通の歌にこんなものが著いて居れば、概ね陳腐平凡に陷るべき所である。それが「國守る人も山田守るそほづに似たり」といふ峻峭な材料のために充分に生動してゐる。
       七夕歌
   比許保志迺 都麻等布己呂耳 那里奴禮杼 伊毛爾阿不倍起 數倍能志良奈久
   彦星のつまとふ頃になりぬれど妹にあふべき術の知らなく
   多奈波太乃 保思萬都留與波 和岐天末多 布流佐等比等迺 和連遠麻都良武
   たなばたの星まつる夜はわきて又故郷人のわれをまつらむ
 獄中七夕を迎へた感懷がその儘に流露して聊かの遺憾がない。前者想と調と如何にもよく融合してゐる。歌を作り想を構ふるに際して、是は平凡かな、是は斬新かな杯無闇に心配する氣弱な連中には、(163)迚も斯の如く暢び暢びした疑なき明朗なものを得る事は出來ぬ。
 感情歌百首といふものがある。序文に左の意味の事が書いてある。
   士の國に獲ざる猶男女の相得ざるが如し。故に屈宋以來騷人詩客皆詞に託す。予皇國のために邊防を策する十數年、翅に其效を施すを得ざるのみならず、遂に是に因つて罪を獲て理に下さる。拳々の忠閔察を得ず。久しく圜牆の中に幽せられ告愬する所を知らず。豈能く衷にシ然たらんや。國風百篇聊か情懷を寄す。詞見るに足るなきも意或は取るべからん。然れども俗人に示すを難かる。惟々知る者之を聞くを爲す可きのみ〔然〜右○〕。
 象山の包持は何處までも調子が高い。士の國に獲ざるは猶男女の相得ざるが如しと云つてゐる所を見ても、彼の憂國心がいかに熱烈で至醇であつたかがわかる。男女の關係など口にするは、士大夫の恥と心得てゐた舊幕時代にあつて、平氣で男女の相得ざるが如しと書いてゐる所が、象山の拔け出た所である。 以下順次感情歌から拔摘する。
   許己呂美爾 伊佐也余婆波牟 夜未比胡乃 古多弊多耳世婆 故惠破怨志麻慈
   こころみにいざや呼ばはん山彦のこたへだにせば聲は惜まじ
   和我於毛比 乎伎乃思多破能 曾與等太耳 伊布比等安良婆 宇禮之可羅未之
(164)   わがおもひ荻の下葉のそよとだにいふ人あらばうれしからまし
 盲千人の中に一人眼をあいて生きて居るのは苦痛である。歌は左程振つては居らぬが、胸中磊塊の鬱が極めて自然に顯れてゐる所が矢張り棄てられぬ。前者「試みに」の第一句は感情的にいつて居らぬ。何とか改めて欲しかつた。
   美知乃久能 曾等奈留惠俗能 所登遠許具 布年與里登富久 毛乃遠古蘇於母幣
   みちのくのそとなる蝦夷のそとを榜ぐ舟より遠く物をこそ思へ
   於保宇彌乎 太耶須久和多流 由氣布禰乃 破夜久毛幾美耳 阿不余志母加那
   大海をたやすくわたるゆげ船のはやくも君にあふよしもがな
 蒸汽船を歌に詠み込んだのは象山が嚆矢であらう。「たやすくわたる」は全く説明的句法で、折角の序詞を力なくしてゐる。外蝦夷と象山、蒸汽船と象山、十数年來彼の抱負が自然に現れて居る所に、矢張り力が籠つてゐる。
   惠賊志麻也 知之萬乃曾等耳 布禰宇希天 伎美之由流佐婆 遠幾奈都里天武
   えぞしまや千島のそとに船うけて君しゆるさば沖魚つりてむ
 全體の調子が緊張して非常に振つたものである。
   破留破流等 左加流伊都志麻 由氣布年爾 知加余類伎美乎 彌奴我倭比志散
(165)   はるばるとさかる伊豆島ゆげ船に近よる君を見ぬがわびしさ
 吉田松陰の密航を送つたものであらう。弟子が國に殉ずるの覺悟を持して、國禁を破らんとする此の行に對して、象山の憂慮は如何ばかりであつたらう。「遙々とさかる伊豆島」もこの感情と適切に通じてゐる。「ゆげ船に近よる」と云へば、松陰の米艦を望んで進み行く姿が眼前に見えるやうである。「見ぬがわびしさ」の結句が茲に於て脈々として生動して來る。
   布久可勢波 岐美我阿多利爾 可余幣杼母 古等都解也郎武 須倍曾志羅連努
   ふくかぜは君があたりに通へどもことつげやらむすべぞ知られぬ
   美知乃彌波 保杼毛破留加耳 遍多太例杼 許故呂披伎美爾 余利仁之毛迺乎
   道のみはほどもはるかにへだたれど心は君によりにしものを
   和多都美乃 志保能夜保幣迺 曾古布可久 於毛比蘇米天之 故登波和須禮受
   わたつみの潮の八百重の底ふかく思ひそめてし事は忘れず
   都禮豆列爾 可岐奈須胡等能 年母古路仁 武可之能非登所 古比之可里氣類
   つれづれにかきなす琴のねもころに昔のひとぞ戀しかりける
   雲能破奈乃 宇伎豫等志禮杼 思加理等天 伎美之以麻世婆 曾牟可例那久爾
   うの花のうき世と知れどしかりとて君しいませばそむかれなくに
(166)   佐奈幣等李 宇惠武登志米之 遠也未多乃 可希比万美豆能 毛里天久夜之伎
   早苗とり植ゑんとしめし小山田のかけひの水のもりてくやしき
 譬喩歌である。主觀を直接に現さずして、全く譬喩の形式を取る事は太古に於て盛であつた。取材に特殊の用意が必要であらう。象山の歌の弊所は、往々強烈なる熱度を缺く所にある。此の歌もその例である。譬喩歌は元來主観を直接に現さぬだけ、材料や聲調に熱度を缺き易い。吾人の用意を要する所以である。
   伎彌耳古比 安岐乃與比等理 和禮乎例婆 毛能和弭志良爾 幾里幾理數奈久
   君にこひ秋のよひとり我居ればものわびしらにきりぎりすなく
   爾遠於毛美 可是耳麻加須流 宇伎布爾波 伊豆例廼有良仁 與羅武登春良牟
   荷をおもみ風にまかするうき船はいづれの浦によらむとすらむ
   以等世馬※[氏/一] 和弭之起登伎波 余之能夜末 倭氣天伊利希牟 比登乃美於毛保由
   いとせめてわびしき時は吉野山わけて入りけむ人の身おもほゆ
   伊等波之伎 余等披志例杼母 由久須衛乃 志良禮奴加羅爾 許己呂比可連都
   いとはしき世とは知れども行すゑの知られぬからに心ひかれつ
 吾人が省※[侃/言]録から選んだのは以上二十二首である。七箇月の禁錮中に兎に角これだけの歌を作つて(167)ゐる象山に、猶多くの歌が無い筈はないと思ふけれど、吾人寡聞未だ是れ以外に象山の歌を見たことがない。知つてる人は教へて呉れたまへ。禿山君などは郷里を同じうしてゐる事であるから蒐集の便が多いだらう。切に盡力を望む。   (明治四十一年九月「比牟呂」第三號)
 
(168) 和歌の傾向
 
 月並振の停滯は今更の事でない。その他の各派が近來多少の推移をなしつつあるは吾人の注意すべき現象である。鐵幹、晶子相並んで萬葉の研究をはじめたなどは、どんな程度迄萬葉を味ひ得るやは疑問としても兎に角惡しき傾向とは云へぬ。
   萩の家のわが師の君は過をとがめ給はずおほどかなりき
   雪の夜に蒲團も無くて我が寢るを荒き板戸や師の見ましけむ
   萩の家をなみせし人の額骨ひしぎ踏ままく世に生く我は
 是は明星終刊號墟に見えた鐵幹の近作一例であるが、さきの星董調と非常の相違ある事がよく分る。歌の善惡は茲には云はぬ。此の間に立つて吾が根岸諸同人が近來如何なる傾向に進みつつあるかを考ふるは、自ら省ると共に自ら進むの道であると信ずる。
 子規先生没後今年で七年になる。此の間に根岸派も隨分變遷をした。俳句の方にも變遷があり、寫(169)生文の方にも變遷がある如く和歌の方にも變遷がある。形で云へば雜誌「馬醉木」が廢刊して「アカネ」が生れた。「アララギ」が生れた。小なれども「比牟呂」が生れた。今日根岸派和歌の機關としては全國に只此の三雜誌があるのみだ。「比牟呂」同人即ち主として信州同人の奮勵自重すべき所以も實に茲にある。人の上から見た變遷も隨分甚しい。子規先生に直接に接して教を受けた人は隨分多いが、その中で今日迄その研究を持續して居る人は左千夫、節、蕨眞、秋水等を除けば殆ど雲散の姿である。或は公然たる發表はせぬでも自分一人で研鑽怠らぬ人があるかも知れぬが、吾人の眼に觸れぬからそれは分らない。新進作者としては「アカネ」に甲之、八風その他がある。「アララギ」に齋藤茂吉、千樫、秋圃、千里其の他がある。「比牟呂」に胡桃澤勘内、望月光、堀内卓、志都兒、汀川其の他がある。是等諸同人の研鑽が多く左千夫、節等を中心として、一種の傾向を作りつつあるのが根岸派の現状である。
 近來の傾向中最も著しき者を擧ぐれば、是等諸同人の研究が漸次人生問題に接觸しつつある一事である。子規先生時代の和歌は實に和歌革新の著手時代であつて、在來の月並的和歌に對して盛に寫生的和歌を鼓吹した。俳句に於ても盛に寫生的俳句を鼓吹した。文章に於ても盛に寫生文を鼓吹した。子規先生が斯の如く寫生を鼓吹したのを見て、直ちに子規の文學は寫生に止まると思ふ人があれば間違つで居る。寫生をするのが子規の精神であつて、寫生以外に渉る時子規の精神を没却する時である(170)とのやうに、考へてゐる人もたまには見える。之は甚だ困つた考へである。寫生は形である、心ではない。腐敗せる和歌の中に革新の旗を立て得たのは寫生と云ふ外形ではない。只一つの心である。溌刺生動せる心である。その心とはどんな心であると問ふ人あらば、予は躊躇なく眞實なる感情の發表と答へる。月並的和歌の弊所は不眞實なる感情の發表である。形式に囚はれた生命なき感情の發表である。月を見れば悲しまねばならぬ。蟲が鳴けば悲しまねばならぬ。花が散れば惜まねばならぬ。秋が來れば哀れでなくちやならぬ。斯樣な形式に囚はれてゐるのだから何等の生氣がない。生氣のない歌であるから力がない。重みがない。精神が緊張して居ぬから遊藝的になる、骨董的になる。從つて駄洒落をいふ。地口を云つて喜ぶ。弊をあげれば幾らでもあるが、その弊の根本は全く不眞實なる感情の發表に外ならぬ。此の弊に對して起つた子規先生の文學は只眞實な感情の發表である。眞實なる感情の發表として、第一に著手したのが寫生歌である。寫生の上に立てば宇宙の萬象は皆眞實を以てその眼に映る。赤いものは赤いと映る、醜いものは醜いとうつる、嬉しきものは嬉しと映る。映るもの皆眞實なるが故に、發表も亦眞實でゐる。眞實なるが故に生動する、力がある、重みがある。重みがあり力があるを以て直ちに之れ寫生歌なるが故なりと解するは、形を以て解するものである。重みあり、力あるを以て直ちに之れ眞實なる感情の發表なるが故なりと解する者は、心を以て解するものである。寫生歌の貴き所以は是以外に未だある。併し此の論に必要でないから茲には擧げぬ。
(171) 兎に角子規先生が今猶存命ならば寫生歌以外にも充分手を擴げてゐるだらうと想像出來る。現に子規遺稿を見ても寫生歌や客觀的の歌ばかりではない。主觀的の歌が澤山ある。主觀的の歌直ちに人生問題に接觸せりと云ふを得ずと雖も、少くも人生問題に入るの第一歩である。第一歩を受けて年を經る已に七年なる諸同人が、目下漸く人生問題に到達したのは決して不自然な傾向とは言へぬ。只一種新しき傾向に入るの時は多くの附和雷同者を生ずる。頭に痛切なる人生問題なきに人眞似に人生問題に接して見た處が、それは月並者流が形式に囚はれてゐる弊と同じ弊に入るものである。人生問題を眞似て惡いのぢやない。不眞實なる感情の發表をするのが惡いのだ。
 人生問題に入り、主觀問題に入れば寫生に遠ざかり、客觀問題に遠ざかると考へては困る。痛切なる人生問題、主觀問題に入るの時は客觀問題、寫生問題の更に益々生動して來る時である。此の關係はかつて「アカネ」で大體論じておいたつもりである。
 要するに根岸派の和歌は子規先生時代よりもその範圍は餘程擴大になつてゐる。寫生問題もあり、その他の客觀問題もあり、主觀問題もあり、人生問題もある。この廣大なる範圍を貫くに「眞實なる感情の發表」と云ふ大精神を忘れぬ以上、乃至大精神の修養錬磨を忘れぬ以上、吾人の作歌は永久に健全向上の途にあるものと信じて不都合なく思ふ。
       心の動き 其一
(172)   風さやぐ槐の空をうち仰ぎ限りなき星の齡をぞおもふ  左千夫
   千五百秋《ちいほあき》の秋の千草の咲き返り遠く遙けくなほや咲くらむ
   今更に物は思はす片よりに聖仰がむ物は思はず
   うつそみの八十國原の夜の上に光乏しく月傾きぬ
       心の動き 其二
   かにかくに土にも置かずはぐくめば吾命さへそこにこもれり
   よきもきずうまきも食はず然れども兒等と樂み心足らへり
   七人の兒等が幸くは父母はうもれ果つとも悔なく思ほゆ
   暫くを三間《みま》うちぬきて夜ごと夜ごと兒等が遊ぶに家湧きかへる   柿も栗も成るしるしあり心から嬉しき聲の兒等が叫びに
   幼兒は泣くもめぐしき七人の親なるからに然るにかあらむ
連作中より拔き書したのだから不充分である。「アララギ」第一號を參照して頂き度い。
      蓼科登山
   こひ思ひ三とせ經につつ今日の日に逢へらくうれし山も晴れたり  志都兒
   たてしなの草深道の露にぬれ分け行くあけや鳥のさへづり
(173)   鳥の音もかそけくなりてかへり見る麓青原朝日照らせり
栂群の木深き谷の奥深く耳澄みきこゆ駒鳥の聲
      新湯雜詠
   瀧の湯にくぐもりて見れば外の湯は星空うつし光うかせり  堀内卓
   巖湯は水をぬるけみ湯氣たたず二十日の月があざやかに見ゆ
   繁山の山腹道を馬に乘り湯に來る人を湯に居つつ見る
   木曾山に夕日しづめば天つまほらあけと暗きと二分れせり
 何れも「アララギ」を見て拔き出したものである。此の他によき例歌澤山あるであらうけれど、茲には一寸眼に止まつたものの中近來の傾向を伺ひ得べきもの、傑作と稱し得べきものと思ふものを掲げて見た。匆々筆を執つたのだから意の盡きざるもの、遺漏あるものは更めて書く事にしよう。   (明治四十二年一月一日「南信日日新聞」)
 
(174) 連作の歌
 
       一
 過日の紙上にて連作の歌についての愚見を述ぶべき由掲げ置きて其の儘になり居れり。新年紙上より追々に述ぶる事とすべし。
 吾人が或る情緒を歌はんとする時、一首を得て已に滿足すると云ふ事甚だ少なし。子供が一つの花を見ても「まあ」と云ひ、「うつつい」と云ひ、「おうおう」と云ふ。「まあ」だけでも意は盡きたるべけれど情は盡きず。印ち更に「おうおう」と云ひ、「うつつい」とか「めんめ」とか云ふ所以なり。智を以てすれば一言にして盡き、情を以てすれば百言にして足らず。一言の明晰は冷淡を伴ひ、百言の纏綿は冗漫を伴ふに於て、兩者の長短自ら存するは明白なれども、情の上に立つ和歌が遂に纏綿性を脱する能はざる以上、吾人の作歌が一首の發表に滿足せずして、順次連作的に發達すべき事甚だ自然の成行なりと思はる。萬葉集に連作的の歌多く見えて、古今集以後に斯の種のもの少なし。これ萬葉(175)時代の歌は自己經驗の事實を歌へるが多きに反し、古今集以後は題詠が主となりしに因るべし。題詠必しも惡しきに非らず。題を設くるも猶自己直接經驗を歌ふの餘地はいくらもあるべけれど、この種の作歌に偏する者の餘弊は、往々眞情よりも趣向を重んするが故に、情的よりも智的に働き、流露よりも製作に傾き、力よりも細工に走るの結果、自己の胸底鬱勃抑ふべからざる者を發して、數首、十數首、數十首の連作をなすといふ如きことに遠ざかりたりと見ゆ。此の傾向は千餘年を通じて今日に至れり。(全く連作的のものなきに非ず、茲には大體の傾向につきて云ふなり。)
       二
 明治に至り意識的の連作を唱道せしは正岡子規先生なり。先生初年の作は矢張り一首づつ獨立せるが多かりしも、晩年に至り連作の趣味を盛に説かれしより(子規遺稿竹の里歌参照)今日根岸派の作歌は、連作に於て益々其の持徴を發揮し來れり。是れ古今、新古今以下の歌風を斥けて、萬葉の精神を喜びし根岸歌風の進むべき當然の道なりと信ず。然れども茲に注意すべきは、吾人の意を以て一首一首獨立せるものは、最早歌として値打なきもののやうに誤解せざらん事是れなり。情緒、情操など云つても色々の方面あり。恐怖、驚駭、喜怒、哀樂、愛憎、崇敬、渇仰など樣々に分類せりとて、感情の働きはそれ以上に複雜なり。其の複雜の感情を發表する上に、連作的の恰好なるもあるべく、獨立的(假に斯く命名す)の發表にて足るものあるべきは勿論の事なり。されば吾人の茲に連作を唱道(176)するは、只大體の傾向として之を説くのみ。作歌は悉く連作ならざる可からずとの意には非ず。併し乍らそれと同時に、全く連作趣味を知らざるが如き歌人の傾向は、決して喜ぶべきものに非ざる事も之を斷言し得べしと思はる。
 煩瑣なる分類を避けて、主觀的連作、客觀的連作の二つに分ちて、順次之が類別を擧ぐべし。客觀的連作には時間の繼起より來るものと、場所の駢列より來るものとあり。時間の繼起より來るものといへば、譬へば朝より夕に至る感興の經過を歌ふが如く、猶譬へば火事の始めより鎭火に至るまでの光景を歌へる如き者なり。斯く云へば歌日記の如き、紀行歌の如きも此の種の連作歌に屬するが如く見ゆれど、さまで廣きに亙りて猶連作趣味を發揮すべきやは疑問なり。されど猶首々孤正せる者に比すれば、特殊の趣を有すること論を待たず。次に場所の駢列より來れる客觀的連作は、譬へば庭上所見の如き者なり。庭上にある竹木石池の類を竹は竹、木は木として只孤立的に駢列したるのみにては困れど、その竹木石池が一箇の庭なる觀念に結び付けて、全體の上に統一を存するとき、竹木石池相待つて茲に連作の美を發揮し來るべし。全體の上に統一せる觀念の働きあるといふ事、連作に於ける唯一の生命なり。此の生命は主觀的連作と客觀的連作とを問はず凡ての連作を通じての唯一生命なる事を忘るべからず。
       三
(177)     第一、主觀的連作
さざなみの志賀の辛崎さきくあれど大宮人の船待ちかねつ
   さざ浪の志賀の大わだよどむとも昔の人にまたも逢はめやも
 柿本人麿が近江の荒都を渦ぎて作りし長歌の反歌なり。一首づつ見るも無論立派の歌なれど、更に二首を關聯して近江荒都の落莫を想はしむるに於て、立派なる連作歌となすを得べし。反歌を長歌より取離してここに掲ぐる事聊か不當なれど、餘り紙面をふさぐわざなれば省けり。
 次に掲ぐるは大伴旅人卿が筑紫の任地にありて、奈良の故郷を懷ふの餘り詠じたる連作なり。
   わが盛りまたをちめやもほとほとに奈良の都を見ずかなりなむ
「をちめやも」は「かへらんや」の意なり。一首の意は、我が壯時豈復たかへらんや。自ら顧みて心身の老いたるを知る。奈良の帝都は寤寐忘るる時なし。竊に料るに任滿ち歸るの期無けんとなり。
   わが命も常にあらぬか昔見し象の小川を行きて見むため
「常にあらぬか」は「永久なれかし」の願望を意味せり。帝都に在りし日、吉野山なる象の小川に遊びしを想ひ出でしなり。一首の意は明けし。
   淺茅原つばらつばらに物思へば古りにし里し思ほゆるかも
   わすれ草吾が紐につく香具山の古りにし里を忘れぬがため
(178) 香具山の古りにし里を忘れんとして忘る能はず。せめて忘れ草(萱草一名忘憂)を吾が紐につくるとなり。
   わが行きは久にはあらじ夢のわだ瀬とはならずて淵にありこそ
「夢のわだ」「夢の淵」にて吉野川にある深淀なり。わが歸任日久しからざらん。嘗て見し夢の淵も瀬と變らずして、昔のままに深淀してあるべしとの意なり。以上五首の如きは連作として最も出色のものなり。武人帝都を去つて久しく邊寨にあり。身疲れ心衰へて遠く望郷の思を駑するの情宛として生動せり。其のわが壯時復た返らず生きて奈良の都を見る可からずといひ、寧ろ故郷を忘るるの安きを希ふを云ひ、更に吾が命の故山と共に永久ならんを希ふと云ひ、飜つてわが歸任已に近づけり。曾遊水は色を改めずして迎へんといふもの、一として望郷の情思を髣髴せしめざる者なし。題詠歌にて斯る作を得ん事斷じて望むべからず。
       四
 同じく旅人卿の歌にて「讃酒歌」といふ有名のものあり。純主觀を以て十三首を連ぬる力量眞箇驚くべし。
     讃酒歌十三首
   しるしなき物を思はずば一つきの濁れる酒をのむべくあらし
(179)「物を思はずば」は「物を思はんよりは」なり。
   酒の名を聖と負《おほ》せし古への大きひじりの言のよろしさ
   古への七の賢しき人たちも欲りせしものは酒にしあるらし
   賢しみと物言ふよりは酒のみて醉ひ泣きするしまさりたるらし
   言はむすべせむすべ知らに極りてたふときものは酒にしあるらし
   中々に人とあらずば酒壺になりてしかも酒にしみなむ
中々に人とあらんよりは酒壺になりたしとなり。
   あな醜《みにく》賢しらをすと酒のまぬ人をよくみば猿にかも似む
賢者振りして酒のまぬ人の顔は猿に似たりと罵れり。
   價ひなき寶といふとも一つきの濁れる酒に豈まさらめや
   夜光る玉といふとも酒のみて心をやるに豈如かめやも
   世の中の遊びの道にさぶしきは醉ひ泣きするにありぬべからし
   今の世にし樂しくあらば來む世には蟲にも鳥にも我はなりなむ
   生けるものつひにも死ぬるものにあればこの世なるまは樂しくをあらな
   もだ居りて賢しらするは酒のみて醉ひ泣きするになほしかずけり
(180) 此の外萬葉集よりここに引例したきもの澤山あれど、餘り長々しく竝べ立つる事紙面への憚りあれば、是より直ちに子規先生以下今日に亙る主觀的連作歌の例を擧げて、近時傾向の大凡を窺はんとす。
       五
 子規先生晩年の和歌は概ね連作なり。
敍情的連作と見るべきものより一例を左に掲げん。
     しひて筆を取りて
   佐保神の別れかなしも來む春にふたたび逢はむ我ならなくに
   いちはつの花咲きいでて我が目には今年ばかりの春ゆかむとす
   病む我をなぐさめ顔にひらきたる牡丹の花を見れば悲しも
   世の中は常なきものと我が愛づる山吹の花ちりにけるかも
   別れ行く春のかたみと藤波の花の長房繪にかけるかも
   夕顔の棚作らむと思へども秋待ちがてぬ我がいのちかも
   くれなゐの薔薇ふふみぬ我が病いやまさるべき時のしるしに
   薩摩下駄足にとりはき杖つきて萩の芽つみし昔おもほゆ
   若松の芽だちの緑長き日を夕かたまけて熱出でにけり
(181)   いたづきの癒ゆる日知らにさ庭べに秋草花の種を蒔かしむ
 此の作は明治三十四年晩春病勢惡しかりし時の歌なり。十首に通ずる悲痛の情調を見るべし。左に掲ぐるは長塚節が、其の同窓なりし友の遠洋航海中、小笠原群島母島にて不遇の死を致ししを悲しみて作れるものなり。
   ますらをは船乗りせむと海界《うなざか》の母が島邊にゆきてかへらず   小夜泣きに泣く兒はごくむ垂乳根の母が島べは悲しきろかも
   ちちの實の父島見むと母島の荒き浪間にかづきけらしも
   はごくもる母も居なくに母島の甚振《いたぶる》浪《なみ》に臥《こや》せるやなぞ
   鱶の寄る母が島邊に行きしかば歸りこむ日の限り知らなく
   秋されば佛をまつるみそ萩の花もさかずや荒海の島
       六
 左千夫の敍情的連作より一例を擧ぐべし。餘り長きは紙面を塞ぐべければ茲にはほんの一例に過ぎず。雜誌アララギ中「心の動き」の如きは、同氏近來の邊遷を窺ふに最も恰適なるべけれど略せり。
     世にも嬉しき雪人小平大人、篠原志都兒子を介して三たび曲玉を予に惠まる。大人の厚きみこころ如何に報ゆべきかを知らず。歌人なる予は只歌を作りて聊(182)か惠みに酬ゆるあらむことを思ふ。仍て三たび曲玉の歌を作る。
   煤びたる四璧《しへき》の庵に物はなし物は無けども二つ勾玉《まがたま》
四璧居は左千夫の庵名なり。
   青丹照るうづの勾玉二つもち今神代なす吾がいほりかも
   いにしへの皇子《みこ》大王《おほきみ》も寶とぞ戀へる曲玉我れ二つ得し
   あなうれしこれの曲玉わが心のどにゆたかに神さびにけり
   神のみ手に觸りし勾玉またけくて今のうつつに見るが嬉しも
   白毛髭《しらがひげ》八つか豐垂る廣胸に青丹よろしきうづの勾玉
胡桃澤麥両の病母を詠める歌、
   かりそめに病みますからにはかな言のらす心を慰めかねつ
   母刀自の病みのなぐさと語り草思はむとすれど涙さきだつ
   笑みまけて言には言へどすべをなみ寢ねがてにして一夜なきけり
   男手のすべもすべなみあかときの火を焚き居ればみ眼さめし聲
   世の中の浮けるこころにあらなくに妹をこそ思へ老母のため
   わが庵の爐は秋ひらく長き夜を老いたる母がやす寢せむため
(183)       七
第二、客觀的連作
 客觀的連作中にも時間より來る連作と、場所りら來る連作とある事前述の如けれど、便宜に從ひ兩者を合して左に數例を掲げ、且つ近來の傾向をも窺はんとす。只茲に注意すべきは主觀、客觀など分ちたりとて、そは只便宜上の分類に過ぎずして、同じ連作の中に主觀的のも客觀的のも相交錯すべきは、作歌の上に來るべき自然の道理なり。されば左に掲ぐるものも比較的客觀の敍し方多しとに過ぎず。
 曙覽全集中の採鑛歌の如きも一種の連作なれど長ければ略す。
       五月廿一日朝雨中庭前の松を見て作る十首
   松の葉の細き葉毎に置く露の千露もゆらに玉もこばれず  子規
   松の葉の葉ごとにむすぶ白露のおきてはこぼれこぼれては置く
   緑立つ小松が枝にふる南のしづくこぼれて下草に落つ
   松のはの葉さきを細み置くつゆのたまちもあへず白玉散るも
   青松の横はふ枝にふる南に露の白玉ぬかぬ葉も無し
   もろ繁る松葉の針のとがり葉のとがりしところ白玉給ぶ
(184)   玉松の松の葉ごとにおくつゆのまねくこぼれて雨ふりしきる
   庭中の松の葉におく白露の今かおちむと見れども落ちず
   若船の立枝はひ枝の枝ごとの葉毎における露のしげけく
   松のはの葉なみにぬける白露はあこが腕輪の玉にかも似る
       戀※[女+常]娥
   高山《たかやま》のいはほにやどり夢つかれ魂《たま》は翔《かけ》りぬおほそらの上に  左千夫
   小夜《さよ》更けて天の白露《しらつゆ》山をつつみ星の青空上にのみ見ゆ
   天の門に風立ちしかば四方《よも》つ空四方つ國土に寄合ひにけり
   蒼空の眞洞にかかれる天漢《あまのかは》あらはに落ちて海に入る見ゆ   ひむがしの空の一隅《ひとすみ》やや白《しら》みやや朱《あ》けにつつ月出でむとす
   日をよめば二十日《はつか》の月を天の原|高山《たかやま》の上に迎へつるかも
   月よみは神にしませば天の河ひた波ふみて空わたらすも
   生死《いきしに》のさかひをはなれとことはに處女《をとめ》にいます月讀《つきよみ》の神
   まぼろしか夢かしらしら雲ふます※[女+常]娥《をとめ》の神をまのあたり見し
   澄みとほる天の眞澄みに肉《しし》むらの形骸《むくろ》空しき思ひせりけり
(185)是等の歌は客觀中に非情に強き感想を表し居るものなり。
諏訪巖温泉に遊ぶ
   いはほ湯の岩にまくらしぬくみ居るまくらの下に瀧のとどろき 卓
   たきの湯にくぐもりて見ればそとの湯は星空うつし光うかせり
   さやさやに流るる湯川の谿とほく低きが上に夕やけの空
   いはほ湯は水をぬるけみ湯気たたず二十日の月があざやかに見ゆ
   きそ山に夕日沈めば天つまほらあけと暗きと二分《ふたわか》れせり
 近來現れたる傑作より猶幾多を拾ひ得べけんもさまではとて略せり。(アララギ一號志都兒の蓼科登山、秋圃の馬宿等必ず一讀すべきものなり)最後に吾人の注意すべき重要の事あり。萬葉集に現れたる連作は、連作せんと意識して作りしものに非ず自然に發露せる連作なり。眞箇抑ふべからざる感興あつて、おのづから數首十數首をなしたる連作なり。從つてその内容は極めてよく充實し居れども、吾人が今日作る所の連作は、連作せんと意識して作るものなるが故に、往々内容の充實なきに故らに連ねたる如きものを作り出すこと、一方の弊所として自ら省みる所無かる可からず。即ち十首にして足るべきものを、十五首にも二十首にも引き延ばしたる如き觀ある者往々これ有り。長塚節君近頃書を寄せて、信濃同人中亦この弊を帶ぶるの傾向あるを指摘せり。連作は可なり。其の弊を知らざる可(186)からず。其の弊はあれども連作は遂に歌界の一大發展なり。本紙投稿又盛に連作歌の多からんを希望する所以なり。   (明治四十二年一月六日・七日・十日・十一日・十二日・十三日・十四日「長野新聞」)
 
(187)     漫言
 
 吾人は只人生問題の痛切なる感受が欲しい。平氣に思ひ平氣に説くやうな人生問題は、人生問題の骨董品である。
 眞面目な痛切な感受は眞面目な痛切な處世から湧く。眞面目な痛切な處世には非常の奮勵と非常の忍耐と非常の膽力とが要る。吾人が此の三者なくして痛切な感受を望んで居るのは悲しむべきことである。
 根岸派和歌が近來人生問題に接觸したのを見て、人生問題を歌へば新しき傾向に後れぬのだなど、簡單な呑み込み方をしては困る。
       〇
 一月の小説界に左翁や長塚氏が大に活動したのは嬉しかつた。左翁のは新小説と「ホトトギス」へ出たが、「ホトトギス」に出した「胡頽子」が最も吾人の注視を惹いた。主人公お篠の心理的描寫が、(188)殆ど極度の深さと力とを以て全局面に活躍したのは、近來に見ぬ小説界の光彩である。あの位心理的に深く描かれた主人公は、近頃の小説に見ることが出來まい。自然派の小説も多少づつ見て居るが、この方の人たちのやつてる仕事は、丁度根岸派歌人が十年乃至五六年前までやつてゐた所を、今やつて居るの觀がある。社會の現象をそのままに描いたり、人間の活動を其の儘に描いたりしてゐる態度は、吾人が數年前まで寫生的和歌を以て終始してゐたのと非常によく似てゐる。社會の現象、人間の活動を正直に描き飾りなく現すといふことは勿論よいことである。花袋氏の「蒲團」を讀んでも、藤村氏の「春」を讀んでも、風葉氏の「耽溺」を讀んで見ても、人間の活動は赤裸々によく描かれてゐる。併し乍ら赤裸々によく描かれてゐるのみである。作者が如何なる感興を以て、その描かれた人物に對してゐるか、作者の趣味人格が、如何に作物の全面に瀰漫してゐるかが現れぬうちはどうも物足らない。
 換言すれば作者の個性が作物に現れぬ小説は、小説として極めて輪廓的な淺はかな觀を免れない。寫生から出發した吾々の和歌が、事象其の儘の寫生を以て滿足する能はずして、今日個性人格の發露を云々して居るのは是がためである。(初歩な寫生歌にも全く個性が現れぬでは無い如く、自然派の小説にも多少作者の心持は浮んでゐるが、夫れは只浮んでゐるといふのみである。)若し假に作者の人格個性の發露を、絶對に其の作物から度外するとすれば、小説の作者に藤村あり、花袋あり、風葉(189)あるの別を要せぬ事とも見られる。全く要せぬで無くとも、少くも要せぬに近い事とは云ひ得る。今日の自然派作者中に眞面目な奮勵があるとすれば、必ずここ數年を出でずして、前述の意味の一轉化を成す事であらうと豫想する。此の點に於て左翁の「胡頽子」は自然派より已に一歩先きを歩いて居る。主人公お篠の描寫は單に嫖緻惡しき大家の娘が新しき夫に対する動作を描くのみではない。その動作より進んで深くその心理を描いてゐる。描かれた心理は左千夫の見た心理である。左千夫の見た心理と云ふよりも、直ちに左千夫の心理であると云つた方が適當である。即ちお篠の措寫は直ちに左千夫の個性の描寫である。ここまで達してはじめて輪廓に色彩が添ひ、普汎性に特殊性が加はるのである。加之お篠に伴ふ新夫や、家族や、其の他全局面に亙る空気が極めてよくお篠の活動に調和してゐるために、お篠の色彩が益々複雜に鮮かに躍つてゐるのは、大規模の作として立派な手際と云はねばならぬ。只末段新夫新婦の成田詣に汽車中で、新婦の心理に急激な變化をさしてあるのは、面白い變化ではあるが不自然な感じがする。あれに今少しの時間と局面とを與へたかつた。描寫の技巧は誰彼の云つた如く滿足出來ぬ所がある。虚子氏や、藪柑子氏は此の點に於てえらいものである。自然派の人々の中で、藤村氏のはいつも敬意を以て讀んでゐる。
       〇
 長塚氏の「開業醫」は破天荒な小説でゐる。(少くも予の見た從來の小説中では)終始の事實が一(190)貫して居らぬうちに全體の統一がある。學生問題は學生問題で夫れきりに終へて仕舞ふ。養子問題は養子問題で夫れきりに終へて仕舞ふ。横須賀問題もさうでゐる。最後の看護婦問題は、作中の最も主なる局面を占めて居る。是等の諸問題が殆ど相關する所なく駢列されてあるに係らず、全面を通じて只或る「煮え切れぬ」性格に依つて聯想される或る感じを以て統一してゐるのは非常に面白い。予はこの小説を讀み了つて、只何事にもちよいちよいした興味を以て手を出し乍ら、その何れにも深入する事の出來ぬ或る種の人間を想起した。そして自分にもこの開業醫の如き煮え切れぬ性格を持つてゐる事が、反省されるやうに思はれた。予は歌を作り乍ら鷄の事を心配してゐる時がある。鷄を世話し乍ら歌の事を考へてる事がある。歌を作り乍ら歌に專心なる能はず。鷄を飼ひ乍ら鷄に專心なる能はざるは、自分の性格に煮え切れぬ所ある證據である。何事にも深入出來ぬ所ある證據である。開業醫の煮え切れぬ性格は全面に亙つてこの感じを遺憾なく髣髴させてゐる。看護婦問題はこの感じの中心をなしてゐるものである。看護婦の性格が不自然であるといふ人あれども、予は世間に斯の如き損な忍耐をし、我を殺してゐる婦人が日本の家庭には幾らもあると思ふ。
 描寫の技巧は非常に振つたものである。「炭焼の娘」以來「佐渡紀行」に其の他に苦研を重ねた結果であると思ふ。
 永塚氏は「開業醫」は全く失敗の作であると云つて來た。それでも予は矢張り面白いから面白いと(191)云ふの外ない。
 背景なき小説は物足りない。主人公の描寫に幾ら力瘤を入れても、背景が無ければその力瘤が割合に活きて來ない。小説の背景となるものは多く家族郷黨で、廣くは國家社會がその背景をなすこともある。
 元來個人に生命ある如く、團體――家族、郷黨、國家、社會の如きもの――にも一貫した生命がある。個人の生命は團體的生命によりて活動し、圍體的生命は個人的生命によりて活動する。花は花のみでも美しいが春といふ漠然たれども、統一せる感じのもとに更に美しい。こんな理窟は平凡であるが、團體と個人と相映じて遺憾なき描寫をしたものが甚だ少いやうに思はれる。個人の活動だけでも不都合ないか知らぬが、どうも夫れだけでは人生の意味が淺い。梅と常陸と取組んだ丈けでも相撲は相撲で面白いが、その相撲に力瘤を握つてる數千の看客を合せて、相撲場所内に充實せる客氣が現れて、更に二力士の活動が目覺しくなつて來るやうに思はれる。春を離して花をゑがき、本場所を難して角力を描くのは、どうも淺つぼく思はれる。この背景論は左翁からも、長塚氏からも賛成して來て嬉しかつた。
(192) 光君の潮泡日記は、左翁が約百四十首中から三十八首を取つた。取られなんだうちから試みに予は左の數首を取つて見た。
   生ひつづく眞篠まろ山すすみ行く馬の背見ゆも眞篠かくりに
第三句「進み行く」は缺點ありと思ふ。
       輕井澤峠下り道
   網代崎川奈の岬つぎつぎにうすれよろしく海空に入る
   蜑小舟みだれていづる入江波さぎりまよへり朝寒みかも
   逢初の川べ見下す篁のしげりが中に水くるまの音
       〇
 卓君からこんな消息があつた。甚だ面白い。
 僕の歌(犀川の)を褒めて消息にあり候ひしが、あれを二人にもほめられては變な氣が致し候。今讀めば必ずいや氣が餘程出て來る事と思はれ候。(中略)僕のあの歌は未だ足が土についてゐて、重い下駄をはいてゐる樣な感が致し候へど、分水莊の歌をよめば足といふ感じはなくなり、頭の上が開けて自分が何かを思ひつつ見るといふやうな氣がいたし候。今度四號の僕の歌(秋夕の歌)はいくらか其の方の氣を詠んで見たくなり候者に候。足の徒に重いのは直きに嫌気がいたし候。何うしても寫(193)生が終點には有之まじく、寫生の重ずべきは其の根柢の半分をなすにあるなるべく候。僕は頭の上が開けて仰ぎ見るやうな歌が欲しく候。   (明治四十二年三月「此牟呂」第一號)
 
(194) 歌壇隨感
 
       〇
 根岸派近來の和歌が人生に接觸したからと云つて、大急ぎに人生問題を歌つて流行に後れぬかの如く心得て居るのは淺はかなる事である。歌に現れるのは只形である。内に動く者無く、心に燃ゆる者なくして徒に其の外形を摸せんとする時、和歌は生命なき一種の遊藝となる。吾人は如何にして人生問題を歌はんかに焦慮する必要はない。只如何にして人生問題の深刻なる感受と崇高なる憧憬を得んかにつき眞摯なる考慮を用ひればよい。この感受あり、この憧憬ある所、外に現るる者は必しも人生問題に限らぬ。自然界に駢列せらるる山川草木天象地理禽獣蟲魚悉く作者内界の生命を附與し來つて和歌の上に生動し來る筈である。和歌を以て自然を歌ふものと、人生を歌ふものと斯樣に分類するのは外形上の介類であつて決して詩の眞價に對する分類ではない。近時人生問題の先鋒となつて、吾歌壇に溌剌たる新生面を拓きつつある左千夫先生が、九十九里濱に遊んで歌はれしものを特に茲に掲ぐ(195)るは如上の意を明かにせんが爲に外ならぬ。
 歌は全然自然を詠じてゐる。併し乍ら其の自然は左千夫先生の内的活動を通じて如何に特殊の光彩を放つて居るかを玩味せられたい。
       己酉春九十九里濱に遊ぶ
   人の住む國べを出でて白波が大地|兩分《ふたわけ》しはてに來にけり
   天雲のおほへる下の陸《くが》ひろら海廣らなる涯《はて》に立つ我れは
   天地の四方《よも》のより合を垣にせる九十九里の濱に玉拾ひ居り
   白波やいや速白にあまぐもに未べこもれり日も霞みつつ
   高山も低山もなき地のはては見る目の前に天し垂れたり
   春の海の西日にきらふ遙かにし虎見が崎は雲となびけり
   砂原と空とより合ふ九十九里の磯行く人ら蟻の如しも   (明治四十二年五月二十六日「南信日日新開」)
       〇
 萬葉集時代の人には一般大した学問はなかつたがあれだけの大歌人を輩出してゐる。立派な歌を詠み得るは學問などの多寡には決して依らない。學問など餘b多くやり過ぎた人は却つて智識が患ひを(196)なして純正な感情を阻害することがある。文法學者に名文は作れぬ、美學を研究しても繪畫は描けぬ。教育學説位を研究してそれで眞箇の教育は出來るものでない。歌は學問して後に出來るものだと思ふ人があれば大間違ひである。純正にして調子高き感情を有する人は誰でも眞の歌を作り得る。諏訪でも北山村の諸同人は皆立派な歌を作つてゐる。此の諸同人は毎日學問に携つて居る人ではない。學問に携るよりも寧ろ實業に携つてゐる人である。山に草を刈り田に馬を追ひ廻してゐる人である。此の諸同人の純正無碍の境遇が、純正無碍の感懷を養成して、天韻流露の歌の斧削を須ひずして自ら成るは、吾人の留意すべき事である。學問して作る歌は學問臭くていかぬ。況や弟子取りなどして宗匠振つてる人の歌と來たら匠氣満々近づくだに堪へられぬ感がする。
 黙坊歌あり。曰く、
   無名島鳥もなかなく船も見えず昨日も今日も只日暮れゐる 難船談をきく
 朴葉歌あり。曰く、
   暖き日和たまたま里馬の來るが嬉しも妹がひく馬 山小屋生活   (明治四十二年六月四日「甫信日日新聞」)
 
(197) 短歌研究
 
 橘曙覽の歌
 
   のとかなる花見車のあゆみにもおくれてのこる夕日かけかな 遲日
日の長いといふことを「花見車のあゆみ」といふ材料を借りて間接に説明した所が、月並なる所以である。長い日に花見車の悠々たる所を寫すか、花見車の去つて猶日の殘る所を正敍すればいくらか生きる。「あゆみにもおくれて殘る」で月並的説明にしてしまつた。曙覽集には隨分ひどい月並が交つて居る。
       父の十七年忌に
   今も故にいまされさらむよはひにもあらさるものをあはれ親なし
滔々としで形式的お定りの哀歌を作つてゐる徳川末世に、兎に角自己の感懷を根據とした斯樣な歌を(198)作つてゐるのは感ずべきである。然し歌は淺い。
   ※[虫+乍]※[虫+孟]うるさく出てとふ秋のひよりよろこひ人豆を打つ  秋田家
第一、二句のやうな細かな描寫が歌全體を破る惧れがある。第五句が遒勁であるから生きてはゐる。感心する程の歌ではないだらう。
   著る物の縫め縫めに子をひりてしらみの神世始りにけり  蝨
濶達無碍な逸作である。滑稽であり乍ら少しも通有の厭鰺を感ぜぬ。曙覽の寓居には蝨も隨分居つたらう。從つて隨分閉口したらう。閉口でもした場合に出來さうな歌である。併し困却閉口の意味で作つたのでは無論無い。蝨の神世といはれては一言もなく服從したくなる。蝨のやうな不潔なものに興鰺のあるのは、不都合だ、下品だなどといふ者は話せない。
   たのしみは艸のいほりの莚敷ひとりこころを靜め居るとき  讀樂吟
「艸のいほら」と云ひ「莚しき」といひ、「ひとり心を靜めをる」に緊密に調和して、しんみりした情調がよく現れて居る。足羽山莊の翁の靜坐が見えるやうだ。「たのしみは」といふ如き標註的文句は、實は通俗に流れて有難くないが、是等の歌では耳に障らぬやうだ。所謂平面描寫で行つて、感じの泌み出る歌である。
       そそろに詠み出でたりける
(199)   美豆山の青垣山の神樹葉の茂みか奧に吾魂こもる
曉覽敬神の情脈々として全首に躍つて居る。第一句より第五句まで一氣に進行して、第五句で「吾魂こもる」と結んだ強さは殆ど絶調である。この邊が所謂歌は技工ではやれぬ。極所は人格に歸するといふ所である。
       飛驛の國堀名の銀山を見めぐりて(八首中録四首)
   日のひかりいたらぬ山の洞のうちに火ともし入てかね掘出す
   赤裸の男子むれゐて鑛のまろかり砕く鎚うち揮て
   さひつるや碓たててきらきらとひかる塊つきて粉にする
   しろかねの荷負る馬を牽たてて御貢つかふる御世のみさかえ
一首々々外形的描寫に過ぎた傾はあるが、(第三首迄)矢張り生動してゐて面白い。連作の終に「しろかねの荷負へる馬云々」は大人しく盛な歌で面白い。この歌が連作の餘波であり括りでもあるところが更に利いてゐる。夫れなら連作には必ず括りの歌が一首必要かといへば夫れはさうは行かぬ。そんなに形に關はる必要はない。只此の連作始め皆同樣らしい光景が列べてあるから、終の一首を得て落ち書いた感がすると云へばよい。連作の意味は狹義と廣義とに解する人があるやうだ。予は終始顛末の事件が一團の連作を成さずとも、單に一感想を數首に連ねるに過ぎぬものをも連作と稱へたい。即(200)ち廣義に解したい。諸君の考をききたい。   (明治四十二年十二月「アララギ」第二卷昇四號)
 
 香川景樹の歌
 
   おほつかなおほろおほろと吾妹子が垣根も見えぬ春の夜の月  春月朧
「おほつかな」といふやうな感じある句も、斯く第一句に冠らせては概念的になつてしまふ。千年來の習慣を斯く無意識に蹈襲して居乍ら、和歌の革命的聲言などしてゐる景樹の眼光の、不徹底な事を知るべしだ。第二句「おほろおほろ」も第五句を見るまでは、何の積りか見當がつかぬ。吾妹子が垣根も見えぬといふのだから、第一句第二句は眼病の事でも歌つてるぢやないかと思はれる。春の夜の月といふやうな大景、而もこの歌の全舞臺たるべきものを、何故第二句の方へ置かぬのか。所作や仕組を先にして舞臺を後にするのは、普通の場合間が拔けて居るやり方だ。殊にこの歌ではおぼつかなといふやうな、生命ある句を比較的結末に置いて、春の夜の月といふやうな舞臺を示すに過ぎぬ句を、初めに置くが自然である。湯本禿山君の歌にも、たまたま斯樣な句法の見えるのは不都合と思ふ。(横道乍ら)次に「垣根も見えぬ」と何故垣根に重きを置くか譯が分らぬ。寫實派らしい説法をよくしてゐる景樹が、こんな譯の分らぬ其の上不自然極まる描寫をしてゐるのは何の事だ。景樹の歌は比較的(201)よいのでも、平俗に流れてゐて僕は嫌ひである。
大井川かへらぬ水に影見えてことしも咲ける山櫻かな 河上花
河水西に還らぬ無常と、山櫻の散り易き無常とを配して、「今年も」といふ永久の變轉を寓したおろか〔三字右○〕にして陳腐なる技工である。
 現今の歌壇でこんな歌を評するのは葬式の仕直しをしてやるやうなものだ。   てる月の影のちりくる心地して夜ゆく袖にたまる雪かな 寒月
特に「照る月」と云つてる所を見るとすれば、これは月の明かに照り渡つてゐる光景で無ければならぬ。月が照つてゐるのに雪がふりつつあるといふのは、時雨めいた空合で、空の一方では雲があつて雪を散らしてゐるのに、一方は晴れ渡つて月が輝いでゐるのであらう。善意に解釋して是丈けに考へ得るとして、(普通に考へれば此の歌の月と雪との關係は一向分らぬ。)それだけの光景を現すに、只「夜行く袖にたまる雪かな」では雪が大いに唐突で面喰つてしまふ。斯る光景は見付所がよいのだから、普通に平氣に正敍してゐればよいのに、少し技巧を出して「照る月の影のちりくる心地して」など間接な比喩などしてゐるからたるんでしまつたのである。
       事につき時にふれたる
   富士の根を木の間木の間にかへり見て松のかげふむ浮島が原
(202)又舞臺が終りに出て來た。「富士の根を木の間木の間にかへり見て」といふ動作に對しで「松のかげふむ」といふ敍し方は細か過ぎてゐる。作者は富士も見、松のかげも踏むといふのが得意らしいが、兩者の動作が何れも重く、若くは細かく描いてあるから興味が兩分される傾がある。「浮島が原の松かげ富士の根を木の間木の間に仰ぎつつ行く」などすれば兎に角自然になる。何れにしても餘り振つた想ではない。
   若草を駒にふませて垣間見しをとめも今は老いやしぬらむ
第一二句力が入り過ぎて却つて垣間見の心持を傷つて居る。副景に力を入れて調和を害するといふやうな事は、初心の人のやる事である。をとめがもう年老いたらうといふのだから、隨分長い年數を經た事柄であり、それを又囘想して「老いやしぬらむ」など念を入れてゐる所を見ると、「垣間見し」位の關係では淺過ぎるやうだ。歌の物足らぬ所以である。   (明治四十三年一月「アララギ」第三卷第一號)
 
(203) 「アララギ」を讀む
 
       上
 「アララギ」が東京に移つてからもう二年目になる。左千夫君を中心として各作家に多少の變遷を見るのは愉快である。齋藤茂吉、古泉千樫二氏は東京にあつて最も進取的態度を取つてゐる。二氏の作物が新刊「アララギ」に見えぬのは遺憾である。信濃同人は兎に角相變らず活動してゐる。胡桃澤勘内、望月光、志都兒、松軒、芋人、芋花等の揃つて活動してゐるのは大に嬉しい。併し歌の數が澤山あるといふだけでは困る。實をいふと信濃同人の作は今度は餘り振つて居ない。「アララギ」全體に亙つて考へても矢張り佳作に乏しいやうだ。毎作金玉を陳ねるといふ譯には行かぬことだから仕方ないと言へば云ひ得るが、吾が同人の努力が弛緩した結果であるとすれば寂しい話でゐる。諏訪の同人でも北山同人、落合同人、雉夫、山水、李塘、石馬等の歌を見ざる事久しい。特に汀川が四五號つづいて顔を見せぬなどは甚だ不都合の事であると思ふ。
(204) 赤木格堂の「伯林より」は同氏の近作中では振つてゐる方である。今少し用意を深くして掛れば傑作を得るであらうと思はれる。
   天地の凍れる中に人一人きみがふみ持ちて大和に向けり
などは連作中でのよいものであらう。
       下
 胡桃澤勘内の連作は同氏近來の出色である。
   わくらばの世のかかはりにあわただしくこの現身は生けりさびしも
   天つ日の光にとほく冷けき心をこもるひろき家ぬちに
   まごころをかたみにさかりもろともにうはべさかしく老いゆくものか
八首中この三首がよいと思ふ。第三首の「うはべさかしく」は未だ利いて居らぬやうである。夫れから「かたみ」といふ詞が第二句にあるから「もろともに」の第三句も、他の適切な詞に代へた方がよいやうである。
 望月光の十首中左の二首をよいと思ふ。
   われむしろすげなき振りを見するからあやになづけりにくからなくに
   心ひくみめにもあらずありしかば凡《おほ》に思へりやさしきものを
(205)世に有りさうな優しい感じを歌つたものである。他の歌は無造作に過ぎてゐる。どんなよい材料でも無造作に見たり詠んでしまつては値打は没却される。
 志都兒のは三十八首といふ多數であるが、舊遊の囘想である爲め油が拔けた感がある。
   高瀬川魚捕る人はくらしかの皮を背に着て毛物の如し
など面白い材料であるが、幾分感じが不足してゐる。「高瀬川」は「冬川に」とした方感じが乘ると思ふ。すべてが光君のより更に無造作に過ぎてゐるのは遺憾である。
 左千夫翁のは矢張り力が張つてゐて重さも深さもある。斯樣な作があつて始めて心強さを覺える。羽後國田澤湖に行つて、土地の美姫が昔その容姿の渝《かは》らざるを水神に祈り、其の甲斐なきを悲んで水死したといふ物語を聞いて作つたものである。左に其の一部を抽く、
   田澤のうみ靈《くす》しく活ける水の色に神を戀ひしと泣きし君はも
   うつそみに我をゆるさむ人をなみ湖にのぞみてしが影を泣く
   るり色の水底《みそこ》にこもる鱒子等が湖のまにまにあるし戀しも
十一首殘らず擧げ得ぬを惜む。三月號を待つて又書くつもりである。   (明治四十三年二月二十六日・二十七日「南信日日新聞」)
 
(206) 同人評
 
 民部里靜君
 
 同人中で里靜君ほど旅行する人は無く、里靜君程旅行の歌を詠む人は無い。夫れがみんな平氣な歌である。旅行が自分の興味から出た旅行でなく、大抵は職務のための旅行であるらしい事が、原因をなしてゐるとも思へる。職務が主で、勝を探るといふやうな事は序である。耶馬溪を見る爲に旅行する人と、旅行の序でに耶馬溪を見る人と多少の相違はあつてもいい。里靜君の歌の平氣である事の原因にこの理由はどの位加つて居るかは分る譯に行かない。靜かならば靜かでいい。靜の間に靜な調子が出て居らねばならぬ。動いて居れば動いた調子が出て居らねばならぬ。里靜君の歌に、この情調の見えないのは解らぬ事である。旅行の多いと云ふ事と、忙しい(?)といふ事とが斯の如く物を零碎に見せ、淺く見せる傾向があるならば、感じの範圍を儉約して旅行中の或る物にのみ興味を集注して見(207)る事はどうであるか。秋圃君の旅行の歌は大抵斯樣なやり方である。形から云つても、連作的に出來てゐるに比べて、里靜君の歌は普遍的な材料をちらばらに歌つてゐる。雜報的の歌になり易い。これは勿論探勝の場合のみには限らない。
   どこの冬の旅の話か聲ひきて「坂ガキビシイデソコアナー」といふ
の如きは格別にひどいものである。吾々は斯樣な意味で、形を破壊した大膽な歌を欲しがつたことはない。
 感じの乘らぬ時物は輪廓的に描かれる。典型的趣向に停まる時物は輪廓的に描かれる。里靜君の歌に輪廓的の描き方が多いのは何故であるか、今つと向うへ踏み出して貰ひたいと思はせる場合が多い。是は旅行の歌のみには限らないやうである。
   弓揚げて弦音高く射る甲矢の果無き空を青嵐吹く
   岩にあひて浪裏白く飜る凉しき海を木の間より見つ
   山里は書に相識る友も無く日に夏雲の起伏を見る
   荒山に夏日照れれば水涸れて岩と岩との膚分るるも
   若き男つと怒り見る若き女つと拗ねて見る甘きいさかひ
   秋は高し日和靜飛ぶ蘆の絮波にぬれ行く濱の白砂
(208)何れも面白い材料を眞面目に歌つてゐる。此の位の歌でも今少し輪廓を離れて色彩を帶ばせたらと思はせる。「弓揚げて」といひ、「弦音高く」といふ形容の大袈裟であるも必ず惡しくはないが、青嵐に對して只外延の誇張である。内容の情趣に甚だ關係が少い。そこが輪廓的傾向の發現である。「岩にあひて浪うら白くひるがへる凉しき海」も大によい見所である。それを「木の間より見つ」では平氣過ぎてゐる。木の間より見たであらうが、只木の間より見た丈けでは事實のみである。事實より得た感じの内容が今つと泌み出て居らねば惜しいではないか。あと四首も事實は皆明了に面白さうに現れてゐる。只情調の動きが不足してゐる。「秋は高し」など強さうに、喜ささうに見えてゐるが、矢張り外延的形容に過ぎぬ。無い方が穩かに響いて却つてよい。
   見おばえに肖る人顔がわれを見つ我も見つして黙に別れつ
   秋の野は稻負鳥なくものと歌に聞けどもうとき我かも
   筆の穗のぬけて詮無きを爪先に拔きても見る歌思案かも
平氣すぎて只事に終る歌である。斯樣な平凡な材料が惡いといふのではない。平凡な材料でも作者の見方が加つて、何物か新しくシンミリした者の動くやうに行きたいのである。
   杖つきてゆく盲兒は何か思ふ不圖立ちとまる秋の夕ぐれ
   秋風に珠數をならして去る僧の後姿にはかなみを思ふ
(209)   大なる森の掩ひの中に立てば崇嚴おそふ秋の聲かも
何かの感じを現さうとして淺く響いた歌である。感じは感じであるが、感じの題目を明瞭に現したといふべき歌である。輪廓的傾向は斯樣な歌にも現れてゐる。
   岩國の驛に荷物を假預け橋見にいそぐ秋三人かも
   一欠び二欠び三あくびに錢とられそね秋人をとこ
   沖ゆく舟沖ゆく舟此濱に寄りてを行けこの皆をのせて
   小春濱貝をひろうて遲る妓や波におびえて叫ぶ妓やかも
   浴みあがり岩床に立ちて裸身の汗身さぼせば南海の眺め
詞づかひや其の外の形に變化を求めつつある事は、これらの歌を見ても大凡分る。併し大體に於て、斯樣な行き方でどのやうなものが得られるか、將來を見ねば分らない。シンミリした懷かしい色の出てゐる作は「アララギ」を通じて澤山は見當らない。併し全體に斯樣なものを望んで進みつつある傾向は明かに認める事が出氣る。里靜君も此の傾向を認めてゐる事は勿論である。只「琉球まで」のやうな種類の作を最新の誌上に連載されるのを見ては、こんな批評をして見る氣になるのでゐる。
 
 齋藤茂吉君
 
(210) 光君が具合惡くして急に書けぬと云つて來た。光君の分擔を僕が負ひ込んでは切迫した編輯が一層切迫しさうである。併し齋藤君のを拔くのはさむしいやうな氣がするから、平常思つてるうちで纏まりさうな事だけ少し書いて見る。
 齋藤君の歌は批評しにくい歌である。平凡と思ふ歌でも捨てるかと云へば捨てられないと云ふ風である。夫れは如何なる歌にも作者の特徴が明瞭に現れてゐるといふ事である。一些事と雖も極めて眞面目に歌つて遂に歌にしてしまふ。夫れがそれほど眞面目にならなくても不都合ないと思ふ所まで必ず眞面目に見てゐる。眞面目に見てゐる時君は全く忘我の状態にある。忘我の状態にある時すべての物と合體して眞に作者を躍如たらしむる歌を生ずる。我々はこの忘我の状態、物との合體がともすると淺くなる惧れがある。自覺的な所があり過ぎて組織的に智識の勝つた者が出來てしまふ。整頓はしてゐても躍如たる面目が現れて來ない。註文したやうな歌が出來て、湧いたやうな歌が出來ない。この點に於て齋藤君の歌は同人中に珍とすべき者である。同人中でも黙坊君は餘程まで齋藤君と似た所がある。差とする所は作者の性質と平常に於ける考慮如何に因る事と思ふ。齋藤君の歌に滑稽性がある。是は作者の天稟にも因るであらうが又眞面目な態度の反面とも云へる。眞の滑稽は眞面目でなくては生れぬものである。無我の状態にあつて調和と豫想との或る部を急變させる所に滑稽が生きるのである。滑稽にしようなどと意識的に急變させて見ても厭味になるばかりである。
(211)   味噌うづの田螺たうべて酒のめば我が咽喉ぼとけうれしがり鳴る
咽喉佛が急遽であるがそれが生命になって嬉しがり方が甚だ自然に生動してゐる。
 齋藤君は同人中最も早く輪廓的な歌ひ方を脱して情趣の動きに憧れた一人である。その情趣の動きに更に或る變轉を認め得たと思ふ頃から病氣やら何やらで、以前に比し一寸休息の姿になつてるのは遺憾な事である。
   萱草《くわんざう》の小さき萌えを見てをれば胸のあたりがうれしくなりぬ
   あなうま粥《かゆ》強飯《かたいひ》ををすなべに細りし息の太り行くかも
   春のぬを酒のひさごのふらふらにほろゑひ來れば月圓にいづ
等の歌に比して、
   玉ゆらにほの觸れにけれ延ふ蔦のわかれてとほしかなし子等はも
   いつくしく瞬き光る七星《ななほし》の高天《たかあめ》の門《と》にちかづきにけり
   よひよひの露冷えまさる遠空をこほろぎの子等は死にて行くらむ
等の歌が如何な傾向の變轉を示してゐるか略ぼ窺はれるやうである。君の歌と卓君の歌の見えぬのは近來の「アララギ」を寂しくしてゐる。
 君は比較的多方面に頭が動く。動く程のものは些事と雖も多く歌になる。それが又往々平凡な歌を(212)作る基にもなる。作者は極めて眞面目に見てゐるのであらうが、側から見れば存外つまらぬ事へ力瘤を入れすぎたり睨め過ぎたりする事がある。特徴は現れてゐるが平凡は矢張り平凡である。事によると平凡揃でズツト通る事がある。君は詞づかひの研究を盛にやつてゐる。最も大に宜しいが餘り細かい詮議立てに力を入れ過ぎはせぬかと危ぶむ事がある。例をあげずに言つては見當がつかぬが今は是丈けでやめて置く。序に言ふが君の歌
   五月雨るる宵あさ砌にかいかいと蛙一つあはれげに鳴くも
は矢張り面白い歌である。何でも無い材料であるが、奥に何か幽かに動いてゐるものがある。その動きが歌を靜かにほのかにしてゐる。借りてゐた問題であるから此處で返却して置く。
 附記。書いて三四日たつと光君の原稿が著いた。僕のは餘分な形になつたが棄てるも惜しいから兎に角掲げて置く。   (明治四十三年九月「アララギ」第三卷弟七號)
 
(213) 木外居士の和歌
 
 木外子は諏訪に於て最も早く根岸派の和歌を作つた一人である。俳句に專らであつた爲め、此の方は其の後殆ど捨てた形になつてしまうた。それでも歌會の折などは時々顔を出して一二首位作つた。歌の議論などあれば熱心に耳を傾けて聽いて居た。故三川子は晩年に歌を作りはじめて我々を驚かせた。木外子は初年に歌を作つて晩年に捨てて居つたのは惜むべき事である。兩刀を使はなんで、夫れ丈け俳句の一方へ力を集中したといふ意味であれば、夫れで結構な事である。只僕は木外子の文學的生活を敍するに方つて、和歌を全く除外する譯に行かぬ事を明かにして置き度いのである。
       〇
      七月三日の夜人を招きて宵居の庭に螢を見るの歌 明治三十三年   この夜らを螢放ちて家の子が我に見せむと思《も》ふ心うれし
   泉水のあやめに近くとぶ螢遂にとまらず水の面行く
(214)   築山の樫の葉うらにうらぶれて夜すがら光る螢かなしも
   水注ぐ一むらあやめ葉を深み葉かげに光る螢三つ四つ
   池のへにうちはかざして少女子がよき螢こよこよといふなり
       〇
   人とめて秋雨のふる淋しさに秋雨十首作らうといふ
   秋雨のふる日をいたみ家の媼が葬式に行くと出で行く悲し
   秋雨のひねもすを降る泉水に鯉もうかばず庵淋しかり
   みまくほり我が待つ人の今日は來て歌語りする秋雨の夕
   泉水の築山ほとり蛙なきてぬ草をしみみ秋雨のふる
これは玉川寓居の時であつたと記憶する。この頃の歌の仲間は汀川子等であつた。
       〇
   鸚鵡なく苑中の晝靜けくを海棠さいて春の日永し  明治三十六年
   にひはりの畑にうゑし新桑の桑のみづ枝に雨ふり足らず
   生ひ立たす毛蠶をよろしみ桑つむと畠行く妹の笑まはしくする
   下野の野畠山畠桑かれで人飢うるてふ聞けば悲しも
(215)   國を出でていくらもたたぬみちのくの年若相撲幕に入りけり
古寺の背戸の山畠梅さきて曉寒く僧經を誦す 明治三十七年
わたつみのおきの嶋わを寒けくと玉藻刈るらむ蜑の少女子
 三十六七年頃のは「つばな會」課題の歌や、布半歌會等の歌である。此の後木外子は殆ど歌から遠ざかつてしまうた。四十一年十月左千夫君が富士見原に來遊された時、木外子も久し振で顔を出して十餘人の仲間が狹い座敷二つへ鮓漬けに寢並んだ。木外子と一緒に泊り、一緒に歌を詠んだのは是が最後であつた。その時の木外子の歌、
   尾花ふく穗屋の刈原夕榮えてくらべの馬のかへり來るかも
   夕さむきほやの刈原はろばろに雁なき落つる穗芭の上に
これは思ふに木外子最後の和歌であつたらう。   (明治四十三年九月「ウロコ」第二卷第一號)
 
(216) 堀内卓君逝く
 
 拜呈。十五日彼病革る。同人の報皆生の土曜日にして諏訪に歸れるを思ひ、端書も電報も下諏訪に苑てて發せり。而してその時生は實に甲州にありき。これ生の不幸なりき。先生の意を達する能はざりしこと恐懼に堪へず。堀内如何に先生に逢はば喜び泣きつらむと思へば、實に實に遺憾なことしたり。
 十四日胡君堀内を訪ふ。堀内曰く、久保田は何時來る。胡君曰く、二十日頃來る。堀内日く、待ち遠いな。嗚呼彼は待ち遠く思ひつつ、永世逢ふ可からずなれり。家人猶且つ命の數日に迫れるを豫知せず。同人又皆昨日今日と思はず。甲州よりは繪端書を出せり。その端書著かぬうちに彼は已に、永眠せり。今日歸校して凶報に接し、茫然只涙の滂沱たるのみ。行けば彼は已に棺中の人となれり。
 彼は同人中最も貴重なる天職を負へる人なり。彼は一種の恐ろしき人なりき。毎年夏逢ふ度に生は恐れを懷けり。思想界の變化、實に吾人に先ずること甚しきを覺ゆればなり。アララギの歌にも少か(217)らず不滿ありき。彼はこれを筆にせんと思ひたれど自由利かずしてその儘に永眠せり。千樫君評はあれは序論なり。。細論を書かねばならぬといひ居たり。
 十月一日彼を訪ひし時彼は珍しく歌を聞かせよといへり。そして手を伸ばしで予の膝に置けり。予はその手を握らざりしを悔ゆ。彼は只泣きに泣けり。手拭にて涙を拭ひやりつつ歌を言ひ聞かせたり。彼の喜び今も眼前にあり。君の來て呉れるが一番嬉しくてなあ、と云へりし言肺肝にあり。
   霧明りかくおぼろなる土の上に遠く別るる人やあるらむ
の歌を言ひきかせたり。あゝいいな今一度言つて呉れといへり。品のいい歌をよむなあ。その續きをあとで書いてよこして呉れといへり。歸來直ちに書き送りし數首は、彼遂に見るに至らざりしならんと、光君言ふ。
 彼は同人の誰が行きても泣けり。而してその同人の誰にも護られずして目を落せり。吾人等の手落實に云ふ可からざるを覺ゆ。他の同人に對しても實に申譯なし。併し死せる人はこんなことは言はるるを喜ばざるべし。彼の情は玉の如ければなり。彼は只泣けり、泣ける後茫乎となり然る後恍然として靜かに魂離れたるべし。煩悶の意の深かりしこと彼の如きは少かるべし。されど逝ける彼の安らかさは、常人に逸せるやうに思はるるなり。玉の如き人なるが故なり。永く書けば悉きずこれにて擱筆。十月十八日夜。   (明治四十三年十二月「アララギ」第三卷第九號)
 
(218) 短歌研究
 
   木のもとに梅はめば酸しをさな妻ひとにさにづらふ時たちにけり  茂 吉
 細かな評はよいが、くだくだしいのは惡い。予はその積りで成るべく簡單に書いて見る。この歌を見て事件が不明了であるなど云つて、事柄の穿鑿をするのは間違ひである。事件をその儘に捉へて、形體の描寫を明瞭にしようと勉めたのは已に過去の仕事である。我々は今已に物や事柄から進んで、その上に味はれるシミジミした情緒の影を追ひつつあるのである。その影の色彩が明瞭に描かれれば夫れで滿足である。斯樣な要求からこの歌を見るのが作者の希望でもあらうし、又我々の希望でもある。春の色が已に褪めて新しい夏の影が木々に動きつつある。幼な妻が庭前の梅の下蔭に嫩い木の實を食ふ。その幼な妻も花柳三春新髪人に左丹頬《さにづら》ひし時も僅に過ぎて、落ち着いたシンミリした、而も嫩々しく夏の木蔭の人となつてゐる。美しいけれども落ち著いた、靜かであるけれども色の動いた、非常に懷かしい印象を與へる歌である。
(219) 第一二句と、第三四五句との調和をよく思ひ浮べて見るべき歌である。第二の句で「酸し」と切つたのも非常に歌の調子を適切にしてゐる。
 序に言ふが、印象的の歌に進んでゐるから、自分も大急ぎで印象的の歌を作つて、その進歩に後れぬやうにしようなど考へる時、流行的な輕薄な風を生ずることがある。老婆心めいた言草であるが、印象的といふやうな聲を、斯樣な意味に陷らせたくないと思ふ。形を描き、主觀を描き、印象的情緒を描く、只眞摯の聲であればいい。眞真に形を描きつつある間に、自から印象的にも進むのである。同時に畫家がデツサンを廢すべからざるが如く、凡ての歌人が形の描寫に苦心することを忘れてはならぬ。   (明治四十四年一月「アララギ」第四卷第一號)
   手も足もはなればなれにあるごときものうき寐覺かなしき寐覺 石川啄木
 近頃流行する歌は多く感覺的な行《や》り方である。感覺的であるから眼につき易い。その代り人の奥底に潜んだ或る物に響く丈けの力は無い。まづい物を食ふより甘いものを舌の上に乘せる方が、我々も快感を感ずる。粗らい著物より柔かい著物の方が、我々も肌觸りがよい。併し夫れは只快感を感じ、肌ざはりがよいと云ふまでである。心の奥に沁み込こんで、何等か深い或る印象を投ずるやうな、左樣な深味ある落ち書きあるものではない。眼につき易いといふのが感覺的の特徴であつて、斯る持徴を(220)帶びたものが世俗に流行し易いといふ事は、卑近な社會にあり易い事で今更怪しむべき事ではない。
 印象派の小説より、硯友社當時の小説が俗受けよく、硯友社の小説より、村井弦齋の小説や講談物の方が俗受けよいといふはこの意味に外ならぬ。自然派小説中の惡傾向ありしものは、矢張りこの感覺的な人間の弱所に付け込んで、讀者を引かうとした所にある。與謝野、金子、尾上諸氏の歌の愛讀者は概ね斯る弱所を重んじて、注意と興味とを捧ぐる人達である。その中で若山牧水氏の歌が、多少毛色を異にせんとする傾向を有してるやうに見える。今頃大家を気取るつもりが無ければ、何かの發展をするではないかと注意される。石川啄木といふ人のは名はたまには見たが、歌を見せられたのは此の歌が始めてである。「物うき寐覺悲しき寐覺」といふ一般的な題目を提示した丈けで、感じの内容(事實の内容ではない)は何處へも泌み出て居らぬ。「手も足も離れ離れにある如き」といふやうなものが、この感じの色彩であるとすれば、我々は前に述べたと同じ意味を以て、作者の趣味の程度に哀しき同情を寄せねばならぬ。斯樣な感覺的な趣味に止まる歌が、石川氏の數ある歌の中で一つ丈けあつて、たまたま僕の眼に映じたであらう事を希望する。千樫君が態々斯樣な歌を撰り出して僕に送つたのならば、千樫君は石川氏に氣の毒な事をしたと云はねばならぬ。新しい新しいといふことを云ふが、いくら新しくても作者の趣味が何處迄行つても、感覺的な程度に止まるうちは、その新し味は只程度低き新し味である。事によれば墮落した新味である。無邪気な男女學生を喜ばしむるに足る(221)新し味である。「手も足も離れ離れにある如き」といふやうな事も、或る大なる感想中の一材料として點ぜられる場合ならば生動せぬ事もないが、斯樣な感じの主部乃至全部を占領してゐる場合には、餘程作者に同情して見ても、感覺的であるといふ以上の深味を發見する事は出來難いのである。   (明治四十四年三月「アララギ」第四巻第三號)
   夏草のいよよ深きにつつましき心かなしくきはまりにけり 柿乃村人
 
 (一)、字句の解。必要あらば
 (二)、如何なる場合の歌か精細に釋すること
 (三)、作者當時の心持
 (四〕、心持を表現せんとした場合の技巧上の苦心
 
(一)は要らぬと思ふ。(二)と(三)は一緒にして言つた方が便利らしい。強烈なる男女の戀情が猶行爲動作の平衡を保ちつつ、而も已に平衡が打ち破られんとする迄に強度に達しつつ、あるうましさ〔四字傍点〕の極、苦しさ〔三字傍点〕の極、このやうな心持を歌つて見たかつたのであつた。接吻にもならぬ、握手にもならぬ、併し接吻にも、握手にも、啼泣にも、只一髪を隔てた苦惱の溜息である。斯樣な苦しくうましき〔四字傍点〕情を歌つて見たかつたのが動機であつて、この動機が只材料として夏草の中の日光に立つた男女を捉へて見たのである。連作中の一首であるから、他から取離して見ると變なものであるが、それは他の歌も引合(222)せて見て感じて頂きたい。男も女も極めて眞面目な人である。眞面目な人たちであるから、情の激する割合に動作は控へ目である。控へ目な動作の中《うち》に、充實した情の激しさを湛へて居る。草は彌々深く、日は益々熱苦しい。斯樣な強烈の光景の中で、強烈な二人の情を活動させたかつたのであつた。
 (四)、技巧上苦心せし所。
 苦心はしたつもりであるが、今ではどう苦心したのか忘れてしまつた。一首の中に日光の事を入れてありたいやうであるが、是は連作の他の歌にあるからこれには略してしまつた。連作には斯樣な事は許して貰ひたい。第二句「いよよ」は連作としては利いてゐるつもりである事を認めて貰ひたい。第三四五句の調子の張り方は、作者の感じとさながら一致するまでに現し得たといふ事を申して置きたい。併し是以上に現し方を示して下されば大いに感謝する事である。
 〔編者曰〕六號活字ニテ組ミタルハ「アララギ」編輯者ノ質問シタル要項ナリ。   (明治四十四年四月「アララギ」第四卷第四號)
 
(223) アララギ雜言録
 
 我々の歌は、我々の生から見て一歩一歩の過程の聲である。終局でもなく結末でもない。左樣な意味から云つても、我々の歌は一面から見て不足の聲であり疑ひある聲である。不足と疑ひとを伴つた聲であるから、未來もあり、活き活きした生命もある。何事も斷定し解決した態度で歌ふ歌は飽かれ易い。自分ではよいつもりで平氣でそして喜んでゐるといふ事が多ければ多いほど、弛みと淺はかとを感ぜしめる。我々が人の製作を非難する聲のうちにも、斯樣な斷定的な淺はかな自我を交へぬといふ注意が甚だ必要である。   (明治四十四年七月「アララギ」第四卷第七號)
 
(224) 十周年雜感
 
〇子規先生の遺稿を見れば今更色々の事が思はれる。革新に伴ふ新しい匂ひ、生き生きした色、充實した力、斯樣なものが滲みるやうに我々の心を刺撃する。斯樣な運動に馳せ集まつた當時の人々の眼の輝きを思つて見れば、純粹無雜な愉快が今更我々を起たせるやうな氣がする。十周忌に當つて我々が子規先生を思ふ時、先づ第一に斯樣な氣分で遠い昔の音に耳を立てるのは有難い事である。
〇鳴らねばならなくて雷霆が鳴る。降らねばならなくて夕立が降る。已むを得ぎる聲であるから力がある。已むを得ざる雨であるから痛快である。雷霆風雨が世界のすべてを慴伏させるのは、只この已むを得ざるといふ痛切なる力である。我々が唱ふる革新といふ聲は、いつも斯樣な意味の革新でなくてはならぬ。眞實内心の切實な要求から生み出された革新でなくてはならぬ。革新のために爲された革新は力が弱い。上すべりである。一時を驚かし得る。すぐに飽かれる。直ぐに移る。移る事が早くて氣が利いて敏捷であるといふ事は、上辷りから生れる特徴であつて、世間に一時の流行といふもの(225)を寄附する。時の流行に隨喜して移り走り進む輕快な人たちは祭り好きな人たちである。賑かに騷ぐけれども、考へさせる聲にはならない。腹に滲み入る聲にもならない。子規先生當時に革新の聲は澤山あつた。そして夫れ等の聲の中で最も力ある深さある偉大なる聲として、子規先生の昔を想ひ出す事は、吾々の此の世に於ける最も有難い歡喜であるといふ事を思ふ。
〇「人生に觸れる」といふ。誰でも云ふ。平氣で云ふ。平氣で云ふ「觸れる」がどれ丈けの觸れ方をしてゐるか。お祭り好きな人達が、太鼓を叩いて題目を唱へるやうな人生は、無造作なものではないか。子規先生は深き人生といふやうな事を濫に口には出されなかつた。出されなかつただけ夫れ丈け深い人生を甞められた。病臥七年の先生の生活を思へば、十年の後吾々は猶面のあたト鞭撻される心持がする。斯樣な悲慘な嚴肅な事實生活を想起して、藝術の道に立つ我々の意義を考へねばならぬ。
〇子規先生は古い動きの取れぬ典型的な歌を革新するために、活きた事實の活きた見方をされた。固定された因襲的な物の見方をしてゐる歌人たちは、一齊に驚愕の聲をあげた。先生の運動は夫れ等の人々に餘り關係なしに、ずんずんと行くべき道を行つた。先生の下に馳せ集まつた人々が悉く新しき人で、そして先生の堅實眞摯な風を慕つて集まつた人であるといふ事が、更に先生の運動を助ける大なる力となつた。先生の第一期の仕事は主として生きた事實の生きた見方であつて、從つて主觀的な歌よりも多く客觀的な歌に力を注がれた。若し天が今少し先生に年を假したならば、先生の強烈な運(226)動が更に必ず主觀的の方面に動いた事であらうと思ふ。
 「竹の里歌」を見て我々の今日最も面白いと思ふ歌は、矢張り比較的先生の主観が多く働いてゐる歌にある。
   いちはつの花さき出でて我が眼には今年ばかりの春ゆかむとす
   世の中は常なきものと我がめづる山吹の花散りにけるかも
   くれなゐの薔薇ふふみぬわがやまひいやまさるべき時のしるしに
   薩摩下駄足にとりはき杖つきて萩の芽つみし昔おもほゆ
「しひて筆をとりて」の中から抜き出したのである。先生晩年の病牀感が事實と聲調とを通していかにも油然と浮んでゐて、我々に瞑想させるやうな痛切な感じを與へる。
〇十年を經た今日の歌は、子規先生當時に比すれば著しい變化を呈してゐる。我々はこの變化が當然の變化である事を思ふと共に、今後更に幾變化すべき前途を有する我々の歌が、常に子規先生當時の根本的精神を忘れぬ用意が肝腎である事を思はねばならぬと思ふ。   (明治四十四年九月「アララギ」第四卷第八號)
 
(227) 漫言
 
△緊張といふ詞を色々に解釋する人があるやうである。歌を作るに專心にならぬ者はない。專心の態度は緊張の態度であり、緊張の感じである。緊張といふやうな事は、作歌者に當然備るべき通有性であつて、一部の人に備り一部の人に備らぬといふ特殊性ではないと解釋する人もある。成程斯樣に解釋すれば緊張といふ詞は、熱心な作歌者に対しては當然過ぎて却つて無意味な詞になると見える。併し乍ら斯樣な緊張は歌の製作に對する動機の緊張であつて、歌の精神たるべき内容的動機の緊張――假に内容の緊張といつて置く――ではない。吾々の要求は内容の緊張である。製作動機の緊張は、内容の緊張に伴隨する自然の結果とも見えるが、製作の動機全部が必しも内容の動機のみに伴隨するとも思へない。
 内容の緊張といつても、夫れは又人によつて色々に解釋されてゐるやうである。緊張といふからにはギタバタせねばならぬ。聲を張つて叫ばねばならぬ。唇を噛んで泣かねばならぬ。斯樣に解釋する(228)のは緊張といふ詞に對して早分りする解釋であるが、沁み沁みと考へさせる深い力としては何うであるか。戀といへばセツパ詰つた戀でなくてはならぬ。泣くといへば足ずりをせねばならぬ。憤るといへば目を張らねばならぬといふのは、元氣がありさうで生々してゐるが、山を畫けば尖らねばならず、水を畫けば瀬を成し瀧を成さねばならぬといふ側であるから厄介な事である。斯う書いて見ると極端になつて一寸當嵌らぬやうであるが、大體に於て斯樣な氣分で――少くも斯樣な色を帶びて――緊張といふ事を叫んでゐる人々は慥かに見えてゐる。なだらかな者、ゆるやかな者、靜かな者、といふやうな氣分の上に生きてゐる者を捕へて、直ぐ感情の弛緩、作風の墮落などと斷定して、正義人道のため奮慨に堪へぬなどと云つで、賑かな騷ぎ方をするのがこの人々である。賑かなのは差支ないが、正義だの人道だのといふ聲の輕卒に出る時、聲の動機の空虚になる惧れがある。平氣な正義、無造作な人道、斯樣な聲が盛になるのは一方から見て、正義人道の衰微であるとも云へる。斯の種の人々には又斯樣な解釋者もゐる。緊張といふ事が精神の緊張であるからは、歌ふ所はすべて精神的でなくてはならぬ。肉を歌ひ形態を歌ふのは墮落の大なる持徴である。かく明丁には言はないでも、大體がかやうな考へであると見て大した間違は無いやうである。三井甲之君などは矢張りこの側の人であるらしい。殊勝のやうで空虚な考へである。萬葉集の戀の歌には、肉を材料や目的にしたのが澤山ある。夫れでゐて決して弛緩や墮落を感ぜしめぬのは何故であらう。肉や形態は元來それ自身が卑しいもので(229)も高いものでもない。只主觀の響きにょつて夫れが卑しくも生き、高くも生きるのである。その主觀お響きを度外して、單に肉を歌つてあるから墮落であるなどと、早決めをしてゐる人々に緊張とか、精神的とかいふ事が解つてゐるか何うか夫れすら甚だ疑問である。
 吾々のいふ緊張とは、只我々の人生に對する深い感想の緊張である。生死を一貫せる或る物に觸れんとして觸れ得ざる懺悔と、精神の痛切な聲である。緊張の感、痛切の聲、夫れが深ければ深い程、肩を聳かしたり、腕を扼したりするやうな淺々しいものから遠ざかる。緩やかな感じ、靜かな感じは、斯くして愈々その生き方を深く鮮かにする。其の感じは肉に動くか形態に動くか左樣な材料問題を根本問題と一緒にして考へたくはない。新派と稱する多くの歌に見える通有の缺陷も、決して肉問題や、形態問題で解決すべきでなく、全く此の第一義の問題で解決すべきである事と思ふ。
△私が前に「創作」の歌を批評した時、感覺的といふ詞を使つたため、同人から少し變に思はれた事がある。私の感覺的な歌ひ方と云つていやがつたのは、歌から送る感じが只吾々の感覺機官に響くのみで、心の中樞を刺撃して呉れぬのを低く淺々しく感じたので、夫れを感覺的な歌ひ方と假に命名して言つて見たのであつた。併し吾々は平常微細な感覺に觸れて、心の中樞に沁みこむ或る物を歌はんがため心を苦しめてゐる。この微細な感覺は、世の進歩すると共に益々其の細微の度を加へて來る。是は近代藝術の上に現れて居る大きな特徴である。左樣なものと區別するために、私の前に名づけた(230)感覺的といふ用語を改めねばならぬやうである。感覺的を官能的と改める。
△今後の歌は女性者によつて興されるであらうと友が話した。日本の女性は從來甚しき社會の壓迫を蒙つてゐた。壓迫に對する服從は、只服從者の自覺なき時にのみ圓滿に機械的に行はれる。自覺を生ずる時、壓迫と服從との間に何等かの動搖が現れる。この動搖は自覺の深くなるにつれて益々深い動搖になる。外に發せねば内に苦しい動搖になる。この苦しい動搖は女性の根柢を傾けての痛切な動搖であると云ふ事が、女性者の歌に新しい光彩を現す根蔕を成《つ》くるであらう。教育の普及と、思想界の進歩とは、斯る機運を促して居る事を想像し得るといふのが、友の大體の話しであつた。成程私にもさう見える。併し一方から考へて今迄の壓迫と服從とが、全部不自然であり、機械的であり、無自覺であつたかどうかも疑問である。所謂動搖といふ事も何處までも女性らしくしをらしく、悲しく、哀れであつてもらひたい。さうでない動搖は女性でなくとも此の世に存在する動搖である。女性の特徴は何處迄も女性の特徴で通してもらひたいやうである。
△歌の技能が進むに從つて、技能でこなさう〔四字傍点〕といふ考が生れて來る。我識らず生れて來る。技能でこなす〔三字傍点〕のは手輕な事である。文字を操つればよい、字句を修飾すればよい。斯樣なやり方に知らず識らず染みこむのは多くの人によく見る所で、古くからの作者ほど文字の修飾あるのみで、眞情の活き活きしたのを見難いといふ傾向がある。西洋の或る畫家は畫の急所をかく時に、態ざと左手を使つたさ(231)うである。未熟な左手を使つて感想を緊密に現さうとする努力の心に活き活きした畫は萌え出てゐるのである。吾々の用意は外には要らぬ。只思想界の開拓と、實感の尊重と、努力苦心の尊重と是丈けである。技能の如きは夫れらの附隨者と見べきである。此の意義を失はぬうちのみ、吾々は少しなりとも生命ある歌を得て行くべきである。
△吾々の心は頭の中に生きてゐるうちが最も純潔である。夫れが形に現れる時、頭の中の者と形との間に多少の距離が出來る、聲に現れても距離が出來る、實行に現れると益々大きな距離が出來る。實行的問題が我々の心の力を殺ぐといふ事は、一方から見て爭はれぬ事實である。妻帶問題は大きな實行問題である。この實行問題が心の生活に大きな影響を與へるのは爭はれぬ事である。この期を經過して猶生き生きした心を失はぬといふには多少の工夫が要る。第一子を設け、第二第三子と順々に子を生むやうになつてからは、殊更この工夫が必要である。只敬虔的求道の心あるものが是等の實際生活を材料として深く活くる心を作つて行く。實行問題に死ぬと實行問題に活きるとの差は、天地の差よりも甚しい。   (明治四十四年十一月「アララギ」第四卷第十號)
 
(232) 「アララギ」第四卷の歌
 
 「アララギ」の歌が一年間にどんな歩き方をしたかといふことを、總括的に抽象的に言ひ盡すことは六ケ敷い事であらう。さうかと云つて全く抽象的に考へ得ぬといふ事もない。努力さへあれば何人も自然に移り變るものであつて、自分の自覺せぬ推移も振りかへつて眺めると其處に何等かの道筋を認め得るのである。「アララギ」の一年間の歩き方は推移しようと思つてした推移では無いが、推移の道筋は矢張り自から在ると云はねばならぬ。その道筋は理解的、分析的に考へ得べき道筋で無いから言ひ現し方が困難であると思ふ。
 喜怒哀樂といふやうな單純な情緒には、活力があり刺撃があつて一見甚だ力あるやうに見えるが、要するに單なる喜怒哀樂は只夫れ丈けとしては單なる淺い意味のものである。斯樣なものに熱心に執着してゐる人も、或る努力、ある時期を經過する中に更に深いものを見詰めて來るといふのが自然の變遷である。斯樣な變遷によつて得る物は、單なる情緒の如く刺撃的で無くけばけば〔四字傍点〕しくないから、(233)外に現れる活力が少ないやうであるが、その代りに内に籠る力は深いものになつて來る。前の傾向を「動的の力」と云へば後の傾向を「靜的の力」と云ふべきである。「刺す物」に對する「滲みる物」である。
 「強さ」に対する「深さ」であり、「發作的」に對する「瞑想的」であり、「情緒的」に對する「情操的」である。「叫ぶ聲」と「考へる聲」、「泣き立てる聲」と「涙ぐむ聲」、「躍り立つ聲」と「低歩する聲」、凡そ斯樣な比喩を以て略ぼ現し得べき變遷は、我が「アララギ」の上に二三年前から現れてゐた變遷であつて、夫れが明治四十四年の一年を通じて益々色合を深く鮮かにしたやうである。
   草の花も眼におぼろかにうかび來る霧野がなかに一人のこれり 雜の歌の中 望月光
   いささかの日和つづきに萌えいづる水べ冬草ふみて遊べり 冬草のうち 文明
   日のあたる背は汗ばむを冬草やみぎはの土の足につめたき
   霜月の冬とふこのごろ月くもりけふも曇れり思ふこと多し 冬のくもりの中 左千夫
   わがやどの軒の高葦霜枯れてくもりに立てり葉の音もせず
   夕日かげ寒けき崖を石の色の上に物うごく小鳥にてあり 寒き石の中 憲吉
   石の面にふるるそよ風かれ草の影のゆらぎをうすくおくかも
   汽車下りて土ふむ我にうち浴ぶす春の光りは流るる如し 春の旅の中 千樫
(234)   雨あがり春の野道をふみて行くわらぢのそこのしめりくるかも
   雨にぬるる廣葉細葉のわか葉森あが言ふこゑのやさしく聞ゆ うつし身り中 茂吉
   しみじみとおのに親しきわがあゆみ墓はらの蔭に道ほそるかな
是等の歌は今述べた傾向の例として見遁す事の出來ぬものであらう。
 私の言ふのは、靜的のものは皆深くて動的のものは皆淺いと、斯樣に單純に斷定するのではない。靜的の者にも淺いものがあり、動的の者にも深いもののあるのは勿論であつて、單純な喜怒哀樂の動きでも、それが歌ふ人の態度によつて至純至深に響く事は充分にある。夫れから單純な喜怒哀樂的の者でなく、情操的に、瞑想的に動く者でもその動きの極が、再び靜態を破つて動的に動くといふやうな意味の者も、我々に更に深い滲み入る響きを傳へることを考へねばならぬ。夫れであるから動的の者、靜的な者といふやうな區別を以て直ちに淺いもの、深いものの區別にしようといふやうな無造作な考へ方をすべきでない事は勿論である。只我がアララギ同人の歩き方が、今動的の者から靜的の者へ動きつつあるといふ事が、一方かち見た道筋であるといふ事を言へば夫れでよい。堀内卓は早くからこの傾向を現してゐた。
   何かいひたかりつらむその言もいへなくなりて汝れは死にしか 女中おくにの中 茂吉
   これの世に好きななんぢに死にゆかれ生きのいのちの力なし我は 同 上
(235)   祖母いますをたぬしみ來れば我が床をかたへにのべて臥せりいませり ほろゑひの中 梨郷
今の我れに僞ることを許さずば我が靈の緒は直ぐにも絶ゆべし 我が命の中 左千夫
   苦しくも命ほりつつ世の人の許さぬ罪を悔ゆる瀬もなし 同上
   思ひ遂ぐこひのこころの片寄りに世のはばかりを忘れて戀ひ居り 秋の歌の中 黙坊
 是等は動的によい者の例として四十四年の作歌中から見遺してはならぬものであらう。茂吉君が例を一二擧げろといふ註文であり、自分も今さら長く書いてゐる隙が無いから悉くここに擧げる事を略するのであるが、今つと擧げねば悉くしたといふ事は出來ぬが大體の私の見方は分る事と思ふ。
 猶今一つ首ひたい事は、四十四年に於ては女作者の急に殖えたといふ事と、其の他に新しい作者が大へん多く現れたといふ事である。夫れが多く信州の人々であるといふ事が甚だ愉快な事である。是等の人々がどのやうな歩き方をするかといふ事は、四十五年に於て甚だ鮮かになるであらうと想像するのは愉快で嬉しい事である。夫れから志都兒が秋後から作ると云つてよこした事が大にうれしい事である。四十五年は必ず目覺ましい活動が我が「アララギ」の上にあると期待する   (明治四十五年一月「アララギ」第五卷第一號)
 
(236) 明治四十四年の歌
 
△私は只「アララギ」の歌について述べて見ようと思ふのである。新しい歌の運動にも色々の種類が見えるやうであるが、私どもの感輿を惹くやうなのが目に入らない。それ等の人々と私どもとは依然として別の道を歩いて居るやうである。別の道を歩く人は歩く人の自由である。私どもが氣を揉んで交渉して見る必要もなし、義理も無い。ここには只私どもの同行者として「アララギ」の歌を言つて見ようとするのである。
△二三年前から「アララギ」の歌が單なる情緒的なものから追々情操的に進んで來たのは確かである。それが四十四年になつて特に色どりを濃くしたやうである。精一杯に泣く、精一杯に怒るといふやうな風から遷つてしみじみと泣き、しみじみと思ふといふやうな、若し前の響きを動の響き〔四字傍点〕とすれば今の響きは靜の響き〔四字傍点〕であるといふやうな變り方をして來たのを云ふのである。山川の流れが瀬をなし瀧をなしたのに引きかへて、その流れが追々淵をなし、淀みをなして來たのである。瀧の響きは勇しく(237)生き生きしてゐるのであるが、淵の深碧は靜かに蓄へた色を持つてゐるのである。斯樣な傾向がどの邊まで行つて、どう變るか今から豫測は出來ぬのであるが、兎に角今日の變遷が斯樣な意味を持つてゐるのは確かであると云つてもよいやうである。
△一月號の歌
   草の花も眼におぼろかに浮び來る霧野が中に一人のこれり 望月光
   日のあたる背は汗ばむを冬草やみぎはの土の足につめたき 文明
△二月號の歌
   霜月の冬とふこのごろ只曇り今日もくもれり思ふことおほし 左千夫
   我がやどの軒の高葦霜枯れてくもりに立てり葉の音もせず
   裏戸出でて見るものもなし寒む寒むと曇る日傾ぶく枯葦の上に
△三月號の歌
   夕日かげ寒けき崖を石の色の上に物うごく小鳥にてあり 憲吉
   石の面にふるるそよ風枯草の影のゆらぎをうすくおくかも
△五月號の歌
   汽車下りて土ふむ我にうちあぶす春の光は流るる如し 千樫
(238)   雨あがり春の野道をふみて行く草鞋のそこのしめりくるかも
△六月號の歌
   雨にぬるる廣葉細葉のわか葉森あが言ふこゑのやさしく聞ゆ  茂吉
   しみじみとおのに親しきわがあゆみ墓はらの蔭に道細るかな
△例を擧ぐれば限りないが、先づ斯樣な色彩の歌が四十四年「アララギ」に重きをなしてゐるのである。只茂吉の「女中おくに」の如きは甚しく動的であつて、それで眞に至情の聲そのままであるから非常な感動を讀者に與へたのは異數であると言はねばならぬ。動的、靜的は只異つた一つの現象である。その大もとは只一つの眞情に歸するのであらう。
       女中おくに
   なにか言ひたかりつらむその言もいへなくなりて汝れは死にしか  茂 吉
   ひと度は癒りてくれよとうら泣きて千重《ちへ》にいひたる空しかるかな
   これの世に好きななんぢに死にゆかれ生きの命の力なし我は
   この世にも生きたかりしか一念もまうさで逝きしよあはれなるかも
   まめまめし汝れがすがたのありありと何に今ごろ見え來たるかや
△信濃の新しい人々が活氣ある運動をはじめたのも四十四年に入ってからである。是等の新しい衣が。是等の新しい友が(239)今後如何なる運動をするであらうかといふことは、今年に入つて漸々著しくなるであらうと思ふ。四十五年は我々のために更に奮起の年であることを祈る。   (明治四十五年一月五日「南信日日新聞」)
 
(240) 漫言
 
 我々は子供の時に力限り泣き、力限り笑つた。今ではあのやうな泣き方や、笑ひ方は出來ない。子供の心の生活が單純に一途であつた頃を思ひ出せば、何の顧慮もなく、何の躊躇もなく、何の束縛もなかつた泣き方や、笑ひ方が今更尊く有難く思はれる。あのやうな純一な泣き方や、笑ひ方が我々の一生に通じて失はれなかつたならば、我々はいつも原始的な神の生活が送られるのであらう。しかし我々は實際に於て、何時迄も左樣な單純一途な感情に住してゐる譯に行かない。せち辛い人情の流れに住して、そこに境遇の變轉を見、そこに世故の悲慘を嘗めて、單純なる感情は幾多の曲折と幾多の研練を歴ねばならない。曲折や研錬の味は苦がい。苦がくても嘗めねばならぬ。誰でも嘗めねばならぬ。我々はもう昔のやうに聲を揚げて泣き叫ぶことは出來ない。原始的な神の生活が失はれて來るといふことは、夫れが他に如何なる進歩と開拓とを伴隨するにもせよ「失はれたる」夫れ自身は、我々に大なる空乏と損失とを感ぜしめぬ譯には行かない。
(241) その代りに神は我々に別趣なものを與へた。強みのある單情の代りに深みのある情趣を與へた。。發作的な感激の代りに瞑想的な感傷を與へた。叫び呼んだ泣き方が涙を呑む泣き方に變つたのである。どの邊が境界線であるといふ事は分らないでも、兎に角斯樣な異つた變遷をなしてゐるのは實際である。心理學者が情緒と情操とを區分して考へるのも是である。情緒は動的に激しいものである。情操はそれに比べて靜的にしみじみしたものである。發作的な感情は即いて合體しようとする傾向を持つてゐる。だから激しく動くのである。情趣的なものは離れて味ふといふ如き傾向を持つてゐる。だから沁み沁みと靜かである。我々は動くものから靜かなものを與へられた。激しいものから沁み沁みするものを與へられた。叫ぶものから沈吟するものを與へられた。刺す物から泌みるものを與へらるるものは與へらるるがままに尊い。我々が人生に対する或る眞劔な努力が、張れば張るほど泌み泌みとするものは更に其の深さを増して來る。原始的の單純な尊さから離れて、複雜な斯樣な心の生活に入つた事を我々は如何に見べきであらうか。失はれたものは尊いものであつた。併し、與へられたものは更に深く有難いものであると云へる。その代りに泣き叫んだ苦痛より涙をのんでゐる今の苦痛の方が、遙かに深い苦痛であるとも云へる。我々の人生に對する努力が張れば張るほどその苦痛は更に深い苦痛になり、深い苦痛になればなるほど情趣の色は更に深く泌み泌みしたものになつて來る。苦痛であるといつて遁れるわけには行かない。我々の變遷に隨ふ自然の伴相であるからである。深い情趣(242)といつても夫れが求めて直ちに得らるべきものでもない。自然の變遷が自然に我々を新しい道に導くのであるから。
 「アララギ」の歌にも三年前から丁度斯樣な變遷が見え始めた。近來になつでその新しい動きが特に鮮かに目立つて來たやうである。今迄の單純な強い刺撃性のものから深い沁み泌みした情趣的のものに移らうとする新しい運動は、恰も發生期の瓦斯が強い化合力を持つやうに生き生きした力を以て動きはじめてゐる。この動きは決して木に竹を接いだやうに、偶然にも故意にも發生したものではない。從來の情緒的に、刺撃的に動いた動横の緊張が、自然に斯樣な變遷をしたのであつて、萌ざしは已に久しい前からあつたものと云ふべきである。從つてどの邊がどう限界になつてゐるといふことは言ひ難いのであるが、兎に角新しい動きが、舊いものから變遷して現れてゐるといふ事は爭はれぬ現象である。我々は決して新しいもののみを認めて、舊いものを認めぬといふのではない。夫れは我々が原始的な情緒的な感情の生活を追想して尊く思ふのと同じである。只夫れと共に近く發生した生き生きした新しい運動を更に愉快に有難く思ふのである。離れて味ふ歌。叫ばずして沈吟する歌。騷がずして沁み入る微動の響き。眼を閉ぢて瞑想さるる動き。強みよりも深みある情趣。斯樣な色調を帶びて生れ出て居る新しい芽ざしが今後どのやうな發育を遂げるのであらうか。夫れは只作者の人生に對する眞面目なる努力に待つの外はない。新しい運動の外形が靜かであり、寂しくあり、幽かであ(243)るために從來の強く刺撃する情緒的のものに比べて、活力が少いと見たり、動機の充實が不足であると見たり、熱情の不足した冷却的のものに見られたりする事があるやうであるが、斯樣な聲は追々理解されると共に消散すべき聲であらうと思ふ。感情といふものは誰でも左樣に長く情緒的、發作的にのみ止まつて居べきものでないから。新しい動きは又自然に新しい形を件ふ。是は近頃の「アララギ」を見れば直ぐに氣の付く現象である。夫れ等の内の多くのものは、何れも生々溌地の勇氣をあげて新しき土地に、新しき自己の運命を開拓しつつあるの觀がある。有體にいへば我々の過去の歌はややもすれば、相率ゐて同じ型に集らうとするの傾があつた。それが近來になつて追々自己の立場を占めはじめる觀があるのは、新しき運動に伴ふ現象として特に注目すべき事柄である。過去に於て特色が無かつたのでは無い。現在に於て餘計に特色を發揮しつつあるのであらう。我々は今迄よりも大きな興味を以て、各作者の歩き方を見るといふ欣ばしい期待を持つ事が出來る。次號より今少し細節に渡つて述べて見る。   (明治四十五年四月「アララギ」第五卷第四號)
〇計らひや註文で歌を作るのか、どうかなど云ふ議論を今頃聞くのは困ることである。左樣な問題は我々の間にはとうの昔言ひ盡されてゐる問題の筈である。靜かな歌といひ、情趣的な歌といひ、瞑想的な歌といひ、離れて味ふ歌といふは、左樣な歌を目標にして作れといふ註文ではなくて、我々の歌(244)が刺撃的な、激情的な、發作的なセツパ詰つたものから斯樣なものに移つて來た變遷の跡――歩み方――傾向――左樣なものを言ひ現すために用ひた評語である。我々は左樣な變遷に對して有難く感ずるのであるから有難いと言つてゐた積りである。一月號には「努力さへあれば何人も自然に移り變るものであつて、自分の自覺せぬ推移も振りかへつて眺めるとそこに何等かの道筋を認め得るのである。「アララギ」の一年間の歩き方は推移しようと思つてした推移では無いが、推移の道筋は矢張り自から在ると云はねばならぬ。」と其の關係を明かに云つてゐる。四月號にも「苦痛であるといつて遁れるわけには行かない。我々の變遷に伴ふ自然の伴相であるからである。深い情趣といつても夫れが求めて直ちに得らるべきものでもない。自然の變遷が自然に我々を新しい道に導くのであるから。」と明かに述べてゐる。左樣な素地に立つてゐる立言に對して、註文である、計らひである、虚假の表現を生む、といふやうな反對説は困るではないか。議論にならないからである。他の立言に対して批評しようといふには、今少し責任ある見方をして貰ひたいといふより外は無いのである。
〇私が動的な激情的なものは初生的で、靜的な情趣的なものは後生的であるといふ風に言つたのは、一般論としては仕方がない。左千夫先生は根柢の無い空論であると言はれたが、一般論とすれば情緒的なものは矢張り初生的。情趣的なものは後生的であると見る方が穏當である。幼年時代から成年時代に至る感情の經路を考へれば自から分かる事である。心理學者の研究を聞くをも要せぬ程の事柄で(245)ある。老人でも叫喚するではないかと言はれるが、情趣時代に入ればもう情緒は全く動かぬものであると考へる人の無い限りは、矢張り論にならぬ事である。情趣時代に入るといふことは情趣の色が多く加るといふ事であつて、それが情緒の色を抹消するといふことにはならない。只情の動き方に情趣的なものが多いといふだけである。幼年者少年者には情趣的な感情が甚だ少ない。若くは全く發達せぬ。青年者になつても情趣的な部分が未だ碌々發達せぬものがある。情趣的な部分の多く加るのは夫れから後の事である。斯樣な順序に考へれば情緒と情趣(若くは情操)と何れが初生的、後生的なものであるかは甚だ考へ易い事でゐる。只、是丈けの理由で情趣的のものは皆高いものであつて、情緒的なものは皆低いものであるといふやうな事の言へぬのは慥かである。夫れは丁度大人は子供より賢いといふ一般論で總てのものを推す事が出來ぬと同じである。大人でも子供より愚なものがあり、子供でも大人に優る神童もあるからでゐる。只神童があり愚な大人があるから、子供は大人より賢いものであるとか、又は子供も大人も同じものであるとかいふやうに考へるものがあるとすれば、是は甚だ笑ふべき考へ方である。だから人間には低い淺い情趣もあらうし、高い深い情緒もあらう。夫れは差支ない。併し夫れを以て情緒情趣の一般的關係を混合するのは誤りであると云つて置きたい。情緒と情趣とのこの關係は一月號にザツト半頁許り述べて置いた。今頃こんな議論になるのは變な氣がするのである。評者は今少し忠實に我々の言つたことを見て置いて貰ひたい。立言者は兎に角此方にあ(246)る。夫れに反對するといふには立言者の立言をよく究めて置くでなくては無理である。(一月號四十八頁參照)
〇深い情趣を湛ふるやうな心から動き出づる情緒は矢張り深い色の情緒である。私は今斯樣に考へてゐる。考へてゐるといふことは、工夫し考案してゐるといふことでない。左樣な考が浮んでゐるといふ事である。折々この關係で誤解を招くやうであるから少し横道に這入つて言ふのである。
 同じく喜怒哀樂といふやうな感情であつても、夫れが深い情趣を湛ふるやうな心から流れ出た喜怒哀樂であれば、單純な喜怒哀樂よりも深みある色を持つてゐる。氣分といふやうな單純な感情でも、子供の氣分と哲人の氣分とは大した相違がある。子供の氣分も純粹でうれしい。併し哲人の氣分の方には更に深みがある。味覺の如き簡單なものでも、凡人の感ずる味覺の快味と、高き情趣を湛ふる人の感ずる味覺の快昧とは、深淺高低の隔りがあると考へたい。斯樣に考へれば我々は益々高き情趣を湛ふる人が有難く貴くなる。
〇新しきを求むるといふことは、人間の貴い本能である。これあるが故に人間は進化し、變遷するのである。新しければ皆結構な變遷であるとは云へぬが、新しい變遷が無かつたら夫れは死亡である。社會とすれば社會の死亡であり、一人とすれば一人の死亡である。歌としてもさうである。何時迄たつても變遷がなく、若くは變遷が餘りに遲緩であつたりするやうな歌には、生命が亡《な》いか、萎縮した(247)生命しか無いものと考へてよいであらう。新しいものには少くも何かの意義がある。只意義の程度が違ふのみである。程度が違つてもいい。意義のないものより意義のあるものの方がいい。高い低いなどと心配しなんでズンズン變つた方が愉快である。その方が却つて生きてゐる人の自然である。アララギ同人はズンズン變遷してくれ給へ。
〇今年になつてから「アララギ」で私の注意を惹いた歌は次のやうな種類である。
   朝冴えのあかるき室に目ざめつつたたみの蒼きもうれしかりしか  千樫
   ものなべて忘れしごとき小春日の光のなかに息づきにけり
   明日は明日は別れなむとぞ思ひつつ夜々を疲れて眠り入るかも
   みんなみの島つばき咲きたらば知らぬ子が髪を枕きつつ島に死ぬべし  文明
   あの森のかげ引くたびに此夜にもひと夜ひと夜と遠ざかるべし
   赤茄子の腐れてゐたるところより幾ほどもなき歩みなりけり  茂吉
   いま吾は鉛筆をきるその少女安心をしてねむりゐるらむ
   わが友は蜜柑むきつつしみじみとはやいだきねといひにけらずや
   水のべの花の小花の散りどころめしひになりて抱かれてくれよ
   萱草をかなしと見つる眼にいまは雨にぬれて行く兵隊が見ゆ
(248)是等の歌について次號に意見を述べて見るつもりである。
〇新しい作家の歌はみんな面白い。歴史がなくて自由である。鼻につく匂ひがない。女作家のも大へん活き活きしてゐる。ズンズン伸びて行つてくれ給へ。「アララギ」はいい雜誌だとつくづく思ふ。大勢居るよ。   (明治四十五年五月「アララギ」第五卷第五號)
 
〇何だか譯の分らないといふ歌がある。事實や道筋や材料の間の關係といふやうなものは分らないでも、我々の頭へ沁みて呉れれば夫れでいい。何かの氣分がほんのりと私の心を包む。沁み沁みと私の心に沁みる。包むもの、滲みるものは何であつても只包んでくれ、滲みてくれれば夫れ丈けでいい。近頃の「アララギ」に左樣なものは餘程見える。
   赤茄子の腐れてゐたるところより幾ほどもなき歩みなりけり  茂吉
之は其の顯著なものである。どんな場所であつたかも分らぬ。只赤茄子の腐つてゐた處である。作者は何をしに歩いてるのだか夫れも分らぬ。何處へ行くのだか夫れも分らぬ。只赤茄子の腐つてゐる近所に足を運んでゐるのみである。夫れでゐて其の刹那の気分が純粹に我々の頭に落ち著いて來る。(刹那的氣分であるといふ事に注意して貰ひたい)事實や道筋を明示したものの中には往々事實や道筋といふ事件によつで、同情を強ひさうな傾を持つものがある。斯樣な種類の歌にはその傾がないから感(249)じが自由に純粹に來るのであらう。「腐れてゐたるところより」といふ調子が甚だゆつくり伸び伸びしてゐる。「幾ほどもなき」は、「直ぐ近く」といふやうな言ひ方よりも、よく第二三句へ調和して居る。「歩みなりけり」も矢張り夫れと甚だ同じ調子に行つてゐる。この歌をよんで我々にゆつくりした自由な感じを與へるものは材料よりも寧ろこの調子である。作歌動機の充實が歌の形の上に自から現れた所の調子である。この調子が歌の大部分の生命である。近頃の歌の中で新しい面白い歌であると思ふ。
   木の下に梅食めば酸し幼な妻人にさ丹づらふ時たちにけり  茂吉
の歌について前に同人が色々言ひ合つた事があるが、夫れも矢張りこの種類に屬すべき方の歌であつて、事件の關係に立ち入つて詮議立てする必要は無い歌ぢやないかと思はれる。
   とけて行く雪の歩みの心地してうつらうつらの雪とくる夜  八十戸
雪とくるといふやうな詞を二所に使つてゐて、夫れで全體が捕捉し難い歌であるが、何處となく柔かく包まれるやうな氣分が籠つた歌である。八十戸の歌にも近來所謂「譯の分らない」面白い歌が見える。譯が分らないからいいのでは無い。作者の情趣が氣分に溶けて漂つてゐるのがいいのである。譯の分る分らないなどは、歌の上に必しも大切な問題で無いといふ事を言ひたいのである。 事實や道筋は明瞭であるが、其の事實、道筋が甚だ簡單平凡であつて、夫れがため作者の活き活き(250)した情趣が却つて自由に著しく現れてゐるといふやうな歌がある。材料に煩はされなんで作者の心の動きのみが存分に働いてゐるのである。
   あの森の影引くたびに此夜にもひと夜ひと夜と遠ざかるべし  文明
いい歌である。世は變じ人は移る。森の影の引くたびに一夜一夜と此の夜も隔る。作者の人生に對する感懷が髣髴として一首の上に浮んでゐる。「此夜にも」と強く言つて更に「ひと夜ひと夜と遠ざかるべし」と平明に言つてゐる間に、何となく何物をか考へさせる所の靜かに寂しい調子が籠つてゐる。これ丈けの事柄では、埒もない茶飲み話と同じであるといふやうな見方をする人があれば、それは事件や材料のみを見て、歌の全體に現れてゐる調子や詞の微細な感じに注意出來ぬ人である。
   萱草をかなしと見つる眼にいまは雨にぬれて行く兵隊が見ゆ  茂吉
事柄は只夫れ丈けである。二つの材料の間に現れる變化、其の變化の上に漂うてゐる刹那的の哀れな情趣、左樣な氣分がしつくりと滲み出てゐるではないか。「眼に今は」と言つて作者が二者の變化に對する刹那の感懷を、眼にうつる變化を以て現してゐる所が大へん而白くて、此の歌の新しい領分になつてゐる。
   何となく死の近づけるこの馬に二度追ひつかれ急ぎ越しけり  丑助
   小牛どものかろがろ歩む足どりのあまた動くに見とれけるかも  梨郷
(251)是等も矢張りこの種類の歌である。
 斯樣に分類らしい書き方をする積りでは無かつたのだが、ここまで書けばこんな具合に今少し書くより外はない。其の次は事實材料と現し方と相待つて、生き生きしい情趣を湛へてゐるものである。
   朝冴えのあかるき室に目ざめつつ疊の青きもうれしかりしか  千樫
「朝冴え」といひ、「明るき室」といひ、「目ざめ」といひ、「疊の青き」といひ、各材料が持殊の情趣に統一せられて「うれしかりしか」の結句を氣味よく活かしてゐる。各材料が餘りに洩れなく統一せられてゐるものに、往々統一せられすぎ整理せられすぎて却つて生き方を殺がれるといふやうなものを見るが、是等の歌には左樣な弊所は指摘出來ない。さうして青い疊とか、明るい室に目ざめるとかいふことに特に注視されてゐるといふことが、この歌が日常生活を歌つたものでなくて、旅か何か左樣なものに出た時の特殊の場合の感じ――これも刹那的の感じである――を歌つたものであるといふ感が自然にうまく讀者に肯づかれる。「うれしかりしか」と大へん重く言つたのも、此の場合甚だよく頭に來るやうである。新しきよき歌である。
   水のべの花の小花の散りどころめしひになりて抱かれてくれよ  茂吉「アララギ」中近來の傑作である。「めしひになりて」は此の場合實にいい。これによつて歌の全體が特殊的な色調を帶びて來る。「抱かれてくれよ」は、「めしひになりて」によつて生き生きして來る。(252)「水のべの花の小花の散りどころ」といふ清らかな幽かな感じが、夫れと共鳴して全體の響きが心地よいほど頭に來るのである。一二三句が獨立的傾向を持たないで、全く四五句を活かすために極めて適當に使はれてゐるといふことが、第三句の「散りどころ」の力と大へんな關係があるといふことにも注意したい。
   明日は明日は別れなむとぞ思ひつつ夜々を疲れて眠り入るかも  千樫
   みんなみの島椿さきたらば知らぬ子が髪を枕きつつ島に死ぬべし  文明
   雪の道獵師の行くへいたいたし銃の音すれば吾は泣きてあり  閑古女これ等も事件や材料と現し方と相待つて、新しく深くあはれな情趣を湛へた歌である。
 三つの分類めいたものになつたので、どちらへ入れてよいか分らぬ歌を引き出す所が無くなつてしまつた。追々に近作で面白く思ふものについて言つて見るつもりである。
〇無聲會の畫を大へんうれしく見た。歴史傳習といふやうな拘束から離れ、形や色の或る意味の拘束からも離れ、只自己の自由なる實感を重んじてそれを描き出さうと傍目もふらずに、勉めてゐる傾向を面白く見たのである。前途程遠いであらうが、かかる自由な眞摯な努力は、一時一日でも意義がある。何處へ歸著するのかそんなことは今分らないでもいい。形や色は材料である。材料は貴いが、それ以上に作者の人格――それより生るる氣分――は更に貴い。無聲會の畫が氣分を貴んでゐる態度に(253)は、今迄の歴史などを必しも顧慮しない自由と大膽とがあることをうれしく思つた。中にはこの會に居る必要の無ささうな人も見えた。東京には窮屈と自由とが内地雜居してゐる。思ひ切つて窮屈であり、思ひ切つて自由であるといふことが、キビキビしてゐて愉快である。田舍のものは餘程思ひ切つても自由にはなり得ない。田舍が自由であるといふやうな事は淺はかな見方である。田舍で歌を作るものはこの邊の事を考へて、思ひ切つた自由な進み方をせねばいけぬと、無聲會の畫を見た時ふとさう思うた。〇久しく歌を作らぬ人を思ふと、夫れ等の人は歌以上の内的生活をしてゐるのであらうと羨しく思ふことがある。併し餘り長く作らぬと何うしたのだらうと變な氣がするのである。歌以上の感傷を持つてゐる人でなければ深い歌は出來ない。歌などでは間に合はぬ、何物でも間に合はぬ、只感傷そのものと相抱いて居らねばならぬといふやうな生活をしてゐる人は、歌以上に貴い生活をしてゐる人である。左樣な人が心の動搖の僅な生まりから出て歌ふところの歌は、どんなに哀れに身にしみる事であらう。左樣な歌が「アララギ」に多く現れて貰ひたい。久しく作らぬ人の歌をこんな事を考へ乍ら待つこともある。   (明治四十五年六月「アララギ」第五卷第六號)
 
(254) 瞬間と微動
 
 近頃の歌に或る傾向が見える。夫れは歌の動機が時間から見れば瞬間的になり、空間から見れば微細なものになつてゐるといふ事である。すべての藝術に斯樣な傾向が見えてゐるやうであるが、私は今主に歌に就て言つて見ようと思ふ。
 普汎的のものから特殊的のものに移るといふことは、凡ての物の進歩に伴ふ自然の道筋であつて、大きく考へれば人類の進化といふことも、普汎的の智識感情技術から特殊的の智識感情技術に移つたのだといふことも出來る。我々の感情も矢張りこの自然の經路をとつて進まねばならぬ。萬人共通の感情から養はれて、共處に個人的特色の感情が生まれる。特殊的感情は境遇の鍛錬に逢つて、更に特色から特色を生まうとしてゐる。其處に個性の獨立を生じ、其處に個人の品格と權威とを生ずる。歌の進歩といふことも、詞を約めれば只夫れ丈けの事である。普汎的のものから特殊的に進むといふことである。個性の特色が更に個性の特色を生んで進んで行くといふことである。
(255) 茲に個性の特色がある。その特色が更に最も深く濃く現れるのは時間から言へば瞬間であり、空間から言へば微細な動きである。瞬間であるから濃く動き得るのである。微細であるから深く沁み得るのである。藝術が氣分を尚ぶに至つたのもこの意味から來たのであらう。瞬間であるから形はない。只動くのみである。微細であるから事柄がない。只沁みるのみである。動いて泌みる氣分を尚んで形態や事件を輕くするのは、普汎的から特殊的に進んだ一方の現れであるといふことも出來る。
 雪の靜かであるといふ。その靜かな庭にハツトした小鳥の微動がある。靜かな雪はその微動によつて更に深い靜かさを與へる。夜の室が寂しいといふ。その窓に來てさはる木の葉がある。微かな音は瞬間にその室の寂しさを搖する力がある。禽鳴いて山更に幽とは其の事である。眼を閉ぢて聞くべき音である。禽の何であるかも知らない。山の形態の何たるかも知らない。只瞬間に頭に泌み入る幽かな特殊的氣分である。近來の繪畫が甚しく漫畫的略畫的傾向を帶びて來たのも、此の瞬間的氣分に歩み入つてゐる例證である。形を精しく描き、色を微細に用ひるといふことから離れてゐるのを見て直ちに不眞面目呼はりをするのは、固陋な古い鑑賞家である。藝術は左樣な人を待つことをせすにズンズン進んでしまふ。日本畫では无聲會の畫である。洋畫では少壯者一派の畫である。小説も從來のやうな長篇物から短篇物に移るかも知れぬ。特殊的氣分を貴ぶ傾向から云へば、事件の長々しい敍述といふやうな事は追々省かれて行くのかも知れぬ。繪畫や小説は暫く措いて、我々の歌に近來瞬間的微(256)動的の色を帶びて來たのも、斯樣な徑路の上に居る自然の進歩であると信ずる。
   トロツコを押す一人の囚人はくちびる赤し我をば見たり  茂吉
唇赤し迄は從來の普汎的な感じであるとも言へる。「我をば見たり」で其の囚人と作者との瞬間的關係の氣分が、全く此の歌を特殊的な優れた歌にしてゐる。此の消息をよく注意してもらひたい。
   郊外にいまだ落ちゐぬ心もてバツタ握れば冷たきものを  茂吉
バツタを握つた瞬間的氣分が、心落ちゐぬ作者の境遇と如何によく溶け合つてゐるかに注意したい。前號の茂吉の歌には斯樣な色を帶びた優作が澤山見えた。
   舗石《いし》の上にくもり踏みつつたまたまに己《おの》が足《あ》の音《と》にさめ返るかな  憲吉
曇り日の鋪石を踏むだけならば寧ろ一般的な感じである。「己が足《あ》の音《と》にさめ返るかな」といふ微細な瞬間の感じがあつで作者の境地に漂はせられる程の生命を帶びて來るのである。
 瞬間的微動的の歌で無ければ價値が無いと云ふのでは無い。只近頃の我々の歌に、斯樣な傾向が現れたといふ事に注意して少し書いて見ただけである。私は前に靜的な歌といふ事をいつた。瞑想的な歌、沁み沁みする歌、といふ事をもいつた。夫れと瞬間的、微動的といふ事を想ひ合せれば、其處に何等かの相通ずる者があつて、「アララギ」の近頃の歌を幾分言ひ現し得はせぬかと思ふのである。   (大正二年一月「アララギ」第六巻第一號)
 
(257) 和歌の傾向
 
 一心を集中する。一物に集中する。一點に集中する。挾く深く濃く鋭く集中する。そこに嚴肅と崇高と悲歎と歡喜とが一體となつて融化釀成する。融化釀成の一滴は全人類の五臓に滲みわたる一滴である。老幼男女苟も生命の根柢に深く根ざして生きようと努める衆徒の心には、電光の鋭さと大黄の苦さとが甘露の甘さを以て滲みわたる一滴である。現代の文學は只斯樣なものを目ざして進んでゐる。
 斯樣な點に於て文學は、只人類の生活事實その物を基礎として、其の上に何處までも根ぶかく生きようとしてゐる。十徳を著て短冊を持つ風流は現代の文學ではない。挾斜の巷に入り浸る夢の世界の風流は現代の文學ではない。文學と云へば直ぐ月雪花を想ひ出し、瓢箪や抹茶を想ひ出す人々は現代の文學にはもう縁の遠い人々である。文學の目ざす所は人類の生活事實−木地のままの生活事實−その物である。生活事實に何處迄も正面に、眞面目に、深く、強く、鋭く向き合つて−若くは抱擁して−若くは熔化して−そこに生れ來る感銘の印象を、緊密に表現せんとする努力が文學に從ふものの努(258)力である。文學の努力はその根抵は何時も人類−人生−の深所に潜める根柢と相通じてゐる。此の點に於て道徳は少くも、現代の文學と何等かの關係を保たねばならぬといふ必要を生じてゐる。文學に現れたる人生は今眼の前に活きて跳ねてゐる人生である。現代の人類に最も親しくして、最も必要に最も離る能はざる人生である。その文學から全く孤立し隔離して、道徳の領域に立て籠らうとする人々は、道徳を人類の生活事實から切り離して不知不識の間に、生命なき道徳の剥製を造らうとする人々である。道徳に忠義な人々が、往々にしてこの剥製を造らうとする傾向のあるのは悲しむべき滑稽な現象である。勿論文學が道徳でない如く、道徳も文學ではない。兩者各獨立せる領域の存する以上、道徳が文學に服從する必要はないのであるが、最も深く人生の根柢に立たうとする兩者に深い溝渠を置いて考ふる如きは道徳のために――道徳が眞に活きようとするために取らない所である。明治大正の時代に於て、日本にどれ丈け有難く尊い文學が生れたかといふ事は自から別問題であつて、そこへ行けば日本の多數の文學者は更に深き反省をせねばならぬ事であらう。
 現代の文學は、感銘の集中である。印象の集中である。それが一點に濃く強く集中せんとしつつある。丁度日光の下に置く凸レンズが、光線を微細な一點に集中して物を燒かうとするやうな集中である。この要求は勢ひ描寫の形を縮小しようとする傾向を持つ。ロダンの彫刻には掌の上に載るやうな物が多いやうである。大きなものを製る勇氣が無いのではない。印象を集中しよう/\と要求す(259)る結果である。劇なども長いものより追々に一幕物の如き短いものに進むらしい。小説も長篇から追々に短篇に進む傾向を有つてゐる。繪畫なども今後は形の大きい大作よりも、形の小さい大作を出す傾向に進むのであらう。此の點に於て和歌は形の小さい純粹な情緒的の詩形と詩調を持つてゐる。近來文學熱の一部が和歌に集つて來たといふ事は、一般文學の形を縮小せんとする傾向と考へ合せて興味ある問題である。
 明治時代に和歌の革新をした人は正岡子規と與謝野鐵幹である。鐵幹が古來の典型から離れて一種のロマンチシズムを唱へたのに対して、群集は甚だ容易な歡呼の聲を擧げた。夫れに對して子規は、極めて眞面目に嚴肅に、自然主義的の客觀描寫から革新の道を拓いた。嚴肅であつたから苟も假借するといふやうな曖昧を容さなんだ。從つて、その下に集るものは人數が甚だ少なかつた。此の二つの傾向が二十年許りの間に樣々な變遷を經て、今日では種々の違つた歌風というても十數年前に比すればズツト共通の點が多くなつてゐるといふ事は事實である。
 齋藤茂吉の歌の持徴は眞實にして感情の熱烈なる點にある。或る物になれば殆ど赤熱白熱の強度を以て燃えてゐる。中村憲吉の歌は茂吉の如く強烈には燃えてゐない。併し乍ら彼には内に籠つた深い力がゐる。そこに茂吉と異る領域がある。北原白秋の歌風は感覺の鋭敏なる點にある。さうして夫れが可なり強烈に響いてゐる。前田夕暮も熱烈なものを目ざしてゐる。そして前記の人々とは、多少異(260)つた色彩を帶びてゐる。若山牧水は象徴的方面を目ざしてゐるといふ傾がある。此の外未だ土岐哀果、太田水穗、窪田空穂、吉井勇等の歌人が活動してゐる。併し私は是等の主なる歌人に就て、一々その眞價を評論しようとするのではない。寧ろ夫れらの人々の歌につき其の實例をあげて、其の歌風の一斑を窺知するの助けとし、更に次號に於て進んで現代歌界一般の傾向について少し深入りして考へて見ようと思ふ。
       諏訪客次悲報來
   ひた走る我が道暗ししんしんと堪《こら》へかねたるわが道くらし  齋藤茂吉
   ほのぼのとおのれ光りて流れたる螢を殺すわが道くらし
   すべなきか螢をころす手のひらに光つぶれてせむすべはなし
   氷室より氷をいだす幾人《いくにん》はわが走るとき物を言はざりしかも
   氷きる男の口のたばこの火赤かりければ見て走りたり
   死にせれば人はゐぬかなと歎かひて眠り藥をのみて寢むとす (以上「赤光」大正二年作より)
       海邊にて
   旅やどり夕なりしかば幾重にも遠白波の渚《なぎさ》は蒼く  中村憲吉
はかな言ゆめうつつには信ぜねどあるにあられず蒼き潮騒《しほさゐ》
(261)   夕蒼く異國旅人《いこくりよじん》の夫婦づれ歩みしたしむ渚白なみ
   潮騒《しほさゐ》の夕香はぬるく身をそそれ戀はじとはすれど蒼き潮《しご》さゐ
   白波の蒼き渚に消ゆるらくかなしき世には戀は思はじ (以上「アララギ」六月號より)
       地面と野菜
   大きなる足が地面《ぢべた》を踏みつけ行く力あふるる人間の足が  北原白秋
   遠くより見ればキヤベツの玉の列白猫の如く輝きてゐる
   地面《ぢべた》を踏めば、ただ勿體《もつたい》なや、キヤベツがはじけたぞ赤茄子が熟《う》れたぞ
   地面《ぢべた》より轉《ころ》げ出でたる玉キヤベツいつくしきかも皆玉の如し
   摩訶不思議《まかふしぎ》思ひもかけぬわが知らぬ大きなるキヤベツが我が前にゐる
   しんしんと湧きあがる力新しきキヤベツを内よりはじき飛ばすも (以上「アララギ」一月號より)
    廢船
   夕日岬に赤く濁りてかじめ燒くのろのろ烟地を這ひにけり  前田夕暮   人數人ありて岬にかぢめ燒く夕日のなかにその影くろし
   わが前に黒き帆船《はんせん》が大波に搖られ居《ゐ》るなり岬の夕日   黒き岩はみな觸角をもてる如し夕日あかあか岬にしたたる
(262)   尖りたる岬の黒き岩の上茶色帽子をわがおきにけり
   巖かげに焚火のあとの黒かりきたんぽぽが咲く夕日うすらに (以上「詩歌」四月號より)
       寂しき周圍
   死せる鳥群れつつ空やわたるらむわが日はけふもさびしう明くる  若山牧水
   思ふままにふるまひてさてなりゆきを見むと思ふに心冷し
   言葉とわれはなれ離れにあるごとき冷き時にいつ逢はるべき
   死を思ひたのしむははや秋の葉の甲斐なきごとく甲斐なかりけり
   大河の音なく海に入る如く明日にいそがむ心ともがな
   青き幹かの枝を切れかの葉をさけ眞はだかにして冬に入らしめ (以上「創作」一月號より)
 歌集や雜誌を悉く國へおいて來て今手許には僅かの材料しかない。その内から比較的其の作家の特色を現してゐさうなのを拾つて見たのである。この歌がこれ等の人々の秀作であり、代表歌であるといふ譯では決してない。   (大正三年「信濃教育」六月號)
 
       〇
 日本人は元來體慾の盛な人種であつた。從つて官能の働きが熾烈であつた。これは記紀や萬葉集等(263)によつて、古代日本人の赤裸々な肉體や心の生活を見れば明かに分る事である。それが甚しく制慾的に傾いたのは、支那と同樣に儒教と佛教との影響であらうと思ふ。單に和歌について考へて見ると、古來の歌集中官能の匂ひの最も強烈に働いて現れてゐるのは、矢張り萬葉集であると言はねばなるまい。それから後のものになると萬葉集程に強く積極的に現れて居ない。歌の神經が衰弱性になり、若くは乾燥枯淡のものになつて、平安朝から明治迄續いたやうである。源實朝のやうな積極的な歌を詠んでゐる人でも、萬葉集などに比べるとずつと〔三字傍点〕頬骨が高くなつてゐる所がある。其の他の所謂凡百の歌人に至つては、頻骨も尖らず眼球も光らないで平凡な枯淡と衰弱の上に止まつてゐたやうである。この日本人が體慾や官能を抑制されて千年來佛教や儒教の鍛錬を受けたといふことは、一方から言ふと日本の文明が、乃至東洋の文明が徹頭徹尾積極主義なる西洋の文明に後れたといふ事にもなるであらうが、一面から考へれば日露戰爭に、乃木大將や東郷大將の如き鍛錬された澁味(澁味より寧ろ寂び〔二字右○〕と言つた方がいいかも知れぬ)の勝つた軍人を出して、西洋人を驚かせてやつたといふことにもなる。乃木大將や乃木大將夫人の心境などは、到底千年來佛教や儒教の鍛錬を經た日本人で無ければ窺ひ知ることは出來ぬであらう。これは乃木、東郷等の幸福であり、日本人の幸福である。夫れと同じ意味で和歌の方からも鍛錬された有難い澁味ある歌が千年間に澤山生れて居るべきである。それが生れて居らぬといふ事は、歌人などいふものは大抵閑散なのんきな人種であつて、それ等の人種は大抵(264)抑制的鍛錬の弊所ばかりを受けて生息してゐる。それ等の人によつて和歌が玩弄されてゐたといふ事が大きな原因では無からうか。此の玩弄といふことは非常に惡いことである。玩弄された女は如何なる偉人によつて玩弄されても、大抵惡影響を受けてゐる。女は大いに恐悦してゐるかも知れぬが玩弄品は何處迄も玩弄品である。明治の才媛なとに斯樣な例が少しはあるやうだ。況や才媛ならざる凡女に於てをやである。玩弄的態度で女に向ふやうな男は今のハイカラには一ぱい蠢動してゐる。西郷隆盛は豚姫を愛するとなつたら眞底から愛してゐた。豚姫たるもの感激して然るべきである。維新の頃の人は人間が眞面目で誠に有難い所がある。今の教育者は、女の話でもすると顔を背けなければならぬ事と思つてゐる。女を玩弄品と心得てゐる證據である。斯樣な教育者の先輩が、若い女を玩弄する青年者に對して意見などする賓格は毛頭無い。徳川時代などは、和歌を玩弄する上流人士益々輩出して益々歌を墮落させてゐる。その中で田安宗武・僧良寛・平賀元義・橘曙覽などの砂金を發見して、我々後人に其の光輝を示して下さつた正岡子規・伊藤左千夫先生などは實に我々には有難いのである。徳川時代で偉大なる光輝は芭蕉であらう。これは何處迄も鍛錬的で澁きが上に澁く、尊きが上に尊い東洋的の光輝である。西洋人が乃木大將を解し得ない以上に芭蕉の境地を解し得ないであらう。夫れ丈け芭蕉は東洋的の光輝を燦爛と發揮してゐたのである。和歌朽ちて俳句に移り、更に富本、歌澤、長唄の如き歌曲に移つて江戸時代の花を今に遺してゐる。
(265) 千年間抑制と鍛錬とに馴致された日本人が、明治に入つて急に西洋の臭ひを嗅いだ。その臭ひは芳烈無比で、其の光は赫奕と輝き透つてゐた。そこに思想の大變革があつたことは、當然の事で誰も知つて居ることである。消極と積極との遭遇である。因習と革新との衝突である。更に澁味と芳烈との衝突である。さうして和歌に於ける革新の先驅をなしたものは正岡子規と與謝野鐵幹である。此の二人者は又奇妙にその發足點を異にしてゐた。即ち子規は東洋在來の澁味の上に立つた。彼が政教社同人であつた事からも是は當然の事であつた。そして何處迄も萬葉集の生氣を歌界の上に復活させようと努めた。鐵幹はこの反対に西洋的な芳烈趣味の上に立つた。天下青年士女旗下に馳せ參ずる固より其の所である。晶子さんの如きは※[門/困]中にまで馳せ参じてしまつた。實に愉快な程劇しい事であつた。夫れに比すると子規の陣營は誠に廓寥たるものであつた。其の代り中には伊藤左千夫、長塚節の如き眼の光る士姿があつた。今でもこの陣營は小さな寂しい城廓に立て籠つて控へてゐる。鐵幹乃至夫れに近似せる陣營は、追々に分化し更に分化して非常な繁榮の光景を呈してゐる。
 兎に角明治時代が體慾時代、官能時代に入つて來たといふ事は、善惡に拘らず止むを得ない勢力である。去れを防止するといふならば第一に科學の輸入と研究とを防止せねばならぬ。科學といふものは、吾人の物質的方面の要求をのみ充さうとしてゐるからである。科學の光に只管隨喜する人士が、體慾や官能の方面に專念歸依しつつある衆生を見て、心配してゐると言ふことは滑稽な事である。兎(266)に角明治思潮に伴隨して、藝術文學が強烈なる官能の覺醒を呼び來つた事は事實にして、同時に又少しも不都合がなく、同時に又大へん結構な事である。夫れは丁度科學の進歩發達が結構である如く結構な事である。此の傾向は文部省の美術展覽會へ行つて、第一科の日本畫と第二科の日本畫とを對照して見れば直ぐ分ることである。和歌と雖も同じくこの潮流の上に立たねばならない。官能の熾盛なる匂ひを和歌に要求するといふことは、現代の和歌に著しく生き生きした力を與へた一つの條件である。之は一方日本の古代精神を純粹に復興し繼承する運動の一つであるとも言へる。茲には北原白秋の歌を引いて其の例を示す。白秋の歌は今日の歌人中で最もよく此の官能活動の方面を代表し得る一人であるからである。
   編みさしの赤き毛糸にしみじみと針を刺すときこほろぎの鳴く
   なまけものなまけてゐれば珈琲のゆるきゆげさへ堪へがたきかな
   哀しければこよなく君を打擲《ちやうちやく》すあまりにダリア紅く恨めし
   紅の天竺牡丹ぢつと見て懷姙《みごも》りたりと泣きてけらずや
   いと酢き赤き柘榴をひとちぎり日の光る海に投げつけにけり (以上「桐の花」より〕
   うしろより西日させればあな寂し金色《こんじき》に光る漁師のあたま   赤き日に吸はれかがやく鳥の羽つひに飛び入り姿見えずも (以上「アララギ」より)
(267)  このにくき男たらしがつつじの花ゆすり動かしていつまで泣くぞ
かき抱けば本望安堵の笑ひごゑ立てて眼つぶるわが妻なれば
   積藁にこぼれ落つる椿火のごとしすなはち畑を風走るなり (以上「地上巡禮」より)
 前田夕暮の歌をもここに掲げて見る。
   向日葵は金《きん》の油を身にあびてゆららと高し日のちひささよ
   大麥が刈り乾されたる畑中の赤土道のきやべつの車
   青くさき野菜のにほひ日のにほひ畑中道のきやべつの車
   青ききやべつの一葉|剥《はが》せば六月の土のにほひの日に新たなり   青白き妻の素顔は産科醫院のしろき寢臺に眼をひらきける (以上「生くる日に」より)
以上擧げた歌は必しも官能の匂ひのみによりて活動してゐるといふ意味では勿論ない。其の他の主觀が加つて立派の歌になつてゐるものが澤山あるが、只之を古來の和歌と比べたら直ぐ現代的の匂ひの強く現れてゐるのに驚くであらう。
 肉體や感覺に直接であるといふ事は現代人の當然の要求であるけれども、然らば現代人は單に夫れのみで滿足してゐるかと云へば、夫れは決してさうでは無い。それ等の肉や感覺機を統率する所の強大なる主觀を要求する。この強大なる主觀に引き緊められる肉や感覺の統率作用があつて、始めて全(268)體が強き、若くは深き、若くは高く尊き力となり得るのであらう。勿論如何なる歌にも主觀の籠らぬ歌はなく、同時に又感覺機の働かぬ歌はないであらうけれども、併し乍ら、兩者各重しとする程度は自《おのづ》から相違がある。正岡子規より生れた根岸短歌會の歌風は何れかと言へば主觀の高さに重きを置いて、官能とか體慾とか言ふべき方を輕くした傾がある。寫生趣味を鼓吹して非常に忠實に事象を重んじたに拘らず、此の傾があつたのである。與謝野鐵幹夫妻より生れた新詩社の歌風は丁度それを顛倒した傾がある。夫れが十數年來樣々の徑路を經て、兩者の間に以前に比すれば與程近似の點を持つて來てゐるやうである。感覺に對する主觀の統率が引き緊れば緊る程強く深い力となつて吾人に感得される。強く深く尊く感受される力、夫れを今私は要求してゐる。
 齋藤茂吉の歌からは吾人全體が引き捕へられて押されたり引かれたりするといふやうな種類の力が感得される事がある。中村憲吉の歌からは一種微細不思議の神經に滲み入つてジフジワと全身を麻痺されるやうな種類の力が感得される事がある。齋藤茂吉の歌を少しここに擧げる。
   赤々と一ぽんの道とほりたり玉きはる我が命なりけり
   あかあかと輝きて一本の道は見ゆここに命を落しかねつも
   かがやける一本の道はるけくてかうかうと風は吹きゆきにけり
しんしんとここに來れりあはれ/\土の窪みに一ぱいの光
(269)   太陽のひかり散りたりわが命たじろがめやも野なかに立ちて
さ庭べにさるすべりの木はだかに立ちしんしんと立ち七面鳥ゐる
   一ぱいの光のなかに首《かうべ》あげ七面の鳥身ぶるひをせり
   いちめんの陸稻《をかぼ》ばたけに人は居ず天《あめ》なるや一つ太陽は居《ゐ》る
   空をかぎり圓くひろごれる青畑をかがやき上《の》ぼる人ひとり居り
   あかあかと土に埋まる大日《だいにち》のなかに人見ゆ鍬をかつぎて
   海岸に童子ぽつねんと泣きにけり足乳根の母いづくを來《く》らん (以上「アララギ」より)
茂吉の感情は近來更に彼獨持の色を帶びて、夫れが息のつまるやうな怪しき状態に我々の頭を引き入れさせることがある。たとへば、
   かへるごの池いちめんになりたらばすべあらめやと心散り居り
   あぶら蟲硯水舐めやまずけり驚きてみる我は知らゆな
といふやうな心の動き方でゐる。(今少しいい例が手許に見當らぬ)憲吉の歌を少し擧げる。
   新芽立ちあさき谷間の大佛にゆふさり來る眉間《みけん》の光
   ゆふまぐれわれにうな伏す大佛は息におもたし眉間のひかり
   大佛の乳見初むれば松の間が眼にわづらはし松葉こまかに
(270)   夕月の赤く流れて谷つべに奇《く》しき今宵の露佛《ろぶつ》のひかり
   我が傍《そば》のしづ日あたりを通りつつ葬禮《とぶらひ》の匂ひ冷めたかりけり
   驛路《うまやぢ》の屋なみの上の山畑にとぶらひが出でて上り居る見ゆ (以上「アララギ」より〕
之等の歌と六月號の教育會雜誌に擧げた憲吉の歌と合せて熟讀すれば、此の人は今日の歌界の中で一種讀持の長所を持つてゐる事が分ると思ふ。
 若山牧水は象徴的の歌に目をつけてゐるらしい。併し此の人の歌は矢張り「秋風の海及び燈臺」の如き事象を重んじたものの方がよいと言はれてゐるやうである。
   雲さけて落日《いりひ》は毎に漏れにけり赤きにうかび濤の立つ見ゆ
   白刃《しらは》なし岬|竝《な》みゐる疾風《はやち》の海にわれの小船は矢の如くなり
   みだれ立つしぶきにぬれて火の如くわれの白帆は風に光れり
   とびとびに岩のあらはれ渦まける浪にわが帆は傾き走る
   鯨なすうねりの群の帆のかげに船子等は金屬《かね》と光りゐにけり (以上「秋風の歌」より)
 其他現今の歌人が、西洋から舶來した光輝に眩醉した眼を轉じて、古來日本人に流れつつある血液の根源を見極めようとするやうな傾向を多少生じて來たのは面白い現象である。これからの歌人は左樣なものから眞の自己を發見し得て、益々眞實の自己を築き上げるのであらうと思はれる。正岡子規(271)が萬葉集を唱道した頃は、天下の新しき歌人は殆ど耳を傾ける者がなかつた。古典派など言つて冷笑したものである。現今太田水穗が記紀の歌を評釋し、前田夕暮が萬葉集を評釋し、「アララギ」同人が萬葉集の輪講をしてゐるなどは、私には甚だ有難いことである。
 以上書いた所は本誌六月號へ書いたものと多少重なつてゐる所があるかも知れぬ。和歌乃至文學藝術の見方といつても必しも定つてゐるものではない。色々の方面から觀察して始めて全豹を伺ふに近づき得るのであるから、私の以上述べた所も勿論全豹中の一つであると見て頂きたい。他日又別の方面から考へて書く時があるかも知れぬ。   (大正三年「信濃教育」十月號)
 
(272) 長塚さん
 
 去年の四月僕が上京した時長塚さんは橋田病院にゐた。何年ぶりかで逢つたのであるが思つたより衰へてゐなかつた。そして例によつて元氣よく話した。長塚さんは逢へば話を絶たない人であつた。病院にゐるうち何度行つたか知れないが、何時も話が長引いて歸りが遲くなつた。話を交換するといふよりも、話し聽かされる方であつた。長塚さんには小江戸といふ看護婦が附添つてゐた。稚か稚かしくて心の素直らしい娘であつた。そして少し美人であつた。長塚さんは小江戸を可愛がつてゐた。そして頻りに小江戸を相手に揶揄つてゐた。揶揄へばからかふ程小江戸は小さくなつて、入口の小さい部屋の隅に屈んでゐた。それでも揶揄ふことを止めぬ時は、小江戸はそつと部屋を拔け出しで姿を隱してしまつた。長塚さんは小江戸が眞實によく看病してくれることを時々話して聞かせた。この揶揄は何時行つても大抵は行はれてゐた。「長塚さんは私では不可《いけな》いんです。何とかさんでなくては不可いんです。」と、何とかさんといふ看護婦の事を小江戸は僕と長塚さんと二人に向つて言つて聞かせ(273)た。小江戸の寢言を長塚さんが聽いたといひ、小江戸は寢言なんか言やしませんと否定してゐた事もあつた。長塚さんは女を揶揄する事は上手であつた。夫れは率直に言ふと、長塚さんに色氣がないからであつた。長塚さんは女に興味を有つてゐる方であつた。長塚さんの旅行に女の逸話のない旅行は稀であらう。手紙を調べて見ても、女にやつた手紙は中々念入りに書いてある所がある。それでゐて如何なる女に體しても、必ず一段高く自己の地歩を確かに踏み占めてゐて、其の段上から女等を眺めてゐる。これが長塚さんの特徴である。長塚さんの歌も全く之と同じ立場から生れてゐる歌である。左千矢先生の歌との相違も、この立場から來てゐると見て差支ないと思ふ。左千夫先生は、長塚さんの歌を冷かだ冷かだと言つてゐる。長塚さんは、左千夫先生の歌を何と言つてゐたか僕は聽かなかつたが、小説などは左千夫君のは無茶だと言つてゐた。左千夫先生はよき人と二人で寫眞をとつて歡んでゐる程の所があつた。愛したらもう何うしても抱いて居らねば滿足出來ぬといふ所があつた。我々との交りでもさうであつた。アララギ同人の一人なしを懷の中へ抱いて居たいといふ所があつた。長塚さんの方は、夫れに對して著しく孤立的であつた。「伊藤君が僕の寫生の歌へあまり茶々を入れたから僕の歌は中絶した。未だ手を著けた許りで生長せぬうちから寫生歌を攻撃するから僕は自然|打擲《うつちや》つてしまふやうになつた。」と二三度長塚さんが話した事がある。其處へ行くと左千夫先生は、茶々を入れられれば入れられる程亢奮して歌を作るといふ方の側である。これも二人の面白い對照である。(274)左千夫先生は歌は「響き」であると言つて居られた。長塚さんは歌は「冴えなくてはならぬ」と言つて居られた。
 この位常に確かに自己の地歩を踏み占めて凡ての男と女とに對してゐた長塚さんが、其の地歩に甚しき動搖の念を抱くに至つたかと思はれる事が生涯に只一つあつた。そんな斷定をしては惡いかも知れぬが、僕はさうであつたと信ずる。さうして夫れが長塚さんの發病後に起つた事件で、生を畢る迄除去されぬ事件であつた事を痛ましく思はずには居られない。
 長塚さんが病院から僕の下宿を訪ねて來られた時、齋藤君と中村君と居た。四人で蕎麥屋へ行つて夕飯を濟ました。三人は酒を飲んだ。酒を飲まぬのは無論長塚さんである。長塚さんは此の夜非常に興奮してゐた。僕は生涯寂しいのだといふことを、蕎麥を食べてしまつてから一二度口から洩らした。歸りがけに蕎麥屋の出先の道で、長塚さんは踏み止まつた。僕は生涯一人だといふ事を又此處で言はれた。其の言葉を聽き取るには僕が一番都合よき位置に竝んで立つてゐた。僕は長塚さんの事件をこれ前に少し知つて居つた。さうして僕にも故郷を出た色々の感情が動いてゐる時であつたので、長塚さんの此の一言が腸に沁みるやうな思ひがした。僕は酒に醉つてゐた。言ひたい事が胸に一ぱいになったやうな氣がしたけれども、例によつてさういふ場合にうまく口に出て來ないので止めてしまつた。下宿に歸つてから急いで手紙を書いて長塚さんに出した。さうして大いに長塚さんに對して奮勵(275)と光とを與へるつもりであつた。之は後から考へると、僕の身知らずの滑稽で兼ねて長塚さん知らずの滑稽であつた。返事は直ぐに來た。僕の手紙の如きは今から考へると一種の氣休めのやうな物であり、一方からは一種亂暴極る提言のやうなものである。夫れに對して兎に角長塚さんが歡んで返事を書いたといふ事を、今から考へると痛ましい感じが起る。その返事には斯ういふ意味の事も書いてあつた。他人の同情といふものが、自分にとつて何程の役にも立たぬものである事はよく知つてゐるが、夫れでも同情といふものは何處迄も貴いものであることを感ずる。といふ意味であつたと記憶する。この文句は矢張り長塚さんらしかつた。
   いささかの事なりながら痒《かゆ》きとき身にしみて人の爪ぞうれしきといふ歌が終りに書いてあつた。さうして病院へ一寸來て呉れと書いてあつた。僕は上京の即日いきなり「アララギ」の雜務を負はされたので、其の方の仕事だけでも田舍出の僕には隨分面喰はされてゐる。長塚さんを訪ぬる事が一日延び二日延びしてゐると、病院から電話が掛つて來た。確か小江戸が代理で電話を掛けてゐた。田舍者の僕には、電話ががさついてうまく分らぬ上に、若い女の聲がするので益々面喰つた。兎に角病院へ來て呉れといふ意味だけは分つたから直ぐに出掛けた。長塚さんは此の日其の哀しむべき女性について殘らずを話して聞かせた。三年以前長塚さんの病氣によつて婚約が破れて以來、彼女は一家に引籠つで殆ど一囘も外出をせないでゐるといふ驚くべき事實をも話し(276)た。さうして生れて以來只一度家人を欺して内緒に病院へ見舞に來たといふ事も話した。枕元の瓶に活けた草花は其の人の持つて來られた花である事も話した。その花を長塚さんがどんなにして毎日見て居られたかは「アララギ」に出た「鍼の如く」の歌を見ればよく分る。僕は此の日は前夜の醉つた時に比べると餘程冷靜にして居られた。夫れでも事實は甚しく僕を感動させた。夫れから後長塚さんから餘程頻繁に電話をかけて來た。大抵の場合に僕も出掛けて行つた。小江戸は相變らず愛せられて揶揄はれてゐた。此の頃長塚さんは不眠に陷つてゐた。體が衰弱して眠が光つてゐた。彼の女性が二度目の訪問に來た事も話した。そして元來が良心の純醉に發達してゐる女性が、家人を欺いて竊かに逢ひに來た事を非常の罪科と考へて、とうとう堪《こら》へ切れずに一々家人に表白した事を手紙で知せて來た事も話した。家人に大へん叱られたと知らせて來たと話した。もう今後は訪問を思ひ止まる。どうか屹度癒つて下さい。何時までも待つてゐると書いて來た事も話した。さういふ話をする時にも長塚さんは決して自己を取り亂すといふ事はしてゐなかつた。あべこべに僕の方が感激しさうになつてゐた。窓の前《さき》の屋根瓦の上に苦菜《にがな》の花が咲いて夫れが白くほうけ〔三字傍点〕て居る時であつた。あれを歌にしたいしたいと言つてゐた。毎日少しづつ發熟して肺の方も餘程惡くなつてゐたやうである。僕は苦菜などは何うでもよくなつでゐた。さうして可なり考へた末思ひ切つて一つの無謀な提言をした。それは長塚さんが例によつて餘り取り亂さな過ぎると思ふはがゆさ〔四字傍点〕の反抗心も加はつてゐた。僕ならば斷然さ(277)さうすると、この亂暴な提言の末に更に追加して言つた。長塚さんは頭を下げて暫く考へてゐた。さうして頭を上げて僕の顔を見たが「僕には迚も夫れは出來んな」ときつぱり言ひ切つた。言ひ切るのは長塚さんで無くても誰にでも當然である。僕は此の頃頭が少しグレ〔二字傍点〕てゐた。長塚さんは、堪へ得べき凡てのものを堪へようとする風にしてゐた。それ程にしてゐた長塚さんが仕舞には堪へられないで家人の留守に一度その人を訪問した事もある。
 翌る日になつて家人から手紙が來た。家人不在中の訪問は遠慮して貰ひたいといふ手紙である。この手紙は、長塚さんも可なりの亢奮を以て僕に見せた。他人の手紙を僕に見せたのは長塚さんの一生中只この一度であつた。家人の手紙は御尤もである。長塚さんのこの訪問は御尤も以上の御尤もであることを悲しむ。
 橋田病院を退院した時は、僕も一緒にあの門を出た。小江戸は病氣して寢てゐたが門外まで出て見送つてゐた。   (大正四年六月「アララギ」第八卷第六號)
 
(278) 歌集「切火」諸家合評後言
 
 「切火」の歌合評に付き諸氏が非常に引き緊つた眞面目な御意見を寄せて下さつたことを限りなき感謝としてゐる。諸氏の批評は解剖刀の如く私の歌の上に閃いてゐる。冗談に持つた刀は一つも無い。眞劔な刀の下に私の歌を立たせて置くことは、青空にはじける雷の音を聞くよりも心持がいい。私の歌は未だ未だ何年もかからねば鍛へ上らぬと信じでゐる。遙かに鍛錬の道程にある私の歌が、諸氏の面前に嚴肅に置かれるといふことは、世に遭ひ難き修業の道である。私は衷心から歡喜して修業道に立つの心を以て諸氏の前に立つてゐる。私は世に慢罵といふものの姿を知つてゐる。追從といふものの姿を知つてゐる。要なき自我擴張の衝動に驅られて、輕易に吐き出される名説といふものの姿をも知つてゐる。慢罵されるものの心配する間、追從される者の喜ぶ間、名説に對して煽てる方が面倒なくて時々重賓なる間、慢罵と迫從と名説とは依然として現世に生存する權利を有してゐる。世に奇しきは需要供給の道理である。世に喜ばれずして眞劔は生きず。現在の如くにして推移せば、歌壇に批(279)評の權威を絶せん。斯の如き空氣の中に「切火」合評が、諸氏によつて極めて眞面目に行はれるといふ事は、殊に快心を感ぜずに居られない。諸氏の眞劔に翳した解剖刀の前に立つて歡喜することを知らずば罰が當ると思つてゐる。
 私は色々の點から考へて合評して頂く歌を擇んだ。土岐君の言はれるやうに、比較的いいと思ふ歌を擇んだ事も其の通りである。併し乍ら、必しもさういふ點からのみ擇んだのでは決してない。私の貧しい歌境の中で、比較的色々の特徴を備へてゐると思ふものを拔き出して、それに付て諸氏の考を聽きたいと思つたのである。それには皆夫れ夫れに問題がある。私にも問題がある。中には非常に缺點のある歌であり乍ら、色々の問題が潜んでゐるらしい所から特に拔き出したものもある。さういふものを擇んで諸氏の考を聽かうとしたのである。諸君の意見によつて私は非常に稗益をしてゐる。それらの問題を集めて私は更に「切火合評の諸問題」といふものを書きはじめてゐる。これは「切火」合評の終るを待つて順次「アララギ」へ連載するつもりである。   (大正四年七月「アララギ」第八卷第七號)
 六氏が非常な熱心を以て予の二十八首を細評して下さつた事を衷心の歡喜を以て感謝する。諸氏の指示された諸問題に對しては、更に予の愚見を陳べて高教を乞ふ積りであることを諒として前以て御承知を願ふ。敬白。七月二十九日午後四時上富坂にて   (大正四年八月「アララギ」第八卷第八號)
 
(280) 土岐君に答へる
 
 名匠は一削りの飽を惜しむ。刀劔の名工は鑪の一磨を秘する。一削りの飽は、直ちに微細なる製作の品位に通ずるからである。一磨の鑪は、直ちに刀劔の匂ひに響くからである。名人容易に手を下さざるの用意は茲に存する。一削りの飽を惜しむを見て笑ふのは、叩き大工の徒である。一磨の鑪に對し何の用意もないのは傭工の屬である。我等は歌の名工たらん事を念となすものである。詞を愛し、詞を攷め、詞を惜しむことは、決して今日の淺きを以て居るべきでないと思つてゐる。土岐君が我等の詞を愛し、詞を攷め、詞を惜しむを見て、外形的に思はれてならないと云ふのは、我々には叩き大工の聲として響く。人を見て、善人と思ふのは善人の類である、善心相通ずるからである。人を見て慈人と思ふのは惡人の類である、惡心相通ずるからである。詞を愛し、詞を攷むる我々の仕事の前に立つて、外形に捉へられはせぬか、と心配する土岐君は、夫子自身が外形に煩はされる痛さを持つては居られぬか。
(281) 土岐君は、嘗て、歌の書き方の行數に就て我等の考慮したことのない考慮をした。そして我々の普通に書き下す歌を、三行四行五行位に書き竝べる工夫をした。さうして夫れは、今年の夏から再び元の書き下しに復つてゐる。土岐君は、又萬葉調でも、何調でも、立所に咀嚼して自由に驅使し得る機敏と輕快とを有つてゐる。如何なる形でも自由に、敏速に驅使し得るといふ事は、土岐君から見れば自由な心の現れであらう。併し乍ら我々から之を見ると、餘り自由に輕快であり過ぎて、重大な印象を與へられる前に、早く夫れを逸せんとするの憾みがある。我々から見れば、斯蜑な現象は、寧ろ形を自由に變化し得る一の形禍である。左樣な土岐君から見れば、終始萬葉集にのみ噛り付いてゐる我々が、迂愚なる語句の研究者と見えるのは當然であつて、見えないのは不當然である。土岐君は、又「赤光」と「切火」の比較をするのに、茂吉の職業と赤彦の職業とを考察の材料としてゐる。必しも惡くはない。併し乍ら、我々は歌の價値の考察は常に歌に依つてのみ之をする。職業の如何の如きは寸毫も與る所でない。若し夫れ、歌の生命と作者内生活との關係を攷へんとするが如きは、自ら別途に屬する事業である。土岐君は、職業を資料として「赤光」「切火」の價値を攷へんとしたのであるか。若し單に、歌と内生活の關係を考へるとするならば、斯る場合に、單に職業といふ外形的な材料を特記してゐるのは、偶々以て土岐君が、外形的生活の形に煩はされて内生活の奥底に徹し得ない例證とならねば幸である。
(282) 土岐君は又、僕が萬葉集中よく「複雜な時間」や「複雜な場合」を單純化し得た例歌を、雜誌「詩歌」に載せたのを引例して「これらの短歌は内容が單一ではない。然し、さして複雜な事象とか、光景とかいふ程のものではない」「これ程の光景や事象を複雜と見るのは、その研究者が唯萬葉集の短歌その者にのみ没頭して現代に於ける一個の「人」としての存在を念としないからではないか」と云つてゐる。恐入る次第である。成る程、僕の頭は人間界に介在する微小單純な存在である。それを僕も自認する。然し乍ら、他人の内生活に立入つて、「現代に於ける一個の「人」としての存在を念としないからではないか」などと速斷する勇氣を未だ出した事がない。夫れだけ土岐者よりは單純でないかも知れない。間違つては可けない。僕の萬葉集から引例したのは、複雜な者を單純化し得た「歌〔右○〕」を示したのである。「人〔右○〕」を示したのではない。僕の示した歌よりも、歌として猶複雜な場合を單純化した歌があつたら、夫れを教へて頂くことは僕に有難い。「人〔右○〕」の講釋を土岐君から聞かせて頂かうとは、今の所思つては居らぬのである。   (大正五年一月「アラヲギ」第九卷第一號)
 
(283) 乙字氏歌評に就て
 
   椿の蔭をんな音なく來りけり白き布團を乾しにけるかも
 此の歌の乙字氏評は、前號の「アララギ」に載せてある。夫れは、乙字氏が私信として茂吉氏に寄せ、茂吉氏が原稿として「アララギ」に寄せたものである。故に、小生より格別乙字氏にお答へする必要なきも既に雜誌に現れて居るから、ここに一通り愚見を書き記すことにする。
 第一に氏は「椿のかげ」の「かげ」は「影」であるか、「蔭」であるかを疑問としてゐる。此の疑問を解決する必要があるとすれば、是は此の一首に對して重大な問題になり得る。その問題を未決に置いて、此の一首を觀賞し、批評する事は殆ど不可能である。
 若し「影」であるか、「蔭」であるかが全然判團出來ぬやうな歌であるならば、此の歌の第一句の神經は麻痺してゐるのである。殊に此の第一句は、内容としては活動の場所を指示してゐるのであるから、それが曖昧である以上、歌全體の生命は斯る場合薄弱にならねばならぬ。『「蔭」で「影」ではな(284)いやうに思はれ候。それにても宜しきかと存候へども云々』と云つて居られる乙字氏の疑問を、今つと直截に眞劔に進めて頂き度かつた次第である。 此の歌は雜誌「地上巡禮」(大正四年三月號)と、歌集「切火」とに發表し、(「切火」は其の當時乙字氏座右に呈したかと思うてゐる)其の合評を昨年の「アララギ」五月號に載せてある。その何れにも「蔭」と云ふ漢字を用ひてゐる。併し、いくら漢字で書いても「かげ」が「蔭」として活動し得なければ駄目である。要するに、乙字氏の問題としては、此の場合の「かげ」が「影」であるか、「蔭」であるかに歸存する。さうして、此の問題は一首の全生命に響くべき問題であり、此の歌を考察する第一歩の問題なるべきであるから、眞先に此の問題を片付ける。
 小生は、此の歌に於ける此の「かげ」が、「蔭」であり得ると信ずる。歌の上の常識上して容易に左樣に領得し得ると信ずる。「椿の影〔右○〕女音なく來りけり」と解する場合は、椿と女とは配合的であり、從つて理智的である。俳句には斯樣な理智的な配合がいくらも存するであらうが、歌には左樣な理智的な配合は殆ど容されない。これは歌の本來の性質が單一なる感情を歌ふに適してゐるからである。
   大葉山霞棚引き小夜ふけて我が船はてむ泊り知らすも 萬葉集卷七
   佐伯山卯の花持ちし愛女《かなしき》が手をし取りてば花は散るとも 同
「大葉山」が「大葉山に」の意〔右○〕(意は意なり。省略と異る)であり、「佐伯山」が「佐伯山に」の意(285)である如く、此の歌の場合の「椿のかげ」が「椿の蔭に」の意であり得る事は、殆ど云ふを要せぬ事である。乙字氏がここに「影」と云ふ事を考へられたのは、氏が俳句の立場にゐて歌を眺められたからであらう。
 第二に乙字氏は、「女の來た事と、白き布団を干したこととの關係は如何に候か。女が來てから布團干せしか、又前々から干してあつたのでそこに女が來たのか、即ち女が來て干布團を裏返しなどしたといふやうの場合か、又それとも女と布團との關係はなく、女の來たのを見ると同時に干布團も目に映じたといふのか、僕にはこれは俳諧の二句を一つにしたやうに思はれ候云々」と云つて、女の來た事と布團との關係を疑問とせられてゐる。之は萬葉集以後の歌の中で、第三句切りの歌をも參考として考へ合せる必要がある。「俳諧の二句を一つにした云々」は、前に云つた「影」と「蔭」との問題にも關聯してゐる。 元來第三句切の歌は、形から見れば、第三句で明了に切れてゐるのであるけれども、歌の性質上決して第三句までで獨立してゐるのではない。第四五句と響き合つて必ず融會の一團となるべきものである。融會の一團でありながら第三句で一旦切れてゐるために、前句後句間に靜かな感得の餘地を與へる所に特徴がある。第三句切の歌が沁み沁みとした感受を與へるのは此の點にある。併し、靜かな感得といふ事は、乙字氏の前號歌評中五一頁中段第二行第三行に用ひてある「靜觀的」「反省的」の(286)意とは同じくない。本論に立ち返つて、此の歌の「女の來た事」と「白き布團干した事」との關係を、作者たる小生の立場より言へば「白き布團を乾した」者は、無論「椿の蔭に音なく來た」所の女である。「白き布團が乾してある」とやうに歌うてあれば、乙字氏の擧げた如く、女と布團との關係につき樣々の場合の疑問も起るであらうが、「布團を乾しにけるかも」と他動的に歌うた場合、その主格が前句中の女にあることは、殆ど當然のことである。要するに乙字氏は、第三句切を重大なる區劃として、前後を獨立して考へ過ぎて居られるやうである。
   三吉野の玉松が枝は愛《は》しきかも君がみ言を持ちて通はく 萬葉集卷二
の第三句切に於て、「君がみ言を持ちて通ふ」ものは、矢張り「玉松が枝」である事も一つの参考になる。
   吾が命のまさきくあらば復も見む志賀の大津に寄する白浪 萬葉集巻三
   山の際《ま》ゆ出雲の子らは霧なれや吉野の山の峰に棚引く 同
   妹が見し宿に花咲く時は經ぬ吾が泣く涙未だ干なくに 同
   他言《ひとごと》を緊み言痛《こちた》み逢はざりき他心《こころ》あるごとな思ひ吾が夫《せ》 同卷四
   古りにし人の賜《た》ばせる吉備の酒病めばすべなし貫簀《ぬきす》賜ばらむ 同
   吾妹子は常世の國に住みけらし昔見しより變若《をち》ましにけり 同
(287)   板ぶきの黒木の屋根は山近し明日《あすのひ》取りて持ち參り來む 同
幼稚《わか》ければ道行き知らじ幣《まひ》はせむ冥吏《したべ》の使負ひて通らせ 同卷五
海未通女《あまをとめ》棚無小舟榜ぎ出《づ》らし旅の宿りに梶の音聞ゆ 同卷六
   靜けくも岸には波の寄せけるか此家|通《とほ》し聞きつつ居れば 同巻七
   春雨に衣は甚《い》たく通らめや七日し降らば七夜來じとや 同卷十
   吾が宿の花橘は散りにけり悔しき時に逢へる君かも 同
   天の河去年の渡り瀬荒れにけり君が來まさむ道の知らなく 同
   近くあれば名のみも聞きて慰めつ今夜よ戀のいや益りなむ 同卷十二
   古の神の時より逢ひけらし今心にも常怠らえず 同卷十三
   天地の神をも吾は祈りてき戀ちふものは嘗て止まずけり 同
   山風の櫻吹きまく音すなり吉野の瀧の岩もとどろに 源實朝
   秋風はやや肌寒くなりにけりひとりやねなむ長きこの夜を 同
   雁なきて秋風寒くなりにけりひとりや寢なむ夜の衣うすし 同
   ふらぬ夜もふる夜もまがふ時雨かな木の葉の後の峰の松風 同
   片しきの袖こそ霜にむすびけれ待つ夜ふけぬる宇治の橋姫 同
(288)   かつらぎや山を木高み雪白しあはれとぞ思ふ年の暮れぬる 源實朝
   歎きわび世をそむくべき方知らず吉野の奥も住みうしといへり 同
   時により過ぐれば民の歎きなり八大龍王雨やめ給へ 同
   寒山も豐干も虎も眠りけり四つの鼾に松葉散る山 竹の里人
   をりふしのいさかひ事はありもせめ犬が食はずば猫にやれこそ 同
   天さかる鄙の小庭はつくろはず松に竝びて百合の花あり 同
 三句切の特徴を考へるために色々の歌を抄出して見た。これらの歌を讀んで小生の歌にかへれば赤面したくなる。茲には只乙字氏の考へらるるやうに、第三句切が重大の區劃をなして前後を兩斷し、前後共各讀立するといふやうな事のない事を明かにすれば足りる。例は萬葉集以後數へ切れぬから此の位で止める。
 第三に氏は、「椿の蔭をんな音なく來りけり」は、(1)地上の状態其の他が精寫されぬため、(2)「椿の蔭」ならば、「椿」と「女」といふものに作者の主觀的情趣が働く上に、「音なく」といふ句によりて神秘の感情を誘ひ、夫れには「椿」「女」「音なし」等の概念が作者の主觀情趣を誘ふ主因になり、そのために繪畫的印象が破壞されることにより、(1)(2)何れの場合とするも、繪畫的、印象的でなく、寧ろ概念的の作意である。と言つて居られる。作意〔二字右○〕と云ふ意味は、夫れに引續いて「前半の(289)概念的、主觀的、神秘的の感情を後半(白き布とんを乾しにけるかも)の繪畫的、印象的敍法に依つて、現在に包まんとしたる作意にわざとらしき匠意認められ候。」とある意である。乙字氏の意は略ぼ明了である。乍併此の場合も前に述べた如く、此の歌を兩斷して考へては困る。乙字氏の所謂「前半の概念的、主観的、神秘的感情を後半の繪畫的、印象的敍法に依つて現在に包まんとしたる作意」と云ふ事が、歌の前後を兩斷した考から出て來ないことを望む。此の歌の主要なる活動は、「來る」動作と「布團を乾す」動作の連續である。さうして「布團を乾す」動作は、此の歌の終結であつて最も重き力を成さねばならぬ。若し此の場合、歌の結末の重力を害せぬ程度に於て、若くは結末の重力を補くる意晩に於て、前半を今つと印象的に現し得る實例を示さるれば、小生は直ちに此の歌を抹殺する。結末の重力を補くるためには、前半に於ける精敍を許さぬ。是は單一純醉を欲する歌の本質から要求する自然の條件である。此の歌の場合、前半部の光景を要敍するはよい。精敍するを許さぬ。小生の歌の前半部が要敍でなくして概敍であるならば、この歌は惡い。只概敍と雖も猶此の場合くだくだしき精敍に優る事をも考へる必要がある。
 第四に、「音なく歩み來た」をさう神秘的に感ずる必要はない。島の靜かな情態を現す爲に、女の靜歩を捉へた丈けである。小生は只今でも神秘的とは考へてゐない。現實的であると考へてゐる。從つて神秘的の附燒刃が白い布團で破壞されたとも思つてゐない。
(290) 只「下句に敍した事の方が重く、全體の情趣のとどめである萬葉集に馴らされた」と言はれる乙字氏が、「白き布團を乾しにけるかも」でぽかんと投げ出しを食つたのは、甚だ恐縮の至りと言はねばならぬ。
 乙字氏所説の要を摘んで愚見を申すつもりの所、少し蕪雜になれり。是にて擱筆。四月二十六日夜   (大正五年五月「アララギ」第九卷第五號)
 
(291) 土岐兄に
 
 雜誌を止めるのは、役者が舞臺を失《なく》すやうなものである。この舞臺を止められたらば、他の新しい舞臺を作られる事を望む。私は土岐君の舞臺が是非必要であると思ふからこの事を望むのである。今歌の方の役者は多く舞臺を持つて居るが、大抵似たやうな踊りを躍つて居る。貴下の舞臺の踊りは毛色が違つてゐる。夫れで私は更に新しい舞臺を作られる事を望むのである。貴下の舞臺は最近に小生等の舞臺を眞面目に直截に批評して下さつた。小生等もむきになつて貴下の舞臺と議論をした。さういふ舞臺が今無くなるのは小生等には殘念である。眞面目になつて議論するといふやうな事、近來絶無であるからである。今貴下の舞臺を無くすのは小生等にも損失を感ずる。新舞臺の建立を願ふ心頻なる所以である。
 私は貴下の歌を昨年來特に注意して拜見してゐた。夫れは故石川啄木を詠んだ歌を、「鴻の巣」で拜見した以來である。雜誌を止めるといふ事は、一方から言へば、雜務を避けて專心一事へ力を向け得(292)るといふ事になる。貴下の雜誌なくなりて、貴下の歌却つて益々多く世に現るるといふ意ならば、雜誌廢刊を祝してもいい。併し夫れにしても、貴下には貴下の舞臺を持つてゐて頂いた方が矢張り都合がいい。夫れは小生等に都合がいいのである。歌壇のために都合がいいのである。廢刊に際して新刊の事など申すのは如何かと思ふ。併し思ふままを申上げた方が幾分御參考になる。
 貴下の雜誌を言ふのに、歌の事ばかり申上げては足らぬのでありませう。併し、私は歌の方から主に貴誌に接して居つたから、歌の事ばかり申上げるやうになりました。終りに、私の書いたつまらぬものが、貴下の雜誌に二度迄御厄介になつた事を想ひ出して、貴誌にお別れ致します。貴下竝に御同人の御健在を祈ります。五月二十二日夜   (大正五年「生活と藝術」六月廢刊號)
 
(293) 本年の歌壇に就て
 
 予は餘り素捷しこくない。三年東京に住んでも、下町へ行くと電車に乘れなくなる。未だ東京が解らないからである。東京の歌壇の仲間入りしてから三年經つた今頃、そろそろ歌壇の空気が分りはじめたやうな氣がする。足が遲いのである。遲い代りに足早の人の見落してゐるものを見てゐる心地もする。
 歌人といふ一圏は、割合に範圍が狹くて、互に往來などして、個人間の交通が多い。左樣な現象から齎すものが、妥協や交讓に終る事の多いのは、歌人の求むる所高からざるの致す所である。斯樣な中にあつて、土岐哀果、西村陽吉二君が眞劔になつて、茂吉君と私とに突つかかつて來たのは、穩當を無難とすを歌壇には空谷の跫音であつた。只本年の前半に亙つた論難が總論に止つたのを殘念とする。土岐君の主宰する「生活と藝術」が引續いて廢刊されたのは、我々には大きな寂寥である。其の代りではないが、北原白秋君の「煙草の花」が新に生れた。白秋君を繞る空氣は清澄で快い。妥協や(294)曖昧を容さぬからである。作歌の態度の嚴肅を希求する心から、昨今師弟關係を頗る嚴重に規定した事は、兎に角新しき現象である。白秋君の作品は今年可なり多い方であつた。所謂白秋風の特色に澄み入らうとする精進心を見る事が出來る。「帝國文學」の一記者が、同誌十一月號に予の歌を擧げて、「アララギ」の歌が白秋君の影響を蒙つてゐると評してゐるのは見當違ひである。白秋君と我々と立場の相違は甚だ截然としてゐる。此の事は「アララギ」新年號に稍委しく書く。「潮音」では太田水穗君が、記紀の歌を詳説してゐる。「國民文學」では窪田空穂、松村英一、二君が古歌人や古歌集の研究をしてゐる。「水甕」では尾上柴舟、逸見義亮氏が古歌集の研究をしてゐる。「詩歌」では前田夕暮君が橘曙覧の評釋をしてゐる。「心の花」では佐々木博士が萬葉集講義を連載してゐる。何れも我々に稗益を與へるものである。古歌の研究は萬葉集を中心として、今年に至り甚だ盛んな勢である。「國民文學」では橘守部の「萬葉集墨繩」を連載し、「アララギ」では、同著者の「萬葉集檜嬬手」を公刊した。其の他佐々木博士の「萬葉集講義」、釋迢空氏の「口譯萬葉集」、小林花眠氏の「萬葉集相聞集」豐田八千代氏の「萬葉集新釋」等萬葉に關する著書の刊行は高潮の姿である。歌壇萬葉集渇仰の現象が例の雷同的氣分の加鰺はあるとしても、我々には欣ぶべき現象とするを躊躇せぬ。萬葉集傳統者の評釋も從つて盛んであつた。夫れ等の中で齋藤茂吉君の「短歌私鈔」は最も異色を放つてゐるものと信ずる。一般の歌風の今日に至つて益々萬葉を趁ふに傾いた事は爭はれぬ事實である。予は躊躇なく(295)之をアララギ調の流行といふ。釋迦は同じ道を二人で行くと仰せられた。二人三人乃至凡百の同道必しも惡くないが、歌界に少くも箇々の集團がある以上、獨自の道を獨自に拓き、獨自に歩む者の多からんを希望する。
 今年は歌集も隨分多く出た。土岐哀果君の「雜音の中」、窪田空穂君の「鳥聲集」、前田夕暮君の「深林」、中村憲吉君の「林泉集」等はその主なるものであらう。「雜音の中」では大島行前後のものに、氏の進轉の機運がよく現れてゐる。土岐氏の歌の長所が更に如何なる進轉を見るべきかは、久しく君の作に接せぬ我々の興味を以て期待してゐる所である。窪田氏の「鳥聲集」は、君が近來作歌に油の乘つて來た徑路を現してゐる點に於て興味ある歌集である。前田君の「深林」は予の眼には、甚しく低卑である。此のことは「アララギ」十二月號に詳述して置いたから茲には略する。中村氏の「林泉集」は非常に特色の多き歌集である。元來、氏は派手な道を通る人でない。それだけ仕事が世間的でないと共に、深く内面に籠るものを持つてゐる。氏の處女歌集から滿三年を經た今日迄格別顯れた仕事をせぬことも、此の歌集の地味にして内に湛ふるもの深き事と相通じてゐる。予の推稱するを以て仲間同士の推稱と思ふ者があれば了見が違ふ。予は、今年歌壇收穫中最も大きなものである事を信ずる。其の他割合に新しき作家としては木下利玄・半田良平・石井直三郎・結城哀草果・土田耕平・女流作家では山田邦子、若山喜志子等の諸氏が殊に予の注意を惹いた。新進作家といへば今年秋「文章(296)世界」で、短歌新進作家號といふものを出したことがある。夫れについて諸所に種々の言議が現れたやうである。一文學雜誌に十數人の歌を並列したからとて、さう騷ぐべきことではない。騷ぐのは歌人の自ら居ること高からざる證據にもなる。少くも自己の集團、自己の雜誌を信ずること厚く、安ずる事深ければ、左樣な臨時の事柄に對して心を動かす必要はないからである。我々の身邊には多數の同行者中から左樣な騷ぎが寸毫も響いて來なかつた事を快とする。要するに歌壇の活動は多數集團の活動である。集團の活動は多數個人の活動である。個人、若くは集團の特色ゐる活動に入らんことを希望して新年の到來を待つ。(床上にて)   (大正五年十二月十五日「讀賣新聞」)
 
(297) 阜上偶語
 
       〇
 北原白秋氏の「煙草の花」が出た。例によつて純無垢な雜誌である。少くも一音響の共鳴以外に他の雜音を交へぬのを快しとする。白秋氏の歌は、歌界に明かなる一域を劃してゐる。必しも籠城はせぬが、彼此境を分たぬやうな自重なき歌とは違ふ。伴侶を求めんとする窮屈な心遣ひがなくて、相誡めようとする快き努力がある。歌の根源は白秋氏の生活にある。その生活の一部を、白秋氏夫人北原章子氏が「煙草の花」に可なり詳しく書いて居る。これは予には至寶である。如何となれば「アララギ」の歌(少くも予の歌)と白秋氏の歌の區劃を、この日記によりて截然と我々に判ち示されて居る感があるからである。人各々領域がある。領域の類型を以て集團をつくる。既に各集團がある。箇々集團の領域は各人個性の分るるが如く分れて居らねばならぬ。各人個性の分るる愈々著しくして、各人團結の意義愈々明かになるのである。然らざる團結は個性なき團結である。個性なき歌壇の團結を(298)予は歌壇の集合と名づける。集合は離散が容易である。(形の離散を謂ふのではない。心の離散を謂ふのである)偶ま離散の容易ならざるは求むる所互に相寄るに足りるからであつて、相寄るに足らぬ場合彼等は即ち輙かに離散することを敢てする。予は歌壇に於ける今日の各集團が、今少し意義高き集團ならん事を望むものであり、各集團の區劃が今少し截然たる區劃ならんを望むものである。從つて各集團の交渉が今少し意義高き交渉であり、截然たる區劃の上に立つ交渉であらん事を望むものである。(來往常なき徒の如きは論外である)劔術で言へば他流であり、宗旨で言へば他宗である。どの流儀にも持所あり、どの宗旨にも長所ありと見えるのは批評家の見方であつて、一派の輩、一宗の徒には自流獨尊、自宗專一と心得られて居らねばならぬと共に、根抵としては自流自宗に深い信念と大きな安心とが備はつて居らねばならぬ。予は白秋氏の「煙草の花」が、少くも他と流を分たうとする男氣の著明なるを認むるを快しとするものである。その白秋氏の歌風の根柢たるべき白秋氏の日常生活が、恰も氏の歌風の表徴である如く鮮かに有りの儘に書き現された章子氏の紫煙草舍日記を讀んで、白秋氏の境涯と、生活と、歌と何等矛盾なくして一人格者に統一されてゐるの觀あるを知り得ると共に、その生活日記の一片が直ちに我等「アララギ」の衆徒の(少くも予一人の)生活及び歌風と、白秋氏の夫れとの區劃を明瞭に示し得た心地する事を、最も愉快に思ふのである。
 紫煙日記を見ると、白秋氏は村の子供から貰ひ受けた鴉の羽が瑠璃色で貴公子のやうだから、(299)早速公爵と命名して、小さいシルクハットを冠らせようと思って居る。この邊からもうそろそろ我々と掛け離れようとしてゐる。有難い事である。蓮の花を見た歸りがけに、素足の方が氣持いいと言つて下駄をすてる。下駄はそんな理由で度々棄てられてゐる。散歩の留守に、章子氏が「土手の方から鴉の聲がするので見ると、この大降りに共は傘もさされず、片手に鯰、片手に鴉を抱いて悠々寛る覚ると、ぶららぶらら歸らるる所、人目が惡いから少しはお急ぎになればよいのにと思ふ。おかげで天にも晴れにも、たつた一枚の高貴繊の晴衣を臺なしにして」しまつてゐる。(日記一節抄出)爲替を取りに行つた金で、市川の八百屋の前に遊んでゐたチンコロを貰ひ受けて、皆なお禮に拂つてしまつて、奥さんの鼻を少し明かせてゐる。奥さんは金の代りにチンコロを貰はれて、又厄介が一匹殖えたと腹の中で思はれたが、抱き上げて見ると、クリーム色の軟かな手ざはり、頭が大きくて足が短かくて兎に角多少可愛くなつて居られる。夫れから後は白秋氏は、暇さへあればカア公〔三字傍点〕とコロ〔二字傍点〕を仲よく遊ばせようと苦心してゐる。役場の書記が納税の事を話したら、納税の事は耳に入らないで、その白髪頭の書記の顔が繪になると思つて見詰めてゐたので、あとで少々失敗をしてゐる。凡そ是等の事は白秋氏の私事であつて、章子氏が紫煙舎同人に知らせたいために、社友に對して發表した所である。夫れを茲に借用するのは如何かと思ふが、既に公刊されたものであり、予の文意を明白にするには是非とも必要であるから、必要の部分丈け成るたけ節約して拜惜したのである。さうして是等は、紫煙(300)草舍日記の大部分をなしてゐる材料であるが、もつと深入りした白秋氏の生活は却つて日記としては公表されないといふ事も想像して考へて置かねばならぬけれども、一方から見れば、以上の摘録は最も自然に適切に白秋氏の平素を物語つてゐるものとも言へる。
 以上摘録する所だけに就て考へても、白秋氏と予等とは、現今に於て全く異つた世界を有つてゐる事が分る。予等には白秋氏のやうな悟りが未だ開けて來ないのである。白秋氏に悟入の姿があるときに、予等には執着の姿がある。悟入の姿愈々著しくして、予等執著の姿愈々根づよいのである。是丈けでもう大きな相違が想像される。夫れが兩者の歌に現るるものと相通じて考へる時に、益々其の色彩の鮮かなるを感ずる。白秋氏が雲である時に予等は石である。白秋氏が鳥である時に予等は獣である。雲と石と、鳥と獣と何れが値打があるなど考へるのは下らぬ事である。雲石鳥獣皆異つた世界に住してゐるからである。比喩は往々にして的確を失ふ。予は白秋氏の生活日記に對比して、甚だ興味多き具體的實例を擧げ得る。夫れは故長塚節氏の書簡集である。(大正四年六月發行「アララギ」第八卷第六號、長塚節追悼號)長くなるから、之も摘録するより仕方がない。
 先づ大正三年の元旦に、東京金澤病院より國元の母堂に宛てた手紙を見ると、眞先きに「堆肥、さつま〔三字傍点〕の蔓の分は今二囘切り返す迄はかびぬ樣水をくれてよくよく注意すること。煙草、土草の分も水を一度やる必要あり。さつま〔三字傍点〕の蔓の分を切り返す時は、こへ〔二字傍点〕出しの毛をよく交ぜる事。たなの裏の竹(301)の枝は重ねて置きし分は葉が落ちたるべく、之は凡ての仕事の都合宜しき故、その竹の葉はこれまで同樣全部掻き出して宅へ引き取り堆肥にすること。竹の葉を積みたらば黴びぬ注意も肝要なり。藏の屋敷の先頃堆肥を入れし場所に、本當に土がかかり居らぬ處あるかなきか能く見て、掛らぬ處あらば十分に掛けておくこと。」とあるを冒頭に、「アララギ」四頁餘に亙る長い手紙が悉く作物や家政の世話を以て埋めてある。奉公人を使ふ注意だけで一頁半の長さを費してゐる。「助太郎の件は極り候こととは存じ候へども如何に候哉。私へ御手紙下さる時も暑い寒いなどは要り不申、只助太郎事件極つたら極つた、皆柴の二人へ十五圓、角治へ五圓やつたらやつた、とだけ御書き被下ならば手間もかからずと存じ候」「必御他行の時は早く用をすまし、日の高い内に歸宅して十分火を焚いておあたり被下べく候。」と注意してゐる。これは書簡集のはじめの手紙から摘出したに過ぎぬ。同集百八頁の長きに亙り概ねこの類である。これを白秋氏の生活日記と比べたら、雲と石とを以てするも猶或は及び難い相違を存して居るかも知れぬ。予等は白秋氏の生活に對して快感を覺えるけれども、長塚氏の生活に對しては更に適切の意味を以て、尊敬と追慕とを感ずるものである。此の心は致し方ない心である。石は石と倚り、雲は雪を追ふの心である。雪自身よりすれば雲が一番大切である。石自身よりすれば石が一番大切である。予等自身よりすれば長塚氏の心は、予等に一番大切な心である。予の放漫決して長塚氏の心に當らぬを以て、予の心此に存せずとなすは分曉を没した考へ方である。北原氏と予等(302)との斯樣な心は、果して歌風の上に截然たる相違を現してゐる。歌風の相違を説明するために、態々一方に日記あり、一方に手紙あるの感あるほどである。歌そのものの對比は之を後日に讓つて、茲には姑らく其の總論を記し置き得れば足りる。
 子規先生の長塚氏に送つた手紙に左の如きものがある。夫れに依つて見ても、長塚氏の手紙ある所以の根源が分ると共に、予等渇仰の心の由來する所も自ら明かなるを覺える。
  只今君にもろた大和芋(一般につぐ芋といふ。つぐ芋山水などといふ事を君は知らぬか)を食ひながらつくづく考へた。此芋が君の村で今始めて植ゑたといふ程なら、君の村は實に開けて居らぬ野蠻村に違ひない。恐らくは小學校もないであらう。若し尋常校があるなら、高等校はないであらう。兎に角子供は學校にも行かない、鼻垂れてゐるのが多いであらう。從つて農藝などは少しも進歩してゐないであらう。思ふに君の村では君の家一けんだけ比較的開けてゐて、他は盡く野蠻なのに違ひない。そこで、僕の考へるに、君には大責任がある。それは、君は自ら率先して君の村を開かねばならぬ。學校も立てるが善い、村民の子弟の少し俊秀ともいふべき者ならば、君は學費を出して(若くは村費を出して)東京へでも水戸へでも出し、簡易農學校位を修業させてやるが善い。其外農談會とか幻燈會とかを開いて、村民に知識を與へねばならぬ。委細は面會の節話すべし。
(303)  一家の指示だけでも、忙しいといふやうな能無しでは役に立たぬ。其傍で一村の經營位には任じなくては行かぬ。
  君は東京へ出て來ることを道樂かのやうに思ふて居るかも知らぬが、それは大間違ひだ、時々東京へ來て益を得て歸るやうに努めなくてはならぬ。田舍に引込んでしまつてそれで忙しいなどと云つてるやうでは困る。
  僕などへ物を贈らるるには、珍らしいものを要せぬ。水戸の名果などよりは君が手づくりの大根か蕪の方が善い。今年の山芋の如きは甚だありがたく感ずる。(明治三十五年八月十九日。節宛正岡子規)
 要するに白秋氏には白秋氏自身の道がある。予等には予等の道とする所がある。兩者相容るるなきに據るは自己を尊ぶ所以であり、相互を尊ぶ所以であり、歌の天地を尊敬する所以である。故らに白秋氏と予等とを撰んで言うたのは、章子氏の紫煙草舍日記を讀んで、偶《ふ》と長塚氏の手紙を想ひ出し、長塚氏の手紙から、子規先生の手紙を想ひ出したからである。予等と白秋氏以外の他の集團との領域は別に考ふべきである。
       〇
 「帝國文學」の大正五年十一月號に、斬馬生といふ人が、斯んな事を言つてゐる。
(304)  「アララギ」の島木赤彦氏の作品に「落ちて居る」とか、「來て居る」とか、「立ちて居る」といふ詞があるかと思ふと、立派に萬葉風の詞を使つて居る。第一、一首の歌の中で形式の不統一だといふ事は目觸になる。一般に自然の措寫が多いやうであるが、でも自然に對する情趣は薄い。この二つの詩歌の雜誌にさへ(赤彦註、二つの詩歌の雜誌とは、前田夕暮氏の「詩歌」と予等の「アララギ」を指す)白秋氏のどつしりした重みのある處が、餘程眞似られて見ゆるが何れも失敗してゐる。どうも目と心との觀察が、不一致であるまいかと思はれた。
 斬馬生氏は「ゐる」といふ詞を今日の口語であるとのみ思つてゐるやうな口つきである。假に口語としても、口語を用ひれば萬葉風の詞と不統一であると感ずるやうな事では、萬葉集の調子は解つて居らぬのである。少くも金槐集や天降言や良寛集・平賀元義和歌集・橘曙覽全集・竹の里歌等の解つてゐない人であらう。現今の歌壇は斯樣な幼稚な論は餘程前に通り越して來てゐる。
 「ゐる」といふ詞は上一段活用の動詞であつて、萬葉集時代から既に生存してゐる詞である。下一段の動詞は後世に發達したものであるけれども、「ゐる」其の他之に類似した上一段活用動詞は古代から發達してゐる。
   ※[且+鳥]鳩ゐる〔二字右○〕磯囘に生ふる名乘藻の名は告らしてよ親は知るとも 萬葉集卷三
(305)   水鴨なす二人竝び居〔右○〕 同卷三家持長歌一節
草枕旅には夫はゐ〔右○〕たらめど匣の内の珠とこそおもへ 同卷四
   卷向の檜原も未だ雲ゐねば〔三字右○〕小松が木末《うれ》ゆ沫雪流る 同卷十
   立ちてゐ〔右○〕て術のたどきも今はなし妹に逢はずて月のへぬれば 同卷十二
   霍公鳥|楝《あふち》の枝に行きてゐば〔二字右○〕花は散らむな珠と見るまで 同巻十七
   舟競ふ堀江の川の水際に來ゐつつ〔三字右○〕鳴くは都鳥かも 同卷二十
   はしきよし 我家《わぎへ》のかたゆ 雲ゐ〔右○〕起來《たちく》も 景行紀
等によつて「ゐ」「ゐる」とのみ活用した上一段動詞が、古代から存した事が分るであらう。その終止法は勿論「ゐる〔二字右○〕」でなければならぬ。貫之は
   立てば立ちゐれば又ゐる〔六字右○〕吹風と浪とは思ふどちにやあるらむ
と、「ゐる〔二字右○〕」を終止法に用ひてゐる。
 「ゐる〔二字右○〕」が口語である、ない、などの議論は本來から言へば、何うでもいいのである。只問題は、予が用ひた「落ちてゐる」、「來てゐる」、「立ちてゐる」などの「ゐる〔二字右○〕」が一首に對して調子を張り得てゐるか何うかが問題になり得るのである。元來歌の第五句の斯樣な詞の結び方は、萬葉集で言へば
   み吉野の高城の山に白雲は行き憚りて棚引けり見ゆ〔六字右○〕 卷三
(306)   足曳の山にも野にも御獵人さつ矢|手挾《たばさ》み散動《さわ》ぎたり〔三字右○〕見ゆ 卷六
子規先生の歌で言へば
   ガラス戸の外面《とのも》さびしくふる雨に隣の櫻ぬれはえて見ゆ〔七字右○〕
などより系統を引いた引き緊つた強い調子であつて、「ゐる〔二字右○〕」の第五句結びは、現今に於ては我が茂吉が最も早く使用した句法のやうである。斬馬生氏の所謂予が歌の形式の不統一とは、果して何を指すのであるか。一首の響き方から斯樣な結句が不調和であるといふならば、予の歌全體を引き出して、明かにその不調和なる所以を指摘すべきである。「アララギ」の歌が「白秋氏のどつしりした重みのある所が」眞似られて見ゆるのは滑稽である。白秋氏の歌については他日別に論ずるの機がある。只「アララギ」の歌は、白秋氏とは別な道を通つてゐるものである事のみを茲に記るして置く。十二月十五日夜病床にて   (大正六年一月「アララギ」第十卷第一號)
 
(307) 前田夕暮氏に與ふ
 
 「アララギ」十二月號に書いた予の「深林の著者に與ふ」に對する前田夕暮氏の「島木君に答ふ」を「詩歌」新年號で讀んだ。
 予の批評は、空漠な大體論や概括論ではない。悉く例歌を根據として、夫れによつて所論を實證してゐる。然らざる以上、如何に論じて見ても一般的空論に終る。前田氏が、予の擧げた例歌に對する返答を省いて、單に概括論を云爲してゐる如きは、歌人として餘りに無理解であり、返答する人として寧ろ卑怯である。
 前田氏は、予の「深林」廣告文を引用した事を以て「批評の根柢をあの惡文に處かれた」となしてゐる。これのみで、前田氏には他人の文章を正しく理解する能力を缺いてゐる事を證してゐる。予の批評の根柢が「深林」の歌の各例に置かれてあるか、廣告文に置かれてあるか位は、予の文章を讀んだ程のものは、中學生でも理解出來る筈である。予はあの廣告文を引用する事に對して「前田氏の歌(308)の病所を説明するために、偶々恰適な他の一資料を借りて來たのである」と明瞭に團つてゐる。凡そ斯の如き論點として最も重要な根柢の所在に對してさへ、正確な理解が出來ぬやうでは、何人とも議論する資格はないのである。夫れだから「島木君に答ふ」一篇中に、予の擧げた各例歌に對する返答を省いて、所論に關係なき他人の書信の一片を示したら、予の年齡を云爲して、「怖いおぢさん」云々と云ふ如き無用の言が陳列されるのである。生徒の答案とすれば、問題の要旨を捉へずして滅茶苦茶な擲《なぐ》り書をした劣等生の答案である。斯樣な答案では落第するより外仕方がない。此の意味に於て、前田氏の「島木君に答ふ」一文は、氏の書いたと自白する「深林」廣告文以上の惡文である。凡そは、歌人といふ一團が今日の文壇から如何なる眼を以て見られてゐるか。見るもの惡しきか、見らるるもの惡しきか。近來の惡文二篇を公示する勇氣を有した前田氏は、更に率先して別種の大勇猛心と大省察力を費さんことを望むのである。
 前田氏は、批評といふものの意義を如何に考へてゐるか。作物に對して「撃ちのめしてやれと思へば、幾らでも撃ちのめせるものである」と考へてゐる氏は、恐らく、褒めようと思へば幾らでも褒め得るものと考へてゐるであらう。斯樣な見解を有してゐる氏は、批評を以て無節操な遊女の所行に比して考へでゐるものである。果して然らば、批評といふ概念は、氏の頭から全然取り去つて生活した方が、氏の頭は清淨になり得る。苟も文藝の理想に對する一定の標準を有してゐるものが、褒貶を伸(309)縮自在にするといふやうな事を如何なる場合に想到し得るか。斯の如きの言は文藝に於ける一般の批評に對する侮辱である。侮辱して侮辱した事が分らぬならば、氏の道徳觀念の所有は灰燼である。
 予は是に於て前田氏に告げる。作物の批評は作者から離れた一箇絶對の獨立人格を有する。作物を相手にして作者を相手にしない。抉剔闡明は作物に資《よ》つて自己の理想を表明するの手段である。自己の理想を表現するためになされる批評が、作者に何う響くかといふ事は評者の與り知らぬ所である。從つて、作物に對する批評が、「作者をして首肯せしむる者があれば、夫れでよいのである。」といふやうな前田氏の批評觀は、親爺の説法觀のやうな低級のものである。「苦いものを無理やりに口の中に押込められたやうな氣がした」と言ふが、苦《にが》いものの呑吐は氏の自由である。これは評者たる予には無關係である。「自分は寧ろ多くの場合、作者の佳い素質を見出でようと努力」する氏の態度は勝手であるが、何物をも褒めんと思ひ設くる如きは女郎の態度と接近する虞れがある。孔子は「申※[木+長]は慾、焉んぞ剛を得ん」と言はれてゐる。何物に對しても、よい方面を見出でようと聲明する前田氏の言は、孔子以上の聖人か、幇間に近き世俗者の言である。況して前田氏の見出でたよい點を「何處までも世に紹介したいといふやうな態度」は彌々以て、批評者の領分から飛び出して桂庵の領分を侵してゐるものである。「君自身、さう(さう〔二字傍点〕とは無能低下を指す)斷じて居られたら、夫れでよい。それは島木君に一任する。さうすれば僕の批評などは書かなくてもよいことになるであらう。その方が君(310)もよいであらうし、僕も助かるといふものである。」と言つてゐるが、批評といふものは、人を助けたり、活かしたりするために書くものではないことを向後心得て居らんことを望む。
 凡そ斯の如き批評觀と批評態度を有つてゐる文藝家が、大正の今日歌人の大家として存在してゐるといふ事は、文壇の奇蹟であると共に、一面歌人眞相の暴露とも言へる。
 氏は又、予に對して「島木君は寸毫の忌憚と假借をせずして、罵詈の應酬〔二字右○〕を敢てして、その缺所を擧ぐる人である」(圏點は予の附する所である)と言つてゐる。寸毫の忌憚と假借をせぬのは批評に於ける當然の事柄である。只予は批評に際して未だ一度も罵詈の言を放つた事はない。予の議論は一々理由と具體的證明とを附してある。その理由と證明とが間違つて居らぬ以上如何なる結論に及ばうとも夫れは罵詈でも諂諛でもない。醫者が惡病でないものを惡病であると診斷したら醫者の不道徳である。惡病であるものを惡病と診斷するのは醫者の不道徳ではない。若し惡病でないと言ふなら診斷上の證明を與へれば夫れでよいのである。我々は尊氏は賊であると言つても、尊氏に對して不道徳の責任を感じない。石川五右衛門は盗人であると言つても同じく責任を感じない。賊であり、盗人である證明は世に既に習熟してゐるからである。予の「深林」に加へた批許は皆な理由付き證明付きの批評である。その理由と證明を説き破らぬ以上、予の批評を以て罵詈なりと斷ずるを容さぬのである。夫れとはあべこべ〔四字傍点〕に前田氏は予に答ふる文中に、予の小曲集に對して、「くだらぬ遊戯的作品」といふ斷(311)定を下してゐるが、くだらぬ遊戯的作品である理由と證明とには一語も言及して居らぬ。予の「野分」八首に對しては「こんな調子ばかりの上の空で物を言つてゐるただごと歌には殆ど同感出來ぬ。然し島木君の作であるがためにこの作は意義があるのかも知れぬ。何となれば之等の歌はみな空疎なただごと歌でありながら君のいふところの歌の調子が出來てゐる。で少し獨断に言ふことが出來るならば君は歌の調子で作歌して〔十一字右○〕ゐる人である。云々」(圏點は予の附する所である)と言つてゐる。野分八首の如何にして、調子ばかりの上の空のただごと歌であるかは相變らず説明してゐない。斯樣な批評を漫罵若くは不道徳といふのである。漫罵の意義の分らぬ氏が、予の批評を目して罵詈であると揚言してゐるのは、氏に取つては悲慘なる滑稽である。
 猶氏は予の歌が調子を重ずる云々と言つて、調子を重ずることが形式的な上《うは》の空の仕事であるかの口吻を洩してゐる。予の所謂調子とはどんなものであるかを未だ氏は理解して居らぬと見える。予の「深林」評に具體的に擧げたものにつき更に再讀して調子の意義を考へんことを望む。夫れで理解出來なかつたら、氏の評釋してゐる橘曙覽の歌に對して子規先生が「曙覽は歌調を解せず」と論ぜられた條(子規隨筆續篇三五八頁)、其の他子規隨筆以來、左千夫其の他の人によつて論ぜられた歌の調子の意義を研究し給へ。今一々ここに擧げるの煩に堪へぬ。さうすれば「リズムと調子とは全然相違してゐる」といふやうな愚論は自ら撤囘されるであらう。要するに歌論というても具體論に入らなくて(312)は空漠なものである。予が前田氏の各歌に付き、歌調に言及した事柄を、更に氏が具體的に反論すれば、氏の調子論、リズム論も自ら明瞭になる筈である。予の批評の本城は、當初より具體的例歌の批評に在る。氏の反論の砲弾が、予の本城に屆かぬ以上、予の仕事は甚だ閑散である。一首々々の批評に對して言ふのは、煩瑣に堪へぬなど言ふのは予に對しては卑怯であり、自己の陣容に對しては不用意な詞である。予の評した歌が、田中白夜氏の評した歌と同一の歌で、夫れに對する前田氏の返答が「詩歌」十二月號に出てゐる。夫れに對する予の意見も、前田氏の具體的反論が、すべて盡さるるを待つて、一括して述べるつもりである。氏の返答を讀んで餘りに閑散を感ずるから以上を認めたのである。   (大正六年二月「アララギ」第十卷第二號)
 
(313) 阜上偶語
 
       〇
 萬葉集の覊旅の歌に秀歌のあるのは、この頃の旅の非常に困難であつた事と關聯して考ふべきである。旅に出るのは苦痛を甞めに出るのである。苦痛の心から搾り出された覊旅歌に、痛ましき響きをもつてゐる事は當然である。今日の歌人の覊旅歌に秀歌を見出し得ないのは、これと反對の理由によつて當然である。今日の旅は酒や女を隨所に得られる贅澤な物見遊山の旅である。痛切がらうとしても痛切がる機會がない。萬葉集の覊旅歌でも身分貴き際の歌と扈從末輩の歌とは、往々にして痛切の度を異にする事に氣が付く。身分貴き際は女を具する事が出來た。女を具する事の出來る人々の歌に比較的優長な歌が現れ、女を具する事の出來ぬ輩に最も多く痛切な響きをもつ歌あることは面白き現象である。斯う考へると我が「アララギ」に、前に長塚節氏の覊旅歌(馬醉木・アララギに亙る)あり、後に石原純氏の覊旅歌(「シベリアの旅」「孤村の方へ」)ある事は現代に於ける異彩である。三井(314)甲之氏は長塚氏末期の歌を享樂的だと言つてゐる。斯樣な種類の考へも明治大正の時代には存在してゐるのである。   (大正六年二月「アララギ」第十卷第二號)
       〇
 「日本及日本人」最近號に三井甲之氏の歌四首がある。
   北風の吹き來る野面をひとりゆきみやこに向ふ汽車をまたなむ
「待たなむ」は他に対する願望の意である。「待ちなむ」等の誤用と解してこの歌を評する。第三句迄は、作者が現在野を行きつつある所であらう。「行き」と、現在作者の野を行きつつある動作に對してゐる場合に「汽車を待ちなむ〔四字右○〕」と、汽車を待つ事を將來してゐるのは、作歌の動機を二つに分けねば理解出來ぬ。或は第三句「行き」が中止法である所より考へて、野を行く事をも將來してゐるならば、一通りの意は通ずる。併し「北風の吹き來る野面を」といふ現し方は、矢張り現在に對する歌ひ振りである。斯樣に腰の据らぬ歌を低徊趣味の歌といふのでゐる。更に細かに言へば、第二句「吹き來る野面を」の八音は、斯樣な境地に對して調子を緩慢にしてゐる。第四句「都に向ふ」の「向ふ」も、此の場合現在的にすぎる詞である。歌全體の調子も弱々しくて引き緊つて居らぬ。斯樣の歌を自ら許しで公表し得る三井氏には、長塚氏の歌が享樂的の歌であるかないか恐らく分つて居まい。   (大正六年三月「アララギ」第十卷第三號)
 
(315) 太田水穗氏に與ふ
 
 太田水穗氏は「潮音」三月號で、予の歌と予の歌論の一部について長い批評を書いてゐる。且私信を以て其の批評が可なり氏の心を籠めたものであることを通じてくれてゐる。氏の批評は精細に入つてゐるが、氏の考への眞諦が甚だ透徹してゐないことを遺憾とする。予は、茲に、氏の批評中意の解し難きものを列記して氏の再説を求める。再説を待つて予の意見を述べることは、氏の所説を重ずる心と矛盾しないと信ずる。
 一、氏は、「氏は(予を指す)よく寫生と云ふ事を説き又著しく主觀を忌避する言葉を唱へられる。氏の説く所を綜合すると、氏は多くの點に於て數年前の小説界に行はれた自然主義の行き方を歌の上に行はうとするもののやうに見える。云々」と説いてゐる。予の歌に對する主義を斯樣に解してゐる氏の概念は、予の歌を規律せんとする氏の主要なる標準となつてゐる。予は寫生といふことを尊重すること年所既に久しい。併し夫れに依つて主觀を忌避する言葉(言葉とは此の場合變な用語であるが(316)すべて原文に從ふ)を唱へた事は未だ一度もない筈である。予の寫生を尊重するのは、眞實なる主觀の表現を尊重する心から出てゐるからである。氏の所謂「主観を忌避する言葉を唱へられる」とは、予の何時何月何處で如何なる場合、如何なる言説をなしたる事を指すのであるか。明かに指示せられんことを望む。
 予の寫生に對する比較的明かな意見を述べたのは、「アララギ」の大正五年三月號でゐる。「心を籠めた」と通告し得る批評の筆を執つた太田氏が、予の寫生觀に言及する場合、右の予の寫生説を度外する筈はないのである。右に於て、予は「(上略)至微至密室深至妙の域に參して、只管吾人の歌材を葛生せんことを冀へり。則ち寫生せんことを冀ふと雖も、本願とする所は、外的條件の描出にあらずして、吾人内的生命の集中せられたる活動に對し、至微至密室深至妙の表現をなさんとするに在り〔本〜傍点〕。」と言ひ、「(上略)此の意味に於て、吾人の寫生と稱するもの、外的事象の寫生に非ずして内的生命唯一眞粕の捕捉也。表現也〔吾〜傍点〕。寫生の要諦斯の如し。」と言ひ、「寫生の念とする所、已に外的事象の描寫に存せずして、内的生命の直接なる表現に在りとすれば、寫生の捉ふる所は、事象にして事象にあらず。事象なりと雖も、心と相觸るる事象の中核のみ。一心集中する事益々尖鋭微細にして、相觸るる事象の中核は益々尖鋭微細を來すべし。恰も、レンズの焦點集中する事一點なるに至つて、遂に物を燒くに足るに至るが如し。此の時捉ふる所は、事象の輪郭に非ず。外形に非ず。生活事實なるか、天(317)然事象なるかを問はず。云々」と言うてゐる。予の寫生説は今日に於ても大體昨年の頃の所説と同じである。予は更に太田氏に問ふ。氏が予の説く所を綜合して〔八字傍点〕、「數年前の小説界に行はれた自然主義の行き方を歌の上に行はんとするもののやうに見える」といふのは、予の如何なる所説を綜合し、如何なる推理の過程を經て、小説界の自然主義と結び付けたのであるか。詳説あらん事を望む。
 二、氏は拙著「切火」に就て、予の客觀尊重の行き方は、意識的に強持されてゐる程度のもので、本能的了得に成らなかつた爲め、極めて生々しい不純の色調となつて表はれたものが多い。と述べ、更に客觀の刺戟を強調しよう/\と、意識を強迫した處が多く、それが一時的の客氣覇氣となつて現れてゐると説き、夫れに對して「切火」から二首の例歌を擧げてゐる。二首の例歌は、「切火」全體を評價せんとする批評の實例として甚しく僅少である。予は是に於て改めて「切火」一册を氏の座右に呈する。その一册中、氏の前述の非難に當る歌悉くへ記號を附して予に示すの勞を執られんことを請ふ。「切火」全體に對して成されたる氏の評價に實證を與へる事は、責任を重ずる氏の快諾する所なるを豫期する。予は夫れに依つて、氏の「切火」全體に對する評價の具體的内容を知り、且氏の歌に對する鑑賞の標準を明かにして、更に氏に對して徹底せる予の意見を述べ得るつもりである。
 三、次に氏の擧げた例歌は、
   日の光ら照りみつる〔三字傍点〕海の深蒼〔二字傍点〕に一人ぽつつり〔四字傍点〕眼をひらく
(318)   晝深し禿げし〔三字傍点〕ボーイの頭動く〔三字傍点〕デツキの上の空は青しも
の二首であつて、第一首は「日の光照りみつる海の深蒼に一人ぽつつり魚釣るが見ゆ〔六字傍点〕」と誤り擧げられてある。氏は後に氣づいて、私信を以て訂正して來た。予は氏に問ふ。氏が心をこめて「切火」を批評する際例歌二首を選び、その一首の原作「眼をひらく」を「魚釣るが見ゆ」と誤認し、誤記するに至る迄の、氏の心理的徑路如何。
 四、「アララギ」新年號の予の歌「百日紅」連作八首中
   よべ一夜の嵐に疲れし〔三字傍点〕百日紅《さるすべり》夕日に垂りてうつくしき〔五字傍点〕かも
   地《つち》の上に明るく圓き幹一ぽん立ちの淋しき〔三字傍点〕さるすべりの花
 二首の「ヽ」を施した詞は、主觀的乃至抒情的であつて予の主張(思ふに寫生説を指すべし)を低い所で妥協させてゐると言つてゐる。「疲れし」「美しき」「淋しき」等の語を用ひたために、寫生説を容易に妥協せしめたとは、思ふに寫生主義の我々の歌に對してなされた最初の議論にして、同時に最終の議論であらう。斯の如き議論は、氏が寫生歌と非寫生歌の境界を明規せざる以上無意味である。予は氏に對して兩者の境界觀を示されん事を求む。更に氏は、右の如き歌は、讀者を向うに置いて、手だれの所作を演じてゐるやうな所がある。即ち斯樣な歌には、大分甘い所、やつたな〔四字傍点〕と思はせる所が相當に眼に著く、と言つてゐる。氏は右の二つの歌を「やつたな」と言ふ場當りであり、「短所」で(319)あると斷定するに、如何なる理由と標準を持してゐるか。單に「場當り」であると言ひ去る如きは漫罵である。是亦氏の明かに示説せられんを望む。
 五、氏が「所作」であり、「場當り」であるとする予の歌に關して、氏は更に「畢竟するに氏の本質の上にともすれば表はれようとする機智が、やゝつや〔二字傍点〕を消して、ここに又その頭を顯はしてゐるのでないかと思はれるのである」と言つてゐる。右の内「氏の本質」の意義が不正確である。人間としての予の個性に言及してゐると取れぬ事もない。果して如何。
 六、氏は予の近作を論ずるに當りて、
   夕日照る百日紅《さるすべり》の花よわりたれど土に落ちたるは一つもあらず
を以て、歌の命薄しと成し、
   先生の門人一人愁ひつつ霜夜のふけに來りて去れり
を以て、歌の命ありと成してゐる。兩者の間に爾かく逕庭ありとなす氏の詳細なる説明を煩はさんとす。
 七、東の野に陽炎の立つ見えてかへりみすれば月傾きぬ 萬葉集
   足曳の山川の瀬の鳴るなべに弓月が嶽に雲立ち渡る 同
兩者に對して、氏は所謂「主觀の響」を感ずるか如何。感ずるとすれば、感受の性質及び感受の程度(320)如何。
 附言。寫生主義は、「アララギ」の主義であつて、予一個の專有でない。本文には、特に太田氏に對して書いたものであるから、寫生主義につきて予等と言ふべき所をも、予と言つて置いたのである。   (大正六年五月「アララギ」第十卷第五號)
 
(321) 三井甲之氏の辯駁に就て
 
 三井氏の
   北風の吹き來る野面をひとり行き都に向ふ汽車を待たなむ
の歌を予の批評せるに對し、三井氏は「日本及日本人」四月十五日號に、長い辯駁を載せてゐる。
 予の「待たなむ〔四字傍点〕は他に對する願望の意である。待ちなむ〔四字傍点〕などの誤記であらう。」と言うたのは、單に語句の意義を述べて誤りを指示しただけである。「待たなむ」が他に對する願望の意を現す事は、日本の智識階級の皆熟知する所で、今更疑を挾む餘地なきものである。疑の餘地なき語句の解釋を、その儘に述べる事を文法論と予は思つてゐない。三井氏が、予の「待たなむ」に對して云爲した所を、文法論であると心得て、「文法論をする島木赤彦氏云々」と呼んでゐるのは、寧ろ拍子抜けの感がする。三井氏は、「待たなむ」が自己の動作に對する願願の意と成り得る事を成立させるために數千言の文法論を試みてゐるが、辯ずる彌々多きは、證する彌々難き所以で、三井氏の努力が、日本開闢以來(322)の、祖先の習慣を征服せない以上、氏の文法論は無力である。氏は
 平安朝以後に於て「嘆かなむ」「有らなむ」を他に対する希望の意味に用ゐる語感を作つて來たのは、自然及び人事に對して一種の決定論的運命觀が一般智識階級を支配して、萬葉集時代の抒情詩的主觀的意志の直接表示を志さなかつたからである。我等は萬葉集へ、又は夫れ以前に溯つて自由な言葉と思想とを求めてゐるのであるからして、言ふまでもなく「こそけれ」等の係結などは作歌の上に顧みぬと同じく、同時代以後の語感をも、原始的日本語の夫れによつて打破せむとしつつある。云々と言つて、「待たなむ」「嘆かなむ」「有らなむ」の對他的願望の意なることを、平安朝以來の智識的階級の決定的運命觀に依つて定められた習慣の如く述べてゐる。この習慣を平安朝以後に成つたものと考へる人は、天下廣しと雖も只三井氏一人のみであらう。知らず三井氏は如何なる歴史的材料に據りて、萬葉集時代の「待たなむ」が對自己的願望の意に用ひられたと爲すか。之に對して生ける材料を三井氏が指示し得れば、三井氏は日本に於ける文法學上の大發見者である。
   上毛ぬをどのたどりが川道《かはぢ》にも子らは逢はなも一人のみして
   上毛の小野《をぬ》のたどりがかはぢにも背《せな》は逢はなも見る人なしに 或本歌曰
間遠《まとほ》くの野《ぬ》にも逢はなむこころなく里のみなかに逢へる背《せな》かも
(323) 方言的轉訛を外にして、萬葉集中最も古き時代の語法を代表すと見るべき東歌から數例を擧げて、氏の參考に供する。悉く擧げれば際限がないからである。要するに、氏の「日本及日本人」で成された文法論は、初めから氏の古代日本語に對する無識から出發してゐる。無識から出發してゐる文法論に、氏の所謂「心理的解説」を試みてゐるのは、滑稽を過ぎて寧ろ珍奇である。
 氏は又「待たなむ」は「待たな」といふべき所を、夫れでは一音不足してゐるから「な」の代りに、「なむ」を用ひたのだと言うてゐる。ここの「な」は1いざ結びてな」(萬葉一)「思ふどちかざしにしてな〔右○〕」などと同じ「な」であつて、「結びてなむ〔二字右○〕」「かざしにしてなむ〔二字右○〕」と用ひられぬにても知らるる如く、「な」「なむ」兩者別種の助詞である。假に.大槻氏説の如く「なむ」は「な」に「む」の添つたものであるとするも、兩者相結んで一語となつた以上「なむ」は「な」でもなく「む」でもない。「な」でもなく「む」でもなき「なむ」を、「な」の音數に補足として用ひたと公言するに至つては、氏の文法論は滅茶苦茶と言ふよりも寧ろ横著である。況や斯く言ふ氏自身すらも「なむ〔二字右○〕は分つ可らざる助詞である」と説いてゐるではないか。二つに分つ可らざる者は、二つを合す可らざる者である。氏は如上の論を成すに當つて、「普通の學校用文典をたよりにした餘りに簡明の文法論からは學ぶ所がなかつた」と聲言してゐる。學校用文典には、斯樣な説明は多く省かれてゐるのである。三井氏は、上述の如く古代言語の活動状態を取違へてゐるのみならず、現代普通の文典をも知らずして、文法論(324)を云爲してゐるのである。
 猶予の批評した曩の歌に就て言へば、「北風の吹き來る野面を一人行き」は、矢張り作者の現在野を行きつつある所と解すべきである。「吹き來る」といふ言ひ方は、現在作者の風に吹かれてゐる場合でなければ言ひ得ぬ程の語感を伴つてゐる。夫れを、僕の歌は思想的抒情詩だから、左樣な動作は没せしめんとするのだなど言つてゐるのは、語感に鈍きの致す所である。動作を没せしめんとするならば、斯樣な現實感の多く伴つた詞を避けて、「北風の野」といふ如き詞を使用すべきである。現實感の伴つた詞を用ひながら、「動作を没せしめんとするのである」などは、此の作者には手の屆かぬ註文である。「行き」といふ中止法の詞も同樣である。第四句「都に向ふ」も、甚しく現實感を伴つた詞であるから、第四句に至つて急に汽車沿道に對してゐる感じに變つて來るのである。印ち初句と末句とは各々立場を變へてゐるから、作歌の動機が、初句と末句と各二つに分れてゐると言うたのである。言ひ換ふれば、歌に現れてゐるものは、二箇の動機から歌はるべきものが一首の歌に同居する姿になつてゐるのである。氏は予の茲に使用する「動機」といふ語を非難してゐるが、動機とは一首製作の衝動を感じた心の状態である。一首製作の衝動は純一にして分つ可らざる心の状態である。分つべき二者の一首に同居することを指して、「動梯を二つに考へねば理解出來ぬ」と言うたのは當然の事理である。猶氏は、予の批評が氏の歌の題目「今」なるに注意せず、連作中の一首なる事に注せざるを(325)難じてゐるが、上述の缺點は、題目により、若くは連作なるの理によつて補はるべきものではない。何となれば、歌は題目の從屬ではなく、連作中の一首は、連作なるの理によつて獨立を放縱にせらるべきでないからである。其の他氏は予の文章の細かな詞遣ひに一々注意して誤りを指摘せんとしてゐる。予は歌から見て「調子が緩慢である」とする事を、歌の作者から見て「調子を緩慢にしてゐる」「調子をして緩慢ならしむ」など言ふことを誤謬と思つて居らぬ。「將來す」といふ予の用法は普通と異るが、あの場合予の造語であつて讀者に通じ得る用語と信じてゐる。斯樣な細かい所まで詮議立てする三井氏が、「今」五首を指して、「それは選歌をしてしまつた瞬間の作であつて」と言うてゐるが、三井氏は「瞬間」といふ語の意義を知つてゐるか。總體に氏の文章は、枝葉に亙り、岐路に入つて、眞意を捕捉し難い事夥多しい。一字一語に注意するも結構であるが、夫れ以上に文章構成の要を捕捉する事が必要である。忠實なる讀者ほど、時間と腦力とを浪費するからである。
 猶氏は、作歌が悉く文法論に拘束さるべきものでない事を力説してゐるが、斯樣な論は今更氏に依つて事新しく聞かさるべき議論ではない。眞劔な作歌の經驗を有する人の皆了知してゐる所である。子規なども平氣で文法を破つてゐる事がある。破るのは、破らねばならぬ一首聲調上の要求が力強く充實してゐるからである。聲調上の必要からは、字句の意義を反對にして用ひるに至る事さへ其の例がある。意義を反對にして用ひる語句にも不自然を感ぜしめざる事あるは、聲調上の必要が強度に言(326)語を興奮せしめるからである。文法を破つて氣にならぬのは斯樣な場合である。三井氏の曩の歌の如き緩慢なる聲調は之に與らないのである。   (大正六年六月「アララギ」第十卷第六號)
 
(327) 阜上漫語
 
 歌は、内心の衝迫を直ちに三十一音に現せばいい。表現の苦心などをするから、衝迫の氣勢を逸するのである。など言つてゐるのは、容易に過ぐる銀論である。内心の衝迫を直ちに三十一音に現し得る人があらば、予は直ちに其の天才の前に跪く。天才ならずして、斯樣な議論を唱へてゐる人は、自己内心の衝迫を粗大に輕易に取扱つてゐる人である。作歌の動機に對して敬虔なればなる程、動機中の一微動をも逸せしめざらんことを務むれば努むる程、表現は容易ならざるものとなるのである。一微動とは輕易なる動きを意味するのではない。感動高潮し來る最後の一微動である。薪を加へて始めて湯を沸かし得るに至る最後一本の薪である。白熱に達し得ると、得ざるとの岐るる毫末機微の熱である。吾人の歌稿を再抹し三抹して更に紙を更ふるに至らしむるものは、この最後微細な心の動きを現し得んと希願するの努力である。此の微細なる差は、殆ど零《ゼロ》と無限大とを分ち、價値と無價値とを(328)分ち得る程の差である。表現の努力を知らざる者は、斯樣な機微と交渉なしに容易なる説を成し得るが故に天才でないのである。
       〇
 多くの歌人が土田耕平の歌に注意し得ないのは、現代歌人が作歌動機の微細なる動きに參し得て居らぬからである。強烈なる者は眼につき易い。深く幽かなる者は凡眼に入り難い。耕平の歌の世人の眼に觸れぬのは、深く潜んで自ら愛してゐるからである。   (大正六年六月「アララギ」第十卷第六號)
       〇
 予には今睡眠が必要である。睡眠を必要として睡眠の時間が得られぬ場合は、從來の睡眠の方法を改めるより仕方がない。同一時間の睡眠でも、淺い睡眠と深い睡りがある。方法を改めるとは、淺い睡りを深い睡りに改める事である。零碎な時間の餘りをも惜んで睡眠に用ひる事である。睡眠の必要は自ら左樣な方法を求め、左樣な方法を知り、左樣な方法に習熟させる。予は今往々數分間の豫定を以て電車の腰掛に眠る事と、數分の後必要の停留場に眼を醒す事とをなし得る。布團に坐《ゐ》ながら机に向つて、頭が疲れると十分二十分體を横へて睡つて起きる事をもなし得る。つまり予は以前に比すると、睡眠の技巧が進歩したのである。睡眠の必要が睡眠の技巧を進歩させたのである。予に睡眠の必(329)要が、もつと急迫して來たならば、もつと靈妙な睡眠法を發明するに至るかも知れぬ。發明せないのは未だ必要が夫れまでに急迫してゐないからである。歌の技巧を手先きの細工論だなど考へてゐるのは、歌ふべき必要が緩慢な人達の欠伸論である。
       〇
 一念とは最短の時間である。二十念を一瞬頃と名け、二十瞬を一弾指と名け、二十弾指を一羅豫と名け、二十羅豫を一須臾と名けると物の本にある。佛教の、心を究むる奥所に至るが故に、斯樣な微妙な時間にまで問題が觸れるのである。精妙な秤器《はかり》は一微塵の重さにも感ずる。物質を窮むる奥所に至る科學者が斯樣な秤を必要とするのである。我々の歌は一念の微と、一微塵の細にまで問題が觸到して居るから苦しむ。然らざる以上短歌の如き詩形を有する詩の製作と、其の評論は至極簡單容易なものになるのである。柱時計と臺秤があれば、日常生活に事を缺かぬと云ふ程度のものであるからである。
       〇
 何物にも不滿だと言ふものがある。何物にも不滿だといふ言葉は、偉れた人からも聞かれる。劣敗者からも聞かれる。
(330)   瓶にさす藤の花ぶさ短かければ疊の上にとどかざりけり
 これは、子規が、三十四年晩春或る夕暮に、枕頭の藤を見て、久し振に感興が湧いて作つた連作中の一首である。この歌を以て、單に外形的な寫生の歌とするものが多い限り、歌界は相變らず主觀の冴えと其の機微とが分らないで通つてゐるのである。
       〇
 人麿は「妹が門見む靡けこの山」と亢奮してゐると同時に、「笹の葉は深山もさやにさわげども我は妹思ふ別れ來ぬれば」と歎いて、自然の前にしをらし〈〔五字傍点〕してゐる。子規は「本庄の四つ目に咲ける紅の牡丹燃やして惡き歌を焚け」と歌ふと共に、「ありなしの風か過ぎけむ椎の者の若葉三葉四葉動きてやみぬ」と歌つてゐる。天に晦明あり、海に動靜がある。晦明、動靜を以て二箇の心から生れるとなして、天地の心の廣さを測るべきではない。予は激した歌を作ると共に、靜かな歌を作る事を以て、作歌の態度の動搖とする如き鼻先の議論を遠慮なく排斥する。之を、歌を離れて單に心の問題として見ても同樣である。動く心の大なれば大なる程、靜なる心が深く存せねばならぬ。併存ではない、共存である。共存ではない、兩者同體である。假に兩者その一を缺けば、その何れもの一つは力あり、根柢あるものではあり得ないのである。戰の最中へ來て「兒玉どん音は何處だい」と聞いた大山元帥の心である。後三年役に使つた弓かと上皇に問はれて、「忘れました」と答へた義家の心である。(331)これらの心を以て坊間英雄譚の一節として、輕々に看過する如きは冥利に離れた勿體ない心である。
 人を殺すは一本の刀で足りる。胸を貫くは穴一つの心臓でいい。歌の命を制するものは常に微細な所に有る。前の歌で言へば「さわげども」である。「牡丹燃やして」である。「若葉」である。
       〇
 三井甲之氏が茂吉と小生の歌を「日本及日本人」で細評してゐる。茂吉の「物こほしく家を出でたりしづかなるけふ朝空のひむがし曇る」は、第一二句が概括的であつて、第四五句が敍景であるから一首に統一がなく、一句づつばらばらになつて散布的印象を與へる。そして肉體を部分的に強調しようとする化粧又は服裝の目につく如きものである。といふのである。一首中の一部が敍景であれば、他も敍景で無ければならぬといふつもりであらう。斯樣な説は世に珍しき説であるだけに、三井氏の説明をもつと詳しく述べる必要がある。三井氏は我々の歌を單なる敍景であり、外形的の寫生であると思つてゐると間違ふ。今の時に當つて單に敍景など謂ふ詞を以て我々の歌を批評するのは、氏が久しく歌から遠ざかつて、一般評論に頭を向けてゐた爲に担架の進歩に後れた證據である。そんな程度で歌の議論をするのは、我々には少し大儀である。肉體を部分的に強調しようとする化粧と見えるのは、此の歌の何處を指すのであるか。特に「けふ」は一首の命を引き緊めこそすれ、この詞を挿入し(332)て呼吸をゆるめて思想を區劃して部分を強調する云々、と言ふが如き事は如何なる方法を以ても説明出來ぬ所である。序を以て言へば「物こほしく家を出でたり」と第二句で切つたら、全體はここで分たれると考へる如きは、幼稚な鑑賞者のする所である。乙字氏が予の「椿のかげ女音なく來りけり白き布團を乾しにけるかも」を、第三句で両分されてゐると考へたと同じ程度の考へ方である。小生の歌「踏みのぼる冬木の坂は霜ながら幾日雨降らぬ土は乾けり」に對しては、第一に「冬木の坂」といふ詞は俳句に於ける省略法の間違つた適用であると言つてゐる。「冬木の坂」は必しも俳句から教はつた詞ではない。「青葉の山」「芭の岡」などと同種類で、俳句にのみ用ひられる詞と思ふのは三井氏の誤認である。三井氏は、曩に「有らなむ」「行かなむ」が奈良朝時代に如何なる意義で用ひられてゐたかを全然知らぬのに、知つてゐるやうな物言ひをし、今は又、俳句にのみ用ひられるか如何かといふ簡單な事柄をもよく窮めないで、「冬木の坂」を「俳句の語法の適用」だなど斷ずるのはすべてに怠けてゐる惡い習慣を現してゐる。「幾日雨ふらぬ土は乾けり」が三井氏に窮屈に感ぜられるのは、予の求むる聲調は三井氏の求むる聲調と相異るより來る自然の感じの相違である。氏の歌の調子の緩慢な事は前既に擧げた通りである。左樣な歌を作つてゐる氏の要求が、予の歌に當嵌らぬのは當然である。予等に對する三井氏の批評の如何なる種類のものであるかを知るために、茲に一例を摘出する。   (大正六年七月「アララギ」第十卷第七號)
 
(333) 三井甲之氏に
 
 問題を多岐に亙らせてはなりません。貴下は「待たなむ」の「なむ」を自己に對する願望の意を現すと思惟してゐたのに對して、私は只其の間違を訂しただけの事實です。夫れに對して貴下が右の場合の「なむ」が自己に対する願望の意を現す事を主張するならば、先づ積極的にその例證をお擧げなさい。例證なしの文法論は空論です。決して國語の本質に隨順したものとは言へませぬ。その樣な文法論を何度も繰り返す事は、名譽な文法論でありません。思ふに貴下の如き亂暴な文法論の證左に立つ用語例は、古來何れの處にも未だ曾て有りますまい。有るならばお示しなさい。無いならば天下公衆の前に、無益な議論を憚つてお止めなさい。要は初めより簡單明瞭の事柄なのであります。
 氏は又「潮音」に「咲かなむ〔四字右○〕と逢はなむ〔四字右○〕との間に重要の區別があるとするのです。共に動詞の未然形につづいた「なむ」でありますが、一方は咲く〔二字右○〕、一方は逢ふ〔二字右○〕といふ動詞ですからして、動詞の意義内容が助動詞の意義を規定する點に著眼せねばならぬと存じます。」と述べてゐる。氏の平安朝以後語(334)感の變化云々の説はもうあれで終つたのですか。終つたとすれば、あの説は日本文法史上何等の根據なき説であつて、貴下の勝手に捏ね上げた間に合せの説といふことに定まりますが、夫れで差支ありませんか。差支あるならば、所謂「平安朝以後語感の變化」説を今少し向うへお進めになつては如何ですか。此の點につき明瞭な御意見を伺ひます。
 「一方は咲く〔二字右○〕、一方は逢ふ〔二字右○〕といふ動詞ですからして、云々」の御説は「日本及日本人」所載だけでは何を言はれるつもりか未だ分りませんが、貴下の論點が移動して來たことだけは、想像がつきます。「そこに著眼せねばならぬ」などと曖昧な詞を廢めて、「咲くく」、「逢ふ」と「なむ」との關係に、如何なる區別ありとするかを明瞭にお述べになる事を望みます。
 夫れから、小生が「知らず三井氏は如何なる歴史的材料によりて、萬葉集時代の待たなむ〔四字右○〕が對自己的願望の意に用ひられたとなすか」と問うたのに對して、貴下は「萬葉集時代の待たなむ〔四字右○〕が云々と言つたことは無い」と言つて居られる。貴下は一旦公言した事の責任から遁れてはなりません。貴下が「平安朝以後に於て咲かなむ〔四字右○〕、有らなむ〔四字右○〕を他に對する希望の意味に用ゐる語感を作つて來たのは、自然及び人事に對して一種の決定論的運命觀が一般智識階級を支配して、萬葉集時代の抒情詩的主觀的意志の直接表示を志さなかつたからである。我等は萬葉集へ、又は夫れ以前に溯つて自由な言葉と思想とを求めて居るのであるからして、言ふまでもなく、こそけれ〔四字右○〕等の係結などは作家(歌)の上に顧み(335)ぬと同じく、(赤彦曰、此處にこそけれ〔四字右○〕の如き不要の例を引きて、同じくなど彼此一括して説く等、貴下の文章の曖昧にして横著なりと思はしむる適例である)同時代以後の語感をも、原始的日本語の夫れによつて打破せむとしつつある」と「日本及日本人」四月十五日號に言はれてゐるのを捉へて、予は貴下が「萬葉時代の待たなむ〔四字右○〕が對自己的願望の意に用ひられた」と説くものであると言つたのであります。貴下が如何に強辯しても、これは仕方ない事であります。貴下がさうでないと辯解されても、貴下の文章を讀むほどの人は、悉く小生と同じ解き方をすると信じます。貴下も亦左樣な考を以て、あの筆を執られたに相違ありません。自己の非を蔽ふために、詭辯を弄して曖昧な取消し方をするやうな貴下でない事を信じますから、一度胸を鎭めて、貴下の自分から書いた文章を精讀あらん事を望みます。
 小生は貴下に對する「なむ」の議論は、もう疾くに解決ついた議論と信じてゐます。貴下が間違つてゐた事を、貴下自身が訂正なさればそれで問題は終るのです。
 序に本論と違つた事柄で一つ貴下に質問します。貴下は小生の歌に「冬木の坂」といふ句のあるのを指して、俳句の省略法の間違つた適用であると言はれました。それに對して小生は、「アララギ」七月號で「冬木の坂」は「青葉の山」「芒の岡」などと同じ句法であつて、必しも俳句の語法を適用したのでないことを述べて置きました。夫れに對する貴下のお答を待ちます。貴下の文法論は、多くの(336)場合支離滅裂であります。そしてよく正しき日本語なとと口にされます。左樣な事を口にされるのには、も少し日本語に對する理解を正確にされん事を望みます。   (大正六年八月「アララギ」第十卷第八號)
 
(337) 「なむ」の議論につきて
 
 「なむ」につきて三井甲之氏と議論をすることを止める。止めるべき機が來てゐるからである。
 議論の始まつたのは「日本及日本人」に載つた三井氏の歌、
   北風の吹き來る野面をひとりゆき都に向ふ汽車を待たなむ
を小生が批評して、言偶ま「待たなむ」の誤用に及んだからである。誤用を指摘するのを文法論と心得ぬ小生は、この歌の價値の認め難いを多く説いて、「なむ」の誤用なるを示すに一行餘を用ひた。誤用を示すは一行餘で足ると思つたからである。初めから文法論をする積りならば、今少し多言を用ひたかも知れぬ。多言を用ひなかつたのは、多言を用ひて初めて理解し得るほどの問題でないからである。文法論は、三井氏が「待たなむ」を自己に對する願望の意に使用し得る事を文法上成立させようとする努力から始まつたのである。三井氏は予に対して「日本及日本人」四月十五日號に(1)「咲かなむ」「有らなむ」を他に對する希望の意味に用ひる語感を作つたのは平安朝からでゐると明言し、(338)(2)然る語感を作るに至つたのは、平安朝以後自然及び人事に對して一種の決定論的運命觀が一般智識階級を支配して、萬葉集時代の抒情的主觀的意志の直接表示を志さなかつたからであると斷じ、(3)我等は萬葉集へ、又は夫れ以前に溯つて自由な言葉と思想とを求めてゐるのであるからして、平安朝以後の語感をも、原始的日本語の夫れによつて打破せむとしつつあると揚言した。
 萬葉集へ溯つても「咲かなむ」「有らなむ」が自己に對する願望の意を現さぬと信ずる予は、三井氏の提言の無稽にして、立論の亂暴なるに驚いた。「アララギ」六月號に予は「咲かなむ」「有らなむ」が平安朝に至つて他に対する願望の意に變つて來たといふ議論の根據が、如何なる日本古代語を例證として論ぜられてゐるかを質問した。例證の擧る擧らぬは、氏の此の論議を根柢的に死活せしむるものであるからである。氏は爾來「日本及日本人」その他で、「なむ」に對する樣々な枝葉論をしてゐるが、未だ一言も氏の立論を活きしむべき例證に言及してゐない。言及出來る筈のない例證に、言及せぬのを不審に思はぬ予は、如上重大な自家の立論に對して、責任を明かにせんとせざる氏の態度に不審を抱くものである。特に氏が此の事に対して一旦公言した言責を免れんとする如き態度を執つて「萬葉時代の待たなむ〔四字右○〕が云々と言つた事は無い」といふが如き言を爲すに至つては、(「日本及日本人」七月十五日號)議諭を進むる前に、議論の神聖に就て考慮するの必要を生じて來るのである。
 自家の立論に例證を與へることを憚る氏は、平安朝以後語感の變化云々の論を撤去せるかとはる(339)るまでに、夫れについて爾來全く無言である。その代りに更に新しい立論を提示し來つた。それは
僕がなむ〔二字右○〕に就て論ずる場合には、咲かなむ〔四字右○〕と逢はなむ〔四字右○〕との間に重要の區別があるとするのです。共に動詞の未然形に續いたなむ〔二字右○〕でありますが、一方は咲く〔二字右○〕、一方は逢ふ〔二字右○〕といふ動詞ですからして、動詞の意義内容が助動詞の意義を規定する點に着眼せねばならぬと思ひます。ここが一般學校用文法よりも一歩進めて考へねばならぬ所です云々。(「潮音」七月號)と言ふのである。これ丈けでは何を論ずるつもりであるかさへ明瞭でない事を、「アララギ」八月號に述べて氏の注意を促したが、更に詳論を期すると言つた「日本及日本人」にも、此の點について明瞭な議論をせんとしない。即ち氏は一立論の片付けを濟まさずして他の立論に移り、更に新しき立論に對しても、精確なる論旨の敍述をすら爲さんとしない。言ふ所は、毎月數百千言にして悉く問題の要旨から離れた枝葉論である。茂吉氏の助太刀が何うであるとか、茂吉、赤彦両者の考が違つてゐるとか、古代語に精通する前に現代語を正しく使へとか、言ふ所多く左樣な範圍を出ないのである。
 中には、四月に「なむ」は分つ可らざる助詞であると言つてゐたのが、九月になると「助動詞のなむ〔二字右○〕が正則の用法を捨てて未然形につづくやうになつた」ものとされて随意に變化してゐる。凡そ斯の如き議論に力を費すことは閑人ならざる予の忍び難い所である。「なむ」の議論を止める事は、時間と力の經濟済から考へて利益でゐる事を氣づかしむるに至つた責任者は自ら存せねばならぬ。氏と予と(340)の間に「なむ」の議論を止める可き時機は自ら來てゐるのである。或は、氏が「待たなむ」の語感が平安朝に變化したとなして、それが平安朝以後の決定論的運命觀が云々したといふ説明(氏はこれを自ら心理的説明と言うてゐる)を聞いた時、予の起した驚異の情と共に、議論を止めるべき時機は來てゐたのかも知れぬ。來てゐることを覺つたのは、爾來氏の數月に亙つて數百千言を費した後であつた事を遺憾とする。終りに臨んで、議論を止めるといふ事は、予の今迄の言責を捨てるといふ事でない事を明かにして筆を擱く。   (大正六年十月「アララギ」第十卷第十號)
 
(341) 阜上偶語
 
       〇
   どんよりと空は曇れど〔三字右○〕夏川の岸の青柳をりをり揺るも
   どんよりと空は曇れり〔三字右○〕夏川の岸の青柳をりをり揺るも
 二つの歌を比べて、表現の微細なる相違の、歌柄に及ぼす所を領得すべきである。表現の相違にして、同時に感じ方の相違である。詳しくは感じ方の樣式の相違である。感じ方の樣式の微細なる相違が、自ら相違した表現となつて、歌柄を兩者に分つたのである。鑑賞者と作歌者はこの關係の領得を輕忽に考へてはならぬのである。   (大正六年十月「アララギ」第十卷第十號)
 
(342) 甲之氏の作歌例と批評例
 
 「日本及日本人」八月一日號には三井甲之氏の歌が澤山載つてゐる。
  「吾子のやまひみとりつつかく我がふみ」とよみしことなど思ひ出しつ
といふ括弧付きの歌をはじめとして、
   歌えらみをへてふたたび論文の筆とらむとすれば材料多し
   友のふみ雨のふるごとしげければ〔雨〜傍点〕ひとりすめども心にぎはし〔ひ〜右○〕
   うつし世を單純化せんとひじりぶりさかしらに言ふ木偶の如き人ら
   うつし世を二つに分けて片々を贔負せむなど思ふはしれものぞ
   平等の世界のみみて動亂の情意の生をしらざるか彼等は
   生のままに無限の變化と複雜とわれらはわれらの歌にうたはむ
といふ種類の歌が十數首竝べられてある。  氏等の歌と共に當世珍歌壇中に收むべき種類である。(343)觀念若くは概念の記號であるに過ぎぬ點に於て、與謝野晶子氏等の歌に通じ、歌の聲調の緩慢なる點に於て古今集以下の歌と心相通じ、卑俗なる點に於て香川景樹等を凌駕するに足りる。「友のふみ云々」の歌の如きは、就中その代表者である。斯樣な歌を紙上に駢列する勇氣ある三井氏の眠から、伊藤左千夫の歌が邪道に入れりと見え、長塚節の歌が晩年享樂的になつたと見えるのは、左千夫、節等の安心して受ける所であらうと思ふ。この三井氏が「日本及日本人」に毎號小生等の歌を批評してゐる。最近小生の歌、
   かがまりて少女水汲めり崖のうへの杉生に晝の風音きこゆ
に對して「少女水汲めり」といふのは、「水を汲んでしまつた」ことで、水を汲んでゐる動作を示さうとするのではない。と言つてゐる。動詞四段活の第三終止法(既然法)の活用に「ら」の付く場合、「ぬ」「つ」「たり」などの助動詞と同じく小過去を現すといふ普通文典の法則を以て、斯樣な論を成すのであらう。三井氏の屡々言ふ所の、普通の文典などを以て歌を論ずる可らずとするは、斯樣な場合を言ふのである。文典に於て、小過去を現し、中過去を現し、大過去を現すとせらるる助動詞が、歌の上に必しも過去の意味に使用せられずして、單に語勢を強むるため、或は詠歎の意を現すために用ひられてゐる事は、古代よりの歌に一通り眼を通してゐるものの皆知る所で、今更ここに述べるのは兒戯に類する程の事である。
(344)   春雨を待つとにしあらし吾が宿の若木の梅も未だ舍めり〔三字右○〕の「含《ふふ》めり」を過去の意味とすべきでない。
   久方の天ゆく月を網に刺し我大君は蓋にせり〔四字右○〕
の「蓋《きぬがさ》にせり」も同樣である。
   大君は神にしませば天雲の雷《いかづち》のうへに廬せる〔三字右○〕かも
   沖つ汲來依る荒磯を敷妙の枕と纏《ま》きて寢《な》せる〔二字右○〕君かも
   茜刺す日は照らせれ〔四字右○〕ど烏玉の夜わたる月の隱らく惜しも
三井氏は之等附圏の助動詞の場合を、「水を汲んでしまつた事で云々」の評と同じに押し通す事が出来るか。其の他「たり」「けり」等の助動詞の場合も同樣である。
   世の中は空しきものと知る時しいよよますます悲しかりけり〔二字右○〕
   久方の雨のふる日を只一人山べに居れば鬱《いぶ》せかりけり〔二字右○〕
   天の原ふりさけ見れば大君の御壽《みいのち》は永く天足らしたり〔二字右○〕
   春過ぎで夏來るらし白妙の衣乾したり〔二字右○〕天の香具山
の「けり」「たり」は、必しも過去を現してゐないのである。小生の前の歌の「水汲めり」を過去の歌に解すべきか如何かは、少しく歌を知るものの皆解し得る所である。「アララギ」六月號にも述べ(345)た如く、氏の、歌に對して要求してゐるものの程度は、甚しく遲れてゐて、鑑賞は甚しく粗笨である。その遲れてゐるものが氏の歌に如何樣に現れてゐるかは、前に掲げた氏の歌例を見てよく分る所である。「水汲めり」の批評の如きは、氏の考察の如何程に粗笨であるかをよく現してゐる例であるから、氏の歌と氏の批評と併せ見るの便を思うてここに擧げて見たのである。
   又風の音は耳に聞ゆるのであるが、それを「崖の上の杉生に」と眼で見るやうにいふのは、不自然の技巧の破綻である〔不〜右△〕。又「晝の風」といふのは知的反省〔四字右△〕を經た言葉で「風の音聞ゆ」といふ直觀的敍述〔五字右△〕と一致せぬ。此の如き罅隙だらけの歌を新しいと思つてゐるのであらう。
と言つてゐる。杉生を眼に見て、その風音を耳に聞くが何故に不自然の技巧の破綻であるか。殊にこの歌の場合は水を汲む少女が主であるため、杉生の眼に見える事に力を入れずして、單に「崖の上の杉生」と淺く歌つてゐるのである。この邊の消息が粗笨なる三井氏の鑑賞に觸れぬ事、今更怪しむ必要はないのである。「晝の風」が知的反省を經た言葉と言ふのも甚だ分らぬ事である。「夜の風」「朝の風」「夕の風」は何うでゐるか。改めて言へば、予の之等の歌に對して自ら不足を感ずるものは、他に多くの理由を持つ。必しも斯の如き歌を以てよしとして得意でゐるものではない。只三井氏の批評は運惡く一度も予の念とする所に來り觸れる事がない。氏の歌を見ても前例の如きである。批評を見ても斯の如きである。歌人としての氏の程度の遲れてゐる事、短歌批評者として氏の鑑賞の甚しく粗(346)笨である事に自ら氣づく時があるか否かを測り得ぬのである。
 次に小生の歌
   水を汲む少女の腰の赤き布羊齒のなかに裸なるあはれ
に對して、氏は、初二三句は露骨の感覺的の言ひ現しで、第五句は情操の告白であるとして「官感から情操への綱渡りも一の技巧であつて、それが世間から喝采を博する秘訣であらう」と冷笑的に批評してゐる。氏の如く、外形のみを見て、内に通ずる生命に觸れる事を知らない粗笨な見方をする人には、「あはれ」などの文句がなければ情操の告白ではないと思ふのであらう。これは嘗て、茂吉氏の歌に對して爲した氏の批評にも現れてゐる所で、七月號「アララギ」に夫れに對する小生の批評を書いて置いた筈である。感覺から情操への綱渡り云々に至つては、一層滑稽である。假に氏の見方及び用語其のままを以て言へば、古來多くの歌で氏の所謂「綱渡り」なるがために價値を減ずるものあるを見ない。寧ろ感覺乃至認識より來る衝動から感情に進むは、自然の順序であつて異とするに足らない事である。況や氏の所謂感覺情操と區別して言ふもの、一首のうちに於て必しも相分つ可らざるものにして、感覺を敍するは同時に情操を敍するのであり。情操を敍するは感覺を對照とし感覺と合致しての事である場合多きに於てをや。(殊に感覺と言ふは、氏が感覺と情操との關係につき云爲してゐるのに對して言ふのである。廣くは一般に知的認識と情意的活動との關係として説くべきである事勿(347)論である。)例へば
   秋の田の穗の上に霧らふ朝霞いづべのかたに吾が戀やまむ
   松の葉に月は移りぬ黄葉の過ぎしや君が逢はぬ夜多みゐ
   波の上よ見ゆる小島の雲隱りあな氣衝《いきづ》かし相別れなば
に就て考へたら如何であるか。斯の如きは、嘗て、三井氏の發行した「アカネ」明治四十一年五月號に於ても予の論じた所であつて、予としては七八年前に逢著した問題で、今頃斯樣な議論をする必要のあるのは、三井氏の考へが七八年も遲れてゐるためである。久しく歌から遠ざかり、且つ作歌の上にも幼稚なる事前掲の如きを公表してゐる氏は、作歌し若くは評論する上に、當分愼重な反省と工夫とを要するのである。
 猶氏は小生のこの歌について、
  此歌の主語は言ふまでもなく「赤き布」である。「赤き布の裸なる」とは何を意味するであらう。云々
と言うてゐる。
 此の歌は、第三句の終りに「を見れば、その少女は」など入れて解すると分るのである。
   秋の田の穂の上に霧らふ朝霞いづべのかたに吾が戀ひやまむ
(348)が、第三句の下に「を見れば、その如く」などを入れて解すべきであり、
   さ牡鹿の入野の芒初尾花いづれの時か妹が手まかむ
が、第三句の下に同じく「を見れば我は」などを入れで解すべきであると同じである。斯樣な事は歌の第三句切の如何なるものであるかを領得し得ねば分らぬ所である。只この歌は例へば、
   眞裸の女《をんな》の腰の赤き布|羊齒《しだ》の下《した》水《みづ》を汲み居りあはれ
など雁に斯の如き詠みぶりに行つた方が歌ひ方が自然である。併し夫れは「赤き布」が主語であるなどいふ議論とは無關係である。この歌の現し方については予は猶考慮中である。   (大正六年十月「アララギ」第十卷第十號)
 
(349) 獨創的批評を望む
      ――「短歌を批評する予が態度」なる題を得て――
 
 近頃短歌の批評は可なり盛に行はれてゐますが、總じてもつと獨創的なものの現れることを望みます。獨創的なものといふ事は、必しも異を樹《た》てるといふ事ではありません。眞實自己内心の要求に根ざした必至的標準を以て臨むべきをいふのであります。眞實自己内心の要求に根ざせば自ら評者の特質が必至的標準となつて現るべきであつて、其處に獨創的な批評が自然に行はるべきであります。短歌に對する眞實なる内心の要求がなくて、若くは要求はあつても甚だ影の薄い朦朧たるもので、漫然批評をするといふやうな種類は、盛に現れれば現れるほど附《つ》け景氣のお祭り的なものになつて來て、批評の權威は立ちません。
 此の點に於て、短歌批評者は短歌に對して内心に深き接觸を有して、そこから根強き要求を生んで居らねばなりません。批評の權威はそれ以外のところからは生れません。現今の短歌批評には、批評(350)者が何を要求してゐるのか分らん樣なものが隨分あります。批評界の樣子を伺つて、その形勢に同じようとする樣な低級なものも隨分現れます。現今短歌批評は盛であるが、未だ嚴肅ではありません。
 短歌は形が小さいから、一語一音の微細なる感覺をも分ち得るほどの、鋭敏な語感を持つた人でなければ、作歌も批評も出來ません。其の點に於て、現今の作者も批評者も案外不用意であります。強い調子を以て貫かんとする歌の中に、弱い調子の語句が挾まつてゐるのを、作者も平氣であり、批評者も平氣であるといふやうな例は幾らも目に觸れます。只一つの弖仁乎波でもその響きによつて歌全體を破《こは》す事も、生かす事もあります。左樣な所まで立入つてゐる批評でなければ、歌といふ短詞形の批評は本當なものになりません。
 平賀元義が、
   この川の雄神の川の水底よ眞白の龜の生《あ》れ出でしかも
といふ或る人の歌に對して、「眞白の亀の〔右○〕」では手弱女のくねくねしく聞えていけぬ。「眞白の龜し」であるべきなりと言つてゐるのは、元義が如何に語感に鋭敏であり、如何に歌の聲調に關心してゐたかが窺はれる。夫れほどの敏感が伴はなければ、作歌者としても、批評者としても、如何に要求ばかり高くても、權威ある歌は生れず、權威ある批評は出來ぬのであります。これは特に短歌の詩形が短い所から起る必至的條件であります。
(351) 一字一句の末に拘泥してゐては立派な歌は作れぬし、立派な批評が出來ぬなど思ふ人があれば、その人は作歌者としても、批評者としても力を有ち得ません。
 現今目に觸れる短歌批評から、不斷氣づいてゐる事の主な一二を拾つて參考に供します。   (大正七年「青年文壇」四月號)
 
(352) 阜上偶語
 
       〇
 
 水害後の左千夫先生お宅を訪ねながら考へた。東京の最低地は毎年の雨期に必ず大小の水害に見舞はれる。こんな低濕の地は水害がなくても永久に人間の棲む幸福地とはなり得ない。こんな土地の住民は一日も早く他に移住の策を立てさうなものであると思ふが、破れた家や庭を片付ける端からもうその修繕に取り掛つてゐる。土と人とは洪水の迫害位では、引き離せぬほどの※[夕/寅]縁力を持つてゐるのである。我々の土から得てゐる力は、生るるより恐るべく我々の心に浸潤してゐると共に、我々の心は恐るべき力を以て土を捉へてゐるのである。予は初めて逢ふ人に、多くその人の出生地を問ふ。出生地の土の匂ひは、生涯その人に付き纏つて殆どその人の性格の基調を成さんとする程の觀があるからである。この事は直ちに作者と作風との關係に關聯する。我々は生れ落ちた土の最も高き匂ひと、最も純粹な色とを保存して生きて行く事が、自分を最も自然に築き上げるうへの、基礎的條件ではな(353)いかとまで思つてゐる。   (大正七年三月「アララギ」第十一卷第三號)
       〇
 予の感動が或る物を捉へて之を歌はんとする時、歌の出來上るまで努めて予の感動を人に語らず。語らざるは人に秘するにあらず、一度にても二度にても人に語れば、發表の衝動は夫れだけ薄らぐわけにて、自然歌に集注するの力の放散を感ずるが故なり。加之、予の歌はんとする感動が重大なれば重大なるほど容易に歌に書手し得ず。著手する時恐怖心起る故、夫れのみにても著手の容易ならぬ心地す。歌を作るに恐怖心起るなど馬鹿げたるやうなれど、恐怖心の起るは單に臆病なるが故なりと言ひ去る人ある時、予には夫れよりも、嚴肅なる意味を以て人間の心を考へんとするの必要を感ず。猶加之、作歌の動機重大なれば重大なるほど、予には永く之を心に保持するの必要あり、咄嗟の感激が咄嗟に歌に現るるなどいふ事、歌人の多く口にする所なれど、予の經驗する所と予の念とする所は、之と相距る遠し。   (大正七年五月「アララギ」第十一巻第五號)
       〇
 選歌の排列の順序を愼重にして下さいといふ再三の註文が來た。初めへ出ると心持がよくて、終り(354)へ出ると心持が惡いといふのである。從つて順序を愼重にするといふことは、奬勵のためにも便利であるといふのでゐる。「アララギ」は歌の選者が今の二三倍になつて、選者の手數が二三倍減ずる時が來ても、歌の排列の順序について心を用ひるだけの興味は湧いて來さうにない。今の所數の多いのを比掛的前にして、少ないのを比較的後にしてゐるが、夫れも定まつた方法ではない。數の多いの必しも傑作ではなく、數の少ないもの必しも傑出せぬの理はない。要は少數でも傑作を得ればいいのである。
 一體雜誌の上の排列順序によつて奮勵される作歌者の心といふものは何んなものであらう。左樣な心の持ち主は、我が「アララギ」には極めて少ないのであらうと今でも思つてゐる。從つて再三の忠告に對しで選歌排列の順序を何うするといふ興味を起し得ないのである。我々には今安眠が必要であるのである。  (大正七年七月「アララギ」第十一卷第七號)
 
(355) 大隈言道の歌
 
 佐々木信綱氏は大隈言道を以て近世歌壇の第一人者とする。(帝國文學八月號)予は言道を以て宗武、良寛、元義等に比し※[しんにょう+向]かに歌品の几下なるものとする。佐々木氏は言道の特色として第一に「自我の覺醒を擧げてゐる。自我の覺醒が傳統の覊束を脱して個性的自由の歌境を拓き得たものを言道なりとし、更に夫れが形式的には取材の自由となりて現れ、修辭用語の自由となりて現れ、内容的には彼の個性たる樂觀的輕快の情調を傳へ得てゐることを説いてゐる。佐々木氏が言道を以て近世歌壇の第一人とする理由は、大體右の諸點にあると見て不可ないやうである。元來、人間が眞に祖先の傳統を※[手偏+罷]脱することが出來るか否かは人間の本質に對する根本的の問題である。特に日本民族特有の和歌が、日本民族によりて作り出さるる限り、所謂傳統の※[手偏+罷]脱が如何ほどの程度に於て考へらるべきかは殆ど推測し得る所である。吾人の考ふる所を以て言へば、人間の最高なる活動は「傳統の※[手偏+罷]脱」といふ如き外在的目標の下に動かずして、只本質的に眞實なる自己の發現のみを目的とすべきである。(356)眞實なる自己の發現と其の發達變遷が、永久に亙つて傳統の※[手偏+罷]脱であるか、傳統の發達であるかは輕々しく斷定すべき所でない。假にそれらの發達變遷を以て傳統の※[手偏+罷]脱なりとするも、※[手偏+罷]脱そのものは直ちに※[手偏+罷]脱の價値にはならない。佐々木氏が言道を論ずるに當つて、劈頭に彼の歌論を掲げて、彼の囚はれざる歌を唱道し、囚はれざる歌を作すを以て、直ちに彼を近世の大歌人となすは、所謂傳統※[手偏+罷]脱の外的條件と内的價値とを穿き違へんとするの危險を冒すものである。予の見る所を以てすれば、言道は萬葉集を遺憾なく※[手偏+罷]脱した歌人であると共に、古今集の精神からどこまでも※[手偏+罷]脱する事の出來なかつた歌人である。此の點に於て彼は紛れもなき古今傳統者である。何をか萬葉集から※[手偏+罷]脱せりと言ふか。雄渾の氣魄なき其の一である。調子の低卑なる其の二である。感情意志の直接表現を知らざる其の三である。何をか古今集の傳統者なりといふか。小主觀に没頭する其の一である。小才の利ける其の二である。歌品平俗なる其の三である。若し夫れ佐々木氏の擧げて取材の廣きとなすもの、修辭の多方なりとなすもの、用語の自由なりとなすもの、畢竟彼が上述の歌を成すに使用せらるるの材料たるに過ぎざるに於て論ずるを須ひぬほどの些末な問題になり了るのである。要は言道の歌の價値の根本的考察にある。而して予の茲に擧げたる萬葉※[手偏+罷]脱の三箇條と、古今傳統の三箇條とは、彼の歌の價値を根本的に考察する必須的條件たり得べきを信ずる。予は一々材料を彼の歌の實際に取つて之を立證して、直ちに佐々木氏の蒙を啓けば足るのである。歌列は佐々木氏の「帝國文學」誌上に掲げて(357)彼を推讃するの材料とした歌の中から取るを以て便利とする。
いかばかりふりたてぬとも蝸牛角おそろしと人の見ましや
 佐々木氏擧例劈頭の歌である。この歌は蝸牛の直接表現ではない。盛られたるは平俗な小主觀なるに於て千年來の常套である。全體を通じて緊張した意志の透徹がないため小理窟に終つてゐるのである。斯の如き種類は萬葉集に絶無にして古今集の所在に散見する所である。材料を蝸牛といふ新しき材料に取つたなどは第一義の問題にならない。税所敦子なども願微鏡や自轉車を歌題にしてゐるが陳套依然たるものである。この處佐々木氏の參考すべき點である。氏の擧げた蝸牛九首概ねこれに類した惡歌である。
   かりそけし園のたかむら親なきも子は生ひ出でぬ所々に
 刈りそけし園の竹むらに筍が生ひ出でたと直截に歌へば面白いであらう。夫れを「親なきも子は生ひ出でぬ」などと洒灑を言つてゐる所が骨董臭に達してゐるのである。
   さめなくにしひてさませるうたた寢の心は未だ寝てこそありけれ
 前例歌と同種類の歌である。特にここに擧げたのは、古今集「年のうちに春は來にけり」の歌と參照するに便せんがためである。
   あかずしてかへりし故かおもひ寢の夢路につづく花の山みち
(358) 「眞に花を愛し花の美をとらへ得しこと言道の如きは尠し」と佐々木氏の推賞せる櫻の花例第一である。夢に見た。と直接に現さずして「おもひ寢の夢路につづく花の山道」と歌つてゐるのが、小器用な技巧の翫弄である。詞のあやつり〔四字傍点〕を喜ぶ古今新古今からこの技巧は發足するのである。直截なる萬葉の心と相容れざる一端である。
   我身こそ何とも思はね妻子らの憂してふなべに憂きこの世かな
 佐々木氏の「痛切なる主觀的作品を見ること少からず」として引例せる歌第一首である。「我身こそ何とも思はね」に集中するか「妻子らの憂してふ」に集中すべき歌である。夫れを雙方對照させた所に巧みがあつて凝視がない。「憂してふなべに憂きこの世かな」は想の輕易なると待つて、調子の平滑なために、のんき〔三字傍点〕にも響き洒灑にも響く。佐々木氏の所謂「痛切なる」感受は如何なる所よりも得ることが出來ない。
   咲く花に遊ぶを見れば鳥だにも食むことのみは思はざりけり
 道歌乃至道歌類似の歌である。夫れを佐々木氏は「その歌人としての信念の強きを見るべし」と評してゐる。信念の強さなど、何處にも現れてゐない。只「鳥だに食むことのみに没頭せず」といふことを「咲く花に遊ぶを見れば」といふ擧例によつて説明しただけである。「強さ」といふのは、斯樣な事相の説明や、容易な調子を以ては、生れて來ないのである。彼の歌論は彼の作歌よりもやゝ上等(359)である。自ら現代に自立すべきを唱へ、個人の自覺を促して、宜しく天保歌人たるべしと唱へたるが如きはその眼目である。然るに、歌はそれに比して甚しく下等である。恰も、景樹が「歌はことわるものにあらず。調ぶるものなり」と唱へながら、その歌調概ね平俗見るに足らざるに似てゐる。佐々木氏が、歌論者として彼を品隲するは予の關せざる所である。彼の歌論の壯なるに遭うて、急遽之を以て近世歌人の巨口となし、その平俗なる歌品の前に低頭して、讃美の聲を放たんとするが如きは、佐々木氏のために惜むべきである。予は、言道の歌に、往々取るべきものあるを知つてゐる。併し乍ら、※[研の旁]は極めて少數である。その少數の歌にすら、予は、大なる讃辭を呈するを惜むのである。彼の作歌中、予の見て秀でたりとするものは、次號に品隲するつもりである。只、彼が歌人として、到底宗武、良寛、元義の徒に及ばざることだけは、今日に於て斷定するを憚らないのである。(九月十四日書く)   (大正七年十月「アララギ」第十一卷第十號)
 
(360) 再び言道について
 
 佐々木信綱氏は、十月十三日「時事新報」で「大隈言道について島木赤彦氏の駁論に答ふ」といふ一文を掲げてゐる。それに對して、簡單に予の意見を述べる。
 高級なる藝術は、全意志の威力を以て人に臨む。深く根ざし、深く捉へるからである。之を古來歌集に求むる時、萬葉集を擧ぐるか。古今集以下を擧ぐるかは、已に時節後れの問題である。佐々木氏が「古今新古今の歌風は、全然歌の墮落であらうか。自分は必しもさうは認めぬ」と言うて、或る程度まで古今新古今の墮落を認めながら、猶未練の口氣を存するは、氏の文學に求むるものが、まだ徹底して居らぬ證左である。氏は、又、予を以て萬葉集を和歌の絶對の理想と認めてゐるものと斷つてゐる。予は萬葉集を以て、古來歌集中の最大權威として、之を尊敬してゐるが、之を以て、和歌の絶對理想なりと思つては居らぬ。絶對的理想の歌乃至歌集などいふものが、現實に存在し得べきか如何かさへ分らぬものである。從つて、予は今まで萬葉集の歌を以て、絶對理想の歌集と言つたことはな(361)い筈である。萬葉集ならば、高級なる藝術の標準を以て充分に臨み得るものとするが、古今集以下の勅撰集に至つては、左樣な高い標準を以て臨むに堪へないものと信じてゐるのである。
 佐々木氏は「帝國文學」八月號に於て言道を以て萬葉、古今、新古今何れの流れをも汲まずして獨創の地歩を占めてゐるものとしてゐる。予は之に對して言道は要するに古今集の傳統者である事を説いた。佐々木氏はそれに答へて「無論言道の歌風は萬葉、古今の何れに近いかと言へば、古今に近いことは言ふまでもない」と言うてゐる。これは佐々木氏の立場からしては「言道は決して古今に近くない」と言はねば自己に對する責任が立たぬ事である。併し氏として言道の古今に近いことを認むるに至つたのは大なる進歩である。只氏が言道の古今集に近きを認めながら、猶「併し後世の萬葉歌人の多くが、萬葉を模倣して萬葉を脱し得なかつたのに比すれば彼(言道)の歌は決して古今集の模倣ではない。遙かに獨創的の境地を拓いてをる」と言つてゐるのは、予の言道論に對して無益である。何となれば、予は言道を論ずるに當つて、未だ、古今集の語句の模倣者であると言つた事がないからである。予は、言道の價値を斷ずるに當つて「萬葉集を遺憾なく※[手偏+罷]脱した歌人であると共に、古今集の精神から何處までも※[手偏+罷]脱出來なかつた歌人である」として、(1)雄渾の氣魄なきこと(2)調子の低卑なること(3)感情意志の直接表現を知らざること(4)小主觀に没頭すること(5)小才の利けること(6)歌品平俗なることを擧げてゐる。即ち、言道の萬葉から※[手偏+罷]してゐることは、初めより予は佐々木氏の説を認(362)めてゐる。古今集の傳統者であることに於て佐々木氏に異議を挾んでゐるのである。從つて、佐々木氏が、言道の歌の價値批判について辯ぜんとせば、予の擧げた六箇條(少くも終りの三箇條)について辯ぜねば、答辯の意義を生ぜぬのである。予の評論の精神、特に言道を以て古今集傳統者とするの意は、全く上記六箇條から發してゐるからである。特に、予は、評論の意を實證するために、佐々木氏の擧例中より六首の歌を引き出して、一々、之に批評を加へてゐる。佐々木氏が、上記六箇條に對して意見を述ぶると共に、六首の予の批評に對して意見を述ぶるあれば、初めて的確に予の批評に答へたことになるのである。然らざれば、問題は皆中心から外れるの觀を呈する。猶、佐々木氏は頻に言道を以て獨創歌人たりとして推稱してゐるが、獨創は直ちに獨創の價値を意味しないことは、予の已に論ぜるところで、取材の廣汎、修辭の多方、用語の自由の如きは、前記六箇條の下に何等の意義をも持ち來さぬものになり了ること、是亦予の前文に於て論ぜる所である。序を以て言へば、天保の歌人は天保歌人たれ。明治大正の歌人は明治大正歌人たれなどいふこと、實は何でもないことである。その位のことで、眞の命のあるものを捉へ得ると思へば違ふのである。良寛や宗武は、そんな事を口に出さずして立派に獨自の境を拓いてゐる。これ等の人は、萬葉集の權威を認めただけで、最早立派な命に到達してゐるのである。萬葉の權威を認めて、病牀に命かぎりの聲を張りあげた子規が、如何なる歌を明治の歌壇に貽したかを考へれば、斯樣な問題はすべて早分りするのである。子規の歌(363)が、萬葉集を出なかつたなど思ふ人があれば、それから先は話が出來なくなるのである。   (大正七年十一月「アララギ」第十一卷第十一號)
 
(364) 大正七年の「アララギ」
 
〇現今の歌壇には多數の集團があつて、各一つづつの機關雑誌を有つてゐる。集團には各異つた個性がある。各集團に存在の意義ありや否やは、集團個性の獨立が一貫し且つ明瞭に把持せらるるや否やに依つて定められる。集團個性の獨立が、一貫し且つ明瞭に把持せらるるや否やといふ事は、具體的に毎月の雜誌の上に現れるのである。予は各集圍の獨立を尊重するが故に、更に又、集圍の獨立性が益々強固に發達して各集圍個性の特色が益々明瞭なるに至らんを冀ふがゆゑに、一個人の主張を擧げて論ずる場合に、その人の屬する集圍若くは機關雜誌の名を擧ぐるに止まる場合を生ずる。之は集圍中の各個人に對して、その個性の獨立と自由を尊重する心の上に立つても、矛盾なしに認容せらるべきことであると信ずる。
〇「アララギ」は歌に於て一途に萬葉集を尊信する。「アララギ」は歌を作るに寫生を念としてゐる。之は由來已に久しい。「アララギ」の萬葉集を尊信することと、寫生を念とする事は議論ではない。(365)信念である。その信念はお題目を唱へて納まりかへつてゐるやうなのんき〔三字傍点〕な信念ではない。作歌道に於ける吾々の一道に撤し、一止に撤し、居常行住、念々透徹せんことを冀ふ信念である。
 吾々は萬葉集に對して謙遜の心を持つ。それだけ萬葉集以外のものに對して不謙遜である。吾々は寫生を專念として歌を作る。夫れだけ寫生の命に觸れ得ざる作歌者を輕視する。これは致し方がないのである。
〇大正七年に於て吾等の萬葉尊信と寫生主義とに對して方々から色々な非難が發せられた。「珊瑚礁」では寫生をスケツチと殆ど同義に解して、性命を盛《も》る藝術を寫生主義の名で唱へるのは我儘であると言うた。吾々が我儘ならば古來東洋の寫生論は大抵我儘である。吾々の寫生は性命を盛るを正常とし必要とする。正常なる必要は正常なる權利であり、權威である。我儘ではない。「國民文學」では寫生を以て啓蒙運動なりと言うた。單に啓蒙運動なりとする寫生は吾々の寫生全部ではない。初歩の一部である。若くは附帶の一部である。初歩の一部、附帶の一部と全部との相違は、殆ど全體の相違である。三井甲之氏は「萬葉だとか寫生だとかいつて、凝り固まつてしまへば、思想も生活も空洞貴族主義に固定してしまつて云々」といつて、吾々の萬葉尊信や寫生主義を貴族的であると言うてゐる。これは衆説中殊に珍妙な説である。三井氏は今世界にデモクラシーの思想が漲つてゐる事を知つてゐる筈である。その思想が日本に影響して、民本主義といふ名稱を以て、民衆的意識の強調せられてゐ(366)る事を知つてゐる筈である。左樣な時節に「アララギ」を評するに貴族主義といふ詞を用ひてゐる。そこに愛嬌があるのである。歌界に於ける費族主義を打破したのは子規である。子規歿後今年は十八年目である。貴族的、民衆的などと對比された考は、吾々は政治家などよりも徹底的に通つて來て、遠き以前にそれらの實際問題を片付けてしまつてゐる。今頃貴族的などいふ聲を聞くと、急に遠い昔へ引きかへされる心地がする。遠い昔へ返る心は休息を感ずる心である。休息する心はのんきな心である。愛嬌はそこからも生れて來るのである。尾山篤二郎氏は「アララギ」を事大主義だと言うた。之は愛嬌以上の愛嬌である。氏には第一事大主義とは何んな意義であるか恐らく解つて居るまい。事大主義とは一種の便利主義、功利主義である。それを「アララギ」に何う當て嵌めるつもりであるか分らぬが、夫れを氏から聞かうとする興味が出て來ないのである。氏は「大宮人の舟待ちかねつ」を「大宮人の舟を待ちかねてゐる」と解釋して、一二年後の今日迄夫れを訂正せんとしない人である。文藝に對する氏の斯樣な取扱ひは瑕瑾ではなくて、文藝に對する態度の不眞面目なのである。此の種の例は氏の文章、歌其の他に數へきれぬほど多數である。もし氏が例を澤山あげろと言へば何程でも註文に應ずる事が出來ることを前にも言つて置いたつもりである。凡そ世の中に氏の書くものほど無智的に大膽なものはあるまい。夫れが歌壇に兎に角存在し得るといふ事が、現今歌壇の如何なる程度のものであるかを現してゐるのである。吾々の住せんとする歌の世界は、少くも左樣な空氣を除外し(367)て考へてゐるつもりである。「抒情詩」は現今の歌壇を毒したものは啄木と「アララギ」であると言うた。毒なものは食べぬがよいのである。
〇「アララギ」の足は、いつもその一方が前の岩に上げられてゐるつもりである。他の一方をその岩まで上げるために工夫をつづけてゐるのである。工夫をつづけるといふのは、のつぴき〔四字傍点〕ならぬ苦しい工夫である。この岩を上がらねば頂上へ近づけないと思ふ心から出る苦しい工夫である。岩の中途に止まるを許さないのみならず、うつかり〔四字傍点〕すると下へころげ落ちるのである。吾々は世の中にもつと平易な道のある事を知つてゐる。その一つは平地を歩む道である。平地ならばどの道でもここに通じてゐる。(只深入りすると平地ではなくなるだけである)あの道もこの道も歩かうとする人には、平地道を擇ぶより外に仕方がないのである。何故ならば、平地にあるどの道でも、少し深入りすると、その各が分れて別々の險岨道に入つてしまふからである。今一つは流行道を擇ぶ事である。流行道ならば、峽道でも山道でも道幅が廣く拓かれてゐるから安易である上に、道連れが多くて賑かである。併し乍ら、この二つの道はいくら歩いても、距離はあるけれども高さがない。自分から高い所迄登つたつもりでも夫れは先蹤者の高さであつて自分の高さではない。他人の性命は自分の性命ではない。自分の性命に執著あるものが他人の道を午氣で歩いてゐられる筈がない。是に於て片足が岩に掛けられるのである。他の片足をその岩迄持ち運ぶ爲に、苦しい工夫をするのである。手足が顫へて體から汗(368)が出るのでゐる。顫へる手足を見て、足元があぶないと言ふものがある。汗を流すのを見て迂濶な道を通るといふものがある。甚だ御尤もであるけれども「アララギ」は今この道を執るの外致し方がないのである。この道に疲れたものは平易道の何れかを取るより外ないのである。
〇「アララギ」の通る道は實際迂濶であるかも知れない。迂濶ではあるが自分の足場がある。自分の足場があるから他を批評することが出來る。便利道を歩くものは何《ど》んな道でも歩く。甚だ安易な姿である。安易であるかはりに自分の足場がない。足場がないから批評が出來ぬ。彼等の自ら批評となしてゐるものは、批評ではない。囃しである。囃し屋などいふものは氣の向き次第どんなものにでも囃し立てる。自分の足場がないからである。萬葉道にも立ち、古今道にも立ち、流行さへすれば明星道にでも何道にでも參るを平氣としてゐるからである。左樣な群集の擧げる聲を眞面目に批評だなどと思ふと間違ふのである。吾々は左樣な囃し聲が時々「アララギ」に向けられることを知つてゐる。吾々の片足はいつも前面の岩に上げられてゐる。他の片足の踏み場を考へてゐる處へこの囃し聲が聞えて來るのである。斯樣な場合、囃し聲などに心を向けてゐなければいいのであるが、そこは人間であるから仕方がない。時々癪に觸《さは》る。癪にさはるから時々大聲を出す。この聲は自分ながら餘り心持のいい聲ではない。も少し吾々が悟り得たら、出さなくなる聲であるかも知れない。併し悟りもしない癖に悟つた姿をするのは惡いことである。自分をごまかすことである。自分を馬鹿にする事である。(369)岩を攀ぢ上るのは悟れないからである。悟れもしないうちに早くから悟つた姿をするのは、岩を攀ぢのぼる當初の心でないのである。吾々は岩を攀ぢ登るけれども仙人の志願者ではない。世間が懷しいのである。歌の世間と斯んな大聲で應酬をすることに依つてのみ彼等との交通を續けてゐる所に、多少の慰安もあるのである。只愛想を出し、世辭を使つてまでも囃し屋と交通しようとする氣になれないだけである。
〇吾々の攀ぢてゐる岩の上には一段の平地があることを知つてゐる。その平地の上に又岩の聳えてゐることを知つてゐる。岩の上に更に又平地があるといふ風にして、山頂までは猶幾つかの階段があるか分らないのである。それは今迄登つて來た經路によつて略ぼ推察することが出來るのである。吾々は又、吾々の未だ登り得ない所の高い平地に、安らかな聲をあげてゐる幾多の先蹤あるを知つてゐる。その先蹤の聲を尊崇する心は岩を攀ぢてゐるものでなければ分らない心である。吾々は顫へながら、汗を垂らしながら左樣な先蹤者の聲に傾聽し讃歎する。傾聽し讃歎する心は吾々の出す聲の未だ醜いことを自覺する心である。謙遜な心は斯樣な場合にのみ生れる。これ以外の所に現れる謙遜の相《すがた》は大方は虚僞の現れである。眞に求める心からでなければ謙遜の心は生れぬ。この點に於て謙遜の心は希求の心であり、向上の心であり、發起の心である。左樣な心に住する時、吾々の聲の現在に於て醜きは意とするに足らぬのである。醜かるべきものが醜い聲を出すのは當然である。強ひて外形のみ(370)先蹤に倣はんとするが如きは敏捷に過ぎて自己を輕易に取扱ふものである。左樣な時に驚くべきは便利道にゐる人々の敏捷の程度である。この道の人は借り物が上手である。忽ち借り忽ち返す。借りて本物に似、似て本物と差がある。良寛の到る所を見ずして良寛の形を眞似んとするが如きその一例である。
〇吾が同行者は身顫ひと汗とを以て歩みを續けて大正八年の初頭に立つた。「アララギ」一年の跡を顧みれば一歩二歩猶重要である。石原氏は當初敍述的に傾くと思はれた歌から次第に推移して重々しく澁く而も新しい境に踏み入つてゐる。その吃々として倦むことなき態度は氏を自ら斯の境地に入らしめてゐる。吾々の如き大聲者の省るべき所である。同氏は歌の心と形とを張るために非常の苦心を續けてゐられる。そのため最近歌調の上にも、手法の上にも著しく變化が現れてゐる。石原、岡兩氏とも物の觀方に何時も獨持のものを持つて居られるのを吾々は居常尊敬してゐる。文明は地味である。最近益々冴えて澁い所に入つてゐる。其の心境と手法が多く世人の注意を惹かないのは文明の歌の尊き特質を物語つてをるものである。千樫、迢空は最近著しく變化の兆を示してゐるから、暫くその變遷を注視すべきであると思つてゐる。憲吉七年に歌少かりしは家族身邊に事故頻出のためであつで甚だ遺憾とすべきである。只憲吉の作、出づれば即ち沈潜の響きをなして夫れが益々透徹の境に入りつつあるを快とする。茂吉七年に歌殆どなかりしも、無かつたのは休止したのではない。最近一首(371)「はやりかぜをおそれいましめて云々」の第一二句にも作者の潜かに苦心してゐる所の片鱗を窺ふべきである。百穗畫伯は捉へ方が確かりして感じ方がいつも新鮮微妙に入つてゐる。これは氏の繪畫道から來てゐる事勿論である。年數囘の作歌猶「アララギ」の重きをなすを感ずる。十月號「山の宿」數首の如きは昨年に於ける「アララギ」收穫中の主要なるものである。門間春雄氏は、昨年の「アララギ」同人中最も著しき進境を示された一人である。故長塚氏の系統を引いてそれにやゝ滋味が加つてゐる。それが近來著しく錬熟の境に入つたのである。最近「喀血」八首は殊に大したものである。結城哀草果は相變らず滓のないしっかりした手法を持つて進んでゐる。近來蝉脱の氣動くものあるを見るも著しくない。變化はさう早急に遂げられるものでない。不退轉の心を以てゆつくり構へてゐればいいのである。土田耕平は清澄水を湛ふるの域に參してゐる。ただ澄むものは單調に陷るを失とする。それを忘れないことが肝要でゐる。山本信一の今年に於ける勉強は非常なものである。自ら人に示す數は少いけれども、どの歌も皆苦心を經てゐる。從つて大抵皆效果を收めてゐる。氏のやうな愼ましい歌風は、よきものは透徹し、惡しきものは小さく固まつてしまふ。そこに作者の工夫が存すべきである。天田平三の歌は捉ふべきを捉へて磐石の如く据つてゐる所がある。餘程奥の所まで解つてゐるが未だ勉強が肝要である。年少歌人は特に歌ばかりの勉強では足らない。そこの工夫が大切である。之は平三にのみ聞かすべき言ではないのである。山口好の昨年に於ける進境は目覺ましいもので(372)ある。毎號の歌皆達し居るを見れば、此の作者已に確かな基礎を築き得て居ると見られる。作者の境遇がこの基礎を築かせたと思はれるが、境遇のみがそこへ到達させるものではない。境遇に對する作者の態度によつて何うでもなるのである。境遇に對して正面に向き合つて眞劔に誠實な經驗を積むのでなければ、境遇は却つて人をひねくれさせてしまふ。作者の歌に左樣なひねくれた、荒廢した點がなくて何處までも從順《おとな》しく愼ましく歌つてゐる所に基礎の築かれる所があるのである。今一つは啻作者の境遇に對する態度のみでもいい歌は出來ぬのである。作歌道に於ける勤勉な態度がそれに與らねばならぬのである。少し熱し多く冷やしたのではお湯は沸き立たぬのである。此の點に於て作者は多く勤勉である事を、作者前途のために祝福するのである。兩角七美雄には覗らひ所にも現し方にも特色を有つてゐる。その特色のうちには「アララギ」中の誰もが持たぬものを有つてゐる所がある。只此の作者は字句の使用法が日本に通ぜぬやうな亂暴を平氣でやつてある事がある。そのため滅茶々々の歌を平氣で並べることがある。さうして此の作者は他人の歌の長所が存外分らない。分らないのを平氣でゐる。これは此の作者の缺點である。よい氣がしてゐてはいけぬのである。その他森山汀川、加納小郭家、土橋青村、佐藤悠三郎、松倉米吉、由利貞三、高木今衛、廣野三郎、高田浪吉、竹尾忠吉、傳田青磁、中村美穗、磯上小舟、芥子澤新之助、五味卷作、坂田星丸等諸氏は昨年に於て特に長足の進歩をしてゐる。今一々説くを得ぬを殘念とする。其の他會員數百人諸氏の作品につき猶説くべ(373)きもの多いが、後日機に觸れて本誌に書く事があると思ふ。猶宇野喜代、横山達三、加納曉等諸氏は昨年の作品甚だ少かつたが、最近捲土重ねて來るを知るのは非常な愉快である。   (大正八年一月「アララギ」第十二卷第一號)
 
(374) 俳句の藝術的價値
 
 東洋人は握手や接吻は好きになり得ず。宗教と道徳も文藝も、外に現るるものより内に湛ふるものを求めんとする傾向あり。形簡素にして意深き藝術の發達する所以か。右の意味に於て俳句は東洋的韻文を代表する主なる詩形の一なりと存ず。小詩形の窮屈なるを以て俳句を議し、濫りにその形を破らんとするが如きは、俳句本來の性質とその價値を解せざるに出づ。西洋人が歌麿の繪など彼是言ひ居る間は、芭蕉や子規の俳句は到底解せられず。解せらるるは數十年の後か。教百年の後か。之れ必しも關せず。切に俳句作者の自重を望む。   (大正八年「石楠」一月號)
 
(375) 「アララギ」卷頭言
 
 長塚さんが初めて信濃の僕等を訪ねて來られたのは、明治三十八年の八月であつたと記憶する。小學校の授業が終へて二階の職員室にゐると、草鞋脚絆に茣蓙麥稈帽子といふ支度で門を入つて來る人が見えた。その時僕はすぐ長塚さんであると思つた。翌る日二人して上諏訪から三里ばかりの霧ケ峰に登つた。山はなだらかな草山で秋草が一ばいに咲いてゐる。山の下に上諏訪の街と湖水が見える。その時の長塚さんの歌は、
   うれしくもわけこしものかはるばるに松蟲草のさきつづく山
といふのであつた。その晩篠原志都兒が來て三人して「霧」の歌を作つた。志都兒の歌は、
   萩山に萩刈やをればあか根さす日は照らしつつ霧はれずけり
といふのであつて、長塚さんも僕も大分感心した。この二月八日は長塚さんの五年忌である。篠原志都兒は昨年七月十九日に亡くなつた。   (大正八年二月「アララギ」第十二卷第二號)
 
(376) 短歌と文壇
 
 予は、近頃、ゲーテの詩が短いものほど徹底的な立派なものであるといふ事を聞いて興味を惹いたことがある。獨逸の文化は、すべてが組織的であることに於て最も智識的であり、それが何處までも根氣づよく徹底されることに於て最も意志的であるといふ事を聞いてゐる。意志は目標を持つた力である。目標を持つた力の終局は必す或る一點に集中する。集中された一點は一點であるが、それが全體の歸結である。全體の歸結が一點に達するとき初めて力の徹底があるのである。科學の研究もそれが徹底されれば最後の一結論に歸すべきである。予は、ゲーテの詩が果して短いものほど徹底的な立派なものであるか否かを知り得ぬけれども、獨逸の文化が凡ての方面に意志的に徹底されてゐるといふことを聞いてゐるから、ゲーテの詩の話も夫れに關聯して興味を惹いたのである。
 日本で現在一番獨逸風の感化を受けてゐるものは科学者と軍人であらう。さうして日本の社會で現在一番眞劔な徹底者を多く持つてゐるのも、同じく科学者と軍人であらう。日本の文學者で獨逸風の(377)感化を受けてゐるものの多少は予の知らぬ所である。文學者の生活、文學者の運動、文學者の好尚、左樣なものを其の作品と合せて觀察すれば自然に分るであらうと思ふ。鴎外先生の小説が多く現世に行はれないといふことも、之と併せて參考とすべきである。
 東洋の文化は古來鍛錬的であり意志的である。夫れが獨逸風と如何なる點で類似し、如何なる點で相違してゐるかは予の解せぬ所である。簡約な繪畫乃至短い詩形の發達したのも自から東洋文化の意志的であり、鍛錬的である一面の現れでゐる。力を一點に集中するとき、形の簡約になるのは當然である。この短詩形が日本現在の文壇に重要視されぬといふことは、現在文壇の風潮が如何なる方向に走りつつあるかを考ふる一つの參考となり得るのである。同じく短歌にしても、力を以て徹せんとした子規子の歌風が天下に行はれないで、一種重厚でない浪曼的氣分を漂はせた與謝野氏の歌風が文壇に行はれたといふことも同時に大きな參考になり得る。現在の米國は活動寫眞流行の本場であり、婦人の鼻息が荒い本場だといふことを聞いてゐる。さやうな國から往々にして人氣者の巨人を出す。人氣者の巨人に感嘆してゐる間は、眞に力を以て徹しようとする眞劔なものは日本に於て當分行はれさうもないのである。この事單に短詩形の問題に限らないのである。それにしても短詩の作者――我々としては短歌作者――は自ら歌を以て生涯に徹するの覺悟を失はない以上、自らの作品の現代行はれる、行はれぬといふやうな問題に餘り頭を惱すべきでないのであらう。夫れと共に短歌作者が自ら集(378)中するといふ力の一點が、常に稀薄な力の一點であつてはならぬことに心掛くべきである。簡約に慣れるものは、簡約に到る道程を忽せにする弊を伴つてゐる。基礎の貧弱な簡約は外形は同じでも實際に働く力が稀薄である。この點に於て獨逸の文化が個人的にも圍體的にも、すべてに於てその組織及び基礎の規模が宏大であるといふことを吾々の參考とすべきである。安易な簡約道に住することは、短歌作者の尤も恐るべき弱所である。短歌が文壇に行はれる、行はれぬといふやうなことは、當分力瘤を入れずにおいても損にならぬのである。二月二十日   (大正八年三月「アララギ」第十二卷第三號)
 
(379) 阜上偶語
 
       〇
   おほ伯母の墓は磯べの笹の原海より風の吹く音止まず
 これは北海道へ行つて伯母の墓をたづねた時の小生の歌である。
 この歌をいい歌と思つてゐるのではない。作りあげるまでに色々の徑路を通つてゐることに、興味を持つてゐるのである。北海道で作つた原作は「おほ伯母の墓は磯べの墓の原海より風の吹き止まぬかも」であつた。第四五句が何うしても据らぬ。第一二三句が漸層的になつて、夫れを第三句の名詞で強く受け止めてゐるために、第四五句が一層強いものでなければ勢を成さぬのである。そこで「吹きてし止まず」「大き海より風吹き止まず」「暗き海より風吹き止まず」其の他色々に考へて四五日を費した。しまひには頭が分らなくなつて馬吉に相談した。馬吉は此の場合四五句が七七音では上句に對して弱いと言つた。此の言非常に當つてゐるのである。これから予は漸く見當がついて、その翌晩(380)の三時頃「海より風の吹く音止まず」を得て、馬吉の熟睡を起して聞いて貰つたのである。併し「音」は未だ小生の氣にかかつてゐる。   (大正八年三月「アララギ」第十二卷第三號)
 
(381) 齋藤君に就いて
      ――「齋藤茂吉氏の印象」なる題を得て――
 
 齋藤君は敏な感覺を持つて生れて來てゐるが、末梢部の發達のみが著しい近世流の青年者とは違ふ。腹の底に堪へてゐる所があるから、自分の勉強を主にして、外界との交渉など多く念としない。齋藤君の工夫はすべてそこから生れて來てゐると思はれる。齋藤者は我儘者であるが勉強家である。ローカラ乃至蠻カラであるが疎大家ではない。派手なことが嫌ひで地味な事が好きである。女も好きであるが、堪らへるべき時に堪らへるだけの忍耐を持つてゐる。若い時代に誰でも心をなやまさるべき世相諸相との交渉を節約して、長く勢力を貯へる工夫を知つて知る。今は主として醫学の研究に專心してゐるが、歌に對する工夫を放棄するやうな氣まぐれものではない。今度「アララギ」の四月號へ一年半ぶりで歌を送つて來たが、その歌を前の齋藤君の歌と比べれば、一年半の間に齋藤君が歌に對して何れだけの工夫を續けてゐるかが分る。「赤光」は分るが、近頃の齋藤君の歌は分らないとい(382)ふ人が若しあれば、その人は齋藤者の終生目ざしてゐるものを知り得ない人である。齋藤君の歌は三十歳や四十歳や五十歳で行き止まる種類のものでないことを私は信じてゐる。三月十九日床上にて記す   (大正八年「抒情文學」四月號)
 
(383) 六杉園小谷古蔭
 
 六杉園集を迢空氏から借りたのは三四年前である。その時一通り目を通して、少しばかり「アララギ」に書かうと思つたことがあつて、久しく忘れてゐた。書かうと思つたのは、六杉園の感覺に鋭敏なところがあつて事象の捉へ方に割合に新しいものがあると思つたからである。新しいといつても、勿論徳川時代の歌人中にあつて新しいと言ふのであつて、鋭敏さも新しさも大したものではない。折角新しき捉へ方をし、鋭敏な感じ方をしてゐながら、夫れが要するに月並に墮ちてゐるといふのは、左樣な感覺を統一して單一な力となし得るだけの魄力が不足してゐるのである。容易遊佚の心が一般を支配してゐた平安朝歌人や、江戸時代の作歌者に魄力乃至意志力を要求するのは、初めから無理なことである。眞淵の如き萬葉集数拜者でさへも、その作歌に眞に萬葉の氣魄を備へたものは幾らも見當らぬ。眞淵の系統を引いた歌人に元義の如き力の所有者を出したのは、時代に對する反抗の現象である。元義の正直と一途が彼の※[車+感]軻を生み、彼の※[車+感]軻が彼の力を生んだのである。眞淵なども、も少(384)し當世に行はれなかつたら、生涯に亙つて、眞劔正銘の萬葉集振りを發揮し得たかも知れぬ。これは、江戸時代の氣分を背景として彼等を見た一面の考察である。眞淵の系統からは一方田安宗武を出してゐる。さうして別に突發的に(?)良寛の如き萬葉系統者をも出してゐる。是等は徳川時代の變轉期を豫め啓示した運行自然の現れであるとも言へる。平安朝文物の反抗が鎌倉時代に現れ、鎌倉時代の短歌に金槐集を出したことも之と合せ考へることが出來る。
 徳川時代の歌人に多くの魄力所有者を求めるのは、以上言ふところの筋道から見ても無理である。況して諸平の一門人六杉園の歌に魄力を要求する心は初めより予にない。只讀過の際、比較的此の時代にあつて鋭敏な新しい物の見方をしたと思ふものを摘記して參考に資するだけである。編輯の期日が迫つてゐるから次號に稿をつづける。三月二十日夕   (大正八年四月「アララギ」第十二卷第四號)
       〇
   雲間より畑の青菜も見えそめてけぶる朝日につぐみなくなり
 畑の青菜も鶫《つぐみ》も寫生から出てゐるから新しい。それに小理窟を付けてゐないのがいいのである。徳川時代の歌人にこれ丈けの要求をなし得れば、その歌人は上等に屬するのである。一首を貫く力の弱いことは前々號の總論で言つた通りである。力が弱いから「畑の青菜も見えそめて」などいふ表出法(385)になつてしまふのである。一所に力を集めて直敍することをしないので、中心點以外を顧※[目+分]してゐる心から、此の場合の「も」は生れてゐるのである。歌の一字が一首の力に影響することを、此の處で吾々は考へて見ていいのである。猶少し立ち入つて言へば、この句の「見えそめて〔三字右○〕」は時間の推移の感を伴うてゐるだけ、直敍を要するこの歌の場合に煩雜の感を交へてゐる。歌の透明でないといふのは斯樣な句法から起ることが多い。これ亦、作者の感情が集中して居らぬからである。
       〇
   川島の梅ちる風や寒むからしおぼろ夜ふけて千鳥なくなり
 捉へどころ必しも惡くない。現し方が散漫であるのは作者の力が集中されないからである。「梅ちる風」は風の説明である。第三句まで作者の位置は梅に近い。第三四句殊に「寒むからし」に至つて作者の位置は梅から遠ざかつてしまふ。現し方が集中されてゐない所以である。
       〇
   青柳のかげゆく水のおともなしおぼろ月夜は更けにけらしも
 感じの一貫してゐる歌である。第三句と第五句と縁を持ち過ぎてゐる。「音もなく――更けにけり」でいい所である。此の歌恐らく寫生から出てゐまい。
(386)   雲雀あがる外面の岡の朝月夜雲井までこそ春は見えけれ
朝月夜の岡に雲雀の揚る所を見たのがいい。それに「雲井までこそ春は見えけれ」といふ小理窟を添へて歌を壞してゐる。常套手段に出たのは安易法を擇んだからである。責任感の鈍ぶる時と、氣根の衰へる時に安易法を取るのである。小理窟を歌ふといふ事も、その事實主觀の弛緩から生れてゐるのである。
       〇
   くぬぎ原春とも見えぬ木の間より木ばらに匂ふ山さくらかな
 櫟原がこの歌を生かしてゐる。新しいといふのは、目ざましいものを持つて來ることではない。この歌甚だ結構である。第二句芽をふかぬといふやうに具體的現し方をしたならば非常によくなつたであらう。
       〇
   處得てうばらにまじる鬼あざみ花なつかしき夏は來にけり
 鬼薊の太い莖と花とに夏を捉へ來る所凡庸でない。第二句以下生き生きとして人の心に來る。第一句が傳襲的に小主觀を働かせで機智に陷らせたのは惜むべきである。刺ある茨と、刺ある鬼薊との關係を故意いに強めたのである。そのため月並の臭みをつけてしまつたのである。この句單に茨と薊の形(387)態上の配合を指したものと解しても、猶言ひ過ぎてゐる。
       〇
   打ちけぶり松の花ちる朝風に園生の春の行くへをぞ見る
 朝風にうちけぶりつつ松の花の散る所を捉へてゐる。第三句まで作者は生きた眼をあいたのである。結句の惜むべきは前の雲雀の歌の場合と同じである。       〇
   早苗とるうゑ女が帶のくれなゐに匂ふゆふ日の末青むなり
 「はし近う出て田植を見るに男の襷は白く女のは赤し又紅帶を給ひたれたり田歌聲の聞ゆる限り遙に見わたして」といふ端書がある。田植する女の帶の紅に夕日の匂ふ所を見てゐる心が新しいのである。新しきを言ふに、材料に捉へられるのは凡下の爲《しわざ》である。結句例によつて惡い。五月十九日夜   (大正八年六月「アララギ」第十二卷第六號)
       〇
   山水のわか葉をそそぐおと清み岩垣づたひほたるとぶなり
 第二句「わか葉にそそぐ」の誤寫であらう。一通り景情を成し得て居る。少し立入つて言へば「岩垣づたひ」は要らぬのである。材料を駢列するに近いからである。その代りに螢の飛ぶ状を現した方(388)が生動する。岩垣づたひの螢を歌はうとするならば、別に一首を成す方がいい。
       〇
   風吹けば水草《みぐさ》はなれて谷川の黒木のはしにほたるとぶなり
 一通り纏つてゐる。「黒木の橋に」云々が上句に對して駢列的であることは前の歌と同じである。
       〇
   里ごとの蚊遣りのけぶり風をなみ靡くとすれど下むせびつつ
 形を整へるに急であつたため實感から遠ざかつてしまつた。斯樣な歌を形式負けのした歌といふのである。「下むせびつつ」といへば作者身邊の状である。「里毎」といへば望見の状である。「風をなみ靡くとすれど」といふ機微の所迄入つて來た勢を終りまで押し進める力が足らなかつたのである。
       〇
   蔦の葉もよらるる窓のゆふづく日照るかげ赤し秋や立つらむ
 窓の蔦の葉もよらるる著さに猶秋の立つ心持を感じてゐる所寫生から出てよく生きてゐる。「照るかげ赤し」に作者は蔦の紅葉を聯想してゐたかといふ臭ひすれど、それは抜きにして見た方がいいやうである。
(389)   花はちす廣葉かたぶき朝露のこぼるる見れば秋は來にけり
 寫生から來たものには古くても新しいものがある。作者の本當の領分があるからである。この歌何の無理も感ぜず、よき心地のする歌である。
       〇
   竹垣の露もかわかぬくもり日をいのちとさける朝かほの花
 曇り日に朝顔の花の長く保つてゐる所を見てゐる。全體の調子の緩やかな中に、「いのち」などいふ強い意味の詞が挾まつて歌を小理窟にしてしまつた。日中長く咲いてゐることを素直《すなほ》に歌つてゐればいいのである。子規に「朝〓の萎まぬ秋となりにけり」といふ俳句がある。おとなしく歌つてゐて力があるのである。
       〇
   垣内田の露もひとつに咲きにけり早稻の香ごめの秋はぎの花
   夕つく日干町の穂田にさしながら遠山からす月啼くなり
 斯う色々の註文を持ち込まれては三十一字詩は泣き出すより外ないのである。此の邊になると、此の作者到底話せないといふ心地がする。
       〇
(390)   わがかどの松より西は山もなしのどかにを見む秋の夜の月
 第三句迄實状を捉へて直截に現し得てゐる。第四五句のわるいこと作者の常套である。
       〇
   熟寢《うまい》する人のいびきの長き夜に月見るばかり靜けきはなし
 第一二句は「長き夜」に言ひかけて序詞的に用ひられてゐるが、それが直觀的に現されてゐるのがいい。第四五句の知識的なるは千年來の習慣で致し方がないのである。
       〇
   唐衣打ち出すつやのうるはしき子らなりけらし音のさやけさ
 擣衣の歌である。衣を擣つて布に光澤が出る。それを序詞に用ひて、衣打つ女の「うるはしき子ら」なるを言つてゐるのである。そこに新しい意があるけれど、その女を作者の位置から引き離してゐるために一首が徹しないのである。考へ負けをして、へたばつた形になつてゐるのでゐる。六月五日   (大正八年七月「アララギ」第十二卷第七號)
 今迄あげた歌によつて古蔭の到り待た境は大體知り得るであらう。以下集中摘出に止める。
   阿迦棚にかくるかけひのおと高み末うちなびく山振のはな
ははそ原色のかぎりは見えねども昨日今日こそ散りそめにけれ
(391)   天雲をふきただよはす朝風に不二の高嶺の見えかくれつつ
嶺の雪ふもとの若葉天地にわかれてきよし富士の夏山
   小垣内の桑の葉しだりしづく落ちて苔むす門は道もたえけむ
   岩床の苔のむしろに一夜寢むたぎの河内は蚊のこゑもなし
   十握稻水にかみなし家人のすすむる酒にわれ醉ひにけり
   曉の老のしはぶき止まずのみ物おもふ心安からなくに
 千年來歌の値を卑くしたものは大宮風の遊びごころである。平安朝以後、遊びの心から脱した歌人は夫れ丈けでもう非凡な歌人である。古蔭に物の見方に新しいのがありながら、眞に命のこもつた歌を成し得なかつた所は、千年來の遊びの心から脱し得なかつたためである。遊びの心から小才が生れ機智が生れて、實感から離れた技巧の遊びとなつて、
   嶺の雪ふもとの若葉天地にわかれてきよし富士の夏山
に「天地にわかれて」などといふ細工をして歌の値と品位を落してゐるのである。今月の「アララギ」は歌の技巧につきて諸同人説をなす筈になつてゐる。吾々の排する技巧の如何なるものであるかを、古蔭の歌について附言すること強ち無益でないと思ふのである。   (大正八年八月「アララギ」第十二卷第八號)
 
(392) 齋藤君
      ――「歌と人−齋藤茂吉氏」なる題を得て――
 
 自分の仲間を世間に對して褒めるのは具合の惡い場合が多く、具合が惡くなくても、夫れには、その時機の來る時がある。惡口言ひ合ふのは私の上のことで、之を世間へ持ち出すと樂屋落ちになる。夫婦喧嘩が他人に聞かせられないやうな種類である。齋藤君は我々の同人であつて、尤も予に近い一人であるから私の上で言ひ合ふことは多くて、世間へ持ち出すことは却つて少なく、持ち出すにはその時機があるといふ感がする。
 齋藤君は獨逸的の緻密な科學研究者であると共に強い直覺力を持つてゐる。分析者であると共に綜合者である。その綜合は一途であり、一徹であるから事に當つて他を顧みないといふ風であり、根氣づよいがら大抵の事は貫いてしまふ。齋藤君のすべては此處から出發してゐると思はれる。神經が鋭敏であつて間の拔けた所が多く、間が拔けてゐながら大切なところに氣が利いてゐる。雜誌の折り目(393)の一分一厘違ふことを氣にしながら、自分の襯衣の釦一つや二つ脱《と》れてゐることを平氣にしてゐる。短氣者であり我儘者であるが、堪らへるべき所へ行くとヂツと堪らへてゐる。世間を相手にして猛烈に喧嘩(?)することが出來るが、割合に多く世間を憚ることをも知つて居り、世間を憚りながら人を人と思つてゐない所もある。宴席に女の侍ることを喜ぶが、詰るところは女は嫌ひである。世間に褒められることは割合に好きであるが「赤光」祝賀會などを催されると急いで斷つてしまふ方である。人を懷しがりながら訪間者に閉口し、感情に脆いが泣顔を見せるやうのことはなく、目先きの親切に手を出すやうのこともない。
 此の間東京停車場で、汽車の窓から予の顔を覗きこんで「君も髭が白くなつたな。俺のも可なり交つて來た」と言つた。齋藤君も一途と一徹とをとほして最う髭に白いものを交へるやうになつたが、一徹は相替らずの一徹である所を見ると、この一徹、遂に一生を煩はすか、若くは幸するかの魔物である。
 一徹のものは責任感が強い。齋藤君も自他に對する責任感が甚だ強い。原稿の約束の期日を過ること稀にして、適ま他人の期日を過るものあれば赫怒すること珍しくない。今齋藤君は自己に對する責任感を充すべく二筋の大道を踏まへてゐる。醫道と歌道とである。一途ものの齋藤君に二筋道が授かつたのは天道樣の戯れではない。齋藤君の一途を、も少し突き詰めさせる機縁が至つたのである。今(394)齋藤君は一途に醫道を踏んでゐる。この心頗る苦しいことを自覺してゐる。苦しくても悲しくても一途に進む醫道の前にたじろぐを要せない。九州玉の浦の涯にあつて苦しむ心が齋藤君の歌を此の一二年のうちに如何なる境に進めてゐるかといふことを心づく人は少ない。それを齋藤君は悲しむ要がない。この邊まで來ると最う記述の領分から脱けてしまひさうになつてゐる。止める。   (大正八年「短歌雑誌」六月號)
 
(395) 技巧に就きて
 
 良寛の旋頭歌に
   朝づく日(山たづの)むかひの丘に小男鹿たてり神無月時雨のあめに濡れつつ立てり
といふのは、第一句が「朝づく日」としてあるのと、「山たづの」としてあるのと兩方世に遺つてゐる。之は恐らく、初めに「朝づく日」としたのが具合惡かつたために、後に「山たづの」と訂したのが兩方とも世に遺つたのであらうと想像する。此の前後の關係は參考書を見れば明瞭かと思ふが、書物が皆國に置いてあるから早速何うする事も出來ぬ。或は參考書を見ても分らないかも知れない。分らなくても予は「朝づく日」の方が初めで「山たづの」の方が後であると想像するのである。若し又「山たづの」が初めで「朝づく日」が後であつたとすれば、良寛は下らぬ訂正をしたのであると思ふのである。
 語句が枕詞として使用せらるる場合、その語句の持つて居る意義は全體に對して殆ど意義の上の影(396)響を成さぬを普通とする。さやうな枕詞を第一句に持つ良寛のこの旋頭歌にあつて、「朝づく日」「山たづの」の相違が歌の値打に響くのは何ういふ譯であらうか。第一、枕詞に意義を求めずとするも、「朝づく日」と「時雨のあめに濡れ」とは大體の感じが餘りかけ離れてゐ過ぎるのである。第二、歌全體の調子が暢達してゐる中に「朝づく日」と第一句で切るのは一首暢達の勢を傷ふのである。それに比して「山たづの」の方は、「朝づく日」ほど際立つた感じを持たぬことと、一首暢達の調子に合することとに依つて、此の歌に対して勢を添へ得るほどの力を持つて居るのである。歌全體が莊重な調子を以て行られてゐる場合ならば、「朝づく日」と第一句で切る句法が全體の調子に合し得るかも知れぬ。良寛はそこが氣になつたから「朝づく日」から「山たづの」を拈出したのであると、予は想像するのである。
 擒縱無碍行るとして可ならざるなき境涯に入り得たる良寛にも、斯樣な工夫の存したことを想像するほど予は技巧を重ずる。技巧を重ずるのは表現の的確を重ずるのである。表現の主體たるべき主觀が、機微界に入つて居れば居るほど、表現の的確は難しいのである。言語と主觀の間に隔りがある。言語の響き乃至一首の調子と主觀の調子との間に隔りがある。主觀と表現の隔りをなくする事は、あらゆる文學藝術の上に押し擴げで考へて見ても、到底完全に達し得べきでないのが本來である。達し得べきでないのを達し得るに近からしめんとして爲す努力、若くはその努力の働く状態を名づけて技(397)巧といふのである。主觀の動きの機微界に入るものは、表現の上に寸毫の差あるをも大なる差として感ずるのである。襲蹈的表現に滿足出來ず、疏漫な表現に滿足出來ず、輪郭的な表現に滿足出來ず、寸毫の差にも滿足出來ぬ心が藝術的良心と合して、表現を機微に近づけつつ進む状態を技巧の進歩と名づけるのである。是の故に一首の歌に数日を費し、一聯の歌に數月を費すは歌人の不名譽ではなく、若し良寛が旋頭歌の一句に數月頭を拈つたとしても、夫れは良寛の恥にならぬのである。技巧を以て外觀を整へ、彫琢を事とするものとなすものがある。技巧の眞意義に徹しないのである。或は主觀の動く事疎漫なるより來り、或は藝術的良心の活動鮮かならざるより來る。主觀と表現と妥協するに慣れるのである。妥協に慣れては主觀も機微に入らず。從つて表現も何うでもよいといふ事になり、歌としての必至性を矢ふのである。或は技巧に没頭するものは、往々にして詞句に苦んで詞句を殺し、主觀本來の生氣を喪失するに至ると説く者がある。これ技巧に苦んで技巧を失ふものである。未だ技巧者となすを得ない。技巧者ではないけれども技巧に苦しむは、技巧に苦しまざる疎漫者よりもよい。疎漫者は一生表現の的確微細なるを得ない。苦しむものは失ふと雖も或は後れて得るの機會があり、或は後に至つて忽然大に得るの機會が來る。鈍重のもの斯の如き徑路を經て大悟境に入るもの往々にして之れ有ること歌のみに限らないのである。而して疎漫者は遂に之に與らない。七月十八日   (大正八年八月「アララギ」第十二卷第八號)
 
(398) 左千矢先生と信濃
 
 明治三十三年「日本新聞」へ課題歌「森」の募集が出た時、予は十四首の歌を作つて、初めて子規の處へ送つた。その歌が一首取られた。予の二十五歳の時である。予は自分の勉強が不足してゐると思うたから夫れ以後自分一人で歌の勉強をしてゐた。明治三十六年信濃の交友と與に雜誌「比牟呂」を出して、夫れに少しづつ自分の歌を發表した。今見ると自分の經路が分つて面白い。も少し勉強出來たら「日本」へ送らうと思つてゐるうちに明治三十五年子規は死んでしまつた。翌三十六年子規門下の歌人によつて「馬醉木」が發行せられた。予は「馬醉木」初號からの讀着であつた。この年の九月予は初めて左千夫先生に手紙を送つて自分等の出してゐる雜誌を呈した。子規先生以來根岸派の人々に對して非常に畏敬の念を有つて居つたから、信濃山中の白面兒から突然手紙を出すといふことに畏を抱いた。幾度も出さうと思つて幾度も躊躇した末、男氣を出して先生の教を乞うたのである。返書は直ぐ來た。さうして「比牟呂」の歌を激賞して、子規の生前此の雜誌を見せなかつたのが殘念で(399)あると言うてよこされた。予は意想外であると共に少からず恐縮の念を起した。其の年十一月の「馬醉木」六號には更に返書以上に「比牟呂」を激賞された。爾來先生と信州同人とは固く結び付けられて先生の世を終る迄終始渝ることがなかつた。
 翌三十七年十一月先生は初めて信州へ來られた。前の年に來ると言つてよこされてから度々延期されてゐたから餘計に待遠く思つてゐた。その頃中央線の汽車は甲斐の韮崎(?)までしか通じてゐなかつた。先生は先づ甲斐の「馬醉木」同人を訪ねて、韮崎から徒歩で信州に向はれた。十一月二十五日午後予は先生の足が上諏訪に近づくと思はれる時刻を測つて迎へに出た。誰も未だ先生に逢つた人がないから迎へに行くことは無駄であらうと言つた。夫れを構はずに出掛けたのである。予は先生の度々の手紙や「馬醉木」誌上で先生の盛に議論をするのを見て、先生は顔の細長く瘠せた人であると想像してゐた。それゆゑ、上諏訪町の街道を顔の瘠せた人は來ないか來ないかと思ひながら當てもなく歩いて行つたのである。その内に向うから一臺の馬車が喇叭を吹き立てながら町の中へ向つて來た。この中に事によつたら居られはせぬかと思ひながら、近づくままに馬車の中を覗いて見ると、六人乘の向つて左側の中央の席に肥滿した人がどつかりと腰を下ろしてゐる。その瞬間予は「夫れだな」と思つた。思つた時は駈けてゐる馬車が予と擦れ違ひになつてゐた。予が馬車の幌の外から、いきなり「伊藤先生ですか」と問うた時、駈けてゐる馬車はもう予の後になつてゐたから、今度は振り返つて(400)最前の顔を覗くと、その顔の主は慌てて帽子を脱いで予の方を見てゐる所であつた。予は喇叭を吹いてゐる別當に聲をかけて馬車を止めさせた。そして馬車の後方から先生に近づいて、もう宿へ近いから車からお下りになつたら如何です。と言ふと、先生はのつそりと車から下りた。先生は宿(布半)へ著いてから、未見の人一瞬その顔を知り得るのは詩人に限ると言つて喜ばれた。これが予の先生に對する初對面である。
 先生は被布のやうなものを著てゐる。手には信玄袋を提げてゐる。體も顔もあの通り肥滿した巨大漢でゐる。その翁さびした巨大漢が夕暮の座敷に坐つて初對面の挨拶をした時、予は却つて是が先生であることを怪しく思つたほど予の想像は外れてゐた。先生は自ら携へて來られた茶器で茶を立てて下された。予は茶の方式を知らぬので少々まごついた。君、茶碗を大切に思はなくてはいけぬ。茶碗を大切に思うたら片手で持つといふことはない筈だ。と言はれて、急いで茶碗へ今一つの手を添へたほどの、予は田舍者であつた。茶を飲みながら、君、日露戰爭に日本が勝つ主もな理由を擧げて見給へと言はれた。予は沈黙して謹んで先生の説を乞うた。すると先生は、日本の勝つ主もな理由は大抵世間に擧げられてゐるが、他に未だ餘り擧げられてゐない一事がある。夫れは日本人は日常坐つてゐるといふことである。日本人は坐つてゐるために、起坐敏捷で西洋人よりも接戰に便利である。これは面白い見方ではないかといふことであつた。守屋喜七君もこの座にゐた。先生餘程得意の説であつ(401)たらしい。尤もその説は先生の説か、他の説の紹介か、夫れを今日小生は忘れてゐる。この夜から翌日にかけて汀川、志都兒(その頃千洲といふ)玄々齋(その頃九寸子といふ)柳の戸、竹舟、山水等諸氏が會して湖水に舟を浮べると、驟雨に逢つて一同びしよ濡れになつた。舟に乘つたのは誰々であつたか今覺えて居らぬ。志都兒はもう故人になつた。竹舟、山水の歌を見ざる已に久しい。
 翌る日先生を蓼科山の巖温泉へ案内した。途中まで車を傭はうとしたら、先生は無益な散財は止め給へ。歩いた方が話が出來るし、眺望が出來ていいと言はれた。山の湯へ行つたら庭にもう雪があつた。先生は此の湯を非常に愛せられて、爾來殆ど毎年ここに遊ばれて多くの歌を成されたのみならず、しまひには死後の居をこの山に定めんとして地を相された。材木は志都兒の家の山から出される筈であつた。その志都兒と先生とが今日世に居ないこと思ひがけぬ事である。
 先生は毎年信州へ來られた。明治四十一年には二囘來られた。手紙も頻繁に送られた。我々は其の刺撃で多く歌を勵んだのである。年を經るに從つて信州同人皆先生をヂツサヂツサ〔六字傍点〕と呼んだ。ヂツサ〔三字傍点〕は信州方言爺の意である。ヂツサ〔三字傍点〕と呼んだのは狎れて敬意を失つたのではない。或る時禿山、泣崖等數輩と淺間温泉に宿つて、ヂツサ〔三字傍点〕の歌一首づつを詠んで端書に認めて連名で先生の許に迭つた事がある。勿論戯れ歌である。その時先生は、
   ぢつさ我れ耳の遠けく梟帥《たける》らが山搖る聲も虻と聞き居り
(402)といふ歌を返事にしてよこされた。
 歌に就ては假借する所なく小言を言はれた。時々ほめて來ることがあつた。「比牟呂」を毎號送呈して批評を願ふと、雜誌を眞赤にして書きこみをして返送して下さつた。夫れを「比牟呂」同人で廻覽し、稀には先生の希望で長塚さん其の他に廻送したこともあつた。鹿兒島の堀内卓造には毎號必ず廻送した。其の雜誌の予の手許に遺つてゐるのを見ると、裏表紙へ跋として「是れだけの批評をするに如何に苦しいかは御察しを乞ふ。殆ど昏倒せん許りである。云々」と朱書してある。一小雜誌の批評をするにも先生は全力を傾注せねば已まなかつたのである。手紙は多く歌小説の議論と、「アララギ」經營の相談その他の私事であつた。歌の議論は盛なものであつた。予も有り丈けの意見を書いて返事してゐた。手紙の往復が度重なると、終ひには文字では意の盡せぬ場合が出て來る。さういふときは多く逢ふ機會を作つた。逢ふと先生の議論は益々熱を加へる。先生の逝去前數日神田和泉町の小川病院で予に腹痛を怺らへさせて半日に亙り、予及び予の仲間の歌を天麩羅であると論ぜられたこと、甞て「アララギ」に書いた通りである。或る時予の返事が、先生の豫想より大分後れたことがあつた。その時先生は、もどかしくなつて長文の催促状を送られた。その手紙の終に「この手紙讀み返して見ると女郎の手続のやうで甚だ具合が惡いが、書き直すも億劫ゆゑ此のまま送る」といふ意味の事が書き添へてあつた。
(403) 何年であつたか、先生の丁度信州へ來られて布半に宿つてゐる時、折から開會の諏訪教育會から先生に演説を依頼した事があつた。先生は早速承諾された。併し先生生れてから未だ一度も演説された事がなかつたのである。そこでその前夜腹案を作つて、予に向つて演説の下浚ひをされた。予は先生の下浚ひを黙聽し了つた。出來がよささうである。結構でありませう。と言ふと先生「大體こんな事でいいだらう」と言つて安心された。翌日演説の時予は少し不安になつた。先生の演説が初めてであるといふ事と、自分の師匠に立派にやつて貰ひたさが一ぱいであつたからであつた。演説は大體に於て前夜の筋の通りに進行した。只時々挾まるべき例話が、前夜より少くなつた爲め豫想の時間より早く終つただけである。予は少しく安心の息をついた。要旨は「未來よらも過去を尊べ」といふのであつた。宿に歸ると先生は「君どうも後で考へると大分落した所があるよ」と言はれた。先生が信州で演説されたといふ事が間もなく東京に傳はると、東京諸同人の評判になつたさうである。長塚さんは予に逢つた時、伊藤君の演説振りが想像出來ると言つて頻に興がられた。先生の風※[三に縦棒]と擧動が當世の所謂演説に不調和であることを知つてゐるからである。併し先生は此の後信州で時々演説をされた。東京の新派歌人と稱するものが、先生を場末の荒物屋主人に譬へて冷笑したやうな態度を取ることを信州の田舍人は知らなかつたのである。蓼科山麓北山村の青年會で演説された時、聽衆の中にゐた柳澤黙坊が感奮して後に熱心なる歌よみになつた。先生は黙坊の初めて先生に送つた手紙に、自分の生(404)活一切を尤も露骨に告白したのを感心せられて「あの態度なら歌が出來る」と予に二三度話されたことがある。
 先生は全力を以て一事に集注し得る心を有つて居られた。一事に集中する心は、他の一切を忘れて顧みぬ心である。他の一切を忘れて顧みない心が、他の一切の行動の間に矛盾を起させる。先生の日常に間の拔けた矛盾の行動の多かつたのは、先生の心が一事に集中し得たためである、と言ひ得る。先生の肉體の肥大してゐた事や、近眼であつた事のみでこの事を説明するのは當つて居らぬと予は思うてゐる。一事に集中する心は純眞無雜の心である。純眞無雜の心から生れた矛盾は無邪氣な矛盾である。滑稽が眞面目から生れるといひ、無邪氣から生れるといふのは、斯樣な矛盾を兩面から説明した詞である。先生は初めて松本の淺間温泉に浴せられた時、多數人の浸つてゐる湯槽から湯を掬つて口に含んで見て「是の湯は何に利くか」と泣崖(?)に問うたさうである。先生が湯を掬つた時、その手が口まで運ばれようとは泣崖も思はなかつたであらう。思はなかつた手が口に運ばれたから泣崖慌てたのである。泣崖の慌てる所へ先生が平氣で「是は何に利くか」と問うたのである。その對照が目に見る如く想像される。或る時予等數輩が同じく淺間温泉に先生を案内して會談した時、途中から先生は横になつて睡つでしまはれた。予等は先生の睡られたのに構はず話を續けてゐた。そのうち何かの話の機《はずみ》で一同がどつ〔二字傍点〕と笑ひ出した。その音に先生眼を醒まされて「惡る口を言うてもみんな知つて(405)ゐるよ」と言はれた。笑つたのは勿論先生の噂をしたのではないのである。そこで一同が又どつ〔二字傍点〕と笑ひ出した。併し先生はそんなことに構はずに再び睡りをつづけて居られた。先生の心、吾等を子供扱ひにしてゐたのである。この時であつたか他の時であつたか今忘れたが、場所は慥かに淺間温泉であつた。その日予は前夜の睡眠不足で睡たくて仕方がない。そこで眠むい時には何うするがいいと言ふやうな話が出た。さうすると先生「眠い時は眠るが一番いい」と言はれた。予は心の中で潜かに此の詞に敬服した。日本にコツホ氏の來た時、日本の醫者が鼠を驅除する方法についてコツホ氏の意見を問うたら、「鼠を捕るには猫が一番いい」と言つた。此の詞を先生は大へん褒められて、矢張りコツホは偉いと言はれた。「眠い時は眠るがいい」と言はれた心と通じてゐる。先生は子供の時から東京へ出て、店に任みこんだり、空手で牛乳業を創められたりして、人並以上の苦酸を嘗められた。夫れでゐながら終りまで自然の心を失はれなかつた。この點先生の人と歌とを考ふるに逸してはならぬ要樞の所である。
 自然の人であつたから喜怒哀樂が露《あらは》に現れた。叱曹オたり、笑聲を放つたりする事のなかつたのは、先生の心が大きかつた爲めであらう。或は子供の時から鍛錬を經て居られた爲めであらう。信州にあつては最も志都兒を愛せられた。温乎珠の如き自然兒であつたためである。堀内卓造をも殆ど同じ意味から愛せられて、そして彼の天分を重んぜられた。信濃から初めて「アララギ」へ女流歌人の歌が(406)送られた時、先生は幾度も予に信州は矢張り偉い。と言つて喜ばれた。望月光男は純眞一途性急無比であつた。「アララギ」をよくしたさが一杯で、先生に頻々議論やら註文やらを言ひ送つた。時々駄々を捏ねたかも知れない。先生は「望月は理窟が多くて困る」と言つて居られたが、光男と卓造の仲のよい心理をもよく解して居られた。湯本禿山は齢四十を超ゆる數年にして教を先生に乞うた。先生は、あれ丈け頭が固まつてから歌の出來るのが感心だと言つて居られた。予は先生と一番長く頻繁に交通してゐながら、いつも物足らなくはがゆく〔四字傍点〕思はれた。これは予の心に問うて見て眞實である。予に對して猛烈に忠告したり、議論したりせられたのは、予に遠慮して居られなかつたのである。それを予は快く有難く感ずる。
 先生は八ケ岳山脈硫黄岳の本澤温泉に憧れて居られた。志都兒も予も一度先生を案内しようと思つて果さなかつたことを今遺憾に思ふ。
 予の書いてゐる信濃同人は大方已に亡い人である。僅に生き残つてゐる予等の道の遠きを覺える。八月十四日   (大正八年十月「アララギ」第十二卷第十號)
 
(407) 阜上偶語
 
       〇
 數月前「短歌雜誌」で新進作家號を出すから「アララギ」の新進作家を知らせてくれと言うて來た。「アララギ」の徒はあちこちへ顔を出したがる作家を好まない。併し數年に一囘位他へ顔を出したとて、さしたる事でもあるまいと思つたから八人(或は九人か)の名前を書いて「短歌雜誌」へ知らせて置いた。八人の本人へは小生より別に何とも知らせて置かなかつた。他へ出すことを勸める程の事でもない。「短歌雜誌」から依頼があつた時、出したい人が出せばいいと思つたからである。そのうちに八人の誰彼から端書が來た。我等の住所や名前を「短歌雜誌」で知つたのは大方發行所から知らせたのであらう。我々は「アララギ」の徒であるから「アララギ」以外の雜誌へ顔を出すことは御免を蒙るといふのである。中には態々訪ねて來て、予の執つた處置に對し少々詰問の態度を取つたものもある。「アララギ」の徒は早く世間へ顔を出したがる徒と違ふ。(408)「アララギ」の徒が自ら守るはいい。自ら固まつてしまつてはいけぬ。時々他を振りかへつて見ることが、自分を振りかへつて見ることになることがある。只現代には他を振りかへるに急なるもののみが多い。夫れを「アララギ」の徒は知つてゐる。
       〇
 予は木下利玄氏の近作を注意して見てゐる。現在に世に現れてゐる歌人中最も誠實に深いものを求めてゐる人の一人であると思つてゐるからである。予は氏の顔を知らない。氏の歌を見て早くから然ういふ感を抱いてゐた。近頃になつて餘計にその感がする。
   風なき晝まを冬木の枝にとべる小禽の羽音|和《のど》にしきこゆ
 全體の心がよく羽の音に集中し得てゐる。夫れゆゑ一首の感じに深い落着きが出てゐる。「風なき」「晝まを」「冬木の枝」「とべる」各句と各句の連絡が勢をなして、「小禽の羽音」に集まつてゐるから「和《のど》にしきこゆ」が充分に利いて据つてゐる。材料に何の奇もない。詞句にも何の奇がない。それが自然に纏まつて深い感じに落ちて行く所を見べきである。歌の命は只それ丈けである。事件や哲理は只そのままでは歌の命と何の關係もないのである。作者の歌には衆人の接する事象から衆人の至り得ない深いものに到達してゐる點がある。事象の中樞を握らうとする努力が數年來氏の作に看取せられて、夫れが今まで生眞面目に繼續されてゐるためである。生眞面目にしてゐる仕事からは屑が出る。(409)屑が出ても構はずにこつこつつゝいてゐるには鈍機が要る。氏は一面にこの鈍機を解し得てゐるかも知れない。、」
   提灯が近づきて見れば小きざみに兒が急ぎをり村と村の間
 「近づきて見れば」が機微である。歌全體が斯樣な機微によつて生動し來ることを心づかぬ歌人はいくらもある。夫れは只句法の問題ではない。
   ちぎれ雲走りつくして夕空に豐旗雲のしづかに高し
 見方も捉へ方も要所を得てゐる。「しづかに高し」で空の晴れに向ふ變化が可なり莊重に現れてゐるが、この句猶よき現し方があるかも知れぬ。此の場合「しづかに」が「走りつくして」に對し過ぎてゐると思ふ。
   のぼり來て旅籠につけばとみに寒し障子に赤きお山の夕陽
 「のぼり來て」「とみに寒し」「障子に赤きお山の夕陽」捉へ方が常几でない。生動の氣が滿ちてゐる。
  この湖の水《み》の面《も》にあたる雨の音しみみになりつ舟をめぐりて 第一句より第四句まで一直線に通つてゐる。第五句で轉じて光景が急に作者と緊密になる。この現し方容易でない。作者の技巧のあまくないことが分る。第一句「この」の使ひ方も無造作に見べきでない句法である。
(410) 以上五首は「新時代」六月號所載氏の歌から拔き書したのである。五首共主もに事象を歌つて作者の主觀が寧ろ露はに現れてゐない。露はに現れてゐないから是等の歌が没主觀の歌であると言ふ人があれば、夫れ等の人と歌の話は出來なくなるのである。近頃主觀を強調せよと叫ぶ人々がある。予は夫れらの人々に、試みに以上五首に作者の主觀が強調されてゐるか、ゐないか、何う思ふか聞いて見たいのである。
   黒雲はおつかぶされり片空の日光《ひかり》に射られ雹落ち來る
 同じく「新時代」六月號同氏の歌である。捉へ所はいいが現し方が冴えて居らぬ。「おつかぶされり」で非常な光景を現さうと思つたことは分るが、矢張り「押しかぶされり」と落ちついて言つてゐる方が、騷々しくないやうである。「ひかりに射られ〔二字右○〕」は「雹落ち來る」と因果的に連絡してゐる嫌ひがある。これもも少し騷々しくない現し方が有りさうに思ふ。この歌非常な光景を現さうとして、少しはやり〔三字傍点〕過ぎた傾がある。表現の冴えに入ることは容易でない。予は數年前から氏の歌に可なり不熟のものの交じつてあることを注意して見てゐる。それが段々に變化して行く徑路から氏の敬虔な努力が窺はれるからである。冴えないものは現今でも未だ多く目につく。その一例に此の歌を擧げた。
   行きすりの小松がなかに鳴きうつる※[翁+鳥]《ひたき》見いでてひそかに歩む
   向《むか》の峰《ね》の松の林に朝日さし木の間木の間の霧らひたり見ゆ
(411)   窓により仰げば見ゆる裏山の尖《さき》ほそ冬木はさびしきかもよ
 これは「中外」三月號同氏の歌で矢張り秀作である。
   冬山の日なたに居れば木を樵れる音こころよく峡にとよめり
 「木を樵れる〔二字右○〕」は「冬木樵る〔二字右○〕」等が穩かであらう。
   雜木山落葉しつくしこの頃の冬日にひかる椿と青木
 「この頃の冬日にひかる」は未だ窮屈である。「落葉しつくし」とあれば「冬日」の「冬」は此の場合不要である。
   夕濱の長き渚の波の音間遠にたゆくくりかへりをり
 「くりかへり〔右○〕」は不熟である。「繰り」が他動詞であるから「かへり」では具合が惡い。
   海の沖ゆうねりつたへし勢ひのここにきはまり波くつがへる
 第二句から第四句までが敍述しすぎて間のびがしてゐる。「勢ひ」といふ詞はあるが勢ひは無くなつてゐる。
以上四首同じく「中外」三月號同氏作中から拾つたのである。四首共不熟な所はあるが劣作ではない。
       〇
 木下利玄氏の「紅玉」と半田良平氏の「野づかさ」と同時に世に出た。二氏の歌に対する敬虔の心(412)はいつもその歌の上に現れてゐる。その二氏が同時に歌集を世に出したことを歌壇のために祝する。この二つの歌集は未だ出ぬうちから予に期待を持たせた。
 半田氏の歌にはいつも重厚な心がある。捉へ方も現し方も苟もしないといふ様子が何の歌にも現れて居る。氏の歩み方は地味である。一足づつぽつぽつと前へ出してゐる姿を機敏者が齒痒く思ふかも知れぬ。齒痒く思ふ機敏者は十年の後にどんな歩き方をしてゐるであらうかと考ふべきでゐる。地味な歩みには何處かに確實な所がある。半田氏の現在の命はこの地味と確實性とにある。これを如何にして究極所に入らしむるかが氏の工夫のあるべき所である。工夫には覺悟が要る。半田氏が如何なる覺悟を以て歌に對してゐるかを氏に向つて問うて見たいが、覺悟といふものは他人に口外するものであるまい。予は「野づかさ」一卷を讀んで感じたものの最も重要なものを記して氏に餞ける。曰く「野づかさ」一卷の歌は地味で確實であるけれども集中が足りない。
 卷中予の私に圏點を附したものを掲げて見る。
   この原ゆただにそばたつ男體《なんたい》の山をかしこみ草に坐てなげく
 第五句がこの歌を敍述に傾かせたことを惜む。此の題の場合では「草に坐て」は無い方が透徹するのである。
   鐵管にこごりて白き湯の華をはがしつつ居れば汗かきにけり
(413) 第四五句が同じく敍述的に傾いてゐる。「はがしつつ居り汗かきながら」と全く現在にしち引き緊めた方がよいと思ふ。
   男體の山の清水を家に引き朝にけに飲む人の羨《とも》しも
 「朝にけに飲む」が較々丁寧すぎてゐる。
   山なかの物賣る家に夕されば燒酎を買ふと人の來にけり
   蓮田に葉がくり咲ける白蓮の花とぼしければ吾子《あこ》は見ざらむ
   小夜ふかくいまだ戸ざさぬ店ありて灯《あかり》はさしぬ汐くさき路に   五月野の岡をいくつか越え來りむらがり立てる人の家を見つ  (つづく)   (大正入年十一月「アララギ」第十二卷第十一號)
       〇
 予は今「アララギ」以外の事に心が使はれてゐる。作歌の方にも心が纏まりさうにないのを殘念に思うてゐる。今年中に半田良平氏の「野づかさ」に對する愚見だけを纏めて、來年から新しく元氣を出さうと思うてゐる。そのつもりで今日は筆を執らうとしてゐる處へ「短歌雜誌」十一月號が屆いて、偶然窪田空穗氏の「野づかさ」評を見た。それを見ると又夫れについて物が言ひたくなるといふ心が起つて來る。前號の續きとしては變であるが、その邊から書きはじめることにする。
(414) 窪田氏の「野づかさ」評は流石によく半田氏を見てゐる所があつて、予にも同感と思はれる點が多い。窪田氏は批評の結末に斯う言つてゐる。「私の好みから云ふと、用意の勝ち過ぎる歌が幾分交じつてゐると言はなくてはならない。此の用意が自《おのづか》らに消えて、その代りに、冴えと、冴えから來る強さが加はつたならば、如何に見事なものだらうと思はれる。云々」用意の勝ち過ぎるのは用意の無いものよりもよい。初めより用意なきは終りまで空疎になり易い。「心のままなる叫び」といふやうな事は、歌の究極所に入つて初めて望み得る所であつて、夫れまでには鍛錬の道を通らねばならぬのである。鍛錬の道は苦酸な道である。苦酸な道を通る事を面倒として漫然「心のままなる叫び」を唱へてゐる天才歌人の作品を見ればこの間の消息が解るのである。鍛錬とは表現の鍛錬であつて實は全心の鍛錬である。全心の鍛錬がなくて表現のみが「冴え」と、「冴えから來る強さ」に入る筈はないのである。予の斯く言ふは窪田氏の「野づかさ」評言について異議を言ふの意ではない。半田氏の歌に用意の勝ち過ぎたものの交じつてゐる事は、窪田氏の所謂「幾分」以上の程度であるかも知れない。それは皆半田氏の作品の、今から「冴え」に至るべき道程である。この道程は鍛錬に依つて通過されねばならぬ事を、明瞭に半田氏の覺悟すべき事を、先輩たる窪田氏からもつと力を入れて明かに説いて貰ひたかつたのである。予の前號に半田氏に對して「覺悟が要る」と言つたのはこの意である。「冴え」は「生《な》ま」に對し、「強さ」は感傷的な「弱さ」に對する。「弱さ」から「強さ」に至り、「生ま」から「冴(415)え」に入るには全心的な鍛錬を通らねばならぬのである。或は窪田氏は鍛錬道に對し夫れほどに重要な意義を有たせて考へて居らぬかとも想像する。さうなると同じく冴えや強さを説いても窪田氏と予との間に考への相違した所が出て來るやうである。爾か思ふのは氏の歌に對して、予は未だ一度も「冴え」や「強さ」を感じた事がないといふ所から起つてゐる。氏の亡妻を詠んだ歌を世間で騷いだ時、予は氏の夫れらの歌から「甘さ」と「弱さ」を知り得たのみである。(この事は詳説を要する)「冴ぇ」「強さ」に對する窪田氏と予との考へには大なる相違があるらしいのである。窪田氏が半田氏の、
   山坂を下りゆく車の音きこゆ行きあひてより久しと思ふに
に對して「心が物の捉はれを離れて或境に住してゐるのでなければ夫れを捉へることすら出來ないやうなもので、又、捉へても優れた表現力を持つて居なければ表現の出來ないやうなものである」と言うてゐるのは當つてゐる。併し夫れに關聯して「極めてなつかしいものであるが極めてはかないもので、立つと直ぐに消えてしまふやうなものである」と言うてゐる。「極めてはかないもの」「立つと直ぐに消えてしまふやうなもの」といふ事と、窪田氏の求むる「冴え」との間には如何なる距離があるかを聞いて見たい。予はこの歌は「野づかさ」中にあつて、最も「冴え」の領分に入つてゐるものであると思うてゐるからである。此の歌に現れた微細感は、冴え入り、澄み入れる果ての微細感であつて「はかない」「立つと直ぐ消える」などの感じではないと思ふのである。同じく清澄山の歌で、
(416)   夕さりてほのぼのくろき山並もいまは狎れたり飯食はむとす
といふのがある。この歌の「山並もいまは〔四字右○〕狎れたり」の圏點の所不熟であるが、旅行歌として前の歌よりも澁き境地に入つてゐる。この歌境の微細感に共鳴するものは現在にあつて少ないであらう。夫れに比べると、同じ時の歌
   山の端に今やかたむく八日の月風呂にかがめば窓ごしに見ゆ
になると、よいことはよいが、前二者に比べると歌がずつと外面的である。この三首の關係を窪田氏半田氏は如何に思ふかを序に聞いて見たいのである。夫れによつて兩氏の冴え觀と、微細觀とが解ると思ふのである。猶言へば、窪田氏が「半田君の自愛の心が隨時隨所で他愛といふ形を取つて如何に素直に濃やかに働いて云々」と言うて擧げてゐる歌の中一二を除けば、予は「野づかさ」中の秀歌として擧げるに躊躇する。ここにも窪田氏と予と、觀照と作歌の態度に相違のあることが分る。更に窪田氏が「全然批判の加はらない、自愛の念その物とも言ふべきものが、對象を輕い意味での材料として、すらりと現れ」たものとして擧げられた數首の歌の大部分も、半田氏の秀作ではないと思ふのである。此處にも窪田氏と予との相違が明かである。
 「野づかさ」評が外《そ》れて、窪田氏の「野づかさ」評に對して物言ふに至つたのは意外である。今日「短歌雜誌」の屆いたのが妙な具合になつたのである。以下前號につづいて予の圏點を附した「野づ(417)かさ」中の歌をあげる。
小竹やぶに腰をおろしてしみじみと目《ま》かげしあふぐ日の在りどころ
「しみじみ」は言語が勝ち過ぎてゐる。
   鉾杉のかげ地にのこる霜白し日向をとめて子を歩ませぬ
大へんに面白い。
   提灯をともしてい行く石のみち茂吉に會ふと息きらしいそぐ
少くも甘くない。平凡でもない。
   山の上《へ》のここの畠《はたけ》にはたつものさやけく生ひぬ秋ちかからむ
   燃えつきていまは消なむとするからに焚火にい倚り海女はしたしき
   豫備兵のわれはや通る葛飾《かつしか》の田中につけし一ぽんの道
   夜の道をあゆみ疲れてうつつなし人がだまればわれもだまるを
   雀の子鳴き交《かは》しゐるあかときをめざめてきけば雨やみて居り
   夕近き山かげ小田にうごく人ますかし見れば土はこびゐる
   草刈りにゆく男らのけはひすれほの暗ければひとときを寢む  一一月十九日記   (大正八年十二月「アララギ」第十二卷第十二號)
 
(418) 大正八年の「アララギ」
 
 今年九月號歌會報の中に松澤常毅の歌
   稻ふかくこもる蛙のこゑさびて夕べとなれどおほくは鳴かず
といふのがある。田園晩夏の趣が作者の深い心持から宛らに響き出てゐる。斯樣な歌は大抵の人が一度讀めば忘れない。忘れようとして忘られぬやうな歌を永久性ある歌といふのである。「アララギ」には斯樣な歌が選歌の中に可なりある。門間春雄、松倉米吉二氏は今年に入つて異常な歌を遺しで世を去つた。米吉の歌
   鞴《ふいご》ふきつつ火元をば見て吾が居れど消えし足音に思ひはつきぬ 連作中の一首
の如きは可なりの深さに入つて特殊の境を拓き得てゐる。「アララギ」の新しき人々は、總體に今年に入つて各々自分の特性に目覺め出した觀がある。先人の未だ行かない境に行くといふことは、只一心に自分の土を穿つてゐればいいのである。そこから本當の自分のものが掘り出されれば夫れが自か(419)ら特性を帶びたものになるのである。特殊性といふ事は此の意味を外にしては存在せぬことである。土田耕平は最も早くから一途に自分のものを掘つて來た一人である。或る境に澄み入るに於て「アララギ」同人中多く比を見ない。この上に更に生活力の強さが加はれば大したものであらう。之に比べると結城哀草果には生活力の強さがあつて澄み入るものの足りない觀がある。足音は高いが同じ所に足踏みをしてゐすぎるやうである。この足踏みは可なり時間が長いと思ふから、そろそろ作者に註文を持ち出してよいと思うてゐる。横山達三、宇野喜代、加納曉は各々自らの行くべきに行つて居るけれども作物の少いのを遺憾とする。山本信一は繁忙の中に毎號殆ど歌を休まない。よきものは微妙所に入り、往々にしてセンチメンタルに墮ちる。兩角七美雄は山中で田畠を掘り、醤油を賣りつつ氣を吐いてゐる。彼は歌の上に握るべき要樞を領してゐる。彼の特殊性が往々常軌を逸するに似て概ね要に當つてゐるのは此のためである。八年中に最も多く佳作を成した一人である。木曾馬吉には底力がある。八年中多く作つた方ではないが、現れたものは常凡でない。時々間の拔けた歌を見せるのは彼の歌柄の大きいことを示すと共に、勉強すべき將來を持つてゐることを彼自らに示すに似てゐる。高田浪吉、竹尾忠吉の勉強近來著大であつて進境之に伴つてゐる。浪吉多く戀の歌を成して甘きに墮ちない。句を行るたどたどしきに似て却つて情の通ずる觀がある。たどたどしきに甘んぜずして更に精勵する必要がある。忠吉初め類型的の歌多く、予概ね之を取らなかつた。彼は此の兩三年の間に全く(420)從來の作風を棄てて、新に自ら出直す工夫をした。出直した當初の歌は非常にまづかつたが、夫れが彼を眞實の道に導く道程となつた。久しい間まづいまづいと言はれてゐるうちに彼は、
   夕ぐるるお濠にうかぶ白き鳥飛べば大きく際《きは》やかに見ゆ
の秀作を成して予等を驚かせたのである。其の後の彼は可なり著しい進み方をしてゐる。まづい歌の猶多く交じるのは煩ひとするに足らない。不斷の勉強を心掛けてゐること肝要である。山口好、今年に入つて少しく停滯の風あるは何故ぞ。
   くれむつの鐘はひびけど足もとの未《いま》だ明るき五月となれり
   やすきよねもとめて歸るひるまへの土用の空に湧く雲おほし
の如きは今日の歌壇に容易に求むるを得ざるほどの秀品である。この道を押し進める工夫を望む。廣瀬照太郎も力作者の一人である。今年の「アララギ」に可なり秀れた歌を發表してゐる。近頃實生活に即した方面に生面を拓かうとしてゐる。月餘に亙る重病恢復して未だ間がない。今年の奮起を望む。由利貞三亦力作者である。最近
   泊る村に來れるごとし川向うのあかし見かけて峠をくだる
などがある。概しで内面的に多く掘り入る工夫あらんことを望む。高木今衛今年割合に勉強して佳作を出してゐるが、未だ態度の確立せぬ所がある。
(421)   二階にてひと日過せり蝉しぐれ夕方となり障子にひびく
の類は多くいい。中村美穗今年に入つて多く振はない。甲斐の山中に泰平になつてゐるのではないか、如何。廣野牛麿、齋藤松五郎ひたすらなる努力を續けんことを祈る。今年に入つて新に芽をふいた觀のある人に北村孤月、中島愼一、辻村直、齋藤郁雨、五味卷作の諸氏がある。孤月については茂吉氏が言ふ筈である。愼一の今年の進境は非常である。よい氣がしてはいけぬと言へば、よい氣がしてゐないと言うてゐる。それが何年も繼續することを望む。覺悟の要るのは之からである。直の歌は素朴である。ただ言《こと》歌も交じる。突き詰めて物に對する工夫あらんを望む。郁雨最近に至つて進んでゐる。生活の反省的な所が歌の上に現れてゐる。其處をずんずん突き詰めて行くべきである。卷作の歌は概ね要を捉へてゐる。素朴で聰明な歌が多い。大きくなるには年數がかかると覺悟し給へ。坂田星凡の歌は聰明ならずして自から要を捉へる。生眞面目な所に力が現れてゐるのであらう。
   四十越えしこの年をしていきどほり子どもさいなみ悔いて眠れず
の歌の如きは予は一讀して直ぐ記憶してしまつた。谷口景雲、小野巳代志、草生葉二、乾林莊、何れも今年の「アララギ」に特色を現してゐる。この内景雲最も勉強する。他の三氏の奮發を祈る。林莊の歌は年の前半非常の期待を以て見た。後年ぴつたり止んだのは何うした譯か。その他市毛宮之助の歌凡常ならず、高島龍二の歌後半年に著しく進境を示してゐる。三浦一篤、歌へば多く佳作を見せる(422)が作り方が少いのを遺憾とする。丹羽富二の歌には多く純直な心がある。之を押し進めるに年數を以てする覺悟あらんを望む。篠原逸也の歌にも赤子の如き純一な心がある。勉強の工夫必要である。文明氏から時々叱つてもらふと藥になる。芥子澤新之助、傳田青磁、原田泰人、飯山鶴雄、伊東壽一の諸氏に今一段の勉強を求める。松井芒人の「犬」、小尾左歌麿の「牛」は矢張り今年の佳作である。
 築地藤子は海外にあつて時々多くの逸品を送つた。
   吾子よ見よ椰子の木かげに青くそよぐ芋の葉を見れば故郷の如し
を見た時、予は氏の覊情を想像するに堪へぬ思ひがした。近頃久しく消息を絶つてゐるのは何うしたことか。櫻井みね子、坂田幸代、徳武とく三氏皆自己の實情に即して眞面目に素直に歌つてゐる。夫れをずんずん押し進めて行き給へ。今後の歩み方を見てから言及した方が都合よいと思ふ多くの人々を此の文中から略した。十二月十二日   (大正九年一月「アララギ」第十三卷第一號)
 
(423) 個々の作に就て見よ
      ――「歌壇の現状に對する意見」なる題を得て――
 
 一、ひつそりして來たとすれば、夫れには生氣の拔けて來たのもありませうし、喧嘩から遯げて一人ひそかに精進の道を歩いてゐるものもあらませう。個々の歌人その何れに属するかはその歌人の作《な》してゐる歌を見たら大抵分りませう。緩んだ作が多いか、張り切つてゐる作が多いかが唯一の問題でありませう。
 二、華々しくなくても注目に値すべき新進作家が多く出てゐると思ひます。地味な歩き方をしてゐる新人の中から、その秀れた作品を發見するといふことは今の歌壇の傾向では出來にくいかも知れません。御祭騷ぎでもすると人が認め出すといふやうな事は、認める者も、認められるものも素質が劣つてゐる反證になります。
 罵倒や議論がその御祭の一部を爲すといふやうな事は詰らぬ現象です。私としては手近な「アララ(424)ギ」の新進作家の歌を見て頂きたいと希ひます。不遜な心で言ふのではありません。夫れから又、少し素質の秀れた新進作家を煽てあげて(?)早く大家に祭り上げるといふやうな事が、新進作家の進歩を煩すことありとすれば、それは今の歌壇に立つ人々の罪です。これは現歌壇に可成り適切の問題になるかも知れません。   (大正九年「短歌雜誌」五月號)
 
(425) 三井氏に答ふ
 
〇小生が「東京朝日新聞」の選歌について君の歌に數行言及した。夫れに對して君は大分立腹して居る。君は小生の言を以てこ誣言だとなして居る。さうして小生に對して「答へよ」と言つて居る。
〇君の質問は斯うである。小生が「東京朝日新聞」の投稿歌中、
   基督も言へり眞理は神なりと我も眞理を神なりとなす
   改造よ自由よと叫ぶ人々よ眞の自由をまこと知れるか
 この歌を小生が「何か心の中に叫びたきものあるは認め得べし。理窟の抽象的表出なるに止まるを遺憾とす。尤も三井甲之氏の如きは斯の類の歌を更に極端に押進めたるものを作り居れり。共鳴者は三井氏に行くも可なり。予は採らず」と言ひたるに對し、「これは實例をも示さず又説明をも加へぬ所の誣言である〔實〜右△〕」「自ら獨斷的誣言を述べつつ輿論の僻見に訴へようとする狡計を檢索しよう」「此の類の歌を更に押進めたものを作り居れりとは如何なる事實を指示するか。答へよ〔三字右○〕」といふのである。
(426)〇君の歌の抽象的觀念若くは概念の記號なるに止まる事は、小生の既に幾度も評して公表して居る事である。今更擧例を重ぬるを要しない。併し君の要求に対して少し位の例を擧げてもいい。
〇大正六年十月號「アララギ」に小生が君の歌を擧げて「觀念若くは概念の記號に過ぎぬ」と言うた事がある。重複ながら其の例歌を今一度此處に擧げる。   うつし世を單純化せんとひじりぶりさかしらに言ふ木偶の如き入ら
   うつし世を二つに分けて片々を贔屓せんなど思ふはしれものぞ
   平等の世界のみ見て動亂の情意の生をしらざるか彼等は
   生のままに無限の變化と複雜とわれらはわれらの歌にうたはむ
 これら一群の歌と「東京朝日新聞」の一投稿家の歌と比較して三井君何う思ふか。
〇今擧げた歌例は三年前の三井君の作である。夫れが近頃何う變化してゐるかと言ふと、
   よきあしきさやりはげましすべて人の行ひをわかたば心のすがたか
   人の行ひ人のことばをその動機に分たばすべて自然とならむ
   時は過去にまた將來につながれどかぎりあるべしすむべき大地に
   個の威嚴をかいつくろはむとせしといふ一政客の逸話をはじめて聞けり
   ああ過去のかたちのうへに個我をまもるものらよしざれ時は迫れり
(427)といふ類の歌を大正八年七月號の「短歌雜誌」に載せてゐる。これを三井君は何う思ふか。
 大正九年一月號「短歌雜誌」に載つてゐる君の歌を見ると、之も亦同じ種類のものである。
   安價にてゆづりうけたる萬年筆重寶にしてうれしといふ君のことばよ
   すべらかに紙をばはしるもうれしけれど失はむことをきみはおそるるか
   ああ文明の利器よとおもひトルストイの文明呪詛をきみはわらへり
   きみは今萬年筆を求めしがわれは求めき十五六年前に
   十五六年のあひだにおいて今われはその三本目のものを使ひをり
   大戰のあひだにアメリカにてつくりしといふ萬年筆はいささかわろし
 何首擧げても同じであるからこの位にしておく。これでは擧例に對する説明が缺けてゐると君は言ふであらう。前掲の者の歌に對してこの上説明を加へる必要があるか無いかを考へて見給へ。小生の選歌について長い批評を書かれたが、この方は答へることを控へる。何うしても議論せよといふならば、その前に君の議論の態度について、確めて置かなければならぬことがある。四月二十日   (大正九年六月「アララギ」第十三卷第六號)
 
(428) 「アララギ」卷頭言
 
 青村宅に泊まつた李果が朝佛壇の前で勤行してゐる。讀經の聲を聞いて勝手から駈けて來たのは青村の二女子(六歳、四歳)である。何れも不思議さうに李果の圓顱を見つめて後ろに立つてゐる。四歳の子の眼は圓顱よりも少し低い。少し低い處から熱心に圓顱を見あげてゐた子どもは、とうとう手を伸して圓顱を撫でて見た。道心徹底の李果も是には少々驚かされたと見えてお經を誦しながら後ろを振り向いて見た。夫れを小生が茶を飲みながら次の室から眺めてゐた。   (大正九年九月「アララギ」第十三卷第九號)
 
(429) 竹柏園歌話の一節につきて
 
 一月二十五日「東京朝日新聞」の竹柏園歌話を見ると、歌集「山海經」に對して「抒景詩の發展と竝んで、それのみに偏らず、抒情詩もしくは主觀的方面への發展をも見たいのである。云々」といひ「これ迄の傾向にのみ、猶向つて行かれたならば第四集第五集に至つては自分が要求する君(著者川田順氏を指す)の歌風の個性は段々うすれて、終になくなつて行きはしないかと思ふ。蓋しこれは和歌に於ける所謂寫生主義のおもむくべき、寧ろ一般の傾向であると思はれるからである。云々」というてゐる。今の時、尚、抒景と抒情と並立して考へるやうな頭の持主では、とても寫生は判らぬ。深い寫生を解するまでに至らぬ頭には、寫生の歌が個性を失ふに至ると見えるのは御尤もである。寫生を非難する多くの歌人は、大抵寫生を物質的に外廓から見てゐる人々である。外廓から見て容易な寫生概念を得てゐる人々は、すべての事象に對して到底その核心に潜入することの出來ない人々である。さういふ人々の作つてゐる流行物眞似寫生の歌を見ると、小生の言明白に判るのである。その位(430)の程度で寫生歌を云爲されては痛み入らざるを得ないのである。今の世上にザラにある所謂寫生歌の如きは、あれは流行の物眞似寫生歌であつて、小生等より見れば多く外廓的寫生歌である。彼等は寫生歌を非難しながら多量に淺はかな寫生歌を作つてゐる。その態度、その言行の不徹底さが彼等の頭を物眞似にし、外廓的にし、物質的にしてゐるのである。小生のこの言を確めるためには現今の歌の雜誌を手當り次第に一二册擴げて見れば十分である。斯樣な中にあつても佐々木信綱氏の如き初歩寫生に低徊してゐる人は、現在に於て絶無である。
 私は今雜誌「現代」の最近號から信綱氏の作、
   背戸畑につづく松山山裾のところどころに梅白う咲けり
   日うららに未の子が乘る三輪車巧になりぬ梅の花さけり
   日ゆたかに入海の波ひたひたと岸にさく梅の四もと五もと
   梅四五樹砂畑に咲けり曙の毎にむかひて※[奚+隹]が鳴く
   老楠の木立匂へる朝もやに瑞垣の梅花ふくみたり
「梅花十四章」中から割合に無難なもの五首を擧げたのである。第一の歌「背戸畑につづく松山」というて一般地理を敍べ、更に折り返して「山裾の所々」と細かく場所を指示してゐる。第一句より第四句迄要するに場所の敍述である。斯樣な歌を散文的といふのであつて、初歩め人の誰でもが此處ま(431)では手を付け得るといふ意味に於て個性が無いのである。「東京朝日新聞」の予の選歌欄には斷じて斯樣な初歩歌はない。第二の歌は根柢から心が弛緩してゐる。三輪車が巧になつたというて喜んでゐるだけならば、隱居らしい心が無害に現れてゐると言ひ去り得るのであるが、第五句へ行つて突然「梅の花咲けり」と出られては、此の老人急に小さな氣を利かせたなどいふ威じで全體を厭味に化してしまふ。のみならず、此の突然な句が挿入されるために却つて全體の心を生ま温るくしてしまふのである。斯樣な弛緩歌も現代にあつて他に見られぬものである。第三の歌「ゆたかに」「ひたひた」といふ副詞を疊用して歌を外面的にしてゐる。我々はそれをあまいと名づけるのであつて、この程度のあまさ〔三字傍点〕は佐々木氏に限らず現代歌人の多く至つてゐる所であるから、佐々木氏一人を責むるにも當らないのであるが、「岸にさく梅の四もと五もと」と數字を重ねて擧げる所になると、もう當人限りの低級さに歸さねばならなくなる。數字を擧げていけないのではないのである。斯樣な場合の數字は極めて安易な外面的なものであるをいふのである。次の歌も劈頭から「梅四五樹」と出てゐる。どうも驚くに足りる。斯樣に漢語で出發したら、結句も漢語にでもしたら定めて緊張した調子を得たであらう。併しその緊張は小生等の求めて居る緊張ではなくて、壯士節の緊張である。此の歌「梅四五樹」「砂畑」「曙の海」「※[奚+隹]」といふやうに材料が澤山に羅列されてゐる。それ丈け一首の歌に緊張した單純化が行はれてゐないといふ證據になる。一首中の材料過多の現象は他の歌に通じて言ひ得る所である。次の(432)歌の「老楠」「朝靄」「瑞垣」「梅」も同じである。而もそれ等材料を列ぬる語句が多く外面的に光澤多いものであるだけ餘計に歌を輕薄にしてゐるのである。斯樣な低い程度の寫生をする心持で、寫生歌に言及するのは僭越である。氏は、も少し誠實謙虚な心を持つて事象に沈潜する一筋ごころ〔五字傍点〕を養うてから寫生乃至現今歌壇に言及するを適當とするであらう。
 小生は只今故伊藤左千夫の歌をしらべてゐる。佐々木氏は左千夫と同時代に已に歌を作つてゐた筈である。左千夫には明治三十三年水害に遭うた時、
   牀の上水こえたれば夜もすがら屋根の裏べにこほろぎの鳴く
   只ひとり水づく荒屋に居残りて鳴くこほろぎに耳傾けぬ
   牀のうへに牀をつくりて水づく屋にひとりし居ればこほろぎのなく
といふ種類の寫生歌をつくつてゐる。これに個性が現れて居るか居ないかは今より二十年前にあつて既に佐々木氏の考慮を經てゐなければならない筈である。二十年後でも遲いとはせぬ。「梅花十四章」の如き歌を水害の歌と比べて寫生の如何なる所まで行くべきものかの一端を窺ふことをするのは佐々木氏の爲に稗益となるべきである。二月一日稿終   (大正十一年二月五日・七日・八日「東京朝日新聞」)
 
(433) 西村陽吉氏に答ふ
 
 昨年十一、十二月合併號「尺土」で西村陽吉氏は、小生の中央公論所載の「東西集」及び夫れにつき「アララギ」十月號(昨年)に掲げた私書を對象にして一文を小生に寄せられてゐる。雜誌を遲く拜見したことと、小生の繁忙とで今頃お答へするのは申譯なけれど寛恕を願ふ。
 小生は西村氏を歌人西村氏として、歌の事で考へを交換する事は應諾するが、人生觀や人類觀や國家觀で意見を言ひ合はうとは思はない。成る程左樣なものは相依つて個人の生活を規定する。それならば一般生活問題に就て意見を交換するかと言へば、夫れも小生は氏の挑みに對して興味が出ない。成る程個人の一般生活は(小生の言ふ生活は衣食住といふ如き有形に現れるもののみを指さない)直に個人の藝術を規定する。併し乍ら藝術は生活の歸結或は生活の最高頂點であつて、生活と別れ別れのものでなく、猶其の上に完全に藝術としての獨立を持つてゐるものである。西村氏と藝術を論ずるひまを持つが、一般生活を論じ人生觀國家觀を論ずるひまがないと言ふ心は、生活問題や人生觀國家(434)觀を蔑視する意でない事西村氏の了解する所となるであらう。猶他より言へば、藝術は直に生活であるが、生活が悉く藝術ではない。藝術に從ふ者は藝術に現れた生活を先づ凝視する事が尤も敬虔なる奉仕の道である。それがなくて常に一般生活(殊に有形的生活)を云爲する以上に出でぬ如き態度にある事は、藝術の根本を知るに似て實は藝術者として疎懶者である。氏は「我々は常に我々の實生活は我々の第一義である。藝術活動は我々にとつては寧ろ第二義のものである。云々」と言はれる。小生は藝術活動をも實生活と見てゐるのであつて、藝術者が藝術活動に弛緩である態度はその藝術者の他の生活も果して如何であるかを疑ふ程に思はれるのである。この邊西村氏と小生との藝術觀相違をなしてゐるやうである。之は致し方ないのであつて、詰り小生が人生觀や社會觀國家觀に就て西村氏と今意見を交換する心の出ないのは、夫れらを輕視する意でない事が分つて頂ければいいのである。
 序を以て言ふが、西村氏は小生を「無論國家主義者である」と言うてゐるが、國家を愛する事が直ぐ國家主義といへぬ事は、女人を愛するから直ぐ女人主義者といへぬと同じである。小生が衆生の恩と言うたのを捉へて、直に大日本帝國の國民の恩といふ事だけであらう。と言はれてゐるが、左樣の事を考へたことなく、言ひしことなく、書いた事もない。これら皆西村氏の輕卒言である。以上の他の點で氏の見識に立脚してゐる所へは小生の言を及ぼさない。了解を冀ふ。   (大正十一年三月「アララギ」第十五卷第三號)
 
(435) 芭蕉の全心
 
 現代人である俄々は、心の働き方が多岐になつて居ります。左樣な心で芭蕉の心境を覗ふことは難かしいと思ひます。我々が謙虚の心に居る時、少くも芭蕉の心境に言及することに畏れを抱かぬ譯に行かぬと思ひます。若し強ひて芭蕉を語るといふならば、夫れは現代人である我々の心の缺陷を覺る悔悟の状態にあつて芭蕉の心境に拂ふ尊敬の念を語るほどの態度であらねばなりません。私は今人の芭蕉に對して語る多少の文章を見ました。そして今人の芭蕉を語ることが容易であら過ぎはしないかと思つて居ります。
 芭蕉の生活を知るために芭蕉の外的生活や、芭蕉の記録や、その俳句やを知らねばならぬことは勿論でありますが、すべての生活の中核をなすものは俳句に現れて居ると思ひます。芭蕉の俳句を取り去つて其の外的生活やその記録などのみをたどつても芭蕉の生活精神は現れ難いと思ひますが、その俳句だけを見れば芭蕉の生活精神は覗はれると思ひます。夫れは外的生活とその記録を無視する意味(436)ではありません。生活精神の結晶乃至頂點が俳句に現れてゐることを言ひたいのであります。
 家をすて流浪生活をして道を求めたものは古來芭蕉一人に限りません。俳門の人にはよく斯樣な人があります。芭蕉の尊敬した西行などもその一人であります。「心なき身にも哀れは知られけり鴫立つ澤の秋の夕暮」などを見ても彼の生活精神の生ま〔二字傍点〕であり、弱い戚傷的なものであつたことが分ります。芭黄の俳句は到底西行の歌とは品質を異にして居ります。流浪生活といふ如き外的條件で、その生活精神を覗ふことの出來ぬことの一端が分ると思ひます。
 芭煮の俳句は少くも西行のやうな悟り顔をした感傷的なものではありません。芭蕉は歿前園女の清節を愛して「白菊の目に立てて見る塵もなし」と詠んで居ます。是は良寛禅師の齢七十にして貞心尼を愛したのと似て居ます。良寛は貞心尼に對して「月よみの光を待ちて歸りませ山路は栗の毬の多きに」と歌つて居ります。兩者共に人情の具足と徹底を見ることが出來ます。西行の「吉野山麓に降らぬ雪ならば花かと見てや訪ね入らまし」「涙ゆゑ常に曇れる月なれば流れぬ折ぞ晴間なりける」の如き不自然な概念的なものではありません。芭蕉は「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」如き寂境にあり乍ら夫れが大きな自然に合致して居りますから、人情の自然な状態がおのづからに現れて居ります。芭蕉の俳句は靜寂の窮極であると共に、自他をいとしみ、乃至禽獣蟲魚山川草木をいとしみ懷しがつて居る大きな豐かな所があります。「秋深き隣は何をする人ぞ」「此秋は何で年寄る雲に鳥」「此(437)道や行く人なしに秋の暮」「枯枝に烏のとまりけり秋の暮」「草枕犬も時雨るるか夜の聲」「棧や命をからむ蔦葛」「憂き我をさびしがらせよ閑古鳥」「やがて死ぬけしきは見えず蝉の聲」「蜻蛉やとりつきかねし草の上」の如き、一々例を擧げきれません。
 靜寂とは一心集中の至極する所であります。芭蕉の生活の中心は生涯を通じた全心の一點集中であり、そして集中が何處までも大きな人情の自然に合致してゐた所にあらうと思ひます。それが最も具體的に俳句に現れてゐます。我々の心理生活は芭蕉の集中心や自然心を覗ふことさへ如何はしい境地に居りはせぬかと思ひます。これは大きなものに媚びて自己の生活を卑しめる心でないと信じます。外的生活などは人々異る境遇で異る形式を取つて居ることで、第一義の生活からは何の區別にもならぬと思ひます。我々は只大きなる古詩人の前に多岐なる自己の生活心を恥づる心があつていいと思ひます。   (大正十一年「枯野」三月號)
 
(438) 問者に答ふ
 
 明治維新以後の文明が、日本民衆の生活を多く物質的に救つたため、日本人の生活精神が物質的に傾いて來たことは自然の成行きであると思ひます。(是は單に日本人に限らないことです)物質的に傾くといふことは、生活が外面的に傾くといふことで外面的に傾くといふことは、生活が末梢神經を中心にして營まれるといふことになりませう。末梢神經を中心にする生活は派手で甘く輕快なものを求めます(しみじみとするもの、莊重なもの、噛みしめて味ふといふやうなものと反對なものです)。硯友社の小説や與謝野晶子氏等の歌はその傾向の一の現れであつて、あのやうな外面的のものに滿足出來なくなつた歌壇は、近頃漸く精神的な内面的なものによつて救はれて來たものであると思ひます。さういふ歌壇に棲息してゐる小生等の目から見ると、現今の婦人雑誌、子供雑誌に現れてゐる空氣は、丁度二十年前「明星」流行當時の歌壇を今どき歩いてゐるに似てゐると思ひます。婦人子供の讀物が如何に外面的で抹消神經的なものであるかは、大抵の婦人雑誌、子供雑誌をひらいて見ると分(439)ります。私は現今流行の童謠も、要するにその傾向の中に足並みを揃へてゐるものが多いのではないかと思つてゐます。現今都會生活をしてゐる人々の大部分、特にその子供の大部分は、その生活が極端に末梢神經的になつてゐます。これらの子どもは特に甘い經快な上すべりなものでなければ興味を惹起しません。これは現今の如き婦人雑誌耽讀者を母と持つた子供の不孝であります。(母親ばかりを原因としてゐるのでは勿論ありませんが)私は今の歌壇に棲息してる心もちからも、人親としての心持からも、現今の子供の讀みものに調子を合せるに止まるやうな童謠は頭から出てまゐりません。(大人の作る童謠の意義は小生の童謠集に書いてありますからここには述べません)この意味は丁度二十年前に與謝野氏等の歌に、小生等が調子を合せる心持の毛頭出なかつたことと同じ意味を持つて居ります。「明星」全盛の頃、子規・左千夫・節・麓・秀眞・義郎・格堂・潮音・蕨眞諸氏の萬葉復活を唱へた心持を眞に理解出來る人々は、少くも現今流行する童謠の多くに調子を合せる心持は出ないだらうと思ひます。都會の子供は殆ど救ふべからざる程度までに、末梢神經的生活に墮在してゐると思ひます。田舍の野山に棲息してゐる子供に現今の童謠乃至子供雑誌を讀ませるといふことは小生には忍びない感があります。本來から言へば子供ばかりでありません。物質的、外面的、末梢的生活の積弊は、世界全體を通じて現今大きな恐慌を來して居ります。それを救はうとするものが又同じく物質萬能の平等説を唱へて居ります。これは小生の目からは火を以て火を救ふに等しいものであつて、物質的、(440)外面的歌壇に萬葉復古を唱へた心とは大きな逕庭があると思ひます。そこを小生は興味多く思つてゐます。問題は童謠にも通じ文藝にも通じ人類生活にも通じます。   (大正十一年七月「アララギ」第十五卷第七號)
 
(441) 齋藤茂吉
 
 茂吉が昨年富士見にゐた時、宿痾があるのに毎日山中の川へ行つて水を浴びてゐた。それが單に氣まぐれや、やんちや〔四字傍点〕であると思ふ人があればちがふ。富士見の宿でゼンマイ仕掛の蠅捕器に蠅のかかるのを見て、どうも面白いと言つてゐた。その面白いと言つたのを單に愉快の意であると解するとちがふ。茂吉は何處の國にゐても病む時は病むと言つて外國へ渡つて行つた。昨年富士見轉地の時節が又廻つて來たから思ひ出して書き記すのである。   (大正十一年七月「アララギ」第十五卷第七號)
 
(442) 感想
     ――「現歌壇は餘りに專門的なりとの批難に対する感想」なる題を得て――
 
 歌人が專門的であるといふ非難に對して何う考へるかの質問と承知してゐる。(端書紛失)小生は非難の本體を知らぬ故正鵠を得た答が出來さうもない。態々の督促により痛み入つて愚見の一端を書く。歌人に限らず畫家小説家詩人科學者軍人官吏工藝商賈農業數へ來るもの、皆專門にして專門の非なるを見ない。歌人が現代人の思潮に調子を合せないとの非難ならば、調子を合せないのは、それが直ぐ思潮に觸れない事にはならぬ。思潮を了して思潮に從はぬ者もあり、思潮を了して思潮以上の深きに居る者もあり得る。現今流行の思潮の表面に一等よく調子の合つてゐる者は、今までの歌壇にあつて與謝野氏夫妻位のものであらう。今の歌人はそれらのものより、今少し深い所に立ち入つてゐる。その深いものの何であるかが分つてから、非難もし賛成もし尊敬もすべきであらう。所謂非難の言がどの位の程度の高所から放たれてゐるかを知らぬ小生は、これ以上の答が出來ない。八月二十一日   (大正十一年「とねりこ」九月號)
 
(443) 短歌と日常生活
 
 生活精神の統一から我々の歌は生れて來る。簡單な生活は統一され易く、複雑雑な生活は統一され難い。統一に難きほどの生活を統一し得る多力者が歌人に現れ來らんことを私は望んでゐる。
 複雑の統一は動やもすれば多岐面を露はし易く、愈々多岐にして収收する所がない。諸相を容るるに似て一相の眞に到達し得ないのである。簡單な統一には底の淺い憾みがあり、深しとするも周からずして早く墮する所があり、一たび撼さるれば底を傾けるの危さがある。諸相の一部に局在して好しとするもの、偶ま、他の一相に遭遇して驚き、二相三相に遭遇して摧け了るの類である。複雑の統一といひ、簡單な統一といふも、以上の如きは皆無力者の爲す所である。無力を料らずして多端に突き當るよりも、無力を知つて簡約するを殊勝とすべきも、はじめより囘避して、終りまで囘避したら、人間諸相を具備する時がないであらう。纏まりの早く、弊の少いを目指せば、簡單な統一を擇ぶより(444)よきはなく、大成を目ざせば積極的な用意を必要とする。この邊になれば、只その人に依るとするの外はあるまい。
 多面に突き當つて統一あるは難い。只敬虔一途な心と、その力量とが、之を簡にし、至簡にする。釋迦は夫婦道をも親子道をも通り、結婚後十三年にして出家し、後に遂に人間道を簡約してゐる。孔子は更に多面の道に突き當つて、陳蔡の野に困阨し、六十八歳にして初めて退いてその道を筆にした。多力なる簡約は至簡にして至繁である。一端にして全體である。統一に難きほどの生活を統一し得る多力者が歌人に現れんことを望むはこの意である。彼の自恣放縱を以て人間性の自然の發露なりとして、自ら簡約する所を知らざるともがらの如きは、今の時眼中において論ずる要がないのである。
       〇
 眞淵は、歌意考のはじめに
   あはれあはれ、上つ代には、人の心ひたぶるに、直くなんありける。心しひたぶるなれば、なすわざも少なく、事し少なければ、いふ言の葉も、さはならざりけり。しかありて、心に思ふことある時は、言にあげて歌ふ。こを歌といふめり。云々
と言うてゐる。萬葉道に傾到して初めていひ得る言である。「なすわざも少なく、いふ言の葉も多《さは》ならざりけり」は「ひたぶる心」の現れであつて、この消息は、上古人にも現世人にも通じ、男女にも(445)老若にも通じ、簡單なる生活の統一者にも通じ、複雑なる生活の統一者にも至つて益々多く必要を生ずべきである。多言多行は濫言濫行に近く、要用要行は深きひたぶる〔四字傍点〕心によつて、益々その幅を縮小せらるるであらう。複雑な統一者ほど縮小が多くなさるべきであつて、左樣な縮小をなす所の主體に多力の名を冠らせるのである。多力者とは生活精神の積極消極兩面に徹した統一者であつて、消極的に偏した統一者は多く囘避者である。歌人の群れが囘避者であるならば、人間諸相を兼ねた圓滿具足の歌は生れぬであらう。多言多行、濫言濫行のともがらは論外である。
       〇
 議論が立派になると、自分の生活がむず痒くなるものである。これは致し方がないのである。斯ういふ問題は、議論すると、議論の方が進み過ぎる傾を持つ。自分の生活を目安に置いて、ひそかに考へてゐればいいのである。人格に關する議論の堂々たることと、屡々なることとは、自分の生活に虚僞性を帶びしめることがある。諸れを人に見る。吾儕に見てはならぬ。
       〇
 子規が左千夫に
   茶博士をいやしきものと牛飼をたふとき業《なり》と知るとき花さく
といふ歌を貽つたのは、歌人往々囘避して風流に甘えることを戒めたのであらう。その實、左千夫は(446)洪水の中を犢鼻褌一つで牛を引つぱり廻すほどの生活をしてゐた。高き生活、清き生活、美しき生活といふやうなものに甘える儕は、宗教家、文學家、美術家等に多いやうである。鴎外は赤痢を病みつつ、或は肺炎を病みつつ陸軍省に通ひ、流行感冒に罹りつつ博物館に通ひ、萎縮腎に斃れんとしつつ足を引きずつて圖書寮に通つた。それほどの覺悟があつて、はじめて生活統一の多力者たり得るのであらう。
       〇
 日常生活といへば直ぐに衣食住の現象とするものが多い。衣食住といふよりも衣食住の物質的現象と解して、衣食住に關聯する物資の供給分配に力瘤を入れて論じてゐるともがらが多い。小生等は日常生活の中に衣食住を重ずるけれども、重ずるのは衣食住に對する行動の主體、換言すれば、衣食住を統率する主觀を重視するのであつて、供給分配の問題などは最高所へ置いて考へてゐないのである。勿論衣食住の獨立は人間本能の要求する第一基調をなすものであらう。第一基調には人々おのづからにして到達出來る。出來なければ人間種族は絶滅するのであらう。さういふ場合は太陽熱の冷却するまで考へられない所である。人間の人間らしい價値は、足を第一基調の上に立てて、それから後何を考へ何を爲すかに至つて定まる。否、第一基調すらも、それが如何なる主觀から生れ、如何なる主觀によつて營まれるかに依つて價値が定まるべきであつて、その主觀は、第一基調以上若くは以外(447)以後に働く主觀と何等系統を異にする所のない筈である。衣食住を重しとするのは、衣食住の成立及び活動を統率する主觀を重しとするのである。況や、日常生活といふもの、衣食住以外にあつてその意義更に廣汎である。物資供給分配の社會的現象を以て人間生活を云々するが如きは、目前急なるに似て實は生活の要核に遠い問題である。吾儕に要少き所以である。   (大正十一年十月「アララギ」第十五巻第十號)
 
(448) 秋をうたつた歌
 
 秋は生物凋落の初めで、生々諸相の歸著すべき所に人心の觸れはじめる時である。從つて秋は人の感覺が内面的に鋭敏であつて、中樞神經が多く反省的に働く時である。古來歌人に秋を歌つた歌が多く、人生の深みに入り得た歌の多いのはこの故であらう。彼の四時自然物と氣息を共にしたと思はれる良寛禅師にも、四季を通じて秋の歌が非常に多いのは、蝉脱の心境にあつて、猶感傷の偏倚あることを知るに足るのであつて、彼の
   月よみの光を待ちて歸りませ山路は栗の毬の多きに
   秋もややうら寂しくぞなりにける小笹に雨のそそぐを聞けば
   秋もややのこり少なになりぬれば夜な夜な戀し小男鹿の聲
等の外、猶幾多の名什を遺してゐるのを見るべきである。
 古來歌聖といへば人麿・赤人を指す。人麿・赤人も煎じ詰めれば短歌に於て各數首の絶唱を遺して(449)ゐるに過ぎぬ。夫れらのうち、人麿の
   小竹《ささ》の葉はみ山もさやにさわげども我は妹思ふ別れ來ぬれば
に、露はに秋の季節は現れて居らぬけれども一首の中心感情が、おのづから秋の心に通うてゐるを看取すべきであり、赤人の
   み吉野の象山のまの木ぬれには許多もさわぐ鳥の聲かも
   ぬば玉の夜の更けぬれば久木生ふる清き川原に千鳥しばなく
を、必しも秋の歌とすべきではないが、中心に秋の寂寥感と通ずる所があると言ひ得るのである。その他古來の秋の歌について品隲し盡すことは、ここに能くする所でない。
 秋は人の感覺が内面的に鋭敏であると言うても、夫れは人々の自然物に親炙する程度によつて、おのづから深淺の差があるべきである。古代人の生活は、自然物との交渉が多くて、人工物との交渉が少なかつた。現代人の生活はそれと反對である。秋に對する感覺の鋭敏さが、古代人と現代人との間に大きな相違のあるべきは、已むを得ない自然の成行であらう。
 試みに、今帝都四里四方の電燈を一時に消すことがあつて、それが數夜、十數夜に亙つて連續するとしたら何うであらう。街頭に行動する二百萬の人が、ここに初めて月と星の存在を覺り、天の川の光に微細な感覺を働かせることを知るであらう。自動車の埃風はその昔武藏野の芒を動かした秋風と(450)は違ふ。予の生活してゐる山中の小村落にも、電燈が自在にともり、電話室の鈴音を聞き得るといふ世の中である。自然に対する感覺が、人工物によつて著しく磨滅せられてゐる現代人に自然と氣息を通ずる歌が追々に少く、從つて、ここにいふ秋の歌にも佳品少きは已むを得ぬ現象であつて、彼の明治三十年頃より十數年間流行を持續した所謂新派の歌に、殆ど自然物に對する純粹の歌がなく、從つてここに擧ぐべき秋の歌と唱すべきもののないのは、彼等が求めて物質的文明に隨順し、人工的扮飾を求めて、自然に歸依することを知らなかつた結果である。さういふ中で、近頃全く自然の懷に呼吸することによつて、自己の生命を支持せんとする歌人土田千尋がある。千尋の名と歌とは人多く知らない。試みに數首をあげる。
   月影は疊の上に照りにけり足さしのべて獨り安けさ
   目に立ちて木草の緑ふけにけり今日初あらしとよもして吹く
   蝉の聲にはかに乏しこの朝の嵐になびく青笹の群
   夏すぎて心寂しも庭のへに稀に寒蝉鳴くばかりなり
   秋の日となりしこのごろ寒蝉の鳴く聲聞くもいつまでならむ
   ややにしてまた鳴きそめつ寒蝉の只一つなる利聲さびしさ
   寒蝉は長くは鳴かず眞日なかに只ひときはの聲とほるなり
(451)   仰ぎ見る夜空しづけししみじみと月の面より光流れ來
 是等の歌は、古來の秋の歌の中で、神經の鋭敏明晰なる點に於て、多く類を見ない所であつて、一方より見れば、現代の物質文化に對する反逆者であり、他方より見れば、自然に對する絶對的歸依者である。秋の一夜をダンスに疲れて汗を流すもの、カフエー待合に顔を赤くして、「之を以て現代的官能の滿足とする詩人の儕から、紅燈の光を奪つて、月と星の存在を知らしめ、天の川の微茫を知らしめ、蟲の鳴く音に耳を澄まさせる時、はじめて蘇へつて來るのが此の種の歌である。此の種の歌を、現代文化と没交渉なりとするは半ば其の理がある。人生の基調と没交渉なりと斷ずる勇氣あるものがあるか。斯樣の言をなすのは、予の知れる所に甘えて、その歌を揚げようとするの意ではない。年々廻り來る秋から、現代歌人――特に都會歌人の葬り去られんとする時、手向けんとする一片囘向の聲であるのである。   (大正十一年十月「東京朝日新聞」)
 
(452) 子規の歌一首
 
       「秀眞を訪ふ」の中一首
   我《わが》口《くち》を觸れしうつはは湯をかけて灰すりつけてみがきたぶべし
 明治三十二年香取秀眞氏を訪ねた時の歌の中の一首である。「みがきたぶべし」と言ひ放してゐる所が、平氣で大きくて強くて、しかも悲しく寂しい心がある。生と死に通じ、有と無に通じた生き佛の心に接したやうな心地であつて、この境、努めて至り得べきところでない。斯ういふ、大きく自然にして徹した心持は、感傷の心では解されない。この歌小生昨年まで知らず。茂吉君の「子規選集」によつて初めて知り、少からず驚嘆感動したのである。
 明治三十五年秋子規臨終の時に「糸瓜咲いて痰のつまりし佛かな」の句があり、その心持が三十二年頃こんな現れ方をしたと言へる。「瓶にさす藤の花房短かければ疊の上にとどかざりけり」とは別趣にして、相竝ぶべき作であると思ふ。   (大正十一年十一月「アララギ」第十五卷第十一號)
 
(453) 山房獨語
 
       〇
 一枚の黄金を打ちのべたらんやうにあるべしと言うた芭蕉は流石に偉い。小生には、百の議論よりも、かういふ詞の生れる主體を有難く思ふのである。
       〇
 近頃文士藝術者に平等觀が多く唱へられる。小生、畫の展覽會へ行つて見るに、各作品の品位皆平等でない。詩歌の類を見るに、各作品の價値が亦皆平等でない。之を人間に就て見るに、各人の天稟、品位、才能、力量何れも亦平等でない。平等でないものを、平等に見ることも、平等に取扱ふことも小生には出來ないのである。世間の子供はどれを見ても皆可愛らしけれども、自分には、自分の子供が一番可愛いのであつて、之を亦如何ともすることが出來ない。絶對の平等觀は佛家の空寂觀まで行かねば理解しにくいのかも知れない。之を今の平等論者は何と言ふであらう。
(454)       〇
 今人々に唱へられてゐる自由といふものも、實際に當つて小生には解らない者が多い。小生は絶對自由觀の反面には、必ず絶對責任觀が伴つてあるべきものと思うてゐる。責任の伴はない自由は放縱に異らない。今の世の中に自由が行はれるか。放縱が行はれるかといふ事を時々考へて見るがいい。
       〇
 絶對自由觀は、絶對空寂觀まで達しなければ徹し得ない。人間の形態を備へてゐるうちは、我々は已に根本的に形態的束縛がある。人間の不自由もここから始まり、人間の活動もここから始まるやうである。この根本所を忘れると、空漠な自由觀に達し易く、それが自由に甘えるものであるとすれば同じく月並である。小生などは、世の中が今少し不自由でも差支ないと思つてゐる。   (大正十二年一月「アララギ」第十六卷第一號)
       〇
 月並を脱して、常に新に遷り進むことは難い。その難さを貫き得ても、生涯の到る所は、一生中の或る時期と大した相違のないことがある。ただ、左樣な人の作品は、生を畢るに至るまで生き生きした所がある。ここが月並者流と相違するところであらう。   (大正十二年二月「アララギ」第十六卷第二號)
 
(455) 水穗白秋二氏の歌
 
 小生いろは館在宿の時、毎日曜五六人の兵士がこの下宿にやつて來て、一室に陣取り、酒を飲み唄を歌つて大きな騷ぎをした。髪を分けて、顔面ににきび〔三字傍点〕を生やした隣室の學生等が酒を飲んで聲などを立てると、可なり氣にかかつて勉強の妨げとした小生が、兵士の騷ぎは不思議に癪に障らない。六日間の勞役を二三時間の飲酒に慰めるのであつて、兵士としては必要な遊樂であり、小生には御尤もと感ぜられる騷ぎであるために、兵士等は何の憚りもなく騷ぎ、小生は何の苦心もなしにその騷ぎを受け容れ得るのみならず、或る時は微笑を湛へて、その素朴な、聲高な會話を聞いたこともあつた。必要の生む聲は騷しくても騷しくないのである。
 今人、芭蕉の靜寂を説いて、却つて口舌の騷しさを感ぜしめるのは、芭蕉を説く必要が、兵士の遊び騷ぐほどの程度に達して居らぬからである。近頃太田水穗氏の歌集を繙いて「芭蕉入滅圖」といふ歌に逢著した。先づ驚いたのは一題二十首以上の歌を詠んでゐることである。小生如き小膽者は、芭(456)蕉入寂といふ如き森嚴な事實の前に立つてはどれほどの歌をなし得るか覺束ないといふ感が先立つ。そこへ二十何首といふ作を見せられたから驚いたのである。その一首一首を讀むと、それが概ね芭蕉の俳句を詠み込んだ本歌取りのやうなものである。本歌取りといふこと、勅撰集以後の歌人の多くやつた事であつて、心敬法印の「歌にも連歌にも本歌を取ること好むべからず」といひ、定家の「本歌の詞を餘りに多くとることはあるまじきにて候」と言うた言葉の程度以上に出づべき事でないと小生は思うて居り、自分の制作に斯ることの必要は殆ど想像出來ぬことに思うてゐるのであるが、それも或る場合に許し得ないこともあるまい。ただ、斯樣の場合新になされた歌が、本據作から獨立して存在し得ることと、新作の藝術的價値が本據作の價値より下らないことだけは必要の條件とさるべきであらう。さうでなければ、たとひ一首と雖も新に制作するといふ意義を失ふ筈である。この點に於て太田氏が本據作を芭蕉の作物に取つたといふことが頗る難きを背負つて立つたものであつて、到底小膽者の爲し得ない所である。芭蕉も時々古歌を本據とした俳句を作つたやうである。太田氏も芭蕉の爲した所に傚つて、容易に本據作を芭蕉の作品に取つたのは、芭蕉に親しんで芭蕉を恐れなかつたといふ觀があるのである。果して、第二の驚きをなしたのは、氏の本歌取りやうの歌が、殆ど悉く本據作から獨立してゐないのを知つたことである。
   かけめぐる夢の枯原風落ちてしづかに人は眠りましたり
(457) この歌を「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」を知らぬ人に示して、その意を了するものがあるか。本據作を知らぬ人に示して猶その意を了するほどのものにして、はじめて作物の獨立性を容し得るのであつて、これは獨立條件の最低限度といふべきほどのことである。この「かけめぐる夢の枯原」といふ句は、言語として意義をなして居らぬ。如何に本歌取りであつても、これでは程度が酷どすぎるのである。(原作を知らぬものには此の歌の意味が通じまいと言うたのは、かけめぐる夢の枯原〔か〜傍点〕の句が詞としての意義を成さぬことを示すために言うた詞である)太田氏の是等の歌は、芭蕉の原作と並書して氏の書斎の壁上へ掲げておくを適當とするものであつて、獨立の歌として歌壇へ公示することは遠慮すべき底のものである。一體、芭蕉を渇仰するというて、直ぐに芭蕉作中の文句を自作に取ち入れるといふことが輕薄な行爲《しわざ》である。容易に芭蕉に親しんで、容易に芭蕉を恐れなかつたのである。
   くれまどふ人の心のしぐれぞら猿も小簑を著てきたりたり
   深川やその古池の水を出ておどろく眼して蛙はゐたり
   泣いてゐる悔の路通の眼の前にゆらぎいでたる芭蕉の大葉
 これらは、前作に比して、更に滑稽圏中に入るものであり、芭蕉入寂も、これでは何人も恐らく笑はせられてしまふのであつて、地下の芭蕉も、大正時代の渇仰者の爲す所に驚いてゐるであらう。凡(458)そ斯樣な歌二十餘首を作りて古聖入滅圖に題してゐるといふこと、入滅といふ嚴肅な事象に對して多辯に過ぎるの感が多いのである。芭蕉は、人の死に對して「塚も動けわが泣く聲は秋の風」の一句を爲してゐる。人を動かすは多きをもちひず。と古人も言うてゐる。芭蕉を学ぶものはその邊から踏み入つて、自己の多辯を戒めていいのである。(入滅圖の歌細評は本文の目的でないから省略する)さうでないと、詩歌人の芭蕉渇仰が益々騷がしい聲になり了るであらう。
 北原白秋氏は、今まで時々いい歌を見せた。單純で派手で光澤の多いことがその特徴であらう。氏の芭蕉や良寛に私淑してゐることは久しいものであつて、近ごろは雑誌「詩と音樂」の上で、自作と芭蕉作と對比をしてゐる。(尤も之は井泉水氏との議論に両者を引用してゐるのである)これは太田氏の芭蕉の俳句を自作に詠み入れるよりも面白く拜見した。
   日の盛り細くするどき萱の秀に蜻蛉とまらむとして翅ひるがへす 白 秋
   蜻蛉やとりつきかねし草の上  芭蕉
   なに削る冬の夜寒ぞ鉋《かんな》の音隣り合せにまた削るなり  白秋   秋深き隣は何をする人ぞ  芭蕉
 こんな具合に組み合せてあるのであつで、前の組合せは白秋勝、後の組合せは芭蕉勝といふやうな自判をしてゐるのである。小生が見ると、白秋勝とある前者の組合せも、氏の言ふ所の「萬有流通の(459)いのち〔三字傍点〕そのもののあはれさ」は、單純簡潔なる芭蕉の俳句の方に寧ろ現れてゐると感ずるのであるが、同氏がさう感じないのは、鑑賞の相違する所で致し方ないとしていい。ただ後の組合せに至つては、組合せその物の非倫なるに驚かざるを得ない。これを單に自分の負けとして「一本參つた」などいうてゐる心持が解せないのである。小生思ふに、この白秋氏の歌は頭から歌になつて居らぬのである。一體、「隣合せ」といふ詞は斯樣な場合奇態な詞と思ふが、假にそれを許すとしても、隣合せに削るとは、どんな具合に削るのであらう。甲の家乙の家相接して、兩方で何をか削つて居るとするよりほかの解し方がないのである。特にさういふ削り方をしてゐると斷ることがどんな感動を惹起するの機縁になるのであらう。小生より見れば、この歌はこの點に於て歌にならぬのである。これを「秋深き」の句に比して辯ずるに至つて、非倫の甚しさを感ぜざるを得ないのである。
 以上小生の言を費したのは、白秋氏の對比論を批評するの目的ではない。今人の芭蕉を説く状の如何であるかを知るために、偶ま囑目の一例をここに擧げたまでである。太田氏の芭蕉、北原氏の芭蕉各々依る所を異にしてゐて、列を同じうして言及するのは、如何の感がある。只兩者の芭蕉に對する態度の輕々しきに失するを共通點として少々その例證を擧げて見たまでである。二月十六日夜高木にて   (大正十二年二月「アララギ」第十六卷第二號)
 
(460) 白秋氏の歌ども
 
 前の白秋芭煮の對比に言及したうち、白秋作
   何削る冬の夜寒ぞ鉋の音隣り合せにまた削るなり
は、白秋氏が「詩と音樂」翌月號で訂正をしてゐる。それによれば
   何削る冬の夜寒ぞ飽の音隣り合せにまたかすかなり
である。それにしても、この歌は意味をなすに厄介である。「隣り合せ」は「隣」よりも多く動詞の語勢を持つ。從つて「隣り合せに」はこの場合副詞として解せらるべき性質を多く持つこと、「氣まぐれに」「底ぬけに」「底なしに」等の副詞として用ひられるに類してゐる。さうすると、この副詞は、この歌の場合「かすかなり」といふ敍述語を形容してゐると見るを自然とする。あはれに幽かなり。絶え絶えに幽かなり。など言へば、副詞が適切に敍述語を形容する。「隣り合せに幽かなり」では「幽か」の状態が全く現れぬのである。思ふに、白秋氏は「隣り合せに」を副詞のつもりで使はなかつた(461)であらう。それが、この歌の理解をまごつかせる所以である。たとひ、この「隣り合せに」が、他の詞との置きかへによつて生き得るとするも、第一句より第三句までの語感が一首の靜寂感に對して甚しく騷がしい。「何削る」と初めから急迫して呼び出してゐるのが、先づ以て威勢がよすぎる。ここは「何を削る」と素直に大まかに行くべき所である。それに「冬」「夜寒」「鉋」といふやうな名詞が、べたべたと並んでゐるので、愈々こつこつした騷がしい語感を惹起するのである。斯樣な歌を芭蕉と並記して「これは私が負けです」などと言つてゐるのは、子供のままごと遊び以下の遊戯である。
 白秋氏が自作を誤記したのは暫く措く。それと並記した芭蕉の句を
   秋の夜の隣は何をする人ぞ
と誤り記してゐるのは、輕快に過ぎた辷り方である。これでは、白秋氏が芭蕉の秀作に對して、平素どれほどの敬虔な渇仰を捧げてゐるかといふことが疑はれても仕方があるまい。たとひ、それが、翌月自作と共に訂正せられたとしても、過ちを見て、君子の眞相を知るとせらるるに異議を挾む餘地があるまい。       〇
 白秋氏の訂正作を確めるために、氏の歌集「雀の卵」を檢した。そして、偶ま、鴎外先生宅作
   命二つ對《むか》へば寂し沙羅の花ほつたりと石に落ちて音あり
(462)の歌に逢著した。これは芭蕉の
   命二つの中に活きたる櫻かな
を本據にして作つたものである。曩に水穗氏に本歌取りやうの歌二十首あり、今、又、白秋氏に同じやうな爲し方がある。白秋氏の作は、流石に水穗氏の歌の獨立なき儔ひとは違ふ。併しながら、「命二つ」といふ如き大切な詞を用ふるならば、それが、今少し内面的の深みを持つやうにあるべきである。さうでないと、折角の「命二つ」が上辷りをするのである。已に「命二つ」といふ如き容易ならざる語を爲した。「寂し」など言はない方が、寂しさが内に籠るであらう。これが已に外面的にして輕易なる一端の現れである。若し強ひてこの句を存して生かさうとするならば、斯樣な場合「對へば〔右○〕」といふ如き騷がしい音を避けて「對ひて」等として置く方が、靜かになつて落ちつくであらう。第三句以下沙羅の花の音を「ほつたりと」と形容してゐるのは、斯樣な靜寂境に對して露《あら》はに過ぎ、生まに過ぎる。所謂寫生の接近に過ぎて煩はしいものである。若し、この句をも強ひて生かすとするならば「音あり」の「あり」を除いて、第五句を「石に落つる音」等にすれば、やゝ内に籠るものが生じて來るのである。「ほつたりと」に對して「音あり〔二字右○〕」は餘りに露はな描寫に過ぎる。露はな描寫は感じを外面に浮ばせて内面に潜ませない。それを以て作者の好む所とするならば、これは致し方がないのである。
(463) 何れにせよ、芭蕉作中の一二句を取つて、自己の歌を成すといふやうなことは、芭蕉渇仰の奧所に入るものの容易にすることでないのである。
       〇
 白秋氏は、かつて、次の如き意味の言を爲した。「アララギ」は近來他流を人れずに獨りで籠城をしてゐる。あれでは健全の發達は出來ない。丁度樹木が孤立せずして、何本も相倚る時、はじめて林相を成して、各が健全な發育を遂げるやうなものである。これを省みていい。斯ういふ意味の詞である。多謝する。「アララギ」は未だ嘗つて籠城をしない。表も裏もいつも明け放してある。他流試合お望ゐとならば、いつでも御勝手である。只、當節はあまり竹刀も流行らない。お望みならば、囘向院境内で丸裸のお相手も仕らう。但し、彌次り付き合や、茶屋付き合ひは平に御免を蒙る。林相の御説御尤もなれど、杉とどんぐり〔四字傍点〕の雑居では林にならない。小生方にも樹木は幾分あるによつて、御同居必しも御願ひをしない。如斯である。二月十二日夜半高木にて   (大正十二年三月「アララギ」第十六卷第三號)
 
(464) 水穗氏の歌を評す
 
 一昨日はじめて「潮音」一月號二月號を拜見した。前號太田氏の歌に言及したので、近頃氏がどんな歌を詠んでゐるかといふ興味が湧いて雑誌を拜見したのである。第一首
   鎌を打つ里の古間《ふるま》の名も荒れて刈田あらはにならぶ草屋根
太田氏は、なぜ「古間の里」と素直に言はぬのであらう。「海苔を乾す里の大森」「酒つくる里の伊丹」皆變である。この心理順直であるまい。名が荒れ〔四字傍点〕るに至ると更に變である。名がふる。といへば名の久しきを意味し、名が流れる。といへば名の傳はるを意味するが、名が荒れるといふのは國語としての意味を成しにくい。詞句の間に感じを漂はせることはいいが、國語の意味を通じ得なくては歌にならない。これは歌に對する最低限度の要求である。「かけめぐる夢の枯原」と同じ症候が今年に繼續して現れてゐることは結構であるまい。第四五句「あらはに」は刈田が露《あら》はなのか、草屋根があらはなのか曖昧である。斯樣に數箇所に症候が現れてゐては治療やゝ困難である。
(465)   穗すすきに山を日向の冬がまへ二畝ばかり菜の青き畠
 これは、第一二三句全く意を了し得ないので、一層ひどいやうである。「穗芒に冬構へ」といへば、「に」が場所指定の意味か、兩者配合の意味かで、窮屈ながら多少の意味を持ち得る。兩者の間へ「山を日向の」が飛びこんだので、前後の關係は滅茶々々になつたのである。短歌の句法は國語中最も單純順直なる流通を要する。「山を日向の」といふ如き句は、この場合食物に混在する礫片である。これでは病氣本復覺束ない。是等の句、若し發句連句等から變成して來たものならば、發句病であり、連句病である。療法は原因を究めて是を除去するにある。
 元來俳句には俳句の本領があり、歌には歌の本領がある。本領を異にする文學二箇の形式には自から相違があつて、その表現法にも之に相伴ふ相互の差別がある。これは、兩者本領の相違が齎し來つた自然の約束である。自然の約束を亂して、俳句の句法と短歌の句法を混在せしめようとするのは、自己の計ひを以て自然の約束を破らうとするものであつて、大きな道を歩くものの爲わざでない。太田氏が混淆の無理をしようとするならば、病氣はその無理から生れる。療法は原因を究めて速に之を除去するにある。「二畝ばかり」は二十年前新派歌人等の爲した所で、今の時斯樣な容易な手法を用ひるものは恐らくあるまい。第三首
   枯れ枯れの野山の色を曇らせて秋しぐれふる柏原驛
(466) この歌にも連句の香ひがあつて、意味がよく通じてゐる。只、第四句まで流動してゐた勢が、第五句へ行つて急にこつん〔三字傍点〕と固いものに突き當る。太田氏には連句の調子が解つて、歌の調子が解らないのである。こんな所へ「柏原驛」を入れるのは「但しこれは柏原驛なり」といふ註釋を置いたと同じであつて、幼稚極まる句法である。以下多く之に類する。一々列擧に及ばない。持に第九首
   田の縁《へり》におりゐてくらき時雨雲汽車ひたすらに走りつつあり
に至つては全く滑稽圏に入つたものである。借間す。時雨雲が田の縁にゐると指定するのは何んな場合のことか。雲が田圃にゐることは常識で判る。田の縁にゐるに至つては小生の常識で判斷が出來ぬ。小生の非常識か。作者の非常識か。或は「田の縁」は地名ではないかとも考へるが、平假名介在の地名も少いであらうから、矢張り田の縁邊と解するのである。
 二月號へ行つても、矢張り大同小異である。そのうちの特に目立つものを擧げる。
   おちつくや時雨にぬるる庭の石茶に二百里のやつれ知る旅 渡邊宅
 連句病最も顯著致し方もないのであるが、せめて作者の意のある所を探りたいのである。「おちつくや」は庭の石が落ちつくと見える。果してさうか。「茶に」自身の「やつれを知る」とは何んなことか。これを解釋し得る人が作者以外にあるか。一首意のある所を探らんとして探り得ないのは、斯の如き珍句續出のためである。
(467) 太田氏は、芭蕉を崇敬して俳句連句を得、俳句連句を得て奇怪なる晦澁歌を得た。この筋道少々疑問である。筋を違へたのは歌にあるか。歌以前の中途にあるか。本源にあるか。これ小生の知り得ない所である。只氏は藝術の目的を以て愛の示現にあるとしてゐる。冀くば、愛の心を更に注いでその詞を愛撫せよ。   (大正十二年三月「アララギ」第十六卷第三號)
 
(468) 山房獨語
 
       〇
 都會の食物は、舌に觸れて直ぐに旨いものが多く、田舍の食物は、噛みしめて後味ひ得るものが多い。都會人の副食物には、日に三度變つたものが供へられ、田舍人の副食物には、同じものが一日でも二日でも用ひられる。都會人は輕快にして氣が利き、田舍人は鈍重で力がある。鈍重からも、輕快からも、更に何等かの境涯に進み得るであらう。もし、求めるものが物質であり、末梢的對象であるとすれば、生活の調子はすべて輕快で足りる。只人間の求めるものが、單にそれのみであると爲し得ない人もあるであらう。そこに求むるものに二樣の傾向を生じ得る。これは決して都會人と田舍人の對比ではなくて、人間生活基調の二箇相反する對比である。さうして、それが又歌の上にも二箇相反する傾向の對比をなすのである。
       〇
(469) この對比は、又、南地人と北地人、暖地人と寒地人の對比にも移し得る點がある。南地人、暖地人は官能の生活に趨り易く、北地人、寒地人は涸渇の生活に安んじ易い。一は福相であり、一は貧相である。小生等の求めるものは、福相でもなく、貧相でもない。
       〇
 都會には、往々淡泊にして氣品ある食物がある。これは輕快趣味とは同じくない。さういふものが都會に發達したことを、田舍人は考へて見る心要がある。
       〇
 太田氏に以上の歌があるので、少々興味を催して、試みに其の他の雑誌に目を通した。歌の世界に通曉しようと思うたのである。言ふべきこと山の如きを感ずる。それは追つて何等かの方法で發表するつもりである。そのうち、小生の特に言はうとするものに、木下利玄氏と松村英一氏とがある。木下氏の歌については土田氏が以前から言及したいと言うてゐるので、先づ以て土田氏の意見を述べてもらふことにした。
 松村氏の歌は力が弱くて寫生が外邊的であると、以前から感じてゐた。然るに國民文学二月號の氏の作を見ると、殆ど更生の感あるほどのものが多い。これは小生の歡喜である。
   茶の花は開きつくさずこぼれけり日かげの庭の土は凍てつつ
(470) 詞が自然であつて、調子に落ちついた確かさがある。「開きつくさずこぼれけり」といふのも、「日蔭の庭の土は凍てつつ」と緊密に抱合して一首の生命をなし得てゐる。(「開きつくさず」のず〔右○〕は未だ快適な接續とは言はれない)佳作とするに躊躇しない。
   眼に立ちて土のからびし庭の上にしぼみ落ちたる小さき茶の花
「眼に立ちて」といふ詞が「土のからびし庭の上に」「しぼみ落ちたる」「小さき茶の花」に對してよく利いて生きて居り、各句が有機的に相聯つて純一の生命を成し得てゐる。佳作である。
   朝々の霜にいためるつはの葉のしなえて地に亂れたるかも
   つややけきつはの葉の上にかすかなる日の影しみて冬ならんとす
二首皆いい。
   深霜に凍《い》てて落ちたる茶の花の小さきがあはれ庭に寄せつつ
第四句までの主體が花にある。第五句へ行つて急に主體が人になるので理解をまごつかせる。
   この冬の日和つづきに水涸れて井の底深しさしとほる日に
いい歌であるが、「水涸れて」「底深し」「さしとほる日に」が重複して利き過ぎてゐる。殊に、「さしとほる日に」の詞が強すぎるやうである。   (大正十二年三月「アララギ」第十六卷第三號)
 
(471) 太田水穗氏の詞
 
 小生は二月三月に亙つて、太田水穗氏の歌に言及した。言及したところは、純粹に歌の評論である。それに對して、太田氏が答へてゐるのか居ないのか分らぬといふ稀代な現象に逢著した。「潮音」三月號の終りに編輯消息がある。それに、小生言及の意に觸れて物言ふと見える所がある。併し、小生の議論について物言ふと明記せずに「このたぐひの人は」等と言うてある。これは不便である。その上、その編輯消息には署名がない。これが太田氏の書いたものか。他の同人の書いたものかといふことも明瞭でない。斯ういふ物の言ひ方は愉快でない。小生の言に觸はるならば、堂々と名を署して陽はに論じた方が快いであらう。
   このごろ、聞くことのうちで、俗情の最も厭ふべきものは、芭蕉への尊敬の穿きちがへである。芭蕉を尊敬するものは、芭蕉を前にして、沈黙を守るべきだといふ種類の言葉がそれである。云々
(472) これは恐らく小生が太田氏作「芭蕉入滅圖に題す」の多辯なるを指摘したに對して言うてゐるのであらう。
   彼等が若し眞に芭蕉によつて沈黙を教へられるといふならば、彼等一切の言動にその事が現れて來なければならない。(中略)「父の死」「子の死」などに對しても、もとより、多くの歌など作らるべきではない。云々
 これも沈黙問題に關聯してゐる。恰もよし、小生に「父の死」「子の死」の歌が澤山詠まれてある。それを指して言ふのであらう。この邊まで言うたら、小生の議論に對して書いたのでないとは、編輯消息子も恐らく言はぬであらう。穿き違へてはならぬ。小生は、今人芭蕉を奉ずる態度の一例として、太田氏作「芭蕉入滅圖に題す」の歌を多辯であり、輕薄であると言うた。未だかつて沈黙をせよと言はない。小生の言に過あらば「芭蕉入滅圖に題す」の歌が多辯でなく、輕薄でなく、意義不通でない所以を説明すれば足るのであつて、このこと、小生の議論を破碎すべき唯一必要條件である。小生の立證が歌例によつて爲されてゐるからである。この條件を度外して云爲するのは、すべて小生の議論の要核に外れてゐる。多辯であり、輕薄であると言うた小生の言を以て、沈黙せよと言うたとするは、何うした勘違ひであらう。沈黙問題から、更にそれを推して「父の死」「子の死」に對しても、多くの歌が作らるべきでないと言うてゐる。あわててはいけない。もし太田氏の「入滅圖」が、一首(473)一首皆充實してゐたならば、さらに五十首あり百首あるも、小生はその前に頭を下げる。多辯とは、充實せぬ歌を多數製作した現象に名づけた名である。小生の「父の死」「子の死」が同じく充實して居らぬならば、これ亦多辯であり、冗辯である。多辯であり、冗辯であるとするには、「父の死」「子の死」の歌についでそれを實證せねばならぬ。さうでないうちは小生頭は下げぬのである。(父の死、子の死に對する感情と、芭蕉入城圖等に對する感情とは、感情の種類を異にするであらう。今必しもそれに言及しない。)編輯消息子又言ふ。
   孔子歸依の徒が、そのやうな尊敬を孔子に送つて沈黙を守つてゐたならば、孔子の教義は、今の世に傳はらなかつたであらう。(中略)芭蕉の尊貴に於けるも同樣である。云々
 善い哉、言や。消息子は、顔淵子貢を以て任じてゐる。顔淵子貢には多辯がない。消息子が顔淵であり子貢であり得るためには、先づ少くも、その歌の多辯にあらず、輕薄にあらざることを檢し得ねばならぬ。宰予の徒は孔門に不必要であり、天保宗匠も芭蕉祖述に不必要である。祖述者にも色々の程度があり、種類があることを考へていい。消息子又曰く、
   此のたぐひの人は、芭蕉などを、つい此のごろ迄鞭打つてゐた人々である。今も恐らく芭蕉の心持ちや藝術などを分つてはゐないであらう。
 これは近ごろ稀代の説である。小生等のうちに、今まで誰か芭蕉に鞭を加へた人があるか。消息子(474)は覆面を去つて、明かに事實の上に之を實證すべきである。それがなし得ぬならば、虚妄を説いて公然人を誣ひるものである。言斯の如きに至れば、最早文壇に於ける不徳事である。これは消息子の明かに責任を負ふべき言として後日小生の言及を保留する。
   心の見え透くやうな講義を以つて廻り、つまらぬ講習會などを開かせて、徹頭徹尾他人の皮肉を言ふに終るなどの事はあるべきでなく、云々。
 小生は時々講習會に出てゐる。それも出來るだけ斷つてゐる。已むを得ないものも、一年以上約を果し得ない状態に今ゐる。旅行の途上、各地の會員を集めて、會を開くことなども、やり得ないでゐる。講習會を開かせる。會合を催さしめる。斯樣のことは、どの邊に行はれてゐるのか。これを小生に當て嵌めると間違ふ。「心の見え透く」「つまらぬ講習會」「他人の皮肉を言ふに終る」斯樣な言は實證を伴はぬ限り、不道徳言になる。それが消息子に分るか。「にせもの」「偏心届情の徒」「自家の堤塘の支へきれなくなつた苦しさに、斯樣な俗匠らしい言葉を考へ出したのであらう。」皆下等言である。斯樣な所へは多く觸はるを欲しない。
 消息子は、小生の多辯といひ、輕薄というたのが氣に掛つてゐるために、以上の言説をなしてゐるであらう。小生の言には、皆實例の裏書が添うてゐる。その實例について、今一度出直して辯を成すのが正しい。
(475)       〇
 「潮音」三月號に「二月の雜誌瞥見」がある。これは明かに太田氏の名が署してある。「アララギ」について、土田耕平作四首
   この頃の日の出でおそし起きて見る霜の色こそいちじるしけれ
   師走の風さむく吹く巷べに夜見世ひろぐる人あはれなり
   夜の辻に屋臺車を曳きすゑて食べものひさぐ香ひかなしも
   新宿の師走の市に蝋燭と蝋燭たてを買ひて來にけり
を擧げて、「アララギ」に斯ういふ歌を載せるのを見て、歌の世界の推移に驚くといふ意の事が言うてある。この四首によつて歌の世界の推移に驚くまでの筋道を明記すると面白い。結論も、推移に驚くだけでは輪廓である。どんな所に驚くのか實質に立ち入ると面白いであらう。「かの偏執な宰領者が」とは、小生などを指すであらう。これも偏執なる所以を證明するといい。但し證明しても、偏執の指示してゐる主體は「宰領者」といふ人格物である。さういふ言が、文學の評論の中に挾まることを太田氏自身は何と思ふか。その宰領者が、この形勢に一指を觸れ得ないのみならず、この勢に「尾して辛うじて、己れの姿を肖《やつ》さうとするところ省みて十年の過ちを知れ」と言ふのである。勢に尾すること、十年過ちを續けたこと、それだけでは誰が讀んでも空漠言である。これを實例によつて詳説した(476)ら氏の意を達するでゐらう。「己れの姿を肖さう」とするの意は不明である。結論は「斯る形勢が歌壇の何人によつて導かれたか」知つてゐるか。知つたら大に慚愧せよといふのであつて、何うやら、形勢の原動力が太田氏にあるやうな口吻とも取れる。これは最も面白いゆゑ、筋道を立てて詳説することを希望する。これ丈けの言では恐らく誰にも意を通じさせることが出來まい。それは太田氏に取つて殘念である。「彼等の面皮も初めて徐々に慚愧の苦鹹を知るに至るであらう」これは恐縮に値ひする。斯ういふ文句は、どんな場合舌端から放たれるであらうといふことを太田氏は反省していい。
 太田氏には、先年誌上に箇條書きの質問を發してある。それに未だ答へない。今囘小生の評論に對しても答へる如く、答へぬ如く、筆者不明の言辭を自己の雜誌に載せてゐること、以上敍した如くである、偶ま言ひ及べば、皆證明を伴はない空漠言である。これでは不便である。答へぬならば答へずしていい。答へるならば堂々名を著して條理の上で詮ずべきである。人格に立ち入つて惡声を放つが如きは、文壇に於ける不道徳事である。責任を知らば謝罪していい。三月十六日   (大正十二年四月「アララギ」第十六卷第四號)
 
(477) 前田夕暮氏に質す
 
 前田夕暮氏は、最近「東京朝日新聞」で「歌壇に送る言葉」と題する一文を掲げ、その中に現歌壇に對する不滿を述べてゐる。
 氏の不滿を摘要すると、第一に現代人が萬葉語を使用することである。第二に萬葉の形を眞似て心は新古今に墮ちてゐることである。それゆゑ現歌壇は「二千餘年を通じて(赤彦曰く、二千餘年は誤りであらう)萬葉人と新古今人と現代人との三位一體といふ奇觀を呈するに至つた」ことである。
 前田氏の文章には比喩語が多く、言葉の意味が不限定であり、その上、議論が抽象的であつて、眞意の捉へ難いものが多い。そこで少々質問を前田氏に呈して意義の明瞭になつた上で、小生の意見を述べようと思ふ。
 第一に、氏の言ふ萬葉語とは、(1)萬葉以來現代まで連續して使はれてゐる言語をも含むか。否か。(2)萬葉時代に使はれて、其の後一般文學や歌謠に使用されなかつた言語のみを指すか。氏は「全然古(478)語を活(?)用してはいかぬといふのではない。今日猶ある地方に行くと、日常語に古語が遺されてゐる。その地方では、日常語にまだ其の遺された古語が必要なのである。この程度に於ての古語は差支へないと思ふ」といひ、「僕はまだ、今の所、古語をその不可抗力以内に於て使用してゐる事がある」というてゐる。この邊の意不明瞭である。(3)氏の言ふ古語と萬葉語との關係如何。(4)氏の用ひるといふ古語が萬葉語の意味ならば、それは(1)の場合に入るか、(2)の場合に入るか。(5)現歌壇に存在する歌で、萬葉語使用のために、形だけが萬葉になり、心が新古今になつてゐるといふ歌の實例を十首ばかり擧げ給へ。さうして、君の古語を用ひたといふ歌をも十首ばかり示し給へ。さういふものを實際に比較して論ずると、兩者の意見を的確に示すことが出來るであらう。その擧例のうち、氏の萬葉語であり、古語でゐるとするものへ圏點等を附するを得ば最もいい。これまで具體化して來ないと、水掛論を生ずる惧れがある。水掛論ならば初めからせぬ方がいい。既に一旦現歌壇に對する意見を声明した前田氏は、小生のこの提議によつて、更に氏の眞意を明示する機會を得ることを喜んで、直ちに小生の要求に應ずることであらうと信ずる。
 問題の第二は歌心の新古今化である。これも實例を伴はないと水掛論に了る。小生は前段前田氏に實例を擧げで説明することを要求したと共に、小生よりも實例を示して、先づ萬葉、新古今相違觀の一端を述べる。形だけが萬葉で心が新古今であるとするには、少くも兩歌集の相違が明かにされてゐ(479)なくては議論に錯綜を生ずる。小生の兩者相違とする所に異議あらば、併せてその點を論じていい。先づ、小生の意見から述べる。
 新古今の春の部には、萬葉の歌が可なり探られてゐる。さし當り、それを實例として、新古今の他の歌と比較することにする。
   風まじり雪はふりつつしかすがに霞たな引き春さりにけり 改訓
   時はいまは春になりぬとみ雪ふるとほき山べにかすみたなびく 改訓
   みよしのは山もかすみて白雪のふりにし里に春は來にけり
   ほのばのと春こそ空に來にけらしあまのかぐ山霞棚引く
 何れも立春の歌であつて、形が割合に似てゐる。前田氏は之を何う見るか。形に囚はれてはならぬと言うてゐる氏は、まさか、以上四首の生命を同一にしては見ないであらう。小生の見る所によれば、前二首は形も心も素直であつて、純粹に萬葉らしい歌である。見る所、感ずる所を直接に表現して、何處にも概念的な所や理智的な所がない。後二首になると、それがすつかり違つてゐる。第三首「山も霞みて」といふ。も〔右○〕は感嘆詞であると思うてゐると、「ふりにし里に春は來にけり」まで來てそれが弖仁波であつて、「里」の霞んでゐることを間接に現さうとするための詞である事が分る。この「も」と「里に」の間には、可なり長い隔りがある。現し方の間接であつて、理智的なことがここにも直ぐ(480)に感知されるのである。「白雪の古りにし里」も「白雪」が單なる枕詞であれば嫌味がない。「白雪」に意味を有たせて「古り」「降り」兩者に言ひ掛けてゐる所が、巧みさの先きだつ所であつて、醇厚感を伴ひ得ないのである。斯樣な巧智の先だつ歌は、萬葉集には殆ど見る事が出來ない。第四首も、同じく觀念的であり、機智的である。春が來たと單純に言ふに滿足せずして、春が空に來たというて、「來」といふ觀念に甘えて、それを弄んでゐる趣があるのである。特に「天の香久山」に霞が棚引く事によつて、空といふ詞を提示したのは巧智が先だつてゐるのであつて、間接な現し方であり、「天の香久山」の「天」を借り來つて空に利かせようとしたのは、弄びに過ぎぬのであつて機智以上の效果を生んで居らぬのである。形に囚はれぬと言うてゐる前田氏が、形較や似てゐる前四首を混同して價値づけるやうなことはあるまい。後に言及することあるかと思ふゆゑ、この點念を押しておく。(形が似てゐるというたのは、便宜のために言うたのであつて、形も全然異つてゐるといふ方が本當である。心の現れの形であつて、兩者を引き離して考へることは出來ないのである)
   石走《いはばし》る垂水の上の早蕨の萌えいづる春になりにけるかも 改訓
   岩間とぢしこほりも今朝はとけそめて苔の下水道求むらむ
 前者、所謂實相に觀入して、それを直接に快適に表現したものであつて、萬葉集中にあつて傑作である。後者、立春の意であらうが、立春といふ觀念に甘えて、直ぐに「今朝は」と斷つてゐる所、到(481)底前者と比較すべき作物ではない。兩者とも春のはじめの歌であつて、水、早蕨、苔と、材料は皆地味に潜かなものであるが、現れてゐる生命は霄壤の相違である。それは單に「今朝は」の一語のみでも分れるのである。殊に況や、「岩間とぢし」より第四句まで、作者の側に立つて見てゐるのであると思うてゐるのが、第五句へ行って、急に「道求む」となつて、水の立場に變つてしまふのであつて、斯の如き小主觀句の介在して、勢の一貫を摧くのは、作歌の心が、「甘え」の心から來てゐるためであつて、小生は斯樣の歌を繊弱な歌と名づけ、小主觀の歌と名づけ、觀念的の歌と名づけるのである。この傾向が覊旅や戀の部へ行くと、殊に酷《ひど》くなるのであつて、到底小生の一氣讀了を能くせざる所で、萬葉と比較するなどは元來思ひもよらぬことである。
 新古今の歌は、これを總括して言へば、甘え歌である。甘え歌であるから力が弱く、力が弱いから強い叫びにもならず、深い沈潜にもならない。多く因襲的既成概念に安んじて心も詞も遊んでゐる。詞の機智的な遊びが行はれるために輕薄感を伴ふことが多い。これが萬葉と全く相反する諸點である。
 以上、小生の新古今觀が、前田氏の新古今觀と一致するか何うか。一致しないならばその點を明かにせねば、兩者の新古今呼はりは空疎になるであらう。もし、氏の新古今觀が小生の新古今觀と一致するならば、それを標準として、氏の不滿とする現歌壇の歌に當て嵌めて、所謂三位一體なる所以を(482)説明すると、初めて不滿の意が明瞭になるであらう。議論は夫れから始まるべきである。小生は前田氏の快く受諾するであらうことを信ずる。   (大正十二年五月「アララギ」第十六卷第五號)
 
(483) 再び北原白秋氏に言ふ
 
 白秋氏に對する小生の言について、「詩と音楽」四月號に同氏の言葉が載つてゐる。それによると
   日の盛り細くするどき萱の秀に蜻蛉とまらむとして翅かがやかす
 これを小生の「翅ひるがへす」と誤記したことを擧げてゐる。これは小生の輕卒である。明かに陳謝する。氏は芭蕉の「秋深き隣は何をする人ぞ」の誤記について、芭蕉の句でも「感心するものは覺えてゐるが、でないものは、うろおぼえである。」と言うてゐる。これは、氏が、芭蕉のこの句を「うろおぼえ」範圍内においてゐるものと解すべきであらう。驚くべき芭蕉尊敬者に逢著したといふ感がある。それでゐて、芭蕉のこの句と氏の自作と比較して、「おれが負けた」などとも言つてゐる。これは以前述べたとほりである。この筋道頗る稀代である。氏は又
   何削る冬の夜寒ぞ鉋の音隣り合せにまた削るなり
は「未だ〔右○〕削るなり」であると言ふ。それとしても、その相違は決して小生の批評を左右せぬこと、小(484)生の前言を檢したら明かであらう。この歌は、も少し精しく立ち入つて批評してあるから、それにまで言及したらいいであらう。
 氏は、又、「茂吉選集」の序文で、茂吉や小生等の顔を立ててあるのに、なぜ酷言を放つのかといふやうな意味の言を成し、十年前酒を飲みあつたのに、今になつて、茶屋づきあひ御免を蒙るなどは、ひどいと云ふやうなことを言うてゐる。この言少々女人言に似て惜しい。安心せよ。茶屋づきあひと言うたのは、角力についての比喩言である。他流試合御望み次第と言うたのも、別に果し合ひをしようと構へた譯ではない。「アララギ」が一人ずましになつたといふ氏の言を尊重してそれを氣にかけて爲した比喩言である。ただ、小生等は顔を立てた、寢せたといふやうな事によつて、歌壇に關する言議を爲さない。貴下の歌と「アララギ」の歌の違ふ事は、數年前の「アララギ」に小生の言明した通りであつて、氏の承知してゐる所であらう。それは氏の作物を揚げたことでも、落したことでもないのである。この點も安心あれ。氏の歌を評するのは、氏の歌に認むる所があるからであって、短所に滑り出したと思ふ場合氏の才を惜むの意から微言をなすのである。近頃の作について物言へとの註文なれど、これは小生に一寸手の付けやうのない感がある。一言にしていへば惡作濫發である。それを具體的に言へとならば、言はぬこともない。今日はこれで失敬する。四月十五日アララギ發行所にて   (大正十二年五月「アララギ」第十六卷第五號)
 
(485) 前田夕暮氏の答
 
 前田夕暮氏が、現歌壇は萬葉人と新古今人と現代人と三位一體になつた觀があるといふ説に對して小生の爲した質問に、前田氏が答へてゐる。
 氏の不平は、現代人が萬葉語を使用して心は新古今に墮ちてゐるといふ所にある。從つて、萬葉語について其の意義を限定する必要がある。小生の質問の第一・二は氏の謂ふ萬葉語の意義限定の要求であり、第三・四は氏の自ら用ふるといふ古語の意義如何の質問である。
 第一・二の質問に對しては「萬葉語といふのは萬葉時代に使用せられた古語といふ意味である」とだけ答へてゐる。之では相變らず意義が不限定である。それゆゑ小生は、萬葉時代のみに用ひられた詞を指すか、或はそれ以後現在迄連續して用ひられる詞を指すか。と項を分けて質問したのである。質問したのは、氏の萬葉語といふもので、案外今日まで連續して使用されてゐるものを指してゐるのではないかと疑うたからである。疑うたのは、萬葉語使用の本家の如く思はれてゐる小生等の作歌(486)に、案外萬葉語(萬葉時代のみに限る萬葉語の意)が少いと平素から思うてゐたからである。試みに小生等の作歌のうち純粹な萬葉語を數へて、これを自餘萬葉語ならざる語數に比較して何分一の比をなすかを檢して見たら面白いであらう。但し、これは萬葉語々々々と言ひ立てる人々に對して、序を以て言つて置かうと思つてゐたのであつて、小生等の眼中には、萬葉語も、古事記語も、現代語も一體の日本語と見えてゐるのであつて、自己の感情表現に尤も緊密と思ふ言葉を、その長ずる所によつて選擇すれば足りると信じてゐるのである。從つて、萬葉語使用の多少が歌の價値を増しもせず、減じもせぬと思うてゐる。
 そこで、前田氏の萬葉語の意義に對する答は相變らず不限定であるが、小生の質問第一第二何れの意味としても、歌の價値増減論には關係ないものと思うてゐるのである。その理由は前述に明白である。
 氏は、又、氏自ら用ふると稱する古語の意を問ふためになした第三問以下の文章に當然附屬する一文を取り違へて、第二問の項で稱の答解をしてゐる。他人と意見を交換するには、も少し條理を正しくせぬと對者に危惧の念を抱かせる。氏の第二項でなしてゐる所説を小生は第三項以下に屬するものとして言及する。
 氏は、自分の用ふる古語に對して「要するに古語でも方言化されて、今猶地方に遺されてゐる程度(487)の古語はその地方では古語にして古語でない。だから、その地方の人が、その方言化された古語を使用してゐる位の程度に於て、現代化された古語を使用するのも惡くないと思ふが、自分丈けとしては成るべく使用したくないと言ふのである」と述べてゐる。意義相變らず難澁である。氏の意は、方言化された古語を用ひるといふのか。或は、方言化されて使用してゐる位の程度とは、或る方言が古語にして一地方人に活かされて使用されてゐる如く、古語が現代人に活かされて用ひられてゐるものを指していふ意か。それならば、はじめより、方言化など言はずして、明かに「古語の現代に活けるもの」と言へば足るではないか。小生居住地方では、古語の「行かんず」を現に「行かず」と言つて、「行かんとす」の意に用ひてゐる。これを容易に歌に用ひられようとも思はれない。方言の類多く之であらう。古語の現代に活けるものに至つては、汗牛充棟、僕をかへて猶數ふべからざる有樣であつて、これを歌に用ふる如きは當然の當然であり、今更ら事々しく言ひ立てるに當らないことである。氏は地方言に對して「其の地方では古語にして古語でない」と言うてゐる。その程度に、古代より現代に活きてゐる詞を擧げたら、山といひ、川といひ、草といひ、木といひ、皆それである。氏の自ら用ひるといふ古語の意は、ここに至つて相變らず不明である。況して氏が、自ら用ひて惡くない。と稱する古語を、一方から「自分丈としては成るべく使用したくない」と言うてゐる。氏の言ふ所は、殆ど論理を超脱してゐて何處を捕捉していいか分らぬといふ觀がある。これで小生の質問第三・四は(488)暫く不要の形になつてしまつたのである。
 以上は、氏の不平とした萬葉語に對する意見の交換であつて、不平本論よりすれば殆ど枝葉に屬するものである。
 氏は第五項に至つて、三位一體に對する質問に答へた。さうして、「萬葉語使用のために、形だけが萬葉になり、心が新古今になつてゐるといふ歌の實例を十首ばかり擧げ給へ」といふ小生の要求に對して、その實例を擧げた。然るに擧げた所の實例は、只實例であつて、殆どその説明がない。それ故、十首の實例歌を見て、その如何なる所が萬葉の形であり、新古今の心であるかを知ることが出來ない。前田氏は例を擧げよと言はれて、只例歌だけ竝べて、自ら主張する所をその擧例について指示しないといふことの、如何に無邪氣に過ぐるかを知らぬことはあるまい。これでは、折角の擧例は、氏の三位一體説を證明するものにはならぬのである。只氏の擧例十首につき、總括的に言ひ及んだのは十首の殆ど總てが冠辭を使用してゐるといふことだけである。冠辭の使用は、萬葉人もやり、新古今人もやる。それが萬葉から新古今へ移つたといふ氏の主張の如何な點に觸れてゐるか。論理の超脱もこの邊まで來れば甚しくはないか。而も、冠辭使用は、「因襲的概念」であり、「詞の機智的な遊び」であり、「宗教でいへば偶像崇拜」であると言ふ。それならば、前田氏の尊敬してゐる萬葉人も同じく因襲的概念者であり、詞の機智的な遊び者であり、偶像崇拜者である筈ではないか。斯ういふ論理を以て(489)三位一體を説かうとした人が、大正時代の歌人に存在したといふことを人々は參考のために記憶して置いていいのである。
 冠辭といふものは、氏の思ふやうな骨董品ではないのである。それを骨董品と思ふのは、丁度一般社會人が短歌などを骨董品と思うてゐる心理に齊しい。このことは別に詳しく述べる。何れにせよ、氏の冠辭説が三位一體の説明にならぬことだけは明白である。
 氏は、叉、擧例十首中、二首だけについてやゝ具體的に言及してゐる。
   春雨のいやしき降れば萌え出づる野山の緑思ほゆるかも
に對しては、「單に萬葉振を標榜してゐる「アララギ」の歌とはうけとれぬ」というてゐる。これでは一首に言及したといふのみで、氏の意の説明にはならない。この歌の如何なる所が、新古今の甘えであり、新古今の弱さ薄さであり、新古今の因襲的既成概念であり、新古今の機智であり、新古今の輕薄さであるか。これを説き得なければ、一首と雖も、歌に對する氏の冒涜言とする。
   生けるものなべて歎けり散らばれるひよこを呼ばふ親※[奚+隹]のこゑ
 これは、小生作である。これに對して『生けるものなべて歎けりといふ概念を頭に据ゑつけて鳥渡威嚇したところ、君が小主觀の歌としてあげた新古今の「岩間とぢし氷もけさはとけそめて苔の下水道求むらむ」の歌に比して其所に多少の現實味はあるとても、概念挿入の點に於て餘り替りはない』(490)というてゐる。之は甚だ面白い。前田氏は第一に小主觀と概念とを混同して考へてゐる。そして小生の歌の第一二句に概念が現れてゐるといふ事によつて、小生の歌を新古今にしようといふのである。前田氏は、歌の一二句を全體から切ら離して、その部分によつて歌の價値を定めるといふことをなし得ると見える。これも恐らく前田氏一人だけが爲し得る所であらう。之によると、前田氏は萬葉集中或る一二句が概念なるによつて、その歌が新古今流の概念であると言ひ得るであらう。さうすると、三位一體は、三位でなくなるであらう。冠辭あるもの、一二句に概念あるもの、斯ういふものを以て萬葉、新古今、現代、三位一體に言ひ及んだ人は今日までに前田氏一人あるのみであらう。
 序を以て前田氏に質問する。
   春過ぎて夏來るらし白妙の衣乾したり天の香久山
 この一二句も概念である。氏はそれによつてこの歌を概念的な歌と斷ずるか。斯樣な例は萬葉中擧例に遑がない。それを氏は承知してゐるであらう。
 氏は亦小生の箇條書質問を提出したことに對して、「恰も歌壇の新入學生に試驗問題を提出するぞと言はんばかりの例の赤彦式態度で提出してゐる」というてゐる。箇條書きにしたのは、氏の所論に比喩が多く條理が面倒であつて、了解に苦しむ點が多いゆゑ、斯樣にしたのである。然らずとも、箇條書きの質問が禮を失してゐるといふこと想像し難い所である。これこそ前田氏式の獨斷であらう。
(491) 氏は又自らを、よく一本立ちだ。といふ。これも不思議な詞である。世の中の歌人に誰か二本立ち、三本立ちと云ふ人があるか。自己の歌を爲し、自己の説を爲す、誰も皆獨自の立場にあるのである。氏の左樣な言をなすは何の意であるか。不純な聯想を伴ふやうな言は愼んでいい。 序であるから、猶言ふ。氏は土田氏の言に答へるに、自己近作の詩を以てした。かういふ議論の交換が世の中にあり得るであらうか。擧げ來れば、氏の言説は世の中に奇特のものばかりである。それに對して物言ふは可なりの困難である。今は之で筆を止める。六月十八日   (大正十二年七月「アララギ」第十六卷第七號)
 
(492) 三たび白秋氏に
 
 北原白秋氏は「詩と音樂」六月號で、再び小生に答へてゐる。
 小生の提げた問題は、氏の作の批評と、氏の爲した自作と芭蕉作との比較に對する意見である。氏はそれに對して今迄長々と物云ふけれども、未だ本論に到著しない。今度は本論に入るかと期待してゐたところ相變らず餘論である。而もその餘論は前述前田氏の議論よりも難澁である。
 氏は小生の氏に向つて爲した言が、唐突で禮を失してゐるといふ。唐突の言が禮を失するとは何の意味か。歌壇の議論は純粹な心機によつて行はるべきで、一點他の意味を雜へてはならぬ。唐突不唐突といふ如き言を爲すは、何か雜ふるところがなくては出ない詞である。例へば、氏は「ここに二人の人があつて茂吉と白秋と親しく相互に序しまた親しく談笑してゐる際に於て、何の會釋もなく、イキナリ裸力士が出現して、その一人に躍りかかつたとせよ。全く驚くべきではないか」というてゐる。茂吉と親しい親しくないといふことが歌壇の發言に何の關係があるか。さういふ心持を指して「雜ふ(493)る所ある」ものと言ふべきであらう。前號にも言へる如く、小生は數年前「アララギ」誌上で、白秋氏の歌と小生等の歌と違ふ所以を述べた。それを白秋氏が知らぬ事はあるまい。一昨年白秋氏が「茂吉選集」へ序した時、氏は現今「アララギ」の一人ぼつちなる事を述べて、一本立の樹木は發育しないといふ比喩言をなした。その比喩言に對して、更に小生が比喩言をなしたのであつて、この言少しも唐突でないのである。たとひ唐突として氏が赤筋を立てて「無作法」「傲慢」などいふ厖大のやうな詞を小生の面前に突きつける理由は毛頭ないのである。氏は親しい、親しくないといふやうな事を、批評の一條件にするやうである。これは批評の純粹さを濁らせるものである。小生等は「アララギ」内にあつても、難ずべきを難じ、難じ返すべきを難じ返し合つてゐる。これが行はれないならば圍體を爲して親密に交はつてゐるといふことは無意味である。往年小生等が左千夫先生に頻に食つてかかつた事はその心持の一つの現れであつて、今に至つて後悔して居らぬのである。白秋氏は頻に茂吉、千樫、憲吉は我が仲間であるといふやうな口吻を洩すが、純粹な議論の中へさういふ詞は交じる必要がない。この處白秋氏の根本より出直すべき所である。茂吉、千樫とは酒を飲むが小生とは飲まないといふやうな詞もある。此の邊まで來ると子供のまま事喧嘩に類して罪が無いのである。
 小生が再度白秋氏作を誤記したのは惡い。それを長々と難じてゐる。此の歌小生の誤記によつて三通りになつてしまつたので、甚だ失禮した。何れにしても歌の惡い事は前述の通りである。氏が本論(494)に入つて、小生の所論に言及する時、眞劔の議論をしよう。今は太刀打ちの前の罵詈を聞くに似てゐる。それは止め給へ。前田氏が正直に本論に入つてゐるのに對して、白秋氏のは少々餘談が長過ぎるのである。六月十八日   (大正十二年七月「アララギ」第十六卷第七號)
 
(495) 前田夕暮氏の答 つづき
 
 前田夕暮氏が、小生作
   生けるものなべて歎けり散らばれるひよこを呼ばふ親※[奚+隹]のこゑ
に對して、『生けるものなべて歎けりといふ概念を頭に据ゑつけて鳥渡威嚇したところ、君が(赤彦言ふ。君とは小生を指す)小主觀の歌としてあげた新古今の、「岩間とぢし氷も今朝はとけそめて苔の下水道求むらむ」の歌に比して其所に多少の現代味はあるとても、概念挿入の點に於て餘り變りはない』と言うたのに對して、前に少々言及しておいたが、猶、第一二句に氏の所謂概念を挿入した歌の例を、少し擧げて見よう。
 萬葉集の中に
   各自《おのがじ》し人死にすらし妹に戀ひ日にけに瘠せぬ人に知らえず   戀にもぞ人は死にする水無瀬川下ゆわれ痩す月に日にけに
(496)   旅といへば言《こと》にぞ容易《やす》き少くも妹に戀ひつつ術なけなくに
等の歌があつて、第一二句に概念を据ゑつけてある。概念据ゑ付けのため、歌が小主觀になるならば、これも亦その一に居らねばならぬ。前田氏はこれを何う思ふか。
   玉敷ける家も何せむ八重葎おほへる小屋《をや》も妹と居りてば
   うらさぶる心さまねし久方の天の時雨の流らふ見れば
   いかにして戀ひ止《や》むものぞ天地の神を祈れど吾《あ》は思ひ益す   よそにのみ見てやわたらも難波潟雲ゐに見ゆる島ならなくに
の第一二句の如きも、前田氏の如く、歌のうちの一二句を取り離して考へる時は、同じく概念的なものと言ひ得るのである。例はいくらもある。前田氏の參考に供するため、實朝の歌からも少し例をあげよう。
   うつせみの世は夢なれや櫻花咲きてはちりぬあはれいつまで
   涙こそ行へも知らねみわの崎佐野のわたりの雨の夕ぐれ
   おしなべて春は來にけり筑波根のこのもかのもに霞たな引く
   風をまつ今はたおなじ宮城野のもとあらの萩の花の上の露
   おのづからあはれとも見よ春深み散り殘る岸の山吹の花
(497) 一體、歌のうちの一二句を取り離して、それによつて、小主觀歌とか概念歌とかいふ價値を考へることが常識を超越したしわざであつて、これは前號に言及せしゆゑ、今多く言はない。況して、これを以て、現代人の萬葉風が新古今風に遷つたといふ所謂三位一體説の説明材料にしようとするのは、條理の立たぬ程度がひどいのである。
 或は、氏は、小生が西行作
   岩間とぢし氷も今朝はとけそめて苔の下水道もとむらむ
に對してなした言の中の「岩間とぢしより第四句まで作者の側に立つて見てゐるのであると思うてゐるのが、第五句へ行つて、急に、道求む。となつて水の立場に變つてしまふのであつて、斯の如き小主觀句の介在して勢の一貫を摧くのは、作歌の心が、甘えの心から來てゐるためであつて云々」のうち「小主觀句の介在」といふ文句を捉へて、お前の歌も概念句の挿入で、西行の歌と略ぼ同樣だと言うたのかも知れぬ。それならば愈々筋道がむづかしくなつてゐるのである。間違つではいけない。小生の言うた小主觀句の介在は、一首勢ひの一貫を摧くところの「介在」として説明したのであつて、氏の「概念挿入の點に於て餘り變りはない」など言つてゐるのと同類でないのである。氏の意を押して行けば、さし當り直ぐ差支へを生ずる歌例に逢著すること、前に擧げた萬葉集、金槐集の歌に就て見ても解るのである。氏の小作に對してなした批評のうち、批評言の資格をもち得るは、只「生ける(498)ものなべて歎けり。といふ概念を頭に据ゑつけて鳥渡威嚇した」といふ詞である。威嚇すとは、聯想の過重と誇大とを意味する。「散らばれるひよこを呼ばふ親※[奚+隹]のこゑ」といふ第三四五句と「生けるものなべて歎けり」の第一二句の間に、如何なる聯想の過重と誇大があるか。そして、そこに如何なる新古今病の甘えと繊弱と遊戯と輕薄と因襲的概念とがあるか。それが明かにされぬうちは、氏の歌評と三位一體説とを、氏の面前へ弾ね返してしまふのである。
 前田氏は、又、小生等の歌に、冠辭のまじつてゐる現象を捉へて、「因襲的概念に安じてゐる事であるし、詞の機智的な遊が行はれてゐるのである。僕は歌であるからと言つて、全然今の時代と没交渉な枕詞迄使用するといふ必要は、どう考へても考へられぬ」というてゐる。さうして、左樣な意味で、小生等の歌が因襲的になつて居り、機智的遊戯になつてゐるので、所謂萬葉の精神が新古今の精神になり、從つて三位一體説が成り立つと斯ういふのである。
 第一に前田氏に問ふ。氏の言ふ土の臭ひであり、璞であり、原生林である萬葉人が冠辭を用ひてゐるのは何故であるか。氏の説によつて之を當て嵌めれば、萬葉人の冠辭を用ひてゐるといふことも、同じく因襲であり、遊戯であらねばならぬではないか。これを前田氏は何う説明するか。或は、氏は萬葉人の冠辭は因襲でなく遊戯でないと言ふかも知れぬ。冠辭は眞淵の「冠辭はいといと上つ代よりいへるぞ多く、藤原奈良などの歌に言ひ出でしとおぼゆるは少なし」と首ひし如く、その起源は日本(499)語の由來と共に古いのである。萬葉時代は今を距る千餘年であると共に、神武創業時代を距ることも千餘年であつて、神武以前の世からは何年を距つてゐるかを想像し得ない。想像し得ない時代に發生した冠辭を後世の萬葉人の用ひてゐたことが因襲でなくて、今人の用ひるのが因襲であるとするならば、其處に當然特別な説明が加へられねば、意義を爲し得ないではないか。萬葉の冠辭を因襲でないとするならば、この點の説明が要り、因襲であるならば、萬葉の原生林と、土の臭ひと、璞を何う説明するつもりか。
 元來、冠辭といふものは、前田氏の考ふる如き意味に於て因襲的なものではないのである。餘齋の「こは言のはじめにも、なからにもかむらせて、其ことのこころにはあたはぬものから、しらぶるよすが(いもが手をとろしの池、つがの木のいやつぎ/\)うたふのみにはあらで、くさぐさのあやなんある云々」といひ、眞淵の「言のたらはぬときは、上にうるはしきことを冠らしめて調べをなんなせりける」といひ「おもふこと多なるときは、事の數々うたひつらぬるに、いよよ上にも下にも冠り辭をもてすがたをもよそひ、調をもなせりける」と説いてゐる如く、詞の調べと姿をととのふるための冠り詞である。歌人にして調べを尊ばぬものなく、調べを尊ぶものにして、冠り辭の用を知らぬものはない筈でゐる。萬葉人が、その時代にあつて既に意味の不明であつたらしく思はれる「久方の」「さす竹の」「神風の」等の冠辭を冠らせて、「久方の天の香具山」「さす竹の君」「神風の伊勢」など(500)用ひたのは、眞淵の謂はゆる「おもふことひたぶるなるときは言たらず、言したらねば、思ふ事を末にいひ、仇し語を本《もと》に冠らせついで、彼五つがひ(短歌五句の意也)のすがたをたらはせる」ものであつて、無用といへば無用であり、無用である所が、調べの上から有用になるのである。心を一箇所に集中すれば、歌の本《もと》句(初句也)は成るべく意味を稀薄にしたいのが、作歌に於ける自然の要求である。この要求中の一部位に、冠辭といふものは短歌のあらん限り生きて存すべきものである。一體、短歌といふものが、世の中に在つては無用の用である。その短歌の中に在つて、冠辭は更に無用の用である。無用の用の分らぬ世人に短歌が分らぬ如く、冠辭の用の分らぬ程度の作者に、本統には短歌は分らないのである。
 前田氏は今頃外出に麥稈帽子を冠るであらう。それは何のためであるか。暑い日光を避けるためか、それならば夜それを冠る必要はあるまい。氏がもし夜外出の時にも麥稈帽子を稈るならば、それは何のためであるか。無用の用は、さういふ所から考へると分る。氏の著る洋服にもネクタイがつき、下著の腕にはカフス釦がついて居よう。無用の用は、引つづき、さういふ身邊から考へると分る。カフス、ネククイも自分の體に存するとき、その存在を疑はぬ。短歌にあつて、冠辭の存在を疑ふは、乳呑み兒が、阿父のネククイを捻ねくりながら、その存在を訝ると同じ種類である。
 前田氏は、又、日常談話のとき、詞の頭に「あー」とか「えー」とかいふ無意味の詞を冠らせる事(501)はないか。この「えー」「あー」の如きが、民謠の唄ひものなどになれば、一層長い延音となつて頭につくのである。斯樣な無意味な詞が、冠兒の無用に見える部分の小さい見本であつて、注意して聞けば、人の談話にこの冠り詞が可なり多く著いてゐるのであつて、「さあそれは」「いやどうも」「全く以て」「その」など、元來有意味である詞が、殆ど無意味になつて用ひられてゐることが多いのである。無意味の詞を悉く征伐するといふ考へならば、先づ以て斯樣な詞も征伐すべきであるが、それは何人の談話からも取り除く事は不可能である。小生の郷里には、詞のはじめに必ず「もの」といふ詞を冠らせねば談話の出來ぬ人があつて、一語句をなす毎に頭に「もの」がつく。之は中世の「物する」といふ詞から系統を引いてゐるのであつて、「もの」といふ無意味化した詞が何故必要となつて詞の頭につくかといふことは、前掲の「えー」「あー」等に通ずるのであつて、前田氏が歌に無意味な冠辭の必要を疑ふとき、先づ以て自己日常談話から類推して考へて見ると分るのである。(類推とは、無用の言語の有用なる所以を類推するといふ意味である。えー、あー、さあそれは、が所謂冠辭に當るといふのではない。明瞭ながら議論の誤解を防ぐために附言する)
 冠辭には、又、前述の意味以上に、其の語本來の意義を伴ひつつ吾々の心に生きてゐるものがある。「こしほそのすがる少女」といへば「こし細の」が「すがる少女」に或る種の形容をなし得てゐるのであつて、「くさぐさのあやなんある」が斯樣なものに當るのである。これは現代人の心にも意味をな(502)し得る程度のものである。「天雲のたゆたふ心」「いは走る瀧」「高光る日のみ子」「ぬば玉の夜」「さく花の笑ましき」「朝霧の思ひまどひて」他にいくらもあらう。これは「ネクタイ」「カフス釦」が服裝の「あや」である如く、或は、それ以上の意味をもち得た「ことばのあや」である。さやうな詞に對して「枕詞迄使用するといふ必要は、どう考へても考へられぬ」といふ前田氏の考へが、小生には考へられぬのであつて、これは、氏に今一度考へ直して見る必要があるやうである。
 小生の學生生活の頃、同級生に長原といふ人があつて、それに、太田水穗君が、「鼻の毛の」といふ冠辭を贈呈した。「鼻の毛の」は「長」に言ひかけた冠辭であるが、どうも面白い。面白いといふのは、單に詞の言ひかけが面白いといふのでない。長原氏に對して一種の滑稽味を伴ふ所にあるのである。それ故、小生今日まで、この冠辭を忘れない。「妹が手をとろしの池の波のまゆ鳥が音|異《け》に鳴く秋過ぎぬらし」の「妹が手を」は單に「取」に言ひかけただけの詞の洒落でないことは、此の一首に現れた心持によつて分り得るであらう。而もこの言ひかけは、冠辭としてのみ後世に遺る時、時代と共に言ひかけの意味が薄すれて來て、しまひには殆ど無意味に近くなるのである。「くれ竹の、世」「もののふの、八十うぢ川」「や雲たつ、出雲」「ふすまぢを、ひく手の山」「つゆじもの、おきてしくれば」「ちちのみの、父のみこと」「玉鉾の、道」「さしずみの、來栖の小野」「わかごもを、獵路の小野」等何れもそれである。之を單なる機智的言語として見るは、冠辭の意を知らず、冠辭の用を解せ(503)ぬものである。
 以上、冠辭について言を費したのは、前田氏が冠辭に對して、骨董語であり、死語であるといふ風の説をなしたのに對し、萬葉人のため、現代歌人のために聊かその妄を辯じたのである。たとひ死語であり、骨董語であるとしても、氏の所謂原生林なる萬葉人が何故にその死語、骨董語を使用したかの説明をせねば、前田氏の説は自己の槌を以て自己の立場を根柢から破壞してゐるものである。
 前田氏は冠辭を現代の歌に排斥するに止まらず、「現代の歌は註釋なしに理解のゆく程度でありたい。現代人によつて詠まれた「アララギ」の歌を更に現代譯をせねば一般の民衆には理解がゆかぬ樣では困る。子供(小學の二三年生あたりの)に讀ませても略理解のゆく程度の歌が一面に於ては當然あるべきである。」といひ「「アララギ」の人達はみな吾々と違つて歌の玄人であり、專門家の人が多いから、そして、その玄人であり、專門家の人達によつて詠まれた歌であるから、子供には當然わからないかも知れないが、これは不自由なことだ。言葉がわかれば子供は大抵直感で理解する。又假りに理解したとしても、今の子供に枕詞を使用した歌を記憶せしめるのは教育上困る。遊戯的思想を吹き込むことになり易い」と言うてゐる。冠辭から延いて教育上に心配を及ぼしたのは、殊勝の考へである。安心せよ、小生等は、未だ甞て、教育のために歌を作らず、子供のために歌を作らず、從つて必ず小學生から讀んでもらふといふ必要はない。小生等は、一首の歌と雖も皆自己感情の表現衝動に(504)よつて作るのであつて、その他に何等の條件を交へない。從つて自己の或る感動が快適に現さるるを以て滿足するのであつて、それが一般人に解るか何うかといふやうなことは必しも問ふ所でない。日本語で現された歌が日本人に解らぬならば、その日本人は自國語に對する知識が缺けてゐるのであつて、左樣な日本人は、自國語の知識を充實させて歌を解すればいいのである。
 ここに前田氏には不可思議に思はれさうな現象がある。人麿や、赤人や、實朝の歌は、たとひ、それが後人の耳に古語であらうとも、日本人の心に永久に記憶されるといふ現象である。人麿等が永久に記憶せよと註文したわけではないのである。理解や記憶は、前田氏の如く理解、記憶を條件として、換言すれば理解、記憶を註文して作つた歌にあるものでないのである。これを前田氏は何う解するか。
 或は、前田氏は、實朝や萬葉人の歌は、今よりすれば古語であるが、その當時よりすれば日常の口語であると言ふかも知れぬ。(それには小生別に意見がある)もし假に、それらの或るものが當時の口語に近いものとするも、今人よりすれば古語である。古語の歌が何故に骨董品とならずして今人の頭に生き、永久日本人の頭に生きるかは、依然として前田氏の頭に省みらるべき問題であらねばならぬ。氏は之を何う解するか。
 小學生の理解記憶云々に至つては、議論の外《そ》れ方も程度が酷《ひど》くはないか。短歌は成人の藝術であつ(505)て、子供の藝術ではない。詞だけ解つて短歌が解ると思ふのは、短歌に對する理解の程度が幼稚に過ぎるのである。竹の臺の美術展覽會に子供を伴れて行くと、この理直ぐに明瞭に解るであらう。高い藝術は成人と雖も理解するものが少い。況して子供に成人の畫や、彫刻の理解が出來る筈がない。理解出來ないのは、材料が難かしい爲めではないのである。畫面の各箇形象は短歌に於ける詞句である。詞句の難易で歌の理解を云々するが如き低級論者が世の中に存在するゆゑ、口語歌などいふ主張が眞面目に唱へられるのである。前田氏をして小學校の子供を教へしめば、先づ君が代の唱歌を口語歌に訂正して授けるつもりであらう。如何。六月三十日   (大正十二年八月「アララギ」第十六卷第八號)
 
(506) 即感録
 
       〇
 菜食は、人間の心性を中樞的に傾かしめる。今人に肉體的慾求が盛になり過ぎて、不具な文明をつくりつつあるやうに思はれる。
       〇
 東京市を題目として歌うた童謠多數を檢して見たことがある。「日本一」「世界一」「東洋一」といふやうなことの歌はれてゐるものが十中八九であるのに驚いた。この童謠作者には子供もあり大人もある。子供も大人も一致して興味を持つてゐることは、先づ「第一」といふ如き對他的條件である。今人の心性が如何に外面的に傾いてゐるかといふことが窺はれる。
       〇
 日光と大地のみを相手にして生活し得るは農人である。その他は多く他人を相手にして生活する。(507)汽車中で停車場毎に乘りこんで來る人を見るに、農民の人相が最も好感を與へる。
      〇
 富力の最も進んで居る或る國の都會では、男女多くピストルを用意してゐると聞いた。他の或る國の都では、最近出産屆に婦人だけの署名で足りる事になつたさうである。法律上夫婦關係を認めぬのであつて、それ程までにせねば人口が益々減少するのであるらしい。物質的に發達した文明の破綻の一端を窺ふに足りる。日本でも、大阪は東京に比して人口の割合に殺人犯が多いと聞いた。大阪は富力の中心地である。富力の集中に人の精力が注がれる處から藝術は生れない。官能の匂ひにのみ趨らうとする歌人は一考していい。   (大正十二年「塔」七月號)
 
(508) 白秋氏のことば
 
 白秋氏は小生に答へる最後の詞として「詩と音楽」八月號に一萬語と思はれるほどの長文を掲げてゐる。それが殆ど赫怒面上の口角から飛び散る唾である。小生の白秋氏作を批評したのは唾の吐きかけ合ひをするつもりではない。批評に批評の實質を以て答へず。下世話の喧嘩口論に落ちるならば、小生の方から應答を謝絶する。
 曰く「あなたをそれほど買つてゐる私であらうか。自負は愼しまれたがよい。海の鰈まで笑ふ。」曰く「笑止な驕慢、裸力士の稚態」曰く「月に二首や三首の製作力で、而も一旦他の新聞なぞへ出したものまで集めねば二十首と月にそろはぬあなたや、外のアララギ同人の方々こそ、ちと勉強なさるがよい。」曰く「今の「アララギ」に任かして置いたら歌は早晩行き詰まつてしまふであらう。私には片山蔭のお庄屋どんの寺子屋を思はせる。」曰く「「アララギ」ももういよいよ末期であるか。「アララギ」の舊宿老たちの感慨もさぞかし深いことであらう。」「いやに、しやちこばつたものですな。村(509)學究さん」これらは、その一例であつて、一萬語中の唾の飛沫は到底掲げきれない。本論に至らぬうちに、こちらの著物がよごされさうである。これでは紳士としての應對は出來かねる。小生も之を以て最後のことばとする。
 白秋氏は、小生の批評本論に答へてゐると言ふ。「わたくしのお答はあれで澤山だと思うてゐる。あなたは自分だけ言ひたい任せを云つて、人のは讀まないから困る。讀んでも知らぬ顔ならなほさら困つたものになる」と驚くべき亂暴言である。赫怒の後の顛倒か。知らざる爲《まね》か。小生の本論は、(一)白秋氏作二首と芭蕉作二句との比較に對する意見と、(二)その二首中「鉋の音」一首の細評と、(三)「雀の卵」中芭蕉を原據とする本歌取の歌一首の細評である。その何れにも本質的に入つて答へたことはないのである。二首の歌は三囘の答へを通じて、いつも小生の誤記だけに言及して本質に入つたことはない。誤記は誤記で小生より之を明かにして、明白に陳謝してゐる。それだけを捉へて數千言を費しながら、一點本質へ入つて言はないのは何の爲か。而も「讀まないから困る」などといふ。之を公衆に對するごまかし言と言はれて返す詞があるか。夕暮氏は正直に本論に入るのに、白秋氏の餘論長過ぎると言うたのはこの事である。この鹽梅では、小生の誤記は却つて白秋氏によい本論囘避の口實を寄贈したやうなものであつて、これが無かつたら、寸毫も議論の歩を進め得なかつたことであらう。而もこの誤記は、露骨に言うて、誤記正記どちらでも大した價値の相違はないと思はれる程度(510)のものであつて、はじめより尊敬の念を拂ひ得なかつたものであるから、これを芭蕉二句と比較するの輕薄さに驚いたのである。併し乍ら、誤記は何處までも誤記であつて惡いから明白に陳謝をする。陳謝をすればする程それを捉へて多言而も罵詈言を費して歌の本質論に入らない。これを何の現象と見るべきであらう。飜つて、白秋氏の誤記した芭蕉作は、芭蕉終生中主要傑作の一とすべきものである。それを誤記するのは芭蕉を知らず、芭蕉性命の核心を知らざるほどの爲わざである。それに附隨して、白秋氏は、芭蕉の作と雖も「感心する句はおぼえてゐるが、でないものは、讀み流しで可なりうろ覺えである」と述べてゐる。それを後に「秋ふかき〔四字傍点〕の句に對して言つたのではない」と辯じてゐる。それならば何の必要あつてそれを自己の誤記問題と關聯して書いてゐるか。これは自己の非を文るものであつて、原文を讀むものの誰でも解し得る所であらう。白秋氏は自己の誤記を芭蕉の前と公衆の前に陳謝する事を忘れてゐるのである。赫怒の顛倒ならば猶恕すべし。知らざる爲《まね》ならば圖々しいであらう。
 本歌取一首の歌は舊作であつて痛痒を感じない。批評するならば近作にせよと言うてゐる。強ひて舊作を評するは、太田氏の近作を評するに比して不公平であるとも言うてゐる。小生の批評したのは、舊作を目ざして擇んだのではない。太田氏の芭蕉作本歌取の歌に聯關して、白秋氏の芭蕉作本歌取の歌を擇んだだけである。輕薄な芭煮崇拜が、どんな歌を生むか。その數例を解剖して見ただけである。(511)白秋氏も「雀の卵」産出の時は、連日連夜不眠不休で、餓死に面して戰うたと宣言してゐるではないか。死に面してまで作つた歌を、二年後の今日批評せられて、あれは舊作だから何等の痛痒も感じないと言ふのは、變轉進歩窮りなく、昨の白秋は、今の白秋にあらず、日一日脱化して須臾も滯る所なきを自稱する白秋氏にしても、その流れ方があまり輕快無頓著に過ぎはしないか。芭蕉にも私淑し、良寛にも私淑し、「明星」より出でて、萬葉にも感謝し、「アララギ」にも感謝し、已にして、突嗟に歌壇を去るの辭を成し、一二年ならずして、忽然月々百首二百首三百首の歌を發表するのは、白秋氏の、辷り方の如何に輕快であるかを知るに足るのであつて、數年前の歌と雖も氏の作は氏の生んだ子供である以上、これも、も少し小生の批評に答へて、その子を愛撫すべきではあるまいかと思はれる。愛撫するとは、缺點を辯護するの意ではない。制作當時の心持に愛著があつて、その愛著の心持を正直に説明し、反省し、批判し、是を是とし、非を非とすればいいのである。それが自分の制作を現在にも生かして行く心持になるのである。而も一方からは、最後言として「お言葉に對しては有難うと云ふ外はない。批評はする人の勝手である故、被批評者は黙して可なりである。云々」と言うてゐるのは、所謂女のふて詞〔三字傍点〕であつて、批評の答へにならぬのである。それで批評本論に答へたつもりならば赫怒の點倒である。
 白秋氏は、小生のかつて「杉とどんぐり〔四字傍点〕では林にならない」と言うたのを、非常に氣にしてゐる。(512)「傲慢であらう」「侮蔑言であらう」と號んでゐる。小生の言は、どんぐりと杉と共存し得なかつたことを比喩にしたのであつて、それこそ、餘論中の餘論である。(それ故項を別にして書いてゐる)而も、それは白秋氏が樹木相互共存の説に答へたのであつで、事の起りは白秋氏の言にある。白秋氏は、その説に対して、「アララギ」に敬意を持つて書いてゐると言ふが、「その頃の新進気鋭の「アララギ」の諸君は何と云つても當時の環境に可なりの眼を開けてゐたに違ひない。隆盛後の今程頑張つてはゐなかつた。忌憚なく云ふと、今の「アララギ」は強ひて周圍に眼を塞がうとする結果、却つて堅くなり過ぎ、却つて生氣が拔けたやうである。批評などは氣にかけないで、どしどし他の長所には當つて體得したがいいのである。云々」といふ鼻息である。その鼻息に小生が少々答へたのであつて、裸相撲も、竹刀も比喩言に答へる比喩言であつて、碎けて首へば、一つ本當の議論をしようといふことである。その邊で赫怒してしまふのは何の爲か。白秋氏ともあらうものが存外であるといふ感がする。周圍のお蔭を蒙つてゐるとは、一體誰のお蔭を蒙つてゐるのか。その頃全盛の觀を呈した與謝野氏及び與謝野氏夫人の歌の如きは、小生等の殆ど顔を背けて通つて來たものである。これは小生の心に問うて見て明白である。確證を擧げすして漫然斯樣な言をなすのを失禮言と言ふのである。但し、どんぐり説が、それ程に氣に食はぬならば、杉を白秋氏にさし上げ、どんぐりを小生が頂いたら、滿足であらう。始めより誰の所有と定めてはゐないので、誰でも勝手に杉になつて納まつてゐれば泰平(513)であらう。茂吉と親しく談笑してゐる所へ、否一年も後になつて突然裸力士が飛びこんだのは傲慢無禮だなど言うてゐるのは、白秋氏如何に辯ずるとも、批評と交際を雜へた心であつて、氏の交際が左樣の意味で人に結ばれるならば、交際そのものの根柢が間違つてゐるのである。然らずとするならば小生の批評に關して、何で茂吉と談笑云々の言をなしたか。恐らく答へられまい。氏が作者である以上、批評などは刻々に身邊に至るの覺悟が、不斷にあるべきではないか。批評に答へんとする場合、顧みて第三者などを持ち出すべきでない。批評に對しては正面から批評の本質に人つて答ふべきである。氏に常識のゐる限り、斯の如く餘談の長引くのは、強ひて顧みて他を言ふものであるとせられても辯ずるの辭がなからう。憲吉、千樫等の名の出て來るのもこの類である。一々擧例を煩とする。
 「あなた方はよく小感情で動かれる。批評や論議にはあまりに私情が先きに立つ。他派に對しては、心を虚うして褒め得ない」と言ふ。白秋氏を褒めたら滿足であらう。褒めるべき所もあり、貶すべき所もある。それは今まで何れも明白に言及してゐる。それで不足であり、猶正面から批評の本質にもつき當り得ないならば、我儘子供の駄々言である。「私はあなたや茂吉君から時をり批判されたが、大概動因は介つてゐる」愈々出でてふて女〔三字傍点〕のいや味言〔四字傍点〕である。斯ういふ言葉には此の最後文に於ても答ふるを屑しとしない。只序でを以て一言するが、小生は今まで白秋氏以外諸歌人の歌を可なり多く批評してゐる。批評するのは或る尊敬を拂つてゐるからである。只尊敬するからと言つて、難ずべきを(514)難ずるのは當然である。揚ぐべきものを揚げた例は白秋氏に忘れられて、多くの人が知つてゐるであらう。左千夫乃至アララギ同志の論難についての云々説も要するに以上の範圍を出ない。之を省略する。八月十四日夜   (大正十二年九月「アララギ」第十六卷第九號)
 
(515) 歌道座談
 
       一
 どうも態々御集り下さいまして有難うございます。斯う云ふ席が私は好きで御座いまして、いかめしい處では話にくうございます。膝を交へて話すと云ふやうな心持が致します。どうか足を御くづしなすつて下さい。私も失禮致します。其の方が話よい心持が致します。
 どうも殊に今晩私は頭が纏つて居りませんです。雜談に過ぎないかと思ひます。筋が立ちません。
 まあ、どう云ふ縁でか私は歌が好きでありまして、歌を今修業して居るのであります。一番大事なことは何かと云へば歌を修業する事で御座います。人樣に自分の考などを申上ぐると云ふやうな事は私の本當にすべき事ではないのであります。そんな閑には歌の勉強をする方が私の本當の道であります。私も滿洲を見たさについ皆樣の御勸めに依つて参りまして、何も饒舌らない譯にいかないから饒舌ると云ふやうな風で、もう可成り毎日饒舌りましたから饒舌り過ぎた心持も致します。一寸氣恥か(516)しい心持が致して居ります。今晩は歌に興味を持つて御いでの方が御集りだと云ふ事を承りまして、私も喜んで申上げるのであります。
 皆さんを歌を御作りになる方として今晩は申上げたいと思ふのであります。皆さんも歌を御作りになる、私も歌を作る、御同樣歌の作者であります。作者とすれば自分の心を突き詰めて、其の突き詰めた心持をどうして適切に如實に歌の上に現し得るかと云ふ事だけに努力して居れば宜い譯なのであります。
 本當は歌人としての工夫は一人だけのものであります。他人の言ふ事は參考になるのも有りませうし、或は共鳴をしたり、或は共鳴をしない等樣々で、他人と云ふものは要するに他人であります。自分の歌作りとしての工夫は自分一人としての工夫にある。此の工夫は中々苦しいのでありまして、是は御同樣御存知だと思ひます。
 歌も一の藝術であらうと思ひます。藝術は始めて直ぐ出來上るといふものではどうも無いらしい。彫刻を爲さる方も、繪を爲さる方も、總て藝術に從はれる方は板を削る一つの鑿にも全體の心を籠めなければならんやうな苦心がある。繪を畫く方もさうであらうと思ひます。一朝一夕に思ふ通りに仕上るものではなからうと私は思ふのであります。直ぐに出來上るやうなものならば夫れ程値打の有るもので無いかも知れません。さういふ工夫を段々積みまして、最後に自分の藝術の上に悟りが開く、(517)其の悟りにも自分の腕は伴はず、頭ばかり伴ふと云ふやうな事も有ります。頭と手と共に或る非常な所に到達すると云ふやうな方ならば、咳睡成珠と云ふ一度吐けば忽ち立派な歌に成る有難い境遇に達するかも知れませんが、私共はそんな向になるのは迚もまだ遠いのであります。まだ遠い遠いと思ふ程私共の爲になる心持が致します。或る所まで至つたと云ふやうな自負心即ち滿足心を持つ時は自分の藝術がそろそろ下り坂になる時と思ふのであります。よく歌をなさる方が直情徑行、今頭に動いて居る主觀を其の儘直に外に吐き出せば宜いぢやないか、睡を吐く如く、痰を吐く如く外へ忽ち吐き出せば最もそれが天眞爛漫、僞る所ない歌になるぢやないかと云ふやうな議論を爲す事があります。
 私共歌を爲しますものはそんな所に到達したい爲に苦しむ。まだ私は到達した事がありません。到達するのは遠いと云ふ感じが私はして居るのであります。譬へて申しますれば、越後の僧良寛であります。良寛の歌などはどれを見てもすらすらと流るる水の如くで非常に心持が好いのであります。例へば
   あき風にひかりかがやくすすきの穗ここのたかやに登りて見れば
 何處にも不純粹な所は有りません。宜い心持が致します。さう云ふ調子に、まあ、一向に混り氣の無い玉のやうな心持のするものが良寛の歌には隨分多いのであります。又
   月よみの光をまちて歸りませ山路は栗のいがの多きに
(518) 貴下を歸したくない、まあ、月夜の光を待つて御歸りなさい。此の山路は……良寛は山寺に籠つて居りました……栗のいがが多い、足を傷つけますからと云ふので、どうも何處にも夾雜物が無い感じが致します。只今の歌は貞心尼と云ふ女に與へた歌であります。
 總てさう云ふ調子に良寛の歌が出來て居るから、良寛は無雜作に詠んだらうと云ふ人が可成り多いのであります。どうもさう思つて居るらしい。
 御承知の通り良寛の書であります。私は書の方は確には存じませんが偉い所に達して居る書であらうと思ひます。あの書なるものもすらすらと書いたのであらう。歌にしても頭に動いたものを直に外に吐き出したらう、丁度書の如くであらうと云ふ。斯う云ふやうに考へて居る方が多いやうであります。あの方は天才でありますからさう云ふ事も隨分あつたらうと思ひます。私は日本橋の或る倶樂部で良寛遺墨展覽會が開かれた時澤山集つた其の遺墨を拜見に行つた事があります。中には僞物も隨分あつたやうであります。それ等のどれが眞蹟で、どれが僞物と云ふ事は立ち入るべき問題でないやうであります。唯私は非常に愉快に思ひ、且つ或る問題が解決されたやうな心持の致したものがあります。それは此の良寛が王羲之の字を御手習したもので羲之そつくりの字を書いたのがあります。此の御手習をした字を見ますと非常に謹嚴なものであります。良寛の字は初めからあゝいふ飄逸で何處へ行つでも滯る所の無いと云ふ樣なものでは無かつたらしい。それまで這入るには、極めて丁寧に羲之(519)そつくりの字を稽古して習つたのである。其處より這入つて自分の個性を自由に發揮する事が出來ると云ふ所に到達したらしいのであります。
 一寸考へれば、良寛はあんなに丁寧な御手習をしたのでは無いだらうと思つて居る方もあります折に、其の御手習の材料を見まして大變好い參考になつた心持が致しました。
 今一つあります。それは、良寛は自分の得意の歌は何枚でも、屏風或は短册等に書いたやうであります。
   あさづく日向ひの丘に小男鹿立てり神無月時雨の雨に濡れつつ立てり
 是は良寛が好きであつたらしい。隨分書いてあります。此の歌は今確かなことは言へませんが、大抵の良寛の歌集には私の唯今申しましたやうに出て居るやうです。「あさづく日向ひの丘に小男鹿立てり神無月時雨の雨に濡れつつ立てり」向ひの丘に小男鹿が立つて居る。神無月時雨の雨に濡れつつ立つて居る。目に見えるものは鹿の姿、それに雨が降りかかつて居る。純粹單純な境涯であります。私は日本橋の倶樂部で幾つも其の歌を拜見致しました。處が、
   山たづの向ひの丘に小男鹿立てり神無月しぐれの雨にぬれつつ立てり
と云ふ前のとは違つたのがあります。良寛は一旦「あさづく日向ひの丘」とやつて見たが後に「神無月時雨の雨にぬれつつ立てり」と云ふ句と「あさづく日」と云ふ句がどうも不調和である。外に良い(520)枕言葉が無いかと思つて幾度も考へたらしい形跡があるのであります。と云ふのは、展覽された遺墨を段々見て行くうちに、第一期に作つたのは「あさづく日」第二期に作つたのは「山たづの」となつて居ります。「あさづく日」も「山たづの」も共に「向ひ」と云ふことの枕言葉で意味は有りませんけれ共、「山たづの」の方が、どうも宜いのであります。「山たづの向ひの丘に小男鹿立てり神無月時雨の雨に濡れつつ立てり」斯うしますれば、前の「あさづく日」と言つたよりは歌柄が、更に勝れて來たやうな心持が致します。私は二つ比較致しまして、勝手な決め方をするやうですが、「あさづく日」と置いたのは初めで「やまたづの」は後である。先に「山たづの」と置いて後に「あさづく日」と直す筈がない。是は自分の歌に氣に入らぬ所があつて訂正したものである。と斯う斷定的に考へたのであります。
 良寛禅師の如き境涯に達した人でも、自分の歌の一句にどうも氣にかかる所がある、どうかならないかと不斷考へ、段々と練つて行くうちに、第一句を訂正したと云ふやうな事が、矢張りあつたのであります。是等の片方の原墨が殘つて居らないからどうも惜しいのでありますが、若し原稿を見たら可成り入れたり、削つたりなさつて居るだらうと、私は想像致します。無雜作に一寸歌を始めて、一寸吐き出して、それが直ぐに玉の如き歌になると云ふやうな事は非常な天才ならば知らないこと、先づ我々凡人には出來ない事である。それだから私共は自分をあまり値打づけないで、萬葉集や良寛、(521)子規などの立派なる歌に自分を空しくして縋りまして、其の縋る事に依つて、幾分でも自分が高められて行きたいものであると、常に考へて居るのであります。
 
       二
 藝術家は自然に對しても、藝術に對しても矢張り謙遜の心持が最も必要だと思ひます。一朝にして歌人になり、一朝にして高きに自分等を置く、さうして天下を睥睨する、其の意氣は甚だ旺んでありますが、それは既に氣分が増長し過ぎまして、到る所も大した所へ到らないかと云ふ心持が致します。近頃の歌人などによく、歌は眞情を吐き出せばよい、と言ふ人がある。斯う言ふ議論は、議論としては結構ですが、修業の工夫としてはそれ丈けでは詰らないのです。眞情を吐き出せば宜いが、吐き出させる迄の修業をしなければならん。此の修業は容易な事ではない、と言ふ心持を常に持つて居る方が、多少自分の歌の世界を高め進めることが出來るかと思はれるのであります。又一面には自分で考へ、一面には自分の信ずる方……故人は其の歌に縋るより仕方ありませんが……に就て、直接に叱つて貰ふ事が必要であります。が、人から叱つて貰ふ事は、實は第二であります。先づ自分で叱らなければ駄目だらうと思ひます。自分で自分を叱る心持があれば、人から叱られる事が役に立つのであります。私など此の點に就ては仕合はせだと思つて居ります。私は子規先生を非常に尊敬しますが、先(522)生の存生中に一度も御目にかかつて居りません。唯一度、歌を十四首送りました。二十三四の頃であります。其の頃元氣ばかり宜しうございまして、鼻息の方が荒うございました。子規先生が日本と言ふ新聞で森と言ふ題で、歌を募られました。子規先生の歌は其の頃から非常に好きでありましたから、立所に十四首の歌を作つて子規先生に送りました。今から考へれば實に大膽なものであります。それまでに、も少し勉強すれば宜いが、立所に作つて郵便で送りました。心の中では十四首の中で、少くも七八つは屹度採られる。子規の眼鏡に叶ふ、斯う信じて居りました。……是は恥を申さなければ本當でありませんから申上げるのです……今に出るか/\と新聞を見て居りました。多く採つた人から先に出て居ります。十幾首と言ふ顔が澤山ある。十首以下五首、三首とありますが、私の歌は薩張り出ません。若しや郵便が著かないのではないか知らんと思ひました。其の中に一首の人だけが竝んで出ましたが、最後の、どん尻の所に私のが一つ出て居りました。其の時には大分自尊心が傷つけられたと言ふやうな氣が致しました、同時に、子規に大きな槌で頭を食らはされたやうな氣が致しました。是は俺は勉強せねばならんと窃に勉強して居る中に、子規先生は亡くなりました。
 子規先生の後、伊藤左千夫先生が雜誌を御出しになりました。私は子規先生の教を受けた事は唯一度、而も歌を送つたと言ふだけであります。私の下らない經験を申上げるのは變でありますが、青年時代は活氣に富んで甚だ元氣が好い、腕を捲つて大道演説でもする、若くは天下に呼號するやうな元(523)氣を有つて居るのは非常に結構であります。其の元氣を、外へ現はさんで、中へ打込んで、蓄積したら大きな力になるでせうが、大抵は蓄積しないで終るものだらうと思ひます。で、時々尊敬する人に依つて頭を叩かれまして、是は中でもつて工夫をしなければならんと思つて、其の元気を腹の中へ潜めます。潜める所に多少の工夫が出て來ると思ひます。自分で自分を叱ると云ふ事と共に、一面からは人樣から叱つて貰ふ事も必要な事で、是は修業の第一歩ではないかと思ひます。とは言へ、誰から叱つて貰つても有難いと云ふ譯ではない。自分の信ずる人でなければなりません。人は各々個性に依つて違ひます。私は、子規先生は非常に偉い方と思ひましても、君も信ずべしと強ひて申すことは出來ません。是は御同樣さま、各々目的とする所があるのですから、其の誰であると言ふ事は問ふ所でない。誰であつても宜い。自分の信ずる人に頭をはつて貰ふことが矢張り必要であると思ひます。
 私など左千夫先生に就きまして、始終叱られ通しでありました。此の位の歌をほめないと言ふ事はないと思ひまして、時々癪に障りましたが、今考へれば無論到らないものであります。若い時には到らないものでも、到つたやうな氣が致します。或る時、是では迚も駄目だと思ひまして、信州八ケ嶽に七日間籠つて、山の中で歌を作つたのであります。今度こそは左千夫翁を驚かしてやらうと思ひまして、八ケ嶽の山の中で作つた歌を、幾つか覺えて居りませんが二十以上も送つた。其の時には切羽詰つて岩屋へ籠つたやうな心持で歌を作りまして、是でいかぬなら仕方ないと言ふ氣で居りました。(524)今に返事が來るだらうと思つて居る中に早速參りました。封を切る時に何と言うてあるかと思ひまして、手が震へました。文面には
  今迄のと違つて居るが、今度は肩が凝り過ぎて居るやうだ。今少し樂な氣持で作り給へ。今度のは二つや三つは、雜誌に出しても好い。
と書いてありました。其の時にも隨分失望しました。左千夫先生には殆ど生涯叱られたやうであります。今考へれば、それが非常に有難い。左千夫先生も眞劔であります。或る時は、六尺位もある手紙を呉れました。斯う言ふ事は胸に堪へない、手紙では分り難いので、東京へ飛び出して行つて、夜更ける迄論を致しました。
 最後には大正二年の七月二十日でありました。私の長男は眼病でありまして、眠が殆ど見えないやうになつて仕舞ひました。盲目にするか、しないかと言ふ境に立ちました。田舍の醫者の手におへないと言ふので、直樣東京に出まして、外神田の泉町の小川さんの病院に行きました。子供に手が離せませんので、端書で先生に其の旨御知らせを致しました。先生其の端書を手に持つて直ぐ見に來て呉れました。端書を持つて私の室に這入つて來ましたが、立つた儘坐りません。立ちながら先生曰く、
 「君齋藤君の所に行つたか」
 其の心持は私には分る。齋藤と言ふのは私の歌の友達で、左千夫の門人であります。私達は其の頃(525)先生と議論致しましたので、左千夫先生は、或は赤彦達は自分から離れはしまいかと言ふ心配を爲さつたやうだ。東京に來れば自分の所に寄るのに今度に限つて端書を寄越した。今度は俺の所を離れる心持は有りはしないか、自分の所に來る迄に谷中の齋藤の所に行つたに違ひない。と思つで、否やを聞かない中は坐らなかつたのです。
 ……先生は妙な方でありまして、上野へ私共の仲間を連れて行きまして、上野の東照宮に御賽錢を投げると云ふ時に一圓の札しか無かつた。先生神主の所に行つて言はれるやう「十錢投げる積りだが、九十錢釣を貰へないか、一圓投げるは勿體ない、さりとて投げずに行くは濟まない」と。神樣から御釣を貰つたものは先生だけでありませう。恐らく世の中にさう言ふ人は無いだらうと思ふ位に率直でありました。……先生は何時でもついて居たいと言ふ雛が、ピヨコ/\飛びまして心配で堪らない。「君齋藤君の所に行つたか」と問はれるので、
 「先生齋藤君の所に行く位なら先生の所に行きます。今度はこんな病兒を連れて來て伺はれませんから端書を出しました」
と言ふと、先生始めてニツコリ笑つて、ドツシリと坐りました。此の方は體重二十四貫からあつて坐つた幅は随分広い。そして近眼でございまして眼鏡を二つ掛けて居ります。人と親しく話したい方で(526)ありますから直ぐ目の前に顔を持つて御いでになる。鼻の息がぷんぷん致すのであります。初めの内はこらへて居りますが、つい後に退ります、と先生が此方に進まれる、又此方が後に退る、遂に柱の所に押し寄せられて仕舞ふと言ふ風で、それはもう何處までも熱心に突き詰めなければ濟まない先生であります。先生曰く
 「君の歌は天麩羅だ」
黙つて聞いて居りますと、
 「天麩羅と言ふものは食べてはうまい。僕も好きだが品格が無い。君八百膳の料理を食べたか…
 …私は田舎者で八百膳料理を食べた事はありません。先生と雖も上つて居られないだらう……
 あれは口に入れてさう美味しいとも思はないが、何處にか品格を持つて居る。君の歌は品格が無い、天麩羅だ、君なんかは啄木あたりに行くか、行かぬ所だらう。」
と言ひました、私も實は癪に障りまして、是は先生けしからんと、膝を進める心持が致しました。と先生は私の歌を例にして散々叱りました。其の叱られる中に隨分無理だなあと言ふ氣が致しました。私も言ひたい事も有りますが、矢張り心配性でありまして、子供などに病まれると、意気銷沈し過ぎる氣が致します。學校に出て居りましたが、學校に行つてもどうも氣乘りが致しません。殊に子供の眼が開くか開かないかと云ふ境でありますから心配の爲に、汽車の中でつい下痢を始めました。一時(527)間に三四囘位大便所に通ふのであります。幾分かは眠らなかつたためでもあります。お腹は痛むし、便所へばかり行く、どうも閉口致しましたから、つい口を出しまして「先生、私には申上げたい事があるが、御承知の通りさつきから、便所へばかり行つて居ります。今日はどうか其の話は打ち切つて後でゆつくり私に話さして戴くやうに」と言ひますと、左千矢先生威猛高になりまして「僕は一所懸命に言つて居るのだ、此の位僕が一心になつて言ふ時に腹の痛いぐらゐはこらへ給へ」斯う言ふのであります。是ですつかり私は碎かれて仕舞ひました。謹んで、最後まで聽いて居りました。
 其の日は七月二十幾日で、棟瓦家ばかり多い外神田は非常の署さであります。午後の一時か二時頃御出でになつて、歸るのは日が暮れる頃、それ迄私の歌を批評されました。途中から古泉千樫君が參りましたが、先生の勢に恐れて、黙つて聞いて最後まで一言も言はぬで居りました。言ふ事丈け言つてしまつてから先生、如何にも胸が空いたやうな氣持ですつと立ちまして「君お茶が好きだらうが、僕は明日持つて來るから買はんで置け」と言つたきり、私の子供の病氣がどうかと言ふ事は一言も仰しやいません。そして先生は尻をからげて、大きな身體をゆすぶつて、外へ出られました。先生は尻をはし折つて市中を通つたり、また手で鼻汁をかむと云ふ素朴率直な方であります。其の時の姿が今も眼に見えるやうです。其の翌日……明日はお茶の道具を持つて來る、茶器を貸してやると言はれた先生が參りません。二日三日經つても參りません。私は貰つた休暇が盡きて居りますから、小さな病(528)兒を院長に預けまして、直ぐ出て來る積りで一先づ國に歸りました。今度來た時に會ふ積りでありました。國に歸りまして、家に著いたのが夜の十二時頃、其處へ電報が參りました。左千夫死すと云ふ電報が參りました。是は實に驚きました。三四日前私を叱つた先生が、私の立つた後で亡くなつて仕舞つたのであります。腦溢血で亡くなつた。非常に急激な死に方をなさつたのであります。
 是は私共、叱られました一つの例でありまして、斯う云ふ向に叱られましたから、私共今考へて見ても、あれ程叱つて下さつた方は外に無い。左千夫先生丈けであると云ふ心持がして、非常に餘計に親しみを感ずるのであります。時には喧嘩に類した事も言ひました。左千夫君が隨分酷いことを云うて來るから、私も餘計に癪に障りまして、五日程返事を出さないで居りますと、長い長い手紙を寄越しまして、僕は是程思うて居るのに何故手紙を寄越さない、此の手紙を讀み返して見ると書き直さなければならんが、書き直すと面倒だから此の儘送ると、そんなに盡して戴きましたが、凡骨でありますから、偉い所へ進みませんけれ共、叱つて戴いた事丈けは修業になつて居ります。
 最後に何處まで行くかと云ふ事は、人々の天賦でありますから仕方ありませんが、行ける所までは自分でも行くし、尚人から鞭つて貰ふ事が必要でないかと云ふ氣が致します。
 
(529) 左千夫先生と同輩で長塚節さんと云ふ人があります。此の方も私共の先輩であります。長塚さん曰く「僕等は、自分で餘程自信のあるものでなければ人に批評を乞ふと云ふ事はしない。歌を批評して下さいと云ふは、餘程自分を高く考へて初めて出來る事だ。容易に僕は批評を乞はない」と。これだから長塚さんに遠慮致しまして、批評して下さいとは云へなかつたのであります。長塚さんが、俺が批評してやらうと云ふのは餘程譽めた事であります。私など批評を受けた事はありません。手紙は貰ひました。「君は澤山作り過ぎていかぬ。少くし給へ。感じの集中が足りない。ぬるい酒を何遍も何遍もお燗するやうだ。純粹の酒を一遍お燗して置き給へ。」と叱られました。長塚さんも恐い人です。善い意味の恐い人です。私が一遍國に歸つた時のことであります。子供が蚊に食はれて寢て居る、自分が貧乏して居るために、蚊帳が破れても新しいのが買へないと思つて、起きて蝋燭で蚊を燒きました。子供が尻など出して寢て居ります。少しあはれな心持がして歌を五六首作りました。其の歌を發表致しました時に長塚さんが、あの歌を批評しようかと言つて端書を呉れました。是は私を譽めて下さつた事と思ひます。これ以後どうも批評して下さる事も無く、長塚さんは喉頭結核で亡くなつて仕舞ひました。こんな向に私共は叱られたのであります。
 私共を叱つた左千夫先生はどうかと云ふと、先生も隨分子規先生に叱られたのであります。是は左千夫先生に譽程爲になつたらしいのであります。松と云ふ題が出た時に五千夫先生は、是は松の歌で(530)子規先生を驚かしてやらうと御思ひになられたか知れませんが、態々興津まで行きまして、興津の松の歌を作つて歸つて來た。新橋に下車してから、本所の自宅に歸らず、眞つ直ぐに根岸の正岡先生の所へ鐵道馬車で行つたらしい。
 「君旅行したらしいな」
 「へい、旅行しました」
 「何處を見て來た」
 「興津へ行つて來ました」
 「何しに行つた」
 「松の題が出ましたので、松の歌を澤山作つて來ました」
處が子規先生
 「それは君駄目だよ、興津邊りの東海道の松は古來何千人の人がこれを詠んで居る。それ以上新しい歌を作らうとしても君には作れない。君の家の近所の誰も歌はない小つぽけな松があるだらう。それを詠んだらいい。さんざん詠み古した所に行つたのは無駄である、その歌見る必要はなからう。」
 折角苦勞した歌を見る必要はなからうと突つ放されたさうであります。是は何かの本にも書いてあ(531)るやうであります。斯う云ふ向にして子規先生に叱つて戴いたやうであります。
 こんな私事であることを皆さんにだらだらと申上げるのは、どうも具合が惡いのでありますが、さう云ふやうな事を申す私の心持は……第一は自分を知る人樣から叱つて戴いて藝術家としての修業をせねばならん。謙遜の心持に何時もあるべきものである。それから外れると好い氣になる。我儘勝手で下らない事を自介で宜いものと思ふやうになつて仕舞ふ。自分位の、と云ふ心持を起す。それは大それた事である、と云ふ事を御話しするに外ならないのであります。
 私共は歌を好きでありますから作つて居りますが、息を引取る迄にどの位の所に行くかは、問題でないかと思ひます。其の時一丈の所に達するか、一尺の高さに到るか、是は天賦に依るので致し方ない。一尺の天賦を以て一丈に達しようと思ふのは無理だ。出來る丈けの事をして、一尺の高さは一尺の高さにされる。一丈なら一丈の高さに到達する。それ丈け迄一生に達すればいいのである。現在どの位の高さをもつて居る居ないと云ふ事は問題でない。二十何首作つて、二三雜誌に出すと云はれた事はそんなに大問題にしなくとも宜かつたのである。人麿でも、本當に切り詰めた偉い所に入つて居る歌は數少ない。赤人でもさうだと思ひます。若し一生の中に一首でも非常な所に到達すれば、有難いものであると云ふ心持がして居るのであります。そんな所に到達出來るか、私は無論出來ないものであると思ふのであります。それ位なら、一方から遠い所に目を付け、一方からは以上申上げたやう(532)な事に依つて現在を充實させ緊張さして行くと云ふ工夫丈けが歌の修業道である。其他にはどうも修業の道は無いと思ふのであります。よく小説家などは二十、三十にして早く大家になり、御師匠樣になる。お師匠さんと云ふか、何と云ふか知りませんが、やんやと世間に囃される所の先生になられる。それは結構でありますが、大抵は長く續かないものです。大家にして四十、五十、六十幾つに至つても緊張の心持を續けて居ると云ふ方がある。どうも、さう云ふ方の頭は偉いものであると思ひます。
 森鴎外と云ふ方は偉い方でした。六十三で昨年六月十日に御亡くなりになりましたが、鴎外先生などはどの位緊張を續けて居られたと云ふ事は、想像出來ません。あゝ云ふ方は年を取れば取る程鍛錬して、立派なる所に這入つて居られる。左千夫先生なんかもそれであります。其處に行けば行く程非常な作を出して居る。子規先生もさうである。森先生は平均睡眠時間は四時間しか無かつた方であります。お隣りの方が、森さんのお宅は何時夜の便所に立つて見ても起きて居られる。早く起きるのか、夕の續きで起きて居るのか分らんと云つたさうであります。森先生は「人は眠れなくて困ると云ふが僕には分らん。眠れなければ起きて居て仕事をすれば好い」など云はれた。そして實際さう云ふ事を實行された方であります。餘程頭の緊張した人でなければ、さう云ふ事は出來ないと思ひます。先生が陸軍の軍醫局長として役所に通つて居た時赤痢をやられた。赤痢を病まれても、役所に通つて仕事をして居られる。餘り便所へ行かれるから〇〇と云ふ人が行つて見たら大便が赤い。「赤くては困る、(533)局長でも遠慮して戴きたい」處が〇〇さんは先生と親しい仲だつたので幾ら云つても肯かなかつた。併し職責上仕方ない。「傳染病者が軍醫局の中に居たんでは秩序が立たん。どうか御遠慮を願ひます」「僕も一寸變だと思つた。それでは明日から來ない。」家では先生相替らす机に向つてやつて居られたらしい。あの方は机に向つて赤痢を病んで居られたのです。又或る時は肺炎を病みながら博物館に通ひ通された。最後に熱が高かつたから少し内で寢て居られたらしい。藥をすすめても飲まない。「僕も醫者だから知つて居る、肺炎と云ふものは身體を靜かにして居れば宜い。寢て居るよ。」昨年御亡くなりになる時には萎縮腎でありました。致命症であります。先生も御存じでありますが、相變らず書き物をして居られる。例の〇〇さんが非常に心配致しまして「君は今度の病氣はいかん。今度こそは醫者に罹るだらう。罹らねばよくない。」と云ふ心配の手紙を送つたやうであります。其の返事はどうかと云ふに「僕も醫者だから今度の病氣がどんな性質のものかは知つて居る。知つて居るが、一旦醫者にかかつた以上は醫者の命令に從はなければならん。僕の病氣を診せたら筆を持つ事を止められるに相違ない。僕が筆を持つ事を止めて、二年三年長命して役に立つか、以後斯う云ふ手紙を僕の所に送る事を禁ず」と云ふのであります。此の事を森先生の通夜の時に、〇〇さんが話して泣き出されたさうであります。
 先生は生命を賭して文筆に勉められたのであります。肺炎である事は問題でない。今書いて居るも(534)のが大問題である……斯う云ふ心持で生涯を貫かれたと云ふ方は文學者には多いのでありますが、鴎外先生の如きは矢張り貫かれた方であると思ふのであります。鴎外先生が一心を罩められた小説は、非常に尊敬して拜見しますが、其の心持が直に小説に現れて居ると云ふ感じが致します。
 
       四
 子規先生があの脊髓に穴が開き、腐つて膿が出る時にも、俳句や歌に心を寄せて御いでになつたと云ふ心持は、私共は迚も想像出來ない。及びもつかない事のやうに思ひます。さう云ふ所から歌と云ふものは生れて來るのでありまして、本當に佳い歌が欲しいならば其の位のどん底の覺悟が必要だ。其の覺悟がない癖に佳い歌を欲しいと云ふのが間違つて居る。藝術なんかと云ふものは一寸見れば輕いものであります。面白可笑しいものかも知れませんが、私は面白可笑しい心持から生れた藝術には良いものは無い、非常の覺悟から生れたものでなければ、有難いと頭の下がる筈が無いと云ふ心持が致して居ります。さう云ふ點に於て、本當にどん底の非常な覺悟に立つて居ると云ふやうなものは、矢張り萬葉や、子規先生の歌と思ひます。萬葉集のどの歌を御取りになつても、どん底の覺悟に立つて居る。勝れた歌ほど、どん底の覺悟に立つて居るものであります。
   三輪山をしかも隱すか雲だにも心あらなむかくさふべしや
(535)なんて、まあ、隱す……本當に切羽詰つた緊張の感じから出たもので、面白可笑しいものから生れたのではありません。それ故に斯う云ふ歌には頭が下がるのであります。
 「三輪山をしかも隱すか」と一旦切りまして「雲だにも心あらなむ」と切り、さうして「隱さふべしや」と強く結んであります。三囘に切つて居ると云ふ事は、非常に強いのであります。私共が切羽詰つた感情の時には言葉が切れて仕舞ふ、雄辯でなくなる。是が自然に、句調の關係から生れるから、歌が三箇所で切れて居ります。其の一節一節の間が有機的に繋つて居ります。さうして一節が強い響をもつて居ります。其の一つの調子と云ふものに主觀の強さが出て居るのであります。中の意味なんかはどうでも宜い、内容、材料はどうであると云ふことは問題でありません。只息の遣ひ方であります。其の強さに依つて歌は生きもし、なまぬるくもなる、斯う云ふものであらうと思ひます。さう云ふ點に行けば、矢張り萬葉集には頭の下がる歌が多いのであります。さうして又萬葉集の系統を引いたものに頭が下がるのであります。實朝の
   大海の磯もとどろによる波のわれてくだけてさけて散るかも
 大海の波が自分の前に澎湃と碎けて來る。其の前に立つて「われて碎けてさけて散るかも」と、うんと力を入れて歌ひ据ゑてある。非常に多力である。多力は緊張感から生れて來る。萬葉集の系統を引いたものは皆多力であります。何故かと云ふと緊張して居るからであります。女の歌でも萬葉の歌(536)は多力であります。
   三輪山をしかも隱すか雲だにも心あらなむ隱さふべしや
是は額田女王の歌であります。
 そんな樣な譯でありまして、そんな系統を引いたものでなければ、私はどうも頭が下がらないやうな心持がする。是は人に強ひるべきでない。萬葉は斯くの如きものであるから、須らく誰でも頭を下ぐべしと御勸めする必要はありません。頭の下がらん方に頭を下げよと申しても仕方ありません。藝術の好きな者はミケロアンヂエロの畫に頭が下がる。是は人々の心に依る事で仕方ありません。あの歌を尊敬すべしと云ふ事は少しも無い。唯私から言へばさういふ心持がすると云ふ丈けであります。
 子規でもさうであります。さういふ緊張した生活から生れた歌でありますから、どの歌を取つて見ましても力があります。例へば
   寢しづまる里のともし灯皆消えて天の川白し竹藪の上に
 是は有名なものである。天の川が竹藪の上にかかつて居る。眞面目な、しんとした、有難い心持が致します。
   カナリヤのさへづり高し鳥かれも人吾が如く晴れをよろこぶ
 是はよろこばしい歌であります。喜ばしい心持が緊張して居ります。どこにもたるんだ所がありま(537)せん。病床で寢て居て聞けばカナリヤのさへづる声が高い。「カナリヤのさへづり高し鳥かれも人吾が如く晴れをよろこぶ」と、人と鳥獣が相共に樂しむと云ふやうな心持が出て居ります。斯う云ふ事は私共人間として處世の上に緊張勸からでなければ生れ出ない。面白可笑しい心持からは出て來ないやうな氣が致します。
 伊藤左千夫先生も矢張り私共に非常な歌をのこされた。議論はよく致しましたが、それは先生が古いやうな事ばかりおつしやるから、もう少し先生を刺戟する方が宜からう。と云ふので喧嘩を吹つ掛けたのであります。齋藤茂吉、古泉千樫、私などが加はりまして、左千夫先生をチクチク刺戟してやりました。處が先生は人に手紙を出しまして「赤彦などの新しいのは糞の新しいのと同じだ。糞なんかは新しくても、古くてもどつちでもよい。あれなんかは、糞の新しい古いと言つて居るのだ」と告げて居られます。左千夫先生の書簡を集めましたら、右の手紙が出て來ました。遠方の友に不平を漏しまして、私共には一皮も不平を言はれません。左千夫先生なんかをそんな調子で私などが刺戟したりするのは、本當に生意気であつたのです。非常な所になれば取り付けるものでない。左千夫先生は萬葉を歌はれたのだ。先生はよく「九十九里の濱へ行け、君の歌は小刻みでいかない。茫漠とした九十九里に行つたか、さう云ふ所に行かないからこせこせする」と云はれた。
 先生は九十九里に行つた歌を三度作り換へたのであります。
(538)   高山も低山も無き地の果は見る目の前に天し垂れたり
是等は努力で寄り付くべきものではありません。
   おりたちて今朝の寒さを驚きぬ露しとしとと柿の落葉深く
 之を讀みますと人生の終りの寂しい所に這入つて行く心持が致します。哀音を含んで緩んだ所がない。強い調子で抑へて居る。是は先生の辭世の歌と思ひます。之を作つたのは四十九の秋の末であります。先生は亡くなつたのは五十であります。此の歌を作られて、先生は亡くなつたのであります。
 佳い製作品も無いのに威張つても有難くない。叱られるのも一つの道程でありまして、詰り自分の工夫で良い歌を拵へればよい。良い歌が出來なくて彼是言ふのは、烏滸のことであります。私は本當に修業の道に立つて居ながら人樣を幾度も集めまして、大分口幅つたい心持がして居ります。左千夫先生、天の上に御いでになれば、何だ、赤彦は滿洲くんだりへ來て、大分口舌を使つて居る。そんな暇に勉強せよ、と斯う云はれると思ふのであります。斯う思へば濟まない氣が致します。散漫な私一個の事ばかり申上げまして濟みませんが、以上申上げたやうな心持で、私共は歌を考へて居ります。到る處までは未だ決して行きません。八時半でありますから是で御免を被ります。
 〔編者曰〕本稿ハ大正十二年十月二十九日夜、滿洲大連ラジユーム温泉廣間ニテナセル講話ノ速記ニシテ、著者一覽ノ上、同地ノ短歌雜誌「荒栲」ニ四囘ニ亙リ分載サレシモノナリ。
 
(539) 山房獨語
 
       新派の名
 はじめて和歌の革新があつたころ、世間では、それらの歌に新派といふ名を冠らせて之を呼んだ。この後小生等は何となく、新派といふ名が、小生等までを包含することを恐れた。外面的な看板に新派など染め出すことは、壯士芝居の新派と銘打つ所に相當する心地がしたのである。近頃口語短歌といふものが數人の作家によつで作り出されて、それらのうちに最新派といふ銘が打ち出されたやうである。新派に對する最新派は面白い。その次ぎには最々新派などが出て來るであらう。目さきの新しさを目ざすと、それが先づ看板などに染め出されるのが順序である。
 唯眞唯新といふ言葉があつて、それを左千夫先生がよく小生等に言つて聞かせた。眞に徹したものは何時でも新しいといふ意である。萬葉や芭蕉がいつでも人の心に新しく生きるのがそれである。小生等の求むるものは、その「新」である。外形の新しさを趁ふは畫家にもあり、俳人にもあり、歌人(540)にもある。看板に仕立てて大旗でも立てて樂器入りのお練りをするに適してゐる。最新派萬歳などといふ声が大道ばたから擧がれば賑かになるのである。
 小生の言は口語歌の内容に及ばない。只最新派と銘打つた一の現象に對して感想を述べたのである。八月三十一日   (大正十二年十一月「アララギ」第十六卷第十一號)
 
       用語のこと
 今人歌を作《な》すには、今人の口にする日常語を用ひればいい。古語を用ひるが如きは物好みをする歌人の閑事《ひまごと》であつて、時代を取り違へてゐるのであるといふ説がある。これは「アララギ」の徒の萬葉語を用ひるのに自《おのづ》から對してゐると見える。小生等の歌を作すには、自己の感動を、意義に於て、調子に於て、如何にして切實的確に現すべきかを念とするのであつて、そのために用ひる詞が日本語である限り、それが古代語であるか、近代語であるか、現代語であるかといふことを問ふ暇はないのである。さういふ時に、歌は口語に限るべしと局限したら、局限するものが自ら窮屈に陷りはせぬかと思ふのである。例へば、小生等が或る感嘆の意を現すために「かな」を用ひて滿足する場合と、「かな」よりも重々しい調子をもつ「かも」を用ひて滿足する場合とある。それが更に重い調子を要求す(541)る時は、「かもよ」「かなや」などを用ひる。これは感動の調子から來る要求であつて、その要求を郤けることは、如何なる力を以てしても爲し得ない所であるのみならず、郤け得たらば、それは感動の熱と調子から歌の絶縁する時である。これは、ほんの一例に過ぎない。文禄頃の小唄に
   怨みたれども、嫌《いや》みのほども無や、さうして、怨みも、言ふ人によりか
といふのがある。「依るか」を「依りか」と言うてゐる所は、子どもの口つきを思はせる程、幼く無邪氣で、いい心持がする。「さうして」も間の拔けた野呂間な所に素樸な可愛らしさがある。さういふ詞によつて、この小唄には我々の親しみが生れるのである。この「依りか」は、萬葉で言へば、幾分「思へか」「戀ふれか」などの口つきに通ひ、「さうして」は「そこゆゑに」などの素樸な一面と通つてゐる。さういふ時に、我々は三百年前の「よりか」「さうして」にも親しみがあり、千餘年前の「戀ふれか」「そこゆゑに」にも親しみがあるのであつて、その親しみから絶縁して、現代語の範圍で歌を作さうといふのは、現代語の自由に墮して、藝術上の不自由を爲さうとするのである。
 古代語の今日に傳はるものは、文學の上に數千年數百年の洗錬を經てゐるものである。現代口語にはそれがないゆゑ蕪雜であり煩多であつて、逸才の驅使によらずんば多くその弊所を取るに過ぎなくなる。子規の
   狩人の笛とも知らで谷川を鳴きなきわたる小男鹿あはれ
(542)があり、左千夫の亡兒一周忌の歌に
   去年《》の今日泣きしが如く思ひきり泣かばよけむを胸の術なさ
といふのがあつて、「鳴きなき」も「思ひきり」も口語的發想で、よく歌に消化されてゐる。斯樣な意味に於て、小生等は口語的發想を否定して考へたことはない。口語を使用せんとする人々は、洗錬に於て意を用ひていいやうである。
 
       集團のこと
 歌人が互に集團を成して相據るのは、割據的であつて狹いといふ声がある。歌は元來が狹いものである。それを切り詰めれば一人は一人の藝術になる。それでいいのである。唯藝術には好き不好きの現象があつて、それが藝術を創作からも鑑賞からも截然と分つことがある。それ程の好き不好きは根ざす所が深くて、それを切り詰めれば又一人々々の好き不好きになる。それもそれでいいのである。一人の藝術は一人の好き不好きと根柢的に相通じて生れる。茲に一人の好惡は人類と交渉するに當つて取捨選擇を行ふ。相求むるは依り、相反するは斥ける。その意味に於て藝術も亦相依り相斥ける。これを如何ともし難いのである。藝術は斯の如く自我的であつていい。この自我的意味を深めて行くでなけれげ、藝術が人間共通の究極所には達し得ないのである。左樣な到達を藝術の解脱境と言ふか(543)も知れない。
 以上の意味で歌に集團あるは自然であり、正當である。唯集團の目的が、集團を成さんが爲に置かれることがある。斯樣な集團は目ざす所が低卑である。從つて集團をなすに好惡を問はず、信念を問はず、同臭異臭を問はず、冀ふ所は唯集團の大ならん二とにある。左樣な集團は小生は眞の意味の集團とは思つてゐないのである。三月七日夜   (大正十三年四月「アララギ」第十七卷第四號)
 
(544) 「灰燼集」卷末小言
 
 古く、素盞嗚尊天上のぼりの時、天地震動の神話が傳はり、降つて六國史類聚國史に現れた地震の記録が可なり多く、地裂け家倒れ人畜の死傷したほどのものが、天武朝に二囘、元正朝に一囘、聖武朝に四囘をはじめとして各朝多くその例があり、特に清和朝に七囘の多きを數へてゐる。それほどの地震國に生れた我々祖先に地震の歌が極めて少く、地震以外の天災地變を歌うたものが多く見當らないのは何の故であるか。天災地變に歌人の遭遇しなかつたのか、遭遇してもそれに直面して感懷を詠み出す男気がなかつたのか。武烈紀に
   臣の子のやふの柴垣下とよみ地震《なゐ》が揺《よ》り來ば破《や》れむ柴垣
とあるのは、地震を材料としての戀を歌うたのであつて、地震に直面して歌うたものではない。行路死者や入水死人を悲んだ歌の萬葉集に散見するを見れば、當時の歌人が強ちに悲慘事を囘避したとも思はれず、聖徳太子が片岡山の行き倒れびとを御覽になつて
(545)   しなてる かたをかやまに いひに飢《ゑ》て こやせる そのたびとあはれ おやなしに なれなりけめや さすたけの きみはやなき いひにゑて こやせる そのたびとあはれ
と詠ませられたのを拜すれば、得道の皇子が、道芝を踏んで餓死者の屍體を見て居られる一幅の畫を想像するほどの有難さを感ぜさせられる。
 昨年九月一日の地震は、災禍が日本に未曾有であり、世界に於ても未曾有である。西は沼津から東は千葉に及び、速く信濃の山國に潰れ家數戸あつたのを見ても、範圍の廣汎であつたことが分り、東京の過半と横濱の全部が壞れて燒けたので、災禍を極端に至らしめた。それほどの天變地異に遭遇した大正の歌人に多くの歌のあつたのは當然であるが、これは明治以後の歌が、古今集以來の題詠を離れて日常の生活に直面することを知つた賜ものであるとも言へる。假に古今風新古今風の詠みぶりを以て、あの慘禍に向つたら何うであらう。型に嵌めるには破天荒に過ぎ、感傷に甘えるには痛烈に過ぎる。
 高山の頂上や大海のただ中に立つて、よい歌の生れることが少いのは、歌人の力が足らなくて、自然を捉へる前に、自然から壓倒されてしまふのであらうと思はれる。況して、今囘の震災の如き異常なる地變に對して、その感銘を捉へ得るのは、非常なる多力者に須たねばならない。淺くして妥協し、輕くして喧噪に終るやうな作品の多いことは、大正歌人の誇りにはならない。この點に於て、震(546)災當時忽然として現れた多くの歌が、どれほどの力をもつてゐるかを知らないのである。本集の作者、亦、自らを多力者なりとして自ら居るものではない。殊に當時感銘の深所に入つて、遂に茫然自失せんとした心を囘想して、その前に自己の作品を置いて、得意にならうとは思ひかけぬのである。只本集の歌をなすためには、少くも三四箇月の苦心を累ねて居り、數に於ても、選ぶが上に更に嚴選してゐる。これを震災記念の一端に置かうと思ふに過ぎぬのである。
 「アララギ」同人中、災禍を蒙つたもの高田君の如く甚しきはなく、女性にして困難に遭遇したもの築地君を最とするやうである。本集中、兩君に痛ましい歌の最も多いのは然るべき所であらう。殊に、浪吉君の歌は何囘讀んでも涙の睫にまつはるを禁じ得ない。その他各人皆遭遇の度によつて把握の力を盡してゐる。これを震災記念の一端におくことが、必しも僭越でないかと思ふのである。岡、中村二氏に事が多く、小生發行所に居るの便宜に從つて、この小言を書きしるした。五月六日   (大正十三年六月「アララギ」第十七卷第六號)
 
(547) 「アララギ」の發生時代
 
 短歌の革新されたのは明治三十年代であるが、同じく革新されたといふ中に、與謝野氏夫妻の歌風と正岡子規の歌風とに根柢からの相違があつて、與謝野氏の歌風が天下を風靡する中にあつて、子規の歌に注意する人は極めて少數であつた。つまり與謝野氏の浪萬的、官能的よみぶりに對して、子規の萬葉風、寫生風の歌に人氣がなく、萬葉は古いもの、寫生は理智的なものとされて相手にするものがなく、子規の俳句の門人の中にすら、歌は與謝野の方がいいといふやうな考へ方をした人があつたやうである。さういふ有樣であつたから、眞に子規の歌を理解してその門に集つた人は岡麓、香取|秀眞《ほづま》、長塚|節《たかし》、伊藤左千夫、森田義郎等諸氏十數人に過ぎなかつたのであつて、集まり方の少ないだけ子規の歌を尊敬することが深く、その中の二三氏の如きは、自己一人を以て天下の歌を引き受けるほどの覺悟があり、明治三十五年子規歿後には餘計にその覺聡を深くされるやうになつて、明治三十六年から根岸短歌會機關雜誌「馬醉木《あしび》」を創刊し、それが今の「アララギ」の前身になつたのである。(548)「馬醉木《あしび》」と「アララギ」とは異名同體であつて、途中或る事情のために名前を換へたに過ぎぬ。兩者に通じて終生その中心となつたのは伊藤左千夫、長塚節であつて、小生等は兩氏その他の先輩に教を請うてその門内に馳せ參じたに過ぎぬ。馳せ參じたのは石原純、篠原|志都兒《しづこ》(故人)、依田秋圃、胡桃澤勘内、岡千里、豊月光男(故人)、齋藤茂吉、古泉千樫、堀内卓造(故人)、中村憲吉、蕨桐軒、三井甲之、土屋文明、山宮允、淺野梨郷諸氏を初め小生等二三十人のものであつて、到底與謝野氏の雜誌「明星」へ天下の歌人の集まる勢に比すべきでなかつたのである。
 「アララギ」の歌が古典的であり、理智的であるとせられて、歌壇からも、文壇からも認められないことを、當時殘念に思つたことは慥かであるが、そのために、世に認めらるべく作歌上の工夫をしたり、若くは認めらるべき他の方法を考へるといふやうな事のなかつたのも慥かである。世間に認められるといふことも有難いが、それよりも「アララギ」の歌、殊に自分の歌を、よりよくせねばならぬといふ願望が盛であつて、そのために批評や議論が眞劔であり、萬葉集やその系統を引いたものから裨益を受けようとして、さういふものへ没頭する傾向を深くしたやうである。
 その頃小生は信濃にゐて多く左手夫先生に接することが出來なく、石原純、齋藤茂吉、古泉千樫、中村憲吉の諸君が最も多く先生の家へ出入して、徹宵話しつづけることも少くなかつたやうである。土屋文明君は一簡年(?)ほど先生の家に起臥してゐたから、餘計に先生に親んで歌の勉強をした。
(549) 左千夫先生は極度の近眼で、眼鏡を二つ重ねて掛けてゐた。體重二十貫以上の肥大漢であつたから、良《や》や久しく坐つてゐると膝頭《ひざがしら》が書物から露出する。議論をしてゐるうちに、その露出が極端になることさへある。眠が近いから巨大な顔面を相手の顔へ接近させようとする。顔には二重眼鏡が光つてゐる。相手はその勢に辟易して少しつづ後《あと》じさりをするうちに、しまひには後《うしろ》の璧へ押し寄せられるやうな奇觀を呈することがあつた。先生は容易に我々の作品をよしとして容《ゆる》さなかつた。其の代り一首の歌を見るにも可なりの時間を費した。そして一旦採れぬと言つた以上どうしてもその宣告を取消さない。茂吉君が一度その宣告を取消すことを乞うた所が、先生は「僕に選擇を強要しては困るよ」と言うて一言に拒絶したこともあつた。
 小生は信濃にゐて手紙の往復によつて可なり議論を交換した。(無論教を乞ふのであるが意を得ないことは議論する必要があつた)一度小生の返事が四五日後れたら、先生からは更に長い手紙を送つて來た。僕はこの位君の事を思うてゐるのに返事をくれぬのは酷い。といふ意味であつて、その手紙の末に、「この手紙讀み返して見ると女郎の手紙に類して具合惡いが、書き直すのも億劫だから、このまま送る」といふやうな事が書き加へてあつた。斯ういふ風に議論して、手紙の往復で間に合はぬ時は、小生が態々東京へ出かけることもあり、或は先生が信州の旅をする時に讓るといふことで打ち切ることもあつた。(先生は毎年一度必ず信濃の旅をした)或る時、幾月もつづいて小生の歌が多く削(550)られたことがある。小生殘念でたまらず、八ケ岳山中に籠つて高山の歌を幾つもつくつて送つたことがある。今度は先生が驚くだらうと竊かに期待したのである。處が先生からは、今度の歌は苦勞してゐるやうだが、肩が凝り過ぎて多く採れぬがといふ返事が來た。
 長塚さんは左千夫先生よりも嚴格な人であつて、批評を輕忽にしなかつた。他人に批評を乞ふのは自分を一角《ひとかど》のものと認めるからであり、他人の作を批評するといふのは、その作品の價値を認めるからである。批評を乞ふことも、批評するといふことも容易にすべきでないと言つてゐた。それゆゑ小生等は長塚さんに批評を乞ふことを遠慮する傾があり、もし、君のを批評するなど言はれれば非常に嬉しかつたものである。小生が長塚さんと交通したのは十一二年間の長い間であるが、そのうち、長塚さんから批評しようかと言はれたことが一囘あり、批評されたことが三囘あり、三囘のうち褒められたことが二囘あつたと記憶してゐる。其の他、信州の人々は多作するから一首が稀薄になるといふ總括的注意をされたことが一囘ある。これが長塚さんと交通した十一二年間に於ける歌の批評の交渉である。その他談話の際斷片的な意見の交換はいくらもあつたこと勿論である。
 長塚さんは、平福百穗畫伯を信ずることが篤かつた。百穗畫伯が日本唯一の畫家であると信じて小生等にその事を時々話した。それは畫伯が未だ文展に及第したり、落第したりしてゐる頃のことである。その百穗畫伯は、左千夫先生とも友達であつて「アララギ」に歌を出してゐた。畫伯の藝術と、(551)その藝術を生み出す態度に小生等の刺戟されたことも、當時にあつて忘れることの出來ない印象を止《とど》めてゐる。その刺戟は今日まで一貫して「アララギ」の上にある。
 當時にあつて中村不折畫伯も我々後輩の刺戟になつたこと少なくない。是は子規存生中からのことであつて、「アララギ」には畫を描き、表紙の題字を書き、文章を書いて下さり、小生等の感謝すること多大であつた。小生は不折畫伯の佛蘭西で描いた「老水夫」の前に半日立つたことがあつた。
 小生等同輩は、時勢に逆行して、根岸短歌會に集つたのであつて、子規以下諸先輩を尊敬すること深く、お互の間は兄弟以上の親しさであつた。二三人集まると必ず合作のハガキを書いて先生や同輩に送り、議論をすると果てしがつかず、歌をつくり合ふとあとの批評がやかましくあつた。同輩の顔を見ると、直ぐ席上で歌を作らうと言ひ出すのは茂吉君であつた。其のために悠暢を好む憲吉君が困らせられたやうである。茂吉君に逢へば歌以外の話をすると機嫌が惡いといふので、その事をよく憲吉君が小生に話して笑つたものである。當時小生の一番感化を受けたのは堀内卓造君であり、一番議論をしかけられたのは望月光男君である。二人とも二十何歳にして早世したのは殘念であつた。卓造君は高く豐な天分を持つた人であつて、小生はいつも其の後から歩いてゐるやうな心持がしてゐた。初めて脚本を作つて小山内氏に認められ、帝劇で試演したこともあつた。この卓造君が鹿兒島高等学校時代に信州へ歸省した時に話したことがある。おれの同級に妙な人がゐる。人が「御免」と言うて(552)訪ねて行くと、中から「御免」と言うて出て來る人だといふのである。その人が後に歌をつくるやうになつて「アララギ」に入つて來た。それが今の中村憲吉君である。
 その頃「アララギ」の發行部數は精々二三百であつて、それが大部分は寄贈であるから經費は殆ど同人間で負擔してゐた。或る月の「アララギ」が東京堂で十五六册賣れたといふので茂吉君が雀躍りして喜んで、忝ない忝ないと言ふ通知を諸方に出した事がある。雀躍りして喜ぶ時が十五六册の賣上げであるから、その他の月は推量することが出來るのであつて、小生が大正三年初めて東京に住むやうになつた時、會員名簿を引き讓られて、調べて見ると會員數三四十人で、それが皆信州人であるのに驚いた。全國に亙つて會員は殆ど無かつたのである。
 「アララギ」は初號が千葉縣蕨眞氏方から發行せられて、二號から左千夫先生方から發行せられ、後に茂吉君方に移り、更に千樫君に移り、それより小生方に移つたのであつて、小生方に移つた頃は已に茂吉君の「赤光」が出て居り、それより前に憲吉君と小生合著の「馬鈴薯の花」が出て居て、世間から存在を認められ初めた頃であつたが、雜誌の賣上げは大した進歩がなく、毎月百部位を風呂敷包みにして東京市内の大賣捌店に分けて歩き、翌月勘定日に各店を廻り歩いて少々の金を集め得たのであつて、東京堂の帳場格子の外に坐つて、諸方からやつて來る小僧さんたちと肩を並べて、自分の名の呼ばれるのを待つてゐたことは昨日のやうな心地がする。それを岩波書店主人が見兼ねて發賣所に(553)なつて下さつたので賣上げも多くなり、小生等の骨折りがずつと助かつて來たのである。小生の歌集「切火」を岩波書店から出して頂いて、澤山の金を頂戴した時は、小生は間違ひではないかと思ふほどに驚いたのである。それもその筈である。茂吉君の「赤光」を出す時も、小生等の「馬鈴薯の花」を出す時も、出版費補償として金五十圓を東雲堂書店へ納めて初めて出版してもらうたのであつて、印税などを頂くといふことは思ひもよらぬ事としてゐたのである。この頃發行所にゐて、専ら「アララギ」の勞役を分つたのは土田耕平、横山重、藤澤古實、高木今衛の諸君であつて、十年後の今日まで多くは歌の勉強をつづけてゐる。
 小生は改造社の委囑によつて、「アララギ」の初期について書いたのであるが、今と雖も「アララギ」が旺盛期に入つたものとして喜んでゐるものではない。人數が多く、發行數の多いことは、直ちに歌の質の進歩したことにはならない。萬葉道、寫生道は前途が猶遼遠であつて、一生を通じて猶行き窮めることがむづかしいと思つてゐる。   (大正十三年「改造」九月號)
 
(554) 山房獨語
 
       「鯛が水乾て」について
 小著「歌道小見」のうちに
   わが戀は、千本小松の枯るるまで、鯛が水|乾《ひ》て埃立つほど
といふ小唄を擧げたるに對して、岡田眞氏から「鯛が」は「田居が」ではないかと問うて來た。成るほど一本の訓みは「田居が」であり、他の一本の訓みは「大河《たいが》」であり、更に他の一本に「鯛が」であつて何れが可なりとも斷言出來ない。只「田居が」は比喩がこの場合平凡である。「大河」は千本小松に對して、心も調もよく合つてゐるが、猶「鯛が」の非凡なるに如かない。説明を超躍して大膽な比喩をしてゐる所に、よく生き得てゐるところがある。小生猶「鯛が」を棄てる心にならない。
 
       布留散東
(555) 良寛の歌を當意即妙の作で、事に當つて即時すらすらと詠み出たもののやうに思ふ人があるかも知れぬ。それは必しも當つて居らぬ。
   朝づく日向ひの岡に小男鹿立てり神無月時雨の雨にぬれつつ立てり
の初句を後に「山たづの」と改めたのは「朝づく日」といふ枕詞がこの歌にそぐはぬのを、不斷氣にしてゐて、しまひに「山たづの」になつたのであらう。此の事は数年前の「アララギ」に書いたと記憶してゐる。近ごろ加藤淘綾氏から良寛和尚自筆本「布留散東」の寫眞版本を惠まれた。閃々たる才氣を成して筆意高古に入るの概がある。これは稀有の貴重本である。その中に「左一がみまかりしころ」として
   この里に往來の人はさはにあれどもさす竹の君しまさねば寂しかりけり又「春の若菜つむとて」として
   あつさ弓春野に出でて若菜つめどもさす竹の君しまさねば樂しくもなしとある。この第五句は原作「寂しかりけり」であつて、それを抹消して横書きに「たのしくもなし」と訂してある。ここにも良寛の苦心を見ることが出來る。先年日本橋倶樂部で良寛の手習した文字を見たことがある。謹嚴な楷書で、一點一劃苟もせず、羲之の法帖に臨んだものかと想像される。斯ういふ所を通つて後に擒縱自在の境に入り得てゐるのである。今の良寛の書體を學ぶもの、一年二年な(556)らずして容易にその筆致を摸し得て、所在に今良寛を輩出してゐる。それは丁度、良寛の歌を見て、無造作與みし易しとなして、容易にその外形を眞似る歌人のあるのと似てゐる。今人機敏容易に外形を摸して往々眞僞を分たざらしめることがある。生涯の能事猿眞似に終らずば幸である。
 
       浪吉の歌
 藤子の幼兒逝去の時、浪吉の歌
   君が面見るに涙のとどめ得ず亡き幼子をいだきたまへり
 この歌に、大坪草二郎が感激して一書を寄せ來つた。御尤もである。これだけ素直に歌つて意の籠つた歌は容易にないであらう。素直な心は強い心である。浪吉の強さは外に騷がしく現れないで、内に深く籠る傾を持つてゐる。それが本當の強さの相《すがた》である。この歌小生も初めから感嘆してゐた。そこへ大坪氏から書を寄せられて同感の人あるを喜んだのである。九月十一日   (大正十三年十月「アララギ」第十七卷第十號)
 
(557) 歩き話
 
 甲。おれは今日二時間に十首作つた。えらいだらう。
 乙。えらい。どうも、さういふのに中々いいのがある。
 甲。中にいいのがあることもある。併し、標準を上げると大抵消えてしまふ。
 乙。おれも澤山作つて見ようと思ふ。併し、愈々となれば駄目だ。
 甲。おれは一昨年の元旦子どもに起された時歌を以て返事した。これは面白いと思つて床の上で歌を出任せに出して見ると、出るとも出るとも五分許りの間に二十首ぢかく出た。物にならぬとは言へない。併し、標準を高くすると、皆消えてしまふ。
 乙。某々などはそれをやるのだ。原稿料にするには都合がいい。
 甲。いつか畫伯の手帳を覗いて見た。消して書いて、眞黒になつて自分に讀めないから、改めてかく。それが眞黒になつて、又次ぎへ書くといふ調子だ。畫伯の歌の苦心は大したものだよ。
(558) 乙。それだから自分の歌を固執するよ。この間普門院で、おれも批評したが、中々屈しない。
 甲。六月號へ出る歌に「岩面《いはも》」といふ詞がある。それを君が「岩間《いはま》」の方がいいと言つたらう。處が畫伯は岩の表面をたらたら落ちる水を捉へてゐるのだから執著がある。あれは岩面でいいだらう。
 乙。いいだらう。畫伯の歌は近頃大したものだよ。今日鳩と齒朶の繪を見て來た。恐るべきものだ。
 甲。おれは明日東京を立つ。文章を書いてくれ、七月號から。
 乙。よし。きつと書く。五月十日   (大正十四年六月「アララギ」第十八卷第六號)
 
(559) 幽寂境
 
 天子呼び來れども舟より上らず。といふ豪宕ぶりをした李白も「兩岸猿聲啼不住、輕舟已過萬重山」といふ如き境に入つて、詩人の天分を盡し得た感がある。
   天の海に雲の波立ち月の船星の林に榜ぎ隱る見ゆ
といふ大袈裟歌を作した人麿も
   足曳の山河の湍の鳴るなべに弓月が嶽に雲立ちわたる
に至つて、はじめて歌の究極所に到達し得た感がある。詩といひ、歌といひ、究まる所は人生の幽寂境に合するにあるのかも知れぬ。萬葉集の歌を雄偉であり、豪宕であるとするけれども、その雄偉、豪宕も究極する所は多くこの幽寂境に合するやうである。
   み吉野の象山のまの木ぬれには許多も騷ぐ鳥の聲かも  赤人
   吉野なる夏實の川の川淀に鴨ぞ鳴くなる山かげにして  湯原王
(560)   一つ松いく世か經ぬる吹く風の聲の清《す》めるは年深みかも  市原王
   あかときと夜鴉啼けどこの山上《をか》の木末の上はいまだ靜けし  讀人不知
   大葉山霞棚曳き小夜ふけて吾が船泊てむ港知らずも  讀人不知
の如き、みなその一例とするに足りる。明治に至つて、萬葉ぶりの歌を詠んで最も跌宕を極めたのは伊藤左千夫であるが、その跌宕の究まる所は、矢張り人間の幽寂相に合して、作者本來の命を傳へ得てゐるやうである。
   天地の四方の寄り合ひを垣にせる九十九里の濱に玉拾ひ居り 九十九里濱
   高山も低山もなき地のはては見る目の前に天し垂れたり
   下り立ちて今朝の寒さを驚きぬ露しとしとと柿の落葉深く
   鷄頭の紅古りて來し秋の末や我四十九の年ゆかむとす
   秋草のしどろが端に物々しく生きをさかゆるつはぶきの花
   今朝の朝の露ひやびやと秋草やすべて幽けき寂滅《ほろび》の光
の如きがそれである。
 思ふに、幽寂相なるものは、天地原始洪荒の相であつて、同時に、天地終焉の眞相でもあらう。木は老い、雲は重《かさ》なり、石は露《あらは》れ、山は深くして愈々幽寂であり、人は口髭白を交ふるころよりこの消(561)息に入ら得る。東洋の繪畫に老境を尚び、老手といひ、老宿といひ、老蒼といふもの、老は遂に近く、又始めに近く、その底が無始無終の寂寥に通ずるに於て貴いのであらう。
 このごろ、齋藤茂吉君と木曾氷ケ瀬に遊んだ。木曾街道から王瀧川《わうだきがは》に沿つて谿間に入ること七里ばかりである。谿の岩間に石楠花が咲き、川は、潭となつて紺碧を湛へ、瀬となつて山に響いてゐる。山は悉く檜山であつて、夜が明けて雲が上り、日が暮れて雲が沈む。雲の中に慈悲心鳥が啼き、夜は佛法僧鳥の啼きわたるを聞き得る。斯る幽寂境に身を置くと、我々の藝術は到る所猶淺いといふ感が多い。
 老は枯ではない。寂は渇ではない。木曾山の木は生き、水は流るるゆゑに、山と、樹と、水と、石と相依つて幽寂の境を成し得てゐるのである。思ふに、天地の始といひ、終といふもの亦、生でも死でもあるまい。幽寂相といふものも天地と共に生くる、永遠の命であらう。そこを東洋の詩人、畫人らが多く捉へてゐたやうである。   (大正十四年「改造」七月號)
 
 雑纂
 
(565) 湯川寛雄氏編「しのぶ草」の序
 
 謹啓御令閨御逝去の報に接し驚愕致し候。「アララギ」今月號所載、貴書卒讀に堪へず、覺えず卷を閉ぢて沈吟いたし候。過る年推參の節拜顔せしことを想起して感慨特に禁ずる能はず。大兄の心中眞箇推察仕り候。迂生も八年前妻に訣れ申候。當時彼二十五歳遺子三歳にしてその母を慕へりし光景今更新しく眼前に髣髴いたし候。彼を想ひ、是を思へば人生の悲慘身に沁むを覺え候。
   足乳根の母が乳房をはなれ寢ぬる二人の御子のおもわしぬばゆ
取敢へず御弔詞相述申候。匆々再拝。   (明治四十三年九月〕
 
(566) 橋田東聲氏編「現代名歌選」の序
 
 或る時代の歌を輯めて一卷の歌集を作るといふには、色々の方法がある。一番よいのは、其の時代の作者の歌全部を收輯する事である。是は容易の事であるやうに見えて實際は容易でない。第一に、作者を如何なる範圍に定むべきかといふ事が困難の問題である。成るべく少数の作者に限定すれば、事業は比較的容易に片付くが、多數の佳作を逸する失がある。多數の作者を網羅して、其の作歌全體を輯める事にすれば、事業は益々厖大となつて、猶且遺さるべき若干者の歌あるを免れない。茲に編者が其の時代の凡ての歌に對して選擇を行ふ必要を生ずる。選擇を行ふこととなれば、其の選擇に又大いなる困難が伴ふ。第一に、編者は、其の時代に於ける歌の流儀と其の系統と其の發達變遷とを辨へねばならぬ上に、夫れら系統の發達變遷に對する正當なる意義を考察し得ねばならぬ。第二は、各作者の特質及びその發育の跡、及び夫れ等の文學的價値を正當に評量し得て居らねばならぬ。第三には、其の時代に存する殆ど凡ての歌に對して、一首一首の價値批判を行はねばならぬ。各流の系統、(567)各作者の特質、各作物の價値、此の三者に對する識別と批判とには、更に又編者の保持する一定の識見と標準とを要する。識見は玉石を別ち、標準は玉石を量る。正に、別つ者と量る者とは、常に一定であるべくして、同時に又必ず一定であらねばならぬ。同一人格を有する編者の保持する識見が時によりて二三に動く筈がなく、二三に動く事のない識見から生れ出でた標準が、時によりて二三に變ずる筈もないからである。斯樣にして或る時代の歌を選擇すれば、其の編者の識見標準が完全無缺でない限り、編れたる歌集が著しく偏りたる性質を帶びるといふ事の惧れが生ずる。茲に、又一つの異つた選擇法を生ずる。夫れは、各作家の作品に對し、編者の識見を多く交ふる事なしに、その時代の多數の鑑賞家批評家の輿論を參酌して、夫れらの意見の何れをも幾分づつ含ませて、偏りなき選擇を行はんとする方法である。これは、一見公平圓滿な選擇である。その代りに編れた歌集には一貫せる主張と生命とが有り得ないといふ事になる。多數の意見は箇々別々として、始めて各その生命がある。その箇々の生命を一歌集中に同居させて、直ちに一の生命となり得るやは疑問である。酒と酢と合せて一の飲料になり得ないと殆ど同樣である。予の好みよりすれば、或る時代の歌集は、何處までも編者の識見と標準に依りて嚴密なる選擇を經たるものの出現を望む。偏つて居ても、偏る所に歌集としての生命があり、編者としての人格が存する。若し偏つて居る歌集が幾つも編れて、夫れが直ちに夫の特色を發揮し合ふといふやうな事になれば、天下萬人明了に歸趣する所を得て、其處に却つて公平(568)自由な意義を拓き得るかも知れない。詰まり、偏れるもの多數が集つて初めて偏らぬものを示し得る事になるのである。聖者一人で行ひ得る仕事を、聖ならざるもの多數を以て行ふ事になるのである。聖者は鮮いから、吾々は聖ならざるものとして精一ぱいの仕事をするより外はない。夫れは、聖ならざるものが聖者の眞似をするよりも、少くとも、眞劔な生命に根ざしてゐる事を貴しとする。併し、是は私一箇の考へである。橋田氏が此の歌集を編れるについて如何なる方法を取られたかといふことは、實際のものを未だ拝見せぬ私には分らない所である。只氏の編纂について非常の苦心と勞力とを拂はれた點も、亦必ず如上の所に存せられた事であらうと信じて、此の一卷の成るに對して深く敬意を表するものである。大正五年四月三十日夜
 
(569) 山村邦子氏著「光を慕ひつつ」の序
 
 扨も、昨年よりの御精進近ごろ以て希有奉存候折柄、御集拜見、御境地果して異常、欣喜不堪候。短詩形を以て人生を捉ふるは難事中の難事、一字一句の愛惜は他道百千言句に絶し可申、形愈々短くして工夫道愈々無窮に候。況や、人生の行住、眞諦到り得べからず。十年二十年乃至終生、所詮修業道に候。御集數年來の御徑路順次拜認、御工夫の跡尤も歴然、頗る畏敬奉存候。乍去、人生倏忽、一心不測、即ち休息御無用、如此奉存候。敬具 大正五年五月二十八日 小石川上富坂にて
 
(570) 「萬葉集檜嬬手」重版について
 
 この檜嬬手は、大正五年十二月雜誌「アララギ」の特別増刊號として出版したものであつて、守部の萬葉解説書中一番はじめに印刷公刊されたものであらうと思ふ。當時「アララギ」の經濟状態では、この一書を出版するといふこと頗る困難であつたので、部數もほんの僅少に切りつめたため、其の後久しく絶本になつて、需要者の望を滿すことが出來なかつた。一昨年になつて國書刊行會から、橘守部全集が刊行されることになり、本書も全集の中に收められたため、再び公刊の機に會した譯であるが、全集中に介在してゐるため、この書のみを求めたい人には猶不便とする所があつたのである。古今書院が、萬葉集叢書を出すについて、本書を是非その中に加へたいといふので今囘橘氏の承諾を得て、望を達することを得た。これで本書が單行本として、二度世に出る機會を得たわけであつて、萬葉研究者のために便利多いことと思ふ。「アララギ」から、この書を出したときは、釋迢空氏が獻身的な努力をして下さつた。同氏門下伊原宇三郎、鈴木金太郎、萩原雄祐諸氏がこれを助けられ、外に(571)藤澤實、高木今衛二氏亦多く力を盡した。左樣にして出來上つたものを原本として刊行するゆゑに、この事を一言添へて置くのである。橘純一氏の「橘守部年譜」佐々木信綱氏の「橘守部の萬葉學」釋迢空氏の「解題」と「橘元輔源守部」これ皆「アララギ」特別増刊號のために執筆せられたものであつて、これを今囘も卷中に收めて、研究者に便することにしたのである。大正十二年四月二十八日 柿蔭山房にて
 
(572) 「灰燼集」はしがき
 
一、大正十二年九月一日の震災を記念するためにこの一卷を輯めた。
一、「アララギ」誌上、岡麓、中村憲吉、土屋文明、土田耕平、藤澤古實、島木赤彦の選歌より更に取捨選擇を行ひ、それに「アララギ」同人十數人の歌を加へて、合計百五十九人九百三十一首を收めた。詳しくは卷末小言にしるす。一、裝幀及び口繪は平福百穗畫伯を煩した。
一、「アララギ」から震災歌を拔き出して原稿紙に認めるの煩を森山汀川、丸山東一二氏が擔當して下さつた。
一、本集以後「アララギ」に現れる震災歌は再版の時追加する。   (大正十三年五月)
 
(573) 村上成之氏著「翠微」序
 
 明治三十九年一月七日甲州|御嶽《みたけ》山上に根岸短歌會の開かれた時、小生は初めて村上成之氏に逢つた。氏はその頃上總國成東中學校に教鞭を執つて居られて、そこから態々御嶽へ參ぜられ、小生は森山汀川氏と信州から參會したのであつた。それ以前より氏の歌は立派に格に入つて居つて、小生等若輩の亂暴な歌と伍を同じうせざる觀があつた。この會の時にも、氏には
   山をよみただ人《ひと》われも山人になりにけらしも雪踏みのぼる
の歌があつて、今から見れば並々ならぬ作と思ふのであるが、その頃の小生等は古い衣服を脱し得ない位に思うて、若年者一同この歌を採らず、流石に左千夫翁一人がそれを選中に入れてゐる。斯樣に村上氏は小生等よりも歌道の先進者であつて、後年に至るまで堅實な歩みをつづけられたのである。根岸短歌會は初めより人數少く、終りまで一筋の道を歩みつづけたものは更に少く、その中に村上氏の如き人のあつたことは感謝すべきことである。從つて、この歌集の刊行せられることは歡喜に堪へ(574)ない。
 氏は、成東中學校でも高崎中學校でも生徒の信望が非常に厚かつたやうである。氏の敦厚竪實な歌風は、即て氏の人柄の現れであつて、それが教育の方へも現れたのであらう。當然のことであらうけれど、小生等歌道を歩むもののために、よき手本を遺されたものであると思ふ。この歌集刊行も、土屋文明氏を初め、その他皆、氏の生徒たりし諸氏によつて企てられたものである。美しく快いことである。後世の明治大正の歌界を考ふるものは、この邊をも參考するといい。
 氏は、又、蚋魚と號して俳句の耆宿である。その方のことは別に説く人があるであらう。他日蚋魚句集なるものが刊行せらるれば、氏の作物は世に完備するに庶幾いであらう。   (大正十四年八月十八日)
 
(575) 「アララギ年刊歌集」はしがき
 
〇「アララギ年刊歌集」は、雜誌「アララギ」一箇年間所載の歌より、作者各十首を自選し、それを同人が更に取捨選擇して一卷とするものである。
〇「アララギ」のうち、歌集を出すものは今の所少數である。他の多數者の歌で、雜誌中に置くに止めるは惜しいと思はれるものが可なり多い。さういふものを集めて毎年一卷の歌集を刊行したいと冀うたのが、本集の出づる起りである。これが年々續けば、「アララギ」の眞の命を歴史的に代表するものとなるであらう。
〇本集は出稿者三百十四人、歌數二千六百七十八首中より三百十四人、歌數千三百九首を選出した。選者は島木赤彦である。次年よりは同人皆で選ぶことにする。
〇雜誌に出詠して、本集を編む時既に故人となつた人もある。その人の歌は、選者が直接雜誌から選出して集中に加へた。
(576)〇同一雜誌に立て籠れば、歌が類型的になると言うて心配する人もある。本集を讀む人は、一首々々の命を考ふる傍ら、さういふ方面からの觀察をも下して示教を賜らば幸である。要は個性の現れの有無強弱の問題である。只同一信條の下に集るものは、歌の根柢に相通ずるものがある。それを如何ともすることは出來ないのである。   (大正十四年十一月十八日)
 
(577) 雜稿
 
 自著歌集「切火」
 「馬鈴薯の花」以後著者は幾多境遇の變遷を經た。著者が生國を離れる前後から昨秋八丈島に渡つた迄の歌を收めて一卷とした。歌の價値は別として著者に取つては此の一卷が重要な生活史をなしてゐる事は事實である。謹で大方の御批評を乞ふ。(大正四年二月「アララギ」第八卷第二號)
 
 斎藤茂吉氏著歌集「赤光」
 茂吉の歌が現歌壇を動かした力は容易ならぬ力である。彼の力の根ざしに對しては私にも重大な問題を與へられて居る。彼の歌は苦しき自壓の最後に現れる光の迸りである。世に彼の光の迸りを説くものはあるが、根柢に潜んだ自壓の力を言ふものが少ない。「赤光」は彼の歌を纏めて知るに唯一なる彼の歌集であるが久しく版を絶つてゐた。今新に裝幀挿畫の體裁を改めて再版に付せられる事は私(578)に取つても至大の歡喜である。謹で大方に報ずる。(大正四年八月「アララギ」第八卷第八號)
 
 歌集「切火」
 愛著あるが故に悲傷し、常住を希ふが故に流離す。山に、市街に、島に、常に生活の深所に根ざせる著者が如何に深く人生の悲律に共鳴せるかを見よ。(大正四年十月「アララギ」第八卷第十號)
 
 斎藤茂吉氏著「短歌私鈔」
 茂吉の氣稟の一途なるを知るものは之れ有り。茂吉の神經の尖鋭なるを知る者は之れ有り。茂吉の感觸の深刻鋭敏なるを知るものは之れ有り。孤り彼が用意の所在に周到にして、研鑽の工夫甚だ精緻なるを窺ふもの寡し。彼は從來殆ど科學的解剖の用意を以て萬葉集以下すべての歌集に對せり。斯る點に於て、彼は素純一途の古代人なると共に、觀察的、神經的なる近代人の標識なり。かつて「アララギ」に於て古代、今代各歌集につき彼の研究を連載せるものを、訂正増補約三倍の内容となし、名けて「矩歌私鈔」と稱して之を世に行ふ。蓋し現代此の種中の最尖峰たるを疑はず。謹み欣びて之を大方に報ずる所以なり。三月廿七日夜   (大正五年四月「アララギ」第九卷第四號)
 
(579) 中村憲吉氏著歌集「泉」〔編者曰〕「泉」ハ後ニ「林泉集」ト改ム。
 水の深きものは湛へ、氣の鍾るものは漂ふ。湛ふるものは激せず、漂ふものは藏す。激せざるを見て、深きを見ざる者は憲吉の歌を解せざるなり。漂ふものを見て、藏するものを見ざるは憲吉の歌を解せざるなり。今や憲吉の歌集成る。「馬鈴薯の花」以後四箇年の勞作なり。擇ぶ所の歌五百、内一百は未だ一たびも世に發表せざる近作なり。刊行の機正に至る。謹み欣びて大方に報ず。(大正五年八月「アララギ」第九卷第八號)
 
 齋藤虎吉氏著「童馬漫語」
 著者が數年間に亙つてなされた短歌に於ける研究と議論とを蒐めて一卷とする。現今の歌壇に於て重要とせられる問題は凡てこの中に考覈せられてゐると共に、現今の歌壇に向つて、更に重要なる問題を提示してゐるものであると信ずる。定價及び發行期日は次號に報ずる。(大正八年五月「アララギ」第十二卷第五號)
 
 木下杢太郎氏著詩集「食後の唄」
 夙に世にあるべくして未だ世に出でざるはわが木下杢太郎氏の詩集である。恰も珠玉の散じ易くし(580)て收め難きに似、或は秘曲の滅し易くして傳へ難きに似てゐる。著者今朔北の曠野に隱れて、ひそかに此の詩篇を故國の舊知に送る。刊行の機正に熟してゐる。之れ東方の詩界新に光を拓くに當るものである。歡んで之を大方に報ずる。(大正八年七月「アララギ」第十二卷第七號)
 
 行路社同人編「松倉米告歌集」
 松倉米吉氏は二十五歳で世を去つた。氏の晩年の諸作は「アララギ」同人の誰もが未だ踏み入らない境に入つて居つた。生來不遇の境涯が晩年病を得るによつて殆ど其の極に達し、困阨と悲痛とを抱いて生を畢るまで自己の生命を正視し、諦視し、凝視し得た心が自からにして氏の歌境を拓いたのである。行路社同人が氏の遺稿を輯めて刊するを聞き欣んで之を大方に豫告する。(大正九年三月「アララギ」第十三卷第三號)
 
 歌集「林泉集」再版
 初版忽ちにして絶え、爾來久しく歌壇の熱望を滿す能はざりし「林泉集」は今囘裝幀を新にして再版するに至れり。現歌壇に於て從來「林泉集」ほど深き存在の意義を有するもの稀有なり。本書の世に行はるるの盛なるは歌壇に於ける慶事中の慶事なりとす。「アララギ」讀者の速かに一本を座右に(581)備へんことを望む。(大正九年六月「アララギ」第十三卷第六號)
 
 宇野喜代之介氏著「お弓の結婚」
 作者は日本人本来の生活基底に徹せんがために、東京の地を離れて身を田舍の百姓家の生活に投じた。夫れから暫く東京の生活に入つたが、直ぐに又そこを離れて今信州安曇山中に孤獨の生活を守つて修道士の如き境涯に入つてゐる。氏の小説が土の有つ如き底力を持ち、農夫の有つ如き眞摯さを持ちつつ氏本來の抱持を徹底的に現示せねば止まぬの概あること、現代文壇の異色であるとするもの小生一人の所觀ではあるまい。「お弓の結婚」一篇は氏從來の小説中最も氏の特色を押しつめてゐるものであらう。「アララギ」讀者に清讀を奬むる所以である。(大正十年三月「アララギ」第十四卷第三號)
 
 自著「赤彦童謠集」
 假に「アララギ」に少年少女部があるとして、その少年少女たちに向き合つてゐるといふ心持で、小生は童謠を作つてゐる。それゆゑ小生の童謠は「アララギ」歌風の搖籃的な一面であるといふ心持がしてゐるのである。小生は子供には子供らしい眞面目さと、質實さと、根強さがなくてはならぬと思つてゐる。子供の足が質素と樸直から離れる時、その子供の一生は眞面目な世界と縁遠いものにな(582)ることと思うてゐる。小生の歌謠はまづくて具合惡いが、子供の感傷的な甘さに訴へたり、末梢神經を刺撃して上辷りの興味を挑發するやうな道には入りたくないと思つてゐる。諸君が幸に御一覽下さつて小生に御意見を寄せられ、且つその一部分でも諸君の知れる少年少女諸君に示して下さらば幸甚の至りである。(大正十一年四月「アララギ」第十五卷第四號)
 
 土田耕平氏著歌集「青杉」
 「青杉」の歌は清澄無比である。清澄というても今まで現れた若干歌人の清澄さとは全く類を異にしてゐる。そこに奪ふべからざる著者の特質が明白に現れてゐる。もし現歌壇が「青杉」に一顧を與へることがなくとも、「青杉」の性命は、永久である。この歌集は從來の「アララギ」の命を更に一歩深めたものであると信ずるゆゑ、これを「アララギ」讀者に熱心に推奬するのである。(大正十一年五月「アララギ」第十五卷第五號)
 
 富士谷御杖遺著「萬葉集燈」
 萬葉集の研究は、他の古學と同じく、徳川時代に勃興したものであつて、それらの研究のうち、殊に權威ある著書で未だ活字に組まれないのが多いのは、萬葉の研究が未だ天下に公開されてゐない證(583)據であつて、甚だ殘念なことである。今囘古今書院主人がそれらのものを順次世に行ふ計畫を立てたのは、萬葉研究者に取つて大なる慶事である。第一に出版される「萬葉集燈」の著者は所謂京家の碩學であつて、眞淵、宣長の後にあつて別に獨自の見を持してゐた古學者であること周く世の知る所である。「燈」は實に著者獨自の言靈觀を以て萬葉を解いたものであつて、その解説が悉く自家の人生觀に徹してゐること萬葉研究書中の大なる異色であつて、一首の意解も他書に比して頗る詳細である。加之、父成章の脚結研究を承けて、萬葉の助辭を解くこと頗る精細微妙に入つてゐる。この點だけでも優に大きな特色を有してゐるのであつて、今日萬葉研究者を裨益するところ多大であらうと信ずる。喜んでこれを大方に紹介する。(大正十一年八月「アララギ」第十五卷第八號)
 
 齋藤戊吉氏著歌集「あらたま」
 「赤光」の赤熱が白熱に入つたのは「あらたま」の前期ころである。その白熱が更に或る深さに入つて寂光の心相を著しく具するに至つたものが「あらたま」の後期をなしてゐる。茂吉君が「赤光」以來の自分の道を如何なる所まで押し進めたかを知るには必ず「あらたま」を見なければならぬ。今四版を重ねて「アララギ」に廣告することは小生の深く愉悦とする所であつて歌壇のため慶賀すべきである。切に諸氏の渚鑒を冀ふ。(大正十一年一月「アララギ」第十五卷第一號)
 
(584) 荷田春滿遺著「萬葉集僻案抄」
 荷田春滿は徳川初期にあつて、季吟、契冲等と據りどころを異にした萬葉研究者であつて、その研究は仙覺以下先蹤の説に泥まず、獨自の古學を以て直接に萬葉集に突き當つてゐる所があるので、態度にも堂々たるものがあり、造詣にも獨創的のものが多く、後世萬葉研究者の上に權威をなしてゐるのである。眞淵は春滿の教を受けて後萬葉研究を大成したのであつて、今日の萬葉研究者は春滿を度外して獨自見を成す譯には行かないのである。今迄寫本によつて傳はつてゐた「僻案抄」を今囘印刷して刊行することは學界のため非常の慶賀である。(大正十二年二月「アララギ」第十六卷第二號)
 
 「松倉米吉歌集」重版
 松倉米吉は二十五歳で世を去つた。生來不遇の境涯が晩年病を得るに至つて殆ど其の極に達し、困阨と悲痛とを抱いて生を畢るまで自己の生命を正視し得た心が自からにして優秀なる氏の歌境を拓いたのである。久しく品切れのところ今度古今書院より再版發行して大方の渇望を充し得ることになつたのは大なる欣びである。(大正十二年四月「アララギ」第十六卷第四號)
 
(585) 中村憲吉氏著歌集「しがらみ」
 「アララギ」のうちで、中村君ほど滋澤な領分をもつてゐる人は少なく、どの歌を見ても、其の周圍に漂つてゐる氣分があり、其の底には深く湛へてゐる心がある。「林泉集」以來この持徹が益々澄み且つ徹つて來て、異常な域に到達してゐる。「林泉集」以後最早七年經過してゐるのであつて、本來から言へば、この歌集は、もつと早く世に出づべきものであつて、中村君悠暢恬淡の資が之を後らせたのである。それ丈け我々には待ち遠いのであつて、取敢へず、ここに豫告をするのである。(大正十二年八月「アララギ」第十六卷第八號)
 自著「第二赤彦童謠集」
 第一童謠集は豫期よりも多く諸方より意見を寄せられ、中には實際兒童に授けた經驗賓料を詳細に寄せられた方もあり、大へん參考になつて鑒謝の至りである。近頃又少々童謠に熱心になり、自分の子どもらに冷かされながら作りつづけたものが、較や多數になつたので、第二集を出すことにした。未だ公表せなかつたものも可なりある。前集に比べて多少の變りがあるかも知れない。大方諸君の御一讀を賜らば幸甚である。御批評を賜り、或は兒童の感受状態等について御知らせを賜る等のことあらば、猶その上の幸である。(大正十二年九月「アララギ」第十六卷第九號)
 
(586) アララギ同人編「灰燼集」
 天災地變に直面して詠んだ歌は萬葉集にも殆どなく、その後の歌集にも多く見當らない。大正十二年の震災は災害の甚しかつたこと日本にも世界にも前例がないと言はれてゐる。それほどの災害に遭遇した大正の歌人には流石に多くの歌があつた。只災禍未だ收まらざるに、早く世間に現れた多くの歌は、小生等の想像するが如く、感銘を安易に取扱つた觀があつて、輕浮無造作の譏を免かれぬものが多かつた。本集は「アララギ」の集團の震災に面して歌つたものの中から、殊に精を拔いて一卷としたものである。これを必しも當代震災歌の代表作としないけれども、存立の價値がないとは思はない。況や災後半年を經てゐる今日、之を以て際物出版と思つてゐないのである。(大正十三年三月「アララギ」第十七卷第三號)
 
 自著「歌道小見」
 歌の上に重要な問題を捉へて、平易に私見の一斑を述べて見た。歌の門に入る人にも、久しく歌の道に居る人にも、又、歌の鑑賞者にも通ずるかと思うてゐる。大方の清鑒を冀ふ。(大正十三年三月「アララギ」第十七卷第三號)
 
(587) アララギ同人編「灰燼集」
 震災當時日本人の苦叫と感銘とを、永久に記念する歌集として今までに唯一のものであらう。あの時の記憶が漸く薄らがうとする今日、この書の出現は現在の日本人とその子孫に生きた刺戟を貽すものであると思ふ。(大正十三年七月「アララギ」第十七卷第七號)
 
 荒木田久老遺著「萬葉集槻乃落葉」
 懸門のうち本居宣長は古事記を主として古道を究めんとし、久老は萬葉集を主として古意を得ようと努めた。宣長には歌が分らず、師匠にも久老にも手痛く叱られてゐる。實際萬葉集の髓に徹せんことを目掛けたのは當時眞淵と久老であつたらしい。本書は久老の一生を通じて心血を濺いだ萬葉註釋書であつて萬葉研究者の必ず座右に備ふべき書である。(大正十三年七月「アララギ」第十七卷第七號)
 
 歌集「しがらみ」
 「しがらみ」が彌々市に出た。小生は歡喜の心に滿ちてこれを「アララギ」讀者諸君に薦める。著者の歌品は諸君の熟知してゐる所である。この集は、著者の第三歌集であつて、第二歌集以後七年間の(588)勞作から嚴密な選擇を經たものである。この集の世に出るは歌壇の庭上に玉石を置くものであると信ずる。(大正十三年八月「アララギ」第十七卷第八號)
 
 歌集「青杉」重版
 著者は流行に走る現代の歌風を好まない。實行の徹しない前に主義主張を唱へることを好まない。著者は歌が生活の頂點であることを信じて、其の生命を歌に寄せつくしてゐる。斯樣な態度の徹底者として、著者は「アララギ」の内にあつて稀有者とせられ、「アララギ」外にあつて久しく異常の注視をうけてゐる。歌集「青杉」は、今迄になかつた反省と刺戟を新に歌壇に指示するものであると信ずる。(大正十三年九月「アララギ」第十七卷第九號)
 
 自著歌集「太虚集」
 大正九年から十三年までの作品約六百首を收めました。可なり削つたが未だ多過ぎるかも知れません。未發表のもの三四十首加はつて居ります。第三歌集「氷魚」以後五年の間に多少の推移があるかも知れません。目ざしてゐるものの一端が現れてゐれば幸です。大方の御是正を冀ひます。(大正十三年十月「アララギ」第十七卷第十號)
 
(589) 土田耕平氏著童謠集「鹿の眼」
 土田君の童話は、矢張り土田君の虔ましい性格から生れ出てゐるといふ感が多い。今流行する童話とは、確かに趣を異にしてゐるものであつて、一讀して、明瞭にこの童話の存在する意義を了得することが出來る。小生は斯くの如く清楚にして氣品あるお話を現今の少年少女に供給することが出來たことを喜ぶ。大方の清鑒を冀ふ。(大正十三年十一月「アララギ」第十七卷第十一號)
 
 歌集「太虚集」
 萬葉道と寫生道とを歩いて倦むことを知らない著者は、齢五十に近づいて漸く簡古老蒼の域に入り圓融具足の相を備へて歌界開展の中心をなしてゐる。著者は五年がかりでこの歌集を公にした。文藝に於ける短歌の位置は本書によつて新なる考量を拂はれるであらう。(大正十四年二月「アララギ」第十八巻第一號)
 
 土屋文明氏著歌集「ふゆくさ」
 これはわが文明君の處女歌集である。左千夫先生の家に起臥してより十數年を經て處女歌集を出す(590)のは君の自重性と恬淡性とが之を然らしめたのである。大凡「アララギ」のうち、文明君の歌の如く外が落ち著いて地味で、内に閃くものを藏するものは少ないであらう。内に閃くものがあるゆゑ形の地味は單なる地味ではなくて、そこに常に深い命の香ひが動いてゐる。君の歌は又「アララギ」の中にあつて其の姿が類ひなく自然である。その自然は常に寫生に徹して到達する自然であるから其の何れもが實に清新である。以上は恐らく小生の一家言であるまい。今囘これを一卷の歌集に纏めたならば君の特徴は更に鮮明に我々の心に印せられるであらう。それを小生は待ち望んでゐるのである。謹んで大方に告げて清鑒を冀ふ。(大正十四年二月「アララギ」第十八卷第二號)
 
 歌集「氷魚」重版
 震災後久しく版を絶つてゐた「氷魚」が、今度重版して世に出るを得たのは甚だ忝い。これは小生の近著「太虚集」の前身をなすものであつて「太虚集」に多少の興味を持たれる諸君が更に「氷魚」を併せ讀んで下さらば有難いのである。兩者に共通點と特異點があるかと思ふからである。大正四年から大正九年まで八百七十九首を收めてある。これを大方に謹告する。(大正十四年三月「アララギ」第十八卷第三號)
 
(591) 藤澤古實・廣野三郎氏編「萬葉集全巻」
 難解難讀な萬葉集を假名交じりに書き改めたもの三種ある。一は折口信夫氏の口譯萬葉集、二は土岐善麿氏の作家別萬葉集、三は袖珍本の萬葉集である。折口、土岐二氏のは編著に特定の目的があり、その目的のために骨折つて小生等を裨益する所が多い。袖珍本のは單に萬葉集を讀んで行くに好都合なれど、訓み誤りもあり、誤植もあつて、如何かと思うてゐた。その缺點を補はんために二三年前から藤澤古實、廣野三郎二氏が骨を折つて萬葉集全卷本を編述してゐたのが、今度愈々出來上つて古今書院より刊行することになつたのは非常に喜ばしい。手取早く萬葉に目を通したい人にも、日常萬葉を參照して研究する人にも甚だ好都合である。二氏の努力非常であつて誤謬絶無を期してゐる。據本は古義である。訓み方は古義が一番よいといふのでそれに據つたのである。これを讀者に披露する。(大正十四年五月「アララギ」第十八卷第五號)
 
 「萬葉集代匠記」
 朝日新聞主催契冲全集刊行の一事業として、代匠記を出すことになり、目下武田祐吉氏が專らそれに從事してゐる。これは在來の早稻田本以外に諸寫本を參照し、特に契冲自筆本を校合してゐる。出來あがつたならば、学界を裨益すること多大であらう。早稻田本のも今古本屋になく、稀に在つても(592)法外の高價で買ふに不便である。この書の早く出でんことを望んでゐる。(大正十四年五月「アララギ」第十八卷第五號)
 
 自著「萬莱集の鑑賞及び其批評」
 小生年來萬葉集に親炙してゐるうちに、各の歌に對する感想が追々に積つて本書を成すに至つたのであつて、これは純粹に作歌者の立場から萬葉集の短歌を鑑賞し批評する態度で稿を起したものである。萬葉集の初期中期後期から代表的な歌を選擇し、一々價値論によつて終始したこと今迄その類少きかと思ふ。初學者にも通じ、先學者の御是非を乞ひたいと思ふ所もある。附録として「萬葉集雜記」「寫生雜記」がある。「寫生雜記」は明治三十八年以來小生の寫生論を網羅し悉したものである。大方の清鑒を冀ふ。(大正十四年十一月「アララギ」第十八卷第十一號)
 
 歌集「馬鈴薯の花」重版
 アララギ叢書が初めて世に出たのは、大正元年であつて、この歌集がそれである。今度古今書院から重版して出して頂くことになつて甚だ喜ばしい。あの當時の小生等の歩みは、今より見て甚だ幼いものであるが、一方からは、その幼い所に純粹な點があつて、後に再びすることの出來ぬといふ歌境(593)もあると思ふ。御清鑒を賜らば幸甚である。(大正十四年十一月「アララギ」第十八卷第十一號)
 
 アララギ年刊歌集
 大正十三年「アララギ」一箇年の歌數萬首中より秀作を選拔して、本集を成した。人數「アララギ」同人會員に至る約三百餘人、歌數一千六百餘首を輯めた。甚だ嚴選なれど、選ばれしものは一首と雖も後に傳ふるに足るかと思ふ。これは年々の刊行ゆゑ、積り積つて一大歌集を成すものである。アララギ會員は勿論大方の書架に供へ給はんことを祈る。(大正十四年十一月「アララギ」第十八卷第十一號)
 
(594) 質疑應答
 
       問
   ぽつかりと向ふに打提見えて來ぬ母にしあれと思ひつつ行くも (母を迎いに出でて)
   ぬばたまの眞暗き路地のゆきあひにひつそり女の髪の匂ひぬ
   ふと目さめ寢返りうてば頭の上の窓に明るく照る月夜かな
   うららかや向つ山畑に人居りてをりをり鍬を光らせにけり
  右は六月號のにもれたものに御座候。この四首に付いて、又私が作るところの歌に付いて御批評の上御教示を乞ふ。(伊達湖聲)
       答
 「打提」は「提灯」である。「向ふに」は「向うに」の方がいい。「迎い」は「迎ひ」が正しい。此の歌は古泉氏の選に屬してゐるが、私が愚見を申上げる。
 四首共一通り物を捉へてゐる。併しその捉へ方も、見方も、大抵は現今の作歌者と共通し過ぎた捉(595)へ方であり、見方であつて、眞に作者の必要の動機から歌ひ出されたと思ふほどの力が少ない。換言すれば作者個性の現れが少ない。特に第二三四首は、今時の歌人が、大抵こんな事を歌つてゐる。この上に作者の個性を出さねばならぬと思ふ。個性を出すと言つて、別に方法もない。只何處までも自分の全要求から出た動機を根據として歌ふより外はない。さうして色々の勉強によりて、歌に付ての技能と見識を養ふより外はない。第一の歌は割合に、作者が自己の問題から出發した歌であると思はれる。四首中から取るならば、予は此の歌を取る。此の歌は他の三首程調つては居ない。第一に「ぽつかり」はこの歌の場合不必要である。提灯を主として歌ふのではなく、母を待つことを主としてゐる場合であるからである。若し又「ぽつかり」を使ふ場合としても、「ぽつかりと提灯見えて」といふやうにぴつたり〔四字傍点〕行かないで、共の間に「向うに」といふやうな句の挿《はさ》まつて居るのは感心しない。こんな間《ま》ぬるい句が挿まるのは、作者の動機が眞に緊張してゐないのである。「母にしあれ」は「母なれかし」と願望する意であらう。願望するならば、此の場合「思ひつつ行く」といふ句は、調子が延びて居て、此の歌の情緒を強めないのみならず、却つて弱めてしまふ觀がある。つまり第四句へ強い調子を出した爲に、大切な第五句が負けてしまつた感がある。以下の歌三首は、姿は一通り整つて居つても、前述の如き理由で取らない。第二の歌の「ひつそり」、第三の歌の「ふと目さめ」など、各の歌を不必要に重要にしてゐる。詞が氣が利き過ぎてゐるのである。
(596) 以上は單に四首の歌について小生丈けの愚見を申したのである。伊達氏全體の歌として、今急に申述べる迄に私の頭が纏つて居らぬ故これで止める。   (大正五年七月「アララギ」第九卷第七號)
       〇
 今月は本欄が少いやうだから二三人ぶり書く。十一月號森田畫伯の詞「本當に優れた人達は要するに平凡です。唯平凡にして深いのです。云々」「佳い作家の作物は如何にも素直です。自然を讃歎する一本氣に出て居ります。云々」は、小生等に有難い詞である。小生等は森田さんの言はれたやうな境へ行くまでに、色々の迷ひをしてゐるのである。誰も迷つてゐないと言ひ得る人はあるまい。只その迷ひが生無垢で精一ぱいであるか、否かによつて我々の到達する方向が決められるだけである。畫伯の詞を一度讀んだ人は、今一度二度讀んで見てもらひたいほどに思ふ。
       〇
 前號山田茅子の歌
   飯をもつ我が手を目守る仔犬の目黒くくるくる動きて光る
動物を歌つたもので、この位よく作者と動物と合體し得た作は近頃に少いと思ふ。かういふ作を小生は矢張り心の生活の全體が現れた歌であると思つてゐる。諏訪アララギ會報の歌の中に、清水英勝氏(597)の歌
   此の日頃の降りたる雨にいちじるく東の山に色づく木あり
第一二句は未だ拙づいが、第三句以下は矢張り作者の心全饅が集中せねば出來ぬ句である。これらを有りふれた句だと思ふと間違ふ。
       〇
 土田耕平氏の十月號の歌九月號に引つづいて矢張り大した作である。
   夏すぎで心さびしも庭の木に稀に寒蝉啼くくばかりなり
「庭の木」が惜しい。「庭」だけの意でいいのである。至純の境では是程の問題を重要問題とする。
   常の蝉絶えしこの頃寒蝉の啼く聲聞くもいつまでならむ
「常の蝉絶えし」といふことは要らない。ただ「わが庭に」位の意でいい。これも惜しいと思ふ一つである。次の二首(略す。十一月號參照)は徹頭徹尾大した作であつて他の追從を容さぬものである。
       〇
 前號の拙作
   草はらにたまさか見ゆるからまつの幹の白きは猿をがせかも
(598)の第二句が氣になつてゐると、早速或る人から此の句の不安心なるを指摘された。一言もない。
   ながき日の夕となりぬ湯の山にならびかたむく幾山のすそ
「湯」の字不要でないかと思ひ乍ら、遂い出してしまふと同じ或る人から夫れも指摘して來た。是も一言も無い。この或る人第一二句に賛成してくれた。第一二句はじめは「夕ぐるる空果てもなし」であつた。夫れがけばけばしくて困つた末に、あんな具合になつたのである。他の或る人は原作の方を取る(?)と言つたが小生その説を見下してゐる。   (大正九年十二月「アララギ」第十三卷第十二號)
       〇
   雨の夜を寒みか仔犬の鳴く聲す吾も子をもてばあはれと思ふ
 赤彦氏はこの歌を「深い感じの歌になつて現れてゐる」と、評された時に、私はかなりの不滿をこらへてゐた。今度の
   夏すぎて心さびしも庭の木に稀に寒蝉鳴くばかりなり
   ツネの蝉絶えしこの頃寒蝉の啼く聲きくもいつまでならむ
の歌を「徹頭徹尾大した作であつて他の追從を容さぬ」と評されたのを見て、私は途方に暮れてゐます。私は普通の作に過ぎないといふことに躊躇しない。これらの歌に對して、その評言を聞き、餘りに觀賞程度の異ふのに黙つてをれなくなつて、このことを書きました。(由利貞三〕
(599) 外觀が平凡で内に深く籠つてゐる歌は現代人に鑑賞出來ぬ樣だ。土田の「夏すぎて……」「常の蝉……」の歌を普通の作に過ぎないと言ふ由利君もその現代人の一人であらう。現代人は外がけばけばしく、いかめしくなければ權威が感ぜられぬ。由利君自身の作概してもつと内面的に進んでもらひたい事を小生大正九年一月號で言つたつもりである。未だ君の眼は覺めないと見える。因に小生の「徹頭徹尾大した作であつて、云々」と言つたのは君の擧げた歌を指してはゐない。よく小生の文章を讀んで見給へ。そんな輕卒なおつちよこちよいの見方をしてゐては純眞敦厚な歌は出て來ないと思ひ給へ。
       〇
 僕は去る夏蜩が數匹を以て一團となり、林の中の木から木へと各々啼いては飛び移つて行くのを見た。而してその聲が遠くなつた時に「木より木に移り啼き行くひぐらしの諸聲遠くなりにけるかも」と云ふ一首を作つた。然るに赤彦先生は僕の經驗を否認して、蜩と云ふものは左樣な啼き方をせずして一定所に於いて、何時迄も啼いてゐるものだと云はれた。然し乍ら、僕は僕として幾度も經驗した事實であつて、直ちに先生の言に從ふ事は出來ない。僕惟ふに先生は蜩の聲のみを聞かれて前述の如く言はれたのではあるまいか。よし一定所に於いて、幾度も蜩の聲がしたとしても、それは蜩が停止的のものであると云ふ多くの理由にはならない。何となれば蜩の幾群もが、時々一定所を啼いて經過するからである。尚來る夏僕は自分の經驗の正否を正したいと思つてゐる。(生川成行)
(600)どうも之は小生にも自信がない。君も氣を付けてゐてくれ給へ。間違つてゐたら勘辨してくれ給へ。   (大正十年一月「アララギ」第十四卷第一號)
       〇
 萬葉集卷六中赤人の歌に「み吉野の象山際《きさやまのま》の梢《こぬれ》にはここだも騷ぐ鳥の聲かも」と言ふあり。然して「切火」の中に「小石川富坂上の木ぬれにはここだも通る夜の雲かも」の作あり。蓋し異工同曲か。又嚮に、長塚節氏の作に「楢の木の嫩葉は白しやはらかに單衣の肌に日は透りけり」と言ふありて「氷魚」中に「山の田に夕かげをなす楢の木の若葉は白く軟らかに見ゆ」の歌あり。異曲同工と言はむ。前者罪なきは勿論、然れども後者に於て如何。島木先生の御教示を乞ふ。(寺澤亮)
これは小生としては兩つながらを捨つべきでせう。御注意多謝。
       〇
 山田邦子女史の「ダアリヤの色は冴えつつ秋ふかし大いなる花〔五字傍点〕は咲かずなりけり」の「大いなる花〔五字傍点〕」を「大きな花〔四字右○〕」と言ふことは許されぬものであらうか。耳遠い窮屈な文語脈の語句を用ひるより、なるべく現代口語を取り入れることが必要ではなからうか。(麥の秋)「大きなる」も「大いなる」も文語でせう。「大き」の方が今の口語に來てゐるのだが「大き」「大い」何れが耳遠い、近いといふほどの事なきかと思ふ。如何。
(601) 歌評言(本卷五九七頁)に對し、再び由利貞三氏の言へるに答へて曰く。〔編者〕
「西行、芭煮、良寛が分らぬとは、何人と雖も言ひ被せることを許さない」「又博士云々」(この末句意味分らねど)等の言由利君の説をなすに何の必要ありや。斯く揚言しつつある君に小生の物を言ふ必要なからむ。   (大正十年二月「アララギ」第十四卷第二號)
       〇
 辻村直氏作の「千本濱」中の「富士の山に積れる雪のうすければ〔五字傍点〕山のはだに黒き所あり」の第三句は病所ならむと信ずる。些細の點なるべけれど、至らぬ感として納れていただき度し。(千葉宏平)
もつといい現し方あるかも知りませんが、作者がよく物を見てゐるために自然新しき捉へ方をしてゐる所に命ありと思ひます。
       〇
 左に掲ぐる暗合の歌につき諸同人に御教示を乞ふ。島木先生に
   荒磯岩家はも何處曉の雨を目透しわが見つるかも 切火
   此處にして筑紫や何處白雪の棚引山の方にしあるらし 萬葉集
   此處にして家やも何處白雲の棚引く山を越えて來にけり 同 (佐藤博)
(602)第一の歌は第二第三の歌と比べて第二句の結び方が同じだけです。是は暗合ではないのでせう。歌の一句が同じだといふ事丈けでは多く意味になりません。その他「アララギ」數人の歌を擧げて暗合の説明を求められてゐます。ここには小生のだけ出します。斯ういふ事を研究する事貴下作歌上には夫れほど益になりますまい。
       〇
   よべのまのあらしのあとにちらばりし青き葉をはく縁の下の土に アララギ十卷十一號
   よべのまのあらしのあとにちらばりし瓦を積みぬ縁の下の土に 氷魚
 「青き葉」の「瓦」と改められた事に就いて異議はないのであります。善意にとるならば瓦も積み、青き葉も掃いたと、取り得るからです。併し、同じ解釋を
   あらし一夜おきゐてねむきわがまなこ倒れし家を平氣に見てゐる アララギ十ノ十一
   あらし一夜おきゐてねむきわがまなこ倒れし家をおどろき見てゐる 氷魚
の上に及ぼす事は眞劔に歌に對する者には困難であります。「おどろく」と「平氣」と相容れない。改修とは斯の如きを意味しない。倒れし家に對した時の態度、乃至は其の表現に不純なものはなかつたか。これ以上氏の藝術的良心を臆測し追求する事の非禮である事を私も知つてゐる。初歩道を歩む者は歌作る心は斯く輕易なものでないと思ふ故に、氏の公明な解釋を得たくあります。(田村十四夫)
「倒れし家」の歌は大風の危險な爲め夜どほし起きてゐて、恐怖と、疲勞の心から倒れ家をぼんやり〔四字傍点〕(603)立つて見でゐる自分の心持を現さうしたのです。作者の心はその恐れと疲れのため、倒れ家に對して度を失つた心持でゐる場合です。平氣と言つたのは茫然とした心持を現さうとした詞です。夫れは寧ろ驚きの極ですが、夫れがどうもよく現れてゐない故「驚き見てゐる」といふ普通な現し方にして置いたのです。倒れ家に對した態度に不純云々とは自ら思ひませんが、現し方に未だ徹しない所ありしことを思つてゐます。
       〇
   俥に乘るもあわてたまふな我母よ行く所書見せて乘りませ 中村美穗
の「あわてたまふな」は敬語でありながらいやなひびきを與へて居る。「我が母よ」の「よ」も輕薄にひびく。總じてこれ等を活すのは下の句にあるのであるが、それが又意味がはつきり受け取れない。私には讀み返せば返す程同感出來ません。
   炬燵にあたるも背中は寒し庭の雪障子の穴より見えにけるかも  同
上の句と下の句とどれだけ緊密融合を保つてゐるか。斯う云ふ手法は自他共に注意すべき所である。「寒し」で切れ、「庭の雪」で又一寸切れるのも推敲の餘地があらう。(森山汀川)
初めの歌、馴れない母の上京を氣づかふ心が大體出て居ると思ふ。「あわてたまふな」は寧ろ眞情から出た詞と思ふ。「よ」も輕薄に響くとは思へない。第四五句は未だ現し方があるでせう。第二の歌推敲の餘地はあらんが貴下の云ふほどに不緊密であると思ひません。   (大正十年三月「アララギ」第十四卷第三號)
(604)       〇
 十二月號「アララギ」の萬葉輪講中「つるぎたち己之心から」の訓方につき、「己之〔二字右○〕につきて赤彦君がいろいろ言はれ候が右はワガと訓べき事定論にて、眞淵、木村正辭、近くは井上先生の新考、品田氏の説も「心の花」に出居候」云々と、正宗敦夫氏から事の序に通知あつたから此の欄を借りて通如しておかうと思ふ。(齋藤茂吉)
正宗氏の意を齋藤君から本欄へ寄せてくれた事を感謝する。來意につき少し調べて見たが小生に未だよく分らない。眞淵は卷九詠水江浦島子歌の反歌「己之〔二字右○〕心柄」を「なが〔二字右○〕心から」と訓み、卷十三相聞歌中「親親己之〔二字右○〕家尚乎」を「おやおやのさが〔二字右○〕家すらを」と訓み、卷九詠霍公鳥歌「己〔右○〕父爾似而者不鳴、己〔右○〕母爾似而者不鳴」の初めの「己〔右○〕」を「わが〔二字右○〕」と訓み、後の「己〔右○〕」を「なが〔二字右○〕」と訓み、巻十三長歌「近江之海、泊八十有……己之母乎《ナガハハヲ》、取久乎不知、己之父乎《ナガチチヲ》、取久乎思良爾……」と訓んでゐるといふ風で、「己之」の訓み方が一定してゐない。(木版本は見ない)さうすると正宗氏の謂はれる「眞淵云々」は何處から立言されてゐるのか分らない。※[木+觀]齋雜考引用文(「心の花」廿四の七號品田太吉氏萬葉集疑問考)に依れば、夫れには「己之〔二字右○〕」を「なが〔二字右○〕」と訓むべしと主張してゐる。さうすると正宗氏の謂はれる「木村正辭云々」も何處から立言してゐるのか分らない。品田氏の「己之《わが》」説は尤も明瞭で根據も可なり確かりしてゐるやうであるが、夫れによりて、「わが〔二字右○〕と訓べき事定論にて云々」と斷言することは早いであらう。(井上氏の説は未だ見ず)現に釋迢空氏などは「己之《しが》心柄」と訓んでゐる。(605)猶、眞淵は卷五山上憶良戀男子名古日歌「愛久、志我可多良倍婆」の「しが〔二字右○〕」を解するに「己《し》がかたればなり云々」と言うて、己〔右○〕に「し〔右○〕」をあててゐる。これも眞淵の訓み方の參考になるであらう。正宗氏及び諸君の中から「己之」を「わが〔二字右○〕」と訓む例をも少し多く知らせて下されば有難い。平安朝末期の類聚古集などは明かに「わが〔二字右○〕心から」と訓んである。古文書に見える「己之《わが》」訓の嚆矢であらう。一體萬葉集には「志我《しが》」「之我《しが》」「之家《しが》」など書いて「しが〔二字右○〕」と訓せてゐることに依つて、明かに此の時代に「しが〔二字右○〕」といふ詞が活きて用ひられてゐたことが分る。卷五山上憶良戀男子名古日歌の「志我〔二字右○〕可多良倍婆」卷十九向京洛上依興預作侍宴應詔歌竝短歌の中「秋花、之我〔二字右○〕色々爾」卷十八賀陸奥出金詔書歌「老人毛、女童兒毛、之我〔二字右○〕願、心太良比爾」(考は此處の之我〔二字右○〕を之加〔二字右○〕と改めて然《しか》、爾《しか》の意に取つてゐるが元暦本にも類聚古集にも明かに之我〔二字右○〕と書いてある)卷十九贈水烏越前判官大伴宿禰池主歌の短歌「鵜河立、取左牟安由之、之我〔二字右○〕婆多婆」等が夫れである。諸例によりて「しが〔二字右○〕」の意義を明かにしてから「己之」諸例と引き合せて共の訓み方を考へて見る必要がある。正宗氏は一兩氏の説によりて定説と諦めることを待つて見るがいい。此のこと私信にて申上げても宜しけれど、談話欄に原稿を寄せられしゆゑ此の欄で大略を書くのである。因みに小生が輪講中に眞淵が「己之《しが》」と訓んだやう記したのは誤りであるから此處で訂正する。   (大正十年四月「アララギ」第十四卷第四號)
(606)       〇
 多數歌人の會合よりも、少數人の會談の方が話が深入り出來る。少數人の會談よりも、自分一人の沈思の方が更に深入りが出來る。少數多數の會合は自分一人の沈思の補助に過ぎぬ。自分一人に深入した問題なくして人と會合するは無益の場合が多い。
 多作せんと心掛くるよりも一首に力を集中する工夫をする方が大切であらう。ぬるま湯を幾碗集めても熱湯にはならない。ぬるま湯を幾碗も盛らぬ工夫が、我も人も當今缺けて居るやうである。一碗の熱湯が「アララギ」の中乃至自作の中にどの位あるかと時々考へて見ること有益である。
 小生今月の作「はも」の用法暫く今人轉訛の例に傚ふ。猶工夫させてくれ給へ。
 小生在京の日少なく諸氏の御手紙に對し一々御返事申されず失意の段平に御赦しを乞ふ。五月十六日   (大正十年六月「アララギ」第十四卷第六號)       〇
 歌を選ぶ際氣の付いたことを、今後ぼつぼつ書いて見ようと思ふ。作歌に力瘤を入れるのは結構であるが、歌の生命の外れた所へ力瘤を入れるのは力倒れになるわけである。夫れよりももつと惡いのは外的要求或は從屬的要求が主になつて力瘤を入れることである。この力瘤は路跂痛《えのご》の瘤のやうなもので、無い方が便利である。久しく歌のない諸君は、今何に力瘤を入れてゐるのかを聞きたい。文字(607)は正しく書いて頂かねば選歌に無駄な力をつかつて困る。紙はすべて普通の判紙大のを用ひて頂きたい。綴ぢ込む際に非常に不便である。藤森青二氏近來進境著しかりしも、今月は戀の歌で失敗してゐる。戀の歌のあまくなり易いわけを小生も考へてゐる。鹿兒島壽藏氏今月は從來よりも進んでゐる。阪田幸代氏はも少し數を多く作つて見たまへ。慾が少なすぎるやうである。慾張つて多作するよりもいい。投稿の規定を改めたからそれに從つてくれ給へ。六月十六日   (大正十年七月「アララギ」第十四卷第七號)
       〇
 小野三好君の歌を好んでよく見てゐますが、同君の八月號の歌
   古井戸の石垣に咲く雪の下の花にさはりて釣瓶つり上ぐ
の「花にさはりて」は身體の或る部分が花にさはりつつと云ふ意味でせうか。一讀するとさうでなければならないと思はれますが、雪の下の花は井戸の中深く迄咲くものでもあるし、又同君の常々物を狙ふ所などから判斷すると、花にふれつつ釣瓶が上つて來る意味を表す積りではなかつたのでせうか。(生川成行)
右の歌「花にさはりて釣瓶あがる」といふやうな言ひ方にすべき所でせう。斯ういふ所作歌の際よく注意しないと間違ひになる。
       〇
(608) 會員諸君の歌稿を見て行くと、自分の經驗と、その經驗の心持とを本當に尊重してゐないのではないかと思はれる歌がちよいちよい目につく。さういふのが形式だけ整つた歌になつて生るるのではないかと思ふ。經驗の心理を重ずるというても、その中に自ら輕重もあらうし、性格的にも色々の種類を生ずるのであるから、一概に價値づけた事は言へないのであるが、輕驗の心理を重ぜずして歌つたものの輕薄になることは明白であらう。經驗の心理に徹して歌ひ出すだけの勇氣は、基礎的のものとして必ずなければなるまい。處が歌人には己惚といふやつがあつて大抵の人が皆何處までも、經驗の心理に徹して歌つてゐると自信してゐる。徹してゐるか、ゐないかといふこと自分には存外分らないものであるといふことも承知してゐる必要がある。
       〇
 赤彦先生七月號の
   窓べよりつづきて見ゆる柿畑若葉動けるはおほむね鳥なり
 四五句無理と思はれますが先生の御垂教を承りたうございます。(角矢伊麻雄)
四五句無理といふ貴説の内容分らねど、鳥が多すぎるといふ御意見かも知れぬと思ひ、一寸御答へします。(假にさう定めて)私の家は山つづきで、季節の變り目毎に山から來る鳥が多く、梅雨前に來る椋鳥はその數大したものです。寒國で柿の葉の未だよく伸びぬ六月に、此の鳥が來て畑に群がる(609)のです。「おほむね鳥なり」が誇大かとも思ひますが、實状を知つてゐる小生には夫れ程に思はれません。貴問の意別にあらば知らせを願ふ。   (大正十年九月「アララギ」第十四卷第九號)
       〇
   電車絶えて幾時ならむあすの文を書きつつあれば吾腕疲れぬ アララギ第十三卷十一號 武藤善友
 此の歌の第五句直截な表現と思ひかねるは小生の至らぬ故か。或は、かかる歌には或る用意をもつて接すべきものか教示を垂られよ。(關鴎光)
此の歌は、第四句「あすの文」の意味が、未だたどたどしいやうであるが、第五句は意味も明瞭であり、甚だ直截に現れてゐると思ふ。如何なる歌にも、特別な用意などを持つて見る必要はないであらう。   (大正十年十一月「アララギ」第十四卷第十一號)
       〇
 八月號の中村憲吉先生の「うぐひす」二首のうち
   曇りつつ山はしづみぬ草のなか人紙にかくただぺんの音
の四五句私不審これあり申候。前の歌の「芽ぶかぬ谷を繪に寫す人」があればこそ、この四五句、人があたりの景色を繪に(610)してゐると云ふことが思はれ候も、もし此の歌一首のみならば全く解釋に苦しみ申すべく候。いかに連作なればとて「人紙にかくただペンの音」にては私に承知出來難く候も、いかなるものに御座候や、甚だ恐れ入り候へども御教示願上候。(藤森青二)
この歌連作によりかかりし所もあらんが「人紙に描く」と漢字を當て嵌めれば、意味も通ずべく全體に寂びた心持がよく動いてゐると思ふ。四五句他に現し方ありや、否やは別問題なり。
       〇
 赤彦先生「大阪朝日新開」發表の御歌
   夕ぐれの涼しきはやし山畑をめぐる林の蜩の聲
の第四句の「めぐる」は當然林にかかるものと思ふが、林にかかるものか、蜩にかかるものか判然しないと思ふ。但し蜩が啼きめぐる、めぐらぬの問題は別として、赤彦先生の御教示を乞ふ。(關享生)
「めぐる」は林へかかるつもりです。
       〇
 取つてもよし。棄てても惜しくないといふ歌がある。自分の心に深く根ざさないで、形だけ整へようとする時に斯樣な歌が多く生れる。さういふ歌には一般性があつて、特殊性がない。別の言葉で言へば個性がない。小生は形が整はなくてまづいと思ふ歌でも、心の生きた眞實性の多いものを取る。さういふ歌は拙《まづ》くても將來がある。此の頃の選歌で氣づいてゐる事の一つを記す。(611)   (大正十年十二月「アララギ」第十四卷第十二號)
       〇
   このごろの二日の雨に赤かりし楓の若芽やや青みけり  左千夫
に就いて貴説拜讀致しました。高説に依ると「二日の雨に」が「赤かりし」に係るか、「やや青みけり」に係るか、幾分曖昧である。云々と云つて居られますが、愚考致すところでは、初二句は現在だし、又五句も現在である。「青みけり」は現在完了の形ですが、「やや」とあるよりして見ると持續的であります。從つて純然たる現在句法と見て差支へないと思ひます。勿論三句が「赤くなりし」であるならばこ句の「二日の雨に」がこれに係ると見るべきですが、本歌の如く「赤かりし」でありますから、上下の四句には何等直接の關係を持ちませぬ。全然獨立句と見るべきであらうと思ひます。かう簡單に見ても「二日の雨に」は四五句に係つてゐることは共に現在句法であると云ふ點からしても三句「赤かりし」に係るのでないことは明白であらうと思ひます。これを曖昧なりと斷ぜらるる貴説を解し兼ねます。小生の思考力の淺い爲めと思ひますが冀くば御明教を得んことを。(高梨一雄)
大體貴説のやうに解すべき歌でせう。只第一二句は現在とも過去ともはつきり決められません。それは「このごろ」といふ語が今日の日本語として、さう正確な意義に限定されて使用されてゐないためです。「このごろ何々を見た」といへば近い過去になるし、「このごろ氣候が寒い」といへば近い過去と、現在を包んだ意味になりませう。夫れゆゑ此の一句が第三句へかかるか第四句へかかるか幾分曖昧だと言つたのです。殊に意義の直截に徹ることを要求する短歌にあつては「二日の雨に」の「に」といふ如き弖仁波は直ぐに、次の用言に係ることを要求するのが普通で自然です。(無論さうでない(612)場合もありませうが、夫れには別に相應の必然的要求があるのでせう)さういふ心理の自然な順序から言つても、この「に」は「赤かりし」に係りたい傾向を持つてゐます。小生の意はこれで盡きてゐます。
       〇
   病みつつある父は寂しと告りたまふ汝鰥は飽きはてにけり アララギ第十四卷十一號 兩角七美雄
此の歌の第四句第五句の意味わかりかね候間御教示下きれたく候。(岡田清)鰥は「やもを」で妻を喪つた夫であり、ここでは作者の父がその「やもを」である。第四五句はその父に向つて言ふ心持である。此の歌七美雄の特性が現れてゐる。作者が斯樣な點に自足を感じない限り今後發達の一面をなし得るであらう。   (大正十一年二月「アララギ」第十五卷第二號)
       〇
   ただ一つ小さき火鉢置かれたり手のひらあぶれば手のうらさむし  島木赤彦
「氷魚」の中にある歌であるが「手のうら」がをかしいとおもふ。「手のうら」とは「手のひら」即ち「掌」のことであると言海にはある。(國富亭知)
「手のうら」が御知らせのやうな意味なら私の歌は惡い。手のひらに對して言ふとき手のうら〔四字傍点〕は手の甲になつて通用しはせぬかと思つてゐるが猶よく調べて見ませう。   (大正十一年三月「アララギ」第十五卷第三號)
(613) 酒泉傳説小生一向不案内なり。知らるる方は松本市葵馬場町胡桃澤勘内氏へ御知せを冀ふ。甲賀三郎の材料も同樣に願ふ。猶小生の「民謠の性命」中にあげた八丈島の
   月は山端にすばりは西に思ふ殿御はまだ江戸に
の「すばり」は「すばる星」であらうといふ意見を名古屋の某氏より寄せられた。之も少々考へて見る。   (大正十一年五月「アラヲギ」夢十五卷第五號)
       〇
 大下一太氏が結城哀草果氏作「子供等のあそべるさまは春の野の日光にそよぐ若草に似つ」の感想を述べたるに答へて曰く。〔編者〕
大下君の目のつけ所はいい。歌はこれでは尚足らぬでせう。結城君如何、大下君如何。
       〇
 大下一太氏が武藤然友氏作「晝ながら蛙鳴く聲幽かにて水の面にうつる杉むらの影」の第一句「ながら」と、上句下句各獨立したる感じなりと疑問をもちたるに對し、また「や」の感動詞多く目につくが選を被ぶるものの徒に之を模倣して一種の流行を「アララギ」の上に起さざらんことを望むといふ意見に答へて曰く。〔編者〕
「晝ながら」は第二三句へかかつてゐるのでせうが、單に晝の意に止めて置いた方がよかつたでせ(614)う。只「ながら」が全然情を成さないとは思へません。「水」は池とか田とかの場所が現れれば猶よいのですが、それと共に場所といふ事實が目立つては情を損ひませう。この消息餘程よく御考へにならんことを望みます。上下句の即離問題は、この歌のしんみりした調子を崩さずにこれ以上緊密に行けば猶結構ですが、可なりむづかしいでせう。第二問「や」は古來用例多くあり、左千夫に可なり多く、最近では齋藤君に多くあり、近頃多く見えるもの一種の流行にならぬ方よきこと貴説の如しと思ひます。   (大正十一年八月「アララギ」第十五卷第八號)
       〇
 八月號の御歌
   親雀しきりに啼きて自が子ろをはぐくむ聞けば嘆くに似たり
「自が子ろを」は何と讀みますか、そしてどんな意味でせうか。愚考では(間違つてゐるかも知れませんが)ろ〔右○〕はら〔右○〕の誤植ではないかと思はれます。(豐田幸吉)
「自が子ろ」は「しがころ」と訓みます。自《し》には色々な訓み方と解釋がありますが(前にアララギに書いたこともある)矢張り「し」と訓んで、「それ自身」の意とするが穩當でせう。「子ろ」の「ろ」は、只子へつけた殆ど無意味の詞――接尾語です。智識的に言へば無意味ですが、音調の上からは或る親しみの感情の伴つた詞になりませう。從つて「子ろ」は「子」から獨立して存在する詞です。(615)「ろ」は「ら」の誤植ではありません。   (大正十一年九月「アララギ」第十五卷第九號)
       〇
 川田順氏作「鳴門の冬」を評したるに對し、檜原寛氏が異議を唱へたるに答へて曰く。〔編者〕
第五首「海の廣らの」は安易のやうです。その他大體小生も言つてゐる。貴君は實際に行を共にしたのだから、面白い見方もしてゐます。併し、大體先きの評の根柢を覆すやうな心地は今もしてゐません。
       〇
 或る學者の最近獨逸談は小生に大へん興味を抱かせた。今の獨逸のやうな生活には、人類の凡てが、早晩到著すべきであるかも知れない。只、それには獨逸人のやうに受動的に到著するか。自然に到著するか。或は又、發動的に到著するかといふやうな相違があるかも知れず、その到著の爲方によつて、生活に多樣の岐れ方があるであらう。誰がそんな生活へ發動的に走るものがあるかと言ふ人が多いだらう。それは御尤もである。只釋迦は跣足で路上を歩み、孔子は三月肉味を知らなかつたこともある。それも人間の生活樣式であることを否定する人はあるまい。大正十一年に何の寢言を言つてゐると人が笑ふであらう。笑ふ人々の子孫の中から、釋迦や孔子と同系の人が出るやうにならねば、世(616)の中の納りが付かなくなるといふ時代が來ないとは限らないのである。勿論、それが直ちに獨逸の生活であるといふのではない。以下某氏の獨逸談を抄出する。
       〇
 先づ外觀上からは戰爭の影響で風俗が大分變つた、殊に驚いたのは小學兒童が、伯林の市中でも場末へ行くと、盛んに裸足で歩いてる事だつた、それは田舍へゆくと特に酷い樣であつたが、釋麼ことは以前には到底想像もつかない事だつた。それから此れも戰爭の時から思ひ付いたのだらうが、男も女も種んな道具を入れた背嚢を背負つて、金剛杖のやうなものをついて歩いてゐた、この風俗も倫敦や巴里では到底見られない圖だ。それから特に獨逸許りではないけれども、婦人の風儀が一般に頽廢し、煙草もやれば洒も呑むといふ具合で、とりわけ其れは獨逸婦人に於て甚しい樣に見えた、こんな事は曾ては到底見られない事だつた。
       〇
 次に獨逸人の家庭に親しく接しては、その餘りに慘めな生活に成り果てたのに驚いた。マルクの下落に依つて、中産階級が極端に脅かされてる事はいふまでもないが私の主に接したのは、彼國でも上流に屬する世界に相當名を知られた大學教授達の家庭であるが、それでも全くお話しの外の悲慘な生活振りであつた。此等智議階級の人達は、毎日肉無しで生活する方法を考へて暮してるといつてもよい程に、經濟上の壓迫を受けてるのだが、以前には中々どうしてそんな所でなく、日本などの同階級の人々が食卓に竝べられぬ樣な、實に立派な豐富な生活振りを見せてゐたものであつた。現在獨逸の大學教授一箇年の俸給は、日本から往つてる留學生一箇月の學費にも足らないのであつて、その困難の程度が推察に餘りある。
       〇
 私はよく其の人達の家庭に招待されて行つたが、いづれも食卓の上は誠に日本人にとつては想像も出來ない位寂しいものだつた、然しそれでも其れ等は皆あちらの人達にとつては實際非常な御馳走だつたのである。ある有名な哲學者の招待の折(617)は、先方では最善を盡しての御馳走だつたが、それでも食卓にならんだものはソツプと肉の少し入つたものと、それからイチゴにゼラチンを交ぜたものと三品だけで、その他は茶と僅かに一杯のリキユールであつた。之れは先づ其の一例に過ぎないが、その他大學教授が三四十名も集まるやうな大きな招待會の場合でも、大抵はサンドウイツチ位でテイパーテイに過ぎなかつた。
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 有名な大學教授などの家庭でも多くは女中を雇ふ事が出來ず、或る世界の學界に名の知れた教授などは、私が訪ねた時涙を流して次の樣な述懷を洩してゐた、「折角貴方が日本からお出でになつたのに御馳走も出來ず誠に殘念です。伜は戰死し、娘の婿は一昨日三人の子を殘して死んで終ひ、それに自分の家庭では女中を使ふ事も出來ず、今妻や娘が野菜を買ひに出てるので一人で留守居してる所です。」と。
       〇
 其麼やうな慘めな有樣は到る處で見て來たが、まして一般中流以下の獨逸人の氣質はかなり不安定なものとなつて、淺間しく變つた者が非常に多い。然し獨逸にはまだ/\智識階級が根を張つてるから、露西亞のやうなボルシエ※[ヰに濁点]キに捲き込まれるやうな事はあるまいと思ふ。ミユンヘンあたりはもうよほど秩序も囘復しかけてきたから、獨逸の將來は全然悲觀すべきではなからうと思ふが、決して樂觀は許されない。特に惡い點では此の頃の獨逸人は慾張り根性が多くなつて、野卑なところがはなはだしく見えるやうになつてきた、この點は全く以前の勤勉努力の美風をもつた獨逸人としてはまるで隔世の感を懷かせる。   (大正十一年十一月「アララギ」第十五卷第十一號)
       〇
 胡桃澤君の十一月號所載歌評について書かれた原稿は、東京から廻送されて拜見した。これは土田(618)君が意見を書くであらうから、小生は改めて言はない。只文藝批評は絶對なものであつて、師弟、親子、君臣の關係をも超絶して存在せしむべきものであると小生は信じるのであつて、左千夫先生のときも、さういふ關係では、雜誌の上で、隨分喰つて掛つた事があるので、それを今、後悔しては居らぬのである。嚴正振りを見せるにはいい。といふやうな詞も見えたが、まさか三君が嚴正振りを示すために、わざわざ喰つて掛つたのではないであらう。小生が土田君の歌をほめるのは、一面には稚氣であるといふやうにも書いてあつたが、稚氣に見えるか、見えないかは、本人たる小生には分らぬ。小生は感心したものを感心したといひ、甘いと思ふものを甘いと言ひ、弱いと思ふものを弱いと言ふ外の手段を知らない。これは大切なことであつて、つまり批評の中へは、夫婦觀と雖も混入してはならないやうである。
 かういふことは、前からも、時々言つておく方がいいと思つて居たのであつて、會員の中から、たまには、作物の優待虐待問題で、不平を言つて來る人もある。不平のために、虐待も優待もなし得ぬのであつて、その點を、ぐらつかせるならば、雜誌は通俗の賣品になるであらう。胡桃澤君の言はれる問題は、これと別であるが、作物の批判に、他の何物觀をも混入してはならぬことは同じである。
 胡桃澤君の心は、必しも長幼相論じてはならぬといふのでないやうである。毎月膝を交じへて話してゐることゆゑ、問題は座談で片付く筈だと言はれるやうである。成るほど座談はいつもやつてゐる。(619)その座談をたまに公開することもいいではないか。さうでないと小生の歌は、雜誌の上で批評してもらへないことになるであらう。
 某氏手紙の引用は大にこたへた。「アララギ」に學究の徒のゐないこと、從つて學者のゐないことは先づ以て、小生などの恐縮すべき所であつて、一言もないのである。先年或る友人が胡桃澤君を介して小生に一言を傳へてくれた。赤彦も歌ばかり作つて一生を終るのは考へものだ。何か一かどの研究でもして、短い命を無意義にせぬやうにせよ、との意味である。その時小生大に辱く思ひ、恐縮をもしたのであるが今以て疎懶何事をもなし得ないでゐる。そこへ又一發來たのである。愈々恐縮せざるを得ない。どうも生れが生れであるのか、つまり歌を作つて一生を終るに墮ちさうである。歌をつくるにも、學問を勵むことは必要である。それを疎かに思つては濟まない。但し、藝術は決して學問から生れて來ない。この事も小生は承知して居る必要がある。學問は小生に對して補助機關であり、補導機關である。補助機關であり、補導機關であるために、それを蔑しろにするといふ法はないのであつて、某氏の「アララギ」に對する意見は、小生一人としては辱く受けるつもりである。小生などは物臭に屬するゆゑ、いくら勉強しても、補助機關の方が有力になつて、本體の方が夫れに引きずられるやうなことになる心配はないのである。因つて考ふるに、伊藤左千夫五十歳まで歌をつくりて世を終へ、長塚節三十七歳まで歌をつくりて世を終へ、正岡子規三十六歳まで歌をつくりて世を終へて(620)ゐる。而も子規に俳句があり、節、左千夫に小説がある。そこへ行くと、現今「アララギ」の諸人多く歌あるのみである。小生の如き年長者は、聊か心細からざるを得ない。與謝野寛氏の如きは、短歌は浪花節の一節に過ぎないなどとも言つてゐる。さういふ事になると、小生など囘すべからざる深みへ陷つてゐるのであるが、自分からは、成るべく浪花節と思はないで、寂しくても、心細くても一生を歩きとほさうと觀念してゐるのである。さういふ時に、十一月號のやうな批評は、小生には時々、刺戟になつていいのである。
 あの批評は、相變らず全力で突き當つてゐていい。只、力は入つてゐるが、急所に中つてゐない所がある。さういふ所は、こちらから押し返した方がいいのである。
 たとへば、
   このねぬる朝かげくらき霧のなかに見えつつのぼる日影を寂しむ
について「このねぬる朝」とは言ふが「朝かげ」と續けるのは何うかと言つてゐる。處が「このねぬる朝」とつづける用法は、古來ないのである。大抵は「あさけのかぜ」につづいてゐる。小生の知り得る所では、只二つ「このねぬるあしたの原の露けきは」といふ用例がある。今一つ「このねぬる朝風さむみ」といふ用例がある。評者は「朝風さむみ」を認めるか何うか。認めるならば、それを認めて「朝かげ」を認めないのは何ういふわけか。凡そ斯樣な範圍は常識で活用して不都合ないと小生は(621)思つてゐるのであつて、言語用法の微細論も、その邊まで立ち入ると、楊枝ほじりになつてしまふのである。その點土田君の特に注意していい所である。今一つ「見えつつのぼる」が苦しいと言つてゐる。土田君は、朝、霧の中に丸々と見えてのぼるところの、光薄き太陽を見たことがないか。見たことがあつたら、「見えつつのぼる」がなぜ苦しいのだ。霧があれば日の隱れるのが普通であるのに、日が見えつつ上るのを「見えつつのぼる」と言うた迄である。高田君は「朝かげくらき」に對して「見えつつのぼる」が、はつきり〔四字傍点〕し過ぎては居ないだらうかと、疑つてゐる。これは東京では經驗せられない所かも知れぬので御尤もである。山國にゐるものは、少年といへども皆經驗して知つてゐるのである。評者は日本の土に下る霧の現象について、常識を缺いてゐるのではないか。この歌、上一二句は、今改作しつつあるのであるが、その理由は評者の言ふところとは違ふのである。
   朝ごとに庭の胡桃樹の下土におのづから落ちてある果を拾ふ
 評者は「胡桃樹の下土に」を「くるみ」と振假名してあるけれども、耳のみで聞くと「くるみ」は「くるみの實」と受け取られるといふ意味を述べてゐる。これも胡桃の概念が充實せずして物言つてゐる證據である。評者は、「栗の下かげ」といへばその栗を「栗の實」と解するか。樹をも「くり」といひ、果をも「くり」といふごとく、胡桃の樹をも、胡桃の果をも、胡桃の果の核(食用にする部分)をも、一樣に「くるみ」と言つてゐるのであつて、「くるみ」を食べるといへば、核のことと解し、「く(622)るみ」を拾ふといへば、果實のことと解し、「くるみ」の下といへば、木のことと解するのが、胡桃に接近してゐる住民の常識である。自分の狹い經驗と、概念を以て易々と斷言することはよくあるまい。「胡桃樹」の「の」が接續の意にならぬといふ説、「に」に力が入り過ぎたといふ説は、主もに「くるみ」を「くるみの果」と解せんとした心理から來たのであらう。さうでないと、常識から判斷出來ぬやうである。この歌「おのづから」の句、必しも快適と思はないが、据らぬといふやうな心持は、小生、未だしてゐないのである。山間の生活から聯想して斯くいふのである。四五句の調子は、古實君の言ふごとく、妙なうねり〔三字傍点〕を持つてゐること確かである。浪吉君のいふごとく、疊み重ねてゆく句法のつもりである。猶言へば七七音でなく、殆ど十四音一氣に續けて了ふといふやうな心持である。さういふ心持には、賛成せぬ人が多いであらう。又、その心持が快適にこの四五句に現れてゐるとは言はない。
   もの言はぬ四方の毛だものすらだにもあはれなるかなや親の子を思ふ
   ひむがしの野に陽炎《かぎろひ》の立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ
などは、上句を普通の句切にしなかつたために、快適に勢を成し得た例であり、
   戀ひ死なば後は何せむ生ける日のためこそ妹を見まくほりすれ
   ぬれて折る袖の月かげふけにけりまがきの菊の花のうへの露
(623)   かくばかり戀ひむものぞと知らませば遠く見つべくありけるものを
等の歌は、下句を特殊の句切にして、或る勢を成してゐるのである。小生のを夫れらに比べる意ではないが、あゝいふ變態の句法も必しも許せぬことはないと思つてゐるのである。
   きその夜の風に傾《かし》ぎたる玉蜀黍の青高稈《あをたかがら》を伐りてたばねつ
「青高稈」の「高」が第三句に對して適はしくないといふ説も亦、玉蜀黍の常識が缺けてゐる。玉蜀黍の稈は小男の脊の二倍にも達して、頑丈なものである。傾ぐといつたのは、臥したと言つたのとは違ふ。傾いでも頭より高い程の稈はいくらもあるのである。中には傾がぬのも交じつてゐること勿論である。全體が青高稈の感じであるから、さう現したまでである。「青高稈」と口誦する時、感じの乘らぬのは、視覺にのみ訴へた詞だからであらうといふ説もあつたが、根白高萱《ねじろたかがや》は何うであるか。同じく視覺にのみ訴へてゐるではないか。それによつて小生の造語を價値づけようとするのではないが、評者の論理不徹底なるの證據になるのである。「一首から受ける感銘は稀薄である。」「きりてたばねつ。で餘情を乏しくしてゐる。」「全體に亙つて特殊味もないし、うるほひもやゝ缺けてゐる。」三君が殆ど共通の全體評をしてゐるのは、小生に興味があるのである。小生もこの歌を傑作と思つて居らぬが、歌に求めてゐるものが、三君と必しも同じでないのであつて、それが斯ういふ批評の時偶然に現れるのである。潤ひも、餘情も、感銘も皆必要であるが、潤ひらしい潤ひや、餘情らしい餘情や、感(624)銘ありさうな感銘や、しみじみしさうなしみじみさは小生は嫌ひである。甘《あま》いところが嫌ひである。三君も甘いものを欲するのではなからうが、實際に求めるものは、時々小生と違ふことを發見する。昨年土田君が上京して發行所に入つたとき、「アララギ」の歌の不精選なのを奮慨して、色々小生に物を言つた。その時、辻村直君の「沼津の家」の第一首
   日一日家の子どもら吾を親しみわれの言ふこときかなくなれり
について言ひ合つて見たが、土田君は、これでは歌にならぬといふのである。小生も傑れた作とも完全な作とも思はないが、素質に素樸なあどけなさがあつて、一面に、愚や及ぶ可らずといふ趣もあるのを面白いと思ふと言つたのである。一首に莫迦げたところがあつて、そこが却朝つて、作者の本當のものであつて自然に純粹に感じられるのである。さういふ方面は者には解らぬ。君の頭が狹いのだと、小生も、しまひには亢奮して言つた。かういふ亢奮は、我々の間には日常の如くあるのであつて、そのうちの一例を、今必要上ここの明るみへ摘まみ出したのである。つまり、この頃の土田君は、ひたすらに、しみじゐ〔四字傍点〕したものを求めてゐる。辻村君の莫迦げたところある歌を讀んでも、少しも、しみじみ〔四字傍点〕せぬのである。斯樣な純眞な、子供の聲を聞くごとき心持が分らないで、しみじみさ〔五字傍点〕を求めてゐるのは、既に一種のしみじみ病である。これは土田君のしみじみ觀を、もつと豐富に充實させる工夫が必要である。斯ういふことを言ふのは、ここには、土田君の求めるものと、小生の求めるものと、(625)少くも廣狹の相違あることを明かにしておくためである。
   雪あれの風にかじけたる手を入るる懷の中に木の位牌あり
の愚作を發表した時は、高田君が、態々龜原の小宅を訪ねて、抗議を申入れた。子どもを悲しむ場合の歌として、潤ひが無さ過ぎるといふのである。この時も小生は高田君を突放したやうである。勝手にさう思ひ給へ。と言つただけであつたやうである。これは、後に高田君が、再び、態々取消しに來たと記憶してゐる。潤ひらしい潤ひは小生は嫌ひである。
   つぎつぎに過ぎにし人を思ふだにはろけくなりて我生けるらし
老人らしい歌で、少々恥入るが、小生には、過ぎにし人が、常人より非常に多いのであつて、こんな歌が生れたのである。今思ふに、「だに」は「さへ」の方が穩かであるかも知れない。「つぎつぎ」は「次ぎ次ぎ」「嗣ぎ嗣ぎ」等であつて、「過ぎにし」へかかると共に、大らかには「思ふ」へもかかるのであつて、さういふ副詞の用法は、いくらも例がある事である。「死にゆく人に對する語としては如何かと思ふ」の評は、その意を解し得ない。第五句概念的なりとの非難は何の謂なりや。この句概念的ならば、全體が皆概念的である。概念的でもいい。實感の熱を感ずるや否やで、問題は定るのである。「詞の方が外へ現れた感がある」との評、これ以上、外へ現れずして、内に籠らせることが出來れば、最も結構であつて、小生に異存はない。
(626)   土に落つる胡桃子の皮はもろくしてあらはにまろぶ實さへ目に見つ
上三句、落ちるのは、皮だけと解されるといふ非難甚だ御尤もである。この歌の缺點である。それに關して言つてゐる土田君の言御尤もにして、半ば胡桃の常識がない物言ひである。歌の語法は、どんなに正確を期しても、最後は歌はれる材料の常識に訴へらるべきものである。たとへば「物干しの衣の袖に蝉なきて」といへば、衣は物干にかけられた衣であり、「人形の著物」といへば、人形の著てゐる著物である。それが、假に、物干の常識がなく、人形の常識がなければ、物ほしにかかつてゐる著物か、物干の著てゐる著物か。又人形の著てゐる著物か、人形の所有してゐる著物か。何れか分らぬといふやうな議論も生れて來るのである。今胡桃に對する普通の常識を述べれば、胡桃といふものは、皮だけが地上に落ちるといふことは絶對にないものであり、落ちた皮が、あらはに轉ぶといふやうなこともないものである。自然に落ちるほどの胡桃は、皮は落ちて破れて、實が轉び出すのが極めて普通である。皮の破れることを「脆くして」で現して、句をすつかり此處で切つたつもりである。「して」の用法がそれである。兎に角、この歌は特に缺點のある歌であることは確かであるが、土田君のやうに文法一點張りで押し進むのは狹いのである。「櫻が咲く」といつて怪しむ人はないが、「松が咲く」といつたら、人が聞き咎めるであらう。同じく花の咲いた二つの植物についても、表現の語法に自から繁簡があり、或る域内は常識で判斷すべきものである。これは語法重視論、語法教授論と(627)は違ふのである。話が少し横道に外れたやうであるが、序を以て一寸言ひ及んでおくのである。自分の歌を餘り多く蒸し返して、紙面を塞ぐやうであるから、この位にして、この稿を止める。十一月十四日寢床の上にて   (大正十一年十二月「アララギ」第十五卷第十二號)
       〇
  島木氏甞て(十五卷十一號)「青杉を許す」の一文に於て
   生けるものつひに儚なくなりぬべし月夜もすがら※[虫+車]の聲
を「上句と下句との關係が猶危い」と評されました.本年「一月集」に於て發表せられた氏の
   冬されば空のいろ深しこれの世に清らかにして人は終らむ
の一首は、土田氏の作と全く同じ路に立つては居ないかと思はれます。氏の御解明を得ば幸甚に存じます。(伊豆高吉)
斯ういふ歌は上下關係の危いとか、危くないとかいふ問題は甚だ微細にて言ひ現し得ないかも知れぬ。從つて人によつて理解を異にしませう。貴言によりて猶考へて見ませう。   (大正十二年二月「アララギ」第十六卷第二號)
〔2021年2月8日(月)午後5時58分、入力終了〕