赤彦全集第5巻、岩波書店、1930.2.10(1969.9.24.再版)
 
第5巻 歌評及び歌謡研究
 
諸歌集の批評及び感想………………………7
「つゆ草」を評す……………………………9
若山牧水歌集「別離」の歌評………………12
前田夕暮氏著「陰影」合評…………………16
若山牧水氏著「死か芸術か」漫評…………22
「生くる日に」雑感…………………………24
「光を慕ひつつ」を読む……………………27
歌集「深林」の著者に呈す…………………30
「伊藤左千夫選集」解説……………………46
歌集「隠り沼」………………………………71
「松倉米吉歌集」を読む……………………73
「中村憲吉選集」序…………………………79
「あらたま」小見……………………………83
左千夫の歌……………………………………87
歌集「青杉」を評す………………………127
「しがらみ」感想録………………………135
註解平賀元義歌集…………………………140
大沢祐一遺集………………………………146
歌集「川のほとり」………………………149
曽根正庸歌集………………………………160
歌集「ふゆくさ」…………………………165
歌壇批評……………………………………175
明治44年……………………………………177
大正4年 ……………………………………181
大正11年……………………………………221
短歌批評……………………………………225
明治42年……………………………………227
明治43年……………………………………235
明治44年……………………………………239
明治45年……………………………………242
大正3年 ……………………………………244
大正5年 ……………………………………255
大正7年 ……………………………………260
大正9年 ……………………………………281
大正11年……………………………………296
大正12年……………………………………306
大正13年……………………………………309
大正14年……………………………………314
選歌評及び選歌雑感
「革新」選歌評 明治35年………………323
「比牟呂」選歌評 明治36年……………324
「比牟呂」選歌評 明治37年……………335
「比牟呂」選歌評 明治38年……………343
「南信日日新聞」「長野新聞」「比牟呂」選歌評 明治41年……344
「長野新聞」選歌評 明治42年…………372
「長野新聞」「アララギ」「南信日日新聞」選歌評 明治43年……379
「長野新聞」選歌評 明治44年…………394
「アララギ」選歌評 大正4年…………400
「アララギ」選歌評 大正5年…………414
「アララギ」選歌評 大正6年…………421
「アララギ」選歌評 大正7年…………430
「アララギ」選歌評 大正8年…………442
「アララギ」「東京朝日新聞」「筑後新聞」選歌評 大正9年……451
「アララギ」「東京朝日新聞」選歌評 大正10年……474
「アララギ」「東京朝日新聞」選歌評 大正11年……495
「アララギ」「東京朝日新聞」選歌評 大正12年……528
「アララギ」選歌評 大正13年…………556
「アララギ」選歌評 大正14年…………577
「アララギ」選歌評 大正15年…………589
民謡小唄童謡の研究
伊豆俚謡考…………………………………593
隆達の小唄…………………………………603
万葉集古今集小唄…………………………616
民謡の性命…………………………………620
「赤彦童謡集」巻末言……………………639
童謡其他に対する小見……………………643
手帳より……………………………………647
 
(7) 諸歌集の批評及び感想
 
(9) 「つゆ草」を評す
 
 藤村をはじめとして信濃から輩出した詩人は、随分多い中に、太田みづほのやの數年來東筑の山林に隱れて、異彩ある光輝を天の一方に望ましめたのは、吾人の久しく注視する所であつた。果然彼れは多年の蘊蓄を發表して、詩人としての産聲を文壇の上に擧げた。所著「つゆ草」は全卷百二十頁餘の小册子なれど、彼の詩を伺ふには充分である。彼の詩は終始流麗と穩健とを以て一貫して居る。數年以前に於ける彼れが詩は全く新古今に學んで居つて、才華縱横朗々誦すべきの好詩は常に「文學界」「江湖文學」等の上に散見したが、この時代は決して被れの獨歩期ではなくて、寧ろ模倣期に屬して居た。當時吾人は彼の天才に對して早晩拓かる可き未來の光明を望んで、密かに彼れの發育を期して居た。果然彼れは從來の面目を一新し來つた。勿論輓近文壇に於ける歌界革命の勢力は、殊に急速に彼を驅つて局面の展開を促したに相違ないが、今日に於ける彼の立脚は全く成人の域に達して居るので、即ち熱心なる模倣の結果が特色の産聲を擧げさせ來つたのだ。改行
(10) 平靜にして幽趣あるは藤村、清新にして才気罩れるは窪田うつぼ、諷逸にして雄麗なるは天眞(信州に於て)而して、みづほのやは是等頻々たる詩人の間に立つて大なる特色を發揮しつつある。彼れの詩は何處までも流麗である。彼れの筆の向ふ處は常に洒脱圓轉で、而も巧みに人情の機微を穿ち得てゐる。故に自然界に於ける敍事的の材料に於ても、彼れの性格は隱約の間に必ず發揮されて居る。思ふに新體詩に於ける信州文壇の覇は勿論藤村であると同時に、短歌界に於ける雄鎭は當然みづほのや其人に歸するだらう。
 彼れが修辭上の苦心は「つゆ草」全面に亙つて認めらるると共に、餘りに修辭上の用意を急にする結果、往々想に於ける無意味の産物を生ずるの弊がある。是れは作者の反省によつて、容易に脱離し得らる可き小瑕瑾には相違ないが、殊に從來造詣の上に一言の注意を加へる所以である。
 新體詩にも中々重貴のものがある。泣董が濫にハイカラを振りまはし、鐵幹が無暗に六尺棒を擔ぎ廻つて、天下の自稱詩人等が、躍起と共の後塵を追ひ歩く今日の詳界には、彼れの作の如き愼重なる周到なる清新なる産物は、我國文壇上の珍とすべきである。吾人はかへすがへすも今後の奮勵をこの有望兒に囑せねばならぬのである。篇中彼れの特色と認むべきものを拔いて、この評言を終へよう。
   秋風の吹きのまにまに飜へるひと羽のてふを見てぞわが立つ
   北の海ゆい吹き渡らふよるの風に村雲なびき七つ星みゆ
(11)   石狩の川ど行き暮れなづさへるアイヌの船にあしの花ちる
   いたいけの片手かざして笑める子のいくつになりし年にかあるらん 新年
   八千矛の千矛の杉生こだまして山の八つ尾を鐘なりどよむ
   君が手と我が手とふれし玉ゆらの心ゆらぎは知らずやありけん
   妻ごめに家居つくるとささがにの亂れ榛原春の草きる
   敷栲のまくらに殘る鬢の香に妹をぞ思ふひとりしぬれば
   若草にいこひころぶし南行き北行く雲をひとり見るかな
   あけ放つ五層の樓の大廣間つばめ舞ひ入りぬ青嵐の風
   そめぬける君がゆかたのあやめ草さめやすき色の戀はわがせじ
   たらちねの添乳に眠る小さき子のゆめぢを守れ音を鳴く蛙
   君が子のををしかれとて青雲のみ空みさけて桑の弓射る
   わたつみの海のぬす人船はぐと島の大木の杉をたふせり
   平の宮うつらしますといでていにし御幸の伴のかへる時なり
   さざ波や大津の皇子がかくりこのま木立つ山を見ればさぶしも
               (明治三十五年三月「革新」第二號)
 
(12) 若山牧水歌集「別離」の歌評
 
   月の夜や君つつましう寢てさめず戸の面の木立風眞白なり
 「寢てさめず」と力を入れてる所は家の内部、個人の動作に眼を著けてゐる。「月の夜」や「戸の面の木立風ま白なり」といつてる所は家の外部の光景に感興を馳せてゐる。兩者を調和させ得ぬことはないが、それにはどちらかの一方を主にして一方を從屬的にせねばならぬ。「つつましう」「寢てさめず」といふやうな細かな注視をしてゐる詞を無造作に使ひ過ぎたか、若しくは「月のよや」「戸の面の木立風眞白なり」といふやうな詞を重く使ひ過ぎたか、どちらかの一方に瑾があると云はねばならぬ。これが讀過の際興味の零碎を覺える第一の原因であらうと思ふ。第二に單に風が白いといふのでは季節が連想出來かねる。人が寢てゐて戸の面の木立に月が照つてるといふのだから、窓が明け放してありさうだ。窓が明け放してあるやうな處から見ると夏の夜らしくも思はれるが、單に風眞白などいふ月色がら考へると、秋か冬の夜のやうにも思はれる。從つて木立は青葉であるのか、冬木である(13)のか、是も大に戸迷ひされる。才氣は見えてる歌であるが、斯樣な矛盾があつては困つてしまふ。十數年前子規先生が「帳たれて君いまださめず紅の牡丹の花に朝日さすなり」と歌はれてゐるが、この歌も少し不調和な句法があると思はれてゐる。
 併し牧水氏のこの作に比すれば、ズツト纏まつてゐる。我々は今少し感興の中心を得た、今少し感興の生動した歌を欲するのでゐる。
   君睡れば灯照る限りしづやかに夜は匂ふなりたちばなの花
 面白い歌であると思ふ。「夜は匂ふ」の「匂ふ」は美しさの動く意程に解すべきだらう。夫れに橘の香りを配したのは落書いたよい感じであるが、「たちばなの花」と突然結句に置いた句法は考へて取り付けたといふ感がする。第四句迄で此の歌の意は盡きてゐる。「たちばなの花」は只此の意を活かすための副へものである。夫れを結句に持つて來て据ゑたから重過ぎると共に、不自然な感を起させるのであらう。「灯の照るかぎり」も窮した無理な云ひ方である。今少し練るべき歌であるが兎に角しみじみするよい感じを捉へた歌と思ふ。
   風凪ぎぬ松と落葉の木の叢のなかなるわが家いざ君よ寢む
 「松と落葉の木の叢のなかなる吾が家」は外から我家を見た所でなくてはならぬ。處が第五句に突然「いざ君よ寢む」となると何だか家の内の事に思はれる。「いざ入りて寢む」などあれば外部から見(14)た感じとは合つてゐる。或は二三四句は矢張家の内に居て、自分の家を斯く意識してゐるかも知れぬが夫れでは「松と落葉の木の叢の中なる」といふ詞は説明的になつてしまふ。一體「いざ君よ」など相對的に云つて居乍ら、相對的な情が全體に泌み出て居らぬから、結局相對的に「君よ」など云つてる功が無くなつて無駄な詞になつてしまふ。第一句の「風凪ぎぬ」も利いて居らぬ。風が凪いだからいざ寢ようでは詰らな過ぎる。作者の意もさうでは無からう。併し「いざ」などいふ詞を使つたためにさう云ふ風に取れてしまふ。兎に角不自然な構成の歌である。
   男あり渚に船をつくろへり背《せな》にせまりて海のかがやく
 主景たるべきのは第一二三句である。第四五句は副景である。副景を結句に置いたといふ事も此の歌の据らぬ一因である。然らば四五句の副景を前にすれば此の歌は活きるかと云へば矢張依然として詰らぬ。夫れは第一景物の捉へ方が表面的で、少しも情趣を伴つて居らぬからである。「男あり」といひ「渚に船をつくろへり」といひ「海のかがやく」といふ只是れ個々の材料駢列に過ぎぬ。その材料も少しの振つた所も新しい發見の點も無い。是れでは只事歌といはれても辯解はあるまい。夫れから第一句で切り、第三句で切つてあるが、斯樣に重い句法を用ひるならば、第四五句を今つと調子を強く響かせねば尻こけになつてしまふ。
   ゆふ日赤き漁師町行きみだれたる言葉のなかに入るをよろこぶ
(15) 只亂れた詞の中に入るを喜ぶとのみでは、作者自身は面白いかも知れぬが、どんな風に面白いのか趣きが讀者に判明せぬ。喜ぶなどいふ抽象的な詞は此の場合省略して、漁師町の賑かな光景を今つと明瞭に寫し出すべきである。さうでないと折角の喜ぶが、一人よがりの喜ぶになつてしまふ。「夕日赤き漁師町行き」もみだれたる言葉の中に入る刹那的に部分的な場合に對して大らかに暢氣過ぎて居る。大らかに暢気でもよいが、其の大らかな暢氣な光景から賑しい部分的な光景に移る際の感じの移りを現して居らねば、全體が一貫したものにならぬ。感じの一貫して居らぬ爲めに折角の見付所をこはしてしまふのは、此の作者によくある弊所であるやうだ。第一首も第三首もそれである。
   春|白晝《まひる》ここの港に寄りもせず岬を過ぎて行く舟のあり
「寄りもせず」と力を入れたのが「行く船のあり」といふ暢気な大らかな結句と相對して又々感じを不統一にしてしまつた。岬といふ材料も何等の重きをなして居らぬ。「高麗船の寄らで過ぎ行く霞かな」とかいふ俳句があると思ふ。岬などの材料なくして却つて春の海ののどかな感じが現れてゐる。岬が惡るいのは氣が利いて、却つてこせついて〔五字傍点〕居るからである。全體に想が有り觸れたるものであり、現し方にも瑾があり、歌集などからは省くべき歌である。     (明治四十三年六月「アララギ」第三卷第五號)
 
(16) 前田夕暮氏著「陰影」合評
 
〇夕暮君の歌を一纏めにして讀んだのは始めてである。讀んで見てかなり突き進んだものを眺めてゐる作者の動きに大體から賛成出來る。夫れが沁み泌みした新しい情趣に溶け入つた或る作物には全く有難く思はせられる者がある。併し折角に眼を著けたものが題目的に取扱はれて平氣な敍事的説明的の無造作なものになつてゐるといふ遺憾も隨分目につく。無造作といふ事は歴史的な古い型の頭に考へられてゐる技巧論から見た例の無造作の謂ひではない。一寸通俗な語句でも使用すれば直ぐ無造作呼はりするやうな淺はかな見方に住して居る頭からよく無造作といふ詞を聞く。私のいふ無造作は左樣な意鰺とは違ふ。私のいふのは所謂歌心の動機の無造作である。振動の幅は微細であつても泌み泌みした情趣と共鳴する時そこにはじめて動機充實がある。私のいふ無造作はその情趣的動機の缺乏をいふのである。「陰影」を讀んで斯樣な無造作を感ぜさせられる所は隨分ある。夫れから讀んで行くうちに面白いなと思はせられ乍ら何かの空乏を同時に感じさせられる事がある。その時は大抵其の歌(17)が餘り抽象的の敍述に傾いてゐる時であるといふ事に氣が付く。我々の有難い歌には多くは先づ微細な感覺の刺撃がある。その感覺の刺撃がしみじみと中樞に沁みて行く時が有難い歌の感受になる。感覺の刺撃を取り去つて中樞の感受だけを抽象的に敍述するのは議論の結論だけを人に發表すると同じ種でゐる。結論丈けを聽いては物足らぬといふ感じが抽象的の歌には有勝ちな感じである。「陰影」のうちに斯樣な種類は隨分目につくやうである。
○一々は擧げきれぬけれど私の見て賛成出來る歌のうちから色々の種類をあげて見ると以下のやうなものがある。
   見のこしし夢をいだいて稼ぎ來し女の衣のうつくしさかな
   ぬぎすてし女の衣のくづれたる上にただよふたそがれのいろ
   牛の肉煮ゆるにほひにむかふときわがさびしさをしばし忘れつ
   栗の花白くふるへて咲く日なり父より受けし血ぞ身をせむる
   濁りたる空の下なる棕梠の花黄にさき心慰む日なし
   新聞のにほひ冷めたく指先に秋を感ずる日となりしかな
   人らみな我をまもるに忙しきかたはらに居てなすこともなし
   そこここにおのが心のなきがらの横はり居てこなたながむる
(18)   懸命に妻を叱れるおろかなる男ぞと知り苦笑ひする
   黄いろき月、芽ぶきし林、唇の感觸のやや冷めたき記憶
   あわてつつとりつくろへる眞顔をば者はするなり母親のごと
   栗の花亂れおちたる味きなさわが生活の日かげる如し
   前垂の白きはしにて涙ぬぐふこともおぼえけん妻のいとしさ
   霧ふれる夜空にゆらぐ灯のかげを君とながめぬ心ふるへて
   相模野は大根畠につるされし煤けらんぷに霧白き夜か
   ひとすぢの道は林に入りにけり秋の木の間に水うす光る
   水光る古濠の底に吸はれたる海鳥の群の白きたそがれ
   つまらぬとまことつまらぬ如き汝が横顔に來て冬のしらめる
   眼をひやす布のつめたき肌ざはり死にたる魚の重みおぼゆる
   外海の冷たき波の滲Å透りゆびにぞからむ手をひたせれば
   こすゑ明るく降る日光を見てあればわが幸は逃げ行くごとし
   霧やがて晴るれば山はうすいろの藍をながしぬ日の色悲し
〇次のやうなのは大體に於て私たちの賛成出來る歌であり乍ら何處かに物足らぬ所があるのは前に言(19)うた抽象的結論的の歌であるからであらう。斯樣な不足の感は歌集中隨分眼に入るやうである。
   このあかるき悲しみのうち新しき二人の世をばかたちつくらん
   泣くことのたえて久しき青春のをはりさびしや夫となりぬる
   夫となりて何かさびしく物足らずあはれに我を思ひいたりぬ
〇またこのやうなのがある。
   妻もあり子もある男のふとしたる出來心よりおそろしきなし
   なつかしき悔とかなしきよろこびに胸いたむらしなぐさめてやる
   わかき日のわがうしろ影見えきたり悲しき心わななきいづる
斯樣な種類が皆夫れである。今少し具象的に感覺的にしみじみ歌つてもらひたい心持がする。
〇夫れから前に言うた題目的に無造作な扱ひをしてゐるといふ者も隨分ある。例へば
   乾きたるかぐろき鉢のほぐれ土指もてほれば白き芽ひそむ
の如きは是れ丈けでも大へん面白いけれども折角のものが未だ情趣に溶け入るだけの純化が足らないといふ憾みがある。つまりよい材料を讀者の前に提供したといふに止まつてゐる。この位の見付所は今少し感じを漂はせてしみじみと純化させてもらひたい。改行
(20)   崖下を今汽車ぞ行くとびおりて見ずやとさそふたはれ心が
   小雛より小さき顔の少年が物をおもへる夏草のうへ
   あわただしく突きおとされし生活の谷の底よりわかき日を見る
等の種類が矢張夫れである。今少し工夫が要るやうである。
   いかにせしとむかしの友に肩うたれ言葉なかりき秋風の町
   赤しやつを着たる男のうす笑ひ我が方を見る公園のひる
   病院の白き敷布の汚れなど眼に浮びくる初秋の午後
   我が折りてさげたる枝に栗のみの青きが小さくなれる七月
斯様な種類の結句も多く見えてゐるが、大抵私には面白味を殺がれる心地がされる。第一句二句三句と段々に感じが局所に微細に深入りして來た時第五句で急に擴散される感じがする。名詞どめが穴勝ちに惡いといふ規定はないが、斯樣な大切な箇所に今少し工夫して賞ひたいと思ふのである。
   笑ふこと久しくせざるわが顔を春がのぞきにまた來にしかな
   藤椅子にぬれば冷たし秋も來てわれに添ひふす廊下の片隅
   机かけの青羅紗のうへキチキチと時計ぞ夜の冷たさを噛む
   かろやかにわれのこころをおさへたる女のしろく細き指さき
(21)   大柄の黒と赤とのねんねこの姿眼に浮ききみとなりゆく
斯樣な技巧はもう幼稚な技巧になつてゐる。夕暮君も恐らく得意な歌ではあるまい。せせこましい技巧や題目の陳列は歌の品位を低くする。折角の新しい光が輕くなり雨くなりするのが現今新しい歌人に通有の病氣である。内面の生活に更に深い工夫が要る所以である。1陰影」はかなり愉快に讀み得た歌集であつた。それで氣の付いた所を少し書いて見たのである。 (大正元年十一月「アララギ」第五卷第十一號)
 
(22) 若山牧水氏著「死か藝術か」漫評
 
   蒼ざめし額つめたく濡れわたり月夜の夏の街をわが行く
 見どころはよささうだが、全體に稀薄な感がする。第四五句が殊に一般的で餘計にさうなつたやうだ。
   鐵道の終點驛の溪あひの杉のしげみにたてる旅籠屋
 うれしさうな歌で惜しい歌である。作者の境地にはすぐ同情が出來るが其の境地から來る感銘とか色とかがもつと欲しい。
   あをやかに山をうづむる若杉のふもとにほそき水無月の川
 僕は「あをやかに山をうづむる」は此の歌には矢張り生きて居ると思ふ。「ふもとに細き」と云つて大變感じを集中して行く樣な調子と次に來る「水無月の川」とは頗る調和がわるい。大體面白さうな歌であるが、僕の近頃の傾向から云ふと、斯樣な比較的一般的な感じの中に更に微動して居る特殊(23)的な刹那的な物を捕へたい樣な氣がする。此の點に於て前の終點驛の歌の方が歌はんとするものに特徴を持つて居ると思ふ。
   多摩川のながれのかみにそへる路麥藁帽のおもき曇り日
 僕も捉へて居るといふ事には同感であるが、若山君にしてはもつと深く入つて貰ひたいとおもふ。
   搖るるとなく青の葉ずゑのゆれてゐる溪の杉の樹見つつ山越ゆ
「見つつ山越ゆ」だけが気になる。あとはよい。
   ふるへ居る眞青の木の葉つみとりて瞼にあつる、山はさびしも
 どうも態とらしい感じの方が勝つて居る。一般に今度の歌集は誇大しすぎた取扱ひが目につく心持がする。
   巨いなる蜂わが汗の香をかぎて身をめぐり居り啼聲さびし
 なやましい靜寂の感が微細にうまく頭へくる。
   わが薄き呼吸も負債におもはれて朝は悲しやダーリアの色
 僕も面白いと思ふが、それよりも言語や材料が強すぎるといふ感じがする。 (大正二年一月「アララギ」第六卷第一號)
 
(24) 「生くる日に」雜感
 
       〇
 夕暮氏は大きな雜誌を獨力で經營してゐる。そして「アララギ」のやうに發行日を遲らせたり休刊したりするやうな事がない。そして一年半の間に六百首の歌を發表してゐる。其の根氣力の強さは當代の歌人中比儔する者が少ないであらう。僕の如き弱蟲は此の點で既にむず痒い心持がする。
 根気力の強さは「生くる日」の凡てに現れてゐる。外界の事象、苟も眼に觸れ耳に觸るる者は悉く攝取しようとする努力がありありと見えてゐる。旅行などしても無駄歩きをしないといふ質の歌である。そしてどんな事象に對しても甚だ敬虔の心を以て取扱つてゐる。是は非常に大切な事であるが多くの歌人は主觀の閃きなどと立派な事を云つて疎大な生活に墮しつつあるのが多い。斯樣な種類の詩人が直ぐ油が盡きて火の消える連中である。
(25) 當代の歌には「見てくれ給へ」と云つて差出したやうな歌が隨分ある。夕暮氏の歌には夫れが比較的少ない。氏の歌は大抵の場合自分の感動に專念に對き合つてゐる。是も當代にあつて甚だ貴い事である。從つて氏の歌を讀んで厭味や反感を起させる場合は甚だ少ない。眞面目に事象に對き合つて眞面目に自己の感動と相抱いてゐるからである。
       〇
 無駄歩きをしないといふ質の歌であるから一面には煩瑣な歌ひ方をしてゐる。連作の場合など特に左樣な感を與へる。ああ澤山の歌を列べないで焦點となるべき少數のものへ更に力を集中したら今つと濃く現れはせぬかと思へる。
 從つて一首一首が敍述的であつて詠嘆的でないといふ場合が隨分多い。これは短歌の調子に對する考への相違から多く來てゐるであらう。
   黒き帆が我が顔の直ぐ前を行くに呼吸つまるごと我は見つめぬ〔八字右○〕
   廢船の赤き巖かげに傾きて夕日いつぱいにうけてゐしかな〔七字右○〕   こと、ことと古ぼろ船に錆釘をうつ漁夫《をとこ》あり岬はづれに
   白き魚手にさげひとり言しつつ來にし漁夫と顔見あはせつ〔言〜右○〕
   岩の上よりつととびしかば我が足の〔四字右○〕冷たき砂のなかに埋れし
(26) 面白い捉へ方をしてゐるが僕の思つてゐる歌調とは大變離れてゐる。從つて僕の眼には散文的であり叙述的であると見えるのである。此の終りの歌でも第三句を「我が足の」とするのと「我の足」と云ひ切るのとは歌調に大きな相違がある。夕暮氏の歌が厭味を感ぜしめず反感を起させる場合が少いに係らず、平板の物足りなさを感ぜしめるのは主として此の點にあると思ふ。氏は隨分暗い方面に顔を突き入れて熱心に歌つてゐる。それでゐながら「鋭き」「苦しき」「眩暈」「濁る」などの文字が眼につく割合に、歌が存外悠揚としてゐて暗澹たる感じを與へないのは矢張り敍述的である點から來てゐると思はれる。
       〇
   ニスをもて我が心塗れニスをもて我が心ぬれ無口の男よ
 斯樣な稚氣の歌が隨分ある。茂吉は女怨めしやと直ぐ泣く俗人の感傷と同然だと云つた。
 僕などは直ぐ泣く方の部類に入りさうな弱蟲であるが、夫れでも猶斯樣な種類の歌は稚な過ぎる感じがする。 (大正三年十二月「アララギ」題七卷第十一號)
 
(27) 「光を慕ひつつ」を讀む
 
 女流歌人が、如何なる域まで到達し得るかといふ事は、一つの問題である。萬葉集以後一千年間女歌人は殆んど空しい。小町、小大君、和泉式部、赤染衛門、中務等より降つて蓮月筑波子の屬を品隲するのは、只才氣の大小を論ずるに過ぎぬ觀がある。
 明治になつて與謝野晶子氏がある。與謝野氏は才筆煥發の詞章を以て浪漫的氣分の歌を作つた新しき歌人である。歌品より言へば之れ亦、才氣の歌を以て品彙せられ同架せらるべきの代物であるを免れぬ。
 才氣は人間すべての場合貴重である。只才氣は驅使せらるべきものであつて、驅使する所の主體でない。才氣は人間に便利なる點に於て、往々にして、驅使の主體活動を低易にし怠惰にする。
 茲に主體の緊張と、表現の直接とに向つて專心行住の徒がある。才氣を從屬と見、主觀の緊張を本體と見、表現の直接を目的と見るのである。斯樣な群れに集れる女流歌人の中に「光を慕ひつつ」の(28)著者なる山田邦子氏が居る。
 山田氏の歌は、初め經く淺いものでゐつた。夫れが、妻となり母となるに從つて追々強く深いものに遷つて來た。この現象は、數年前に注意して、アララギに書いた。年を經てよくなるのは、當然のやうであるが、女は違ふ。現實に没頭すればするほど、現實に征服されて、未だ三十ならずして、生動の氣力を失ふのが少くも現今女人の常態である。現實に没頭しながら、現實に壓せられず、現實を食餌として生長して行くの觀ある山田氏の歌が、經く淺いものから、追々強く深いものに進んで行くのは當然である。
 山田氏の歌は、いつも、しつかり自己の問題を捉へようとする。これが生命を生み、力を生む。同じく生命と言ひ、力と言つても、「片々」時代のは、生ま生ましいものであつた。鋭い一方で、深さが不足してゐた。夫れが近頃になつて、生ま生ましいものに、或る程度のさびを持ち、鋭い一方のものに、或る程度の厚さと深さとを帶びて來てゐる。
 氏は又、近來、表現に於て著しく萬葉集の聲調を學び、取材に於て、寫生的傾向を帶びて來てゐる。
   空のもなかいよいよ高く飛び過ぐる烏一羽を見てゐる吾は
   朝日かげ一杯させる罠の中に生ける鼠の動かざりけり
(29)   葭青々しげる河べを行きかへり生きんと思ひ返さざりしか 入水のむくろ 
   ただ一羽鳴いて通りし小烏の口眞似しつつ吾子《あこ》かへり來も
   繁《し》み青葉障子の外にいく日も來鳴きし鳥を今日見つけたり
の如きは其の一例である。氏が今後の大成は全然この傾向を押し進めて行くや否やに依つて定められる事を斷言してよい。
   外《と》のもには雪いや深み更けぬらし身もひそやかに香油かをれる
の一聯の如きには未だ遊びがある。殊に
   雪雪雪ベートウヴエンの音曲の秘曲の曲に舞ひ狂ふ雪
の如き甚しき異臭が介在するのは、少數と雖も、著者の未だ一途に澄み入り得ぬ事を諸據立てる點に於て、歌集全體を通じたる問題として、省察を望む。眞に澄み、冴え、さび、深くなり、大きくなり、尊くなるは、此の際の著者の工夫に存し、今後の著者の精進力に存する。 (大正五年七月「アララギ」第九卷第七號)
 
(30) 歌集「深林」の著者に呈す
 
 茲に「深林」一篇の批評を「深林」の著者前田夕暮氏に呈する。氏の歌集「陰影」時代より「生くる日に」時代に移り、「生くる日に」時代より今日に至つた徑路は、予としては比較的明了に知り得てゐるつもりである。夫れ等の予の事情は、最近氏の歌集「深林」に對して割合に多く理解の便宜を有するを感じた。予は今「深林」を批評せんとするに當つて、挨拶の交換、罵詈の應酬をする事を豫期せぬと共に、寸毫の忌憚と假借とをもせぬつもりである。此の批評を著者に呈するのは著者の自ら出でて答へられん事を要求するの意である。敬語を省くのは文意の簡潔を欲するからである。
 予の批評の大意を理解し易からしむる便宜上、初めに、「深林」の廣告文を擧げる。
  氏の歌は「生くる日に」一卷を境として、薄明幽暗の世界より出で、日光汪洋たる地上に男躍するの觀ありしが、近來更らに燃燒の度を昂め來たり、その光と生との交錯、實感驚異の表現は、深く人生本然の境地よら流露して自然の奥處《おくが》に到達し、最も特種たる姿を示現し、その己れより(31)發するの歌は悉く作者の嚴肅なる主觀的體現の絶體境に處りて感動の動く處自ら發露せり。收むる歌すべて六百首、今や最も特異たる裝幀を凝していづ。願くは來つて氏の生命に觸れよ。
 この文章を此處に擧げたのは、前田氏の歌の弊とする所の全部が壓搾されて、ここに聚つて居るかの觀を呈してゐるからである。此の文は誰が見ても惡文である。惡文でゐながら小癪な所がある。夫れは内容が菲薄でありながら、外面に莊重らしい嚴肅らしい深遠らしい熟語が羅列されてある所にある。斯樣な作文の腕前を持つてゐる文章の作者は、寧ろ正直に自己の無能を恥ぢて、大袈裟な物の言ひやうを愼み、謙遜に身を持して、平明に素朴に自己の言はんとする所を書き綴つてゐればいいのである。其の方が尠くも讀者に反感を起させぬ賢い仕方である。此の文章は恐らく前田氏自身の草したものではないであらう。中學生あたりが現代流行語辭典とでもいふべきものから、めちやくちやに熟語や短文を引出して陳列したものであらう。その文章を態々引出してここに擧げたのは、幸か不幸か其の文章が前田氏の歌の短所を殆ど完全に代表し得る程に、よく露骨に似寄りの病所を現してゐるからである。即ち前田氏の歌の病所を説明するために、偶々恰適な他の一資料を借りて來たのである。
 前田氏の歌の缺點は、右の文章の缺點とする所と甚だよく通じてゐる。夫れは氏の歌はんとする内容動機が、多くの場合決して重大な境地に立つて居らぬに關らず、如何にも重大らしい嚴肅らしい深遠らしい語句を陳列して一通りの外觀を整へんとしてゐる所にある。斯樣な心は、歌の作者が作歌其(32)の物の動機を多く外的の事情に置いて、自己の内面を開拓し蓄積するの努力を忘れる時か、若くは自己の所有を反省する眞實なる敬虔心を矢つてゐる時にのみ生れる心である。佛者の所謂|虚假《こけ》の心である。下世話に言ふ所のこけ威しでゐる。藝術を低卑に就かしむる根源の心である。
 予は徒らに形容の詞を並べるものではない。「深林」一篇のどの頁を繰つても其の例證は所在にころがつてゐる。
 予の面前に若し前田氏あらば、予は「深林」第一頁より終りの頁に至るまで一々その例證を指摘する事が出來る。
   たへがたく悲しき心、眼つぶりつのみくだしたり卵黄《らんくわう》ひとつ
   眼つぶりて草に座りてありければゆくらゆくらに心は揺るも
   そこここに松ある岡の横臥してくろみしづまる夕日の村は
   家なかばくろき砂地にたてさして人かへりけり松山の下
   物思ふ心は地《つち》にをりながら猶青空を見もるなりけり
 大正五年作「卵黄」五首である。第一首は初句が「たへがたく悲しき心」である。斯樣な重大な出發は末句に至るに從つて更に重大な勢の重疊を豫想せしめるのが自然である。然るに此の歌の末句は「眼つぶりつのみくだしたり卵黄ひとつ」である。卵の黄みを飲むといふ事は我々日本人の常事であ(33)る。夫れに何等特殊の事情、動機、乃至心持が添はぬ以上、單にこれだけを以て「たへがたく悲しき心」と相結ばうとするのは、日本人の如何なる階級の人にも必ず滑稽でゐる。若し又前田氏が「堪へがたき悲しき心」から進轉して卵の黄みを飲むに至る迄何等か重大な徑路があつたとすれば夫れは前田氏以外の人には殆ど想像がつかない。下句に至つて勢の重疊を豫想した讀者は、茲に至つて愈々滑稽を感ずる。若し滑稽を感ずるを不都合とするならば前田氏自身から、更に、卵の黄みを飲むといふ事の由々しき心持、若くは飲むに至つたまでの重大な徑路を説明して貰はねばならぬ。特に前田氏の飲んだ卵は「一つ」である。此の「一つ」は歌として最も重かるべき第五句の大尾に置かれてゐる。讀者の理解は彌々以て錯亂される。更に前に復へると、「眼つぶりつ」といふ第三句がある。之は予には甚だ難句である。何故といへば「つ」といふ日本語は、過去を現す助動詞の終止法であるからである。前田氏が若し第二句と三句との間に「、」を置かなかつたならば第三句迄連續して解されるのが當然である。當然であるべき二句間に「、」を置いて切り離すなどは亂暴でなければ無智である。假りに前田氏の企てたと想像される如く、「眼つぶりつ」を第四五句の副詞としてこれを解しても、卵の黄み一つを飲み下すに眼をつぶつたなどは、壯士芝居で演じても感心されないに極つてゐる。夫れ丈け、この歌は、重大な語句を使つてゐながら内容も動機も菲薄である。或は作者は、第四句「のみくだしたり」の「くだし」に歌の生命を托さうとしてゐるかも知れない。此の句は「眼つぶりつ」(作者の(34)意(?)に解して)に對しては利いてゐる。「卵黄ひとつ」に續くと滑稽になる。併し夫れは「たへがたく悲しき心」といふ大袈裟な出發を受けてゐるからである。若しこれが、そんな大袈裟なものでなく「胃を病みて衰へにけり眼つぶりて飲みくだしたり卵黄ひとつ」位なものであつたら落ち著かぬでもない。要は餘り大袈裟な女句を泣べすぎるを弊とする。序を以て猶言へば、作者はよく「卵黄」とか「樹海」とか「疎林」「緑樹」「無色透明」「漫々」「放膽」「恍惚」「外光」「同感」「弧獨」「感謝」「燃燒性」「發生」共の他隨分多く漢字の熟語を使用する。漢字の熟語を使用するのに必しも異論はないが、博物學や物理學や心理學にでも使用されさうな用語や、漢詩にでも出さうな熟語が餘り多く用ひられることを予は好まない。殊に、一つの熟字に多くの意味を持たせるなどは、詩や俳句ならば知らず、短歌には予は是認しない。
 第二首は、はじめが「眼つぶりて草に座りてありければ」である。境地は瞑目して草に坐するといふので寧ろ靜寂の境地でゐる。それは「眼つぶりて」「草に座りて」と「て」の弖仁波を對照的に二つ重ねてゐる句法と「ありければ」といふ間伸びのした句法と相待つて餘計に境地を靜かな心持に導いてゐるのである。その第一二三句から直に「ゆくらゆくらに心は搖るも」といふ境地に躍進してゐる。面喰はざるものは聖者と鈍者丈けである。若し作者が眞に末の句の樣な激越した感情を持つて此の歌を作つたとすれば決して初三句の如き靜かな調子を以て滿足する筈はないのである。滿足するのは詞(35)や句や調子に對して鈍感なのか、若くは上滑りの動機から生れてゐるのである。元來前田氏は、予の眼よりすれば殆ど歌の調子といふものを解してゐない。この事は昨年のアララギ第一、二、五、七、十一號にも度々延べて置いた。夫れに對してではないが、昨年の詩歌第五號に前田氏は「リズムといふものは、單に詩形の上にあるものでなく、生活を離れてないこともよく承知してゐる。然かし自分の歌に對する或る人々の批難は、どうかすると、自分の生活から引き離して來て、單にリズムの上から論ずることである。さういふ批評を書く人に限つて、氏(「生くる日」の評者加藤朝鳥氏を指す)の所謂『生活を離れたるリズムを追窮し、後には生活といふ主體がもぬけて仕舞つたあとのリズムを保護しようとする人々』である事も興味深いことである。云々」と言つてゐる。單にリズムの上から論ずるとは如何なる意味であるか解らないが、リズムを論ずるのは、作者の内生活の現れを論ずる事であると予は信じてゐる。從つて「リズムが生活を離れてないことも承知してゐる」といふ下から直ぐ「單にリズムの上から云々」といふ言葉をつかつてゐる前田氏の眞意は予に解釋がつかない。「單にリズムの上から云々」とは如何なる事を意味するか。もつと具體的に説明せられん事を望む。前田氏のリズム觀を具體的に聞いた上更に詳論する事にする。 第三首四首は、前二者に比較すれば、寧ろ讀者に反感を惹起させる事が少い丈け無難でゐる。併し乍ら粗雜である。神經は遲鈍である。第三首の「黒みしづまる夕日の村は」はどんな光景が斯んな具(36)合に現れたのか作者の説明を要求する。村には夕日が射してゐる。その夕日は一ばいに射してゐる。(「夕日の村」といふ大らかに張つた現し方は、夕日が一ぱいに射してゐる事を想見させる。)その夕日の村が黒み靜まつてゐるとはどんな光景であるかを説明してもらひたいのである。或は夕日の村の家々森々の一方が明く一方が黒く陰影を作つてゐる場合かとも考へて見るが、左樣な光景を單に「黒み靜まる夕日の村は」で現さうとするならば、作者の頭の粗雜と神經の弛緩を現す外には何物をも現し得て居ない。更に此の下句の「黒み靜まる夕日の村は」に對して、第一二三句「そこここに松ある岡の横臥して」との間には何等必至の關係を有してゐるか。之も作者の説明を須たねばならぬ。更に言へば、「そこここに松ある」といふ現し方と、「疎らに松ある」といふ現し方とは、事實は同じであつても作者の感興の集中が異つてゐる。「そこここに松ある」といふ事に感興を惹いてゐる作者と「黒み靜まる夕日の村は」と詠嘆してゐる作者と同一人であるからは少くも時間を二つにして考へる必要がある。さうで無ければ、この歌の上句と下句とは、互に對立して一種の模樣畫を成してゐると見てもよい。前田氏は自ら聲明して感動本位の歌を作ると言つてゐる。感動本位とは何の事であるか前田氏の説明を聞かねば分らぬが、兎に角自ら聲明して感動を重ずるといふ作者が、上句と下句と對立した模樣畫の如き者を詠んでゐるのは何の意であるか。茲に至つて益々氏の感動本位といふ詞の内容を聞く必要を生ずる。
(37) 第四首「家なかば」は家を半分などの意であらう。拙な詞である。「道なかば」、「時なかば」などは言ふが、「著物なかば」「箪笥なかば」「交番なかば」「店なかば」「家なかば」などは皆變である。一首全體が相變らず感勤して居ない。現し方は粗大である。「松山の下」の結句は全體を模樣畫とする外何等の利き目を持つてゐない。もつと家を建てさしてある光景の微細な空氣に鋭敏な神經を觸入さすべきである。觸入すればする程「松山の下」は不必要になつて來る。感動が一所に集中するからである。集中する感動は最も強い感動である。感動を強くするために餘計の材料を取り除けるのである。一方から言へば感動が集中する場合は餘計な材料は必然に取り除けられるのである。
 第五首は連作(?)中最も低級である。にきび男が女の前で取澄しでゐる位な程度のものである。にきび男が取澄せば澄すほど、側《そば》の人は、むず痒く可笑しくて溜らないのである。空を見守るなら一心になつて見守つてゐれば足りる。それを丁寧に「物思ふ心は地《つち》にをりながら」など言つてるのが一人よがりに取澄した所である。「憚り乍ら」と言つて口を窄《すぼ》めてゐるといふ所である。要するに、作者の感情は青空を見守るとこにも集中せず、地上に物思ふ事にも集中せず、生温るい感動に彷徨してゐることに氣が付かずして、感動の擬體に住してゐるのである。擬體であるから、本物らしい顔をすればするほど滑稽になるのである。これを調子の上から見ても、感動の生温るさは全體に行き渡つてゐる。「地に居りながら」「猶」「見守るなりけり」などは弛緩の甚しいものである。全體の何處にも引(38)緊つた所がない。男の調子でなく、女の調子である。女性でも近頃は、もつと引緊つてゐるやうである。斯樣な歌にまで感動本位といふ旗を掲げて「此一卷の中から例令一首でもさう容易に拔きさしは出來ぬやうに思はれる云々」(「深林」序文一節)と聲明して押し出してゐる作者の勇氣は驚くべき勇氣である。
 凡そ斯の如き外見のみを誇大した例歌は「深林」一卷の隨所に轉がつてゐる。一々批評したならば、一卷の書を成すであらう。暫く大正五年の近作中から其の最も著しいものを拔き出して置く。
   白孔雀|翅《つばさ》地《ち》に曳き歩みけり雄《を》は雌《め》をみつつ啼きもせなくに
   わが心刺すものありて日向ぼこ安らには早やなし難きかな
   牛飼場の女の若き笑ひ聲冬空にひゞきわが心刺す
   冬の日のしんと靜まる山上の疎林にあはれ小鳥を殺す
   ほたりほたり赤く滴る小鳥の血しんと日のさす疎林のまひる
   す黒鳥空ゆく鳥を殺したり心ほのぼのみち足らひしも
   放膽にはつ夏の日はてりわたる青ゆづり葉の青の若葉に
   いまも猶裏竹藪に入るものかふるさとの家の春の入り日は
   地《つち》深くわき出づる水の故里のにほひ愛《かな》しみ口ふくみける
(19)   しやしや、しやしやと地上を敲く夏の雨身近にききつ向日葵を植う
   大粒の雨こころよし現身の素肌をぞうつ空よりきたり
   我が足にふまれしゆゑに我が足のもとにて壞る、土の親しさよ
   潮ひきし故に赤かる腹みせて傾く船か眼にさみしけれ
   腹赤き船に人ゐず太陽はほしいままにも照り極みけり
「深林」一篇は大正四年三年作が四介の三を占めてゐる。夫れらの中でも
   大鴉に似たるをとこは白光るむなぎの上に大槌をふる
   青海の春の青魚日の濱にをどるをみれば生命《いのち》を感ず
   高草の日に靡きたる湖邊行き石竹の花を火かとおどろく
   扉《ドア》を押せばこなたへと椅子を指しし老院長の尖りし指さき
   日のもとに蛇をむちうつ農人の強きこころに同感するも
   かたはらにつばなほほけて日に光り日はこともなし蛇殺し終《おは》んぬ
   たのしかる無爲《むゐ》の心にかへりけり小沼《この》のほとりに日の色をみる
   小沼のほとり木々みな青く空をさす小沼は大魚《おほな》の眼に似たりけり
   あかあかと沼の底ひに日輪のくだりておよぐ眞晝なりけり
(40)   樹海《じゆかい》樹海青き壺なす湖光り湖の彼方に樹海をのぞむ
   山々の迫れるもとをすぐるとき湖はしづかに眼をひらきけり
   まことにわが心孤獨なりけり熔岩原の白枯れの樹によりそひて立つ
   九月なかばの燃燒性の外光の樫の木に燃え吾が兒ひたなく
の如きは外形のみが騷々しくて内容も動機も菲薄低劣なるものとして最も甚しきものである。類例は殆ど一卷中に累々としてゐる。前田氏が如何なる心を以てこれらの歌を棄て得ないかを解する事が出來ない。
 前田氏の歌は、現し方が大抵の場合必須性を缺いてゐる。必須性を缺いてゐるといふ事は、(1)表現弛緩なる事、(2)表現の不正確若くは不妥當なる事、(3)歌境未熟なる事等を綜合して言うたのである。分ければいくらもある。煩瑣であるから一括して言はうとするのである。
   大鴉に似たる男は白光るむなぎのうへに大槌をふる
大鴉に似たる男とはどんな男であるか。まさか越王勾踐ではあるまい。作者は面白いつもりであらうが、詰まらぬしやれである。不料簡な思ひ付きである。   しらじらとむなぎ光りて青空のもとに立てるをよしと槌ふる
 第一句から第四句までは、下から棟木の上を望んでゐる所である。五句に至つて、急に、棟木の上(41)に槌ふる男の立場になつてゐる。豹變自在にして一首の歌支離滅裂である。槌ふる男を棟木の上にゐると假定したのは、予が連作中の前の歌から推定したのである。
   青麥を大きなる黒き素足にてふみにじりつつ材木《き》はこぶ男  大正四年
「大きなる黒き素足にてふみにじり」迄は、作者の感動が麥を踏む足の動作に集中されてゐる。第五句に至つて急に集中が攪散される。「材木はこぶ男」の位置が惡いのである。白秋氏の大正三年作「地面と野菜」連作中
   大きなる足が地面《ぢべた》をふみつけ行く力あふるる人間の足が
   ふと見付けて有難きかもさ緑の野菜のかげの大きな片足
等と對照すれば分る。
 序ででゐるから此處に言ふ。白秋氏の同じ連作中に
   地面《ぢべた》より轉げ出でたる玉キヤベツいつくしきかも皆玉の如
といふのがある。前田氏の大正四年作中に
   家鴨《あひる》家鴨に押しかさなりつ地にまろぴ日光のなかに翅を鳴らす
といふのがある。白秋氏のは「轉《ころ》げ」が活きてゐる。前田氏のは「まろび」が戸迷ひをしてゐる。家鴨がころんだ事であるか、まろぶが如く走つてゐるのであるか分らない。「翅を鳴らす」など餘計な(42)所迄注意したために、之も感情の集中が攪散されたからである。猶序でに同じ家鴨の歌のつづきに
   一群れの家鴨ましろく光りつつ尾をふりありく何か淋しく
といふのがある。第五句が矢張りいけない。特に「何か」が惡い。必要がないからである。或は持たせぶりをしてゐるからである。故望月光男氏の
   うら丘の櫟《くぬぎ》が丘の下萌えのけぶれることも何か悲しき
の「何か悲しき」と對照して歌品を勘ふべきである。
   ちらちらと火は晝を燃え日の光火に照りながら寂しさまさる  大正五年一月七日
「ちらちらと」は不必要である。寧ろ夜間の小さな或る火に適した詞である。「火は晝を燃え」の拙は甚しい。而も夫れで中止して「日の光火に照りながら」と主體を日光に轉換してゐる。之では折角の第五句「寂しさまさる」が少しも寂しくはずんで來ない。それ前に勢は滅裂に摧かれてゐるからである。茂吉氏の「アララギ」大正五年一月號の歌に
   まかがよふ晝のなぎさに燃ゆる火の澄みとほるまのいろの寂しさ
といふのがある。之も對照して相勘ふべきである。
   海苔そだの黄いろく烟るひとところ海のもなかに日が杳《はる》かなり「海苔そだの黄いろく烟るひとところ」と、海苔粗朶の位置を嚴密に指定してゐる。そこに何物あり(43)や、何事ありやと讀者の注意を集めて置いて、急に「海のもなかに日が杳かなり」と煙波縹渺の境へ連れて行かうとする。統一せざる事甚しい。
   水脈《みを》ひとすぢなびけるのみに冬の海濁り光らずわがましたなり 前の歌と同じ連作中の一首である。之は全く意味を成さない。「なびけるのみに」は「なびける爲めに」などの意である。「冬の海濁り光らず」と何の關係があるか。第一句から第四句迄連續して、急に第五句で「わがましたなり」と夫れを斷《ことわ》つてゐる。此の第五句は只説明の役を勤める丈けである。斯樣な歌の場合には「わがました」は初めに冠らせるを妥當とする。位置顛倒である。これは前田氏の歌には非常に多い。一々引例の煩に堪へぬ。此の歌を、も少し詳細に亙つて言へば、「水脈一とすぢなびける」の「靡く」は變である。「濁り光らず」も變である。ここでは「濁り」は熟語法である。「濁り光らず」は、「濁り光るといふ事がない」の義である。不的確の一例である。   冬鴉くろく大きく麥畑の上に影ひき飛び去りにけり
 この歌も表現の順序が惡い。「麥畑の上に、冬鴉くろく大きく影ひき飛び去りにけり」といふ順序なるべきである。此の歌のままでは、黒く大きいのは、冬鴉であつて、冬鴉の影の事にはならぬ。作者の意まさかさうではあるまい。一體冬鴉とは何の事であるか。春鴉、夏鴉、秋鴉、冬鴉、皆未だ曾て聞かない名詞である。斯樣な名詞の使用には大體習慣といふものがある。春風とは言ふが、夏風と(44)言はぬ類である。
   太陽はほのぎらひつつのぼりけり、馬、圓をゑがく雪光る野に
「馬圓を描く」は意鰺を成さない。
   すぐろ馬裸馬こそ日の雪のかがやくなかに圓《ゑん》ゑがき馳す
「圓ゑがき馳す」は、此處でも意味をなすか何うか覺束ない。「日の雪の」とは何の事であるか。
   四月には二人行かむとちかひける道なるものを汝《な》は佛にて
 弟の遺骨を抱いて故郷にかへる連作中の一首である。「道なるものを」と、道にそんなに力を入れて現してゐるのは幼稚である。「故さとの道に汝《な》は佛なる」ほどに現した方が却つて利くのである。
   窓きはの白き寢臺に吾はいねつ右肋膜を打診されにつつ
斯樣なただこと歌が隨分ある。歌境未熟なるものである。
   赤き桃とろりとしたる湖《みづうみ》の水にうかせて見とれてありしも「赤き桃」は花か果か。「とろりとしたる」は「赤き桃」を受けるのが普通である。「浮かせて見とれて」居るのは遊戯である。
   赤き桃口をひらきてくらひけり日をうつくしとあふぎけるかな
 口をひらきて食はざるものありや。歯をやむ口とか飢ゑた口とか、何か特殊の事情が添はぬ以上斯(45)の如き現し方は甚しく滑稽である。
 猶前田氏の歌は一般に外延的でゐつて、包含が乏しい。平面的であつて、厚みに缺けてゐる。巻首孔雀の歌の如きはその一例でゐる。その他一々擧げれば際限がないから止める。前田氏の歌境は非常に廣くて何物をも材料とし得る技倆を揚げてゐる人もゐる。併しながら以上の如く不確實に、粗大に、無造作に現すならば、一通りの人は皆之を爲し得る。緊密に透徹せしめんとするから何人も歌材が取捨され局限されるのである。前田氏の歌材の廣いことは之と關聯して考へ得る所である。前田氏の歌について予は「生くる日に」の批評以來何度もその弊所を擧げてゐる。予の弊として擧ぐるものは前田氏に於ては近來益々瀰蔓され促進されるものとなつてゐるの觀がある。予はこれを以て批評の筆を擱くと言はぬ。言ふべきもの猶いくらも存するからである。氏の歌の弊所が「深林」の廣告文と益々接近の度を高めざらんことを希望して、暫く筆を休める。(十一月廿七日午前三時半病床にて)
                (大正五年十二月「アララギ」第九卷第十二號)
 
(46) 「伊藤左千夫選集」解説
     ――左千夫先生の短歌及び歌論――
 
 古泉千樫氏の計算によると、先生の世に發表された詩歌の數は左の如くである。
  明治卅三年 長歌一九 旋頭歌一 短歌二一七
  明治卅四年 長歌三一 旋頭歌五 短歌二三一
  明治卅五年 長歌二四 短歌二四七
  明治卅六年 長歌二六 旋頭歌二 短歌三一二
  明治卅七年 長歌八  短歌歌一六七
  明治卅八年 長歌一二 旋頭歌一 長詩七 短歌二七二
  明治卅九年 長歌一  長詩六  短歌歌二一二
  明治四十年 長歌五  長詩一  旋頭歌一 短歌歌二〇一
(47)  明治四十一年 長歌五 長詩一 旋頭歌一 短歌二〇一
  明治四十二年 短歌一三〇
  明治四十三年 長歌二 短歌五七
  明治四十四年 短歌七九
  明治四十五年(【大正元年】) 長歌一 短歌五七
  大正二年  長歌一 短歌六四
   總計 長歌一三五 旋頭歌一一 長詩一五 短歌二四四七
 これに就いて見ると、先生は晩年歌の數が減つてゐる。それには先生がその頃小説に深入りされたといふ事情もある。明治四十三年大水害に遭はれた頃の前後から先生の身邊に種々の事情が輻湊して、其の方に可なり心を煩はされたといふ事もある。併し歌の數が減つたといふことは、一面から見れば、先生が晩年に至るに從ひ、自己の歌に對する標準を高められて、作歌の態度が餘計に嚴肅に愼重になられたのであるといふことも出來る。先生の秀作であると思はれるものの大部分、例へば「獨鶯をきく」「九十九里濱」「妻の里籠をいたはる」「冬のくもり」「我が命」「ほろびの光」等は悉くこの頃の作であるといふ事が、之を實際に證據立ててゐる。先生と我々とは、明治四十四五年頃から歌についての考が違ひはじめた。そのため先生は餘程亢奮せられて、猛烈に我々と議論を續けられた。(48)夫れ等の刺戟が先生晩年の作歌態度に影響を及ぼしてゐるといふ事も一面否定すべからざる事と思はれる。年齢五十の巨大漢が我々若輩と精一ばいの議論を闘はせられて、その上作歌に對して益々緊張の態度を加へられたといふこと、この一事でも先生の面目は窺ひ得るのである。明治大正の文學者は二十歳三十歳にして大家となり、四十歳五十歳にして早く凋落するのが普通である。五十歳六十歳老いて益々鍛錬の精彩を放つもの今日の文壇に於て稀有である。此の點に於て吾人は生ける鴎外を偉なりとし、逝ける子規漱石を惜むと共に吾が伊藤左千矢先生を痛惜するのである。
 先生の歌が晩年に至るに從つて、緊張の度を高められて精彩を放たれたといふことは色々の例によつて之を敍べることが出來る。先生が九十九里濱に遊ばれて歌を發表されたこと三回ある。
       明治三十五年
   人みなのあそぶ睦月を波まくら矢刺が浦に吾は來にけり
   白砂のかわける濱にかまめかもふめる足跡あやにめづらし
   濱原に風が砂吹きなれるかた鍛物師《いもじ》秀眞に見せまく思ほゆ
   荒波の矢刺が浦は都べに拾ひてゆかむ貝も玉もなし 京なる友許におくる二首
   荒波の音にとどろく投矢の矢刺が浦を見にも來ぬかも
       明治四十年
(49)   九十九里の磯のたひらは天地の四方の寄合ひに雲たむろせり
   秋立てや空の眞洞はみどり澄み沖べ原のべ雲とほく曳く
   ひさかたの天の八隅に雲しづみ我が居る磯に舟かへり來る
   ひむがしの沖つ薄雲いり日うけ下邊の朱けに海暮れかへる
   和田津美の磯の廣らに三人居ら八すみ暮れゆく雲を見るかも
   をさなきを二人つれたち月草の磯邊をくれば雲夕燒す
   白雲もゆふやけ雲も暮れ色にいろ消えゆくも日は入りぬらし
   朝ぎらふ磯ゆきくれば白妙の麻のころもに潮みちにけり 秋立つ日
       明治四十二年
   人の住む國べを出でて白波が大地|兩分《ふたわ》けしはてに來にけり   天雲のおほへる下の陸ひろら海廣らなる涯《はて》に立つ吾れは
   天地の四方の寄合ひを垣にせる九十九里の濱に玉拾ひ居り
   白波やいや遠白に天雲に末べこもれり日もかすみつつ
   高山も低山もなき地の果ては見る目のまへに天し垂れたり
   春の海の西日にきらふ遙かにし虎見が崎は雲となぴけり
(50)   砂原と空と寄り合ふ九十九里の磯ゆく人ら蟻の如しも
明治三十五年頃にあつて、砂の上の鴎の足跡や、風の後の砂の波紋などを歌つてゐるのは甚だ新しい上に、その歌ひ方も甚だ自然である。併しながら、九十九里の廣漠たる砂原に立つて天地瞑合の大觀に對する主觀の動きは、第二囘第三囘に至つて初めて現れてゐるの觀がある。台諌二囘のは寧ろ第三囘の準備作であると見られる。(勿論第三囘とは獨立して立派な歌があるけれども)第二囘の準備作から二年經た第三囘の歌を得られるまでの徑路は作者に取つて重大なものであつたに相違ない。毎囘時を異にし、從つて心持を異にしてゐるのであるから、三囘の歌に心持や捉へ方の相違あるは勿論であるが、而も作者が毎囘に共通して感受されてゐるものは廣い砂濱の壯大感である。先生は之を現さう現さうと苦心されたに相違ない。(先生はよく予に向つて君は山育ちだから一度九十九里の廣さに接する必要があると言はれた)その苦心が數年間繼續して第三囘の歌となつて現れたのでゐる。勿論その繼續は意識的にのみ行はれたといふのではないにせよ、魄力の大と、緊張の持續と、表現の苦心とが竝び至らねば斯の如きを得ないのである。此の第三囘の歌は實に左千夫先生の傑作であつて、同時に歌の世界にあつて千古に絶する底の雄篇であると予は信じてゐるのである。壯大とか嚴かとかいふ感嘆的の詞は殆ど使用されないで、捉ふる所歌ふ所は自ら天地悠遠の性命に合してゐる。斯の如き歌を我々は寫生の極致なりとするとともに、斯の如くにして初めて高き意味の象徴歌に進んでゐるも(51)のと解するのである。先生はいつも「歌は作るものにあらず。産るるものなり」と言はれてゐた。「産るるものなり」とするの意を、單に無造亀作に詠み上げればよいといふ意に解する者あれば先生の言葉の髓に徹し得ぬのである。瞬間の感動を即座に歌ひ上げれば足りるといふやうな無造作な考へ方をしてゐるものは、左千矢先生の九十九里の歌が如何なる徑路を通つて初めて※[酉+媼の旁]釀と※[酉+發]酵の域に入り、おのづから醇醪となつて迸り出でたかを考ふべきである。
 先生は明治四十三年四月號の「アララギ」で人麿の歌を難じて、不滿とするの四箇條を擧げてゐる。
 一、文彩餘りあつて質之に伴はざるもの多きこと
 二、言語の動きが往々内容に一致せざること
 三、内容の自然發動を重んぜずして、形式に偏したる格調を悦べるの風あること
 四、技巧的作爲に往々匠氣を認め得ること
そして明治三十六年「馬醉木」第一號二號に亙つては人麿の形式壬義を棄てて、赤人憶良の寫實主義を繼承して行かねばならぬことを論じて居られる。明治三十九年三月號「アララギ」に與謝野晶子の歌を評する中に、
 (上略)昨年以來明星派の人々も漸く萬葉集の研究を始めたりと稱せらる。晶子の歌の如きも頗る變化し來り、從來の空想主義を固守せず大に寫實的抒景的傾向を有するに至れりといふ。果して然(52)らば予は詞壇のために慶賀するに躊躇せす。予が聊か茲に批判を試みんとするに至れるも亦それが爲なり。云々
と言つて居られる。先生は矢張り子規以來の寫生主義を重じて居られたのである。さうして先生は事象の要點を捉へて、その點へ力を集むべきことを度々説かれてゐる。この點が長塚さんの三十八年頃唱へたり作つたりせられた寫生歌と違ふのである。先生が力を一點に集中せよと言はれたことは、明治三十九年二月號「馬醉木」甲斐昇仙峽諸同人作の批評及び自作歌についての所説がよくこれを表してゐる。今それを摘出する。
 (上略)全體に評して八仙の名を保留するの光榮は聊か六づかしいであらう。乍併決して失敗の成績ではない。安座空想に耽るの徒の夢にだも及ばぬと思ふ歌が少くはない、兎に角寒中御嶽の奥を踏破した甲斐は此歌だけの上に於ても充分であらう。散々諸君の歌に酷評を加へて置いて、自分の作を出すに躊躇するは甚卑怯の次第であるが予は諸君の點(この字誤か)を辭退し、六號(活字の意)を以て卷末を汚して置く。單に藷君の參考に供するのみで、之を予の理想の作と見られては困る。全然失敗の作とも思はないが決して成功のものとも云へない。就ても予の用意だけは一寸言うて置きたい。昇仙峽の如き神境は到底歌の及ぶ所でないが、何所か境中の中心たるべき一箇所をつかまへ、それを極力詠みつくさば、或は依て以て御嶽を髣髴せしむることが出來ようかと考へたの(53)である。水だけを詠まんか、石だけを詠まんか或は橋を詠まんかなど種々苦心の結果御嶽の中心は何うしても瀧と水とであると思つたのである。それで仙娥瀧の瀧壺を主としてやつて見たれど、思ふ十分一も現し得ない。諸君の歌を見て、あまり根本の用意に乏しいと思つたが、自分のは用意負けをした感がある。云々
 先生のこの用意と、先生の感動とが最もよく合致して生れた歌の中に前掲「九十九里濱の歌」を數へることが出來るのである。九十九里濱の如き歌を生んでゐる先生にして、初めて、人麿の歌を評して「文彩餘りありて質之に伴はず」と斷言するの威力を持ち得るのである。歌人自ら作《な》す所の歌翩々として吹き飛ばさるるやうな者を以てして猶且つ立言大語を敢てするが如きは、歌壇よりすれば耳邊虻飛ぶに等しいものである。予が先生の歌を敍ぶるに當つて、先づ九十九里濱の歌を擧げたのは、先生の作歌態度の緊張とその晩年に至る持續と、猶その上に、先生の寫實主義と寫實に對する用意とが如何なる域にまで先生の歌を進めてゐるかが、この歌によつて快適に現されてゐると思つたからである。
       〇
 先生は故長塚節氏の歌の如く、きちんと引き緊つた粒の揃つた歌を作られなかつた。先生の歌は概して大柄である。時々大き過ぎて纏めるに持て餘すやうなこともあつた。先生の肉體は二十貫ほどあ(54)つた。さうして度の強い近眼鏡を二つ重ねて掛けねば普通に物を見られぬほどの近眼であつた。先生が作歌の上に寫實を唱へられながら、その寫實が所謂主觀的色調を濃くして、そこから直ちに想像の世界に突入すること珍らしくなかつた。夫れがすべて發動的に大きく生き動いてゐる。これは先生の眼と體力とに關聯して面白い対照をなしてゐる。前記仙蛾瀧で「何所か境中の中心たるべき一箇所をつかまへ、それを極力詠みつくさば或は依て以て御嶽を髣髴せしむることが出來ようか」と言つて詠まれた歌
   星屑のひかり激ちて落ちそそぐ眞空の瑠璃に波ただよへり
   色ふかみ青ぎる瀧つぼつくづくと立ちて吾が見る波のゆらぎを
   姫神のめづる瀧つぼ波ゆらぐ蒼波がそこに宮居ますかも
   天雲の八重垣垂れて神の子が舞せむ瀧つぼ時告げこさね
   紫に黒み苔むす大巖のまほらを斷ちてとよもす瀧つ瀬 以下八首略す
を見ても先生の事象に對する感激が如何なる方向に進んで行かれるかを想像し得るのである。先生のこの傾向は、先生の歌に、神、天國、天女、姫神、星、玉、瑠璃等の材料を可なり多く提供してゐる。左樣な天國天女星瑠璃から先生の歌が時々煩ひされるやうな場合でも、夫れが明星派の星や天女と自ら異る響きを傳へるのは、先生の主観が自己の實感に根ざして極めて強烈に眞劔に投げ出されて(55)ゐるからである。予が時々先生の歌に對して瑠璃や神女の出現し過ぎることを言ふのに對して、先生はいつも「産まれるのだから仕方がない」といはれ「さう註文されても、註文で歌を作ることは出來ない」といふ返事をされた。先生はよく「歌を作るは子を産むやうなものだ。どんな子が産まれるか産まれて見ぬうちは分らぬ」と言つて居られたが、それは先生の歌に對する強い自信から生れ出た詞であつて、責任囘避や諦めの詞ではない。
 明治四十四年六月既「アララギ」で
 自分は近頃どういふものか、無造作に自然に骨も折らないで、腹の中から流れ出るやうな歌を詠みたくなつた。
と言つて、その終りに
 勿論それは口から出まかせの意ではない。
と斷つてゐる。「無造作に」「自然に」「骨も折らないで」等の詞を以て無技巧主義と解する者があつたら間違ふ。是等の詞、皆先生の強い自信から生れ出てゐるのである。
 先生は肉體のヵ旺盛にして強い心を持つて居られた。その強い心が他に向つて發動する時は潮の寄するが如く止めがたい勢を示されると共に、内に湛へるときは山の湖の如き靜かさに自らを置くことが出来た。これは眞に強い心の所有者にのみ見らるべき特徴である。先生は茶を愛し、釜を愛し、茶(56)碗を愛せられた。晩年には茶室兼書齋ともいふべき唯眞閣を庭の隅に建てられて此處に籠つて筆を把る傍ら香を焚き茶を點ずることを樂まれた。そして太古人の體につけた玉を多く所持して愛翫せられ、その玉と玉と相觸るる音を樂まれた。唯眞閣は方丈の室にも譬へつべき小閣で、室の四方を土壁で圍み、僅に出入の小さな戸口と、小さな明り取りの窓を明けて置かれた。四壁居、四壁道人と自稱せられたのは初めから斯ういふ居室を喜ばれたためである。先生は自ら好むものを好むに何の躊躇をもされなかつた。明治大正時代の革新された歌を作すほどのもので、茶道などに没頭するものは日本中に一人もなかつた。先生は自ら樂しむ道を樂しむ人が日本中に他に一人もないことを氣に留めて居られなかつた。這般幽寂孤獨を樂しむ心は、他に對して何處までも積極的に働きかけた先生の心と相對して先生の人柄を大きくしてゐる。先生の歌柄が大きいといふことも之と關聯して會得すべきである。
       明治三十八年
   掛けて見るいづれはあれど赤玉《あかたま》の切りこの玉は家照るまでに
   遠つ代の神代の人の庵なれや柱に繁々《しじ》に玉懸けて居り
   いにしへの人しなつかしおしなべてをとこをみなも玉|纏《ま》きもたる
   玉といふは怪しきものぞ手にまけば心とほりて物思ひ去りつ 四首抄出
(57)       明治四十一年
   冬ごもるあかるき庵に物も置かず勾玉ひとつ赤きまが玉
   雪の道未だ開けず勾玉と古き書とに我がこもりをり
   冬ごもる我を親しむとなり媼雪割蕈を今日もくれしも
   山人のつとの兎に冬ごもるいほりの七日さびしくもなし
   山かげの青菜の畑に小徑近み吾が冬ごもり事缺かずけり
   玉をめで茶をめで一人冬ごもり空しきこころ二十日過ぎしも
       同年
   煤びたる四壁の庵にものはなしものは無けども二つの勾玉
   青丹照るうづの勾玉二つもち今神世なす吾がいほりかも
   いにしへの皇子《みこ》大王《おほぎみ》も寶とぞ戀へるまが玉われ二つ得し
   あなうれしこれの曲玉吾が心のどにゆたかに神さびにけり
   神のみ手に觸りし曲玉またけくて今のうつつに見るがうれしも
   白毛髭八束豐垂る廣胸に青丹よろしきうづのまがたま
斯樣に靜寂な心に居て自ら樂しむといふやうな種類の歌は先生の晩年に至つて甚だ減じてゐる。これ(58)は前に述べたやうに、先生の晩年種々の事情が身邊に輻湊して、そのために心を艱まされたことが可なりの程度に甚しかつたため、流石の先生も茶や玉に親しむ横會が少なかつたのであらうと想像される。先生の晩年の歌には大きな動搖の波が現れてゐる。さうしてその動搖は先生の一生涯を通じて最も深刻な響きを歌の上に傳へてゐる。
       明治四十四年
   今の我に僞ることを許さずば我が靈《たま》の緒《を》は直ぐにも絶ゆべし
   苦しくも命ほりつつ世の人の許さぬ罪を悔ゆる瀬もなし
   生きてあらむ命《いのち》の道に迷ひつつ僞はるすらも人は許さず
   わが罪を我が悔ゆるときわが命如何にかならむ哀しよ吾妹《わぎも》
   世に怖ぢつつ暗き物蔭に我がいのちわづかに生きて息づく吾妹
   明るみに心怖ぢ怖ぢ胸いたみ間なく時なく我れは苦しよ
   悲しみを知らぬ人らの荒らけき聲にもわれは死ぬべく思ほゆ
   世の中を怖ぢつつ住めど生きてあれば天地は猶吾を生かすかも
「此歌を作つた時、自分は反復口誦して見て、自ら我歌に我が心の動搖を覺えた」と言はれてゐる。(アララギ明治四十五年一月號)この位大膽な告白と深刻と悲痛な響きを傳へてゐる歌が上下二千年(59)の我國歌の上に幾何現れてゐるかを考へるとき、先生の大きな命の力を想はずには居られない。
       明治四十四年
   霜月の冬とふこのごろ只曇り今日もくもれり思ふこと多し
   我がやどの軒の高葦霜枯れてくもりに立てり葉の音もせず
   冬の日の寒きくもりを物もひの深きこころに寂しみて居り
   獨居のものこほしきに寒きくもり低く垂れ來て我家つつめり
   ものこほしくありつつもとなあやしくも人厭ふこころ今日もこもれり
   裏戸出でて見るものもなし寒むざむと曇る日傾く枯葦のうへに
   曇り低く國の煙になづみ合ひてさむざむしづむ霜月の冬
   よみにありて魂靜まれる人らすらもこの寂しさに世をこふらむか
   我がおもひ深くいたらば土の底よみなる友に蓋し通はむ
曇り日獨居の歌であるが、前に擧げた三十八年四十一年頃迄の獨居の歌とは大へん趣が違ふ。前の獨居の歌の心の朗らかなのに對してこれは著しく暗く沈んでゐる。沈めば沈むほど先生の底力が現れて來る。その力が歌全體に重も重もしい響きを傳へてゐる。
       大正元年
(60)   おりたちて今朝の寒さを驚きぬ露しとしとと柿の落葉深く
   鷄頭のやや立ち亂れ今朝や露のつめたきまでに園さびにけり
   秋草のしどろが端にものものしく生きを榮ゆるつはぶきの花
   鷄頭の紅《べに》古りて來し秋の末や我れ四十九の年行かむとす
   今朝のあさの露ひやびやと秋ぐさやすべて幽けき寂滅《ほろび》の光
この歌を讀むと、予はいつも先生の最後の歌であるといふ感じがする。草露荒寥たる庭に對して四十九歳の秋の過ぎ行くを嘆いてゐる聲が、おのづから先生の生きの命を嘆いてゐる聲となつて我々に迫つて來る。全體に哀音を帶びて而も夫れが莊重に嚴肅に響くところ、先生の歌の偉大な所以である。五首のうちに殆ど寂寥悲哀の形容詞が用ひられてゐない。さうして夫れがおのづから哀音を含んでゐるといふのは、歌全體の調べに哀しみの心が響いてゐるのである。
       〇
 先生の心は強く、先生の魄力は旺盛であつた。先生の思想は主觀的であり獨斷的であつた。さうして夫れが先生を想像の世界に深入りせしむるの傾向を持たせた。先生は明治卅八年頃から宗教問題に興味を持たれた。信仰問題や人生問題が「馬醉木」誌上に現れはじめたのは此の頃からである。先生はこの傾向を以て根岸派の歌が初めて人生の深所に觸到せるものとなして、根岸派の經路の上に一新(61)期を劃するものであるとせられた。明治四十一年「馬醉木」終刊の消息に
 歌道新興の發展上、子規子の活動は其第一期に属し「馬醉木」五年間の奮闘は其第二期を劃したりと云ふべし。(中略)
 子規子の研究的態度は、文學は只文學を目的とし、歌は只歌を目的と爲せしと云へる見地に立ちたるものと見るべく、從て其作物の跡に就て見るも、自然を親しみ人生を傍觀せるの趣あり。(中略)
子規子の事業を繼承して起れる「馬醉木」の活動は甚だ遲鈍を免れざりしと雖も、又窃に自ら安ずるに足るものあり(中略)文學美術上一切の問題が、人間の研究を根本とせる如く、歌に於ても勿論寧ろ人間其物に直接なるべきを論じ、作歌理想は子規子時代と頗る其中心を異にし、明確に其然るべき理由を自覺せり。故にその態度は自ら人生を親しみ自然を傍觀するに至れり。(下略)圏點原文に據る。
 子規の歌が人生を傍觀し、馬醉木(茲には主もに先生)の歌が自然を傍觀したとなせる先生の見解の當れりや否やを考ふるは別にその時がある。只先生をして如上の提言をなさしむるほどに、先生の信仰問題に對する態度が熱心であり眞劔であつたことを想ふべきである。
       明治四十一年
   風さやぐ槐の空をうち仰ぎかぎりなき星の齢をぞおもふ
(62)   秋の空の物かなしきに顧みて虚假《こじ》をいだける心悔やしも 連作十首中録二首
   打破りし硝子の屑のねばりなくすべなき人は見るも苦しも
   まがね路の汽車の動きを打ちなごむばねの力し尊かりけり 七首一聯中録二首
   秋の野に花をめでつつ手折るにも迷ふことあり人といふもの 採草餘香中録一首
 先生の信仰や人生觀が露はに現れすぎてゐると思ふ歌を摘出したのである。これだけの歌では實は我々も感心しないのである。併し乍ら性根の強い先生が、信仰問題人生問題に深入りしてゐるうちに、おのづから夫れが先生の歌を深い處に導いて行つたことは有難く尊いことである。信仰問題、人生問題を云々するほどのものは世の中に幾人もある。夫れが皆人生の深所に至り得るとは思へない。夫れ等の問題に一旦入りはじめたら何處までも生眞面目に根氣つよく深入りするを得る先生の心を尊く思ふのである。前に掲げた先生晩年の諸作悉く沈痛なる響きを成してゐるものは、先生の信仰と人生觀とが、おのづから其の基調を成してゐるのであらう。この邊になると、もう、生《な》までないのである。我々の頭はその時に自づとその前に下がるのである。
 先生の體力と浪曼的傾向を持つた心とは、先生を信仰問題に導くと共に、先生を頃悶の方面にも導いた。先生の晩年種々の事情が輻湊したと言うた中には此の問題が含まれてゐる。煩悶の問題と信仰の問題とは實は相通じて居り若くは相一致してゐる。信仰の問題に一途に深入りした先生は、その性(63)根を以て煩悶の問題に一途に深入りした。この兩者は先生の頭の中で可なり苦戰をしたことであらうと思はれるが、先生の気質としてこの苦戰を容易な處で講和させようとするやうなことはないのである。最後の決著は兩者とも眞劔な意味を以て一致するに至るに違ひない。先生の苦戰は想ふに、未だ最後の一致を見るに至らずして中道卒然命を殞されたことであらう。氣魄旺盛老いて心の壯なりし先生が、遺されたる問題を抱いて急に他界されたといふこと痛惜するに餘りあるのである。遮莫、先生のこの眞劔な苦戰の痕は、深刻沈痛な歌の響きとなつて先生の晩年を充してゐる。我々はその歌の遺響に接すると共に、斯樣な歌の依つて生るる所以につき深く思を致す必要があるのである。
       〇
 美術論は美術の具體的製作品を根據として爲さるる故に命がある。歌論は作歌の例證を伴ふことに依つて命を生ずる。歌論が單なる歌論として抽象的になさるるものは、大抵の場合我々に權威を感ぜしめない。作歌の例證が主である。若くはその例證を具體的に提示し來つた心持が主である。すべての歌論は要するにその心持に對する説明である。子規の元義論は、元義の歌の生動せると、その生動せる歌を提示し來つた心によつて權威を生ずるのである。佐々木信綱氏の言道論は、言道の歌の低調にして多く月並なると、その月並の歌を天保歌人の權威なりとして提示し來つた心によつて折角の長論文を遺憾にしてゐる。我々は雜誌の上で毎月多くの歌人の歌論を讀む。さうしてその歌人の主張す(64)る所の本意を具體的に知らんがため、その歌人の作品を檢べて見る。若し其の主張に權威を感ずするとすれば、夫れは立言より來る權威成よりも寧ろその作者の歌から來る權威である。歌人の主張はおのづからその作品の上に生れてゐるべきであるからである。
 左千矢先生の歌論は、最初予は稿を別にして書くつもりでゐた。さうして先生の歌論を一通り纏めて見てゐるうちに、先生の歌論は先生の作歌を讀んで見ればそれで盡されてゐるといふ感じがした。先生のすべての歌を一貫してゐる精神は、先生の歌論を一貫してゐる精神である。先生の歌論を言ふに當つて、先生の歌を引き離しては先生の心が分らないのである。先生の歌論につき別に稿を起すことを止めて、先生の歌につづけて書かうとするのはその爲めである。
 先生の歌に對する主張の重要な點は要するに左の數者に盡きてゐるやうである。
 一、強き實感に根ざすべきこと
 一、強き主觀の動きが、さながらに歌の上に響いて居るべきこと
 一、歌の生動は主として歌の聲調に現れること
先生の主張は初めから終りまで一貫してゐる。一貫してゐるから簡單である。歌論の發表は凡そ十年に亙り長短篇可なりの多數に上つてゐるけれども、要約するの容易なるを感ずるは先生の主張が強い調子を以て終始を一貫してゐるからである。
(65) 歌の製作が強き實感に根ざすべきことに就ては、明治四十三年人麿の歌を評して、「文彩餘りありて質之に伴はず」「内容の自然的發動を重んぜずして形式に偏したる格調を悦べり」といつて之を非難し(前出)明治三十六年「馬醉木」第一卷第二號萬葉論には、萬葉集卷五憶良の歌「家に行きていかにか吾せむ枕づく妻屋さぶしくおもほゆべしも」等七首を擧げて人麿の歌と比較し「著想の最も自然にして情懷の極めて痛切なるを覺えずんばあらず」として人麿の歌の往々實感を離れて形式を整ふるに急なるを擧げて居られるのでも先生の心を伺ひ知るべきである。明治四十五年二月十一日讀賣新聞紙上「新しい歌と歌の生命」と題して論ぜられた中に
  作者の作歌境遇に於て興奮した作歌感情の力が一首の組織に要する一切の分子を融合統一するのである。反對に言へば、作歌感情の興奮なくしては一首の歌も成立しよう筈がないのである。世の多くの紹介報告記述的作歌に生命の無いのも以上の理由に依るのである。
と言はれ、明治四十五年六月號「アララギ」に表現と提供と題して論ぜられてゐる中に
  今日の歌の最も大なる惡弊は、各考へに考へた上に勝手な自覺を開き、意識の働きを驅つて、無暗と思索に思索を重ねて歌を作つてゐる點にある。自然感情の動きが直接に響きを發したやうな歌は實に少ない。實際感情の興奮から湧いたものでなく、情趣を思索し想像し、然らずとするも、殊更に我から勉めて釀した興奮に於て(さういふことがあり得るや否やは疑問であるが)作つたと思は(66)れるものが多い。であるから「眞」の感じある歌が無く、「假」の感じの歌が多い。歌に充實がなく力のない所以は、それが爲めであらう。
と言はれて、感情の深い興奮から生れない多くの歌が、先生の所謂記表的説明的報告的の歌になるといふことを極力主張して居られる。尤もこれは當時先生が少壯な門人どもと意見を異にしてゐたため、門人たる我々の歌を對照として言はれてゐるのである。我々の歌が當時先生から説明的報告的の歌乃至即興的思ひつきの歌、一寸したおのろけの歌とせられてから、そろそろもう十年になるのである。先生はよく歌を評する時、詞のこねくり、ひねくりといふことを言つて非難をされたことがある。感動至らずして歌を作すとき、詞の上のあやつりを以て表面を彌縫するに至るを言はれたのである。我々の歌乃至世上多くの歌を以て、いつも強き感動に根ざして居らぬとせられた先生の議論は、前掲先生晩年の諸傑作によつてその威力を具へ來るを覺えるのである。
 既に強き實感の根ざしがある。そこから生れる強き主觀の動きは、夫れが、宛らに歌の上に響いて居らねばならぬ。その宛らの響きは主として歌の聲調に現れる。これがいつも先生の歌論の骨子をなしてゐるのである。
 明治四十三年十月號「アララギ」で若山牧水氏のアララギ評に就いて評せられてゐるうち短歌の調子といふことに就いては、昔の人も今の人も隨分よく論じてゐるが、皆内容と調子との關(67)係をおろそかにして、單に調子ばかりを論じて居るからいつも徹底しない。
と言はれて、歌に調子といふは、主觀の調子の發動であるといふ根本義を説かれ、更に歌の調子について
 「誠に御愁傷でございます」といふ言葉は、單に悔みの意味だけしか現れてゐない。その言語にそれを述ぶる人の同情的調子が加はらなければ眞の同情の悔みにはならない。所謂禮儀一遍の型になつてしまふ。
 それを述ぶる人の言語に、陳べる人の同情的調子が加はらなければ「眞に御愁傷でござる」の誠意はその言葉を受ける人に達し得ないのである。
 普通の言語應對が既にそれである。永久に生命を有すべき詩の内容と調子との關係が如何に重要であるといふことは、この一つでもわかるべきである。
 元來吾々の感情が言語文字の記述では現れないのが普通である。言語の調子に伴ふ聲調の色合(ここの意味はどうしてもうまく言へない。假りに色合といふ)によつて始めて人に傳ふることが出來るのである。であるから、感情の分子の最も多き韻文に於て調子の働きが充分でなければ詩の生命がないのは當然のことである。
と言つて、歌の調子が歌の生命の主要なる位置にあるべきを唱へて居る。先生が「言語のひびき」と(68)いひ(明治四十三年十二月號アララギ)、「言語句法の聲化」といひ(明治四十五年二月十一日讀賣新聞)、「叫び」若くは「叫びのこもり」(大正元年九月號十一月號大正二年二月號アララギ)と言はるるもの、何れも聲調の上に主觀の動きが現るる關係を種々の方面から説き明らめようとせられたものであつて、歌の言語句法即ち聲調が主觀の響きを傳へて居ないものを報告歌記述歌等と命名して排斥せられたのである。
 先生の生涯を通じてなされた歌論のうちで最も力を注がれたものは如上聲調論である。香川景樹も歌に聲調を重じて「歌はことわるものにあらず、調ぶるものなり」といひ、「調べ調べて天道にかなへんとするなり」というてゐる。兩者同じく聲調を重ずる故に、兩者の歌論相通ずるものであると見るは、形を見て心を見ざるものである。我が左千夫先生の唱へらるる聲調と景樹の唱へてゐる聲調とは同じく聲調であつてもその羞千里である。千里といふよりも黒白といふ方が一層適切な位である。その相違を知るは只兩者の作せる歌に就くより外はないのである。歌人として議論よりも歌の大切な所以が茲にある。先生の聲調論は、も少し立ち入つて細かに書かねば盡されてゐない。歌と寫實、歌と信仰及び人生の問題等は前にその大體を擧げた。猶先生の矩歌連作論については茂吉が嘗て「アララギ」に論じてある。その他猶遺漏多からんと思ふが一先づ茲で擱筆する。(五月二十九日)
(69) 先生は十六歳の時太政官へ建白書を獻つたさうである。建白書の文章を作つて夫れを書く事を兄に頼んださうである。字が下手であつたからである。(文明談話)先生は少年時代甚だ惡筆であつて手習に於て何時も兄に負けて居たさうである。(文明千樫等より傳聞)先生は自分の字の下手な事を知つてゐたが、他の所謂上手な字を眞似ようとするやうな事はなかつたらしい、何處までも自分の下手な字を眞面目に書いて居られた事が自分の書道修業の壬もな造であつたらしい。故長塚氏の字は一見酷だ子規に似てゐる。先生の字は長塚氏の夫れと違ふ。先生晩年の書は殆ど天授と思はれる程な自然の姿と寂びの心を持つて居る。さうして夫れが先生らしい大さと力とを具へてゐる。下手な字を眞面目に書き貫《ぬ》いてゐるうちに自然に左樣な處に達せられたのである。敏捷者では行きつかれない遣である。予は子規の字に敬服してゐると共に左千夫先生の字を大きく尊いものであると思うてゐる。書道の上よりは岡氏が別に論じて下さる筈であるから素人たる予の差し出て言ふべき限りでない。先生は又明治四十年頃盛に端書へ寫生畫を書かれた。是亦甚だ稚拙なものであつたが、先生はその拙づい畫を根気よくこつこつ描いて居られた。水彩繪具でごちやごちや塗り立てた繪端書を自分で眺めて「密畫だよ」と言つて笑つて居られた。密畫で拙づい畫であつたに相違ないが、拙づい畫を黒人ぶらずに眞面目に描いた所に、線や色の大まかな面白い處が自然に現れてゐる。之を何處までも押し進めて行かれたならば更に先生らしい面白い畫を得られたであらうと思はれるのである。先生の書と畫に於け(70)る進み方は、同時に夫れが先生の歌の進み方である。先生の歌は明治三十三四年頃のものは矢張り拙づいのである。拙づい歌を眞面目にこつこつ作つて居られる中に晩年の大きな境界に達せられたのである。達せしめたものは力である。何物にも正面から突き當り得る大きく強い力である。その力は智惠や才覺の一方面から生れ出た力ではない。全人格を渾べて一となすに依つて初めて勢を成して生れ來る力である。先生の歌を一貫して感得するものは此の力である。拙づきは拙づきに現れ、圓熟せるは圓熟せるに現れる。先生の歌を歴史的に見ても、斷面的に見ても面白いのは此處である。(六月七日)
            (大正八年七月「アララギ」第十二卷第七號)
 
(71) 歌集「隱り沼」
 
小田觀螢氏の處女歌集|隱《こも》り沼を見た。環境に對して眞面目な態度を持してゐる作者の人柄が想像出來る。自己の心に對しても詞句に對しても放縱な通り方をしてゐる歌の多い歌壇で、この集の如きは眞面目に繙くべき歌集である。卷頭の歌
   日の射して霧そき晴るるはたけ道雪山の秀《ほ》のあらはれ見え來
「そき」は不用であるがこの歌いい歌である。
   日に背き畑道行きぬ霧のなか山あらはれて雪かがやくも
「日に背き」此の歌の場合説明に過ぎる。この歌もいい歌である。亡妻を詠んだものにも秀れたものがある。
   片親のわが手枕き眠しをさな顔思へることは涙となるも
   あきらめてな泣きそ稚子汝を負ひて朝夕の炊きわがするものを
(72)「あきらめて」はない方が純一でゐる。只「な泣きそ」だけの意で充分である。
   泣く子負ひ襁褓《むつぎ》をあらふかかる夜は亡き靈も來て我をなげくらむ
皆眞實の響きの籠つた歌である。
   山の端にかたぶきはやき三日の月常世に妻も見るべきものか
斯様な歌は漢傷的に落ちて甘い。
   叱られて母を呼び泣くをさな子に母亡ければぞ我れも泣かゆる
いい歌であるが説明がくだくだしい。第四句のない方がいいのである。甘い歌や説明でごたつく歌が交じつてゐるやうであるから一例を擧げて見た。今の氏の態度をずんずん押し進めて行けば追々に冴え且つ澄んで來るであらう。概して氏の歌はアララギ調である。さう言ふことを作者の自覺して居らぬやうな事はあるまい。       (大正九年一月「アララギ」第十三卷第一號)
 
(73) 「松倉米吉歌集」を讀む
 
先年清水谷公園の歌會に、小生が「事象に面する心と作歌の心との間には時間がある」といふことを言つたとき、故人松倉米吉君は小生の言を懌ばず、あれは赤彦のごまかし言であると言つたさうである。松倉君の歌を作す心は只一途に感激に即したいと念したのである。この心は歌が生き生きする道となる時によく、生まな亢奮に止まるとき甘く、純粹な經驗の心が作歌の要求に押される時にわるい。松倉君はさういふ惡い方面をも心得て居て、感激に即しつつ作歌することを念としたのであらう。
 伊藤左千夫先生の歌を蒐めて見ると、初期の歌には萬葉集の物眞似や子規居士の物眞似やが可なり多い。ただ先生は物眞似でも何でも構はない、自分の行きたい道を傍目も振らずにずんずん歩きつめた。歩きつめてゐるうちに、おのづから獨自の大作をなし得るやうな境涯に達した。わが米吉君も初年の作は概して上等でない。上等でない道をずんずん歩いてゐるうちに晩年深い歌境に到達すること(74)が出來た。この事は單に左千矢先生や米吉君のみの通るべき道ではない。 米吉君の感激に即して歌を作さうとする傾向は、上等でないといふ同君初年の作の中にも認めることが出来る。
   去年までこの工場に居し男日くるる窓外を笑ひて通れり 大正三年
   わが握る槌の柄減りて光りけり職工をやめんといくたぴ思ひし 大正三年
   芝の上に吾れ飛び下りつぞつくりと朝露の中に吾れとぴ下りつ 大正四年
   米代を握る夕べのこの誇りやうやく寂しくならんとするも 大正四年
   工場の夕食ののちのさぴしきに辨常箱の錆おとしつつ  大正五年
   火消壺に移す炭火の匂ひ滲み工場の夜はふけにけるかも  大正五年
 是等の歌皆自己の生活に即して相當の命を持つてゐる歌である。自己の生活に即する道をずんずん押し進めた米吉君の歌には初めから人眞似の痕が少ないこと「松倉米吉歌集」を讀むものの心付く所であらう。わが米吉君は初めから立派な作歌道を通つてゐるのである。之は米吉君が劈頭に影響をうけた土岐哀果氏の感化も加はつてゐることと思ふ。土岐氏の感化から歩み出した作歌者がアララギの年若き人に可なりある。結城哀草果君や兩角七美雄君や飯山鶴雄君等もさうである。之は土岐氏の歌の道を考へる上にいつの參考になると思ふ。
(75) 米吉君の歌が初めから自己の生活に即してゐたと言ふ。その米吉君の生活は生るるより没するまで殆ど流離轉々の有樣で常人には想像することさへむづかしいほどの生活をつづけてゐる。夫れは「松倉米吉歌集」卷頭に掲げた同君年譜を見てもその程度が分るのである。夫れほどの境遇に立つて、いつもその境遇に正面から誠實に眞劔に向き合つてゐるといふことは大抵の人にはむづかしい。わが米吉君も大正七年頃の
   惡酒に醉ひ更かしては戻り來つこの夜もひそかに宿の戸たたく
といふやうな歌を作る頃の生活は吉原や淺草あたりで、多少境遇に横向きしたり後向きしたり、懈怠に近く或はやけに近い生活をしたかも知れぬけれども、夫れほどのことは萬人に共通して容るし得る所であつて、大體に於てあれだけの境遇にあれ丈けの眞面目な突き當りかたを繼續してゐたといふことは、萬人の多く企て至り得ないところであるかも知れぬ。酒などを飲んで紛らせてゐる心は弱いのである。米吉君の強い心が左樣な危險から脱して最後まで突きつめた心を持つてゐたことを尊く思はずには居られない。君の歌はこの心から生れて最後に至つて先人未到と思はれる歌境に到達したのである。
   雨の日の得意まはりのたよりなき吾を見てゆく同業者あり 大正七年
   今日も休みて母を守れどおぼつかな今宵食す米如何にして買はむ 大正七年
(76)   久々に晝間もどれば吾宿に母の寫眞はちりにまみれ居り 大正七年
   言葉あらげて吾が立ちたれば落ちくぼむ眼ほそめて母居たまひし 大正八年
 米吉君の生活が率直に歌ひ現されて何れも命の籠つて居る歌である。
   とことはに此の家の父は父にあらず心さびしく年ほぎに來し
   門松の細きが二本立てりけり今年は父が手にて飾りけむ
   亡き母はまさに世になし土間に立ちよそ人じみし年始を言ふも
   しわ深き此の人の手に白粉匂ふ吾れにくれんと餅をやく手に
   紙ばりの母の位牌は佛壇の隅によせてあり一年見ざりし
   床づきて久しかりける床のあと疊の面にまさに残れる
 大正八年正月義父の家へ年始に行つた時の一聯のうちの歌である。この邊になると、もう米吉君獨自の歌境である。どの歌にも落ち著きと深みがあつて甘えたところや浮か浮かしたところが微塵もない。
   下駄をはきつつ居れりとは知れど人目しげし顔さへ見ずに離るる切なさ   今こそはぜひなき別れ夕暗く槌の手元は定まりかぬる
   鞴《ふいご》ふきつつ火元をば見て吾が居れど消えし足音に思ひはつきぬ
(77) 戀の歌でこれほどの境に入つてゐるものは今までに多くないかも知れぬ。見じめな境遇に天が一滴の甘露を與へた。與へられた甘露にまで作者は人並み以上の心を摧かねばあらなかつたのである。
   如何なる仕事ださるるも知れずろくろの調子見てゐるうちにはや汗ながるる 「油蝉」より二首
   親方が兄にあたる聲のあらあらし爲事の出來のはえぬ切なさ
   かび臭き夜具にながながこやりけりこのままにしていつの日癒えむ 「病みて」より七首
   灯をともすマツチたづねていやせかるる口に血しほは滿ちてせかるる
   宿のもの醒めはせぬかと秘むれども喉にせき來る血しほのつらなり
   歸しなば又逢ふことのやすくあらじ紅き夜空を見つつ時ふる
   棟裏の煤北風にいやゆらぐいよいよ秋もさだまりにしか
   待ちつかれ眠りたりしがうらさびし今まで來ねばなどか今日來む
   かけ布團に羽織かけそへくるまりて今朝の寒さのすぐるを待つも
   窓の戸をひらかで幾日すぎにけむすき間吹く風今朝いと寒き 「簷雨」より四首
   一つ打ちては休みゐつつかれがれの唾《つばき》手にひり槌打つ父はも
   ひそひそと外《と》の面《も》には雨降るけはひ妻は乳房《ちちふさ》よも霑らすまじ
   浪吉は我の體を警察にすがらんと行きぬなぜに自ら命を絶ち得ぬ
(78) 是等の歌何れも米吉君の獨自の領分であつて、永久に人の心の底に泌み入るべき力が備はつてゐる。二十五年間流離轉々の生涯に面と向き合ふに堪へた米吾君の心は、最後に斯樣なところまで歩み入つて短かい命を終へたのである。
 行路社同人が米吉君の爲めに、無い金を出しあひ、金を借り合ひ、車を曳き荷を運んで歌集を刊行したことは、今の世の中に稀有の現象である。この歌集はすべての點から見て純眞な生れ方をしてゐるのでゐる。(七月十日高木にて認む)
             (大正九年八月「アララギ」第十三卷第八號)
 
(79) 「中村憲吉選集」序
 
 明治三十年代以後新派と言はれて流行した歌は其の表現が多く表面的であつた。これは物質觀を中心としてひらけた今の世に自然にあり得べき現象である。物質觀の要求するものは目に見えるものである。目に見えるものの要求は外面に並ぶものの要求である。外面に並ぶものを要求する今の世の中へ表面的の歌の生れることは自然の現象であると言はねばならぬ。それ故脂粉の臭ひと紅紫の色に飽いたといふ第二期の新派歌人も、程度の違ひこそあれ、求むるものは依然として表面的なものであつた。象徴を標榜する歌人は象徴的な詞と材料を羅列することに依つて容易にその用を辨じた。感激を唱道する歌人は感激の際に發する詞聲を用ひる外には餘り面倒な手數を要しなかつた。感激な詞聲を用ひれば感激の歌になり、神秘的な詞句を用ひれば神秘な歌になり、悟りの物言ひをすれば悟りの歌になつて通用するのが今の世の便利な所である。左樣な中に在つで中村憲吉君の歌は違ふ。
 中村君は元來柔かく微細な神經をもつてゐる人である。左樣な神經の豐かなる所有者として君は殆(80)ど當代歌人中に稀有である。斯る神經の所有者から生れる歌に感覺的氣分の多いことは當然であるが、君の歌の特色を單に感覺的色調の豐かさによつて定めることが出來るとすれば、君の歌の持つ價値は當代有り觸れたものの程度を強めたものに過ぎぬことになる。小生は中村君の歌を左樣に認めてゐない。元來感覺は夫れ自身としては單なる末梢神經の動作であつて全心的なものから見れば要するに末梢部の動きに外ならない。從つて單なる感覺の現れは夫れが豊富に現れれば現れる程表面的意義を多量に持ち易くなるのである。斯の點から言へば中村君の歌は當世流の表現になり易い條件を多く持つてゐると言うてもいい。當世流の外面的表現になり易い條件を多く持つてゐながら夫れが外面的に終らないところに中村君の特色がある。其處まで見なければ中村君の歌を理解してはゐないのである。本來から言へば感覺の働きを中樞部の働きから取り離して考へることは出來ないことであらう。感覺の現れが外面的感受を與へるに止まるといふことは、言ひ換へれば中樞部に重大な主觀が働いて居らぬといふ事になるのであらう。深い主觀と交流する感覺は夫れが豐富微細に働けば働くほど其處に内面的意義が深く現れてあるべき筈である。實際中村君の歌に動く神經は夫れが末梢的に微細であればあるほど中樞部に君の魂魄と交流することの愈々深いことを成じさせる。君の歌に動くものは末梢神經にして末梢神經ではない。感覺の下に深く潜んだ心がある。その深い心が常に君の感覺の中に滲み出てゐるのである。夫れゆゑ中村君の歌は感覺が豐富微細でありながらめそめそ泣かない。うか(81)うか浮かない。恍惚語も深長語も吐かない。詩人顔をしない。めそめそ泣く前に、うかうか浮いたり跳ねたり取り澄したりする前に夫れよりも重大な主觀が先づ働くのである。その主觀の働きが中村君の歌の命であつて、その命が君の豐富な感覺の中に常に充滿し浸潤して現れてゐるのである。中村君の歌が當世流の歌と違ふのはその點である。
 中村君の歌を小生は前述の如く見てゐる。さうした君の特徴の或る頂點に達したのは大正五年「磯の光」前後にあると思はれる。明治四十一年頃から胚胎したものを「磯の光」前後に産み落したといふ感がするのである。「磯の光」は實に敬虔なる若き命の凝結體である。感激が深く沈潜して、現るるものは、かなしき心の法悦に入れる涙である。所謂若き命の現れは當今元氣な青年に皆ある。「磯の光」の如き敬虔な心を求むるに至つて多く類を發見し得ないのである。大正六年以後のは「磯の光」よりもずつと落ち著いて人生の實體に踏み入つてゐるの觀がある。其の邊に中村君の主なる一時期を劃する所があるやうである。大正六年の「歸住」以下諸作、數は少ないけれども君の新しく潜み入つてゐる心が隨所に現れてゐる。澄んだ心が益々徹つてゐる。小生は「磯の光」以前よりも以後の歌を尊重するやうな心の傾きを今所有してゐる。
 此の選集を選ぶについて明治四十一年から大正九年まで十三年間の諸作に目を通した。(馬鈴薯の花、林泉集及び以後のアララギ第十三卷第五號迄)その中から二百首を選び出すことは尠からぬ難事(82)であつた。はじめ四百餘首までは割合に容易に進行した。それを三百十七首にし、更に二百四十七首にするに及んで殆ど困惑した。過剰の四十七首を何れと定めることは實際に於て不可能なのである。この所で仕方なく作者から一通り目を通してもらふことにした。責任を外《そ》らさうとしたのではない。責任が重過ぎる心地がしたのである。それから後少しの休息をして更に二百七首までにした。この最後の過剰七首を棄でるためにまる二日と半日を費した。棄てたのはすべて棄てたのではない。暫く原據の歌集其の他へ預け入れをして置いたといふ心持である。實際連作中の一二首を摘出したやうなのは、それを他の諸作から切り離したために連作の効果を滅却したやうなのも少くない。これは二百首選といふ制限から來る餘儀ない缺陷である。斯くして選出した此の歌集が果して中村君の代表歌選として遺憾ないものであるか何うかといふことになると作者に對して甚だ申譯ない感が湧くのである。只小生としては斯樣にして中村君の歌につき從來にない詳しい見方をしたことが尠からず小生を裨益したことを感謝するのである。さうして斯の作者からこの機會に小生の歌をも選んでもらふことの出來るのは現世に稀有な幸福であるといふ感に充ちるのである。(大正十年六月二十八日諏訪湖畔柿蔭書屋にて)
            (大正十年九月發行「中村憲吉選集」)
 
(83) 「あらたま」小見
 
 「あらたま」諸作のうち大正六年ごろの作を僕は最も多く尊敬する。
   おもかげに立ちくる君も今日|今夜《こよひ》おぼろなるかなや時ゆくらむか
   心づまの寫眞を秘めてきさらぎのあかつきがたに死にし君はや
   おもかげに立ちくる君や辛痛《せつな》しとつひに言ひけむか寒き濱べに
   まなかひに立ちくる君がおもかげのたまゆらにして消ゆる寂しさ
   山がはのこもりてとよむながれにもかなしきいのち君守りけむ
   しらぬひ筑紫を戀ひて行きしかど濱風さむみ咽《のど》に沁みけむ
   息たえて炎《ほのほ》に燒けしものながらまもりて歸る汽車のとどろき   君の骨箱にはひりて鳥がなく東《あづま》の國に埋《う》められにけり   息《いき》ありてのこれる我等けふつどひ君がかなしきいのち偲びつ 以上長塚節忌拔摘
(84) 「赤光」の「おくに」【明治四十四年】「死に給ふ母」「悲報來」【以上大正二年】等に現れた烈しく大きな力が、その大きさと烈しさを内面に籠らせるだけの力を得て初めて到達した歌境であつて、涙や聲を胸のうちに呑みこんで、底深い生命に消化してゐるところがあるだけ餘計に歌が深刻になつてゐるのである。勿論師匠若くは師匠に等しい先輩の死と母の死と愛人の死との間に感情の動き方の相違があり、其の他すべての事情の相違が歌の生命にも影響してゐる所があるとしても「赤光」時代の挽歌と大正六年頃の挽歌とに上述擧例のやうな推移のあることだけは明かである。若し「節忌」の歌の傾向よりも「死に給ふ母」「悲報來」等の歌の傾向を好むといふ人は夫れで致し方ないのであつて、涙を流し聲をあげる底のものを好む人と涙も聲も腹の底へ湛へてゐる底のものを尊敬する傾向とは、殆ど人の性分から來る違ひであらう。今の世の鑑賞家にどの種類の人が多いかと言へば矢張り號泣の聲をあげる方へ賛成するのが多いやうであつて、その側からは「節忌」に潜む深さは本當に理解されぬであらう。作者は必しも夫れを悲しまないと信ずる。(號泣云々を以て論じたのは比喩をかりたのである。今詳説に及ばない)僕の言は「おくに」「悲報來」「死に給ふ母」を尊敬せぬといふ意ではない。只僕の是等諸作を尊敬するのは、「節忌」を多く尊敬し得ずして「おくに」以下諸作を尊敬するといふ人々とは嚴密なる藝術の批判に立つに及んで自ら尊敬の意が違ふと思ふのである。
 僕が以上諸作の比較を言ふのは、その比較が割合に「赤光」時代と「あらたま」時代の比較に適用(85)されると思ふからである。詳しく言へば「あらたま」の前期(主に大正二、三、四年頃まで)は「赤光」時代の特徴を極致まで推し進めた時期であつて「赤光」の赤熱色が殆ど白熱色に澄み入つた時である。夫れを更に詳しく立ち入つて言へば、大正二年三年頃がその白熱の極致であつて大正四年頃から漸く次の時期を豫覺される色合ひを帶びて居り、大正五年頃に過渡期の難行が見えた。大正六年頃に至つて本當の「あらたま」1の新時期に入つてゐるの觀があるのであつて、僕の所謂「赤光」と「あらたま」の比較は寧ろ大正六年と夫れ以前の比較といふ方が適當であるかも知れない。左樣な推移を年によつて截然と分つのは不自然であつて、分つとしても尚ほ相互交錯代謝の跡を詳敍するのでなければ意が達しないのであるが、夫れは今到底爲し得る所でない。夫れ故途中の手數をすべて端折つて直ちに大正六年を「あらたま」の至り得た新時期として夫れ等諸作をやや詳しく觀察しようと思ふ。
   悲しさを歌ひあげむと思へども茂太《しげた》を見ればこころ和《なご》むに
   昨《きぞ》の夜もねむり足《たら》はず戸をあけて霜の白きにおどろきにけり
   いとまあるわれと思ふないちじろく幽《かす》かに人の死にゆくを見つ 三首「赤彦に酬ゆ」中より
   かわききりたる直土《ひたつち》に氷《ひ》に凝《こご》るひとむら雪ををさなごも見よ
   この日ごろ人を厭へりをさなごの頭《かうべ》を見ればこころゆらぐを   七とせの勤務《つとめ》をやめて街ゆかず獨りこもれば晝さへねむし
(86)   をさなごの頬《ほほ》の凍風《しもやけ》をあはれみてまたみにぞ來しをさな兩頬《もろほほ》 四首「蹄のあと」より
 一讀直ちに嚴肅さ、幽寂さを威ずるのであつて、「赤光」時代の烈しさが深さになり、光と熱とが本當の力になつたといふ感がする。その「深さ」は「烈しさ」を通つて來た深さであり、其の「力」は「光」と「熱」とを豐滿に集め得た力である。斯樣な深さや力を考へるものは、「赤光」時代より一貫してゐる作者の一途な心が多樣な作歌經驗に突き當つて來た經過を考へて、その由來を悟つていい。
            (大正十年十月「アララギ」第十四卷第十號)
 
(87) 左千夫の歌
 
 予は一昨年本誌伊藤左千夫號に「左千夫先生の歌及歌論」を書いた。今度左千夫歌集批評號を出すにつき、前とは別の方面から見て何か書くつもりであつたが、前の文章を讀みかへして見ると、私の見方は矢張り大體あれに止まるやうであつて今新しく書く必要が起つて來ない。もし書けばあれをもつと詳説して歌人としての一生の徑路を一層明晰に具體的に記述して見ることになるであらう。それを押しつめると先生の歌の一首一首を詳しく調べて記述して行くことになる。一首一首の詳しい記述が要するに歌人としての先生の一生の具體的記述であつて、夫れを抽象し總括する事が歌人伊藤左千夫論の歸結である。一首一首の記述は可なりの大仕事である。私はそれを幾度も躊躇したが、左千夫歌集批評號に何か書かねばならぬといふ事になり大體から前の文章以外に違つた見方をする所もなく從つて違つた見方から書かうとする餘地も餘りないとすれば、矢張り一首一首記述の方法を取らねばならぬ。一首一首を記述してそれを總括した結果が一昨年書いた小意見を多少訂正補足せねばならぬ(88)やうな事があれば、その訂正補足の餘地が私の新しき見方の部分になるのであつて、左樣な新しき部分が發見せらるれば私の幸である。若し又左樣な部分が發見せられないとしても一首一首の記述は自然先生の歌に私の頭を餘計に深入せしむる機縁となるのであつて私の修業上の稗益である。仕事が、永引くであらうが一年も勉強したら大體成し得るであらうといふ豫想を描いてこの稿を起す氣になつたのである。ただ左千夫歌集のうち先生の面目と持徴とを現すこと比較的薄いと思ふものを省略する。
 
  明治三十三年の部
       〇
  牛飼が歌よむ時に世のなかの新しき歌大いにおこる
 新聞「日本」に春園の號を以て盛に子規と歌論を闘はしてゐた伊藤左千夫が飜然子規の門に贄して教を乞うたのが、この年の一月三日である。(左千夫歌集年譜)あの大きな強い體と心の所有者がぽつきりと自説を折つたのは生涯のうち思ふにこの時一度であつたらう。偉大なものの前に凡ての我を投げ棄てるといふことが世の中に稀にあるやうである。夫れには第一に偉れたものを認めるといふことがやさしい事でないやうである。左千夫は中腰はいけないと言つた。予に對してはよく他力信仰の心を解せよと言つた。是等の詞と照合して當時歌に於て多くの人の馳せ參じなかつた子規の前にすべ(89)ての我を棄てた左千夫の心を考へることは左千夫の歌の根柢力を知るに必要である。他の前に自分を棄てて得た歌は對者の歌であつて自分の歌でないと考へるのは當世流の考へ方である。當世流から言ふと左千夫の歌は左千夫の一生を通じて奉仕した子規と萬葉集の範圍を出ないことになるのである。(子規に對する左千夫の奉仕の心は大正八年七月號諸同人の文章及び近く刊行せらるべき左千夫全集中の隨筆文を參照せられたい)子規や萬葉集の範圍を出ない筈の左千夫の遺した歌集を讀んでその豫想の外れた人々は當世流の考へから少し跳び出して考へて見る必要があるのである。「牛飼」は牛乳搾取業伊藤幸次郎別名伊藤左千夫である。「歌よむ時に」の「歌」は子規の前に新しき道を見出した歌である。歌の意は明かである。斯樣な氣※[陷の旁+炎]をあげた歌は現れ方が外面的になり易く、うつかりすると壯士肩をいからすやうなものに落ちるのであるが、歌の心が素樸で調子が大きく強いために左樣な弊に落ちず、歡喜と希望の心が無邪氣に直截に現れてゐるのである。歌の調子若くは響きといふは心の調子若くは響きである。純粹一途の心のみが歌の上に強く張つた調子と響きを齎らす。歌の上で調子響きを云々するのは作者が純粹一途の心で對つてゐるか否かを論ずるのであるというても過言ではない。其の意味に於て我々は調子若くは響きを以て殆ど歌の生命であるとまで信じてゐる。歌の文字若くは詞の意味が主として歌の命であり價値であるならば、三十一字の代りに格言でも作つてゐればいいのである。今後「左千夫の歌」を言ふに當つて調子や響きについて言及する場合が多いと思ふから(90)調子に對する小意見を附記するのである。
       〇
   森中のあやしき寺の笑ひごゑ夜の木靈《こだま》にひびきて寂し
 作者の捉へたものが材料的に並べられたといふ觀がある。その材料が「あやしき寺」といひ「笑ひ聲」といひ「夜の木靈にひう゛ぃきて寂し」といふ由々しきものであるだけ餘計に表面的に騷がしい現れ方になつてしまつた。斯樣な材料を内面的に生かすといふ事頗る多力を要する。題詠であるから餘計に斯樣なものになつたのであらう。左千夫の歌には材料負けをした歌が時々ある。その傾向は初期の斯樣な歌に端を發して現れてゐると思ふゆゑ一首を鈔録した。表面的な表現といふこと更に詳説を要する。後に具體的に論ずる機會があると思ふ。          (大正十年七月「アララギ」第十四卷第七號)
       〇
   燒太刀のほさき噛ませる皇み子の御面《みおも》偲《しぬ》ばゆ岩屋をろがめば
 鎌倉懷古のうち一首である。護良親王を入れ奉つたと言ひ傳へられてゐる土窟を拜んだ時の心持である。
「燒太刀の穗尖《ほさき》噛ませる皇御子の御|面《おも》」といふやうなのは想像ではあるが矢張り寫生である。夫れが(91)「岩屋拜がめば」といふ現實な經驗によつて餘計に緊密に生きて來るのである。題詠歌でありながら一片座上の空想歌と違ふ。此の歌第一句より第四句まで事象が露《あら》はに過ぎて騷がしい感あれど、第五句字餘りの大まかな調子によつて莊重に据ら得てゐる所がある。初期の歌として子規のいい感化に染まりつつある徑路を覗ふべきである。
       〇
   元の使者すでに斬られて鎌倉の山の草木も鳴りふるひけむ
 思ひ切つて大丈夫《ますらを》ぶりに出て、夫れが簡淨に引き緊つてゐるからいいのである。「山の草木も鳴りふるひけむ」といふ大仰な言ひ方も「元の使者すでに斬られて」に對するといい心持がして騷がしいといふ感が先立たない。壯士節と皮一重を隔つるに似て歌の命は霄壤の差である。作者の根柢力の強さが初期から斯樣な相となつて現れてゐることを見遁してはならない。「牛飼が歌よむ時云々」の前例歌と併せ見べきである。
       〇
   冬の日のあかつき起きに貰ひたる山茶花いけて茶をたてにけり
 この歌も題詠であるが、茶に親しみ深い作者だけに流石にすぐれた所を捉へてゐる。「曉起きに貰ひたる山茶花」と茶との融合境は作者の如きにしで覗ひ得る所であらう。作者には後に多くの戀歌が(92)あるが、夫れに何時も清淨感が伴つてゐるのは一つのいい特徴である。さやうな清淨感の根ざす所を考へるに是等の歌を逸してはならぬ。清淨恬淡な茶趣味と強大な心身の根柢力とは作者の生活の大切な基底をなすものである。夫れが後年の歌に顯著に現れてゐる。
       〇
   いにしへの竹の林にあそびけむ人の畫掛けて茶をのみにけり
 是も茶の題詠の中の一つである。全體が素直で滯りのない所矢張り茶趣味の本當のものから生れ出たといふ感がする。これを鎌倉懷古の歌に較べて同一作者から生れ出る種々相と根本相とを考ふべきである。種々相を見て根本相を見ないものは動的の歌、靜的の歌などと別つことを好んでそれを異根のものと思うてゐる。左樣な儕輩は鑑賞や批評の第一次試驗に落第の程度にゐるものである。この落第程度の批評家が出揃つて活動してゐるが現今の歌壇でゐる。
       〇
   いにしへの人が燒きけむ樂燒《らくやき》の手づくね茶碗色古りにけり 手づくねの樂燒の古色を帶ぶるを喜んでゐる心に、作者の茶趣味が更に具體的に示現されてゐるを感ずる。作者には大まかな愚かな(或は間の拔けたといふ方が適當かも知れぬ)心があつた。それは手づくねの大きな樂燒茶碗のもつやうな大まかさと愚さであつて、現代の小さく整つた便利な茶碗で(93)は解釋出來ぬ樣である。斯樣な心の所有者が元治元年に生れ落ちて明治大正の御代に歌を作つて居つたといふことは驚くべき事蹟である。此の歌詞句聲調よく徹つて明快に作者の心が現れてゐる。斯樣な歌、矢張り唯一左千夫翁の領分であらう。
       〇
   このごろの二日の雨に赤かりし楓の若芽やや青みけり
 斯樣な寫生歌は専ら子規のお蔭によつて生れたものであつて、かういふ處から出發してゐるから生涯を通じて純粹にして確實な基礎の上に立つて自己の本領を發揮し得たのである。この歌、詞句にも調子にも清楚な心が現れてゐて歌として立派な命を持つてゐる。これらの歌をただの記述歌と思ふものには最後まで歌を理解することむづかしいであらう。只此の歌「二日の両に」が「赤かりし」に係るか「やや青みけり」に係るか幾分曖昧である。現し方いま少し苦しむ必要がある。
       〇
   青疊八重の潮路を越えくれば遠つ陸山《くがやま》花咲ける見ゆ
   あしぴきの山の峽なる一つ家のわら家の檐《のき》の花咲きにけり
櫻題詠中二首であるが、是等は明かに題詠歌の弊所を現してゐる。空想の部分が多いから良ささうな所を捉へながら捉へ方に空虚な所があり、現れ方も一般的になつて急所が出てゐないのである。初(94)めの方は殊にさうである。次のは一通り心は纏つてゐるが現れ方は一般的で疎大である。「花さきにけり」といへば時間的の感じが合まれてゐる。それに「足曳の山の峽なる」といふ大きなものを冠せるなどが疎大な所である。疎大といふのは詳敍しないといふことではない。要核から外れるの意である。概敍して要核を離れざるは疎大ではない。却つて寫生の目ざす所である。
       〇
   谷あひの水車《すゐしや》の小屋にかぶされる八百枝の櫻花さかりなり 題詠でも斯うなると立派な寫生歌である。作者の實際經驗が基底となつてゐるからであらう。八百枝の花が歌全體にかぶさつてゐる心地がするのは、現れ方の自然なのと相俟つて調子に暢びやかな大まかな所があるためであらう。「花さかりなり」は殊に此の場合快適な結句である。
 子規に明治三十二年「大森の里過ぎ行けば蜑が住む海苔麁朶垣の梅さかりなり」の歌があり、その影響を蒙つて居るとしても此の櫻の歌の結句の立派に獨立してゐること勿論である。左千夫翁豐滿な肉體と心との一端を覗ふに足りる歌である。その豐満には「谷あひの水車の小屋にかぶされる」といふ如き素朴感と清淨感を伴つてゐることを言つて置きたいのは後の戀歌に言及するに都合がよいのである。
(95)   病みこやす君は上野のうら山の櫻を見つつ歌よむらんか
 子規の病臥を憐んでゐるのであつて、實感に根ざしてゐるだけ力が強い。歌の中心は「うら山の櫻を見つつ」にあるのであるが、これを單純に「うら山の櫻を見つつあらむ」とやうに歌つて「歌よむらむか」を除いてしまへば猶よく集中するやうに思はれる。元來歌の中に「歌よむ」といふ如き文句の挾まるのは大抵の場合嫌味に落ちるものである。五千夫の此の歌の場合は「櫻」の課題が出て同人各蟄居して思案を凝らしてゐる場合であるから自然子規の身の上を思ひやつて「歌詠むらむか」といふ實感が動いたであらうが、夫れでも猶この歌に「歌詠むらむか」は蛇足の心地がするのである。併しこの頃作者が岡麓氏を訪ねて「魂合へる友をたづねて歌がたりかつ歌詠みて夜は更けにけり」といふやうな歌を作つてゐるのを見ると、此の頃の根岸短歌會同人の作歌に熱心であつた状況がよく分つて愉快な心地がする。後年斎藤茂吉君なども同人の顔さへ見れば直ぐ歌を詠まうといひ、同意しなければ機嫌が惡いといふので中村憲吉君などは大に恐れをなしたといふこともあるので、當時東京同人の作歌の熱心さが想像される。さやうな勢でゐる時であるから左千夫の子規病臥を思ひやつて「歌詠むらむか」と歌つたのも無理のない所であらう。
       〇
   をみな子の四たりの子らはおのもおのもおのが雛《ひひな》にもの奉る
(96) 作者の四人の子供であらう。いくつも並べた雛にめいめい所有の名を定める子どもの心はあどけない。その子どもが自分の所有と定つた雛にめいめい物を供へてゐる擧動を面白くおもつて見てゐるのである。親の心になつて見ると此の歌の本當の値打が分るであらう。
       〇
   芝居する村時じくに市をなし人にぎはひて桃の花ざかり
 子規に「畑の中に筵かけたる村芝居菜の花咲けり花道の下に」といふのがある。この時の課題の歌であらう。「人にぎはひて」を受けて「桃の花ざかり」と名詞に言ひ据ゑた句法が大まかで確かりして人出の多い盛な光景がよく現れてゐる。此の句法俳句等から來てゐるかも知れない。(八月七日)
             (大正十年九月「アララギ」第十四卷第九號)
       〇
   長雨《ながあめ》のこのあめやまば竪川《たてかは》のあたり照らして牡丹は咲くらむ
 先生は本所の竪川に住んでゐた。竪川の四つ目は牡丹の名所である。霖雨に倦みながら家近い四つ目に咲き出づべき牡丹を楽しみ待つてゐる心持がよく現れてゐる。先生は神經を鋭敏に働かせる場合でも神經衰弱者の滅入るやうな心にはなり得ない人であつた。先生の喜怒哀樂は常人に超えて柄が大きかつた。霖雨の退屈さと牡丹の花の想像と同居して渾然たる纏まりをなし得てゐる所にも大柄な先(97)生の心が現れて、健康者に對するやうな快感を感ずることが出來る。第四句「あたり」は大柄すぎるかとも思つたが、此の歌では矢張これでいいやうである。第五句「は」の字餘りも此の場合よく利いてゐる。
       〇
   岡のへの木立の中のみ社に旗立ててあるそこにも花あり
   梅のもとに芥子《けし》の花咲き松のもとにあざみ花さく藁屋のみぎり 「六月一日四つ木の吉野園に遊ぶ」と前書せる五首中の二首である。寫生の首途に於ける一體とすべき歌である。當時流行の新派和歌が星や董の甘い情緒に入り浸つてゐる中で、ひたすらなる寫生道を歩まんと念じたアラブギ祖先の足跡に斯樣なる姿もあつたことを知つておくべきである。和歌に於ける寫生の發達を稽へる人に參照となるであらう。
       〇
   つがの木のしみ立つ岩をいめぐりて二尾に落つる瀧つ白波
 前の歌よりも莊重な心で寫生してゐて感じも集中してゐる。現し方が自然で大柄である。斯樣な歌を歿主觀歌と思ふ者があれば間違つてゐる。「ふた尾に落つる」の「ふた尾」は先生の造語であらう。
(98)   門べゆく足《あ》の音《と》にだにも耳たてて夜すがら妹が吾を待ちにけむ
   夜もすがら門もささずて待ちにけむ妹にそむきし心悔いにけり
 「牛込なる友がり訪ひて一夜歌がたりなどしける時作れる歌」といふ前書ある長歌の反歌二首である。長歌によつて見ると、神樂坂近き横寺町の友の家に三人して歌語りしてゐるうちに夜が更けて家に歸られなくなつたので、二人の友で一枚の布團を引き合つて寢こんだといふのである。前の歌「足の音にだにも耳たてて」があつて「夜すがら妹が吾を待ちにけむ」が活き、後の歌は全體に妹を思ふ心が滿ち動いてゐる。「心悔いにけり」といふのは妹に對する滿悦の心の反語である。戀などといふものはその邊が滋味であるやうである。「心悔いにけり」は此處には是非字餘りでなくではならぬ。二つながら如何にも心が滿ちわたつて、左千夫の歌らしい歌でゐる。「足の音にだにも耳たてて」、「夜もすがら門もささずて」皆寫生である。寫生と歌の命との關係を考ふるに足りる。
       〇
   家の外に焚ける迎へ火燃ゆとすれば雨ふりいでて消ちにけるはや
 盂蘭盆三首中の一首である。所謂主觀句を交へないでおのづからしんみりする所がいいのである。「家の外に」の「外」は「そと」とよむのか「と」とよむのか分らないが、小生は「そと」とよむ。節三句「燃ゆとすれば」に對して第二句「焚ける」は純粹な現在ではないが大體はこれでもいいであ(99)らう。「焚ける」の代りに「ともす」を以てすれば完全に現在になる。
       〇
   むらさきの小さき花の盆花を束《たば》にたばねて根に紙まきぬ
 盂蘭盆三首中の一首である。これにも主觀句がなくて感じが全體に滲み出てゐる。歌の心がしをらしく虔ましい。左樣な歌に「根に紙まきぬ」といふ素直なささやかな結び方をしたのは感じを以て一貫しようとする作者必然の要求から來てゐるのである。それを他の方面から名づけて技巧といふ。技巧は腕先きの細工ではないのである。
       〇
こほろぎ
     八月二十八日の嵐は竪川の滿潮を吹きあげて、茅場のあたり湖を湛へ、波は疊の上にのぼりぬ。人も牛も逃がしやりて水の中に獨り夜を守る庵の寂しさに、こほろぎの音を聞きてよめる歌。
   うからやから皆にがしやりて獨《ひとり》居る水《み》づく庵《いほり》に鳴くきりぎりす
   牀のうへ水こえたれば夜もすがら屋根の裏べにこほろぎの鳴く
   くまも落ちず家内《やぬち》は水に浸ればか板戸によりてこほろぎの鳴く
(100)   只ひとり水《み》づく荒屋《あれや》に居殘りて鳴くこほろぎに耳かたむけぬ
   牀《ゆか》の上《うへ》に牀をつくりて水《み》づく屋《や》にひとりし居ればこほろぎの鳴く
   ぬば玉のさ夜はくだちて水《み》づく屋《や》の荒屋さぴしきこほろぎのこゑ
   物かしぐかまども水にひたされて家《や》ぬち冷かにこほろぎのなく
   まれまれにそともに人の水わたる水音《みのと》きこえて夜はくだちゆく
   さ夜ふけて訪ひよる人の水音に軒のこほろぎ聲なきやみぬ
   水《み》づく里人の音《と》もせずさ夜ふけて唯こほろぎの鳴きさぶるかも
「こほろぎ」十首は、先生初年作中最も傑出した連作であると思ふゆゑ十首を連ねてここに掲げたのである。非常な境遇に對して微塵も騷ぎ立てる所がなく、自己の異常感に甘える樣な態度もなく、歌ひ方が大きく自然で落ちついた調べの中に沈痛の心が充滿してゐる。浸水の家に殘る蟋蟀を捉へ來つて感じの中核を成してゐるの態度だけでも、斯樣な場合に自己を確把して底深く沈潜してゐる心の相が窺はれる。この所は騷ぎ屋や甘え屋の窺ひ得ざる領分であらう。十首のうちに所謂主觀句は殆ど使用されてゐない。主觀句を用ひずして異常な主觀の現れてゐる歌が斯の如く存在することを今の短歌論をなす人々は如何に見るつもりであるか。言ふ心は歌に主觀句を斥けようとするのではない。主觀を尊重するものほど主觀句を安易に用ひないことを指摘しようとするのである。安易に用ひない心は(101)愛惜する心である。外見惜しむに似て内に愛重する心がある。世の騷ぎ屋と甘え屋が安易に主觀句を使用して甘たるい表現に滿足してゐる状と、先生の是等の歌と照合すれば關係明白になるであらう。
 第一の歌は、第四句「水づく庵」に至つて初めて洪水の意に接する。一首を獨立させる時不足に近い。只前書きによつてこれを補ふことが出來る。「獨居る水づく庵」といふ三四句の續けかたも少し窮屈である。「きりぎりす」は古意によつて「こほろぎ」の意に用ひたのであらう。第五句「なくきりぎりす」といふ二五音名詞止めの句法が落ちついて、歌全體に痛ましい響を傳へてゐる。矢張り大した歌である。第二の歌、現し方が落ちついて自然で如何にも沈痛の響をなしてゐる。「牀のうへ」と第一句で一旦切つてゐる句法なども目立たざる手法の冴えである。これだけでも大した力であると小生は思つてゐる。第三の歌前の歌と同樣である。第三句「浸ればか」と疑問法を用ひて事態を重大にしてゐるのも歌の心に適切である。第四の歌も如何にも純粹な現れ方である。斯樣な場合に「こほろぎに耳かたむけぬ」と言うてゐる作者の心と落ちついた素直な句法とを感嘆愛重するのである。第五の歌も前と同樣である。「牀の上に牀をつくりて」如何にも簡潔に現し得てゐる。小生等が自ら作る心になつて考へると斯樣な句は勿體なくなるのである。これほどの句を輕々看過するやうでは作歌者の冥利はなくなるであらう。第六の歌は嚴密に言へば前五首の餘波とも言へる。餘波作であつても一首として充分に生き得る歌である。以上二首に見える「水づく屋」は是も先生の造語であらう。第七(102)首「かまども水に浸されて」は屋内浸水の光景のうち更に特殊の感じを惹き起さしむるに足りるものである。深く自己の實感に即してゐる寫生は自然に斯樣なものを捉へしめるのである。寫生は材料を求めない。實感に活きる材料が自然に作物の中にはひつて來るだけである。此の歌屋内浸水の中に更に特殊な感じの中心を捉へて「家ぬち冷かにこほろぎの鳴く」に至るまで活きて迫るの状をなしてゐる。第三句「ひたされて」と一旦休止したのも歌の心を餘計に沈着にしてゐる。句法を考案して落ち着かせたのではない。落ち着いた心が斯樣な句法を要求して斯樣な句法を生んだのである。第八首は屋外にある闇の中の浸水を歌うてゐる。闇の中の水に音のない陰慘さが稀に水を歩む人の音によつて現れてゐる。一句より四句まで各句が相承けて水中の足音を現してゐる靜肅な姿を見べきでゐる。第四句「水音《みのと》聞えて」と一旦休止して第五句「夜はくだちゆく」が餘計に靜かに落ちついてゐるのである。「夜はくだちゆく」の「ゆく」も此の場合に最も恰適な詞が選用されてゐる。第九首「訪ひよる人の水音に」といふ第二三句の續き方は獨立した歌とすれば意を成し難いが、前書きと前後連作歌の意によつて補足して解すべきであらう。斯樣な所に連作歌は往々問題を起す。小生の要求からいへば連作であつても各の一首には皆獨立性を有たせたいのであるが、その中に一概に言ひ去り得ない問題もあるやうである。詞書きと歌の獨立性との關係も可なり考慮すべき問題であらう。前の歌の心は水音がして靜肅であり、此の歌の心は蟲が鳴き止んで靜肅である。前の歌は屋外の水音であり、此の歌は(103)屋外の音と屋内の音との交渉である。第二三句の間に無理があるとしても此の歌は矢張り微妙力を具してゐる。第十首は連作の餘波作とも見られ、連作の結末作とも見られる上に於て第六首に類してゐる。歌が大らかで自然で大きな落ち著きを持つてゐる。小生は連作の各歌の間に起結といふやうな組織的な關係を特に認めて居らぬから、餘波作結末作などいうても夫れは作歌心理自然の要求から偶然にして生れ出たものと解するのであつて、連作には起承結末といふやうな組織が必ずあるべきものとは思つてゐない。若し連作の歌の相互關係に對して「連作の組織」といふ名を冠らせるならば、その組織は連作毎に異つてあるべきは勿論であり、連作毎に異つて存在する組織は、初めより注意を以て構へられたる組織ではなくて連作の間に偶然に存在し得た組織である。換言すれば連作ありて後組織あり、組織ありて後連作あるにあらず。斯の如きものであらうと思つてゐる。世上連作の意見區々のやうであるから、序を以て愚見の一端を述べるのである。 (大正十一年二月「アララギ」第十五卷第二號)
 
       〇
   あきくさの園の諸花吹く風に麻のころもの袖ひるがへる
 向島百花園に遊んだ歌の中の一首である。秋草は咲いたが、まだ麻の衣を著るほどの殘暑である。麻の衣に草花の風を喜ぶ心持が出てゐる。明治三十三年頃の所謂新派歌人は何か目新しい所を覗《ねら》はう(104)といふたくらみが先立つてゐたために、ひねくれた珍妙歌が多くて、夫れを世の新しがり屋が拍手喝采した。左樣な中にあつて斯樣な素直な歌を作つてゐた根岸派歌人の心構へを見べきである。實感を重んじて何處までも實感に即《つ》かうとする心構へをいふのである。此のころの子規の歌を見ても矢張りこの感が深い。例へば
   ガラス戸の外に咲きたる菊の花雨にも風にも我見つるかも
の如きにしても、歌柄が素直であつて、讀めばよむほど作者の影の鮮やかになる心地するのは、實感を中核として生れ出てゐるからである。
       〇
   いささかの雲のきれめよ月もれて道の穗蓼《ほたで》の花を照らせり
 十三夜に結城素明氏を墨堤に訪うて、深更に歸つた途中の作である。雲の多い月夜が、道の蓼の花によつて生きる所を見べきである。自然に深く親しんでゐなければ是れほどの寫生は出來ぬ。一月二十五日東京朝日新聞の竹柏園歌話を見ると、歌集「山海經」に對して「抒景詩の發展と竝んで、それのみに偏らず、抒情詩もしくは主觀的方面への發展をも見たいのである。云々」といひ、「これまでの傾向にのみ猶向つて行かれたならば、第四集第五集に至つては自分が要求する君(著者川田順氏を指す)の歌風の個性は段々うすれて、終になくなつて行きはしないかと思ふ。蓋し、これは和歌に於ける(105)所謂寫生主義のおもむくべき、寧ろ一般の傾向であると思はれるからである。云々」というてゐる。今の時猶抒景と抒情と並立して考へるやうな頭の持主では、とても寫生は分らぬ。深い寫生を解するまでに至らぬ頭には寫生の歌が個性を失ふに至ると見えるのは御尤もである。葛生を非難する多くの歌人は大抵寫生を外廓から見てゐる人々である。外廓から見て容易な寫生概念を得てゐる人々は、すべての事象に對して到底その核心に潜入することの出來ない人々である。さういふ人々の作つてゐる流行寫生の歌を見ると小生の言が明白に分るのである。その位の程度で寫生歌を云爲されては寫生の方で痛み入らざるを得ないのである。今の世上にザラにある所謂寫生歌の如きは、あれは流行の寫生歌であつて小生等より見れば多く外廓的寫生歌である。彼等は寫生歌を非難しながら多量に淺はかなる寫生歌を作つてゐる。その態度の不徹底さが彼等の歌を輕易に、外廓的にし、物質的にしてゐるのである。小生のこの言を確める爲めには現今の歌の雜誌を手當り次第に一二册擴げて見れば充分である。斯樣な中にあつても佐々木信綱氏の如き初歩寫生に低徊してゐる人は現在において絶無である。「現代」最近號の同氏作
   背戸畑につづく松山山裾のところどころに梅白うさけり
   日うららに末の子が乘る三輪車巧になりぬ梅の花さけり
   日ゆたかに入海の波ひたひたと岸にさく梅の四もと五もと
(106)   梅四五樹砂畑に咲けり曙の海にむかひて鷄が鳴く
   老楠の木立匂へる朝もやに瑞垣の梅花ふくみたり
「梅花十四章」中から割合に無難なもの五首をあげたのである。第一の歌「背戸畑につづく松山」というて一般地理を敍べ、更に折返して「山裾の所々」と細かく場所を指示してゐる。第一句より第四句迄要するに場所の敍述である。斯樣な歌を散文的といふのであつて初歩の人の誰でもが此處までは手をつけ得るといふ意味に於て個性が無いのである。アララギの選歌欄や東京朝日新聞の小生の選歌欄には斷じて斯樣な初歩歌はない。第二の歌は根柢から心が弛緩してゐる。三輪車が巧みになつたというて喜んでゐるだけならば、隱居らしい作者の心が無害に現れてゐると言ひ去り得るであらうが、第五句へ行つて突然「梅の花さけり」と出られては此の老人急に小さな氣を利かせたなどいふ感じで全體を厭味に化してしまふのみならす、此の突然句の挿入されるために全體の心が却つて生ま温るくなるのである。斯樣な弛緩歌も現代にあつて他に見られぬものである。第三の歌「ゆたかに」「ひたひたと」といふ副詞を疊用して歌を外面的にしてゐる。我々はそれをあまいと名づけるのであつて、この程度のあまさは佐々木氏に限らず現代歌人の多く至つてゐる所であるから、佐々木氏一人を責むるにも當らないのであるが「岸にさく梅の四もと五もと」と數字を重ねてあげる所になると、もう當人限りの低級さに歸せねばならなくなる。數字を擧げていけないのではないのである。斯樣な場合の數(107)字は極めて安易な外面的なものであるをいふのである。次の歌も劈頭から「梅四五|樹《じゆ》」と出てゐる。どうも驚くに足りる。斯樣に漢語で出發したら結句も漢語にでもしたら定めて緊張した調子を得たであらう。併しその緊張は小生等の求めでゐる緊張ではなくて壯士節の緊張である。此の歌「梅四五樹」「砂畑」「曙の海」「※[奚+隹]」といふやうに材料が澤山に羅列されてゐる。それ丈け一首の歌に緊張した單純が行はれてゐないといふ證據になる。一首中の材料過多の現象は他の歌に通じて言ひ得る所である。次の歌の「老楠」「朝靄」「瑞垣」「梅」も同じである。而も夫れ等材料とその材料を列ぬる語句が多く外面的に光澤多いものであるだけ餘計に歌を稀薄にしてゐるのである。斯樣な低い程度の寫生をする心持で、「所謂寫生主義のおもむくべき一般の傾向である云々」などいうて、寫生に言及するのは僭越である。氏は誠實謙虚な心を持つて事象に沈潜する一筋ごころを養うてから寫生乃至現今歌壇に言及するを適當とするであらう。明治三十三年といへば二た昔である。二た昔前に作つた左千夫の寫生歌と大正十一年佐々木信綱氏の梅花十四章を比べて見ることだけでも氏自身の反省になる筈である。反省にならぬとならば夫れはもう救はれないのである。左千夫の歌を研究するのが主であつたのに思はず横道へ外れてしまつたのは、寫生の分らぬ人の分つた顔が癪に障つたためである。それに佐々木氏は左千夫と同時代に歌を作つてゐて、鴎外博士宅歌會では度々顔を合せたのであるから、左千夫の寫生歌から佐々木氏の寫生歌觀に言及するのは自然の外れ方であるかも知れぬ。猶この左千夫(108)の歌で、第五句「花を照らせり」の「照らせり」は第三句「月洩れて」とある以上幾分蛇足の感がある。今少し蓼の花へ潜入した方がよかつたであらうと思ふ。
       〇
   瀧つぼの岩間たひろみ青淀にもゐぢ葉ちりてうづまき流る
 日光山に紅葉を見た時の歌の一つである。「瀧つぼの岩間たひろみ」は幾分窮屈かも知れぬ。青淀にちる紅葉といふ外面的に美しい材料も、第四五句の強い調子で輕薄でなくなつてゐる。左樣な魄力が歌の根柢に心要なのである。これは只手先の細工からは生れ難い。作者の腹の底から出るのである。それは壯士節の外面的な威張り方とは違ふ。「梅四五樹」の作者は先づこの邊から考ふべきである。
 
  明治三十四年の部
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   霜枯のまがきのもとに赤玉のかがやくなして咲く冬牡丹
 赤い牡丹も「霜枯のまがきのもとに」で外面的にならぬのである。「赤玉の輝くなして」といふ強い形容詞の持つ勢を貫くために「咲く冬牡丹」と句を詰めた心持は分るが、此の句幾分窮屈を感ずる。
(109)   天地をまきてゆるがす大波にあらそひかねて船沈みけむ
 月島丸の遭難を哀しむ二首中の一つである。「あらそひかねて船沈みけむ」におのづから人間力の哀れさが出てゐる。左樣な所を抽象的に言はぬのは遭難を哀しむ眞情が遭難當時の状況を痛切に想像せしめたからであらう。歌の力はさういふ所から出てゐるのである。
       〇
   吾友のおくつきどころかこひたる山茶花垣の花咲きそめぬ
 初めて墓參した歌でないこと全體の歌ひぶりで分るやうである。たまさかに訪うて來ればもう山茶花の花が咲きはじめてゐる。山茶花の花は咲いても賑かな花ではない。さういふ所に感慨が自然に滲み出てゐる。よき寫生歌の命はいつも内面に潜むのである。物質的外廓的の目にはそれが解らぬのである。
       〇
   夜の宮につかへまつるとはふりらがとるともし火し花にうつろふ
 神武天皇祭の櫻花をよめる數首中の一つである。はふりは祝部で神主である。祭事を夜の宮でとり行ふのであらう。その神主等の秉る燭火が櫻の花にうつるといふのであつて、莊重な調子と相俟つて一種の森嚴さが出てゐる。作者の心と一首の調子その他の表現と如何なる關係にあるべきであるかを(110)考ふるに恰適な一例歌である。元來櫻の花などは大抵甘く陳腐なものに墮ち易い。さういふものから充分に遁れ得てゐるのは寫生道一方面の特長からも來るのである。
       〇
   花ちらふ隅田《すだ》の河原の寺島に雨ふりくれて蛙なくなり
 心が醇直で姿の高い歌である。斯樣な歌は無條件で尊敬してゐればいいのである。隅田には今川原ほどの川原はない。昔からの習慣によつて隅田《すだ》の川原と詠んだのであらう。
   亀井戸の藤も終りと雨の日をからかささしてひとり見に來し
 どうも矢張いい。それはただ眞實性に富んでゐるのみではない。要核を捉へ得てゐるからである。換言すると頭の利いてゐるといふことになる。
       〇
   池水は濁りににごり藤なみの影もうつらず雨ふりしきる
 如何にも新しくていい心持のする歌である。矢張り寫生のいい所である。藤などは空想では大抵外面的な形式的な月並歌に墮ちさうな題材である。「池水は濁りににごり」と強い句を中止し、「藤なみの影もうつらず」と疊みかけて夫れを「雨ふりしきる」といふ二五音しかも活動性に富んだ二五音句(111)で打ち据ゑてゐる。打ち据ゑた力はよく一首全體に響き返して、劇しい雨音と藤の花と濁り水を打つて一丸となし得てゐる。それを眞の歌の力といふのである。腕を扼して恐い顔をして唾を飛ばすのは壯士節の力でゐる。壯士節は明治二十八九年頃に日本に流行した。今囘はこれで稿をやめる。昨今の寒さ非常で硯の水は氷りインキが氷る。これだけの草稿を毛筆で書いたり、ペンで書いたり、鉛筆で書いたりしたことは小生に例がない。記して記念とする。(二月一日柿陰山房にて)
       〇
 附記。本誌昨年九月號「左千夫の歌」其の二に掲げた歌の中
   冬の日の曉起きにもらひたる山茶花活けて茶を立てにけり
   いにしへの竹の林に遊びけむ人の畫掛けて茶をのみにけり
   いにしへの人が燒きけむ樂燒の手づくね茶碗色古りにけり
の三首は今日古泉千樫編「竹里歌話」の中「短歌愚考」を見ると、原作と子規改訂と對照されてゐて大へん面白い。今の今迄小生、子規のこの歌話を知らずにゐたのは殘念である。以上三首は多く子規の改訂に係つてゐる以上、單に左千夫の作品として取扱ふべきでないこと勿論である。その他、子規存生中門下の歌にどの位の改訂ありしかを知ることも必要になつて來た。このこと少し考を要する。上掲三首に對する小生の評釋は全部取消すか或は多少の改訂を加ふべきことを讀者諸氏に告げておく。
夫れにつけても千樫のこの編著は小生等に大なる稗益である。アララギ會員皆一本を備ふべし。(二月十七日追加)
(112)         (大正十一年三月「アララギ」第十五卷第三號)
 
       〇
   ともし火のまおもに立てる紅の牡丹の花に雨かかる見ゆ
 「雨かかる見ゆ」が「ともし火のま面に立てる」の句によつて適切に生動してゐる。作者の氣局と颯爽たる活動の心を見るに足る歌である。寫生は歌の道程ではない。どん底である。作者個性の頂點は寫生によつてはつきりと白地に現れること是等の歌によつても一端を窺ひ覺るべきである。
       〇
   雨の夜をともす燈火《ともしび》おぼろげに見ゆる牡丹のくれなゐの花 第二句第五句を名詞で切つてがつしりと据つてゐる。しつかりとして柄の大きいところ矢張り左千夫の氣局が現れてゐる。左千夫は二十二歳の時金二圓を懷にし自分の境遇を拓いた。その魄力がどの歌にも出て時々氣の小さい短歌作者の肝を潰す。がつしりした歌や大柄な歌がどうして左千夫に多かつたかを考へるものは、左千夫の幼少よりの生活を思ひ合すべきである。
       〇
   夕汐の滿ちくるなべにあやめ咲く池の板橋水つかむとす
 菖蒲園に遊んだ時の歌である。夕ぐれの池の幽かな心持を自然に素直に歌つてゐる。「池の板橋水(113)つかむとす」といふやうな句は小生等には非常に有難い句である。主觀の燃燒などいふ大きな旗印を押し立てて空疎な寢言を言つてゐる人々は、この板橋などは知らずに渡つて詩吟でもしてゐる連中である。板橋が何だ一箇の物質ぢやないか位に考へてゐれば世は泰平に治つてゆくのである。
       〇
   うち橋のあなたこなたのあやめ草尖る瑞葉に露光る見ゆ
 前と同じ時の歌である。「うち橋」は「移し橋」などの意であると思ふが、ここには簡單な假りの橋位の意であらう。素直にとほつてゐていい心持のする歌である。「瑞葉」の「瑞」はこの歌の場合肝腎と思はれない。
       〇
   少女らが螢をうつと夕汐の水《み》づく板橋わたりわづらふ
 同じ時の歌である。螢も新しく生きて居り、少女も生き生きとして、現れた姿態にいや味が伴はぬ。先生は少女のともを好んだ。「渡りわづらふ」など先生得意の所であらうと思うて、ほほ笑まれる心地がする。無骨者が却つて自然の心で人の機微を捉へる。
       〇
   獨たちひとり行くちふ大丈夫《ますらを》のその鋭《と》ごころは神も避くべし
(114) 中村不折畫伯の渡歐を送る歌の一首である。「獨立ちひとり行くちふ」など畫伯の髓を捉へてゐる句であらう。「大丈夫の」以下型にも嵌まり疎大にも失してゐる。先生には斯ういふ力瘤があつたやうである。
       〇
   山里の田舍の家居庭をひろみつまくれなゐの花さはに植う
 上總なる蕨眞氏を訪うた時の歌である。「田舍の家居」「庭をひろみ」が「鳳仙花《つまくれなゐ》の花さはに植う」としつくり合つてゐる。普通の記述のやうに見えてゐて、さうでない。「花さはに植う」よく生きてゐる。「山里」と「田舍の家居」は重複だと思ふ人もあらうが、田舍家《ゐなかや》といふ世俗語が斯ういふ所で生きてゐるので無用の重複語とならない。
       〇
   三穗の浦に潮あみ居ればあま小舟久能の山蔭こぎいづる見ゆ
 斯ういふのは萬葉の襲蹈であるが、矢張りいい心持がする。
       〇
   けさの朝け雨ふりしかばわが庭の萩の諸枝は地に伏しにけり
   春の芽の立ちにし日より待ちこひし庭の秋萩咲きにけるかも
(115) 歌柄が大らかで素直で捉ふべきを捉へてゐる。(三月十一日)
                (大正十一年四月「アララギ」第十五卷第四號)
       〇
   隱り岩こもりあれかも渡津海の沖べに立てり波の白木綿
 「上つ總小濱のほとりより磯づたひ安房の浦々經めぐりて」と端書のある二首中の一首である。「隱り岩」は「こもり岩」か「かくり岩」かよく分らないが、兎に角海中に頭を没してゐる岩である。さういふ岩のほとりには波が餘計に騷ぐのであるから第四五句があるのであらう。よい所を捉へて大らかに現してゐる所に先生の面目がある。波の白木綿の沖べに立つことは普遍な現象であるから、斯樣な特殊の境を現すには、も少し特殊の用意があつた方がいいやうである。そこを惜しいと思ふ。併しこの頃流行した放縱な空想歌に比べたら、大もとからの命を異にしてゐること勿論である。
       〇
   斜岩《なせいは》のうね間の水の淺き瀬に沙魚子《はぜこ》さばしる人に驚きて
 館山の海なる鷹の島に遊んだ時の歌の一首である。「人に驚きて」の結句を得て、水中の岩にさばしる沙魚子が生動する。歌の結句は釣鐘にあたる橦木のやうなものである。橦木の一撃が鐘全體に響きわたる如く、結句の勢が歌全體に響きわたるほどの力を持たねばならぬ。大きく響くべきに大きく(116)響き、幽かに響くべきに幽かに響き、歌の心によつて各々の場合を異にするが、結句全體に響きわたるべきは、どの場合を通じても同じである。此の歌水中の岩を寫すに第一二句を用ひたが、これでは未だ現れきらない。第三句以下の勢に對して甚だ殘念である。
       〇
   打日さす都路いでて山ざとの蕎麥《そば》のはたけを見ればたのしも
 素直にとほつた調子が、よく歌の心に通じてゐる。斯樣な歌は外形から見ると平凡であつて、作者の實情に立ち入つて見ると生きてゐる。夫れが歌のいのちである。博覽會の出品には向かないが、壁間に掲げて久しく見てゐるとよくなるのである。此の歌「見ればたのしも」大體これでいいが、幾分の間隙がありはせぬかと思つてゐる。「西上總に入る道すがら蕎麥の花を詠める歌ども」中の一首である。
       〇
   あしびきの岡邊の里の蕎麥畑に夕げのけむりなぴきただよふ
 前と同じ時の歌である。「足曳の」はここでは岡の冠詞に用ひたのであらう。大體いい心持が出てゐるが、第一二句や第五句の言ひかたに惜しいと思ふところがある。
(117)
   明治三十五年の部
   かまくらの大き佛は青空をみ笠と著《き》つつよろづ代までに
 鎌倉の大佛の歌である。露佛を歌ふに、「青空をみ笠と著つつよろづ代までに」と言うてゐる。佛の教を渇仰しつつあつた作者が如何に崇高な感動を持つて此の露佛に對したかが窺はれる。此の歌調子が大きく心が嚴かで高い。「鎌倉の大き佛は」と言ひ懸けて、以下第五句まで朗々と響きわたり、堂堂と押し進む姿を見べきである。先生の秀れた作の一つであらう。これより少し後與謝野晶子氏が鎌倉大佛を歌うて
   鎌倉や御佛なれど釋迦牟尼は美男におはす夏木立かな
といふ作を發表した時、世間では天才呼はりをして拍手喝采したものである。拍手した連中は今も大抵生存してゐる筈である。斯樣な歌を左千夫の目から見たらとてもたまらない。明治三十九年三月「馬粹木」で猛烈な批評を下してゐる。今その一節を拔いて見る。
 此歌が晶子の本音を露出して最も陋劣を極めたのは、美男の詞にある。宗教的觀念や美術的興味を以て晶子に望むは固より無理な注文であらう。併し歌よみともある晶子が、男的物體に對し、男振りの如何といふより外の感興が起らなかつたとは、餘りに情ないではないか。自己の詞はよく自(118)己を顯す。晶子の詞はよく晶子を顯してゐる。美男の一語は晶子が日常の嗜好を深刻に畫いてゐる。無意識の間に自己を語つてゐるは寧ろ氣の毒である。花柳社會の情話と雖も、男振り女振りが唯一の問題とはならぬではないか。大佛を見て親しみの感を起したは惡くはない。只美男と見て親しまんとするは餘りに下等でゐる。(圏點原文のまま)
語句聲調の非難は長いゆゑ之を略する。斯る批評は今日に於て誰も首肯する所であらうが、放縱の甘味にとろけ、官能の臭ひに寄りつく當時群衆の目からは、斯樣な歌が忽ち注意を惹いて、左千夫の大佛などは、そつちのけにされてゐたことを二十年後の今日序を以てここに書き記しておくことは今人にも後人にも爲めにならう。
       〇
   白砂のかわける濱に鴎かもふめる足あとあやにめづらし
 九十九里の濱の歌である。「かわける」といふのは「かわきゐる」の感じとは違ふ。左樣な白砂の上に印した鴎の跂あとを愛でてゐる心持はこの當時にあつて微妙で新しかつたであらう。只晶子氏の歌の官能氣分と放縱氣分を缺いてゐたために世人の渇仰を受けなかつたのである。「あやにめづらし」といふやうな心は左千夫特有の心持である。勾玉に對したり茶に對したりなどする時、矢張り斯樣な心持が動いたやうである。清淨感に對する一種執著の心である。清淨感に對しては前にも言及したこ(119)とがある。
       〇
   朱《あけ》の實のあきはの玉をうちかざし磯邊もとほりゆきし旅かも
 「上つ總なる山武の海邊を旅行きけるにあき葉といへる木の實のまたなくめづらしかりければ」と端書ある歌の一首である。「あきはの玉をうちかざし」といふ心持が矢張り勾玉趣味などに通じ、更にそれらが合はさつて太古趣味に通じてゐる。この歌をよむと「玉をうちかざし」といふ事も不自然でなく、自らゆるやかに暢び暢びした太古人の心に接するやうな感がある。作者獨特の心である。第四五句の大らかな言ひかたもそれに調子が合つてゐる。
       〇
   天が下に一人のおぞがくるといひてきもせぬ人を待ちかたまけぬ
 來ると約束して來なかつた友に贈つた歌である。歌の意は「おぞが」で一寸切つて見れば通ずる。この歌萬葉の「鴉とふ大うそ鳥が」の歌の面影がある。矢張り太古の心に通じた所があるやうである。先生には友人を待つ歌が隨分ある。その待つ心を「待ちかたまけぬ」といひ、更にその待ちぼうけにされた心を「天が下に一人のおぞ」というてゐる。大袈裟である所に作者の情が出てゐるのである。實際先生は人を懷しがる情の盛な人であつて小生等に手紙をよこされても、少し返事が後れると小言(120)をいうて來る。その小言の末に、この手紙毒み直して見ると聊か女郎の手紙に類して具合惡いが、書き直すも面倒だから、このままで送るなどと書いてあつたこともある。これは先生生得の特質である。此の間發行所で、古實に向つて、君等は同じ東京に住んでゐて一週間も逢はねば寂しいといふ男性の友人があるかと聞いたことがある。古往今來一人もないといふのは考へものであら、あまり多くあるといふのも考へものであると二人で話し合つたのである。先生は可なり多くあつた方かも知れない。多血質の特長を多く持つて居られたから自然さういふ傾があつて、情に勲する所があつたから、大きな茶釜を提げて本所から根岸まで歩いて行つたりなどしたので、その心が矢張り原始的な心に通じてゐた。「天が下に一人のおぞ」といふのを單なる誇張の言であると思ふと、左千夫の本質と行違ひになるであらう。
 この原稿、〆切に切迫して居り遽しく書いたのでよく讀み返す時間もない。變な處はあとから訂正することにしてここで筆を擱く。(四月十四日柿陰山房にて)        (大正十一年五月「アララギ」第十五卷第五號)
       〇
   桃の花人の訪はくも稀なれや渡小舟にかこも見えなくに
 藤塚の桃林に遊んだ時の歌の一つである。大らかな歌ひ方が歌境にしつくりしてゐて、おのづから(121)要核を逸しない。佳作の一とするに足りる。第一句と第三句で切つたために第五句を字餘りにしたのも聲調の上の要求に合してゐる。
       〇
   軒の端の楓の牙立くれなゐに色いちじろくなりにけるかも
 春雜歌中の一つである。楓の若芽の快感がよく現れてゐる。第二句主格を提示して一旦語勢を打ち切り、第三句以下夫れを受けて歌ひ下してゐる勢が作者の快感と合してゐる心地がする。「いちじろく」といふ詞も此の場合必至性を持つて生動してゐる。斯樣な際やかな詞は語感に鈍なるものの容易に用ひて多く活かし得ざる所である。
       〇
   みどり子の眞手の手のひら開くなす軒の八手は芽立のぴにけり
 第三句迄序詞であるが、その序詞が八手の芽立に對してよく活きてゐる。眞手は左右の手である。子を多く持つた先生の用ひさうな序詞であつて、そこが矢張り寫生の命と通じてゐる。此の年先生三十九歳二男四女を生んでゐる。
       〇
   なり木餅の小豆の粥の上湯汲み祝ひてそそぐ物なる木ごとに
(122) 正月十五日小豆粥祝ふといふ行事があつて、歳事記によると、天狗のために庭に案《つくゑ》を立てて小豆粥を供へるといふやうな事も見える。粥の木といふものがつくられて、それで女の尻を打つといふやうな呪もある。この歌で見ると、小豆粥の上湯《うはゆ》を汲んで果物の木にそそぐといふ習慣もあるやうだ。かういふ土俗傳説學については詳しくは釋迢空、胡桃澤勘内二氏に教を乞ふべきである。小豆粥の中へ餅を入れて粥柱といふよし歳事記に見えてゐるから、「なり木餅」の餅はその粥柱をいふのであつて、果物のなる呪ひにする粥柱であるから、なり木餅といふのであらう。さうすると歌の意は明かである。斯樣な行事をそのままに歌に詠んでゐるのは單なる記述であると早決めをする人があるかも知れない。さういふ人はこの歌の聲調が古樸な行事に對する作者の感じと如何にしつくり合つてゐるかの解らない人である。歌の命は大部分聲調にある。聲調は談話でいへば物言ふ氣息である。氣息の力が話し手の感じを活かし得るよりも、聲調の歌を活かし得る力は大きいのである。「上湯汲み」と第三句を中止し、四五句進行の條理を倒置したところに却つて率直素樸な趣がある。特に「物なる木ごとに」は第一句「なり木餅の」に對して一種反復の響きがあつて餘計に面白い。之を單なる記述とすべきでない。
       〇
   松が枝にきゐる鶯おもしろくゆきかひするか鳴くとはなしに
(123) 矚目の景情を歌うたのか何うか分らぬが、兎に角寫生的に行つてゐる所に新鮮味があつて鶯を自由に生動させてゐる。「おもしろく」の句多少鶯に甘えてゐる所がある。もし内在的に行つてゐれば猶いいやうである。
       〇
   なにげなく庭におりたち植込に來ゐるうぐひす逃がしつるかな
 矢張り寫生的のところがいい。「なにげなく」は直言《ただこと》に過ぎる。ここには無意味の詞を用ひた方がいい。
       〇
   破壁を塗りかへしかば生かべの色めぐしもよ乾かずもがな
 先生は壁の色合などを喜ばれ、居室の四方を壁にして籠つて居たほどである。乾かぬ壁土の色に潤ひがあつていいといふやうなことを先生宅の爐を切つた八疊間で聞かされたこともあつた。先生の流儀は生活に都合がよいとか、健康に適してゐるとか、さういふことよりも、心持のいい惡いといふやうなことを主にする傾を持つてゐて、住み心地のいい處には自然に健康も幸福もあるといふやうな考へ方をする方であつた。この歌、さういふ先生の心持が直接に出てゐる所はあるが、嚴密にいふと、歌境に對して聲調の騷がし過ぎる所があり、破壁と生壁を點出してゐるやうな生硬さもあり、「めぐ(124)し」といふ詞のしつくりせぬ所もあつて完璧の作とはし難いやうである。併し小生には矢張り棄て去ることは出來ぬ歌である。心持に生きた所があるからでゐる。
       〇
   つまごもる屋根のやつれを繕ひしその夜雨ふり漏らぬうれしさ
「つまごもる八上《やがみ》の山」「つまごもる矢野の神山」などいふ用例があつて、この歌の「つまごもる」も屋根の「や」にかけた枕詞であらう。その枕詞の中に「妻のこもる屋」といふ意をおのづから含ませた用法と見るを適當とするであらう。これは人麿の「衾ぢを引手の山に妹をおきて山路を行けば生けりともなし」の第一句が「引」にかかる枕詞であるというて、その代に「梓弓」などを代用しては歌の情をなさないと似通うた微な關係にあるのである。斯ういふ用法先生得意の所であらう。「やつれ」は「やぶれ」といふ方この場合普通のやうであるが、一首の心持を現さうとする聲調の必要から「ぶ」の破裂音を避けたのかも知れない。「その夜雨ふり漏らぬうれしさ」といふ安らかな現し方が一首の心持に合してしみじみした快さを感ぜしめる。作者生得の温い心に或る潜《ひそや》かさを持つた趣があつてよい歌である。「潜やかな心持」は内に籠るものであつて多く外に現れない。偶ま現れてもそれが何處までも向内性を失はぬ所に深さを伴つてゐる。丁度白玉の色の潤ひは外に現れながら感じが内の方に籠るやうな具合である。大理石などになると外面の色が外面に止どまつて向内性に乏しい。左千(125)夫の歌は大理石でなくて白玉である。内に籠る心持の多く見えてゐる所も左千夫の歌の一面の特徴であつて、左千夫の歌を攷へるものの逸してはならぬ所である。
   鉢の梅をめでみともしみ夜《よる》は内に晝は日なたに置きてやしなふ 鉢の梅の中の一である。「めで」といふ他動詞と、「ともし」といふ形容詞とに「み」をつけて相對せしめたのは不手際である。作者には斯ういふ拙づい所も可なり見えるが、是等の句にも猶意の痛切な所が見えてゐる。夜は内に入れ晝は日向に出すといふ心持を「やしなふ」と言つてゐる所にも痛切な心が見えてゐる。鉢の梅に對して痛切過ぎはしないかと思ふ人もあらうが、作者はこれ丈けの心持で鉢の梅に對してゐるのである。そこが作者の特徴である。その特徴が惡く現れると所謂ひつこくなつて來るのである。ひつこ過ぎる歌も先生には多くあるのである。さういふ所を小生等が指摘すると、先生大に氣に食はなかつたやうである。猛烈な議論もそんな所から可なり行はれたことがある。前から言つてゐるやうに、先生は清淨性にも徹してゐた。猛進性にも徹してゐた。向内性にも徹してゐた。さうして可なりひつこい性質にも徹してゐた。數へ立てれば先生の特質は可なり多方面を具してゐるやうであるが、何れも大きな渾然たる情の一塊に融け入つてそれが殆ど原始的と思はれるほどの活動力を備へてゐた。左千夫の歌をよむものはその邊まで觸到して味ふべきである。
(126)       〇
   きのふ今日寒さゆりければ鉢の梅の一枝の蕾いろ動ききぬ
「ゆりければ」は「緩りければ」である。「色動ききぬ」の句よく生きてゐる。「寒さゆりければ」と強く言ひかけて「色動き來ぬ」と結んだ句法が一首を引き緊めて自ら確かり据つてゐる。鉢の梅の中の一首である。
       〇
   葛飾の小梅にありしたづの木の花枝折り來し君に見せむため
 萬葉振りであるが矢張りこれでいい。斯ういふのも小生は生きてゐると思つてゐる。葛飾小梅の地名も生きてゐる。接骨木《にはとこ》(たづの木)の花も生きてゐる。從つて「君に見せむため」も形式に終らない。(五月六日〕
           (大正十一年六月「アララギ」第十五卷第六號)
 
(127) 歌集「青杉」を評す
 
 この作者の持つ神經は、儔ひなく鋭敏明晰である。島に於ける數年間の孤獨生活は、その神經の繊維の一つ一つを、更に、微細に鮮明に磨きあげさせる機會をつくつた。
 この作者の心は、儔ひなく肅ましく幽かである。島に於ける弧獨生活というても、今の若さの人々には想像し得られぬほどのものである。佛に仕ふる心というても、今どきの多くの緇徒には、恐らく、想像し得られぬ程度のものであらう。
 磨かれた神經は、その一筋一筋が作者の生活の明敏な耳目となつて、外界の影を幽かな心の底に投ずる。投ぜられた影は、四時寂寥たる島の自然である。そこには、主として天の陰晴と、四季生物の榮枯があるのみである。
 これを譬ふれば、床の上に置かれた水晶の一顆玉である。水晶の鮮明さは、室内の光線の多少に關らない。明るければ明るい光を、薄ければ薄い光を一顆の玉に收めて、その下に鮮明な光の焦點を結(128)ぶ。作者の歌は多く孤島の自然を一顆玉の焦點に集めた鮮かにして寂しき光である。
   櫻葉の散る日となればさわやかに海の向山見えわたるなり
   目にとめて信濃とおもふ山遠し雪か積れる幽けき光
   潮音のとよむを聞けばおぼつかな島べの春となりにけらしも
   乳ケ崎の沖べ流るる早潮のたぎちもしるく冬さりにけり
   父母をならび思へばとく逝きし父の面影はうすきが如し
   暖き日影をとめて來りつる枯生のもとに菫咲くはや
   寢入りたる姿を見ればおのづから病み細りけむその項《うなじ》あはれ   面伏せに歩みつつ見る足袋の穴わが下心つつましくあり
   三原山裾の榛原うら枯れて鵯鳥のこゑを聞くべくなりぬ
   枕べの障子にひびく波の音おもへば遠き旅の宿なり
   病みあとの弱りをもちて家ごもる今日も日暮れて寂しかりけり
   この宿にかくて三度の年くれぬ机の上の御ほとけの像
   足あとも殘りてあらむこのあたり土にあまねく草はびこりぬ
   月影は疊の上に照りにけり足さしのべて獨り安けさ
(129)   家垣に目白寄り來るあさゆふべ呉竹の葉は散りそめにけり
   目見《まみ》あげて山のすがたに向ふ時潮の音はわづらはしけれ
   霧晴れて眼おどろく青空の色かと見しは大き海原
   きのふまで常にわが見しうつくしき黒髪の子はいづち去りけむ
   蝉の聲にはかに乏しこの朝のあらしになびく青笹の群
   夏すぎて心さびしも庭のへに稀に寒蝉鳴くばかりなり
   ややにしてまた鳴きそめつ寒蝉のただ一つなる利聲《とごゑ》さぴしさ   寒蝉は長くは鳴かず眞日なかにただひときはの聲透るなり
   仰ぎ見る夜空しづけししみじみと月の面より光流れ來
   春の夜の月はすがしく照りにけり木の芽ひらきてやや影に立つ
   島山を見ればいつくし立ち別れふたたぴと來むわれならなくに
   かりそめに面合すだに人の子のうら哀しさは思ひしむもの
 是等の歌は、作者の特徴を遺憾なきまでに透徹せしめたるものであつて、自己の作品をこれまでに澄み入らせる機根は、生ま優しい覺悟からは生れて來ないのであらう。今人多く芭蕉の幽寂を説き良寛の自然を説く。説くものに多言と揚言とあつて、謙虚と精進とがない。饒舌愈々出でて、佳品愈々(130)少きの奇觀を呈する所以である。「青杉」の著者は、斯る饒舌の世界に、一人ひそかに沈黙して忍苦の道を通つた。そして數年の孤獨生活から如上の歌品を得るに至つたことを現今の歌人が如何に考へるであらうか。斯樣な消息についての考慮と反省とは、恐らく現今歌人の殆どすべてが無關心としてゐるところであらう。
 爾か言うたからとて、予は、著者の作品を芭蕉や良寛と同列に置いて品隲しようとするものでもなく、又著者の生活を先聖の心に比して論じようとするものでもない。著者の年齢は今丁度實朝の歿年と同じである。著者の生活を實朝の生活に比することは暫く措くも、之を單に常人に比するも、生活の幅の甚だ挾小なるを感ずるの程度にある。之は著者の自ら顧るを要する點である。生活の幅の挾小なるは、統一に利であり、澄み入るに利であるが、小さな渦中に早く安んじ、早く甘んじ、或は我と我が至る處に甘えるやうな傾きにまで進むことがある。著者の精進は、決して左樣な處にまで陷ることのないは確かであるが、一卷中沈潜の力猶不足してゐるものも可なり多く目につくのである。内面に籠るべき心が、往々にして外邊に浮び出てゐるのである。之は著者の年齢の若さにも依るであらう、之を著者は省みていいのである。
   去なむ日は近づきにけり獨りゐてもの思ふにぞ涙さしぐむ
「涙さしぐむ」に現れた神經は、寧ろ脆く弱いのであつて、今少し内面的に籠る力になつてゐるとい(131)いのである。この場合「涙さしぐむ」位の所に感心するのは安易な心の持主がよくする所である。
   晝の間は若葉に障へし山櫻ゆふべ目に立つは寂しかりけり
 歌ふ心はいい。力が足りない。「寂しかりけり」といふのが必しも不可ではない。ここでは、その心持を全體に泌み出させてある方がいいのである。これを前掲
   病みあとの弱りをもちて家ごもる今日も日暮れて寂しかりけり
に比べて見ると分る。
   島山の裾ひくところ幾重にも榛若葉せり見るに床しさ
「見るに床しさ」が外邊にふらついて一種の甘さになつてゐる。
   ただ一つ見えて悲しき朝船は野増の磯に寄らで過ぎゆく
「悲しき」同上である。
   歸り來てひとりし悲し灯のもとに著物をとけば砂こぼれけり
 非常にいい歌であるが、ここにも「悲ししだけは現れ過ぎてゐるのである。   山かげは今枯れ色のうつくしさ草根に殘るいささ紅
「うつくしさ」といひ「いささ紅」といひ、外面に現れ過ぎてゐる。
   きのふの雨にしめれる木の間道若葉うつくしく照り映えにけり
(132) 境地には直ぐ同感出來る。四五句が美しく現れ過ぎてゐる。
 凡そ、集中、美し、光る、照る、映える、白し、寂し、悲し、床しといふやうな詞によつて、比較的外邊的現れ方をしたと思はれるのが可なりに多く、それが一種歌の光澤となつてゐる樣である。小生のこの歌集を重んずるのは、この光澤を稱美する心とは違ふのであつて、作者に沈潜の力が加はればその艶は追々に消されて行くべきであると思ふのである。殊に作者の如き鋭敏な神經の所有者は、鋭さと脆さと一歩の差であることに氣づいて、感傷の世界に入りゆくことを誡むること無用でないのである。斯樣な注意の意味で「青杉」一卷へ予の符號を記した歌が四五十首位あるやうである。
   わが植ゑし庭の草花咲き出でて朝な夕なの眺めうれしも
 穏やかな歌である。「咲き出でて」に對しては「うれしも」が利き、「朝な夕なの」に對しては「うれしも」に考へる餘地がある。
   草の戸に時雨るる日なりききとして百舌鳥啼きすぐる聲の悲しさ
 「ききとして」が神經を刺戟しすぎる。生まな所である。
   こほろぎの聲もとだえしこの夜頃時計のきざみ心にし沁む
 「きざみ」の音調同上である。
   海原を吹き來る風は暖かしたちまちにして木の芽ひらくも
(133) 「たちまちにして」を今少し緩やかな詞と代へたらいいであらう。
   降る雨にぬれつつ咲けるすひかづら黄色乏しくうつろひにけり
 「乏しく」か「うつろひ」かを節約しないと、其處が直言《ただごと》になる。
   おもおもと梅雨の名殘の風吹けり夜目には凄き蜀黍の畑
「凄き」が便利に現れ過ぎてゐる。
   生けるものつひに儚なくなりぬべし月夜もすがら※[虫+車]の聲
 上句と下句との關係が猶危い。「月夜もすがら」は作者の外庭にゐつくす場合か、これも危い。全體に調子に乘り過ぎてゐる所がある。
   うつせみの命短かし夜ふけて杜の小蝉のいくたびか鳴く
 上句下句關係同上である。
   山べには鳥むらがりて啼く聲すむかうの梢こちの木がくれ
 斯ういふ歌、一歩を過れば調子だけになつてしまふ。この種類の歌敷首目につく。以上擧げた九首は、曩に予の外邊に現れた光澤と稱するものとは、多少別箇の問題の上に置かるべきものでゐると思ふゆゑ抄出したのである。
 著者の齢は、未だ三十歳に滿たない。年若くして異常の境まで澄み入つたことは現世にあつて稀有(134)であらう。況してその澄み入つた境地には、恐らく前人未到と思はれる所がある。この意味に於て、「青杉」一卷は日本の短歌史上に獨持の地位を占むるに足りる。只早く澄み入つたことが、著者の一生を通じて幸か不幸かといふことは、今後に實證さるべき宿題であることを思うて、著者自ら顧る所と奮進する所とがあるべきである。(十月七日)
           (大正十一年十一月「アララギ」第十五卷第十一號)
 
(135) 「しがらみ」感想録
 
   手をとりて云ひがたきかも現し世にいのちを死なず君來りたり
 これは大正八年百穗畫伯旨腸炎の手術快癒後、備後峽谷なる中村君宅を經て山陰道へ遊んだ時の事を詠んだのであつで、それを中村君は大正十二年六月號アララギに發表してゐる。この間丁度滿四年を經てゐる。これは中村君の歌を知るに大切なことであるが、その問題は後に讓る。この歌を讀んだ時、小生非常に感激して四五人へ葉書を出し、且つ土田藤澤その他諸君へいく度もその事を話したと記憶してゐる。この歌今見ても依然として感嘆に値する。それは中村君の人柄や本質を遺憾なく發揮し得て渾然化成の域に到達してゐると思ふからである。「手をとりて云ひがたきかも」は宛ら中村君の面貌と、その唇邊から吐き出される吃々たる談話に直面するの感がある。斯の如き種類の詞は元來感傷に入り易い傾をもつものである。それが中村君によりて驅使されると、手をとりて、云ひがたきかも、といふ鈍重味をもつた響きになつて、讀者に充分の安心を與へ得るのである。而も、その響き(136)は、第三句以下と抱合することによつて、餘計に情味を深め、感慨を重くし得てゐるのであつて、一讀二讀して過ぎ去る能はざらしめるものがある。「命を死なず」は實に名句である。命の危険と、その心配から辛うじて免れ得たのであつて、それを殆ど無造作と思はれるほどの簡單さに現して、一首性命の機微をなし得てゐる。この邊實にいいのであつて、第五句の調子も充分にその重大な感じに据わりを得しめてゐる。情深くして感傷に入らず、滋味を合んで甘きに墮ちず、勢を持して自ら莊重である。これを中村君の代表作の一とするに多く異論あるまい。
   春あさき峽はともしき水の音ここに住む我を思ひ給はね
   冬山の春にむかふを一人して見むと思ふに來つる君かも
   君を送り國の境の山越の深き峽路にわかれけるかも
 同じ連作中の歌であつて心も姿も皆秀でてゐる。而も、それは皆作者の本質から流れ出てゐるものであつて、他より模することも近づくことも出來ないものである。
 併し乍ら、小生はこの一聯十一首(八首大正十二年發表。三首大正十三年發表)悉くを同列に置いて鑑賞しようとするものではない。
   日陰《ひかげ》りの小早《をばや》き峽にかへり住み三とせ過しぬ友といふもののなく
   春山に敷ける落葉のぬくむ如《の》す君に會ひてぞ胸ぬくむかも
(137) 「小早《をばや》き」は詞が無理であり、「友といふもののなく」の十音は鈍重に過ぎる。「ぬくむ如《の》す」といひて「胸ぬくむかも」は拙づく、「如《の》す」のつづき方にも猶不徹底の所がある。これらは嚴選する時は棄てるか、或は猶推敲をつづくべきものであらう。
 然るに、作者の歌には一つ奇妙なことがある。瑕があり無理があつて、拙づいと思はれるものでも、棄てるとなれば惜しいといふ氣がするのである。他の作者にもさういふものはあるであらうが、この作者の歌にはその感が特に濃く附き添ひ得るのである。それには瑕と見えて瑕でなく、拙づいと見えて却つて率直性の現れてゐる如きものもあらう。その邊の境界が面倒でゐる。例へば、前記二首を棄てる云々と小生の言つたのは、理の上から言うたのであつて、これを棄てるといふことになれば未練が生れて來るのである。思ふに、これは作者の歌が常に深い眞實性から流れ出るからであつて、缺陷を控除しても猶眞實の香氣があとに殘るのであらう。そこに殘る香氣が歌の命の本源である。この作者は、時に拙づい歌は作るとも、命の本源を稀薄にしたことはない。そこに作者本領の根ざしがあるのであるが、その故を以て瑕あることをも、拙づき所あることをも許容するのは惡いのである。この關係は、實は「しがらみ」全體に及ぼして言ひ得るやうであつて、非常に光ある歌の多いと共に、思ひ切つて棄てるか、も少し推敲した方がよいと思ふものも散見するやうである。
   朝夕の息こそ見ゆれもの言ひて人に親しき冬近づくも
(138) これは大正七年作であつて、前の「手をとりて」等三首の歌と同じく非常に傑れた歌である。「息こそ見ゆれ」というて、それが直ぐ「物言ひて人に親しき」につづくあたり天成の感がある。著者の歌には、いつも漂へる官能があり、その底には深い心の沈潜あること、小生の已に屡々説いた所であつて、これらの歌が矢張その持緻を充分に持ち得てゐる。これを林泉集中大正五年の作
   おぎろなき息をもらせり内の海八十島かげに水の光れば
等數聯の歌に比べれば、自ら變遷の跡が見えるのである。一は若くして純なる命であり、一はその命が現實との接觸によつて、漸くにして深く籠りゆく姿であつて、彼の味ひと、是の味ひとには自ら深淺の別がある。それが後になると   池ばたの借家《しやくや》ひとむら夕されば戸をはやく閉づるみ冬となりぬ
   雨あふる(る)池より來り鳴く蛙この砂庭は草木ともしも
   市に出てひと日疲るるあわただしさ今朝剃りし鬚のすでに硬《かた》けれ
といふやうな處に入つてゐるのである。この變遷を示すためには、他に恰例を求め得るかも知れぬが、變遷の色合を了解するには充分であらうと思ふ。先年齋藤君の「あらたま」が出た時、前著「赤光」の方に愛著を保留すると言うた人々がある。それらの種類の人々は、中村君のこの變遷に對しても恐らく同樣の感想を抱くであらう。その所、小生は全然違つてゐる。「赤光」「林泉集」の命を薄し(139)とするのではない。後のものがその命を更に深めてゐるために、外面枯淡にして寂寥の姿をなしてゐるのであつて、所謂老境の究極所に向つて流れつつある一脈の命を想見することが出來るのである。併し乍ら、この作者らは、斯の如き老境を意識的に概念的に目標に置いて、その目標の下に自分を無理往生させようとする如き不自然な修行者ではない。寫生が常に生活中心の眞實から生れ出るものである限り、道は常に率直に新鮮に生き動き得てゐるのである。
   山坊の夜語りに更けて向く僧は精進食《しやうじん》をたもつ齒のきよくあり
   山のうへに春さむく僧の行きかへり黒衣《こくえ》ふくれて白き襟卷
   しののめに山ふかき鳥を聞くものか比叡寺にゐるを寢て忘れたる
 是等の歌の中に多少表現上の瑕あるものありとするも、作者の持つ寂寥感が如何に率直に新鮮に自由であり、不自然や空虚や氣取りから遠ざかつてゐるかを知るに足りるであらう。これは實は二三の擧例を待たない。「しがらみ」中何れの歌を擧げても、恐らく皆之が恰例となり得るであらう。
      (大正十四年四月「アララギ」第十八卷第四號)
 
(140) 註解平賀元義歌集
 
       〇
 羽生永明氏は畢世の努力を平賀元義研究に致してゐる。それを十年前に世人が漸く知りはじめて、久しく期待を氏の研究に寄せてゐるけれども、今日まで世に發表する所がない。今囘氏の研究の一部分である「註解平賀元義歌集」の刊行を見んとするのは、この道のために、翹望の一端を充たされるものであつて、歌界にあつて大なる啓發であり、特に萬葉系統の和歌史に新しき道を拓かれるものであつて、小生等の欣び喩ふるに物がない。
 子規が平賀元義を知つて、初めてその徹底した萬葉ぶりの歌を推稱して世に紹介したのも、羽生氏が岡山の新聞に書いた「戀の元義」を見たのが縁になつたのである。その後大正三四年に齋藤茂吉君が、正宗敦夫氏の紹介により羽生氏を訪はんとして住所が分らず、苦心して氏に逢ひ得て、その研究の一端を「アララギ」に寄せて頂いたのが二度目の縁となり、爾來小生等も度々氏を訪うて、元義に(141)つき教を受けたこと輕少でない。然るに氏は甚だ謙遜であつて、その研究を世に公にすることを肯じない。今囘「註解平賀元義歌集」の出版は、氏の研究として一部分に過ぎぬものであるが、それすら、數年來小生等懇請の餘に漸く決意せられたものである。その原稿を小生の研究に參照せんために、特に一通り拜見することを得たのは小生の仕合せであつて、多數翹望者に對して濟まない心地がする。これが羽生氏と小生等との三度目の縁である。
 氏は草鞋を穿いて遍く元義の足跡を躡み、元義有縁の宗に就き、古反古や古襖の下貼りまでを檢して研究の資料を得てゐる。元義の學問學系及び血族交友師弟關係をはじめ、細大の事蹟悉く之を逸せざらんとし、元義の一度跡を印した土地や、歌に詠んだ土地は多く親ら往いて地理を觀察してゐる。眞摯想ふべきであつて、その眞摯さが頗る元義の心持に通じてゐるといふ感がある。元義靈あらば、地下にこの恰適なる研究者あるを快として感謝するであらう。
 氏の原稿を拝見して少しづつ手記するを許して頂いたものがある。今その一端を記るさう。公刊に先立つて、ここに云ふのは勿論先を越さうとする心ではない。氏の研究の一小鱗片を摘出して讀者にその風姿を示したいと思ふのである。片鱗は全鱗でない。小生の私に摘出したものを以て全鱗を推すは、或は當り、或は殆い。前以て之を諒とせられたい。
       〇
(142)      天保八年三月十八日自2彦崎1至2長尾村1途中
   牛飼の子らにくはせと天地のかみの盛《も》りおける麥飯《むぎいひ》の山
 (上略)一首の意は、農夫どもの常食とせる麥飯と名に負へる山、これこそは芻堯どもの糧にして、それに食はしめよとて、天神地祇が高く盛り上げ置き給へるなれとなり。日本紀に、月夜見尊に殺されし保食神の腹の中に稻|生《な》り陰《ほと》に麥大豆生りし由記せり。鈴木重胤は「大麥小麥共に身を合せたる状して、女陰の形に似たれば、實に御陰より成出たりけらし」といへり。麥にこの傳説あるのみならず、元義は生來極めたる麥飯厭ひにて、文政八年以來、祖母の實家奥津家の厄介人となれる間も、長鋏歸んなん食に魚なしと歌ひけんなにがしの態度にて、おのれのみは、持に米飯を食し、たまたま、一粒にても麥粒の米飯中に混ぜるを見出づれば、直ちに之を吐き出して、かかる飯のいかで喉に下るべきかとて、怒號しきといふによりて考ふれば、この歌「牛飼の子らに食はせと」といへる意一際明かなるをおぼゆ。(下略)
小生は、今まで麥飯といふ名を面白く思つた爲めにのみこの歌が生れたと思つてゐた。解説を得て新に解かつた所がある。元義の潔癖は前より聞いてゐる。麥飯嫌ひの癖は右の記によつて、初めて知つた。斯る微細な所まで徹つてゐるのが、氏の研究の面目である。記載する所は五六行に過ぎぬが、それに至るまでの骨折りは容易ならぬであらう。それを小生等は安座して頂戴してゐるのである。
(143)       〇
      喩(ス)2高階騰麿1
   菅の根のながき春日を徒に暮さむ人は猿にかもおとる
高階騰麿 備中都宇郡松島村(今、都窪郡床村大字松島)兩兒神社神主堀尾金|※[金+且]《すき》本姓高階。歌名騰麿。元義の門人なり、此の人常に元義を請ひ、自宅に同好の士を集めて古學を講ぜしが、或る時、萬葉の講筵に、元義は、同書二の卷、人麻呂の詠める高市皇子尊(ノ)城上(ノ)殯宮(ノ)歌を朗々として高吟すること幾囘、何時果つべしとも見えず。衆皆呆然たり。金※[金+且]間をうかがひて解義に轉ぜんことを請ふ。元義昂然として曰く「抑々歌は義理を講説し得らるるものにあらず、ただ朗吟してあるべし。吟咏幾囘、義理自ら通ずるものぞ。口舌を假りて解説し得らるるやうの歌は眞の歌にあらず」といひつつ、又も、初めよりこの歌を朗吟しはじめければ、人々すべきやうなく、はては一人づつ消えて、座上にあるもの金※[金+且]等一二人のみなるに至りきといふ。かかる有樣なりければ、此の金※[金+且]主催の古學研究會は爾後不振に陷り、立消えの姿になりぬ。元義之を慨き、さてこそ、この歌よみて金※[金+且]を督勵したりしなれ。猿にかもおとると叱責せられし金※[金+且]等の面色いかにかありけむと、をかし。(下略)
實に面白い。元義の行動は元義の歌の面白きごとく面白く、或は歌以上に面白い。萬葉講筵の一齣(144)だけでも彼の面目は躍動してゐる。斯る逸話を聞き得るのは子規以後に生きた小生等の幸福の一である。
       〇
      美作にゆきて
   美作《みまさか》や大原《おはら》の山の山ついもこきだくくひてあは肥《こえ》にけり こきだくらひてイ
 (上略)元來、元義は食味の選擇にむづかしき人なりき。大の麥飯ぎらひ、魚類は鯛の如き赤みがかりたるもののみをえらみ、鰯、いりぼしの如き下《げ》ざかなをば絶對に口にせず、蔬菜は薯蕷《やまのいも》、韮、生董、蠶豆《そらまめ》、胡蘿蔔《にんじん》、胡麻等を好み、薯蕷汁《とろろじる》、玉子酒、※[奚+隹]卵を常用せり。彼れの「石楯舍掌記」中に「一、上酒一合五勺を一合に煎じ、一合に成候時、玉子二つをよく解き、たいはく十五匁、日に三度位のむ。食前すき腹よし。一、山の芋、細未影干、やげんにておろし、たいはくと半分づつ、黒ごま、芋の半分程、右、みつにてねる。但、持廻り候勝手にはねらぬもよし。一、子供の髪の赤きに、黒ごま二升を食にふりかけ、三年にても、五年にても、食はせ候へば黒くなる、一、玉子をつぶし、朝あつき飯へ打込みまぜ蓋をして置き給《たべ》る。一、山の芋、とろろ汁、いりし【金子と云、津山にも有】を湯につけ和し、薄くへぎ、汁へ、打込む【死人も生るといふ】」とあり。常に老衰を嫌ひて精力主義の權化ともいふべかりし彼は、食物に於ても、右の如く常に滋養分に富めるものを攝取するに力めたりしが如し。(145)就中、薯蕷をば特に之を嗜みて、其の著美作視聽録の中にも、「薯蕷、氣味甘く、温乎毒なし。【本經】傷寒を治し、寒熱邪氣を除き、中を補ひ、氣力を益し、肌肉を長じ、陰を強うす。久しく食へば、耳をさとくし、目を明にし、身を輕くし、年をのぶ。【別録】頭風めまひを治し、氣をくだし、腰の痛をやめ、虚勞つかれやせを治し、五臓を充たしめ、煩熱を除き、五勞七傷を補ひ、風冷を去り、心神を鎭め、魂魄を安じ、心氣の不足を補ひ、多く事を覺記す。【大明】筋骨をつよくし、精の泄を治し、健忘を治す。【時珍】腎を益し、脾胃をすこやかにし、泄痢をやめ、痰を化し、皮毛を潤す。」と記せり。(下略)
 是亦元義の面目を窺ふに足りる。「食前すき腹よし」といひ「持廻り侯勝手には練らぬもよし」といひ、效能に必す強陰を遺さぬ如き、目ざす處と直接であつて、用心皆要を得てゐる。これだけの材料でも元義研究者に資する所多大であらう。全卷の早く世に出でんを望むこと益々切である。擧例を餘り多くするは、公刊前差控へたがよからう。ほんの二三を擧げるに止どめる。(四月十三日)         (大正十四年五月「アララギ」第十八卷第五號)
 
       (146) 大澤祐一遺集
 
 近頃寄贈された歌集をぼつりぼつり拝見してゐるうちに、故大澤祐一氏の遺集に接して快いものに行きあひ得た感がした。歌柄が素直で自然で自ら樂しんでゐる風がある。そこが歌の本來の面目であらう。我々は歌本來の面目がそこにあるを知りつつ、註文が多過ぎ慾が多過ぎるために、無理が出て来るのである。註文も慾も多いのはいいが、それが洗錬されると、しまひには素直な簡單なものになる。それを目がけてゐるから我々は苦しんでゐるのである。さういふ時に大澤氏の歌の素直な自然の姿を見て快い感じがするのである。大澤氏の素直な歌ぶりは、思ふに氏の素質から來てゐるであらう。生れながらにして自然であり寡慾である人は、求めずしてさういふ處に居る。我々には慾が多いから洗錬を經ねばならず、この洗錬に一生を費さねばならぬやうである。これは歌の問題でもあり、すべての生活の問題でもある。
 只、單純は、事によると無生氣と稀薄と無味と涸渇になり易い。これは一生を通じて貫くものがな(147)いから、自ら至り得る處に墮するのであらう。單純を求めるはいいが、單純に墮して稀薄を得ても困る。この關係我々には面倒である。面倒であるが、道の遂に單純所に入るべきは認めねばなるまい。さういふとき、大澤氏の歌の如き自然な素直なものに接すると、清凉の風に吹かれて、自分の顔のほてりが覺まされるといふ感がする。
   霞立つ春の岡べに吾れ居ればそことも知らにあこがれにけり
 良寛を思はせるやうな歌ぶりである。どうも心持がいい。
   はるはなのいやめづらしき君にあひかさねし酒に醉ひにけるかも
 「かさねし酒」といふあたり中々よく生きてゐる。
   胡頽子《ぐみ》の實の赤く熟れたる磯山の小松のかげに遇ひにけるかも 心地のいい「遇ひ」である。赤いというて地味であり、地味であつて味ひがある。
   ことなしに今日も暮れつつ子どもらとあたたかき飯|食《を》しにけるかも
   草の實の土にこぼれて小鳥くるしたしき秋となりにけるかも
 平淡にして人情がこもり、人情があつて浮き出る所がない。親しみが直接で自然に人の心に泌みる。
   病院の門べの田居になく蛙聲のかなしきこの夕べかも
(148) 病院の門前に田圃がある。「聲のかなしき」がよく境遇の脈 膊膊に觸れてゐる。
   松山につづく丘べのはじ紅葉時雨の雨に匂ひけるかも
 「匂ふ」の詞がかりそめでない。歌の命は斯る所に懸つてゐる。
 作者は家庭の親しみに篤い。子どもを詠んだ歌が全篇を通じて可なり多い。氏の歌の自ら樂しむ風あることと關聯して考へることが出來る。
   むらぎもの心たのしくわが兒等とこの片岡に凧をあげ居り
   ゆくりなく母の乳房に手ふれけむ我が幼兒はつくづく笑めり
といふ類のものがある。亡子に対しては
   愛《かな》し兒が乳房ふくむと夢に見てさめたる妻は堪へられめやも
   生業《なりはひ》にいとまもなけば愛し兒を稀にし抱きて今し哀しも
などがある。その他
   ささがにの巣を拂はむと朝ぼらけさ庭にいでて濡れにけるかも
   井戸端にひよこ遊べり米をとぐ眞白き水を渡り遊べり
なども逸すべからざる歌でゐる。
            (大正十四年六月「アララギ」第十八卷第六號)
 
(149) 歌集「川のほとり」
 
 古泉千樫氏の歌集が出さうで出ず、今年に至つて「川のほとり」の公にせられたのは甚だ喜ばしい。氏の言ふ所によれば、氏は十三歳にして歌を作りはじめ、十九歳にして伊藤左千夫先生の門に入つて今日に及んでゐる。さうすると歌生活をはじめてから、そろそろ三十年に近い。そのうちから四百三十二首を選んだのであつて、非常な嚴選である。それゆゑ皆粒が揃つて夾雜の感がなく、隨意讀み了つて、一路平明の快さがある。近來の快著とするに躊躇しない。 「川のほとり」は皆いい歌である。そのうちでも、初めと終りが特にいい。初めといへば、十九歳から二十一二歳の頃である。その位の年輩、特に明治四十年以前の歌界にあつて左記の如き歌をなしてゐるといふことは驚嘆すべく特筆すべきことであらう。
   1 みんなみの嶺岡山《みねをかやま》の燒くる火のこよひも赤く見えにけるかも
   2 夕食《ゆふげ》終へて外《そと》に出て見ればあかあかと山燒の火のひろがりにけり
(150)   3 夕山の燒くるあかりに笹の葉の影はうつれり白き障子に
   4 山燒の火《ほ》かげ明りてあたたかに曇るこの夜をわがひとり寢む
   5 砂畑のしき藁のうへにうすみどり西瓜の蔓の延びのすがしさ
   6 しら露のしとど置くなべ秋の野の草の葉厚く肥えにけるかも
   7 山行くと櫟の若葉萩若葉扱きつつもとな人忘らえず
   8 草山の奥の澤べにひとり來てなはしろ茱※[草がんむり/臾]をわが食みにけり
   9 水ひかる春の小山田うち見つつ心はとみにつつましきかも
   10.都べにいつかも出でむ春ふかみ今日の夕日の大きく赤しも
   11 夕日さす小川の土手の青芝を素足《すあし》に踏みてひとり歸るも   12 大きなる人のうしろにしたがひて心うれしくも歩み行くわれは 左千夫先生に見ゆ
   13 露白く夕月照りて新藁のにほひ冷やかにこほろぎ鳴くも
   14 天地に蟲の音すみて五百代《いほしろ》の山田もさやに月押し照れり
 實にいい歌であつて、今日より見て、些の間然する所がなく、垢の拔けてゐる具合も當時にあつて殆ど類のないものであらう。それが二十歳の若年作であるから餘計に驚かれるのである。特に156の如きは現代にあつて何れの點よりしても秀れた作とすべきである。左千夫先生が「お廣間は寂《じやく》と神(151)さび花瓶を四尺の青磁《せいじ》對《つゐ》に据ゑたり」「天路ゆく龍の雄神のしる年ぞ起ちてふるはね増荒夫の伴」等の歌をつくり、長塚節氏が特に寫生の歌と言うて新しい植物などを詠み試みてゐる頃であつて、小生の如きは腰折れにも當らない亂暴な歌を平氣で發表してゐたころである。尤も、古泉氏のでも第十四の歌の如きは、當時の根岸派同人式の癖の附著してゐるものである。これを當時の馬醉木、アララギ中に檢するに、以上諸作若くは原作と思はるるものが一首も見常らない。思ふに、作者當時秘かに手記して、獨り自ら樂しんでゐたものであらう。
   15 皐月空あかるき國にありかねて吾はも去《い》なめ君のかなしも
   16 君が目を見まく術なみ五月野《さつきの》の光のなかに立ちなげくかも
   17 ただ一人わが立ち聞けば草刈のをとこをみなの歸りくるこゑ
   18 草鞋はきてまなこをあげぬ古家の軒の菖蒲《しやうぶ》に露は光れり
   19 家々にさつき幟のひるがへりしかしてひとりわが去りゆくも
   20 船おりて都の土を踏みそむるわが足うらに力のなしも
   21 ふむ足にこたへあらねば立ちとまり身をととのへて息《いき》づきにけり
   22 あからひく日にむき立てる向日葵の悲しかりとも立ちてを行かな
   23 かりそめの病をやみてわれ思ふつひに都に住みえざるかに
(152)   24 醫師《くすい》がり行くべきものか夕日さす障子を見つつ一人|臥《こや》るも
   25 青潮に追風うけて走る帆のこころは張りつつ涙ながれぬ
   26 夜《よる》のまに雨ふりけらし屋根ぬれて朝明《あさけ》凉しく秋づきにけり
   27 思ひ湧く大き都にせむすべのたどきを知らに晝寢するかも
   28 都大路人滿ち行けどみち行く人ら聊かも我にかかはりはなし
 以上は古泉氏が都へ移住する前後の歌であつて、氏の二十二三歳ごろの作である。このうち22232528の四首はアララギにあつて、原作を改めたのもある。他は何かの雜誌に出てゐるかも知れないが、小生の目に入りしは初めてであらう。恐らく、これも氏の手帳に秘められたものであらう。何れも佳作である中に、17182526の如き小生の愛誦措かざるものである。
 それから、すつと十五年ばかり飛んで最近の作になる。これは氏がアララギと離れて日光同人となつてからのものが主である。この頃氏にはいい作が多い。これは新しき境遇に入つて、新しき奮起と努力とを得たためかとも思はれるのであつて、氏のために祝著を感ずるのである。十數年前故郷安房國を出て都に移住する頃に佳作が多く、多年手を連ねたアララギに別れてから、同じく佳作の多いといふことは、境遇の更新に伴ふ心理の緊張が與つて力なしとは思へぬのである。
   29 この家を繼ぐ弟のかへるまで保ちかあらむ古き茅屋根《かややね》
(153)   30 わくらばに吾れも弟《おとうと》もかへり來てこの古家に男の聲す
31 青田のなかをたぎちながるる最上川齋藤茂吉この國に生《あ》れし
   32 高處《たかど》にし雄雉は鳴けり草わけてあゆむ雌雉の靜かなりけり
   33 太幹の椿の根ろの青苔もさやに洗ひて井戸は晒すも
   34 水垢の匂ひまがなし汲み汲みて井戸の底ひにおり立ちにけり
   35 素足にて井戸の底ひの水踏めり清水つめたく湧きてくるかも
   36 飲井戸の水替へにけり一人して家守る母のまさきくありこそ
   37 夕ふかき高草のなかに歩み入れり頭のうへを鷺のとぶ音
   38 高草原歩みかへせば西あかりまなこに沁みていよよ暗しも
   39 草原をあゆみきたりて湯に入れり草傷さへににくからなくに
   40 病める身を靜かに持ちて龜井戸のみ墓のもとにひとり來にけり
   41 去わがてにこのおくつきに手をかけて吾は立ち居り一人なりけり
   42 よき友はかにもかくにも言絶えて別れゐてだによろしきものを
   43 み墓べの今朝の靜けさひとりゐるわれの心は定まりにげり
   44 おもてにて遊ぶ子供の聲きけば夕かたまけて涼しかるらし
(154)   45 うつし身は果敢なきものか横向きになりて寢ぬらく今日の嬉しさ   46 秋空は晴れわたりたり聊かも頭もたげてわが見つるかも
   47 秋さびしもののともしさひと本の野稗《のびえ》の垂穗瓶にさしたり
   48 うつたへに心に沁みぬふるさとの秋の青空目に浮びつつ
   49 山の上にひとり焚火してあたり居り手をかざしつつ吾が手を見るも   50 ひとり親しく焚火して居り火のなかに松毬《まつかさ》が見ゆ燃ゆる松かさ
2930333639の如きには流石に年齢による内生活の厚みや寂びが見えて居り、44以下五首には痛ましい病者の心理が機微に入つて切實に現れてゐる。斯樣な秀作を氏の近業に見ることは甚だ心強い。
 以上五十首(偶然五十首になつたのである)を同列に並べて見るとき、誰か前後に二十年の間隔あることを想像するものがあらう。それだけ作者には、初めより天分の饒かなものがあり、その天分が氏の生涯を通じて一貫し得るものであることを知り得るのである。氏の確把すべき所はここにある。確把は緊張の持續によつて遂げられる。氏の近業に緊張の色の著しく見えること欣賀の至りである。
 小生は上に著者二十歳頃の歌と最近の歌をあげた。それは、中間十數年に佳作なしとする意ではない。小生の私に符印を附したものを左に擧げる。
   51 夕かけて麥蒔きをはり畑裾に立ちてながむるその夕畑を
(155)   52 雨あがり春の野みちを踏みてゆく草鞋のそこのしめりくるかも
   53 石ひくく竝べる墓に冬日てり一つ一つ親しくおもほゆ
   54 早蕨はいまだのびねば箆《へら》もちて土ふかく掘る山のやけ野に
   55 ともし火を消して歩めば明け近み白く大きく霧うごく見ゆ
   56 嵐のあと木の葉の青の揉まれたるにほひかなしも空は晴れつつ
   57 夜は深し燭《しよく》を續《つ》ぐとて起きし子のほのかに冷えし肌のかなしさ
   58 山の上に朝あけの光ひらめけりよみがへり來る命を思ふ
   59 牛の子のまだいとけなき短か角ひそかに撫でて寂しきものを
   60 いつせいに心いらちて鳴く蛙われの懶惰《らんだ》の血のなやましさ
   61 飛ぶ蜂の翅《つばさ》きらめく朝の庭たまゆら妻のはればれしけれ
   62 大川口夕みち潮のかげふかく光りふくれてうねりやますも
   63 蝋の火の焔ゆらげば陰のありしみじみとして獨寢をする
   64 喉《のど》ぶとの汽笛|諸方《しよほう》に鳴れりけり懈《たゆ》さこらへて朝の飯食む
   65 みしみしと吾子に蹠《あしうら》を踏ませけり朝起きしなの懈さ堪へなくに
   66 兵隊は練兵終へて歸るなりさ霧黄いろく日は入らむとす
(156)   67 しんとして夜の雨野《あまの》に立ちゐつつ縱横無礙《じゆうわうむげ》の力を感ず
   68 雨滴《あましだり》しみみにぎはしはしけやし寢ぬるを惜しみさ夜ふけにけり
   69 炎天のひかり明るき街路樹《がいろじゆ》を馬かじり居り人はあらなく
   70 日盛りの街樹《がいじゆ》のかはをかじり居る馬の齒白くあらはに光る
   71 街頭《がいとう》に馬がかじれるすずかけの木肌が青く晝のさぶしさ
   72 大川尻|潮涸《そこり》の泥のくろぐろと熱《ほめ》きにほひて晝たけにけり
   73 眞夏日のひき潮どきの泥の上にあなけうとくも群れゐる鼠
   74 わが兒よ父がうまれしこの國の海の光りをしまし立ち見よ
   75 この道に連《つれ》になりたる山人《やまびと》が手にさげてゐる雉子の尾長し
   76 麥畑を來つつともしもわが家の白き障子に日の照る見れば
   77 大きなる藁ぶき屋根にふる雨の雫の音のよろしかりけり
   78 日おもてに牛ひきいでて繋ぎたりこの鼻繩の堅き手ざはり
   79 草原に繋げる牛を牽きにゆく日のくれ方のひとり寂しき
   80 牛ひきて下らむとする坂の上夕日に照らふ黒牛のすがた
   81 潜きして今し出で來し蜑をとめ顔をふきつつ焚火にあたる
(157)   82 かくの如荒れたる海にまた直《ただ》に命したしみいさりするかも
83 三方《さんぱう》に海たたへゐる岬《みさき》の道わが一人行くこの朝明けを
   84 大きなる※[草がんむり+止三つ]黒々と立てりけりま日にそむける日まはりの花
   85 異國米たべむとはすれ病みあとの體かよわき子らを思へり
   86 山の町夕冷えはやしをみな子のになひ行く水道に垂りつつ
   87 闇をゆする浪の轟きとどとしてわが胸痛し夜いまだ深し
 51535456616364657677818286等は特に秀れてゐるやうであるし、猶この他に、この歌集に漏して他日出版しようとするもののために殘してある秀作も多いであらう。55は「白く」がなくていいかも知れず、6287等は外に現れ過ぎてゐるかも知れす、697071は第五句或は不用であり、或はそのために外面に出過ぎるかと思はれ、75の結句「長し」はよく利いてゐるが、感じが聲調の上に強く出過ぎてゐるかと思はれ、83「三方に」はもつと落ちついた直觀的な言ひ方があるかも知れず、左樣にして符印をつけて行くと、初期の方に、猶多く擧げねばならぬ歌が出て來るやうである。
 著者の歌は、總じて明るい。集中に光る照るといふ如き語の多いばかりでなく、どの歌を見ても明るいといふ感が多い。長塚節氏は、嘗てアララギ誌上で古泉氏の郷國の風土を説いて「繊細にして優雅な趣が房州の至る所に存在してゐる」といひ「古泉君の歌にこの自然の感化が爭はれないのは當然(158)のことである」といひ「古泉君の歌の特色の一つとして我々の眼に映ずる所は、優しいさつぱりとした、淡々しい趣映である」というてゐる。(大正三年六月號アララギ)小生の明るいと言ふ意は、長塚氏の言ふ意と矢張り通じてゐるところがあるやうである。それが、恐らく古泉氏の本質であらう。それから出發した歌であるから、氏の作は皆穩當であり素直であつて、一種の柔かみと圓みをもち、無理の句法や粗《あ》ら粗らしい表情がない。それゆゑ、67で「縱横無礙の力を感ず」といふ如き句を用ひても、それが上句と相待つて、矢張り古泉氏の本質から離して考へられない所があるのである。
 氏の本質を以て、單に「明るい」の一語に歸せしむるは當らないであらう。併し「明るい」の概念を以て類推し得るものを多く合んでゐることは確かであらう。「明るい」といふ語は、氏の本質を輕重するものではない。その本質を究極所に到達せしめた所に如何なるものを産み得るかが問題になるだけである。椿の葉に照る日光は明るくして深い蔭を伴ふ。海面の日光は輝きつつ閃きつつ底に測るべからざる沈黙を藏する。大空の明るさは、茫漠として宇宙の無際限に瞑合する。明るさの到達する究極所は、さういふものに合致することに於て藝術の究極所とも合致し得るであらう。假りに人の本質に明るさと暗さとを分ち得るとして、言はばその暗い方の本質を究極せしめたものも最後の明るさに合致して初めて無漏有心の境涯に入ることが出來るであらう。大ざつぱな言ひ方であるが、如何なる道も究まる所はそこにあらう。小生は古泉氏が自己の本質に根ざしつつ、如上の如き境涯を目がけ(159)て精進しつつあることを信ずるのであつて、例へば前掲最近病牀數首の如きが、氏の行程の先驅をなしつつあるを感ぜしめるのは甚だ愉快とする所である。それと同時に、前掲57の如き種類の歌は、歌として惡いものでないにせよ、それを如何に押し進めた處で、感謝すべきほどの境へ出られるものでないと思ふのであつて「故郷を君もたしかに出でたりと思へるものをいまだ逢はぬに」の如き種類も、小生は藝術として高い感謝を持ち得ないのである。併し、これらの歌は已に遠い過去のものである。氏の進む道は新に拓けてゐる。そこを確把すること疑なしと思ふ。(五月二十八日)
         (大正十四年七月「アララギ」第十八卷第七號)
 
(160) 曾根正庸歌集
 
 曾根正庸氏は昨年十二月二十二日二十三歳を以て熊本の自宅に歿した。その歌集を美作小一郎、森本治吉、美濃部長行、清水谷侃、高瀬敏、赤星信一、石坂潔、豐田幸吉その他諸氏の盡力によつて刊行し得たこと感謝の至りである。 この歌集は六十八頁の小册子であるが、すらすらと一氣に通つてはしまへないほど沈痛であつて、その沈痛さが純粹と眞實とに徹してゐる。著者は悲慘というても足らぬほど悲慘な境遇の中に病臥して、最後に只一人の老父を家庭に遺して死歿した。それほどの境遇にゐて、氏は何處までも純眞な心を持して、最期の瞬間まで正面から自己の性命を凝親してゐた。「十二月二十日拂曉、昏睡状態に陷り老父の人工呼吸により僅に命を保つ。二十二日朝十一時、藤澤古實氏宛自ら鉛筆を取りて訣別の辭を認む。夜十一時枕頭の父に「左樣なら」と謝して遂に永眠す」と記るされた年譜末段一節を見ても、その消息を窺ふことが出來る。氏の歌は、ここから泌み出てゐるのである。
(161)   秋晴れの庭に降りたち心《うら》やすし夾竹桃の花を摘みたり
 「うら安し」というて病者の心が全體に出てゐる。そこが歌の本當のあはれさである。泣いた呻いた血を喀いたといふ如き歌に却つて心持の出にくいものがある。心持よりも事件の方が強烈に刺戟を與へるからである。
   ひとところ光さし入り谿の紅葉ほのぼの見ゆれ朝霧の中に
 病者の細かい神經が見える。心持が透つて陰影の多い立派な歌である。以上二首十九歳作である。この年氏は喉頭結核に罹つてゐる。
   病床の障子開くれば山椿嘆きむらがれり上枝《ほづえ》に多し
 「上枝に多し」實にいい。到底病臥の人でなくては言へない。突然のやうで極めて自然である。
   春の光病の床にさすからに痩せしわが手をしみじみのばす
   熱引きで朝けはすがしそひ寢せる父を起さず藥をのむも
   夜ごとはく血汐をよべは喀かざりし朝餉の粥をしみじみ食《を》しをり
   このままに癒えぬ病とは思はれず夕照る磯をわが歩みをり
 歌心いかにも純粹なるに涙ぐまれる。素直で自然で穩當で、自然に沈痛な響がこもつてゐる。
   なが雨の晴れて明るし芍藥の開きし花は空に向きをり
(162) 「あかるし」「空に向きをり」皆病者小閑の心から出てゐる。以上五首二十歳作である。
   雨やみて光ただよふ夕庭に黄に咲きにけり唐胡麻の花
 作者の面影に面《まのあ》たり逢ふ心地がする。二十一歳作である。
 二十二歳の作中
   徴兵檢査猶豫願をこまごまと筆とり書きぬ足なへ我は
に至つて涙なきを得る人幾人ありや。一度讀めば終生忘れ得ない歌である。
   夕飯を炊ぎいまさむ厨なる父を思へば涙こぼれつ
 作者は十八歳にして母を失ひ、その前後三年間に四人の兄姉を失ひ、父と二人ぐらしとなつてゐたのである。「涙こぼれつ」もこの邊まで來て初めて深く腸に沁みるのである。
   女なき家のくらしや梅雨に入りて夕べゆふべのひそかなるかも
 眞實即機微である。秀作傑作などの語を超えたものである。
   菜畑を吹き來る風にかをりあり息づく喉にやはらかなるも
   獨り言いへど聲いでず病みこやる夕の部屋に人のけもなし
   いちはつの揺れもそよがぬ雨曇り夕となりて血を喀きにけり
   臥し床に肌へつめたく目さめけり夕さるらしき五月雨の音
(163)   蒼すめるみ空に向ひ臥《こや》りをれば吾がつく息も安らへるらし
   燒け死にし人を思へば病める身の褥のなかにかたじけなけれ 震災地方人多く燒死す
 病状を歌つて事件にならない。事件以上の感じが出てゐるからである。終りの「忝なけれ」の一句に至つて、小生は暫くその先きを讀むことを躊躇した。   春雨にぬれてかすけし南天の葉かげ黄なるは花にかあらむ
   芍藥の蕾ゆるむを朝なさな病の床に見るがたぬしも
   褥近くとどく朝日のしたしもよ軒の夕顔きりはらはれて
   夕顔の棚とりはらひ家《や》ぬち明し臥し床にして見ゆる蒼空
 皆秀れてゐる。「蕾ゆるむ」などは實に機微に入つてゐる。以上十二首二十二歳作である。
   臘梅のしをれこぼるる下土に黄梅の花ひらきそめつも
   雪まじる雨にぬれつつ雫する薔薇《いばら》の赤芽いたいたしけれ
   雪雲の片より晴れし高槻の梢の空に鳶舞へる見ゆ
   牛乳《ちち》煮ゆる甘きかをりの籠らひて晝たけぬらむ寢覺めかなしも   ほのぼのと明るみ降れる春雨に木々の芽しげくなりにけるかな
   床の上に坐りなれつつ楽しもよ日々にのびゆく庭の木々の芽
(164)   かへるでの諸枝の若葉かすかにもたえずそよぎて庭の明るさ
   菅の根の長き春日を臥りつつ外の眺めに吾れ厭きにけり
   芍藥の花咲き出でてさみしけれ年々おなじその赤き花
   わが庭に花を見に來る人多し健やけき人らたぬしかるらし
   あぢさゐの繁葉に蕾いでそめぬ幾日の曇り霽るるともなし
   屋根の上の一本の草そよぐ見れば深き曇りの吹き白むらし
 以上十二首二十三歳終焉の年である。この年になると多く病苦を訴へず、心を自然物に寄せて自分の命を樂しんでゐる所がある。そこまで進んで、あはれさは一倍深くされてゐる。この消息は子規にもある。長塚さんにもある。その境涯を小生等は有難く思ふのである。曾根正庸歌集一卷通計百六十二首に過ぎぬ。所謂、人を動かす多きを須ゐざるものである。これによつて小生は近來稀なる感銘を得たことを感謝する。(五月二十九日)
           (大正十四年七月「アララギ」第十八卷第七號)
 
(165) 歌集「ふゆくさ」
 
          上
 
 歌集「ふゆくさ」の著者土屋文明君は、大正十四年アララギ九月號に斯ういふ歌を出してゐる。
       亡弟を
   1 おのが子の二人となりて生ひ立てば汝《いまし》を忘れ思ふ日多し
   2 わがうから遂に歸らざらむふるさとに汝《な》がおくつきを殘しおきけり
   3 思ひつつ十年《ととせ》に近し母がいふしるしの石もいまだ立てなくに
 外が錬がしくなくて心が内に籠り、調べが落ちついて眞情が深く動いてゐる。特に第三首の歌の如きは、單純至妙の點に入つてゐるものであつて、奧堂の扉を靜かに開き示されたといふ觀がある。この歌の急所は第三句「母がいふ」あたりにあるであらう。眞實の寫生が斯る單純の言葉となつて現れてゐること感嘆に値するのであつて、この邊の機微が分らねば、歌の機微は分らぬと言うても、小生(166)の過言にはならぬであらう。これらの歌は、又、「ふゆくさ」中大正十三年作
   4 子は子とて生くべかるらししかすがに遊べる見ればあはれなりけり
   5 桐の葉の廣きをしきて兒はすわり母をも共にすわらせにけり
 十二年作
   6 殘しおきし唐もろこしは過ぎぬれど八千代は遂に歸り來ざるか 震災作
 等の歌にもその命が通じてゐる。「子は子とて生くべかるらし」の背面には作者の生活が不言のうちに現れてゐる。感慨なくしては讀み去り得ない歌であつて、「遊べる見ればあはれなりけり」が平易一遍に響かないのである。その邊を翫味するも盡きざる感慨が生ずるであらう。「桐の葉」の歌には圓融の姿があり「唐もろこし」の歌には眞情の流露があり、何れも眞實に徹する寫生が押し進められて單純所に到達してゐるものである。以上六首は、又、「ふゆくさ」中大正十三年作「那須雲岩寺」
   7 うす暗き金堂のうち音のして佛具繕ふ人居たりけり
 大正九年作「富士見高原」の
   8 かたむける麓の原の村二つ家立ちひくく土につきたり
 等の歌ともその命が通じてゐる。前者は人事であり後者は自然であるが、兩者の底及び前掲數首の(167)底を流れてゐるものは只一つの泉流である。その泉流の響きに聞き入らうとするものは、歌の人事であり、自然であるといふ差別相よりも、更に深い所へ耳を欹てるであらう。
 小生はこの泉流に耳を傾けたことが可なり久しいといふ感があつて、その泉流が如何の響きを以て一貫してゐるかをやや知り得てゐるやうに思ふのである。それは地味な澁い清洌音である。地味とは上ずらずして内に籠るものであり、澁いとは冴えに向ふ心とも言ひ得る。さうして、それがいつも作者の眞實心に徹して響くゆゑ、清洌の音となつて小生等の心に來るのであらう。眞實の心は一方作者をして非常に忠實一徹な葛生家(?)たらしめてゐる。眞實心と寫生との關係は小生從來餘り多く説いてゐるからここに敍説しない。「ふゆくさ」一卷を讀むものが、この寫生の忠實さに心づかぬものは尠いであらう。新鮮にして清洌な響きが、この作者に一貫して伴うてゐるのは、全くこの寫生より來てゐるものであると思ふ。成るほど「ふゆくさ」の初期、明治四十二年作(作者二十歳)
   9 この三朝あさなあさなをよそほひし睡蓮の花今朝はひらかず
   10 あくがれの色と見しまも束のまの淡々《あは/\》しかり睡蓮の花 などには感傷的な少年の心が見えぬことはないが、二十歳の少年としては猶端正な姿があつて、放肆な臭ひが見えない。
   11 この頃の日和つづきに萌えいでしみづべ冬草ふみてあそべり
(168)   12 山藤の幼き花をうれしがり遊びし汝はいまはたけしや
   13 あるがままの蚊取線香をあげたれば落ちてたまれる蟲のかなしさ 左千矢先生逝去
   14 夕べ食すほうれん草は莖《くく》立てり淋しさを遠く告げてやらまし
   15 夕さればさやぐ竹にもあらなくにおのづからなる秋の色かも
   16 いつとなく散れる櫻の蟲食ひ葉石のあひだに重なりにけり
   17 砌べの莠實《はぐさ》となりこぼれたりわぴて庵す我ならなくに
   18 露草の莖にはうすき紅《あけ》見えて秋に近づく庭の草むら
 これらは作者二十歳より二十七歳までのうちのものであつて、作者本質の匂ひが豐かに現れてゐるのみならず、歌として高級な處にゐるものが少くない。地味にして野暮ならず、内切にして外澁く、一首々々微細所に入つて猶丈高い氣品がある。寫生の道は果して作者を驅つて、例へば151617の如き妙域に入らしめてゐるのである。
   19 秋山の木《こ》の下に熟るる草の實のひそかなるもの色に出でつつ   20 山の上は秋となりぬれ野葡萄《えび》の實の酸きにも人を戀ひもこそすれ
   21 うらぶれて草吹く風に從はば吾は木のまにかくろひなむか
   22 秋ざるる夕べなれや人の影戀しこひしき人に追ひしかむかも
(169) これらの戀歌には流石に年少作者の感傷性が見えてゐる。2122等がそれである。斯ういふ味も加はつて、だんだん冴え入つて、前掲大正十三四年作の如きものに入つたのであつて、その經路は要するに眞實なる寫生の道を歩んだといふに約《つづ》まるでゐらう。併し、作者の進んだ寫生の道にも、細かく見れば樣々の曲折がある。それを言ふには、猶大正六・七・八年時代と大正十・十一・十二年時代とを大別して言ふが至當のやうである。次號にはそれへ言及して再び最近の歌を考へて見たいと思ふのである。       (大正十五年一月「アララギ」第十九卷第一號)
 
          中
 
   23 船河原橋吾は渡れり夕暮れて忙しき人はあまた渡るも
   24 往き來人繁きがなかに吾がのぞく欄干の下水は瀬に立つ
 大正六年作者二十八歳の作であつて、この頃から作者の感傷性は益々内に籠つて、外觀に落ち著きを生じてゐる。それは船河原橋二首の姿とその姿の中に自ら現れてゐる作者の主觀を感得するものの諒し得る所であらう。その傾向は前號に述べた如く寧ろ作者の本流をなすものであるが、この年あたりからそれが著しく日立つて見える。感傷を内に押し籠めようと努力したのではない。年齢がそれらのものを消化して眞の力としたのであらう。斯ういふ徑路(それは大抵の人の通る道であるが)を通
 
        (170)つた作者であるから、今日世上に散在する感傷の歌に對する嫌悪の情の盛なるはわが土屋君などが最も著しいのであつて、この點作者には仕合せな徑路を持つてゐると見ていいであらう。
   25 まなこあへば眼《まなこ》みだれて人は過ぐ淋しとだにも言はましものを
 これらの歌には猶往年の痕が見えてゐるが、寫生は矢張り的確微細に入り得てゐる。
   26 夕ぐれてかへり來《こ》しかば木を見ずて李やなると母に問ふかも   27 羽ばたきて巣の鷄鳴けばたらちねの寢よとは言ひてなほも話すも
   28 弟のねざまなほしてたらちねは細きランプを消さむとすなり
   29 夜ふけて事なきからに爪《つめ》きれる吾《われ》を驚かし梟の啼く
   30 くもり空に灯うつれる町のかたふくろふまねてゆく童《わらべ》あり
   31 梟は啼かなくなれりまね聲の拙くぞ響く町中にして
   32 後れ起きて枸杞味噌汁《くこみそしる》をひとり食ふ硬きところあり春もたけしか
   33 鳳仙花種子の赭きにかけてやるこの庭土は小石まじれり
   34 ふるさとの吾妹八千代よ汝が庭のははき芽ばえを汝兄《なえ》は忘れず
   35 この四月《よつき》朝に日《け》にみし山椒《さんせう》の大崖高ければ實もとらざりき
   36 山椒の木に山椒の實は少くて末葉《うらは》すがれとなりにけるかも
(171)   37 森下の繁樹がもとのさ庭には靜かにも降る夏落葉かも
   38 赭土に蒔きしおしろいのびあしくいまだ咲かねば吾が去らむとす
   39 夜學より疲れかへりて尿《いばり》する垣根のもとの夜々のこほろぎ
   40 袴とらず坐りてしばしある吾《われ》に波の音なく怠れし如し
   41 父親がつひのなぐさとはかしむる袴もあはれ吾が古袴 亡弟を葬る 以上皆大正六年作であつて、何れも新鮮清爽であり、外觀益々地味にして内に清洌の心が湛へられてゐる。特に262830313234等の如きは歌ごころが實に微妙であつて、汲めば汲むほど滋味の盡きざるところがある。つまり作者の寫生道がこの邊まで押し進められて優に一家の風を成し得てゐるのであつて、大正六年頃から一區劃を成してゐるかと見るのは無稽でないであらう。これを當時の諸友例へば茂吉・憲吉・千樫乃至小生等に比べて見て優に異れる色彩と氣品を持つて立つて居り、而もその色彩氣品が誰よりも地味で澁昧をもつて居るゆゑ、小生などは何時も心中にその刺戟を多量に感じてゐたのである。小生は著者が、この年若くは大正七八年頃の間に一卷の歌集を出すべきであつたと思ふ。歌集にまとめて見ると、自分の作品に一種の見直しをするものであつて、つまり綜合的に自分の徑路を見ることが出來て新しい自覺が生れるのである。アララギのともがらは歌集を早く出すことを欲しないので、その點甚だ心地よけれど、それに度があつて矢張り或る時期には一册にまとめて自分(172)の道を振りかへる方がよいのである。小生は著者がこの頃歌集を出すことによつて、必しも次の大正十・十一年頃の倦怠時代を防ぎ得たと思ふのでないが「ふゆくさ」一卷を讀み來ると、この邊でさういふ感が起るのである。
   42 答へせぬ吾にもの言ひその末を濁語《ひとりご》ちつつ祖母《おほはは》は寢《ね》る
   43 造り岸さむざむ侵しよる潮のかわける道にあふれむとする
   44 裸なる代馬《しろうま》を追ふ常公《つねこう》は卯木《うつぎ》の鞭をわれにくれたり
   4 5弟は友に別れを呼びゐしがいつか眞似ゐる郭公《くわくこう》の聲   46 弟とならぴかへりし父の家もその弟もいまはあらずも
   47 どろどろとつながり長き貸車過ぎで響はこもる原の大地に
   48 頂はいまだ萌えざる峠山いく曲りして越ゆる道あり
   49 ゆるやかに圓き山裾めぐりゆきて一すぢ白くかわきたる道
   50 雲湧けば間近き峰もかくろひて畑の葱に時じくの花
   51 暑き日は傾きにけり山の影坂本町にとどかむとする
   52 湯ある家求めうつれり湯室ばたの楓まがりて衰へ早し 上諏訪
   53 掘り下げし湯室に居れば前の川を下る船あり石にふれつつ
(173)   54 寒き國に移りて秋の早けれど温泉《いでゆ》の幸をたのむ妻かも
   55 歩む我草山かげに入るなればおのづから思ふおのが姿を
   56 降りし雪|凍《い》てて凝《こご》れば空きらひ低く曇りて寒き日つづく
   57 寒き國の町の習はし夕はやく大戸下ろして靜まりにけり
   58 わが家の湯尻は川に湯氣立てて寒く流れてゐたりけるかも
   59 かきあつめ楓がもとにつめる雪ややとくるらし湯の地温みに
   60 朝食のバンを買ひ居《を》る店の前大氣|微塵《みぢん》に凍りて降り來《く》
   61 おしなべて雑木はいまだ芽ぶかねば日陰は寒しぢしやの木の花
   62 木の下の斜面下りて踏みくづす土は冷たしぢしやの木の花
   63 煤煙を吹きつけられし樹の幹の黒きがよりて庭陰《にはかげ》をなす
   64 傾ける麓の原の村二つ家立ち低く土につきたり
 以上大正七八九年作の一例であつて心ゆく作が多く、前掲大正六年の歌に引きつづいて自然に至り得た歌境であることは、小生の擧例を前後參照しても分るであらう。只この期の後半にやや懈怠の色が交じり、次いで大正十・十一・十二年頃の休息期に入つたのであつて、大正十三年頃から捲土重來の更生期に驀進した觀があるのである。
(174) 大正七年から十三年初めまでは著者の信州に住んだ期であつて、大正八九年頃よりそろそろ作歌に疎くなり十年頃より殆ど作品をアララギに見せなくなつた。偶まに上京して發行所を訪ねても歌の話より自分の職務の方の話が多く、それを小生も遺憾に思ひ、若い人々は不平を言うたのであるが、つまり小生等は歌の上に野心が多過ぎ、著者は野心が少な過ぎたのであつて、野心多い連中が苦しみに苦しんでのたうちまはる有樣を著者から見ると一種の苦痛であつたらうし、小生等は著者が二年でも三年でも歌を見せない悠揚さをもどかしがりながら、
   65 おとろへて歩まぬ吾子《あこ》を抱きあげ今ひらくらむ蓮の花見す   66 幼き子母と尾花を折りもちてその甘莖をかみつつゆけり 露久保所見
の如き作意なくして自然に至り得てゐる作を示されると、自分らの火の車道中へ一陣の清風を投ぜられたやうな感がしたのである。この邊の關係をアララギの人々が考へて見ることは誰でも有益であると思ふ。怠けるのがよい惡いといふのではないのである。
           (大正十五年二月「アララギ」第十九卷第二號)
 
(175)  歌壇批評
 
(177) 明治四十四年
 
     十月の歌壇 (明治四十四年十一月「アララギ」第四卷第十號)
 
若山牧水(創作)
   歩きながら食はむと買ひし梨ひとつもてあそびつつ入りぬ林に
 大體眞摯な歌ひ方でおもしろい。「もてあそびつつ」はそれほどにいふべき事でない。文字の弄びをして殊更らしく傷なつたやうである。「入らぬ林に」も此の場合斯樣に勁直に引きしめて云ひたくない。全體の調子がゆつくり延びてるのと調和を破りさうである。「林に入れり」位が頭に落ちつくやうだ。
   かなしやまたも夜つゆの軒下に歸りて雨戸たたかねばならず
 是も面白い歌である。「かなしや」は強く云ひすぎてゐる。取つて付けた云ひ方である。取り去つ(178)た方がよい戚じである。無意味な枕詞の必要は斯樣な例でよく分る。
土岐哀果(創作)
   忙しくもけふとなれるかなわが名すら忘れんとせりそと呼びて見る
   妻と子とはいかに貧しくも養へと誡むる母に涙をおとしぬ
 批評する勇氣が出ない。文字だけが忙しかつたり涙を落したりしてゐる。
武山英子(同上)
   暗き中に赤く小さき燈臺のなつかしき火を夜ごとに待ちつつ
 すべて斯んな具合に行けばまづ面白い。「暗き中に」は「遠き闇に」などの方が面白い。
四賀光子(同上)
   百合の花匂ひてありぬ君も居ぬ青きふしどのあさの寢ざめに
 一通り整つた歌のやうである。只百合だの青き靂床だのと、美しい材料に縋るやうでは眞の心の響は未だ現れない。
北原白秋(文章世界)
   気ちがひの頬の蒼じろきおしろいに夕日てりかへしこほろぎの鳴く
 思想が舊くで才氣でこなさうといふやうな人が作りさうな歌である。兎に角幼稚な歌ひ方である。
(179)金子薫園(同上)
   嫁ぐ前の女の胸のやすからぬうつくしさなどそぞろに思ふ
歌の題目にはなるが歌にはならない。斯樣なものを平氣で發表する勇氣に驚く。
阿部省三(スバル)
   くちなはをしかはな怖ぢそ身を噛まば我口をもて毒を吸はまし
今頃こんなものをどういふ積りで作つてるのだらう。「スバル」から取出して批評して見ようといふものは見當らない。「創作」に比べると甚だ落莫たるものである。
尾上柴舟(帝國文學)
   語《ことば》なき手もちなさより汗をふく夏の眞晝の對坐わびしも
 何故斯樣なわびしい對坐を歌はぬのだらう。第五句の幼稚さは甚だしい。
田波御白(同上)
   來ぬ人を待つてふすでに第一歩ゆづりそめたるはじめなりしか
 面白い捉へ方であるが斯う無造作に出られては眞面目な批評にはならぬ。「第一歩」「ゆづりそめたる」「はじめ」斯んなに贅澤に同じ意味の文字を使ふ必要が此の場合何處にある。
與謝野晶子(早稻田文學)
(180)   わが姿いまだ人見ず火の柱のみ見ゆといふあさましきかな
與謝野寛(早稻田文學)
   かたはらに少し醉ひたる女の目さく花よりも何よりもよし
 二人乍ら何時迄同じ事を繰り返してゐるだらう。寛氏の歌は何時も蕪雑ななぐり書を見せられるやうな氣がする。
窪田空穗(同上)
   さくさくと草を苅る音しづかにも沼を渡りて聞えくるかな
 淺くて小氣の利いた歌である。惡い歌ではない。
佐々木信綱(心の花)
   虻飛ぶや山あぢさゐの花かげを苔に畫がきて薄き日のさす
 相愛らす沁みて來ない歌である。材料の陳列があるのみだ。
 
(181)     十二月の歌壇 (大正四年一月「アララギ」第八卷第一號)
 
「詩歌」
   すずかけの廣葉黄に散る公園の入口にして冬をおぼゆる 前田夕暮
 入口を見附けてゐるのはいい。歌の調子には異議がある。句法にも異議がある。第一二句が「公園の入口」の説明になつでゐる。從つてこの歌には重要な一二句が生動しない。さういふ場合に「入口にして冬をおぼゆる」といふやうな平氣な結び方は特に氣に掛る。
   すずかけの黄なる廣葉に見入りつつ素木のベンチ凭れば冷たし
 第三句以下今少し澄み入つてもらひたい。「凭れば」の如きは此の歌には必要のない詞である。
   村娘歩むがままに赤き帶ゆるむがに見ゆ片側田圃
(182) 第一句から第四句迄娘の動作を長々と言つてゐる。此の場合それが必要であると思へない。赤い帶の緩む所を捉へてゐるのはいい。それを今つと手短かに言つて感じを集中させた方が活きて來ると思ふ。第五句の据ゑ方は大體賛成である。
   剃刀のやうなる魚らひらめきて秋しらじらと水流れたり
 「剃刀のやうなる魚ら」といふやうな表現法がどれ丈けの有難味を持つてゐるかと近頃特に訝つてゐる。
   こころよく我ぞ竹切る竹の音この秋山に鳴りひびくかも  中島哀浪
 竹の歌大抵面白かつた。調子も句法も確かりしてゐる。「この秋山に鳴りひびくかも」は閑寂な境地を快く活かしてゐる。「この」の用ひ方も漫然でなくていい。
   山草の黄ばみ行くとも汝が乳房おさへて大息人に知らゆな  熊谷武雄   濁流をくだる小さきわが舟に黄ばみてせまる北上の山
 二首とも調子が豐かである。
「水甕」
   木ぬれ葉の葉ひろ黄色葉夕燃えて離々散るも赤々散るも  菅谷かなめ
(183) 「離々」が緊密であるか何うかとも思ふ。無駄のない言ひ方でいい。
ただ一つ澄みてかぐはしきらら星きらめく水のいや青みかも
 巧みな歌であるが美しさが勝つて却つて深みを失ふやうな事なきか。この問題は歌として可成り重要な問題である。
   菜の畑につづきて見ゆる箒木の一むらあかく光る曇り日 水町京子
 感じの裕かないい歌である。第三四五句はよく箒木の特徴に注意してゐる言ひ方である。
   なにげなく人の言ひけむこの午後のことば胸刺す夜は更けゆくに 尾上柴舟
   一生の大事の前にたたむ日のためこそ日々の生を愛すれ
   これやこのわれの慰安かわが妻と活動寫眞みて笑ひをり
 斯樣な歌が澤山ある。僕等とあまり方向が違つてゐて取りつきが惡いやうである。
「生活と藝術」
   相模なる停車場うらの人妻に憂ひあらすな秋の富士の山 鈴木佐光
   窓にしてふりさけ見れば不二山は高しや高しわが身はさびし
 肩の凝らない所に活きた所がある。初めの歌はことにいい歌である。調子もゾツシリ据つてゐる。
(184)「地上巡禮」
   網高く干せるその上の漣のかぎり知られぬさざなみの列  北原白秋
 氏の歌は燦々しい光から追々澁昧ある光に進みつつある。その光が氏の澄み入つた技巧によつて心地よく現れてゐる。今日技巧の澄み入つた歌人に白秋と茂吉がある。そして二人者の歌には互に類似點があると稱へられても居る。併し乍ら二人の歌には本質に於て全く相違してゐる所がある。我々の眼には二人者を比較して類似點よbも相違點の方が多く注意されてゐる。茂吉の歌も近頃我々の眼には大分變化してゐると見える。そして其の變化には矢張り以前に比較して澁味を帶びて來たと言ひ得る所がある。二人共一種の澁味に入り乍ら二人の有てる澁味は益々本質の相違を顯著にして見せる。これが大へん興味ある現象である。例へば茂吉の近作
   久方の時雨ふりくる空さびし土に下りたち烏は鳴くも
   夕されば大根の葉にふる時雨いたく寂しく降りにけるかも
の歌と「地上巡禮」白秋氏の近作と比べたら誰も思半ばに過ぐるであらう。この本質の相違は、僕は興味を以で別に詳しく述べて見たい氣がする。ここに掲げた白秋氏の歌も第三句から終りまでの句法は白秋氏獨擅の句法で誰も寄り付けない技巧である。茂吉の所謂「滓」のない技巧である。
(185)   麗らかや此方へ此方へかがやき來る沖のさざ波かぎり知られず
   漣の上にちらばる漣のうへのつり舟見れど飽かなく
   日もすがら光りまた消えうねり波思ひ出したりまた忘れたり
 本號所載の氏の歌の中「漣」に比して「赤硝子」の方はズツと落ちてゐる。
   掌のなかに光りあふるる麥の種子ひそひそと蒔くところなりけり 河野愼吾
   掌にあふれをどりいでたる麥の種子土を覆へどなほ光りたれ
   丘と丘とせまれるところあな尊と人ひとり種子を蒔けるなりけり
   爽やかに野菜畑のあひだより鰛賣われに近づきくるも
   つゆ霜の光り冷たき野菜畑大きなる足が動きゆく見ゆ
   麗かに光ら燦めきゆれ零るる野風呂にひたれば湯は照り零るる 臼井史郎
   落陽照りくわつとかがやく野風呂なか人は寂しも頭のみ出し
   野風呂なかひたりて見れば高原の馬ことごとく輝き光る
この續きは次號に書く。
 
(186)     一月の歌壇 (大正四年二月「アララギ」第八卷第二號)
 
「地上巡禮」
   麗らかに空晴れわたり牛馬のものいふ話ようぞきこゆる  北原白秋
   麗らかに空晴れわたる牛馬よあはれなる事申さずもがな
   麗うらと畑は鋤けども晴れやらぬ畜生道の心かなしも
   摩耶の乳ふくみたまへるいとけなき佛陀の息もききぬべきかな
   麗うらと大空晴れて人殺す鐵砲つくる音もきこゆる
 白秋氏の境地はズンズン進展して行く。縱横無礙に濶歩して可ならざる無きの概を示してゐる。氏の力は何時も流動してゐる。些の停滯も許さぬ程に流動してゐる。そこに長所と短所とが伴ひ得る。氏の歌の境地は近來玲瓏たる光明界に拓かれつつある。さうして歌材が自然に神話風の色彩を帶びて來てゐる。斯樣な傾向が何んな處迄進んで行くかは興味ある宿題である。兎に角氏の現在は興味多き變化の過程中にある。一月號では「麗日發心」が一番澄み入つてゐる。其の初めの五首を摘出して置いた。
(187)   山峽に夕日大きく照るところ人はかがやく馬にまたがり 河野愼吾
樹木の枝に照りかたまれる紅雀ぱつと弾かれ散るところなり
   ふと見つけてありがたきかも屋根と屋根のあひだに光る人間の歌
 白秋氏の境地である。河野氏の境地がこの中から如何に拓かれて行くかが問題である。
   人、坂をのぼり極《つ》めれば大日のまろきが中にぼつと消えゆく 臼井史郎
   青木の葉深く青けば手に取りぬ夕陽くわつとして眼にいたきかな 村野次郎
   菜畑に名殘の月はけぶりたりわが手洗へば消えゆくあはれ
       〇
   稻穗みな苅り伏せにければあらはなる田の面に人の大きかりけり 水上鷺太郎
 面白い歌である。
 
「詩歌」
   まんまんと無色透明ほの光る湯ぞたたへたれ吾が兒のために 前田夕暮 いい歌である。「無色透明」は外に適切な詞がありさうである。「ほの光る」の「ほの」はこの場合無い方がこせつかなくていい。
(188)   ぱつとひとり光明界にをどり出でしあから裸兒こゑたかく泣く
   夜を一夜ひた泣きに泣くこの赤兒これがわが兒かおそろしくなりぬ
 どちらもよく實感の匂が流れてゐる。二首共第一二三四句と第五句との間に問題がある。それは主として歌の内容たるべき感情の統一性から考へられる問題である。二首共第四句までで終らせた方が更に緊密に統一されるといふ觀がある。
   わが小指わが兒の小さきたなぞこに手握らしめぬはつ冬の朝を
 いい材料を捉へてゐる。結句の粗大なのが惜しい。以上は一月號夕暮氏の歌の中で特にいいと思つた歌を摘出したのである。
       〇
   巖山のはざまはざまにま青なる入海ふかき秋となりけり  能海紫星
   晝もなほ厠のそばになが鳴けるこほろぎよりも輸卒悲しも  田村飛鳥
   青く青く夜空は光る天さかり歸り行く身となりにけるかも  田中白夜
   霜どけの陽のあたたかさ大根の花がさくとて嘆けり農夫は  川端千枝
「水甕」
(189)   この日ごろ思ひよらざる眞實の心になりて空仰ぎけり  尾上柴舟
かすかなる心輕さをおぼえつつ踏みゆく朝の土のはららぎ
   しみじみと冬の寒さの身に入れば心深みを覺え來にけり
   病みぬれば大天地に一人なる妻よと思ふいよいよ思ふ
       〇
   秋空も寒くなりしにかなこばらぽつちりと一つ花咲きにけり  和氣朝庭
   風邪せる朝の眼にぽつちりと紅かなこばら滲みて赤かり
 「滲みて」は此處には無い方がいいやうである。
   なつかしき淺黄色なる葱畑鼬走りて土ほこり立つ  茅野蕭々
 いい所を見つけてゐる。第一二句の現し方が少し氣になる。これ丈けの材料を二首か數首かに詠んだらズツと引き緊るかと思ふ。
   遠き旅にあるごと思ひ橋わたるその束の間の水の音かな
 いい所を捉へてゐる。現し方は今つと洗練する必要がある。
 
「生活と藝術」
(190)   冬半夜どやどやと署より歸り行く十人あまりの巡査なりけり  大熊信行
       〇
   夕ぐれは機械のかげに暗がりを懷みつつ物思ふなり  高島篤郎
   只一人機械の陰に泣いじやくる若き女工をいたはりにけり
 器機の中の生活が想はれる。
 
「異端」
   村時雨今は晴れつも天の奥梢のひまに現れにけり  尾山篤二郎
「天の奥」の「奥」が何うか。
   大根畑はるかに丘をはひ上り天の青きにしたしみにけり 
いい所である。第一二三句の現し方が無理である。
   小衾のさ夜の寒さに子の面は尊きかもよ眠りたりけり
 しみじみと引き緊つた歌である。
   時雨のなか山逕を分けて迷ひ入る我が背にしたる櫟の落葉は  新妻莞「迷ひ入る」の「迷ひ」は無い方がいい。材料が多過ぎる感がある。
(191)   ふる郷の我家かなしくなりにけり祖母の墓原軒より見ゆれ  守屋其翠
 
       二月の歌壇 (大正四年三月「アララギ」第八卷第三號)
 
「水甕」
   灯を消せば病室が見ゆうつとりとこちら向きたる妻の眼が見ゆ  尾上柴舟
   妻ゐねば人なき如しわが部屋も光足らざる廣さおぼえて
   夜晝の氷枕にみだれつつ抜けや増すらん妻が黒髪
       〇
   見ゆとなきしろき絲引き小さなる繪凧あがれり雲なき空に  水町京子 第一句は今つと輕く言つてゐる方がいい。
   初日の出拜みまつる山かげに藪うぐひすが鳴きやまずけり  泉秋葉
 何でもない詠み方のやうであるが、大へんよく實境を浮び出させる詠み方である。
   舟ぞこにま白き飯をはむ男さぶしく雨を見入りたりけり  石井直三郎
 
(192)「生活と藝術」
   橇ひいて村をいづれば我が家ははるかに遠くなれりけるかも  鈴木佐光
 純一で要所を捉へてゐる。
   熊笹の近くにはなほ雪白くのこりて土の香の悲しけれ  都會詩人
 いい所を見てゐる。斯の如き境地を占領したら、第五句のやうな詞は使用せぬ方が却つてよく現れる。
   車窓近く雪ぞらのあをく裂けたるにこの世に飽きし心なりけり  大熊信行
       〇
   岩かげの小徑を嶺に出でたれば白樺の幹に空蒼々し  唐木傳
   にぎり飯馬にも分けてあたへけり嶺の枯草に太陽は照り
 境地も句法も生き生きと動いてゐる。
 
「詩歌」
   もぎ居ればまこと冷たき柑子の實身に沁みて冬の日も暮れにけれ  中鳥哀浪
 「身に沁みて」はよく利いてゐる。
(193)   わたり鳥一つらゆけり日のあたる出雲の山に雲光るなり  福井時鳥
   冬の水空をうつしてしづかなり今ひややかに我かへり見る  金子不泣
 
   太陽はほのぎらひつつのぼりけり馬圓をゑがく雪光る野に  前田夕暮   すぐろ馬裸馬こそ日の雪のかがやく中に圓ゑがき馳す
   若者はジヤケツを著たり手綱とりて馬走る圓の中心にこそ立てれ
   日のけぶる雪の野面に青空のはるけかりけり馬圓をゑがく
   人も馬もともに光りてめぐるなり雪はららかに日に散りにけり
 「雪晴れし日野の中に馬ならしする人をみる」といふはしがきがある。初めの五首をここに抜いて置いた。
 
「心の花」
   深川の八幡の宮よりわが祝詞天地四方にうち響きけり  間山琴山
   屋上の雪はこほりて日に光るわが息のけのほのゆれ長き  樺山常子
   春の日の小雨にぬるる草屋根の苔のみどりにしたしみにけり  藤本鳥羽子
 
(194)「潮騒」
   多良が嶺に夕日はかげりさむざむと漣すなり入江の海に  花田比露思   冬がれの高嶺あかあか夕日てりはるばるとわが來りけるかも
 この雜誌には毎號有益な研究がある。歌風も確かである。此の二首も平凡のやうでゐて決して平凡でない。
   漁師らのかきまはしたる燼の上に柴おきたれば炎々と燃ゆ  横山蜃樓
「朔風」
   餘念なう藁細工する子等の顔はあらはに赤し藁火燃ゆれば  鈴木潮煙 心ゆく程いい歌である。地方雜誌に斯樣な地方色のよく滲み出てゐる歌を見るのは喜ばしい事である。「餘念なう」は「餘念なく」と強く言つた方が此の場合に適してゐると思ふ。
   一人息子知勇が家にかへれりと父はよろこび火を焚きつけぬ  菊池野菊
   なにごとも言ふことなし白髪せる父に逢ひしに言ふことのなし
 率直で純一でいい。固有人名詞も斯樣な場合ならば生きて來る。
(195)
「銀磬」
   片瀬川草よりとびてわが肩にとまるは青きさみしき蜻蛉  内田月城
   あら磯の磯の小石ら波ぬちにもまれてまろくかがやきにけり  林黄花
 
「途上」
   土堤草の黄なるにあはれ青竹の笹はさやさやと風にゆらぐも  光武神水
 筑紫の國土に生れさうな歌である。「笹」は「葉」として頂きたい。
   家ごとに暗きやぬちに榾焚けり山べの町にみ雪ふる日は  中島哀浪
   風ふけば風を切りつつ飛びなやみむら鴉ゆく大野の上を
 いい所を見てゐる。歌の調子も大野らしく響いてゐる。「むら鵜ゆく」のゆくは非常に惜しく下手である。
 
「鈴蘭」
   淡路島秋の夕雲きれきれに海人の帆ぶねのかへり行く見ゆ  大竹灌畝
 
(196)「遍路」
   夏淺し能登の岬に立つ波にあまたの海月うちあげられぬ  北村正二
いい歌である。
 
       三四月の歌壇 (大正四年五月「アララギ」第八卷第五號)
 
「水甕」
   肩白くチヨークの粉にぞぬれにけるあはれや春の雪ならませば  尾上柴舟
   女給仕かろく塵はく朝の窓まづ教科書ぞ日に光りたる
   塗りたての春のボールドすいすいとわが書く文字の線のさやけさ
 作者は人生に對し何んな問題を持つてゐる人であらう。殆ど想像に苦しむ。一點人生の悲しき命の根柢に接觸してゐる人が斯樣な消閑歌を作る氣になれる場合があるでゐらうか。悲しき事件痛切な材料を取扱へといふ事ではない。人間といふ有情の生物に對して今少し問題を持つてゐてすべての世界を見て貰ひたいと思ふのである。さうした時肩にかかるチヨークの粉を「春の雪ならませば」などと(197)生ま温るい老人の繰言を弄してゐる氣には斷じて成り得ないと思ふのである。元來歌人の生活はのんきと單純に傾き易い。縦つて事件が少ない。生活の材料が貧弱である。縱し事件は複雜であり事件は深刻であつても何處迄も夫れに對して正面から向き合ひ得る意力に乏しい。從つて自己に事件はあつても自己に問題が無い。問題はあつても深入りした問題にならない。是れ歌人が往々にして安價なる興味疎漫なる信念に住して人間や自然に對し甚だ容易な取扱ひをしてゐる所以である。これは此の歌に就いてのみ言ふのではない、現今一般の歌壇に對してもさういふ感が多いのである。
   天地のなしのまにまになる事の中に我ゐてひとり歎かな
   いつの世にいかに謀りて今の道我の行くべく定められけん
   いづこまで我が行く道の續くらん死てふ裂目のあらばこそあらめ
 何處までものんきな歌ひ振りである。この程度では何んな材料に衝き當つても駄目である。
 
「詩歌」
   人間の心明かにわかり來しこの頃の生きの日の寂しけれ  前田夕暮
   女はまことに悲しきものなれ一筋の神經により生きてあなれば
   まのあたり汝が神經の打ちふるへ白く見ゆがにして苦しけれ
(198) 斯樣な種類の歌が隨分澤山氏によつて發表されてゐる。夫れ等の中ではこの三首が比較的直接に我らの感覺を通して響き得る歌である。夫れにしても第三四五句は調子と句法が生ま温るいために作者の現さうとしたものの閃きを鈍らせてゐる。発一首第二首の如き概念的な取政ひをした歌が澤山發表されたのは、作者としては珍しい事であるが決していい傾向で無いと思ふ。
   頸垂れてむかうに歩む馬の尾の寂しきかなや日はさしながら
 この歌はいい。すべての文字がよく寂しく生動しでゐる。
   畠より路にいづれば足あとの土くろぐろとこの大きさよ
   わが前も後も青き麥畑麥畑みな空のもとなり
   西風は西より來り日もすがら日向の椿たわわにも搖る
 斯樣な歌は作者の獨擅である。第一首「この大きさよ」第二首の全體の句法に鈍味がある。神經が大らか過ぎる物足りなさがある。第三首も境地は大へんいいが、第三句が非常な間隔を置いて第五句に接續してゐる事を惜しむ。「たわわにも」の「も」はいけない。
   色ふかくま赤き花はのぶとなる莖長のさきにわが方を見たり
「あまりりいす八首」の中に此の種類の歌がある。どうして斯樣な擬人法を用ひたのかと思はれる。
   犬牽きのあかはな男醉ひどれの男鞭ふる笑み滿面に
(199)「犬牽き」の歌九首、感受も表現も未だレンズの焦點に置かれない觀がある。
 
「生活と藝術」
   鞠投げて獨逸の俘虜は遊べども我れの心は遊ぶひまなし  土岐哀果
 作者の歌には其の底に何時も人生の悲哀と問題とを或る程度まで有つてゐる。そして其の表現には水を流すやうな容易にして停滯なきものを持つてゐる。この歌は作者の近業中で最も氏の特長を遺憾なく發揮し得た秀歌であると思ふ。
   この廣場《ひろつぱ》少年の日の遊び場のこのひろつぱに獨逸の俘虜がゐる
   一心に娘を叱り諭しつつやがてはかなくなれる心か
   腹が痛しのどが渇くとわめく子のその言ふままに動くなれ父は
 これ等の歌も作者の畑である。直截で滯りがなくていい。第二首の四五句の如きはよく感懷と抱合うて沈潜の響きを籠らせてゐる。
   いたいたし娘の咳の顔のうへに父なる胸をのしかけにけれ
   裸體《はだか》になれ裸體になれと思へどもこのふんどしのとれぬ心か
   おそろし然り我らの思想より更に恐しき彼らの無智なれ
(200) 之等の歌は氏の擅場であるが、無造作に過ぎて色々の意味から賛成が出來ない。氏の歌は皆三行に書いて各行に旬讀が多く挿まれてゐる。此處には夫れを私が勝手に一行に書き下した。
 
「地上巡禮」及び「アルス」
   屋根の雪光りくづれてなだれたり鶩かがやくゆづり葉のもと  河野愼吾
 二十一首中今少し氏の個性の現れんことを望む。技巧は感服するものがある。此處に擧げた歌はいい歌と思ふ。
   大天《おほぞら》に動く雲なき大天に樹はおのがじし立ちてかなしも  尾山篤二郎
   矗《ちよく》として立てる大樹のたふとさよ矗として葉は一つもあらず 格調がしつかりしてゐる。夫れでも詞の方が未だ威張り過ぎてゐる。
   麗らかなる空の光に聽き惚れつ何といふうつくしき眞晝なるらん  北原白秋
   澄みわたる光の中にそことなくかがやけるものの音のきこゆる
   はつとして耳を澄ませばその音は木の葉のささやく聲なりしかな
   澄みわたる晝の日向の護謨畑何といふ寂しき音立つるらん
   きこゆるは木の葉ささやく音ならでかがやけるものの響なりけり
(201)「聽光篇」中からここに擧げた。三月號に「金龍山雪の曙」以下數十首あるが、夫れは白秋氏としては已に至り盡した境地であるとも見られる。只「澄心偈」に於て氏が或る「不即不離」の妙境に澄み入らうとした企が「聽光篇」に於て前月號よりもズツと成功して、從來の氏の歌に比すれば更に重厚の色彩を添へて現れてゐる。夫れは氏が前月號に於て、鴉兎凧等其の他の客觀物を往々比喩的に容易に取扱つた痕あるに對して、「聽光篇」の方は護謨苗圃といふ實在に對する感受を何處迄も尊敬してその中から自己の主觀を苦しみつつ滲み出させたといふ事もある。それから是れ丈けの連作にあれ丈け長い「はし書き」が必要であつたといふ事は、一方各首の獨立との關係は長塚氏の歌にも隨分問題があると思つて居る。「はつとして」といふ詞は作者のよく使ふ詞であるが、僕には敏捷すぎるといふ傾がある。
   肉厚く重き護謨の葉照り美《ぐは》し久なれば深き音たてにける
 いい捉へ所であるが第三四句の關聯に不足がある。若し「みつみつし久米の子らが」といふやうに「美し」を「美しき」の如く働かせるつもらならば此の場合無理であらう。若し「美し」と句を切るつもりならば「久なれば」の用ひ方が突然である。
   晝深き光の中にばつたりと護謨の厚葉が垂れにけるかも
 單純化されたいい境地であるが「光の中に」は此の場合緩慢である。「ばつたり」を活かすには今(202)つと前の句の勢がはずんでゐる方がいい。「ばつたり」はいい詞であるが音を聯想させる詞である。それ丈けこの場合この詞を活かすのには苦心が要る。
   春來れば君が家ちかく本所なる隱亡濠に蛙啼くらん  吉井勇
「本所」も「隱亡濠」もよく「君が家」と「蛙啼くらん」とに血脈を通はせてゐる。春雨の忍び家に愁を寵らせてゐるやうな情調が一首の材料と調子とによく現れてゐる。
   いま別れふたたぴ見じとするほどの薄約束の我ならなくに
   別れといふ短き言葉聽きてさへ氣も失はんばかりなるかな
   いたましき笑《ゑみ》なるかなや泣くにまし涙流すにまして悲しき
   悲しければうらはら言もわれは云ふ君を恨まず君をのろはず
   何ごとも忘れはつべき身かと云ひ春の夜なれど宵寢す我は
 水を流すやうな無礙な境地を占めてゐる。疑はずして自分の道をズンズンと歩いてゐるといふ所がある。そこには及び難いいい所がある。弊所は餘り早く流れ過ぎて感銘を薄くする所にある。抽象的な歌ひ方をしながら熱の籠つてゐる歌のあるのも注意すべき所である。併し今つと具象的な色彩を見せて貰ひたいといふ不足は多くの場合に感ずる所である。
   わかれても諦められずいづれより誘ふともなく忍び逢ひぬる
(203)「いづれより誘ふともなく」は抽象的で拙い言ひ方である。
   わが著るはその時君のちかひたる言葉の反古《ほご》の紙衣《かみこ》なるべき
 斯樣な比喩で、我々の感情を直接に端的に短歌に現し得る場合は殆どあるまいと信ずる。
 
「國民文學」
   いささかの病なれども初夏の照る日にしをれ國思ひする  小移未醒
   天つ日は麗かに照り土といふ土むずがゆくなりて草萌ゆ
 感情自然の發露を重んじてゐる所もいい。技巧にも垢ぬけてさつぱりした所がある。第一首は特にいい。
△この外「白樺」の木下利玄氏の歌について書き度いと思ふが、此の頁で止める事にして來月號へまはす。(四月二十三日夜三時十五分)
 
       五六月の歌壇 (大正四年七月「アララギー」第八卷第七號)
〇土岐哀果氏
(204) レンズの焦點を引緊めようとする努力が近來著しく眼につく。從來の停滯なき技巧の特長にぢつと何か湛へるものを求めてゐる。この變化は氏としては重大な意味を有つべき變化である。「文章世界」六月號の近作から少し拔く。
   火の山のいただきにして一ぴきの赤ちやけし犬歩み去れるか
 調子がよく緊張して歌境を活かしてゐる。第二句と第五句とが特に有力に働いてゐる。斯の如き句を生むのは動機の内容が充實し緊張してゐるからである。世に技巧論を細工論と心得てゐる歌人あり。再思三思すべし。
   石おとす火の山の上のたはむれも我に返れば寂しきものを
 高山の頂で經験する刹那心の動搖をよく捉へてゐる。停滯なき技巧の特長を失はずして此處まで澄み入つて來た事を敬重する。氏の變化は斯樣に純眞であれかし。初句の言ひ方聊か考ふべし。
   あたたかに砂をつかみて遊ぶまもわが現在をいかにすべきぞ
 前の歌と同じ。全然いい。
   篠竹に黐《もち》のばすまもそこの枝籠の囮ははや囀るも
「はや」が拙づい。
   あかつきの沖邊に泊てておそるおそる覗けば近くみどり樹の見ゆ
(205) 第一二句は殆ど必要がない。第三句以下を統一して歌つてゐた方がいい。歌をこのままにして置けば「近く」は要らない詞である。大切の場所にあるから邪魔になる。いい境地の歌である。
   みな先に乘れと佇むはしけの隅このれが惱み人に知らゆな
   ぐつすりといつか汽船に眠りしを寂しきものに甲板に出づ
   囮いま囀りやまずひつそりとひそむ心にきらめく若葉
 誇大的外延的でなく、ひそましく、しをらしき歌境を占めてゐるのを喜ぶ。第一の歌は第一二三句が拙づくごたつきて澄まず。第二三の歌「に」といふ弖仁波の使用法消化せずと思ふ。
   もくもくとして燃えざる煙このままに遂に燃えざるか我の如くに
   わが靴にすべりくづるる熔岩のしかすがにくづれしまはざるかも
   一心におせど抱けどいただきの石さびしや遂にゆるがんとせず
 力を入れ過ぎて壞れた歌である。夫れ程に詞に力を入るべき歌ではない。第一の歌「我れの如くに」などは無い方が歌柄が大きくなる。第二の歌「しかすがに」力過ぎたり。
   煙動かずまつしろに煙動かず心ひそかに近づかずをり
   まつすぐに煙のぼれば心やすしそよそよと五月風しほはゆし
 連作中の歌なれども獨立せざる歌か。
(206)「海中」以下の諸作は粗漫である。概して作者は多作である。この傾向賛成せず。
〇木下利玄氏
「白樺」より
   さむ空の下をあゆみてしたしきは小ながれ土橋わたる音なり
   ひそやかに水は流るる皺かきてそこをもはなれ行つてしまふも
   たそがれの野ゆき小流れこゆる時せつにさみしさつのるなりけり
   たそがれの心つつしみいとせめて流れの音におもひ入るかも
 つつましく、しをらしき境地を歌つてゐる。第一の歌「音」は大へん惜しく惡い。第二の歌第三四五句夫れ迄に言はすともと思はる。なまなかなるセンチメンタルは遊びに陷るべし。以下の歌皆その傾あるために冴えを薄くせるを惜しむ。この傾向其の他の歌にも見ゆ。第三四の歌抽象的な歌ひ方なるは如何にや。
〇與謝野晶子氏
「アルス」より
   かにかくも君は君のみ知る世界われはわれのみ見つる日を持つ
   いく人を忘れはてむと君云へば身もやらはるるここちこそすれ
(207)   天堂と地獄ともちし疑ひにまさらず君の懺悔のあとは
〇吉井勇氏
「アルス」より
   よしやかの弄齋ならぬ君がためつくりしわれの歌もさふらふ
   君に別れなににながらふわが身ぞやよくも命のあると思ふよ
   かにかくに思ひつめては一圖なる男ごころのとめてとまらぬ
〇北原白秋氏
「アルス」より
   空まろく光あかるし病鷄やまず眠れど安からなくに
   春深しけふの火葬場に立つ煙なみなみならず美くしけれど
   蝸牛は動かざれども蔦の葉の光り動けば堪へざりにけり
   はろばろに枯木わくれば甘藷畑おつ魂げるやうな日が落ちて居る  三浦半島
   目も遙に嵐吹きしく枯野原空に落日が半分紅く
   人ひとりあらはれわたる土の橋橋の兩岸ただ冬の風
 前の三首の如きは流石に透徹してゐる。併し今度の歌には詞の動き過ぎたと思はれる歌が多い。い(208)い歌は從來の特色に止つてゐる。然らざるは自由にて引き緊り方足らぬ心地する。「蟹味噌」の歌は「吾つねに世の譏を啖ふ。かるが故に答ふるところなし」といふはしがき無からましかばと惜し。
〇前田夕暮氏
「詩歌」より
   底深く澄める鏡におのづからうつれる吾の顔ひとつ暗し
   鏡のなか鋭き眼して此方みる顔冷やかに冷やかに澄み
   日光のそそぐがもとに幹白く自楊ななめにゆらりと光る
 四五年前に作れば多少新しき開拓かも知れない。氏の神經は大らかで鋭くない。夫れを鋭い詞で現してゐるから擽つたく感ぜられる。
   扉を押せばこなたへと椅子を指さしし老院長の尖りし指さき
   院長ぞ鉛筆赤くわが胸に線をひきたりこころよかりし
   窓ぎはの白き寢臺に吾はいねつ右肋膜を打診されつつ
 斯樣な種類の歌もある。
 葬送の歌は、茂吉の母を葬る歌の境地と似てゐるといふ以外に今少し突き出した者を欲しかつた。
   南方の伊豆の温泉に危かる命と知らで汝を遣りにけり
(209)   蜜柑畠青きが伊豆の南方の山をいろどる春あさみかも
 これらの歌よしと思ふ。
〇尾上柴舟氏
「水甕」より
   ああかくてとはに生きなむものならば海々來りわれを取り去れ
   さ夜ふけてひたる温泉の青白き中に白くものびし手足よ
   うちよせし波し白泡消ゆる音岩間にひぴき日ぞ眞晝なる
 次のやうな歌の方が作者の境地ではないかと思ふ。
   さくら花青白くさく繁山のみどりに向ひ歎きをぞする
   半島の山青やかに暮れゆけば峽のさくらの色のかなしさ
 
       六月の歌壇 (大正四年八月「アララギ」第八卷第八號)
「アルス」
   大鴉一羽地に下り晝深しそれを眺めてまた一羽來し  北原白秋
(210)「それを眺めてまた一羽來し」は白秋氏の擅場である。靜寂な時間の推移が快適に現れてゐる。
   晝渚人し見えねば大鴉はつたりと雌を壓へぬるかも
 前の歌と相俟つて光明透徹してゐる。逸品たるを疑はぬ。
   天の河棕櫚と棕櫚との間より幽かに白し闌《ふ》けにけらしも
   耳澄せば闇の夜天をしろしめす圖り知られぬものの聲すも
   何物の澄みて流るる知らねどもこころ夜天の光ふかしも
   あなかしこ棕櫚と棕櫚との間より閻浮《えんぶ》檀金の月出でにけり
氏の歌境は※[しんにょう+向]かなる所に澄み入つてゐる。虔ましく幽かに深所へと目指す一向の心を敬する。
   夕陽赤けど河風寒く吹くゆゑにすなはちゆらぐ鬢のふくらみ  河野愼吾
   橡の木の彼面此面に刺す光つめたく妻の手をとりて來し
 第二首は殊にいい。「彼面此面に刺す光」で夏の茂りが自ら浮んでゐる。第一首「夕陽赤けど」は苦しい心持がする。夕陽赤しと斷じてしまふか「夕陽赤く」位に素直に續けてしまふ方よき歟。
 毎號一人一首づつ選出されてゐる歌にもいいのがある。
 
「生活と藝術」
〇            土岐哀果
 一般から言つて氏の歌境の清新になつてゐる事が分る。併し、先月號に比して數の割合に佳作が少い觀がある。
   はつきり朝の噴煙のみゆるとき、乳牛の乳はたまりにけらし  孤島情景
「三原山下にて」などのはし書きある物と見て面白い歌である。「とき」と「けらし」との關係を重大に言つてる所が却つて面白い。素撲で重く切れて調子が夫れを活かしてゐるのであらう。「とき」と「乳牛」との間に「、」がある。是は小生には必要がない。
   醉ざめの枕《まくら》をもたぐ、濱風のあらき月夜のしののめ近し  ある夜
 いい境地である。第三句以下に賛成する。第二句は第三句に對して是では拙づい。
   女なれば白き素足の藁草履酒のさかなをつくるとするか  島の歌の中   鈴蘭の花さく野邊にさびしくも少女となれる人にかあるべし  鈴蘭贈られし歌
 
「潮音」
 澤山の人の歌がある。
   逢はむこと思ひとまりて自らを愛でむととりし我が鏡かな  與謝野晶子
(212) 第三四句の理智的なるが此の作者の好みなるべし。
   家々は背肯き魚の居ると見ゆ皐月の雨の東京のまち
 作者にありさうな歌である。斯樣な歌は機智を以て容易に作り得る歌である。只此の作者は翩々として移る歌壇の流行には影響されない。
   如何ともする能はざる親なりと知るにいよいよ病める兒かなし  窪田空穗
   百日咳兒のせき入ればこの夜半の家うちことごと咳とし聞ゆ
   咳き入りて息も絶ゆかにしたる兒の親を見あげしその瞳はも
   しいんとして直立厚葉光りたるあまりりすの鉢に油蟲のぼる  斎藤茂吉
   ぬけいでし太青莖の天邊に膨れきりたる花あまりりす
   あまりりす土ゆすなはち秀でたる厚菓かぐろくこの朝ひかる
   山鳩はおのれかなしくきき惚れて啼きになくらん春のやまべに  平瀬泣崖
   このごろの朝は清しき砂の上にこぼれてあかし※[王+攵]の花
   はるの風山吹きあげてうらさぶし山の赤土見えにけるかも
   草の家のおもき木の戸も引きなれて何となりゆく我身なるらん  若山書志子
 轉地養痾の歌としで感が深い。
(213)   うす色のネルの衣服を著せたればなほやはらかし丸し吾が子は
 同じく轉地の歌として感を惹く歌である。
   晝深み庭は光りつ吾子ひとり眞裸體にして※[奚+隹]追ひあそぶ  若山牧水
   この風のいたくし吹けばふしぶしのゆるみ痛ゐて沖蒼く曇《くも》る
 何れも調子が張つてゐる。「この風の」は惜しい。
   濱風に乾き白める屋根の上に秩父の山は遙かなるかも  太田水穗
   野毛山の異人屋敷に小米花まばらにちりて夏さやかなり
 
「水甕」
   ゐややかに心山をば禮拜す神のままなる力おばえて  尾上柴舟
   あなたふと太古のきよき靜けさを示して我の前にたつ山
   しつとりと大竹藪に狹霧おり竹守の灯の更けにけるかな  石井直三郎
   竹守がうたふ追分藪ぬちにすみひぴきつつ夜の更けにけり
 靜かな歌である。「藪ぬち」は惜しい。竹の中になどの方がいい。
 
(214)「詩歌」
   大空のもなかにかかる日のもとに大男ゐて蛇擲ちにけり  前田夕暮
   赤き日の光りながるる刈麥の畑に蛇擲つ男をみたり
   日のもとに蛇をむちうつ農人の強き心に同感するも
 
「白樺」
   鉢植の草花のにほひ晝深みひそまれるわれに時々せまる  木下利玄
   この花は受胎のすみしところなり雌蕋の根もとのふくらみをみよ
 
       八九月の歌壇 (大正四年十月「アララギ」第八卷第十號)
 
「アルス」
   大きなる手があらはれて晝深し上から卵を握みけるかも  北原白秋
   大鴉一羽渚に黙深しうしろにつづくさざなみの列
   大鴉渚歩けど麗らなる波はそこまでとどかざりけり
(215)   磐石に壓し伏せられし薔薇の花石をはねのけ照深みかも
 何れも「雲母集」に收められてゐる。「雲母集」批評の際詳しく述べることにする。
   河施蛾鬼をはれば河もたそがれて月出づ君が屋根のあなたに  吉井勇
   蓼噛みぬ若くめでたく死なんなど物語めく心起れば  與謝野晶子
   三日降りて池をあふれし雨水に水草めきて立てる蓼かな
「池をあふれし」の「を」は見馴れない用法である。
 
「潮音」
   入りつ海朝霧ながるをちこちの岬に夏の日は散りながら  若山牧水
「をちこちの岬に」と「夏の日は散り」を岬と指定したのは何の關係であらう。
   後いつか逢ふべきものとたのみつるその時し終に來りけるかも
   幾日かけ幾月かけてねがひつる今宵の酒ぞいざや酌みてな
 三首共萬葉調に入つてゐる事がわかる。
   遊びはぐれひとり吾子は泣いてくる甘薯畑の一すち道を  若山書志子
   荒磯の千駄が端《はな》にうちよする濤の音とどろ月あかき夜ごろ
(216)   おもひ深めて啼くか梟こよひこそ月ののぼらば戸を押して來む
 氏の九月號の歌は一體に力の籠つた作であつた。「朝に夕《け》に」など訓ませるのは後人を過らせる。
   吸入器かき拂ふ見て汝が親は驚き笑ひ涙こぼしたり  窪田空穗
   流れ風峰吹きあげて松木山|梢《うれ》さぴしくも聲立てにけり  太田水穗
   大根畠そこの櫟の樹の蔭にいまさぬ父と今もおもへや
   いばらきの多賀の郡は過ぎしかど鑛山《かなやま》の煙いまも見えつつ
「生活と藝術」
   いつのまに三人《さんにん》の子の父となり母となりたる疲れは悲し  土岐京果
 
「水甕」
   ははそばの母に逢はむと衣をかへ夜天の下をいそぎけるかな  石井直三郎
   愁へ來る茅萱の山の谷間より夕日の海のあらはれてきぬ  尾上柴舟
 愁へてゐる調子が見えない。
 
(217)「國民文學」
葬りていやさかり來れば故里のその青山は雲に隱れつ  松村英一
 
「白樺」
   向つ峰の空にくひ入る杉の木がじつとこらへてとがりゐるかも  木下利玄
 作者の捉へようとする物は分つてゐる。「くひ入る」「じつとこらへて」などは臭ひがしていけない。
 
「詩歌」
   氷小舍ひつそりとして馬黒く大戸のまへに尾を垂れにけり  前田夕暮
   たはらぐみ赤きが前におり立ちてひとりの心慰めかねつ  金子不泣
 
       前月の歌壇 (大正四年十一月「アララギ」第八卷第十一號)
 
「詩歌」
   ほし竿の我が兒のネルのましろなる寢巻吹き行くはつ秋の風  前田夕暮
(218)   なまぼしの水をふくみし兒の寢卷とりいれにつつ秋をおぼゆる
   しをしをと思ひあまりて歸り來し父に抱かれてほしといふ兒よ
 夕暮氏の歌境は追々尾上柴舟氏などの境に近づくのではあるまいか。
   わら草履しろき踵をあらはにも見せて娘の小走りにつつ
 見てゐるものはいい。「あらはにも見せて」の如き句に、作者の感受の根本が緩慢であることが分る。
   ざんぼあの若芽はみゐる蟲の背の青くひかりて秋の日したし  中島哀浪
 しつくりした歌である。
 
「白樺」
   太陽の前に大き黒雲はだかれば深かや山の光にぶれり  木下利玄
   女郎花ふくむ菅山濡れなびき雨はあらしにならんとするも
   通り雨とほりをはればいや高く雲のきれめに青き空見ゆ
   木の花の散るに梢を見上げたりその花のにほひかすかにするも
   山の下海のすぐそばに灯をとぼしこの村の家はよりそへるかも
(219) 皆生き生きしてゐる。作者の前より現さうとしてゐたものが漸く鮮かになつて來た感がある。「深かや山の光にぶれり」は敍述に過ぎて惜しい。「女郎花ふくむ菅山」「灯をとぼし」等の句に不足を感ずる。
 
「水甕」
   夜の空は澄めり緑の灯をかかげ星近づけり秋たちぬとか  尾上柴舟
「緑の灯をかかげ星近づけり」は、此處では安價な主觀を滿足せしめ得るに過ぎぬ句である。
 
「潮音」
   相模なるその長濱のしら濱に出でしかけふも獨り浪見む  若山牧水
   峰包み眞晝白雲わくなべに汝が黒髪おもほゆるかも
 何れも旅より妻に送る歌である。
   みくさ生ふる沼尻の水に降る雨を旅のかへりに見らくさびしも  四賀光子
   くもり日の盛岡の町しんとしてをぐらきなかに光る栗の葉  菊池野菊
   誰にしも告ぐべき事にあらざらん四方の高嶺に雪ふればとて  若山喜志子
 
(220)「生活と藝術」
   婆娑として秋の風きこゆ街上の四邊に樹々はあらざりにけり  土岐哀果
 
「國民文學」
   さみしげに童子立ちたり白つつじ咲きて荒れたる庭のあなたに  窪田空穂
 第一句の如き感じ方が我々と作者と違つてゐる所である。
   眞黒なる被衣すそ引き西洋の尼あゆみ行けり日の照る道を
   よくならばといふ横顔つれづれとうちまもりつつ涙かくしあへず  三津木貞子
 亡夫を悲しむ歌が約百首ある。生ま生ましき感傷が更に精錬されて冴えとさぴを持つやうになれば斯樣な材料は大したものになるであらう。熱心に正面に向いて歌つてゐるのはいい。
 
「心の花」
   秋なれば松蟲のねの細々と寂しくをまさむ土の下びに  寺田憲
 
(221)  大正十一年
 
       〇
 新年の新聞とアララギ以外の諸雜誌に發表された歌のうち、小生の目に觸れた範圍で注意を惹いたのは川田順氏の「鳴門の冬」であつた。
       鳴門の冬
   常濡れに濡るる巖の上に立ち見らくゆゆしも鳴門の海は
   くもり空いよいよ低し冬の海の底より起る潮の鳴りはも
   渦潮のうづまく見ると冬の海の深き曇りをひたぶる我が見つ
   ただ目にはそれとは見えね大き渦見つつしあれば動ける如し
   大き渦動くとも見えず動きゐる海の廣らの曇り久しも
   冬されの島の宿屋の晝がれひ何もなけれど若布がうまし
(222)   おもたく底鳴りしつつ冬の海の大き渦潮巻き流るめり
   鳴門の砂濱の砂吹き飛ばす冬の疾風の中に立つ我は
   風早の鳴門の潮の飛沫よけて岩のはざまに身をすぼめ居り
   ゆふぐれの海の眞深ゆ底鳴りす聞きてしあればいよよ深しも
 第一首第一句「常濡れ」が突然である上に何故常に濡れてゐるかが明瞭でない。第四五句の現し方が抽象的であるためにそれに實感的性命を與ふるものは「常濡れにぬるる巖の上に立ち」の三句になる。此の三句は殊に鳴門の海のゆゆしさを現す程の力にならぬ。此の一首は嫌味を伴はぬだけの普通の歌であらう。第二首はいい。「曇り空いよいよ低し」と「底より起る潮の鳴りはも」と應呼するといふより全く流通して一個不可分の性命をなしてゐる。「いよいよ」は少し強く言ひすぎて却つて歌柄を小さくしてゐる。も少し大らかに現したら猶よからうと思ふ。第三首もいい。「ひたぶるわが見つ」の氣魄が歌全體に籠つてゐるの感がある。「うづまく見ると」の「見ると」は必しも必要ではあるまい。言ひ過ぎた趣は第二首の「いよいよ」と似てゐる。第四首全體が安らかに現れてよく要所を捉へてゐるやうであるが、只「渦」とばかりでは渦潮にならぬ。少くも此の歌獨立して生存出來ない。改作の爲方があるであらう。第五首第一句の渦は第四句の「海」につづいて意を爲し得てゐるが、兩者がも少し近く續いでゐれば猶結構である。「海の廣らの曇り」といふ所少し窮屈である。第六首はこ(223)れで結構である。輕い歌と思ふ人もあらうが寂しい島の旅心地が出てゐる。第七首も大體いい。「おもたく」は詞だけが利き過ぎる。その趣き第二首第三首に擧げた場合と共通である。第八首鳴門の特殊色はないが作者の境地が快く出てゐる。第九首もいい。「風早の」は地名か冠詞か。「岩のはざま」の「はざま」は適切な詞か何うかと思うてゐる。第十首「海の眞深ゆ底鳴りす」は無理である。猶又「海の眞深ゆ」のあるために「いよよ深しも」の「深しも」が海の深いのへかかるか、底鳴りへかかるか少々曖昧になる。大體にはいい歌である。總體に大きなものへ正面から眞劔に眞面目に突き當つてゐる態度が斯樣な秀作を生んでゐるのであらう。
           (大正十一年二月「アララギ」第十五卷第二號)
 
(225) 短歌批評
 
(227) 明治四十二年
 
     前號和歌合評 (明治四十二年十月「アララギ」第二卷第二號)
 
       〇
   鰍瀬川瀬音も立たず向つ尾もうまい横臥し有明月夜  百穗
 同感である。(編者曰。堀内卓造氏ノ説ヲ指ス)第四句も非常に感じが現れてゐるから、五句と相俟つて生きて來た。調の上から云つても「うまい横臥し」でなければならぬ。「横臥す」ではこはれてしまふだらう。具體的材料をそのままに扱つて情調の斯く油然と現れてゐる歌を好む。
       〇
   一人ゐるいでゆの日數山になれし思ひのするもさびしくありけり  柿の村人
 強い感じを現さうとする時は輪廓が硬は過ぎ、靜かな感じを現さうとする時は調がだれる弊を持つ(228)てるやうだ。第四句についての説もこれと關係してゐるだらう。
       〇
   叢雲の夕立收め過ぎ行けば樓閣の濱に白波のよる  里靜
 見付所はいいが歌ひ方が餘り不用意である。調で現すべきを文字で現してゐる。感じで現すべきを事柄で現してゐる。色彩で現すべきを輪廓で現してゐる。名詞を今つと精選して感じの油をささねば生動せぬ。
       〇
   もやもやし大野のみどり色にたち黄なるが中に日の沈む見ゆ  千樫
 想と調と最もよく調和して感じが非常に生きてゐる。第五句もよいと思ふ。感じが事柄を捉へて居らねば眞實を感ぜぬ。百穗君の鰍瀬川の歌や、千樫君のこの歌の如きは、感じが事柄を捉へて渾然と其の上に泌み出てゐるのが嬉しい。感じが事柄を離れる時、概念的になつて冷かになり易い。吾々の歌の傾向が感じに直接ならんと努むる時、この短所に踏み入らぬ用意が必要であると思ふ。序だからこんな事を書き添へて見る。
       〇
   さみだるる淺宵みぎりにかいかいと蛙一つあはれげになくも  茂吉
(229) 作者獨特の調であるが僕にはこの歌は感心出來ぬ。棄てるかと云へば棄ててはしまへない。今少し待つて呉れたまへ。
       〇
   飛ぶ鳥のかげも小暗に包みもち霧は流るる松の谷間を  憲吉
 新しいいい感じである。第五句は今つと工夫したい。第一二三句も多少唐突な感がするやうだ。
       〇
   うつらうつら寢入ると見れば枕邊の書取り見るも力もなげに  桐軒
 第五句が附録的に付いてゐるやうだ。四五句最も靜かな調で行くべき所であるのに、斯んなに騷々しくては全體を破つてしまふ。自然の想を無造作にこはしてゐるのは惜しい。
 
〇放縱欄と歌會の歌は大に精選する必要ありと思ふ。淺野梨郷君の歌は始めて見たやうであるが、大に注目すべき者と思ふ。少しもコネクラなくて、自然に平氣にやつてる態度が賛成である。
 
     短歌研究 (明治四十二年十一月「アララギ」第二卷第三號)
 
(230)       〇
   富士見野をひとりすぐれば秋花のはつはつくはし人を憶へり  蕨眞
 人烟寒疎な富士見野を一人旅する身の寂寥を感ずる時に、秋花がはつはつ咲いてるを見て、なつかしい思ひのするのは甚だ自然であるし、其の疎々たる草花を見てなつかしい意中の人を憶ふといふのも、又甚だ自然な感想である。一讀旅のあはれを感じて面白い歌である。三四句敍事を離れて全く感じでいつてるのが、此の歌を生かした所以であらう。五句は冷靜過ぎたやうだ。
       〇
   新治つくばの小野をてる月のよこ雲の色に秋ちかづけり  秋圃
 形も調も整つてるが内容は陳腐だ。二三四句の現し方は面白い。
       〇
   老人のすげむ口元秋風の言のはしはし漏れていとしも  里靜
 見付所を賛成する。部分々々を詳しく敍べて、却つて感じが薄くなつたやうだ。今つと大まかに云ふべき所であらう。三句はどういふのかしらぬ。
       〇
   舊によりて淡如清明なる淺間の湯は予をして深く故人上原三川子を偲ばしむ
(231)   思ふにし心悲しも夜を清み月にむかへる草の上のつゆ  左千夫
 清澄透徹の夜色に對して故人を想ふ心持が遺憾なく現れてゐる。一二句と、三四五句と形に於て即かぬやうでゐて、心持に於ては非常に緊密に融合してゐる。三四五句を得て作者の月夜に對してゐる光景が思はれるのみならず、故人の人格の凛然たる面影も髣髴される。趣向を凝らす思索的な歌では、迚もこんな玲琅玉の如き渾然たるものを得る事は出來ぬ。四句「むかへる」といふ詞をこんなに活動させ得るものかと驚く。
       〇
   ぬば玉の常暗の世と國土はゆれつつもとなたどき知らずも  震災地を思ふ  勘内
 一二三四句に對して「もとなたどき知らずも」が弱い。胡君の地震の歌には他に今つとよいのがある。
   一つりのせまき蚊帳べに家こぞる枕靜けくこほろぎの聲  勘内
 地震の驚怖で大垣の人らが皆戸外に蚊帳を吊つて夜を明かした報知を得て作つたと云ふ前書きがある。驚怖の胸の動搖と天地の夜の靜止と相俟つて非常に力の強い歌である。四五句が一首の生命である。注意して讀んで頂き度い。
(232)   雨こふる蛙の面にそそぐ水つむり空しく一日くらせり  千里
 一二三句は「空しく」の序詞かと思ふ。それには「雨こふる」は變だと思ふ。蛙の顔に水といふ比喩があるが、夫れは洒唖々々した場合であつて「つむり空しく」には響かぬでは無からうか。尤も僕の此の評は作者の意と相違してゐて、トンチンカンな取りやうをしてゐるかも知れぬ。今少し待つてくれたまへ。
       〇
   あなうま粥強飯ををすなべに細りし息の太り行くかも  茂吉
 齋藤君の「こほろぎ」數十首は非常に活動してゐて愉快であつた。此の歌も大によい。病者の衰弱と恐怖から、蘇らんとする喜びの心持が極めて自然に躍つてゐる。衰弱した病者には粥強飯を食ひ得るといふ事が、力強き命の綱であり蘇生の曙光である。その曙光を望み得た弱者の喜びが、弾力ある詞となつて遺憾なく活動してゐるのが喜ばしい。一句已に重い。二句以下之を受けて一路長驅の勢がある。「細りし息の太る思ひあり」など云つてはダレル所である。大に秀歌である。
       〇
   湖はなれ暗きに見れば松の間ゆ湖の面光り湖浮きて見ゆ  禿山
 見付所はよいが矢張り敍した方であつて歌つた方でないのが遺憾である。暗い處から木の間を透し(233)て、湖の夕照を見るのは實に大した感じである。夫れを「湖の面光り湖浮きて見ゆ」だけで滿足するのは惜しい。特に五句は感じに對して冷淡である。作者の態度が極めて眞面目で忠實であり、且つ苦心の痕が歴々見える代りに固まり過ぎて傷がある。傷は出來ても固まる方が努力が見えて嬉しい。
       〇
   まひるのあかるき村をかへるにもためらはれぬるむねのさみしみ  千樫
 錦を著て故郷にかへると反對の寂しさがよく浮んでゐる。三句「にも」が一寸變だと思はれたが矢張り「にも」がよいのであつた。只全躰が多少淺く響くやうに感ずるのは何故だらう。調があまりなだらかである爲めかとも思ふ。依然たる窮措大で郷閭に入る感じは寂しみであると共に、一種の苦痛でもある。寂しみと苦痛とを抱いて逡巡故郷の道を歩むの感想に對して、歌の調の滑か過ぎる遺憾も多少あるやうだ。第五句の感じを重く現したい處へ「胸のさみしみ」と名詞にして、露骨に据ゑたのも感じを餘所々々しくした傾がある。この次の二首が大によいと思ふ。
       〇
   降り來ぬと思ふまもなくにはたつみただに流れぬ赤松が根を  義郎
 裸な庭に赤松が少し生えてゐる。雨が降れば潦が落莫たる庭の赤松が根をただに流れる。外に眼にさはる植込も無い所が、一層落莫の感を惹くといふのであらう。それには第一に前文が欲しい。「思(234)ふまもなく」と殊更に急遽の状を現す必要も無いやうに思ふ。「直に流れぬ」はよく利いてゐるが「赤松が根を」だけでは滿足出來ぬ。
       〇
   夕立はわが里すぎて向つ岡の落葉松林鳴りて降り行く  朴葉
 前に見た歌だが今見ると又面白い。事柄は平凡であるが夕立の壯快な勢を現すに調に澁滯なく、且つ力が入つてるのでよく調和したのだらう。第五句が生命だと思ふ。
 〔編者曰〕此ノ歌評ハ、明治四十二年十一月十六・十八・十九日ノ南信日日新聞ニ掲載セルモノト異同ヲ辨ジ收メタルモノナリ。
 
(235)   明治四十三年
 
       短歌研究 (明治四十三年三月「アララギ」第二卷第二號)
 
       〇
   桑つむと人等いそはく此頃をひとり淋しく草刈りて居り  科野舍
 科野舍君の歌はどれも靜かでよい。今少し色彩を深くすれば力あるものを得ると思ふ。然らざれば平板に流れる惧れがある。「ひとりさぴしく」で生きて居る。
       〇
   よきことを今朝はしつると朝雀心をどるも獨りうれしく  岡千里
 是では感じの輪廓に過ぎぬと思ふ。心躍る。嬉しく。など並べてもどんな調子に嬉しいのか一向響いて來ない。よき事をしたというてもよき事にも色々の程度がある。それを只よき事では感じの輪廓(236)である。「心躍る」も響かず「獨りうれしく」も響かぬ。
       〇
   いささかの秋の野川によどむ砂なかすをなして蟹よりあそべり  無限山人
「なかすをなして」は今つと大きな處に適當である。「なかす」を何とか改めれば感じの締つた歌になると思ふ。
       〇
   父母に綿の衣を乞ひしかばいつや著くかと待つがたぬしき  淺野梨郷
 此の作者はいつも感じを誇張しなんでよい。想と調とよく合つて感じのよい歌である。
       〇
   かぎろひの夕棚雲の心ながく長く待つべみいふがすべなさ  古泉千樫 一通りの歌である。一二句の序詞を今つと働かせねば三四五句が生きて來ない。
       〇
   おほほしき諸木の小里醜牛をそも、中に据ゑ價を笑み苦がむ、尻たたきつつ  礎山生
 變體の長歌である。「おほほしきもろきの小里」は局部の光景に對して廣すぎる。蕨君獨擅の觀察でおもしろいが、歌の數が多過ぎて稀薄になるのは作者の缺點であると思ふ。
 
(237)       短歌研究  (明治四十三年四月「アララギ」第三卷第三號)
       〇
   まごころを迭みにさかりもろともにうはべさかしく老いゆくものか  胡桃澤勘内
 夫婦に通有なる深刻の悲哀である。それにも係らす因襲的に心づかず、淺ましい生活に慣れて怪まぬが一般の有樣である。作者の歌ひ方は大に眞面目でうれしい。「うはべさかしく」のさかしくは不適當である。惜しい。
       〇
   われむしろすげなき振りを見するからあやになづけりにくからなくに  望月光
「にくからなくに」は全體によく響いて非常によく利いて居る。歌ひ方も新しくてよい。
       〇
   霜がるるふゆ木のにはにくれなゐも色は沈めりさざんくわの花  土屋文明
 普通の觀察でゐるのが惜しい。今少し深い用意を以て對すれば、寒い歌が出來さうな景物である。
       〇
(238)   山裾の靜けき海にこぎ出でて四方秋山の色をたのしむ  志都兒
 ゆつくりして靜かなよい歌である。梨郷君と志都兒君とは歌ふ態度に似た所があると思ふ。どちらも甚だ自然で作意がない。其の代り平板に流れ易い。
 
(239)   明治四十四年
 
       同人短評 (明治四十四年十一月「アララギ」第四卷第十號)
 
〇齋藤茂吉
 動機の生き生きした歌を作る。大抵の作がしみじみと心にしみて來る。時々一人分りの歌を作るのは疵である。
〇古泉千樫
 折角の歌を今少し深くと思はせる事がよくある。新しくてよい歌を作るのは齋藤と竝んでゐる。
〇石原純
 眞面目な落ちついた歌を作る。浮誇な所のない歌である。
〇淺野梨郷
(240) 平氣な歌で好きな歌だ。今少し色彩を濃くして貰ひたい。
〇中村憲吉
 新しい情緒に突き進んでゐる。色彩が穩やかで幽かである。こなれない作がかなり多く見える。「寒き石のかげ」には驚かされた。
〇志都兒
 久しく作らないが今に作る。
〇胡桃澤勘内
 才氣に祟られる事が多い。整ひすぎて生きないといふ所がある。
〇湯本禿山
 熱心な眞面目な歌である。近頃少し振はない。新しい生き方に進んでもらひたい。
〇森山汀川
 久し振りで作つた。新しい匂ひが見えてうれしい。今少ししみじみした境に入つてもらひたい。
〇柳澤黙坊
 何處まで行つても活力の充ちた歌である。歌を見ると胸がすきずきするといふ歌である。一人よがりのものも澤山交じる。
(241)〇土屋文明
 新しい匂ひのする歌である。今少し多く見せてもらひたい。冬の泉の歌はよい歌であつた。
〇岡千里・日原無限
 千里が研ぎを入れてゐると無限が荒削りをするといふ傾向である。荒削りの方が却つて生きてゐる事がある。千里は前々號あたりから少し變化してゐるやうである。
〇芋の花人が休んで田川の里人が作る。小沼松軒が休んで井澤蛇川が作る。一休したら働くがいい。西澤本からも今少し働いて貰ひたい。みんな揃つて働かねば面白くない。
 
(242)   明治四十五年
 
       談話會記事 (明治四十五年六月「アララギ」第五卷第六號)
 
       〇
   灰いろの草がれ道を毛物にてゐるが如くに思ひ動くかも
 自分が毛物のやうな氣がして、自分の肉體が動いてるといふことです。
 茂吉曰「どういふ事なのですか」ノ答
 さうです。道を歩いて行くといふことです。
 文明曰「動くとは道を歩いて行くといふ事ですか。ぶるぶる顫へるといふことですか」ノ答
 左千夫先生のいはれた、ふと詩境を引いたといふことと、平生の生活と連絡のないといふ事とは、左樣に考へられない。現し方はのんき過ぎてゐるかと思ふ。それから現し方がはつきりしすぎて濕ひ(243)がないといふやうな感じはある。
 〔編者曰〕コノ「談話會記事」の初ニ「柿の村人の上京を機として、五月六日中村憲吉宅に會するもの八人。最近のアララギの歌に就て互に意見を發表する筈であつたが、時間の都合で僅に柿の村人の歌數首を批評しただけであつた」トアリ。コレハソノ時ノ意見ナり。
 
    (244)   大正三年
 
       アララギ前號批評 (大正三年六月「アララギ」第七卷第五號)
 
〇古泉千樫の「桃の花」
 僕は、三月號なんぞの君の歌は借物の様な氣がしたが、此の歌は君のほんとの行く道だと思つた。ことに二番の歌なんぞ曇つてうるほつた美しい感がする。
 又曰く鋭く突込むといふことは必しも、錐をもむ様にギリギリするだけではないと思ふ。
〇島木赤彦の「闇深く」
 言葉が一つ一つ眼につきすぎると言ふ事は此の頃そんな氣がしてゐる。口外とか今生とかいふのはそれ程氣になつてゐない。
 又曰く智的である。冷めたい。といふ批評はこの歌にはどうも僕に分らない。少し待つてくれた(245)まへ。この八首は技巧上或る缺點は私も認めてゐるが、歌の全體に於て今少し君達に響いて貰ひたかつたといふ慾がある。併し夫れは論にはならない。序であるから僕の今の歌壇一般に對する感想を言つて見よう。今の一般の歌風は非常に官能とか感覺とかいふ者の匂ひを強烈に現さうとしてゐる。夫れは歌に限らず一般の生活に亙つて現代の特徴であらう。僕は夫れに異存はない。只僕は夫れ丈けでは不足である。感覺や官能に活きる以上に更に深き力の統率が欲しい。この深い力の現れがなくては僕には滿足出來ぬ。「アララギ」の歌にしてもこれ丈けの要求を以て今後の變遷を見てゐる。
 
       アララギ前號批評 (大正三年七月「アララギ」第七卷第六號)
 
〇島木赤彦の「をはりの明り」
 始の四首は彩色だけで畫を描かうといふやうな歌で自分では難い道だと思つてはゐるが、何だか純粹に自分の氣分だけで歩るいて見たいと言ふ望があつて、そんな表現になつて仕舞ふが、しかしうまく表現されてゐるとは勿論思つてはゐない。そんな方へも頭が突込みたがつて居るから、追々にどうにか成るかと思つてゐる。言ふまでもなく、自分でもまだまだ足りないと思つてゐる。
〇平瀬泣崖の「とのびく雪山」
(246) 僕は君等の言つた以外に別にいふ事はない。もつと深く統一してほしいといふ感が多い。
〇土田耕平の「曇り」
 とにかく作者は今や常に融入るやうな境地にはひつて居ることがわかつて面白い。しかし一方から言ふと、ある處に行きつまつてこれから更に新しい境地に進入しなければ、動きが取れないといふ状態に居る。それには少しは蠻力でもよいから、何か突き破つて生きて行くといふやうな開拓をしてほしい。
〇中村憲吉の「蒼き渚」
 この位動機にも表現にも純一の境地に立ち入つて居られれば、別に言ふこともないやうな氣がする。非常に柔かな表現でありながら、それが少しもたるまないで、何か深いものを湛然とたたへて居る。
 この作者がこれから後向ふ方向はわからないが、今の處、作者としては、行くべき處にちやんと行きついてゐる。
〇齋藤茂吉の「侏儒ひとり」
 僕は憲吉の歌とは一種違つた妙な酸い青い世界の中に、つれて行かれる樣な氣がする。その青い世界の中で、茂吉自身ぽんたになつたり侏儒になつたりして、一心に歌つたり踊つたりしてゐる樣な氣(247)がする。そしてその踊や歌にはまだ甚だ下手な所があるやうに思ふ。しかしその踊や歌がだんだん澄んで來れば、この歌にある巨頭や陣羽織は目立たなくなつて來るといふ氣がする。
 
       アララギ前號批評 (大正三年八月「アララギ」第七卷第七號)
 
       〇
   飛ぶ蜂の翅《つばさ》きらめく朝の庭たまゆら妻のはればれしけれ  吉泉千樫
 或る氣分がよく透徹してすきの無い心持のよい歌である。「たまゆら」が利き過ぎてゐるかも知れない。
       〇
   小夜ふけてあいろもわかず悶ゆれば明日は疲れて復た眠るらむ  長塚節
 作者の從來の歌には情緒よりも寧ろ趣味が盛られてあつた。夫れが前號の歌は大分變化してゐる。此の歌も其の一つである。第四五句は複雜な物が心地よく純化して病者の肉體まで眼前に見えしめる程の力を持つてゐる。
   すこやかにありける人は心強し病みつつあれば我は泣きけり  同
(248)「泣きけり」が眞實性を帶びて響く事に注意する。全體の句法が素樸に曲折なしに出來てゐる事が力になつてゐるだらう。「人は心強し」が何うかと思つたが、矢張り此處で斯く直截に力強く言つた方がいいであらう。
       〇
   かへるごは水の眞なかに生れいでて悲しきものか淺處《あさど》には寄る  齋藤茂吉
 作者の感覺が鋭敏になる程新しい尖つた世界が現じて來る。作者は寧ろ全身に恐怖を感じつつ其の世界を見詰めてゐる。作者近來の歌が夫れである。此の歌が矢張り其の一部分である。歌に動いてゐる者は蝌蚪でなくて作者の鋭い主觀の塊りである。斯樣な種類の歌として比較的客觀性を多く帶びてゐる第五句が何うであらうかと思はれる。夫れは主として「淺處」といふ詞にある。
   草づたふ朝の螢よみじかかるわれのいのちを死なしむなゆめ  同
 必しも螢に己が命を死なしむなと祈つてゐるのではない。草傳ふ螢の儚なさを見つつ自分の哀れな命を想ひしめて居る歌である。夫れが「螢よ」「死なしむな」といふ訴へるやうな、句法によつて心地よく、適切に活きてゐる。
       〇
   新芽立ちあさき谷間の大佛にゆふさり來る眉間の光  中村憲吉
(249) 夕暮の眉間の光に讀者の感情をしみじみと集中せしめる。「新芽立ち」が多少どうかと思はせる。第四五句が前の句を受けて快き節奏をなしてゐる。「來る」が大變利いてゐる。
       〇
   山振の遺れ花一つ眼のもとに黄色きかもよ日の光さし  平瀬泣崖
 寂しくていい歌である。「一つ」「黄色きかもよ」といふのがどうかと思はれる。
       〇
   かぎろひの没り日とほけばまかがよふ蜻蛉《あきつ》は澄めり空のおくがに  土田耕平
「蜻蛉は澄めり」でよく全體を統一してゐる。「没り日とほけば」は「没り日となれば」位に輕くした方が統一が更に緊まつて來るかと思ふ。
       〇
   夜はふかし勿忘草のそらいろのしたたるばかりねたましきかも  並木秋人
「夜は深し」と強く切つたのは第四五句をよく活かしてゐる。
       〇
   若葉風そよろ渡りて袖の紋ふとうら淋し朝を出づるも  赤津絃
 第三四句が非常にいい。作者の瞬間に動く敏感が窺はれる。
(250)       〇
   うつし身の袖しふるれば卯の花は散らねばならぬものか散りけり  大塚唯我
 卯の花の散る事を大變重大に言つてゐるのが面白い。何か比喩の歌ではないかと思つて見た。第四五句の言ひ方が大へん面白い。
       〇
   みちのくにひそみ咲くてふ螢草人づてならで知るよしもがな  横山重 古いやうで大へん新しい感じの歌でゐる。夫れは第一二三句の現し方がつつましくしをらしい印象をにじませてゐる所にあるであらう。
       〇
   いとほしやあが小時計はコチコチと鳴りゐたりけり山深うして  三村りゑ
 第五句が前の句迄の調子へよく響き返してゐる。第一句も第四句第五句と緊密に響き合つてゐる。全體が一團となつてしをらしい脈を膊つてゐるのがいい。
       〇
   さやさやし庭樫が枝に朝あけで許多つゆけく椿散り居る  桃の井照枝 忠實な寫生から出て鮮やかな感じを與へる歌である。斯樣に確實に土を踏まへてゐる歌は何處かに
(251)強みを有つてゐる事を注意したい。
   先生の死畫像の軸をはづさんと思ふ五月雨の久しかりけり  島木赤彦
 第三四句が問題かと思つたから批評して貰つたのだ。無論自分は「はづさんと思ふ五月雨」と續けるつもりである。
 
       アララギ前號歌許 (大正三年九月「アララギ」第七卷第八號)
 
       〇
   ほかに又あるひは男近づきて日まはりの花めぐりつらむか  中村憲吉 前後の勢から「日まはりの花をめぐりつらんか」に解する。男が日廻りの花をめぐる。夫れ丈けの事實で怪しき聯想が浮び得る。それは是非男で無ければならぬ聯想である。作者の不安の主觀が「或は」「近づきて」「めぐりつらんか」などの句法と共に可なり怪しく現れてゐる。作者には珍しい歌である。 
(252)   かへるでの一葉の上のうす日さへ過ぐるはかなし寄り來《こ》吾妹子  土屋文明
 僕は此の場合「寄り來」が言ひ過ぎてゐるといふ感がする。第一二三四句は大體に於ていいと思ふ。
       〇
   くらきに向ひすわりわが居り耳覺めて息をかぞへて坐りわが居り  平瀬泣崖
 作者の歌は饒舌り過ぎる觀がある。この歌は寂しい境地が感ぜられぬではないが矢張さういふ觀がある。
       〇
   あぶらむし硯水舐めやまずけり驚きてゐる我は知らゆな  齋藤茂吉
 事實も怪しいし表現も怪しい。全體が怪しく新しく響き得てゐる。
       〇
   まひる雲はしれよ走れ日はあつくむしむしとこの心苦しも  長田林平
 憲吉に同感。
 憲吉曰「走れよ走れ日はあつく」は表現調子に乘り過ぎてゐる。この歌に生きて力あるは下二句あるためであることは佳い。
(253)   陽のもとに汽車じつとして久なればそこの日陰に風ぞ吹きたる  倆角七美男
「そこの日陰」では足らない。澄み入つたいい歌である。
       〇
   ひわれたる田に丹精に水擔ぐ夫婦の背なかあかかりしかも  結城哀草果
 第一二三句が敍述的になつた傾があるので、第四五句に對して響き足らぬ感はあるが大體ガツシリしたいい歌でゐる。「赤かりしかも」はこれでいいと思ふ。
       〇
   身ひとりのこの旅人をよしきりは沼べの葦に鳴きてくれけり  赤羽豐二
 作者の柔かい哀しみが全體の調子に現れてゐる。第一二句の調子が緊まつてゐる爲めに他人稱あつかひが氣にならぬ。「を」が何うかと思ふが茲では餘程迄感嘆詞の意味になつてゐるやうである。
       〇
   六月の青葉若葉の日のこぼれ麥藁帽をかぶりて行くなり  須藤みどり
「日のこぼれ」を前後の句からよく活かしてゐる。
       〇
   あけ烏空になければ灯を消して外にいづるなり露草ふみて  久保田ふじ
(254) 材料が多過ぎるといふ感はあるが推移が自然であるし全體が特殊の情で一質し得てよく響いてゐる。
 
(255) 大正五年
 
       歌評 (大正五年九月「アララギ」第九卷第九號)
 
   しつぼりと坊主になれる桑園に朝日燦爛照りきはまれり  丹羽富二
 投稿歌中から時々拔き出して批評して見ようと思ふ。此の歌は、詞が勝ち過ぎて空虚を感ずる歌である。「しつぼりと坊主になれる桑園」といふ事は、之れ丈けでは理解が出來ない。多分、桑の葉が摘まれたか、落葉した後の事であらう。夫れならば、桑の葉が皆摘まれたとか、落ちたとか、平明に言ひ現した方がいい。「しつぼり」「坊主」皆實體の何物をか現すべき詞であつて、實體の何物をも現し得ないから空虚といふのである。而も兩者とも目に立つ詞であるから、餘計に空虚を感ぜしめる。「朝日燦爛」「照りきはまる」の如き著しき感じを現す詞が、益々空虚を感ぜしめる事は、自然に理(256)解されるであらう。斯樣な詞は滅多に活き得るものではない。濫用してはいけない。
       〇
   夏川に馬を冷して四つ脚を洗ひてやりぬ仔馬もともに  同
「洗ふ」所の境地に今つと深入りした方がいい。「四つ脚」は此の場合只「脚」でいい。「仔馬もともに」は簡單に現し得て、よく活動してゐる。
       〇
   朝川に馬を冷して東雲《しぬのめ》ゆ昇る朝日をながむる我は  同
 いい歌である。「東雲」は「明け方」の事で「雲」の事ではない。「山のうへに」など改めた方がいい。第一の歌と比べて、此の歌のよく生きてゐる所以を考へて下さい。
       〇
   昨日《きそ》の夜に鳥海嵐吹きたれば路一ばいに栗の花ちれり  同
 寫生の要所に入つてゐる。簡單でゐながら大へん活動してゐる。地方色が深い色で出てゐる。その地方色の上に作者の見出でてゐる特殊のものが現れてゐる。それらのものに對する作者主觀の交渉が渾然として歌に現れてゐる。寫生を目して形骸を寫すとなし、主觀を從となすと思ふものには、斯樣な歌は眞には分らない。もし賞めても、光景がよく現れてゐる位にしか分るまい。
(257)       〇
   そぞろ行くみぎりひだりの青田原ゆふべさやかに風のわたるも  同
「右左の青田原」は寫生の要所を捉へてゐる。「さやかに」は嚴密に言へば不用かも知れぬ。あつて甚しく惡い事はない。「そぞろ行く」は此の場合不用である。「そぞろ」といふ感じが全體に出てゐるからである。今つと意味の少い詞を欲する。
       〇
   このあした君は登るといでて見れば鳥海山は晴れて雲なし (高橋哲之助兄へ)  同
 第三句迄何の事であるかと讀者をまごつかせる缺點がある。斯樣な事を平氣でやつてゐる歌人はいくらでもある。その癖「直接な表現」などと威張つてゐる。これは「このあした立ち出でて見れが君が登る」などの方がいいであらう。
 此の他に未だ十二首あるが省略する。その内戀の歌は大抵取れない。一般な感傷に落ちてゐるからである。此處に抜き出した歌は、原稿に認めた順序に從つたのである。
 
       千樫の歌を評す (大正五年十一月「アララギ」第九卷第十一號)
 
(258) 千樫の歌は割合に明るい歌である。明るみの底に傷《いた》みがある。千樫の歌の命はここにある。十月號の歌で言へば上段の「紫陽花」が夫れである。下段の「五月の朝」は夫れほどにいかない。上段の歌は大抵賛成出來るが言分もある。一體千樫の歌は堅實である。堅實が過ぎて集中が弱る場合がある。折角の熱をさます惧れがある。これは君があまり缺點ないやうにと心掛ける改竄補訂から來る病所であるかも知れぬ。世間には改竄補訂を彫琢の末技に過ぎぬとするものがある。改竄補訂は我々の情熱を最も直接に表現しようとする努力である。この努力は作者が藝術に拂ふ敬意の程度によつて深淺厚薄の度がある。千樫の努力が藝術に對する敬虔の情から生れてゐることは勿論であるが、夫れが或は缺點なからしめんとする消極的用心に局するやうな事なからんを望む。少し位の疵を持つてゐても、大きなものは大きい。我々は只大きくならんがために努力すればいい。夫れは缺點を構はぬといふ心ではない。
   まひる日にさいなまれつつ匂ひけりやや赤ばめる紫陽花のはな
 非常にいい物を捉へてゐる事は直ぐ分るが、現れたものは熱の足りないものである。「やや赤ばめる紫陽花のはな」は、理解は出來るが此の場合折角の熱を損ずること夥多しい。
 夫れに比して
   炎天の光あかるき街路樹を馬かじり居り人はあらなく
(259)に至つては、大きな光りを以て活躍してゐる。樹の皮を齧るといはないでも、斯う出て居れば、木の皮の青い所、それが齧り傷けられてゐる景情までよく現れてゐる。これは主として此の歌の第一二三句の威力が下句まで徹してゐるためである。上段にも下段にも未だ言分があるが只今印刷所から人が來て私の前に坐つて此の原稿を待つてゐる。夫れで之れ丈けにして置く。
 
(260) 大正七年
 
       編韓會歌評 (大正七年三月「アララギ」第十一巻第三號)
 
 二月編輯會。會するもの文明赤彦二人のみにて萬葉輪講をなす能はず。因つてアララギ二月號の選歌合評をなせり。座に三郎馬吉あり千樫夜に入りて來會す。
   君來む日近づきにけりこの日頃人にも告げてうれしむ我は  柿崎洋一
 斯樣な歌柄は、馴れると安易な道に墮ちる。第四句が快い。すべてがそれに調子を合せて滯りなき感じがする。
   かじけにしそろばんの手をもてあまし振りむけば庭の夜の明けてゐる  兩角七美雄
「そろばんの手」は少し無理であるが此の場合代るべき詞が無いやうだ。作者の主觀がよく緊張して現れてゐる。第四句終りは「庭は」の方がいいかも知れぬ。
(261)   わが街の人は知らなく眠りゐるあかとき雨に兵隊は行く  徳武とく子
 無造作のやうに見えてゐて、捉へ方も現し方も確かりしてゐる。歌の上で斯樣な道を歩かうとしてゐる人は、本當には少いのである。作者は意識しでゐるか何うか分らぬが、この遣を何處までも失はぬやうにせん事を望む。
   ちちのみの命せまるとひた走る街路の泥の氷のひぴき  宮澤義男
 歌は大體これでいい。ここから深入りして行けば、もつと直接な歌が生れて來る。作者は更に深く穴を穿るべきである。
   じめじめと冬を湧き出づる水のいきほのかに搖れて冬草青し  相澤貫一
 センチメンタル過ぎた。「じめじめ」「冬を湧き出づる」「ほのかに搖れて」等が皆際だちすぎて歌を分裂させでゐる。
   鹽かげん母にききつつ妻と我れと今年はじめて菜を漬けにけり  古屋秀峯
 自然に安らかに現れてゐるのがいいのである。併し、も少しで甘えさうになってゐる。作者作歌の心持に用意を要する所であらう。齋藤君の梅干の歌は「我とわが妻」と結句に言ひ据ゑてあるのが持徴であらう。
 
(262)     長塚節四週忌歌會歌評 (大正七年三月「アララギ」第十一卷第三號)
 
   ゆく末のこと思ひつつひそやかにうるしぬり居り冬のくもり日  高田浪吉
 第三四句に今すこし強味があれば第一句がきいてくるかも知れぬ。うるしぬり居りだけではこの歌は生きて來ない。
   平常の如く記帳しそろばんははじきながらも大人《うし》を忍ばむ  薄井貴六
幼ないが、醇な所がある。
   地に落ちて落ちては消ゆる雪片の一つ一つをしまらくみてゐる  草生葉二
句が小刻みにすぎる。
   君死して後の友にはありぬとも弔ふ我を咎めたまひそ  中野武雄
一と通りの歌である。
   君が植ゑし眞青の竹にうす日さしみぞれすらしもさゆるこの日を  内田厨村
作者の歌三首共、故人を偲ぶ歌として輕いおもひつきに過ぎぬ。
   時雨ぞら音なく雨となりにけり心消ぬべく鳴くは何鳥  築地藤子
(263)よけれど第四五句少し感傷にすぐる傾ある。第一二三句大したものなり。
波の穗にふれ行く鳥の遠方に今朝かすかなり島山大島  同
第五句を大島の山とすべきである。
   赤土の道ひき入れる山の岸常盤木こもりて太鼓うつきこゆ  金子晋作
四五句はよし、山の岸が惡いからきかぬ。引入れるは無理である。
   病める身は日光《ひかり》あびつつ凧あぐる幼き子らをしばし眺めぬ  淺見鉦吉
二句惡し。「しばし」不可。
   自轉車をかこみて語る人ならし灯に照る顔の闇に浮べる  境野規矩夫
捉へ方よし。三句五句不可。
   冬空の冴えのさびしさ晝の月木ぬれに見つつ山峡を行く  谷鼎
 この歌は缺點はないが三四五句のそれ程にきかぬのは一二句の肩が凝り過ぎてゐる爲めである。一二句を今少し平凡に言つたらそれ以下の句が生きてくるであらう。
   水仙はやうやく瓶にすがれたりひと月あまり保ちにけるかも  三ケ島葭子
四五句惡し。
   病室の庭にきて鳴くひよの聲きき寂しもよ今日もきて鳴く  山田邦子
(264)第五句はいい。きき寂しもよ、を心寂しもなどに改めればこの歌よき歌である。
   癒えなくば如何に吾がせんいたつきの君の瞼は寂しかりけり  荷川茂文
瞼を捉へたる非常によし。
   この宵は父し居らねば雨にぬれ訪ひ來し人をいたづらにかへす  廣野三郎
捉へ方に未だ足らぬ所あり。
   まなかひに樫の大木に霜白し澁谷が原の今日も曉けしかも  山本信一
二句大木のなるべし。上句の調子を受けて四五句腑拔けたること甚だし。
   けふもかも日は傾けりさむざむとこの枯原に日は傾けり  同
かういふ歌を見て弱いといふのは惡い。ただ一二句が無用であるのみである。
   木かげなるわが家の縁に立ち見れば春雨の雫軒端より落つ  齋藤松五郎
素直なよき歌也。
   落葉松の林の丘に春さりて菫こぼれて咲きにけるかも  宮坂武吉
菫こぼれてを訂せばいい歌になる。
   たをたをと夕空をゆく大鴉われを追越し啼かず寂しも  丘山彦
第五句啼かざりにけりとせばこの歌よからん。
(265)   澄みわたるあかとき空にくきやかに白梅の花咲けりけるかも  古泉千樫
よささうで普通な歌である。
   牛ひきてくだらんとする坂の上夕日に照れる牛の姿を  同
   かぎろひの夕日背にして坂くだる牛のまなこの暗く寂しも  同
はじめの歌第四五句不可。後の歌第三句惡し。
 
       歌評 (大正七年五月「アララギ」第十一卷第五號)
 
       〇
   界木の椎はしげれど下枝のなければならぶ墓のあらはに  岡麓
 純氏が眞先きに述べた批評と一致する。
 (純曰)下枝のがらりとして墓が見えるといふのは面白い。云ひ方が少し説明的の感じがする、「しげれど」「なければ」といふ續きが.夫をどういつたらよいかといふのが難しい。
       〇
   うつしよの霧ゆのがれて底ふかき隧道に入り電車を待ちぬ  石原純
(266)「うつしよの」は他に猶考へたい。第三四五句が敍述に過ぎてゐる。氏の歌は重く厚い。その代り歩き方が遲すぎるといふ場合がある。遲過ぎる時敍述に接近して來ると思ふ。併しどの歌も皆眞に石原さんらしい歌である事を何時も快く思ふ。
       〇
   部屋しきる璧のまなかに爐のありてあかく火は燃ゆ霧じめる夜  石原純
 作者は説明的と言つてゐるが、説明的の句法に或る驚異の情が伴つてゐるので此の場合力を持つてゐると思ふ。第五句は千樫迢空説に賛成する。この句法は作者の他の歌にも可なり煩ひを成して現れてゐると思ふ。
       〇
   片戸鎖し部室はひそめど外の雪の障子へあかりうべおちつきぬ  中村憲吉
 憲吉の「雪の朝」一聯は三月號の編輯に遲れて著いたので、作者は未だ訂正したい所があると言うて來た。それを四月號に出すやうになつたのである。終りに「二月作」と附記してくれと言ひ越したのを枚正の時落してしまつたのである。第二句の終り「ど」は此の場合邊であるが許し得る例があると思ふ。「障子へ明かり」は憲吉がさながら現れてゐる。「うべおちつきぬ」の「うべ」は作者の心持がよく響いてゐる。一體に憲吉の歌近來異常なものが現れて、予は少々呆れてゐる。
(267)       〇
   よひあさき町の灯のもと音もなく土はうるほひて車はゆくも  平瀬泣崖
「音もなく」がふらついてゐる。此の歌調子に乘りすぎた所がある。
       〇
   野火もゆる煙の中にあな大き草のままなる黒き灰とぶ  門間春雄
 第三句は原作「枯草の」であつたのを私が勝手に改めたので失禮した。改めたのは此の歌だけである。異常な感じを傳へてゐる歌である。
       〇
   春近き日はあかるかりむしろ織るわが身近くにほこりうこくも  結城哀草果
 私はこの歌に散漫を感ぜぬ。平凡の樣でゐて大切な感じを捉へてゐると思ふ。
       〇
   春雨の埴土原《はにはら》の地のながれ水かれ草なかにかくろひ行くも  山本信一
 矢張り「地」は必要であらう。作者にはセンチメンタルな發想が多い。この歌はさういふ所がなく、且確かりと捉へてゐる。
 
(268)       歌評 (大正七年六月「アララギ」第十卷第六號)
 
       〇
   かじかがみこちたきこりは今日も降る一雨ごとにほぐれゆくなり  麓
 第三四五句は苦心した技巧で面白い。第一二句は此の歌の主格をなす部分で同じく苦心した技巧と思へるが、現し方が直接でない。「一雨ことにほぐれゆくなり」と言へば主體がもつと如實に現れて居らねばならぬ。其れで僕は「かじかがみ」が植物の名ではないかと思つたのである。
       〇
   雲晴れて見ればさぴしき島の山岩嶺はつかに雪降りにけり  耕平
「島の山」と「岩嶺」との續き具合が變である。第三句は「島の山」と切らねばならぬ所である。第四五句も第三句の名詞止めを受けるに足りる勢を持つてゐる。寂しき心が引き緊つて感じられる。
       〇
   たまさかに雪のまひ來る軒下に肉《しし》まだ温《ぬく》き雉《きぎし》を裂けり  七美雄
 格調の張つてゐる所がいいのである。「たまさかに」「肉まだ温き」などには頭で作り上げた所が見(269)える。
       〇
   はしけやし妻は子を負ひあらし吹く松の林にわけ入りにけり  春雄
 客中妻子をいたはる心が自ら泌み出てゐる。現し方も甚だ自然である。結句は「入り行きにけり」の方よきか。併し連作中の一首にどれ丈けの獨立性を要求すべきかは問題である。
       〇
   一株の楓載せてく車より垂りの若葉は曳きずられつつ  翠子
 一通りはこれでいい。ここから透徹の境に進むべきである。
 
       歌評 (大正七年七月「アララギ」第十卷第七號)
 
       〇
   行く春のまひる明るき二階の室机をきよめひとりすわれる  古泉千樫
 形も心も整つた歌である。今少しヅツシリ響いて貰ひたいといふ感がある。之は君の作の大部分に向つてする私の希望である。この歌第一句概敍にして意味を有つために全體の感受を輕易に導く傾が(270)ある。
       〇
   戸毎にも※[金+肅]びてかかれる柝ありて濡れしとり見ゆ霧ふる朝は  石原純
「柝ありて」といふ言ひ方は説明に陷り易い弊があるけれども、ここには詞と調子を重くして「柝」を際立たせてゐる所に命を持つてゐる。第五句に「霧ふる朝は」といふ言ひ方説明的なるを取らぬ。この句法は作者に可なり多いと思ふ。
       〇
   苗代の水見て戻る畔道に蛙群れいでて雨降らむとす  結城哀草果
 捉ふべき所を確かり捉へてゐる。調子も確かりして輕薄な所や甘たるい所がない。問題は作者が何う發達して行くかといふ所にあらうと思ふが、さう性急に考へて何うなるものではない。
       〇
   ゆふ日落ちて忽ちくらき若草に霰ふきふる高見山原  掛谷宗一
 第四句迄は非常にいい。第四句を第五句で更に生かすべきである。第五句が大へん惡い。
       〇
   病みの身の乳にすがりて眠りたる赤兒の頭をなでてゐるかも  山田邦子
(271) いい所であるが、この歌は兩斷して二首としたら何うかと思ふ所がある。「病みの身の乳にすがりて眠り」に注意を集中させられるから、「頭を撫でてゐるかも」が一首として問題になつて來る。
       〇
   庭掃くと草箒とるわが額にふと夕ばえの明るかりしも  三ケ島葭子
「わが額に」が惡いであらう。「ふと」といふから、今迄空が割合に暗くなつてゐたであらう。そこの關係を充分に現したい。
 
       歌評 (大正七年八月「アララギ」第十一卷第八號)
 
       〇
   磯ぎはにひとり殘れりさし浸すうしほの騷ぎ夕べはてなし  土田耕平       〇
   山奥のいたやももぢの繁りたる林の中に來りけるかも  櫻井みね子
       〇
   照りみつる岬草山《みさきくさやま》ふく風に草を離れてしろき蝶飛べり  古泉千樫
(272) 餘白が出來たから埋め草に少し書く。新手の歌は近頃、も少し、生活材料を豐富にしたらよからうと言ふ感じがして見てゐる。大島掌大の地にも、住んで見ればいろいろの生活が錯綜してゐるを見るであらう。天然物四時の開展變化も自ら無限であらう。左樣なものへ作者が更に委細に觸到したらどうかと思ふのである。櫻井みね子の「いたや紅葉」の歌は單純な材料が漸層的句法によつて可なりの深さに澄み入つてゐる。「林の中に來りけるかも」が特にいいのである。千樫の近作一體に、も少し濃くいつた方がいいやうである。苦しんで壓搾するのである。
 
       歌評 (大正七年九月「アララギ」第十一卷第九號)
 
       〇
   夕ふかき眼のくだり直落ちに傾く尾根に雪かがやけり  釋迢空
 第三四五句がいい。第一二句がわるい。第三四五句を生きしむるために第一二句を猶工夫せんことを望む。「夕深き」の「深き」も力を入れすぎてゐるし、「眼のくだり」も騷がしすぎる。つまり第一二句のために折角の一首が生まな書生つぼらしいものになつてしまつた觀がある。作者の歌すべて、も少し枯れた簡素のものに入らんことを望む。
(273)       〇
   つゆどくのくもりてらねど病み臥しの母がねあせの夜著を干すかも  岡麓
「つゆどきのくもりに」で足りる。「くもりてらねど」は巧であるが、「てらねど」が餘計である。餘計であるから其處で句勢をたるませる。引緊つた現し方にならぬのである。殊に「てらねど」の「ど」は表現の接近に過ぎる弊がある。梅雨どきの曇りに母の寢汗の夜著を干すといふ捉へ所は非常に結構である。
       〇
   朝霧ふ庭の木の間ゆ灯影洩りほのかに窓のあかき家見ゆ  平福百穂
「灯影洩り」の「洩り」が際だちすぎるかと思ふ。其の他に於てはほのぼのとして而も撓んだ所のないいい歌であると思ふ。
       〇
   隣り家の庭の青葉を深々と塀の上に見る夏ふけにけり  平瀬泣崖
「塀の上に見る」に多少の工夫がある。「深々と」「夏ふけにけり」何れか餘計である。言葉のつかひざまがやや輕々しい。
(274)   朝床に眼ざめて聞けば幼な子が乳母車に乘りてよろこぶらしも  門間春雄
 現し方が素直で撓《たる》んだ所がなく少々手の高い所がある。斯様な歌を平凡といふ人があれば夫れは枯れた境地の分らぬのである。
       〇
   やうやくに足たちそめて此夕べ厨に飯の煮ゆるをわが見つ  山田邦子
 厨へ久し振りに行つた女らしい心持が出てゐる。「わが」は力が入り過ぎた。
       〇
   床の上枕さすべく抱きおこす吾兒のからだの汗ばみて重し  三ケ島葭子
 むくつけきうちに母らしい力が強く出てゐる。「床の上」「枕さすべく」「抱きおこす」「汗ばみて重し」皆調子を合せてゐる。
 
       歌評 (大正七年十月「アララギ」第十一卷第十號)
 
       〇
   この街の祭のびけりそろへ衣著たる子どもの群れつつさぴし  古泉千樫
(275)「そろへ衣著たる子どもの群れつつ寂し」はいい處に入つて居る。祭の俄に延びた有樣も現れてゐる。第一二句を平かに置いたのも末句に集中した心が窺はれてゐる。
       〇
   雲わけば間近き峯もかくろひて畑の葱に時じくの花 土屋文明
 間近き山が隱れる。畑の葱が時ならぬ花を著けてゐる。夫れ等は皆同じ脈膊の上に切實に生き動いてゐる。上句に對して下句の置き方が殊にいい。新鮮な山の匂ひに接する感がする。
       〇
   寢入りたる姿を見ればおのづから病み細りけむそのうなじあはれ  土田耕平
 各句皆自然に行はれて、一首自ら入るべきに入つてゐる。「うなじ」を捉へたるは寫生の機微に參してゐるものである。
       〇
   浦廼舍のもてる小學校うしとらの薮伐りそけて大武山近し  加納小郭家
「浦廼舍の持てる小學枚」は吃々と語つて率直に現し得てゐる。第四五句は殊にいい。第二句切れに對して第五句の結び方も適切である。
(276)   夕ぐれはあつしとぞ見る支那竹の直なる節は茜さしたり  築地藤子
 夕ぐれの暑さに對して四五句がよく利いてゐる。寫生も要に中つてゐる。「あつしとぞ見る」の現し方他にあるかも知れぬ。
       〇
   傘かたげ背の兒に見すあまぎらふ空鳴きわたる烏のむれを  原阿佐緒
 僕は女人の斯ういふ歌は一も二もなく好きである。生まな主觀や理窟のないのが殊にいいのである。第二句切れが此の歌を力強くしてゐる。第五句の第二句へ響き返してゐるのもこの歌を餘計に生動させてゐる。
 
       歌評 (大正七年十一月「アララギ」第十一巻第十一號)
 
       〇
   山ふかきくにには入りぬこの町のひとのおもをば直《ただ》に視にけり  石原純
 新鮮で澁いのがいいのである。一二句をも少し具象的にしたい氣がするが考へて見るにむづかしいやうである。
(277)       〇
祖母の臥す枕べに龜を買ひきたり疊這はせてよろこぶ子等は  岡麓
 病者のそばで喜んでゐる子を直寫してゐる。予の心に滲みる歌である。名詞が少し多過ぎる氣がする。そのためか少し平面的に響く。
       〇
   夕未だ合歡咲く宿にあゆみ著き古き草鞋をぬぎすてにけり  平福百穗
 百穂「ひぐらし」以下概ね傑作である。この歌作者の物に觸れ方がよく分つていい心持がする。現し方もすべて自然である。
       〇
   のきさきに蓆の日よけかかり居れどあつさはおそふ吾がししむらに  兩角七美雄
 力士の力瘤を見るやうな歌である。此の作者時々力を入れて力負けする事がある。此の歌も力負けをし得る素質は持つてゐる。「おそふ」「ししむら」に踏み止まつたからよかつたのである。
       〇
   かりこみて枝ぐみかたき枸橘に秋芽の刺のふきいでにけり  杉浦翠子
 上句はうまい。「秋芽の刺のふき出でにけり」は少し分らないが實物を見たら分るであらう。さうし(278)ていい心持がするであらう。
 
       歌評 (大正七年十二月「アララギ」第十一卷第十二號)
 
       〇
   わが懶惰《らんだ》を悔いつつもとな父母の寂しきことはよく知るものを  千樫
 作者がやつて來て、今度の「來竹桃」は何うぢやと問うた。予は前月の米騷動の歌に比べて物足らない。と答へた。量にも質にも壓搾が足らなくて微温的になつた觀があるのである。
 この歌第一二句は作者の心持を捉へてゐる。第三句以下が足らない。「父母の寂しきこと」も第一二句に對して適確に意を達してゐない。「よく知るものを」の「よく」も予にはない方がいい。
       〇
   掘り下げし湯室に居れば前川を下る舟あり石にふれつつ  文明
 冴えや寂びの境地の分らぬ人には作者の歌は鑑賞出來ぬであらう。「楓曲りておとろへ早し」など夫れである。この歌大へんいい。前川を下る舟が見えてゐる場合かゐない場合か。その關係がはつきりして居れば猶結構である。もし舟の見えてゐない場合ならば「下る舟あり」を訂した方がいい。
(279)       〇
   かくのごと患へてやみに立つ民に何を警《いまし》めの鋭き灯のひかり  泣崖
 千樫の米騷動は側面から寫した。泣崖は正面から寫した。そこに六ケ敷い所がある。泣崖として珍しい所へ手を著けたのである。總體にも少し内面的に響くものを欲しかつた。外面が騷がしすぎるのである。
       〇
   さやさやし朝風吹けり音たてて疊の上に黒蜘蛛落ちつ  山本信一
 捉へ方と一首の語感と句法がしつくり合つてゐる。
       〇
   手にとりて弟の文字をよみにけり此捕虜郵便十行に足らず  山田邦子
 作者の逢著した感激が最も緊密に現れてゐる。文字の上にも句法の上にも不適切な所と緩慢な所がない。此の歌作者の持徴を最もよき意味に現した歌であらう。
       〇
   山の間に夕雲あかし菅原のくばみに水のたまり光れる  天田乎三
 捉ふべきを捉へて、歌柄こせつかぬをよしとす。
(280)       〇
   夜業《よなべ》してふた夜《よ》ねむらず恙なきからだとほこる今にはあらず  山口好
 せつぱつまつた心持がよく漲つてゐる。細かな手法によらず、外形騷がしからず、大柄に發達してゐる所がいいのである。
       〇
   まなかひにふたがる霧をかきみだしおそひ立つかも黒々と濤は  柳本城西
 力が人つてゐる代りに騷がしすぎる感がある。第五句を讀むまで濤の事か何か分らぬのも此の歌には缺點である。
 
(281) 大正九年
 
       アララギ新年號の歌合評 (大正九年二月「アララギ」第十三卷第二號)
 
〇石原純作「國境」「國央」
 氏の歌は何時もその底に敬虔な重厚な心を藏してゐる。夫れがすつと簡淨に直線的に現れ出でんことを小生は望んでゐる。「國境」について言ふと「傾斜路を汽車ののぼると往きあへげりたゆき倦みごころ俄にも覺む」「汽車漸く信濃に近しいちにちの暑さ薄むといのちすがしむ」「我が強ひて心のひまをたのしむと國の境をいま超ゆるかも」の如き今つと簡淨にぴたりと現れてゐてもらひたい。「ゆくらかに一夜の幸を曾て索めし國の境のたか原に來つ」のやうな抽象的な概念的な現れ方も時々ある。
   響きつよまり汽車の喘《あへ》ぎのいちじるし傾斜|急《にはか》なる直《ひた》みちのぼる
 斯樣に簡直に行つてゐるものに敬服する。氏の歌調は鈍重であつて夫れがいつも氏の重厚な心を盛《も》(282)る。重厚な心と鈍重な歌調が更に簡直な現れを取るに至る時が氏の本領の最も剴切に發揮せらるる時ではないかと思はれる。昨年の氏の作「賜賞」の如きは左樣な境に入つて初めて放たるべき光輝の一端を我々に示してゐると思ふ。猶氏の連作論は完了に至るまでを拜見した上、改めて卑見を陳べて教を乞ふつもりである。
〇釋迢空作「二十年」「やまうら」
「八ケ嶺《やつがね》の山うらに喰ふ魚の味さびおもしろみ知れる名を問ひつ」は十徳姿の宗匠趣味に近づかんとしてゐる。「きぞの宵欲しとわが言ひて薯の汁雪の朝餐《あさげ》に吸ひにけるかも」「酒たしむ人にはなれる友の顔いまだ若みと言に出でてほめつ」等も夫れに較や近い。創作の態度にもつと徹した所あらんを望む。「國さかり二十年見ざる人にあひて歡びごころ目を見あひたり」の如きも、目を見あふことに何の異議もなけれど、一首から受ける感銘の生温るきを感ずるのは何ういふ譯か。
   御柱《おんばしら》街道|凍《い》てて眞直なりかじけつつ※[奚+隹]はかたまりて居る
   うちわたす大泉《おほづみ》小泉《こづみ》山なほ見え苅り田の面は昏くなりたり
の如きは勁直樸茂の心が現れてゐていい。
〇古泉千樫作「北海道」
 千樫近頃大に勉強する。「長塚節の赤光評」を數日前に持つて來た。今日は「松倉米吉氏とその歌」(283)を持つて來た。さうして今小生と同じ炬燵で選歌をやつてゐる。小生に夫れが分らない。今度は必ずあるというた歌と歌評がない。今日は編輯〆切である。今頃選歌をしてゐたのでは歌評も何も間に合はない。千樫には歌評をしない癖がある。アララギの合評もするすると言つで殆どしたことがない。一度もしないだらうと言つたら一度したといふ。是では困るではないか。今千樫が小生の面前にゐるから是れ丈け餘計な事を書く心が出て來たのである。
 千樫の歌は平明である、夫れはよい。あの上に集中があれば結構であると思つてゐる。集中は事象の中核に觸れる所以であり、歌の上には調子の緊張となつて現れる所以である。「みちのくに汽車入りたらし白みゆく曉の國原ひとりながめ居り」について言へば、「白みゆく」といふ時間の推移を現す詞が使はれてゐる場合、前からその勢が積重して來て居れば「白みゆく」の詞が緊密に活動し得るのである。此の歌の内在的調子が此處に緩みを現しはじめてゐる。「ひとりながめ居り」も未だ緊密ではないやうである。「國原に草刈る人ら雨ふりて鎌よく切れむこのあかときを」について言へば、「雨ふりて」と「このあかとき」とが一緒になつて力を集めて居るやうにありたい。殊に「鎌よく切れむ」は此の歌の大體の状勢から見て局所に急に飛び入り過ぎてゐる。ここにも一首の集中を破る事情が釀されてゐる。
   このあたり植付をせぬ小田おほしゆふべの雨もあまたふらざり
(284)の如きはいい。
 又曰。千樫遂に石原氏評を書く。大に忝し。之から休息する所である。(一月二十日夜八時半〕
〇土屋文明作「枯芝山」
 作者の歌には腹藝がある。表へ現れてゐるものの底に潜んでゐる力を容易に人が看過するやうである。今時の歌作者や鑑賞者は丁度その邊に位置してゐるやうである。
   温泉《おんせん》を炊ぎにつかふ町に住み下痢も癖とぞ過ぎてゐにけり さすらひの境遇、さすらひからやや定住を得はじめてゐる漂泊者(?)の境遇といふやうなものが地味な感情と姿を以て自らに現れてゐる。「過ぎてゐにけり」は或は未だ現し方があるかも知れぬが、此の歌土屋氏の平素に通じたよい所を備へてゐる歌であると思ふ。「ゆるやかの起伏つぎつぎにかさなりてはてはるかなり枯芝の山」は「はてはるかなり」が餘計である。「つぎつぎに重なれり」でいい程の所を言ひ過ぎた感がする。さういふ種類の歌が今度はいつもより少し多かつたかと思ふ。
〇三ケ島葭子作「なやみ」
「なやみ」一聯の作を通じて痛切な感じが充ちてゐる。これで事件が目立たなかつたら非常の作であると思ふ。
   後合せに寐ねたりければちちうへの博多の帶に吾が足觸れつ
(285) 痛切な感じが充ちてゐると共に、事柄が際立ちすぎるといふ感が伴ふ。すべての意味に於て此の歌一聯中の代表作である。
〇高田浪吉作「米吉」
 純直簡明最も作者の長所を現し得てゐる作でゐる。三ケ島氏に比べると事件が目立たない。夫れ丈け深い感銘が讀者に先づ沁み入るのである。一々歌例を擧ぐるに及ばない。
 
       アララギ二月號の歌合評 (大正九年三月「アララギ」第十三卷第三號)
 
〇横山達三作「夜道」
 作者の歌從來末梢神經が鋭敏に働いて中樞に沁み來るもの薄かりし傾ありしも、今囘のは餘程變つて來たやうである。夜道八首は矢張り得難い作である。只行き亙りすぎて中心から押し出たやうな勢を成すに至らない。ここを作者は追々に考へ給へ。押し出して勢を成すとは元氣な歌を作るといふことではない。例へば
   夜くらき砂山の下ひろびろと枯葦つづくなぎさうら道
の歌で第三句「ひろびろと」は夜の状と情とを現すには明瞭すぎた詞である。夜の景情を歌つて勢を(286)成し得ないのである。或は「砂山の下」といひて後から「渚うら道」といふ。是は前後の關係が明晰に過ぎて勢を成し得ないのである。斯樣な點は他の歌にも見えてゐる。
〇兩角七美雄作「元日」
 作者の個性が確かりと現れるやうになつた。この個性未だ開拓の餘地多きことを自覺せん事を持に此の作者に望む。
 第一首「北の國ゆはるばる送りおこしたるこれのさかなの鹽をぞ落す」は素朴な心が緊張の姿に入つてゐる佳作である。第三首「桑畑のはたてに并ぶ八ケ岳雪やみしかば寒ざむと見ゆ」は「桑畑の廣き向うの八ケ岳」といふやうな直接な現し方をすべきである。結句自然で要を得てゐる。夫れよりも前々號の
   命のいとけなき日ゆ見たるらし吾が家ちかくあらき山肌を
は容易ならぬ作でゐる。此の作者時々斯樣なものを見せるのに驚く。
〇山本信一作「短日」「霧」
 予は一月號で作者の歌往々センチメンタルに踏み入ることを言つた。その例を二月號の歌から擧げる。
   たらひたる眠りゆおのれ覺めたれば凍《い》の直地《ひたつち》の日を見て居るも
(287)「覺めたれば」が善ささうで惡い。今つと率直に簡素に行くべきである。立ち止まつて感傷に耽つてゐる所である。「おのれ」も不要である。これも善ささうでよくない。
   日の傾き早ければわがかへる道かわきてあかき郵便の函
「早ければ」に作者の執着なからんを望む。感傷に隣りしてゐる。
   亡き父を夢にし見てゆめと知らずさめてののちの涙さむしも
「夢と知らず」「さめてののちの涙さむしも」等は特に甚だしい。總體に此の作者の内より發する力弱し。弱いとは威張らぬといふ事ではない。こんな事では遂に君の規模を小さくする。今度は苦言のみを呈す。
〇木曾馬吉作「むらぎも」「砂濱」
「むらぎも」未成品の歌非常に多くて何の歌をも棄てられない。底力が籠つてゐるからである。どの歌にも動亂の心が現れてゐる。夫れが一向きに出てゐる所がいいのである。動亂の心が將來どんな處へ遷つて行くかを測られぬが、刻々の變點相、皆張り詰めてゐればいいのであつて夫れが自づと何物かに到著する。君の年齢は今山川の水が瀑布になつて落下するやうな勢を示してゐる時期であつて、落下の勢は只精一杯に落下するを宜しとする。未だ河を成し湖を成し海を成すを要しない。生きた物はその命皆相通ずる。瀑布であり河であり湖海であるを問ふを要しない。「むらぎも」十首概ね全心(288)を投げ出して躊躇の跡がない。
   命たちて肉體《からだ》は土に腐るとも暗き我が影ぬぐふべからず
   こし方のくやしさすべて啓きなばしたふ心や蓋しなげかむ
の如きは不聰明の歌の例である。
「はらから」も動亂の心仇の一片である。「砂濱」も同じである。全力で物を捉へてゐる。よき歌「砂濱」「はらから」の方に多し。細評を略する。
 
       アララギ二・三月號の歌合評 (大正九年四月「アララギ」第十三卷第四號)
〇築地藤子作「草の中に」(二月號)
 作者は海外に遠く住んで女の愚痴を竝べず、隨所に自分の境遇を樂しみ生きて行く所がある。このこと實は難かしいのであるが、作者はおのづからに夫れを自分の道となし得てゐるやうである。これは氏の時々發表する歌を見て何時も心づく所である。氏の歌は左樣な心境から何時も率直な自然な聲をあげてゐる。氏の歌柄の概して大きいのは、この率直と自然とから來るのであつて、感じを人に強ふるやうな所が氏の歌からはいつも見出されない。夫れがおのづから二月號の
(289)   草中に家まれなれば落つる日も遲くぞ落つるバナナのかげに
の如き大作に至り得てゐるのである。隨所に自分の境遇に生命を求めて生き得る作者に
   宵々に仰ぎなれし宵の明星の今宵は見えず凶しき思ひす
の如き不安な心の歌あるは矛盾の如くにして矛盾ではなく、却つて作者の率直さと自然さとを深く色づけるものである。夫れが
   雨の夜を寒みか仔犬の鳴く聲す吾も子をもてばあはれとぞ思ふ
といふやうな深い感じの歌になつて現れてゐるのである。只作者には「ただこと」や「やりつぱなし」の歌が未だ往々交じるやうである。そこを追々に注意してもらひたい。至るべき處は是から先きにある。それを念々に忘れざらんことを望む。
〇岡麓作「冬日」「春光」
 作者の歌に近來益々緊張の心が加はりつつある。緊張の心が加はれば加はるほど歌が直截簡明になる。
   たたなはる秩父山なみ雪白し街中にしてひろき空地あり
   薹たちてひらきつくせし蕗の花春のはじめの土のつめたさ
   薹たちてひらける蕗の花つみぬ爪にはさまる土のつめたさ
(290)   裂莢のかたまりまとふにがかしゆう松の太幹卷きあまりたり
の如きは作者の近來著しく現れて來た方面を窺ふに足る者である。夫れを小生は感謝する。
   初春の日の光あたる木がくれの池のほとりにひとり來てしか
の第五句は力が入り過ぎてゐる。この歌の如きは平面的な捉へ方に屬すると思ふ。
   裂莢の枯蔓まとふ小林の松にさす日の春淺みかも
 第三句はここに置いては邪魔になる。第五句の川ひぶり常套的で生きた心が現れにくいやうである。
   小林の松に春日のさしそむれ枝うつり口つつき合ふ小禽
 第四五句大へん面白い。第一二三句何處か物足らない。「春日」の「春」「さしそむれ」の「そむれL等が不用であるのではないかと思ふ。煙突の歌の如きは「ただこと歌」に終りはしまいか。
〇中村憲吉作「初雪」「梅雨ぐもり」
 作者の歌多く微妙所に入り何人も追躡することの出來ぬ歌境を拓いてゐること一の大なる異彩である。予の作者の歌を讀んで尤づ感ずることは、作者の歌に眞實性の著しく現れてゐることである。作者は自分の心の如何なる微細の動きをも疎略に扱ひ得ないほどの眞實性があつて、夫れが歌を微妙所に入らせてゐるのである。歌の外形を整へるために自分の心の動きを裏切るといふやうなことは此の(291)作者には到底出來ないのである。それゆゑ往々現れたものにたどたどしく煮え切れぬものがあつても、何處かに作者の心の生きた所が出てゐるのである。
   酒つくるみ冬と思ふ心せはし雪ふる今朝の洗場のうた
   梅雨ぐもりふかく續けり山かひに昨日も今日もひとつ河音
   雨の音蛙が鳴くに箸とめぬ障子のそとに鳴くところ近し
   家ぬちへこゑの透りて鳴くかはづ襖みなあきて奥庭あをし
等就中傑作であつて、第三首「雨の音」の初句の如きは第二句に對してたどたどしい續き方であるが、矢張り生きてゐる所がある。只三月號十六首總體につき説を言へば、作者の今の歌境は作者としては今頃も少し向うへ蝉脱して進んで居らねばならぬ筈である。前掲四首の中其の一、三、四の如きを見れば、さういふことを言ふ必要がないとも思ふが、總體から言へば左樣な苦言を呈したくなるのである。夫れを作者は如何に思ふか。
〇山田邦子作「囘復」
 初め四首に厚い惱みが現れてゐる。椿の歌平凡なれど棄てられぬ柔かさが出てゐる。終り二首は素朴であるが粗雜に墮ちない。作者は重患の後にある。あまり急かないで一首々々に力をこめて少數の歌でいいから續けて行くといい。氏の歌總じて捉へ方も少し微細所に沁み入らん事を望んでゐたが、(292)今度の作前半の調子で猶ずんすん進めばよいと思ふ。
 
       アララギ五月號の歌合評 (大正九年六月「アララギ」第十三卷第六號)
 
〇結城哀草果作「この日ごろ」
 素朴で堅實な生活に面と向きあつて餘所見をしない所に作者の歌の力がある。用心堅固で危ない道を通らず、同じ處に足踏みしてゐても疲れることを知らない。古へで言へば篠原忘都兒のやうな一面があるかも知れない。ただごと歌に落ちぬ工夫肝要である。
   ゆれ動く雲の間より山腹の消殘る雪ははだらかに見ゆ
之れ等は矢張り作者にして作り得る歌である。
   草鞋つくる吾が邊にあそぶ幼兒の可愛くなりて頭を撫でる
斯ういふ歌は未だ足らない。病中短評失禮をする。
〇竹尾忠吉作「木蓮」
 寫生が深い處から出て、しつかりと現れてゐる。之は作者が長い間じりじりと築きあげた領分であつて、動かす事の出來ないものである。
(293)   をりをりに風吹きとほる眞日中の枝に重たき木蓮の花
眞日なかにうるほひ強き花びらの日陰色濃き木蓮の花
   隣り家と窓の間の庭せまし落ちつつたまる木蓮の花
 斯樣な歌を錐質する事の出來ぬ歌人がいくらもあるであらう。竹尾君は只一心自分の領分を押し進めて行けばいいのである。
 
       アララギ六月號の歌合評 (大正九年七月「アララギ」第十三卷第七號)
 
〇原阿佐緒作「山國の春」
 甘いところが脱《と》れて一途な心が現れてゆく作者の傾向を喜ぶ。
   家ごとに杏花咲くみちのくの春べをこもり病みて久しも
   夜をとほせる狂人の叫び止みたれば※[奚+隹]鳴くきこゆ吾は眠らず等何れも病人の心持が純直に現れてゐる。
   このひと夜雨降り通さば川べらの吾が桑畑は水つきぬべし
   わが家の畑をかぎる土堤にせまり川水の濁りうづまき流る
(294)のやうなものもいい。
   吾が病めば心つかひて叱り得ぬ母となりませりいや寂しかも
「母となりませり」といふやうな言ひ方もこなれて居らぬし、「いや寂しかも」も幾分作者の弊所を現してゐる。
   其處ここの雨漏りに桶をさしおける吾が家の内をあゆみて寂しも
 この「寂しも」も言ひ過ぎてゐる。斯ういふ詞は言ひ過ぎると甘くなる。その他作者には現し方のごたついたり言ひ過ぎたりするために、調子をこはしたり感じに溺れ過ぎたりする所がある。
   病む母を見むと遠く來し子の足〔病〜右△〕のわらぢのまめをいたはり嬉しむ
   痩せたりといひて吾が背を洗ひくるる子が手力を嬉しみ湯を浴む〔七字右△〕
等の△點のある處などが夫れである。
 
       アララギ七月號の歌合評 (大正九年八月「アララギ」第十三卷第八號〕
 
〇上田耕平作「大島より」
 大體に於て七月號の耕平の歌は、今までにない生氣を有つてゐて、而も今までの作者の特長を純粹(295)に推し進めてゐる。「大島より」一篇は作者近來の秀作である。
   空高く月のおもてをぬば玉の夜雲のちぎれ暫しうつろふ
 事柄がけばけばしくなくて心が微細の境に澄み人つてゐる。作者の歌は大ざつぱの所からは平凡と見て通りすぎてしまはれる種類の歌である。それだけ作者には深く入り得た境があるので、今どき急に人に理解されるか何うか分らない。「空高く」の「く」は何とかならぬか。「空高き」でもいけない。
   目見《まみ》あげて山の姿にむかふときうしほの音はわづらはしけれ
   外海の眺めはてなしとぼとぼに笹屋根ならぶ島の端かも
   迫り立つ岩肌は赭し見る見るに潮うねりてうち浸しけり
 是れ等皆鋭敏微細な中樞神經から希有に動き出た歌である。
   つゆ時の何か含めるさぴもちて時鳥啼く晝の林に
 悪くはないが二三句の現れ方が露《あら》はすぎてゐる。「晝の林」もここでは觀念的な現し方である。
   しがわざを見とがめたりと思ふなよ我れも青葉の香に醉ひて來し
   小鳥ふたつ逢ひつつ啼けり我がかつて知らぬさきはひをそこに見にけり この二首には前書きがある。兩者とも斯る題材に對して流石に氣品があり且つ作者としては新しき一歩に踏み入つたものであるが、前者には氣品のありすぎる所がある。(七月十九日夜)
 
(296) 大正十一年
 
       歌評 (大正十一年二月「アララギ」第十五卷第二號)
 
       〇
   秋風の吹く日になりて鳴《なく》蝉のひとつの聲はつづかざりけり  岡麓
 この歌について近頃土田耕平と話し合つたところ、耕平は初三句は法師蝉の意を現したのであらうといひ、小生もさうかと思つて見たが第四五句に續けて見ると何うもさうでない。依つて小生は初三句を秋に鳴き殘る普通の蝉と解する。一つの蝉が長く鳴きつづけられないあはれさが第四五句によく現れてゐる。初三句は今少し簡潔にいきたい。「秋風の吹く日になりて」が長いためか多少説明の味をもつ心地がする。
 
       〇
(297)   わが行かむ山峽のみち見ゆるなりこの夕立に濡れたるらしも  古泉千樫
 新鮮の感がある。「この」が何うかとも思ふが大體これでいいやうである。
       〇
   踏みのぼる岩ほのむれの目に馴れてあやしく明かき星月夜の空  島木赤彦
「岩ほ」は普通巖と書いて大きな岩の意に取れさうであるから人にも相談して見た。古來作例も少し調べて見たが必しも巨大な岩を意味するとも限らないと思うて使用しておいた。これだけ附記しておく。
       〇
   朝々の霧晴れわたり外山なる青葉の光つねに新らし  土田耕平
 新鮮で可なり深く落ちついてゐる。落ちついてゐるといふのは全體の調子から來てゐるやうだ。「朝々」「霧」「外山」「青葉」「晴れわたり」「新らし」といふやうに意味がいくつも入り過ぎてゐるかと思うて見たが、此の歌では矢張これでいいやうである。
       〇
   豐かなる肉《しし》に愼を湛へたりもはらに愛しも人をし見れば  兩角七美雄
 體全體が豊滿でその中に愼みの心が現れてゐるといふのだらうが、「豐かなる肉」といふと裸體に接(298)するやうな心地もする。上三句は猶冴えぬであらう。第五句妹とか君とか言はずに「人」といつたのはこの歌の生までない部分である。
       〇
   やはらぎし心に見れば冬の日にしづけき花や白き山茶花  藤澤古實
 新しくていい心が出て居る。「見れば」は力入り過ぎ「冬の日」は殆ど餘計であるといふ感がする。去れだけ未だごたついてゐる所がある。
       〇
   今朝見れば落葉ましたる背戸の庭いたくあかるく霜ふりにけり  竹尾忠吉
「今朝見れば」と「落葉ましたる」との關係が此の歌には不要である。作者の意が現し切れてゐない點があるであらう。大した作と思はれない。
       〇
   日の光衰ふる空に雲出でて今日も寂しく思ひ暮しつ  高田浪吉
 歌の意と調べと相合つて沈んだ心地がよく現れてゐる。「雲出でて」の「て」が此の場合今つと微細に入つて現れてゐるといい。そこはむづかしい點である。
(299)   しばらくは眠りたるらし雨垂の音のしげきは時雨ふりけむ  大久保日吐男
 病人らしい落ちつき心が四圍の事象を統一して渾然と現れてゐる。第二句と五句との切り方も一首の響きにゆとりが出て此の場合に自然である。
 
       歌評 (大正十一年三月「アララギ」第十五卷第三號)
 
       〇
   ものみなはとよみの中にあきらけし黄金色震る銀杏の立樹  平福百穂
 地を穿つて初めて泉を得たといふやうな新鮮感がある。第一二三句に現るる所猶明※[白+激の旁]であれば完璧を得たであらう。
       〇
   冬の日はくるるにはやし風吹けば棕梠の葉の音つめたかりけり  辻村直
 落ち著いた引き緊りがある。「風吹けば」殊に「ば」が騷がしくて全體の調子にそぐはない。
       〇
   日の射さぬ氷の下にかくれ入る鯉の動きの弱れるを見つ  横田貞雄
(300)「日の射さぬ」は不要であつた。小生最初拜見の時うつかりしたのは、此の句が冬寂びの心持に感じてゐたからであらう。「隱れ入る」人が水を動かすなどのことがあつたためであらうか。全體に靜寂な趣を得てゐるのは「鯉の動きの弱れる」を捉へた微細な所にある。
(又曰)畫伯評及び直話によつて考へれば鯉の氷の下に隱れ入るといふことも疑問である。さうするとこの歌全體が疑問になるのである。
       〇
   けながき病のうちにこの年はまた暮れゆきぬ吾が思ひ多し  寺澤亮
 この一首の場合「吾が思ひ多し」といふことを言はずして自ら内に籠つてゐる所あれば猶結構であつたらう。「病のうちに」の「うちに」も猶言ひ方があるであらう。「この年は又くれゆきぬ」も今少し素直に行き得るであらう。大體落ちついてゐる歌である。
       〇
   朝々の寢ざめ心にかかるなり動かぬ足のあぢきなさかも  今井邦子
 素直な歌ひ方で眞實性が現れてゐる。「あぢきなさ」を少し内面的に現したいといふ感がする。「かも」は未だ囲い。
 
(301)       歌評 (大正十一年四月「アララギ」第十五卷第四號)
 
       〇
  船近くとべる鴎の赤き足あらはにみえてちひさきものを  加納曉
 いい所を捉へてゐる。末三句が省略されてもいい。「飛べる」はぴつたり現在にした方よし。毎月勉強せられんを祈るる。
       〇
   短日のはや暮れにけり筆洗の濁れる水にうつる燈のかげ  小川千甕
 筆洗の濁り水に灯のうつりはじめた所を捉へて生きてゐる。冬だから利いてゐるのである。短日というたら「はや」は要るまい。
       〇
   いちじるき吹雪の中を訪ひ來たり母とし居れば心和むに  武藤善友
 素直ないい心が現れてゐる。「いちじるき」は猶考ふべし。
(302)   健やけきは我ひとりなり涙さへつひにながして人と物言ふ (我家の近状〕  五味卷作
 歌が涙を流しながらしつかりしてゐる所がいい。ここが作者の特徴である。此の持徴現代詩人に多く缺けてゐる。この歌はしがきあること止むを得ないであらう。
       〇
   ひるの間は日向に出だし夜は居間に鉢の金魚をいたはるみ冬  傳田青磁
 金魚をいたはる心が素直に大らかに現れてゐていい。馬鹿げてゐるやうな無造作な所もある。そこがいいのである。「み冬」は猶窮屈なり。
       〇
   わが庭にともしらに咲く茶の花の凍みつく寒さ遂に至りぬ  齋藤郁雨
 この歌推敲に推敲を重ねて成つたことを知つてゐる。末四五句大きな勢と力をもつてゐて、初三句がよく夫れに氣息を合せてゐる。これ迄に現し出した努力を喜ぶ。
       〇
   天ぎらし夕方空に降る雪のこまやかになりて風にみだるる  杉浦翠子
 いい所を捉へて現し得てゐる。「夕方空《ゆふがたぞら》」は新しく考へた詞であらうが、ここにはこれでいい。
 
(303)       歌評 (大正十一年七月「アララギ」第十五卷第七號)
 
       〇
   松の花風に吹かれて縁のへにほこりのごとくつもりたりけら  春山鶴子
「埃のごとく」寫生のいい所であつて、全體清爽の心持が透つてゐる。「つもらたりけり」少し現し過ぎたやうだ。
       〇
   花ざかり早くも過ぎて青莢となりし油菜風に搖れをり  中村徳之肋
 現し方は未だ惡い。矢張り油菜を先きに言ふべきであらう。捉へ所はいい。       〇
   この丘の大き家には大き杏かならずありて花やや過ぎぬ  高田類三
「大き家には大き杏かならずありて」の言ひ方にぶつきらぼうの旨《うま》さがあるが、さう深いものになつて居らぬ。「花やや過ぎぬ」が上句を生かしてゐる所、注意すべきであらう。全體から見て由々しきものではない。改行
(304)       〇
   高き枝を撓めてとらす茱萸の實の紅きは甥の掌にあまりたり  草部道彦
「取らす」は作者であつて、取るのは甥であることが終りまで行かぬと分らぬ。それへ「紅きは」といふ詞も挾まつて餘計歌をごたつかせた。單純に透るやうに苦心するといい歌になるであらう。甥といふ特定の關係もこの場合要らぬやうである。さうすると斯ういふ詞は單に子どもにして置いた方が感じが透つて來るであらう。
       〇
   足もとの山の峽に雲疊まり鶯の聲ひびきてきこゆ  森青村
 いい所のやうであるが、はつきりと來ない。この歌では作者と雲と鶯の關係を今つとはつきりさせる必要がある。「足もと」も惡い。「響きてきこゆ」も雲に響くのか何うか明瞭でない。今つとすつきり現すやうに願ふ。
       〇
   妹のねむれる顔をまもりつつ晝間叱りしことを悔い居り  吉江春子
 純粹な感じで透つでゐるのがいい。第五句外へはつきりと現れすぎてゐる。その度が進むと古人のいはゆる直言歌《ただごとうた》に傾く。
(305)       〇
   朝風の頬に吹き來て心地よし我背を送り門に出づれば  山本初枝子
 この歌も純直に現れてゐていい。朝風、頬、我が背、門など材料が多過ぎ、今つと内に籠るものが欲しいといふやうな問題もあらうが、この歌は矢張これだけでいいやうである。
       〇
   風埃一とき絶えし街通りひたすらにして日照りあかるき  厚葉昶
 やや寂寥感に入つてゐる所がゐる。上句が切りつまつてゐるか、下句が延びてゐるか、前後に多少しつくりせぬ所あるは主もに聲調の上から來る感受の點であらう。「風埃」は「埃風」の方よし。
       〇
   登り行く我があとさきに人は見えずさやに聞ゆる谷川の音  米田桂治
「さやに聞ゆる谷川の音」を中心とする時第一二三句の現れが本當にぴたりと夫れに集りきらない。「あと先きに人は見えず」を中心にすると、谷川の音に耳をそばだてる心持に本當にぴたりと合はないといふ感がある。この邊微細所であつて面白い問題になり得るであらう。大體は勿論いい歌である。
 
(306) 大正十二年
 
       歌評 (大正十二年三月「アララギ」第十六卷第三號)
 
       〇
   木々の葉は散りいそぎつつ鳥すらもおのが羽風にそぞろぎぬべし  土田耕平
「そぞろぎぬべし」の生きるためには、「散りいそぎつつ」では、未だ足りない。斯樣な大事な詞が生きぬといふこと、他の詞の生きぬよりも恐れていい。作者今多少の變轉期にある。他日を待つて言及する。
       〇
   棕櫚の葉に沁みつくほどの夕日影あたらの木立みな落葉せり  高田浪吉
 いい歌であるが、「沁沖みつくほどの」が生きるためには、「あたりの木立」ぐらゐでなく、も少し、(307)すつきりと利いた句にした方がいい。大事な句の生きる生きぬといふこと、土田君の歌の處で言つたと同樣である。
       〇
   かんぼしの大根かかる木の枝のおもたくゆるる山おろしの風  大久保日吐男
「重たくゆるる」が中心になつてよく生きてゐる。「ゆるる」は前後の關係から、ここで一寸切れる心持があるので、第五句にぽつりと置き放した名詞との關係が活きる。この邊まで大久保君の歌が入つて來たのは喜ばしい。
       〇
   入りつ日にまかげをすれば磯遠くくづるる波のしぶきあがれり  小原節三
 第三句以下よく勢を成し得てゐるために、「入りつ日に目《ま》かげをすれば」が所作事に墮ちずに活きるいい歌である。
       〇
   朽ちたまる落葉の中ゆあらはるる樫の實いくつ春まつらむか  邦富亭知
 いい感じが先立つ。現し方も素直だ。「いくつ」も或る感じが伴つてゐて態ざとらしくない。
       〇
(308)   いもとせの契約《ちぎり》をたのみつつましく心にまてば冬は來むかふ  田中忠正
 現し方も心も順直でいい。
 
(309)       歌評 (大正十三年五月「アララギ」第十七卷第五號)
 
       〇
   江《がう》の川の川浪の渦はゆき流るつきせぬ歎きに父母はまさむ  平福百穂
 哀悼連作の一首であつて、前書きと歌としつくりいつてゐる。前書きは斯ういふ時に必要である。この歌初句と結句が底深い處で相通じてゐるのがいいのであつて、甘い作者の到り得る域でない。聲調から言うても、「江《がう》の川の川浪の渦は行き流る」と切つた由々しい勢を下句八八音で受けてゐるところ、自然にいつてゐて力がある。
       〇
   ゆるやかに山皺ひける國なれや家居まばらに冬枯のさま  土田耕平
(310)「國なれや」と言うたのは手の高い所であらう。「ゆるやかに」があるために下句の景情が山皺としつくり行つてゐるところも、手の高いのである。いい歌と思ふ。
       〇
   人ごゑも絶えはてにけり家燒くる炎のなかに日は沈みつつ  高田浪吉
 この歌をよむと、焔の音が聞える心地がすると百穂畫伯が言うた。この詞で盡きてゐる。作者の震災歌皆傑れてゐるが、その中でもこの歌は殊にいいと思ふ。(以上三首評四月七日高木にて書く)
 
       歌評 (大正十三年六月「アララギ」第十七卷第六號)
 
       〇
   世田ケ谷の埴原をひろみ諸駒《もろごま》の足どりたかくかける春かも  藤沢古實
「廣み」と第三四五句が快適に氣息を合せてゐる。作者の特徴がよく現れてゐる歌である。五月號の古實の歌、概ね皆傑れてゐる。
       〇
   鷄頭の花は軒端に高くして夕べの日ざししばしとどくも  竹尾忠吉
(311) 高いといふのは葉鷄頭の類であらう。高一字によつて「夕べの日ざし」も「しばし」も「とどくも」もよく生きて歌を由々しくしてゐる。傑れた歌と思ふ。五月號の作者の歌はみないい。
       〇
   命はもかなしきかなや青海の夕日のなかにひとりありつつ  遠見一郎
 海上に立つてゐる潜ましい心持が現れてゐる。「夕日のなか」の如き句今少し熟すると猶いい。四月號五月號のこの作者の歌が大へんいいものがあつて喜ばしい。この歌よりも秀れたのが外にある。特殊性があつて一人よがりにならぬところがいいのである。
       〇
   山あひのみ空澄みゆく夕つかた谷川の音高まりにけり  加納みよ
「山あひの」があるために谷川の音が突然でない。歌柄が素直で一通りいい。第三句「夕つかた」の句法多少上下句の血の通ひを鈍らせてゐる。作者の感動に幾分の鈍りがありはせなんだか。
 
       歌評 (大正十三年十二月「アララギ」第十七卷第十二號)
 
       〇
(312)   うすくらき金堂のうち音のして佛具繕ふ人居たりけり  土屋文明
 靜肅な感じが地味に現れておのづから高貴な響きがある。その邊の味ひは作歌者にして分つてゐない人が多いやうでゐる。一聯の歌皆新鮮であるのは、寫生に直面して生れてゐるからである。かういふ感じは、何うしても寫生からでなくては、生れて來ない。
       〇
   寺庭の古木《ふるき》の銀杏芽をふきて夕べあつまる鳥さわがしき  岡麓
「さわがしき」と言うて靜かに寂しい趣がある。場所が寺庭であり、木が古木であり、それに若芽がふいてゐるので、靜かさに新しい響きがある。
       〇
   とんばうの羽もこの頃よわりたり日向の縁に來てとまりつつ  土田耕平
「この頃よわりたり」が中心であつて、それに全體が純一に集まつてゐる。第二句「この頃」と第五句「つつ」は普通なるに似て、安易に出來ぬ現し方である。作者十一月號の歌概ね佳作である。
       〇
   庭の木に啄木鳥《きつつき》あさる山の家姉の明けくれをしみじみと思ふ  今井邦子
 一二三句あつて、「しみじみ」が浮き出さない。いい歌である。三句四句の續き方には未だ練り足ら(313)ない所がある。
 
(314) 大正十四年
 
       アララギ二月號歌合評 (大正十四年四月「アララギ」第十八卷第四號)
 
 三月號で土田加納二君が二月號の歌を合評した。それには樣々の意見あらんと思ふゆゑ、二君合評の歌から四首を選んで今月號に更に他の諸君の評を掲げることにした。
       〇
   冬至過ぎてのびし日脚にもあらざらむ疊の上になじむのどかさ  土屋文明
「のぴし日脚にもあらざらむ」實にいい。これありて一首が微妙に生きるのであるが、表現至簡なるゆゑ無造作に見えて慌しく通り過ぎると妙所が分らない。土屋君の歌が微細所で澁味をもつのは斯る所である。加納君の再味を冀ふ。或る人は第五句「なじむ」が日光でないやうにも取れはせぬかと言うたが、小生は上句からの續きで、日光がなじむのだと取り得るのであつて、一首が心地よきまでよ(315)く生きてゐると思ふ。
       〇
   時おきて屋根にたばしる霰の音北國空は晴れてさむけし  結城哀草果
 加納君は三四句つづき安易といふが、ここは矢張り第三句で斯樣に切るべき所であらう。この歌第三句で切れて、前後に分れつつ相即く所宜しいのである。相當に感じの出てゐる歌と思ふ。「北國空」は結城君の造語ならん。第一句「時をおきて」とする方自然なり。二月號の哀草果君にはこの他に「この町にみ雪降り來る時近し藁帽子つけて人ら行き居り」「樣ざまにみぞれ雨ふる朝の街を傘かたむけてゆく人の數」のいい歌があつて、作者近來の出色作なりと小生は思ひ居たり。土田加納二君がそれらの歌を擧げざりしこと殘念なり。
       〇
   夕顔はつぼみながらに枯れすぼみこのごろ月の白くなりにけり  遠見一郎
 土田君はこれを意味不通と言うてゐるが、何處にも意味不通の所がない。秋の末になると「夕顔はつぼみながらに枯れすぼむ」こと普通であつて、これを何か特殊の場合と見るものあらば、それは常識が狹いのである。それに發して「このごろ」といふのは勿論秋の末であつて、月の白きを感ずるのは秋冷漸く至るの感である。その次ぎに土田のあげた「秋の日の光さやけき家ぬちの人はいくらも慰(316)まぬかも」でも意味不通の所は少しもなく皆相當に生きてゐる歌である。意味不明とは、以上の如き歌に對して理解がない所から出た詞であらう。も少し情を博く培ふべきである。「ともすれば獨り合點になりさうな心配がある」とは評者の理解に對して言ふべき詞であらう。「胸の上にかひなかさねて天つ日を目に照らしめず物を思へり」は三四句の間にやや晦澁の點あれど、大體は現れてもゐるし生きてもゐる。加納は作者の歌に對して缺陷の魅惑など言うてゐるが、そんな處で作者の歌を見てゐるのは見方に容易な所があるのである。そこを考へ給へ。「年月が淺いのだから無理はない」などの言は批評言に非ず。愼み給へ。
       〇
   裏山に遠くかすけき松風の音を聞きつつ獨りねにけり  武藤善友
 この歌は矢張いい。常套に似てゐるが、本當の聲であるから生きてゐる。何度讀んでも遊離と空虚を感ぜしめない所が本當の者なる所以であらう。
 
       アララギ四月號歌合評 (大正十四年五月「アララギ」第十八卷第五號)
 
(317)   かへりこし家にあかつきのちやぶ臺に火※[陷の旁+炎]《ほのほ》香する澤庵を食む  齋藤茂吉
「火※[陷の旁+炎]《ほのほ》の香《か》する澤庵を食《は》む」が痛ましきまでに生きてゐる。「ほのほの香する」の所、も少し語調が透ると猶いいといふ氣がする。上句「家に」「ちやぶ臺に」と「に」の弖仁波の重なり少し氣になる。現實の悲痛相に面してこれまでに多力に捉へ得るのは茂吉君の素質によるであらう。この歌のはしがき「この日ごろ」は、アララギ前號よりのつづきゆゑ、讀者に對して長文句を省略したのである。
       〇
   幼どち吾子《あこ》にまじりて愼たる子はあそび疲れて母をわすれたる 中村憲吉
 いとこ同志の子どもが組みをなして寢てゐるのであつて、實にいい所を捉へてゐる。「組ぐみ」の詞も新しく、「寢し」と言ひ放してあるあたり手の高い所がある。第一二句も全體に對して利いてゐる。「いとこどち」「吾子《あこ》ら」の間のつづけ方は少し窮屈なれど、斯ういふものは、そこがむづかしいやうだ。この歌の前のもよく、友を悲しむのにもいいものがある。
 〔編者曰〕此ノ歌評ハ、同作者ノ歌「幼きに隔てぞなけれ從姉妹どち吾子《あこ》らを見れば組ぐみに寢し」ヲ評セシモノナラン。
       〇
   盆の上にとりし松露の太《ふと》きもの小さきものをかぞへつるかも  平福百穂
 松露愛賞の心が實によく單純化して調と共に至り得てゐる。「盆」「太きもの小さきもの」皆徒らで(318)ない。非常にいい。
       〇
   枯山にすがれてのこるさるまめの赤實をとりてわが食みにけら  五味三枝
 寂しさにわざとらしさがない。さるまめの赤實などを愛してゐる心持もいい。現し方、氣どらなくて素直である。
 
       アララギ五月毫歌合評 (大正十四年六月「アララギ」第十八卷第六號)
 
       〇
   みどり兒は立ちてあゆめりゑみはやす母のわかければわれはかなしき  岡麓
 四五句言ひ知れずいい。立ち歩む孫よりも、その母の年若きを哀れむ親心が眞實に自然に出てゐる。斯ういふのになると岡さんでなければ出來ないといふ感がする。素直で滿ちてゐる所が近づき難いのである。はしがきも必要だけに書かれてゐる。
       〇
   こまやかに芽ぶくひく木にからまれり莢がら多き去年の蔓草  小原節三
(319) 寫生が實にいい所へ入つてゐる。現れた所は枯蔓のまきついた低木の芽ぶきであるが、そこが何ともいへずいい。新鮮で眞實で素朴で自然である。さういふ心持が純一化成して歌の姿になつたのである。歌の最終の目的は、恐らくさういふ所にあるであらう。どう見ても夾雜するものがない。會心の作である。
       〇
   春すでになかばをすぎて隣家のネーブルはみなもがれたるかも  中村美穗
 ネーブルが※[手偏+劣]がれたと言うて、春過ぎんとする落莫の心が現れてゐる。表よりも真に籠り、しかも表現が直接である。寫生のいい所である。寫生なるかな。寫生なるかな。
       〇
   病み床を少しずらせば樋の上に積れる雪の深々と見ゆ  倉田百三
 子現にも斯んな場合の歌あれど、これはこれで作者の眞實境から生れ出てゐるゆゑ充分獨立の命があるのである。「少しずらせば」「樋の上に」「深々と見ゆ」皆眞實、新鮮で一首に病者の心が生き動いてゐる。寫生のいい所に入つたものであらう。
 
(321)  選歌評及び選歌雜感
 
(323) 明治三十五年
 
     「革新」第一號選歌評 (明治三十五年一月「革新」第一號)
百首にあまる内より漸くこれだけ(編者曰 十三首)選り出した。戀だの乙女だのと、無闇に棒ばかり振ら廻さずに、ちと、古歌の研究でも眞面目にして貰ひたい。
 
(324) 明治三十六年
 
     つばな會第一囘課題「男」批評・出詠・選者各七人 (明治三十六年一月「比牟呂」第一號)
   ここだくの花笠少女ここだくの花笠男子花吹雪すも  柳の戸
同じ文字を多く用ひて句法撓ます、厭味もなし。よき歌ならん。
   たまちはふ神のにへにとさつ男らは毛野の大野に狩りたたすはや  芋郊
「さつ男」は宮人などに改めたし。然らざれば、「神のにへ」も「はや」の感嘆詞も餘り利かず。
   大わたの波くらけども舟にして網打ちぞするうべし水馴男  芋郊
今おもへば「くらけども」が少し理窟に落ちて居る樣なり。
   男泣きに泣きてあらんもわりなしやさらば行け君月入らぬまに
竹舟これは女が男にむかひての歌なるべけれど、それには上三句がふさはしからず。むげに意氣地なき鼻下長き男か。それにしても女の、男泣きになど憚らぬ言分かな。「月入らぬ間に」も突飛なり。其他(325)も少しあらばよき歌にならうと思はるるものは、
   吾せこを我待ちかねつ朝げ夕げ家のまとゐを子等もさびしむ  唖水
「家のまとゐ」を何とかせば完全ならん。(一月十四日)
 
     つばな會二囘課題「相撲」出詠・選者各七人 (明治三十六年五月「比牟呂」第二號)
   人皆の見らん都の大相撲見すてや我は戀ひつつ居らむ  山水
集中のよろしきものならん。
   八束穗の垂穗の秋をよろこぴて村人集ひすまひするかも  竹舟
「よろこぴて」とは幼し。よき歌にあらず。
   胸髭のか黒胸ひげむら生ひの力士が胸※[金+且]いや廣に見ゆ  修文郎
「いや廣に見ゆ」が気に入らず。
   森の上に照れる月夜を里人の相撲とらまくここだ集へり  同
森と云ひたるからは、相撲取る場所も明瞭にしたし。
   にらみあひねらふ相撲の暫を峯より襲ふ初嵐かも  山水
「にらみあひ」とは露骨なる哉。初嵐もうれしからず。
(326)總體に亙り、第一囘よりもよき歌少き樣感ぜらるるは余一人のみにあらざらんか。
 
     短歌會の記  (明治三十六年六月「比牟呂」第三號)
四月二十七日。釜谿、二洲と共に九仞の家に泊り合せて、例の歌談に夜を更した時、釜谿の發議で五月二十六日の土曜日に矢ケ崎こくやで、短歌會を開かうと云ふ事になつた。兼題はちと變であるが、「平氏」若くは「兵士」五首と云ふので、釜谿は山水に、二洲は菊堂に、僕はほのや、唖水、修文郎、柳の戸、竹舟、千洲等に、各通知をする筈にして置いて、偖五月十四日、豫めこくやに出かけて會場の都合を聞合せた處が、何か客事があるかして謝絶されてしまつた。そこで急に田中君達から茅野の綿屋を周旋して貰ふ事にして、十數通の通知を諸同人に出して置いた。
彌々二十六日になつた處が、二洲は故障が出來て急に出られぬ事になつたし、僕は豐平の青年會で何か話をすると云ふので、少し遲れねばならぬ。仕方なしに木外から先發して、會場の用意をして貰ふ事に頼んで、僕は青年會へ出かけた處が、會長の外誰も未だ集まつて居らぬ。こんな時一時間も待たされるは實につらいもので、仕方なしに話の方はやめにして、午後三時頃茅野へ出かけた。早速綿屋へ行つて聞いて見た處が、ここも已に謝絶されてあつて、會場は又々横内の鶴屋に移つて居る。忌々しい。こんな馬鹿な話があるものか。
(327)茅野橋の處で、圖らず修文郎に逢つて共に鶴屋に出掛けて、色々話して居る中に、木外も芋郊も来たので、差し當り「海棠」五句をやる事にした。
    かいだうに韓人謠ふ一座哉   木外
    海棠や媚びたる茶屋の晝の酒  木外
    かいだうや藥師の庭の干藥   木外
    かいだうや髪梳る朝の窓    修文
    海だうや寫生の筆に葉を愛す  二水
    海棠や浮名も立ちて女俳優   芋郊
    海だうや東家の郎を戀しけり  二水
    かいだうや池の蛙の殖えて雨  芋郊
    閑庭やかいだう咲いて雨斜   修文
とかうして居る内に、山水が落合村から遙々やつて來た。他の人々はどうしたのかしら。何うしても餘り遲くなるから、歌の方へ取掛る事にして海棠三首を課した。
作る。考へる。夕食が出る。暗くなる。洋燈が點く。心待にして層た他の人々は遂見えぬので、もう選ぶ事にした。
(328)  〔編者曰〕此間ニアリシ「海棠」「平氏」「兵士」ノ短歌五首ハ『歌集編』ニ收録ス。修文郎・山水・芋郊・木外氏ノ短歌ハ省ク。
 
次會は教育會の前日上諏訪に開かうと云ふ事に決めて午後八時牛閑會。木外、芋郊は玉川に、修文郎、山水と余とは上諏訪に向つて、各歸路に就いた。是が諸同人短歌會の第一囘でゐる。(五月二十八日)
 
     つばな會第四囘課題「諏訪湖」或は「諏訪湖につきたる名所」出詠者八人選者九人 (明治三十六年六月「此牟呂」第三號)
如何にもよきもの無きには呆れたり。と第一に小言が云ひ度くなる也。
   山のはに月はのぼれど諏訪の湖や夜釣りせす背の舟も見えなく  竹舟何處がよきか薩張り分らず。諏訪湖らしき感情もうつらず。將又單に湖水としても平凡なりと思ふ。
   諏訪のうみ岸べの田井に湧きいでの玉なすみ湯を海に落すも  修文郎何故「湧きいでの」を「湧きいづる」とせざりしか。「うみ」の二重になりしも面白からざれど猶とりつ。
   照る月を雲なかくしそ諏訪の湖に舟浮べんと契りし宵ぞ  山水
平凡極まれり。
   疊張る八つ峯立科青垣の山のしづくか湖すみにすむ  釜溪
(329)想は大いに賛成なれど、「山の雫」が氣に入らず。「山松の雫」とやらにせざれば聞えぬ事と思ふ。
   疊はる端山茂山影浸ててかにかく魚は山に遊べり  汀川
余は全然不賛成なり。蕪村の「湖に不二を戻すや五月雨」と一對の惡作。
   山眉の遠のうつしか眞帆小船ゆらぎも見えず春靜かなり  釜溪
意通ぜぬやうに思ふ。
   其むかしわだつみ來より山づみとつくりましけん諏訪のうみかも  汀川
大によろしいと思ふ。諏訪湖の眞趣がよく浮んで居るぢやないか。
   鹽尻の嶺ふりかへすはの湖雨はれつつの國原を見る  釜溪
「ふりかへり」を「ふりかへ」と云ふか如何。「雨晴れつつの國原」も窮屈と思ふ。
   月の夕渚歩めばささやきの雌波雄波が岸うち洗ふ  汀川
諏訪湖の歌だか何だか分らぬ。
   天きらふ雨はも走り湖渡し嚴かし虹橋國ごめに立つ   釜溪
前の汀川君のと同樣のそしり無きか。
   うば玉の大空焦がし野火の火の和田根ゆ行きて湖てらしけり  同
想雄大にていとめでたけれど、「和田ねゆ行きて」は不明瞭なり。和田嶺から河處へ行くのかと疑は(330)るべし。
   久竪の天の中川末速く流るる口ぞ妹すむほとり  汀川
何故に「末遠く」と云ひしか、「流るる口」とは何處を云ひしか。何れも不要且不明瞭と思ふ。
   新霞棚引きわたる諏訪のうみにポートに乘りて遊ぶよけんか  溪雲
新霞とは耳新し。
次囘からは精撰したよいのが欲しいね。
 
     つばな會第五囘課題「乞食」 (明治三十六年八月「此牟呂」第四號)
   小波の國つみ神のうらさびてかたゐに逢へり近江國原  修文郎
これは何か故事あらんか知れず。誰でも教へて呉れたまへ。
 
     つばな會第六囘課題「夏川」 (明治三十六年九月「比牟呂」第五號)
   大井川水涸れ涸れて駿河の海伊豆山ごめに雲のみね立つ  山百合
柳の戸、千洲、竹舟、木外天に、其他唖水選びたれど余は餘りよからぬ歌と思ふ。
   天つ斧巖を穿ち木曾川の鮎すむ淵を美濃に流せり  同
(331)前の大井川より善いと思つて居る。
   佐保比賣が五百|※[竹/隻]《わく》手ぐり八尋布織りはへ去にし夏川はやも  柳の戸
夏にも秋にもなる歌である。從つて夏の情の現れ方が乏しい。
   夏旅は夕よろしも桂川鵜かひ篝火遠近にして  唖水
「遠近にして」の「にして」が氣に入らず。
   長良川夕月かけて溯る鵜舟のかがり亂れたるかも  柳の戸
月の出て居る時は鵜舟は出さぬものの由聞けり。
   五月雨の降りてやまねば音《ね》無川ねをごろごろに石流し行く  千洲
音無《おとなし》川を「ネナシ川」とは云ひ難し。「ねをごろごろ」も窮屈なり。失敗の作と云ふべし。
   檜木笠月にかざして棧の木曾路の夏を船にて下る  釜溪
四五句やゝ碎けて居ると思ふ。夏といふ字の入れ方故ざとらし。
   蘆間吹く風をよろしみ里の子が夏川水に馬洗はすも  山水
「よろしみ」は「すずしみ」としては如何。「夏川水」と云ふよりも、その夏川の場所を瀬とか、淵とか、川邊とか、限定した方がよい。
   夏川の淺瀬の淀に里少女いさなすくふと赤裳からげつ  木外
(332)斯樣に素直に筋立つこと必要と思ふ。(九月十日誌す)
 
     短歌會の記 (明治三十六年九月「比牟呂」第五號)
九月三日。第二囘短歌會を禰牟庵に開く。會するもの釜溪、芋郊、蘆庵、木外、山百合の五人。
茶と菓子。即題「桑」。選し終つて木外酒を主張したれども不成立。夜散會。
   紫のみづく桑の實ややにかも科野女の子の口びるに染む  釜溪
是は余も選んだが、今少し少女の桑の實を食つて居る動作を云はなければ、折角の「口びるに染む」の感じが確とせぬ樣である。
   美し畑丈こす桑のさゆらぎにくはし吾妹子桑摘みこもる  芋郊
是はよい歌である。
   茂りあふ桑の葉がくりくはし女のくはし歌をしひねもす聞くも  蘆庵
感じのよい歌である。
   足曳の釜無山は眞蠶《まこ》飼《か》はす桑の木神代ゆゆゆし茂れる  釜溪
釜溪調と云ふべし。
   菅笠の白妙小笠歌に出でて桑つむ少女我はほれたり  芋郊
(333)「白妙小笠歌に出でて」と續けたるは、少し窮屈に思はる。
無點のに中々よいのがある。
   蠶飼ひする我ならなけど美少女の桑つむ歌よ歌ひて見まほし  芋郊
美少女は少女子などにした方穩かならん。
   信濃路は蠶飼いそしみ千町田の荒小田かへし桑植ゑにけり  蘆庵
句法緊密、措辭圓熟いとうれし。
   生ひ立たす毛蠶をよろしみ桑つむと畠行く妹の笑まはしくする  木外
   下野の野畠山畠桑かれて人飢うるてふ聞けばかなしも  同
よき歌なり。
凡て今度のには良き作幾多ありて喜ばしかりき。(九月六日記す)
 
     つばな會第七囘課題「夏の草花」出詠七人選者八人。千洲、竹舟の選歌未著  (明治三十六年十二月「比牟呂」第六號)
前囘よりもよいのがあつた。
   うす絹の白きかづきて山百合のやさしき見れば妹し忍ばゆ  山水
(334)「やさしき見れば」を「笑めらく見れば」となほしてとる。非か。
   青野原草花しげる夏野原入る日をしらに兒等の草かる  山水
「入る日を知らに」は「入日凉しみ」では如何。
   夏と云へば百合し思ほゆ百合といへばうつむき笑まん妹しおもほゆ  竹舟
「笑まん」は「ゑめる」の方よろしと思ふ。
 
     短歌會の記(第三囘) (明治三十六年十二月「比牟呂」第六號)十一月二十五日に山水がふいと禰牟庵を驚かしたので、其の夜は同人七人で炬燵を圍んで短歌會を開いた。十二時頃あまり寂しくなつたと云ふので、酒三本を取りよせて、其の儘炬燵のまはりへ雑魚寢と云ふのをやつた。
 〔編者曰〕コノ間ニアリシ「炬燵の歌」五首ハ『歌集編』ニ收録ス。山水・木外・蘆庵・千洲氏ノ短歌ハ省ク。
他の二人は歌は御免だと云ふので菓子を食つて居た。
 
(335) 明治三十七年
 
     第四短歌會の記 (明治三十七年二月「比牟呂」第七號)
一月十日布半に開く。會するもの、唖水、竹舟、千洲、柳の戸、篶※[竹/公]、木外、蘆庵、山百合の八人、「寒」三首を課し盛に酒を呼び夜十一時散會。
   鐵《くろがね》の上枝下枝に久堅の天なる星をつくなす寒梅  柳の戸「鐵」が適切ならずと山百合云ふ。夜の景色だからよからうと竹舟云ふ。イヤ一首の上何處にも夜の状は表れて居らぬ。星をつけると云つた處が必ず夜の事にはなるまいと山百合固執す。賛否紛々。全體の趣向を寒梅の畫として、第四句「つくなす」を「畫《か》くなす」とせば不都合なからんと云ふ提議ありて何れも賛成。
   古寺の背戸の山畠梅さきて曉寒く僧經を誦《ず》す  木外
異議なし。
(336)   寒梅の窓を開くや風冴えて暖爐の煙かたなぴきすも  柳の戸
寒梅は何處にあるのだ。室にあるのさ。インヤ庭だらう。之では庭とも室とも付かない。第一句二句の非難皆一致。
   わたつみの沖の島わを寒けくと玉藻刈るらん蜑の少女子  木外
皆よき歌だらうと云ふ。あとで考ふるにも少し寒い材料を使用して、第三句を働かせたかつた樣なり。
   寒き夜の悲し琵琶の音しぼり音に白玉椿ふるゆるが如  竹舟
第三句と五句とが緊密にてよしと云ふ事に一致。
   雪ちらふ離れ小島の松が根に夕風さむく背子の舟まつ  山百合
竹舟は燕理に離島などとしたるが面白からずと主張した。山百合は不都合はあるまいと主張す。島としたのが常識に外づれては居らぬ。實際そんな想像が出來ると辯護す。
   山北の朝風さむみ中庭の椿の花は凍ててこぼるも  竹舟
中庭が利かぬ。寧ろ縁先などの方適切にて感情よろし。と云ふ説に賛成者多し。「椿の花は」の「は」はイヤ味なりと木外云ふ。柳の戸、蘆庵等賛成。インヤ善からう、嫌味にはならぬと云ふ者あり。
   此の朝寒くしあれや吾妹子がむかふ鏡は息ぐもりせり  柳の戸
夏でも息ぐもりするぢやないかと山百合問ふ。そんな事はない。無理に吹きかければ格別ぢやがと柳(337)の戸辨じて賛成多し。
   燭寒き高樓更けて金瓶の白玉椿氷りもやせん  竹舟
「高樓更けて」とは聞えない、無意味なりと山百合駁す。不都合なし、夜が更けた事に無論なると蘆庵主張す。賛否紛々。山百合飽迄譲らず。「樓の夜更けて」では何うだと、柳の戸仲裁して山百合賛成す。
   須波の海氷い照らす夕月に橇曳く歌の寒く殘れり  山百合
夕月は寒さにふさはしからず。寧ろ暖い情のものぢやと木外駁す。そんな事はない。夕月を皆暖いものにするとは甚しい盲斷だと山百合防戰す。雙方服せず。僕は橇歌が氷上に殘つてゐる積りだが左樣に取れるかと山百合問ふ。善いだらうと皆云へど山百合猶危ぶむ。
   朝立の友送り出づる草の戸の軒に傾く月寒みかも  蘆庵
異議なし。
   東の海の御神の荒振《あらぶり》に浦鹽斯徳風寒く渡る  時事を詠ず  木外
「風寒く渡る」では柔過ぎると云ふ説多し。
   信濃路の夕を寒み山越ゆるみすす枯葉にいささ雪する  唖水
第二句は「夕寒みと」の方動作多く表れて善からうとの説に一致。
(338)   峠路を夕こえくれば雪ちらふ赤松山の骨寒く立つ  蘆庵
善い歌ぢやが「夕」を「朝」にしては如何と山百合云ふ。柳の戸、竹舟、木外皆夕でよしと主張す。然らば「峠路」は「信濃路」とか「丹波路」とか淋しさうな固有名詞にしては如何と又云ふ。賛成者少しあり。
   後朝の別惜むと門に倚りて梅の梢に寒き月見る  蘆庵
皆よからうと云ふ。
   冴え冴えに寒き刃の利心を大和男子の見せまくは今  時事を詠ず  唖水
五句ありて生きたりと皆云ふ。
   燭提げて渡殿かよふ梅壺の更衣の局しはぶき寒し  唖水
異論なし。
   博多風朝の雪散るはなれ磯《そ》に見渡し寒き松のむらだち  山百合異論なし。作者第四句の贅ならんを氣にす。
   歌會によき歌よむとよき人の玉※[木+安]による銀燭寒し  篶※[竹/公]
「よき人の」は「よき人等」とすべしと云ふに皆賛成。只よき人のみでは個人的となりて歌會には適切ならずとなり。
(339)   寒梅の室の戸ささだ萎みたるあしたの花を惜しけく我見る  同
第一、第二句説明的なりと山百合云ふに竹舟、柳の戸、唖水、木外皆不都合なしと云ふ。
   夕月の照れる田の面に男の子の氷辷ると寒けくもなし  同
「氷辷ると」の「と」がよく働いてると皆云ふ。互撰のみなるより今囘の如く議論をして見る方大に益ありと誰も云へり。千洲腹の具合をわるくして寢て仕舞ひし事殘念なりき。
 
     つばな會第九囘課題「冬田」出詠選者各九人 (明治三十七年六月「比牟呂」第八號)
   堯の雨舜の風吹きし八束穂の小田も刈られて冬さびにけり  竹舟
五句は蛇足なり。一二三句心得難し。「吹きし」は風のみにかかる積りだらうが、この句法にては雨にもかかつて居る。
   日の本の國つ寶と諏訪人は冬田圍ひて寒天晒す  竹舟
一二句詩美に重きを成さず。米でも材木でも國つ寶也。
   寒の雨雪となるべくならずして冬田の上に霧立ち渡る  柳の戸
新しく面白き所を觀察せり。
   わたつみの波荒き日は群鴎松原こえて冬田に遊ぶ  唖水
(340)「荒き日は」のはが理めきて惜むべし。
   うつし世の炭燒く人がやく烟の裾野なびかひ冬田這ひ行く  竹舟
第一句は何の爲めにや。啻に贅語なるのみならず、趣味を殺ぐ事甚し。全體に亙りて失敗の作也。
   足曳の山田の畦の霜日和蒲公英の花歸り咲すも  柳の戸
五句は「咲きせり」とあり度し。感嘆詞を用ひぬ方ここにはアツサリして適當ならん。
   いづる日の入る別き不知八十子ども小田の氷をよくすべりけり  釜溪蘆庵とる。但し五句何とか有り度しとの事。誠にさるべし。
   冬の田の薄く氷れるうたかたも危く行きて妹見つる鴨  釜溪
何の意味にや。予には今以て解し難し。
   雪ちれば門田にあさる※[奚+隹]の歌もなくして夕を戻る  唖水
四五句宜しと思はず。
   むかつ丘に炭燒く烟小山田の水田にさ這ふあさあけの風  山百合
第五句は何とかせねばならぬ。
   宮川の川添小田の畦柳かつちる朝を寒天晒す人  同
これは少しよい歌の積りぢや。
(341)   小田に注ぐ冬川水のかれがれに落葉枯葉の土に凍てつく  蘆庵
「下があやしい」とさうか知らん。
   山庵の障子開くや湖添ひの冬田の上に千鳥とぶ所見  柿村舍所見の内  同
よき歌ならん。
   八千曲の川をはさみて冬さぶや千田の氷に月おし照れり  雉夫
面白し。
集中「鳰」字は方俗「ニョー」と云ふを宛てたるなら。藁塚の意なり。
 
     津波奈會第十囘課題「貧しき友に送る歌」出詠七人・選者六人  (明治三十七年九月「比牟呂」第九號)
   倉はよし建てずありとも天地にめぐし妻子をうゑしむべしや  義守
第一二句何とかありたく思ふ。
   歌ひいづる君が調べの神に入る時空米櫃をほとぎと撃たせり  蘆庵
原歌第五句撃ちけんとありしが、撃たせりと斷定する方宜しかちん。よき歌なり。三點のよりこの方がまさつて居ると思ふ。
(342)   益良雄が言擧げすらく學ぶべき若き盛りをこもらすか山に  汀川
貧しき友に送るとしては如何あらむ。
   おぞいかに父はなせども我友のみづほの國に家なくてけり  釜溪
父の身となれどもの意ならんが、一二句何とか他にあるべしと思はる。
   食すしろもなき身ながらを親しよのひそみに落ちぬ君し尊し  汀川
第一二句あまり露骨ならずやと思はる。
題が皆六ケ敷いと申來れり。集中の詠何れも露骨に陷りすぎたりと汀川云ひ來る。げにもと思はる。くす子は「貧しき女」と思ひ誤れる由なり。北山村玉川村等より一人も出詠なかりしは遺憾なり。さらに奮勵を祈る。
 
(343) 明治三十八年
 
     つばな會歌會の記  (明治三十八年一月「比牟呂」第十號)
十一月二十五日待ちに待ちたる左千夫氏突如として諏訪に來る。即ち檄を飛して會員の來集を促せり。二十六日舟を湖上に浮べ、夜歌筵を布半旅亭に開く。會するもの汀川、柳の戸、竹舟、千洲、くす兒、花蝶、山百合等なり。即題雨(秋冬)、美人、柿、新停車場、待旅順陷落、凡べて十首を課す。已にして座談興盛に湧いて作歌深更に及ぶ。眠さ甚し。即ち成る所を評して寢に就けり。 〔編者曰〕コノ間ニアリシ短歌五首ハ『歌集編』ニ收録ス。他作者ノ短歌ハ省ク。
翌日柳の戸、竹舟、千洲、山百合等左千夫氏を伴うて巖温泉に赴けり。浴棲冬寒うして一人の他客を見ず。炬燵裡旺に火を入れて茶を點じ、談論縱横此の夜又深更に及ぶ。巖温泉の歌は「馬醉木」に出づ可ければここには略す。(十二月十二日記)
 
(344) 明治四十一年
 
     新年募集和歌について  (明治四十一年一月一日「南信日日新聞」)
 南信日日募集の新年和歌を寄せられた人は隨分あつた。併しこの多數の應募歌の中から遂に一首の歌をも選出する事が出來なんだのは、誠に遺憾の至りである。余が一首をも取らなんだのに對して、甚だ苛酷の感を抱く人が少くあるまい。余と雖も衷心甚だ相濟まぬやうな考も湧く。余と雖も苛酷の嚴選をして、自ら快とする如き殘忍者ではないつもりだ。余には余の歌に對する標準がある。正しい標準か。つまらぬ標準か。そんな事は分らぬ。高いとか、卑いとか云ふのは他人の見る所だ。余に於ては自分の信ずる所を、何處までもよいものと信じねば困る。
 この標準を動かしてまで、余に歌の批評をせよ、選拔をせよと云へば、余自身は歌の生命に於て死なねばならぬ。余は自分を殺してまで歌の選者などになる事は御免蒙る。
 古今集以來千餘年間の和歌は、殆ど月並的のつまらぬ者である。理窟な駄洒落な繊弱なたわい無い(345)者である。あの樣な趣味で滿足出來るなら、歌などと云ふ者は、文學としての最小部分をも占め得る資格がない。隱居の道樂ぢや。閑人の手慰みぢや。斯る呑氣な意味で、歌を作つて貰ひ度くない者だ。
 歌でも俳句でもそんな手輕な者ぢやない。眞面目の者ぢや。研究的のものぢや。多少の苦心を覺悟せなんで漫然古今集や新古今の眞似をしてゐるなら、千篇萬首も無益な手數ぢや。寢て遊んでゐる方が面白い。
 新派ぢやとか標傍して、輕薄な駄洒落な歌を寄せる人がある。新詩社あたりのつまらぬ趣味にかぶれて居るらしい。この種の趣味は一言の下に趣味の墮落と斷言する。加之此の種の人の歌は零碎殆んど體をなさぬ。斯くの如きものが、現今の青年に隨分流行してゐるらしいのは、笑止の次第と云はねばならぬ。 新年の募集歌から一首をも選び得ずして、斯樣な小言を竝べるのは實に不本意の話しぢや。子規先生の新年歌を書いて此の小言を終る。
   うつせゐの我足いたみつごもりをうまいは寢ずて年明けにけり
   枕べの寒さはかりに新玉の年ほぎ繩をかけてほぐかも  寒暖計
   新玉の歳の始と豐酒のとそに醉ひにき病癒ゆがに
 
(346)     〇     (明治四十一年一月五日「南信日日新聞」)
   いそのかみ古りにし里の驛路に夕ぐれいそぐ旅の人あはれ  長崎緑波
   月さやにい照れる山の遠空に妹がなくらん今宵の月夜
   湖をかくむ山々春雪のいまだも消えず波にうつれり
   美しき押繪羽子板いだき來し若子の寢顔神守らせり
   わが家の垣をくぐりて君が家にそそぐ春水うぐひすなくも
   山あひの谷靜みなく閑古鳥みねにも尾にも合するかも
緑波君の歌、著想皆非凡にして不自然ならず。只措辭生硬鹵莽の跟ある頗る新詩社風の弊を受けたるの感あり。一悟新境に進まん事を祈る。妄言多罪。
   三千尺の不二見高原家居して桃の畠打つ春おそみかも  窪田唖水
よき歌なり。
 
     新年歌批評  (明治四十一年一月十五日・十六日「長野新聞」)
   天の戸にそそる群ねの雪さやに今し見るべし科野初國  望月光男
(347) 志都兒云ふ 此の歌信州山國の新年としては群峰の雪など「今し見るべし」と騷ぐ程の事でもあるまい。
何故騷ぐ程の事でないか分らぬ。新年の初頭に信州群山の雪を仰ぐ感じは殊に清爽崇高である。「今し見るべし」は最も有力にこの感じを現してゐると思ふ。
   打木綿《うつゆふ》の眞幸國べとまさやかに雪ふりしけりいや年の端に  同
 志都兒云ふ 前のと姶ど同一趣向ならずや。一夜明ければ銀世界とか、雪は豐年の兆とか云ふ古諺そのままの趣向で、餘り普通の云ひ方ではあるまいか。雪が豐年云々の如き意をそのまま材料に取つて陳腐に陷らしめぬ事は非常の手腕を待たねばならぬ。併し陳腐な古諺でも何でも活かし得るは作者の修養に在る事だから斯樣の材料はいかぬと云つて頭から排斥すべきでない。此の歌の生命は信濃山國の雪を取り立てて主題とした新しい觀察にある。今一つは調がよく締つて力がある。此の二點は少くもこの歌を陳腐圏内から救ひ出してゐると思ふ。只信濃群嶺の雪を今少し具體的に觀察してあればこの歌は今つと振つたものになるだらうと思ふ。望月君の考へは如何。
   蒼雲の天のほがらにさしのぼる初日の下に生ける驗あり  森山汀川
 志都兒云ふ 初日の下に只漫然「生ける驗あり」とは何事ぞ。何等か特殊の場合に遭遇すればこそ生ける驗ありにあらずや。萬葉の「み民我れ生けるしるしあり天地の榮ゆる御代にあへらく思へば」の意を味はれたし。漠然雲を掴むやうな感じの歌なり。
(348)志都兒の云ふやうな感が僕にも一寸起つた。併し雲を掴むやうな取りとめない感じは斷じて起らぬ。元旦瑞光の下に鼓腹する感じの何處に取り止めがないのか。只一二三句に今つと主觀的の觀察が無ければ四五句と緊密に調和せぬ事は慥である。僕はこの點を不自然に感じたのだ。「蒼雲の天のほがらにさしのぼる」位では「初日の下に生ける驗あり」に對して輕すぎる。汀川君如何。
   敷島の大和國原空遠に雲をさまりて初日のぼれり  平林梨村
 志都兒云ふ 平凡なり。
同感なり。材料が普汎的であるから餘程重い深いピンとした觀察がなくちや平凡になる。寫生的の歌には此の種の缺點が少ない。
   諏訪の宮にい行きし人は神橋のともしの下に飴買ひ居らむ  柿の村人
 志都兒云ふ どうも足りなく思はれる。諏訪神社としては新年に限りたる事柄にもあらざれば、新年に對してつかまへ所不確と云ふの外なかるべし。
御尤もの説だ。是には前書きがなくちや不都合だ。尤も未明に神橋の下で飴賣つてるのは元旦のみぢやらう。それを即興的に詠んだのみだ。振つちや居ない。(一月七日記)
 
       短歌會  (明治四十一年一月十七日・十八日「長野新聞」)
 
(349) 十二月十五日巴屋に開く。會する者、汀川、山水、柿の村人の三人。課題烟。志都兒後れて來る
       淺間山五首
   國内ふるひ天の戸こがし立ちのぼるうづ火煙は人の魂をひしぐ  汀川「人の魂をひしぐ」は惡い。一二三四句皆作者の眼前に煙を見てゐる光景である。「人の魂をひしぐ」は寧ろ第三者に對して説明でもしてゐさうな詞だ。前の句と感情が緊密に合はぬ。「天の戸こがし」は「天の戸なびけ」などの方宜しからずや。
   大空にしじぬき立てる淺間根のうづの火烟眞日を掩觀おほ音へり  同
「しじぬき立てる」は適切でない。遠くから見たらしい詞づかひだ。
   灰降し燒石降したちのばる淺間のけぶり萬代にがも  同
三人皆賛成する。結句大に利いてゐるといふ。
   國地ゆ天の戸つらねたちのぼる淺間の煙は見れどあかぬかも  同
 志都兒云ふ 「見れど飽かぬかも」は陳腐だ。陳腐でも生かす力があればよいが此處では失敗だらう。
志都兒に賛成。
   八千群れの千群黒|煙《けむ》湧きたたし富士見冬原汽車登り行く  山水
「煙」を「けむ」と讀むは何だか厭やに思ふ。
(350)   冬の日の寒き朝はすはの町|出湯《でゆ》のけぶりにあたりも見えず  山水
「あたりも見えず」は惡い。「あたり」など無意味すぎる。結句には今つと重いものが欲しい。
   北風の強くし吹けば我が宿や榾《ほた》のけぶりの吹き廻しつつ  同
「我がやどや」は廣い詞でここには適切でない。「爐《ろ》のほとり」などでなくちやいかぬ。「吹き廻しつつ」此の歌の生命だ。
   すはの朝はのどになごめり磯田刈る朝けの煙立ちうつりつつ  梯の村人
現し方が拙いだらう。
   湖つ風夕吹きつのり高木のや藁屋のけぶり岡になづさふ  同
三人皆取る。
   雪しろき木曾のたか根に遠見ゆる朝けのけぶり炭やくらしも  同
木曾の高根で利かせる積りだつたが失敗だ。云ひやうが足らぬのだ。
 
     選歌評 (明治四十一年一月十九日「長野新聞」)
       吹雪
   はろかなる行手のともし影寒くあれて來る風雪もふり來ぬ  胡桃澤勘内
(351)平凡なり。。四五句なまぬるし。
   雪まじり風あるる夜は聲しぬに千鳥友を戀ふ吾は妹を思ふ
全首一貫してよく利いて居る。面白い歌と思ふ。
   草の戸に雪を吹きまく風あれて昨日も今日も人の音せぬ
「雪を吹き捲く風あれて」は説明に過ぐ。餘り振つた歌と思はぬ。
   川添ひの土手の高道ふるゆきを風ふきおとし掃けるが如し
新しくて面白い。斯樣な實景は誰でも目撃するが疎大な觀察をしてゐるから氣づかないのだ。
   ふぶきくる夜道追風吾顔に吹きのよどみの雪さむく散る
四五句晝間見てゐる樣なり。夜道にはまらぬ。夜道を何とか改めれば新しくて面白いだらう。
 
     選歌評 (明治四十一年二月三十一日「長野新聞」)
       蓼科山に宿れる歌
   縞枯の栂の林を登りつめて峯まだ遠しみだれ石原  河西省音
   立科のたか根の上は夏といへど八千岩さむく霧たちまよふ
   おどろなる雷やみて湯津岩の高岩の上に月出でにけり
(352)   弟をさきに寢させて岩室に火を焚き居れば物の音もせず
   岩戸出で外面に立てば小夜深くぬれたる石に月蒼く照る
   燒山の湯津磐村に小夜深く仙《やま》人さびて一人立つ我は
   月の前を雲群はしり石原に影おとし行く曳きずるが如
   石枕夢し成らねばマツチすり時計を見つつ夜のしらむ待つ
   眼の下の佐久をうづめし雲の上の峯は茜の色にはえたり
   茜色ややにうすれて黄を加ふつよき光し眩くありけり
   横岳の頂の岩の岩かどは朝日をうけて紅に輝く
   ひんがしゆさし出づる日に山のもの皆火の色に燃ゆるが如し
河西氏寄する所の蓼科山歌首々生動爽快甚し。吾人は斯の如き新作家の長野歌壇に現れたるを喜ぶ。讀者輕々に觀過する事勿れ。
 
     新年頗歌曾  (明治四十一年二月「比牟呂」第一號)
 昨年秋より來る來るといひて來ざりし左翁が、廿四日夜突然來諏ありしにて、廿五日の歌會は非常に販ひ申候。正午頃竹舟君を先頭として、布半の二階に集ひたるもの梨村、唖水、汀川、志都兒、山(353)水、之に左翁と小生と加へて八人の顔揃ひ、先以て諏訪歌會未曾有の盛會と悦に入りつつある折柄、松本の胡桃澤君態々遠路を馳せ參じたるさへあり。珍客一時に顔を揃へて二階の二室湧くばかりの嬉しさに笑ひ興じ、語り興じ候事、如何ばかりの快事と喜び入り申候。夕餐後は准病人たる小生を殘したる外、一同袂を列ねて湖上スケート見物に參り、歸來兼題氷を選び、更に冬籠、鼻、弔氷滑溺死者三題を課し、夜二時に亙り申候。左に掲ぐるは何れも左翁の選に係るもののみに有之候。 〔編者曰〕 コノ間ニアリシ短歌二首ハ『歌集編』ニ收録ス。左千夫・唖水・志都兒・梨材・山水・汀川氏ノ短歌ハ省ク。
 翌廿六日は梨村、竹舟去りて、河柳、黙坊來り候へば數に於て前日に等しく、盛に作歌いたし候。夜に入りては廣き炬燵に九人の足をさし入れ、語りつづけ笑ひつづけ、飽かぬ話興に夜十二時を過し申候。課題、梅、冬籠。
 〔編者曰〕 コノ間ニアリシ短歌四首ハ『歌集編』ニ收録ス。左千夫・汀川・志都兒・山水・竹舟・胡桃澤勘内氏ノ歌ハ省ク。
 二十七日左翁は志都兒、獣坊と共に北山に、胡桃澤君は松本に、其他何れも別れ別れに歸途に就き申候。二晝夜の歌會は小生等には始めてに候。十人以上の歌會も始めてに候。信州同人の氣勢年と共に益々昂り候事、欣喜のいたりに堪へす。苦心研鑽百年を歩むの決心にて、倦まず急がずこの歩を續け、この心を勵まし候事、吾人同人の至願と存じ侯。
 次囘は三月廿八日夜より廿九日にかけ巖温泉にて相開き可申、甲信諸同人の御來集今より相待申候。
 
(354)     課題選歌につきて  (明治四十一年三月三日「長野新聞」)
  課題應募十五人百三十五首の中四十七首を選び得たる成績は、前囘新年雜詠よりも良好なり。歌は清閑的玩弄品にあらず。研究的選評のもとに嚴重なる取捨を行はんとするは及ばず乍ら余の希望にして、抑も又出詠者諸君の希望なるべきを信ずるが故に、通俗眼より觀たらんには、酷に過ぐるが如き取捨をも忍びてなしたる眞意を誤解せざらんを望む。
 選歌を掲げんとするに先だち、應募歌中余の採り得ざりし者につき、一二の愚見を述べて諸君研究の材料に資せんと欲す。
 第一、月並的傾向を有するもの
   すはの湖風なき日にも奇しきかな氷の上に人の波打つ
 斯の如き種類此の他にも少しは見えたり。氷の上に人の群れたる樣を詠まんとならば、其の物の面白しと感じたる樣其の儘を直截に緊密に的確に歌ふべきなり。さるを氷上の群人を人の波打つなど水の波と詞の上より繰を求めて照應せしむるが如き、全然月並的臭味と云はざるべからず。
 物其の者の趣味を發揮せんと勉めずして、詞のあやつりなどにて間に合せんとするを月並臭と云ふなり。試みに作者に問はん。「氷の上に人の波打つ」と云ひ表したる下句が、幾何かよく氷上群人の(355)面白さを活躍せしめ得たりや。理詰めや言ひ掛けなどの駄洒灑に腐心して得々たるは、地口など云ひて喜び居る浅薄者流と擇ぶ所なきなり。特に上句「風なき日にむ奇しきかな」に至りては言語道斷の厭味と云はざるべからず。
   年ごとに紅葉《もみぢば》ながる龍田川みなとや秋のとまりなるらむ  古今集
是等の歌の詰らぬ所以も、以上の意にて會得あらんを望む。
 第二、平凡を脱せざるもの
   冬枯の桑の畑の雪どけに遊ぶ小鳥の數を知らずも
 前者に比すれば數段の上にある歌なり。駄洒灑もなく理窟もなく、極めて眞面目に冬畑の事象を詠じ居る態度、甚だその要を得たりと云はざるべからず。されど猶遠慮なく云はしむれば、冬畑に表れたる事象を眞面目に捉へ眞面目に云ひ表さんとする用意の宜しきはあれど、その捉へ方換言すれば作者の興味を惹きたる事柄が、平凡に失するの嫌なきかを疑ふものなり。桑畑の雪解けに鳥の遊ぶ樣だけにては作者は知らず、少くも他人の興を催すに足らず。殊に下句「數を知らずも」など云ひたりとて、情趣の上に何等の重きをなさずと思考す。
 
     第三囘課題和歌に就て  (明治四十一年四月十四日「長野新聞」)
(356) 應募歌百三十七首中より二十九首を採れり。前囘に比して云へば月並的俗臭あるもの殆ど跡を絶ちしこと喜ぶべき進歩なり。されど月並的俗臭なしと云ふ事は、消極的の進歩にして夫れ丈けにて最早滿足すべきに非ざる事勿論なり。今囘の應募歌につきて一般に通ずる缺點を云はしむれば、そは見付所の平凡なるにありと云ひ度し。百三十七首中採り得ざりしは、概ね平凡に過ぎたりと見ゆるものなり。作者もし余の採らざりし歌につき不平あらば、遠慮なく御申越あるべし。詳細の愚見別にL甲上ぐべし。子供が草原に凧あげて騷ぎ居るとのみにては、凧の課題に對しては平凡なるべし。此の位の事苟も凧の歌を詠まんとする人の頭には、誰にても浮び來べきことなり。斯る一般的景情のみ捉へ居る人、遂に深き厚き歌を得るの期なかるべし。子供が草原に凧あげ居る場合を詠まんとならば、斯る一般的景情より更に深く特殊的景情に立ち入つて觀察すべし。子供の人數服裝などに特殊の觀察をなすもその一なり。子供の動作例へば走つて居るとか、草の上に寢ころんで居るとか、斯る上に趣味を捉ふるもその一なり。凧と空との關係、凧と他の景物との關係、例へば松林の上に揚つて居りとか、菜の花曇りの空に靜かに浮んで居りとか、斯る上に趣味を捉ふるも其の一なり。是は一例に過ぎざれどもすべて一般的より特殊的に、抽象的より具體的に立ち入りて、始めて作者の眞生命は發揮し得べきなり。畫家が如何によき所を描けりとて、輪廓の描寫のみにては物足らぬと同樣の理窟なり。第四囘課題に於て益々諸君苦研の績を見ん事を樂しむ。(四月十日)
 
(357)     山邊温泉の一夜  (明治四十一年五月「比牟呂」第二號)
 三月十七日朝、淺間にみづほのや、四澤二君と別れ山邊温泉に向ふ。望月君を訪はんとてなり。美しき松山据を長くめぐれる径の猶雪深きに、斜め照る日の光に額の汗ばむを覺ゆる。さすがに春の心地なり。道の南さがりなるは朝けより雪とけ流れて、黒き土のそこここに小さき草のめぐめるなどいとなつかしく、泥に食ひ入る下駄のはこぴの捗らぬも興ある半日の物ありきなりけり。
 湯の原のとある店の縁先に、君腰かけて待ちけるを、斯くと知らねば行過ぎつる我を、うしろより聲かけたるに打顧みて、かたみに笑みかたまけし喜び何にたとへん。三年前下諏訪の旅宿にわかれてより、君多くいたづきて家籠れば訪はまくのみ切に心に思ふものから、何くれのかかづらひに本意なくあかしくらしつるを、うれしくも思ひしより瘠せてはあらざりけりなど、物語り出づる詞もあとさきなり。和泉屋の真二階お亭の間といふに足をのばす。お亭はオチンと訓む。おちんの間とは振ひ居りなど笑ひ興ずるに、そのかみ松本の殿樣入湯のため特にしつらひつれば、お亭とはよぶぞなど故々しく聞かせらるるいよいよをかし。げに亭のしつらひ世のつねならず。庭べより立ち續きたる殿山、松のたたずまひ、寐ながらに仰げば雲井の風、萬翠吹きゆすりて直に我顔に落ちぬべし。おちんの間のたはれ歌つくりて、取りあへず鹿兒島なる堀内君がり送りなどするに、日くれたれば温泉の村のけ(358)はひ二人黙すれば、はるかに松本の市の太鼓を聞きうるも靜けし。淺間は一二夕の遊樂地なり。山邊は數旬の靜養地なり。二人して數旬の讀書に、この閑地に籠りてんやなど、折ふしの感興盡くるを知らねば、豫定を變更して一泊するに定めつ。人して云ひやりつる胡桃澤君が來ねばいと寂し。課題して歌つくる。夜おそく湯に浴みて寐ぬ。
       道路
   石山ゆ石曳き出だす山道はわだちの躍り馬いたはしも  光男
石曳き出すは概敍的なり。石曳きくだすなど光景的にありたし。わだちは車としたし。第五句を得てこの歌生きたりと思ふ。
   石山ゆ石曳く道は澤水の雪消のにごり道あふれたり
「にごり」は不用ならずや。「水嵩」など如何。よき捉へ所と思ふ。
 光云ふ。どちらにしても苦にならぬ。
   松山のたをりの路しなづますと立出で待てる君ぞ來にける
面白し。「なづます」は「なづまん」などの方利くと思ふ。
 光云ふ。全體この歌はよくない。
   雪どけのぬかれる道をこちたみと女鳥羽の瀧は見ずて來にけり
(359)「こちたみ」他にあるべし。「雪どけの道行きなづみ」などにしたし。
 光云ふ。「こちたみ」は此處にては「面倒臭い」位に見たいがいけぬか。
   苧槽岡の雪げのぬかり時じきを徒歩ぞ來ましし病めるわがため
よい歌だ。
   雪あかば山道近き桐原の梅も見んもの急ぐ君かも
「山道近き」少し故意なり。題詠の故なり。よき歌なり。
       夜
   殿山を裏庭近み松の木の雪落つる音夜更けて聞ゆ
非常によし。
 光云ふ。「宵更けて松のしづりを深山さぴ聞く」と改めたし。如何。
不賛成なり。
   屋根の雪いまだ消えねば暖きこの宵通し雫するおと
普通なり。
   をととしに一目面逢ひ久しきに逢へる今宵は早く更けにけり
   湯の原のいでゆのやどに湯にも入らず語りつきねば小夜ふけにけり
(360)下句「こよひの一夜かたり惜むも」など如何。
   今日かへる君をとどめて君がため惡しとをいふな今宵たぬしも
第五句「斯くたぬしきに」など如何。
 光云ふ。削正あまり説明にすぎたり。原作のなげやりの方よしと思ふ。
       雜
   わが君をけながきからと歸《い》くといふをとめてすべなしこの今朝の雪
「歸《い》くといふを」の第三句は第二句四句と連續して意鰺をなすべきを、その間に挿入して勢を殺げり。斯る挿入句往々見る所なり。注意して避くべきなりと思ふ。
 光云ふ。必しも惡からざるべし。萬葉などにも往々あり。
   玉だれの小簾の間とほし獨居て見るしるしなき夕月夜かも  (卷七)
   さきもりに行くは誰が背と問ふ人を見るが乏しき物もひもせず  (卷二十)
など思ひ出せれど、予の歌を辯解する式の歌一寸浮ばず。
予も考ふべし。只挿入句の例萬実にありたりとて、挿入句ありてよき歌なりや疑ふべし。兎に角普通の場合、歌の調子を摧くは事實なり。同じく挿入句とても程度あるべし。前後の意味連續の模樣にて、一概に言ひ難きかも知るべからず。宿題とすべし。
(361)   雪ふればとどまる君にありもせばのどに見んものすべもすべなし
よき歌なり。
   面見れば猛きものからつよからぬ吾君をやるかこの雪の道
第一二句緊密ならず。四五句重し。
       夜
   三年まへ君と相見し春の夜の一夜に似つる雨を聽くかも  柿の村人
 光云ふ。「一夜に似つる」危し。
同感なり。さし當り考出ず。
   小夜ふかく湯あみかすらし檐づたひ湯原少女の唄の乏しも
 光云ふ。「檐づたひ」と「湯あみ」との關係判らず。
「のきづたひ」何とか改むべし。
 〔編者曰〕 「道路」「夜」ノ短歌十首ハ『歌集編』ニ收録ス。
明くれば十八日、夜來の雨いつしか雪とかはりて、松本行の道いとたどたどし。心せかぬ旅ならば、一日二日をこのお亭の間に語らふとも心猶盡きざるべし。三月末までは學校のほだしのがれ難ければ、強ひて車して松本に向ふ。
 
(362)    第四囘課題「風」「送別」「鳥」 (明治四十一年五月十二日・十五日「長野新聞」)
   堤《どて》路の柳芽青む川風に衣なびけて來るは妹かも  北澤朴葉
第五旬で生きて居る。堤路を眺めて妹を待つて居るのであらう。斯る歌は連作として少くも四五首詠むべき歌である。
   黒金もつらぬかまくの心もちて科野の山に君し入らすも  宮林釜村
   木曾義伸猿丸太夫あれいでて科野の子らし教ゆる甲斐あり
猿丸太夫の信濃に生れし事を聞かず。御教を乞ふ。
   山に入らふ君はさぶしゑ千よろづの書よみつつを賢くいませ
以上三首教師などの信濃に赴任するを送ると見ゆ。斯の如き歌には前書あるべし。
 
     歌評  (明治四十一年六月十三日「長野新聞」)
   さくら葉のにこ葉のひまゆ光洩れ毛蟲ろの毛の黄に透きて見ゆ  省吾
   花散りし花柄の紅にまじり出づる二折嫩菓色のすがしも
二首觀察非常に精緻にして而も其の要を失はず。作者の一特徴也。詞の發表なほ一段の用意を要すべ
 
(363)
     第五囘課題和歌につきて (明治四十一年六月十四日「長野新聞」)
 十四人百六十五首中より卅九首を選べり。課題を強ひて主なる景情として詠まんとすれば却つて窮屈を來すべし。殊に橋、草の如き課題を詠まんとするに橋、草のみを主景としてよき歌數多得んとする事頗る困難なり。斯る場合には却つて橋、草等を或る他の主景に附隨せしめて、即ち或る主景の副景として想を構ふれば、想像の範圍廣まる丈けそれ丈け詩材が豐富となる譯なり。子規先生が森の課題を詠みたるうちに
   おほやけの國の林と百年の斧も入らざる木曾の奥山
の如きは森を主題として詠みたるものなれど、
   速く來てかへり見すれば猶見ゆる谷中の岡の森の上の塔
の如きは寧ろ森を副景として詠みたるものなり。斯の如き注意餘り當り前の事なれど、出詠者中往々課題を主景にのみ考ふる爲め窮屈な詠み方をする者ある故、一言御注意に及ぶ次第なり。
 課選を主景とすると副景とするとの如何を問はず、或る題の下に歌よまんとならば多少の趣向を構ふるを要す。趣向なきといふ詞をかしく感ずずれど、實際趣向に何等持徴なきもの何首作りたりとて、(364)傑出せるものを得べき道理なし。橋といふ題ならば橋を材料としてこれに例へば岩、水、植物、動物等の如きものを配して、瞑想中に一幅の持徴ある景物を描き、然る後その景物の一部より順次筆を起さば、少くも五六首位の連作は出で來るべきなり。近時根岸派の歌の一進歩は斯る連作的のもの著しく増加したる事なり。歌を作るもの連作の値ひを知らぬやうにては困るなり。子規先生晩年の和歌も、大抵この連作にて一進境を拓かれたる事と信ず。「竹の里歌」の前半と後半とよく比較して御研究あらんを望む。
 五月末山浦の温泉や不二見原などに遊び居り、選歌遲延申譯なき次第御許しを乞ふ。第六囘課題益々諸君の奮勵を望む。(六月一日記)
 附記。連作は必しも前記の如き或る空間的景物にのみ限らず、詳しくは別に稿を起すべし。
 
     第六同課題「草」「橋」「學生」 (明治四十二年七月十一日・二十二日・八月九日「長野新聞」)
         止波離《とはり》橋の歌
       止波離橋は北安曇郡池田の山中にあり。山上の谿谷水なきに橋あり。下瞰千丈股戰き神震ふ。信中の一奇觀橋たるを失はず。
   此橋ゆふたりの繼子《ままこ》投げきとふ昔の話きけば恐ろし  科野舍
(365)   あやぶけき手摺《てすり》によりて八千尋《やちひろ》の谷底見れば吾足ふるふ
   八千尋《やちひろ》の千尋《ちひろ》の谷にかけ渡す橋べの松に藤波かかれり
   止波離橋渡らひ行けば我足の下べの松に山鳩鳴くも
   藤垂るる止波離山橋年古りてくちたる手摺よらくあやふし
   谷底の松風の音はその昔ここに消えし子が聲にあらぬか
   この岡に寢ころぶしつつ君と二人《ふたり》雲雀《ひばり》聞きたる春思ひ出づ  追懷一首
科野舍君止波離橋の謌措辭平凡の如くにして景惰眠前に躍如たり。作歌の態度は斯の如く眞面目にして始めて進境を拓くべし。
       黒刀毛登山
   草もゆる燒野まばらに枯れ立てる木ぬれは見えずさ霧ながるる
釜谿山上の霧目前にあり。景情|倶《とも》に至る。
       黒刀毛登山歌
   天霧のふかくとざせる黒刀毛《くろとげ》の笹の細道いゆき迷へり  亞水
   刀毛山《とげやま》の篠の小笹《こざさ》の中に咲く深山櫻《みやまざくら》のすがたやさしも
   下枝《したえだ》にをがせまとひて咲く花の深山櫻は見れどあかなく
(366)「見れどあかなく」も斯の如く働き居れば力あり。
   久方の黒刀毛山《くろとげやま》の根に咲ける深山櫻は妹に似るかも
   天つ霧とざせる刀毛《とげ》の山道を聲よばひつつ小笹《こざさ》わけ行く
   青によし奈良澤山の篠小笹《しのこざさ》風のさやぎに時鳥なく
   立別れ山|下《くだ》りせし少女等《をとめら》をかへり見すれど霧のとざせり
黒刀毛登山七首|詞意《しい》悉く生動近來の快作なり。
 
     第七囘課題應幕歌について  (明治四十一年九月二十五日・二十六日・二十九日「長野新聞」)
         上
 十一人百二首中八人十八首を選べり。數字の上より見たる成績も選歌の内容より見たる成績も甚だ振ひたりと云ふを得ず。只一二囘の成績にて作家の眞否を云ふべきに非ざれば、我も人も今後一層策勵を期する即ち可なり。
 生命ある歌を得んと欲せば只自己の歌を作る可し。自己の歌とは眞箇自己の感興より湧き出でたる歌なり。古人の摸擬筆先の技巧一わたりの三十一文字を得んは即ちあり。自己内心の活動が宛然三十一字の上に飛躍して人犯す可からず。時滅す可からざるの威力を備へんことは即ち得可からず。諸君(367)の歌を作る須らく日本の文壇に立て横行濶歩するの概を備ふべし。君子重からざれば威有らずと云へり。自己を發表す可くして戰々兢々顧みて他人の鼻息を窺ふ如きに止まらば、和歌製作の如き哀れなる閑人の骨董いぢりに類するに終らん。自己内心の活動は多く自己の經驗に基づく可し。自己直接の經驗を輕んじ實感を輕んじて、虚空架設の空想に生きんとするが故に、日本現時の和歌は遂に滔々として輕佻浮薄の惡風を釀しつつあるなり。諸君の歌を作る往々にして、自己直接の經驗を疎外せんとする傾向の認む可きあり。屋後庭前詩材隨所に累々たる可き歌題に對して、却つて洛陽謂水の風流を詠ぜんと苦心するが如き者即ち是なり。
 庭上の一草一木に對し、遂に一詩をも得る能はざる如きの人、終世刻苦して天地自然の美を歌はんとするも徒勞に終らん事必せり。
         中
 余が云ふ詩材は庭前屋後に取る可しとやうに誤解せざらんを望む。要は自己の直接經驗を尊重するにあり。直接の經驗にして且つ感興抑ふ可からざる材料を捉へて緊密なる發表をなす。一首にして止むる能はず、二首にして止むる能はず、五首を得十首を得五十首百首を得るに至つて、連作の首尾相呼應して首々生動風を生じ來るの概あらん。作歌の要諦全く茲に存せり。我黨の和歌を以て取材が外部の客觀物に偏せりとなす者あり。是等の人は子規先生の遺稿をだに通讀せざるべし。已に自己直接(368)の經驗と云ふ。經驗とは外物と主觀との交渉なり。外物を離れて經驗なきが如く、主觀を離れたる經驗なし。詩人が自己直接の經驗を歌ふ時、一面は發して客觀詩となり、一面は發して主觀詩となる。主觀と云ひ客觀と云ふ。二なれども一、一なれども二なり。若し一面に偏して一面に疎なるものあらば、そは兩面共に談ずるに足らざるの詩人なり。只主觀詩なるもの方今明治文壇に充塞して、輕浮陋猥鼻をつまむに暇あらしめざるもの、これ畢竟今日の詩人と稱する者に眞面目なる品性の修養なく、經驗なる處世の奮勵なく、從つて沈痛なる自己の經驗に立つて、切實なる内心の悲喜を歌はんとする者殆ど其の類を絶せんとするに坐せり。是に於てか吾人は諸君が主觀詩を作らんとするに方りても、必ず眞摯なる自己の經驗をはなれざらんを望むものなり。自己眞實の感情を離れて人を眞似、世を眞似んとする時歌は已に死せりと覺悟せざるべからず。
        下
 猶一言すべき事あり。世上往々和歌(若くは尋く文學)を以て閑人の玩弄物となすものあり。世上凡百度す可らざる者は論ずるの要なしと雖も、自ら和歌を作る者にして、猶且つ和歌を以て一種のお慰みと心得居る者これ無きに非ず。斯の如き態度が歌の品位を下落せしむるの一因たるべし。詩は人生の叫聲なり。吾人が深刻なる信念を持して、人の世の海を渡らんとする時、茲に衝突あり不平あり悲哀あり。衝突の反面には奮勵あり。不平の反面には慰藉あり。悲哀の反面には歓喜あり。是等情緒(369)の極致は悉く痛切なる人生の叫聲にして、叫聲の極致が文字に表れ來る時、茲にはじめて詩を生じ來る。志ある者必言ありといへりし古人は、已にこの清息を解せりと見ゆ。此の見地に立て詩に從ふ時政治實業教育其他社會百般の事象は悉く生きたる詩材たるべきと共に、是等社會百般の事象に立て、深刻なる觀察を下し沈痛なる自覺の下に意義ある生活を仰望するの向上心を有する士にして、始めて詩の精髓に參するを得べきなり。此の意義に於て吾人は詩を知らざる政治家は深刻なる政治家に非ず、詩を知らざる教育者は深刻なる教育者にあらずと云ふを憚らず。只今日詩を作る者淺膚固陋比々相依る所以の者、畢竟詩人の包持する所甚だ卑俗なるに坐せり。詩を成す豈容易ならんや。一日は一日の修養を積み、一年は一年の修養を積み、終生渝らざるの覺倍を持する猶且その足らざるを覺ゆべきなり。然るを況やはじめより閑人の玩弄物として作歌に從事するが如き、之を百年するといふとも墮落に踵ぐに墮落を以てせんのみ。和歌の墮落は猶忍ぶべし。人生の根本義を離るるを如何せん。自ら戒むる所を附記して諸君と共に策勵せんとするを諒とせよ。
 
     選歌評  (明治四十一年十一月二十六日・二十九日・三十日「長野新聞」)
       花野の歌
   はろばろの花野遠原秋空のまほらをつきて八ケ峰晴る  望月光
(370)   もろ靡く松蟲草の起きふしに吾がうつそみは搖らぎておもほゆ
   天近く人の世遠き花原になほ人の世のませ垣わたす  富士見別莊
   大君こそ五百垣わたせ臣の子が一人この野を占むべくゐらめや  同
   戀ひて來し此花原にあらかじめ垣せぬほどに來ずて悔しも  同
光君の平生に比して振へる者に非ず。即ち五首を録して其の餘を省く。
       收穫雜詠
   藁小屋のかり庵をせまみ吾が臥せる枕に近く草鞋おくかも  科野舍
第五句詩趣生動近來の快作なり。
       第九同課題「霧」
   天地のさ霧こもりて立つ我に要は見えぬ朝鳥の聲  望月光
   あさあけのさ霧を透し明るきに吾が手を搖れば動く霧かも
   朝霧の空のあかるみ仰ぎ見るわが身は穴の底にある如
霧の如きは古來盛に詠み古るされたり。斬新なる觀察を以て歌はれんを望む。
 
     選歌評  (明治四十一年十二月十六日・二十八日「長野新聞」)
(371)   見渡せば野邊の小草は枯れ果てて賤が家さびしき夕煙哉  案山子
第一の缺點は著想平凡なり。一首中何處にも新しき見つけ所なく強く利きたる所もなし。過日の科野舍收穫雜詠等參照して悟られたし。第二の缺點は措辭の不穩當なり、されど是は根本義に非ず。第一の缺點につき考慮ありたし。貴詠十五首悉く如上の型に入れり。一々擧げて愚見を附し難し。
   今朝早く過ぎにし人の足跡のあらあら見ゆる橋の上の霜
十五首中比較的見附所の利き居るは此の歌なれど猶著想陳腐なるを免れず。措辭句法も亦拙なり。貴志に從ひ短評を附す、妄言多罪。
       題「寒菊」「南天」
   寒菊の歌書かまくとする墨の硯凍れりさむき白菊  山越芳僊
   雪ごもる草いほのうちに物を無みただ二本《ふたもと》の寒菊を愛《め》づ
   南《みんなみ》の障子あけ放つ八疊の雪晴|日和《ひより》寒菊にほふ
   生垣《いけがき》をおほひて垂るる南天の實の赤々に時雨はれたり
   南天のくれなゐたわわにかたぶきて埋《うづ》もるるばかり雪ふれりけり
山越君、小沼君北信の一隅にありて研鑽怠らず進境著しき者あり。新春更に捲土の概あらんを望む。
 
(372) 明治四十二年
 
     選歌評  (明治四十二年一月六日・八日・十日・十九日・二十二日「長野新聞」)
   冬枯れのみ寺禅寺門内の地底透きて魚の見えなく  後町青柳
   出湯湧く河原藪原小春日のばらあちこちと小鳥實をはむ
   小夜ふかく砧打ち居る妹が家のせど田の水に月光り見ゆ
   入の谷の笹原の岡に家居つつ酒賣りに來る人を待つかも
青柳子第一囘の投稿にこの著想の非凡なるを以てす。快とせざる可らず。更に不撓の苦研を望む。
   筌《うけ》うちて魚とる翁《おきな》よかの岸の紅葉を得てん淺瀬のりてな  湯禿山
斯の如きは二首以上の連作とすべきものなり。一首にてはごたつきて調を成さず。
       病齒の歌
   やみつのり痛める時はもつ筆を噛み折りて見つ苦しきがままに  失名
(373)   幼きゆ今にいたりて我がこのむ菓子はやめられず齒はいたむとも
ま痛みに蟲食ふ齒ことごとく拔かんとぞおもふ病みつのるとき
歌を詠む時は斯の大膽あるべし。
   穗芭の上に灰ふる火の山の東に出でし細き月影  井出八井
穗芭の上に灰降ると云ふ如き非常に利き居る詩境を捉へ乍ら、下句の如き蛇足を附して歌を損ぜる事惜むべし。
   七草をつままく思へど北信濃雪し深けば我がまき兼ねつ  太田秀延
五句「我が」はここには不用なり。
 
     選歌評  (明治四十二年二月十日・十三日・十四日・三月二十日「長野新聞」)
   梓弓春しきぬれば鶯のふしもさやけし庭べ竹むら  太田秀延
「ふし」を竹に云ひかけたれば月並なり。
   夕月に小窓あくれば置き竝めし机の植木影かすかなり  うつろ山人
平淡なる裡によき捉へ所あり。
   われ一と日こやりて居ればあどけなき子らも日ねもす打しをれつつ  靜
(374)   わがためにくすしがもとへ雪の日を出で行くまな子見ればかなしも
   飴市のどよめく市を思ひつつ子らと語らふ枕邊にして
   こやる身の今宵起きゐてもろともに蜜柑をむけば子らもさざめく
情思自然にして作者の面目躍如たるを見る。
   朝茶よしととく起き出でて火を焚きし亡き父の癖思ひ出づるも  宮林錦朗
   冬日和おうな絲とる納屋庇ひさしつづきに茶の花咲くも
聲調よく整へり。
   夕ばえの空のはたてに見はろかす千山八千山雪をたためり  丸山七三夫
   數の子のかしらの二人爐にねせて末子を負へり母の夜仕事
平淡に云ひ得て情趣深し。
 
     選歌瀞 (明治四十二年五月二十五日・六月七日「長野新聞」)
   去年蒔きし麥はくされりしかすがに蒔かぬ醜草ここだしげれる  芋人
   畑つづき日は入りぬれど向つ岡の夕照る草に雉子なくなり
   くれなゐのたすきをかけで乙女子が春日のどかに麥田くろうつ
(375)   赤だすき少女がともの語り行く畑の中道菜の花さけり
今少し強く重き心あらんを望む。
       幼き頃より遠く上總に行きてありし兒の數年振りにて歸る
   すこやかに大きくなりて來し汝れを喜ぶ母や泣きてよろこぶ  科野舍
   ひむがしの遠つ上總にありし汝の來む待ちかねていにし父悲し
   あどけなき幼き時に別れたる父のみ顔を知るすべ無しに
科野舍の大に振へるを喜ぶ。
   朝風にたて髪なぴけ乘る駒の嘶き高し若葉青原  朴葉
   暮るる日の湖や靜に衣の渡より舟かへる見ゆ水鳥の如
   山裾ゆ雲吹きひらけ緑野を照る日麗らに馬遊ぶ見ゆ
   背戸山の若葉しみ山閑古鳥朝なく聲に雨雲あがる
   耕しの疲れし頭雨一と日寢つつ歌思ひ歌まとまらず
科野舍と相待つて情趣生動せり。
 
     選歌評  (明治四十二年七月二十四日「長野新聞」)
(376)       墓參
   此むくろうつろとなりてわが魂は遠きみ祖のたまと遊べり  禿山
   わが心われにかへりて老僧の珠數の音きく貴くもあるか
よく靜思の響を傳へて居る。
   夏山の若葉青葉のしみみにも遠つみおやの靈を仰ぐも
   うつそみに望うせにしぬば玉の心のやみに灯たばらせ
   み墓べの物靜けさに眼をとぢて遠ゆく心我を知らえず
一二三句猶足らず。要するに墓參五首は近來の佳作であらう。
 
     選歌評 (明治四十二年八月二十四日・二十八日「長野新聞」)
       足尾所見
   南吹き氣は和らげて山皆は一木も立たず見るに堪へかたし  小沼松軒
   日毎|掘《ほ》る眞金の毒に涸れつくし畑つもの見ればまうら悲しも
   古への村あと所手向くべき草も生えなく慕荒れにけり
   草むさぬ常冬の國の山ざくら花は咲くとも人住まめやも
(377)   まかねほる身のくたぶれも妻子らと住む家あらばなぐさまましを
小沼君の着眼漸く深きに入るを見る。喜ぶべし。
   ぬば玉の暗夜のなかに田まはりの灯のひかり苗青く見ゆ  内田花人
   久万の青すむ空にわたの如き雲の一ひら消ゆるがに浮く
   夕たどる草むら道に灯は風に消えけり草の夕やみ
   朝づく日門田まはれば巣をいでし百舌鳥のしばなく草の茂みに
   湯をいでてさまよふ庭や柿若葉夜つゆ冷めたく我顔におつ
   日毎來る炭負馬の今日も又鈴音きこゆ青葉がくりに
   茂りあふ青葉明るく日に透きて下行く水の青淀みせり
芋花君の思想界に新しく動く者あるを見る。沈思して深所に入らんを望む。
 
     選歌評  (明治四十二年九月八日「長野新聞」)
       己酉八月激震江濃の地に災ひす。岐阜の友よりの消息中に曰く、市民難を遁れて家速き樹下に蚊帳をつりて寢ぬと、凄慘の状目に觀るが如し。乃ちよめる歌
   憂ひ見る蚊帳の外面やほの暗き我家は立てり星空の下《した》に  泣崖
(378)   ぬば玉の宵ふけしづむ星影や光乏しく蚊帳にかかれり
   蚊帳の上をおほふ柳にゆるる風眠りは成らず夜はふけにけり
   一つりのせばき蚊帳べに家こぞる枕しづけくこほろぎのこゑ
   いねがてにかやを出づれば國原のやみを覆ひて天の靜けく
泣崖君の歌を本紙に見るは久振りなり。讀の割目して其の作品に注意せんを望む。
 
(379) 明治四十三年
 
     評 (明治四十三年一月十九日・二十七日「長野新聞」)
   馬市によき馬かひて歸るさの驛路はろばろ赤とんぼとぶ  古澤芋人
此の一首俳想に入るべきものなり。歌として足らず。
       八幡原の古戰場を過ぐ
   雫する松の根元にたんぽぽの返り咲く見ゆ雪日和めり  芋の花人
   雪原に冬日和めりますらをが芒ふみしききほひし所
       金山に登る
   むかつ尾の霧ふきはらふ風のむた千曲川音耳にさやけし
   山霧は雲につづけり金山の神の浮き橋其處にかあるらし
   朝あけの霧の流らふ岩苔の色の白らげに露しとどなり
(380)三十首中五首を取る、金山の歌皆面白し。
 
     涅槃會の歌  (明治四十三年三月五日「長野新聞」)
   夕日さすうましきひかりみ佛の枕に落ちて沙羅の花散る  胡生
   み佛の枕にちりし沙羅の花いく咲きかへりちりてさくらむ
   沙羅の木の木の間につどふもろもろの淋しき心夕日に向へり
   夕日のさししづむ雲のおごそかにみほとけの國はととのひにけり
   日の入るや西のきはみの明るきに思はかけるみ名によりつつ
   もろもろの生きのかぎりの靈にすむ光を立てて逝にし聖はや
   天地に今しづむ日や大き聖かくりますときの心し思ほゆ
   ま日の後ゆ伴ふ星のめぐりめぐり人等もろもろみ佛のくにへ
   みほとけの國べ思へば天なるや樂の妙音を胸もとどろに
   きさらぎの空わたる月のおほろかにみ佛の國もそこにし思ほゆ
格調氣魄相俟つて莊重を盡せり。長新歌壇近來の逸作たるべし。
(381)
選歌評  (明治四十三年三月八日・十八日「長野新聞」)
   まごころに我いさむるをきかずして此道よしとあはれその道  櫻井一
   さまよひてふと立ちしより此の宮のおごそかさにぞ我は額づく
   ひねもすを世のたたかひに疲れたる男の足の死せし如寢る
此の作者稿を寄する僅に一囘、歌數亦多からざるに着眼早く一歩を抽んづるを見る。
       後町青柳君に寄す
   梅の影机にさしぬかかる夜はこひしき君があらばとぞ思ふ  秋醉老
十八首中辛じて一首を取る、而も深さの感得なし。眞摯なる態度を缺く時歌は遊翫の具に墮つべし。
 
     「妻」の選歌評  (明治四十三年四月「アララギ」第三卷第三號)
       妻の里籠をいたはる
   はしけやし我が見に來れば産屋戸に迎へ起ち笑む細り妻あはれ  左千夫
捉へ所と詞調と氣味よく調和してゐる。
   産屋住み氣ながき妻が面痩せの清々しきに戀ひ返りすも
「戀ひ返りすも」は新しく適切だ。「清々しき」を今つと適切な感じに改め度い。
(382)   産屋髪假りにゆひ垂れ胸尋に吾兒掻きいだく若き母を實《さね》
「若き母」といふ丈け餘所々々しい感じがする。「胸尋」といふやうな形を省いてしまひ度い。形態的の材料が多過ぎると思ふ。三首共新しい匂ひと、清々した色彩を持つてるのは嬉しい。第一首が一番よいと思ふ。
   下にのみ老いそげ妻となげきよるしが心ざねしぬびかねつも  千樫
作者は得意だと云つて來られたがどうも賛成しかねる。「下にのみ」と第一句に置いたのが已に説明的である。自分を老いそげ妻と思つてゐる心の引け目のあはれさを主眼として、今つと濃く現さねばならぬ。「しが心ざねしぬびかねつも」など第二者同情の詞を使ふのは此の歌には贅澤である。
   たまさかに吾が胸ひらき語るなべ涙し流す吾が妻汝れは
「吾が妻汝れは」は眞に吾妻の感がするといふ意であらうが、是では未だ不足と思ふ。
   みよりべに妻と二人し行く道に心あやしく我家こひしき
面白いが深くは無い。
   たそがれに映ゆる光のひらめきに心はいたむ隱妻《こもりつま》かも
考へて取つて付けたやうな調子の引喩である。第三句から第四句に入るには唐突の感がする。第五句に入つで成程と思ふ。成程と思ふのは理解を用ひた成程である。隱妻の悲しく寂しい心持を歌はんと(383)して失敗した作と思ふ。
   若草の妻とこもらふ春雨に里は靜けく鷄のこゑ
思想を用ひて居らぬだけ安らかに快く響く。
       假りに妻といふものを想像して
   物いへば心にゑぐし物いはねば影ものさぶし相居る灯  光
普通云ひさうな事であるが、第五句で多少活きてゐる。
   大凡にわれにふるまひしかすがにシヤツの綻び縫ふしかなしも
綻びを縫ふというた丈けでは不足だ。
   うつそみの動きに遠くはなれたる冷かごころ和親めり
「動き」よら「光」などの方が落莫たる境遇が明瞭に現れるかと思ふ。妻としては動くであらうが兎に角よい歌である。
   相向ふ炬燵のともし部屋ぬちの尋さを覺ゆ灯を明うせり
   日にうとき木かげの小草夕風に相倚り立てりよらんとなしに
轗軻不遇の境地に立つて雙影相倚る寂しさが思はれる。以上五首妻の題としては動く感じがある。
   おほよそのをみなにまじり唯ひとり吾がはしづまとあらん子やいづら  胡桃澤勘内
(384)普通の歌である。
   うき草の漂ふ心にゆるる波ほのかにふり來妻といふもの
思想の方が勝つて感じが不足してゐる。
   人あらぬ所に出でて泣きと泣く妻の心をとほ知るなしに  湯本禿山
「とほ知る」を何とかしたいが考へ付かぬ。
   年ながく親のゆるしに標ゆひて待つらく妹と時近づきぬ
「標ゆふ」「時近づく」皆よく感じが合つてゐる。
   朝かしぐくりやととのへ鍋釜の研ぎ光れるがすがし宿の妻  岡千里
「すがし」がよく利いてゐる。宿の妻の清楚な風姿までも想はれる。
   宿の妻の春菜をひくと日掩ひの手拭もるる頬の匂ひ見ゆ
   相共にこひて長きをうつそみの神もゆるせるはれの一夜や  黙坊
相思年あり神も許せり。
   人妻と胸にすゑたる重き戸のとぴら開かず別れけるかも  鵜飼桃栗
易々と云つてゐる。
   あなあはれ家妻わすれ夜の術を唄あさましく醉ひて行く群れ  藤森紫水
(385)
     選歌評  (明治四十三年五月十八日・二十日「長野新聞」)
   川ほして夜の蟹拾ふ松の火は木の間に見えて若葉すずしも  胡鬼子
夜の蟹拾ふといふ云ひ方は近き感じにて木の間云々は遠くより見たる感じなり。從て無理な歌なれど著想新しく面白し。
       杉植ゑの歌
   人の世の曲ごと悲し杉のうねの曲れる見ても我は好まず  古澤芋人
   籠り居を今日し野に出でて杉植うと土ほる我に春の風吹く
   廣ごれる茨しこ薮しかすがにうましき花の香あるを思ふ
   山ひろくうから揃ひて杉植うる心うれしも空麗らなり
   春野やく灰がまひ來もわがぬぎし上衣の上に杉苗の上に
   ゆくりなく山刀《なた》出でてうれし去年の暮落しし山刀《なた》出でてうれしも
   春山の山かひ遠く長鳴りの汽笛聞えて日は落ちんとす
   旅人は何を見てか立つ杉うねのうまし長うね見てか立つらん
形平凡に似て生命あるは何ぞや。只眞の聲の響けばなり。輕視すべき歌ならんや。
 
(386)      〇    (明治四十三年六月三日「南信日日新聞」)
   うつろなす氷の中をとうとうと音して落つる山の瀧かも  柳の戸
「うつろなす」は事件の説明に止まる。
 
     淺葉會  (明治四十三年八月五日「南信日日新聞」)
堀内卓歸國す。望月光癒ゆ。七月卅一日淺葉例會を松本小川亭に開く。會する者二者の外三人あり。卓の顔を見る一年振。光の顔を見る三年振。會者の歡を思ふべし。歌を記して諏訪の同人に示す。
   池のへのふと藺《ゐ》がうれにゆらぐ風水面はしづかありなしの風  光
   水清き泉の藻草なびきつつ搖れつつ咲けり白き藻の花
   川草にかかりてたまる屑木《くづき》らに千鳥遊べり日の夕ぐれに
   青空に亂るる雲の立ちさわぎ早き移りを見てありにけり
   髪たぐと端居に出づるうなゐ兒が鏡にうつる青空の色
題は水草、青空、揺《ゆらぐ》の三なり。光の作に新しきにほひ見ゆ。注意すべし。
   うつそみの世にさかる我や水草のかそけき花に心よりつも  禿
(387)感じ秀でたれど第一二句露骨に下句と合せすぎたり。作者もしか思へり。
   河骨の廣葉がくりゆみづ鳥の雛らが搖らす靜《しづ》の水の輪
   うつそみの心のゆがみ青空に吠ゆとふ犬のそれをしあはれ
下句議論あり。
   河骨のなごりの花のひそやかに水ごもりつつ秋さりにけり
面白しといふに一致す。
 
     選歌評  (明治四十三年十月十九日「長野新聞」〕
       親しき女の隔離病舍になやめるを
   里さかり木立しみ立つかくり屋にいたつきこやる人の悲しも  芋の花人
   秋のはのしみ葉ゆのぼる夕煙消え行く末べむねゆらぎ來も
   夕きらふ丘のかくりや早ともすうすら灯淋し心すべなさ
   夕がほのかをりの軒のむつがたりとりしやは手を思ほゆるかも
   吾が思ひしみまつはりしみどり毛の清がしき髪はみだれてあらむ
       芋人庵にて
(388)   夜の沈みしづけき心かたりつつ投げ出でし足に風さはる覺ゆ
   窓おせばともし火屆く芭蕉葉の廣葉の上に蟲時き見えず
   冷え湛ふ地面靜けし山の夜の家を洩れさす夜更灯の脚
   星屑を朝掃ひせし遠はての空のますみに日を浴むる山
芋花君の歌新に動くものあるを見るを喜ぶ。
 
     選歌評 (明治四十三年十一月八日・九日「南信日日新聞」)
   病みこやす母にかさなる足の傷一人の親に秋をかなしむ  北兎
   足の傷ややおこたると秋日和外に立つ母に心かなしも
   足の傷早も癒やして我がために衣織らんと思ひたまへり
母を思ふ歌三首。心情直敍。力ある所以。
   日にはゆる蕎麥畑《そばばた》つづき野路《のぢ》遠《とほ》に水色の烟《けむ》すみのぼる家  露の舍
幽かな情緒が靜かに浮んでゐる。大によい。
   空のきはみ常世《とこよ》緑《みどり》の里ありてそこの谷かげ清水《しみづ》湧くを思ふ
二首相竝んで風韻盡きず。
(389)
     稻妻句評  (明治四十三牛十一月十四日・二十三日「長野新聞」)
       一
   大いなるもの稻妻の如く去きし
   彼が眼は稻妻なりき醉へば眠し
   森を行けば稻妻幹を穿つかと
   稻妻に知る野の國の土烟
   白樺に庵せりけり稻妻す
   稻妻や森層々と遠き國
……稻妻六句批評願上候。亂暴無茶苦茶のものに候へ共、門外子の作は時に他山の石たることあり。
精細に批評論難して見れば、批評者にも讀者にも有利と存じ候。若し御暇あらば「長野新聞」あたりで一々論難如何……。
       二
「日本人」の俳句は注意して見て居る。個性を現さねばならぬといふ。季題趣味を開拓せねばならぬといふ。其の議論には皆賛成であるが作物を見て何かの不足を感ずるのは何故であるか。素人の故で(390)あるとすれば夫れ迄の事である。素人の不足を汀川君に訴へて汀川が圖らず耳を貸して呉れたのは喜ばしい事であつた。新傾向の俳句に個性の現れてゐるのは僕も認め得る。季題趣味の擴張されてゐるのも認め得る。それでゐて猶僕の不足に感ずるといふのは、作物に落ち著きが缺けてゐるといふ感じが主もな點であるらしい。落ち著きといふのは一句中個々の材料が緊密に調和してゐるといふやうな意味ではない。作物全體即ち一句全體の上から見た調子にガツシリとした据りが欲しい、といふやうな意味である。繪畫でも材料が複雜になればなる程作品全體の上から見た落ち著きが六ケ敷くなる。名畫は材料がいくら複雜であつても、この落ち著きがゆつくりと取れてゐる。作物の氣品は斯くして生ずる。新傾向の俳句を見れば大抵氣が利いてゐる。そして多くのものにゆつくりしてガツシリとした落ち著きが足りないといふ感じがする。僕の作は之を補正しようなど毛頭考へたものでは無い。併し無造作な拙作に對する諸兄の批評が、斯樣な開題に多少觸れて呉れれば今つと喜ばしかつたであらうといふやうな未練も出る。季題趣味の擴張といふ事は、僕が廣義に解し過ぎてゐたので大分諸兄に攻撃されたやうである。他山の石にもならず大に失敬した。
     課題の歌につきて  (明治四十三年十一月二十三日「長野新聞」)
〇課廼、橋、冷、畑、稿を寄する十五人二百二十九首の中三十九首を選出して明日より掲載せんとす。(391)歌のすてられしに不平ある作者は例により選者に宛て無遠慮なる意見を寄せ給はんを望む。
〇取りし三十九首も嚴選の結果に非ず。而も往々進歩せる思潮に觸るる者無からず。曙光を認めて天の將に白けんとするを祝すべきに似たり。反省ある者この曙光に觸るべし。苦心するものこの曙光に觸るべし。苦心の永久なるもの更に多くこの曙光に觸るべし。遊戯的道樂的態度を非とす。微温的中腰態度を非とす。輕浮なるハイカラ的態度を非とす。斯くの如くにして歌を得べくんば天下寧ろ歌無きに若かず。
〇和歌根本の生命は眞摯のみ。眞摯なるが故に至誠。眞摯なるが故に大膽。至誠なるが故に力あり。大膽なるが故に特色あり。自己の感興を中心とせずして漫然他人の足跡を摸擬する者あり。斯る安仕入にて何者を得るか。小膽者の所爲なり。曉起鎌を提げて霜野に立つ歌は冬枯の野にあらず。收穫の田にも有らず。却つて京洛の脂粉にあり。是に有るべくして彼に有り。輕薄者の所爲なり。眞摯あらんや。至誠あらんや。力と大膽と特色とあらんや。
〇寫生的の歌は一轉して主觀的に入れり。主觀的の歌は再轉して印象的に入れり。寫生と云ひ、主觀と云ひ、印象と云ふ。貫くに眞摯を以てするに於て生き、輕薄浮薄を以てするに於て死す。漫然新傾向を唱ふる者の陷る所等しくこの弊なり。俳句に於て然り。和歌に於て然り。日本畫、西洋畫に於て然り。吾人の把持を要する那邊にありやを思ふべし。
(392)〇課題歌中望月光君の歌の新しく動く者あるに注意すべし。印象的色彩の磅薄たるを云ふなり。其他往々にして明珠あり。輕卒に讀過せざらんを望む。形の平凡に似るを以て留意を致さぎるが如きは歌を讀むの人にあらず。
 
     選歌評 (明治四十三年十一月二十五日・二十六日・十二月八日「長野新聞」)
       香を焚き目を閑ぢて吟ずる所
   たちのぼるけむりのほのに遠長くゆたに靜かに眠らんと思ふ  望月光面白けれども三四句に副詞多過ぎたため、却つて感じを散漫ならしめし觀あるを惜む。
   こもごもに搖るる心を搖れしめてうるはしみつつ獨り香たく
第四句惜し。
   立ちゆらぎ我れに來觸るるさけむりのにほひの中に目を眠るとも
六首中の白眉。
       畑
   家の妹の風呂か焚くらし夕歸る花原ごしに煙立つ見ゆ  小沼松軒
輕々看過すべき歌に非ず。
(393)     秋雜詠
   淺茅生に咲けるりんだう秋の日のよわき光に色を沈めり  閑古子
   寺の庭の黄なる公孫樹に秋の日の沁ゐ入るなべにはらはらと散る
   渡し場に殘れる夕日船頭の子等むつみあひぬその舟の中に
   夜くだちと霜やおくらんたまさかに落つる木の葉の音の靜けく
   この朝け柴たくけぶり青く細く木の間をぬひて空高く行く
   霜ましろ枯れし秋野にほそばそとつる龍膽の地にはへるあはれ
新作家の振ふ漸く多からんとするを喜ぶ。
 
(394) 明治四十四年
 
     選歌評 (【明治四十四年一月二十九日・二月二十二日・二十六日・三月十二日「二十六日・二十七日・四月六日・十二日・.十三日「長野新聞」】)
   雪間よりにほひ出でたる梅の花隈なき月の冴えわたるかな  西村二葉御題四首を寄せ來る。試みに一首を録す。明治新時代の歌斯の如く陳腐常套を以て行る可けんや。考慮を望む。
   夜をさむみ一人急ぎ來冬木原流るる星が目にふれにけり  井澤蛇川
   冬枯の白樺木立冷やかに夕日のかげのうすれともしも
   我が思ひまとまらなくに雪の日を炬燵にこもり淋しかりけり
   雪晴れて月さえたれど仰ぎ見る飯綱のみねは雲群がれり
   雪ばれの日かげまばゆき庭に出て色さやかなる飯綱山を見る
   友がりゆ歸る野の道何星か高く冴ゆるに夜の更けを思ふ
(395)   しみじみと物思ひかへるよのふけの雪のくまなく月かがやけり
蛇川君進境歴々たるを喜ぶ。平凡なるに似て力あり、尋常空想間に合せの類に非ず。
   枯原に沈む小草の青き葉に夕べの風のそよろ寒しも (第一首)  田川の里人
   雪の山かくめる底べ昔さび小さき村のゆたかに住めり (第五首)
着想往々にして深し。第一首第五首の力あるを喜ぶ。
   妹と脊の若菜つむ見る身にはしも戀に泣くだに思出多き  粹麗子
君の寄する八首悉く官能的興味に止まるを惜む。更に深きものを求むるに非ずんば一種の遊戯文學に陷るべし。遊戯文學は墮落文學を生むの始め、戒心を要す。掲ぐる所の一首も吾人の希望に添へるものと爲す能はず。反省を望む。
   しづかにも窓にさしよる月かげをみだして木々はうちそよぎける  松島梧風
   青すめる空にかなしくかがやける尾の上の雪の朝のうるほひ
   木の肌のあからあれ目に淡雪の雫はしめるうらさみしけれ
   きさらぎの光りうれしくみてる木の梢にこもり鳥はうたへり
   冷え冷えと腦に沁みくる如月の松の木の間のあかるきひかり
   いろづきて秋より冬のをはりまで落葉する木のさびしかりけり
(396)   雪少しまふ夕空をかへり來てしばしがほどを啼く鳥のあり
   落葉して冬おそくまで落葉して青く芽をふくさびしき木かな
情趣に落ち著きあり。どの歌も皆生きて居る。現し方に更に苦心ありたい。
       淺き春のゆふべ
   仰向けに草にころ臥しおもひ入る空はも低く黄昏れにけり  胡生
   足もとの小草のはなのうすろかに野はたそがれぬそよろふく風
第五句惜し。
   春の光夕ぎらふなべにあめ萬づちよろづものはゆめ見ごころに
   みなぎらふ夕ぐれのいろのさびしみの極みに光る星一つあり
   ふるさとを遠くのがれてかかるよのおぼろのはてにきえんとぞ思ふ
胡君示す所「淺き春の夕べ」中假りに五首を選んでここに掲ぐるは、讀者と共に胡君近來の傾向を伺はんとする意なり。諒を乞ふ。
   かそけかりし雨の名殘りの草の上に青き三日月色深くあり  夜汐女
   低くせまる夜の氣にいそがれ板戸くる音よしみじみ寂しかりけり
   あかときに冷めたき衣かづきするすべなき心身にしみわたる
(397)   雪さそふ風ふきすさぶ筑摩野を一人あゆみぬ鳥一羽とぶ
   父ふしぬ友の言の葉耳そこに殘りて今宵さぴしかりけり
   ガラス戸をもる乏しらの夕日かげしづめる室に行末を思ふ
女性特徴首々に生動するを見る。
   灰色にくもり保ちて夕ぐれのつかれし空に焔吐く山  芋人
第一二句と第三四句との連絡惡し。
   畑墾らく冬野の榾の燃えのこり日くるるままにほろほろ光る  耕村子
   春いく日卵いだける牝の《め》の※[奚+隹]《かけ》黒羽の艶し衰へにけり
   曇り日を靜もり立てるやせ松ににじむや木油汁《やにじる》涙に似たり耕村子稿を寄するはじめて也。著眼几にあらず。奮勵を望む。
 
     課題「草」「耕作」の評
   わが屋根のおどろの草の花さきて久しき秋を人も來ぬかも  山田くにゑ子
原作「憂ひ生るる廢家のやねの草のぴて」とは非常に相違したる訂正にて如何と思へど、憂ひ生まるる廢家にては一般的敍法に過ぎて、作者が如何なる位置に立ちての感情なりや、限定せざる丈け感じ(398)の淺きを免れず。鐵幹派などこんな事には無頓著にて歌作る故、深きもの出で來ぬなるべし。此の他五首を削りし事作者には必ず不平なるべし。手紙にても御意見ありたし。小生より申上げたけれど住所不明遺憾なり。
   うらわかき春草の庭よろよろに稚兒《わくご》のあよみひよこ追ひつつ  明殘
明殘君の此の他の歌を採《とり》得ざりし事、くにゑ子君と同上、御意見御申越あり度し。紙上にてしばしば斯の種の事説きたれど、個人間にて意見を交換するの直接なるに及ばぬ事あり。暫くの間この方針にてやり見んと思ふ所以なり。
   三千尺《みちさか》の不二見|高原《たかはら》家居して桃の畑打つ春おそみかも  唖水
よき歌なり。
     高山植物の歌
   火の山のくなだり黒き石原になよなよ咲ける花をあはれむ  駒草  河西省吾
   山の上に風とくおこり咲き竝める黒百合の花に霧せまり來も
高山植物の如き特殊の材料を詠まんとならば、第一其の歌に高山としての特徴を備へ居らざるべからず。茲に掲げし二首の如きは此の用意に於て略ぼ備れるの感あり。次に特殊の人に知られ居る如き植(399)物名を、漫然歌に詠み入るる事甚だ考へものなり。これらの點より千島桔梗、岩髭、白山いちげ、深山鹽釜、長之助草の如き他の歌を全然刷除せり。
 〔編者曰〕課題「草」「耕作」の評及び高山植物の歌の評は發表年月未詳。
 
(400) 大正四年
 
     選歌に就て  (大正四年「アララギ」三月號)
椋生新平 氏の歌を見たのは今度が初めてである。要所を捉へてゐる歌が多い。表現も上手である。萬葉調にズツト潜心してもらひたい。
篠田祥治 今度のは大へん下手である。一首の材料が或る情調にぴつたりと統一されてゐないのが第一の缺點である。それには一首の中に詠まれてゐる材料が多過ぎるといふ事もある。歌の生命たる調に付ての顧慮が足りないといふ事もある。採つた四首はいい歌である。
小尾石馬 正面から眞面目に事象に向き合ふ所に命がある。これは歌の根本的生命でゐる。今つと表現に熟達せねばならぬ。
小林謹一 氏の歌にも初めてである。素朴な歌ひ振りでいい。感じの集中が足らぬ。
赤木朝志 死を歌ふことは六ケ敷い。事件が餘り重大であるから大抵は事件負けをする。哀語を列べ(401)るけれども哀愁を帶びないといふ悲傷歌が世の中に多い。氏の八首はかなり成功してゐる。萬葉集の輓歌をよく見て教はつて下さい。
高田枯月 死の事件の報告といふ歌が多い。多作するといふ事は一方からは事件を輕く扱つてゐるといふ事である。
佐々黙々 皆一通りに歌つてゐる。更に感じの中核に潜み入つてもらひたい。飯山洋涙男 大へん平明な歌ひ振りになつて來た。そして捉へ方も確かりして來た。
田中秀夫 素朴に落ち着いて歌つてゐる所がいい。表現に苦心する必要がある。
服部胡頽子 ぴつたりと物を捉へてゐる。言語や材料が感じの中心に調子を合せるやうに動かねばならぬ。例へば「霧ふかくこむる奥《おき》べの夜の水うすら光りて鳥鳴くけはひ」の原作は第五句が「夜鳥とび立つ」である。沈み籠つたほのかな光景に對して「夜鳥とぴ立つ」は事件も明瞭すぎるし詞調も強く響きすぎる。斯樣な例は一般の作者に隨分多いから序に抄出したのである。
溝口美滋果 いつもいい所を見付けてゐる。表現が熟さないのは日が淺いからであらう。歌の數を少くして苦作してもたひたい。
苧出孝乎 一擧に萬葉調に突進した作者を尊敬する。しみじみとした歌ひ方である。
後町露光 此の作者の歌も初めて見る。作者は最近に歌を始めたさうである。故ざとらしい誇張をせ(402)ず地味に眞面目に歌つて捉ふべき者も捉へてゐるのは嬉しい。「雪の上にしみじみとしてそそぐ雨柔にして春近みかも」は非常にいい歌である。
淺田※[山+午]※[山+牛] 外界の事象を微細によく注意してゐる所が見える。左樣な歌であり乍ら採れない歌があつたのは惜しい。歌の形に現すには歌として特殊の用意が必要である。
柳本城西 何物でも何事でも歌にしてゐる。報告に傾く所以である。
大石斗鬼 率直な歌ひ方である。單なる敍述に終つてゐる歌も多かつた。採つた五首は皆面白い。
長田林平 今つと確かな現し方を欲する。幾つも雜誌など耽讀してもいい歌は作れぬ。子規歌集や萬葉集を信じて一途に苦節を折れ。採つた六首は惡くない。
山本武夫 率直な歌ひ方が命である。この素地の上に追々自分の建築をしてもらひたい。
上坂稚木 一通り皆纏つてゐる。今つと深く確かり見詰めて貰ひたい。
 
     選歌雜感  (大正四年「アララギ」四月號)
葉山雫 歌が著しくしつかりして來た。表現にずんと骨を折れ。詞や句の用ひ方にも無理な所が未だ多く見える。
高木今衛 君の從來に比して大へん確かに物を見るやうになつて來た。確かに物を見るけれども未だ(403)手に餘してゐる所が多い。取つた歌にはいいのがある。
傳田精爾 物を確實に捉へるやうになつた。併し雜報的な歌が交じる。さういふ歌は取れない。
佐藤史子 冬眠の蛙皆面白し。今少し寫生したらと思はれる。狂女の歌皆不賛成。
上島英 詞だけが活動しすぎるといふ傾きが今迄眼に立つた。今度のは今迄より進歩してゐる。
佐々黙々 取つた歌は皆よく物を捉へ得てゐる。取らぬ歌は皆物を輕く扱つてゐる。
森山汀川 捉へ方や現し方が平明でいい。住宅の歌にはじめじめし過ぎた歌が多かつた。
丹羽富二 取材も表現も素樸で心持がいい。この傾向ですんずん進んでもらひたい。
湯本禿山 手法は流石によく練れてゐるが概念的に傾く弊がある。事件も輪廓的に現れてゐるから雜報的散文的の興味を惹くに止まる。
中村冬雨 相變らず素樸で嫌味が毛頭ない。今つと感じを一點に集中する必要がある。
上坂稚木 眞摯な色がかなり出てゐる。寫生と表現に骨を折つて下さい。
渡邊小角 大分歌が落ち著いて來た。小さな主觀など竝べずに忠實一途に寫生せん事を望む。
太田直人 平明になつて來た。「ただ事歌」も隨分交じつてゐる。
佐藤紅平 物を今つと微細に深く見てもらひたい。一通りは皆成つてゐるが要するに未だ上辷りである。
(404)牛山常靜 月一囘に纏めて送稿して下さい。時に皆いい歌を造る。時に皆取れない滅茶々々な歌を送る。作歌の態度が未だ確立せぬのである。自己の深き感動に忠實に正面に向き合つて歌つて下さい。茅野驛の歌一つも取れぬ。氣まぐれとしか取れない歌である。よく考へて下さい。
小尾楚洋 詞づかひや文法を正しく使つて下さい。或る氣分を捉へてゐるらしいが旨く未だ現れない。原稿紙なくば白い半紙へ正しく並べて書いて下さい。兩角福松 歌の滑りのいい割合に物の捉へ方が大ざつぱである。上辷りになり易い。
谷川靜雄 雜報的の歌が多い。今つとしみじみと物に見入つてもらひたい。
小野三好 よい所を見てゐるが表現が下手である。歌を多く勉強して下さい。廣野杉人 醇朴な歌ひ方でいい。上手がつてごまかす歌よりもズツと心持がいい。只物を今つとヂツと見つめるやうな傾きを持つて下さい。
夜雨徑 無造作に歌ひすぎる。今つとしみじみと歌ひ耽つて下さい。
筏井順一 「もろもろの生にかがやく」「命いとしむ」「金剛力の尊きかもよ」の如き詞皆利かず。他人の歌に影響される事少からんを願ふ。
曼珠沙華 數をズツと節約して意味の通ずる歌を作つて下さい。今度の原稿は蕪雜も甚しい。
小泉歌男 今つと物を確かり寫生して平明に分り易く詠んで下さい。いい歌を作らうなどと餘り思ひ(405)すぎない方がいい。
高津弌 物を輕くサツサと早く片付けて行くといふ歌である。今つとしみじみと見詰めて下さい。
吉田たいし 言語を一通り取扱つてゐる丈けでは斷じて進歩せず。今つと深く事實に住して下さい。
緑川さとる 忠實に物を見てゐるのはいい。更に深く見入つて下さい。
水上晶 平凡な主觀を盛に並べ竝べるより忠實に物を見入つた歌一首作らんと心掛るを望む。
堀内樹 小主觀に墮する心配がある。
岩本千夜江 平明に歌つて下さい。
藤井榮次郎 斷然多作を思ひ止つて下さい。多作してしみじみした歌の出來るといふ場合は例少ないと思ふ。
 
     選歌雜感  (大正四年「アララギ」五月號)
兩角美 見所は例によつて鋭い所がある。そして鈍い所もある。表現の苦心を持續して下さい。いつも何かに到達しさうでゐるといふ感がする。勉強する必要もある。悠長に構へる必要もある。
山本信一 敍述に傾く事がある。「はこべ」の歌はいい歌である。
宇野喜代 眞に自己の歌を作らうとする努力が分る。作者の主觀には少し特異のものを有つてゐると(406)思はれる。表現は下手なのがある。
湯本禿山 斯樣な歌境に立つて膏ぎつた歌を得ようとするのは無理である。技巧の冴えとさびとに集中し給はんを望む。
森山汀川 自然の道を自然に歩いてゐるといふ所がある。そこに持長がある。今少し野心を持つて下さい。
不二子 技巧を弄さないのはいい。かなりいい歌もある。
手塚舜一郎 皆いい所を捉へてゐる。表現もかなり。
加納操 輕く物を取扱ふのは殘念である。小さな淺つぼい主觀を竝べぬのは賛成する。
兩角丑助 句法を平明にして下さい。
兩角つゆ子 今少し廣い眼で物を見る必要がある。
赤沼あいろ 捉へ方が未だ手ぬるい。
荒木暢夫 他人の影響が多い。忠實に物を觀察して下さい。
神戸節 一通り面白い。今少し深く立入つて物を觀て下さい。
廣野杉人 正直ないや昧のない歌であるが、何時までもこれ丈に止つてゐてはいけぬ。
後町英久 一通りの見方過ぎる。
(407)湯山哀塔 一通りの主觀を竝べるな。物を今少し深く見よ。
蒲原草之 見方が一通りである。數を少くしてよく錬つて下さい。
長崎正文 寫生に今つと力を入れて下さい。
古屋秋峰 歌の取扱ひが蕪雜に傾く。幾分腕の達者なことが禍してゐるかも知れぬ。終りの二首はいい。
牛山常靜 見方に面白い所がある。今つと苦心せんを望む。
中村花唄 觀察に作者獨自のものがなくてはならぬ。數は今つと少く作つてもいい。
後町露光 見方を深くせよ。君の物の見方は百人が共通の見方である。
一柳忍月 ズント深く立入つて下さい。
青木不美男 歌の勉強が足りない。歌澤の歌などへ手をつける前に勉強すべきものが澤山あると思ふ。
高津はじめ 見方も歌ひ方も輕い。
吉田白楊 ウント寫生に力を入れる必要がある。小さな一通りの主觀など竝べるな。
後町政興 中に少し光つたのが見える。ただ事歌が隨分ある。
立川清志 女の歌悉くだるし。忠實に寫生した少數の歌を見せて下さい。
(408)千野鵲 傘の歌面白い。ただ事歌隨分多し。名札の歌も地味でいい。
手塚岩失 語旬の修練にも苦勞する必要がある。
馬杉徳平 忠實な歌ひ振りと思ふが未だ不足してゐる。
關戸五百里 全體に眞摯に物を見てゐる所がある。浮薄でなくていい。併し未だ足らぬ。
 
     七月歌篇  (大正四年「アララギ」七月號)
池本周山 工みなく滯りなく自然に自由に行つてゐる所が面白い。
 
     八月歌卷  (大正四年「アララギ」八月號)
葉山雫 見所も利いてゐる。調子も張つてゐる。中に大したものもある。素人らしい所が多いが若い作者としては苦にならない。只一途に直進すればいい。築地藤子 自由なる自己の境地を有せり。前號に比し、緊《しま》らざる感あり。
湯本禿山 流石に老熟してゐるけれども、現し方が理智的に流れ易い所もあり手が入り過ぎた所もある。選び方につき御異見あるべし。高示を乞ふ。
森山汀川 例よりも苦心足らざるを覺ゆ。如何。
(409)飯山津涙男 終りの旅二首面白し。見付所が自然で其の上に利いてゐるからである。
溝口美滋果 時々光るものが交じる。現し方が未だ熟せぬのを惜しむ。
   霧の中トロツコ黒く動かざり石灰山《いしばひやま》のいまだは明けず  高木今衛
第三句「動かずも」を「動かざり」と訂し、第四句「石灰山は」を「石灰山の」と訂した。
永田健崖 時々利いた歌あり。文字の不分明なるには非常に困る。讀み得ずして止みし歌もあり。どうか一字一字を離して楷書に書いて下されたし。假名も一字一字に離して下されたし。振仮名にも平假名を用ひて下されたし。姓名も罫の中へ入れて書いて下されたし。
廣野杉人 何處迄も作意がない。今少し見方が利いて調子が引緊つてもらひたい感がある。
宮坂緑穗 詞に大分無理が無くなつた。見所を深く鋭くして下さい。
赤屋人門 終りの方に光るものがあつた。一通りの主觀を竝べた歌は皆不成功であつた。正述心緒といふやうな歌はむづかしい者である。
尾崎潮平 心利きし所によしあしあるべし。もつと鈍重にてよしと思ふ。
竹内泰比呂 歌が健全になりつつあるを歡ぶ。見所は今少し鋭く願ふ。
荒木暢夫 突き入りて物を見る眼を養ひ給へ。
小百合 無理なくてよき所あり。もつと重々しくてもよしと思ふ所あり。
(410)吉澤渚 馬の産地だけありて活きた所がある。もつと澤山馬を詠んで見て下さい。
北野光照 一通りの見方から漸次自己の持色を生み出さんを望む。自分に最も親きものは自己なり。
   ゆふべ野のつゆにぬれつつ猶とほし月ほのぼのと上りけるかも  青木不美雄
第三句「猶遠し」の猶は疑問である。原作の「さまよへば」と比べて下さい。大切の所。今少し突き込んだ見方を欲する。
田中利二 調子萬葉調ならず。柔軟にして萎み易し。もつと鋭く強からん事を望む。文字丁寧にて非常に有難し。
上原照藏 見方も現し方も幼稚なり。気取る歌よりも心よし。御勉強を乞ふ。兩角喜博 幼兒死去の歌不用意にて取られず。歌を學ぶ所あれかし。
河西葛夫 歌に苦心する要あり。
熊井鵞村 普通の感傷を普通に扱つてゐる歌皆取れず。思つて見て下さい。
大澤祐一 已に曙覧の獨樂吟あり。漫然類作すべきにあらず。如何。
後町政笛 もつと歌に皆熟する工夫を願ふ。
 
     凌霄花集  (大正四年「アララギ」九月號)
(411)築地ふぢ 自由自在なること水の低きに就くが如し。寔に佛心圭礙なきの類か。斯くの如く澄めるもの遂に冴えに入らずんば已まじ。急ぐべからず。緩ぶべからず。
服部胡頽子 大抵の歌皆採れる。澄み入る者多し。緩べすに押し給へ。
小百合 一通りよい歌である。藍刈を今少し微細な神經で見たらいい歌にならうと思ふ。
藤井烏※[牛+建] 敢試鈍剪。恐懼甚矣。
飯田義男 見方も現し方も順直にてよし。
高木今衛 採らざる歌も眞面目に事象に對するは快し。
   ほとほとに鰹節《かつを》かくさへ力なく涙を流す妹し悲しも  渡邊小角
一二三句面白し。
自己の見方に入りつつあるを歡ぶ。句法と調と追々引き緊らんを望む。
飯山津涙男 努力見ゆるは嬉し。句法を順直に用ふる事も以前よりよし。
若葉冷二郎 物をぢいつと見つめて下さい。
溝口美滋果 此度の歌皆一通りの見方にて多く採らず。
小松星視 見方も現し方も自然にてよし。
榛原胡鬼子 山蠶の歌更に詳しく觀寮して詠まん事を望む。必ずよきもの生るべし。
(412)池本周山 見方句法いつもより引き緊らざる觀あり。
辻村直 佛の歌皆採らず。佛語を消化すること一通りにては駄目なるべし。
君御道 事象を今少し深く見詰めて下さい。
近藤憲一 今つと正確に物を見て引き緊めて現し下さい。
西井金羽 見方も現し方も大なる苦心を要す。
 
     石枕集  (大正四年「アララギ」十月號)
兩角丑助 詞や句法の無理甚だ多し。捉へ所利きたれども其の爲に採り得ぬもの多し。
服部胡頽子 材料よくして材料に負けたる觀あり。
小松峰月 平明順直にして皆要を捉ふ。歌ひぶりも素樸にてよし。
傳田青磁 敍述より漸く情趣に入るを見る。喜ぶべし。
西角貞 一通りに行《や》りてあり。これ以上に深く入りて捉ふる工夫あれかし。
鈴木隆 物を丁寧に見てゐるのはいい。現し方が敍述に過ぎる。
藤井榮次郎 言語の駢列のみでは歌にならず。物をぢつと見て息を深くして詠んで下さい。
早出泉歌 何れも一通りの扱ひ方なるを惜む。
(413)内田厨村 現し方を平明順直にして下さい。日を頌ずる、夢野のなやみ、尊さに居り、などの歌よきやうにて幼稚なり。今つと事物を深くぢつと見つめて下さい。
 
     小春日集  (大正四年「アララギ」十二月號)
松澤津禰喜 材料みな生く。山の生活に深く浸れるが故なり。
櫻井みね子 一見平凡の如くして格調朗々たるものあり。
池本周山 今囘の詠草、見方も感じ方も一通りにて多く取られざりしは殘念なり。
内田博扶 確かに物を捉へんを望む。
 
(414) 大正五年
 
     春寒集  (大正五年「アララギ」二月號)
間々田多助 素樸にして忠實なる風※[蚌の旁]鮮かに現るを喜ぶ。
小林秋丘 漢字を、も少し混ぜて下さい。
中村忠躬 物を微細に見つめて下さい。
高並光 先づ事實を正確に捉へ正確に發表する事に熟せられん事を望む。
保田好男 表現に苦心して下さい。第一に意味が正確に通じねばなりません。一首に通じて響く調にも氣が付かねばなりません。
葉間登 物を微細に觀て下さい。表現にも容易に滿足せぬやうにして下さい。
 
     早蕨集  (大正五年「アララギ」三月號)
(415)早川博 自然にして素樸なる聲調を取る。
永田健崖 取りし歌皆よし。現し方につき勉強ありたし。
山城義視 捉へ所皆利く、現し方拙くて無理あり。
荒木知二 達者なる所がある。夫れが禍して疎大な捉へ方や、現し方をする所がある。
牛山釜雄 一首では物足りない。五六首位は作つて送つて下さい。
北村秋二 物をしつかり捉へて下さい。
 
     春雷集  (大正五年「アララギ」四月號)
   雲うごく空のそこひにきらきらと光れる星のただ一つみゆ  三原空蝉「そこひ」は他によき詞あるべし。
功力智登志 春の神、春の生命、吐息つく野など濫用し給ふ可らず。幼稚なる主觀をすてて專心に寫生し給へ。
功力草一 詞や句法を正確に用ひられたし。
一志一郎 寂しいとか、物思ふとか言ふ事儉約して寫生を多く勉強した方が爲めになるやうである。
原夕彦 思ひ切つて萬葉調に投入して見給へ。
(416)鯵坂愁花 幼稚なる感傷を棄てて只寫生を念とせよ。
 
     啼鳥集  (大正五年「アララギ」五月號)
結城のし 女人至上境を現せり。諸相具足せんとす。
 
     青梅集  (大正五年「アララギ」六月號)
山城義視 發表を今つと正確な語法と句法とに據つて下さい。萬葉集金槐集乃至竹の里歌等につき辛苦して勉強して下さい。
西川峽花 前半眞面目に寫生したるはよし。後半其の反對にて取らず。
内田厨村 いい所を見た歌がありますが、技巧に不慥の所がある。萬葉集をよく御讀み下さい。調子もしつかりして來ますから。
佐野里人 輕く淺く物をつかむ傾あるは取らず。しつかりと、深くと願ひたまへ。
柴田楊花 今つと眞劔に物に對する要あり。
 
     選後小紀  (大正五年「アララギ」六月號)
(417) 安易な感傷的の歌を取らない。誰でも一度は通るかも知れないが、體質や氣質の加減で、何時までも、さういふ處に立ち止まつてゐるのは困る。況して、さういふ域を詩人の領分だなどと考へてゐる人がゐれば、夫れは勘違ひである。
 我等の歌は、もつと強い力に根ざした權威あるもので無ければならぬ。敵に對した如く眞劔に、盤石を据ゑたやうにしつかりしたものでなければならぬ。さうして、夫れは、感情を結晶させて意志の力にまで突き進んで居らねばならぬ。況して、浮氣な戀、無恥な生活、頽廢の心、すべて左樣な心に任して歌を作るなどは歌に對する冒涜である。人間此の冒涜多し。歌界亦この冒涜無からんや。我がアララギには斯樣な輩一人もなしと信じて歌を作りたいのである。         〇
 物に觸れずして心を動す事なし。心の動くは物に對して動くなり。我等歌はんと欲すれば物を深く見詰めざる可らず。物をしつかり捉へざる可らず。捉へて其の中核に觸れざる可らず。要するに我等は物を重ぜざる可らず。物を重ずるを見て没我の事となし、没主觀の事となして笑ふものあり、此の徒果して自己の心を重ぜざるの徒なり。諸君の根氣よく寫生し給はんを望む。
         〇
 物に對する眞劔なるべし。全心を集中すべし。正面より向ふ可し。向つてづつしりと突き當るべ(418)し。横向きし、手先の器用をし、科《しな》をやり、上手《じやうず》をやり、すべて才ぶりたる生《なま》ぬるき態度品下りて力なし。我等の徒は只力あらんと心掛くべし。力あらんために世に苦しみ、修業もすなり。一字一句に苦しむも、力生まんための修業なり。この意義を離るれば技巧は手先の細工なり。この度、我等極めて勘違ひあるべからず。
 歌の意は順直に通ずべし。ひねくる可らず。國語は正しき意に從ひて使用せらるべきなり。無理な使ひ方惡し。假名使ひも誤らぬこそよけれ。文字の書きざま亂雜なるものあるは如何にぞや凡そ斯る事、己が歌を愛し、己が歌を重ずる事なきが爲め歟。文字を用ふる人、文字を麁末にしては勿體なき事なり。商人錢を麁末にし、農八米を麁未にすると同じ。歌の冥利惡しかるべし。國語の意義と假名遣ひとに疑ひあらば、「言海」を引き給ふべし。一册一圓にして縮册本を得べし。夜見世古本屋等にては猶安價にして得らるべし。勿體なきほどの事なり。
         ○
 歌の題も名前も、原稿用紙の罫の内に御書き下され度候。白紙用ひらるる方は、右端を七八分あけて御書き下され度候。これは、小生等の手數助かるため御願申上候。夫れから漢字は楷書に願上候。結構な字にても草書や續け書きは原稿として困り候。
(419)         〇
 小生等の採らざりし歌に疑義あらば、その歌を明記し切手封入にして御質問下され度候。問答の中より選擇して、アララギに掲載しても宜しく候。其他一切の疑義何にても宜し。遠慮を要せず御申越下され度候。
 作歌はあまり休み候はば億劫になり申すべく候。縁つなぎに數首位は毎月御出しあらんを望み候。拙《まづ》くても宜しく候。
 
     凌霄花集  (大正五年「アララギ」七月號)
藤井烏※[丑+建] 農稿遲著、今日披見、境姿雙生動、不失爲近来快作、私剪私刪、失禮甚矣。寛恕々々。(六月二十五日)
 
     紅櫨集  (大正五年「アララギ」十月號)
中村美穗 字を分るやうに書いて下さい。分らぬ字は字引を引いて下さい。假名遣は言海を見て下さい。
 
(420)     あかつき  (大正五年「アララギ」十一月號)
上坂信勝 今つと引き緊つた見方をしたまへ。
名取健郎 今つと突き詰めて物を見給へ。原稿紙は大きいのを用ひてくれ給へ。
   うつそみの黒く生れて意地ぞ惡しわがくろ馬は可愛きろかも  兩角波夫
第一句「うつそみの」續け方變なり。
 
(421) 大正六年
 
     辛草集  (大正六年「アララギ」二月號)
   うち向ひ酒をのみつつうつし身のさぴしき時は物を言はずも  服部胡頽子
第一句具體的に現したし。
   暮れ行く街をいゆけば大雪の晴れ間《ま》を出でで雪を掻きをり  同第一句雪道の服裝等現す方よし。
   船頭の女兒は面白漬菜樽のまはりをめぐりて一人遊べり  廣野三郎
よき所を見たり。
   山の寺の時告ぐる鐘のこだまする冬の港のさぴしきろかも  磯上小舟
「こだま」と大仰に言へる宜し。
   つたひ來る筧の温泉《いでゆ》眞裸に浴びつつぞゐるさ霧の中に  羽賀行果
(422)五句歌を生かせり 眞裸は要らず。
土屋與作 表現皆氣が利いてゐる。更に深く物を捉へよ。
   湯氣のたちほとほと煮ゆる牛鍋の匂ひただよふ夕の室に  早川博
牛肉の歌動機無造作に過ぐ。概ね採らず。
相澤ひがし 自ら精選して投稿を三十首迄にし給へ。
   山門を深くとざして寶泉寺の池のうすらひ月明りせり  依田柳絮
他の氷の月明り山門と相俟つて宜し。
   米俵|橇《そり》に積みつつ百姓は雪の野道をひた急ぎ行く  中村冬雨
斯樣な所を沢山歌つて下さい。
   ぽつたりと蠅わが膝に落ち來り少しも動かず冬の日の午後  塚本平一郎
「少しも」にて利く。
   爺飴屋夕の辻に笛吹けばあたりの兒らはことごとく集る  同
「ことごとく集る」を取る。
   さ庭べの大樫の根のあららぎは霧の雫《しづく》にぬれにけるかも  壹岐信悟
此の歌捉へ方も表現も利けり。
(423)
     早蕨集 (大正六年「アララギ」三月號)
   一昨日の寒さに結びし厚氷昨日も今日も解けず曇るも  磯上小舟
醇直にして心籠れり。
   正月となりし筑波の廓の灯夜ごとに明く見えにけるかも  佐藤雨
「正月となれば」と「正月となりし」と御較べあれ。
   筑波嶺に初雪見ゆと里人は朝のことばをかはしけるかも  同
筑波山の歌多くよし。
   春に入る幾日を南の降らざれば梅花《うめ》は乾きて咲きいでにけり  同
これもよし。
   故里のせどの堤にかけ群れて土ほりしかば款冬《ふき》の薹見ゆ  依田柳絮
よき所を捉へたり。
   干菜截るわが家のやから眼と眼とをあひ見つつ聞く山のなだれを  滋野彦麻呂
家族と言ふよりも今っと具體的に現し度い。
   朝日影あまねく渡る苗木山山鳩の鳴くこゑぞ聞ゆる  大石斗鬼
(424)第一二三句非常によし。四五句を改む。
   ひつそりと白き椿はさきゐたり百舌鳥なきうつり搖るる梢に  田口かよ子
見付所も現し方もよし。
   一面にあつく氷れるつかひ川に穴一つあけて顔をあらふも  兩角とみの
よき所を捉へたり。
   初雪の降りおける村の板橋を我れ第一に渡りけるかも  冬木水流
第四句率直氣に言ひ下してよし。
   落葉松の林の中を歩みつつ交す言葉の少なかりしも  伊藤まさ
第四五句平凡の如くにして甚だよし。
   蓮華草一めんに青き冬の田に我は疲れて腰をおろせら  田中露村
取材皆活く。現し方も自然にてよし。
 
     四月集  (大正六年「アララギ」四月號)
   倉庫河岸むつきほされしそのかげに羽子をつき居り女の童一人  廣野三郎
よき所を見たり。
(425)那岐麓 進境著し。調子窮屈なる弊あり。
伊東保雄 素直な現し方を冀ひ給へ。
服部胡頽子 何れも一通り整へり。更に深きものを捉へよ。
荒本艸彦 容易な主觀や表面的の物の見方から一歩進めよ。
松井紫陽 歌ひ万素直なり。只事多し。
柏原靜樹 現し方馴れざれども力こもれり。
木村ふくじ 捉へ方も現し方も一般的なり。
百瀬千尋 感じ方も現し方も甘たるきもの多し。工夫を祈る。
岡白汀 ふざけては歌にならない。
 
     五月集  (大正六年「アララギ」五月號)
白山久遠 單純と無造作とを取違へてはならぬ。全體を通じて作歌の動機が輕卒である。
 
     青果集 (大正六年「アララギ」六月號)
山口好 聲調皆優る。歌柄が大きい。
(426)佐藤雨 形が先に整ひすぐる觀あり。
北澤淳一郎 歌ひ方素直にてよし。「※[古の草書]」の字は「こ」と書き給へ。
中村徳之助 捉へ方も現し方も不足なり。勉強の御工夫を望む。
市毛竹枝 材料眼立ちて歌負けたり。
 
     七月集  (大正六年「アララギ」七月號)
松本楢重 格調皆整ふ。内容充實せしめよ。
磯上小舟 内容と格調と共に盛氣こもれり。
永由健崖 原稿紙は紙質の厚きを用ひ給へ。小尾左歌麿君も然り。今囘の健崖君の歌皆よし。
林田重行 格調整へるものあり。追々に新しき境を拓かれんを望む。
那岐麓 捉へ方よきもの多し。單純に現す事を心掛け給へ。
傳田青磁 一點に集中した表現をせよ。
一瀬朽錦 平明な歌ひぶりにて要を捉へたるが多し。
霧萬石洞 多くはよき所を見給へり。表現未だし。
青木緑雨 一般に亙つて見方が粗い。
(427)市毛竹枝 物の見方が未だ安つぽい所がある。
宮坂英一 咽喉病といふ事に關はり過ぐ。多く取らず。
相原千里 感傷に過ぐるものあり。表現も周到ならず。
 
     白雲集  (大正六年「アララギ」八月號)
服部胡頽子 形既に整ふ。深き内容を求めよ。
室岡恒雄 句讀點打つ可らず。
岡田薫緑 今つと足をすつて歩き給へ。
兩角碧水 原稿紙へ正しく書くべし。句讀點は打つ可らず。
 
     稻妻集  (大正六年「アララギ」九月號)
武田紫城 どの歌にも作者の力量見ゆ。
古畑刀毛 酒の歌、も少し作つて見給へ。
森土秋 見方が未だ表面的の所がある。
   ありなしの風のさわたる蘆群《あしむら》をかそかに見たりその秀《ほ》の光り  津田竹實
(428)第四五句轉換する方よからん。
   河口の底ひの土はふくれ上りところどころに蟹の穴見ゆ  同
蟹の穴を今少し一心によんで見るとよかつた。
清水楸 蝦の泳ぎを今少し作つて見給へ。
古川霞山 アララギ奥付上欄を見て、規定通りに原稿を書いて下さい。萬葉集や子規の歌集等を根気よく讀み給へ。君には夫れが今急務である。
 
     霜月集  (大正六年「アララギ」十一月號)
小尾左歌麿 うそ字を書かぬやうにして下さい。
菱田靜 物の見方が未だ外面的である。「紫の國ゆあまねく秋は來にけり」などが夫れである。
藤澤眞花 取らぬ歌にも人眞似ならぬよき所あり。
 
     寒禽集  (大正六年「アララギ」十二月號)
上原照藏 よく練つただけに歌がしつかりしてゐます。
   雨やみて幾日《いくひ》も經ぬに谷川は木の根を掘りて水乾きたり  谷口山梔子
(429)現し方惡し。君の歌見所皆利く。表現に苦心し給へ。
名取健郎 病舍の歌よし。毎月三十首以内にし給へ。
芥子澤新之助 君はいい所を見てゐる。表現に苦心し給へ。
古屋秋峰 貴兄には麁雜に物を取扱ふ所あり。深く穿ち給へ。
船木順 形整へり。深き捉へ方を念じ給へ。
   午前掘りし土は乾くも午後の土濕りて見ゆるだんだん畑  岡白汀
捉へ所よし。
   吾妹子の機織る音のいとほしく秋雨の中に聞え來われに  同
見方現し方に粗雜の所あり。
横田秋草 形は整へり。内容の充實を圖れ。
 
(430) 大正七年
 
     初白集  (大正七年「アララギ」一月號)
   秀枝《ほつえ》たかく旭影《ひかげ》は仰げ朝じめる竹の下徑はだ寒くおぼゆ  加納小郭家
秀枝の現れ方突然なり。
古川藻花 捉へ所利きたる多し。
橋本冬古 捉へ方も現し方も確かなり。
小野陽 六首皆或る域に進めり。
齋藤迷花 皆おもしろし。
 
     春寒集  (大正七年「アララギ」二月號)
   しづみゐる孟宗林ひるのまの籾摺る臼のうどみきこえ來  原夕彦
(431)うどみの如きは自註を要す。
有賀清子 字の大きく書ける普通の紙を用ひ給へ。夫れから赤い太い線は朱墨を用ひるに不都合である。君は男だらう。女名は止めたまへ。
 
     早蕨集  (大正七年「アララギ」三月號)
橋本冬古 氷雪の歌新しく面白し。
 
     四月集  (大正七年「アララギ」四月號)
   屋根の上に積みたる雪や重るらし障子のあけたてしぶくなりたり  茅野耕一
よき所を見たり。
   はつはつに麥は青めりこの雨をよく滲むといふ村人どもは  松本楢重氣が利き過ぐ。
   晝の火事鎭まりそめて夕されば空紅々とやけて見ゆるも  磯目勝三郎第一二句工夫あるべし。
   落ち松葉土には多く冬暮るる山をあるけど草鞋よごれす  五味卷作
(432)第三句惡し。
   そのかみのわが指の疵癒えなくにあかぎれとなり冬は來にけり  齋藤迷花
第一句具體的なるべし。
   額ぎはに汗はにじめり枯草の土手下みちを小走りに行き  岡野もと
「額ぎは」ここには如何。
佐藤博 貴下の歌は巧みなり。巧みは必しも幸ならず。
小野進 貴下の歌は或る域に進んでゐる。苦心をつづけ給へ。
   屋根瓦いてわれにけむ凝る雪のとけゆくなべにしづくおつるも  服部胡頽子
第三句以下なまぬるし。
   いつになき朝の靜けさつぶら眼をみひらき吾子は寢覺めてゐたり  内田尉村
第一句はもつと具體的に言ひ給へ。
   薪《まき》割りて憩ふ日向に榛薪の水あげ初めし匂ひ甘《あま》しも  古屋秋峰
よい所捉へたれど現し方わろし。
栗原眞平 形整ひ過ぐ。内に生動するものあれ。
井上智 も少し深入りして物を見給へ。
(433)中村徳之助 作歌の苦心は分る。捉へ方足らず。
   夕寒むき土間にかがみて靴みがく吾にもたれる子らは愛しも  高木幹吉
愛しもと言はぬ方よし。
   月の光琳しきかもよ田舍家の屋根に殘れる雪をてらして  芝野花
第五句不可。
近藤修一 君の歌あらはに生《な》まな所多し。
杉山省三 一通りの詠みこなしに甘ずる勿れ。
清水玄々齋 貴下のは歌ひ方窮屈にて苦しさうなり。
大澤雅休 費君の歌未だ心弛める所あり。
徳永慶三 作歌の態度から出直す要あり。
船木順之輔 今つと平坦自然なれ。
   日おもての凪ぎの渚の岩の背にぬらしし足袋を干しにけるかも  正井雪枝
第一二三句苦し。
倉田美喜子 皆一通りの歌なり。
花園薫 君の字は粗雜で困る。遊廓などを甘えて歌ふな。
(434)源泰 形式的たるを免れず。よく考へ給へ。
清水徳良 すべて中心點に集中する工夫ありたし。
   春雲の今日も曇れる榛原の木の下道をかくろひ行くか  功力草一
第五句惡し。
 
     春服集  (大正七年「アララギ」五月號)
   しかすがに嵐を待つか椎の葉はしきりに戰きたそがれ迫る  高田浪吉第一二旬惡し。
   たつぷりと雨氣を合む夕空に風吹きいでて夜となりにけり  同
第一句考ふべし。
   高原に一人の歩みさぶしけば日を戀ひつつも霧の流るる  森山汀川
第五句如何。
   青草の萌え出づる丘に白雲が觸れて浮べり雲雀の声す  草生葉二
第四句猶考ふべし。
   杣山に仕事慣れねば手をやめて立ちて見て居り父の樵るを  源泰
(435)「手を止めて」ここには不要。
   掌《やなそこ》の小さき肉刺松葉して刺せばともしく水出でにけり  同
「ともしく」不可。
   夕されば楢の枯葉に音立てて吹く風寒くなりにけるかも 同
この歌よし。
   小夜更けて榾火焚きつつおごそかに板戸隔てて産声聞けり  同
「おごそか」落付かず。
   織りあげて庭に干したる蠶筵《こむしろ》の新藁の香のほろにがきかも  古屋秋峰
五句言ひ過ぐ。
   春の氣のみなぎる朝のさ庭べに昨日《きそ》割りし薪《まき》しめりて居たり  同
第一二句惡し。
   蹠《あなうら》に脂《あぶら》にじめり笛吹のつつみのうへを歩む春の日  同
貴君近來捉へ方非常に進めり。この歌第五句如何。
   沖邊には舟を繋ぎて數多の兒頭を浮べ泳ぎ廻れり  岡東華
第四句生き居り。
(436)丘山彦 捕捉表現皆至る。瘤の歌取らず。
   土ぼこり吹き立ち走る道の上にひた目つむらし遊子あはれ  茅間〓音
「遊子」如何。よき所を捉へたり。
   夕燒の雲を久しく仰ぎ居てふとうつむきしに眠くらめり  廣瀬白帆
「ふと」は他にあるべし。
   嵐あとつづきて二日照りたれば庭に下り立ち種蒔く母は  同
よき心持す。現し方も素直にてよし。
近藤修一 煙火の歌以下事件を敍するに止る。貴見如何。
   ゆるやかの水面に白き藁流るそぞろ歩きの堤はよろしも  登内保雄
現し方足らず。
   熊笹のさゆれにゆれて山寺に讀經始めとふ 鐃※[金+拔の旁]ならせり  大澤雅休
第四句考ふべし。
   池のべの猫柳の穗いつしかもほほけて春は幾日經ぬらむ  矢野幹男
「いつしかも」の代りに穗を、も少し現す方よし。
   枯草をふみつつ行けばころころと蛙はなくも春淺き田に  北澤淳一郎
(437)第五句猶あるべし。
   松かさをあさる松雀の飛びかひに松葉こばるる山の寂しさ  藤森青二
「寂しさ」ここには不要。「飛びかひ」は當らず。
   現し世に事絶えますか母のみの呼吸ととのはずわが目の前に  岩澤落葉
わが目の前に「母のみの」は變なり。
清水敏一 貴君の歌一般に、も少し深入りして捉へ給へ。
辻村直 貴下の歌事柄を竝ぶる丈けにては不足なりと思ふ。如何。
名取健郎 も少し確かり握み給へ。
瀬尾郊外 すべて現し方を苦心し給へ。
岩下巖泉 専心に寫生し給へ。
 
     青梅集  (大正七年「アララギ」六月號)
   しどみの花日の照りさかる坂路に赤くつづけるが遠くより見ゆ  持井のぶ
現し方を猶考へ給へ。
永田健一 譯のわかる樣素直に作り給へ。
(438)   白山羊の仔の離るれば親山羊は気づかひにつつ呼びにけるかも  中村きみょ
四句寫生にて行かばよし。
 
     夏斷集  (大正七年「アララギ」七月號)
   谿そこのなかばは水にひたりたる岩に陽のてり明るきま晝  本元法師
よき所なれど第二三句説き過ぎたり。
   雪の爲め葉の枯れ落ちし楠の木に赤き芽を見つ初夏の朝  城兵馬
第五句惡し。貴下の歌單純に深入りする工夫ありたし。
小尾左歌麿 君の歌詞句に無理多し。平易に言ひ給へ。
 
     舊林集  (大正七年「アララギ」九月號)
國原廣耕 拙づいのもあるが人眞似がなくていいのもある。
工藤倭歌麿 現し方素直にてよし。捉へ方に用意ありたし。
齋藤松五郎 今度の歌は境地皆貴下に惡しかりき。
五味實郎 現し方を勉強し給へ。
(439)小松星視 捉へ所おもしろし。も少し考へて見給へ。
 
     山海集  (大正七年「アララギ」十月號)
加納小郭家 俄瀧の歌むづかし。御苦心を望む。
早川流木 貴下の歌特長あり。現し方に苦心し給へ。
   みんなみの雲の夕燒畑中にわがたたすめば蕎麥の花白し  荒本哀禾
みんなみ猶考ふべし。貴下の歌今一息の感あり、見方も現し方も。
   多米山の松原しげみいさなどり濱名の湖はこもり沼と見ゆ  生品新太郎
高手欽すべし。
   あけ方の空のそこひの雨もよひ重々ひぴけり荷車の音  高田浪吉
そこひ如何。
竹尾忠吉 苦心の痕を見る。益々御工夫あれ。
   うまやなる柱のへりを這ひのほるこほろぎあはれすべり落ちけり  高島龍二
へりは言ひすぐ。
   いとけなき我が妹《いもうと》はこほろぎを紙につつみて床に入りけり  同
(440)「妹なれば」わろし。
   眠りさめし勞働者大きくあくびして腹へりたりといひにけるかも  國原廣耕
勞働者の歌むづかし。前號に比して甚しく劣れるは如何。器用すぐる所も少し見ゆ。
五味卷作 登山の歌四賀村諸君皆捉へ方足らず。
   とらへては見たれど雀あはれなり血まゐれになりて口をあきたり  松澤千里
題材むづかし。
金子晋策 も少し愼密に作りたまへ。
 
     山果集  (大正七年「アララギ」十一月號)
   黄ばみたる障子にここだ雨の染《しみ》眼につくほどに秋は深みぬ  小野陽
「ほどに」猶考ふべし。
小平守臣 も少し急所を捉へたまへ。
   帳面と現金と合はずしかすがによるおそければ腹のへりたり  古屋秋峰
「しかすがに」猶考ふべし。
 
(441)     冬至集(大正七年「アララギ」十二月號)
渡部夢明 調子、も少し落ち着いた方よきやうなり。
 
(442) 大正八年
 
     一月集  (大正八年「アララギ」一月號)
宮澤義男 多作するよりも深入りして練り給へ。
   囚屋ぬちに病みて死にけむ囚人のうち細りたる筋肉《ししむら》を解く  上代皓三
この歌よし。
松田廣美 皆新しき匂ひす。
佐々獣々 貴下の歌、も少し内面的に深く入り給へ。
   水仙の芽はいでにけり竹たてて人等ふむなと愛でにけるかも  中川竹子
第五句考へ給へ。
   ねころびて掻けばさらさらくづるなりお磯の砂山砂は乾きて  齋藤松五郎
上下句の關係を考へ給へ。
(443)島秀彦 多く輪郭的なり。寫生に苦しみ給へ。
 
     早春集  (大正八年「アララギ」二月號)
   うたたねのさめて寂しきこの夜更屋根うつ雨の音ましにけり  飯山鶴雄
第四五句よし。第二句猶考ふべし。
飯塚衣子 みな自然に行きをるがよし。
   ほのぼのと雪降る夕松原に車の音のたかくきこゆる  小松峰月
「ほのぼの」惡し。
   雪解けの雫ぬくとき墓原の樹にかたまりてさへづる雀  市毛宮之助
第二句考ふべし。
   ついたちの雨は凍れる山峽の氷の上をすべりて流る  小池徳衛
歌ひ方順序惡し。
   煙突の煙とだえてもだしたる岡谷のまちに雪ふりにけり  松倉樺雄
第三句惡し。
藤津逝水 すべて深入りして物を見たまへ。
(444)伊藤利孝 調子に乘らず物をしつかり見給へ。
 
     三月集  (大正八年「アララギ」三月號)
   曇り空雨おち來《く》らし水の面に小さき輪型《わがた》現れにけり  石村松五郎
輪型窮屈なり。單に輪にてよし。
大石亮三 寫生淺し。
下田柑子 深入りして物を見よ。
三原空蝉 一點に集中し給へ。
 
     四月集  (大正八年「アララギ」四月號)
長田節夫 捉へ方未だ足らず。
乾林莊 皆直截にてよし。
   家のかげになりてさびしも敷藁に滲み出し泥は氷りたるかも  友常小雨
第二句惡し。形調ひて皆平凡なり。
 
(445)     蔓草集  (大正八年「アララギ」五月號)
   葭の芽の青みかそけきこの澤に水の流れのきざみ音する  小野三好
第五句餘程考へたであらう。猶工夫したまへ。
中村涙芳 木曾の人は貴下一人のやうです。
 
     うつぎ集  (大正八年「アララギ」六月號)
原伊宇喜 捉へ方のよい歌が見える。現し方を練り給へ。
   枕邊の灯をばほそめてゆく母の姿はいたく老いましにけり  服部胡頽子
只枕邊だけにては現し方足らず。
花泉渡 現し方淺く上すべりせり。
間々田多助 物の捉へ方をしつかりとしたまへ。
   さ夜ふかきしづけさにありて内陣のらふそくの灯のさゆらぐを見居り  今井是南
選材むづかしかりき。
岡白汀 貴君は自分の今迄の歌につき深く考へて見る要あり。
 
(446)     〇     (大正八年「アララギ」七月號)
   との曇りこの頃つづき夕顔は時うしなひて咲くべくなりぬ  國武史郎
「時失ひて」を具體的に現さばよくなるべし。
 
     忍冬集  (大正八年「アララギ」七月號)
   伊香保呂は若葉の茂り榛原はさ霧の中に柏芽をふく  蕨橿堂
第四五句よし。第一二三句ごたつく。貴意如何。
   そばみちの蕗を手折ると近よりてくさむらふめばずり落ちにけり  市毛宮之助
捉へ方利き居り。
   農園の甘藍さびしおほかたは葉がしげるのみ球をむすばず  原つね緒
さびし利かず。
   鎌にかけ切れば鼻つく甘藍のにほひいやたかし晝ふかみかも
弟五句惡し。
 
     かやつり草  (大正八年「アララギ」八月號)
(447)市毛宮之助 捉へ方も現し方もよし。
吉田義次 捉へ方も現し方もしつかりして居らず。
森田麥の秋 獨自の境あらんを望む。
 
     天の川  (大正八年「アララギ」九月號)
生川行戌 貴下の歌殆ど悉くを採り得。寫生の要を得たるに近し。現し方猶御勉強あれ。
乳果生 貴下の歌特色あり。眞實性に富めり。
   この朝け露深く草重なりぬしばらくぬれて畑道のぼる  小池徳衛
上句よし。「しばらく」惜し。
   白樺の白き木肌に若葉洩るゆふひかそけく暮れのこるかも  森勝洋
歌ひ方順序惡し。
小松星視 勇氣を出せ。
   夕まけて家にかへれば圍爐裡の火もえさりてあり妹が名をよぶも  渡邊和人
第五句惜し。
   伊豆の山霞にこもり大きく見ゆ人告げこして甲板に出れば  吉田義次
(448)第四句惡し。
 
     木兎集  (大正八年「アララギ」十月號)
高梨一郎 非常の進境なり。熱心につづけ給へ。
小野陽 七首中に傑れたるものあり。
   紫の色移り行く紫陽花に電氣消えたるあした親しも  徳武とく
この歌大へんよし。捉へ方新しく且つ利く。
水由健一 貴下今囘の歌皆よし。
   白藤の夜の垂り花ほのぼのと吾は見にけり月傾きぬ  高橋七陽
この歌よし。
廣瀬凉眉 自分で選び三十首以内を出し給へ。
藤澤逝水 捉へ方淺き傾あり。三十首以内を送り給へ。
瀬木寥吾 大體上滑りの傾あり。
猿田蓑流 捉へ方疎大なり。
   窓の外にわき立つ霧のなかをとぶつばめは山の深くに住めら  池龍太郎
(449)この歌よし。
 
     木實集  (大正八年「アララギ」十一月號)
中島愼一 毎月の歌皆よし。
谷口山梔子 青物市の灯今一度作つて見給へ。
   うつむきて言おほくいはず睫毛ながきまなこしばたたくひとのかなしさ  藤森青二
   言おほくくちにはいでずいくたぴか咽喉につまりしつばきをのむも  同
   遇ふことのまれにしあればもろともにまことごころをもちてくらさむ  同
三首共よし。
 
     木皮集  (大正八年「アララギ」十二號)
大澤祐一 子供の歌多くよし。
飯島作之助 ずつと練り給へ。字も丁寧に書き給へ。
藤澤逝水 も少し深く掘りたまへ。
山崎安太郎 貴君の歌多く一般的なり。
(450)市毛宮之助 貴下の作多く捉へ得たる所あり。御發奮を所る。
 
(451) 大正九年
 
     一月集  (大正九年「アララギ」一月號)
生原弘草 多くよし。
上代※[日+告]三 今囘の歌多くよし。
御牧牛平 多く要を捉へてゐる。
鶴慶男 よきもの多くあり。
   わが庵は貧しくはあれど爐にくべし栗がはねしと高笑ひかな  池本周山
第一二句惡し。この種類の癖貴下にあり。
   岩の間をとよもしくだる激湍《たぎつ》瀬が淵に音せず渦き流る  磯上小舟
現し方未だこなれず。
戸塚恒司 貴下の本物出て來たらしい。しつかり願ふ。
(452)源泰 貴下の歌淺く滑べる所あり。御工夫を望む。
   いこひゐて眞晝おとなき峠茶屋ひそかにくらき厩をのぞく  服部胡頽子
「ひそか」わろし。貴下にこの癖あり。
   おのが帶わが子の衣《きぬ》にぬひかふる妻がこころはおやさびにけり  同
結句惡し。
小川政治 ぢつと深入りする所ありたし。
 
     二月集  (大正九年「アララギ」二月號)
乾麟三 今度のは材料むづかしかりき。
西本白果 貴下の歌一般的なるが多し。
 
     募集歌につきて  (大正九年二月四日「東京朝日新聞」)
一月二十二日迄に集まりし歌稿百十八人五百五十一首の中より七十九人九十七首を選べり。採り得ざりし歌につき大體の愚見を陳ぶべし。
   桃割れの君に金扇持たしめて舞はしめ見たき心地せしかな
(453)   日に幾度鏡に向ひ髪を梳く男となれりわれは二十四
歌は現實世相に即せる痛切なる心の生活より迸り出でたる聲ならざるべからず。此の點に於て前二者の如きは一種の遊戯なり。投稿歌中遊戯感より生れ出でしと見ゆるもの、之に類するもの多かりしを遺憾とす。
   尊しと見ゆる榎の木の大木に我を任せんとすれど術なし
尊しといふ詞は見ゆれど尊嚴なる光景も實状も現れ居らず。大木に我を任せんとするには如何なる事をするつもりにや不明なり。尊嚴らしく見えて一首のうち何處よりも尊嚴の實感を惹き起されず。言語のみ勝ちて捉へ方疎放なるが故なり。投稿歌中此の類に屬するもの少からず。
   まさやかに照る月影に愁もつ我の姿は描き出されつ
   はしけやし涙にぬれてわが心寶珠と光りかがやけるかも
   家々は眠れるらしも雪の影奇しき自然の美に驚くも
   一人居の今宵しみじみ我といふ寂しき影を措きてぞ見る
等何れも言語のみが寂しく奇しく或は寶珠と光るのみにして、光るもの愁ふるもの寂しきもの奇しきものの實状が歌の上に活躍せざれば生命なし。
   基督も言へり眞理は神なりと我も眞理を神なりとなす
(454)   改造よ自由と叫ぶ人々よ眞の自由をまこと知れるか
何か心の中に叫びたきものあるは認め得べし。理窟の抽象的表出なるに止まるを遺憾とす。尤も三井甲之氏の如きは斯の類の歌を更に極端に押進めたるものを作り居れり。共鳴者は三井氏に行くも可なり。予は採らず。
   夕やけの空高く立つ岩木嶺の冬の日に似て君の美し
   夢に入る戀人のごとなつかしく遙に海に浮べる大島
斯の如き比喩的表出の生ま温るきに終ること歌壇にて已に言ひ古るされたり。今更ら斯る道に彷徨せざらんを望む。猶予の採りし歌につき異見ある諸氏は直接予に向ひて意見を寄せ給はんを乞ふ。(二十三日〕
 
     三月集  (大正九年「アララギ」三月號)
原つね緒 活けるもの多し。
篠原逸也 多くよし。
沼田馬左七 皆生きてゐる。
倉田美喜子 生けるもの多し。
(455)   電燈の光りあまねき明るみに冬の雨脚光りおつ見ゆ
第四句命なり。
蒲原英子 他の戀歌甘し。
   かれくさにいまだ消《け》のこる霜の燿《て》り黒板塀にそひてあゆめり  服部胡頽子
「燿り」惡し。負下に詞のみ整ふ歌多し。
   風あてのつよき梢みな北をさす海べの林寒く晴れたり  齊藤郁雨
結句全體を活かせり。
上代※[日+告]三 今囘の歌概ね一般的なり。急所を捉へよ。
立木草二 現し方を練れ。
中村徳之助 數を少くし給へ。拙くてもいいから自分の歌を作れ。
太田直樹 詞先だちて捉へ方確かならず。
丹生清 貴下の歌疎大にして一般的なり。考へ給へ。
松倉樺雄 捉へ方淺し。
高橋七陽 現れ万一般的なり。
松本芳春 よく物を見て居るが現し方ごたつく。
(456)吉田義次 感傷的の歌多し。
倉田彦郎 多く一般的なり。
小野新泉 一般的なり。
   まんまろき月にひぴかん心持雪みちを行く我下駄のおと  澄江純之介
これも餘りよくはない。
榛名與吉 想も表現もずんと洗練し給へ。
   やむ吾の今は戀ふるも果しなき死にゆく命つつしみ守らむ  押川翠葉子
この歌よし。他は詞のみ働きて惡し。
 
     第二囘選歌につきて  (大正九年三月八日「東京朝日新聞」)
 一月二十三日より二月三日迄に集まりし投稿歌三百二人千三百二十二首の中よる百五十四人百八十四首を採れり。前囘よりも稍や嚴選なりし爲め採りたるは何れも一粒選りの佳作なりと思はる。採りし歌につき一通り愚見を陳ぶべし。高木氏の
   日ねもすを人にも逢はぬ日のつづき物言はずして心疲れぬ
は平明にして格調張り、自己の心理を可なりの奥所に捉へ得たるもの。眼目第四五句にあり。平木氏(457)の
   朝の光みつる海のうへ鴨群のちかづき來るは潮にのりて居らむ
は事象の要を捉へたるもの。第三句以下中心一點を敍して全局を生動せしむるに足れり。第一二句の較《や》や晦澁なるを惜しむ。
   雪原を遠くたどりて著きたれば家ぬち暗く人の顔見えず
   きしり遲き汽車の窓より狩人の山よぎる見ゆはだか木立を
   炭燒の煙たまたま亂れ立つ山の奥には風起りたらし
   張りつめし湖水の氷ひた降りの雨にし溶けて波のおと近し
   新年の初荷車の籠の中にざわめき叫ぶ家鴨の群は
   雪山につぎつぎ動く天雲のかげりを見つつ上り行く我は
何れも寫生の要を得たるもの。第一首(澤氏)の中心は第四五句にあり。第二首(倉永氏)は「裸木立」を捉へたるによりて生動し、第三首(桂川氏)は山地気象の變化よくその要を得、第四首(小口氏)は第五句を得て生命を帶び來れり。第五首(木乃氏)は初荷の中より家鴨の群を看出したる心を見るべく、第六首(吉田氏)は第二句以下の寫生が第五句によらて緊密を加へたるを見るべし。
   影膳は母の邊にあり家族みな心寂しと言には出でぬ
(458)   厠に入り物思ひ居り冬の夜の風いや寒く吹きつけきたる
   一人して苦しむものか我が心君をまともに仰ぎ見られず
何れも自己の境遇を直敍せるもの。第一首(上田氏)は出征せる弟を思ふ連作中の一首にして、影膳に向ひ寂しき心を口に言ひ出でざる家族の心中を見るべし。第二首(戸塚氏)第三首(西村氏)何れも自己の境地を直接に表現して何等弛緩の心なきを取るべし。佐竹氏の
   向ひゐてただに黙せる友の顔憂きに堪へたる深き皺はも
は歌境上田氏に似て重壓の力あるを感ず。
   砂山に遊びほれ居る弟を夕餉に呼ばふ妹の聲す
   積み上げし細かき炭の赤々とおこるを見ればこころ嬉しも
   新しき晴衣の足にまつはるを嬉しみにつつ街のうへを行く
   父母の留守に泣きをる弟子をすかしかねつる我は寂しも
   行き行けど並木は盡きず捨てんとする小猫を抱きて捨つる所なし
第一首(井上氏)第二首(川上氏)第三首(兒玉氏)第四首(千惠子氏)第五首(川邊氏)何れも女性の特長の自然に現れたるを喜ぶ。氣取り屋には斯の如き自然の歌は出來ず。(二月九日〕
  予の選歌につき谷口氏其他より詳細なる意見を寄せられたり。機を見て紙上に愚見を陳ぶべし。
 
(459)     四月集  (大正九年「アララギ」四月號)
櫻田破瑠緒 核心に集中せよ。
苧賀日出夫 生けるもの多し。
大宮穗芳 現し方を勉強し給へ。
眞間田多助 捲土重來の意気込みで勉強し給へ。
   雪中に野べのおくりのかがり火が赤々ともえてかなしくなりけり  常盤木一果
第五句不用。
 
     木苺集  (大正九年「アララギ」五月號)
齋藤郁雨 心平かによく徹れり。
   そへ乳に馴れたるつまのうるさがる兒を抱き取りすべもすべなき  森田麥の秋
第二句考ふべし。
長濱清朗 歌ひ方素直にして多く要を捉へたり。
服部胡頽子 今月貴詠皆生けり。
(460)篠原逸也 君はもう少し多く作つてもいいと思ふ。
白旗浩蕩 俳句などに煩ひされて居らぬか、君の歌は。
今泉雪彦 貴下の歌多く取られず。すべて御熟考あれ。
 
     第三囘選歌につきて  (大正九年五月二十五日「東京朝日新聞」)
二月四日より四月二十六日までの投稿歌端書九百三十六枚の中より二百二十六枚二百八十三首を選べり。規定に外れたるもの三四あり。之は採らず。
選歌は嚴選するほど苦勞多し。苦勞して嚴選するは、選歌欄を清淨嚴肅ならしめんと希ふが故なり。已に歌欄を説くる以上、夫れが現歌界に對して一個の生命たり得るにあらざれば、歌欄を設くる要もなく、投稿の要もなく、選擇の要もなし。投稿者はこの意気込みにて苦心の作を送り給はんを望む。削りたるが皆出鱈目の作なりといふ意にはあらず、現歌界に對して存在の意義を有するものを多く輯めんことを希ふの意のみ。
今囘集まりしものの中、土田耕平氏、兩角七美雄氏の如きは已に歌界に認め居らるる人にして、予も屡々兩氏に言及せしことあるゆゑ茲には述べず。その他の投稿歌中歌界の高級所に置いて品隲するに足るもの少がらず。
(461)  うち煙る小雨の中に射す日影なだら草山うす明るめり  近藤忠太郎
   眞晝日の池の水の面に音もなし岸の土くれこぼれ落ちたり  谷口波人
   落毬のここだ散らばる栗林かたくりの花かそかに咲けり  菅野岐與芝
   白樺のほの白く立つ夕闇に汽車の火の子の散らばりにけり  吉田平木
   汽車のうちは暖かければ下駄の歯に氷りつきたる雪溶けそめぬ  宇田川竹三
   おくつきの穴をし掘ると林中の凍れる雪をかき除けにけり  瀬木寥吾
   靄ふかみ遠くは見えず薄氷のはりたる道を我はひた行く  杉山兼藏
   海のへに水仙の花おほきかも觸るる即ち蕋散りにけり  安房の人
   雨もよひ急ぎて歸る並木道夜店商人店たたみ居り  井上幸子
   大風は海よりしきりに吹きて來ぬ防波堤の下にうづくまり居るも  堀田今子
の如きは捉へ方も現し方も可なりの微妙所に入れるもの。斯の如きを朝日歌壇に收むるを得るは喜悦とするに足れり。主として人事に即せるものにも右と同じ意味を以て推擧するに足るもの少からず。
   機を下りて藥すすむるいもうとの心思へば我が身は泣かる  山口隆治
「機を下りて藥すすむる」に境涯の中核おのづから把捉せらる。此の句決して容易に非ず。
   新しき紺股引の藍の香ひ心よろしく今朝穿きにけり  山田子之吉
(462)一見他奇なきに似て感情に誇張なく表現亦自然に近し。斯の如きは素質の上より推すに足るべし。
   はしけやしまろまろ肥えし姉の兒を抱きあぐれば乳のにほひす  中島幸三郎
「乳のにほひす」は己が子にては此處には利かず、姉の子なりにて生き居るを注意すべし。
   自動車のひた走るままに飛ぶ泥を傘横たへて我は除けをり  村田白鶴
   苦しさに堪ふすべをなみ抱かれつつ氷欲りやまぬ汝が聲細れり  堀井兼大郎
   看護婦の歸りしを我は怒らねど金なきゆゑに病みて苦しむ  藤野正夫
   唾つけて繩をなひし手は黒くなれり藁火にあたり見つつ寂しも  澤草路
例は悉くを擧ぐる能はず。順次掲出せらるるものにつき細心注意せられんを望む。予の選歌につき「日本及日本人」誌上三井甲之氏の詳細なる批評もあり。之は雜誌にて答ふべし。猶投稿は字體分明ならんを望む。一葉の端書に多數認めたるは不便甚だし。(四月廿九日夜)
 
     山蠶集  (大正九年「アララギ」六月號)
徳武とく も少し勉強し給へ。
   集まりの人の話にうみつかれ目路の際涯《はたて》にみどりをとむる  上代※[日+告]三
第四五句を考へ給へ。
(463)知和岐 忠實なる寫生ぶりを喜ぶ。
苧賀日出夫 今囘のは捉へ方足らぬもの多し。
立木草二 歌ひ方粗雜なり。
藤澤逝水 捉へ方一般的なり。
大木晴雄 形整はんより先づ深く捉へよ。
米倉武雄 歌ひ方も文字も粗雜なり。
永田健一 勉強したまへ。
 
     白雨集  (大正九年「アララギ」七月號)
   朝土に影おとしゐる花の苗土にかそかに風ながれそむ  北山松夫
「おとしゐる」は強すぐべし。捉へ方皆活く。中に大したる歌あり。
此木白雄 新しく生きたる歌多し。
茅野耕一 海外の空氣多く出で居るを喜ぶ。
野の人 も少し現れてゐねば困る。
遊鷹 もつと苦作し給へ。
(464)梅戸善助 何れも少しづつ足らざるを惜む。
   から松のおち葉は赤くしめり居りわらぢをとほして我が足にしみる  田中園樹
この歌大へんいい。
原郡治 うすき歌多し。
山崎安太郎 未だ捉ふべきを捉へ居らず。
堤吉一 深く活きた歌を志し給へ。
 
     初秋集 (大正九年「アララギ」八月號)
   葉のかげに生れてまもなきとんぼの翅こまかくふるへ朝の気靜けし  北山松夫
第五句猶考へ給へ。
   壁に向ひ大き輪を描く狂人の横顔くらし梅雨ふかき室に  齋藤都雨
第四句よすぎる。
   いく日も深き曇りかも櫟原小徑の濕りかわくことなし  志釜源一
第一二句大へんいい。
大和左登枝 人眞似をやめ給へ。
(465)草部道彦 言語が大仰すぎる缺點あり。
 
     九月集  (大正九年「アララギ」九月號)
   わがおもひ人にしらゆる妹子汝れ愛しとぞつぐる心とならず  小尾左牛
第二句考へ給へ。
   歩ゆまなとのたまふ父の身を支へ立たせまつるをよろこび笑ふ  上代※[日+告]三
第五句考へ直し給へ。
 
     第四囘選歌につきて  (大正九年九月四日「東京朝日新聞」)
四月二十七日より七月二十九日までに集まりし歌千二十九人の中より二百十四人を選べり。歌の達者なるが必しも採られず。覺束なき足どりにても、眞面目に自己の感動に對し居るものに採り得べきが多し。この事歌の根本義なり。根本を離れて所謂達者なる歌の製作者にならぬやう心掛け給はんを望む。採らざりしが皆左樣なる歌なりしといふにあらず。
   落ち落ちて猶花有らし柿の木の下の落花今日もわが掃く. 丸山籌榮
   竹叢の秀枝をゆりて過ぐる風見て居れば靜に下枝に及ぶ  田口正雄
(466)   山颪いたくし吹きて裾原の檜原に雲の降り來る見ゆ  近藤忠太郎
   山々の晴るるを見つつ朝戸繰る顔に吹きつくる靄の冷たさ  中垣花迷
   雨ぐもり夕日さしたる塀の上に胡桃の花の垂れて咲き居り  上田井吉
   春雨は降りて明るし畠原の麥穂の芒《のぎ》は露をもち居り  小出輝月
   橋の杭のあらはなるかな潮引きし蒲田の川の夜更けの月夜に  しほしづか
   朝の曇り晴れつつ暑き日となれり松蝉ぢぢと鳴き出でにけり  常夏水明
   寂しさは身にしみじみと迫り來ぬ坑内水の雫する音  高木克己
   燈の下に書をひろげて現つなし晝の疲れの今出で來る  山田一雄
   鶇鳴きて曉白むころほひに我が家の雨戸皆開けにけり  森田麦秋
是等の歌何れも事象の中核を捉へて緊密なる表現をなし得たるもの、斯の如き歌を得るは歌壇の慶事たるを失はず。山田氏の歌第五句「今」の一字を得て一首生動し來るの機微を丁得すべし。
女性歌人の投稿も可なり多し。井上氏堀田氏等例によら歌數最も多くして採るべきもの亦少からず。
   氷碎く錐の柄減りぬいつまでも病癒えざる妹悲しも  井上幸子
   この海の磯の窪みにあをさ取る海士の子どもの終日暮らす  堀田今子
   夜の學び終へて出れば曇り空に赤く濕へる月出でてをり  栗山久子
(467)   家近き坂道見ゆるあたりまで疲れつつ來ぬ夕靄の街を  千惠子
の如き何れも持徴を具へて生動せり。詩三百思ひ邪なくして生く。特に女性諸氏の氣取つたり理窟を竝べたりし給はざらんことを祈る。(八月十一日)
 
     十月集  (大正九年「アララギ」十月號)
飯塚衣子 何れも直情自然に現れをれり。
 
     稻架集  (大正九年「アララギ」十一月號)
   裏川の水そこに生ふる蒼き藻のいくすぢもゆらぐ流れにしたがひ  佐竹爲義
自然にして要を捉へてゐる。
   ほととぎす聲さだまらず闇深き空のいちめん風吹きわたる  同
どうもいい。
   まがりつつ見るにすがしき谷川のここを瀬となり音とどろかす  同
少し無理なり。
   かへりごとまちて貧しき日をへたり門田の稻は穂に立つ多く  同
(468)「貧しき」が惜しい。君の歌殆ど何れも捨てられない。
   秋の陽は背をとほして仄ぬくしささげはじけるにねむけもよほす  志釜源一
よき歌なり。
   感じ得じ御坊哀れ亡き骸を灰にくだきてかめにつめ居り  日戸力雄
第一句考へ給へ。貴下の歌詞の無理多し。
田中賢三 一體に外が整ひすぎてゐる。獣のやうな正直な心で歌つて見給へ。夫れは君の歌を不正直だといふ意味ではない。
 
     筑後新聞五千號記念「募集歌」につきて  (大正九年十一月五日「筑後新聞」)
非常に多數の應募歌ありしに驚けり。九州地方短歌の盛況を想ふべし。そのうち九十八人を撰べり。(用紙一枚を一人と見て)よき作の猶遺れるや否やを保せず、小生の不明を懼る。
作品に對し一等二等などいふ等級を附して價値を定め得べきにあらず。只便宜に從ふのみ。等級に多くの意義を置きて見給はざらんを望む。題は夏雜なれど極めて廣義に取りて選み置けり。例へば土用過ぎの景物も容易に置けるが如し。夏秋といふ如き季節に關係なきものもよき歌を捨つる氣にならず、矢張り採り置けり。
(469)歌人の歌の歌臭きは良寛も既に之を言へり、今代歌人の歌の臭からざるもの幾何なりや。その中に紅い花氏の
   裏畑の蓮薯見つつ夕餉には酢醤油かけてたうべたくなりぬ
の如き生き生きしたる歌を發見せしを喜ぶ。今村氏の
   この知らぬ夕《ゆふべ》の町をそぞろ歩き明日かへらむと思ひ出にけりも甚だ自然にてよろし。只第五句「思ひ出にけり」は温去想起に慣用せらる。何とか他に改め得れば最もよし。小清氏の
   あかときの青田のさ鳴りさやさやといなのめの天あかりきざせり
情趣格調共に至れり。第二句「青田のさ鳴り」窮せり。惜むべし。田中氏の
   白くつづく街道すぢのはぜ並木にあまねく照れる光のさぴしさ
形式的なるが如く見えて然らず。聲調の響き斯の如きに致れる心の透徹を想ふべし。高山氏國武氏濱田氏竹林氏等以下數氏の歌、各皆一段の持徴を具して生動せり。一々細評に及ばず。妄言多罪。(九月十五日)
 
       天
   白くつづく街道すぢのはぜ並木にあまねく照れるひかりのさぴしさ  田中賢三
(470)       地
   うらばたのはすいもみつつ夕餉には酢醤油かけてたうべたくなりぬ  紅い花
       人
   汗臭き浴衣の上ゆ刺す蚊あり眠氣ささねば物書きつづく  高山道之
       秀逸
   このしらぬ夕べの町をそぞろあるき明日かへらむと思ひ出にけり  今村しか子
   むし暑く夜は更けにけり並み藏の屋根のあひだよ月さしいでぬ  國武史郎
 秀逸五首略。
 
     極月集  (大正九年「アララギ」十二月號)
   やうやくにうすらぎたれば森のうへまだらに見えて朝霧うごく  五味卷作
捉へ方よけれど「朝霧」の位置惡し。
大堀允彦 何れも生きてゐる所あり。
   橋上に荷馬車きたりつその動きわが身にこたゆ橋にひぴきて  佐竹爲義
「その」は要らない。
(471)   音立てて腹のなる夜は心細しさはれつぐべき人も居らぬかも  同
「さはれ」は要らない。
傳田青磁 妹の歌皆感服す。
行田正規 一首も捨てるのがない。
土屋知和岐 何れも眞面目に容易ならぬ心持で作つてゐるからいいのである。松澤智里 今囘の貴詠何れもよし。
池田政得 異國の趣自然に現れたり。
   道のべの欅の大樹落葉しつつ靜かに立てり曇り日の下に  中道紫光
斯様の種類皆一般的の歌なり。
榛丘人 要所を捉へたるもの多し。
   あらしの音と切れたしかに軍歌きこゆやうやく來りぬ一隊の兵  曾田庸雄
第二旬猶考へ給へ。
   秋雨の晝餉の膳にすわりけらこのあたたかき味噌汁の味  菅沼知至
第一句惡い。
小林籟 形だけ出來てゐる歌見ゆ。
(472)松澤常毅 四首皆よし。
   あたたかき父のこころをおもふだにかたじけなさにたへず病み居り  渡邊峰三郎
よき根本心あらはる。少しの疵はよし。
田口良三 取らざりし中に形整ひすぎたる歌あり。
   汐ひきて濡れしまりたる砂の上に見出でてかなし大き海月を  今井是南
「かなし」と云はぬ方よし。
   夜のまちの暗きをゆけばま近くにみづ出をとめぬ水道の音す  芥子澤新之助
一二句の現し方わろし。
山野しつく も少し一心な所出てゐてもらひたし。
知和岐 この方の原稿に佳作少し。
   畑つもの倒れし所に歩み來て起してみつつ何かかなしき  熊野百丈青
こんな所で何かかなしきなど氣取り給ふな。
   みのを通ししみいる雨のすべもなし肌にあたたまり心持わろし  同
斯く率直に願ふ。
水野賤子 鼠の歌面白いが未だ足りません。
(473)   石走る山かはの瀬に夕くれど合歡の葉眠らぬ秋は來にけり  宮崎丘村
現し方が惡い。
   たそがれて雪あれ増しぬ向う山縞に流れて降りしきり見ゆ  小山田稻吉
捉へ方よし。
藤澤逝水 捉へ方に集中がない。多作するよりその方から考へ給へ。
藤井菱花 取らぬ歌は多く一般的のものであつた。
石田白羊 今つと重々しき所ありてよし。
   電氣つきてほどなくなりし伯母の命見まもりて我が居りにけるかも  中村美穗
大へんいい。
上田清星 寫生をつき止め給へ。
齋藤衷三郎 しっかり寫生し給へ。假名を分るやうに書き給へ。
百瀬千尋 一般的を出でず。根本的努力を望む。
 
(474) 大正十年
 
     紅玉集  (大正十年「アララギ」一月號)
相澤貫一 すべて非常の進歩なり。
岩波菊治 皆よし。
   きはやかに濃きうすき潮の色みせてひと時明し夕日の光  草生葉二
「色みせて」を何とか考へ給へ。
   亞鉛屋根に降りくだつ雨高鳴りて天井にもれしか雫の音す  寺田杢太
天井の雫の歌はも少し歌ひ現したし。
   夜くだちて雨漏りやまず狹き部屋のあちこち濡れて眠るすべなし  同
自分のものを出してゐる事よし。
   大根ひく草鞋におもくつける泥ふとはなれおつかろきさびしさ  齋藤十二
(475)「さびしさ」が善ささうでいけない。
   つぼめたるかさの雫をはらひ居りあかるくはれし山におもむかひ  宮澤義雄
第五句言ひすぐ。
   外套ゆ手を出し與へぬ停車場に我をまち居りし我が兒のために  菅沼知至
「與へぬ」は猶考へ給へ。全體に君の進境著しきを喜ぶ。
   のびきりて冬に入りたる草の根を畠よりぬきとり土ふりおとす  五味卷作
「のびきり」は言ひすぐ。
小尾左牛 詞の意味を辨へて作り給へ。
梅垣茂 下手だが生眞面目な點がありてよし。
宮田茂次 全體純眞な所見えてよし。現し方を勉強し給へ。
林正己 率直な捉へ方をし給へ。
東淳造 株檎皆外面的なり。貧民も材料だけ並べられて沁み泌みした所迄行つて居らぬ。
草野陽太郎 一般的の捉へ方多し。
澄屋眞弓 捉へ方淺きを捨てたり。
 
(476)     第五囘選歌につきて  (大正十年二月七日「東京朝日新聞」)
十二月中微恙あり。新年前執筆の責めあるもの多少あり。種々の事情にて選歌を怠りしこと多罪萬謝。
集まりし歌稿非常に多く一々計數し能はず。その中より選出せる數或は過少ならんを恐る。一粒選りにせんと希ふ微衷を諒せられんを望む。取らざりし作者にして不平あらば投稿中の一首を示して予に反問し給はんを望む。出來るだけの御答を申上ぐべし。
自己生活(生活とは衣食住の行事のみにあらす)に即し、自己の眞情に即して忠實なる表現に努めたるは拙づくとも生き生きしたる所あり。斯の如きは大方取り得るを常とす。然らざるものは形整ふも内容の人に迫るものなし。所謂お座なりの歌、類型の歌に陷らずんば幸なり。中には一人一時に數十首百首を送るものあり。斯くの如きに取り得る歌は極めて稀なり。忠實なる努力は數首を得るにも数日を費すことあるべし。百首の歌が皆左樣なる努力より出でざる限り、百首は翫弄品となり了るべし。翫弄の百首は眞劔の一首に及ばず。
   早や闇となりしか我は袢纏を野良に忘れて探しにもどるも  此木白雄素朴なる中に自ら田園薄暮の急所を捉へたること「早や闇となりしか」を見て感得すべし。斯の如き佳作を發見せしを喜ぶ。
(477)   飯時は魚のよき身を我に與へ骨をしやぶりし母みまかりぬ  水上保一
   夕さりて歸りはつらしいさかひし父と面を合せねばならず  野上淺茅
   物足らぬ幼な心を思ひやりぬ母病むゆゑに一人寢ねし子  堀田今子
   濱の祠み靈は何かとさしのぞけば狐の木像三つありたり  同
   泣きわぶるこの龜市を縛りあげお灸を据うる親心あはれ  町田辰明
感情自然にして純眞なるを喜ぶ。
   ひな※[奚+隹]は迷ひたるらし草むらに頻りに鳴けど姿は見えず  石川龜丸
   片肢のぬけし蟋蟀放ちやればあはれなるかもよ鳴き出でにけり  松岡白歩
   百合の花瓣露あるを摘みて嘗めて見ぬ香《にほひ》青臭く甘き心地す  後藤五一
   岩の間のいそぎんちやくはいと悲し潮引け行けば自から萎む  大島昭義
   我が希ひゆるさるる日もありなむか蠶飼ひつつ忘るることなし  正規   あらしの雨からりと晴れて夕燒のいたく明るし秩父嶺の空  椎橋佳泉   兵隊に足遮られぬかるみに急ぐ心を堪へて佇む  井上幸子
   縁の下に芽生えし豆の細長し乾きし土のひびのあひまゆ  小野木文平
   牛を見失ひ險しき山をあちこちと尋ね求めて小夜更けにけり  木村靄村
(478)   幸くありし日はかくのみと思へやも所縁は深し子とふ親とふ  朝倉菊太郎
   この濱の砂地に臥せり枯小草搖れつつ觸るる脛こそばゆし  辻村直
何れも深く自然の呼吸に合したる所あるは眞摯なるひたすら心を以て事象に向ふがゆゑなり。その他擧ぐべきもの少からず。一斑を記すに止まるのみ。(十二月三十一日)
 
     はつはる集  (大正十年「アララギ」二月號)
   炬燵の火なほつぎそへて著更への衣暖め待てり夫のかへりを  大谷雅子
「なほ」は要らず。よき歌なり。
   西側の丘の間の水田の雨雲うすれつつ明るくなれり  谷口山梔子
第一句不用意なり。
小野三好 今囘の貴作捉へ方深入りせず。
 
     東風集  (大正十年「アララギ」三月號)
今村志加子 おとなしくしてよく個性が出てゐる。
   きやつきやつと笑ひ逃げゆく幼兒のよろめく足のあやふかりけり  三宅林之輔
(479)第一句寫生接近に過ぐ。
   闇中に近より見れば物干竿に著物下がれり入れ忘れけむ  同
第五句「妻が忘れけむ」「母が忘れけむ」などの方よく現るべし。貴下の歌大體素直にてよし。
   上枝のかげをはづれて日にあたる椿の花に日のしみとほる  北山松夫第二句猶考ふべし。
   吹雪にむかひてあゆむ路の上に前ゆく人の跡うすれつつ  同
現し方未だ足らず。
岡田清 貴作概ね微細に捉へ得て居るが表現が拙づい。雪が積んで屋根の低く見える歌などが夫れである。
金井國雄 取らぬ歌も捉へ方はいい。
   高杉のしげみすかせば鷺見えて羽ばたき重く枝うつるなり  長谷川泰助
「すかせば」は「見すかせば」ならん。
   吾の藁を打ちゐる人は手を止めず煙草吸ひつつも藁をぞまはす  伊藤光一
よき歌なり。
   ぬれし足袋やうやうとりて部室に入れば聲をはなちて泣きにけるかも  西尾ます
(480)子といふこと入る方よからん。
   松の葉の古葉のおちていちじるしかたくこごれる雪の面に  松澤常毅第三句言ひ過ぐ。
   笹の葉に日は照りながらはらはらとま白き霰しばし降りけり  森土秋「眞白き」は要らず。貴作輕々とすべる癖多し。多作を戒むる方よからむ。
   昨夜《よべ》抱きていまはつめたきなきがらの蠅を追ひつつ涙はこぼる  西原隆三
傑作なり。
阿野義一 君の歌幼ない心から出なほし給へ。
   雪はれて夕べとなりぬ裾山に月さしのぼりいまだ照らずも  加茂夕明
この歌よし。
 
     四月集  (大正十年「アララギ」四月號)
武藤善友 一段にしようと思つたがどれも離すわけに行かない。どうもいい。
   夜の雪を路に高らかにかきあげて向うの家は見えずなりたり  芥子澤新之助
斯く順直に歌ひ給へ。
(481)   そこここに梅咲くたより聽きにつつ足萎へ吾は部屋ごもり居り  中村徳之助
すなほに現れてゐていい。
世登璃一郎 歌ひ方すなほにてよし。
 
     野鳥集  (大正十年「アララギ」五月號)
藤森青二 總體に突きつめて生きてゐる。
宮澤義男 落葉掻きの歌皆生きてゐる。
木村靄村 貴下の歌實情に即するはよし。その態度を突きつめ給へ。
佐々黙々 今つと突き込み給へ。
田の人 今少し突きつめた苦しみが出てゐるといい。
茅上章美 他のもの皆あまし。
 
     青果集  (大正十年「アララギ」六月號)
武藤善友 純粹な感受が籠つていい。
   枯れて居る小笹が原の山原にほのかなるかも榛の芽ぶきの  相澤貫一
(482)「枯れてゐる」の「ゐる」を再考したし。
   海遠く伊豆の岬山燒くる火の夕となればほむら立ち見ゆ  相澤貫一
大した歌なり。
   朝なさな庭に來て鳴く鶯の聲ほればれと澄みとほるなり  同
上句至らず。
   天の露松むらふかく降りしめれり一夜を惜しみおそく歸るも  阪田幸代
大へんいい。
   自らのこのさもしさや知りぬきてゆめおもはずも正さむことは  今村志加子
「ゆめ」の用法少しく變なり。
   今はかも心足らひてある友にわがくり言はつつしみにけり  同
「かも」を何とか改めたし。全體に眞實性多し。
   霧深し石屋のたたく槌の音湖をわたりていたくひぴけり  岡井弘
「いたく」はいけない。
桑原群二 捉へ方足らぬ歌多し。多作はやめて一首に集中する用意ありたし。金子しげる 貴下の歌表面的になり易い。
(483)三木嘉葉 形だけ整ひし歌多し。
   櫻花咲きのさかりのその下に吾子を抱きて吾は立ち居るも  内藤衣子
第三句猶考へ給へ。
近藤蔦子 素直にして捉へたる所あり。
曾賀日出夫 多作せずに少數のものに力を集め給へ。
林正己 深入りが足らぬ歌多し。
   岩鼻の《》背いと寒し磧ふかく穿てる穴に入りてゐたたまる  佐藤英保
第五句足らず。多作に過ぐ。
   あわただしき汽笛續けり何事の起りし事か庭に飛び出でぬ  轢死者 飛鳥文麿
斯る題材非常にむづかし。以下諸作敍述に終れり。
町山正利 電氣文藝の貴作の方が生きてゐた。
井上純水 貴作概して表面的なり。
 
     うつぎ集  (大正十年「アララギ」七月號)
後藤重男 心をぢつと集中する所あるやうに冀ふ。
(484)渡部萬里 ぢつと物を見つめてゐる所あれかし。
   深々と野はどの曇る晝深み葦のそよぎの目に重きかな  加藤不二麿
第一二三句現し方を考へ給へ。
   木々の芽ふき明くはゆる山の平いま雨晴れて鮮かなるも  常夏水明
第五句重複の感あり。例へば「夕雨はれて日影さしたる」などとあるべき所なり。
   夕蛙聲なきこもる墾小田の水を照らせり遠き山火は  加茂夕明
第二句惡し。
   男ゆゑ泪おもてに流さねど耐へおほせぬわが下情  藤森青二
この歌猶考ふべし。
茅上章美 貴下の歌總體に輕きに似たり。
   咲きそろふ木蓮の花の肉あつし風は吹きつつさわがしからず  傳田青磁
肉厚しの所如何かと思ふ。
   しばらくは洋服の脚に纏りて我を放さず足ならす子ども  菅沼知至
洋服の脚は考へ直すべきならん。
   山椒のつぶらつぶらの青き實にそよ風光る夏はきたりぬ  森二郎
(485)「そよ風」と言はぬ方よからん。
   靜もりに無線電話の柱高しをりをりよぎる腹白き鳥  中村越尾
第一句場所を現す方よし。
三木嘉葉 胡麻の花の歌引き緊めて作り直して見給へ。
   あわただしく鶯なきてうつりけり雜木林の向うの笹生に  藤澤逝水
第一句如何。
 
     第六囘選歌につきて  (大正十年七月十三日「東京朝日新聞」)投稿歌頗る多く選擇手間取りて申澤なし。十二月未より四月二十日迄の分未だ選了に至らず。今その一半を發表す。他の一半は引續き選了すべし。投稿諸氏の寛恕を冀ふ。
   降る雨のこまやかなれや仙人掌《さぼてん》の白くほほけたるかむり毛の上に  島崎長治
   村家をおほひつくせり風のむた田圃の雪のまひ上りつつ  常夏水明
前者微細に入り後者大局を捉ふ。微と大と類を異にするに似て要核を捉ふるに於て一なり。歌の生命繋つてこの一點にあり。要核を捉ふるの道多岐なし。作者王觀の把持如何にあるのみ。作者主観の把持如何は單に作歌の上の問題にあらずして作者全生活に亙りての問題なり。作歌者の思ひを致すべき(486)は此の點にあり。苦心すべきは歌にあつて必しも歌にあらず。
   電燈のはたと消えたる町暗し海鳴の音高く響くも  木村靄村
   川原の松かげに雪の殘りあり石負ふ男らとりて喰ひ居り  羽毛田實
   うすうすと光ありながら天つ日の在りどころ分《わ》かず砂埃の風  永尾君彦
の如きは前二首と架を同じうすべきものにして何れも獨立の生命をもてり。
   提灯を改札口に持ちたまふわが母の手は搖すれつつをり  立花昌一
   床ぬちに赤子のつむり見えたれば三歳《みつ》の歌子は泣き笑ひする  波々路子
何れも人事を歌へるもの前者第四五句によりて生き、後者第五句を得て生きたれども「三歳の歌子」は記載に過ぎたり。
   これの世に妹《いも》はあらねば朝餉する心足らねばわが堪へて居り  佯狂
妻死後の寂しき心よく現る。中心は第五句にあり。作者の主觀が「朝餉」なる事象に縁つて誘發せられたるは極めて自然にして寫生の目ざす所と契合せり。
   胸ふかく息するごとにかすれ鳴る音あり我を笑はしめざり  富岡黒葉
   ひそやかに柩守りてあらまほし夕さり來れど歸らんと思はず  堀田今子
   けふの日を、永しと思ひぬ裏の家とり壞されて窓の明るきに  井上幸子
(487)何れも自己の境遇を自然に表現して可なりの深さを有せり。寫生の用意を窺ふに足る。此の他今囘の選中大谷五郎、齋藤君子、乾初枝、西田光敏、高野南溟、吾妻みね子、小林一樹、桑田榮子、片桐たもつ、長谷川泰助、町田辰明、村田高子、太田穰、龜澤謹次郎、岩澤鈴蘭諸氏の歌に注目すべきものあり。一般に投稿歌の進境著しきを看取し得るを喜ぶ。(四月二十九日)
 
     晨鳥集  (大正十年「アララギ」八月號)
矢崎潮流 よき歌多し。
今村志加子 今囘のはいつもより充ちてゐない。
   梅雨ながら軒端をいづるおほちちの棺《ひつぎ》におつる柿の花かも  島田忠夫
この歌よし。
   螢籠に水を含みて霧ふけりぴかりぴかりと螢くさしも  志釜源一
第四句いけぬ。
   あが店に山のをとめははしけやし蕨を笠に換へてゆきつも  宮澤鐵之助
現し方考へなほすべし。
上代※[日+告]三 貴作觀察の細かきはよけれど敍述に傾くことあり。
(488)松井紫陽 外形の整ふに終る歌が多い。
   おのもおのも舟よりたぐる萍の莖ゆひかりて水の滴る  菅沼知至
「莖ゆ」の「ゆ」窮屈なり。
   口籠《くちご》とりはなしし馬は急ぎつつ草はみにけりいとしきろかも  武重紅涙
素直にてよき歌なり。
   馬の腹かぐろく光る夕つ日に群る虻をころしわが居り  大道寺吉次
「夕つ日」を何とか直し給へ。
上田晋八 貴作ぴりりと利きたる所少なし。集中した心で向ひ給へ。
早田※[田+亢]芳 あはれなる心あり。
   隣室に赤子あれけりはしけやし若葉の窓をもるる聲はも  岡田鈍一
貴下の歌大もとより考へ直す必要あり。例へば「若葉の窓をもるる聲」よささうにて良からぬが如し。
世登璃一郎 背金模様の書物を竝べて喜んでゐる程度から脱し給へ。
佐々黙々 要核に入り給へ。
 
     木皮集  (大正十年「アララギ」九月號)
(489)豐田薫 歌ひ方素直なれど敍述的の所もあり、粕もあり。
田中賢三 中によきもあれど未だ形式的の歌が目につく。
三好清纓 形式的に傾く歌あり。
神田矩雄 どうも歌が一般的である。
土屋知和岐 も少し突つこみ給へ。
木下實 捉へてゐる歌が多い。
積山春男 すべて甘《あま》く生《なま》にて困る。
   脈をとる我の眼と母の目と思はず遭ひて暫居にけり  八島榮治
「思はず」を何とか考へ給へ。形だけ整へる歌多し。
中村越尾 平凡な記述に終る歌多し。
木村絃三 詳しく記述した丈けでは歌にならぬ。
青木青月 形だけ整へる歌多し。
 
     山蠶集  (大正十年「アララギ」十月號)
   手に捉げし提灯の上に散るものは頭の上の杉のましづく  傳田精爾
(490)「頭の上」は要らず。
   晝の間は忘れてありし筧の音戸をさしてゐて夜床にきこゆ  傳田精爾
大へんいい。久振りの貴作振ひをりて喜ばし。御持續を冀ふ。
   子供らがつかみ居る蝉の啼き聲す夕あかるく風なぎてゐて  小野三好
四五句がいけない。
   雛燕今は騷がず日の暑き庭の埃のにほひ立ちをり  同
第二句利き居らず。
中村徳之助 貴兄の歌墳澄み來りし觀あり。
   蛾は二つ露にぬれつつ動きつつ明時の葉につるみをるかも  藤井貞藏
「明時の葉」は不消化なり。
   晩酌を夫がやめしよりいとま多き夕ぐれ時をもの足らず思ふ  大谷まさ子
女の特長快く出で居れり。
草生葉二 捲土重來の概を示し給へ。
山田武匡 貴作進歩著し。
   夜の閤を蹄みてわがこし山坂の蟲の高啼の聞き伏しにけり  土屋知和岐
(491)第五句窮屈なり。
伊藤蒼影 素朴な所を成長させて行き給へ。
小池徳衛 海の歌は未だ君の領分になつてゐないやうだ。
 
     第七囘選歌につきて  (大正十年十月八日「東京朝日新聞」)
九月三十日迄に到著の歌を選了せり。應募數に比して取りし歌少かりしは遺憾なり。
   わが背丈凌ぐばかりにコスモスの伸びのぴていまだ莟を持たず  羽生田實
歌は斯く一氣に押すの勢ひありて初めて生動す。複雜なる知識、觀念若くは込み人りたる事象の關係を敍するは短歌の能事にあらず。作歌者の穿き違へざらんを祈る。
   山坂にかかりておそき汽車の窓にたわわに咲ける椿の花は  木下白露子
「山坂にかかりておそき」の句ありて(切り詰めて言へばおそきの句ありて)車窓の椿撓わなるが生命を持ち得たり。捕捉と表現の機微を窺ふべし。原作やゝごたつけり。改訂の完からざらんを恐る。
   亂れ立ちのぼる煙を眺めたり吹雪の中に炭を燒きつつ  原富治雄
煙の敍述と吹雪と炭燒の敍述と材料やゝ列び過ぐるに似たれど此の場合仕方なからん。事と心と共に常凡にゐらず。
(492)   生れ出でしばかりのすいとあな愛しなよなよと草の葉を歩みをり  片桐保
現し方幼き所あれど歌の心素直にして單純なるをよしとす。
   畦道をつたひて來たる我の袖は麻の花粉によごれたりけり  畑青麥
これは前の歌と同じく單純なれども幾分の用意もあり。用意負けせざりしを幸とす。
   白樺の葉がくれにして咲く花の薄白くして春は來にけり  遠見一郎
作者獨逸にありて盛に歌を寄せらる。此の歌異國の風物を捉へて遊子の情調自ら至るものあり。葉がくれの白き花清楚にして寂寥。時春にして感懷自ら動けるを見るべし。覊旅の歌上古に秀品多くして近代に少し。艱苦を嘗むると然らざるとに起因すべし。遠見氏の異域にありて斯の如き作を寄せらるるを喜ぶ。
   やうやくに星を仰ぎてなぐさむる心久しく沈黙《もだし》に慣れぬ  遠見一郎
景物を異にして情意一なり。優品たるを失はず。第一句「やうやくに」は之なきを可とす。
   河口へかかる小船のおのおのに響きかはせる櫂の音しづか  堀田今子
作者捕捉自在にして意皆暢達するの趣あり。作歌の態度亦甚だ歌人ぶらざる所あるを喜ぶ。情意の集中に意を致さば入る所更に深かるべし。今囘選歌中秀品頗る多し、その中の一首を録す。
   腕にとまる羽蟲ふきつつ此の夕べ花壇の草に支柱たて居り  井上幸子
(493)作者の長所は日常生活を捉へて概ね生命を附するにあり。毎作個性尤も鮮かなり。「腕にとまる羽蟲ふきつつ」の如き、敏感者にあらざれば捉へず。
   夜の堀に白く浮べる材木のあひだに一つ星うつり居り  榊原安子
本所深川あたりに見らるる景情なり。材木の間にうつれる星の靜寂さを歌へる甚だよし。空杢想者のよくすべき歌にあらず。第四句「一つ」は必しも必要ならず。
 此の他に言及すべき歌多けれど略す。灯上所掲の歌は紙上に再出せず。(十月三日)
 
     曾保船集  (大正十年「アララギ」十一月號)
山本靜二郎 一直線に意味の通ずるやう詠み給へ。
   脊戸畑の大風草の中に咲く野菊をつみに夕べ來にけり  今村志加子
「大風」と「草の中に」のつづき方惡し。
   わが穿ける股引にふれし落葉松の幼な枝の葉散りこぼれけり  常夏沃
第四句これでも未だいけぬやうだ。
桑原群二 心の動き方と現し方と疎大に過ぐる觀あり。
織本保子 今つと單純によみ給へ。甘き所もあり。
(494)春日野照夫 貴作一般にも少し集中したる心ありたし。
峰柑林治 貴詠一般に捉へ方足らず。子規、左千夫、節等の歌集を精讀せられては如何。
太田穣 一首に心を集中する工夫ありたし。さうすれば自然數も減るべし。
   降りそめし雨の靜かに風冷えて足裏は臀につめたくおもほゆ  山野雫
「雨の靜かに」を改め給へ。
 
     千鳥集  (大正十年「アララギ」十二月號)
乳果生 乳果君捲土重來の勇氣ありや。
今村志加子 今囘の貴詠多く粗雜の觀あり。
   燈に照れるコスモスを見ればうら愛《かな》し目に見ゆる程のちりのかかれる  美作小一郎
此の歌今一歩にて繊細に失すべし。
赤星信一 一通りの詠みこなしに終る歌多し。
清水英勝 今囘の貴詠深山の心持可なりよく出てゐる。
石川千歩空 貴詠多く材料の駢列に止まる。ずつと突つこみてよみ給へ。
 
(495) 大正十一年
 
     松毬集  (大正十一年「アララギ」一月號)
   曉まつとい倚る爐の端ほむらだつ柴火のにほひ家おもはしむ  傳田青磁
第五句ここには邪魔になる。
   雪ぞらの風つのるらしおく深き林のいづこ木のするる音  同
「いづこ」はよく利かず。
赤星信一 貴詠今囘のは素直に地味にてよし。
   地に低く曇りたるまま日暮れたり顔にしらるるあたたかき風  谷口山梔子
第一句猶考へ給へ。
色摩久太郎 貴詠に素地の生きたる所あり。
森川澄 貴詠素直な所あれど未完成の所多し。苦心もし反省もしたまへ。
(496)   ぴうぴうと西吹く風の止む夕べ田の面の水は薄氷せり  楡木千石
第一句惡し。
上田治之助 心素直なる所あり。追々に突きつめて行き給へ。
   落葉をふみならし鷄の逃げにけり夕暮どきの畑を吾が行けば  影山榮久
第三句迄の現し方を工夫し給へ。
櫟本攷三 貴作一般的に形整ふに過ぎず。考へて見てくれ給へ。
   病もつ友にはあれど息つよき物言ひぶりを嬉しみにけり  栗岡逸彦
第一二句惡し。
古市梢三 形整ふのみなる歌多し。
   散りたまる桃の枯葉に音たててまた降りかかる秋の雨かも  武井孝
第四句「また」がいけない。
   はしきやし嬬にわかれてわが來ると道のさかひに歩みかねつも  松本三一郎
「道のさかひ」を改め給へ。
新村金次郎 未だ意の徹しない所がある。
   山近く雪は來りぬ山家皆家をめぐりて藁圍ひせり  大下一太
(497)第三句改め給へ。
櫻井三路 貴詠何れも一通りにて殘念なり。も少しぢつと見入る所ありたし。一戸黎二 貴稿通り一遍の歌多し。
   黒雲の夜空が中に怪のごと光弾の光青く浮べり  井口侑三
貴詠大抵斯ういふ具合なれど、是ではアララギの標準と餘り違ひて困る。アララギの歌をよく讀んでみて下さい。
   みすす刈る信濃の山は寒きかも紅葉の中に雪ふりにけり  森二郎
「中に」を改め給へ。
 
     第八囘選歌につきて  (大正十一年一月十五日「東京朝日新聞」)
十二月廿九日までに到着せる歌稿を選了せり。前囘に比して佳作少かりしを遺憾とすれども、熱心に作歌を續くる少數作者の進境著しきものあるを喜ぶ。
片桐保氏にただこと歌多けれど、常に自己の實感に根ざすことを忘れざる故に近來往々にして佳境に達することあり。
   曇り日のつづくこの頃庭すみの柊《ひひらぎ》の花は多くこぼれぬ
(498)の如きは輕易なる感情の持主にては捉へ得ざる底のものなり。松岳謙一氏の
   この日ごろ續く日和や朝にけに寒さはしるくなりにけるかも
も亦この種に屬せり。他奇なきを以て常凡と定むるは微細感なき鑑賞家の事なり。作者は斯の如き歌の生命を保育するに努められたし。羽生田寛氏の
   冬田打ちて冷えたる足は炬燵火にあたたまりつつ痒くなりたり
は農家の生活宛然らにして現るるの感あり。氏の作には往々外形整ひて内容輕易なるものあり。弊所を助長せざらんことを望む。堀田今子氏の
   ほの暗く夕づきにたる木のあひにひそかにもぎぬ青き蜜柑を
相變らず感情の新鮮なるを喜ぶ。井上幸子氏の
   たはやすく人の心をおしはかりて物言ふ人に獣し向きをり
人事を歌ひて生まならず、第五句を得て最も徹せり。田口正雄氏の
   所々いまだ起きゐる家ありて灯影さし居りぬかるみの道に
是亦第五句によりて生き得たり。葛目淳一氏の
   こがらしの埃をまきて吹きくるに眼つむりて坂を下るも
選中の佳作たるを失はず。以上選後所感の大要を記すのみ。(十二月二十九日〕
 
(499)     黄梅集  (大正十一年「アララギ」二月號)
鹿兒島壽藏 よき歌多し。
齋藤邦子 歌ひ方も心も素直にてよし。
泉靜雄 貴作形必しも備はらざれども心の生きたる所あり。
   家ゆりて電車の過ぎし時の間の靜けさの中に七面鳥なく  藤井久代
第四句「中に」は惜しい。歌ひ方ずつと素直になりました。
   冬枯の野に日は照りてあらし吹く草生におこる音の淋しさ  古川富治よき所なれど現し万未だ足らず。「冬枯の野」と「草生に起る」と離れたるは最も惜し。
   かそかにも氷雨はふりて鉢植の松の緑葉濡れ光りすも  同
第一句不要か。貴作力の籠れるもあり、ただ事歌もあり、少數のものに力を潜めて洗練し給へ。
   松山にかたぶきかかる曉の月のおほきけれども光のよわき  藤森青二
第四句「大きけれども」の「けれども」猶考へ給へ。
   松山の竝びはさめる谷あひのせまきみ空に月かたぶきぬ
現し方猶苦し。考へ給へ。
(500)   竹藪の下道ゆけば風寒しくるる靜けさに雪しづる音  島田忠夫
「しづる」は「しづるる」なるべし。
山本峽路 取らざりし歌にも心の生けるものあり。現し方御勉強を冀ふ。
山崎安太郎 貴作多く稀薄なり。少數の歌に力を籠め給へ。
布留省三 貴作上滑りに通り過ぐる觀あり。省察を冀ふ。
倉田彦郎 貴作形整ひて内に生きたるもの少し。所謂歌作りの傾向に入りては大へんなり。
小林清三郎 一般にぴりりと利く所乏し。
町山正利 少數の歌に力を籠め給へ。
   吾妻の力こめてつく杵の音月夜の山に響きとほるも  麓小路落葉
何を搗くのかを現すべきなり。獨立した歌にならぬ。
   ゆくりなくまろぴ出でたる鼠子は小さき眼開きてゐたり  同
第一句に場所か物を現すべきだ。原作のままでは纏らない。
束出秋峰 取らぬ歌皆放漫なり。殆ど根本より出直し給へ。
生原弘草 總體に力入らす。
楠木春吉 取らぬ歌皆引き緊らず。勉強を要す。
 
(501)     春霜集  (大正十一年「アララギ」三月號)
   海のへを一日來しかば吾が著物いたくしとりつ吹く潮風に  加藤於菟
第五句「吹く」不要。
   西の風ふかく絶えたり島かげに引きがたの潮流るる早し  泉靜雄
「ふかく」は惡い。
   枯れ野良に松杉の森重なりて霞む遠べや大山の裾  川本菊雄
どうもいい。
   いつの日にか彌陀に求めん幼《ち》さき日ゆ欲りしてふことを言ひ得ざりし吾が  同
心にいい所あれど現し方足らない。
   かつがつに思ひめぐらす時久し山の夜ふけて月のぼり居る  倉田美喜子
「かつがつ」如何。
   足らはざる心地するとき人の上にかそか動くを戀とは云はじ  同
三四句現し方今少し工夫あるべし。
   月おちてくらみ連なる山のかげ星の光寒く小夜ふけにけり  同
(502)月と星と材料の多過ぎる感がある。捉へ得てゐる歌が多い。
   秋の雨寒くあがりて今朝見つる木の葉色づく山の明るさ  藤森青二
第三句改め給へ。
上條行雄 山仕事の歌、作者に親しいだけ矢張りよい。
   沖をさす鴉風強み岩鼻のひとつ所に羽撃ちすすまず  伊豆高吉
斯ういふ歌をずつと苦心すればよくなる。このままではいけない。
樋口しほ子 心も現し方も素直に統一せり。
   日毎にやせ來る身體警しめて心配るに瘠せ來る身體  河田新
「心配るに」猶考へ給へ。
   日にけに町家の庭は日あたりのともしくなりて冬ふかみたり  赤星信一
第一句惡し。
   木枯となりたる風に屋根の雪の舞ひたちにつつ日かげ傾く  井上幸子
第一二句改め給へ。
   縁の下ゆ仔犬らの聲おのもおのも聞えて寒き夕べなりけり  同
第一二句窮屈なり。
(503)   これの世に生くらくほどは悲しみに堪へてあらめと思ひ返しつ  同
第五句尚ほ足らず。
   割れ落ちし氷のひまをひたひたとまし水流るるつかまぬ川原  三志摩澄
よき所なれど現し方猶あるべし。「つかまぬ川原」が初にあるべきならん。
   川ぞひの堤の雪はうすくなりて踏む足あとに落葉いづるも  同
すなほにてよき歌なり。
   寒々と深き曇りに夕ぐれぬ降るにもあらず晴るるにもあらず  鐘ケ江廉三
第三句猶考へ給へ。
   沖荒れのはげしかるらし海つ鳥とぼそにあまた啼ける今宵は  鈴木信太郎
四五句尚ほ苦心して改めて見給へ。
小林要平 もつと一首に力を入れて引き緊め給へ。訂正した處よく考へて見てくれ給へ。
   眞向ひの土手の枯芝明々し夕日時のまに暮れむとするも  倉田彦郎
此の歌よし。
   山里の冬の桑原に夕日射し人恐るごとひたきは鳴くも  山梨伊都流
第四五句に對し初句を考ふべし。
(504)   われあふぐ夕べの空にわだつみの潮のこときわく雲のあり  昌詮生
斯樣な歌調子に乘りて上辷りになれり。以下五首すべて確かならす。作歌態度を根本より改め給へ。
   今日も又肥を汲むべく町に來てさまよひ歩く寒きちまたを  北原叢泉兒
「さまよひ」も未だいけない。
霧なつを 貴詠多く報告歌なり。棄てし歌につきよく考へて見給へ。
   あどけなき子供をしかる妻の顔吾が見守りて言はん言なし  丘不二夫
これ丈けでは未だ歌の境に入らないやうだ。
鍵岡久榮.多作をやめて一首に力を籠むる工夫をし給へ。
小川晃 總じて作歌態度輕し。多作も愼み給へ。
   父母の老を思へば大年の酒くみながら涙わきたり  源泰
年とりの酒を飲みながら親の年よるを悲しむ心はわかるが、「涙わきたり」とまで言ひては普通の人情よりすれば言ひ過ぎた觀がある。若し何か特別の事情ありたりとすれば、夫れが現れ居らざる可らず。如何。
   姫松に小搖ぐほどの風もなし此の磯原に垂るる雨雲  武井孝
第一二句の具合變なり。總體にも少し引き緊め給へ。
(505)
   北吹く夜庭木の鳴りのいちじろし布子重ねて肩凝りにけり  神田矩雄
第一二三句猶考へ給へ。
   快よき疲れなりけり灯のもとに雪解の音を只に聞き居り  富永とも子
「雪解の音」とだけでは猶足らぬであらう。
武重紅涙 千首視などしてゐてはほんとの歌は生れない。
山口兼好 總じて澄んだ心が見えない。
深海泰兄 作歌態度まじめなれども取れぬ歌多し。さういふ時は他の秀作を見ることも參考になるべし。
木下悠多樓 貴作の多くは心も形も輕々し。
   あたたかき冬の日と思ふ日にあれど家蔭の雪はとけざりにけり  山村展
第二三句改め給へ。
   姉よべどいらへはあらず細りゆく眼みつめて力つきたり  無名子
斯ういふものでは事件が現れない。よく考へて見給へ。
關口正吾 貴作一般に淺く薄し。一首に全心をこめ給へ。
   戸あけんとすれどあかざりきぞの夜の寒きに今は凍りつらむか  佐々木糺
(506)「今は」悪し。
山崎安太郎 出直して見たまへ。根柢から。
三澤竹人 貴作一般に上すべりにて輕し。よく考へ給へ。
和田光 貴作に出直すべき所多し。
高野布久思 現し方は大抵素直で心にも甘い所はないが、今少し一點にずんと集中するやうなものが生れるといい。
 
     第九囘選歌について  (大正十一年三月十二日・十四日「東京朝日新聞」)
         上
昨年十二月三十日から今年三月六日迄の應募歌を選み了つた。例によつて數言を書きつける。應募中に
   愛らしき兒なれば町につれゆきて人に見せたき心を持ちぬ
といふのがあつた。「人」とは特定の一人でなくて一般人の意であらう。一通り整つてゐて意も通じてゐるが、歌の心の根本に不審がある。親の愛を嚴肅なものとして考ふる時、その子どもを町に伴れて行つて人に示さうといふやうな心が起きるか何うかといふ事である。自分の子どもを衆人に示して(507)喜ぶといふやうな心も親の愛の一つの現れであらうが、夫れは寧ろ愛の玩弄と浪費に踏み入つてゐるものではあるまいか。左樣な疑問からこの歌を取ることを止めた。その事を茲に書きつけるのは、應募歌の中にこれ以上の玩弄心理が現れてゐるもの隨分多いと思ふからである。玩弄の道は何年歩いても人間の根本道に出られない。
歌の題材を日常の行住事に取ることはよい。只その心は何處迄も統一されて居り、集中されて居り、洗練されて居らねばならぬ。冴えた歌、澄み入つた歌を得ようとするものは、先づ冴えた心と澄み入つた心から踏み出さねばならぬ。應慕者中に自分の歌を改めんとするものあらば、少くも輕易な玩弄の心と、騷がしい雜駁な心から出直すことが第一歩であると心得られんことを望む。
         〇
捉へる所がよくても、現れる所が皆完璧とはいかない。表現の努力と修練が要る所以である。
   まなかひの山の窪みを吹きし風は落葉かたぶけて舞ひ上りけり
落葉の舞ひ上がつたのは山の窪みであらうが、山の窪みだけに風が吹くといふことは普通にない。第二三句が未だ徹してゐないのである。「落葉かたぶけて」も熟してゐない。この歌假りに
   吹く風の通り行くらしま向ひの山の窪みよりまひ立つ落葉
斯んな具合にしたら、も少し現れるかと思ふ。
(508)   家毎に立てし門松春待つと言ふ心なく見つつ寂しも
「家毎に立てし門松」は「見つつ寂しも」につづいた方が直接である。假りに
   春を待つ心もあらねば家毎に立てし門松見つつ寂しも
などの方が現れ得るであらう。
   春の夜を橋渡り來れば河口ゆ潮の香にほひ雨ぐもりせり
「春の夜」と「雨曇り」と二箇所に別れてゐるために歌がごたついた。これも假りに
   春の夜の曇り暖し河口の橋を渡れば潮香にほふも
などの如くすればやゝ落ち著くであらう。橋が河口にないのなら更に改めなくてはならぬ。
   消え殘る雪さむき屋根に上り來て火事を見てをり眞晝の火事を
第一二句が窮屈である。これは「はだら雪殘れる屋根に」など改めるといい。        下
   黒土に日は暖し芽ぐみたる草を寢て掘る腹冷やす※[奚+隹]は
これは可なり極端にごたついてゐる方である。「草を寝て掘る」は跂で掘る意のやうであるが、※[奚+隹]が草を掘るといふこと變であり、或は嘴でつつく所を捉へたのかとも思はれる。これ程までにごたつくのは心に緊張した純一さが不足してゐることも與つてゐると見ねばならぬ。これを單純にすることは(509)難事である。假りに
   にはとりは腹を冷やすと土の上に寢ながら草の芽をつつきをり
などして見たが、作者の意と違ふやうである。是は作者自ら苦心して見るがよい。表現を純一にするには苦心と修練が要る。咄嗟想を下して一氣に一首を纏めることが生きた心の表現であると考へるものが青年者に多いやうであるが、多くは疎懶者の考へである。吾々作歌修業者は歌聖の偶にして爲す所などを氣取つてはゐられないのである。
         〇
   久々に野に出で來り冬枯の雜木林を親しみにけら  片桐保
   すこやかになりて來にける我が友よ一年ぶらに會ひにけるかな  同
作者の歌は多く純一である。以上二首の如きがさうである。是等の歌を單に平凡と思ふと間違ふ。作者としてはただこと歌に墮ちぬ工夫が一方に必要である。
   傘さしてみ墓に一人立ちてをりいよよ時雨の音まさり來る  上田井吉
可なり落ちついた心で統一されてゐる。「いよよ」といふ詞も無駄でない。
   朝の光靄をとほして地に至れり赭土山に影うすうすと  堀田今子
第一二三句非常の力である。第四五句尚ほ考ふべきであらう。「靄をとほして地に至れb」といふ言(510)ひ方が作者に近い場所を暗示してゐるからである。
   漬物を多くなしたるこの冬をゆたけくおもふ山住みに馴れて  樋口しほ子
「山住になれて」の句があつて此の歌生きてゐる。「多くなしたる」の中に蓄へる意が少し出てゐれば尚ほ結構である。
   枯れ草にこもるぬくみのたのめなさ暫し佇みて我ありにけり  松岳謙一
可なりの微細感に入つてゐる。「たのめなさ」が甘くもなく繊弱にも墮ちてゐない。
   風の日のあかとき寂しちりぢりに雲ゐる空は朝燒けのする  羽生田實
第一句「風の吹く」などすべきであらう。作者には容易に纏め得る腕がある。この腕にたよると安易な道に踏入る虞れがある。足が常に第一義の上にあるべきことを忌れざらんを祈る。
 
     桑子集  (大正十一年「アララギ」四月號)
   隣家の枳殻《からたち》の垣雨にぬれ青き諸枝《もろえ》ゆ雫垂れ居り  別府範夫
第一句生きず。
    ぴゆく光のあとを慕ひつつ枯原遠く歩み來にける  關口茂男
歌がまだ上辷りなり。この歌も同樣なり。
(511)石津孤水 雜駁に流れし歌多し。
   朝毎に吾が胃の痛む此の頃の宵の寒さは身に沁みるかな  和田光
朝と宵とかけ離れてゐる。
伊豆高吉 眞面目に捉へ方も利いてゐるもの見ゆれど、まだ徹して居らぬ。御勉強を祈る。
石坂艶治 心も現し方も疎大なり。
酒葉百草 貴作皆安易に墮ちてゐる。
泉貞一 貴作多く雜駁なり。
   疊の汚れはいたく目につけど常に坐りて心慣れたり  田川浩
此の一首以外皆取らず。はじめより出直し給へ。
 
     若竹集  (大正十一年「アララギ」五月號)
   春の雪ふらつつ久し直土に降れるは溶けて草につもるも  傳田青磁
第二句猶考へ給へ。
   ひるげたく烟しろじろうごきゐる庭の木立に雨はれんとす  樋口しほ子
上句猶あるべし。
(512)   遠き山に新しき雪かがやけりわが朝戸出のこころすがしも  樋口しほ子
新しきと言はずしてその感じ出れば猶よし。
乳果生 貴詠どうも澄み入りし所なし。
須貝次郎 素質としてよき所あり。
高橋美躬 君の歌大抵取れる。
土井内新作 貴作歌ひざま概ねよし。御勉強を祈る。
   春早く鳴き出したる蛙子や應ふる聲の無きあはれかも  嫩野小春人
四五句猶考へ直し給へ。
   山川のたぎつ瀬音は楢山の若葉の中にさやかなるかも  木谷勇吉
此の歌よし。
   窓さきの日かげの屋根の雪古りぬ暫く赤き夕日のさむさ  松山青赭
「日かげの」を改め給へ。
和田光 歌ひぶり進み來れり。御勉強を祈る。
   砂ほこりに白くなりたる公園の木群に夕の闇迫りつつ  米田桂治
第四五句猶考へ給へ。
(513)三浦慈圓 貴作多く低調なり。引き緊つた心の現れんことを冀ふ。
布留成太郎 貴作一通りに纏れるもの多し。
 
     山雀集  (大正十一年「アララギ」七月號)
   山の端に這ひひそまれる白雲のそがひ斜めに入り日のなごり  正木直人
寫し過ぐ。
   降る雪のともしくなりて晝深き日のこもらへる空の明りや  同
第三句言ひ過ぐ。
   雪消えて今あらはなる野に山におしなべて降る今日の雨かな  同
「今」が惜しい。
   朝日子のさしそふ見れば起きふしの畑の土の霜をとかせり  同
現し方猶あるべし。以上貴詠總體によく捉へてゐる。
栗原哀雀 東歌のやうな天眞があつていい。併しそれは素質のことだ。勉強を專一に願ふ。
   山すそは笹多きかも冬久しく雪におされたるあとしるきかも  松澤常毅
第一二句猶工夫ありたし。
(514)   山門の杉の梢をあふぐ時雲行はやし霰ふりきぬ  井上司朗
第三句猶考へ給へ。
   藤蔓の高き葉群に烏來て白き花房をうち搖りにけり  栗原美彦
「高き」を改め給へ。
   露光る草の茂みに雛鷄《ひな》の群生毛そよがせつ戯むれてをり  宇内信治
「そよがせつ」の「つ」は具合惡い。
   我庭にいろとりどりの躑躅花池水にうつりうつくしきかな  同
此の歌大へんよし。
   ぴよぴよとかなしく鳴ける雛鷄を草叢にいだし遊ばせにけり  同
第一二三句惡し。
   山裾の平にあそぶ豚いくつ春陽に立ちてわれは見にけり  倉田美喜子
「春陽に」は改め給へ。
   あたたかき光あまねし若葉さす櫻がうれに風立つが見ゆ  山田良春
一二句言ひ過ぐべし。
古市草紅子 貴詠一般的に形整へり。それは惡い。
(515)松井一郎 今少し澄んだ心で事相を捉へ給へ。
   庭一面はひひろごれるどくだみに日ざし明るく梅雨はれにけり  春川浪路
第一句如何か。
   こみあへる汽車ぬちに母をのらしめつ心おちつけば寂しさわくも  服部胡頽子
母を送る場合だといふことを明瞭に現したい。
   目ざむれば夜明けに近し帶解かず見かけしままに書はありけり  土井内新作
この歌ずつと推敲せねば現れません。
   ※[虫+厨]透きて蒲團にとどく月かげをかなしみにつつわが寢ねてをり  古賀護郎
「かなしみにつつ」は如何か。
積山春男 苦心して今つと純一に現し給へ。
原郡治 貴下の歌皆安易なり。この調子で何十百千首作りても一首も物にならぬであらう。
   水霜のおbしと母はのらします藏ひておきし羽織を著るも  森谷文花
これ丈けでは殆ど取るに足らぬ。その他の歌も甘きもの多し。根本から出直し給へ。
丸山冷長 多作をやめて一首に全心を集中する御工夫を祈る。
   すてられし小犬なるらむ此の夜半しきりに泣くはあはれ悲しも  逸名氏
(516)これは歌の初歩です。萬葉集や子規等の歌御精讀を祈る。
   湯あみする春の夕をしとしとと屋根打つ雨の音かすかなり  樋口作太郎
斯ういふものも類型的なり。自分をずんずん深く穿りたまへ。
出中劉吉 今少し冴えたずんとする歌が欲しい。母の乳云々の歌は甘たるい。
   一つづつ豆を拾ひて食す吾をさびしく思ふこの夕かも  山本靜二郎
貴下の歌ずんと力を一首に集中する必要あり。この歌も第一二三句が現れ切れてゐません。
 
     山菅集  (大正十一年「アララギ」八月號)
   走りゆく電車の窓に職工が枝ながらなる茱萸を食ひ居り  山川良春
窓は惡い。
   日の光強くもあるか忽ちに植ゑ行く苗は萎れ伏したり  小林要平
「忽ちに」は惡し。總體に歌ひ方によき所あり。
   蕗の葉の小さきものもそろひたり庭にこころのしたしくなりつ  松倉樺雑
第二句考へ給へ。
倉田彦郎 總體に形の整ふことを先にし給ふ勿れ。
(517)   水田掻く馬につれそひ眞黒く泥にまみれて仔馬もゐたり  須藤忠藏
現し方は拙い。
   堀割の水に浮べる丸太木に夕潮みちてゆるるさみしさ  富岡よし子
「さみしさ」と言はずに現れぬか。
   枯れかかる樅の老木は枝を少なみ夕燒空に立ちの寂しさ  菊地誠一
一通りの整ひ方に安じ給ふな。
   野茨の花咲き茂る中にしてひそみ流るる眞清水の音  丸山東一
「ひそみ」は猶考ふべし。
   あらいそに打ち上げ來るしほ煙なごりの潮寂しくたゆたふ  宮坂澪
寂しくと言はずに内に籠るやうにしたまへ。
遠見一郎 總體に詞つきを素直にせられんことを望む。
尾崎徳太郎 どれも幼稚な歌也。貴詠すべて大もとから出直し給へ。
   肌寒き山里に來て心馴れず霧ふる朝の樹々の葉を見つつ  江口とり子
この結句ごたつけり。
   松のしん皆すいすいとのびてゐる林をゆけばほととぎすなく  武重紅涙
(518)上句考へ直し給へ。引きしまつた歌を見せ給へ。
   妹の机の上に千切られてちらばりてあるざくろうの花  藤吉繁吉
「ざくろ」を「ざくろう」といふことありや。
   さくさくと草刈る音に驚きて水にとび込む多くの蛙  赤羽茂
第一句考へ直し給へ。
綿向英 すべて單純に纏るやう願ふ。
井川不二夫 アララギの歌よく讀み給へ。
石井省三 貴詠ただごと歌多し。一點に集中する工夫を望む。
 
     第十囘選歌について  (大正十一年八月四日「東京朝日新聞」)例により數言を述ぶべし。堀田今子氏の作いつも率直自由なり。一點集中の力漸く加はらんことを望む。
   汐みちて現れいでし杭の上に鴎おのおのとまりてありぬ
「おのおの」やゝ微妙に入れり。境地これによりて活く。
   落ち落ちてなほ花のこる藤棚のしげり葉わたる風のすがしさ
(519)「落ち落ちて」と時間の經過を現す要なからん。大體清爽の氣動けり。
片桐保氏の作自然にして作意なし。往々無雜作に過ぐるを弊とす。
   子供らが手に手に持ちて歸りくる躑躅の花は美くしきかな
多少の不備はあれど表現が感戚動に直接なるをよしとす。詩人に氣取屋多くしてこの天眞を缺けり。彼等の多くは一讀して凡作となさん。
樋口しほ子氏の毎作靜肅の心あり。表現も素直なり。
   雨あとの宵暗深しくちなしの花にこもらふ螢の光
の如きは新鮮にして深みあり。
童葉氏の歌多く拝見せざれども、
   夜半にさめて去年の悲しみわが心に保たれてあるにおどろきにけり
の如きは選中の佳品なり。牧瀬貞一郎氏の
   谷川の音するかたに提灯をかざして見れどただに暗かり
は境地表現相待つて異常なり。傑作とすべし。松原遠氏の歌多く拜見せざれど、捉へ方慥にして輕浮ならず。
   峯越の風を強みかこの原は薄の穂さきみな折れてあり
(520)芭の穗さき皆折れしは言ひ過ぐべし。若し皆折れたりとも、風のために折るるといふこと如何にや。歌柄頗る棄て難し。塚田虹村氏の歌多く取り得れど、纏まり方骨一通りなり。今少し率直一途に掘り下られんことを望む。
   萱原にかくれて道のあるならし風起るたぴに埃あがるも
「あるならし」と言ひ過ぎたるに多少の作意見ゆ。以上數氏の外尚ほ佳作多し。一々言及し難し。投稿ははがき一枚に三首位にし、楷書にて鮮明にせられたし。(八月一日)
 
     野分集  (大正十一年「アララギ」九月號)
樋口しほ子 捉へ所も現し方も皆活きてゐる。
   鬼百合の蕾のさきに今朝ふりし南の雫を保ちてゐるも  伸道紫光果
「蕾のさき」とまで言ふは際ど過ぎる。
   花畑に近づきしかばこもれりし蜂のうなりを聞きにけるかも  高谷寛
「かば」重過ぐ。
   小霧こめて海はさやかにわかねども波音近し葭生の上に  栗原美彦
整ひ過ぐ。
(521)   空を行く五位鷺の腹ほの白し日は没りながら夕明りして  同
「夕明りして」の「して」がわるい。
   心うれしく巣ぬちの雛を見て居ればもののけはひに口を開くゐはれ  有賀文基夫
第一句改め給へ。
   朝方の雲のならぴやおだしくて電車のひぴき遠く起りし  松岡青赭
「ならびや」如何か。
   ひとりのみこもるは寂しこの宵や人の音もせず雨降りしきる  服部久吉
第四句惡し。
   野風呂いで草に坐れば夕さびしいつしか草のつめたくなりて  太田緑夢
草に坐るは少々態ざとらしい。
   久にして陸に上れる水兵は眞晝の街を群れて歩めり  綿向英
これでは文章なり。その他皆取られず。
   ますぐなる一すぢみちをこの雨にぬれつつ歸る大原女あり  小泉美枝
この歌も心の底から張つた力がない。
古賀果彦 貴作始ど意味分らず。分りても取られず。根本より出直し給へ。
(522)濱田柳子 無造作な心を歌ふ傾あり。考へ直し給へ。
 
     小柿集  (大正十一年「アララギ」十月號)
   ともしくも我が踏み歸る草原に露下りにけり夜更けしならむ  岡田清
第一句惡し。
   湖岸の堀割道を晝つかれ陽影よけつつ片より歩く  同
第三句改め給へ。歌柄皆よし。精進を祈る。
   たまたまに湧けるおもひのまがなしさ立ち去りかねつ合歡の下かげ  樋口しほ子
題四句言ひ過ぐ。
   折り折りに熊笹たたき南ふりぬ雲みだれつついゆきはげしも  戸隱行  丸山東一
この歌よし。
野の人 數を減らし給へ。
   山原に宿らんとして夕餉する焚火をまもる子供等の顔  山田良春
この歌はもつと練るとよくなる。第四五句このままでよし。
   覺えある夜道を來けり眼の前に黒くたかまれる槻の森かも  有賀文基夫
(523)第一句不必要ならん。
   さくら葉の黒み深みつ塵埃さへ葉並を染めて夏ふけにけむ  積山春男
第三四句考へ直し給へ。
   思ほへば心うれしも河原をほほゑみながら歩みつづくる  三村正文
第一句考へ給へ。
  あざやかに疾風にまじらきこえきぬ遠き道ゆく荷車の音  坂本きみゑ
第一句言ひ過ぐ。第四句も現し方適切ならず。
   水の香のほの匂ひ來る岩角に河原蛙を眺めゐしかな  喬木秀三
この歌詠み直すとよくなるであらう。
   發電所人や寂しき村の子をつどひ遊べりこの山峽に  同
この歌もよみ直し給へ。
   なが雨に濠の水かさましにけりなべて浮かべる蒼きはちす葉  益田集太
この歌よし。
   さしこもる日影うつろひて庭竹の土にしく影ほのかになれり  齋藤野川
第一句改め給へ。
(524)   とりどりの噂の種となる悲し秋は來にけり地に歸りたき
これは無名の歌稿のはじめの歌ですが、すべてこの類の歌三十首ありて、一首も取られません。どなたか知らぬが、歌について反省して頂きたい。數も二十首の制限を違へぬやうにして下さい。
 
     初霜集  (大正十一年「アララギ」十一月號)
   山風は霧吹き上げつ草木むた水の音さへ高鳴るらしも  赤壁四郎
「草木むた」は全然無理なり。これを訂せばいい歌になるのであらう。
   ほそほそとみどりの窓に風いりてあら剃りのあごすずしくなるも  伯林大學  遠見一郎
下句おもしろい。貴作には總體に面白い所あり。順直平明に現れるやうになれば猶いい。子規左千夫等の歌をよみ給へ。異域千里御加餐を祈る。
   ゆく夏のうす日こもらふ晝の雨硝子戸越しにこまやかに見ゆ  川本菊雑
第一句無理なり。
   この朝の日ざしに見れば楢山の楢の葉ややに色古りにけり  同
貴詠も少し洗練せらるれば皆よくなるべし。
   隱り水の音こそよけれのどかわき足をとどめぬこの深草野  岡田清
(525)現し方まづし。
竹内峽子 皆順直でいい。
   八ツ手葉に時雨降る夜となりにけり去にける人は歸る日なけん  織本保子
この歌よし。
   靜かなる月のでしほよ吾ひとりみるにさやけき秋萩の花  栗原俊三
第一句緊密ならず。
   秋の夕陽街に射しゐて大いなる車のひぴきゆるく聞ゆる  久保山紫川
この歌も材料のみ目立つ弊あり。
   ちちのみのちちの杖にとまゐらするあかざの莖は伸びいちじるし  奥村普
貴詠一通りにて取れぬ。この歌もそれなり。
 
     雪茸集  (大正十一年「アララギ」十二月號)
加藤淘綾 今囘の貴詠大へんいい。
   里の子が佛に供ふ桔梗砿我にもひとつたまはりにけり  伊吹山悉地院  寺田杢太
面白さうだが、このままではいけない。
(526)   ひそやかに降る雨ながら晝たけて向ひの田ゐに稻刈りをる人  失志木葉平
上句改め給へ。
   鍬とりて秋陽の畑に掘る土のくろぐろとしてほの匂ふなれ  大坪草二郎
「秋陽の畑」は窮屈なり。
   夕日かげ没りてののちの閑さや一とき澄める山腹の色  島田忠夫
「腹」は要らぬ。
   山原の遠き林をわたる風くぼき草生にいこひて聞きをり  喬木秀三
現し方は未だあるでせう。
   おだやかに蟲なきみてる草叢を踏みゆくわれの足ぬれにけり  鈴木杏村
「おだやか」は何うか。も少し自分で精選して送り給へ。
   山小田の稻穗ゆたかにぬれまさりあかときの陽のさしそめにけり  原田彦治
第三句改め給へ。
   わが肌につめたき朝の霧の道ふところ手して遠く來れり  同
第二三句のつづき窮屈なり。
   ともしらに秋蝉のなくひる下り父の柩は野に送られつ  山田彌一
(527)第三句は只「晝」の意にした方がいいでせう。
   もとほれば林をこえて家建つる音きこゆなりここの小路に  大野美乃流
この歌現し方は未だいけない。
   となりやの庭木にさがる冬顔の肌を傳ふ雨さむきかも  石川蕗香
隣家といふことは要らぬでせう。
   里人が取入れ祝ひうたげするおそ秋の山に雪はやも來ぬ  北澤與志子
第四句が未だいけない。
   梓の木茂れる山の細道に落ちしく紅葉霜にこごれり  原邦平
現し方は未だ惡い。
松井紫陽 自己の衝動に深く根ざして歌へ。
   桔梗の莟をつぶす女童が指に音ある山邃みかも  伊豆高吉
よき所なれど下句言ひ過ぐ。
   入つ日の落ち行くなべの木のしげみ烏はなかずかくれたるかも  井上博三
この調子では一首もとれぬ。根本より出直して勉強して見給へ。
久保山紫川 全然根本より出直し給へ。
 
(528) 大正十二年
 
     七草集  (大正十二年「アララギ」二月號)
   午後とならねば日のまはらざる我が庭に咲ける小菊をいたはりにけり  大黒富二
弟一句何とかならぬか。
   東路のさびしさおぼゆ生れてよりわが聞かざりし蜩のこゑ  泉靜雄
少し訂正したがいい歌なり。
   朝々に松葉牡丹《ろんどん》の花の咲きかはる留守居の家になじみそめけり  同
未だ第四句素直でない。貴下の歌實情に深く即かうとする所がいい。表現が熟しない。表現が巧みで心の上滑りするものより心持よし。この所大切なり。勉強を祈る。
   月いりて暗くなりたる小山田に稻刈りかねてあかりを灯すも  高橋美躬
いい歌なり。
(529)   夜苅りする山田に風のつのりけり行燈にさはりて木の葉おつるも
歌柄がいい。
伊藤光一 多少の瑕はあれど歌柄よし。一首も棄てず。
乾林莊 貴詠表現下手なれど實情あり。こつこつ勉め給へ。
道本一郎 捉へ方も利く所あり。現し方も素直なり。
   漬菜洗ひ雪圍ひもしぬ雪積むもよしと思ひてこころ安けし  釜屋眞佐子
現し方はまだ備らない。貴詠に寫生のいい所がある。
   ほのかにも夕ざりにけり己が葉に散り止まりたる枇杷の白花  安田稔郎
白花は何とかならぬか。
   夕風の寒むけき土手の曼珠沙華ふりかへりつつ取るとは見らじ  藤吉繁
第五句一寸面白い調子あれど改めずばなるまい。
   秋深き麓の原に風ゆれて黒く粒見ゆ蕎麥の花畑  神保冷平
現し方不充分なり。
   たち竝ぶ松の木立ゆはろばろの遠の入江に波立てる見ゆ  谷本白斗
「遙々」と「遠の」重複に週ぐ。
(530)   天つ日のおしてる原はおしなべて秋枯れ色の冴えにけるかも  小山田稻吉
冴えるの文字如何かと思ふ。
   雲重く垂れて動かぬ初冬の野面ゆきこゆ鴨わたる聲  丸山秀人
初冬と言はぬ方よからん。
   裸木の影ながながしこの頃の夕日はひたに寂しかりけり  小出美篶
「ひたに」言ひ過ぐ。
   八筈岳裾野い行けばすがるめの早かりて居りこの朝草を  松原靜夫
「この」は利かず。
   夕暮に友と遊びし故里の橋のたもとは今も思ほゆ  須谷幽美枝
「たもと」利かず。
   窓ぬののひだほのぼのと夕ばえて母がねがほのしばしあかるさ  武田夢醉
第二句改め給へ。
 
     寒禽集  (大正十二年「アララギ」二月號)
   遠山ははや雪白し此のあたり日にけにむれて渡り行く鳥  安川三郎
(531)第三句惡し。
   裏畑の陸稻大方穗にいでてあした夕の風にゆらげり  同
   久しくも屋敷の掃除おこたりぬこぶしはいつか散りはてにけり  同
   休日を一日こもりて物書きぬ裏山にしげき鵯鳥の聲  同
以上三首皆よし。
   硝子戸の向うに見ゆるさ庭べの冬青《もち》の梢の赤きつぶら實  中村徳之助
二三句の連りが惡い。
   寒風に吹かれて冷えしわが肌に泌みとほり熱き冬の湯うれし  加藤淘綾
「冬の湯」と言はぬ方よし。
   窓の外に木枯吹けり眼つむりて沁みとほる湯に耐ふる快さ  同
この歌よし。
   我妹子の歸り遲しもたらちねと待ちわびにつつ夕さりにけり  山田良春
母を直ぐ「足乳根」といふは無理なり。
   山の上のしぬ笹やぶに隱れ鳴く小鳥の聲や澄み透るらし  島田忠夫
第五句言ひ過ぎて惜しい。
(532)   森蔭の小徑の落葉深くして我が足音のやはらかきかも  中西寛一郎
何の落葉なりや。
   ややおそく目ざめたる朝ほほじろの柿の小枝に鳴くをさぴしむ  小松あさ子
「ややおそく」も「さぴしむ」も利いて居らぬ。
   避暑に行く話ききつつ貧しさに吾なれにしと思ふ寂しさ  大久保みどり
「寂しさ」はない方よし。
   決算期の日は近づきて勤めせはし今日も机に電燈ともる  同
第四句未だ現れ切れない。
   力なくすがれかかれる芭蕉葉に夕べふりつぐこの寒むしぐれ  美作小一郎
一二句すつきり現し給へ。
白鳥白苔 規定通りの數を造り給へ。多作ではいいものは生れません。
   まはだかの街の並木に日はかげり片みち早も氷りそめたり  柳澤彦衛
上句か片道をも少し生かすといい。
   冬日和海は小黒しかぎりなくひろごる海ぞ寂し岩山  三浦健敏
總體に具合惡し。特に「寂し岩山」は突然で意味を成さない。
(533)   雪尺餘積りて道か畑だか判らぬ中を荷車通れり  森田竹堂
これでは歌にならぬ。
一戸義二 貴詠一段の勉強をせねば纏まり付かず。
白岩柳虹 貴詠多く意義通ぜず。御勉強を願ふ。
   水を打つ鴨の羽音のさむざむと池をめぐれる森にこもらふ  高野布久思
四五句ごたつく。改作したまへ。
牛山野聲 嚴選しで送り給へ。
 
     第十一囘選歌に就て  (大正十二年二月七日「東京朝日新聞」)一月二十日到着までの歌を選び了つて息をついた。寄せて來た歌が非常に多くて取る歌が少い。取れぬものはさつさと棄ててしまへばいいのであるが、心至つて詞の至らぬものなどは何うかならぬかと思つてゐる中に時間がたつ。さういふ時間の消費には多少の意義がある。氣まぐれや遊びの心から生れた歌を見るために時間をつかふのは、やり切れないといふ心地がする。さういふ歌を作るといふことが、既に時間と腦の空費である。中には頻に二十三十の多數を作つて來るものもある。創作態度を嚴肅にする時、さう多數の歌がズンズン生れるといふことは殆ど罕れであるべきである。さういふ作(534)者が、時間の空費を作者自身と小生とに強要してゐるのである。
十數氏の歌は益々進境を示してゐる。まづくても眞面目な作り方をしてゐるものは、何とかして活かさうと考へて見た。發表されるものは皆現今の歌界に存在の意義を持ち得るものであると信ずる。所謂歌作りの弊を持たない純粹な歌が多いやうである。
片桐保氏の
   今日もかも木枯吹きてわが家の障子を鳴らす音のさびしさ
   夕ぐれの桑の畑につむじ風桑の落葉を捲きあげにけり
の如きは、優に歌の風格に入つてゐるものであつて、捉ふる所も寫生の生命を得てゐる。氏は今少し自作を嚴選していい。
西村義氏の
   紫蘇の葉の小じわ細かに照りにけり夕日の光うら寒くして
觀察が微に入つて煩瑣にならず繊弱に墮ちず。これ亦寫生の要核を得たものである。
加藤淘綾氏の
   潮滿たば水泡にまかれ果てぬべきこほろぎの命あはれみにけり
捉へ方が矢張いい。蟲の命を憐むは、萬物共通の生命を憐む心である。その心が歌に沁み出てゐる。(535)この歌蟲のあり場所が明示されてゐれば猶いい。併しあまり明示すれば歌を煩雜にする。斯ういふ點が歌の苦心を要する所である。
井上幸子、堀田今子二氏相變らず秀れた作を見せてゐる。堀田氏には無雜作に過ぎる歌が交る。用意を望む。
   部屋掃くと障子明くれば風寒し八つ手の花の打ち揺れつつ
   あけび蔓からむ木肌はつめたかり繁り葉とほす夕日の光
前者井上氏、後者堀田氏である。
松田菊枝氏の
   時折に雨落ち來つつ薄日させりつくつく法師庭に鳴きつぐ
   この朝のさ霧を深み桶提げて水汲み出でしわが顔は濡るる
二首とも純眞にして秀れた寫生である。第一首第三句で句を止めたのは表現の大切な點である。作歌者の留意を望む。秀作の悉くを擧げきれない。二三について言を費したのである。(一月二十三日)
 附言 送歌はハガキに限る。一枚に精々三四首。字體楷書にて明確に認められたし。達筆を要せず。
 
     彼岸集  (大正十二年「アララギ」三月號)
(536)   夕燒くるそらのましたに灯の入りし町を野中にかへり見にけり  富田吟秋
「灯の入りし」はここに適切ならず。
   家うらの櫟ばやしはうらがれてとりも來なかず冬ふかみかも  同
第一句假りにこんな具合に行くと生きる。貴作大抵生きてゐる。勉強し給へ。
   疲れもち宿にやすらふひまさへや殘す妻子を師はかへり見む  渡邊庫輔
第五句改め給へ。
   ふりいでし霰の音に耳とめつ夕餉の箸をおきぬたまゆら  井上幸子
第五句惡し。
   まぼしくも日のてるなべに淺溝の水あふれつつ雪を涵せり  喬木秀三現し方はまだ足らぬ。
加藤淘綾 貴詠事柄の方が目立つ傾あり。そこを考へ給へかし。
   灰とると霜の庭べに炭俵焚く火の顔に熱く燃えつつ  松田菊枝
現し方は惡い。生きてゐる歌多し。
   踏み行くに冴えて冷たし月あかり逮夜《たいや》の鐘はいま鳴りにけり  麻生夏子
一二句不充分なり。
(537)   池の而にかれ蓮の莖おのづから水にうつろひ靜かなるかも  小川緋紗緒
「おのづから」は改め給へ。
   本堂の戸を明けはなち雀子に撒き米|食《は》ます晝のつれづれに  同
第五句惜しい。
   寒の雨雨戸にしぶく音すなり夜更くるままに風や立ちけむ  小島杜人
この歌よし。
   日竝べて凍れる路に吹きさらす風立ち來れば土埃まふ  山田良春
第三句惡し。
   朝ぼらけ川鳴りしつつ雪の野にほのぼのとして霧立てる見ゆ  同
順序落ちつかず。
   ひんがしの山の端白く明けそめて田の面の氷闇に光れり  丸山東一
第五句改め給へ。
   尻下に押しひしがれし枯草のしばらくにして半ば立ちけり  村岡勝彦
一二句他にあるべし。
   桐畑落葉つくして遠かたの海鳴り聞ゆ頃となりけり  町山正利
(538)「落葉つくして」は無理なり。「聞ゆ」は「聞ゆる」とつづけるが正しい。
   ほうほうとただおどろきの眼して月見る我子は四歳となれり  林子郎
御送の歌皆現れ切れない。この歌もさうだ。第一句殊に意をなさず。
   この朝の焚火のもえのよろしくて青き火ふけばかなへりと思ふ  都筑喜和子
第五句面白さうだが、適切でない。
   幾日のしけにしめれる疊ほすに今日もかわかず靜かに曇る  土屋昌愛
「靜かに」はいけない。
 
     辛夷集  (大正十二年「アララギ」四月號)
   病室の硝子障子にひろごりし八重棚雲は靜まりにけり  堀内※[口+幼]三郎
八重棚雲はこの場合適せず。
   ひとすぢの心なりしか涙さへ頬に流れてわれの居りにし  同
「なりしか」は拙づい。
   心こりてなげき怒りしまがなしき夜を思ふにもはろけくなりにし  同
この歌現し方まだまづい。貴詠自己の感情に即して、順直な歌ひ方をしてゐる。歌が多く生きてゐる。
(539)一見赴夫 生ける歌多く目につく。
   いねながらいささか見ゆる庇屋根に今朝いちじるく白霜ふりぬ  泉靜雄
この歌いい。總體に貴詠は下手で眞實でいい所がある。これをずんずん押し進め給へ。
   梧桐の樹肌青めりあたたかきあしたの雨にぬれしめりつつ  丸山東一
「ぬれしめり」猶考へ給へ。
   いく度か出せし便りの返し文いつしか吾の待たずなりけり  兩角千代子
現し方は未だ足らぬ。貴詠に心の生きたる所あり。勉強し給へ。
   はるばると送りたびたる唐ちやわん膳にすゑつつ我はしたしむ  上田鶯溪
送りし人現れし方よし。
   山の端をいでしばかりの春の朝日のさし入る室を掃く快さ  吾妻みね子
第二三句まだあるべし。四五句いい。總體に順直な所がある。
   時雨雲今し晴れたるばかりなり垣の内には人畑をうつ  乾林莊
何の垣でせう。
新井文之助 貴君の歌形一通り整ひて多く輕きに失せり。御反省を祈る。
吉武眞砂 貴詠形を整へる方が先きになつて、深い心持が現れて居らぬ。これは眞實に考へて見るべ(540)きことだと思ふ。
安田稔郎 貴詠上辷りの傾あり。
   避病舍に行く夕ぐれを床にいねて我に物言ひし顔は忘れず  田邊暮雨
第三句拙い。
   雨ながら雲動くらしわが窓の折々くらみ折々あかるむ  西田光敏
「ながら」如何。
栗原美彦 取つた歌は皆いい。
有賀菊次郎 貴詠うつかりすると型にはまる。多く取らず。
   この峽の湯尻の田井に生ふる草冬の眞中に色青きかも  大下一太
第四句何とかならぬか。
   いささかの音もなき日や杜越えてかそけく聞ゆる潮の流れ  麻生夏子
この歌少し變なり。すべて下手でよいから眞實な寫生に頭を深くさし入れ給へ。
   おしなべてふか葉きいろにいろづけば木かげほのぼのあかるみにけり  遠見一郎
「ふか葉」は何うか。「ほのぼの」確かでない。
 
(541)     春蠶集  (大正十二年「アララギ」五月號)
   朝にけにふみしたしめるタンネ路はおのづからものをおもふべくなりぬ  速見一郎
木の谷へ路をつけてタンネ路は無理なり。この所考へ直し給へ。貴作特殊性ありて多く生く。言語を順直に使用し給はんことを望む。伯林へは今年齋藤君も移るであらう。逢ひ給へ。
   つらつらに石蕗の若芽の目に立ちてひもすがら降る春雨の音  高梨一雄
音はここに不要かと思ふ。
   音《ね》にいづる蛙かそけし去年《こぞ》の聲耳に殘りてあるがごとしも  島田忠夫
   ころころと蛙の聲は幼くて現し身われの戀わすれしむ  同
この二首すぐれてゐる。
   寂しさの心すべなし朝床に物思はじと我はすれども  蝦名末子
この歌よし。
安田稔郎 貴作形だけ整ふ所あり。眞實に深く見つめて歌ひ給へ。
   つと飛びて烏去りにし若桐の枝ゆれてをりしまし我が見つ  白木素以
「つと」如何。
(542)   屏風立ててかそかになりし水の音炬燵はなれていねむとするも  山田恒雄
この場合炬燵は要らない。
尾崎哲也 貴詠多く索通りにて殘念なり。も少し深くつき入つて下さい。
 
     蝸牛集  (大正十二年「アララギ」六月號)
   櫻散る小路の隈の吹きたまり土を掩ひて花うづ高し  加藤淘綾
現し方透らず。
   雪とけて南吹く日のつづきたりおほに見え來し山べ笹の葉  楠木夕流
第一句猶考へ給へ。總體に生ける所あり。
   朝々の寒さに土は凍てつけど伸びたちしるき蕗のたうかも  仲遣紫光果
   庭畑にややたけのびし蕗の薹このふる雪に埋れぬべし
以上二首歌柄よし。
   杉森に霏雨はけぶり木下邊の雪に黄ろく花ちりて居る  高葉微雨
これでは杉と花と離れてしまつて杉の花にはならぬ。惜しい。
小林正子 眞心がよく現れてゐる。
(543)   曇る日も明るかりけり一ぽんの辛夷の花の咲きさかる庭  川本菊雄
「明るかりけり」の現し方は露《あら》はにすぐ。
   茶の若芽おほひの内に三四寸うすみどりしつのびたるが見ゆ  乾林莊
三四寸は幼稚なり。
   神山の庵を訪へば人もなく紅葉散るなり山の嵐に  唐澤うし
素直ないい歌なり。
   なく聲の近きに仰ぐくもり空雲雀の姿をみつけたりけり  三宅みよの
「鳴く聲」と「雲雀」と離れてゐるのは惜しい。
   白き桃赤き櫻の花咲きて我壺庭の春盛りなり  宮崎市藏
白赤を詞の上で對立させぬ方がいい。
   踏みつけて厚く固まる橋の雪欄干のあたま隱るるまでに  早田豐三
「あたま」でもいけない。兎に角歌といふものはさう無造作では出來ない。萬葉子規等の歌よく讀み給へ。
   いささかの花もなき庭にはこべらのしらじら小さき花をつげたる  兩角千代子
「花」と「花」と對照するは幼なし。初句考へ給へ。
(544)   花嵐やみたる春の夜半にして蛙の鳴くは靜けきものか  山本靜二郎
「花嵐」は無理ならん。總體に形整ふのみにては困る。
荒谷信男 形のみ整ふ傾あり。
   かぎろひの野べにあひ見し黒髪の垂髪少女つねに忘れず  栗原俊二
第一句何うか。二十首以内送り給へ。今囘は殊に濫作なり。
 
     青梅集  (大正十二年「アララギ」七月號)
遠見一郎 貴詠すべて獨自の感得に深く即かうとする心が見える。
   庵そとは松のはやしの闇ふかし時鳥なく聲ぞ聞ゆる  島田忠夫
斯ういふのは矢張いい。
   立ちし日の心忙しくまゐり來し父がおくつき思はるるかも  泉靜雄
いい歌だ。第一句猶如何か。
   かへるでの若葉の伸びに驚けり朝くる雨戸に觸るべくなりぬ  美作金治
新鮮感あり。
道本一郎 よきもの交じれり。
(545)井上清志 も少し平凡に歌つて見給へ。
   とどろ波ひき去りゆきて眞砂地はただにひらたし秋深みかも  虹島椰子雄
第五句未だ利かない。
   泣きまねをわれにもせよと言ひやまぬ吾子はいまだいとけなきかな  中西寛一郎
四五句猶考へ給へ。
坂本重武 すべて生きてゐる所あり。
中島光風 すなほに現れてゐていい。
山口郵花 思ひ出の歌大體よけれど未だ足らぬと思ふものありて取らず。御工夫を望む。
   からたちの濡葉ほのかに光ありしつとりと夜は明け渡り行く  吉武昌
「しつとり」あらはに過ぐ。
   今宵食むかてを求むるに金たらず僅かにバンを噛りつつ居り  村岡勝彦
貴下の歌は未だ非常に反省の餘地あり。此の歌もあまりよくない。
和田光 貴下の歌形が整つて新鮮な心の動きが見えない。
 
(546)     澗下集  (大正十二年「アララギ」八月號)
   さみだれのふるこの頃のさみしさにむかしこほしくなりにけるかも  廣瀬みほ
この歌大變いい。
桑原榮治 貴君の進境著し。
藤澤逝春 大へん進みました。
吉田喜久松 歌柄幼けれど、よき所あり。
   砂ほこりいたくたまれる牛蒡葉にまばらに殘る雨の跡あはれ  森田虎雄
「あはれ」は利かぬ。
小林正子 寫生に深入りしたまへ。
大下一太 もつと寫生に苦勞し給へ。
兩角千代子 寫生に努め給へ。
小宮壽一郎 花ガルタなどしてゐては歌は生れぬ。
 
     星雲集  (大正十二年「アララギ」九月號)
(547)   降りつづく雨にぬれつつ散りがたのいろまさびしきあぢさゐの花  菅原茂子
「まさびしき」の「ま」がこの場合硬い。
   今朝さきしあさがほの花見に來れば晝ちかくしてふちたらしたり  同
いい所なれど、一二三句現し方少し足らぬ。御工夫を願ふ。總體に要を捉へてゐて現し方が素直でいい。
   梅雨晴の風吹きわたる木むらよりいまだ稚き松蝉のこゑ  樋口しほ子
「より」は適切ならず。
井上幸子 よきものあり。
道本一郎 よき歌多し。
   日に日に雨降りつげば桑ぐみの鰺さへつひにいでずゐにけり  小野三好
第五句わるい。
   足音をききとめにしか月に向ふ障子ひらけりかなしきいもは  沖大兄
妹の歌少しあまい。
仲道紫光果 皆いい。
   かがり火の明りに見れば音たてていくつもおこる川のうづ卷  中田味泉
(548)第四五句改め給へ。
一適素香 貴君は初心らしいが眞實性をもつた生きた所がある。
   來てみれば赤子はあくびしてゐたり夕かたまけてめざめしものか  土岐操
第四句改め給へ。
   畦豆を父と播き居り山小田に蛙ひた鳴く夕まぐれ時  別府範夫
この歌よし。
渡邊信一 未だ足らぬ歌なれど、よき心あり。
櫻木滿佐 すべて六首深入りした所なし。
   おどろきて人ら見てをり火に近き枯草の上にも霜おきにけり  原夕彦
「火に近き」だけでは現れぬ。第一二句必しも用なし。改めて見給へ。
   山の池にゆききをやめぬとんぼ居て没日さしきて羽かがやけり  志釜源一
第四五句惜しい。
   さみだれの雨をおほしみさす傘に木したは雫大きくあたるも  田中彌藤次
現し方を今つと練つて見給へ。
   たんぼぼのほほけて白き芝原に降りつぐ雨の色こまかなり  同
(549)「色」は不用。
   夕日かげいつかしづみて水撒きし店先通るひとの足音  岩田青草
多く輕いもので困る。これもよくない。
   曇り雲南の風に吹きちりて夕晴空にかたよりにけり  高田峰彌
第一旬變なり。「吹き散りて」も下句にかけ合はぬ。
大野一柳子 歌が容易に過ぎる。數も從つて多過ぎる。
武藤耕一 も少し練つて少數にし給へ。
齋藤千代子 一字一字楷書に丁寧に書き給へ。歌の見當が大分違つてゐる。子規、左千夫、節の歌を先づよく讀み給へ。
   鴨緑の流れに白く泡立てて流る筏に夕映えにけり  津谷芳翠
この歌も完全ではない。
渡邊一雄 皆一通りにて惜しい。
   岩の上に生え居し草も増し水にこかされしまま枯れなんとす  北原長柳
この歌もズツト改める必要あり。總體にもつと程度を高くして作り給へ。
清水智 多くは歌になりかねる。子規、左千夫、節等の歌をよくよみ給へ。
 
(550)     一命集  (大正十二年「アララギ」十一月號)
   かにかくにその日すぐせどながことを言にいでなば或は堪へじ  伊豆高吉
未だ窮屈なり。
   ゆくりなく目ざめたるらし夜深くにあつまりて耳に入る蟲の聲  同
「あつまりて」は未だ利かない。
   むらぎもの命ふれむにいとけなしまをとめなれを待てば嘆かゆ  同
この歌いい。
   はし居して月ながめ居り檐たかき梧桐の葉を蟲くふ音す  菅原茂子
此の歌いい。どうもいい。
   いとけなきわがはらからよ灯の下に机を据ゑて物まなび居り  遠藤時雄
此の歌よし。
   夜をふかく登る山路に身をめぐる熊笹しげく露もちにけり  原田比古志
「身をめぐる」は要らぬ。素直な歌が多くていい。
   夏蠶あげてしばし閑なりこの眞晝葡萄をつぶし子に吸はせをり  清水英勝
(551)どうも面白い所がある。
   梅雨のあめにぬれてたれたる桐の葉は往來の人の傘にさはりぬ  市毛宮之助
「さはりぬ」の「ぬ」が惜しい。他の歌事實が際立ち過ぐ。
   ひぐらしのともしき聲や寺の庭の明神かづらの花散り落ちぬ  御牧牛平
第二句の「や」が利かぬ。
   うすら雲低くおり來て海岸のれふしの村は靜かに暮れたり  同
海岸は要らぬ。
   馬の脊にゆられつつ行く高原は松蟲草の花盛りなり  兩角千代子
この歌よし。
稻岡卯一郎 心の生きたるもの多し。
   雨雲のはれゆくなべにほのぼのと湖のおもてを飛ぶ燕あり  三輪保
「ほのぼのと」は惡い。
   雨あひの一時にして夕方の雲はしばらく明るみて居り  同
「一時にして」は未だ適切でない。
   松山の松の木の間を吾が行けば鳴きつぐ蝉の聲ひぴくなり  楢山馬二
(552)「吾が行けば」猶あるべし。
   ぢしやの花ほづえよ落つるねもごろにしづえにさやり地にたまるなり  牧田朝臣
現し方はわるい。
   吾が肌にのぼりつきたる青蛙息づく腹の動きかなしも  加賀源治
「吾が肌に」は少し變なり。
   山吹の咲き残りしが木のかげに一つさびしく風にゆれつつ  判治春勝
第四句くどい。
   瀞《とろ》の水見んとのぼれる崖の上に藤の垂り花影の深しも  麓一雄
「見んと上れる」は外邊的記述なり。
   天渡る雲に夕陽のさすらむかこの山沼の底照り澄めり  丸山茂
此の歌まだ危い。
額賀清人 何れも一通りの歌で惜しい。御工夫を冀ふ。
林四郎 歌が總體に幼稚なり。御考へあれ。
岩田青草 總體に幼稚なり。通俗の臭ひもあり。御工夫あれ。
佐野熊三郎 何れも一通りの歌なり。深く集中したまへ。
(553)   小夜ふけて黍の畑を吹く風に耳傾けぬ秋近みかも  澤村東平
この歌はいい。他は幼稚也。
 
     香木集  (大正十二年「アララギ」十二月號)
   汗にぬれたる襯衣の冷えしるし木の間下道ながくつづくも  岡翹鳥
第一句考へなほし給へ。
中島※[白/大/十]二 現し方皆自然でいい。
   山峡の道踏み行けば落栗のころりころりと幾つもあるも  上村杜平
この歌よし。
   すきまなく朝霧こむる裏山に椎の落實の音たつるなり 高森民治
第一句不要。
   くろかみのうなゐ弘子がかたりごとこころゆく思ひなきにしもあらず  池内赤太郎
結句滑り過ぎたり。
安川三郎 現し方素直なり。
原夕彦 貴兄の歌ずんと進めり。
(554)   たはやすくしぐれぞわたる山の湯の湯の香さみしく我はひたれり  加賀源治
いい歌だ。
   山路にかかりけるかも吹く風のとみに冷たく肌にしむなる  高崎昌彦
第二句重すぎる。歌柄は皆いい。御勉強を祈る。
   震災をかかはりしらに啼く蟲をあはれ羨む心となりけむ  加納星斗
一二句考へ給へ。
   山ぎれのなして遙かに天し垂るあたりはけだし海にかもあらむ  天瀬光次
「あたも」は惜しい。地震の歌は今少し練つて見給へ。
舛田歌菜女 歌の外面が騒がし。
   犬つれて歩み疲れを憩ひ居りこの石原の圓き大石  江口とり子
二三句拙づい。
   いりつ日のいやかがやけるひとときをあきつむれとぶ羽光りつつ  御牧牛平
第二句猶考へ給へ。
   山原に照る日は暑ししかすがに薄穗に出づる頃となりけり  山田良春
この歌いい。
(555)   梅雨ながら雨あらくしてうつろひし木蓮の花のしべをおとしつ  金子千里
「梅雨ながら」の「ながら」はへんなり。
   霧こむる山越えくれば月出でぬ蓼の花畑ほのぼのと見ゆ  同
「蓼の花畑」といふべきものありや。
   けたたましき號外の音の行き交ひて町の人らの落ちつきもなし  山田百丈青
これでは震災の歌にはならぬ。
中田味泉 輕い歌をすてた。
 
(556) 大正十三年
 
     子日集  (大正十三年「アララギ」一月號)
   ひたむきの顔して子等は語らへり耳とめてきけば幼なごとかも  大坪草二郎
どうもいい。
   澄みわたる空の碧きに森舞あそぶ鳶の鳴く音は沁み入るごとし  同
詞の方少し勝つやうなり。
   ひき潮に淺き水流るる放水路沈みしもののみな見ゆるかも  森本治吉
第二句何とかならぬか。
   つくづくと秋の更けゆく海宿に聞え來る音みなあはれなり  同
少々ぼんやりしてゐる所あり。
   山はれて浪のすみゆくこの頃は母をおもひ出すべなかりけり  同
(557)初句大へんいい。
   谷へだつ片山峰のこごし岩ひと夜照りなむ明き月夜に  池内赤太郎
いい歌だ。上句まだ少しごたつく。
橋本各佑 歌がらはいい。
   朝霧の晴るればすでに晝近し照るま少なき秋の日影や  五味卷作
「すでに」は要らぬ。
   泣き疲れ遂に眠れる兒のおもわ睫毛《まつげ》の涙未だ乾かず  小島杜人
いい。
   晴れわたる雲間の空のあさみどり朝さやかに澄みとほり見ゆ  竹内敏雄
「晴れわたる」「あさ緑」「さやか」「澄みとほり」斯う詞がかさなつては困る。取らぬ歌ちよいちよい甘い所見え居り。
   夕月のおぼろにみゆる淺宵を鳴きわたるすぎのこゑのみきこゆ  大倉正美
「すぎ」は何か。暫く採る。
   日ならべて雪ふりつもりすすぎもの母におくらば手はこごえなむ  同
いい歌だ。
(558)鈴木祐喜 貴詠どうも一通りのもの多し。深く物を見つめ給へ。
神田すみれ 取りしものは皆素直なり。
   すがしさの盆燈籠の火のゆれに今宵はひとり母をしぬばな  新盆  向山草人
第一句惜しい。いい歌だ。
   この朝のひえいちじるし庭くまに葉ごもり咲けるひひらぎの花  安川三郎
この歌は三句以下こなれてない。
   晝ちかき野は雨あとの草いきれうなだれし花の眼にあはれなり  黒木盛光
上句ごたつく。
   朝なさな鷄《とり》にあたふる菜の上の露もつめたき頃となりけり  御牧牛平
第三句惡し。
吉水俊朗 深入りせんと心掛け給へ。
   この家の裏に廻れば溪川の流れの音のきこえけるかも  江口とり子
この歌いい。
   かつがつも花ひらきたる山吹の此の春雨にしづくして居り  武田梅江
斯ういふのは穩やかでいい。
(559)   寂しさを墓ひて獨り山に來ぬ龍膽の咲く山下かげに  同
「慕ひて」よささうで惡い。
中村太馬 素通りの歌多し。
 
     七草集  (大正十三年「アララギ」二月號)
富田博視 生ける歌多し。
   かど川の水車の音も耳になれてまはらぬ一日はさびしく思ふも  小松昌子
どうもいい。
   ひた鳴きつ飛びゆく蝉は雀に追はれゐながら翅弱るらし  小野三好
現し方がまだ足らぬ。
加納美代 よきもの多し。
   萱草《くわんざう》の小さきはなのしみさける干沼を渡り草履ぬらせり  山田茅眞子
この歌いい。
楢山馬二 このへんどうもいい。
   妹はねむれるらしも樹にさげし提灯のひにおぼろにみゆる  堀内※[口+幼]三郎
(560)下句考へ給へ。
   山峽のたぎつ川邊の熊笹にしぶきの凍るころとなりにし  柳澤勝
いい歌なり。
   きぞの夜はわきて寒しと思ひしにけさ赤城嶺に雪ふりにけり  關口茂男
いい歌なり。
鈴木信太郎 文章に近い歌が数十首あつた。練り方が足りなかつたやうである。今後必ず規定の數を送り給へ。其の方が歌の勉強になる。
   燒け跡にささやか立てる假家に人はつましく働きてをり  吉田喜久松
第二句考へ給へ。
北山秋雄 歌柄がいい。
   霖雨のやみて靜けき夕まぐれとほき川瀬の水のおときこゆ  小島杜人
「靜けき」は要らぬ。
   庭隅の藤の諸枝燒けおちて黒きがままに芽ぶきそめけり  武田露光
「おちて」を考へ給へ。
   立ちこむる霧の動きのやや見えてところどころに出づる山の背  住谷宗一
(561)背は何うか。
   人は縱し思ひ止むとも父一人此の兒ばかりをいとしと思はん  山野井助三郎
すべて意味の素直に通るやう御よみあれかし。この歌もどんな場合か不明なり。
薄井一 詞の莊がしさがある。歌が輕く辷るやうなり。
 
     早春集  (大正十三年「アララギ」三月號)
   山原をふり行く時雨の幽けさよ笠におとしてわづかにしられつ  高橋美躬
結句言ひすぐ。
   月あかりさしきて寒き高原や夕要しづむとほき湖の上  同
この歌いい。
   田の氷ひかる冷さ峽の空疾き夕雲あられをおとしつ  同
この歌ごたついてゐます。
   天そそるみ船の山に雪ふりて夕べさむけくなりにけるかも  金崎北鳴
この歌いい。                     .
   眠りたる幼兒の手よりころがりし柿をつかめばぬくとかりけり  菅沼知至
(562)この歌生きてゐる。
   落葉掃きてすがしくなれる庭の面に時雨の雨の降りいでにけり  菅沼知至
素直でいい。
   木がらしの風しづまればさわやかに瀬の音ひびく山の林に  伊藤恒雄
この歌よし。
   おのづから人の行くらし松原の下生にしるき草枯の道  正木時雄
第五句考へ給へ。
古川康穂 歌皆いい。貴地に會員少きことなど氣にしないで、一人でこつそり勉強し給へ。會員間の往復などしてゐると、御同樣勉強の時間がなくなる。
安川三郎 いい歌があります。
   見ることに心し痛し板の間にさむしろ敷きて妹が臥《こや》れば  額田病院に入院す  倉田百三
この歌結構なり。
 
     春禽集  (大正十三年「アララギ」四月號)
      祖母の葬儀終り、七日忌も終りたれど尚祖父の許にて起臥す
(563)   おほちちよ日頃のつかれ出でにけむ今やすらかにねむり給へり  淵浩一
この歌いい。
   殘り葉のくぬぎ林の丘さびし淡き夕陽のいろそみにつつ  同
第一二句のつづき惡し。
   冷え冷えと朝風立てば幼な蝉いまだ幼なく鳴きやみにけり  虹島椰子雄
どうもいい。よき歌多し。
   うつしみのわが苦しさは告げえねど母とかたりて時忘れたり  喬木秀三
この歌いい。
   み佛の前に友としつつましく床をならべていぬる今夜や  五井の龍善院に憲阿を訪ふ  上田鶯溪
第二句窮屈なり。
   うちめぐる生垣高き我が庭に朝な朝なの霜はふかしも  木原春風
この歌いい。
   ひと色に枯れつくしたる山平をよぎる横手の琴あらはなる  太田穣
「横手」は不要なり。
   此の道のゆくさくるさに眺むれば寂しきものか竹の林は  馬場謙一郎
(564)どうもいい。
諸岡芳夫 よく捉へし歌あり。
井上朝鳥 寫生に努めたまへ。
   とぼとぼと道をゐるけば下駄につく土やはらかき春となりけり  黒木盛光
第一句惡し。
大利之輔 子規等の歌をよく見給へ。
 
     和布集  (大正十三年「アララギ」五月號)
古川康穗 總體によき所見ゆ。
加納美代 素直にて皆よし。
楢山馬二 貴詠概ねいい。今月は選歌に可なりいいものがある。
   やうやくに雪消えはてし北庭の小松がうれにさす夕日彩  菅沼知至
この歌いい。
   ヒヤシンス今朝は蕾しよく見ればうす紫に匂ひこもれり  伊吹山直子
第二句御考へを願ふ。歌柄はいい。
(565)   雲出でて日をさへぎればしかすがに春まだ寒き松風の音  團潔
いい。
   草原にみつる夕陽や耳とめていのちさぴしきこほろぎのこゑ  美作小一郎
第四句ここでは利かず。
   よるべなき思ひたもちて桑の葉のふけし緑に陽の照るをみつ  同
いい歌なり。「たもちて」は何うか。
   竹やぶのおほき野面やあかねさす春日に見ればうら枯れにけり  木田曾平
第一二句まだしつくり行かず。
   山墓の樹々の諸枝芽をふけり風吹きわたる音の寂しき  淺羽秋華
この歌いい。
 
     水鷄集  (大正十三年「アララギ」六月號)
   梅の花はや散りゆかんこの春の花を惜むと水あたへけり  澤浦盛衛
四五句いい。「この春の花を」の所考へ給へ。
   てりたらふ春陽の中におちたぎちうたかたはここだ生れつつ消えぬ  同
(566)第二句考へ直し給へ。
   玉鋒の道は白雪ふりつもり母の棺はいま出ますなり  倉田百三
大へんいい。
   春重き曇りの中に柚子の木はほのぼのしろき花つけにけり  伊吹山直子
「春重き」は考へなほす必要あらん。
   雪解風ひた吹きに吹く庭に出れば曇りを帶びて沈む日の影  仲道紫光果
第三句訂し給へ。
   一高の東投手がポックスに立つをし見れば涙あふるる  山中一
一高をなんとか考へるといい。
   山うらに野火かあるらしほのぼのと月夜の空に煙立つ見ゆ  黒澤民雄
「ほのぼの」は利かない。
   鉢棚の下はかわきて粉土にありのぢごくはおほくこもれり  細谷雄二
「紛土」はどうか。
   雪消えの庭面の土のやはらかみなべてのひびきしみいるごとし  同
第四句まだ足らぬ。又言ふ。貴詠現し方に獨断の所あり。
(567)   春雨の晴間すがしき陽のひかり石のおもては早やかわきつつ  小尾鷽
春雨まだ生きて居ない。
兒玉善男 生きてゐるが現し方の足らぬもの多し。勉強し給へ。
吉武尚三郎 貴下の歌總體に今少し重くてもいい。
 
     星合集  (大正十三年「アララギ」七月號)
   菩妹子がさしたる瓶の櫻花一夜のうちにみな咲きにけり  倉田百三
   きほひ生ふる庭のしこ草よく見れば小さき花をみなつけて居り  同
   おのがじし春にあひたる雜草の花ささやけし見れどあかぬかも  同
   おしなべて櫻も今は葉となりつ晝ほがらかに烏なくなり  同
   濁り江にのぴそろひたるあやめ草葉立ちすがしく五月きにけり  同
「吾妹子が」「きほひ生ふる」「おのがじし」「おしなべて」「濁り江に」皆いい。
中島※[白/大/十]二 貴詠「光」といふ文字多すぎるかと思ふ。如何。
   夕さればしらけてさむき事務室に仕事をやめて外を見て居り  原路明
「しらけて」は何うか。
(568)   雨あとの諸樹《もろき》の若葉色まさりしるくさ品しき桐の花かも  菅沼知至
現し方はまだ熟せず。
   ほのかなるさ桐の筏の紫やさやさやわたる風にゆらぐも  吉田喜久松
「さ桐」は何うかと思ふ。
   芍藥の蕾ふくらみほのかにも紅見えて夏は來にけり  岡原常子
現し方はまだ緩い。
   枝々にかたまる若葉に下垂りて胡桃花咲く春更けにけり  小松正子
二三句訂正し給へ。
   つつましき心保ちつつおほははのみ墓の草を取りをり吾は  立石瓊華
上句やゝ常套なり。
 
     酸漿集  (大正十三年「アララギ」八月號)
   夏草のしどろがなかに莖高きすかんぼの花うつろひにけり  遠藤時雄この歌いい。
   たえまなく風は吹けれど夏草の繁みの中に露を保てり  同
(569)「中に」の所猶御考を乞ふ。
鹿兒島やすほ 單純にいつてゐていい所がある。
關卯一 君には特色あり。始め二首が矢張いい。
關徳男 生きたる所あり。
   高松山白樺かげの萌草の今年や延かむ踏む人なしに  小尾鷽
「延かむ」は何うか。
   おとろへの目に立ちて來し父のべにありて我がきく雀子のこゑ  福富範雄
この歌よし。
   おぼろなる月の光のただよひてほのかに匂ふいちはつの花  鈴木みさを
「ただよひて」は猶適切ならず。
   河原は風烈しきか砂ほこり橋霞むがに舞ひ立ちて居り  中谷福男
かういふのをよく練るといい。
團潔 貴詠形の方が出來あがる感あり。寫生し給へ。
   曠劫のたまゆらにしてわれあれや今宵ひそかに仰ぐ星空  傳田正直
まだ徹せず。
(570)鈴木祐喜 この他の歌捉へ方はよいが現れきれない。
   曇り空ひろきに昇るうす煙こころひたむきて夕をあるく  窪川鶴次郎
「ひたむきて」を考へ直し給へ。
平岩彌市 寫生につとめ給へ。
   おしなべて冬枯れにけるこの山の谷川の水細まりにけり  城島鎭雄
この歌よし。
   青葉若葉たたまりにつつ裏庭や日ざしとどかぬどくだみの花  大山研吉
二三句考へ給へ。
田中園吉 平凡でもいいから素直に現したまへ。
   湯上りの身になれぬ浴衣の糊の香や暮をいそがぬ窓に星あり  牧清廉
ずつと練つて改めて見たまへ。
 
     垂水集  (大正十三年「アララギ」九月號)
   夕光りさすや小庭の苔の上まがきの竹の影をひきをり  倉田百三
どうもいい。
(571)   わたくしに死にて生くれば障りなし此の天地の廣きまにまに  感ずる事あり  同
これが單純にいつて調子に強く現れるといい。上句まだ苦心の餘地あるやうだ。
鹿兒島やすほ 素直にてよき歌あり。
大森輕舟 歌柄皆よし。
   今朝見れば柿の葉を食む蟲の糞木下に黒くこぼれてあるも  原田比古志
第五句文章に近し。この消息御考へあれ。歌柄多くよし。
代田文誌 いい歌があります。
   衣とほし寒さおぼゆる黒生みち雪消えてなほ日もたたぬらし  山田武匡
現し方猶熟せず。
   四阿山《あづまやま》ゆ雪吹き下す風凉し温泉宿の縁の拭ひ清しく  別府範夫
第五句猶あるべし。
石黒ク 歌ひぶりがいい。勉強し給へ。
服部敏子 大へん進みました。
   澁川に泡流れくる日の長さここに來し日ゆたゆる時なし  失名氏
第三句惡し。
(572)   田のくろをしづかに行けどどぢやうらは水音急に土にもぐるも  伊藤至郎
これをずつと練らねば歌にならぬ。
   寂しさに吾が兒思ひて窓をあけ街上の子供あれこれと見る  白山友正
この歌猶練らねば本當になりません。
   大岩のはざま流るる川の瀬の岩にくだけて山にひびくも  向山ちはる
四五句いい。
   暮れくれにしるくし臭ふ馬の汗山家の夕はものあはれなり  團潔
馬と作者の關係も少し明了に現れるといい。
   深谷の岩かげきよき淵水に足をひたして休らひにけり  同
「淵水」は無理でせう。
   地にいねて蛙の聲をききをれば天つ空より降るが如しも  夜水引  仲道紫光果
第一句の現れ方不足なり。
川崎尚彦 アララギの歌をよく見給へ。
   堰の水しぶけるあたりまたたける螢すがしも草蔭にして  荻野谷幸子
練り方足らず。
(573)   鳴きつぐや葦切おほき洲の上を橋わたりつつ耐へざるあつさ  細谷雄二
第五句少し急變の感あり。
   たちこむるさ霧は深し竹むらに風吹きすぐる音の寂しさ  中島※[白/大/十]二
霧深き時は風多く吹くことないではないか。如何。詠草中のもの類型多きに似たり。
   ぬば玉の月夜更けたりきりぎりす叢なかに露けく啼くも  北山秋雄
「露けくなく」は少し危い。
   明り戸に軒だれたるる影うつり家居うれしき春近みかも  佐藤吾郎
「軒だれ」は無理ならん。
小山勇 よくアララギの歌を讀んで見たまへ。
 
     新酒集  (大正十三年「アララギ」十月號)
   淺間嶺の裾原遠くのびて來しここに秋草の色づきにけり  石黒ク
第三句猶考へ給へ。
   山べよりとりきし花のくさぐさをたばねてあげるみ佛の前. 堀内皆作
此の歌いい。
(574)   遠雷の音きこえ來るひとときを川かせすすしく吹き渡るなり  龜井齊
第三句まだ至らず。
 
     初氷集  (大正十三年「アララギ」十一月號)
蘆名きみ子 いつも素直でいい所がある。
都筑喜和子 いいのがある。
    夏草を刈りたるあとの若萌や莖細く立ちて咲くあざみ草  山田武匡
この歌いい。
   谷々に雲沈みつつ朝明けぬいづくの寺か鐘を鳴らす  湖南省南嶽  栗原美彦
この一首感嘆して拜見す。
   谷の雨もの寒く降れり夕早く湯宿の膳に母と向ふも  五味保義
   かやぶきの湯宿の竝ぶ谷の底雨ものさむくたそがれにけり  同
以上二首最もよし。
   いとひなばわづらひがちなる命さへなほ生くるがに恃めるあはれ  井上幸子
第一句考へ給へ。
(575)   黒々と山なみ遠し國原はただに蛙の夜となりにけり  吉田勝太
「蛙の夜」は無理なり。そこを考へなほし給へ。
   夏草の茂るおくつき月讀の光たどりて碑文《ふみ》をよみつも  橋本左内の墓  岡泰元
「光たどりて」は拙づい。
   こほろぎのなく音かそけくなりにけり時雨の雨の二日三日降りて  伊藤林作
この歌いい。
   朝夕は肌凉しくなりにけり庭の鷄頭の紅《あけ》ましにつつ  中村徳之助
この歌いい。
丘雅 貴詠中男女抱擁の所はもう少し冴えて頂きたい。
   夕露のしとどにおきし菅章の山路を來れば衣ぬれにけり  高葉微雨
三四句つづき無理なり。
   もの洗ふ女のそばにをさな兒は石投げて居り靜かなる朝  小澤菊彌
結句まだ易い。
 
     十夜集  (大正十三年「アララギ」十二月號)
(576)五映保義 佳きもの多し。
澤捕盛衛 現れ方簡素にしてよき所あり。
   夜くだちを降るは秋雨眠りをるわ子の額に蚊をつぶしけり  小野三好
一二句改め給へ。
北山秋雄 いいものが見える。
   ききなれてしらずなりけるこほろぎに今宵は近き吾が心かな  佐竹爲義
この歌現し方いまだ惡い。
   一ひらの雲なき空ゆふりそそぐひかりうれしきころとなりけり  木村輝一郎
いい所がある。
   君がたのむいのち見て來し父上はうれひあふれてもの言はぬかも  古尾豐
第一句惡し。
有賀あやか 寫生につとめ給へ。
石井省三 全然取れぬもの多し。子規歌集等をよく讀んでくれ給へ。
團潔 今一段深い所まで掘つて行き給へ。さうすると數も減る。
龜井齊 も少し深く見つめる所あるやうに望む。
 
(577) 大正十四年
 
     燧火集  (大正十四年「アララギ」一月號)
   凍み枯れんこといとほしみこの若木に小さき屋根をかけんと思ふ  唐木愛男
若木の名が欲しい。
   うぶすなに願ひを懸けて幼な子の朝な朝なに參るかなしさ  三竹貞雄
歌の素質としてよき所あり。
   月|光《かげ》の照りのしづみに地靄なぴく野づかさこえて波の音かも  美作小一郎
三四句の關係一首をごたつかせる。
   月かげに睫毛はくらくうちしづむ人をおきて遠くわれはゆかなむ  同
一二句猶考ふべし。
   おぎろなきこの朝空やはろばろと父母は吾《あ》を待ち戀ひたまふ  同
(578)第三句如何か。進境著し。
   宵ぞらに稻妻きざすたまゆらや遠山なみを明らかにせり  遠藤時雄
「きざす」は如何。
   からかねの馬のたてがみにおく霜の朝日にてらふ松の下かげ  菅沼知至
第五句惜しい。
龜井齊 下手でもいいから感動に即するやう努め給へ。
斷潔 言語の働きが勝つやうなり。數も多週ぐ。
 
     水鳥集  (大正十四年「アララギ」二月號)
   沖べよりふくれて來る夕波の磯にきはまる音のゆゆしき  三澤孔文
「夕」も「音」も猶考ふべし。
   窓のべの笹葉につもる雪の音兄の歸りの遲き夜かも  加納美代
この歌いい。
   ほとほととしぐれの雨のさびしさよ落葉をかきて遊ぶくだかけ  服部敏子
第一句猶考ふべし。
(579)   路次ふかく積れる雪のほの光り夜ふけしかも降り止みにつつ  窪川鶴次郎
この歌いい。
 
     土肥集  (大正十四年「アララギ」三月號)
   枯原のはたてに冬の海が見ゆ渚邊白く凍つきたるらし  池内赤太郎
滿洲らしくていい。
   朝寒み器の水の氷る音靜けき部屋にひびきわたらふ  金井國雄
「靜けき」と言はぬ方よし。
小澤菊彌 アルプス山麓の歌みないい。
高森民治 とろろの歌皆いい。
遠藤時雄 今少し深く立ち入り給へ。
   冬日はれてうなじぬくとし桑原の上鳴き通る山雀小雀  相澤安住
うなじ此處では利かず。
 
     東紅集  (大正十四年「アララギ」四月號)
(580)池内赤太郎 追々いいのが見える。
   朝けより圍爐裡にこもらす母上にくどの焚火を兒にはこばしむ  佐々黙々
少しごたつく。
   餅をやくにほひほのかにたちこむる家の外の面は雪ふりて居り  藤森朋夫
二三句言ひ過ぐ。
   松の根に山茶花のはな咲きにけり松葉かかりてあるがさびしさ  竹村二三
結句猶考へ給へ。
   はりまどゆさし人る月のかげあぴて程なく煮ゆる飯をまち居り  森山收二
「あびて」言ひすぐ。
   枯山にすがれてのこるさるまめの赤實をとりてわが食みにけり  五味三枝
この歌いい。
   やや枯れし葱の畑の春の雨のしみらに降るにしづかなるも  佐藤格
結句まだ惡い。
   知らずして草花の根を燒きしかば此のフリージヤの花しぼみけり  沖大兄
燒きし事情ちよつと現れるといい。
(581)   この冬の寒さきぴしく宵々に門川の瀬のこごりとだゆる  飯山鶴雄
第五句猶あるべし。
   冬籠りけながき我や手にのせてあはれと思ふ櫻草の鉢  井上幸子
この歌よし。
   母上ゆ送り來りし綿ごろも手にとりもちてしぬびまつるも  中島光風
心もちよく出てゐる。
 
     若芽集  (大正十四年「アララギ」五月號)
   日を詰めてつかひし馬に湯をつかふ父をたすけてその鼻とるも  大黒富二
第三句如何。
   湯もどりのぬくさともしみ踏む落葉朝な朝なに散り新しき  同
この歌少しまだ窮屈なり。
   雨の音こころにしみて聽き入りぬくだち夜獨り老父を思ふ  神郡敬三
第三句言ひ過ぐ。
   夕闇のせまれる池の枯あしや水尾ひき渡る水禽一つ  川島まこと
(582)「枯葦や」の「や」がいけないやうだ。
杢山人 貴詠詞だけ活動する傾あり。眞實率直な寫生を心がけ給へ。
   わかくさの青みし畑に※[奚+隹]をはなちて※[奚+隹]舍《とや》を掃きにけるかも  小澤菊彌
すなほでいい。
   天龍の瀬音ひびかふこの岡のあたりの家はいね靜まりぬ  薄井一
「あたり」はまづい。
   いちじるき凍みのゆるびにとくるらし土手の石崖しめらもちたり  清水敏一
未だ現れきれない。
阿津人 歌柄によきところあり。辛抱してやつて見給へ。
   この山の坂路の雪とけそめてあらはに見ゆれ赭土のいろ  淵田照子
「あらは」は要らぬ。
   夕づきて笹莱影ひく板縁につつましきかも雀の足音  加納美代
「つつましきかも」は要らぬ。
   屋根瓦の雪解の霑れは朝たけて白き息たち乾きつつ見ゆ  池内赤太郎
見方はいい。二三句間工夫を望む。
 
(583)     夏霞集  (大正十四年「アララギ」六月號)
   つる草の枯れてからまるばらの枝ぬく日つづきて紅《べに》さしにけり  丸山東一
第四句猶考へ給へ。
   こぞの春いこじて植ゑしわが庭の藤ながかつら芽をふきにけり  安富六男
どうもいい。
   遠き邊を汽車走るならむとの曇る空の上よりひびきぞ傳ふ  山田ちま子
この歌よし。
   山の木の冬芽のさまはまだかたし根元の蘭は花咲きにつつ  上野※[月+半]
第二句「さま」を訂し給へ。
   ひまなくし通る電車の響あと耳をとめて聞けば蛙子の聲  曾賀日出夫
第三句惜しい。
   菩提樹の古實つぶらにたりにつつ日々にとけゆく若芽の苞葉《こもば》  本山石鳥
「こもば」例ありや。
薄井一 やゝ輕く辷る所あり。
(584)伊丹丈緒 貴下の歌眞實に還りて初より出直し給へ。
 
     晝顔集  (大正十四年「アララギ」七月號)
   あめつちの大きつらなり神さびて遙かなるかな人の命は  藤原千尋
「つらなり」の所猶考ふべし。
   かなしさの極りぬればさ庭べの沈丁の花を我は見にけり  淵浩一
これはどうもいい。
本田濱子 どの歌も皆いい。御勉強を祈る。
上原吉之助 君のも皆いい。捉へ所も現し方もいい。
   嬬と居て心和めり風の搖れ話斷つことしばしばなるに  永由健一
第三句考へ給へ。
 
     山井集  (大正十四年「アララギ」八月號)
   むし暑きみなみの風となりにけりつかれてひとりいねむとするも  菅沼知至
この歌いい。
(585)   とく起きて心したしき朝ぐもり茅屋根の上に鶺鴒なくも  松澤常毅
「親しき」詞のみ浮き出てゐる。
   岩根つたふ水のとばしりさむければつつじの花はまだつぼみなり  同
これはいい。
   啼き止めし青葉ごもりの雨蛙となりの枝に飛びうつりけり  小澤菊彌
此の歌いい。歌ひぶりがよくなつた。勉強し給へ。
 
     岩燕集  (大正十四年「アララギ」九月號)
   むくむくと朽ちたまりたる落葉松の落葉のなかに萌ゆるさわらび  行田雅規
第一句不可。
   ぽしやぽしやと苗とりゐれば急に暗し入梅《つゆ》雲は雨をもちてうつれる  兒玉詩農賦
第一句改め給へ。
   ほかげさす庭の夜つゆのしめり深し牡丹のもろ葉きほひ立ちつつ  菅沼知至
「きほひ」は他にあるべし。
   木の下に育ちのおそき夏菊の小さき花をひらきけるかも  小澤菊彌
(586)この歌單純でいい。
   五月雨の晴れまは明し白雲の空のいちめん燕飛ぶ見ゆ  原以左夫
第三句惡し。
 
     新光集  (大正十四年「アララギ」十月號)
九山東一 よき歌あり。
   砂のへにあはれと見しが晝顔の花もこの頃實となりにけり  藤原千尋
この歌いい。
   ちちのみの父の訓への言うらに我を口惜《くや》しむ思ひぞ見えつ  橋本公佑
第五句考へ給へ。
 
     香木集  (大正十四年「アララギ」十一月號)
   わが宿の小屋根の松葉掃きにけり今朝はろばろと佐渡が島見ゆ  木下右二
この歌大にいい。
   秋晴れの松の林に我が入れば夕陽さしゐる青|松毬《まつかさ》に  菅沼知至
(587)上句未だし。
   蚊遣香を燻《く》べて、書《ふみ》よむ室ぬちにひそけきものか蚊の落つる音  高久謙吉
第四句重く言ひ過ぐ。
   雨ふりて縁に散りたる萩の花箒に掃けども離れざりけり  小澤菊彌
この歌新しくていい。
 
     橙果集  (大正十四年「アララギ」十二月號)
   うるはしき筆の跡ただに尊けれ九百年の銀泥の光り  神郡敬三
第一句考へ直し給へ。
   夜ふけてひとり明るき林檎屋に小僧のこりて店しまひをり  土器稻作
第二句猶あるべし。
   あかときに眼ざめて聞ける蟋蟀の聲は一夜を通せるならむ  青山省二
「聞ける」は具合惡し。
   路の邊の一本松の下に見し三體地藏のあたま缺けたる  失名氏
歌が餘り幼稚です。目ざめ給へ。
(588)   頭《づ》の上に流れて來たるおほら雲まばらに光る雨をこぼせり  大黒富二
第三句如何か。
   冬ざれの夕陽ケ岡の群烏汽車過ぎしあとに聲かしましき  大谷眞平
「夕陽ケ岡」は危し。
 
(589) 大正十五年
 
     草芽集  (大正十五年「アララギ」二月號)
   隣家の樅の大木のあひだより朝かげさせりわれのこたつに  菅沼知至直接に現れてゐていい。
   わが心いかに保たむこのごろのわれの心をいかに保たむ  五味穎子
   けふもまた姪のふとんの綿づくり心安らかに暮しけるかな  同
以上二首特にいい。
 
 〔編者曰〕 雜誌「アララギ」ノ選歌評及ピ選後感ノ中、左記ノ詞又ハ之ニ類スル詞ハ總テ省略セリ。
「字を判るやうに書き給へ」「原稿を規定通りに書いて下さい」「貴下の字大きく分るやうに願ふ。失敬なれども」「君の字丁寧になりてほし」「原作と御比べありたし」「鉛撃書きを止め給へ。字を分るやうに書き給へ。二十一字詰めに書き給へ」「字を丁寧(590)に書き給へ。規定をよく見給へ」「字をも少し分るやうに願ふ」「原稿期日通りに送り給へ」「言海をひき假名遣ひを覺え給へ」「原稿は發行所に送り給へ」「文字を楷書に書き給へ」「變體假名は困るる」「振假名はすべて平假名にして下さい」「貴下の原稿楷書に願ふ」「原稿規定通りに書き給へ」「この原稿紙右二行あけて下さい」「大きな紙を用ひて下さい」「第三行へ題と國名と氏名を書いて下さい」「この紙の右二行分あけて下さい」「字體と假名遣に注意し給へ」「学劃を正しく書き給へ」「字をも少し大きく書き給へ」「字を丁寧に書き給へ。假名ちがひ多し」「原稿毎月一度送り給へ」「題いつも書いて下され」「うそ字は言海を見てなほし給へ」「黒インキに願ふ」等。
 
(591) 民謠小唄童謠の研究
 
(593) 伊豆俚謠考
 
       〇
     伊豆南部麥搗米搗歌
  (1)おいとしやとん/\とおつる杵《きね》は、おかたの杵か、おいとしや、娘なら、かはるべきもの、
  深山おろしのあら杵 下河津村
伊豆の南部には非常に古體の俚謠が遺つてゐる。大鹽學道氏の紹介で伊豆下田の足立鍬太郎氏がそれらの俚謠を調べて居られる事を聞いた。足立氏が私の微意を容れて態々南豆風土誌を送つて下され且氏の自ら筆を執られた南豆俚謠考稿本まで贈られた厚意は眞に感激に堪へない。そしてそれ等の中には驚くべき響きを我々に傳へるものがある事を發見したから、是から毎號發表して見ようと思ふ。
 この麥搗歌が大體七五調でなく五七調に近く、寧ろ夫れ以上に古樸に五音を疊用して歌つてあることが先以て我々には有難い。中古時代の今樣などよりもずつと古く貴い響きを有つてゐる。この歌を(594)歌つてゐる主人公は既に人妻となつた身の上であらう。さうして村の草屋の一つから靜かに起つてゐる杵の響きに耳をとめてゐる。其の響きは女の心に思ひ忘れぬ或るひそかなる男の搗く杵の響きである。その男の搗く響きである事は今耳に聞いてゐるこの村の人の中で此の女が一番よく解つてゐるであらう。とんとんと落つる杵は愛《かな》しきおかたの杵か、私が束縛なき娘の身の上なら誰に遠慮もなく代つて搗いて上げようものをといふ意であらう。此の歌は二段に分れてゐる。それがどちらも五音を疊用して、終りに七音若くは七音以上を据ゑてゐる。さうして各段へ「おいとしや」といふ詞を折つてゐるのは、不自然でなく哀れな調子に響いてゐる。第一段の終りを「か」と結んでゐるのもよく利いてゐる。この「か」は疑問と感嘆と兩方を兼ねてゐる「か」と解する方がいい。「深山おろしのあら杵」と結句に据つてゐるのは驚くべき自然の技倆である。「あら杵」は新杵であらう。未だ臼になじまない寒さうな感じの杵であらう。深山颪の吹きおろしてゐる寒村の草屋で、杵搗く光景がこの七音の中に收斂されて活躍してゐる。非常な句法である。「あら杵」の「あら」は猶「深山颪の」に掛つて、颪の荒い意をも合んでゐるのであらう。
 此の唄をズツと一通り讀めば誰でも夜の光景を想ひ浮べるであらう。さうして夜の山村の寂しい家並の中の一軒に、ひそかに戸をあけて遠くの響きに聞き入つてゐる女を、想ひ浮べる事が出來るであらう。この位時間や場所を自然に特定して、讀者に深い響きを與へる唄は珍しい。この唄一つ丈けで(595)も伊豆は立派に誇るに足りる國でゐると思ふ。
       〇
  (2)麥ついて、夜麥搗いて、お手に肉刺《まめ》が九つ、九つのまめを見れば、親里《おやざと》が戀しや                 (朝日村大賀茂)
 此の唄の調子も前のによく似てゐる。嫁入つて未だ程經ぬお嫁さんであらう。居なれない家に住んで何かにつけ親里が戀しい。夜は馴れない麥もつかねばならぬ。麥を搗いて手に肉刺が九つ出來た。九つの豆を見れば、つくづくと親里が戀しいのである。
 「麥ついて、夜麥搗いて」の句法もいい。「お手に肉刺が九つ」は必しも九つと限つたのではない。「舟がつくつく百二十七艘、さまがござるかあの中にL(淡路盆踊唄)「わが戀は千引の石《いは》を七ばかり頸《くび》に繋《か》けんも神の隨意《まにまに》」「一瀬には千度|障《さや》らひ行く水の後にも逢はん今ならずとも」(萬葉集)の類である。「九つの肉刺を見れば、親里が戀しや」斯樣に素直に純粹に出られれば、何人も其の領へ一歩を踏み入れる事が出來ない。
 一讀して若い純粹なさうして餘り身分の賤しくない女の輕い哀感が、詞と調子と相俟つて泌み出てゐる。特に若い女の手の肉刺など歌つて呉れたことは非常に有難い。「お手」といふ言ひ方も、「戀しや」といふ言ひ方も、此の場合のろまでなくよく働いてゐる。
(596) 凡そ斯樣な唄は、日本のやうな家族制度を持つてる國人でなければ、生れもせす解されもせないであらう。その位よく國民性を現してゐる唄であるとも言へる。猶稻生村ではこの唄を「むぎ搗いて、夜むぎよ搗いて、お手に肉刺が九つ、九つの肉刺を見れば、親の里が戀しや」と歌つてゐるさうである。時の變遷と、用語や句法の卑くなつて行く關係がよく分つて面白い。但しこの訛りの方が今人の生活には近い。今の歌人はこの関係をよく思はぬやうである。
            (大正三年十一月「アララギ」第七卷第十號)
       〇
     伊豆南部苗取歌
  (3)細機《ほそばた》の、織りあげと、けふは、苗のとりあげ、ほそはたは、またも織るが、けふは、苗のとりあげ 稻生澤村
 五五三七を繰り返してゐる。それが中古の神樂歌、催馬樂歌などよりも古樸に歌つてある。寧ろ記紀の歌謠に近い。細織と苗の取り上げを單純に繰り返して、夫れが一種の情調に素直に溶化してゐる。細機を織り上げんと思ふ日なれど、苗取の日とさしあつた。機は又も織る日あるべければ、今日は苗取をしようといふ意を、斯んな單純な簡素な發表で充分に働かせてゐる。働いてゐるかゐないか分らぬ位素直なものだ。そこが今人の及びもつかぬ所である。
(597)       〇
  (4)このなへを、おしあげて、どこにすまずや、いなごや、きりすすき、すきよしの、こやのうらに、すまずや 稻生澤村
 多少催馬樂歌に似た歌ひ方もあるやうだ。併し夫れよりも古體に近くていい。古體に近くていいといふことは、古ければ何でも結構だといふ事ではない。素直に單純に歌つて自然に情趣が溢れてゐて浮誇な所が微塵も無いといふ意である。
 朝日村大賀茂では「このなへを、とりあげて、どこにすまずや、いなごや、きりすすき、よしのうらに」と歌つてゐるさうである。「おしあげて」は「とりあげて」の方正しかるべしと足立氏は言うてゐる。「きりすすき」は「切り芒」であらう。又「すきよし」は「すすき葭《よし》」、「こやのうら」は「かやの末《うら》」では無からうかと足立氏は説明してゐる。こんな歌を歌つてセツセと苗を取つてゐる伊豆の人たちは僕等よらズツト上等の種族である。 此の外に未だ「苗とり上手が、苗をとるヨウ、はうらへうらへと、かいなでて、もとに手をいれ」(朝日村大賀茂る)「苗間の隅にも、籾がより給ひ、京から番匠《ばんじよ》を、よぴよせて、籾がより給ひ」(朝日村吉佐美)といふのがある。「葉末《はうら》へうらへと、かい撫でて、本に手を入れ」と農夫の作業を何處迄も鄭重に眞面目に歌つてゐる所がいい。「京から番匠を、よぴよせて」は何の事であるか分らないが、奇想(598)天外から落ちて面食はされる。京から番匠の上手をよぴよせて、普請したやうに手際よく苗代の隅にも籾がより給ひ。といふのか知れぬ。「籾がより給ひ」と眞面目に歌つてゐる。信濃では「お蠶樣」と呼んでゐる。九十九里濱では「鰯樣」といふと聞いたが本當であるかも知れぬ。
       〇
        伊豆南部田植歌
       朝歌
  (5)しろかく殿の、腰しよ見れば、咲くぞよ脇に、黄金花 稻生澤村
       晝歌
  (6)晝坂越えて、寢たる夜は、まくらに髪がさだまらぬ 朝日村吉佐美
       夕歌
  (7)あがれとおしやれ、田主殿《たろじどの》、一度《いちど》で人が、懲らさりよか 稻生澤村・朝日村大賀茂・松崎町等
 朝歌晝歌夕歌と時刻によつて歌ふ唄が違ふのださうである。朝歌の「咲くぞよ脇に」は「咲くぞよ腰に」と歌ふ處もあるさうである。美しい殿の代かく樣を「咲くぞよ脇に黄金花」と誇大したのであらう。殿御の腰など捉へてゐるのが甚だいい。晝歌の「晝坂」は晝越え行く坂のことであらう。晝はるばると坂を越えて逢ひに行くのであらう。そして共に寢たのであらう。「枕に髪が定まらぬ」とい(599)つて、髪の枕ざはりを歌つてゐるのは生きるやうな心地がする。疲勞で却つて寢つかれないのか、心がどうやら落ち着かないで、嬉しい中にも枕ざはりが落ち著かない心持がするのか、兎に角非常にいい句である。夕歌は一寸予には分り兼ねる。足立氏は「程よく結末をつけて田より上がれと言ひ給へ田主殿よ。重ねての時もある。使ひ過して只一度にて人を懲らしてよからうか」の意なるべしと言つてゐる。夫れが正しさうであるが、予は更に其の上に男女間の關係が寓意されてゐはしないかと思つてゐる。宇久須村で「一度で人が懲りるぞよ」と歌つてゐるのは予には有難くない。
           (大正三年十二月「アララギ」第七卷第十一號)
 
       〇
  (8)むこどのの、ござる道へ、がんがら橋をかけて、がんがら橋は《(しや)》、がんがらめく、金《きん》のそりはし 稻生澤村
 「がんがら橋」は急造の假橋なるべし。出雲にては竹にて渡したる假橋を「がんがら橋」といひし由を傳ふ。越中の立山にては今も雙方の岸より竹を植ゑ撓めて「そり橋」をつくれりといふ。山形邊にて「ががら橋」といふは、ぐらぐらする橋のよし。之れ等を併せ考へて會得すべし。と、足立氏は言つてゐる。大へん參考になる。竹などを撓めて渡した假りの反橋であれば具合がいい。そこを聟輩殿が渡つて來るのである。美しき殿御の渡つて來る竹のそり橋は、その時金のそり橋の如く光り輝くと讃(600)美した聲であらう。併し足立氏はがんがら橋ではいけぬから金のそり橋に架けかへろといふ意であらうと云つて居る。さうすれば此の結句は大へん珍しい句法で面白いとも思ふがよく分らぬ。この謠の活きてゐる所は「がんがらめく」と「金のそり橋」との間の句法にある。其處が大へんいい。
       〇
      伊豆南部麥搗歌 つづき
  (9)むこどのは、夏は來べいに、夏は、何を茶菓子に、梅すもも、盛りのいちご、偖《さつて》は、ぴはの折り枝 南中村
 大抵五七音を疊んでゐる(「夏は、何を茶菓子に」を十音に見てもいい)。「來べい」などと遠慮なく歌つてゐながら、五七音を疊用してゐるのが俚謠として注意される所である。「梅すもも、盛りのいちご、枇杷の折り枝」は句法も詞も實に立派なものである。
       〇
  (10)かまくらの、かぢの娘、あだもの、ふる雨を、油につけ、またふる雪を、化粧にし、黒雲を、かねにつけ、十五夜さまを、鏡見る 稻梓村
 鎌倉の鍛冶の娘が美人であつたのだらう。人麿の「久方の天ゆく月を綱に刺しわが大君は蓋にせり」ほどには行かなくとも自由で肅《しづ》かでいい謠である。足立氏は宛然萬葉集の不盡山歌より想を得た(601)るが如しと言つてゐる。
       〇
  (11)六おさや、七おさや、十七の姫の、ところへ、十三の殿が、通ふとさー、六おさや、七おさや、身よりや、しげく、通ふとさー、道ばたの、篠の竹を、誰《た》が折り、撓《た》よめた、とん/\とおろす中に、文をかいて、なげこむ、その文を、見候故に、おろす杵が、しどろだ  南中村
 「六おさや、七おさや」は「六夜さや、七夜さや」ではないかと安立氏は言つてゐる。調子を整へるための句である。麥搗いてゐる家は竹藪に沿つてゐる。その竹林の中を十三の殿が適ふ。「誰が折り撓《た》よめた」の「誰が」は十三の殿である。十七の姫が、とんとんと杵をおろす處へ文を投げこんだ。その文を見候ふほどに、下ろす杵がしどろに亂れたといふ意でないかと思ふ。麥搗く女を姫と言つてるのも面白い。
       〇
      伊豆南部米搗歌
  (12)つけたつけたよ、この米は《(めや)》つけた、中で小糠がまひあがる 竹麻村
 「中で小糠がまひあがる」といふいい句がある。
(602)       〇
      伊豆南部田植歌
  (13)山から殿の、來ぬうちに、枕の上の、みだれ髪 南中村
 一字一句も無駄がない。さうして氣が利き過ぎてもゐない。「來ぬうちに」の「うちに」などは寄り付けないほどの澄んだ技巧である。この女餘り貞女ではないが美人であるらしい。
       〇
      伊豆南部除草歌
  (14)一人取りかや、五反田の草は、二人取ります、朝の間に 稻梓村
 五反田の廣い中に二人が草を取つてこもる。それが朝の涼しい間である。この謠も技巧の澄んだ謠である。道具を餘り竝べないで多くの聯想を自然に有たせる餘である。それで餘が大らかで上品になる。
             (大正四年一月「アララギ」第八卷第一號)
 
(603) 隆達の小唄
 
 予は小唄に於ては隆達期のものを好む。隆達に引續いたと思はれる弄齋節以下のものになると、詞の弄びになる。萬葉集に引續いた古今集が外形的なものに墮落したのと多少似て居る所がある。古今集は萬葉集から百餘年を經てゐるが、弄齋節は隆達に直ぐ引續いてゐながら、變化の跡甚だ著しいのは、小唄の流行が小唄を浮氣《うはき》にしたのかも知れない。歌が官府の保護を受けるやうになつて、古今集が先づ外形的に墮落したのと、意義相通じて考へられないこともない。小唄は多く人情を取扱つてゐる。短歌で言へば相聞の唄である。戀に向つて眞面目に突き當つて内心の苦痛を訴へてゐるのは萬葉集である。戀を手先の器用で扱つて物言はぬ人形にしたのは古今集以下の撰集である。弄齋以下は古今集と同じ意味で人形いぢりをしてゐる。夫れに比すると、隆達及び隆達期と見らるべき本手組端手組等の小唄は、古來民謠の命に根ざして、生き生きした人情に正面から突き當つてゐる所がある。これを以て直ちに萬葉集に比べるのは早計かも知れぬが、予は萬葉集の傳統は寧ろ平安朝以後の民謠を(604)經て、その一部が隆達期の小唄等に顛を出してゐるものといふ解釋を持つてゐる。これは別に詳しく説くつもりである。
 隆達は器用である。器用でありながら器用にまけないで正面から人情に突當つてゐる所がある。さういふ種類のものにすぐれたものがある。器用を弄したと思はれるものも隨分ある。夫れ等の作品は勿論いけない。形式的な和歌や朗詠今樣の惡い點を傳へたのであらう。
       〇
   夜更けておりやるを、今思ひ合せた、いとほしの者や、身がままならぬ 内容と形式との間に寸分の空疎がない。「今思ひ合せた」の「今」の活きてゐること、「合せた」の調子の重く据つてゐることに注意すべきである。夫れを受けた「いとほしの君や、身がままならぬ」が全體によく響き返してゐる。       〇
   思ひよらずの、會釋《ゑしやく》のふりや、恨のことぞ、はたと忘れた 「はたと」は前の歌の「今」と同じ性質の詞で、或は夫れ以上の力を持つてゐる。
       〇
   只おいて、霜に打たせよ、科《とが》はの、夜ふけて來たが、憎いほどに
(605) 「只」は前の二つの歌の「今」「はたと」と性質が通じてゐる。隆達には斯樣な短い副詞や感嘆詞によつて、全體を活動させる技巧を持つてゐる。この技巧は力である。細工ではない。「只おいて、霜に打たせよ」は「今思ひ合せた」とよく似た響きを持つた句である。引緊つて強く据つてゐる。憎いのは愛の極である。「霜に打たせよ」とまで言ふ心は、一分でも外に立たせては置き得ぬ心である。
       〇
   いや/\は、思ひのあまりのうら、逢はせてたまふれ、逢はせてたまふれ、とにかくに
 「うら」が前句を説明臭くしてゐる。節づけするとしては、予の如き素人は知らぬ。歌としては「思ひのあまり」と切るべきである。「逢はせて云々」以下は、潭を出る水が自ら勢をなす如き姿である。
       〇
   ふしんならば、鉦打たう、いやかねもむやく、月振りにて、知るものを 我が心事に不審あらば、佛前に鉦打つて、佛の冥見に照して身の潔白を明にせう。といふのであらう。「いや」「只」の利き方は前例と同じである。
       〇
   千たぴ百《もも》たび、おしやるとも、なるまじものを、うつつなの、そなたや、我に主《ぬし》ある、思ひ切れとよ
(606) 「うつつなの、そなたや」が歌の心の中心をなしてゐる。
       〇
   帶をやりたれば、しならしの帶とて、非難をおしやる、帶がしならしならば、そなたのはだも、寢ならし
 「しならしの帶」は新調でない事をいふのだらう。才が見えてゐるが、駄洒灑の歌である。後世の唄の「思ひ付き」は斯んなのよりまだ惡い。
       〇
   逢ふは稀よ、一人寢は繁し、あの君ゆゑに、あらぬ名の立つ
 「あらぬ名の立つ」を喞つよりも、一人寢の繁きを恨んでゐるのである。「あの君」は「彼の」と指示すのではない。その男に對する嘆息の呼び方である。
       〇
   野分山颪も、身にしまぬ、よひ/\ごとに、君を待つには
 「よひよひごとに」が嬉しき感情を持つてゐる。全體の調子が安らかに足りてゐる。
       〇
   縁さへあらば、又も廻り逢はうが、命に定めないほどに
(607)   比翼連理の、語らひも、心かはれば、水に降る雪
 隆達は、泉州堺の日蓮宗の坊さんで、還俗して商となつたさうである。坊さんらしい唄が隨分見えてゐる。夫れが皆人情を歌つてるのだから面白い。猶隆達の小唄と淨瑠璃の節々とは相通ふ所が多いやうであるが、何れが影響を蒙つてゐるのか、予には今分らぬ。兎に角、文禄慶長の頃、隆達節の流行は三都を通じて大したものであつたらしい。
 夫れより後に流行した操人形の淨瑠璃作者が、隆達の影響を絶對に受けなかつたとは言はれぬであらう。併し、此の方面に知識少き予の妄斷すべき所ではない。(二月十六日)
              (大正六年三月「珊瑚礁」第一卷第一號)
       〇
   のかいはなさい、帶がとくる、いまにかぎらうか、あはうものを
 「のかいはなさい」は「退かせい離させい」である。「のかい離さい、帶がとくる」これ丈けの短句で男女二人の動作までも寫生し得てゐる。「今にかぎらうか、逢はうものを」の洗錬されかたも常凡ではない。
       〇
   ひとりおよらば、まゐらうずものを、とすに雨ふり、しんの闇なりと
(608) 愛著あるがゆゑに障りがある。相手を心もとながるのは、愛するからの煩《なや》みである。相手の心は我に專らではなささうである。專らでない事を知りつつ「まゐらうずものを」と云つてるのは哀れである。終りの句の全體に響き返してゐることは隆達の小唄の持徴である。この唄も前の唄も、そこに注意すべきである。「とすに雨ふり」の意義を余は知らない。誰方か教へて下さい。
       〇
   亂れそめては、人目もいらぬ、なれぬ間に、思案せうずもの
       〇
   忍ぶ身にさへ、悋氣をめさる、忍ばぬ身ならば、さて何とあらうぞの
 醉へる眼《まなこ》も時々明かに物を見る事がある。「本性違はぬ」から歡樂の底から苦痛を見出す。前の唄が夫れである。「思案せうずもの」の「もの」は此の場合感嘆詞である。
 理性は混亂を恐れ、感性は平氣を厭ふ。歡樂の心に波打たせる爲めに悋氣がある。悋氣の苦痛は甘い苦痛である。「忍ばぬ身ならば」は「晴れて相棲む身ならば」で、悋氣を喞ちつつ猶衷心歡ぶの意がある。前の唄の結句「思案せうずもの」後の唄の結句「さて何とあらうぞの」何れも鈍重に響いてゐるのが、此の種の唄の命でゐる。斯樣な事は、古今集以下の歌人には大抵分つて居らぬ。
       〇
(609)   生るるも、そだちも知らぬ、人の子を、いとほしいは、何の因果ぞの
 「生るるも、育ちも知らぬ」は醉から醒めて見廻す心である。それに對して「何の因果ぞの」は、醒むる心と醉へる心と相戰ふ歎聲である。醒めんと思ひ到る時杯はもう唇に觸れてゐるのである。「人の子」は、茲には普汎の「人の子」ではない。特定の一人を歎き呼んでゐるのである。
       〇
   誰かつくりし、戀のふち、いかなる人も、踏みまよふ
 前の唄の歎きに比して、之は一般的の歎きであるだけ概念的に取扱はれてゐる。「誰か」に對して「いかなる」がよく利いてゐる。
       〇
   ひとりねもよやの、曉のわかれ思へばの
       〇
   ひとり寢はいやよ、あかつきの別れありとも
 歡樂も苦痛も、馴れれば弄ぶ心になる。弄ぶ心が分らなくては粹とは言はれないのであらう。僕等に粹の分らぬのを不幸とは思はない。隆達も時々こんな小才の利いた唄を作つて得意でゐたらしい。
(610)   花が見たくば、吉野へおりやれの、吉野の花は、今が盛りぢや
 隆達小唄中の逸品である。格調の堂々たる、遙に凡手と撰を異にする。斯樣な唄の前に立つても、歌に調子は要らぬなどと公言し得るか。「吉野の花は、今が盛りぢや」の「は」「が」「ぢや」等の響きを細工で出したと思ふと間違ふ。前田夕募君如何。
       〇
   せめて言葉を、うらやかにの、今かへる我に、何の恨ぞ
 恨まれた方がうれしいかも知れない。夫れでも角立つた言葉は猶氣にかかる。「今かへる我に、何の恨ぞ」と引締めたのは矢張り隆達たる所以である。
       〇
   悋氣心か、枕な投げそ、投げそ、枕に科《とが》はよもあらじ
 機智の働くのは心に遊びのある時である。枕に科はあるまいなどは遊戯してゐる心である。後世の端唄などは、こんな所を覗つて歡んでゐたらしい。或は之以下の穿ちや地口に墮ちてゐる。隆達は才氣が溢れてゐたから、折々こんな所まで滑つてしまふ。「枕な投げそ」と切つて更に「投げそ」と起してゐる所、「よもあらじ」と重く結んでゐる所など小生には參考になる。(三月二十三日夜床上にて)
              (大正六年四月「珊瑚礁」第一卷第二號)
(611)       〇
   恨みたれども、いやみのほどもなや、さうして恨も、いふ人によりか
 大分甘い所である。夫れが、「さうして」「依りか」といふ素撲にして餘り敏捷ならぬ詞で命を得て居る。隆達の氣の利き方は、その程度迄鍛へられてゐる。生まな所も隨分見らるるが、この歌の如きは少くも生までないのである。       〇
   又も逢はうずは、不慮でそろ、うどんげの花、今ばかり
 「逢はうず」は「逢はんとする」の約である。優曇華《うどんげ》は、三千年にして、始めて花ある樹で、世に稀なる譬へに引かれる。「逢はうずは」と重く引きずつて「うどんげの花、今ばかり」と例によつて引緊めてゐる所が、矢張り隆達振りである。
       〇
   底はうちとけて、うはの空する、振りはなほいとほしい
 「上の空する」は人の手前である。憚りがあればあるほど心の底は波打つ。石あつて水激すると同じである。「なほいとほしい」が全體に餘情を響かせてゐる。
(612)   寢てもさめても、忘れぬ君を、焦れ死なぬは、いなものぢや
 「異なものぢや」が生きてゐるのである。
       〇
   闇にさへならぬ、月にはとても、あらどんなお人ぢや
 月にはとても逢ふ事ならぬといふのでゐらう。「月にはとても」は少し刀が切れ過ぎてゐるかも知れぬ。「鈍なお人ぢや」と喞つのは、なほ未練の嘆聲である。
       〇
   武藏野の、ひともとすすき、獨寢も憂《う》や、つれもなや
 「獨寢も憂や、つれもなや」と「も」「や」を連ねて、たよりなき心を切に現してゐる。「武藏野の一もと芒」は下二句の序詞でゐる。古今集以後の大抵の歌人よりも、生きた序詞を使つてゐる。その境地へ眞實な心を打入れてゐるからである。
       〇
   とても名の立たば、宵からおりやれ、よそへ忍びの歸るさはいや
 甘えてゐる所である。間接な言ひ方をせぬのが取り所である。
       〇
(613)   人は知るまじ、わが中を、頼むぞそばの、扇も帶も
 「そばの扇も帶も」で側面から境地を現すつもりである。人に告げぬやうに、扇や帶に頼んでゐるのは、立入り過ぎて不自然に墮ちてゐる。隆達の才氣の往々にして煩をなす事は、前にも述べた事がある通りである。
       〇
   豐後や薩摩の、殿たちに、/\、一夜ふた夜とよ、なれそめて、あすは舟出《ふねづ》る、なんとせうぞの、恨めしや
 自然な歌ひ方でいい。「一夜ふた夜」と畳んで、「明日は舟出《ふねづ》る」はよく利いてゐる。それを受けて「何とせうぞの」も亦よく利いてゐる。
       〇
   鐘さへ鳴れば、もう往なうとおしやる、此《ここ》は佛法東漸《ぶつほふとうぜん》のみなもと、初夜後夜《しよやごや》の鐘は、いつも鳴る
 前のも之も勿論狹斜の里の聲である。「ここは佛法東漸のみなもと」といふ大袈裟な言ひ方は、左樣な巷閭に對して一種の響きを持つ。場所は矢張り大阪であらうか。繁華な都に湧く歡樂の哀愁が自ら漂ふを覺える唄である。
(614)       〇
   鐘もなる、夜もふける、あぢきなの、わが身や、ひとりねをする
 自然な歌ひ方がいい。「鐘もなる、夜も更ける」と疊んで、それを「や」で受けて「る」で結んで自らなる節奏を成してゐる。
       〇
   獨寢になき候《さふら》ふよ、千鳥も
 少々気取つた唄であるが、品下つては居らぬ。詞のひねくりや遊戯をせぬ丈けでもいい。
       〇
   雨が降るかな、はら/\と、獨板屋の寂しさに、吹けよ松風、吹かねば山居の、寂しきに
 「山里は松の聲のみ聞きなれて風吹かぬ日は寂しかりけり」よりも張つてゐる所がいい。
       〇
   月もろともに、立ち出でて、月は山のはに入る、別れは嬬戸に
 「月は山の端に入る」に對して妻戸をあけて別るる事を「別れは妻戸に」と言つたのであらう。「月もろともに、立出でて」は色々に考へられるが、自分が妹に逢ふべく月の出と共に家を出でた事を言ふのであらう。晴れた夜の空まで想はせて奇《あや》しき感じのする唄である。
(615) 以上予は隆達節唱歌三十七を擧げた。他日猶得るものがあれば改めて又書く。
 隆達の長所は、才氣の勝れてゐるものを有つてゐるに係らず、才氣で消化《こな》さうとせずして、全體の力を以て正面から事象と人情とに衝き當つた所にある。この事は、言ひ去る事は容易であるけれども大抵の人には難事である。隆達の唄にも才氣が先きに立つて煩ひをしたものが隨分見える。才氣も意志の力に消化されて、全體の力となつて働く時は大なる威力である。或は大なる威力は大なる才氣の所有者で無ければ發揮されぬかも知れない。この時の才氣は冴乙た才氣である。生まの才氣、鼻につく才氣とは種類を異にする。正岡子規の如きは、この才気の大きなる所有者であつた。隆達の以上の長所は猶この時代一般の傾向とも關係して考ふべきであらう。隆達と相前後した本手組端手組等の小唄を對べて左樣に考へられる所が多いのである。
              (大正六年七月「珊瑚礁」第一卷第五號)
 
(616) 萬葉集古今集小唄
 
 三味線に合せた小唄(曲譜は予には分らぬ。茲に言ふのは歌謠についてである)は隆達に始まつて隆達に終つてゐる。隆達以後の小唄は、弄齋節をはじめとして殆ど取るに足らぬものである。隆達節の歌謠には、兎に角生き生きした心が盛られてゐる。弄齋節以下數十種に上る三味線の小唄は、心を盛る前に形を整へようとしてゐる。つまり詞の操りや洒灑や穿ちの歌謠である。隆達節に引續いた弄齋節が隆達の心を傳へず、引續いて行はれた小唄が悉く形式的に墮在したのは、丁度萬葉集から百餘年を經た古今集の歌が、萬葉集の心を傳へずして、外形的なものに墮ちたのと形に於て似てゐる所がある。斯樣な現象は色々の理由に依つて説明する事が出來るであらう。發生と成熟と老廢の關係によつて説明される事も否定すべきではない。予には多少別種の見解がある。
 萬葉集の歌は當時民族の歌であつて、古今集の歌は當時官人の歌である。萬葉集時代には、氏族の制が嚴存して、貴賤上下の別が明かであるとは言へ、帝王の尊きを以てして、名も知らぬ菜摘の少女(617)に平氣で戀歌を送られ、その戀歌を歌集の選者も疑はずして採録してゐる世の中である。即ち上は帝王より、下は邊鄙率土、防人の母、常陸少女に至るまで、同じ空氣の中に生活し得た一團の民族生活から生れた歌集である。夫れに對して古今集以後の勅撰集は、和歌所と稱する官府に集まり得る官人を中心とした一團から生れた歌集である。更に言へば藤原氏の享樂生活に調子を合せ得る官人の一集團が、藤原氏の政府から保護を受けつつ詠み集めたものが古今集以下の勅撰集である。此の意味に於て、萬葉集と古今集以下の勅撰集とは、性質に於て寧ろ同一系統の上に比較すべきものではないのである。元來當時の藤原氏は甚しく人民を無視し、地方を無視し、武人をまでも無視してゐた。左樣な一團とは關係なしに、別に當時民族の歌謠が發達すべきは甚だ當然の勢である。生きてゐるものは官人のみではない。官人跋扈すれば、人民は反抗を餘儀なくせられて、異常な活動をせねばならぬ場合もある。當時民族の歌餘が官人の歌とは別途に出でて、どれ丈けの活動をしてゐたかは、官府を中心として發達した文學のみが多く傳へられてゐる我國では、徴すべき文獻に乏しきを遺憾とする。併し古今集の背後に當時の民族歌たる風俗歌があり、爾後引續いて撰集された勅撰集の背後に、奈良朝以來の民族の歌謠があつて、その勢力は往々官人の蔑視を拒んで、神樂歌催馬樂などの上へ頭を出してゐる事に注意せねばならぬ。これらの歌は、何れも溌剌たる生命を以て、民族歌謠の尖光を宮中文學の間に閃かしてゐる。即ち我々は、萬葉集へ向けた眼を、古今集以下の撰集へ轉ずる事なしに、その(618)まま直ちに之等の民謠を見詰むる方が、寧ろ萬葉集の正系を辿るものであるかも知れない。萬葉集と共に古今集その他の撰集あるに非ずして、萬葉集と共に神樂歌、催馬樂の一部及び風俗歌等があるのである。勿論之等民謠が萬葉集全體の心を継承したものとは言へない。尠くも一部の命脈を危殆の間に繋いだものとは充分に言ひ得る。勅撰集に對して殊に左樣に斷じ得るのである。 雜藝雜曲の一部もこの傳統の一である。文禄慶長へかけた隆達の小唄の如きも、この民謠の一の現れであると見る事も強ちに不當ではない。只隆達の小唄は才分溢れて藝當に外《そ》れる惧れがある。眞面目に事象に突き當つたものには、宛ら人心自然の響を藏するものがある。隆達節の小唄が悉く隆達の作歌であるかは、勿論疑問であるが(殊に、雜誌「歌舞音曲」に掲載せられたといふ隆達小唄百首なるものは、珍しいものであるが、予には疑はしいものである。この事は別に考へる)他の組唄などに比較すれば、同一作者から出たと思はれる歌謠が多く見える。果して然らば、隆達は三味線の小唄作者として、第一人にして同時に最終の人である。之以後の小唄は殆ど言ふに足らない。最も此の頃三味線に合せた小唄の内、本手組端手組裏組などの三味線組唄には立派な歌謠を遺してゐるが、作者は必しも明瞭ではあるまい。大和田氏は本手組を以て三味線小唄の濫觴としてゐるが、恐らく夫れが正しいであらう。歌柄が古樸で歌の心が伸びてゐる。夫れ以後の者は、地方民謠を除くの外悉く形式的なものに墮ちてゐる。これは、隆達節勃興以來、小唄の流行が三都に瀰漫するの姿であつたため、流(619)行に翻《あふ》られて經薄な發達をしたものとも見られ、歌曲が主であつて歌謠が從屬であるため、歌謠の方が經く取扱はれたものとも見られ、時代が推移して人心が形式的に向つた反映とも見られ、三味線に合せる小唄の生存が或る社會に限られてゐたため、餘計に經薄な發達を成したものとも見られる。平安朝官人に限られた古今集以下の歌風が形式に墮ち、花街に限られた小唄が同じく形式に墮ちてゐるのは、古今の面白い對照である。時代が平安朝と江戸時代である事も興味多き現象である。江戸時代にあつても、民餘は相變らず發達し活動してゐる。盆踊唄、田植歌、米搗歌、馬士歌等種類は無數であるが、これらの内には尠くも平安朝期から傳はつてゐると思はれるものも活動してゐる。予等は古今集、新古今集の系統を引いた徳川時代の歌人の歌を見るよりも、斯樣な種類の中から珠玉を發見する事の方が興味がある。遙に萬葉集の心に通ずるものがあるからである。更に大きく考へれば、日本人の血の流れを、濁さるる事なしに、そのまま生き生きと傳へてゐるからである。           (大正六年三月「アララギ」第十卷第三號)
 
(620) 民謠の性命
 
 日本民族は太古から日常の感情を歌謠にして自ら口に唄ひ、若くは對者と相唱和するといふ風があつた。これは日本の民族心理を考へる上に見遁すべからざる持徴である。夫れ等の民謠のうちで、ある特種の形式を備へたものが長歌短歌となつて、萬葉集時代に大きな發達をした。然るに萬葉集時代に或る緊張の頂點に達した長歌短歌が古今集以後の勅撰集に至つて自ら性命を失つて、その精神を當時の民謠に傳へた。(或は短歌長歌は勅撰集以下の墮落によつて自らその流れを失つて本來の民謠に暫くその所在を潜めたと見てもいい)この關係は勅撰集の背後にある神樂歌、催馬樂等に現れた民謠を見ても明白であつて、これに關して小生は今迄何度も意見を述べてゐるから、ここには省略することにする。
 この民謠の系統は鎌倉時代より足利時代、徳川時代を經て順次發達推移して今日に及んでゐる。夫れ等の民謠のうち最も多く生命のあるものは、矢張り民衆の苦しい生活から生れ出た歌謠である。農(621)民の唄ふ歌謠は暢氣に似たものも底に重も重もしい調子が籠り、船頭唄、馬子唄に多く漂泊の哀音が籠つてゐる等はその著例であり、花柳社會の歌謠に遊びの心が多いために、大抵駄洒灑の遊戯品になり了つてゐる如きは、その反對の例證である。
       〇
   千ケ崎沖まぢや、見送りましよが、夫れから先きは、神だのみ 伊豆大島
 この唄は必しも船唄とばかり云へぬかも知れぬが、海中の孤島に生活してゐる人々の心理が、自から「神だのみ」の哀音となつて現れてゐる純粹さを見るべき恰例である。
       〇
   淺間の煙が北へと靡く今宵泊らにや雨になる
 一讀して淺間の山裾から碓氷越えをして北國街道を往來する馬子たちのうたふ唄である事が判る。淺間の裾野には追分の宿場があり、碓氷峠の下には坂本の宿場があつて、何れも江戸時代に宿場女郎のあつた處である。それらの女郎が馬子を呼び止めて、一夜の宿を勸める心がこの歌の心である。一夜の宿を勸める歌謠を、勸めらるる馬子自身が唄つて、自分の境遇を慰めてゐる所が哀れな漂泊の心である。年百年中馬の鈴を鳴らして、上るは碓氷の坂、下るは輕井澤追分の曠野である。見上げる空には何時も淺間山の煙が立つてゐる。煙は多く南へ靡く。風が北ならば天氣である。煙が北へ靡けば(622)多く雨になる。「今宵泊らにや雨になる」は險坂を上下する脚絆革鞋の身の上には戯れの開題ではないのである。
       〇
   麥搗いて、夜麥《よむぎ》搗いて、お手に肉刺《まめ》が九つ、九つのまめを見れば、親里が戀しや
 麥を就くは農家の新婦である。嫁して幾ばくならず、新郎の心猶知り難く、起臥に落ちつかぬ心がある。肉刺の九つと云つたのは只多いことを現したのである。夜麥を搗いて掌に出來たまめを眺めて親里を思ふ心の痛切さがよく現れてゐる唄である。
 以上船頭唄、馬子唄、百姓唄といふやうに職業によつて擧例したのは、生活の苦しみから生れた唄が、自から職業的個性の或る頂點を現すに至つたと思ふものを擧げたのであつて、その邊まで進んでゐる唄は、民謠として何れも充分の生命を持ち得ると思ふのである。
 職業的個性の頂點を現すほどの民謠は、夫れが又地方的個性を現すと言ひ得る場合が多いやうである。土を離れて人なく、人の個性は少くも土の個性を離れることは出來ないのであらう。「千ケ崎沖まぢや」の唄が島に生れ、「淺間の煙」の唄が信濃高原に點在する宿驛の間に生れ、「麥搗いて」の唄が伊豆南方の田舍に生れてゐることを考へ合せても、民謠と地方色との關係を略ぼ推すことが出來よう。只民謠の秀れたものはそれが口うつしに各地方に傳はり易く、傳はるにつれて歌謠の點訛も多い(623)ために、何れの唄が何れの地に發生したのかを分つことが難かしい場合が尠くない。併し乍ら點訛そのものも土と人とを離れて行はれるものでない以上、點訛の跡にも自から地方的個性は現れてあるべきである。例へば上記「麥搗いて」の歌は甲斐の南方では、
   大麥ついて、麥ついて、お手にまみよ(豆をの意)九つ、九つのまみよ見れば、おやの在所、こひしよ
と唄うてゐる。伊豆南方暖地と、自からその調子と響きとを異にすることを看取し得るであらう。
       〇
   この苗を、とりあげて、何處に住まずや、いなごや、きりすすき、すきよしの、こやのうらに、住まずや
 これは伊豆南方稻生澤村の苗取唄である。愚考するに、この歌謠到底近代のものではない。少くも平安朝時代或は夫れ以前に生れたものが、歌謠の優秀なために南方の僻陬に今日まで幾分の點訛をしながら生存してゐるものであらう。歌體が幼くて心が愛憐に充ちてゐる。斯樣な民謠が今日の日本に遺つて農夫の口に唄はれてゐることは、民族の誇りとするに足りるものである。「苗を取りあげて後は、蝗お前は何處に住む、きりすすき(芒ならん)すきよし(芒葭か)のこやのうら(萱の末の意か)に住まずや」といふ意であらう。或は蝗は田植頃に未だ生れてゐないとすれば、「この苗をとりあげ(624)て」は原作「この稻を刈りあげて」等であつて、夫れより苗取歌に轉じたものではないかとも思はれる。この唄は更に轉訛(?)して他の地方にも遺つてゐるけれども、歌の體から考へて伊豆のものが最も原作の形を保存してゐるものであると想像され、且つ歌柄が南方暖地の僻陬に保存されるに適してゐると思はれるゆゑ、暫く伊豆を以て此の歌の本據地と定めたのである。伊豆地方でも處によつて必しも同じではないが、茲には稻生澤村のものを掲げたのである。
       〇
   晝坂越えて、寢たる夜は、枕に髪が、定まらぬ
       〇
   山から殿《との》の、來ぬうちに、枕の上の、亂れ髪
 斯様な斷片に近いやうな歌謠をあげても、矢張り伊豆南方らしい心が現れてゐる。信濃山中のやうな荒くれた虞には迚も生存しさうもない歌柄である。
       〇
   躑躅椿は、野山を照す、樣のお船は、灘《なだ》照す
 南方歌謠を擧げた序に伊豆七島地方に行はれてゐる唄を擧げたのである。一讀して南國的氣分を誘起させるに足りるであらう。
(625) 夫れらに比べて北方高山乃至高原地方に生れる歌謠は、南方の夫れらと著しき懸隔の對照をなしてゐる。假りに信濃地方の歌謠を取つて言へば、彼の
       〇
   木曾の御嶽、夏でも寒い、袷やりたや、たぴよ(足袋を)添へて
にしても、この歌が信濃の民謠としては比較的優しい心が籠つてゐながら、矢張り何處か高山國らしい強さと烈しさが現れてゐることは、前の七島の歌に比べれば容易に首肯することが出來る。「木曾の御嶽夏でも寒い」といふやうな感情の調子は、南方人には經驗の機縁が少ないのであらう。暖地の濕潤に對して高山國は乾燥してゐる。南の明るさは暖いが、高山國の明るさは寒い。信濃の民謠に乾燥的なものの可なり多い中に、極端なものを擧げれば、
       〇
   淺間山から、鬼《おに》が尻《けつ》出して、鎌(或は鉈《なた》)でかつ切るよな、屁を垂れた
といふやうなものさへあつて、夫れが信濃地方に勢よく生存してゐるのであるから、今から後何年も生存を續けて行くことであらう。此の唄は多分淺間山の噴火を謠うたもので、噴火の光景を「鬼が云云」と直喩したのであらう。その此喩が思ひ切つて大膽に手きびしくいつてゐる所が、高原地方民の氣分をよく現し得てゐるのである。萬葉集の女人は、
(626)   相思はぬ人を思ふは大寺の餓鬼の後《しり》へに額く如し
といふ歌を自分の戀人に贈つて居るが、淺間山の歌はそれとは更に趣を異にした獨持な痛快さを持つてゐるやうである。これも地方的個性の一種の現れと見ることが出來る。
       〇
   一の坂越し、二の坂越して、三の坂越しや、強清水《こはしみづ》
 信濃民謠中出色の一であると思はれる歌である。草刈馬に乘つて八ケ岳の裾野を上る。一の坂(固有名詞)がある。二の坂がある。坂を上るうちに汗が背を流れる。三の坂を越せば其處に清水が湧いてゐる(強清水は硬質の清水で齒に冷めたく滲みるのである)といふ意であつて、草刈の男女の唄ふことによつて、この唄餘計に生命を有ち得るのである。
 民謠の地方色を述べた序に、北方佐渡の島と南方八丈島の民謠と比較して見よう。先づ佐渡の島から擧げる。
       〇
   一人小娘を、佐渡が島へは、やりやせまい、晝は鯛をつる、鮑《あはび》さざえの貝もとる、夜さればもどりて、をぼけ(苧桶)取り出し、かけ籠《ご》はね上げて、網の絲よる、網の目ごとに、かかれ鯉な鮒、それまことに、かかれこひな鮒
(627) 此の島は寒くて天然物が乏しい。天然物の乏しい孤島の住民には勞働が唯一の生活の道である。晝は漁をし、夜は網をつくる。苦勞には生るるより慣れて、苦勞を知らぬが如くに勞働する人々にも猶「一人小娘は佐渡へはやりやせまい」と自らを嘲り、自らを憐れむ謠を作す心が哀れである。此の謠末段「網の目ごとに」云々以下は、初句の「一人小娘」云々と懸け合はぬ所頗る手※[毛+菊]毯歌等の童謠に類してゐる。辛い生活の中にも漁人ののんきな一面が現れてゐて餘計に面白味があるのである。
       〇
   苦勞にしりや(すれば)苦勞だ、苦勞しないなら、人にやならぬ
   苦にすらや苦勞だ、苦勞にせまいなら苦にならぬ
 二つとも同じ意の謠である。北海の島人が自分の苦しみを劬はり慰め且つ勵ましてゐる心が解る。「苦勞せまいなら苦にならぬ」は苦勞を持て餘してゐる心である。その心が哀れである。
       〇
   日のくれがたに、磯囘《いそみ》を行けば、千鳥なく、なけ/\千鳥、聲くらべせうや
 これは島の苗取歌である。苗を取りながら磯の千鳥の歌を歌うてゐるのが感深きを覺えさせる。此の歌傑れた歌謠である。「聲くらべせうや」は苗取りに日ねもす唄ひ暮した早少女たちの、健やかな元氣な心持から出る聲であらう。磯の近邊を「いそみ」と言うたのは萬葉時代からの詞である。さう(628)いふ詞が孤島の早少女の口に今も遺つてゐるのが興味多いことである。
       〇
   むぎや(麥は)搗き得でも、夜食とる時や腕まくり
       〇
   こんころこんと小づけ、そこに親子はないわいな
 二つとも島の麥搗節である。滑稽が素樸で面白い。麥搗きの夜食である。腕まくりの人々の顔つきまで想像出來る。「こんころこんと小搗け」は心持がいい。臼の底に親子は居らぬから遠慮なく杵を下ろせといふ滑稽が嫌味を伴はない。
       〇
   黒姫(地名)若い衆は、をがら松明《たいまつ》で邑ぎりだ
 苧殻の松明は燃え易くて邑より外へは出られない。黒姫の若い衆もその松明の如く他の村の女の處へは遊びに出られぬといふことを諷したのである。諷喩の民謠はいくらもあるが、「苧がらの松朋」は殊に面白い。
       〇
   貝塚(地名)ものは知れる、胸に帶してはんじようり(半草履《はんざうり》)穿いて、鳥飛ぶやうに、(629)ひよこ/\と
 子供のやうに無邪氣な歌である。
       〇
   オロシヤ船や、千來《せんこ》とままよ、土屋長三郎さんが來にやよかろ
 土屋は文化中に海防準備に來た役人である。煩役に服さねばならなかつた住民の歌である。土屋長三郎さんと露骨に言つてゐる所が愛らしいのである。其の外に佐渡の歌には人名を歌うたのが澤山ある。これは限られた土地のうちに、生活する住民間の親しさが如何に濃いものであるかを示す證左であると言へる。山中の小村などへ行くと、一人の杢兵衛さんは村中の杢兵衛さんであり、一人のお何さんは村中のおなにさんである。そのお何さんが帶一つ新しくしても、一日たたぬうちに村の人の話題にのぼる。煩さいといへば煩さいが、別個の親しみは自からあるのである。
       〇
   はらはらと、一雨ほしや、殿《との》の番水《ばんみづ》、よどむほど
 田の水引き番をしてゐるのは殿である。殿を思ひやる心が優しく快く現れてゐる。「番水淀むほど」は頗るよい句である。
(630)  どうもかうもならぬ、殿《との》を烏賊場《いかば》へ行《や》りやしない
 殿を思ふ切なさを「どうもかうもならぬ」というてゐる。簡明で直截で猶餘情がある。烏賊の漁で苦勞させるに忍びぬ心と、離れたくない心から此の歌が生れて來てゐる。
       〇
   烏賊場から、早く來る船は、へた(磯)に心がある船だ
 「へた」は海邊の意で萬葉時代の詞である。萬葉語がここにも遺つてゐる。海邊へ早く戻つて來る船は、この邊の女に心をかけてゐる人の船だといふのである。烏賊は捕りたし女には猶逢ひたいのである。漁人の生活が宛らに現れてゐる歌である。
       〇
   烏賊場はそこだ、宵のなつきを見てごんし
   ばんじやう場に烏賊場、朝の小鯛場に身をやつす
 「烏賊場はそこだ」何といふ直接な表現であらう。「なつき」は「魚つき」でゐらう。宵の魚の付きやうを見ておいでなさいといふのであらう。大した魚のつきやうであるといふことは、歌ひ方の調子に現れてゐる。「ばんじやう」は「秋刀魚」の方言であるさうな。歌の心は明かである。
       〇
(631)   かんば(樺《かば》)の木に鴉《からす》、雀やぴんかか(犬黄楊《おぬつげ》)の木にとまる
   行かんせんか、かかせんか、かんか林の萱刈りに
   臼すれ、粉すれ、それがいやなら、あたま剃れ
   死んでいのちや入らぬ、新酒五勺でも今たのむ
   殿はおくめん(はにかみ屋の意)だ、山家育ちのそへ(故の意)だやら   今夜の夜も夜中、天の川原が西東
 とりどりに面白くて、民謠としての生命を充分に持ち得る歌である。
       〇
   休みや迎ひに來る、休まにや勤まらぬ、大工迎ひが、無かよかろ
 金北山の金掘節である。大工は今の坑夫である。休息せねば坑夫が勤まらぬ。苦しい坑夫の生活を歌うたのである。
   大工《だいく》すらや細る、二重《ふたへ》まはりが、三重《みへ》まはる
   大工|商賣《しやうばい》乞食《こじき》に劣る、乞食や夜寢て晝かせぐ
   はやく控へて稱名寺山へ、跡は庇松《ひさしまつ》立てぐさり
 何れも坑夫生活の直接な訴へである。未の歌「稱名寺山」は坑夫を葬る處であるさうな。「控へて」(632)「庇松」の意は精しく判らないが、大體が悲慘な心がどん底まで滿ちてゐて卒讀に埴へぬ感がある。
 佐渡の民謠が北海の生活とその環境を現すに足るとすれば、八丈島の民謠は南の海の明るさと暖さを現すに足りるといふことが出來る。この兩者は面白い對照をなしてゐる。
 八丈島は秋冬に亙つて落葉する木が少なく一年を通じて山林が青い。十月末から二月三月まで椿の花が島の村に咲き滿ちて居り、海岸の砂畑にはバナナが咲いて果がなり、夫れが黄熟する。海には紺色と思はれる程の濃い潮が流れて暖い海氣を釀してゐる。島の男は多く海を越えて出稼ぎをするが島に殘つてゐる男女は豐かな天産物に衣食して荒い海仕事を勵まない。生れながらにして陰鬱と悲慘とから免除されてゐる彼等は思想的でなくて多く現實的である。北海の女が「思ひ切りや切れる、鐵のくさりも切りや切れる」といふやうな緊張した歌を歌うてゐるとき、八丈島の女は「躑躅椿は野山を照らす、樣のお船は灘照らす」といふやうな享樂的な歌を歌うて絹機を織つてゐる。實際八丈島の住人間には妖怪變化に對する傳説さへ所有して居らぬ。只一つ島の船問屋に生れたやんご(私生兒)の母親、母親というても年若い娘の幽靈に化した傳説一つを大切に保存してゐるだけである。島の中には人に化ける狐もなく、人を訛かす狸も棲まず、只あまり單調の退屈まぎれに山猫が人を訛かすと想像して少し位の恐怖を感じてゐる。少し位の恐怖感は刺身につけた山葵の辛さの如きもので、辛さも恐さも單調凌ぎの一種の調和に過ぎない。左樣な島に生れた歌を佐渡の歌謠に竝べて見る事は興味あ(633)る對照であるべきである。
       〇
   十七が、忍ぶ細道に、小藤《こふぢ》が下りて、邪魔になる、その藤を、切りてたぐりて、たばねて重ねて、夜を明かす
 「その藤を切りて手ぐりて……」以下暢気に悠長な所が南國らしくて面白いのである。
       〇
   十七が、忍びたけれど、七重《ななへ》の障子で、忍ばれぬ、神佛《しんぶつ》、所の氏神、七重の障子の明くやうに、鳥なら、飛んで行くもの、茶の間の、次の間の、中の間へ
 神佛や氏神へ願がけする對象は「茶の間の、次の間の、中の間」である。現實的な所が何白いのである。
       〇
   向ひの山で、色よいつつじ、あの色持ちたる、樣ほしい
 先づ色彩を要求するのが南國人である。佐渡の男女は、
       〇
   花咲きや、實なる、實なる合點なら、寢てごんし
(634)       〇
   いとしうて、目を放されぬ、かへて見る人ないそへか
       〇
   番匠《ばっbしやう》さんと寢たら、檜、松の木、杉|臭《くさ》い
       〇
   絲卷きつけて、手ぐり寄せたい、わが寢間へ
       〇
   言はれたことと、受けた情は、忘れやせぬ
と歌うてゐる。要求する所に兩者自ら特徴のあるを看べきである。
       〇
   向ひの山で、光るものは何よ、月か星か、思ふ樣の(或は御樣の)松明か
 同じく松明であるが、前に擧げた佐渡の松明とは頗る趣を異にしてゐる。暢氣な享樂がいつも基調をなしてゐるのである。
       〇
   走ろ、船にか、わら乘りたけが、あとが見られる、樣ゆゑに
(635) 「走ろ」は「走る」であり、「わら乘りたけが」は「わしや乘りたいが」である。私しや船に乘つて行きたいが、思ふ人ゆゑに後がかへり見られるといふのであつて、享樂的な住民も大海と交渉するに至ると無限の威力を感ぜずには居られないのである。無限の威力を感じながらも、北國的な哀切さは此の歌に現れてゐないのである。
       〇
   走ろ船から、とば取れ/\と、とばの取らりよが、霑れとばの
 「とば」は苫であり、「取らりよが」は「取らりよか」である。船に掛けた苫を取り除けなければ船の中の顔が見られない。顔が見たさに苫取れとれと陸の上から聲をかける。聲をかけられても苫が霑れてゐて早速に取り除けることが出來ないのである。「苫とれとれ」といふ心持も、「苫の取らりよが」と續ける調子も北海の人の心持ではない。
       〇
   月は山端に、すばりは西に、思ふ殿御はまだ江戸に
 「すばり」は雲雀であらう。百里の海を隔てた江戸にゐる殿御を、「未だ江戸に」といふ心は哀れである。類歌は他にあるであらう。
(636)   びんぎよ(便宜《べんぎ》を)しますよ、こと告げします、泣いてあろぞと、ゆてたもれ
 これも絶海の孤島にあつて餘計に哀れな歌になる。便りをしますの意を繰り返して「泣いてあろぞと、言てたもれ」と要求する心は不自然な心理ではないのである。「言つげ」といふやうな古語がこんな處に生き残つてゐるのも興深い。
       〇
   泣いてくれるな、出船のともで、泣いちや、かくれた甲斐がない
 斯樣な歌は船唄として幾らも類歌があるが、矢張り棄てられない歌である。泣き聲に出しても二人の仲が露顯するといふのである。
       〇
   雨の降る夜は、おじやるな、樣よ、下駄の跡見て、さとらるる
       〇
樣に逢ひたさに水汲みに行けど、水は七はいまだあはぬ
       〇
   盆の十三日に(或は、春の山へ出て)踊らぬ人は、腹にやんごの、ありげなら
 三つながら皆南の島らしい唄である。島で水汲みに行くのは深夜か夜明けである。川のない八丈島(637)では村外れの林中などに湛へて溜められてある僅かな清水が命の緒であつて、これを汲みに行くのは島の若い娘たちである。「水は七はい」云々は、水はもう澤山桶に汲みこんだが待つ人が來ないのである。丁度萬葉集の東歌、
   青柳の波良呂川門《はらろかはと》に汝を待つと清水は汲まず立ち所《ど》平《な》らすも
と同じやうな心持である。「やんご」は私生兒である。それで第三の歌の意は分明であらう。「ありげなら」といふ言ひ方も幼く暢氣で面白い。八丈島の氣分のよく現れてゐる歌である。
       〇
   越えて、松原を越えて、松原をこえて、伊勢踊り
 この島で松原といへば海岸である。海岸の松原を越えて踊りに行く心である。簡單であるが趣の多い唄である。
       〇
   沖で見た時や、鬼島《おにじま》と見たが、陸《をか》へ上れば、なさけ島
 八丈島は海上から見れば巨岩突兀と聳えた怪しき孤島であつて、如何にも鬼が島の昔噺を想ひ起させるに適してゐる。陸へ上れば矢張り人情は暖いのである。この唄矢張り島人から生れたものであらう。八丈島には源爲朝の子孫が遺つてゐて今も源姓を冒してゐる。小生の此の島へ渡つた時はその源(638)姓當主の老妻が家々を歩き廻つて椿の花の咲いてゐる軒先で鷄卵を賣つてゐた。爲朝の子孫も南國へ渡つて現實性を帶びると、しまひに鷄卵賣りになる所が面白いのである。卵は丸く滑かで、椿の花は紅い。島の歌謠も多くそれに通じてゐる。民謠の地方色を比較するために北の島と南の島を捉へて來たのであるが、左樣な比較は際限がない故、一先づこれで筆を收める。
            (大正十一年四月「アララギ」第十五卷第四號)
 
(639) 「赤彦童謠集」巻末言
 
 大人の讀者諸氏に讀んで頂かうと思つてこの小文章を書く。少年少女諸君が讀んで下さつても羞支へはない。
 私には六人の子どもがある(一人は五年前に亡くなつた)私はその六人の子どもに向きあつてゐるといふ心持で童謠をつくる。私はかつて、氷い間小學校高等女學校等の教師を勤めた。私は學校で私の教へた多くの子どもに向きあうた心持を想ひ囘しながら童謠をつくる。私には隣家親戚をはじめとして、可なり廣い範圍に知り合ひの子どもがある。私はその知り合ひの子どもに向き合つてゐるといふ心持で童謠を作る。親が子に向き合ふというたとて、傳習的な型に嵌まつた威嚴を取りつくろふ心持を指すのではない。併しながら、私は親としての自分の愛を突きつめる時、自分の子どもに子どもらしい眞面目さと質實さと根強さを希求する心がある。私が教師としてその子どもに對しても、希求するものの種類は同じである。その子どもを大切に思へば思ふほど、その希求が鮮やかになり濃くなる(640)といふ感がある。自分の知り合ひの子どもに對しても、世間一般の子どもに對しても、希求するものは矢張り同じである。既に斯樣な心持で子どもに對することを私の必然的心理とする以上、私が童謠をつくる時同じくその希求が基底に存在するといふことは自分としては避くべきことでないと思うてゐる。只、私の希求が實際に當つて子どもと交渉する時に、子どもの心理と調子が合ふか合はぬかといふ問題になれば、茲に私に反省の餘地が生じて來ることであると思うてゐる。
 或る人は言ふであらう。童謠は童謠である。何處までも子供の心に立ち歸つて作さねばならぬと。この言よきに似て淺い。大人は大人である。燒いても煮ても子どもにはなれない。子どもになれない大人が、假りに子どもになつたつもりで起居動作したら何うであるか。氣の毒な滑稽ではないか。子供の心になつて童謠を作せといふ人は、曩の滑稽を移して、そのまま童謠へ持つて行かうとする人ではないか。大人が童謠を作すといふのは、何處までも大人が子供と交通することである。大人は大人の愛を突きつめて子供と交通してゐればいいのである。そこに相互の同情が融然として合致して來べきである。大人の作す童謠は、大人と子供の同情の融合から生れると私は思うてゐる。
 子供になれといふ童謠論者は、畢竟大人に子供の物眞似をせよといふ人々である。良寛上人老いて動作子供に類したけれども、子どもになつたのだと思ふと間違ふ。子どもの物眞似をしたのでないこと勿論である。物眞似といふのは、多くその物に甘えることを意味する。子どもを愛するのはよいが、(641)子どもに甘えるのは雙方の心性を傷ふに終る。子どもの感傷的な甘さを挑發したり、上辷りな外面的興味を刺撃したりするやうな作物は、さういふ所から生れて來る。子どもは何處までも質素で樸直な大地の上に立つて居らねばならぬ。(子どもには限らないけれども)質素と樸直を尊重するものは、自分が先づ質素樸直な心を以て子どもに對き合はねばならぬ。子どもの弱點に甘えるやうな文學が流行したら、子どもの前途は寒心すべきである。夫れは直ちに人類の前途の問題であるからである。
 私は大體以上の如き心持を以て童謠を作つてゐる。私の子供に對する希求は具體的に私の童謠に現れてゐべき筈であるが實際の作物になると甚だ不徹底な心もとないものである。此の小册子に一瞥を賜つた諸氏は、私の小意見及び作物に對して定めて意見を持たるることであらうと思ふ。私に向つて直接に教示を賜らば幸甚の至りである。
猶一言を要することがある。私の質素といひ樸直と言うたのは、それが貧弱な見すぼらしさを意味するつもりではない。質素の中に豊かさがあり、樸直な中に品位の具はつて居ることは優種族人の持徴である。古事記の傳説を生み、萬葉集を生み、更に奈良朝の美術を生んだ民族の心が夫れである。左樣な點に於て特に私は平素尊敬してゐる平福・森田兩畫伯に裝幀を願つた。兩氏の苦心が理想どほりに現れて本書の品位を成し得たこと衷心よりの喜悦である。川上畫伯と私とは今まで私交がなかつた。平素雜誌「童話」に氏の繪を見てその畫風の清新質素の趣あるを欽してゐた。特に願つて會心の(642)挿畫を得たのは同じく私の喜悦とする所でゐる。古今書院主人も亦小生の微志を賛して、資材に勞力に惜しむ所を知らない状であつた。諸氏の助力と盡瘁に依つて理想的の册子を得たことかへすがへす感謝に堪へぬ。内容の相添はないのは今後私の勉強に期するより外はない。(大正十一年三月三十日夜二時アララギ發行所に於て)
 
(643) 童謠其他に對する小見
 
 私は、小學校時代の子どもには、學校の教科以外、成るべく多く日光と土に親しませたいと希つてゐる。人間としての原始的生活をさせる事が、生涯の力の源泉を涵養し蓄積する所以であると思つてゐるからです。自然物に深く親しませることは、少くも子どもを質實にし、正直にし、純粹にします。さういふ子どもは、人類の文化に目ざめることが遲い代りに、一旦目ざめたら多力者になり得ます。
 今の國語讀本その他の教科書が、眞正に子どもの本質に根ざして適當に作られてあつたら、恐らく、科外讀物を子どもに與へる必要はないでせう。そのひまがあつたら、山に栗を落し、野に螽※[虫+斯]を追ひ、川に鰌を掬つてゐる方が生涯の力の涵養になります。只、教科書が子どもに發する理解を缺いたり偏りがあつたりする場合に、その缺陷を補ふために、科外讀物の必要なことも認められぬことはありません。
 小生は自分の子どもには、現今流行する少年少女雜誌を讀ませません。(只一種見させておく雜誌(644)があります)小生は日本にある子ども雜誌の殆ど全部に目を通したことが二度あります。さうして、斯樣な雜誌を子どもに與へることは、教科書の補足になるどころでなく却つて惡教科書を授けるに等しいものであると思ひました。第一に表紙畫口畫挿畫の刺戟的であつて甘たるいことです。あれを、も少し強烈にしたら活動寫眞の看板畫になりませう。殆どすべてが子どもの末梢神經を刺戟してその快感をそそるやうに描かれてあります。子どもはあゝいふ種類のものを好みますが、その好むのは子どもの弱點であると思ひます。丁度子どもの菓子砂糖類を好むのが弱點になるやうなものです。あゝいふものに馴れれば、人間の官能的方面にのみ早く發達して、根柢の力を養ふことはむづかしいと思ひます。少くも日光と土から得るものとは霄壤の相違があらうと思ひます。
 啻に表紙畫口繪のみでありません。内容とするものが、是亦子どもの甘たるい方面を誘發するやうなものが多くないかと思ひます。一言にして盡せば、子どもの弱點挑發が今の子ども雜誌の目ざしてゐる所であるといふ觀があります。特に懸賞によつて子どもの外面的興味を嗾つたり、雜誌の上に名前を竝べて小名譽心を滿足させたりしてゐますが、あゝいふ事に憂身をやつす種類の子どもが、成人してどんな人間になるかといふことは想像出來ます。文壇に投書家あがりといふのがあります。尊敬の對象にならぬやうです。今の子どもを盡く小投書家にしたら人類の將來は可なり輕薄なものになりませう。
(645) 以上述べた如き傾向の中に童謠といふものも介在してゐるのではないでせうか。私は現今の童謠の盡くを見て居らぬゆゑ、盡くがさうであると斷言出來ませんが、多くは子どもの甘たるい方面を誘發するに過ぎぬものでないでせうか。子どもが好む好まぬといふ。好む好まぬは大切な問題であるが、好むもの、皆子どもを益せず、好まぬものが子どもの力を養ふ場合もあります。好まぬ算術に專心させることが、子どもの忍耐力を養ふやうなものです。
 一體、文學といふものは、面白をかしいものでありません。人麿・赤人・芭蕉・子規といふやうな高級文學は、皆人生を虔ましく寂しく通つた心の記録です。子どものうちから面白をかしい方面にのみ發達させたら、彼等が成人しても高い文學を解する事は出來なくなりませう。輕薄文學者の卵を小學校で養成しては人類のために濟みません。懸賞文學の卵に至つては論外です。
 小生は子どもに成るべく自然物に親しむに等しいやうな質素純白な童謠を欲しく思ひます。それが得られぬならば、童謠などは授けずに、子どもを山野に放つて置いた方がよいと思ひます。教育者諸氏は童謠に對して今少し批判を加へて童謠作者を刺戟したり、雜誌編輯者を鞭撻したりすることが必要ではないかと思ひます。新しい教育とは、教育の立場を擲つて、文學者に從ふことではないでせう。教育者は何處までも教育の立場から童謠を見、童話を見、すべての子どもの讀み物を見て批判を加へられんことを望みます。
(646)                  (大正十三年「小學校」五月號)
 
(647)手帳より
 
     民謠 (大正十一年六月二日)
 
 あなにやし えをとこを
 あなにやし えをとめを
  紀
   あなうれしや うまし小男にあひぬ
   あなうれしや うまし小女にあひぬ
  紀一書
   あなにゑや えをとこを
   あなにゑや えをとめを
 
(648)     大國主尊の嫡妻 須勢理毘賣命
 八千予の 神の命や 吾が大國王 汝こそは 男《を》に坐《いま》せば 打ち見る 島のさきざき 掻き見る 磯の崎落ちず 若草の 妻持たせらめ 吾《あ》はもよ 女《め》にしあれば 汝《な》除《を》きて 夫《を》はなし 汝《な》をきて 夫《つま》はなし 綾垣の ふはやが下に むしぶすま 柔やが下に たくぶすま さやぐが下に 沐雪《あわゆき》の わかやる胸を たくづぬの 白きただむき そただき たたきまながり 眞玉手 玉手さしかへ 股長に 寐《い》をしなせ 豐御酒たてまつらせ
     豐玉姫命 彦火火出見尊に送る
 赤玉は 緒さへ光れど 白玉の 君がよそひし 貴く有りけり
     答歌
 奥つ鳥 鴨ど《づ(紀)》く島に 我が率寢《ゐね》し 妹は忘れ《ら(紀)》じ 世の盡々に《も(紀)》
     神武天皇
 宇陀のたかきに……………の終に ええ しやこしや
                 ああ しやこしや
        光仁帝の時 おしとど おしとど
        催馬樂 おしとんど/\
(649)     伊須氣余理姫(童謠)當藝志美々命の謀を告ぐ
 畝火山 昼は雲と居 夕されば 風吹かむとぞ 木葉さやげる
     崇神天皇 さかひと活日《いくひ》の歌
 此御酒は 我が御酒ならず 日本なす 大物壬の かみし御酒 いくひさ/\
     同天皇の時倭迹々姫命の墓をつくる時大坂山の石を運ぶ時時人の歌 大坂に つぎ登れる 石群を 手遞傳《たごし》に こさば こしがてむかも
     日本武尊薨去の時、后、御子たち、もろもろ下り來りまして、御陵つくりて、そこの那豆岐田にはひもとほりて、哭《みねなか》しつつ歌ひ給はく
 なづきの 田の稻幹に 稻がらに 延ひもとほろふ ※[草がんむり/解]葛《ところづら》
     ここに八尋白智鳥となりて、天に翔りて、濱に向きて飛びいましぬ。爾、其后、御子ら、其地なる小竹の刈杙に、御足切り破るれども、その痛きをも忘れて、哭く哭く追ひいでましき
 淺小竹原 腰なづむ 空は行かず 足よ行くな
     應神天皇 百濟より來れる「すすこり」酒をつくりて奉れる時の御歌
 すすこりが かみし御酒に われ醉ひにけり ことなぐし ゑぐしに われ醉ひにけり
(650)     仁徳天皇 速總別王と女鳥王を殺さんとす
 梯立の 倉梯山を さがしみと 岩かきかねて 吾が手取らすも
      又曰
 梯立の 倉梯山は さかしけど 妹と登れば さかしくもあらず
    (萬葉に類歌あり)
 梯立の さかしき山も 寄妹子と 二人こゆれば 安席かも (紀)
      允恭天皇
      衣通牒
 わが夫子が 來べき夜なり ささがにの くもの行ひ 今夜しるしも
      衣通王、輕太子を思ふ
 夏草の あひねの濱の かき貝に 足踏ますな 明して行去《とほ》れ
 君が行 け長くなりぬ 山たづの 迎へを行かむ 待つには待たじ
      繼體天皇 任那國へ目頬子を遺す時近江毛野臣をめす。毛野臣対馬にて死す。葬る時淀川を泝りて近江に入る。妻歌ひて曰
 枚方ゆ 笛吹き上る 近江のや 毛野の若子い 笛吹き上る
(651)     目頬子任那にいたる時郷家等歌をおくる(紀)
 から國を いかにふ事ぞ 日頼子來る むかさくる 壹岐のわたりを 目頬子來る
      皇極天皇 蘇我入鹿上宮王等を廢して古人大兄を立てんとす。童謠《わざうた》あり
 岩の上《へ》に 小猿米燒く 米だにも 手揚《たげ》て行去《とほ》らせ 山羊《かましし》の老翁《をぢ》 (山羊は山背王をさすといふ)
 遙々に 琴ぞ開ゆる 島のやぶ原 (中大兄、鎌子と相謀る兆)
      續日本紀
 海行かば 云々
      古語拾遺
 あはれ あなおもしろ あな樂し あなさやけ をけ
      常陸風土記
 こちたけば 小泊瀬山の 石城にも 率てこもらなむ な戀ひそ吾妹
      萬葉十六「ことしあらば小泊瀬山の石城にも隱らば共にな思《も》ひそ吾背」
 筑波根に いほりて妻なしに 我がねむ夜ろは 早もあけぬかも
   △詠ふ歌甚だ多く載するにたへず
      播磨風土記
(652) うつくしき 小目の笹葉に 霰ふり 霜ふるとも な枯れそね 小目の笹原
      丹後風土記
 やまとべに 風吹きあげて 雲ばなれ そき居りともよ わを忘らすな
      肥前風土記
 あられふる 杵島が岳を 嶮しみと 草とりかねて 妹が手をとる
      常陸風土記 杵島曲を唱ふこと七日七夜遊びゑらぎ歌ひ舞ひき
      仁徳記  前出
      萬葉三 霰ふりきしみが岳をさがしみと草取りかねて妹が手を取る
      萬葉集
 束歌
 まがなしみさ寢に吾はゆく鎌倉のゐなのせ川に潮滿つなむか
 葛飾の間々の手兒名がありしかば眞間のおすひに波もとどろに
 上毛野小野の多どりが川路にも兒らは逢はなも獨のみして(見る人なしに) 下毛野安蘇の川原よ石ふまず空ゆと來ぬよ汝が心告れ
 間遠くの雲居に見ゆる妹が家《へ》に何時か至らむ歩めあが駒
(653) 小草壯子と小草好色男と潮舟の並べて見れば小草勝ちめり
 稻つけばかがるわが手を今宵もか殿の若子がとりて歎かむ
 人妻とあせかそを言はむ然らばか隣の衣を借りて著なはも
 麻苧らを麻笥にふすさに績ますとも明日來せざめやいざせ小床に
 青柳の波良呂川とに汝を待つと清水はくます立所平らすも
 防人歌
 水鳥の立ちのいそぎに…………
 父母がかしらかき撫で…………
 大君のみことかしこみ出で來れば我ぬ取りつきて言ひし子なはも
 筑紫へにへ向かる舟のいつしかも仕へ奉りて國に舳向かも
 旅人のやどりせむ野に霜ふらば吾が子はぐくめ天のたづむら
 
      童謠
 
 帝堯陶唐氏
 
(655) 末我〓民莫匪爾樟不識不知順帝之刻
 
婦人讀物小兒讀物(與謝野時代にあり)
 婦人平等
 子供平等   の誤
都會子供の危機
 すべて感覺的
  活動、玩具、遊戯、朗讀の早さ
田舍の子供
 天然物を相手の遊戯
  ネツキ、草の葉の髪人形、笹舟、おんがらの水車、ハンマ、ユツサンボツキ、草履がくし、蜂、川ぼし、山の果とり、きのことり、甲蟲捕、螢とり、螽とり
弱點挑發の文學
 
     「龍華師承傳」より
 
(655)   大覺大僧正の中に
一年天下大旱、普勅諸宗修請両法而無驗、亦詔師乃與緇伍三百餘月、至于桂川之上、同音讀誦法華一軸、未充、雲起雷鳴、大〓膏雨、數日不止、率土皆洽、上大悦、時童謠曰、地藏出世菩薩也、祈タル歟、登歟《ミノリタルカ》、【末曰、位爾波也久津可志免津可志免
】師聞之謂門人曰、是則可言地涌出也、菩薩也、不知可奉勅或出於佛意
    明暦改元重陽日沙門元政ノ序アリ
 大覺大僧正ハ南北朝時代ノ人ニシテ日像菩薩の弟子(日像は京都日蓮宗ノ祖ニシテ妙本寺開山鎌倉末ヨリツ南北朝ハジメ頃ノ人)
 
     童謠について
 童謠の意義
  御杖の説
  意 ノロ  ノ口
天――童――大人
  前兆 諷刺
  子どもより大人か、大人より子どもか分らぬもの
   〇螢來い
(656)   〇泣き蟲毛虫、挾んですてろ
   〇人眞似小眞似、たけつの狐
   〇夕やけ小燒、明日天気になあれ
   〇草履がくし
   〇かごめ、かごめ、籠の中の鳥は、いつ/\出やる、夜明けの晩に、つる/\辷《つ》うべつた
   〇ごろすけ奉公、無駄奉公
   〇猿の尻や眞赤いな、ごんぼう燒いておつつけろ
   〇お山の大將おれ一人、あとから來るもの突き落す
大人より子どものもの
   〇梅の木、桃の木、さんしよの木
   〇蜜柑金柑、酒のかん
   〇よいとこ捲け、よいとこ捲いた
   〇御杜の木遣り唄、長持唄
   〇この火事は人の命を鳥ゐ坂これより上の科は内膳
   〇酒田山王|山《やま》で、ゑびこと、かんぢかこが、相撲とうたば、海老なして、そんなに、腰まがた、(657)んぢかこと、相撲とて、投げられて、それで腰まがた。アツチヤ申せコツチヤ申せ
 帝堯の時の童謠 前出
 皇極天皇の時の童謠二つ 前出
 龍華師承傳中の童謠 前出
 徳川時代の落首もこれに類す
 近頃興りたる童謠
  小學校の歌謠
  小學校の臨本畫より自由畫
  徳川時代より繼承せる短歌俳句等が形骸になり新しき詳や歌、俳句が生れしと同樣なり
 新しく生れし歌の檢査
  與謝野  子規
 近頃興りたる童與は右の傾向中何れに屬せりや
都會の子どもの危機
 すべて感覺的
  活動、玩具、遊戯、朗讀の早さ、三味線、長唄、常磐津のけいこ
(658)  中學校女學校入學準備
  小さい大人
田舍の子ども
 天然物相手
  ネツキ、艸の髪の人形、笹笛、笹舟、おんがらの水車、ハンマ、ユツサンポツキ、草履がくし、蜂、川ぼし、山の果とり、螽とり、きのこ取り、甲蟲とり、螢とり
日光と土に親しむものは(原始的)鳥獣草木、子ども、百姓
原始的の子どもを成熟的に取扱ふ害恐るべきなり
子供の製作に對する態度。必しも作らせるを要せず
 近來の平等説流行
  婦人問題
  社會組織問題
  共産主義?
  子供獨立説?
  行爲――氣分教育?
(659)  綴方
  畫
  童謠
矢張り手を入れて指導すべきものなり
 雜誌發表、懸賞、自由畫展覧會
 
     童謠の本質 (大正十一年十月三日長野縣上伊那教育會)
 
一、子どもの胡頽子
 子どもと禅坊主
 左千夫の林檎
一、子供と大人の共通點より童謠は生るべし
 この點より大人に童謠を作る資格あり。資格なき時強ひて子供の心の眞似をするのは却つてイヤ味なり。
一、蓮田に鵠八つ居りや…………
(660)一、おばこ節「酒田山王山で…………
一、秀吉の急げ/\…………利害に敏き家康には出来ぬ
 螢來いの歌
 泣顔毛蟲はさんですてろ
 夕やけ小やけ
 かごめ/\
 猿の尻
 ごろすけ奉公
 櫻の木、桃の木、おどろき、とどろき、さんしよの木
 みかんきんかん
 木やり節、長持唄
一、尊い人間は童謠を作り得べく教育者は殊に童謠を作り得る人たるべき也。一、生活精神が單純なる心に纏ることは六ケ敷い。そのため我々は苦しむ。
一、少くも利害を考へる心では純一になり得ない。
一、釋迦、孔子
(661)一、乃木――鴎外等の心と子供心とは只一歩のみ
一、良寛禅師の遊戯
 父の水死
  深山のおろしの、小笹の霰の、さらりさら/\としたる心こそよけれ、險しき山の、つづら折りの、かなたへ曲り、こなたへ曲り、くるりくる/\としたる心は面白や
 禅師の旋頭歌
  山笹に、霰たばしる、音はさら/\、さらり/\、さら/\とせし、心こそよけれ
  詩三百思邪なきもの
 聖人の心は子供のみならず鳥獣草木の心に通ず
  仲春を殷す、斯民わかる、鳥獣※[茲/子]尾す
  暮春春服已に成る、三月肉味を知らず
   童謠の歴史
一、民謠の一部として發達
 堯の時の童謠
 皇極天皇の時入鹿上宮王等を廢して古人大兄を立てんとす
(662)  岩のへに、小猿米燒く、米だにも、たげてとほらせ、かまししのをぢ
    山羊は山背王をさす
   童謠の近時勃興
一、小學校歌詞の生命なかりしこと
 醒め方が遲かりき
 圖畫――綴方――の寫生
ゝ小説の醒め方
  硯友社、自然主義……
  鴎外の小説
ゝ歌の醒め方
  明星の外面的
  子規の内面的
ゝ維新以來物質的生活精神
  外面的擴張(文學繪畫――浮世繪――英國太子)
ゝ資本主義とデモクラシー
(663)ゝ差別と平等
ゝ現時の平等
  物質平等
  婦人の平等
  大人と子供の平等
ゝ婦人讀物
ゝ子供讀物
  表紙、口畫、挿畫
  童話、童謠
ゝ都會子供の悲哀
  外面的興味――末梢神經ノ刺撃、小さい大人
  田舍子供の特徴
   ネツキ、ハンマ、ユツサンボツキ、草の笛、水車、蜂巣掘、川干シ、山ノ果トリ、螽鰌トリ、木ノコトリ、栗オトシ、胡桃オトシ、甲蟲トリ、螢トリ
   すべて日光と天然物を相手
(664)ゝ農夫も日光と天然物を相手
ゝ鳥獣亦然り
ゝ原始的教養によつて力を蓄積するを特徴とす
ゝ古今田舍着の勢力
   子供制作の童謠
ゝ強ひて作らせるは惡し
ゝ美文製作を強ひると同じ
ゝ俳句和歌より害少し、その位の程度
ゝ已に作らしものは批評し指導すべきものなり
  圖が――文章――行爲亦同じ(氣分教育問題)
ゝ雜誌發表、懸賞(六歳の子供)自由畫展覧會の弊
   子供に課する童謠
ゝ古今よりの童謠より選擇
ゝ民謠より選擇もよし
  伊豆の民謠、坂田山王山で、うぢの晒しに島に洲崎に 立つ波につけて、八丈島の民謠、大島の(665)民謠。
  佐渡の民謠
   行かんせんか、かかせんか、かんか林の萱刈りに
   言はれたことと、受けた情は忘れない
   日のくれに、磯みを行けば千鳥なく、鳴け/\千鳥、聲くらべせうや
    童謠の曲譜
ゝ予に説なし。
ゝ短歌の聲調を重ずること微細所に立入り居れど短歌の歌ひ方を考へしことなし。
ゝ歌そのものの微細所に合致したる曲譜ならば歌つてもらひてもよし。
ゝその曲譜は一首々々違ふものかと思ふ。一首の歌にても讀者の觸れ方――別言すれば――理解のし方によつて讀み方違ふべし。
 この意味より考へて童謠の曲譜を如何に考ふべきかを知らず。
ゝこの意義わかるまで(雜誌等にて)暫く曲譜は御免を蒙り居れり。
ゝ童謠を歌ふことも聽きしことなし。
〔2021年9月23日(木)午前10時3分、入力終了〕