赤彦全集第6巻、岩波書店、690頁、2200円、1929.12.20(1969.10.24.再版)
 
第6巻 童謠・小説・散文・紀行・日記・その他
〔分かり切った振り仮名は省略した〕
 
赤彦童謠集……………………………………13
母さんの里…………………………………16
仔犬…………………………………………17
子守…………………………………………19
木つつき鳥…………………………………21
仔猫…………………………………………23
雀……………………………………………25
鶯……………………………………………26
くぬぎ枯葉…………………………………28
杉……………………………………………30
山の茂作……………………………………32
椿の莟………………………………………34
焚き火………………………………………36
鍋のお尻……………………………………38
野の桃………………………………………40
木馬…………………………………………42
よしの芽……………………………………44
猿曳…………………………………………46
ほととぎす…………………………………48
お山の行者…………………………………49
行水…………………………………………52
風……………………………………………54
石工…………………………………………56
霰……………………………………………58
兄弟…………………………………………60
一月一日……………………………………62
土掘れ………………………………………64
桃の花………………………………………66
燕……………………………………………67
おたまじやくし……………………………69
雨……………………………………………71
金魚賣………………………………………73
日照雨………………………………………75
柿の木………………………………………76
柴苅…………………………………………78
木樵の太郎…………………………………80
霰と雪………………………………………81
独樂…………………………………………83
ひよこ………………………………………85
乳房…………………………………………88
となりの坊や………………………………89
雲……………………………………………91
閻魔さま……………………………………93
青い湖水……………………………………95
野菊…………………………………………97
第二赤彦童謠集………………………………99
蜻蛉……………………………………… 101
庭風呂…………………………………… 102
どんぐり………………………………… 103
つらら一………………………………… 105
つらら二………………………………… 107
あられ…………………………………… 108
水車……………………………………… 110
山の家…………………………………… 112
山の中一………………………………… 114
山の中二………………………………… 116
夏………………………………………… 117
月夜……………………………………… 119
赤ちやん………………………………… 120
良寛さま一……………………………… 121
良寛さま二……………………………… 122
良寛さま三……………………………… 123
法螺の貝………………………………… 125
椋鳥……………………………………… 127
葱坊主一………………………………… 128
葱坊主二………………………………… 130
夕立……………………………………… 135
花や一…………………………………… 137
花や二…………………………………… 139
人形……………………………………… 141
旅………………………………………… 144
お月さま………………………………… 145
えつさつさ……………………………… 147
木曾……………………………………… 149
太郎……………………………………… 150
若葉……………………………………… 151
影法師…………………………………… 153
広つぱ 男……………………………… 155
広つぱ 女……………………………… 156
淵………………………………………… 158
からす…………………………………… 159
密柑……………………………………… 160
羽柴秀吉………………………………… 162
夜汽車…………………………………… 163
土………………………………………… 165
第三赤彦童謠集…………………………… 167
螢篭……………………………………… 169
光………………………………………… 171
※[奚+隹]…………………………… 173
小蟻……………………………………… 175
雲………………………………………… 177
お正月…………………………………… 179
櫻花遊び………………………………… 181
高粱……………………………………… 183
豚………………………………………… 184
滿洲の汽車……………………………… 185
三日月…………………………………… 187
毬………………………………………… 189
五日月…………………………………… 191
飯山町…………………………………… 193
ちよん髷………………………………… 195
青鬼灯…………………………………… 197
母………………………………………… 199
田舎の學校……………………………… 200
お山……………………………………… 202
驢馬……………………………………… 204
夕ぐれ…………………………………… 205
越後獅子………………………………… 207
牡丹……………………………………… 209
尾つぽ…………………………………… 211
夕方……………………………………… 213
隣の百姓………………………………… 215
守唄……………………………………… 217
栗の實…………………………………… 219
冬だんべ………………………………… 221
忠次……………………………………… 223
諏訪の殿さま…………………………… 225
小説物語
鹽尻峠……………………………………… 229
吹雪………………………………………… 236
萱草の花…………………………………… 243
小移住者…………………………………… 263
原新田……………………………………… 270
散文小品其他
諏訪豐平村の家…………………………… 275
筆を絶つ辭………………………………… 278
秋の希望…………………………………… 280
火串録……………………………………… 282
上諏訪に就て……………………………… 291
初對面録…………………………………… 293
諏訪風景一般……………………………… 300
上諏訪と下諏訪…………………………… 302
屋根………………………………………… 308
一年間……………………………………… 309
手紙………………………………………… 315
徳本峠の林道……………………………… 317
山浦の秋冬………………………………… 319
諏訪湖畔冬の生活………………………… 323
目に見るもの……………………………… 330
震災雜感…………………………………… 335
山中雜筆…………………………………… 338
アナグラの生活…………………………… 342
温泉の匂ひ………………………………… 345
石…………………………………………… 348
凉味小品…………………………………… 351
カルサンと米……………………………… 355
お玉じやくし……………………………… 359
出羽ところどころ………………………… 362
紀行
修學旅行記………………………………… 367
女子霧ケ峰登山記………………………… 416
淺間登山…………………………………… 425
日曜一信…………………………………… 429
明治四十三年………………………………… 431
明治四十四年………………………………… 476
日記………………………………………… 525
日記 明治三十八年…………………………… 527
日記 明治三十九年…………………………… 571
日記 明治四十年…………………………… 598
日記 明治四十一年………………………… 600
日記 明治四十二年………………………… 661
東西日記 大正八年 ……………………… 679
伊豆日記 大正十四年……………………… 680
病床日誌 大正十五年……………………… 684
 
 赤彦童謠集
 
(15)此の童謠集は、小學校から中學枚高等女學枚初年生あたりまでの少年少女諸君によんでいただくつもりで出しました。幼年のかたに分りにくい歌は、飛び越して讀んで下さい。著者は素朴な少年少女を好みます。この本は皆さんを浮き立たせません。花やかな歌は一つもありません。そのつもりで讀んで下さい。あまり口早やでなくそろそろと讀んで見て下さい。
 
(16) 母さんの里
 
お日さま待たれ
夕日が低い
あの野を越して
この野を越して
母さんの里が遠い
 
お日さま待たれ
夕日が赤い
あの森暮れて
この森暮れて
坊やの足かおそい
 
(17) 仔犬
 
赤犬 仔犬
自分の尻尾に
じやれついて
まはる まはる
くるくるまはる
 
まはる まはる
仔犬がまはれば
目玉がまはる
光がまはる
くるくるまはる
 
(18)まはれ まはれ
一心にまはれ
自分の口が
自分の尻尾にとどくまで
いつまでもまはれ
 
(19) 子守
 
こんこん子守
子守の草履
尻切れ草履
草履が切れて
小坊主が重い
 
こんこん子守
子守の半纏
ねんねこばんてん
はんてんの中の
小坊主が動く
 
(20)こんこん小坊主
目がさめた
山風寒い
川風寒い
子守はつらい
 
(21) 木つつき鳥
 
うらの小藪の
栗の木林
雪が白くて
木立が黒い
 
朝日が照れば
猶雪が白い
夕日が照れば
猶木が黒い
 
木つつき鳥が
黒い木をたたく
(22)こつこつたたく
暮れてもたたく
 
(23) 仔猫
 
紅い座布團に
仔猫がねむる
仔猫ころころ
丸くなつてねむる
 
ひとつ布團に
わたしもすわる
すわる片足
疊にかかる
 
ころころ仔猫よ
起きろよ仔猫
(24)わたしの足に
しびれがきれる
 
(25) 雀
 
柿の木の枝に
雀三つゐる
捕れぬかなあ
 
三つながら
こちら向いてる
捕れぬかなあ
 
三つながら
平気な顔して
こちら向いてる
捕れぬかなあ
 
(26) 鶯
 
楢山に
なくうぐひすは
雨にぬれる
 
楢の芽が
みじかくて
楢の芽もぬれる
鶯もぬれる
 
楢の木の芽は
ぬれても
伸びる
 
(27)鶯の羽は
日が照つて
かわく
 
(28) くぬぎ枯葉
 
櫟枯葉は
芽が出て
落ちる
ぽそりぽそりと
一葉づつ落ちる
 
枯葉落ちれば
かくれて
見えぬ
可愛さうなは
龍膽《りんど》の小花
 
(29)歩るきや足音
止まれば
靜か
ぽそりぽそりと
枯葉が落ちる
 
 春の龍膽は極めて細かい紫色の花で、枯草の根もとなどに、ひつそり咲いてゐます。氣をつけて御覽なさい。可愛い花です。
 
(30) 杉
 
野中に立てる一本杉
見れば見るほど見上げるほど
眞直に伸びた幹の勢
 
高い幹から張り出す枝
張つて張つて張り出して
枝を重ねる枝のいきほひ
 
ごらんなさい土の下から
土を裂いて盛り上がつて
水を吸ひあげる根のいきほひ
 
(31)土が深くて泉が湧き
杉が高くて雪が動く
月の通り日の通る所
 
(32) 山の茂作
 
山の茂作が炭やく煙
木立にかかつて木立が黒く
顔にかかつてお色が黒い
 
山の茂作が煙草をふかす
大きな鼻から煙をふかす
二つ孔から盛にふかす
 
山の茂作が煙管をはたく
黒く大きな手のひらへはたく
もえる煙草を平氣にはたく
 
(33)山で暮して年より茂作
谷に辛夷の花さくけれど
春が來たとも知らない茂作
 
(34) 椿の莟
 
赤い莟
椿のつぼみ
雪をかぶつて
寒むそなつぼみ
 
雪をはらつて
やりましよか
雪をはらへば
日の照るつぼみ
 
日は照るけれども
寒むそなつぼみ
(35)堅い莟はが
ただ赤い
 
(36) 焚き火
 
夕ぐれ日ぐれ
爐の火が赤い
柴折つてくべろ
枝折つてくべろ
 
圍爐裏のはたへ
子供が揃うた
揃うた顔が
焚き火に赤い
 
子供の髓《すね》が
焚き火をのぞく
(37)のぞいた髓が
二つづつ揃うた
 
雨戸のそとを
風ふいて通る
柴折つてくべろ
枝折つてくべろ
 
(38) 鍋のお尻
 
野火がついた
火がついた
鍋のお尻へ
火がついた
 
焚き火が消えたと
思うたら
鍋のお尻へ
火がついた
 
鍋煤《なべずみ》ぴかり
百も千もぴかり
(39) 消えてはぴかり
ついてはぴかり
狐火の行列か
貉どのの提灯か
 
野火がついた
火がついた
鍋のお尻へ
火がついた
あつたら貉は燒け死んだ
あつたら狐は逃げてつた
 
(40) 野の桃
 
芒の中で
桃の花咲いた
 
芒の中の
桃の木が低い
 
芒の中の
桃の花白い
 
野道を通る
郵便屋さんも知らぬ
 
(41)あとから通る
お爺さんも知らぬ
 
芒の中で
桃の花咲いた
 
(42) 木馬
 
鈴子が
笑うたから
おれさま
赤ん目をしてやつた
 
鈴子はおしやれで
気取屋で
先生の前では
お行儀もの
 
向う鉢巻
腕まくり
(43)木馬に乘らうとする俺を
鈴子がくすくす笑ろたのさ
 
向う鉢巻
腕まくら
木馬の尻を一打ち打つて
赤ん目をしてやつたのさ
 
(44) よしの芽
 
砂原の
鳥の跂あと
風吹けば
消える跂あと
 
水ぎはに
のびる蘆の芽
波うてば
かくれる蘆の芽
 
海も陸も
平らに日が照り
(45)砂が黒く
よしの芽が紫
 
(46) 猿曳
 
猿曳の
たたく太鼓は
ととんこ ととんと
鳴りひびく
 
草家の軒ばの
桃の花から
雀がばつと
飛び立つところへ
ととんこととんと
鳴りひびく
 
(47)雀が立つても
小犬が吠えても
平気な顔して
洗濯してゐる
つんぼ婆さんの後ろから
ととんこ ととんと
鳴りひびく
 
(48) ほととぎす
 
時鳥
朝鳴いて夜鳴いて
鳴きとほせ
お前の聲は
寂しいけれど
お前が鳴くと
山がだんだん
青くなる
山が青めば
その山おくの
温泉にゆく道の
雪がとける
 
(49) お山の行者
 
谿のあひだに
花さいて
蕎麥の畑が
眞白い
 
山の上まで
木が立つて
杉の林が
まつ暗い
 
お山へのぼる
行者さん
(50)そばの畑を
とほり越す
 
そばの畑は
二三枚
杉の木立の
はてがない
 
杉の林に
雲が湧く
雲の中から
鈴が鳴る
 
行者の腰に
なる鈴は
(51)だんだんのぼつて
聞えない
 
雲の中から
日がさして
そばの畑が
まつ白い
 
(52) 行水
 
夕顔棚の
花の下
父さんも裸
わたしも裸
 
田から歸つて
盥の行水
父さんも裸
わたしも裸
 
ひとりで寂しい
厩の馬が
(53)盥の上へ
顔出した
 
馬の顔引つこめ
棚の下せまい
夕顔白い
お月樣まるい
 
(54) 風
 
のぼるのぼる
風がのぼる
山の下から
山の上まで
木の葉を動かして
風がのぼる
 
動くうごく
木の葉がうごく
白い葉裏が
波を立てて
あとからあとから
(55)山へのぼる
 
秋は凉しい
雪が動いて
山の向うへ
さつさと急ぐ
木の葉の風が
波を立てて
ずんずんのぼる
雲を追つてのぼる
 
(56) 石工《いしや》
 
かつちんかつちん石を鑿《き》る
眼鏡をかけて石をきる
眼もとを据ゑて石をきる
汗を流して石をきる
 
かつちんかつちん石をきる
石より堅い鑿の尖《さき》
鑿より強い腕さきで
かつちんかつちん石をきる
 
かつちんかつちん日が暮れて
火花が見える鑿の尖
(57)鑿の手もとは暗くても
かつちんかつちん石をきる
 
(58) 霰
 
板の小橋で霰が跳ねる
跳ねてころげて踊ををどる
踊をどらば板の上で踊れ
板のひぴきで音頭が要らぬ
 
渡りかかるは小僧でござる
小僧もとより正直なれば
丸い頭であられを受ける
うけた霰がやつこらさと踊る
 
やつて來たのはお仙でござる
お仙もとよりおてんばなれば
(59)板の小橋をかたかた驅ける
驅けるころげる霰が踊る
 
踊をどらば板の板の上でをどれ
板にかたかた足音立てて
おもしろいぞや小僧とお仙
そこで霰がやつこらすつこら踊る
 
(60) 兄弟
 
喧嘩に負けて
弟が泣き出す
喧嘩に勝つて
兄も泣き出す
 
泣いた顔から
鼻ん棒が垂れる
垂れる鼻ん棒を
仔犬が嘗める
 
仔犬に顔を
嘗められて
(61)弟が笑ひ出す
兄が笑ひ出す
 
笑ひたくても
笑ふな弟
笑ひ出しては
喧嘩が出來ぬ
 
(62) 一月一日《いちぐわついちじつ》
 
一月一日夜のひき明けに
山の圍爐裏で※[草がんむり/叔]豆《まめ》がらを焚く
 
豆がはじけて柱にあたる
あたる柱が大黒柱
 
大黒柱に注連繩張つて
焚き火燃えたつ注連繩動く
 
動く注連繩朝日がさして
雪がかがやく庭から谷へ
(63)谷は七谷八谷の下に
村の學校《がくこう》の祝がござる
 
一里山道半里は野道
太郎急いで學校へまゐる
 
行くよ下るよ足早太郎
熊といはれて大力太郎
 
(64) 土掘れ
 
土掘れ
土掘れ
一尺掘りや
一尺明るい
二尺掘りや
二尺明るい
不思議なことぢや
 
掘つた明りは
何所から生れる
わたしの鍬の
尖から生れる
(65)不思議なことぢや
汗出して掘れ
一心になつて掘れ
 
(66) 桃の花
 
巣箱に卵を産みおとして
自分でおどろく牝※[奚+隹]のこゑ
ほかの牝※[奚+隹]も首をのばして
聲をそろへる※[奚+隹]小屋のさわぎ
 
※[奚+隹]小舍に※[奚+隹]の騒ぎが止むと
村中が急にひつそりとする
庭さきの桃が眞赤に咲いて
巣箱にころがる卵ひとつ
 
(67) 燕
 
雛つばめ
親が來たとて
嘴ひらく
黄いな嘴
揃うてひらく
何と言《ゆ》てひらく
お腹すいたと
言てひらく
 
親つばめ
夜明けから出て
小蟲をさがす
(68)蟲をさがして
翼がぬれる
何してぬれる
青い芒の
野でぬれる
 
(69) おたまじやくし
 
後ろから
母さんの腰を
押すのは
みいちやん
 
前から
母さんの手を
ひつぱるのは
三ちやん
 
母さん行きましよ
行て見ましよ
(70)うらの田圃の
おたまじやくしに
手足が生えた
 
手足が動く
ちよろちよろ早い
尻尾が動く
ひよろひよろのろい
 
(71) 雨
 
黒雲黒雲
白い雲になれ
白い雲は
明るくなれ
明るい雨に
日があたれ
 
畑にすつくり
高い柿の木
露がきらきら
きんきらきらりと
日の照る見れば
(72)未だ葉が若い
 
(73) 金魚賣
 
苗代田圃
田の中の小村
金魚屋さんの呼び聲は
村の端から端まで透る
 
村は草家欅が高い
高い欅の若葉の下を
金魚や金魚と呼び歩いて
田圃に出拔ける金魚屋さん
 
金魚屋さんの笠は
大きくて白い
(74)お山の雲《ゆき》は
遠くで光る
 
(75) 日照雨
 
夕日てらてら
雨が降る
雨がでらてら
鳥が飛ぶ
 
小鳥の翼《はね》は
小雨に光る
紅葉の山は
明るくて寒い
 
(76) 柿の木
 
霜の降るのは霜月|十二月《しはす》
赤い木の葉がはらはら落ちて
今日も晴天草家のうへの
柿の木の果に朝日があたる
 
柿の木の果に梯子をかけて
柿は搖すれるお仙は上る
高い枝から遠くを見れば
村のはづれの湖水が見える
 
女をかしや柿の木の上で
柿を摘んで小籠に入れる
(77)草を背負うた若衆たちが
お仙お仙と笑うて通る
 
(78) 柴苅
 
枯れた枯れた
野が枯れた
ひろい裾野が
みな枯れた
 
のぼる のぼる
野をのぼる
柴苅り馬が
そろつてのぼる
お山の奥で
苅る柴は
(79)裾野の町で
焚く薪
 
のぼれ のぼれ
お山の雲が
雪なら柴が
苅られない
 
(80) 木樵の太郎
 
斧を振り上げれば
斧の光
冬木を樵《き》れば
木のにほひ
 
日の照る
雪のうへ
木樵りの太郎
一心太郎
 
(81) 霰と雪
 
こんこん霰が降つて來て
降つても降つても跳ねかへる
街道かけゆく小坊主の
頭の上でも跳ねかへる
 
こんこん小雪が降つて來て
降つても降つてもまだ止まぬ
一昨日つくつた雪だるま
大きな頭がまた太る
 
こんこん小坊主駈けて行け
あられのあとから雪が降る
(82)あんまり駈けると雪だるま
大きなあたまと鉢合せ
 
(83) 獨樂
 
赤獨樂青ごま黄いろごま
つるつるすべる板の上に
鉢合せするのはお互さま
ごめんなさい
直に仲よくなつて
まはるまはる揃つてまはる
 
赤獨樂青ごま元氣ごま
くるくる跳ねて踊り出して
見向きもしないはお互さま
ごらんなさい
みんな靜かになつて
(84)うなるうなる揃つてうなる
 
(85) ひよこ
 
雛※[奚+隹] ひよこ
お前のからだは
草より低い
草にかくれて
ぴよぴよ歩く
 
ひよこ ひよこ
お前の跂は
草より稚《わか》い
草の芽を踏んで
ぴよぴよ歩く
 
(86)ひよこ ひよこ
お前の眼は
露より凉しい
露をすすつて
ぴよぴよ歩く
 
ひよこ ひよこ
お前の心は
親よりやさし
親によばれて
ぴよぴよ歩く
 
ひよこ ひよこ
お前の寢床は
綿より温い
(87)親のお腹《なか》へ
ぴよぴよ入る
 
(88) 乳房
 
母さんの乳房
生れると直ぐに吸ひはじめて
二歳《ふたつ》になり三歳《みつ》になり
人に笑はれる今年|四歳《よつ》にも
離れられない母さんの乳房
 
姉さんも笑ふ
父さんも笑ふ
笑つちやいやよと
乳房の中に顔をうづめ
やがてそろそろと見あげる
母さんの顔のありがたさ
 
(89) となりの坊や
 
となりの坊やはわんぱくで
そして時どき泣き蟲で
學枚へ行つてはなまけ蟲
お家へかへればゐばり蟲
 
あんまり威張つて叱られて
泣いた顛は何所へ行つた
馬の尻へとびこんで
ひよいと出て笑うた
 
泣いて笑ふは病気のくすり
しやつくり藥に鼻汁ぐすり
(90)藥はいろいろあるけれど
板面《おいた》につける藥がない
 
藥はきらひ
遊ぶがお好き
たうなす南瓜も畑でうごけ
みんな揃つて踊ををどれ
 
(91) 雲
 
湧いて生れた雲の峰
土藏のうへの太郎雲
畑のうへの次郎雲
三郎雲は未だ低い
 
低い雲から雪が湧く
八月明るい青空に
湧いてわいて重なつて
だんだん高い雲の峰
 
突つ立ちあがつた太郎雲
それを見上げた次郎雲
(92)三郎雲も負けないで
重なりあがる雲の峰
 
太郎の目次郎の目三郎の目
ぴかりと光る三つの目
ぴかりごろごろ鳴り出して
大きな雨が落ちて來る
 
(93) 閻魔さま
 
子どもの食べる梅の果を
睨んでござる閻魔大王
えんまさま えんまさま
お前も梅を食べたかろ
閻魔さまの口へ
梅の果一つ投げこんだ
 
閻魔さまが怒らつしやつて
一口に噛みつぶし申したら
顔中の皺が
みんな口ばたへ集つた
大きな目から涙を落して
(94)大酸《おほす》い小酸《こす》いと申された
 
涙落すはよいけれど
あんまり大きな目をあいて
目玉を落し申された
閻魔さまの言ふことに
梅の果は要らぬ
目玉をかへせ子どもたち
 
(95) 青い湖水
I
里をはなれた山なかに
青い湖水がありました
大きな森がかさなつて
水に映つて居りました
村の長者の乙姫が
遠くの村へお嫁入
きれいな駕籠の行列が
湖水のはたを行きました
乙姫さまは駕籠のなか
遠いところへ來ましたが
(96)青い湖水の水を見て
急に悲しくなりました
 
乙姫さまは嫁入つて
物を言はなくなりました
うれしい時にほほ笑んで
悲しいときに泣きました
 
乙姫さまの笑ふとき
湖水に花が咲きました
乙姫さまの泣くときに
青いお山が枯れました
 
(97) 野菊
 
野菊の花を見てゐると
水の流れる音がする
野菊の原のくぼたみに
泉が湧いて居りました
 
野菊の花を見てゐると
こほろぎの鳴く聲がする
野菊のの原の草の根に
蟲がかくれて住みました
 
野菊の花を見てゐたら
雲が通つて行きました
(98)空に浮んで行く雲の
影が花野に動きます
 
蟲と泉の音のする
野菊の原はしんとして
雲の通つた大空は
いよいよ青くなりました
 
 第二赤彦童謠集
 
(101) 蜻蛉
 
お庭が寒く
なつたのか
蜻蛉がそろつて
空をとぶ
 
夕日が空に
のこるのか
光るは蜻蛉の
羽ばかり
 
(102) 庭風呂
 
風呂に居ります
母さんと二人
風呂は庭風呂
夜風がさむい
 
星が落ちます
向うの空へ
霜がふります
この村へ
 
(103) どんぐり
 
團栗山の
どんぐりは
 
落ちても落ちても
草のなか
 
どんぐり山の
枯草は
 
分けても分けても
分けきれぬ
 
(104)草を分ければ
手が冷える
 
どんぐり拾へば
日が沈む
 
(105) つらら
 
草家軒ばに
氷柱が下る
 
草家低くて
氷柱が長い
 
氷柱つらつら
日が出て光る
 
光きらきら
障子にうつる
 
(106)やつて來たのは
郵便くばり
 
頭かしげて
氷柱をくぐる
 
(107) つらら 二
 
山家一軒屋の
軒ばの氷柱
 
長いつららに
朝日がてれば
 
古い障子が
明るくなつて
 
中に聞える
絲とりぐるま
 
(108) あられ
 
おあらおあら霰が
降つて來る
 
さつさと風が
ふいて行く
 
ころころ落葉が
とんで行く
 
ちよろちよろ鼬が
かけてつた
 
(109)とうとう婆さん
やつて來た
 
(110) 水車《みづぐるま》
 
葭の原から
川べに來れば
 
葭は青いし
水車
 
水は早いし
水車
 
くるまくるくる
水玉とんで
 
(111)花が搖れます
卯の花が
 
(112) 山の家
 
水のやうに
空が澄んで
蚊帳の中まで
月がさす
 
雨のやうに
音がして
桑の畑に
風がふく
 
膚《はだへ》が冷えて
目がさめた
(113)障子をしめて
眠りませう
 
(114) 山の中 一
 
山も青いし
海も青いし
 
湖にうつつた
山のうへに
 
雪がちよんぼり
殘つてる
 
夜はほのぼの
明けてゐる
 
(115)空はすつかり
晴れてゐる
 
(116) 山の中 二
 
湖へうつつた
人の影が
 
だんだん向うへ
動きます
 
だんだん動いて
何所へ行くやら
 
湖の向うに
村は見えずに
森ばかり
 
(117) 夏
 
北と言うても
北のはて
 
遠いと言うても
遠い空
 
夏のなかばに
雪をかむつて
 
雪の眞白い
お山のお山の
(118)とほくのお山へ
行きましよか
 
(119) 月夜
 
杏が熟れて
落ちるのか
月夜の畑《はた》に
音がする
 
草木も眠つた
夜なかごろ
誰も知らない
音がする
 
(120) 赤ちやん
 
赤ちやんとうとう
這うて來た
 
疊を三枚
這うて來た
 
四枚《しまい》這うたら
おえらいね
 
机の牡丹が
邪魔になる
 
(121) 良寛さま 一
 
山を下つた
良寛さまは
村の子どもと
毬ついて居たが
 
山に歸つた
良寛さまは
寺に一人で
さむしかろ
 
(122) 良寛さま 二
 
寺を下つた
良寛さまは
托鉢きらひで
野菊が好きで
 
野から歸つた
良寛さまは
お米がなくて
ひもじかろ
 
(123) 良寛さま 三
 
床の
下から
竹の子
生えた
 
のけたら
天井まで
とどいた
 
良寛さま
一人で
(124)居眠りして
ござる
 
(125) 法螺の貝
 
寄つてたかつて
評議でござる
 
顔より大きな
法螺の貝でござる
 
誰も吹けぬと
いふ貝でござる
 
それを吹くのが
太郎でござる
 
(126)頬をふくらめ
まん圓でござる
 
ちからいつぱい
まつ赤でござる
 
圓い目玉が
落ちそでござる
 
笑はないのは
太郎だけでござる
 
(127) 椋鳥
 
お寺の屋根へ
山の椋鳥
巣をかけた
 
お寺の小僧さん
お經倦きるし
椋鳥や欲しし
 
目のまへに
和尚ござるし
欠伸は出るし
 
(128)葱坊主
 
葱の坊主が
たらりんと竝んだ
 
葱の坊主の
行列でござる
 
一人びとりに
青杖ついて
 
丸い頭の
揃ひでござる
 
(129)空は結構《けっこ》な
天気でござる
 
早く出て見ろ
行列とほる
 
(130) 葱坊主 二
 
葱の坊主へ
蝶蝶がとまつた
 
一つとまつて
かんざしでござる
二つとまつて
リボンでござる
 
リボン垂らして
かんざしさして
 
(131)町へ行かうか
祭へ行かこか
 
行くにや行きたし
一本足でござる
 
二人合はせて
二本にしよか
 
隣り坊さま
ちよと耳貸させ
 
お前お足が
病気でござる
 
(132)一寸拜借して
醫者までまゐろ
 
それは何より
結構でござる
 
そこで坊さま
二本足でござる
 
リボン垂らして
かんざしさして
 
急げ祭へ
やつこらさと急げ
 
(133)あまり急いで
蝶蝶が逃げる
 
一つ逃げます
左樣ならリボン
 
二つ逃げます
左樣なら坊主
 
みんな逃げます
くりくり坊主
 
もとのとほりの
くりくりあたま
 
(134)行くにや行かれず
歸るにや惜しし
 
そこで野中の
すて葱坊主
 
(135) 夕立
 
雨が降つて來た
蕗の葉かぶれ
學校がへりの
野道が長い
 
雨が降つて來て
蕗の葉たたく
着物濡れるし
カバンは重し
 
雨がふつて來て
蕗の葉たたく
(136)芒や長いし
稻光りやするし
 
(137) 花や 一
 
花やはお國へ
歸ると言うた
 
花やは僕の
頭を撫でた
 
花やは僕に
強くなれと言うた
 
僕は強いから
泣かなんだ
 
(138)花やはとうとう
出て行つた
 
僕の目には
涙がたまつた
 
たまつた涙が
ぽろりと落ちた
 
僕はとうとう
泣かなんだ
 
(139) 花や 二
 
花やは國から
手紙をよこす
 
昨日よこして
今日またよこす
 
雪が降つたと
言《ゆ》てよこす
 
夜なかに書いたと
言てよこす
 
(140)夜なかに書いたら
眠いだろ
 
お山の國は
寒いだろ
 
(141) 人形
 
遊びつかれた
腕白さんは
 
 
椅子に腰かけ
居眠りでござる
 
手には人形
握つてござる
 
人形あたまを
さすつた序
 
(142)泣くか泣かぬか
叩いて見たら
 
人形泣かないで
妹《いもと》が泣いた
 
妹泣くのが
上手でござる
太郎暫く
感心でござる
 
いくら待つても
泣きごゑ止まぬ
 
(143)そこで太郎も
居眠りでござる
 
(144) 旅
をかしや
草履に脚絆
裾野とほれば
霧ふりかかる
霧のかかるのが
桔梗に芒
芒高さに
髪ぬれる
 
(145) お月さま
 
旅の空ゆく
お月さま
天の川原《がはら》で
夜が白む
 
天の川原で
顔洗ろて
川をわたれば
夜があける
 
(146)夜あけの風は
身にしみる
 
空は青くて
さびしくて
 
旅をする身は
果てがない
 
(147) えつさつさ
 
えつさつさの
えつさつさ
あつちの小僧も
やつて來い
えつさつさの
えつさつさ
 
えつさつさの
えつさつさ
こつちの小僧も
栗ひろへ
えつさつさの
(148)えつさつさ
 
小僧のあたまは
まんまるで
髪の毛のびれば
いが栗あたま
えつさつさの
えつさつさ
 
(149) 木曾
 
木曾へ寢たれば
夜風が吹いた
 
朝寢したれば
起きろと言うた
 
いくら木曾でも
超きろはひどい
 
(150) 太郎
 
大のろ太郎
稻を苅るとて
手を切つた
 
その傷を
嘗めて
抑へて
 
結へて
眺めて
日がくれた
 
(151) 若葉
 
山はこのごろ
若葉の著物
 
浴衣模樣か
うす緑
 
紅いつつじの
帶しめて
 
風が吹くたび
そよそよと
 
(152)ハレヤ袂が
そよそよと
 
(153) 影法師
 
長い長い
影法師
向うの畑の
桑の木へ
わたしの頭が
伸びてつた
 
桑はぴかぴか
雨の露
雨の通つた
草山に
夕日の虹が
(154)まん圓い
 
(155) 廣つば 男
 
夕燒眞つ赤
赤土原で
兵隊ごつこ
 
右向け右
左へ向いたら
顔と顔
向き合つた
 
右へまはれ
左へまはれ
そんなに廻ると
(156)目がまはる
 
隊長さんお下手
兵隊さんもお下手
蚯蚓が鳴いて
夕燒眞つ赤
 
 廣つば 女
 
廣つぱの土は
すべらかで赤い
白墨もつて
人の顔かきませう
 
頭の禿げたのは
(157)酒屋のをぢさん
目玉の丸いのは
絲屋の孃さん
 
あらあらいやだ
よく似てゐるわ
一寸お待ちなさい
蚯蚓がないてゐる
 
(158) 淵
 
油とろとろ
しんとろ とろり
とろり青いのは
谷川の淵
 
淵はとろとろ
しんとろ とろり
とろり落ちたのが
樫の實ひとつ
 
(159) からす
 
行こか
歸ろか
お山のからす
空は夕燒
日がもう暮れる
 
子ども
可愛や
空ゆく烏
山はいく山
お家《うち》が遠い
 
(160) 蜜柑
 
蜜柑の木は
低かつた
蜜柑の果は
高かつた
伸ばした手よりも
高かつた
 
蜜柑を三つ
もぎ取つた
一つ食べたら
若かつた
三つ食べたら
(161)無くなつた
 
(162) 羽柴秀吉
 
飛んで下りたのは
猿面冠者《さるめんくわんじや》
尻をまくつて
尻をたたいて
急げ急げ
 
敵は光秀
山は天王山《てんわうざん》
その山やらぬ
尻をたたいて
急げ急げ
 
(163) 夜汽車
 
山にひびいて
夜汽事がとほる
汽車は人ごみ
賑やかであらう
 
わたしは山の
一軒家
 
汽車のとほつた
眞夜中に
 
(164)母さんと二人で
目をさます
 
(165) 土
 
草といふ草
木といふ木
一本一本
土から生れる
 
花といふ花
果といふ果
それが殘らず
土へと落ちる
 
土のなかに
何がある
 
(166)掘つても掘つても
土ばかり
 
 第三赤彦童謠集
 
(169) 螢籠
 
小さい口からみいちやんが
茶碗の水を吹きかけて
露がこぼれる籠のなか
螢のお尻は燃えてゐて
ほたるのお尻は熱くない
 
お膝のまへに置く籠は
見ているうちに暗くなり
見ているうちに明るくなる
螢のお尻は燃えてゐて
ほたるのお尻は熱くない
 
(170)籠をのぞけば籠のなか
一疋二疋這ひあがり
這ひくだる草の葉が見える
螢のお尻は燃えてゐて
ほたるのお尻は熱くない
 
籠に小さい手を入れて
つかんで見ればみいちやんの
指のあひだを這つて出る
螢お尻は燃えてゐて
ほたるのお尻は熱くない
 
(171) 光
 
畑の中の
芋の子は
 
明り見たさに
芽を出した
 
籠の中の
小兎は
 
明り見たさに
顔出した
 
(172)お日さま
遠い
 
光りは
近い
 
何處にも
ござる
 
芋の子兔の子
にもござる
 
お寢坊さんの
枕元にもござる
 
(173) ※[奚+隹]《にはとり》
 
遠くの畑から駈けで來る
※[奚+隹]の腰つき
 
縁さきに粟まく
坊やを目がけて
 
駈けろかけろ
一づにかけろ
 
四方八方から
駈けて來る※[奚+隹]の腰つき
 
(174)かけろかけろ
一づにかけろ
 
尾をふり
腰をふつて
一づにかけろ
 
尾をふつて
間に合はずば
羽を地にすつて
舞つて來い
 
かけろかけろ
一づにかけろ
 
(175) 小蟻
 
ぞろぞろ
出てくる
小蟻が
出てくる
穴の中から
ひつきりなしに
出て來る
 
ぞろぞろ入る
小蟻が入る
穴の中へと
お土産
(176)かついで
やつこらさと入る
 
出る蛾と
入る蟻と
石塊《いしころ》の下で
行きあふと
ひげを動かして
「一寸失敬」
忙しさは
お互さま
 
(177) 雲
 
朝日の生れる赤い雲
夕日の落ちる金の雲
空を流れる白い雲
雲は流れて何所へ行く
 
お山のなかの谿そこの
森に生れた白雲が
海へ流れて行くときに
人のお國に風が吹く
 
海には空の果てがない
果なく行つた白雲が
(178)もとのお山にかへる時
人のお國に雨が降る
 
雨があがれば青い空
空に小さな雲が浮く
生れて來たかお山から
吹かれて來たか海べから
 
(179) お正月
 
みいさん早くねんねしな
ねんねんころりと目がさめて
あしたになればお正月
 
ねんねんころらと言ひながら
ころころ大きな目をあいて
眠られますかよ姉さんは
 
ねんねんころりと寢ころんだ
二人の話はなくなつて
小さい鼾が聞えます
 
(180)枕元には羽子の板
毛毬かるたの色色に
もう正月が來てゐます
 
(181) 櫻花《はな》遊び
 
天井の鼠の言ふことに
小猫がこはくて遊べない
 
爐ばたの小猫のいふことに
小僧がこはくて遊べない
 
お店の小僧のいふことに
旦那がこはくて遊べない
 
お店の旦那のいふことに
報いがこはくて遊べない
 
(182)櫻の花さく三四月
小猫が日向で夢を見た
 
旦那も小僧も櫻あそび
天井の鼠も晝あそぴ
 
(183) 高粱《かおりやん》
 
西は夕燒
赤い雲
東はまるい
お月さま
 
高粱苅つて
廣いなあ
どつちを見ても
ひろいなあ
 
(184) 豚
 
お日さまくるり
くるりくるくる
東へのぼる
 
豚の子ころり
ころりころころ
ころげて遊ぶ
 
ころげろころげろ
いくらころげても
野はひろい
 
(185) 滿洲の汽車
 
鐘を鳴らして
夜汽車がとほる
 
からんからんと
鳴らしてとほる
 
鐘は枯山
枯野にひびく
 
空のとほくの
月にもひびく
 
(186)鳴つて鳴らして
すんずんとほる
 
(187) 三日月
 
草野の中の
三日月は
宵にちらりと
見るばかり
 
草は高くて
凉しくて
月は葉かげに
あるばかり
 
葉かげの月は
か細くて
 
(188)風に吹かれて
入るばかり
 
(189) 毬
 
毯がお池へ
落ちました
 
棒で取らうか
はひつて行こか
 
棒は短かし
お池は深し
 
風に吹かれりや
向うへ行くし
 
(190)石を投げれば
どんぶりこするし
 
船を作るにや
二年もたつし
 
水を飲み干しや
お腹が脹るし
 
毬がお池で
草臥れました
 
(191) 五日月
 
向うに沈む
五日月
 
こちらに青い
葭《よし》の原
 
向うの月が
早いのか
 
こちらの葭が
高いのか
 
(192)青葭原は
靡いても
 
月は見えなく
なりました
 
(193) 飯山町《いひやままち》
 
町の街道《かいど》に
木の葉が散つて
人の通りの
少いころは
 
高い木立に
小鳥が鳴くし
店の軒ばに
大根干すし
 
もんぺ姿の
山なか娘
(194)綿を仕入れに
懷手して來るし
 
信州信濃の
飯山町は
行つて見なされ
よい所
 
  もんぺはかるさん又雪袴、たつつけなどとも言ひます
 
(195) ちよん髷
 
ちよん髷あたまの
てつぺんに
蠅がとまつて
向うを見れば
 
つるつるするのが
すべり坂
赤禿坂は
あぶないね
 
覗いて見れば
ぼんのくぼ
 
(196)うしろの道は
猶こはい
 
ちよん髷山の
てつぺんを
蠅が一疋
こえかねる
 
(197) 青鬼灯
 
草の小庭に
水打つて
露が垂れます
青鬼灯に
 
歩けば裾が
しめります
止まれば蟲が
聞えます
 
蟲の聞える
日のくれまでも
 
(198)露が垂れます
青ほうづきに
 
(199) 母
 
垣根のそとの
水音も
耳に馴れれば
忠れるけれど
 
忘れた水の
聞えるやうに
昔の母が
思はれる
 
(200) 田舍の學校
 
葭原うづめた
學校のお庭
葭がまはりに
生えました
 
葭の太芽が
葉になつて
葉かげで毬を
投げました
 
葭切鳥が
庭に來て
(201)授業時間に
鳴きました
 
葭原うづめた
お庭のまはり
葭がそろつて
立ちました
 
(202) お山
 
見たか聞いたか
お山の雲は
足の下から
むくむく湧いて
 
谷の木立が
見えなくなるし
廣い裾野が
かくれるし
 
浮いて見えます
雲より上に
(203)人の立つてる
お山の岩が
 
お山慕うて
來るには來たが
來れば寂しい
雲の上
 
(204) 驢馬《うさぎうま》
 
野なかの草に
ちらついて
三日月さまかよ
隱れたは
 
歸つて來るのは
父さんの
驢馬かよ
鈴の音
 
(205) 夕ぐれ
 
夕日ののこる
草の葉に
とんぼは早く
眠ります
 
風に搖られて
搖すられて
一人で寂しく
眠ります
 
とんぼの羽は
草の葉に
(206)坊やのお手手は
ふところに
 
どちらも靜かに
眠ります
ねんねんころりと
眠ります
 
(207) 越後獅子
 
逆さ立ちした
越後獅子
兩手が足に
なりました
 
兩手で歩く
越後獅子
お尻があたまに
なりました
 
兩手離した
越後獅子
(208)くるり廻つて
水車《みつぐるま》
 
くるりまはつて
可愛や子獅子
舞ひませうかと
目に涙
 
(209) 牡丹
 
牡丹の莟が
ふくらんで
はちきれさうに
なりました
 
赤い莟が
ひらくとき
赤い光を
吐きました
 
白いつぼみの
ひらくとき
(210)白い光が
照りました
 
赤と白との
牡丹が咲いて
お庭は夏に
なりました
 
(211) 尾つぽ
 
おん馬の尾つぼが
束髪結うた
摘まんであげて
頭へのせろ
頭へのせろ
どつちでもいい
 
おん馬の尾つぼを
結うたは誰だ
解いて垂れて
しやんしやん振らせ
しやんしやん振らせ
(212)面倒《めんど》ならいい
 
(213) 夕方
 
母さん歸りが
おそいのか
 
夕日の暮れるが
早いのか
 
門のそとまで
出て見れば
 
三日月さまは
もう落ちて
 
(214)田には蛙の
聲ばかり
 
(215) 隣の百姓
 
おぢさん手のひら大きいね
卵を三つ掴んで
うらの木戸からやつて來て
坊やにあげると言《ゆ》てくれた
 
おぢさんお家の鷄は
何羽あるかと問うたれば
指を三本つき出して
一羽死んだと平気で言うた
 
おぢさん何時でも無口だね
おぢさん何時でも眞面目だね
(216)今日も卵を縁にとおいて
黙つてずんずん歸つて行つた
 
(217) 守唄
 
なぜに唄はぬ
背なかの子
山には月が
まん圓い
 
父さん居ないで
寂しいか
母さん守唄
悲しいか
 
眠くば眠れよ
背なかの子
(218)山には月が
もう高い
 
(219) 栗の實
 
夕顔棚を
取りのけて
軒が明るく
なりました
 
庭の小菊が
黄に咲いて
よいお天気が
つづきます
 
家《うち》のお山の
栗の實を
(220)きのふ落して
筵に干して
 
今日も干します
お庭の上に
夕日の影の
のこるまで
 
(221) 冬だんべ
 
出もの腫れもの
うみものは
醫者に見せれば
切るげなで
 
俺さ青木の
木の皮はつて
膿の出るのに
牛年かかつた
 
それで蠶も
よう飼はね
 
(222)稻も苅らねで
今年も暮れた
 
鳥海山に
初雪ふつて
不思議はねえが
もう冬だんべ
 
(223) 忠次
 
馬士の忠次が
落した握飯
拾うてやりしが
縁《えにし》となりて
 
通りがかりに
物言ひ合ふし
偶にややつて來て
手傳ひするし
 
今日も畑へ
馬の脚止めて
(224)大きなお芋を
三つ持て行つた
 
忠次十三
二親なしで
それで元氣で
馬を曳く
 
(225) 諏訪の殿さま
 
諏訪の殿さま
牡丹餅好きで
宵に九つ
朝七つ
 
二つ殘して
袋に入れて
馬に乘るとて
ぽたんと落し
 
取るにや取られず
捨てるにや惜しし
(226)そこで家來衆
皆目をつぶる
 
家來まなこは
つぶりもせうが
屋根の鴉が
見てござる
 
   小説物語
 
(229) 鹽尻峠
 
 正月の休ゐも終りたれば、余は再び池田に向はんと早朝より行李を整へて故郷を出立しぬ。年長けたれど父母の目より見れば、猶年若き子供なれば旅にありての注意、病氣の心配、さては衣服草鞋の著け方に至るまで樣々の世話をいただき、今更の如く親の情の深く厚きに感じ、さらに白髪の老父母が今より子に別れて故郷にひとり殘りゐ給はん心細さを考へおこしたる時、余は殆ど心中に泣きて、見送り給ふ父母に別れを告げ奉りき。鹽尻峠にかかりて頂《みね》の茶屋をすぐる頃は空稍曇りて雪さへちらちらと降りそめたれど、余は例の詩吟にわざと心を勵ましつつ長き長き松林の間を足に委せて下り行きたり。
 幾度か通りなれたれど此の時の風景は誠に格別なり。見渡せば白雪皚々たる中央山脈は恰も巨人の横臥せる如く、天よりも高き乘鞍岳は丁度道の正面に當りて、いつも旅客の面を高く空中に仰がしむるなり。麓をめぐれる奈良井川の堤は一面の枯薄風に靡きあひて桔梗ケ原の松林の絶間にかなたこな(230)た民家の點在するさま繪にもかかまほしげなり。
 余は少し疲れたれば傍の松の根に腰打かけて暫し遠近の風景を眺めをりしが、例のピンヘッドを出して一服やらんと袂をさぐりしに、こは仕舞つたり。今朝出立の急ぎにマッチを忘れたれば詮方なく只あたりを見廻し居たるに、此の時下より年まだかよわき少年、ゆがみたる荷車に何か重さうなる荷物を積みて、汗をふきふき只さへ曲れる道を左右に挽きなやみて上り來れるあり。余は氣の毒なりと思ひしが左程に氣にも留めず猶餘念なく方々を眺め居たるひまに、彼はいつしか余が傍迄進み來りて其の苦勞げなる息の喘ぎも今は余が耳に聞ゆる程となりぬ。余は思はず振向きぬ。見れば年の頃十四五なる少年顔色青ざめて病人かと思はるるばかり、この寒中に袷一枚に、つづれの袢纏、親もあらうに甲掛なしの草鞋、それも所々に血のつきて居るあはれさ。余は思はずぞつとして寒くなり、あゝ氣の毒なと覺えずひとり言のやうに聲立てしが、彼はそれにも氣が附かず一心に荷車を挽きつめしが、如何なるはずみか、彼ははげしき泥道を踏みすべりし、アッと叫ぶ途端哀れや車はがらがらと元の道に戻りて二間ばかり下の松の根につっかかりて、あはやと見るまにばつたり顛倒し其のあとには車の柄にいたく頭部を打たれて其の儘そこに打倒れし少年を殘せる無慘さ。余は急ぎ立上りて少年の傍に走りしが、彼は此の時早く起き上りて衣服の泥を拂はんとしたれど眼やくるめきけむ、再び石に躓きて二三歩よろめきつつ危くそこに踏み止まりぬ。これこれ確りしろ、乃公が助けてやるからと云ひつ(231)つゝ、急ぎ例の清心丹を壞中より出して口に含ませ、確りしなくてはいかんよ。おいおいと呼びし時、彼ははじめて氣附きたる者の如く靜に余が顔を見上げたり。烈しき驚愕に打たれたる面は凄く凄く青みわたりて光なき眼には涙さへみちたり。
「痛かつたらうに怪我でもしたかい。」と尋ぬれば、「あァ旦那のお蔭でやうやう少し性《しやう》がついた。」と云ひて又二三歩よろめき、
「怪我なんかあ、ねえだが車があんなになつて。」とそなたに向きつつ溜息を吐く。
「車かい、車はわたしがいいやうに荷を拵へてやるから、そんなに心配はいらないよ。ほんとに、まあ、浮雲《あぶ》ないとこだつたが、まあ怪我さへなければ、それで結構だ。まあお前はちつと、そこで休むがよからう。」と、靜かに手をとりて余が以前の場所に坐らせたり。彼の手は冷えて氷の如かりき。
「どれ、少し待つて居なさいよ。わたしが荷物をこしらへてやるから。」と二三間下り行きて泥まみれの車をおこし、酒醉のねたやうにばつたり伏したる薪を一把づつ積みかさね足をかけて荷繩を引き締め、くるりと廻して横に結び付け乍ら、うんとこしよ、さあ、これで甘く出來たんだ。と、再び彼の傍に歸りて座を占めたり。
 少年は著物の泥など拭き居たりしが、余の歸るを待ち嬉し相に幾度か頭を垂れて禮を述べぬ。
 余は彼の携へたるマッチを借りて耳にはさみし先程のピンヘッドをくゆらし初めたり。(232)「もう、痛みはしないかい。」
「へえ、お蔭さんでやうやう落著いた樣でござんす。」
「さうかい、それはまあよかつた。が、一體お前はどこの村だい。」
「へえ、私はこの峠下でござんす。し
「峠下と云へば鹽尻かい。」
「へえ、鹽尻の在方で、」
「鹽尻の在方、ふう、さうしてけふは何處迄行くのだい。」
「毎日諏訪迄行くんでござんす。」
「毎日諏訪まで、それはまあ苦勞な事だ。どうも、一體この荷物はお前の體に比べちやあ、ちつと無理のやうだが、これを毎日諏訪迄と云つちやあ、」
 と云ひつつい迚も體の方が續くまいに、と氣の毒さは愈々まさりぬ。
「一體お前のお父さんは何が商賣だい。」
 少年は頭を垂れて、ぢつと足元を見詰め居たりしが、
「へえ、お父さんは一昨年なくなりました。」
 と僅かに答へて再びうつむきたり。
(233)「さうかい、それではお母さんは」
「お母さんは體が弱くて、めつた外なんかへ出た事はないでござんす。」
「それはお父さんの無い上にお母さんが弱くては、まあ、さぞ困るだらうが、兄弟といふのはお前一人かい。」
「兄さんが一人こざんすが、其れは今東京の農學校に居ります。一昨年お父さんのなくなつた時、兄さんが十八でわたしが十三。兄さんは自分はやめて家へ歸つて百姓をやるつてお云ひなされたけれど、折角、東京迄出て置いて惜しいとこで今やめては、亡いお父さんにも申譯がないだから、それよりか、わたしが一所懸命に働いて、それでうちのくらしは立てるから、兄さんは體を大事にして卒業したら早く歸つて來て下さい。其の時はわたしが兄さんの下働をして一緒に農業を精出しておつ母さんにも不自由がないやうに、お父さんのお塞へも、せめて線香の絶えないやうにして上げませう。それを樂しみに、わたしは骨が碎けても何處までも精出して待つて居りますからと無理に東京へ立たせました。兄さんも、もう來年は卒業だから其れまでは、わたしもかうして苦勞をこらへて居るのでござんす。」
 熱心に語り來りて彼は再び頭を垂れぬ。余は感心に堪へず、世の中にこんな不幸な少年があらうかと今更問ひ出でん言葉もなくて、暫くは黙然として居たりしが、ふるへ居る彼の姿のあまりに窶れた(234)るを見つつ涙はいつしか余が兩眼に溜りぬ。
「あゝ、どうもお前は感心な人だ。今の世の中にお前のやうな心掛のよい人があらうとは夢にも思はなんだ。今の子供が學校で修身書を百册讀んでもお前のやうな眞似をする者は米の中のあら程もない。何でも學校から歸つて來ると、お菓子や食物をお母さんにねだつたり、少し寒い日なら其の儘炬燵にころがつてお尻をこげる迄中へ入れてつまらぬ兄弟喧嘩をやつて騷いだり、おまけに少し子守でも言付けられると頬を燒餅のやうにふくらすと云ふのが一般であるのに、お前は小さい體に荷物を挽いて、この寒いのに足袋もはかず、見れば體もその姿。お前の孝行と兄弟仲には定めて亡くなつたお父さんも草葉の蔭で喜びませう。お前の家の行末は、きつと神樣が助けて下さる、だが、諺にも命あつての物種と云ふ事もあるだから、あまり身に過ぎた苦勞は却てお前の體を惡くして、つまり家のためにもなるまいから、充分氣を付けたがよからう。」
 彼は只頭を垂れて聞き居たるのみ。
 最前の煙草の火もいつか消えたり。余は新しき煙草を出して吸ひ付けしが、寒き風は麓の方より追追に松の梢を傳ひて吹き來りぬ。
 少年は身をふるはしつつ立上り、お蔭で荷物迄助かりし禮を述べ、おそくなるからとて立去らんとせしが、今一町ばかりにて、けはしき坂も終へるから、そこ迄とて下より彼の荷を推してやりぬ。少(235)年は幾度か禮を述べ最前よりは大いに元氣を取直して曲れる道を上り行きたり。余は彼が姿の全く隱るる迄見送りて、又元の道を下り行きしが、冬の日脚の早くして、村井驛に達したる頃は早やそろそろ夕方になりて、只乘鞍岳の頂に夕日の映れるを見るのみなりき。
 あはれ、彼の少年は今如何にせしか、聞かまほしきは彼の身の上。見まほしきは彼の行末。
          (明治三十三年二月「池田會染小學校同級會雜誌」第一號)
 
(236) 吹雪
 
       一
 
 松太郎は學校から歸るとすぐうらへ行つて、薪をとるがきまりでありました。
 ふだんは赤い顔のぼちやぼちや肥えた元氣のよい學問のよく出來る、誠に愛らしい兒でありますが、此の頃はおツ母さんが病氣だといふので大層心配して、學校でも何となくふさいで萎れて居ります。今日は朝の雨が晝飯頃から雪になつて、教場の窓の隙からたまたま白い粉の樣なのが、風に從つて舞込むので、障子の側に居る子供などは、習字の時間にはもう手が赤くなつて、筆が持たれぬ程でぁりました。學校から歸る頃はもう道に二三寸程も溜つて居ます。松太郎の家は田圃向うの一軒家でありますから、歸りというて別に連れの子供もないので、いつもの樣に破れた傘をさしながら只ひとりで、細い田圃路をぽつぽつと歩いて行きます。
「こんなに寒くては、おツ母さんが嘸困るだらう。」と獨言を云ひ乍ら、下駄の齒をポンポンと道ばた(237)の石に叩き付けながら、球の樣に附いてゐる雪をはらつて又向うへ歩いて行きます。
 今日學校で先生が、明日はみんな帖面を一册づつ拵へで來いと云はれたが、僕のうちはおツ母さんの藥にさへ困つて居るだから迚も買ふ譯には行かない。今夜何かで一寸とぢて間に合せようか、夫れでも又何時かの樣に、汚さない紙でとぢてみんなに笑はれても困る。あの時にはおツ母さんも身體が丈夫で、絲と針とを持つて洋燈《ランプ》の下で帖面をこしらへて下さつたのに、今ではあんなによわつて仕舞つて、布團の上に枕ばかりしておいでなさる。どうかして早くよくなつて下さらなければ、あのさむしい家の内に僕が一人になつて仕舞ふ。さう思へばお父さんが亡くなつてから今年で五年になる。あの時にはお父さんが僕を枕元へよんで、痩せた頬に涙をはらはら流し乍ら、僕の手を確から握つて、おれは迚もいけないから、お前が大きくなつたら屹度えらい人になつて、うちの身代をとりかへして、昔の樣な立派な家に住むやうにして呉れろつて、苦しい呼吸をつき乍らお言ひなされた顔をまだ僕はよく覺えて居る。
 さうだ、よく僕は覺えて居るよ。お父さんも本當に始終貧乏で苦勞ばかりして居て遂亡くなつて仕舞つたのだ。それだから僕は學校を精出してえらい人になつで、そしておもいり働いて昔の樣な大きな家をこしらへて、亡いお父さんの心をやすめたり、おツ母さんに藥をさし上げたり、さうして先生の言はれる樣に、村の貧乏人だちを助けてやらうと思つてるのだが、おツ母さんが病氣だからどうし(238)てよいか本當に困つて仕舞ふ。あゝ、どうか早くよくなつて下さればよいが。
 色々のことを考へて居るうちに、雪が又下駄の齒に溜つたので、足が右の方へこけると鼻緒がプキリと切れた。松太郎はハツと氣が附いて見ますと、我家はもう近くになつて居ます。固より心が急いで居ますから、其の下駄を片手にぶるさげ乍ら跣足《はだし》になつて、門口迄かけつけて來ますと、今日は何時に變つておツ母さんの苦しいうなり聲が家のうちに聞えて居ます。松太郎は驚くよりももう泣き聲です。「おツ母さんどうなさりました」と其の儘床の傍へ飛んで來ますと、おツ母さんは苦しさうに松太郎の方を向いて、今日は大層お腹の具合が惡いことを話しました。
「おツ母さんどうか少し待つて居て下さい。私はこれから直ぐお醫者樣の處へ行つて來ますから」と云つて最早出ようとするのをおツ母さんは「今歸つたばかりに手足がさぞ冷えて居るだらうから、少し火にでもあたつて行つて貰ひませう」と云つて止めますけれど松太郎はききません。
「イヤ私は少しも寒くはありませんから、そんなことは心配なさらないでおツ母さんどうか大事にしてゐて下さい」と云つたまま草鞋をはいて門口を出ましたが、眼にはもう涙が一杯になつてゐます。私は前に云ふことを忘れました。松太郎の年は十二で、著物はつぎだらけの綿入一枚で、夫れに尚所所穴があいて居ります。夕暮の塞い風がヒユウヒユウとうらの松林を動かして、降りしきる雪は頭の上から時々|頸首《くび》の中へ降り込むので、松太郎は覺えず身振ひをして向うの方を見詰めました。
 
(239)       二
 
 お醫者樣のある村までは丁度一里半ばかりだので、松太郎が藥を貰つて歸つて來たのは、丁度夜の十時頃でありました。おツ母さんは夜牛頃から大層快くなりましたので、松太郎も嬉しさと共に疲れが出て來て、其の儘前後も知らずに眠つて仕舞ひました。
 翌朝《あすあさ》起きて見ますと、空は昨日に變つて一面に晴れ渡り、太陽は東の山の上に登りかけて、其の光りが見渡すかぎりの雪の上にチカチカと光りはじめて居ます。
 松太郎は何時ものやうに朝飯をたいておツ母さんに上げ、其の殘を自分でたべたり辨當を拵へたりして學校へ出かけます。昨日の田圃路は雪が深くて歩かれませんから、今日は本村の道をまはつて行きますと、大勢の學校仲間が今丁度村はづれの街道で雪投げをして、大騷ぎにさわいで居る處であります。
 松太郎は何気なく「お早う」と云つたまま其處を通り拔けようとしますと、大勢の中で少し年のとつたのが居りまして、後から呼止めます。
「オイ松太郎、貴樣も始終下ばかり向いて歩いて居ないで、ちつと遊んで行つちやあどうだ。」
と云ひますから、松太郎は一寸ふり向いて、
(240)「僕かあ、少し用があるだから先へ行くよ。」
「何だ貴樣は、何でも用だ用だつて、始終用だらけだ。用ツてものは背中の腫物だい。うみが出過りあ死んで仕舞ふつてさあ。」
などと要らざる口まできいて居ます。大勢の子供は圖に乘つてワイフイ騷ぎ出します。
「ヤイ一軒家の青ん坊め」
「親なしの貧乏野郎ヤイ」
ヤイヤイと後から頻りに惡口を叩いて居ます。松太郎は何も珍しくない事ですから、其の儘急いで通つて仕舞ひましたが、「親なし」だの「貧乏」だのといふ言葉が何となく耳に殘つて、其れがいつか又昨日考へた樣な事にまはつて行つて、色々のせつなさがむらむらと起つて來ました。校門に這入つても矢張り萎れたまま下を向いて控所へ這入つて見ますと、四五人の同級生が最早そこにゐて、嘲笑ふ樣な眼つきでぢつと松太郎の顔を見ます。それは生徒が何か新らしい物を持つて來るといふ日に、何時も松太郎に向つてする意地わるき笑ひなので、さういふ時には松太郎はキツト他人から借りるか、若くは古い物を以つて間に合せるので、其の度毎に松太郎のつらさはどの位であるか知れないのであります。夫れを知つて居ますからもうそろそろ云ひ出します。
「今日は帖面持つて來る日だつたなあ、僕かあ昨夜お父さんにねだつて、赤い表紙のを今朝辻の店か(241)から買つて來たんだ。」
「僕のを見せてやらあ、僕んのは赤ぢやあないが、紙が非常にいいんだつて、矢ツ張り辻から買つて來たんだ。」
「松太、貴樣んなあ見せろい、表紙は何だ赤い青い。」
と云つて故ざと笑ひますと、又一人が、
「松太郎が一番上等に違えねえから。」
「早く見せろい、何だ? 持つて來ないつて、嘘を云ふなよ、馬糞紙《まぐそがみ》とかいふのでもいいんだ、早く見せろい。」
「こらあ、松太郎は見せるがいやだつて云ふんだ、をかしいなあ、貧乏の松太郎はけちん棒の松太になつて仕舞つた。貧乏つて棒がけちんぼうつて棒になつたんだなあ……ハア……」
 松太郎は只獨り大勢の中に圍まれて頻りに嘲りの矢を放たれて居りますが、帖面の事は全く昨日の事で忘れて仕舞つたので、子供心にも先生に申譯がない樣な氣がする上に、今また仲間からは斯樣な亂暴な言葉をかけられてゐますので、幼ない胸はもう一杯になつて、眼から出ようとする涙を昵つとこらへて足元を見つめて居ます。
 授業の太鼓が鳴つて教場へ這入つた時、先生は先づ帖面のことを尋ね出しました。
(242) 松太郎は心の中でもう決めて居ましたから、自分から手をあげて、忘れたといふことを申し出しました。
 先生から色々尋ねられて昨日の事を殘らす話しました時、先生は涙を目の中に浮べ乍ら此の孝行の心に感心して、さうして大勢の生徒もヒツソリとして頭を上げる者がなかつたと云ひます。
 嗚呼是れ程の孝行の子に神樣が何で禍を降しませう。松太郎は忽ち級中の手本になつて先生からは誰のよりも美しいよい手帖を下さりました。
 松太郎の母は程なく全快して、松太郎は以前の如く元氣よく學校へ通つて、家にかへれば矢張りうらの山で薪をとつておツ母さんの手傳をしたとさあ。めでたしめでたし。
                (明治三十五年「革新」一月號)
 
(243) 萱草の花
 
       一
 
 上馬川《かんばがは》の谿流が村の大川に入る所は、今では一軒の水車小屋があつて、其の近邊は一面の桑畠になつてゐる。昔は一本の大きな栗の木が立つて居て、夫れから川下へ添つて一寸廣い草原であつた。もう二十年も前の記憶であるが、僕は何時も此處を通る度に、昔なつかしい感想を呼起さずには居られない。
 僕が母に永訣れたのは十歳の時であつた。東西も知らぬと云ふ程ではないが、未だ頑是ない子供盛りの時であつたから、其の頃の詳しい事情は一切知らぬ。只母が一年餘も床の上に居て、僕が學校から歸ると枕元へ呼んでは、今日學枚で習つた本の話をさせられた事。僕が讀本や修身書の話を續けてゐる時、ふと氣が付いて見ると母はぢつと僕の顔を見詰めて、涙をほろほろ零して居られる事があるので、非常にきまりが惡かつた事。僕が菓子や林檎が欲しくなると、母の枕元へ往つてちやんと坐つ(244)てゐると、又何か欲しいのかいと云つては、重箱の蓋をあけて何か出して下さつた事。こんな事は今でもはつきり覺えて居るが、お母さんの顔はどんなであると問はれても、それは大抵忘れてしまつてゐる。母の病氣が盲腸炎で、夫れから腹膜炎に變つたのだと云ふ事は、つい七八年前東堀の伯父さんの亡くなられた時、おつかさんと同じ病氣だと云つて始めて父から聞いた位だ。
 目を落された日は非常な混雑であつた。近所の人、村の知人、遠方の親戚と、追々に集つて來て、狹い僕の家は人でもつて溢れる程であつた。夜になると近所のおばさん(もう亡い人だ)が僕を連れて行つて、廣い座敷へ寢かして呉れた。僕は勝手も知らぬ他人の家へ、一人で寢るのは寂しくて厭だと思つたが仕方がないから、煎餅布團へ包まつて黙つて目をつぶつてゐた。おばさんもおぢさんも僕の家へ行つてるのだから、廣い家の中に僕一人である。悲しいやら恐いやらで、夜が更けても中々眠られない。その内に戸を開けて誰かさつさと僕の座敷へ入つて來た。幸吉はもう眠《ね》たかといふ聲は父である。僕はばつちり眼を開いて行燈のあかりに父の顔を見た。何とも云へぬ悲しさが急に胸一ぱいになつて來て、いきなり大きな聲で泣き出した。怺《こら》へようと思つたが、何うしてもこ怺へられぬ。父は僕の枕元へ坐つて、黙って僕の頭を撫でてゐる。「おつかさんは最う亡いぞ。お行儀よくして呉れろよ。」父は暫く經《た》つて斯う云つて、手拭で僕の顔を拭いて呉れた。僕は父の手につかまり乍ら泣寢人りに寢人つてしまつた。
(245) 葬式も終へ、初七日の法事も終へてからは、僕の家は急に火の消えたやうになつた。親一人子一人。それも僕が學校へ行つてしまへば後は父一人になる。父はその頃農業の傍ら少し位他人の桶をこしらへて居た。僕が學校から歸ると、黙つて細工場から出て來て圍爐裏に火を焚き付ける。湯が煮えると茶をいれて僕にも呑めと言ふ。僕は澁い湯など嫌ひだから茶碗へ素湯を注《つ》いで、小麥粉の燒餅を食ふ。僕が好きだからと云つて父は男の手でよく此の燒餅を燒いて呉れた。二人で斯うして圍爐裏|邊《ばた》へ坐つて見ると、子供心にも直ぐ母の事が思ひ出される。夕方は家の内が殊更ひつそりする。僕が水を汲んで來て、父が夕飯の仕度にかかる。雀がガヤガヤ椹垣《さはらがき》に集つて大川の向うの草家に火が明るく點る頃は、僕は庭石に腰を掛けて、向うの岡の杉の梢がだんだん薄暗い空の裡へ隱れて行くのを眺めながら、時の間に變る自分の身の上を子供乍ら、つくづくと思ひ廻らした事もあつた。
 
       二
 
 二十年前も二十年前、殊に十歳といふ子供時代の或る晩に見た一場の夢を、今に未《ま》だ記憶してゐると云つても、恐らく一人も信ずる者はあるまい。併し僕は實際ちやんと記憶してゐる。然もありありと今眼の前に見る程に、明瞭り其の夢を記憶してゐる。夫れは母が亡くなつてから、十何日も經つてからであらう。
(246) 僕は例によつて庭石に腰を掛けて、夕暮の空を眺めて居た。無論母の事を考へて、胸の中は泣くばかりになつてゐる。すると其處へひよつくり學校仲間の二三人がやつて來た。何れも眼を丸くして驚いたと云ふ顔をしてゐる。今頃になつて何に來たのだと聞くと、朋友は本當に本黨に嬉しくて、急に話せない位だぞと云つて顔を見合せる。何の事だか分らないや。早く聞かせろと云つたら、一人が僕の前へ進んで來て小聲で話し出す。それは、幸さんのおつかあは死んだのぢやあないよ。己等《おら》が今魚釣りに行つて歸つて來たら、上馬川の大川へ出る處に大きな梁が亙してある。その梁に魚がかかつてゐるかと思つたら、魚ぢやなくて幸さんの阿母であつた。早く幸吉を呼んで呉れ。早く來れば命が助かる、早く飛んでけ、早く飛んでけ。と、斯う云ふのだ。夢といふのは斯んなつまらぬ話である。併し僕が其の時の嬉しかつた事と云つたら、二十年經つた今日猶その状態が、ありありと目に見えるのでも推察出來る。夢は忽ち醒めた。醒めてからも僕は嬉しいやうな、併し又恐いやうな妙な感想に支配されて、暫くは何の分別も出て來なんだ。翌朝になつて考へて見ると、我乍ら何だか馬鹿らしい夢である。馬鹿らしい夢であるが、其の時の嬉しかつた心持は、夢であるからと云つて、到底打消す事は出來ない。朝飯の時僕は餘程父に話さうかと思つたが、父がむづかしい顔をしてゐるから止めにして置いた。
 此の日も相變らす學校へ行つた。學校と云つても萱葺屋根の小さな建物で、先生は校長迄入れてた(247)つた三人しか無い。僕の級の受持は山田先生と云つて、顔の長い背のすらりとした温厚《おとな》しい専制であつた。今日も山田先生が來て、算術や讀本を教へて呉れる。併し僕はどうしたものか頭がぼんやりしてゐて、先生の言ふ詞がさつぱり身に染まない。五錢から十二錢引くと云つて、仲間にどつと笑はれたり、先生が讀本の講義をしてゐるうち、石盤へ譯もない丸や三角を書いて居るのに自分からふと氣が附いて、急いで消して先生の顔を見たり、どうも頭の具合が普通でない。時々は先生から小言を頂戴する。今度は氣をつけようと思つても、直ぐ片端からぼんやりして仕舞ふ。それで僕が小言を云はれさうになると、側に並んでゐる千代さんがそつと僕の袖を引いたり、肘を突いたりして注意して呉れる。注意して呉れても矢張り駄目である。つまり昨夜の夢が頭を支配してゐるのだから効驗《しるし》はない。それでも頭の中では千代さんは有難い、先生は恐い位なことは考へてゐる。千代さんといふのは山田先生の一人娘で、僕と非常に仲の好い生徒であつた。試驗の度毎に僕が級中の一番、千代さんが二番と斯ういつも相場が定つてゐるので、入學の始めから僕と席を離したことは無い。尤も算術は僕の甚だ不得手とする學科であるから、六ケ敷い問題が出るときつと千代さんに教はつてやつた。千代さんは煩さいとも思はないで、よく丁寧に教へて呉れる。その代り習字と來たら、千代さんの字は丸で蚯蚓の行列見たいなもので甚だ不手際である。僕はよく千代さんの習つてる處へ頭をさし出して笑つてやる。それでも千代さんは一向平氣なもので、まづい字を紙一ばいにのたくり廻して濟し込んでゐ(248)た。夫れから千代さんは山田先生の娘であるにも關らず、おとつさんと云はずに矢張り先生々々と云ふ。僕はお父さんの事を先生なんて可笑しいと云つてやつたら、眼を丸くして辯解した。お父さんだつて字を教へる時はおとつさんぢやない、先生だから學校ではお父さんの事を先生と云ふんだつて、お父さんが左樣云つたわ。とお父さん付や先生付だらけの隨分くだらぬ辯解であつた。兎に角こんな調子で千代さんと僕とは、六歳の時から同じ机に並んで居て、冗談も言ひ惡戯もし偶には喧嘩もして、久しい間の手習仲間になつて居たのであつた。だから母の亡くなつた時も一番に氣の毒がつて、色々と僕を慰めて呉れたのも千代さんであつた。なに、慰めると云つても他愛ないものである。初七日の忌日が終へた翌日《あくるひ》學校へ行つたら、千代さんが飛んで來て、幸さんよく來たよ。わたしもう來ないかと思つた。斯う云つてこコニコ笑ひながら、讀本は何課まで進んだとか、算術は復習ばかりして居たから後れあしないとか、色々缺席中の報告をして呉れたのだ。夫れから千代さんは其の時未だ斯んな事も添加《つけくは》へて話した。私の家のお母さんも最う半年も寢て居て、醫者が毎日來るといふ事。お父さんが心配して此の頃は夕飯の時のお酒をやめてしまつたと云ふ事。斯んな事を話す時は、もう眉に皺を寄せて僕よりも千代さんの方が萎れてしまふ。併し僕は此の頃から山田先生の顔を見ると、何だか悲しいやうな氣がしてならなかつた。父が僕と二人で向きあつて夕飯を食べてる時折に、太い溜息を洩らす事がある。其の時は僕は何故か直ぐ山田先生の顔を考へ出す。山田先生が教壇に立つて、口を塞(249)いで何か昵つと考へてゐる事がある。其の時は僕はいつも、我家《うち》の父を思ひ出して居た。何の理由だと聞かれても夫れは困る。山田先生|許《とこ》のおばさんは亡なられたのぢやない。亡くなられたのぢやないが、只何となく山田先生と僕の父とは、顔の中の何處かに寂しい肖た所があるやうに思はれたのだ。斯んな事から千代さんと僕とは他の學校仲間よむも、より多く氣が合つて居るやうに思はれた。
 夫れで今日は朝から頭がぼんやりして、何の稽古もみつしり手に付かない。どうも昨夜《ゆうべ》の夢が眼の先に見えるやうな氣がしてならぬのである。千代さんが僕の肱を突ついて呉れた時、はツと思つて直ぐ讀本を見た事は覺えてゐる。併し自分はもう何時の間にか窓先の桐の木を眺めてゐた。桐の木を眺めながら、夢なんか馬鹿らしい者だと思つて居た。母が梁にかかつてゐるなどとは、以ての外の事だと思つてゐた。思つてゐたは慥かであるが、桐の木を眺めて居る眼には、もう何時しか達者で居た時の母の顔を描いて居る。すると其の顔が段々に瘠せこけて絲のやうに細くなつて、今にも絶えさうになつたかと思ふと、今度は母が梁の上に横になつてゐる。
 何だ馬鹿々々しい又こんな事を考へると思つて急に我にかへると、先生はもう僕の席近く立つて居た。僕は思はず顔を紅らめて腑向いてしまつた。今に叱られるだらうと思つて、オゾオゾしながら上を向き得ない。先生は猶黙つて僕の前に立つてゐる。餘程經つたが何とも云はぬので猶更恐しくなる。すると先生は足を移して千代さんの處へ止まつた。お前の書取は字が大へん違つてゐる。よく氣(250)を附けぬからいかぬと簡單に斯う云つて、靜に他の生徒の方へ行つた。叱られると思つて待構へた僕が叱られなくて、大人しい千代さんが叱られたので、僕は却つて薄氣味惡く思つた。併し山田先生は何處までも穩かなよい先生である。
一時間經ち二時間經つた。僕の頭は依然として昨夜の夢を離れることが出來ない。休みの時間には僕は庭隅の櫻の木へ倚凭つて一人で立つて考へた。三時間經ち四時間經つた。僕は遂に學校が終へたら、上馬川の口まで行つて見ようと決心した。上馬川の口は寂しい所である。其處には一本の栗の木が立つてゐる。そこには大川の瀬が谷間の靜かさを破つて鳴り響いてゐる。そこに自分を慰むべき何物があらうとも思はれない。只自分は昨夜の夢のせめて其の場だけでも見て切ない胸の中をはらしたいと思つたからである。
 
       三
 
 村の中央を貰いて村人の所謂大川といふのが流れて居る。大川と云つても此處から川筋一里餘も西に下つて、やつと諏訪の平へ顔を出すのであるから、無論山間の一小流に過ぎない。岸には槻や桂の木が川幅不相應に高く立ち並んで、其の木蔭の清い流には時々村の人の作馬などが牽いであつた。耕作のひまに脚を冷やして置けば、馬に病気が付かぬと云ふ事で、田植の後などは廣からぬ淵へ、作馬(251)の十頭も十五頭も遊ばせてあつた事を覺えてゐる。橋は村中に三つ渡してあつた。大橋といふのに、上《わで》の橋下の橋といふのであつた。尤もそれは二十年後の今でも同じである。その下の橋から猶數町下ると、川幅が少しひらけて並木が急に途絶えてしまふ。上馬川はその川幅のひらけて並木の途絶えた是から下河原の田圃になるといふ處で、大川に落合つてゐるので、是れは村の北端を流れる川といへば川だが、先づ大きなゐせぎ位なものであつた。
 僕は學校が終へて家へ歸ると直ぐ本の包を座敷へ投出して置いて、上馬川の岸へ急いだ。人に見られるのが厭であるから、村の大道を避けて態ざと畠中の小徑を歩いて行つた。畠が終へて小松林になる。松林が終へると一寸下り坂になつて、其處から疎らに赤楊《はんのき》が立つてゐる。六月の終りであるから下草がもう餘程丈け延びて、所々に茨の白いのが咲いてゐる。僕は其の草の中をあちこちと踏み分けで漸く川の岸まで出た。澄み透つた水が、兩岸に生ひ蔓る蘆の根を眞白に梳つてゆるゆると流れてゐる。百舌鳥が一羽向うの赤楊の梢でけたたましく鳴き立てたが、直ぐ何處へか舞つて行つてしまつた。村を離れて林を隔てて、おまけに一寸窪地になつてゐる所の此の上馬川の岸は、子供には寂し過ぎる程の靜さである。併し僕は寂しいとも思はなんだ。此處には父も先生も居ない。僕の袖を引いて注意して呉れる千代さんも居ない。僕は思の儘に昨夜の夢を思ひ出す事が出來る。僕は思の儘に昔壞しい母の俤に思ひ耽る事が出來ると思つたからである。僕は川に添つてずんずん下つて行く。兩岸の(252)傾斜が追々迫つて川の瀬が漸く激して來て、その末が一つの瀧を成《つく》つてゐる。山桑の大きなのが二本その上に覆《かぶ》さつて眞黒な果《み》が、水に接するばかりの枝に一ばい熟してゐる。向岸にひよろひよろと立つた白樺《しらかんば》の根に、卯の花が一塊《ひとかたまり》雪を欺くばかり咲き盛つて、其の過半は瀧のしぶきに濡れそぼつてゐる。僕は瀧の傍に坐つて※[金+堂]※[塔の土が革]と落ちたぎつ早瀬の勢に餘念なく眺め入つた。此の瀧は二三年前母と共に一度來た事のある瀧である。自分は何時しか六七歳の時、母と共にこの瀧の近邊で石に腰かけた時の光景を想ひ出す。夫れは麗かな秋の日和で、松林の木蔭には漆の紅葉が美しく照り輝いて居る時であつた。母に連れられて徳阿浦彌《とくあみ》の岡へ螽捕《いなごとり》に行つての歸るさ、此の瀧の傍に足を休めて、黄金色に熟した小梨《こなし》の果《このみ》を採つて食べた事がある。僕が瀧壺近く下り立つて小梨の枝を引締めると、その手の下に水色に黒味走った蕈が澤山生えてゐる。ウツギタケと云ふのださうな。大へん味がよくて父の好きな蕈であるから、採つて歸らうと云ふことになつた。併し何も入れ器《もの》の用意がない。幸吉お前一走り家《うち》まで行つて笊を持つてお出でと云ふ事である。思へば僕はその頃未だ實に幼い者であつた。上馬川から家までたつた七八町に過ぎない。その短かな道を一人で歩く丈けの獨立心すら未だ發達して居ないほどの可憐な子供である。僕が頭を垂れて返事をせないので、夫れなら私が行つて來るから、お前はここにおいでと云はれた。僕はこんな寂しい處に一人で殘されては溜らないと思つたので、とうとう泣出しさうになつてしまつた。すると母は困つた兒だよと云つて笑つて、僕の手を引いて家に歸つ(253)て夫れから一人で又出直したのであつた。その時の僕は今兎に角斯の如く成長して一人で上馬川の瀧へ來て昔のなつかしさを思ひ浮べてゐるのに、その時僕を笑つで、幸吉はまだ駄目だなあと云つた母は、既に此の世の人でない。僕は瀧を眺め乍ら二年や三年は夢の間のものだと思つた。あの晩新しい秋の蕈を味ひつつ、親子三人顔を竝べた樂しさは、今思へば悲しくて懷しい思出であると思つた。
 僕は暫くして靜に立上つた。自分の背後に次第に遠ざかり行く瀧の響きを耳にしつつ、頭は三年の昔を辿つてとぼとぼと雜木の中を下つて行つた。
 林が盡き水の流れがゆるくなると眼界が次界に濶けて、下河原田圃の一部が少し前方《さき》へ現れる。作場道《さくばみち》を横ぎつて小さな凹地を二つ越すと、川幅が更に廣くなつて、大川に對して斜めに二三町程下へ流れる。川口といふのは其處から間近い所である。
 
       四
 
 僕は急いで畔遣を飛下りた。何とも云へぬ嬉しさが泌み出る如く胸の中に湧いて來た。それは疲れたたび人が故郷に肖た山川を眼の前に眺めて、懷しい中にも遙かな思を駑《は》せる如き果敢ない嬉しさである。少し進むともう其處が川口である。岸近くは栗の大木に沈鬱な白い花が枝一ばいに咲き垂れて、そこから下の草原には山萱草の花が一面に咲き盛つて居る。大川の流が滔々とその草原づたひ遙かに(254)下河原田圃に流れて行くので、その流の未が萱草の花がくれはるかにちよこちよこ顔を出して居るのが見える。僕は栗の木の下に立つて、此の小さな清い流が大川に落ちる水のたぎちの心地よさを眺めて居た。そこには昨夜の夢の梁もかかつて居ない。
 併し自分の今見詰めてゐる川の瀬は、昨夜の夢を思ひ出すと共に壞しい目前《まのあたり》の記念である川瀬は、依違《たゆた》ひ走り渦卷き激して川下|※[しんにょう+向]《はる》かに流れて行く。自分もいつしか其の瀬に從つて、川下から川下と次第に遠い思を辿つて居る。すると其の瀬音が次第に耳を離れて、自分は何處か遠い樂しい境に遊んでゐるやうな空想に耽り始める。頭がボーンとして來る。氣が遠くなる。忽ち我に返る。我に返つて見ると、足元の流は依然|依違《たゆた》ひ走り渦卷き激して川下川下と流れて行く。あゝ自分はもう自由郷に來て居るのだ。此處に流れてゐる清い水、此處に丈延びてゐる夏の草叢、萱草の花、栗の木の花、渾べての者が此の小さな僕を取圍んで、自分の空想を助けて呉れる。
 併しこの自由郷にも母は居らぬ。梁も懸つて居らぬ。と、自分の頭は今度は昨夜の夢から過去の思出に遡りはじめる。頭が又ボンヤリする。氣が遠くなる。すると川の瀬音が母の呼聲のやうに聞え始める。其の聲が川下から川下と次第に遠くへ流れて行つて遂に聞えなくなる。あゝ母はとうとう歸つて來ない。歸つて來ないと思つた僕の眼には、いつか涙が溜つて居た。日がぱつと射し込んで來たので思はず涙をふり拂つて向うを見る。栗の下技を外《はづ》れた日脚が雲間を洩れて、川下※[しんにょう+向]かに輝いてゐる。(255)大川づたひ咲き續いた萱草の花が夕日の光を得て眩しい程の美しさである。僕はその萱草の隙からちよこちよこ現れてゐる大川の末が、是れも夕日の光を帶びて著しく白く輝くのに眼を止めて居た。すると直ぐ其處の萱草藪の上から釣竿の頭《さき》が見えはじめる。誰だらう、今頃斯んな處へ釣に來たのは、と猶その竿の頭を見つめて居ると、夫れが追々に長く現れで、つい間近な僕から十間とは離れぬ草原へ一人の人影があらはれた。僕はその人影が眼に入ると共に、はつと驚いて思はず二足三足後に退つた。其の筈でゐる。人影と云つたのは、夫れは思ひも掛けぬ山田先生であつたからだ。
僕は急いで逃げて仕舞ひたい程であつた。僕が此處へ來たのは人に隱れて來たのである。父にも友達にも話さないで來たのである。自分は何も惡い事をしたのぢやない。したのぢやないが、急に何處ともなく氣が咎めて恥しいやうな思も加はる。併し今は逃げる事もどうする事も出來ぬ。僕がこんな咄嗟な狼狽をしてゐるうちに、山田先生はもう僕の側近く立つて居たからである。見れば先生のあとから花束を提げた千代さんが、小急ぎに先生の跡を追つて來た。
 わたし誰だと思つたよ。幸さん一人だの。
と云つで千代さんは呆れた顔をして、僕の前へ足を止めた。
 あゝ一人だよ、誰も朋友《つれ》がなかつたから。
と僕は危急の場合斯んな辯解をしで頭を垂れてしまふ。
(256) 一人で來たのか。そりや感心だ。千代なぞには迚も夫れは出來ない。
先生は僕の背後《うしろ》に立つてゐるので、僕の顔を見ないだけが辛うじて有難さである。千代さんの方は人の心も察しないで、いきなり僕の面前に立つて顛を覗き込むやうにしてゐる。煩さい娘だ、早くそこを退けばよいと思つて居る。
 そりやわたし女だもの、一人なんかぢや來られないわ。幸さんは男だものねえ。
と云つて僕の賛成を求める。僕は返事をする氣になれないから黙りこんでゐる。
 魚捕りにでも來たのかい。
と今度は先生が聞く。先生には返事せない譯には行かぬから、「イーエ」と簡單に答へて仕舞ふ。「それぢや花摘にでも來たんだらう」と聞くから、今度は只頭だけ振つて置いた。「ぢやあ一人で寂しかつたらう」と又疊み掛ける。寂しかつたと云つてよいか、寂しくなかつたと云つてよいか、自分でも分らぬから、今度は頭も振らないで置いた。
「さうか」と云つて先生は少し長い息をついて草の上に腰を掛けた。
 幸さん腰かけてお休みなさい。どうです、斯の萱草の花に夕日の當つてゐる景色は。
と云つて話頭を轉じて、
 あゝ好い景色だ。斯んな處を眺めて居りあ世の中の事は何も彼も忘れてしまふ。
(257)獨言を云ひ乍らつくづくと川邊の夕日の美しさを賞めてゐる。
ほんたうに美しいよねえ。幸さん御覽。萱草の花の間から遠くの水が見えてるよ。水の向うの青い山は守屋岳だわねえ。
僕は猶頭を垂れて返事をせない。無論そこへ腰を下す氣にもならない。千代さんは川下を挑めた眼を再び僕の方へ向けて、そして心配さうに眉へ皺を寄せはじめた。
 幸さん何うかして居るの。
僕は知られちやならぬと思つたから「イーエ」ときつぱり云ひ切つたが、頭は自然に垂れてしまふ。
 何うかしてゐるんだわ。
と千代さんも少し萎れて來て、
 幸さんは本當に此の頃|悒鬱《ふさ》いでゐるよ。わたし其の事考へりあ氣の毒で氣の毒でならないだわ。
手に提げた花束を凝視《みつ》めながら昵と考へ込んだ。千代さんに斯う萎れられると、さつきから煩いと思つたのは自分が少し惡かつたと、何だか氣の毒のやうな氣がして來る。
 坐らんかな幸さん。
と先生は少し考へて、
 坐つて景色でも眺めるがいいさ。どうもそんなに考へ込んでも仕方がない。今日も讀本の時間隨分(258)考へてたんだらう。併しそれはどうも宜くないよ。
先生の詞は極めて優しくて慰める如くであつた。併し僕は今日の讀本と云はれて思はず胸がキクリとした。そしてあゝ何うも惡い事をした。と急に今日先生に叱られさうになつた事を思ひ出して居溜らなくなつた。
 だつてお父さん。そりあ無理だわ。叱つちやいけないわ。幸さんはお母さんが亡くなつただもの。お母さんの事考へりあ誰だつて切なくなるわ。
と云つて千代さんは眉の皺を一層深くする。僕は千代さんは矢張りよい娘だと胸の中で思つた。
 夫れあ知つとるよ。幸さんは倦けてぼんやりして居るんぢやない。お母さんの事を考へてゐるのだ位は知つとるよ。だから私は叱りあしない。叱りあしないが其んなに考へて見たつて何うも仕方がないねえ幸さん。
と力を入れて、
 幸さんまあ坐つちやどうだ。先生は幸さんの心が氣の毒でならないのだよ。叱るんぢやないよ。併しもういくら考へたところが、亡くなつたお母さんは歸つてこない。そんなにお母さんの事考へ込んで病氣にでもなつたら何うするのだねえ。幸さん。左樣だらう。體が弱くなる、算術も出來なくなる。讀本も讀めなくなる。さうしたら死んだお母さんが土の下で何とお思ひだらう。だからね。(259)もう左樣《さう》考へる事は止めにしたがよいと先生はさういふんだよ。
先生の聲は次第に低くなる。
 どうも仕方がないからな。
と暫く考へて斯う附加へた。
 わたしだつてお母さん惡いから時々思ひ出して困るわ。
と千代さんはもう泣出しさうになつた。今度は先生も黙つて居る。
 千代さんのお母さんが惡いといふ事は此の間千代さんから聞いて知つて居る。先生が夫れを心配して夕飯の時のお酒を止めてしまつた事も知つてゐる。さう思ふと今度は千代さんの萎れて僕の前に立つてゐる姿が氣の毒でならなくなる。山田先生は僕を慰めて呉れるのが、却て自分の悲しさを増すやラに思はれる。併し千代さんが僕の事をよく知つてゐる事は承知して居たが、山田先生が斯んなによく僕の事を知つて居ようとは今の今迄思はなんだ。今日讀本の時僕を叱らなかつたのは僕の心を知つて居て叱らなんだのださうな。山田先生は何も彼も知つてるえらい先生である。有難い先生である。こんな有難い先生の云ふ事を聞かぬのは僕が惡いのだ。千代さんは辯解して呉れる。山田先生は僕を慰めて呉れる。                    .
 千代さんは優しい娘である。山田先生は有難い先生でゐる。斯んな事を考へつつぢつと足元を凝視(260)めてゐる。
 お坐りなさい幸さん。
と先生は又促した。僕は云はれる儘に大人しく其處へ腰を掛けた。すると千代さんも黙つて僕の直ぐ側へ腰をおろし、
 未ださう考へてるから困るな。一體幸さんは何うして一人でこんな處へ來て居たんだね。
と又靜に聞き出した。僕は山田先生には最う何事も隱しちやならぬと思附いた。山田先生に隱して置いても直ぐ知れてしまふと思附いた。それで僕はとうとう思切つて今日の事を悉く話してしまつた。
 昨夜見た夢の事。目が※[目+星]めてからも其の夢の嬉しかつた事を話した時は、僕はその時の状を思ひ浮べて今更のやうに泣出したい思がした。今日學枚で夢の事ばかり考へてゐた事。千代さんが僕に注意して呉れても、どうしても頭が茫然《ぼんやり》した事を話した時は、千代さんの眼にも涙が一ばいであつた。學校が終へてから直ぐ上馬川の岸に來た事。栗の木の下に立つて、昨夜の夢を思ひ出して居た事を語り終つた時は、僕は昨夜からの切なさが大川の堤を崩した如く一時にどつと胸の中へ溢れて來て、とうとう啜泣に泣出さずには居られなかつた。見れば千代さんは頻りに手で目を擦《こす》つてゐる。 だからお父さん。幸さんは氣の毒でならないだわ。
と云つて之れも聲をはずませてしやくりあげる。
(261) 先生は黙つてゐる。千代さんも僕も黙つてゐるので、四邊は森閑と靜まり返つて、谷川の音がどうどうと耳に附く。夕日は今雲の間に隱れて栗の木蔭が急に暗つぽくなる。先生は時に溜息を吐《つ》いてゐる。
 お母さんつて其んなに戀しいものかなあ、と、つくづく嘆息して僕の頭へ手を載せる。僕は先生が自分の頭を撫でて呉れるのがズーンと身に沁みて、そして何とも知れぬ悲しさが又新しくせき立つて來た。
 暫時の後僕等三人は立上つた。先生は猶そこの川原まで行つて来るから、千代と二人で花でも摘んで待つておいでと云ふ事であつた。千代さんと僕と草原へ下りて萱草を折つた時は、僕はもう心が晴れ晴れして二人で面白く色々な話をした。千代さんのお母さんが川魚が好きだから夫れで此の頃毎日釣りに來るといふ事や、幸さんは一人で寂しいから私の處へ遊びに來いと云ふ事や、此の花持つて幸さんのお母さんのお墓詣に行かうと云ふ事や、色々な事を一人で話して僕を慰めて呉れた。僕は近日《このうち》にきつと千代さんの許《とこ》へ遊びに行くよと云ふ事や、千代さんのお父さんは本當にいい先生だといふ事などを話して、守屋岳に日が落ちかかつて、山田先生が再び其處に立戻つて來たのも知らずに居た位であつた。
 僕は此の後お母さんの墓詣りに行く時は、千代さんと二人で此の上馬川の草原へ花折に來た。夫れ(262)は僕が墓詣りに行く時は、千代さんもきつと一緒に行かうと云ひ出し、二人でさう約束したからである。併しその時千代さん許へも遊びに行かうと云つた二人の約束は、二十年後の今日になつても果す事は出來なくなつた。それは此時から一月程經つた時、山田先生は急に遠方の學校に轉任されてしまつたからである。
 山田先生は何うして居るか。千代さんはどんなに大きくなつたか。(今では最う立派な奥さんに相違ない)千代さんのお母さんの病氣はどうなつたか、僕は其の後一度も聞き知る事が出來なんだ。
 上馬川の口へは今では矢ケ崎と云ふ近村へ通ずる大きな道が闢けて、其處に一つの水車小屋が立つてゐる。僕はいつも此處を通る毎に、二十年前の昔を思ひ出して、昔懷しい感想に耽らずには居られない。
              (明治三十九年十月「馬醉木」第三卷第六號)
 
(263) 小移住者
 
       一
 
 幸吉の父が南亜米利加のブラジルへ渡つたのは、幸吉の八歳のときであつた。愈々出立といふ前の晩、父は幸吉を抱きながら、「亜米利加といへば遠いやうだが近いものだ。海といつても、汽船で行けば疊の上も同じ事だ。あつちへ行つて、三年も稼いだら、おかあさんとお前の旅費を送るから、其の時は亜米利加へ來るがよい。」といひながら、幸吉の頭を撫でた。幸吉はやうやう東西を知り得る程の幼兒である。父が近いといふから、亜米利加は近い所であらう。父が金を送つてくれたら、直ぐ出掛けようと心に思つた。母はランプの下で、頻に針仕事の手を急がせて居る。夫のために旅の衣を縫ふのであらう。「おかあさんも私と亜米利加へ行きますか。」と云つて、幸吉は心許ないので、ランプ越に母の顔を覗き込んだ。「おとうさんのおいでなさる所なら、山を越し海を越しても、連れて行つてあげる。」といつて、母は針の手を止めて、ぢつと幸吉の顔を眺めた。幸吉は、「連れて行つてあげ(264)る。」といはれたのが嬉しいので、其のまま母の膝の上に眠つてしまつた。
 父が出立してから三月程立つと、「無事にブラジルの港に著いた。」と言ふ手紙が屆いたので、母と幸吉とは大層安心した。併しその後は便りが久しく無い。「お父さんはどうしたのだらう。早くあつちへ呼んで下さればよいに。」とは幼い幸吉の心に毎日繰返す願である。折々は母に尋ねてみる。尋ねる度に、父の行つた土地は思つたより遠い所であるといふ事が分つて來る。三年といへば、永い月日であるといふ事も分つて來る。幸吉は少し失望の樣子であつた。
 二箇月程たつて、二度目の手紙が届いた。「今迄はリオ、ヂ、ジヤネイロ市に滯在したが、是から南部のサン、パウロ州へ行つて、獨力で珈琲樹の栽培をはじめる積りだ。うまく行けば、來年にも二人を呼ぶ。」と書いてある。幸吉は急に元氣を快復して、「今に亜米利加へ渡るのだ。」と、そのことばかりを心に描いて、日を送つてゐた。
 三度目の手紙は、其の年の内に著かなんだ。「正月になつたら。」と待つて居たのが、二月になつても、三月になつても、何の使りも無い。母は時々首を垂れて、何か考へて居るので、其の樣子が子供の眼にも、何處となく沈んで見える。「どうしたのだらう。」と言ふ心配が前よりもはげしく幸吉の胸に湧いて來た。櫻の花の咲く四月も面白くは過ごさなかつた。去年父の出立した時、咲いて居た燕子花が、今年も美しく咲き揃つたが、それも何時しか散りがたになつた。父からはまだ便りがない。
(265) 六月の末になつて、一封の手紙がブラジルから屆いた。差出人は日本人であるが、名前は幸吉の父ではない。母は慌しく手紙の封を切つて、息もつかずに一通り讀み通したが、顔の色は見る見る蒼ざめて、唇はぶるぶる震へて居る。そして急いで今一度繰返して讀み終つた時は、見張つた眼《まなこ》から涙が一時に漲つて、いきなり聲をあげて、其處へ泣き伏した。幸吉は驚いたまま、其の側へ突つ立つた。 幸吉の父は數千里の海を隔てた遠い土地でとうとう命をおとしたのである。手紙には父の最期の樣子が詳しく認めてある。父は去年他の日本人と別れて、一人でサン、パウロ州の或る原野に住みこんだ。そして多くの人夫を使役して、土地を開墾して、珈琲樹の植付に従事したが、「地味が肥えて樹がよく育つ。成功したら、君達もこつちへ來るがよい。」とは、折々他の移住者へ送つた手紙であつたさうだ。處がふとした事から重い熱病に取付かれて、四箇月ばかりでもう起つ事が出來なくなつた。「墓は開墾地の岡の上にある。剛毅果斷で、忍耐強い友を失つたのは、移住者一同の深く悲しむ所だ。」と書添へてある。幸吉は母の膝へ顔をあてながら、半ば夢心地で、樣子を聞き終つた。そして、「あゝ、私が成長したら、きつと亜米利加へ行かう。亜米利加には、おとうさんのお墓がある。おとうさんの拓いた畠もゐる。」と斯う深く心に思つて、母の顔を見上げた。親子の眼には、新しい涙が瀧の如くまた溢れて來た。
 
(266)       二
 
 月日は夢の間に過ぎて、幸吉はもう高等小學校を卒業した。父が亡くなつてから丁度七年になる。「父がサン、パウロ州の野中に拓いたといふ畠は今はどんなに荒れたであらう。其處の岡の上にある父の墓には、雜草がどんなに生ひ蔓つてゐるのであらう。早く彼地に渡りたい。」と、幸吉は寢ても覺めても、其の事ばかり思ひ暮した。
 父が死んだ後、一家の生計は餘程困難であつた。少しばかりの田畠も父が出立の時、悉く人手に渡して、今は少しばかりの小作に漸く親子の口をすごす程の有樣である。「亜米利加へ行くには金がいる。是から一稼ぎせねばならん。」と、幸吉は小學校を卒業すると共に、早くも斯う決心した。そこで、前よりも多くの田畠を借入れて、母と共に一心に耕作したが、地主に入れる年貢をさし引くと、一家の收入は甚だ哀れなものであつた。幸吉は失望せずに、翌年も多くの田畠を耕したが、生憎その年は、此の地方に夥しい害蟲が發生して、幸吉の家の稻も、大半其の害を被つてしまつた。幸吉は、箒のやうに枯立つた稻の前に佇んで、「今年は金が足りなくなる。何時亜米利加へ行かれるのだ。」と、獨言をいつて居た。母は之を聞いて、「稻のわるいのは一年の事だ。それよりもお前の腕の太つたのが頼しい。私も一緒に亜米利加へ行く積で居るから、氣を落さずに精出してくれ。」と云つた。
(267) 幸吉は母に勵されて、再び勇氣を取りなほした。又の年は農業の傍ら※[奚+隹]を飼つた。手數のかからない割合に收入があつたので、「この方は見込が立ちさうだ。來年は數を増して見よう。」といつて喜んだが、二年目の梅雨に、これも家禽コレラに罹つて、殘らず死んでしまつた。幸吉は死んだ※[奚+隹]を手にしながら、悄然と※[奚+隹]小屋の前に立つた。あゝ、天は私を助けてくれないのか。」と云つて、溜息をついて居る。母は、1お前の勤勉は金にかへられない尊い寶だ。それに比べれば、※[奚+隹]位は惜しくない。併しお前は未だ忍耐が足りない。お前のおとうさんは、此の位な事で、力を落すやうな人ではなかつた。」と云つて、幸吉の樣子を眺めて居た。幸吉は「忍耐が足りない。」といはれたのが胸に徹へて、「あゝ、こんな事ではならん。」と再び心を勵して、益々家業に力を注いだ。
 次の年の秋、幸吉は少しばかりの※[奚+隹]を町に賣つて、一人でとぼとぼ田舍道を歸つて來た。十年前の父の事から、自分の今の身の上から、便り少ない母の事と、思から思をたどつて、足の運びもはかどらない。家に歸つて見ると、珍しく村長が訪ねて來て居た。村長は幸吉の歸つたのを見ると、にこにこしながら、一封の手紙を取出して、不審さうにしてゐる親子の前に置いた。「幸さんの家族が分らぬから、『私に取次いでくれ。』といつて來たのだ。早く披いて見るがよい。」と、一人で呑込んで、ほくほく喜んで居る。
 幸吉は急いで手紙を取上げた。見れば、サン、パウロ州の日本人會から來たのである。幸吉は懷し(268)さに、思はず全身を震はせた。手紙には、先づ幸吉の父の名を書いて、「吾等は、此の開拓者の遺業をついで、盛に殖民地を經營してゐる。」と、書いてある。「吾等數百の日本人が今日幸福な生活を營み得るのは、かつて獨力此の野を拓いた先人の賜物である。併しその人は既に此の世に亡い。移住者一同は、日夕それを遺憾に思つてゐる。」と書いてある。幸吉の眼にはいつか涙が一ぱいになつた。「吾等の遺憾に比べて、遭族の悲しみはどんなであらう。併し人は死んでも、志は活る。吾等移住者は先人の心を心として、永く此の地の緊榮を圖る覺悟だ。日本人會は今度此の開拓者の爲に、一の大いなる石碑を建てた。碑は故人の墓の傍にあつて、遙に故郷の空に對してゐる。此の事を村役場から遺族に知らせて載きたい。」といふのである。幸吉は讀み終ると共に、黙然と頭を垂れた。そして暫く考へて居たが、「あゝ、私はどうしても亜米利加へ行かねばならん。」と斯う云つて顔を上げたが、「併し私には金がない。とても行く事は出來んのだ。」と、急にまた失望の眉をひそめた。「いえ、お前はもう亜米利加へ行く事が出來る。」といひながら、母は此の時一室から一の包物を取出して來て、幸吉の前に置いた。「驚くのは道理だ。是はおとうさんの出立なさる時、『萬一の時、幸吉の資本にするのだ。』といつて、私へお預けになつた金だ。今迄知らせずに置いたのは、只一途にお前の心を勵まさう、勵まさうと思つたからだ。長い年月、お前の苦勞を見る度に、明かさうか、明かさうかと思ひながら、今日迄こらへて居た胸の中も、少しは察してくれよ。」といひも終らず、其處へ又泣伏し(269)てしまつた。幸吉は夢かとばかり眼を見張つて、無言で村長と顔を見合せた。
               (明治四十年九月文部省發行「教訓假作物語」)
 
(270) 原新田
 
 友は予に小説を作れと勸める。
 ひよろひよろした貧弱な小松が同じ調子の莖立で果しない林を成《つく》つて居る。木立を洩れる日光が明るい紋をつくつて足先の苔蘚《こけ》にこぼれる。明るい紋を踏みながら話し入つてる二人は、林深く歩んで來た事を微かに自覺してゐる。
 年の暮の東京を遁れて數年振りに桔梗ケ原の自村に歸つた友と、其の友の故郷に近頃新らしくさまようて來た予と、松原に遊んでる心持には大きな距離が無くてはならなかつた。只數年振りに思ひがけぬ田舍で邂逅したといふ事が、二人の間に共通した寂しい親しみであつた。友が、原新田の驛が寂びれて年老いた親が猶鍬を持たねばならぬ事を話した時、予は遠い湖邊に多勢の子供を相手に働いてゐる妻の身の上を思うてゐた。故郷にかへるは慰安である。寂びれたというても夫れが矢張り寂しい或る慰安である。老いたというても夫れが親に對する一種慰安の感じである。自分はもう何年其の慰(271)安から離れて居るのだらうと考へて、目の前の冬枯の村と遠い湖べの村とを比べて見た。苔の上の日の光を踏みつつ別れ別れの感想に耽つて林深く來た時、友は再び予に小説を作れと勸めた。そして熱心に中央に文學者といはれる人々の列に加つて活動して見よと勸めた。帝都の文壇の花々しい活動を語る時、友の頬は美しく色ばんで居た。一二の作家が獻身的な尊い奮勵を語る時、友の眉は動いて居た。何派といふ黨與を作つて、世に時めく人々の裡面の情實は、地方の政黨といふものの活動に肖て居ると思うた。其の勢の下に走るさかしい青年の群れは、議員の門に出入する村の教員に肖てゐるとも思うた。友の奮勵には力が籠つてゐる。友の希望には光が漲つて居る。予は其の力と光との勢を想像して、友の身の上に壯快な感想を伴はずには居られなかつた。併し壯快は只壯快であつた。予の寂びれた心に鞭つて、帝都の花やかな活動に加はらせるには、友のすすめと予の感受とに距離があり過ぎる事を思うた。友と別れてから七年の境遇がこの相違を成《つく》つたかも知れぬ。或は是れが性情の相違から來た根本的の岐れであるかも知れぬ。異つた境遇と異つた性情を持つて、自然の力に生息してゐる二の運命の末を思ふとき、久振りに相携へた一と日の散歩は、二人の上になつかしく寂しい記念である事を思はずには居られなかつた。
 暫く無言に歸つた時、最前林の道であとに取殘された友の夫人と、友の歌の友である年若き婦人との事を思ひ出した。話が興に入つて足の遲い婦人は、何時の間にか後れてしまつたのである。二人は(272)腰をおろして煙草を燻らした。煙草の烟が眞直に小松の幹を傳うて上ぼる。桔梗ケ原の冬木立には禽も鳴かぬ。靜かさに堪へた林の奥から暫くして若やかな話聲が聞えはじめる。其のうちにくきやかな白い足袋が美しい裾をさばいて、鮮明な苔蘚の上を歩んで來るのが、木立の中からチラチラと見えはじめた。友は夫人を伴うて明日東京へ出立するのである。男二人に女二人加つても桔梗ケ原の冬の林は寂しくあつた。
           (明治四十三年三月「アララギ」第三卷第二號)
 
 散文小品其他
 
(275) 諏訪豐平村の家
 
 池田を發して行く程に穗高松本を經て諏訪に達す。又山浦の方へ歩を進むること二里にして矢ケ崎と云ふ一小驛に達すれば、早我家の屋根は向うの丘の木の間より見えそむるなり。我里は山間の一小村にして、家の前なる杉の木はいつも遠くより目標となりて高く屋根の上に立ちたるなり。余が家に歸る毎に、何時も先づ門口に出でて迎へるは今年八歳なる愛らしき弟にして、兄さんが歸りたりと喜び呼ぶ聲を聞き付けて、次に出で來るは祖母と母となり。父は用ある身なれば、大抵は外にあれども、夕方に至れば歸り來り給ひて其の夜は一家打集り久し振りなる樂しき談話に夜更すを例とするなり。余は十歳の時母を喪ひ、其の翌年一人の弟に別れ、十六歳の時又小兄を失ひ、昨年の冬又仲兄を失ひたれば、一時村内にて家人の多き内に指折られたる家も、今は打變りて寂しき生活となり、祖母、父達まづ早く年老い給ひたれば、衰へし顔色の頼み少き姿を見まゐらする毎に、限りなき感慨はむらむらと胸中に起りて何時も其の夜の枕に思はず涙を濺ぐなり。殘れる一人の兄は職を奉じて長野に在(276)り。二人の弟の内長じたるは兄に從ひて、附属學校にあれば、家に殘れるは只今年八歳なる子供のみ。年老いては子を頼む習ひの親なるに、余も亦家を辭してよりここに七年、東に走り西に迷ひ、未だ一度も膝下に侍ひて孝養を盡しまゐらせし事なく、成人となりたる今日猶年老いたる身に心配のみかけまゐらす事如何ばかりの不孝ならん。余が歸りたる夜は、父は何時も酒を命じて樂しく語らひ給ひ、夕飯を食し後には茶を點じて一家團欒し夜の更くる迄話の盡くる事もなし。かくて翌朝に至れば弟は早くより寢所に來りて余を呼び起し、早近傍の散歩を促して止まざるなり。父外に出で給へば余は弟を伴ひて寺の庭などに散歩するを例とす。かの大なる銀杏樹は、幼かりし時は攀ぢ上りて和尚樣に叱られたる木なり。かの水車屋には、昔子供好きなる老婆ありき。かの恐しかりし僧も親切なりし嫗も年經たる間に早彼の世の人となりて、水車は昔のままにめぐり、銀杏樹も亦昔のままに茂りてあるなり。兄と共に茸とりし林は畝となり、又魚釣りし川も淵瀬もいつしか變れり。あゝ我れも幼かりし昔は如何に樂しき月日を此の山里に過したりけん。今は山河漂浪の身となりて、濫りに異郷の空に客となり、志す所未だ其の萬分をだに達せざるに、父母は已にかく年老い給はむとは思ひがけんや。余が家に在る内に、祖母と母とは余が好める料理に心を勞し給ひ、弟は寢物語に聞き覚えし昔噺などまはらぬ舌にて得意に語り聞かせ、余もあらゆる心を盡して家の人を慰め、かくて限りある休の日も終れげ、余は懷しき故郷に別れ、再びもとの旅に涙ぐむなり。矢ケ崎驛にていつも振り返り見る木の間が(277)くれの我家、あはれ其の家、なつかしきかな、その家。
         (明治三十二年十月「池田會染小學校同級會雜誌」)
 
(278) 筆を絶つ辭
 
 利のために書かんとするものは、筆を枉げざる可らず。名のために書かんとするものは、筆を文らざる可らず。道樂のために書かんとするものは、筆を弄ばざる可らず。嗚呼今日の新聞雜誌と稱するもの、何ぞ徒らに店頭に累々として俗臭の紛々たるや。
 彼等滔々たるもの皆云ふ、風教の萎靡を慨す、社會の指導たらん、改革の急先鋒たらん、と。斯の如きは今日にありて、野人奴輩すらも皆齊しく口に唱ふる所にして、吾人は斯の如き口數の追々に増加し行く世潮をはかなむものなり。ガラになきものが一時の流行を追ひて、小癪な口を聞くは、御柱喧嘩のかへりに、多勢の中でへらず口叩く弱武者の如くに見ともなきものなり。かく鼻持ならぬ世潮の産物として、生れ出でたる新聞雜誌が、鼻持ならぬ俗臭を帶ぶればとて、そは必然の結果として今更口新らしき排斥をなすの要なけれど、彼等が斯く明瞭なる汚醜をも自覺し能はずして、一人ずましによい機嫌での風教呼ばはりが、むしろ滑稽なるお氣の毒におもふなり。
(279) 釋迦が百世を感化したのは、後世に編める千萬卷の經文ならで、菩提樹下六年の結跏に、苦思慘憺したる其の難行にあるを思はば、自ら稱して一世の木鐸たるものの工夫、豈一朝一夕の氣まぐれを許さんや。あゝ我に太史公の憂憤なく、すずのや翁の赤誠なくんば、今日この筆を焚くは幸なるかな。
 曰く「戀の英雄」曰く「少女と戀」輕薄浮淺なる讀みものが青年子女の歡迎を得て、洛陽の紙價を貴からしむる世の中に、肩を竝べて握齪する程この筆の汚れざるは多幸なる哉。
 然り我丈は去るなり。我筆は去るなり。乾陟背上に乘ぜられて苦行林の樹下に去るなり。追ひ至るの從者なく泣き咽び給ふの淨飯王なきは、多幸なるかな。さなり、我足は怡々として進まむ。
  附記 諏訪の地に二雜誌あり。「革新」と云ひ、「諏訪新報」と云ふ。共に余が今迄時々寄稿したる所にして、兩者の余に於ける多少の因縁あり。蓋し「革新」は稚氣に富み、「新報」は道氣に富む。出所全く同じからずと雖も、所期に至りては殆ど一なり。今後若し兩者の合同するあらば、其の郷土の益友たるに於て、重を加ふる事大なるものあらん。況や兩者の筆を執るもの、其の實に於て殆ど相同じきをや。曩に「諏訪文學」と「諏訪青年」との合同によりて「革新」を生じ、今又更に二雜誌の合同を見んも、亦大に可ならずや。追記して編者に問ふ。
                 (明治三十五年五月三十一日〕
 
(280) 秋の希望
 
△秋も秋、ズツトの秋の末に時雨らしい雨がふつてやゝ肌寒い日に、布團を引つ被つて氣に入つた小説を讀み度い。昔の事などがふと思ひ出されて、讀みかけの所をやめて詰らぬ事を考へて居る。雨だれの音が聞える。又讀む。やゝ佳境に進んだので、胸を枕にシツカリ押しつけて、手に持つた卷煙草もそのままにして見入つて居る。その内に見張つた眼が少し霑んで來て妙に頭が痛んで來る。日がくれかかつて雨も小止みになつた。小便に行つて縁側から見ると西の方の空が花やかな、併し極めて弱弱しい夕日の光を見せて、庭や畠がサツト明みを帶びて居るが、南瓜棚を取退けた下の雁來紅の太いのは、此の間誰かに折られたままそれがもう枯れはじめて居る。澁茶を啜つて二三頁讀んで居ると洋燈が來る。戸を閉める。妻は子供を寢かしつけて居るので家内が森閑とする。夕飯前の酒は余が燗をする癖になつて居るので、讀みさしに紙を入れて勝手の間に出掛ける。こんな具合に書けば際限がないから此處で止めよう。
(281)△本年の秋は、是非釜無山へ登りたい。麓で野葡萄や小梨やアケビやマタタビやクマンバチやを思ひ切り採集して、獵夫の小屋へ一晩泊めて貰ふ事にしたい。併し大きな窟屋があつて、それに枝や萱で入口をしつらへて、假小屋が作られれば更にうれしい。釜無から駒ケ嶽に出て、伊那の入《いり》の谷《や》山中へ出て、高遠でオモイリ御馳走を貪ると云ふ獻立である。
             (明治三十六年九月「比牟呂」第五號)
 
(282) 火串録
 
△雷霆止むを得ざるに震ふ。而る後始めて天地を活動す可し。今議論するものは道樂のみ。人の耳を傾けざる所以。
△惡を爲して人の知らん事を恐る。惡中猶善念あり。善を爲して人の知らんことを急ぐ。善所即是惡根。よがる先生如何でげす。
△南無妙法蓮華經の婆さん日暮れて道を問ふ。余之を憫れんで一宿せしむ。實は道中談を聽かんと期したるなり。焉んぞ知らん。彼れ夕飯の箸を置くと共にゴーゴーの大軒。翌日上諏訪にその太鼓叩き行くに逢ふ。而して彼已に余が面を忘却し居るなり。無碍かすれからしか。人間も茲に至つて氣樂。
△御幣川は川にあらず地名也。秦皇島は島に非ず港也。
△小學を卒業して少し何かすれば教員也。待遇問題など永久の預とすべし。殷鑑遠からず文部廢止論にあり。
(283)△阿附雷同、是れ輕薄才子の處世道也。
新派の御輿を擔げば歌が賣るればなり。
露西亞征伐を唱ふれば「萬國公法論」が再版になればなり。
平民主義を標榜すれば身方多き新聞記者なればなり。
活動主義我を唱ふれば立派の教育者なれば也。
斯界のためと云ふ奴にためになる者なし。眞面目も是に至つて頭を掻かざるを得ず。
△喋々喃々是れ眞面目に非ず、多辨也。襟を正し容を嚴にす、之れ眞面目に非すカシコマル也。切齒扼腕悲歌慷慨愈々出でて愈々眞面目に非ず、是れ變調子也。嗚呼貴い哉深夜人靜つて思ふの情。
△諏訪にマラリヤ病傳染の蚊多し。羽に三黒紋あり。人を刺す時尻を立つ、ヅウヅウしと云ふべし。
△己先づ笑つて滑稽談を説く。人必ず面白がらず。人を笑はしむるは苦心也。△軍艦に平時近海の交通業に從はしめ、陸軍兵士に何か生産業を營ましめば冗費徒食の譏を免るべしと説く者あり。
△北海道土人は射撃に長じ百發百中の由。朝鮮人は石投げに長じ、印度兵も射撃を善くす。
△佛蘭西の兵士は贅澤にて、東洋に來ては戰爭が出來ず。米國兵の行軍は傍目からも氣の毒の程不規律也。
(284)△英國の婦女子は風采堂々氣高き男子を好み、佛國の婦女子は額美にして愛嬌ある男子を好み、曼國の女子は正直律義なる男子を好み、蘭國の女子は柔和にして決闘を好まぬ男子を好み、伊國の女子は詩人風の男子を好み、露國婦人は文明人より野蠻人として拒絶さるる如き男子を好み、丁抹婦人は常に國内にありて外國旅行を好まぬ男子を好むといふ。國を生む者は女也。
△家庭問題の研究追々繁昌の模樣あり。喜ぶべし。家庭を改良せねば日本は改良出來ぬ也。
△夫婦一家主義、是れ理想なり。今日直ちに行ふ可らす。自由結婚制、之れ理想なり。今日直ちに行ふ可らす。然れども遂に行はざる可らず。
△ワシントン、リンコルン等が米國を生みしと思ふ可らず。米國の家庭がワシントン、リンコルン等を生みしなり。
△炎暑燎くが如し。白日市に走つて紅塵萬丈の衢に立つ。美人あり、水菓子屋の隣にあり、凉味滿眼。
△ビールにして泡吹かざるものあり。男にして歌作らぬものあり。ケチ坊にして金なきものあり。美人にしてすますものあり。何れも可惜矣。
△高山彦九郎ははやり坊也。藤田東湖はリキミ坊也。佐久間象山はみえ坊也。海舟、南洲の大なる所以歟。
(285)△借金はつらいもの也、首がまはらねばなり、時としては頭が昂らねばなり。この味を知らぬ者は話せない哉。
△女にして結婚後その親信と交を久しうする者あるか、家庭病の一也。
△事あれば親戚近隣來つて喋々喃々す、概ねこれ虚辭なり。友に非ずんば遂に語る可らず。家庭病の二也。
△來客あれば食物を出す。話を出さざる也。眞情は出さざる也。慰めずして諂諛するなり。手をとらずして頭を下げるなり。相談せずして雷同する也。家庭病の三也。
△一家は合宿所也。快を取るは芝居小屋にあり、料理屋にあり、湯治にあり、乃至井戸淵會議にあり。家庭病の四也。
△客間は居間より立派なり。外出には白粉コテコテの奥さん、家に在つては肌脱ぎも隨意なり。家内よりも家外が重要なり。家庭病の五也。
△山浦の細君は汗水たらして田圃に働き、北京の女は足を縛つて奥座敷にすます。亡國たるに於て一也。
△秋海棠は若葉のうちより哀れ也、嵐によろし。萩は花咲いて哀れ也、雨によろし。白菊はひよろひょろ吹きの二三本が哀れ也、月によろし。雁來紅は思ひ切つて赤く太からんを欲す、日盛によろし。(286)松葉牡丹は品下れども石によろし。女郎花は花よりも莖が愛らし、庭には駄目なり。
△膳を置く疊と、足で歩りく疊と同じきは不都合なり。敷布團に敷布ありて、著布團に被布なきは不都合なり。
△借金ある家の前を過ぐる時の怖さより、白刃を踏んで敵に向ふ怖さの方が安産也。前者は危惧。後者は懸命。
△南洲は情的なり。海舟は意的なり。南洲は天真也。海舟は修養也。刺客南洲に向へば感激して心を飜すべし。刺客海舟に向へば畏怖して心を飜すべし。小兒南洲を訪へば終口嬉戯すべし。老人海舟を訪へば終日雜話すべし。
△黒岩氏人倫の大本は親子道にあらず、君臣道に非ず、夫婦道なりと説く。話せると云ふべし。
△夫婦相慕ふ可きなり。相信ずべき也。慕ふ事なければ「剋」。信ずる事なければ「亂」。
△巖本きよ子は故若松女史の遺兒なり。其の文才母に酷似して哀れなり。梶田氏薄水遺稿を蒐む。是れ夫の情也。悲しむべし。一葉女史に至つては誰か死後一片の香花を手向くる者ぞ。最も哭す可き也。
△奪掠時代、賣買時代、贈與時代、共諾時代、之結婚の四時代なり。日本は贈與時代に居る者なり。
△偶々、片山子を伴うて北越赤倉温泉に遊ぶ。妙高山坡の一寒地なり。眼寰開豁、高原地の大氣と高山嶽樓の御馳走と、最も我が氣に入る。片山子は五年前の余が生徒。今や余に對して英語の講義を聽(287)かす。この愛兒あり、この高原あり、この山莊あり。朝に日本海の青疊を眺め、夕に信越連山の白雲を望んで悠々閑臥。宿料高しと雖も感謝せざる可らず。
△毎日毎日小言を云つてる者あり。碌な不平なき事臍で白湯を沸かす如し。
△信州に名山多し。群峰肩摩、英雄續出と云ふ可きなり。併し有難い山一つもなし。彼等たる皆、ギタバタ也。肩を張るなり。肩を揚ぐるなり。エラガル也。鼻息を荒くする也。腕を扼するなり。當世の論客なり。
△此のギタバタの奥に異彩を放てる者あり。九千八百尺の天外、群豪の喧騷を脱して、高く翠寰に熟睡せるものあら。乘鞍嶽也。富士山の如く容態を作らず。槍ケ嶽の如く鼻もしかめず。人の注意を惹かざる所以。
△菜花麥隴五月の天。淺間の山樓浴後欄に倚つて乘鞍嶽の殘雪を望む。山姿逍遙として春風を松本平三郡に送る。此の時三味線あれば又格別。
△居を得れば去らざらんを欲す。故に翼々。財を得れば出さざらんを欲す。故にコセコセ。官を得れば失はざらんを欲す。故にシミツタレ。
△自恃なき自省は窮なり。自省なき自恃は頑なり。美人鼻ツ糞を掘るべし。
△意的人間の分類(誰もおこる可らず)
(288) 一、天稟的
  笠原半仙、荻生徂徠、日蓮上人
 二、情的の人にして自ら修養せる者
  (イ)唱道しつつあるも達せざる者
    三澤背山、久保田二水
  (ロ)鍛錬し得たるもの
    尾崎學堂、大森荒龍、文覺上人
 三、激情によりて強き意志を生めども、割合に永續せざる者
    矢島兀山、笠原栗堂
 四、受動的に意志を養成せられたるもの
  (イ)社會風潮にある者 鎌倉時代の武士の如し
  (ロ)特殊の場合によるもの
    繼兒 孤兒の如し
 五、激烈なる感情時代を經過する間に心意状態に變革を生じ、極端なる意志の人となるもの
   天才的ニーチエ、福澤天眞、辨天お關(小説小羊中の主人公)
(289)△酒飲の分類
 一、酒を樂しむ人(故に曰く、一醉華胥に遊ぶ)
   代表 矢ケ崎奇峰
 二、酒を好む人(酒と聞いて中心穩ならず、註に曰く、思邪なし)
   代表 岩本木外
 三、酒を愛する人(註に曰く、陶然として英雄となる)
   代表 矢島兀山
 四、酒を貪る人(註に曰く、盡きなんとして盡くるを惜しみ、偶まには徳利を搖る)
   俗人屬之
△幼弟を拉して裏山に蕈を採る。九年振り也。松柏已に摧けて打續ける桑畝之舊知に非ず。あゝ「時」は「荒蓼」の牙なるか。乳茸、扇茸、與平次を得てかへる。
△溪流丸木橋をくぐる。萩花叢々。故山猶此の野趣を失はず。感謝すべき也。△今人事功を尚び、古人志を尚ぶ。之泰時の贄を高辨にとり、壯士の星亨に隨喜する所以。
△官私立大小の學枚生徒卒業試驗が終へて、ホツト思へらく、やつと一人前也と。三十にして立ちたる孔子は損をしたりと云ふべし。
(290)△諏訪の盆踊も地方によりて異れり。南山浦のは輕佻。平坦部のは蕪雜。而して北山浦に至つて始めて古體の典雅を語るべし。
△長上に對する禮を知らず、父兄に仕ふるの道だに解せず、自ら思へらく磊落不羈なりと。之磊落にあらず粗漫のみ。遊廓の番頭文字なくして、忠君愛國で候のとほざかぬが感心なり。
             (明治三十六年九月「此牟呂」第五號)
 
(291) 上諏訪に就て
 
△上諏訪になくもがなと思ふものは、あの見すぼらしい勸工場と、無恰好な廣告柱と、有難味なき城跡と、その後に續いた士族屋敷とである。畷の並木も陳腐の紋切形だが、冬枯の時は兩側の田圃と一寸調和して、それに晴れ切つた夜、電氣燈がついてるなどは思の外寂しがらせる。近頃は其の兩側へ町が出來たが、何れも不景氣らしい家が斑らに並んで居るので、益々冬向きになつて却つて面白い。
△湯の脇を通つて田圃向うに新井の家並を見る所は氣に入つてる。秋稻を刈つて柿の赤くなる頃が一番よい。只村はづれに何とか云ふ神の森があつて、少し陰鬱にして居るのは月並的である。
△島崎の裏にどぶ川があつて、それに一本橋がかかつて、兩岸に葦が叢生して居る所は甚だよい。鶩がガアガアやつて家に歸る頃、近邊の爺さんが鍬をかついで橋の上をやつて來る。葦の葉の上には眞白い富士が寒むさうに立つて、夕日の名殘を見せて居ると云ふ鹽梅は、丸で油繪である。
△上諏訪に欲しいものは劇場である。人口壹萬以上もある町に、劇場を備へ付けぬと云ふのは如何に(292)も氣の利かない話で、夫れで又滿足出來ると云ふ町民も隨分意氣地のない者である。僕は舊高島座の前を通る度に、腹の蟲がムクムクとして業が煮える。
下女が氣の利く小ざつぱりした宿屋が欲しい。夜の二時頃手を叩いても、ブスブス云はずに茶を持つて來るやうな家なら猶よい。
西洋料理のないのも不都合だ。態々下諏訪迄なんてえづくも金もないからな。あまり借金の催促をせぬ本屋が欲しい。毎月やつて來て叱るから張り切れる者か。          (明治三十六年十二月「比牟呂」第六號)
 
(293) 初對面録
 
       〇
 僕が始めて兀山を見たのは、長野で入學試驗を受けた時であつた。寒水の紹介で始めて同郷人だと知つて、學校の前の芝生で色々話して見たが、この時程可笑しい事はなかつた。何故とならば僕は兀山と段々話して行くうちに、その言語、その擧動がどうしても普通でない。之はどうもチト失敬な話ぢやが、お拔け遊ばされて居るわいと、かう早呑込に決めて仕舞つた。そこで僕は内々寒水の處へ行つて、ナンシテモあの男は、ちと拔作のやうだが困つた者だ。あれでも學校で入れて呉れるのだらうかと、心配さうに相談したのだ。處が寒水は大きな眼球をむき出して君は飛でもない事を云ふ。實にけしからぬ。あの男の秀才である事は、上諏訪の學校で有數な仲間ぢや。僕などは落弟してもあの男に間違は必ずない。かう云ふ樣な事を云つて、ひどく威嚇し付けられた。僕は二度ピツクリでその晩は取敢へす彼の旅宿へ尋ねて行つた。何しても晝間の鹽梅では、寒水の言分が甚だ腑に落ちぬと、こ(294)んな樣な考へで彼の室に通つたのだ。
 處が彼の變態は晝のそれにもまして愈々甚だしい。そのうちに話の序で、陸奥宗光の顔は非常に長いと云ふ事になつて「さても世はさかしまにこそ成りにけれ乘つた人より馬が丸顔」と云ふ歌を云ひ出しては腹をかかへて笑ひ倒れて居る。僕もそれを聞いてるうちに何時か引き込まれて仕舞つて、今度は寒水と三人で「乘つた人より馬が丸顔」と云つては笑つて笑つて、遂夜の一時まで笑ひ通してしまつた。それからはどうも兀山が居らぬと寂しくてならぬ。毎日行つたり來りして、せんべいを噛つては騷いで居つた。是れはもう十年前だ。
 背山は子供の時今よりモツト顔が四角でダンマリでオツカナイ人相であつた。高等四年の時新道を一緒に歸つたら、その時、君の著物は短くて宜しい、僕の組の女生はジヤラジヤラして居ていかぬと大變慷慨して居つた。
       〇
 奇峰は眞面目な君子風の人であらうと思つて居た。みづほのやに連れられて始めて町外れの寓へ行つた時、門口で何だか窮屈のやうな感がした。處が中へ入つて色々話して居るうちに、昔からの板面《おいた》仲間のやうな氣がして、遂誘ひ出して淺間の温泉へ行つて一緒に寢て話したつけ。僕が池田に居た時君は丁度大町へ轉じて、二人乍ら社村に住んだ。君は村の北はづれ、僕は村の南はづれに陣取つて絶(295)えず往來して居たが、君の始めて尋ねて來た時、君が茣蓙を著て杖をついて居たので、内の主人は眼を丸くして二階へ飛んで來て「ナンシテモ先生チト妙な人が來て庭に居る」と云つたのであとで大笑した事であつた。
       〇
 醉茗君には一杯喰はされた。三十年の夏、君を堺浦に尋ねた時、君は店先に麻の襯衣一枚で坐つて居たので、僕は全く番頭と誤つてよい加減な事を言つて仕舞つて、あとで大きに恥入つた。その晩海岸へ散歩して二人丸裸で水を浴びて、海中へ長く突出した石垣の上で、滴る如き月光を仰ぎながら話した事は忘られない。温良の懷しい人であつた。
       〇
 同じ夏すずしろのや君を京都で尋ねた。狹い割合に馬鹿に脊の高い旅宿で、その三階だか四階だか、何れ一番上の座敷で晝飯の御馳走になつた。處が僕は下痢で何も口には入らぬ。けれど暑くて溜らぬので、氷水は澤山頂戴出來る。そのうちに新體詩の連歌見たいな事が始まつて、君がまづ七夕の題で初の句を起した。處が次へ續けた僕のがあまり杜撰で物にならなかつたので、氣の毒さうに他の題に移して呉れた。旅行中の短歌を見せたら大變褒めたが、僕も少々得意の歌の積りで居た。鴨川近くでよい景色の室であつた。改行
(296)       〇
 木外は安曇に居る内から名を聞いて居つた。處が三十三年の春、君と同じ學校に勤める事となつたので、どんな人だか早く見たかつた。職員室での初對面であつたが、思ひの外背の長いオツカナイ人で、何でも眼が光つて一寸愛想が無ささうで、コレハ中々六ケ敷い人ぢやわいと思つた。アトでそんな事を話して笑つた事がある。
       〇
 柳の戸の優しい人であつたには驚いた。何でも北山生れで荒くれた雲突く程の男と思つて居た。竹舟の方はスラリとした綺麗な人だと、理由なしに想像してゐたのがさうでなくて、色も餘り白くもなし、失禮ぢやが餘り美男にもあらせられずと云ふので是れも當が外れた。
 紅圭君と三人で白兎を提げて、禰牟庵に來られて一晩中句作をやつたが、その時もう非常に研究的であつたのに感服した。
       〇
 汀川に逢つた時は丁度汀川の病氣の時であつた。そしてその顋が、何となく子規先生の寫眞に似てをるやうな氣がしたので、あとで頻りに哀れつぼく感じた。
(297) 生理學者の報告によれば、胎兒は三ケ月にして已に眼球を構成し、八ケ月に至れば充分に視覺を備るさうなが、胎内で物を正視する事は無い者として、さて生れ落ちてから余の眠が運動を始めて、まづ第一に對面したのは誰の顔であらう。母か。母かも知れぬ。余を抱き上げてくれた祖母かも知れぬ。余を愛してくれたと云ふ老女のお駒かも知れぬ。その時、余は果してどんな態度で、新世界の新知己に接したのであらう。六七歳の時慢驚風とか云ふ病氣で、父の鼻が非常に高く思はれて恐しかつた事はよく覺えてゐるが、十歳で永訣した母の顔はもう大抵忘れてしまつた。
       〇
 淺間の桑の湯でみづほのやと飲んで、それから芳の湯の窪田通治君を訪れたら、窪田者はもう寢衣で床の上に寢ころんで、枕元のボンボリをあかりに何か小説を見て居つた。山百合君には始めてだが僕は君を全く沈鬱の人だと思つてたなど語つた。その後君には一度も逢はない。
       〇
 みづほのやを歌よみとは、どうしても思はなかつた。南屋で菓子を食つてゐたら、そこへノソノソやつて來て「女鑑」の歌を出して、是れは僕のぢや、どうだうまいだらうと突き付けられたので、何だ小癪な、歌に於て小生に憚りながらと云ふ意氣で、僕のも出した處があまり褒めない、怪しからん男だと思つて議論して見た。處が僕よりウント素養が深い。是れが入校してから間もない事で、同級(298)生みづほのやとの初對面であつた。面相だけは僕の方が歌的ぢやと腹の中で信じたつけ。
       〇
 上諏訪で吹雪に始めて逢つた處が、直ぐ議論が持上つた。何でも厭世とか云ふ問題であつたらしい。上諏訪を出て四賀村の新道迄行つたが未だ乾ない。道が二つになつて僕は山浦へ行かねばならぬが、どうも別れが惜しい。そこで急に山浦行を中止して、二人共に神宮寺の右衛門を訪ふ事にして遂にそこに一泊した。始めの議論は何處へか行つて、その晩は正岡先生の話を右衛門から聞いて非常に面白かつたと覺えて居る。もう六年前の事だ。
       〇
 新卒業生の歡迎會を鶴鳴館に開いた時、新卒業先生達中々の大氣※[陷の旁+炎]で、談理縱横一座時ならぬ花が咲いた。その中で一人薩摩琵琶のギヤボンギヤボンに大騷ぎをきめて、何處を風が吹くと云ふ風をして居る一人がある。どうも毛色を異にしてをると思つたらそれが釜溪であつた。
       〇
 芋郊は非常にふざける滑稽な人ちやと思つてたら、二人相對してる時には非常に靜かで眞面目なのに驚いた。
       ○
(299)  「未だ謦咳に接せず候へ共御芳名は豫て」など讀まされては、逢つて見る氣になれぬ。儀式が面倒だからな。
                  (明治三十七年九月「比牟呂」第九號)
 
(300) 諏訪風景一般
 
〇諏訪湖を中心とした所謂諏訪平と稱する地方の風景は實際淺薄である。第一に湖水が平凡である。形の上に變化のない上に、四圍の風物に重味が見えぬ。口でこそ二千五百尺の高地だと呼んでゐるが、感覺上からは何等の高さを感ぜしめる者がない。中筋と下筋とは一望平坦の田圃である。他の二方を繞つてゐる山脈は信濃高山國としては寧ろ哀れな程の丘陵である。おまけにその丘陵に樹木が無いと來て居るから、益々淺薄なものである。天龍川から平野、下諏訪、上諏訪へかけては白壁やら煙突やらの競進會である。白壁やら煙突やら田圃やら丘陵やらに圍まれて居る圓形な湖水に、高山國らしい幽邃の重みがないのは當然である。諏訪の天然は遂に輕井澤に及ばぬ、相原驛に及ばぬ、乃至松本平、伊那谷に及ばぬのは詮ない次第である。衣ケ崎で富士山が見えるなど云つてる連中に、月並者流が多く交つて居る事だらうと想像する。
〇冬の諏訪湖には慥かに重味がある。僕は冬期の諏訪湖が好きだ。湖水ばかりでなく一般に諏訪は冬(301)期に於て高山國的特殊の光景を發揮するのは嬉しい。直徑一里の氷盤上に寒雲の低く垂れてゐる光景は峻烈なるものだ。上下諏訪の温泉も雪の田圃から曉の湯氣を立てて居る所は清爽である。平凡な田圃も萱圍ひをして寒天を曝す頃は山國らしく見える。煙突の林立も煙を立てぬ冬の姿の方が寒國に調和するやうだ。
〇諏訪平の風景を女性的だとすれば、富士見高原の風景は男性的である。これは八ケ岳と釜無山のお蔭である。釜無の谷は實に深いものだ。この深い谿谷の曲線も横から見たではつまらぬ者である。富士見高原はこの曲線を眼前に竪に覗いて居る。間口に見るでなくて奥行に見て居るのだから振つて居る。八ケ岳山脈に對する位置も矢張りこの調子で推して居る。この山脈は高いけれども深くない。その深くない山脈を正面から見たでは益々淺くする譯になる。處が富士見高原から八ケ岳を見るのは正面に見るのでなく、斜に見るのだから赤岳、横岳、根石岳、立科山と順次北方に團子刺しに重疊させる事になる。釜無山、八ケ岳に對してこの富士見高原は實に天與の望觀所である。況やこの廣莫たる三千餘尺の高原の裾は一方は遠く甲斐の國原に曳き、一方は直ちに諏訪の平に傾いて天末の翠微に信飛連山の繊翳を彷髴せしむるに至つては、展豊の豁如たる當に諏訪全郡の勝を壓すべきの威力を備へて居ると云ふべきである。諏訪の人材は今後山浦から出る。
             (明治四十一年四月二十日「南信日日新聞」)
 
(302) 上諏訪と下諏訪
 
       上
 
 天外君が諏訪について何か書けといふ。どんな問題を捉へて書けばよいのか分らないが、僕の見た一般感覺の上から上下諏訪町を比較して書いて見よう。一般感覺を書いて見るといふうち、興味が進めばどの邊まで筆が走るか書いてしまはねば分らぬ。理窟を云ひ度くなれば云つてもよいが、問題がそこまで進むか進まぬか書き始めた今の處では、腹案も何もありやしないから見當がつかぬ。順序など立ててやる仕事が、順序通りに行くものぢや決してあるまい。順序なしの書き方を無責任だなど云ふ人に、自分の生む子を男だ女だなど云つて豫定出來るか。
 他郡の人は諏訪といへば、直ぐ景色がよいとか、山水明媚だとか云つてゐるやうであるが、實際に於て諏訪の風景はさう深刻なものでない。雄大な強みなどは信州中諏前に於て尤も缺如してゐると云つて羞支ない。景色がよいとか云ふのは、湖水、富士山など信州として一寸眼光の異つた材料を具へ(303)てゐるからと云ふに過ぎぬ。單に湖水、富士山などで持つてゐるのが素人威どしの證據である。そこへ行けば木曾の深林や安筑の山脈、柏原、輕井澤の高原などは、信州の風景として優に全日本に濶歩し得るの重みを備へて居る。諏訪の風景は夫れ等に比して何等の持徴がない。山國にあり乍ら山國的の強みを缺いてゐるのが第一の缺點である。師範學校で山國の生徒を率ゆるに、平野的凡俗主義を以てして其の角を矯め得たるを喜んでゐるやうなものである。角を矯められた牛は死に瀕してゐる。死に瀕した牛を全縣の小學校に配布して揚々として謂つて曰く、此の角を見よ、此の角を見よ。斯の如くして自己訓育の成果を喜びつつあるが原某といふ先生である。諏訪の風景と雖も、少くも師範學校以上である事勿論である。勿論でゐるが遂に信州の他數地方に及ばぬのは餘儀ない次弟である。平凡な諏訪を最も多く平凡に眺めて居るのは上諏訪である。上諏訪の市街は丁度諏訪盆地の最低地に位して湖水に最も接近してゐる。湖水に接近してゐると云へば、景色が振ひさうに思はせるが、上諏訪は湖水に接近して却つて感じを殺がれて居るのは惜むべきである。これは湖水が餘り平凡で、そして湖水沿岸上諏訪の地盤が概して卑濕で、之に加ふるに上諏訪市街が湖水に對して殆ど高低の羞なきが故に、湖水を眺めるに全く水平の方向をとるからである。大津の町から見た琵琶湖は平凡であるが、一寸登つて三井寺の庭から見れば直ぐ面目を改める。平凡な諏訪湖を琵琶湖對大津の關係を以て上諏訪から見たでは、振ひ度くも振ふ譯に行かぬは當然である。
(304) そこへ行くと下諏訪は上諏訪よりも地盤がずつと高い。高い地盤から或る距離を保つて見下す諏訪湖は、上諏訪町より眺むるものと趣を異にするは勿論である。平凡乍らも湖水は諏訪の生命である。富士山も多少の生命である。此の二者を複合して兎に角一幅の繪畫に纏めて眺め得るは下諏訪である。上諏訪に於ては湖水は湖水、富士は富士と、別々の紙に描いて眺めねばならぬ。別々に眺めても振つて居れば結構であるが、根本の材料が振はぬものを益々分離するのだから彌々取り所がない。
 元來上諏訪は何處を歩いて見ても感じが極めて狹苦しい。停車場から出てどの町を通つて見ても、山と沼地とに挾まれて押潰されるやうな感じがする。直ぐ續いてゐる丘陵も甚だ單純で而も傾斜が急である。何等のゆとりがない。何等の變化がない。是に比べると下諏訪の方はすべての調子がゆつくりしてゐる。平地も廣いし傾斜地も廣い。その廣い土地へ疎樹密叢が點綴されて、その間に小市街を拓いてあるのだから、何處を歩いても押潰されるやうな窮屈がない。砥川兩岸の山碧參差として遠く鹽尻連山に打續けるさま、平凡乍ら下諏訪市街に對して整然たる調和を有してゐる。
 下諏訪は上諏訪よりもずつと古い土地である。諏訪下社が祀られたのは何年代であるか知らぬが、建五百建命が神八井耳命の裔孫を以て、崇神天皇の朝信濃の國造として此の土に來たのは明瞭である。その子孫金刺の姓を賜つて、下社の祝部として明治初代に至つた事も明瞭である。下諏訪の土地は上古より已に人民の聚落をなしてゐたのに比して、上諏訪の今の土地が町らしい町を作つたのは、(305)三四百年來の事であらう。
 
       下
 
 之を地質の上から見ても上諏訪の沖積層は、下諏訪の沖積層に比して非常に新しいものであるに相違ない。古い歴史を有する下諏訪の地に古木枝を交へて茂り、新しき上諏訪の地が沼氣檐を繞つて至るのは、自然の數と云はねばならぬ。
 僅か一里餘を隔てた上下諏訪間に斯の如く感覺的相違を有する如く、上下諏訪人の氣質にも餘程相違の點があるらしい。而もこの相違が山河天然の感化から來てゐるのでなくて、比較的人爲の關係に由來してゐる方が多いのは奇異である。
 信州を斜めに南北に貫き通した大街道がある。往昔中仙道といへば京都江戸間の通路として、東海道に次いだ重要の交通機關である。この中仙道の街路に諏訪明神の靈地が接觸して、下諏訪なる一宿驛を和田鹽尻兩嶺の間に作つたのは、今日の下諏訪のために幸であつたか不幸であつたか分らぬ問題であるが、兎に角今日の下諏訪人氣質が寧ろ下諏訪地方天然の化育に生るる事比較的少くして、人爲的交通機關の或る感化の下に發達し來つたのは、誰人も否むべからざる事實であらう。今日下諏訪人といへば、神地的下諏訪人、湖國的下諏訪人を想起するよりも、寧ろ中仙道的下諏訪人を想起する(306)の自然なることは、恐らく下諏訪人自身と雖も夙に自覺してゐる所であらう。即ち上諏訪人のする仕事が常にジミな傾向を有するに對して、下諏訪人は常にハデな傾向を有する。上諏訪人が熟考してゐる仕事を、下諏訪人は一斷の下に決行してしまふ。從つて隨分鼻先が強い。鼻先の強い割合に、腹の底にこたへがあれば結構であるが是は甚だ疑問である。西洋料理も下諏訪へ先に出來た。スケート場も下諏訪人が先に經營した。氷庫も下諏訪人が先に建つた。萬事斯の調子であるから新事業の創始されるは下諏訪である。製糸家の増加も平野、川岸と並んで此の地に盛なるに對し、上諏訪の方は父祖傳來の事業を大切に守つて居る。大切に守つてゐる外見は因循姑息に見え乍ら、その商權は伊那方面に向つて根柢強き發展を遂げつつあるのが上諏訪人の特徴である。上諏訪人は商業に没成し居乍ら、多少靜寂の趣を味ひ得るの品格を備へて居る。新開地(比較的)であり乍ら殿樣の膝下に育つた功能である。城下本位の商業が古來比較的安固であつた結果、容易に新しきに手を染めぬやうな習慣を養成したかも知れぬ。兎に角諏訪本來の面目を失はずに穩健な發達を遂げてゐるのは上諏訪人である。そこへ行けば下諏訪人は神地住民としての特徴は、已に餘程まで中仙道のために破壞されてゐるらしい。交通機關の影響は斯の如く大したものである。諏訪へ鐵道の通じたのは、下諏訪へ中仙道が開けたよりも大なる問題である。今日物質的利害より打算して、鐵遣問題を講究するの士は、上下諏訪を通じで恐らく其の人に乏しくあるまい。只精神的問題の上に立つて、鐵道對諏訪の關係を考慮しつつ(307)ある者知らず幾人ぞや。この精神的問題の考慮から離れる時、諏訪人は已に只の人である。平凡なる山河に容るるに平凡なる民族を以てする時である。師範學校的主義が信州少くも諏訪に於て凱歌をあげて、川合曾良や立川琢齋や關文炳や小澤豁郎や金刺信古や製絲王やが鼻をつまんで逃げる時であると共に、抑も又吾々が筆を執つて平凡な山河のために、斯くの如く青筋を張つて書立てる必要も消滅する時である。上下諏訪について書かうと思つた事は此の位で終る。前觸の割合に議論も何も振はずに濟んだ。この位が安穩である。
          (明治四十一年七月十八日・十九日「長野新聞」)
 
(308) 屋根
 
 小さな板屋根に接して杉が立つてゐる。椹が立つてゐる。白檀の木が立つてゐる。其の中で栗の木が群を離れて横さまに屋根の上にのしかかるやうに被ぶさつてゐる。大分老樹であるが、夫れでも年年多少づつの果を結んで、その大半は板屋根の上に落ちる。朝起きると直ぐ梯子をかけて屋根に上ぼる。そんなにズンズン歩けば屋根がこはれると云つて、家の中から父が叱る。叱られても何でも毎朝のぼる。拾つて來た栗を圍爐裏で燒いて、病んで寢てゐる兄にも少し位やる。兄が一つ食ふ内に自分は三つ位食ふ。さうたべないで溜めて置いて、栗飯にしたらよからうと母がいふ。栗飯もたまにはやつた。兄が床から出て來て皆と膝を拉べて食べた事を覺えてゐる。その兄は十七年前に死んだ。栗の木は十年ばかり前、地主の僧が人夫を連れて來て伐つてしまつた。板屋の中には今も父がゐる、母がゐる。自分は養子に出て十二年になる。
              (明治四十一年十二月「比牟呂」第四號)
 
(309) 一年間
 
 ※[奚+隹]屋をはじめる時は愉快であつた。百羽の※[奚+隹]に餌をやつて糞の掃除をすれば、妻子を飢ゑしめぬに足ると思うた。自分が制裁なき獨立の生活に入る爲めには、手に※[奚+隹]の糞をつかみ、口に支那米の粗なるを噛むも厭ふ所に非らずと思うた。獨立の生活は直ちに獨立の思想である。獨立の思想に住してはじめて眞の自己を歌ふ事が出來る。萬葉の研究も始めようと思うた。奈良朝の研究も始めようと思うた。
 四月から五月へかけて五百七十羽の雛を孵して見た。孵化の方は重に父が手傳つで呉れた。五六百羽のうち百五六十羽を自分で育てて見た。この方は妻から手傳つて貰つた。雛の飼育は晝夜の手入が要る。火氣を用ひるのだから寢る間も用心せねばならぬ。おまけに育てた雛は生育が甚だ具合惡しかつた爲め、藥をやつては懷の中へ入れて肌のぬくみで温めてやつた。それでも片端から死んでしまふ。六月のはじめになつて、死に殘りの雛が三四十羽になつたのを見た時は甚だ心細かつた。夫れでも他(310)の親※[奚+隹]が健康なので、落膽の中にも心強い所があつた。こんな具合で晝夜の鄙いぢりに本などは一頁も讀むすきは無かつた。本などは差し當り讀めないでも、歌などは差し當り作れないでも、そんな事は不都合ない。只※[奚+隹]を健康にして卵を澤山産ませればよいと思うた。
 鷄の餌買ひに荷車を曳いて上諏訪町へ行く。生徒に逢ふと皆笑つて通る。「先生えらい風になつたねえ」などお世辭云つて過ぎるのもある。こんな事を聊か愉快に得意に感じたのは子供らしい事であつた。その内に※[奚+隹]小屋へ糞蟲が繁殖した。糞蟲に増長されれば※[奚+隹]屋は全滅である。僕はこの時七日八夜立ち通しに※[奚+隹]小屋の中で蟲と戰爭した。石墨酸を目の中へ入れて大騷ぎしたのは此の時であつた。
 蟲を退治した頃は信濃の夏が火山灰の赤土を火と熔かす最中であつた。※[奚+隹]に已に近づくべき秋の用意をして、その羽毛を脱落させると共に産卵はぴたりと止んでしまつた。九月には一層甚しくなつた。十月になり十一月になり十二月になつてもさしたる變化は無かつた。百羽の※[奚+隹]の餌は一日の量でも金にしてさう少いものではない。それが三月も四月も積るのだから、潜勢力なき僕の懷中は忽ち哀れな者になつた。
 米と味噌とは四月から父の家から貰つて居た。毎月米貰ひに行くのは妻もよい心持では無かつたやうだ。夫れでも一度も不平は云はなんだ。父母も一度も不平を言はなんだ。不平を云はれない丈け僕の内心には一種の苦痛を感じてゐた。好意を好意として受けるに、何も苦痛を感ずる必要はないと思(311)つて見たが、矢張り何時の間にか苦痛を感じてゐた。男子年三十三、米鹽の資を老父母に仰いで、靦然歌を作つてゐるのは忍びないとも思うて見た。※[奚+隹]が産卵をやめてからは餌の金をも父から無心した。二度三度はよいが度重なるに連れて、内心の苦痛は追々深くなるやうに感じた。
 吾人は隨分大言壯語する。大言壯語と云つても惡い意味の大言壯語ではない。徒に其の聲を獅ワす大言壯語ではない。隨分内心に眞面目な奮勵があつての大言壯語である。大言壯語といふ詞が不適當であるかも知れぬ。兎に角眞面目な奮勵を存して、人生を説き理想を説く。人生を説き理想を説くはよい。併し乍ら吾人は今迄あまりに容易に平氣に理想を説いて居た。自分では眞面目な奮勵であると充分信じてゐた奮勵の、思の外に危い奮勵である事が、實際問題に接して追々現れて來る。是は過去一年間に於ける、自分の境遇中最も痛切に感じ得た經驗である。
 ※[奚+隹]屋の經營がうまく行かないで、生活上の困難が隨分はげしく迫つて來る時は、往々卑しい考が頭の中へ浮んで來る。卑しい考の浮ぶ一方からは、同時に不快の念がむらむらと起つて來る。不快の念が浮ぶ位なら、卑しい考を起さなければよささうに見えるが、實際この卑しいのが自然に出て來るから困る。卑しい考の出て來るのは苦痛である。之に對して不快の念の動くのは更に苦痛である。兩者共苦痛であり乍ら、其の苦痛が境遇の苦痛に伴うて往々其の頭を擡ぐる。苦痛の極は多く沈思になる。沈思しつつ自分の過去現在未來を考へて見る。今迄分らずに居た自分の眞價が多少明白になつた事を(312)思へば、嬉しい感じもするし痛ましい感じもする。此の感じの中に彷徨してゐる間のみ、自分は神聖であり得たやうに思はれる。文字に現すと斯んな風になつてしまふが、此の時の頭の具合は一寸うまく描き難い。
 僕は自分の原稿を金に代へる事を非常に厭に思うて居た。友人にもそんな事はよく話してゐた。處が生活の苦痛と共に、新聞社から來る報酬を待兼ねるやうになつた。今少し増して呉れりやよいなどと思ふやうになつた。斯んな考になると和歌の出し方に付いて、今迄新聞社へ小言云つてゐた事などを、少しは控へ目にするやうになる。以前は小言を充分云つた。小言が聞かれなければ選歌など止める意氣込でゐたからである。處が斯うなると、腹の中に選歌など止めるといふ意氣込が多少の影響を蒙つてゐる。從つて小言も少しは控へる氣味になる。疵もつ足と云ふのが此の事である。疵もつ足で小言が云へぬ位なら、疵もたぬ時云つた小言も實は上つすべりの物である。上つすべりの物である小言を、得意になつて云つてゐた心の中では、己は世の俗物とは違ふ位の事を思つてゐたのだが、今更馬鹿らしく思はれる。
 十月頃は隨分困つた。はがき一枚出すことが出來ないで数日過した事もある。況や妻子の要求する物などは、絶對に拒絶してゐたが腹の中では甚だ苦しかつた。この頃は自分の原稿を全く賣るために書いた者があつた。東京の實業雜誌で何でもよいから書けと云つて來た。尤も之は背山君の周旋であ(313)る。僕は毎月一囘づつ十數枚の原稿を書いて送つてやつた。此の原稿は十二月まで送つたが書く度に非常に不倫快であつたから止めにした。此の他國民新聞にも斯んな種類の者を送つた事がある。加之賣るためにして或る原稿を書いてゐるといふ事を、友人に餘り知らせ度くなかつた。隱れてやらうと迄は思はなかつたが、兎に角氣が咎めて居たに相違ない。比牟呂の代なども誌友に催促してやるのは非常にいやであつたが、是も仕方なく弟を集金に出したり自分で集金に行つたりした。
 左翁から今年になつて痛切な手続を寄せられた。君は養※[奚+隹]に全力を注がぬに相違ない。どんな仕事でも一年や二年で成否が分る者でない。三年位歌をやめて養※[奚+隹]をやれと斯う云ふのである。此の手紙はぴりぴりと僕の腸に泌みた。僕の缺點は此の手紙で盡されてゐると思うた。併し今の所歌を止めるといふ決心は一寸付きかねる。歌をやめても養※[奚+隹]を成功させる程の決心が余に存せぬうちは、歌も碌な者が出來る筈がない。併し養※[奚+隹]は猶精出してやつて居る。養※[奚+隹]に見込がつくかつかぬか、少くも二三年は經驗して見る積りであるが、其の爲めには文學をも全廢する迄の決心は(勿論臨時の事としても)實際に於てつきかねる。文學を全廢して養※[奚+隹]専門になつた處で、余の生活は依然として依頼的生活、居候的生活でなければならぬ。依頼的でも居候的でももう構はぬ。依頼的に、居候的に行ける所まで行つて見るつもりで、猛然前進し得るの決心が余にあれば嬉しいが、惜しいかな余には是だけの膽力と勇氣とが今の處出て來ない。近いうちに又學枚生活を始めるかも知れぬ。學校生活を始めると(314)しても後來如何に此の身を處すべきか。抑も自己の一生は將來如何なる意義によつて消費せらるべきか。斯んな問題は今に於て多く語るを好まぬ。
 余の一年間に於ける經驗はこんな者でゐる。生活の困難などと云つて見た處が、世上幾多の悲慘なる生活に比すれば笑ふにも足らぬ者であるかも知れぬ。(二月七日)
              (明治四十二年三月「比牟呂」第一號)
 
(315) 手紙
 
 手続の文字にも色々の書き振りがある。眞面目な字、四角張つた字、無造作の字、平氣な字、放縱な字、亂暴な字、洒落れた字、ひねくつた字、浮薄な字、強い字、重い字、弱い字と幾等もあるだらうが眞面目な字は兎に角感じがよい。平氣な字は飽きない。讀めぬ字が澤山あるのは閉口する。(一)
 長くて要領を得ぬ手紙はいらいらする。短くて要領を得ぬ手紙は腹立たしい。眞惰氣魄の籠つた手紙は長い程うれしい。雜用の手紙は短い程有難い。長い手紙が來るだらうと心待ちにしてゐる處へ、端書などで來ると張合が拔ける。手紙やつて直ぐ返事の來るのははきはきして氣持がよい。二度も三度もやつて返事の來ない時はもうやるまいと思ふけれど、少したつと又やり度くなる。併しもうやる氣にもならぬ事勿論ある。打解けた手紙に儀式張つた文句など駢べて返事してゐるのは、間が拔けてるか態とするのか兎に角要領は得ない。眞面目な手紙に、駄洒落の返事など書いてよこすのは面責する價値がある。(二)
(316) 手紙の眞意は逢はねば分らぬ。(三)
 比牟呂同人は二人逢へば直に合作の端書を出す。あれは美風である。(四)
 書信へ差出人の住所を書くのは勿論であるが、月日のないのも不都合である。月日も書かないで昨日だの今日だのと云ふのは馬鹿らしい。少し重要な手紙へは年月日を書き度い。(五)
 僕は來た手紙を二度失くした。(讀まぬうちに)それが二度ながら望月君の手紙であつた。大に叱られた。叱られた方が氣持がよい。あとで一枚發見したが、それは用事が濟んでから十日ばかり後の事であつた。(六)
             (明治四十二年三月「比牟呂」第一號)
 
(317) 徳本峠の林道
       ――夏の旅行地の感想――
 
 中央山脈から流出る梓川の溪流が、も少しで松本平に顛を出さうとする所に、島々といふ小村がある。松本から上高地に行かうとする人はこの島々で梓川に分れて徳本峠にかかる。いくら行つてもだらだら上りの林道である。もうそろそろ疲れる頃になつて道は急に險しくなる。汗は出る、息ははずむ、少々堪へられぬ心持になつて漸く峠の頂まで登りつめると眼界が急に展開する。鼻の先きに穗高嶽が立つてゐる。その右に槍ケ嶽が突立つてゐる。左に燒岳が烟を噴いてゐる。穗高嶽の谿間には八月半ばの雪が白く殘つてゐる。峠とこの連山を區劃する谿が非常に深く狹いために、穗高嶽の殘雪も燒岳の噴烟も手の屆きさうな距離を以て眼の前に見える。かぜが寒くて肌に粟粒が立つ。谿の底で駒鳥が鳴く。駒鳥の啼いてゐる下に溪の道は通ずる。降りつくすと溪流である。森が深くて瀬音がしない。穗高嶽里餘の山脚をなす岩壁はこの溪流に洗はれてゐるのである。岩魚釣りの竿の先が谿の雪に屆きさうに見える。流れに隨つて下ること一里上高地温泉に著く。
(318)       〇
 北海道の大森林は旭川を通り越してからはじまる。富良野川を溯つて狩勝越の隧道を脱けると汽車が山の上に出る。山の上から見渡される十勝の平野は一圓に只森の海である。去年は匆惶として歸つた。今年は狩勝越の麓に十日ばかり暮したいと思つてゐる。時季は秋を擇ぶかも知れぬ。
                    (大正七年八月「新潮」)
 
(319) 山浦の秋冬
 
       〇
 私の育つたのは信州諏訪郡八ケ嶽の裾野地方で通稱山浦といふ山地であります。純粋の農業地でありますから、一年問の食料薪炭といふやうなものは、所謂秋收めて冬藏する有樣であつて、秋から冬の初めにかけての爲事が可なり忙しいのであります。稻を收めるにしても夜遲くまで篝火や行燈の灯りで刈り取つて、晝それを扱いて棒打して土藏に藏めるといふ有樣です。夫れが濟むと女は菜大根を洗つて來年初夏までの漬物を味噌藏の中の大きな桶へ漬け込まねばならず、男は山へ出かけては茨炭《ばらずみ》を燒いたり、薪を採つたりして、土間や梁の上や家のまはりへ、ぎつしりと積み込まねばなりません。此の仕事のうまく行かない家は農村の中で一種の恥辱になりますから老若男女力のありたけを出して働きます。
(320) 稻刈りの篝火が田圃一面にともるのは壯觀です。篝火のあるところからは必ず稻刈唄が起ります。稻刈唄が途絶えると、稻を刈る鎌の音だけ鞫えます。稻には宵のうちから霜が置きます。霜の置いた稻稈を手に掴みながら刈る鎌の音は可なり寒く身に沁みます。唄で寒さを紛らして居りますが、腹の中では、誰でも鎌止めの鐘の鳴るのを待つて居ります。鎌止めの鐘といふのは、俗称三つ星といふのが、八ケ嶽の上空に昇るを待つて寺から撞き出す合圖の鐘であります。此の鐘が鳴つてから後まで、田圃に居ることは嚴重に禁ぜられてあります。若し此の禁に違ふと稲盗人にされてしまひます。村の若者たちは、この稲刈(夜刈と云つてゐます)が終へてから、村中を遊んで歩きます。夜刈の疲れを一杯の酒で恢復すると、直ぐ家から飛び出して村の四つ辻などへ集まつて、力石を擔いだり、娘のある家の庭に忍び入つて、罪のない惡戯《いたづら》なことをして夜を更かすのです。若者の體力の強さと、遊戯性の旺んなのには驚かされます。それで朝は暗いうちから起きて田圃の稲扱きや、棒打の用意に取掛らねばならぬのです。
       〇
 菜洗ひ、大根洗ひの時季になると、村を流れる谷川のはたへ、一村の女が皆集ります。十一月半から終り頃まででありますから、岸の紅葉が未だ多く殘つて居ります。その下で紅白の襷や犢鼻褌した女が莱を洗つで居るのであります。水が清冽で手が冷えます。冷えて冷えて冷えとほした後は、もう(321)平氣になつてしまふさうです。夕方は、洗つた菜大根を背負つて坂道を歸る。坂の上には雪をかぶつた八ケ嶽の頂が見えてゐる。この山に雪が三度降れば、その次には里まで降るといふのが山浦地方の言ひ傳へであります。雪の來ないうちに、女は菜大根を漬けこみ、男は薪や茨炭を積みこまねばならないのです。
       〇
 菜から切り放した蕪は土を扱いて、幾枚かの薄い片に切り上げ、それを日光に乾して蕪干《かんぼし》といふものにして貯藏します。大根や菜の漬け殘りは、藁繩で編んで軒に吊るしたり或は土中を深く掘り下げて、其の中に貯藏します。自然物に深く親しんでゐる人々は、一片の野菜をも無駄に投げ棄てることを惜しみます。
       〇
 斯ういふ仕事が一切終りを告げると、一村はすつかり靜かになつてしまひます。家々の北面に冬季の風を防ぐための藁圍ひが出來、木戸道に霜解けの泥濘を防ぐための藁編み物が敷かれれば、一村の男女皆自分の家に立て籠つて炬燵にあたつて居ります。所謂蟲の蟄するもの、鳥獣の伏するものであつて、日光と大地を相手にして生活する農民が、如何に原始的の純粹さと、素朴さを保つてゐるかが分ると思ひます。
(322)       〇
 この頃は、村の中の數軒づつが聯合して土窖《あなぐら》といふものを掘る時であります。土窖といふのは、地上三坪四坪位の處を方形に劃してそれを四尺五尺位の深さに掘り丁げ、窖の上に大きな丸大を渡して棟となし、その棟を中心として窖の上一面に藁を葺き下して、地上に達せしむるものであつて、南の一方だけに明り取りの紙窓が備へられます。男の土窖、女の土窖と分れて居りまして、男の土窖へは男が集つて藁仕事をし、女の土窖へは女が集つて、苧績みその他の仕事をいたします。土中でありますから外氣の寒さが侵入しないのでありまして、一冬の仕事が斯ういふ處で行はれるといふ事は、今の世に想像出來ぬほどの事であります。男の土窖の若者どもが、時々、女の土窖へ侵入して冗談口を叩くのでありまして、斯樣なことが、自から若い男女の慰安になるのでありませう。以上の如き事に關聯して、古來色々の土俗的傳説や逸話を傳へて居ります。それはここに略します。私が山浦を去つてから、もう二三十年になりますから、今は幾分變つてゐる所がありませう。
                (大正十二年一月一日「週刊朝日」)
 
(323) 諏訪湖畔冬の生活
 
 富士火山脈が信濃に入つて、八ケ嶽となり、蓼科山となり、霧ケ峰となり、その末端が大小の丘陵となつて諏訪湖へ落ちる。その傾斜の最も低い所に私の村落がある。傾斜地であるから、家々石垣を築き、僅かに地を平らして宅地とする。最高所の家は丘陵の上にあり、最低所の家は湖水に沿ひ、其の間の勾配に、百戸足らずの民家が散在してゐるのでゐる。家は茅葺か板葺である。日用品小賣店が今年まで二戸あつたが、最近三戸に殖えた。その他は皆純粹の農家である。
 山から丘陵、丘陵から村落へつづく木立が、多く落葉樹であるから、冬に入ると、傾斜の全面が皆露はになつて、湖水から反射する夕日の光が、この村落を明く寒くする。寒さが追々に加はつて、十二月の末になると、湖水が全く結氷するのである。
 湖水というても、海面から二千五百尺の高所にあるのであるから、そろそろ筑波山あたりの高さに屆くであらう。湖水よりも猶高い丘上の村落は嚴冬の寒さが非常である。朝、戸外に出れば、鬚の凍(324)るのは勿論であるが、時によると、上下睫毛の凍著を覺えることすらある。斯樣な時は、顔の皮膚面に響き且つ裂くるが如き寒さを感ずる。
 信濃南部の松本地方、諏訪地方、伊那木曾地方は、冬に入つて多く快晴がつづく。雪が少く、空氣が乾いて、空に透明に過ぎるほどの碧さを湛へる。皮膚に響くが如き寒さを感ずるのは、空氣が乾いてゐるためである。殊に、取訪地方は、信濃の他の諸地方に比して更に高所にあるから、寒さの響き方がひどいのである。寒さを形容するに響くといふ如き詞を用ひ得るは、空気の乾燥する高地に限るであらう。南信濃、殊に私の住んでゐる諏訪地方などには、この詞が尤もよく當て嵌まるのである。
 この頃になると、湖水の氷は、一尺から二尺近くの厚さに達することがある。それ程の寒さにあつても、人々は家の内に蟄して、炬燵に臀を暖めてゐることを許されない。晝は氷上に出て漁獵をする人々があり、夜は氷を截つて氷庫に運ぶ人々がある。氷庫といふのは、程近い町に建てられてある湖水貯藏の倉庫である。
 この頃、私の村では、毎朝未明から、かあんかあんといふ響が湖水の方から聞えて來る。これは、人々が氷の上へ出て、「たたき」といふ漁をするのである。長柄の木槌で氷を叩きながら、十數人の男が一列横隊をつくつて向うへ進む。槌の響きで、湖底の魚が前方へ逃げるのを段々追ひつめて豫め張つてある網にかからせるのが「たたき」の漁法《れふはふ》である。私の家は、村の最高所にある。庭下の坂が直(325)ぐ湖水に落ちてゐるのであるから、一列の人を見るには、可なり俯し目にならねばならぬ。俯し目になつた視線が、氷上の人まで達する距離は可なりあるのであるが、氷上の人の槌を揮ふ手つきまで明瞭に見える。氷を打つ槌先が視覺に達する時、槌の音はまだ聽覺に達しない。次の槌を振り上げるころに漸く槌音が聞える。それで、槌の運動と音とが交錯して目と耳へ來るのである。目に來るものも、耳に來るものも微に徹して明瞭である。單に夫ればかりでない。一列の人々の話聲までも手に取るやうに聞えるのである。空氣が澄んでゐる上に、村が極めて閑靜であるからである。
 村の人々は、又、氷の上へ出で「やつか」といふ漁獵をする。諏訪潮の底は淺くて藻草が多い。人人は、夏の土用中に、澤山の小石を舟に積んで行つて、この藻草へ投げ入れて置く。土用の日光に當てた石は、寒中の水にあつても、おのづから暖みが保たれると信ぜられてゐるのであつて、實際、凍氷の頃になると、魚族は多くこの積み石の間に潜むのである。それを捕へるのが「やつか」の漁法である。その積ゐ石をも「やつか」といひ、「やつか」の魚を漁ることをも「やつか」と言ひ做らしてゐるのである。「やつか」の所在は、1やつかしを置いた漁人にあつて何時でも明瞭である。氷の上に立つて、湖水の四周から、甞つて記憶に止め置いた四個の目標地點を求めれば足るのである。二個づつ相對する地點を連ぬる二直線は、必ずこの「やつか」の上で交叉することを知つてゐるからである。交叉の地點を中心として、半徑四五尺位の圓を劃して氷を切り取れば、その下に必ず「やつか」の石(326)群《いしむれ》があるのである。圓の面が定まれば、その圓周に沿うて竹簀が下ろされる。魚の逃げ去るのを防ぐのである。斯樣にしてから、湖底に積まれた石は、「まんのんが」(萬能鍬?)と稱する柄の長い四つ齒の鍬によつて、一つづつ氷の上へ掬ひ出されるのである。掬ひ出された石は、濡れるといふよりも凍つてゐるといふ方が適當である。水面を離れる石が氷上に置かれる頃は、もうからからに凍つてゐるからである。凍つた石が、終りに黒山を成して氷の上に積み上げられる頃は、「やつか」の底には青藻と共に揺れ動いてゐる魚族がある。日が射せば水底に簇り光る魚の腹が見える。魚族は逃げ場を失つて竹簀に突き當る。竹簀には、所々、魚を捕へるための牢屋(うけともいふ)といふものが備へ付けられてある。これは、一旦これに入つた魚の二度と外へ出られぬやうに備へられた竹籠であつて、魚族は、終りに多くこの牢屋の中へ入つてしまふのである。朝早くから氷上に立つて、牢屋の中へ魚が納るまでには、短い冬の日が一ぱいに用ひられるのであつて、竹簀をあげて魚を魚籃《びく》の中へ捕り入れる頃は、日はもう湖の向ひの山へ傾いてゐるのである。湖面を吹く風は、障るものなき氷上を一押しに押して來る。「まんのんが」を持つ手は時々感覺を失はんとするまでに凍える。その時には、携へた火鍋(鍋の手を長くして附けたものである)の中で、用意の榾木を焚くのである。或は又、氷の上で直接に藁火を焚くことがある。氷の上で焚火をして、その氷が解けてしまはぬ程に、氷が厚いのである。大凡周圍四里半の氷上にあつて、漁人の生活は、全く世の中との交渉を壮絶する。只日に一(327)度、辨當を提げて漁場へ運んで來る妻女の姿が氷上に現れる。氷を滑り鴨を追つて遊ぶ子どもの群れが、漁獵の多寡を見るために、ここの「やつか」へ立ち寄ることもある。さういふことが、單調な漁人の生活に僅少の色彩を與へる。「たたき」で捕つた魚も、「やつか」で捕つた魚も、所謂|氷魚《ひを》であつて、膏が乘り肉が締まつて甚だ佳味である。併し、その佳昧は、これら漁人の口に上ることは稀であつて、多く、隣の町へ運ばれて、多少の金と換へられるのである。
 氷切りの作業は、快晴の夜を擇んで行はれる。温度が低下して氷の硬度が増すからである。これは若者でなくでは到底堪へられぬ勞作である。若者は、宵の口から、藁製の雪沓を穿き、その下にかつちき(※[木+累]《かんじき》の義)を著けて湖上へ出かける。綿入を何枚も重ねた上に厚い絆纏を纏ふのであるから、體は所謂著ぶくれになる。横も竪も同じに見えるといふ姿である。斯樣な扮裝をした若者が氷の上に一列に竝んで、氷を鋸引きに引きはじめるのである。氷を引く手元は、初め暗くて後に明るい。氷に眼が馴れるのである。三尺四方程の大さに引き離される氷の各片が、切り離されると共に水中に陷る。それが氷鋏と稱する大きな鋏で挾み上げられる。挾みあげられたあとの水には星が映つて搖《ゆす》れてゐる。大凡一望平坦の氷原にあつて、空は手の屆くやうな低さを感ずる。星が降る如く光り滿ちてゐるのである。星の光は、水にあつて水の明りとなり、氷にあつて氷の明りとなり、その明りに全く馴れるに及んで、相隣する人の顔まで明瞭に見えるやうになるのである。夜が漸く更けて、寒さが益々加はる(328)と、氷原の所々に龜裂の音が起る。寒さのために氷が收縮(膨脹?)するのである。龜裂の音は、所謂氷を裂くの音であつて、氷原を越えて四周の陸地山地まで響きわたる。その響の中に立つて鋸を引いてゐる若者の背中には汗が流れてゐるのである。暫く立つて休息してゐると、その汗が背に凍りつくを覺える。さういふ時は、鋸の手を休めないやうにするのが、唯一防寒の手段になるのである。それ故、若者は只せつせと切る。腕が疲れると唄も出ない。只時々睡氣ざましに大きな聲を張り上げるものもあるが、それも、永く續かない。あまり疲れて寒くなれば、氷の上で例の焚火をして一時の暖を取ることもある。斯樣にして夜が白んで來ると、氷の上に積まれた氷板が山の如く累つてゐるのである。夜明けからそれを運んで湖岸の田圃に積み上げる。田圃には、連夜切りあげられた氷板が、長い距離に亙つて正しく積み竝べられて、恰も氷の壘壁を築いた如き觀を呈する。積まれた氷には多く筵類を引被せておくのであるが、覆ひの筵がなくとも、白晝の日光で氷の溶けるといふやうなことはないのである。海拔二千五百尺の地の如何に寒いかといふことは、是れで想像し得るであらう。若者は氷を積んでから、疲れた體を各の家に運ぶ。朝飯を食べてから初めて暖い床に入つて、ぐつすりと寢入るのである。斯樣にして得た金を、來春耕作の肥料に用意せらるるのは、經濟の上乘にある家である。
 私の村は、又、夜になると、所々の家から藁を打つ槌の響が聞える。氷切り等に行かぬ人々が、草鞋や雪沓をつくるのである。ひつそりとした夜の村に響く槌の音は、重くて鈍くて底のない響であ(329)り、聞いて居れば居るほど物遠い感じがするのである。氷叩きの槌の音は、遠くて近く聞える。藁をうつ音は近くて遠い感じがする。
 私の村では、又、日中所々の家に機を織る音が聞える。町に行つて買ふ布よりも、絲を仕入れて、染めで織る方が安價で丈夫な布が得られるといふのである。縫ひ物をする女は炬燵に居る、機を織る女はそれが出來ない。それで機臺は皆南向きの日當りのよい室に据ゑ付けられるのである。冬枯の木立に終日ひぴく機の音は、寒いけれども私の村を賑やかにする。どの家の機は今日で何日目であるとか、どの家の機は何日かかつて織り上がつたといふやうなことを、女たちは音を聞いて皆知つてゐるのである。閑寂な村にあつて、隣保相依る心は、機の音までが同情の交流になるのである。
 寒地である諏訪は、天然物が豊かでない上に、舊藩時代には誅求が可なり酷かつた。そのため、昔よりら人民に勤勉と質素と忍耐の習慣を造りあげた。信濃人は勤勉であると言はれてゐるが、その中で、諏訪人は殊に秀でて勤勉である。この習慣が今の生絲や寒心太《かんてん》の産業を生み且つ發達させた。私の住んでゐる寒村の人々が、嚴冬の湖上に於て、晝夜となく働いてゐるといふことは、その諏訪人の氣風の片鱗である。
                 (大正十二年「新小説」一月號)
 
(330) 目に見るもの
 
〇下町から本所深川一望數里ただ焦土である。小生のこの間を歩いたのは九月六日であるが、日本橋下にも、外濠にもまだ死屍が浮んでゐた。ぞろぞろ歩いてゐる群衆の顔が異常で、夫れが皆黙してゐる。聞えるものは救護用自動車の陸續往復する音ばかりである。歩むに從ひ悽愴感が怪異感になり、それに異臭が鼻を衝いて到底歩を續くるに堪へない。銀座から日本橋に出て、それから道を外濠に轉ずるまでに嘔吐を二囘した。信濃から三日がかりで上京した疲弊の上に頭を刺撃することが餘りに急劇異常であつたためであらう。神保町停留所で岩波書店の燒跡を見たときは感慨が特に深かつた。
〇子どもを伴れた婦人が多く死んださうである。骨肉の愛著は、幼者をおいて獨り遁れることを敢てしない。餘儀ない死である。痛しく美しい死である。浪吉の母は病める娘と他の二人の幼い娘をつれて厩橋邊を彷徨してゐたさうである。この邊に待つて居よと浪吉の父が叫んだ。それが恐らく夫婦親子一世の別れであつたらう。續いて浪吉の追ひ至つた時は、もうそこに姿が見えなかつた。母はとて(331)も子どもと離れて逃げることは出來ない性質だと浪吉は言ふ。悽愴の感が胸に迫るを覺える。生くるよりも美しい死である。
〇男女平等論が履き違へをして、男のする事に女が手を出す。社會的事業など言うて狂奔する女は、家にあつて哺育を專らにすることが出來ぬ。母子の情は自ら濃厚にあり得ない。これは世界各國の等しく罹つてゐる文明病の一である。左樣な病者に今囘の震災に現れた母子愛情の一片を示したい。生くるよりも美しい死である。愛は女のすべての命である。その力が死を敢てするまでに徹するのである。震災死者數萬中斯樣な死者も可なり多いであらう。それは日本のまだまだ心強い所である。
〇震災の際、東京在住各國人の驚倒した状態は可なり酷かつたやうである。某國の或る館内には男女の泣き叫ぶ聲が滿ちたさうである。世界人類が皆官能の滿足を求めて末梢部の追求に耽つてゐるうちに、臍の下が空虚になつて、どん底の覺倍がなくなつて來る。日本としても、都會は田舍よりもこの傾向が著しい。その結果、屁のやうな些事に目を瞠つたり、頓狂な奇聲を出したりするやうな變態の女まで出すやうになるのである。有體に言はしむれば、東京の女を田舍女ならしむれば、今囘の女の死者は、恐らく、ずつと減少するであらう。當方某地から東京に遊学してゐる二姉妹は、下町に借宅自炊してゐたが、地震と共に米一斗と家財道具一切(琴二梃を合む)を背負うて、逸早く上諏訪驛に著いたさうである。これは田舍女としても少し猛烈の方であらう。
(332)〇一體現今の文明は、自然を征服することを知つて、自然を尊重することを忘れてゐる。文明の中心をなす都會人は、あらゆる人工の便利と快樂とに依托して、庭に一本の樹木なきにも安んじ得る程度に迄押し進んでゐる。今囘の慘害には自然を無みした報いが可なり多い。慘害に目をさました都會人は、自然物の如何に尊いものであるかに思ひ至つていい。樹木は地震と共に倒れない。禽獣蟲魚は地震と共に死なない。五日夜代々木の家に寢た時、町民は未だ警戒の大騷ぎをしてゐるのに、家の庭には※[虫+車]がいつものやうに鳴きしきつてゐる。自然に遠ざかるものほど、その恐しさを平常自覺してゐべきである。元來、地震といふことは大地の自然現象であつて、少しも不自然な現象ではない。地震によつて大慘害を被るのは平常不自然な人工物にのみ依據してゐたものが、その最をなすべきである。都會の各地に大空地を作り、草木を茂らせ、道路を撰大して同じく樹木を茂らせ、各戸必ず樹木を立つべき餘地を置かしめ、電線の類の如きは悉く地下に埋設せしめれば、今までの都會は面目を一新して、ここに多少自然物との親しみを生じて來るであらう。自然との親しみ。これが唯一人間のどん底を作り得るのである。これは歌に於て平素我々の主張した所であつて、斯樣な事變に際して、殊にその感を深くするのである。小生は嘗て、某年若公爵が郊外大庭園(實は森林)を提出して、市民の住宅地に供するといふ計劃を聞いて、その今樣流行かぶれの思想であつて、不見識の甚だしきものであることを友人と語り合つたことがある。市街民に必要なものは先づ以て自然物である。住宅不足の如(333)きは交通機關の延長によつて、之を遠い郊外に求め得るのである。もし、人類が、今囘の如き災害によつて、幾分にても自然の威力と尊貴とを覺り、自己の生活を謙遜にし、質素にすることを知つて來たならば、それは、災害から生れた新しき幸福であつて、その幸福は災害の失ふ所よりも更に大きく貴いものである。待合や旗亭入り浸りの文士や、ダンス芝居有頂天の淑女らも少しこの邊で考へていい。
〇燒け慘りの市民が、戸々飲料水を行人に供し、或は玄米握飯を供して、罹災者を鼓舞してゐるを見受けた。町内相戒めて物價の暴騰を防ぎ、少年隊自ら進んで交通の整理に當つた所もある。施米を受取る人々は長く一列を作つて一糸紊れず、皆よく自衛自制の力を發揮し得たのは快欣の至りである。六日に岡氏が徳川家へ見舞に上がつたとき、徳川主公は玄米飯を食べて居られたさうである。有りがたい現象である。
O東京から避難する民衆が、貸物車に搭乘しつつ、口々に、攝政宮殿下の御安否如何を問ひ、御安泰と聞いて萬歳を叫んださうである。これが眞の國民性の現れである。涙出でんばかりに美しい話である。
〇多數市民中には、往々躁急に失した行動もあつたやうである。暴徒襲来騷ぎの如きは殆ど滑稽であらう。暴徒襲來したら軍隊之に當り得る。今夜更に第二の大地震ありと言ひ傳へて、知識階級者まで(334)戸外に寢たなども、同じく輕躁な滑稽である。或る人慨然として曰く、暴人あるも恐しからず、躁急なる日本人あるを恐るるなりと。國民各自の鍛錬が猶必要である。
〇沿道地方民の東京を思ふ至情には感じ入つた。往路信越線沿道桑畑の中に立つた女人子どもらが、夜中提燈をうち振つて「しつかり助けろ」「しつかり頼む」と叫ぶのを聞いた。女や子どもの斯樣な聲は、人をして涙ぐましめるに足りる。歸路中央線各驛には土地の男女が詰め切つて水、麥湯、握飯、葡萄、玉蜀黍、胡瓜、單衣などを給するを見受けた。小生も途中食料の贖ふべきなく握飯と葡萄、玉蜀黍、胡瓜を頂いて食べた。深く感謝の意を表する。(九月十三日)
           (大正十二年十月「アララギ」第十六卷第十號)
 
(335) 震災雜感
 
〇今囘の震災は、東京の人々を、根柢から赤裸々にして、自然の前に立たせたのであつて、人間のつくり上げた文化が、自然の前にどれだけの力を持つてゐるかといふことを、有りのままに人類の面前に示したのである。
 地上に人間のあることは、大自然の現れの一樣式である。自然の一樣式である人間が、自然に對して無關心であり、或は自然の前に尊大であり、有頂天であるといふことは、それが如何なる文化から生れ來れる現象であつても、左樣な現象を胚胎する文化の基礎に歪みがあるのである。歪んだ上に建てられた堂塔が、一朝にして崩壞すれば、殘るものは赤裸々な人間の蠢動だけである。現代人の根柢から覺るべき時が來たのである。
 自然を尊び、自然に親しんで、その前に從順であり謙遜であることは、小生等の常に念じてゐる所であつて、未だ甞て徹し得ない所である。現代歌人往々にして斯樣な儕《ともがら》の念ずる所を以て、現代離れ(336)のした老人の骨董いぢりに比せんとする。紅緑燈裡不夜街上の夢さめて、猶この言をなすならば、遂に歌人の群れの崩壞である。
〇小生は毎月東京に入る度に感ずる。東京には第一に新鮮な日光がない。煤煙砂煙土煙に隔てられたり、濁らせられたりするのである。稀に外を行く人は多く電車に乘り自動車に乘つて日光から隔たり、女人の顔面は白粉によつて日光から隔たり、稀に年若き男がその幾分を眞似る。第二に新鮮な空氣がなく、第三に新鮮な土がなく、第四に清冽な水がない。日と空氣と土と水の四大から隔てられつつある東京人が、自然との隔離を無關心にして人工的快樂を追求し、その獲得場裡に泣いたり笑つたりすることに血眼になつてゐる時に、地震が搖れ出したのである。現代人の覺るべき時が、千載に一度來たのである。
〇新東京の建築には、工業區域でも商業區域でも、家の四周に必ず樹木を立てさせるやうに定めたい。家と家との間に餘地が出來、下に草が伸び、上に枝葉が茂る。落葉が街上の風にころがり、木の果が暖簾の外に落ちる。東京の人々は斯る中で幼少から自然の手に育てられることが出來よう。街上に電線の網が無くなり、地下に電車の音が隱れれば、都會はここに文化地としての端正な品格が保てる。各地に大小の公園をつくり、その中に建物を少くして草木を茂らせれば鳥類蟲類が自由にそこに棲息する。東京は武藏野のつづきであるから、鳥類が多い。鳥獣蟲魚を一層多く招來することは新東(337)京のために必要である。自然物に親しんで、自然の恩惠から離れぬやうにすることは、平生の生活にあつて必要である。火災や地震のためにのみ言ふのではない。
〇どん底の境遇に立つて、はじめて人間本來の力が出る。その力は美しく、悲しく、而も偉大な力である。水の中に幼兒をさしあげて一夜をとほした女人や、銀行の金庫を守つて火炎の中に一夜をとほした店員の話は、小生等の肝に沁みて有難い。今囘の震災に斯樣な類話が甚だ多くあつたやうである。それを力強く思ふのである。都人の生活が今度甚しく質素になつたといふことも、自然から歩み出さうとする發憤の現れであつて、どん底の境遇から生れた有難い經驗である。これを永久に忘れぬやうにすることは人間の眞の幸福になるであらう。
〇小生九月五日上京、九日歸國、十九日に再び上京した。十日の間に東京人の面上にはずんずん活氣が現れてゐた。それを非常に心強く思ふ。廣い燒跡に忽ちにして假小屋が建つて、勢よく商ひをしてゐる所を見ると、野火のあとから直ぐ草の芽をふく心地がする。日本人はいつも若いといふ感がある。これは常若《とこわか》の國である。(十一月二日高木にて記す)
         (大正十二年十一月「アララギ」第十六卷第十一號)
 
(338) 山中雜筆
 
 私の村は、諏訪湖から山に向つて數町上つた高所にあるから、庭に出ると足下に湖水が見え、目の上には山が續いてゐる。人は上諏訪町下諏訪町へ避暑に來るといふが、私の家は二つの町の間にあつて、それよりもずつと高く凉しい村落にあるゆゑ、家にゐながら避暑をしてゐるやうなものであつて、夏は極《ごく》暮しいい。
 今頃、山は鳥の聲で賑やかい。杜鵑、郭公、筒鳥、斑鳩、鶯、四十雀、小雀、頬白、鶸《ひわ》その他の小鳥が終日聲を絶たない。家の内で聞いて居れば障子の外のやうに聞えるが、出て見ると聲は皆山にあるのである。山と言うても桑畠を隔てて、直ぐ向うにあるのだから、山で鳴くと言うても庭で鳴くというても大した相違はない。實際山の青葉と桑畠の緑と連つて私の窓まで績いて居り、山の上の風が木の葉を波立たせると、その波が段々下へ押しよせて桑畠を通つて私の窓へ無造作に寄せて來るのであつで、そんな事を一日繰り返してゐるうちに原稿紙の吹きまくられるのも知らずに午睡するやうな(339)事も起るのである。
 私が山を庭と思つてゐるやうに、鳥は私の庭を山と思つてゐるらしい。庭の石垣へ四十雀が巣をかけ、井戸端のアララギの枝へ鶺鴒が巣をかけ、屋根の上へは椋鳥が巣をかける。爲事の退屈まぎれに巣の中の四十雀を訪問することがある。石垣の前へ顔を近づけて中をさし覗くと、雛を抱いてゐる親鳥が息のはすむやうな奇聲を出して私の訪問を拒絶しようとする。同じく山中に棲んでも、鳥と人では仲善くなれないものと見える。蕃殖本能の力は大したものである。私が何度顔を石垣の前にさし出しても、必ず此の奇聲に撃退されてしまふ。さうして、四十雀は當然その雛の成長するまでこの中に居住すべきものと信ずるらしく、悠々と巣の中に立てこもつて、雛を育てあげて、山の木立に引上げて行くのである。
 村の造は殆ど山道に類する。それゆゑ私の村へは人力車が來ない。その他の文明の乘り物の通じないこと勿論である。村の道を通る人は日に一度來る郵便配り乾物魚類の行商等の外殆ど村の人ばかりである。村の人と言うても人口總計四五百人であつて、その人々が晝は大抵田や畠へ出てゐるのであるから、道を通る人は甚だ少い。私の村は人や車の音よりも鳥の聲の方が多い。殊に夜明けがたの鳥の聲は實に多い。土地が高いから、夏も曉がたの霧が立つ。霧の中に目ざめるもろもろの鳥の聲は、新鮮で活溌で清爽で、日中《ひなか》の鳴聲と撰を異にする。その聲の中から霧が剥げ青空が現れると一日の日(340)和が決まるのである。
 庭の下へは湖水が見える。湖向う一帶の山の背後から伊那の駒ケ岳が頭を出してゐる。この山には六月一ばい雪が見える。少し小高みへ上ると木曾の御嶽が見える。その山にも夏のはじめまで雪が見える。御嶽、駒ケ岳の方角から來る夕立はいつも湖水の向う側を通つて私の村へ立ち寄らない。それでも木戸口の胡桃や、李の葉を土藏の壁へ打ちつけるほどの風を湖越しに送つて來る。實際、私の村は山つづきの割合に夕立が少い。上諏訪の夕立も下諏訪の夕立も、どちらも僅か十數町離れてゐる私の村を置き去りにすることが多い。私の村へ落雷したのは、私の覺えてからただ一度あつたばかりである。(六月初旬)
          〇
 私の村では、又湖水の底へ湧く温泉を岸へ引いて共同の浴場としてゐる。この温泉を得るまでには村の人々が凡そ五十年の苦心を重ねたものである。田の中や岸の葭原へ十間二十間の井を穿つて何度も温泉を出さうと試みた末が湖水の中の温泉を岸へ引くことになつて三四年前に目的を遂げ得たのである。温泉開きの日は村の男女が殆ど皆この浴場へ集つて來て、天然の恩惠と村人の努力を感謝した。温泉は湖岸の田の中にあるから、板戸の外に稻が伸び石垣の下に波が打ち寄せてゐる。湯に來るものは私の村の人だけであつて顔を皆知り合つてゐるから、三十分も湯に入つてゐれば村の容子は大抵知(341)ることが出來る。男湯の話題は多く稻や桑や蠶の生育談收穫談であり、稀に議員の選擧といふやうなものも交じり、明神の祭禮花見相撲といふ種類も交じる。女湯の方は、隣の娘の帶が立派であるとか、何處其處の嫁が里歸りして十日も歸つて來ないとか言ふ種類の話である。さういふ話を三十分もし合つて居れば村の容子は大抵知つてしまふのであつて、此の温泉は村人の倶樂部であり新聞である。一面二面記事は男が擔當し、三面の記事は女が擔當して常住不斷の新聞を發行してゐるのである。私は此の新聞を讀み乍ら汗を流すことを毎日の日課の一としてゐる。(七月八日)
            (大正十三年八月「アララギ」第十七卷第八號)
 
(341) アナグラの生活
     ――三十年前の記憶――
 
 信州諏訪郡の東にある八ヶ岳山脈の裾野一帯に散在する村落を山浦と呼んでゐる。この地方の冬の寒さの烈しいことは、それよりもずつと低い平坦地にある諏訪湖が冬季一尺以上の厚さに氷結することからしても想像出來る。八ケ岳から續いた冬枯の森林、その間に拓かれた田畠、田畠の間に點在する民家、それが一樣に雪に埋もれて、その間を聯ねる道路は勿論雪の下の地面までも多く凍り上がつてゐる。この地方は降雪量が少いから、嚴冬の寒さが雪を透して地面のある深さにまで及ぶのである。かういふ土地では冬のうち、男子も屋外の爲事が出來ず、屋内でも、炬燵にあたつて居らねば何事も出來ないのである。それゆゑ、この地方では、冬季中多く土窖《つちあな》を掘つて爲事場とする。
 土窖を山浦地方では「アナグラ」と呼んでゐる。十一月中旬に秋の收穫が終へ、菜や大根の漬こみが終る頃に、この「アナグラ」は作らはじめられる。大抵家に近く、日當りのよい地形を擇んで、そこに二三坪の地を長方形に劃して、それを等身ほどの深さに掘り下げて立方的な窖にするのである。(343)その上に地上から藁を葺きあげて屋根をつくり、南を少し高くして日當りの障子を備へれば、それで「アナグラ」は出來あがるのである。ここは全然土中であるから、外の氣温が徹らずして地熱を多く保つことが出來、中に入れば、どかりとした併し土臭い漫氣多い暖かさを感ずるのである。大抵五六軒の若者が協同して一つの「アナグラ」を作る。五六人の若者が朝からここに集まつて、繩を綯つたり、草鞋や草履や雪沓を作つたりして、夜は三つ星の八ケ岳の上高く昇る頃、めいめいの家に歸るのである。敷物は藁しべであつて、その上に「ネコ」と稱する厚い筵やうのものが敷かれるのみである。屋根裏からはランプ吊りの鈎が下がり、窖の隅には等大の石二つを置いて鍋の尻を支へ得るほどの距離を保たせて簡單な爐を作つてある。この爐は若者の退屈まぎれに時々催す一六《いんろく》の勝手元になるのである。
 一六とは酒肴の費用を一六の頭割にする宴遊會である。肴は山で捕つた兎、雉子などは最上等であつて、時には闇汁の中から下駄の齒が現れ、馬肉の中に馬の腸《はらわた》が潜んでゐることがある。もつと惡戯なのになると、村の途上で埋まへた犬や猫の肉が一六鍋に入ることさへある。
 或る「アナグラ」の鍋に猫の肉の入つた時の話である。村の他の一人の青年がこの「アナグラ」を訪問した。丁度よい所へ來たといふので、この客人にも肉をつつくことを勸めた。一同口を動かしながら、今日攫まへた猫の野呂間であつた事を話しながら大笑ひをした。それは今肉となつて強健な若(344)者どもの齒に噛まれてゐる猫の最期物語である。客人は注意しながら、その物語を聞いてゐたが、そのうちに、口を開いて、猫の毛皮を見せてくれと言ひ出した。毛皮は、「アナグラ」の隅に束ねられてあつた。客人はその毛並を見るや否や顔色を變へて、口から唾をパツパツと吐いた。これは己の家の猫だといふのである。若者共は仰天して客人の顔を瞠つた。口の中の肉を噛むことも出來ず、呑みこむことも出來ないのである。客人は考へた。死んだ猫はもう取り返しが付かない。己がここに居ては若者衆が何うすることも出來ぬ。いつそ、ここを遠慮した方がよからう。さう考へたのでその意を話して「アナグラ」を立ち去つた。あとで、一同は皆苦い顔をして笑ひ出した。一同の家の飼猫が來年の春仔を産んだ時、そのうちの一等よいのを撰んで今日の返禮にしようと申し合せて、それで聊か罪を滅し得た心地になつて、更に慘りの肉をつつきはじめた。
 若者らは「アナグラ」内にあつて、脾肉の歎に埴へぬほどの元気を成してゐる。それゆゑ、時々斯樣な不善の挿話を交へながら、長い冬を土窖の中に送つて、來年の耕作に要する繩や草鞋を用意し、猶餘りあれば、それを市に鬻いで春季の肥料代金を補ふのである。それは丁度、山浦一帶の植物が、長い冬の間枯塙凋落の姿をしながら、その幹深く養分を吸ひあげて、來年の芽ぶきを待つてゐるに似てゐる。
               (大正十四年一月一日「大阪毎日新聞」)
 
(345) 温泉の匂ひ
 
 匂ひは自然物の氣品である。野薔薇の香ひは、白い花と青い葉の群れから流れ出る気品であつて、それを原料とする香水は、それがもう人工品であるといふ意味で氣品を減却する。たとひその香水が美人の膚からハンケチから匂つたところで、薔薇自然の香ひとは儔ひを異にする。その意味で、匂ひは、その周圍もしくは背景によつて、その価値を左右せられる。煉瓦建物の狹い庭に咲いた薔薇の匂ひも宜しけれど、水の清い溪流に簇がり咲く薔薇の花を望めば、未だ近よらぬうちに清香の襲ひ來るを覺えしめる。
 四大といへば大きな言ひざまであるが、火水風土のうち、火水土の三大相依つて迸り出づるものに温泉がある。小生は温泉を好み、從つて温泉の匂ひを愛する。先年、わが師伊藤左千夫翁に隨つて、信州蓼科山の温泉に行つた時は、裾野で日が入り、薄暮溪谷の雪を踏んで細流のほとりに出た時、温泉の匂ひ先づ鼻を襲ひ、次いで山の霧の朧な中から湯宿の灯を見ることが出來た。この心地猶忘れら(346)れない。今小生は伊豆温泉に滯在してゐるが、数日前、船原温泉よりここまで三四里の山越しをした時、山道の所々に椿が咲き、村里の家々に橙の果赤く垂れて、如何にも暖國らしい冬の趣を味ひながら、ぼくぼくと土肥の海岸村へ下りて來ると、温泉の匂ひがする。この匂ひ身に沁みていけない。曩のは寒國の匂ひであり、今のは暖國の匂ひであり、趣はおのおの異るけれども清高に徹するの感あるに於て一である。
 匂ひよきは多く植物にある。暮春に萌える木の芽の匂ひ、森深く匂ふ樹脂の匂ひ、秋は茸を藏する松の根の匂ひ、「斧入れて香に驚くや冬木立」の匂ひ、かやうな清香に親しみ得る田園人の仕合せを思ふ。冬木のうちで、香の高いのはヂシヤの木である。ヂシヤは寒國にあつて冬の終り頃から花がさく。花が匂はずして幹が匂ふのも藏するところあつて面白い。
 昨年十一月末、信州天龍川岸の時又といふ村落に冬至梅の咲きはじめてゐるを見た。或る家の庭から大きな一枝を乞ひ得て、諏訪湖畔の茅屋に置くこと半月にして、花が大抵開き今年元旦には滿開であつた。花が小さくて匂ひが甚だ高い。梅は小寒、大寒、餘寒の寒氣を背景として香の秀れるを感ずる。
 或る年の初夏、妻子を伴うて蓼科山の温泉に行つた時、湯の山に鈴蘭の簇生してゐるを見出した。それを子どもが掘り取りたいといふから、言ふがままに任せたれば、日暮れになつた。休火山の下に(347)群がり咲く鈴蘭の香ひは、箱庭の鉢の中のものと同日に論ぜられない。
 木本の花、草本の花、その香ひ皆結構である。ただ大輪の花は、その香ひが濃きに過ぎる。清い香ひは、小さく地味なものから泌み出るものらしい。(一月三十一日 土肥明治館にて)
                 (大正十四年「女性」四月號)
 
(348) 石
    ――「わが書齋の珍重」といふ課題を得て
 
 私の書齋には秘藏といふほどのものなし。或る地に遊ぶごとに、其處の小石一つづつを拾つて來て座右に置き文鎭の代用とし、兼ねて曾遊の記念とする。夏障子を開け放して恣ままに山の風を入れる時は、この文鎭四五を用ひて原稿や覺え書きの散亂を防ぐこともある。
 
         玉川の石
 
 緑泥岩?。長さ三寸弱、※[木+隋]圓扁倚状、圭角なし。大正六年五月玉川鮎漁解禁の日中央線立川驛より玉川原に遊んで拾うた。川原の空は雲雀が盛に鳴いてゐた。冬から鮎を食べたいと言うてゐた信州の病父にその夜の汽車で一籠の鮎を齎した。私がこの世で父に逢うたのはそれが最後であつた。
 
         金華山の石
 
(349) 花崗岩。長さ二寸強。※[木+隋]圓扁倚状。圭角なし。大正八年九月仙臺なる石原純氏と金華山に遊び風浪のために歸航を阻止されて海邊を彷徨した時拾うたのである。磯の石が皆白くて丸く、波の打ち上げる時澎湃の音が高く、波の引く時石と石と相轉じ相摩して戞々の音が起る。この音磯に建つて騷がしく且つ寂しい。
 
         伊豆大島の石
 
 熔岩。黒くして鐵滓の如く一方平にして据す。大さ二寸に及ばず。大正七年秋土田耕平君を島に訪うた時の記念である。當時土田君は數年孤島の茅舍に獨居し、生活状態餘りに簡素に過ぐるとの風評京の歌人間に傳はりしゆゑ、平福百穗畫伯と相談して、小生が彼の島に渡つたのである。拂曉舟の島に著いた時、磯邊の岩上に孤影佇立して舟を待つてゐる土田君の姿を見た。その時の感慨今も胸中に殘つてゐる。
 
         木曾御嶽の石
 
 安山岩。略三角。一邊長さ約二寸。大正十年夏二兒を伴うて木曾御嶽に登り、中途足疲れて二兒に脊を押してもらひ、漸く六合目小屋に達し、翌未明勇を鼓して遂に頂上を究めた。八九合目偃松帶の(350)雪の上に立つて御靈光を拝した時の心持は猶忘れ得ない。この石は頂上で拾うたのである。
 其の他八丈島、北海道狩勝越の麓、淺間山、蓼科温泉等の石は紛失してなく、族順二百三高地頂上の石と砲弾の鉄片は、彼處で負傷した出征兵士に記念として與へた。その他三四座右にあるも、冗長ゆゑ記述を省く。
                (大正十四年四月十九日「週刊朝日」)
 
(351) 凉味小品
 
        新凉
 
 金魚賣りの呼び聲が聞えると新凉先づ動くといふ感がする。小生の居村は信州の山中ゆゑ、金魚賣りの來る頃は櫟休も芽ぶかず、庭先きの柿も芽ぶかず、櫻の葉がやゝ伸びて、散り残殘りの萼が猶殘る頃であつて、晴れた朝は桑畑や庭に霜が見え、家の中には炬燵があり、春といへば春、夏といへば夏とも云へ、それで冬の風情も幾分殘つてゐるといふ頃である。さういふ山村へ金魚賣りの呼び聲が訪づれて來るのであつて、その聲を聞くと、夏の心先づ定まつて、即《や》がて新凉の動くといふ感がするのである。金魚賣りの笠は白くて大きい。それほどの大さの殘雪は村近い山の上にも、とぼとぼ見えてゐる。村の木立は流石に多く芽を吹いてゐる。その中を金魚賣りは聲を張り上げながら靜かに歩いて行く。その聲がすると、田舍の村落が餘計にひつそりと落ちつくのである。
 金魚賣りにつづいて來るのは若布賣りである。これは多く越後の女であつて、赤い襷に紺の脚絆を(352)穿いて、遙々信州路にやつて來る。信州ばかりではない。甲州から關東までも渡つて歩くと聞いてゐる。女の身空で旅から旅を渡り歩くのは、燕の渡り歩くよりもしをらしい。金魚賣りも、若布賣りも、大抵美しい聲を持つてゐて、新緑の山家に清爽の風鰺を添へるに充分である。小生の村はづれに石割工事があつた。その割り石の上に、二人の若布賣りが辨當をつかつてゐた。そこには、山から湧き出たばかりの清水が流れて居り、信濃柿の老木が一本立つて、些かの蔭をなしてゐた。
 
        新凉の二
 
 小生の村は、一方諏訪朝につづいてゐる。湖水ばたの青葭が四五寸伸びると、もう葭切が來て鳴いてゐる。毎年のことであるが、早いといふ氣がする。葭切の聲は如何にもみづみづしい。聲全體が水だといふ感じである。葭切の鳴くは、鳴くといふよりも囀る、囀るといふよりも、饒舌るといふ方が當つてゐる。それで朝から晩まで、月があれば夜までも饒舌りつづける。このおしやべりは、饒舌れば饒舌るほど、不思議に湖水がひつそりし、村落がひつそりする。新凉の一とすべきである。
 小生の村は、又、一方山につづいてゐる。櫟の稚葉がまだ白く、山吹が咲き殘つてゐる頃から郭公が鳴きはじめる。郭公の聲は人を呼ぶに似てゐる。餘り明瞭に人語に類するから、初めて聽く人は驚くかも知れぬ。毎年聽いてゐると、又來たなと思ふ親しさがあり、新緑の野山に普ねきを思はしめる(353)爽やかさがある。新凉の一とすべきである。
 
        早涼
 
 信濃は春が遲くて秋が早い。夏のもなかに山野に桔梗が咲いて芒が穂に出る。それでも日中は土を燬くほどの暑さである。夕方からやゝ凉しく、夜肌脱いで机に向つてゐると、背の少し冷え過ぎるを覺える。蟋蟀の生れるのはその頃である。生れたばかりの小さい蟋蟀が机に上ぼつて來て、硯の水を舐めてゐることがある。無論まだ鳴くことを知らない。筆の尖きで頭をつつくと、少し※[しんにょう+外]げて遠く去らない。この頃から天の川が天にはつきりと見える。信濃の冷氣は何處よりも早い。夏の夜空が東京の晩秋の空に等しい。
 
        村の温泉
 
 私の村には共同用の温泉が一つある。識訪湖中に湧く温泉を湖岸の田圃へ引いて來たものである。温泉の石垣へ湖水の波がうちつけ、温泉の戸口から稻田がつづいてゐる。それゆゑ、湯に居れば、稻の方が人の頭より高く、葉にのぼる晝の露が目の上に見えて居り、一方れんじ窓の外に湖水の波が闢けで見える。村の人は晝は田畑へ出てゐるから、日中來て浴するものがなく、清淨の湯が浴槽に溢れ(354)て直ちに湖水に落ちてゐる。私は毎日日中の數十分をこの中に過す。肩を沈めると、湯が音を立てて外へ溢れ出る。一人で占領するのは勿體ないと云ふ氣がする。
 村の子どもが時々來て、どやどやと湯に入る。湖岸の青葭で草笛をつくつて、湯の中で吹きつづけてゐるのもある。彼等は湖水に入つて湖水を泳ぎ、湯に入つて湯を泳ぐ、體は烏の子の如く黒い。日に燒けて日の暑さを知らず、水に入つて水の冷さを知らす、湯に入つて湯の心地よさを知らぬといふ健康さである。(五月二十日〕
           (大正十四年七月「アララギ」第十八卷第七號)
 
(355) カルサンと米
 
 先年、私の歌の友人が山形縣から上京した。子どもの時から山形の山中に百姓生活をしてゐて、近縣へもおそらく出たことのないのが、急に東京へ出るといふのであるから、可なり億劫な思ひをして、やつと決心したらしい。そのために縞のカルサンを新調した。耕作木樵用のカルサンは紺無地であるが、改まつた他出用には縞を穿く。その縞も上京のためにわざわざ新調したのであるから、友のためには容易ならぬカルサンである。友はそのカルサンを穿いて奥羽線上の山驛から汽車に乘りこんで、翌る朝上野驛に著いた。汽車の中でもカルサン著用の客は稀しい。況して東京の停車場や市中にカルサンを見出すことはおそらく絶無でゐらう。それゆゑ、友は汽車に乘り込んで以來、衆人注視の的となつたであらうけれども、その注視を氣づくほど鋭敏な近代人ではなかつた。上野驛へ著いていよいよ東京の土を踏んでも相變らす山形縣山中の農人であつた。この農人は第一に東京の市内電車に乘つて麹町の小生宅まで來る順序を知らなかつた。面倒であるから、いきなり目の前に止まつた或る電車(356)に跳び乘つてしまつた。車掌が停留所ごとにその町の名を呼ぶけれども彼にはすべて縁のない名前である。そのうちに神保町と呼ぶ車掌の聲が聞えた。彼はそれを聞くと直ぐ電車から飛び下りた。そして通行の人にこの邊に岩波書店といふ本屋の有無を聞いた。岩波書店は停留所のすぐ近くにあつた。彼は國にゐるとき、小生等とともに發行する雜誌アララギの奥付に發賣所岩波書店と印刷されてあることを知つてゐた。そして雜誌の賣捌について同書店より一方ならぬ御厄介になつてゐることを聞いてゐた。彼は車掌の呼ぶ「神保町」の聲で直ぐ岩波書店を想ひ起すとともに日頃御厄介になつてゐる自分等の雜誌のため感謝の意を表せずにゐられなかつたのでゐる。カルサン姿は間もなく岩波書店の店頭に現れ、ついで主人の前に導かれた。主人も可なりの木強漢であるが、目の前の農人姿には少からず驚異の目をみはつたらしい。何物であるかが分らなかつたのである。彼はそんなことには構はず、山形辨を以てズンズン自分の來意を告げた。自分は山形縣山中のものであるが、自分等の雜誌賣捌について非常に厚意を蒙つてゐることを聞いて久しく感謝の意を持つてゐたが、今度初めて上京して、たまたま電車の中で神保町の名を聞き急ぎ飛び下りてお禮を述べに來たのだといふのである。書店主人は非常に喜んで、直ぐ使を小生によこし、今山形からこれこれの人が訪ねて來た。是非一緒に晝飯をたべたいといふのであつて、小生も直ぐ出かけ七、書店の二階で初面會をしたのである。 この友人は小生方に數日滯在した。菓子を出すと、その菓子を掌の上に置いて、これは何錢ばかり(357)の菓子かと聞く。いかにも勿體ないといふ容子である。食べる時は一旦額の邊まで上げて頂いてから食べる。話をしながら時々羽織を氣にして手で撫でる。聞けば國許出立の時、父から借りて著てきたのださうである。
 平福百穂畫伯が夕飯をともにせんとして、やつて來られた。その時畫伯が紙を展べて、その友の肖像を描かうとした。友はいかにも恥かしさうにして坐つてゐた。描きをへてそれを友に贈るといはれてもなほ恥かしさうにしてゐる。菓子さへ頭上に頂いて食べるこの友が、畫に對して感謝の詞を述べない。あとで、この肖像畫の非常に貴重であることを話すと大に驚いた。明日お禮をいひに伴れていってくれといふのである。この友は小生等歌仲間にあつて優秀な作者である。その優秀な作歌は、この索樸と眞情とからいつも生れ出るのであらう。
 今一人の友人は信濃の山中に住んで同じく農人である。(今は他の職についてゐる)その友人の上京した時、白米一斗を土産として脊負つて來た。重かつたらうといへば、汽車の中は只だから、重いことはないといふ。電車に乘るに困つたらうといへば、米を負つてゐて乘らうとしたら、車掌が面倒いふから歩いて求たといふ。小生はそのころ雜司ケ谷龜原に住んでゐた。飯田町停車場から小生宅までは一里ある。それを脊負つて來て平気である。偉大な土産をくれたね。といへば、東京は米が高いといふから持つて來たのだといふ。この友、小生の貧しきを憐れみ、遙々信州より來り、貽るに米一(358)斗をもつてしたのである。忝ないには忝ないが、この米甚だ玄くして不味い。厚意を感謝して、他の米に少しづつ混ぜて頂くことにした。この友人も歌が甚だ優秀である。彼の優秀な歌は、米一斗を信濃山中から東京まで脊負つて來る努力と眞情とから生れ出るのである。(六月十九日)
              (大正十四年七月二日「大阪朝日新聞」)
 
(359) お玉じやくし
 
 先年小生雜司ケ谷龜原に住んで妻子を信州から呼びよせた時のことである。純醉の農村から急に東京へ來たのであるから、生活樣式が激變して妻も子供も少からず面喰らつたやうである。特に子供に一日も無くてならぬものは遊び仲間のお友達であるが、東京の子どもとは殆ど隔絶せる言語習慣を持つてゐる小生の子どもは、隣近邊の子どもをとらへて直ぐに遊び仲間とするに都合が惡かつたらしい。東京へ著いて二三日すると、もう寂しがりはじめた。東京はいい處でないと言ひはじめた。
 ある日、九歳になる次女と七歳になる末男が、尻をからげて泥だらけのバケツを提げて歸つて來た。バケツの中にはおたまじやくしが一ばいにうよついてゐる。何處から捕つて來たのかと問へば、護國寺境内の池の中だと言ふ。そんなに澤山は要らぬであらう、四五疋殘して、あとを捨てろと言つても却々肯き入れない。泥だらけのおたまじやくしを水に洗つて清淨のバケツに移して水中を泳がせてゐる。小生も子どもと一緒になつてそれを眺めてゐると中々面白い。まるでおたまじやくしのうづまき
 
         (360)である。うづまきの一つ一つが皆生きてゐる。目も鼻もないやうな大きな頭に直ぐ尾がついて左右に動いてゐる。小生は夫れを眺めながら考へて見た。子どもは東京へ來て取りつきどころのない孤獨なものになつてしまつた。偶々護國寺境内へ行くと、そこの池の中に子どもら舊知の友達がゐた。それがおたまじやくしである。捨てろと言つても捨てられないのは無理がない。このおたまじやくしは子どもらの今まで慣れ親しんだ生活習慣にすがる一本の絲である。その絲を手から離せといふのは無理である。子どもらは夜はそのバケツを枕元へおいて眠つた。捨てられてはならぬと思つたのであらう。
 田舍の子どもは多く自然物を相手にして生活してゐる。新鮮な日光と空氣と大地。大地の上に生育する草木と其の間を流れる水とは彼等の生活の全體を終始してゐる。それに比べると、都會の子どもは殆ど人工物を相手として生活すると言つていい。煤煙によごされた日光と空氣、地上には電車の軋る音、それに交はる群衆のうづまき、工場の雜音、活動寫眞の繪看板、淺草の人ごみ、銀座の夜店、八百八街店頭の飾り立て、さういふものの中に生育する子どもと田舍の子どもとは、生活の心理に大きな隔たりのあるのは勿論である。玩具にしても、田舍の子どもは、自然物を用ひて自分で製作するものが多い。青芝をむしつて姉樣を作り、苧稈を以て水車をつくり、葦の葉で笛をつくり、笹の葉で舟をつくり、麥わらで馬をつくるといふやうなことは、都會の子どもの想像にも及ばぬ所であらう。
 前記小生の子どもは、寒中諏訪湖の氷を割つて捕つた小魚を手桶の水に入れて、よく山の水田へ放(361)しに行つた。山の田までは道が可なり急であつて、それに雪が積つてゐる。その雪道を足袋も穿かずに登つて行く。魚を放す面白さに、素足の寒さを忘れてゐるのでゐる。さういふ生活は小生の子どもに限らず、田舍一般の子どもに通じてゐるのである。都會の子どもは末梢神經が鋭敏に發達して、智慧づきが早く、行状が對他的に慣らされてゐる。田舍の子どもは神経遲鈍で、智慧づきが遲くて底力がある。どちらが成人の後本物になり得るかは速斷出來ない。
 小生の子どもなどは東京の大道を尻まくりしておたまじやくしを提げ歩くといふ無作法ものである。中學や女學校へ入るのは一年や二年遲れても構はない。一年落第したら一年長生きをしろ。二年落第したら二年長生きをしろと言ひ聞かせると、子どもらは夫れを喜んでゐる。田舍育ちの子供には、入學試驗に外れて自殺するやうな少年の輩出せぬことだけは確かである。都會の子どもは暑中休みに田舍のたんぼへ入つて泥でもこねてみること、まれには藥になるであらう。      (大正十四年八月七日「東京朝日新聞」)
 
(362) 出羽ところどころ
 
         茂吉君の家
 
 大正十四年十月卅一日夜平福百穗畫伯に隨つて畫伯の郷里秋田縣に遊ぶべく上野驛を出發した。翌拂暁畫伯にゆり起されて窓外を見ると、板谷峠は已に過ぎて、汽車は羽前の谿谷を走つてゐた。谿を埋める紅葉も、紅葉の下を流れる谿流も未だうす暗くて却て新鮮清肅である。併し、畫伯の小生を搖り起したのは、小生をしてみちのくの拂曉色を味はしめるためではなくて、わが友齋藤茂吉君の郷村が近づくを知らせるためであつた。上の山驛を過ぎて二三のトンネルを拔けると果して金瓶村《かながめむら》があつた。耳に熟して目に初めてである。成るほど聞きしに違はぬ谿間の一寒村である。村家《むらや》は多く向うの山下に沿つて地がこちらに傾き、傾いた末に小川が流れて汽車の足もとを洗つてゐる。齋藤君の家は村家を離れて川に近く、周圍に杉を繞らして屋根ばかりが高く頭を出してゐる。多分齋藤君の師窿應和尚出身の寺と森を同じくして籠つてゐるのであらう。汽車には丁度橋田東聲君も乘り合せてゐた。(363)三人暫く森の中の屋根を眺めて、心に蓬髪垢面時代の茂吉姿を思ひ浮べて居たのである。茂吉君は十二三歳までこの地に生長し、それから東京淺草へ出て、更に今の青山腦病院に移つたのでゐる。
 
         鳥海山
 
 谿谷より山上、森林より原野、出羽の國は今正に紅葉の盛りである。色が濃くてやゝくすみを帶びてゐるのは、北海の潮風が秋冬多く濕氣を送るためかも知れない。或は、北地に遠く入つたと思ふ小生の主觀が手傳つてゐるのかも知れない。遊期を約して一度延び、更に二度延びて却つて紅葉の盛りに遭つたのは小生の幸であつた。羽後へ出ると一望平蕪の冬田原である。小生の郷里信州でさへもこんなに早く稻を刈らない。滿目荒凉といふは過ぎるが、僻地の冬は紅葉の過ぐるを待たないといふ感が多い。この一大平原を壓して天の一方に聳えるものが鳥海山である。山上には已に雪がある。雪は上に濃く下に薄く、下邊《しもべ》に至つてまばらであるから、遠く望んで碧空から無縫の衣をかけた觀がある。聞けば二三日前に降つた初雪であるとのことでゐる。小生の遊期は果して幸福を累ねてゐる。
 
         田澤湖
 
 大曲驛から生保内線に入つて谷が漸く狹く、紅葉が益深くなる。生保内驛から一里ばかり上つて駒(364)ケ岳の裾野に出ると道が少し下りになり、栗の樹の素枯れた間から田澤湖が見えはじめる。
 田澤湖の水の深きと清きとは今更ら小生の贅説を要しない。只小生の遊べる日、天よく晴れて水の碧《みどり》益碧く、地に微風なくして湖面全く鏡を拭ふの状であつた。それ故、畫伯と土地の懸會議員片野奥野二氏との厚意によりモーターボートを驅つて湖岸を巡る間、岸の老杉も山の紅葉も宛ら湖心に映つて、映つた影が却つて實物よりも鮮かなるの稀觀に接するを得た。人は田澤湖畔の自然林伐木によつて幽邃の趣を失つたと説く。恐らくさうであらう。併し、小生は天の時と地の時と遊ぶ時との三拍子が揃ひ得た爲めに、充分に山の湖の特色に浸觸することが出來、左千夫先生の田澤湖の歌や、百穂畫伯の「田澤湖傳説」やの心を想見することが出來た。況や夜半月天心に懸つて明かに湖面を照し、湖向うの山の凸凹に明かな陰影を畫するを見た時、小生多年の憧憬《あこがれ》がここに達せられた感があつたのである。
             (大正十五年一月三日「國民新聞」)
 
 紀行
 
(367) 修學旅行記
     ――長野縣尋常師範學校修學旅行――
 
 八月一日
 あしたより雨そぼふる。けふは京都をたちて奈良の方へ行かんとす。七條通をいでて、田舍の道をゆくほど、稻葉の末に東寺の塔はるかに見えわたる。すこしゆきて伏見街道一の橋を渡り、左に折れて八町ばかり行けば泉涌寺なり。此の寺は初め法輪寺といひ、弘法大師が開基にして眞言に屬せしが、文徳の帝の御宇齊衡三年左大臣緒嗣こを再建するにおよぴ、仙遊寺といひ、天台宗に歸せり。其の後又建保六年俊|※[草がんむり/仍]《じよう》法師こを中興してより、天台、眞言、禅、律の四宗を兼學し、尚寺内に靈泉のわき出るをもて泉涌寺と改めたり。第八十七代四條のみかどを初めとし、後水尾天皇このかた代々のみささぎ此の寺のうしろにあり。ことに今帝の御父にまします孝明天皇の御菩提所にましますものゆゑ、帝室の御おぼえこの上もなしとか。いにし年火のわざはひに逢ひしときも特に恩賜の金ありしといふ。(368)寺の界いと廣きを、まして千代の老松いと物ふりて折り折り音づるる梢の風もいそのかみ古き代をやかたるらんとぞおぼゆる。この寺には尚那須與市が墓もあり。これより山の間をすぎて慧日山東福寺にいたる。細き溪川ここかしこに流れ、ささやけき瀧の音木の間をもれてきこゆ。まことに彌陀淨土の心地もせらる。寺の位意は伏見街道一の橋の南一町餘りの處なり。南北に二つの門あり、北門は二の橋の南、南門は三の橋のかたはらにあり、この寺は建長七年九條道長の創めにかかり、天台宗にして聖一國師辨圓の開く所なり。古は七堂いかめしく立ちつらなりしを明治の火災にあひてよりこのかた大に衰へたり。されど名高き通天橋のみは此のわざはひをまぬかれ今尚紅葉の名どころとしきけばそぞろに來む秋のにしきおもひやられてなん。
 官幣大社伏見稻荷神社は此の南のかた八町ばかりにて道の東にあり、世の人は稻荷としいへば狐をまつるものなりとおもふもあんめれど大なるひが事にて、倉稻魂《うがのみたま》神、素盞嗚尊、大市比賣神を祭れり。倉稻魂神は農作五穀食物の神なり。されば國びとの皆あがめまつる神なれど、わけて農家のゐやまひたふとぶ神なりけり。大市比賣神は大山祇命の御女にして、素盞嗚尊に御合ひまして大年神を生み給ひし御方なり。この大年神もまた五穀に功績ありし御方なり。故に其の名をも大年とは稱するなり。五穀に功ある神を生める方なる故にここに祀れるにもあるべし。素盞嗚尊は國土を經營せし大國主神の御父にましまし、且つは大市比賣の夫なれば比賣を祀ると共に此處に祀れるなるべし。此の社かく(369)五穀のの神にていとたふとくましますを、狐の神なりなどと、ひたふるに心得るはいともかしこき事ならずや。境内廣やかにて杉松しげくむらだち、朱ぬりの社宇木の間がくれに見えておごそかなり。社のうしろには數多の諸社末社おぴただしく、こを順拝するを御山廻りととなへ、詣づる人常に絶えず。白狐の社とて狐をまつれる社此の末社の中にあるなり。
 これをいでてゆくに深草里あり。鶉の床もこのわたりなるを、いまはいまはしき墓と荒れ果てて古の名殘もつゆとどめずといふ。正保の頃迄はさすがに鶉の音も繁く、秋毎に杖曳く都人もいと多かりしを、土地のもの此のさわがしきを厭ひて其の草村をかりつくしたるより住むべき鳥もなきにいたりしとぞ。まことにみやび心なき人の上ばかりいまいましく口惜きはなからむ。歌なども出でねば只定家卿の「鶉なく夕べの空を名殘にて野となりにけり深草の里」、これのみぞ幾そたび繰り返されたる。此の里に藤森神社あり。舍人親王、早良親王およぴ伊豫親王の三座をいつきまつる。明治の十四とせといふに府社に列せられたり。境内に櫟の大木あり、世に旗塚といふものなり。つたへて神功皇后三韓征討ののち其の旗及兵器をここに埋めたまひし跡なりといへど覺束なし。例祭の神幸の行裝は早良親王異族征討のをりの軍勢の裝に擬らふるものなりといへど、親王異族征討のこと舊史にも見えねばこも恐らくはあやまりならん。此の森古は藤の花に名高くして藤森の名もありし程なれど、今はわづかにあとをとどむるにすぎず。
(370) ここよりわづかにして桃山にいづ。桃山は伏見町の東の方にあり、名高き伏見城の一部に屬し、豐臣氏殿舍の舊墟にして桃梅の花多し。わけて梅溪は見ゆるかぎり梅ならぬはなきに、春のけしきや如何ならんとぞ思ひやらるる。又宇治見臺といふあり。ここもまた梅の古木夥だしく、はるかに淀の川なみをのぞみ近く巨椋の池をたたゆ。まことに廣やかなるながめ詩人のいはゆる一幅畫圖とはこれをしもいふものならん。伏見の町は桃山の直の下にあり、此の町も古は只伏見野といひてさびしきあたりなりしを、豐臣氏ここにきづきてよりいと賑はしく人も集ひけり。城あとは東の方伏見山にあり、今は名殘もとどめで只城山の名のみ空しく殘れり。あはれ此のあたりも桃の花咲きの盛りの古は淀の川波、淵瀬豐かに絶えせぬ春をよばひ、御殿の松風音おもしろく千歳を調べたりけんを、飛鳥川の流れ定めなく、いつしかとうつろひ行きて代は江戸紫の花のみ打ちかをる夏となり、杜鵑葵の葉蔭に名のりそめたるぞめづらしき。方廣寺の鐘思ひ合せて
   かねのおと世にとよめきてもも山の花はあやふくなりにけるかな
 桃山をくだり巨椋の池をすぐ。此の池は大池ともいひてめぐり四里あまりあり。古は淀川の水これにそそぎしかば入江と稱せしが、秀吉の時東邊を切斷して中央に堤を築き、新に大和街道を通じて交通に便せり。池にははちすなど生ひひろがりたり。
 ここをすぎて尚ゆけば六地藏といへる小さき村にいづ。ここには正行寺といふあり。この寺は南朝(371)正平四年正月五日、河内國四條畷に於て楠正行が、弟正時、一族和田高家、同源秀、安見正寛などとともに討死せんとする折、隨臣|安間了意《あまれうい》をよび、遺命して「我が首を敵に取らしむるなかれ」と、了意、よらて其の首を携へ吉野に落ちのびんとするに、足利のつはもの道を遮りてゆくことを得ねば、遂に山城國|木幡《こばた》にいたり、城主清水掃部助勝家の舊好あるにたより、これとはかりて其の莊内六地藏に葬りたり。其ののち正平の十とせ十一月後村上天皇其の忠死を悼ませ、一宇の伽藍をおこしてなきあとを弔はせたまひたり。其の後天授六年九月二十六日正儀赤坂に討死するや、また其の臣に遺命して首をここに葬らしむ。南朝元中九年南北和議なるにおよび、後の世の鑑にもと、公の諱をもて正行寺と改められたるなりと、寺の人いふ。この人は安間氏のすゑにて、此のかすかなる跡を世に顯して、嚴かに社などたてんと久しき前より周施して、其の筋へも願書など度々出したるなり。されど時運のまだ向はぬにや、將た此の處の由來の此の人のいふ如くならぬにや、小さき堂の只一つあるのみ。首埋めたりといふ處は、其の堂の縁の下にて、いぶせく蜘蛛の絲のまとひたる中に、あやしき五輪のいと小さきが横はれるのみ。外より此を見んには這ひ伏して、わづかにのぞき見るのみ。寺の人のいふこと果して正しとすれば、此の有樣にては、いとあさましききはみならずや。思へば涙もよほされてきこえまつる言の葉もいでず、只此の一ことを
   おもひきや君がみたまのおくつきのかかるみ寺に荒れまさむとは
(372)聲もくぐもりて只心に誦しまつるを、地下のみたまきこしめすや否や。
 大池このあたりより見ゆ。巨椋池又小倉池と稱し、東西三十二町南北二十四町周囲四里十一町あり。池には芙蓉《じゃちす》多く花時は芳氣遠くきこえ、見わたすかぎり紅緑を見て水を見ずとかや。冬は水鳥多くて遊獵に宜しといふ。古へ淀川の流れ茲に瀉ぎしかば入江と稱せしが、豐公東邊を斷切して中央に堤を築き水の害を除き、新に大和街道を此の堤上に通じて交通を便にせり。
 黄檗に行けば名高き黄檗山萬福寺あり。全州黄檗派の總本山にして、明の福州の人隱元和尚の開く所なり。和尚は承應の三年(四代家綱の時)我國に渡り來り、萬治三年台命により此の地を賜り、寛文の三とせ伽藍を創めたり。抑も全州はさきに臨濟が榮西により、曹洞が道元によりて傳はりたりけるを、ここに又黄檗派が此の僧によりて傳はりつるなり。樓門堂宇鐘樓多く立ち連りて宏壯かぎりなし。城南第一の巨刹なりとききしは實にとこそ覺え乙たれ。今上天皇陛下の宸額「黄檗山」もあり、たふとしともたふとしや。此の寺の樣凡て唐風にて、是れ迄見つる諸々の寺とはまたくその樣を異にせり。讀經の聲も木魚の音も唐音にて、此の寺に入るもの宛然とつ國の寺に入れる心地なんせらるる。
 黄檗には火藥庫のいかめしきがあり、全國軍用の火藥は皆此に藏せり。(餘所なるは只いささかのみなり)伏見分營なる工兵五十人づつ週交代にてここを護るといふ。
 宇治川の北のほとりに菟道あり。南の岸に宇治あり。古は斯く區別したるにはあらざらんを、今は(373)斯くかきわけたり。菟道は即ち應神天皇の御子稚郎子のきみのいましし處にして、今此處に御陵いかめしう立てり。道の傍なれば直ちに伏し拜みて過ぎぬ。
 京をいでしより此のあたり茶畑打つづき手入れは能く行きわたり、圓やかに茂れる株のことごといと見事なり。茶摘の候「木がくれて茶摘もきくやほととぎす」の好風情も想ひ出でられてあはれなり。
 宇治橋の橋ぎはに至りて橋寺、本名放生院なる名高き宇治橋斷碑を見る。此の碑は大化二年僧道登始めて宇治橋を造りたる故よしをしるせるものにて、寛政三年此の境内より、碑の斷片を見いでしたるが其の文に
   ※[さんずい+免]々横流 其疾如箭 世有釋子 名曰道登 大化二年 丙午之歳
とのみありて他の半は見えず。されど其の全文は扶桑略記などに見えて
   ※[さんずい+免]々(タル)横流 共疾如v箭 修々征人 停v騎成v市 欲v赴2重深(ニ)1 人馬亡v命
   從v古至v今 莫2知v航葦1 世有2釋子1 名曰2道登1 出v自2山尻惠滿之家1
   大化二年 丙午之歳 構2立此橋1 濟2渡人畜1 即因2微善1 爰發2大願1 
   結2因此橋1 成2果彼岸1 法界衆生 普同2此願1 夢裡空中 導2其苦縁1
とありてより、尾張の人小林亮適といふもの、石を舊碑に補ひて下文を刻し、同寺の庭に立てたるが即ち今のなり。ある書には道登を道昭といへり。二人ともに奈良元興寺の僧なり。古ほふし等が世の(374)わざはひをなせることも多かれど、道を通し橋をわたし田野を開き山林を殖やしなどせる其の功は亦許多なりけるなり。偖此の橋相道登が造りし後屡々改造のことありしが、弘安九年の改造には其の十月十八日橋供養の式ありて、龜山上皇にも行幸あらせられたりと。橋の長さ八十三間五尺五寸にして今のは古のものより數町ばかり川上にありといふ。「奈良土産」といふ一小册子たくみに此の橋のことをかきしるしたり。
   宇治川は山城中第一の大河にして、此に橋を初めて架せしより南方の喉口となる。後幾星霜をへて、治承には橋を斷ちて三井の法師等兩岸の大軍を驚かし、元暦には又橋をひきて先陣を爭ふ。承久の亂およぴ代々の合戰に宇治勢田の橋をひくこと數囘なり。後豐臣の世には三の間の水を賞し、霞におつる柴舟は山吹の瀬をはやみ、川霧の絶え絶えに釣する船のなみにうかみ、あるは岩間によりて年魚をくみ、川邊に棹さしめぐりて螢の飛びかふを興じ、山水は清暉をふくみ虹彩は河流に架す、實に當國南方無比の勝地なり。
と霞におつる柴舟とは寂蓮法師の
   くれてゆく春のみなとは知らねどもかすみに落つる宇治のしばぶね
などいひしをかきたるなるべし。川ぎりのたえだえになどいひつるも定頼の
   あさぼらけ宇治の川ぎりたえだえにあらはれわたる瀬々の網代木
(375)などおもひあはせつるならん。
 橋をわたれば直ちに平等院なり。朝日山といひ、天台淨土の二宗なり。河海抄に
   當院は河原左大臣融公の別莊なりしが、其の後陽戌天皇此の地に行宮をたてられ宇治院と號す。又朱雀天皇のここに遊獵したまふこと李部王記に見えたり。後六條左大臣雅信公の所領となりしが、長徳四年十月御堂の關白此の院を得て山莊とし遊覽の地となし玉ひぬ。後共の子宇治關白頼通公永承七年に寺となして平等院と號す。云々
とあり入口に扇芝といふあり。源三位頼政兵を擧げて此にこもり、戰敗れて扇を敷きて芝に坐し自殺したりといふ處なり。石の垣もてゆひめぐらし、内に扇芝と題して
   花さかで實となるならば後の世にもののふの名もいかでのこらむ
とかきしるして、終りに江戸近藤氏寛とあればこの人の建てたるものならん。此は頼政卿の辞世に
   埋れ木は花咲くこともなかりしにみのなるはてぞあはれなりける
といへるに對してなり。此の外尚一つのいしぶみあれど苔いたくむして記しし文字もさだかならず。あまつさへ夏草ふかく生ひしげりて碑も見えぬばかりなり。おのれもいとどかなしさに
   花さかでうもれしあとをなつぐさのしげみがなかに見るぞかなしき
 此の傍に源融公の釣を垂れたまひし釣殿のあとあり。これより頼政の墓を見る。當院の一隅にあり、(376)荒れ果てて只一つの塔のみ立てり。塔は六段の石より成り苔むしていと古し、「花さかで」といひにしを今もまた此の荒れたるおくつきに埋れ果てたりと思へば、そぞろあはれに身の外の悲しさも催されてなん。
   なかなかに世に埋れ木となりはてでこと葉の花は世ににほふかな
 最勝院に入りて寶物を見る。例の繪などいと多し。楮虫畫は明の趙千里の筆にてめでたきにや其の筋の艦査状などもありたり。土佐光起のかきたる高倉の宮以仁王の御像およぴ頼政の像もあり。其のほか擧げんもいと夥しければ省きつ。縁傳ひに行きて本堂の本尊を見る、不動明王なり。これを出でて淨土院前を通り鐘樓へ行く。此の淨土院は即ち融公の別業なりしといふ。鐘樓には日本三鐘の一なりといふ鐘をつりたり。(音は三井寺形は平等院銘は神護寺)
 名高き鳳凰堂も美術の目なければ何ともえいはれず、只よしとのみ見えつ。此の堂は本堂を鳳の體とし、左右の高棲を兩の翼とし、後廊を尾とし、鳳凰が翼を張りて天より降るにかたどり、本堂の屋上には又雌雄の銅鳳をのせ風に從ひて旋轉せり。堂の名も此にちなみたるなり、共の結構諸部の釣合寸分も増減すべからずといふ。此の堂は永承年中頼通公建立のこのかた囘禄のわざはひにかかりし事なき八百年前の建物にして、内には本尊阿彌陀如來を安置す。定朝の作れるものなり。定朝は奈良朝彫刻の盛時を除きては他に比ひなき勝れたる彫工なり。四壁三方の盾戸には繪所の長者宅磨爲成がゑが(377)ける觀經曼陀羅あり、又源左府俊成の書けるものあり。天蓋、瓔珞より天井、佛壇、四壁にいたる迄皆珊瑚、螺鈿、七寶などを鏤ばめたり、其の美麗莊嚴他に比ぶるものなし。いぬる年米國「シカゴ」博覽會へ模造して出品したるものなりと、されど入りては見られず。そは此の堂のいと尊ければ博覽會出品の年頃より宮内省の御物となり、京都府知事預り守りて寺僧の自由にまかせざる定めとなりたればなり。口惜しき限りにこそ。あなたこなたに廻りて外より見るに建築の樣實にとこそ覺えたれ。庭より初め池のたたずまひも只ならぬに、蓮のまばらに生ひひろごれる樣など、いづれをかしからぬかは。さて今は大方見果てつれば、かの茶亭によりて晝飯たうぶ。暫しをやみし雨又いみじうふり出でたり。今宵の宿の長池といふには道もまだ遠きを、雨さへ降りそはりて心細さいはんかたなし。大方此の頃は雨一日もはれたるはなし。いかなれば斯くは降りしきるらんと心なき空までも恨まれてなん。
   くさまくら日をふるあめに旅衣ほすべきひまもなくなくぞゆく
 ここを出で宇治久世などを過ぎて富野庄村なる長池につきぬ。今宵のやどは大和屋外一軒なり。よくもあらぬ家なるに、雨の處せくふりたる何より心ぐるし。腹痛するもの頭痛するものなどもあり。
 
 二日                           .
 長池をたちて奈良におもむく。けふもまた山々のくも晴れゆかず、いと心ゆかぬ空合なり。
(378)   峯のくも晴れむともせずけふもまた雨になりゆくしるしなるらむ
 道すがら茶畑いと多し。實に品質も産額も我全國に秀でたる茶は此の邊りの産出にかかれるなり。五十町ばかりくれば玉水といふ里あり。此の里に橘諸兄公の舊き家あとありといへど、けふの道いそぎを見ればよりても見ず。古の山吹の名殘は何處にかあるらん。蛙はかまびすしう鳴けど珍しとも聞えず。綺田《かばた》にゆけば高倉神社あり。以仁王をまつれり。王の御陵も其のかたへにあり、之ぞ治承のとき平等院に戰敗れたまひて頼政が自殺せるのち、南都へと落ちさせ給へる途すがら流れ矢に斃れさせ給ひし處なりける。あはれ紫の尊き上に生れたまひて世の樂にのみ明し暮しせさせ賜ふ御身の上なるを、斯く亂れたる世に逢はせ、雨ととぶ矢の面に立たせ賜ひ、剰へ御運拙くて畏き大御身を此の野中の露に曝らさせ賜へることの口惜しさよ、あなかしこ、思へば腸もちぎるる許なり。涙をはらうて伏しをがみ出で行きぬ。
 此のあたりより木津川の大きなる堤に添うて上るなり。泉橋をわたれば木津町なり。橋は木津川に渡せるいと長きものなり。此の川は一に泉川といふ。古へ武埴安彦の叛けるとき皇軍と此の川に挑み戰ひしより桃川《いどみがは》といひしが、それより轉じて泉《いづみ》川といひしなり。此の橋を泉橋といふも河の名にちなみてなるべし。此の橋の北のあたりに、いささか廣き處あり、聖武天皇恭仁の宮のあとなりとかや。鹿脊《かせ》山といふは河の南木津町の東にある小山なり。古今集なる「川かせさむし衣かせ山」も此の川、(379)この山なり。町のはづれには式内岡田國神社あり。尚すこしゆけば神武天皇の遙拜所といふあり。
 小さき坂を上れば山城大和の界にして淀川と大和川との河領の分水嶺あり。ここの遣は古の道とは異にて、古のは尚西の方にありて今は廢道なり。奈良坂とは此處の坂道なるを今其の名なる町もありて奈良の一部なり。さてここより直ちに奈良町なり。古のことども思ひ出でて、あはれも一入なり。
 人口の左に般若寺あり。此の寺は第三十五代舒明帝の勅をうけて高麗の慧灌法師の始めて般若臺といふものをたてたりしが、のち聖武帝の御時伽藍となりて般若臺をあらため法性山般若寺と號したるなり。今は荒れ果てて只さびしき堂二三立てるのみ。元弘の亂に笠置の城にたてこもり、大力もて名をあらはししもこの寺の僧なり。皇子護良親王が難をさけて隱れまししもこの寺なり。其の折の大般若經櫃も今にのこれりといへばこひて見つ。長三尺五寸幅二尺五寸深サ二尺もあらん。蓋なども破れそこねていと古めきたり。あはれ此のいぶせき寺の内にかくれさせ、此の小さき櫃の底に御息をこらさせたまひしをおもへば、今尚袖もしぐるるばかりなり。此の他み子が御いたづきのほど擧げんも言の葉足るまじくなん。あるは御身をあさましき山伏のすがたにかへて熊野に落ちのぴさせたまひ、あるは高野の朝風に御涙を拂はせ、十津川の瀬音に御心を碎き、吉野の山下露に御夢をさまさせたまひしなど、ひたすら大君の爲めに盡しまつろひし御心のまめに、めでたきはいふもさらなるべし。あはれ北條の木枯、其の初め星月夜鎌倉山に吹きそめてより、露たゆむまなく、遂にはかしこき大内にま(380)でもあれまはり、あまつさへ竹の園生に冬枯のあはれを見するにいたれるは、かなしくもにくき限りならずや。
 東大寺、興福寺、春日神社、師範學枚などの前をすぎて猿澤池のほとりなる金波棲といふ宿につく。休みもはてぬに、これより此のちかきあたりの古跡を見んとの師の命ありたれば、急ぎ打ち揃うて先づ興福寺にゆく。此の寺は初め山城國宇治郡小野里にあり、中臣の錬足の建立にかかり山階寺といひたりしが、後大和飛鳥に移して厩坂寺とよびたり。元明天皇遷都のことありしより淡海公不比等此の寺を今の地にうつされたるなり。南都七大寺の一にして法相宗なり。入口に南圓堂あり、こは弘仁四年藤原冬嗣公父の志をつぎてたてたるものなり。神皇正統記に
   冬嗣のおとど藤原の衰へぬるをなげき、弘法大師に申し合せて、興福寺に南圓堂を立て祈り申されけり。このとき明神役夫にかはりて
    ふたらくの南の岸に堂立てて今ぞ榮えんきたの藤なみ
と詠じたまひけりと。
 北の藤波とは冬嗣公は藤原の北家なれば其の意をよまれたるなり。ふたらくの山は觀音淨土なるを興福寺になぞらへたるならん。この歌によりて冬嗣公自家の榮福を祈りたる意明らけし。堂の前に金銅の燈籠一基あり、橘逸勢の寄進にして空海の書ける銘をゑりたり。南圓堂の北に北圓堂あり。
(381) 金堂はこの北なり。入りて見る。建物は享保火災後のものなれども、古に擬したれば奈良時代寺院建築の樣式を見るに足らん。本尊釋迦如來は金銅佛にて、鎌足公が入鹿を討たんとしたまふとき、事成らば釋尊丈六の像を造らんと、誓願して事果てて後作りまつりし尊像なりとぞ。此の堂には古佛像の優れたるが多し。無著、天親其の他菩薩の像、運慶作の二王、四天王、十二神將などあり。是れ等の中には銅像あり、塑像あり、乾漆像あり、いづれも千年前後を經たるものにて、極めて精巧なり。東京博物館美術の部に、ここなる像の模造ここら陳列せりといふ。堂の一隅に鐘をすゑたり。神龜四年の鑄造にして、日本にて鑄鐘のもとも初めなるものなりと。東金堂の前には花の松あり、枝生ひしげりて物ふりたり。此の堂は聖武帝のとき建立せしものなるが、其の後炎上し、今の堂は應永二十二年の剏めなり。堂内三文珠大士、維摩居士の二木像は大佛師運慶の作にして、四天王、十二神將の木像なども皆逸物なり。尚當寺第一の寶物といふものは華原磬、泗濱浮石といふものにして、奈良朝時代になりしものなり。五重の塔は此の傍に高く聳えたり。此の塔は今より四百七十四年前應永二十六年の建立にて、結構も巧みなりといふ。中に佛體を安置す。抑も此の寺は藤原氏の菩提寺なれば、古は其の勢ひといひ、伽藍といひ、世にときめきしを、藤波のゆかりとともに、いつしかあせゆきて、むなしきあとのみ多く、縣廳、師範學校、裁判所、郡役所など皆此の寺の境内なり。前にあげたるもろもろの堂は、此のあれはてたる境内に物さびしくのこれるなるを、今はこれさへをさまらぬ樣見え(382)たり。大金堂再建の計畫は數年前よりなしつつあれど、いつ成るべきか。
   たのめてし藤の葉かげに秋の來てみのりの庭もさぴしかりけり
 飛火野を過ぎ、氷室の社の前を通りて東大寺にゆく。飛火とは螢をいふなりとぞ。ある説には古へ烽火を擧げて急事を奈良の都へ報ぜし處なればかくは名附けしなりと。野守の池(一名鏡の池)も此のあたりならんとおもふを
   こととはん野守も見えず飛火野の鏡の池やいづこなるらむ
 左に折れて南大門に至る。大門の中には仁王あり。世に運慶の作といへるはあやまりにて、一方は快慶、一方は定覺なり。二人は運慶とともに康慶の子なり。何れも彫刻上名高き大家なり。仁王の裏にある石の獅子一對は建久年中の作にして、其の工人も宋、其の石も宋より持ちきたりたるものなりといふ。大佛殿の前には金銅の燈籠あり、八角にて、佛像及戰爭の圖を鑄、柱には經文を彫れり。明人陳和卿の作といひ、又俊乘坊が宋よりもたらしたるなりといへり。其の筋の人の鑑定によれば其の時代よりは尚古くて、天平時代の作ならんとなり。
 東大寺は大和の國分寺、又日本總國分寺なり。南都七大寺の一にして又の名を大華嚴寺、恒説華嚴寺、城土寺、相國本寺、金光明四天王護國之寺などいへり。大佛は此の寺の本尊にして、大佛殿は即ち此の寺の金堂なり。こは聖武帝の御本願にして天平十五年僧行基と良辨僧正との二人がみことのり(383)を奉じて建てたるものなり。堂の大なるはいふもさらなり。内にすゑたる金銅の大佛のいかめしきは大方の人のしる所ならん。其大さ及び材料は朝野群載にのせて左の如し。
 金銅盧舍那彿像一躯結跏趺坐高 五丈三尺五寸
 面長一丈六尺 廣九尺五寸 髻高 三尺 眉長 五尺四寸五分 目長 三尺九寸 鼻前徑二尺九寸四分 同高一尺六寸 鼻長三尺二寸 耳長 八尺五寸 肩長二丈八尺七寸 胸長 一丈八尺 臂長一丈九尺 腹長一丈三尺 自肘至腕長 一丈五尺 掌長 五尺六寸 中指長 五尺 脛長 二丈三尺八寸五分 膝厚 七尺 足下一丈三尺 螺形九百六十六個 高各十尺 徑各三尺六寸
      高 一丈           高  八尺
 銅座   徑 六丈八尺
      上周 二十一丈四尺   石座 上周 三十四丈七尺
      基周 二十三丈九尺      基周 三十九丈五尺
 熟銅 七十三萬九千五百六十斤
 白鑞 一萬二千六百十八斤
 錬金 一萬四百三十六兩
(384) 水銀 五萬八千六百二十兩
 炭 一(一本作廿)萬六千六百五十六斛
 圓光 一基高十一丈四尺 廣九丈六尺
 此の大像を鑄立てんとし賜ふや、當時手を加ふるものなかりき。然るに國中連公麿《くになかのむらじきんまろ》が天智帝の時本國百濟の亡滅に逢ひ歸化せる人の裔にして、頗る巧思あり。大鑄師三人を卒ゐて事をとりしが、三年を費し鑄ること八ケ度にして漸く成りぬ。此の大像を造らるる折、聖武帝天下にみことのりしてのたまはく
   朕以(テ)2薄徳(ヲ)1、恭(ク)承(ケ)2大位(ヲ)1、志存(シテ)2兼濟(ニ)1、勤(メテ)撫(デ)2人物(ヲ)1、雖(モ)d率土之濱已(ニ)霑(フ)c仁恕(ニ)u、而(ドモ)普天之下未(ズ)v洽(カラ)2法恩(ニ)1、誠(ニ)欲(ス)d頼(リテ)2三寶之威靈(ニ)1、乾坤相|泰《ユタカニ》、修(メテ)2萬代之福業(ヲ)1、動植咸(ナ)榮(エムコトヲ)u、粤《ココニ》以(テ)2天平十五年、歳次癸未十月十五日(ヲ)1發(シテ)2菩薩(ノ)大願(ヲ)1、奉(リ)v造(リ)2盧舍那佛金銅(ノ)像一躯(ヲ)1盡(クシテ)2國銅(ヲ)1而(シテ)鎔(カシ)v象(ヲ)、削(リテ)2大山(ヲ)1以(テ)構(ヘ)v堂(ヲ)、廣(ク)及(ンデ)2法界(ニ)1、爲(シ)2朕知識(ト)1、遂(ニ)使(メン)d同(ク)蒙(リ)2利益(ヲ)1、共(ニ)致(ラ)c菩提(ニ)u、夫(レ)有(ツ)2天下(ノ)富(ヲ)1者(ハ)朕也、有(ツ)2天下(ノ)勢(ヲ)1者朕也、以2此富(ト)勢(トヲ)1造(ル)2此尊像(ヲ)1、事(ハ)之(レ)易(クシテ)v成(リ)、心(ハ)是(レ)難(シ)v至(リ)、但(ダ)恐(ル)徒(ラニ)有(リ)v勞(スルコト)v人(ヲ)、或(ハ)生(ジ)2誹謗(ヲ)1墮(チンコトヲ)2罪辜(ニ)1、是(ノ)故(ニ)預(ル)2知識(ニ)1者、懇(ロニ)發(シ)2至誠(ヲ)1、各招(キ)2介幅(ヲ)1、宜(ク・キ)d毎(トニ)v日三2拜(シテ)盧舍那佛(ヲ)1、自(ラ)當(テヽ)存念(ニ)1、各々造(ル)c盧舍那佛(ヲ)u也、如《モシ》更(ニ)有(リテ)v人情1、願(フ)d持(チ)2一枝(ノ)草、一把(ノ)土(ヲ)1助(ケテ)造(ラント)uv像者(ハ)、恣(ニ)聽(セ)v之(ヲ)、國郡等(ノ)司、莫(レ)d因(リテ)2此事(ニ)1侵2擾(シ)百姓(ヲ)1強(テ)令(ムルコト)c收斂(セ)u、布2告(シテ)遐邇(ニ)1知(ラシメヨ)2朕(ガ)意(ヲ)1矣、
 正倉院は聖武帝崩御ましましてより四十九日目に、御物一切を大佛に寄進したまひしを、代々勅封(385)として今日にいたれるなり。正倉とは大切なる什寶を藏する倉といふ意にして、院とは周垣の廊をなせるものの稱なり、故に昔時寺社諸司の倉を皆正倉院といひき。今はひとり此の御倉にのみ其の名を存せり。作りざまは校倉なり、枚倉とは「伽藍記」に材木を井の字形に組み上げて作ることなりとあり。今は内に入りて見るを得ざれば、只外より見奉るに實に積みあげたる角木の稜《かど》外にあらはれ、四隅の有樣井の字形なり。好古日録に
   校倉は烈日にあたれども土蒸の氣なく、あめに逢ひて濕氣をふくずす、故に藏する所のもの數百年をふるとも魚食の憂なし、古人の遠慮往々かくの如し。
 院内には貴富なる寶物より日用器具に至る迄、珍貴の典籍より故紙の些末にいたる迄、ありとあらゆる一切の御物を盡く藏めたれば、今の人之に資りてその時代のすべての事を考ふるを得。有職故實家、歴史家、美術家、工藝家皆材料を此に仰ぎて其の澤に浴せり。此の尊き御庫は代々勅封としていとも鄭重に保護しまつりしが、中世兵亂の折りには百餘年も手入れをせず打捨てたることもあり、剰さへ度々の兵火に大佛殿始め諸堂の燒け失せたることもあり、落雷の此の御倉を犯しまつらんとしたることもあり、思へばいとあやふき所を經つれど、幸に何の變りもなくて今日に至れるぞ、誠に神佛の冥助とや申すべき。かく保存の目的もて千百年も無事に保存して、しかもその中なる品物のいささかも破れで、さながらあたらしき物の見えを今日にのこすを得るもの、世界廣しといへども恐らくは(386)たぐひなかるべし。これ亦我國の萬國に誇るべき一事ならずや。
 鐘樓は天平年中の創立にて今より千百五十年以前の舊物なれば、こも亦天平時代の工事の樣式を見るに足らん。二月堂、三月堂を見るに舊時彫刻の最も巧みなるものあり。三月堂は天平五年の建立にて、囘禄のわざはひにかかりしことなければ、これも天平古代の工式を見るにたらん。本尊は八臂の觀音にして、脇士は梵天帝釋の二像なり。日光佛、月光佛、金剛力士、執金剛神などあり。是等は奈良朝美術の最頂點にあるものにして、奈良朝美術彫刻の技巧は我國古今獨歩の位置にあるものなり。此の勝れたる世の又最も勝れたるは此の堂にあるものなれば、美術上最上乘のものといふべし。東京博物館に此處なる佛像の模製多かりと。
 堂をいでて南にゆけば、やがて手向山八幡宮なり。此の社は孝謙天皇天平勝賓元年神託によりて、豐前宇佐の宮より分ちまつれるなり。境内槻樹多し。神庫には此の時代の舊物もいと多しとぞ。菅家が歌はれし手向山は此のうしろの山なり。おのれも
  われは只あかき心を手向山もみぢのにしき色にいでねば
 若宮には仁徳帝をいつきまつる。
 尚ゆけば若草山のふもとに出づ。山は圓く優しげにて、一面に青草生ひ茂り、三もと計りの松立てり。山の麓に三條宗近の後裔なりとて一軒の刀劔工あり。「先祖宗近の鍛へたるものあり。入りて見(387)賜へ」などいひて人を引く。種々の刃物類を出し、錢を切り鬚をそりなどして見するに、われも人も入りて、何くれのもの購ふ。まことに人を引き入るるに巧みなること驚くばかりなり。抑も三條小鍛冶宗近は京都の三條にして、奈良の三條にはあらじ。人今此の家の奈良三條の東にあるをもて、宗近の居りしも此の處ならんなど思はば大なる誤らならん。宗近は圓融華山一條諸帝の頃の人にて、勅を奉じ御劔を作りたることも屡々なり。
 ここより直ちに春日社なり、行きて詣づ。社殿いと壯麗にして森嚴なり。武甕槌尊、經津主尊、天兒屋根命、姫大神四柱の神をまつれり。社地は春日山、三笠山のふもとにありて、興福寺の直ちに東なり。彼れは古へ藤氏の菩提寺、こは其の鎭護の神なり。中世藤氏の盛なる樣もおもひやらる。頼通の「春日の神威今日盡きたり」といひしも是れなり、今も官幣大社にして朝廷の御禮もいとどあつし。境内の廣さ八十五町ばかり、松杉など神さぴて立てり。鹿ここかしこにむれゐて詣づる人の通れば物得んと、しりへに集ひ來る、いとらうたし。此は當社の始め武甕槌、經津主の神の白鹿に乘りて遷りきまししといふ故事により、神鹿として狩獵を禁じ、あまつさへ夜は柵内に入れて養ひおくなりと。
   大神のお前のを鹿人なれて袖ひく迄になりにけるかな
 祭りなども、あらたよの初めの亂れにつれて中絶せしこともありしが、明治十九年より古へ樣にひきかへされたり。田植の神事など今も古の如しと。若宮は天押雲命をまつる。をろがみはてて出で行(388)くに、道のかたはら石燈籠打つづきたり。大鳥居をいでて一同やどりにかへる。五時なり。
 夕餉しをへて、そぞろありきす。猿澤他のほとりのながめこよなし。打ちよする漣に岸の燈の影千千に碎けてさながら黄金の玉しきわたしたらん樣なり。されど池の名のみこそこちたくあらずもかなとおもはるれ。池のかたはらに衣掛の柳といふあり、平城の帝につかうまつりたる釆女、此の池に身を投げて死するとき、此の柳に衣をかけたりといふ。御かどあはれにきこしめされ、池のほとりへみゆきせられて
   猿澤の池もつらしなわぎも子が玉藻かづかば水ぞひなまし
と詠ぜさせ給ふ。同じ折り柿本人麿も
   わぎも子がねくたれがみを猿澤の池のたまもと見るぞかなしき
と歌ひたりとぞ。采女の社は此のかたはらにあり。おのれもその柳を見ておなじ心に
   よりかくる柳の絲をわぎも子がねくたれがみの形見とぞ見る
 ここかしこ見ありきてかへりぬるは九時ばかりなり。あすの道をおもへば直ちにいねつ。
   さるさはの池の夕かぜおなじくばわがたまくらの夢にふかなん
 
 三日
(389) よべよりふりしきりたる雨はやみたれど、空の雲はまだとぢ果てたり。今日の道四方山のながめもよしときけどあやなし。六時三十分奈良より汽車にて畝傍にゆかんとす。時もせまりたれば、あわてふためきて車にのるに、やがて笛の音とともに走る。此の道のかたはら一面に稻葉みづみづしき田のみなるに、吹くかぜも心地よし。
   立ちつづくいなばの波は果もなし惠の風や世にあまるらん
など口ずさみつつ行くに、道の右の方に藥師寺の三重塔見ゆ。確かにも見果てぬにはや郡山なり。郡山は柳澤家の城下にして今に尚賑はし。富の小川をわたりて車は法隆寺停車場につく、右の方に法隆寺の塔見ゆ。大和川をわたり王寺の停車場にて乗りかへ、うねびへと向ふ。下田、高田などの所どころも只まじろくまにすぎて、いつしか畝傍につく。ここより車を下り、かちにて行く。今井の里の傍を流るる川を飛鳥川といふとぞ。
   幾度かよのためしにはひかれけむあすかの川のかはるふち瀬は
 尚行けば道の東に綏靖天皇|桃花鳥田丘上《つきだのをかのうへ》御陵あり、ふしをがみてすこし行くに、畝傍山|東北御陵《うしとらみささぎ》道の西にあり、石の玉垣もてゆひめぐらし木立をぐらく生ひしげり木ならぬ處は一ひらに白きまさごしきわたしたり。何れの御陵も皆此の制なりといふ。斯かるかしこきあたりの御跡も、先きつ頃まではつゆわかで、草むらの中に埋もれ田草ひく賤の憩ひ所なりけるを、開け行く世につれて斯く嚴けき樣(390)になりたるぞ有がたしとも有がたしや。
 これより細き道をたどりて畝傍山にのぼる。こごしき岩根まばらに碎けて道いと惡し。峯にのばれば神社あり。木花開耶比賣《このはなさくやひめ》命、神功皇后を祀り奉ると云ふ。拜しをはりて四方を眺むるに、山遠く開けて廣やかなるながめこよなし。東に天香具山見え、其のすこし北の方に耳無山見ゆ。この二つの山は畝傍山とともに大和の三山といひて、古の人のもてはやしたる山なり。さるは平野の間にことさら築きあげたらんやうに峙ち、高くはあらねど、形いとらうたげにて、三つの山鼎のあしの如くに立ちたり。古くより畝傍を女山とし、香具山と耳無山とを男山として、さて二人の男が一人の女を爭ふとなんいひつたへたりける。されば天智帝の御製にも
   かぐやまはうねぴををしと、みみなしとあひあらそひき、神代よりかくなるらし、いにしへもしかなれこそ、云々
   高山波雲根火雄男志等、耳梨與相諍競伎、神代從如此爾有良之、古昔母然爾有許曾、云々
とあり。歌の意は山もかく女を爭ひき、神代の古より女を爭ふてふことはあるを、人の代にはましてあるべきものぞ、といひ出でんよしなり。
 耳無山といふ名をききて戯れに、
   治まれる御代のしらべの松風を耳無山はきかずやあるらむ
(391) うしとらの方に三輪の山見ゆ。三輪の明神もあのあたりならんとはるかにをがむ。久米の仙人が衣あらふ女の脛をみて通を失ひ世に下りしと徒然草、今昔物語などに見えたる久米寺は此の南の方にあり。今はいたく荒れたらん樣なり。久米寺の上の方白橿村字見瀬といふには空海が益田の池の碑の※[足+付]石あり。吉野山もかしこあたりならんとおもふにも、曇るはまづおのが心の空にこそ。金剛山、志貴山ともに西南の方遙かに河内の境に見ゆ。山のひつじさるの路をくだりて麓の地をめぐる。懿徳天皇|南繊沙溪上《みなみまさごだにのうへ》御陵あり、形まろくまはりには池の名殘りをとどめたり。車塚のいささかかはりたるものならん。この南に宣仁帝の御陵見ゆ、皆をろがゐて、さて橿原神宮にまうづ。此の邊池ここかしこにあり、古のゆかりもあるらんとおもへどえわかず。神宮は明治二十三年の創建なればあたらし。皇祖神武天皇及び媛蹈鞴五十鈴《ひめたたらいすず》姫をまつれり、官幣大社なり。此の地は古の橿原の宮居のあとにして北に畝傍山聳え、東及南は廣き平野に向へり。正殿のめぐりは神垣いかめしく、皇宮の内倖所に摸したりといへば、さるかたに尊さもまさりてなん。此の外拜殿、寶庫、神饌所、祭器庫、社務所などつらなり立てり。あなたふとし、あはれ畝傍は我國の靈地靈山なり。耶蘇教者はエルサレムを靈地とし、回教者はメディナを靈地とし、我佛教者は或は善光寺を靈場とし、或は高野、身延を靈場として、崇敬すること至らざるなし。我國民の全體は此の山を靈山として耶蘇教者がエルサレムを見るが如く、回教徒がメディナを見るが如く、佛教者が善光寺、高野、身延を見るが如く常に心に存して崇敬すべき(392)なり。されど我國民全體は今果して然りや否や、己幼にして史話を聞くときより、常にしたしく此の地をふみて此の靈地を拜せまほしうのみおもひ居たりしを、今長き望を果して、うれしさいはんかたなし。此をまかり出でて、もと來し道をすぎ靈地を見返りつつ、畝傍停車場より汽車にのりて奈良にかへる。法隆寺、藥師寺、唐招箆寺、西大寺、垂仁天皇の御陵、菅公の舊地、寧樂の都の内裏のあとなども、今日こそとおもひ立ちにしを、かへりには雨いたく降り出でたれば立ちよりもせですぎぬ。此は連日の雨にて人々のこころ、からだ、いたくおちいり、中には腸胃の病などいささかわづらへるもあり、殊に當時虎病の流行せる地にをる身としては、無事に此の地を立去らん事は無二の大望なりければ、今又全身を濡さんは憂ふべきことなりなど思ひければなり。口惜しさ限なけれど、ひとやりのわざならねば如何はせん。此に書《ふみ》に見、人に聞きける是等のもののあらましをしるして後の思ひ出のたつきとするになん。
 法隆寺は奈良の西南三里平群郡法隆寺村にあり。推古天皇の御宇聖徳太子の創め賜へる寺にして七堂伽藍いとおごそかに立てり。殊に金堂、五重塔、夢殿、講堂などは千二百年より千年前後に至れる古きものなれどいささか荒れたる樣もなし。斯る古き建物あるは他にたぐひ稀なり。此の寺には推古天皇頃の古物何くれとなくくさぐさあり。我國にて推古時代の遺物を見らるべきは、ここと京西なる彼の廣隆寺なり。わけて此の寺はきはめてたふときが多くて、此の寺の推古時代に於けるは正倉院御(393)庫の奈良朝時代に於けるが如し。背に銘をゑりたる佛像、古制なる尺度桝、金銅の壁畫などは其の最も珍貴なるものなり。壁畫は外國人も共に驚嘆するものにして、近き頃畫伯櫻井耕雲氏が其の筋の命をうけて數年を費して摸寫したり。此のふるく貴きものが、あるは思はぬわざはひに罹らんことも、あるは年と共にふり行きて遂に滅びなんこともあらんかを、慮りての事なるべし。其は軸として今東京博物館に藏めたり。此の寺の什寶中今は宮内省に獻納し、或は博物館に出品せるものいといと多し。
 藥薬師寺は南都七大寺の一にして、古の寧樂の都の六條の第二坊にあり。天武天皇が皇后(後に持統天皇)の御病危篤にましまししとき、藥師如來を作り堂塔を設けんとの勅願あらせ、御平癒の後建てさせ賜ひたる寺なり。本尊藥師如來(坐像丈六尺)脇士日光、月光(立像丈三尺)の三尊は銅佛にして、奈良時代彫刻の最上優等の物なるのみならで世界の絶品なり。三重塔は天平二年(千百六十六年前)の建立にて高さ十一丈五尺、三重なれども屋根は六層となりて常に見る所の者とは樣異なり。此の塔に名高き舍人親王の擦銘を鐫りたる心柱あり、銘は天武天皇の御宇皇后の御病氣御平癒の祈願によりて此の塔を建つるなり、との由をしるせるものにて、今本日本書紀の中或る誤を正すを得る證據となるものなり。佛足跡といふも佛足跡歌の碑といふも此の寺にあり。
 唐招提寺も天平寶字三年創建のまま一たびも災にかかりしことなき千百四十年の古刹なり。是も南都七大寺の一なり。
(394) 垂仁天皇の御陵は菅原東伏見陵とまをし、山はいと大きく幾千とせ經ぬらんと見ゆる大木生ひ茂りてさながら天然の山をなし、池はひろびろと湛へわたりて、かもめのむれ遊べる樣などおのづからの海の如くなん、古代高貴の御方の墳墓なる車塚の好き模範《かた》とぞ知られたる。池のかたすみに小さき島あり、此は垂仁天皇の御ことをかしこまりて常世國に非時香菓を取り、歸りて奉らんとすれば天皇はすでに崩御ましましぬればここなる陵に至りていたく哭き悲みて死せる田道間守(田道間《タヂマ》ヲ氏トシ守《モリ》ヲ名トス)の墳なりとぞ。此の御陵の西の方に安康天皇の菅原西伏見陵といふも見ゆ。 此のわたりを廣く菅原の伏見の里とはいふなり、故に右二帝の御陵も菅原伏見陵とこそいふなれ。道眞公の姓菅原も此の地名よりなり。道眞公の先祖は此に住みまし、曾祖父土師古人《はしのふるひと》と云へるが光仁天皇の御代に始めて菅原の姓を賜はりたり。
   いざここに我世は經なむ菅原や伏見の里のあれまくもをし
と讀人不知として古今集に出でたるは菅家の人の讀めるなるべし。菅公も此處に生れましきといふ。菅原神社とて菅公を祭れる社あり。
 喜光寺といふも此のかたへにあり。いたく古り破れたる只一宇の堂が田園の間に立てるのみ、住僧もなく只佛像二三躯あるのみ。此の寺は昔聖武天皇大佛殿の雛形にとて(其十分の一)作らせ賜へるなりと云ふ。げに形よく似て他寺とは樣異なり。行基僧正も此の寺にて遷化ありきとぞ。
(395) 西大寺は古へ都の西北の隅ににありて東大寺と相對し、南都七大寺の一なり。孝謙天皇の勅願に成りて、貴き上の御覺えもめでたかりしが今は大破に及びたり。なべて寧樂の寺々のいたく破れたるは石上ふるき都に成りぬると共にあれゆきたるものと知られて哀れも亦一入なり、今にして修治の法を構ぜずば此のたふとき堂宇も古き佛像も亡び失せなんこと明けし。さてここの四天王は孝謙天皇の鑄させ賜へるものにして、そのかみ増長天一躯六たび鑄つれど成らず、天皇冶處に行幸あらせ賜ひ、誓ひてのたまはく、「朕が此の勲功によりて佛道成りなば、熱銅を手に取るも手には痛なくて像は成らせ賜へ、然らずば手爛して後も像は成ることあらじ」と、やがて御手をとけたる銅にひたしてかきまはし賜ひつれど、何の痛もなく増長天も成像したりとぞ。其の四天王(長各七尺)は今猶存せり。柳の樹あり、僧正遍照の歌あり。
   あさみどり絲よりかけて白露の玉にもぬける春の柳か   古今集
 藥師寺よりここまでは奈良の古都の西のはしを、ますぐに北せるなり。これより東に折れて古都の北のはしを今の奈良に行く。左の方には奈良山、佐保山など一帶の山つづきたり。此の山のほとりに成務、平城、孝謙、聖武など諸帝及神功皇后の御陵あり。ここなる平野は北に此の山賑を負ひ、東西も亦連山に圍まれ、南の方一帶乎けく廣くわたりて寔に景勝の地なり。元明天皇が永世定鼎の地とし賜はんの叡慮にましまして、大に都城を經營せさせたまへるも深き見どころおはしてなるべし。この(396)あたり今はすべて水田のみなるが田地のあざに大極殿、京内、大宮、内裏などやうの名殘れり、あなゆかしきかも。町村制實施のとき、此の邊の村々連合して都跡《みあと》村となん名けたる。こたび此の地を訪はざりしぞ、こよなう名殘をしきわざなる。
 歸りて猶時もありければ奈良博物館、師範學校など見る。博物館は春日神社の前、飛火野の中にあり、一二年前立ちたるものにして陳列品もまだ少なし。されど世にめづらかなるもの多き樣見えたり。御物なる七曜銅劔(鞘とも長二尺五寸刃の幅一寸許)の如きいともいとも尊し。土中より掘り獲たる銅劔二口(長各二尺六七寸)あり、銅器時代の遺物なり。後朱雀、後鳥羽、伏見、後醍醐、光嚴、後土御門、後陽成、諸帝の宸翰めづらけく尊しと見奉りぬ。顔輝筆仙人圖二幅、祥啓筆瀧見觀音圖、住吉具慶筆人丸の像の如き蕭白の牡丹に鷹、若冲の鯉の如き世にもすぐれたるものと覺えたり。
 師範學校は興福寺の傍にあり、休業中なれば只校舍を見たるのみ。庭内に若き櫻ひともとありて石の垣めぐらしたり。古の寧樂の都の八重櫻の遺株なりといふ。
 
 四日
 あしたよりくもる。奈良をたちて伊賀へ越さんとす。今日の道はいとあしく遠さも十一里に餘るといへばあやぶみて出ぬ。日頃の雨に逢ひて人々の心地もあしければなり。京街道より分れて東に入り(397)て行くにまことに坂道のみなるに、まして打續きたる雨に道もくづれ行きなやむ人も多し。加茂村をすぎてすこし行けば木津川あり、水かさまして岸のうばらもかくれて見えぬ許なり。川につき上ること二里許にして笠置村なり。入口に筒井塚とて筒井順慶の墓といへるがあれどうけ難し。笠置山、雲をかむりて前に立てり。北に木津川の巨流をひかへ、三方は群山聳え連りて山高く谷を爲し、谷ふかく入りて岨を爲す、げに鳥もかよひがたき處とぞおぼゆる。太平記に
   抑もかの笠置の城と申すは山高うして一片の白雲峰を埋み、谷ふかうして萬尋の青岩道を遮る。九十九折なる道をまはりて揚ること十八丁、岩を切て堀となし、石をたたみて塀とせり。されば縱防ぎたたかふものなくとも、容易くのぼることを得難し。
 山の麓に南笠置村あり。其れより山に上る、げに手を立てたらんやうにて、道は螺線状に山をめぐりめぐりて上るなり。昔元弘のとき、木戸を設けて守りたりけんと見ゆる處一二箇所あり。足助次郎重範がここを守りて遠矢にて荒尾兄弟を殪し、般若寺の大力の僧が大石を投げ下して數多の敵を殪して、いづれも武男を敵味方にあらはし忠節を効しし處なり、と思へば限なう心うれしくて、又其の人の慕はしくなん。
 巓に至れば福壽院といふあり、是は古の笠置寺の二十餘院中なる一つなり。抑も笠置寺といへるは天武天皇此の山に遊獵のとき山頂にて大鹿の難を免れ賜ひしかば、其の跡に伽藍を起さんとおぼし給(398)ひ、御召の御笠を置きてしるしとはなされたり。後侍臣詔を承はりて工を起さんとて此山に來まし御笠のありかを捜せるとき、白鷺飛び起ちて其の位置を示しまつりければ、やがて其處なる大石に彌勒、文珠、藥師の佛像を刻みつけて本尊とし、此を内にこめて伽藍を建て鹿鷺山笠置寺と號せり。元弘の亂れに此の寺の僧御味方仕る由聞えければ、天皇には南都より吾等が今日越え來つる彼のゐやしき山路を越えさせられ、此の山奥なる一小寺に入り給ひぬ。斯くて此の寺の本堂を皇居と定めさせられ、周りにつはものいささか許を配布して固めさせ、一の木戸二の木戸など其れ共れ守りをつけて賊の攻め來るに備へさせ給へり。當寺此の寺二十餘院ありしが此の時の兵火に皆燒け失せ、其の後も元の儘には興し得で次第にあれはてぬ。近き頃までは福壽多聞文珠三院ありしが今は只福壽一院のみなり。
 此のあたりは山の頂にして、廣く乎かに其の處に小祠小宇あり。古の笠置寺の本尊なりける彼三大佛も此處の側近くあれば、此の邊りは即《やが》て本堂にして皇城のいませる處なりとぞ知られける。一小祠の傍に憩うて晝げたうぶ。雨又ふり出でて山松が枝にさらさらと濺ぎかかる樣えもいはれぬに、
   いかにせむふりくる雨にかさ置山ぬれじとおもへど袖の上のつゆ
 みかどの御上など忍びて
   名にかなふものにしあらば笠置山さしてみけしもぬれざらましを
 福壽院の傍に鐘樓あり。鐘は二三尺の小さき者なれど建久七年八月(頼朝の時)解脱上人の鑄たる(399)由銘もありて、いと物ふりたり。藥師石、文殊石、彌勒石といへるは高さ幅とも二三十尺より五六十尺の花崗の大岩にして、ことさらに切りたらんが如き面に佛像をゑりたるなり。此の山は花崗岩にて成り立ち、全山いづくにも數十尺の大石磊※[石+可]として立てり。わきて此の頂には數多かさなり合ひていとさがしく、其の側は璧立して四方いづ方も直ちに千仞の谿に臨めり。上より俯し瞰《のぞ》み見んも魂消ゆる許なり。樹は其の岩の間に生ひ茂り、苔は木岩の別ちなく一面に露をおびて滑らかなり。かの逆賊陶山、小宮山二人は村民を刧してあないさせたりとこそはいへ、風雨烈しく目指とも不(ル)v知(レ)暗き夜に如何にしてか此に登り來つらん。太平記には此處のさまをしるして、
   五十餘人の者共太刀を背に負ひ刀を後にさして、城の北に當りたる石べいの數百丈聳えて鳥も翔りがたき所よりぞ登りける。二町許は兎角して上りつ、其の上に一段高き所あり、屏風を立てたる如くなる岩石重りて古松枝を垂(レ)、蒼苔露滑かなり。ここに至て人皆いかに共すべき樣なくして、遙かに見上げて立たりける處に、陶山藤三岩の上をさらさらと走り上て、件のさし繩を上なる木の枝に懸て、岩の上よりおろしたるに、跡なる兵共各是に取付て、第一の難所をば易々と皆上りてけり。それより上には、さまでの嶮岨なかりければ、或は葛の根に取付、或は苔の上を爪立て、二時許に辛苦して、塀の際迄著きてけり。
 さて城に入りて御方と佯はりて所々方々廻りありき、ことごとく樣子を見澄まし、さて火をぞかけ(400)たりける。其の捷さ、其のわるがしこさ、肉をも吸ひたき心地するなり。火をかけたりけるときの樣は、
   陶山、皇居の樣迄見澄して、今はかうと思ひければ、鎭守の前にて一禮をいたし、本堂の上なる峰へ上つて、人も無き坊の有けるに火を懸て、同音に時の聲を擧(グ)、四方の寄手是を聞(キ)、すはや城中に囘忠《カヘリチウ》の者出來て火を懸たるは、時の聲を合よやとて、追手搦手七萬餘騎、聲々時を合せて喚き叫ぶ。其の聲天地を響して、何成《イカナル》須彌の八萬由旬成り共、崩ぬべくぞ聞えける。陶山が五十餘人の兵共城の案内は只今委く見置たり、此《コヽ》の役所に火をかけては、彼《カシコ》に時の聲をあげ、彼に時を作ては、ここの櫓に火をかけ、四角八方に走り廻て其|勢《セイ》城中に充滿《ミチミチ》たるやうに聞えければ、陣々|堅《カタメ》たる官軍共城の中に敵の大勢責入たりと心得て、物《モノヽ》ぐを脱(ギ)捨(テ)、弓矢をかなぐり捨て、壑堀《ガケホリ》共云はず、倒れ轉びてぞ落行ける。
とあり。あゝ今親しく此の地にありて、當時を想ひ廻らせば、其のすさまじさ身の毛もよだつ許なり。
 かくて主上が、さして行く笠置の山を落ちさせ給ひ、青塚のおどろがもとに御身をかくさせ、人もかよはぬ野原のつゆに御袖をほしあへず、あるはかすかなる岩根に御枕をかり梢ふく風をきこしめしては「天が下には」となげかせ、松の下かげに立ちよりては「尚袖ぬらす」とかこち給ひし樣は、太平記の文いとつぶらに書きしるせれど、其をここにあげんは、かさねて涙の種なればとてことさらに(401)省きつ。
 夫れより猶峯の中を巡り見て元の道を下りて南笠置に歸る。しばし憩ひ舟人に舟用意させて木津川をわたる。水かさ増せれば川留とならんとせしを強ひて渡しつるなり。渡り了れば北笠置なり。ここより川を隔てて遙かに笠置山を顧れば山の中腹に「行宮遺址」の四大字を刻したる碑立てり。明治十五年有志諸氏發起して大方の義金を募り、十九年夏起工し同十月竣工せるものなり。半腹に露出せる自然石にして高二十五尺幅二十尺、臺石も自然石にして寸尺碑に稱《かな》ふ。四文字は一字の大さ四尺五寸四方、左傍に「二品彰仁親王書」の七字あり。一字の大さ一尺五寸四方、字は皆金を填めたれば斯く遠くより望むも燦然として觀るべし。碑の位置もまた山全體の位置にかなひて、いづれをかしからぬはなし。此の山ありて此の碑あり、思ふに「全國無比の壯觀なり」といふも誰いなむものなかるべし。
 ここより峠にかかるに路ことにけはし。有市、大河原などの村々をすぎて伊賀に入る、阿拜《あべ》郡なり。島ケ原、長田をも經て上野につきぬるは日暮れて後なり。やどは三田屋といふなり。上野町は國の小さきにも似ず、町は大きくて市街ますぐに長く店々も賑へり。人口一萬三千餘人なり。藤堂氏の城下にして城あとも今に殘り(公園なり)高き石壘など見らる。「芭蕉桃青翁生地」といへる碑も此の上野にあれど、翁は此に永く住みこそしつれ生地は上柘植なり。渡邊數馬が荒木又右衛門と共に父の仇川合又五郎を殺したる(所謂伊賀越仇討)も此の町はづれなり。
 
(402) 五日
 けふもまた雨ふる。六時頃出發す。服部橋をわたり府中村を過ぐ、古へ國司廳のありし處なり。式社も在《いま》せり。柘植の里に至る、是れまことの芭蕉翁の生地にして翁の家の場所も知らる。近き頃俳人等ここにしるしを設け、又其の傍の山の上に碑を立てたりといへど山の上までは寄りても見ず。上柘植より汽車にて大廟へと向ふ。大岡寺峠をばトンネルにて越ゆれば伊勢なり。是より道は鈴鹿川の流れに沿うて下る。關町といふは古へ鈴鹿關ありし處なれば今も名に殘れるなり。龜山の邊は古は廣き野原なりけん、能褒野といふは今は名亡びたれど廣瀬野といふ原あり。其の傍なる田村といふに日本武尊の能褒野御陵あり。近き頃御陵のかたへに社殿を營みまつりて能褒野神社といひ、尊を祭り奉れり。龜山停車場より東の方三十町許なり。
 龜山にて乘り換へ、しばらく行けば津なり。「伊勢は津で持つ」てふ處なれば見まほしけれど時なければ詮なし。結城上野介宗廣といふは「元弘延元の世に當り大義名分を明かにし鞠窮盡力勤王の志終始不貳忠烈」の士なりけるが、此の墓津市の傍にあり。別格官幣社結城神社といふもありて其のみたまを祭れり。此も汽車の中にて心ばかりにて拜む。雲出川を渡りて少し行けば松坂なり。本居翁の生地にしてそのおくつきもあり、其の神社(山室神社)もありときければいとどなつかし。櫛田《くしだ》川を(403)こえ田丸を過ぎ宮川につきぬるは午後三時頃なり。車を下りて山田へと行く、一里許なりと聞けどいと長し。とく神地につかまほしとのみ心せけばなり。漸く外宮の社前につきて北村屋といふを旅宿とす。參詣は明日早朝なりといへば今夕は森の外より遙かに拜む。
 
 六日
 けふは大廟へまゐらんとするに、久しく降り續きたる雨名殘なう霽れて、空にはちりばかりの雲だにもなし。神かけて晴れよとは祈らねど何となくをかしければ、
   千早振神路の神やまもるらむあめとおもひし空の晴れたる
 宿をいでて直ちに外宮にまうづ。鳥居をいりて行くに大宮のこととて千歳の老木立ちしげりて、御前の大路いとをぐらし。くすの大木など株毎に垣ゆひめぐらせり。神木の皮は厄除の効驗《しるし》ありとて詣づつる人々剥ぎもて行く習ひありて、木の枯るることも多かりければ、斯くして人の手觸れぬやうにしたるなり。
   大神の幾世の末を見んとてか八千代の楠のなほのこるらむ
 すこし行けば御手洗《みたらし》あり、手あらひ口すすぎて右に折れ本社へまゐる。鳥居、神門、宮殿、千木、鰹木、何も何も白くすがすがしからぬはなし。御殿の屋根は檜皮だにふかす萱の軒しどろにふきなし(404)たる、なかなかに尊くぞ見奉る。本殿のかたはらに東寶殿西寶殿あり、神寶を藏めまつるとぞ。多賀の社にまうづ、社は少し小高き上にあり豐受大神のあらみたまをまつる。左の方に風の神、右の方に土の宮あり。是等の宮も皆本殿と共におなじく二十一年目毎の改修なればいとど新らし。
 謹みて按ずるに豐受大神は御饌津神《みけつがみ》又|保食神《うけもちのかみ》と申し五穀饌膳の事を司り賜ふ神にませり。神體には眞經津《まふつ》鏡をあがめまつる。相殿三座は大倭姫命正記、鎭座本紀、神名秘書などには瓊々杵尊左にいまし鏡を以て神體とし、天兒屋命、天太玉命右にまし兒屋命は笏を、太玉命は玉を神體とするよし見えたり。大日本史は之を取らずして「配享神三座稱(シ)2御伴(ト)1竝(ニ)女神也」とあり。本居翁は世記等の説を取りたれど、只云「笏はもと外國の物なればいかがなるを、こを思ふに、實には笏には非れども、其形樣の笏の如くに見ゆる物なる故、笏とは記したるにやあらん」といへり。
 是より内宮へと行く、五十町ばからなり。清き流あり五十鈴川といひ、橋あり宇治橋といふ。橋をわたればやがて神地にして五十鈴川は神の森より清やかに流れ出でたり。此に身を清めて大宮へまゐる。神代のままの木立いとくらくして百枝の梢は何れともわきまへがたく、御前のみ杉いよやかに、風も枝をならさぬ豐けき御代の有樣もおもひしらるかし。大宮の造りざま大方外宮とおなじく、正殿の前には瑞垣御門、蕃垣御門、玉串御門、玉垣御門、板垣御門あり、板垣御門の前にてをがむ。
   かしは手のおともこだまにひびくなり神さびわたる伊勢の大前
(405)宿衛所、四丈殿、東寶殿、西寶殿、皆外宮と同じ。
 謹みて按ずるに、内宮は正殿に天祖天照大御神をまつり、相殿には二座を祀り奉れり。この二座は大神宮儀式帳(儀式帳の事は後にいへり)には天手力男命左に在し、萬幡豐秋津姫命右にませりといひ、古事記には相殿の一座は思兼命なるよし見え、世記、諸社根元記には天兒屋命左に在し、天太玉命右にますとあり。大日本史は儀式帳を取らで書紀神勅に天兒屋、天太玉は殿内に侍るべしとあるにより、又世記などに據りて兒屋命、太玉命とし、本居翁は一座は古事記によりて思兼命とし、一座は儀式帳によりて豐秋津姫とせり。おのれ其の孰れが正しきを知ること能はず。但し左は弓を神體とし、右は劔を神體とあがめまつれるは、とにかくに事實《まこと》なるべし。
 河をわたりて風の宮あり。正殿のうしろに荒祭の神あり。いづれもをがみ果てて神樂をささげまつる、笛の音いとをかしく、つづみの音すみにすみたり。千早振神代よりの手振とおもへばいと尊し。
 謹みて内外宮鎭座のよしを考ふるに、千早振る神の御代に天(ツ)御孫の天降ましますとき、天照大御神御手親ら三種の神寶を授け賜へり。(今此には劔璽の事は省きて)さて其が中に神鏡は三面になんおはせる、(其の一面のことは此には要なければ省きつ)其の一面は天照大御神御身自らの御靈實《みたましろ》、一面は豐受大神の御靈實にましませり。抑も豐受大神は前にも云へる如く御食津神にましませれば、天照大神が常にいつき奉れる神なり。されば今おのが命の御靈實と共に此の大神のみたましろをも下し(406)給へるなり。
 天照大神が御食津をまつり給ふといふこと猶よく明めんが爲に此に本居大人の言を引くべし。
   或人問(ヒ)けらく、然らば豐宇氣大神は天照大御神よりも尊きか、答(フ)、天にも地にも天照大御神より尊き神坐(ス)ことなし。然れども其(ノ)大御神も又祭り賜ふ神はあること御代々々の天皇の天(ノ)下の天(ツ)神地(ツ)祇を祭り賜ふと同じことなり。さりとて天皇の祭りたまふ神みな天皇より尊からめやは、此(レ)に准へて天照大御神と豐宇氣(ノ)大神との間(ダ)をば辨(ヘ)奉るべきなり。云々
 さて天(ツ)御孫を始め奉り共後天(ツ)日繼のつぎつぎに、皆此の御靈實の鏡と殿を同うし、牀を共にして常に左右に侍りて仕へ奉りしこと、天上にましますとき大神に仕へ奉りしと同じかりき。さるを人皇第十代崇神天皇の御世ひたぶるに神靈に近づき仕へ奉らん事は、或は神靈をけがし奉らんこともや、とのかしこき叡慮より、磯堅城神籬《しきのひもろぎ》を倭笠縫の邑に建てさせ賜ひて、此の二みたまを遷し奉り(御劔もともに)皇女|豐鍬入姫命して侍り祀らしめ賜ひけり。後丹波に移り賜ひ、其れより倭に移りたまふとき豐受大神の御靈鏡《みたまのかがみ》は其のまま丹波に殘り鎭まりましぬ。天照大神の御靈鏡は(御劔も共に)其れより更に倭、紀伊、吉備、伊賀、淡海、美濃、尾張、伊勢など所々の國に徙りめぐりましぬ。伊勢に入り賜ひて後も猶數所に宮居をかへさせ賜ひけり。
 時に宇治(伊勢國)にいませる大田命といふが天皇に奏していふ、「五十鈴川の川邊に美地《よきところ》あり。山(407)川秀靈に侍れば大神の宮居と定めさせ賜へ」と、其の時又大神の誨ありて詔りたまはく、「是はわが高天原にいますとき、みしまぎ賜へる處なれば今其處にしづまりまさん」とありければ、倭姫命大に喜び給ひて祝してのたまはく、「朝日の來向ふ國、夕日の來向ふ國、浪音聞えざる國、風音聞えざる國、弓矢鞆の音聞えざる國、大神の大御心のゆき賜へる國なり」(國とは處の意)とて、やがて下(ツ)石根に宮柱太知りたて、高天原に千木高知りて宮定めいつきまつり賜ひき。是ぞ五十鈴宮と申し奉りて皇大神の神宮にはありける。
 さて雄略天皇の御朝に至りて天皇の御夢に天照大神の詔り賜はく、「朕《あれ》高天原にまして見しまき賜ひしところにしづまりましぬ。されど朕獨りのみ此處にいまさんはいとくるしく、大御饌も安くきこしめされず、さるがゆゑに丹波の國の比沼《ひぬ》の眞名井に坐す我(ガ)御饌津神豐宇氣大神を朕(ガ)許に迎へまつれ」と、天皇よりてみことのままに直ちに迎へ奉りぬ。
 かくて後二宮は略々同じき禮典もてまつり奉り、歴朝たふとみあがめまつること天(ツ)神地(ツ)祇八百萬の神々の首(メ)にませり。天武天皇の御代より宮殿は二十年毎に改作しまつる例となり、皇大神宮の遷宮式を行ひ賜ひて後一年若くは二年をへだてて、豐受大神宮の遷宮を行ひ賜ふ例なり。持統天皇の五年夏藤原宮の新に成れるを使もて此の大み社に告げさせ賜ひ、又同じ年の冬新羅よりの調を獻じ奉りつ。是より以來即位、大嘗、祥瑞、災異、兵寇など何によらず凡て使を遣し賜ひて、幣をささげ祭をなし(408)神に告げ祈り禳ひなどし賜ひき。桓武天皇の延暦二十三年には二宮の儀式帳成り、神宮の制度始めて具はり、宮地の四至も定まり、合せ祀る神の祠以下諸々の禮式つぶさに定まりましぬ。醍醐天皇延長五年には延暦のさだめを増損して更に二宮の式を定め賜へり。
 斯く年を追うて萬の儀式定まり整ひて、さて此の後凡て此の禮典により、幾千代萬代に彌貴く彌榮えて皇室を護り賜ひ國家を保ち賜ひて、御稜威のほど尊く、まためでたくおはしまし賜へるは、かけまくもなかなかにかしこきことにこそ。
 宇治橋のもとなる茶屋にて晝食たうぶ。是よりおのもおのも立ちわかる。おのれはここより二見ケ浦にゆく、同じ心の人も多かりけり。半|里《みち》ばかりゆきて三本松といふ處より船にて、五十鈴川を下り三津村に上りて八町許ら行けば二見なり。海の岸にしめ引はへたる二つの岩立てり、何をまつるにかあらん。此の浦の景色廣らなる海原目もはるに立ち續き、洲崎の松風凉しくすみわたり、波のおと高くよばひて友なし千鳥の鳴きまどひたるも、いとをかしきに、朝熊おろしの山風さとふきわたりて、眞帆片帆の浪にいざよふも、いとゆをびかなり。あまりのあつけさに、われも人もおり立ちて水あむ。凉さいはんかたなし。歸り路は車なれば早し、五時ばかり宿につく。
 
 七日
(409) 午前五時一同出發、神社港より二部にわかれ、一部は東京へ、一部は名古屋へ出でんとす。おのれ等は船にて尾張へと志す。八時頃船出す。けふも空よくはれて風もなければ波平らかに、船心地よく急ぐに、各甲板に出で遠近の景色を見る。友の聲互にこたへ笛の音交々きこゆ。はるかに見ゆるは知多半嶋ならんとおもひて、
   沖とほくたなびく雲の絶え絶えに浮びて見ゆる知多の嶋山
 津につきぬれば船にのる人、下る人知るしらぬ、いとかまびすし。此の浦を阿漕が浦といふとぞ。浦づたひ老松立ちつらなりて海人が家居ここかしこに見ゆ。
   磯づたひまつふくかぜも音たえてあこぎが浦は波靜かなり
 つづみが浦も松生ひ茂りておもしろし。
   松かぜもしらべをそへておとにきくつづみが浦のおもしろきかな
 四日市にてまたいこふ。ここより浪少しく見ゆ。熱田につきぬるは四時頃なり。熱田大神のしづまる處とて行きかふ人もしげし。熱田神宮は天祖の親授し給ひし、三種のみたからの一なる天叢雲劔を祀り奉れる大社にして、正殿の東土用殿といふに藏めまつれり。正殿には中央に日本武尊、左右に天照大神、素盞嗚尊、宮簀姫命およぴ建稻種《たけいなたね》命をまつれり。抑も東夷の叛きあらぶるとき日本武尊「われは西征につかれたれど今又大事の起りつれば君の爲め國の爲めなどて身をや惜しむべき」と、をた(410)けびして、のたまはせ、詔を承けて路にのぼりましつ、伊勢にいたりて此の御劔を得、尾張にて其の國造建稻種の命の妹宮簀姫と申す御方に御合ひましつ。さて夷征伐のことをはりて尾張にかへりまして宮簀姫の家に立ちよらせたまふ。其の出發の折「われ京にかへりて後汝を迎ふ可し、此は其の證とするなり。」とのたまひて此の御劔を遺しおかせたまひけり。尊みまかりたまひてのち此の御劔をやしろ立てていつきまつれるが今の神宮なり。此の社に宮簀姫、稻種命をまつれるはこれが故なり。天照大神、素盞嗚尊をまつれるは國初の祖なればなるべし。かくて景行天皇の御宇當地に鎭座ましまして、後天智帝の御世一度皇都にうつされしが、天武帝の朱鳥元年再び當地に復せられたり。境内廣く社殿すがすがし。
 謹みて按ずるに、三種の神器は我國の至寶にましまし、我すめ國と共に我大君の日繼を共に、あめつちのむた窮みなかるべきは申すも中々かしこきわざになん。さて其の模造の御品はいささか損はれぬることもあれど、彼の大神宮の御鏡といひ、此の御劔といひ、はた大宮所なる御璽といひ、まことに天祖親授の御寶なるは幾千歳を經てちりばかりもかはることなく今日にいたれるは、いと尊き限りにして、是ぞまことに我日の本我が大御日繼の千代萬代にいや榮ゆべきためしなりとしられて、いと尊きにこそ。
 ここを出でて夕日まばゆき頃名古屋につきぬ。京にはまさりて人の樣いと忙はしく、商じこる處と(411)ぞおぼゆる。此の町は天文年間織田氏の城邑となり、慶長十五年、徳川家康、子義直を此の地に封じて大に城を築きたり。今は人口十人萬あまりにものぼり、三府につぐ處なり。城を見るにまことに海内ならびなきほどもしられて、いといかめし。此の城は家康の義直を此の地に封ずるとき、前田以下十餘侯に課し天下の力をつくして城きたるものなり。今は第三師團の兵營となれり。天守閣は加藤清正が造營したるものなり。今は帝室の御料となりて離宮と定めたまへり。屋根にあげたる鯱鉾一對は黄金一千九百四十枚をとかして鑄造したるものなりといふ。
 今宵の宿は宮澤町河内屋といふなり。常に似ずさびしきはけふ東京へのものとわかれたればなり。
 
 八日
 また晴れたり。朝六時に立つ。廣路、平針《ひらはり》の村々を過ぎて行くに並木の松蔭いと心地よし。平針より左にわかれ三本木《さんぼんぎ》といふにて憩ふ。足の強きはいそぎ、よわきは後れて、四十人餘りのものも大方ちりぢりなり。ここをたちて行くに此の邊の道新たにつくりたるなれば、平らにて小石などここかしこにちり、物の蔭もなくて暑さいはむかたなし。此の道をすこしくれば三河の國加茂郡なり。上伊保《かみいぼ》にてひるいひたうぶ。これより今宵の宿迄は五里許りなりといふに急ぎ出でたつ。少しゆけば矢作川あり、大なる橋をかけわたしたり。かかる山里には似つかはしからず、この川の岸にて又憩ふ。瀬々(412)の波あやしき岩によせかへり、岸の松水にはらばひていとおもしろきに、帆かけ船も見ゆ。中野村をこゆれば直ちに足助の町なり、入口に贈正四位足助重範公社殿建築用地としるしたるものたてり。さきに笠置に重範遠矢の場を踏みて其の忠節を忍びつ、今又此に其の生地を見てことに社殿建築の擧あるを知る、心の感じも一入にこそ。
 今宵の宿は此の町の三島やとすずやとなり。夕暮よりかみなりとどろき夕立いたく降りいでていとどいぶせきに、まだ宿につかぬ人々もあれば、師を初め皆々何くれと心使ひす。こは岡崎の方へまはり城址を尋ねたればなり。
 
 九日
 空よく晴れてよべの雲の名殘りもとどめず、六時頃いでたり。四里ばかりくればいしがめ峠あり。汗もしとどにやうやう辿りて小田木といふに下りつく。ここにて暫し憩ふ。ひるは武節《ぶせつ》といふ處にてくふ。武節より一里ばかりにて杣路《そまぢ》峠なり。舊道をゆくに道いとあしく、あまつさへ夕立ふりしきりて何も何もぬれにぬれたり。峯に愛知縣と我縣との境界の標たてり、久し振りにて故國にかへりていとうれし。下れば根羽村なり、こよひの宿は此の村の白子屋および住吉屋なり。宿は山にむかひ山川の音近くきこえて耳をあらふ。
(413) ここの道は飯田より三河にいづる所謂三河街道にて、古より往き來多き所なれども道いとあしくて山のみなれば、旅人の常になやむ所になんありける。さるを近き頃我縣にてこを造り修めて行く人の心も平らかになりぬ。まことに治まる御代のあまねき大御うつくしみこそあらたかに尊かりしか。
   玉鋒の道もひらけてを車のゆき來も安き君が御代かな
 
 十日
 あしたのほどはくもりたれど、やゝひらけ行く山際何より心うれし。五時ばかりに立つ。谷川にそひて山の中越え行くに、朝霧のねごし山越しわたり行くさまおもしろし。一里ばかりくれば横旗(根羽村の中)といふ處なり。道のかたはらに武田信玄の墓といへるがあり、小さき五輪の塔一つ二つあるのみ。土地の人いふ、信玄は野田城にて死し、遺骸は諏訪にもちかへらんとしつれど、暑さに堪へかねて道にここに葬りたるなり、去れば甲州のかたにはまことのからは葬られざりけるなり云々と。されど之を史に徴するに事實未だ詳かならず。
 平谷《ひらや》をすぎて波合にてひるいひくふ。この驛の近きあたりに後醍醐帝の御孫にあたらせたまふ尹良親王の御墓および御社あり。山の麓の岡の上にあり、長き階段をのぼりて一の鳥居あり、ここより少し行けば又鳥居立てり。尚行きてまたの石階にいたる間、左の方に神饌殿あり、石階をのぼれば本殿(414)あり、即ち尹良親王をいつきまつるなり。今年の秋五百年の大祭を行ふよしかきたる札立ちたり。本社の西南の小高き上には御陵あり、杉の村立生ひ茂りていと物さびたり。御墓は垣ゆひめぐらし、後醍醐天皇皇孫尹良親王御墓と記るせる標を立つ。墓碣は高さ九寸幅五六寸の小さき碑にて記しし文字もすれて明かならず。さて此の尹良親王は後醍醐天皇第三の皇子宗良親王の御子にましまして、遠江國井伊谷の館にて生れたまへり。御母は井伊谷の住人井伊道政の女なり。はじめ道政、宗良親王をもり奉りて兵を興し足利の兵とせめたたかふ。其の頃尹良親王は大和國吉野宮におはしましてうひかうぶりしたまひ、右大將兵部卿にまけて親王の宣下ありしを、新田、小田、世良田、桃井などの人々相はかりて、桃井貞識を使として吉野よりむかへまゐらせて、上野國にうつし奉り、屡々賊とたたかひたまひけるに、時いたらざるにや應永三十一年この波合にて薨じたまへるよし波合記に見えたり。隨臣青山藏人頭師重、羽川安藝守、桃井宗綱、世良田義秋などの人々は墓も此のちかきにありといふ。いぬる明治十四年今上天皇陛下京都へ行幸の道すがら殊に西四辻侍從をさしつかはされ、此の事にかかはる調べを仰せつけられたり。されど其の後いまだ何の御沙汰も聞えぬは尚親王の事蹟御墓の眞僞もわかちがたくやあらん、あはれ如何にもして此の尊とき御あとのうづもれたるをあらはし、他のみこのみやしろのごと官幣の位にも列せさせまつり、なきみたまを慰め奉らまほしきことにこそ。
 此を出でて智里村といふに來しを、夕立いたく降りいづ。會地村なる駒場の驛にて憩ふ。雨のやみ(415)ま待ちとりて又出で行く、伊賀良村といふに入る。此のあたり桑よく生ひしげり、稻葉みづみづしく生ひ立ちて豐かなる樣、おのが過ぎこし國々にもまさりてぞおぼゆる。鼎村、上飯田村を過ぎて飯田町につきやどる。けふの道書き記さんことも多かれど此の日記あまり長くなれば省きつ。さて學校としての隊をばここにて解かれ、師の君も生徒もおのもおのもと家路へと向ふ。おのれは筑摩、安曇の人とつれだちて十一日飯田をたち、尚坂下に一やどりして、其のあくる日の十二日入相の鐘の心細うきこゆる頃おのが家居にかへりぬ。長の旅も事なうはてて心安きに、家人のこれかれなだむるも心うれしうなん。
                      (明治二十八年)
 
(416) 女子霧ケ峰登山記
 
余は熱心なる女子登山希望者である。曩に三河國の某女が、下駄がけを以て富士登山の先驅をなし、野中千代子が雪中一萬二千尺の山巓に悲壯なる籠居を敢てせし以來、奈良朝の昔、金峰山の女尼が、六尺男兒を後へに瞠若たらしめた底の女子が追々増加して、三十五六年頃からは、各地女學校の團體が追々富士登山を試みる樣になつたのは、寔に喜ばしい現象である。余の記憶に存して居る者のみにても、此の二三年に、富士登山を試みたのは餘程ある。即ち三十六年には女子美術學校の生徒が登り、三十七年には山梨縣師範學校女子部、女子體操音樂學校(二十餘人中二人疲勞)、神奈川縣高等女學校等が登つて居る。此の外嘉納氏夫人は三十六年に單獨登山を行ひ、板垣伯、原敬二氏夫人はその翌年に登山を企てられたさうである。特に今年は樺山伯の孫女が、垂髫のらうらうしさを以て、繊小な足跡を山上の火山灰に印したと聞いては、眉を描き、眼尻を塗り、蘇芳に頬を染むる女學生すらある今日に、吾黨のため實に大なる援助を得たものと思はれてうれしい。尤も右に(417)述べたのは、皆新聞紙上に表れた者のみであるから、勿論吾人の視聽に觸れない、幾多の巾※[巾偏+國]登山者があつたに相違ない。此の種のものは今の内によく調べて置いて、他日明治女子登山史を編纂する材料とし度く思ふ。余は三十六年に女子二十餘人を率ゐて、八ケ岳登山をした事がある。二泊三日の登山中一人の疲弊者をも出さす、採集物も隨分豐富で、先づ成績佳良の方であつた。今年八月又々十五人の女子を引連れて霧ケ峰に登つた。以下記する所はその紀行で、それにまま山案内的のものを交へて、諸君子の登山に便せんと思ふのである。
 
 霧ケ峰は、八ケ岳火山彙中の北端にある休火山で、地籍の大部分は長野懸諏訪郡にあつて、一部分は小縣郡に跨つて居る。高さはやつと二千米突内外で、その上に傾斜が極めて緩慢であるから、上諏訪町附近の人が、春から夏秋にかけての登山は、丁度日曜の速足に、恰適位な程度である。山の面積の極めて廣大なるに比して、高さが前記の如くであるから、一寸見には、根からダラシの無い、不恰好な、何處に主峰があるかさへ分らぬ草山で、云はば火山中の老朽者と云ふ位置であるが、登つて見て、何處までも奥行の知れぬ廣さが、他の佶屈な少壯火山(形から見立てて)と異なつたよい感じを與へる。余は此の山を一日の遠足地として、非常に珍重して居る。去年は四囘、今年は五囘登つて居るが、未だ霧ケ峰と云ふ纏つた感じが頭に這入らぬ。つまり不得要領の山であるから、何囘登つても(418)面白いのだ。それに比べると南隣の立科山などは、形式が誠に單一で只舊火山の饅頭形の上に、新火山の圓錐形が坐つて居るのみで、甚だ要領を得て居るが、余は一度登つたきり二度登らうと云ふ興味が出ない。猶又霧ケ峰は植物採集地としても、隨分価値のある山で、山麓(上諏訪町下諏訪町方面)より山頂にいたるまで、甚だ多方面の植物を分布してある。昨年山頂の北端なる鎌ケ池で、狸藻の一種を採集したが、これは普通の狸藻、姫狸藻と異なつた形態を具へて、捕蟲嚢の位置が全く輪生葉群の部分から隔離して居る。某植物学者は、多分日本に於ける新發見だらうと云つて居られた。猶此の池の一部ミヅゴケ叢生地に、姫石楠花一名日光石楠花なども發見せられたので、本年矢澤師範學校長と河野師範學校教頭と、一日採集して行かれた(八ケ岳の遭難者大學生十六人を救つた歸途)から、余等の如き素人よりも大に得る所があつたらうと思ふ。霧ケ峰の大體はまづこんなものである。
 そこで余は常に女生徒に向つて登山熱を鼓吹してゐる。殊に上諏訪町から往復六里で、一日旅行に極ふさはしい此の霧ケ峰を、第一に推奬した處が、盛に賛成があつて、今年長雨期にも係らず、是非連れて貰ひ度いと云ひ出したものが二十人許りあつた。その内四五人は都合があつて、つまり十五人、それに高等師範校の飯河君等三人と、余とを合せて同勢十九人、八月二十日午前七時、上諏訪町を出發した。
 一體上諏訪から、霧ケ峰に登るのは、上諏訪町の新殖民地たる、小縣郡オメグラ山村に通ずる星糞(419)峠の山道によるのが順路であるが、上諏訪町から一里の角間新田までは、全く霧ケ峰から流出する角間川の谷に沿ふのであるから、兩方の連丘が直ちに頭上を壓して、展望の快に乏しい。そこで其の一方の丘陵たる立石山上の細道を經て、角間新田の上に出る事に決した。此の立石山は東北方人の字山から派出された火山集灰岩の小丘で、極點の斷面を上諏訪町の背後に現して、諏訪沖積層との限界をつくつて居る。丘上は落葉松の殖林地と、未墾の草原とで中腹以下は瘠地の桑畠や、粟畠になつて、間に数條の作場道が通じて、それが中腹以上から合して一小徑を作つて居るのである。今朝は雨後の朝露がことに繁くて道ばたの薄や、フレモカウ、桔梗、ヤマニンジン、ヒメカンザウなどの花は何れもうつ俯して、初秋の靜肅を瀟洒たる風姿に表して居る。數町の急勾配を登れば最う丘の頂上である。足の下は、直ちに上諏訪の市街で、町外れから眞碧な諏訪湖が、遠く上伊那境の連山まで擴がつて、山襞の凹所から、天龍川の日に輝きつつ流出する遠方まで明瞭に見渡される。女生徒等は盛に草原の中を驅けまはつて、カウリンクワの濃朱色なのや、女郎花のひよろひよろしたのやを折り、爭つて居るので腰から下はもうぴしよ濡れに濡れ徹つて居る。道は少しづつ爪先上りとなつて、次第に落葉松の茂りに這入つて行く。ちと生ぬるい南風が出て空は追々怪しい雲脚となつたが、木の間から見渡される角間新田の白壁には、未だ鮮かな日が當つて居るので、唱歌など謠ひつつスタスタと登つて行つた。何處の谷間だらう、山鳩がほろほろ鳴いて居るので生徒等は首を傾げて立つて居る。
(420) 立石山で採集した植物は大略左の如し。
  ヒキヨモギ メドハギ イヌハギ ネコハギ マキヱハギ アリノタフグサ クチフクロサウ グンナイフウロサウ カウリオンクワ ハナナヅナ コバノイチヤクサク ツリガネニンジン フシグロセンヲウ トリアシショウマ ムシヤリンダウ
 角間新田の上で星糞峠の道に合した。此の邊の濕地は、一面のサハギキヤウで濃紫の花が目醒むばかり咲き揃つて、猶所々にエンビセンヲウの眞紅が夜火の如く群落をして居る。サラシナショウマの雪白なる穂状花は、角間川の溪流を挾み咲いて、女郎花、藤袴等と相靡くなど、生徒等の喜びは大したものだ。此處から十町許なる科の木平までに採集した植物は、
  サラシナショウマ イブキトラノヲ クララ エンビセンヲウ サハギキヤウ マツムシサウ マツバニンジン ニガクサ アケボノサウ ウメバチサウ コトデサウ リウナウギク ヤマハハコ ヤマゴバウ ツルニンジン アブラガヤ
 科の木平の入口で土橋を渡り、角間川に分れて斜めに右に向ふのである。この邊からそろそろ霧が襲ひ始めた。較廣い科の木平の右、前に當つて霧ケ峰の一峰なるアシクラ山の縱斷面が、斧で削つた如く突つ立つて居る。其の極めて鋭利な斷崖が、今天邊から沈降する秋霧の間から見え隱れして居る。草叢を踏み分けてクサボケの純黄色な果實を採集して居るうちに、霧雨と云ふのがポツポツやり出し(421)た。山上の風も少し劇しくなつた。斷崖を見れば吹き落ち吹き落ちする濃霧が、已に其の九分以上を埋了して、僅に見える頂すら、もう直ぐに隱れてしまはうとして居る。この儘登つた處で空の晴れるかどうかは、近來の天気では先づ疑問である。雨の中を登るもよいがもし病氣でもする者があつては、後の女子登山者に對して多少の障礙ともならぬとは云へない。今日は一旦引返すことにしようと十五人にこの趣を宣告した。處が女生徒先生中々承知しない。折角ここまで來て只歸つたでは、他の人に面目ないと云ふのである。雨具もなし、おまけに二人は下駄がけと云ふのだから、色々勸めて歸らせようとするが、つまり承諾しない。詮方なく、又歩み出したが、これから鎌ケ池までは(頂を越えて)少くも一里半はある。困つた事であるが、ぽつぽつと賽の河原坂にかかつた。この坂はアシクラ斷崖の北端にあたつて、霧ケ峰登山中第一の急坂であるが、(此の斷崖は霧ケ峰溶岩流冷却の際、板状節理をなしたもので、建築用具の平石と稱して、盛に採掘せられる。秋田縣からも斯の如きものを産する由、複輝石安山岩ださうな)僅々二三町に過ぎぬのだから、大したものではない。併し今日は雨で道が辷つて中々困難である。十五人は道ばたの丈長い萩叢や、萱原にその頭までが埋れて體一面びしよ濡れである。坂の中途に一つの石が横はつて居るので、十九人はこの石に、冷たい腰を下ろして辨當をつかひ始めた。雨のために握飯がよい加減にしめつて居る。時計は今少しで十二時を指さうとして居る。
(422) 午後一時頃、余等は賽の河原坂の上に休んで、下界に霽れ行く霧の壯大なる光景を眺めて立つた。薄霧の末には遙かに諏訪湖さへ見えてゐる。生徒の喜びは大したものであるが、余はこの晴が一時的のものであると信じて居た。果然一時半頃から大粒の雨がやつて來た。もう斯うなつては破れかぶれ、疲れた生徒の手を引いても行ける處まで行かうと決心して、丈長い草を分けて出立した。數町行くと、白檜森が左右に一かたまり茂つて、その側に潺々たる小川が流れてゐる。咽を濕して又出掛けた。これから東股川の谷までが霧が峰の尤も雄大を極めて居る處で、廣漠たる廣原が兩方の鈍形峰から斜に裳裾を曳いてその中間に、今飲んだ清流を走らせて居る。晴天ならばこの邊に角間新田から登る草刈が、あちこちと唄ひかはして、遙か向うに飼放された馬の群が走るなど、實に悠々たる天上の花野であるが、今日は中々そんな譯でない。やつとの事で通り抜けて東股川の谷に下りた。
 採集植物
  シモツケサウ クカイサウ ルリトラノヲ キンバイサウ ヤナギラン ウスユキサク ヨブスマサウ ノブキ パイケイサウ シユロサウ ヒメユリ シラヤマギク ヲタカラカウ タムラサウ キオン
 谷を上れば、右が霧ケ峰主峰たる車澤山(?)で、その裾が北方に擴がつて所謂御射山原(古歌に詠ずるものは富士見村の御射山原に非すして、之なりとか傳ふ)で、道の左側の草深い中に、石の祠が(423)埋れて居る。その直ぐ側には山梨の古樹が一本立つて居るが、草寒き山上の風にきたわめられて、下枝は同じく草の中に埋れて居る。諏訪大神遊獵の跡といふので毎年九月神事があるさうだ。人遠き山上の草を踏んでどんな神事があるだらうと尊くゆかしく想はれる。猶少し行けば、鎌ケ池である。眞圓な池の大半がミヅ蘚に埋れて水の形が新月形に殘つて居るから、鎌ケ池と名づけたと云ふ人もゐるが、昔鴨が澤山棲んで居たから鴨ケ池と云つたのが、轉訛したのだとも云ふ。どちらへでも面白いから賛成する。池中のミヅ蘚を踏んで中に入れば、蘚が綿の如く柔かに中へ凹んで、少しじめじめと水が出て來る。ここで立ち乍ら第二の握飯を開いたが、中腹からの雨で、手がかがんで風呂敷が開けない。雨は未だ中々止まないが、序にすぐ拉びの七島八島の池をも見ようと、猶北方へ歩を移した。鎌ケ池よりも廣くて水が深い。岸には澤桔梗が一帶に咲き續いて、その紫が澄み切つた水に映つたさまはやゝ凄寥の氣味に打たれる。下諏訪町から登れば東股官林を過ぎて直ちにこの八島の池に出るのである。この邊はキンバイサウの群落で、黄金色の花が、歩に從つて咲き續いて居る。霧は捲き去り捲き來つて、天上山上渾べての有象を一擲して、宇宙の永劫に投じ去るかと思はせる。暫くして僅かのひまから鷲ケ峰の雑木林が、直ぐ目の先に見えたが、※[倏の犬が火]忽に消え失せた。
 採集植物
  コタヌキモ(?) ヒメシヤクナグ ミツパワウレン ツルコケモモ イハゼキシヤウ シヤウジ(424)ヤウバカマ ワレモカウ(小形の一種) ツバメオモト ヤチスギラン
 此の他疑問中にあるもの二種。
 山上の雨も雄大ではあるが實に寒くて寒くて堪らない。生徒も最う目的地を究めたのだから、盛に下山の催促をし出した。頭から足まで濡鼠で、唇が白走つた紫色を呈してゐる。走る如くして前の道を引返し角間新田まで來た時、天はそろそろ晴れはじめて、それから角間川沿の大道を辿つて午後七時上諏訪町に著いた頃は、全くの青天となつて八月の夕日が、諏訪潮に反照して居るのであつた。霧ケ峰方面は未だ白雲裡に鎖されて居た。一行十九人の健康で、雨中の登山を仕遂げた勇氣は、將に女生十五人に向つて感嘆の意を表するのである。
  附記 十一月十日。散逸せる記憶を喚び起して、急ぎ纏めて紀行を綴る。零碎體を爲さず。慚愧々々。猶余は、この遠足中、特に日本女子服裝の不完全なるを切に感じた。常服を改良するか、然らざれば少くも旅行服について、特別の意匠を用ひねばならぬ事と思つた。旅行家諸君の研究を望む。
            (明治三十九年四月「山岳」第一卷第一號)
 
(425) 淺間登山
      ――諏訪岩石採集隊――
 
 午前五時の出發であるから小諸の町は未だ暗い。二十五人が半ば夢の心地で案内者のあとに並ぶ。町を出外れると佐久の山颪がサと顔に當る。天界の偉人に接する前に、其の峻嚴な威壓が先づ二十五童子の頭上に加はるのだと思ひ乍ら、正面から其の寒い風を浴びる。魂は宿屋の夢から直《すぐ》に天上の靈界に飛ぶ。
 畠道を通る。田圃道を通る。落葉松林は一里行つても二里行つても盡きぬ。夜はもう疾うに明けてゐる。
   八千曲《やちくま》の千曲川水末遠に雲明けはなれ眼路《めぢ》ほがらなり
   遠裾ゆ吹きあぐる風に七澤《ななさは》の川の瀬音がさやに聞ゆも
 蛇堀川《じやぼりがは》に添つて谷深く入る。水も瘠せてゐる。木も瘠せてゐる。滿山の落葉を踏み盡くして道は磊(426)磊たる燒石の間に開く。頂上は直ぐ其處だ。白斑々たる積雪の上に濛々たる噴煙が見える。
   谷ふかく分け入るままに冬枯の木立の奥ゆ瀧懸り見ゆ
   落葉松の林つくれば眼もはろに燒石|碩《がはら》みねにつづけり
   湯津岩の千岩《ちいは》流るる白雲に天路|遠入《とほい》る思ひするかも
   久堅の天《あま》の燒原《やけはら》まばらなるから松木立鳥も鳴かなく
 池の平の火口原で握飯を食ふ。玄武質安山岩といふのをコツコツやる。山上の雪に立つて金槌を振上げるのは、豪宕な活火山に調和してゐると思ひながら、大きな巖の上に立つ。
   千早振神の火の山忽ちに灰降り來り日も見えずけり
   うすら日の光をぐらき山の上に天《あま》つ石切り石の火散るも
   燒岩の黒岩に立ちて槌揮ふ二十五童子灰ふき來る
   照妙《てるたへ》と雪ふり敷ける石原に石切り立つは天つ人かも
 前掛山を拔けて噴火口につく。周圍三十町の大火口から湧き上る烟の柱は、地軸から直ちに碧圏を貫いて上る。二十五人の股は震へてゐる。天界の偉人は人間といふ動物を赤裸々の弱者に返して、其の一人宛を巖の上に竝べて見せる。
   大空の烟の柱浮桂折れてくだけて胚捲き來る
(427)   空おほふ灰の霧らひに日の影の光いぶりていや朱《あけ》に照る
   日の本の益荒男にして歌よまば國土《くぬぢ》溶《と》ろかす火の力われは
 急峻な砂道を眞直に輕井澤に下る。脚下洋々たる雲の海に天日《てんじつ》が漂ふ。信毛《しんまう》の山の頂が漂ふ。大火山の噴煙が漂ふ。二十五人の形骸が漂ふ。
   天霧のただよへる中に紅の血の他の水見ればかしこし
   雲の海を遠たちかくむ科野《しなぬ》山|上《かみ》つ毛の山|下《しも》つ毛の山
            (明治四十年十一月二十三日「長野新聞」)
 
   日曜一信
 
(43) 明治四十三年
 
 五月八日
△口を開けば成功といふ。成功とは果して何を意味するか。今人成功を追ふの心事寧ろ唾棄すべし。
△吉田松陰は不成功者なりき。南洲翁も不成功者なりき。心事のやゝ高きもの世と相容れざる寧ろ當然の事なり。高きに居て之を貫かんとする者、敗ると雖も猶世道人心に益あり。今の所謂成功といふもの滔々として世を害はざる者幾何ぞや。
△古人志を尚び今人事功を尚ぶ。志を尚ぶが故に貫くに道を以てし、事功を尚ぶが故に施すに術を以てす。只夫れ成功せざる可らず、故に僞り故に欺く。僞り欺く能はざる者は小心者なり。即ち諂ひ即ち裝ふ。一は得々として世に蔓り、一は惴々焉として世と相悖らんを懼る。かくて滔々相率ゐて世の水平を低下せしむるもの、之を名づけて成功の關門といひ、更に名づけて當代の常識といふ。
△人に教ふるに勤と儉とを以てする者あり、之宜し。宜しけれども之丈けにては不足なり。陋者もよ(432)く勤め小人もよく儉するに非ずや。動儉を以て世道を救はんとするは賃して兵を傭ふが如し。隊伍を整ふるに足れり、用を爲すべからず。
△客あり、實業家は成功せざる可らずと曰ふ、果して然るか。業のために其の身を斃し、研究の爲め開拓の爲めに其の産を倒す者あらば如何。今の實業家皆よく一身の爲めに計つて實業の爲めに計らず。成功はあらん、遠大の計なし。義捐金位を出すが犧牲的精神に非ざるなり。
△失意なりし者孔子に如かんや。不運なりし者耶蘇に如かんや。口に孔子を尊んで心に俗流を追ふ教育者は陋なるかな。
 
 五月十五日
△常識に習へといふ。常識に隨へといふ。何ぞ常識を上げよといはざる。
△凶事あり、隣人集つて食ひ且つ飲む。慶事あり、隣人集つて食ひ且つ飲む。滔々として然り。常識とは斯の如き者を云ふなり。
△我道は行ふに足らず。世と推移すれば可なり。我志は貫くに足らず。地位を失はざれば可なり。滔々としで然り。常識とは斯の如き者を云ふなり。
(433)△只是れ社會の習慣なり。隨ふを可とし隨ふを不可とす。可なる者あり、不可なる者あればなり。隨ふ勿れといふも猶且つ隨はんとす。隨へよといふに至つて可と不可とを問はんや。
△天下皆羅馬法王を聖とす。ルーテル獨り起つて九十五條の抗疏文を宣す。常識を逸するもの天下豈ルーテルの如きものあらんや。
△ガーフヰールド選擧人に告げて曰く。公等の心を成さんとする須く予を選ぶ可らずと。代議士の常識を逸するガーフヰールドを以て頂上となす。
△昔者先生なるものあり。自ら先んじて世を率ゐたり。今は教育者なるものあり。自ら卑うして世に後れんことを恐る。
 
 五月二十二日
△五月十六日諏訪を發して長野に向ふ。初夏新緑五時餘の車程遊意清爽ならずとせず。
△諏訪の平に二毛作なし。千頃の田只黒土の連續のみ。松本平に入るに※[しんにょう+台]んで、直ちに菜花麥隴の圖を展じ來る。況んや奈梓二流の流域、紫雲英の紫と赤楊の緑と遠く相點綴するあるに於てをや。善光寺平に至つては麥隴ありて菜花なく紫雲英なし。冠著隧道を出づれば眼直ちに地の北なるを知る。
(434)△松本平は文の質に勝つ。諏訪乎は質の文に勝つ地なり。兩者の民俗天風物を假りて之を現すか、抑も風物人間を驅つて斯の俗を馴致するか。質あるものは將來を期すべし、文あるものは將來を慮るべし、二者の用心別趣あるべきなり。
△諏訪に寒あり險あり不便あり、數千年來生活の奮闘は形に現れずして力に積めり。今や寒ありて險と不便となし、力は遂に何物かに現れざる可らず。生絲は其の初歩なり、寒天は其の初歩なり、一二輩出の人物は其の初歩なり、知らず諏訪人は今後何れの方面に向つて更に其の全力を現さんとするや。形而下に進むは多からん、形而上に進むは少かるべし。煙突の煙は益々増加すべし、寒心太の藁圍は益々増加すべし、是れ今世紀の趨勢のみ。只一北澤定吉の死を悼むを解するの種類益々少きに至るなきかを思ふ。
△善光寺平は質と力とあるべき地なり。汽車早く通じて人民早く社會性を帶び、同時に其の特性を遺却す、理想少くして現實あり、事功ありて品位なし、殷鑑遠からず諏訪にあるを思ふ。
△三村、太田、藤森、朝倉、守屋諸君と會す。諏訪平の元氣溢れて長野にあるを賀す。
 
 五月三十日
(435)△信州教育に欠陷あり。施設の不備に非ず、教授法の不進に非ず、教材研究の不足に非ず、乃至正教員数の不足に非ず、就學出席歩合の多寡にも非ず、只中心人物の缺如にあり。
△徳望衆を卒ゐるを謂ふなり。氣魄衆を起たしむるを謂ふなり。品位衆を烈しからしむるを謂ふなり。只夫れ斯の中心人物あり大小の教育者仰いで其の膝下に集る事、衆星の北辰に共《むか》ふが如けん。斯の如くにして教育の進不進寧ろ言ふに足らざらんのみ。
△教授法の細微を言ふ。教員數の多寡を云ふ。就學歩合の増減を云ふ。斯の如くにして教育の績擧れりとせば教育の業は一器械に混ぎず。職人にて可なり。品位を問はざるなり。徳望と気魄とを須ゐざるなり。今長野縣の教育者好んでよく喋々す。言ふ所知るべきのみ。職人の言のみ。
△近時に於て特に然り。反動の気運漸く廻ぐらんを思ふ。一偉器之を率ゐば職人も猶氣節を口にするに至らん。
△大學に山川氏ありて七博士あり。七博士の人物に高下ありとせんも七あるは七無きに優る。職人の氣節を口にする聊か滑稽ならんも、之を口にするは猶口にせざるより優れり。長野縣教育に中心人物を要する所以なり。
△中心人物は之を師範學校長に得んを希ふ、教育學府の中心をなせばなり。不可なれば學務の府に得ん事を希ふ。不可なれば一小学校に得ん事を希ふ、中學校可なり、女學校可なり、何れにても可なり。(436)有れば則ち可なり。
 
 六月五日
△國語が愛國心を維ぐ如く、方言は愛郷心を維ぐべし。方言改良の議俄かに同ず可らず。
△諏訪に諏訪言葉あり。松本平に松本言葉あり。依つて諏訪の人心を維ぎ、依つて松本平の人心を維ぐ事幾何ぞや。諏訪人相會す、諏訪言葉ならざれば融けず。松本平人相會す、松本言葉にして始めて活くべし。此の情味を解するもの豈猝かに方言改正の議に同ぜんや。
△保守に傾く著名の固陋なるあるも實の眞摯なるあり。進歩を云爲する著名の正しくて往々浮薄の誹なからず。ハイカラなる通稱語は冷笑されたる進歩改良を意味す。方言改正なる語の流行性を帶ぶるは、ハイカラなるに近くして眞摯なるに遠き反證とも見るべし。
△都會に特徴ある如く、田舍には田舍の特徴ありて活けり。是れ寧ろ國家の幸福のみ。田舍の祭禮に田樂燈籠あるべくして電燈あるべからず。掛小屋芝居あるべくして帝國座あるべからず。電燈に非ざれば祭禮にあらずと云はば田舍の祭禮は死なり。帝國座に非ざれば芝居に非ずと云はば掛小屋芝居は死なり。田樂燈籠の趣味を解せざるなり。掛小屋芝居の趣味を解せざるなり。焉んぞ方言の趣味を解(437)せん。
△方言或は改正すべきあらん。改正すべきあらば自然の力よく之を改正せん。人爲的に改めんとするは勞ありて効少なし。効の多きあらば角を矯め得て牛を殺すに陷らん。教育者に餘閑あり、近來方言改正に腐心す。止めて昼寢するを可とす。
 
 六月十二日
△小兒好んで蟲魚を害す。殘忍は人間本性の一部なり。戰爭は遂に止む可らざるなり。
△丁稚あり。峨山和尚に謂て曰く「この池の魚を呉んな」和何曰く「そんなむごい事はならぬ」丁稚日く「甘いこと云うて和何さん自分で捕つて食ふだらう」峨山唖然たり。峨山の唖然たるは自己の急所を突かれたるに非ず。人間本性の急所を苦もなく言ひのけたる眞の聲に打たれたるなり。
△殘忍の不可なる天下萬人皆口にすべし。而も自ら省みて殘忍ならずと言ひ得るもの幾人ありや。釋尊悟れりといふも、有機物に衣食するに於て猶且つ人間の殘忍性を免れず。況や其の餘の所謂凡衆なるものに於てをや。殘忍の不可なるも必要なるに於て奈何ともする莫し。戰爭の不可なる或は之を口にするを得べし。必要なるに於て之も亦奈何ともするなし。
(438)△戰爭の過半は智力に決すといふも、猶最後の體力に決し蠻力に決する。戰爭本來の性質より見て當に然るべし。今後も、永く常に然るべし。優勝者たらんとする宜しく體力と蠻力とを養ふべし。夫の文明の皮相に感染して、體力を消耗し蠻力を消耗するの徒は爲すなきのみ。
△佛國は欧洲文化の中心なりと稱せられて國力の却て減退を示しつつあるは何ぞや。物極つて生氣なきなり。勢至つて弊の熟するなり。靴足袋を脱して風邪を引くの徒、戰爭は愚かなり、日々生活の活劇にだも堪へんや。佛國は、永く東洋の戰爭に加はるの期なかるべし。
△諏訪に蠻風多し。賀すべきゐりて憂ふべき少なし。蠻風不可ならば生絲興らんや、蠶業興らんや、學風揚らんや、一二人物の輩出あらんや。寒心太といひ、氷切といふ奇異なる産業も起らんや。若し學風産業の揚れるは他の良風の致せる所、蠻風の關かる所にあらずといふ者あらば是れ一を知つて二を知らざる者の言のみ。諏訪を語るに足らず。
△日本第一大軍神のお膝元に御柱祭あり御舟祭ありて、隨分蠻勇の神事を行ふと稱せらる。此の氏子十萬日露戦爭に奈何の働きをなししか、勲章佩用者のみを較するも他の遠く及ばずと稱せらる。軍時に秀で平時に秀で、以てその活動を持續せしめんとする、諏訪人は宜しく郷土の蠻風と關聯して考慮を適切にせよ。
 
(439) 六月十九日
△部落戦闘時代過ぎて内亂時代來り、内亂時代過ぎて外戦時代來る。戦爭の組織複雜となり、戦爭の範圍擴大せらるると共に、外戰の數も亦減少すと稱せらる。若かく進化して却て若かく減少せる戰爭は、今後果して如何なる篇遷をか爲す。
△文明は社會の歴史的階級を打破せりと稱せらる。階級を打破せりと雖も更に新なる階級を作れり。貧富の階級是れなり。武器の戦爭減じて歴史的階級頽れ、財の戦爭新に盛にして貧富の階級を作る。武器の戦爭減じたるは財の戦爭の増せる所以、古き階級の頽れたるは新しき階級の興れる所以、武器の戰爭は遂に財の戰爭と化し了すと爲すか。
△武器の戰爭の悲慘と、財の戦爭の悲慘と何れなるかを知らず。夫婦拮据するも五子あれば已に養ふに堪へず。一人病んで醫療の盡し難きを普通とす。嬰児夙く死す、父母悲しみ且つ喜ぶ。喜ぶは其の足手纏ひの減じたるが故なり。斯の如きは中流農家にして珍しからず。武器の戰爭に死ぬる子を悲しむと、財の戰爭に亡なれる子を喜ぶと、長幼やゝ較し難しとするも、悲慘に於て何れとするか。
△士の殿樣にあやまり、百姓の士にあやまる、忍び難しとするも猶蹙迫せず。貧の富に征せらるるに至つては、其の苦痛所謂背に腹はかへられぬ者なり。苦痛の聲漸を致し大を致さば收拾し難からん。(440)内亂の外戰となり、外戰の財戰となり、財戰の極まる所環つて再び内亂に歸るが如き、言ふを不祥とせんも、識者意を致さずば千年を必し難からん。△外戰は猶行はるべし。東洋に於て特に然り。減少せりといふは、有れば則ち大なるを意味す。財戰に至つては時々刻々にありて時々刻々に大なり。外戰と財戰とは國民の眞劔に考慮を致すべき二大案件なり。
 
 六月二十六日
△長野に諏訪人會ありて出席す。會者四五十、近來の盛會なりといふ。立つて氣を吐くもの十數。
△若い者に元氣なしと皆云ふ。若い者に元氣なきか、若からぬ者に元氣あるか。人を目して若い者といふ、云ふ者の年齒猶三四五十を超えず。三四五十を以てして人を目して若者となす。夫子自身の元氣を顧るを要す。
△若い者事を成さんとすれば老者戰々兢々たり。若い者已に事を成せば暴なりといふ。出過ぎたりといふ。壓せんともし避けんともす。諏訪青年會の破壞は何の状ぞ。諏訪育英會の分立は何の状ぞ。今の青年を萎えしめつつあるものは、三四五十にして老者と自稱する老人のみ。
(441)△座に金井春吉君あり。曾つて師範學校二十一人首切事件に坐して師範を逐はれし人。今新に長野に入つて税務監督局に在り、君が八年の苦楚老者之を知るか。當時二十一人の氣節凛として霜の如し。之を斬《くびき》れるものは教育學府に非ずや、縣當局者に非ずや、而して猶青年教育者に對して元氣あれ氣概あれと云ふか。金井君黙々として多くを語らず。老人の輕々しく元氣を談ずるに對して甚だ趣あるを覺ゆ。青年者は斯の如く自重して可なり。
△諏訪を排外的なりといへり。或は然らん。然れども強ひて他と調和するも要せず。調和すべきに調和し、調和すべからざるに調和せざれば可なり。今の弊とする所は調和すべからざるに調和するにあり。同時に自己の長所を没却し特色を消磨するにあり。調和々々といふ。泰平は有らん。斯くして平凡。斯くして腐敗。
 
 七月三日
△現代の繪畫は輪廓より脱して色調に入れり。現代の小説は事件の描寫を脱して情趣の描寫に入れり。輪廓と事件は見掛けの價値に近くして、内容の價値に遠きに於て淺薄の譏を免れず。見掛けの價値に遠ざかつて内容の價値を追はんとする文藝の傾向は、大勢に於て進めりとすべし。
(442)△人世に觸るるとは是を言ふなり。語ハイカラに似たれども根柢に深き意味を有するに於て、容易に移すべからざるの威力を具せり。荒木又右衛門に輪廓の變化を求むべし。藤村獨歩の著に人生の情趣を求むべし。求むるに深と淺とあり。深を求むる時代ありて深を與ふる人あり。吾人は明治盛大の更に眞面目なる發達をなすべきを思ひ、斯る時代に遭遇せるの幸福を感ず。
△只淺浮の徒あり。猥りに神輿をかつぎて輕躁を爲す。自稱自然主義作者是れなり。自稱新派歌俳人是れなり。自稱新派日本畫家是れなり。色調といひ情趣といひ内容といひ人生に觸るるといふ事、お祭りの神輿たるに至つてハイカラと滑稽とを併せ感ずべし。文學藝術の意是に存せずして彼に存するを知れば可なり。
△青年の氣を負ふと稱する者よく切齒しよく扼腕す。切齒は輪廓のみ。扼腕は事件のみ。荒木又右衛門のみ。文學藝術の變遷に省みて更に深き者を求めんを望む。
△表彰に隨喜し胸章に有難涙を零すの徒に至りては、輪廓の輪廓なる者、事件の事件なる者、更に下の下。度すべからず。
 
 七月十日
(443)△諏訪最初の領主を健御名方命となし、最終の領主を諏訪忠誠公となす。
△天使來つて國土を獻ぜよといふ。大國主命唯々たり。事代主命唯々たり。健御名方命獨肯ぜず。他人の國に來りて何を言ふ、國土を得んとする只力に訴へよと言ふ。
△朝廷瀑政を返上せしめんとす。忠誠公老中を以て機務に參し、對朝廷策を講ずる事固より甚だ務む。只健御名方命に比して骨を露さざるのみ。勝安房の忠亮も爲めに卻けられしと見ゆ。
△自ら經營する國土なり。俄かに來つて之を獻ぜよといふ、命に從ふの自然か命に從はざるの不自然か。形を以て論ずれば不忠の名あり。不忠の名あるを捉へて健御名方命を葬らんとするは、少くも松平容保、西郷隆盛を捉へて不忠の名に葬らんとするに類せり。
△所謂孤軍の奮闘なり。力竭きて飜然悔悟して曰く、吾をな殺したまひそ。此のところを除きてはあだし處に行かじと。抗するの男らしくして、屈するの又男らしきを見よ。出所行藏は斯く明瞭にして爽快を感ず。
△忠誠公の老中を以て幕府のために謀る、強ひて咎むべからざるは多少健御名方命に類せり。差とする所は健御名方命の態度明瞭なるに對して、忠誠公の態度甚だ隱忍なるに在り。幕府を佐けて江戸の藩邸に在るの一面在藩の士に命じて討幕の師に加はらしむるが如き、首鼠兩端と稱せられて何と辯解する。諏訪最初の領主男性的なるに對して、最終の領主を女性的なりとすべし。
(444)△諏訪も日本なり。時代につれて悧功となる單り忠誠公のみならんや。或る人詐して曰く、小縣人《ちひさがたじん》に面從ありて陰口なし。諏訪人に面從なくして陰口ありと。全く當らず、又全く外れず。
△排外なりとて諏訪を憂ふる人あり。健御名方命も排外者なりき。只強く眞面目なる排外者にして、始めて強く眞面目なる協同者となり得るを忘る可らず。尊王擾夷の論沸騰するの國にして始めて強固なる明治開國の國是を立つべし。始めより他に適應せんを思ふ、忠誠公の適應に終らずんば幸のみ。
 
 七月十七日
△金力萬能と稱せらるる中に主義の力よく金力を壓伏する者あるに注意すべし。議員選擧にも近來其の例を出しつつあり。
△櫻井一久の勝利も是れなり。戸水寛人の勝利も是れなり。藏原惟郭の勝利も是れなり。高木正年、島田三郎の勝利も先づ以て是れなりとすべし。近者神戸に松方、野添に破らる。松方の何なるを知らず。只金なき野添の金ある松方を破りしは實なり。
△金權の最も行はると思はるる市部に是の例の多く、民情素純と稱せらるる郡部に此の例少きは特に注意すべし。
(445)△世は螺線に進むといふ。物は其の始めに歸るといふ。富める者益々富み、富其の度に達してまた志に歸る。世道は斯の如し。窮して通ずるに妙あり。物質の文明に醉ひ物質の文明に倦み物質の文明に窮するの時は、志に歸らんを思ひ靈に活きんを思ふの萌せる時なり。日本の富者未だ志に歸らんを思はず、靈に活きんを思はずと言ふも、主義の人勝ち、金の人敗るる事近時往々にして是れあるは、少くも日本の前途を落膽せしむる現象に非ず。
△地方の貧しきは貧しきに安じて貧しきに非ず。富を希うて貧しきなり。此の意味に於て地方は都會の初年級なり、未成年の都會なり。未だ物質文明を得ず、窮して通ずるの機更に遼遠なるべし。
△甞て市部の小學校の形式的修飾的にして、郡部小學校の精神的實質的なる時ありき。今や田舍の小學校の却て形式的にして、市部小學校に往々生氣あるを見る。市部の選擧と關聯して參照するに足る。
△市部を進めりといふ、必しも然らず。地方を進まずといふ、必しも然らず。只地方に善しとする者は多く將に滅せんとする者、都會に進めりとする者は多く將に來らんとする者、斯の如き差あり。
△戸水の金澤市に戰ふや、櫻井一久、三宅雪嶺等應援甚だ勗む。今や戸水、松方を援けて櫻井の後繼野添と戰ふ。神戸市民の反感却て野添に利ありといふ。戰つて敵を助くるに終るは自ら知らずして、地下の櫻井に報ずに似たり。滑稽にして哀れなり。
 
(446) 七月二十四日
△頃者小縣郡某村に暴漢あり。醉うて車夫の人力車を破壞す。某村小學校長曰く、予の就職地より斯の暴漢を出す。予の徳化足らざるなり。償ふべき金額は予之を負擔すべきなりと。
△某村長之を聞いて曰く、予の治下斯の暴漢を出す。罪予の不徳に存す。償ふべき金額は宜しく予の負擔たるべきなりと。駐在所巡査又之を傳へ聞いて曰く、暴擧は予の管轄内に出づ。償ふべくんば予之に當らんと。
△他の罪を負うて自己の罪となす三者の寛厚驚くべし。只試みに三者に問はん。管轄内に放火あり殺人あるも、猶其れ罪己にありとなして其の責を負ふか。一家燒くるも數百千金を耗すべし。十家燒け百家燒くる時、猶罪予の不徳にあり耗する所の萬金予當に之を償ふべしと言ふか。人力車修繕料何程なるやを知らず、十金二十金已に負擔せんと言ふ。千金萬金に至つて尻込みする事妙ならず、況や殺人の類に至つては耗する所人命なり。金を以て償ふべきに非ず。三者の不徳この不祥事を生じたりと言はば知らず、何を以て之を償はんとするか。
△金を以て償はんといふ。俗耳に入り易きだけ名聞に近し。自己の不徳なるを知らば何ぞ更に徳を修むるを爲さざる。徳を修めて猶徳の足らざるを思はば、何ぞ速かに其の職を退くを爲さざる。三井岩(447)崎猶千萬金にして盡く、小學校教員や村長や巡査や財の限度明白のみ。明白なる財を以て自己の不徳を償はんといふ、斯る無思慮にては修徳の用意さへ疑はる。
△近時道徳の技巧を弄する者あり。孑々《げつ/\》たる小善を以て自己の位置に利せんとし、若くは淺はかなる名譽の慾臨を充たさんとす。道徳は道徳の爲めにして始めて尊し。一點方便の意味あるに於て商品と擇ばず。職務柄小學枚教員などに道徳の技巧者多く又此の技巧の成功者多し。郷原は徳の賊なりといへり。上に在つて率ゐる者是れ。下に在つて從ふ者亦從つて是れ。郷原の害は暴漢の人力車を壞るよりも甚し。
 
 七月三十一日
△閑を得久し振りに家居す。終日一事なし。書を抱いて横臥す。兒等余の身邊を去らず。腰に攀づる者あり、口や鼻を引張る者あり。一旬の閑を欲して却て喧囂に終らんとす。而も兒等に非ずして天下何物か來りて余の腰に攀づる者あらんや、口や鼻を引張る者あらんや。子を持てる者の幸福を思ふべし。攀づるに任せ引張るに任す。
△晩凉兒等を擁して郊外を歩す。諏訪の地尺寸と雖も生活奮闘の場に非ざるはなし。湖岸埋立の石垣(448)を見よ、山丘頂上の桑畝を見よ。刈られんがために一束の草あり、伐られんがために點々の樹あり。岡谷の煙突は地を狹しとして苦煙を半空に揚ぐ。而も是れ遂に余等が散策に關せす。草あれば藉き石あれば憩ふ。斯の如くにして足れり。
△刈らずして枯るる草あり、村童の蜻蛉を釣るに任す。伐らずして朽つる樹あり、幽禽の巣くふに任す。偉人は斯の如き地より産す。諏訪の地に利害を離れたる地なく、諏訪の人に利害を離れたる人なしとせば、前途輩出の人物其の種類概ね知るべきのみ。
△質素竪實にして勤勉なりといふ。諏訪の美質に相違なからん。是れ自己を救ふに足れり。國家を救ひ人類を救ふには別に其の素あり。諏訪人に求むべからず。兒等と閑遊して斯の如きを感ず。
 
 八月七日
△岩石調査に從ふ數年、寸毫の自己に利するなし。諏訪湖調査に從ふ數年、寸毫の自己に利する莫し。自己に利するなき調査に從つて、自己に利するなき事業を完成し、斯くて橋本福松氏は諏訪の地を去らんとす。
△是れがためにオミワタリ研究も起れり。是れがためにソネの研究も起れり。而もこれ研究の一小部(449)のみ。騎兵の氷上演習も湖水調査に待たざるべからず。スケートの經營も湖水調査に待たざるべからず。魚類養殖事業も湖水調査に待たざるべからず。而も是れ研究の一小部門にて足れり。全研究の將來諏訪を益する幾何なるを知るべからず。
△研究の始め斯の如きを測らず。研究進むに從て一益を生み、更に進むに從て應用漸く加はる。學術の事皆斯の如し。始めより利害を打算して行はるべきに非ず。而も橋本氏自身にありては、調査を終るまで寸毫の自己を益するなし。橋本氏の事業は斯く犧牲的意味を加へて貴きを覺ゆ。
△薄給の一教員のみ。百金の負債も富者萬金の損失より苦し。精神的糧を追ふ者この苦しみに堪ふるに易々たり。
△諏訪人に由來この消息を解する者少し。十年前伊那の谷より入りし一赭面漢は、犧牲的事業の貴重を諏訪人に示して、孤影寒衣再び諏訪の地を去らんとす。物好きと思ふ者多かるべし。感謝する者幾人かある。橋本氏始めより斯の如きを知る、又當に介意せざるべし。
△若夫れ教員服務規定を云々して、尋常一般の掣肘を加へらるるが如きあらば、橋本氏研究の完成するあらんや。此の意味に於て一面氏の任所を得たる幸福を思ふべし。部下に俊秀の土を有する校長の留意を要す。人を率ゐる戰々兢々只規に是れ外れん事を恐る、小心斯の如きの下に俊髦を羅致せんや。集むる所の部下知るべきのみ。橋本氏事業の反面にこの意味の援助ありしを忘るべからず。
 
(450) 八月十四日
△小學校教員の俸給を國庫支辨にすべしといふ、固より宜し、宜しけれど萬事に宜しきに非ず。
△先づ教育の威權立つべしと思ふは謬れり。俸給の出場所が違ひ、其の爲めに權威立つと云はば立ちしと云ふ權威寧ろ哀れむべし。直接町村民の負擔に衣食するが故に、町村民に對し氣兼すといふ先生、町村民の負擔を離れしとて氣兼せざる部分幾何ぞ。自己を没却して只管他人の鼻息を覗はんとする者、如何なる境遇に立てりとて爲す所知る可きのみ。
△人民の聲は俸給の出場所位にて勢力を増減する者に非ず。某郵便局長の人民の聲に負けしに見るべし。人民の勢力斯く大なる一方に、自己には衝かるべき虚ありて恃むべき自信なし。落武者芒の穗に怖づるの類のみ、戰々として對人民の苦衷を要する依然たり。教育の權威を立てんとする者、俸給の國庫支辨などを問題にするは末なり。
△法施ありて布施ありといふ。僧侶は直接人民の喜捨に衣食して平然たり。只俗僧布施のために檀徒の御機嫌を取る。御機嫌取の俗風を矯めんとして布施を官給にする、則ち俗僧を知識と改め得るとなすか。教育の權威と併せ攷ふるに足る。
(451)△俸給國庫支辨は同時に官權の壓力を加ふべし。現今にては官權の壓力は往々にして教育家の人格を無視しつつあり。任免黜陟事務的官吏の取扱に異らず。國庫支辨によりてこの弊風は益々助勢せらるべし。
△教權との干係斯の如し。然れども小學校教員俸給の國庫支辨なるべきは依然として然り。
 
 八月二十一日
△「アララギ」信州號を出せといふ。此の十五日迄に編輯せよと云ふ。繁忙甚し。而も水害の影響は各地原稿の郵送を碍ぐる事久し。今日東京同人の原稿一束を得、一夜に整理して明日印刷所に送らざる可らず。繁忙目を囘すに足る。日曜一信の窮するを諒とせよ。
△原稿を大觀す。之を信州に就て云へば、松本同人は諏訪同人より勵み且つ進めり。堀内卓あり、多く發せざれども發すれば生気即ち磅※[石+薄]す。
   夏のよの淺水《あさみ》石かげころろ鳴く河鹿遠音か鈴ふるる音
   夏の日の青葉もる日を胸のべに舞ひの疲れかうとろ寢にけり  埴鈴の歌中二首
の如し。臨月光あり、新しき匂ひ漸く動くを見る。
(452)   ねむの花のうすべに色のほのかにもしぬぴふけらむ花はすぎしも
   雨いく日そよろ催す夕風にヒリリヒリリと蟲も淋しき
の如し。
△諏訪の同人何をか爲す。志都兒黙し柳の戸黙し山水黙し釜溪黙す。黙々として比々皆然り。終始一貫只柳澤黙妨あるのみ。汀川久し振りに歌あり、心竊かに平凡を恐る。豈圖らんや情趣更に動くものあらんとは、欣喜甚し。
   はしきやし妻をむかへて籠り居る家居はひろし二人の天地《あめつち》   飯かしぐしこの煙よ厨べの妻に涙を持たしめにけり  新居雜詠中二首千夜江の進境又驚くべきものあり。
   火も水もわきまへ知らに這ふ吾子の神なる心守りかねつも
   桑つむ山かげ畑に朝の霧のほのにはれ來て雫落つる音
黙坊はどこ迄も黙坊式なり、他人模す可らず。
   寢ぐるしき蚊帳にせまれる淺間山み空こがしてこの夜火を噴く
   しみ咲きの栗の並木に膏浪のたりのたりと一日せまれり
の類なり、眞面目なるが故に力強し。
(453)△編輯終らば更に言ふの機あるべし。
 
 八月二十八日
△諏訪の俳句を開拓して新らしき生命を與へたる者に木外あり、河柳あり、紫竹あり、栗堂あり。紫竹、栗堂早く退いて木外、河柳猶在り。木外は進んで拓くを長とし、河柳は守つて固うするを長とせり。今や木外子卒然として逝く、當年諸子活動の状を囘顧すれば轉た感慨に堪へず。
△諏訪の俳句は河柳よりも寧ろ木外を繞つて動けり。二者性格の相違は自ら此の現象を呈せりと見ゆ。而して今や木外子なし。今後諏訪の俳句は如何なる趨向を示すべき。諏訪の俳句は木外子なくして自ら立つ能はざるが如き者に非ず。木外子逝いて奮勵の動機をなす。或は今後の活動に新變遷の期を劃すべきやも知れず。吾人は寧ろ斯くあらんを望み、又斯くあるべきを信ずるの理由なからず。只此の故を以て木外子の死を痛むの情を減ずべきの理由を發見せざるのみ。第一期の活動者は斯の如くにして永遠に逝けり。悲しむべき哉。
△河柳、右衛門、兵衛諸子は如何なる努力を今後に持續せんとするか。木外子あるも斯る考慮を要す。木外子なきも斯る考慮を要す。只眼前に描き遺せる一友の生涯史あり。肅然として思ひ、慨然と(454)して奮はむを望む。汀川、世春、射川其の他諸子の感慨亦常に新なるものあるべし。諏訪の俳句が如何に生きんとするかは吾人の注目に値ひす。
△遺せる所妻子あり、老父母あり。文學者の生は概ね不遇なり。死の悲酸概ね亦斯の如し。子規先生に見よ、木外子に見よ。竦然として自ら恐る。只此の點に於て木外子は吾人より神に近かりき。氏の幸福とすべきか。悲い哉。
 
 九月四日
△室あれば足る。猶且つ床あり。疊あれば足る。猶且つ縁《へり》あり。家あれば足る。猶且つ庭園あり。無用といへば無用有用といへば有用、金錢米穀の有用づくめなるが如からず。世上の氣品は斯の如くにして生る。所謂無用の用なり。
△實用より見る、神社佛閣も實用向に非ず。宗教家美術家文學家皆極めて非實用向に屬す。而も社會は之あつて風教の維持を見、之あつて好尚の進歩を見る。實用向以外何等の餘地を存せざるものを、平俗と云ひ卑野と云ふ。
△報徳教の俗耳に入り易かりしは實際の甚しく實用向なりしが爲め。忽ちにして識者の嗤笑を蒙りし(455)は實用向以外何等形而上の餘地を存せざりしが爲め實は宗旨呼はりを過ぎたりとすべし。
△諏訪人は湖岸を埋め立つるを知る。心澤林野を墾いて畑を作るを知る。實業家となるの生活に便利なるを知る。學者となつて官途につき會社に傭はるるの生活に安全なるを知る。無用の用を知れるものありや。赤沼金三郎逝き北澤定吉逝き岩本木外逝く、斯の如き人の逝くは靜寂と永久の力とを感ず。現代實用向の人に非ず。
 
 九月十一日
△信州人を統一して一の勢力を作れと云ふ。斯る聲は無雜作に發せられざらんを臨む。
△藩閥の勢力あるを見て州閥縣閥を作らんと云ふ。二三百年の歴史ある藩閥に對して立ち後れの憾みなからず、立ち後るるも立たざるより優れりといふか。立ち得るの何十年後なるやを知らず、立ち得たる頃左樣の相撲流行らざらば如何にするか。
△藩閥なる聲が如何なる感を吾人の耳に響かしむるかを思へ。人民の不快を感ずる聲は永續すべき聲に非ず。日の上の痰瘤は去られざる可らず、健康體の人然り。國家の弊事は除かれざる可らず、發展すべき國状にして然り。目の下にも頬の上にも瘤を新造せんといふは何の心にや。
(456)△先進後進相援くといふ。方便的意味を加へざるに於て貴し。信州の先進由來甚だ後進を援けず。今やボツボツ斯の言を耳にす。只口にするに先だつて實行の範を示さざるを惜しむ。範を示さざるも之を口にするは之を口にせざるより優れりといふか。方便的意味を加ふるに於て之を口にするは之を口にせざるより劣れるを思ふ。
△信州を略ば統一したるもの只健御名方命一人あるのみ。偉器あらば言はずして天下その膝に集まらん。招かんとして集らず、招かざらんとして猶且つ集る。人心の妙機斯の如し。南洲然り松陰然り。信州の統一なきを憂へず。南洲なく松陰なきを憂ふ。
 
 九月十八日
△「アララギ」九月號來る。卷頭斎藤茂吉の歌全卷を壓するを覺ゆ。
   墓原の遠き森よりほろほろとのぼるけむりに行かんと思ふ
   ほこり風立ちてしづまるさみしみを市路《いちぢ》ゆきつつかへりみるかも
   このゆふべ塀にかわけるさぴ紅《あけ》のべにからの垂りをうれしみにけり
客觀的の歌は一變して主觀的となり、主觀的の歌再變して印象的情趣的となれり。茂吉の歌が如何な(457)る情趣に憧れつつあるかを見るべし。只第二首第四句「市路行きつつ」と第一二三句と位置を變ずるの自然なるを思ふ。
△臨月光の歌に亦此の傾向あるを喜ぶ。汀川の「新居雜詠」一たび見て驚き二たび見て其の深さを危ぶむ。熱情は之あり、熱情の輪廓なるに近きを惜しむ。   天地に命を寄する仲ぞとも思ひたのみて力は漲る
斯の如きは熱情の題目なるに近し。
△胡桃澤勘内の「閑」六首中一首を取るべし。
   たそがれのゆふげの膳にさぴしらに母と向へりこほろぎの聲
黙坊の歌持獨の力ありて他人模すべからず。信州中罕に見る所。
   雨三日栗の垂花色あせて毛蟲の如くみだれちるかも
   寢ぐるしき蚊帳にせまれる淺間山み空こがしてこの夜火を噴く
の如し。千夜江の進境は前日是れを言へり。其の他猶、
   とほどほに雪いちじるき山並の朝日のにほひ青空の中に
の如き明珠あり。
△禿山の進歩刮目すべし。
(458)   かぎりなき心のゆくへ我にかへり小田の蛙のなく音ともしも
   しきしげる松の下つべもるる日のかそけき動き胸にしむかも
情趣沁むが如きを見るべし。芳僊「河鹿」の歌數少なけれども看過すべからざるあり。
   五月雨のはれま月照る瀬の面ゆ河鹿なく音の珠ふるる如
   さきそめし月草の花に夕月の影淡々し河鹿なく聲
田川の里人の歌、
   夕立のくらき家《や》ぬちにまれに落つる雨落の音身にしみにけり
   朝まだきしみ草山をわけて行くさ霧の中に遠き瀬の音
作歌日淺くして早く此の響を成す、注目すべし。
△桃粟生亦作歌日淺くして時々人を驚かす。「アララギ」所載中、
   草ふかき墓ばの奥の今日よりぞ汝が臥床《ふしど》は汝ひとり寢る
の眞情を見るべし。梨郷の歌、
   己が字の世にも拙なさ情けなく眺めて居れば涙しながる
連作中の一首なり。秀れたる歌とは思はす、特徴ある歌と思ふ。人眞似の歌にこの大膽あるべからず。
△柳の戸の歌一通り皆取るべくして情趣の核仁に觸るる者少きは何ぞや。
(459)   雲の峰葵の花も芥子の花も天つみ空に※[陷の旁+炎]《ほのほ》はくかも
快作とすべし。
△左千矢先生水害消息あり。自ら牛乳を搾り自ら牛乳を運搬せらるといふ。先生奮闘の一般を見るべし。歌人安逸を貪るが如きは死のみ。廢のみ。
同人の奮起を望む。
 
 十月二日
△盗賊を描かんとして自ら盗賊の群に投じたる畫工あり。本願の神響に接せんとして深谷の夜雪に立ちし音樂家あり。藝術のために肉を削り骨を耗し轗軻の極食を門前に乞ひし音樂家あり。泰西の藝術は斯の如き幾多犧牲者の骨を積んで築き上げられたる者なり。
△文藝と云ひ藝術と云ふ、徒手遊食を以て之に從はんとす。根本義に於て愆れり。文學藝術は人生の叫喚なり、憂悶なり、奮激なり。叫喚あつて後慰藉あり、憂悶あつて後歡喜あり、奮激あつて後滿足あり。叫喚なく憂悶なく奮激なきの慰藉歡喜滿足は、墮落せる慰藉歡喜滿足のみ。文學者は斯の根本義の把持無かるべからず。
(460)△斯の如くにして深谷の夜雪に立ち、斯の如くにして盗賊の群に投ずるの苦楚を嘗め得べし。日本の藝術文學に從ふの人果してこの犧牲的精神あるか、根本義の把持あるか。
△今日に於て尤も苦楚に堪ふるを見るは畫工なり。畫工の中の洋畫家なり、洋畫家中の或る種族なり。彼等は一枚の畫のために數月乃至年餘の苦難と戰ふを辭せず。腦を傷り神を憊らすに至るものあり。西洋畫の獨り日本に濶歩する觀あるはこの根本義あるがためなり。音樂家は何を爲しつつありや。小説家は何を爲しつつありや。
△歌人あり俳人あり果して何を爲しつつありや。顧みて恥づるあらば猶生命あるものなり。酒の歡樂衣の歡樂肉の歡樂に墮在して、苦困なく根柢なき生活に終らざらんを望む。
 
 十月九日
△子規先生病臥七年肉落ち骨瘠せ、寢返りだに自ら辨ぜず。脊髓の膿叢を押すや痛哭の聲門外に徹す、而も手筆を措かず談文學を離れず。子規先生一代の文學は斯の如くにして生れたる者なるを思ふべし。先生の俳句を學ねぶはあり、先生の和歌を學ねぶはあり、先生の人格を慕ひ奮を發するの徒幾何ありや。
(461)△左千夫先生の水害に遭ふや、連夜衣帶を解かず、自ら飼牛を率ゐて泥水に奔馳す。曰く予の活力斯の如くなるを圖らず、老に至る遠し、欣喜に堪へずと。聞く先生近頃自ら乳を搾り自ら之を運搬すと、災後の苦酸想ふべし。而も此の間に立ちて「アララギ」を輯め小説を「ホトトギス」に草す。精力の致す所か、奮勵の致す所か、所謂文學者の徒愧死して可なり。
△眞面目なる處世なくば眞面目なる文學なし。吾人畢生の文學は血と涙とを以て書かれざるべからず。然らざるが故に生ま温るき文學を生む。少しく墮つれば直ちに遊戯文學たるべし。子規先生に顧み左千夫先生に顧みて、吾人の文學の愧づべきもの多きを思ふ所以なり。信濃に文學の徒多し、南信に文學の徒多し、諏訪に文學の徒多し、遊戯文學者たらざるもの幾人ぞや。
△文學は人格の産物なり。千年を經ともこの規を超ゆべからず。文學に從ふの徒只その本に復れ。新舊爭ひ、流行爭ひは浮足のみ。問題にならず。
 
 十月十六日
△生徒寄宿舍より墮落せる少數學生を出さんを望む、墮落せる學生の輩出を望むに非ず、優秀なる活ける多數の學生を得んと欲するなり。
(462)△中等男女學校の先生何ぞ戰々兢々たる。規矩を作り準繩を置いて齷齪生徒を律せんとす。生徒に過失なきを冀ふの親切か、自己に過失なきを希ふの怯懦か。親切ならば角を矯むるの親切、怯懦ならば自己の位置を殘さざらんを恐るるの怯懦、何れにしても褒むるの價値なきは明白。
△人を以て率ゐる、青春の士只惟れ後れん事を懼る。法を以て率ゐる、青春の士只惟れ免れん事を懼る。意氣銷沈を云ふ是れが爲めのみ。反抗を云ふ是れが爲めのみ。學校騷動を起す多くは是れが爲めのみ。
△更に甚しき者あり。學生を罪人視す。學生を賤婦視す。監督の法規も茲に至つて病弊極まれり。賤婦もあらん、罪人もあらん、偶ま有るの賤婦罪人を以て凡べての學生を律せんとす。反動あり不平あるの當然にして、反動なく不平なきの寧ろ奇怪なり。反動あり不平あるの卒業生を出して母校を壞へと云ふ、年始状を遣せと云ふ。先生は斯く芽出度き者にて宜しきか。
△且つ夫れ濫りに人を捉へて罪人扱ひを爲し、賤婦扱ひを爲す。習ひ性となつて何時しか罪人根性となり、賤婦根性となる。慧黠小智に長くるの青年は斯くして得る産物なり。因循日蔭事を好むの青年は斯くして得る産物なり。全國の中等學校は滔々として何を産しつつありや。
△ソクラテスも其の妻を度する能はず。率ゐるに心を以てする、落伍者あるを憂へざるに非ず、優秀なる活ける多數を得るを欣ぶなり。落伍者無ければ教員に瑾なし。自己の瑾なきを望んで多數の優秀(463)者を殺す。是れを忍んで猶且つ教員たらんとするか。
△多數の墮落者を出す学校あり。人乏しく法煩瑣なるの證なり。優秀者の殺さるるなり。生徒教師に殺さるるなり。殺されて後に意氣地なしと罵るは酷なり。卒業生役に立たぬと叱るも酷なり。
 
 十月二十三日
△甲府にて一寸芝居を覗きたり。安倍晴明狐退治の處にて、晴明主侯の面前にて妻の胎兒を抉出する場なり。彼の芝居今迄幾度も見せられ、舊芝居の弊所のみを集めたるイヤナ劇なりと思へるに、今夜も又見せられて困り入れり。誘はれたる因果と諦めて見物せり。彼の幕は今迄婦女子輩は俯して見ざるが多しと思へりしに、甲府にてはさる事なし。おかみさんもお孃さんも皆眞面目に平氣にて見物せり。甲府の婦人に女丈夫あるを知るべし。
△舞鶴城の松は手入れして大方枯れたり、惜しき事せしものなり。角を矯めて牛を殺すともいへり。餘り小細工の世の中となりては斯樣の事松のみに限らず。貯金せよとて強ひ、報徳宗に入れとて強ひ、赤十字社に入れとて強ひ、愛國婦人會に入らねば愛國者に非ずとて強ひ、隅から隅まで世話燒かれてその儘に服從する人民は、正直にして哀れな者なり。學校などにては袴のつけやう、帽子のかぶりや(464)うまで世話見て呉るる世の中となれり。先生方は一度舞鶴城の松を見るべし。
△古城址にては學校の運動會を覗けり。派手な服裝はお客の時こそ要あれ、運動會などにては運動の妨げとこそなれ、運動の助けにはならず。山梨の先生方はお客する積りなりしや、運動會するつもりなりしや、疑問といふべし。特に有志者の寄附金をビラに書きて貼り出すなど長野縣には見られぬ事なり。俗臭唾棄すべし。
△甲府市街は道路泥濘履を没せり。道路は市街の血管なり。甲府の心臓は彼の如く衰弱しつつありや。
△御嶽《みたけ》新道は依然として天下の壯觀なり。三度遊んで三度感嘆を惜まず。三清路天龍峽など腰の下にも及ぶべからず。山梨縣人心あらば昇仙橋を朱塗の欄干にすべし。里餘卷舒の畫圖は斯くして天下の絶作たるべし。
△金櫻神社の頽廢は惜しき事なり。神樂殿もあの儘にては雨風に犯さるべし。石垣は已に潰えはじめたり。山梨縣人の心配を望む。
 
 十一月六日
△十月十七日掘内卓遂に逝く。痛突禁ずる能はず。
(465)△和歌を以て論ず可らず。脚本を以て論ずべからず。彼を論ずる只直ちに彼の人格に接するを要す。天分の高き彼が如きを以てして夭折斯の如し。痛哭せざらんとするも得んや。
△言語を以て彼を表すを知らず。彼を言へば只一顆の珠を思ふ。美しきものも來り映じ醜きものも來り映ず。來り映ずれども依然として珠なり。情に活くる時霑へる珠なり。思想に活くる時明かなる珠なり。霑へる明かなる光は影の如く吾人に來り、影の如く吾人を去れり。茫然として自失す。
△生を享くる僅に二十三歳、多く病み少なく樂めり。多く思ひ少なく慰めり。生を享くる更に十歳ならば更に多く思ひしなるべし。而して多く慰み得るかは疑問なり。彼の思ふは深きを思へばなり。深くして彌々深うす。慰み得るの幾何なるかを疑ふ所以なり。吾人は彼の深き思想に接せり。然れどもその深さの幾何なるかを知り難し。彼と共に坐す只晏如、彼と共に語る只淡如、晏如として坐し淡如として語る、時長うして只去るの惜むべきを思ふのみ。
△毎年暑中彼故山に歸る。彼を迎へて相語る常に一種の恐れ味を覺えぬ。彼の思想は一變し更變して常に吾人の先きを歩み居たればなり。先きに歩みて彼は猶その先きなるを知らざるの觀あり。珠の如き彼の風神を思ふべし。嗚呼予の歌は一年以上彼の思想の感化に成れり。斯の人去つて茫然自失するの衷情を思へ。
△嘗て共に不二見野を彷徨へり。林中日暮れて二人歸るを知らず。仰げば星斗原草にあり。病中彼の(466)囘想を起したる幾何ぞや。嘗て共に桔梗ケ原の夕暮を彷徨へり。東都より來るべき左千夫先生を待たんとてなり。夏の日くれて茴香《うゐきやう》の花畑に暗香動けり。火星出でて東山に微茫たるを見き。十月一日彼を病床に訪へるとき此の事を語り出でんとして彼先づ涙※[さんずい+玄]然、曰くおれの涙を拭いて呉れと。
 嗚呼、彼の肉體は當時已に自らその涙を拭ふの自由だに失はれんとせりき。何事ぞ、予の淺慮、月の十五日彼を信濃に殘して數日旅行に出立せんとは。
△十八日歸れるの時は彼は已に現世の人にあらざりき。十六日夜御嶽圓覺峰下の溪流に宿す。月明かにして危岩天空に料峭たるを望む。この時夜十二時彼の逝けるはそれより一時を經たりと聞く。知らず彼の靈予の靈に通ぜざりしか。抑も通じて予自ら是れを知らざりしか。痛恨悔ゆれども及ばず。
△彼に歌あり人之を知る。彼に脚本あり人之を知る。歌を通じ脚本を通じての外、更に直接彼の人格に接して、數年の心交を得たる予の幸福を想ひて已むべきか。嗚呼。
 
 十一月十三日
△貯金奬勵は下火となりしや、近頃餘り聲を聞かず。聲なきは實際のよく行はれつつある所以にや。黙りこくりて金を溜むる人概ね人を害せず、又人を益せず。沈黙して金を溜むる國民は、國家のため(467)どの位に慶賀して可なりや。
△小學枚にて子供に貯金を奬勵せし事あり。現今もあるべし。父母が用に行けと命ず。若干金をねだる。貯金臺紙に貼らんとてなり。桑摘みを手傳へと命ず。是も亦若干餞をねだる。貯金臺紙は斯の如くして充實し貯金せし兒童は斯の如くして教師に褒めらる。事によれば乞ふべき何等の理由なくして父母に若干餞を乞ふ事あり。他生徒貯金額を増して自己の依然たるを悲しめばなり。父母の用事も金ならざれば動かぬ兒童を日本に充滿せしめて何にする積りなりや。△某校あり、生徒に養※[奚+隹]を奬勵す。朝起きて※[奚+隹]舍を開き夕歸りて※[奚+隹]舍を掃除す。勞働の習慣は斯くして養はるべし。一卵を生む毎に餞に換へて貯金す。勞働の興味は斯くして養はるべし。生む所の卵嘗つて兄弟に分たず。父母卵を要する事あれば、金を以て之を償はざる可らず。國家は斯の如き未來國民を作つて慶賀せんと欲するか。
△學校の先生は實務の研究を爲す。他の社會或は及ばざるものあらん。細を極め微を盡さんを期す。是れ宜しけれども微細を捉へて大目を失ふを惡しとす。先生の失なり。細微負けをなし研究倒れをなす。斯るあたら精力を何かに用ふる所なきか。讀書不足ならば讀書に用ふるも可、早老が實際ならば晩老の工夫に用ふるも可。
△貯金熱流行して貯金法を工夫し、表彰熱流行して表彰法を工夫す。工夫に倒れて大目を失ふの迂か。(468)世潮の流行を察して順應するの敏か。迂も惡し。敏も褒められず。
 
 十一月二十日
△長野縣に於ける高等學校入學數が志願數に對し、年々その率を遞減しつつあるは事實なるが如し。中學校の成績は目下何故に斯く不振に傾きつつありや。△經費不足を云ふ者あり。或は然るべし。中央にて五十圓の教師を山國に聘するには七八十圓を要すべし。小刻みの換算にて良教師を聘し得ざる固より其の所なり。某縣にては物理機械を備へんとして立どころに一萬圓を投じたる中學校あり。坪二百圓あたりの校舍を建築するもあり。飜つて長野縣の近状萎靡憫むべし。縣民知らざるの陋か。縣民をして知らしめ得ざるの迂か。罪の何れにありやは明言し難し。
△小學枚の成績減退を以て中學校の成績減退の因に擬せんとする者あり。小學校の教師自ら反省せんとする言として美しく、中學校の教師自ら蔽はんとする言として醜し。自己の過失を朋輩に分たんとするは下女の心事のみ。中學校の先生にして公然斯る言を爲すあるを見るは、少くも自己の品位を高しとする反證たらざるの失あり。成績減退の一因確かに小學校にあらば、何ぞ自ら進んで小學校と交(469)渉を爲さざる。遠きに居り傍觀して曰ふ、「お前らは惡い。お前らは惡い」と。言ふ者に明かにして聽く者に明かならず。高きに居らんとする倨傲とも見え、觸接して短を發かれざらんとする怯懦とも見ゆ。見るの惡しきか、見ゆるの惡しきか。中學校の先生にして斯の言をなすも、反省と誠意だにあらば斯の如く奇態に響かじ。
△中學校教師にして熱情あらば必ず小學校に進撃すべし。進撃の語惡しければ交渉と改むるも可。進撃父渉實は熱情の一端。熱情あつて發憤あり、發憤あつて緊張あり努力あり。獻身的教育は斯の如くにして生るべし。少年氣鋭の徒は長き千言に感ぜずして短き眼光の一閃に起つ。率ゐざらんと欲するも猶且つ集る。率ゐるや心を以て率ゐ集るや心を以て集る。斯の如くにして成績の不振を嘆ずるの要あるか。小學校の成績を云々するの前先づ斯る根本的急所を忘却せざらんことを希ふ。
△高等學校の入學數等にて成績の上下を論ずる事、實は適切にあらず。要は只心の閃きのみ。この閃きある高等学校に入るも可、高等學校に入らざるも可。入るも入らざるも社會の何れにか活く。卒業生の活くるは學校の活くるに在り。學校の活くるは先づ教師の自ら死せざるにあり。此の理法千古不易。
 
(470) 十一月二十七日
△只今一番汽車にて小野驛に著き筆をとる。眠氣甚し。何を書かんとするやを知らず。
△桔梗ケ原原頭の草路を辿る。曉月頭上に在り。寒林疎木滿目荒寥を極む。禽眠つて樹に在るか。蟲蟄して土にあるか。聞ゆるは吾が足音。動くは吾が孤影。斯の如くにして予は昨年來曠原の勞役者となりつつあり。
△昨夜背山子書あり。曰く東京に來て何を爲したるかを知らず、知らざれども何物をか得たり。人の刺撃を得たり、人と云はんよりは人類の刺撃を得たり。彼等の氣氛は常に予が耳に何物をか囁けり。只明示してその囁きの何物なるやを君に告げ能はざるを憾むと。詞同じからざれど意は大略斯の如し。
△一は去つて帝都に在り、一は來つて曠野にあり。帝都に在るの人は、人類の囁きの何物にか接したりと云ひ、曠野に在るの人は、冬枯の林に眠たき足を引きずりつつ曉來の寒威に吾が足の吾が足なるやをも自覺するの暇なくして、寒閭の停車場にそのむくろを運びつつあり。人類の聲が背山子に囁くとき自然の聲豈に予の耳朶に囁かざらんや。囁いて予是を覺らざるか。覺らざるも自然の聲は猶遠慮なく予の意底に潜つて、不知不識の働きを予に傳へつつあるか。里餘の道程只枯木のみ。予の肉體も亦將に枯木たらんとするか。枯木の裡に來春の香り潜まば、予が肉體にも未來の光りは潜みつつありや、是れも知らず、夫れも識らず。背山子の境遇を羨むべきか、予の境遇を哀れむべきか。是れも知(471)らず、夫れも知らず。前山日出づ。茶來り飯來る眠きが故に筆を擱く。(十一月二十五日朝七時)
 
 十二月十一日
△季題趣味の擴張と言ふ、個性の發揮と云ふ、俳句新傾向論には間然する所なし。只作物其のものに接して何等かの不足を感ずるは何ぞや、玄人に向つて素人觀を談ずる必しも惡しからず。
△凡そ藝術は立法的なるべからず。繪畫に外光派あり、小説に自然派あり、自然派ならざる可らずとして小説を書くは、已に自然派を立法的に解釋したるなり。了解はあれども知的了解のみ。甚だしければ器械的盲從に落つ、焉んぞ精神あらんや、繪畫和歌俳句皆同じきのみ。趣映自然の進歩によりて、内的要求よら必至的經路を踏んで新傾向に入らばこそ眞の生命はあらめ。知的了解と立法的態度を以て新傾向に臨む、作品の器械的なる固より其の所なり。吾人は所謂新傾向の俳句が悉く器械的なりと云はず、悉く立法的なりと云はず。只往々にして斯の如き傾向ある作品を見、その作品のややもすれば一種の派風を成《つく》らんとする端徴を見るを不快とす。外光派の繪畫流行すれば畫家直ちに相率ゐて鮮かなる紫紅を塗抹するに黽む。輕浮厭ふべし。何等重力ある作品を得んや。内的進歩の變遷はよし。外的衝動の流行は惡し。俳句の新傾向今や天下に歴然たり。忽ちにして至り忽ちにして播がる。傳播(472)斯の如く忽劇なるは俳句の爲めに慶すべきやを必せず。
△孔子は其の安んずる所を察すれば人焉んぞ※[まだれ/叟]さんや、と云へり。趣味的進歩自然の要求より至らば、新傾向の俳句に今少し泰然晏如たる落ち著きあるべきなり。季題趣味擴張もよし、個性發揮もよし、從て複雜なる構句法もよし。複雜も一句に纏まる時泰然たる落ち著きありて、始めて觀賞の滿足あるべきに非ずや。名畫皆然り。複雜なる人物事件を描き來るも一幅に收むる時泰然として猶且つ餘裕あり。複雜の單純化せらるるなり。單純にして複雜、複雜にして單純、この兩面ありて落ち著きを生じ氣品を生ず。吾人は新傾向の作品に、この落ち著きを缺き氣品を缺かんとするの傾向あるを惜む。キヨト/\として落ち著かず。左顧右眄し若くは疾視決目す。血眼の生氣はあり、ガツシリしたる据りなし。輕きに傾きて重きに就かず。
△「日本及日本人」の句を見る。櫻塊子の句に會心多し。琅々、鵜平等の句多くして氣品少なし。碧氏何の見るありて斯の如く多く採るやを解せず。
   秋東風にたたむ古かや色に出て   櫻塊子
   焔青き灯は見馴しに蚊帳なき夜   同人
   鳥騷げども一樹澄む水蚊帳の秋   同人
   守備となる屯に蚊帳の秋晴れて   同人
(473)   貰ふ即ち讀む鑛誌秋蚊帳に  井泉水
偶ま見る所の秋蚊帳中斯る作品あるを喜ぶ。只新傾向の前途が如何に變遷すべきかを測らざるのみ。
 
 十二月十八日
△現今にて村落に於ける唯一の壯大なる建築は小學校なり。寺院に金を掛くる時代は過ぎて、教育に金を掛くる時代となれり。寺院に金を掛けざるの可なりやは知らず。教育に金を掛くる事各村殆ど競爭の姿なるは誠に喜ぶべし。
△只吾人の常に遺憾に感ずるは、小學校の建築の如何にも無趣味殺風景なるにあり。寺院に行きて見よ。山門あり、杉並木あり、庫裡本堂あり、本堂の建築の如き木材を惜まず、丹精を惜まず。名工の手に成らざるも猶美術的工夫を費せり。寺院には古き門閥あり。學校には古き門閥なし。舊華族と新華族との相違の如しと云へば夫れ迄なれども、教育當路者一般人民、今少し高き趣味上の工夫を徳教樹立の道場に費すもの無きにや。
△神社佛閣には必ず森林を伴へり。是れのみにて學校は遠く神社佛閣に及ばず。畠中の丸出し、田圃(474)中の丸出し、殺風景極れり。徳教の道場として尊嚴の上に惡しく、靜肅の上に惡しく風致の上に惡しきは勿論、一方よりすれば衛生の爲めにも惡し。一時日本は學に志すの徒皆僧となれり。彼等の眼識は流石に一頭地を拔けり。山に倚り林を控へて圏外の靈場を拓けり。平地にあるも猶繞らすに森林を以てするもの多し。足到るもの先づ心を清うし專念一向の信心自ら踵ぎ至るの自然なり。教育に當るものこの著眼なくば、學校は、永久に畠中の丸出しに終るべし。後世人の嗤笑を恐る。
△森林は人物の産出場なり。露人の祖先は森林中より出でて今の帝國を成したり。獨逸の森林より英傑を産み、英國の森林より俊髦を産む。ワシントンもガーフヰールドも森中の一生兒のみ。森林の教育を成し得るの地信州を除いて何れにありや。奥州にもあるべし、北越にもあるべし。而して必ず先づ我信州に無かる可らざるを思ふ。學校を繞らすに林を以てせよ。森林教育を以て今後信州の持長ならしめよ。地を購ふの不利か、人材を出すの利か。不利と利との問題明白のゐ。
△信州教育の盛衰を云爲するものあり。信州人統一を云爲するものあり。何を云爲するも基礎は小學校にあり。小學校問題に忘られつつある斯くの如き重大問題を遺却せざらんを望む。
 
 十二月二十五日
(475)△歳華匆々今年亦暮れんとす。筑摩原上疎林風鳴つて獨居却つて靜寂、只時々債鬼の來るありて世と連絡を失はざるのみ。鳥あり日出でて囀り雲あり日暮れて歸る。一年斯くして暮れぬ。二年斯くして又暮れんとす。頭未だ頒白に至らず、心冷やかなる事往々にして石ならんとす。自然は我に靜かなれと教へ、人事は我に熱せよと説く。冷の極る所熱か、熱の極る所冷か。冷熱の工夫今に於て餘りに耳に熟したれども、一身顧みる時往々この問題に逢著す。歳晩に當つて亦然らざらんや。
△或は思ふ。冷なる時熱を思はんや。熱なる時冷を思はんや。熱を思ひ同時に冷を思ふは熱足らず冷足らざるが故なり。汝の心冷やかなれども猶石に及ばず。冷は更に極冷なれ。熱の時に極熱ならざる所以なりと。詢に我が靜と冷とが中腰的靜と冷とならば我未だ山林にあつて山林にあらざるなり。雲を見禽を聽いて、雲を見ず禽を聽かざるなり。一年二年我果して何を爲しつるぞ。
△歳晩新年人事皆型の如し。湖畔兒女あり。乃父の歸來を待つ。この心只予を生きしむるのみ。近作あり附記して本年の日曜一信を終る。
   三|竿《かん》の竹に足袋干す勿體なや
   迂濶《うか》とすれば足袋さす妻と老いぬらし
   足袋添へてなど思ひ出す荷じまひに
 
(476) 明治四十四年
 
 一月三日  落葉の音
落葉の音はいい音だ。落ちる時にカサリと落ちる。バラバラと落ちる。群を成してバラバラと落ちる。地から吸ひ上げた養ひの液が、地を離るる三尺にして葉を作り一丈にして葉を成《つく》り十丈にして葉を成る。葉と葉と重なり合つて、天日を根と地とに遮らんとする彼等の活動は、秋に入り冬に入つて天日の猛射が衰へると共に衰へる。遮らねば土は乾く。埃となつて空中に飛散する、飛散し盡せば渾圓球上に土はない。只磊々たる岩石の骨を無限の空間に列べるのみである。骨の客間には花も咲かぬ。鳥も歌はぬ。獣も走らぬ。花を咲かしめ鳥を舞はしめ、獣を住ましめ、人を住ましめんがために岩石の骨に土の肉を著ける。土の肉を削らざらんがために、天日の猛射を遮らんがために、土の飛散を護らんがために木に葉がある。重なつて一樹を成し、層々として森林を成くる。葉の力は天地萬有の棲息者をして、生を暢べ性を暢べしめんがための力である。茲に喜怒哀樂があり、茲に有爲轉變があり、(477)茲に歴史があり、榮枯盛衰がある。耶蘇の教は橄欖樹の下に説かれ、佛陀の教は菩提樹の下に説かれ、孔子の教は陳蔡の野の上に説かれた。聖き教を愛し歴史を愛し喜怒哀樂を愛し榮枯盛衰を愛するの力は、葉となり林となり森となつて地の萬有を天日の猛射の下に遮る。天日の猛射衰へて葉の地上に落ちる力は、萬物を休ましめ萬物を眠らしめ萬物を靜寂ならしめんがための力である。霜がふればカサリと落ちる。カサリの響は地に通じ人に通じ禽獣に通じて、汝を休ましめ汝を眠らしめ汝を靜かならしめ汝を寂しからしむるの響でゐる。カサリと落ちる。バサリと落ちる。ハラハラと落ちる。休めと落ちる。眠れと落ちる。靜かなれと落ちる。落葉の下に住んで人は、爐を開き大根を漬け乾鮭を吊して冬籠りの用意をする。炭燒くために山に登る、薪伐るために林に行く。林の徑に落葉を踏む音は、天地萬物の寂しき音を樵夫二本の足に集むる寂寞の響である。禽鳴き獣走れども冬の林は寂しい。風鳴り雪しまけども冬の林は靜かである。雪の下に落葉は眠り、炬燵のまはりに人が籠る時、地球の大塊は只蒼溟中の一遊星として冷やかに靜かになる。
 
 一月十五日
△本年は猪の年なりとて新聞に猪の畫など多く添へたり。猪に因みたる文などもよく見えたれども詰(478)らぬもののみなりき。強ひて猪にこじ付けんとするが故に、イヤらしき不自然のものを書くに至れる事勿論なり。不折畫伯の猪漫畫も窮して通ぜざるの概あり。猪膽丸の藥袋に至りて甚だしと云ふべし。概して新聞紙の初刷は以前に比して甚だ詰らなくなれり。猪進にあらずして猪退なり、勇往邁進の概なし。人心趨勢の一端ここにも現れたりと見ゆ。
△政黨の事は知らず。左顧右眄用をなさずと罵る人あり。學生もよく左顧右眄をなす。利害を左顧し利害を右眄するなり。澤柳氏も左顧右眄を止めて精神的突進せよと學生に勸めたり。勸むる程の人は自ら何かへ突進して見するを要す。
△長野縣の教育も甚しく左顧右眄なりと説かる。人の説く程なりや知らざれども、上下を通じて斯る氣※[氣の米が温の旁]息なしと證明し得る人ありや。二三年來新氣運來るべしと期待せられて來らず。期待するの謬れるを云ひ、期待するの左樣に氣早なるべからざるを云ひ、待つ事の更に長く更に大なるべきを云ひ、所説紛々たりと雖も、現れざるの事は前以て斷言するに不可なり。新氣運を作るに人を待つと云ふ事已に危し。新氣運の來らんを望まば自ら進んで新氣運を作るべきのみ。斯くして人を待つは、來らずとて猶恃む所あり。斯らずして人を待つ、新氣運來れりとて、其の人は何の必要ありや。他府縣視察もよし。人の振り見て我が振り直す事、稀に有りてよく、常に有りて陋し。我が振りを見て人の振り直せといふ程の氣力は、常にありてもよく稀にありてもよし。何事も自重自恃して進むものに力あるべ(479)し。空虚なる溜息は害ありて益なし。亥の年なるが故に直進せよとこじ付けたるに非ず。
 
 一月二十二日
△縣下尋常六學年の試驗につき色々の世評あり。中にはいまはしき聲さへ聞ゆ。忌しきの實際少かるべきも、平氣に冷靜に行はれたるの幾何なるやも計るべからず。餘り見ともなきは世に現れ、少し見ともなきは世に現れず。立派にやりたりとて普通のことなり。褒むるにも値せねば茲に言ふにも値せず。
△中にはかかる弊害ある事は止めるべしといふ人あり。その考謬れり。若し弊害ありきとすれば、其の弊害は試驗にありしに非ずして教育者の心に有りしなり。弊害を恐れて試驗を止めるといふ事、臭きを恐れて汚れ物に蓋をするに等し。泰平過ぎたる説なり。臭き物は臭ひを發せしむべし。さるべき人之を取り除くに便なり。試驗の結果が參考にならぬ程の影響は無し。試驗が試驗にならぬ部分は、それ丈け教育者品性の試驗に代用せらるる利益あり。
△數日前より下試驗に專らなりしなども聞ゆ。それ程にすべきものなりや。劣等生のを間引きせしなど風説に止まらんを望む。それ程下落せしは有りたりとて如何程あるべき。始めたらば無頓着に四五(480)年やるべし。何物をか得べし。
△教育者は概して心小さし。毎日の仕事細きが故なり。その上監督官の氣兼ねもし、町村民の氣兼ねもし、心屈して舒び舒びせず。概して斯る傾向あるが故に大局に著目する事不得手にして、惡心なきに過失するもあり、小智を弄して過失するもあり、氣の毒といへば氣の毒ならずや。今囘の紛紜など多少の參考として修養に別趣向の工夫あるべし。
△試驗を正當にしたからよしなど思ひ入るべからず。現今教育者の傾向を察して自己を顧るべし。小智小善の細工に没頭する現今の如きを以てして、焉んぞ一代の流風を指導するの先覺者たるを得ん。
△臭い物に蓋するといふ事私事に於いて美しきあり、公事に於いて必ず惡し。教育の弊所今少し赤裸裸に公議せられんを望む。奮を發して起つ人を生すべし。
 
 一月二十九日
△君の門をくぐる時も君の死を思はなかつた。危篤である事は知つて居た。その病氣が殆ど人間を死の手から還さぬ恐るべき病氣である事も、途中で君の友人から聞いて來た。
△それでも自分の足が今死せる友を訪ねるために動きつつあるのだとはどうしても思へなかつた。去(481)年の秋我が同人から堀内卓君を奪はれ、今又續いて望月光君を奪はれる程天が我々同人に冷酷である事を信じ得なかつた。
△潜り戸をあければ其處に雜然と竝んだ幾足の下駄が直ぐ目に觸れた。思はず胸がギクリとした。それと同時に君の家に幾つかの人影が雜然と靜かに動きつつあるを見た。あヽもうダメだと思うた。併しそれは瞬間である。君の兩親に挨拶されても、自分の兩手は光君の死を弔するために君の兩親の前についてゐるのだとは思はれなかつた。君の母君に案内されて君の安らかな遺骸に接しても、君の顔と僕の顔と此の世あの世を隔てて、今相對してゐるのだとはどうしても思へなかつた。僕はただ君の死を知つて君の死を感ずる譯に行かない。門を潜るまで、潜り戸を開けるまで、生きた望月君を訪ねるつもりの僕に、さう急劇な變化、絶對の變化を投げかけても僕の意識は左樣に急速にそれを處置して了ふほど無造作には行かないのである。
△今夜桔梗ケ原の草庵に歸つて一人炬燵に落ち着いて、始めてシミジミと君の死が僕の感受を動かして來た。松本平に我が友は少い。その少い友のうちかち、堀内君と望月君と相前後して俄然形を没した。形を没した筑摩野は冬枯の林である。冬の林に芽がふき葉が萌えても、筑摩の平原は、氷久に僕のために寂しい平原であらねばならぬ。寂しい平原の林中に住んで、世の靜寂に染み盡くさんとしつつある僕に、更に絶對の寂しみを味はしむべく、二人の友はこの平原を去りこの世を去つたのである。
(482)△嗚呼望月光君は斯くして世を去つた。一月十四日君が偶然の即詠は遂に君の最終の歌となつて、今この文を草しつつある僕の面前に展げられて居る。
   弟らよ汝らがゆく手にくさぐさの花はさきたり探るにまかせむ
   目をあげて見るや遠べに立つ山にあよみ近づく事をしぞ思ふ
自分の運命を知つた歌のやうにも思へる。(一月二十六日夜十一時半認む)
 
 二月五日
近頃流行する貯金主義といふ事イヤな事なり。入れば溜め溜めれば出さず。金のいる事は成るべく逃げ、浮雲《あぶ》なさうな事には手を出さず、智に利巧。情に冷。一種の世渡りとしで無害ならんも、世道人心のために概ね有益ならず。貯金増加して實業擧らず。青年輩にして往々老後の計を説く。分別はあり溌剌の意氣なし。朝鮮も滿洲も此の傾向にて進まば用なしと覺ゆ。
 熱き血の中より生れ出でし明治は四十年ばかりのうちに左樣に老い込む理由なし。斯る現象は一時の反動ならんを望む。事なかれ、失ふ勿れの消極主義は徳川時代の特徴にして、明治時代の持徴にあらず。今つと無遠慮に手足を動かすべし。支那と相撲を取り露國と相撲を取りたる位にて、左樣に疲(473)れ込みては行先き案ぜらるべし。元氣餘れば無分別も偶まにはあり、無分別がよきにあらず。充ち滿ちたる元氣の無邪氣なる發作なきやうにては、煎じ詰むれば床置の人形たるべし。
 小學校の成績擧らずといふ。擧らずといふの實ならば、その原因の一は同じく事勿れ、失ふ勿れ、の消極主義に胚胎せりと覺ゆ。學校の主腦たるべき校長にして特に然り、汲々として爲す所何事ぞ。自己の位置を失墜せざるにあり。村會には新費目を提出せざるを安全とし、部下には秀才を集めざるを安全とし、長官には意見を披瀝せざるを安全とす。安全に於て盡し、計をなすに於て盡す。百の教授案成らざるを患へず、一の根柢築かれざるを患ふ。教育の振否を云ふもの、近代の思潮と相待つてこの邊の消息に著目せよ。枝葉は見易し、人の言議に上ぼる。根は然らず、人の言議に上らぬ事を遺却し了る勿れ。
 
 二月十二日
渾圓球上假りに人を除きて之を考へよ。海は水を湛へて靜かに、土は日を載せて冷やかならんのみ。蒸々たる生民營々として茲に營み惶々として茲に役す。營み役するは宇宙の假相なると共に人生の假相なり。宇宙もと平靜、地球もと平靜、而して人間の眞相もこの平靜に合致するに於て絶對の歸著に(484)安んず可きに似たり。生れて我あり。生れざるに我あらざらんや、死して後我あらざらんや。生れざるの我は靜に、生れたる我は動に、而して死したるの我は復び靜に歸著するに於て、不生と生と死と三者畢竟一の連續に止まるを思はしむ。醒めて睡を知らんや。睡りて醒を知らんや。動にして靜を知らんや。靜にして動を知らんや。皆知らずと雖も睡は醒の連續、動は靜の連續。我今生きて不生と死とを知らずと雖も、三者相連續するの状眼を閉づれば即ち微茫相融會す。菩提樹下斯く融會し、面壁斯く融會し、方丈牀下斯く融會したるを知らず。我が望月光君の死は實に活ける融會を忽として吾人の眼前に投ぜり。
 一月十四日病む。一月二十五日逝く。彼の逝くや斯の如きのみ。眼を開いて家人に告げて曰く、戒名は望月光居士をよしとす。棺は何尺三寸ならざれば窮屈なり。我今絶せんとすれば絶すべし、阿弟の來るを待たんか。家人阿弟の來る近からんを曰ふ。即ち葡萄酒一盞を嚥み、大分廻れり、少し息苦し、猶阿弟を待つに堪ふべきを言ふ。已にして又言ふ。死の斯の如く靜なるべきを思はざりき。こんな遺言して生き返らば可笑しかるべしと。阿弟來る。暫時にして眠るが如く逝けり。生と死との連續斯の如く安らかに、斯の如く自然の状態に解決せられたるもの幾何ぞや。彼や死に際して猶死の刹那を味へり。刹那を味へる彼は同時に永遠無際を味ひつつ絶對の靜境に入れり。死とは生に對する名、人生の眞相は生死を一貫したる別所に存せざる可らず。その根柢の上に生きその根柢の上に死す。生(485)死もと假相、生より見れば望月光死し、死より見れば望月光生く。彼は斯く物言はざりしと雖も、彼の態度は活ける教訓と痛切なる暗示を、吾人の眼前に示せるを思はざる能はず。この根本に徹せぎる間吾人日々の生活は浮雲のみ。
 營々たるもの何をか言ふ。人道といひ正義といふ。乃至政治といひ教育といふ。眉を揚げて呼び頭を垂れて思ふ。眉を揚ぐる可、頭を垂るる可、只根柢なくして叫び根柢なくして思ふが故に叫び大にして深からず。思ひ周到にして徹底せず。利害問題にだも動搖せんとす。況や生死問題をや。西郷曰く、金もいらず命も要らぬものは始末におへぬ。始末におへぬものが天下を動すなりと。中腰と浮き足を以て支持せらるる正義人道の神輿が、那邊に到達せんとするかは吾人の問題にあらず。只眞面目なる我を作れ。根柢ある我を作れ。生死を一貫せんとする我を作れ。永劫無窮に連續すべき我を作れ。斯る充實せる我ありて正義人道も活き、政治教育宗教美術も活きん。浮き足にて叫ぶ叫びは騷々しきに止まる。感覺を刺戟すべし。神靈を刺撃すべからず。
 金子筑水氏此の頃曰く、教育者は自分では大に踏ん張つてゐるつもりのやうなれど、傍から見れば何となく空虚の哀れを感ずと。何が故の空虚ぞと再思すべし。
 
(486) 二月十九日
宇宙に意志ありとなすものあり。宇宙に意志なしと爲すものあり。有りと爲すもの萬有を心と見、無しと爲すもの萬有を物と見る。心と見るが故に一草一木を哀れみ行雲流水を悲しむ。
 若しそれ物と見るの眼を以て之を見る、人世も物なり、歴史も物なり、吾人日常の生活も物なり。物を集め物を散ず。五十の人生爲す所斯の如くにして足れり。財は積むの多からんを欲し、居は容るるの宏からんを欲し、衣は着るの美しからんを欲す。人生を物と見れば斯くするの外詮なし。物を得んとして結合し、物を得んとして競爭す。物の利害を異にする父子と雖も保せす、兄弟往々にして鬩ぐ。人生を物と見れば、斯る傾向は進むべくして退く可らず。仁義を骨董視し、道徳を迂濶視し、趣味を仙人視する物的群人の眼光を見よ。今日に當りては眞面目の宗教家程馬鹿にせられ、眞面目の教育家程迂濶視せられ、眞面目の藝術家程迫害せらる。物的群人に握手すれば大宗教家大教育家大藝術家たり得べし。斯る宗教家教育家藝術家によりて、指導せられ支持せらるる社會の趣味道徳の眞價を考慮すべし。社會主義の如きは斯る唯物觀よりして偶ま生れ出でたる聲に温ぎず。彼等が土地を叫び資本を叫ぶの外、何等心靈の聲を發せざるに見よ。甚しきは男女無節制論をだに唱へんとす。男を物と見女を物と見るが故なり。物と見る時男女なし。父母兄弟なく朋友師弟なし。斯る傾向は人生を物と見るの徒が、往々相率ゐて趨かんとする自然の趨勢なり。
(487) 宇宙を心として見るも物猶在り。吾人の所謂物とは斯る意妹の物ならざる可らず。珍味佳肴は吾人もその旨きを知る。之を味ふは吾人心靈の趣妹が偶ま動いて、之に接觸し發現するに於て彼を旨しとするなり。趣味は本體、珍味佳肴は材料、旨しとするは神靈の或る動きのみ。口舌の慾と異る。只一の材料なり。珍味佳肴なるもよく、不珍味不佳肴なるも妨げず。臺※[木+射]高棲も可。心靈の動きに投合して之を得之に居るに非ざれば塵埃泥土より卑し。陋巷隘舍も不可ならず。心靈の投合を得れば行雲流水に伍して樂し。予自身斯くなりと云はず、斯るを望んで進むべきを云ふのみ。心を望むの人は有無によりて窮通するなし。物を望むの人は有れば通じ無ければ窮す。窮すれば濫し通ずるも猶淺薄皮相ならんとす。折角の有も憫殺に値す。
 斯の如きを云はば物質文明遂に衰へんを云ふ君あり、非なり。佐久間大尉ありて潜航艇の研究進み、山極博士ありて病理學の研究進むが如し。實業の進まざるは實業家が物的生活に左右せらるるに在り。見よ實業界に實業の犧牲者なし。心靈界の活動麻痺せんとす。見る所只自己の利害のみ。實業の揚らざるあらば之を大原因とすべし。學界の研究遲々たるあらば、之亦學徒に犧牲的精神缺乏するが爲めのみ。利害に跼蹐して研究進まんや。政治界の氣運沈滯するあらば政治家の物的觀亦之が禍を成すのみ。古來の政史光彩陸離たるあれば、必ず心靈に活きたる眞骨頭漢の活動を伴ふ。明治維新史然り、合衆國初代史然り。天下何物か心靈の活動なくして興りたるの事業あらんや。興りたるの事業あ(488)りと云はば、※[開の門なし]は興らざるに優れるに如かざる事業のみ。陳腐なる政權爭奪史然り。家族制度を保存して時代の潮流を防がんとする者あり。更に根本的の考慮を望む。二十世紀の後半、厭世思想の世界に到來せんを言ふ者あり。
 
 二月二十六日
本縣男子師範學校を二分せんとする、今日猶女子師範學校を獨立して存置する必要ありや。
 女子師範を卒業して毎年教員となるもの三四年、長きも數年にして職を退くを常とす。十數年の長き職にあるも、猶一學級の擔任教師たるに止まる。それも多くは尋常初年級を普通に教授し得るといふのみ。女子の能力にては是れ以上の仕事に堪ふる稀なり。女子師範の年限三年が四年になりたりとて、器械的能力を工夫的能力に變ずべきにあらず。女は何處迄行きても女なり。大切の普通教育の主腦部を女に任ずる事到底出來べきに非ず。普通教育を女に任すべしなどいふ説は、米國等にかぶれたる説にして取るに足らず。國民の基礎教育を女に任ずるやうな國は追々に衰亡すべし。
 女子師範部として縣立高等女學校に附設する事最も適當なり。二部制を其の儘採用すれば足る。この事早急の埒に行かずば、男子師範を二分せんとする今日、寧ろ更に男子師範を三校として、然るべ(489)き男子師範に女子部を附設するに如かず。女子師範に年々五萬圓を投じて、年々數十名の女先生を得んとする程、長野縣經濟は贅澤なりや。
 男子師範校を二校とする位ならば寧ろ三校とすべし、而して女子師範校を全廢すべし。經濟に些したる異動なくして多數の男子卒業生を得べし。二校對立よりして、動もすれば來らんとする惡弊を除去するにも宜し。それに一二年の講習科を附設して男子尋正を得ば、女子卒業生を得るに優るべし。どうしても女子師範が必要といふなら仕方なし、前言ひし如くさるべき男子師範に附屬せしむれば足る。
 女子師範を要せしは高等女學校生れざりし過去の事のみ。五萬金の利用は他に幾口もあり。縣民の考慮に値す。
 
 三月十二日
「アララギ」三月號來る。茂吉君編輯に當りてより毎月遲刊を見ず、快速多謝すべし。一人を以て庶務を統ぶるの勞想像に餘れり。
 開卷第一中村憲吉の歌を見る。清新の氣楚々人を襲ふ。瞑目して想見すべきの歌斯の如きあるを歡(490)ぶ。
   夕日かげ寒けき崖を石の色の上に物うごく小鳥にてあり
   夕ちかき枯野をあよむ足のへの眼にさむき石の肌かも
   石の面にふるるそよ風かれ草の影のゆらぎをうすく置くかも
   野にのこる日の薄らひの淋しさを石に觸りつき泣かまくするも
   石に居る野べの心の日の温みの殘りを戀ふも淋しかりけり
所掲殆んど捨つる能はず。微細を歌へば繊羸に失し、大局を歌へば粗笨に失するの常なり。中村氏の造詣忽ちにして斯の如く深きを致したる驚く可しとなす。君故堀内卓と鹿兒島に於て同窓たり。二者の心交必ずこれに補ひたるの深大なるを想見す。談笑の友はあり、交遊の友はあり、悲喜するの友はあり、一點心靈の深所に瞑目の接受をなすの清徒幾何ありや。利害に結ばず、世俗に結ばず、事件に結ばす、感涙茲に流れ、心血茲に流れ、悲歎茲に湧き、感傷茲に至る。二氏の交情「アララギ」連載の「堀内君のこと」に就て一端を想見すべし。
 憲吉以外見るべきの歌甚だ乏し。寂寥甚だしといふべし。胡桃澤勘内の「憶光君」も言語多くして人を動かさず。岡千里の「光男君を悼む」中、
   さけむりのにほひの中に眼をねむるその俤をしぬびわたるも
(491)の如き却て情光の微動を見る。古澤芋人の歌、
   新築の山の學び舍塀もなく雪にうづもれてさびしらにあはれ
   みのつけし戸隱人ら朝つゆの青葉の谷に野蕗つみ居り
作意なきの清楚欣ぶべし。黙坊、禿山、紫水、松軒、西澤本等信濃同人の歌、今一歩を抽かんの工夫を望む。
松軒の歌、
   野の川の橋いくつ越え夕歸り吾が家に灯あり草むらの奥に
紫水の歌、
   山のはに月かくろひぬ諏訪の湖ガスの灯あはれまたたきてあり
黙妨の歌、
   萩小屋の鶉月夜の宵炊ぎ庭のたき火にむしが飛びかふ
等皆取るべし。
 予に對する左千夫先生の訓言「唯眞閣夜話」感謝の外なし。餘りに自立的行動なる事、歌の餘りに自覺的なること。斯の如きは予の根柢に更に深き缺所あるの致す所、予亦之を知る。要は予が工夫の深淺如何にあり。眞に恐れ且つ懼る。(三月十日)
 
(492) 三月十九日
林中雪早く消ゆ。遊子去るに近からんとして、林意野意双つながら人を遊ばしむるに似たり。
 林間苔地に滿つ、雪を脱して鮮かなる事醒むるが如し。歩々踵を没して音なし、身を横ふれば冷味膚骨に入る。靜か、靜を出でて寂に。寂か、寂を出でて玄。無念無想、目を閉づれば微茫瞑合を思ふ。
 二年斯くして送れり。寥々たる曠原の孤村予をして離情を繋がしむるものは只この森林のみ。哀しめる時來り、樂しめる時來り、物を思ふに來り、思ひ耽りて歩し、歩し倦みて臥す。悠々として父母の家に眠るが如し。客窓二年、予を慰むる者生にあらずして無生、聲にあらずして無聲。只偶ま沈思の人あり、來り遊び、遊びて去る。手を携へて多く語らず。茴香の畑に暗香を追ひ、背戸の木立に彗星を望みき。二友卒然として逝き悠久來り遊ぶの期なし。予の歸期亦目前にあり。再遊或は稀ならんを思ふ。友來らず予來らずんば、桔梗ケ原の森林只啼鳥の聲あらんのみ。林意野意予を惜むか。予の意林野を惜むか。離情依々蘚苔に臥して歌うて曰く、
   斯の如かなしき胸を森ふかき青蘚の上に一人居りつつ
   この森の奥どにこもる丹の花のとはに咲くらん森の奥どに
(493)   二年を物思ふとき安らかに我をおきたるかなし森はも
   この苔に來て遊びたる友二人亡き人となりしきのふの如し
       〇
   春一と日雪とけきゆる青苔の林のにほひ日を浮けにけり
   夕ぐれのうすき光を蘚に觸りあよむ歩みを惜しみくれつつ
 
 四月二日
三月二十七日午後五時再び桔梗ケ原の林中に遊ぶ、歸期明日にあり。旅裝已に成つて餘す所四半日の無事、長きこと千年の如し。悠々たる客心歸程の迫れるを悲しむか。年移り人變じて風物の猶依稀たるを寂しぶか。暮色至れども歸らず、微雨至れども歸らず。蘚苔色已に没して樹間猶微白あり。靜寂太古の如し。離別の情は斯の如く靜ならざるべからず、斯の如く寂しからざる可らず。酒を置き高會して擾々たるが如き別離は、予の爲めに何の意味を成さず。多謝すこの林あり。多謝すこの心あり。我と林と日没の靜意に入つて茫乎相自失す。
 林木皆瘠せたり。形骸酷だ予に類す。木は呼吸せぎるの我か、予は呼吸するの木か。木と予と斯の(494)如きの靜處に立つて相距る寸毫のみ。思ふに數十年の後予と林と双つ乍ら形骸なからん。林は伐られ予は死す。林伐られ予死すと雖も、この瞑合の心永へに滅せんや。彗星來り彗星去る。來ると雖も生じたるに非ず。去ると雖も滅したるに非ず。予と林と亦誠に斯の如し。相居る二年、相依る千載。形は移り靈は活く。斯の如きのみ。
     〇
   桔梗ケ原の土となり
   瘠せたる松の木の下に
   人を立たすに忍びんや
     〇
   靜かなる木よ殘れかし
   旅なる人よ去れよかし
   愁ふる足よ歩めかし
 寓に歸れば燈未だ點ぜず。爐邊の火鉢湯のたぎる音風に似たり。靜を以て來り靜を以て去る。桔梗ケ原に感射する只此の意のみ。(三月三十二日記)
 
(495) 四月十六日
 「アララギ」四月號を見る。同人の顔概ね皆揃ふ。各作者皆自己の特色を具し來るを見る喜ぶべし。努力ある所道自から新、求めずして新なるを眞の新となす。新を標榜して新なるを求むるが故に淺く薄し。所謂新派にこの弊を見る甚だし。斯の如くんば新は一種の商標のみ、看板のみ。「アララギ」同人にこの輕薄なき最も喜ぶべし。今年に入りて四月號の如く振へるあらず。只左千夫先生の「冬のくもり」(二月號)中村憲吉氏の「寒き石」(三月號)の如き傑作がこの號にありやは知らず。千樫氏久し振りに歌あり、
   冬沈み物のかなしき曇り街をたづたづ來れば川びに出でぬ
   さびさびと曇いや沈む川の面をかすかに動く白き明るみ
   打沈み曇りはうけし吾が前ををりをり行きすぐる人の面かも
   おばほしく曇ゆらぎて水の上にうすら日させり向岸のへに
   青にびの冬の川の面しかすがに日ざしただよひ色めく物影
   冬川のみなそこおほに明りぬる晝の心をさびしみ行くも
   冬日和墓原を來れ赤土の濕りなめらにわがこころ澄む
(496)   石低くならべる墓に冬日さし一つ一つの親しくおもほゆ
深く新に歩みたるものあるを認むべし。首々沈痛の色を帶びて數讀猶人をして思はしむるものあり。所載一々掲げ難し。第三首五句「人の面かも」は猶現し方あるべし。「かも」の利かざるを覺ゆ。
 齋藤茂吉君の「女中おくに」同じく久し振りに出でて、氏の特徴益々發揮せらるるあり。氏の特徴は作者の強き實感と、作歌との間に間隙甚だ少きにあり。換言すれば作者の歌は直ちに作者の聲なり。眞情流露誇衒なく虚飾なし。歌を見て人を想はしむる我が茂吉君の如きは尠し。
   なにか、いひたかりつらんその言もいへなくなりて汝は死にしか
   これの世に好きななんぢに死にゆかれ生きのいのちの力なしあれは
   ひとたびは癒りてくれよとうら泣きて千重にいひたる空しかるかな
   この世にも生きたかりしか一念もまうさで逝きしよあはれなるかも
   なにもかもあはれになりて思ひいづるお國のひと世はみじかかりしも
   まめまめし汝れがすがたのありありと何に今ころ見えきたるかや
 以上二氏の作は四月號に於ける双璧なり。中村憲吉君宜しけれども「寒き石」の深みあり濕ひあるに及ばず。
   物賣りの唄の戯けを不意に浴びま晝の街に足もすくみぬ
(497)の如き甚だ面白し。文明君の「雛草」悉く誦むべし。
   燒山のいはの間のすみれよりたよりなきさまぞわかき心は
の類なり。胡桃澤勘内君表情勝ちて却て深からず。技巧の弊往々にして煩ひを爲さんとするを惜しむ。
   仰向けに草にころぶし思ひなみ空はも低くたそがれにけり
の如き佳什あり。舊き型を脱せんとあせらずして、自ら脱し居る淺野梨郷君あり。脱し居る態度甚だ平氣なるを喜ぶ。
   祖母いますをたぬしみ來れば我床をかたへにのべて臥せりいませり
の如し。岡千里君同じく新に歩むものあり、從來同じ型に低徊せりしに似ず。   この春のふところさびしく待つ蠶桑畑に出て草とりくらす
の如し。貧村の農人に見る情緒よく現れたり。
 信濃同人芋花、芋人、湯禿山、松軒、紫水、西洋本君等の更に振はんを望む。女作家の歌却て振ふが如き何の現象ぞや。
夜汐女の歌、
   低くせまる夜の氣にいそがれ雨戸くる音よしみじみ寂しみにけり
閑古女の歌、
(498)   冬の野の家乏しらに斧の音のひぴきは森に靜もりにけり
の如し。
 
 四月二十三日
新に山浦に來る、地高うして草短く、山寒うして花遅れたり。遊子放浪七年にして復たこの舊山河に入る。風物依然として却て人事の推移を感ぜしむ。旅に馴れて旅を戀しみ、郷に入つて却て情を成さず。昨を想へば今の寂あり、今を想へば昨の寂あり。寂と我と遂に相離るるの期なからんとす。
 吾人は常に新ならんを願ふ。生を通じて常に新ならんを願ふ。境遇は生の材料なり。境遇の材料を通じて生に不斷の展開あらんを願ふ。境遇は生の舞臺なり。境遇の舞臺に立つて生に一貫の變化あらんを願ふ。喜劇ならんを願はず、悲劇ならんを厭はず、只一貫せる劇の變化ならんを願ふ。瞑目して聽くべく沈黙して見るべきの劇ならんを願ふ。
 十歳にして世の悲しみを知れり。予が歴史はそこに第一頁を書けり。第一頁はやがて予が今迄の全頁を貫けりき。貫ける或る物は予一人に貴重なる囘想と貴重なる沈思とを與ふ。人に矜るに非ず、自ら感謝するなり。新に歸來せる山浦が、予のために今後如何なる境遇を供すべきかを思ひつつ新なる(499)居に、新なる生活を營まんとするは悲しくして又樂しからざるか。此の意味に於て予は山浦に再び歸れりと云ひ度からず、新に山浦に漂ひ來れりと云ひ度し。昨の意味と今の意味と相同じきは吾人の堪ふる所に非ず。
 一定せる思想に固着する人あり。自ら守つて至れりとなす。立《たちど》ろに慰安あり立ろに解決あり。疑ひなく煩ひなし。吾人は其の簡易なるを羨み無造作なるを寂しむ。三十歳四十歳にして固著せば、五十歳六十歳を如何にせんとするや。欠伸して暮す生は思うて凄しからずや。
 八ケ岳連山昨日雪降る。土手の枯芝に春寵膽の花を見る。優しき花は寂しき花なり、寂しき我瓣に寒き日影の沁み入るを見よ。山浦の春光容易に囘らず。新なる羈客を遊ばしむるに適す。(四月二十日夜)
 
 四月三十日
△熟するの果《このみ》は落つるの果なり。感受なきの人は死するの人なり。生れながらにして感受なきあり。三十歳にして感受なきあり。四十歳五十歳にして感受なき比々として然らんとす。感受なきは熟し了はるなり。落つべくして木にあり。木にあると土に落つると斯くの如きにあつて其の差幾何ぞや。感受なくして生息す。只呼吸するのみ。只食ひ只衣るのみ。老功といふは斯の如きの人が肉體の滿足を(500)得んがために働く額上の烙印なり。
△精靈に灌ぐにただ感受あり。是れが爲めに活き是れが爲めに伸び是れが爲めに張り是れが爲めに進む。感受ある間は未來ある間なり。未來を望む時のみ吾人の眼は輝き、精靈に向ふ時のみ吾人の心は貴し。
△吾人はただ感受あらんを願ふ。そこに哀樂ありそこに喜悲あり。喜悲の極哀樂の極將に無言にして啼泣あらんとす。試みに瞑目して無言の啼泣を想へ。吾人の神に近づき得るはただこの無言の靜境のみ。
△佛者惱みと云ひ迷ひと云ふ。吾人は人間に惱みあり迷ひあるを感謝す。是れあるが故に泣き、是れあるが故に痛み、是れあるが故に展び、是れあるが故に未來を想ふにあらずや。沈痛なる態度には切實なる惱みと迷ひとを伴ふ。惱みと迷ひとを伴はざるの態度は恬淡のみ、輕鬆のみ、乾燥無味のみ。
△一莖の草花猶吾書人を泣かしむるに足る。自然と人事と常住無限の感受を灌いで吾入の生斯の如くしで貴からんとするを感謝す。
 
 五月七日
(501)△道路改修落成式ありて行く。里人悉く花下に集ひ笛をふき神樂を舞ふ。春風怡々天と人と相樂しむに似たり。人事繁劇の諏訪に猶この餘裕を止むるを喜ぶ。山浦ならずんば能はじ。
△地高く氣候寒し。山浦人の祖先は、この天然の不利と戰ひで山浦の繁榮を拓けり。耕す田耘ぎる畑行くとして祖先奮闘の歴史ならざるはなし。歴史を繼承せる子孫は今後如何なる力と戰つて、勝利者の地位を持續せざるべからざるかを思ふべし。勝利者の力は所在に現る。地を拓き道路を修むるも此の力の或る發現として祝すべきのみ。或る發現のみ全發現に非ず。山浦人が今後戰ふべきは天然にもあり、人事にもあり、蝟集してあり、殺到してあり。祖先の血その腕に生けるを想ふべし。一區一村の問題に非ず、全山浦の問題なり。
△勞して樂しみ働いて息ふ。里神樂の笛は此の意味に於て貴き音樂なり。餘裕あるは張らんが爲めなり、息ふは進まんが爲めなり、眠るは醒めんが爲めなり。山浦人に此の餘裕あるを見て將來の待つべきを思はしむるは特に愉快なりとす。花下に舞ふとき他を思ふ勿れ。醉ひて語る只嬉々たれ。四時齷齪の人心量小豆のみ、何の用をか爲さん。早く熟して早く落つ。之を小作《こづくり》といふ。
△山浦人の力を養はんと欲する宜しく餘裕を尊重せよ。諏訪人にして餘裕あるは只山浦人のみ。花下に肱枕して斯の如きを思へり。