赤彦全集第7巻、岩波書店、676頁、2200円、1930.5.15(1969.11.24.再版)
第7巻 隨筆・感想・論文
〔分かり切った振り仮名は省略した〕
文藝と教育に關する論文及び感想
流行と輕佻…………………………………… 9
鬼ケ森の怪物…………………………………12
我校弊ヲ論ジテ同人諸士ニ訴フ……………14
村勢調査………………………………………20
父兄懇話會……………………………………23
研究録…………………………………………31
彙報……………………………………………36
動物性と人間性………………………………41
奬善會…………………………………………49
職員會誌………………………………………51
明治四十四年度…………………………51
明治四十五年度…………………………54
訓練綱要………………………………………57
一心の道………………………………………66
就任に際して…………………………………73
高等學校………………………………………76
山上漫語………………………………………81
長野縣より何を出したるか…………………85
病人に與ふ……………………………………91
復古とは何ぞや………………………………97
女及び女教員……………………………… 101
鍛錬せられざる心………………………… 107
犠牲………………………………………… 112
多言………………………………………… 121
容さざる心………………………………… 128
師範教育…………………………………… 135
再び師範教育を論ず……………………… 140
理科號の末尾に記す……………………… 145
教育者の種類……………………………… 148
青年教育…………………………………… 154
鍛錬と徹底………………………………… 160
松井須磨子………………………………… 167
遠近………………………………………… 170
速成者速變者……………………………… 176
兒童自由畫展覧會につきて……………… 184
少數者……………………………………… 194
山…………………………………………… 200
二則………………………………………… 204
後二則……………………………………… 212
訓育號の終りに記す……………………… 220
田中新藏翁に就きて……………………… 224
中等學校の訓練…………………………… 226
訓育問題 其二…………………………… 232
亡人録……………………………………… 236
辭任の辭…………………………………… 245
東西記……………………………………… 247
或る先生の話……………………………… 256
東西記 つづき…………………………… 259
岡田氏の訓示を讀む……………………… 270
文藝と教育………………………………… 279
月並……………………………………… 279
東洋藝術の傳統………………………… 291
子供に關した藝術……………………… 305
短歌・童謠より見たる一般表現―ことに綴方に關して―…… 313
一般表現と教育……………………… 313
短歌と表現…………………………… 320
生活と表現と價値…………………… 327
童謠と教育…………………………… 335
藝術教育の疑點…………………………… 339
川井訓導の修身教授問題………………… 342
消息・編輯便 其他
「比牟呂」消息其他 明治三十六年…… 347
「比牟呂」消息 明治三十七年………… 351
「比牟呂」消息 明治三十八年………… 356
「比牟呂」消息其他 明治四十一年…… 365
「比牟呂」「アララギ」消息其他 明治四十二年… 379
「アララギ」消息 明治四十三年……… 386
「アララギ」消息 明治四十四年……… 390
「アララギ」消息 明治四十五年・大正元年…… 393
「アララギ」消息 大正二年 ………… 400
「アララギ」消息 大正三年 ………… 411
「アララギ」編輯所便 大正四年……… 429
「アララギ」「萬葉集檜嬬手」編輯所便 大正五年…… 444
「アララギ」編輯所便 大正六年……… 474
「アララギ」編輯所便 大正七年……… 497
「アララギ」編輯所便其他 大正八年… 526
「アララギ」編輯所便其他 大正九年… 554
「アララギ」編輯所便其他 大正十年……575
「アララギ」編輯所便其他 大正十一年…588
「アララギ」編輯所便其他 大正十二年…600
「アララギ」編輯便其他 大正十三年……617
「アララギ」編輯所便 大正十四年………646
「アララギ」信濃便り 大正十五年………671
文藝と教育に關する論文及び感想
(9) 流行と輕佻
流行々々、又流行、忽ちにして來れば忽ちにして去り、忽ちにして去れば亦忽ちにして來る。其の來る時は、怒れる虎の如く、其の去る時は鼠の如し。
吾人は今日我國民が浮萍泛々流行の炎熱に是れ狂するを見て、其の嘗て蒙りたる彼の「輕佻」なる冠詞は、未だ全く其の頭上より拭ひ去る能はざるを知り、其の惡意義、無頓著、無分別なるを浩歎せずんばあらず。
福島・郡司二氏の快報一度至るや、甲報じて傳へ、一國民は忽ちにして殆ど狂す。而して今や即ち冷然淡如たり。其の狂するや、直ちに二氏其の人を知つて、其の壯圖を賞讃し、而して是に狂する猶且つ可なりと雖も十中七人は皆是れ流行の爲に狂するなり。若夫れ然らずとせんか、獨怪む。北里博士歸朝の當時何を以て國民は是に熱中し、是に狂奔せざりしかを。噫、北里博士の學業豈福島・郡司二氏の壯圖に讓るものならんや。而も國民の是に對する待遇は實に冷々淡々たりしを思はば、又以て(10)我が國民が彼の二氏に狂したりし所以を測知するに足らんか。更に眼を轉じて文學界の状勢を視よ。曩時泰西の文學に狂奔し、天下の文人皆我を忘れて彼に熱中したりし當時は如何。彼等は口を極めて固陋と侮り、因循と嘲りしに非ずや。而して彼等が今日講ずる所の書は果して皆依然たる泰西の文學か。新聞紙報じて曰く、方今和漢文学、詩歌、俳諧の流行熱は實に全國を擧げて其の度を高うし、是に關する幾多諸雜誌の發刊は、爲に洛陽の紙價をして騰からしむるに至ると。噫、昨は冷に今は熱す。忽ちにして鞭ち、忽ちにして撫し、忽ちにして疎し、忽ちにして親み、忽ちにして怒れば忽ちにして笑ふ。我國民流行の變遷何そ夫れ斯の如く漂々として而も斯の如く浮々たるや。聞くが如くば、現今東都武學生の増加は往年に比して、愈々隆盛の端に赴くが如しと。吾人は柔弱俗を成し、軟懦風を成すの今日この兆候あるを聞く。寧ろ拍手喝采せんと欲する者なり。然りと雖も之を追想せば、往年法律學書生は夏天の驟雨の如く、忽ちにして來り、又忽ちにして去りしを。嗚呼、朝晴暮雨變幻倏忽明日の天候吾人亦豫め期する能はざるなり。
抑も方今我國の文明は其の源や實に泰西に發す。吾人は今に方つて事新しく是を喋々するに非ずと雖も、我國人民は今日にあつても、未だ頭を白皙人種の前にあぐる能はざるものあり。
視よ。今日文明の利器として我國に運用せらるる所の者を。我國の依て以て便を蒙り、利を蒙る所の百般の事物は盡く皆源を泰西に仰ぐに非ずや。噫、電信は白人に依つて發明せられたり。蒸汽車は(11)白人に依つて發明せられたり。其の他軍艦の製造より、百般の學理より、國内諸般の制度に至る迄皆標準を彼に取らざるはなし。今日彼等が横行濶歩傍若無人の振舞ある、未だ遽かに以て理なしとす可からざるなり。堂々たる神州の臣民、將に唾手蹶起一意專心憤發激勵前んでは前代未聞の學理を發明し、未曾有の新機械を發明し、茲に更に文明の一新天地を開き、彼をして之が恩惠に光被せしめ、退いては二千五百餘年來皇緒連綿金甌無缺の神州を以て自稱し來りし我帝國の體面を確保し、以て彼が高慢の鼻を挫くに非ずんば遂に膝を文明社會に、白皙人種の下に屈せずんばあらざるなり。秋津洲中幾千百萬の國民誰か甘んじて彼が背後に尾して、惴々累々たるをこれ欲する者ぞ。
嗚呼、方今我國臣民たる者は實に斯の如く夫れ絶大の志望を有せざる可からず。然るに其の爲す所を觀れば即ち浮萍泛々として底止する所なく、實に無頓著、無分別の極と謂ふべし。一念茲に至れば浩歎の情禁ぜんと欲して禁ずる能はず、抑へんと欲して抑ふる能はざるなり。噫、絶大の事業は須らく絶大の偉人をまつ。輕々浮漂の國民將又何の恃む所、何の望む所かあらん。滿天下の少年諸君よ。諸君も亦是れ未來神州の組織者なり。知らず其の決心覺悟果して如何。
草し終つて一讀すれば行文澁滯殆ど誦するに堪へざるものあり。讀者幸に拙なるを咎めず寸意の存する所をくまば幸甚。
(明治二十六年十月「少年文庫」第十卷第三號)
(12) 鬼ケ森の怪物
去年の夏の事なりし。或る夜余は所用ありて、一里許り隔りたる隣村に行き、歸逸鬼ケ森と云へる名のみだに恐しき木下道にかかりぬ。時に日は已に西山に落ちて四邊暗黒、往々にして道を失ふ。颯と吹き來る一陣の凄風、胸のあたりを嘗められつつ、最と物凄しと喞ちつつ、フト見れば思ひきや、余が眼前三四間の處に、怪しの白物模糊として現れ居らんとは。アツト叫んで逃げ出さんとせしが、流石に思ひ留まりて路傍にかがみ、能々見るに、怪物は漸次余が方に向つてねり來るに似たり。其の状圓なるかと見れば又然らざる如く、左するかと見れば又右するが如く、今は早余が前方二間許りの處迄進み來りぬ。走らんか、彼已に近づけるを如何。叫ばんか、人里離隔せるを如何せん。これまでなりと心を定め死地に陷れる兵ならねど、忽ち余は絶望の勇氣を振ひ起したり。震へる足を蹈みしめて、兩手に滿身の力を込め、氣相《きつそう》變へて身構へし、ヤーと叫んで怪物に飛びかかりぬ。怪物は正しく我が手に觸れたりと思ふ瞬間、彼は驚嘆の聲たかく、
(13) 盗賊――ツ、……人殺――ツ……
事情分れば偖も可笑や、彼の白衣の怪物と言へるは、世に恐しき化け物ならで、隣村の繭賣商人が首に縛り附けて背負ひゐる繭袋(繭袋は皆白衣にて造るものなり)にして、彼も今宵同じく此の闇路に通り懸りて、餘りの暗さに恐入りて、四つ匍ひになつて四邊に道を求めつつありける所なりしと。
雙方の事情分り來りし其の果は大笑となりてすみけるが、己が心のひがみより、罪もなき繭袋に飛び附きしのみかは、他人の膽を潰せしこと、かへすがへすも氣の毒なることなりき。
あはれ世の少年諸者よ。己が心正しからねば、正しき人の心迄|邪《まが》りて見ゆるものぞかし。
(明治二十六年十二月「少年文庫」第十卷第五號)
(14) 我校弊ヲ論ジテ同人諸士ニ訴フ
短所ノ暴路ト進歩
我校ニ對スル研究ヲ起セ
主張ナキ親密ト腐敗
研究心
五時間ノ授業ト疑問
職員會ノ寂寥
社會ニ對スル交際
學校ノ威嚴
殊ニ枚長ニ望ム
生徒ニ對シテ
(15) 絶對的威嚴ト眞正ナル從順親密
一時的從順ト「意氣地ナシ」
未來ノ希望ヨリ生ミ來ル活動ト現在的活動、即チ卒業後ニ生クル教育ト、在学中丈ケノ教育
盛大ナル野球ハ學校ノ外觀ヲ衒フ爲メニ非ズ 以上
誰カ今日ニ方リテ猥リニ平地ノ波瀾ヲ好ムモノアランヤ。而モ余ガ今ヤ忍ブ可カラザルノ情ヲ忍ンデ、斷然苦言ヲ我誌上ニ呈スル所以ノモノハ何ゾヤ。實ニ黙ス可カラザルノ必要アルヲ信ズレバナリ。
嗚呼世事悠々人ト物ト共ニ推移ス。倥※[人偏+聰の旁]タル日月ハ一分一時毎ニ過去ノ歴史ヲ殘シテ、永久ニ奔馳シツツアルナリ。此ノ時ニ當リ沈思熟想徐ロニ我儕過去ノ經過ヲ囘想シテ、庶幾クバ未來我校ノ進路ニ一點ノ警戒ヲ得ルアリトセバ、コレ豈焉ゾ吾人日進ノ策ニ裨益スル所ナシト云ハンヤ。蓋シ自己ノ短所ヲ蔽ウテ、可成其ノ身邊ノ美ヲ衒ハントスルハ、人情ノ傾キ易キ所ナリト雖モ、而モ畢竟 孑々タル小人者流ノ心事ニ屬セザル可カラズ。自己ノ短所ハ自己ノ短所ニテ詮方ナケレバ、只遠慮ナク他ノ面前ニヒロゲテ、速カニコレガ改善ノ策ヲ講ズ可キノミ。今日教育者ノ猥リニ形容ノ美ヲ逐ヒテ、虚僞逡々タエテ進捗ノ實ヲ示サザルモノ、全クコノ胸襟ノ狹隘ニシテ、度量ノ豆小ナルニ坐セズンバ非ズ。短所ヲ暴露セヨ。暴露セヨ。何ゾ自ラ進ンデ自己ノ短所ヲ研究スルニ勗メザル。要ハ只改善セントスル男氣ト至誠トノ如何ヲ問ハンノミ。余ハココニ有ノ儘ニ我校ノ弊所ヲ解剖シテ、我黨諸士ノ赤心ニ(16)訴ヘントス。
我校ハ由來職員間ノ親密和合ヲ以テ稱セラレ、職員自身モ亦ココヲ以テ任ズル所アルモノノ如シ。コレ寔ニ慶賀ス可キノ事タルト同時ニ、吾人ハ一面ニ大ニ警成ス可キノ一事アルヲ思フ者ナリ。夫レ主張ナキノ親密ハ、常ニ一種ノ腐敗ト相伴フノ事實ヲ存ス。蓋シ親密ナルモノハ、各教育者ガ各自ノ主義ノ上ニ立テ相始終スルニ於テ美徳ナリ。教育上ニ於ケル親密ナル用語ハ、決シテ一點其ノ他ノ意味ヲ舍有スル事ヲ許サズ。若シ一歩ニテモ自家ノ立脚タル主義ノ範圍ヲ脱シ、相率ヰテ滔々主張ナキノ流弊ニ陷ルアランニハ、其ノ親密ヤココニ全ク團體ノ腐敗ヲ意味シ來ラムノミ。故ニ吾人ハ親密ナル語ニ對シテ、決シテ無事平穩ヲ想像スル事能ハザルナリ。親密ノ極ハ大活動ナリ。大活動ノ極ハ大親密ナリ。平穩ト無事トハ親密ノ擬體ナリ。無事ハ必ズ腐敗ヲ喚ビ、腐敗ハ往々親密ノ擬而ヲ蒙ル。嗚呼余ハ自ラ白状ス。余ハアマリニ「流レスギタリ」ト、而シテ更ニ絶叫ス。我校ノ校風モ亦大ニココニ傾クアラムトスト。嗚呼吾人ハ果シテ今日誠心我意ヲ捧ゲテ斯道ノ爲ニ盡シツツアルカ。一日五時間ノ授業ハ其ノ教場ニ於テ、共ノ校庭ニ於テ、續々トシテ疑問ヲ吾人ノ面前ニ供シツツアルニ非ズヤ。而シテ職員會ノ議論ハ、何ゾコレニ對シテ寂々寥々タルヤ。將又教師間相互ノ談話ハ何ゾコレニ對シテ、單純ニシテ一律ナルヤ。借間ス。吾人ハ現今日々兒童ノ實際ニ向ツテ教授上、訓練上、幾何ノ研究ヲナシ、幾何ノ疑問ヲ有シ、將又幾何ノ抱負ヲ有シツツアルカ。議論アル可シ。議論アルベシ。(17)侃々諤々ノ論ナクンバ、一校ノ士風ハ相率ヰテグヅグヅノ極ニ奔馳セムノミ。主義ノ上ニ戰ヒ、主義ノ上ニ和ス。コレ豈ニ神聖率直ナル親密ノ骨髓ニ非ズヤ。何ゾ其間ニコセコセタル小感情ヲ夾ムヲ須ヒン。誠ノ手ニ劔アリ。而モ其ノ劔ヤ「一劔天ニ在テ凄ジ」キ者タルヲ知レ。
吾人ハココニ擬體的親密ヲ名ケテ、假ニ俗交際的親密ト云ハム。コノ俗交際的親密ハ今日或ル意味ニ於テ、教育者ガ社會民人ニ對スル一種ノ交際術トナリテ、變形應用セラレ、滔々トシテ教育者ノ品位ヲ俗世界ノ上ニ卑メツツアルハ、今日一般教育社會ノ現象トシテ認ムル書ナリ。吾人ハ素ヨリ教育者ニ對シテ、民俗以外ニ超脱セヨト勸ムル者ニ非ズ。併シ乍ラ若シ夫レ是ニヨリテ教育者ガ社會ノ指導者タリ、先覺者タル事ヲ忘却シ去リテ、同時ニ自己ノ立脚ヲ是等俗社會ノ裡面ニ没却シ去ルニ至テハ、教育ノ事豈復タ言フニ忍ビムヤ。吾人ハ此ノ點ニ於テコトニ校長其ノ人ニ、今後ノ希望ヲ矚セザル可カラズ。如何トナレバ學校ノ威嚴ナル者ハ、其ノ責第一ニ枚長其ノ人ニ存スル大ナルヲ思ヘバナリ。見ヨ世間教育者ガ其ノ頭ヲ町村吏員ノ前ニ垂レ、腰ヲ俗界民衆ノ間ニ屈シテ、敢テ顧ミザルノ醜態ヲ。斯クテ教育ハ人民ニ對スル通俗平易テフ旗幟ニ隱レ、比々トシテ威嚴ヲ彼等ノ間ニ損ジツツアルノ極、彼等ヲシテ教育者ヨリモ巡査ヲ畏レ、官吏ヨリモ教育者ヲ輕ズルノ現状ヲ來サシムルモノ、畢竟教育者自身ノ罪状ニ歸セザル可カラズ。何事ニ限ラズ、自信ハ常ニ強大ナル勇氣ト相俟テハジメテ決行セラル。教育者ニシテ若シ自己ノ位置ニ氣ヲ揉ミチ、囘顧躊躇定見ナク主張ナク阿附雷同、遂(18)ニ何等ノ爲ス所ナキガ如クンバ、教育ノ事最早論ズルノ價値ナカル可キナリ。外界ニ對スル吾人ノ用意概ネ斯ノ如クナル可キノミ。然レ共吾人ハコレヨリモ猶目下焦眉ノ急ニシテ、我校ノ現状ニ對シ、大々的警成ヲ加フ可キノ一事アルヲ信ズルナリ。借問ス。我校ノ教師、即チ我々ハ果シテ生徒ニ對シテ絶對的威嚴ヲ保有シツツアルカ。換言スレバ我校ノ生徒ハ果シテ教師ニ對シテ、絶對的從順ヲ有シツツアルカ。嗚呼、威嚴ナキノ教育ハ果シテ眞正ノ從順ナシ。眞正ノ從順ナキ教育ハ、團ジテ眞正ノ親愛ナシ。眞正ノ親愛ナキ教育、遂ニ何等ノ教育的感化ヲカ成サントスル。夫レ威嚴ノ反面ハ從順ナリ。從順ノ反面ハ即チ親密ナリ。威嚴、從順、親密トイフモ畢竟同質異形ニシテ、三者一ニシテ三、三ニシテ一、モシ三者其ノ一ヲ缺ケバ即チ兩者總テコレ僞ナル可キノミ。而モコノ三者モ亦只教育上ノ重要方便タルニ止リテ、決シテ教育終極ノ目的物ニアラズトセバ、教育ノ法豈戒心ニ戒心ヲ加ヘ、恐懼ニ恐懼ヲ加ヘズシテ可ナラムヤ。嗚呼、我校ノ生徒ハ何ゾ輕薄浮萍ナルヤ。又何ゾ其ノ氣風ノ常ニ輕佻ニシテ雷同的ナルヤ。活溌溌地抑ヘテ抑フ可カラザル底ノ自發活動ハ、吾人今日迄一囘モ眼ニシタル事ナキヲ奈何。彼等ハ飽迄モグヅグヅ的、現在的、流行的、雷同的ニシテ、タエテ一點ノ希望ヲ存セズ。一點ノ意氣地ヲ存セズ。コノ故ニ往々似而非的親密ヲ、教師ト生徒トノ間ニ現ズルヲ見ルト雖モ、教育上ヨリ觀察シテ何等ノ價値ヲ存セズ。見ヨ我校ノ生徒教師間ノ親密ガ、其ノ根柢イカニ薄弱ニシテ輕佻ナルカヲ。事實ノ證明ハ著々トシテ爭フ可カラザルノ例證ヲ吾人ニ示シツツアリ。蓋(19)シ未來ニ生キザルノ教育ハ、其ノ外觀如何ニ美ヲ呈スト雖モ、到底死物タルヲ免レズ。小學ノ卒業ハ即チ社會ヘノ入學ナリトセバ、卒業其ノ物ハ決シテ生徒ノ目的ニアラズ。況ヤ八箇年間ノ在學中ヲヤ。故ニ若シ生徒ノ活動ガ、卒業ノ曉ニ至ル迄遂ニ現在的タルヲ免レズンバ、彼等ハツマリ社會ニ於ケル死物タルノミ。嗚呼、滔々タル年々ノ卒業生、果シテヨク卒業後ニ生キテ其ノ活動ヲ持續セントスルモノ幾何ゾヤ。見ヨ、彼等ノ卒業ハ同時ニ學校ニ對スル路傍者タルノ平常ナル事ヲ。盛大ナル野球ノ奨勵ハ、決シテ學校ノ外觀ヲ衒フタメノ玩具ニ非ズ。斯ノ如キハ只學校訓錬ノ一方便タルニ過ギザル者ナレバ、他ノ大ナル精神的訓練ト相須ツテハジメテ其ノ價値ヲ生ジ來ルモノトス。然ラズンバ焉ゾ彼ノ見世物師ノ輕藝ト擇ブ所アラン。凡ソ事ハ要領ヲ得ルヲ貴シトナス。要領ヲ得ザルノ事ハ其ノ形容相似タリト雖モ、其ノ物必ズ非ナリ。天下濟フ可カラザルモノ、豈、似而非ヨリ大ナルモノアラムヤ。
是ヲ要スルニ我校ハ猶實ニ幾多ノ研究ヲ要ス可キモノアリ。吾人ハコノ種ノ研究ノ續々相互間ニ行ハレン事ヲ希望ス。吾人已ニコノ言ヲナセリ。當ニ甘ジテ大方ノ苦言ヲ聞カン。
男兒ノ胸襟光風霽月ノミ。又何ゾクヨクヨトコセコセトヲ須ヒムヤ。(長野縣池田町會染小學校)
(明治三十二年十月「小天地」第三號)
(20) 村勢調査
緒言
一、小學校ハ國民養成場デアル。即チ國民トシテ、最モ完全ナル人物ヲ養成スル所デアル。抑々今日ニ於ケル國家ノ單位ハ町村デ、町村ハ國家ニ於ケル唯一ノ自治體デアル。町村民トシテ、最モ健全ナル人民ハ、即チ國民トシテ最モ健全ナル國民デアル。小學校ニ於テハ、一般國家的觀念ヲ兒童ニ授ケルト同時ニ、所住町村ナルモノノ觀念ヲ充分ニ授ケネバナラヌ。
一、顧ミテ我國ニ於ケル町村自治ノ現状ヲ視レバ、實ニ幼稚樋ツテ居ル。人民ハ部落ノ小利以外ニ其ノ眼光ヲ放ツコトガ出來ヌ。議員デサヘ、多クハ其ノ例デアル。村吏、議員等ノ選擧ニ至ツテハ、百弊四出、殆ド拾收ス可カラザル状態デアル。
昨年ノ徴兵體格檢査ヲ行ツタ際、其ノ郡デ各壯丁ニ就キ、其ノ所住町村名ヲ問ヒタルニ、十中ノ八九ハ正當ナル答ガ出來ナイデ、多クハ部落ノ名ヲ以テ答ヘタトイフ事デアル。又以テ今日ノ人民ガ如何(21)ニ町村ナル自治團體ニ對シテ幼稚ナル考ヘヲ持ツテ居ルカガ分ル。
一、小學校ニ於テハ國民教科トシテ町村自治制ノ大體ヲ授ケルト共ニ更ニ自己所屬ノ町村ニ於ケル實際ノ智識ヲ授ケル必要ガアルト思フ。
一、コノ帳簿ハ、高等科初學年ニ授ク可キ郷土誌ノ部分ヲ除イテ、尋常科四學年及ビ高等科終リノ學年ニ授ク可キ材料ヲ蒐集シタノデアル。
明治三十五年四月二十日
目録
一、戸數、人口、反別、地價
二、農工商
三、會社及ビ主要工場
四、勸業
五、經濟
(一)村民所有地價 一戸平均 (二)村費豫算 (三)生産 (四)輸出入
六、村治
七、教育
(22) (一)小學校 (二)青年會 (三)婦人會 (四)中等教育以上ノ學校在籍者
八、風俗
(一)美點 (二)缺點
〔編者曰〕 本稿ハ内容詳密ヲ極メ當時ノ玉川村勢ヲ知ルニ至要ノ研究ナルモ、本卷ニハソノ緒言ノミヲ採録セリ。
(明治三十五年四月「長野縣諏訪郡玉川村」)
(23) 父兄懇話會
出稼に關する調査(工女は省く)
種類 人數 期限 一家經濟に及ぼす關係(收入等)
發達盛衰の歴史概略(如何なる種類? 凡その人數等)
一、粟澤區 二十年前東京へ海苔輕子に出たが今なし
一、菊澤 美濃方面。一人 東京府方面。一人(輕子)
一、神の原 四五十年前海苔出稼盛大
唱歌種類
〇全體 「玉川村歌」「箱根山」「浦島太郎」「おんま」「花咲爺」
〇尋常科 「降れや/\」「蟻とせみ」尋一、二「鳩ぽつぽ」
〇高女 「信濃春秋」「徳川家康」「子守歌」「蟲の樂隊」
(24)〇高四補
〇高三男 「寄宿舍の古釣瓶」
父兄懇話會談話要項
一、訓練に就て
一、各自の自治
幼年生にありては、著物をきる、帶をしめる、學習具を始末する。上級生にありては、自分の物の整理、我が座敷の掃除、男子草履造り、女子髪結び、辨當ごしらへ等、凡て自分の身邊の事はやらせる。
二、共同自治
同級會、上級會の状況、組合會を三十七年一月より設ける(自治の完成)
三、共同演習
修學放行高等三年以上高崎、伊勢崎行兒童六十四人(補習六、四年二五、三年三三)の中旅行せし者四十四人(補習六、四年二二、三年一六)
高等一二年及び女生は甲府行一二年兒童六十六人(内一年三七、二年二九)中族行者五十六人
(一年三一、二年二五)缺席者十人、女子二十五人中出席者僅々十人、缺席者多きは遺憾也。殊に(25)女子には見聞の必要最も多いのだ。
尋常科四學年諏訪湖一周兒童數八十七人中旅行者六十九人(缺席十八人中本校六人中澤十二人)
夜行軍春季の俎原は成績よく、秋季の巌温泉行は各學年共缺席あり。女子は最も不成績で二十五人中僅かに四五人のみなりし故引率見合せにした。冬期に入れば男子の雪中行軍等あり、共同演習の好方法としてやらせるのであるからして必ず缺席させぬやうに望む。野田原のも敷地のも運動會は好成績、父兄は愛兒の爲めには一日や二日を惜まず參観あれ!
二、勤勞貯蓄
一、學校でやる勤勞は掃除、障子貼、華園の整理(本年設)、運動會其他の時の勞役、(更に上級生)
二、家庭に於ける日常手傳、農事養蠶等の手傳、農事休暇に於ける實習(小學令の高等科加設科、農商又は手工)
三、買喰其他の冗費を省き貯金をやらせる。修學旅行費等を貯金の中より支辨させる(自治心)。旅行費を一年間に積む。附、貯金比較表(別紙に在り)
四、兒童の學校寄附金、必ず兒童自身で働いて得るものたれ。.
三十四年寄附二〇、二〇〇厘
三十五年寄附四二、〇六四
(26) 三十六年寄附五一、九九〇 内譯【地梨五、〇〇 蝗一二、三〇〇 夏繭一七、一九〇 秋繭一七、五〇〇】
之に村費剰餘を編入して現時二四二、二七七也
〇曩に毎戸平均一錢ゾツ毎月寄附の事を区長會議にかけ賛成を求めし際、一戸平均十錢年一囘に寄附する方簡便なれば此の法によらんとの事で各區に謀る事になりをるが、二三區の外は未だ成立たず大に遺憾なり。父兄諸君の率先賛成あらん事を切に望みまゐらす。
三、學習上に就て
一、尋常三年以上殊に高等科兒童には家庭に於て必ず下讀をやらせる事。〇字引又は畫字引を用ひさせるやうに
二、諸科の復習、殊に家庭でやり易きは書取、摘字、細字練習等
三、日記、周圍の寫生文、實地の往復文等を課す
四、新聞、雜誌、家庭小説等を讀ませる、又は讀んで聞かせる、但し選擇に十分の注意を拂ふべし。
△兒童教育、活兒童、時事新報社の兒童雜誌、内外出版協會のもの等
四、注意雜件
一、就學の歩合
尋常科男百七十人女百五十七人計三百二十七人 就學歩合男九九、四〇 女九八、九八【男女合計九九、二〇 本郡第八位】
(27) 高等科は尋常科に對比して、男百二十七人女二十五人合計百五十二人故に尋常に對して二分の一に達せず
高等科女子は高等科百五十二人中僅かに二十五人 即ち約六分の一(普通四分の一位)尋常科女子百五十七に対して約六分の一
二、缺席、遲参、早歸等、村の休日に缺席させぬ習慣、甘酒祭樣のものは可成日曜日祝祭日等にやる事にしたい
(附)三十五年度皆勤及び精勤(缺席 日以内)四百七十五人中皆勤百六十四人精勤二百十八人(五日以内缺席)
三、家庭又は社會に於ける風儀
〇朝夕の禮、他人に對する挨拶、日常の作法等凡て奬勵的、歡迎的態度を執る、強迫は無益有害である
〇卑猥の俗謠、談話、動作、遊戯は禁制する事
〇又それ等に接近せしめぬ事 無責任に大人が兒童にカラカフは最も惡き癖である
四、學習用具の供給
筆墨は可成よきを撰ぶ、石盤には必すフチある事上級生には石盤の代りに紙又は手帳を持たせる
(28) 五、服装の輕便。女子にも筒袖或は改良服
六、正月休等には有益無害の遊を奬勵する、運動、唱歌、談話會、書畫會、講讀會、智慧競べ的遊戯、軍人將棋
七、年内行事
天神祭、灯祭等の飾物(共同心、勤勞)道祖神祭、正月の小屋掛(弊害のある點を改良し、共同自治の氣風を發達させる)
五、學校家庭間
通知簿の利用、学校に對する要求、家庭よりの通信を充分にする、授業の參觀、同級會等の參觀、児童の精勤學習等の奬勵
六、學校以外の事業
一、夜學會頗る不振、三十五年度の状況
中澤、山田、田道、御作田、多きは二十五人少きは七八人平均十二三人成績稍佳
穴山、菊澤、多きは二十五人少きは十二三人數囘で解散
子之神、北久保、終始十二三人の定員成績佳良
神之原、多きは十五六人少きは五六人
(29) 粟澤、多きは十五六人少き時は十人内外
○本年度は一月より神之原學校に於て夜學に代るに半日學校を開きたい、午後一時より四時まで三時間國語算術其他講演(教科書は成立の後定む)出席者の多少如何
二、裁縫講習會(修、國、算、家政談)神之原會場四十九人、中澤會場四十一人、計九十人成績佳良の方 尚來一月より開始の都合である
三、其他青年會婦人會同窓會等凡て児童退學後に於ける修養を補ふに有益である。△婦人會十九日
中澤校で(東部四區)二十日神之原校で(西部五區)何れも午前九時より午後三時迄講演
四、卒業後尚修學させる場合には目的を確定する事
△現時本村出身學生は、中學に十四人長野上田東京等に七人合計二十一人である。なるべく實業學校を可とす、縣下には長野商業、松本戊戌商業、上田蠶業、伊那農学校、木曾山林、近縣では伊勢崎染織、桐生織染等尤可
備考
一、各國富力の比較(人口一に対して)
英、二、三一八圓、佛、二、二三三圓、獨、一、二三一圓、露、四七九圓、米、二、〇四八圓、日本、二五〇圓
(30)二、貯金比較(人口一に對して)
英、四二《円》、七〇 佛、四四《円》、三五 獨、七八、〇〇 露、五《円》、〇六 米、六《円》九、七〇 日本、一《円》、一五(明治三十二年)
長野縣、、《円》六五(全國二十六位)東京府、三《円》、四九七 愛知縣、二《円》、三五 大阪府、四《円》、八九
(明治三十六年十二月「長野縣諏訪郡玉川村神之原分教場」)
(31) 研究録
復習心得
(一) 心理的分類
一、記憶ヲ主トスルモノ
二、推理ヲ主トスルモノ
三、熟達ヲ主トスルモノ
四、應用ヲ主トスルモノ
一、記憶ヲ主トスルモノ
〇反覆ヲ要トス。(埋窟ナシニ只反覆スベシ)
〇一時ニ頻繁ナランヨリ、永久ニ屡々ナルヲヨシトス。(此ノ點ヨリ見テ毎學期未二週間ノ復習ヲ以テ滿足スベキニアラズ。其ノ他ニ折々反覆的復習ヲ施スノ要アルヲ知ルベシ)
(32) 各學科ニ就キテイヘバ大略左ノ如シ
一、修身科 教科書記載事項ノ反覆。其他教授事項ノ反覆
二、國語科 ヽ讀方中 素讃意義ノ反覆。文法、修辞ノ反覆。書取ノ反覆(國語復習中大切ナル部分ナリ)、綴方 模範文ノ反覆ソノ他
三、算術科 定義、約束的事項(メートル法、圓周率、求積法ノ如キモノヲ指ス)等ノ反覆
四、地理科 教科書其他教授事項ノ反覆。描圖反覆。摘要表ノ製作
五、歴史科 教科書其他教授事項ノ反覆。摘要表ノ製作
六、理科 教科書其他教授事項ノ反覆。實物研究(特ニ博物)摘要表製作
二、推理ヲ主トスルモノ【基本的理解ニ主力ヲ注グベシ
屡々ノ不斷ノ接觸】
一、國語科 讀方 讀本中ノ或ル課ニツキ摘要表ヲ作ラシムル如シ(抽象)大意、演述
二、算術科 各階段ノ推理作用。ソノ應用
三、地理科 自然地理ト人文地理トノ交渉
四、歴史科 人類活動ノ推移。興敗隆汚ノ因果
五、理科 自然物ト人生トノ關係。動植物ノ共存其他。物理化学ノ推理的部分及ビ應用
三、熟達ヲ主於スルモノ
(33)一、修身科 作法ノ熟達
二、國語科 書方ノ熟達
三、算術科 運算ノ熟達。度量衡ノ實地經驗
四、唱歌科 體操科 圖畫科 手工科 裁縫科
四、應用ヲ主トスルモノ(觀念聯合ノ練習ヲ主トスルモノ)
一、國語 科讀方中讀本ニ於ケル難字句ノ應用。綴方中模範文ノ應用
一、算術科
一、地理科
一、理科
〔二〕 各科ノ復習
一、修身科 ヽ記憶ヲ主トスルモノ ヽ熟達ヲ主トスルモノ==作法
二、國語科 ヽ素讀、意義ノ演述、及ビ書取練習。大部分 ヽ推理ヲ主トスルモノ。説明文的ノ課ヲ撰ビ、文章ノ構成、摘要表ヲ作ラシム。各科ノ大意演述ハ尋五(?)以上、課毎之ヲ行ヒ以下適宜。、應用ヲ主トスルモノ。難字句ノ應用。(記憶的ノモノ一通リ通過ノ後ニ課スルヲ通例トス)模範文ノ應用。ヽ讀本各科ニヨリ復習ノ目的ヲ異ニスベシ。(記憶的部分ハ必共通ノコト)摘要ノ課。文法(34)修辭練習ノ課。暗誦ノ課ノ如シ。ヽ特殊課ノ取扱ヲ殊ニ注意スベシ。
三、算術科、記憶的ノ部分。ヽ推理ヲ主トスルモノ。基本的部分ニ力ヲ注グペシ。例、尋一、イチニト一ツ二ットノ連合。尋二ノ十ノ分解練習。尋三四五六高一二ノ百ノ分解練習。尋二三四五六高一二ノ除法累減等分ノ區別。尋二三四、九々ノ意義。尋六高一二ノ分數四則。高一二ノ比ノ意義。高二ノ比例ノ意義。高一二ノ小數四則(終リ三項簡易ナル數ニツキ行フベシ)。ソノ他ノ應用問題。ヽ熟達ヲ主トスルモノ。運算練習、基本部分ニ力ヲ注グベシ。例、尋三加減乘除、一位乃至二位ノモノ。尋四同上。尋五以上同上。尋四小數ノ分ノ四則練習。尋五小數ノ分ノ四則練習。尋六高一二分數四則練習。高一二小數四則練習(終リ二項簡易ナル數ニテ取扱フ)
四、地理科、記憶ヲ主トスルモノ。教科書反覆。描圖反覆。級ニヨリテハ主トスルモノヲ選ブベシ。ヽ推理ヲ主トスルモノ。自然地理ト人文地理トノ交渉。五、歴史科、記憶ヲ主トスルモノ。教科書反覆。摘要表。ヽ推理ヲ主トスルモノ。因果。推移。(高一二ヲ主トス)
六、理科、記憶ヲ主トスルモノ。教科書反覆。實地研究。摘要表製作。ヽ推理ヲ主トスルモノ。物理化學ノ推理ヲ主トスルモノ。實物應用、自然現象其他ノ説明。自然ト人生。共生團體ノ理法。ヽ基本的材料ニ力ヲ用フベシ。例、植物、動物、地質、物理化學、合力、電流、感應。
(35)○宿題 第一期末理科算術復習中基本材料トシテ取扱ヒシモノヲ書出スベシ。
〔三〕 復習方法
一、教条簿ニ必復習案ヲ立ツベシ。
二、手段ニ變化アルベシ。
三、基本的材料ハ特ニ各方面ヨリ縱横ニ反覆スベシ。
四、家庭復習ヲ課スルハ秋季以後ナルベシ。
〇宿題、復習方法トシテ比較的結果ノ面白カリシモノヲ書出ス事。
五、體操、圖畫、裁縫、唱歌ノ如キモノ、復習スベキモノアラバ格別、然ラザレバズン/\進行スベシ。(定期復習ニツキテ)
〔四〕 ソノ他協譲事項
缺席生ノ件(督促ノ件)生徒内遊ビノ件 研究題ノ件 教育會講習會ノ件 教科書訂正ノ件
〔編者曰〕本稿ニハナホ「算術科基礎的練智」案三枚半附記シアレド省略セリ。
(明治三十七年四月「長野縣諏訪郡高島小學校」)
(36) 彙報
一、寒中休一月二十七日より二月六日迄。
一、田村君甲府に歸る。
一、太田黄疸とかにて休校。少しはよし。角間町に臥て居る。
一、平林風邪にて休校。もう大によし。
一、氷とけ辷りに危險となれり。例より暖。
一、柳田專吾君上高井郡川田學校に轉ず。後任小林岩吉君。(一月二十六日夜)
明治四十年の豫想
「明治三十九年」は手長猿の誰に聞いても評判が惡い。どうも八方塞りであつたらしい。金を溜める積りだつたが、溜らなんだと云ふ猿がある。こんなのは平々凡々の八方塞りと云ふべきで、猿の分際(37)で金溜などとは考へが輕卒だと笑つてる猿もある。笑つてる猿が借金でさつぱり首が廻らぬさうだ。首の廻らぬ位は矢張り平凡である。首を廻さぬより寧ろ眼や猴智惠を廻さぬ方が賢い。この猿は近來は盛に借金を振り廻してるさうなが、猿の淺ましさで未だ悟れないのだから仕方がない。その外八方塞りが幾通りもある。腦充血で肛門の塞つたのもある。鼻贅骨とやらで切解して醫者に鼻の孔へつめをかはれたと云ふ塞がり方もある。上諏訪の旅宿にみんな斷られて、どこへも這入れなんで湖水ばたの場末町へ落著いたと云ふ塞がり方もある。豐田へ泊つたり、下諏訪方面へ泊つたり、鹽尻峠下あたりへ飛んでつたり、いつでも「お宿はどこだ」とからかはれてゐる塞がり方もある。丸で舌切雀のやうなものだ。發句屋は雀が化して蛤とか云ふ貝になると主張してゐるから、猿が化して雀になつたつて不都合はない筈である。塞がり方といふ塞がり方を一々羅列したら際限ないものになる。只舌と云ふ事を書いた序に、舌に關係した事を一寸書き添へたい。去年の八月まで手長の森に棲んだのに、馬鹿と舌の長い猿が居た。舌の長い代りに背は高くなかつた。背が高くないから人の視線を惹かぬ。その代り馬鹿と人の聽線を惹く猿だ。舌が長くて中々しやべるからでゐる。言語學者の説明によれば、しやべると云ふのは思想發表の一機關で、この原則は人間以外、猿以外の禽獣にまで及ぶものださうな。この原則を正常であるとすれば、夕方裏の竹薮に集まる雀は、隨分豐富な思想を持つてるものと見える。井戸ばたに集つてる下女輩は思想に於て、大隈伯より多方面であるかも知れぬ。併し雀や下(38)女は、我輩に干係ない種族だから構はぬ。話は舌長猿に戻る。舌長猿のしやべる所について我輩の調査した所によると、舌長猿のしやべる多くは、我輩手長猿族に対して甚だ惡口を叩いて居る。時によると我輩猿族を勘違へて「蛸」などと呼ぶ事がある。我輩はこれでも有骨黨若くは硬骨黨と心得てゐる連中だ。
蛸の如き軟體動物とは違ふ。兎に角この猿は惡口に於で、思想言語共我黨の同輩を凌駕してゐる。惡口の思想言語など、いくら凌駕しても我輩は構はぬ。雀の竹薮と、下女の井戸を構はぬと同樣である。處がこの猿はあまり口にまかせて「蛸」「蛸」を續けてゐるうちにとうとう舌の根を爛らして仕舞つた。いくら長くても舌の根が命令に從はねば、しやべる譯に行かぬ。そこで先生思切つて、人間社會の醫者と云ふものへ治療依頼に及んだ。猿が人間に頼むなんて不見識なものだと云つたら、尻の毛が一本とか三本とか足りないから、人間に從はねばならぬと説明した猿がある。尻の毛と舌の根とは違ふ。尻の毛が足りなくて、人間に舌の根を頼むなんて、借金で首の筋が釣るよりもをかしい。兎に角舌長猿は斯んな調子で今では手長の巣に居らぬ。居なんで見ると矢張り淋しい。聞き馴れた惡口が聞かれぬので淋しい。「蛸」「蛸」を云はぬので淋しい。借金猿に聞いても淋しいと云つた。湖ばた猿に聞いても淋しいと云つた。色黒猿も同樣だと云つた。舌切雀の猿も同樣だと云つた。斯く申す肛門づまりの(但し今はあいてる)猿も甚だ淋しい。して見ると惡口と云ふものは、我輩猿族に必要な(39)ものに相違ない。必要なものなら惡口練習會でも開くがよいと云ふ猿がある。御尤もの説だと思ふ。それにしても早々舌長猿が全治して歸つて來ればよい。借金猿も待つてると云つた。色黒猿は待切れぬと云つた。その他の猿も同意見だと云つた。
以上は明治三十九年の八方塞がりの一例でめる。八方塞がりには誰も閉口だと云つてる。その代り「明治四十年」は八方開きだと喜んでゐる。舌長猿も八方開きの仲間入をするが宜しいと思ふ。出來るものなら我輩と雖も、仲間入たるに於て人後に落ちぬ積りだ。併しいくら八方開きだと云つた所が、猿の開き方位知れたものだ。我輩の豫想によると、本年度手長猿の大活動は大抵次のもの位であるらしい。(思はず長く書いた。もうやめる。序文の方が長くなつた。)
一、岩垂校長 六月十五日大鮒を食ひ、とげが咽にからんで松村から診て貰ふ。但そのため一時間登校遲る。
一、五味先生 龜の湯の前にて下駄の齒を缺き、轉んですねをむく。但袴に泥つき職員室の火鉢にて乾す。
一、今新 巴屋の歸りに豐田と間違つて隣の家に入り叱らる。
一、平榮 子供を抱いて角間の天神へ行き歸途眼鏡を失くす。
一、太田 紀元節大口にて詩吟、顋を外し直ぐ懸る。
(40)一、武井(伊) 汽車に教案を忘れ、忘れた事をも忘れて職員室中探す。教あ八王子迄行つて戻る。
一、田中 植物採集に行き歸らず。大騒ぎとなり所々探索、西餅屋にて發見。一、笹岡 小倉のだるま服を新調、尻の所つまり歩行困難。但當分忍耐の事。一、小泉 南屋より栗まんぢゆう小包にて贈呈。但し代金引換便。
一、平澤 豐田を追拂はる。但當分梯子段下の宿直室詰たる事。湖水調査を怠り赤麿樣に叱らる。
一、田村 和泉町百七十五番地、兵火大急ぎで歸宅。但百七十一番地無事につき、二三日逗留の事。
一、武居 袴へ墨をこぼし妻君に叱らる。
一、久保田 フロツク新調。但靴は昨年十月新調。
一、三村斧さ 禁菓廣告を諏訪新聞に出す。八月白骨行。
(明治四十年一月)
(41) 動物性と人間性
人は萬物の靈であると共に一種の動物でゐる。斯の故に人間は理想として神を想像する。
理想の神は平和を好む。併し人間は爭闘をする。國家の間に戰爭がある。萬人の上に生存競爭がある。將軍は兵士に對して人を屠れ、屠れと教へ、教育者は人の子に對して生存競爭に勝て、勝てと教へる。人間は「人は動物なり」といふ根本義に於て神と遠ざかる。
教育はこの動物性を備へた人間なる一種族を陶冶する所の一の方法である事を考ふれば、吾人は動物性を無視した教育は、少くも現在の人間に對する教育として失敗である事を斷言する。人間の意義を二分して假に肉體と精神とに區別すれば肉體は直ちに動物性である。分化の複雜なる、機能の鋭敏なる一種の脊椎動物であるといふ點に於て他種族を凌駕して居る。教育者はこの肉體的動物性の長所を發揮せんが爲に體操を考究する。遊戰其の他の運動法を研究する。乃至學校衛生を考究する。併し、人間に於ける動物性は常に肉體上に認め得るのみならず精神界に於ても同樣に之を認めることが出來(42)る。吾人が云はんと欲するは寧ろ肉體的動物性に非ずして精神的動物性の上にある。
精神界を假に知、情、意に介ける。
知を三大期に分けて直觀期、觀念期、思考期とすれば、吾人の所謂知的動物性は主として直觀期に屬する。感覺、知覺は大體に於て發達せる他の動物と共通である。覗覺、聽覺、嗅覺、味覺、觸覺、筋覺、體覺、各鋭鈍確否の差ありと雖も、夫れは程度の問題であるとして、吾人は直觀期を名づけて主として知的動物性の時期と稱する。
教育に於ける知的動物性の取扱は直觀教授である。直觀教授は被教育者の觀念思考構成の根本であることは、近來の教育理論家、實際家に依つて熱心に認識せられ唱道せらるる所である。特に小學教育初歩の兒童は、知的時期から見て多く直觀期に屬するのであるから、實物教授は最も其の量を豐富にせねばならぬ。此の事は茲に事新しく吾人の喙を容るる必要はない。要するに教育者が被教育者に對する動物性取扱は、如上の肉體的方面、知的方面に於て、今日の教育は兎に角成功の途にあるものといふことが出來る。
吾人の言はんと欲するは主として是からである。即ち現今一般の教育が肉體的、知的方面に於て盛に動物性取扱を唱道して居乍ら、感情、意志の方面に於て動物性取扱の研究に冷淡なるは、甚だ怪訝に堪へぬことと思ふのである。吾人の言はんと欲する主眼は此の點である。
(43) 感情、意志の問題は一括して訓練問題と稱するを得る。訓練の要義は勿論美姓、徳性の圓滿を期し、趣味を進め良心を高めて、品格を高尚にし善美なる行爲の習慣を養成するにある。斯の如きは吾人の稱して人間性陶冶となすもので、教育者一般の夙に意を凝し、心を潜めて研究に從事しつつある所である。併し乍ら、吾人は訓練方面に於ても體育、知育と同じく人間性の取扱以外に、動物性取扱について顧慮せねばならぬことと信ずる。
動物性は根本である。人間性は結果の成熟若くは變化である。動物性を離れて人間性なきと同時に、動物性を輕視したる人間性の陶冶は極めて薄弱なものである。
感情を情緒と情操とに分てば、情緒は大體に於て勒物性にして、情操は人間性であると云ひ得る。情緒の中でも特に主我の情は全く動物性である。即ち恐怖、興奮(【吾人は主我の情中に興奮なる一項を加へたい】)喜悦、悲哀、忿怒、愛情の如き、程度こそ異なれ他動物と雖も確實に之を有して居る。教育の目的は勿論眞善美の高尚なる感情を養成するにある。併し眞善美の情は根柢なくして忽焉として養成されるものでない。此の點に於て今日の教育者は甚しき失敗を演じてゐる。即ち今日の教育者は人間性感情の養成に急なるや、往々甚しく抑壓を動物性感情の上に加へてゐる。特に兒童期に屬する小學校時代の被教育者にありては、自然の發達上動物性感情の高潮なる時代である。動物性感情の旺盛なるはやがて人間性感情の旺盛を來すべき階段である。此の間に立つて教育者の執るべき用意は只指導である。抑壓ではない。(44)矯正である。刈除ではない。思慮ある助長である。角を矯めぬ修正である。古より偉人の兒童期は腕白であつた事を知らば思半に過ぎるだらう。
兒童を何處までも大人として取扱つたのは古風の教育である。今日に於ては心理學の指導に從つて教授方面に於ては長足の進歩を以て、幼兒を何處までも幼兒として取扱ひ、青年を何處までも青年として取扱ふ。然るに訓練に至つては乳臭の子を捕へて徹頭徹尾成人の道徳のみ強ひてゐる。各小學校に於ける訓練規定を見れば、何れも立派なる徳目の排列である。是必しも惡しくない。只兒童の動物性情意に對する考慮に、一片思ひ及ぼせる者未だ曾つて吾人の耳朶に觸るるなきは、甚だ以て遺憾のことと思ふ。
感情を意志と離れて考へるは不都合である。吾人は更に意志の領域に進む。 意志は衝動及び慾望の一部を以て動物性とし、執意及び慾望の一部を以て人間性とすることを得る。訓練の目的は勿論善的情操と關聯して人間性意志の習慣を修練するにある。併し兒童期、青年期の被教育者に對して、如何に動物性意志を指導すべきかは慎重に考慮せねばならぬ問題である。克己説や、禁慾説は幼年者に對して早く大人の形式に仕上げようとするには功能がある。併し、その形式は充實せぬ形式である。從つて活動なき形式である。
大なる道徳的意志は大なる心的慾望から起る。大なる心的慾望は大なる體的慾望から起る。大なる(45)體的慾望は大なる身體上の衝動から起る。肉體の活動沈衰せる兒童に、大なる體的慾望、心的慾望なきは吾人の實驗によりて知り得る所である。斯の如き兒童には往々早く老成の風を帶びて、人間性の形式を帶ぶるに至る事、是亦實例に乏しくない。併し乍ら斯の如き早熟の人間性は極めて薄弱可憐なる者である。充實せぬ活動、充實せぬ形式とは是を云ふのである。吾人は勿論衝動慾望全部の活動を悉く是認し、助長せんとするものではない。修正を要することは人間性意志と雖も同樣である。併し乍ら、修正の反面には助長の工夫の必要なること、是亦人間性意志に対する用意と異ならぬ。此處である。現今の教育者に一考を煩し度いは此處である。動物性意志に修正を加ふることは諸君のよく知る所、而も助長を要するを知るに至つては、理窟は兎に角實際に於て甚だ寂寥の感に堪へぬ。意志は感情と一括して考ふるを便利とする。吾人は更に數例を擧げて此の問題を進める。
兒童には目的なき、若くは無意識なる興奮がある。之は活力の充實である。その輿奮が衝動となつて、目的なしの活動を始める。手足をバタバタさせる。隣席の仲間の體をつつく。奇想天外的な板面《いたづら》をする。教師は眼を丸くして叱責する。兒童期の始めは壬我的慾望が頗る盛である。そこで各兒の間に衝突がある。忿怒を激發する。顔のつかみ合ひとなる。所謂喧嘩が持ち上る。併し喧嘩の後は直ぐ手を携へて談笑する。是がもし教師に見つからうものなら大譴責を蒙る。喧嘩をする兒童は直ちに惡兒童であつて、亂暴せぬ兒童は直ちに善兒童である。斯の如きが實際に於ける現今學校の訓育の方針(46)である。
家庭教育に於て更に數例を擧げる。
幼兒衝動の發作を非常に制限する家庭がある。來訪者などに對しても幼きより禮法を守らせる。未だ十歳ならざるに一通りの作法挨拶を心得て居る。人間性養成に於て早く已に成功せりと云ふべきである。動物性の發作はあまり制限せぬ家庭がある。來訪者に對して相撲を迫る幼兒がある。來訪者に對して平氣で種々の要求を提出する兒童がある。來訪者が要求を肯《き》かねば泣いて之に迫るといふ兒童さへある。人間性修練に於て零なりと云ふべきである。吾人は此の兩極端の例を讀者の面前に呈して批判と考量とを要求する。
之を要するに吾人の意見は訓練の目的に於て、概ね現今の教育者と一致する。併し訓練の方法に於て、動物性取扱の方面に於て、更に修正と助長との大工夫を要することを確信する。
都會は人間性が多く發達する。田舍は動物性が多く發達する。動物性を帶びた偉人が田舍から出て、都會に行つて偉大なる活動を遂げる。古今東西の歴史皆斯の如しである。忠盛の動物性は伊勢の田舍で養はれた。平氏が公卿政治を奪つた所以である。頼朝の動物性は伊豆で養はれて、動物性を失へる平氏を西海の波に沈めた。北條、足利、織田、豐臣、徳川何れも田舍出の蠻カラーであつた事は、教育者の考量に値すると思ふ。降つて明治の聖代に及んで猶政界の實力者と目せらるる者は、薩長土の(47)田舍者であつた。近くは日露戦争に於ても動物性に對する考量の資料は隨所に山積してゐる。教育者が今後如何に此の解決を附けるだらうか。
以上吾人の述べた所を概括すれば左の如し。
一 人間の意義を分けて動物性、人間性とする。
二 肉體は動物性である。肉體發蓮の矯正助長を圖るために體育を研究する。三 知の直觀期は動物性である。觀念期は動物性、人間性の混淆である。思考期は全く人間性である。直觀期の矯正助長を圖るために直觀教授を研究する。知全體に亙つて矯正助長を行ふを知育と稱する。
四 體育、知育に於て動物性取扱の研究に熱心なる教育者が、訓練に於て動物性情意の矯正助長につき研究せねば不都合である。
五 現今の訓練法は動物性情意に對し餘りに抑壓主義に傾くか、然らざるも比較的輕視しては居らぬか。
六 感情の情緒期は主として動物性である。情操の矯正助長を圖ると同樣に情緒の矯正助長を圖らねばならぬ。
七 意志の衝動期は動物性である。慾望期は動物性、人間性の混淆である。執意期は人間性である。(48)執意の矯正助長を圖ると同樣に衝動慾望の橋正助長を圖らねばならぬ。
八 感情意志の動物性方面に對し、單純に抑壓主義を取る如きは人材養成の道を知らぬ者である。早熟の兒童青年を作つて喜ぶ教育者は此の種に屬する。
九 古來偉人は皆動物性を發揮して居る。教育者は深く鑑みねばならぬ。
十 各學校の訓練規定中、動物性情意に思ひ及ぼせる者を見ざるは怪訝の至りである。
(明治四十年「信濃教育」四月號)
(49) 奬善會
我等が學校に學ぶは正しく強く美しき心を得んがためなり。正しく強く美しき心は生るるより誰もみな持てる心なれども、學ぶにより、養ふにより、修むるによりて益々その光を現すに至るべし。光を現さんとする奮勵だにあらば、三十年五十年の後には遂に秀れたる人材ともなりぬべし。されば我等學校にありて大凡左の事柄を心得べし。
一、我等の眼は常に輝き、我等の耳は常に聰く、我等の口は用なき時常に閉づべし。
一、我等の手足は働く時風の如く疾く、休む時林の如く靜なるべし。
一、正しさを見ては之に赴かんを思ひ、難きを見ては之を貫かんを思ひ、弱きを見ては之を助けんを思ひ、公事を見ては力を致さんを思ふ。我等の心は幼けれども斯くの如く活けり。
一、一身治りて一級治り、一級治りて一校治る。一校治るの心は、一家一郷一国治るの心なり。我等の身は小さけれども斯くの如くして一國に關せり。
(50)一、巧言令色鮮し仁といへり、剛毅朴訥仁に近しといへり。言はその巧ならんより寧ろ確かなれ。容はその美しからんより寧ろ清かれ。
(明治四十三年五月十六日「長野縣東筑摩郡廣丘小學校奬善會」)
(51) 職員會誌
明治四十四年度
四月十三日
一、職員の修養
職員室は常に知識思想人格修養の道場たらんを望む。ことに思想人格修養の奮勵なくして兒童に臨むは教育の根本義を捨てたるもの、事業ありて精神なく形ありて生命なし。吾人は常に自己の不足を感ぜんを望む。不足を感ずる間のみ人生に意義あればなり。吾人は如何なる境遇に處するもその境遇が吾人修養の機會にして同時に又新なる修養の動機ならんを望む。境遇の差異は暮し方の差異なり。暮し方に差異あるも活き方に一貫せる奮勵あるに於て吾人は只一個の裸なる人として他の犯す可からざる神聖を感ずべし。斯樣な種類の自由なる談話が職員室に常に交換せられんを望む。議論には一切遠(52)慮なからんを望む。
一、教育事業
教育者被教育者間に同情の交換ありてはじめで眞の教育は行はるべし。教員の興味は兒童の上に注がれざる可からず。子供の話題常に職員室に現るるといふことよき事なり。この意味に於て吾人は兒童に或る感化を與ふると共に兒童よりも貴き感化を受くべし。斯る感化は兒童以外のものよりは與へられざる貴き感化なり。
一、細目完成のこと 五月中に完成
一、豫定表(今年度は見合せて見る)
一、教案 左の各項は必ず記入のこと、その他各自の工夫を費すべし
週 月日 曜 題目 目的 準備 方法
一、復習
毎学期終り二週間を定期復習に充つ。復習は必ず教案を立つべし。復習の巨細は次回の研究に廻す。
一、整理
1、校内整理(略)2、校外整理(略)
一、水曜會(職員會と講話會とに充つ)
(53)教授法研究會 三週に一囘のこと。學科の撰定豫告、實地授業、批評、記載
一、講讀會
書籍購入 希望書申出づべし。新聞 萬朝報 讀賣 朝日。雜誌 少年界、少女界は他に取換へる事太陽、日本人、教育時論、教育研究をとる。新日本、實業之日本、東亞の光、中央公論中にて一種撰定すること。
一、學科分擔研究
修身 國語 算術 地理 歴史 理科 圖畫 唱歌 體操 手工
一、入會は從前通りのこと
一、學用品販賣 當分中止
一、組合會 本年度第一囘を四月二十二日に行ふ。各區主任(略)
一、枚務分擔
掛は責任を以て管理すべし。他の者は掛の命令を絶對に守るべし。帳簿を備へ正確記入のこと。各掛(略)
(54) 明治四十五年度
四月四日
一、新學年度の覺悟
ヽ自己の充實が常に発一間題なり。これが存するからには學風は自然に上るべし。根本問題の工夫存せずして學校問題を考ふるが如きは形骸に近し。ヽ現今社會組織の完全に近づかんとする努力は往々にして個性の滅却を強ひることあり。從つて個人は何等動機の充實なくして器械の如く社會の習慣に從はんとするの結果は、社會組織其の物迄も薄弱なる形骸に導かんとする觀なからず。社會的教育學の後に必ず個人的教育學生るべし。然らざれば現時の如き趨勢にある社會は救はる可からず。要するに現今にては甚しく倫理的善と心理的善との考慮を要する機曾に遭遇しつつあり。ヽ學校と職員との關係亦甚だ斯の如し。職員は可成自己の特色を尊重して自己進展の工夫あるべき也。
一、自己進展の工夫
ヽ學藝的修養−必要なれども寧ろ第二也。ヽ人格的修養−思想界の進展−これ吾人の第一問題也。人格的修養思想界の進展と稱するも要するに自己の痛切なる經驗(境遇)より來る要求を基礎とすべきなり。他人の學説などはほんの參考なり。それよりも一日一時一分の經驗に意義あらしむべきなり。(55)職員室は吾人修養の道場ならんを望む。−張りたる心−張りたる談話−意義ある會話。斯の如きがこの道場に括き括きと動きつつあらんを望む。
一、講讀會−講讀、旅行等
論語輪講 毎週月曜。萬葉集講義 毎週木曜。授業批評會 隔週金曜。旅行−職員の旅行は極めて必要なり。
一、児童に對する心の態度
ヽ眞に兒童に対する興味ありて始めて教育者たり得べし。ヽ苟も修養の工夫あるものは自ら兒童に感奮する所あるべき也。
子供は大人の子供にあらで大人ぞ子供の子供なるべき
ヽ兒童との交際が密接に親しく自らあらんやうなるを望む。庭上の交際。退校後の交際。同窓會等へは盛に出席して貰ひたし。監護日誌の廢止−隨意監護のこと。
一、職員の勤勞
ヽ旅行等修養的事柄には缺席もむしろ貴きことゐり。ヽその他の缺勤遲刻は可成せざること
一、職員分擔事務(略)
一、訓練意見各自書出すこと
(56)一、各科教授豫定表 四月中に記入のこと
四月十八日
一、訓練に付て協議 別冊訓練日誌に記入
五月二十九日 水
一、訓練に關して
1、個性觀察及び之に對するやり方 帳簿記入のこと。2、各級の兒童風に特長あらしめたし。3、月次運動會の進歩を圖ること。4、中庭のボール禁止
一、時間中の授業解散の件
太鼓迄は何かさせて置くべし
一、教案作成の注意
一、宿題のこと
各級共分量を見計らひて多少づつ之を課すべし。
一、各學科の教授方針其の他巨細事項の規定は職員會誌により時々目を通し置かれたし。
(明治四十四年−明治四十五年「長野縣諏訪郡玉川村小學校」)
(57) 訓練綱要
第一章 要旨
一、教師兒童ノ心的交際ヲ根本トス。張リタル教師ノ心アリ。融ケ合ヘル師弟ノ情誼アレバ不知不識ノ間ニ活ケル訓練ハ施サレ居ルベシ。
教師ノ自己充實……師弟ノ眞ノ情誼
一、教師ノ修養完全ナラバ訓練ノ如キハ自ラ完全ニ施サルベキナリ。只吾人ハ未ダ神ニ遠シ。圓滿無碍ノ域ニ達セズ。而シテ一方學枚ハ一箇ノ集合體ナリ。是レ或ル標的ヲ設ケテ兒童品性ノ涵養ト鍛錬トノ努力ヲナス所以也。同ジク標的トイフモ工夫サレタル標的ハ不可ナリ。生レ出デタル標的ナラザル可カラズ。學校−教師−ノ心ノ要求ガ自然ニ生ジ來リタル訓練ノ方針ナラザル可カラズ一、教師兒童間ニ行ハルルスベテノ關係ハ訓練ノ意義ヲ離レズ、教授モ亦訓練ナリ。
訓練ト他ト離シテ考フルハ不可ナリ。
(58)一、一般的方針ノ中自ラ教師ノヤリ方力ノ入レ方ニ特色アリタシ。形ニ縛ラレ型ニ嵌マル可カラズ。
第二章 大綱
第一節 目的論
一、形式ヨリ見タル目的 善良ナル品性ヲ鍛錬シ涵養スルニアリ。
一、性質ヨリ見夕ル目的 人生鑄化性ト創造性トヲ適良ニ發展セシムルニアリ。
附言 人類ノ生活ハ要スルニ祖先傳習ノ繼承ト新生活ノ開拓トニヨリテ進化シツツアリ。祖先ヨリノ徑路ノ斷面ト見ルベキ現代人ノ生活ニ同化セシムルノ必要アルト共ニ現代ノ生活ヲ變化シ發展セシムルノ創造的方面ナカル可カラズ。ココニ云フ鑄化性、創造性ハコノ兩面ヲ指シタルミノナリ。兒童ノ精神活動ニハ已ニコノ兩面ノ萌芽ヲ規シツツアリ。而シテ小學校ノ訓練ナルモノガ往々ニシテ鑄化性ニ傾キテ創造性ノ涵養ヲ顧ミザルノ觀アルガ如キハ大ナル缺點トイハザル可カラズ。
人生ニ現ルルコノ兩面ハ大凡左ノ如キ対比ヲナスノ觀アリ。
鑄化性−保守的−【著實ニシテイヤ味ナシ】−固陋
創造性−進取的−生々溌地−【輕薄ハイカラ】
兩者截然タル限界線ナシ、只人生ニコノ二面アルヲ知ルヲ要ス。小學校ニ於テハ創造性ハ多ク上級生(59)ニ發達ス。
鑄化性ハハジメ器械的鍛錬ヲ經テ後ニ會得的ニ進ムヲ通例トス。(後ニ無意識行動ニ進ムモノアリ。會得的階段ヲ經ズシテ直チニ無意識行動ニ進ムモノアリ)
一、實質ヨリ見タル目的 徳目的(行爲、事件ノ題目)ノモノノ鍛錬ヲ目的トス。
以上三者ハ只方面ヲ異ニシテ觀察シタルノミ、目的ノ主體ハ一ナリ。
一、目的ノ對照ハ個人ナリ。學級、學校ハ副次的ナリ。
第二節 方法論
一、訓練ノ機會
1、人事ニ接觸スル機會−家庭生活−教場内ノ生活−學校内ノ生活
2、自然物ニ接觸スル機會
自然物ヨリ感得スル心性上ニ於ケル影響ハ極メテ大ナルモノアルニ拘ラズ、教育ニ於テコレヲ閑却スルノ傾向アルハ宜シカラズ。須ラク兒童ヲシテ自然ト親シミ自然ヲ愛好スルノ趣味ヲ養ハシムベシ。コレガタメニハ教師ノ自然ニ對スル趣味ノ向上ヲ要求ス。
一、兒童ノ本能ヲ尊重シテ指導スベシ。
スベテノ道徳ハ人類ノ本能ヲ基礎トシテ成立スベシ。兒童ノ本能ハ指導スベキモノニシテ抑制スベキ(60)モノニアラズ。コレ兒童ヲシテ活力アル習慣ヲ漸次的ニ取得セシメ得ル所以也。急劇ニスベテノ完全ナル習慣ヲ養成スルニ努ムレバ往々ニシテ本能ヲ抑壓シテ動機不充實ナル行爲ヲ強ヒ、ソノ結果活力ナキ行爲ト僞善トヲ釀出スルニ終ルコト往々ニシテ見ル弊害トス。
各木能ノ發達ハ年齢ニヨリテ大差アルコトニ著眼スルヲ要ス。未ダ萌芽ニ過ギザル本能ニ對シテ負荷ニ堪ヘザル方案ヲ施スガ如キハ徒ニ兒童心性ヲ障礙スルニ過ギズ。
兒童本能ノ發達
恐怖、憤怒、羞恥、好奇、遊戯、模倣、競爭、取得、秘密、結構、羨望、敵對、嫉妬、社交、同情、愛情、戀愛
一、兒童ノ個性ヲ尊重シテ指導スベシ。
各兒童ノ個性ハ各兒童ノ氣質ヲ基礎トシテ發達セシムベシ。氣質ニハ膽汁質、多血質、神經質、粘液質等ノ分類アリト雖モ確然タル限界アルニ非ズ。要スルニ、各兒童ソレゾレニ特殊ナル氣質アリテソレヨリ順次個性ヲ形成シ行クヲ思フヲ要ス。訓練ノ基礎ガ個人的ナルベキ所以モ亦茲ニ存ス。教師ハ兒童ノ個性ニ關シ細密ナル觀寮ト指導トヲナスベシ。コレガタメニハ個人別記入ノ經歴簿ヲ備フルヲ要ス。
一、品性形成ノ時期ヲ考慮スベシ。
(61)ヽ反應ノ習慣ノ定マルモノハ比較的早シ。
談話ノ樣式、衣服ノ著コナシ、姿勢等ノ如シ。コレ等ハ大抵二十歳頃迄ニ定マルヲ普通トス。
ヽ道徳宗教ノ理想ニ對スル態度ハ青年期ニ至リテ定マルモノナリ。
ヽ社會的、道徳的、美的、知的習慣ノ主ナル調子ハ三十歳ニ達シテ略々決定セラルト稱セラル。
ヽ如上ノ理由ニヨリ小學兒童ニ對シ強ヒテ高等ナル道徳的習慣ヲ當嵌ムル如キハ徒ラニソノ心性ヲ害スルニ止ルベシ。
一、戒飭ト奬勵トノヤリ方
ヽ戒飭ハ兒童ノ自尊心ヲ傷ツク可カラズ。
ヽ慈悲ノ籠リタル戒飭ナラザル可カラズ。
ヽ不斷ノコセコセシタル拘束的叱リ−小言−ハ兒童心理ノ自在ナル活動ヲ阻礙スベシ。
ヽ奬勵ハ最モ愼重ナラザル可カラズ。往々ニシテ下等ナル名譽心ヲ惹起スルニ至ルベシ−譽メラレネバヤラヌト云フ如キ兒童ハ危險ナリ。薄弱ナル心ナリ。一、身體ノ養護
訓練ト極メテ大切ナル關係ヲ有スレドモ、學校ニテハ多クハ衣食住ニ對シテ手ツカズ。
運動奬勵−危險防止−傳染病流行病ニ對スル考慮−疾病ニ對スル家庭ヘノ戒告等ハ学校ノナシ得ル範(62)圍ナリ。
一、命令ト實行
濫リニ多岐ニ亙リテ命令スベカラズ。
一度命令シタルコトハ必ズ確實ニ實行セシムベシ。コノ場合ニ於テモ猶各個性ニツキ考慮スルノ要アルヲ忘ルベカラズ。
一、規定セル實行事項ハ變化スベキモノナリ。
一、小學校ニ於テノ實行
(一) 實行ヲ強フ可カラザルモノ
(1)高等品性ニ關スル行爲
偽善ヲ招ク。
定メテ定マルモノニ非ズ。強ヒテ強フベキモノニ非ズ。教師自然ノ感化ト兒童心性ノ涵養ト相待チテ自然ニ行爲ニ現ルペキモノトス。
(2)其ノ他身體的、心理的不自然ナル行爲−内容空虚−却ツテ心性ヲ害ス。
(二) 實行ヲ強フベキモノ
反應的習慣ノ養成
(63) ヽコレモ事々物々ニ律セラルルトキハ自然的活動ノ餘地ナシ、特殊ノモノヲ規定シテソレヲバ必ズ勵行スベシ
ヽ上級ニ從ヒソレニ意義アラシム可シ。
第三節 實行案
一、上述ノ意義ニ於ケルスベテノノ方面ヲ考慮シテ自己受持學級ノ訓練ト兒童個別ノ訓練トヲ考フベシ。
一、一校トシテ訓練ニハ全職員ガ全實任ヲ感ズルノ一致的態度ヲ以テ之ニ臨ムベシ。
一、上教生ハコトニ一校訓練上ニ重大ナル關係アルヲ自覺セシムベシ。
一、一校トシテノ規定
1、親律
一、集合解散ノ確實
スベテノ場合ノ集合解散ヲ意味ス
二、休時間ノ規定ヲ嚴守セシムベシ
晴天ノ日、雨天ノ日、家庭ノコト
三、其ノ他偶發的ノ命令嚴守
(64) (各級ハ更ニコレニ準ジテ何カノ考慮アルベシ)
2、清潔
自己ノ受持區域ノ掃除整頓
3、自治
各級各個人ニ應ズル自治的指導ニツキ考慮スベシ。
一、組合會
ヽ從來ノ利弊ニツキ研究ヲ要ス。ヽ個人戒飭ノ方法ニツキ研究ヲ要ス。ヽ兒童間制裁ノ限度(體罰ヲ禁ズベシ)制裁的行動ヲナストキハ必ズ受持教員ニ豫告スベシ。ヽ積極的事業監督指導。ヽ各區受持定メ。ヽ年四囘
二、上級會
方法ソノ他高一二ニテ相談ノコト
4、其ノ他
一、全校運動會
毎月一囘午後一時間乃至二時間 各級一種ヅツノ遊戯若クハ競技 全校ノ饅操 規律極メテ嚴カナルベキコト 遊戯其ノ他快速ナルベシ
(65) 二、學林ノ手入
三、修學旅行
四、枚外運動會
春季運動速足會 秋季運動會
五、植物園手入−同愛護
(明治四十五年五月「長野縣諏訪郡玉川村小學校」)
(66) 一心の道
人の世の中で、眞正に強いものは「一心」限《き》りないと思ふ。一心になつたら、弱いものも強くなる。切れないものも切れて來る。摧かれないものも摧かれてしまふ。弱いものが強くなるのは奇妙である。奇妙であるが實際が強くなるのだから仕方がない。切れないものが切れ、摧かれないものが摧かれるのだから仕方がない。これが所謂人間界の不可抗力である。我々が若し他人から力の感受を望めば、他人の「一心」に接觸するより外はない。自分自身に力の發現を望めば自分自身を「一心」にするより外はない。若し一心になれぬ場合は、縱ひその心がどんな状態にあつても、力には成り得ないやうである。
人間界で容易に一心になり得るものは、第一に子供である。母を待つと言ひ出したら、必ず母が來なければならぬ。母が來ることに合致する條件ならば、どんな條件でも肯定される。母が來ることに合致せない條件ならば、どんな條件でも一切が遠慮なく否定される。肯定と否定には善惡の條理はな(67)い。條理はなくても疑はずして肯定し、疑はずして否定するには仕方がない。其の肯定し、否定する前には、何人の力も撥ね返されてしまふ。泣く子と地頭には勝てぬ」といふのが夫れである。我々の問題は、ここから出發し得ると思ふ。
子供が發達して、大人になればなるほど、一心になるのが面倒になるやうである。智慧が複雜になり、經驗が複雜になり、境遇が複雜になるからである。一生「一心」になる經驗を持たずして果てる大人も少くはない。その代り、一旦大人が一心になつたら、其の力は大した力である。複雜を綜合し統一した力であるから、「泣く子」の力とは根柢が違ふ。鍛錬された力である。冴え入つた力である。所謂意志の威力である。我々は人間界にあつて、意志の威力以上の強さを感受することは出來ないと思つてゐる。それは換言すれば唯一心の力である。この一心の力は、性質に於ては前に申した所の子供の「一心」の力とよく似た所がある。子供の「一心」に條理がなくても力になり得るやうに、大人の「一心」も威力たり得るに於て、書惡正邪の條理を絶してゐる所がある。善にしても力になる。惡にしても同じく力になる。さうして同じ強さを以て我々の心に響いて來る。惡しきものなどは、我々に響いて呉れぬ方が都合よいと思ふけれども、實際が誰にも響くのだから仕方がない。夫れを不可抗力と言ふのである。安珍清姫日高川といふ事がある。清姫が一心になつたら蛇體になつた。蛇體なぞは人が嫌ふものである。そんなものに成らぬ方が我々には都合がよい。都合がよくても惡くても蛇體(68)になつたから仕方がない。さうして夫れが我々の心に響く。響くからして何年たつても傳説として、口から口へ傳へられるのである。八百屋お七は火放けをした。吉三に逢ひたい一心から火を放けたのである。役人が何うかしてお七を助けようと思つて訊いて見た。お前は火を放けるつもりでは無かつたのであらう。過つて火を失したのでゐらう。いいえさうではござりませぬ。吉三さんに逢へると思うて火を放けました。役人もこれでは助ける譯に行かない。焙刑を宣告して江戸の町を馬に乗せて引き歩く。衆人環親の中を馬上に曳かれつつお七には其の衆人が眼に入らない。吉三を思うてゐるからである。お七の足の下から火が燃えはじめる。火が燃えてもお七は吉三の事を思うてゐる。一心の力は五體を燒き盡しても、吉三を思ひ詰めてゐる事が出來る。火放けは重罪である。誰もお七の火放けを結構であると思ふ人はない。思ふ人はないが大正の今日も、猶お七のお墓へ線香を立てて拜む人が多い。火放けを拜むのではない。女の一心をいぢらしがるのである。子規先生は、お七のこの時の心を考へれば、いぢらしくて/\堪らないと云はれてゐる。織田勢が武田勢を打ち破つて甲斐の惠林寺に押し寄せた。惠林寺の坊さんが織田勢の云ふ事を聽かないで、自ら寺に火をかけた。猛火の中に端坐し乍ら、心頭滅却火亦涼、と偈し去つて死んだのは有名な話でゐる。これ丈け一心になられたら織田勢も手の付け樣がない。心頭滅却火亦涼は死にがけの未練である、泣言である。神様や佛樣なら斯んな泣言を言はずに大人しく黙つて死ぬに違ひない。坊さんは神樣でもない、佛樣でもない。人間の(69)弱さに斯んな泣言を云つたのが、我々には却つて人間らしく哀れに響くやうである。餘り神樣すぎると我々凡下には想像が附かなくなつて一寸都合の惡い事がある。斯樣な意味に於て惠林寺の坊さんの一偈は、我々修業者の參考になる。私は今諸君と萬葉集の研究をやつてゐる。萬葉集の歌が何故一千年來渾べての歌集に絶して大きな力を我々に感得させるかと云へば、矢張りこの「一心」に外ならない。萬葉集の作者は、どんな事柄に對しても苟も歌ふとなれば、何處迄も眞面目に正面から其の事柄に對《む》き向《あ》つてゐる。さうして一心をそれに集中してゐる。其處から力が生れて來るのである。隨分露骨な事も歌はれてゐるが、夫れが何處迄も眞面目であつて巫山戯て居らない。巫山戯て居らないからどんな場合でも、決して厭味、低卑、弛緩、倦怠を感ぜしめない。古今集以後のものになると大抵の場合にそこが違ふ。
我々は大人である。一心には容易になり得ない。一生の内に一度位は一心になつて何かに傾到して見てもいい。それが若し一生を通じて傾到し待たら、下凡の力も多少の威力になり得ないとは限らぬ。天才ならばそんな事は求めずして自ら到り得るかも知れぬ。我々は天才ではない。諸君も天才かも知らぬが、其の邊は割引して天才でないと信じてゐた方が間違ひが少い。天才でないとしたら自分を何處迄も下凡の輩として、下几の輩一心になり得る工夫如何と考へた方がいい。つまり一心になり得る場合や條件に就て、色々の材料を研究して見ることが必要である。さうして自分の一心境に參し得る(70)機縁と、何等かの關係を考へる事が必要である。そんな器械的方法によつて一心境に到り得るものかと言ふ人があるかも知れぬが、さういふ事を言ふのは天才者の領分である。第一、材料を蒐集し比較し分類するといふ事が、既にその人を一心の領分に誘導する機縁をつくる。私は斯樣な仕事に時間を潰すことを、凡下者の損失とは信じない。併し私は左樣な仕事を餘りやつてゐるのではない。只少しづつの興味を持つてゐる。
第一に一心になる場合は心の働く範圍が狹くなる。從つて興味の局面が縮小される。天才偉人はこれが甚だ自然に行はれるやうであるが、我々にはさう自然に容易に行はれる譯に行かない。自然に容易に行はれないから、不自然に苦勞して行ふより外はないのである。人間の持つ興味の種類は無限に多數である。其の多數の興味は、みんな人間自然の本能に根ざすのであるから、悉く自然の要求である。自然の要求であるから悉くそれを滿足せしめんと努めるのが自然であるに相違ない。自然であるに相違ないと言つて悉くこれを滿足せしめんと努めてゐては、決して所謂「一心の力」にはなり得ない。其處が我々に面白い所である。蒸氣機關の湯氣は四方八方に擴散さるるを以て自然の要求とする。自然の要求であるからと言つて、あの蒸氣を自由に四方八方に擴散させてしまつたら、機關を動かす力には成り得ないのである。四方八方へ擴散せんとする湯氣の要求を抑へて、之を一箇所の狹い口に集注して、茲に始めて機關を動かす動力を生じ得るのである。擴散の要求を抑へるのは不自然である。(71)不自然であつても、力を要求する場合には不自然な抑壓をするより外致し方がないのである。酒を飲む、煙草を喫ふ、髪を分ける、近頃は男が白粉まで付けて化粧をする。化粧をするのも自然の要求であるに相違ないが、人間本能の要求は無際限である。無際根の要求を滿たさうとして、猶且つ一心の集中を欲するは、偉人天才と雖も企て得ない所である。今人よく自由を説く。自由とは何ういふ意であるか知らないが、人間本然の要求を要求のままに悉く滿足せしめんとするを自由とするならば、私は自由に對して不自由を要求する。自然に對して不自然を要求する。昔から一心の境地に澄み入つたものは、我々の眼から見ると皆不自然をしてゐる。釋迦は檀持山に入るために妻子を捨て王位王冠を捨てた。菩提樹の下に安居して、しまひには口腹の慾まで捨てた。大不自然をして大力者になり得たのがお釋迦樣である。古來哲人多く山に入つたのは、煩惱の苦界を絶つて一心專念の境地を求めたからである。「故らに無言をせざれども一人居れば口業を修めつべし。必ず禁戒を守るとしもなけれども境界なければ何によりてか破らん」と夫れ等の徒は涙を流して申して居るのを、物好きなどと思つては罰が當る。
然らば、夫れ程迄にして一心を集中するとして、その一心を何に向つて集中したらばよいか、といふ問題になる。是は非常に重大な問題である。集中の目當てによつて、自身乃至社會に大きな影響を與へることになるからである。さうして此の問題は、勿論個人々々によつて異る所であつて、一概に(72)論じ去るのは難事である。傍し乍ら、私は斯ういふこと丈けは只今の所信じて居る。夫れは男の集中の目當ては事業の上にある。女の集中の目當ては戀の上にあるといふことである。事業といふのは廣い意味の事業である。戀といふのも廣い意味の戀である。この事は詳しく私の考へを申し上げねばならぬことである。男の方からも、女の方からも、誤解されさうな問題である。或は雙方から叱られるかも知らぬと思ふ問題である。次囘までに成る丈け筋道を立てて置いて、御聴きを願ひたいと思ひます。五月十三日萬葉集研究會にて談話
(大正五年「信濃教育」六月號)
(73) 就任に際して
今朝竹内君が來て「信濃教育」原稿一束を予に渡して去つた。予は夫れを見て恐れた。彌々筆を執らねばならぬと思つたからである。筆を執る事は可なり前に承知してゐる。その後屡々手紙の往復、教育會幹部諸氏との會見等によつて、更に明瞭に承知してゐる「信濃教育」の原稿を見て恐れた。今朝の心は、余には少々大切な心である。
予は四年前に信濃教育會から足を洗つて旅に出た。旅に出た心は性來の我儘から出た心である。我儘な心はその當時自分一人の都合のみを考へさせた。自分一人を何うかする爲に旅に出たのである。妻子眷屬の都合と、朋友の都合と、四圍のすべての都合とを考へなかつたのはそのためである。すべての他の都合に眼をつぶつて一人で旅に出た自分は、四年の間に何をしたか。何うかせねばならぬ自分は、相變らず何うもなつてゐないのでゐる。何もせぬではなかつたが、爲たといふ部分が少くて、ぼんやりしてゐた部分が多いのである。「信濃教育」のために筆を執るといふ事は、此の點から見て(74)疑問である。小生自身の問題として疑問でゐる。小生の我儘な心から見て、自分の勝手のために疑問である。この疑問が今朝原稿の束を見て恐れさせた心の一部分である。
小生は四年間全く信濃から離れて居つた。三日相離るれば刮目して見よといふ事を聞いてゐる。四年間小生の離れてゐた信濃は、その間に隨分變化し進歩してゐる事は、今日矚目のもの皆然りでゐる。教育界の進歩は更に之よりも著しいであらうと思ふけれども、小生の耳目は今日に於てそれらに對して全く塞つてゐる。四年間には隨分大きな光も、大きな音もしたであらうと思ふけれども、その光と音とが小生まで屆いて居らぬのである。何も知る事ない信州教育界に忽然飛びこんで、「信濃教育」に筆を執るといふ事は、今日の處では少々亂暴である。四年間の小生の亂暴は自分一人で始末がつく。今日「信濃教育」に入つて筆を執らんとする事は、夫れと少々性質が違ふ。今朝原稿の束を見て恐れた心の一部には、信州教育のために考へて恐れた心がある。
只曩時予は信濃教育界に向つて、言はんと欲する多少のものを有つてゐた。曩の言はんと欲するものと、今の言はんと欲するものと必しも同一ではないが、その間に自ら貫くものがないでもない。暫く離れてゐた信濃教育界に對して、今後予は徐ろに物言ふ。間違つてはならぬからである。恐れつつ物言ふは、恐れずして物言ふに優る場合もある。諸先輩諸友其の他すべての會員諸氏の、忌憚なき高教を賜らんことを冀ふ。雜誌は予一人の私有物ではない。會員諸氏の盛に議論と研鑽とを寄せて、雜(75)誌存在の意義を益々充實せられんことを冀ふ。
(大正六年「信濃教育」八月號)
(76) 高等學校
高等學校を長野縣に置くと置かないは、後來帝國大學を、長野縣に得るか得ないかの岐れる問題である。帝國大學を長野縣に得るか得ないかは、新日本の舞臺に、長野縣人が優越なる活動を成し得るか得ないかの岐れる問題である。予は學校萬能を思はない。殊に官學萬能を思はない。只高等學校を長野縣に置き、延いて帝國大學を長野縣に得る得ないの問題は、左樣な議論の云爲を以て左右する能はざるまでの程度に、長野縣には大切にして緊要な問題である。
この間題は少くも十數年來長野縣人によつて考究せられた問題である。近頃當局に高等學校増設の議あるを耳にして、長野縣人の緊張せる注意を惹起しつつあるは固よりその所であつて、直接局に當ると當らざるとを問はす、縣民擧つて最善の方法を盡すに於て、寸毫の遺憾と悔とを貽すべからざる所である。想ふに長野縣の置かれて以來、一縣の重大問題とせられたもの必しも尠くはあるまい。併し乍ら高等學校の設置は從來の大問題とせられたものの中、更に重大なる問題であるとすることに於(77)て、縣人中一人の異議あるを想ひ到り得ぬのである。之を從來長野縣高等學校入學者數の優位ならざるに見、更に一縣子孫後代に貽すべき影響の大なるべきに考へ、猶更に高等學校乃至大學の有無が、直接一縣の教育産業其の他の文化に及ぼすべき影響を思ふに於て、一高等學校設置問題は、長野縣の人材と文化とに對する、永遠の得喪問題である。
斯の如く重大なる一縣の問題に對して、縣民は重大なるものに對する取扱を粗忽輕易にしてはならぬ。長野縣に設置せられよかしと冀ひ、一致協力して最善の方法を盡せばいいのである。長野縣に設置せらるるに於ては、學校よかれかしと願ひ、それに対して最善の方法を盡せばいいのである。位置は、よかれかしと願ふ條件の具備によりて定まり、規模は、よかれかしと願ふ條件の具備によりて定まる。縣民としては只これ丈けでよい。これ以外に出る必要なく、これ以下に退嬰してゐべきでもない。萬一南北の利害を以て相爭ふが如きあらば、此の際高等學校問題を粗末輕易に扱ふものであつて、勿體なく冥利に叶はぬ仕業で、どちらかに罰があたるのでゐる。
予は茲に於て一歩を進めて言ふ。高等學校の設置せらるるに於ては、位置は之を東筑摩郡桔梗ケ原に定めよ。市街地は必しも適當でない。林中の生活は學枚としてすべての點に於て最も理想的である。この事は必しも予の説明を待たぬ所である。加之假に松本、長野兩市街地、乃至市街隣接地に於て二三萬坪の敷地を得るに費す所は、優に桔梗ケ原に於て十萬坪を得るに足りる。長野縣人が單に高等學(78)校を得て滿足するならば、二萬坪乃至三萬坪の規模を以て足れりとする。苟も後來大學設置を豫想して十年の計を樹つるに於ては、二三萬坪の地は今日に見て已に狹小とすべきである。況や後來長野縣の大學が全國に優越の地歩を占むべきの抱負を以て、規模を劃するに於ては、十萬坪の地決して廣しとすべきでないのである。元來長野縣に大學の設けらるべき場合、何々科の大學を得べきか。乃至單科大學を得べきか、綜合大學を得べきか等の問題を、今日に於て豫想すべきでないが、規模の大なる所に決して規模の小なるものは設けられないのである。長野縣は山岳國である。氣候が寒くて空氣が乾燥して清澄である。即ち長野縣は自らなる天與の學府地である。長野縣人の頭腦の明晰なるは、この天然の影響する所決して少小ではない。後來長野縣に設置せらるべき大學が、長野縣及び全國の俊秀を蒐めて、全國の他の大學に雄飛すべきを與想し希圖する事は、吾人の空想として排すべきでない。否な寧ろ教育國を以て自任する長野縣人としては、これ程の抱負を以て後圖を劃するを至當とするのである。規模の廣狹は第一歩に於て大體を定むるものである。狹小なる規模を劃して將來の發達を望むが如きは、達識者を待つて其の非を識らないのである。長野、松本に於て二三萬坪を購ひ得べき費額を以て、桔梗ケ原森林帶數倍の地を得て長野縣教育百世の基礎を奠むべきは、すべての點に於て缺點がなくして長所がある。況や此の地殆ど全縣の中央に位して、松本市街地を距る甚だ遠からざるの利便あるに於てをや。現代のためでゐつて同時に後代子孫のためである。長野縣のためであつて同時(79)に日本全國のためである。
予は常に思ふ。長野縣出身の學者は、頭腦に於て多く拔群である。そして天壽を全うする人が少い。縣下各地出身者につき思を廻らせば、概ねその然るを知るであらう。或は之れ維新以後全國教育の缺陷であるか、何れに原因を求むべきかを知らない。只後來長野縣に設置せらるべき最高學府は、空氣清澄にして運動の餘地充分なる所を擇んで、あたら秀才を多病ならしむるが如き事なからんを切望する。一蘭の折るるは百草の刈らるるよりも惜しい。松本、長野市街地を避けて、廣漠なる森林地を撰ぶは、此の點から見ても輕易な問題ではない。予嘗つて桔梗ケ原中の一小學校に在つた。小學校の敷地四千坪、小さき校舍に比して校庭が甚だ廣い。兒童庭上に蠢動するが如くして足自ら健である。一歩柵外に出づれば松木立の果てしがない。林地蘇苔密生して歩々音なく、動やもすれば踵を没せんとする。その上に臥すに衾※[衣+因]よりも柔かである。予の病後此の地に在つて健康を恢復したのは、必しも予一人の偶然とする所でないと信ずる。
長野縣は動植硬物の種類が多い。電氣事業の發達が有望で、今後益々工業國として發展するの望を有する。醫業が發達して人口に對する醫者の率が多い。夫れに天與の清澄なる空氣を有する。何科の大學も概ね不適とする所はない。宏恢なる規模を桔梗ケ原森林地に拓いて、長野縣百世の礎を定むる事は、今日を措いて他になきの機會に臨んでゐる。敢て宿志を述べて縣人諸氏、特に教育家諸氏の御(80)叱正を乞ふ所以である。若し夫れ高等學校問題は全國の問題にして一縣の問題に非ず。全國に配置せんとする校數によりて、位置の自ら別趣に考量せらるる必要あるが如きに至つては吾人の口を開くべき限りでないのである。
因に言ふ。故保科百助氏夙に桔梗ケ原大學設立の説あり。必しも予の創意にあらず。故人に對して之を明かにす。又言ふ。本論は予一人の私論にして、信濃教育會の意見と勿論何等關係なし。
(大正六年「信濃教育」九月號)
(81) 山上漫語
○
事功を尚ぶものは、自ら事を成して得意である割合に他から尊敬されない事がある。事を成すの惡いのではない。事を見るの急にして、事以外に何も見得ず、偶々見得る所は、自己の淺きを證明する所以のもので、思想と理想とに深き根柢と省察とを有せぬの傾があるからである。深き根柢と省察の無いものは心を用ひる事無造作である。無造作であるから心配がない。心配はあつても心配の範圍は豫め分明である。或る階級から見れば心配はないとも見えるし、小兒の如く無邪氣であるとも見える。小兒の如く無邪氣で心配がないから體が割合に強健である。強健でないのは、性來小心であるか薄弱であるかの致す所で、早く落伍者となつて社會から消滅する。殘る所は強健者である。強健者の力を用ふる所自己の心操に存せざる場合、その力が容易に事功に注がれるのは自然である。事功に集中された心が、事功以外のものを見得ないのも甚だ自然である。自然に從ふ力は、人間の計らひを以て左(82)右出來ぬ力である。予は之に於て斯の如く思ふ。事功以外のものを顧慮せざるものは、何處までも事功以外のものを見ないで、徹底して事功に向つて進め。專心事功に向つた心は少くも純粹である。聊か他の種類の顧慮と省察を用ひぬ心がそのままで進行する時、淺きものより深いものに進むの機縁が來ないとも限らぬ。機縁の來るものは罕で、機縁來らざるに夙く破綻を來すの多い事は想像出來るが、孔子の子弟三千道に志して、達するもの猶甚だ少いと同じ道理である。達せんとして達したるは喜ぶべきであるが、達せんとして達せざるものも畢生の力を竭した事に於て、死も猶遺憾なき所である。既に事功を以て終始せんと志すものは、事功を家とし、食として生渡それに安住の覺悟を定めねばならぬ。安住の覺悟以外何等の他のものを思はず、求めず、希はないのである。口に理想を説き、心に高級思想を覗かんとするが如きは、※[(來+犬)/心]ひにせぬ方がよいのである。
〇
思想界に遊ぶものは、思を人生の歸趣に潜め、心を宇宙の幽遠に馳せ、情は機微に參し、意は深邃に通ずるを以て至願とする。心を存する事深きが故に事功の前に動機を重じ、外に現るるものを輕しとして、内に潜むものを重しとする。甚だ結構であるが、斯の如きは十年二十年にして猶且つ容易に臻り得べき所ではない。未だ臻らざるに早く臻れるが如く見ゆるは、見るものの惡しきもあり、見らるるものの當然なるもある。眞に臻れるものは、口に現れすして行住に現れる。口に現るるを惡しと(83)せざるも、口にのみ多く現るるは、未だ體現の眞なるものでない事を自ら吹聽する道具にもなる。吾人は世の青年者中に眞率なる心を持して、眞劔なる憂ひと、眞劔なる煩ひとに苦しみつつあるものを知る。併し乍ら、斯の如き人に對してすら、予は毎時早くその人の自ら精力を用ひ盡して、未だ熟すべからざるに熟し、未だ臻る可からざるに臻れるの結果、萎縮又用ふべからざるに至るなきかに心配する事がある。萎縮すべきに萎縮する事を自ら憂へずと言ふは御尤であるが、人間は昔から青年にして早く萎縮せぬやうに造られてあるを思へば、萎縮する事の自然であるか、不自然であるかを考へて見る必要がゐる。或は萎縮せりと見えるは他の見る所であつて、萎縮せりと見える所は却つて萎縮せざる所であるとも見られるが、この邊になれば、各自の見方に從ふの外はないのである。青年期は種種の本能の盛に現れる時である。本能の現るるままにすべてを行動するは如何なれども、全く本能を壓して青年らしき活動を見せぬのも自然とは言はれない。予は寧ろ青年期によつては成るべくすべての本能を活動せしめて、早熟の悟りを晩熟の悟りに改め、早熟の煩ひを晩熟の煩ひに改めたいのである。その方が人間らしい匂ひがして、予には懷しいのである。青年期には體力が旺盛であるから、すべてのものに突き當りたいのが自然である。幼兒が物を破壞したがるのと同じ道理である。突き當るべきものは澤山ある。教員ならば兒童の作文に突き當る、習字に突き當る、算術理科何々と突き當るものは所在に轉がつてゐる。全精力を振つて兒童に突き當るうちには、後から見て効果少なしとすべ(84)きもの多きを普通とするが、後から見て效果少なしとすべきは教育のみに限らぬ。少なしとする效果は全精力を籠めて得た效果である事に於て、少なしと雖も尊い效果であり得るのである。殊に教育の事の如きは、地味にして效果の餘り現れざる仕事である。現れざるが故に餘計の努力を勵まねばならぬのである。予は口に人生の歸趣云々を説くを聞くよりも、眞實自分の生徒を愛して、作文帳に朱筆を入れつつある青年教育者を懷しく思ふのである。理想の體現はこの邊の行使にまで現れて、初めて本物であるのである。
(大正六年「信濃教育」九月號)
(85) 長野縣より何を出したるか
教育の事、效果遂に現れずと言ふも、早く現るるは尋常小學科を卒業するもの十三四歳にして日常の書信と家計を辨ずるあり。高等小學科を卒へて猶多く之を辨じ、中學校を卒ふるもの更に多く之を辨じ、專門學校を卒ふるは直ちにその向きの實務に役立つ如き、何れも直接に效果の現るるものにして直接に效果の現るるは、現るる方便利にして、現れざるは差當り不便を威すべし。普通教育は差當りの便不便を目的とせずといへど、便利として現るべきは、便利として現すべく、少しく便利となりて現るるより大に便利となりて現るる方本人と世間の稗益にして、普通教育の目的に反せりとなすべきにあらず。現在に著目せずして永遠に著目せよ、といふは宜しけれど、空疎の現在を何程積みて永遠の充實を期する積りなるかを考ふべし。睹易きの理は忘られ易くして往々足元を見ざる達識者を生ずる事あり。餘りに永遠を連呼するは一種の永遠誇りにして、所期遠きに似て淺し。本物にあらず、佛徒の本願誇りの如し。
(86) 然りと雖も、教育の目的は現在に在らず、所期は依然として遠きにあり。現在に著目して、現在の用不用を論ずるを以て能事とするは、便利を主とする現代社會に歡迎せらるる傾あるべし。歡迎せらるる時勢に對して、歡迎せらるるの計を爲すは普通人の自然とする所にして、少くも身を全うするに適せり。浪花節は早分りするが故に人に悦ばれ、親爺の説法は遲分りするが故に人に悦ばれず。悦ばれざるがゆゑに説法せず、悦ぶがゆゑに浪花節を聽かずといはば人を愚にするものと爲すべし。教育に實用向を唱へ便利主義を唱ふるもの、斯の如くば教育を愚にするものなれど、夫れ程なるはまさかに少なかるべく、現在の見易く就き易く、永遠の見難く慮り難きを普通とせん。現在の便利と實用を主とせば、大學醫工科よりも醫學校、工學校を便利とすべく、中學校よりも甲乙種實業學校を便利とすべく、高等小學校より實業補習學校を便利とする事あるべし。就中普通教育は、その高等と初等たるとを論ぜず何處までも普通教育にして實業教育にあらず、その效果は現在に現るるの少くして將來に現るるの多かるべきは論を俟たず。將來に期すべきの多きが故を以て、現在に現るるの少きを輕視すべからざるのみ。教育の要諦斯の如し。普通教育に於て然り、實業教育亦然り、専門教育、高等教育皆然り。
我國学制頒布以來將に半世紀を經過せんとす。容易に現れずとする效果の現るべき機は至れりとすべく、或は將に至らんとすべし。我國現在の文化の何れまでを明治教育の成果と見るべく、何れまで(87)を維新以前勢力の影響する所と見るべきか、測り難しと雖も自ら分明なるもあり。今日物質文化の殆ど凡てが、明治教育の成果なりと斷ずるの多く誤らざるべく、精神的所産の何れまでを明治教育の成果なりとするの當れりとすべきかは多くの考究を要す。獻身、犠牲、眞劔、眞面目等の言葉を以で現さるべき精神は、平時にありて目立ちて現れず、事ありて現れ、大事ありて益々現れ、日清、日露戰爭の如き國難に遭うて非常に現れたりとすべきも、斯の如きは維新前後の武士精神の猶活けりとすべきか、三千年來日本建國精神の現れたりとすべきか、それらの原因影響を控除して、明治教育の主張し得べき效果の獲得を幾何とすべきかは測り易からず。代議政體に種々の弊害ありとせられ、弊害の多く美點の少きが爲に代議政治の悲觀説さへ現るる事あり。現るるの小心に過ぐるあらんも、明治二十年代に議員の重視せられ、三十年代にやゝ輕視せられ、四十年代に至りて益々輕視せらるるが如き傾向あるを何と見るべきか。金の欲しきは明治、大正に始らず、古今を通じて財寶を重しとせり。而も明治維新の大業と苞苴とは聯想し易からず。明治、大正の樞機に往々苞苴の聲を聞き、人民及び代議士の騷ぐ所となりたるも、騷ぐもの必しも眞面目ならず。甚しきは教育行政者に如何の現象なかりしに非ず。金錢財物の授受の如きは本來大したる事柄にあらず。授くる授けざる、受くる受けざる、その差毫末なりと見るべきも、毫末なれば毫末なるほど、公器と公事を安賣したるの心事を重要視すべし。然る心は、財物の授受なくとも平素の操る所念とする所知るべきのみ。自己の出世のためには何(88)物をも刈るに忍び、何物にも頭を下ぐるに忍ぶは滔々として數へ難からず。何人も一度自己の身邊を見廻さば生ける實例を見ん。凡そ斯の如きは現今社會の精神方面の現れとして、如何の程度にこれを見るべきか。輕しとするは樂天家にして、重しとするに弊害なし。或は重く見んとして既に重く見得ざるに至れる一種の馴致者もあらん。以上の如きは現今社會精神の嚮ふ所の一斑を數ふるに過ぎざるも、斯の如きを以て明治教育の關する所に非ずとして無責任なるを得るか。明治維新前の習慣猶在りとするは多少之あらん。習慣の在る之を如何ともすべからずと言はば、教育の力は半世紀を經て猶世に用なしと做さん。況や半世紀前日本の大改革は我が建國精神の異常なる現れとして宇内に震徹したる所、斯る大精神を繼承して今日の状あるを致せる教育者は見て以て如何の現象となす。
文藝なるものあり。往々にして世の軟柔者を糾む。輕浮自ら持し得ざるものあり。はじめ通と粹とを以て小説の生命とせり。頭領曰く「金糞を放れ」。子分蝟集するもの即ち相競うて金糞を放らんことを志願す。自然主義を輸入するものあり。即ち相率ゐて自然主義の傘下に投ず。既にして印象主義を唱ふるものあり。象徴主義を唱ふるものあり。彼を趁ひ之に趨り、唯これ流行に後れざらんことを願ふ。小説家とは斯の如きの大部分を占むるを言ふ。新劇なるものあり、一女性の出現によりて滿都の青年子女を動かす。數年ならずして雲散霧消の状あり。女性の淺はかなるか、淺はかなるものに動かさるるの笑ふべきか何れなるかを知らず。新派和歌なるものあり。これ亦一女性の出現によりて全(89)國青少年の耳目を聳動す。歌ふ所多く官能的にして淺膚憫むべきに値す。然も文壇の評家を擧げて讃辭の足らざるを憂ふるに似たり。一朝推移して口に其の女を稱ふるものなし。日本の文學と稱するもの悉く如上の陋に墮せりとせざるも、滔々相率ゐるもの大家、中家、小家多く然りとす。況や之が後塵を拜するもの全國に亙りて影響決して尠少にあらず。斯の如きは維新前に存せざる所にして、悉く明治教育の所産といふべく、教育者之を罵るは自己の生める子を罵るに異ならず。素因多く中等教育の缺陷と、中等教育者の弛緩と短見とに胚胎す。
凡そ教育の效果の現るるは容易に測定を許さず。精神的方面に於て特に然りとなす。併し乍ら、或る時代文化の成績は、その時代出現の代表的人物を以て之を測るの適當なるあり。代表的人物は各自その時代文化各方面の精神を説明するものにして、山の高さを測る者の山頂を知れば足れりとするに似たり。明治維新以後我國文化各方面の代表者として誰々を擧ぐべきかを知らず。假に之を擧ぐるに於て、我が長野縣より一人の之に與るを得るや否やを考ふべし。予寡聞自ら知れりとなさずと雖も、明治、大正の半世紀を通じて我國文化の代表的人物を擧ぐるに於て、長野縣の殆ど之に與るなきに庶幾きを思ふ。儻し與れりとなすは同郷人の慾目にして、百年二百年数百年の後何人か之を仰いで、明治、大正時代の偉傑となし、達人となし、高徳となすものあるかを考ふべし。政治家として何人を出したりや。政黨首領若くは其の黨人として何人を出したりや。政論者として馬場辰猪・中江篤介の如(90)きを出したるか。武人の數ふべきあるに似て果して何人を時代の代表者となすべきやを知らず。教育者にして福澤・新島兩氏の如くなるものあるか。科學者にして異常者を有するを聞くも、將來あるは未知數となすの至當なるべく、文學家に島崎氏を數ふるは外れずと雖も、同じく將來ある人を未知數に數ふるは不可なからむ。藝術家に偉れたりと見えしは夙く逝き、未來ありとなすは今遽に斷ずべきにあらず。實業家として傑出せるはあらんも、時代の代表として果して如何あらむ。此の方面殊に予の罔しとする所、多く言議を好まず。一村一郷に先んじて身を以て之を率ゐ、徳風一世に及ぼす如きの士は過現に求めて得べきや。報徳教は盛なれども二宮尊徳は表彰を喜ぶ程度の人よりは生れず。表彰を以て小尊徳を出さんとするの非なるは爲政者亦既に悟りたらむ。位階を授けて教育者の尊嚴を加へんとするが如きは、我縣に於て夙くより滑稽とせられ、今も滑稽とせらる。斯の如きにありて郷先生の徳風を布き一郷を指導するもの我縣を後れたりとせざらむも、明治、大正の代表者として數百千年に光被するものありや。由來長野縣は教育國と稱せらる。教育國の所産殆ど一人の明治、大正の半世紀を代表するものなしとせば、長野縣人及び長野縣教育者は之を如何に思ふ。
(大正六年「信濃教育」十月號)
(91) 病人に與ふ
死囚のものに、其の指頭を傷つけて血を取り死に至らしむべきを宣して、眼を縛り指頭を刺戟して微温湯を濺ぎしに、血の出づることと思ひ入りて、その囚人は絶息せりと云ふこと、物の本にて知りしことあり。縊死者を見し人の言ふを聞くに、紐は頤に懸るか懸らぬか位にて絶息し居るものありとのことなり。信ずるがゆゑに神ありと聞けど、これは信ずるが故に死ありし例なり。之によりて考ふれば瀧に役ずるものは、足未だ瀧壺に達せざるうちに死に居るやも知れず。信ずるほど恐しき力はなし。心の力の全體を統べて一所一點に集中する一念の力なれば、之を念力とも云ふべし。念力の向ふ所絶對なれば、生くべきをも死せしむることある前述の如し。予は幼時不動尊の恐しき面相して火焔の中に立てるを見て、恠しみ且つ怖れしことありしが、物心づきて禅林の高徳が火中に端坐して偈を成したる話を聽きて、さる生ける實例の存することを思ひ得しことあり。堺事件の時十數人の土佐侍がつぎつぎに打ち並びて、平氣にて腹かき切りしを見て、見分の役人は靜肅に著座し居たるなかに、(92)佛國人は立ちつ居つして座に堪へず、やがて倉惶として逃げ歸れりといふ話あり。武士は腹掻き切りて死ぬるものぞと固く信じ居る日本人には、腰切る事も平氣なれば、腹切る状を見分する人も平氣にて居らるるなり。日本人なりとて腹切るは痛し。痛き腹を切りて命絶えんとする今際《いまは》の人の状見居らんは苦し。痛けれども、苦しけれども切らねばならず、切るべきものと信ずる心の先だつゆゑ、痛さも苦しさも超えはてたる平氣の心に任し居らるるなり。外國人には怪しく奇しかるべきも、日本人には當然の事なり。予は幼時村の腕白盛りの輩に誘はれて火渡りの遊びを與にしたる事あり。火渡りの神事を見たる好奇心が斯る戯を催せしめたり。薪を積みて火を焚き、炭火厚く掻きならしたる上を跣足にて踏ゐ渡るに熟しといふことなし。先達なる腕白の曰く、熱しと思ふものは渡るなと、予は少々馬鹿者ゆゑ眞に熱くなしと思ひて跣足にて火の上を渡り行きしに果して熱からず、自分ながら怪しと思ひたり。只今にては到底斯の如き事を再びするの勇氣なし。予の智慧進みて、小兒の時の如き純一なる心に返り得ざるためなり。之に依りて考ふるに、人間は、元來火を熱しとせず、腹切るを痛しとせざる程の力は、誰も持ち居るなり。只それほどの念力を持つ機會少く、持たんとするの希求乏しきなり。世進み、人の智慧つき、理窟を並ぶるやうになりては、このこと益々思ひも及ばず。議論益々騒がしくして大綱彌々空しからんとする所以なり。元來人の火に投ぜんと決し、腹切らんと決したる時、多言あるべからず。禅僧火中の一偈は現世に遺す未練の聲なるに於て悲しむべく、お七が火刑に(93)臨みて無言なりし神妙の體は、予をして慄然として襟を正さしむ。これほどの心に住したらんには、最早生くるも死ぬるもなき事なる。生きたりとも死の如く嚴肅に、死したりとも生の如く靈動せん。信に入れる一念の力が、よく人を生くべきに殺し、燒くべきに燒かしめず、死ぬべきに生きしむる底の力を有すること誠に斯の如し。
夫れにつきて思ひつづくる事あり。故正岡子規の病牀に横はるや、兩肺蝕し、脊骨朽ち、寸毫の身を動かすべきなし。醫師の生くべき理なきを斷ずる甚だ理ありと雖も、彼の氣息は幾年を經て依然として存せり。仰臥七年手筆を措かず。腕疲るれば紙を人に支へしめ、疲れ極りて憩ひ、憩ひて又筆を執る。脊髓の膿決潰するもの二三孔あり。日々ガーゼを換ふる時疼痛堪ふべからず。號泣の聲隣家に聞ゆ。斯の如きにありて、人の來りて文學を談ずるある、即ち議論風發止まる所なし。全く痛さを怠るるものの如し。彼曰く、關羽の隻手を虎に與へ隻手を以て書を捧ぐるもの幼時以て奇となせり。今や即ち異しむべきなしと。一日枕頭に故伊藤左千夫の侍するあり。彼遽かに痰の氣道に充塞するありて、氣息全く塞がる。家人驚きて醫師に馳す。左千夫一人座にあり、周章爲す所を知らず。既にして子規の指頭頻りに動くあるを見、筆を取り、墨を含ましめて之に授く。子規即ち枕頭の書簡紙を取り、
歌を書して曰く「常ノトキハ歌ヲ罵ル紅ノ廣長舌ノスクミス動カズ」と「スクミス動カズ」は「スクミテ動カズ」の誤記なり。凡そ病臥七年、肉落ち骨立ち、毛髪悉く剥離す。宛然之れ黄泉の人なり。而(94)して居常行往概ね前述の如し。醫師の死を宣する素より故あり。死を宣せられて死せず、筆を執つて休まざるの氣魂壯健者猶及ばざるの状ありしもの、異しむべきに似て必しも異しむべきに非ず。信に入れる一念の力は古來斯の如き異常の現れをなすの普通なるなり。一年にても長生きせんと思ひて斯の如き異常の一念に入りたりと見べきにあらず。病を機縁として斯の如き異常の一念に入りたるが爲に、一年生き、二年生き醫師の想像し得ざる七年の長きを生き得たるなり。予は常に思ふ。病者長生の消息乃至病者快復の消息、關つて此の點に存する者甚だ多し。醫藥養生の關する所固より少ならずとせずと雖も、或る種のものに至つては雖藥は要するに有力なる後援者たるのみ。病者自身の態度にて先づ己を活かし、己を殺すもの多し。己れ先づ死する、千萬の後援者ありとも何の爲す所かあらん。元來病に對して左樣に急遽狼狽する事實は壯健の時より自己の生活に充實する所少きためなり。生活の充實し緊張するあり、病の來る來らざる、實は關する所至大ならず。病來らざるも我が道あり。病來るも我が道あり。道は須臾も忽にすべからず。予は道を歩むに是れ日も足らず、病君勝手に坐り込み給へとて、餘り一向きに相手にならず、よい顔せずば、拍子拔けたる樣にて追々に退散すべきも少からず。夫れを珍しき客人來れるらしき樣にて、一々十々挨拶應對して遺す所なきやうにする故、よい氣して長逗留の心持にもなりぬべし。餘りに病氣を對等親して大童になりて、相撲取るゆゑこちらにもあらぬ疲れの出で來るなり。要心は臆病にせよとはさる事なれど、臆病なるは萬人通有にして臆(95)病にせよと言はずとも、誰も臆病なるに於て後れを取るべきにあらねば、もう少し大膽に無關心にすべき部分の多きを考ふるに於て損失なきなり。臆病と無關心とは衝突するにあらずやと言ふ人もあるべけれど、無關心は第一義なり、臆病は第二義なり。或は兩者同義とするの適當なるべきも、しかも共存すべくして衝突すべきにあらず。壯健者が病者に向ひて同情なき説を平氣に述べ立つるやうなれども、局内者は惑ひ易く、局外者には却りて分り易し。況や壯健者と稱するもの、何れか病人の候補者ならざらん。病むは苦し、死ぬは辛し。辛ければこそ病氣を氣にして斯の如き病氣論をも考ふるなれ。病者のためにして自己のためなり。壯健者のためにして同時に凡ての病人候補者のためなり。病人と言ひ壯健者と言ふも實は同じく死亡候補者なり。死亡候補者なる生存者が、如何なる信を抱いて生死を貫かんとするかが實は本當の問題なり。
故長塚節の喉頭結核なりとの診斷を受けし時は、東京の街道に物音を聽かず、全都鬩として響を潜めたるかを疑ひし由話せり。彼此の時既に決せる所ありしなるべし。爾後各地の漫遊を休めず、山に登り、河を渉りて自然の抱懷に親しめり。時々京地に來るや談論風發予等常に顔色なし。予竊に思ふ。彼の病氣は彼の命を縮め、彼の信念は彼の病躯を長からしめたりと。生死一貫、彼の信念は、永久に活く。小説「土」の上に、「芋掘り」の上に、「長塚節歌集」の上に、非ず、彼に接したる凡ての人心の上に。
(96) 予の腦充血を患ひて小澤國手の御厄介となるや、昏迷數日、醒めて全頭の水中に没し居るに驚けり。既に癒えて始めて自ら起ちて厠に行くや眼猶眩するを覺えたり。障子を開きて外縁に出でし時、偶ま幼時夢みたる亡母の面貌を想ひ出せり。歸來直ちに机に向つて二十餘年前の夢を記す。國手と家人と交々予を叱すれども予の筆甚だ澁滯せず。三四日にして稿を脱す。此の時予の心固く病に關するなきを信ぜり。爾來予は數次重大なる病氣を經驗せり。經驗する毎に予の病氣觀は、予自身に對して確實性を保するの觀あり。曰く、神心緊張せる時病決して入る能はず。入るも即ち退散す。退散せざるも長引かず。長引きて死ぬるは早まりて死ぬるに優れり。一分生き延び得れば一分の生活を爲し得べければなり。夫れ以上のこと健康者にも望み得べからず。人は皆死ぬる者なればなり。斯の如し。
更に立ち入りて言へば、佛國人を戰慄せしめたる土佐侍は、平氣にて腹切りし時が生の頂點にして、その後の命は有るべきにあらず。もし有りても蛇足なり。火中に偈を成せし禅僧も、お七も爾なり。夫れより後は要らぬ命なり。夫れ程に考へてかからば病氣も怖氣立ちて退散すべく、生も亦初めて充實せん。この事他日評論すべし。
(大正六年「信濃教育」十一月號)
(97) 復古とは何ぞや
古に復らんとすることは新しき命に復らんとすることである。不純になつたものが當初の純粹に復り、因習に囚はれたものが當初の自由に復り、瘠痩に向ふものが、古い果皮を破つて當初の發芽に復らんと希ふ事である。
當初の發芽に復る事は、古きに復る事であると共に新しき生命に復る事であり、神より與へられた發生の心に復る事である。末世雜行の衆徒は宗祖の心に復るを希ふことによつてのみ行心の淨化を得る。新しき宗派は、古き佛陀の心に復らむと希ふ人によつてのみ常に創成されてゐる。明治維新は新しき日本の建設なると共に日本創始の大精神に復る事であるが故に之を復古と稱する。維新は復古である事によつて、日本建國の大精神に合するの根據を完全に有し得るのである。復古の眞諦を知らずして復古を嗤ふものは、目前の衆象に没頭して末世の雜行にのあ執心するの衆徒である。彼等の唱ふる新しき道とは、不純と因習と瘠痩とによつて煤びつつある舊き道である。彼等の稱する古き道とは、(98)予に對しては人類の根本義に立つた新しき最初の道である。彼等の所謂新しき道とは、予に對して疲れたる古き道でゐる。この故に藝術は末世に至るに從つて頽敗するの外はないのである。偶々古きに復らんと希ふものによつてのみ僅かに眞生命の光に接し得ることはある。併し乍ら、夫れも嚴密な意味では當初の生命とは隔つたものであらねばならぬ。時代が隔つてゐるからである。泣いても叫んでも、末世の衆生たるを免れる事が出來ないからである。
予は斯の如く古代の心を崇ぶ。藝術に於ては古代藝術の精神とその形體とを崇ぶ。併し乍ら、予が如何に古代藝術の心と形に憧れると言うても、予の肉體と精神は要するに現代のものである。そこに予としては超ゆ可からざる※[門/困]域があるとはいへ、予としては、其處に自ら踏むべき道の領分がないではない。その領分は現代に居て古代藝術の精神に復歸せんと希ふ最高の努力から生るべき道である。その努力は現代に在つて最も清く、新しく、純粹に、自由に、根柢的に予を活きしむべき力である。夫れは勿論古代藝術の心と形には遠い。併し乍ら、現在にあつて最もそれらに近く歩まんとする努力である事に於て、現在の予を最高の意味に擴充する唯一の道であるのである。
道心の成就は小兒の心に復る。夫れを押し進めれば出生以前の虚無の心に復るかも知れない。死して達するのは夫れを言ふに庶幾い。小兒の心に復るというても、大人が小兒の心になることは出來ない。小兒に近き清淨赤裸の心に住し得るのである。明治維新は王政の復古であるが、日本を橿原宮の(99)昔に復したのではない。修道の士が小兒の心に復り得ず、明治維新が橿原宮時代に復り得なくとも、修道の士は自らの歩むべき道を開き得た事に於て、明治維新は明治維新の大道を拓き得た事に於て、特殊の性命を有し得るのである。
正岡子規は今から二十年前に於て、明治の短歌が萬葉集の古に復らねば新しき性命に復り得ぬことを説いた。古に復るといふことを外形的に考へて、直ちに新しき短歌との間に當然の矛盾あるを斷定して、子規の復古説を嗤笑したものは、當時天下を擧げて殆ど皆然りであつた。而して斯樣な種類の議論は二十年後の今日に於ても、猶多くの人に依つて代る代る唱へらるるを見るのである。
近來萬葉集の流行は、果して眞の自覺ある萬葉崇敬者によつて現れた現象であるか、否かは、茲一二年を經過せねば分らぬところであるが、左樣なことは我々には何れでもよろしいのである。我々はただ日本民族詩發生の源流に溯つて、そこに常に我々の活くべき眞義を捉へてゐればいいのである。夫れが現在の我々を眞實に清く、新しく、擴充し開拓すべき唯一の道であるのである。流行とは多くの場合直ちに雲散霧消を意味する。現在の我々は、現在の萬葉集流行と何等關係なしに歩み行くが本然であると考へてゐる。夫れは近來に至つて急に高まつた萬葉集熱が他日急に冷却する時あるを豫想するは、過去の幾多の現象に考へて愚かなる觀察ではないと思ふからである。いつまでも萬葉集でもあるまい。もうそろそろ目先きを變へようぢやないかくらゐの聲はボツボツと生れてゐるのである。
(100) 十月二十九日
(大正六年十一月「アララギ」第十卷第十一號)
(101) 女及び女教員
人間の中に女といふは、打見たる所顔に鬚髭《ひげ》なく脂肪多し。脂肪多きは皮膚を滑かにし、鬚髭なきは皮膚を軟かにす。軟かにして滑かなる皮膚は、愛くるしく和げる顔面を形づくるに適せり。脂肪多きは外熱を傳へざるに於て重寶なれども、之を皮下に藏するは運動に便ならず。鬚髭なき皮膚と相待つて外物に當るに適せず。從つて萬事受身なるを以て安全とす。女の本性この邊に盡きたり。進んで外物に突き當らんとするものには別に男あり。皮膚、骨格、體力、精力すべて女に超絶せり。古來よりの政治家、宗教家、思想家は固よりにして、料理、裁縫の末技に至るまで道の深邃精妙なるを需むれば即ち男子を要するにて知らる。受身にして柔かく和げる心は、強き仕事をなし、深き心を究むるに適せざるなり。適せざるを知りつつ左樣の領域に進まんとするは、自らを危險に近づくるものにして、何處までも押し進むれば女の破滅なり。破滅に近づくの道を通らずとも、女の通るべき本道は別に存するなり。本道とは何ぞや。子を産む道と、産める子を育つる道なり。この道のみは女の天賦と(102)する大道にして、到底男を以て之に代ふべからず。天の女に授くる所誠に斯の如し。授くる所を重ずるに於て、女の生存は意義あり。授くる所を輕じ、之に遠ざかるに於て、女の生存は無意義なり。女の性命は繋つて茲に在り。この道を外にして女の道存せざればなり。女の體力を増進し、女の智力を増進し、女の性情、品位を涵養し陶冶するといふもの、畢竟この女の大道を完全に歩ましめんとするがためなり。男も斯く考ふべく、女も斯く考ふべきなり。天の理なれば從ふべく、天の命なれば輕ずべからず。人間の計らひを以て兎角に左右すべきにあらざるなり。從つて女が男の愛情を要求し、男の保護を要求して完全なる家庭を形成らんとするは、天の命ずる所を行はんとする純正にして至美なる要求なり。男子は此の要求に限り女子に屈服すべし。
或は日く、女子に職業有るの要なきか。答へて日く、或は有らむ。併し乍ら夫れは第二義以下の要求なり。何かの場合の用心たるに過ぎず。或は曰く、女子に慈善、救濟等の事業なきか。答へて曰く、有り。併し乍ら夫れは副貳的のみ。本道を距る甚だ遠し。何會など稱して家を外に飛び歩く女を見よ、輕浮多くは近づく可からず。斯の如き女あるは世に弊ありて益なし。或は曰く、現時世界戰爭に際して、女運轉手あり、女水先案内あり、女巡査あり、甚しきに至りては女兵隊あり。斯の如きは如何。答へて曰く、之れ有るは、之れ無きより氣の毒なり。誇るべきにあらず。體力と心力とを養ひ置けば、まさかの時は、何うにでもなるなり。左樣なる用意して戰爭を待つ國は何處にもあらず。或は曰く、(103)現時歐米濠洲に女代議士あり。女判事あり。女辯護士あり。如何。答へて曰く、之れ有るは、之れ無きより奇觀なり。世複雜にして樣々の變態を生ず。男にして白粉を塗りて女の眞似するものあり、女にして鬚を養うて男の眞似するむのあるが如し。擧世の女皆鬚を生さば如何。擧世の男子皆白粉を用ひば如何。女代議士の如き亦此の種類のみ。多少の變態は容るるを濶しとす。併し乍ら取つて以て本態とすべきにあらず。
凡そ女の天賦能力概ね上述の如し。これを本とするに於て女の道榮え、女の道榮ゆるに於て人の道榮ゆ。男子の營々として動き、佶屈し經營し碎心し辛酸するもの、往々にして女道の繁榮を中心として旋囘するに似たり。正成も死ぬる際には子を便りとせり。子孫をしてその志を遂げしめんとせるなり。孔子の後世恐るべしと言ひたるは、女道繁榮の將來を豫想したるなり。人の血は子孫に傳はるに於てのみ永久なり。この志遂げすんば子孫をして成さしめんと思ふは正戌のみの所懷にあらず。人間の理想は數代數十代を以てして猶遂ぐ可からざるもの多ければなり。
世に女教員なるものあり。小學校にも之あり。國家教育機關の一に備はり、男教員と同じき禮遇を受け、通勤するに袴を穿てり。初め人以て奇異となし、後に及んで人の之れ有るを怪まず、怪まざれども珍重を加へず。今も猶然りとなす。その珍重せられざるは女の天賦と能力に不似合なるの致す所なり。教育の事たる國家百年の基を立つる所以の道にして、之れ重ずる深ければ深きほど、之に當る(104)べき人材の要求は高きを加へざる可からず。現在の國家は普通教育の至重なるを説きながら人材を得るの道を講ぜず。講ぜざるにあらざるも實際に於て人材を得ざれば講ぜざると同じ。高材逸足の滔々として教育以外の道に進み行く現在の趨勢を見て、教育爲政者乃至教育當路者は果して如何の感ありや。明治の初め教育未だ盛ならずして教育者の重ぜられ、大正の今日教育甚だ盛にして教育者の重ぜられず、往々にして民衆の指導を待ち、稀には指圖を受けんとするが如きを何と言ふべきか。府縣市町村會議に於ける教育に對する言議、竝に當局の之に對する態度の如き、往々にしてこれが好箇の例證を與ふ。人材の集らざるは人材を求めざるなり。人材を求めざるは夫れ程の必要を感じ居らざるなり。必要を感じ居れりとするも所謂必要とするものの内容を伺はば、或は存外氣拔けするの感なきを保せず。然る所以は、教育を以て至重とし、教育に人材を集むるの急なるを説く當路者が平氣にて女教員を採用し、猶將來女教員の採用率を高めんとするが如き言をなすを見るにても知らる。この通りにて進まば普通教育の人材は行く行くすべて女子に求むるが如き奇觀を生ずるやも知れず。所謂人材なるものの内容もこの邊にて大概を知るべきなり。元來女の天賦能力は家を成し、子を産み、子を育つる以外に之なきこと上述の如し。小學校にて幼董を教育せしむるが如きは、外觀やゝ女子の天賦に相應するが如く思はしむるも、女は元來自分の産める子を育つべきものにして、他人の産める子に對して愛情起らず、此の點第一に男子の如く愛情の廣からざる所以なり。啻に兒童に對するのみにあら(105)ず、一般の男に對しては、自分の愛する男以外に男を愛する能はず。狹きが如けれども此の處女の尊き所以なり。一般の女に對しても、自分の特殊關係ある女以外に女を愛する能はず。姑、小姑、嫂乃至親戚、近所の女互に相むづかしき所以なり。男に對して然り。女に對して然り。況や博く人間を愛し、人生を思ふが如き事をや。斯の如き狹き愛情をもてる女が、數十人の学童に對して汎き愛を注がんとするははじめより無理なる事なり。無理を敢てして汎き愛を注がんとするは、心殊勝にして結果甚だ不自然なり。作爲の痕を止むる所以なり。
女は識見その他の心力皆男の如く行かず。心を動かすは多く目先の現象にして、思ふ所亦男子の如く遠大なる能はず。威嚴はその不得手とする所にして、強ひて威嚴を現さんとすれば滑稽に終る。人を壓するの意力なきためなり。斯の如きに兒童の薫陶を委ねて晏如たるを得ば、教育の事の如き初より多く憂ふるを要せざるなり。幼兒と思ひて輕々しくせば悔を百年に貽さん。三つ子の魂百までとは諺に止まらず。何人も一生の方向が幼兒の感化に根ざすを思はば問題は輕々しく終るべきにあらず。或る教育者は女教員を多く採用すれば、校内に反抗者なく、仕事穩便に進みて都合よしと言ひしことあり。斯樣なるを念とすると言はば、教育の事は眞面目に談ぜざるがよきなり。知らず、文部省は今後女教員數を何の位の率までに採用するつもりなりや。夫れにつけても全國現在女教員率は如何程なりや。その内長野縣の率如何程なりや。長野縣内にては何郡市が女教員の最高率を示し、何郡市が最(106)低率を示し居るや。過日新聞紙の報ずる所を見れば、歐米各國女教員率の甚だ多きが中に、獨逸のみは格段に少なし。新聞紙にて知りたる事ゆゑ正確なりや否やを詳かにせず。若し正確なりとせば、獨逸今日の國力と普通教育の實質と幾何の關係ありやは、興味ある考察たり得べく、同時に男教員國と女教員國との關係を考ふるは面白き研究題目たり得べし。
すべて女教員のみに限らず、女が家を外にして獨立したる職業を營むは事甚だ自然にあらず。打見たるにて凄まじき心地す。女教員の未婚者なるうちは猶見安し。既婚者乃至子有てる女が袴穿ちて路上を歩めるは何の現象ぞやと思はる。この事予一人の情の偏れるにあらず。大抵の人皆爾か思へり。萬人の皆爾か思ふは、自から人間自然の本性に根ざせるなり。予は女教員となれる人を詛はんと思はず。國家が女子教員養成機関に力注ぐ程度の過ぎたるを怪しみ、その自ら教育を重ずと稱する内容が、如何なるものなるかを知らんとするの興味多きなり。
歐洲大戰は日本に異常の覺悟と教訓とを與へつつあり。我國の教育は今後總じて今迄の如き生まぬるきものに任すべからず。斯の如き際に當りて深く教育の事を思はば、男教員はも少し一身を忘れて眞劔なる心境に立ち入り、女教員は成るべく早く家に入りて竪實なる家庭を作れよかし。
(大正六年「信濃教育」十二月號)
(107) 鍛錬せられざる心
予の心は今筆を執る心と相距ること甚だ遠い。相距ること遠い心に從つて筆を執らないでゐることは、現在に於て最も予に適從する道である。最も予に適從する道は、最も予に自然とする道であると共に「信濃教育」を作るに不都合とする所である。「信濃教育」を作るは予の努である。予の努とする所を缺き、予に適從する所以の道に從つて、之を以て自然の道なりとして自ら許すことは、今の予には少々難しとする所である。世に氣分を尊ぶといふ人々がある。瞬間の心の赴きに從ふと稱して、髓時心の赴く所に拘束を加ふるを以て陋とする人々がある。斯の如き人々は明治、大正の思想界より生れた新人と稱せられ、又自由人と稱せられる。予は新人となり、自由人となる前に、未だ色々の勉強をせねばならぬ状態にある。新人の新、自由人の自由、予には今甚だ縁が遠い。予は予の務を果すために筆を執らねばならぬ。筆を執る心と相距る遠き今の心を督して、筆を執る心に近づけんとするには多少の工夫が要る。予が筆を執らんとして一日過ぎ、二日過ぎ、遂に空しく數日を過したのはこ(108)の工夫の存せるが故である。予の心をして、筆を執る心と遠ざからしめたものは予の兒である。予の工夫はここに存した。予の心をして今強ひて筆を執らしむるは、已むを得すんば予の兒について筆を執るより外に道なき事を知つたのである。
後漢の劉秀は兄劉演の更始に殺された時、演の爲に喪に服せなんだ。更始と共に王莽の軍に當らねばならなかつたからでゐる。史家はこの劉秀を描いて飲食言笑。惟枕席有涕泣所。としてある。予は兄を哭するの情を抑へて、兄を殺した人と共に飲食し、言笑した光武帝を以て虚僞の心に住したものとするを得ない。兄を哭するは萬人共通の情である。萬人共通の情を鍛へて飲食し、言笑する心に到らしめ得るは萬人中稀に一人である。予は斯の如きに當つて、喪に服して號泣するを得るが、未だ更始と共に飲食し、言笑するの心を持ち得ない。鍛錬する所甚だ淺いからである。予をして若し秀の心の一端を持し得ば、予は平然として「信濃教育」の爲に教育上の問題を草するであらう。草し得ないのは予の情の未だ甘たるき證據である。予の歌は平常冴えたる情と、鍛へられたる力とを目指してゐる。目指す所斯の如くして予の情の甘たるき事斯の如く、予の力の鍛へられざる斯の如しである。予の歌の到る所淺きはここに職由する。現代の新しき歌人が單に瞬間の氣分を尊ぶといひ、刹那の感激を捉ふといふが如きは、現在の予の念とする所と相距る甚だ遠い。俳人芭蕉は「道ばたの木槿は馬に喰はれけり」といひ、歌人子規は「瓶にさす藤の花房短かければ疊の上に屆かざりけり」というてゐ(109)る。兩者を以て感激なき平凡の作となす徒の多いのは、冴えたる情、鍛へられたる力の極致する所に無頓着なるの多きを證するものである。予が光武帝の心を體し、更にその心を押し進めて或る境域に澄み入るを得しめたならば、或は芭蕉、子規の詩境に參することを得るかも知れぬ。予の念とする所斯の如くして、情の甘たるき、力の冴えざるに想ひ及び、更に「信濃教育」の原稿が數日を費して猶筆を執るに到らざるが如きに至つて、彌々予の名譽にあらざるを感ずる所である。
予は予の兒が、予の情の脆弱なるに肖るを恐れた。それがために、甘たるき躾方を避くるを念とした。兒多く予を畏れた。畏るるを知る心は、嚴かなるものに入るの道と信じてゐる予は、兒の予を畏れ、予の兒を畏れしむる心を以て父子の道を行ふものとして多く怪しまなかつた。予は歌の道に於て先進者の後進者に對する甘たるき奬勵が、滔々として後進者の心を低卑に就かしむるの現象を知つてゐた。予は歌の先生ではない。併し乍ら心から予に來つて、共に歌を究むる少數の後進者がある。夫れ等の人々に對して予は成る丈け稱賛の詞を吝むと共に、出來るだけ微細の缺點をも假借しまいと心掛ける。歌の道を畏れしむるは、歌の道を嚴かに歩ましむる所以であると信ずるからである。自ら愛するものを放縱に流れしむべきでない。予をして今再び教員たらしむるも、此の心は渝らぬつもりである。生徒の發動する心を皆自然なりとして之を容れんとするが如きは、生徒の情意を鍛錬して根柢ある力となさんと志すものの爲し得る所でない。予はこの心を以て予の兒に臨んだが故に、兒の予を(110)畏れたことを以て寸毫の遺憾を感ぜぬ。遺憾を感ずるは予の督勵の、猶兒の上に汎く行き渡らなかつた事である。兒病む事十日、病勢遽かに至り、遽かに進み、醫の技の施すべき所なし。病兒須臾も予の名を呼んだ。予は枕頭を離るる暇がない。食膳に箸を取るの時間すらない。一日多く一食、稀に二食を多しとする。徹晝徹夜して侍するもの連日、兒遂に起たず。年十八。今予の體は多く疲れてゐる。兒に對する予の經驗について書かんと欲した幾分をも認めぬうちに東方將に微白ならんとする。筆を擱く外はない。一月八日未明試筆
(大正七年「信濃教育」一月號)
○
神田和泉町の小川眼科病院に子供を入院させて、二階の一室に腰を下ろした時は口が苦く乾いて居た。子どもの眠が潰れるか、潰れぬかの境にゐたからである。子どもを手から離せないので、東京へ來著の趣を端書で左千夫先生に知らせたら、先生は直ぐに訪ねて來られた。來ると直ぐに歌の議論が先生から始められた。君等の歌は現實的でゐつて面白いには面白いが氣品が缺けてゐる。丁度天麩羅のやうなものである。旨いには旨いが品格がない。八百善の料理必しも旨からざるも、氣品を備へてゐる事に於て他と異る。料理の上等とすべき所以である。君等の歌は天麩羅科理の格に當る。石川啄木の歌なども天麩羅料理である。現實的である以上に、も少し拔け出た高い所を持たねばならぬとい(111)ふのである。その頃先生と予等と歌に對する考が大分違つてゐた。そのため「アララギ」の上でも毎號議論を闘はせるやうな状態にゐた。予は一夜睡らずして汽車にゐた事と、病兒に對する心配の疲勞とで甚しく腸を害してゐた。腹が痛んで下痢が一時間に數囘ある。先生今日は腸が痛んで耐へられません。私にも言ひたい事はあるが、今日は迚も駄目です。先生の議論も後日に延して下さい。と言つたら、先生は、僕がこの位熱心に言ふのに腹の痛い位はこらへ給へ、と言つて中々議論を止めぬ。正午少し過ぎから、到頭夕方まで議論を續けて歸られた。夫れは七月の末蒸暑い日であつた。先生も予も汗を拭き拭きしてゐた。夫れから三四日して、予の國に歸つた夜に左千夫先生の訃報が屆いた。先生に逢つたのは議論の日が最後であつた。その時の予の兒は昨臘小石川病院に歿した。一月二十四日
(大正七年二月「アララギ」第十一巻第二號)
(112) 犧牲
或人曰く、現在の支那に人物の大きなるは澤山あり。只難局に対して自己の財産地位乃至生命を犧牲にせんとするの氣込あるもの殆ど絶無なり。支那の衰ふる所以なりと。この言文那を語つて更に中れるが如し。日本にて現在あれほどの國状に臨むあらば、身を挺して之に當らんとするもの踵を接して至るべし。日本は土地柄ゆゑ人の柄は小さきやうなれど、この一點を身上として三千年の國體を維持し來れる如し。小事あるも犧牲者出で、大事あれば益々出で、國難に臨みては擧國皆犧牲者たらんとするの觀ある事普通にして怪しからず。義務よりも衝迫とすべく、責任よりも興味とすべきに似たり。日本の演劇の内容に犧牲者出でざれば滿足せられず。「人形の家」「マグダ」が騷がれしは束の間の現象にして、忠臣藏は相變らず民衆歡呼の中心となり居れり。日本の芝居の觀客は、感奮するよりも感泣せんとす。感泣するは悲しきと共に嬉しきなり。嬉しければこそ泣くために金を費ひて芝居見に行くなり。忠臣藏が日本の芝居の中心となり、忠臣藏を見て泣き、泣きて滿足する所、民衆の興味(113)明了に現る。獨逸に決闘あり、日本に仇討あり、切腹あり。國民性の現るる所、法の許すあらば、仇討も猶今日に行はれん。時世の許ざるものありといふも、乃木將軍の切腹を非議するもの殆ど絶無にして、稀に之あらば民衆之を容さず。武士道は鎌倉時代より起れりと言ふも、武士道は犧牲道にして、犧牲道は日本創始以來常に國家の基調を成し來れる根本的精神にして、卒然に成れるものにあらず。從つて必しも武士といふ特別階級の特有物にもあらず。その證據は、徳川時代に武士道の精神やや弛媛せる頃、武士道に代つて江戸に侠客道あり、火消道あり、更に下つて賭博道あり、掏兒道あり、更に甚しきに至りては盗賊道あり。賭博道、掏兒道、盗賊道皆厄介道なれども、犧牲的精神を以て貫の一致せること武士道に比すべく、或は此の如きに却つて國民性の眞の根蔕を發見し得ともなすべし。明治維新の際、將軍戰はずして大政を奉還し、大名、小名異議を存せずして封土を奉還せしは、異常の際に國民性の異常に現れたるものにして、日本にありては必しも事新しからず。大化新政の際にも各部曲の私有地没收せられて、新に班田授受の法を設けられたるに對し、異議がましきこと起りしを聞かず。大國主尊は自ら經營せる國家全部を差出して、天孫に委ね奉りしこと神代にありて已に先例を存せり。之等に比して考ふれば將軍の大政奉還、大小名の藩籍奉還の如き、我國にありて當然とする所にして驚くべきにあらず。元來權利、義務などいふこと今時めきて人の口にすれど、それほどのことは昔の日本人にても知らぬほどの馬鹿者にあらず。互に權利を重じ、義務を重じ來りたれば(114)こそ、三千年來の國家を維持し來りたるなれ。只夫れほどに重しとする權利の觀念を更に一歩超え拔けたる世界あり。感激の世界これなり。感激の世界は權利の世界にも義務の世界にもあらずして、唯一犧牲の世界なり。斯の如き世界に住するを知る日本人は、自己の有する權利を知らず、他に責むべき義移をも怠れ果てたるが如く振舞ふを以て怪しとせざるなり。加之、この世界は日本民族の三千年來住み馴れたる世界にして、最早鍛錬に鍛錬を加へ、徹底に徹底を重ねたれば、突發的感情となりて現るるよりも、恆久的意志となりて國民の習慣性を成せり。偶々突發的、激情的なるは、更に今一段の突發にして異常の境遇に會して即ち現る。之を權利、義務の世界より見れば、日本民族の普通とする習慣が既に普通ならず。況して日本民族の自ら以て異常とする犧牲的世界に至りては想像だも或は難からんとす。堺事件の時、佛國公使が切腹者の前にて失神の状ありしは無理ならぬ事にして、乃木將軍の殉死は外國人より今も不可解とせらるべし。大國主尊の國讓、大化改新の土地返上、明治維新の藩籍奉還、支那人より見て奇態なるべく、特に現今の支那人より見て大に奇態なるべく、西洋人より見て如何の状なるかを聞きしことなし。
人に墮落あり、國に墮落あり。三千年來の日本にも弛綬期と緊張期とあり。假に平安朝期と江戸時代末期とを以て日本の弛綬期なりとする時、大正の今日を以て、緊張期なりとするに於て何人も異議なからん。併し乍ら、明治末期乃至大正初期の人心を以て、明治維新乃至明治初期の人心に比して緊(115)張の程度を考ふる時人々に如何の感ありや。大正の今日は維新當時の如き異常時際會し居らずと考ふるの自然にして、自然の趨く所おのづから人心の弛緩を來すは已むを得ざる所。罕に人心の弛緩を慨くものあるも聽くもの餘り氣乘りせず、慨くものにも自ら呑氣の現象あり。現時世界戰爭の將來を心配するは何人も然りとすれども、寢食を忘れて心配するほどの人は見しことあらず。戰後日本人の覺悟は机の上にて盛に議論せられ演説せらるれど、歸宅して晩酌する頃は大抵の人多く忘れて泰平の心となる。現今教育者の攻究しつつある戰後教育は如何の程度を以て教育者に心配せられつつありやを知らず。必しも戰後教育に限らず、すべての教育問題が現今頗る煩多を加へ來り、教育者會合の種類のみにても指を屈し難く、一面より見れば寢食の暇なきに似たらんも、寢食の暇なきもの必しも氣乘りして居りと定むべからず。氣乘りして居りとも氣乘の程度如何を自ら顧みて苦笑せざるもの幾人ありや。何處までも氣乘りして居りと想ふ人は、自己の心事を維新前後の誰彼に比較して考へ、猶自ら強うするを得ば歡びて可なり。曰ふものあり。時代既に弛緩す。教育者亦時代の人なり。教育者のみ弛緩せざること難しと。この言理あり。予は想ふ。明治維新を成したるは必しも明治維新當時の人々にあらず。二百年前に光圀あり。爾來宣長あり、篤胤あり、長英あり、崋山あり。誰々彼々のあるありて遠く彼の大業を胚胎せること贅するに及ばず。現代教育者の覺倍を以て之に比するに、教育者の自ら居る所は維新に於ける先覺者に比せんとするにあるか。維新當事者に比せんとするにあるか。(116)或は兩者を兼ねんとするにあるか。或は維新の大勢に從つて從順に兩刀を脱したる諸國の侍たらんとするにあるか。比喩較々大袈裟にして不釣合なるの觀あるも、念とする所おのづから比なきにあらず。時代弛緩せるが故に我亦弛緩すと稱する教育者より長英、崋山を出さざるは明白にして、維新當事者の心事と相比するは氷と炭とを比するに等し。教育者は出發の初めに於て先づ自己の自ら居る所を定めざる可からず。居る所を定めず、定むるも自ら低卑なるに居て教育者を尊敬せよなどと呼ぶは、呼ぶの眞面目なるに從つて益々滑稽を感ぜん。元來自ら居る所高ければ犧牲之に伴ふ。居る愈々高くして犧牲愈々大なり。衆人の感激自ら到る。到るの現在なるあり、現在ならざるあり。五十年百年を經て初めて到るものすらあり。到るの相同じからざるも犧牲を伴はずして人を動かすあるを聞かず。我國學制を頒布してより既に四十餘年、教育者より果して如何なる犧牲者を出したるか。程度を卑くして考ふれば、凡ての教育者皆犧牲者なるの觀あり。薄給に甘じ、世に顯れざる仕事に没頭して一生を終るが如き之なり。少しく程度を高めて考ふれば犧牲者の數俄かに減じ、彌々高めて考ふれば犧牲者の數殆ど絶無ならんとす。七博士の辭職の嘲笑を以て迎へられしに對し七博士に何の辯解ある。早稻田大學の紛擾は設立精神低卑なりしと、事功を念とし過ぐるの陋なりしとより當然の破綻を世に示したるに過ぎず。設立紛擾を鎭め得ざるは勿論の事、部内教授を盡して之を鎭むる能はず、學校同窓者を盡して之を鎭むる能はず。荏苒數月。一旦財力者の出づるありて忽ち鎭靜に歸したるが如き、現時(117)教育者の眞價現れ得て明白に過ぐるを感ず。斯の如くにして猶且つ教育者を尊敬するの興味は日本人には起らず。飜つて各地中等程度學校の教育を見よ。教師と生徒の間に事なきを以て、上乘とするの程度を以て滿足せんとせば知らず。少しく教育の眞諦に立つて之を考ふる者、現状を以て如何の感ありとなすか。生徒師を重ぜず、父兄亦師を重ぜずと言はば夫れ迄なれど、師を重ぜざるの原因は誰かその責任に當る、と問はれて教育者は何と答へんとするか。吾が國中等學校教師を養成する機關に高等師範學校あり。現在中等程度學校の教育殆ど其の實を收め得ざるの觀あるに對して、全責任を負うて可なるほどの實權を有せり。高等師範學校の有する實權斯の如く、その實權を有する學校より輩出する教師によりて爲さるる教育の實績斯くの如し。高等師範學校の卒業生に学力乏しきか否かを知らず。品行修まらずといふ類の聲を聞きし事なし。併し乍ら、教育は學力や技術や品行のみにて出來るものと思はば大なる間違なり。問題は高等師範卒業生に犧牲的精神の有りや無しやに存せり。有りや無しといふ言葉は變にて、少しも無きは之なからんも餘り乏しきは無きが如く、少し位ありても他の多きものに壓せらるれば之亦無きに同じ。高等師範學校の學風と、犧牲的感奮の精神と兩々相對してその間相通ずるものありとなす者と、相通ずるもの少しとするものと、兩者殆ど黒白相反すとなすものと、何れが多きかを知らず。高等師範學校及びその卒業生より考ふれば、自ら反省するに於て損失なく、自ら反省して根本的缺陷に思ひ到り得るに於て慶賀すべきのみ。入學資格の變更も可、内部の(118)空氣に代謝を行ふも可、入學資格の變更も、空氣の代謝も容易ならずと考へなば廢校も可。氣を新にするには異常の手段を必要とするあり。一官立學校を廢して、代るに新しき他の機關を以てするが如きは國家として容易の事。容易の事によりて教育界の氣を新にするを得ば、國家の仕合せ之より大なるは無し。若し、早く既に改革すべく、或は廢校し、或は新機關を設くべくして未だそのことなしとせば、※[開の門構え無し]は高等師範學校の惡しきに非ずして、國家の惡しきなり、若くは民人の惡しきなりとも考へ得べく、歸著する所は時代の惡しきなりとも考へ得べけれど、時代惡しとて惡しきままにして置くを承知せざる民人もある事を思はざる可からず。斯の如きつむじ曲りの民人は少數なれば、打棄て置くべしとなして介意する無くば、後日臍を噬む時、何の顔を似て國家に對し今日少數のつむじ曲りに對せんとする。各地師範學校は高等師範の分身なり。分身無氣力にして初等教育自ら亦無氣力なりとせば之を改め、之を救ふは、高等師範を改め救ふより急務なるはなし。普通教育を云爲する時、問題は直ちに高等師範に向ふ。それほどの實權を握り居る教育機關に對して、國民一齊に無關心の態度なるは何故ぞや。知らず、高等師範は國民の斯の如く無關心なるを似て喜びとなすか、憂ひとなすか。更に知らず、今日の高等師範及びその卒業生は、今日の中學及び初等教育を以て根柢的に甚しき缺陷ありとなすか、無しとなすか。缺陷ありとなす時、その責任を以て誰の負ふべきものとなすか。問はんと欲する所は、必しも學力の有無にあらず、技能の優劣にあらず、又必して品行の良否にもあらず、(119)只一點犧牲的精神の磅?如何にあり。
近時各地方師範學校卒業生につき悲觀的批評を聞くこと多し。實際の如何なるかは予の知悉し得ざる所、近日人の來りて之につき語り聞かするものあり。曰く、近時の長野師範卒業生を以て一概に無氣力なりと評し去る者あるは酷なり。彼等の思想上には近來著しく近代的煩悶を有せり。人生の歸趣に對する煩悶之なり。この煩悶あるや、形は師範卒業生なりといふも、心は人生に對する懷疑者なり。彼等の眞面目なる懷疑者は教育に對しても勿論眞面目なる懷疑者なり。懷疑者は解決を得るまで悶え艱み苦しまざる可からず。悶え艱み苦しみて猶解決し得ざる心を以て生徒に對す。一擧手一投足にも猶戰慄を覺ゆ。斯の如きを捉へて直ちに無氣力なりと斷ずるは少くも同情なきに近し。彼等の或る者は思ひて思ひ得ず、苦しみて苦しみ切れず、從つて思想上著しく他と孤立し、親友の間柄と雖も自己の思想を通ずる能はざるに至り、遂には孤獨の寂寥に住するに至るものありと。予驚き問うて曰く、斯の如くんば大問題なり。幾人の自殺者を出したるかと。その人曰く、未だ自殺者を出したることなし。予重ねて問うて曰く、自殺以外に如何なる犧牲者を出したるかと。曰く、著しき犧牲者を出したることもなし。予之に於て初めて安心して曰く、凡そ新しき思想上の運動には必ず幾多の犧牲者を生ず。藤村等の運動に犧牲者透谷を出し、子規等の運動に古白を出せり。藤村等の透谷より得たる感銘は、今猶藤村等の心に生くべし。藤村操の自殺は幾多の親友に今猶異常の感銘を殘せり。自殺の可な(120)るにあらず。犧牲的精神の威力が眞劔に他の同人を動かすなり。恰も馬場辰猪が亞米利加に客死して日本の立憲政體を成さしめたるに似たり。大なるについて言へば釋迦も耶蘇も孔子も大なる犧牲者なり。犧牲者の靈威が今日佛教となり、耶蘇教となり、儒教となりて時代の人心に活くるなり。芭蕉も大なる犧牲者なり。子規も大なる犧牲者なり。大なる犧牲者の文學が後代の人心を支配するは宗教と異る所なし。長野師範卒業生の一部に存するといふ懷疑思想の煩悶が、如何なる性質に屬するやを知悉せざる以上一たび聞ける所を以て速斷すべきにあらず。只さしたる犧牲者を出したる事なし、と言ふに考へて左程重大事とは思はれぬ心地す。近來一般青年者の煩悶は一種の流行なり。長野師範卒業生が現代の流行に加入して煩悶をなすや否やをも知らず。只、今日の予には夫れ程重大なる問題として耳朶に響き來らざるを感ずと。その人又言ふ所なし。
予は今後日本に現るる重大なる犧牲者の中に教育者の多數に數へられんことを望む。夫れ迄は教育の權威など餘り自身の口より説き出さぬを以て感じよしとするを覺ゆ。
(大正七年「信濃教育」二月號)
(121) 多言
現今支那人ほど、國權擁護、國威伸張を叫ぶ國民はなかるべく、自國にて叫び切れず、東京に來て叫び、米國に行きて叫ぶの状、熱誠の驚くべきものあれど、叫ぶこと愈々多くして國權も國威も愈々伸張せられざるの觀あるを見れば、國威、國權は絶叫する丈けにては伸張し難しと思はる。現に東京にて支那の志士等の會合する有樣は大したるものにて、慷慨淋漓腕を扼し案を叩き、案を叩く拳よりは血の流るるも珍しからずとのこと、夫れほど熱烈なる慷慨は予の未だ經驗せざる所なれば想像だも及ばず。想像も及ばぬほどの慷慨家を以て充たされたる支那の志士より國家を左右するの力を生み得ざるは何の爲めぞ。思ふこと言はぬは腹ふくるるわざなりといへば、言ひて腹空かすを快とすべきも、空きたる腹より力は生れず。膨れふくれて堪へられぬまでに膨れたるを、堪へぬきたる腹より力は生れ來ると思はる。餘り堪へたるは、堪へたるのみにて其のまま萎縮するものあるべけれど、堪へて萎縮するほどの腹は初めより膨るる要なく、膨るるならば力の生るる所まで押し進むべきなり。予は歌(122)作りなるが、予の感動が或る物を捉へて之を歌はんとする時、歌の出來あがるまで努めて予の感動を人に語らず。語らざるは人に秘するにあらず、一度にても二度にても人に語れば、發表の衝動は夫れだけ薄らぐわけにて、自然歌に集注する力の放散を感ずるが故なり。加之、予の歌はんとする感動が重大なれば重大なるほど、容易に歌に著手し得ず、著手する時恐怖心起るゆゑ、夫れのみにても著手の容易ならぬ心地す。歌を作るに恐怖心起るなど馬鹿げたるやうなれど、恐怖心の起るは單に臆病なるが故なりと言ひ去る人ある時、予には夫れよりも嚴肅なる意味を以て、人間の心を考へんとするの必要を感ず。猶加之、作歌の動機重大なれば重大なるほど、予には永く之を心に保持するの必要あり。咄嗟の感激が咄嗟に歌に現るるなどいふこと、新しき歌人の多く口にする所なれど、予の經驗する所と予の念とする所は之と相距る甚だ遠し。若《しか》き心を以て支那の志士を想ふとき、その拳より流るる血の餘りに容易なるを感ずるは是非なき所、遼東還付の際、邦人多く口を緘したると相對照して尠からざる興味を感ぜしむ。學校に小言濫發の先生あり。小言愈々多くして生徒愈々之を輕侮す。何事にも説を成し得る人に、何事にも到り得し例少く、何事をも成し得たる例も少く、説く愈々多くして説く所の重量愈々減却す。仇討の二年三年數年の沈黙を經て多く志を達するは、沈黙して敵に悟られじとするの必要もあらんが、身を棄てて仇の首取らんと決心したる嚴肅なる心が沈黙を生み、異常なる力を生む事自然の順序にして、眞劔なる心は多言を生まず。予の立場より言へば歌の上の多言者たらん(123)よりも、歌の上の多力者ならんを冀ふ所以なり。
信濃は由來言論の國なり。教育界に於て特にその然るを覺ゆ。昨夏予の長野に來りて「信濃教育」の事に從ひしより既に半歳以上、久し振にて故國に歸りて言論の盛なること舊によりて渝らざるを覺ゆ。慶して可なりや。弔して可なりや。腹ふくるる者多きは、腹ふくれざる者少きの謂ひにして、眞に腹ふくるる者の多きは、之を腹ふくるる者少く乃至腹ふくれんともせざるものに比し、慶すべきありて、弔すべき所以なし。只その膨るる腹が言論となりて現るるの多くして、力となりて現るるの少きの現象舊態依然なりと言はば、予は信濃の教育が何れの日か眞の多力者となりて、天下の重きを負ふに至るべきかを思はざる能はず。頃者信濃教育會議員會を傍聽し、且つ一夜諸君の宴末に列す。言論の多き今更に驚くべきを覺ゆ。日く、小學校教員俸給國庫支出の豫算全額を、教員俸給に支出する能はざるは文部省の腰の弱きなり。之を尋常小學校教員に支出して高等小學教員に及ばす能はざらしめしも亦文部省の腰の弱きなり。政黨者の教育を重ぜずして政府者亦教育を重ずるの實を示し得ざるの時、教育の威重何によつて之を伸べんと。洵に然り。文部省の腰の弱きは年來の公論今更ら説を煩すに黨らず。政黨者の教育を重ぜざる是亦周知のこと、今更ら説を煩すに黨らず。却つて思ふに文部省の腰果して弱しとすれば、※[開の門構え無し]は文部省が全國教育者の腰弱きを代表せるものにして、獨り文部省の腰のみを以て弱しとすべきにあらず。その故は全國教育者の腰悉く強くして、文部省のみ獨り腰弱し(124)といふ理なければなり。日本國の教育者皆多力にして文部省のみが無力ならば文部省は、永續せず。文部省の無力なるは全國教育者無力の反映なりとも言ひ得べし。凡そ斯の如き言説をなして悲憤慷慨すること夫れ自身が教育の權威揚らざるを證するものにして、教育の權威揚らざるは文部省の腰弱きがためか、教育者の腰弱くして無力なるためなるかを考ふべし。文部省ならずとも例は幾らもあり。各府縣會に於ける学務課の腰は如何。市町村會に於ける小學校長の腰は如何。市町村會議員の私宅をぐるぐる廻りして御機嫌伺ふやうなる小學校長は今どきは無かちんも、數年前は斯るためしの絶無なるにもあらず。斯の如きの教育者が何人集りて教權云々を叫びたりとて天下何人も恐ろしとは思はず。政黨者も議會終りて各々國に就くの時教育者を恐ろしと思はねばこそ、教育問題に對してよい加減の取扱ひをなし、黨然教育者に支給せらるべき國費をも、自ら恐ろしと思ふ他の方面に分たんとするが如き擧にも出づるなれ。自らの腰弱きを言はずして他の腰弱きを言ふが如きは、芝居にてチヤリなどに現るる幕、斯の如き言説が長野縣一般教育界に相變らず現れ居るやうにては、言論の盛大も張合拔けの感なくんばあらず。例は更に議員會より擧げ得べし。夫れは信濃教育會規則の改正につき議員三分の一以上の發議にて過半數の賛成あり、議決は直に行はれたれば規定に依り直に效力を生じて、該規則の改正は即時行はれざる可からざるの時に當り、會長の思ひ損ひなりとて、一旦の決議を取消して之を再議に附したるの奇態事あり。事は常識にて判斷し得べきの事、規則の明文によりて一旦已に(125)效力を生じたる決議を取消して再議に附するが如きは議長として甚しき失態なり。斯の如き失態に對してその失態を通さしむべからずとするもの少數にして、多數者は議長の發意によりて甘んじて之を再議に附すべしとなせり。議員は議長に從順にして、會則の精神とする所に不從順なるもの。議員が斯の如きに當つて何れに從順なるべきかは、教育者を待たずして明白の事、理に對して議長に抗議するもの極めて少數なるの現象を以て教育者の腰の強度は明白に測量せらる。斯の如き腰を持して他の腰の弱きを憤慨するが如きを滑稽とせざるものあるか。議長が失態を通したると、議員が失態を通さしめたると、兩々相對比して一事は萬事なるの感を懷かしむるは自然の事、教縣の確立するせざるなどの問題は暫く措きて、教育者は先づ斯の如く明白なる事例より自己の足元如何を考察すべきなり。
擧ぐる所の例は近日囑目の一二事實に過ぎず。予は信濃教育界の言論及び行動が悉く斯の如きの種類に屬するを信ぜず。然れども露骨に予の感を披瀝せしむれば、信濃教育界に相變らず饒舌の行はるる間は、總じて未だ眞劔の道に入りたりと思はれず。賑やかく景氣よきは言論の盛なるを然りとすれども、賑やかく景氣よきは物言ひて腹空くの快にして、人を動かし、世を動かすの力とはならず。眞に腹ふくれて已むなきに言ふの嚴肅さは何人も否定する能はざれど、夫れすら節約に節約を加へたるは誰の腹にも應ふる心地す。餘り多く拔く刀は人を恐れしめず。拔く者は眞劔ならんも、又かと人に思はしむるは拔く刀に虚あるなり。度々拔けば虚あるゆゑ、拔き度きを耐らふるほどの工夫して初め(126)て力は蓄へらるべし。教育者の力は教育事實なり。教育事實より發する力にあらざれば教育者の威重は生れず。力は教育事實に加へられ、力は教育事實に潜み、力は教育事實より生る。教育事實を離れて教育者の生命なし。所謂養ふべしとするの根據は渾べて之に在り。養ふ所深く此處に存するあるその力牢乎として動かすべからず。發すれば即ち人を勤し、發せざるも人自ら動く。言論の威重は斯の如くして初めて生ずべし。言論は貴重なり、輕々しく動かすべきにあらず。動かすの眞劔なれば愈々動かすを難んず。難んずるは臆病なるにあらずして重量を備ふるがためなり。斯の如きの言論は稀にあるべくして頻發せらるべきにあらず。信濃教育界に於ける言論が斯の如きの域に在りとする時、今日の如き饒舌と喧騷とは先づ第一に靜肅に歸らざるべからず。教育の祭壇を以て神聖なりとせば祭壇は靜肅なるべく、發する聲は森嚴なるべし。斯の如くにして人心に響かざるの聲なし。聲あるも響き、聲なきも響く。聲あると聲なきは差とするに足らず。斯の如きに在つて教育の威重を憂ふるは要何れにありや。威重々々と叫ぶ間は威重は生れず。威重は喧噪場裡に墜ち來らざればなり。予は既に力の由來を教育事實に歸せり。教育事實とは教育現象の一切を指す。一切を指せども更に之を貫くの精神を指す。之を貫くの精神を指せども又更に之が精神に貫かれたる教育現象の大小巨細一切を指す。眞の力はここに籠りここに現れて、他に籠らず他に現れず。戊申の役三田の福澤先生は、上野の砲聲を聞きつつ終日生徒に講義を續けたり。曰くあの音を耳にするなと。教育は斯の如きの自信に立つて、(127)斯の如き事實にまで進まざる可からず。三田翁必しも人に教育の威重を語らず。而して天下靡然としてその風尚を仰ぎたるの觀ある這般の消息、現今教育者の最も潜心を要する所。特に教育の威重を以て任ぜんとする長野縣数育者の最も潜心を要する所。潜心の要あるを思はば、暫くその膨るる腹をこらへて潜かに内心に苦しむ所あれよかし。
(大正七年「信濃教育」三月號)
(128) 容さざる心
長野縣の教育者は容易に人を容さず。世人或は以て偏執となし、縣内にありても往々これを憂ひとするものなきにあらず。人は元來容さるるを喜び、容されざるを喜ばず。人を容すの世に景氣よく、人を容さざるの世に景氣宜しからざる故、人を容す少き長野縣の教育者と、それら教育者によりて爲さるる教育が存外世に不景氣にして評判宜しからざるを以て憂ひとするもあるべく、容易に人を容さざる教育者によりて爲さるる教育の實績が、進行少くして遲滯多きを以て憂ひとするもあるべく、憂ひとするの樣々にして、程度も標準も一樣ならざれば一括して當否を言ふべからず。評判よきは評判惡しきより結構なれど、事は評判を目的として行はるべきにあらざれば、評判よきと、事のよきとは區別して考へざるべからず。評判惡しきを誇る要なきは、評判よきを喜ぶ必要なきと同じ。教育の實際が遲滯多きを憂ふるは、憂ひとするの較や實質的なるに考量の値あれど、意義の重大なるは進行爾かく輕易ならず。輕易なる進行に馴るるは事務家の事にして、事の事務以上に出づるあれば即ち進行(129)事務の如く圓滑ならず。教育を器械視すれば進行事ごとに輕易に、教育を精神的に取扱へば趣之と異る。輕易なるは遲滯するよりも便にして、輕易なるべきに遲滯するの陋なるべきも、便にのみ從ひて他を顧みざるは不便以上の病弊を釀す。
大凡人他を重ずれば之に求むる所自ら高し。求むる所高ければ容す所彌々狹し。容す所狹きは求むる所高きが故なり。求むる所高きは其の物を重しとする故なり。此の故に人珠玉に細瑾を容さずして瓦石の潰敗を意とせず。物を容す衆きは物を重ずるの薄きなり。物を容るるの狹きは物を重ずるの深きなり。孔子の世を重じ、人を重ずるや即ち容易に世を容さず人を容さず。剛を申※[木+長]に容さず、儉を管仲に容さず、孝を重ずる事最も深くして、孝道を彼二三子に容さず。三千の子弟中、仁の日月に至るとなすもの只一顔子を擧ぐるのみ。曰く其の爲す所を視、其の由る所を觀、其の安ずる所を察する、人焉くに※[まだれ/叟]さんやと。人を待つの斯の如きは人を重ずるの斯の如きなり。元龜、天正の頃我朝英雄の輩出雲の如し。而して志聖賢にあるもの唯一加藤清正あり。清正既に秀吉の勘氣を蒙り近日切腹の命あるを傳ふるや、増田右衛門尉密かに清正に就き輙かに石田三成と和すべきを勸む。禍根の三成に在るを知るなり。清正答へて曰く
いや/\八幡大菩薩、摩利支天尊も照覽あれ。治部少輔と一生仲直りは罷成らず。縱ひ太閤の御前直り申さず、このままにて切腹仰せ付けられ候とも、治部少輔めと仲直りは仕間敷候。右衛門尉も(130)聞えざる仁にて候。故に此の度高麗おらんかい迄押渡り、六七年振りに始めて參り候上は、日來のよしみにて候條、せめて玄關までこそなくとも、次の間迄なりとも出でられ、久敷、なつかしきなど申さるる事、たやすき程の事にて候。それを坐ながら、首ばかりひねりまはし、よく來れりなどと申され候は、過分にも無之候。所詮貴殿などの樣なる禮儀も知らざる者と、申談候事入らざる事に候。云々。
當時清正に豐臣氏の禍根三成にありと爲し得るほどの才覺あるは、覺束なからんも、主家の没後に遺孤を擁して最後まで忠節を貫き得たる清正が、切腹仰せ付けられ候とも治部少輔めと仲直りは仕る間敷候、と斷言し得たるは吾人をして少からざる興味を覺えしむ。多く容さざるは深く容すなり。清正の三成を容さざるに秋毫の間なきは、豐臣氏に容すに秋毫の間なき所以、豊臣氏に容すに秋毫の間なきは、武士の道を盡すに秋毫の間なき所以、志眞に聖賢にある即ち斯の如きを當然とす。大凡世を開き俗を革むるもの皆容易に容さざるの心より出づ。容易に容すもの只流俗と共に浮沈して雷同附和するを能くす。目前の便利ありて永遠の性命なし。釋迦の王位を棄て、妻子を棄て、宮殿を棄てたるは時流の容す所に從ひ得ざりしなり。親鸞の水に投ぜんとしたるは佛を容し得ず、法を容し得ず、僧を容し得ず、乃至大千世界を容し得ざるの心より出でしなり。一旦源空に遭ひて一切を容し得たるは、極度に許し得ざる心を以て、極度に許し得る心を得たるなり。維新の大業は、容し得ざる心を、とど(131)の詰りまで推し進めたる國民的決心の結果にして、國民が決死の覺悟して、初めて生くるを得たるは、やゝ親鸞の心に通ず。元來教育の事たる、其の根源容し得ざる心より發す。一切を赦し得れば一切を教育するの要なきなり。一切に求むる所高ければ高きほど彌々容し得ざる心を生ず。教育の存在ここに初めて意義あり。此の意義に於て師の弟子に容すの容易なるは、弟子をして低卑に就かしむるの端。優秀なる子弟の師に容され易くして輕薄に墮つる事あるは比々として例證し得べし。模範生徒などいふものを作りて生徒の名譽心を刺戟するは教育の便法にして、便法の便なるに馴れ、師と弟子と與に安價なる滿足に落著するは人間の弱所を助成するに値す。此の故に孔子容易に彼の二三子に容さず。之を重ずる彌々深くして、之を容さざる彌々加はる所以なり。概ね、人、褒められたるは夙くに忘れ、叱られたるは永く記憶す。師弟の間然り。親子の間然り。叱るの眞劔にして褒むるの甘たるきを證するに足る。褒められたるは當座に心地よく、久しきに及んで自ら空虚を感ず。叱られたるは當座に心地よからず、久しきに及んで自ら緊肅を感ず。世の教育者に待つ所亦然り。教育者の互に相待つ所も亦然り。待つ所の意義高ければ高き程容易に之を容す可からず。相容さざるによりて互に振肅し、互に切磋し、互に磨勵す。濫りに衆俗に比肩し、流風に附和し、求むる所相若き、待つ所相比して、求むるの低く、容すの易きが如き、外面の進行甚だ圓滑無事にして、内面に百年教育の深憂を藏す。所謂長野縣教育者の容易に容さずとなすもの、その性質必しも一樣ならざらんも、容易に容さぎるは容(132)易に容すに比し、慶すべきありて憂ふべき所以なし。却つて思ふ。長野縣教育現下の憂とすべきは、容易に容さざる者より、漸くにして容易に容すものに移る傾向あるの所に存せざるか。師範學校の教育は如何。中學校は如何。小學校は如何。その他各般の學校は如何。校長の教師に對するは如何。教師の生徒に對するは如何。教師の教師に對するは如何。教育者の社會に對するは如何。 正岡子規の俳句革新を唱ふるや、偏に芭蕉、蕪村を説いて自餘一切の月並を排す。蕪村もよし、月並も惡しからずと云ふにあらざるなり。其の和歌革新を唱ふるや、偏に萬葉集を説いて八代集以下の流風を排す。萬葉集もよし、古今集も惡しからずといふにあらざるなり。其の御歌所風の和歌を見ると、與謝野一流の歌を見ると、雙ながら一擲土芥の如し。求むるもの深く存するが故なり。その求むる所を以て門下に臨む。嚴肅想像に足る。予當時信濃山中にありて遙かに歌稿を寄す。彼存在中、予の歌を取る只一首のみ。日本新聞に課題「松」の出づるや門下伊藤左千夫、爲に興津に旅行して松原を寫生し歌嚢甚だ重し。歸路汽車の新橋に著くや、先づ直ちに根岸に走つて先生の廬を叩く。先生曰く旅裝何れより來る。曰く興津より來る。曰く興津何事かある。臼く課題「松」を得たるのみ。先生笑つて曰く、興津は古來文人によりて言ひ古され、詠み古されたる所、君今行くも創意甚だ難し。歌稿は見るを須たざらんと。左千夫唖然たり。左千夫の予の歌を容さざる久し。大正二年七月予の病兒を伴ひて東京に至るや、左千夫直ちに予の病院を訪ふ。手に予の著京を知らせたる端書を持てり。座(133)定まるや直ちに予の歌の可ならざるを論ず。曰く君の歌は天麩羅なり。旨きには旨きも品格なし。石川啄木の歌の如きは天麩羅中の天麩羅なり。君等濫りに新しきを求めて時流に化するの陋なきかと。予當日下痢頻りにして腹痛亦劇し。厠に行く事一時間數囘なり。即ち抗辯せんと欲すれども亦堪ふべからず。勉強して曰く、生の言ふべきあるも腹痛堪ふべからず。願くは貴説を後日に聽くを得んと。左千夫眼を張つて曰く、予の説く斯の如し。腹痛の如きは堪へられて可なりと。未より酉に至り、膝を進め、気息を速かにし、縷説措かず。予遂にその魄力に屈せり。滯京二三日にして予の信濃に歸るや、其の夜飛電ありて左千夫の逝去を報ず。蓋し腦溢血なり。予驚愕措く所を知らず。則ち曩の腹痛を堪へよと言ひしもの自から教を予に遺すに似たり。左千夫先生を思ふ毎に、この事未だ腸に徹せずんばあらず。長塚節亦子規門下の俊髦なり。自ら居ると、人を待つと兩つながら苟もせず。曰く歌を批評するは、其の歌の既に堂に上れるを認むるが故なり。自らの歌を人に示して批評せよと言ふは、自作の己に一領域を占むるを認むるが故なり。是の故に他を批評せんと言ふは、他の存在を認むる所以にして、自らの歌を他に批評せよと言ふは、自らの存在を容す所以なり。兩者苟もすべきにあらずと。節存世中殆ど予の歌を批評せず。予亦批評を求むる事を敢てせず。大正三年八月、予の作る所の歌若干あり。節當時病を養うて福岡大學病院にあり。命※[其/月]年を保す可からず。書を予に致して曰く、君の八月作を評せんかと。節の晩年予の歌に言及せしもの只この一囘あるのみ。同年の末、予歌集刊(134)行の意あり、之を節に報ず。心竊かに節の容認を得んと欲するなり。節答へず。書信の中一言歌集に及ぶなし。更に又之を報ず。復た返酬なし。節の意予の歌集を早しとするか、或は病苦頻至返書之に及ぶの暇なかりしか。節の平生より之を推すに、前者當るに庶幾くして、予の自ら策勵する所亦之に依るべきの至當なるを思ふ。大凡子規、左千夫、節皆容易に容さざる者を以て世に待ち、同時に門下及び後輩に臨む。志擧り綱張るもの固より其の所なり。今予編輯する所の雜誌、人の衆き事左千夫、節在世當時に數倍す。人多く、紙多くして執る所省みて往々疇昔に若かざらんとす。多くして弛み、寡くして張る。人然り。國然り。天下萬事然り。教育の事制度、經營、外漸く完備せんとして戒むべき所方に内に在り。矜る者、弛む者、比するもの、同ずるもの、志卑きに就て存在却つて保たれんとす。保つ所幾何ぞ。齢傾き命終れば即ち盡く。身後考へ來れば教育の威何れにありや。抑も長野縣教育者の容易に容さずとするもの、憂ひとするは、之を保つにあるか、保たざらんとするにあるか。保つと保たざると兩つながら至高の意味に於て嚴肅に考察する所あるべし。
(大正七年「信濃教育」五月號)
(135) 師範教育
只今其の筋にて師範教育改善につき審議しつつありとの事なり。夫れに對し信濃山中にて意見を述ぶるは遠矢に過ぐるの觀あれど、述べ置くこと強ち無用にあらず。
第一に師範學校の入學賓格を高等小學二年卒業者とするの議多きやに聞けり。高等小學二年卒業者を收容して師範學校の年限を五年にすれば、現今高等小學三年卒業程度のものを收容して四年の師範教育を施すと大したる相異なく、現今の師範教育を是認する人々より見れば、修業年限の長くなるだけ、師範教育に於て多少の長を加へ得べしとなさん。殊に修業年限三年の高等小學校は全國を通じ實際にいくらもこれ有らざるの現状なれば、教育系統の上よりも高等小學二年より師範學校に接續せしむるを都合よしとするに似たり。併し乍ら教育の實際より言へば、現今全國に亙りて高等小學の課程を修むる兒童は小學兒童中、品質の劣等なる兒童その多きを占め、その傾向は年を追ひて益々著しからんとするを實際とせり。尋常小學兒童中品質優良なるは多く中學校に進み、殘れるは高等小學に進(136)む。全國を通じ富の程度追々に進み、教育に對する人民の理解も追々進むにつれ、子弟をして中學校に學ばしむるを普通とするに至り、若くは普通とするに至らんとするの傾向あるは今日に於て明かにして、左樣なる場合中學校は實際に於て我國の普通教育機關の主要點たるべきは想像に難からず。左樣なる場合、尋常小學校の優良者は益々多く中學校に收容せられて殘れる劣敗者が高等小學校に收容せらるべきは當然なり。左樣なる劣敗者の中より師範學校の生徒を採らんとするは、師範學校生徒の品質を優良ならしめんとする希望と悖反す。この悖反は容易ならざる悖反にして、修業年限の如きは正に至りて多く問題にあらず。我國小學教育の張弛一に繋りて茲に胚胎すべし。現在にありても我長野縣などにありては師範生徒の品質漸く下りつつあるを唱へらるるの有樣にして、之が救濟の急務なるを感ずるに際し、師範教育の改善を議するものが萬一斯樣なる問題に考へ及ばざらば由々しき遺憾なるべし。吾人の見る所を以てすれば、現在の師範學校は修業年限を二年に短縮して、入學資格を中學校卒業者とすべし。中學卒業者を收容して二年の専門教育を施すは現今の師範教育を完成するに充分にして、夫れ以上の實績を收むるに於て亦充分なるに庶幾し。師範學校生徒の品質を優良ならしむるに於て、將又師範學校生徒の實力を増進せしむるに於て之以外の道あるべしとも思はれず。況して年限の短縮によりて現今の經費中より省略し得る所僅少にあらず。省略し得る所を以て師範教育完備の資に充つるを得ば師範教育の充實益々その度を加へ得べし。論者或は年限の短縮を以て師範教育特(137)殊の薫陶を缺くべしとなすものあらんも、今日の師範學校に於て行はるる特殊薫陶なるものは頗る怪しき薫陶にして、森大臣時代の主義も徹底せず、さりとて之に代るべき何等鮮明なる主義を榜示せられず。局内者より見れば何等かの意義を以て行動しつつあるの勿論ならんも、自ら意義ありとなすもの必しも意義の明瞭ならず。偶々明瞭なれば、所謂師範風として世上の畏敬を得ず。今の世の中にて所謂師範風なるものに隨喜するものは、師範學校當局者を隨一とし、續いて師範出身者の多數若くは一部に之あるべく夫れ以外にあつては殆ど之を求むべからず。然る情勢に立ちて現在の師範風なるものを固執せんとするは尠くも世上の意向と馳背すべし。此の點よりして師範教育現制四年を二年に短縮するは教育のために損失なくして利得多し。之を中學校に附設して現存師範學校を廢止する必しも妨げず。改革の人心を新にする事、居の氣を移すが如ければなり。(此の場合高等師範學校を廢して大學に師範科を附設する事論なし)論者又或は言はむ。中學校卒業後二年を費して師範學校を卒業するも、物質的待遇現今の如くにしては到底多數の入學志願者を得ること難からむと。この言理あり。曩に文部省小學校数員俸給國庫補助二千萬圓を出すに意ありて果さず。今度より一千萬圓の補助支出を實行し得たり。一千萬圓の二千萬圓乃至數千萬圓に上るの何年を期すべきかを知らず、只國家にして眞に憂ひを今日の小學校教育に抱くとなさば、斯の如きの費額は當然相當支出の道を講ずべきものにして、所謂其の筋の審議といふもの斯の如きに思ひ及ぶべきは當然なり。費用は出ぬからその範圍(138)にて改良の策を立てたしなどいふは小料理人の言ふ所にして、大事に當るものは規模自ら之と異るべし。更に思ふに、假に師範制度を現存のままにするも、尋常小學校卒業後七年を經て師範學校を卒業するの勘定にして、之に新制陸軍一年現役を加ふれば八年にして初めて小學校教員の職に就くを得べし。尋常小學校卒業後八年といへば今日の高等學校卒業までの年限と等し。斯の如きに對して今日の小學校教員の物質的待遇は果して相當なりとするを得るか。即ち師範制度はこれを改革するも改革せざるも、現在の待遇法にては早晩行き詰りを見るべきは明瞭のこと、之に對する處置の今に於て講ぜらるべきは當然に屬せり。所謂其の筋の審議なるもの必ず之と關聯すべきを信ず。果して然らば予の唱ふる所の師範制度改革は唐突無稽の案にあらず。猶予の案に依れば、師範在學中の生徒給費は年限二分一短縮と共に一人給費二倍となるの勘定にして、現在の給費を増す更に二倍ならば、年限二分一短縮によりて一人當り四倍の給費を得べし。所謂生徒收容を物質的に考ふるも猶如上の利あり。況や生徒收容なるもの實は悉く物質上より打算せられたる法則に從ふものにあらず。世上の尊敬之に向ふと然らざると、差とする所更に莫大なり。現今の師範學校が世上より何程の尊敬を拂はれ居るかに思ひ及ばば、之が改革の可否を決するは却つて局外者を適當とするやも計り難し。
師範制度改善につきては猶男女生徒養成案に關する重要なる問題を有せり。予の女教員なるものに多くの望を屬せざる事は嘗て本誌に述べたる所にして、今更ら呶々するの煩なるを覺ゆ。國民教育を(139)重ずるほど之を女教員に委ぬべからず。御し易く且つ目先き利き當座に便利なるの故を以て重寶がるは御尤もなれど、國民教育の根幹に觸れて之を論ずべきにあらず。聞く歐米列強の中女教員率の最も多きは米國にして最も少きは獨國なりと。兩國の風尚自ら然るべきを想はしむ。日本は日本にて外國に倣ふの要なし。自ら日本國の使命を稽へ、自ら現在女教員の爲す所を稽へ、自ら自國女人の能ふ所を稽ふれば則ち可なり。予は女人を侮蔑するものにあらず。女人の使命の更に重大なるに繋るあるを知るを以て斯く言ふなり。所謂其の筋の改善なるもの此の點に關して如何の審議をなすやを知らず。予の説に關して縣下諸賢の教を賜らむことを冀ふ。
(大正七年「信濃教育」七月號)
(140) 再び師範教育を論ず
現今の制度にては中學校の榮ゆるに伴れて師範學校の衰ふるは當然の順序にして、秀才といふ秀才は多く中學校に吸收せられ、殘れる僅少の秀才と多數の凡才とが師範學校に收容せらるるは已むを得ざる現象とすべく、この傾向は年を追うて益々加はり、近年にては各府縣の師範學校が生徒募集難に逢著し、再募集によりて辛うじて入學定員を充すものあるは珍しからず。これと反對に中學校は入學志望數の年と共に加はり、我が長野縣にても中学校増設を要する地方猶一二箇所を數へ得るの有樣なり。斯樣に中學校全盛の時勢にあたりて師範學校がその生徒を専ら中學卒業生より得んことに著目せず、依然高等小學二年卒業生を收容して之に五箇年の師範教育を施すを以て、從來の師範教育に一日の長を加へ得べしとなすが如き意見の多數を占むるを見るは、第一に師範教育當事者が從來自己の施せる師範教育に思ひ切りたる革新を要するものの存するに氣づかざることと、第二に人心と時勢の歸趣を寮するに何時も乍らのんきなるの致す所にして、勢去りて知らず、勢來りて驚き、應募人員不足(141)して驚き、生徒の素質低下して驚くの状立派なりとすべからず。或は應募人員の不足を以て實業熱勃興の影響といひ、六週間現役者が一年現役に改められたる影響といひ、或は師範生徒給費縮小の影響といひ、所謂影響として數へらるるもの必しも相應の理なきにあらざらんも、師範教育當事者が自己の教育不振を説くに自己に責任遠き原因を擧ぐるに急にして、自己内省の聲を發表するを聞かざる如きは一事既に所謂師範學風なるものを眼前に髣髴せしむるに足る。之を單に長野縣のみについて言ふも、我が長野縣人は利に走るに敏なりと雖も、理を見るにも鈍ならず。情に感じ、義に起つの感激を存せり。理義の存する所、感激の存する所、正直一徹自己を犧牲として生涯悔ゆる所なきの徒、事に觸れて即ち輩出す。所謂師範學風なるものは斯の如きを目して或は危險視する傾あらんも、危險視するは自己の脆きが故にして、脆きものは固きものを危險とし、冷き氷は熱き火を危險とす。上述の如き氣風を存する長野縣人は必しも實業勃興熱にのみ就かず。必しも給費少く卒業後の俸禄少きを避けず。必しも六週間現役の一年現役に改められたるに驚かず。否實業熱にも就き、俸禄少きをも避け、現役延長にも驚かざるを保せざれども、感激あり信仰ある所即ち凡百の事情を超絶して向ふべきに向ふを難しとせず。長野縣師範學校にして從來信州人崇敬の的となり、教育權威の源泉となるあらば、縣人擧つて之に趨くを欣びとすべし。知らず、師範學校なるものは從來如何なる印象を長野縣人心に刻みたるか。師範學校教育に隨喜するもの縣内の何處に行きて之を求むべしとなすか。事は一縣にし(142)て一縣にあらず。之を全國師範學校に就て見よ。更に師範學校の總本家なる高等師範學校に就て見よ。天下の人心は如何なる目を以て之等を見つつありや。「知らぬは亭主ばかりなり」とは比喩鄙俗なれども適切に之に當れるを不幸とすべし。
今より二十年前にありては全國中學校の施設未だ備らず。所在秀才の學に志すもの多く師範學校に入れり。當時森有禮氏の策立し、奬勵せる師範學風なるもの曲りなりにも猶發生期の鋭氣を藏せり。併し乍ち森氏の規畫なるものは形に於て整備し、精神に於て生動の工夫を缺けり。森氏の規模大ならざるを見るべし。森氏逝いて三十年形骸猶存して精神年と共に愈々萎縮す。之を本縣師範學校に見るに今より二三十年前縣下秀才を集めたるより以來今日に至るまでその出身者に果して何者を出し得たるか。前期の末期に比し較々觀を異にするを見るといふも、異にするの著しからず。相通ずるの著しきに於て必しも前期と後期とを分つの必要なし。師範出身者には、我こそ教育界の權威なりと自任するもこれあらんが、自ら任ずる權威なるものが百世遂に如何と考ふる時顧みて自ら忸怩たらざるを得るか。二宮尊徳の事業は一地方の事業なり。熊澤蕃山、細井平洲等の事業亦然なり。一地方の事業なりと雖も、その精神とする所は即ち百世に亙つて人心を生きしむるに足る。教育の事業亦多く一地方に限られたりと雖も、眞の權威は百世之を滅せんとして滅すべからず。然る底のものを二三十年間に生むを望むは無理なりといふものあらんが、衆心の嚮ふ所自ら之を將來に庶幾すべきや否やを察する(143)に足るべし。模範校長の名を得て滿足し、正八位奏任待遇を得て納まりかへる教育者より百世の權威は生れ來らず。求むるもの低きには低きもの授けられ、求むるもの高きには高きもの與へらる。現今教育者の求むる所悉く正八位ならざるべきも、教育百世の權威を生むに於て今の師範學風と之を對比する時突梯を感ぜざるものあるか。少くも長野縣に於ては明治年間に教育の權威として殆ど何人をも産出し居らず。産出せざるを以て悉く師範學校の責に歸するは當らざらんも、斯の如き問題より師範學風に思ひ到るの皮肉なるは何人にも之を蔽ふ能はざらん。去年晩夏、予は或る所にて偶然某師範學校舍監長に邂逅せり。舍監長日く、今日は暑中休終りて生徒の歸舍する日なり。早く歸りたるものは舍室の掃除せざるべからざれば、彼等は成るべく晩く歸り來るなり。この一言所謂師範生活なるものを表出し得て餘りあり。斯の如き生活中より教育の構成を求むるは塵塚より玉を求むるに等し。四年の修業年限を五年六年七年に延長すと雖も爲すなきなり。單に爲すなきのみならず、年限愈々長くして弊害愈々加はるべし。吾人は眞面目に提出すべき猶多くの生ける事例を有す。今多く語るを欲せざるのみ。
師範學校今日の急務は入學志願者を中學校卒業生に求むるに在り。一は比較的秀才を求むるを得べく、一は中學に於て比較的素直に教育せられたる生徒を收容するを得べく、一は修業年限の短縮によりて現今師風學風停滯の氣を浸潤せしむること比較的少きを得べし。然れども、之れ實は姑息の法な(144)り。師範學校にして學風の依然たるあらば中學卒業生は喜んで之に赴くを肯ぜざるべく、地方人心依然として師範學校に趨かざらば師範教育は頽勢遂に支ふる能はざるに至るべし。師範學校の頽勢は國民教育の頽勢なるに於て由々しき大事なり。斯の如きに當つて、常然生れざる可からざるものは私設師範學校なり。予は長野縣に於ては、既に私設師範教育機關の設立を必要とする機運に際會しつつあるを信ず。憂を深きに潜め、思を遠きに致すの士はこの邊につき既に工夫を囘らしつつあらん。
若し夫れ師範學校當事者にして生徒卒業後の待遇云々を言ひ、生徒給費の云々を言ひて師範教育の不振をここに基因するとなさば、須らくその考を大にしその力を集中してこれが改善を圖り、之が所期を貫くに於て勇往邁進すべし。所信のため全力を傾倒し、甘じて之が犧牲たるを期する底の決心あらば一人の力猶天下を動すに足る。此の決心なくして自己の學校を憂ふるの言をなす、婦女子の泣言に近し。甘たるくなまぬるくして到底人を動すに足らず。犧牲的決心。これさへあれば實は初より師範教育に心配は要らぬなり。すべての國民教育に心配は要らぬなり。高等師範學校、師範學校の當事者諸君及び一般教育者諸君以て如何となすか。
(大正七年「信濃教育」八月號)
(145) 理科號の末尾に記す
本號は縣下會員諸氏の特別なる努力を賜ふありて、本縣内理科教授に對する主張及び教授の實際につきての主要なる一部分を發表するを得たるのみならず、資料として得易からざる實際的研究の多數を網羅し得たるは、本縣教育家の理科に對する研鑽の如何の状にあるかを窺ふに足るものなるべきを信ず。
予は理科及び理科教授に對して全く盲目なれば、本號に於て述ぶべき何等の意見なし。只理科號を編纂するに付きて思ひ浮びたるの一端を敍して門外漢の所見を披瀝せんとするの興味を催す。
予は歌作る事に只今尤も興味を有するものなるが、歌作る仲間に可なり多くの理學者及び其の他の科學者あり。一人は植物の根の細胞につきて研究を續け居る人にして、毎日顯微鏡覗きに餘念なし。此の人はじめて歌作りて予に示すこと三四囘に及びたれども一首をも採る事能はざりき。もう厭やになるならんと思ひ居たるに中々然らず。數囘目に至りて多數の中より四首の歌を採り得るに至れり。(146)此の人喜ぶこと限りなし。翌朝早く來りて予に示せるは昨日採りし四首の歌の清書にして、予の發行せる歌の雜誌の規定通りに正確なる楷書にて書きあり。曰くこの歌を雜誌に載するを得るやと。その態度天眞にして子供の如し。予の雜誌の選歌欄には年少の人も多く交じれり。一角の理學者が、自ら本名を記して甘じて年少の人と伍して選歌欄の一部位に居らんとする事、其の心純眞想ふべし。この人斯の如くにして多年繼續せば必ず大成する所あるべしと思へり。その後毎月作る所を見るに進歩の跡漸次顯はる。只研學多忙にして多く作る能はず。歌を齎し來るは大抵原稿締切日の早朝にして、時々戸を叩きて予一家族の朝寢を驚かすことあり。而も示す所往々一首なるあり、二首なるあり。その根氣亦驚くに値す。今一人は物理學專攻の人にして、予よりも早く予等の師に就きて歌を學びたる人、作歌に於ける眞摯なる態度は十數年に亙りて渝らず。外國にある數年の間も嘗て作歌を廢したる事なし。予等の師存生中、毎にこの人の作を推擧して予等の歌を戒めたり。此の人今日作る所の歌現代歌壇に於て優に一家の領域を保有し、純眞にして莊重なる作風自ら作者の人格流露するを覺えしむるものあり。その他猶多くの科學研究者あり。同じく萬葉集を研究するにも、例へば前記植物學者の如きは、研究の當初より世間流布の早分りものに據らず、古來よりの權威ある註釋書は概ね之を渉獵してはじめて一首の歌を解釋せんとするが如き、その態度實著にして其の研究の規模初めより大なり。斯の如きは科學者の一般に通ずる特徴にして、歌の研究も歌の制作も實は此の種の眞摯と敬虔なる心よ(147)り押し進めざれば至極を期すべからず。前記植物學者は顯微鏡覗きの鍛錬によりて純眞にして敬虔なる心を得、物理學者は物理實驗室の研究によりて同じく純眞にして敬虔なる心を得たるべく、心境純眞の一途に達するは取りも直さず人生の悟りにして、悟りの道に達するは必しも宗教よりするを要せず、藝術よりするを要せず、哲學よりするを要せざるは、科學者の心境の往々にして、藝術家よりも何々よりも透徹せる悟道に入るものあるの事例にて知らるべしと言ふ意味は藝術家、宗教家を貶するにあらず。科學者を揚ぐるにもあらず。藝術家、宗教家、科學者を通じて同じく純眞一途の心機に參するに於て、敬虔なる人生の巡禮者として何等甲乙上下を存する事あるべからざるを謂ふなり。予は信濃出身の或る病理學研究者が病躯を提げて日々その研究室に籠り、治すべからざる病苦と、救ふべからざる貧苦との中にその研究を續けつつあるの悲壯なる實状を傳聞し、尊敬の心數年來予の念頭を離れず。斯の如きを我が長野縣より得たるは、長野縣に於ける現今唯一の寶玉なるを切感せしむ。世には藝術や宗教にあらざれば純眞の一途に參し得ざるが如く思ふ人あり。自ら苦勞せざれば人の苦勞も分らず、彼我の苦勞相互に分り合へば藝術もなし、宗教もなし、科學もなし。歸する所は眞實一如のみ。科學者が宗教家を嗤ひ、藝術家が科學者を嗤ふといふ事世に有るまじき事なり。理科號には如何なれど日常思ひ居る事の心に浮び出づるがままを記すこと爾り。 (大正七年「信濃教育」十月號)
(148) 教育者の種類
歌に月並振あり。月並振に對して新派と言はるるものあり。月並振とは千年來古今集以下の常套を守り、形も心も大同小異のものを繰り返す間に、形も固定し心も型に嵌まりて動きが取れず、所謂一種の骨董物と化し了したるもの。斯の如きものが新しく目醒めたる明治時代に何時までも存續し得る筈なく、活きたる心に根ざし、活きたる性命を捉ふるを以て使命なりと心得たる年若き文學者によりて、咄嗟の間に舊き型は破壞せられたり。型に嵌まりたる形と心が破壞せられて、活きたる心に根ざしたるもの新に現れたれば世の人之を指して新派と稱せり。されば新派と稱すれば何れも活き活きしたる生命の躍り動ける歌なりと一概に合點するもあるべけれど、夫れもさることにて月並歌に對しては大やう斯る分ちも立て得べけれ、新派と呼ばるる中にも亦大體二つの分れ目あり。この分れ目實は甚だ大切なり。
同じく活きたる心といへど、心の動き方、大凡、人によりて千差萬別あり。放縱なる心も偽らざる(149)心の動きならば、緊肅せる心も眞實なる心の動きなり。外面的なると内面的なると、輕薄なると莊重なると、生《な》まなると鍛へられたると、温るきと熱きと、甘きと澁きと、派手なると冴えたると、何れも活ける心の動きなるに於て一なり。即ち一なりと雖も本質の差別自ら存す。この本質の差別に立ちて新派の歌自ら截然二つに分る。明星派と根岸派と之なり。明星は天の章なり。根岸は町名なり。天章のきらびやかなるに對して町名の地味なるを以てす。兩者名稱の相違すでに較やその内包を現すに似たり。即ち前者は何處までも振手に外面的なるに對し、後者は何處までも地味に内面的なり。前者は人間の官能と氣分に根ざして多く浪曼的憧憬に耽らんとするに對し、後者は感覺より入りて直ちに直截なる意志に徹せんとす。前者の求むるものは氣分、後者の求むるものは力。前者眼を瞑ぢて耽らんとすれば、後者力を集中して徹せんとす。派手に外面的なるをハイカラとすれば、地味に内面的なるはローカラ、官能を追ふを甘くして生まなりとすれば意志に徹せんとするは澁くして冴えたり。之を約言すれば明星派は一種官能的浪曼派にして、根岸派は現實的意志の追求者なり。前者浮き、後者緊まり、前者の輕くして後者の重き固よりその所なり。明星派の代表者を與謝野晶子となす。その歌に曰く
夜の帳にささめき盡きし星の今を下界の人の鬢のほつれよ
やは肌の熱き血汐に觸れも見で寂しからずや道を説く君
(150) 臥しませとその間さがりし春の宵衣桁に掛けし御袖かつぎぬ
四阿に水の音きく藤の夕はづしますなの低き枕よ
鎌倉や御佛なれど釋迦牟尼は美男におはす夏木立かな
湯上りを御風召すなの我が上衣臙脂紫人美しき
撥に似しもの胸に來てかき叩きかき亂すこそ苦しかりけれ
わが前に紅き旗もつ禁衛の一人と君を許しそめにき
根岸派の代表者を正岡子規となす。その歌に曰く
縁前《えんさき》に玉卷く芭蕉玉解けて五尺の緑手水鉢を覆ふ
寢しづまる里の燈火皆消えて天の川白し竹藪の上に
以下病中作
吉原の太鼓聞えて更くる夜に一人俳句を分類す我は
富士を踏みてかへりし人の物語聞きつつ細き足さする我は
人皆の箱根伊香保と遊ぶ日を庵に籠りて蠅殺す我は
小廂に隱れて月の見えざるを一目を見んといざれど見えず
鼠骨入獄を思ふ
(151) 人屋なる君を思へば眞晝餉の肴の上に涙落ちたり
安徳天皇嚴島行幸
松ながら折りて捧げし藤波の花は筵を引きずりにけり
前者の例歌を比較せば略前述の相異の傾向を知るに足るべし。月並派の歌は千年來所在に累々たり。今例を掲ぐるの要なし。
予は本誌に於て歌を説かんとするものにあらず。只予は多く作歌に從事す。即ち屡々歌に見る所を以て之を教育に推し得るものあるを感ずる事あり。試みに歌の三派を以て教育者に擬せんか。是亦必しも興味なきにあらず。
歌に月並派と新派とあり。假に教育者を分類するにこの二派を以て擬する、必しも恰適なりとせざるも悉く當らざるにあらず。思ふ所爲す所十年一日嘗て舊套を脱せず。思想の芽ぶき止まり、感性涸渇して爲す所は機械的なる舊慣の繰り返しに止まる。斯の如きは極端ならんも、之に近きものを教育者中に想像するは難きにあらず。之を月並派と稱するを當らずとすべからず。機械的の繰り返し猶可なり。十年舊套を脱せざる猶可なり。貫く所自信あり、爲す所操守ある、即ち外形を見て漫然之を月並列中に置くべきにあらず。然れども自信といひ、操守といひ、固と之れ溌剌たる感性と始終するもの、未だ感性涸渇して強き自信を持し、深き操守を有するものあるを知らざるなり。恰も石炭燃えざ(152)れば機關の運轉繼續せざるが如し。この故に哲人の心往々小兒に類す。新鮮なる感動性の生涯を通じて流動するなり。僧良寛の生活は枯木に似たり。而も道に小兒と逢へば即ち、歡語相嬉戯して日没を知らず。即ち良寛の枯木は枯れたるにあらず。形枯れて心生くるなり。形枯れ心枯るるに至つては、外見相類して其の差月鼈、之を月並とするに何の遲疑かあらん。近來月並歌人中往々にして自轉車を詠み、電燈を詠みて自ら新しき仲間に入れりとなすものあり。ちよん髷に帽子かぶりしと同樣なり。古き心を捨てずして新しきもの著たりとて何の新かあらん。よせばよいのに年寄の冷水御苦勞千萬なり。古きは古きらしき顔したるが正直なり。月並透徹の骨隨を擁して新思想など振りまはすは馴れぬ刃物づかひ、あぶなさの至りなり。
新しく目ざめたるは歌の新しきに似たり。歌の新しきに明星派と根岸派とある如く、新しく目ざめたりと稱する教育者にも亦自ら二流相岐るるものあるか。新しきは新鮮なれども生まなり。深く徹せざれば冴えに到らず。冴えに到らず鍛へられざるは、光澤多く外面的にして外に噪がしくして内に重からず。外重内輕はハイカラの象徴にして、カラの餘り高きはポンチ繪に類す。斯の如きは極端ならんも、内に持して力となると、外に現るるの容易にして輕薄なると、兩者岐るる所自ら在り。此の岐れ目、實は生得生來にして後入的に如何とも成し難く、或は兩者はじめより根本的實質の相違あらんと思はるれど、志す所によりで幾分の變化を來さざるにあらず。吾人の仰望する所は百世の下吾人を(153)威壓するに足る大威力の出現にあり。斯の如き力を仰望する心は殆ど戰慄の態度より出づ。官能の追從といふ如き生ま温き心は之を相距る千里より遠し。鍛ふといひ、緊まるといひ、集中すといひ、冴えに入るといふ、言容易にして道容易にあらず。輕易に考ふれば即ち表面的覺醒に終らんとす。明星派、根岸派は教育者に於て問題とするに足らず。問題とすべきは覺醒の道如何にあり。予は只歌の流派を以て之を比喩したるに過ぎず。教育者中亦自ら三種類あらば、自己の居る所の何れなるかと、更にその道に於て自己の到る所那邊にありやを反省すべし。輕々しく自己を許して高慢に振舞ひ、放縱に行使し、平氣に經過せば、三者その何れに居りとも生涯の到る所知るべきのみ。言ふ心は自ら許して他を規せんとするにあらず。自他を通じ、すべて人類の生活を通じてこの事唯一重要の鎖鑰なるべきを信ずるが故に言及するものなり。
(大正七年「信濃教育」十一月號)
(154) 青年教育
實業補習學校に實業科を重くするか、普通學科を重くするか、訓育を重くするかといふ事多少の問題となるべし。青年の多くは日常主として實業に携はるものにして、實業に携はるものに實業の知識と技能を授くるは恰適の事にして、青年要求の一部は如何にして物を得んとするかに在ること當然なれば、當然の要求に對して之が啓發をなすは實業補習學校當然の務めなりとすべし。殊に實業科目の實習は知識技能の習得なると共に、直接なる心身の鍛錬なるに於て訓育の重要なる一部をなすもの、生まぬるき實習によりて、生まぬるき習慣を醸成せざる限り、過多の實習によりて實習の反抗心を惹起せざる限り、實習の精勵を低級なる名譽心等より搾り出さんとして、外面的興味多き青年を作り出さざる限り、實習の結構なるありて不結構なる所なし。これに關して、當局は如何なる實業科目擔任教師を實業補習學校に供給せんとするか。普通教員より選抜して特に實業科を習得せしむるの企劃は、實業補習學校の性質上最も適當なる道ならんも、その選拔は少くとも一般教育者より輕視せられ(155)ざる程の教員より擧げられざる可からず。
然れども、物を得んとするは、青年の要求する全部にあらず。心を得んとする要求は青年時代に至つて初めて自發的に發生する要求にして、その要求の熾なるや或は物を棄却して顧みず。或は一身の生命を棄却するさへ顧みざることあり。この心危險なるが如くして實は然らず。社會の進歩改革は斯樣なる心にのみ胚胎するものにして、斯の如き心を保育し鍛錬してこそ世に沈滯の惰氣を鬱積せしめざるを得るなれ。大凡世の人老年に至るまで皆この心の失はれざらんには、現世の醜相即ち影を收むるに足るべし。斯樣なる心を厄介視するは何れも斯樣なる心の遺失者にして、この遺失者相率ゐて現世情弊製造者となりつつあるなり。嘴黄ろしなどといひて人を冷視するもの概ねこの圏内に入れり。青年者が心を得んとする要求は物を得んとする要求と相俟ちて重く、或は物を得んとする要求よりも重く、猶或は物を得んとする要求を放棄せしむるまでに重し。この要求を知らずして漫然青年教育に盡瘁せんとするもの、力瘤を入るれば入るるほど青年の心を悖離せしむるに足るべし。即ち青年者に心を與ふることは、物を與ふると共に重く、或は物を與ふるより重く、或る場合は物を與ふることを顧念し得ざるまでに重し。大凡今の世に缺乏せりと做さるるは、物にあるか、心にあるか。物にありとするは見られ易く、心にありとするは見られ難し。繁忙の世の中各人深く心の中に立ち入るの餘裕を有せざるためなり。目先きの事に興味を有し、外形の成立に全力を擧げ、事功を急ぎ結果を重んず(156)るの風潮、要するに物を見るを知りて心を見るを知らざる現代の趨勢に屬せり。この趨勢の中に人と爲りたる現代青年も同じくこの風潮の浸潤を蒙り、青年にして青年特有の心を失はんとするもの少々にあらず。老年者の俗化猶忍ぶべし。青年者の俗化に至りては事未來社會の生命に關す。實業補習學校に於て心を用ふる所必ずこの要樞を逸すべからず。飜つて思ふに、現今教育者は社會に向つて何を求めつつありや。青年に向つて何を求めつつありや。あらず、自己に向つて何を求めつつありや。求むる所は物か心か。心とは外的結果を求むる心か。内的覺醒を求むる心か。物を求め心をも求むるといふはよし。自己に求むるといふ心が、往々にして覺醒せる青年輩の嗤笑を招くが如き奇觀なきにあらず。斯の如き教育者が自ら進んで青年教育に力瘤入れんとするといふ。生徒にも教師にも氣の毒の感を催す。
抑も青年が自發的に心を追求するは、多く性の差別を自覺するより起る。性の覺醒は青年期に於けるすべての心の覺醒する源泉なり。興味が家庭内より家庭外に移る。これ社交的興味の初めて發動する所にして、社會的問題と人生問題とに對して希望と懷疑、恐怖を生じ、茲に初めて自己内心に眞劔なる幾多の問題を生じ來る。社會制度問題、倫理問題、哲學問題に眞面目に觸到し、藝術、宗教に眞摯なる敬虔心を捧ぐるに至るは、その萌芽ここに胚胎するものにして、これに對する教育者の理解が眞に青年内心の動きと合致するに於て、初めで眞に青年の心を訓陶し、指導し、鍛錬するを得べし。(157)元來青年の發動する一切の心は純粹なれども生まなり。熾盛なれども形を成さず。生まなるを鍛へ、形を成さざるものに嚮ふ所を知らしむるは、眞に青年の心を理解し、青年の心に同情を有するものにして初めて成し能ふ所にして、生まなるを見て一概に之を斥け、形を成さざるを見て無下に之を危險扱ひするが如きは、扱ふものの心、扱はるる者の生氣と相通ずるものなく、固定し、硬化したる心を以て生々しく發動する心に對するに依る。生々しく發動する心を不眞面目に了らしめ、自棄に了らしめ乃至一定の型に當て嵌めて、社會進展の芽を摘むを以て安全となすもの教育者にも多く、要らぬ所にまで忠君愛國を振り廻す阿世の學者にも多し。一例を以て言へば、教育者の會合にはよく「生徒に小説を讀ましむる可否」とか「生徒讀物の取締り如何」などといふ問題出づ。讀みものの取締りといふは多く小説類の取締りにして、教育者はよく小説の取締りを云々しながら今日迄未だ一度も小説を讀む事を取締り得たるを聞かず。彼等の取締り得たりとなすは、寢室や抽出の底にある小説を知らざるがためにして、況して家庭の本箱に重ねられたる小説を知り得る筈なし。斯の如く愚かなる問題の教育者の心を惱すは畢竟教育者が青年の心理を解せす、今一つは小説の何物なるかを解せざるに出づるものにして、眞に生々發動する心が文學、藝術、宗教に向ふは當然の心理にして、左樣なるものに向ふ心を訓へ導き錬り鍛へてこそ、眞箇人生の問題に對して眞面目なる青年を作り得るなれ。小説を讀む可否などいふ事噴飯に値するほどの事にして、試みに左樣なる人に向ひて、繪を見るの可否如何(158)と問はば何と答へんとするぞ。繪にも高きあり、低きあり、緊まれるあり、だれたるあり。高き心性の糧たり得べき繪あれば、低級なる心を誘起するに足る繪もあり。左樣に樣々なる繪を一括して「繪を見る可否如何」など問ふものに常識ありや。小説亦然り。某々作家の小説如何といふ如き價値問題より入りて、小説と青年との關係を考ふるは條理あれども、すべての小説を一括して青年教育上の問題となすが如きは、その事自身すでに教育者の常識を議するに足る。予は青年に小説を讀ましむべしと説くものにあらず。只既に小説を讀み居る青年に對してこれを指導し、これが心性を陶冶し、鍛錬するの機會となすべきを言ふのみ。予或る時某學校に行きしに、生徒書籍館中に小説類澤山あり。教師やゝ得々として己が開けたるやり方を示すに似たり。誠にその小説を取つて閲すれば多く低級なる享樂的小説なり。この享樂的小説を生徒に如何なる方法にて讀ましむるかを知らざれど、斯の如きものを選擇して生徒に許し得る度量の宏恢なるに驚けり。教師の自己に要求するもの高くして、小説に求むるもの亦從つて高く、小説に求むるもの高くして、生徒に讀ましめんとする小説も亦從つて嚴密なる選擇を經べし。常に嚴密なる選擇を經るのみに止まらず、斯る小説に對し更に嚴密なる價値批評を以て生徒に臨まざるべからず。これを指導といひ、心性の陶冶といひ、鍛錬といふ。眞面目なる青年といふは斯の如くしてはじめて生れ得べきなり。これは小説を一例としたるに過ぎず。すべての藝術問題、倫理問題、社會問題その軌一のみ。
(159) 予ははじめに實業補修學校に、實業學科を重くするか。普通學科を重くするか。訓育を重くするかと言へり。如上述ぶるものは主として實業學科と訓育問題に關せり。而して普通學科に至りては人間終生の智識的基礎を成すものにして、殊に讀書の樂みと讀む力の大成とは、終生に於ける智識攝取の關門をなすもの、單に智識に止まらず、すべて人類最高の活動は盡く記録となりてこの關門より攝取せらるべし。その關門の大成は實業補習學校に於て殊に重きを注がれざる可からず。何となれば實業補習學校生徒の大部分は、それ以上の學校に入りてその關門を更に築き上ぐるの機會なきものなればなり。この關門よりは一生涯を通じて實業の智識も入り、藝術問題も倫理問題も宗教問題も入り來るべきに於て尤も忽且に附すべからず。實業補習學校の内容中何れに重きを置くべきかを考ふるに於て以上述べ來りし事どもは、少くも教師考量の中に置かれざる可からざるを信ず。
(大正七年「信濃教育」十二月號)
(160) 鍛錬と徹底
レオナルド・ダ・ヴヰンチは親の臨終に際して刻々に變りゆく親の面貌を寫生したさうである。藝術に臨むに、之までに徹底した態度になることは、異常の天才か、異常の鍛錬を經たものでなければ到り得ない所である。ダ・ヴヰンチの藝術を尊敬するものは、その藝術の底にこれだけの態度が潜んでゐることを了得すべきである。親の顔を寫生したといふ事實の了得をいふのではない。親の顔を寫生するほどの心の調子(即ち藝道に對する態度乃至信念)を、ダ・ヴヰンチの藝術品から了得すべきであると言ふのである。藝道に立つて親の臨終の顔を寫生する心は、武士道に立つて自ら子の墓を掘る乃木將軍の心である。泣かぬ心は泣いて居られぬ心である。泣いて居られぬ心は、泣くより以上のものに全心を注いでゐる心である。左樣な心の状態は異常の鍛錬を經て罕に到達し得る所で、多言、多能乃至自然心の發露などでは押し付かぬ領域である。藝道に立つものこの消息に觸るる時、初めて多く言ふを憚り輕々しく行ふを難んずる心を生ずべきでゐる。永久の徹底は常住の鍛錬であり、常住(161)の鍛錬は終生の苦業である。座上の議論ではない。この點に於て現在日本の文藝に於ける思想傳播者は、容易に體得し、容易に行ひ、容易に言ひ、容易に傳へんとするの傾をもつてゐる。
文藝に於ける自然主義の運動が初めて日本に現れた時、その傳播者とその信者とは、如何なる行動の威力と、如何なる作品の感化を日本の文化に寄與したか。上滑りの通過に馴れた日本の文學者は、現今日本文藝の基礎として自然主義の寄與を認める事を多く知つてゐるけれども、その自然主義の寄與なるものが幾何自信的のものであり、徹底的のものであつたかを省察せんとするの念がない。或る自然主義唱道者は自ら家庭を破壞して一女優と共に新劇の創始に從事した。新劇の創始を以て唯一最高の自己性命と信ずる場合、最高の性命のために自己の他のものを犧牲とするは已むを得ざる所である。眞理に到達せんとする爲には自己の何物をも抛つの覺悟あるを以て徹底的態度なりとする。そのために自己の家庭をも抛たんとする心は、異常の場合必しも容せない心ではない。釋迦入山の心は異常の場合に際して家庭を放抛せしめた。梅田雲濱等の報公心は異常の場合に臨んで同じくその妻子を放抛せしめた。併し乍ら、この一文學者の家庭を破壞した心を釋迦乃至雲濱等の心に比せんとするには、その前に考察すべき幾多の條件あることを何人も見遁さぬであらう。予は夫れらの條件について今此處に巨細に説述するを控へる。只予はこの自然主義者が藝道に對して眞箇大發起心の徹底があるならば、藝道のために何等かの權威を日本の人心に立て得たであらうと信ずる。然るにこの自然主義(162)者の新劇創始なるものは、幾くならずして先づ第一にこの女優の矜慢を傳へた。夫れと共にこの女優の藝品漸次低下することをも傳へた。(この女優の藝術の最高潮を示したのは「マグダ」劇乃至「廿世紀」劇であることは多くの人の認むる所である。一文學者と同棲したのは夫れ以後である)一自然主義者はこの女優の藝術に畢生の性命を托してゐる筈である。畢生の性命を托してゐる女優の藝術心の漸次低下せしが眞でゐるならば、之を如何なる事情のもとに置くも、低下の責任若くは低下に隨つて生るる責任は殆どこの自然主義者の負はねばならぬ所のものである。その責任は第一に自己の性命に對する責任である。第二に一女優に對する責任である。それと同時に破壞されたる家庭に對する責任である。第三に社會に對する責任である。
元來男性の女性に對するは、極度まで壓服し得る威力を備へなければ、女性の心理に緊張の持續を求むることは六ケ敷いものである。この威力の上に繋がるる愛によつてのみ女性も生き、男性も生きる。威力のない所に結ばるる男女は兩者とも放肆者乃至弛緩者として遺るを自然とする。(これは更に詳説を要する)男性の女性を愛するは皆ある。女性に對し絶對の威力を持し得るは、只男性がなす自己性命鍛錬の意志力より來る。之を一自然主義者より言へば、新劇に對する自己性命の鍛錬である。鍛錬の工夫緊張する間自己の性命を托してゐる女優に矜慢の心を生ぜしむるが如き放肆の現象を來す筈はないのである。萬一左樣な現象が生れたとしても、夫れはこの自然主義者の自己性命鍛錬の意力(163)を以て何等かの處置が其の間に行はるべきである。この自然主義者は已に自己の家庭を破壞した。家庭の破壞乃至自殺の如き異常事は、意志の最強者もなし得、意志の最弱者もなし得る所である。この自然主義者の家庭を破壞したのは、意志の強きより來りしか。意革の弱きより來りしか。形より見れば自己の主義のため異常事を敢てせりと見え、結果より見れば疑問多くして氣の毒の感が餘計になるのである。近來この文學者を以て、日本に於ける徹底的自然主義者なりとして擧げるものがある。日本は古來内面的心性の鍛錬に於て幾多の經驗を有する國である。從つて自己の信念に對して徹底的態度に居ることに於て貧しからざる經驗を有する國である。さやうな國に住する吾人の面前にこの一文學者を立たせることは、末世なれども吾人の興味を惹き起すに足らぬ所である。
日本に於て自然主義が文藝上の運動として構造せらるる以前にあつて、自然主義者の唱ふる所を實行したものは子規である。子規の生涯と其の作品を見ればこの事明瞭である。只子規は單なる自然主義を以て滿足出來なかつただけである。自然壬義の科學的態度より來る理智的根據の上に立つに於て徹底的であつたと共に、左樣な根據の上に、猶著しく自己の個性を作品の上に築き上げた所に、單なる自然主義との相違を現してゐる點は寧ろ後期自然主義者に似てゐるのである。併し乍ら、現時文學者の所謂「自然主義の洗禮」なるものを最も徹底的に通つたものは子規である。自然主義唱道者は聲を大にして西洋傳來の自然主義を唱へる時、その背後に鮮やかなる自然ま義實行者の居る事を知らな(164)かつたのである。それだけ日本に於ける自然主義者の足もとは浮いてゐたのである、足もとが浮いてゐるから大聲を出すのである。内的鍛錬者と徹底者とは容易に大聲を擧げないのである。近來佛蘭西から傳統主義を輸入した文學者がある。この文學者の群も足もとに眞劔なる傳統主義者の居ることを氣づかないでゐるのである。元來何々主義などいふものは各人内心の覺醒に根ざして自ら現るるものを本體とすべきであつて、他人の唱道を取繼いだ主義などは實は何うでもいいのである。各人各自の覺醒がある。各國に各國の覺醒があつて其處に相通ずるものが自ら存すべきである。徳川家康が武田氏の舊臣横田甚右衛門を召して色々武田氏の兵事について問うた時、
武田家にて鏃をゆるく詰め候は、敵の肉の中に鏃殘らんためなりと申すを聞し召し、士の軍に臨むはみなその君のためぞかし。射伏せたれば吾が軍の利となるべし。後まで人を苦しむるは、不仁の業にこそあれ。今日より我が家の士は、鏃を堅く詰めよと仰せ出されけり。(常山紀談卷九)
とある。兵事に人道を説きはじめたのは強ち西洋の國ばかりではない。内心覺醒の眼を開くところ、道は古今に亙り東西に通じて揆を一にすべきである。
元來東洋人は内に穿つもの深くして、却つて外に現るるものが簡約になるの傾向を有してゐる。從つて外を約して内に穿つを修養の工夫とするものが多くある。外簡にして内に深からんとする修養が東洋人を鍛錬的に馴致した事は東洋思想を考へる上に必ず見遁してはならぬ要點である。孔子の「仁(165)者その言や※[言+刃]」といふもの「一箪食一瓢飲云々」といふもの「寢不v尸」とするもの、何れも鍛錬的工夫の現れである。佛教に至つては更に鍛錬的色調を濃くしてゐる。内面的の悟道は常に外面的の簡約と相伴つてゐる。儒教佛教の二つの大きな教義を生んだ東洋人の修養が鍛錬的であり、鍛錬の到達が内深外簡にあつたことは當然である。この故に繪畫には「一墨五彩を分つ」といひ「墨を惜むこと金の如し」といひ「張呉の妙、筆纔かに一二、像は已に應ず。云々」と言うてゐる。東洋思想の鍛錬的であり、簡約的であることが分らぬうちは、東洋の繪畫は解することが出來ぬのである。啻に繪畫に止まらない。東洋の短詩形を解する亦同樣である。芭蕉の俳句の如きは、東洋的に鍛錬せられた詩の極致である。斯樣な鍛錬の歴史を有してゐる東洋人乃至日本人の中で、一文學者が一女優と新劇を創始したからといつて、その内面の鍛錬程度と、徹底的程度とは容易に日本人の商量する所となるのである。女優と新劇を創始するといふ事實を云爲するのではない。創始するの態度――心の調子――を云爲するのである。日本には武士道がある。頗る頑固なものであるが、東洋的大陸流と日本的島國流と融化し合致してよく日本人の特徴を現し、且つ甚しく徹底的なものである。現今の日本人はこの武士道によつて鍛錬せられたものの子孫である。これをおろそかに思つては済まぬのである。江戸時代の武士道が庶民に移つて侠客道となり、消火道《ひけし》となり、博奕道とまでなつてその鍛錬が一般民衆に沁みこんでゐる。武士道の態度の極意は徹底道であり、簡約道である。簡約道に馴致せられた日本人は(166)何時まで西洋人と交際しても握手や接吻は上手にならぬのである。握手や接吻の上手にならぬ所が、日本民衆の根柢から鍛錬的心状に住してゐる證據である。日常些事といつて見遁してはならぬのである。左樣な中で女優と同棲などしても、單に夫れ丈けでは日本人は何とも思はぬのである。自然主義の權威は斯樣な所からは生れて來ないのである。予が一自然主義者について云爲するのは一般文學者の唱ふる主義なるものが信念的でなく、從つて鍛錬的でなく、從つて徹底的でなく、從つてその言動と作品とが日本の文化に貢獻するもの甚だ稀薄でゐることを言はんがためである。一月一日
(大正八年「信濃教育」一月號)
(167) 松井須磨子
予の前文を認めたのは一月四日から五日にかけてであつて、丁度松井須磨子の自殺した當日であつた。五日夜信濃で發刊する雜誌の編輯を了へ、六日朝原稿を信濃毎日新聞社の印刷部に渡すために同社に入らうとする時、社の前の掲示板を見て初めて須磨子の死を知つたのである。予の手は原稿を持つてゐる。予の眼は須磨子の死を報ずる新聞紙を見てゐる。予の心は甚しく動いたのである。予の須磨子に對して更に一文を書かうとするのは、已に前文を認めて信濃の雜誌に公開した以上、當然附加された予の責任であるといふ感が予の心を多く占領してゐるからである。
須磨子の死は予をして前文の意を改めしむるものではない。併し乍らその死は前文の議論に關聯してゐる。彼は一種の天才であつた。異常の場合に異常の態度になり得るばかりでなく、その態度を長く持續し得る意志力をも有してゐたのではないかとも想像される。彼の死が全く島村氏の死に殉ずるの心であり、殉死の決心が島村氏の死せる時になされたものであるならば、彼の心は予の想像以上の(168)意志力を持つてゐたのでないかと思はれるのである。決心より決行までの時間が二箇月ある。この二箇月間に働いた彼の心理は何人も窺ふべからざる所で、同時に何人も想像せんとする所である。予は彼の死よりも、この二箇月間に於ける彼の心的過程を重しとして彼を考へるのである。この間に於ける彼の行動は予は新聞紙によつて聊か窺ひ得るほかの材料を有つてゐない。
それは(一)島村氏の死後常に死を口走つてゐたこと及び死ぬべき方法について研究してゐたといふこと。(各新聞)(二)島村氏の死後家内身邊のものに接する態度が物優しくなつたといふこと。(各新聞)(三)劇の經營のため内部に樣々の苦心が存したといふこと。(各新聞)(四)藝術座の經營が某會社の手に移つて劇の役割其他についても島村氏在世當時のやうな我儘が利かなくなつたといふ事。(各新聞)(五)最近某文士との關係につき世評に上つた事ありといふこと。(各新聞)(六)一月一日よりの有樂座出演に初日より屡々台詞を誤りしこと彼の前例になきことなりし事。(萬朝報所載中村吉藏氏談)(七)死ぬ晩まで有樂座に出演して劇場よりの歸りがけも人目につくほどの素振りがなかつたといふ事。(各新聞)(八)死ぬ二晩前に舞台監督畑中蓼坡氏に死を語つたから、畑中氏は、彼女《あなた》が殉死すれば世界の名女優になつたでせう云々と言つたことのある事。(國民新聞)(九)島村氏葬儀の時白無垢姿のまま齋場に泣き倒れたのを無理に著換へさせて直ぐ明治座へ出掛けた時彼は涙の干かぬ頬に化粧して舞臺に立ち乍ら緊張した藝を見せたこと。(國民新聞所載長田秀雄氏談〕(一〇)死ぬ夜有樂座の樂屋で平素より機嫌よく煙草の唄やバーの歌を獨りで唄つてゐたこと。(萬朝報所載田村一郎氏談)(一一)死ぬ夜樂屋で今夜厚化粧をしてゐるのが分るかと笑ひ乍ら意味ありげに話した事。(時事新報)(一二)死ぬ二三日前から持病のヒステリーの高まつてゐたといふ事。(東京朝日新聞)(一三〕彼の死は島村氏との約束であつたらしいといふこと。(時事新報)(一四)平素彼の精力は絶倫で男優がへト/\になつても彼は氣の濟むまで稽古をつづけてゐたこと。(時事新報所載中村吉藏氏談)(一五)松代藩士の女であること。(一六)彼の年(169)齢三十四歳であること、等である。
凡そこれらのものは彼の二箇月前から自殺當時までの心的過程を窺ふに皆必要の材料であるが、是等の材料を綜合して直ちに予の判案を彼に加へんとするは予の躊躇する所である。若し彼の死が二箇月前に完全に決心せられ、二箇月間に於ける彼の行動は島村氏死後の整理と遺志の繼承とに費されたものであるとしたら(或は夫れに近いものとしたら)彼は非常なる意志力所有者である。心中早く死を決しつつ猶藝術家として舞臺の上に「カルメン」や「肉店」を演じてゐる彼を想像する時、彼は丈夫以上意志力所有者として吾人の心に映るのである。縱令、夫れ程の意志力所有者として彼を許す能はず、二箇月の後に至つて種々の事情から島村氏の死を追ふの決心を確かにし得たとしても、彼の死は彼の現存境遇の上より、女として擇ぶべき道を擇んで夫れを斷行し得たと言はねばならぬ。
彼は元來藝術家として、多力者たり得る素質を有つて居た人のやうである。併し乍ら之を充分に活し鍛へて眞の多力者となすは、非凡の男性でなければ能くし得ない所である。その點に於てこの女性が彼の短い生涯のうちで、偶々逢ひ得た男性が彼女のために釣合ひを保ち得たかの疑問なることを深く彼のために惜むのである。一月十二日
(大正八年二月「アララギ」第十二卷第二號)
(170) 遠近
予は然るべき人に逢ふごとに、日本の學府へ歐米から留學生をよこす時がいつ來るかといふ事をきいてゐる。或る醫學者は帝國醫科大學の設備が今よりズツと宏大に完備してゐれば、醫學に於て向うの留學生を入るること今日にても強ち困りはせぬと言うてゐる。つまり留學の研究は方面により歐米に比して少くも遜色なきまでに至つてゐるが、研究の設備に於て第一に規模が狹くて困るといふのである。設備の規模が狹いために外國の留學生を入れることが出來ぬとしたら、夫れは甚だ殘念なことである。日本の國費は今後左樣な所へ多く費されねばならぬ。帝國大學は政府と國民の注意を喚起することに力を盡すべきであり、政府と國民とは今後斯樣な所へ國力を注ぐことが日本の使命を世界に行ふの一端であることを考ふべきである。高等學校、専門學校を劇増して教師の供給に危惧を感ぜしめるやうでは日本の學問も總體に未だ規模が小さいのである。規模の小さいのは今迄斯樣な方面に國力を費すことを閑却した爲政者乃至國民の責である。或る理學者は外國の留學生を帝國理科大學に收(171)容する前にも少し理學者の數を日本に増すことに力を入れねばならぬというてゐる。現在の日本に個人として世界的に立派な理學者がないではない。只理學者の數が少いために大規模の研究をすることが出來ぬ。研究の規模に於て獨逸などに及ばぬ所以であるといふのである。も一つは縱令費用が許し人數が許して大規模の研究に從はうとしても研究に使用する精緻な器械が皆獨逸から供給を仰がねばならぬ。秤の如きものにしても日本の鍛冶屋が如何に骨を折つても獨逸製に代るべき精緻な秤を造ることは出來ない。もし獨逸製の秤を輸入することが出來ぬとしたら、日本の大學では第一に鍛冶屋の養成から掛らねばならぬ。そのためには工科大學に大きな費用を投ぜねばならぬ。場合によつては死馬の骨を千金で買ふほどの意氣込を以て取り掛らねばならぬ。夫れほどの意氣込を以て取り掛つても今早速精緻な器械を造り出すことは出來ぬといふのである。日本が果して今後その使命を世界に行ふの抱負があるならば、今より力を盡すべきの奈邊に存するかを思ふべきでゐる。夫れにつき思ひ出すことは、一昨年慶應大學に醫科を新設する時、植物學擔當の先生が植物學教室の設備につき費用は何程かかつても構はぬから充分に役備するやうにとの囑託を受けたけれども、第一に必要な顯微鏡のレンズが戰爭中で得られぬ。日本製は駄目である。米國製も英國製も獨逸製に及ばぬのである。この先生の當惑してゐることを直接に聞いたことがある。今世界は擧つて獨逸を惡んでゐる。夫れはよい。惡むのはよいが輕んじてはならぬ。あれだけの暴虐を敢てした獨逸が一旦惡い夢から醒めて世界の平(172)和の爲に力を合せて來たら何うであるか。世界の文明を眞に築き上ぐべき多力者の一は獨逸である。これは單に秤器やレンズに就て言ふのでないこと勿論である。科學、哲學、文學、藝術すべてのものに亙つて從來の獨逸は世界に優越の地歩を占めてゐる。不日媾和成立して世界が平和に歸した時、今日の戰勝國は今日の戰敗國から文明の賚物を受けねばならぬことを考ふべきである。平和といひ文明といふ。固より結構であるけれども單に夫れだけでは抽象的の概念である。如何なる平和、如何なる文明であるかを規定する具體的内容によつて初めて平和と文明の價値は商量されるのである。概念を振り翳すのは寧ろ容易な事である。具體的の現れに至つて事が容易でないのである。誠意と共に刻苦が要り鍛錬が要り勤勉が要る所以である。多數力と經濟力で敵國に勝つよりもこの事容易でないと考ふべきである。ウヰルソン大統領が國際聯盟、海洋自由、民族自決を唱へ出したのは、世界の平和と文明を促進するに於て非常に慶賀すべきであるけれども、單に夫れだけの聲明では總論である。これが各論たるべき内容の氏に於て如何なるかによつて國際聯盟、海洋自由、民族自決を唱道する價値が眞箇に決定されるのである。自國の領土を開放するの決心を示すに於て全世界的民族自決の唱道は意義を生じ、力を生ずる。(可否は別問題である。)海軍大擴張案を撤去するの決心を示すに於て國際聯盟、海洋自由は意義を生じ、力を生ずる。グワム島の海軍設備を撤去する事に依つて日本をして南洋諸島に軍備を置かしめざらんとする意義と力とを生ずる。人種的差別取扱の撤廢は現在の世界に於け(173)る重大なる問題である。斯樣な重大問題が、民族自決問題と共に當初よりウヰルソン氏によりて唱道せられざりしを氏のために遺憾とする。西比利亞鐵道の管理權を新に米國に於て得ようとした提議が眞であるならば、夫れは現今ウヰルソン氏の提唱する十四箇條の原則と如何なる關係を有するか。支那南方派に交戰團體たることを認めんとして日本の抗議を受けたことが眞であるならば、交戰團體たるを認めんとしたことが支那のために忠實であるか。認むることに抗議した日本が支那のために不忠實であるか。斯の如きは今囘の媾和問題と自ら分れて居るが、氏の今囘の提唱が如何ほどの心理的徹底に立つてゐるかを商量すべき具體條件は、自から存すると言はねばならぬ。そしてその條件は氏の今後に執るべき態度によつて結論を得べきであつて、今俄に之に決定的批評を加ふるは輕卒である。人苟も神ならざる限り、完全なる徹底を期するは無理である。氏の唱道に徹底せざる所あらばそは氏の神ならざる所以にして、徹底せざる所を除き徹底せんとする努力を助けて人類のため結構なる氏の唱道を大成すべきである。眞の徹底は多力者でなくてはならぬ。多力者は多言者ではない。刻苦者であり、鍛錬者であり、勤勉者である。この點に於て日本人は自己の使命の今後更に重大なるを覺悟せねばならぬと共に、戰敗國獨逸民衆の刻苦に堪へ、鍛錬に堪へ、事に當つて勤勉なることを參考とせねばならぬのである。大戰亂の責任者として彼を惡むはよい。彼を輕んじてはならぬ。ウヰルソン氏の提唱を賛するはよい。若し、ウヰルソン氏乃至米國人の徹底せざる所あらば、その原因如何と考ふ(174)べきである。ウヰルソン氏の提唱に對して日本の意向の不明なるを慨する人がある。日本の意向の不明ならば不明の内包如何と省察すべきである。もし日本の舊人が駄目といふならば新人自ら力を蓄ふるの工夫をすべきである。力を蓄ふるに於て日本人は寧ろ獨逸人に似てゐる所があるのである。今後世界の平和と文明に貢獻する所の多力者中日本人と獨逸人(改悛したる)は必ずその一に居るであらうと信ずるのである。輕薄なる國民は斷じてこの間に居るを容さぬ。
日本人は多力者たり得る歴史的素質を持つて居ること前に述べた如くである。併し乍ら今日に於ては到底未だ世界に於ける多力者ではないのである。少くも我國へ歐米の留學生の來る頃を待たねばならぬと思ふのである。その時になつて外國人が眞に日本乃至東洋の古來の文明を研究し始めるのである。彼等は日本語が必要になるのである。假名遣ひ法が必要になるのである。漢字が必要になるのである。東洋の宗教、藝術が理解され始めるのである。東洋の短詩形が理解され始めるのである。人麿の歌や芭蕉の俳句がそろそろ分つて來るのである。遠い遠い向うのことである。その頃になつて日本の新人が慌てて自國の文明を研究しはじめるのかもしれぬ、遠い遠い向うのことである。近頃西洋人が日本の浮世繪に興味を持ちはじめた。浮世繪等は日本の藝術中要するに低級なるものである。西洋人に眞先きに分りさうな程度のものである。西洋人が興味を持ちはじめるを見ると日本の新人たちは相率ゐて浮世繪を研究しはじめるのである。この新人たちは日本の繪畫に浮世繪以上のものが雲の如(175)く多くあることに氣づかないのである。予は日本人が自國文明の根元に氣づく時の早く到らんことを希ふ心よりしても、歐米人の日本に留學する時の早く到らんことを希ふのである。日本の使命を世界に行ふのは夫れから後のことである。今のやうに足が浮いてゐて獨逸を覗いたり、米國を覗いたりしてゐては腰の据る時はないのである。腰を据ゑてから人の領分を覗かねば人の領分もよく分らぬのである。日本人は大騷ぎをせずして先づ自分の腰を据うべきである。二月六日
(大正八年「信濃教育」二月號)
(176) 速成者速變者
明冶維新の時、眞に維新の精神を體得してゐた藩は全國中五六藩に過ぎまい。他の諸藩は多く附和雷同したのである。附和雷同でも尊いことに附和雷同したのだから結構であるが、容易に附和するものは形骸を眞似ること急にして精神の體得に到らない。自己に主とするものがないから追從するに容易であつて、操守するに困難である。明治維新は日本人の正義に對する犧牲的精神の極致に達した現れである。生命と財産と地位とを悉く放抛して自己の奉ずるものの爲に犧牲たらんとする覺悟の徹底的現れである。徽底的覺悟がなくて容易に維新の事業に追從した人々は維新の事業を容易に成立させた善良者であつて、維新精神を上滑りして通り得た輕便な人々である。明治維新が容易に成立し得たのは國家の慶事であつたが、大切な場合多くの人に上滑りをさせたのは國民的經驗から考へて惜むべしとすべきである。その弱點は半世紀を經た今の時代に顯著に顯れてゐる。明治維新を成し遂げ得た犧牲的精神は二三十年を經ずして國民の多くから忘れられてゐる。一般人民は暫く措き、今日我國文(177)化運動に參してゐる各方面の傾向を見ても此の事容易に窺ひ知るを得るのである。明治維新の際一番頑強に大勢に抗したのは會津藩である。維新以後は薩長の藩閥者から抑へられて、表向きに顔を出してゐる人は極て少いけれど、地味な方面に山川先生の如き人格者を出して教育界の權威を維持してゐる事は會津藩の徹底的精神を一人に反映し得たかの心強さを感ぜしめる。維新當時の會津藩からは時勢の適應に機敏な小才子は多く出し得ないのである。會津藩に強味ありとすればその點である。我が長野縣教育界に在りて會津藩出身の淺岡先生や渡邊先生を見ればこの事やゝ想像し得るのである。
征韓論以後日本には自由民權論が盛に行はれた。これは蔭長の藩閥者に對する反抗の聲であつたが、反抗の内面には維新精神の流れが活き活きと動いてゐた。彼等は自由民權の主張を貫徹するためには一身のすべてのものを犧牲に供して顧みないとするの概があつた。實際そのためには故國に居住するの自由さへ奪はれて外國に客死した人さへある。日本の政治思想は斯樣な人々によつてその根柢を築き上げられたのである。然るに日本に自由民權諭が唱へ出されると共に所在にこれに雷同する政客なるものが輩出した。是等の人々が憲法發布前後から團體を組織して日本の政治に參與しはじめたのである。彼等は主義宣傳者の説く所を理解し得るのみならず、國情に應じてそれらの主義の修正改變をもなし得るの能力を有するけれども、夫れ等宣傳者の内面に根ざしてゐる犧牲的精神を體得することが出來ぬ。彼等は政治的根本義から見て、矢張り形骸の繼承者である。立憲政體の必要が未だ眞(178)に國民的要望とならぬうちに勢既に到りたるが如き、機敏といへば機敏であり、上滑りといへば上滑りである。憲政の運用が出来る出來ぬなど騷いでゐるけれども、出來る出來ぬは初めより雷同者乃至雷同繼承者の與り得べき問題でないのである。今日彼等の志す所操る所を以て明治維新を成し遂げたる大精神に對せしめたら如何であるか。半世紀のうちに人は功利に走り、目さきの窮通に機敏にして自己の奉ずるもののために殉ぜんとするが如き徹底的態度は日を追うて影を没してゐるのである。
元來他人の唱ふる主義に容易に共鳴し得るといふことは、自己の内心に何等の問題をも持つてゐないといふことである。自己に何物をも持つてゐないで猶自己の存立を保たうとするには、他人の言説行動に依らねばならぬ。自己が主でなくて他人が主となる。他人は多數である。多數の唱ふる所、爲す所を見て之に適從せんとするから世の中が餘計に忙しくなるのである。要らぬ機敏者が所在に行住する所以である。この機敏者に對して犧牲的精神を求める如きは事已に滑稽である。偶々維新の大精神を以て之に臨むが如きは滑稽を過ぎた野暮の範圍である。維新の精神は斯の如くして半世紀の間に殆ど國民に忘れ去られんとしてゐるのである。
雷同者は機敏である。機敏者は速成者である。速成者は速變者である。日本の文化が如何に速成され、夫れが如何に速變されるかといふことは、更に多くの方面にその現象を現してゐる。文藝に於て自然主義が流行すれば天下の文士速かにその旗下に參ずる。印象主義が喧傳せらるれば即座に又その(179)幕中に馳せ參ずる。象徴主義が唱へらるれば象徴主義に參ずる。人道主義が唱へらるれば人道主義に參ずる。何れも一應の通り方をなし得るのである。そして主義に對する徹底者は維新以来の文學者に求めて殆ど數ふるに足らぬのである。宗教家の如何であるかを知らない。僧侶に於て峨山の死後日本に果して如何なる僧侶のあるかを知らない。新島先生、清澤先生の死後如何なる徹底的宗教家が日本に現れてゐるかを知らない。教育者に於ても然りである。新島先生、福澤先生の死後日本に果して如何なる徹底的教育者のあるかを知らない。古へ人の師たるものは、身を先じて衆を率ゐるものであつた。今の教育者は多く社會の趨勢を察して自ら之に適應することを務めとする。社會の趨勢を察するはいい。之に適應する必しも惡しくはない。只一點指導の意を存するに於て、自己の周圍を見廻すのみでは足らぬのである。自己に有するものがなければならぬのである。自己の有するものの爲に自己を抛つほどの確信がなければならぬのである。これが維新精神の根柢である。父兄懇話會を開くはいい。父兄の意見によつて自己の領分まで没却するには當らないのである。若し没却せねばならぬ勢を馴致したならば、没却された領分は自己の領分ではなかつたのである。初めより自己に空虚を存してゐたのである。自ら勢を馴致して自ら夫れに困惑してゐるやうでは教育者の權威は立たぬのである。町村にあつては町村會議員より、郡市にあつては郡市會議員より、府縣にあつては府縣會議員より、見當外れな註文をせられて夫れに從ふことも出來ず、否認することも出來ぬやうでは教育の權或は生(180)れて來ないのである。左樣な教育界から徹底的教育者を出さうとすることは當分の間六ケ敷いのである。我が長野縣の如きは、この點に於て、他地方に比して多少自主的傾向を帶びてゐるやうである。長野縣教育者はこの點に注意して自ら尊重する所あると共に、更に多く自ら養ふの工夫あらんことを望むのである。自重は自恣ではない。自尊とは大なる責任の感得に附けられた名である。自ら養ふの工夫は必しも書物よりは來ない。他人の言説よりも來ない。社會思潮の理解よりも來ない。書物よりも來り、他人の言説よりも來り、社會思潮の理解よりも來るけれども、來る所の根源は自己内心に持するものからでゐる。新しきものに直ぐ附和するが如きは速成者にして速變者の爲し得る所である。譬へば、ウヰルソン氏が聯盟を唱へたからといつて、吾々は直ぐ驚嘆するには當らないのである。唱道の徹底せりや否やを知るは後日を待つを要せぬほど明かであるからである。予はウヰルソン氏聯盟唱道當時、縣下多くの學校について聯盟に對する諸先生の感想を聽いたことがあるから之を一例として擧げるのである。世界にデモクラシーの思想が漲つてゐるといふ。世界に漲つてゐるといふことが必しも自己を動かすには足らぬのである。自己には自己の問題がある。自己の問題が主である。世界に流行してゐるといふことは客である。この主客の間には主とするものから客とするものを如何に見るかといふ問題が成り立つ丈けのことである。デモクラシーの思想に接して忽ち驚嘆の聲を擧ぐるが如きは、今迄餘り自己の問題が空虚であり過ぎたのである。人には各主とするものがある。主とする(181)ものが鞏固であれば、さう容易に改變は出來ぬものである。主とするものが誠實であれば、人世に起るべき凡ての問題は大抵そのうちに包含されてゐるものである。包含されてゐるものを進展させるのが修養の工夫である。急劇なる改變は左樣に容易に、左樣に屡々現るべきでない筈である。東京に御用學者と稱せられてゐる或る法學者がある。此の學者がデモクラシー襲來の大勢を見て、俄かに普通選擧を唱へはじめたといふので一場の笑話となつてゐる。これは極端に惡い速變の一例を擧げたのである。
明治維新の犧牲的精神が政治社會に失はれ、教育社會に失はれ、宗教者に失はれ、文學者に失はれた中に僅に生命を維持してゐるものは科學者と軍人である。科學者の仕事は地味である。それ丈け世間に知られない尊い犧牲者を出してゐる。明治維新以來日本の社會で科學ほど著しい進歩を示してゐるものはあるまい。それは皆世に現れない尊き犧牲者の成し遂げつつある功績である。或るものは日清戰爭を知らずして研究室に閉ぢ籠つてゐた人もある。或るものは兩肺腐蝕して猶顯微鏡下に癌腫の研究を繼續してゐる人もある。凡そ斯の如きは日本に於ける科學研究者の多くに通じて看取し得る傾向であつて、彼等は必しも名譽を趁うて斯の如き研究を續けるのでもない。たとひ名譽を趁うて見たところが、現今の社會では斯樣な地味な科學者に對して名譽を與へる如き興味を持つてゐないのである。單に名與のみではない。斯の如き眞摯なる犧牲者に對して豐富なる物資を供給するだけの顧慮も(182)與へてゐない。彼等は貧苦と戰はねば徹底的研究が出來ぬのである。それのみではない。彼等に存分の研究器械と研究資料を得しめるだけの物資をも供給してゐないのである。その中で彼等は深刻なる研究を續け得たのである。貧苦に苦しむに於て教育者も同じく現代に於ける犧牲者である。犧牲者であるがその割合に徹底者の少いのは如何なる譯か。教育者は科學者に比して多く世間を相手とする。從つて生活が複雜である。複雜な生活を統一して渾一の力となし得たならばその威力は大したものであらう。然るに複雜を統べて渾一なる單純に化するは非常の魄力を要する。非常の魄力の所有者でない限り複雜な散漫に終り、無氣力に終り、通俗市井の人に終るのである。この工夫最も大切な岐れ目である。教育者中から容易に權威者を生み得ない所以である。軍人は科學者と違つて世間で最も花々しい方面を受持つてゐる。花々しいから通俗者として解せられるの多きは當然であるが、花々しいと共に居常生命を對象として眞劔な覺悟の上に住せねばならぬ。通俗者として解せられながら多くの徹底者を出してゐる所以である。教育者は自分の職務が地味であるからと言つても、その中から眞の徹底者を輩出せぬ以上、花々しい軍人に對してその通俗的な所を擧げて之を嘲笑する事は出來ぬ筈である。思想問題の進否などは別である。思想などは進まないでもその思想の上に眞に徹底する方が偉いのである。思想が進んでゐても不徹底な態度に始終してゐては何等の權威をも齎らさないのである。
日本には雷同者が多い。從つで速成者と速變者が多い。一方には明治維新の犧牲的精神が追々に失(183)はれて輕薄なる功利者を多く輩出してゐる。教育者は從來如何に之に處し、今後如何に之に處せんとするの覺悟であるか。之を考ふるは空論に沈湎する徒の事とは違ふ。
(大正八年「信濃教育」四月號)
(184) 兒童自由畫展覽會につきて
山本鼎氏の指導により、小縣郡教育家諸氏の發起で兒童自由畫展覽會といふものが出來て、其の第一囘を小縣郡神川小學校に開いた。この事を新聞で知つて拜見したいと思つてゐたが、四月は特に自分の仕事が忙しくて遂その機を作り得なんだ。展覽會を拝見しないで夫れにつき物言ふことは予の爲し得ざる所である。只予は斯の如き企てが予の興味を惹くことについて多少の言を費し得るかと思ふのである。
予は畫について全くの素人である。從つて畫に對する鑑賞に自信を持たない。自信を持たないけれども畫を觀ることは好きである。予の畫を觀て動かす心は主もに好きといふ感情と、嫌ひといふ感情である。この好き嫌ひといふ感情は自分の我儘から出る感情であつて、自分から意識する標準を持つものでないから畫の鑑賞に對して自信を持ち得ないのである。
只この好き嫌ひといふ感情は、我儘であるけれども本當の自分の領分である。この領分を持つこと(185)は、この領分を持たぬことよりも仕合せであると思うてゐる。すべての試み、すべての運動の何物にも興味を持ち理解を持ち得る人がある。夫れは仕合せの樣で不仕合せの人であると思うてゐる。すべての女人が美人に見える人は、女人に對する仕合せもののやうであつて、實は女人に對して一番の不仕合せものであると同じである。
予は斯樣な筋合からして單に自分の好き嫌ひといふ我儘な領分を以て畫を鑑賞する。この鑑賞には理解の行き屆かない爲に立派な長所が一抹に附し去らるる樣な亂暴な鑑賞が行はれることであらうと思ふが、夫れは追々に予の理解を開拓することに依つて補はれ、闡かれ、進められるより仕方がないのであつて、現在の領分によつて鑑賞するのが予の眞實な道である。予は現在日本の洋畫家中にあつて森田恒友、山本鼎、安井曾太郎三氏の畫を尊敬して拜見してゐる。山本氏昨年美術院出陳の「温泉道」(予は往々題の名を忘る。或は錯誤してゐるかも知らぬ)の如きは、手先の器用や人眞似や才氣では到底追つ付かれぬ作品であつて、どつしりした重みを以て据つて居る所は所謂底力を持つた腹藝の作品である。予は自分の尊敬して畫を拜見してゐる山本氏によつて、信濃に兒童自由畫展覽會の設けられた事について興味を起したからして展覽會のために數言を費さうとする心が起つたのである。
山本氏の展覽會を起された主旨は展覽會の趣意書に明かである。趣意書は既に印刷して公示されたものであるから、拜借して茲に掲げることにする。
(186) 兒童自由畫展覽會趣意書
從來、各小學校で行はれた兒童の繪畫教育は、大體、臨畫と寫生の二方法でありますが、此處に私が「自由畫」と稱するのは、寫生、記憶、想像を合む――即ち、臨本によらない、兒童の直接な表現を指すのであります。
從來の教導によりますと、兒童は、粗惡な印刷に附せられた大人(それも多くは下手な畫家がぞんざいに描いたもの)の畫を模寫する時間が、自然から直接に形なり、彩なりを汲みとる時間よりも多いのでありますが、これはいけない事と思ひます。何故ならば、臨本に示された一本の下らない線が、一本の美しい活きた樹木の線と同じ力を以て兒童の頭に働きかけるからです。彼等はどんなものをも正直に模倣するのです。ですから、いぢけた臨本を與へれば、兒童の眼と手は、其通りいぢけてしまひます。兒童の眼を豐富な自然界の方へ誘へば、彼等の心と手は活き活きとして來るのです。これは、學齢期前の兒童の畫が大概活躍したものであることがそれを證明してゐます。
大體、兒童の畫に、大人のやうな觀照力を奬めることは間違つたことです。兒童はなるたけ野ばなしにせねばいけません。殊に美術上の教養に於て然りです。
美が師傅にのみ培はれたら竟に墮落です。將來の日本の美術及美術工藝を、臨本と扮本とで仕上げたやうな舊式な美術家の手から全然取り上げてしまふ事は、吾々の任務なのです。
一體、小學校で、算術や地理と一しよに、文章、繪畫、音樂等を教へるのは何のためでせう、――いふまでもなく、知識と併せて高尚な美の情操を涵養せんが爲です。
人類が、皆、逞しい體力と、明快な容貌と、充分な知識と、適應した事業とを有つたとしたらすばらしいではありませんか。其上に誰もが、その情致に於て、詩人であり、美術家であり、音樂家であつたとしたら、實に天國です。左樣な天國は、今日の吾々の間では痴人の夢でありますが、併し、それと反對な方向に、好んで脚をむけて居るものは一人もない筈です。それは誰も(187)が、貧乏の方に脚を向けようとはして居ないのと同じ事です。要するに人間は絶えず、産むことと育つことを欲してゐます。その二つが極めて順潮に進展する所に、健やかな文化が建てらるるものと思はねばなりません。
私は、吾々の美術及美術工藝を、最も順潮なものにし度いと思ふのです。而して、それは實に、兒童の繪畫教育から初まらねばならないと考へるのです。前にも申したやうに、大人は專ら扮本、子供は專ら臨本で畫を學ぶ、といふ舊風を一掃してしまはねばいけまいと思ふのです。
臨本を與へて、子供に眞似させるよりは、自由に、「自然」へ放牧して、彼等に産ませねばいけません。其方が大人にとつても興味ある事だし、子供にとつては有意味です。
兒童等は、自然との間に直接に繪を産みながら、ひとりでに、美を了解してゆくでせう。美とは、實《まこと》にさういふ性質のものです。性慾が、臨本を與へなくとも少年の胸に暗示されてゆくやうに、それは自然の機密なのです、深い神の知慧なのです。
其處で私は、諸君に希望するに、兒童等に自由畫を奬める事を以てし、更に、其成績を蒐めて、兒童自由畫展覽會を催す事を以てするのでありますが、此事は、昨冬、神川小學校で、私が以上のやうな趣意に基いて、一場のお話をした際に、臨席の教育家諸氏にょつて協賛され、左のやうな企が提議されたのでした。
△小縣郡各學校の兒童の自由畫を蒐めて、四月下旬展覽會を催す事。
△其成績によつて 本年秋、東京で、「小縣郡兒童自由畫展覽會」を催し自由畫の奬勵を全國的のものにすべき運動を導く事。
外國の都市では屡々此樣な催しに接します。殊に霧西亜では年に一囘ペテログラードと、モスクワで定期的の兒童白由畫展覽會が開かれ、其が集が又非常に立派なものであります。今世界で最も民衆的でそして美術的な工藝美術品は實に露西亞人の手に産れてゐるのであります。
日本は過去に富饒なる美術工藝の成績を有し、そして、今は東洋一の文明文化の集散地であります。支那、南洋、北米等へ輪(188)出せらるる、美術應用品は極めて無趣味なものであるに拘らず、大いなる額を示して居ります。私は其處に有益なる暗示を得るのです。そして吾々は、それ等の輸出品の美的價値に就て熱心なる注意を傾けねばならぬと思ひます。其範は手近い處で、輸出年額百萬ルーブルに達するといふ露西亞の農民細工であり、其處に一般的になつて居る、兒童の由由畫奬勵であります。
潮は遠きより來る。――吾々は大いなる意志の下に、兒童の由由畫奬勵にかからうではありませんか。
大正八年三月十三日 山本 鼎述
自然から受けた感受をそのまま描かせるといふ趣旨は、偉大にして深い藝術の根柢に根ざしてゐるものであつて予に何等の異存がない。從來の圖畫教授が寫生を唱へながら臨本に依るの多きは兒童の感受を規定し、束縛し、往々にして之を俗化するものである事は、畫に對して生ける生命を求むるものの直ちに心づくところである。予は明治三十五年の頃諏訪郡玉川小學校に於て圖畫及び作文の教授に寫生畫及び寫生文の必要を感じて兒童に之を試みたことがある。考へも方法も杜撰であつたため、成績を收めることは出來なかつたが、兒童に發表の興味を起させるに於て、寫生が大なる力を有することは予の經驗し得た所である。予は小縣郡教育者諸氏が山本鼎氏の企てを賛して永年に亙つてこの擧を持續せられんことを切望する。
只ここに多少の注意すべき點がある。人間は胎兒時代から成人時代までに人類の祖先から現代に至るまでの肉體及び精神の進化の順序を通るものとせられてゐる。それであるから幼兒時代、少年時代(189)のすべての動作は人類としての原始時代に近い活動である。原始時代に近いところに幼兒と少年の生きた活力と生命とがあると共に、成人の指導と鍛錬とが加へらるべき當然の餘地が其處にあるのである。この當然の餘地がある爲に、大人は子供に教へ、示し、導き、褒め、叱ることを當然とし、若くはさうすることを義務とするのである。この教へ、示し、導き、褒め、叱ることは一面より見れば、原始時代に近いものに現代の文化の斷面を示してその向ふ所を定めしめる仕事である。只如何に教へ示すかが問題になるのである。兒童の描く畫も兒童活動である以上同じくこの範圍を出ない筈である。子供の畫は原始的の活力を有つてゐる。この活力を有つてゐることは大人の及ばざる子供の命であると共に、ここにも大人の指導と鍛錬とが加へられねばならぬ事、子供の他の活動が大人の指導と鍛錬を待たねばならぬと同じである。只誰人が如何に指導し、鍛錬すべきかが問題になるのみである。此の點に於て小學校圖畫の教科書が、如何なる模範と手引きをなしてゐるかが問題になる。さうして如何なる教師がその教科書を用ひて子供に臨むかといふことが問題になる。問題になるけれども範を示すべきであり指導すべきである。これは動かすべからざる當然なことである。斯樣な點に於て小縣郡の兒童が山本氏の如きを得てその指導をうくることは稀有な幸福である。斯樣な企ては指導者その人を得なければ殆ど無價値に了り若くは却つて有害に了る。當代畫道隆盛にして新しき畫人東都に群を成してゐる。予をして無遠慮にこれ等畫人の畫を言はしむれば、或るものは小器用である。或るも(190)のは輕薄である。或るものは放縱であり自恣である。その中から山本氏の如きを出してゐることは、日本畫道のために慶賀すべきであると思うてゐた時、偶々山本氏によつて小縣郡の兒童が指導をうけるといふことは、稀有な幸福であると言はねばならぬ。併し乍ら、山本氏の指導は年に何囘の少日子である。常住兒童と居を共にする教師はその兒童の繪書に對して如何なる方法を執るべきであるか。指導か。放任か。放任は無害に見えるだけ指導よりも危い事がある。自恣に陷らしめるからである。矢張り指導は必要である。如何なる範圍に於て如何なる程度の指導をすべきかを考ふべきである。この事單に畫だけの問題でない。自由發表をなし得べき兒童の領分は皆この關係に就て考へらるべきである。訓練問題も是である。作文問題もこれである。訓練に於て放任を唱へ、作文に於て放任を唱へるが如きは、善ささうに見えてその實予は嫌である。自恣に陷るからである。二科會展覽會の或るものを見る時、予は何時も多少この感を起す。形が自由で、心に重ゐと引き締りと肅ましさが缺けてゐるといふ感である。兒童の活動の自由なるべきを自由にするのはいい。引き締むべきを引き締めねば放縱に陷らしめる。放縱の習慣が幼少にして早く馴致されたら、その兒童は一生を通じて力の獲得は出來ぬのである。この點、人の子のために恐れて懼るべきである。山本氏の指導と共に教師諸氏の指導についても更に考究して頂きたいと切望する所以である。
夫れから、趣意書を見ると、小縣郡の兒童自由畫展覽會を東京で開くやうになるかも知れぬといふ(191)ことである。東京で開いて日本的の運動にするといふこと結構であるが、これには餘程考量しつつ行はねばならぬ問題が附隨してゐるかと思はれる。それは東京の眞中へ出陳せられて、一種子供の世界の花々しい舞臺へ出るといふことが、兒童の虚榮心と關係し易くはないかといふことである。元來展覽會へ出陳するといふことが、已に外延的興味から出てゐるといへば言へぬことはないのであるが、これは文學が文字によつて社會に發表されると同じ程度のものとして許し得る事であると思ふ。併し子供はまだ社會の未成品である。その未成品の製作を社會的に發表するといふことが、兒童の如何なる興味を誘ひ出すかといふことは充分考量して行はねばならぬことと思ふ。之を帝都の眞中に出陳するについては、尚更ら愼重な考慮を以て行はねばならぬことと思ふのである。若し教師が斯の如き事を以て一點兒童の外延的興味を誘發するやうな仕向け方があつたら、之は人の子の爲に由々しき僻事である。東京の美術展覽會には一等二等などの階級を付け、若くは賞を與へて推奬することが行はれる。これは外延的興味によつて行動する心の強い西洋人から傳つて來たことであらうと思ふが、藝術の士が懸賞などによつて名譽を左右され、自らも左右するやうに考へるのは、藝術を眞劔な道に進めるべき道ではないのである。西洋の藝術は知らず、日本の藝術は今後左樣な景氣づけによつて發達せしむべきでないと信ずるのである。雪舟、大雅、崋山の畫は一生中に一度も一等賞を貰うたことはないのであつて、日本の藝術家はこの心を以て今後も進んで行くべきである。外延的興味が墮落して行(192)けば強ひて自己を誇張し強調せむとして、ベースポールの彌次になり、帝國議會の彌次になり、しまひには國際聯盟の多數決になるのである。ウヰルソン氏今次の媾和會議に於ける行動は、米國人氣役者となつて何處までも米國式を強調しようとする行爲である。外的の延長にのみ興味が進んで行けば、しまひには斯樣な墮落を來すのである。西洋の思潮を日本へ持ち來すことは結構であるが、日本は日本傳統の思想を基礎として何處までも東洋流乃至日本流の新文明を樹立して、今後の世界に寄與して行かねば世界の末路は恐るべきではないかと思ふのである。今の文明は自己の信仰をつくるよりも他人に宣傳することに力が注がれる。自己の政治思想を深めるよりも自己の政治的立脚地を如何にして世に築かうかと言ふことに苦心を費される。自己の作品を如何にして深所から穿り出さうかと考へるよりも、如何にして自己の作品を世に行はうかといふことに苦心される。如何にしてベースボールに勝たうかと焦思する結果が彌次になると同じ理窟である。談は横道に走つたけれども、外延的興味の餘りに勝ち過ぎた現代の文明は、吾々の已に弊に堪へぬとしてゐる所である。左樣な所へ思ひを致す時、現代の幼兒少年は吾々には非常なる貴重品となるのである。これらの幼兒少年が形成する將來の文明を思ふからである。左樣な意味に於て少年繪畫を帝都の眞中に陳列するといふことについて愼重考慮を山本氏及び小縣郡教育者諸氏に切望するのである。予は今病母の枕頭に侍してゐる。病母食已にお喉を通らず、全く昏睡状態に落ちてゐる。且夕に迫つてゐる母の命を守りながらこの文を書い(193)てゐること殆ど苦痛を超えてゐる。文意支離滅裂であらう。支離滅裂な文章の筆を強ひて進めてゐるのは「信濃教育」に對する予の責任を果すためである。匆忙として筆を了へること、山本氏及び小縣郡教育者諸氏には失禮であると思うてゐるが言はんとする大體は述べ得てゐるつもりである。若し足らざるは他日補ふこととする。四月三十日
(大正八年「信濃教育」五月號)
(194) 少數者
全國小学校長會關東聯合教育會等に出席せる縣下各地方教育會代表者の報告演説を聞くに長野縣より提出せる議題は葬り去らるるが多く、長野縣代表者の言議は顧みられざるを普通とするに似たり。三四年前東筑摩部會より關東聯合教育會に提議せる師範教育制度改革意見の如きは、日本現今の教育状態に對して長野縣教育者の抱持せる重要なる主張の一部を代表せるものなりしも、討議に上るや否や、一※[口+據の旁]に吹き飛ばされて跡形もなき有樣なりきと聞く。同じく一國の教育に任ずるもの、その教育の目的とする所に於て根本義の相違あるべきならざるも、之を遂行するの道に於て長野縣教育者の重要なりとするもの一般教育者に重要ならず。從つて一般教育者の重要なりとするもの長野縣教育者に重要ならざるの場合を生ずるは何の故ぞ。長野縣教育者は動機の純粹と充實とを重ず。一般教育者は結果の獲得を重ず。長野縣教育者は思想的に發達し、一般教育者は事功的に發達す。斯の如きは或は區別の明瞭に過ぐるあるべく、動機を重ずるもの必しも結果を輕ずるにあらず、結果を重ずるもの必(195)しも動機を輕ずるにあらざらんも、輕しとなし重しとなすもの事に當つて自ら岐れ、重大事に當つて往々にして大に岐るることあり。仔細に之を觀れば長野縣内にも多くの事功主義者あるを實際とすれど、事功にのみ没頭するもの往々にして動機高からず、思想低卑なるに於て縣内教育者に重視せられず。一部統治者は自己の治績を擧げんとする一心より形の整備を希ふこと急なるの普通にして、事功主義者の内心は割合に此の他社會の各方面に感應するに於て自ら恃む所を生ずるものあらんも、恃むところ自己に存せずして他に存するに於て、既に人の重視を得ず。恃む所彌々深ければ輕視せらるるの彌々加はること縣下に於て普通なり。
更に之を言へば、長野縣教育者にも結果主義者ある如く、他府縣教育者にも動機主義者あること勿論なるべきも、大體に於て結果主義者の多數なるに對して動機主義者の少數なるは日本一般社會に通ずる大勢にして、此の事常に教育社會にのみ限るにあらず。猶更に之を言へば結果主義、事功主義なるものは、現今世界に通じて行はるる實行上の主調にして、爲す所は結果として現れざる可からず。結果として現るるものは形ならざる可からず。即ち物ならざる可からず、財ならざる可からず。即ち資本主義の勝利ならざる可からず。巴里に於ける媾和會議は資本國代表者によつて容易に左右せられざる可からず。ウヰルソン氏の提唱せる國際聯盟は、ウヰルソン氏に依りてモンロー主義の認容を見るの皮肉を演ぜざる可からず。人種差別待遇撤廢問題の如きは、現今資本主義國の尤も不便とする所(196)なるに於て容易に敗滅に歸せざる可からず。斯の如く物即力ともいふべき唯物的世界思潮を形成せるものは結果主義、事功主義の偏重より來ること明々白々なり。斯の如きの傾向に対して我國が輓近五十年、同じく此の渦中に投じたるは寧ろ自然とする所にして、世界の大勢已に之に傾き、我國の大勢同じく之に伴ふの時に當つて、知らず長野縣教育者は如何なる自覺を以て獨り動機主義を持して此の間に峙立せんとするか。この事實に區々聯合教育會に於ける多勢無勢の問題にあらず。長野縣教育者の自覺は、單に對教育界といふ如き簡單なる關係に於て成立せらるべきにあらず。乃至對日本的自覺を以て終るべきにもあらず。實に對世界的自覺を以て自己を行ふの覺悟を持せざる可からず。之なきに於て長野縣教育の有する主義なるものは自信に充實を缺き抱持に徹底を缺く。
想ふに現今世界の主潮たる資本主義は各方面より崩壞せられ、若くは、少くも改竄せらるべき諸問題に接しつつあり。今後幾曲折の後、眞に歐米國民の事功主義を補ふもの、乃至改訂するものは實に東洋的動機主義ならざる可からず。日本の使命茲に存せり。東洋の宗教、哲学、文學、美術は之が爲に今日より用意せられざる可からず。言ふ所の意は、泰西の文明と東洋の文明とを打つて一丸となすの新使命を言ふなり。長野縣教育者は由來動機主義に傾くの結果、多く實業家、政治家、官吏等の抱ける思想に共鳴せずして宗教家、哲學家、藝術家等の思想に共鳴するもの多し。而して世界思潮の改造といふもの實に是等思想家の唱ふる所を以て基調となす。現今世界に瀰漫せるデモクラシーの思(197)想が自然主義と相關する所極めて密接なるを以てして其の一端を窺ふに足るべし。由來泰西の思想は實行的性質を帶ぶるに至つて多く物質的傾向を現す。自然主義といひ、社會主義といふもの、何れも極めて科學的なると共に何れも極めて物質的なり。精神的方面に於て渇仰の標的たるに足るものなし。吾人は物質を重じ、科學を重ずると共に物質のみを重ずる能はず、科學のみを重ずる能はず。現今世界民族の事功的思潮を改訂するに、少くも東洋的動機主義を加へて一丸とすべきを主張する所以にして、東洋的簡潔主義、鍛錬主義は現今の物質主義を制統するに於て必要缺く可からざるを信ずるものなり。此の點に於て長野縣教育者は西洋の哲學、美術、文學を研究すると共に眼を東洋の哲學、美術、文學に注ぐの必要あるを思はしむ。自己を主とするの自覺が本來的にして基礎的なるに思ひ到るべし。斯の如きを目して、思想上學問上の攘夷説を唱ふるものとなすものあらば謬妄なり。
長野縣教育者の立場は、現今一般教育界の趨勢に對して少數派なり。更に日本一般社會の趨勢に對して最少數派なり。猶更に世界一般の趨勢に對して最々少數派なり。多數派の少數派に對する横暴は必しも關東聯合教育會に始まらず。巴里に於ける國際聯盟の會議を見れば此の理照々たり。照々の理を知つて猶且つ自己の立場を守らんとす。深刻なる自覺と鍛錬せられたる意志を以て之に臨まざる可からざる所以なり。不平不滿は之を深く蓄ふるに於て眞の力となるべし。彼の輕卒者流往々にして事に托して小不平を洩らし快を一時に取るを見る。或は酒を仰いで騷ぎ、腕を扼して恚る。此の徒、實(198)は眞の自覺者にあらず。眞の自覺者は深く成して輕々しく發せず。堪らへ堪らへて、堪らへ拔くを得るは其の心深き自信に住するがゆゑにして、堪らへ堪らへし結果が意氣の萎靡銷沈に終るが如きは初めより自覺者の素質なきなり。抑も今日行はるる所の多數主義なるものは、一面、一個の凡俗主義にして少しく深入りしたる主義思想は直ちに衆俗の認容を得ず。深入り愈々加れば遂に孤立の状態となる。多數主義の失とする所の一なり。少數は人の不快とする所、多數は人の便とする所、即ち自己の多數者を得んことを希ふや、手段に於て擇ぶ所なし。弱所に乘ずるを知る。形容を張ることを知る。威嚇を敢てすることを知る。彌次を敢てすることを知る。彼等の心只勝利を得ることを知る。此の如きのみ。多數主義の失とする所二也。只少數者の多數者に對するは、その心何處までも眞劔にして聊かの弛緩を容さず。深刻は深刻を加へ、鍛錬は鍛錬を加ふ。之れその長とする所にして、鍛錬に堪へ深きに堪ふるは其の人初めより自己の覺醒を有し、自己の領分に安住するの自信を有するが故なり。この自信を以て鍛錬を加ふ。力の蓄積する所必ず自から發せざるの理なし。長野縣教育者の包持する所は鍛錬せられ、蓄積せられて自からに發するの力かっ少數者より多數者に對して容易に發せられんとする不平の聲か。自己を充すは主なり。他に對するは賓なり。主賓顛倒のもの到底多力者となつて世を動かすこと能はず。
正岡子規の短歌革新を唱ふるや、天下の歌人嗤つて曰く、革新といへば新しきを要す。萬葉集の古(199)きを持ち來つて革新を唱ふるは革新にあらずして復古なりと。子規頓著する所なし。病臥の晩年多く力を和歌制作に注ぐ。而して、歌人の子規庵に集るもの僅々十數人に過ぎず。少數派の最なりと言ふべし。伊藤左千夫子規の後を繼いで研鑽するもの十年餘、機關雜誌の世に行はるる終りまで二三百部を出でず。歌人或は嘲つて古典派と言ひ、「かも」仲間と言ひ、甚しきに至つては、場末の荒物屋主人の歌なりと言ふ。意、左千夫の本所場末に商へるを指すなり。予初めより教を左千夫先生の門に乞ふ。少數者の經驗は十數年に亙つて之を嘗め得たるを覺ゆると共に、多數者乃至多數者志願者の爲す所も多く之を解し得たるを感ず。予が少數者のために言はんとするの興味は斯の如きより得來れるもの、是を以て長野驗教育界に推す、或は當らざるものあらむか。敢て示教を乞ふ。
(大正八年「信濃教育」六月號)
(200) 山
平原國は地濶くして眼界が狹い。佇文して見るもの眼は地より高きこと五尺を出でず。行歩十より百に及び千に及ぶも、今の見る所前の見る所に異ならず。一里を歩み、十里を歩み、數十里を歩むも眼の高さは依然として地平線から五尺を拔くのみである。平原國に住むものは森と野の全形を見ることが出來ず、河川の流域を見渡すことが出來ず、自分の居村を一纏めにして見ることが出來ない。地が濶くして眠が狹く、物を見るは部分的散在的であつて全體的綜合的でない。土を擇ぶ隨所によく、遣を通ずる隨所によく、居を成し、衆落を成し、國を成すの隨所によくして協同し團結するに不便である。露西亜、支那の國を成すに不便にして、西比利亞の國を成すに更に不便なるは此の意味を擴大したものであり、合衆國の各州が往々にして國よりも大きな力を持つのは、國の成立ちにも因由すれど平原國の特徴を斯の如きに現したものとも言ひ得る。山地に住むもの一歩を移すは一歩の高低を成すものであり、十歩百歩を移すは十歩百歩の高低をなすものである。少しく高きに上れば一部落一村(201)を望み得べく、上ること高きに從つて一村一郷一郡一國に及び、愈々高きに從つて窮極するところがない。彼の丘より見下す所、人家の高低田園の圍繞は容易に自己部落民の居住を指呼し得べく、寸馬豆人の耕耘はよく村中誰の家族なるかを甄別し得べきが如き、丘上は部落民と部落との交接所であり山の高きは高きに從つて隨所一村一郷一國との交接所である。
山國に住むものは地狹くして行歩の上下を要し、行歩の上下に隨つて眼界が濶く、地を見る部分的散在的でなくて全體的綜合的である。山國に住むものの團結心の強いことに此の影響を除いて考へる事は出來ず、斯様な民の集つて成す國家は、地域の幾つにも區劃されてゐるに係らず團結心が強い。日本國民の團結心の強いことに、皇統の連綿、人種の一樣を説き、地勢として四面環海なるを説くは皆當つてゐるけれども、夫れ以外に日本の山地國なるを數へる人を聞かぬのは、山地に生れて山地に馴れ、馴れて山地の不便を思ふこと恰も父母に馴れて父母の小言を面倒とするに似てゐる。
山の瞰望の綜合的なるは山頂に如くはなく、山頂の瞰望の綜合的なるは山頂の愈々高きに如くはない。山頂の愈々高きはその瞰望往々地を超えて天に至り人を絶して宇宙に參する。そこに哲學と宗教が生れる。山と宗教とは靈鷲山とシナイ山以來の宿縁であり、我國にあつては寺院の山林に開基せらるるを常とする。外に高山の開かるるは役小角以來信仰の行者によつて爲されてゐる。斯くして山地の民は平原國の民に比して宗教的であり、哲学的であり、思想的であり、藝術的である。
(202) 日本にあつて長野縣は山地國中の山地國であり、一萬尺の峻峯に十指を屈するの容易なるに於て、高山國と稱するを當れりとする。長野縣人の特徴はすべてこの高山から生れてゐる。特に長野縣教育を以て然りとする。長野縣人に團結心の乏しきを言ふ人あれど、長野縣の教育者は一縣の特徴を押し進める上に明治初年から常に一貫せる保持を有し、保持する所を貫くに於て未だ嘗て足並を崩したを聞かない。或は長野縣教育者の容易に人を容さず、事に當つて諤々の議論多きを指すもあらんが、容易に人を容れざるは人に求め教育に求むる所高き所以、相互求むる所を高くするは相互に自らを高きに進め教育を高きに進むる所以にして、斯の如き團結にして初めて團結に高き意義を有する事が出來る。團結の價値は團結の内容によつて定まる。低卑なる内容を以て團結するは世上幾何もその類がある。我が長野縣教育者の目指す所は、然る種類と聊か異なる所あるが故に、團結の間に議論があるのである。議論のあるのは団結に生氣のある所以にして、生氣ある團結は數十年に亙つて渝らず、往々にして一縣の孤立をも覺悟して今日に及んでゐるのである。若し夫れ長野縣教育者の思想的であり、哲學的であり、藝術的であり、宗教的であることに至つては、之を可とするも非とするも之を如何ともすべからざる所にして、之が傾向を根絶せんと欲せば山岳と森林とを削つて海中に棄つるの外はない。幸にして天信濃の山岳を削らず、長野縣教育者の思想は高きより高きを求め、一縣の團結亦自らその意義を高めつつある。長野縣教育者は高山國の使命を自覺するに於て昨今に至つて目ざめる如き(203)迂愚者ではあるまい。
明治に至つて長野縣の山岳と日本民衆との間に、特に密接なる觸接の道を開いたのは長野縣の教育者である。特に矢澤、河野二先生の二十餘年にお亙る高山研究は、一般人に高山登攀の興味を喚起し、近年續々登山し來る多數者に對して學術に其の他に指導し稗益する所非常である。二先生は實に信濃に於ける山神である。かつて上伊那郡中箕輪小學校長以下生徒の駒ケ岳に横死した時、縣下民衆皆眉を顰めて生徒登山の危險を畏れた時に當つて河野先生は奮然自己の生徒を引率して駒ケ岳山巓を窮め、校長生徒横死の跡を弔つた。之に依つて一旦挫折するにあらざるかと迄思はれた縣下生徒登山は勢を維持し得たのである。斯の如きは河野先生にあらざるも縣下教育者のよく爲し得る所であるが、爲したるの河野先生によつて餘計に人心を定めしむるの威力を有し得たるの觀があつた。爾來縣下登山の勢は一般縣人に瀰漫し、壯者の一たび足を信飛連山に入れざるを恥づるの有樣である。加ふるに縣外よりの登山者も近時益々數を加へて夏期七八月信濃一圓に亙つて登山季節を成すの盛況である。而して四時に亙つて此の高山脈から特に不斷の恩惠を蒙つてゐるものは唯一長野縣の人々である。高山國民の長所を涵養するに於て最も思を致すべきは長野縣教育者の使命であり、教育者の自ら養ふべき所以自重すべき所以も此の使命より生れ來るべきである。登山期に當り山國民教育者の使命を考ふるは、事新しからざるも無益に終らず、之を數々するに依つて亙に新しき覺悟を加ふべきである。
(大正八年「信濃教育」七月號)
(204) 二則
人生れて親子道があり踵いで兄弟道がある。夫婦道、親子道、兄弟道が合して家庭道となり、家庭道が外に發して朋友道となり、男女道となり、郷黨道となり、社會道となり、國家道となり、汎く對人類道となる。對人類といひ、對國家といひ、對社會といふも道を行ふものは個人である。個人を離れて人類なく、國家なく、社會なく乃至郷黨なく、家庭なく、夫婦、親子、兄弟なきに於て對人類道、對國家道、對社會道、對家庭道乃至凡百無際の道すべて合して個人道に歸するのである。個人道の強く、直く健かなるは凡百無際の道強く、直く健かなるの謂ひであつて、凡百の道何等の衝突するなくして個人道の裡に包容せらると見るも妨げなく、寧ろ凡百の道即個人道であり、個人道即凡百の道であると言ふを直截なりとする。是の故に家庭道を盛ならしむるは社會道を盛ならしむる所以であり、國家道を盛ならしむるは人類道を盛ならしむる所以であり、之を總ぶるに個人道を以てするに於て意(205)義の一貫を得る。近者人類道を説くもの往々にして國家道を顧みざるの言をなすものがある。言者の迂なるは社會道を盛ならしめんとして家庭道を顧みざるの愚なると同じである。今日社會生活の單位は家庭であり、世界的生活の單位は國家である。家庭を解放しては社會は成立せず、國言えを解放しては世界は維持出來ぬのである。斯の如きにあつて國家道を顧みずして人類道を説くは、説いて人類道を破綻せしむるものである。個人道を以て之を推すにこの理義頭尾に徹して明白である。殊に現今は二十世紀の文明が既に破綻の一脚を現して、當然來るべき次期の變革を全人類の心に豫想せしめてゐる時である。斯の如き時に當つて世界に對して道を行ふものは國家である。國家の任務は從來よりも今後に於て重きを加ふべきであり、國家眞の個性は今後に於て現るべきであり、國家としての自覺も是より益々眞劔の域に進むべきである。之を我國に就て言へば、東洋文明の傳統を眞に自覺すべき機に會したのは今日であり、東洋文明の使命を一身に負うて道を世界に行ふべき機に合したのは今日である。更に之を押し進むれば、東西兩洋の文明を打つて一丸となし、世界に於ける維新を成し遂ぐるの抱負と力とを養ふのが今後日本としての意氣込であり自覺であらねばならぬのである。これ吾人が世界人類に對して行ふべき唯一の道である。彼の漫然人類道を説いて國家道を顧みざる輩の如きは、人類道を夢みるものであつて人類道に覺むるものでないのである。吾人は個人道の自覺によつて斯の如き議論の歸結に達し得るの不自然ならざるを信ずるものである。近來高等教育を修めた一部の人々(206)に國家觀念の著しく缺如してゐるを見るは、一は外來思想偏重の餘弊であり、一は開國の事情より自國文化の傳統に目覺むるの機久しく到らざりしの致す所であり、一は日本の教育者が忠君愛國を鸚鵡返しに學生の頭に詰め込んだ反動である。湯原元一氏は日本に文法なく文化なしと言つてゐる。左樣な人が日本の教育事業に携つてゐるのであるから、學生に自國文化の自覺を求めるのは無理かも知れぬ。教育者已に國家的に無自覺であり、無自覺でありながら猶且つ忠君愛國を鸚鵡返しに詰め込むを日課としてゐるのであるから、學生には滑稽に感ぜられ、滑稽が續けば五月蠅くなり反動となるのは已むを得ないのである。併し乍ら反動は永續せず、無自覺が自覺に進む時偏重の改變せらるるは自らその時が到るべきである。もしその時が到らなかつたならば日本は國家として庸劣であり、從つて人類道に對して何等の寄與をもなし得ないであらう。
ウヰルソン氏が人道主義を標榜して國際聯盟を唱へた時、吾人は氏の提唱なるものが世界に於ける國家の成因とその經歴を度外視してゐる點に於て氏の言ふ所の果して眞面目であるか、如何かを疑つた。從つて其の提唱する所に對する氏自身の態度に對して少からざる疑問を抱いた。即ち之を東京の知人に質し機會ある毎に長野縣の教育者に質した。氏は國際聯盟を唱ふると同時に自國海軍二倍の擴張を企てた。此の一事已に氏の提唱を輕重するに足るものである。尋いで氏は英國と内交渉をして容易に海洋自由説を放棄した。氏の唱へたる民族自決は一方には領土の委任統治といふ變形物を作り、(207)一方には群小の獨立國を新造して將來の禍根を中歐に貽すの結果を齎した。委任統治の地には軍備を置くことが出來ぬ。他の世界各國領土には隨意に軍備を置くことが出来る。即ち世界には軍備を置き得る所に對しその安全を保障することが出來るか。例へば我國の委任統治をなすべきマーシヤル、カロリン群島には軍備を置く事が出來ぬ。然るに直ぐ近くのグワム島には米國の海軍が置いてある。即ちマーシヤル、カロリンはグワムのためにその安全を脅かさるべきである。安全の脅かさるを知つて如何にして我國はマーシヤル、カロリンの統治を完全にすることが出來るか。斯の如きはウヰルソン氏一人の定めたる所にあらずして聯盟國代表全部の協定したる所なるに於て各國責任の分つ可きは勿論なるも、民族自決、軍備制限と稱する如きウヰルソン氏提唱の、初めより不自然にして不徹底なりしに職由すると言はざるを得ないのである。斯る態度であるが故に自國共和黨の慫慂に遭つて忽ち國際聯盟中にモンロー主義の承認を求むるの陋態を演じ、日本の提唱せる人種無差別案を葬り去つて平然として居られるのである。米國人は人氣に投ずるに妙を得てゐると稱せられる。
ウヰルソン氏は人氣に乘つて立派な事を世界に對して廣言し過ぎたのである。左樣な廣言に對して忽ち人道主義の勝利である、世界革新の曙光であるなどと騷ぎ立てたものが日本にあるか無いか。長野縣教育者には如何であつたかといふことを今頃考へて見てよい時である。近頃米國上院では青島問(208)題で日本に對し頻りに失禮な放言をしてゐる。米國人が支那に對して左樣に心配するのは何の爲めであるか。民族自決を唱へるウヰルソン氏の膝元なる紐育では黒人種虐待のために黒人の反抗的爭闘を惹起して死傷者を續出してゐるではないか。支那同情問題と黒人種虐待問題とは現今米國人に與へられたる大なる皮肉の問題である。聞く所によれば米國共和黨の青島問題を力説するのは次期大統領選擧の人氣を集むる準備であるさうである。それに對して支那の國會は感謝状を米國上院に送らうとしてゐる。是亦悲哀なる皮肉である。
吾人はウヰルソン氏及び米國民の言動を非議して快を取らんとするものではない。只人道主義といひ世界的文化と稱するもの要するに強力なる國家を基礎として、國家の個性を人類に寄與し、貢獻するの外はないと信ずるのであるから、ウヰルソン氏の架空的なる人道主義提唱に對して、その唱道の價値と經路と結果とを攷へて日本國民の歩むべき道を一層明かにせんとしたのである。吾人が強力なる國家と言つたのは必しも軍備富力の充實のみを指したのではない。國家傳統の精神と將來進むべき自國の大道に對して深く強き自覺あるを指したのである。深く強き自覺を有する個人にして初めて健全なる家庭をつくり社會に對して寄與する事が出來る如く、個性を強調し得る國家にして初めて世界人道の上に大なる寄與をなす事が出來るのである。予は茲まで行つて初めて個人道を終局まで徹底せしめたものとなすのである。
(209) ○
高等師範學校の生んだ思想が、日本の思想界に如何なる寄與をなしたかを考へることに依つて高等師範學校の權威は定まるのであるが、今の時に當つて日本の思想界の前に高等師範學校を立たせるといふことは氣の毒の感を伴ふのである。高等師範學校學風の低調であり、通俗であることは天下の久しく公許する所で、夫子自身の今以て氣づかない所であるといふ事夫れ自身が、高等師範の權威を語つてゐるものである。近者、東京高等師範學枚長嘉納氏が文部省から辭任を勸められしことがある。辭任を上官から勸められるといふ事は一種の諭旨免官である。左樣な意が一言上官の口を洩れた時、言下に辭表を提出して足を洗ふことを以て日本では男の執るべき道であると思つてゐる。山川健次郎氏が七博士のために辭表を懷にして桂太郎氏に面談したことは、その志を壯なりとした多數日本人によつて十數年を經る今日まで記憶せられてゐる所である。山川氏は此の爲に東京大學總長の職を去つたけれども、氏の志は職を去つたことに依つて餘計に人心に深刻なる感銘を與へた。夫れに比して嘉納氏の文部次官に面接したのは事態甚だ通常である。免官を言ひ合めらるる爲に文部次官に逢つただけである。免官を言ひ合められたらその旨の通り轉任するといふこと是亦甚だ通常の事である。然るに嘉納氏は通常の事態に會して通常の道を取ることを爲し得なかつた。次官から旨を宣せらるるや直ちに歸つて學校の教授連にこのことを報告した。未だ辭任せざるに先だつて上官の諭旨を部下に報告(210)するといふ心理は日本の男子には多く之を解し得るものがあるまい。教授連は直ちに文部省に對して留任運動を開始した。夫れほどの信望を嘉納氏に繋いでゐる教授連であつたなら、嘉納氏に殉じて共に職を去るといふならば日本人に理解出來る心理である。嘉納氏のために留任を請うた教授連は嘉納氏を活かさんとして實は之を救ふ可からざる死地に落してしまつたのである。嘉納氏は教授連の運動によつて校長の職に生き復つたと共に教育者の權威から死んでしまつたのである。元來嘉納氏は久しく高等師範學校長の職に居るやうであるが、氏の生涯を通じて今迄何程の寄與を日本の思想界に與へたか。日本人の氏に就て知るは只柔道の先生といふに過ぎぬのである。斯の如きを推して今日迄最高教育學府の重職に置いたといふ事、已に教育界の趨向を見るに足るのである。今囘の事一突發事たるに類して實は嘉納氏の教育者としての價値を露骨に社會に示す機縁を作つたと言ひ得るのであり、同時に久しく嘉納氏を戴くに甘じた高等師範學校學風の因つて來る所をも伺ふに足るのである。文部省の嘉納氏に對して執つた處置は言語道斷である。文部省の行動施設に對しては別に多く言ふべきものがある。吾人は正に高等師範學校從來の學風と嘉納氏今囘の進退問題と合せ考へて益々教育學府の最高所に蟠れる空氣の如何なるものであるかを知り、更にその末流なる各府縣師範學校學風の如何なるものであるかと合せ考へて、現時日本の普通教育界に漲れる沈滯の氣が將來日本民心に及ぼす影響の恐るべきを思ふのである。師範學校學風に愛想を盡かして現時多きを師範學校に求むるの勇氣を失ひ(211)つつあるは長野縣である。その長野縣から私設師範教育の聲が追々に擧りつつあるのは吾人の意を得てゐる所であるが、聲の擧る久しくて事の進む遲々たるは如何なる譯か。長野縣教育者の教育現状に對する自覺といふものも眞に緊張したものであるかは斯樣な點について疑はしくなるのである。
(大正八年「信濃教育」八月號)
(212) 後二則
○
狩野亨吉先生が嘗て第一高等學校長の職に在られた時、寄宿舍から多數の腸窒扶斯患者を出した事があつた。生徒は危險の擴大するにつれて、寄宿舍を閉鎖して外泊することを決議して學校に迫つた。學校の先生も多數賛成であつたが、狩野先生一人が之を聽かれなかつた。學生の團體は火の付くやうな勢を以て校長に肉薄したが頑として應ぜられなかつた。此の時の学生は今最う中年に達して社會に活動してゐる。夫れらの人々が今に及んで狩野先生當時の態度を囘想して尊敬の心を寄せてゐる。學生の群集心理は時あつて群集心の弱所となつて現れる事があり、長所となつて現れる事がある。弱所となつて現れるものを絶對に拒否し得る見識と勇氣とを有する先生は、長所となつて現るるものを鼓舞し奬勵し得る先生である。生徒が寄宿舍閉鎖を要求したのは、群集心理の長所を現したのか短所を現したのかを知り得ぬけれども、狩野先生はその要求を許すを以て正しからずとせられたるが故に信(213)ずる所を言ひ、且つ行ふに斷然たる態度を示されたのであらう。斷然たる態度は容易に取り得るものではない。自己に目覺めたる信念の確立がない時にその態度が取れない。自己の利害の念がからまる時その態度が取れない。斷然たる態度を取り得るにも色々の場合がある。利害の念を主として之に徹底せんとする時にも斷然たる態度が取れる。確かなる信念に立つて之に徹底せんとする時にも斷然たる態度が取れる。前者は自己に利である場合何物をも決行する。自己に害である場合何物をも拒否する。群集心の弱所を煽動し、或は群集心の長所を抑へ付けようとするものが現代人には幾らもある。是が夫れである。確かなる信念に立つて之に徹底せんとするものは現代人に求めて極めて少い。現代人に少いのであるから、之を教育者にのみ求むるは無理であるとするならば、初めより教育の威儼を撤囘して事に取りかかるのが正直である。狩野先生當時の學生が今日に至つて猶先生を景仰する所以は、單に寄宿舍閉鎖問題に對する先生の態度によるのではなく、否寧ろ左樣な事は一偶發事項に過ぎぬのであつて、先生の信念が終始一貫して先生の居常に現れ、居常に現るるものから學生の頭に沁み込んだものが今に至つて猶生き殘つてゐるのであらう。今全國中等學校の教育は如何なる信念を以て生徒に臨んでゐるか、生徒の要求を怖がるのは利害の念に囚はるるためである。生徒の要求に迷ふのは信念の確立せぬためである。怖がり迷ふは未だ氣の毒な點がある。生徒群集心の弱所に立ち入つて之に迎合せんとするが如き態度を取るものさへある。生徒の運動に伴ふ弊害、寄宿舍内に釀さるる弊(214)害等の如きは多く如上の原因に胚胎するものであつて、全國中等學校中、斯の如き原因によつて斯の如き弊害を伴はぬと公言し得るもの幾何あるであらうか。斯の如き學校に在つては、生徒は在學中に暴れて卒業後先生を馬鹿にする。或は之を反對に、在學中閉息して卒業後先生を馬鹿にする。暴れて馬鹿にすると、閉息して馬鹿にすると、在學中に異つて卒業後に同じである。煽てられた生徒が高等學校に行く。高等學校に入る位の生徒は大抵秀才であるから、中學校時代に大抵煽てられた生徒である。煽てられた秀才がその弱所を高等學校時代に發揮するのであるから手に負へなくなるのである。第一高等學校の蓆旗や大足駄や破れ帽は斯樣な生徒から生み出された産物である。それが更に中學校や師範學校に傳染してベースボールの彌次などになるのであつて、夫れを先生が如何とも爲し得ないのが現在の中等學校訓育の有樣である。
元來現今民衆の高調せらるるを窺ふに、その多くは民衆心の弱所挑發の聲である。之に對して自己の利害によりて如何なる種類の聲をも壓伏せんとする暴力強制の聲がある。政黨は民衆心の弱所を挑發して自己に利するの計を爲すの代表者であると共に、一面官僚と資本家とに通じて民衆心を壓伏するの代表者ともなつてゐるの奇觀を呈してゐる。弱所暴露を民衆的の聲といひ、暴力強制を官僚的の聲といふ。兩者異なるに似て往々にして相通じ若くは一致する。デモクラシーの思想を十四箇條に書き現して無理な壓迫を他國に加へんとしつつあるウヰルソン氏の態度と、同情を支那人、朝鮮人に注(215)ぐと聲明して黒人を虐殺してゐる米國人を見ればこの事思ひ半ばに過ぐるのである。
現今少年少女の雜誌を見るに悉く少年少女の弱點を挑發して販賣數を競つてゐる。予は自分の子供に讀ませるために、現今日本に發行せらるる殆どすべての少年少女雜誌二三箇月分を閲讀して見て驚いたのである。その結果予は自分の子供に少年少女の雜誌を讀むことを止めさせてゐる。家庭雜誌、婦人雜誌多く皆さうである。與謝野氏夫妻の和歌は平安朝以來一千年間保存せられたる貴族的和歌を破壞して、民衆的和歌に改新したものの内、最も大なる一方の勢力を代表してゐるものであるけれども、その成す所の和歌は多く民衆心の弱所挑發の聲である。「はづしますなの低き枕よ」「やは肌のあつき血汐に觸れも見で」といふ種類である。丁度今の少年少女雜誌、家庭雜誌、婦人雜誌が此の道を歩いてゐる。この道を歩いてゐれば繁昌間違ひないのである。民衆に砂糖を投ずると同じであるからである。(雄辯十月號愚論參照あらば有難し)砂糖に集る民衆は甘きを求むる心である。甘きに集る心は決して民衆心の眞劔な基底に根ざしてはゐないのである。人生の切實眞劔な基底に根ざした心は嚴肅な心である。與謝野氏の歌や家庭雜誌や婦人雜誌に甘さがあつて嚴肅さの缺けてゐるのは人生に對して突き詰めた心がないからである。突き詰めめた心から生れたものでなければ夫れが如何に民衆心に投じてゐても、眞劔な民衆的産物とは言ひ得ないのである。與謝野氏夫妻は今より二十年前に早く民衆心の弱所を挑發するに足るの歌を成して流行を日本に齎した。斯樣な文學の流行は偶々以て、日(216)本民衆が文學なるものに對して如何なるものを要求してゐるかを現し、更に一面に日本民心(主に青年)の新しきを求むるとは如何なる意味を有してゐるかを考ふるの一助となるのである。此の與謝野晶子氏は近頃デモクラシーの流行と共に盛に婦權擴張を説いてゐる。今歐米では婦權擴張に禍されてゐる最中である。あの勢がも少し進行すれば歐米は婦人問題で息がつけなくなる筈でゐる。現に米國では幼兒國立養育所設立の聲が擧つてゐる。家庭を解放して婦人が職業に就けば幼兒の專門養育所が出來ねばならぬ筈である。左樣な所まで進めば人間の子供は親の乳が呑めぬ事になるのである。婦人が何處までも自己の長所を忘れて、自己の短所を以て男子と併行して進まうといふことになれば、幼兒養育所までに進んでゆく事當然である。予は現今唱へらるる婦人權利問題の如きは、民衆心の弱所を挑發する聲の盛なるに伴れて起り來れる一面の現象であるとしか思つてゐない。日本には女の仇計がある。護持院原のおりよ、奥州白石鎖鎌宮城野信夫がある。八瀬のお由美がある。出世鮓のお玉がある。水戸のお春お花雙兒姉妹がある。女は自ら信ずるものに身を捐てて奉ずるのが唯一の長所である。その長所の一面を突き詰めてゆけば八瀬のおゆみが生れるのである。おゆみ等の生ける國であるからその血を引いた今日の日本人にもぽんたが生れ出るのである。ぽんたの生るるを誇りと思ふ日本人が晶子氏の女權擴張論などを讀んでも、薩張り感心出來ぬのである。米國渡來の流行品位にしか受け取られぬのは已むを得ぬのである。而もその流行品が日本の所在に反響を來してゐるのは何故であ(217)るか。女の弱所を挑發する砂糖であるからである。和歌に於て已に砂糖を投じて天下の青少年を喜ばせた晶子氏が、婦人問題で又々砂糖を投ずるのは晶子氏の生れ落つる時より定つゐてた順序でであつて、晶子氏に於ては致し方なき本當の道であらうが、眞劔なる民衆心に覺めようとするものが、斯樣な道へ走るには餘りに人間本來の心が嚴肅であるのである。
近頃世界には勞働問題が盛に言議せられてゐる。我國に於ては職工の賃金値上問題となつて世人の注意を惹いてゐる。賃金値上問題は、婦人權利問題に比すれば現實性を帶びた痛切なる問題である。予想ふに賃金値上問題は民衆的に切實なる問題であるが、未だ未だ本當に人類の根本義に根ざした聲には到らないのである。根本問題に到るには人類として根本的人格問題の確立徹底を目指すべきである。資本主に對して勞働者があるのではなく、人格に對して資本主と勞働者があるのである。勞働者は賃金の値上を要求する前に、人格問題に對して自己の眞實にして正當なる要求があるべきである。問題が其處から出發せぬうちは、賃金問題だけでは未だ人類として根本から目覺めた聲とはなり得ないのである。何事ぞ、教育者にして世上の流行を趁うて俸給値上問題を叫び出したものがある。弱點は斯樣な所に暴露する。暴露したものは東京市の小學教員を合せて全國に八箇所あつたと記憶する。新聞紙の傳ふる所に依れば、札幌の小學教師の値上運動は殆ど職工のストライキに類してゐる。彼等は何故に値上問題の前に教育者の人格尊重問題に目覺めなかつたか。小學教師は現在國家的に尊重せ(218)られてゐない。官廳から見れば官吏の末尾に附隨してゐる一小階級者である。二十年三十年小學教育に心血を灑いだもののうち、極めて少數者を擇んで之に正八位を授け、奏任官待遇とするといふのが今日國家の小學教員に對する待遇である。國家の待遇已に斯の如し。物質觀に偏倚せる二十世紀民衆は國家の待遇する所を見て、之を以て推して小學教員を待遇せんとしてゐる。國家的にも、民衆的にも小學教員は極めて低卑なる取扱ひを受けてゐるのである。過般 皇太子殿下縣下行啓の砌にも、人民各團體の代表者は伺候を聽されるけれども、小學校長の多數は之に加はり得ぬのである。之は恐らく皇室の思召のある所ではあるまい。國家爲政者の小學校教員を輕視するの致す所であらう。斯の如きは國家教育の上に憂ふべき現象であると予は思つてゐる。小學教育者は値上問題などよりも、斯樣な精神方面に目覺むべきが本來である。然る時に職工のストライキに類したことを敢へてしてゐるのは、偶々以て社會民衆心の弱所が今日日本の如何なる邊にまで及んでゐるかが察せられるのである。
今や世界はデモクラシーの流行時代である。さうして民衆心の尊輩なるものが、民衆心の弱所を挑發したり、長所を抑壓したりするやうな奇態な現象が世界の舞臺に現れてゐる時である。斯の趨勢が如何なる形を以て日本に現れてゐるかを吾々はよく考へて見ねばならぬ。考へて見るには先づ自己の眞劔にして嚴肅なる心に目覺むるを要する。更に教育者としては、自己の率ゆる生徒に臨むに如何なる態度を以てすべきかといふことも、同じ系統の上に置いて考へ見るべき重要にして緊急なる問題で(219)あると思ふ。生徒の群集心は時として彼等の弱所を現し時としてその長所を現す。之に對する教育者としての態度の如何なるべきを考ふるは、教育の權威の成ると成らざると岐るる所であつて、その現今の状態如何なるかを考ふるは、教育者の自ら問うて分り得る所であらう。殊に現今中等學校の教育者諸氏は此の問題を如何に見らるるかを知りたいのである。
○
西園寺公望氏が講和大使となつて渡航するに、灘の酒を載せ、女を載せて印度洋上に月見をしてゐるうちに、大切の講和豫備會議は終へてしまつたと傳へられてゐる。夫れを世人は風流大使と呼んでゐる。左樣な事が風流ならば、風流とは此の世に惡いものの隨一である。此の大使が文學を解して度々文士を自邸に招待したと稱せられる。斯樣な人が文學を解し得るならば、文學は世上の骨董品である。今日の文學は風流大使の解する文學とは少々違つた方角から歩き出してゐるやうである。その文學は十徳や頭巾を被つて短册を膝の側に置いてはゐないやうである。見當違ひのないやうに斷りをしておくのである。九月五日 (大正八年「信濃教育」九月號)
(220) 訓育號の終りに記す
訓育號を發行するに當り、縣下多數諸士より稿を寄せられたること感謝の至りなり。本號は縣下教育者諸氏の訓育に對する主要なる意見を網羅し得たるのみならず、實際施設の一方面をも擧げ得たること、縣下教育を考ふるの參照たり得ること尠少ならずと信ず。
本號を通覽するに、中等學校側より出でたるは、實際施設の項目を羅列せるが多く、小學校側より出でたるは、訓育を人生の根本義より考覈せんとしたるもの多し。之は本紙に於ける最も顯著なる現象にして、中等學校側は小學校側の考覈を如何に見るか、小學校側は中等學校側の項目羅列を如何に見るかが興味ある一つの問題なり。想ふに小學校側が訓育の項目完備に力を入れたるは少くも十年以前の事に屬し、巨細備らざるなき項目を以て生徒に擬し、中には模範生徒をつくりて表彰をなす迄に力を入れたる學校さへ出現するに至りしも、力を入るれば入るるほど不自然に傾き、力を入れざるも出發の不自然なるは歸著の不自然なるを免れず。要するに心と心の接觸は項目の整備によりて如何(221)ともすべからざるに心づきし結果、左樣なる外形的施設の整備よりも更に根本的なる問題に潜入して、訓育の出發點を考へんとするの傾向を現し來たれるが今日の趨勢なりと言ふを得べし、左樣なる趨勢は本號所載のものに亙りて明かに看取し得る所にして、これを中等學校側より見て如何の感をなすや。或は中等學校に於ては今日小學校側の考ふるが如き根本義は已に考へ了りて更にその先に進みて訓育各項に踏み人りつつありとなすか。予は昨年より縣下中等學校の大半を拜見し歩きたれど、何れの學校に行きても訓育のよく行はるる向きの話を拜聽すれども、未だ訓育のよく行はれざる向きの話を拜聽せしこと少なし。この事小學校を拜見する時と殆ど正反對なり。訓育を念とすれば行はれざるを之れ患ふるが本當なり。行はれざるを患ふる心が自己として、生徒としての根本問題に潜入せしむるの第一歩なり。左樣なる時に訓育の行はるる方面のみ話し聽かさるること奇異の感なきにあらず。項目の整備、訓示の周到は夫れのみにては何の權威にもならず。例へば某中學校長は生徒に誨ふるの第一義として自ら愼むことを知れといふことを擧げらるる由なれど、過日師範學校庭に於ける各小學校野球競技の際小生の實見する所にては、列席各校中最も愼みなき彌次を演じつつあるは某氏の教ふる生徒なりしこと誰の目にも爾か見えたるべし。某氏は彼の如き野卑なるやじりを自己の教ふる生徒が演じつつあることを如何に見つつありや。辯解すれば辯解の方法も之あるならんが、辯解するが正道か、自ら誨ふる所を顧みるが正道なるかを考ふるを賢なりとすべし。某中學校寄宿舍にては上級生(222)の勉學者は常に怠惰者より壓迫せらると傳へらる。從つて此の學校の上級學校入學の成績は甚だ不良なりとの事なり。過日上田にて縣下中等學校聯合競技のありし際、某校生徒に不正ありし爲め他の某校選手は泣いて騷ぎたる由傳聞せり。勝負にのみ心が取らるれば※[開の門なし]んなことにもなり行くなり。不正あるもそのため、泣き騷ぐの狂態を演ずるに至つては噴飯に値す。勝敗に血迷ひせるなり。血迷ひせる故、南無八幡の旗など押し立てて競技といへば惡罵を交換し、交換の果ては泣き騷ぎの狂態を演ずるに至るなり。斯の如き醜状が那邊より生れ來るかを思ふ時、訓育項目の羅列にて間に合ふや如何を考ふべし。彌次は今日天下に行はるる現象なり。歌壇等にても各々彌次を以て自らを張らんとするの現象あり。その大なるものに至つては帝國議會の彌次之を代表す。天下已に然り。學校教育亦之を如何ともすべからずとあらば、教育の事は大勢盲從の途を教ふるに止まらん。目に觸るるものに彌次あり、目に觸れざるものに何物ありやは中等教育者よく之を知らん。
小學校に於ける訓育の已に一時期を廻轉して目ざめたる問題に到著しつつあるは前述の如し。彼等は訓育を考へんとするに先だちて先づ人生に眼ざめんとし、眼ざめたる目を以て自己を見、生徒を見んとす。古き訓育の皮が剥離せんとするは新しき組織の内部より生成せらるるが故なり。生成の萌芽はその作用が極めて誠實に營まれざる可からざると共に、大膽にその芽を伸ばさしめざる可からず。伸びたる芽の那邊に到達すべきかは今日に於て逆睹し易からざるも、事に當るもの現在にのみ眼を注(223)がば後日意外の結果を來さざるを保せず。愼重に考慮せられ、誠實に營まれざるべからざるは之を謂ふなり。之等に對する愚見は猶熟考の上明年一月號「訓育批評號」に於て之を述ぶべし。予は本號に訓育に對する縣下主要なる意見の網羅せらるるを信ずるが故に、我が讀者と共に更に之を精讀して吾人所見の補正に資せんとす。十月十日下諏訪町にて (大正八年「信濃教育」十月號)
(224) 田中新藏翁に就きて
予は産を興し財を積むといふことについて何の經驗もないものである。從つで左樣な側の活動をした人に對して、その苦心の經驗を想像し得る資格のないものである。併し乍ら、從事する事業が異つても、その異る事業を究極して、或る領域に到り得た人々は、自ら到り得たものを以て、他の到り得たものを理解することが出來るやうである。此の點に於ても予は未だ自ら到る所を以て、他の到る所を理解するやうな領域に入つて居らぬのである。何れの點から言つても予は信州實業界の耆老たる田中翁について、物を言ふ資格がないやうである。
田中翁が年少くしてその家業なる種油商を營み、後に生絲業を起して、須坂生絲の基を成した人であるといふことを佐藤氏から聞いた。今日世上幾多の資本主が、出來る丈け多數の使用人を壓伏して自己の財を積み、積んだ財の幾分を偶々社寺若くは公共に捧げる等の事があれば、社寺公共は額に手してその善根奇特の心を稱へるといふ現象がある。所謂積む所の善根と、爲されたる罪障と相償ふに(225)足るもの幾何であらうか。田中翁の一生は終始徳望を以て、その郷黨に推されたといふことを同じく佐藤氏から聞いた。翁の徳望を成したものは、その性格と事業とであらう。夫れが世上の所謂資本主と如何なる相違をなしてゐたか、といふことを考へる材料が予にないことを遺憾とする。
田中翁臨終に先だち、金五萬圓を長野縣教育資金に寄せたことは、佐藤氏の記する所に詳かである。その寄せ方は甚だ手際がよい。區々たる小我心を交へる人には出來ないといふ俤がある。斯樣な遣り口から田中王翁を想像することは、何等の夾雜物を交へずして、愉快んま心を促すことが出來る。知識を積む人でなければ、知識の尊さは分らない。財を蓄へた人でなければ、財の有難さは分るまい。金持ほど金に汚いといふのは、此の心理を言うた詞であらう。その財の幾分を差し出すといふこと局外より見れば、無造作に見え、局内よりすれば容易なことであるまい。殊にその財の寄せ方が、田中翁の如く手離れたやり方に出るといふこと、信濃に於て稀有であらう。用中翁の性格、事業の平生に就て多く知ることなき予は、翁臨終前のこの擧を以て翁に對する快感の材料として、その人柄を想像し、信濃育英事業のために貢獻された志に對し感謝の意を表する。 (大正八年「信濃教育」十一月號)
(226) 中等學校の訓練
生徒を鍛錬するに撃劔柔道あり、野球庭球あり乃至探檢あり、夜營ありと思ふと間違ふ。夫れ等は皆第二次のものである。
學校に校則あり、生徒に生徒心得あり、寄宿舍に舍則あり、夫れ等のものが備り且つ行はるるを以て、訓育の事到り且つ成ると思ふと間違ふ。是等も皆第二次のものである。
教師心性の根柢所は生徒心性の根柢所と常に交流する。この交流から生れ出たもののみが訓育鍛錬の本體である。この交流は授業時間に行はれ、休息、遊歩、談笑の間に行はれる。撃劔や野球や行軍の時に鍛錬が行はれ、校則や生徒心得から訓育が生れ出ると思ふものは此の根本から考へを立て直すべきである。
教師生徒心性の交流を大切に思ふものは、訓育を思ふに當つて先づ自己の心性を省みる。自己の持つものは何か。自己の志すものは何か。究極自己の欲するものは何か。持つもの、志すもの、欲する(227)ものの根柢所に何の權威があるかと考へて、自ら疚しとする所を覺り得るは正直である。疚しとする心を何處までも眞面目に突き詰めて、其處から自己を成長させよと努め得るものは、青年の若々しい心を持し得る教師である。この眞面目な若々しい心のみが生徒の若々しい心に威儼を與へる。今の教育者はあまりに成心を似て生徒に對するの觀がある。自己に生育の心理がない時、生徒生育の心理に感應するの理がないのである。感應せざる兩者の心理から威儼をも何物をも生むことなきのが本當である。心を以て威儀を生み得ない時に規則が生れ、生徒心得が生れ易くなる。左樣な時に生れた規則や心得は生徒を外形的に整へるに都合がよく、外形的に整へる事に都合がよければよいほど内面から生徒の反抗心を挑發し、挑發された反抗心が負けると生徒の自屈心をつくり、生徒の自屈心が成就すれば規則と生徒心得の勵行が目的を達する。世に教師の威儀を言ふもの或は生徒自屈の心を成し得るが如き教師の心を指すことがある。自屈の反面は反抗である。反抗と自屈の生れ出るものが威儼ならば、威儼といふもの世に要なきものの隨一である。
今の教育者には緊張された若々しい心を要する。緊張された心には放恣と浮華がなくて質實と底力とがある。左樣な心を以て生徒に對する時、その一瞥と一言とは直ちに生徒の心性に徹する。威儼は斯樣な所から生れる。斯樣な教師は容易に生徒の言動を容さない。生徒の放肆や甘さを容さぬ心は自己の放肆や甘さを容さぬ心から發する。斯の如き教師は規則や心得書を持たずして訓練をなし、撃劔(228)や野球に依らずして生徒を鍛錬することが出來る。一瞥一言一行が悉く鍛錬の力となり得るからである。これが眞の訓練であり鍛錬である。予は現今の各中學故に斯の如き教師の少くも一人づつあることを求める。斯の如き教師なくして野球撃劔などにのみ力を入れるから、鍛錬が輕薄になり、動やもすれば少年の弱所助長の技にまで轉じようとするのである。予の野球、撃劔その他を以て第二次のものとしたのは夫れ等の技を輕ずるの意ではない。技をなさしむる教師の心が根柢をなすべきを言うたのである。
規則や生徒心得で從順にされ、野球や撃劔で鍛錬された生徒が卒業後如何なる心理状態で社會に立つかを考ふることは、現今教育の效果を考ふるに恰適な參考であらねばならぬ。予は或る高等學校の運動會場に、その生徒の動止の輕薄才子に類するを見、更に其の學校の生徒の一部より成れる短歌會に出席してその作品の輕薄にして甘たるさに驚いた事がある。その學校の生徒は剛健とやらを自治の旗印としてゐるといふ事であるが、成る程彼等には大きな薩摩下駄を穿いたり、破れ袴を穿いたりして異樣な風態をしたものが見える。予は斯の如く強ひて奇異な外觀をなすを以て一種虚榮の現れであると思うてゐる。その心が運動會に現れたり、短歌會に現れたりするのである。此の學校には全國中學校中の優秀者を集めてある筈である。全國中學校の優秀者が高等學校に入つて俄かに此の輕薄を來したとは予に思はれぬのである。即ち高等學校生徒の輕薄は、大半全國中學校優秀者の輕薄を現して(229)ゐるのである。全國中學校が生徒を鍛錬すると稱して撃劔を課し野球をを課して、そこから輩出する所の卒業者は斯の如くである。中學校に於ける優秀者の如きは少年の矜恃心を成す成さぬの境に立つ一種の危險時期に會してゐるものである。眞に威儼ある教師の心に依つて鍛へられぬのである。その少年が中學校より高等學校に入つてからの状態を見て、中學校に於ける鍛錬の如何なるかの一端を推すことが出來るのである。或は斯の如き現象が小學校時代に胚胎するものとすれば、中學校より小學校に對して積極的に其の意を致すべきである。中學校から小學校に對して物言ふこと少きは、中學校の訓育に對する緊張の度の如何なるかを知るの一助となり得るのである。今日の状態をして極端に押し進ましむれば、野球は生徒の輕薄心を成し、規則は生徒の自屈心を成すに終るの奇觀に到達するかも計られぬのである。繰り返して言ふが、鍛錬とは緊張した若々しき心(涸渇した心では絶對に鍛錬は出來ぬ。)を持つた教師が生徒の放肆と甘たるさを容さぬ状態を指した詞であり、之を積極的に言へば、左樣な教師がおのづから生徒に與ふる一瞥一言一行である。規則や生徒心得や野球や撃劔ではない。況や生徒制服問題などでは絶對にない。今日制服問題で火花を散らして議論するといふやうなるは餘程の閑散事である。大切な問題に身が入らぬと斯樣な閑散問題が賑やかになるのである。
十年前或る女子師範學校では、生徒が夜便所に行くに二人同行を要したといふ事がある。生徒を罪人視した規則が、自ら生徒の心性を自卑に導くの結果が、如何に現るるかを恐るべきである。この邊(230)になると、生徒に事なかれと憂ふるが先か、教師自身に落度なかれと憂ふるが先か分らなくなる。斯の如きは極端な例であるが、今も東京の私立中學校では生徒が數分間遲刻しても試驗の點數を引く。此の如き學校から試驗をなくしたら生徒はどんな状態になるであらう。單に私立中學校に限らない。一般の中等程度學校から試驗を撤し、落第を廢し、退學處分を廢し、停學を廢したら如何であらうか。左樣にしたならば或は恐る。生徒に對して威儀をなしてゐるものは教師にあらずして、試驗であり、退學であり、停學であるといふ學校をぼつぼつ發見するに至らんことを。この邊までになれば鍛錬や訓練を眞面目に言ふ必要はないのである。
過日或る中學校へ行つて校長の話を聞いたことがある。その中に、卒業生の上級學校に進む者が實利的の方面にばかり志して困るといふ話があつた。眞に困ると思うて夫れを憂ふる心があるならば、夫れが幾分たりとも生徒の自奮心に影響せぬことはあるまい。困るといふ話は聞いたが、その校長の心が生徒の自奮心に幾分なりとも影響した事を聞き得なかつたのは遺憾である。或る他の中學校に行つて校長の話を聞けば、その學校の卒業生が上級の學校に進むことが少くて困るとのことであつた。夫れはその土地が社會的に高等程度の學校まで修めさせる氣風の少いためであると聞いた。左樣な土地から高等教育に志す生徒を得るは六ケ敷いであらうが、之を困るといふならば困るに對するの救ひの道が眞面目に考へられてゐさうなものである。考へられてゐるのかも知れぬが、夫れを予の聞き得(231)なかつたのは遺憾である。教育者の口は由來神聖な辭に富んでゐる。深憂の辭、慨歎の辭、左樣な辭は殊勝なるに似て辭自身は何にもならぬものである。訓練の事、鍛錬の事は美しく殊勝なる言語によつて、何度討論せられても討論だけでは何にもならぬのである。只一つ緊張された若々しき心があれば足りる。若々しき心は時として破格な事をもなし、失敗をもする。失敗しても構はぬほどの意氣込ある後援が縣當局者からも發せられねばならぬ」夫れほどの意氣込で多力者を聘するでなければ、只さへ乏しき多力者は追々に縣外に逃げ出さうとする。權威ある校長を得るは縣富局の責任である。權威ある教師を得るのは校長の責任である。之に對して縣にどれほどの抱負あるかを知らない。長野縣中學校より松本高等學校へ入學したものの數が、新潟縣中學校より新潟高等學校へ入學したものの數に負けた事を殘念に思ふ位のことは一端中の一端に過ぎぬ問題である。長野縣の中等學校について物を言へば、序でに是非これ丈けの附言をして置く必要がある。
附記、鍛錬に對する愚見拙文參照。
(大正八年「信濃教育」十二月號)
(232) 訓育問題 其二
予は兒童の自由なる心の活動の中に嚴肅感の萌芽が常に保持せられつつあることを欲する。
嚴肅感の萌芽が何より來るかを予は知らない。兒童が此の世に生れ出る事が已に嚴肅なる宇宙の理法の現れである。宇宙自然の理法によつて生れ出た兒童は、更に宇宙自然の理法によつてその生活と生育が支配されねばならぬ。兒童は自然の理法によつてその生活と生育を營むと共にその生活と生育の上に自然の理法を發展させる。兒童は盛なを希求心の所有者である。希求心の所有者であるから夫れと共に盛なる懷疑心の所有者である。兒童の嚴肅感は希求心と懷疑心との正しき發育にその根柢を置くのかも知れない。或は兒童全生活の正しき營みが宇宙自然の理法の現れであり、自然の理法の現れであるといふことが兒童全生活の嚴肅なる事を意味し、嚴肅なる生活の所有者たる兒童の全心が、自らにして嚴肅であると解する事も出來る。斯く解釋する所の嚴肅感は廣汎なる生物に通じて容し得る嚴肅感である。只希求心と懷疑心の發育より生るる嚴肅感は兒童の生活に最も多く容し得る嚴肅感(233)の基調であることを否定し得ざるやうである。
更に思ふに、兒童の生活に最も直接なる影響を與ふるものは兒童を繞る全人類の生活である。全人類の生活は同じく宇宙自然の理法の現れである。人類の習慣及び習慣の發展は、夫れが宇宙自然の理法の現れであるといふ當然の權威をもつて兒童の周圍を繞る。人類の生活が兒童の生活を繞るは、宇宙自然の勢力が兒童を繞ると相對立すべきものではなくて、兒童を繞る自然の勢力の中最も密接なる關係を有するものが人類の生活であるとするを穩當とする。此の意味に於て兒童嚴肅感は人類の生活現象から影響する事が最も多いと言ひ得る。
内にあつては希求心と懷疑心である。外にあつては主として人類の生活現象である。この兩者が健全に正常に兒童の上に置かれることによつて兒童の生活は、現肅なる宇宙の理法に合する。
斯く考へ來る時、兒童の周圍を繞る人類の生活は、その生活自身の心が弛緩であつてはならない。殊に最も直接なる關係を以て兒童を繞る個人々々の生活心が弛緩であつてはならない。父兄、家族、教師、朋友、隣人、郷黨の心は兒童を繞つて自然に彼の生活を緊張させ、或は弛緩させる。予の兒童の自由なる心の活動に嚴肅感を要求する心の中には、兒童を繞る多くの人心に弛緩者を見ること多きか、少きかを思ふ心がある。教育者としては教育者自身の心の緊張せるか、弛緩せるかを訓育の先決問題として考ふべきことになるのである。緊張とは宇宙自然の理法の體得者乃至開發者として、人類(234)的に深く目覺むるや否やの問題について言ふのである。(目覺むるとはただ理窟を考へることではない)斯樣な人類としての第一義問題について、全心的緊張がなくして人の子を訓育せんと考ふるものは、自ら人の子を訓育するの資格なきものとして職を退くまでに目を明き得るを幸とする。兒童の心は自由であるから流動する。流動する心の一面は多く模倣となつて現れる。兒童の模倣心は弛緩者をも捉へることに躊躇しない。夫れ故弛緩せる教育者は兒童に近づかないことを以て安全なりとする。兒童の訓育を安全にするために教育の職を退くことは教育のための損失にはならない。
緊張せる教育者の心は個人的に目覺めて個人的に固まらない。彼の心は自然に通じ人類に通ずるの自由さを持つてゐる。この自由な心が兒童の自由な心と交感して、初めて訓育の事が行はれるのである。斯樣な教師にして初めて兒童の希求心と懷疑心を正常に理會し、眞面目に取扱ふことが出來る。兒童の自由な心は又時として放縱に流れる。この現象は學校に於ては兒童の自由作業を多く課する教授時間等に最も多く看取する事が出來る。自由作業の成績品だけを見ても、この事直ちに看取することが出來るのである。自由畫、自由綴方の成績の如きがその通例である。兒童の自由心が弛緩の形を取り放縱の形を取る時、弛緩も放縱も兒童自由心の現れであるとして看過することは緊張せる教師の心には爲し難い。予は各地の學校を拜見して、兒童の自由活動を唱道する教師が往々にして兒童の放縱なる心をも容さんとするの傾向あるを見て、此の教師果して自由の嚴肅さを知れりやと思ふことが(235)ある。斯の如き自由心は、教師にあつても兒童にあつても決して緊張した自由心ではないのである。自由の名を喜んで自由の上に居眠りをし、居眠りをしながら猶自由を誇らんとするものに近い佛徒の本願誇りのやうなものである。緊張せる自由心を所持する教師にして初めて兒童の緊張せる自由心を刺戟し、鼓舞する事が出來る。此處までに至つて初めて訓育の事を云爲する事が出來るのであつて、訓育の事を輕く上滑りして言議したり、考へたりすることは却つて言議せず考へぬ方が弊害の少い場合がある。
自由な心と緊張せる心とは別種のものではない。教師も兒童もこの兩種の意味を備へた心の經驗を重ぬる事によつてのみ、宇宙自然の理法の嚴肅さに合致して行く事が出來よう。兒童は兒童らしく、成人は成人らしく自然に、從順に、眞面目に左樣な道を通ることによつて、故《わ》ざとらしくない心の交流が兩者の間に行はれるであらう。それを訓育の本道とする。
(大正九年「信濃教育」一月號)
(236) 亡人録
昨年一昨年の間に信濃の各地を歩いた。佐久に行つて高見澤理中氏の亡い事に氣づき、飯山に行つて水野了天氏の亡い事を思ひ出し、松本平に入つて吉澤秀吉氏、小林有也先生の亡い事を思ひ、伊那に入つて大森忠三氏、湯本政治氏の亡きを思ひ、予の生地諏訪に入つては新に岩垂、三輪二先生を喪つた事を思つた。
久し振で行つた土地には懷舊の情が先づ起り、懷舊の情の起る時に先づ意識に上つて來るものは、現存してゐる人々よりも、已に失はれたる人々であるのが自然である。予が各地に行つて第一に予の意識に故人の俤が躍り入つて來たのは懷舊の情を抱いて、其の地に臨んだ予の心に自然に起つて來た現象であると言ひ得る。この自然の現象はその地に現存してゐる人々の面目と、喪はれた人々の面目との對比によつても其の感慨を異にする。予の心に起つた懷舊の情が左樣な關係によつて如何なる状態に置かれたかを書くのは本文の目的ではない。予は比較的信濃の舊人を識つて新人を識らない。こ(237)の未知の新人を識らうとする事は、予の信濃に出歩くについての大きな目的であつたが、夫れが悉く目的を達したとは言はれない。中野町では小學校に行つたけれども終日(半日か、記憶せず)居て丸山氏一人に逢つたのみであつた。そんなぶまもして歩いてゐるのであるから、予の所謂現存人の面目なる語は、予に對してその内容が甚だ稀薄である。從つて已に喪はれた人々の面目と、現存してゐる人々の面目との對比を主としてこの文を綴らうといふ氣にならないのである。
予の巡遊記は予の各地を歩いた懷舊の心の的となつた故人についての感想を、有りの儘に記述することが第一の順序であらねばならぬことを予の心が承認する。現存の人と、現存の現象について書くのが第一の順序であるとも思はれる。その順序を顛倒して記述するのは予の心の承認を重じたからである。高見澤、大森二氏逝きて十餘年になるが、其の墓には未だ石塔が建てられない。故人の面目は斯んな所にも現れてゐる。死者口なし。言はざらば遂に埋れるであらう。高見澤氏生地附近の學校に就て高見澤氏を語らんとすれば、故人の名を知る人さへ將に盡きんとしてゐる。死者心なし。傳へざらば遂に滅するであらう。予の故人に就て書かんと欲したのは一昨年の秋、足先づ南佐久に入り直ちに高野町に高見澤氏の墓を訪うた時より萌したのである。
高見澤氏の心は佐久人に珍しく形而上的であつた。形而上的であつたといふことは形而上の學問を研究したとか、左樣な方面の知識を持つてゐたとかいふことではない。氏の生活全部が形而上的の傾(238)向を多く持つてゐたといふ意味である。故浦野市松氏のために多く自らの俸禄を割き、自ら給すること甚だ乏しくして節を權威の前に屈せず、佐久の任を逐はれて東筑摩に行き、終りに桔梗ケ原の一孤村に籠つて多く世に知られず、晩年殆ど流離轉々の状を似て生を経つてゐる。予の高見澤氏を以て形而上的の生活をなしたとなすは、必しも自己の俸禄を割いて友のために盡した事を指すのではなく、任を逐はれて桔梗ケ原の林中に籠居したことを指すのでもなく、流離轉々の状を以て生を終つたことを指すのでもない。それほどの境遇に立つものは世上必しも少くはない。只左樣な境遇を通じて、何時も氏の清い心が自由に流れて居つたことを想見し得る。この心が人の心を捉へるのである。予は殆ど氏の顔を知らない(師範學校生徒たりし頃、一度氏の顔を見た筈であるが今その顔を記憶してゐない)。只氏が病を得て桔梗ケ原の小學校を去つた後、予はその後任として同じ小学校に行つたといふ關係を以て間接に氏を知り得たのみである。この關係間接なれども甚だ多くの材料を予に遺したのである。後任者が先任者の爲した所を見れば大抵その先任者の爲した動機を察し得るのである。この動機に夾雜物を感じ、異臭を感じた時、その異臭と夾雜物とは遺されたる事業の上に已に附き纏つてゐるのであるから、容易に之を如何ともすべからざるの迷惑を感ずる。後任者たる予は先任者たる氏の遺した事業の何物からも夾雜物と異臭とを感じなかつたのを見て、氏の人柄の如何なるかを想像し得たのである。是れ丈けの事を以て平凡事となすものあらば、その人は學校生活の眞相をよく知らない(239)ものである。氏は桔梗ケ原在任中、一村に對して嚴然たる教育の權威を立て得た。村有力者などと安價な妥協をして表面だけに立ててゐる月並な教育の權威ではない。氏は又學校内部に一致されたる信望を一身に受けてゐた。信望とは校長から受くる安全なる保護の代償に附けられた月並の名ではない。氏は或る場合寧ろ部下からあべこべに保護を受けてゐたかも知れない。部下から或る場合の保護を受くるほどの信望を氏が學校内部から得て居たことを予は快感を以て想見する。氏の生活にはいつも清き流れがあつた。その生活は生涯を通じて形而上的であつた。浦野氏に對すること、東筑摩に逐はれた當時の事情などは予が氏の後任となつてから後、氏と同時代卒業生その他から折り折りに聞くを得たのである。氏には遺産がなくて夫れと反對のものがあつた。氏の嗣子は氏と同じ病を以て氏に續いて斃れた。氏の墓には未だ石塔が建てられない。南佐久の先生の中には高見澤理中の名を知らぬ人が多い。理中の名が佐久の教育社會に繰り返されることが少いためであらう。佐久の教育社會は理中の名を繰り返す必要がないまでに年數を經たのである。
大森忠三氏は伊那産である。これは少し人柄が大きかつた。晩年諏訪にゐて其處に病を得て起てなくなつた。彼は自ら手を著けて仕事をするといふやうな男ではなかつた。さうかと云つて人に仕事をさせるといふやうな事もなかつた。只彼の足跡とその足跡の周圍を見れば、そこに自ら大きな意義が遺つてゐた。斯樣な人柄を解する事は諏訪人の尤も不得手とする所である。果然岩垂先生をはじめ大(240)小の諏訪人が終りまで彼を不可解の男として見てゐた。予は諏訪の少壮教育者が彼の机邊を取り圍んで此の校舍の空氣は濕つぼいぞなどと頓狂な聲を出してわめいてゐたのを聞いた。彼は日常多く無言である。無言の繼續は陽氣でない。何事にも腕を扼するのが男子の眞骨頂だと信じてゐる年若い陽氣者が、大森氏の身邊に行つて急に異樣な空氣を感ずるのは當然である。この校舍は濕つぼいなどと言つてその餘憤を漏した人々が、今大森氏を囘顧して如何の感をなしてゐるかを知らない。大森氏は無言の人であつた。只この無言の人が罕に口を開けば必ず事の要核を突いた。彼が師範學校在學時代に青年の歡心を射るに妙を得てゐる一教師があつた。彼の同級生は擧つて此の教師の門を潜つて教を受くるを欣びとした。その中で大森氏のみは頑として此の教師の門を潜らない。世間氣多き此の教師は大森氏の集り來らぬのを氣にしはじめた。幾度も教師自ら大森氏を招き呼んだけれども遂に一度も應ぜなかつた。大森氏潜かに予に來り謂へらく、貴公もあそこへは行くな。一言此の教師の心中を造破してゐたのである。彼の諏訪に於ける境遇に眞に同情を寄せてゐた人は、諏訪にあつて纔かに二三者である。予は夫れを茲に詳敍する事を躊躇する。由來諏訪人は量見が狹い。彼等の自ら稱して堅實となすもの、往々にして自らを衛るの具に供するに過ぎない。帝國大學出身者の縣下で最も多いと言はれる諏訪から、學者として幾何の大を成せる人を出してゐるか。單に夫れに止まらない。信州中最も舊い歴史を有つてゐる諏訪から古へより政治家、軍人は勿論、學者、宗教家の一人をも輩出してゐな(241)いことは諏訪人に向つて何を説明してゐるかを省みるべきである。彼等の古來自ら堅實となすもの要するに一身を衛るの具に過ぎないこと、此の現象を見ても了解出來るであらう。大森氏は自ら衛るの具を用意する男ではなかつた。諏訪は行つて失意の三年を送り、失意の境に身を任せ、偶々病を得て呻吟の間に世を去つた。彼も高見澤氏と同じく遺産がなくて、遺産の反對のものがあつた。彼の墓も亦高見澤氏と同じく十數年後の今日に至つて一基の石塔を立つるに到らない。予の知れる上伊那人には妙に二種類の人が截然と分れてゐる。卑近に世間的に進む人々と、眞劔な道を徹底的に進む人々とである。他の地方にあつても斯樣な種類は數へ得るであらうが、上伊那には此の兩者間の灰色をなす人々が少いといふ感がある。大森氏を思へば予は同時に蘆部猪之吉氏を思ひ出す。さうして木曾馬吉氏を思ひ出し、同時に古田清夫をも聯想する。(木曾馬吉氏は教育者ではない)是等皆一種の徹底者であり、或は徹底者たり得る傾を持つてゐる。さうして何れも上伊那人の一面を具備する事に於て共通點を有してゐる。
湯本政治氏を飯田高等女學校に弔問しようとは豫期しなかつた所である。氏は一種の見識を有し、自己の意見を言ふに隨所に遠慮せず、自己の事を行ふに何物にも遠慮しないといふ正直さと強さとを持つてゐた。氏が和歌を學ぶに當り上京して有らゆる當時の大家を歴訪し、そのうち尤も無學であつた伊藤左千夫翁に感心して教をその門に請ふに至つたのは、彼の見識の一端を覗ふに足りる。今より(242)九年前晩秋、予が玉川村の同窓會員を伴れて彼地へ修學旅行に行つた時、氏は夜の九時迄空腹をこらへて予の飯田町に著くを待つてゐた。此の夜二人して肉をつつき乍ら歌を談じたことを覺えてゐる。氏の心には斯の如き一面があつた。左千夫翁宅の歌會に行き酒に醉つて大聲に相撲の行司をやつて多くの東京在住人を驚かせたことは、今でも予等同人間の笑話柄となつて遺つてゐる。氏の行住常に穗の長い筆を携帶し、歌會の時その筆で何か書いたのを見て、左千夫翁が君の字は俗だよなど言つても腹を立てないといふ所があつた。啻に腹を立てない計りでなく、その位の事を言はれても平氣で自信を持續してゐるやうな一面もあつた。飯田の學校に行つて氏の臨終の模樣を聞くに及んで氏の自信の如何に徹底的なものであつたかを知つて驚いたのである。醫藥爲すなしと信じて最終まで殆ど醫師を招ばなかつたといふことである。
氏は下伊那の人は優し過ぎると予に話した。氏の優し過ぎると稱する下伊那に近來青年者の自覺が萌して、その一面の力が一昨年頃から教育社會に目立つやうに現れて來た。青年者の爲す所が如何であつたかを予は知悉しないけれども、老年者流が夫れに對抗するために、所謂地方有力者を草鞋がけで訪問し歩いたといふ風説を屡々耳にした。それが果して眞であるならば、夫れ等老年者は青年教育者に對抗するために何を求めて地方的權門の閾を跨いだのであるか。夫れについて世に如何なる臆説をなされても夫れ等老年者は辯疏の資格を持たぬ筈である。斯の如き老年者は單に此の一事のみでも(243)教育社會に生棲せしむべからざるものである。之を排除するは必しも青年者を待つを要せぬことである。官邊は斯の如き風説に對して如何なる處置を取らうとするつもりであるか。敢えて今の郡視學柳原靜江氏に問ふ。湯本氏の事を敍して筆が遂に滑つて他に移つたが、下伊那の場面で是程の事を逸することは出來ないのである。湯本氏は斯樣な事件が下伊那に起ることを知らずしてその少し前に,水遠の眠に入つた。
小林有也先生は久しく信州教育界の精神的中心となつてゐた人であつて、今更ここに予の絮説するを要せない。氏は自ら信ずる所を行ふに他の何等の權威をも顧慮する所なきの概を以て終始一身を一學校内に捧げ盡した。他の何等の權威をも顧慮せぬ心は、氏の透徹せる誠意から起つてゐる。この誠意は教育者のよく口にする月並的誠意とは違ふ。この誠意が眞に徹底して分れば教育界に面倒な言議は要らぬのである。
吉澤秀吉氏は大森氏と同じく何等の事蹟をも遺さずして夙く世を去つた人である。沈著の裡に英邁の氣を藏し、人柄の大きいことに於て大森氏に似てゐた。事蹟を遺さないけれども氏の感化を蒙りしもの二十一年後の今日に至つて猶氏の心を忘れない。事蹟の遺るが尊いか、心の遺るが尊いかは簡單に言ひ去つてしまへぬことであるが、事蹟の遺るなくして、今猶氏の心を忘れない人々があるのは氏の人物を想見するに足りる。氏は北安曇小谷の産である。信濃に早く此の人を喪つたことを惜しむ。
(244) 水野了天氏は天成の自然兒で一種の氣稟を具備してゐた。今日の教育者に斯樣な種類の人が最も多く缺乏してゐるかも知れない。予の足飯山町の地を踏んだ時直ぐ氏の面長にして白皙な顔貌を想ひ起した。飯山町では少數青年者と秋雨の夜を語つた。その翌日は惠端禅師の墓を訪うた。飯山町はいつ行つても落ちついた感懷に耽らせる處である。
終りに予は長野市に於て村松民治郎氏を喪つたことが、長野縣として巨大なる損失であつたことを附記して一先づ亡人録の筆を擱く。
(大正九年「信濃教育」二月號)
(245) 辭任の辭
今月限り本誌編輯主任を退くことにいたしました。三年の間重大な任務を負ひながら、自分の滿足するまでに、その任務を果すことが出來なかつたことを遺憾に思ひます。自分が滿足に思へないのであるから、大方諸君から見て不滿足の多かつたことは勿論であると思ひます。「信濃教育」は長野縣教育に大なる關係を有するのみならず、一般教育界に對して、重要な任務を持つて居べきであります。長野縣教育の理想が一般教育界の理想に對し、如何なる關係に立つてゐるかを考へれば、この任務甚だ明瞭であると思ひます。長野縣教育の理想に根據があり、眞理があり、熱情があり、眞摯がある以上、この理想は一縣一地方に局在すべきものでないと信じます。爾かき抱負を以て「信濃教育」を刊行するでなければ、雜誌存在の意義は一縣一地方にあつても、甚だ稀薄なものであらねばなりません。「信濃教育」の持てる天職の極めて重大なものである事を知るに於て、予は人後に落ちて居ないつもりであります。只私の力が足りません。夫れでいつも衷心に不滿足を感ずると共に、「信濃教育」(246)に對して濟まない心持が繼續してゐました。殊に近來私の他の方面の仕事が忙しくなつて來たため、自ら感ずる不滿足と濟まない心持とが一層深くなつて來ました。私の任を辭するのは是れ丈けの理由であります。
縣下教育者諸君が「信濃教育」を重大に思ひ大切に思ふ限り、必ず適良なる後任者を得らるることと思ひます。適良なる後任者を得ると共に、縣下教育者諸君からは、今よりも一層多くその抱負、理想、研究、施設を本誌に發表するに至らん事を切望します。一人數人に任せたのみでは雜誌は成立ちません。縣下教育者諸君の本誌に對する熱誠の程度は、諸君が原稿を寄せ給ふ模樣によつて、その一面を窺ひ得ると思ひます。この意味に於て、私の在任中原稿を寄せ給へる諸氏に對し「信濃教育」の名を以て御禮申上げます。原稿を寄すべくして寄せ給はざりし諸君諸氏に對して、その何故なるかを問ひます。夫れが失禮でないと思ひます。
小生は任を辭しましたけれども、家に在つて出來る丈けの筆を執つて、本誌に寄せたいと思つてゐます。どれ丈けの事が出來るか分らないけれど、左樣な興味を本誌に對して充分持つて居ります。
猶編輯委員諸氏よりは三年間に亙り、熱誠渝るなき御助力を賜はりました。長野在住の諸氏よりは特別な御助力を賜はりました。厚く感謝の意を表します。猶又在任中各地を巡行して色々御厄介に預りました。厚く感謝の意を表します。 (大正九年「信濃教育」三月號)
(247) 東西記
○
年若い教育者から多く感傷的な詞を聞かされる。年とつた教育者から感性の枯れた殻のやうな詞を聞かされる。小生は何れにも感服してゐない。
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報徳宗の流行したころ小生或る學校に奉職してゐた。そして郡役所の役人が小生に貯金を勸めてくれた。その頃報徳宗は貯財宗のやうなものであつた。學林を造つたり、貯金を奨勵することが長野縣にも流行した。あの頃盛に報徳宗を振り翳してゐた先生たち今は何を振り翳してゐるか。流行といふものは報徳宗に限らず輕薄な印象を後に貽すに止まる。
〇
此のごろポケツト萬葉集といふ本が出た。萌黄表紙の背へ赤刷の文字が印刷されて、女や子供の目(248)を惹くに足るやうな美小本である。電車の中で一寸開いて見るとその頁に大倖家持の戀の歌
千鳥なく佐保の河門の清き瀬を馬うちわたし何時か通はむ
夢の逢ひは苦しかりけりおどろきて掻きさぐれども手にも觸れねば
この二つの歌を解説してゐる。前の歌を「女を怨んだ歌」であるとし、後の歌の原據であるらしき遊仙窟の「小時睡則夢見2十娘1、驚覺攪v之忽然空v手」に比してこの飜譯歌の方が情の切實なる點に於て勝つてゐると稱揚してゐる。斯樣な淺膚觀が美小本の萬葉集となつて世間に紹介されるのも萬葉流行の一面の現象である。流行といふ詞はこんな場合にも輕薄である。因みに言ふ。ポケツト萬葉集の著者は佐々木信綱氏である。
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「信濃教育」の表紙畫を百穗畫伯から描いて頂いて信濃教育會に送り屆けた。翌月長野へ行つて製版が出來たか何うかを聞くと、未だ出來ないと言ふ。さう時日がかかる筈がないと思うて猶聞いて見ると、あの畫は幹部會で否決されて不採用になつたのだといふ。小生は少からず面喰つた。幹部諸氏の識見は小生等の到底企及する所でない。謹んで教を請はんと欲して會長を訪ねると、僕にはよく畫のことは分らないが何でもあの畫が役員會の問題になつたことはなつたと言ふ。役員會の問題になつたことは分つてゐる。問題になつたればこそ否決されたのである。どんな問題になりましたかと聞いて(249)見ると、第一に畫の價値が問題にされたらしい。畫の採用を否定するといふには畫の價値問題が第一に考へられること當然である。百穗畫伯の表紙畫は信濃教育會役員會によつて見事落第の審査を下されたのである。この事百穗畫伯のためにも信濃教育會のためにも一つの挿話とするに足りる。第二に表紙畫の題材が白樺の木である。折節東京に白樺派と稱せられる文士の集りがある。その文士の集りと表紙畫と題材名稱相通じてゐる。これが役員會の問題となつてゐるらしい。佐藤氏は百穗畫伯が白樺派の文士と何かの關聯ありやを小生に問うた。この質問が一番よく小生の胸に落ちたやうである。諸氏の配慮、誠に周到にして應分なることが諒得出來たからである。果然小生が畫伯と白樺派との間に何の關聯もなきことを言ふを聞いて安心したらしかつたのである。小生は斯樣な問答を續けることを止めた。そして直ぐ向うの師範學校へ行つて役員なる某々氏を訪ねた。某氏は劈頭その頭を撫でながらあの畫は大へん結構ですと言つた。他の某氏は小生の顔を見て僕等を冷かしちや困るよと言つた。この二名言は小生をして眞面目に表紙畫論を拜聽しょうとする心を拒ませた。そして他の役員等を訪ねようと思うた心をも躊躇させた。今本誌に用ひてゐる表紙畫はその時問題にされた畫である。當時信濃教育會の役員諸氏は、教員が白樺の林へ遊びに行つても眉を顰めたであらう。常識道を通る人々は、常識を通り越すととんだ所へ出る。先づ用心堅固あぶない所へは口も手も出さぬが安全第一身の爲めである。斯樣な教育者が今時の長野縣教育會にあることを記して置くは、後世長野縣教育史(250)を編むものの參考になるのである。
○
自分の一生には望みがない。せめて自分の子供に教育を受けさせて立派な人間にしたい。斯樣な述懷が教育者の口から洩れることがある。さういふ教育者に教育の天職が自覺される吾がない。
自分の爲事は一生を費しても迚も到達しきれない。この志を眞に享けつぐものは自分の血液を傳へたものでなければならない。子孫を多く欲しい。この述懷と前の述懷とは種類が違ふ。
上水内の北部職員會の歸りに、草鞋がけで會から歸つて行く先生を見た。素樸な生活甚だ面白いと思つて一友人にこの事を話すと、友人の言ふには、さういふ先生に生計一點張の者が多い。眞の素樸は教育者として求むるものが第一に純眞でなくてはならない。草鞋がけの先生に左樣な自覺者があつたら大したものだらうとのことである。
○
教育道を徹底させるには教育道に立籠らねばならない。畫工が繪畫道に立籠り、音樂家が音樂道に立籠り、科學者が科學道に立籠ると同じである。畫家の哲學は畫家の全生活を基調として成立し、科學者の持する哲學は科學者の全生活を基調として成立すると同じく、教育者各自の哲學は教育者各自の全生活を基調として成立するものである。教育者として學校生活に深く突き入ることは、自己の哲學(251)を成立させる第一次的の大なる基礎であらねばならない。書物を讀み他人の思想に觸れることは寧ろ第二次的のものである。學校生活を疎大に歩いて書物を多く讀むといふ傾向は、教育者として本當の目醒め方をしてゐないものである。況して學校そつちのけにして畫を談じ、音樂を談じ、科學を談ずるものに至つては寧ろ教育者を止めて畫工になり、音樂者になり、若くはそれらの評論者になり、科學者、哲學者になつた方がいいのである。長野縣の教育を眞に徹底させるの道はこの外にない。長野縣へ來れば哲學者、文學者、科學者が多くて教育者が少いといふ感がある。これはどんなものであらうかと小生は平素潜かに思つてゐる。讀書にも、教育にも興味の遠ざかつた固定教育者は以上小生の思料中には入れてないのである。
○
矢澤米三郎先生は博物學者として篤學非凡の聞えがある。先年私費を割いて「信濃博物學會雜誌」を出し、中央科學者の注意を惹いてゐたと聞いてゐる。その雜誌の久しく中絶してゐることは長野縣として大なる遺憾である。之が再興を一二度先生に御願ひしたが、未だその順序に到らないやうである。先生及び河野氏等の科學に對する敬虔眞摯なる態度は必ず之が再興の日あるを疑はぬ。先生等已に再興の意があつて年を經ること較や久しきの感がある。今度は誌上を以て催促がましきことを申上げる。
(252) (大正九年「信濃教育」七月號)
○
此の二三年のうちに相當權威ある教育者が可なり多く實業界に轉じた。轉じたのは實業界の景氣のいい時であつた。景氣のいいのを見て權成ある教育者がその方へ轉じたことを世間では如何に見、教育界は之を如何に解するかを知らない。啻に此の二三年に限らない。教育界の老功者が教育の功成つて後實業界に入るものが多い。これらの人々が老いて職を退くは結構である。職を退くと共に自己を教育者でないと思ふならば、職を退かざるまでの教育者としての自覺も略ぼ推知すべきである。謂ふ心は實業界に入るを非とするの意ではない。實業界に入ると共に、教育者としての權威をも放擲して惜むことなきの態度に出づるものありやなしを問はんとするの意である。彼等の實業界に入るや實業家の番頭手代として他の番頭手代と分つ所ありや、否や。もし分つ所なきか。或は分つ所あるも夫れは往々にして彼等の重きをなす所以にあらずして、あべこべに教育者上りの輕重を問はるる所以であるやうな場合があるならば、彼等は教育者上りとして教育者の體面と品位をも保つことの出來ぬ人々である。實業界に入りし上述の人々が如何の状にあるかは、第一に是等の人々自身がよく之を知り、第二に世間の人々がよく之を知るであらう。教育界は斯の如きをも觀察して自己を反省する機會を作つて可い。
(253) ○
今迄の文明は往々にして人類の弱點助成の機縁を造つた。資本萬能の弊を釀成して人類を一種の墮落に導きたる如きはその著例である。資本家の放恣と横暴に對して勞働者が起つた。勞働者は自ら稱して自己の覺醒運動といふ。彼等の覺醒運動なるものが果して人間の根本義に眼ざめて、資本家の反省と改造とを促してゐるか如何かを知らない。暴を以て暴に代へ、物質本位主義を以て物質本位主義に代へるならば、すべての資本家倒るといへども到る所知るべきである。勞働時間短縮と賃金増加は彼等の急務とする所であること御尤もの至りであるが、急務は必しも第一義ではない。彼等は人類の第一義に根ざして凡百の改革を叫びつつありや。近者予は一書を世に出すために一二箇月間絶えず印刷職工、製本職工等と交渉を續けた。東京でいつも改造の烽火をあげるのは印刷職工である。この印刷職工の能率減退は近ごろ甚しいものである。それとあべこべに鼻息のあらいこと著しい。製本屋では四五日間小生の手を拔いたために、表紙の貼り方を滅茶々々に省略されてしまつた。この製本屋は從來こちらの注意の屆かない所まで注意して手を入れた所である。是等は勞働者一部分の現象であるが、すべての勞働者が如何なる自覺を持して覺醒運動を擧げつつあるかは想像に難からぬのである。斯の如き運動の助成者が現今の社會には幅が利いてゐるのである。彼等も同じく人類の弱點助成者の一種類でなければ幸である。元來新しき運動といふやうなものには可なり多くのハイカラや輕薄な分(254)子を伴ふものである。その輕薄者流に對して輕薄の助成をなすものが出て來る。學校に於ては、校長若くは一校の主腦者が年若き教育者の唱ふる如何なる種類のものにも從はねば自己の地位が守れぬといふやうな珍奇な現象さへ起つて來る。斯の如き校長乃至主腦は消極的に部下の輕薄を助成するものである。人間の弱點助成が流行してゐる間は、二十世紀は未だ眞の改造の聲を擧げたとは言はれないのである。
〇
小生等同人の一人某が病を養ふために五六年前から伊豆大島へ行つてゐる。昨年東京の或る人が大島へ行つたとき某の寓居を訪ねて歸つて來てその窮状を説くこと詳かである。あのままの窮状に置いては、病氣療養どころか病氣促進になつてしまふと言ふのである。早速大島へ出掛けて行つて某の生活に接した。疊は四疊である。疊と土間の間には仕切りがないから、外から土間に來た風は直接に四疊を襲ふのである。早速よりよき寓居を探してそこへ移ることを勤めると、某の言ふには、この四疊は数年居馴れて尤も自分の生活に親しい室である。その上自分の體はこの四疊とよく調子が合つてゐるから他へ移るのは却つて惡いと言ふのである。某は朝夕の米磨ぎから一切の炊事を親らしてゐる。熱でもある時は困るぢやないか。炊事だけは隣の婆さんを頼んだら何うかと言ふと、某の答へるには朝夕米磨ぎも一切の炊事も數年來馴れてしまつて、今では自分の一つの樂みになつてゐる。炊事を婆(255)さんに頼むのは自分の樂みを他人に差し出すやうなものである。かう答へるのである。某者は又一張の机の上に豆ランプをともして夜の用をなしてゐる。これを電燈に代へ給へといふと、某の答へるに、豆ランプは光が擴散されないで書物の注意點のみを照して他に及ばない。之を最も恰適とする。電燈は光が擴がり過ぎて予の眼の習慣に適しないと、かういふのである。某は又島の店から葱一束位を買つて來て数日の副食物を作つてゐる。これを改めて魚肉牛肉を交へることを勸めると、其の答ふるには、一汁一菜は今の自分の體に尤も調子が合つてゐる。左樣な濃厚な食物を取ると體の調子が壞されさうであると、かういふのである。斯うなると小生の島へ渡つたのは、其の誘惑掛りを務めに行つたやうなものである。今時の青年に斯樣な人もゐるのである。此の青年は信濃の産である。八月五日
(大正九年「信濃教育」九月號)
(256) 或る先生の話
小生東筑摩郡廣丘小學校の校長を勤めてゐた頃、その學校に將軍と綽名されてゐる先生があつた。陸軍豫備少尉の代用教員である。身の丈五尺六七寸の大男で顔貌が怖くて心の善良な先生であつた。困る時に直ぐ困る顔をし、得意の時に直ぐ笑ひ顔を見せるから生徒は與みし易い先生と思つて往々馬鹿にする。上級の生徒になると命令を聞かないで授業半ばに勝手に林中へ逃げてこの先生を困らせることさへあつた。こんな時には此の先生は職員室の自席に腰を下ろして首を垂れて一言も發しない。心配が全心を領してしまふのであるから、顔を繕つたり、強ひて物を言つたりすることは出來ないのである。此の先生かつて高等一年か二年の修身課に協同一致といふことを教へるために色々苦心した結果、松本の町まで大きな饅頭を買ひに行つた。此の先生はいつも兵隊靴の古く大きなのを靴下なしで穿いてゐるから、歩く時は踵がぼくぼくと外へ現れる。他の先生も生徒も此の先生には是が普通だと思つてゐるから、見て笑ふこともない。此の足つきで三里の道を松本まで歩いて行つて大きな饅頭(257)を一つ買つて來たのである。翌る日の第一時が修身である。先生は諄々と同心協力といふことを問いて、一團體の中にあるものは互に苦樂を分け合はねばならぬといふことを説き聞かせた末、大きな饅頭を一つポケツトから取り出した。生徒に驚きの目を※[目+爭]つてこの饅頭を見た。すると先生は生徒に向ってその各の片手を机上に出すべきを命じた。生徒は變だと思ひ乍ら命令通りその片手を机上に出して掌を上に向けた。さうすると先生はいきなり饅頭に爪の先をあてて小さく摘み取つた。生徒は驚いて先生の顔と手を注視してゐる。先生は沈著に鄭重にその摘み取つた一片を持つて行つて一生徒の掌の上に載せた。生徒の視線は皆一生徒の掌の上に集つた。先生は更に第二片を饅頭から摘み取つて次の生徒の掌の上に載せた。第三第四とつぎつぎに小さな饅頭の斷片が各生徒の掌に載せられた末に、最後の殘りの小片が先生の掌の上に載せられた。先生曰く、一つの饅頭も互に分け合つて喜びを共にせねばならぬ。今號令をかけるから皆一時に之を食べよ。生徒驚くこと限りなし。只先生が非常に眞面目に鄭重に事を行つてゐるから、それに押されて一語も發し得ない。その中に號令がかかつた。曰く、食へよ。先生は號令を發すると共に自分の大きな掌を口に宛てがつて饅頭の斷片を食べた。生徒もその勢に押されて先生の顔を見乍ら掌を口にまで齎した。丁度その時何處からかくすくすと笑ふ聲が聞えた。一人の生徒が堪らへられなくなつてとうとう笑ひ出したのである。それと共にすべての生徒も一時にくすくす笑ひ出してしまつた。先生の昨日からの計畫はこの笑ひで粉微塵にされてしまつ(258)たのでゐる。先生の落膽思ふべし。時間が終つてから先生は直ぐ職員室の机に腰を下ろした。さうして斯ういふ時いつもする悲みの顔付をした。
此の先生は村民に一番不人望であつた。生徒が馬鹿にするから父兄も自然馬鹿にする。村會議員が時々小生にあの教員を轉任させてくれと言つた。或る時は村會議員一同が相談して小生に迫つたことがある。小生は村民から迫られても、生徒から馬鹿にされても此の先生を轉任させる氣にはならなかつた。此の先生の何處からも不眞面目な輕薄な一點を見出すことが出來ないからである。爲る事は往々にして馬鹿げてゐるが、その馬鹿げた事を心から眞面目に鄭重に行つてゐる。故《わ》ざとらしい所や、見せつける樣な所は、事の善惡如何に係らず此の先生からは微塵も見出すことが出來ない。そこがすべての人に通じて容易に及び付かない所であつて、自《おのづか》らにして人間の根本所を得てゐるのである。是から出發しないものは事の善惡を通じて皆虚假である。教育の事殊にさうである。衒ひや、賢《さか》しさや、あやしき殊勝者や、あやしき聖人の教育界に瀰漫せざらんことを望む。この先生に教へられて、よく此の先生に反抗した一人の生徒が今東京にゐて小生とよく出逢ふ。さうして此の人今頻りにこの先生に感服してゐる。教育者の感化といふものは即效藥の利き目のやうなものではない。生徒に人望があるなど思ひて喜び居る先生一考すべきなり。九月十二日
(259) 東西記 つづき
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生徒を鍛錬するといつて、餘り人間の本性に逆つたやり方をするのは考へものである。東京の或る私立中等學校で暑中「暑い」と口に出して言ふものから何錢かの罰金を取り、寒中「寒い」と言ふものから同じく罰金を取つたといふことを知つてゐる。寒い時に寒いと言つたとて罪惡ではない。罪惡でないものへ罰金を課するといふことは人間の大道から見て間違つてゐる。大道から見て間違つたことをして生徒を鍛錬するといふのは、鍛錬に熱心であつて鍛錬の局所に首を突つこみ過ぎたものである。局所に首を突つこんで大道を見ないと往々斯樣な間違ひをする。その極人間らしくない偏癖な固陋なものを作りあげる例はいくらもある。鍛錬とは人間に偏癖を強ひることではない。人間の年少より年長に至る各の時期に亙つてその生を充實させ集中させることである。少年は少年らしいことに眞面目であり、一心であり、青年は青年らしいことに眞面目であり、一心であればいいのである。芭蕉(260)や乃木大將などは左樣なものを極度まで押し進めた人であつて、偏癖や固陋の凝り固まりとは違ふ。何處までも人間自然の性情に根ざして生を充實させてゆくものには老年に至るまで小兒の如き無邪氣と活力とがある。芭蕉は一面中年の小兒であり、乃木將軍や良寛禅師は一面老年の小兒である。子供ごころの純粹がなくて何うしで腹が切れる。何うして、夢は枯野を駈けめぐつたり、子どもと手毬をついて樂んだりすることが出來る。彼等は皆大なる小兒である。至純一途の成長者である。學校の鍛錬といふもの、この大道を目掛けずして偏癖固陋な人爲的計らひをすることあらば禍である。
田舍の或る中學校で質素を目標として生徒を鍛錬した。質素は惡いことではない。只局所へ首を突つこみ過ぎて少年の自然なる性情を考へないため、卒業して各地へ遊學するものは極端に奢侈に移つてしまふといふ話を聞いた。之は不自然な質素が卒業後の反動を招き致したのであらう。斯樣な話は他の高等女學校にも聞くことが出來た。在學時代に極端に質素で卒業すればあべこべになるといふのである。だから同窓會に卒業生の著飾つて來ることが學校に對する一種の皮肉な表示に考へられるといふことである。又或る自治寄宿舍(生徒自治會か)では頻りに剛健を標榜して極端な自治的鍛錬をする。その會の出身者には發狂者が多いといふことである。暑い寒いと口外するものから罰金を取り、真に之を極端に推し進めて燒火箸を握らせたり、寒中單衣を著せ暑中褞袍を著せたりするやうな事になれば、首の突つこみ方も可なり人間ばなれをして來るのであつて、左樣な徒から發狂者を出すこと(261)怪しむに足らないであらう。予の言は質素剛健を排して奢侈柔弱を迎ふるの意ではない。鍛錬を施すといふ教育者に純眞小兒の如き心があつて、人間自然の性情を充實させるやうな大柄にして永久的力ある鍛錬の行はれんことを望むの意である。
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長野縣では師範學校に權威を失つて、思想の中心を讀書に求め、若くは各地講習會の講師に重きを置くの勢を助成したやうである。東京、京都、仙臺等の學者で思想人格の權威者が頻りに長野權に招致せられて、是等の思想家と長野權教育者とは餘程親密な交渉を經て來てゐる。長野縣の教育者は學問と共に人を求める。人を求めて招致したる講師と教育者の間に人格的交通あるは勿論であつて、人格的交通は一時的より順次永續的に進むのが自然である。近來長野縣に招致せらるる講師が永續的傾向を帶びて來たのは長野縣の一進歩である。新しきより新しきを趁ひ、終りには珍しきより珍しきを趁ふが如きに至るは敦厚なる學風とは言ひ難い。言ふ心は狹く局限した門戸を設くるの意ではない。求むるもの高く、高きに土つて選び、選びたるを信じ、信ずる所に依り、依る所深く久しくあるべきを言ふのである。試みに講師を招聘するが如きは、講師を輕ずるのみならず自分をも輕ずるものである。長野縣は之を師範學校に失つて却つて之を一國の權威より得たものでゐる。此の意味に於ける講師招聘の益々盛ならんことを望む。
(262) (大正九年「信濃教育」十一月號)
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長野縣の教育者は少年を鼓舞し、矯正するに彼等の名譽心に愬へることの危險であり、低卑な道であることを知つてゐる。夫れゆゑ一部の教育者間に模範生徒の表彰などが行はれてゐた時、長野縣教育者の大部分は夫れを笑つて見てゐた。之は結構なことである。模範生徒などと言はれるのは生徒自身のために大抵氣の毒である。子供心の弱點を捉まれて足掻きの付かない形ばかりの整つたものが出來あがるか、弱點を挑發されて、輕薄な上すべりものが出來あがるかに極つてゐるというてもいい位である。少年の天才などはその才を愛重すればするほど、その弱點を挑發せぬやうにする工夫が大切である。弱點とは人に褒められるときに生れる容易なる自負心である。長野縣教育者は左樣な自負心によつて出來あがる天才者の輕薄さを知つてゐる筈である。
近頃の少年雑誌には少年の投書が多く載つてゐる。あれを長野縣の教育者は何と見てゐるか。一つの文章、一つの歌謠、一つの畫が雑誌に載るといふやうなことは、大人から見れば何でもない事柄であらう。併し雑誌に自介の名前と、文章と、歌謠と、畫とを刷り出された子どもは決して夫れを一小事件とは思はないのである。彼等の弱擔は斯んな所でも挑發されてゐるといふことは、長野縣教育者が早くから氣づいてゐる所であらうと信じてゐる。只小生の眼に觸れる範圍の少年雑誌では長野縣の(263)少年投書家が他に比して決して少數ではない。これを長野縣教育者が如何に見てゐるかと言ふことを問うて見たいのである。文壇に投書家氣質といふ熟語がある。器用で早く出來上つて何物の髓をも捉へ得ないものを指すのである。換言すれば小作りもの、上すべりものである。必しも投書の初めから小作りでも上滑りでもないものが、終りに左樣に出來あがるのは何のためであるか。知らず識らず弱點を挑發されてゆくのである。左樣な問題を提出すること必しも無駄でないと近頃思うてゐる。
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弱點は隨所に挑發されてゐる。弱點を挑發するものは多く現世の物質觀である。物質觀は内面的よりも外面的に働く、中樞神經よりも末梢神經に働く。從つて精神的よりも官能的に働く。現代の大人は多く此の外面的の興味と、末梢神經の刺撃と、官能の惑溺の中に藻掻いてゐる物質觀者流であるというても過言であるまい。その大人の子供が物質觀によつて哺まれてゐるといふことは餘儀ないことかも知れぬ。見よ、少年讀物の内容色彩の官能的であり、末梢的であり、外面的であることを。夫れに氣づいてゐることは長野縣教育者を須たずして天下の汎く認むる所であらう。只これを長野縣教育者が如何に見、如何に處置してゐるかといふことを問ふのは今日に於て無駄でないと思ふのである。 ○
少年の腦髓を傷ひつつあるものは更に現今中等程度學校の入學試驗である。東京では募集人員の二(264)十倍以上の志願者を得た學校がある。滿點者のみを採つても猶募集人員を超過するであらう。超過した人員を篩ひ落すためにデモクラシー、社會主義などの意義を問ひ試みたといふ滑稽事さへも傳へられてゐる。教師を評すれば滑稽事であらうが、少年等よりすれば悲慘事である。東京の家庭では尋常小學四年頃から家庭教師によつて、中學人學準備を行つてゐるものさへあると聞いてゐる。之等の家庭教師は合格の如何のみが問題であること勿論である。入學試驗のみを通過させようとして競爭すれば、結局器械的に詰め込むより外の道はないのである。尋常小學四年といへば十歳か十一歳の少年である。左樣な少年の腦髓に器械的な詰め込みをするの状を想見すること寒心すべきほどの事である。斯の如きが日本全體の現象となるならば由々しき國家問題であり、人道問題である。教育者は之に對して如何なる見解を持して進まんとしてゐるか。聞く所によれば諏訪中學校(縣下全體の中學校か)は諏訪地方各小學校と相談の結果、各小學校に於ける入學豫習を廢すると共に試驗問題は尋常小學六年の教科書程度を超えぬことに打合せてゐるさうである。これは入學試驗制度の範圍に於ては非常に結構な方法である。家庭でどんなに豫習するとしても、尋常小學の教科書程度で豫習するのであるから少くも詰め込みには遠ざかり得るのである。夫れ丈けの程度では選拔に困るだらうといふものあらんも、如何に程度を低くしても受驗者腦力の等差は自から答案の上に現るべきである。必しもデモクラシー、社會主義の意義を問ふを要しないのである。只志願者が激増して來ればこれ丈けでは未だ足(265)らない。教育者は之に對して如何なる見解を持して進まんとするか。
(大正十年「信濃教育」四月號)
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小生の友達である年若い坊さんが、修業のため京都の田舍の無住寺へ數年の留守番を志して出掛けた。君は道心堅固であるが女に可愛がられる素質を持つてゐるから用心が必要だと小生が言つたら、「私も女に可愛がられると有難い」と答へた。これを小生の一畏友が聞いて「夫れだけのことが言へる坊さんは少々本物だ」と言つた。
この坊さんが京都の或る歌會へ出席した。場所は西洋料理屋であつた。あまり腹が減いたからその料理の一部分を食べたら翌日下痢をした。やりつけない肉食をしたからである。夫れをこの坊さんは「佛樣の罰だ」と思つた。下痢の現象を科學的に説明の出來ぬ坊さんではないが、説明の前に「佛樣の罰だ」と考へずには居られないところに此の坊さんの命があるのである。
小生と同居してゐる中學五年の少年は、不必要な言葉を出さず、不必要な事をしないといふ約束をして生れて來たやうな男である。端書を出して呉れと頼んだら、端書を出してその端書の下に重なつてゐる封書を殘して行つたことを他の人々が笑つた。これはこの少年の素質が滑稽に現れた偶然の出(266)來事に過ぎない。少年は何處までも眞面目で純粹で學校の成績は上等である。生活に無駄の多い小生等はこの少年から教へられてよいと思うてゐる。 ○
大地を二尺掘れば二尺の光が滿ちる。五尺掘れば五尺の光が滿ちる。五尺の光が滿ちたため他の空間に光の損耗をするといふことはないのでゐる。光は地上にあつて斯の如く無邊際に汎ねきものである。人間界に日光の如く高く汎ねきものを求め得るか何うかを知らない。只現今人間界の活動は斯の如きものを求むるの道程であるか、若くは斯の如きものから遠ざからんとするの道程であるかを考ふることは人間界至大の問題である。さうしてその反省は常に個人各自について個人各自の胸裏に行はるべきである。
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鳥獣の振舞ひは大抵愛らしいものでゐる。愛らしいのは鳥獣の振舞ひがどん底から正直であるからである。聖者の畫像を見ると聖者の傍らによく鳥獣がゐる。聖者の清淨心が鳥獣の正直さに徹してゐる自然の表徴であらう。若し誰かが小生に現今の教育者に何を望むと問うたならば、小生は現今教育者の中から鳥獣と共にその畫像を描くに適するやうな人を出していただきたいと答へるであらう。
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(267) 小生は鳥獣の振舞ひを歌に詠まうと心掛けてゐるが、未だ彼等の純眞さを現すに足るやうなものが出て來ない。出て來ないのは小生に彼等の如き純眞さが足らぬためである。某氏に
霧深き馬柵《うませ》のうちは靜かなり馬ふたつ口を寄せて擦りゐる
といふのがある。斯樣な所を小生も心掛けてゐるが未だ駄目である。他の某氏に
飯《いひ》をもつ吾が手を目守る仔犬の眼黒くくるくる動きて光る
といふのがある。「黒くくるくる動きて光る」といふ現し方に感心する。犬の如き正直な心を持つと斯ういふものが生れるであらう。
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人間界にあつて我々の有難く思ふ正直さや純眞さは、深く人間の本性に根ざした眞劔なものであるらしい。氣まぐれな、放縱な、手輕な正直さが文士藝術家等の一部に流行して夫れが教育者などにも浸潤して來たやうである。鳥獣の行動には鳥獣の本性として何物も抵抗出來ない威力がある。放縱な一部文士藝術家乃至それらのかぶれ者の正直さからは人間性に根ざした權威が發見されない。
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故中島仲重氏殉職の時雑誌「信州」が之に對する諸家の感想批判を徴した。その囘答文の中に長野縣師範學校長磯貝泰助氏の一文がある。氏は「此際黙し難くして春秋一章を記す」と揚言して左の如(268)く言つてゐる。
「大正十年一月六日長野縣埴科都南條小學校宿直員及使丁其校長中島仲重を殺す」
これは現代にあつて如何にも所謂師範學校長らしい言ひ方であつで一應御尤もな説である。只惜しい事には之は宿直員及び使丁論であつて中島校長論になつてゐない。中島校長論にならないことは、此の場合別の場所で言つた方が中島氏論に對して敬意を表する道であらう。師範學校長はこの位の義理を辨へてもいい。中島氏論を徴せられた氏が「予輩未だ死生を悟らず所謂口舌の徒に屬するものか。而して言説を此間に弄するは夫の皎々を涜すの恐あり」と思うたのが本當ならば、謹んで中島氏に敬意を表して黙つてゐるのが自然にして敬虔な道である。黙つてゐるのが自然であるべき時に「黙し難くして春秋一章を記」して宿直員及び使丁論をする所に一種の面目が現れてゐるのである。中島氏論をすべき時に宿直員及び使丁論をしてゐるやうでは中島氏の「皎々」に對するに專一な態度に出てゐないのである。正面から中島氏の主觀に對きあつてゐないのである。專一に正面から對き合ふ「皎々」感でなければ、折角の「皎々」は只詞の上の「皎々」感であつて、人の頭に「僞せ者」感を印するに了るのである。常識者は論者の頭腦の健否を疑ふであらう。功利壬義者は此の場合中島氏を材料にして、自校若くは一般學校の宿直員及び使丁を戒める機敏さに敬服するであらう。そこに從來教育者の惡い所があるのである。若し之が當該宿直員か使丁かの書いた文章であれば結構である。若くは一般(269)宿直の任に當つてゐるものや、一般使丁の書いたものであるならばほどの惡感を伴はない。戒むる所が自分に存するからである。磯貝氏の文章は斯樣な場合に對者にも對はず、自己にも對はずして直ちに他を戒むるの態度に出てゐる。その物言ひは少くも自校の宿直員、使丁を悚れしむるに足りる。功利主義者の敬服する所以である。殊に「春秋一章を記す」などと言つて聖人の衣服の借著をした所などは所謂教育者の面目躍如たるの趣がある。磯貝氏のあの文章は流石に衆人を驚かしたであらう。時事新報の一欄にも誰かの感想が載つてゐて小生も同感であつた。「信州」に收められた諸感想文の中に磯貝氏の文章に多少類似性をもつたもの少々あつた。これも長野縣教育のために殘念である。
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高等師範生が赤門前で殺害された。新聞で見ると同行の友人が警官に前後の事情を問はれた時、三人(?)で麥酒一二本飲んでゐたと答へた。料理屋について問うたら、大へん召し上つて御愉快さうに騷いでいらつしやつた、と答へた、どつちが本當であらう。どつちも本當だと解されぬこともないが、さう解する人は少いであらう。同行の友人は同じく高等師範生である。小生は體面を繕うて不正直を言ふ學生を嫌ふ。
(大正十年「信濃教育」六月號)
(270) 岡田氏の訓示を讀む
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今年二月、縣知事岡田氏が郡視學會議の時示したといふ訓示を或る人から見せてもらつた。新聞紙に載つたのであるが大體を誤り傳へてはゐまい。その訓示には精神があり、熱がある。所謂訓示といふものは多く儀式張つた辭令的のものであるが、岡田氏のこの訓示は口を開いて直ちに一縣教育者に面するの概がある。斯ういふ率直な態度で教育に對することは、教育者をも生かし、岡田氏をも生かし得る道である。縣教育者諸氏は岡田氏のこの率直な態度に酬いるに率直な意見を吐露するがいい。それが又岡田氏を生かし、教育者をも生かす道になるであらう。岡田氏は教育の事を教育者に相談せずして一人決めをして、高くその上に臨むやうな舊式の官吏ではあるまい。
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岡田氏の訓示には熱があるけれどもその熱が少々發作的である。小生の目から見ると、岡田氏に何(271)の根柢と何の必要があつてあれだけの熱を出したかが疑はしいのである。訓示全體が氣分教育といふものに對する杞憂を列べてある。成るほど斯樣な聲を縣下で耳にした事は往々あるが、左樣な教育が縣下の何處で行はれたかを確にしない。二三箇所を耳にせぬではなく、そのうちの或る物は小生も實際に目撃した所であるが、夫れが縣下全體に亙つての教育現象であると言ひ得る人があるか(岡田氏よりも小生の方が縣下教育の見聞は詳しいと思つてゐる)。岡田氏は自己の言明に對して一々その例證を擧げ得るであらうが、擧ぐるところの例證は縣内にあつて何本の指を屈し得るとするか。何本の指を屈するにも足らぬほどの例證を掲げて、これを全縣の教育に當て嵌めて大聲疾呼したものとすれば、その大聲疾呼の情熱は根柢と必要を缺いてゐる點に於て、發作的の情熱であるとするを當れりとする。新に訓示の劈頭に於て「所謂氣分教育なるものの稱へられてより少くとも六七年を經過せり。今や飜つて其の功過を點檢すべき時に到著せり」などと、大袈裟なことを言つてゐるのは噴飯を過ぎた滑稽である。知らず、岡田氏は六七年前何人が氣分教育といふ珍妙な教育説を唱へて縣内の何れの處でその教育説を信奉し、實行したとするか。少數者の例を擧げて全體を斷ずるは誣妄の爲わざである。事情に迂なるものこれを爲し、事情に迂なるも思慮に明なるものの能く爲さざる所である。聞く所によれば縣下上伊那郡の一部に最近氣分数育(?)なるものが行はれて、それが縣會の問題になつたさうである。もし岡田氏の訓示がそれら縣會の言議に動かされ、縣會の言議に酬いる道の一端として(272)現れたものとすれば、一縣の教育者は岡田氏の當座の用に供せられたものとも見られる。岡田氏がまさか教育者を當座の用に供するつもりはないであらうが、爲すところ其の時を得ないと、左樣な疑までかけられること知者の避けんとするところである。兎に角、岡田氏の言つてゐる所は根柢が淺くて内容が薄い。薄い内容を捉へて疾呼してゐる所が小生には發作的に見える所である。
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岡田氏は氣分教育の内容に色々なものを列擧してゐる。生徒の服裝が不潔だとか、言語が※[燗の火が女]雅でないとかいふことまで氣分教育の成績中に數へ立ててゐる。發作的なところは斯の邊にも現れてゐる。小生も多少教育の内容を見聞してゐるが、衣服の不潔とか、言語の不※[燗の火が女]雅とかいふやうなことが此の教育の内容ではあるまい。岡田氏は六七年前から氣分教育が唱へられたと言うてゐるが、その氣分教育の結果が生徒の服裝を不潔にし、言語を不※[燗の火が女]雅にしたとすれば、六七年以前の長野縣生徒は今よりも衣服が清潔で言語が※[燗の火が女]雅であつた筈である。さういふ荒唐な言語は縣知事の訓示中にあるべきでない。岡田氏の言を以てすれば、若し科學者にして衣服不潔なるあり、實業家にして言語不※[燗の火が女]雅なるあらば之に名づけで氣分科學者、氣分實業家と稱するつもりであるか。發作的でゐる事は又斯樣な筋の立たぬ所に言議を費してゐる所もある。衣服の清潔、言語の※[燗の火が女]雅といふやうなことは惡いことではない。併し乍ら、衣服といひ言語といふは要するに外形的のものである。外形を整頓するは今人の皆意(273)を用ふる所であつて、弊所もその中に胚胎してゐる。外形も内容も共に適つてゐれば結構であるが、或る所まで到つたものでなければ夫れが難かしく、内を修むるを先にするものもあり、形を先にするものもあつて、種類を異にし程度を異にするも各に弊なしとせざるは同じである。爲政者の形を整ふるを好むは、多く面從の人を喜ぶの弊を伴ひ、その裏面にいつも諍臣の少いを嘆く考がある。諍臣の言必しも可ならざるも、意氣とする所を容るるに自ら大器者の襟度がある。意氣といひ、襟度といひ内面的なものであつて、外面を整ふるにのみ急なるものの窺ひ得ざる領分がある。岡田氏の服裝、言語を云々したのは必しも外形のみを整へしめんの意ではあるまいが、擧ぐる所の箇條に、第一に教室の不整頓を言ひ、教師生徒の服裝言語を言ふは、内を尊ぶものに衷心よりの推服を捧げしむるに不便である。況して是等の事情を以て、皆所謂氣分教育の内容に收むるに至つて縣人中異樣の感を起さないものはあるまい。斯樣な問題は小生の知る所のみにても已に二十年前より官廳向きの人々より何時も教育者の耳に聞かされる常套語である。それを氣分教育に結び附けて訓示してゐるのは少し慌てたのであつで、矢張り發作的な所である。
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終りに岡田氏は「甚しきに至りては自己の氣分宜しからざることに藉口して授業を閑却するものあり。或は昂然自ら高くして他の指導と歡告とを顧みざる如きものあり」といひ「學校長にして往々部(274)下教員の爲す所に放任し、何等の指導を試みんとするの意思なきものの如く、又生徒に對しても同樣にして校内を擧げて頽廢放縱の風の窺はるることの無きに非ず」というてゐる。ここに至つて初めて氣分教育の内容に觸れ得た感がある。斯の如き内容に關しては、何人の目よりするも頽廢と感じ、放縱と感ずるのが當然であつて、爲政者の傍觀し能はざること御尤もである。併し乍ら斯る氣分教育は恐らく縣下大部分教育者の顰蹙する所であつて、實際に斯の如き教育を行つてゐる學校は極めて少數であると信ずる。偶々その異樣なるために人の耳目を聳えしむるに止まるのであらう。左樣な現象を捉へて直ちに縣下全體の教育者に當て嵌めて言議するといふことは岡田氏として輕擧である。 ○
岡田氏は前項の如き現象を以て、その起る所が「個性暢達と藝術趣味の鼓吹」にあると斷じてゐる。斯樣な言は兒童の個性を伸ばさうとして居り、眞に藝術の根柢に參入してゐる教育者等の笑を買ふに足りるものである。個性を伸ばすことが子供を放縱にすることでないほどの理は、縣下教育者の初めより心得てゐる所である。一例を擧ぐれば近來小學校で自由畫を課してゐる。畫の上に兒童の個性を暢達せしめようとするのである。自由畫は放縱畫ではない。畫の上に個性を暢達せしめようとするのは、畫の上に個性を放縱にすることではない。眞に個性の長所を暢達せしめようとする苦心を岡田氏は知つてゐるか、何うか。予の知れる下伊那の某氏は自由畫を課するために堆き程の細案を編んだ。(275)已に一度編んでその缺點を知り、更にその案を破り棄てて第二の細案を編んだ。某氏はこの案を兒童に徹底せしむるためには、多年同一學校在勤を必要として、他への榮轉を悉く謝絶してゐる。斯の如き態度が教師としては自己の個性を暢達せしむる所以であり、兒童に對しては眞の保育助長を成し遂げ得る遣となるのである。斯の如き教師に對して頽廢放縱呼はりをするものがあつたらどうであるか。呼ばれるものが放縱か、呼ぶものが放縱かを問うていいのである。以上單に一例に過ぎない。理科の自由研究といひ、地理の實地指導といひ、何れか指導の苦心を要せざるものありや。岡田氏は教育者の實地になす所を知悉して、あのやうな言をなすのであるか。實地を知つてあのやうな言を發したならば非常識者であり、知らずして言つたならば躁急者である。併し乍ら岡田氏も個性暢達を全然否定は出來ない。そこでその弊とする所を「個性の暢達なるものを極端に鼓吹し或は誤つて之を適用するに於ては甚だ恐るべき結果を生ずるの虞あり」と附言してゐる。それならば何故に劈頭から、個性教育の誤れる適用が、氣分教育を形成してゐると言明せずして、單に「個性暢達と藝術趣味の鼓吹とは其の中軸をなすものにして」といふ如き言辭を用ひたのであるか。辯明の道はあらんもその意知るべしとせらるるの當然である。言ふ所の極端に鼓吹する所とは何を意味するか。已に自ら言明して個性の暢達は個性の長所を暢達することであるとするならば、その長所は何處までも暢達すべきではないか。伸ばされた個性が國家、社會、人類の大道と衝突するやうな個性ならば、それは極端に伸し(276)ても生ま中に伸しても同じく惡い個性ではないか。極端といふ用語の意を忖度するに難いが、斯樣な所へも不徹底な人生觀と教育觀が頭を出してゐるのでないかと思はれるのは、文章の前後を通讀して自ら類推し得る所である。
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氏は又藝術に對して「藝術趣映を教育上に多量に加味せんとする事は危險なり」というてゐる。多量に加味して有害ならば、少量に加味しても有害ではないか。教育でなす各の爲事は藥の調合とは違ふ。爲す所は多端であるが通ずるものは根柢に於て一である。藝術趣味に眞劔な心は直ちに他の爲事に對する眞劔な心であり、他の爲事に眞劔な心は直ちに藝術に對する眞劔な心である。孔子は其の當時にあつて修業者の修むべき道を禮樂射御書數の六藝に分けたが、その各を根柢から分れ分れのものであると思ふと間違ふ。樂に徹する心は禮に徹する心であり、禮に對する敬虔な心はそれが射御書數にも通ずる敬虔な心である。例は卑近な所にもある。小生の處へ來る青年の中、農業者にして農業に忠實な青年は、小生と同じ道に立つても忠實な修業者である。教員にして教育に不誠實なものは小生と同じ道に入つても恐らく不誠實な修業者であらう。爲す所は分れても根柢に徹するに於て一元に歸するのである。岡田氏の言ふ所の「多量の加味」が何を意味するかを知らないが、まさか凡ての學科を押し縮めて多量に藝術の爲事を課すといふ如き現象あるを指すのではあるまい。(左樣な事は學校(277)に於て實際にあるべきことでない)さうすると藝術趣味の加味はいい加減にしておけ、といふほどの意かもしれない。一事をいい加減にする心は、萬事をいい加減にする心である。藝術趣味に向はば藝術の心に徹すべきである。讀書に向はば讀むに徹し、理科、地理、歴史に向はば同じくそれに徹し得らるるだけ徹すべきである。害とする所は、徹するにあらずして、生半尺の所を彷徨することにある。岡田氏はその藝術觀に於て盛に藝術の弊所を擧げてゐる。岡田氏の意は文學藝術には皆氏の擧ぐる如き弊を伴ふとなすか。然らば多量の加味も少量の加味も有害なるに於て同根である。藝術には高いものと低いものとある。高い藝術は美の至極であつて同時に智と徳の至極である。左樣な藝術に向つても「理智に遠ざかり、歴史を無視し、環境を度外視し、個人の性癖に任じて止まる所を知らざるの弊あり」などと言ひ放つて平然たることが出來るか。岡田氏は奈良地方へ行つて千年前の佛像に對したことがあるか。その佛像の前に立つて、同じく「理智に遠ざかり云々」といふやうな言を發せんとする勇氣が出るか。氏は又、森鴎外氏の小説を讀んだことがあるか。「阿部一族」「護持院ケ原仇討」「大鹽平八郎」「高瀬舟」「山椒太夫」「安井夫人」「栗山大膳」等その他の創作に對して、同じく前言を繰り返して之に當らうとするの勇氣があるか。人麿、芭蕉、子規等の和歌、俳句の前に立つて同じく前言を繰り返すの勇氣があるか。爾か言ふ心は、岡田氏が縣下教育者に臨むに、何故に高い藝術を求めよ、低い藝術に目を付けるなと、積極的に鼓吹するの道を取らなかつたかと思ふからである。殊に氏(278)のいふ所の氣分教育なるものは、縣下に偶々數者を見るに過ぎぬ現象であり、猶殊に大多數の教育者は、氣分教育といふ如き放縱な教育に對して眉を顰めつつあるの現状に對して、訓示する所は百把を一束にして物言ふの態度に出てゐること、情熱ありとするも發作的であり、意氣ありとするも輕卒であり、あまりに發作的であり輕卒であれば、何か別に爲めにするの具に供したのではないかとまで思はれること、思ふものの邪推のみと言はれない。一たぴ訓示して教育者の心從を冀はば、も少し人生と教育に徹して物言ふを賢なりとする。只岡田氏の訓示の形式に囚はれぬ率直さを快しとして、先づ小生より愚見を披瀝したことを岡田氏も快受して可なりと思ふのである。五月四日
(大正十一年「信濃教育]五月號)
(279) 文藝と教育
一、月並
「月並」と云ふ言葉は初めは文學の上にのみ用ひられてゐたのであつたが、現在では廣い範圍に用ひられる樣になつた。その起りを考へて見るに、恐らく御歌所などで月並に課題を出したことに始まつて、其の眞似が發句の方にも行はれ所謂宗匠といつた連中が(殊に天保時代以後に多い)矢張り月並に課題を出して點取などをしたことから起つてゐるであらう。その「月並」といふ言葉がどうして一般文學の上でつかはれる言葉となつたか。一體お歌所の歌とか、宗匠連の俳句などは單なる外形的のものになつて、中に盛られる精神が空《から》になつてしまつてゐる。何等の内面的な生々とした心がなく、必要なくして生れ出でた形だけの文學である。さういふものをさして「月並の臭」があると云つた。かういふことを其の批評の上で初めて言ひ出したのは正岡子規であつて、今では人の行動や思想にまで押し廣めて用ひる樣になつたのである。
(280) つまり「月並」といふのは停滯の別名であつて、歌に「月並」のあるのは作者の日常生活に「月並」があるによるのである。我々が生きて居るに必要であるところの根本條件である思想とか情操とかいふものが停滯の状態にあつて伸展しない。それに名づけて「月並」と言つた方が今つと根本的に當て嵌まるのであらうと思ふ。どうしてさういふ「月並」の状態になつたかと言ふと、それには色々の原因はあるが、その一つは「自ら早くよしとして滿足すること」であり、それと似た事でも一つは「自分で自分に甘えるといふこと」である。
元來我等の生活には日常「月並」があるのである。我等は時々刻々に「月並」になりつつあるので、それに氣づかないから救はれないのである。その月並的の生活から脱却し得ない限り、それから生れて來る歌も俳句も、あらゆる文藝の「月並」になるのは當然なのである。
是非歌はずには居られないといふ内面的衝迫から生れてゐる歌の主なるものに萬葉集の歌がある。萬葉をひらいて一番初めに雄略天皇の御歌があるが、あれは天皇にとつては是非必要なものであつたにちがひない。それであるから人に迫る力があり、「月並」にはなつて居ないのである。必要といふものは神と雖も妨げることは出來ない。さういふ所から出て來たものにして初めて威力があるのであつで、外形だけの殻に国定するやうなことはないのである。私が東京の下宿に居る時、日曜日毎に兵隊たちが遊びに來て、朝から能く酒を飲む。酒呑の聲を聞くことの嫌ひな私には、隣室の書生が醉つぱ(281)らつて流行の歌など唸つて居ると大に癪にさはるのだが、この兵隊の飲んで騷ぐのは不思議に癪にさはらない。の殺風景な生活の中にくくられて居る兵隊にとつては酒を飲むことが必要である。それ故酒ぎらひな私にも尤もだと思はせる丈けの力があるのである。
萬葉全體の歌は殆ど皆この必要なる衝動の所産であるから、我等に威儀を感じさせる。然しさういふ萬葉集であるが平安朝の初期へ移る前の時代、人で言つたら大伴家持あたりになつて來ると、もう「月並の臭」がついて來て居る。この人は山柿(人麿、赤人、或は憶良)の歌に出入したと自稱しては居るが、要するに形だけの勉強に止つて、力が薄弱で所謂「月並」になりかけて居るのである。それでも是等は未だ「月並」になりかけて居る位なものだが、古今集にゆくともう必要の衝迫、人を引きつけずにはおかない樣なものは無い。それはもう貴族社會の遊戯品になつてしまつたからで、古今集以後、勅撰集といふものが幾つもあるが皆同樣である。この事は正岡子溌が初めて唱へて、私たちが今でも絶對に賛成して居る所である。
古今集の初めに
袖ひぢてむすぴし水の氷れるを春立つけふの風やとくらむ 貫之
といふ一首がある。袖をぬらしてすくつた水の氷つてゐるのを春立つ今日の風が吹いてとくことであらうと言ふので、褒める人は一首のうちによく時季の循環を詠み込んだものだと言つて居るが、此の(282)作者一體どういふ内部的必要があつて詠んだのであらうかを考へて見れば、一首の何處にも心の集中がなく、從つて生き生きした心で人を引きつける所がないのである。
歌よみは戀の歌がよめないと一人前になれないのださうだが、その戀の歌なども古今以下になると單に言葉の上の戀に過ぎなかつた。例へば「まだ見ぬ戀」といふのを
音にのみ菊の白露夜は置きてひるは思ひにあへず消ぬべし
と云つたやうなものがある。言葉の上の遊戯を悦ぶ人たちでなくては出來ないものである。それは萬葉の
ささの葉はみ山もさやにさわげども我は妹思ふ別れ來ぬれば
といふ人麿の歌に比較したら自然にわかる。これは人麿の數多い歌の中でも殊に勝れてゐるものと私は思つてゐる。この調子がだんだんうすれて内容として盛られる精神の力が弱つて來て、古今集以下になつたのである。古今集が萬葉からさう、氷い年月を經ないうちに月並に墮してしまつたのはどういふ理由か。思ふに、其の頃の朝挺廷を代表して居た勢力者藤原氏の生活精神が非常に弛緩して居たためではないか。古今集はその生活精神の一つの現れである。頭が緊張して居る時に其の中から決して弛んだものは生れ出ないのであるから。
平安時代から降つて鎌倉時代に於て、北條氏が名は執權であつても天下の公僕の心で居た當時の(283)傾向とは大に異つて、平安朝時代は全く天下が藤原氏の私情の犧牲となつて居た時代で、今日の言葉で言つたらば貴族主義の時代であつた。ういふ中から生れたものであるから古今集以後みな「月並」になつたのも當然である。
唯、然し古今集以下の勅撰集がみな「月並」になつたからとて國民が皆「月並」になり、享樂主義者になつて丁つたとは速斷出來ない。それは唯、朝廷に顔を出して居た少数貴族(國民全體から見たら其の一部である所の)だけであつて他の國民たちは各々人らしい生活をして居たのである。其の證據は歌には無くて、各地に傳つて居るその頃の民謠などに殘つて居るのでわかる。神樂歌のうちにある
笹分けば袖こそ破れめ、利根川の、石は踏むともいざ川原より、いざ川原より
だとか、又催馬樂の中の
鷄は啼きぬてふ、今朝暗まぎれ、下紐の緒に、おしすがりゐてこそ、とどこほれ、泣く子なすまで
といふやうなものもそれであつて、民衆の心の活動の必要から生れ出たものであるから月並臭がないのである。一體當時の民衆といふものは非常に苦しい生活をして居たらしい。その生活が苦しい程緊張したかういふ歌になつて來たのである。この事は萬葉のうちに、旅に出て家を思ふ歌が澤山あるが(284)その中で、高位の人の歌ほど熱が乏しいのでもよく分かる。
高位の人たちは旅をするにも妻を連れてゆくことが出來たけれども、位の低い人たちは許されないことであつた。そこで高位の人たちには、家戀しさの苦しみが比較的少いに反して、低い官位の人達は旅に出て二三日もたつと、もう家路こひしくて堪らない。それを我慢してゐる所にいつも緊張がある。緊張してゐるから却つて彼等の方がよい歌を多く遺したのである。ここの所が私たちの參考になるのでゐる。
然し先程も申した樣に「自分は緊張してゐる」と思つて居ると、思ふ時は既に「月並」におちいつて居る時で、求めて居る時にはただ緊張があるばかりなのである。七十になつても八十になつてもさういふ人は「月並」にならない。全く求めて居るといふ事は恐しい力である。
之を俳句の方で見ても同じことで、芭蕉は五十一で亡くなつて居るが芭蕉を生涯「月並」にさせなかつたのは、死ぬ瞬間まで求めて足りないと思つて居た心持である。
芭蕉の終焉の日記である花屋日記(芭蕉の弟子たちのものしたものであるといふ事に就ては異論もあるが)など見ましでも死ぬ三四日前と思ふ時、前に大井川に吟行した時の句に、
大堰川波に塵なし夏の月
といふのがあつたがその後清瀧で、
(285) 清瀧や波に散りこむ青松葉
の句が出來たので、この二つは形こそ違ふが同案同巣であると人が言ふかも知れない。さういふものを二つ遺して置くのは心苦しいが始めの一つは捨てようと弟子に話して居る。然るにその頃又園女の處へ招かれて、
白菊の目にたてて見る塵もなし
の句を得た。これも亦同巣で句の道筋が同じい。それゆゑに前の二句を共に捨てようと去來に語つて居るところがある。
芭蕉を常に生かして來たものは實にこの心である。辭世とされてゐる
旅に病んで夢は枯野をかけめぐる
の句をうかがつても芭蕉が常に求めて息まなかつた心持があらはれてゐるではないか。病床に臥してゐても尚夢は枯野をかけ巡つて居たのである。
處が後世の俳人たちは芭蕉のこの精神を忘れて形だけをうけた。さうして、「正風」「正風」を叫んで居るうちに不知不識「月並」に陷つてしまつたのである。殊に天保以後になると甚だしい。宗匠といふものは全く自己に甘え、芭蕉に甘え、風流の道に甘えて居る。その故に「月並」になつてしまつたのである。
(286) 物言へば唇さむし秋の風
これを口にのせて讀んで見れば、人の短を説くことなかれ、己が長を説くこと勿れ、といふ單なる教訓の句ではない。それよりはもつと高い心持が感ぜられるのに、その頃の宗匠たちには句の形だけしか見えなかつたのであつた。「實る程あたまの下る稻穗かな」を正風だと思つて、教訓一點張の調子の弱いものになつてゐることに氣づかなかつたのである。
然し考へて見ると「月並」「月並」と馬鹿にして居てもそれは人の上ならずである。かう言ふ樣な變遷が歌や俳句にある如く、他の萬事の上にも皆あるのだといふ事を我等はよく考へてゆかなくてはならない。
今少し「月並」の素因に就て考へて見たいといふのは、一體どうして心が失せて、その殻だけになるのかといふ事である。先には安易の滿足、自己に甘えるといふ二つをあげて、自己の生活がゆるむからだといつた。然し、その心がゆるんで安易に滿足し、自己に甘える樣になるのは何故かといふ。人間はみな求めて居ない人は無いが、その求めるものが外形に表れる物質的なものを求めてゆくときに、あたまはどうしても緊張して來ないやうである。物質的な求め方といふのは功利的な傾向である。物質的と功利的といふはどうしても兩者離れないものである。功利的といふと損得づくで、物質を求めるなら損をしない方がよいと誰も思ふのである。私は嫌ひな言葉だと最初から思つて居たが、よく(287)世間でいふ「成功」といふ言葉が功利的の意味に使はれると、物質的外面的に獲得することをさして居るのであつて、さういふ物質的なものを求めることになると、自然「世渡りの術」を考へて來る。「世渡り術」を考へる樣になれば内面的な求め方の方はお留守になるのが當然である。自己の損になるか得になるかといふ結果を豫測した生活といふものは恐しいものである。それでも日本人などは割合にこれが少い方であるが支那人などは中々ひどいさうである。支那の政治家など人物といふ點から見て、一人一人は皆えらいのだが最後へゆくとこの「功利」である。それでなくては何といつても動かない。その心持が銘々にあるから國家の大事も統一などつきやうがないのであるといふ話である。
そこへゆくと、乃木樣などは違ふ。乃木樣の切腹は乃木樣にとつては必要であつたに違ひない。あの人に一體功利的なものを求めさせようとしてもいけないのである。かういふ人(乃木樣のやうな)がまだまだ日本の中には住み得るといふ事が日本にとつて幸福だと思ふ。又この頃は奈良へいつて、七十幾つになるといふ老人が永い前から正倉院の御物に就て「假名の研究」をしてゐるといふをきいて驚かせられた。其の老人が「私もこんな事に頭を突込んだからかうするが、誰でもほめてくれる人がない」というたさうである。尤もな事だ。ほめられる事などあてにして居たでは出來るものではない。然し如何にも子供らしい無郷氣な聲だ。世間から見たら無駄事かも知れないが、然し吾らには迚も及ばない事だ。結果を豫測した功利的な考の人にはまねでも出來ない。かういふ人の存在すること(288)が日本に力のある所以である。
物質的な求め方はも一つ多くは肉體的の快樂(感覺的)になつて行く。藤原氏の遊びがよい證據である。さういふ生活がみな「月並」におちる最も顯著なる運命をもつてゐるものである。それに就て思ひ出すのは先頃新聞に現れた文士賭博問題である。墮落した文士の多くがトバクする位な事はありふれた事かも知れないが、其の文士が又幾日にも亙つて其の問題に關する辯明書を連載するに至つては唯あきれ返つてしまつた。物的に求める心の現れである。
かういふ事から考へて見ても今の文藝又は藝術の中には新しい文學、新しい藝術といはれて居るものはあるけれども、其の中に本當によき意味の新しいものもあるかも知れないが、多くは求めるものが外面的で根本的な條件にかけてゐるものが多い。手法は新しくなつたであらう。然し其の藝術から吾らに沁み込んで來るものはまづ多く官能的なものである。毎年上野などでひらかれる畫の展覽會などでもさうである。それらを皆ひきくるめて立派な藝術とすることは困ることと思ふ。
私等にはそれを見分けてゆくことが必要である。小説などを見ても同樣で、私たちが師範學校に居た頃あの尾崎紅葉一派の硯友社が日本にはびこつた。私は初めから嫌ひで多く見なかつたが要するに物慾的な貴族主義である。その外にも何主義何主義といろいろなものは出たが、何れもそれらは多く同樣なものであつた。
(289) 讀者になつたら、その各を見て何もかも感心する樣では困る。何もかも感心するのはそりや感心ではない。それも初めのうちは止むを得ないがしまひまでそれでは小説の惡食者である。ただ徒に貪り食ふといふものだ。食ふにも「節操」がなさすぎると思ふ。
かういふ世の中にあつてそれら卑俗の群とはなれて生活してゐる人もあるのであつて、若いある文士は東京に居て文壇の人々とも嘗て交はつて見たが、結局彼等の生活に調子を合せることをなし得ない事に氣づいて、それらの人たちからはなれて、奥ふかい山の中にひつこんで眞面目に自然のうちにひたつて、自分の藝術を磨きあげようとして居る人もある。又森鴎外の小説に就ては言ふまでもないことだが本屋に出版させようとしても引き受けたがらない。引きうけないのは今の世には森先生の小説のやうな本當の藝術は迎へられない。迎へられないから賣れない。打算的な本屋が賣れないものを出版しないのは怪しむに足らないのである。
私たちはさういふ眞面目な文學藝術にのみいつでも味方して行きたい。兎角文學とか藝術とかいふ事を好む人たちは、その文學に甘え、藝術に甘えたがる。そこをしつかりと見分けてゆきたいものである。私の畏敬して居るある洋畫家が今の世にあつて(西洋名畫といへば遮二無二感心してゐる世の中にあつて)ミケロアンヂエロとダ・ヴヰンチとを同列にする事は出來ないと言つて居ることも、荻原守衛氏があの當時にあつて「ロダンには品格がない」と喝破して居る事も共に貴いことであつて、(290)この心で藝術も鑑賞してゆかなくてはならない。でないならば矢張り鑑賞に甘えてしまふのである。
もう一つ注意すべき事は月並を脱するためには「維日に新々々々」と考へてゆかなければならぬと思ふ事である。新しくなるといふは即ち結果であつて、藝術に心がけるものにとつて緊張した心持さへあれば新しいといふ結果は自ら生ずるのであつて、初めから新しく新しくと心がけるのは結果を先に考へる一種の功利主義である。元來何主義など生れるのは皆この結果を考量しその結果に甘えるからで、その甘える點に於て既に月並である。
芭蕉は俳句に於て「不易」と「流行」との二つの姿を説いて居るが、この邊消息を語つて居る。一生持つて放さないものが無いやうではそれは餘りに輕薄であり、又少しも變る所が無いのは餘り頑固である。才子は何でもやるがその代り一生を貫いて何ものをも持たない。變つてゆくのも自然の伸長であつて見れば、本當は其の中心には不易なものが無ければならないのである。芭蕉にしても、其の俳句の形は年を追つて變化し伸展して居るのであらうが、彼に於て尊いのは其の變遷を貫く不易の心操である。子規に於て、鴎外の小説に於て皆同樣である。子規、鴎外に於ても變遷は變遷してゐようが然し生涯に亙つて操守して居るものがある。その操守の相《すがた》を觀入せねばならぬ。
要するに其の反面に一生を通じて推移しないものが根柢的になくてはならないと言ふ事である。しかも常に求めて止まないものに於ては、作品の上に何等かの變遷推移があり、たとひ其推移に目立(291)つ程のものがなくとも、常にそれらは生々として居ると言ふ事だ。貴さはそれだけである。そこへ行くと變化する、しないまでも必しも問題ではないと言ひ得るのである。かういふ事を用ひたのは、「月並」といふ事が、俳句、歌の上の事に限らない凡てにある。人間の上にあると言ふことを考へるからである。
(この間に嘉納高師校長の辭職問題の批評や、早稻田の學校騷動の解決祝賀について、お話が挿入されるわけだがここには略す。青磁記)
「俺はもう駄目だで子供だけは大學までも出させ度い」などいふ教育者の聲をきくことがある。子供を大學へ出すはいいが「俺は駄目だ」では困る。さういふやうな小學枚先生どういふ教育をして居るか。かういふ聲は本當の謙遜ではなくて自分を馬鹿にしてゐるのだ。かう言ふ心持からは進展といふものが出て來ない。要するに文學の上に用ひられる月並といふ詞が、教育者の上に持ち來されないまでに、教育者の精神が保持されてゐれば、ここに初めて文學の眞髓と教育の眞髓と交流し得るのであつて、この意味から外れて教育者が文藝に没頭するといふことは、本當の文藝との交流にはならぬのである。大正十一年十二月二十五日午後講演
二、東洋藝術の傳統
(292) 物質的のものを求める心が盛になればなる程、内面的の求め方の方が薄くなつて來ることは、前にも言つた通りである。求める心が低級であれば、人に嚴肅な感じを與へ得るものではない。
元來、情慾とか肉體的の慾望とかを追求して、生活の中心が絶えす動いて行くといふ事は、我々の一面にもあり、古來これがあるのでゐる。然し、我等にある威儼を感ぜしめる内面的な求め方を重んじて、感覺的な求め方を第二第三に置く傾は、由來、東洋にはある樣に思ふ。といつても、西洋の事をよく知らないのだから、うつかりしたことは言へないが大體から比較して、東洋と西洋の人々との日常生活の中心になつてゐる精神には、この點に於て自然な差がありはせぬかと思ふのである。唯、かういふ事は幾つかの材料がなくては早速に斷定を下すことが出來ない事である。
最近、南獨逸へ哲學研究のために行つて居る某氏から來た手紙に、
「(前略)嘗て先書申上げ候如く、小生は外國に來りて始めて眞に日本文化の誇るべき特色(と申さんより、それ程外的ならぬ)日本民族の性格、生活基調の眞に尊むべきものあるを衷心より感じ候事に御座候。自我肯定の西洋文明は今日の如く物質的生活の困窮に陷りても尚反省する所以を知らず。如何に無理をしても自我の慾望を滿足すべき手段を爭ひ求めんとして眞の救濟は却て自我の否定にあり、精神を以て物質に打克つに存することを覺らざること寧ろ痛ましく感ぜられ候。之に對する東洋或は日本の文化乃至生活の基調が自己否定、自己犧牲、諦め、運命に黙從して、却て之に(293)打克つ自由の境地を發見せんとすることは、實に正反對の對照有之、到底西洋人の理解する能はざる境地と存じ候。西洋の敍情詩が感傷の甘きに墮せんとするもの多きも矢張りその一つの現れかと被存候。(下略)」
とある。元來、獨逸人は非常な意志力の持主だといふ事は聞いて居るが、其の求める所は物質を目的として働いて居る傾がある。世界戰爭後の獨逸が非常に荒廢した中にあつて、尚求めようとして居るものは、それであつて、どうもいい感じがしない。獨逸へ來て、初めて、日本のありがたさ、尊さがわかつたといふ意味である。私が不斷尊敬してゐる人で、さういふ方から、かういふ事をおききすることの出來るのは、大へん參考になると思ひます。
獨逸あたりで本當に權威を持つ哲學は、物慾を滅却して、初めて明かになつて來る道が天地に通ずる道であるといふ風に説いて居ると聞いて居る。さういふ哲學を生んだ獨逸に於て、かかる見憎い點の眼につくのは、畢竟、東洋人、西洋人の求め方の相違によるのではないかと思はれる。併し、西洋と言うても、希臘以來思想の系統があり、一方には、藝術の方面にダ・ヴヰンチとかレンブラントとかいふ偉大な藝術家もあるのであつて、大ざつぱに一括して云ひ去るべきでないこと勿論である。
東洋の大きな教としては佛教と儒教があるが、それ等は要するに、この物慾を脱した天地の大道を示したものではないかと思はれる。嚴肅感を與へるのもそこにあるのではなからうか。菩提樹下に罌(294)粟粒一粒で生きて居たといふ佛の行《ぎやう》を考へて見ても、それは、一粒にしようとしてしたのではなく、求めるものが他にあつたから、食は一粒の罌粟で充分であつたのである。現れた所から見ると、物的生活は簡素になつて居るのである。然し、一面には、物慾の要求も人間としての事實であり、眞理であると云ふ人もあるが、一應尤もであり、議論したら負けるかも知れない。然し、議論には負けても勝つてもいい。その物慾生活だけでは、どうしても吾々人間に承知出來ない所がある。
どうも、東洋人には、かう云ふ求め方をして居る所がありはしないか。孔子の教へもさうではないか。肱を曲げて枕にして居ても心のうちにはたのしい所があると説いて居る心持のうちには、矢張り同じ傾向がある。
之を何といふべきか知らない。私は、自分では「鍛錬道」といつてゐる。吾々にとつて、最も大切なある一點へ全心を集中することであつて、一箇所へ集中すれば、他のものは要らなくなつて來るのである。佛の行もそれであつて、一箇所に集中すると、物界などには心が傾かないのである。
今の私たちの實際に於ては、この反對の事が多く、心が分岐して困るのである。そこで私たちが、この「鍛錬道」を求めるのであるらしい。處が、この鍛錬といふ言葉は、兎角誤解を生じ易い。どうも不自然な事でもするやうにとられるのであるが、私の言つてゐるのは、さうではない。日常の生活において、意義を持つてなすべき事の一點に心を集中する點にあるのである。學校の教育などに於て(295)も、夏の暑い時に綿入を著せ、冬寒い時に足袋をはかせないといふ樣なことをするのが鍛錬だと心得て居るむきもあるやうだ。それは尤ものやうで居て、最も不自然な道である。「鍛錬道」はそんな所にはない。寧ろ、一時間の授業に於て、教授者と兒童とが其の時間の仕事の上に一心を集中するといふ事が、時々刻々に有り得べき事の樣でありながら、事實は無い。そこに鍛錬の工夫があればいいのである。穿き違へて、人情の自然に背くのはよくない。芭蕉など見ても、あの嚴肅な精進の一面に人なつかしい心情が存するのは鍛錬道と自然道と背馳してゐない所であつて、見おとしてならない所である。良寛など見ても、決して不自然な悟り顔はしてゐない。或る人に贈つたといふ歌のうちに
あづさ弓春になりなば草の庵をとく訪ひてまし逢ひたきものを
と詠んで居る。「逢ひたきものを」が人情自然の現れであつて、ありがたいのである。それに比較すると、西行などは不自然な嫌味がある。悟り顔をして、それが贋物のところがあると思ふのである。さういふものは私などの考へる鍛錬の外道であると思ふのである。
孔子は音樂が好きで、音樂に耽つて居る時は、食物も食べたくないといふ樣な意味の事を言つてゐる。又ある時に、お弟子たちが、各、大した望を言ひあつて居る中で、或る一人が、私は子供と温泉へ入つて風に吹かれながらかへり度いと言つた時、孔子は「我汝に與せん」とも言つてゐる。そこに人間らしさを感ずるのである。一切衆生皆可愛いいが、一番可愛いいは、矢張りおれの子のラゴラだ(296)と釋迦もいつて居る。そこがありがたいのだ。要するに、人情に根ざして居て、しかも全心を一點に集中するのが私のいふ「集中道」であり「鍛錬道」である。
この思想は、單に儒佛二教に限られたものではなく、實に東洋藝術の上に通じて居るものである。外に現れる所少くして、内に湛へる所深いのである。東洋畫論を見ると「一墨五彩を分つ」といつてゐる。又「墨を惜しむこと金の如し」とも言つてゐる。外形簡素にして内にこもるものの深いことを願ふ心持である。これが支那畫論の特徴をなしてゐる。丁度、お饒舌をしないのと等しいのである。文學などに於ても、東洋には極めて短い詩が發達して居る。中でも支那の五言絶句などは、其の最も短い一つの例であつて、東洋精神の一つの現れである。日本人も亦、歌とか俳句とか云ふものを持つて居る。萬葉集などは、支那文學の影響をうけたものもあるか知れないが、それも、支那文學が之を生んだのではない。矢張り純粹に日本精神の現れであつて、外に現れるのは三十一文字に過ぎないが、内には深くこもつてゐるものがあるのである。内に籠れば外形簡單になるといふ事から言ふと、俳句などもさうであつて、西洋人などに、東洋の文學を解して貰はうとしても、恐らく、俳句が最もあとになりはせぬかと思つてゐる。
畫などに就ても、西洋人に一番よくわかるのは、浮世繪であつて、その浮世繪は、誰のものであらうとも、本當の日本藝術からいつたら、兎に角低級なもので、現れてゐる命は淺いのである西洋人(297)で、日本の雪舟だとか崋山だとか言ふものを理解し得るのは、ずつとずつとあとであり、假にそれらの繪がわかつたとしても、尚、芭蕉の句がわかるまでにはまだまだ遠いものであらう。之は、寧ろ、早速に理解してくれといつても、無理なのであると思ふ。兎に角に、かういふものが東洋にはあるのである。この精神は根本が自然に根ざしてゐるといふことに於て、禽獣蟲魚にも通ずる大道と言ひ得るのである。唯然し、動もすると、生悟りになり勝ちなのであつて「天地の大道」などいうても、どうも言葉だけがよくなりすぎるのである。禽獣蟲魚と通ずる道とでもいつた方がまだよいのであつて、この思想は佛教にも儒教にも確かにあるのであります。いくら改造されるといつても、人間は、やはり根本的に變造出來るものではない。どこまでも自然物であり、動物である所以を存してゐるのだから、それを穿き違へると、不自然な人道をつくり、形だけ整へて「月並」になつてしまふのである。この關係は餘程面倒だと思ふのであつて、從來の教育者の形に嵌まつた道徳觀などは、この根本所に偏見がありはせぬかと思ふのである。芭蕉などは「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」といふ風に、風雲流水と融合した心持で國中を歩いて居る一面に、園女などに逢つて悦んでゐるところ却つて人間らしい自然があるのである。又、破門した弟子路通を死ぬ時に思ひ出して「俺が死んだら………………………知らせてやれ」と遺言して居る所に有難い人情がある。勘當したのは已むを得ない事である。然し、頭はたたいても、其の人を忘れないのだ。慈悲の心といふものである。良寛などにもさ(298)ういふ一面があつたらしい。人の吐いたヘドを皆喰つたといふことが傳へられてゐるが、餘程の人でも、どうもそこまではゆけない。隱れんぼをして居て、子供に瞞されて置いてきぼりを食つて、翌朝まで、子供のかへつてしまつたのも知らずに居たといふ樣な話もある。又、或る時、良寛が橋を渡らうとすると、子供が遮つて渡つてはならぬといふ。仕方なしに引きかへさうとすると、返つてはならぬといふ。どうすればよいかというたら子供らは、川に落ちればいいと言ふ。良寛は言ふままに川に落ちて居たさうだ。ある人が、良寛に歌をかかせようとして駐めて置いた。外へも出られない雨の日だ。雨がふらねば逃げかへる事も出來たであらうが仕方ない。あとで、良寛の書いたものを見たら、幾枚も幾枚もの扇面に皆「雨の降る日はあはれなりけり」と認めてあつたといふ。ある時は、又、床板の下から筍がのぴ出して來た。あはれに思つて、床板を一枚はづしてやつた所が、竹の子は、居間の中でずんずん成長した。それを見て良寛は「……われ立ち舞はん」と詠んでゐる。どうも東洋人の中には、かうした丁度信飛越山脈のやうな人間のうちの高峯が時々現れる。
私たちが尊敬してゐる正岡子規なども、この「鍛錬道」の極地に達し得た一人と考へてゐる。この人は明治の人であるから、東西の思想を取入れてゐること勿論であるが、歸著する所は、矢張り何うも、東洋流の色合ひが多いと思ふ。兩肺がつぶれて、普通の醫者が何うも生きて居るはずがないと言うてから四五年も永らへて居た。しまひには、筆を持つにも持てないで、手をかかへたり、筆を持た(299)せて貰つて書くまでになつても、尚、書いたといふ。あの人の書いたものは、皆一字一字がさうして書かれたので、「仰臥漫録」などもみなそれである。かういふ所まで來ると、もう我々には想像がつかない。あの子規の遺した俳句分類などは、積み重ねて天井に屆くやうな原稿が幾重ねもあつて、弟子たちが生涯かかつても整理出來ない程だといふのも、みな、かういふ中において書いたのである。痛が深く冒して脊には孔があいて膿が出てゐる。毎日其の孔のガーゼを取換へる時の痛さに泣きさけぶ聲はお隣の陸《くが》實さんのお宅へきこえたさうである。その子規が、弟子たちと俳句の話、歌の話に熱中して居る時は、ガーゼをとりかへても、泣かずに濟んだといふことだ。これに就ては子規も自ら言つてゐる。子供の時見た畫に、支那人だかが、一方の手で手紙か何か捧げながら、一方の手を虎の口に咬ませてゐるのがあつて、子供心に、どうしてこんな事が出來るだらうと思つたが、ガーゼを取換へるやうになつてから、漸くそれが必しも出來ぬ事でないことがわかつたと言うてゐる。
又、飯山に遺跡のある、あの正受老人が、石の上に坐禅をして居る所へ狼が出て來て鼻の頭などかいだが、正受が平然として居た。彼の道心の凝つてゐるのを見て、狼もみな何もせす退いた。さうしてそれからは狼が出なくなつたといふやうな事もあり得べきことであつて、かういふ精神から生れた文學であり、三十一文字であり、十七文字であるから頭がさがるのである。これが東洋藝術の根本をなしてゐるものでゐる。
(300) 私たちが、まだ、師範學校に居た頃、例の與謝野晶子氏や鐵幹氏の歌が世に出て持て囃された。然し、それは讀むものにとつても、誠に、くすぐつたいものであつて、坂井久良岐氏が「自らをおたふくなどと言ひますか、たんとおつしやいあらよくつてよ」と彌次つた。こんな程度のものだといつたのは賛成である。私は、あれらの人たちが、本當に嚴肅なものを求めたといふ事を見たことがない。
鎌倉やみ佛なれど釋迦牟尼は美男におはす夏木立かな
と晶子氏は詠んでゐる。佛を見て先づ美男と感ずるのが、既に普通とちがつてゐる。かういふ女性は、男を見たら、多く、美男に見えるに違ひない。求めるものが美男であるらしいからである。吾々の求めるものは、美男か、嚴肅感か、どうも斯ういふ歌に頭をさげる氣にはなれないのである。さういふ連中が、又近頃では、男女平等説などを振り翳して居る。どうも、流行を追ふに過ぎないと私には見える。
それに較べると長塚(節)さんなどはちがふ。私は長塚さんにはよく叱られたが、今になつて漸くわかつた所もある。「人の作歌をかろがろと批評するといふ事も、又、人に批評して貰ふと云ふ事も愼むべき事で、自信がなくては言へない事だ……」と言はれた樣なこと、これ丈けでも、あの人の藝術は分るのであつで、ここでは多く言を費さない。
森鴎外先生なども、日本人のうちに現れた一つの高峯である。吾らが無いものを澤山に持つて居ら(301)れるから、寄り付けないのである。「明星鴎外號」に出てゐる賀古さん(森先生幼時からの友人)の通夜日記の中にあらはれてゐる故人追想の記録にある鴎外先生など、いづれも、尊いものばかりと思うて拜見した。
鴎外先生、陸軍省の醫務局長をして居られた頃の話である。どうも局長の便所へ行つたあとを檢するに糞便がただごとではない。正しく赤痢とわかつて居るが、本人平氣で執務して居る。部下は困つて、休んで療養する樣にすすめ度いがどうも言ひ憎い。先生の友だちに頼んだりした揚句、遠慮をするやう勸めた所が「うむ、それでは遠慮をしよう」と仕事をもつて家に引き籠られたが、遂々、臥床せずに毎日執筆しながら直してしまはれたさうである。上野博物館長の時に、肺炎を患つた。それも先生殆ど缺勤せずに、然も平城どほりに執務されながらとうとう直してしまつた。今年、とうとう、死病となつたあの萎縮腎を病まれた時でさへ、丁度其の頃、書き初めて居られた「帝謚號」の研究の爲め、毎日、宮内省の圖書寮へ通はれた。或る日、先生のやつて來られるのを見てゐると、寮の前の僅かな坂をちんばひきひきやつて來られる。先生どうも大變にお惡いなと思つたので、それを見た役人が心配して、靜養を勸めた。その時、賀古さんからも、醫者に診てもらふことを切言して勸めてやつた。その返事に「おれも病氣の重大な事は知つて居る。醫者に見て貰へばよいことも知つて居る。然し、醫者にかかるとすれば、其の命令に從はねばならない。醫者は、必ず、筆を採るなと言ふに定(302)まつて居る。さうすれば、筆を止めねばならない。おれが筆を止めて、二年三年生きのびて何になる。おれも醫者だ。どうか、今後は、もう、かう言ふ手紙はくれて呉れるな」とゐつたさうであつて、賀古さんは、この話を通夜の時話しながら泣き出したさうである。又、正倉院へ出張された時、役人たちが、先生のために、上等の旅館を用意して迎へた。先生一向かまはない。おれは此處で充分だといふので博物館の事務所の一部に籠つた。食事は薩摩芋でいいから一俵買つて呉れと頼んだ。その陋居に芋を食うて仕事をつづけられた。求めるものがどこにあつたかがよく察せられるではないか。私が嘗て訪ねた時に何時も今世の中の問題になつてゐる社會壬義の事に就て話されたが、「日本でおれ丈けに、社會主義に關する本を讀んで居るものはないよ。東洋では、千年も前にあんな事は解決されてゐる。社會主義などは東洋で言つたら荀子あたり以上に出ないよ。老莊などになつたら、もつと深いものがある。それを今では大學教授あたりまで社會主義に本氣になつて居るものがあるが、どうも、學者なども頼みにはならないよ」と言つて居られた。又近頃平等觀なども流行るが、物質的の平等などといふことが本當にあり得べきものであらうか。差別あるのが當然ではないか。とも言つて居られた。又、鴎外先生の宅で、歌會が開かれたことがあつて其の時、兎の肉を馳走された。それには兎の骨までたたいて入れてあつた。其の座に居た齋藤茂吉氏が氣を付けて居ると、骨まで食べたのは、鴎外先生と伊藤左千夫先生だけであつたさうだ。外の者はみんな骨のたたき箸を觸れなかつたさうで(302)ある。
平等觀に附隨して、近頃では、自由自由の聲を聞く、これもなかなおもしろい。絶對的の自由なとありつこがない。限られた二本の足、二本の手に生みつけられた所に、既に、不自由があるのだ。今人の自由平等説多く一種の我儘病から發して居る。自由の一面には、必ず絶對的な責任觀が伴はなくてはならない。責任觀を離れた自由は、放縱に外ならない。絶對の自由が、さう容易く與へらるべきではない。佛教で言ふ空寂觀にまで達せすにはその境が窺はれるものではない。人間既に不自由に生みつけられて居り、不自由であるが故に活動を生ずるのである。
山田流家元の萩岡氏が、老人になつてから、たつた一人の子供をなくした。谷中の葬場で、葬送の式がすんで、柩車が地を軋つて墓地に向つた。その老人は、盲であつたが、立つて首をあげて、其の柩車の遠く去る音に耳を傾けてゐた。一人の子供の最後を送るに、耳に車のきしりを聞くことだけが、唯一の道として與へられて居たのだ。その時、その老人の姿勢が、またなく尊いものであつたと、見て來た人(岡麓氏)の話である。失明の不自由が、一心をその柩車の音に集中させたので、そこに、緊張があつたのである。不自由を求めよといふのではないが、不自由の尊さを認めなくてはならないと思ふ。時勢の流行に走つて、徒に、空漠な平等觀自由説にあまえてはならないのである。男と女、人間としては平等に相違ないが、男、女といふともう平等ではない。その不平等、不自由から(304)緊張が生れることを忘れてはならないのである。私は、かういふ心持から小説など見てゆくので、明治になつてからの澤山の小説のうちでも、鴎外の小説を高い所において考へて居る。歴史小説に限らない。小説はみなさうである。先生の書かれる女などは、今の流行の女などとは全く異つてゐる。安井夫人や、護持院ケ原の仇討の中に出て來るおりよさんなどは、皆、この精神の現れである。歌や俳句で子規、俳句で芭蕉、かういつた樣なものを私は高い文學と思つて居る。
この考へが、教育とは、どう關係するか。考へて頂き度いのである。平等平等と言つて、教師と、兒童と、ごつちやになつてゐるやうな教育、そんな流行に走つてはなるまい。しつかりした差別眼を備へて行かなくてはならないと思つてゐる。皆さんの仕事は、みな子供相手になされるのであるが、この鴎外、子規、芭蕉といつたやうな精神が、本當に教育の上にあらはれたら、それこそ大した事である。それが本當の文學と教育の交流であつて、そこに初めて教育の嚴肅さが生ずる。夜、子供の事が心配になつて、眠れない位の事はあたりまへである。(ここの所大變略してしまつた。青磁記)教育は神聖だといふが、如何になされるかによつて、初めて尊くもあり、淺薄にもなるといふことを忘れてはなるまいと思ふ。私は、一般の文學、特に西洋文學に通じ居らぬ故、それについて、口を出す資格がない。只、一般東西兩洋人の生活精神に、自然の相違があると思はれるので、その中、東洋的生活精神の特徴について、その發達の頂點を考へて、文學を考究する方々の參考に供するまでである。長野縣(305)教育者は、文學、藝術を愛する。その愛好心と、私の言と、幾分通つて頂ければ有難い。さうして文學藝術から攝取されたものが、權威を具へて、生き生きと教育の實際の上に現れて來て、初めて兩者の交流があつたと言ひ得ると思ふ。大正十一年十二月二十六日午前講演
三、子供に關した藝術
吾々は子供には實は感心させられるのであります。なぜかといふと我々の生活は極めて多岐に亙つて居て一つの事に集中するといふ事が少い。子供に於ては、それが鈍一に集中的に自らなつて居るからである。
無關心になす彼等の行爲に感心させられるのであつて、この點生れながらにして子供等は神や佛に伍して居ると言へるのである。
子供に對する文學は少くともこの點を損はぬ事が大切である上に、尚よい所を助長してゆくでなくてはならないと思ふのである。
子供の純一無雑な心を妨げず、早く大人にしないやうにしたいのである。色々な事を詰め込んで子供不相應な知識を與へる事は子供ながらにして多岐の生活をさせ、大人にさせることになるのである。それから又、外面的に子供の心をそそるやうな文學は、子供の心を早く物質的に傾かせて、他の(306)大切な情操よりも、對他的名譽心などの方を、早く發達させる傾をもつやうである。子供に與へるものは成る可く質素にしなくてはならない。多岐な外的刺戟物を與へることは子供に丁度菓子を與へると同じであつて、子供は悦ぶかも知れないが害が多いのである。今の子供の讀物は大抵都會を標準にしてゐるので、田舍の素朴な子供には全く適しない。それを平氣で讀ませて居るのは誠にわからない事である。
先に言つた禽獣蟲魚に通ずる道にかなつて居るものは、人間においては子供と百姓である。百姓は日光と土に始終してゐるから朝の夜明の光から、夕は手元の光まで役立たせても土の上に活動してゐる。さうして、も一つ子供たちがさうである。全く日光と土とは一緒になつて彼等の生活のうちにはひつて居る。私は汽車にのつてよく歩くが、愉快なのはあの百姓の乘り手である。平氣に大聲して話しながら乘込む人たちを見ると、全く土の中に、野の氣を吸つて居るものの聲であるが、子供の聲は更にそれよりも純粹である。唯この原始的な生活から何時も遠ざけられてゐるのは都會の子供らである。土は汚れ、日光が濁つてゐる。東京などでは日の目を見ない子供さへ多い。おまけに純粹な土らしい土がない。
さういふ生活を強ひられでゆく子供は、必然的に人工的なものへの興味を誘はれる。強い官能的な色彩、淺草あたりの興業物。あゝいふ物は感覺的な刺激が強ければ強い程客を呼ぶのによいのである(307)から、益々色彩や音響が強くなるばかりである。子供らもそれに皆ひき付けられてゆくのである。都會の子供の遊ぶのを見れば、芝居や活動の眞似が多い。それに比べて私の村などでは、今でも昔のままであつて、都會とは全くちがつてゐる。玩具などは都會のものは皆、外的刺激の強いものばかりで、神經だけが徒に鋭敏に働かされて、さういふ子供に限つて早くませるのである。隨つて都會の子供たちは人を相手にすることは巧である。土を相手にしないで、人工物を相手にしてゐるからである。つまり、子供の原始的な尊い生活が、早くから踏み荒されるのである。私が前に一家をあげて東京へ移つた事がありました。子供等は都會の中へ放たれてただ面喰つてしまつてゐた。どつちへ向いても寄り付けない寂しさを感じて居たことでせう。或る時兄弟三人臀まで泥だらけにして手にバケツを下げて來た。のぞいて見ると中一杯のオタマジヤクシであつた。遊び相手がないので、ぢき近くの護國寺へ遊びに行つたらしい。いつて見ると池の中に居たのがオタマジヤクシだ。東京へ來てから寂しい寂しいと思つて居た彼等には初めて、お友達に逢つたと思はれたことでせう。それでそのお仲間を携へて喜んでかへつて來たのであつた。
それを見た私が驚いたのも尤もだが、子供らの悦んだのは私以上の御尤もである。捨てろと言ふが捨てない。私にこつそり捨てられるといけないと思つたか、枕元に置いては眠る。足が生える迄飼はうといつてゐる。それが一つや二つならいいがバケツ一ぱいである。ここが都の子供と田舍の子供と(308)のちがひである。
かういふ心持で見ると、今流行の子供の文學などは、こんな尻まくりをするやうな田舍の子供に與へるには忍びないものばかりである。そんなものよりも隣のおぢさまや、大きな聲で話す百姓の顔の方が彼等には必要である。全く田舍の子供に與へたいと思ふ讀物が眼に止らないので困る。
それでゐて都會に居ればどうしても不知不識の間におつきあひえおさせられてしまふのである。私は子供らに今の子供雑誌は與へたのであるが或る日學校からかへつて來て萎れ顔をして私に訴へた。「おれは、學校へ行つても一人ぼつちである。みんな仲間のものは、休み時間になると、雑誌をよんでゐるが、俺にはないから一人ぼつちになるのだ」といふ。これには親がとうとうかはいさうになつて負けてしまひました。とかくかうなるのである。
兎に角、かういふ傾向は一般からいふと、御維新以來の物質的文明が生み出したもので、どうする事も出來ないとも思ひますが、東洋人は之ではいけないと思ふのであります。特に、子供には具合惡いと思ひます。その上、此の頃では學校などでもよく童謠や自由畫などを作らせますが、都會の子供の眞似をさせないやうにと思ひます。
雑誌や新聞などでは童謠や自由畫を募集してゐます。近頃では新聞などもみなたちが惡くなつて來てゐるから、いいのには賞を呉れるといふ樣な事をやつてゐる。その筆法で集つて行く子供たちの弱(309)點を挑發してゆくのである。御褒美など悦ぶ所から所謂投書家氣質といふやうなものが出來てしまふので、長野縣あたりはそれでも少い方であるが、大人でも一寸ほめられるのはいいものだ。まして子供は雑誌などへ自分の名が出ただけでも大悦びである。その子供の弱みへつけ込んで名譽心などを先に發達させるやうなことは學校の先生などしない方がいいと思ひます。
自由畫の展覽會なども子供のこの弱點を挑發するやうになつてくると全く困るのである。自由畫そのものが惡いのではなく、童謠そのものが惡いのではない。それを如何に扱ふかによつて惡くもなつてしまふのである。
又よく十七字詩や三十一文字を子供に作らせる人もある。然し考へて見れば俳句とか詩とかいふものは全く大人の心を盛るものであつて、それを子供に安易に作らせる事は、弄びになつて、俳句や歌に對する不知不識の輕蔑にもなるのである。殊に田舍の子供には、木登りや鰌すくひあたりがいいのである。出發を誤れば彼等の持つて居るよいものを皆安價な所に止まらせてしまふのである。私たちの仲間でもさういふことを恐れてお互に多作を戒めあつてゐる。さう安價に歌や俳句が出來るものではない。本當にいい歌といふものは一年に一つか二つか、それさへわからない。多作家はどうもいいものを得られないやうである。歌、俳句を「雄辯の駄辯」にさせたくないと思ふのである。それよりも子供には、矢張り木登りがいいのである。少年讀物を考へると直ぐに思ひ付くのは婦人物であつて、(310)一つも碌なものがない。徒に大きい廣告を出すところを見てもわかる。それにも拘らす近來では男までその婦人雑誌を讀み、電車の中で平氣で性慾雑誌などを讀んで居るものが多くなつて來る始末である。一方あんなものを備へつけて居ることで、大抵其の家庭が推測されるのである。それは兎に角としてかういふ世の中においても田舍の子供は土と日光との中に置き度いと思ふのでゐる。唯土と日光の中に育つやうな子供は競爭入學試驗などには後れるかも知れない。この事は然し教育會で考へてゆき度い事と思ひます。
近頃はまた男も女も子供も人間としては平等である。子供には子供の世界がある。其の行爲に干渉するな、といふ風な主張をするものもある。今まで子供の世界にして尊重すべきであつたものを尊重しないで居た所があるから、尊重しなくてはならぬといふならよい。然し、それを穿き違へて、干渉してはいけないといふのは少し違ふ。それは嘗て尊重すべきを尊重しなかつた事に對する反動であつて、本當の道ではない。先進者が後進者に干渉するのは元來自然であつて、子供を尊重すればする程干渉するのがあたり前である。如何に干渉するかだけが問題になるべきである。かういふ考から見て文章にせよ、畫にせよ、愛して居て批評添削が出來ないといふわけがない。充分の理解がある上に、子供の日常の行爲に就ても發動的に世話をやくことが必要である。自由説、平等説を穿き違へてはいけない。
(311) 之を要するに、近頃、文藝といふやうなものが流行るにつれて、教育上に高級な文藝の精神をとり入れるのならばよいのであるが、却て、さうでないものが取り込まれて教育を徒に多岐にして居りはせぬかと思ふのである。特に、子供の純一素朴な生活を多岐に輕薄に陷らせるやうな讀物を與へるのは大きな害毒であると思ふ。
童謠なども矢鱈とは授けない方がよい。もし授けるなら、しつかりしたのを授けるがよい。民謠などのうちにもずゐ分いいものがある。選んで授けると、今どきの作物よりも、却つていいものがあらうではないか。
この苗をとりあげて、何處に住まずや、いなごや、きりすすき、すきよしの(すすすきよしの意か)小屋のうらに住まずや
これは伊豆の南の苗牧歌だ。これは恐らく平安時代或はそれ以前に出來たもので、優秀なために今日も尚存して居るのであらうと思ふ。歌柄が大きくてゐて愛憐の心が充ちて居る。かかる歌謠が今も日本人の農夫等の間に遺つて居ることは民族の誇である。これらは子供にも適する。
麥ついて、夜麥搗いて、お手に、肉刺《まめ》が九つ、九つの、肉刺を見れば、親里がこひしや
などいふのもある。かういふいいものを選べばいくらもある。參考としては
俚謠集(文部省編)
(312) 日本歌謠類聚
續俚謠集 (高野辰之編)
古事記
日本書紀
各地民謠等
とに角あまり強ひて奬勵せぬ方がよいと私は思つてゐる。大正十一年十二月二十六日午後講演 (大正十二年「信濃教育」三・四・五月號)
(313) 短歌・童謠より見たる一斑表現
――ことに綴方に關して――
一、一般表現と教育
私は教育には全然關係してゐませぬし、歌も未熟であります。それにも拘らす大切な時間を、私のために潰す事は、大變恐入る事と存じます。
此の會は子供の表現を主として御研究になるのであると承はりました。表現を廣い意味に解釋しますれば、一つの人格の立體があれば、それから色々の形式を取つて外面に現れるのが、表現であらうと思ひます。單に動作ばかりでなく、顔の色が赤いとか青いとか、さう云ふ血液の循環のやうなものにまで現れるのを、廣い意味に言へば表現である。斯う解釋しても宜いのでないかと思ひます。教育について私は口を出すべきでありませぬが、表現と云ふ方面から教育を見れば、子供の表現と先生の表現とは、何等かの意味を以て交渉するものであると言ひ得るではないか。子供と云ふか、兒童と云ふか、生徒と云ふか、其の表現と先生との表現が何等かの意味を以て、互に交渉するのが教育である(314)とすれば、子供の表現と云ふものは、色々の形式を取つて現れて來るのでありまして、日常の動作は勿論、遊戯であるとか、體操とか、算術とか、地理歴史等總ての仕事の時に、子供としての表現があるべきでありまして、その表現に先生方が或る御考を以て何等かの交渉をするのであらうと、私は大體考へて居るのであります。而して今日は綴方教授を主として御研究になる事を伺つて居りますが、綴方と云ふ事も其の表現の中の一部分であつて、子供の或る特殊の表現であります。特殊と言つて宜いか、どう言つて宜いか存じませぬが、或る形式の表現であります。其の表現に先生が矢張り何かの交渉をなさる事が、綴方教授であると思ふのであります。私が教育に就て言ふ必要もありませぬが、少し申さないと具合が惡いやうであります。それで先程申上げた教育の道であります。大きな道であります。何處迄も總ての教育の踏出し方は、其の大道の上に常にあるべきであるとすれば、子供の綴方にも一種の獨立した、貴さがあるのであるから、是に先生は干渉してはならないといふやうな、近頃の新しい説は如何なものであるかと思つて居ります。近來は、平等觀、自由觀と云ふものが、割合に發達を致しまして、教育の方にはさう云ふ弊害は及んで居らないでせうが、事に依ると文藝の專門家なぞに依つて教師は子供の綴方や畫に干渉すべからずと云ふやうな説を、聞いた事があります。さう云ふ説が教育上許されるものであるならば、教育の他方の仕事にも其の筋道が徹底しなくてはならぬと思ひます。綴方に對して干渉すべきものでなければ、其の外の學科にも干渉すべきでないと云ふ(315)事迄、徹底し得る理窟が見出されなければ、大變具合が惡いでないかと思ひます。而して子供の表現に、教育者が或る意味を以て交渉するものであると云ふ事が許し得るとすれば、子供の表現と云ふものが、先生に依つて或る規制を受けなければならない。詰り是は價値があると先生が御認めになる表現を御奬勵になり、是は價値なし、若くは子どもの發達に有害であると御認めになる表現は、同じく表現であつても、或るものは制根し、或るものは之を止めなければならぬと云ふことが出て來るのが、本當でないかと思ひます。然らば如何なるものを發育させ、如何なるものを制限する、若くは止めるかと云ふ事は、是は私共には無論分らない事であつて、愼重に考へなければならぬ事でありませう。即ち是は皆さんが御考へになつて居る事で、私共が口を入れるべきでないと思つてゐますが、唯子供の表現と言つても、大人の表現と互に相通ずるものでありまして、一面から見れば、異つた表現の形式を取るかも知れませぬが、大きく申せば、人間全體の表現の中の一部分で、大人と子供とは共通點があるのであります。私は子供の表現も大人の表現も一纏めにして、暫く一般人間の表現と云ふものから考へて行かうと思ひます。
子供の表現、大人の表現、或は男の表現、女の表現、或は職業の相違に依つて實業に關係して居る人は實業的方面の表現、政治に關係する人は政治向きの表現、教育者、宗教家、藝術家と、皆各々或る表現をして居りまして、表現の種類は澤山ありますが、さう云ふ表現の中で、或る深さとか高さと(226)かを思はしめるもの、さう云ふものを感じさせないもの、若くはさう云ふものとは反対な感じ方がされるものと云ふやうに、種類の區別があらうと思ひます。是は實に政治とか、實業とか、職業だけの差別でありませぬ。で、どの社會に於きましても、皆此の相違があらうと思ひます。さう云ふ澤山ある表現の中で、人間としての高さ深さを思はしめるものだけが、權威を持つのであります。さう云ふ權威を持つものが、詰り何時迄經つても亡びないので、其の前に立てば誰でも頭が下る。例へばお釋迦樣の宗教的の心持の表現でありますとか、若くは孔子樣とか耶蘇、さう云ふ方々の宗教や道徳の上に現れたものであります。斯う云ふものには、どうも人間は誰でも、或る高さと深さを感じさせられます。さうしてそれは人類が何時迄經つても忘れる事が出來ないむので、其の前に頭を下げる事が却って愉快になるのであります。有難いと云ふ事が其處に生れて來ます。然らば宗教は皆貴いものかと云ふと、決してさうは言へませぬ。同じ宗教でも末世に樣々な宗教家が現れましたが、さう云ふものに必しも高さが感じられない。甚しいのは葬式の道具に使はれるだけの宗教、若くは世の中に流行する、社會事業と云ふやうな外面的の爲事に大變に苦勞して、修道と云ふ根本的なものにそれ程の苦心を重ねて居らないやうな現象が若しあるとすれば、さういふ宗教的の表現からは、どうも吾々には有難い高さを感じさせられない。世の中には爲事の種類に依つて、高低は無論ありませぬ。宗教と云つて必ず高さを感じさせられるものでもありませぬ。文學と云ふものが世の中に存在して居りまして、(317)文學から悉く或る崇高な感銘を受け得れば有難いのでありますどうもさうまゐりませぬ。高さを感じるものもありませうが、その反對に低卑を感ぜしめるものも多いやうであります。實業家は多く通俗的のものと考へられてゐるのでありますが、實業家必しも人間としての權威を持ち得ないと云ふこともない。例へば二宮尊徳の實業觀などには哲學があるやうであります。是は矢張り人の頭に永久性を以て殘る程の權威を持つて居ります。併し私は今世間に流行して居る報徳宗と言ふものは嫌ひです。さう云ふ譯でありますから、單に表現と云つても、それは非常に範圍や程度の廣い/\ものであつて、其の中で高さを感ぜしむるもの、深さを感ぜしむるもの、或は輕薄を感ぜしむるものと云ふやうに、樣々の種類があるだらうと思ひます。さう云ふやうなもので、人類はどう云ふものを目指して進むべきであるかと云ふことは、自ら定るやうなものであらうと思ひます。教育も矢張りさうなるでありませう。教育事業であるから、總て貴いとは言へないであらうと思ひます。吾々の心の奥底に沁み込むやうな嚴肅觀を伴つた教育現象が、世の中に存在して初めて有難い、貴い、と云ふ感じを起させるものであらうと考へます。是は宗教も政治も總て同じであります。非常な覺悟から生れた教育現象には吾々は權威を感じさせられます。思想が舊い新しいなどは實は餘り問題でありませぬ。福澤先生の如きは、明治時代に非常な覺悟を以て塾を開きました。私共はあの方の思想には餘り敬服して居りませぬが、其の覺悟の程だけは、矢張り明治の教育的現象の權威をなし得るやうに感じます。新島襄先生(318)なぞも同じであります。どうも有難い感じが致します。即ち非常な覺悟の下に行はれて居る教育現象には、矢張り私共は頭が下るやうであります。私の習つた小學校の先生で、此の先生は此の間亡くなりましたが、大變人望があつて、終世その町で教育に從事した人でありますが、懷中に辭表があつたと云ふ事が死後に分つたのであります。印ち自分の説が行はれなければ、何時でも辭職すると云ふ覺悟を持つて居られたのであります。さう云ふ覺悟の前に對すると、矢張り吾々は頭が下るのです。是は教育現象の中の一部分でありますが、文藝も亦然りで、文藝が悉く人間に有難さを感じさせる表現であるとは決して申されませぬ。殊に文士と云ふものの生活がどうであるか、私はさう云ふ事には立ち入りたくありませぬ。待合などに入り浸り、さう云ふものから生れる文藝であれば、それは大抵分ります。どの位の價値のあるもので、どの位有難いものかわかります。新聞に近來文士の賭博が問題になつた。其の辯解に曰く、これも體驗の一つであると。さう云ふ體驗なら色々種類がありませう。女と私通してそれを告白した小説がある。其の告白も深い懺悔の心持でも伴つて居れば命もありませうが、それを平氣に面白をかしく書いたものがあるとすれば、吾々には卑しい感じより受けられませぬ。極論なものに至つては、最近文士の凌辱事件と云ふものが生れてゐる。無論悉くさう云ふ心持を持つたものとは申されませぬが、さう云ふ心持を持つた上に築き上げられたものならば、現れるもの知るべきのみで、さういふものからは權威が生じて來さうもありません。私は明治の小説では、鴎外(319)先生の小説を非常に尊敬して居ります。而して先生の御書きになつた小説は、所謂平素の生活の覺悟であつて、さう云ふものから生れたものであることが、私共には能く理解が出來る心持が致します。先生が御亡くなりになつたのは、昨年の七月九日で、もう一周忌に手が屆いて居りますが、昨年萎縮腎を病んで、今度こそは醫者にかかれと友人から勸められ、其の前肺炎の時にも醫者にかからないで押通して博物館に通ひ、其の前赤痢に罹つた時も、陸軍省に通ひ續けたが、赤い便を發見されて出勤を差止められた事があります。先生の眼中には、赤痢も肺炎もなかつたらしいのです。萎縮腎の時も押して圖書館に出勤されたさうですが、これは大した事柄であります。友人の賀古と云ふ方が、今度こそは醫者にかからなければならぬと勸めた手紙を送つたさうであります。その時の鴎外先生の返事は「俺も醫者だ、今度の病氣がどの位の程度のものである位の事は、自分で知つて居る。けれども、一旦醫者に掛つた上は、醫者の命令に從はなければならぬ。俺が今醫者にかかつたならば必ず筆を持つ事を止められるであらう、俺が筆を持たないで、二年三年長生きをして何か役に立つか。以後斯う云ふ手紙はよこさないで呉れ」斯う云ふのであります。此の話を賀古さんが、鴎外先生の御通夜の夜御話しになつて感極つて泣かれたさうでありますが、尤もであると思ひます。鴎外先生の覺悟と云ふものはそればかりでありませぬ。總ての所に現れて居ります。一昨年奈良の博物館に行つた時なぞは、芋を一俵取り寄せて、それを蒸して食事を濟したと云ふ、さう云ふ所から先生の小説は總て生れると(320)思つて居ります。又鴎外先生の書く女でありますが、今時の文士と言つては惡いが、よく小説に出て來る甘つたるい女とは、全く異つて居ります。例へば「安井夫人」や「護持院ケ原の仇計」にしても、私は何囘も讀んで居りますが、全く今時流行の女とは違つて居ります。或る高さを感じさせる、深さを感じさせると云ふものは、餘程の覺悟からでなければ出て來ない。通り一遍の放縱な感情や慾望から出るやうなものは、大した權威になり得ないやうな心持が致します。
二、短歌と表現
斯う云ふ事は歌についても言へるのであります。今まで幾つかの現象について申したのは歌と云ふものと共通してゐる點を申上げたいと思つたのであります。即ち唯今迄申上げたやうな事を、直ちに移して歌の上に言ひ得るのであります。而して私の申しますのは主として短歌であります。古今集以後短歌が一種の骨董品となつて、本當の文學としての生命を失つたので、明治三十年頃に和歌の革新の運動がありました。御維新以後總ての方面に新しい現象が生れたのでありまして、其の中の一現象として當然歌の上にも革新があつたのであります。其の和歌を革新した一人に正岡子規と云ふ人があります。私は其の子規の歌を非常に貴いものとして尊敬して居りますが、その心持は鴎外先生の所で申上げた心持と多く變りませぬ。子規先生の歌や俳句は單に十七音であり三十一音であるといふ丈け(321)の、小さな形式ではありますが、其の中に含まれた心持は吾々に或る高さを感じさせ、深さを感じさせるのであります。御承知の通り此の人は六七年も、身動きも出來ず床上に臥して居りまして、非常な苦しい中に安心を求めました。大きな覺悟であります。其覺悟の上に現れた藝術であると云ふ事が、十七字を高からしめ、三十一字を高からしめたと解釋し得るだらうと思ひます。子規先生の生活は詳しく申しませぬでも、大抵世間で知つて居る事であります。脊骨に二三箇所孔が明き、兩肺が既に崩れて、毎日脊骨の孔にガーゼの詰替をしなければならぬ。其の時は非常な痛さで、聲をあげて泣き叫んだ。その聲が隣に迄聞えたさうであります。それ程の痛さでも、人が來て歌や俳句の話をするとガーゼを詰め替へさせながら話を續けたといふ。此の一つの話だけでも、子規と云ふ人の生活が、如何なるものであつたかと云ふことは想像がつくと思ひます。當時中江兆民と云ふ人が喉頭癌になつて、醫者から一年半しか保たないと云ふ宣告を受けたので、「一年有半」と云ふ書物を出してそれが何十版と重ねて、非常な勢で賣れました。その時子規先生は之を評して「生命が一年半しか保たないと宣告されて、一年有半と云ふ本を出して大分部数を出したさうだが、俺には一年半と云ふ生命は賣物には出來ない。」と言はれた事が書いた物に殘つて居ります。それを以て見ても、子規先生の覺悟が如何なるものであつたかと云ふ事が、想像が出來ます。子規先生の歌を一二申上げますと、
ひとやなる君を想へば眞晝餉の肴の上に涙落ちたり
(322) 是は友人が官吏にからかつた爲に入獄した時の歌であるが、子規先生が晝飯を食べて居る時に、友人の牢屋の生活を思ひ出しまして、肴の上に涙が落ちたと云ふ歌であります。又
寢しづまる里の燈火皆消えて天の川白し竹藪のうへに
斯う云ふ歌を見ますと、先刻子規の生活と申しましたが、さう云ふい生活から來る高さと、同じ高さが矢張り歌の上にも現れて居ります。是は詳しく批評すれば、批評をし得る言葉があらうと思ひますが、さう云ふ事は今日は略して置きます。
人皆の箱根伊香保と遊ぶ日を庵に籠りて蠅殺す我は
是は子規の心持であります。處が其の頃は子規先生の歌は、世の中に歡迎されなかつたのであります。是は私共に非常に參考になると思ひます。政治でも文學でも或は教育でも、如何なる事をするにも斯う云ふ事は參考になるのであります。子規が斯う云ふ歌を作りましたけれども、世の中では少しも注意しない。と云ふのは子規の歌の内に籠る所が深くして、外に現れる所が派手でない。人目を惹かないからである。どうも新派悲劇でも見る方が心持が宜い。天の川が白くても赤くても電氣でも點ければ空は見えない。世の中の事は派手な所に人目が寄るもので、詰り内に深く籠るよりも、成るたけ外に多く現れるものが、人目を惹き易い。是は吾々表現と云ふことを考へるに、餘程參考になると思ひます。處が、東洋には外に現れるものが短くて、中に籠るものが深いことを喜ぶ傾向があると思(323)ひます、達磨が面壁して居ると、慧可と云ふ人が窟に入つて來て弟子にして呉れと云ふと、達磨が答へない。慧可は自分の決心を示さうと思つて、肱を切つて無言で達磨に見せると、達磨は一言「唯」と言つた。「唯」一音でありまして之を日本語に釋せば「よし」となつて二音であります。「私は感心しました。許しませう。」などと云ふ事とは大分違ふ。「御志は見上げたものだ」と云ふやうな事は申しませぬ。東洋人は斯う云ふ事を喜ぶ傾向がありはしないかと思ひます。支那の畫論には能くそれが出て居ります。一墨五彩を分つ。一つの墨で五彩を介つて描き得る。現れるものは一墨であるが、潜む所は五彩である。李成は墨を惜むこと金の如し。墨一滴も惜む。繪として現れるものは簡單であつて、中に潜むものが深い。さう云ふ民族性と申しますか、東洋人には一種の傾向を持つて居りますから、支那あたりは五言絶句のやうな、極めて短い詩の形が生れて出て來るのであります。又日本にしても、十七音とか三十一音とか云ふ、簡單な歌が生れるのであります。今迄是も度々論じた事でありますが、どうも簡單な表現を好んで外に大袈裟に現れるものよりも、中に深く潜むものを追ふ心持があります。これは佛教にも儒教にもあると思ひます。日本人にもこの傾向が現れて居ると思ひます。例へば停車場に友人などを迎へに行つても極めて親しい場合ならば「ヤー」とか「ウー」で濟んで居る。是は日本人の特徴か知れませぬ。「あなたが御出でになつて喜ばしい。」それを「ヤー」とか「ウー」と云ふ方が、感じが中に籠つて却つて本當の心が現れる。斯う云ふ傾向がありましたものが、御(324)維新後は大分思想が變つてまゐりまして、一般の生活精神が急に物質的に解放されました。一體如何なるものにも多少の弊害は必ず伴ふものでありまして、東洋古來の傳統の簡素な生活、制限された生活と云ふものも、一方から言へば一種の無理があります。其の無理が解放されましたから、維新以來物質的に非常に自由になつて、今迄ひもじかつたのが御飯を食べるやうなもので、物質に食飽きると云ふ事に、一所懸命になつた。物質的に解放されたと云ふことは、言ひ換へますと、人間の官能が解放されたことであります。官能の滿足を得ると云ふことに一心になり、尚別の言葉で申しますれば、末梢神經の快感を求める、中樞に沁みて來ると云ふことより、末梢部の要求が盛んになつて來る。更に他の言葉で申しますれば、外面的の要求、即ち物質的で同時に外面に現れるものであります。是が維新以來の生活精神でありまして、これは日本のみでなく世界全體がさうであらうと思ひます。そこで成功と云ふ言葉が大分流行します。詰り結果を得れば宜い、成功すれば宜いとして、其の出來上る道程及び出來上つた物の高さ、深さを感ずると云ふ事は多く問題でない。現代生活精神の潮流に順應して、外面に現れた物を獲得すると云ふ事に傾いて參りました。さう云ふ時に、「庵に籠りて蠅殺す我は」では有難くない。若くは「肴の上に涙落ちたり」でも景氣が惡い。斯う云ふ觀方をされるのは當然でありまして、無論其の外にも理由があつたかも知れぬが、私は主としてそれを理由と致して居ります。從つて歡迎されなかつたのは尤もと思ひます。其の頃の和歌と云つても、所謂新しい歌と云(325)つても色々ありますけれども、其の頃一番世に流行したのは、今申したのとは全く反對の歌であります。今其の例を擧げて見ますと、是は成るほど具合が宜い。
湯上りをみかぜ召すなの吾が上衣えんじ紫人美しき
湯上りは誰も惡い心持はしない、私共も好きであります。況や、紫の上衣を私は著た事がありませぬが、著せて呉れれば感謝致します。而も美人でありますから大した事で、何人も不賛成を唱へる人はありませぬ。斯の如き歌が日本の津々浦々に反響を來しまして、成るほど新しい歌は有難いと云ふ事になつて來ました。當時私はまだ子供でありましたが、斯う云ふものを讀ませられますと、此方が恥しいやうな心持がしました。何となくむず痒いやうな氣持が致しました。斯う云ふ歌は成るほどさう云ふ滿足は十分感ずるかも知れませぬが、先程申上げたやうに或る高さ、深さが、末梢部に止まらず中樞に沁牟て來る有難さがあるかどうかと云ふことになると、具合が惡いのであります。斯う云ふものなら今の世の中に幾らも供給の種類があります。併し斯う云ふものに私どもは感謝の念を捧げることは出來ぬのであります。是は決して内證で申すのでない。今まで度々言ひ及んでゐるのであります。此の作者、又歌つて曰く、
やははだのあつき血汐に觸れも見で寂しからずや道を説く君
あなたは寂しいではありませぬか。生の喜びを知らずして仁義道徳を説く、といふのでありまし(326)て、さう云ふ頭から見て道などを一所懸命に説いて居る人は寂しいでせう。是だけで其の歌は言ひ盡したのでありませぬが、是が日本全體に歡迎されたと云ふことは、維新以來日本人の生活精神が、何を求めて進んで來たかと云ふ一つの例證になるのであります。鴎外先生や子規先生の生活精神とは、全然反對であります。其の當時その方の作つた鎌倉の大佛の歌が世に發表されました。
鎌倉や御佛なれど釋迦牟尼は美男におはす夏木立かな
其の方は鎌倉の大佛の前に行つても美男と見える。あゝ云ふ佛像の前に行つて直に美男を感ずる。其の感じが先に立つと云ふのはどう云ふ現象でありませう。斯う云ふ方は事に依れば、大抵の男の前に行つて、皆美男醜男といふ風に見えるかも知れませぬ。其の頃他の或る人の歌があります。
鎌倉の大き佛は青空をみ蓋と著つつよろづよまでに
是の歌は、その頃世の中の人が一人として注意したものがありません。而も青空を御笠と著ると云ふ方が、二年前で、美男の方が二年後でありますが其の後の方が非常に喝采を得て居ります。兩方共佛像に對する感じでありますが、是は大變面白い材料であると思ひますので申上げたのであります。兎も角、一方のは或る高さを感じさせられます。併し美男の方は高い感じが得られませぬ。日本の歌壇はかくの如き傾向で、十年か十五年前迄進んだのであります。今日は斯う云ふ官能一方のものは貴いものである、有難いものであると思ふものが歌壇に多く姿を失ひました。何故之を比較して申上げ(327)たかと言ひますと、文藝と云ふもの若くは宗教、教育、總てのものに之と共通の色合、詰り二つの異つた傾向があると思ふので、その傾向を歌の例によつて申上げたに過ぎませぬ。
三、生活と表現と價値
高さを感ぜしめるもの、深さを感ぜしめるものの極點と、子供の心持とは餘程迄通じて居る所があるのであります。詰り私共の此の世に於ける出發は、餘程貴いものを持つで居つたのであります。それが成人するに從つて、生活精神が段々分岐して仕舞つて、その分岐した各が皆こせこせした力弱ものになつてゐるのであります。であるから鴎外先生や子規先生の如き、一本調子に纏つた物を餘計に有難いと思ふのであります。さう云ふ方が段々極點に達すると終には子供の如き心持になり、統一された心持、神に近いやうな心持になる。茲に子供と大人と云つても、或る高さ、或る有難さを感じさせられる所に行きますと、雙方によく似寄つた共通點のあると云ふ事は大變面白い事であります。詰り神に近いやうなものであります。斯う云ふものを吾々は求めるのであります。子規や鴎外先生なぞの心持と違ふものではありませぬ。例へば越後の良寛法師の如き人であります。非常な苦行をなすつたのであらうと思ひますが、其處には殆ど子供と分つ事がないやうな、神の如き境涯に達せられてゐます。此の良寛法師の事は既に御承知と思ひますから略して置きますが、どうも良寛法師などは餘(328)程子供と似た所があります。そこで私は前に申したやうに、子供の表現の中でどう云ふものに價値を求め、どう云ふものに價値を認めないかに付て申して見ようと思ひます。
今一つの例を申します。一昨年でありましたが、長崎に參りました時に、禅宗の坊さんが訪ねて來て、共に或る家に泊りまして、朝御勤めをして居りますと、子供は妨さんを見た事がないので、坊さんの脇に立つて頭を熱心に見て居りました。珍しいものがあると思つたでせう。さうして一方は視線を少し上に向けないと坊さんの所が見えない。一方は視線を水平に置いてゐる。其の視線の合つた所に坊さんの頭がある。二人が不思議さうに見て居りましたが、其の中に視線を上に向けて居る方が、手を出して坊さんの頭を撫でた。すると坊さん驚いて脇を向いた。それを私は次の座敷で見て、坊さん敗けたなと思ひましたが、大變心持が宜かつた。それから坊さんと共に茶を飲み乍ら、敗けましたなと云ふと、坊さんも敗けましたと云ふ。迚も子供には敵ひませぬ。此の坊さんは求道に立つて居る方でありますが、さう云ふ方でも子供に逢つては驚く。吾々が貴いとか深いと申しますが、此の到達點は矢張り子供の如き心持になる事でありまして、斯の如き状態を深く成るべく長く、成るべく確實に保存させる事は、兎に角子供の上に意義の多い事であらうと思ひます。子供の表現の中で、どう云ふものが貴いかは考へ盡されませぬ。さう云ふ事は分りませぬけれども、少くも無邪氣な神に近い心持であります。之を成るべく確實に保存さして、少くも早くから大人の樣にさせない、生活精神が早(329)くから分岐しないやうにする事が必要な事でないかと思ひます。子供の表現の中で、どれが保存すべきものである、發達さすべきものかは、全體に分りませぬが、此の一點だけは非常に必要な事と思つて居ります。是は教育者の御いでの所で申す必要はありませぬが、一般家庭に於ても、早くから大人の型に嵌めて、大人らしいことをするのを宜いことと思つて居る。成るほど一方から言へば發達が早いが、一方から言へば早く貴い所の經驗から離れさせる事になるのであります。この點は子供の一生を通じて、大きな分岐點になる所であらうと思ひます。神にも近い貴さを多量に持つて居る歌は、萬葉集でありまして、私共が萬葉集を有難く思ふのは其の點が多いからであります。正岡子規が、和歌革新の初めに萬葉集の復興を唱へて居りますが、それは人間本來の純粹さから出直せと言うたのであります。萬葉の歌には子供の神に近いやうな部分が澤山現れて居りまして、丁度良寛の行ひや歌にさう云ふものが現はれて居るのと能く似て居ります。たとへば藤原鎌足が安見兒と云ふ采女を得た時に、
我はもや安見兒得たり人皆の得がてにすとふ安見兒得たり
と云うて非常に喜んで居りますが、斯う云ふ心持は、子供が何か面白い物を持たせられて喜ぶのと能く似て居ります。又女の歌にしますれば、是は關東の名も知れない、身分のない女が歌つたものでありますが、
小草男と小草助男と潮舟の竝べて見れば小草勝ちめり
(330) 小草と云ふのは土地の名であります。女に言ひ寄つた男が二人あつて、小草助男と云ふのは同じ小草出身でも好色の男であるらしい。潮舟は竝べて見ればの枕言葉であつて、竝べて見れば小草勝ちめり。小草男が勝つやうな心持がする。即ち私は小草男が好きだと云ふ事であります。又中皇命、是は今までは中大兄皇子の御妹であると言はれてゐますがそれには異説があります。その中皇命が旅をした時の御歌に、
わが背子は假廬作らす草《かや》なくば小松が下の草を刈らさね
と云ふのがあります。昔旅をする時は皇族でも皆假屋を作つてお泊りになつたものでありまして、其の假屋を作るのに萱がなければ小松の下には萱がありますから、それを御刈りなさいと云ふ意味で、如何にも子供に似た心持があります。斯う云ふ殆ど神に近い、原始的な今生れ出たばかりのやうな歌が澤山あるのが萬葉集であります。詰りさう云ふ心持であるから、一筋に心を集中しまして、子供の心に集中される状態が、大人時代にまで續いて居るやうなものであります。大人になつても其の集中が變らない。唯色々な事情が含まれて居るだけで、集中されると云ふ事は違ひがない。さう云ふ集中が或る極點にまで達しますると、更に或る高さと深さに到るのでありまして、さう云ふものは萬葉集のうちでも人麿とか赤人とかの歌に多く現れて居るやうであります。例へば人麿の、
笹の葉はみ山もさやに騷げども我は妹思ふ別れ來ぬれば
(331) 山路には笹が生えて居る。作者は妻の事を考へながらその道を歩いてゐる。處は山路であるが、心は妻に向つて集中されて居る。その心が或る深さを伴つて一種の寂寥所にまで入つて居ります、この邊まで來ると、もう永遠性を持つた高級の藝術であります。又山部赤人から例を取つて見ますと
三吉野の象山のまの木ぬれには許多も騷ぐ鳥の聲かも
處は三吉野の象山である。山の木未に澤山の鳥が啼いて居る。事がらは只これ丈けでありますが、矢張り或る寂寥所、幽遠所に到達して居ります。人麿の笹の葉の歌と、赤人の鳥の歌とは、共に外面的の派手な現れ方になつて居りませぬ。外に現れて居るものよりは、中に潜んで居る感じの方が深い。斯う云ふ事が先刻申上げたものに共通して居ります。さう云ふ所に達するには、萬葉集の如きあどけない、神に近いやうな、心持を持つものにして、初めて達し得るのであります。教育について度々差出口を申しますが、學校に於きましても、恰も子供らしいやうな先生が、純粹な或る高さを感じられるやうな教育的表現をなさる事がありはしないかと思ひます。先刻から餘り高いとか低いとか云ふ事を言ひ過ぎましたが、之を餘り言ふと語弊があつていやみになるが、さう云ふ高いものと、無邪氣な世界、神の如き世界とは同根である。殆ど同じものと言つて宜い位の同根である。斯う云ふ事があり得はしないかと思ひます。例へば人麿が先刻申上げたやうな、深く沈んだ寂しい歌を詠む。それと共に殆ど子供の駄々言と同じやうな事を言ふ。「妹が門見む靡けこの山」といふ長歌の結句がある。家(332)が段々遠ざかつて山に隔てられでしまつた。どうかして妹の家を見たいのでありますから、「妹がかど見む靡けこの山」と言つたのでありまして、是は三四歳の子供の駄々と少しも違はない。そこに却つて一途の力があるのであります。此の力があるため、遂には人生の寂寥相、幽遠相といふやうな所迄進み得るやうな歌が得られたのではないかと思ひます。斯の點が教育の現象と相通じて考へられる所でないかと思ひます。子どもの表現に崇高感や深遠感を要求するのは間違つて居りますが、左樣なものに到達すべき根源所を養ふことは大切な事でありまして、綴方に於ても斯樣な所に標準を置くことを私は希望するのであります。併し、子供にこの無邪氣を下手に奬勵すると弊害があります。無邪氣と云ふことが人爲的になり、わざと無邪氣らしい振舞ひをする。併し何と申して宜いか知りませぬが、兎に角原始的な素朴な生地であります。今土から生れたやうな心持であります。さう云ふものは少くも尊重して行く事が必要でないかと思ひます。早く大人になつて力を分岐させないやうに力を蓄積さして置く、早くから消費しない事で、大人と同じやうに禮儀作法に憂身を窶して、それに依つて大人に褒められ賞讃を博する事は、子供には有難くない事かと思ひます。一體、子供は日光と土の上に立つて居れば宜いものでありまして、是は農夫の生活と能く似て居ると思ひます。日光と空氣と土に直接するものは、農夫と子供であつで、農夫は日光を非常に尊重致します。さうして新鮮な空氣の中で土を相手にして生活して居る。而して子供も此の原始的な生活に似て居るべきものであります。(333)土を掘つたり、尻を捲つたり、顔に泥を付けて飛び歩いて居る所は蟲のやうな者であります。蟲で長く居た方が宜い。何時までも蟲では困りますが、兎に角さう云ふ力の蓄積であります。是は決して意味の少いものではないと思つて居ります。斯う云ふ事から考へで見ますと、都會の子供は段々原始的の部分が無くなつて早く大人びて仕舞ひます。是は誠に氣の毒なことと思ひます。電車の響だけでも、常に末梢神經を刺戟され、其の他活動寫眞の光や看板で、是でもか是でもかと云ふやうに、激しい刺戟で子供を誘つて居ります。かう云ふ中に子供を置かれて居りますから、先刻申す如く末梢的興味、官能的興味と云ふものが餘計に發達して仕舞ふと云ふ事は、是は子供として大問題でないかと思つて居ります。今少し日光と新鮮な空氣の中に子供を浸して置くことが出來ないかと云ふ感がいたされます。それでありますから、早く外面的の興味を覺えまして、さう云ふ傾向から、向上心なぞが割合に發達して、人に褒められるといふやうな對他的の心持が手傳ふのであります。農夫は土を相手にして居りますから、對他的の心持が少くて純粹であります。汽車に乘つてゐても農村の停車場から入つて來る人の顔は愉快であります。「俺らへえ」などと言つて居りますが、恰も萬葉中の或る歌を讀むやうな心持が致します。私は外面的興味に浸つて居ると云ふ事が、對他的興味に移りはしないかと思つて居ります。私は近來東京市で募集した童謠を拝見して居ります。それは東京市を詠んだものでありますが、其の十中八九迄は、日本一と云ふ言葉が使はれて居ります。成るほど東京市は日本一の都に(334)違ひない。併し東京市を讃へる心持に、第一に日本一と云ふやうな對他的な、詞の出て來ることは、一つの妙な現象ではないかと思つて居ります。私は子供が早く對他的になる事を厭ひます。自分一人の立場として東京を喜んで居り、樂んで居ると云ふものが必要でないかと思つて居ります。故國《くに》に行きますと子供が栗を落し或は鰌を取つて居りますが、少くもさう云ふ生活心とは違ふ。何れが子供に必要であるかと申しますと、私は栗を落したり鰌を掘らしたりして置きたいと思ひます。斯う云ふ點から申しますと、今日子供の讀む雜誌でありますが、是は甚しいものであります。表紙の繪を見れば分ります。あれをもう少し低級にすると活動寫眞の看板であります。成るべく刺戟的な色彩を用ひて居ります。而も其の内容は委しく見た事はありませぬが餘程疑問であると思ひます。二三年前に總ての子供雜誌を一皮調べましたが、其の時も可なり驚いた事があつた。どうも是は仕方がないもので、私は子供には一切子供の雜誌を持たせぬ。處が私は子供を東京の或る小學校に出して置きましたが、一日子供が泣面して私に申しますには、自分は一人のけ者のやうなものだ、皆は休時間には雜誌を讀んで居るが、自分は持つて居ないから隅に立つて居ると云ふ。斯う云はれますと親は少し弱くなつて、それなら買つてやると云つて、一二册買つてやりました。是は親の弱い所であります。處でこれは餘計な事でありますが、婦人雜誌に至つてはそれ以上甚しいものであります。斯う云ふものが家庭にあるとそれで家庭の好みは分ります。私は家庭に置くもののみでない、店頭にあるのを見るのもいい心(335)持でありません。是は子供の原始的な生れたその儘の世界とは、非常に隔絶したものであります。實は活動寫真より弊害が多いものでないかと思つて居ります。それから子供の弱點を挑發し、名譽心を挑發することも大變惡い事であります。投書子供と云ふものが出來て居ります。自分の名が活字に組まれると非常に滿足する。大人でも名譽心でやるのは具合が惡い。子供は自分の名が活字に組まれると、天下でも取つたやうな心持がする。是は詰り弱點の挑發である。殊に懸賞であります。御褒美を貰つて惡い事はありませぬが、さう云ふ外面的な褒められたとか、活字に組まれたとか云ふ興味は、子供の中は成るべく發達さしたくないと思ひます。
四、童謠と教育
次に童謠の問題でありますが、童謠と言つても歌と言つても、何等分つ所のない共通點を持つて居ります。今日は童謠が流行しまして、童謠を授ける學校が澤山あるやうでありますが、之を子供に讀ませるとしても、弱點の挑發、官能的、外面的興味を極度に發達させるやうな刺戟的のものを授けない事が、神の如き世界を保持するに必要でないかと思ひます。若し子供に童謠を授けるならば、昔からの民謠と云ふやうなものから選擇して授けたいと思ひます。而も斯う云ふものは少しも弊害がないのであります。今も尚殘つて居る民謠で子供に授けて喜ぶやうな歌が澤山あると思ひます。さう云ふ(336)ものを先生が授けて下さると大變有難いと思ひます。私も童謠は眞似事を致しますが、矢張り古來より傳つた民謠に好いものがあります。
酒田山王山で海老ことかんぢかこが、相撲とうたば、海老こ、なしてそんなに腰まがた。かんぢかこと、相撲とうて、投げられて、それで腰|曲《まが》た。あつちや申せ、こつちや申せ
斯う云ふのは大人も子供も面白い。是は山形縣か秋田縣かでありますが、全く子供の世界と共通して居ります。叉伊豆の下田に近い所に苗取歌があります。
この苗を、まき上げて、どこに住まずや、いなごや、きりすすき、すきよしの、こやのうらにすまずや
これからお前は萱の裏に住むかと云ふのであります。即ち蛙を憐んだ心持であります。これは恐らく平安朝頃から傳つたもので、それが今日伊豆南方の苗取歌に使はれて居るのであらうと思ひます。「此の稻を刈り上げて」と云ふやうなものが傳つて轉訛したものと思ひますが、どうも面白いものであります。又平安朝頃の神樂歌で、
湊田《みなとだ》に、鵠《くぐひ》八つ居りや、取ろちなや、八つながら、物|思《も》はず居りや、とろちなや、八つながら、取ろちなや
大人にも子供にも面白い。而も外面的の刺激に陷る事はない。かう云ふ種類を見つければ澤山ある(337)と思ひます。私も幾分心掛けて居りますが、かう云ふものの前に行くと、迚も頭は上りませぬ。さうして偶に斯う云ふものをもぢつたりする事もあります。是は足利時代の小唄でありますが、
宇治のさらしに、島に洲崎に、立ち波をつけて、濱千鳥の、友呼ぶ聲、ちりちりやちりちり、ちりちりやちりちり、と、友呼ぶところに、島かげよりも、艫の音が、からりころり、からりころりと、漕ぎ出だいて、釣りするところに、釣つたところが、ハア、面白いとのう
是等は子供に分らなくても面白い。かう云ふものの意味を説明しますれば、子供は喜んで覺えると思ひます。素朴な素地に立つことは、歌の方でも必要と思つて居ります。私共大人に必要な事であります。萬葉に現れて居るやうな心持には吾々はなれませぬが、萬葉の有難いと云ふことは、吾々も感じて居ります。素朴なさう云ふ心持があつて初めて高いものや深いものに達する。子供の世界もさうであります。素朴な生地な土臭い素地を、何處迄もなくさないやうにする事が、子供の表現で最も必要でないかと思ひます。そこで綴方の問題になると、少くも私の要求とすれば、子供の無邪氣を失はない、無邪氣以上に出ない、大人びた事を書かずに、書いたら、何だお前は斯んな大人らしい事を言ふものでない、老成して居過ぎる、是だけの批評で結構と思ひます。何故さう云ふかと申しますと、私は童謠を見せて頂いて居りますが、どうも拜見すると老成して居ります。大人の作のやうな眞似をして居りまして、子供の世界でないと云ふ心持が致します。今夕し無邪氣に出來ないか、形ばかりが(338)出來上つて仕舞つたと云ふ心持が致します。斯う云ふものを作るなら、一層作らせない方が結構と思ひます。讀ませる物も作らせるものも同じであります。是は綴方とすれば綴方の問題でありますが、綴方ばかりでない。子供の世界全體に通ずる問題でありまして、私の子供に對して私は斯う云ふ心持で居ります。それがために私は子供を信州にやつたのではありませぬ。尚外にも事情がありますが、今子供は山の中で大きくなつて居ります。東京の小學校で御厄介になつたのは有難い事でありますが、どうも山の中で育つた子供は山が宜いやうであります。さうして都會の兒童は仕方がないのでありませうが、山の中の小學校の生徒なぞが、どうして都會に發達した文學、童謠、雜誌と云ふものの必要があるか、何故讀ませるのかと私は常に考へて居ります。さう云ふことは、要するに私は歌の方から申しますれば、正岡子規の境涯であります。又萬葉集の歌に現れて居る歌の境涯であります。さう云ふものと相通じて、私は綴方や童謠を考へたことから出たのであります。今日は折角上りましたが、話も考も杜撰で大變失禮致しました。第二十囘全國訓導協議會席上講演筆記
(大正十二年「教育研究」十一月綴方研究號)
(339) 藝術数育の疑點
近ごろ藝術数育といふ聲が高くて、藝術教育會といふ會合が催され、それに文部省が諮問をするといふ有樣である。藝術教育の何を意味するかを知らないが、若しそれが童話、童謠、音樂、繪畫といふ如きものの領分を擴めて理科、算術などの領分を狹ばめるといふことであれば、これは甚だ考へものである。何故となれば、理科、數學といふ如きものは子どもの一生に通ずる生活基調をつくりあげる上に重要な役目をもつてゐるものであるからである。(それは數學や理科の實用向きな功利的方面を言ふのではない)
一體、藝術の究極は眞面目な嚴肅なものであつて、それが常に思邪無きの純粹さに始終するものである。少年少女の藝術的萌芽は、この思邪なき原始的領分を涵養することと、その純粹な心を以て子ども自身の作業に眞面目に突き當ることによつて、支持せられ發育助長せらるべきものであつて、この意味を外にして子どもの藝術は存在すべきでないのである。子供が一心になつて算術の難問題に突(340)き當つて、遂にこれを解きおほせようとする心の状態は、それが直ちに藝術の嚴肅さに到達せんとする最初の歩みになり得るのであつて、左樣な作業を藝術以外の道と考へるのは、藝術を以て人生の遊び氣分を盛る器と考へてゐるためである。徹底した科學者と徹底した藝術家とは、その到る所の心境に相通ずるところがあつて、人生に崇高感を寄與するに於て同じである。左樣な域へ到達する萌芽として算術、理科の如き作業は子どもの生活に極めて重要な役目をもつのであつて、その領分を藝術教育のために狹ばめられるといふ如きは、藝術教育によつて藝術の大切な萌芽を刈り取られるに等しいものである。
子どもの眞摯、率直、無邪氣な心を養ひ、それを子どもらしく豐かに哺育するために藝術教育のあるのはいい。只、今日、子どものために供給せられる子供文學が果してその目的に合致してゐるか否か。浮誇輕薄で甘たるくて、子どもの弱點を挑發するに足るやうな藝術を授けるならば、藝術教育などをしない方が※[しんにょう+向]かに子どもの爲になるのである。
近來子どもの芝居といふものがある。あゝいふものは、都會の人爲的快樂のみを追つて生活してゐる所に當然發生し來る現象であつて、常に觀衆を眼中におくに於て興味が對他的であり、末梢神經の刺戟を強調するに於て享樂的であることが、子どもの俗惡趣味助長の具になるのである。あゝいふものを日本全國の田舍まで行き渡らせることが藝術教育普及であるならば、小生は明白に藝術教育に反(341)對するものである。田舍には栗拾ひがあり、鰌掬ひがあり、蝶とり、蜻蛉とり、螽?とり、地梨とり、通草とり、山葡萄とり、木のぼり、山のぼりがあつて、子ども芝居の如き人爲的所作の勝つたもののない所が、清楚な空氣の流れてゐる點である。すべて都會で發生する反自然な現象を直ちに田舍に直譯するやうな教育者が輩出したら、日本全體の將來は寒心すべきものにならう。これは本當は教育だけの問題でないのである。
子どもの藝術的創作心を刺戟するために子供雜誌の投書欄があり、その投書が多く懸賞を目標として行はれてゐる。子どもに間接興味を植ゑ付けて早く無邪氣な心から離れさせるものの隨一である。あゝいふものが藝術教育の助けになるならば世に言ふ藝術教育の意味が甚だ怪しいものであつて、小生等の藝術教育と思ふものと根本義に於て大差があるやうである。今の教育者や藝術家が藝術教育を唱へて純眞な藝術の萌芽を蹂躙するやうなことのないやうに祷る。 (大正十三年「小學校」五月臨時増刊號)
(342) 川井訓導の修身教授問題
一、弊害と思はるる點を見出し得ざるのみならず、彼の教授案は、修身書を生かす上に立派なりと思ふ。
法令上より違法ならざるは常識にて明瞭なり。西尾氏の所説によればこの事猶以て明白なり。
二、畑山學務課長、山松校長の言によるも懲戒の意味あり。然らざるも、事に坐して休職を命ぜられし以上、懲戒の意味あることを何人も首肯し得べし。この點につき池原主事は白を切り居ると見ゆ。斯る重要事に觸れて白を切り得る心事にて、教育に携はること寒心すべし。教育が市井の職業と擇ぶ所なきに至れば、益々斯る人を生むに至らん。教育精神の壞滅なり。
川井訓導を懲戒的に休職せしめしは、行政上の輕擧と言はんよりも寧ろ暴擧なり。教育者は安んじて職を奉ずる能はざるべし。斯の如き状態持續せば、必ず大なる禍根とならん。
三、學務課長自ら教育を蹂躙すといふべし。當日一生徒家に歸りて「おれは成長しても先生にはなら(343)ぬ」と述懷えし由。畑山氏之を聞きて反省して可なり。
四、念とする所官權にあるか教權にあるか。彼の記事を通じて抵卑なる教育者風を想見せしむ。特に池原主事は彼の教授案に對して直接の責任あり。自己の責任の上に膝を屈する彼の如く急遽なるは何の爲めぞ。教権を害ふものはその根本教育者にあり。師範學校が識者より輕視せらるる傾向あるは、斯の如き流儀の行はれ居るより來るものにあらずやと思はる。その源流は高等師範にあり。高等師範については、この項に詳説せず。
五、樋口氏は川井氏の言ふ自信の意を解せず、すべて外的事務的に解したる故、川井氏これを説明せんとすれば、詭辯はよし給へといふ。思想の後れたるを知るべし。之を高等師範の一代表と見るべし。樋口民は、飯田小學校の教授が現代より二三十年後れ居りと言ひし由。一時間の授業を見て全般を評せんとする如き思想は、長野縣より後るる事二十年なるべし。之を説明せんとすれば詭辯はよし給へといふ。盲蛇に怖ぢざるの類なり。氏の説く所往々低卑言を交ふ。これを以て高等師範を代表せしむるは、猶禍ならん。道田視學の辯明は全く體を成さず。公開の批評席上特に自分に責任の廻り來りし時、忽ち立つて耳うちするといふ如き擧動は高き聯想を伴はず。川井氏は今少し自己を信じて、積極的に説明する所あるべきなり。生徒の顔を見渡さざりしといふより見るに、多人數の嚴めしさに心怯れたりしか。殘念なり。學務課長が鴎外の小説を云爲せしは事甚だ滑稽にして、官権を持する重く、(344)識見を持する輕きの憾みあり。之にて教育者に臨むは無理なり。
六、教育の眞に徹するの氣魄猶足らざるの憾みなきか。學制頒布以來半世紀を經て、未だ眞に景仰すべき教育者を生まざるは、長野縣としての名譽にあらず。新島襄、中村敬字、杉浦重剛諸先生の如き教育者を長野縣より生まざるは何の故ぞ。教育の區域が一部一町村に限るが故に、顯るる所微なりと言ふなかれ。中江藤樹は一小川村の郷先生にして、三百年の後人をして襟を正さしむるにあらずや。
參考
右は「信教教育」より左の意見を徴せられたる囘答意見なり。
一、川井訓導の彼の修身教授は教育上より見て弊害ありや、又法令上より見て違法なりや。
二、川井訓導の休職は懲戒の意味ありと聞く(信濃教育三月號八頁十一頁參照)之に對する御感想如何。
三、彼の教授の際兒童の面前に於て畑山學務課長の執りたる言動を貴下は教育上如何に見らるるか。
四、山松校長、池原主事の批評會席上に於ける言動を如何に見らるるか。
五、樋口視擧委員其他關係者の彼の際に於ける言動を如何に見らるるか。
六、長野縣教育の缺陷と思はるる主要點を御指示願ひ度し。
(大正十四年「信濃教育」五月號)
消息・編輯便 其他
(347) 同人の消息 (明治三十六年五月「比牟呂」第二號)
背山がづくを拔かしたので消息欄まで被ぶせられたが、發行は遲くなるばかりだし、そこいらからは小言を聞かせられるし、張り切れない話さね。
(木外)僕等がかう汗を垂らしてセツセとして居る中で、大阪博覽會などと洒灑れられては、愈々腹の蟲が落著かぬことぢやないか。先づ筆始めに背山の惡口でも披露しょうかな。
ハハ駄目だ。惡口位では先生例の平左を極め込んでるからなあ、一つ歸來早々釐金税でも課すると云ふ樣な趣向はどうだな。
(木)釐金税も駄目だらう。此の次には編輯主任を命ずつてな辭令を舞はせたら、先生大きにマゴツクだらうな。それが右衛門と一緒なさうだから、何時の歸りだか分らないのよ。隨分今頃奈良くんだりで悠長な眞似をして居るだらう。
(348) (木) イヤ夫れは大變だな。
ソレに出立の規約が可笑しなのさ。右衛門が歎息掛で、背山が冷笑掛だつてさ。
(木) 變な事だね。
夫れがかう云ふのださうな。右衛門が何でも凡ての見聞に對して讃歎の辭を呈すると、背山がそれを冷笑して行く、と斯う役割をきめてあるのだつてさ。
(木) ハハハア、そいつは新發明だな。
その次は兀山だ。長崎と云ふおつぱてへ赴任したので驚き入つた。それに東京を出る時「隨分御機嫌よく」なんて云ふ端書をよこしたから、何だか新しく別れたやうな氣がするのだよ。
(木) 併しそれは愉快だらうぢやないか。慥か香港迄中等が七八圓位のものと思つてだね。釜山なんかお隣りだ「積水不可極」などと歌つて居るだらうよ。
多感多情の側だからな。寧ろ「西出陽關」の方だかも知れないよ。
(木) 新星は淋しいだらうな。兀山も去り寒水も博覽會行ださうだから。此の間草花やら其の他七八種の花葉を送つて呉れたよ。丁度病氣で寢て居た所で嬉しかつた。今度は芝へ引越したさうだな。
(木) ?水はもう歸つたらうな。
(349)全く平癒で歸つたのは嬉しいが、引き續いて母堂の死去と來られて引き籠り勝ちだ。
(木) 歌は進んだやうだな。
眞面目に研究するからね。房州からよこしたのにも、中々よいのがあつた。諏訪湖十首が未だ來ないが、どうしたものだらうかな。
(木) 東筑諸君の消息を書かうぢやないか。
奇峯は三月限り北安の天を引き拂つて和田の郷里に人つた。
蕗味噌や小皿に寒き膳の上
これ北安の春色。小生事愈々本日を以て大町を去るべく候。
と云ふ手紙があつた。東筑も新に此の人を得て生面を新にするだらうよ。
(木) みづほのやはどうした。
高等女學校と洒灑たのよ。「戀の名はなき少女子の國」などと云つて寄越したよ。和歌に於ける精力は諸同人間及ぶものなしの勢さ。「山彦」や「信濃日報」へは、必ず顔を見るからな。それに今迄の劇職に比べれば、研究の時間があるから頼母敷いのさ。
(木) 奇遇は中々作物があるやうだ。此の間は信濃十句集第一囘の幹事で折角やつて居るのさ。
日本新開にも時々見える。信州人の顔が見えるとホントに嬉しいね。
(350) (木) 日本新閲と云へば清水くす子が姑洗の名で頻りと賑かしをる。此の間の晩突然僕の處へ來て飲んだが、飛ぶやうに行つて仕舞つた。今度は早稻田文學部へ這入つたつて便りがあつたよ。
それは善い鹽梅だ。くす子は矢張り文學の方でなければ向くまい。歌の上達には實際驚いたね。
(木〕 森山汀川はどうも不平で居るらしいよ。
佐久と云ふ處は一體殺風景な人氣だからね。まあ一人ポツチと云ふ格で居るだらう。
(木) さうだが此の間郷里へ一寸歸つて居つた。もう久しいから逢ひ度くなつた。
柳の戸、ほのや、竹舟、千洲諸氏の歌は「心の華」でよく見る。修文郎も相變らず「文庫」の歌壇に重きをなして居る。夫れに比べると僕の怠慢は遁るべき道なしさね。どうも不可ん。
(木) 僕も臭いかね。
何とも分らないね。四月十八日午後十時半柿村舍にて認む
稟告 (明治三十六年十二月「比牟呂」第六號)
何を言つでも部數の少い田舍發行物。實費の高いは兼て御承知とは存居候へども、ドウカ誌友諸君にも御同樣の道樂雜誌と思召しで我慢願度候。編輯者もいろいろ苦心して活版所へも度々談合致し居る次第、追々部數も増し來り候へば、始終コンナ事もあるまじくと存居候。
(351)△前號に讀者勸誘方相願ひ置候に、處々より加名申込有之喜ばしく存候。何れも御盡力下され候方に御禮申上候。
△本誌は十頁増加に付、一部金十七錢外に郵税二錢に候。やくやく集金人相廻し候ても、碌々の集金無之経營上愈々困難致居候間、可成便宜を以て御拂込有之候樣願度候。
△別項來春の「氷室誌友會」は同人御誘ひの上、澤山來會者ある樣致度候。毎度開會時刻のおくれ候ため、折角遠方より來られ候ても、僅の時間にて閉會致すやうな始末に相成甚だ遺憾に候。この日は必ず定刻に相始め、お目出たい一日を清らかに遊び暮し度候に付、其の積りにてドシドシ御出席ありたく候。
△二葉會募集句碧梧桐君選の原稿東京より未だ著せず、遺憾ながら次號へ廻す事に致し候。
△原稿何なり共澤山御投じ下され度候。原稿は當分左記宛にて御送りを乞ふ。玉川村二五九岩本方氷室編輯所。
消息 (明治三十七年六月「比牟呂」第八號)
〇此牟呂が難産だと云ふので方々から見舞つて呉れた。實際難産であつた。三月四月の忙しさは格別で如何とも手の附け樣がなかつたので、非常に誌友諸君に御心配をかけたのは濟まぬ次第であつた。
(352)〇同人の異同も隨分多い。
〇千洲は近衛師團に召集されて彼地で軍務に服して居る。清韓の野を南北に駈け廻つて居るが、歌は忘れたことがないとの知らせ。吾人は滿身の誠を捧げて彼の幸運を祈つて居る。
。九寸兒は初春郷里に歸つて、今北山學校に教鞭をとつて居る。
〇汀川も歸郷して故田に耕しつつある。二人の諏訪に入りしは大に吾黨の氣勢を昂げる力になる事と信ずる。
〇此の際惜みて餘りあるは蘆庵の伊那に歸りし事である。併し伊那には溪雲あり。止水あり。大に吾黨の気焔をあげるだらうと待つて居る。四月になつて二三度田へ出たとの事だ。
〇奇遇三月上旬華燭の典を擧げたさうな。今に新世帶百句におのろけを披露するだらうと待つて居る。
〇山水も芋郊も矢張芽出度いさうな。中々みんな奮發するには驚く。山水は四月から中洲學校に居る。
〇釜溪未だ芽出度からず。原村を去つて落合村學校にあり。
〇唖水同じ落合學校に轉ず。新妻君に對して歌を説くや如何。
〇雉夫禰牟庵に主となり、不浙と財政緊肅を講ずとの事、永續する樣に頼む。〇木外は家人を郷里に歸して月の舍に寄食す。問ふ財政緊肅の成績如何。
○山百合毎日辨當さげて新に上諏訪學校にあり。五月五日
(353) 附記 つばな會員近頃怠慢病に罹れる如く思ふが、救治策如何。十囘課題大に奮發を望む。
消息 (明治三十七年九月「比牟呂」第九號)
矢島兀山君は家兄の死去にて遙々長崎より歸省せられ候。多情の人不遇多し。吾人は君の重ね重ねなる悲愁に對して深刻なる同情を表し候。
山田新星君は今囘東都に於て金色社を超され、月刊「金色」雜誌その他の出版に從事せられ候。君が抱負必す成すあるべきを豫想して、多大の喜悦を君の發程に寄せ居り候。
蘆武蘆庵君七月に至り突然諏訪に來られ候。俳會を禰牟庵に開き木外、河柳、雉夫、山百合等と通宵句作仕り、近來の快哉事に有之候ひき。
矢ケ崎奇峯君は南安高家學校に、矢野奇遇君は松本町小學校に、何れも轉任致され候。
森山汀川君、清水くす子君郷に入りて以來、つばな會課題活氣を呈するの傾ありて大にうれしく候。
上條君も久し振で出詠せられ、是又うれしき事に存じ候。柳の戸、竹舟二君は農事繁忙の時季にて、今囘のは休まれ候事遺憾に存じ候。芋郊、雉夫、木外君など如何せられしか御奮發希望致し候。
溪雲君、止水君の消息その後一向承知仕らず。伊那に於ける斯道の開拓切に君等に囑望致し候。
篠原千洲君は滿洲にて發病、目下廣島豫備病院にて治療中に候。壯心空しく病を抱いて旅窓に呻吟す(354)るの苦、深く御察し申上げ候。一日も早く御快癒あらんこと希望に堪へず候。
同じく從軍中なる武居菁雨君より左の通信有之候。
(中略)木外先生は相變らず玉川に居られ候哉、宜しく御傳言願上候。
我軍〇〇進撃
南關の嶺をこゆれば遼東の山せばまりぬ旅順はいづら
○
拾萬の麾下納凉まする山野かな
各に扇子を賜ふ陣屋かな
どの山や芭にひそむ敵の數
何れ近日中に〇〇攻撃も始まらうと思ひますが、今度は少くも手桶位の砲弾はとぴ來らんと存じ候。
(下略) 八月三日
附言 ここには少々つかぬ事に候へ共、比牟呂原稿中蕪雜の字體多く、書き直して活版所に送る手數堪へ難く候間、以後御注意下され度候。
批評 (明治三十七年九月「比牟呂」第九號)
(355)女夫浪 (東京本郷區彌生町三番地 金色社發行)
誌友山田新星君這般東都に於て金色社を起し汎く出版業に從はんとす。山田君は由來文界のかくれんぼなり。今時三文の文を賣つて當世の名を鬻がんが如きは君の望む所にあらず。君が天性は由來すらすらしたる坦路を好まず。その十數年經來れる境遇の如きは、思ふに自己の天性自から進みて求め得たる苦汁にして、君が狂熱的慰藉は寧ろ此の苦汁の益々濃厚ならんを要求し、君が圓錐的烈情はよりて益々其の尖角を鋭利ならしめ、君が曲線的經路はよりて益々多角的境遇に其の身を處せしめんとするの傾あり。君が描きつつある神は、斯くして全く戰闘的資格を君に授けたるらし。君の武器が常に權勢のムカウ脛に閃めき、君の觀察が常に潮流の裏面に立つと共に、其の滴る如き同情が恰も谷間はふホタルカヅラの如く、常に社會の下層に向つて美しく笑み、美しく泣く所以のもの、蓋し全く茲に存せんと思ふ。君今や金色社なる孤城の上に、帝都二百萬の民衆を相手取らんとす。知らず君が戰闘計劃なるもの、斯くの如く早く已に熟せりしか。新聞紙に廣告せる、雜誌「金色」の文に日ふ。一、勃興日本の猛叫を藏す。二、汝金色人の曉鐘を鳴らす。三、禮を供して文章を四方に募集すと。吾人は九月下旬迄の白紙を存して、興味ある宿題を君に課しつつあるあり。
「女夫浪」は田口掬汀君がかつて萬朝報に連載せる小説にして、今度金色社より美裝して出版せられたり。多くの讀者より家庭讀ものとして歡迎されし故、家庭小説として出せし由なり。青年作者の氣(356)概隨所に溢れて中々活氣あり。著想もやゝ雄渾にして、清新の趣あること喜ぶべし。文筆往々露骨淺薄にして、今一息と思はるる節多きは、青年作家の免れぬ病所なるべし。掬汀君弱冠にして文名を東都文壇に成せる由、勉めて已まず、早く大家顔したがらずば造詣必ず大ならん。
鵜川 二卷二號(美濃國岐阜市在江崎村 鵜川社〕
根岸派の地方重鎭として宿名あり。表裝紙質中々美を盡せるには驚けり。俳句が九分和歌一分と云ふ内容にして和歌に欣人氏あれど潮音氏の名見えぬは如何にや、惜むべし。俳句には淺茅、癖三醉、鳴球、華園等あり。
馬醉木 十二號(東京本所區茅場町三ノ十八 根岸短歌會)
内容益々進歩して喜ばし。和歌の季についての説甚だ面白し。卷頭より卷尾まで見倦かぬ雜誌なり。寄稿者の少きは惜むべきなり。比牟呂同人皆揃つて大に出すがよろしい。根岸派の氣勢を盛ならしむるには、熱心なる同人の多數續出せんを要すればなり。
新年消息 (明治三十八年一月「比牟呂」第十號)
△新年を迎へたれどヒムロは別に新裝も致さず、舊裝依然にて刊行致され候。ヒムロの歩みは既に牛の如くのそのそ、虱の如くうずうず致し居り候へ共、その代り廢刊の厄運にも接せず、茲に滿二年の(357)年月を閲して、諸君に相見ゆる事喜悦に堪へず候。
△俳句の方は木外君や河柳君やが、別に説あるべければ暫く略すとして、和歌の方面よりヒムロの二年間を一見するも面白き事と存じ、聊か口上を竝べ可申候。
△諏訪に始めて根岸派短歌が生れしは、何でも明治三十三年と存じ候。當時木外君の主宰せる「諏訪文學」に、汀川君と木外君との短歌を竝べしは、正に曉鐘の響と可申、當時短歌が如何に寂寥の姿なりしかは、この二君が一度出した歌が、其の後とんと跡を斷ちたるにて想像致さるべく候。
その後木外君は短歌の方は一寸お留守の姿なりしも、汀川君はよく孤城を守り居られ候折から、諏訪修文郎君や小生など追々加勢に出かけ候處意外の繁昌にて、くす子君もきたり、紫水明(柳の戸)、竹舟郎、千洲、上條義守等諸君の顔も追々相加はり候。
然る處「諏訪文學」は程なく滅亡の姿と相成り(三十四年末と覺え候)同人の氣※[陷の旁+炎]もここ暫く沈靜の態となり居り候處、三十六年一月愈々比牟呂發刊の運びと相成り、茲に我等の新しき光明を得べき境涯に突進仕り候。
とは云ふものの此の頃「ヒムロ」の城中に顛を竝べた面々が、ヤツト四人と云ふ心細き有樣なりしを今から考へれば、をかしなものに有之候。
夫れ然り、豈夫れ然らんやで、我等の劃策は少人數乍らも、著々歩武を整へて進行致し候。
(358)之より先き――などと鹿爪らしく云ふ程でもないが、三十五年末に於て、我等の活動機關と云ふべきつばな會てふものが、チヤンと蔭の方に待ち構へて息を凝らし居り候。
第一囘課題「男」が「比牟呂」第一號にズラリ勢揃らしきことをした時は、柳の戸、芋郊、竹舟、唖水、山水、修文郎、山百合の七人なりき。是より毎月一囘課題を出して、それを集めては出詠者にまはし、互選の結果を「ヒムロ」誌上に披露する定例と相成り、その上選歌には思ふままの批評を加ふる事としたる結果、小生などいつも亂暴極まる批評(といへば立派ぢやが)を叩き來りたる一人に候。此のつばな會課題は意外に良好なる經過を得、會員もその後義守、釜溪、木外、千洲、くす子、雉夫、蘆庵等の來援ありて、遂には二十一人の多數を現し、從つて課題應募も賑かに相成り申候。
何は偖會員の名前は先刻承知に候へ共、正物のお顔は未だ相見せぬ。どうぢや歌會見たいな者をやらうぢやないかと云ふ樣なことにて、三十六年五月十六日茅野のつる屋に會合したのが、諏訪に於ける歌會の誕生に候。處が來ないわ來ないわ、夕方になつてやつと集まつたのが木外、芋郊、修文郎、山水、山百合の五人、思へば覺束なきものと可申也。
歌會もつばな會の發達と共にまづ盛大に向ひ來り候。三十七年一月十日布半亭の會合には出席者八人なりしも、詠ずる所清新の光を帶び、その上辯難攻撃討論百出、遂に夜十一時に及ぶの現象を呈したる事、今から思つてもあの時は愉快ぢやつたと打笑まれ候。
(359)斯くてつばな會は今日尚諏訪伊那に亙り、二十名の會員を有し居り、その作物は
單に「比牟呂」誌上に表るるのみならず、東京の「馬醉木」「心の花」(心の花は近頃見ぬから詳しくは知らぬ)美濃の「鵜川」埼玉の「アラレ」三河の「甲矢」など迄に散見することの如何ばかり喜ばしく候べき。假令其の作物が天下に鼓號する程の價なしとするも、吾人同人間の熱心は、前途必しも有望ならずとはすべからず。
竝べて見ればそんな事つ切り無い誠につまらぬ者なれど、一寸の火は尚野を燎くべし。今後益々吾人の奮勵を要すべき事と確信仕り候。
思へば根岸派短歌も今の處天下に優勢なりとは申難く候。この勢力を發展し、この光明を發揮せんには坊つちやま考では及び難く候。吾人は何處までも眞面目を要求致し候。熱心を要求致し候。研鑽を要求致し候。刻苦を要求致し候。新年劈頭に於ける諏訪歌界の囘顧は無意味の囘顧でなく、眞面目の回顧、奮勵の囘顧たらんを望むは、殊に囘員諸同人に望むは、不當無用でこれなくと存じ候。
△去る十一月二十五日、待ちに待つたる伊藤左千夫氏突如と諏訪に來られ候。布半亭に會するもの山水、柳の戸、竹舟、干洲、汀川、九寸子、寡蝶、山百合等にて廿六日諏訪湖に漁舟を浮べ候。衣の渡川口を出て湖面に鼻を出すや否や、大風と時雨とが平野村方面から襲ひきたり、帽子も外套も著物も持參の柿も、イヤ待つた舟の中へ水が這入つて尻の底までビシヨ濡れと相成り、竹舟君などは始めて(360)の舟出眞青になりて、念佛らしきものを唱へたとの事、併し小生は離れてゐたから眞僞は存ぜず、ナンシテモ澁崎で下りるまで大々的騷を致し候。此の夜の歌會は別項記載有之候へば茲には略し申候。翌日は柳の声、千洲、竹舟、諸君と小生との東道にて、巖温泉に參り候。末枯の小春日道は霜どけにてコネ廻せしも、晴れ切つたる山峽十里の天いかにも長閑なる眺を恣にして、夕方温泉に著し候處、宿の庭には已に雪多く、浴客は一人も無之我等四人にて大我儘を極めこみ候。
蓼科の夜嵐背にしみ渡る一室に、茶を立てて談ずるの風味は格別と可申候。この夜又々歌會をやりしがそれは「馬醉木」の方へだすとの事に候。
翌日下駄引つ掛けて左千夫氏の山案内を致し候。見た所肥滿漢なれば、ナニそこいらまでと、こんな考へにて登り始め候處、イヤ案外の健脚ズンズン上の方へ登つて仕舞はれ、吾等信州男子ちと後方に瞠若と相成り候。小生は午後柳の戸君と下山仕り候。あとに左千夫氏と千洲君と山られ候。承る所左千夫氏は尚二三日北山村に滯在せられ、歌會も開かれ候由、詳しき事は北山村諸君より未だ聞き及ばず候。
小生等布半亭出立の後義守、雉夫、木外君等訪問せられ候由をしき事にて候。左千夫氏は其の後無事歸京。「馬醉木」編纂に忙殺せられをり候由、氏が心身活氣横溢して吾人後進に對して隔意なく指導の辯論ををしまざる洵に感謝の至りに堪へず候。
(361)△矢ケ崎奇峯君は愛兒の病氣にて、十一月末より十二月中旬迄上諏訪に滯在致され候。牡丹屋にて俳會を開き、二晩賑ひ申候。病氣は先づ全快に近いとて匆々歸郷致し候。「ははき木」の編纂で忙しいと申しをり候。
△長田芋郊君召集せられて、東京府荏原郡駒澤村野戰砲兵第十五聯隊補充中隊第六班にあり、寒氣の際自重せられんを祈り候。俳句や歌を少しでも廢せぬ位には御勉強可然也。
△木外、雉夫二君新春早々伊那漫遊に出掛け候。蘆庵君と六七日諏訪に入ると申しをり候。八日はヒムロ諸友會があるから、久しぶりで大に談じ度く候。
△久しく諸同人會合の場所となりきたりし禰牟庵も愈々閉ぢたとの事、木外は梅寮宅へ、雉夫は綿屋へ、不浙は原氏方へ何れも陣取り候由。數年來の舊廬も一朝同人離散して、古庭菊かれ臥すの有さま想ひやつて淋しく存じ候。一月二日夜
消息 (明治三十八年九月「比牟呂」第十一號)
△先づ第一に遲刊の御詫申上候。成り立が御承知の如き雜誌故、よい加減に御叱り置被下度候。但し此の後は成るべく勉強致す考へにつき、相變らず御加勢願上候。
△何から書き始めてよいか、筆を執つて困り入候。諸同人の動靜にも大分移動相生じ候につき、夫れ(362)から御知らせ可申候。
△木外君は三月以來玉川を去つて、豐平村下古田に移られ候。楢の木蔭の學舍に鞭をとつて、田舍子供を相手にして居る事、隨分面倒ながら興多き事と存じ候。盛に長野新聞の俳壇を開發して居らるるが、是も中々手のかかる事、從つて「比牟呂」の遲刊が小生のみの罪でないと御承知可然候。
△太田みづほのや君は松本町和泉町吉澤方に移轉いたされ候。歌の考が昔から小生と衝突して困つた男に御座候。併し君から云へば、小生が困つた男に相違可無之候。
△伊藤寒水君は東京府下豐多摩郡千駄ケ谷村五七八に新居を卜せられ候。緑陰茶をくんで愛兒を抱くの清福、祝著至極と申すべき也。
△柳の戸君は今春召集せられて高崎に入營したる處、病魔の犯す所となりて一旦歸省、間もなく復隊致され候。炎威猛烈の候深く自愛せられんを望む。忙中「馬醉木」を賑はさるる苦心は御察し申居り候。十五聯隊補充大隊第五中隊也。
△竹舟君は柳の戸君の入營を送りて、共に出京いたされ候。時日の都合にて茅の舍訪問の機を矢ひ候由、遺憾千萬に候。
△志都兒君病氣まづまづ全癒、四月初旬上京茅の舍に數泊の由、その際の歌「馬醉木」に散見いたし候。諏訪同人間にて作歌の數最も多く、從つて長足の進歩をなせる事甚だうれしく候。
(363)△東筑摩より胡桃澤勘内、望月光男二君、諏訪郡より柳澤廣吉君の新作家を「馬醉木」上に見たるは、本年に入りての快事と存じ候。胡桃澤君は四月來諏致し、布半亭にて半日相話し候。小生の祖母病勢惡しかりしため、樂々とも談ぜず殘り惜しく候。筑摩、諏訪相携へて斯道に進まんこと、吾人の熱心なる所望に候。
△守屋吹雪君は四月小縣郡中鹽田村へ轉校致され候。儘にならぬ世の中、馬鹿らしき世の中と御思切り肝要に御座候。千曲川畔の村舍いかに寂寥の思を抱いて村農の桑摘歌を聞き給ふらんと、心憂く推察いたし居り候。
△三澤背山君は今囘信濃毎日新聞社を辭して、長野新聞社に榮轉致され候。氏が想と筆と益々快を加へんこと、期して待居る所に候。
△兩角雉夫君、平澤不浙二君は富士登山會を發起して、去りし一日發足致され候。山上の雄偉なる光景に對して、如何の詩材をか得たる、早く發表あらんを望み候。
△田中花菱君は四月上諏訪小学校に轉任致され候。三四兩月にかけての大患漸く全治いたされ候事、喜ばしさの至りに候。
△「馬醉木」の作家近來大に振ひ來りし事愉快に存じ候。新作者も出で舊作者も奮發して中々賑ひ候。筑摩、諏訪からも澤山現れ候へ共、猶油斷なき研究必要と存じ候。伊藤、長塚二氏が常に斯壇の中堅(364)に立つて、倦まず撓まざる指導の苦衷深く感謝致すべき也。
△「ははき木」も八號より表紙を改めて立派に出來上り候。奇峯、三川、奇遇諸氏の氣※[陷の旁+炎]例によりて盛なり。俳句の多さ非常なり。良寛長歌集は就中有難く存じ候。
△小生も久し振で六月下旬上京、茅の舍に一泊いたし、種々教訓を得申候。歌は「馬醉木」に出しておき候間御批評被下度候。八月四日誌す
附記 今後俳句向原稿は豐平村岩本木外宛、和歌向原璃は下諏訪町高木久保田俊彦宛にて御送被下度候。
△長塚節氏關西旅行途次八月下旬諏訪に來らるる由來信有之、大に喜ばしく存じ候。諏訪、東筑相合して盛なる同人の會合致し度、今から萬障を繰合せるの御工面然るべく存じ候。左千夫氏來遊以來一度の會合もなく寂寥に思ひ居り候折柄愉快千萬なり。奮つて御出掛被下度、期日は追つてはがきにて可申上候。△矢島兀山君一昨日突然歸省いたされ、昨年振りで快談いたし候。新家庭經營期の氣※[陷の旁+炎]、生等老朽到底及びも付かず、ひたすら壓倒いたされ候。本誌第一號「素貧の怨」譯出の技倆其の後拝見出來ぬは、飽足らず思ひ居り候。
△矢ケ崎奇峰者は相州三浦半島へ、矢野奇遇君は瓢然北の方へ(但行先不明取調中)出懸けられ候由健羨の至り也。如何なる土産あるか。諏訪小盆地の一隅に新しき消息を待居り候。
(365)△窪田唖水君は駿洲沼津千本松原に銷夏中なりと近信有之候。該所は過般左千夫氏の大に逸作を成しし所、波光山色相俟つてげに海内の壯美なる由、お土産の作どつしり相願度待上候。以上4則、八月九日誌す
消息 (明治四十一年二月「此牟呂」明治四十一年第一號)
〇本誌寫眞版胡桃澤君の盡力にて、見事に出來上り候事感謝の至りに候。
〇雜誌「馬醉木」は本年一月號を以て終刊とし、更に根岸短歌會機關「アカネ」を發刊致し候。同誌は三井甲之君主として之が編輯に當り、伊藤、長塚、蕨諸氏も勿論之に參じて、二月一日第一號を出す筈に有之候。馬醉木に引き續き盛に御出詠あらんを望み候。
〇「日本新聞」の選歌は引き續き左翁之に當り居り候。「比牟呂」同人は盛に出詠希望致し候。
〇信州に於ては「長野新聞」、「南信日日新聞」共に本年より根岸短歌のため、紙面を割く事に相成り候事、信濃歌壇の一進歩と喜び候。信濃山中よりは猶幾多の根岸兒生れ出づべき餘裕を有せりと信じ居り候。此の點に於て吾人犬馬の勞は、無反響に終るなからんを想ひ、何も蚊も無遠慮に押出し申候次第、御賛成被下度候。
〇同紙上は只短歌の排列のみに非ずして、盛に諸同人の互評掲載致度、可成多數御送被下度希望致し(366)候。
○三月短歌會は北山村新湯に於て、廿八日午後より相開き可申、蓼科山谿殘雪猶深き處天與の靈泉に浴びて、清談盡くるなからんを信じ候。甲信諸同人の御參會待上申候。尤も同日降雨降雪ならば、湯川橋本屋に變更致すべく御承知願上候。
〇望月君病氣折々宜しからず、諸同人の憂慮する所に候。冬期中は可成自愛冬籠專一と存じ候。春になつたらチト方々をぶらつき歩き候樣希望致し候。
〇神奈桃村君眼病の由、其の後如何にや御自愛專一と存じ候。
〇堀内卓君が新に根岸歌壇に現れ候事欣喜致し候。同君は目下鹿兒島にあり、山河千里加餐是祈り候。
〇有賀釜溪君も一昨年來兎角病身の處、昨今大に快癒喜ばしく存じ候。放屁歌當時の勇を鼓せられん事千祈に堪へず候。
〇書いて見れば病人の澤山なるに驚き候。小生も昨冬淺間登山後少々健康を害し候處、目下大に輕快致し候間御安心被下度候。
〇平林梨村君、北澤朴葉君、最近に歌を始められ候。一人にても同人の増加するは愉快に候。益々奮勵希望致し候。
○眞面目の研鑽は根岸派の特徴にして、同時に生命に候。眞面目の批評が消ゆる時、根岸派も幽靈に(367)なり可申と存じ候。氣に入らぬ歌、氣に入らぬ事、ドシドシ直截に吐露する時、歌も人も活き可申候。
○惡縁か善縁か、吾人は一生文學と縁切り得まじくと存じ候。三年や五年や十年で廢業ならば、その文學は始めより淺はかなものに可有之候。そんなものが文學ならば、眞面目の文學が泣き可申候。血眼にせき込む事も馬鹿らしけれど、餘り呑氣に構へ込み候事不都合と存じ候。
〇清姫は蛇になり候。佐夜姫は石になり候。お七は火をつけて死に申候。戀も此處まで行かなくちや不滿足に候。是で清姫も佐夜姫もお七も生存の意義が立ちし事と愉快に思はれ候。文學でも教員でも學者でも實業家でも、此處まで切り入らねば無意義に候。
〇小學教員といふもの多く尻の穴の小さき者に候。町村民に氣兼ねをし、官吏にも氣兼ねする結果にやと存じ候。氣兼ねする時自己は削られ居り候。大膽の人物ならずば歌も何時の間にか死に可申候。
〇博徒といふもの尻の穴大きけれども、締りなき故無效に候。だから一巡査の踏込みにあへば皆散り散りになり候。根柢なき事業は、所謂百三十五歳生きても無駄に候。歌など始めぬ方がよろしくと存じ候。
〇金滿家が一錢一厘の勘定を惜むを見て、笑ふものは愚かに候。一錢一厘に用意する人にして始めて大企業も出來可申候。尻の穴小さきとは別問題と存じ候。
迫々消息とかけ離れ候故此の位に致し候。
(368)〇序に申上げ候が、御送りの原稿中判らぬ字澤山あるため、書き直しに時間懸り困入り候。可成楷書式に願上候。
〇第二號原稿は三月二十日にて締切り候。信州下諏訪町久保田俊彦宛にて御送り被下可く候。二月一日夜記
稟告
〇本誌發行五十部、印刷製本實費八圓八十五餞、寫眞版實費二圓十二錢、合計十圓九十七錢に有之候。
〇右の内金五圓(四人有志者)の寄附有之候故、差引金五圓九十七錢を購讀者三十三人に分つて、一部金十八錢と相定め候。殘部は寄贈及び豫備と致置候。〇右の次第故本誌御受取の上は、直ちに下諏訪町九百十九番地久保田俊彦宛代金御送附被下度候。
〇便宜により五十錢一圓等と御拂込下され候へば次號より清算して順次御送り可申上候。郵券代用は一割増に願上候。
〇今後定價は常に右の如き方法にて相定め可申御承知願上候。
消息 (明治四十一年五月「比牟呂」明治四十一年第二號)
○本誌三月末編輯結了の豫定なりし處、同人諸君の原稿非常に相後れ候ため、本日漸く相纏め印刷に(369)廻し候へば、豫定の發刊より半月相後れ可申、次號からは今少し性急に願上候。
○三月二十八日新湯歌會は、定めて盛會なるべく豫想して喜び居り候處、前日に至り小生は急に俗用出來して北越地方へ出掛ける事に成り、學校向きの人は學年末の繁忙にて差支多く、大に失敗いたし候。朴葉、黙坊君など盛に待草臥れ居られ候由、遺憾千萬に存じ候。四月中に望月君來遊の筈に候へば、打連れて念直しに出掛け可申、今より待構へ居り候。
〇志都兒君は三月末出京、左翁と共に沼津に遊び候。何とかいふ桃林の吹聽盛に申送られ、※[奚+隹]小屋繁忙の折柄大に癇癪を起し申候。
〇志津兒は餘り出歩き過ぎ候。餘り出歩き候へば、折角目新しき異郷の風物が自然平板と成り可申、感興追々薄らぐべくと存じ候。子供時代に菓子が食ひたくても、母が中々呉れぬから益々食ひ度くなり、稀に一つか二つ與へられ候へば、うまくてうまくてたまらなんだ事今に覺え居り候。旅行も此の菓子流にやる方が、感興殊なるべくと存じ候。沼津行が癪に障つてゐる譯には無之、旅行程度論が臨時浮び候故書き加へたる次第に候。
〇旅行熱餘り薄きは譯の分らぬ事に候。少くも年一囘位異郷の數山河を跋渉せぬ樣では話せなく候。胡桃澤君が松本平に居て、木崎湖を知らぬなど間の拔けた話に候。旅行熱薄きに非ずなど辯解してもだめに候。
(370)〇志都兒君歸來病魔に侵され候由追々平癒と存じ候。不折畫伯より本誌表紙の揮毫を得て歸り候由、雀躍の至りに候。右表紙今に持つて來るだらうと、心持ち致居り候へ共、今に消息なく、病氣わるいぢやないかと心に懸り候。〇不折畫伯揮毫の表紙は多分第三販より間に合ひ可申、日頃の望み相叶ひ候次第感謝に堪へず候。
〇小生三月中旬松本行、みづほのや君、胡桃澤君と淺間一泊、翌日望月君を山邊温泉に訪ね申候。三年振の面晤快談興盡くるを知らず、和泉屋の二階深更燈を挑げて相語り申候。病勝ちなる君の如何ばかり衰へて居らんなど想像致し居り候處、案外の元氣喜ばしく存じ候。四月中に是非諏訪に來るとの事、同人の喜び之に加へず、新湯あたりで短歌會でも開き可申候。
〇堀内卓君其の後體の具合如何にや、汽車道より三里の山中、安東温泉より盛に谷川と谷川べりの杉を褒めて參り候。早く「比牟呂」を出せと一月ばかり前より攻め立てられ少々閉口いたし候。早く七月に歸國したい、又富士見野へ遊びたいとの消息同感に存じ候。
〇蕨礎山人君四月に入りて、伊勢西京方面に旅行いたし候。奈良の清遊健羨に堪へず、斯う諸君に活動されては小生も落ち著いて居られぬ。
〇有賀釜溪君、窪田唖水君等、落合村方面にて盛に作歌に活動せられ候由大賀の至りに候。富士見原歌會の企て早く御實行希望いたし候。
(371)○竹舟君、柳の戸君、工圭君昨今の消息如何、竹舟君の眼病已に快癒と存じ候。
○平林梨村君は四賀村小學校に轉勤いたし候。
〇讀書は矢張り肝要に候。作歌に苦心するもよし、旅行に活動するもよいが、同時に讀書の修養を廢してはだめに候。今樣のぺらぺら小説や三文雜誌を讀めとの意には無之候。
〇十囘讀んだ本を十一囘讀めば、一囘だけ新しき發見可有之候。斯の如き讀書を有する人は幸福に候。
〇萬葉集を讀んで感心するは、歌に感心するのである事勿論なれど、今一歩進むれば歌の作者に感心するなり。奈良朝時代の人間に感心するなり。四角に云へば奈良朝の時代思潮に感心するなり。奈良朝の時代思潮を研究するは、尤も興味多くして有益なる事業と存じ候。
〇吾人は萬葉集以外の材料によりても、奈良朝の思潮に接し得べく候。六國史あり、風土記あり、最も生きたる材料としては美術建築物あり、斯の如き原據的材料によりて、眞の奈良朝を研究してその實相を天下に紹介するは吾黨の責任と存じ候。
〇支那文物輸入以來、日本が始めて摸倣的より脱して、自覺的活動に入りしは奈良朝なるべく候。政治、宗教、學藝すべての方面が自覺的に進めるを見て、此の時代の人民が自覺的行動の上に立ちし事が分り申候。發生期の瓦斯が強大なる化合力を有する如く、奈良時代の人民が新しき自覺の上に立ちし活動は、強大なる勢力を伴ひ居りし事黨然に候。此の勢力の一端が溢れて萬葉集となり申候。萬葉(372)集を喜ぶの人にして、六國史、風土記その他奈良朝の遺物を研究せぬ法はないと存じ候。
〇明治四十年間の歴史は、泰西の摸倣時代なりし事、丁度奈良朝以前が、支那文明の摸倣時代なりしに髣髴致し居り候。日露戰爭以後の日本は追々自覺的氣勢の上に立ち來りし感有之候。今後明治に於ける吾人の文學は、奈良朝に於ける萬葉集の位置に立つべきものなりと信じ候。
〇小生も四月一日より全く農に歸し氣樂千萬に候。そろそろ諸方を遊びあるかうと存じ居り候。
〇第三號原稿は五月二十日にて締切り可申候。
〇字體は鮮明に願上候。略字草書等にて亂雜なるは、一々書き直す手數馬鹿らしく候。アカネの方でも困つてゐると聞き及び候。
〇本年に入りて見たる快心の歌につき、原稿的に御意見御者き送り下され度く、纏めて次號に掲ぐべく候。斷片的でよろしく候。四月十六日
消息 (明治四十一年九月「比牟呂」明治四十一年第三號)
〇久し振の發刊、何から書いてよきか筆を執りて惑ひ候。七月末原稿一切取纏め活版所に送り候處、七月三十日同所類燒の厄に罹り、原稿は無事なるを得しも、印刷所變更のためアチコチとまごつき、漸く八月末の發刊と相成候次第、惡しからず御承知被下度候。
(373)○堀内卓君暑中休暇にて鹿兒島より歸省せられ候。病氣追々快癒祝著此事に候。一年一度の歸國、遺憾なく遊び、遺憾なく樂しまれん事を祈り候。子規先生の遺墨軸新に成りて卓君黙すれども甚だ愉べる色あり、奢りたまへ。
〇望月君三年振りにて六月諏訪に來られ候。上諏訪富士見にて三囘の歌會をひらき、同人七人人の會するありて、愉快なる數日を過し申候。來年は光君や卓君やと打連れて、何處かへ遠遊いたし度きものに候。きつと出來るやうな氣が致し候。
〇日原無限君頃來病魔の犯す所となり、久しく病床に呻吟いたし居り候處、昨今全く快癒そろそろ勞働も出來るとて喜ばれ居り候。
〇有賀釜溪君も近頃健康大に増し來り候。六月白骨温泉より、今年は何もかも愉快だ。天に感謝し切れぬと申し來り候。
〇病氣は其の人によりては、悟道の縁、修養の道たるべくと存じ候。病む病まぬは境遇の差、吾人の本分別にある在り。病氣などと毎日相撲取つて勝つた、負けたを云つちや居られぬ。この覺悟で病に處するは、病氣に對する超脱門なると共に、人生に對する神聖なる執著門なり。自己が人生に於ける天分の極めて重大なるを覺る時、病氣から全く超脱は出來ずとも、少くも病む、病まぬを第二問題第三問題位に考へ得べしと存じ候。第二問題第三問題に下落した病氣は、吾人に對して余り猛成を振ふ(374)能はざる事も實際に候。精神療法が醫藥よりも著大の效ありと稱せらるるは、此の消息と關聯いたすべく候。正岡先生の病氣が瀕死と稱せられ乍ら、七年も保ちし事考へ合はすに足ると存じ候。昨年小生の病氣した時こんな事を思ひ候。人が病氣する時もこんな事を思ひ候。思へば直ぐ超脱出來ればよいが、そんな手輕な譯には行かず候。健康者は理窟ばかり竝べて、こんな實際の修養問題に觸れぬから呑氣で氣の毒のものに候。
〇病氣が愈々苦痛を訴へ來る時は、誰でも病氣と合體いたし候。病氣と合體するとは變な詞に候へ共、自己が全く病氣中に没頭して仕舞ひ候。超脱門に對すれば病氣の執著門と申しても宜しく候。執着門に立ち乍らも修養の道は可有之候。小生は未だ經驗致さず候。
〇子規先生痰のつまりて物云へぬ時歌あり。曰く
常の時は歌を罵る紅の廣長舌のすくみて動かず
〇病氣論が長くなり候。未だ言ひたけれどやめ候。
〇岡千里君男子を擧げ候。近い内に豆相方面へ旅行すると傳承致し候。
〇神奈桃村君其の後一向消息なし。眼病如何かと心に懸り居り候。
〇朴葉君春來家人頻りに病んで、作歌その機なきを訴へ來る。憂苦の情御察申候。其の機なしと云つても、作歌は中々澤山あり。しをれ込まずにやり給へ。
(375)○黙坊君の歌を見ざるやゝ久しく待遠に存じ候。竹舟、柳の戸、工圭、珂堂諸君如何にせし。一奮發至望に候。
〇雉夫、刀毛乃山人、科野舍、河西省吾、黄穗、玉羽等諸君新に作歌を始められ、「比牟呂」誌上の賑ひ來り候事愉快に存じ候。眞面目の友が一人でも殖えれば夫れ丈け嬉しく候。「比牟呂」の行先は永久の覺悟に候。堅實なる友と打連れてこの道に進むは吾人絶對の喜びに候。
〇長塚節君再び信州秋山山中に來らるる由近信有之候。秋山は下高井郡と、越後との境にある有名な深山中の部落に候。信濃同人の未だ一人足を著くるなきに、長塚君が下總からして再度まで探險せられ候事羨望と共に慚愧に存じ候。往復何れかを諏訪へ立寄らるる事と待居申候。
〇高山に攀ぢ幽谷を渡るの快、小生には今年は絶望に候。昨秋淺間登山にて失敗せし以來、醫師家人より固く足を止められ候へば詮方なく、せめて上高地温泉位へは行きたく、志都兒君と約束いたしあり候。同地は南安曇郡と飛騨との境にあり、山上の高原風物頗る振ひ居りとの事に候。出發は「比牟呂」發送後となり可申、諸君の御同行御勸め申上候。
〇雉夫、花菱、中山三君は八月一日よりかけて釜無山探險致し候。山中に二泊して釜無川の源流をきはめ候由愉快な事に候。
〇志都兒君は今年も立科登山致し候。横岳の双子が池までまはりて一日に歸り候由、北山的蠻カラー(376)の足と申候。
〇左翁は目下子規先生歿後の根岸派歌集編纂中に候。同集は九月十九日子規忌までに間に合する筈にて、炎暑の中折角選歌に從事せられ候由、如何なる本が出來るか、今より待遠く思はれ候。
〇平福百穗君頃日方寸といふ繪畫專門の雜誌を寄贈致され候。右は同君が友人數名と編纂せらるるものにして、普通美術雜誌などに見るハイカラ風なく、表紙内容何處迄もヂミに眞面目に出來居り候事喜ばしく存じ候。挿畫十四皆苦心の刷り方にて面白し。定價十二錢郵税二錢、本郷區駒込千駄木林町八番地方寸社發行に候。
〇蕨眞、蕨橿堂君等の新計畫にて、今度雜誌「アララギ」が生れ可申候。一號は來月十九日子規居士七周忌に發刊の由、根岸派諸同人近來益々活氣を加へ、新しき興奮を生じ來り候こと喜ばしき現象に候。九十九里濱の波の音は永久に春なりと左翁が申され候。吾人は新生兒「アララギ」が、永久に春の暖かさと活動力とを持して進むべきを信じ申候。發行所は上總國山武郡睦岡村埴谷蕨方に候。諸君の盛に投稿せられんことを祈り候。
〇未だあるかも知れず候へ共止め申候。只今堀内君と不二見油屋の縁近く、高原の夜色を眺めつつ話興に耽り居り候。書き殘したるは次號に認め可申候。
○次號に短文募集致し候間、九月二十日迄に御送り下され度候。課題屋根。八月十九日記
(377) 稟告
○本誌發刊八十五部、印刷製本費合計金十三圓三十錢に有之候。
○右の内金三圓(二人有志者)の寄贈有之候故、差引金十圓三十錢を講讀者數四十二人に分つて、一部金二十五錢郵税二錢と相定候。殘部は寄贈及び豫備と致置候。
〇右次第故本誌御受取の上は、直ちに下諏訪町九一九久保田俊彦宛代金御送附被下度候。
〇代金久しく停滯の方あり、會計不如意に付可成御送金披下度候。
〇便宜により五十錢一圓等と御拂込被下候へば清算して順次御送可申上候。郵券代用は一割増に願上候。
〇森山汀川氏より金一圓、東京某氏より金二圓御寄贈感謝致候。
消息 (明治四十一年十二月「比牟呂」明治四十一年第四號)
〇「鳴くらく」の事誰かまだそんな意見云はれたやう覺え居り候。「鳴く」を「鳴くらく」と云ふ事不都合なしと思ひ居り候。「疑ふらくは」「恨むらくは」等と同樣に「らく」は無意味なる接尾語やうの詞と思ひて差支なかるべきか。
蜑が家の庭べの葦によしきりの鳴くなる月夜人寢しづめり
(378) 斯樣に句の聲調強きを要する時「鳴くなる」の如き柔き詞を用ふるは不調和と存じ候。歌の善惡は別として、調の研究上留意すべき問題と信じ候。意見ある諸君は御申越下され度候。
〇本誌卷頭子規先生和歌は、望月光君の厚意によりて成れり。松本市郁文堂山内氏も石版摺につき種々助力ありし由、茲に記して兩君に感謝す。
明治三十三年の秋一夕子規先生を訪ふ。折柄先生病樣俄に變る。依て暫く枕頭に侍す。やがて稍輕快を告げ給ひて此一首を書き示さる。明治三十八年の秋柿村子草庵に宿す。即贈るに此遺書を以てす。柿村予に事由を記し添へんことを求む。依て之を記す。東都左千夫。
此の遺書今予より光君の手に移る。
○「アララギ」二號左翁の論文、長塚節君の旅行文、齋藤戊吉君の長き研究、同君の鹽原五十首、民部君の北海道歌、皆賑かなりと千樫君より來信あり。
〇十月十日左千夫、千樫二氏不二見高原に來る。同人集る者十五人、北山温泉に遊んで歸京。
〇十月十八日蕨眞氏來遊、木曾を經て歸國。
〇歳將に暮れんとす。「比牟呂」一年間の徑路を顧みよ。自己が一年間の生活に顧みよ。抑も印今自己の精神に幾何の緊張ありや。是自己の過去現在に於ける全問題なると共に、未來に於ける自己の全問題なり。同時に「比牟呂」の問題なり。根岸歌人の全問題なり。日本文壇の全問題なり。吾人の血(379)管は直ちに日本の文壇に通じて、之が死活を制するの重責を有せり。修養を缺く時大言あり。反省を缺く時放漫あり。奮勵を缺く時銷沈あり。緊張を缺く時は墮落あり。吾人は將に迎へんとする「比牟呂」第二年に處して、更に新しき覺悟あるを要すべし。
消息 (明治四十二年三月「比牟呂」明治四十二年第一號)
諏訪を去る前夜此の消息を認め申候。明日より東筑摩郡廣丘村の住人と成り可申候。そして小學校の教師を努め可申候。今日となりては只運命と思ひ居り候。小學校の仕事を一途に精出すが小生の本業に有之候。
諏訪を去るは殘り惜しく候。家を出づるは殘り惜しく候。妻は家に殘りて五兒を育て※[奚+隹]を飼ひ可申候。
かつて松本平にある二年にして諏訪に入り、諏訪にある九年にして又松本平に出で候事、松本平と小生と多少の因縁あるを思はしめ候。桔梗ケ原の孤村春色猶淺うして、羈客爐に倚つて一人ある姿御想像下され度候。
△一昨夜布半に歌會を開き候。集るもの梨村、汀川、志都兒、朴葉、雉夫、李塘、小生の七人にて深更別意こまやかに語り合ひ申候。こんな時は歌は碌に出來ず、後日出詠する事にして別れ申候。
(380)△望月光君は猶今月中熱海町辨天屋に滯留可致候。體のためにも精神の方にも、今囘の轉地は君のために益したる事少々ならずと喜ばしく存じ候。
△卓君足駄にて數里の旅行位は出來ると申越され大にうれしく候。今度は送稿間に合はず大に殘念に候。
△麥雨君は二月末上京、左翁と打連れて九十九里に遊び候事、只々羨望の至りに候。磯の小舟に休みて端書など書き送り候事彌々以て溜らず候。胡君の得意想ふべきなり。
△「比牟呂」同人が何れも河邊の村より出で居り候事、面白き現象に候。胡君、光君が奈良井川邊に生れ、科野舍が穗高川邊に生れ、釜溪、刀毛、山人、唖水、北斗、汀川が釜無川邊に出で、山水が宮川邊に出で、志都兒、黙坊が瀧湯川邊に出で、竹舟、柳の戸が音無川邊に出で、朴葉、雉夫が澁川邊に出で、雉谷、石馬及び小生が柳川邊に出で、玉羽、李塘が砥川邊に出で、梨村、河柳が上川邊に出で、甲斐にては千里、無限が笛吹川邊に出でし等皆然り、川と詩とは必ず深き因縁有之と存候。
△小沼松軒、山越芳僊君が埴科郡より、芋花、芋人、和田友太郎君が上水内郡より新に起たれ候事、愉快に存じ候。色々にて「比牟呂」出詠も前囘より賑ひ來り候。只々誰も彼も撓まざる奮勵が必要に候。
△村上しみむろ君リウマチス病にて、上總國成東郡小松病院に治療中の由、久しき病苦御察し申居り候。一日も早く全癒是祈り候。
(381)△四月より毎月一囘第二日曜日上諏訪町布半方にて歌會相開き候間、可成多數御出會希望致し候。時限は正午より夕方に至るべく、有志者は猶一泊して語るべく候。小人數にても一人にても開き可申候。萬葉集卷一より、毎會十首づつの輪講可致候。四月は十二日が第二日曜に當り候。
△明日の出發にて、心急はしく之にて擱筆致し候。何か未だ洩れたやうな氣が致し候。三月六日夜記
△河西省吾君より佐久間象山勸學歌送られ候事、感謝致し候(追記)
志都兒の「此牟呂第四號評」附言 (明治四十二年三月「比牟呂」明治四十二年第一號)
「比牟呂」を發送してから眞先に批評を送るのは毎も志都兒である。大問題から小問題に亙つて、必ず數千言を費してゐるのは實に喜ばしい。こんな熱心の仲間が一人ゐるのみでも、「比牟呂」を出す値打は充分ある。此の篇は消息欄に入るる筈であつたが、餘り長文であり且つ文章欄が今度は貧しいから茲へ掲げる事にした。評中四澤の「善光寺詣」に對する意見は賛成出來ぬ。あれは四澤君近作中尤も精神の充實してゐる作であると思ふ。光君の子規忌歌評も、齋藤茂吉君から「われそのかみ歌を知らねばおぼろかに根岸の大人の身まかるを聞きし」には泣かせられ候。追悼の歌などは何うしても、感情を枉げて迄も悲んだり泣いたりする者に候。その證には次の六首は概してそのきらひを免れず。只此の一首小生には如何にも秀歌と思はれ候。此の歌はほんとの感情のしみ出したる者と存じ候。云(382)々と云ひ越された方に寧ろ賛成する。予の「友に寄する歌」は誰の病氣に對しても、同じやうな歌から脱出しようと試みた用意負けをしたのだ。失敗の作なるは自認してゐる。毎號この位な長い批評を讀むのは非常の愉快である。
諏訪より (明治四十二年四月「アララギ」第一卷第三號)
紙がつきし故こんなものに認め上げ候。
「アララギ」二號五部昨夜著いたし候。その他の人へも御送下され候由謝し上げ候。
二號は兎に角賑かなれど、製作物は一號に比して劣り居ると思ひ候。非難攻撃をせねば進む時なし。攻撃されて怒るやうなら、歌など作らぬがよいと思ひ候。それほどでないものを褒めたり、褒められて嬉しがつたりする事イヤな事に候。小言いふを避けて一般的な讃詞「大に賑かなり」「諸君の進歩驚くべし」位な善い加減な事を書き送るは無責任な事に候。併し人の惡い所を云ふは億劫になり易きこと實際に候。惡い所だけ避けてよい所だけ云ふやうになるが普通に候。是れその人に藝術的良心の緊張なき所以と思ひ候。斯く云ふ小生なども時々人の作を批評するに、深刻な書き方を避けるやうな事があり、その時はあとで惡感を感じ候。比牟呂などでも今つと喧嘩(?)やり度く思ひ居り候。 こんな事云ひ候へば又三井君などに、消極的議論なりとて叱られ申すべく候。人間に自信と反省と(383)兩面ありとすれば、自信は積極的のもの、反省は消極的なものに候。積極的自信必要なれば、消極的反省も必要に候。(小生等鈍根のものには)隨つて小生等には積極的修養談も必要にして、同時に消極
的修養談も必要に候。子規が消極的發表は月並だといひしやう「アカネ」に書きあれども、あれはあんな無雜作な引例に用ふべきに非ずと信じ候。齋藤君鹽原行期待せしより佳作少く候。用語に新しき用意の傾向は見ゆれど、一般に見附け所深からずと思ひ候。齋藤君の多作根氣日頃羨しく思ひ居り候。又人の氣づかぬ所に、精緻な觀察をしてゐる事も敬服いたし居り候。「日本新聞」蠅の歌を見た時驚き申候。されど同君の缺點として、毛色變りたりといふのみにて、詩美から見ると平凡なものを捉へ居る事往々有之候。鹽原行もこの缺點多き事と思ひ候。兎に角今つと深き觀察と發表とが欲しかりしを覺え候。
千里君の「城山」も餘り振はず。「アカネ」一月號同君の歌の方振へるもの有りきと思ひ候。秋圃君の小江の松原もさほどにあらず。里靜君のも同樣に思はれ候。毎號よきもののみ出す事は誰でも出來ず、よきものは稀に出るから貴く候。人によりては何時出す作も大抵粒揃ひて一通り宜しけれど、大した振ひ方をする事なきが有之候。大膽な作者は惡しきもの出る代りに、時に非常に傑出したものを出す事有之候。千樫君は新しき方面に移りつつあるやう見受け候。卓君のは益々進み候。捉へ方益々深くなり候。連作として統一的或る情調の融然として現れ居り候事甚だうれしく候。光、胡桃澤君の(384)も普通のものに候。左千夫先生のは近來小生に分らぬもの多く困り居り候。採草餘香の四
秋草のしげき思も云ひがてにまつはる露を手に振り落す
につき大に訓へて貰ひしも猶分らず、君は無骨漢に終るべしとやられ閉口いたし居り候。その内に分るやも知れず、分りもせぬに分つた顔は出來ず、叱られ(?)たままに致しあり候。從つて採草餘香の第一は大抵趣味が分らず候。第二第三は非常に力籠りておもしろく候。小生の程度は斯んなものに候。こんな程度で申上ぐるのだから、諸君の歌をよいと云ひ、惡しと云ひても、實はをかしなものだらうと思ふ.けれど、幾分の參考にはなり可申候。少くもこんな事申上ぐるによりて、小生の程度はよく分り可申、御來諭にも都合よき事と思ひ候。大兄の諏訪木曾旅行は感心出來ず候。木曾なら木曾の目貫の處を、題目として詠めば少數なれども引締り可申候。毎日足の向ふ所を一樣に詠みつづけられし故、多數になりしと共に平凡にもなりしと思ひ候。あの旅行で一番感に打たれし所、一箇所か二箇所三箇所を推敲に推敲致し候へば、今つと振起すべしと思はれ候。五首でも十首でもよろしと思ひ候。寢覺の床七首のおもしろきにて分り可申候。あの七首を今一度推敲すれば、更に立派なものに成り可申候。大兄のはどうも推敲足らずして、多數に亙るが缺點だらうと思ひ候。失敬な申しやうなれどそんな風に思はれ候。しみむろ兄の信濃行もその缺點ありやせぬかと思ひ候。一通目を通せしのみなれば、しみむろ君のはあとから申上ぐべく候。長塚兄のは早くに拜見いたし居り候故別に申上げず。長(385)塚兄の頭が近來むしろ文章的になりしは慥かなりと思ひ候。
齋藤君の研究おもしろく候。詳しくは今少し經て申上げ度候。
「比牟呂」は二月に出し可申候。前號は甚だ振はず、小生の歌全然失敗いたし候。多少新しきものへ手を付けたつもりで失敗して居り候間、御高見成るべく具體的に御批評願上候。惡口御申越し下され度候。褒められれば矢張り嬉しきものなり。惡口いはれても適切に感ずれば嬉しきものなり。不適切だとジレツタク思ふものなり。長くなり候故擱筆いたし候。日中硯の水氷り亂筆いたし候。御宥恕被下度候。匆々。一月十二日
比牟呂同人に告ぐ (明治四十二年九月「アララギ」第二卷第一號)
上總の「アララギ」が東京に移つて新しき活動に入らんとする時「比牟呂」は自ら進んで「アララギ」に合同した。「アララギ」「比牟呂」と力を二にして働くべき時で無いと信じたからである。「比牟呂」が生れてから七年になる。七年の間には多少の困難もあつた。幾多の挫折もあつた。只其の困難を嘗め挫折に遇ひ乍らも、兎に角七年の日子を持續して今日に至つた。多少の奮勵と若干の徑路とは、「比牟呂」同人に取つて樂しき追想である事を信ずる。斯る樂しき追想と新しき希望とを持しで「比牟呂」は「アララギ」に合同する。(386)「アララギ」を日本的とすれば「比牟呂」は地方的であつた。「アララギ」の存在を社會的とすれば、「比牟呂」の存在は家族的であつた。社會的の者が必要でゐると共に、家族的の者も必要であるとすれば、數年の後「比牟呂」は再び信濃の山中に生れるかも知れぬ。只今日の場合二の力は何處迄も一となつて働く必要ありと信ずるが故に合同する。合同の理由はと問へば是れ丈けである。
「比牟呂」同人は殆ど信州同人である。信州人の活動が「アララギ」誌上に存續し發展しつつある間は、「比牟呂」は永久に其の生命を持續するものである。二の力は岐れて東西に働いて居た。二の力は合して今後中央の一所に集注する。集注する力は全力でなければならぬ。「比牟呂」同人の努力が永久である事を思うて、合同の辭を終るは愉快である。
附記。「比牟呂」讀者は悉く「アララギ」に轉籍して置いた。
「比牟呂」代金の剰りある讀者のは「アララギ」誌代の收入として計算する。
消息 (明治四十三年九月「アララギ」第三卷第七號)
〇水害にて本誌編輯は大打撃を被り申候。十五日編輯濟みの豫定に相運び居り候處、東京よりの郵便全く杜絶致し、爲に原稿は空しく積んで机上にあり、已にして東京水害の報頻りに至り、特に本所方面の慘害甚しき由聞き及び、今度は原稿問題よりも、左千夫先生家族の安否問題の方が重大になり、(387)電報を發し候も著否不明といふ次第にて、途方に暮れ居り申候。然る處今日東京方面原稿一束水に浸みて到著多少の愁眉を開き候。
○然し左千夫先生よりは依然として消息無之、古泉君の手紙によりて多分無事だけには押しつけたるべしとの事、夫れも古泉君と先生と鼻の先程の處に居て交通今に杜絶の由、凄愴想像に堪へず候。安否は依然として斯く不明なり。大丈夫と思へど心に掛り候。先生よりの原稿先づ以て見込なしと定め、集れる丈けの原稿を今夜整理明日印刷に廻す事に致し候。又々遲刊なるべし。事情右の如し。御寛恕被下度候。頁數も今夜の所にては少なし、是又急に致し方なし。幸に先生選歌だけにても、二三日中に間に合はばと思へど覺束なく候。
〇同人の歌は子規先生時代より「馬醉木」初期に亙つて甚だ靜かなりき。靜かなりきといふは、作歌の動機なるべき情緒が動搖する状態を云ふなり。已にして「馬醉木」終期より「アララギ」初期に亙つて此の動搖は甚だ高まり來れり。動搖の靜かなりしは、物と事を只そのままに見んを願ひたればなり。動搖の高まり來れるは、物と事をそのままに見るに滿足する能はず、直ちに自己に同化して自己の響きを彼等に傳へんと願ひたればなり。前にあつては物と事と寧ろ主なり。後にあつては物と事と寧ろ客なり。物主なるが故に個性現れぬ。物客にして個性漸く分かる。傾向を云へば斯くの如し。之を材料より見るも、前者に事物の直寫多く、後者に主觀の響き多し。人格問題、人生問題、宗教問題(388)等の盛に唱説せられしを思ふべし。
〇第一期、第二期の特徴及び其の變遷を概言すれば斯の如し。而して今や再轉して、第三期に入らんとするを見る。歌の再び靜かなるに歸らんとするをいふなり。第一期を靜といふ。第二期を動といふ。第三期を靜といふは、第一期の靜に歸れりといふに非ず。
〇動の極は靜なりといふ。動の響きは動の形を以て現るるとき猶淺薄なるを免れず。壯士腕を扼するの類なり。形壯んにして存外淺はかに終る。動の型のみ、輪廓のみ、筋書のみなればなり。シミジミするといふ、形を以てすれば靜かなり。心を以てすれば、動の極なり。壯士に接してシミジミの感なく、高士に接してシミジミの感あり。型に非ず輪廓に非ず、筋書に非ざればなり。第三期の靜とは髣髴として斯の如きものを指さんと欲す。第一期の靜は靜なるが故に靜なり。第三期の靜なるは動なるが故に靜なり。斯の如き相違あるべし。「アララギ」所載の歌皆然りと云はず。數莖の動くを見て風の方向を知るのみ。
〇新しきを云ふ。新しからんが爲に、新しくするは看板を新にするの類のみ。粉黛も施さざる可からず。聲色も遣はざる可からず。俗人見て以て歡ぶ。聲色遣ひ見て以て恐悦す。氣の毒の至りとすべし。只眞摯なるもの自ら知らずしておのづから移り、おのづから新し。新しき光は斯くの如くして在り。
○斯る新しき光は同時に保守性を伴ふ。矛盾するが如くしてよく抱容す。ハイカラの淺薄なるを見よ。(389)高き人の必ず保守性を伴ふを見よ。陋にして移らざるに非ず。移る必ず重きのみ。吾同人常に保守性を帶ぶるを喜ぶ。散漫意を盡さず。其他の消息は東京同人に頼むべし。匆々。八月十八日夜二時二十分認む
信濃消息 (明治四十三年十一月「アララギ」第三卷第八號)
〇宮士見歌會は盛會なりき。顔を竝ぶる十四人、小川氏別莊の未だ疊の匂ひ新しき室に秋の清朗の一日を過し申候。庭より打續く八ケ岳の裾野一面は秋の花の盛りに候。釜無川の深谿甲斐一國の凹たみ窓を開けば直ちに雙眸に入り申候。釜谿、山水、雉夫、梨村、北兎、露の舍、皆久し振の會談に欣び入り申候。此の夜は例の油屋に一泊、八人にて十二時頃迄作歌致し候。以後毎月一囘課題して作歌する事に定め候。諏訪同人の振はざる久し。奮起是祈り候。志都兒には一年許り逢はず候。作れといひて作る男でなし、今に作り可申と氣長に待ち居り申候。餘り鳴かず蜚ばざれば鳴かぬやうなり可申心いられ申候。
〇北信同人の勇氣は非常のものに候。南信の熱北信に移りしやの觀有之候。新しき作者も四五人見え來り、興味ある將來を想はれ候。松本同人依然たり。卓君具合惡しく致し困入り候。長びくならんと心痛致し候。同君の病身實に遺憾に候。光君癒えて大元氣、欣ばしく存じ候。匆々以上。
(390) 信濃便り (明治四十四年四月「アララギ」第四卷第四號)
〇第一に申上げたきは近頃一時に三人の女流作者を生じたる事に候。本號所載の夜汐子、閑古子、夫れに前々號現れし小蟹子に候。三氏の熱心と工夫とは忽ちにして或る域に達し候事甚だ驚居り候。光君は生前已に諸子を認め居りて死なれ候。三氏兵發表を好まぬとの事故今迄だまり居り候も、あの位のものを作りて知らぬ顔するも宜しからずと思ひ候。今迄根岸歌會へ稿を出したる女性作家も有之候へどもあまり振はず、多少の曙光を認むる頃早く消え去り候事如何のものかと思ひ居り候。諸氏の前途は斯る種類で無き事を信ぜんと欲し候。歌の工夫よりも根本的なる工夫に苦心する傾向最も賛成に候。氣根強き努力希望致し候。
。二君亡後の信濃春廻ぐれどとこしへに寂しく候。小生も近い内に桔梗ケ原を去りて歸郡仕るべく、松本平は何だか急に人が減つたやうに感じ申候。禿、胡、本、諸君の健在是祈り候。廣丘村にては仲間追々殖え只今にては、田川里人、梅村、其の他六七人の同志にて時々拙寓に歌會相開き候。是等諸君と廣丘村を圍める林野とは、旅にある小生の唯一の慰藉にして、今後は唯一の追憶たるべきを思へば何だか變な氣が致し候。天氣さへ良ければ毎日森に入りて寢ころびつつ色々思ひ居り候。
〇志都兒子新に兒を産みで歌を産まず。今に生む時節來べしと思ひ居り候。汀川子も俳句專門の姿に相成り候。諏訪の歌會同じく寂寥に候。同人諸君の御奮起希望の至りに候。
(391)○北信の芋花子、芋人子、松軒子の益々努めんを望む。北信由來文學の人少なし。諸君の責任重大と思ひ候。
〇暖くなり草が芽ぐみ林の空氣がよくなり、さうして毎日遊びに行き候へども、却て寂寥を感じ候は如何なる譯にや分らず。寂しき時には寂しき空氣に靜かに包まれ居り可申候。匆々頓首。三月十四日夜
岩本木外居士碑銘
木外居士姓岩本名永正又號木槿庵 諏訪郡高木邑之人也 奉職小學校二十餘年 慕正岡子規之俳風有所造詣日本派俳句流布信濃者居士之力居多所著有諏訪新俳句河合曾良等明治四十三年八月十八日病没年三十有九 明治四十四年八月十八日
消息 (明治四十四年十月「アララギ」第四卷第九號)
(前略)新しい作家が十数人急に出た。私はまだ逢はぬけれども實にうれしい。皆生々した歌を作る。新時代來るかと思ふ。女作家はもう六人ばかりある。皆振ふやうである。私の生徒や女作家の三人をつれて、二三日不二見野に遊ぶ事にした。八月一日に立つて四五日頃かへる。私はそろそろ歩いて、そろそろ歸るつもりだ。(中略)
(392) 同人五六人の二年許りの歌を五十乃至百首ばかり自選して(先生に選して頂けば猶よし)合して、子規居士十周年記念として刊行は如何。費用頭わりの事。七月二十九日
消息 (明治四十四年十二月「アララギ」第四卷第十號)
〇小閑を拾ひつつ三日間に編輯少し骨折れ申候。信州の人の原稿三十五人二百六十九首を收め得たるを欣び申候。東京諸君も大分心配して下され先々一册に出來上がり申候。
〇堀内卓、望月光の歌は永久に送り來べき期なき事を今更淋しく思ひ候。去年の信州號は堀内の家にて整理し、彼も色々元氣よき事申し候。今月十七日は彼の一周忌に候。胡桃澤、篠原の原稿來ぬも淋しく思ひ候。編輯中これが常に少しづつ頭にかかり居り候。新しき人の振ふは嬉しけれども、古き人の方が餘計に親しく思ひ出さるる者なり。
〇左千夫先生九月二十一日菅山人君と入信、不二見公園の設計をせられ候。出來上り候上は、.諸君の御來觀を望み候。小川代議士の別莊に二泊、不二見花原を六人、八人して驢馬に乘り遊び歩き候。先生に大へん字を書いて頂き、しまひには氣の毒に思ひ申候。上諏訪にも二泊せられ、女子歌會と男子歌會とに臨まれ、歌の聲調につきて委く御話有之候。女子會出席五人、男子會二十人頗る盛會なりしを欣び候。諏訪教育會にて先生を聘し、一時間ばかりの演説せられ候。松本にては堀内君宅と、淺間(393)温泉に泊まられ、堀内、望月の墓詣をせられ候由。夫れより湯本君(菅山人)の郷里田中温泉に遊ばれ、西澤本、篠原志都兒君も一緒になり候由遠くより羨み申候。先生は十月二日御歸京に御座候。
○小生は明日出發伊那木曾に遊び申すべく、原田泰人(八十戸君)も同行に御座候。禿山、比良夫二君に逢ひ得べきを樂しみ候。木曾の紅葉と、清流とを想ひ愉快に存じ候。
〇「アララギ」雜誌代金を怠り居る人は御納め被下度、會計の方立たねば「アララギ」は死に可申候。十月十二日夜
消息 (明治四十五年二月「アララギ」第五卷第二號)
〇昨日「アララギ」著、山浦行の汽車で讀み、道を歩き乍ら讀み、山浦の家に著きてからも讀み大抵讀み通し申候。穗兄の表紙大に感謝致し候。編輯の苦心充分に分かり御努力例により有難く存じ上げ候。此の調子で行けば「アララギ」も嬉しく參り可申候。君や千樫、憲吉諸君から面倒見て頂くより外無し。願上げ候。
〇左千夫先生の「黒髪」八首益々特色を發揮し來り光彩陸離に候。斯樣な作物に接すれば益々我々に力の不足せるを思はしめ候。
世にうすきえにし悲しみ相嘆き一夜泣かむと雨の日を來し
(394) 日暮るる軒端のしげり闇をつつみかそけき雨のおとをもらすも
八つ手葉に折り折りひびく軒雫人はもだして夜はしづむかも
胸つまるいたき思ひに黙せれど黙しにも堪へず手をとり起《た》つも
の如きは絶唱と存じ候。新年號の劈頭斯樣なものを見せられ候事我々の奮勵と成り可申候。
〇千樫君の歌大に振ひ居り欣び申候。はじめの二三首は特に宜しと存じ候。文明君のは未だ物足らぬ感あり。終りの一首のやうに純厚に行き度き感有之候。大兄の歌今度のはどうも物足らず感じが醇然とまとまらぬ感有之惜しく候。第二首の如きはどうも捨て難けれど全體の上に足らぬやうに思はれ候。よい所を捉へられ乍らどういふ譯かと思ひ候。大兄の歌ははじめ判らなくて後に成る程面白いと思ひしもの今迄に多し。今後斯樣のものが私に面白くなるかどうか今日では分らぬ事に候。淺野君の歌は矢張り特色あり取り立てて是がといふもの無けれど全體を通じて得る感じが淺野式なり。特徴ある所以と存じ候。
〇岡千里君の圓熟先生の云はるる通りと思ひ候。技術の圓熟と相俟つて思想界の型を剥落しつつある傾向を欣び候。我々同人誰にても一種の型があり候。嚴密に云へば趣味の變遷、思想の推移に伴ひ新しきより新しきに移る刻々にも猶一種の型あるを否定す可からず。只我々の型が一定不變ならず情趣の發動と相俟つ時のみ生氣を有すべしと存じ候。寺田君近來の作大に生氣を加へ、而もそれが醇乎と(395)動き居り候。芋の花人君のは言語のみ働きて割合に生き居らず、去年の春頃の勇氣を望み候。其の他石馬、鳥栖、閑古、丑子諸君の歌皆注目すべき作と存じ候。
○私の歌矢張り不足に候。あれを詠んだ時は今つと滿足したる積りなりしが今見ると不足に堪へず。何うして感じが斯く現れぬかと殘念に候。夫れも褒られるとさうかなと思ひ直して、又見るのが實際に候。何處にか己惚れが纏ひ居るべく候。我々の志苟も眞に道を求むるに在らば一歩々々の聲は不足の叫びならざる可からず。そこへ己惚れが來て小さな主觀を作り、甚しければ即ち自己の色より外に色なしとなす、哀れな事に候。不足の叫びは苦しく自得滿足は安し。墮在せざらんとするも猶且つ墮在せんとす、彌々哀れなり。左千夫先生は諏訪人と交際して見て、喜ばせるも譯は無いし、怒らせるも譯はないと申され候。實際さうかと滲みて思はれ候。只吾人の眞實なる努力如何によつて解決せらるべきのみ。
〇文章はまだよく見ず。消息を讀み候。君の詞を眞似る人が多いこと慥かに候。自然に感化を受けてるのならよし。口眞似するは惡い考に候。「樂しかるかも」小生十一月號にあり候。詞の約束を平氣で破る云々困り入り候。大に勉強致すべく候。一月一日夜、茂吉宛
消息 (明治四十五年三月「アララギ」第五卷第三號)
(396) 一
「アララギ」二月號歌にては、茂吉の
わが友は蜜柑むきつつしみじみとはや抱きねといひにけらずや 幼妻のうち
けだものの暖かさうな寢ねすがた思ひうかべて獨りねにけり 同
志都兒の
をさな兒が障子のぞきて外の吾を見つつうれしみ躍りよろこぶ
等の種類を面白く見候。歌が文章の方に押されし觀あり。中村憲吉の文は引續き大へん面白く候。「炭燒の娘」とこれが我等の雜誌に出た唯二つの文章と存じ候。さうして各特色を別趣に發揮して居り候。中村のを讀むと直ぐに繪具を頭の中へ沁み込ませられるやうな感じ致し候。あゝいふ感興が永く續くかと次のが氣遣はれ候。先生の小説面白く拜見致し候。自由なる戀といふやうな氣分を味はれ欣び申候。チエホフのも面白く候。土屋文明の歌折角の氣分を聲調で傷つけらるる觀あり惜く候。よい感情を持ち乍ら口が吃るので聞きにくいといふやうな感が致し候。惜く候。齋藤茂吉の「睦岡山中」も折角のものを餘り自己の感じを強ひしため押付けたやうになりし觀あり候。
山ふかき落葉の中に夕の水天より降りて光り居りけり
何ものの眼のごときひかり水山の木原に動かざるかも
(397)の如き「天より降りて」「動かざるかも」等の句無ければズツト生き可申と存じ候。惜しく思ひ候。中村、古泉諸君の歌なきは不都合に候。三つでもよいから願上げ候。我等の趣味はズンズン移り居り候。その心持が「アララギ」全體に萌え出て居り候。愉快に候。歌はなくては居られず候。明日は山浦丸屋にて「アララギ」批評會あり。九人會合の筈に候。二月十五日夜
二
「アララギ」の歌に關する御意見屡々御申越被下決して等閑に聞き流し居るに非ず、從つて動機の充實を無視するやうの考へ毛頭無之、新しきのみでは生命なきことも既に申し來りしこと也。所謂新派を非難するも此の點にあり。之れ過日の「讀賣新聞」貴説を新派文人に見するに宜しと申したる所以に候。動機の充實がやがて歌の調に響くといふことも今起りたる問題に非ずと存じ候。それであの新聞の御説をあゝ申したるつもり、御承知下され度候。
併し是が分り居りたりとて小生等の歌が、いつも動機充實し、いつも調が張つてゐるとは申さず、この點に於ては一層根本の修養を要することと存じ居り候。齋藤の幼妻の歌(二月號)の如きは尤もよく動機充實しては居らぬかと思ひ候。先生の二月號の歌は動機不充實とは思はねども、例もの歌に比し利いた所少なしと存じ候。「わが生命」等に比し遜色ありと存じ候。小生の「あるものは」四首はそれ程よいとは思ひ居らず、文章で云へば小品文位のつもりに候。昨年作りしものを一寸間に挿み(398)しのみ自信は無之惡評を甘受致し候。それ前の四首の方がよいと思ひ居り候。その次の二三首も「あるものは」よりよいと思ひ居り候。一字誤植ありて困り居り候。
近來自分の歌作るときはよいと思ふものも一月經て雜誌などで見るといやに成り候。これ一方自分の進歩かと思ひ候。それで作つたのが直ぐ不足になり苦しく候。三月號へ送つたのも今夜見るといかぬもの見え氣に入らず候。第三首が尤も困り候。
先生は「アララギ」の近來を皆動機不充實と申され候へ共それは酷に過ぐと存じ候。不充實のも勿論あれども大體に於て新派などより充實せること勿論、更に從來の「アララギ」に比して尤も深沈なる情趣の生動を示しつつある人多しと存じ候。先生然り、齋藤然り、中村然り、千樫然り、その他諸君各々然りと可申、昔の「アララギ」に比すれば大なる差異を認むべく候。
新しき情趣は自ら新しき形を求め候。舊型を脱し來り候。情趣自然の動きが自然に舊型を脱し、新しき形に移るは不可なくして、更に結構の變移と可申也。新しからんがための新しきに非ず、自然に新しき也。如斯は不可抗力と存じ候。先生は茂吉の口眞似していけぬと一月號に申され候。口眞似は惡し、眞に惚れで自然に眞似るならこれも不可抗力と存じ候。天下の事比々皆然りと存じ候。
〇「アララギ」近來の歌は情緒的より情操的に進み候。單情より情趣に進み候。發作的より瞑想的に進み候。かつて動と靜とを以て分たんとしたるはこの意に外ならず、この推移は歴々として表れ居り(399)候。
○右數言は決して小生等を辯護せんとにあらず、自分等の歌を完全なりと主張するに非ず、自然に推移せる跡をその儘に申上げしつもりに候。甚だ恐入れども今一度御返事被下度願上候。二月二十一日夜
消息 (大正元年九月「アララギ」第五卷第九號)
「アララギ」出る度に君に衷心から感謝しなんでは居られぬ。實際つらいでありませう。私もどうか勉強して又儉約して送ります。是非信濃へ來て相談して下さい。皆にも逢つて下さい。詳しい批評は今は出來ぬ。それは私は今度官吏になりました。今悉くは話しきれません。九月から諏訪郡役所に居ります。それで手紙は下スワ町高木か上スワ町布半方に願ひます。あとから又書く。七月五日玉川村にて
消息 (大正元年十月「アララギ」第五卷第十號)
僕の子供は今日から町に宿つて療治をせねばならなくなつた。彼は春以來これで三度目だ。僕は此の間失敬な亂雜極まる手紙を書いた。私の歌はあの時めちやめちやに纏めたのがあつた。熱は三十九度であつた。あの手紙に二つ封じて朝まで苦しく眠つた。それから仕度して大町へ出掛けねばならなかつた。汽車から下りて六里の馬車に搖られた。其の晩一時頃寢た。
(400) 前の晩よりも熱が高かつた。翌日の夕方人力車上に震へながら歸宅した。歸つたら子供が病氣してゐる。僕は少し咽喉へ異状を呈して來た。君、漫言書きたいのだが當分駄目だ。十月になつて紅葉の信濃になる時、秋日和の信濃になる時、僕の子は全快して僕の膝の上で笑つてくれる時には、思ひたけのものを書く。思ひたけの歌をよむ。僕の頭も體も思ひの外疲れてゐる。毎年々々と私も引きしめられるやうな境地にはまつて行く。兩岸が狹くなつて體がつかへるやうになる前に私の頭は左右の岩にぶつかつて潰れてしまふ。潰れるまで生きるだけの事だ。仕方ないぢや無いか。乃木大將は頭から尻まで賛成だ。時めける際の人たち考へて見るがよし。「アララギ」到著、あれだけの大册を纏めるは非常の骨折なり。大謝大謝。實朝も面白い。古泉君も記紀を勉強して呉れましたね。歌はいいのが少い。文明の位なものだ。文明の湖水はいい。君のは今度は振つては居らぬ。まだいくらもあるが止める。信濃は寒くなつた。九月十八日
消息 (大正二年七月「アララギ」第六卷第六號)
△信濃の原稿は毎月必ず十五日迄には纏めますから東京の方も確實に願ひます。六月號のやうに待たされでは罪になります。ロダンの彫刻や无聲會見るために態々夜行で東京迄行つて、その晩又夜行で信濃へ歸るといふ連中に斯う幾日も雜誌を待たせるのはよくないではありませんか。池田の寺島君、(401)松島君たちの處で新しい同人がぽつぽつ生れます。あそこには私も二年住みました。高瀬川の白い砂の川原が越中境の連山を潜ぐり分けるやうにして、安曇の平へ押し出した處が池田であります。川幅が急に廣くなつて、水が樂々と流れてゐる處に古い池田の驛の人家が竝んでゐます。金原さんも今そこに住んでゐます。十五年前に私の池田でやつたやうな生活を、今金原さんが其處にやつて居られる。家を借りて――一人で住んで――そして遠い人の便りを待つてゐる。
△一昨夜は少し亢奮して夜通し原稿を書いた。餘り遲いからもう寢ようと思つた時は夜が明けて居た。昨夜は早く寢ようとしたが又二時半迄起きてしまつた。それで餘り體にさはりないのに自分で驚いてゐる。君未だ僕も用に立つよ。二十代の頃――池田に居た頃はよく徹夜した事がある。三十代になつてはもう迚體が堪へられまいと思つてゐた。消える前の燈火かも知れない。
△信濃の梅雨――もう二三日降つてゐる。幾日も山を見せない空の曇り。湖水に栗の花の垂れる道路。陰鬱な雲の重量に堪へようとする樹木の茂り。その中を僕は毎日一人で鬱いで居らねばならぬ。腐つた水のやうに沈んだ僕の心をうまい具合に梅雨の中に籠らせるには今少し工夫が要りさうだ。君遠方の困憊者を時々慰めてやつて下さい。葭雀《よしきり』の聲はいい。あの聲には白み走つた輕快な所がある。梅雨の中にあの聲を聞いて毎日歩いてゐるのだ、もう旅にも出まい。
△ゴーガンの「畫家の母」はいい畫だね。哀れで氣の毒でなつかしい畫だね。切ない堪へられない時(402)はあの畫を思ひ出してゐる。日本に偉れた畫家と偉れた音樂家が欲しいね。その膝の下で眼をつぶつてゐれば夫れでいいではないか。百穗さんの畫は大分變化したね。あゝいふ歩き方をどの位の人が認めるかね。
△山田くに子といふ人の歌はよくなつたね。大抵の女の人は妻になれば膏けが拔けて萎んでしまふ。この人の歌は妻となり、母となつてからよくなつて來た。そこに僕は注視してゐる。現實に深入りした時の痛切な自覺――女は夫れを持つまいとする。弱いからだ。見まいとする。逃げようとする。頭を擡げる自覺の影を追拂はう、追拂はうとしてゐるうちに普通の慰安者に順化してしまふ。現實に深入りせぬ前の叫びは空想の叫びであつた。現實に盲從してからは叫ぶ必要のない女である。多くの女性に見る不足がそこにあるのだ。山田くに子の歌をさういふ意味から興味を持つて見てゐる。
消息 (大正二年八月「アララギ」第六卷第七號)
道の埃が蒸すやうに署い。其の中を毎日歩いてゐる。疲れて來れば一足々々を埃の上に投げるやうにしでぽたりぽたりと歩いでゐる。汗と埃の反射で眼が痛くなる。しまひには自分の足が只歩いてゐるといふ事を意識してゐるのみである。かうなると却つて大きに樂であるが、家に歸つてからの恢復が手間取れる。
(403) 蹠の感覺は我々の日常生活に甚だ直接なものである。夫れが今迄餘り歌はれて居らぬやうである。昔から落葉を踏むとか、月を踏むとかいふことはあるが、夫れは蹠の感覺では無いらしい。私も今迄詠んで見たいといふ興味はかなり有つたが、滿足するやうなものを詠んでゐない。夫れでも比較的多く詠んでゐる方である。感覺を追ふ歌人が何うして蹠の感覺を遺却してゐるのだらうと不思議に思つてゐる。今の歌を餘り廣く見ないから知らぬのであるかも知れぬ。熱い土埃や、砂利道を踏む蹠の感覺は殘酷な破壞的の感覺である。夫れでも我々の生は却つてそんな所に響いてゐる。
玉川村に住んだ頃はよく落葉松の並木の間道を通つた。夏の葉の茂りの柔かさは眼をふさがねば想ひやられぬ程の柔かさである。あの茂りの下の間道には、美しい芝が生えて其の上に日光が鮮かに零ぼれてゐた。あの芝の上を通る時は私は實際眼を閉ぢて自分の蹠に滲み入る柔かい感覺を受けるのが常であつた。足音を成るべくソツとして歩いた。音を立てては落葉松に氣の毒であつた。そして自分は今全く生き生きした柔かいものに包まれてゐるのだなと思ひ得た時眼をあけた。自分の體を見廻す事もあつた。廣丘村にゐた時はよく松林の蘚を歩いた。その蘚は瘠せた林に不和應によく發育してゐた。足音を立てようと思うても足音の立たないほど清く深く密生してゐた。あの蘚を歩いて赤い花の(404)ほとりに寢ころんだのは、私には未だ新しい記憶である。高原時代――裾野時代――私のロマン的な時代は過ぎた。そして毎日土埃と砂利の上に靴底を軋らせてゐる。
行路病人といふ名を聞けば私は毎もゾツとする。我々は未だ弱いのだ。
近ごろ楠木正成が哀れで堪らない。私は今の所迚も正成にはかなはない。道を歩きながら正成の心中を想ひやつて泣きたくなる事がある。私は未だ弱いのだ。
命がけ以上の覺悟を生むやうな痛切な要求が私にあるか。要求の別名は力である。力の別名は權威である。
新しき生活を唱ふる者はある。新しき生活を拓くべき力がない。權威がない。そして詩を作り、歌を作る。歌の權威何處にありや。
我々の作歌は胸の塊を直ぐに吐き出す嘔吐作用でありたい。嘔吐する時は右を顧み左を顧みるの餘裕がない。眼から涙がこぼれ、鼻から鼻汁が垂れてゐる中に、塊まりはもう難産して吐き出され(405)てゐる。製造するのではない。胸から押し出されるのである。あくびをする安産ではない、嘔吐する難産でありたい。
消息 (大正二年九月「アララギ」第六卷第八號)
左千夫先生は七月二十五日の夕方私の病院を訪ねて下された。話の途中に千樫君も來られて先生は隨分長く色々話をされた。あれが恐らく先生の最後の氣焔であつたかも知れぬ。其の時先生は歌に關して藝術的の歌と「人生的の歌と二つに分けて色々評論された。私の歌が藝術的で(先生の所謂)痛切な内容の感受が足らぬ事や、啄木の歌が人生的であつて、氣韻の不足した事や、人生的の歌は天麩羅や蒲燒のうまさで、うまい事にはうまいが氣品の高さを感ずる譯に行かぬこと、其處へ行くと矢張り日本料理の純粹な形式には氣品の高さが備つてゐるといふやうな事を、例によつて長々と話して下された。先生のお話には前後矛盾の所もあるやうであつたが、私が口を出すと話が又長引くと思うたから唯々として、お聞き申してゐた。二日ばかり腸を害して腹痛が甚しかつたから耐らへ乍ら黙つてお聞き申した。あの時に先生の話される丈けを話して頂いて大變よかつた。夫れが私には永久の訣別になつた。八月は信州へ行くと言うて居られた。八ケ岳の温泉に入つて上諏訪から木曾の御嶽山へ行く。併し御嶽山は僕には六ケ敷いから志都兒君だけ登らせて、僕は藪原の湯川君宅に待つ事にしよう(406)などと、大へん信州行を嬉しさうにして話された。夫れが八月にならぬうちに突然逝かれようとはどうして思ひ及ばう。別れる時に玄關前の水を打つた敷石の上を、例の如く大股にして歸られた。夫れが明瞭に今も見える。八月十二日は先生の二七日に常るので上諏訪地藏寺に同人の追悼會を開いた。會する者十九人、寺は一昨年先生來遊の時歌會を開いた處である。座敷もその時の座敷である。そこへ先生は畫像となつて床の上に掛けられた。納棺前百穗君の描かれた寫生像である。像の前で色々と先生の追懷談が出た。
歌人は今少し勇猛心を奮ひ起して複雜な世相の辛苦に衝き當つて貰ひたい。複雜な辛苦から得た所の悲喜の單純化、夫れを私は望んでゐる。單純な生活の單純化の如きは易々たる事である。歌人が多く斯樣な單純化に住してゐるうちは、厚い、深い、有難い歌を見る事は六ケ敷い。子規先生が歌詠み位のんきなものは無いといつて笑はれたのも是である。まして歌人が自己の生活の單純なのを誇りとしてゐるやうでは甚だ心細い話である。只複雜な生活は人格の散漫を來し易い。只大なる勇猛心ある者にして、大なる複雜を深く、厚く、強き單純に化する事が出來る。それ迄達せねば歌人の單純は哀れな單純である。
近來の歌に苦しみだの、悶えだの、白い悲しみ、赤い恐怖などと盛に主觀的な一人よがりの駢列を(407)してゐる作品が見える。斯樣なものは大抵複雜な生活から搾り出された單純の汁液を、味ひ知らぬ輕薄兒の作品である。一體に私は現今の歌に今少し客觀性を帶ばせたい。事件を尊ぶのでは無い。薄つぺらな單純を厭ふのである。苦しむらしい、悶えるらしい簡單な主觀を盛に駢列して、夫れで何となく後姿の寂しい歌を見るのはもう堪へられない。山田邦子さんは此の頃「妻となり母となつてから幾分自分の歌のしみじみしたやうに思はれる」と語られた。是は有難く尊いことである。八月十八日
消息 (大正二年十月「アララギ」第六卷第九號)
今朝東京を出る時は汗を流してゐました。それが輕井澤へ來るともう秋の末でありました。蕎麥の花はもう衰へて、漆樹は所々眞紅に染んで深い林の中に潜んでゐました。荒寥たる北佐久の高原を領して、淺間山の烟は空にかすれて靡いてゐました。私の今日の心は一尺の土の窪みにも傷ましい思を沈澱させずには居られませんでした。車窓から低く北の空を眺めた時、寂しい北信濃に身一人で來たことを思つてみました。明日は千曲川を渡つて蓼科山の麓へ行きます。そして二三日この原にさまよひます。
車中では二三の歌の雜誌を讀みました。そして現在の歌人の所有が今少し豐かで深くあつて貰ひた(408)い事が相變らずでありました。千篇一律の悲しみの色、百人一樣の苦しみの色、左樣なものから今はもう一歩踏み出す時ではありませんか。百人一樣であるから特色が動かない。千篇一律であるから生命の進展がない。左樣な間接な皮膚はもう切り離して、眞に自分の體内に動いてゐる黒い血と赤い血を以て直ちに自分の歌を染める時ではありませんか。
何處迄も熱く赤い血 何處迄も冷めたく黒い血――夫れは只人間の所有であります。下等動物は夫れを持ちません。單細胞動物になれば血汁さへ持ちません。單純なる生の統一なるが故であります。複雜なる生の純一にして始めて血汁の必要を生じます。至深至高に複雜な生の統一者として人間は萬物に優れた濃く赤い血と、濃く黒い血を持ちます。
傷ましき生命の血は只吾人の複雜な世相の辛酸から搾られます。辛酸の度が深く、複雜の度が進むに從つてその赤い血と黒い血とが濃く釀されます。私が前號に單純な生活の單純化を排して、複雜な生活の單純化を説いたのも夫れであります。現今の歌は血が薄い。今つと濃く、熱く、鮮かに赤く、そして濃く、冷めたく、鮮かに黒い血を持ちたいのであります。そこに深き個性の分蘖が生じ、そこに深き特色の分化が生ずるのであります。
(409)
私が歌の客觀性を要求してゐるのもこの意味からであります。複雜な事象を駢列せよ、敍述せよ、といふのではありません。複雜な事象が深い統一の上に純化され、單化されて生動するやうな歌が欲しいといふのであります。我々は現象なしに心を動すことはありません。心の動きというても夫れは決して事象から離れたり、抽象されたりしたものではありません。心の脈動は即ち事象の脈動で、事象の脈動は即ち心の脈動であります。心の脈動の結末を捉へて只青い寂しゐだの、白い悲しみなど言つて喜んでゐる人々に、眞の痛切な心の動きがあるのかを疑ふのであります。事件を歌へといふのではありません。事件がおのづから歌はれてゐる筈であると思ふのであります。事件といへば大抵花に接吻したり、媾曳したり、歌人の事件とするものが多く型に嵌つて局限されて居るかの觀をなすのを見ても、現今歌人の生活が如何に單純に貧しきものであるかを伺ふ事が出來るのであります。
もう夜の二時三十五分であるからこれで筆を擱きます。明日通る道は御牧が原であります。原の芭を想ひ乍らこれから寢ます。九月十七日夜小諸町旅宿にて
消息 (大正二年十一月「アララギ」伊藤左千夫追悼號)
先生の追悼號へ何も書く事出來ず殘念此の事に候。頭と胃の具合惡く、その上に用事蝟集して長い(410)もの到底纏らず、十二月迄には必ず間に合せ度いと思ひ候。
趣味の標準高き人のみ自己の歌を嚴選すべく候。情趣の集中する人のみ自己の歌を嚴選すべく候。眞劔の歌ならでは滿足出來ぬ人のみ自己の歌を嚴選すべく候。嚴選に嚴選したる我等の歌を毎月の雜誌に印刷して実れが何年の生命を得べく候哉。哀れな事に候。「アララギ」の歌も有り難き尊き歌充ち滿ち候へ共、一面よりは一切空なりとも觀ぜねばならぬ事に候。一切空なりと觀じて、新しき悲願に入らん人のみ未來には生き申すべく候。我等は歌の少きを憂ふべからず候。只放漫と弛緩と不根とを憂ふべく候。當座と通用とを念ひ候はば佛祖も難業は無用たるべく候。
かやうな話を聞き候。諏訪の山浦の子供活動寫眞機を贖はんとして毎戸より石油罐を貰ひ火にかけてハンダを採ること數月に及びしと。其の愚や及ぶべからず候。東京の子供は日比谷騷擾の時民衆の投ぐる石の不足を見て、直ぐ一山一錢二錢の石を盛りて夫れを賣りし由。其の機敏や及ぶべからず候。機敏な東京の子供と、迂遠な田舍の子供と我等は何れを擇び候哉。機敏にして輕き歌は有り。愚にして重き歌は鮮なし。現時の歌は斯の如くに候。
「アララギ」の歌は昔より愚にして哀れな歌に候。されど何時迄も石油罐のハンダを採り居りては(411)悲しく候。ハンダ採る眞面目と根氣とを一生失はずして、一歩一歩眼を開くべく候。性急に眼を開かずとも宜しく候。左樣に一時に眼を開くことは嘘の皮に候。左千夫先生は隨分愚性を帶びたる歌を作られ候。而して我々は時々夫れ等に威壓せられ候。
「靜」は力なき融通なきものに候哉。菩提樹下七年の安居は悲しき動の極限なるを思ふべく候。靜かに頬を傳ふ涙、泣き叫びつつ流るる涙、何れに深淺高低を附せんとするや。動と靜とを以て云爲すべきにあらず。只其の底面の深淺を問ふべきのみ。
十月號「アララギ」の歌は生き生きしたるもの甚だ少なかりしを覺え候。私も勉強せねばならず候。奮勵致すべく候。
序を以て申上候。歌の原稿は原稿紙のコマへ成るべく一字一字ポツリポツリと明瞭に御書き下され度、一行は二十一字語に願上候。書き直すに下らぬ時間取れて困り候。十月二十一日
消息 (大正三年二月「アララギ」第七卷第一號)
(412) 今月の「詩歌」今日本屋より屆き披見致候。大へんよき歌あり欣び申候。夕暮氏の歌從來言語や調子の勝ち過ぐる傾向あり、何處にか不安を感じ居り候處今月號のは大抵よく頭に響き呉れ申候。
空青みわれに親しき冬の日の光はそそげゆづり葉のみに
吾心鋭く冷たく生きてあり親しきは冬の木のさ青なり
武藏野の古驛路の遊廓の日にさらされて向うに見ゆるも
の如き氣に入り申候。山田邦子は益々冴え來り候。
あはれ兒よ淋しき母に媚びわたるなが姿はも涙のごとし
母の顔淋しくなれば家のうちおもちやの如く捨てらるる兒よ
絶唱と申すべく候。尾山篤二郎氏のも大體おもしろく拜見致し候。月評を禁ずと斷られ居り候へば控へおき候。尾上君は最近濫發の氣味あり、粗雜と稀薄とを氣に致し居り候處今月號のはズンとよく欣び申候。
其の他卷末諸氏の歌、大抵おもしろく、近來稀薄の作歌流行の中、特に年末の雜誌讀み納めとして嬉しく拜見致し候。
口舌の發表が動機に負け候やうの人大抵懷しき人に候。歌も餘り鹿爪らしく構へ、又は餘りべらべら饒舌り候はば品卑しく淺ましく成り申すべく候。近頃の歌どうも身構へとお饒舌りとを見せつけら(413)れるやうにて嬉しからず候。身構以上の眼の光を欲しく候。お饒舌以上の動機の苦しみを欲しく候。
歌を作れば殺すと云はれ候はば我々は大抵逃げ出し申すらんかと存じ候。我々によき歌出來ぬはただ是だけの所に候。「アララギ」の歌よしなどいひて嬉しがる可からず候。我々は來年より更に引き緊りて勉強せねばならずと存じ候。十二月十四日夜
消息 (大正三年二月「アララギ」第七卷第二號)
○
不自由は我々のすべてに蹤いて廻り候。夫れは悲しくして有難き事に候。何も彼も自由ならば何の苦しゐか候ふべき。何の深みか候ふべき。一定の居住は不自由に候。一定の職業は不自由に候。父子夫妻一定の關係も不自由に候。不自由の中に我々は只深き苦しみと深き慰安とを得可申候。假に我々が居住の絶對自由を持ち候はばどんなものに候ふべき。居住の苦しみと愛著とは一生經驗せざるべく候。苦しみは愛著より來り、愛著は苦しみによりて益々深められ可申候。一定の職業は不自由に候。不自由なるが故に何物をか開拓せんとする亢奮と勇氣とを生ずべく候。何物をか開拓して深入りすればする程職業の不自由は更に深刻に感知せらるべく候。側より見て他人の職業を自由らしく思ひ候は此の故に候。不自由の深刻に感知せらるる時のみ亢奮と勇氣とは深く強く悲しかるべく候。
(414) 〇
乍併我々は矢張り自由と變化と開展とを望み候。されど其の自由は何處迄も不自由の上に立てる自由ならざる可からず。不自由の上に立てる變化と開展ならざる可からず。語を換へて言へば、不自由の深味を嘗め候者程深刻なる自由と變化と開展とを得べく候。深刻なる自由とは※[開の門なし]は直ちに深刻なる不自由にて有之可く候。深刻なる不自由を嘗めし事なき人々よく聲を大にして、自由を叫び候へども左樣なる自由は翩々として吹けば舞ふ程の自由に候。自由自由など輕々しく大聲に呼はり候人が何程有難き自由を得候ふべき。黙りて眼をつぶりて考へ居る人が驚嘆すべき自由をなすべく候。「所詮地獄は一定住みかぞかし」と觀じ給へる聖者が有難き宗旨を拓かれ候。「吾事已む」と觀じたる將軍が明治の終端に有難き自殺を遂げられ候。將軍の自殺程深刻なる不自由と、深刻なる自由と合致せられたるものは、容易に無之かるべく候。
○
ゴツホやゴーガンの畫などあれほどの苦慘を嘗めし人々の畫が、黄口なる我々にいかで深く分り候ふべき。分れば我々の苦しみの程度により、今から追々に分り申すべく候。近頃ゴツホやゴーガン、ロダンなど丸呑みの氣※[陷の旁+炎]所在に揚り候へども有難き藝術は生れんともせず。藝術に限らず、すべての方面に於て反省を要せざるかと存じ候。何も彼も分り居り候やうの所存したらん人新しきを説き、自(415)由を説き、開展と革新とを説き候聲つき餘り輕々しくば藝人口調となり申すべく候。
○
諏訪湖の氷に陷りし人、小生につかまり乍ら氷上にあがり候時の眼つきは十年前なれども今ありありと覺え候。あれ程の恐しく有難き眼付され候はば小生は善惡に係らず服從してしまふべく候。あの眼つきは何より生れ候や。只氷に陷りし刹那の絶對不自由と絶對苦惱より生れ候なり。あの眼光小生に出來ず其の後他人にも見ず。現今の文學にも藝術にも見難し。物足らぬ所以に候。一月二十五日夜
消息 (大正三年三月「アララギ」第七卷第三號)
昨日歸國して今夜までに歌をまとめました。もう頭が疲れて何も書けません。一二月號拙歌の訂正と正誤だけ御願ひ致しておきます。二月十三日夜二時
草むらの濃き紅ゐにわが影の消ゆるかなし|き去にをするかな〔付○圏点〕
唇をかなしくしめし顔のへに葉の紅ゐは裂けて|染まるを〔付○圏点〕 丘さむく|女〔付○圏点〕學校舍ぞ曇りたる一列に冬の木は尖れるに
消息 (大正三年六月「アララギ」第七卷第五號)
(416) 〇
家を出たのは四月十日であつた。湖沿ひの縣道には午前七時の日ざしに霜が淡すく光つて居た。子供が三人後から蹤いて來た。そして一停車場の間だけ一緒に乘つて別れた。子供の顔が最後に車窓の外に流れ出した時私はそこに全く信濃から別れてゐた。
○
二三年前から東京へ出るといふ事は朧ろかに豫期してゐた。併し其の豫期は寧ろ簡單な殊勝な動機といふ位のものに過ぎなかつた。夫れが二三年後の今日では東京へ出ると言ふよりも、信濃を去るといふ方が急務になつてゐるまでに私は變遷して居た。或る重いものに壓され壓されて絞り出されるといふやうに信濃を去る自分になつてゐた。
信濃は永久に自分の愛人である。夫れと同時に今は私に対する死刑の宣告者である。私は死刑の宣告者をも愛し得て郷國を去る事に涙を流して感謝した。死刑の宣告をするものの苦しさは宣告される私が世界の中で一番よく分つてゐたからであつた。さうして死刑を宣告しながら死刑の執行をし得ない心の底をも直覺して居た。
○
十一日の夜は輕井澤へ泊つた。去らんとする信濃へ一人靜かに別れを告げようと思つたからであ(417)る。未練な心が輕井澤の停車場へ私を降りさせてしまつた。高原の所々の窪みには雲※[雪?]が未だ殘つてゐた。それでも日暮の裸な林に辛夷の花が暈すやうに浮いてゐた。夕方から木枯のやうな嵐がした。淺間山の火は雲荒れの中に深くひそんでゐた。一坪の爐を切つた炬燵を中央にして三方に屏風を立てまはして其の中に夜の更くるまで一人で嵐の音を聞いてゐた。
○
東京には清水君も來てゐた。横山君も來てゐた。名取君も來てゐた。河西君、土田君、みんな流れるやうに郷國を出て來た人々が居た。
私はそれらの若い友達の持つ未來の光の前に自分を置いて自分の現在と行末を考へて見た。
○
それらの友が來て「アララギ」の編輯を助けてくれた。齋藤君は毎日のやうに來て編輯の仕方を教へてくれた。それで六月號はつまり齋藤君から編輯して貰つたといふ事になつた。中村君は態々編輯のために海岸から歸つて來た、(試驗前の勉強に海岸へ行つてゐた)そして齋藤君と古泉君と私と四人で夜更けまで原稿を書いて夫れから枕を並べて寢た夜もあつた。
集る人々はみな六月號から必ず一日に發行すると言つて眼を輝かしてゐた。私は夫れ等の人々によつて幾分づつ胸が落ち著いてゐた。
(418) 平福さんの厚意で雜誌の會計の方も大分整理しはじめた。「アララギ」は世に稀有な愛護者を有つてゐる有難さを同人と共に深く思はねばならぬ。 長塚さんは病牀にあり乍ら原稿の談話をして下さつたり、筆を執つて下さつたりした。近い内に九州へ行かれる筈である。
○
歌は何處までも燃えて居らねばならぬ。少くも眞に燃えて居る歌ならば尊いと言はれよう。併し乍ら折角に燃える火がぱつとともつて直ぐぱつと吾々の心から消え去る樣な火花では果敢ないではないか。夫れが現代の歌の姿ではあるまいか。私にはどうもさういふ所に現代の歌に対する不平がゐる。現代の歌は平手でぴしよりと私の皮膚を叩く。皮膚へは痛快に響くけれども頭の中樞部まで響いてくれない。感覺や官能の匂ひは強烈である程私には有難い。併し夫れを統率して直ちに私全體の奥底まで透徹する力とならなくては私には到底不足である。
紙縷花火はぱつと燃えてぱつと消える。消えた後何等の刺撃をも我々の頭に殘さぬ。稻光は瞬間を閃くけれどもぱつと消えた後に猶我々の頭に殘る鋭い刺撃がある。夫れが稻光の底力である。到庇紙縷花火の及ぶ能はざる底力である。我々はこの底力を欲しいのだ。肉慾や末梢部の神經が先づ嗾かすといふやうな戀が現代の歌である。肉慾や末梢部の感應から來るといふやうな戀も人間の要求である(419)ことは事實である。夫れが強烈に働く勢力は私も痛快であると思つてゐる。併し乍ら肉體と心の全生命、全責任を投げ出してゐる沈痛なる戀の前には夫れは白日の前の燐寸の光にも當らぬ。臨時の戀が所在に容易に生えて、所在に容易に消える間底力ある歌が現代に現れるといふ事は恐らくは望めないことであらう。
○
瞬間の動き――といふやうな詞は現代人に餘り容易に解釋され過ぎた。さうして甚だ肩の凝らぬ丁度氷の上をスケートで滑走するやうな輕快な青年が澤山現れて來た。全生命を燃しつくすやうな瞬間の動きは、瞬間であると共にそれが永劫である。永劫を突き拔いて猶深く遠く進まうとする力が瞬間瞬間に籠つてはじめて充實せる生命の連續がある。夫れは苦しく、慘たらしい生命の連續である。我々には到底堪へられぬ程度のものであらう。私の言ふ底力は只この生命の連續より生れる外、何處からも生れて來る事を想像されない。強烈なる現在は必ず強烈なる未來の響きを持つてゐる。決して根柢から直ぐ消えたり、薄らいだりしてしまふやうなものではあるまい。連續性と瞬間性とを取り離して考へるといふ事は到底今の私には想ひ及ばない。
今の歌には瞬間の輕快と強烈とがあつて永久の威力と底力とがない。
〇
(420) 男には事業がある。それで歌が蕪雜になり易い。女には事業がない。それで歌が純粹に行く。男の歌は蕪雜であるが夫れが洗練され統一されれば力の強いものになる。女の歌は純粹であるかはり力の弱いよろよろしたものになり易い。女の主觀が單調で一人ずましの者になるのは此の爲めである。併し乍ら強ひて男の強さを望んで、不自然な女の歩き方をするよりも、何處迄も女らしい純粹の境地に立つて自家の根柢を深く深く、踏みしめて行く方が哀れにして女らしい自然の道ではあるまいか。そのか弱い女のあはれさが張り切つて持ち切れなくなる心の状態から滲みるやうに絞り出された女の革命が、男も神も如何ともすべからざる尊い革命である。私は未だ斯樣な有難い女の革命に接したことがない。
○
私の知つてゐる東京の少女らは佐久間艇長の臨終談に夫れ程の輿味を持つてくれなかつた。東京の下宿の炭は直ぐにともつて直ぐに終へてしまつた。私は東京の家庭を知らない。私は東京の女を知らない。從つて東京の家庭や女を批評する資格を持たない。只私は今女のか弱い底力を要求してゐる。
(421) 「アララギ」編輯所便消息其他
編輯所便 (大正三年七月「アララギ」第七卷第六號)
△左千夫先生一周忌を七月十二日正午より龜戸普門院に營みます。同人諸君の御參會を願ひます。準備もありますから御參會の方は七月十日迄に小生へ御知せ下さい。
△山村暮鳥、室生犀星、萩原朔太郎三者は詩、宗教、音樂の研究を目的として「人魚詩社」を結ばれし由。通信は本郷区千駄木町一二〇人魚詩社のこと。
△信州松本平の根岸短歌會の會務を平瀬泣崖君に一切お願ひする事に致しました。是で松本平の方も奮つて來る事だらうと望み多く思ひます。夫れで松本平の會員諸君は會費を振替貯金口座東京二八三四三番胡桃澤勘内へ、最寄りの郵便局へ拂ひ込んで頂くか、松本市へ出掛けた節は同市本町松本銀行の同君へ立寄つて直接拂込んで頂きたい。
△「アララギ」も例により隨分苦しくして經營してゐるのですから會費を遲滯なく御送り願ひます。(422)是は會員諸君に謹んでお願ひ致します。「アララギ」は今つと立派な雜誌になりたいのですが現状を維持する事も往々困難になるのであります。それで平福さんにも無理なお願ひをして畫會などを開いて頂いたのであります。
△長塚さんは今福岡の大學病院に居られます。
編輯所便り (大正三年八月「アララギ」第七卷第七號)
△左千夫先生の一周忌は七月十二日普門院で豫定通り營みました。先生の未亡人を始め十八人の來會者がありました。不折さん、百穗さんは折から旅行中で殘念でありました。秀眞さん、鼠骨さん、岡麓さん、芳雨さんたちから交々懷舊談が出ました。雨あがりの日光にお墓の松葉牡丹が赤く咲いてゐました。
△左千夫先生は、連日の疲れに居眠りして牛乳の車をお濠の中へ引きこんだ事があるさうです。左樣な烈しい努力から先生の歌は何時も生れて居りました。我々は今つと根強く勉強せねばならぬと思ひます。一首の歌でもさう容易に生れるものではありません。鍛錬しても思ふやうに現れぬのが普通であります。自己の歌に對する要求が高くなればなる程鍛錬が必要になつて來ます。容易に多作して平氣で居るといふ事は標準が低いか、鑑賞が朶雜かであります。自ら鍛錬し自ら嚴選した歌を同人諸君(423)から送つて頂きたいといふ感が近頃隨分多く致します。
△「アララギ」はどの頁にも絶對に階級といふものはありません。排列の前後、歌の多寡は決して歌の價値を上下してゐるのではありません。我々は百首の凡作よりも一首の佳作を尊敬します。歌の排列、多寡などを眼中に置くのは卑俗な考であると信じます。
△古泉千樫の「屋上の土」は彌々十月に出ます。白秋氏の挿畫も間に合つて都合よくあります。
△北原白秋氏は來る九月より「印度更紗」と稱する氏一人の月刊雜誌を金尾文淵堂から發行します。同誌は裝幀内容最も贅澤を極めたものださうです。
△同氏主宰の巡禮詩社はこの際大に社友を募り愈々九月より「地上巡禮」を發行します。申込は麻布區坂下町十三同社宛の事。
△木下杢太郎氏の「南蠻寺門前」が彌々春陽堂から出ました。非常に苦心した裝幀で大へん心地よくあります。
△阿部次郎氏は八月一日から美學の講習に信濃へ行かれます。
△中村憲吉は郷里へ歸りましたが八月は早く歸京します。
△鐵道院から同院運輸局編纂の「鐵道旅行案内」を寄贈されました。普通の鐵道案内以外に各驛を中心として全國(内地臺灣朝鮮滿洲樺太)の名勝舊蹟を非常に詳しく紹介してあります。里程車馬賃等(424)微細なもの迄一切記載されて旅行には大變便利であります。非賣品ですが、部数を限つて博文館で販賣します。
△本誌裏畫「左翁像」は嘗て讀賣新聞へ掲載されたのを同社土岐哀果氏と筆者木村莊八氏との好意によつて本誌に載せる事が出來ました。深く感謝致します。
△小生八月に暫時歸國しますから「アララギ」及び畫會の用向は、此の際一切齋藤茂吉へ御送り下さい。七月二十七日
編輯後記 (大正三年八月「アララギ」第七卷第七號)
餘白があるから少し書きます。
萬葉輪講で私の解説した、
わが聞きし耳によく似ば葦かびの足なへわが夫つとめたぶべし
の歌に就て其の後少し考へて見た。此の歌を贈られた田主が眞の蹇でないであらうといふ事はあの解説の中に書いて置いたが「多分足を痛めてゐる位の事を誇大して言つたのだらう」といふ意にあの時解したのは、其の後未だ少し不安の感が無いではない。實際蹇である男に贈るに「足なへ」などいふ肉體上の急所を衝くやうな惡感を冒して石川郎女が歌を詠んでゐるといふ不風流の女でない事は想像(425)されるが、足を病んでゐるのを捉へて「足なへわが夫」と嘲罵してゐるのも何だか氣が利かないやうにも思へる。そこで私はひよつと足なへと歌つたのは實は人體の下部の萎えを間接に言つてゐるのではないかと思つて見た。其の方が面白さうである。そして田主中郎は勿論實際下部の蹇でないのを左樣に言つて、先夜來の鬱憤を斯る戯れの嘲罵に洩らしたのではないかと思ふのでゐる。上古の風俗として、特に石川郎女の性格として斯樣な事柄を歌材として取扱はぬといふ事もあるまい。
非常に暑い。二三日前から頭の皮膚の右後半部が痺びれて居たが今日は大分感覺がはつきりして氣分がいい。校正室の狹い窓に葭簀の扉が半ば外方へ開いて、其の隙間から直ぐ鼻先きの街樹の圍りに日廻りの花が日にかんかん燃えて居る。其の花の向うを運送馬車が灰のやうな埃を蹴立てて通つてゐる。風が此の原稿紙を盛に吹き立てて居るが、夫れでも背には汗がぴつしより流れてゐる。七月二十九日午後三時民友社にて
信濃より (大正三年九月「アララギ」第七卷第八號)
汽車が八ケ岳の裾野にかかると地上の氣雰が急に一變するを覺える。何といふ透き徹つた空氣に青葉の群れが動いてゐることであらう。山畑の豆の葉はもう黄ばんで、雜木林の中には僅かに赤らんだ葉さへ交じつてゐた。此の間の夕方柏木に阿部さんを訪ねた時、幾月ぶりで東京の野外の青葉の深く(426)なつてゐるのを見て非常に珍しく感じた。夫れでも其の青葉は見渡す限り曇りの中に籠つてゐた。煙筒の煙が多いばかりではない。一たいに東京の空氣には水蒸氣が多くこもつてゐる。夫れで空氣がすつきりと透くことが少ない。信濃の高原へ來て夏の爽かさを感じるといふことは只温度の低いといふのみではない。空氣の乾燥してゐるといふことが、大きな關係をなしてゐるといふことを今更のやうに感ずる。今月は君から編輯して貰つて濟まなかつたが、お蔭で緑の中で當分此の夏を過すことが出來る。
僕の頭は當分單純と鈍感を持續するつもりである。山や川や草や木と分析して感ずる面倒ささへも避けようとしてゐる。それらのものが一纏まりに纏つて夏の山中といふやうな一つの力になつて僕を押し付けてゐて呉れれば夫れで安心で有難いのである。その統一を亂す聲が當分聞えなんで呉れろと祈つてゐる。八月五日
今日は久し振で井戸へ行つて顔を洗つた。井戸は桑畑の徑を可なり長く行つて一寸した茂りの中にある。井戸の内部の石垣はシダの葉が叢生してゐる。釣瓶繩を釣ると、暗い底から上る釣瓶がシダの葉の中から段々明くなつて上つて來る。水が顔の内部まで沁みる。東京で痺びれた頭が未だ幾分痺びれてゐる。その頭を倒さに水の中に漬けて暫く眼をつぶつてゐた。
(427) 歸つて來ると雇人がやつて來た。今日は※[女+鼻]におこられるから承知してゐて呉れと言つた。面白い幕でも見せるのかと思つてゐるうちに※[女+鼻]がやつて來た。挨拶が濟むか濟まぬにもう亭主に喰つて懸つたのには驚いた。昨晩《ゆうべ》は何處で遊んでゐた、と言ふのが始まりで盛に疊みかけた。亭主は露骨に弱味を見せて只フムフムと言つて聽いてゐる。女は甚だ訥辯であるが直截で熱烈であるから時々雄辯になる事がある。夫れでも雇人であるといふ自覺は持つてゐて絶えずマブシの中の白い繭を拾ひ乍ら亭主に鉾先を向けてゐる。二人共五十見當であるが中々盛なものである。こんなに言ふのも年老つた後を考へるからだとおしまひに追加した。この追加はない方がよかつた。相手の女も定まつてはゐないやうだがと暫くして又追加した。この追加は愈々拙劣になつて來た。この幕は始めから無言の男の方が勝つてゐた幕であつた。八月七日
今、夜が明けた所だ。昨日夕方君のハガキ見て今迄遂ひ一晩起きて考へたがどうしても纏らぬ。特にこの内の數首は殆ど雜誌へ載せられぬ程のものである。惡いがこのまま送る。明日はアララギ會が上諏訪にある。午前女の會で午後が男の會だ。久し振で諸同人に逢へる。昨日から珍しく雨が降つて肌寒い位である。
二十日に松本へ行つて二十一日に上京する。青木潮行きの約は果せない。八月十四日曉
(428) 編輯所便り (大正三年十月「アララギ」第七卷第九號)
△大へん遲刊して濟みません。
△今後は會員外の作はこちらからお願ひする者の外一切載せぬ事にしました。△古泉千樫の歌集「屋上の土」今月下旬に出ます。
△前田夕暮氏の歌集「生くる日に」は大變心持よい裝幀で出ました。十一月號で合評します。
△鈴木三重吉氏が現代名作集を出します。我々には都合よい企であります。廣告欄に詳記してあります。
△東京音樂學校校友會で陸海軍へ獻金の目的で十月十七日十八日同校に音樂會を開くさうです。新進音樂家殆ど全部を網羅するさうです。入場券一圓と五十錢と三十錢との三種。
△自由講座で會員を募る。第一學期十月開講一週二囘四時間。近代批評史(生田長江)、近代文學主潮(片上伸)、西洋劇壇の現状(小宮豐隆)、美術の新傾向(齋藤與里)、ベルグソンの哲学(中澤臨川)、舞臺建築の研究(後藤※[奚+隹]兒)、近代文學に描かれたる戰爭(馬場弧蝶)、オスカーワイルド(平田禿木)、會費一箇月一圓、束脩五十錢、會場小石川上富坂町普及福音教會。申込所府下巣鴨一六九三自由講座事務所。
(429)△本號より定價を上げました。已むを得ぬ事と御承知下さい。
編輯所便 (大正三年十二月「アララギ」第七卷第十一號)
△此の頃の夜寒に蒲團暖く寢てゐる。さうしてもう僅かで此の年も終るのだと思つてゐる。さうして未だ永く東京に住むのだと思つてゐる。來年は專心「アララギ」に力を盡さうと思つてゐる。一月振りに逢つた少女の群れが手を拍つて喜んでくれた。世の中に住み甲斐があると思ふ事もある。
△子規先生の歌集其の他を見ない人は「ホトトギス」發行所で豫約してゐる「子規遺稿全集」を買ふ事を勸める。詳しい事は牛込區船河原町十二番地同所へ問合せれば分るであらう。
△今年は是で失禮する。來年新しくお日に懸る。十二月二十四日夜
編輯所便 (大正四年二月「アララギ」第八巻第二號)
△會員諸君の職業と年齢を御知らせ願ひます。差支へない限りそれ以上に詳しい境遇をお知らせ下されば猶結構であります。さういふ者を背景にして諸君の歌に接した方が我々編輯人には大へん都合よくあります。萬葉集などで個性の餘計に現れてゐる歌ほど作者の時代や傳記を詳しく調べたくなります。精細に諸君の歌と接觸するには諸君の境遇を知悉してゐたいのであります。
(430)△今月から發行所を私の方へ移しました。別に理由はありません。只齋藤君が非常に忙しいから私が專用に雜務を見る事にしたまでです。それで今後は原稿會費等其の他「アララギ」に關する一切の用向は東京小石川區白山御殿町百二十七番地久保田俊彦宛で御申越願ひます。
△長塚節氏は猶九州に居られます。前月號の「鍼の如く」を病牀に纏めるのに無理された爲め發熟されて大分心に掛りましたが近頃快方に向はれました。
△歌集「赤光」に對する諸家の批評を三月號から連載いたします。
△「屋上の土」は二月上旬に出版されます。「切火」も二月中に出版します。△左千夫先生の遺稿も今年中には出版いたします。古泉君が先生の歌を集めてゐて呉れます。「日本新聞」「馬醉木」「アカネ」「アララギ」「求道」「心の花」「新佛教」「臺灣愛國婦人會雜誌」「鵜川」「甲矢」「ヒムロ」「東京日日新聞」以外に先生の歌を知つて居られる方はお知らせ願ひます。葉書や手紙の中へ書かれた歌も是非お知らせ願ひたくあります。
△堀内卓造氏、望月光男氏の遺稿も追々出版しようと思ひます。
△會員山川北秋氏は舊臘病を得て逝去されました。謹んで哀悼の意を表します。
△阿部次郎戊の「三太郎日記其二」は彌々岩波書店から出版されました。前著「三太郎日記」と併せて氏の思想に接し得ることを興味多く思ひます。
(431)△土岐哀果氏の歌集「街上不平」も新に出版されます。
△白日社では年四囘刊行で同人の歌集を刊行する。第一編「發生」は三月上旬に發行の由。
△はつ子氏著「藤むすめ」は三月號で批評する。
△香取秀眞氏は功勞により美術學校から銀盃を受けられた。
編輯所便 (大正四年三月「アララギ」第八卷第三號)
○
長塚さんは逝かれました。九州の旅路に孤りで逝かれました。三十七歳の短生涯に妻子も無くして逝かれました。人間の世の中に清痩鶴の如く住んで孤り長く逝かれました。長塚さんに最も近く接した茂吉、千樫、憲吉、赤彦等にも測り得ず、測り得ても近より得ぬ心境を持して孤り遠く逝かれました。
長塚さん位世の中に孤りで住み得た人は鮮いと思ひます。孤りで住み、孤りで逝かれたといふ感が長塚さん自身の今際の自覺ではなかつたらうかと思はれる位三十七年間獨自の境地に住して行くべき運命に行かれました。
長塚さんは一首の歌をも「アララギ」以外の紙へ載せなかつた。(「アララギ」以前は「馬醉木」へ(432)載せた。「馬醉木」以前は新聞「日本」と雜誌「心の花」へ載せた)夫れ以外には決して歌を載せないと聲言して居られた。その位我が根岸短歌會に對して自重して居られた。同時に我々「アララギ」同人の態度に付ても色々と心配せられた事であらうと思はれる。我々の私情を別として單に「アララギ」のためから云つても斯の如き稀有な先輩を失ふのは痛恨非常でゐる。
逝去されたのは二月八日午前十時である。遺骨は二月十一日午後九時嚴君と令弟とに擁せられて東京驛に著いた。そして翌十二日午前十一日上野を出發して下總の郷里に向はれた。
態々遺骨を迎へ、或は送つて下された諸氏に對し深く感謝の意を表します。そして猶其の他色々我々から御心配を願つた多くの先輩諸氏の御厚意を感謝致します。其の他態々書信を以て我々に弔辭を送つて下された諸氏に對し厚く御禮を申し述べます。
五月號は長塚さんの追悼號に致すこと別掲の如し。どうぞ諸君の御協力を願ふ。
○
△今月號から選歌に對して我々の所感を書く事に定めました。我々凡下誠に至らざるを知ると雖も所感を僞りなく明かに書く事は出來るつもりである。さうして夫れが我々には一つの修業になると信じてゐる。書くならば露骨に書く、端的に書く、我々の意見に間違ひや遺漏がある事勿論である。夫れを成るべく立腹しないで下さい。さうして意見を忌憚なく書いて送つて下さい。其の意見を我々は歡(433)んで迎へる。
△阿部次郎氏が來月號から當分毎號に書いて下さる。非常に感謝する。
△岩波書店では三月から「アララギ」發賣所になる事を快諾して下さつた。非常な厚意である事を感謝する。
△「赤光」批評も來月から猶續いて諸氏のを毎號掲載する。
△「屋上の土」が少し後れるから「切火」の方を先きに出す事にした。平福さんの描いて下さつた島の女の挿畫が非常によく出來て有難しとも有難し。外に小兒の佛體一躯を描いて頂いた。限りなき歡びである。「屋上の土」も引續いて出す事になつてゐる。「切火」も岩波書店が發賣所になつて下された事を感謝する。
△山宮允譯「善惡の觀念」も彌々發賣になつた事を歡ぶ。
△室生犀星、山村暮鳥、萩原朔太郎氏の人魚詩社は詩小曲の專門雜誌「卓上噴水」を創刊した。社則紹介は金澤市千日町二室生犀星宛の事。
△新刊紹介は次號に讓る。二月二十四日夜
編輯所便 (大正四年四月「アララギ」第八卷第四號)
(434)△長塚節氏の葬儀は三月十四日郷里にて營まれ候。小生等皆參られず、平福さんにアララギ同人を代表して參列して頂き候。五月號は長塚氏追悼號と致すべく候。
△長塚さんの手紙御貸し下され候方々に御禮申述候。猶他に御貸し下され候方も有之らば淨書の上四月五日迄に御送の程願上候。
△會員諸氏の境遇御知せ被下奉謝候。未だ御通知下さらぬ方は差支なき限り御知らせ願上候。
△「切火」漸く三月二十五日出版致し候。會員諸氏よりは特別に同情して下され奉謝候。然る處初版即日品切れと相成り候ため御申込に對し未だ發送出來ぬ方も有之申譯無之候。再版數日中に出來可申何卒夫れ迄御待ち下され度候。小生の歌集が品切れなど何かの間違ひかとも存じ嬉しく且つ驚き申候。兎に角豫想せざる譯にて送本遲延の段御諒恕の程願上候。
△「切火」發行につきては平福さんから挿畫其の他非常の御骨折にあづかり候。又岩波書店にても一方ならぬ御助力下され其の御蔭にて萬事都合よく進行致し候。此の二事は「切火」發行に際し特に記して歡喜の意を致し候。
△原稿は原稿紙に清書して下され度、原稿紙なき土地の方は半紙に御書き下され度、卷紙や端書は心地よからず。取扱ひにも困り候。絶對に御止め下され度候。自分の歌は自分にて可愛がり淨書いたし候方心地よく存じ候。
(435)△若山夫人御病氣快方に向ひ候に付き若山氏一家臨時相模へ移轉致され候。夫れにつき小生等同志の者別紙稟告の如く發企致し候につき御助勢願上候。
△「切火」の仕事非常に忙しく萬葉集輪講、前月歌壇、寄贈書籍雜誌の紹介等等閑に致し惡しく候。來月よりは勉強致すべく候。三月二十六日夜
〇
歌集明る妙 (尾山篤二郎氏著)
神田區旅籠町一ノ三〇四方堂出版。定價九十錢。「遮莫この不安と不滿とを抱きつつもこの書を刊行せし所以のものは、私は私の敬虔する少數の先蹤と未だ相識らざる幾多の知己の前に喫嘖を乞ふと共に謹で示教を仰ぎたいと願ふ微衷に外ならないのである」と著者の自ら序文に言つてゐる如き敬虔な心から生み出された歌集である。さうして著者は「あはれ何時の日かわが歌をして久遠劫に亙り鬼神を哭かしむる不可知不可測の國土にあらしむることが出來るであらう。」と永久に亙る程の力の體得を一心に希求してゐる。氏の歌には實際に於ていつも力瘤が入つてゐる。力瘤を固めたと思ふ歌から割合に眞の力の響いて來る事が薄い。却つて聳かした肩をゆるめ、瞋らした眼を平靜にした時の歌でしみじみと我々に沁みる歌が多くある。是は注意すべき問題である。
落葉ふみ市のどよみに耳とめてしばしありけるが土のにほひす
(436) 我等何の罪をばになひ生れ來しぞ一しほほそりすがりけるかな
の如きは注意を惹いたよい歌の一部である。詳しくは他日愚見を申述べる。
編輯所使 (大正四年五月「アララギ」第八卷第五號)
△本號は長塚節氏追悼號と致すべき豫定の所整理すべき材料非常に多く、來月に延期致し候段御承知被下度候。
△長塚節氏遺稿は小説其の他紀行文を合せて近く春陽堂より發行相成るべく候。
△伊藤左千夫先生、長塚節氏歌集も愈々近々出版の豫定に候。左千夫先生の歌は私信等にて隨分諸方に散じ居り候筈既に御知らせ被下候諸君も有之御禮申上候。猶澤山御知らせ被下度切に願上候。
△本號の選歌締切日限を勵行致し候ため次號に廻り候歌稿多し。猶來月號は長塚氏追悼號に付き選歌を休み候へば投稿も從つて一箇月御休み被下度候。
△左千夫先生の小説「野菊の墓」は籾山書店より第四版出版相成候。
△大須賀乙字氏令閨逝去の由謹んで哀悼の意を表し候。
△會員岩本千代江氏は三月末逝去致され候。謹んで哀悼の意を表し候。四月二十五日夜
(437) 編輯所使 (大正四年六月「アララギ」第八卷第六號)
△小生小石川區上富坂町二三いろは勘へ移轉仕り候。從つて發行所も移轉御承知被下度候。
△中村憲吉氏は愈々卒業致され候。今後全力を「アララギ」に注ぎ得べく候。
△長塚氏の小説及び紀行文小品文を纏めたる「炭燒の娘」春陽堂より出版相成候。之には古泉君全力を注がれ候。歌集の方も早く纏り候故近き中に出版し得べく候。
△太田水穗氏は短歌を主としたる文藝雜誌「潮音」を七月より創刊せらるべく會員募集中に候。地味な研究と眞率な創作を以て相結ばんとする同行者を望み居られ候。一箇月會費二十錢。詳しくは小石川區三軒町一番地同氏宛照會の事。
△三木露風氏は「白き手の獵人」以後の作「幻の田園」及び氏年來の信條たる「象徴主義信條」を六月中旬東雲堂より出版の由。
△六月より松本平地方會員諸君は會費直接發行所へ御送被下度候。平瀬氏今年用務煩多の故に候。今迄非常に便宜を得たるを謝し候。
○
歌集「切火」畫はがき殘部有之、御望みに應じ候。一、島の女(平福百穗畫伯。日能製版三色版)。如來佛像(同畫伯畫。日能製版凸版)。二、紙質最極上アートペーパー。三、二枚組送料共十錢(切手(438)代用にて宜し)。四、申込所アララギ發行所。
編輯便り (大正四年七月「アララギ」第八卷第七號)
△只今六月二十七日午後七時頭疲れて分らず。これより葉山君民友社へ原稿持參の所。
△原稿を茂吉君の便りにある通り書いて下さい。一月に一囘だけ送る事にして下さい。必ず楷書で書いて下さい。直ぐに原稿にならぬ書き方困る。
△阿部さん、野上さん原稿感謝。寄附金の諸君に感謝する。私共出來る丈けやる。短册少し餘裕ある方に願ふ。
△茂吉の便りよく讀んで下さい。
編輯所便 (大正四年八月「アララギ」第八卷第八號)
△左千夫先生三囘忌は七月廿五日普門院で營まれた。坂本四方太氏、土岐哀果氏來會して下さつた事を感謝する。讀經燒香の後龜戸鯰屋で歌會を開く。列る者哀果、百穗、桐軒、迢空、雫、茂吉、千樫、憲吉、赤彦の九人。木村芳雨氏大龍寺にて待ち給ひし由。子規先生の墓參は急に九月に延し候事氏に申譯なき次第であつた。
(439)△中村憲吉七月上旬備後より歸京。宇野喜代、横山重常陸國磯原海岸に勉強中。赤彦、雫も八月は信濃に歸る筈。
△小生諸君へ御返事差出さぬ事多く申譯なし。睡眠の時間割いて仕事すれど鈍才及ぶ能はず切に高宥を祈る。
△義太夫新論を拜見す。攝津大掾天賦の美聲を持して安住の外道に墮せず。大隅太夫生來の拙聲を以て忍辱の苦行を緩べず。兩者相竝んで藝界の妙諦に入るとぞいふなる。我々下根のものには此の事有難し。七月二十九日
編輯所便 (大正四年九月「アララギ」第八卷第九號)
△別項記載の如く小野三郎氏の訃は痛嘆に埴へぬ。せめて今一年の壽を假したならば歌の方にも大したものを貽された事であらうと痛惜する。
△氏の歌は病者の苦痛を誇張する凡夫の歌とは違ふ。病みながら苦しみながら自己の生活事象を確かに捉むことを忘れてゐない。氏の歌は夫れらの事象を捉へて驚くべく正確な詞と句法と格調とを以て詠み出されてゐるのに敬服してゐた。氏の悲しき主觀は何時も夫れらの事象に即して夫れ等の事象の裡につつましく滲ゐ出てゐる。凡夫の叫喚と品彙を殊にする所以である。只氏の歌に入る事日淺くし(440)て未だ幾何も其の意を伸ぶるに到らずして長逝された事、かへすがへすも痛惜の至りである。
△小生二十日間信濃に歸つてゐる内に書信が發行所へ山積した。是を一々處理する事は一寸の間には行かない。横山、葉山二君の歸京を待つて整理した上返事出すべきものに返事を書く事にする。書信を下さつた諸氏に濟まないが御了知を願ふ。
△古泉君は市外穩田二十四番地へ、中村君は市外中澁谷五十一番地小林幹太郎方へ何れも移轉した。齋藤君は常陸の海岸から最近に歸つて來た。河西君奥さん(即ちよしを女史)は女子を擧げられた。山本君は卒業試驗で忙がしい。宇野君は郷里に水泳を練習してゐる。服部君は信濃の諸高山に登つて歸つた。佐々君も十日ばかりの旅行に出た。葉山君は北信濃を歩いて碓氷山を越して歸京する筈である。
△信濃では二十日間全く家に籠つてゐた。一晩池田、松川の諸君を訪うた。寺島君と高瀬川の出水を徒※[足+歩]して始めて山國深く入つた感がした。私の村には湖水ばたに共同の浴場がある。村人と共にこの湯槽に浸つた時、村へ歸つた自分がしみじみと感ぜられた。夜の湖水に一人で立つて久し振で湖水の靜寂に浸り得た感がした。我々は色々の物へ深く没入して見ねばいけない。
△北原白秋氏の「雲母集」はいよいよ美裝して出た。小生等四人の感想を來月號に載せるつもりである。
(441)△岩谷莫哀氏の「春の反逆」も出版された。八月廿八中村憲吉宅にて日
編輯所便 (大正四年十月「アララギ」第八卷第十號)
△平瀬泣崖君の御厚意にて「アララギ」も振替口座といふもの出來候段奉謝候。是にて人並みの雜誌發行所たる觀を具へ候。「アララギ」八年掛りにて振替口座を得候事考へて見れば一寸變な事に候。
△振替口座は東京貳八參四參番に候へば何れの小さき郵便局に行きても此の番號を言ひて振替の用紙貰ひ候へば即時小額の手數料にて金を送り得べく、其の用紙の裏面へ通信文書き得べく候へば別に三錢貼りし手紙出す必要もなく一錢五厘の端書出す必要も無之便利甚しく候へば今後之によりて御送金被下度願上候。之全く泣崖君の御配慮に由りし事と深く奉謝上候。「アララギ」に會費御送御停滯の方は無理とは存じ候へど既に數圓御滯りの方は振替口座出來しを機として少々づつ分割して御送被下度候。若し一時に御送り被下候へば大したる事に奉存候。序に申上候へ共往々五錢十錢等の切手御送被下候方有之此の切手滅多に使用する事無之候へば以後これ等の切手御送無之樣願上候。御送金に對し小言申しては惡しく候へ共右御承知願上候。小生雜誌營業人に候へば金來れば大に安心致し候。印刷所から大きな書付來り候へば非常に困り且苦しみ且心配致し候。此儀不惡願上候。
△岡麓氏より「平賀元義歌集」二十册御寄贈被下候。是は既に絶版に成りたる珍本に候へば特に感謝(442)の至に奉存候。少數に候へば會員外には頒ち申さず。一部一圓づつ頂きても宜しと存じ候。定價より少々高く候へ共御希望の方に羞上可申候。
△歌は三十首の制限御守り被下度會員多く候へば自然選歌の手行き渡り申す間敷候。且つ餘り多數の歌を駢列したる歌稿によき歌殆ど無之儀と御承知不都合無之と存じ候。夫れから御送の歌稿毎月一度に御纏め被下度願上候。
△新聞にこんな事見え居り候。
大錦は毎日必死に稽古をし私に打突かつて來る。今度はかう仕切れ、あゝ仕切れ、此處で突張つて呉れ、其處で押して見て呉れなどと色々の註文を出すので面倒でした。詰り私を投り出す研究をしてゐるのです。(太刀山)
稽古積まずば力出で申す間敷候。敬具。九月三十日
編輯所便 (大正四年十有「アララギ」第八卷第十一號)
△山田三子氏令閨御逝去の由哀悼の至に堪へす候。
△會員五味ひさえ氏は十月初旬逝去せられ候。氏は山田邦子氏の令妹五味保徳氏の令閨なり。華燭幾くならずして此の悲傷事に遇ふ誠に哀悼の至に堪へず候。
△岩波書店刊行哲學叢書は阿部次郎、安倍能成、上野直昭三氏の熱心なる編輯に依つて既に第二編に(443)著手された。廣告欄御參照を乞ふ。
△津田青楓氏の屏風畫會は本間二曲塗縁、鳥の子(日本繪の具)と麻地(油繪の具)との二種を頒つ。前者は本年十一月より毎月金五圓十箇月滿了。後者毎月金六圓十二箇月を以て滿了。東京芝區三田四國町二ノ一號小宮豐隆氏方「青楓屏風畫會事務所」宛に御申込を乞ふ。
△風流手拭會は毎月各畫伯の圖あ意匠に成る手拭一筋宛を出して一箇年で滿了する。平福百穗氏、結城素明氏等も執筆する。半年分六十錢一年分一圓十錢。東京淺草區猿若町二丁目アサノ井染物店宛御申込を乞ふ。
△平福百穗氏東北大演習行。歸來直ちに京都へ出發の筈。
△石原純氏仙臺より上京。久し振にて一日の會合をなせり。別欄記載の如し。△中村憲吉氏十月上旬歸京十一月初旬又々一寸歸國の筈。
△土田耕平君伊豆大島行。今冬中滯在。
△兩角丑助、濱文武、小尾石馬等諸君繪畫展覽會觀覽のため上京。歸國。
△沖鹽正光君京都大學へ轉校。
△加納操君上野國赤城山に遊ぶ。
△横山重君日光山に遊ぶ。
(444)△葉山雫君下野國に遊ぶ。
△宮坂武吉君仙臺より上京。留る旬日にして歸る。
△會員諸君の歌稿は月一囘卅首以下を嚴守下されたし。投稿規定も御厄介なれ共何卒御一讀を願ふ。
△歌集「切火」は第三版を出すこと當分之なかるべし。御講讀の諸君は直接發行所へ御申込を願ふ。
十月二十九日午前四時表町にて
編輯所便 (大正五年一月「アララギ」第九卷第一號)
△新年の御慶芽出度申納め候。「アララギ」も先輩諸氏の援助と會員一同努力の集中により茲に第九卷に踏み入り候事嬉しく奉存候。九卷と云へば殆ど十年、此の間の辛酸を思へば、層疊の苦艱、今日只今も懼れ居り申さず。元氣に充ち大手を振つて新年を迎へ候事痛ましく嬉しく奉存候。心張つて肉益々瘠す。瘠すと雖も病すること莫し。「アララギ」肥えし事一度も無之候へども病みたること一度も無し。痛ましく嬉しと言ふ所以に候。今後の振否一に繋つて會員一同の努力と我々編輯者の發憤にあり。錢と時と心と無駄費ひせす、精進の一途に立ち候覺悟、「アララギ」に於ては只之をのみ必要と致し候。放埒、放心、放思、放言の聲「アララギ」の門に聞ゆるを容《ゆる》さず。況や流俗低卑の心をや。
△アララギ」同人は新年に入りても、虔《つつ》ましく微《かす》かに過し居り候。世人に迎へらるる如き新年の歡(445)喜は「アララギ」の門内に入り申さざるべく候。夫れの入らざるは「アララギ」所期の致す所、驚き且つ慌て申さず候。小生十數日來殆ど徹宵、心身聊か疲勞を過ぎ候。早曉牛乳車の門外を過ぐる頃往々喪心せんとする事あり。苦業足らざれば、之程の事に心弱くなる事無之にもあらず。家郷五十里、よい年をして遊子たり。嘲笑せらるるの理多くして、慰藉は自らも之に居らず。況や他人に之を求むるをや。おりよさんは、淺草の觀音樣へ願を掛けて仇《かたき》を護持院ケ原に討ち申候。おりよさんの心を思へば原稿紙の上に涙落ち候。小生等の苦難未だ未だ淺きことに候。
△歌集の發行、近年汗牛も啻ならざるの盛況に候。之について思はれ候は、我が根岸短歌會の歌集に候。子規先生一生歌集を編み給はず。左千夫先生一生歌集を編み給はず。長塚氏一生歌集を編み給はず。大正元年に至り、憲吉、赤彦はじめて歌集を合著せり。大正二年茂吉はじめて歌集あり。千樫歌に遊ぶこと十餘年にして未だ歌集を出すを肯ぜず。昨年赤彦の歌集「切火」を出さんとして、豫め福岡なる長塚氏の病牀に報ずるや、返事一言の之に及ぶなし。我が同人の歌集多刊を忌む事年久し。長塚氏に至りては更に之より甚しきものあり。歌集續出の盛世に逢ひて斯樣な事考へ候時、「アララギ」の寂しき正體の一部却つて他人によりて示さるる如き感なきにもあらず。
△中村憲吉氏は郷里にありて新年を迎へられ候。一月上旬上京新しき勇氣を以て「アララギ」に盡され可申候。
(446)△荒尾五山氏十二月上旬朝鮮より上京、發行所を御訪ね下され候處生憎小生不在致し遺憾の至りに存候。
△柳本城西氏十二月上旬上京。發行所にて歌會を催す。會するもの茂吉、千樫、喜代之介、重、雫、赤彦の六人。歌別記の如し。
△小尾石馬氏十二月に入りて再度上京。折からの繁忙中二三泊してお手傳ひを願ひ候事、禮を得たりとなさず。奉深謝候。重氏と共に三四時間を割きて越路太夫を聽かれ候。
△重氏は年末を伊豆大島に行き病餘を養ふべく候。雫、今衛二君と共に往々徹宵して編輯と會計を手傳ひ少し疲れし模樣に候。
△森山汀川氏の嚴父御逝去の由謹んで哀悼の意を表し候。
△兩角丑助氏は舊冬土佐に遊ばれ申候。
△小池晴豐民舊臘上京致され候。
編輯所便 (大正五年二月「アララギ」第九卷第二號)
△農業者にして農業を勵まず、學生にして學業を勵まず、教員にして教務を疎かにし、商工業者にして商工業を疎かにするやうの人、到底よき歌作り得申すまじく候。少年にして頭髪の類を氣にし遊佚(447)の徒と交り暮し、容易なる男女文通に時間を消費する如き群《むれ》「アララギ」に於ては一人も有之可からず。若し、一人にても有之候はば輒かにお止め下され度、若し止めること差支へ候はば御退会會下され度候。
△元來文門自在にしで、齒の浮くやうな群多く群がり居り候へば、之等の流俗を打破せんには堅實醇樸なる青年を要し申すべく、新に進まんとするの氣を負へるものの考慮すべき緊要事と存じ候。田舍にゐて妙なハイカラの眞似などする青年到底一生ものになり申すまじきは勿論、流弊延いて地方に流布致し候はば由々敷大事と存じ候。
△戀などいふ言葉は尊くして容易に口にすべき言葉にあらず。口にするも一生中何度も口にすべきにあらず。戀を輕薄にせぬが「アララギ」の心になり候樣念じ奉り候。神がけて大切の事と存じ奉り候。
△寫生の事、追々歌人の問題になり候事、小生等には遲すぎる心地致され候。本號土屋文明君により一部の問題の解釋せられたる小生等にも有益に存じ候。小生等の考へを次號に發表仕るべく候。
△二月八日は故長塚氏第一周忌に當る。日月匆忙夢の如くに候。
△平福百穗氏は舊臘、丹波に旅行、最近歸京致され候。
△中村憲吉氏月末上京、牛込區南山伏町八番地に新居を卜せられ候。
(448)△山本信一氏舊臘、東京醫科大學卒業、新に大學病院産婦人科病室に勤務致され候。祝著存じ上げ候。
△篠原志都兒氏、新年早々四國に遊ばれ候。
△塚田廣路氏、新年上京發行所に數泊、歸國致され候。
△松田廣美氏、舊冬婚儀を擧げ候、祝著存じ奉り候。
△佐々黙々氏、新に初子擧げられ候。是亦祝著存じ奉り候。
△中山滿吉氏、猶、片瀬に靜養中に候。追々健全に復せられ候由、欣喜の至りに候。
△ラ、テール二月號は江馬修氏の長篇小説と福士幸次郎氏の「太陽の子」以後長詩十三篇を以て充さるる由に候。
編輯所より (大正五年三月「アララギ」第九卷第三號)
△このごろ紙價騰貴いたし、印刷費も値上げに相成り候につき會計整理上會員諸君は會費の御送附を正確に願上げ候。
△東京雜誌組合の決議の結果「アララギ」も來る四月より値上げいたさねばならぬことに相成り候へば左樣御承知下されたく候。
(449)△投稿は必ず投稿規則に準じて御書き下されたく候。
△中村憲吉君は此の度東京牛込區横寺町六十四番地へ轉居いたし候。
△古屋秀峰君此の度目出度結婚いたされ候。
△今村岩夫氏、磯野彦五郎氏の逝去の報に接せり。謹みて哀悼す。
編輯所便 (大正五年四月「アララギ」第九卷第四號)
△小宮氏、赤木氏忙中特に稿を寄せらる。感謝比なし。
△今日春暖初めて至る。集るもの千樫あり、憲吉あり。只今夜十時、校正最中なり。茂吉忙しく、小生忙しくして、猶發行の期を過るなきを得るを喜ぶ。遲刊を憂ふる「アララギ」の如きなくして、遲刊の多き「アラブギ」の如きは寡し。何の故ぞ。四月より小生較々閑散なり。努力を致すを得べし。
△歌稿に對して特に意見を徴せらるる多くして未だ酬ゆるに及ばず。其の他書債山積せり。四月に至り追々其の責を果すべし。御宥恕を祈る。
△五月號は特に短歌號として、短歌及び短歌に對する我等の愚見を發表すべし。會員諸氏亦盛に洗練せられたる歌稿を送られん事を祈る。
△「アララギ」は聖者ならざれば、未だ清濁併せ容るるの器容を備へず。古に求めて萬葉集を宗とし、(450)今に會して子規先生の遺業を紹ぶるに之れ急なるのみ。他を顧ゐるの餘裕なし。則ち「アララギ」に來り合する人も、吾人の急なるに之に急ならんを祈る。今に當りて他に願ふ所なし。至祈至願。他に希求なし。會員以外の歌は吾人の特に乞ふ所のもの以外之を採らず。御諒知を冀ふ。
△小生の歌に對して、言を賜ふもの多し。本號所載乙字氏御意見の如き、就中懇切を極む、感謝の至りなり。次號に愚見を申述ぶべし。
△齋藤茂吉著「短歌私鈔」成る。實朝、良寛、愚庵等の歌を鈔出して評釋を加へたり。尖鋭一途の見、今日の珍たるを信ず。大方諸君の御購求を祈る。
△横山重業を終へて信濃に歸れり。發行所一人を減ずるは「アララギ」の打撃なり。小生事を共にする二年、感慨無からざらんや。三月廿一日有志者の送別會を開くあり。會するもの茂吉、千樫、憲吉、喜代之介、曉、今衛、馬吉、小生の八人。
△馬吉亦休暇を得て歸省せり。今衛代つて雜務を補く。已にして今衛亦去つて郷國に就けり。彼去り是去る、春雁の歸るに似たり。小生一人六疊の一室に坐す。頗る寂寥の心あり。
△投稿規定を確守し給はん事を願ふ。くだらぬ書き直しに時間を取ること、小生の今日には甚だ苦痛なり。何卒願ふ。
△山本信一君病氣入院中なり。速に恢復あらんを祈る。三月二十七日夜十二時
(451) 編輯所便 (大正五年五月「アララギ」第九卷第五號)
△本號は、短歌號として賑ひ候こと欣喜に存じ候。殊に北原白秋氏が殆ど百首の近作を御寄送下され候御厚意感謝の至りに存じ候。小宮豐隆氏、赤木桁平氏例によりて忙中御寄稿下され、非常に有難く存じ上げ候。阿部次郎氏も來月號より何か御書き下され候筈、諸氏御同情は微小なる「アララギ」に取りて如何ばかりの歓喜と存じ候。小生等益々奮勵せねば濟まぬ事に候。歌が苦しくて出來ぬなど申し居りては濟まず候。下手にても二三十首位作る方、自分の爲にもなり申すべく候。下手の歌根氣よく作り居らば、軈て上手になり申すべく候。今月は歌がないなど、吾々同人の固き禁物に候。
△齋藤茂吉君の「短歌私鈔」愈々新裝發賣相成候。醫務繁劇裡、睡眠時間まで割いて茂吉氏も瘠せ申候。「アララギ」叢書斯の如くして新に一を加へ候事、吾々同人には誠に容易ならず候。幸にして諸君の御同情を得て賣行非常に宜しく奉感謝候。精錬尖鋭の見、茂吉の主張茲に盡さる。會員諸君の一本を備へられんことを御願ひ申上候。
△北原白秋氏は「雲母集」以後の作を集めて「雀の卵」と題し、五月中に阿蘭陀書房より歌集出版すべく候。猶「雲母集」の妹妹詩集「畑の祭」も前後して出版致さるべく、今より期待申候。
△會費停滯の御方此の際至急御送願上候。「アララギ」何箇月も金頂かずば目前困り可申候。
(452)△石原純君、四月一日上京、令弟石原謙氏御宅にて小生等御厄介に成り、一夕清談仕り候。
△古泉千樫君、四國九州漫遊約一簡月にして歸京。來月は作歌澤山發表可致候。
△新刊紹介次號に讓り候。
編輯所便 (大正五年六月「アララギ」第九卷第六號)
△此の便認むるは五月卅一日午後三時なり。茂吉、憲吉、赤彦三人の原稿やつと只今間に合ふ。怠慢甚し、決して宜しからず。千樫の歌遂に間に合はず、遺憾甚だし。
△平福百穗畫伯は數日前朝鮮へ出發せり。一箇月程滯在の豫定なり。彼地より畫送りて頂くやう御願ひ申し置けり。六月號より口繪及び挿畫となりて本誌に現るべし。
△土屋文明氏卒業間近くなり、歌作に從はんとす。來月號より毎號發表せらるべし。
△山田邦子氏最近の歌及び數年來の歌を輯めて歌集「光を慕ひつつ」を出さる。別紙廣告の如し。諸君の御購讀を望む。
△中山滿吉君相州より郷里へ歸らる。
△山本信一君快癒鎌倉より歸京。
△會費不納の方には、已むをを得ず集金郵便差出せり。會計不如意なれば詮方なし。御寛容を願ふ。
(453)△歌の原稿は必ず廿一字詰めに願ふ。其の他奥付所載の規定御熟讀を願ふ。
△五月二十九日草の戸君墨國に渡航す。別欄記載の如し。横濱埠頭小生はじめて大汽船の甲板上に立てり。この船太平洋を越えて遠く南米まで押し渡るのかと思へば心闊くも思はれ、同時に心細くも思はる。日本小さくも思はれ、日本|愛《かな》しくも思はる。この心地妙なり。眞劔の心やゝ起るなるべし。孤身海外に出づる友を前に置きて考ふる故にやあらん。
△南米移民の群男女相混じて甲板上に整列す。點檢受けんがためなり。洋服なるあり、和服なるあり、寢衣なるあり、女にて單帶なるあり、頭禿げたるあり、蓬髪なるあり、ハイカラなるあり。頗る雜然たり。而して彼の群の顔貌、甚しく緊張して眼光れると、甚しく弛緩して眼鈍れるとあるを見る。その羞霄壤なるを覺ゆ。各人境遇の差は之有らんも、其の差餘りに甚しきを感ず。之も亦小生妙な心起れり。
△汽船の笛怪しく耳に響く。この船の持てる背景が斯る力を與ふるなるべし。小生等の歌に響き足らずば、そは小生等のどん底より、生るる背景の不足なり。自から滲み出でて現るべき背景の不足なり。この背景は小生等經歴の幅と深さなり。幅のみ廣きは淺くして力なし。深しとて幅狹きを喜ぶべきにあらず。この事考へ見るは身の爲なり。
△港内の水、油浮き、芥浮き、鼠の死骸浮く。横濱港内活動の背景によりて、この水生動す。汚しと(454)見る可からず。
△木村男也氏より金十圓、某氏より金五圓本誌經營費に寄附し給ふ。本誌力微小、必しも世に顧みらるるを願はずと雖も、時々心細くなる事なきに非ず。御芳志感謝甚大。
蘆部猪之吉君を送る
畏友草の戸君五月二十九日を以て墨斯古に向ふ。君の教職にあるや、教育のために一身を忘れ、君の郷黨にあるや郷黨のために一身を忘る。今君齢將に知命に達せんとして單身海を渡る。其の決意異常なるを知る。海山萬里。願くば加餐して、深く一身を愛し給はむを祈る。
編輯所便 (大正五年七月「アララギ」第九卷第七號)
△故伊藤左千夫先生の第四囘忌歌會を七月九日正午より發行所に開く。兼題として夏期の歌三首清書して持參の事。會費金三十錢。
△石原純氏は理學博士の學位を授けられた。
△土屋文明氏は東京文科大學を卒へられた。來月號から必ず歌を作る筈である。
△平福百穗氏は猶朝鮮に居られる。少し健康を害されたために本號にお願ひした繪、遂に間に合はな(455)かつたのは殘念である。
△中村憲吉氏は近いうちに歌集を出す。「馬鈴薯の花」以後の歌大凡四百首に、未發表の新作百數十餘首を加へて出す筈である。
△河野愼吾氏は近々純文藝雜誌「秦皮《とねりこ》」を發行する筈で社友を募集してゐる。詳細は東京神田區宮本町八番地長澤方同氏に紹介の事。
△木田政七氏は短歌用原稿紙を發賣した。ペンと筆兩用にして色々便利よく出來てゐる。紙質もいい。百枚廿五錢郵税二錢、希望者は東京牛込區早稻田鶴卷町百十一番地同氏宛申込む事。
△八月號は七月中に出して、小生一寸歸國する。原稿期日嚴守を願ふ。
△會員平林ふみ氏は病氣を以て長逝せられた。痛惜の至りである。深く哀悼の意を表する。
○
△今朝の曉け方、眼をあいて見ると、體が蒲團の外へ出て、疊の上に轉がつて居た。少し疲れ過ぎてゐるやうである。今、高木今衛と民友社で校正をしてゐる。この街通りは道幅が狹くて、並樹が高い。從つて影が深い。夏姿した美しい子が幾人も通る。校正終れば家に歸つて、明朝まで寢る。雜誌が思ふやうに、何うしても出來ぬのが殘念でゐる。六月三十日午後二時
(456) 編輯所便 (大正五年八月「アララギ」第九卷第八號)
△小生等暑中歸國の要あり、編輯いつもより取り急げり。珍しき早刊なり。これを縁に、永久遲刊をせぬ事にしたし。この事「アララギ」には年來の大切な問題なり。投稿期日嚴守せられたし。今月は遲著のもの多く次號に廻せり。詮方なき儀と御承知ありたし。今後も然るべし。御承知を願ふ。
△歌稿書き方左の如く願ふ。
二行あける}
(題) 國名(若くは市名) 姓名
(歌)〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇
〇〇〇〇〇〇〇
(歌)〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇
〇〇〇〇〇〇〇
一行廿一字詰。一首必ず二行に亙り、必要の字に振仮名する事。振假名は乎假名の事。用紙の大さは半紙大の事。文字はぼつりぼつりと一字づつ楷書にて認むること。
斯樣にせねば、小生等書きなほしせねばならず、少からず困る。
△中村憲吉の歌集彌々出版の事となれり。大正二年以來の作より五百首を選べり。裝幀只今考案中な(457)り。出版近かるべし。御講讀を冀ふ。
△齋藤茂吉嚴父御病氣にて山形縣に歸る。
△平福百穗氏七月中旬朝鮮より歸京。健康全く恢復。
△木版口繪寫眞版の種板は岡麓氏より寄贈せらる。左千夫先生母堂の撮影は他に無かるべしとの事。珍品といふべし。感謝甚し。因に寫眞は明治三十五六年頃のものに屬す。向つて右より第二番目左千夫先生。中央同母堂。最左端同令夫人。
△小生本號の歌に「盛りあがり」といふ句あり。「國民文學」七月號に、窪田空穗氏の歌「湧き出づる泉の水の盛りあがりくづるとすれやなほ盛りあがる」あり。小生の「盛りあがり」は、之に影響せられしにあらず。小生の草稿は四月より成り居れり。この草稿念のため空穗氏の御一覽を願ひ置けり。然るに本號傳田精爾氏の歌に、矢張りこの句使用せられ居り、「盛りあがり」の鉢合せとなれり。
△「平賀元義歌集」更に發見、全部を岡麓氏より寄贈せらる。感謝の至りなり。これにて此の書世に盡くべし。少數なれば希望の方に一部一圓にて頒つべし。
△木田翠明氏の發行する短歌原稿用紙は、百枚三十錢郵税八錢(東京市内四錢)郵券代用一割増に改正との事、東京牛込區早稻田鶴卷町百十一番地同氏宛の事。七月十九日
(458) 編輯所便 (大正五年九月「アララギ」第九卷第九號)
△中村憲吉の歌集「林泉集」は既に編輯を終り、裝幀に取り掛れり。挿畫は例により百穗畫伯を煩し、非常の傑作を得たり。感謝の至りなり。十月一日は優に製本を見るべし。諸君の御購讀を冀ふ。因みに「泉」の名は既に他に同名の書出版せられたる故「林泉集」と改めたり。却つてよし。
△百穗畫伯は目下郷里秋田懸に歸省中なり。
△齋藤茂吉は嚴父の御病氣輕快、郷里山形縣より歸京せり。門間春雄氏と磐代國高湯に淹留して山氣飽喫、「短歌私鈔」編輯以來の瘠痩を恢復せり。來月號より「賀茂眞淵論」を載すべし。
△古泉千樫、帝都の炎暑に籠りて瘠せたりと稱す。必しも瘠せず。本號久し振にて歌現る。
△土屋文明、郷里群馬縣より歸京。久し振にて歌あり。今後毎號發表の筈。
△加納曉、木曾馬吉、高木今衛、皆歸國中。編輯所甚だ寂寥。繁忙一身に集る。今日編輯を終りて、やゝ息を緩ぶ。信濃にては、岩村田に十數氏と會せり。初見の人多くして彼此の談却つて揚る。居る一日にして諸君の厚意に背きたるを惜む。郷家に入りてよりは全く籠居、時にお舟祭に子女を携へて下諏訪の古驛を一巡せしのみ。古驛今益々殷賑して明神の森愈々古る。曳子の被布《はつぴ》、お舟の爺姿人形予の幼時見し所に異ならず。客居多くして家居少なし。顧みれば子女既に長ぜり、身世將に過ぎんとす。銷沈の心少しく起る。富士見の原に小池晴豐氏を訪うて一日を過せり。秋草早く咲いて蝉蜩遲く(459)生る。丘上新に立つものを森林測候所となす。富士川水源の水量を測るなりとぞ。境の遠く邃きを想ふべし。
△原稿は半紙大のを使用して頂きたし。小さきは大に不便なり。
△會費御送を乞ふ。「アララギ」困る故。
△釋迢空氏の萬葉集講義出づ。御購讀を勸む。廣告欄御一覽を乞ふ。
△田中一造氏より發行費へ金二圓を寄附せらる。深く御厚意を謝す。八月二十六日
△「アララギ」の歌は、すべて同じ標準を以て取捨の選擇致し候へば、排列の順序、歌數の多少の如きは、何等歌の價値に關係せず。從來も然り。只今も然り。此の儀時々御承知置き被下度候。餘白生じたる故申し置き候。アララギは學校にあらざれば、一年級二年級とやうの組別け致すつもり無之候。
△「アララギ」の如き堂々たらざる雜誌は、歌の稽古場所と思つて下されば.忝く候。稽古場所ゆゑ、番附も廻褌《まはし》も要らぬ裸一貰に候。お互に汗出してぶつつかり居れば夫れで宜しく候。晴れの場所へは隨意御出掛然るべく候。御出掛相成ても稽古は必要に候。小生等一生稽古のみして老いることを恥辱と思ひ居らず候。天成の關取にて稽古など要らぬ天才力士は「アララギ」の門をくぐる要無之候。體は泥だらけに、髻は亂れ居り候とも、汗出して稽古さへして居れば、夫れで「アララギ」の役目は濟み可申候。
(460)△小生等は千年前の防人が詠める一首の歌に權威を認め候と共に、景樹の千百首を屁の如く思ひ居候。景樹は時めける世上の大歌人に候。防人は何處かの村婦の倅《せがれ》に候。守備兵二等卒に候。小生等は二等卒志願に候へば、要らぬ世上の心づかひを節約して本當の稽古相勵み申すべく候。稽古進まば額に手をあて喜び居れば宜しく候。
△附ては小生の小曲集恥しく存候。久し振にて此の方の稽古を始め可申候。きまり惡しく候へば少しの内笑はぬ樣願ひ候。頭は御叩きなされても屹度宜しく候。八月二十八日夜
△餘白埋めるつもりの處、只今少々興湧き候ゆゑ、序でに書き添へ候。「アララギ」も稽古專一と心得居るつもりに候へども、多少娑婆氣を持ち居り候。第一成る丈け賣れる方宜しく候。賣れぬ月は心配し賣れた月は歡び候。賣れても具合宜しからねば、況して賣れぬ月の當惑一方ならず候。故左千夫先生は、小生等よりもズツト暢氣《のんき》にて、左樣な事小生等程に心配せず、雜誌の發行なども期日守りし事終生一度もなく、從つて年に五六册出す位の事もありしと存じ候。小生等は左千夫先生よりも、ずつと當世向きに生れつき候へば、先生の如き暢氣言つて居るべき柄で無いと思はれ候。柄で無いものが、柄であるやうに振舞ひ候事は都合惡しきかと存じ候故、矢張り當分は賣れる事を祈り居り候。こんな些細な稽古雜誌を二十六錢の銀銅貸出して買つて下さる方あるかと思へば涙落つる計り忝く候。小生等は賣却方の心配よりしても發行く期日の嚴守を念じ居り候。夫れ故原稿を編輯締切りに間に合せ(461)被下候事は、小生等には重大なる感謝に候。「アララギ」以外の御方が期日を重じて下さり、且つ異常の厚意を以て原稿下さる時、「アララギ」内のものが怠け居り候事、勿體なき罪と存じ候。夫れ故近來は發行期日大抵間違はぬやう變化致し候。發行期日を間違はぬといふ事毎月雜誌出すといふ事、夫れが矢張り稽古たるべく存じ候。雜誌に催促されて歌を勉強するなど、名譽でないと思ひ候へども、少くも、怠けるより宜しく候。外的動機に煩されずして、自己内心の衝動より生るべきなりなど申す事、小生等も分り居り候。今日の日本に徹底したる左樣の人何人あり候哉伺ひ度候。小生一人は外的事情に促されて歌作る事いくらも有之候。全く自己内心の衝動より生るるなどといふ事、寧ろ少きかも知れず候。夫れでも歌を怠けるより歌を精出す方が冥慮に叶ふかと存じ居り候。
△倩ら世間を見渡すに、形に煩されずして、眞に内心自由の活動をなし居るもの何れの邊にありや。人生一切の活動は、すべて形の不自由より起る一種の亢奮なりとも謂ひ得べし。不自由との戦闘之れ人間の活動一切なり。この積極的方面を活動といひ、消極的方面を鍛錬といふ。鍛錬は力なり。活動は用なり。兩者同時に同所に存すべくして、乖離すべきにあらず。小生等の歌が外的促迫より來る場合いくらもあり候へども、鍛錬の機縁を作ること、小生等凡人には最も有難し。内心衝動の自由なる活動など申し居るよりも、雜誌を毎月一日に出す事の方が小生等には急務なり。左千夫先生地下に何と見る。娑婆氣多しとて笑ひ給ふか。
(462)△其の代りアララギは、たとひ賣れずして發行數が十分の一になり、會員數が百分の一になり候とも、同人一人の生存する以上は廢刊仕らず候。此の覺悟明瞭に候。過去の人すら世を經て榮辱を變ず。況や現世の盛衰をや。小生等鈍根なり。根氣にて貫くの外なし。相伴ふもの遂に少數なるやも知れず、そんな場合もあるべし。勉強を專一となす。
△玄人志願なりとて嘲るものあり。何の業か、何の處か素人を須つの餘地ある。泰平驚くべし。大正の盛代猶この長者を容るるか。八月二十八日夜三時半記
編輯所便 (大正五年十月「アララギ」第九卷第十號)
△卷頭豫告の如く、十月十五日を以て本誌臨時増刊號を出し申すべく候。守部翁は、徳川末葉に生れし古學の大家にして、萬葉集に於ける獨創の識見、自ら一世に超脱せりと稱せらる。萬葉集檜抓は、翁の後年まで筆を執られし萬葉集評釋書にして、翁の最も自信を有せし著作なる事、「國民文學」誌上佐々木博士の解説に見ゆ。之が遺稿全部を臨時増刊と爲すを得たるは、全く翁の嫡孫に當られ候ふ橘純一氏の異常なる御厚意に依り候。この儀特に記して氏の御厚意を感謝致し候。
△猶發刊につきては、佐々木博士より御配慮を賜り候こと感謝の至りに候。殊に釋迢空氏は増刊號のために一箇月以前より東奔西走御盡力下され、檜抓の公刊に全力を盡し下され候こと感謝の詞を知ら(463)ず候。増刊號は斯くの如くして、萬葉集研究者の久しき希望を滿たし得るに至り候こと欣慶の至りに候。△既に著手致し候上は、たとひ會計上の缺損を來し候とも斷行致すべく候。本誌の微力なるは、會員諸氏御承知の如くに候。微力と知りつつ斷行するまでには、多少の思案を費し候。此儀會員諸氏の御同情を希ふより外に方途無く候。恐入り候へども、會費の既納未納に關らず、此際別に臨時號定價七十五錢を十月十五日迄に御送附願上候。實物出ぬ内に金頂き候事惡しき事と思ひ候へども、無理せねば刊行出來ず候。此儀御海容の上御賛成祈上候。失禮に候へども、萬一何等御通知無之方は、御希望なきものと見做して送本羞控へ申すべく、此儀種々の事情御推察の上御赦し披下度候。
△中村憲吉氏の「林泉集」彌々十月五日頃製本相成り申すべく、只今折角校正中に候。豫想以上に立派に出來候事欣喜存じ候。多數の方より御註文下され幸甚奉存候。「アララギ」微力の割合に仕事せんと勵み候へども、腰たたねば詮方もなし。一時に「林泉集」と増刊號を出し候事なれば、經營上、尠からず狼狽致し居り候。氣が小さいから心配すると存候。
△小生、馬吉、今衛當分同室する事に定め候。三人同室にては少々狹く候へば思ひ切りて小生の面會日を定め候。今後御用の方は、毎週月曜日午前十一時より御出掛下され度候。面會日定むるなどは生意氣至極に候へども、當分御赦被下度候。急ぎの用事有之候節は、何日何時にても御出掛下され度候。(464)地方より御出掛の方は何日何時にても御訪ね下され度候。
△釋迢空氏の「口譯萬葉集」上卷彌々刊行致され候。中學一年生の時から萬葉集を研究し續けられたる同氏の蘊蓄を傾けられし事に候へば、内容の完備言を俟たず候。俄出の際物とは別物に候。御構讀祈上候。
△土岐哀果氏の歌集「雜音の中」前田夕暮氏の歌集「深林」何れも刊行せられ候。本紙に批評書くべくして果さず。次號に讓り候。其の他新刊寄贈多く候へども、すべて十一月號にて紹介致すべく候。
△會員以外の方の歌は、特に當方より御願ひ申上ぐるもの以外は掲載せず、此の點少し狹く候へども、御承知下され度候。小生少々手術を受け二旬牀上に在りしも、最早全快元氣迫々宜しく御安心被下度候。九月二十八日
編輯所便 (大正五年十一月「アララギ」第九卷第十一號)
〇中村憲吉外祖母君重病の電報に接し、急に歸國せしため「林泉集」の發行自然遲るる事に相成り、既に御註文の諸氏に對して誠に相濟まず、然るに祖母君遂に永眠せられ、中村氏當分上京する能はず、歌集殘務小生全部引受け候へば、月末多用の際又々延引の事に相成り重ね重ね申譯無之候。十一月五日迄には必ず刊行致すべく右の事情御諒察の上御海容の程願上候。
(465)○次に本誌臨時増刊「萬葉集檜抓」儀十月五日某印刷所の契約成り、同時原稿相渡し候處、違約に違約を重ね、荏苒二十日を經過致し候ため、遺憾乍ら解約して他の印刷所に託する事に相成り、此の間岩波書店、釋迢空二氏には、非常の御配慮と御奔走を賜はり、小生も能ふだけの力を尋し候へども、某印刷所の無責任は到底、埒明かざるを看取致し候次第、此儀一に小生の不明と不馴より出でたる過失にして、諸氏に申譯なき次第と奉存候。特に前號豫告に對し豫定期日迄に御送金下され候諸氏に対して恐縮此上なし。右小生より深く御詫申上候。色々にて費用追々に嵩み、豫定の費用にて印刷覺束なきは明瞭に相成り候へば、詮方なく定價七十五錢を定價八十五錢に改め候。是にても殆ど不足の有樣に候。今後御註文の御方は此儀惡しからず御承知にて御拂込の程願上候。今日迄に既に御註文の御方は御送金濟と否とに關らず勿論七十五錢にて宜しく候。製本も豫定より少數に相成り申すべく候へば御註文の御方は、至急御申込下され度願上候。十一月十五日發行の儀も右の次第に候へば事情御諒察のほど願上候。
〇本誌も毎月經營困難の有樣にて諸氏の御配慮を煩し來り候段感銘の至に候。今囘民友社よりも多大の御厚意を蒙り候。此儀特記して感謝の意を表し候。
〇木下杢太郎氏よりは著滿早々長篇稿文を寄せられ候。御厚意感謝の至りに候。以後毎月稿を續け下さる筈に候。阿部次郎氏よりは非常に長期に亙りてゲーテ詩抄御贈與下され候事感謝此事に奉存候。(466)北原白秋氏よりも長篇もの御寄せ下され深謝奉り候。同氏よりも時々特別の御好意を寄せられ嬉しく奉存候。
〇長塚節氏の長篇小説「土」今囘春陽堂より縮刷發行定價九十錢發賣相成候。御講讀下され度候。
〇赤木桁平氏の評論集「文藝上の理想主義」は廣告欄記載の如く、彌々洛陽堂より出版相成候。同氏の評論は今日の文壇に於て、獨持の位置を占むるもの、近くは「遊蕩文學撲滅論」の文壇を撼かすあり、曩には「夏目漱石論」の長篇世上の視聽を聳動せしむるあり。數年來の評論すべて輯めて此の一卷にあり。特に「赤光」「切火」の批評亦此の内にあり候事嬉しく存じ候。諸氏の御構讀を願ひ候。
〇阿部次郎氏の「倫理學の根本問題」は岩波書店より出版せられ候。氏の学殖と觀察と識見を以て、從來の倫理問題に對して犀利深刻なる省察と斷案を下されし事、到底、世上の所謂倫理學者と揆を一にすべきにあらず。倫理問題、人生問題に對して深き考案をなさんと欲する諸氏の御熟讀を祈り候。
〇小生今日只今悲しき心を抱けり。此稿書くに堪へ居り候。九時の汽車にて小諸町迄行く用もあり、それも行き得るつもりに候。
〇加納曉、木村莊次郎、儘田多助、松田廣美、上原照藏諸氏より發行費中へ御寄贈下され、御厚意奉深謝候。十月二十八日夜七時
○平福百穗畫伯文展出品「田澤湖傳説」は傑作と信じ候。文典へ出品致し候は已むを得ぬ事と遺憾(467)に存じ候。中ぶらりんの新しがりには分り申すまじく候。固陋者流には猶更の事に候。小生等はあれを原色版に致し候。日能製版所に依頼して、出來る丈け原色に近からしめんと致し居り候。出來候上は十二月號本誌口繪と致すべく、會員諸君の御高覽を希ひ候。
〇先月號は誤植のみ致し申譯無之候。石原純氏の歌左の如く正誤仕り候。
|峰〔付○圏点〕しろきつめたき雪を直胸《ひたむね》に抱くがごとく眺めぬ我は
かの|峰〔付○圏点〕を往き來する氣のすがすがし我れを包まね浸みゆくまでに
山ぬちに汽車往き尋きぬゆふぐれの停|車〔付○圏点〕場のまへに我を待ちぬ朋友《とも》は
〇次に矢崎幸貞氏及び木村博士より「萬葉集檜抓」發行費中へ會費御寄贈下され御厚志の段深謝奉り候。
〇小生今日嬉しき心地に居り候。十月三十一日
アララギ臨時増刊「萬葉集檜抓」豫告 (大正五年十一月「アララギ」第九卷第十一號)
橘守部翁が、徳川時代萬葉學の權威たるは世人の熟知する所なり。「萬葉集|檜抓《ひづめ》」は翁晩年大成の著作にして、著者の最も自信を有したる萬葉集評釋書なり。書名世に著しくして、未だ一たぴも公にせられざりしは、萬葉研究者の最も遺憾としたる所、今や翁の嫡裔橘純一氏の異常なる御厚志に依り、(468)檜抓遺稿全部を乞ひ得て、アララギ臨時増刊として世に公にするを得るは、寔に學界の慶事たるを信ず。佐々木博士、橘文学士、釋迢空氏其の他諸先輩亦翁に對する研究を寄せられたれば、一面守部研究號たるの觀を備ふべきを信ず。謹んで會員諸氏に報じ、併せて大方の清鑒を待つ。詳しくは本誌編輯所便に載す。
編輯所便 (大正五年十二月「アララギ」第九卷第十二號)
〇本誌を以て無事今年を終り候。今年「アララギ」の成績は總目録に現れ居り候。御一覽願上候。總目録の外に、茂吉の「短歌私鈔」憲吉の「林泉集」を出し、猶臨時増刊號として、「萬葉集檜抓」を出し候。茂吉、泣崖、信一、喜代、小生皆病みしも大體快復致し候。之は小生等に最も大切な事に候。耕平、重も追々元氣になり候。諸同人打ち揃ひ勇健に越年、欣喜致し候。
〇本誌のために、今年中異常の御助力を賜り候先輩諸氏に對し、謹んで感謝の意を表し候。特に平福百穗、阿部次郎、木下杢太郎、赤木桁午、小宮豐隆、北原白秋、佐々木信綱、岡麓、石原純、石原謙、釋迢空、足立鍬太郎諸氏の本誌のために、特別の御助力を賜りし御厚意を特記して奉感謝候。
〇岩波書店主岩波茂雄氏の一昨年來本誌のために御盡し下され候御厚志は筆に盡すべからず。本誌の追々獨立に近づかんと致し居り候事、全く同氏の御侠情に依り候。勤んで同氏及び同店員諸氏に感謝(469)し奉候。
○其の他地方にありて本誌經營のために御盡力下され候、森山汀川、兩角雉夫、五味えい子、小尾石馬、兩角丑助、佐々黙々、沖鹽正光、三村安治、小池晴豐、小松佐治、依田泰諸氏竝びに毎時配慮を賜り候木村博士、久保博士、藤井烏※[牛+建]、湯本禿山諸氏に厚く御禮申上候。
〇本誌は如上諸氏の御助力によりて、漸くとぼとぼと歩み居り候。「アララギ」死なせてはならぬと思ひ候へば、恐怖の心湧くと共に時々悲しき勇猛心も起り候。生存の慾望が圏象と睨み合ふ悲慘なる姿に候。恐くても嫌やでも「アララギ」死なせてはならず候。「アララギ」些未なりと雖も子規先生、左千夫先生、長塚節、堀内卓、望月光等の魂が籠り居り候。此の事小生等折々忘れて、安易なる心に住し、眼のさきの都合よき道を通らむと致し候事以ての外に候。〇猶本誌は、今年に於て十數年來御厄介になりし印刷所を變へ候。何でもなき事に見え候へども小生等には大事件に候。このためには特に數氏の多大なる御配慮を煩し候。特記して御厚意を感謝致し候。
〇「萬葉集檜抓」は十二月八日發行相成り申すべく候。遲刊に遲刊を重ね申譯なく存じ候。組み方非常に面倒なるため印刷も枚正も相後れ申候。その代り刊行の上は原本と一字の相違もなきを期し居り候。中には六七校を重ねし所も有之候。釋迢空氏御厚意を以て大抵全部の校正に當られ候。釋氏校了の上、更に小生一囘原本と對照して眼を通し居り候。此の事業聊か「アララギ」の手に餘り居り候。(470)成るべく多く御購求被下度奉願候。
〇「萬葉集檜抓」は「萬葉集檜嬬手」と同書に候。原本中兩者併用致し居り候。守部最終の著書に候。此の事同書解説中に詳記致すべく候。
〇「林泉集」彌々十一月初め出版相成り候。立派に製本相成り欣喜致し候。憲吉の歌は小生等同人中、甚だ多くの持徴を有し居り候。一册に纏まりて見れば益々其の感を深く致し候。現歌界の珍重たるを信じ候。御購求奉願候。猶「林泉集」發行につきては、光風館主四海民藏氏、竝に森園天涙氏の非常なる御厚意を蒙り候。出版に至る迄の一切を兩氏に御願ひするやうな有樣に相成り、恐縮の至りに奉存候。著者歸國し、小生病み居り候ため餘計に左樣に成り申候。謹んで兩氏の御厚意を謝し奉り候。
〇本誌經營困難なるため、今後毎月の會費を前月中に前納して頂く事に改め候。何卒御承知願上候。猶規定少々相改め候間、本誌奥付御一覽被下度候。
。本誌は出入常なき會員の入會を感謝致さず候。雙方の爲にならぬ故に候。
〇野上彌生子氏の小説集「新しき命」彌々刊行相成候。小生等は今日の女性小説家中最も多く同氏の小説を尊敬致し居り候。他と臭を異にして居る丈けでも快く候。同書の出版は現今文壇の珍重と存じ候。御講讀願上候。詳しくは廣告欄御一覽被下度候。
○北原白秋氏の「烟草の花」第一號は十一月發行相成り候。發行所は東京府下南葛飾群小岩村三谷紫(471)烟草社に候。
○山宮允氏は富田碎花、柳澤健、白鳥省吾、日夏耿之介諸氏と共に長詩雜誌「詩人」を出し可申候。發行所は東京四谷北伊賀町十七番地詩人發行所に候。
〇川路柳虹氏は長詩雜誌「伴秦」を發行致され候。發行所東京小石川區丸山町十七番地曙光詩社に候
〇本誌本年總目録は高木今衛の盡力に成候。
〇石原純氏より本誌發行費へ金十圓御寄贈被下候。謹んで御厚意を謝し候。十一月二十八日
アララギ臨時増刊「萬葉集檜嬬手」編輯便 (大正五年十二月十五日發行〕
〇「萬葉集檜嬬手」の寫本が、早稻田大學圖書館にあるといふ噂を釋迢空氏から聞いたのは、今年五六月頃であつた。之を公刊し度いと思ひ付いたのも其の時であつた。其頃、私は「萬葉集墨繩」も、「萬莱集檜嬬手」も讀んでゐない。讀んでゐない本を公刊し度いと冀つたのは、稜威言別や、稜威道別で彼の鑑賞と批評の眼光の紙背に徹する趣のあるを、尊敬して居たからである。公刊について、齋藤茂吉氏に相談したら、即座に賛成した。次いで古泉千樫、中村憲吉二氏にも相談した。之も皆即座に賛成した。みんな即座に賛成はしたが、實行の方法は誰も考へつかない。其の儘暑中休を經過して九月になつた。釋氏から度々何うするかといふ御質問があつた。出したいものは、遂に出さねば腹が(472)治らない事になつた。「檜嬬手」の公刊は「アララギ」の力としては少し無謀であつた。徑路には曲折があつたが、著手してから四月日の今日、「アララギ」持別増刊として萬葉集愛敬者の前に、此の一本を供へる事を得たのは大いなる欣喜である。
〇公刊については、原本の寫本全部を貸して下さつた守部翁嫡孫橋純一氏の御好意を第一に感謝せねばならぬ。釋迢空氏は刊行の初から終りまで大小の事殆ど一身に引受けて下さつた。釋氏無かりせば此の事決して成らざりし事と信ずる。釋氏研鑽の至興、氏を驅つて此に到らしめたことに對して、私は衷心からの快感を覺えると共に、我々として比較的大きな仕事を完成させて下さつた御高志を感謝せねばならぬ。
〇寫本を原稿紙に寫し直したのも厄介な仕事であつた。原本は勿論起版前の原稿であるから、其の儘に書き取つた寫本は、句法も送り假名も頗る統一のないものである。夫れを整理して書き取るのであるから容易に進捗しない。
これは伊原宇三郎氏が釋氏指導の下に主として其の勞に當つて下さつた。其の他手寫の一部を木曾馬吉、高木今衛二氏及び小生が分擔した。校正は殆ど全部を釋氏が受持つて下さつた。釋氏と同居の鈴木金太郎氏、萩原雄祐氏が其れを輔けて下さつた。
○岩波茂雄氏よりは出版に就き非常の御盡力を賜つた。組方が意外に面倒の爲め最初の印刷所から度(473)々違約されて途方にくれた事もあつた。岩波氏は深夜まで印刷責任者の躡を追うて督責せられた事が度々であつた。我が特別刊行は斯の如く多數の同情者に依つて全く成つたものである事を愉快として衷心から感謝する。
〇豫約應募者諸君には本書遲刊の御詫を申し上げる。如上の事情を御推察の上御海容を願ふ。
〇校正は一字一劃の誤謬無きを期する爲め嚴正に之を行つた。中には六校七校を重ねた所もある。萬一猶多少の誤字等を發見した場合は一々「アララギ」誌上に正誤を發表する。
〇書名は「萬葉集|檜嬬手《ひのつまで》」若しくは、「萬葉集|檜抓《ひのつま》」と呼ぶのが正しい樣である。俗稱「檜抓《ひづめ》」と振假名して豫告したのは、予の無識なる爲であつた。序を以て訂正する。
〇我々は上は萬葉集を祖とし、下は萬葉集歌風の繼承者、復興者を宗とすることに忌憚を感じない。往々にして古典派と云はれることにも、寸毫の恥辱を感じてゐない。萬葉集若しくは萬葉集歌風傳統者に對する研究書の中、未だ世に發表せられざる至寶が猶多く存することを知つてゐる。之等は力の及ぶ限り今後追々に世に發表するつもりである。
〇終りに佐々木博士が本號刊行につき種々御配慮を賜つた上に御稿を賜つた事、橘純一氏が橘守部年譜を草して御寄せ下さつた事、稱迢空氏が長篇の研究を御寄せ下さつた事を感謝する。大正五年十二月六日アララギ發行所にて
(474) 編輯所便 (大正六年一月「アララギ」第十卷第一號)
〇新年の御慶芽出度申納候。先以て天地清明、「アララギ」も無事第十卷に踏み入り候事欣喜の至奉存候。「アララギ」の同行者は、只今臺灣朝鮮滿洲より北海道に亙り、猶海外にまで及び居り候。「アララギ」の動きは、場所として汎く、時として永久なるべきを思うて第十卷の初頭に湧躍の心を起し居り候。行くべき道は一筋にして遠く候。遠き道を望んで湧躍する心は暢氣な者には無之候。只苦痛は自己の苦痛にして他人に語るべきものにあらず。藏する深きは道の邃きなり。我等同行者は、餘り騷がず、黙々として日夜に進みつづけ可申候。寂しきは深き故に候。孤りなるは強き故に候。苦しきは力有つ故に候。黙つて進み居り候内に、即がて十五年を過ぎ申候。前途の遠かるべきを思へば湧躍の心限りなく候。
〇昨臘九日夏目漱石先生御長逝遊され候事、痛恨の至りに候。先生は現在に於て文壇の巨人なると共に、更に、猶多くの未來を有たれ候事と拝察致し候。殊に小生等としては、故正岡先生と御親交ありし事により、猶故長塚節氏が生前多大の御眷顧を蒙りし事により、猶更に、先生門中の方々が「アララギ」の爲に異常の御同情を寄せられ居り候事等により、痛惜の情一層切なるを覺え候。御存生中一度拜顔致度存じ居り候處、永久にその機を失ひ候事失望此上もなく候。勤んで弔意を表し候。
(475)○「萬葉集檜嬬手」遲刊に遲刊を重ね、漸く昨臘十五日出版致し候。小生等の力としては、割合に立派に出來上り候事喜しく存じ候。豫約者諸氏よりは度々御催促に接し甚だ以て恐入り候。同卷末編輯便御一覽にて事情御推察の程願上候。猶右刊行につき、持に某二氏より多大の御助力を賜り候事奉感謝候。發行所の都合甚だ惡しく致し候へば、成るべく大方の御購讀奉願候。
〇舊冬「アララギ」會費の未納額を調べ候處、二百數十圓の多きに達し居り驚き申候。之では迚も駄目に候。未納の諸君には別に端書を以て御送金御願申置候。會費は必ず正確に御送付願上候。
〇歌稿は必ず締切期日までに御送付披下度候。然らざれば大抵は次月に廻り可申候。本號にも遲著のため次號に廻りし歌稿多く候。不惡御承知願上候。原稿は本誌奥付御覽にて、必ず規定通り御認め被下度候。草書や、くづし字、つづけ書き等困り候。
〇若山牧水氏は「創作」を復活して、二月一日初號發行され候由に候。同氏は東京小石川區戸崎町二番地に候。
〇萩原朔太郎氏は詩集「月に吠える」を白日社より出し可申廣告欄御一覽被下度候。
〇茂吉の「短歌私鈔補遺」は別に一册となりて、最近出版せらるべく候。
〇本誌表紙畫は例によりて平福百穗畫伯を煩し候段奉感謝候。裏畫は波斯古代皿模樣に候。之は河西青五君より借用致し候。
(476)〇本誌は倍大號と相成候に付き、普通會員諸氏には恐れ入り候へども今月に限り會費十銭餘分に御送付の程願上候。
編輯所便 (大正六年二月「アララギ」第十卷第二號)
〇故長塚節氏歌集は、今囘春陽堂より發行せらるる事に定り候。同氏の歌集を出し候は、小生等同人の責任として心に掛り居り候處、彌々發行と相成り欣喜に堪へず候。これは主として千樫の盡力に成り候。右取敢へず大方に御知せ申上候。詳しくは三月號に報道致すべく候。
〇故伊藤左千夫先生の歌集も、大部分千樫の手に纏り候。今囘殘部を茂吉引受け全部完輯の上、今年初夏迄に必す發行の事に決定仕り候。之にて小生等の肩は數年來の重荷を下ろす感致すべくと欣喜に堪へず候。左千夫先生歌集出版につきては、諸君へ種々の御相談申上ぐべき儀も可有之、詳しくは萬事の準備緒に就き候上にて本誌に掲げ申すべく候。
〇來る二月八日は長塚節氏第三周忌に當り候に付き、二月八日午後四時より青山三丁目いろは牛肉店に追悼會相開き申すべく、會員諸君の御來會を祈り候。會費一圓に候。
〇故夏目漱石先生の遺書(書信)御所持の方は同編纂事務所へ一時御貸下され度願上候。詳しくは本誌廣告欄御覽被下度候。
(477)○「アララギ」の仕事昨今に至り幾分緒に就きしを覺え候。「アララギ」の天分を盡すはこれからに候。成すべき仕事は山の如くに溯。三月號よりは、土屋文明、釋迢空二氏新に同人として編輯に相加り下さるべく、岡麓、石原純二氏も同じく今後一層力を添へ下され候樣御願申候。從つて本誌は今後更に各方面に向つて仕事を押し進め可申候。
〇茂吉の「短歌私鈔補遺」は新に一册となりてアララギ發行所より刊行せらるべく候。昨年「短歌私鈔」發行後引續き實朝、良寛等につき研究の歩を進めたるもの、「短歌私鈔」と離し候とも優に獨立の研究たるを失はざるべく候。詳しくは三月號に御知らせ申すべく候。
〇土屋文明氏の譯述せる「波斯神話」新に刊行致され候。別項紹介欄及び廣告欄御覽下され度會員諸君の御購讀を願ひ候。
〇山宮允氏「英詩抄」新に發行の事と相成り候。氏は英詩につき多年研鑽せられ居り候事諸君の承知せらるる事と存じ候。別項廣告欄御覽の上御購讀を願候。
〇小生病氣全快御安心被下度候。御見舞其の他用件の手紙に對しても御無沙汰勝に致し居り申譯無之候。諏訪及び長野、小諸の萬葉會へも今月より參り申すべく、同地諸君の御承知を願上げ候。
〇羽賀俊徳氏、内本浩亮氏より編輯費中へ金圓御寄送被下御厚志奉感謝候。
〇歌の原稿は必ず規定通りに願ひ候。亂雜の字體は困り候。小さい原稿紙も困り候。半紙大のものに(478)願ひ候。振仮名は必ず平假名に願ひ候。
〇締切期日經過候ものは、已むを得ず翌月に廻し可申候。二月二十九日夜
編輯所便 (大正六年三月「アララギ」第十卷第三號)
△只今編輯を終へようとしてゐる處である。夜は更けてゐる。明朝早く長野へ行かねばならぬ。迢空が高木の机の上で萬葉集輪講の補訂をしてゐる。馬吉が原稿を積み重ねて、夫れを神撚で綴つてゐる。そこへ七美雄から明朝著京の電報が來る。予は未だ二三の手紙を書かねばならぬ。少し忙し過ぎて敗亡の姿である。
△長塚さんの歌集は千樫の手によつて追々進捗してゐる。茂吉の「短歌私鈔」續編は福山印刷所へ全部渡されてゐる。迢空の「口譯萬葉集」は三月中旬に必ず出る。すべて來月の誌上で詳報する。
△横山重は四五年間の豫定で上京した。只今は本郷區臺町二八北辰館にゐる。加納小郭家は先月下旬に臺灣から上京した。湯本禿山は二月中旬に上京した。△二月の會費は毎月の三分一ほども集らぬ。原稿は必ず規定通りに書いて下さい。毎月五日以後到著のものは翌月の選に廻す。さうせねば、雜誌が一月に出されぬ。
△雜誌「珊瑚礁」は橋田、岩谷、森園、四海等諸氏によつて愈々三月一日に初號が出る。
(479)△内藤※[金+辰]策、谷元知安二氏は大きな意氣込を以て三月より雜誌「抒情詩」を復活する。二月二十二日夜
△古泉千樫は今囘赤坂區青山南町六丁目百八番地へ移轉した。
△兩角七美雄が東京へ初めて出て來た。數日滯在して歸國する筈である。
△我々同人の書いてゐるもの、及び選歌等につき質疑を持ち、若くは誤謬等に心づかれた方は、直接筆者選者に向つて、往復はがき等にて申送られたい。住所左の如し。
赤坂區青山南町五ノ八一青山腦病院 齋藤 茂吉
赤坂區青山南町六ノ一〇八 古泉幾太郎
備後國双三郡布野村 中村 憲吉
小石川區大門町二三藤生方 土屋 文明
小石川區金富町五二高梨方 釋 迢 空
△今月の茂吉の歌につき、同人の合評を、來月號に載せる。
△羽生永明氏多忙の爲め、「平賀元義傳」を載せる事の出來なかつたのは遺憾である。四月號へは必ず頂ける譯になつてゐる。
△小生等所持の書籍御借りの方は、此の際すべて御知らせを願ふ。何處に行つて居るか分らぬものありて困つてゐる。
(480) 編輯所便 (大正六年五月「アララギ」第十卷第五號)
△牀上猶行住あり。匆忙三春過ぐ。情思止む可からず。倏忽にして遠人去る。宿心時に懶く動止輒ちに憊る。雜誌遲刊の責悉く予に在り。此の便認むるは五月四日夜なり。刊行は當に七日なるべし。
△石原純、山本信一、加納曉諸氏來りて皆去る。中村憲吉亦將に來らんとす。報早くして至る遲し。滯る所京洛の間にあるべし。釋迢空近く大阪に歸省せんとし、彼の地諸氏の歸期を促す事切なり。釋氏素より行澄に疎なり。發する旬後なるべし。
△茂吉著「續短歌私鈔」出づ。諸君の御購讀を冀ふ。釋迢空著「口譯萬葉集」は五月中旬に出づべく「長塚節歌集」は五月十五日に必ず出すべし。長短歌千四百首。五百三十頁なり。左千夫先生歌集「ゆづり葉」の刊行は八月以後。茂吉歌集「璞玉《あらたま》」小生歌集「氷魚《ひを》」は刊期未定なり。
△石原謙、和辻哲郎、小宮豐隆、安倍能成、阿部次郎諸氏によりて、雜誌「思潮」新に岩波書店より刊行せらる。主幹阿部次郎氏なり。
我國現時の思想界に對し、本誌刊行の如く嚴肅なる意義を有するもの鮮かるべく、刊行寧ろ遲きを感ず。創刊號阿部氏の長篇「ダンテの生涯」を始めとして全卷苟且讀過を容さず。會員諸君の御購讀を勸む。詳しくは廣告欄にあり。(481)△平福百穗氏上方旅行十數日を經て歸京。
△土屋文明牛込區築土八幡町二十番地藤生方に移轉せり。
△横山重は横山達三と改名せり。
△小生五月十三日轉居すべし。家未だ定らず。定り次第御報申上ぐべし。
△敵を前にして進むに、最も後なる者最も疾呼す。自己存在の價値を補はんがためなり。瘠犬よく吠ゆ。自己の存在を危むがためなり。疾呼と吠ゆると惡しきに非ず。自己に安ずるなきが故に躁急なるのみ。象の黙は、猫の黙と同じからず。幼兒の笑ふは落語家の笑ふと同じからず。鼬遁ぐる時放屁し、鼠隱るる時悲鳴す。天下自己を相手とせざるもの其の道皆窘迫す。
△小生病氣追々快方に付き御安心披下度候。
△會費不納の方は御拂込被下度候。「アララギ」は何時も困り居り候。
△加納小郭家氏より發行費中へ金五圓御惠贈被下謹謝致し候。
編輯所便 (大正六年六月「アララギ」第十卷第六號)
△中村憲吉の上京を機として、青山なる茂吉宅に在京會員の歌會を開き候。集るもの三十人、「アララギ」としては未曾有の盛會に候。席上兼題「樹木」の互評をなし、午後五時より午後十一時迄立て續(482)けに論難を戰はせ候事近頃の愉快と存じ候。次囘より餘り時間かからぬ方法にて會合相開き申度、會員諸君の多數御參會を祈り候。
△憲吉は所用一通り濟み、今夜歸途につき申すべく候。七月號よりは歌と峽村日記を毎號出す筈に御座候。猶歌集「林泉集」は殘本殆どなくならんとする状況に有之只今再版の準備中に候。
△釋迢空の「口譯萬葉集」は彌々中卷下巻發刊相成り候。アララギ發行所へ御註文の方へは、郵税不要にて御送本申すべく、成るべく多數の御購讀を祈り候。詳しくは廣告欄御一覽被下度候。
△土屋文明は過日一寸歸郷、徴兵檢査を受け候。丙種合格に候。
△阿部次郎氏の「美學」は哲學叢書の一として、彌々岩波書店より出版相成候。同書に對する世上の期待は※[言+奴]々を要せぬ事に候。右出版を會員諸君に御報知申上候。詳しくは廣告欄御一覽被下度候。
△赤木桁平氏の「夏目漱石」も彌々新潮社より出版相成候。本書は漱石氏逝去の後氏の全力を傾注したる所と承り候。全編を、生涯の輪廓、業績の概觀、藝術の本質に分ち、取材考察論斷甚だ精到謹嚴なるを見候事最も有益なる著述たるを信じ申候。特に平素漱石氏を知悉せざる小生等に取りては稗益最も多く感謝致し候。會員諸君の御一讀を祈り候。
△木村芳雨氏は胃癌にて久しく御惱み成され候處、五月二十四日長逝せられ候。氏は子規先生時代よりの根岸短歌會々員に有之、最近本誌四月號へは「夏目漱石氏と銅印」を執筆せられ候。哀悼の至に(483)堪へず勤んで弔意を表し候。
△坂本四方太氏は宿痾遂に起たず、五月十六日長逝せられ候事哀悼の至に堪へず候。勤んで弔意を表し候。詳しくは文明別欄に記し申候。
△會員田口賀代子氏は病氣の處、逝去致され候。同氏は本誌に入りてより日未だ淺く候へども、特色ある歌を寄せ居られ候。哀悼の至に堪へず、謹んで弔意を表し候。
△多多羅氏畫會別項廣告のとほり、このたび友人の勸めによつて第一會畫會をひらくことと相成候。多多羅氏の新進洋畫家中一頭地をぬけるは、文部省展覽會、太平洋畫會等の出品に於て人の知るところなり。本誌讀者諸氏の入會をのぞみ候。五月三十一日
發行所移轉
東京市外雜司ケ谷龜原五番地 アララギ發行所 久保田俊彦
△會員杉浦翠子氏の歌集「寒紅集」彌々上梓せられ、非常に美本となりて現れ候。歌大分よく祝著存じ候。會員諸君の御購讀を祈り候。
△本誌又々遲刊申譯無之候。發行所移轉等のために候。七月號よりは必ず一日發行可致候。
△會費不納追々増加致し居り候。夫れでは「アララギ」は行き立たぬ故毎號同じ事を本欄に書く事に成り困り入り候。今後は二箇月以上不納の方には、集金郵便さし向くるやも知れず、此儀豫め不惡御(484)承知願上候。六月二日追記
編輯所便 (大正六年七月「アララギ」第十卷第七號)
△今月は原稿皆早く集り、大丈夫一日迄に發行出來可申欣喜の至りに候。これは「アララギ」には大切の事に有之、小生にも大切の事に有之、久し振にて肩の凝りが緩むを覺え候。一年振り位かも知れず候。以後これが續けて行かれれば「アララギ」の大進歩に候。
△「長塚節歌集」は彌々六月十三日發行被致候。千樫專ら編輯その他に當り、立派に出來候儀如何ばかり有難く感謝致し候。小生等には一つの重荷卸りたる心地に候。詳くは別紙廣告御一覽被下度、當發行所にて五十部に限り引き受け候へば、成るべく早く御申込被下度、郵税丈けは發行所にて負擔可仕候。
△長塚節歌集編輯についての經過及び感想等は、本誌八月號に千樫が詳しく書き申すべく同書の中多少誤植等も有之候へば、其の正誤表も、本誌八月號に載せ申すべく候。
△平福百穗氏は六月上旬中尊寺に遊ばれ、歸途門馬氏を訪ねられ候。門馬氏の病氣追々快方祝著存じ候。
△釋迢空は府下北豐島郡野方村江古田和田山井上哲學堂方へ
(485)△小生等同人への書状は、すべて直接本人の住所へ御送り被下度、發行所無人に候へば轉送等混雜致し候間右の如く御願申上候。
△來る七月八日(日曜)午後一時龜戸普門院にて左千夫先生第五囘忌歌會相開き可申、會員諸君の御來會願上候。會費金二十五銭御用意被下度。課題「水」二首清書御持參被下度、席上互選互評致すべく候。時間正確御守り被下度候。御出席の方は、七月六日迄に發行所迄御一報被下度願上候。猶普門院は龜戸天神の近所にて庭に觀音樣のある寺と言つて聞けば分り申すべく、電車は押上の終點に下車するが最も便利に候。
△阿部次郎氏、石原純氏の原稿何れも今月は御多忙にて頂かれず、殘念に存じ候。兩氏とも來月は必ず御送被下候筈に候。木下杢太郎氏よりは、長篇御送被下如何ばかり忝く存じ奉り候。
△橘守部遺著「萬葉集檜嬬手」齋藤茂吉著「續短歌私鈔」釋迢空著「口譯萬葉集」何れも發行所に殘本有之候間、御註文希上候。
△會員諸君原稿の書き方近頃大へんよく成り有難く存じ候。何卒いつも規定通りに願上候。
△内藤※[金+辰]策氏歌集近々出版致さるべく候。六月二十二日
△今日にて校正三日を費し候。印刷所二階の一室西日正面より照り付けて流汗淋漓たるの有樣に候。今日にてもし校正を了し候はば三十日に發行致さるべく候。
(486)△八月號は七月二十日迄に出して、小生一寸旅行するつもりに候。この旅行必要に候へば止める事出來ず、八月は凡て豫定の仕事充滿致し居り候へば、八月號は何うしても早く出さねばならず候。就ては選歌原稿は七月五日以後著分は必ず九月號に廻し申すべく御承知願上候。
△紙の價又々大へん騰貴して愈々困難と相成り候。本號のまでは、岩波氏の非常なる御盡力によりて從來の價にて買入れられ候段奉感謝候。就ては會費御勉強送附下され度御願申上候。四海氏よりも紙につき從來非常の御心配を願ひ居り候段奉感謝候。六月二十八日
△今日にて校正四日を費し候。此の小册子に四日では溜らず候。汗しとどに候。會員諸君の暑中御健康を祈り候。六月二十九日
○ (大正六年八月「アララギ」第十卷第八號)
〇小生の北海道行は私用のために有之、會員諸君に御逢ひし得るや否や分らず此の儀惡しからず願上げ候。
編輯所便 (大正六年九月「アララギ」第十卷第九號)
△昨日東京を發して、夜半八ケ嶽山麓の孤村に老父母の眠を覺す。
(487)廬に入る。旅程匆忙、明日直ちに善光寺に向はざる可らず。北海道より歸りて勞を京地に養ふ數日、意甚だ緩にして今忽ち窘迫す。居常行住多く然り。悔ゆる事甚だし。
△障子を開けば山氣秋冷多く、胡瓜、夕顔、茄子、湖魚皆新鮮、一日意猶暢ぶ。故山舊に依て安し。
△石原純氏諏訪の夏期講習會を終へて仙臺に歸れり。途次東京に留る數日。八月二十一日赤坂山王臺楠木に小集を開く。會者九人、午後二時に始まり夜九時に散す。
△釋迢空「萬葉集字書」の編纂を終り、八月二十四日旅程に上るべし。關西九州各地會員との懇談を期せり。旅行といへば即ち隨所に儕輩を集めて置酒※[酉+燕]樂するを以て常事となし、行くもの異まず、迎ふるもの亦異まざるが如きは、共に多く舊式なる詩人氣質の因習にして、詩を以て道樂の具となす月並詩人の能くする所、迢空心甚だこの徒を惡むを知る。迢空の行を送るは此の點に於ても快し。旅程較や遠し健在を祷る。
△吾人は會員の増すを歡ぶと共に、減るをも厭はず。眞に「アララギ」の眞諦を解する者の増すを歡ぶなり。眞に「アララギ」の眞諦を解せざるものの去るを厭はざるなり。お世辭禁物、迎合禁物。彼此混同禁物。兩股禁物。斯の如きのみ。吾人臆病なるが故に時々自ら警む。
△小生の北海道行は、忙しかりしため、各地會員諸氏にゆつくり會合の時間を得ず、殘念甚し。只各地未見の諸友に逢ひ得たるを歡ぶ。御厚意を蒙りし事多し。感謝々々。禮を矢したるもの願くは之を(488)容し給へ。
△土屋文明は東京府下大井町八十六番地田中平兵衛方に轉居せり。
△赤木桁平氏新に「近代心の諸象」を著せり。概ね氏が最近に發表せる評論感想の種類にして、氏の前著「藝術上の理想主義」と妹妹關係に立つもの、今夏氏が新に學窓を出で、實生活に進まんとするに際し、氏の前途に多大の囑望を有する吾人は、氏の從來の過程の重要部分を成すべき本書に對して、多大の興味と敬意とを寄するもの。書中數篇は、かつて「アララギ」に寄せられしものに屬せり。餘所ならぬ心地す。會員諸君の御購讀を望む。
△國枝史郎氏は今囘大阪朝日新聞を辭して雜誌「人間社會」を大阪に起せり。文藝を中心としたる評論及び創作を收むる大雜誌なり。幸福なる發達を望む。△抒情詩社より近來發行せられたる林信一氏著歌集「栗の花」片口安之助氏著歌集「寂しき道」若山牧水、若山喜志子兩氏合著「白梅集」尾山篤二郎、上野甚作、北原放二三氏合著歌集「さきくさ集」皆次號に紹介すべし。
△中山雅吉氏歌集「流轉」新に光風館より發行せらるべし。廣告欄御一覽を乞ふ。
△「短歌雜誌」新に東京堂より發行せらる。廣告欄御一覽を乞ふ。
△最近の計算により、アララギ會費未納高又々二百圓以上に達し居るを知れり。紙價は二箇月間に二(489)倍となれり。甚だ困る。御納めを乞ふ。八月二十三日高木邑にて
△會員大塚唯我氏病氣の所醫藥效なく長逝せられ候由哀悼の至りに不堪候。氏は久しき間アララギ會員にして特色ある歌を詠まれ、往々小生等を驚かしたる事あり、今日卒然氏を喪ふは痛惜の至りに埴へず。
編輯所便 (大正六年十月「アララギ」第十卷第十號)
△此の便認むるは長野の旅宿なり。今夜々行にて歸京、明朝より校正に從ふべし。信濃の地秋冷早く至り、汽車中袷を著たる人多し。紅葉は二旬の後なるべし。
△釋迢空八月より今月にかけ二囘九州に遊べり。根氣驚くべし。各地に會員を會して款談せし由。詳しき模樣の會員より通知し來れるあり。概ね前欄に收む。
△古泉千樫九月に入りて房州に行き十日を居て歸京せり。
△土屋文明十月五日信濃富士見高原に行くべし。
△山田邦子氏八月信濃に遊び、原阿佐緒氏陸前に歸りて猶滯在せり。牛島芳子氏は伊藤氏と改姓し、印度孟買に轉居せり。
△廣野三郎の常陸に遊ぶあり。中村美穗の上京して久しく淹るあり。高木今衛の西那須野に遊ぶあ(490)り。宇野喜代の久し振にて出京するあり。動靜やゝ繁し。
△今囘日本風景版畫會より日本風景版畫を出版せり。第一輯石井柏亭氏北陸の部、第二輯森田恒友氏會津の部、第三輯平福百穗氏東北の部なり。予第二三輯を得たり。森田氏の畫は由來洋畫日本畫に亙り極めて徹底せる手法にして、大膽にして篤實、雄渾にして沈著なる畫風は久しく予の景仰する所、而も氏の畫風は甚だ地味にして到底世の才筆者の彙類にあらず。即ち往々にして認めらるべきに認められず、才筆者よりは固陋を以て目せらるるありやに聞く。今氏の版畫を見るに奔放無碍、擒縱自在、快心言ふべからず。收むる所、若松城址、阿賀川、檜原湖畔、川上温泉、磐梯山麓小湖等なり。百穗氏這般の畫に至りては今更絮説するを須ひず。收むる所、鹽竈、松島、平泉、鳴子、笠島等なり。即ち之を會員諸君に薦むるに躊躇せず。定價一輯毎に金一圓送料八銭、發行所東京府代々木百三十四番地日本風景版畫會なり。
△今月の「アララギ」は紙數又々豫定を超ゆべし。紙價暴騰の際經營又々困難を告ぐべし。今月に限り會費十銭を多く贈り給はば幸甚の至なり。未納の諸氏には、或は集金郵便を以て御願申上ぐべし。惡しからず御承知を乞ふ。
△齋藤玉男氏、渡邊幸造氏より經營費中へ各金五圓御寄贈被下御厚志感謝の至奉存候。九月二十七日
(491) 滋野彦麿氏を傷む
大正六年八月二十六日、我が滋野彦麿君二十一歳を何て大和國郡山隔離病舍に歿す。聞く君父母なく、妻子なく、兄弟姉妹なしと。又聞く君の病はパラチブスにして、八月四日より全く世と隔離せられたりと。生の傷ましき、病の傷ましき、死の傷ましき、予多く斯の如きを聞かず。氏の歌の初めて「アララギ」に現れしは昨年二月にして、君が母堂發狂入水を悲しめる歌なりき。予、當時この歌を一讀して神姿皆生けるものあるに驚けり。蓋し斯の如き非常事を歌ふもの、事の餘りに重くして、歌の之に※[立心偏+匡の王が夾]ふ能はざるを常とするが故なり。爾來君の歌純眞皆誦すべく、自ら一家の特色を有せり。聞く病中常に「アララギ」を口にせりと。又聞く生時萬葉集、記紀歌を究め兼ねて文法に詳しかりしと。君の病むや、予只一囘書を致して慰問したるのみ。今實に之を悔ゆ。
只君の親信征矢野君、松本君等あり、交々病床に就きて慰藉に勉められしを聞く。聊か以て慰むべきか。謹んで哀悼の意を表す。
編輯所便 (大正六年十一月「アララギ」第十卷第十一號)
△平福百穗畫伯の文展出品「豫讓」は只今畫界の評論を集中せしめつつあり。「七面鳥」に黙し、「朝露」に黙したる畫界が、今日に至りて猝かに騷ぎ出したる事予等には少々滑稽に感ず。氏の畫の如き(492)は決して現代に於て兎角に騷ぎ立てらるべき性質に屬せず。騷ぎ立つる者の氏の性命に何程の接觸を爲し得るかを知らず。或は曰く、氏の「豫讓」は漢代畫象石と東晉顧ト之女史箴圖に據れるものにして、形餘りに肖たるが故に畫の性命を薄うせりと。肖ると肖ざるは外形のみ。氏が外形を漢代に求め來つて之に如何なる性命を寄せ得たるかを見るべきのみ。畫の性命は畢竟漢代の原畫以外に出でざるか。若くは特殊なる氏の性命を寄せ得たるか否かに依つて定めらるべきなり。中には氏の「豫讓」を以て機智なりとなすものあり。甚しきに至りては氏の畫に對するユーモア的態度が此の畫を活かし居りなど言ふものあり。「豫讓」に對して先づ機智を感じ、ユーモアを感ずるが如き人に畫が分り得べきか。畫は愚か人間が分り得べきかを知らず。地味にして深き命は容易に他の接觸を容さず。所謂現代人の接觸するとせざると氏の畫に於て何の關する所なし。只後世を恐るべしとなすのみ。
△土田耕平の歌の「アララギ」に現るるや久し。天下何人も口に耕平を唱ふるものなし。地味にして深く湛ふるが故なり。現代人の鑑賞を待つに餘りに清澄に過ぐるが故なり。現代人の接觸を容さざるに於て亦好例なり。中村憲吉の歌亦斯種に屬せり。現代人に馬鹿騷ぎせられざるものは幸福なり。早く世に現れざるもの幸福なり。命は短し、藝術は長し。吾人は只後世を通じて永久に活くるの根柢義に立つべきのみ。
△十年以前全く世に知られざりし「アララギ」は十年後の今日も眞諦に於て世と接觸することなきな(493)り。接觸あるが如く見ゆるは一面のみ。吾人は斯の如きの當然にして今更ら驚くべきにあらざるを信ず。
△茂吉箱根に淹る半月、今日頃歸京すべし。
△文明令弟の急死に遇ひ且つ母堂生死の墳に苦唸しつつあるを報ず。哀悼と憂慮に堪へず。母堂の一日も早く恢復し給はんを祈る事切なり。
△山田邦子氏の令弟常陸丸にあり。今囘印度洋に於て同船の行方不明なるを報ず。憂慮に堪へず切に無異囘航の日あらん事を祈る。
△原阿佐緒氏健康未だ全く恢復せず、郷里宮城縣にあり。本復を祈る事切なり。
△佐々黙々氏嚴父御逝去の由哀悼に堪へず。謹んで弔意を表す。
△篠原忘都兒氏大學病院にて腹部切開。經過良好。切に本復の速かならんを祈る。
△原田泰人氏はじめて上京。
△藤井烏※[牛+建]氏、母堂御逝去にて上京、一夜茂吉小生三人にて會せり。一旦遺骨を奉じて郷里福山に歸り、更に上京して今滯在中なり。謹んで哀悼の意を表す。
△原稿は必ず開封にして二錢切手を貼り差し出され度し。用事の文句記入すべからず。三錢貼りて出す人多けれどその度に開封するは厄介なり。開封にて二錢貼る事に願ふ。
(494)△一月に數十首も自信ある歌を得るはむづかし。自ら嚴選して送り給へ。
△「アララギ」の城壘は兵粮攻めによりてのみ落城すべし。糧道を絶たぬ事を切望す。會費不納の事毎號言ふを欲せず。十月二十七日
○
予は兩三日中に碓氷の古道を歩行して信濃に行くつもりである。雑草の葉までも朱丹に染まつた寒い溪の道を想ひながら今印刷所の二階にゐる。十月二十九日
編輯所便 (大正六年十二月「アララギ」第十卷第十二號)
△本號を以て無事今年を終り候。同人並びに會員諸氏一同勇健に越年欣喜此の事に候。
△本誌今年中の成績は別紙總目録に現れ居り候。總目録の外に、齋藤茂吉氏の「續短歌私鈔」釋迢空氏の「口譯萬葉集」中下卷、故長塚節氏の「長塚節歌集」出で居り候。「長塚節歌集」は主に古泉千樫氏の編纂に係り候。迢空氏は猶引續き「萬葉集辭典」編纂中にて今年中には刊行相成申すべく候。
△今年中本誌のため御厚意賜りし先輩諸氏に對し謹んで御禮申述べ候。特に平福百穗、阿部次郎、木下杢太郎、石原純、羽生永明、田口松圃、正宗敦夫諸氏の異常なる助力により本誌の面目を加へ候段如何計り有難く御禮申上候。
(495)△岩波書店主人岩波茂雄氏が本誌のため御助勢下され候御厚志容易ならず。本誌が漸次基礎の鞏固を加へ來り候事全く同氏の御厚意に依り候。謹んで同氏竝びに同書店々員諸氏に御禮申述べ候。
△光風館主人四海民藏氏よりは、昨年「林泉集」出版以來引續き種々御厚志賜り居り候謹んで御禮申述べ候。
△猶地方にありて本誌經營のため特別の御盡力下され候三村安治、藤井烏※[牛+建]、加納小郭家、渡邊草堂、佐々杢々、森山汀川、沖鹽正光、結城哀草果、小池晴豐、兩角雉夫、兩角丑助、小尾石馬、五味えい子、小松佐治諸氏に厚く御禮申上候。
〇年末に際し、來年の計畫につき編輯同人の打合會を必要と致し、去る廿五日茂吉宅に同人の會合を催し候。相談致し候事は追々新年よりの本誌に現れ申すべく候。茂吉の隨筆、千樫の隨縁鈔、文明の短歌入門、迢空の萬葉集私論及び歌論、小生の隨筆は新年號より掲載致すべく候。茂吉は少々私用出來のため一二箇月後れ候やも計り難く候。岡麓氏も何か書いて下さる筈に候。萬葉集輪講も今少し向きをかへて精緻に致し度きやう打合せ致し候へば多少面目を改め候事と存じ候。中村憲吉は何分遠隔にて直接打合せ不便に候へども新年號より必ず筆を揮ひ申すべく候。平瀬泣崖同樣に候。
△あいぬ語研究の唯一權威者として知られたる金田一京助氏は本誌のため毎號あいぬ古謠御執筆下さるべく決定致し候。新年號より本誌附録として現れ申すべく、文藝及び學界の至寶と信じ申候。露國(496)人ねふすきい氏は日本古典研究のため來朝せられ候處、今囘本誌のため露國古謠を飜譯して下さる事に相願ひ候。只今本國との交通壮絶にて原本取寄せに困難に候へども、其の内必す御執筆下さるべく候。小宮豐隆氏は露國そろぐぶ氏の譯詩を寄送下さるべく御承諾下され候。森田恒友氏は新年號のため長篇畫論を賜るべく畫界空谷の跫音と存じ候。茅野蕭々氏は追つて本誌のためでえめる譯詩御寄送下さるべく候。其の他阿部次郎氏のげーて詩抄、石原純氏の論文、羽生永明氏の平賀元義傳、正宗敦夫氏の萬葉集丁數索引等すべて新年號より引つづき御願申上ぐべく、同人及び會員諸君の奮勵と共に、本誌が如何なる活動を呈すべきかを想見し愉快に存じ候。先以て身神御壮健御越年祈上奉り候。
△古泉千樫氏祖母君長逝成され候謹んで弔意を表し候。
△中村憲吉氏は山陰道旅行中に候。
△山田邦子氏は僂麻窒斯にて病臥せられ候。早速御快方の程祈上候。
△篠原志都兒氏は手術後經過良好にて退院せられ候。
△土屋文明氏は府下大井町一〇七〇體育會前に一家を構へられ候。
△故友千夫先生御遺族水害見舞、多數諸君の御賛助を得好結果を收め候段、紙上を以て深く御勵申上候。本誌別欄に報告致し置き候。御一覽願上候。
△年末に際し、本誌會計方例により困難に候へば會費未納の諸氏は本月十五日迄に相違なく御送附下(497)され度候。猶當月は來年一月分會費を本月十五日迄に御送金下され度此儀特に御願申上候。
△本誌附録總目録は主として高木今衛の手を煩し候。
○
故滋野彦麿氏につき奈良の「みつやま」に濱人氏が詳しく書いて居られる。その一部を頂いて茲に載せることにした。滋野氏の寂しかつた生活を會員諸氏に知らせ度いと思ふからである。文中楢彦とあるは彦麿氏の本名である。原文が長文の爲め全體を載せる事の出來ぬのを遺憾とする。猶本誌前々號滋野氏につき小生の書いたもののうち「征矢野云々」としたのは滋野氏生前最も親交のあつた水木征矢彦氏の誤りであつた。茲に水木氏に謝し併せて訂正する。
編輯所便 (大正七年一月「アララギ」第十一卷第一號)
〇小生の歌新年號に少くも二頁分を出すつもりにて、草稿中十二月七日長男發病。爾後今日に至るまで歌を思ふに由なし。新潮、早稻田文學、中央文學、心響、大阪朝日新聞等の新年號に載する所は、悉く十二月七日以前の作に候。他の新年號雜誌に小生の名ありて、「アララギ」に之なきは此のために候。殘念に存じ候。
〇十二月二十日遺骨を擁して歸國、二十一日葬式後直ちに歸京の途に上り、辛うじて校正の間に合ひ(498)候。新年號の編輯は長男死去の夜、文明主となり喜代、達三、美穗、馬吉、今衝徹夜して棺側の一室に従事せられ候。予の情脆弱、葬儀編輯すべて文明其の他の手を藉り候。感謝甚し。百穗畫伯亦馳せて葬儀を指揮せらる。謝するに辭なし。其の他來訪に、書信に、弔意を寄せられたる諸氏に對し謹んで感謝の意を表し候。
〇一箇月中に二度原稿を送り給はぬやう願上候。先稿を訂正せよ等の申込は選者多數のため取運びに困り候。十二月二十四日福山印刷所にて
〇
十二月九日は小庵に編輯會のあつた日である。その日の曉方に迢空から速達便が屆いた。見れば萬葉集輪講の原稿である。昨夜汽車中で書いて國府津邊から發送したものである。老母の急病に馳せながら汽車中で此の稿を書きつづけた迢空の顔を思ひながら、千樫、文明と三人で二階に萬葉輪講を書き初めた。七日朝から發病した予の長男は、此の日の朝二階から下の座敷へ移されて、初めて醫師の手に罹つた。茂吉も正午頃一寸來て病人を診てくれた。
○
昨日文明が左千夫先生の手帳を持つて來て見せた。遺品中の珍品である。中には鉛筆やペンや毛筆やの走り書きが一ぱいになつてゐる。先生は居常の感想をいつもこんな粗末の手帳に書き付けること(499)を怠らなかつた。牛飼やら、歌やら、小説やらで寸暇なき如く見ゆる先生が、斯んな事にまで精根を緩めなかつたことを考へると、我々も少々きまりが惡くなるのである。我々は今甚だ不精であるのである。
○
今馬吉と二人校正を勉強してゐる。予の選歌は十人日夜徹宵して文明、喜代、達三諸氏の御手傳を受けたものである。十二月二十六日夜十時
編輯所便 (大正七年二月「アララギ」第十一卷第二號)
△本號には木下、羽生、金田一諸氏の貴重なる原稿を頂き得たり。斯の如きは今の世の中に有り得ざるほどの厚誼に候。先輩諸氏が毎號斯の如き御厚意を寄せ給ふを思へば、「アララギ」同人が期日迄に約束の原稿を書く程の事何でもなき事に候。夫れがいつもさう行かぬは何故なるか。
△阿部次郎氏のゲーテ詩抄今月は氏の御都合惡しくして頂き得ず遺憾に存じ候。三月號へは頂き得るやう御通知下され候。小宮豐隆氏のソログプの譯詩も來月號より頂く樣御願するを得欣喜に存じ候。
△二月九日(土曜日)午後一時より青山腦病院に於て故長塚節氏四周忌歌會を開き申すべく、會員諸(500)君の御來會を祈り候。會費三十銭。御出席の方は近詠三首以下を二月七日迄に屆き候やう青山南町六丁目百八古泉千樫宛御送り願上候。
△茂吉は長崎市金屋町廿八番地に卜居致し候。三月號より必ず何か書くべき旨申來り候。
△迢空は母堂稍御輕快の由にて歸京致し候。萬葉集字書意外に大部のものに相成り、只今全力を夫れに集中致し居り候。日ならす出版相成可申候。事によれば相模の方へ當分引き移るかも知れぬとの事に候。
△宇野喜代は昨冬より同志と共に文藝雜誌「異象」を出し居り候。喜代は毎月脚本發表致し居り候。會員諸君の御清覧を願ひ候。詳しくは廣告欄御覽被下度候。
△平瀬泣崖數日前上京昨夕千樫、小生と三人にて談話致し候。「竹の里歌抄」を三月號より續け可申候。歌も同樣に候。
△萬葉集丁數索引は紙數等其の他の都合にて今月も休み候事遺憾に候。費用の都合出來次第あとすべてを纏めて一囘に出し申度候。左樣の機會來るを待ち候。
△門間春雄病氣大に快く先般上京只今滯在中に候。冬中何處かにて遊ぶ筈に候。
△篠原志都兒は伊豆修善寺に入浴致し居り候。
△千樫近來歌頻りに出で候事健羨存じ候。憲吉亦毎號歌を發表致し候。岡氏、石原氏皆多く歌あり候。
(501)小生一月號に出さず殘念なりし故二月號へ勉強するつもりにて、先月の編輯所便へは百首出すと書いて置きて頂き、大に勉強するつもりなりし所、今日に至るも依然怠慢殘念の至りに候。昨夜迄少しやりて見たれど到底歌境に遠きを覺りて斷念致し候。自分にも「アララギ」にも申譯なき心著しく候。今一月延し申すべく候。
△小生老父(實父)病氣の通知に接し、只今心せき居り候。明日夜行にて歸國致すべく候。少々應接の暇なきを覺え候。校正は又々千樫、文明、馬吉、今衛の手を煩し申すべく候。
△小生の子息死去に對し態々御弔慰に預り奉謝候。萬一御禮申上候事相洩れ候万有之哉も計られずと存じ、茲に更めて御禮申上候。
△會費御納め被下度候。この事悃願致し候。原稿は開封二銭切手貼付に願上候。期日御守り被下度候、あまり小さい原稿紙は困り候。題の前を一行御明け被下度、紙の兩端押しつまりて書かれたるは都合惡しく候。字體の粗雜と、うそ字と變體假名御無用に願上候。
△掛谷宗一、羽賀俊徳兩氏より編輯費中へ金員御寄贈下され御厚志奉銘謝候。△新刊寄贈紹介は次號に於て可致候。一月二十六日夜
山浦より
前略、老父病氣衰弱甚し、此の冬を持ち越させたしと祷れり。鯛味噌うましとて食がり給へり。六(502)神丸も喜び給へり。山國の奥へ河岸の魚持ち行きしゆゑ珍しく喜び給へり。風もなく日照りて割合に暖き日なり。小生三十日には長野に行くべし。校正千樫、文明諸君に御厄介なる事ならん。君勉強してやつてくれ給へ。一月二十八日山浦より馬吉宛
編輯所便 (大正七年三月「アララギ」第十一卷第三號)
△少し慌てたる心にて此の使認め申候。昨夜より校正はじまり、今朝朝寂坊致し、千樫に電話かけに行きて歸りし所に候。
△古泉千樫歌集「屋上の土」彌々四月初旬東雲堂より出版の事と相成り候。久しく出づべくして出でず、待ち待ちて出でず、待ちあぐみても出でぬゆゑ、その間に世の中に歐洲戰爭も支那内亂も出で申候。左樣に考へれば可なり大がかりの歌集に候。眞面目に考ふればその位念入りに掛るが本當に候。愈々出版相成り候事吾々同人は勿論、一般歌界の慶賀と存じ候。詳しくは廣告御覧下され度候。
△二月九日長塚節忌歌會は廿九人の來會者有之甚だ盛會に行はれ候。會場例によりて青山病院樓上を拜借感謝致し候。
△齋藤茂吉住所は長崎市|金屋町《かなやまち》廿一番地に候。前號にて誤り候ゆゑ序に訂正致し候。
△茂吉三月號へ原稿書く筈の所赴任匆々にて未だ落著かず、今一月後れ申すべく候。四月號は特別號(503)として發行致さるべく茂吉も必ず書き申すべく候。
△本號は特別號でない筈に候處、迢空の百首をはじめとし諸同人殆ど皆顔を揃へ候のみならず紙數例の通り豫定超過に付き、短歌號として出し申候。豫定の八十頁では毎月收らぬらしく候。
△迢空は一月下旬母堂を喪はれ候。昨冬來大に御輕快の所俄かに御逝去、御悲傷御察申上候。謹んで哀悼の意を表し候。
△今月は迢空の不孝やら同氏の風邪やら、諸同人の差支へやら小生の怠慢やらで、一昨夜に至り慌てふためきて編輯致し候。手落も有り可申と殘念に存じ候。
△門間春雄氏病氣輕快祝著の至奉存候。近日何處かへ靜遊の筈に候。
△築地藤子氏華燭の典を擧げさせられ、近々新嘉坡へ出發成され候由、祝著至極奉存候。異境風土深く御自愛祈上候。
△小宮豐隆氏ソログブ譯詩愈々本號より頂くを得候事諸同人と共に欣喜の至奉存候。深く御禮申上候。眞田直視氏よりロダン斷想頂戴如何計り有難く存じ候。阿部次郎氏のゲーテ詩抄は「思潮」の方御忙しきため今一月延び申すべき樣御知らせ下され候。四月號へは必ず現れ可申候。來月は特別號ゆゑ森田恒友氏より繪を頂きて載せ申度、大體は御願ひ致しあり候。
△歌稿の認め方は初め一行をあけ、第二行に題と國(市)名と名前を書き、第三行より歌書き候樣願上(504)候。必ず一行廿一字詰めにて一首の歌を二行に亙り認め候樣願上候。一行にて終る虞あらば漢字を假名に御改め被下度候。さうすれば二行に亙り申すべく候。字體の粗雜、誤字、變體假名御止め被下度候。小生は字の略し書きを知らず候ゆゑ、餘り略され候はば本當の字にても分り申すまじく、この事恥しく候へども、取扱ひに困り候ゆゑ、楷書に御認め被下度願上候。猶六ケ敷文字には平假名にて振假名せられ度、時々固有名詞の分らぬものに逢ひて困り居り候。
△歌稿御送はすべて開封にて二銭切手御貼り被下度候。三銭切手は一々開けて見ねばならぬゆゑ厄介に候。二月二十六日正午
△原稿を中途でさしかへるゆゑ、手間かかると印刷所にては主張致し候。兎に角廿五日から今日にて四日がかりに候。會員原稿紙は小形のもの御用ひなきやう願上候。二月二十八日午後二時
編輯所便 (大正七年四月「アララギ」第十一卷第四號)
△本號は特別號として發行致し候。森田恒友氏特に口繪を寄せられ有難く奉感謝候。猶口繪となるまでの面倒すべて同氏に御願ひ致し恐縮の至りに候。その爲め原衙情調割合によく現れ欣しく存じ候。小生等は同氏の繪畫を尊敬致し居り候故この欣びを記して會員諸君に御知らせ申候。其の他例により御厚意稿を寄せられし先輩諸氏に厚く御禮申上候。金田一氏アイヌ詞曲は本號より註釋詳細を加へ候(505)やう相願ひ候。御熟讀を願ひ候。小宮豐隆氏ソログブお伽小曲も來月號には頂き得べきやう御通知下され候。猶赤木桁平氏よりも久し振に御寄稿下され候やう御通知に接し候。
△齋藤茂吉氏は入學試險その他繁忙を極め、本號に執筆出來ず殘念に存候。古泉千樫は「屋上の土」繁忙にて本號への歌間に合はず殘念に存候。千樫の歌は文章世界、青年文壇、中央文學等四月號へ現れ居り候間御一覽下され度候。
△土屋文明は信濃諏訪高等女學校へ赴任の事に相成り今夜出發可致候。近國に候へば時々出京し得べしと存じ候。萬葉集輪講も續けられ申すべく候。去る二十五日夜上野精養軒にて數輩相會し、同氏及び築地藤子氏の送別小會相催し申候。藤子氏は四月中彼地へ渡航の筈に候。
△中村憲吉は目下病氣して居り候。漸次快癒の事と存じ居り候。
△釋迢空は相模國足柄下郡の郡誌編纂中同地へ參り居り候。書信は同地郡役所氣附にて御出し下され度候。
△石原純氏四月上旬上京の由御待申居り候。
△平福百穗氏近日關西へ旅行致さるべく候。
△門間春雄氏病氣快癒近く何れかへ轉地遊ばれ申すべく候。
△篠原志都兒氏は唯今淺草區樂山堂病院に在り候。
(506)△山田邦子氏病氣追々快癒今月上旬無事男子御出生奉賀上候。常陸丸搭乘の令弟無事獨逸に御出での由判明、祝著此の事に存じ候。
△原阿佐緒氏久しく郷里に御病臥の由、一日も早く御快癒祈上候。
△神保孝太郎氏より金三圓、加納曉氏より金四圓何れも本誌編輯費へ御寄附下され御厚意の程奉感謝候。
會費規定改正
近來物價の騰貴益々甚しく本誌の經營は又々困難の場合に立ち到つた。この事情は昨年から已に始まつてゐたのであるが荏苒今日に到つたのである。何時までも此の儘で推し進めば遠からずして收拾すべからざる有樣に立ち到らねばならぬ。現に昨年以來今日まで毎月本誌の缺損金額は少からぬ状態にある。この缺損を如何にすべきかは只今諸同人の深憂とする所である。依つて熟議の上四月より左記の改定をする事に決めた。會員諸氏に對して濟まぬ事であるが深く御諒察を願ふ次第である。
一、普通會員會費月額を三十五銭に改める。
一、會費未納三箇月に亙る會員には本誌の發送を止める事を實行する。
一、會費は必ず前月中に納めるやうに勵行して頂く。
會費を已に前納された方は此の際此の改定による差額を御送附願ふ。從來の不納者には此の際集金(507)郵便を以て御出金をお願ひする。夫れで御送付なき方は全く不納者と認める。猶此の機を以て特別會員諸氏が從來本誌經營につき非常の御力を添へて下さつた事を感謝する。
○
今月の平瀬泣崖君の歌に重複してゐるものが出來た。これは先月中に君の送つてくれた原稿を、一度返送してくれよといふ依頼のあつたのを、小生が怠けてゐたため、平瀬君の今月の送稿の時、手元に先月の歌の控へが無かつたため重複したものを送るやうになつたらしい。之は小生の怠けてゐたのが惡かつたのである。同じ歌を一方より削り去れば雜誌の體を損ずる惧れがあるから、重複のままにして置いた。これを讀者諸君に御詫びする。
○
今夜文明が出發する。夕方一寸枚正に來てくれる筈である。今日は迢空も校正に來てくれた。馬吉と小生と三人でやつてゐる。雨が降つて朱筆の手元が暗い。今電氣がついた所である。三月二十九日
編輯所便 (大正七年五月「アララギ」第十一卷第五號)
△茂吉久し振に稿を寄す。四月に入り初めて家を成して暢適の意あり。來月よりは毎號稿を送るべきを報ぜり。欣喜に堪へず。
(508)△千樫歌集「屋上の土」只今校正中なり。刊行近かるべし。之亦欣喜に堪へず。
△憲吉病状別欄に掲ぐ。四月上旬より熱度再び上り、一時三十九度に達したるも昨今平常に復せる由慶賀に堪へず。只體力やゝ衰耗、追々海岸に轉地すべしとの事。本復の一日も輒かならん事を祷る切なり。
△文明は居を信濃上諏訪町新小路に卜せり。本月より「短歌入門」を續くべく、萬葉諭講にも參すべし。
△石原純氏上京、同人の小集を開き、歌の合評をなせり。小生長野に行きて會する能はざりしは遺憾なりき。詳しくは別欄にあり。歌の合評は來月より引續き行ふべし。
△平福百穗氏關西旅行より歸る。
△加納曉氏四月中旬突然上京、芝の古川橋に小集を催せり。會するもの山本、宮地、杉浦、小生等五人なり。曉氏は翌日急ぎ歸神せり。
△宇野喜代之介氏の「異象」は氏等同人卒業試驗繁忙のため五月號を休刊せり。六月より續刊すべし。
△築地藤子氏四月十八日神戸より出帆渡航の由通知あり。
△櫻井みね子氏四月初め上京せり。
△會員古谷正彦氏病氣を以て逝去せらる。哀悼に堪へず。謹んで弔意を表す。(509)會費を上げ恐縮致し候所へ御賛成の手紙多く頂き有難く存じ候。小生等奮發勉強可致候。
△小生甚だ生意氣に候へども今後面會日を毎月十五日廿四日の兩日に相定め申すべく、會員諸君の御來訪成るべく此の日に願上候。小生少々勉強せねば色々後れ申すべく候ゆゑ斯樣な事相定め候事御寛恕願上候。急の用事は勿論何日何時にても宜しく、且つ地方より御上京の會員は何時にても御來訪下され度候。△原稿紙は必ず半紙大に願上候。小さきは綴ぢ込む時文字隱れて不便少からず候。會費は必ず前金切に成らぬやう御送被下度候。
△寺島理吉氏今囘肖像畫會を催す事に相成り候。會員諸君の御入會を得候はば幸甚に存じ候。忠實なる同氏の擧御賛成下され度候。
△小生儀五月五日より東京市小石川區關口町百七十四番地へ移轉仕るべく、「アララギ」發行所も自然同所へ移り申すべく、「アララギ」及び小生に關する一切の御書信右へ御宛て披下度候。同所は江戸川終點より橋を渡りて少し行き、左に入りて高田老松町の方へ行く坂を上り初めたる直ぐ左側に候。道より少し引つこみ居り候。
編輯所便 (大正七年六月「アララギ」第十一卷第六號)
(510)△本紙は小生他出の都合により例より早く編輯致し候。そのため茅野蕭々氏より御惠送被下候「デエメル」の詩を次號に廻すやうに相成候段遺憾に存じ候。編輯の早き割合に校正の日遲く相成殘念に存じ候。
△羽生永明氏より毎號御惠送被下候「歌人としての平賀元義」は木版にて一旦筆を結ばれし觀有之候へども、次號よりは續篇として更に詳細なる元義の事蹟を御執筆被下候事に相成居り候。元義研究のために、唯一稀代の賓料、會員諸氏と共に深く奉感謝候。
△憲吉病氣大に輕快近く海濱に靜養致すべく候。來月頃よりそろそろ筆執り申すべきやう通知有之欣賀に堪へず候。
△迢空は今囘「土俗と傳説」といふ雜誌を出し申すべく候。これは曩に柳田氏の發行せられし「郷土研究」の後を承くるものにこれあるべく、柳田氏を顧問と致し候ほかに、金田一氏、ねふすきい氏等も助力せらるべく、アララギ同人中にては平瀬泣崖氏熱心に之に參し申すべく候。會員諸君の馳參祈上候。
△藤井烏※[牛+建]氏今囘臺中高等法院を辭し、郷里備後へ歸られ候。同氏のため臺灣在住アララギ諸同人の送別會を開かれし由小郭家氏より御通信有之候。
△山田邦子氏病氣未だ恢復せられず、近々温泉地へ移られ申すべく、一日も早く御恢復のほど祈上候。
(511)△原阿佐緒氏御病氣追々恢復目下郷里に靜養し居られ候。
△築地藤子氏四月廿九日香港に著かれ、當分其の地にて新嘉坡行便舶を待たれ候由御通信有之候。海上無事彼地到著のほど祈上候。
△先月號選歌四十六頁小野陽氏の歌のうち、「新月の光りま寂しわが歩むうなじ冷たく夜霧かかるも」以下五首は、小野進氏の歌に有之、小野陽氏と小野進氏とを同じ方と思ひし小生の間違より誤載致し候段申譯無之候。從つてあそこにある「赤曰」の記入は恐縮して取消申候。甚だ具合惡しき事致し候。御容赦願上候。
△會費御納め願上候。「アララギ」は今苦しみ居り候。近日中集金郵便にて御願致し候やも計り難く此儀御承知願上候。五月二十四日
〇
君の生れた故郷伊那へ來た。小生には六七年振りである。村落少なく樹木と原と多いことが目につく。もう若葉の時が過ぎてゐる。駒ケ嶽の頂には眞白に雪が残つてゐる。相變らず伊那の重鎭である。小生諏訪に引返して更に長野へ行く。五月二十五日伊那町にて 馬吉宛
編輯所便 (大正七年七月「アララギ」第十一卷第七號)
(512)△伊藤左千夫先生忌日は七月三十日に有之、今年も亦繰上げて七月廿日午後正一時より市外龜戸普門院に於て先生第六囘忌法會及び歌會致し度會員諸君の多數御來會を願ひ候。會費三十銭、課題「家」三首宛御持參被下度候。同所は市内電車押上終點か錦糸堀終點かにて下車、龜戸天神を過ぎて二町許りの所に候。時間正確に願上候。猶用意の都合有之候間、御出席の方は十九日迄に小生迄御通知被下度候。
△木下杢太郎氏の詩集「食後の歌」今囘當發行所より發刊相成り申すべく候。氏の詩集はとうの昔に世にあるべきものにして、今日まで發刊の事なかりしは不思議の事に有之候。光風館にて萬事の手數を引受け下され好都合に存じ候。いよいよ世に出で候は一二箇月の後なるべく候へども、詳しくは次號に發衷致すべく取あへず記して會員諸君に欣びを分ち申候。
△中村憲吉氏病後益々健康を復し、只今備後鞘港要塞下商船會社前に假寓靜養致し居り候。來月よりは歌あるべしと通知し來り候。
△釋迢空氏は豫告の通り、彌々七月一日「土俗と傳説」第一號を發行致すべく候。會員諸君の御購讀を願上候。詳しくは廣告御覽下され度候。
△土屋文明氏赴任後多忙に打過ぎ候處、来月よりは「短歌入門」の稿を續け申すべく、作歌もこれあるべきやう通信有之候。
(513)△門間春雄氏御病氣大いに恢復郷里福島縣瀬上町に歸られ候。
△柿崎洋一氏覗察旅行の途次上京數日滯在致され候。
△伊藤五郎氏、竹内兵太郎氏、兩角丑助氏何れも上京暫く滯在致され候。
△會費の事毎號申し候事筆重きを感じ申候。遲滯の方ありて困り候ゆゑ御送金御願申上候。
△アララギ合册、大年五年前半後半、大正六年前半後半各册とも猶殘本有之候。代金各册一圓三十銭(郵税共)にて御需めに應ずべく候。
△尾山篤二郎氏は短歌雜誌の編輯者なり。自選歌號なるものを出さんとして予に稿を促す事再三。予旅中にあり、一二年間の歌を記憶せず。如何にして自らの歌を選ぶを得ん。且つ促すの再三なるに從つて氏の藝術に對する態度の益々予に遠きを知れり。例は擧ぐるに易し。今「アララギ」の紙を費さざるのみ。昨日短歌雜誌自選歌號なるものを見るに至つて益々驚けり。岡麓氏自選歌の上に予の肖像を掲げたり。短歌雜誌に同氏の肖像なくして(同氏寫眞を送らず)東雲堂に予の肖像あり。短歌日記編輯の際予の送りたるものなり。この肖像岡氏肖像の代理となりて自選歌の劈頭に掲げらる。短歌雜誌の爲す所斯の如し。岡氏に對する侮蔑なると共に予に對する侮蔑なり、岡氏及び予に對する侮蔑なると共に廣く歌人に對する侮蔑なり。予の謂ふ所は、肖像の違ひにあらずして短歌雜誌編輯の態度なり。短歌雜誌にして辭あらば、予は更に豐富なる材料を尾山氏の面前に示すを得べし。六月二十八日夜
(514)△築地藤子氏新嘉坡安著の報あり。孟買には水島芳子氏あり。我が「アララギ」の二女流相前後して印度に赴く。異郷風土切に加餐を祈る。六月三十日
○
今朝千樫が慌しく訪ねて來て歌稿一頁分を置いて行つた。十一時何分の汽車で國へ一晩泊りに行く用が出來たと言ふのである。子どもの麻疹が經温惡しくて餘病を出したと言ふ。色々慌しく言つて急いで歸つて行つた。予は昨夜から今朝の四時まで起きてゐたので頭がぼんやりしてゐる。そこへ來て一時に色々言つて急いで歸つて行つたのである。予は歌稿を持つて印刷所へ出掛けた。梅雨晴の日が夥しく暑い。印刷所へ著いて話すと、後から原稿を挿入することは困るといふ。それなら編輯所便の前へ入れて貰はうといふことにして、それから校正に取りかかる。夫れから廣野三郎が來る。高木今衛が來る。餘り暑いので校正原稿を持つて小生宅の二階へ逃げのぴて三人眞裸になつて校正してゐるのである。六月二十九日
○
昨日から梅雨晴になつた。印刷所の二階は暑くてたまらぬ。校正原稿一切を持つて小生宅の二階へ避難する。そこへ高木がやつて來る。來ると直ぐ丸裸になる。窓の外の梅の枝がたえず吹き動いて技の間に大きな梅の果が見える。色はまだ眞青でゐる。廣野は今日まだ來ない。昨日の暑さで疲れたか(515)も知れぬ。六月三十日
今夜校正に集るもの三郎、馬吉、達三、今衛、赤彦の五人。猿股一つにて裸形のもの一人、上半身眞裸のもの一人、襦袢一つのもの二人、衣帶正しきもの一人。誰が各々夫れであるかを書くことに異議ある故書かぬ。兎に角暑くてたまらぬのである。六月三十日夜
編輯析便 (大正七年八月「アララギ」第十一卷第八號)
△小生實父去十八日信濃にて逝去。即日歸國の爲め編輯等萬事在京諸同人に御願致し、辛うじて發行間に合ひ申し候。小生の作物其の他總て間に合はず遺憾に存じ候。
△左千夫先生第六囘忌は豫定の通り七月二十日普門院にて修行、出席者二十五人の盛況に有之、先生未亡人も御參列下され、普門院主讀經囘向の後一同墓參、引續き歌會相開き薄暮解散の由。詳報別項御覽下され度候。丹波富二、飯山鶴雄二氏丁度遠地より來會の由喜ばしく存じ候。
△湯本禿山氏七月十八日急病を以て逝去せられ候。同氏とは六月中旬長野市にて會談、例により元氣旺盛なりしに突如として悲報に接し候段恐愕哀悼の情に不堪候。同氏は故左千夫先生存生中よりのアテラギ同人にして、從來本誌の爲に配慮せられし事少々にあらず、會談毎に「アララギ」經營其の他に付き助言を吝まれざりし次第に有之、有力なる一同人を喪ひし事痛惜猶足らざるを覺え候。御子息(516)一人あり、目下醫學を修められ居り候。御健全にして父君の後を壯にせられん事を祈り候。
△篠原志都兒氏七月十九日信濃にて逝去せられ候。同氏は小生と殆ど同時に左千夫先生に赴きしアララギ同人にして、醇朴温厚の資、最も左千夫先生の愛撫を受け申し候。先生の晩年居を蓼科山に卜せむとせられ候も、同地に志都兒氏の在りし故に候。昨年腸結核に罹り上京、大學病院にて手術を受け修善寺温泉にて越冬、更に樂山堂病院、順天堂病院にて治療を受けしも經過漸次不良、七月初旬信濃に歸り候處遂に起つ能はず、痛惜の至りに候。遺れる者御老母及び未亡人二幼子あり。誠に同情の念に堪へず、謹んで弔意を表し候。
△會員小林文夫氏過般來肺患に罹られ、臥床罷在り候所六月下旬逝去せられ候由、兩角丑助君より御通知有之候。本誌五月號病臥の歌は氏の最後の歌と相成り候事悲痛の至りに存じ候。四月書を寄せて曰く「死ぬまで歌を作る」と。當時字體混亂頗る病状の不安なるを想はしめき。今悲報に接して哀悼更に加ふるを覺え候。謹んで弔意を表し候。
△中村憲吉、令弟の病報に接し急遽鞆港より歸郷の爲め選歌其の他原稿意に任せず。來月より歌送るべき由通知有之候。
△小生九月下旬北海道に參り申すべく候。猶小生父逝去につき諸君の御弔問に接し有難く存上候。一々御返答申上べきの處失禮誌上にて御禮申上候。七月二十八日
(517)△平福百穗畫伯畫集芝公園光琳堂より出版相成可申畫伯最近數年間の作物中特に四十二圖の精粹を選擇すべく候へば出來上り候上は畫伯の面目渾成躍如するを見るべく、切に會員諸氏の御清覽を祈候。詳しくは來月號に載せ可申候。
△岩波書店にては今囘子規先生第十七囘忌を期として、先生晩年の手記「仰臥漫録」を手摺木版として出版相成可申、木版師は當代の高手を招き同書店内にて專ら其の製作に從事致し候筈にて、原本と寸毫の差なきを期する筈に有之、出來上り候上は必ず子規崇敬者の渇望を醫するを得べきを信じ候。會員諸君の座に一帙を備へられんことを切望致し詳しくは廣告御覽被下度候。猶「アララギ」會員及び讀者の御註文は小生へ御報知被下度、代金は出來上りし上にて宜しく候。
會員諸君に (大正七年九月「アララギ」第十一卷第九號)
〇歌の原稿紙小形のもの困り候。多數綴り込み候際文字隱れて見えず候。半紙形のものにても右の方を充分明けて頂かねば矢張り文字隱れ申すべく候。
〇第一行を明け、第二行に題と國名と氏名とを書き、第三行より歌を書きて頂き度候。
〇歌送稿後あそこを訂正せよ、ここを直せと申越され候事有之候へども、多數のものを數人の選者に分送致し候へば何處にその歌あるか分らず困り候。もし御申越の通り訂正出來ぬ場合は御叱りなきやう願上候。
(518)〇會員は成るべく勉強して毎月必ず歌送り候やう祈上候。一首二首にても、送るは送らぬより結構に候。何事も心長く根氣強く取りかからずば數十年の後に悔生れ申すべくと存じ候。小生如きは歌をはじめてより十五六年になり候へども未だ何物をも得る能はず刻々の工夫足らぬ故に候。前途の長きを思へば今頃になりて少年立志の心湧き申候。長距離競走にでも、浦鹽出兵にでも駈け參じ申すべく、四角八面藪たたきの棒を振り廻す位の事は致しかね申すまじく候。
編輯所便 (大正七年十月「アララギ」第十一卷第十號)
△本號は特別號として編輯致し候。茂吉より久し振に一文を寄せ來りしに小生も元氣出で働き申候。譜同人の歌皆顔を揃へたかりしも憲吉は令弟重病にて廣島に行き居り辛うじて選歌を濟ませたる有樣にて詮方なく、文明歌送り來る筈なりしも間に合はず殘念に候。平福百穗氏文部省展覽會出品製作中の繁忙なるにも係らず傑作一頁を寄せられ候事如何計り心強く存じ候。門間氏病褥の中かつて作歌を廢せず、是亦心強く存じ居り候。
△森田恒友氏、武田祐吉氏より有益なる原稿頂き本號の重きを加へ候事感謝の至りに候。阿部次郎氏は今月は御都合惡しく例の「ゲーテ詩抄」を頂き得ず殘念に存じ候。其の他林鴎南氏態々御稿を寄せられ有難く存じ候。同人にては青五、耕平の研究と隨筆を得て賑やかく相成候。
(519)△本號附録子規居士筆俳句木版刷は岡麓氏の御好意によりて出來上りしもの、特別號のため光彩を添へ候爭感謝の至りに候。
△子規居士第十七囘忌歌會は豫定通り田端大龍寺にて擧行致し候。此の日子規先生母堂態々御來會下され一同滿悦致し候。來會者二十五人法會墓參の後撮影、直ちに課題歌の互選を致し候。法會の時刻後れしため互評の時間なかりしは遺憾に存じ候。寫眞及び歌は本誌來月號に載せ申すべく候。
△百穗畫集は精緻なるコロタイプ版と、古雅なる裝幀を以て芝公園第十一號地三番光琳社より出版相成候。畫を集むる四十二。斯く多數の諸作を一帙の内に收めて畫伯の畫風に接するを得るは小生等の非常に幸慶とする所に有之、會員諸君の座右に御備へあらんことを切に御勸め申上候。定價七圓送料十二錢に候。
△豫ねて御紹介申上候「仰臥漫録」愈々岩波書店より出版相成候。岩波氏の非常なる御盡力により稀代の珍寶を手にするを得候事感謝の至りに存じ候。會員諸君よりも多く御購求を報ぜられ喜ばしく存じ候。猶岡麓氏は「仰臥漫録」につき來月號へ有益なる御稿を寄せらるべき筈に有之豫め御知らせ申上候。
△木下杢太郎氏詩集「食後の歌」は目下校正進捗追々出版相成可申候。紙質裝幀口繪挿畫すべて非常に念入りに行はれ居り此の方は大隅爲三、小糸源太郎兩氏專ら擔當御盡力下され候。詳しくは來月號(520)にて御報申すべく御期待下され度候。
△本誌來月號は例により平福百穗畫伯文部省展覽會出品製作を口繪と致すべく候。
△迢空の「土俗と傳説」は内容形式益々整備して刊行致され候事欣喜存じ候。會員諸君の御購讀を祈り候。
△「アララギ」の經營は目下紙の騰貴と、印刷費連月の値上げにより非常の困難に遭遇致し居り候。會費一箇月にても後らせ候事は只今の場合罪多し。御奮發願上候。
△「抒情詩」は内藤※[金+辰]策、中西赤吉、林信一、谷口知安四氏により十一月より復活致すべく候。從來の紙數を倍大して續刊の由に候。九月二十六日
△小生の面會日は今後毎月十九日二十三日と定め候間御訪問は成るべく此の兩日中に願上げ候。小生毎月十八日頃より二十八九日まで東京に居り申すべく候。此の間編輯やら校正やら雜務やらにて寸暇なき有樣に候。小生の不幸に對し態々御見舞下され忝く存じ候。御返事相漏れ候哉も計り難く誌上にて御禮申述候。九月二十八日
編輯所便 (大正七年十一月「アララギ」第十一卷第十一號)
△本號例によりて平福百穗畫伯の文部省展覽會出品「牛」を卷頭に掲げ候。この「牛」は畫伯從來の(521)製作中最も重要なる意義を有するものなりと信じ候。啻に一畫伯のために然るのみあらず、現今の日本畫西洋畫兩者の面前に最も眞劔なる問題を投げ出したるものなりと信じ候。投げ出されたる問題に對し無關心なる人々と我々と何の關はりも無し。之れ今更驚くべきにあらす。或は日本は何處までもこの状態にて押し進むのかも知れず、押し進むと進まざると畫伯に於て關係なし。小生等は更に潜かに作歌苦研の心湧き居り候。
△中村憲吉十月初め令弟を喪はれ候。憲吉歸國後いつも多事、今又この訃音を耳にし哀悼の情に堪へず、謹みて弔意を表し候。
△岡麓氏母堂御重態にて房州に急行。御心痛推察致し候。そのため「仰臥漫録に就きて」の執筆も叶はず殘念に存じ候。來月號に掲載相成り申すべきかと期待致し居り候。
△石原純氏十月十八日上京、發行所を訪問せられ半日閑談致し候。二十日夜仙臺に歸られ候。
△山本信一氏胸部腫物切開のため東京大學病院佐藤外科に入院、手術後の經過宜しく近日退院致さるべく候。
△山田邦子氏病氣追々輕快、十月中旬信濃より歸京、近日中一時田代病院に入院せられ候由通知有之候。病中曾て作歌を廢せられず、心強く存じ候。
△加納曉氏過日一寸上京、共に文部省展覽會を見て別れ申候。
(522)△築地藤子氏新嘉坡よりポンテアナツクに轉居せられ候。益々壯健の由祝著此の事に候。
△近藤修一氏上京發行所を訪問せられ候。二十七貫の大男、氣焔やゝ之に適ひ候。氏は郷里美濃高田町にて「砂丘」といふ短歌雜誌を出し居られ候。
△渡邊麻吉氏久し振に備後より上京の由にて發行所訪問、数時間話され候。常陸に宇野喜代之介君と今一人の友人を訪問せらるる豫定の由に候。
△木下杢太郎氏の詩集「食後の歌」は只今進捗中に有之候。會員諸君よりの問ひ合せも有之、詳しくは發行前に御知せ申上ぐべく候。諸君の御期待を祈り候。猶發行につきては一に光風館の御世話に相成り居り感謝奉存候。
△小生毎月長野、諏訪、東京と三箇所をぐるぐる廻り致し居り、東京には十日間程の滯在と相成候。その間に雜誌一切の處理をせねばならず。殆ど寸暇なきの有樣にて、自然大方諸氏に對し御無沙汰を重ね候事に相成り心苦しく存じ候。右樣の次第故手紙の返事時々なげやりに相成候段御寛恕願上候。今日は馬吉西班牙風邪に冒され臥床のため、交換廣告やら校正やら一切一人にて致し居り目を廻し居り候。
△今月は例つもより會費納入多く百二十圓位に上り候。多く集れば二百圓足らずあるべき筈に候。納入の概況之にて御推斷を得べく候。紙代印刷費非常に昂騰の折から現状にては最早やり切れず。會員(523)諸君の御洞察を願ひ候。「アララギ」としては只今焦眉の問題に成り居り候。
△小生一二日中に宇野喜代之介君と共に信濃富士見に行き申すべく候。
△齋藤玉男氏より金五圓、近藤修一氏より金五圓、金子茂氏より金二圓、石原純氏より金十圓何れも發行費中へ御寄附下され、御厚志忝く奉謝上候。金子茂氏は十一月近衛師團へ入營致さるべく候。十月二十七日
○
茂吉は選歌稿の頁をいつもきちんと餘白出さぬやうにして送る。假名づかひ等も訂正して送る。餘白出る場合はそこへ何か短文を埋めて送る。今度は編輯の都合で選歌中から一段組を撰り出したから十二行の餘白が出來たのである。 ○
「淋し」といふ字は、アララギでは校正の時、いつも「寂し」になほす。「寂」字の方が感じがいいからである。この事初め千樫言ひ、茂吉言ひ、赤彦も同感してゐるのである。妙な癖であるが、校正の時何うせ直すものとすれば、はじめから「寂」の字で原稿書いて頂きたいのである。
今日は近藤修一君が校正の手傳ひに來てくれた。正午から高島屋の展覽會へ行つた。百穗畫伯の畫だけ見て直ぐ歸つて來ると、千樫が來てゐた。しばらくして飯山鶴雄君がやつて來る。馬吉は今日も(524)末だ風邪ひいてゐる。十月二十八日
編輯所便 (大正七年十二月「アララギ」第十一卷第十二號)
△本號を以て今年を終り候。諸同人竝びに會員諸氏一同勇健越年欣喜存じ候。△本年「アララギ」成績は別紙總目録に現れ居り候。此外に迢空は雜誌「土俗と傳説」を出し、猶萬葉辞典脱稿最近全部印刷に附し申候。宇野喜代は雜誌「異象」同人として毎號執筆、小生は雜誌「信濃教育」へ毎號執筆致し候。
△今年中本誌のため御厚意賜りし先輩諸氏に對し謹んで御禮申述べ候。特に平福百穗、阿部次郎、小宮豐隆、木下杢太郎、森田恒友、石原純、金田一京助、赤木桁乎、茅野簫々、羽生永明、林鴎南、高橋禎二、眞田直視諸氏の異常なる御助力により、本誌の面目を加へ候段如何計り有難く御禮申上候。
△岩波書店主人岩波茂雄氏の本誌のため御助力下され候御厚志アラブギ同人一同感謝に堪へず。本誌微力辛じて存續を保ち得るは全く氏の御助力に依り候。謹んで同氏竝に同書店員諸氏に御禮申述候。
△光風館主人四海民藏氏よりは、木下杢太郎氏の詩集「食後の歌」出版につき非常に御盡力を願ひ居り候。その他同書店よりは此の年御厄介相成候事多く候。謹んで御禮申述候。
△地方にありては本誌經營のため特別御盡力下され候門間春雄、森山汀川、沖鹽正光、早川博、土橋(525)青村、加納曉、加納小郭家、渡邊草堂、佐々黙々、小池晴豐、兩角雉夫、寮角丑助、小松佐治、五味えい子諸氏に厚く御禮申上候。
△年末に際し、十一月二十五日夜、例により編輯同人の會合を發行所に開き申候。差當り新年號計劃は別欄記載の通りに有之、頁數も非常に増大致すべく、内容も非常に充實すべきを信じ候。諸君の御期待を希ひ候。
△會計につきて當夜周密相談いたし候結果、本欄の末に記し候通り會費と誌代との値上げを決行するの已むを得ざるに立ち到り候。語物價騰貴の結果本誌毎月の缺損少額にあらずこのままにては到底永續の望みなく、已むを得ず右斷行致し候次第に有之、斯くしても從來の缺損は到底補ひ得ざる状況に有之候。會員諸君及び讀者諸君の御諒知を願ひ候。猶會費不納隨分多く困却致し居り候。右の事情御承知至急御送金被下度、年末に際し集金郵便は手間取り申すべきにつき、振替便にて至急御送附の程願上げ候。もし集金郵便にて願ひ候場合は即時御支拂ひ被下度候。之は本誌の年越問題に關係致し居り候。
△新年號は紙数殆ど平常の二倍大となり、代價少くも五十錢と相成るべきにつき、一月限り、普通會員諸君の會費五十錢御納入願上候。
△會員伊東保雄氏は今囘の流行感冒のため、十一月八日永眠せられ候。享年二十四歳。氏は大正五年(526)入會以來熱心作歌を續けられ、傑作少からず。忽然御逝去哀悼の情に堪へず、謹んで弔意を表し候。
△會員一刀正雄氏は今囘流行感冒のため十一月二十日永眠せられ候。氏は大正五年入會。前途爲すべき多くして忽然御逝去哀悼の情に堪へず候。謹んで弔意を表し候。
△中山由伎江氏より金一圓、川村縫二郎氏より金二圓、某氏より金五圓何れも本誌發行費へ御寄贈下され、御厚志奉感謝候。
△木下杢太郎氏詩集は挿畫色刷入念に行はれ居り候ため一月末發行と相成申すべく候。
編輯所便 (大正八年一月「アララギ」第十二卷第一號)
△新年の御慶芽出度申納め候。會員諸君及び諸同人一同益々勇健に歩をつづけ候事欣喜存じ候。アララギは過去現在未來を通じて、靜寂の一道をたどる覺悟に候へば、この道に集れるものの心は、年と共に愼肅を加ふべきを信じ候。衆多けれども騷がしからず、靜かなれども倦むことなき歩みは非常の覺悟にて初めて、氷久に徹し得べく、小智慧や計らひの器用にては間に合ひ申すまじく候。苦業修道の覺悟にて全心的歩みをつづけ候事吾々工夫の根柢たるべく候。吾々も人間なれば迷執も出で未熟も出で申すべけれど、迷執の多く未熟の多きに吾々の工夫生るべく、要は一途專念この道の歩みをつづけ得るや否やにありと存じ候。アララギの新年を迎ふる心は、門松屠蘇年禮カルタの心と少々違ひ居り(527)候。覺悟といふもの景氣よく賑かなものに無之候。
△本誌新年號は先輩諸氏の厚意及び諸同人の奮發により盛觀を呈し欣喜存じ候。岡麓氏は今後毎號一文を御執筆下さるべく、二月號には「寶生九郎と攝津大掾」につき御書き下さる事になり居り候。氏の蘊蓄を本誌に傾注せられ候事諸同人と共に如何計り幸慶存じ候。平福百穗畫伯の「牛につきて」は畫伯秋田縣旅行中病臥せられ候ため遂に本誌に載するを得ず殘念存じ候。畫伯臥床にありて猶歌稿を寄せらる。怠けもの慚ぢて可なりと存じ候。文明は新年より「短歌入門」を續け申すべく諸同人の「萬葉集輪講」は二月より續け申すべく候。憲吉昨年は家族事故頻出、更に冬に入りて令閨の肺炎を患ふあり。そのため豫定の文章も歌も送る能はず殘念存じ候。令閨最早恢復欣喜存じ候。今年は憲吉の歌盛に本誌に現れ申すべしと存じ候。
△百穗畫伯は前述の御病氣最早恢復舊臘二十四日歸京せられ候。
△齋藤茂吉舊臘長崎より一寸歸京致し候。長崎に行きて初めての歸京、一年振りに懇談するを得申候。今年よりは「アララギ」のために餘計に書き申すべく諸君の御期待を祈り候。
△土屋文明も舊臘廿六日歸京。同じく信濃に行きて初めての歸京にこれ有り、丁度茂吉も來合はせ候事ゆゑ諸同人打寄り懇談致し候。
△花田比露思氏舊臘大阪より御上京發行所御訪ね下され候。
(528)△土田耕平風邪臥床中の由にて本誌に歌を送るを得ず殘念存じ候。早く恢復いたし候やう所り候。
△加納小郭家亦流行感冒にて歌送り得ず殘念存じ候。早く御恢復を祈り候。流行風邪に罹り候會員諸君隨分多き事と存じ候。御加餐祈上候。
△本號は印刷所年末多忙に際し、例月より早く原稿を纏むる必要ありしため、遲著の歌稿皆二月號に廻り候。惡しからず御承知被下度候。
△會費改定につき會員諸君より多數同情の御詞を寄せられ感謝致し候。會費怠納は「アララギ」の恐るべき敵に有之、このため書信を往復するやら、帳簿を調べるやら時間と手數を要する事少々にあらず。小生此の十餘日毎夜二時前に寢ねし事なく、徹夜も時々致し居る如き有樣にて、會費不納のために時間を取らるるは非常に困り候事情御推察被下度、毎月規定通り御納め被下候樣至願仕り候。
△花田比露思氏より金五圓、加藤月陵氏より金五圓何れむ發行費中に御寄附被下、御厚志感謝致候。
○
今夜四時迄に組上げると校正係が言つてゐる。昼から校正室につめ切りで頭がもうぼんやりした。火鉢の殘り火の上に黒い炭をおいてある、おこりさうにない。徹夜なら職工にも負けないつもりである。十二月二十六日夜十一時
(529) 編輯所便 (大正八年二月「アララギ」第十二卷第二號)
△土屋文明は一月上旬に、齋藤茂吉は一月十六日何れも任地に歸れり。二氏上京を機とし一月六日根津娯樂園にアララギ會を開けり。新年休校期にて歸省中の會員多かりしも出席者廿四人の盛況なり。村上成之氏折よく上京中にて出席せられたり。茂吉已むを得ざる用事出來して出會し得ず、殘念なり。
△岡麓氏母堂二月十七日御逝去せらる。數年間の御恙病にて岡氏奉仕悃誠を極められしも遂にその甲斐なかりしこと、御悲傷拜察するに堪へず、謹んで哀悼の意を表す。
△中村憲吉一月二十五日上京。足掛け三年振りの面談なり。昨年腸チブスを病みし後却つて健康を増し、甚だ元氣なるを喜ぶ。昨年は家族事故頻出のため甚だ作歌に遠ざかりしも、今年は新なる努力を「アララギ」に加ふるを得べし。欣賀に堪へず。
△平福百穗畫伯昨年吉野に病みたる以來折々腹部に故障あり。舊臘秋田に腸を病みたる際は疼痛非常にして較々危惧すべきものあり、歸京後佐藤傳士の診察を受けしに盲腸炎の痼疾ある事明になれり。依つて一月十三日大學病院佐藤外科入院。十六日手術爾來經過甚だ良好にして不日全治退院せらるべし。この手術後れたりせば、他日取り返しつかざる危險に陷るやも計られざりし由。早く根本的手術を施し得たる事畫伯のため、吾等のため、藝術界のため慶賀に堪へず。手術後心身疲勞多し。切に自重あらんことを祈る。
(530)△畫伯の手術準備室に入りしは一月十六日の午前十時にして手術終りて病室に歸りしは午後零時卅五分なり。此の間正に二時間半なり、手術の大なりしを知るべし。午後二時五十五分麻醉より醒む。一微動だも許されず。明朝予の病室に入るや、仰臥依然、纔かに口を開いて予に紙と鉛筆を求め一首の歌を示せり。予の心甚だ駭けり。本誌今月號に載するものは一月十八日夜仰臥のまま鉛筆にて認めたるものなり。
△釋迢空著の萬葉集辭典彌々發行せらる。六號組菊判五百頁の大册なり。斯の如きは萬葉集研究史中初めてある所にして、本書によりて萬葉集研究者を稗益する所極めて大なるべきを信ず。萬葉集研究者のため、同氏のため、慶賀に堪へず。會員諸君の一本を備へんことを勸むるに躊躇せず。詳しくは廣告欄に就かれたし。猶釋迢空著「口譯萬葉集」上卷購求の際附録として萬葉集辭典引換券添付ありしものは、右引換券を直接發行書店文會堂に送る時は無代送本の由なり。
△二月八日は故長塚節氏忌日に當れり。二月十五日午後正一時麹町區清水谷公園皆香園(停留場麹町九丁目若くは赤坂見付)にて追悼歌會を開くべく、會員多數の出席を望む。會費五十錢。課題「土」二首持参の事。猶出席者は二月十四日迄に發行所へ通知ありたし。
△原稿は成るべく判紙大のものに規定通り清書せられたく、第一行をあけ、第二行に題と國(市)名を書き、節三行より歌を書くやう願ひたし。白紙なるは紙の右に綴ぢ込みの餘地を充分にあけておか(531)れたし。猶一枚毎に二つ折りにして二枚以上は簡單に綴り合せていただきたし。
△會費毎月前納御勵行を願ふ。
△内本浩亮氏より金六圓、廣瀕照太郎氏より金五圓本誌發行費中へ御寄贈ありたり。謹んで御厚意を謝す。一月二十六日
編輯所便 (大正八年三月「アララギ」第十二卷第三號)
△平福百穗畫伯手術後經過よく、二月十二日全癒退院せられ候。不日伊豆地方へ轉地せらるべく候。
△加納曉氏一月二十五日華燭の典を擧げられ候。祝著此の事に存じ候。
△中村憲吉氏二月上旬歸國せられ候。
△門間春雄氏久しく病氣の處二月十三日逝去せられ候。氏病牀に呻吟する三年、嘗て作歌を廢せられず。殊に近來の歌毎號非常の進境を示され、諸同人推服の感を同じう致し居り候折柄、突然訃音を耳にし驚愕哀悼の至に堪へず候。二月號の歌、
生き死は悲しといふにあらなくにこの世はいたく寂しきろかも
の一首に讀み到りしときは、沈痛を超えたる靜寂の感に打たれ、衷心やゝ氏の病状を氣遣ひ候處、それより一箇月を經ざるに溘法永眠せられ候事感慨に堪へず候。本誌の首めに掲載せし端書は一月二十(532)一日夜木曾馬吉宛にて認められしものにして、發行所に到達せし最後の音信に候。二十一日晝投函せられし歌稿中、一句中の三字訂正のため、其の夜重ねて寄せられし所にして、氏が平生作歌に於て如何許りの苦心を累ね居られしかを窺ひ得べく候。世には一字一句に苦心するものを彫琢の末に從ふものとして、一笑に附する人々あり。かかる人々が氏の原作なる
生き死は悲しといふにあらなくにこの世は|ひたに〔付○圏点〕寂しきろかも
と、訂正せられし歌と比較して如何の感あるべき。小生の氏に推服する所は、常に全力を擧げて唯一つの機微に達せんとせられし努力に候。歌の生命を捉ふると捉へざるは只微細なる一點の差にあり、この一點は一點にして實は一點にあらず、全體の集中なり。氏はよく此の集中の一點を知れり。把捉と努力とが一致して透徹せる歌を生まれし所以と存じ候。氏齢三十一歳。令閨及び二兒を遺して永へに歸らず、悲痛言語に絶せり。謹んで哀悼の意を表し候。
△猶卷首はがき中「先生」と書かれしは、馬吉に對して小生を呼ばれしにて、氏と小生とは決して師弟の如き間柄にあらす。此の事念のため書き添へおき候。
△田中美泉果氏流行風邪のため、二月六日旅行滯在先き鶴見病院にて逝去せられ候。氏は數年前入會一時退會せられしも、昨年五月再び人會、發行所をも時々訪問せられ、專心作歌に勉強せられ候處、卒爾御逝去、哀悼の情に堪へず候。謹んで弔意を表し候。
(533)△長塚節忌歌會二月十五日清水谷公園にて開會。來會者二十四人。午後二時より夜十二時近くまで談論あり、活氣ある會合なりき。歌別欄に掲げ候。△釋迢空著萬葉集辭典前號所報の如く彌々發行相成り候。當發行所にても取扱ひ申すべく代金及び送料御送次第送本仕るべく候。詳しくは廣告御覽下さるべく候。
△本誌四月號は特別號として發行、諸同人の歌及び議論、研究皆現れ申すべく、久しく見えざりし謙吉の歌も必ず現れ申すべく候。會員諸氏も奮つて御出詠なされ度、期日嚴守、規定嚴守、兩方とも正確に願上候。
△今月は會費又々さつぱり集らず。困却致し居り候。此の方の規定も御嚴守切に願上候。
△加納曉氏より結婚記念として發行費中へ金十圓御寄附下され候。御厚志謹んで謝し奉り候。
編輯所便 (大正八年四月「アララギ」第十二卷第四號)
△本號は特別號として編輯した。諸同人多く顔を揃へたのは愉快である。殊に茂吉、謙吉二氏とも非常に久し振で歌を載せた。石原さんが目下專攻の學問につき研究中で何も書かれる暇がなかつたことと、千樫に歌と文章のなかつた事が殘念である。平福さんは近頃毎號勉強されてゐる。加納曉氏も久し振で作歌を復活した。
(534)△近頃「アララギ」の新進は非常な進境を呈してゐる。吾々同人の未だ到らない境をズンズン開拓するといふ概を示してゐる。夫れが各人皆別々の境地である。忠實な根強い歩き方をしてゐれば、終ひには左樣な所へ到著し得るのである。個性々々など騷ぐには當らないのである。只忠實に歩いてさへ居れば其處へ自然に到達するのである。窮屈な修業を馬鹿らしく思はないで、コツコツ歩いてさへ居ればいいのである。個性の自由だなど叫ぶことに急なる人達は、自由で放肆で我儘で氣まぐれものに墮してゆくこと珍妙である。戒律を持するは窮屈である。窮屈な規律を眞面目に通つてゐる坊樣が、しまひに無礙の佛界に近づき得るのである。人間に手足頭目五體の形を備へてゐるのは窮屈である。眼の向ふ所遠きに及ばず、高低に及ばず、後方に及ばざるが如きである。不自由であるから努力し刻苦し發奮して向上し進展し開拓するのである。不自由は物を規定する。物を規定するのは物を精選することである。規定益々細密にして精選益々精を加ふべきである。精を加ふるは物の本質を其の極致に到達させる所以である。物の本質を極致に到達させることは物存在の意義を進展させ開發させる道である。物の存在する意義を窮屈にすることが、物存在の意義を開發する事である。「アララギ」の窮屈なるは窮屈なるべきを信じて自ら爲すところの窮屈である。この窮屈から本物が生れるのである。近頃新しく「アララギ」に萌してゐるものは、之から出發してゐる個性の發芽である。この發芽を大したものと思うて小生は注視してゐる。
(535)△平福百穗氏は三月下旬伊豆より歸り、直ぐ中國地方へ出發せられた。健康は全く舊に復せられた。
△石原純氏は四月上旬上京される筈である。
△齋藤茂吉氏も四月上旬一寸歸京する筈である。
△古泉千樫氏は四月一日出發して四國へ行く。
△宇野喜代氏は水戸市外へ移つて百姓生活を見習ふつもりである。
△小川千甕氏と結城哀草果氏は來月號から故門間春雄氏につき文章を書かれる筈である。
△山口好氏は國を引上げて上京した。
△築地藤子氏ポンテアナツクから消息があつた。無事彼地でお子さんを擧げられたさうである。祝著の至りである。歌百首を寄せられた。來月號に發表する。
△小生の面會日は今後毎月十五日二十日の兩日と定める。會員諸君の御來訪成るべくその日に願ふ。
△原稿を送るのは二錢切手開封に願ふ。三錢切手封書はその度に開いて見ねばならぬ面倒があるから右に御願ひするのでゐる。原稿紙の小型なのを用ひる方は今後必す半紙判に改めて頂き度い。書體は近頃大分丁寧になつて有難い。未だ亂雜な書き方をする人がある。會費の滯りが多い。集金郵便を出すから御支拂ひを願ふ。三月二十五日
新刊紹介と諸會費は來月に廻した。
(536) 編輯所便 (大正八年五月「アララギ」第十二卷第五號)
△本紙千樫原稿一切間に合はず。殊に選歌間に合はざりしため會員數十氏の歌一月遲れて發表の事に相成り遺憾の至りに存じ候。千樫已むを得ざる事情にて左樣の事に相成候段御寛假のほど願上候。茂吉、迢空何れも汽車中執筆稿を寄せて間に合ひ、憲吉の歌も風邪中に作り間に合ひ候事欣喜存じ候。「アララギ」は聯合軍に候へば心は揃ひても足並が揃はねば編輯者まごつき申すべく候。岡氏風邪やゝ重態なる中にて、「光悦と松花堂」御執筆、百穗氏旅行より歸來病後猶疲勞多き中に作歌せられ欣喜存じ候。
△四月十五日茂吉宅に編輯會を開き別欄記載の如く「故左千夫先生七周忌記念事業計畫を定め申候。「アララギ」七月號を以て左千夫記念號となすべく、先生と親交ありし諸先輩に御執筆を願ふ外、「アララギ」同人一同先生の一方面づつを受持ちて稿を起し申すべく候。先生の書簡は非常に多數にて、諸門人の保存するもののみにても隨分多く、輯めて左千夫記念號に收め申すべく、從て特別號は可なり大部のものになり申すべく存じ候。次に左千夫歌集は原稿すべて千樫の手にて蒐集せられ居り只今門人等廻送中に候。これ亦大部のものに相成り申すべく、今秋中には必ず出版仕るべく候。建碑の儀も今秋中に必ず竣工致さすべく、此の費用諸同人及び諸友にて多く負擔致すべく候へども、世上有志諸氏の淨財をも受け申すべく會員諸君にて右樣の御志も候場合御賛助のほど願上候。金額は混雜を避(537)くるため五十錢以上と定め申候段御承知被下度、御送金は一切發行所宛てに願度、且つ御送金の節は建碑費の由御明記相願ひ度候。毎月本誌上に報告致すべく候へば、別に受領證を差上げざることと御承知被下度候。建碑一切費用收支はすべて本誌に發表致すべく、落成の上は寫眞版となりて本誌に現れ申すべく候。
△石原純氏四月上旬上京十五日夜茂吉宅編輯會に出席せられ、その夜出立仙臺に歸られ候。歸仙後少々發熱せられしも大したる事なき由今日御通知有之安堵致し候。そのため歌稿頂かれざりしは已むを得ざる事に候。同氏今囘は恩賜賞を拜受せらるべき由新聞紙にて拜見欣賀の情に堪へず候。苦研積年。前途悠遠。自愛自饗偏に奉祈候。
△茂吉四月上旬出京、十七日長崎に至り候。同氏「童馬漫語」彌々春陽堂より發行相成り申すべく廣告欄御覽被下度候。
△百穗畫伯病後關西漫遊、中途憲吉に會し、與に憲吉宅に至り、更に相携へて出雲に遊び今月十七日歸京致され候。本號首めに掲げし畫は憲吉宅より裏山を端書に寫生して寄せられしものに候。憲吉は畫伯に出雲に別れ、歸來風邪せしも最早全快の由に候。本號所載の歌は臥床中に送り來りしもの、感謝啻ならず候。
△千樫四月上旬近畿中國より四國に旅行し、中旬歸京致し候。
(538)△加納曉出京せしも生憎小生不在中にて會談を得ず殘念に存じ候。
△宇野喜代より來月は歌迭り得べしと申來り候。勞働生活容易ならぬことと想像致し居り候。
△横山達三歸省中に候。本月より歌をつづけ申すべく候。
△會員諸氏の歌稿御送すべて二銭切手貼用に願上候。そのわけは前月號にて申上げおき候。
△某氏より金十圓、某氏より金五圓發行費中へ御寄贈下され御厚志奉感謝候。四月二十一日
故伊藤左千夫先生七囘忌記念事業
今年七月三十日は左千夫先生の七囘忌である。同門の者相謀つて左の事を行ふ。先生の心をあらはし、先生の業を傳へんとする一端である。
一、アララギ左千夫記念號發行
アララギ七月號を以て之に充てる。先生知友及び同門の者悉く先生に就いて書く筈である。猶先生の書簡を多く蒐めて之に收める。
二、左千夫歌集出版
先生の歌は非常に多い。之を千樫が悉く輯めてくれた。その原稿を同門の者一通り拜閲の上今秋中に出版する。
三、左千夫先生碑石建立
(239) 龜戸普門院なる先生の墓上に建てる。之も今秋中に竣工する。詳しくは編輯所便に報ずる。
編輯所便 (大正八年六月「アララギ」第十二卷第六號)
△本誌七月號は伊藤左千夫七周忌記念號として發行すべく、本號卷頭所報の如く多數先輩及び諸同人の執筆之あるべきのみならず、先生の諸門人に與へられたる書簡多數を掲載致すべく候へば、先生の歌壇其の他に遺されたる作品の意義、先生の文壇其の他に向つて持せられたる主張、先生日常生活の面目等詳細に鮮明に誌上に現るべきを信じ申候。猶先生の描かれたる畫はがき及び書類等寫眞版に附して卷頭に掲げ申すべく、是亦先生の風神を傳ふるの一助たるべしと存じ候。
△七月號は左千夫記念號なると共に、諸同人の作品、研究、及び會員出詠の選歌等すべて例月の如く掲載致さるべく候へば、總紙面約二百數十頁の多きに上るべく、從つて編輯の仕事隨分煩雜に亙り申すべく、投稿その他一切期日通り勵行致すべく御承知下され度候。
△右の次第にて、來月號の定價は約八九十銭にのぼり申すべくと存じ候。因つて會員諸君よりは、七月に限り、會費二箇月分を徴し申すべく、此儀御承知願上候。就ては已に會費數箇月の豫納ある諸氏も此の際別に一箇月分御送付下され度く、然らざれば帳簿一々書き改めの手數生じ申すべく、編輯所の手を省くため此儀特に御承知下され度願上候。右送金は六月二十日迄に願上候。
(540)△左千夫先生石碑も事業意外に順序よく進行或は七月三十日七周忌當日までに完成相成るやも知れずと欣喜存じ候。下欄記載御一讀の上應分の御寄附下され候はば幸甚存じ候。
△先生歌集目下諸同人廻覽拜閲中に候。是亦今秋中には出版相成り申すべく候。
△石原純氏學士院恩賜賞拜授のため五月廿四日上京仕るべく、祝著の至に存じ上げ候。
△齋藤茂吉著「童馬漫語」は已に百頁餘校了の由、發行も間近き事と存じ候。來月號には詳細御報申し得べく候。會員諸氏の御期待を望み候。
△中村憲吉四月下旬女子を擧げられ候。祝著の至に存じ候。
△釋迢空市外大久保三〇七に移轉いたし候。鈴木金太郎も同居に候。
△小生養母五月一日に死去。そのため「逝く子」の續篇を完成し得ず。來月號に廻し申候。御弔問下されし諸氏に對し謹んで御禮申述べ候。五月二十二日
○
學校の運動會や帝國議會などには、やじるといふことが流行するやうである。昨夜或る先輩に伺ふところによると、日本には維新以前やじるといふことが餘り無かつたやうである。眞劔勝負や相撲の勝負には、兩々水を打つたやうに靜まりかへつて見てゐたもののやうである。命がけに見物(?)してゐるからであらう。就ては日本にやじるといふこと何時頃よりの流行なるかを知りたい。五月廿二日
(541) 故伊藤左千夫先生石碑建立につきて
今年七月三十日は左千夫先生の七囘忌である。同門の者相謀つて先生の碑石を龜戸普門院なる先生の墓上に建てる。先生の生はひそかであつた。「アララギ」の命もひそかであると思つてゐる。吾々は自らの分に從つて肅ましい小さな碑を建てようと思つてゐる。世上有志者の淨財を寄せ給ふあらば幸甚の至である。
一、中村不折書、鱸猛鱗刻
一、建碑費豫算約三百圓
一、寄附金は五十銭以上のこと
一、寄附金〆切は六月三十日のこと
一、送金はアララギ發行所宛のこと
一、寄附氏名を「アララギ」に掲げて受領證に代へる
「伊藤左千夫號」豫告
來る七月三十日は故伊藤左千夫先生第七囘忌に當るにつき、「アララギ」七月號を伊藤左千夫號として發行する。先生の心を現し、先生の業を傳へんとする微意の一端である。諸先輩及び諸門人等の執筆するもの、題目の定まりしものを左に録する。香取秀眞、平福百穗、中村憲吉、其の他諸氏の題目(542)未定なるも、執筆して下さることになつてゐる。猶先生の書簡中先生の主義先生の面目が尤も鮮かに現れてゐる者數十通を收輯する。先生の書及び畫も寫眞版となつて掲載せられる筈である。先生五十年の生涯は本號によりて世に現るるもの多かるべきを信じて之を讀者諸君に豫告する。
編輯所便 (大正八年七月「アララギ」第十二卷第七號)
△本號を以て故伊藤左千夫先生七周記念號と致し候。先輩諸氏の御助力竝に諸同人の奮勵により豫期通りの大册子となりて發行致され候事欣喜滿足存じ候。森鴎外先生の「伊藤左千夫年譜稿」は大正二年發行左千夫記念號に掲載されしものに多少の増補改訂を乞へるもの、年所を經たれば大部分の讀者に對して凡て新しき材料の提供たるべく存じ候。茂吉の「短歌連作論の由來」も左千夫先生を傳ふるに缺く可からざるもの、同じく舊稿に多少の改訂を加へて本號に收め候。「伊藤左千夫書簡集」は尤も明白端的に先生の歌論先生の生活を現し居るもの、先生を知らんとする人の必讀すべきものと存じ候。右書簡態々御送付御貸し被下候諸氏に厚く御禮申述候。其の他諸先輩諸同人の執筆により先生の創作及び日常生活に亙る凡ての方面を網羅し得たる事欣幸の至に候。只先生の面目は今囘の擧のみを以てして盡すべからず。先生に對する吾等の研究は更に今後を期して大成せらるべき儀と存じ候。
△本號表紙畫例により平福百穗畫伯を煩はして會心の作を得候段奉謹謝候。
(543)△本號書簡筆記は主として照太郎氏に依頼し、猶松五郎、恒司、浪吉、精二、今衛、馬吉諸氏より手傳ひもらひ候。校正は達三と小生と擔當、馬吉に手傳ひもらひ候。八日より今日迄殆ど十分の暇なく少々疲弊を覺え候。
△左千夫先生石碑の事、岡麓氏非常の御盡力を賜はり千樫と共に御奔走被下萬事順序よく進行、七月十五日迄に竣工仕るべく感謝の至に存じ候。猶大方諸氏より別掲の如く多大の御寄附を賜はり忝く御禮申上候。寄附受領締切を七月二十日迄延ばし候。有志諸氏の淨財を寄するあらば幸甚に候。
△石碑竣工につき七月十九日(土曜日)龜戸普門院に於て左千夫先生第七囘忌修行致すべく、會員諸君の御參會を祈り候。午後正一時開會、會費五十銭と御承知被下度候。
△本誌は毎號八九十頁の豫定に候へども毎月豫定超過を續け居り候處に、本號は普通號豫定頁數の三倍大と相成候。依て會員諸氏よりは七月に限り前以て會費二箇月分御納入を願ひ置き候次第御承知願上候。右増額分未だ御送なき諸氏は至急御送金被下度願上候。此の文認め居るうち夜明け鴉啼き候。
六月二十五日拂曉
△寺田憲氏より金十圓、加藤耕藏氏より金三圓、渡邊幸造氏より金五圓、某二氏より各金三圓本號出版費へ御寄送被下御厚志奉謹謝候。
△古泉千樫選歌八月號に廻り可申候。
(544) 編輯所便 (大正八年八月「アララギ」第十二卷第八號)
△左千夫居士石碑建立につき大方より多大の御厚志を寄せられ感謝の至奉存候。去る二十四日岡、平福、古泉三氏及び小生立會ひの上全く建立を竣へ候。事の初めより終りまで岡氏、平福氏より非常なる御配慮を願ひ古泉氏之に參して滯りなく竣工を告げ候段感謝に不堪候。小生多忙と在京日數少きため樣々手を出し得ず、焦慮多くして三氏に餘計御配慮を掛け候段恐縮奉存候。猶碑銘揮毫を願ひたる中村不折畫伯に對し謹んで感謝の意を表し候。鱸猛鱗氏はかつて子規居士碑を刻みたる老石工なり。精勵入念快く事に從はれ、是亦感謝存じ候。凡て具合よく進捗會心の至に存じ候。
△本誌九月號は第二左千夫號として出し申すべきこと本號卷頭豫告の通りに候。左千夫先生につきては小生等の説かんとするもの猶頗る多く九月號に於てその一端を果し度存じ居り候。七月號と併せて御讀み下され候はば聊か故人の面目を窺ひ得るに庶幾からんと存じ候。中村憲吉氏の故翁に對する長篇感想文は七月號に收むる能はざりしもの、殊に諸君の御期待を希ひ候。
△左千夫居士石碑寫眞、九月號に掲げ申すべく候。
△河西省吾の昨年以來本誌上に筆を續け居る畫論は當代の名論なるを信じ候。近來益々遮境に入れり。會員諸君の御熟讀を望み候。
(545)△中村憲吉、七月三十日左千夫忌頃上京するやも知れずとの通知あり候。
△平福百穗畫伯 八月中千葉縣に過さるべく候。
△石原純氏 八月上旬信濃に參られ申すべく候。
△古泉千樫 今日出發二週間北海道に居り申すべく候。
△宮地數千木 松本高等學校教授に任ぜられ彼地に赴任致し候。
△横山達三 九月上旬迄信濃諏訪郡玉川村に居り申すべく候。
△築地藤子 無事ボルネオに過し候由通信あり、歌盛に勉強せられ喜ばしく存じ候。
△杉浦翠子 箱根に遊びて歸り候。
△七月號會費一箇月分増徴の事 只今まで送り來し者百二三十人に過ぎず、あれ丈けの大册子を出して此の有樣にては到底やり切れず。未だ御送金なき向は本文御覽の上即時御送附被下候樣切望いたし候。猶會費未納者近來隨分多く困却致し候。斯樣な事口を酸くして言ふこと殘念に候。即時御送金願上候。
△小生の面會日は毎月十五日二十日の兩日に有之此儀御承知被下度候。
△九月より高木今衛、發行所に住居いたすべく候。七月二十八日
△左千夫居士建碑會計一切は九月號誌上にて御報申上べく候。
(546)△「左千夫歌集」は今秋中に必ず出版相成申すべく諸君の御期待を祈り候。
△新刊紹介欄に取り落したるもの三つあるを發見致し候。九月號にて紹介仕るべく候。
△某氏より金三圓、某氏より金一圓本誌發行費中へ御寄贈下され御厚志奉感謝候。
△歌稿の書き方近頃大へん具合よくなり喜ばしく存じ候。往々規定に違へるものあり。規定御熟覽下され度候。略字と草書は絶對に御やめ下され度候。小さき原稿紙も甚だ困り候。原稿はすべて二錢切手貼用開封にて御出し下され度候。七月三十日
△信一來る。
△馬吉來り、千樫宅に行きて歸り、校正を手傳ふ。
△與市昨日歸國。
△健次縁日に行く。
△今夜は用多く寢られぬならん。七月二十五日夜
△岡麓氏來る。
△山口好來る。久し振なり。顔いつよりも晴れ晴れし。
△當てにせし今衛來らず、校正まごつく。好迎へに行き十二時二人連れ立ちて來る。七月二十六日夜
この邊の初校今夜初めて來る。この模樣では迚も八月一日には發行出來ぬであらう。明日は左千夫
(547)居士七囘忌ゆゑ之からお湯に行つて來て寢ようと思つてゐる。相澤貫一君令閨を失はれ、國で葬式濟ませて先程發行所に來られた所である。七月二十九日夜
△朝來雨頻りに降る。今日は左千夫先生七囘忌なり。湯に行かんと思ひ昨夜も行かず。今日も午前校正にて覺束なし。
△大垣附近にて今曉汽車顛覆のよし。憲吉乘り居らずやと少し心に掛る。號外を買ひて見るに姓名なし。
△馬吉、好來る。七月三十日
「第二伊藤左千夫號」豫告
「アララギ」七月伊藤左千夫號は、「アララギ」空前の大册子となつて、豐富なる材料を文壇に提示し得た。併し、大册となるに從つて事端繁く、當然收むべくして收め得ざりし材料も少くない。殊に中村憲吉は苦心の餘に成れる長篇を送り來つたが編輯の間に合はざりしこと殘念の至りである。その他同人で猶筆を執るべきもの少くない。依つて九月定期特別號を第二伊藤左千夫號として出す豫定である。七月號の如き大册ではないが、彼此相依つて故人を傳ふるに庶幾からんと思ふ。新に成りし故人の石碑寫眞もその誌上に載せ得るつもりである。豫め會員諸氏及び大方讀者諸氏に告げる。
(548) 編輯所便 (大正八年九月「アララギ」第十二卷第九號)
△伊藤左千夫居士石碑建立竣工につき第七囘忌を七月三十日龜戸普門院に營み候。來會者先生御家族親戚の外に三十人。上總より蕨氏三人、信濃より石馬氏來會せられ、猶古筆氏、橋田氏態々御臨席下され恭く存じ候。
△第二伊藤左千夫號は卷頭記載の如く十月に出し申すべく、九月號を定期特別號と感違ひせしより前號に早まりたる豫告を出し申譯無之候。同號の執筆者豫告の通りに有之、先生を傳ふるに於て補益あるを信じ候。御期待願上候。
△齋藤茂吉氏「童馬漫語」彌々發行相成候。豫定より頁數増し高價になり候へども、會員諸君に有益ゆゑ御購求希上候。長崎にありて繁劇中この書を出したる著者の勉強を感謝いたし候。詳しくは廣告欄御覽下され度候。
△木下杢太郎氏著「食後の歌」も目下印刷中に候へば九月初旬までには必ず發行相成申すべく、裝幀、口繪、挿畫、紙質その他萬事非常に技を凝らし選を嚴にいたし候ため豫定より手間取りたれど、彌々出版の上は比類少なき高雅なる書物と相成り申すべく、永く諸君の御期待に反きしこと、之にて埋合せ得たることと御承知願上候。定價は本便認むる時未だ定むるを得ず、來月號に御知らせ申上ぐべく候。諸君の御購求を希ひ候。
(549)△平福百穗氏令甥鳥海山にて不慮の天災に斃れられ候ため、急遽彼地に赴かれ兩三日前歸京いたされ候。御悲傷のほど深く御察申上候。同氏目下高野山旅行中に候。
△古泉千樫氏先月末より今月初旬にかけ北海道に行かれ候。
△石原純氏信濃木崎潮の夏期大學に一週間講演せられ、去る十四日淺間温泉に赴き、松本諸同人と會せられ、十六日上諏訪に土屋氏、森山氏、小池氏及び小生と會し、翌日小生と同道上京せられ候。それより日立鑛山にて講演を終へ仙臺に歸られ候。
△釋迢空氏七月中福岡に行かれ候。來月號より「萬葉人の生活」の稿を續け申すべく、萬葉研究者に對する光明たるを疑はず。喜んで豫告する所に候。
△岡麓氏「傘谷雜筆」亦小生等を稗益すること多大に候。今月は稿を休まれ候も、十月號より續けて下さるべく、諸君の御期待を祈り候。
△中村憲吉氏今月遂に上京せず、大阪より郷里へ引き返され候。
△土屋文明氏一二日中に上京の筈に候。
△小川千甕氏久しく岩代に滯在せられ候處この頃歸京いたされ候。
△山田邦子氏目下武州高尾山に居られ候。
△八月中會員の旅行多し。廣野氏は平磯に、結城氏は羽黒山に、由利氏は紀伊に、丹波氏は由利氏と(550)共に高野に、石村氏は富士山に遊ばれ候。
△小生一二箇月頭利かず今月も何も書かず、歌も出來ず、明日歸國して靜居いたすべく候。今月號の編輯を後らせたるは全く小生の怠りより生じ候。
△會員服部信正氏病氣の處去月三十日午後十時三十分御逝去成され候。謹んで哀悼の意を表し候。
△小生九月十五日不在と相成るべく東京在住會員諸君の御承知を願ひ候。
△蕨桐軒氏より金五圓、蕨眞氏より金五圓、加藤月陵氏より金四圓何れも本誌發行費中へ御寄贈被下御厚志奉謝上候。八月二十三日夜
△伊藤左千夫居士石碑會計は十月號に報告いたすべく候。
「第二伊藤左千夫號」豫告
九月號が定期の秋季特別號であると思ひ誤つたため、第二伊藤左千夫號を九月に出すと前號に豫告した小生の粗忽を謝します。ここに改めて十月號を第二伊藤左千夫號にすることを豫告します。既に定まつてゐる題目を左に掲げます。石碑の寫眞も十月號に掲げる事にしました。
編輯所便 (大正八年十一月「アララギ」第十二卷第十一號)
△齋藤茂吉氏著「童馬漫語」忽ちにして初版を盡し、目下再版準備中に有之、會員諸君の御要求暫く(551)御待ち下され度候。右御註文の諸君は直接春陽へ御申込みあるか、最寄りの書店に御註文あるか何れかに願上げ候。
△木下杢太郎氏著「食後の歌」段々相後れ申譯無之候。一旦印刷せし本文全部刷り直す等色々の手數致し居り侯ため未だ發行に到らず。その代り、彌々出版の時は出版界稀有のものと相成申すべく存じ候。遲くも十一月中には出來上り申すべく、會員諸君の御購讀冀ひ上げ候。此の書の御註文は成るべくアララギ發行所宛願上候。
△アイヌ詞曲の原稿金田一氏より頂き候處、少しの時間にて編輯の間に合はず次號に廻し候段遺憾の至に候。その代り十二月號には二箇月分を纏めて掲載仕るべく御承知願上候。
△中村憲吉氏十月下旬上京のよし報知有之候も未だ來らず。その内來京と待ち居り候。
△石原純氏少々健康を害せられしため本號に何も間に合はず殘念に存じ候。折角御加餐祈上候。
△來月號は石原氏の「左千夫の歌」村上成之氏の「松葉牡丹の墓」その他同人二三の執筆を合せて第三左千夫號發行の豫定に有之、諸君の御期待を祈り候。△宇野喜代之介氏上京當分在留致すべく今月より「新小説」に創作發表仕るべく候。
△横山達三氏は鵠沼に、木曾馬吉氏は藤澤に何れも移轉致し候。
△松倉米吉氏目下病臥中に候。近來氏の歌の進境驚くべし、攝養専一祈上げ候。
(552)△本誌會員會費今月より別項記載の如く改定いたし候。印刷費頻々昂騰の上に紙代も追々に嵩み、目下の状態にては到底立ち行かず。已むを得ず改定致し候事情御洞察願上候。猶會員中毎月の會費を滯り居り候向き尠からず此の際今迄の未納額至急御拂ひ込み下され候樣願上候。
△本誌印刷所の都合にて又々遲刊相成るべく殘念に候。小生今夜伊豆大島へ行き申すべく之にて筆を擱き候。十月二十八日
△小生面會日毎月十五日二十日と御承知被下度候。
編輯所便 (大正八年十二月「アララギ」第十二卷第十二號)
△新年號執筆豫定卷末所掲の如し。諸君の御期待を祈り候。
△十一月中旬土屋文明、石原純、中村憲吉三氏上京。十七日「アララギ」編輯會を四谷見附魚金に開く。會するもの石原、中村、岡、釋、古泉、宇野、山本、山田、小生の九人。土屋氏夫れ前に歸國し、平福氏旅行中にて何れも參會を得ず殘念に存じ候。
△平福百穗畫伯只今京都に滯留せられ候。新年號表紙畫例により畫伯を煩すべく諸君の御期待を祈り候。
△中村憲吉今夜歸國の途に就き候。京都にて畫伯と逢ふべき豫定に候。久し振の上京なりしも小生編(553)輯その他にまごつき居りゆつくり話す時なく殘念に存じ候。一月より東西記を續くる事を約し候。歌も新年號に出づべく候。
△釋迢空信濃玉川へ講演に出掛け只今彼地に滯在致し居り候。
△「左千夫歌集」は十一月中に淨書を終へ、十二月より印刷に附せらるべく、諸君の御期待を祈り候。
△木下杢太郎氏の詩集「食後の歌」彌々一二日中に出版相成可申、會員諸君はアララギ發行所へ送費を添へ御註文被下度候。
△齋藤茂吉「短歌私鈔」久しく品切の處、今囘彌々春陽堂より再版發行相成申すべく候。詳しくは次號に記し申すべく候。
△同氏第二歌集「あらたま」も來年は早く出版相成申すべく、是亦諸君の御期待を祈り候。
△中村憲吉歌集「林泉集」も只今再版を企て居り候。新年號にて御知らせ申すべく候。
△花田比露思氏の歌集「さんげ」も近々出版せらるべく候。
△小生の歌集「氷魚」も追々出版のつもりに候。
△阿部次郎氏御子息御逝去の由承り哀悼の情に堪へず謹んで弔意を表し候。
△赤木桁平氏御幼兒御逝去の由承り哀悼の情に堪へず謹んで弔意を表し候。
△年末期近づき候につき會費十二月十五日迄に御納入被下度此儀特に御願申上候。
(554)△茂吉の「童馬漫語」は春陽堂へ御註文被下度候。
△齋藤玉男氏より發行費中へ金五圓御寄送被下御厚志忝く奉謝上候。十一月二十四日
編輯所便 (大正九年一月「アララギ」第十三卷第一號)
△新年の御慶芽出度申納め候。アララギは先輩諸氏の異常なる御助勢を感謝致し居り候。我等心の小なるゆゑに感謝の念廣きに及ばず狹くして深く、少くして滿ち候ことを幸福と感じ居り候。自己に眼ざめたる努力が愈々この感謝を狹ばめ且つ深め申すべくと存じ居り候。小生等の拓き行く道には左樣なる感奮が加はり居り候ことを忘れ居らず候。
△我等現今の歌壇に對して、我は顔するに及ばず、尊敬心を捧ぐるにも及ばず、不足言ふにも當らず。不足言ふひまに自分を成長させて居ればよき事に候。自己成長の工夫疎かなる時放言多く冗辯賑ひ申すべく候。左樣な中に歌壇先輩少數者を尊敬し得る我等を幸福と感じ居り候。小生等尊敬の向ふ所は廣からざを患ひす深からざるを患ひ候。眞に少數者を理解すれば、然らざる多數者は皆馬鹿げて見え來るべく候。偏へに萬葉集を尊敬すれば古今集以下が皆馬鹿げて見えると同じに候。戀人は一人にて足る。アララギの尊敬する對象は少數にて宜しく候。
△アララギの新人近來多く個性に醒め來り候事注目すべしと存じ候。アララギの歌は一頁組みも一段(555)組みも選歌も區別なし。況や排列の順序をや。アララギの歌を知らんとするものは選歌の隅々まで目を通すを要し候。然る時驚くべき作品を隨所に發見すべきを疑はず候。本號所々六號活字にて掲げある歌は昨年のアララギ選歌中よりその一端を摘出したるものに候。只早く滿足し小さく固まらぬ覺悟老年に至るまで必要に候。
△木下杢太郎氏の詩集「食後の歌」愈々年末發刊相成り候。氏の詩が我國の詩壇に如何なる特彩を放つものなるかは今更※[言+奴]々するを要せず。裝幀挿畫紙質印刷製本苦心に苦心を重ね殆ど一年に垂んとする日月を費しで美しさと澁さと無雙なる製本を得候こと如何計り欣幸存じ候。之に就き四海民藏氏及び小糸源太郎、大隅爲三二氏の御盡力偏に奉感謝候。此の書は全部發行所負擔に候へば會員諸氏より御購讀相願ひ度く未だ御註文なき方は直接發行所へ申込の程奉願候。
△齋藤茂吉氏の「短歌私鈔」彌々春陽堂より再版出で申候。會員諸君の渇望久しかりし事に候。御購讀願上候。御註文は春陽堂へ願上候。
△同氏「童馬漫語」再版も近日中に出で申べく候。御註文は春陽堂へ願上候。△松倉米吉氏病氣入院中の處去年十一月廿五日逝去せられ取敢へず前號に御報申置き候。氏の歌は近來非常なる進歩を示し特殊の境おのづからにして拓かれたるを感じ候折柄悲報に接し痛惜の情に堪へず候。謹みて哀悼の意を表し候。氏の歌につきては古泉千樫氏本誌に書かれ申すべく候。
(556)△北村孤月氏久しく病氣の處、去年十一月二十五日逝去せられ候由驚嘆致し候。實は小生一向此の事を知らず「大正八年のアララギ」を稿するにも同氏生存のつもりにて書き候次第、偶ま宇野君來りて「北村孤月の歌」の原稿を讀みて小生に語り候ため初めて聞き知り驚きし次弟に候。氏は今年に入りて進歩せる歌を示され、毎號敬服の心を以て拜見致し居り候處、此の訃報に接し哀惜の情に堪へず候。殊に生と死と雙つながら異常の悲慘を伴はれ候由傳聞、一層哀悼の情を加へ候。謹みて弔意を表し候。
△本誌新年號特價二倍と相成り候。就ては會員諸氏の會費一月に限り二箇月分御納め被下度、會計状態御承知の如き有樣につき一月中に御送被下度特に御願申上候。
編輯所便 (大正九年二月「アララギ」第十三卷第二號)
△齋藤茂吉氏流行風邪のあと肺炎を起し候も輕微にて快方に向ひ候由喜ばしく存じ候。そのため今月號へは選歌も何も送る能はず。事情御承知下され度候。△同氏の「短歌私鈔」増補再版彌々春陽堂より出で申候。短歌界の久しき渇望を滿し得ることと存じ候。詳しくは廣告欄御覽下され度候。
△木下杢太郎氏の「食後の歌」發行所に慘し置きては勿體なし。會員諸君金の工面して購求のほど平(557)に御願申上候。
△石原純氏流行風邪の氣味にて臥床せられしも輕微にて快方に向はれ候由喜ばしく存じ候。氏の今年の勉強は作歌に論文に大したものにて小生等の刺戟を受くること多大に候。雄辯二月號へも長篇論文を書かれ申候。
△中村憲吉氏の歌到著候も危く編輯の間に合はず殘念に候。三月號に出で申すべく候。氏の歌集「林泉集」再版の事只今進行中に有之候。
△古泉千樫氏新年號以來長篇のもの續々執筆喜ばしく存じ候。本號所載二篇以外短歌雜誌二月號へ長塚節の歌評釋を書き申すべく候。猶氏の歌集「屋上の土」は近々中に必ず出版相成り申すべく確定次弟廣告仕るべく候。諸君の御期待を祈り候。
△釋迢空氏の「萬葉人の生活」續稿二月號だけ休まれ候。三月號より續出いたすべく諸君の御期待を祈り候。
△岡麓氏二箇月間各種執筆を休まれ候も、三月號より彌々作歌と文章と御發表下さるべく翹足期待仕り候。
△畫伯久し振に歌あり。欣喜々々。時々御發表下され候樣祈望に堪へず候。
△小生今年より東京朝日新聞の選歌をなす事に致し候。多數の御寄稿を祈り候。用紙は必ず端書直接(558)小生苑御送被下度候。猶小生の歌集「氷魚」只今原稿整理中に有之三四月頃出版相成申すべく候。
△築地藤子氏ポンテアナツクより新嘉坡へ移轉せられ無事に過され候由舊臘御通知有之候。久し振に歌あり。喜ばしく存じ候。
△市外田端五四三福士幸次郎氏二月より詩專門雑誌「樂園」を發行せらるべく候。健全なる發達を遂げられ候樣祈上候。
△新年號短歌合評非常に賑ひ喜ばしく存じ候。眞劔に突き當らねば稽古になり申さず。本月よりはアララギ以外二三氏にも加入して頂くつもりに候。
△二月十四日(土曜日)午後一時より芝區白金三光町五八三番地|日限《ひぎり》地蔵(松秀寺)寺内拜借故長塚節氏弟六囘忌修行仕り度多數の御出席を祈り候。會費七十錢。歌二首(課題道路)御持參下され度候。目黒行市内電車にて名光坂下停留場に下車すれば直ぐ近く候。猶出席の御方は十三日夜迄にアララギ發行所へ御通知下され度候。
△小生面會日は今後毎月十五日廿二日の兩日に定め候間會員諸者の御來訪は成るべく此日に願上候。
△木村男也氏、内本浩亮氏より各金十圓、山田邦子氏より金五圓何れもアララギ發行費中へ御寄送被下御厚志忝く拝謝奉り候。一月二十五日
△印刷費又々暴騰五號活字組二割餘六號活字組五割の増加その他多く之に準じやり切れず候。會費苦(559)しくとも毎月怠らずに御送下され度切望仕り候。金責は火責の如くこたへ申候。
△原阿佐緒氏及び山口好氏の歌置き所を間違候ため本號に載せ落し、誠に申譯燕之候。三月號に載せ申すべく候。
○
一月號會報の歌の中兩角七美雄の
命のいとけなき日ゆ見たるらしわが家近みあらき山肌を
これはやゝ大した歌である。小生の歌序を以て少し訂正する。
まがなしき命つづかむたまさかに我が家《いへ》のうちに籠り|ゐ〔付○圏点〕ておもふ
編輯所便 (大正九年三月「アララギ」第十三卷第三號)
△伊藤左千夫先生歌集は千樫氏の手にて全部編輯を終へ、原稿を春陽堂に渡し候へば日ならず發行の運びに相成り申すべく候。發行期確定の上本誌にて御知らせ申すべく候。
△故松倉米吉氏歌集行路社同人にて編輯目下印刷中に候。發行日及び定價等四月號本誌にて御知らせ申べく、諸君の御購讀を切望仕り候。
△齋藤茂吉氏流行風邪の後肺災に罹り病勢やゝ重かりしも已に快復安堵仕り候。令閨令息引續き流行(560)風邪に罹られしも同じく快復の由祝著存じ候。茂吉氏の歌集「あらたま」は五月頃發行相成り申すべく候。
△中村憲吉氏二月上旬上京只今滯在中に候。氏の歌集「林泉集」も追つて再版相成り申すべく、確定の上本誌にて御知らせ申すべく候。
△土屋文明氏二月上旬上京せられ候。
△小生の歌集「氷魚」は原稿大體整ひ不日印刷に付し申すべく、四五月の發行と成り申すべく四月號本誌にて御知らせ申すべく候。
△久保より江氏より金十圓、神戸節氏より金五圓、某氏より金五圓、某女史より金五圓何れも本誌發行費へ御寄贈下され御厚志深く奉拝謝候。
△小生今月之にて擱筆仕り候。二月二十七日
編輯所便 (大正九年四月「アララギ」第十三卷第四號)
△本號茂吉君久し振に長篇議論あり、純、千樫二君も忙中執筆せられ皆顔を揃へ喜ばしく存じ候。土屋君も學年末忙しき中に歌を送られ、中村君今月歸國匆々父君の病氣に會せられ候なかに歌を送られ有難く存じ候。平福畫伯毎號歌を寄せられ喜ばしく存じ候。小川畫伯も熱心に歌を續けられ居り候。
(561)築地藤子氏も近來盛に作られ候。彼地にて益々御壯健の由欣賀存じ候。
△諸氏の顔多く揃ひて特別號を出すに至りしこと喜ばしく存じ候。岡氏、迢空氏、青五氏繁忙にて今月間に合はず殘念に存じ候。來月は必ず御出し下さる筈に候。
△寺田藪柑子氏より長篇文章を賜はり感謝の至に奉存候。辛うじて本號に間に合はず殘念に存じ候。五月號へ頂き申置候。來月は田邊元氏、森田恒友氏よりも御稿御惠送下さる筈に有之、五月號の盛況想像すべく候。同人及び會員諸君の御奮發を祈り候。
△土田耕平氏今月はじめ上京目下滯在中に候。島に渡りてより六年目、その間一度一寸來京せし事ありしままに候。健康非常に快復し元氣に充ち居り候こと喜ばしく存じ候。
△加納曉氏一寸上京一夜談じて歸られ候。
△土屋文明氏昨日突然上京一兩日中に歸國の由に候。
△木曾馬吉氏相模より東京に歸り候。
△宇野喜代氏は暫く鵠沼に居り申すべく候。
△「左千夫歌集」「松倉米吉歌集」齋藤茂吉氏の「あらたま」、中村憲吉氏の「林泉集」再版、花田比露思氏の「懺悔」等皆近く世に出で申すべく候。小生の「氷魚」原稿纏り近日印刷に廻し申すべく候。
△近來發行少しづつ相後れ候へども之は編輯の怠慢に無之候。本號よりは必ず一日に出で申すべくと(562)存じ候。雜誌は何日に出づとも歌稿締切は必す毎月五日にいたすべく、雜誌著否に係らず御送稿下されたく、原稿は二錢切手を貼られたく、三錢切手にてはその都度開封するの煩あり候。
△會費近來さつぱり集らず、編輯所恐慌の有樣に候。先月は大へん具合宜しかりしに此の有樣にては困り候。毎月の會費は前月中に納むる事に成り居り、此の規定必ず嚴守せられ候やう願上候。今月は餘り不成績につき集金郵便に附し候向きも有之、之は直ちに御支拂ひ下され度候。發行所には只今高木今衛氏事務を扱ひ居てくれ候へども、晝は役所に勤め、夜は學校に通ひ、その暇にアララギの事務を扱ひ居り候事ゆゑ、餘程苦勞を致し居り候。成るべく厄介なる手數をかけぬやう願上候。小生も在京の日多からずしてごたごた致し居り候へば、短册を書けの、何のといふやうな事御容赦を願上候。
△今月地方より來りて發行所を訪はれし會員は五味卷作氏、小松峰月氏に候。小松君捲土重來歌を勉強せらるべく候。
△アララギは支部といふやうなものを設け居らず。各地會員諸君がをりをり會合せらるれば夫れがその都度支部のやうなものに有之べく候。會合の記事、歌等は一行廿字詰めに御認め御送下され度候。歌を二行に書き、二行目の下へ名を書くやう願上候。
△某氏より金二圓發行費中へ御寄贈下され御厚志拝謝奉り候。前號神戸節氏よりの御寄贈は十圓に有之、とんだ間違ひを致し申譯無之、深く御詫び申上候。三月二十六日夜
(563) 編輯所便 (大正九年五月「アララギ」第十三卷第五號)
△本號寺田、田邊、小宮三氏の特別なる寄稿を得て卷頭に收むるを得候段感謝の至に候。田邊氏が苦研の餘暇を以て本誌の歌を御注視下され候事を知り感佩に堪へず候。會員諸君の御熟讀を願ひ候。森田賀伯の御稿本號に間に合はず遺憾に存じ候。其内御執筆下さる筈に有之諸君の御期待を祈り候。
△齋藤茂吉氏より長篇文章を送られ喜ばしく存じ候。岡麓氏内外非常なる御多忙中より本號に御執筆下され感謝の至に存じ候。中村憲吉氏より歌稿來りしも本號に間に合はず殘念に存じ候。六月號へ掲げ申すべく候。同君は今囘兵庫縣武庫郡大社村森具字蓮毛へ居を卜し當分ここに住はれ申すべく候。
△「松倉米吉歌集」いよいよ印刷著手五月中に出來申すべく、古泉君補導のもとに高田君等の行路詩社同人にて骨折り立派に出來申すべく候。諸君の御講讀を所り候。御註文は高田浪吉氏宛願上候。詳しくは廣告御覽下され度候。
△小生歌集「氷魚」印刷意外に早く捗り、五月中に發賣相成申すべく候。平福、森田兩畫伯より貴重なる畫を頂き恐悦存じ居り候。大正四年より大正九年迄滿五箇年歌數八百五十首を收め候。岩波氏より發行につき非常に御厄介相成り御厚意奉感謝候。裝幀は平福畫伯より御意見を伺ひ頗る清楚に出來上るつもりに有之喜ばしく存じ候。諸君の御購讀を希ひ候。御註文は岩波書店へ御申込被下度、詳し(564)くは廣告御覽被下度候。
△阿部次郎氏只今滿洲御旅行中の由に候。
△四月上旬石原純氏御上京、四谷讃岐屋にて同人十人會合仕り候。小生信濃に居りて今度は御面談出來ず、殘念に存じ候。繁忙中よりいつも原稿を送られ感謝存じ候。
△釋迢空氏先月熊本に行かれ直ぐ歸京仕り候。
△平瀬泣崖氏より大へん忙しき由通知有之候。
△土田耕平氏久しく上京せしも一兩日中に再び大島に歸るべく候。身神とも非常に元氣づき喜ばしく候。二三大家の診察により從來心配せし病氣にあらざること分明祝著存じ候。
△土屋文明氏昨日上京二三日滯在仕るべく候。
△加納曉氏先月上京直ぐ歸郷仕り候。
△三ケ島葭子氏今月上旬宮城縣行原阿佐緒氏を訪ねられ候。原氏御病氣捗々しからず御心配申上候。一日も早く御快癒を祈り候。
△山田邦子氏令弟久しく御病氣の處養生叶はず御逝去の由御愁傷御察申上候。△別項に掲げ候如くアララギ誌代を上げ候。印刷費紙代等益々嵩み已むを得ざる次第に有之御承知被下度候。會費滯納の諸君はアララギの經營に御同情下され候て速に御送金被下度願上候。三月四月非(565)常に不成績に候。此の事毎號書き候事心外存じ候。
△小生「アララギ」と「氷魚」の編輯一時に疊まり繁忙を極め候ため今月歌評に加はる能はず殘念に存じ候。
△花田比露思氏より金十圓、東新氏より金五圓、本誌經營費中へ御寄贈下され御厚志奉深謝候。四月二十五日
アララギ定價改定
一部四十五錢但特別號は隨時之を定む。
右印刷費紙代引續き昂騰のため已むを得ず改定仕り候。右御承知被下度候。
會費は頻繁變更を差控へ從來通りに致置き候。經營非常の困難なる事は紙質頁數等御注意被下候はば御了解下さる事と存じ候。短歌の雜誌の如きは、發行少數に有之餘計に經營の困難を嘗め居り候。會費滯納なき樣特に御願ひ申候。
編輯所便 (大正九年六月「アララギ」第十三卷第六號)
△古泉千樫氏嚴君突然御逝去同君匆惶歸國致され候。事餘りに急にして病床に侍するを得ず遺憾御察し申候。謹んで哀悼の意を表し候。
(566)△會員池本周山氏御病氣の處藥石效なく御逝去なされ候由、同氏知己より御通知有之候。氏は年久しきアララギ會員にして佳作尠からず。四月號所載の歌は思ふに氏の最後の作ならむと存じ候。謹んで哀悼の意を表し候。
△「松倉米吉歌集」は千樫氏及び行路社同人の盡力に依り六月初旬發行相成り申すべく諸君の御購讀を願上候。
△中村憲吉氏歌集「林泉集」久しく絶本にて諸君の要望に背き候處、今囘春陽堂書店より再版發行の事と相成り候。廣告欄御覽の上御購讀願上候。
△小生歌集「氷魚」岩波氏の非常なる御盡力に依り萬事進捗愈々數日中に發行相成り申すべく諸君の御購讀を願上候。
△「伊藤左千夫歌集」遲刊に遲刊を重ね心外に存じ候。原稿は早くより總て書肆に渡しあり。今月に入り嚴しく督促引き續き進捗の筈に有之諸君の御期待を祈り候。
△阿部次郎氏無事滿洲より歸國せられ候。
△中村憲吉氏今月上旬一寸上京せられ候。
△山本信一氏今月筑波山に遊ばれ候。
△アラブギ在京會員十人去る十六日我孫子へ遠足致し候。會記及び歌七月號に發表すべく候。
(567)△小生去る十六日筑波山へ遊び候。
△中村美穗氏神經痛にて歸國、鹽山病院に入院中に候。御加餐之れ祈り候。
△齋藤松五郎氏久しく御病氣の處、漸次快復の由祝著存じ候。
△山田邦子氏信濃に歸られし由に候。
△齋藤郁雨氏今月上旬信濃に遊ばれ候。
△會費遲滯無く御納め願上候。五月號發送の際前金切の捺印をなしたる數三百八十四に有之(此の内行き違ひに送金せるものあり)これにては經營成り立たず候。御考慮有之度候。
△小生數日來風邪臥床中に有之、本便も馬吉氏筆記しくるる有樣に有之、之にて擱筆仕り候。小生面會日は毎月十五日二十二日に有之候。五月二十五日夜
△今朝古泉氏來り「左千夫歌集」につき色々談合致し候。枚正已に出で居り候へば今度は引つづき進捗仕るべく候。
△平福百穗畫伯六月初旬の金鈴社へ大作を出品せらるべく諸君の高覽を祈り候。本誌の口繪に御願ひ致したく存じ居り候。
△萬葉集輪講久しく休み居り心外に存じ候。之は小生先月より怠慢せしゆゑに候。七月號よりは必ず掲載仕るべく御承知被下度候。
(568)△岡麓氏風邪の氣味にて久しく御臥床に係らず歌稿御送り被下有難く存じ候。來月より文章も御つづけ被下べく候。
△横山達三氏の萬葉集彙解は同氏試驗最中につき休み居り候へども七月號より必ず掲載仕るべく御承知被下度候。
△小生風邪昨日より熱引き今二三日靜臥せば外出出來申すべく候。五月二十七日
編輯所便 (大正九年七月「アララギ」第十三卷第七號)
△平福百穗畫伯の「獵」を本誌卷頭に掲ぐるを得候事欣快の至に存じ候。原作萬葉人活動の状躍動の概あり、畫伯大作中の一なりと存じ候。之を本誌に收むるを得たるはアララギよりすれば深き因由あり、畫伯亦之を首肯し給ふべしと存じ候。三色版も精緻に出來申すべく存じ候。之につき田口氏の御配慮を煩し候こと奉深謝候。
△七月十七日(日曜日)龜戸普門院にて左千夫先生第八囘忌を修め申すべく、會員諸君の御參會を冀ひ候。時刻同日午後一時、會費五十錢、課題「口」三首御持參被下度候。時間を勵行いたすべく遲參なきやう願上候。市内電車錦糸堀下車が便利に候。御出席の御方は十六日夜迄にアララギ發行所宛御通知願上候。
(569)△「幸夫歌集」出版遲延を重ね候處、千樫より嚴重督促只今略ぼ順序よく進行いたし居り候。遠からず刊行相成り申すべく候。
△茂吉歌集「あらたま」もそのうち刊行相成申すべく候。同氏近頃又病臥の由加餐之れ祈り候。
△憲吉の歌集「林泉集」再版は只今製本中に有之六月一ばいに出來申すべく候。
△「松倉米吉歌集」は早川幾忠氏、高田浪吉氏その他行路詩社同人の非常なる盡力にて萬事進捗、一兩日中に刊行相成申すべく候。同書は全然行路社同人の自費にて出版、萬事困難に遭遇致し居り候次第、會員諸君の御購讀特に御願ひ申上候。
△花田比露忘氏歌集「懺悔」は近々春陽堂より發行せらるべく諸君の御期待を祈り候。
△小生歌集「氷魚」今月中旬發行相成候。忽ちにして再版相成候こと冥加の至に存じ候。發行早々高見を寄せられし諸氏に對し深く御禮申述べ候。三四箇所誤植有之本號にて正誤致置候。
△岡麓氏六月上旬信濃に遊ばれ候。歸來微恙にて御臥床なされ候も已に御快復なされ候。病中歌を寄せられ感謝奉存候。來月よりは文章をも頂かれ候樣祈上候。
△石原純氏今夏又々信濃木崎湖畔へ講演に行かれ申すべく候。「短歌連作論」來月より稿を續けられ申すべく候。
△千樫來月郷里へ新盆に歸り申すべく候。來月は北海道の歌多數發表致すべく候。
(570)△迢空の茂吉宛てに認めたる「名殘の星月夜」舞臺評は實朝を中心として坪内博士の實朝觀に言及せしもの、原稿紙無慮百二三十枚の長篇に有之候。之は秋の特別號に收め申すべく候。同氏の歌來月より發表致すべく候。
△文明亦久しく歌なし。來月より引つづき發表を祈り候。
△結城哀草果氏久しく病氣の處快癒祝著存じ候。歌を送り來りしも本號に間に合はず殘念存じ候。
△宇野喜代之介、横山達三兩氏七月より信濃大町の靈松寺に籠り申すべく候。宇野氏數箇月の力作「お弓の結婚」長篇小説約二百八十枚は近く雜誌「雄辯」に發表せらるべく、誌友諸君の御清讀を祈り候。
△近來アララギ少壯の人々の發奮非常にして詣る所漸く著しからんとす。アララギはのろのろ致し居り候へども遂に何物かに到達すべきを信じ候。夫れは遠き將來なるべく候。不撓の努力を要すべく候。
△花田比露思氏より金十圓本誌發行費へ御寄送被下候。御厚志奉感謝候。六月二十六日
編輯所便 (大正九年十一月「アララギ」第十三卷第十一號)
△「左千夫歌集」愈々刊行、宿志を果すを得て欣喜存じ候。引つづきて小説集第一編も出で申候。す(571)べて千樫君の盡力に依り候事感謝の至に候。以後引つづき刊行、全集を完結いたし申すべく候。詳しくは廣告御覽下され度候。
△小生一昨夜歸國して齋藤茂吉君の肥前嬉野温泉より出され候書信を手に致し候。健康益々恢復のよし欣喜存じ候。同君の歌集「あらたま」脱稿春陽堂に送付の由、同集も近々刊行相成申すべく萬事具合よくまゐり候事喜ばしく存じ候。「あらたま」の事詳しくは來月號にて御知らせ申すべく候。
△九月二十四日午前發行所にてアララギ相談會を開き候。丁度仙臺より上京せし石原氏も出席せられ都合よくまゐり候。萬葉集輪講出版の事、折口氏の萬葉人の生活、河西青五氏の畫論、赤彦の阜上偶語等を續くる事、「氷魚」「左千夫歌集」の合評をなすこと、節忌、左千夫忌、子規忌の會合のほか、別に年二三囘東京會員の會合をなすこと、その他アララギ會計及び毎月の頁數、新年號計畫等色々相談を遂げ申し候。追々事實となりて現れ申すべく諸君の御期待を祈り候。
△平福百穗畫伯近々九州に遊ばれ申すべく、森田恒友畫伯も近々寫生旅行に出かけられ申すべく候。
△阿部次郎氏諏訪へ講演に來られ丁度小生も出會ひ昨日上諏訪より下諏訪への舊道を共に散歩仕り候。今日早朝草鞋がけにて上林温泉より草津温泉の方へ出かけられ候。同氏山癖あり、信州にて小生の知らざる山地を幾所も歩き居らるるに驚き候。岩波書店主人に至りては更に甚しきものあり。今年の越中信濃高山縱貫旅行の如きは山國人を驚倒せしむるに足り候。女性にては櫻井みね子氏の白馬山(572)へ三囘登りし如きは男子を壓倒するに足り候。石原氏の昨年金華山に登るを難んせしに引かへ今年宇野、横山、櫻井諸氏と白馬登山を果されし如き進展迅速驚くべく候。諸氏の意気往々斯の如き方面に現る。そこを羨望いたし候。
△土屋文明氏本月初旬大阪方面へ行かれ申すべく候。
△宇野喜代之介氏只今大町滯在。同地にて創作に從事越冬せらるべく候。
△辻村直氏健康恢復只今沼津町西行寺に滯在せられ候。
△飯山町は信越國境低き山地の間にあり。千曲川の廣き川幅を除けば殆ど平地なきの観あり。町は一筋町にて家屋の構造昔のままなり。一昨年初冬小生の行きし時は、町通りの道に落葉多く兩側に大根を干し竝べありたり。先月はこの町に數日滯在同地諸氏と毎日會合快き日を過し候。宮崎氏元來(?)意氣盛にして新に歌を作り、毎作生動の勢あり。同地諸氏年若くして宮崎氏の意氣に後るる如きことなからんを切望いたし候。
△昨朝も今朝も霧深く、日高くして漸く散ず。山の木皆色づき湖水漸く清澄を加ふ。小生の村は農村なれば日中物の音聞ゆること罕なり。今日より暫くここに籠居すべし。十月二十六日高木にて認む
編輯所便 (大正九年十二月「アララギ」第三卷第十二號)
(573)△本號を以て本誌第十三卷を終へ候。本誌のため今年特に貴重なる御稿を賜りたるは森鴎外先生をはじめ小宮豐隆、金田一京助、森田恒友、寺田藪柑子、田邊元、品田太吉、山田孝雄諸氏に候。謹んで御厚意を謝し候。平副百穗畫伯の本誌に寄せらるる御厚志は今更ら特記すること他人行儀の感有之候へ共是を記して感銘の意を表するは現在アララギ同人のためのみならず後世アララギを繼ぐものの爲に必要と存じ候。岩波茂雄氏の本誌經營上非常の御助力を賜り候こと今更の事にあらず。此の際謹んで謝意を表し申候。
△今年は數年來計畫の「左千夫歌集」出で候のみならず、「松倉米吉歌集」及び小生の「氷魚」も出で、猶齋藤茂吉氏の「あらたま」も發行に迫り居り候有樣喜悦に存じ候。特に古泉千樫氏の歌集「屋上の土」が近々出版相成べく只今進捗中に有之、多年の宿志達せられ候事欣喜の至に存じ候。猶追々岡麓氏、石原純氏、土屋文明氏、釋迢空氏、土田耕平氏の歌集も出版相成候やう祈上候。且故人なる堀内卓造、望月光男、篠原忘都兒、門間春雄、湯本禿山、北村孤月、山口好諸氏の歌集も二三卷として必ず出版致し度希望致し居り候。
△今年「アララギ」會員の増加未曾有に有之、會員諸氏の作歌に對する生無垢にして一途なる態度は非常なる作歌の進境を呈するに至りしこと、たとへば本誌諸選歌欄の何れの一首を見るも著しき事と信じ申候。「アララギ」に於ては選歌欄を見遁しては眞價は分り申さずと存じ居り候。萬一「アララ(574)ギ」の何れの歌に對しても御不審ある方は談話欄へ御申越下され度祈上候。
△新年號豫告本誌卷頭御覽下され度候。此の他猶河西青五氏等の執筆あるかも知れず。歌は諸同人殆ど皆打揃ひ出詠いたすべく諸君の御期待を祈り候。
△會費未納の諸君は十二月十日迄に少くも新年號分迄を御拂込み下され度切望致し候。然らざればアララギは越年出來申すまじく候。「アララギ」は何をも恐れ居らざれど、兵粮攻めに出逢へば直ぐ窘迫し申すべく候。そこを懸念致し居り候。
△平福百穗畫伯約一箇月間九州へ旅行せられ、長崎にて齋藤氏をも訪ねられ申候。齋藤氏健康益々恢復の由喜悦存じ候。
△土屋文明氏大阪行の序中村憲吉氏を訪ね守屋喜七、加納曉氏等と會遊し、更に奈良に正倉院を拜觀し、神戸より船にて九州渡航、鹿兒島迄行かれ、猶長崎に廻りて齋藤氏を訪ねられ申候。
△森田恒友畫伯山陰道へ御旅行中に候。十一月末頃諏訪へ來られ申すべく候。△石原純氏十二月初旬京都へ行かれ申すべく候。
△平瀬泣崖氏令閨御重患の處追々快方に向はせられ候由祝著存じ候。久し振に本號に歌あり喜ばしく存じ候。
△原阿佐緒氏只今上京中に候。
(575)△築地藤子氏より久し振に來信あり。益々御壯健の由大賀存じ上げ候。
△横山達三氏は相州鎌倉町極樂寺近くに轉居致候。
△小生の面會日十二月に限り八日に改め申候。會員諸君の御來訪はその日に願上候。
△談話欄の御寄稿盛ならんを望み候。一行二十字詰にて成るべく十行以内に願上候。採否は編輯者にて定むべく候。
△木村男也氏より金十圓本誌經營費へ御寄贈下され候。御厚志謹謝仕り候。十一月十九日
編輯所便 (大正十年一月「アララギ」第十四卷第一號)
△新年の御慶芽出度申納め候。諸同人打揃ひ勇健罷在候事欣喜存じ候。
△本號は同人の歌大方顔が揃ひ喜ばしく存じ候。先輩諸氏より御稿を賜り同人の文章も多く集り候。殊に萬葉集の研究多く集まり候ゆゑ本號を萬葉號といたし候。今後更に第二第三の萬葉號を出すべき豫定に候。
△本誌表紙畫例により平福畫伯を煩し忝く存じ候。口繪須加村開田地圖は正倉院御物を撮影せるもの、本號山田氏の萬葉集訓義考と合はせ御覽下さるべく候。撮影製版共に香取秀眞氏の御盡力を蒙り候事感謝の至りに候。
(576)△齋藤茂吉健康益々恢復致し居り候。歌集「あらたま」近日中出版相成申すべく諸君の御期待を祈り候。詳しくは廣告御覽被下度候。
△古泉千樫「屋上の土」も近く出で申すべく追つて廣告仕るべく御期待を祈り候。
△石原純氏只今京都滯在中に候。同氏の連作論二月囂より續出仕るべく候。
△田邊元氏の歌はじめて本誌に現る。深遠なる研鑽より作歌道に入られ候ことを欣ばしく存じ候。京都滯在中の石原氏と會し、中村憲吉君にも御逢ひなされ候由御通知有之候。
△掛谷宗一氏東京へ御移轉なされ候。作歌を御續けなされ候由喜ばしく存上候。
△宇野喜代之介氏大町にて越年せられ候。創作潜心の旁ら感想録を本號より續載いたすべく候。
△山本信一氏病臥二箇月に亙り候。寒氣の砌御自愛のほど切望仕り候。本號久し振に氏の歌あり。喜ばしく存じ候。
△本誌二月號を「氷魚」批評號とし、四月號を「左千夫歌集」批評號とし、續いて「あらたま」批評號を出し申すべく諸君の御期待を祈り候。
△某氏より金一圓五十錢、某氏より金十圓、某氏より金三圓、本誌經營費へ御寄贈下され候。謹んで御厚志を謝し候。
(577) 十二月二十四日。晴、寒。北海道の弟より胃の藥送り來る。清水英勝雪袴のいでたちにて發行所を訪ふ。
昨夜二時に寢て今朝八時に目をさますと、今衛は未だ校正をしてゐる。一夜寢ずにつづけたのである。アララギは斯んな具合にして生れてゐるのだといふ事を書いて置くこと何かの參考になる。十二月二十六日
各地民謠を信濃下諏訪小生宛に御報下さらば忝く存じます。原稿紙か白紙へ淨書して送つて下さらば猶有難く存じます。民謠の時代の大體が分れば御記載願ひます。
和辻哲郎氏の「日本古代文化」が岩波書店から出た。斯樣な研究はアララギの我々のためにも日本のためにも有益である。次號に詳しく紹介をする。
編輯所便 (大正十年二月「アララギ」第十四卷第二號)
△今朝空晴れて寒し、湖氷六七寸。氷滑群集の聲窓外に聞ゆ。家に歸りて已に七日、毎日炬燵を擁するのみ。
△本號は「氷魚」批評號の豫定なりしも猶頂くべき原稿二三ありしゆゑ、すべて三月號に纏むることとせり。早く原稿を賜りし諸氏及び讀者諸君の御諒解を冀ふ。
(578)△山本信一氏病氣の處一月九日永眠せり。享年三十二歳。氏は大正四年「アララギ」に入りしより同人中最も熱心なる作歌者として今日に至れり。家に遺れるもの母堂と令妹と嬰兒のみ。痛恨極りなし。氏に對する追想は小生等二三人によりて三月號に掲載せらるべし。本號卷頭の端書は氏より小生に宛てたる書信の最終のものにして、恐らく氏のすべての書信中最後のものなるべし。
△木曾馬吉氏一月に入りて大島なる土田耕平氏を訪ふ。議論盛にして三四晩十二時過ぎまで談ぜしも雙方相下らずとの通信あり。兩者對談の風※[蚌の旁]目に見る心地す。島は椿の花の盛りなる由、健康勝れ居れりとの事慶賀に堪へず。
△高田浪吉、戸塚恒司兩氏一月中甲斐に遊び中村美穗氏宅に滯留談論甚だ盛なりし由。甲府歌會にて浪吉うつかり物を言ひ新聞記者(!)等になぐられさうになりし由失笑の至也。
△宇野喜代之介氏一月十八日突然上京二日滯在して大町に歸る。冬の著物何枚も著ぶくれて風※[蚌の旁]宛然田舍者の觀あり。「お弓の結婚」最近に新潮社より出版せらるべし。諸君の清讀を祈る。
△齋藤茂吉氏著「あらたま」いよいよ發行せらる。新年初頭アララギの重大收穫なり。裝幀も立派に出來欣喜に堪へず。數月の後批評號を出すべし。諸氏の熟讀を祈る。
△石原純氏一月上京數日滯在せらる。
△中村憲吉氏一月郷里布野へ行き少許滯在歸寓せり。
(579)△古泉千樫氏一月安房に行きて歸る。
△土橋青村氏雜誌「アコウ」發刊。瓊浦短歌會の機關雜誌なり。健康なる發達を望む。
△平瀬泣崖氏舊臘中より病臥の由、さきに令閨永く病み、今又同氏病む。切に加餐を祈る。
△森本富士雄氏判檢事辯護士試驗に合格一月より横濱地方裁判所に出勤す。慶賀の至也。
△五味卷作氏結婚せらる。慶賀の至也。
△徳武とく子氏結婚せらる。慶賀の至也。
△佐藤悠三郎氏舊臘仙臺に行き一月歸る。
△辻村直氏猶沼津に滯在。
△廣野牛麿氏舊臘茨城に行き一月歸京。
△花田比露思氏の歌集「さんげ」春陽堂より發行せらる。慶賀に堪へず。諸君の清讀を祈る。詳しくは廣告欄を見られたし。
△三ケ島葭子氏の歌集「吾木香」亦發行せらる。慶賀に堪へず。諸君の清讀を祈る。詳しくは廣告欄を見られたし。
△原道子氏上京一月長崎に歸る。
△草生葉二、谷口山梔子氏等皆郷里地方にて越年一月歸京。
(580)△本誌一月號は彼の如き大册子になり價も平常二倍となれり。依つて會員諸氏より一月に限り會費二月分を出して頂くことにせり。このこと端書にてお知らせしたるも猶御納めなき方は御納めを願ふ。
△氏家信氏より金十圓、某氏より金五圓、某氏より金五圓何れも發行費中へ御寄贈あり。御厚意を謝す。一月二十六日高木にて
編輯所便 (大正十年三月「アララギ」第十四卷第三號)
△本號は「氷魚批評號」として發行仕候。多數諸氏の御懇切なる御批評を頂くを得候事過分の至に有之感銘に堪へず奉存候。
△小生今月は種々の刺撃に接し居り頭纏らず、本便も是にて失禮仕り候。
△齋藤茂吉氏三月下旬上京につき同氏宛書信一切東京青山南町五ノ八一青山腦病院内同氏宛に御出し可被下候。
△宇野喜代之介氏の小説「お弓の結婚」愈々發行相成欣喜存じ候。詳しくは廣告御覽被下度候。
△三ケ島葭子氏歌集近日中に發行せらるべく候。
△依田秋圃、淺野梨郷兩氏發起にて雜誌「歌集日本」發行せらるべく、慶賀存じ候。會費は毎月五十錢委細は名古屋市西區島崎町二丁目依田秋圃氏宛御問合せ可有之候。
(581)△今月は普通會員三十錢特別會員十錢例月より餘分に御納め願上候。これは既納分とは別に御送願上候。二月二十八日
故山本信一氏遺族弔慰金募集
山本信一氏逝きて家に遺れるもの御老母令妹及び三歳なる遺子のみにして今後の方針に當惑せられ候有樣に有之候。小生等同志相謀りて多少の金員を募り弔慰の一端に供し度御賛成下され候諸氏は左の規定により御義捐下され度奉冀上候。
一、金額は多少に係らず。
一、送金はアララギ發行所宛(振替東京二八三四三番)
一、金員の受領は「アララギ」に掲載して領收證に代ふ。
一、會計報告は「アララギ」誌上にて發表すべし。
編輯所便 (大正十年四月「アララギ」第十四卷第四號)
△齋藤茂吉氏健康恢復して四年振りに東京に歸任すべし。今京阪の間に遊び居れり。著京は三月末なるべし。
△中村憲吉、土屋文明二氏も齋藤氏と前後して上京すべし。
(582)△平福百穗畫伯今月上旬信濃北陸道を經て京都に入り比叡山に二三泊して歸京。
△結城哀草果氏今月中旬生れてはじめて上京十日許り滯在して毎日在京會員と會談せり。今後一年一度は必ず上京すと言ひ居れり。
△土田耕平氏四月初旬七年間の島住ひを閑ぢて歸京すべし。
△森本富士雄氏今年秋獨逸に留學決定。
△茂吉と白秋、千樫と耕平、憲吉と小生との互選歌集アルスより近々發行の由なり。
△三ケ島葭子氏の歌集「吾木香」出づ。慶賀の至也。諸氏の清讀を祈る。詳しくは廣告御覽を乞ふ。
△武田祐吉氏の萬葉研究は從來學界に貢獻する所甚大なり。今氏の研究を輯めて「上代國文学の研究」一卷を刊行するに至りしこと慶貿に堪へず。小生に稗益する所必大なるべし。諸氏の御精讀を祈る。詳しくは廣告御覽を乞ふ。
△山田孝雄氏の萬葉研究が本誌に發表せらるる事同人一同の感謝する所なり。三月號に載すべかりしを一箇月休みしは三月「氷魚批評號」を出したる爲めなり。今後引續きて掲載せらるるに至らんを祈る切なり。
△武田祐吉氏の研究も今後時々本誌に發表せらるべし。感謝に堪へず。
△金田一京助氏の「アイヌ詩曲」久しく打絶え居りしも今後毎月發表せらるべし。諸氏の御期待を望(583)む。
△故山本信一氏遺族弔慰金募集別欄にあり。小生等の微意御諒知を乞ふ。
△雜誌發送は一々名簿と讀み合せ居るゆゑ發送漏れのあるわけなしと思へど、時々左樣の通知ありて殘念なり。轉居等の際は必ず知らせありたし。住所明瞭に記載のこと。
△歌稿は今後毎月一日締切といたすべく御嚴守下されたし。
△赤星信一氏五圓、増谷利芳氏五圓、淺野利郷氏三圓、神保孝太郎氏五圓四十錢、渡邊幸造氏十圓、本誌經營費に御寄附下され候。謹んで御厚志を謝し候。△會費遲滯なく御送を乞ふ。三月二十五日
編輯所便 (大正十年五月「アララギ」第十四卷第五號)
△齋藤茂吉長崎より歸る。中村憲吉前後して上京す。四月二十日白田舍畫室を拝借して編輯會を開く。決定事項は六月號より實現せらるべし。
△土屋文明四月上旬上京二泊して歸る。
△土田耕平七年振りにて歸京。今後發行所に在るべし。身體猶疲勞あり。當分毎週土曜午後面會と定む。午後一時より五時迄の間にお訪ね下されたし。
(584)△齋藤、中村、土田三氏一時に東京に集まれるを機とし、四月廿一日芝區白金三光町松秀寺にアララギ歌會を開く。詳しくは六月號に報ずべし。
△高木今衛久しく發行所にありて萬事に當り居りしも土田氏發行所に入りしゆゑ出でていろは館に居る事となれり。公事私事多用の身を以て多年「アララギ」のために盡されたる事を感謝す。
△小生面會日は今後毎月十日と改めたり。會員諸君の御來訪はこの日に願ひたし。
△兩角雉夫氏四月上京發行所を訪ふ。
△會員行徳千年人氏久しく病臥の處遂に永逝せらる。哀悼の情に堪へず。謹んで弔意を表す。
△歌稿締切は今後嚴に毎月一日とす。
△雜誌「短冊」東京下谷區東黒門町二文行堂書店より發行せらる。定價四十五錢。短冊の智識を得るに恰適なり。
△大阪南區八幡筋柳屋書房から、齋藤茂吉氏の書いた「山ふかく遊行をしたりかりそめのものとな思ひ山はふかしも」を木版にした書簡封筒が發行された。十枚金三十錢。送料二錢である。
△會費遲滯の諸氏速かに御送りを乞ふ。近日中に集金郵便にて御願する。支拂拒絶で返つて來ぬことを祈る。當方に誤りあらば直ちに御申越を乞ふ。四月二十一日
(585) 編輯所便 (大正10年九月「アララギ」第十四卷第九號)
△陸奥に山の主あり。近頃信濃の山に來る。この主毎日谿深く分入り谷川の青潭に身をひたし石上に匍匐ひて甲らを晒す。山雪即ち雷を催し山雨即ち地を撃つて至る。里人怪んで之を谿間に見る。謂つて曰く、汝何するものぞ。曰く我は是れ東北の山主、昨西海にあり。今信濃にあり。明日海を渡りて獨逸山林中に匿れんとす。山氣は予の吐く所、水垢は予の睾丸を洗ふ所のみ。怪しむ勿れ。是はこれ人間の一族、通稱齋藤茂吉とは我が事なり。茂吉富士見原に止まる已に半月。歸京は九月初旬なるべし。
△森本富士雄氏九月中に郷里九州に歸り十月門司乘船獨逸留學に向ふべし。齋藤君と同船なるべし。就ては九月十一日(日曜日)午後一時より田端大龍寺(市内電車動坂終點下車山手線田端下車)に、子規忌歌會を兼ね同氏送別會を開くべし。出席者は近詠の一首を九月八日迄に發行所に屆けられたし(夫れ以外の歌は當日合評せず。)會費一圓御用意を乞ふ。
△平福百穗畫伯目下秋田縣にあり、岡麓、中村憲吉、古泉千樫氏或は信濃に來遊すべし。
△土田耕平氏只今信濃にあり。月末迄滯在すべし。土田氏留守中發行所の事務巨細竹尾、高木二者を煩し居り、感謝の至也。
△結城哀草果耳疾を得人院せしも追々快方のよし大賀々々。
(586)△辻村直、中島愼一二氏近日中信濃に來るべし。
△杉浦翠子氏目下信濃來遊中なり。二三日に名古屋箱根を經て歸京すべしと。△齋藤氏の來遊あり、杉浦氏、土田氏等亦信濃にあるを機とし、三氏歡迎會を明日上諏訪地藏寺に開くべし。諏訪の同人擧つて來會すべく盛會想ふべし。
△今井邦子氏御殿場東山莊にあり。暫く滯在すべし。
△原阿佐緒氏歌集「死に面して」を出版の由傳聞せり。世説紛々の間に際して歌集を出版す。際物として世に迎へらるの覺悟あるを要す。「アララギ」の人にして他に此の勇氣ある人ありや。原氏に對して之を言はず。「アララギ」諸同人と共に之を恐れんとするのみ。
△神宮哲三郎氏久しく病氣の處藥石效なく八月二日永眠せられし由高尾年光氏より通知せらる。神宮氏は白秋氏門下にして今「アララギ」會員なり。前途爲すあるの資を抱いて夭折せられたること哀悼の情に堪へず。謹んで弔意を表す。
△「アララギ」十月號は齋藤茂吉著「あらたま」批評號として發行せらるべし。前欄廣告にある如き大方諸氏の所見を寄せられんことを祈る切なり。前欄「あらたま」正誤表をも參照せられたし。
△中村憲吉小生互選歌集九月中にアルスより出版せらるべし。中村氏も小生も可なり苦勞して選びたり。諸君の御高讀を冀ふ。詳しくは廣告欄御覽を乞ふ。(587)△杉浦翠子氏歌集「藤浪」春陽堂より近刊せらるべし。詳しくは追つて本誌に廣告せらるべし。諸君の御期待を祈る。
△談話欄へは成るべく具體的なる歌の研究疑問等を寄せられたし。地方より今少し多く稿を寄せられんを望む。
△歌稿の書き方はよく本誌奥付を見て夫れに從はれたし。小さき原稿紙は綴ぢ込みの際遺失し、或は氏名綴込みのため印刷遺失の虞れあり。會費は必ず遲滯なく送附せられたし。
△小生九月面會日より以降アララギ發行所にて面會すべし。毎月十日の事。八月二十日
消息 (大正十年十月「アララギ」第十四卷第十號)
「太平洋會議の歌」あの中四五首位は物になるかと思ひ居り候。近頃の所謂新人には國家問題などを氣に懸けること流行らぬやうに候へども、小生の如きは衆生の恩、山川草木の恩を有難く思ふが中に自から郷土の恩、君父家族近親の恩を有難く思ふ心あり、君父や近親郷黨や國家の御恩を忘るるやうにては衆生の恩は分り申さざるにやと思はれ申候。自國の正當なる存在問題に對して歌を作すことを小生は恥と思はず。夫れが時勢後れならば時勢が惡いと思ひ居り候。今の人類問題を口にするもの此の邊より省察するの要あり。乃至個人修道を念ずるの輩同じく此の邊に省察する所なくば個人の道も細(588)まり蹙まり申すべく存じ候。小生は愛國者を氣取り申さず、國家の存在問題にて正當なる主張をなす事も歌人の一面なることを信ずるのみに候。國家の政事を難ずるも同じく此の心より出づるものと存じ居り候。九月二十日 耕平宛
編輯析便 (大正十一年二月「アララギ」第十五卷第二號)
〇今月は私用が重なつて上京が遲くなり、面會日にも間に合はず、來訪の諸君に大に失禮しました。來月からは成るべくさういふ事にならぬやう繰合せをつけませう。面會日を定めて諸君の持參する歌を見るといふことは歌を拜見しても一々意見を手紙にして知らせる事がやり切れぬためです。夫れから手紙に書いては意が盡されぬといふ事情もあります。併し折角面會日に來て下さつても、十人位の歌を見てゐるうちに疲れはじめて夫れから後はさつぱり頭が利かぬやうになる場合が多いのです。さうすると折角來て下さる諸君の半數以上には面會日の目的を棄てさせるやうな結果になります。之を何うしたらよいかと考へてゐます。依つて考へるに、小生の面會日といふものは會員諸君に夫れほど價値あるものではありません。手紙で盡されぬ人間の心は口でも盡せるものではありません。縱し盡し得たとした所が夫れはただ小生一人の意見であつて諸君の方からいへば要するに一つの參考です。大本は何處までも自分一人の工夫にあるべきです。自分一人の工夫が主であるといふこと萬人皆理解(589)して萬人多く逸し易い傾をもつてゐます。自分一人の工夫は靜肅沈著であるべきです。靜肅沈著に身を置くべき修道者が何をしてゐるか。(この質問の對象には勿論小生自身も入つて居る)面會日間題よりもこの方が遙かに重要な問題です。小生等の仲間はお互に忙しい勤めを持つてゐて、靜肅に身を置くべき時間すら甚だ乏しいやうです。その乏しい時間を何に割いてゐるかと考へて見ることは御同樣の身の爲になりませう。小生の考へでは小生等が自分一人の工夫を大切と思ふ時、最も信じ合ふ友人間の訪問應答さへ無駄になる部分が多くなります。屡時人と交り接するといふこと大抵無意義です。さうして大抵輕躁です。少數人多數人の會合は稀にあつて別趣に意義を齎すに過ぎません。所謂會合好きと修道とは恐らく一致しません。「アララギ」の特徴は從來多數會合の度の少かつた所に現れてゐるかも知れません。相群れて説を吐くといふやうなことは大した價値あることでありません。小生等は御同樣只時間を惜しむべきです。面會日のことから大分話がそれましたが、面會日意義も上述愚見と關聯して御考へを願ひます。
〇會員毎月の出詠數は今後二十首限りと改めました。一首へ力をこめることに一層苦んで頂きたいといふ感が多いのです。歌稿を見るに二十首三十首の多數を寄せるものほど心の潜め方が不足の傾向をもつてゐます。眞實に力をこめた歌は毎月さう多數あるべきではありますまい。(例外は勿論ありませう)毎月の歌稿に力作の多く現れんことを望みます。
(590)〇土田耕平氏が今度歌集「青杉」を出すことになつた。一通り原稿を借覽したが、多年潜心の滴りといふ感がある。この歌集は今の歌の世界に新しき省慮を促すものでゐると信ずる。切に刊行の日を待つ。
〇中村憲吉氏近來毎月歌あり。岡麓氏、平福百穗氏今作歌に非常に意氣ごんで居られる。大に心強い。小生も今年は年來の怠りを引き緊めねばならぬと思うてゐる。
〇日本畫の傳統に對する三畫伯の文章は昨年の早稻田文學から轉載したのであつて、襍誌編輯としてブマであらう。ブマでも構はぬ。アララギ讀者が一人でも多く讀めば夫れで本望を達する。御精讀を冀ふ。以上、一月二十一日夜
日本畫に於ける傳統問題
アララギのともがらが傳統を重んずるのは我々の體内に流れてゐる血の源泉に溯つてそこに動いてゐる原始的性命に歸向せんとする心である。原始的性命に歸向せんとする心が常に我々の道を新鮮にし、清淨にし、赤裸々にし、質素にして我々を人間本來の流れに結縁させる。我々の傳統を重んずる心を以て骨董家の翫古癖となす徒の如きは、一※[口+據の旁]に吹き飛すにも値せぬ卑淺見であると思うてゐる。時恰も我々の平素尊重してゐる三畫伯が「日本畫に於ける傳統問題」につき同時に打揃うて意見を陳べられた。これは近者快心のことである。斯樣な意見はわがアララギの上に現れるが應はしいといふ(591)感が多い。そこで三畫伯及び早稻田文學社に請うて更に本誌に掲載することにした。文壇から見れば重複事であるが夫れを知りつつ猶これを敢てするのはアラブギ讀者に更に三文章を熟讀して自己の道に參照する所あらんを奨めたいのである。
編輯所便 (大正十一年五月「アララギ」第十五卷第五號)
〇平等觀、差別觀は同時共存すべきものにして兩者各その一を離れて存在し得べからず。この理を知らんと欲せば絶對平等の理想村でも造りて一二年住んで見るべきなり。絶對平等の觀より文學は生れず。絶對差別觀よりも文學は生れず。男をも女をも、優者をも劣者をも、大人をも子供をも認むること能はざるべし。差別觀過重にして平等觀を顧みるに反動多く、平等觀過重にして差別觀を顧みるも反動多し。反動の道は大道にあらず。小生等は現今流行の所謂平等觀に耳を假すこと甚だ輕少なり。只自己の道が自己の生命に根ざすことの深からんを冀ふのみ。
〇木の根は土を掘り石を穿つ。掘ること彌々深くして枝幹はじめて高し。小生等は只根氣よく土を掘つてゐればよき也。井深くして初めて白晝の星を映ずとかいふなり。星を見んと冀ふもの只々深く穿つべきのみ。穿つことは生涯の道なり。慌てることも騷ぐことも要らず。幹を伸ばさうとのみ思ふゆゑ急くなり。星を見ようとのみあせるゆゑ言さやぐなり。急くところと騷ぐところには塵埃あるのみ。
(592)〇黄金を見んと欲せば小説界に入れといふ人あり。これ小説界を愚にしたる言也。左樣の心にて小説界にゐる人は黄金の罰にて目がつぶるべし。本當は黄金光の中に坐して平然自ら持するほどの力あるべきなり。歌界に黄金光なし。清白を保つに足るなど思ふうちは本當の清白ではなきなり。心弱き人々よ。清白とは汝の手に握れる危き光にあらず。大虚に充ちわたれる大きなる光也。遮莫、危き光にても手に握れるうちは猶性命あり。知らず歌人の手中にあるものは何物ぞ。
〇宇野喜代之介氏容易に小説を書かず。地を易へて住み、時に隨ひて漂ふ。偶まに作すもの概ね月を累ね年を超ゆ。中央公論四月號發表の長篇は斯の如くして生まれたるものなり。諸君の注視を祈る。
〇石原純氏歌集「靉日」近くアルスより出版せらるべし。苦研二十餘年にして初めて歌集あり。小生等の幾たびも歌集を出すと同じからず。世に出づる日歌壇の視聽を聳えしむべし。大賀に堪へず。諸氏の清讀を祈る。
〇齋藤茂吉、森本富士雄兩氏彼地に健在の由欣喜に堪へず。兩氏より追々歌を寄せらるべし。諸君の期待を望む。
〇阿部次郎氏近く欧洲に遊ばるべし。海山萬里、切に加餐を祈る。彼地に今石原謙氏あり。田邊元氏あり。林久男氏(渡航中)あり。切に健在を祈る。
〇平福百穗氏三月末より四月にかけ西國屋島に遊び、途中中村憲吉氏と京都奈良に遊ぶ。
(593)〇土屋文明氏松本市高等女學校長に轉ず。
〇高木今衛氏結婚す。大賀々々。
〇佐藤利彦氏病後鎌倉に轉地す。
〇杉浦翠子氏微恙安房に遊ぶ。
〇阪田幸代氏信濃諏訪に遊ぶ。
〇土田耕牛の「青杉」小生の「赤彦童謠集」大方の御購求を念ず。四月十五日柿蔭山房にて
民謠蒐集につき
地方民謠研究につき材料蒐集の必要有之左記御覽の上多少に拘らず各位居住地民謠御教示下され候はば幸慶の至に奉存候。
一、歌謠は有りのままにして、筆者の意を加へられざるやう願ひたし。
一、舟唄、田植唄、馬子唄、盆踊唄等の如く種類を以て分ち得るものは分類して御記しありたし。
一、成るべく故老に質して古來よりの形を保存せられたし。但し近代生れたるものは之に準ぜず。
一、地方語その他訛りにて意の通じ難きものは傍に簡單に説明を附せられたし。
一、成るべく原稿紙白紙等に認め綴り合せられたし。
一、御送は信濃國下諏訪町字高木久保田俊彦宛のこと。 .
(594) 編輯所便 (大正十一年八月「アララギ」第十五卷第八號)
△森鴎外先生、七月九日長逝せらる。痛恨の至也。先生晩年の抱藏はその一二端緒を世に發表せられしに過ぎず。完結には少くも數年を要せられしなるべし。此の點のみにても殘念に堪へず。世の先生を言ふもの、多く先生の多方面に亙りし事蹟を説く。小生狹小にして多く先生の創作(主として小説)を知るのみ。先生の小説は明治大正にあつて、群星を拔くこと甚だ遠し。その餘りに遠きがゆゑに流行渦中に入らざりし觀あり。その光鋩は後に至つて愈々明白なるべし。
△アララギ同人中、鴎外先生邸歌會に參りたるは故左千夫先生と茂吉、千樫也。千樫に乞うて本誌に囘想記を掲ぐべし。小生も先生に面接せし際の座談記を草すべし。先生の一端をも漏さざらんと冀ふゆゑなり。
△富士見高原左千夫歌碑建立式は七月十六日富士見公園にて行はれたり。東京よりは麓、百穗、千樫、貞雄、愼一、貫一、草二郎、壽藏、小生等參會、松本より文明も參會、諏訪アララギ會員及び富士見村有志者參列せり。式後麓、百穗、千樫、文明及び小生の左千夫翁に關する感想談あり。それより歌會を開き、薄暮に散會せり。宿泊は茂吉昨年淹留の宿なり。茂吉この記を讀んで感慨多かるべし。
△茂吉益々健康にしで維納にあり。森本富士雄も健康にして伯林にあり。田邊元氏亦健康にして伯林(595)にあり。祝著の至也。
△憲吉久しく東上の約ありて果さず。富士見建碑式にも參列を得ざりしこと殘念なり。同氏選歌止むを得ざる事故ありて一箇月遲延のこととなれり。深く會員諸氏に謝す。
△茂吉の歌ありて茂吉の模倣歌多く、耕平の歌ありて耕平の模倣歌多し。兩者各獨自の生活に根ざせり。徒に外邊を糢することなかれ。
△耕平今信濃伊那郡の寺院に居り、九月歸京すべし。古實、仙丈岳赤石岳連山の登攀に十數日を費すべし。それゆゑ小生發行所の留守番に上京滯在せり。
△萬葉集叢書發行の擧、古今書院によりて企てらる。これ萬葉集研究者に對する天來の幸福音なり。斯くの如き擧の從來未だこれ無かりしこと出版界の遺漏事なり。詳くは廣告欄に紹介せり。參照を祈る。
△夏期山野に赴くもの多し。自然を遊覽するつもりでは仕方なし。
△人間の生命が自然の生命と合するに至つて初めて自己の根源所に徹し得べし。これ容易のことにあらず。小生等は少くも人間の後生的仕ぐさより蝉脱し得る一面を具へたきなり。これも容易のことにあらず。山野に赴くもの冀くば裸となりて自然の前に拜跪するの心あれかし。
△築地藤子氏數年振りにて無事歸朝、神戸に住す。祝著の至也。
(596)△増谷利芳氏より金十圓、井上幸子氏より金三圓、羽生永明氏より金十圓發行費へ寄附せらる。御厚意を謝す。
△「青杉」批評は九月號に諸家のを纒めて發表すべし。
△多數諸氏より各地民謠を知らせ給はりしこと感謝に堪へず尚教示を賜はらば幸甚の至なり。信濃下諏訪町字高木久保田俊彦宛。
編輯所便 (大正十一年九月「アララギ」第三卷第九號)
△炎暑堪へがたし。東京にて堪へがたく、信濃に來りて猶且つ堪へ難し。東京にて數十年來の旱天なりと言ふ。信濃にても數十年來の炎天なりと言ふ。高木の村、井水多く涸れて小寓の井賑ふ。水を乞ひ來るもの多く桑籠を負ひ或は鋤鍬を肩にす。日中猶勞働をやめざるなり。小生ひとり室内に轉輾して暑熱を言ふ、口精進を説いて心隨はざるなり。
△この時に當つて、古實赤石連山を踏み盡して歸る。攀ぢるもの一萬尺以上の山六つ。山中に露宿するもの十日。歸來元氣衰へず。吾儕の間に氣を吐くに足れり。
△忠吉目下富士裾野にあり、炎暑中の演習勞苦想ふべし。斯る中にて歌作あり。本號所收皆秀作なり。喜ぶべし。
(597)△「萬葉集燈」成るに近し。會員諸君の購讀意外に多數に上り喜悦に堪へず。五百部刊行或は忽ちにして盡くべし。該書の本質は本號拙文により、一斑を窺ふに足らんか。一讀を冀ふ。
△百穗畫伯男子を擧げらる。祝賀の至也。今千葉縣に滯留す。
△千樫安房に歸省し、憲吉備後に歸省す。
△耕平は信濃に、翠子は箱根に、邦子は信濃に何れも暫く滯在す。
△浪吉蓼科山巖温泉より伊那に遊び、幸代巖温泉に遊び、直又將に巖温泉に遊ばんとす。巖温泉は左千夫先生の數々遊ばれし處なり。
△子規先生逝いて滿二十年に達せり。九月十七日(日曜日)午後一時より田端大龍寺にて子規忌を營むべし。會員諸君の來會を望む。歌一首づつ持參のこと。會費一圓。省線田端下車若くは市内電車動坂下車を便とす。
△金原省吾氏、金原よしを氏母堂逝去せらる。哀悼に堪へず。謹んで弔意を表す。
△會員歌稿は毎月一日以後著のものは翌々月に廻るべし。諒知を乞ふ。
△木村男也氏より本誌會計中へ金十七圓寄贈せらる。謹んで厚意を謝す。
△小生去る十五日富士見原にて猛烈なる夕立に遭ひ、爾來少しづつ具合良からず。是にて擱筆す。
八月二十二日高木にて
(598) 編輯所便 (大正十一年妄十二月「アララギ」第十五卷第十二號)
△年暮れんとす。今年「アララギ」に稿を賜はり、厚意を賜はりし諸氏に、謹んで謝意を表す。
△小生等今年よく勉強したりと思はざれど、弛媛せりとも思はず。前途に到るべき大なるものの殘れるを感じつつ、この年を終へんとするのみ。年若くして、早く倦むものあり。一心に精進して他を顧みざるものあり。要は、畢生の到る所如何にあるべし。
△今年新に刊行せられしもの、石原、土田二君の歌集と小生の童謠集とあり。中村君の歌集は來年早く世に出づべし。橋本君の萬葉叢書刊行も將に第二編を出さんとしつつあり。この叢書「アララギ」の徒を益すること甚大なり。
△齋藤君益々健康にて在外第二年を送るを喜ぶ。その他アララギ同人の身邊今年の如く事無かりしは罕なり。喜ぶべきなり。
△只悲しむべきは蕨眞氏の訃なり。氏は子規子の門弟にして、アララギの刊行は實に氏によりて創められたり。近年は專ら雜誌「農林」によりて、その抱負と創作とを發表せり。哀悼の情に堪へず。謹んで弔意を表す。
△香取秀眞氏令夫人長逝せらる。哀悼に堪へず。謹んで弔意を表す。
(599)△會員春山六郎氏長逝せらる。哀悼に堪へず。謹んで弔意を表す。
△小生十月中旬より十一月にかけて、京都奈良飛鳥地方に遊べり。奈良飛鳥は中村君と同行なりき。會員諸氏に通知せざりしは、小生少々用向を持ち居りしためなり。態々書を賜はりし諸氏には誠に申譯なし。御寛恕を乞ふ。
△旅行中、中村君宅に二泊、そこにて加納曉君にも逢へり。煩務に當つて胸底餘裕あり、元氣依然旺盛なり。甚だ意を強うす。
△小生に手紙賜はりし諸氏に對し失禮多し。用事多くて一々返事さし上げられぬことあり。平に御寛恕を冀ふ。短册類を書くこと全く御免蒙り度し。
△歌稿は毎月一日到著までのものを次月號に發表すべし。二日以後に著きしは翌々月に廻るべし。必ず開封にて二錢切手貼用のこと。封筒にも姓名明記のこと。字體正確楷書のこと。
△小生十二月に限り、面會日を五日とす。
△新年號豫告一覽を冀ふ。表紙畫裏畫は例によりて平福畫伯を煩すべし。すべて諸氏の期待を乞ふ。畫伯十一月初旬より郷國秋田に旅行せらる。
△北山松夫君は小原節三と改む。本名に復したるなり。
△會員天野小太郎(磯上小舟)氏病氣の處十一月十七日長逝の由、氏は久しきアララギ會員にして、(600)先年「萬葉集檜嬬手」刊行の際は特別なる厚意を寄せられ、そのため刊行を遂ぐるを得たり。哀悼の情に堪へず。謹んで弔意を表す。
編輯所便 (大正十二年一月「アララギ」第十六卷第一號)
△新年御慶めでたく存じ候。森田氏、武田氏の有益なる文章を戴くを得、岡氏、胡桃澤氏、宇野氏の有益なる文章もあり、如何計り喜ばしく忝く存じ候。平福百穗畫伯より吉例にて表紙畫裏畫その他を頂き、清新なる新年號を出すを得しこと感謝の至に存じ候。久しく歌なかりし古泉、中村二氏の作品も現れ候こと欣喜の至に候。
△齋藤氏、森本氏も外國にて第二囘の越年をせられ候。健全にて研究に從事のよし祝著の至に候。
△別に獨逸在留某氏よりの私信を卷頭に掲げ申候。留學者は多し。彼の如き觀察及び感想を寄せ來りしものを聞かず。東西文明の根本所を道破して、東洋人の自覺を要とするの見、群俗を拔くの感あり。その一部分を頂きて讀者の清覽を乞ふことに致し候。某氏の御寛恕を冀ひ候。
△井上通泰氏著「萬葉新考」卷十一卷下を寄せらる。著々進行慶賀の至に候。これが出版に當らるる正宗敦夫氏の篤志に深く敬意を表し候。
△土岐哀果氏編「作者別萬葉全集」を寄せらる。同氏曩に、「作者別萬葉短歌全集」を編まれ、小生等(601)の便益を得しこと多大なりき。今長歌短歌その他全部の萬葉歌を作者別に編纂せられしこと、其の勞更に多大にして、學者を稗益する事も從つて多大なるを覺えしめ候。これを讀者諸氏に推薦致し候。東京京橋區銀座尾張町アルス發行定價四圓八十錢に候。
△古今書院發行の萬葉叢書も著々進行中に候。第二編荷田春滿著「萬葉集僻案抄」は一月下旬發行の由、二月號に詳細を報ずべく候。諸兄の御期待を祈り候。
△十二月十日白田舍拝借、アララギ編輯會を開き候。會者六人、決議は追々本誌上に實現せらるべく候。別に故人となられしアララギ同人の歌集を出版する事に定め候。堀内卓、望月光、篠原志都兒、湯本禿山、北村孤月、山口好、門間春雄、山本信一、木下清子諸氏に候。今年より著手仕るべく候。
△松倉米吉氏の墓碑竣工、十一月二十六日建碑式を兼ね法會いたし候。來會者十九人。碑文字は古泉千樫氏の揮毫に候。
△十二月號に、大正十一年アララギ同人著書列記中、古泉千樫氏編「竹里歌話」を脱し候。
△小生面會日は、今年も毎月十日と定め候。
△歌稿中、時に字體亂雜讀み難きものありて困り候。達筆を要せず。只正確に楷書に御認め下され度候。小型の紙は綴りこみの中より脱失し易くて危險に候。半紙大のものを御用ひ下され度候。必ず開封二錢切手貼用のこと。
(602)△上田治之助氏より金一圓本誌發行費へ御寄附下され候。謹んで感謝仕候。
△小生等より會員諸氏へ年賀状さし出し候こと省略いたし候。御諒知願上候。
〇 (大正十二年三月「アララギ」第十六卷第三號)
二月十四日上京して二枚のはがきに接した。一は岩波書店を介し、一は東雲堂書店を介して、某々二氏醉書連名のはがきであつて、どちらも同じ文句である。兩氏から消息をもらうたのは數年ぶりのことであらう。
君は、おいらを嫌つても
おいらは萬葉にほれてゐる
君は萬葉にほれてても
萬葉は君をきらつてゐる
三浦半島が荒れてゐる
といふのであつて、中々名文である。無性ながら、斯ういふのはここで一寸御挨拶をする。
君等は酒を飲んで斯ういふハガキを書く氣になるか
君等は芭蕉を尊敬してゐても
(603) 芭蕉は君等を輕蔑してゐる
代々木の空に風が吹いてゐる 二月十六日
編輯所便 (大正十二年八月「アララギ」第十六卷第八號)
△連日の淫雨昨日より晴れて、土用の暑さに入り申候。山居蜩多く鳴いて、窓前の杏果枝もたわわに黄熟いたし候。
△土田耕平身體やゝ疲勞、早く都の炎熱を避けて、信州飯山の寺院に籠り、藤澤古實當分發行所に居る事になり候。古實昨年今頃は赤石連山に連日を過し、今年は炎塵裡に土を捏ね候こと皆當來の修業に候へども、汗を流しながらの土いぢりは應へ申すべく候。それでも仕事して暑を過すは却つて易く、ごろごろ寢轉びて暑に堪ふるは、却つて難き樣に候。小生も何か仕事して避暑法となし申すべく候。
△中村憲吉二年振りにて八月七日上京、種々話しあひ申候。歌集「しがらみ」は近く岩波書店より出版相成申すべく候。大正五年「林泉集」以來の歌集に有之、小生等期待少からず存じ候。裝幀口畫等例により平福、森田兩畫伯を煩し申すべく候。
△齋藤茂吉益々壯健一心に研究に從ひ居り候由喜ばしく存じ候。六月頃伯林へ出でし事と存候。
△森本富士雄益々元氣にて伯林にあり喜ばしく存と候。長篇痛信文九月號に收め申すべく候。
(604)△岡麓氏少しく健康を傷はれ候へども追々恢復致さるべく候。今年度より慶應大學に古事記を講ぜられ候。
△百穗畫伯七月初め一寸秋田に歸省せられ候。
△小生等年長者輩の歌、近來やゝ多く誌上に現れ來り心強く存じ候。
△七月八日普門院に第十一囘左千夫忌を修し候。會するもの十數人。歌は別欄に収め候。
△高田浪吉七月十六日出發、越後に參り候。
△中村美穗盲學校教員養成所寄宿舍に移り候。
△小杉茂御殿場に參り候。
△左千夫全集、長塚節歌集、炭燒の娘、子規選集、左千夫選集、竹乃里歌全集等皆編者一個人の仕事にして、直接アララギと關係無之、このこと特に明記致し置き候。
△第二赤彦童謠集を近く古今書院より出すことに致し候。御一讀下され候はば有難く存じ候。萬葉集槻の落葉(荒木田久老)も、それに引きつづき同書院より出で申すべく候。
△小野巳代志、淀川茂重二君共編「桐園課外讀本」の中に左千夫の「天長節」を收め候。一部十五錢。兒童讀みものに恰適と存じ候。希望者は長野市西澤書店へ御申込可有之候。島崎藤村「お房」國木田獨歩「武藤野」も同價に候。
(605)△昨夜より今日にかけ、村の子供の天神祭なり。燈籠や提灯を吊して賑やかに候。夜は子供等皆蒲團を持ち行きて一祠堂のうちにごろつきて夜を明かし、明くれば舟を湖水に出し、思ひ思ひに蜆を取り來り、境内の大鍋に蜆汁をたきて、相食ふ。手を鍋に入れて叱らるるものあり。隨分多事也。山中子供の生活斯の如くに候。小生等子供の時は、川べに竈を築きて米飯と味噌汁をたきて相食へり。汁中に投ずるもの多く野の草なり。稀に鰌を獲て之に加ふるを珍味となせりき。七月二十二日
信濃便り (大正十二年九月「アララギ」第十六卷第九號)
△小生今年は一つの避暑法を考へ出した。一日の睡眠を二分するのである。午後一二時より三四時間一囘、午前一二時より四五時間一囘。合せて七八時間の睡眠になる。午後の睡眠は日中の最高暑を知らずに通過する。稀に來客あれば衣一枚を引つかけて出れば足りる。眼を二三皮擦ると眦滓が脱れ、顔を洗へば爽快にして人に接することが出來る。若し興到つて午前の睡眠を去るときは、午後の睡眠を増し、午後の睡眠を去るときは、夜の睡眠を増し、一方に縮むれば一方に伸し、稀に兩者を縮め、更に稀に兩者を撤する時は、次の日に之を恢復することが出來る。
△午後の睡眠は必ず蚊帳を吊るを要する。蠅の來ないばかりでなく、心が靜まつて自然に睡眠に導かれる。眠りから覺めるころは、夕日が庭の木にあたつて、蜩の聲がする。稀に雷鳴に目をさますこと(606)もある。夢裡遠雷を聞く心地してゐるうちに目がさめると、遠雷ではなく近雷であり、そのうちに大雨が沛然として軒下に飛沫をあげて來る。これは爽快である。
△山村であるかち、夏は多く戸を鎖さない。妻子等は宵のうち障子を明け放して眠り、夜一時頃、室内の冷える頃、小生が障子をしめて床につく。七月未ごろは月光が床の上に屆いた。近頃は、すいと蟲が室内に來て鳴いてゐる。すいと蟲は七月は幼くて鳴かず、夜は机の上に來て遊び、筆先をもつてからかつても逡巡として逃げない。時に硯の水を舐めてゐることがある。幼少なものはすべて可愛いゝ。
△この數夜、こほろぎが急に殖えた。すいとの聲は、鋭くて爽やかであり、こほろぎの聲は優しくて哀れである。故堀内卓は大隅國某神社の埴鈴の音が、こほろぎに似てゐると言うた。その埴鈴が、小生の手に遺つて居る。卓歿して既に十三年經つ。
△齋藤兄も海外に實父の訃音を聞いて、感慨殊に深いであらう。不在中萬一なきを保し難しと言うた君の言が讖をなした。親子の縁は一世である。臨終に侍し得なかつた遺憾思ひやるに堪へぬ。
△平福畫伯今富津に居られる。上京途次一二泊御邪魔しようと思つて果せなかつたのは殘念であつた。岡さんは信州の温泉に病を養はれるかも知れぬ。中村君は子供を伴れて六甲から有馬に遊んだ。健羨の至りである。尤も、小生は坐ながらにして山中に避暑してゐる。
(607)△中村徳之助者が來信途次一寸立ち寄られた。初對面である。幼少よりの足疾同情に堪へぬ。談が歌に入れば元氣である。おのづから安心境があるのである。
△諸方から暑中見舞のお便りを頂いてゐる。一々お返事を出さずに失禮してゐる。八月十八日夜
震災報告 (大正十二年十月「アララギ」第十六卷第十號)
〇在京アララギ同人一同生命無事。
〇家の燒けしもの岡麓、高田浪吉、廣野三郎、竹尾忠吉、齋藤義直、岩波書店。その他在京會員中猶不明のものあり。
〇浪吉の家は本所番場町にあり。一日午後一二時頃火焔に包まる。初め隅田川に流れ來れる一片の板に縋りて水中にあり。後傳馬船に移る。兩岸の火勢猛烈にして舷の燃えんとする恐あり。手を以つて絶えず水を注ぎ、體を水中に浸して數々熱氣を避く。夜半退潮の時流勢漸次急にして、吾妻橋より厩橋に流さる。船を橋杭に繋がんとして果さず。船をすてて東岸に遁る。東岸火勢猶退かず。多く水中に潜んで翌朝に至り、漸く身を以て兎るるを得たり。父と弟二人無事。母と妹三人今猶行衛不明。多分無事なるを得ざらん。初め發行所にあるもの浪吉を以つて最も危險なりとし、中村時次郎、藤澤古實交々本所方面に赴きしも消息を得ず。遂に絶望なりと爲して追懷談に耽れり。六日午前十時浪吉シ(608)ヤツ一枚を纏うて發行所に來る。相見て一語なし。天祐の一也。
〇三郎の家は本所新小梅町にあり。高田に次いで危險區域に屬せり。十一日郵書茨城縣より至る。七日三郎の投函せしものなり。來書によれば、是亦猛火中水に浸りて死を免れたるなり。二日徒歩家族一同を率ゐて出立、途中或は知人に立ち寄り、或は社殿に寢ね、貨物列車に乘り、萬難を排して茨城縣なる妻の生家に遁れたるなり。天祐の二なり。
〇麓の家麹町元園町にあり。第一囘の火を免れ、第二囘の火にて燒く。全家族八人。第一夜を四谷見付路傍に、第二夜を市ケ谷見付芝生に過し、後に發行所に移り、次いで發行所隣家に移住す。長男次男當時鎌倉在の民家に在りて家屋の倒壞に遭ひしも、屋根の下を潜り出でて無事なるを得たり。天祐の三也。
〇竹尾忠吉の家は麹町中六番町にあり。一日の火に燒かる。忠吉親戚の老病者を背負ひて彷徨すること二日。家族幸に無事なるを得たり。天祐の四也。
〇平福百穗はじめ家を擧げて上總國富津海岸にあり。八月末兒女皆歸京。爲めに禍を免る。天祐の五也。
〇岩波書店主人家族店員二十餘人皆危くして生命の無事なるを得たり。當時妻兒鎌倉にあり。居住附近中氏一家のみ倒壞を免る。天祐の六也。
(609)〇其の他今日まで家及び生命の無事確實なるはアララギ發行所、古今書院、齋藤茂吉留守宅(茂吉宅無事のこと九日中村憲吉より伯林なる茂吉に電報)古泉千樫、佐藤悠三郎、藤森長重、鹿兒島壽藏、今井邦子、相澤貫一、辻村直、横田貞雄、元眞社印刷所、高木今衛、中村時次郎等なり。山の手居住の會員は想ふに皆無事なるべし。下町居住會員の無事を祈ること切なり。
〇昨夜櫻井みね子來る。曰く、土屋文明深川居住家族無事高崎に遁ると。幸慶の至也。
〇今日齋藤義直より來書、芝區の家燒けしも妻子と共に難を下澁谷に免るるを得たりと。幸慶の至也。
〇淺羽秋華の家は神田豐島町にあり。ワレブジイヘヤク云々の電報屆きしのみにて消息不明也。家族の無事を祈ること切也。
〇横濱にて最も心に掛るは築地藤子也。同市震災の中心地を外れ居れりと思へど安否不明。切に天助を祈る。
〇アララギ九月號は岩波書店へ依頼のもの全部燒失、會員頒布の物は發行所にありて災を免れたり。秩序囘復の後發送すべし。印刷所無事なりしゆゑ、十一月號より平常の如く刊行し得べしと信ず。
〇小生地震の際信濃東筑摩郡洗馬村小學校に萬葉を講じ居たり。翌二日に至り東京の震災を知れるも交通機關すべて杜絶せりとのことゆゑ如何ともする能はず。翌三日新聞によりて信越線不通部の徒歩連絡あるを知り、即時講義を止め、一旦高木の自宅に歸り、食料品四五貫目を負ひて其の夜出發す。鹽(610)尻驛篠井驛の乘換へに各約十時間を費せり。東上客の雜沓言語に絶す。五日朝大宮驛下車、それより徒歩七八里にして東京に著く。途中藤森青二と邂逅して同行す。この行少くも一二知己の不孝あるを豫期せしに、一同無事なるを知りて驩喜に堪へず。九日中央線によりて歸國す。九月十二日信州高木にて ○
△今囘の震災は、日露戰爭以上の死者を出し、且つ優に大戰爭費以上の財産を消失したる儀にして、國家として、人類として、重大事件に有之、國民非常の覺悟を要し申すべく存じ候。
△震災に際し、アララギ在京同人悉く生命無事。且つ頗る元氣に事後の處置に從事致し居候。會員諸氏の御心配を思ひ、本號を右報告號として取急ぎ發行の事と致し候。諸方より御見舞下され忝く奉存上候。誌上を以て御禮申上候。
△元眞社印刷所も幸に火災を免れ居り、十一月號よりは殆ど完全に雜誌を出し得べしと存じ居り候。雜誌存續の如何まで御心配下されし御方有之、非常の場合御尤もと存じ候。右の如くに候へば御安心下され度、小生如き九日歸國翌日より平常の如く物を書いて居る有樣に候。同人一同今後一層戮心努力の覺悟に候。
△本紙は急遽上諏訪町にて印刷、斯の如く頁數少きの已むを得ざるに至り候。九月號は半分の册數を燒失し、表紙寫眞版金版をも燒失致し候。印刷册數も十月號より當分店に出す分は全滅せざる可らず。
(611)事情斯の如く候へば、此の際會費は平常の如く御拂込み下され度く、猶册數囘復まで會費成るべく多く前納下され度く、斯樣にして數箇月乃至一年若くは一年餘の後小賣店設備完成するを待たねばならず。事情御洞察被下度候。△中村憲吉の歌集「しがらみ」は原稿猶著者の手にあり、御安心下され度候。小生の第二童謠集は再校正の中途組版全部を失ひ、口繪挿畫の寫眞版等をも失ひ、且つ表紙、見返しの紙等全部を失ひ、可なりの損害に候へども、原稿全部と原畫全部は古今書院に保存有之安心致し候。
△本號印刷後判明すべき諸消息は、すべて十一月號にて發表仕るべく候。
△會員諸氏の歌稿は東京行の郵便通ずるを待ちて發行所へ御送下され度候。九月十三日高木にて記す
△震災地及び各地會員よりの來書皆緊張の意氣を示し居り會心に堪へず候。糜爛せる東京の文化は有島氏あたりを末期として打切り、新なる芽の張り出づべきを信じ申候。十八日又記
編輯所便 (大正十二年十一月「アララギ」第十六卷第十一號)△十月震災報告號は九月二十日夜信濃から發送した。震災につき、各地から同人の消息を問合せ、アララギの運命を心配して下さる方々が多く、書信机邊に堆積の有樣であつたから、紙數薄くとも、早く報告號を出した方よしと思ひ、獨斷であヽいふものを出したのである。大方の御諒知を冀ふ。會員(612)諸君のアララギを心配する心情は實に有難い。心の籠つたあの書信は悉く一筐中に收めて震災の記念にするつもりである。
△今囘の震災にて子規先生、左千夫先生御遺族住居御無事幸慶存上候。
△辻村直氏は別項同氏文中にある如く、地震の際電車から飛び降りて不思議に命を助かつた。岡氏は地震の際あの肥大な體を以て自動車に飛び乘つて一命を助かつた。何れも一種の不可思議力である。辻村氏は御宅が殆ど半潰の姿で、毎日十數人の木工土工が這入つてゐる。その中で文章もあり歌もあつた。
△横濱の築地藤子氏は地震と共に家が潰れて天井の下になり、其の上隣家の石油ランプから出火したにも關らず、其の間に、膝に抱いた幼兒さんまで負傷せずして、不思議に人に助けられた。夫君と長女は船中に人を見送り船から下りようとする瞬間前に地震が來たので、これも危く一命を全うせられたとの事である。
△横濱地方裁判所在勤の美坂金治氏の消息まだ不明である。同所の被害特に酷どかつたと聞いて痛心に堪へぬ。切に健在を祈る。
△前號記載の外、小杉茂、加藤淘綾、三村滋、中島恒次、鈴木信太郎、松田菊枝、竹内秀、林信子、丸山冷長、岡辨良、西田光敏、土屋潔、菅谷庸三、芳賀準吾、武田藤太郎、中西寛一郎、橋本公祐諸(613)氏皆火災中に身命を全うして避難せられた。幸慶の至りである。
△火災に罹つて避難せられた會員諸氏は、この他に猶多いと察する。至急御知らせを冀ふ。その他會員の遭難を知つて居らるる人は發行所へ知らせて頂きたい。今までの所では死傷者は一人もなささうである。全かれかし全かれかしと祈つてゐる。
△義捐金募集は十一月十五日まで締切を延期する。別項報告中に記載せる諸氏に厚く謝意を表する。
△本號には、西田先生をはじめ安倍、森田、平福、岡、其の他諸氏の震災に對する感想、記述を頂くを得て感謝の至りに堪へぬ。今囘の震災は戰爭と異つた深い刺撃を人類に與へてゐる。これは詩歌文學藝術は勿論人類生活の根柢所に響いて來る刺撃である。それを一々アララギに書きとめて置きたく冀つたのである。十二月號へは、和辻氏も書いて下さる筈である。中村、加納二氏同樣である。
△震災につき多くの圖書を矢つたこと日本文化の上に、囘す可らざる大損失である。佐々木博士、橋本進吉、武田祐吉、其の他諸氏永年苦心の校本萬葉集將に成らんとして亦災害に罹つた。痛惜の至りである。
△辻村直氏が十月五日本所深川淺草の震死者納骨所の囘向を終へて夕方淺草駒形裏通りの川端道を歩くと、ある假小屋の中から人が出て來て、震死した店の若者へ囘向してくれと頼んだ。辻村氏承知して讀經をすると、謝禮金五圓を呈した。要らぬというても聽かぬ。辻村氏は歸途發行所に立ち寄つて(614)この金をアララギ義捐金に寄せられた。これは勿體ない金でゐる。
△信濃東筑摩郡西南部教育會からアララギ今囘の打撃に對し、金五十圓を見舞として寄贈せられた。思ひも寄らぬ御厚志感謝に堪へぬ。アララギ今囘の恢復を策勵すること無量である。返す返す感謝に堪へない。
△震災に對し御見舞下さつた諸氏に一々返事をさし上げたつもりであるが、匆忙の際或は逸して居るかも知れぬ。御寛恕を冀ふ。
△小生面會日は當分毎月二日と定めた。發行所へは毎週土曜日御來訪下さい。歌稿締切は毎月二十日と定めた。御承知を願ふ。十月七日
義捐金募集
今囘の麓災につき家を失ひ家族を矢つた同人及び會員は、多く著のみ著のままの避難でゐつて眞に御氣の毒に堪へぬ。其の爲に義捐金を募集する。多數の諸氏の奮つて此の擧を助けられんことを冀ふ。
一、一口金二圓以上とす。
一、爲替若くは小爲替に限る。(東京振替貯金取扱ひ復舊せば夫れに依ること)成るべく書留便にせられたし。
一、送金はアララギ發行所宛のこと。
(615) 一、期日十一月十五日限り。
一、金額氏名を「アララギ」に掲げて受領證に代ふ。
新刊紹介
冬彦集 (寺田寅彦著、定價二圓五十錢、東京神田南神保町一六岩波書店発行)
大正九年以來の小品感想録を集めたもので、何れも著者の微細鋭敏な神經が鮮やかに現れて居り、雰圍氣に高い氣品がある。斯樣な氣高い文章は現今求めて他の何人にも得られぬであらう。愛讀書の一を加へ得たことを感謝する。
藝術と道徳 (西田幾多郎著、定價二圓三十錢、岩波書店發行)
著者が思想界に於ける一世の羅針盤であることは言ふを俟たない。著者は藝術に對して深い興味と理解を持つて居る。本書は著者の哲學より見た藝術觀を窺ふべき唯一貴重な著述である。
信濃便り (大正十二年十二月「アララギ」第十六卷第十二號)
△九月一日を毎年日本人の玄米を食べる日にしたいといふ人がある。小生はそれに賛成して實行するつもりである。
△築地の聖路加病院で九月一日に胃の切開をした人が、火災を裏の溝川に避けて一夜を通した。其の(616)人が完全に治癒したとのことである。信州小諸在の人は腰の立たぬ病氣で順天堂病院に入院してゐたが、地震の騷ぎで腰が立つて立派に歩行出來るやうになつたさうである。現に岡さんは地震前慢性の病氣で居られたのが地震以後立派に健康になり、重荷を負つて小石川林町から代々木まで歩かれた事もあり、今も其の状態を保たれてゐる。高田君は隅田川でうけた火傷が背中から腿へかけて一面に點々としてゐたのが、少しの傷む事もなしに自然に癒つてゐる。火傷と言うても中には指頭の入るほどの深傷もあつたのでゐる。多くの人の語る所によれば地震に遭へる總ての神經衰弱症者は皆自然に癒つてしまつた樣である。斯ういふ事實は有るが儘に多く記録して遺し置いた方が後人の參考になるのである。
△小生十月十七日夜半上諏訪を出立して滿洲へ行き、十一月三日に歸國した。汽車が鴨翠江を渡るとき夕日が川下の平地に沈み、安東を通過した頃十日の月が明かで地上に白雪の積るを見た。右の方九連城鳳凰城あたりの連山も白皚々たる姿である。車室には小生一人であつて較々旅心の寂しさを覺えた。夜半奉天で乗り換へて、大連に向つた。夜が明けた時(二十一日)車窓近く南山の姿が現れた。南山は金州域外の小丘山で日露戰爭の時わが郷國の人々が多く死傷した處であり、現に小生の從弟がここに負傷をしてゐる。滿洲第一日の夜明がこの記念地にあらうとは思ひ掛けない所であつた。特に金州は日清戰爭の時子規先生從軍して喀血せられた記念地である。感慨の深きを覺えた。大連では滿(617)鐵社及びアララギ會員諸氏の御厄介になり、即日數氏と共に旅順に向つた。旅順參拜の上滿洲を巡らうと思つたのである。二百三高地頂上で夕日の渤海に入るを眺めた。餘光が山上の岩むらにある頃、山下の市街にはもう電燈が點いてゐた。ここは乃木將軍畢生の記念地であり、皇國及び露國數萬の靈の宿る處であり、殊に小生郷國の兵士の多く命を歿した處である。感慨特に深きを覺えた。その夜大連に引返し、翌日より大連、奉天、長春、撫順、鞍山、金州の六地で八九囘の短話をした。晝は終日汽車に乘つて荒漠たる平原を通り、夜少しの談話をして眠りに就く、こんな具合にして滿洲に十日を過した。滿鐵社をはじめアララギ會員より非常に御世話を蒙つたことを感謝する。その他長春の清島氏、鞍山の矢澤氏、淺輪氏等より思ひがけぬ御厚意を蒙つて感謝に堪へぬ。謹んで誌上を以て御禮を申述べる。
歸途は豫定を變へて海を通つたので、朝鮮晋州の友矢島音次君に逢へなかつたことは最も殘念である。十一月十三日夜下諏訪高木にて
編輯便 (大正十三年一月「アララギ」第十七卷第一號)
一
△新年おめでたく存じます。今年はすべての人によい年であるやうに祈ります。
(618)△本誌は今年で十七卷になります。馬醉木時代から數へれば二十二年目になります。年が久しくて進み方ののろいことを今更に感じます。アララギの衆徒に不自惜身命の覺悟が常にあらんことを斬ります。アララギの今日まで存續したことは、諸先輩や特殊の方々の助力に依つてゐることを忘れると慢心が萌します。
△森本富士雄君が獨逸留學から歸られました。瞬くまに二年經ちました。之から歌に勉強することが出來ませう。西伯利亞經由で歸つたのは破天荒で、森本君らしいと思ひます。此の間阿部次郎氏を訪ねて伊太利や埃及に遺つてゐる古美術の寫眞を拜見し、且つ色々話を承つて有益に思ひました。阿部氏からも、森本氏からも、茂吉君の大體の模樣を聞き得ました。尤も兩君とも多く逢つては居らぬのですが、大體の模樣は分ります。茂吉君の體が肥えて血色のいいこと、一心に勉強をしてゐることなどです。同君の手紙は公表せぬやう同君から申して來てゐるため「アララギ」へも出しません。これは惜しい。憲吉君から茂吉君へ出した電報は伯林で森本君が傳達してくれたさうです。偶然の寄縁と思ひます。
△田邊元氏も壯健で巴里に居られるやうです。もうそろそろ歸朝の頃かと思ひます。同氏嚴君は鎌倉にあつて、震災の際生命を全うせられし由大賀の至りに存じます。
△遠見一郎氏はもはや五六年伯林に居られるさうです。近頃歌が益々進んで特殊性を帶びてゐる。そ(619)れを喜ばしく思ひます。
△藤澤古實は十二月一日世田ケ谷の砲兵隊に入營しました。一日の拂曉まで選歌をし、夜が明けて顔を洗つて出立しました。發行所には今後高田浪吉が居り、竹尾、辻村、高木其の他諸氏が手傳つてくれる筈です。
△上田耕平は冬のうち信州飯田に居ます。元氣漸次恢復して居ます。
△震災義捐金別項の如く多額に達したこと感謝の至りに堪へません。中には會員外より送つて下さつた方もあります。御厚意を感銘します。消息不明の會員猶少數ありますが、分らせるだけ分らせた上十二月二十日に罹災者諸氏へ金員を分呈する筈です。その報告は一月號編輯に間に合はぬゆゑ二月號に載せます。各位の御承知を願ひます。
△歌稿の亂雜なのが少し見えて來ました。自分の歌を愛惜する心持で丁寧に書いて頂きたい。一字一字離して楷書に願ひます。變態慣名はやめて下さい。半紙大の原稿紙を用ひて下さい。名前を必ず欄内に書いて下さい。
△朽美靈人氏、山田廣氏より金二圓づつ本誌へ寄贈して下さつた。感謝の至りに存じます。
△中村憲吉第三歌集「しがらみ」は新年早々岩波書店から出る。
(620)△河西省吾著「支那上代畫論考」もそのうちに岩波書店から出る。支那畫論淵源の研究にして時代は六朝にまで及んでゐる。
△森田恒友畫伯の畫論集もそのうち古今書院から出る。
△羽生永明氏が半生の心血を濺いで没頭された平賀元義研究は愈々その歌集の部を完結して近く古今書院より發行される。此の間羽生氏お宅へ參上して、その一部を拜見した。先づ元義事蹟、三備地誌等の臺本をつくり、それを根據として解説をしてゐる。歌は從來世に公表されてゐるもの以外にも多く輯收されてあり、それが皆、羽生氏が草鞋がけで三備美作地方を驅け歩いて、古反古や古襖の下張りまで引つ剥いで集められたものである。さういふ事を多年繼續して成されたものである。一驚を喫するに足りる。子規が元義の歌を見て驚喜して批評の筆を執つたのも羽生氏の書いたものを見て初めてその存在を知つたのであり、その當時にあつてすら羽生氏は元義の熱心な研究者であつた。爾來二十餘年を通じて研究を續けられた羽生氏の篤學は當世罕に見るべきものであらう。歌は悉く地理と事蹟と作者日常生活とを考證して精覈を極めたものである。早く世に現れんことを希ふ。
△元義の研究者羽生氏を探し得たのは茂吉君である。羽生を「ウリウ」と思つたため、青山學院へ電話かけても通ぜず、一時諦めてゐたこともあつた。それを備前の正宗敦夫氏から教へて頂いて、とうとう探し出したのである。羽生氏は名聞を好まない。東京にゐて一人でコツコツ元義をつついてゐる(621)ことを知る人がない。それを探すに茂吉君が苦勞したのである。
△百穗畫伯の畫論感想批評といふやうなものを今後「アララギ」に發表して頂く。これは有難いことである。森田畫伯もいつも本誌に稿を寄せられて感謝に堪へぬ。小生等はその啓沃を受けてゐる。
△萬葉叢書第四編荒木田久老「槻の落葉」が近く古今書院から出る。眞淵の「萬葉考」も、由豆流の「萬葉攷證」も今年は出ることになつてゐる。
△小著「歌道小見」がこの春のうちに出る。これは歌の如何なる程度に立つ者にも通ずるやうな歌道論をなすつもりである。簡明に行りたいと思つて、未だ少しつついてゐる。そのうちに纏まるつもりである。
△第二赤彦童謠集正誤。二十頁「中から」は「中まで」三七頁「良寛さまは」「は」を取る。六頁「ほろり」は「ぽろり」七二頁「秋は凉しい朝の空」は「空は青くて寂しくて」等。
△アララギ二月號は震災歌號とす。
信濃便り (大正十三年一月「アラヲギ」第十七卷第一號)
△昨夜東京より歸つた。今朝起きて見ると霙が降つて居り、正午には雪になつてゐる。これで二度目の雪だといふ。一週間東京に滯在してゐるうちに初雪が來てゐたのだ。家々で漬菜と漬大根の爲事が(622)終り、木戸道や井戸道に新しい藁が敷かれるころは何時もこの國へ雪が來る。今障子の外には雨だれの音が聞え、向うの草家には機織の音が聞えてゐる。雨だれの音の中から繼續する機の音を聞いてゐると、愈々長い冬へ入つて行く村の姿が思はれる。今に諏訪潮が氷結して、その上に雪が積ると、向う岸連山の雪と、こちらの山の雪と一と續きになつて、尋漠たる雪の平原を出現する。その頃になれば小生は全く家の中に閑ぢ籠らねばならぬ。昨年の冬は、炬燵なしに一室に立て籠つた。今年も元氣を出したいと思つてゐる。
△一昨夜東京の發行所で浪吉と共に寢た。明夜から發行所に一人で寢るのは寒いだらうと言うたら、本所の假小屋で板の上に寢るのに較べれば、殿樣のやうなものだと答へた。今冬東京罹災者の困苦が想ひやられる。信濃の山奥の炬燵に雨だれを聞いたり、機の音を聞いてゐるのは殿樣以上の贅澤である。古實は世田ケ谷の兵營で六枚の毛布に包まれて寢るのは暖くて勿體ないと言うて來た。之も少しあはれである。
△滿洲の池内赤太郎君から大連が大雪であり、北方長春あたりは數尺も積つたと知せて來た。あの奉天郊外の荒凉たる丘陵と平地と、その向うに蔚蒼たる北陵の森林と、その森林の中に竝んでゐる丹碧の樓門と、皆一樣に雪の中に埋れてゐるであらう。滿洲の雪といへば、先づあの幾つもの樓門を中心とした幽寂にして美しい森林内の一境を思ひ出す。予は滿洲の諸氏に、道は靜肅にして求むべきであ(623)つて、多人數喧騷して歩むべきでないことを説いた。諸氏精進の姿を雪の中の家に置いて想像することは應はしい心地がする。今小生は滿洲の歌を作つてゐる。作つては抹し、抹しては書いて未だ二三首に充たない。そこへ池内君の手紙が來て新しく滿洲を思ひ出してゐる。
△近頃歌の世界が噂話で賑やかい。それを人がちよいちよい知らせてくれる。新聞の切拔きを送つてくれた友もある。噂話の流行は嬶連中の井戸端會議と同じであつて、不勉強な嬶連中が、よく樣々の問題を提出してそれを井戸端で解決せんとするやうなものである。不勉強な歌人が噂話を製造し、更に不勉強なのがそれを持ち歩いて傳播する。「アララギ」には今まで消息通といふやうなのが居ない。これはいいことである。十二月六日高木にて
編輯便 (大正十三年二月「アララギ」第十七卷第二號)
△昨年の震災が、世相に何ういふ影響を與へたかを知らない。只、小部分の徒に対して大きく深い幸を與へてゐることは有難いことである。それは彼等の一言一行に窺ふことが出來る。一月號高田浪吉の一文の如きはその一例である。あゝいふ文章は、震災の生んだ日本の文學の立派な産物であると信ずる。さういふものを注意して見ぬ日本人は情けないものであると思つてゐる。
△本號を震災歌號としたのは時期猶早過ぎた感がある。あれほどの變事に對して、制作の衝動を最後(624)まで貫徹せしむるには、今少し時間を要するであらう。只本號に集まつたものが如何にも力作揃ひであることを喜ぶ。これを見ても震災が吾儕に與へた幸の大なることを窺ひ得る心地がする。一寸記憶に上つてゐるものだけでも、岡麓の
地震ふりしあとかたもなし風向きに青草波は露をこぼせり
辻村直の
われ知れる人の御骨もあるならむ囘向しをへて思ひ沈みぬ
の如きは、震災の生んだ尊い産物であらうと思ふ。二首擧げたのは、之が他のすべてに傑れてゐるといふのではない。諸氏の熟讀を冀ふ。
△小生等を目して、常住堅い殻の中に收まつてゐるものとするものがある。小生等は常に他界を見渡してゐる。只尊敬すべきものの少いことを殘念に思つてゐるだけである。(歌のみを言ふのではない)本號から、他の雜誌等に現れた歌を少しづつ拔き書きするやうに一二氏に依頼した。それがその作者を代表するわけに行くまいが、大體を知り得るであらう。その中で何れに感心し、何れに頤を解くかは讀者の勝手でゐる。
△田邊元氏は一月上旬歸朝の筈である。もう今ころ神戸についてゐるかも知れぬ。遠見一郎氏も六年ぶりで近く歸朝するであらう。齋藤茂吉氏は今年秋まで向うにゐることになつた。健在を喜ぶ。
(625)△震災義捐金 收支報告別項の如くである。清素な同情の交換が「アララギ」の上に行はれたことを感謝する。収受者より一々禮状を出すことを略するやうにした。御諒知を乞ふ。
△久保猪之吉氏、齋藤玉男氏、某氏より各金十圓、田中忠正氏より金五圓、中道權兵衛氏、賀川寛一氏、武田尊市氏より各二圓、篠田七郎氏より金一圓五十錢、上原吉之助氏より金一圓何れも編輯費へ寄贈せられた。猶無名氏より私製はがき百枚に切手を貼つて寄送せられた。はがき不足の折から何とも忝い。すべて深く感謝の意を表する。一月十三日高木にて
編輯便 (大正十三年三月「アララギ」第十七卷第三號)
△アララギ二月震災歌號につき感慨の手紙多く戴き喜ばしく存じ侯。大異變に對して歌人として努力すベき幾分を盡したる感有之、中に永久の記念とするに足るもの有之と存じ候。就ては、これを大正十二年震災歌集として特別に刊行する事に定め候。十一月號以降今日に至るまで可なり多數有之、三月號以後も猶現れ申すべけれど、先づ以て三月號までを一切りとし、そのうちより精選して出版仕るべく、已に古今書院の賛成を得、四月上旬發行の事に定め申候。斯樣のもの日本の一隅に存在して宜しきかと存じ候。天災地變に直面してよみし歌は古來少きやうに候、萬葉にも殆ど見當らず、それ以後も同樣ならんと存じ候。右樣の點よりこの一卷は歌集として類少きものと存じ候。
(626)△中村憲吉君の歌集「しがらみ」は曩に脱稿せしゆゑ、四月中に岩波書店より出で申すべく候。小著「歌道小見」も前後して岩波書店より出で申すべく候。これは歌の手びきとも見られ、議論とも見らるるものに候。歌道の主要問題を捉へて私見の一斑を述べ、萬葉集に對する愚見にも多少觸れ居り候。猶小生の歌集「太虚集」は大正八年以後のを纏めて今夏古今書院より出すことに致し候。
△アララギ四月號より百穂畫伯の畫談を達載し得べく候。森田恒友畫伯も同樣執筆して下さる筈に候武田祐吉氏は四月號より萬葉集解題を御寄せ下さるべく候。以上何れも讀者の御期待を祈り候。
△田邊元氏、遠見一郎氏何れも一月中に無事歸朝致され祝著の至に存じ候。齋藤茂吉氏は獨逸にて無事苦研を續け居り候。
△小生會員諸氏よりの御手紙に一々返事差し上ぐべきなれど、それをして居れば、何も出來ずなり申すべく、御返事遲延の場合は平に御宥し願上候。毎月一囘以上歌稿を出すことはお止め下され度候。出して後あそこを訂正せよ等の御手紙もあり、御尤もに候へども、選者へ分ち候へば、誰のところにあるか不明の場合多く、これも、よく練りて訂正を要せぬものを御送り下され度願上候。字體亂雜なるは最も困り候。ペンにて細かく書きしものは、小生の視力衰へし今日にては讀みかね候。これも衰眼をあはれむ御心にて、太く正しく御書き披下度願上候。紙は必ず半紙大のものを御用意下され度候。
△小生の面會日は毎月三日と御承知被下度候。其の他の日は自分の勉強致し度候。
(627)△百穂畫伯は一月二月と二囘秋田縣へ歸省せられ候。
△土岐哀果氏久し振にて歌に復活の由慶賀存候。
△石川俊子氏より金二圓、安田稔郎、永井莞爾氏より金五圓、村上成之氏より金五圓發行費へ寄贈せられ、小林孝則氏より金二圓發行所へ震災見舞として御贈り下され候、御厚志奉謝上候。
△土屋氏選歌間に合はず諸氏の御寛恕を乞ふ。二月十四日高木にて
編輯便 (大正十三年四月「アララギ」第十七卷第四號)
△アララギ地方支部をつくりたいといふ申越が時々あるが、未だ一度も置いたことがない。折角の厚意に對して濟まない心持もするから愚見の一端を述べて御諒解を願はうとする。支部を置けば時々會合して意志を通ずることが出來るといふのが、第一の設置理由であり、中には左樣な團體的の力で會員を増加する事が出來るといふやうな考も交じらぬではないやうである。時々會合するに必しも支部といふ機關は要らない。會合したい人が必要を生じた時會合したらよくはないか。小生ひそかに思ふに、會合といふもの餘程時間を費すものであつて、それ程有益にならぬやうでゐる。會する人數多ければ多い程時間を費して稗益益々減少する。多人數であれば話が却つて深入り出來ず、萬一、一人の駄辯でもあれば他の人々はその時何うする事も出來なくなる。話を深入りさせたければ、相信ずる少(628)數者の對談が都合よく、それよりも一人ひそかに勉強する方が猶有益である。小生等は御同樣忙しい世に生れて勉強の時間が少いのだから、會合等に時々時間を用ふるのは不經済の場合が多い。地方に支部を置いて會合し、文通し、訪問するといふこと此の點からそれほど必要か何うかと思はれるのである。會員を増加するなどに至つては論外である。會員は勸めて多くすべきものでない。多いがよくなく、少いが惡くもない。其の團體が會員の多少を競ふに至るならば宿屋の宿引である。アララギ不肖なれども未だかつて宿引を志願したことがない。支部設置の理由が小生の解する以外にあるならば承りたい。以上は會合の絶對否認を意味しない。必要あらば何時でも會合すればいい。只頻繁ならざらんを祈る。入會は自然に任せればいい。入會希望者のためにアララギ卷末半頁大の規定が掲げられてある。あれ丈けでいいつもりである。強ひて勸めるやうなことが絶對に無からんことを望む。
△中村君の「しがらみ」は今印刷中である。震災歌集は灰燼集と改名した。内容は變らない。數日中に印刷にまはる。小生の「歌道小見」數日中に脱稿する。
△平福百穂畫伯は一昨年より歌の苦心勞作を續けてゐる。毎月稿を絶たない。岡麓氏も毎月歌を絶たないと言つて居られる。甚だ心強い。畫伯の畫談は今後毎月發表される筈である。大方の期待する所であると信ずる。森田畫伯、武田祐吉氏の文章いつも小生等を稗益して下さる。感謝の至りである。
△前月歌界は必しも秀作のみを拔くのではない。秀作も拔くが悪作も拔く。參考になるからである。
(629)諏訪も風がもう暖い。庭の石垣下に福壽草が咲いてゐる。三月九日
△在シドニー椎木文也氏より三十八圓、倉田百三氏より十圓發行費中へ寄贈せられた。
△本號は特別號ゆゑ會費次囘御送付の際超過分御追加を願ふ。
△池内赤太郎君が滿洲の小學兒童九十餘人を連れて、母國見學のために昨朝東京へついた。二重橋で丁度、攝政宮殿下同妃殿下を拜することが出來たさうである。これは小生まで嬉しい。大阪では天王寺境内の覗きからくりと、バナナの叩賣りが面白かつたさうだ。何うも子供にはかなはない。昨夜の大雨が今朝美しく霽れた。見學の子どもら大喜びであらう。小生も昨日上京した。數年振りで肩から脊へかけて神經痛をやつてゐる。明日はいいつもりである。三月二十二日
編輯便 (大正十三年五月「アララギ」第十七卷第五號)
△石原純氏、古泉千樫氏、折口信夫氏は今囘日光同人に加つて、雜誌「日光」を出すことになつた。これは自然の成り行きとも思ふが、多年同行の道程を顧みて感慨が深い。切に健在を祈る。三氏を中心としてアララギにゐた會員諸氏は、この際矢張り「日光」に行くのが本當であると思ふ。遠慮なく御決めを願ふ。
△阿部次郎氏は家族を擧げて仙臺に移つた。
(630)△土田耕平氏は段々健康を恢復してゐる。今一箇年位信州にゐる筈である。
△藤澤古實氏は三月上州相馬が原へ實彈射撃に行つた。今月末は下志津へ行く。
△土田、藤澤二人とも發行所に不在のため、高田が今發行所にゐる。晝は本所の自宅に通ひ夜發行所でアララギの爲事をする。竹尾、辻村、高木、小原諸君が時々來て手傳つてくれる。アララギはこんな具合にして出る。
△齋藤君は相變らずミユンヘンに勉強してゐる。益々健康のよし。大賀の至りである。近い内に通信を寄せると言うて來た。
△中村君三月女兒を擧ぐ。祝著の至りである。他の子どもさんたち百日咳で艱んでゐる中で原稿を絶たず。感謝の至りである。歌集「しがらみ」今印刷中である。五月に刊行される。
△「灰燼集」も今印刷中。五月刊行する。以上二書とも平福畫伯の裝幀口繪を煩して立派なものになる。「しがらみ」へは森田畫伯の畫もお願ひしてある。△平福畫伯は明夜秋田縣へ出立する。此の間のが延びてゐたのである。
△土屋文明君は信州を引拂つて臨時上州の郷里に滯在する。
△宇野喜代之介君は京都府醫科大學豫科へ赴任した。
△小原節三者は數日前信濃諏訪に遊ぶ。
(631)△辻村直君は幼子を喪はれた。深く哀悼の意を表す。
△「萬葉集槻の落葉」今校正中である。これも近く出版になる。
△羽生永明氏近く平賀元義に關する原稿整理を了る。三月末上州草津へ行つて專門に從事された。
△小生「歌道小見」校正のため昨日上京した。五月には刊行する。信濃は梅も咲かぬのに、東京は櫻の花盛りである。いい時に來合せた。
△歌を示して特別に批評せよといふこと、今の所やり切れない。其の他一々返事書くべき所を失禮することあり。御寛宥を願ふ。
△五月號よりアララギ定價六十錢に改め、會費も同樣にする。頁數毎號増加の上、印刷費非常に昂騰したので已むを得ず斯く決定した。御諒知を願ふ。會費は滯りなく御納めを願ふ。四月十三日
△土屋氏選歌一箇月後れる。御諒知を乞ふ。
アララギ發行所移轉 四月二十七日麹町區下六番町廿七佐々木氏方へ移轉した。
編輯所便 (大正十三年六月「アララギ」第十七卷第六號)
△別項記載の如く唐澤山中に安居《あんこ》會を開くことにした。昨年以来諸氏の希望が多かつたから阿彌陀寺住職にお願ひして快諾を得た。この寺は谿谷老杉の中にあつて足下に諏訪湖を見るを得て頗る形勝の(632)地である。多少心境を淨め得るかと思ふ。設備の上から人數を制限せねばならぬ。殘念ながら致し方ない。食事は一汁に香の物が添ふくらゐの程度である。豫め御承知を願ふ。
△土屋文明君は東京小石川區上富坂町廿三いろは館に移つた。法政大學に出て居る。
△百穗畫伯は五月二日母堂を奉じて書光寺に參詣。歸途諏訪に一泊して諏訪神社に參詣し、甲府に一泊して身延山上に參詣し、沼津に一泊して六日歸京せられた。この行は畫伯のために大切な旅であつたと思ふ。長野では兩角、小野、松井、西尾、高田諸君に逢ひ、諏訪では三村、守屋、田中、藤森、森山、小生などに逢うた。
△中村憲吉君十日上京今日頃信州へ來るかと思うてゐる。共に蓼科山の温泉へ行くかも知れない。
△遠見一郎君は歸朝後、直に商科大學へ出て居る。五月二日小生初めて同君に逢つた。
△築地藤子氏の長女(五歳)急病にて逝去せらる。哀傷の心中推察に堪へず。深く弔意を表す。
△會員都築爲世氏逝去せらる。謹みて哀悼の意を表す。
△武田祐吉氏その著「神と神を祭る者との文學」を寄せらる。日本文學の發生をたづねてその源流に浴せんと冀ふ人の一讀を要する書である。半田良平氏の「短歌新考」と「大隈言道」、松村英一氏の歌集「やますげ」、寺澤亮、音馬實二氏共著歌集「白樫」、豐島逃水氏の歌集「行く春」等を拜受して讀了に到らない。何れ愚見を申し述べるつもりである。
(633)△歌集「灰燼集」、「しがらみ」、「歌道小見」何れも五月中に刊行する。
△五月七日古泉千樫君が來訪してくれた。同君今「日光」同人であるゆゑ、アララギの態度につき一應の話をした。アララギは他の集團の歌と見れば罵倒すると思つてゐる人があるやうであるが、そんなことはないのみならず、他の集團に強力な歌人が、輩出してくれれば勵みになつていいと思つてゐる。それ故、それらの歌の中に佳作を見出さんことを心掛けてゐる。曩に半田、木下、松村其の他諸氏の歌を擧げたのは、その時目に入つた歌が佳いと思つたからであつて、白秋、水穗諸氏の歌を惡いと言うたのは、作品が輕佻だと思つたからである。現に「日光」創刊號を拜見しても、古泉君に矢張り秀れたものがある。それを喜ばしく思ふのでゐる。これを同人諸君に傳へてくれ給へと言うたのである。これは古泉君もはじめより承知して居ることである。
△田邊元氏より金十五圓、丸山冷長氏より金三圓、木原春風、安富六男、眞田杜平、竹内露光、菅谷庸三の五氏より金十五圓、共に發行費中に寄送せられた。謹んで御好意を謝す。
△小生面會日は毎月三日と御承知を願ふ。五月十五日高木にて
〇
昨夜晴れ。今朝霜の氣ありて寒く若葉の中に時鳥啼く。時鳥は今年はじめてなり。豆まはし、四十雀の囀り方巧みになり、よしきり、山鳩、夜は水※[奚+隹]も聞ゆ。山居の生活今恰も好し。御自愛を祈る。
(634) 五月十七日發行所宛
安居會
期日 七月二十九日より三十一日まで三日間
場所 信濃國諏訪郡上諏訪町唐澤山阿彌陀寺(上諏訪驛より東の方山道約一里)
人員 四十人限り(アララギ會員に限る)
行事大要 午前四呼起床 午前中萬葉集講義 午後歌評會(子規歌集其他)夜九時就寢
會費 十圓以内(四泊三日間宿泊食費其他)
申込 七月十日迄に申込金二圓を添へてアららギ發行所宛申込むこと。申込金は會費内に入る。申込人員四十人に滿つれば申込期中と雖も謝絶す
雜件 會員は七月二十八日日没迄に會場に到著すべし
規制嚴守
酒類禁斷
副食物一二携帶不苦
會期中火急用の外下山を禁ず
女人のために別棟あり
(635) 期日中多少變更あるを保せず。七月號に確定報告すべし
萬葉講義は岡麓、中村憲吉、土屋文明、島木赤彦の中一人乃至數人之に當る
編輯便 (大正十三年七月「アララギ」第十七卷第七號)
△七月六日(日曜日)午後一時より龜戸普門院にて第十二囘左千夫忌を修め申すべく會員諸君の御出席を冀ひ候。歌一首宛持參互評。會費一圓。市内電車は錦糸堀終點下車を便とす。
△安居會は既に人員の制限に達し候へば今後の申込は已むを得ず謝絶致し候。山中の寺院にて多人數を容れ得ざる事情御諒察被下度候。期日は七月二十九日より三十一日迄三日間に確定致候。會員諸君は二十八日日没迄に阿彌陀寺へ御到著被下度候。上諏訪驛下車にて唐澤山の阿彌陀寺と言ひて聞けば直ぐ分るべく、上諏訪町字岡村を經てより山道になり申すべく、驛より一里徒歩。一時間半を御豫定然るべく存じ候。人力車は不通に候。會員は必ず萬葉集(袖珍本にても何本にてもよし)御持參被下度、子規、左千夫、節の歌集御持參猶結構に候。其の他の事は前號掲載の通りに御承知被下度候。
△「灰燼集」「歌道小見」は五月中に刊行いたし候。御高讀下され候はば有難く存じ候。右に對し先輩其の他十數氏より有益なる御意見を寄せられ忝く存じ居候。それらは追つてアララギに掲載して諸氏の研鑽に供し度存じ候。
(636)△中村氏の歌集「しがらみ」は校正の都合より後れたれど六月中にはゆつくり出版相成るべく諸氏の御高讀を祈り候。
△荒木田久老著「萬葉考槻の落葉」彌々古今書院より出で申候。萬葉研究者の一本を備ふべき書なること言を俟たず候。
△土田君は六月中信州柏原驛より少し距りたる寺院へ移るべく候。體の具合宜しき由に候。
△一昨日夜行にて高田、竹尾二君小宅へ參られ今日歸京致し候。今曉四時に起き、共に裏山の鳥の聲とよめく許りなるを聽き申候。
△齋藤茂吉君より度々通信あり。益々健在例により苦研をつづけ居る由に候。年末か遲くも來年の初めには歸朝いたすべく候。
△五月十七日中村憲吉君東京よりの歸りを信濃に廻り、守屋君と小生と三人にて蓼科山巖温泉に遊び申候。山は丁度若葉にて清爽を感じ申候。
△アララギ以外に小生に歌を見よといふこと只今やりきれず御容赦願上候。六月十六日
佛像由來
大正十二年九月一日京濱大震災ノ際我ガ家ハ本所區番場町九番地ニアリ。午後三時火ニ圍マレ家族十人四散逃奔ス。妻とく(四十八歳)次女よね(二十一歳)三女こう(十九歳)五女八重子(九歳)(637)遂ニ行方ヲ失フ。江東江西一望荒寥スベテ灰燼ニ歸ス。我家亦災ヲ免レズ。遺ルモノ僅ニ浴槽ノ栓木深ク灰底ニ没スルモノアリ。即チ之ヲ以テ佛※[身+區]四體ヲ刻ミ追善菩提ノ因トス。偏ニ子々孫々ノ囘向ニナサシメンガ爲メナリ。
大正十三年七月六日 高田瀧藏 島木赤彦誌
編輯便 (大正十三年八月「アララギ」第十七卷第八號)
△昨夜小縣から諏訪に歸つた。汽車の中が九十六度から九十八度の熱さである。信濃の山國でありながら夕方の風が猶生まぬるい。こんなことは珍しい。京濱の假家市街の苦熱が思ひやられる。病氣の流行せざらんことを祈ること切である。
△安居會は申込人員が多くて、多數の人へお斷りするやうになつたことを殘念に思ふ。申込の順序で採つたのだから致し方がない御諒知を冀ふ。中村君も土屋君も出席の事になつて歓ばしい。
△齋藤君は丈夫で勉強してゐる。今頃は巴里にゐるかと思ふ。この間ミユンヘンから小宮、小西二氏と連名の便りをもらうた。
△同氏はこの夏信州に淹留されるかも知れない。震災後身神を勞することが多い。切に決行を祈る。
△平福畫伯はお子さん二人百日咳で入院中であつたが快癒退院。病後海濱に行かれるかも知れない。(638)竹窓小話は二三箇月の原稿がもう作られてゐる。感謝に堪へない。
△中村君の歌集「しがらみ」は今日頃發行される筈である。少し遲れたが、裝幀の木版その他を入念に改め得たから立派に出ることであらう。歌も可なり改竄取捨を行つたやうである。諸君の期待を充すに餘りありと信ずる。
△加納曉君も安居會へ參加する。中村君と共に序を以て木曾御嶽へ登るやう今日勸めてやつた。
△土田君は信州上水内郡柏原村二ノ倉永壽院へ移つた。柏原驛から戸隱へ行く道筋で樹木が多く幽靜な處であるらしい。健康も具合いい容子である。此の秋は東京へ歸る豫定である。高田君が安居會の後永壽院を訪ねる筈である。
△藤澤君は七月末下總の習志野へ演習に行く筈である。炎暑中演習は應へるであらう。休みの時間があれば歌を作り、選歌をしてゐる。この精力驚くに足りる。
△竹尾君も七月末に演習に出る。そのため安居會へ出られない。
△小生六月末に小縣郡田澤温泉に数日を過し、今月又小縣郡へ行き、序を以て戸倉温泉に一泊した。どの温泉も小生には初めてである。田澤温泉は山で圍まれた山村にあつて地相も人情も素朴である。戸倉温泉は千曲川の長い板橋を渡つて山につき當る處にあつて特殊の趣をなしてゐる。田中驛から東山脈に向つで十數町上つた處の林中に法善寺がある。柳澤、山浦、細川諸氏の厚意で、この寺に一宿を(639)乞ひ得た。山門外に立つと、丘の下に千曲川が見え、向うに立科連山が立ち、その右方遙かに白馬、鹿島の連山雪猶白きを望み得る。夜は樹間に月があり、それが蚊帳の中へさして夢魂清爽に入るを覺えた。それは一昨夜のことである。この夜齋藤、別貯、佐藤三氏と語つた。七月十四日
編輯便 (大正十三年九月「アララギ」第十七卷第九號)
△九月一日は昨年大震災の第一囘記念日なり。當時の光景今猶目にあり。罹災者諸氏の感慨更に新なるを覺えん。罹災地の復活と創始と二つながら緒に就かず。雨ふれば屋根漏りに苦しみ、晴天なればトタン屋根の燒熱に苦しむの状、傷心依然たるを悲しむ。高田君を初めアララギの罹災者諸氏が不撓の覺悟を以て善後の事に當ると共に、作歌の上に精進の根氣をつづくること悲壮の感あり。小生諸氏の刺戟によりて惰心に鞭つこと多し。記念日の來らんとするに際して之を特記す。
△高田浪吉君は晝は本所の假家に家業を營み、夜八時九時頃發行所に歸りてアララギの事務所を處理し、その餘暇に作歌を絶たず。體力の弱きを以てして斯の如きは驚異とするに足る。十一月は土田君も歸京し、その月の未には藤澤君も除隊せらるべし。それを待つこと切なり。
△安居會は前項辻村君の記事の如く、七月二十八日夕方より八月一日朝まで、唐澤山中に靜肅に行はれたり。關東より十二人、關西より四人、越後より二人、名古屋より一人、信濃より二十六人合計四(640)十五人なり。他の諸氏の希望を容れ得ざりし事殘念なり。來年は何とかして百人位を容れ得るやう工夫したし。比叡山、藤澤、我孫子等に候補地あり。中村君の來會して記紀の歌を講ぜられしは有難かりき。中村君は平素大阪にありて煩務に當り居り、會員に接すること少なし。唐澤山寺にて初めて同氏に逢ひし人多し。講義を聽きしといふことアララギにありて小生上雖も初めてなり。氏は二十七日森山汀川、中島重一二氏と兵に中房温泉より燕岳に登り、山小屋に一泊し、二十八日大天井岳槍ケ岳の谿谷を傳ひ上高地に一泊し、翌日徳本峠より下山して上諏訪に至り、勞を醫する暇なく唐澤山に來り、直に講義をなせり。加納君も繁劇中を神戸より來會して山中に二泊せり。土屋君令息急病にて來會の約を果さす、甚だ殘念なりき。小生萬事粗漏來會諸氏に失禮せしこと多し。寛容を冀ふ。
△岡麓氏所用ありて廣島縣に行く。
△中村憲吉君の歌集「しがらみ」彌々出づ。裝幀の高雅アララギ叢書中殆ど空前なり。平福畫伯の苦心感謝に堪へず。去る二日藤澤君は夜十時頃より「しがらみ」を讀みはじめて曉四時に徹せり。
△高田浪吉君七月三十一日信州柏原なる土田君を訪ね、八月六日歸京。
△鹿兒島壽藏君安居會後大坪君と共に飯山町なる屋敷君寓を訪ひ、それより單獨羽越線を經て青森縣に向へり。
△藤澤古實君八月末富士裾野演習行。
(641)△竹尾忠吉君近衛歩兵第二聯隊へ豫備兵召集に應ず。
△小生明朝家族を率ゐて燕岳に出立すべし。八月八日
信濃便 (大正十三年九月「アララギ」第十七卷第九號)
△土屋文明君の歌集が此の秋出ることになつた。大に喜ばしい。詳しくは次號に發表する。アララギ十一月號は「しがらみ」の批評號にする。小生の歌集「太虚集」は月の中に印刷に廻す。
△八月十五日諏訪郡境村小學校へ行つた。八ケ岳山麓にあつて、富士見驛よりもズツと高い村であり、小學校敷地が海拔三千七百尺位あるさうである。學校は山林の間にあつて、窓からも庭からも人の家一軒見えない。目に入るものは山と林と少し許りの桑畑である。學校から小淵澤驛へ下る一里半許りの道が、大半林の中か芒の中である。斯ういふ村が甲斐と信濃の境にある。翌日は同じく八ケ岳山麓の泉野村へ行つた。この村最高の村落|上槻木《かみつきのき》まで行くと、八ケ岳が頭の上へのしかかつて居り、人家は裾野帶の谿谷に臨んで竝んでゐる。小生の行つたのは夕方であつて、雲が山の全部と、裾野の半分を包んで直ぐ家の近くへ押し寄せさうであつた。此の三月まで宇野喜代之介君がこの村落に住んで居つた。同君今暑中休暇で丁度みね子さんと元の住宅へ來遊して居つたので共に茶を喫しつつ山に向つて清談を交へることが出來た。この日泉野村の諸君と歌の批評會を開いた。左の如き佳作があつ(642)た。
初秋の眞澄みの天の色に似る桔梗の花を佛にあぐる 兩角七美雄
夕方の風立ちそめし凉しさよ障子をあけて繭かき居るに 楢山馬二
月讀の光明るし他の水汲みてさ庭の茄子にかけ居り 堀内皆作
あかときの村を包める霧うすく麓の村はいまだ靜けし 松澤常毅
栂の木の中ゆくわれの笠の上に古葉こぼるる音かすかなり 立木惣治
△その夜から山浦の小生生家に父の七年忌を修した。幼にして母を喪うた小生は父に餘計の骨を折らせた。後の母が小生を思ふこと眞の子の如く、今も閭門にあつて小生の來訪を待つてゐる。これは誰にも得られぬ小生の幸福である。△燕岳では、山頂近い栂林、白樺林にさるをがせの垂れてゐるを見た。その間から八月十日の朝日を拜んだ。小生例によりて疲勞し、所氏や、温泉寺の少年君や、小生の子どもらに交る交る尻を押してもらうた。所氏には特に甚だ相濟まない。そんなにまでして山へ登る必要なしと言うてくれる人もあるが、深山の空氣と光が小生を誘致するのでゐる。
△小生泉野村行の留守中武藤善友君が態々函館から來訪せられたさうである。たまさかの機を失した事返す返す殘念である。同君は北信の土田君を訪ね羽越新線から函館へ歸つた筈である。八月二十日
(643) 編輯便 (大正十三年十二月「アララギ」第十七卷第十二號)
△アララギのともがらは素撲を喜べども野鄙を冀はず、地晩なれども高貴に、一途なれども圓融に入らんことを冀ふ。冀ふところは即ち然れども、到る所淺く、達せんとする所遠し。烏兎忽ち過ぎて毎歳末その歎を同じうするを覺ゆ。△今年程同人打ち揃ひて歌を勉強せしこと少なし尤も欣ぶべし。會員の多きことも未曾有なり。仲間多き時必しも緊まらす。アララギの自ら策勵すべきは今後にあり。
△今年アララギ叢書の出版されしもの歌集「灰燼集」あり、中村憲吉君の歌集「しがらみ」あり、小生の「歌道小見」及び歌集「太虚集」あり。その他金原省吾君に「東洋畫概論」「支那上代畫論の研究」あり、土田耕平君に童話集「魔の眼」あり。
△土屋文明君の歌集「ふゆくさ」は愈々一月中に印刷に付せられるべく、村上成之君の歌集「翠微」も殆ど同時に出版せらるべし。諸君の期待を冀ふ。
△齋藤茂吉君新に醫學博士の學位を授けらる、祝著の至りなり。十一月末歐洲出帆、一月上旬歸著すべし。今日セーヌ河畔より久保猪之吉氏と連名のはがき到著せり。
△小宮豐隆氏無事歐洲より歸朝す。祝著の至りなり。
(644)△岡麓氏十一月二十二、三兩日信濃諏訪に於て「正岡子規」を講話せらるべし。筆記はアララギに連載を乞ふ豫定なり。
△土田耕平君十一月初め攝津國西須磨二十加藤方に移り一冬を過すべき豫定なり。加納曉君の骨折に依れり。
△藤澤古實君十一月初旬より機動演習のため千葉縣下に赴けり。十一月三十日除隊、それ以後發行所に高田浪吉君と同居すべし。アララギも追々順序よく行く。新年號より竹尾忠吉君に選歌の一部をやつて頂くことにす。
△新年號は例により諸同人皆一文を草すべし。平福、森田、武田諸氏も執筆して下さるべし。詳しくは別欄豫告にあり。
△辻村直君十一月初旬信濃より廣島に遊ぶ。
△十一月十二日白田舍畫室に於てアララギ編輯會を開く。會するもの岡、土屋、平福三氏と小生なり。新に定めたるもの追々誌上に實現せらるべし。
△「しがらみ」「歌道小見」近日再版せらるべし。小生の「氷魚」も震災後初めて重刊せらるべし。「太虚集」は平福畫伯及び橋本氏の御盡力によりて實に立派に出來あがり感謝に堪へず。讀者諸氏御心付の御高示を賜らば幸甚なり。(645)△小生十一月十五、六兩日信州飯山に遊び、序を以て清水、本山、山崎諸氏と下高井郡野澤温泉に遊べり。屋敷頼雄、土屋元勲諸君來り亦會す。北地谿谷雪已に路上にあり。遠く妙高、黒姫、戸隱、飯綱、斑尾諸山の白皚々たるを望む。幽邃の境なり。十1月二十日
消息
「アララギ」十一月號「前月歌界」中前田夕暮氏の歌「山路きてなつかしみ見る葛の花紫ふかく莖だちにけり」を「莖立ちて居り」位にすべきだと言ふ貴説には賛成出來ぬ。「莖立ち」は此の場合變な詞なれど、その詞を許すとしたら矢張り原作の方がいい。木下利玄氏の「向うの山に夕日さしをり夏をへておとろへ見ゆる木々のしづけく」第四句適切でないとの貴説は寧ろ第五句「木々のしづけく」の方に缺點あるのではあるまいか。夏を經て青葉の色に衰への見える所を捉へしはよし。「木々のしづけく」では徹しないであらう。この邊も貴見と少し違ふ。忠吉君の評した硯上不旱氏の歌「山みづの音も通はぬ虎杖のおどろが上に汗落ちにけり」第四五句言ひ過ぎたとの事なれど、これは言ひ過ぎたのではなく、汗落ちるといふのが突然なりと言ふ方が穩當にあらざるか。取り柄ありとの評は賛成なり。其の他合評中直子氏の歌に就て、古實君の「かりそめに」は何うであらうと言つてゐるのは、これでいいのだと思ふ。少し氣のついた所を申上げる。浪吉宛
(646) 編輯所便 (大正十四年一月「アララギ」第十八卷第一號)
△新年の御慶び申上候。「アララギ」も十八卷に入り、馬醉木當初よりすれば二十三年目に入り申候。小生等には、いつも出直しの心あり。年の初めに當りアララギ發生當時の心を想起すること然るべく存じ候。
△齋藤茂吉君十一月三十日マルセーユ出帆の由、一月十日頃は歸朝と存じ候。歓喜この上なく候。
△土屋文明君の歌集「ふゆくさ」一月中に印刷に附せらるべく、二月末には刊行せらるべく候。これ大正十四年に於けるアララギ劈頭の出産なり。期待多大に存じ候。
△今囘新なる計畫により爾後毎年「アララギ年刊歌集」を出すことに決定いたし候。大正十三年度分は春中に出版せらるべく候。アララギ毎年の代表作は之に網羅せらるべく、年々繼續すべければ累積して一大アララギ歌集を成すべく候。會員諸君の御送稿を期し候。規定等詳しく別欄稟告に記しあれば、御熟讀下され度候。規定背反はすべて採り得ず、この點御承知願上候。
△本號は岡氏、倉田氏より長篇文章御出し下され、兩畫伯及び武田氏、岡氏各々得難き研鑽を寄せられ忝く奉存候。岡氏の「正岡子規」は、諏訪に於ける講演を丸山東一氏が筆記し、それを更に岡氏の修訂せられしもの、當時聽講者皆落涙しつつ拜聽せし由、それを本誌に載するを得しは忝く存じ候。倉田氏のは小著に對する熱烈なる御意見にて、特に後半小生等の反省を促すべきものと存じ感謝仕り(647)候。
△二月號は中村君の「しがらみ」批評號といたすべく諸家の感想及び批評多く集るべく、御期待下され度候。
△村上成之氏舊冬十二月三日病を以て長逝せられ候。氏は馬醉木時代より本誌と因縁淺からず、絶えず作歌に努力せられ、最近歌集「翠微」の稿成り、「アララギ」叢書第十九編として出版せらるべく相運び居り候際にて、刊行を見ずして逝かれ候こと、特に殘念の至に存じ候。齢五十九歳也。哀悼限りなく候。謹んで弔意を表し候。
△會員福富範雄氏十二月五日病を以て逝去せらる。謹んで弔意を表し候。
△投稿規定は毎號奥付上欄にあり。御熟讀を願ひ候。字體亂雜なるは最も困り候。變體假名も御止め下され度候。
△小生一月は面會日を缺き候。常日歌御持參を例とせらるる諸君は一月五日迄に著くやう信濃國下諏訪町字高木小生宛御送稿下され度候。二月より面會日を毎月五日と改むべく御承知下され度候。
△某々二氏より各金十圓、武田尊市氏より金一圓誌發行費へ御寄贈下され御厚志奉感謝候。
△本號は頁數増加のため特價と致し候。會費との差額御送金下され度候。十一月號特價のも未だ御送りなき御方は至急御送下され度候。
(648) 稟告
「アララギ」毎年の作品中より、特にその精髓を拔いて「アララギ年刊歌集」をつくることにした。最初大正十三年度分を刊行し、以後毎年一册づつを刊行する。これは眞の意味で「アララギ」の代表歌集であり、年々積ればそれがアララギ歌風の生ける推移史になるであらう。左の規定により御送稿を乞ふ。
一、送稿者は必ず現在のアララギ會員たるべし。
一、大正十三年「アララギ」十二册中所載の自作より合計十首以内を選出して信濃國下諏訪町久保田俊彦宛送附のこと。
一、締切大正十四年一月三十一日。
一、原稿紙は必ず手紙大のものを用ひ、初めに住所氏名と雅號とを二行に併記し、歌は一行二十字詰、一首を二行に認むること。
一、書體は必ず楷書なること。
一、各の歌の上に「第十七卷何月號何頁」と明記すること。
一、封筒に「アララギ年刊歌集原稿」と朱書すること。
一、集れるものより更に嚴密なる選擇を行ふ。選擇はアララギ同人之を行ふ。
(649) 一、凡て規定に反するものは没書とす。
編輯便 (大正十四年二月「アララギ」第十八卷第二號)
〇齋藤茂吉君は一月五日令閨輝子さんと共に神戸著一月七日東京へ歸著した。大正十年十一月二十八日横濱解纜の時は、長崎で得た病氣が猶恢復せず、甚だ心掛りの洋行であつたが三年三箇月の間にすつかり健康に復して體も餘程肥え太つてゐるのを見得たのは第一の歡喜であつた。只毛髪のやゝ白を交じへたのは、異域に永く苦研を重ねたためであらう。只齋藤君の歸るに先だち舊臘二十九日君の宅の燒失に遭つたのは實に殘念である。建坪三千呼の大病院が二時間ほどにて全燒したのである。君の藏書も手記も、特に獨逸から送つた書籍の全部も燒亡に歸したこと却す却すも殘念である。君は燒け殘りの小室に長途の勞を休めるひまもなく立ち動いてゐる。元氣は頗るいい。一通り落ちついてからアララギに筆を執るであらう。
〇土屋君の歌集「ふゆさく」今印刷中である。刊行は二月末か三月初めになるであらう。百穗畫伯から例により裝幀を願つて瑞々しき翠竹の表紙を得たこと歡喜に堪へぬ。口畫も御願ひする筈になつてゐる。本號所載同氏文章御熟讀を願ふ。廣告も御覽下さい。
〇アララギ年刊歌集原稿は今盛に集まりつつある。これは大した歌集になるであらう。遺漏ありては(650)殘念ゆゑ、締切期日を二月十五日まで延すことにした。未だ出さぬ人は悉く御出詠を乞ふ。規定は嚴守して項きたい。此の間封筒に規定の朱書なかりしため、他の歌稿と混淆してゐるもの一通を發見した。これは困る。
〇二月號は歌集「しがらみ」批評號とする豫定であつたが三月號に延すことにした。諸家の批評感想が集まる筈である。御期待を冀ふ。
〇「しがらみ」も小生の「歌道小見」「氷魚」「太虚集」も皆重版した。1氷魚」は久しく絶版になつてゐたので、甚だ有難い。
〇徳富蘇峰先生が國民新聞紙上九日間に亙つて「太虚集」のために椽大の筆を揮つて高見を述べ給はりしこと感謝の至りに堪へぬ。圖らざりき小生の微集が先生知遇の一端に置かれんとは。却す却すも感謝の意を表する。
〇百穂畫伯は今上總國富津海岸に居られる。小生數日中に伊豆の湯に行く豫定である。少し健康を害つてゐる。
〇小生へ直接歌稿を送ること、今後止めて下さい。一切の歌稿は發行所へ御送りを乞ふ。
〇規定を守らぬ原稿は困る。稿未へ住所氏名を書くことも、必要があるのである。
〇小生昨夕北信田中より歸來、この稿甚だ遲る。匆忙筆を執る。一月二十日
(651)〇「萬葉集管見」、「萬葉集攷證卷二」何れも印刷中である。(又記)
〇小生二月面會日を八日とする。
編輯所便 (大正十四年三月「アララギ」第十八卷第三號)
〇一月廿七日伊豆國船原温泉鈴木方に一泊した。谷川に高く架けた橋を渡ると門に著き、門内には茅葺きの棟が三四に分かれて、その間に可なり廣い庭があり、庭には連抱の椎が二本立ち、それに太い注連繩が張つてあつて如何にも心持がいい。椎に連つて多くの樹木が立ち、それが上の杉山に續いてゐる。山上の風ここに到らず、耳を澄ませば谷川が庭の下に潺々としてゐる。湯は岩より湧き、岩は直ちに浴室の壁となつてゐる。小生若し土肥温泉を目的としてゐなかつたならば、恐らく豫定の一週間をここに暮したであらう。翌日は三里(實は四里?)の山越しをして土肥についた。道は上りに緩く下りに急、小生には特に恰適であつた。上りは草山が多く稀に杉林があり、枯芒の中にはヤシヤの莟が青黝い小球をなして下がつてゐる。頂上の小笹原からは伊豆駿河の海が一碧微茫の果にひろがつて見える。下り道は椿の花が所々に咲き馬醉木の莟が下がり、それに楠、椎、樫、黄楊等の冬葉が多く日に輝いて、如何にも暖國に入つた感じがした。急な谷を直《ひた》下りに下ると土肥川に沿つた扇状の平地であり、扇のひろがりは直ぐ土肥の海に限られてゐる。ここまで來ると温泉の匂が鼻をついて來る。(652)この日白田舍内同人寺澤孝太郎氏が病後の身を以て土肥の町外れまで、迎へに來て下さつたのは忝なかつた。土肥は船原に較べると更に暖く、家々の庭や丘に橙、夏蜜柑の果が紅黄累々の状であり、梅の花はもう散りがたになつてゐる。只小生は土肥から富士を眺め得ると思つて行つたが、それは違つてゐた。併し、寺澤氏に伴はれて土肥の海へ一日清遊した時は快晴の海上で恣まに富士の全姿を仰ぐを得た。二月一日高田君來り會し、四日共に汽船に乘つて沼津へ著いた。九日の湯遊びは小生には稀有の贅澤である。一寸書くつもりで興が乘つてこんなに書いてしまつた。
〇齋藤茂吉君歡迎歌會は二月七日皆香園に開いた。會する者四十人、齋藤君の歐洲談二三あつて後、歌の批評賑かで甚だよかつた。その後齋藤、渡邊二氏と小生等四五人で酒を飲んで心を暢べた。齋藤君の歌と文章今後毎月本誌へ現れる筈である。欣喜々々。近來小生等同時代の諸同人作歌に非常に緊張し來れる事忝く欣ばしき至りである。年刊歌集原稿山の如く堆積して集つてゐる。これも欣ばしい。
〇百穗畫伯、一月十七日女兒出生。畫伯は一月來千葉縣富津に滯在した。
〇土屋君の歌集「ふゆくさ」愈々近々刊行の筈である。
〇西田先生令夫人逝去のこと哀悼の至りに堪へぬ。生前アララギ御覽の縁を以て發行費中へ金圓御寄贈下され恐縮の至りである。謹んで謝意を表す。
〇小生面會日毎月五日と御承知下さい。
(653) 編輯所便 (大正十四年四月「アララギ」第十八卷第四號)
〇中村君上京、三月十日白田舍畫室にて編輯會を開く。會する者白田舍主人を初めとして麓、茂吉、憲吉、文明、古實、忠吉、小生の八人なり。相談せしこと追々誌上に現るべし。安居會も引きつづき今夏第二囘を開くことにせり。多分上方にて五日間開くこととならん。これは成るべく早く取極めて六月頃の誌上に發表すべし。堀内卓、望月光、篠原志都兒三氏遺稿を取り纏めて近々歌集を出版すべし。三氏共左千夫先生時代に小生等の最も親信しあへる同行者にして、アララギの今日あるは、三氏の苦節を共にせられし力多きに依れり。特に小生は卓の影響を蒙りし事甚だ大なり。三氏今日に生存しあらば、アララギの力を加ふること非常なるべし。アララギ年刊歌集も今夏中に出版せらるべし。岡麓氏の歌集も今年は出版せらるべし。同氏の歌集は遲きに失すること甚し。いつまでも謙遜せられては困る旨を小生等同人より編輯囘席上勸告申上げたり。
〇結城哀草果第二囘の上京をなせり。相變らすのカルサン姿なり。丁度中村君も上京中三月十三日發行所へ諸同人邂逅その邊にて一杯を傾けたり。岩波書店主人、古今書院主人、小川千甕氏、長塚順次郎氏等も來られ賑やかなりき。小川氏來月より歌あるべし。
〇長塚節、山本信一忌は三月七日皆香園にて開催せらる。茂吉以下十七人出席、歌の批評大に賑へり。
(654)〇文明の「ふゆくさ」實に立派に出來たり。忽ちにして版を重ねたり。歡喜の至りなり。茂吉の「あらたま」「短歌私鈔」「童馬漫語」も再版せらるべし。小生の「太虚集」「氷魚」も「歌道小見」も重版甚だ忝なし。
〇改造社より茂吉、憲吉、小生三人の自選歌集を出すべく、茂吉、小生のはもう原稿を渡せり。茂吉は「赤光」「あらたま」より三百五十首を選出して「朝の螢」と名づけ、小生は「切火」「氷魚」「太虚集」より三百五十二首を選出して「十年」と名づけたり。小生上京後丁度十年間に亙る作より選擇せしゆゑなり。憲吉のも直ぐ纏まる筈なり。猶自選歌集は古泉千樫、折口信夫、木下利玄三氏のも出る筈なり。
〇古今書院の萬葉叢書より今囘は下河邊長流の「萬葉集管見」を出せり。原本は震災にて燒失し、寫本が一本我が國に保存せられ居りしものにて、貴重この上なし。感謝の至りなり。武田祐吉氏專ら筆寫より校合を督し且つ自ら當りて印刷の校合を嚴にし給へり。感謝の至りなり。萬葉叢書は引き續き「萬葉攷證」第二卷をも出せり。この書の貴重なる「管見」と同じきこと前に述べたり。書院の盡力を感謝す。
〇本號を「しがらみ」批評號となせり。大に賑やかにて喜ばし。阿部、武田、川田三氏より御寄稿甚だ忝なし。岡、平福、土田諸氏のを得られざりしは殘念なり。小宮氏よりも稿を寄せらるる筈なり。(655)次號に收むるを得べし。
〇信濃は昨日雨、今日雪なり。梅の花には猶一箇月あるべし。炬燵の上にて之を記す。
〇面會日 毎月五日。三月十五日
編輯便 (大正十四年六月「アララギ」第十八卷第六號)
△別項記載の如く第二囘安居會を比叡山に開くことに決定した。昨年のは略ぼ理想に近くいつた。山中の小寺院ゆゑ人數を甚しく制限せし憾みがある。今囘は比叡山を擇び、中村憲吉君より交渉して頂きしに、同氏は四黒徳島旅行より歸つて疲勞猶癒えず事渉繁劇の中を態々比叡山へ登つて承諾を得て下さつたこと感謝の至りである。今年は岡、平福、齋藤、中村、土屋、小生皆揃つて出席するやう話し合つてゐる。會員諸氏の奮つて申込あらんことを冀ふ。猶中村君の通信文を別項に掲げしゆゑ御一覽下さい。關西方面よりの登山道は七月號でお知らせする。其の他詳しいことはすべて七月號に確定してお知らせする。
△中村憲吉氏は四月下旬四國徳島の歌會に聘せられて行き、歸りに鳴門の渦卷を觀て歸阪した。歌が出來さうだと言って來た。
△平福百穂畫伯は朝鮮總督府展覽會審査のため五月二十二日頃朝鮮へ行き、序を以て滿洲に遊ぶかも(656)知れぬ。
△藤澤古實氏は五月六日老父逝去の報に接し歸國中である。一月二月一度づつ歸省して、今月も歸省すると言ひつつ「萬葉集全卷」の枚正忙しくておるうちに訃報に接した。殘念の至りである。謹んで哀悼の意を表す。
△齋藤茂吉氏の自選歌集「朝の螢」が先づ出て忽ち再版になつた。欣喜に堪へぬ。つづいて古泉千樫氏の「川のほとり」木下利玄氏の「立春」も出て寄贈を得た。これもよい歌集である。特に古泉氏はこれが處女歌集である。出てよかつたといふ感がする。諸君の御購讀を希ふ。中村憲吉氏の「松の芽」釋迢空氏の「海やまのあひだ」小生の「十年」皆五月中旬に出る。御一讀を賜らば幸甚である。
△齋藤君の「童馬漫語」、「短歌私鈔」は改訂してこのうちに春陽堂より出る。久しく絶版であつたから期待者が多いであらう。これも甚だ有難い。
△羽生永明氏の「評釋平賀元義歌集」愈々古今書院へ原稿全部が渡された。浩瀚六七百頁になりさうだ。欣幸に堪へぬ。
△岡麓氏の歌集はこの秋出版の豫定である。
△八月號を小生の「太虚集」批評號にし、十月號を土屋氏の「ふゆくさ」批評號にする。
△曾根正庸氏遺稿「曾根正庸歌集」が出版せられた。痛ましい歌集である。歌が實に痛切だ。小生は(657)息もつがずに讀んで涙を催した。之を編んで下さつた美作小一郎、森本治吉、赤星信一、清水谷侃、高瀬敏、美濃部長行其の他諸氏の盡力を多謝する。
△小生の會員諸君と面會するのは毎月五日である。其他の日は甚だ忙しい惡しからず御承知下さい。
△短册色紙唐紙等澤山送られてゐるが、とても書かれない。御赦し下さい。五月十一日
第二囘安居會
期日 七月二十九日より八月二日まで五日間
場所 京都比叡山山上宿院
人員 百人(アララギ會員に限る)
行事大要 午前四呼起床。午前中萬葉集及び萬葉集系統歌其他講義講話
午後歌評會。夜歌話。夜九時就寢
會費 十二三圓(六泊五日間宿泊食費其他)
申込 七月十日迄に申込金三圓を添へてアララギ發行所宛申込むこと
申込金は安居會費内に入る
雜件 會員は七月二十八日日没迄に會場に到著すべし
規制嚴守。酒類禁斷
(658) 曾期中火急用の外下山を禁ず
女人のために別室準備あり
期日等多少變更なきを保せず。七月號に確定報告すべし
講義講話は岡麓、平福百穂、齋藤茂吉、中村憲吉、土屋文明、島木赤彦之に當る
編輯便 (大正十四年七月「アララギ」第十八卷第七號)
△今迄當然あるべかりし古泉、折口二氏の歌集が出た事は甚だ喜ばしい。古泉氏の「川のほとり」は別欄に愚見を書いた。折口氏の「海やまのあひだ」も、そのうち拜見できるであらう。「川のほとり」の卷末記に、古泉氏の「日光」同人になつたことにつき『日光の同人となつたことが「アララギ」に對する友誼を絶つたのでもなく、手を分つたのでもないことを私は思つてゐた。これがために「アララギ」と疎くなつたことは私として感慨が深い』と書いてゐる。これによると、古泉氏に「アララギ」脱退の意なきに、「アララギ」が氏を追つたとやうにも取り得る。これは「アララギ」から追はれたのでもなく、氏が「アララギ」から追はれたのでもない。公刊書に以上の言が載つてゐるとすると、後々の參考のために少々書いておく方がよいかと思ふ。日光の創刊は今迄の短歌の團體結社に對する反對運動であつて、その目標が主として「アララギ」に在つたと見られてゐる。然らざれば、日光創刊(659)の議を何故に古泉氏はアララギ同人に話さなかつたか。岡氏も、平福畫伯も、齋藤、中村、土屋諸氏も小生も、土田、加納、藤澤、高田、竹尾、辻村、小原諸氏の年若な同人も、一人としてその話を聞かされて居らず、無論相談も勸誘もされて居らぬのでゐる。この所を古泉氏は何う解するか。或は、話さなかつたのは、話しても賛成しまいと思つたからだとも解される。「アララギ」の賛成せぬ新團體へも加はり、「アララギ」の團體へも加はつて居るといふことは、小生の想像し得ない心理である。そこを古泉氏は何う解するか。現に日光創刊の後、古泉氏が小生を訪づれた。その時この關係を氏に問うた。「日光同人兼アララギ同人といふこと不自然でないか」と小生の言うたに對して、氏は「不自然だらうな」と答へてゐる。座に鹿兒島氏その他二三人居りしゆゑこの事一層明瞭である。石原氏は積極的に東京朝日新聞へ「日光」創刊の辭を掲げ、「歌壇の危機に面して」と題して、集團的歌壇の弊害を唱へ「歌壇自らが各その機關雜誌に於いてお互に他を排斥し、徒らに墻壁を築くかの觀あることです」「自分の仲間の作品に感心する所の眼をもつて、之を他の雜誌に移す時には、最早そこに缺點と不備とのみが映じ若くは見て見ぬふりをしなければならないと云ふに至つては、その情實に溺るることの大なるに驚き且憐まずにはゐられないではありませんか」と言うてゐる。その言の目標には、少くも「アララギ」を包合してゐるのであつて、見方の當否深淺明暗甘酸苦澁は別として、所信を公然と披瀝して自己の所信に邁進する態度男らしとすべきであると思つてゐる。古泉氏が『これが(660)ために「アララギ」と疎くなつたことは私として感慨が深い』と言ふのは「アララギ」と疎くなつたために日光に加つたと言ふ方が本當である。所信に邁進すべきは萬人皆然りであつて、古泉、石原、折口氏等が所信に從つて日光に加つたことは三氏として正當と思ふ道を踏んだのであつて、少しも生ま温い感を伴はぬのである。只、永年「アララギ」に袂を連ねてゐた舊好忘れ難きは御同樣である。それゆゑ「日光」を見る毎に先づ三氏の作品を檢するのであつて、よい作品が現れて居れば衷心欣喜に堪へぬのである。それを以て、若し黨同伐異の意を擴大したものと思ふものあれば間違である。やや古びた問題を持ち出すはその意にあらねど、古泉氏の卷末言あるゆゑこの關係の大凡を明にしておくのである。五月二十八日
△安居會の申込盛大ゆゑ定員を百五十人に改めた。依つて猶御希望の御方は期限中に御申込下さい。但し絶對に「アララギ」曾員に限ります。會場へ御持參の書は萬葉集、古事記だけでいい。それも袖珍本等の簡單なものが荷にならなくていい。講話の要項は別に謄寫して會員に渡す事になつてゐる。
△百穗畫伯は五月二十二日東京驛を出立して朝鮮京城に向ひ、同地朝鮮總督府開催展覽會出品畫の鑑査を了へ、序を以て滿洲に遊び、畫伯令兄戰死の址を黒溝臺に訪ね、引返して朝鮮經由今日頃歸京の筈である。
△齋藤茂吉君は五月二十三日近江蓮華寺※[穴がんむり/隆]應老師の病を訪ね、三十日信州木曾を迂囘し、木曾教育會(661)に「短歌の變遷」を講じ、翌三十一日古今書院主人及び小生と共に王瀧川上流の名勝氷ケ瀬に遊び、同地一泊翌日上諏訪に一泊して歸京した。王瀧探勝については同地の北原氏、蜂谷氏その他諸氏より大へん御厚情に預つた。感謝に堪へぬ。齋藤君は昨日再度信州に入り、今日松本で「僧良寛」を講ずる筈である。
△土田耕平君は神戸市西須磨下澤九丹波方へ移轉した。
△長崎の大久保日吐男氏は數年來病臥の處五月二十八日逝去せられた。氏の歌は「アララギ」にあつて久しく異彩をもつて居り身邊及び自然に發する感觸が鋭敏微細に透つてゐた。訃音に接して哀悼の情に堪へぬ。深く弔意を表す。
△改造社より古泉、折口、木下、齋藤、中村諸氏、及び小生の自選歌集出版につき、六月六日その記念會を芝の三縁亭に開いて下さつた。高島米峰、寺田寅彦、芥川龍之介、土岐善麿、石榑千亦、吉植庄亮、宇都野研、淺野梨郷、依田秋圃、河野愼吾、田居守夫、四海民藏、森園天涙、臼井大翼、岡麓、土屋文明諸氏、及び改造社主山本氏その他多數發起者となつて、會衆四十餘人に及んだ。猶北原白秋氏、森田恒友氏其の他から電報を頂いた。深く御厚意を謝す。
△藤澤古實、廣野三郎二君の編纂しつつある「萬葉集全卷本」は今校正最中である。校正嚴密であるから毎日從事してゐるが中々捗らない。それでも今夏中には出版せられるであらう。萬葉一本を持ち(662)たい人に非常に便利である。一般に期待せらるるであらう。
△原稿の書き方は必ず規定を守つて下さい。假名その他のつづけがきは困る。△西尾實氏より金十圓發行費に寄贈せられた、謹んで御厚意を謝す。六月十四日高木にて
編輯便 (大正十四年八月「アララギ」第十八卷第八號)
〇安居會は東京より未だ知せ來ざれど、少くも百人内外とならん。盛況想ふべし。委細九月號にて報ずべし。
〇本號は拙作「太虚集」批評號として刊行せり。田邊、芥川、倉田、齋藤、宇野、小原諸氏の御執筆を得感謝に堪へず。九月號にはその他多數諸氏のを頂くを得べし。徳富先生の國民新聞へ御書き下さりし御評をも轉載せり。改めて先生に感謝の意を表す。
〇羽生永明氏著「平賀元義歌集註解」は愈々校正を了へ、詳細なる年表及び索引を附し、六百頁餘の大册子となりて八月下旬刊行せらるべし。本書が元義研究上の權威なることは再三述べしところにて今更繰返す要なき程なり。會員諸氏の一本を備へられんことを切望す。
〇齋藤茂吉君の「短歌私鈔」「童馬漫語」何れも多くの改訂を經て春陽堂より刊行せらる。會員諸氏多年の渇望を滿すを得べし。御購讀を冀ふ。詳細廣告欄御一覽を乞ふ。
(663)〇岡麓氏歌集は今秋出版せらるべし。只今準備中なり。
〇小原節三君は九州大學營繕課へ轉任せり。
〇短册、色紙、半切等の種類書けとて送り越し給へる御方多數あり。これを書いて居ると小生は書家に變形すべし。返事もさし上げずに居るのは困却のためなり。切に御容赦を冀ふ。七月十七日
〇アララギ年刊歌集は初秋迄に刊行し得べし。秀逸充溢の感あり。御期待を乞ふ。(又書く)
編輯便 (大正十四年九月「アララギ」第十八卷第九號)
〇安居會衆百二人は七月二十八日日没までに比叡山山上宿院に到著し、その夜一同講堂に集まつて會期中の講義その他の打合せをした。前日中村君大津に來り小生と諸種打合せをして比叡山麓坂本宿の三橋に泊り、坂本驛比叡山口驛坂本港等へ來著すべき會員に對する準備一切を山上賣店原田老主人に委託した。翌日は京都大阪方面より西村俊一、伊澤平喜、小川政治、大村呉樓、中島ふく子諸氏が早朝三橋を訪ねて下さり、各停車場の用意と講義原稿の謄寫版刷り等に當つて下さつて非常に忝なかつた。二十八日小生は尻押し人夫を頼んで山上に登り、岡、齋藤二氏は舁籠で上り、中村、土屋二氏は徒歩で登つた。宿院に到著したものは窓前老杉の間から琵琶湖全面を瞰下して先づ異靈の氣に襲はれ、次いで夜に入つて講堂の集合に互に顔を合せたのであつた。此の日土田耕平氏須磨より山下まで(664)來て岡、齋藤、土屋諸氏に逢ひ得しも、中村と小生は午前中に山に登つたので逢ふを得ず殘念であつた。其の他夜おくれて山上に到著せしもの二三人あつた。
〇二十九日からは定めの如く朝四時起床、四時半より六時半まで講義、七時朝飯、八時より十一時まで講義、正午晝飯、午後一時より四時まで講義、四時より入浴、六時夕飯、七時より九時十時稀には十一時まで批評會といふ有樣であつて、小生も大分居眠りの練習をした。朝四時半といへば講義する文字がよく見えない。講義するものも聽くものも初めはやゝ夢心地なれど、慣れると却つて頭がはつきりするやうである。講義は岡氏の古事記、齋藤氏の神樂歌及び正岡子規の歌、中村氏の記紀の歌、土屋氏の大伴家持の歌、小生の柿本人麿の歌等であつて、五日間に略ぼ豫定の分量を濟ませることが出來た。只平福百穗畫伯が差支へを生じて來曾し得ざりしこと殘念の至りであつた。
〇八月一日夕刻會期猶充たざるに小生所用ありて下山の已むを得ざりしこと殘念の至りであつた。そのため居殘れる四氏その他諸氏に餘計に御厄介を願ふことになつた。八月二日午後は古來諸聖の論議道場なりし山上大講堂にて歌の批評會を開くことを許され、翌三日早朝衆皆下山解散茲に餘定會期を了り得しこと歡喜の至りである。山上にては西村俊一、伊澤平喜劇、大村呉樓、高田浪吉、辻村直、武藤善友、鹿兒島壽藏諸氏に特に大小の事務を處理して頂き、丸山東一、原田彦治、本山弘治、傳田精爾、小島守人、三澤孔文、關卯一、田中四郎、山本理逸、薄井一の十氏には講義筆記の煩勞を乞うた。(665)謹んで謝意を表する。
〇同氏は安居會後高野山和歌浦大阪を巡り中村氏へ一泊して歸京。齋藤、土屋、武藤三氏は和歌浦にて同氏と別れ、那智の方へ廻つた。高田氏は土田氏を訪ねて八月八日歸京した。小生は八月二日神奈川縣高座郡教育會で萬葉系統の講演をした。
〇百穗畫伯は毒蟲に脚部を螫され日本橋立松病院へ入院中、經過良好。
〇藤澤氏は萬葉集を校正中にて安居會に出席し得ず、炎暑中東京に止まつて塑造と萬葉とに骨を折つてゐる。八月十二三日頃一寸墓參のため歸國する筈。
〇十月號は土屋氏の「ふゆくさ」批評號とする。
〇故村上成之氏歌集「翠微」は土屋氏の編纂により九月初旬古今書院より發刊せられる。諸君の御期待を願ふ。
〇岡氏の歌集は十月頃發刊せらるべし。
〇羽生氏の「註解平賀元義歌集」彌々八月末發刊せられる。
〇暑中見舞の書状多數諸氏より頂き感謝致します。同人一同元氣でやつて居ります。御安心願ひます。一々御返事もさし上げず失禮してゐます。御高恕願ひます。
。選歌以外特別に歌を見よとの申込みあれど小生等一同用事山積の有樣で到底希望に副はれず、此儀(666)偏に御諒承を願ふ。これも返事さし上ぐべきなれど誌上にて御返事に代へること御承知下さい。
〇それから短册色紙類を送つて歌を書けといふ御方あれど、これをしてゐると殆どきりがなく歌の勉強を侵蝕されます。他日さういふ機會あるかも知れねど當分望みなきものとして御申込み無之やう願ひます。
〇今日は風が凉しく空が澄んで宛ら秋の感じである。今春山より掘り取つて植ゑつけた木戸道の萩五株七月廿日頃より咲き初めて今日頃は可なり花が多く猶枝先に小さな蕾を多く持つてゐる。昨夜より山村の盂蘭盆で子供が山から折つて來た草花を佛壇に供へ、燈籠をともしてゐる。八月十四日夜高木にて
〇七月號小生の歌第一首下句は「夏となりけり」であるのを校正の時「夏となりにけり」と誤植した。あの歌の場合では「にけり」は重過ぎていけないやうである。序を以て正誤する。八月十四日夜又書く
編輯便 (大正十四年十月「アララギ」第十八卷第十號)
〇羽生永明氏の「註解平賀元義歌集」古今書院より出づ。多年研鑽の末に成りしもの、材料該博、敍述精確、後世に亙りて世を益するに足るべし。卷末元義年譜だけにても氏に依つて初めて得べき重寶なり。諸氏の熟讀を望む。九月八日夜古今書院主人主催にて右著述祝宴を本郷某亭に開けり。會するもの羽生氏、古今書院主人の外、岡、齋藤、土屋、小生都べて六人なり。翌日、平福畫伯を湯河原に(667)訪ふの議俄に熟し、十日岩波書店主人、古今書院主人、齋藤、土屋、小生の五人にて畫伯の閑居を襲ひ一日一夜大いに畫伯の清閑を防げたり。畫伯の外科手術全く治癒せり。
〇村上成之氏遺著歌集「翠微」愈々古今書院より刊行せらる。百穗畫伯の裝幀口畫會心の作にてすべて立派に出來感謝の至なり。諸氏の御購讀を祈る。
〇藤澤古實、廣野三郎二君合編の「萬葉集全卷本」は三年餘の苦勞を經て愈々古今書院より刊行せられたり。平仮名交じり書き下し本として完全に庶幾かるべし。歌界の重寶なるべきを信ず。慶賀の至りなり。諸氏の座右に一本を備へ給はんを祈る。
〇岡麓氏の歌集は此の秋中に古今書院より出づべし。
〇「アララギ」大正十三年年刊歌集此の秋中に岩波書店より出づべし。
〇小生の[萬葉集の鑑賞及び其批評」十月中に刊行せらるべし。萬葉集各期の代表的短歌を解説してやヽ詳しく批評せるものなり。詳しくは次號に申上ぐべし。
〇來年一月十五日「アララギ」臨時増刊號を出すべし。別項に委し。御期待を冀ふ。
〇本號は土屋君の歌集「ふゆくさ」批評號として刊行せり。諸氏の御寄稿を得しこと感謝に堪へず。來月も引きつづき「ふゆくさ」批評を掲載すべし。猶小生の「太虚集」批評其の後諸氏より御寄送を賜り感謝の至なり。謹んで謝意を表す。
(668)〇小生の木曾行の歌四十首ばかり「改造」十月號に出でたり。御批評を冀ふ。
〇今井邦子氏さんは御子さん病後靜養のため伊香保へ赴く。
〇五味保義氏は東京市立中學校を辭して京都大學へ入學す。
〇宇野喜代之介、宇野みね子兩氏病氣のため今夏京都寓居にて過せり。九月二十三日
〇本誌を、歌集「ふゆくさ」批評號とした。なほ來月號へ、數篇掲載する豫定である。
〇子規忌歌會は、毎年九月であつたが、本年は十月四日に行ふことにした。場所は田端大龍寺(市電動坂下・省線田端驛下車)會費五十錢、來會者は近詠一首持參のこと。
〇會員西村三千雄氏、八月福岡に於て逝去、謹んで哀悼の意を表する。
「アララギ臨時増刊號」豫告
今年七月二十九日より八月二日まで比叡山上に開きたる第二囘アララギ安居會は日數五日間なれども早朝四時より夜に及ぶまで間隙なき講義を續けしゆゑ、普通講習會の二週分位の時間を費せりと覺ゆ。その講義筆記は只今十氏の手にて整理しつつあり。受講諸氏その他大方有志諸氏より右筆記印刷を要望せらるる有樣なり。依つて大正十五年一月十五日臨時増刊號を出して博く諸氏の清鑒に供せんとす。
(669) 編輯便 (大正十四年十一月「アララギ」第十八卷第十一號)
〇藤澤、廣野二君共編萬葉集全卷本は實によく出來あがつた。中村君より「全卷萬葉集を撫でながら今朝欣快感謝の念に滿たされてゐる。嘆賞すべき點は多々有之べきも、常住坐臥出入にも萬葉集を懷に入れて、その全貌を親しく易く仰望するに甚だ有難い書物である。」と言つて來たが實にその通りである。小生は刊行落手の日より座右に備へて、毎日用ひてゐるが便益この上もない。深く二君に感謝すると共に、讀者諸氏の座右に是非一本を備へ給はんを冀望する。小生は一本を書架に列し、他の一本を机右に置いて書き入れ等をしてゐる。〇藤澤君は、又、帝展彫刻部に出品して合格した。初めての出品であつて、甚だ幸先きがいい。諸君の御高覽を祈る。
〇齋藤君の「赤光」改訂本、「童馬漫語」重版が彌々春陽堂より出た。諸氏の清鑒を祈る。
〇同氏の歌集「庭苔」は今月中に印刷に付せられるであらう。
〇「アララギ」十三年度年刊歌集は彌々原稿整理が終つて、明日印刷にまはる。十一月中には出版になるであらう。一ケ年間の「アララギ」より嚴選せられしものにて、一首と雖も忽かに出してはないつもりである。諸氏の御期待を祈る。出版の後れしは、小生の怠慢による。御高恕を祈る。それでも今年中に出て非常によかつた。選ぶに可なり日柄がかかつたり、それだけ小生を益する事も多かつた。(670)選後の感は矢張り、自己の實感に根づよく即いてゐる人ほど、生きた歌が生れてゐるといふことが、一番深く思はれたことである。定數に充たない數を送りし人多し。自信なしとして謙抑せられしならんも、猶惜しき心地する場合が多かつた。これは雜誌よりも更に、氷久的のものである。來年よりは、どなたも十首づつ送つて下さるやう所望する。中には自己の秀作に氣が付かずにゐる人もあるやうである。それも甚だ面白いが、送る時、誰か先輩等に逢つて相談して見ることもいいと思ふ。
〇長塚節全集愈々原稿整理を了へて、來年匆々春陽堂より豫約出版することに決定した。材料に遺漏なきを冀ひしゆゑ可なりの年月を費し、特に故人令弟長塚順次郎氏、岩波茂雄氏、平福百穂氏、安塚千春氏等其の他諸氏を煩はし、且つ書簡類所持者諸氏の厚意を受けて漸く完結を見るに至つた。それを淨書するに森山汀川、柳平末雄君等を煩したが、汀川君のそのために用ひた力は特に甚大である。感謝の至りである。詳しくは追つて十二月號に報告する。
〇小著「萬葉集の鑑賞及び其批評」は今校正終りに近く、十一月中旬迄に刊行せられる筈である。萬葉集三期を代表するに足りると思ふ歌を選び、批評的に愚見を敍べて見たのであつて、萬葉集に對して斯ういふ方面から手を著けたものは、今まで多くないかも知れない。諸氏の御清鑒を得ば感謝の至りである。〇右の小著に手を入れ初めしため、二箇月間面會日を缺席して非常に失禮した。十一月よりは出京す(671)るゆゑ御高諒を願ふ。
〇松倉米吉七囘忌歌會を十一月十五日(日曜日)午後一時より芝區白金三光町五三八日限地藏に於て行ふ。市電名光坂下にて下車。會費七十錢、近詠一首持參のこと。
信濃便り (大正十五年二月「アララギ」第十九卷第二號)
〇新年御慶めでたく申納め候。小生新年早々常陸國鮎川温泉へ行き餘計に諸方面へ御無沙汰致し候。會員諸氏よりの年賀状一々御返禮申上げ兼ね候へば誌上にて御禮申上候段不惡御承知被下度候。之は發行所その他同人皆同樣に有之御容赦被下度候。
〇十三年度アララギ年刊歌集は十二月に入りて發行相成候。岩波書店の御苦心により裝幀紙質印刷皆會心に出來上り欣ばしく存じ候。十四年度のは別項稟告の如く二月一ぱいに締め切り申すべく全會員の御送稿を祈り候。昨年は小生の怠慢にて遲刊相成り候へども今年は諸同人廻覽選擇の上夏までに刊行可仕候。規定御遵守被下度候。今日までに已に數十通集まり居候。自作選拔に困るやうな場合は誰かと相談すると宜しと存じ候。
〇今年劈頭長塚節全集の刊行を會員諸氏に告げ得るは大なる滿足と喜悦を感じ候。材料を集むるに意外の月日を費し、その間岩波茂雄氏、長塚順次郎氏をはじめ大方諸氏の御盡力を賜はり、筆寫には森(672)山汀川、柳平未雄二氏の御盡力を得て漸く完了いたしたる次第に候。特に森山氏は筆寫の殆ど全部に當り下され、病床日記、耕作手帳等の書き方非常に微細なるため蟲眼鏡を用ひて漸く筆寫を了したる所もあり、その骨折尋常ならざりしこと今更感謝に不堪候。猶別項稟告及び春陽堂の廣告御覽の程願上候。
〇前號高田浪吉君の前月歌界言について少々愚見を言へば「水甕」の安部忠志氏の歌「崖の上よ見つつさぶしゑ谿川の日に照り流れ音立ててゐる」は大體これにてよく、「さぶしゑ」の「ゑ」が輕いとか、三四句弖仁波不安とかいふことは勘違ひと存じ候。上田英夫氏の「山あひのいで湯の宿に一夜ねむり小鳥の聲にさまされにけり」の一二句も一通り難なしと存じ候。「國民文學」新免忠氏の「襞ふかき峽にこもりて立ちなづむみ湯のけむりぞあはれなりける」は境地に甘えて調に負かされ云々は當り居れど、「み湯」はいけぬとか、「こもりて立ちなづむ」が寫生になつて居らぬとか言ふは如何のものか。その他少し急いで書きはせぬかと思はるる所あり。如何。
〇小生の神經痛、常陸の湯泉も餘り效なく、東京にて茂吉君の厚意により一囘注射をして頂きてやゝ小康を得候へども歸國以來床上にぐづぐづいたし居る有樣ゆゑ諸方への手紙類自然に疎慢の度を加へ居り候段御高諒願上候。諏訪湖は今全部結氷し居り、高木村の温泉も冬は少しぬるくなりて入浴に便ならず。昨今全く蟄居の有樣に候。今月中に元氣恢復、二月より少し勉強致し度存じ候。一月十六日
(673)〇小生選として信州小生宅へ送らるる歌稿は、今後一さい發行所宛に御送り下され度候。(追加)
稟告
長塚節全集編纂のことは大正十二年五月より著手して漸く最近その完成を告げた。小生等は長塚氏の歌及び歌論歌話は勿論、小説寫生文雜文耕作手帳書簡病中日記その他の斷簡零墨を輯めて、今更ながら氏の文學の根柢所について深く省察せしめらるるの機縁を與へられた。
即ち氏の文學の底を流れる生活精神が歌道にも小説道にも文章道にも現れ、耕作手帳にも病中日記にも手紙にも端書にも如何にもよく躍如として現れてゐるのであつて、それらを綜合して初めて氏の作品の精神を窺ひ得るに庶幾いかと思はれるのである。「アララギ」の歌道は子規歿後主として左千夫、節二者の開拓を經て今日に傳つてゐる。この點より言うても、長塚節全集の刊行は「アララギ」讀者に裨益を與へること甚大であると信ずるのであつて、多數諸士の閲讀を冀望する所以である。
刊行購讀等の詳細は發行元春陽堂の廣告を待つて承知あらんことを望む。大正十五年一月二十日
〔2023年8月14日(月)午前10時40分入力終了〕