赤彦全集第7巻、岩波書店、676頁、2200円、1930.5.15(1969.11.24.再版)
 
第7巻 隨筆・感想・論文
〔分かり切った振り仮名は省略した〕
文藝と教育に關する論文及び感想
 
流行と輕佻…………………………………… 9
鬼ケ森の怪物…………………………………12
我校弊ヲ論ジテ同人諸士ニ訴フ……………14
村勢調査………………………………………20
父兄懇話會……………………………………23
研究録…………………………………………31
彙報……………………………………………36
動物性と人間性………………………………41
奬善會…………………………………………49
職員會誌………………………………………51
  明治四十四年度…………………………51
  明治四十五年度…………………………54
訓練綱要………………………………………57
一心の道………………………………………66
就任に際して…………………………………73
高等學校………………………………………76
山上漫語………………………………………81
長野縣より何を出したるか…………………85
病人に與ふ……………………………………91
復古とは何ぞや………………………………97
女及び女教員……………………………… 101
鍛錬せられざる心………………………… 107
犠牲………………………………………… 112
多言………………………………………… 121
容さざる心………………………………… 128
師範教育…………………………………… 135
再び師範教育を論ず……………………… 140
理科號の末尾に記す……………………… 145
教育者の種類……………………………… 148
青年教育…………………………………… 154
鍛錬と徹底………………………………… 160
松井須磨子………………………………… 167
遠近………………………………………… 170
速成者速變者……………………………… 176
兒童自由畫展覧會につきて……………… 184
少數者……………………………………… 194
山…………………………………………… 200
二則………………………………………… 204
後二則……………………………………… 212
訓育號の終りに記す……………………… 220
田中新藏翁に就きて……………………… 224
中等學校の訓練…………………………… 226
訓育問題 其二…………………………… 232
亡人録……………………………………… 236
辭任の辭…………………………………… 245
東西記……………………………………… 247
或る先生の話……………………………… 256
東西記 つづき…………………………… 259
岡田氏の訓示を讀む……………………… 270
文藝と教育………………………………… 279
 月並……………………………………… 279
 東洋藝術の傳統………………………… 291
 子供に關した藝術……………………… 305
短歌・童謠より見たる一般表現―ことに綴方に關して―…… 313
  一般表現と教育……………………… 313
  短歌と表現…………………………… 320
  生活と表現と價値…………………… 327
  童謠と教育…………………………… 335
藝術教育の疑點…………………………… 339
川井訓導の修身教授問題………………… 342
 
消息・編輯便 其他
 
「比牟呂」消息其他 明治三十六年…… 347
「比牟呂」消息 明治三十七年………… 351
「比牟呂」消息 明治三十八年………… 356
「比牟呂」消息其他 明治四十一年…… 365
「比牟呂」「アララギ」消息其他 明治四十二年… 379
「アララギ」消息 明治四十三年……… 386
「アララギ」消息 明治四十四年……… 390
「アララギ」消息 明治四十五年・大正元年…… 393
「アララギ」消息 大正二年 ………… 400
「アララギ」消息 大正三年 ………… 411
「アララギ」編輯所便 大正四年……… 429
「アララギ」「萬葉集檜嬬手」編輯所便 大正五年…… 444
「アララギ」編輯所便 大正六年……… 474
「アララギ」編輯所便 大正七年……… 497
「アララギ」編輯所便其他 大正八年… 526
「アララギ」編輯所便其他 大正九年… 554
「アララギ」編輯所便其他 大正十年……575
「アララギ」編輯所便其他 大正十一年…588
「アララギ」編輯所便其他 大正十二年…600
「アララギ」編輯便其他 大正十三年……617
「アララギ」編輯所便 大正十四年………646
「アララギ」信濃便り 大正十五年………671
 
文藝と教育に關する論文及び感想
 
(9) 流行と輕佻
 
 流行々々、又流行、忽ちにして來れば忽ちにして去り、忽ちにして去れば亦忽ちにして來る。其の來る時は、怒れる虎の如く、其の去る時は鼠の如し。
 吾人は今日我國民が浮萍泛々流行の炎熱に是れ狂するを見て、其の嘗て蒙りたる彼の「輕佻」なる冠詞は、未だ全く其の頭上より拭ひ去る能はざるを知り、其の惡意義、無頓著、無分別なるを浩歎せずんばあらず。
 福島・郡司二氏の快報一度至るや、甲報じて傳へ、一國民は忽ちにして殆ど狂す。而して今や即ち冷然淡如たり。其の狂するや、直ちに二氏其の人を知つて、其の壯圖を賞讃し、而して是に狂する猶且つ可なりと雖も十中七人は皆是れ流行の爲に狂するなり。若夫れ然らずとせんか、獨怪む。北里博士歸朝の當時何を以て國民は是に熱中し、是に狂奔せざりしかを。噫、北里博士の學業豈福島・郡司二氏の壯圖に讓るものならんや。而も國民の是に對する待遇は實に冷々淡々たりしを思はば、又以て(10)我が國民が彼の二氏に狂したりし所以を測知するに足らんか。更に眼を轉じて文學界の状勢を視よ。曩時泰西の文學に狂奔し、天下の文人皆我を忘れて彼に熱中したりし當時は如何。彼等は口を極めて固陋と侮り、因循と嘲りしに非ずや。而して彼等が今日講ずる所の書は果して皆依然たる泰西の文學か。新聞紙報じて曰く、方今和漢文学、詩歌、俳諧の流行熱は實に全國を擧げて其の度を高うし、是に關する幾多諸雜誌の發刊は、爲に洛陽の紙價をして騰からしむるに至ると。噫、昨は冷に今は熱す。忽ちにして鞭ち、忽ちにして撫し、忽ちにして疎し、忽ちにして親み、忽ちにして怒れば忽ちにして笑ふ。我國民流行の變遷何そ夫れ斯の如く漂々として而も斯の如く浮々たるや。聞くが如くば、現今東都武學生の増加は往年に比して、愈々隆盛の端に赴くが如しと。吾人は柔弱俗を成し、軟懦風を成すの今日この兆候あるを聞く。寧ろ拍手喝采せんと欲する者なり。然りと雖も之を追想せば、往年法律學書生は夏天の驟雨の如く、忽ちにして來り、又忽ちにして去りしを。嗚呼、朝晴暮雨變幻倏忽明日の天候吾人亦豫め期する能はざるなり。
 抑も方今我國の文明は其の源や實に泰西に發す。吾人は今に方つて事新しく是を喋々するに非ずと雖も、我國人民は今日にあつても、未だ頭を白皙人種の前にあぐる能はざるものあり。
 視よ。今日文明の利器として我國に運用せらるる所の者を。我國の依て以て便を蒙り、利を蒙る所の百般の事物は盡く皆源を泰西に仰ぐに非ずや。噫、電信は白人に依つて發明せられたり。蒸汽車は(11)白人に依つて發明せられたり。其の他軍艦の製造より、百般の學理より、國内諸般の制度に至る迄皆標準を彼に取らざるはなし。今日彼等が横行濶歩傍若無人の振舞ある、未だ遽かに以て理なしとす可からざるなり。堂々たる神州の臣民、將に唾手蹶起一意專心憤發激勵前んでは前代未聞の學理を發明し、未曾有の新機械を發明し、茲に更に文明の一新天地を開き、彼をして之が恩惠に光被せしめ、退いては二千五百餘年來皇緒連綿金甌無缺の神州を以て自稱し來りし我帝國の體面を確保し、以て彼が高慢の鼻を挫くに非ずんば遂に膝を文明社會に、白皙人種の下に屈せずんばあらざるなり。秋津洲中幾千百萬の國民誰か甘んじて彼が背後に尾して、惴々累々たるをこれ欲する者ぞ。
 嗚呼、方今我國臣民たる者は實に斯の如く夫れ絶大の志望を有せざる可からず。然るに其の爲す所を觀れば即ち浮萍泛々として底止する所なく、實に無頓著、無分別の極と謂ふべし。一念茲に至れば浩歎の情禁ぜんと欲して禁ずる能はず、抑へんと欲して抑ふる能はざるなり。噫、絶大の事業は須らく絶大の偉人をまつ。輕々浮漂の國民將又何の恃む所、何の望む所かあらん。滿天下の少年諸君よ。諸君も亦是れ未來神州の組織者なり。知らず其の決心覺悟果して如何。
 草し終つて一讀すれば行文澁滯殆ど誦するに堪へざるものあり。讀者幸に拙なるを咎めず寸意の存する所をくまば幸甚。
            (明治二十六年十月「少年文庫」第十卷第三號)
 
(12)  鬼ケ森の怪物
 
 去年の夏の事なりし。或る夜余は所用ありて、一里許り隔りたる隣村に行き、歸逸鬼ケ森と云へる名のみだに恐しき木下道にかかりぬ。時に日は已に西山に落ちて四邊暗黒、往々にして道を失ふ。颯と吹き來る一陣の凄風、胸のあたりを嘗められつつ、最と物凄しと喞ちつつ、フト見れば思ひきや、余が眼前三四間の處に、怪しの白物模糊として現れ居らんとは。アツト叫んで逃げ出さんとせしが、流石に思ひ留まりて路傍にかがみ、能々見るに、怪物は漸次余が方に向つてねり來るに似たり。其の状圓なるかと見れば又然らざる如く、左するかと見れば又右するが如く、今は早余が前方二間許りの處迄進み來りぬ。走らんか、彼已に近づけるを如何。叫ばんか、人里離隔せるを如何せん。これまでなりと心を定め死地に陷れる兵ならねど、忽ち余は絶望の勇氣を振ひ起したり。震へる足を蹈みしめて、兩手に滿身の力を込め、氣相《きつそう》變へて身構へし、ヤーと叫んで怪物に飛びかかりぬ。怪物は正しく我が手に觸れたりと思ふ瞬間、彼は驚嘆の聲たかく、
(13) 盗賊――ツ、……人殺――ツ……
 事情分れば偖も可笑や、彼の白衣の怪物と言へるは、世に恐しき化け物ならで、隣村の繭賣商人が首に縛り附けて背負ひゐる繭袋(繭袋は皆白衣にて造るものなり)にして、彼も今宵同じく此の闇路に通り懸りて、餘りの暗さに恐入りて、四つ匍ひになつて四邊に道を求めつつありける所なりしと。
 雙方の事情分り來りし其の果は大笑となりてすみけるが、己が心のひがみより、罪もなき繭袋に飛び附きしのみかは、他人の膽を潰せしこと、かへすがへすも氣の毒なることなりき。
 あはれ世の少年諸者よ。己が心正しからねば、正しき人の心迄|邪《まが》りて見ゆるものぞかし。
           (明治二十六年十二月「少年文庫」第十卷第五號)
 
(14) 我校弊ヲ論ジテ同人諸士ニ訴フ
 
  短所ノ暴路ト進歩
  我校ニ對スル研究ヲ起セ
  主張ナキ親密ト腐敗
  研究心
  五時間ノ授業ト疑問
  職員會ノ寂寥
  社會ニ對スル交際
  學校ノ威嚴
  殊ニ枚長ニ望ム
  生徒ニ對シテ
(15)  絶對的威嚴ト眞正ナル從順親密
  一時的從順ト「意氣地ナシ」
  未來ノ希望ヨリ生ミ來ル活動ト現在的活動、即チ卒業後ニ生クル教育ト、在学中丈ケノ教育
  盛大ナル野球ハ學校ノ外觀ヲ衒フ爲メニ非ズ 以上
 誰カ今日ニ方リテ猥リニ平地ノ波瀾ヲ好ムモノアランヤ。而モ余ガ今ヤ忍ブ可カラザルノ情ヲ忍ンデ、斷然苦言ヲ我誌上ニ呈スル所以ノモノハ何ゾヤ。實ニ黙ス可カラザルノ必要アルヲ信ズレバナリ。
嗚呼世事悠々人ト物ト共ニ推移ス。倥※[人偏+聰の旁]タル日月ハ一分一時毎ニ過去ノ歴史ヲ殘シテ、永久ニ奔馳シツツアルナリ。此ノ時ニ當リ沈思熟想徐ロニ我儕過去ノ經過ヲ囘想シテ、庶幾クバ未來我校ノ進路ニ一點ノ警戒ヲ得ルアリトセバ、コレ豈焉ゾ吾人日進ノ策ニ裨益スル所ナシト云ハンヤ。蓋シ自己ノ短所ヲ蔽ウテ、可成其ノ身邊ノ美ヲ衒ハントスルハ、人情ノ傾キ易キ所ナリト雖モ、而モ畢竟 孑々タル小人者流ノ心事ニ屬セザル可カラズ。自己ノ短所ハ自己ノ短所ニテ詮方ナケレバ、只遠慮ナク他ノ面前ニヒロゲテ、速カニコレガ改善ノ策ヲ講ズ可キノミ。今日教育者ノ猥リニ形容ノ美ヲ逐ヒテ、虚僞逡々タエテ進捗ノ實ヲ示サザルモノ、全クコノ胸襟ノ狹隘ニシテ、度量ノ豆小ナルニ坐セズンバ非ズ。短所ヲ暴露セヨ。暴露セヨ。何ゾ自ラ進ンデ自己ノ短所ヲ研究スルニ勗メザル。要ハ只改善セントスル男氣ト至誠トノ如何ヲ問ハンノミ。余ハココニ有ノ儘ニ我校ノ弊所ヲ解剖シテ、我黨諸士ノ赤心ニ(16)訴ヘントス。
 我校ハ由來職員間ノ親密和合ヲ以テ稱セラレ、職員自身モ亦ココヲ以テ任ズル所アルモノノ如シ。コレ寔ニ慶賀ス可キノ事タルト同時ニ、吾人ハ一面ニ大ニ警成ス可キノ一事アルヲ思フ者ナリ。夫レ主張ナキノ親密ハ、常ニ一種ノ腐敗ト相伴フノ事實ヲ存ス。蓋シ親密ナルモノハ、各教育者ガ各自ノ主義ノ上ニ立テ相始終スルニ於テ美徳ナリ。教育上ニ於ケル親密ナル用語ハ、決シテ一點其ノ他ノ意味ヲ舍有スル事ヲ許サズ。若シ一歩ニテモ自家ノ立脚タル主義ノ範圍ヲ脱シ、相率ヰテ滔々主張ナキノ流弊ニ陷ルアランニハ、其ノ親密ヤココニ全ク團體ノ腐敗ヲ意味シ來ラムノミ。故ニ吾人ハ親密ナル語ニ對シテ、決シテ無事平穩ヲ想像スル事能ハザルナリ。親密ノ極ハ大活動ナリ。大活動ノ極ハ大親密ナリ。平穩ト無事トハ親密ノ擬體ナリ。無事ハ必ズ腐敗ヲ喚ビ、腐敗ハ往々親密ノ擬而ヲ蒙ル。嗚呼余ハ自ラ白状ス。余ハアマリニ「流レスギタリ」ト、而シテ更ニ絶叫ス。我校ノ校風モ亦大ニココニ傾クアラムトスト。嗚呼吾人ハ果シテ今日誠心我意ヲ捧ゲテ斯道ノ爲ニ盡シツツアルカ。一日五時間ノ授業ハ其ノ教場ニ於テ、共ノ校庭ニ於テ、續々トシテ疑問ヲ吾人ノ面前ニ供シツツアルニ非ズヤ。而シテ職員會ノ議論ハ、何ゾコレニ對シテ寂々寥々タルヤ。將又教師間相互ノ談話ハ何ゾコレニ對シテ、單純ニシテ一律ナルヤ。借間ス。吾人ハ現今日々兒童ノ實際ニ向ツテ教授上、訓練上、幾何ノ研究ヲナシ、幾何ノ疑問ヲ有シ、將又幾何ノ抱負ヲ有シツツアルカ。議論アル可シ。議論アルベシ。(17)侃々諤々ノ論ナクンバ、一校ノ士風ハ相率ヰテグヅグヅノ極ニ奔馳セムノミ。主義ノ上ニ戰ヒ、主義ノ上ニ和ス。コレ豈ニ神聖率直ナル親密ノ骨髓ニ非ズヤ。何ゾ其間ニコセコセタル小感情ヲ夾ムヲ須ヒン。誠ノ手ニ劔アリ。而モ其ノ劔ヤ「一劔天ニ在テ凄ジ」キ者タルヲ知レ。
 吾人ハココニ擬體的親密ヲ名ケテ、假ニ俗交際的親密ト云ハム。コノ俗交際的親密ハ今日或ル意味ニ於テ、教育者ガ社會民人ニ對スル一種ノ交際術トナリテ、變形應用セラレ、滔々トシテ教育者ノ品位ヲ俗世界ノ上ニ卑メツツアルハ、今日一般教育社會ノ現象トシテ認ムル書ナリ。吾人ハ素ヨリ教育者ニ對シテ、民俗以外ニ超脱セヨト勸ムル者ニ非ズ。併シ乍ラ若シ夫レ是ニヨリテ教育者ガ社會ノ指導者タリ、先覺者タル事ヲ忘却シ去リテ、同時ニ自己ノ立脚ヲ是等俗社會ノ裡面ニ没却シ去ルニ至テハ、教育ノ事豈復タ言フニ忍ビムヤ。吾人ハ此ノ點ニ於テコトニ校長其ノ人ニ、今後ノ希望ヲ矚セザル可カラズ。如何トナレバ學校ノ威嚴ナル者ハ、其ノ責第一ニ枚長其ノ人ニ存スル大ナルヲ思ヘバナリ。見ヨ世間教育者ガ其ノ頭ヲ町村吏員ノ前ニ垂レ、腰ヲ俗界民衆ノ間ニ屈シテ、敢テ顧ミザルノ醜態ヲ。斯クテ教育ハ人民ニ對スル通俗平易テフ旗幟ニ隱レ、比々トシテ威嚴ヲ彼等ノ間ニ損ジツツアルノ極、彼等ヲシテ教育者ヨリモ巡査ヲ畏レ、官吏ヨリモ教育者ヲ輕ズルノ現状ヲ來サシムルモノ、畢竟教育者自身ノ罪状ニ歸セザル可カラズ。何事ニ限ラズ、自信ハ常ニ強大ナル勇氣ト相俟テハジメテ決行セラル。教育者ニシテ若シ自己ノ位置ニ氣ヲ揉ミチ、囘顧躊躇定見ナク主張ナク阿附雷同、遂(18)ニ何等ノ爲ス所ナキガ如クンバ、教育ノ事最早論ズルノ價値ナカル可キナリ。外界ニ對スル吾人ノ用意概ネ斯ノ如クナル可キノミ。然レ共吾人ハコレヨリモ猶目下焦眉ノ急ニシテ、我校ノ現状ニ對シ、大々的警成ヲ加フ可キノ一事アルヲ信ズルナリ。借問ス。我校ノ教師、即チ我々ハ果シテ生徒ニ對シテ絶對的威嚴ヲ保有シツツアルカ。換言スレバ我校ノ生徒ハ果シテ教師ニ對シテ、絶對的從順ヲ有シツツアルカ。嗚呼、威嚴ナキノ教育ハ果シテ眞正ノ從順ナシ。眞正ノ從順ナキ教育ハ、團ジテ眞正ノ親愛ナシ。眞正ノ親愛ナキ教育、遂ニ何等ノ教育的感化ヲカ成サントスル。夫レ威嚴ノ反面ハ從順ナリ。從順ノ反面ハ即チ親密ナリ。威嚴、從順、親密トイフモ畢竟同質異形ニシテ、三者一ニシテ三、三ニシテ一、モシ三者其ノ一ヲ缺ケバ即チ兩者總テコレ僞ナル可キノミ。而モコノ三者モ亦只教育上ノ重要方便タルニ止リテ、決シテ教育終極ノ目的物ニアラズトセバ、教育ノ法豈戒心ニ戒心ヲ加ヘ、恐懼ニ恐懼ヲ加ヘズシテ可ナラムヤ。嗚呼、我校ノ生徒ハ何ゾ輕薄浮萍ナルヤ。又何ゾ其ノ氣風ノ常ニ輕佻ニシテ雷同的ナルヤ。活溌溌地抑ヘテ抑フ可カラザル底ノ自發活動ハ、吾人今日迄一囘モ眼ニシタル事ナキヲ奈何。彼等ハ飽迄モグヅグヅ的、現在的、流行的、雷同的ニシテ、タエテ一點ノ希望ヲ存セズ。一點ノ意氣地ヲ存セズ。コノ故ニ往々似而非的親密ヲ、教師ト生徒トノ間ニ現ズルヲ見ルト雖モ、教育上ヨリ觀察シテ何等ノ價値ヲ存セズ。見ヨ我校ノ生徒教師間ノ親密ガ、其ノ根柢イカニ薄弱ニシテ輕佻ナルカヲ。事實ノ證明ハ著々トシテ爭フ可カラザルノ例證ヲ吾人ニ示シツツアリ。蓋(19)シ未來ニ生キザルノ教育ハ、其ノ外觀如何ニ美ヲ呈スト雖モ、到底死物タルヲ免レズ。小學ノ卒業ハ即チ社會ヘノ入學ナリトセバ、卒業其ノ物ハ決シテ生徒ノ目的ニアラズ。況ヤ八箇年間ノ在學中ヲヤ。故ニ若シ生徒ノ活動ガ、卒業ノ曉ニ至ル迄遂ニ現在的タルヲ免レズンバ、彼等ハツマリ社會ニ於ケル死物タルノミ。嗚呼、滔々タル年々ノ卒業生、果シテヨク卒業後ニ生キテ其ノ活動ヲ持續セントスルモノ幾何ゾヤ。見ヨ、彼等ノ卒業ハ同時ニ學校ニ對スル路傍者タルノ平常ナル事ヲ。盛大ナル野球ノ奨勵ハ、決シテ學校ノ外觀ヲ衒フタメノ玩具ニ非ズ。斯ノ如キハ只學校訓錬ノ一方便タルニ過ギザル者ナレバ、他ノ大ナル精神的訓練ト相須ツテハジメテ其ノ價値ヲ生ジ來ルモノトス。然ラズンバ焉ゾ彼ノ見世物師ノ輕藝ト擇ブ所アラン。凡ソ事ハ要領ヲ得ルヲ貴シトナス。要領ヲ得ザルノ事ハ其ノ形容相似タリト雖モ、其ノ物必ズ非ナリ。天下濟フ可カラザルモノ、豈、似而非ヨリ大ナルモノアラムヤ。
 是ヲ要スルニ我校ハ猶實ニ幾多ノ研究ヲ要ス可キモノアリ。吾人ハコノ種ノ研究ノ續々相互間ニ行ハレン事ヲ希望ス。吾人已ニコノ言ヲナセリ。當ニ甘ジテ大方ノ苦言ヲ聞カン。
 男兒ノ胸襟光風霽月ノミ。又何ゾクヨクヨトコセコセトヲ須ヒムヤ。(長野縣池田町會染小學校)
               (明治三十二年十月「小天地」第三號)
 
(20)     村勢調査
 
      緒言
一、小學校ハ國民養成場デアル。即チ國民トシテ、最モ完全ナル人物ヲ養成スル所デアル。抑々今日ニ於ケル國家ノ單位ハ町村デ、町村ハ國家ニ於ケル唯一ノ自治體デアル。町村民トシテ、最モ健全ナル人民ハ、即チ國民トシテ最モ健全ナル國民デアル。小學校ニ於テハ、一般國家的觀念ヲ兒童ニ授ケルト同時ニ、所住町村ナルモノノ觀念ヲ充分ニ授ケネバナラヌ。
一、顧ミテ我國ニ於ケル町村自治ノ現状ヲ視レバ、實ニ幼稚樋ツテ居ル。人民ハ部落ノ小利以外ニ其ノ眼光ヲ放ツコトガ出來ヌ。議員デサヘ、多クハ其ノ例デアル。村吏、議員等ノ選擧ニ至ツテハ、百弊四出、殆ド拾收ス可カラザル状態デアル。
昨年ノ徴兵體格檢査ヲ行ツタ際、其ノ郡デ各壯丁ニ就キ、其ノ所住町村名ヲ問ヒタルニ、十中ノ八九ハ正當ナル答ガ出來ナイデ、多クハ部落ノ名ヲ以テ答ヘタトイフ事デアル。又以テ今日ノ人民ガ如何(21)ニ町村ナル自治團體ニ對シテ幼稚ナル考ヘヲ持ツテ居ルカガ分ル。
一、小學校ニ於テハ國民教科トシテ町村自治制ノ大體ヲ授ケルト共ニ更ニ自己所屬ノ町村ニ於ケル實際ノ智識ヲ授ケル必要ガアルト思フ。
一、コノ帳簿ハ、高等科初學年ニ授ク可キ郷土誌ノ部分ヲ除イテ、尋常科四學年及ビ高等科終リノ學年ニ授ク可キ材料ヲ蒐集シタノデアル。
    明治三十五年四月二十日
      目録
一、戸數、人口、反別、地價
二、農工商
三、會社及ビ主要工場
四、勸業
五、經濟
 (一)村民所有地價 一戸平均 (二)村費豫算 (三)生産 (四)輸出入
六、村治
七、教育
(22) (一)小學校 (二)青年會 (三)婦人會 (四)中等教育以上ノ學校在籍者
八、風俗
 (一)美點 (二)缺點
 〔編者曰〕 本稿ハ内容詳密ヲ極メ當時ノ玉川村勢ヲ知ルニ至要ノ研究ナルモ、本卷ニハソノ緒言ノミヲ採録セリ。
 (明治三十五年四月「長野縣諏訪郡玉川村」)
 
(23)  父兄懇話會
 
      出稼に關する調査(工女は省く)
種類 人數 期限 一家經濟に及ぼす關係(收入等)
發達盛衰の歴史概略(如何なる種類? 凡その人數等)
 一、粟澤區 二十年前東京へ海苔輕子に出たが今なし
 一、菊澤 美濃方面。一人 東京府方面。一人(輕子)
 一、神の原 四五十年前海苔出稼盛大
       唱歌種類
〇全體 「玉川村歌」「箱根山」「浦島太郎」「おんま」「花咲爺」
〇尋常科 「降れや/\」「蟻とせみ」尋一、二「鳩ぽつぽ」
〇高女 「信濃春秋」「徳川家康」「子守歌」「蟲の樂隊」
(24)〇高四補
〇高三男 「寄宿舍の古釣瓶」
       父兄懇話會談話要項
一、訓練に就て
 一、各自の自治
 幼年生にありては、著物をきる、帶をしめる、學習具を始末する。上級生にありては、自分の物の整理、我が座敷の掃除、男子草履造り、女子髪結び、辨當ごしらへ等、凡て自分の身邊の事はやらせる。
 二、共同自治
同級會、上級會の状況、組合會を三十七年一月より設ける(自治の完成)
 三、共同演習
修學放行高等三年以上高崎、伊勢崎行兒童六十四人(補習六、四年二五、三年三三)の中旅行せし者四十四人(補習六、四年二二、三年一六)
 高等一二年及び女生は甲府行一二年兒童六十六人(内一年三七、二年二九)中族行者五十六人
(一年三一、二年二五)缺席者十人、女子二十五人中出席者僅々十人、缺席者多きは遺憾也。殊に(25)女子には見聞の必要最も多いのだ。
 尋常科四學年諏訪湖一周兒童數八十七人中旅行者六十九人(缺席十八人中本校六人中澤十二人)
 夜行軍春季の俎原は成績よく、秋季の巌温泉行は各學年共缺席あり。女子は最も不成績で二十五人中僅かに四五人のみなりし故引率見合せにした。冬期に入れば男子の雪中行軍等あり、共同演習の好方法としてやらせるのであるからして必ず缺席させぬやうに望む。野田原のも敷地のも運動會は好成績、父兄は愛兒の爲めには一日や二日を惜まず參観あれ!
二、勤勞貯蓄
 一、學校でやる勤勞は掃除、障子貼、華園の整理(本年設)、運動會其他の時の勞役、(更に上級生)
 二、家庭に於ける日常手傳、農事養蠶等の手傳、農事休暇に於ける實習(小學令の高等科加設科、農商又は手工)
 三、買喰其他の冗費を省き貯金をやらせる。修學旅行費等を貯金の中より支辨させる(自治心)。旅行費を一年間に積む。附、貯金比較表(別紙に在り)
 四、兒童の學校寄附金、必ず兒童自身で働いて得るものたれ。.
 三十四年寄附二〇、二〇〇厘
 三十五年寄附四二、〇六四
(26) 三十六年寄附五一、九九〇 内譯【地梨五、〇〇 蝗一二、三〇〇 夏繭一七、一九〇 秋繭一七、五〇〇】
之に村費剰餘を編入して現時二四二、二七七也
 〇曩に毎戸平均一錢ゾツ毎月寄附の事を区長會議にかけ賛成を求めし際、一戸平均十錢年一囘に寄附する方簡便なれば此の法によらんとの事で各區に謀る事になりをるが、二三區の外は未だ成立たず大に遺憾なり。父兄諸君の率先賛成あらん事を切に望みまゐらす。
三、學習上に就て
 一、尋常三年以上殊に高等科兒童には家庭に於て必ず下讀をやらせる事。〇字引又は畫字引を用ひさせるやうに
 二、諸科の復習、殊に家庭でやり易きは書取、摘字、細字練習等
 三、日記、周圍の寫生文、實地の往復文等を課す
 四、新聞、雜誌、家庭小説等を讀ませる、又は讀んで聞かせる、但し選擇に十分の注意を拂ふべし。
 △兒童教育、活兒童、時事新報社の兒童雜誌、内外出版協會のもの等
四、注意雜件
 一、就學の歩合
 尋常科男百七十人女百五十七人計三百二十七人 就學歩合男九九、四〇 女九八、九八【男女合計九九、二〇 本郡第八位】
(27) 高等科は尋常科に對比して、男百二十七人女二十五人合計百五十二人故に尋常に對して二分の一に達せず
 高等科女子は高等科百五十二人中僅かに二十五人 即ち約六分の一(普通四分の一位)尋常科女子百五十七に対して約六分の一
 二、缺席、遲参、早歸等、村の休日に缺席させぬ習慣、甘酒祭樣のものは可成日曜日祝祭日等にやる事にしたい
(附)三十五年度皆勤及び精勤(缺席 日以内)四百七十五人中皆勤百六十四人精勤二百十八人(五日以内缺席)
 三、家庭又は社會に於ける風儀
 〇朝夕の禮、他人に對する挨拶、日常の作法等凡て奬勵的、歡迎的態度を執る、強迫は無益有害である
 〇卑猥の俗謠、談話、動作、遊戯は禁制する事
 〇又それ等に接近せしめぬ事 無責任に大人が兒童にカラカフは最も惡き癖である
 四、學習用具の供給
 筆墨は可成よきを撰ぶ、石盤には必すフチある事上級生には石盤の代りに紙又は手帳を持たせる
(28) 五、服装の輕便。女子にも筒袖或は改良服
 六、正月休等には有益無害の遊を奬勵する、運動、唱歌、談話會、書畫會、講讀會、智慧競べ的遊戯、軍人將棋
 七、年内行事
  天神祭、灯祭等の飾物(共同心、勤勞)道祖神祭、正月の小屋掛(弊害のある點を改良し、共同自治の氣風を發達させる)
五、學校家庭間
 通知簿の利用、学校に對する要求、家庭よりの通信を充分にする、授業の參觀、同級會等の參觀、児童の精勤學習等の奬勵
六、學校以外の事業
 一、夜學會頗る不振、三十五年度の状況
 中澤、山田、田道、御作田、多きは二十五人少きは七八人平均十二三人成績稍佳
 穴山、菊澤、多きは二十五人少きは十二三人數囘で解散
 子之神、北久保、終始十二三人の定員成績佳良
 神之原、多きは十五六人少きは五六人
(29) 粟澤、多きは十五六人少き時は十人内外
 ○本年度は一月より神之原學校に於て夜學に代るに半日學校を開きたい、午後一時より四時まで三時間國語算術其他講演(教科書は成立の後定む)出席者の多少如何
 二、裁縫講習會(修、國、算、家政談)神之原會場四十九人、中澤會場四十一人、計九十人成績佳良の方 尚來一月より開始の都合である
 三、其他青年會婦人會同窓會等凡て児童退學後に於ける修養を補ふに有益である。△婦人會十九日
 中澤校で(東部四區)二十日神之原校で(西部五區)何れも午前九時より午後三時迄講演
 四、卒業後尚修學させる場合には目的を確定する事
 △現時本村出身學生は、中學に十四人長野上田東京等に七人合計二十一人である。なるべく實業學校を可とす、縣下には長野商業、松本戊戌商業、上田蠶業、伊那農学校、木曾山林、近縣では伊勢崎染織、桐生織染等尤可
       備考
一、各國富力の比較(人口一に対して)
  英、二、三一八圓、佛、二、二三三圓、獨、一、二三一圓、露、四七九圓、米、二、〇四八圓、日本、二五〇圓
(30)二、貯金比較(人口一に對して)
  英、四二《円》、七〇 佛、四四《円》、三五 獨、七八、〇〇 露、五《円》、〇六 米、六《円》九、七〇 日本、一《円》、一五(明治三十二年)
 長野縣、、《円》六五(全國二十六位)東京府、三《円》、四九七 愛知縣、二《円》、三五 大阪府、四《円》、八九  
      (明治三十六年十二月「長野縣諏訪郡玉川村神之原分教場」)
 
(31)  研究録
 
   復習心得
     (一) 心理的分類
一、記憶ヲ主トスルモノ
二、推理ヲ主トスルモノ
三、熟達ヲ主トスルモノ
四、應用ヲ主トスルモノ
     一、記憶ヲ主トスルモノ
〇反覆ヲ要トス。(埋窟ナシニ只反覆スベシ)
〇一時ニ頻繁ナランヨリ、永久ニ屡々ナルヲヨシトス。(此ノ點ヨリ見テ毎學期未二週間ノ復習ヲ以テ滿足スベキニアラズ。其ノ他ニ折々反覆的復習ヲ施スノ要アルヲ知ルベシ)
(32) 各學科ニ就キテイヘバ大略左ノ如シ
一、修身科 教科書記載事項ノ反覆。其他教授事項ノ反覆
二、國語科 ヽ讀方中 素讃意義ノ反覆。文法、修辞ノ反覆。書取ノ反覆(國語復習中大切ナル部分ナリ)、綴方 模範文ノ反覆ソノ他
三、算術科 定義、約束的事項(メートル法、圓周率、求積法ノ如キモノヲ指ス)等ノ反覆
四、地理科 教科書其他教授事項ノ反覆。描圖反覆。摘要表ノ製作
五、歴史科 教科書其他教授事項ノ反覆。摘要表ノ製作
六、理科  教科書其他教授事項ノ反覆。實物研究(特ニ博物)摘要表製作
     二、推理ヲ主トスルモノ【基本的理解ニ主力ヲ注グベシ
             屡々ノ不斷ノ接觸】
一、國語科 讀方 讀本中ノ或ル課ニツキ摘要表ヲ作ラシムル如シ(抽象)大意、演述
二、算術科 各階段ノ推理作用。ソノ應用
三、地理科 自然地理ト人文地理トノ交渉
四、歴史科 人類活動ノ推移。興敗隆汚ノ因果
五、理科  自然物ト人生トノ關係。動植物ノ共存其他。物理化学ノ推理的部分及ビ應用
     三、熟達ヲ主於スルモノ
(33)一、修身科 作法ノ熟達
二、國語科 書方ノ熟達
三、算術科 運算ノ熟達。度量衡ノ實地經驗
四、唱歌科 體操科 圖畫科 手工科 裁縫科
     四、應用ヲ主トスルモノ(觀念聯合ノ練習ヲ主トスルモノ)
一、國語 科讀方中讀本ニ於ケル難字句ノ應用。綴方中模範文ノ應用
一、算術科 
一、地理科 
一、理科 
     〔二〕 各科ノ復習
一、修身科 ヽ記憶ヲ主トスルモノ ヽ熟達ヲ主トスルモノ==作法
二、國語科 ヽ素讀、意義ノ演述、及ビ書取練習。大部分 ヽ推理ヲ主トスルモノ。説明文的ノ課ヲ撰ビ、文章ノ構成、摘要表ヲ作ラシム。各科ノ大意演述ハ尋五(?)以上、課毎之ヲ行ヒ以下適宜。、應用ヲ主トスルモノ。難字句ノ應用。(記憶的ノモノ一通リ通過ノ後ニ課スルヲ通例トス)模範文ノ應用。ヽ讀本各科ニヨリ復習ノ目的ヲ異ニスベシ。(記憶的部分ハ必共通ノコト)摘要ノ課。文法(34)修辭練習ノ課。暗誦ノ課ノ如シ。ヽ特殊課ノ取扱ヲ殊ニ注意スベシ。
三、算術科、記憶的ノ部分。ヽ推理ヲ主トスルモノ。基本的部分ニ力ヲ注グペシ。例、尋一、イチニト一ツ二ットノ連合。尋二ノ十ノ分解練習。尋三四五六高一二ノ百ノ分解練習。尋二三四五六高一二ノ除法累減等分ノ區別。尋二三四、九々ノ意義。尋六高一二ノ分數四則。高一二ノ比ノ意義。高二ノ比例ノ意義。高一二ノ小數四則(終リ三項簡易ナル數ニツキ行フベシ)。ソノ他ノ應用問題。ヽ熟達ヲ主トスルモノ。運算練習、基本部分ニ力ヲ注グベシ。例、尋三加減乘除、一位乃至二位ノモノ。尋四同上。尋五以上同上。尋四小數ノ分ノ四則練習。尋五小數ノ分ノ四則練習。尋六高一二分數四則練習。高一二小數四則練習(終リ二項簡易ナル數ニテ取扱フ)
四、地理科、記憶ヲ主トスルモノ。教科書反覆。描圖反覆。級ニヨリテハ主トスルモノヲ選ブベシ。ヽ推理ヲ主トスルモノ。自然地理ト人文地理トノ交渉。五、歴史科、記憶ヲ主トスルモノ。教科書反覆。摘要表。ヽ推理ヲ主トスルモノ。因果。推移。(高一二ヲ主トス)
六、理科、記憶ヲ主トスルモノ。教科書反覆。實地研究。摘要表製作。ヽ推理ヲ主トスルモノ。物理化學ノ推理ヲ主トスルモノ。實物應用、自然現象其他ノ説明。自然ト人生。共生團體ノ理法。ヽ基本的材料ニ力ヲ用フベシ。例、植物、動物、地質、物理化學、合力、電流、感應。
(35)○宿題 第一期末理科算術復習中基本材料トシテ取扱ヒシモノヲ書出スベシ。
〔三〕 復習方法
一、教条簿ニ必復習案ヲ立ツベシ。
二、手段ニ變化アルベシ。
三、基本的材料ハ特ニ各方面ヨリ縱横ニ反覆スベシ。
四、家庭復習ヲ課スルハ秋季以後ナルベシ。
 〇宿題、復習方法トシテ比較的結果ノ面白カリシモノヲ書出ス事。
五、體操、圖畫、裁縫、唱歌ノ如キモノ、復習スベキモノアラバ格別、然ラザレバズン/\進行スベシ。(定期復習ニツキテ)
     〔四〕 ソノ他協譲事項
缺席生ノ件(督促ノ件)生徒内遊ビノ件 研究題ノ件 教育會講習會ノ件 教科書訂正ノ件
 〔編者曰〕本稿ニハナホ「算術科基礎的練智」案三枚半附記シアレド省略セリ。
              (明治三十七年四月「長野縣諏訪郡高島小學校」)
 
(36) 彙報
 
一、寒中休一月二十七日より二月六日迄。
一、田村君甲府に歸る。
一、太田黄疸とかにて休校。少しはよし。角間町に臥て居る。
一、平林風邪にて休校。もう大によし。
一、氷とけ辷りに危險となれり。例より暖。
一、柳田專吾君上高井郡川田學校に轉ず。後任小林岩吉君。(一月二十六日夜)
 
     明治四十年の豫想
「明治三十九年」は手長猿の誰に聞いても評判が惡い。どうも八方塞りであつたらしい。金を溜める積りだつたが、溜らなんだと云ふ猿がある。こんなのは平々凡々の八方塞りと云ふべきで、猿の分際(37)で金溜などとは考へが輕卒だと笑つてる猿もある。笑つてる猿が借金でさつぱり首が廻らぬさうだ。首の廻らぬ位は矢張り平凡である。首を廻さぬより寧ろ眼や猴智惠を廻さぬ方が賢い。この猿は近來は盛に借金を振り廻してるさうなが、猿の淺ましさで未だ悟れないのだから仕方がない。その外八方塞りが幾通りもある。腦充血で肛門の塞つたのもある。鼻贅骨とやらで切解して醫者に鼻の孔へつめをかはれたと云ふ塞がり方もある。上諏訪の旅宿にみんな斷られて、どこへも這入れなんで湖水ばたの場末町へ落著いたと云ふ塞がり方もある。豐田へ泊つたり、下諏訪方面へ泊つたり、鹽尻峠下あたりへ飛んでつたり、いつでも「お宿はどこだ」とからかはれてゐる塞がり方もある。丸で舌切雀のやうなものだ。發句屋は雀が化して蛤とか云ふ貝になると主張してゐるから、猿が化して雀になつたつて不都合はない筈である。塞がり方といふ塞がり方を一々羅列したら際限ないものになる。只舌と云ふ事を書いた序に、舌に關係した事を一寸書き添へたい。去年の八月まで手長の森に棲んだのに、馬鹿と舌の長い猿が居た。舌の長い代りに背は高くなかつた。背が高くないから人の視線を惹かぬ。その代り馬鹿と人の聽線を惹く猿だ。舌が長くて中々しやべるからでゐる。言語學者の説明によれば、しやべると云ふのは思想發表の一機關で、この原則は人間以外、猿以外の禽獣にまで及ぶものださうな。この原則を正常であるとすれば、夕方裏の竹薮に集まる雀は、隨分豐富な思想を持つてるものと見える。井戸ばたに集つてる下女輩は思想に於て、大隈伯より多方面であるかも知れぬ。併し雀や下(38)女は、我輩に干係ない種族だから構はぬ。話は舌長猿に戻る。舌長猿のしやべる所について我輩の調査した所によると、舌長猿のしやべる多くは、我輩手長猿族に対して甚だ惡口を叩いて居る。時によると我輩猿族を勘違へて「蛸」などと呼ぶ事がある。我輩はこれでも有骨黨若くは硬骨黨と心得てゐる連中だ。
 蛸の如き軟體動物とは違ふ。兎に角この猿は惡口に於で、思想言語共我黨の同輩を凌駕してゐる。惡口の思想言語など、いくら凌駕しても我輩は構はぬ。雀の竹薮と、下女の井戸を構はぬと同樣である。處がこの猿はあまり口にまかせて「蛸」「蛸」を續けてゐるうちにとうとう舌の根を爛らして仕舞つた。いくら長くても舌の根が命令に從はねば、しやべる譯に行かぬ。そこで先生思切つて、人間社會の醫者と云ふものへ治療依頼に及んだ。猿が人間に頼むなんて不見識なものだと云つたら、尻の毛が一本とか三本とか足りないから、人間に從はねばならぬと説明した猿がある。尻の毛と舌の根とは違ふ。尻の毛が足りなくて、人間に舌の根を頼むなんて、借金で首の筋が釣るよりもをかしい。兎に角舌長猿は斯んな調子で今では手長の巣に居らぬ。居なんで見ると矢張り淋しい。聞き馴れた惡口が聞かれぬので淋しい。「蛸」「蛸」を云はぬので淋しい。借金猿に聞いても淋しいと云つた。湖ばた猿に聞いても淋しいと云つた。色黒猿も同樣だと云つた。舌切雀の猿も同樣だと云つた。斯く申す肛門づまりの(但し今はあいてる)猿も甚だ淋しい。して見ると惡口と云ふものは、我輩猿族に必要な(39)ものに相違ない。必要なものなら惡口練習會でも開くがよいと云ふ猿がある。御尤もの説だと思ふ。それにしても早々舌長猿が全治して歸つて來ればよい。借金猿も待つてると云つた。色黒猿は待切れぬと云つた。その他の猿も同意見だと云つた。
 以上は明治三十九年の八方塞がりの一例でめる。八方塞がりには誰も閉口だと云つてる。その代り「明治四十年」は八方開きだと喜んでゐる。舌長猿も八方開きの仲間入をするが宜しいと思ふ。出來るものなら我輩と雖も、仲間入たるに於て人後に落ちぬ積りだ。併しいくら八方開きだと云つた所が、猿の開き方位知れたものだ。我輩の豫想によると、本年度手長猿の大活動は大抵次のもの位であるらしい。(思はず長く書いた。もうやめる。序文の方が長くなつた。)
一、岩垂校長 六月十五日大鮒を食ひ、とげが咽にからんで松村から診て貰ふ。但そのため一時間登校遲る。
一、五味先生 龜の湯の前にて下駄の齒を缺き、轉んですねをむく。但袴に泥つき職員室の火鉢にて乾す。
一、今新 巴屋の歸りに豐田と間違つて隣の家に入り叱らる。
一、平榮 子供を抱いて角間の天神へ行き歸途眼鏡を失くす。
一、太田 紀元節大口にて詩吟、顋を外し直ぐ懸る。
(40)一、武井(伊) 汽車に教案を忘れ、忘れた事をも忘れて職員室中探す。教あ八王子迄行つて戻る。
一、田中 植物採集に行き歸らず。大騒ぎとなり所々探索、西餅屋にて發見。一、笹岡 小倉のだるま服を新調、尻の所つまり歩行困難。但當分忍耐の事。一、小泉 南屋より栗まんぢゆう小包にて贈呈。但し代金引換便。
一、平澤 豐田を追拂はる。但當分梯子段下の宿直室詰たる事。湖水調査を怠り赤麿樣に叱らる。
一、田村 和泉町百七十五番地、兵火大急ぎで歸宅。但百七十一番地無事につき、二三日逗留の事。
一、武居 袴へ墨をこぼし妻君に叱らる。
一、久保田 フロツク新調。但靴は昨年十月新調。
一、三村斧さ 禁菓廣告を諏訪新聞に出す。八月白骨行。
                  (明治四十年一月)
 
(41) 動物性と人間性
 
 人は萬物の靈であると共に一種の動物でゐる。斯の故に人間は理想として神を想像する。
 理想の神は平和を好む。併し人間は爭闘をする。國家の間に戰爭がある。萬人の上に生存競爭がある。將軍は兵士に對して人を屠れ、屠れと教へ、教育者は人の子に對して生存競爭に勝て、勝てと教へる。人間は「人は動物なり」といふ根本義に於て神と遠ざかる。
 教育はこの動物性を備へた人間なる一種族を陶冶する所の一の方法である事を考ふれば、吾人は動物性を無視した教育は、少くも現在の人間に對する教育として失敗である事を斷言する。人間の意義を二分して假に肉體と精神とに區別すれば肉體は直ちに動物性である。分化の複雜なる、機能の鋭敏なる一種の脊椎動物であるといふ點に於て他種族を凌駕して居る。教育者はこの肉體的動物性の長所を發揮せんが爲に體操を考究する。遊戰其の他の運動法を研究する。乃至學校衛生を考究する。併し、人間に於ける動物性は常に肉體上に認め得るのみならず精神界に於ても同樣に之を認めることが出來(42)る。吾人が云はんと欲するは寧ろ肉體的動物性に非ずして精神的動物性の上にある。
 精神界を假に知、情、意に介ける。
 知を三大期に分けて直觀期、觀念期、思考期とすれば、吾人の所謂知的動物性は主として直觀期に屬する。感覺、知覺は大體に於て發達せる他の動物と共通である。覗覺、聽覺、嗅覺、味覺、觸覺、筋覺、體覺、各鋭鈍確否の差ありと雖も、夫れは程度の問題であるとして、吾人は直觀期を名づけて主として知的動物性の時期と稱する。
 教育に於ける知的動物性の取扱は直觀教授である。直觀教授は被教育者の觀念思考構成の根本であることは、近來の教育理論家、實際家に依つて熱心に認識せられ唱道せらるる所である。特に小學教育初歩の兒童は、知的時期から見て多く直觀期に屬するのであるから、實物教授は最も其の量を豐富にせねばならぬ。此の事は茲に事新しく吾人の喙を容るる必要はない。要するに教育者が被教育者に對する動物性取扱は、如上の肉體的方面、知的方面に於て、今日の教育は兎に角成功の途にあるものといふことが出來る。
 吾人の言はんと欲するは主として是からである。即ち現今一般の教育が肉體的、知的方面に於て盛に動物性取扱を唱道して居乍ら、感情、意志の方面に於て動物性取扱の研究に冷淡なるは、甚だ怪訝に堪へぬことと思ふのである。吾人の言はんと欲する主眼は此の點である。
(43) 感情、意志の問題は一括して訓練問題と稱するを得る。訓練の要義は勿論美姓、徳性の圓滿を期し、趣味を進め良心を高めて、品格を高尚にし善美なる行爲の習慣を養成するにある。斯の如きは吾人の稱して人間性陶冶となすもので、教育者一般の夙に意を凝し、心を潜めて研究に從事しつつある所である。併し乍ら、吾人は訓練方面に於ても體育、知育と同じく人間性の取扱以外に、動物性取扱について顧慮せねばならぬことと信ずる。
 動物性は根本である。人間性は結果の成熟若くは變化である。動物性を離れて人間性なきと同時に、動物性を輕視したる人間性の陶冶は極めて薄弱なものである。
 感情を情緒と情操とに分てば、情緒は大體に於て勒物性にして、情操は人間性であると云ひ得る。情緒の中でも特に主我の情は全く動物性である。即ち恐怖、興奮(【吾人は主我の情中に興奮なる一項を加へたい】)喜悦、悲哀、忿怒、愛情の如き、程度こそ異なれ他動物と雖も確實に之を有して居る。教育の目的は勿論眞善美の高尚なる感情を養成するにある。併し眞善美の情は根柢なくして忽焉として養成されるものでない。此の點に於て今日の教育者は甚しき失敗を演じてゐる。即ち今日の教育者は人間性感情の養成に急なるや、往々甚しく抑壓を動物性感情の上に加へてゐる。特に兒童期に屬する小學校時代の被教育者にありては、自然の發達上動物性感情の高潮なる時代である。動物性感情の旺盛なるはやがて人間性感情の旺盛を來すべき階段である。此の間に立つて教育者の執るべき用意は只指導である。抑壓ではない。(44)矯正である。刈除ではない。思慮ある助長である。角を矯めぬ修正である。古より偉人の兒童期は腕白であつた事を知らば思半に過ぎるだらう。
 兒童を何處までも大人として取扱つたのは古風の教育である。今日に於ては心理學の指導に從つて教授方面に於ては長足の進歩を以て、幼兒を何處までも幼兒として取扱ひ、青年を何處までも青年として取扱ふ。然るに訓練に至つては乳臭の子を捕へて徹頭徹尾成人の道徳のみ強ひてゐる。各小學校に於ける訓練規定を見れば、何れも立派なる徳目の排列である。是必しも惡しくない。只兒童の動物性情意に對する考慮に、一片思ひ及ぼせる者未だ曾つて吾人の耳朶に觸るるなきは、甚だ以て遺憾のことと思ふ。
 感情を意志と離れて考へるは不都合である。吾人は更に意志の領域に進む。 意志は衝動及び慾望の一部を以て動物性とし、執意及び慾望の一部を以て人間性とすることを得る。訓練の目的は勿論善的情操と關聯して人間性意志の習慣を修練するにある。併し兒童期、青年期の被教育者に對して、如何に動物性意志を指導すべきかは慎重に考慮せねばならぬ問題である。克己説や、禁慾説は幼年者に對して早く大人の形式に仕上げようとするには功能がある。併し、その形式は充實せぬ形式である。從つて活動なき形式である。
 大なる道徳的意志は大なる心的慾望から起る。大なる心的慾望は大なる體的慾望から起る。大なる(45)體的慾望は大なる身體上の衝動から起る。肉體の活動沈衰せる兒童に、大なる體的慾望、心的慾望なきは吾人の實驗によりて知り得る所である。斯の如き兒童には往々早く老成の風を帶びて、人間性の形式を帶ぶるに至る事、是亦實例に乏しくない。併し乍ら斯の如き早熟の人間性は極めて薄弱可憐なる者である。充實せぬ活動、充實せぬ形式とは是を云ふのである。吾人は勿論衝動慾望全部の活動を悉く是認し、助長せんとするものではない。修正を要することは人間性意志と雖も同樣である。併し乍ら、修正の反面には助長の工夫の必要なること、是亦人間性意志に対する用意と異ならぬ。此處である。現今の教育者に一考を煩し度いは此處である。動物性意志に修正を加ふることは諸君のよく知る所、而も助長を要するを知るに至つては、理窟は兎に角實際に於て甚だ寂寥の感に堪へぬ。意志は感情と一括して考ふるを便利とする。吾人は更に數例を擧げて此の問題を進める。
 兒童には目的なき、若くは無意識なる興奮がある。之は活力の充實である。その輿奮が衝動となつて、目的なしの活動を始める。手足をバタバタさせる。隣席の仲間の體をつつく。奇想天外的な板面《いたづら》をする。教師は眼を丸くして叱責する。兒童期の始めは壬我的慾望が頗る盛である。そこで各兒の間に衝突がある。忿怒を激發する。顔のつかみ合ひとなる。所謂喧嘩が持ち上る。併し喧嘩の後は直ぐ手を携へて談笑する。是がもし教師に見つからうものなら大譴責を蒙る。喧嘩をする兒童は直ちに惡兒童であつて、亂暴せぬ兒童は直ちに善兒童である。斯の如きが實際に於ける現今學校の訓育の方針(46)である。
 家庭教育に於て更に數例を擧げる。
 幼兒衝動の發作を非常に制限する家庭がある。來訪者などに對しても幼きより禮法を守らせる。未だ十歳ならざるに一通りの作法挨拶を心得て居る。人間性養成に於て早く已に成功せりと云ふべきである。動物性の發作はあまり制限せぬ家庭がある。來訪者に對して相撲を迫る幼兒がある。來訪者に對して平氣で種々の要求を提出する兒童がある。來訪者が要求を肯《き》かねば泣いて之に迫るといふ兒童さへある。人間性修練に於て零なりと云ふべきである。吾人は此の兩極端の例を讀者の面前に呈して批判と考量とを要求する。
 之を要するに吾人の意見は訓練の目的に於て、概ね現今の教育者と一致する。併し訓練の方法に於て、動物性取扱の方面に於て、更に修正と助長との大工夫を要することを確信する。
 都會は人間性が多く發達する。田舍は動物性が多く發達する。動物性を帶びた偉人が田舍から出て、都會に行つて偉大なる活動を遂げる。古今東西の歴史皆斯の如しである。忠盛の動物性は伊勢の田舍で養はれた。平氏が公卿政治を奪つた所以である。頼朝の動物性は伊豆で養はれて、動物性を失へる平氏を西海の波に沈めた。北條、足利、織田、豐臣、徳川何れも田舍出の蠻カラーであつた事は、教育者の考量に値すると思ふ。降つて明治の聖代に及んで猶政界の實力者と目せらるる者は、薩長土の(47)田舍者であつた。近くは日露戦争に於ても動物性に對する考量の資料は隨所に山積してゐる。教育者が今後如何に此の解決を附けるだらうか。
 以上吾人の述べた所を概括すれば左の如し。
一 人間の意義を分けて動物性、人間性とする。
二 肉體は動物性である。肉體發蓮の矯正助長を圖るために體育を研究する。三 知の直觀期は動物性である。觀念期は動物性、人間性の混淆である。思考期は全く人間性である。直觀期の矯正助長を圖るために直觀教授を研究する。知全體に亙つて矯正助長を行ふを知育と稱する。
四 體育、知育に於て動物性取扱の研究に熱心なる教育者が、訓練に於て動物性情意の矯正助長につき研究せねば不都合である。
五 現今の訓練法は動物性情意に對し餘りに抑壓主義に傾くか、然らざるも比較的輕視しては居らぬか。
六 感情の情緒期は主として動物性である。情操の矯正助長を圖ると同樣に情緒の矯正助長を圖らねばならぬ。
七 意志の衝動期は動物性である。慾望期は動物性、人間性の混淆である。執意期は人間性である。(48)執意の矯正助長を圖ると同樣に衝動慾望の橋正助長を圖らねばならぬ。
八 感情意志の動物性方面に對し、單純に抑壓主義を取る如きは人材養成の道を知らぬ者である。早熟の兒童青年を作つて喜ぶ教育者は此の種に屬する。
九 古來偉人は皆動物性を發揮して居る。教育者は深く鑑みねばならぬ。
十 各學校の訓練規定中、動物性情意に思ひ及ぼせる者を見ざるは怪訝の至りである。
               (明治四十年「信濃教育」四月號)
 
(49) 奬善會
 
 我等が學校に學ぶは正しく強く美しき心を得んがためなり。正しく強く美しき心は生るるより誰もみな持てる心なれども、學ぶにより、養ふにより、修むるによりて益々その光を現すに至るべし。光を現さんとする奮勵だにあらば、三十年五十年の後には遂に秀れたる人材ともなりぬべし。されば我等學校にありて大凡左の事柄を心得べし。
一、我等の眼は常に輝き、我等の耳は常に聰く、我等の口は用なき時常に閉づべし。
一、我等の手足は働く時風の如く疾く、休む時林の如く靜なるべし。
一、正しさを見ては之に赴かんを思ひ、難きを見ては之を貫かんを思ひ、弱きを見ては之を助けんを思ひ、公事を見ては力を致さんを思ふ。我等の心は幼けれども斯くの如く活けり。
一、一身治りて一級治り、一級治りて一校治る。一校治るの心は、一家一郷一国治るの心なり。我等の身は小さけれども斯くの如くして一國に關せり。
(50)一、巧言令色鮮し仁といへり、剛毅朴訥仁に近しといへり。言はその巧ならんより寧ろ確かなれ。容はその美しからんより寧ろ清かれ。
    (明治四十三年五月十六日「長野縣東筑摩郡廣丘小學校奬善會」)
 
(51) 職員會誌
 
 明治四十四年度
 
 四月十三日
一、職員の修養
職員室は常に知識思想人格修養の道場たらんを望む。ことに思想人格修養の奮勵なくして兒童に臨むは教育の根本義を捨てたるもの、事業ありて精神なく形ありて生命なし。吾人は常に自己の不足を感ぜんを望む。不足を感ずる間のみ人生に意義あればなり。吾人は如何なる境遇に處するもその境遇が吾人修養の機會にして同時に又新なる修養の動機ならんを望む。境遇の差異は暮し方の差異なり。暮し方に差異あるも活き方に一貫せる奮勵あるに於て吾人は只一個の裸なる人として他の犯す可からざる神聖を感ずべし。斯樣な種類の自由なる談話が職員室に常に交換せられんを望む。議論には一切遠(52)慮なからんを望む。
一、教育事業
教育者被教育者間に同情の交換ありてはじめで眞の教育は行はるべし。教員の興味は兒童の上に注がれざる可からず。子供の話題常に職員室に現るるといふことよき事なり。この意味に於て吾人は兒童に或る感化を與ふると共に兒童よりも貴き感化を受くべし。斯る感化は兒童以外のものよりは與へられざる貴き感化なり。
一、細目完成のこと 五月中に完成
一、豫定表(今年度は見合せて見る)
一、教案 左の各項は必ず記入のこと、その他各自の工夫を費すべし
 週 月日 曜  題目 目的 準備 方法
一、復習
毎学期終り二週間を定期復習に充つ。復習は必ず教案を立つべし。復習の巨細は次回の研究に廻す。
一、整理
 1、校内整理(略)2、校外整理(略)
一、水曜會(職員會と講話會とに充つ)
(53)教授法研究會 三週に一囘のこと。學科の撰定豫告、實地授業、批評、記載
一、講讀會
書籍購入 希望書申出づべし。新聞 萬朝報 讀賣 朝日。雜誌 少年界、少女界は他に取換へる事太陽、日本人、教育時論、教育研究をとる。新日本、實業之日本、東亞の光、中央公論中にて一種撰定すること。
一、學科分擔研究
修身 國語 算術 地理 歴史 理科 圖畫 唱歌 體操 手工
一、入會は從前通りのこと
一、學用品販賣 當分中止
一、組合會 本年度第一囘を四月二十二日に行ふ。各區主任(略)
一、枚務分擔
掛は責任を以て管理すべし。他の者は掛の命令を絶對に守るべし。帳簿を備へ正確記入のこと。各掛(略)
 
(54) 明治四十五年度
 
 四月四日
一、新學年度の覺悟
ヽ自己の充實が常に発一間題なり。これが存するからには學風は自然に上るべし。根本問題の工夫存せずして學校問題を考ふるが如きは形骸に近し。ヽ現今社會組織の完全に近づかんとする努力は往々にして個性の滅却を強ひることあり。從つて個人は何等動機の充實なくして器械の如く社會の習慣に從はんとするの結果は、社會組織其の物迄も薄弱なる形骸に導かんとする觀なからず。社會的教育學の後に必ず個人的教育學生るべし。然らざれば現時の如き趨勢にある社會は救はる可からず。要するに現今にては甚しく倫理的善と心理的善との考慮を要する機曾に遭遇しつつあり。ヽ學校と職員との關係亦甚だ斯の如し。職員は可成自己の特色を尊重して自己進展の工夫あるべき也。
一、自己進展の工夫
ヽ學藝的修養−必要なれども寧ろ第二也。ヽ人格的修養−思想界の進展−これ吾人の第一問題也。人格的修養思想界の進展と稱するも要するに自己の痛切なる經驗(境遇)より來る要求を基礎とすべきなり。他人の學説などはほんの參考なり。それよりも一日一時一分の經驗に意義あらしむべきなり。(55)職員室は吾人修養の道場ならんを望む。−張りたる心−張りたる談話−意義ある會話。斯の如きがこの道場に括き括きと動きつつあらんを望む。
一、講讀會−講讀、旅行等
論語輪講 毎週月曜。萬葉集講義 毎週木曜。授業批評會 隔週金曜。旅行−職員の旅行は極めて必要なり。
一、児童に對する心の態度
ヽ眞に兒童に対する興味ありて始めて教育者たり得べし。ヽ苟も修養の工夫あるものは自ら兒童に感奮する所あるべき也。
   子供は大人の子供にあらで大人ぞ子供の子供なるべき
ヽ兒童との交際が密接に親しく自らあらんやうなるを望む。庭上の交際。退校後の交際。同窓會等へは盛に出席して貰ひたし。監護日誌の廢止−隨意監護のこと。
一、職員の勤勞
ヽ旅行等修養的事柄には缺席もむしろ貴きことゐり。ヽその他の缺勤遲刻は可成せざること
一、職員分擔事務(略)
一、訓練意見各自書出すこと
(56)一、各科教授豫定表 四月中に記入のこと
 四月十八日
一、訓練に付て協議 別冊訓練日誌に記入
 五月二十九日 水
一、訓練に關して
1、個性觀察及び之に對するやり方 帳簿記入のこと。2、各級の兒童風に特長あらしめたし。3、月次運動會の進歩を圖ること。4、中庭のボール禁止
一、時間中の授業解散の件
太鼓迄は何かさせて置くべし
一、教案作成の注意
一、宿題のこと
各級共分量を見計らひて多少づつ之を課すべし。
一、各學科の教授方針其の他巨細事項の規定は職員會誌により時々目を通し置かれたし。
     (明治四十四年−明治四十五年「長野縣諏訪郡玉川村小學校」)
 
(57) 訓練綱要
 
     第一章 要旨
一、教師兒童ノ心的交際ヲ根本トス。張リタル教師ノ心アリ。融ケ合ヘル師弟ノ情誼アレバ不知不識ノ間ニ活ケル訓練ハ施サレ居ルベシ。
教師ノ自己充實……師弟ノ眞ノ情誼
一、教師ノ修養完全ナラバ訓練ノ如キハ自ラ完全ニ施サルベキナリ。只吾人ハ未ダ神ニ遠シ。圓滿無碍ノ域ニ達セズ。而シテ一方學枚ハ一箇ノ集合體ナリ。是レ或ル標的ヲ設ケテ兒童品性ノ涵養ト鍛錬トノ努力ヲナス所以也。同ジク標的トイフモ工夫サレタル標的ハ不可ナリ。生レ出デタル標的ナラザル可カラズ。學校−教師−ノ心ノ要求ガ自然ニ生ジ來リタル訓練ノ方針ナラザル可カラズ一、教師兒童間ニ行ハルルスベテノ關係ハ訓練ノ意義ヲ離レズ、教授モ亦訓練ナリ。
訓練ト他ト離シテ考フルハ不可ナリ。
(58)一、一般的方針ノ中自ラ教師ノヤリ方力ノ入レ方ニ特色アリタシ。形ニ縛ラレ型ニ嵌マル可カラズ。
 
     第二章 大綱
       第一節 目的論
一、形式ヨリ見タル目的 善良ナル品性ヲ鍛錬シ涵養スルニアリ。
一、性質ヨリ見夕ル目的 人生鑄化性ト創造性トヲ適良ニ發展セシムルニアリ。
附言 人類ノ生活ハ要スルニ祖先傳習ノ繼承ト新生活ノ開拓トニヨリテ進化シツツアリ。祖先ヨリノ徑路ノ斷面ト見ルベキ現代人ノ生活ニ同化セシムルノ必要アルト共ニ現代ノ生活ヲ變化シ發展セシムルノ創造的方面ナカル可カラズ。ココニ云フ鑄化性、創造性ハコノ兩面ヲ指シタルミノナリ。兒童ノ精神活動ニハ已ニコノ兩面ノ萌芽ヲ規シツツアリ。而シテ小學校ノ訓練ナルモノガ往々ニシテ鑄化性ニ傾キテ創造性ノ涵養ヲ顧ミザルノ觀アルガ如キハ大ナル缺點トイハザル可カラズ。
人生ニ現ルルコノ兩面ハ大凡左ノ如キ対比ヲナスノ觀アリ。
 鑄化性−保守的−【著實ニシテイヤ味ナシ】−固陋
 創造性−進取的−生々溌地−【輕薄ハイカラ】
兩者截然タル限界線ナシ、只人生ニコノ二面アルヲ知ルヲ要ス。小學校ニ於テハ創造性ハ多ク上級生(59)ニ發達ス。
鑄化性ハハジメ器械的鍛錬ヲ經テ後ニ會得的ニ進ムヲ通例トス。(後ニ無意識行動ニ進ムモノアリ。會得的階段ヲ經ズシテ直チニ無意識行動ニ進ムモノアリ)
一、實質ヨリ見タル目的 徳目的(行爲、事件ノ題目)ノモノノ鍛錬ヲ目的トス。
以上三者ハ只方面ヲ異ニシテ觀察シタルノミ、目的ノ主體ハ一ナリ。
一、目的ノ對照ハ個人ナリ。學級、學校ハ副次的ナリ。
       第二節 方法論
一、訓練ノ機會
 1、人事ニ接觸スル機會−家庭生活−教場内ノ生活−學校内ノ生活
 2、自然物ニ接觸スル機會
 自然物ヨリ感得スル心性上ニ於ケル影響ハ極メテ大ナルモノアルニ拘ラズ、教育ニ於テコレヲ閑却スルノ傾向アルハ宜シカラズ。須ラク兒童ヲシテ自然ト親シミ自然ヲ愛好スルノ趣味ヲ養ハシムベシ。コレガタメニハ教師ノ自然ニ對スル趣味ノ向上ヲ要求ス。
一、兒童ノ本能ヲ尊重シテ指導スベシ。
スベテノ道徳ハ人類ノ本能ヲ基礎トシテ成立スベシ。兒童ノ本能ハ指導スベキモノニシテ抑制スベキ(60)モノニアラズ。コレ兒童ヲシテ活力アル習慣ヲ漸次的ニ取得セシメ得ル所以也。急劇ニスベテノ完全ナル習慣ヲ養成スルニ努ムレバ往々ニシテ本能ヲ抑壓シテ動機不充實ナル行爲ヲ強ヒ、ソノ結果活力ナキ行爲ト僞善トヲ釀出スルニ終ルコト往々ニシテ見ル弊害トス。
各木能ノ發達ハ年齢ニヨリテ大差アルコトニ著眼スルヲ要ス。未ダ萌芽ニ過ギザル本能ニ對シテ負荷ニ堪ヘザル方案ヲ施スガ如キハ徒ニ兒童心性ヲ障礙スルニ過ギズ。
兒童本能ノ發達
 恐怖、憤怒、羞恥、好奇、遊戯、模倣、競爭、取得、秘密、結構、羨望、敵對、嫉妬、社交、同情、愛情、戀愛
一、兒童ノ個性ヲ尊重シテ指導スベシ。
各兒童ノ個性ハ各兒童ノ氣質ヲ基礎トシテ發達セシムベシ。氣質ニハ膽汁質、多血質、神經質、粘液質等ノ分類アリト雖モ確然タル限界アルニ非ズ。要スルニ、各兒童ソレゾレニ特殊ナル氣質アリテソレヨリ順次個性ヲ形成シ行クヲ思フヲ要ス。訓練ノ基礎ガ個人的ナルベキ所以モ亦茲ニ存ス。教師ハ兒童ノ個性ニ關シ細密ナル觀寮ト指導トヲナスベシ。コレガタメニハ個人別記入ノ經歴簿ヲ備フルヲ要ス。
一、品性形成ノ時期ヲ考慮スベシ。
(61)ヽ反應ノ習慣ノ定マルモノハ比較的早シ。
談話ノ樣式、衣服ノ著コナシ、姿勢等ノ如シ。コレ等ハ大抵二十歳頃迄ニ定マルヲ普通トス。
ヽ道徳宗教ノ理想ニ對スル態度ハ青年期ニ至リテ定マルモノナリ。
ヽ社會的、道徳的、美的、知的習慣ノ主ナル調子ハ三十歳ニ達シテ略々決定セラルト稱セラル。
ヽ如上ノ理由ニヨリ小學兒童ニ對シ強ヒテ高等ナル道徳的習慣ヲ當嵌ムル如キハ徒ラニソノ心性ヲ害スルニ止ルベシ。
一、戒飭ト奬勵トノヤリ方
ヽ戒飭ハ兒童ノ自尊心ヲ傷ツク可カラズ。
ヽ慈悲ノ籠リタル戒飭ナラザル可カラズ。
ヽ不斷ノコセコセシタル拘束的叱リ−小言−ハ兒童心理ノ自在ナル活動ヲ阻礙スベシ。
ヽ奬勵ハ最モ愼重ナラザル可カラズ。往々ニシテ下等ナル名譽心ヲ惹起スルニ至ルベシ−譽メラレネバヤラヌト云フ如キ兒童ハ危險ナリ。薄弱ナル心ナリ。一、身體ノ養護
訓練ト極メテ大切ナル關係ヲ有スレドモ、學校ニテハ多クハ衣食住ニ對シテ手ツカズ。
運動奬勵−危險防止−傳染病流行病ニ對スル考慮−疾病ニ對スル家庭ヘノ戒告等ハ学校ノナシ得ル範(62)圍ナリ。
一、命令ト實行
濫リニ多岐ニ亙リテ命令スベカラズ。
一度命令シタルコトハ必ズ確實ニ實行セシムベシ。コノ場合ニ於テモ猶各個性ニツキ考慮スルノ要アルヲ忘ルベカラズ。
一、規定セル實行事項ハ變化スベキモノナリ。
一、小學校ニ於テノ實行
(一) 實行ヲ強フ可カラザルモノ
 (1)高等品性ニ關スル行爲
  偽善ヲ招ク。
  定メテ定マルモノニ非ズ。強ヒテ強フベキモノニ非ズ。教師自然ノ感化ト兒童心性ノ涵養ト相待チテ自然ニ行爲ニ現ルペキモノトス。
 (2)其ノ他身體的、心理的不自然ナル行爲−内容空虚−却ツテ心性ヲ害ス。
(二) 實行ヲ強フベキモノ
  反應的習慣ノ養成
(63) ヽコレモ事々物々ニ律セラルルトキハ自然的活動ノ餘地ナシ、特殊ノモノヲ規定シテソレヲバ必ズ勵行スベシ
ヽ上級ニ從ヒソレニ意義アラシム可シ。
      第三節 實行案
一、上述ノ意義ニ於ケルスベテノノ方面ヲ考慮シテ自己受持學級ノ訓練ト兒童個別ノ訓練トヲ考フベシ。
一、一校トシテ訓練ニハ全職員ガ全實任ヲ感ズルノ一致的態度ヲ以テ之ニ臨ムベシ。
一、上教生ハコトニ一校訓練上ニ重大ナル關係アルヲ自覺セシムベシ。
一、一校トシテノ規定
1、親律
 一、集合解散ノ確實
    スベテノ場合ノ集合解散ヲ意味ス
 二、休時間ノ規定ヲ嚴守セシムベシ
    晴天ノ日、雨天ノ日、家庭ノコト
 三、其ノ他偶發的ノ命令嚴守
(64)   (各級ハ更ニコレニ準ジテ何カノ考慮アルベシ)
2、清潔
 自己ノ受持區域ノ掃除整頓
3、自治
 各級各個人ニ應ズル自治的指導ニツキ考慮スベシ。
 一、組合會
  ヽ從來ノ利弊ニツキ研究ヲ要ス。ヽ個人戒飭ノ方法ニツキ研究ヲ要ス。ヽ兒童間制裁ノ限度(體罰ヲ禁ズベシ)制裁的行動ヲナストキハ必ズ受持教員ニ豫告スベシ。ヽ積極的事業監督指導。ヽ各區受持定メ。ヽ年四囘
 二、上級會
  方法ソノ他高一二ニテ相談ノコト
4、其ノ他
 一、全校運動會
  毎月一囘午後一時間乃至二時間 各級一種ヅツノ遊戯若クハ競技 全校ノ饅操 規律極メテ嚴カナルベキコト 遊戯其ノ他快速ナルベシ
(65) 二、學林ノ手入
 三、修學旅行
 四、枚外運動會
  春季運動速足會 秋季運動會
 五、植物園手入−同愛護
           (明治四十五年五月「長野縣諏訪郡玉川村小學校」)
 
(66) 一心の道
 
 人の世の中で、眞正に強いものは「一心」限《き》りないと思ふ。一心になつたら、弱いものも強くなる。切れないものも切れて來る。摧かれないものも摧かれてしまふ。弱いものが強くなるのは奇妙である。奇妙であるが實際が強くなるのだから仕方がない。切れないものが切れ、摧かれないものが摧かれるのだから仕方がない。これが所謂人間界の不可抗力である。我々が若し他人から力の感受を望めば、他人の「一心」に接觸するより外はない。自分自身に力の發現を望めば自分自身を「一心」にするより外はない。若し一心になれぬ場合は、縱ひその心がどんな状態にあつても、力には成り得ないやうである。
 人間界で容易に一心になり得るものは、第一に子供である。母を待つと言ひ出したら、必ず母が來なければならぬ。母が來ることに合致する條件ならば、どんな條件でも肯定される。母が來ることに合致せない條件ならば、どんな條件でも一切が遠慮なく否定される。肯定と否定には善惡の條理はな(67)い。條理はなくても疑はずして肯定し、疑はずして否定するには仕方がない。其の肯定し、否定する前には、何人の力も撥ね返されてしまふ。泣く子と地頭には勝てぬ」といふのが夫れである。我々の問題は、ここから出發し得ると思ふ。
 子供が發達して、大人になればなるほど、一心になるのが面倒になるやうである。智慧が複雜になり、經驗が複雜になり、境遇が複雜になるからである。一生「一心」になる經驗を持たずして果てる大人も少くはない。その代り、一旦大人が一心になつたら、其の力は大した力である。複雜を綜合し統一した力であるから、「泣く子」の力とは根柢が違ふ。鍛錬された力である。冴え入つた力である。所謂意志の威力である。我々は人間界にあつて、意志の威力以上の強さを感受することは出來ないと思つてゐる。それは換言すれば唯一心の力である。この一心の力は、性質に於ては前に申した所の子供の「一心」の力とよく似た所がある。子供の「一心」に條理がなくても力になり得るやうに、大人の「一心」も威力たり得るに於て、書惡正邪の條理を絶してゐる所がある。善にしても力になる。惡にしても同じく力になる。さうして同じ強さを以て我々の心に響いて來る。惡しきものなどは、我々に響いて呉れぬ方が都合よいと思ふけれども、實際が誰にも響くのだから仕方がない。夫れを不可抗力と言ふのである。安珍清姫日高川といふ事がある。清姫が一心になつたら蛇體になつた。蛇體なぞは人が嫌ふものである。そんなものに成らぬ方が我々には都合がよい。都合がよくても惡くても蛇體(68)になつたから仕方がない。さうして夫れが我々の心に響く。響くからして何年たつても傳説として、口から口へ傳へられるのである。八百屋お七は火放けをした。吉三に逢ひたい一心から火を放けたのである。役人が何うかしてお七を助けようと思つて訊いて見た。お前は火を放けるつもりでは無かつたのであらう。過つて火を失したのでゐらう。いいえさうではござりませぬ。吉三さんに逢へると思うて火を放けました。役人もこれでは助ける譯に行かない。焙刑を宣告して江戸の町を馬に乗せて引き歩く。衆人環親の中を馬上に曳かれつつお七には其の衆人が眼に入らない。吉三を思うてゐるからである。お七の足の下から火が燃えはじめる。火が燃えてもお七は吉三の事を思うてゐる。一心の力は五體を燒き盡しても、吉三を思ひ詰めてゐる事が出來る。火放けは重罪である。誰もお七の火放けを結構であると思ふ人はない。思ふ人はないが大正の今日も、猶お七のお墓へ線香を立てて拜む人が多い。火放けを拜むのではない。女の一心をいぢらしがるのである。子規先生は、お七のこの時の心を考へれば、いぢらしくて/\堪らないと云はれてゐる。織田勢が武田勢を打ち破つて甲斐の惠林寺に押し寄せた。惠林寺の坊さんが織田勢の云ふ事を聽かないで、自ら寺に火をかけた。猛火の中に端坐し乍ら、心頭滅却火亦涼、と偈し去つて死んだのは有名な話でゐる。これ丈け一心になられたら織田勢も手の付け樣がない。心頭滅却火亦涼は死にがけの未練である、泣言である。神様や佛樣なら斯んな泣言を言はずに大人しく黙つて死ぬに違ひない。坊さんは神樣でもない、佛樣でもない。人間の(69)弱さに斯んな泣言を云つたのが、我々には却つて人間らしく哀れに響くやうである。餘り神樣すぎると我々凡下には想像が附かなくなつて一寸都合の惡い事がある。斯樣な意味に於て惠林寺の坊さんの一偈は、我々修業者の參考になる。私は今諸君と萬葉集の研究をやつてゐる。萬葉集の歌が何故一千年來渾べての歌集に絶して大きな力を我々に感得させるかと云へば、矢張りこの「一心」に外ならない。萬葉集の作者は、どんな事柄に對しても苟も歌ふとなれば、何處迄も眞面目に正面から其の事柄に對《む》き向《あ》つてゐる。さうして一心をそれに集中してゐる。其處から力が生れて來るのである。隨分露骨な事も歌はれてゐるが、夫れが何處迄も眞面目であつて巫山戯て居らない。巫山戯て居らないからどんな場合でも、決して厭味、低卑、弛緩、倦怠を感ぜしめない。古今集以後のものになると大抵の場合にそこが違ふ。
 我々は大人である。一心には容易になり得ない。一生の内に一度位は一心になつて何かに傾到して見てもいい。それが若し一生を通じて傾到し待たら、下凡の力も多少の威力になり得ないとは限らぬ。天才ならばそんな事は求めずして自ら到り得るかも知れぬ。我々は天才ではない。諸君も天才かも知らぬが、其の邊は割引して天才でないと信じてゐた方が間違ひが少い。天才でないとしたら自分を何處迄も下凡の輩として、下几の輩一心になり得る工夫如何と考へた方がいい。つまり一心になり得る場合や條件に就て、色々の材料を研究して見ることが必要である。さうして自分の一心境に參し得る(70)機縁と、何等かの關係を考へる事が必要である。そんな器械的方法によつて一心境に到り得るものかと言ふ人があるかも知れぬが、さういふ事を言ふのは天才者の領分である。第一、材料を蒐集し比較し分類するといふ事が、既にその人を一心の領分に誘導する機縁をつくる。私は斯樣な仕事に時間を潰すことを、凡下者の損失とは信じない。併し私は左樣な仕事を餘りやつてゐるのではない。只少しづつの興味を持つてゐる。
 第一に一心になる場合は心の働く範圍が狹くなる。從つて興味の局面が縮小される。天才偉人はこれが甚だ自然に行はれるやうであるが、我々にはさう自然に容易に行はれる譯に行かない。自然に容易に行はれないから、不自然に苦勞して行ふより外はないのである。人間の持つ興味の種類は無限に多數である。其の多數の興味は、みんな人間自然の本能に根ざすのであるから、悉く自然の要求である。自然の要求であるから悉くそれを滿足せしめんと努めるのが自然であるに相違ない。自然であるに相違ないと言つて悉くこれを滿足せしめんと努めてゐては、決して所謂「一心の力」にはなり得ない。其處が我々に面白い所である。蒸氣機關の湯氣は四方八方に擴散さるるを以て自然の要求とする。自然の要求であるからと言つて、あの蒸氣を自由に四方八方に擴散させてしまつたら、機關を動かす力には成り得ないのである。四方八方へ擴散せんとする湯氣の要求を抑へて、之を一箇所の狹い口に集注して、茲に始めて機關を動かす動力を生じ得るのである。擴散の要求を抑へるのは不自然である。(71)不自然であつても、力を要求する場合には不自然な抑壓をするより外致し方がないのである。酒を飲む、煙草を喫ふ、髪を分ける、近頃は男が白粉まで付けて化粧をする。化粧をするのも自然の要求であるに相違ないが、人間本能の要求は無際限である。無際根の要求を滿たさうとして、猶且つ一心の集中を欲するは、偉人天才と雖も企て得ない所である。今人よく自由を説く。自由とは何ういふ意であるか知らないが、人間本然の要求を要求のままに悉く滿足せしめんとするを自由とするならば、私は自由に對して不自由を要求する。自然に對して不自然を要求する。昔から一心の境地に澄み入つたものは、我々の眼から見ると皆不自然をしてゐる。釋迦は檀持山に入るために妻子を捨て王位王冠を捨てた。菩提樹の下に安居して、しまひには口腹の慾まで捨てた。大不自然をして大力者になり得たのがお釋迦樣である。古來哲人多く山に入つたのは、煩惱の苦界を絶つて一心專念の境地を求めたからである。「故らに無言をせざれども一人居れば口業を修めつべし。必ず禁戒を守るとしもなけれども境界なければ何によりてか破らん」と夫れ等の徒は涙を流して申して居るのを、物好きなどと思つては罰が當る。
 然らば、夫れ程迄にして一心を集中するとして、その一心を何に向つて集中したらばよいか、といふ問題になる。是は非常に重大な問題である。集中の目當てによつて、自身乃至社會に大きな影響を與へることになるからである。さうして此の問題は、勿論個人々々によつて異る所であつて、一概に(72)論じ去るのは難事である。傍し乍ら、私は斯ういふこと丈けは只今の所信じて居る。夫れは男の集中の目當ては事業の上にある。女の集中の目當ては戀の上にあるといふことである。事業といふのは廣い意味の事業である。戀といふのも廣い意味の戀である。この事は詳しく私の考へを申し上げねばならぬことである。男の方からも、女の方からも、誤解されさうな問題である。或は雙方から叱られるかも知らぬと思ふ問題である。次囘までに成る丈け筋道を立てて置いて、御聴きを願ひたいと思ひます。五月十三日萬葉集研究會にて談話
                  (大正五年「信濃教育」六月號)
 
(73) 就任に際して
 
 今朝竹内君が來て「信濃教育」原稿一束を予に渡して去つた。予は夫れを見て恐れた。彌々筆を執らねばならぬと思つたからである。筆を執る事は可なり前に承知してゐる。その後屡々手紙の往復、教育會幹部諸氏との會見等によつて、更に明瞭に承知してゐる「信濃教育」の原稿を見て恐れた。今朝の心は、余には少々大切な心である。
 予は四年前に信濃教育會から足を洗つて旅に出た。旅に出た心は性來の我儘から出た心である。我儘な心はその當時自分一人の都合のみを考へさせた。自分一人を何うかする爲に旅に出たのである。妻子眷屬の都合と、朋友の都合と、四圍のすべての都合とを考へなかつたのはそのためである。すべての他の都合に眼をつぶつて一人で旅に出た自分は、四年の間に何をしたか。何うかせねばならぬ自分は、相變らず何うもなつてゐないのでゐる。何もせぬではなかつたが、爲たといふ部分が少くて、ぼんやりしてゐた部分が多いのである。「信濃教育」のために筆を執るといふ事は、此の點から見て(74)疑問である。小生自身の問題として疑問でゐる。小生の我儘な心から見て、自分の勝手のために疑問である。この疑問が今朝原稿の束を見て恐れさせた心の一部分である。
 小生は四年間全く信濃から離れて居つた。三日相離るれば刮目して見よといふ事を聞いてゐる。四年間小生の離れてゐた信濃は、その間に隨分變化し進歩してゐる事は、今日矚目のもの皆然りでゐる。教育界の進歩は更に之よりも著しいであらうと思ふけれども、小生の耳目は今日に於てそれらに對して全く塞つてゐる。四年間には隨分大きな光も、大きな音もしたであらうと思ふけれども、その光と音とが小生まで屆いて居らぬのである。何も知る事ない信州教育界に忽然飛びこんで、「信濃教育」に筆を執るといふ事は、今日の處では少々亂暴である。四年間の小生の亂暴は自分一人で始末がつく。今日「信濃教育」に入つて筆を執らんとする事は、夫れと少々性質が違ふ。今朝原稿の束を見て恐れた心の一部には、信州教育のために考へて恐れた心がある。
 只曩時予は信濃教育界に向つて、言はんと欲する多少のものを有つてゐた。曩の言はんと欲するものと、今の言はんと欲するものと必しも同一ではないが、その間に自ら貫くものがないでもない。暫く離れてゐた信濃教育界に對して、今後予は徐ろに物言ふ。間違つてはならぬからである。恐れつつ物言ふは、恐れずして物言ふに優る場合もある。諸先輩諸友其の他すべての會員諸氏の、忌憚なき高教を賜らんことを冀ふ。雜誌は予一人の私有物ではない。會員諸氏の盛に議論と研鑽とを寄せて、雜(75)誌存在の意義を益々充實せられんことを冀ふ。
(大正六年「信濃教育」八月號)
 
(76) 高等學校
 
 高等學校を長野縣に置くと置かないは、後來帝國大學を、長野縣に得るか得ないかの岐れる問題である。帝國大學を長野縣に得るか得ないかは、新日本の舞臺に、長野縣人が優越なる活動を成し得るか得ないかの岐れる問題である。予は學校萬能を思はない。殊に官學萬能を思はない。只高等學校を長野縣に置き、延いて帝國大學を長野縣に得る得ないの問題は、左樣な議論の云爲を以て左右する能はざるまでの程度に、長野縣には大切にして緊要な問題である。
 この間題は少くも十數年來長野縣人によつて考究せられた問題である。近頃當局に高等學校増設の議あるを耳にして、長野縣人の緊張せる注意を惹起しつつあるは固よりその所であつて、直接局に當ると當らざるとを問はす、縣民擧つて最善の方法を盡すに於て、寸毫の遺憾と悔とを貽すべからざる所である。想ふに長野縣の置かれて以來、一縣の重大問題とせられたもの必しも尠くはあるまい。併し乍ら高等學校の設置は從來の大問題とせられたものの中、更に重大なる問題であるとすることに於(77)て、縣人中一人の異議あるを想ひ到り得ぬのである。之を從來長野縣高等學校入學者數の優位ならざるに見、更に一縣子孫後代に貽すべき影響の大なるべきに考へ、猶更に高等學校乃至大學の有無が、直接一縣の教育産業其の他の文化に及ぼすべき影響を思ふに於て、一高等學校設置問題は、長野縣の人材と文化とに對する、永遠の得喪問題である。
 斯の如く重大なる一縣の問題に對して、縣民は重大なるものに對する取扱を粗忽輕易にしてはならぬ。長野縣に設置せられよかしと冀ひ、一致協力して最善の方法を盡せばいいのである。長野縣に設置せらるるに於ては、學校よかれかしと願ひ、それに対して最善の方法を盡せばいいのである。位置は、よかれかしと願ふ條件の具備によりて定まり、規模は、よかれかしと願ふ條件の具備によりて定まる。縣民としては只これ丈けでよい。これ以外に出る必要なく、これ以下に退嬰してゐべきでもない。萬一南北の利害を以て相爭ふが如きあらば、此の際高等學校問題を粗末輕易に扱ふものであつて、勿體なく冥利に叶はぬ仕業で、どちらかに罰があたるのでゐる。
 予は茲に於て一歩を進めて言ふ。高等學校の設置せらるるに於ては、位置は之を東筑摩郡桔梗ケ原に定めよ。市街地は必しも適當でない。林中の生活は學枚としてすべての點に於て最も理想的である。この事は必しも予の説明を待たぬ所である。加之假に松本、長野兩市街地、乃至市街隣接地に於て二三萬坪の敷地を得るに費す所は、優に桔梗ケ原に於て十萬坪を得るに足りる。長野縣人が單に高等學(78)校を得て滿足するならば、二萬坪乃至三萬坪の規模を以て足れりとする。苟も後來大學設置を豫想して十年の計を樹つるに於ては、二三萬坪の地は今日に見て已に狹小とすべきである。況や後來長野縣の大學が全國に優越の地歩を占むべきの抱負を以て、規模を劃するに於ては、十萬坪の地決して廣しとすべきでないのである。元來長野縣に大學の設けらるべき場合、何々科の大學を得べきか。乃至單科大學を得べきか、綜合大學を得べきか等の問題を、今日に於て豫想すべきでないが、規模の大なる所に決して規模の小なるものは設けられないのである。長野縣は山岳國である。氣候が寒くて空氣が乾燥して清澄である。即ち長野縣は自らなる天與の學府地である。長野縣人の頭腦の明晰なるは、この天然の影響する所決して少小ではない。後來長野縣に設置せらるべき大學が、長野縣及び全國の俊秀を蒐めて、全國の他の大學に雄飛すべきを與想し希圖する事は、吾人の空想として排すべきでない。否な寧ろ教育國を以て自任する長野縣人としては、これ程の抱負を以て後圖を劃するを至當とするのである。規模の廣狹は第一歩に於て大體を定むるものである。狹小なる規模を劃して將來の發達を望むが如きは、達識者を待つて其の非を識らないのである。長野、松本に於て二三萬坪を購ひ得べき費額を以て、桔梗ケ原森林帶數倍の地を得て長野縣教育百世の基礎を奠むべきは、すべての點に於て缺點がなくして長所がある。況や此の地殆ど全縣の中央に位して、松本市街地を距る甚だ遠からざるの利便あるに於てをや。現代のためでゐつて同時に後代子孫のためである。長野縣のためであつて同時(79)に日本全國のためである。
 予は常に思ふ。長野縣出身の學者は、頭腦に於て多く拔群である。そして天壽を全うする人が少い。縣下各地出身者につき思を廻らせば、概ねその然るを知るであらう。或は之れ維新以後全國教育の缺陷であるか、何れに原因を求むべきかを知らない。只後來長野縣に設置せらるべき最高學府は、空氣清澄にして運動の餘地充分なる所を擇んで、あたら秀才を多病ならしむるが如き事なからんを切望する。一蘭の折るるは百草の刈らるるよりも惜しい。松本、長野市街地を避けて、廣漠なる森林地を撰ぶは、此の點から見ても輕易な問題ではない。予嘗つて桔梗ケ原中の一小學校に在つた。小學校の敷地四千坪、小さき校舍に比して校庭が甚だ廣い。兒童庭上に蠢動するが如くして足自ら健である。一歩柵外に出づれば松木立の果てしがない。林地蘇苔密生して歩々音なく、動やもすれば踵を没せんとする。その上に臥すに衾※[衣+因]よりも柔かである。予の病後此の地に在つて健康を恢復したのは、必しも予一人の偶然とする所でないと信ずる。
 長野縣は動植硬物の種類が多い。電氣事業の發達が有望で、今後益々工業國として發展するの望を有する。醫業が發達して人口に對する醫者の率が多い。夫れに天與の清澄なる空氣を有する。何科の大學も概ね不適とする所はない。宏恢なる規模を桔梗ケ原森林地に拓いて、長野縣百世の礎を定むる事は、今日を措いて他になきの機會に臨んでゐる。敢て宿志を述べて縣人諸氏、特に教育家諸氏の御(80)叱正を乞ふ所以である。若し夫れ高等學校問題は全國の問題にして一縣の問題に非ず。全國に配置せんとする校數によりて、位置の自ら別趣に考量せらるる必要あるが如きに至つては吾人の口を開くべき限りでないのである。
 因に言ふ。故保科百助氏夙に桔梗ケ原大學設立の説あり。必しも予の創意にあらず。故人に對して之を明かにす。又言ふ。本論は予一人の私論にして、信濃教育會の意見と勿論何等關係なし。
                  (大正六年「信濃教育」九月號)
 
(81) 山上漫語
 
       ○
 事功を尚ぶものは、自ら事を成して得意である割合に他から尊敬されない事がある。事を成すの惡いのではない。事を見るの急にして、事以外に何も見得ず、偶々見得る所は、自己の淺きを證明する所以のもので、思想と理想とに深き根柢と省察とを有せぬの傾があるからである。深き根柢と省察の無いものは心を用ひる事無造作である。無造作であるから心配がない。心配はあつても心配の範圍は豫め分明である。或る階級から見れば心配はないとも見えるし、小兒の如く無邪氣であるとも見える。小兒の如く無邪氣で心配がないから體が割合に強健である。強健でないのは、性來小心であるか薄弱であるかの致す所で、早く落伍者となつて社會から消滅する。殘る所は強健者である。強健者の力を用ふる所自己の心操に存せざる場合、その力が容易に事功に注がれるのは自然である。事功に集中された心が、事功以外のものを見得ないのも甚だ自然である。自然に從ふ力は、人間の計らひを以て左(82)右出來ぬ力である。予は之に於て斯の如く思ふ。事功以外のものを顧慮せざるものは、何處までも事功以外のものを見ないで、徹底して事功に向つて進め。專心事功に向つた心は少くも純粹である。聊か他の種類の顧慮と省察を用ひぬ心がそのままで進行する時、淺きものより深いものに進むの機縁が來ないとも限らぬ。機縁の來るものは罕で、機縁來らざるに夙く破綻を來すの多い事は想像出來るが、孔子の子弟三千道に志して、達するもの猶甚だ少いと同じ道理である。達せんとして達したるは喜ぶべきであるが、達せんとして達せざるものも畢生の力を竭した事に於て、死も猶遺憾なき所である。既に事功を以て終始せんと志すものは、事功を家とし、食として生渡それに安住の覺悟を定めねばならぬ。安住の覺悟以外何等の他のものを思はず、求めず、希はないのである。口に理想を説き、心に高級思想を覗かんとするが如きは、※[(來+犬)/心]ひにせぬ方がよいのである。
          〇
 思想界に遊ぶものは、思を人生の歸趣に潜め、心を宇宙の幽遠に馳せ、情は機微に參し、意は深邃に通ずるを以て至願とする。心を存する事深きが故に事功の前に動機を重じ、外に現るるものを輕しとして、内に潜むものを重しとする。甚だ結構であるが、斯の如きは十年二十年にして猶且つ容易に臻り得べき所ではない。未だ臻らざるに早く臻れるが如く見ゆるは、見るものの惡しきもあり、見らるるものの當然なるもある。眞に臻れるものは、口に現れすして行住に現れる。口に現るるを惡しと(83)せざるも、口にのみ多く現るるは、未だ體現の眞なるものでない事を自ら吹聽する道具にもなる。吾人は世の青年者中に眞率なる心を持して、眞劔なる憂ひと、眞劔なる煩ひとに苦しみつつあるものを知る。併し乍ら、斯の如き人に對してすら、予は毎時早くその人の自ら精力を用ひ盡して、未だ熟すべからざるに熟し、未だ臻る可からざるに臻れるの結果、萎縮又用ふべからざるに至るなきかに心配する事がある。萎縮すべきに萎縮する事を自ら憂へずと言ふは御尤であるが、人間は昔から青年にして早く萎縮せぬやうに造られてあるを思へば、萎縮する事の自然であるか、不自然であるかを考へて見る必要がゐる。或は萎縮せりと見えるは他の見る所であつて、萎縮せりと見える所は却つて萎縮せざる所であるとも見られるが、この邊になれば、各自の見方に從ふの外はないのである。青年期は種種の本能の盛に現れる時である。本能の現るるままにすべてを行動するは如何なれども、全く本能を壓して青年らしき活動を見せぬのも自然とは言はれない。予は寧ろ青年期によつては成るべくすべての本能を活動せしめて、早熟の悟りを晩熟の悟りに改め、早熟の煩ひを晩熟の煩ひに改めたいのである。その方が人間らしい匂ひがして、予には懷しいのである。青年期には體力が旺盛であるから、すべてのものに突き當りたいのが自然である。幼兒が物を破壞したがるのと同じ道理である。突き當るべきものは澤山ある。教員ならば兒童の作文に突き當る、習字に突き當る、算術理科何々と突き當るものは所在に轉がつてゐる。全精力を振つて兒童に突き當るうちには、後から見て効果少なしとすべ(84)きもの多きを普通とするが、後から見て效果少なしとすべきは教育のみに限らぬ。少なしとする效果は全精力を籠めて得た效果である事に於て、少なしと雖も尊い效果であり得るのである。殊に教育の事の如きは、地味にして效果の餘り現れざる仕事である。現れざるが故に餘計の努力を勵まねばならぬのである。予は口に人生の歸趣云々を説くを聞くよりも、眞實自分の生徒を愛して、作文帳に朱筆を入れつつある青年教育者を懷しく思ふのである。理想の體現はこの邊の行使にまで現れて、初めて本物であるのである。
                 (大正六年「信濃教育」九月號)
(85) 長野縣より何を出したるか
 
 教育の事、效果遂に現れずと言ふも、早く現るるは尋常小學科を卒業するもの十三四歳にして日常の書信と家計を辨ずるあり。高等小學科を卒へて猶多く之を辨じ、中學校を卒ふるもの更に多く之を辨じ、專門學校を卒ふるは直ちにその向きの實務に役立つ如き、何れも直接に效果の現るるものにして直接に效果の現るるは、現るる方便利にして、現れざるは差當り不便を威すべし。普通教育は差當りの便不便を目的とせずといへど、便利として現るべきは、便利として現すべく、少しく便利となりて現るるより大に便利となりて現るる方本人と世間の稗益にして、普通教育の目的に反せりとなすべきにあらず。現在に著目せずして永遠に著目せよ、といふは宜しけれど、空疎の現在を何程積みて永遠の充實を期する積りなるかを考ふべし。睹易きの理は忘られ易くして往々足元を見ざる達識者を生ずる事あり。餘りに永遠を連呼するは一種の永遠誇りにして、所期遠きに似て淺し。本物にあらず、佛徒の本願誇りの如し。
(86) 然りと雖も、教育の目的は現在に在らず、所期は依然として遠きにあり。現在に著目して、現在の用不用を論ずるを以て能事とするは、便利を主とする現代社會に歡迎せらるる傾あるべし。歡迎せらるる時勢に對して、歡迎せらるるの計を爲すは普通人の自然とする所にして、少くも身を全うするに適せり。浪花節は早分りするが故に人に悦ばれ、親爺の説法は遲分りするが故に人に悦ばれず。悦ばれざるがゆゑに説法せず、悦ぶがゆゑに浪花節を聽かずといはば人を愚にするものと爲すべし。教育に實用向を唱へ便利主義を唱ふるもの、斯の如くば教育を愚にするものなれど、夫れ程なるはまさかに少なかるべく、現在の見易く就き易く、永遠の見難く慮り難きを普通とせん。現在の便利と實用を主とせば、大學醫工科よりも醫學校、工學校を便利とすべく、中學校よりも甲乙種實業學校を便利とすべく、高等小學校より實業補習學校を便利とする事あるべし。就中普通教育は、その高等と初等たるとを論ぜず何處までも普通教育にして實業教育にあらず、その效果は現在に現るるの少くして將來に現るるの多かるべきは論を俟たず。將來に期すべきの多きが故を以て、現在に現るるの少きを輕視すべからざるのみ。教育の要諦斯の如し。普通教育に於て然り、實業教育亦然り、専門教育、高等教育皆然り。
 我國学制頒布以來將に半世紀を經過せんとす。容易に現れずとする效果の現るべき機は至れりとすべく、或は將に至らんとすべし。我國現在の文化の何れまでを明治教育の成果と見るべく、何れまで(87)を維新以前勢力の影響する所と見るべきか、測り難しと雖も自ら分明なるもあり。今日物質文化の殆ど凡てが、明治教育の成果なりと斷ずるの多く誤らざるべく、精神的所産の何れまでを明治教育の成果なりとするの當れりとすべきかは多くの考究を要す。獻身、犠牲、眞劔、眞面目等の言葉を以で現さるべき精神は、平時にありて目立ちて現れず、事ありて現れ、大事ありて益々現れ、日清、日露戰爭の如き國難に遭うて非常に現れたりとすべきも、斯の如きは維新前後の武士精神の猶活けりとすべきか、三千年來日本建國精神の現れたりとすべきか、それらの原因影響を控除して、明治教育の主張し得べき效果の獲得を幾何とすべきかは測り易からず。代議政體に種々の弊害ありとせられ、弊害の多く美點の少きが爲に代議政治の悲觀説さへ現るる事あり。現るるの小心に過ぐるあらんも、明治二十年代に議員の重視せられ、三十年代にやゝ輕視せられ、四十年代に至りて益々輕視せらるるが如き傾向あるを何と見るべきか。金の欲しきは明治、大正に始らず、古今を通じて財寶を重しとせり。而も明治維新の大業と苞苴とは聯想し易からず。明治、大正の樞機に往々苞苴の聲を聞き、人民及び代議士の騷ぐ所となりたるも、騷ぐもの必しも眞面目ならず。甚しきは教育行政者に如何の現象なかりしに非ず。金錢財物の授受の如きは本來大したる事柄にあらず。授くる授けざる、受くる受けざる、その差毫末なりと見るべきも、毫末なれば毫末なるほど、公器と公事を安賣したるの心事を重要視すべし。然る心は、財物の授受なくとも平素の操る所念とする所知るべきのみ。自己の出世のためには何(88)物をも刈るに忍び、何物にも頭を下ぐるに忍ぶは滔々として數へ難からず。何人も一度自己の身邊を見廻さば生ける實例を見ん。凡そ斯の如きは現今社會の精神方面の現れとして、如何の程度にこれを見るべきか。輕しとするは樂天家にして、重しとするに弊害なし。或は重く見んとして既に重く見得ざるに至れる一種の馴致者もあらん。以上の如きは現今社會精神の嚮ふ所の一斑を數ふるに過ぎざるも、斯の如きを以て明治教育の關する所に非ずとして無責任なるを得るか。明治維新前の習慣猶在りとするは多少之あらん。習慣の在る之を如何ともすべからずと言はば、教育の力は半世紀を經て猶世に用なしと做さん。況や半世紀前日本の大改革は我が建國精神の異常なる現れとして宇内に震徹したる所、斯る大精神を繼承して今日の状あるを致せる教育者は見て以て如何の現象となす。
 文藝なるものあり。往々にして世の軟柔者を糾む。輕浮自ら持し得ざるものあり。はじめ通と粹とを以て小説の生命とせり。頭領曰く「金糞を放れ」。子分蝟集するもの即ち相競うて金糞を放らんことを志願す。自然主義を輸入するものあり。即ち相率ゐて自然主義の傘下に投ず。既にして印象主義を唱ふるものあり。象徴主義を唱ふるものあり。彼を趁ひ之に趨り、唯これ流行に後れざらんことを願ふ。小説家とは斯の如きの大部分を占むるを言ふ。新劇なるものあり、一女性の出現によりて滿都の青年子女を動かす。數年ならずして雲散霧消の状あり。女性の淺はかなるか、淺はかなるものに動かさるるの笑ふべきか何れなるかを知らず。新派和歌なるものあり。これ亦一女性の出現によりて全(89)國青少年の耳目を聳動す。歌ふ所多く官能的にして淺膚憫むべきに値す。然も文壇の評家を擧げて讃辭の足らざるを憂ふるに似たり。一朝推移して口に其の女を稱ふるものなし。日本の文學と稱するもの悉く如上の陋に墮せりとせざるも、滔々相率ゐるもの大家、中家、小家多く然りとす。況や之が後塵を拜するもの全國に亙りて影響決して尠少にあらず。斯の如きは維新前に存せざる所にして、悉く明治教育の所産といふべく、教育者之を罵るは自己の生める子を罵るに異ならず。素因多く中等教育の缺陷と、中等教育者の弛緩と短見とに胚胎す。
 凡そ教育の效果の現るるは容易に測定を許さず。精神的方面に於て特に然りとなす。併し乍ら、或る時代文化の成績は、その時代出現の代表的人物を以て之を測るの適當なるあり。代表的人物は各自その時代文化各方面の精神を説明するものにして、山の高さを測る者の山頂を知れば足れりとするに似たり。明治維新以後我國文化各方面の代表者として誰々を擧ぐべきかを知らず。假に之を擧ぐるに於て、我が長野縣より一人の之に與るを得るや否やを考ふべし。予寡聞自ら知れりとなさずと雖も、明治、大正の半世紀を通じて我國文化の代表的人物を擧ぐるに於て、長野縣の殆ど之に與るなきに庶幾きを思ふ。儻し與れりとなすは同郷人の慾目にして、百年二百年数百年の後何人か之を仰いで、明治、大正時代の偉傑となし、達人となし、高徳となすものあるかを考ふべし。政治家として何人を出したりや。政黨首領若くは其の黨人として何人を出したりや。政論者として馬場辰猪・中江篤介の如(90)きを出したるか。武人の數ふべきあるに似て果して何人を時代の代表者となすべきやを知らず。教育者にして福澤・新島兩氏の如くなるものあるか。科學者にして異常者を有するを聞くも、將來あるは未知數となすの至當なるべく、文學家に島崎氏を數ふるは外れずと雖も、同じく將來ある人を未知數に數ふるは不可なからむ。藝術家に偉れたりと見えしは夙く逝き、未來ありとなすは今遽に斷ずべきにあらず。實業家として傑出せるはあらんも、時代の代表として果して如何あらむ。此の方面殊に予の罔しとする所、多く言議を好まず。一村一郷に先んじて身を以て之を率ゐ、徳風一世に及ぼす如きの士は過現に求めて得べきや。報徳教は盛なれども二宮尊徳は表彰を喜ぶ程度の人よりは生れず。表彰を以て小尊徳を出さんとするの非なるは爲政者亦既に悟りたらむ。位階を授けて教育者の尊嚴を加へんとするが如きは、我縣に於て夙くより滑稽とせられ、今も滑稽とせらる。斯の如きにありて郷先生の徳風を布き一郷を指導するもの我縣を後れたりとせざらむも、明治、大正の代表者として數百千年に光被するものありや。由來長野縣は教育國と稱せらる。教育國の所産殆ど一人の明治、大正の半世紀を代表するものなしとせば、長野縣人及び長野縣教育者は之を如何に思ふ。
                 (大正六年「信濃教育」十月號)
 
(91) 病人に與ふ
 
 死囚のものに、其の指頭を傷つけて血を取り死に至らしむべきを宣して、眼を縛り指頭を刺戟して微温湯を濺ぎしに、血の出づることと思ひ入りて、その囚人は絶息せりと云ふこと、物の本にて知りしことあり。縊死者を見し人の言ふを聞くに、紐は頤に懸るか懸らぬか位にて絶息し居るものありとのことなり。信ずるがゆゑに神ありと聞けど、これは信ずるが故に死ありし例なり。之によりて考ふれば瀧に役ずるものは、足未だ瀧壺に達せざるうちに死に居るやも知れず。信ずるほど恐しき力はなし。心の力の全體を統べて一所一點に集中する一念の力なれば、之を念力とも云ふべし。念力の向ふ所絶對なれば、生くべきをも死せしむることある前述の如し。予は幼時不動尊の恐しき面相して火焔の中に立てるを見て、恠しみ且つ怖れしことありしが、物心づきて禅林の高徳が火中に端坐して偈を成したる話を聽きて、さる生ける實例の存することを思ひ得しことあり。堺事件の時十數人の土佐侍がつぎつぎに打ち並びて、平氣にて腹かき切りしを見て、見分の役人は靜肅に著座し居たるなかに、(92)佛國人は立ちつ居つして座に堪へず、やがて倉惶として逃げ歸れりといふ話あり。武士は腹掻き切りて死ぬるものぞと固く信じ居る日本人には、腰切る事も平氣なれば、腹切る状を見分する人も平氣にて居らるるなり。日本人なりとて腹切るは痛し。痛き腹を切りて命絶えんとする今際《いまは》の人の状見居らんは苦し。痛けれども、苦しけれども切らねばならず、切るべきものと信ずる心の先だつゆゑ、痛さも苦しさも超えはてたる平氣の心に任し居らるるなり。外國人には怪しく奇しかるべきも、日本人には當然の事なり。予は幼時村の腕白盛りの輩に誘はれて火渡りの遊びを與にしたる事あり。火渡りの神事を見たる好奇心が斯る戯を催せしめたり。薪を積みて火を焚き、炭火厚く掻きならしたる上を跣足にて踏ゐ渡るに熟しといふことなし。先達なる腕白の曰く、熱しと思ふものは渡るなと、予は少々馬鹿者ゆゑ眞に熱くなしと思ひて跣足にて火の上を渡り行きしに果して熱からず、自分ながら怪しと思ひたり。只今にては到底斯の如き事を再びするの勇氣なし。予の智慧進みて、小兒の時の如き純一なる心に返り得ざるためなり。之に依りて考ふるに、人間は、元來火を熱しとせず、腹切るを痛しとせざる程の力は、誰も持ち居るなり。只それほどの念力を持つ機會少く、持たんとするの希求乏しきなり。世進み、人の智慧つき、理窟を並ぶるやうになりては、このこと益々思ひも及ばず。議論益々騒がしくして大綱彌々空しからんとする所以なり。元來人の火に投ぜんと決し、腹切らんと決したる時、多言あるべからず。禅僧火中の一偈は現世に遺す未練の聲なるに於て悲しむべく、お七が火刑に(93)臨みて無言なりし神妙の體は、予をして慄然として襟を正さしむ。これほどの心に住したらんには、最早生くるも死ぬるもなき事なる。生きたりとも死の如く嚴肅に、死したりとも生の如く靈動せん。信に入れる一念の力が、よく人を生くべきに殺し、燒くべきに燒かしめず、死ぬべきに生きしむる底の力を有すること誠に斯の如し。
 夫れにつきて思ひつづくる事あり。故正岡子規の病牀に横はるや、兩肺蝕し、脊骨朽ち、寸毫の身を動かすべきなし。醫師の生くべき理なきを斷ずる甚だ理ありと雖も、彼の氣息は幾年を經て依然として存せり。仰臥七年手筆を措かず。腕疲るれば紙を人に支へしめ、疲れ極りて憩ひ、憩ひて又筆を執る。脊髓の膿決潰するもの二三孔あり。日々ガーゼを換ふる時疼痛堪ふべからず。號泣の聲隣家に聞ゆ。斯の如きにありて、人の來りて文學を談ずるある、即ち議論風發止まる所なし。全く痛さを怠るるものの如し。彼曰く、關羽の隻手を虎に與へ隻手を以て書を捧ぐるもの幼時以て奇となせり。今や即ち異しむべきなしと。一日枕頭に故伊藤左千夫の侍するあり。彼遽かに痰の氣道に充塞するありて、氣息全く塞がる。家人驚きて醫師に馳す。左千夫一人座にあり、周章爲す所を知らず。既にして子規の指頭頻りに動くあるを見、筆を取り、墨を含ましめて之に授く。子規即ち枕頭の書簡紙を取り、
  歌を書して曰く「常ノトキハ歌ヲ罵ル紅ノ廣長舌ノスクミス動カズ」と「スクミス動カズ」は「スクミテ動カズ」の誤記なり。凡そ病臥七年、肉落ち骨立ち、毛髪悉く剥離す。宛然之れ黄泉の人なり。而(94)して居常行往概ね前述の如し。醫師の死を宣する素より故あり。死を宣せられて死せず、筆を執つて休まざるの氣魂壯健者猶及ばざるの状ありしもの、異しむべきに似て必しも異しむべきに非ず。信に入れる一念の力は古來斯の如き異常の現れをなすの普通なるなり。一年にても長生きせんと思ひて斯の如き異常の一念に入りたりと見べきにあらず。病を機縁として斯の如き異常の一念に入りたるが爲に、一年生き、二年生き醫師の想像し得ざる七年の長きを生き得たるなり。予は常に思ふ。病者長生の消息乃至病者快復の消息、關つて此の點に存する者甚だ多し。醫藥養生の關する所固より少ならずとせずと雖も、或る種のものに至つては雖藥は要するに有力なる後援者たるのみ。病者自身の態度にて先づ己を活かし、己を殺すもの多し。己れ先づ死する、千萬の後援者ありとも何の爲す所かあらん。元來病に對して左樣に急遽狼狽する事實は壯健の時より自己の生活に充實する所少きためなり。生活の充實し緊張するあり、病の來る來らざる、實は關する所至大ならず。病來らざるも我が道あり。病來るも我が道あり。道は須臾も忽にすべからず。予は道を歩むに是れ日も足らず、病君勝手に坐り込み給へとて、餘り一向きに相手にならず、よい顔せずば、拍子拔けたる樣にて追々に退散すべきも少からず。夫れを珍しき客人來れるらしき樣にて、一々十々挨拶應對して遺す所なきやうにする故、よい氣して長逗留の心持にもなりぬべし。餘りに病氣を對等親して大童になりて、相撲取るゆゑこちらにもあらぬ疲れの出で來るなり。要心は臆病にせよとはさる事なれど、臆病なるは萬人通有にして臆(95)病にせよと言はずとも、誰も臆病なるに於て後れを取るべきにあらねば、もう少し大膽に無關心にすべき部分の多きを考ふるに於て損失なきなり。臆病と無關心とは衝突するにあらずやと言ふ人もあるべけれど、無關心は第一義なり、臆病は第二義なり。或は兩者同義とするの適當なるべきも、しかも共存すべくして衝突すべきにあらず。壯健者が病者に向ひて同情なき説を平氣に述べ立つるやうなれども、局内者は惑ひ易く、局外者には却りて分り易し。況や壯健者と稱するもの、何れか病人の候補者ならざらん。病むは苦し、死ぬは辛し。辛ければこそ病氣を氣にして斯の如き病氣論をも考ふるなれ。病者のためにして自己のためなり。壯健者のためにして同時に凡ての病人候補者のためなり。病人と言ひ壯健者と言ふも實は同じく死亡候補者なり。死亡候補者なる生存者が、如何なる信を抱いて生死を貫かんとするかが實は本當の問題なり。
 故長塚節の喉頭結核なりとの診斷を受けし時は、東京の街道に物音を聽かず、全都鬩として響を潜めたるかを疑ひし由話せり。彼此の時既に決せる所ありしなるべし。爾後各地の漫遊を休めず、山に登り、河を渉りて自然の抱懷に親しめり。時々京地に來るや談論風發予等常に顔色なし。予竊に思ふ。彼の病氣は彼の命を縮め、彼の信念は彼の病躯を長からしめたりと。生死一貫、彼の信念は、永久に活く。小説「土」の上に、「芋掘り」の上に、「長塚節歌集」の上に、非ず、彼に接したる凡ての人心の上に。
(96) 予の腦充血を患ひて小澤國手の御厄介となるや、昏迷數日、醒めて全頭の水中に没し居るに驚けり。既に癒えて始めて自ら起ちて厠に行くや眼猶眩するを覺えたり。障子を開きて外縁に出でし時、偶ま幼時夢みたる亡母の面貌を想ひ出せり。歸來直ちに机に向つて二十餘年前の夢を記す。國手と家人と交々予を叱すれども予の筆甚だ澁滯せず。三四日にして稿を脱す。此の時予の心固く病に關するなきを信ぜり。爾來予は數次重大なる病氣を經驗せり。經驗する毎に予の病氣觀は、予自身に對して確實性を保するの觀あり。曰く、神心緊張せる時病決して入る能はず。入るも即ち退散す。退散せざるも長引かず。長引きて死ぬるは早まりて死ぬるに優れり。一分生き延び得れば一分の生活を爲し得べければなり。夫れ以上のこと健康者にも望み得べからず。人は皆死ぬる者なればなり。斯の如し。
 更に立ち入りて言へば、佛國人を戰慄せしめたる土佐侍は、平氣にて腹切りし時が生の頂點にして、その後の命は有るべきにあらず。もし有りても蛇足なり。火中に偈を成せし禅僧も、お七も爾なり。夫れより後は要らぬ命なり。夫れ程に考へてかからば病氣も怖氣立ちて退散すべく、生も亦初めて充實せん。この事他日評論すべし。
                 (大正六年「信濃教育」十一月號)
 
(97) 復古とは何ぞや
 
 古に復らんとすることは新しき命に復らんとすることである。不純になつたものが當初の純粹に復り、因習に囚はれたものが當初の自由に復り、瘠痩に向ふものが、古い果皮を破つて當初の發芽に復らんと希ふ事である。
 當初の發芽に復る事は、古きに復る事であると共に新しき生命に復る事であり、神より與へられた發生の心に復る事である。末世雜行の衆徒は宗祖の心に復るを希ふことによつてのみ行心の淨化を得る。新しき宗派は、古き佛陀の心に復らむと希ふ人によつてのみ常に創成されてゐる。明治維新は新しき日本の建設なると共に日本創始の大精神に復る事であるが故に之を復古と稱する。維新は復古である事によつて、日本建國の大精神に合するの根據を完全に有し得るのである。復古の眞諦を知らずして復古を嗤ふものは、目前の衆象に没頭して末世の雜行にのあ執心するの衆徒である。彼等の唱ふる新しき道とは、不純と因習と瘠痩とによつて煤びつつある舊き道である。彼等の稱する古き道とは、(98)予に對しては人類の根本義に立つた新しき最初の道である。彼等の所謂新しき道とは、予に對して疲れたる古き道でゐる。この故に藝術は末世に至るに從つて頽敗するの外はないのである。偶々古きに復らんと希ふものによつてのみ僅かに眞生命の光に接し得ることはある。併し乍ら、夫れも嚴密な意味では當初の生命とは隔つたものであらねばならぬ。時代が隔つてゐるからである。泣いても叫んでも、末世の衆生たるを免れる事が出來ないからである。
 予は斯の如く古代の心を崇ぶ。藝術に於ては古代藝術の精神とその形體とを崇ぶ。併し乍ら、予が如何に古代藝術の心と形に憧れると言うても、予の肉體と精神は要するに現代のものである。そこに予としては超ゆ可からざる※[門/困]域があるとはいへ、予としては、其處に自ら踏むべき道の領分がないではない。その領分は現代に居て古代藝術の精神に復歸せんと希ふ最高の努力から生るべき道である。その努力は現代に在つて最も清く、新しく、純粹に、自由に、根柢的に予を活きしむべき力である。夫れは勿論古代藝術の心と形には遠い。併し乍ら、現在にあつて最もそれらに近く歩まんとする努力である事に於て、現在の予を最高の意味に擴充する唯一の道であるのである。
 道心の成就は小兒の心に復る。夫れを押し進めれば出生以前の虚無の心に復るかも知れない。死して達するのは夫れを言ふに庶幾い。小兒の心に復るというても、大人が小兒の心になることは出來ない。小兒に近き清淨赤裸の心に住し得るのである。明治維新は王政の復古であるが、日本を橿原宮の(99)昔に復したのではない。修道の士が小兒の心に復り得ず、明治維新が橿原宮時代に復り得なくとも、修道の士は自らの歩むべき道を開き得た事に於て、明治維新は明治維新の大道を拓き得た事に於て、特殊の性命を有し得るのである。
 正岡子規は今から二十年前に於て、明治の短歌が萬葉集の古に復らねば新しき性命に復り得ぬことを説いた。古に復るといふことを外形的に考へて、直ちに新しき短歌との間に當然の矛盾あるを斷定して、子規の復古説を嗤笑したものは、當時天下を擧げて殆ど皆然りであつた。而して斯樣な種類の議論は二十年後の今日に於ても、猶多くの人に依つて代る代る唱へらるるを見るのである。
 近來萬葉集の流行は、果して眞の自覺ある萬葉崇敬者によつて現れた現象であるか、否かは、茲一二年を經過せねば分らぬところであるが、左樣なことは我々には何れでもよろしいのである。我々はただ日本民族詩發生の源流に溯つて、そこに常に我々の活くべき眞義を捉へてゐればいいのである。夫れが現在の我々を眞實に清く、新しく、擴充し開拓すべき唯一の道であるのである。流行とは多くの場合直ちに雲散霧消を意味する。現在の我々は、現在の萬葉集流行と何等關係なしに歩み行くが本然であると考へてゐる。夫れは近來に至つて急に高まつた萬葉集熱が他日急に冷却する時あるを豫想するは、過去の幾多の現象に考へて愚かなる觀察ではないと思ふからである。いつまでも萬葉集でもあるまい。もうそろそろ目先きを變へようぢやないかくらゐの聲はボツボツと生れてゐるのである。
(100)   十月二十九日
         (大正六年十一月「アララギ」第十卷第十一號)
 
(101) 女及び女教員
 
 人間の中に女といふは、打見たる所顔に鬚髭《ひげ》なく脂肪多し。脂肪多きは皮膚を滑かにし、鬚髭なきは皮膚を軟かにす。軟かにして滑かなる皮膚は、愛くるしく和げる顔面を形づくるに適せり。脂肪多きは外熱を傳へざるに於て重寶なれども、之を皮下に藏するは運動に便ならず。鬚髭なき皮膚と相待つて外物に當るに適せず。從つて萬事受身なるを以て安全とす。女の本性この邊に盡きたり。進んで外物に突き當らんとするものには別に男あり。皮膚、骨格、體力、精力すべて女に超絶せり。古來よりの政治家、宗教家、思想家は固よりにして、料理、裁縫の末技に至るまで道の深邃精妙なるを需むれば即ち男子を要するにて知らる。受身にして柔かく和げる心は、強き仕事をなし、深き心を究むるに適せざるなり。適せざるを知りつつ左樣の領域に進まんとするは、自らを危險に近づくるものにして、何處までも押し進むれば女の破滅なり。破滅に近づくの道を通らずとも、女の通るべき本道は別に存するなり。本道とは何ぞや。子を産む道と、産める子を育つる道なり。この道のみは女の天賦と(102)する大道にして、到底男を以て之に代ふべからず。天の女に授くる所誠に斯の如し。授くる所を重ずるに於て、女の生存は意義あり。授くる所を輕じ、之に遠ざかるに於て、女の生存は無意義なり。女の性命は繋つて茲に在り。この道を外にして女の道存せざればなり。女の體力を増進し、女の智力を増進し、女の性情、品位を涵養し陶冶するといふもの、畢竟この女の大道を完全に歩ましめんとするがためなり。男も斯く考ふべく、女も斯く考ふべきなり。天の理なれば從ふべく、天の命なれば輕ずべからず。人間の計らひを以て兎角に左右すべきにあらざるなり。從つて女が男の愛情を要求し、男の保護を要求して完全なる家庭を形成らんとするは、天の命ずる所を行はんとする純正にして至美なる要求なり。男子は此の要求に限り女子に屈服すべし。
 或は日く、女子に職業有るの要なきか。答へて日く、或は有らむ。併し乍ら夫れは第二義以下の要求なり。何かの場合の用心たるに過ぎず。或は曰く、女子に慈善、救濟等の事業なきか。答へて曰く、有り。併し乍ら夫れは副貳的のみ。本道を距る甚だ遠し。何會など稱して家を外に飛び歩く女を見よ、輕浮多くは近づく可からず。斯の如き女あるは世に弊ありて益なし。或は曰く、現時世界戰爭に際して、女運轉手あり、女水先案内あり、女巡査あり、甚しきに至りては女兵隊あり。斯の如きは如何。答へて曰く、之れ有るは、之れ無きより氣の毒なり。誇るべきにあらず。體力と心力とを養ひ置けば、まさかの時は、何うにでもなるなり。左樣なる用意して戰爭を待つ國は何處にもあらず。或は曰く、(103)現時歐米濠洲に女代議士あり。女判事あり。女辯護士あり。如何。答へて曰く、之れ有るは、之れ無きより奇觀なり。世複雜にして樣々の變態を生ず。男にして白粉を塗りて女の眞似するものあり、女にして鬚を養うて男の眞似するむのあるが如し。擧世の女皆鬚を生さば如何。擧世の男子皆白粉を用ひば如何。女代議士の如き亦此の種類のみ。多少の變態は容るるを濶しとす。併し乍ら取つて以て本態とすべきにあらず。
 凡そ女の天賦能力概ね上述の如し。これを本とするに於て女の道榮え、女の道榮ゆるに於て人の道榮ゆ。男子の營々として動き、佶屈し經營し碎心し辛酸するもの、往々にして女道の繁榮を中心として旋囘するに似たり。正成も死ぬる際には子を便りとせり。子孫をしてその志を遂げしめんとせるなり。孔子の後世恐るべしと言ひたるは、女道繁榮の將來を豫想したるなり。人の血は子孫に傳はるに於てのみ永久なり。この志遂げすんば子孫をして成さしめんと思ふは正戌のみの所懷にあらず。人間の理想は數代數十代を以てして猶遂ぐ可からざるもの多ければなり。
 世に女教員なるものあり。小學校にも之あり。國家教育機關の一に備はり、男教員と同じき禮遇を受け、通勤するに袴を穿てり。初め人以て奇異となし、後に及んで人の之れ有るを怪まず、怪まざれども珍重を加へず。今も猶然りとなす。その珍重せられざるは女の天賦と能力に不似合なるの致す所なり。教育の事たる國家百年の基を立つる所以の道にして、之れ重ずる深ければ深きほど、之に當る(104)べき人材の要求は高きを加へざる可からず。現在の國家は普通教育の至重なるを説きながら人材を得るの道を講ぜず。講ぜざるにあらざるも實際に於て人材を得ざれば講ぜざると同じ。高材逸足の滔々として教育以外の道に進み行く現在の趨勢を見て、教育爲政者乃至教育當路者は果して如何の感ありや。明治の初め教育未だ盛ならずして教育者の重ぜられ、大正の今日教育甚だ盛にして教育者の重ぜられず、往々にして民衆の指導を待ち、稀には指圖を受けんとするが如きを何と言ふべきか。府縣市町村會議に於ける教育に對する言議、竝に當局の之に對する態度の如き、往々にしてこれが好箇の例證を與ふ。人材の集らざるは人材を求めざるなり。人材を求めざるは夫れ程の必要を感じ居らざるなり。必要を感じ居れりとするも所謂必要とするものの内容を伺はば、或は存外氣拔けするの感なきを保せず。然る所以は、教育を以て至重とし、教育に人材を集むるの急なるを説く當路者が平氣にて女教員を採用し、猶將來女教員の採用率を高めんとするが如き言をなすを見るにても知らる。この通りにて進まば普通教育の人材は行く行くすべて女子に求むるが如き奇觀を生ずるやも知れず。所謂人材なるものの内容もこの邊にて大概を知るべきなり。元來女の天賦能力は家を成し、子を産み、子を育つる以外に之なきこと上述の如し。小學校にて幼董を教育せしむるが如きは、外觀やゝ女子の天賦に相應するが如く思はしむるも、女は元來自分の産める子を育つべきものにして、他人の産める子に對して愛情起らず、此の點第一に男子の如く愛情の廣からざる所以なり。啻に兒童に對するのみにあら(105)ず、一般の男に對しては、自分の愛する男以外に男を愛する能はず。狹きが如けれども此の處女の尊き所以なり。一般の女に對しても、自分の特殊關係ある女以外に女を愛する能はず。姑、小姑、嫂乃至親戚、近所の女互に相むづかしき所以なり。男に對して然り。女に對して然り。況や博く人間を愛し、人生を思ふが如き事をや。斯の如き狹き愛情をもてる女が、數十人の学童に對して汎き愛を注がんとするははじめより無理なる事なり。無理を敢てして汎き愛を注がんとするは、心殊勝にして結果甚だ不自然なり。作爲の痕を止むる所以なり。
 女は識見その他の心力皆男の如く行かず。心を動かすは多く目先の現象にして、思ふ所亦男子の如く遠大なる能はず。威嚴はその不得手とする所にして、強ひて威嚴を現さんとすれば滑稽に終る。人を壓するの意力なきためなり。斯の如きに兒童の薫陶を委ねて晏如たるを得ば、教育の事の如き初より多く憂ふるを要せざるなり。幼兒と思ひて輕々しくせば悔を百年に貽さん。三つ子の魂百までとは諺に止まらず。何人も一生の方向が幼兒の感化に根ざすを思はば問題は輕々しく終るべきにあらず。或る教育者は女教員を多く採用すれば、校内に反抗者なく、仕事穩便に進みて都合よしと言ひしことあり。斯樣なるを念とすると言はば、教育の事は眞面目に談ぜざるがよきなり。知らず、文部省は今後女教員數を何の位の率までに採用するつもりなりや。夫れにつけても全國現在女教員率は如何程なりや。その内長野縣の率如何程なりや。長野縣内にては何郡市が女教員の最高率を示し、何郡市が最(106)低率を示し居るや。過日新聞紙の報ずる所を見れば、歐米各國女教員率の甚だ多きが中に、獨逸のみは格段に少なし。新聞紙にて知りたる事ゆゑ正確なりや否やを詳かにせず。若し正確なりとせば、獨逸今日の國力と普通教育の實質と幾何の關係ありやは、興味ある考察たり得べく、同時に男教員國と女教員國との關係を考ふるは面白き研究題目たり得べし。
 すべて女教員のみに限らず、女が家を外にして獨立したる職業を營むは事甚だ自然にあらず。打見たるにて凄まじき心地す。女教員の未婚者なるうちは猶見安し。既婚者乃至子有てる女が袴穿ちて路上を歩めるは何の現象ぞやと思はる。この事予一人の情の偏れるにあらず。大抵の人皆爾か思へり。萬人の皆爾か思ふは、自から人間自然の本性に根ざせるなり。予は女教員となれる人を詛はんと思はず。國家が女子教員養成機関に力注ぐ程度の過ぎたるを怪しみ、その自ら教育を重ずと稱する内容が、如何なるものなるかを知らんとするの興味多きなり。
 歐洲大戰は日本に異常の覺悟と教訓とを與へつつあり。我國の教育は今後總じて今迄の如き生まぬるきものに任すべからず。斯の如き際に當りて深く教育の事を思はば、男教員はも少し一身を忘れて眞劔なる心境に立ち入り、女教員は成るべく早く家に入りて竪實なる家庭を作れよかし。
                (大正六年「信濃教育」十二月號)
 
(107) 鍛錬せられざる心
 
 予の心は今筆を執る心と相距ること甚だ遠い。相距ること遠い心に從つて筆を執らないでゐることは、現在に於て最も予に適從する道である。最も予に適從する道は、最も予に自然とする道であると共に「信濃教育」を作るに不都合とする所である。「信濃教育」を作るは予の努である。予の努とする所を缺き、予に適從する所以の道に從つて、之を以て自然の道なりとして自ら許すことは、今の予には少々難しとする所である。世に氣分を尊ぶといふ人々がある。瞬間の心の赴きに從ふと稱して、髓時心の赴く所に拘束を加ふるを以て陋とする人々がある。斯の如き人々は明治、大正の思想界より生れた新人と稱せられ、又自由人と稱せられる。予は新人となり、自由人となる前に、未だ色々の勉強をせねばならぬ状態にある。新人の新、自由人の自由、予には今甚だ縁が遠い。予は予の務を果すために筆を執らねばならぬ。筆を執る心と相距る遠き今の心を督して、筆を執る心に近づけんとするには多少の工夫が要る。予が筆を執らんとして一日過ぎ、二日過ぎ、遂に空しく數日を過したのはこ(108)の工夫の存せるが故である。予の心をして、筆を執る心と遠ざからしめたものは予の兒である。予の工夫はここに存した。予の心をして今強ひて筆を執らしむるは、已むを得すんば予の兒について筆を執るより外に道なき事を知つたのである。
 後漢の劉秀は兄劉演の更始に殺された時、演の爲に喪に服せなんだ。更始と共に王莽の軍に當らねばならなかつたからでゐる。史家はこの劉秀を描いて飲食言笑。惟枕席有涕泣所。としてある。予は兄を哭するの情を抑へて、兄を殺した人と共に飲食し、言笑した光武帝を以て虚僞の心に住したものとするを得ない。兄を哭するは萬人共通の情である。萬人共通の情を鍛へて飲食し、言笑する心に到らしめ得るは萬人中稀に一人である。予は斯の如きに當つて、喪に服して號泣するを得るが、未だ更始と共に飲食し、言笑するの心を持ち得ない。鍛錬する所甚だ淺いからである。予をして若し秀の心の一端を持し得ば、予は平然として「信濃教育」の爲に教育上の問題を草するであらう。草し得ないのは予の情の未だ甘たるき證據である。予の歌は平常冴えたる情と、鍛へられたる力とを目指してゐる。目指す所斯の如くして予の情の甘たるき事斯の如く、予の力の鍛へられざる斯の如しである。予の歌の到る所淺きはここに職由する。現代の新しき歌人が單に瞬間の氣分を尊ぶといひ、刹那の感激を捉ふといふが如きは、現在の予の念とする所と相距る甚だ遠い。俳人芭蕉は「道ばたの木槿は馬に喰はれけり」といひ、歌人子規は「瓶にさす藤の花房短かければ疊の上に屆かざりけり」というてゐ(109)る。兩者を以て感激なき平凡の作となす徒の多いのは、冴えたる情、鍛へられたる力の極致する所に無頓着なるの多きを證するものである。予が光武帝の心を體し、更にその心を押し進めて或る境域に澄み入るを得しめたならば、或は芭蕉、子規の詩境に參することを得るかも知れぬ。予の念とする所斯の如くして、情の甘たるき、力の冴えざるに想ひ及び、更に「信濃教育」の原稿が數日を費して猶筆を執るに到らざるが如きに至つて、彌々予の名譽にあらざるを感ずる所である。
 予は予の兒が、予の情の脆弱なるに肖るを恐れた。それがために、甘たるき躾方を避くるを念とした。兒多く予を畏れた。畏るるを知る心は、嚴かなるものに入るの道と信じてゐる予は、兒の予を畏れ、予の兒を畏れしむる心を以て父子の道を行ふものとして多く怪しまなかつた。予は歌の道に於て先進者の後進者に對する甘たるき奬勵が、滔々として後進者の心を低卑に就かしむるの現象を知つてゐた。予は歌の先生ではない。併し乍ら心から予に來つて、共に歌を究むる少數の後進者がある。夫れ等の人々に對して予は成る丈け稱賛の詞を吝むと共に、出來るだけ微細の缺點をも假借しまいと心掛ける。歌の道を畏れしむるは、歌の道を嚴かに歩ましむる所以であると信ずるからである。自ら愛するものを放縱に流れしむべきでない。予をして今再び教員たらしむるも、此の心は渝らぬつもりである。生徒の發動する心を皆自然なりとして之を容れんとするが如きは、生徒の情意を鍛錬して根柢ある力となさんと志すものの爲し得る所でない。予はこの心を以て予の兒に臨んだが故に、兒の予を(110)畏れたことを以て寸毫の遺憾を感ぜぬ。遺憾を感ずるは予の督勵の、猶兒の上に汎く行き渡らなかつた事である。兒病む事十日、病勢遽かに至り、遽かに進み、醫の技の施すべき所なし。病兒須臾も予の名を呼んだ。予は枕頭を離るる暇がない。食膳に箸を取るの時間すらない。一日多く一食、稀に二食を多しとする。徹晝徹夜して侍するもの連日、兒遂に起たず。年十八。今予の體は多く疲れてゐる。兒に對する予の經驗について書かんと欲した幾分をも認めぬうちに東方將に微白ならんとする。筆を擱く外はない。一月八日未明試筆
                 (大正七年「信濃教育」一月號)
                                          ○
 神田和泉町の小川眼科病院に子供を入院させて、二階の一室に腰を下ろした時は口が苦く乾いて居た。子どもの眠が潰れるか、潰れぬかの境にゐたからである。子どもを手から離せないので、東京へ來著の趣を端書で左千夫先生に知らせたら、先生は直ぐに訪ねて來られた。來ると直ぐに歌の議論が先生から始められた。君等の歌は現實的でゐつて面白いには面白いが氣品が缺けてゐる。丁度天麩羅のやうなものである。旨いには旨いが品格がない。八百善の料理必しも旨からざるも、氣品を備へてゐる事に於て他と異る。料理の上等とすべき所以である。君等の歌は天麩羅科理の格に當る。石川啄木の歌なども天麩羅料理である。現實的である以上に、も少し拔け出た高い所を持たねばならぬとい(111)ふのである。その頃先生と予等と歌に對する考が大分違つてゐた。そのため「アララギ」の上でも毎號議論を闘はせるやうな状態にゐた。予は一夜睡らずして汽車にゐた事と、病兒に對する心配の疲勞とで甚しく腸を害してゐた。腹が痛んで下痢が一時間に數囘ある。先生今日は腸が痛んで耐へられません。私にも言ひたい事はあるが、今日は迚も駄目です。先生の議論も後日に延して下さい。と言つたら、先生は、僕がこの位熱心に言ふのに腹の痛い位はこらへ給へ、と言つて中々議論を止めぬ。正午少し過ぎから、到頭夕方まで議論を續けて歸られた。夫れは七月の末蒸暑い日であつた。先生も予も汗を拭き拭きしてゐた。夫れから三四日して、予の國に歸つた夜に左千夫先生の訃報が屆いた。先生に逢つたのは議論の日が最後であつた。その時の予の兒は昨臘小石川病院に歿した。一月二十四日
            (大正七年二月「アララギ」第十一巻第二號)
 
(112) 犧牲
 
 或人曰く、現在の支那に人物の大きなるは澤山あり。只難局に対して自己の財産地位乃至生命を犧牲にせんとするの氣込あるもの殆ど絶無なり。支那の衰ふる所以なりと。この言文那を語つて更に中れるが如し。日本にて現在あれほどの國状に臨むあらば、身を挺して之に當らんとするもの踵を接して至るべし。日本は土地柄ゆゑ人の柄は小さきやうなれど、この一點を身上として三千年の國體を維持し來れる如し。小事あるも犧牲者出で、大事あれば益々出で、國難に臨みては擧國皆犧牲者たらんとするの觀ある事普通にして怪しからず。義務よりも衝迫とすべく、責任よりも興味とすべきに似たり。日本の演劇の内容に犧牲者出でざれば滿足せられず。「人形の家」「マグダ」が騷がれしは束の間の現象にして、忠臣藏は相變らず民衆歡呼の中心となり居れり。日本の芝居の觀客は、感奮するよりも感泣せんとす。感泣するは悲しきと共に嬉しきなり。嬉しければこそ泣くために金を費ひて芝居見に行くなり。忠臣藏が日本の芝居の中心となり、忠臣藏を見て泣き、泣きて滿足する所、民衆の興味(113)明了に現る。獨逸に決闘あり、日本に仇討あり、切腹あり。國民性の現るる所、法の許すあらば、仇討も猶今日に行はれん。時世の許ざるものありといふも、乃木將軍の切腹を非議するもの殆ど絶無にして、稀に之あらば民衆之を容さず。武士道は鎌倉時代より起れりと言ふも、武士道は犧牲道にして、犧牲道は日本創始以來常に國家の基調を成し來れる根本的精神にして、卒然に成れるものにあらず。從つて必しも武士といふ特別階級の特有物にもあらず。その證據は、徳川時代に武士道の精神やや弛媛せる頃、武士道に代つて江戸に侠客道あり、火消道あり、更に下つて賭博道あり、掏兒道あり、更に甚しきに至りては盗賊道あり。賭博道、掏兒道、盗賊道皆厄介道なれども、犧牲的精神を以て貫の一致せること武士道に比すべく、或は此の如きに却つて國民性の眞の根蔕を發見し得ともなすべし。明治維新の際、將軍戰はずして大政を奉還し、大名、小名異議を存せずして封土を奉還せしは、異常の際に國民性の異常に現れたるものにして、日本にありては必しも事新しからず。大化新政の際にも各部曲の私有地没收せられて、新に班田授受の法を設けられたるに對し、異議がましきこと起りしを聞かず。大國主尊は自ら經營せる國家全部を差出して、天孫に委ね奉りしこと神代にありて已に先例を存せり。之等に比して考ふれば將軍の大政奉還、大小名の藩籍奉還の如き、我國にありて當然とする所にして驚くべきにあらず。元來權利、義務などいふこと今時めきて人の口にすれど、それほどのことは昔の日本人にても知らぬほどの馬鹿者にあらず。互に權利を重じ、義務を重じ來りたれば(114)こそ、三千年來の國家を維持し來りたるなれ。只夫れほどに重しとする權利の觀念を更に一歩超え拔けたる世界あり。感激の世界これなり。感激の世界は權利の世界にも義務の世界にもあらずして、唯一犧牲の世界なり。斯の如き世界に住するを知る日本人は、自己の有する權利を知らず、他に責むべき義移をも怠れ果てたるが如く振舞ふを以て怪しとせざるなり。加之、この世界は日本民族の三千年來住み馴れたる世界にして、最早鍛錬に鍛錬を加へ、徹底に徹底を重ねたれば、突發的感情となりて現るるよりも、恆久的意志となりて國民の習慣性を成せり。偶々突發的、激情的なるは、更に今一段の突發にして異常の境遇に會して即ち現る。之を權利、義務の世界より見れば、日本民族の普通とする習慣が既に普通ならず。況して日本民族の自ら以て異常とする犧牲的世界に至りては想像だも或は難からんとす。堺事件の時、佛國公使が切腹者の前にて失神の状ありしは無理ならぬ事にして、乃木將軍の殉死は外國人より今も不可解とせらるべし。大國主尊の國讓、大化改新の土地返上、明治維新の藩籍奉還、支那人より見て奇態なるべく、特に現今の支那人より見て大に奇態なるべく、西洋人より見て如何の状なるかを聞きしことなし。
 人に墮落あり、國に墮落あり。三千年來の日本にも弛綬期と緊張期とあり。假に平安朝期と江戸時代末期とを以て日本の弛綬期なりとする時、大正の今日を以て、緊張期なりとするに於て何人も異議なからん。併し乍ら、明治末期乃至大正初期の人心を以て、明治維新乃至明治初期の人心に比して緊(115)張の程度を考ふる時人々に如何の感ありや。大正の今日は維新當時の如き異常時際會し居らずと考ふるの自然にして、自然の趨く所おのづから人心の弛緩を來すは已むを得ざる所。罕に人心の弛緩を慨くものあるも聽くもの餘り氣乘りせず、慨くものにも自ら呑氣の現象あり。現時世界戰爭の將來を心配するは何人も然りとすれども、寢食を忘れて心配するほどの人は見しことあらず。戰後日本人の覺悟は机の上にて盛に議論せられ演説せらるれど、歸宅して晩酌する頃は大抵の人多く忘れて泰平の心となる。現今教育者の攻究しつつある戰後教育は如何の程度を以て教育者に心配せられつつありやを知らず。必しも戰後教育に限らず、すべての教育問題が現今頗る煩多を加へ來り、教育者會合の種類のみにても指を屈し難く、一面より見れば寢食の暇なきに似たらんも、寢食の暇なきもの必しも氣乘りして居りと定むべからず。氣乘りして居りとも氣乘の程度如何を自ら顧みて苦笑せざるもの幾人ありや。何處までも氣乘りして居りと想ふ人は、自己の心事を維新前後の誰彼に比較して考へ、猶自ら強うするを得ば歡びて可なり。曰ふものあり。時代既に弛緩す。教育者亦時代の人なり。教育者のみ弛緩せざること難しと。この言理あり。予は想ふ。明治維新を成したるは必しも明治維新當時の人々にあらず。二百年前に光圀あり。爾來宣長あり、篤胤あり、長英あり、崋山あり。誰々彼々のあるありて遠く彼の大業を胚胎せること贅するに及ばず。現代教育者の覺倍を以て之に比するに、教育者の自ら居る所は維新に於ける先覺者に比せんとするにあるか。維新當事者に比せんとするにあるか。(116)或は兩者を兼ねんとするにあるか。或は維新の大勢に從つて從順に兩刀を脱したる諸國の侍たらんとするにあるか。比喩較々大袈裟にして不釣合なるの觀あるも、念とする所おのづから比なきにあらず。時代弛緩せるが故に我亦弛緩すと稱する教育者より長英、崋山を出さざるは明白にして、維新當事者の心事と相比するは氷と炭とを比するに等し。教育者は出發の初めに於て先づ自己の自ら居る所を定めざる可からず。居る所を定めず、定むるも自ら低卑なるに居て教育者を尊敬せよなどと呼ぶは、呼ぶの眞面目なるに從つて益々滑稽を感ぜん。元來自ら居る所高ければ犧牲之に伴ふ。居る愈々高くして犧牲愈々大なり。衆人の感激自ら到る。到るの現在なるあり、現在ならざるあり。五十年百年を經て初めて到るものすらあり。到るの相同じからざるも犧牲を伴はずして人を動かすあるを聞かず。我國學制を頒布してより既に四十餘年、教育者より果して如何なる犧牲者を出したるか。程度を卑くして考ふれば、凡ての教育者皆犧牲者なるの觀あり。薄給に甘じ、世に顯れざる仕事に没頭して一生を終るが如き之なり。少しく程度を高めて考ふれば犧牲者の數俄かに減じ、彌々高めて考ふれば犧牲者の數殆ど絶無ならんとす。七博士の辭職の嘲笑を以て迎へられしに對し七博士に何の辯解ある。早稻田大學の紛擾は設立精神低卑なりしと、事功を念とし過ぐるの陋なりしとより當然の破綻を世に示したるに過ぎず。設立紛擾を鎭め得ざるは勿論の事、部内教授を盡して之を鎭むる能はず、學校同窓者を盡して之を鎭むる能はず。荏苒數月。一旦財力者の出づるありて忽ち鎭靜に歸したるが如き、現時(117)教育者の眞價現れ得て明白に過ぐるを感ず。斯の如くにして猶且つ教育者を尊敬するの興味は日本人には起らず。飜つて各地中等程度學校の教育を見よ。教師と生徒の間に事なきを以て、上乘とするの程度を以て滿足せんとせば知らず。少しく教育の眞諦に立つて之を考ふる者、現状を以て如何の感ありとなすか。生徒師を重ぜず、父兄亦師を重ぜずと言はば夫れ迄なれど、師を重ぜざるの原因は誰かその責任に當る、と問はれて教育者は何と答へんとするか。吾が國中等學校教師を養成する機關に高等師範學校あり。現在中等程度學校の教育殆ど其の實を收め得ざるの觀あるに對して、全責任を負うて可なるほどの實權を有せり。高等師範學校の有する實權斯の如く、その實權を有する學校より輩出する教師によりて爲さるる教育の實績斯くの如し。高等師範學校の卒業生に学力乏しきか否かを知らず。品行修まらずといふ類の聲を聞きし事なし。併し乍ら、教育は學力や技術や品行のみにて出來るものと思はば大なる間違なり。問題は高等師範卒業生に犧牲的精神の有りや無しやに存せり。有りや無しといふ言葉は變にて、少しも無きは之なからんも餘り乏しきは無きが如く、少し位ありても他の多きものに壓せらるれば之亦無きに同じ。高等師範學校の學風と、犧牲的感奮の精神と兩々相對してその間相通ずるものありとなす者と、相通ずるもの少しとするものと、兩者殆ど黒白相反すとなすものと、何れが多きかを知らず。高等師範學校及びその卒業生より考ふれば、自ら反省するに於て損失なく、自ら反省して根本的缺陷に思ひ到り得るに於て慶賀すべきのみ。入學資格の變更も可、内部の(118)空氣に代謝を行ふも可、入學資格の變更も、空氣の代謝も容易ならずと考へなば廢校も可。氣を新にするには異常の手段を必要とするあり。一官立學校を廢して、代るに新しき他の機關を以てするが如きは國家として容易の事。容易の事によりて教育界の氣を新にするを得ば、國家の仕合せ之より大なるは無し。若し、早く既に改革すべく、或は廢校し、或は新機關を設くべくして未だそのことなしとせば、※[開の門構え無し]は高等師範學校の惡しきに非ずして、國家の惡しきなり、若くは民人の惡しきなりとも考へ得べく、歸著する所は時代の惡しきなりとも考へ得べけれど、時代惡しとて惡しきままにして置くを承知せざる民人もある事を思はざる可からず。斯の如きつむじ曲りの民人は少數なれば、打棄て置くべしとなして介意する無くば、後日臍を噬む時、何の顔を似て國家に對し今日少數のつむじ曲りに對せんとする。各地師範學校は高等師範の分身なり。分身無氣力にして初等教育自ら亦無氣力なりとせば之を改め、之を救ふは、高等師範を改め救ふより急務なるはなし。普通教育を云爲する時、問題は直ちに高等師範に向ふ。それほどの實權を握り居る教育機關に對して、國民一齊に無關心の態度なるは何故ぞや。知らず、高等師範は國民の斯の如く無關心なるを似て喜びとなすか、憂ひとなすか。更に知らず、今日の高等師範及びその卒業生は、今日の中學及び初等教育を以て根柢的に甚しき缺陷ありとなすか、無しとなすか。缺陷ありとなす時、その責任を以て誰の負ふべきものとなすか。問はんと欲する所は、必しも學力の有無にあらず、技能の優劣にあらず、又必して品行の良否にもあらず、(119)只一點犧牲的精神の磅?如何にあり。
 近時各地方師範學校卒業生につき悲觀的批評を聞くこと多し。實際の如何なるかは予の知悉し得ざる所、近日人の來りて之につき語り聞かするものあり。曰く、近時の長野師範卒業生を以て一概に無氣力なりと評し去る者あるは酷なり。彼等の思想上には近來著しく近代的煩悶を有せり。人生の歸趣に對する煩悶之なり。この煩悶あるや、形は師範卒業生なりといふも、心は人生に對する懷疑者なり。彼等の眞面目なる懷疑者は教育に對しても勿論眞面目なる懷疑者なり。懷疑者は解決を得るまで悶え艱み苦しまざる可からず。悶え艱み苦しみて猶解決し得ざる心を以て生徒に對す。一擧手一投足にも猶戰慄を覺ゆ。斯の如きを捉へて直ちに無氣力なりと斷ずるは少くも同情なきに近し。彼等の或る者は思ひて思ひ得ず、苦しみて苦しみ切れず、從つて思想上著しく他と孤立し、親友の間柄と雖も自己の思想を通ずる能はざるに至り、遂には孤獨の寂寥に住するに至るものありと。予驚き問うて曰く、斯の如くんば大問題なり。幾人の自殺者を出したるかと。その人曰く、未だ自殺者を出したることなし。予重ねて問うて曰く、自殺以外に如何なる犧牲者を出したるかと。曰く、著しき犧牲者を出したることもなし。予之に於て初めて安心して曰く、凡そ新しき思想上の運動には必ず幾多の犧牲者を生ず。藤村等の運動に犧牲者透谷を出し、子規等の運動に古白を出せり。藤村等の透谷より得たる感銘は、今猶藤村等の心に生くべし。藤村操の自殺は幾多の親友に今猶異常の感銘を殘せり。自殺の可な(120)るにあらず。犧牲的精神の威力が眞劔に他の同人を動かすなり。恰も馬場辰猪が亞米利加に客死して日本の立憲政體を成さしめたるに似たり。大なるについて言へば釋迦も耶蘇も孔子も大なる犧牲者なり。犧牲者の靈威が今日佛教となり、耶蘇教となり、儒教となりて時代の人心に活くるなり。芭蕉も大なる犧牲者なり。子規も大なる犧牲者なり。大なる犧牲者の文學が後代の人心を支配するは宗教と異る所なし。長野師範卒業生の一部に存するといふ懷疑思想の煩悶が、如何なる性質に屬するやを知悉せざる以上一たび聞ける所を以て速斷すべきにあらず。只さしたる犧牲者を出したる事なし、と言ふに考へて左程重大事とは思はれぬ心地す。近來一般青年者の煩悶は一種の流行なり。長野師範卒業生が現代の流行に加入して煩悶をなすや否やをも知らず。只、今日の予には夫れ程重大なる問題として耳朶に響き來らざるを感ずと。その人又言ふ所なし。
 予は今後日本に現るる重大なる犧牲者の中に教育者の多數に數へられんことを望む。夫れ迄は教育の權威など餘り自身の口より説き出さぬを以て感じよしとするを覺ゆ。
                 (大正七年「信濃教育」二月號)
 
(121) 多言
 
 現今支那人ほど、國權擁護、國威伸張を叫ぶ國民はなかるべく、自國にて叫び切れず、東京に來て叫び、米國に行きて叫ぶの状、熱誠の驚くべきものあれど、叫ぶこと愈々多くして國權も國威も愈々伸張せられざるの觀あるを見れば、國威、國權は絶叫する丈けにては伸張し難しと思はる。現に東京にて支那の志士等の會合する有樣は大したるものにて、慷慨淋漓腕を扼し案を叩き、案を叩く拳よりは血の流るるも珍しからずとのこと、夫れほど熱烈なる慷慨は予の未だ經驗せざる所なれば想像だも及ばず。想像も及ばぬほどの慷慨家を以て充たされたる支那の志士より國家を左右するの力を生み得ざるは何の爲めぞ。思ふこと言はぬは腹ふくるるわざなりといへば、言ひて腹空かすを快とすべきも、空きたる腹より力は生れず。膨れふくれて堪へられぬまでに膨れたるを、堪へぬきたる腹より力は生れ來ると思はる。餘り堪へたるは、堪へたるのみにて其のまま萎縮するものあるべけれど、堪へて萎縮するほどの腹は初めより膨るる要なく、膨るるならば力の生るる所まで押し進むべきなり。予は歌(122)作りなるが、予の感動が或る物を捉へて之を歌はんとする時、歌の出來あがるまで努めて予の感動を人に語らず。語らざるは人に秘するにあらず、一度にても二度にても人に語れば、發表の衝動は夫れだけ薄らぐわけにて、自然歌に集注する力の放散を感ずるが故なり。加之、予の歌はんとする感動が重大なれば重大なるほど、容易に歌に著手し得ず、著手する時恐怖心起るゆゑ、夫れのみにても著手の容易ならぬ心地す。歌を作るに恐怖心起るなど馬鹿げたるやうなれど、恐怖心の起るは單に臆病なるが故なりと言ひ去る人ある時、予には夫れよりも嚴肅なる意味を以て、人間の心を考へんとするの必要を感ず。猶加之、作歌の動機重大なれば重大なるほど、予には永く之を心に保持するの必要あり。咄嗟の感激が咄嗟に歌に現るるなどいふこと、新しき歌人の多く口にする所なれど、予の經驗する所と予の念とする所は之と相距る甚だ遠し。若《しか》き心を以て支那の志士を想ふとき、その拳より流るる血の餘りに容易なるを感ずるは是非なき所、遼東還付の際、邦人多く口を緘したると相對照して尠からざる興味を感ぜしむ。學校に小言濫發の先生あり。小言愈々多くして生徒愈々之を輕侮す。何事にも説を成し得る人に、何事にも到り得し例少く、何事をも成し得たる例も少く、説く愈々多くして説く所の重量愈々減却す。仇討の二年三年數年の沈黙を經て多く志を達するは、沈黙して敵に悟られじとするの必要もあらんが、身を棄てて仇の首取らんと決心したる嚴肅なる心が沈黙を生み、異常なる力を生む事自然の順序にして、眞劔なる心は多言を生まず。予の立場より言へば歌の上の多言者たらん(123)よりも、歌の上の多力者ならんを冀ふ所以なり。
 信濃は由來言論の國なり。教育界に於て特にその然るを覺ゆ。昨夏予の長野に來りて「信濃教育」の事に從ひしより既に半歳以上、久し振にて故國に歸りて言論の盛なること舊によりて渝らざるを覺ゆ。慶して可なりや。弔して可なりや。腹ふくるる者多きは、腹ふくれざる者少きの謂ひにして、眞に腹ふくるる者の多きは、之を腹ふくるる者少く乃至腹ふくれんともせざるものに比し、慶すべきありて、弔すべき所以なし。只その膨るる腹が言論となりて現るるの多くして、力となりて現るるの少きの現象舊態依然なりと言はば、予は信濃の教育が何れの日か眞の多力者となりて、天下の重きを負ふに至るべきかを思はざる能はず。頃者信濃教育會議員會を傍聽し、且つ一夜諸君の宴末に列す。言論の多き今更に驚くべきを覺ゆ。日く、小學校教員俸給國庫支出の豫算全額を、教員俸給に支出する能はざるは文部省の腰の弱きなり。之を尋常小學校教員に支出して高等小學教員に及ばす能はざらしめしも亦文部省の腰の弱きなり。政黨者の教育を重ぜずして政府者亦教育を重ずるの實を示し得ざるの時、教育の威重何によつて之を伸べんと。洵に然り。文部省の腰の弱きは年來の公論今更ら説を煩すに黨らず。政黨者の教育を重ぜざる是亦周知のこと、今更ら説を煩すに黨らず。却つて思ふに文部省の腰果して弱しとすれば、※[開の門構え無し]は文部省が全國教育者の腰弱きを代表せるものにして、獨り文部省の腰のみを以て弱しとすべきにあらず。その故は全國教育者の腰悉く強くして、文部省のみ獨り腰弱し(124)といふ理なければなり。日本國の教育者皆多力にして文部省のみが無力ならば文部省は、永續せず。文部省の無力なるは全國教育者無力の反映なりとも言ひ得べし。凡そ斯の如き言説をなして悲憤慷慨すること夫れ自身が教育の權威揚らざるを證するものにして、教育の權威揚らざるは文部省の腰弱きがためか、教育者の腰弱くして無力なるためなるかを考ふべし。文部省ならずとも例は幾らもあり。各府縣會に於ける学務課の腰は如何。市町村會に於ける小學校長の腰は如何。市町村會議員の私宅をぐるぐる廻りして御機嫌伺ふやうなる小學校長は今どきは無かちんも、數年前は斯るためしの絶無なるにもあらず。斯の如きの教育者が何人集りて教權云々を叫びたりとて天下何人も恐ろしとは思はず。政黨者も議會終りて各々國に就くの時教育者を恐ろしと思はねばこそ、教育問題に對してよい加減の取扱ひをなし、黨然教育者に支給せらるべき國費をも、自ら恐ろしと思ふ他の方面に分たんとするが如き擧にも出づるなれ。自らの腰弱きを言はずして他の腰弱きを言ふが如きは、芝居にてチヤリなどに現るる幕、斯の如き言説が長野縣一般教育界に相變らず現れ居るやうにては、言論の盛大も張合拔けの感なくんばあらず。例は更に議員會より擧げ得べし。夫れは信濃教育會規則の改正につき議員三分の一以上の發議にて過半數の賛成あり、議決は直に行はれたれば規定に依り直に效力を生じて、該規則の改正は即時行はれざる可からざるの時に當り、會長の思ひ損ひなりとて、一旦の決議を取消して之を再議に附したるの奇態事あり。事は常識にて判斷し得べきの事、規則の明文によりて一旦已に(125)效力を生じたる決議を取消して再議に附するが如きは議長として甚しき失態なり。斯の如き失態に對してその失態を通さしむべからずとするもの少數にして、多數者は議長の發意によりて甘んじて之を再議に附すべしとなせり。議員は議長に從順にして、會則の精神とする所に不從順なるもの。議員が斯の如きに當つて何れに從順なるべきかは、教育者を待たずして明白の事、理に對して議長に抗議するもの極めて少數なるの現象を以て教育者の腰の強度は明白に測量せらる。斯の如き腰を持して他の腰の弱きを憤慨するが如きを滑稽とせざるものあるか。議長が失態を通したると、議員が失態を通さしめたると、兩々相對比して一事は萬事なるの感を懷かしむるは自然の事、教縣の確立するせざるなどの問題は暫く措きて、教育者は先づ斯の如く明白なる事例より自己の足元如何を考察すべきなり。
 擧ぐる所の例は近日囑目の一二事實に過ぎず。予は信濃教育界の言論及び行動が悉く斯の如きの種類に屬するを信ぜず。然れども露骨に予の感を披瀝せしむれば、信濃教育界に相變らず饒舌の行はるる間は、總じて未だ眞劔の道に入りたりと思はれず。賑やかく景氣よきは言論の盛なるを然りとすれども、賑やかく景氣よきは物言ひて腹空くの快にして、人を動かし、世を動かすの力とはならず。眞に腹ふくれて已むなきに言ふの嚴肅さは何人も否定する能はざれど、夫れすら節約に節約を加へたるは誰の腹にも應ふる心地す。餘り多く拔く刀は人を恐れしめず。拔く者は眞劔ならんも、又かと人に思はしむるは拔く刀に虚あるなり。度々拔けば虚あるゆゑ、拔き度きを耐らふるほどの工夫して初め(126)て力は蓄へらるべし。教育者の力は教育事實なり。教育事實より發する力にあらざれば教育者の威重は生れず。力は教育事實に加へられ、力は教育事實に潜み、力は教育事實より生る。教育事實を離れて教育者の生命なし。所謂養ふべしとするの根據は渾べて之に在り。養ふ所深く此處に存するあるその力牢乎として動かすべからず。發すれば即ち人を勤し、發せざるも人自ら動く。言論の威重は斯の如くして初めて生ずべし。言論は貴重なり、輕々しく動かすべきにあらず。動かすの眞劔なれば愈々動かすを難んず。難んずるは臆病なるにあらずして重量を備ふるがためなり。斯の如きの言論は稀にあるべくして頻發せらるべきにあらず。信濃教育界に於ける言論が斯の如きの域に在りとする時、今日の如き饒舌と喧騷とは先づ第一に靜肅に歸らざるべからず。教育の祭壇を以て神聖なりとせば祭壇は靜肅なるべく、發する聲は森嚴なるべし。斯の如くにして人心に響かざるの聲なし。聲あるも響き、聲なきも響く。聲あると聲なきは差とするに足らず。斯の如きに在つて教育の威重を憂ふるは要何れにありや。威重々々と叫ぶ間は威重は生れず。威重は喧噪場裡に墜ち來らざればなり。予は既に力の由來を教育事實に歸せり。教育事實とは教育現象の一切を指す。一切を指せども更に之を貫くの精神を指す。之を貫くの精神を指せども又更に之が精神に貫かれたる教育現象の大小巨細一切を指す。眞の力はここに籠りここに現れて、他に籠らず他に現れず。戊申の役三田の福澤先生は、上野の砲聲を聞きつつ終日生徒に講義を續けたり。曰くあの音を耳にするなと。教育は斯の如きの自信に立つて、(127)斯の如き事實にまで進まざる可からず。三田翁必しも人に教育の威重を語らず。而して天下靡然としてその風尚を仰ぎたるの觀ある這般の消息、現今教育者の最も潜心を要する所。特に教育の威重を以て任ぜんとする長野縣数育者の最も潜心を要する所。潜心の要あるを思はば、暫くその膨るる腹をこらへて潜かに内心に苦しむ所あれよかし。
                (大正七年「信濃教育」三月號)
 
(128) 容さざる心
 
 長野縣の教育者は容易に人を容さず。世人或は以て偏執となし、縣内にありても往々これを憂ひとするものなきにあらず。人は元來容さるるを喜び、容されざるを喜ばず。人を容すの世に景氣よく、人を容さざるの世に景氣宜しからざる故、人を容す少き長野縣の教育者と、それら教育者によりて爲さるる教育が存外世に不景氣にして評判宜しからざるを以て憂ひとするもあるべく、容易に人を容さざる教育者によりて爲さるる教育の實績が、進行少くして遲滯多きを以て憂ひとするもあるべく、憂ひとするの樣々にして、程度も標準も一樣ならざれば一括して當否を言ふべからず。評判よきは評判惡しきより結構なれど、事は評判を目的として行はるべきにあらざれば、評判よきと、事のよきとは區別して考へざるべからず。評判惡しきを誇る要なきは、評判よきを喜ぶ必要なきと同じ。教育の實際が遲滯多きを憂ふるは、憂ひとするの較や實質的なるに考量の値あれど、意義の重大なるは進行爾かく輕易ならず。輕易なる進行に馴るるは事務家の事にして、事の事務以上に出づるあれば即ち進行(129)事務の如く圓滑ならず。教育を器械視すれば進行事ごとに輕易に、教育を精神的に取扱へば趣之と異る。輕易なるは遲滯するよりも便にして、輕易なるべきに遲滯するの陋なるべきも、便にのみ從ひて他を顧みざるは不便以上の病弊を釀す。
 大凡人他を重ずれば之に求むる所自ら高し。求むる所高ければ容す所彌々狹し。容す所狹きは求むる所高きが故なり。求むる所高きは其の物を重しとする故なり。此の故に人珠玉に細瑾を容さずして瓦石の潰敗を意とせず。物を容す衆きは物を重ずるの薄きなり。物を容るるの狹きは物を重ずるの深きなり。孔子の世を重じ、人を重ずるや即ち容易に世を容さず人を容さず。剛を申※[木+長]に容さず、儉を管仲に容さず、孝を重ずる事最も深くして、孝道を彼二三子に容さず。三千の子弟中、仁の日月に至るとなすもの只一顔子を擧ぐるのみ。曰く其の爲す所を視、其の由る所を觀、其の安ずる所を察する、人焉くに※[まだれ/叟]さんやと。人を待つの斯の如きは人を重ずるの斯の如きなり。元龜、天正の頃我朝英雄の輩出雲の如し。而して志聖賢にあるもの唯一加藤清正あり。清正既に秀吉の勘氣を蒙り近日切腹の命あるを傳ふるや、増田右衛門尉密かに清正に就き輙かに石田三成と和すべきを勸む。禍根の三成に在るを知るなり。清正答へて曰く
 いや/\八幡大菩薩、摩利支天尊も照覽あれ。治部少輔と一生仲直りは罷成らず。縱ひ太閤の御前直り申さず、このままにて切腹仰せ付けられ候とも、治部少輔めと仲直りは仕間敷候。右衛門尉も(130)聞えざる仁にて候。故に此の度高麗おらんかい迄押渡り、六七年振りに始めて參り候上は、日來のよしみにて候條、せめて玄關までこそなくとも、次の間迄なりとも出でられ、久敷、なつかしきなど申さるる事、たやすき程の事にて候。それを坐ながら、首ばかりひねりまはし、よく來れりなどと申され候は、過分にも無之候。所詮貴殿などの樣なる禮儀も知らざる者と、申談候事入らざる事に候。云々。
 當時清正に豐臣氏の禍根三成にありと爲し得るほどの才覺あるは、覺束なからんも、主家の没後に遺孤を擁して最後まで忠節を貫き得たる清正が、切腹仰せ付けられ候とも治部少輔めと仲直りは仕る間敷候、と斷言し得たるは吾人をして少からざる興味を覺えしむ。多く容さざるは深く容すなり。清正の三成を容さざるに秋毫の間なきは、豐臣氏に容すに秋毫の間なき所以、豊臣氏に容すに秋毫の間なきは、武士の道を盡すに秋毫の間なき所以、志眞に聖賢にある即ち斯の如きを當然とす。大凡世を開き俗を革むるもの皆容易に容さざるの心より出づ。容易に容すもの只流俗と共に浮沈して雷同附和するを能くす。目前の便利ありて永遠の性命なし。釋迦の王位を棄て、妻子を棄て、宮殿を棄てたるは時流の容す所に從ひ得ざりしなり。親鸞の水に投ぜんとしたるは佛を容し得ず、法を容し得ず、僧を容し得ず、乃至大千世界を容し得ざるの心より出でしなり。一旦源空に遭ひて一切を容し得たるは、極度に許し得ざる心を以て、極度に許し得る心を得たるなり。維新の大業は、容し得ざる心を、とど(131)の詰りまで推し進めたる國民的決心の結果にして、國民が決死の覺悟して、初めて生くるを得たるは、やゝ親鸞の心に通ず。元來教育の事たる、其の根源容し得ざる心より發す。一切を赦し得れば一切を教育するの要なきなり。一切に求むる所高ければ高きほど彌々容し得ざる心を生ず。教育の存在ここに初めて意義あり。此の意義に於て師の弟子に容すの容易なるは、弟子をして低卑に就かしむるの端。優秀なる子弟の師に容され易くして輕薄に墮つる事あるは比々として例證し得べし。模範生徒などいふものを作りて生徒の名譽心を刺戟するは教育の便法にして、便法の便なるに馴れ、師と弟子と與に安價なる滿足に落著するは人間の弱所を助成するに値す。此の故に孔子容易に彼の二三子に容さず。之を重ずる彌々深くして、之を容さざる彌々加はる所以なり。概ね、人、褒められたるは夙くに忘れ、叱られたるは永く記憶す。師弟の間然り。親子の間然り。叱るの眞劔にして褒むるの甘たるきを證するに足る。褒められたるは當座に心地よく、久しきに及んで自ら空虚を感ず。叱られたるは當座に心地よからず、久しきに及んで自ら緊肅を感ず。世の教育者に待つ所亦然り。教育者の互に相待つ所も亦然り。待つ所の意義高ければ高き程容易に之を容す可からず。相容さざるによりて互に振肅し、互に切磋し、互に磨勵す。濫りに衆俗に比肩し、流風に附和し、求むる所相若き、待つ所相比して、求むるの低く、容すの易きが如き、外面の進行甚だ圓滑無事にして、内面に百年教育の深憂を藏す。所謂長野縣教育者の容易に容さずとなすもの、その性質必しも一樣ならざらんも、容易に容さぎるは容(132)易に容すに比し、慶すべきありて憂ふべき所以なし。却つて思ふ。長野縣教育現下の憂とすべきは、容易に容さざる者より、漸くにして容易に容すものに移る傾向あるの所に存せざるか。師範學校の教育は如何。中學校は如何。小學校は如何。その他各般の學校は如何。校長の教師に對するは如何。教師の生徒に對するは如何。教師の教師に對するは如何。教育者の社會に對するは如何。 正岡子規の俳句革新を唱ふるや、偏に芭蕉、蕪村を説いて自餘一切の月並を排す。蕪村もよし、月並も惡しからずと云ふにあらざるなり。其の和歌革新を唱ふるや、偏に萬葉集を説いて八代集以下の流風を排す。萬葉集もよし、古今集も惡しからずといふにあらざるなり。其の御歌所風の和歌を見ると、與謝野一流の歌を見ると、雙ながら一擲土芥の如し。求むるもの深く存するが故なり。その求むる所を以て門下に臨む。嚴肅想像に足る。予當時信濃山中にありて遙かに歌稿を寄す。彼存在中、予の歌を取る只一首のみ。日本新聞に課題「松」の出づるや門下伊藤左千夫、爲に興津に旅行して松原を寫生し歌嚢甚だ重し。歸路汽車の新橋に著くや、先づ直ちに根岸に走つて先生の廬を叩く。先生曰く旅裝何れより來る。曰く興津より來る。曰く興津何事かある。臼く課題「松」を得たるのみ。先生笑つて曰く、興津は古來文人によりて言ひ古され、詠み古されたる所、君今行くも創意甚だ難し。歌稿は見るを須たざらんと。左千夫唖然たり。左千夫の予の歌を容さざる久し。大正二年七月予の病兒を伴ひて東京に至るや、左千夫直ちに予の病院を訪ふ。手に予の著京を知らせたる端書を持てり。座(133)定まるや直ちに予の歌の可ならざるを論ず。曰く君の歌は天麩羅なり。旨きには旨きも品格なし。石川啄木の歌の如きは天麩羅中の天麩羅なり。君等濫りに新しきを求めて時流に化するの陋なきかと。予當日下痢頻りにして腹痛亦劇し。厠に行く事一時間數囘なり。即ち抗辯せんと欲すれども亦堪ふべからず。勉強して曰く、生の言ふべきあるも腹痛堪ふべからず。願くは貴説を後日に聽くを得んと。左千夫眼を張つて曰く、予の説く斯の如し。腹痛の如きは堪へられて可なりと。未より酉に至り、膝を進め、気息を速かにし、縷説措かず。予遂にその魄力に屈せり。滯京二三日にして予の信濃に歸るや、其の夜飛電ありて左千夫の逝去を報ず。蓋し腦溢血なり。予驚愕措く所を知らず。則ち曩の腹痛を堪へよと言ひしもの自から教を予に遺すに似たり。左千夫先生を思ふ毎に、この事未だ腸に徹せずんばあらず。長塚節亦子規門下の俊髦なり。自ら居ると、人を待つと兩つながら苟もせず。曰く歌を批評するは、其の歌の既に堂に上れるを認むるが故なり。自らの歌を人に示して批評せよと言ふは、自作の己に一領域を占むるを認むるが故なり。是の故に他を批評せんと言ふは、他の存在を認むる所以にして、自らの歌を他に批評せよと言ふは、自らの存在を容す所以なり。兩者苟もすべきにあらずと。節存世中殆ど予の歌を批評せず。予亦批評を求むる事を敢てせず。大正三年八月、予の作る所の歌若干あり。節當時病を養うて福岡大學病院にあり。命※[其/月]年を保す可からず。書を予に致して曰く、君の八月作を評せんかと。節の晩年予の歌に言及せしもの只この一囘あるのみ。同年の末、予歌集刊(134)行の意あり、之を節に報ず。心竊かに節の容認を得んと欲するなり。節答へず。書信の中一言歌集に及ぶなし。更に又之を報ず。復た返酬なし。節の意予の歌集を早しとするか、或は病苦頻至返書之に及ぶの暇なかりしか。節の平生より之を推すに、前者當るに庶幾くして、予の自ら策勵する所亦之に依るべきの至當なるを思ふ。大凡子規、左千夫、節皆容易に容さざる者を以て世に待ち、同時に門下及び後輩に臨む。志擧り綱張るもの固より其の所なり。今予編輯する所の雜誌、人の衆き事左千夫、節在世當時に數倍す。人多く、紙多くして執る所省みて往々疇昔に若かざらんとす。多くして弛み、寡くして張る。人然り。國然り。天下萬事然り。教育の事制度、經營、外漸く完備せんとして戒むべき所方に内に在り。矜る者、弛む者、比するもの、同ずるもの、志卑きに就て存在却つて保たれんとす。保つ所幾何ぞ。齢傾き命終れば即ち盡く。身後考へ來れば教育の威何れにありや。抑も長野縣教育者の容易に容さずとするもの、憂ひとするは、之を保つにあるか、保たざらんとするにあるか。保つと保たざると兩つながら至高の意味に於て嚴肅に考察する所あるべし。
                (大正七年「信濃教育」五月號)
 
(135) 師範教育
 
 只今其の筋にて師範教育改善につき審議しつつありとの事なり。夫れに對し信濃山中にて意見を述ぶるは遠矢に過ぐるの觀あれど、述べ置くこと強ち無用にあらず。
 第一に師範學校の入學賓格を高等小學二年卒業者とするの議多きやに聞けり。高等小學二年卒業者を收容して師範學校の年限を五年にすれば、現今高等小學三年卒業程度のものを收容して四年の師範教育を施すと大したる相異なく、現今の師範教育を是認する人々より見れば、修業年限の長くなるだけ、師範教育に於て多少の長を加へ得べしとなさん。殊に修業年限三年の高等小學校は全國を通じ實際にいくらもこれ有らざるの現状なれば、教育系統の上よりも高等小學二年より師範學校に接續せしむるを都合よしとするに似たり。併し乍ら教育の實際より言へば、現今全國に亙りて高等小學の課程を修むる兒童は小學兒童中、品質の劣等なる兒童その多きを占め、その傾向は年を追ひて益々著しからんとするを實際とせり。尋常小學兒童中品質優良なるは多く中學校に進み、殘れるは高等小學に進(136)む。全國を通じ富の程度追々に進み、教育に對する人民の理解も追々進むにつれ、子弟をして中學校に學ばしむるを普通とするに至り、若くは普通とするに至らんとするの傾向あるは今日に於て明かにして、左樣なる場合中學校は實際に於て我國の普通教育機關の主要點たるべきは想像に難からず。左樣なる場合、尋常小學校の優良者は益々多く中學校に收容せられて殘れる劣敗者が高等小學校に收容せらるべきは當然なり。左樣なる劣敗者の中より師範學校の生徒を採らんとするは、師範學校生徒の品質を優良ならしめんとする希望と悖反す。この悖反は容易ならざる悖反にして、修業年限の如きは正に至りて多く問題にあらず。我國小學教育の張弛一に繋りて茲に胚胎すべし。現在にありても我長野縣などにありては師範生徒の品質漸く下りつつあるを唱へらるるの有樣にして、之が救濟の急務なるを感ずるに際し、師範教育の改善を議するものが萬一斯樣なる問題に考へ及ばざらば由々しき遺憾なるべし。吾人の見る所を以てすれば、現在の師範學校は修業年限を二年に短縮して、入學資格を中學校卒業者とすべし。中學卒業者を收容して二年の専門教育を施すは現今の師範教育を完成するに充分にして、夫れ以上の實績を收むるに於て亦充分なるに庶幾し。師範學校生徒の品質を優良ならしむるに於て、將又師範學校生徒の實力を増進せしむるに於て之以外の道あるべしとも思はれず。況して年限の短縮によりて現今の經費中より省略し得る所僅少にあらず。省略し得る所を以て師範教育完備の資に充つるを得ば師範教育の充實益々その度を加へ得べし。論者或は年限の短縮を以て師範教育特(137)殊の薫陶を缺くべしとなすものあらんも、今日の師範學校に於て行はるる特殊薫陶なるものは頗る怪しき薫陶にして、森大臣時代の主義も徹底せず、さりとて之に代るべき何等鮮明なる主義を榜示せられず。局内者より見れば何等かの意義を以て行動しつつあるの勿論ならんも、自ら意義ありとなすもの必しも意義の明瞭ならず。偶々明瞭なれば、所謂師範風として世上の畏敬を得ず。今の世の中にて所謂師範風なるものに隨喜するものは、師範學校當局者を隨一とし、續いて師範出身者の多數若くは一部に之あるべく夫れ以外にあつては殆ど之を求むべからず。然る情勢に立ちて現在の師範風なるものを固執せんとするは尠くも世上の意向と馳背すべし。此の點よりして師範教育現制四年を二年に短縮するは教育のために損失なくして利得多し。之を中學校に附設して現存師範學校を廢止する必しも妨げず。改革の人心を新にする事、居の氣を移すが如ければなり。(此の場合高等師範學校を廢して大學に師範科を附設する事論なし)論者又或は言はむ。中學校卒業後二年を費して師範學校を卒業するも、物質的待遇現今の如くにしては到底多數の入學志願者を得ること難からむと。この言理あり。曩に文部省小學校数員俸給國庫補助二千萬圓を出すに意ありて果さず。今度より一千萬圓の補助支出を實行し得たり。一千萬圓の二千萬圓乃至數千萬圓に上るの何年を期すべきかを知らず、只國家にして眞に憂ひを今日の小學校教育に抱くとなさば、斯の如きの費額は當然相當支出の道を講ずべきものにして、所謂其の筋の審議といふもの斯の如きに思ひ及ぶべきは當然なり。費用は出ぬからその範圍(138)にて改良の策を立てたしなどいふは小料理人の言ふ所にして、大事に當るものは規模自ら之と異るべし。更に思ふに、假に師範制度を現存のままにするも、尋常小學校卒業後七年を經て師範學校を卒業するの勘定にして、之に新制陸軍一年現役を加ふれば八年にして初めて小學校教員の職に就くを得べし。尋常小學校卒業後八年といへば今日の高等學校卒業までの年限と等し。斯の如きに對して今日の小學校教員の物質的待遇は果して相當なりとするを得るか。即ち師範制度はこれを改革するも改革せざるも、現在の待遇法にては早晩行き詰りを見るべきは明瞭のこと、之に對する處置の今に於て講ぜらるべきは當然に屬せり。所謂其の筋の審議なるもの必ず之と關聯すべきを信ず。果して然らば予の唱ふる所の師範制度改革は唐突無稽の案にあらず。猶予の案に依れば、師範在學中の生徒給費は年限二分一短縮と共に一人給費二倍となるの勘定にして、現在の給費を増す更に二倍ならば、年限二分一短縮によりて一人當り四倍の給費を得べし。所謂生徒收容を物質的に考ふるも猶如上の利あり。況や生徒收容なるもの實は悉く物質上より打算せられたる法則に從ふものにあらず。世上の尊敬之に向ふと然らざると、差とする所更に莫大なり。現今の師範學校が世上より何程の尊敬を拂はれ居るかに思ひ及ばば、之が改革の可否を決するは却つて局外者を適當とするやも計り難し。
 師範制度改善につきては猶男女生徒養成案に關する重要なる問題を有せり。予の女教員なるものに多くの望を屬せざる事は嘗て本誌に述べたる所にして、今更ら呶々するの煩なるを覺ゆ。國民教育を(139)重ずるほど之を女教員に委ぬべからず。御し易く且つ目先き利き當座に便利なるの故を以て重寶がるは御尤もなれど、國民教育の根幹に觸れて之を論ずべきにあらず。聞く歐米列強の中女教員率の最も多きは米國にして最も少きは獨國なりと。兩國の風尚自ら然るべきを想はしむ。日本は日本にて外國に倣ふの要なし。自ら日本國の使命を稽へ、自ら現在女教員の爲す所を稽へ、自ら自國女人の能ふ所を稽ふれば則ち可なり。予は女人を侮蔑するものにあらず。女人の使命の更に重大なるに繋るあるを知るを以て斯く言ふなり。所謂其の筋の改善なるもの此の點に關して如何の審議をなすやを知らず。予の説に關して縣下諸賢の教を賜らむことを冀ふ。
                 (大正七年「信濃教育」七月號)
 
(140) 再び師範教育を論ず
 
 現今の制度にては中學校の榮ゆるに伴れて師範學校の衰ふるは當然の順序にして、秀才といふ秀才は多く中學校に吸收せられ、殘れる僅少の秀才と多數の凡才とが師範學校に收容せらるるは已むを得ざる現象とすべく、この傾向は年を追うて益々加はり、近年にては各府縣の師範學校が生徒募集難に逢著し、再募集によりて辛うじて入學定員を充すものあるは珍しからず。これと反對に中學校は入學志望數の年と共に加はり、我が長野縣にても中学校増設を要する地方猶一二箇所を數へ得るの有樣なり。斯樣に中學校全盛の時勢にあたりて師範學校がその生徒を専ら中學卒業生より得んことに著目せず、依然高等小學二年卒業生を收容して之に五箇年の師範教育を施すを以て、從來の師範教育に一日の長を加へ得べしとなすが如き意見の多數を占むるを見るは、第一に師範教育當事者が從來自己の施せる師範教育に思ひ切りたる革新を要するものの存するに氣づかざることと、第二に人心と時勢の歸趣を寮するに何時も乍らのんきなるの致す所にして、勢去りて知らず、勢來りて驚き、應募人員不足(141)して驚き、生徒の素質低下して驚くの状立派なりとすべからず。或は應募人員の不足を以て實業熱勃興の影響といひ、六週間現役者が一年現役に改められたる影響といひ、或は師範生徒給費縮小の影響といひ、所謂影響として數へらるるもの必しも相應の理なきにあらざらんも、師範教育當事者が自己の教育不振を説くに自己に責任遠き原因を擧ぐるに急にして、自己内省の聲を發表するを聞かざる如きは一事既に所謂師範學風なるものを眼前に髣髴せしむるに足る。之を單に長野縣のみについて言ふも、我が長野縣人は利に走るに敏なりと雖も、理を見るにも鈍ならず。情に感じ、義に起つの感激を存せり。理義の存する所、感激の存する所、正直一徹自己を犧牲として生涯悔ゆる所なきの徒、事に觸れて即ち輩出す。所謂師範學風なるものは斯の如きを目して或は危險視する傾あらんも、危險視するは自己の脆きが故にして、脆きものは固きものを危險とし、冷き氷は熱き火を危險とす。上述の如き氣風を存する長野縣人は必しも實業勃興熱にのみ就かず。必しも給費少く卒業後の俸禄少きを避けず。必しも六週間現役の一年現役に改められたるに驚かず。否實業熱にも就き、俸禄少きをも避け、現役延長にも驚かざるを保せざれども、感激あり信仰ある所即ち凡百の事情を超絶して向ふべきに向ふを難しとせず。長野縣師範學校にして從來信州人崇敬の的となり、教育權威の源泉となるあらば、縣人擧つて之に趨くを欣びとすべし。知らず、師範學校なるものは從來如何なる印象を長野縣人心に刻みたるか。師範學校教育に隨喜するもの縣内の何處に行きて之を求むべしとなすか。事は一縣にし(142)て一縣にあらず。之を全國師範學校に就て見よ。更に師範學校の總本家なる高等師範學校に就て見よ。天下の人心は如何なる目を以て之等を見つつありや。「知らぬは亭主ばかりなり」とは比喩鄙俗なれども適切に之に當れるを不幸とすべし。
 今より二十年前にありては全國中學校の施設未だ備らず。所在秀才の學に志すもの多く師範學校に入れり。當時森有禮氏の策立し、奬勵せる師範學風なるもの曲りなりにも猶發生期の鋭氣を藏せり。併し乍ち森氏の規畫なるものは形に於て整備し、精神に於て生動の工夫を缺けり。森氏の規模大ならざるを見るべし。森氏逝いて三十年形骸猶存して精神年と共に愈々萎縮す。之を本縣師範學校に見るに今より二三十年前縣下秀才を集めたるより以來今日に至るまでその出身者に果して何者を出し得たるか。前期の末期に比し較々觀を異にするを見るといふも、異にするの著しからず。相通ずるの著しきに於て必しも前期と後期とを分つの必要なし。師範出身者には、我こそ教育界の權威なりと自任するもこれあらんが、自ら任ずる權威なるものが百世遂に如何と考ふる時顧みて自ら忸怩たらざるを得るか。二宮尊徳の事業は一地方の事業なり。熊澤蕃山、細井平洲等の事業亦然なり。一地方の事業なりと雖も、その精神とする所は即ち百世に亙つて人心を生きしむるに足る。教育の事業亦多く一地方に限られたりと雖も、眞の權威は百世之を滅せんとして滅すべからず。然る底のものを二三十年間に生むを望むは無理なりといふものあらんが、衆心の嚮ふ所自ら之を將來に庶幾すべきや否やを察する(143)に足るべし。模範校長の名を得て滿足し、正八位奏任待遇を得て納まりかへる教育者より百世の權威は生れ來らず。求むるもの低きには低きもの授けられ、求むるもの高きには高きもの與へらる。現今教育者の求むる所悉く正八位ならざるべきも、教育百世の權威を生むに於て今の師範學風と之を對比する時突梯を感ぜざるものあるか。少くも長野縣に於ては明治年間に教育の權威として殆ど何人をも産出し居らず。産出せざるを以て悉く師範學校の責に歸するは當らざらんも、斯の如き問題より師範學風に思ひ到るの皮肉なるは何人にも之を蔽ふ能はざらん。去年晩夏、予は或る所にて偶然某師範學校舍監長に邂逅せり。舍監長日く、今日は暑中休終りて生徒の歸舍する日なり。早く歸りたるものは舍室の掃除せざるべからざれば、彼等は成るべく晩く歸り來るなり。この一言所謂師範生活なるものを表出し得て餘りあり。斯の如き生活中より教育の構成を求むるは塵塚より玉を求むるに等し。四年の修業年限を五年六年七年に延長すと雖も爲すなきなり。單に爲すなきのみならず、年限愈々長くして弊害愈々加はるべし。吾人は眞面目に提出すべき猶多くの生ける事例を有す。今多く語るを欲せざるのみ。
 師範學校今日の急務は入學志願者を中學校卒業生に求むるに在り。一は比較的秀才を求むるを得べく、一は中學に於て比較的素直に教育せられたる生徒を收容するを得べく、一は修業年限の短縮によりて現今師風學風停滯の氣を浸潤せしむること比較的少きを得べし。然れども、之れ實は姑息の法な(144)り。師範學校にして學風の依然たるあらば中學卒業生は喜んで之に赴くを肯ぜざるべく、地方人心依然として師範學校に趨かざらば師範教育は頽勢遂に支ふる能はざるに至るべし。師範學校の頽勢は國民教育の頽勢なるに於て由々しき大事なり。斯の如きに當つて、常然生れざる可からざるものは私設師範學校なり。予は長野縣に於ては、既に私設師範教育機關の設立を必要とする機運に際會しつつあるを信ず。憂を深きに潜め、思を遠きに致すの士はこの邊につき既に工夫を囘らしつつあらん。
 若し夫れ師範學校當事者にして生徒卒業後の待遇云々を言ひ、生徒給費の云々を言ひて師範教育の不振をここに基因するとなさば、須らくその考を大にしその力を集中してこれが改善を圖り、之が所期を貫くに於て勇往邁進すべし。所信のため全力を傾倒し、甘じて之が犧牲たるを期する底の決心あらば一人の力猶天下を動すに足る。此の決心なくして自己の學校を憂ふるの言をなす、婦女子の泣言に近し。甘たるくなまぬるくして到底人を動すに足らず。犧牲的決心。これさへあれば實は初より師範教育に心配は要らぬなり。すべての國民教育に心配は要らぬなり。高等師範學校、師範學校の當事者諸君及び一般教育者諸君以て如何となすか。
                (大正七年「信濃教育」八月號)
 
(145) 理科號の末尾に記す
 
 本號は縣下會員諸氏の特別なる努力を賜ふありて、本縣内理科教授に對する主張及び教授の實際につきての主要なる一部分を發表するを得たるのみならず、資料として得易からざる實際的研究の多數を網羅し得たるは、本縣教育家の理科に對する研鑽の如何の状にあるかを窺ふに足るものなるべきを信ず。
 予は理科及び理科教授に對して全く盲目なれば、本號に於て述ぶべき何等の意見なし。只理科號を編纂するに付きて思ひ浮びたるの一端を敍して門外漢の所見を披瀝せんとするの興味を催す。
 予は歌作る事に只今尤も興味を有するものなるが、歌作る仲間に可なり多くの理學者及び其の他の科學者あり。一人は植物の根の細胞につきて研究を續け居る人にして、毎日顯微鏡覗きに餘念なし。此の人はじめて歌作りて予に示すこと三四囘に及びたれども一首をも採る事能はざりき。もう厭やになるならんと思ひ居たるに中々然らず。數囘目に至りて多數の中より四首の歌を採り得るに至れり。(146)此の人喜ぶこと限りなし。翌朝早く來りて予に示せるは昨日採りし四首の歌の清書にして、予の發行せる歌の雜誌の規定通りに正確なる楷書にて書きあり。曰くこの歌を雜誌に載するを得るやと。その態度天眞にして子供の如し。予の雜誌の選歌欄には年少の人も多く交じれり。一角の理學者が、自ら本名を記して甘じて年少の人と伍して選歌欄の一部位に居らんとする事、其の心純眞想ふべし。この人斯の如くにして多年繼續せば必ず大成する所あるべしと思へり。その後毎月作る所を見るに進歩の跡漸次顯はる。只研學多忙にして多く作る能はず。歌を齎し來るは大抵原稿締切日の早朝にして、時々戸を叩きて予一家族の朝寢を驚かすことあり。而も示す所往々一首なるあり、二首なるあり。その根氣亦驚くに値す。今一人は物理學專攻の人にして、予よりも早く予等の師に就きて歌を學びたる人、作歌に於ける眞摯なる態度は十數年に亙りて渝らず。外國にある數年の間も嘗て作歌を廢したる事なし。予等の師存生中、毎にこの人の作を推擧して予等の歌を戒めたり。此の人今日作る所の歌現代歌壇に於て優に一家の領域を保有し、純眞にして莊重なる作風自ら作者の人格流露するを覺えしむるものあり。その他猶多くの科學研究者あり。同じく萬葉集を研究するにも、例へば前記植物學者の如きは、研究の當初より世間流布の早分りものに據らず、古來よりの權威ある註釋書は概ね之を渉獵してはじめて一首の歌を解釋せんとするが如き、その態度實著にして其の研究の規模初めより大なり。斯の如きは科學者の一般に通ずる特徴にして、歌の研究も歌の制作も實は此の種の眞摯と敬虔なる心よ(147)り押し進めざれば至極を期すべからず。前記植物學者は顯微鏡覗きの鍛錬によりて純眞にして敬虔なる心を得、物理學者は物理實驗室の研究によりて同じく純眞にして敬虔なる心を得たるべく、心境純眞の一途に達するは取りも直さず人生の悟りにして、悟りの道に達するは必しも宗教よりするを要せず、藝術よりするを要せず、哲學よりするを要せざるは、科學者の心境の往々にして、藝術家よりも何々よりも透徹せる悟道に入るものあるの事例にて知らるべしと言ふ意味は藝術家、宗教家を貶するにあらず。科學者を揚ぐるにもあらず。藝術家、宗教家、科學者を通じて同じく純眞一途の心機に參するに於て、敬虔なる人生の巡禮者として何等甲乙上下を存する事あるべからざるを謂ふなり。予は信濃出身の或る病理學研究者が病躯を提げて日々その研究室に籠り、治すべからざる病苦と、救ふべからざる貧苦との中にその研究を續けつつあるの悲壯なる實状を傳聞し、尊敬の心數年來予の念頭を離れず。斯の如きを我が長野縣より得たるは、長野縣に於ける現今唯一の寶玉なるを切感せしむ。世には藝術や宗教にあらざれば純眞の一途に參し得ざるが如く思ふ人あり。自ら苦勞せざれば人の苦勞も分らず、彼我の苦勞相互に分り合へば藝術もなし、宗教もなし、科學もなし。歸する所は眞實一如のみ。科學者が宗教家を嗤ひ、藝術家が科學者を嗤ふといふ事世に有るまじき事なり。理科號には如何なれど日常思ひ居る事の心に浮び出づるがままを記すこと爾り。                (大正七年「信濃教育」十月號)
 
(148) 教育者の種類
 
 歌に月並振あり。月並振に對して新派と言はるるものあり。月並振とは千年來古今集以下の常套を守り、形も心も大同小異のものを繰り返す間に、形も固定し心も型に嵌まりて動きが取れず、所謂一種の骨董物と化し了したるもの。斯の如きものが新しく目醒めたる明治時代に何時までも存續し得る筈なく、活きたる心に根ざし、活きたる性命を捉ふるを以て使命なりと心得たる年若き文學者によりて、咄嗟の間に舊き型は破壞せられたり。型に嵌まりたる形と心が破壞せられて、活きたる心に根ざしたるもの新に現れたれば世の人之を指して新派と稱せり。されば新派と稱すれば何れも活き活きしたる生命の躍り動ける歌なりと一概に合點するもあるべけれど、夫れもさることにて月並歌に對しては大やう斯る分ちも立て得べけれ、新派と呼ばるる中にも亦大體二つの分れ目あり。この分れ目實は甚だ大切なり。
 同じく活きたる心といへど、心の動き方、大凡、人によりて千差萬別あり。放縱なる心も偽らざる(149)心の動きならば、緊肅せる心も眞實なる心の動きなり。外面的なると内面的なると、輕薄なると莊重なると、生《な》まなると鍛へられたると、温るきと熱きと、甘きと澁きと、派手なると冴えたると、何れも活ける心の動きなるに於て一なり。即ち一なりと雖も本質の差別自ら存す。この本質の差別に立ちて新派の歌自ら截然二つに分る。明星派と根岸派と之なり。明星は天の章なり。根岸は町名なり。天章のきらびやかなるに對して町名の地味なるを以てす。兩者名稱の相違すでに較やその内包を現すに似たり。即ち前者は何處までも振手に外面的なるに對し、後者は何處までも地味に内面的なり。前者は人間の官能と氣分に根ざして多く浪曼的憧憬に耽らんとするに對し、後者は感覺より入りて直ちに直截なる意志に徹せんとす。前者の求むるものは氣分、後者の求むるものは力。前者眼を瞑ぢて耽らんとすれば、後者力を集中して徹せんとす。派手に外面的なるをハイカラとすれば、地味に内面的なるはローカラ、官能を追ふを甘くして生まなりとすれば意志に徹せんとするは澁くして冴えたり。之を約言すれば明星派は一種官能的浪曼派にして、根岸派は現實的意志の追求者なり。前者浮き、後者緊まり、前者の輕くして後者の重き固よりその所なり。明星派の代表者を與謝野晶子となす。その歌に曰く
   夜の帳にささめき盡きし星の今を下界の人の鬢のほつれよ
   やは肌の熱き血汐に觸れも見で寂しからずや道を説く君
(150)   臥しませとその間さがりし春の宵衣桁に掛けし御袖かつぎぬ
   四阿に水の音きく藤の夕はづしますなの低き枕よ
   鎌倉や御佛なれど釋迦牟尼は美男におはす夏木立かな
   湯上りを御風召すなの我が上衣臙脂紫人美しき
   撥に似しもの胸に來てかき叩きかき亂すこそ苦しかりけれ
   わが前に紅き旗もつ禁衛の一人と君を許しそめにき
 根岸派の代表者を正岡子規となす。その歌に曰く
   縁前《えんさき》に玉卷く芭蕉玉解けて五尺の緑手水鉢を覆ふ
   寢しづまる里の燈火皆消えて天の川白し竹藪の上に
       以下病中作
   吉原の太鼓聞えて更くる夜に一人俳句を分類す我は
   富士を踏みてかへりし人の物語聞きつつ細き足さする我は
   人皆の箱根伊香保と遊ぶ日を庵に籠りて蠅殺す我は
   小廂に隱れて月の見えざるを一目を見んといざれど見えず
       鼠骨入獄を思ふ
(151)   人屋なる君を思へば眞晝餉の肴の上に涙落ちたり
       安徳天皇嚴島行幸
   松ながら折りて捧げし藤波の花は筵を引きずりにけり
 前者の例歌を比較せば略前述の相異の傾向を知るに足るべし。月並派の歌は千年來所在に累々たり。今例を掲ぐるの要なし。
 予は本誌に於て歌を説かんとするものにあらず。只予は多く作歌に從事す。即ち屡々歌に見る所を以て之を教育に推し得るものあるを感ずる事あり。試みに歌の三派を以て教育者に擬せんか。是亦必しも興味なきにあらず。
 歌に月並派と新派とあり。假に教育者を分類するにこの二派を以て擬する、必しも恰適なりとせざるも悉く當らざるにあらず。思ふ所爲す所十年一日嘗て舊套を脱せず。思想の芽ぶき止まり、感性涸渇して爲す所は機械的なる舊慣の繰り返しに止まる。斯の如きは極端ならんも、之に近きものを教育者中に想像するは難きにあらず。之を月並派と稱するを當らずとすべからず。機械的の繰り返し猶可なり。十年舊套を脱せざる猶可なり。貫く所自信あり、爲す所操守ある、即ち外形を見て漫然之を月並列中に置くべきにあらず。然れども自信といひ、操守といひ、固と之れ溌剌たる感性と始終するもの、未だ感性涸渇して強き自信を持し、深き操守を有するものあるを知らざるなり。恰も石炭燃えざ(152)れば機關の運轉繼續せざるが如し。この故に哲人の心往々小兒に類す。新鮮なる感動性の生涯を通じて流動するなり。僧良寛の生活は枯木に似たり。而も道に小兒と逢へば即ち、歡語相嬉戯して日没を知らず。即ち良寛の枯木は枯れたるにあらず。形枯れて心生くるなり。形枯れ心枯るるに至つては、外見相類して其の差月鼈、之を月並とするに何の遲疑かあらん。近來月並歌人中往々にして自轉車を詠み、電燈を詠みて自ら新しき仲間に入れりとなすものあり。ちよん髷に帽子かぶりしと同樣なり。古き心を捨てずして新しきもの著たりとて何の新かあらん。よせばよいのに年寄の冷水御苦勞千萬なり。古きは古きらしき顔したるが正直なり。月並透徹の骨隨を擁して新思想など振りまはすは馴れぬ刃物づかひ、あぶなさの至りなり。
 新しく目ざめたるは歌の新しきに似たり。歌の新しきに明星派と根岸派とある如く、新しく目ざめたりと稱する教育者にも亦自ら二流相岐るるものあるか。新しきは新鮮なれども生まなり。深く徹せざれば冴えに到らず。冴えに到らず鍛へられざるは、光澤多く外面的にして外に噪がしくして内に重からず。外重内輕はハイカラの象徴にして、カラの餘り高きはポンチ繪に類す。斯の如きは極端ならんも、内に持して力となると、外に現るるの容易にして輕薄なると、兩者岐るる所自ら在り。此の岐れ目、實は生得生來にして後入的に如何とも成し難く、或は兩者はじめより根本的實質の相違あらんと思はるれど、志す所によりで幾分の變化を來さざるにあらず。吾人の仰望する所は百世の下吾人を(153)威壓するに足る大威力の出現にあり。斯の如き力を仰望する心は殆ど戰慄の態度より出づ。官能の追從といふ如き生ま温き心は之を相距る千里より遠し。鍛ふといひ、緊まるといひ、集中すといひ、冴えに入るといふ、言容易にして道容易にあらず。輕易に考ふれば即ち表面的覺醒に終らんとす。明星派、根岸派は教育者に於て問題とするに足らず。問題とすべきは覺醒の道如何にあり。予は只歌の流派を以て之を比喩したるに過ぎず。教育者中亦自ら三種類あらば、自己の居る所の何れなるかと、更にその道に於て自己の到る所那邊にありやを反省すべし。輕々しく自己を許して高慢に振舞ひ、放縱に行使し、平氣に經過せば、三者その何れに居りとも生涯の到る所知るべきのみ。言ふ心は自ら許して他を規せんとするにあらず。自他を通じ、すべて人類の生活を通じてこの事唯一重要の鎖鑰なるべきを信ずるが故に言及するものなり。
               (大正七年「信濃教育」十一月號)
 
(154) 青年教育
 
 實業補習學校に實業科を重くするか、普通學科を重くするか、訓育を重くするかといふ事多少の問題となるべし。青年の多くは日常主として實業に携はるものにして、實業に携はるものに實業の知識と技能を授くるは恰適の事にして、青年要求の一部は如何にして物を得んとするかに在ること當然なれば、當然の要求に對して之が啓發をなすは實業補習學校當然の務めなりとすべし。殊に實業科目の實習は知識技能の習得なると共に、直接なる心身の鍛錬なるに於て訓育の重要なる一部をなすもの、生まぬるき實習によりて、生まぬるき習慣を醸成せざる限り、過多の實習によりて實習の反抗心を惹起せざる限り、實習の精勵を低級なる名譽心等より搾り出さんとして、外面的興味多き青年を作り出さざる限り、實習の結構なるありて不結構なる所なし。これに關して、當局は如何なる實業科目擔任教師を實業補習學校に供給せんとするか。普通教員より選抜して特に實業科を習得せしむるの企劃は、實業補習學校の性質上最も適當なる道ならんも、その選拔は少くとも一般教育者より輕視せられ(155)ざる程の教員より擧げられざる可からず。
 然れども、物を得んとするは、青年の要求する全部にあらず。心を得んとする要求は青年時代に至つて初めて自發的に發生する要求にして、その要求の熾なるや或は物を棄却して顧みず。或は一身の生命を棄却するさへ顧みざることあり。この心危險なるが如くして實は然らず。社會の進歩改革は斯樣なる心にのみ胚胎するものにして、斯の如き心を保育し鍛錬してこそ世に沈滯の惰氣を鬱積せしめざるを得るなれ。大凡世の人老年に至るまで皆この心の失はれざらんには、現世の醜相即ち影を收むるに足るべし。斯樣なる心を厄介視するは何れも斯樣なる心の遺失者にして、この遺失者相率ゐて現世情弊製造者となりつつあるなり。嘴黄ろしなどといひて人を冷視するもの概ねこの圏内に入れり。青年者が心を得んとする要求は物を得んとする要求と相俟ちて重く、或は物を得んとする要求よりも重く、猶或は物を得んとする要求を放棄せしむるまでに重し。この要求を知らずして漫然青年教育に盡瘁せんとするもの、力瘤を入るれば入るるほど青年の心を悖離せしむるに足るべし。即ち青年者に心を與ふることは、物を與ふると共に重く、或は物を與ふるより重く、或る場合は物を與ふることを顧念し得ざるまでに重し。大凡今の世に缺乏せりと做さるるは、物にあるか、心にあるか。物にありとするは見られ易く、心にありとするは見られ難し。繁忙の世の中各人深く心の中に立ち入るの餘裕を有せざるためなり。目先きの事に興味を有し、外形の成立に全力を擧げ、事功を急ぎ結果を重んず(156)るの風潮、要するに物を見るを知りて心を見るを知らざる現代の趨勢に屬せり。この趨勢の中に人と爲りたる現代青年も同じくこの風潮の浸潤を蒙り、青年にして青年特有の心を失はんとするもの少々にあらず。老年者の俗化猶忍ぶべし。青年者の俗化に至りては事未來社會の生命に關す。實業補習學校に於て心を用ふる所必ずこの要樞を逸すべからず。飜つて思ふに、現今教育者は社會に向つて何を求めつつありや。青年に向つて何を求めつつありや。あらず、自己に向つて何を求めつつありや。求むる所は物か心か。心とは外的結果を求むる心か。内的覺醒を求むる心か。物を求め心をも求むるといふはよし。自己に求むるといふ心が、往々にして覺醒せる青年輩の嗤笑を招くが如き奇觀なきにあらず。斯の如き教育者が自ら進んで青年教育に力瘤入れんとするといふ。生徒にも教師にも氣の毒の感を催す。
 抑も青年が自發的に心を追求するは、多く性の差別を自覺するより起る。性の覺醒は青年期に於けるすべての心の覺醒する源泉なり。興味が家庭内より家庭外に移る。これ社交的興味の初めて發動する所にして、社會的問題と人生問題とに對して希望と懷疑、恐怖を生じ、茲に初めて自己内心に眞劔なる幾多の問題を生じ來る。社會制度問題、倫理問題、哲學問題に眞面目に觸到し、藝術、宗教に眞摯なる敬虔心を捧ぐるに至るは、その萌芽ここに胚胎するものにして、これに對する教育者の理解が眞に青年内心の動きと合致するに於て、初めで眞に青年の心を訓陶し、指導し、鍛錬するを得べし。(157)元來青年の發動する一切の心は純粹なれども生まなり。熾盛なれども形を成さず。生まなるを鍛へ、形を成さざるものに嚮ふ所を知らしむるは、眞に青年の心を理解し、青年の心に同情を有するものにして初めて成し能ふ所にして、生まなるを見て一概に之を斥け、形を成さざるを見て無下に之を危險扱ひするが如きは、扱ふものの心、扱はるる者の生氣と相通ずるものなく、固定し、硬化したる心を以て生々しく發動する心に對するに依る。生々しく發動する心を不眞面目に了らしめ、自棄に了らしめ乃至一定の型に當て嵌めて、社會進展の芽を摘むを以て安全となすもの教育者にも多く、要らぬ所にまで忠君愛國を振り廻す阿世の學者にも多し。一例を以て言へば、教育者の會合にはよく「生徒に小説を讀ましむる可否」とか「生徒讀物の取締り如何」などといふ問題出づ。讀みものの取締りといふは多く小説類の取締りにして、教育者はよく小説の取締りを云々しながら今日迄未だ一度も小説を讀む事を取締り得たるを聞かず。彼等の取締り得たりとなすは、寢室や抽出の底にある小説を知らざるがためにして、況して家庭の本箱に重ねられたる小説を知り得る筈なし。斯の如く愚かなる問題の教育者の心を惱すは畢竟教育者が青年の心理を解せす、今一つは小説の何物なるかを解せざるに出づるものにして、眞に生々發動する心が文學、藝術、宗教に向ふは當然の心理にして、左樣なるものに向ふ心を訓へ導き錬り鍛へてこそ、眞箇人生の問題に對して眞面目なる青年を作り得るなれ。小説を讀む可否などいふ事噴飯に値するほどの事にして、試みに左樣なる人に向ひて、繪を見るの可否如何
 
 
 
 
(159) 予ははじめに實業補修學校に、實業學科を重くするか。普通學科を重くするか。訓育を重くするかと言へり。如上述ぶるものは主として實業學科と訓育問題に關せり。而して普通學科に至りては人間
(161)の鍛錬は終生の苦業である。座上の議論ではない。この點に於て現在日本の文藝に於ける思想傳播者は、容易に體得し、容易に行ひ、容易に言ひ、容易に傳へんとするの傾をもつてゐる。
(163)を以て何等かの處置が其の間に行はるべきである。この自然主義者は已に自己の家庭を破壞した。家庭の破壞乃至自殺の如き異常事は、意志の最強者もなし得、意志の最弱者もなし得る所である。この
(165)者その言や※[言+刃]」といふもの「一箪食一瓢飲云々」といふもの「寢不v尸」とするもの、何れも鍛錬的工夫の現れである。佛教に至つては更に鍛錬的色調を濃くしてゐる。内面的の悟道は常に外面的の簡約
(167) 松井須磨子
(169) 凡そこれらのものは彼の二箇月前から自殺當時までの心的過程を窺ふに皆必要の材料であるが、是等の材料を綜合して直ちに予の判案を彼に加へんとするは予の躊躇する所である。若し彼の死が二箇
(171)容する前にも少し理學者の數を日本に増すことに力を入れねばならぬというてゐる。現在の日本に個人として世界的に立派な理學者がないではない。只理學者の數が少いために大規模の研究をすること
(173)る重大なる問題である。斯樣な重大問題が、民族自決問題と共に當初よりウイルソン氏によりて唱道せられざりしを氏のために遺憾とする。西比利亞鐵道の管理權を新に米國に於て得ようとした提議が
(175)く多くあることに氣づかないのである。予は日本人が自國文明の根元に氣づく時の早く到らんことを希ふ心よりしても、歐米人の日本に留學する時の早く到らんことを希ふのである。日本の使命を世界
(177)化運動に參してゐる各方面の傾向を見ても此の事容易に窺ひ知るを得るのである。明治維新の際一番頑強に大勢に抗したのは會津藩である。維新以後は薩長の藩閥者から抑へられて、表向きに顔を出し
(179)幕中に馳せ參ずる。象徴主義が唱へらるれば象徴主義に參ずる。人道主義が唱へらるれば人道主義に參ずる。何れも一應の通り方をなし得るのである。そして主義に對する徹底者は維新以来の文學者に
(181)ものが鞏固であれば、さう容易に改變は出來ぬものである。主とするものが誠實であれば、人世に起るべき凡ての問題は大抵そのうちに包含されてゐるものである。包含されてゐるものを進展させるの
(183)はれて輕薄なる功利者を多く輩出してゐる。教育者は從來如何に之に處し、今後如何に之に處せんとするの覺悟であるか。之を考ふるは空論に沈湎する徒の事とは違ふ。
(185)は、この領分を持たぬことよりも仕合せであると思うてゐる。すべての試み、すべての運動の何物にも興味を持ち理解を持ち得る人がある。夫れは仕合せの樣で不仕合せの人であると思うてゐる。すべ
(187)が、貧乏の方に脚を向けようとはして居ないのと同じ事です。要するに人間は絶えず、産むことと育つことを欲してゐます。その二つが極めて順潮に進展する所に、健やかな文化が建てらるるものと思はねばなりません。
          順潮な    初まらね
(189)のすべての動作は人類としての原始時代に近い活動である。原始時代に近いところに幼兒と少年の生きた活力と生命とがあると共に、成人の指導と鍛錬とが加へらるべき當然の餘地が其處にあるのであ
(191)ことである。東京で開いて日本的の運動にするといふこと結構であるが、これには餘程考量しつつ行はねばならぬ問題が附隨してゐるかと思はれる。それは東京の眞中へ出陳せられて、一種子供の世界
(193)てゐること殆ど苦痛を超えてゐる。文意支離滅裂であらう。支離滅裂な文章の筆を強ひて進めてゐるのは「信濃教育」に對する予の責任を果すためである。匆忙として筆を了へること、山本氏及び小縣
(195)しも動機を輕ずるにあらざらんも、輕しとなし重しとなすもの事に當つて自ら岐れ、重大事に當つて往々にして大に岐るることあり。仔細に之を觀れば長野縣内にも多くの事功主義者あるを實際とすれ
 
造といふもの實に
(197)想が自然主義と相關する所極めて密接なるを以てして其の一端を窺ふに足るべし。由來泰西の思想は實行的性質を帶ぶるに至つて多く物質的傾向を現す。自然主義といひ、社會主義といふもの、何れも
(199)きを持ち來つて革新を唱ふるは革新にあらずして復古なりと。子規頓著する所なし。病臥の晩年多く力を和歌制作に注ぐ。而して、歌人の子規庵に集るもの僅々十數人に過ぎず。少數派の最なりと言ふ
(201)を望み得べく、上ること高きに從つて一村一郷一郡一國に及び、愈々高きに從つて窮極するところがない。彼の丘より見下す所、人家の高低田園の圍繞は容易に自己部落民の居住を指呼し得べく、寸馬
(203)迂愚者ではあるまい。
 明治に至つて長野縣の山岳と日本民衆との間に、特に密接なる觸接の道を開いたのは長野縣の教育
(205)義の一貫を得る。近者人類道を説くもの往々にして國家道を顧みざるの言をなすものがある。言者の迂なるは社會道を盛ならしめんとして家庭道を顧みざるの愚なると同じである。今日社會生活の單位
(207)一方には群小の獨立國を新造して將來の禍根を中歐に貽すの結果を齎した。委任統治の地には軍備を置くことが出來ぬ。他の世界各國領土には隨意に軍備を置くことが出来る。即ち世界には軍備を置き
(209)       ○
 高等師範學校の生んだ思想が、日本の思想界に如何なる寄與をなしたかを考へることに依つて高等
(211)つつあるは長野縣である。その長野縣から私設師範教育の聲が追々に擧りつつあるのは吾人の意を得てゐる所であるが、聲の擧る久しくて事の進む遲々たるは如何なる譯か。長野縣教育者の教育現状に
(213)ずる所を言ひ、且つ行ふに斷然たる態度を示されたのであらう。斷然たる態度は容易に取り得るものではない。自己に目覺めたる信念の確立がない時にその態度が取れない。自己の利害の念がからまる
(215)ぐと聲明して黒人を虐殺してゐる米國人を見ればこの事思ひ半ばに過ぐるのである。
 現今少年少女の雜誌を見るに悉く少年少女の弱點を挑發して販賣數を競つてゐる。予は自分の子供
(217)るか。女の弱所を挑發する砂糖であるからである。和歌に於て已に砂糖を投じて天下の青少年を喜ばせた晶子氏が、婦人問題で又々砂糖を投ずるのは晶子氏の生れ落つる時より定つゐてた順序でであつ
(219)あると思ふ。生徒の群集心は時として彼等の弱所を現し時としてその長所を現す。之に對する教育者としての態度の如何なるべきを考ふるは、教育の權威の成ると成らざると岐るる所であつて、その現
 
出發の不自然   歸著の不自然
(221)ともすべからざるに心づきし結果、左樣なる外形的施設の整備よりも更に根本的なる問題に潜入して、訓育の出發點を考へんとするの傾向を現し來たれるが今日の趨勢なりと言ふを得べし、左樣なる趨勢
(223)がば後日意外の結果を來さざるを保せず。愼重に考慮せられ、誠實に營まれざるべからざるは之を謂ふなり。之當に對する愚見は猶熟考の上明年一月號「訓育批評號」に於て之を述ぶべし。予は本號に
(225)足るもの幾何であらうか。田中翁の一生は終始徳望を以て、その郷黨に推されたといふことを同じく佐藤氏から聞いた。翁の徳望を成したものは、その性格と事業とであらう。夫れが世上の所謂資本主
(227)ものの根柢所に何の權威があるかと考へて、自ら疚しとする所を覺り得るは正直である。疚しとする心を何處までも眞面目に突き詰めて、其處から自己を成長させよと努め得るものは、青年の若々し
(229)ゐるのである。全國中學校が生徒を鍛錬すると稱して撃劔を課し野球をを課して、そこから輩出する所の卒業者は斯の如くである。中學校に於ける優秀者の如きは少年の矜恃心を成す成さぬの境に立つ一
(231)なかつたのは遺憾である。教育者の口は由來神聖な辭に富んでゐる。深憂の辭、慨歎の辭、左樣な辭は殊勝なるに似て辭自身は何にもならぬものである。訓練の事、鍛錬の事は美しく殊勝なる言語によ
 
る嚴肅感である。   發育より  嚴肅感
(233)の基調であることを否定し得ざるやうである。
 更に思ふに、兒童の生活に最も直接なる影響を與ふるものは兒童を繞る全人類の生活である。全人
(235)がある。斯の如き自由心は、教師にあつても兒童にあつても決して緊張した自由心ではないのである。自由の名を喜んで自由の上に居眠りをし、居眠りをしながら猶自由を誇らんとするものに近い佛徒の
 
信濃の舊人を
(237)の未知の新人を識らうとする事は、予の信濃に出歩くについての大きな目的であつたが、夫れが悉く目的を達したとは言はれない。中野町では小學校に行つたけれども終日(半日か、記憶せず)居て丸
 
たのである。是れ丈けの事を以て平凡事となすものあらば、その人は學校生活の眞相をよく知らない(239)ものである。氏は桔梗ケ原在任中、一村に對して嚴然たる教育の權威を立て得た。村有力者などと安價な妥協をして表面だけに立ててゐる月並な教育の權威ではない。氏は又學校内部に一致されたる信
(241)