一二二〇 【十一月二十八日・端書 東京麹町區下六番町廿七番地アララギ發行所より アララギ會員宛】

 

拜啓益御清祥奉賀上候陳ば岸本由豆流の「萬葉集攷證」は著者自筆本を上野圖書館に保存せらるる以外未だ世に發表せられざる寶典にして特に同圖書館の厚意により館内に於て筆寫を許され之れを筆寫するため小生外五人の寫字生が大正十一年三月二十日より五月二十二日までを費したる次第に有之頗る浩瀚の書なるため早速刊行の運びに到らず例により古今書院主人の義侠的厚意により萬葉集叢書第五輯として今囘その第一囘を刊行し引き續き全部(全六卷に至る)刊行の豫定に有之候讀者は例により主としてアララギ會員に求むるの外無之事情御諒察の上御購求を賜らば幸甚の至に候右御紹介旁御願申上候匆々 十一月二十八日

  猶御購求有無返信用端書にて古今書院へ御知らせ被下度願上候發兌は十二月七日の由定價一卷貳圓八拾錢郵税拾八錢に候萬葉集卷一の初めより終りまでに有之候

 

       一二二一 【十一月(推定)・端書 下諏訪町高木より 諏訪郡湊村 小澤菊彌氏宛】

 

不在いたし失禮存候今日上京十八九日歸宅廿二日より又々他行の筈に候御知せのみ申上候匆々

  一心に寫生に骨折つて見給へ

 

       一二二二 【十二月五日・端書 東京麹町區下六番町廿七より 岡山縣倉敷町朝日町松雄方 荒川左千代氏宛】

 

(652)御懇書拜讀致し候加納|巳三雄《ミサヲ》(曉)君は西須磨中稻荷に候土田君も中稻荷廿ノ一加藤方に候毎月御出詠の程祈上候匆々 十二月五日

 

       一二二三 【十二月八日・封書 東京麹町區下六番町二十七より 名古屋市東區杉村町船付七十二 村上廉氏宛】

 

拜啓御尊父樣御逝去の御報知に接し驚き入申使先年御持病に艱させられ其後御快癒にて追々御健康に入らせられ候御事とのみ存じ居候處圖らざる御訃報言の出づべきを知らざる感有之哀悼の情を禁ぜず候特に近來閑地に就かせられ御歌集の刊行も御企圖の際に有之未だ印刷に付するに至らずして御永眠の儀如何にも殘念至極に奉存候去り乍ら永年御教育の子弟皆父を仰ぐが如く景慕せられ候事今日の世にありて稀有と云ふべく眞に教育の精神に徹せられて一生を畢へ給ひしこと靈天に在して滿足せられ給ふべく奉存上候過日はアララギ發行費中へ御寄贈の事あり御歌集の事と共に御禮状さし上ぐべき心算にて遂に今日に至り囘すべからざる悔を遺し候事慚愧の至奉存候右謹で御悔み申述候匆々 十二月八日

    村上廉樣御座下

 

       一二二四 【十二月八日・封書 麹町區下六番町廿七より 仙臺市良覺院町四十四 阿部次郎氏宛】

 

拜啓過日は御ハガキ下され難有拜見致し候近來餘り御無沙汰いたし時々思ひ出して寂寥の感に堪へず御便り拜見Lて歡喜の心湧き申候時々アララギのため御通信等下され候はゞ幸甚至極存じ可申候二月號は中村の「しがらみ」合評號に有之萬一御所見御寄せ下され候はゞ大幸の至奉存候猶小著歌集につきても追々同樣願はれ候はゞ難有奉存候非常に御繁忙の御樣子にて近來御文章も多く拜見せす左樣の中へ御願申上候事心無きに似候へ共衷情御高諒被下度願上候

(653)「槻の落葉」書店より御送申上るやういたし置候御受納願上候奥樣に宜しく願上候匆々 十二月七日夜    俊彦

    阿部次郎樣侍史

  齋藤は十一月卅日乘船の由に候

 

       一二二五 【十二月十六日・端書 下諏訪町高木より 栃木縣眞岡中學校 關卯一氏宛】

 

拜啓アララギ年刊歌集刊行の事新年號に禀告いたし置候右原稿中へ先年の御作「彼の時は切つて捨てむと思ひけり……」の御歌御加入被下度思ひ付きしまま申上候匆々 十二月十六日

  新年號は二十五六日に出で可申大册相成申候

 

       一二二六 【十二月十七日・端書 信濃下諏訪町より 東京麹町區下六番町二十七アララギ内 藤澤實・高田浪吉氏宛】

 

〇藤澤君の書く消息に餘白あらば「しがらみ」「歌道小見」共岩波書店より再版が出たこと書いてくれ給へ太※〔虍/丘〕集も三版が出來たと書いてくれ給へ餘白無ければ止めてくれ給へ(小生の書いた方へは書くな)

〇廣告社へ高田君談判してくれ給へ一度ハガキ出して返事來なかつたら談判してくれ給へ大阪の人へは十五圓にしてやつてくれ給へこれも通知出してくれ給へ 十二月十七日

 

       一二二七 【十二月十八日・封書 信州下諏訪町高木より 東京麹町區下六番町廿七アララギ内 藤澤實・高田浪吉・馬場謙一郎氏宛】

 

拜啓校正隨分御骨折の御事と存上候陳ば愚息健次周介二人來る廿三日の學期試驗を濟まし同日午後二時發の汽車にて上京二月七日迄發行所に滯在いたし度甚御厄介樣に存じ候へ共左の如く奉願上候

一、廿三日夜九時新宿著、十時前佐々木氏へ到著。この日夕飯は汽車中にて濟ますゆゑ佐々木氏方にて御用意に(654)及ばずすし一人分許り發行所で取りよせおいて下さい

〇一、ふとん一人分佐々木氏より拜借相願ふ事それを藤澤君用ひてもよし  一、室は發行所二階六疊に願ふ机一つ御貸し下さい(一つでいい)  一、廿四日朝より一月七日迄講習會へ通學

〇一、朝飯七時半に願ふ事夕飯は八時に歸宅して頂きたし(これは佐々木さん御厄介かと思ふ)

 晝飯は健次一人頂く草周介は朝より夜まで會に居るゆゑ晝飯はパン等で過さしむ(健次は國語だけにて午後より會へ行くなり午前中は二階で勉強の豫定)

△一、廿四日朝恐入るが謙一郎君二人を市ケ谷停車場前の停留場へつれ行き電車へ乘らせて下さい(歸りは新宿行へ乘るといふことも注意して下さい)行先は神田錦町三丁目考へ方社なり下車は駿河臺下か小川町か忘れたり御指示を乞ふ(それより後は一停留ゆゑ歩く方よし)

△一、一つ謙二郎君に願ひあり廿三日夕方パン一食分買つておいて下さい

 その他萬事御指圖奉願候匆々 十二月十七日夜    俊彦

    藤澤君 高田君 馬場君 几下

 〇印の所を佐々木サンヘ△印の所を謙チヤンへ御願して下さい

 

       一二二八 【十二月二十日・端書 信州下諏訪町高木より 東京市麹町區下六番町二十七アララギ發行所 藤澤實・高田浪吉・馬場謙一郎氏宛】

 

〇畫伯十二月號「後れがちにしつきゆく仔馬」正誤を何處かでやつておいて下さいその他の人のもあらば願ふ

〇健次周介二人の事二三日前の手紙で御願せり右手紙御落手と存じ候二十三日午后二時上スワ驛發九時新宿驛へつく筈貴所へは十時前につくと思ふ萬事奉願上候佐々木樣へも宜しく願上げて下さい岩波氏よりの計算安心せり君は今月學校へ少しは行きしか一二日行くといい國へはいつ歸られるか伊那町小學校の小島君等が一日遊びに來(655)てくれと申す島田忠夫氏住所御知せ下さい

        其二

もし會計許し得たら武田さんへ金二十圓振替で送つて下さいさうして別に手紙出し今年中種々御高慮に預つて有難い意味を書き別便振替些少なれども御落手願ふと書いて下さい會計めんだうなら小生より送金するゆゑ至急御申越し下さい森田さんへは何か諏訪産のもの小生より送呈するゆゑ御承知置き下さい 十二月二十日

 

       一二二九 【十二月二十一日・封書 信濃下諏訪町より 東京市外巣鴨宮仲二二四三 武田祐吉氏宛】

 

拜呈寒さ日に加はり候御壯康被爲入候御事と存上候陳ば國學院大學豫科入學出願期日及び入學試驗施行期日決定相成候はゞ御一報相煩し申上度斯樣の事にまで貴臺を相煩し候事恐入候へ共成るべく早く承知いたし度事情有之右御願申上候御聽許下され候はゞ幸甚の至奉存候御願のみ申上候匆々 十二月二十日

    武田祐吉樣侍史

  御返事は決定の時にて宜しく御承知下され度候參考書等にて御心付きのものも候はゞ併せて御示教奉願候郵便局にて添記

 

       一二三〇 【十二月二十三日・封書 信濃下諏訪町高木より 東京麹町區下六番町二十七 アララギ諸兄宛】

 

拜啓百九十七頁とは驚いた盛なる哉出來たら一册直ぐ送つてくれ給へ子ども參上よろしく御指圖下さい我まゝゆゑ御叱り下さい佐々木さん皆々樣へ宜しく藤澤君はいつ歸國するか 十二月二十二日夜    俊生

    アララギ諸兄臺下

 

(656)       一二三一 【十二月二十三日・封書 下諏訪町高木より 長野市後町小學校 高田吉人氏宛】

 

拜呈好果許多御惠與下され席上紅積んで山の如し冬心地即ち賑ふを覺え候御厚志恐縮の至に存候深く御禮申上候諸兄に宜しく御傳言下され度奉願候匆々 十二月二十三日    俊彦生

    高田兄臺下

 

       一二三二 【十二月二十三日・端書 信濃より 東京 竹尾忠吉氏宛】

 

百九十七頁には驚き候校正その他御骨折り下され大謝々々存候信濃隨分寒く少々閉口いたし候胃腸も少し恐縮し居るらしく來月は是非熱海行決行のつもりに候忠臣藏如何なりしか左團次では大星は面倒らしく候御壯健御超歳を祈り候匆々

 

       一二三三 【十二月二十五日・端書 下諏訪町高木より 東筑摩郡里山邊村兎側寺藤丸方 傳田精爾氏宛】

 

拜啓今冬は感慨深大の御事と存上候併しこれによりて却つて新しき生面に入られ候御事と存じ居候この間に一つ何か御勉強の程祈り上候歌は勿論の事に候アララギ今日製本出來候よし百九十七頁の大册には驚き候嚴寒の折から御自愛祈上候御令室樣にも宜しく願上候匆々 十二月廿五日

 

       一二三四 【十二月二十七日・封書 信濃下諏訪町高木より 東京市外代々木山谷一七九 岡三郎氏宛】

 

  子ども二人冬期講習を受くるため廿四日より發行所の厄介になり居候大晦日も元日もなく受講のよしにつき御宅へも伺はせず御諒承願上候

(657)拜啓手紙差上げんと存じ乍ら不精に打過ぎ失禮いたし居候今日は沖君に托し御状並に水仙と香魚を賜はり嚴冬の山居に生氣忽ち動き來るを覺え申候兩品とも珍らしき中に寒中の香魚は珍中の珍早速今晩拜味老父はじめ家族一同比ひなき風味を拜受いたし候斯樣の事田舍には得られぬ事に候深く御厚志を謝し申候今日沖君アララギ持參しくれ候今月貴臺の御歌並びに御文實に感銘の至に候ゆる/\拜讀のつもりに候百九十七頁の大册には驚入申候次に此頃より申上げんと存じ居候事有之大正十四年に御歌集御出し下され度此事拜眉可申上候へ共年末中に御決心被下候樣切望申上候小生等常に御先きへ失禮のみ致し居り候今は是非御出し下さるべき時來り居りと信じ申候何卒御目をつぶりて御斷行被下度願土候必御聽許願上候

小生秋以來神經痛等にて食慾と根氣と少し乏しく成り今日上諏訪に出で受診候處矢張主として胃が弱り居り侯由少しく服藥をつづけ一月熱海に數日過し度存じ候大したる事無之決して御心配下さらぬ樣願上候

御家族樣御一同御壯健御超歳の程祈上候拙家一同無事越年可仕御安心被下度候湖水毎朝氷結して午後は解け申候今に全く氷結可致候一同より宜しくと申出で候敬具 十二月二十六日夜    俊彦

    岡樣臺下

  水仙は晝は炬燵に置き夜は地下床に置き可申正月は咲き出づべく樂しみ居候末子の喜び一方ならず候

 

       一二三五 【十二月三十日・端書 信濃下諏訪町高木より 東京麹町區下六番町二十七アララギ發行所内 藤澤實・高田浪吉氏宛】

 

電報も頂き且つ詳しく御知らせ下され大謝いたし候齋藤君今後餘程苦心を要することにて困つた事に候死者を出したるは實に殘念なれど致し方なかりしならん手傳ふべき事あらば御手傳ひ下され度願上候古泉君の病氣も困つた事に候只今見舞状出し申候諸兄の御自愛を祈候 十二月三十日夜

  君はまだ信州と思ひ居り伊那へハガキ出せり

 

(658) 大正十四年

 

       一二三六 【一月一日・封書 信濃下諏訪町高木より 兵庫縣西宮町香櫨園池端 中村憲吉氏宛】

 

拜啓新年御慶び申上候只今雜煮を食べ了りて此書認め申候皆々樣によろしく願上候小家一同元氣に候健次周介二人は束京の冬期講習に行き發行所の厄介になり居りそこで迎年いたし候匆々 一月一日    俊彦

    中村兄臺下

      ――――――――――――――――――――――――――――

青山病院の全燒は實に困つた事に成り候茂吉兄歸朝後苦心甚しかるべく心配に堪へず候茂太君がバアヤと共に烟の中を逃げ了ほせし事大幸々々存候一寸の手に行かぬ損害實に困つた事に候今度はも少し小ぢんまり創めるといいが親父の氣質ゆゑそこが色々面倒なるべし千樫君の肺病は一昨日藤澤よりの通知にて初めて知り候病氣しては哀れ也小生も心痛昨日取あへず見舞金十圓を送り候嚢中乏しきゆゑ多くは送られず一つ小生等數人にて金を少し集め纒めて送る事如何のものか君の御意見聞きし上にて畫伯へも御話し申さんかと存候御返事願上候

昨日は御手紙難有存候二首脱落は殘念也二月號へ補遺として出すやう發行所へ御申遣し願上候小生三囘に原稿さし上候へ共(貴兄宛)御落手且つ役に立ちしか如何出た新聞を社の方より送るやう順序つき居ると大へんいゝ送り(659)てそのまゝにては出詠者張合惡しこの邊社の編輯部にて心得居る方よしと存候原稿料なども朝日の方は十二月廿日に送りしもの廿四五日にこちらにつき居り候これも貴兄ゆゑ申上置き候金なき文士はさういふ零碎のものをあてにして居る事と存候

批評號阿部さんへ手紙出してくれ二月號はとても間に合はぬゆゑ三月號にする方よしそれでも一月中には原稿書いて送りくるゝ樣依頼必要なり小宮氏へも手紙出し給へ小生よりも出す用事のみ匆々又書 一月一日

  茂吉君御夫妻によろしく願ふ小生は一月廿日頃上京すると申し御傳へ被下度候六日上陸直ちに汽車歸宅せん又々書

 

       一二三七 【一月二日・封書 信濃下諏訪町高木より 東京麹町區下六番町二十七 アララギ發行所諸氏宛】

 

 新年おめでたう存じますこちらは元日より急に暖くなれり

〇二月號以下のカツト下を四枚送る1234の順序で毎月出して下さい併し他のものと隔月位に交じへるもよし

〇齋藤君へ新年號を左の宛所で送つて下さい  兵庫縣西宮町香櫨園池端中村憲吉樣氣付 齋藤茂吉

〇小生は二十日上京すべし二月號へ歌十首位あるべし〇健次周介は何日に歸るか一旦高木へ歸つて關方へ行くべし〇佐々木さんへ宜しく火の用心大切なり特に健次周介注意すべし 一月二日     俊彦

    古實君 浪吉君 謙一郎君 健次周介殿

  周介は上伊那郡宮田村小學校松澤平一殿へ年賀状出すべし

 

       一二三八 【一月四日・封書 長野縣諏訪郡下諏訪町高木より 東京市外代々木山谷一七九 岡三郎氏宛】

 

新年御慶申上候皆々樣御清榮被爲入候段大賀の至存上候小家一同頑健罷在候間御安心被下度候

(660)齋藤君御宅燒失の事、實に困惑の至に候同君の研究ものも燒亡せしかと尤も心に懸り候

アルス新聞によれば子規居士家屋保存會のため金割その他にて金を集むるよしこの保存會は已に完成して舊宅も正岡家所有になり居りしかと存候へ共如何に候か御序の節承り度存候

御惠送の水仙大晦日より開きはじめ新年の机上に二輪の白花を飾り居り候清楚欽すべし深く御禮申上候皆々樣御自愛祈上候こちらも新年に入りて却りて暖く候匆々 一月三日夜    俊彦

    岡麓樣侍曹

 

       一二三九 【一月四日・封書 信濃下諏訪町より 東京市外上目黒五八五 平福百穗氏宛】

 

  卅一日御手紙正に拜受いたし候

拜啓新年御慶芽出度申納め候御子樣方風邪御快癒の趣歡しく存候御令閨樣益御健全御事と存上候小家一同無事御安心被下度候小生體の具合も大した事なく御安心願上候

齋藤君宅の燒失實に困惑の至りに候研究もの印刷して送りあるやに想像いたし居候これも燒かれては千歳の遺憾に候其際は電報等非常の御配慮を賜はり感謝の至に存上候小生七日夜行上京八日朝茂吉君に逢ひ九日歸國仕り度どうも逢はねば心落ち付かずもし八日に猶御在京ならば歡しく存候(御出産前御他行は大丈夫に候哉御出産後になされ候ては如何に候か)萬拜芝を期し候匆々 一月四日    俊彦

    百穗畫伯臺下

  千樫君の肺病は困つた事に候萬拜芝を期し候

 

       一二四〇 【一月五日・端書 下諏訪町高木より 上伊那郡伊那町小學校 三澤孔文氏宛】

 

(661)謹賀新年 六首四首皆宜しく歡しく存候何れも二月號へ出し置可申御承知被下度候匆々 一月五日

  六首の一等終りは少し落ちる

 

       一二四一 【一月五日・端書 信濃下諏訪町高木より 東京麹町區富士見町二ノ四十七各務方 山口茂吉氏宛】

 

も少し深く寫生に專念し給へ焚火に跨をあぶる歌は面白い風邪御大切になさる樣祈上候匆々 一月五日夜

 

       一二四二 【一月六日・端書 信濃下諏訪町高木より 東京神田區豐島町九 淺羽茂太郎氏宛】

 

謹賀新年 今度の御歌素直にて皆よし忙中失敬々々一月六日

 

       一二四三 【一月十日・封書 信州下諏訪町高木より 東京市外西巣鴨池袋九七〇 廣野三郎氏宛】

 

新年御慶申上候御全家御揃ひ御清昌奉賀上候小家一同元氣越年御安心被下度候國學院の事につき非常に御配慮被下恐悦の至奉存候今日は試驗問題御送り被下豚兒のため大に參照となり可申厚く御禮申上候濟み候上は直に御返送可申上候猶出願期日相分り候はゞ御知せ被下度御手數乍ら願上候小生一泊にて上京濟藤君に逢ひ昨夜歸り申候明曉下伊那行につき下調べいたし居り蕪詞亂輩失禮御ゆるし被下度候匆々 一月十日夜    俊生

    廣野兄侍史

 

       一二四四 【一月十日・封書 信濃下諏訪町高木より 兵庫縣西宮町池端 中村憲吉氏宛】

 

拜啓東京に一泊して昨夜十二時歸宅齋藤の元氣なるに第一安心せり肥えたれど頭髪その他に老いの色現る八日には午前より夕方迄殘館に話せり小宮さんも來れり依て「しがらみ」を頼みしに君よりは依頼なしと申されたり至(662)急依頼手紙出して下さい(阿部さんへも)一月一ぱいの事アララギの事も古泉杉浦らの事も話せり只あの始末の中にて多く話されず畫伯も小生と同時に御來會下され有難かりき木下杢さんにも逢へり橋田東聲君も來り久しく話し居たり此人中々歩く古泉への見舞は當分樣子を見る方よしといふ君の説に皆賛成せり御承知置き下さい

齋藤の書物中歌の方丈けの一部分だけさし當り揃へるに數百圓要るらしい畫伯貴兄小生それに岡土屋等で三四百圓集めて橋本君より本を揃へてもらひては如何と畫伯とも申合せしがすべて一月廿四五日小生上京の時又打合せするとせりアララギより年末目ぼしい會員に依頼状出せしゆゑ會費前納多く今五百圓位あるやうなり此内百圓位出してもいゝと思ふ貴兄も少しふん發してくれ給へそれから今年は岡さんから歌集出して頂くやういたしたし君より是非御勸め被下度願上候近年の丈けでいゝと思ふ引續いては畫伯なれど先づ岡さんに御願するがいゝと思ふ是非御さん成御勸め申上げ被下度願上候成るべく早く御手紙出して下さい明朝早く下伊那行きその下調べ急しく亂筆失敬々々 一月十日    俊彦

    中村兄臺下

  小生一月廿五日頃伊豆土肥温泉へ行くつもりに候土屋君の歌集原稿成就小生も昨日一寸拜見いゝ歌集也蘇峰先生太※〔虍/丘〕集を長く國民に書いて下され感謝の至に候

 

       一二四五 【一月十日・端書 信濃下諏訪町高木より 東京市外下澁谷五四一 篠遠喜人氏宛】

 

謹賀新年 久し振りで御便り拜見の心地いたし候御歌近頃御中絶に候哉御續けならば歡しく候 二月十日

 

       一二四六 【一月十日・端書 信州下諏訪町高木より 東京市外代々木山谷一七九 岡三郎氏宛】

 

拜丁今囘は一泊にて忙しく上京のため遂御伺ひ出來ず昨夜歸宅いたし候茂吉君元氣なるが何物にも代へられぬ歡(663)びに候併しあの慘憺たる燒跡は痛心の至に候水仙花さきて久しく候忝く存候

  代々木雜筆は頂かれませうか頂かれ候はゞ大慶の至に候 一月十日

 

       一二四七 【一月十日・端書 信州下諏訪町高木より 東京麹町區下六番町二十七アララギ發行所内 藤澤實氏宛】

 

橋田東聲氏曰く「先年左千夫書簡二通送りて返らず返して下さい」とこの事言ふを忘却せり慥かに同氏より送りくれたり小生は已に返したりと思へりその邊御探し願上候ハガキではなかつたと思ふ手紙なりしかと思ふ猶高木君に聞いてくれ給へ(今朝雪六七寸つもれり) 一月十日

 

       一二四八 【一月十六日・封書 長野縣諏訪郡下諏訪町高木より 兵庫縣西宮町香櫨園池端 中村憲吉氏宛】

 

拜啓諏訪湖全く氷結寒氣嚴しく候齋藤の事は前便御知せ申上げし事と存候今は元氣なれど追々心痛を増し來るべく存候一通の書物揃ふだけでも慰めとなり可申三四百圓の書物買入れ度存じ候アララギより百圓位出してもよしと存候畫伯貴兄それに岡土屋小生は少額と存候國歌大觀だけで五十圓位するらしく候古義は三十圓で得る方法を知り居り候萬葉叢書は橋本君より寄贈せり代匠記眞淵全集宣長全集等今は皆高價の由に候畫伯には大體御相談申上置候古泉の事も三人で話し合ひ候今暫く樣子見ての上の事と申合ひ候水難會の方も如何かと存候つまりは故郷へ歸るべきでないかとも申合ひ候

大阪毎日より歌と文とにて三十五圓頂き候これは甚だ有難く存候小生月末に熱海か土肥へ行くつもりに候どうも胃に痛みあり候醫藥は服用致し居り候

新聞御送下され難有存候六七首の事そのうち出來たら御送可申候へ共何うも例の遲作閉口に候年刊歌集もそのうち御送下され度候今集まりつゝあり岡さん今年歌集出すやうに御すゝめ被下度御賛成願上候引つづき畫伯も出し(664)た方よく藤澤もそろ/\出してよしと存候岡さんは此數年のを纒めて出した方よきかと存候如何望月篠原のも今春中に整理可仕堀内のを貴兄の手にて一通り御撰定被下度候これは貴兄の手許にありと存候

加納に選歌してもらふ事小生も初めより左樣存じ居れり只茂吉君が伯林より東京以外へ選者を擴げるなと申來り居りしゆゑ過日も控へ居りし次第に候加納今一年位歌熱心に勉強してからなら猶よしと存候高田も今熱心に國文を勉強し居り候一年も經たら選歌してよしと存候〇〇同輩に具合惡しとの御注意難有存候これは〇〇にも幾分缺點あるべくそれを言ふ連中が少々噂談の多い種類かも知れず候注意は怠らざるべく候 一月十五日夜    俊生

    中村兄臺下

 

       一二四九 【一月十六日・端書 信州下諏訪町高木より 東京麹町區下六番町二十七アララギ發行所 藤澤實氏宛】

 

書留の御手紙とハガキ二枚正に落手難有存候小生明朝五時小縣郡縣村小學校行十九日歸り廿日より四五日原稿を書き上京して直ぐ伊豆へ行く豫定に候加納君のはあれでは未だ透らず小生意見を書いて返送いたし候間御承知被下度候匆々 一月十六日夜

  國民の(九)が來ないあらば御送願上候高田君に宜しく願上候湖水スケート盛也

 

       一二五〇 【一月二十日・端書 信濃國下諏訪町高木より 東京市外大森山王臺 徳富蘇峰氏宛】

 

謹呈國民新聞紙上連日小著御評を賜はり初め驚喜し後愼肅再度三四度練り返し謹誦仕候すべて未成の稚作に有之今後愈々奮勉の覺悟を存し居候圖らずも先生御知遇の一端に置かるゝを得しは無上の光榮にして先生の意亦小生を鞭撻し激勵し給ふにあるを思ひ一段の覺悟を得し心地致し申候遠くは王氏より近くは先生の玉什を併記し給はりし如きは小作到底當らず恐縮此事に奉上候過日來一書捧呈の意ありて旅程延引咋夜深更歸宅今日一書謝意を(665)呈上仕度如此に候信濃の地炬燵にありて耳朶猶痛みを覺ゆるの寒さに候

御自愛の程切に奉祷上候敬具 一月二十日    赤彦 久保田俊彦

    徳富先生老臺下

 

       一二五一 【一月二十日・端書 信濃下諏訪町より 東京市外高井戸村中高井戸字北三十三 武田祐吉氏宛】

 

拜啓昨夜歸宅今日手紙書く事山積の有樣ハガキ失勵幾重にも御赦し下され度候學校の事御知せ被下奉萬謝候頭鈍きゆゑ一度では入れるか如何かと存候猶御稿御寄せ下され候由御厚情大謝の至奉存候御新居御閑靜にて皆々樣御幸福と奉存上候匆々 一月廿日

 

       一二五二 【一月二十日・封書 信濃下諏訪町高木より 東京銀座一丁目安全金庫會社 長塚順次郎氏宛】

 

拜啓只今旅行より歸り急ぎ御手紙さし上度原稿紙などへ失禮御ゆるし願上候

横瀬氏より岩波氏に對し(一)原稿を他人に渡して燒失せしめし損害百圓(二)右筆寫料百圓、以上を要求し來りし由不當至極と存候岩波氏はじめより全集編輯に同情して下さりこれを尊兄に御渡し申上けしものに有之この點恐入候へ共同氏を御訪問等にて御話し合ひ御相談下され度願上候猶この原稿なきため全集は中止の姿に有之これ以外は悉く筆寫等を終り居候次第御盡力奉願上候右取急ぎ申上候匆々 一日廿日    俊彦

    長塚順次郎樣貴臺下

 

       一二五三 【一月二十一日・端書 下諏訪町高木より 束筑摩郡鹽尻小學校 三村邦雄氏宛】

 

御ハガヰ難有拜見いたし候故望月君の歌集は是非出し度出版の都合より堀内卓造篠原志郡兒二君のと合著にいた(666)し申度存じ居り候堀内君のは已に全部集まり居れど望月君のは比牟呂アララギ以前のもの集まり居らず大兄の御盡力により整備いたし候はゞ幸甚奉存候小生一二日中に伊豆に行き二月十日頃歸國可仕改めて小生御伺ひ申上ぐべく貴兄の御足勞を煩しては相濟まず存じ候以上アララギ編輯會にて決定せしより二年もたち居り心苦しく存じ居候御返事旁御依頼申上候匆々 一月廿一日

  萬拜眉を期し候

 

       一二五四 【一月二十二日・端書 信濃下諏訪町高木より 東京麹町區下六番町廿七 アララギ發行所宛】

 

節忌に兼ねて齋藤君の歡迎歌會を開きたいその事消息に忘れた八日の日曜は如何か丁度節氏の忌日であらう雜誌に書き得たら書いて下さい然らざればあとでハガキ出してもいゝ齋藤君の承知を一通り得てくれ給へ小生よりもハガキ出す齋藤君には一寸でも出席してくれと書いて置いた多分いゝであろ會場は適宜きめてくれ給へ辻村君御宅御都合如何かとも思ふ 一月廿二日夜半

 

       一二五五 【一月二十八日・端書 伊豆國土肥温泉土肥館より 信濃國上伊那郡箕輪村上棚 藤澤實氏宛】

 

 今日は可なり疲れた體は元氣旺盛なり

御尊父樣如何かと存上候此間は木下驛より夜おそくて御困りと存候小生昨日朝六時廿五分東京驛發沼津下車の處風強くて船出ず引返して修善寺驛に下車そこより三里の船原温泉に宿り候こゝの鈴木旅館は溪流に沿ひ茅葺の棟いくつもに分れて建ち居り庭には幾抱へもの推古木その他樹木多く且つ杉山つづきにて大へん宜しく候そこを今朝出立三里山越をして表記に来り候三里といひても四里位はあり候樫椎馬醉木つげ椿等の冬葉日に光り殊に山上は草原にて雲天微茫の間に大洋の横たふを見るべく山の半分より下は椿の花盛り土肥は梅の花盛りにて室内殆ど(667)火氣を要せぬほどの暖さに候五日迄はこゝに居り可申高田は三日に來るかと存候御尊父樣御大切祈上候御令兄にも宜しく願上候匆々 一月廿八日夜

   草山のいづれの山を人に問ひても天城の山のつづきなりといふ

 

       一二五六 【一月二十八日・端書 伊豆國土肥温泉土肥館より 東京麹町區下六番町二十七アララギ發行所 高田浪吉氏宛】

 

船原よりここまで三里というても四里はある併し實にいゝ山越をせり今電報出せりこちらより船原へはとても越しかねる山道がこちら側は手を立てた如き急坂二里なり依てもし三日に沼津より船立たずば君は單獨に修善寺停車場へまはり(沼津市内電車より聯絡す切符も修善寺まで賣る)乘合自動車にて修善寺温泉へ行き二日も居て歸り給へ小生の山越はとても無理ゆゑ右申上ぐそれゆゑ東京より金用意して出立すべし(今朝船原よりハガキ二枚出せり)

 

       一二五七 【一月二十八日・端書 伊豆國土肥温泉土肥館より 兵庫縣神戸市外西須磨村 加納巳三雄・土田耕平氏宛】

 

昨日沼津下車の處風荒れて船立たず引返して修善寺驛下車そこより三里の船原温泉に泊り候溪流に沿ひ庭に幾抱へもある古椎その他樹木多く特に杉山つづきにて閑寂の一夜を過し候今朝船原を立ち三里(四里あるべし)山越をして午後表記へつき候山道はつげ樫椎馬醉木等の冬葉日に光り飽くを知らぬ心地いたし候殊に山上の枯草原より大海原を雲際微茫の間に望みしは壯快限りなく候下り道は半以下は椿の花盛りに候土肥は今日あたりは室内に火氣を要せぬほどの暖さに候小生體益元氣らしく御安心被下度候一昨日半日齋藤に逢ひ候假小屋にもあたらぬ處にて診察するといひて一人で頑張り居る元氣悲壯を覺え候その日一人外來患者ありし由に候二三日温泉行をすゝめしにいつ外來診察あるか分らぬ故毎日ここに居らねばならぬと申し候覺悟の程察すべし小生五日にここを立たん(668)と存候それより發行所に歸るべく候古實廿五日歸國せり父少し病氣惡しとの事に候連名宛失敬々々 一月廿八日

 

       一二五八 【一月二十九日・端書 伊豆土肥温泉より 東京神田區南神保町十六岩波書店 岩波茂雄氏宛】

 

最早御歸京頃かと存候沼津より船出ず(凰荒れて)昨夜は船原温泉の閑寂に浸り今日三里の山越をしてここに來り候山上の枯草原より伊豆の海駿河の海の雲際に接するを見しは壯快に候山の半分下よりは椿の花盛り土肥は梅の盛りにて室内殆ど火氣を要せず百穗畫伯門下も一年來土肥海岸に住居いろいろ世話になゎ候宿の主人にも會ひしに貴下をよく存知し居り候五日にここをたち歸京七日の會に間に合せ度存じ居り候匆々 一月二十八日

 

       一二五九 【一月二十八日・端書 伊豆土肥温泉土肥館より 東京小石川區大塚窪町(醫院) 美濃部榮子・葦名君子・阪田幸代氏宛】

 

沼津から船出ず(風にて)修善寺驛より船原温泉に出でそこより三四里の山越をして昨日表記へつきました伊豆西海岸唯一の温泉です山道は椿の花の盛りで土肥は梅の花がもう盛りを過ぎてゐます室内に火氣を要せぬほど暖かです二月五日頃までこゝに居ります面會日は八日に延ばしましたから御承知下さい七日齋藤君の歡迎歌會を清水谷公園で開きますから御出席下さい

二月號に詳しく書いてありませう葦名さんの番地を知らず阪田さんも六四四か一六四四か忘れて居りますから連名で失敬します御厄介ですが御兩君へ御轉送下さい 一月二十九日夜

   草枯のいづれの山を人に問ひても天城の山のつゞきなりといふ

  高田も一二日遊びに來ると言つてゐました

 

       一二六〇 【一月三十日・端書 伊豆土肥温泉土肥館より 東京麹町區下六番町二十七アララギ發行所内 高田浪吉氏宛】

 

(669)君は一日か二日に立つて來給へこちらから立ちたい日に風が荒れゝば延ばさねばならず一二日餘裕ある方よし二日三日と泊り船安全ならば四日に歸京船立たねば五日か六日に延ばすといゝ兎に角二泊のつもりでやつて來給へそれで矢張り朝六時廿五分で立ち給へ荷物はもつなかれ大船驛で鯛めしで朝飯すまし給へ沼津からは十二時に立つゆゑ停車場より直ぐ人力車に乘り給へもし船立たずば土肥をやめて修善寺温泉に二泊ばかりして歸京し給へ出立の日謙ちやんに頼み小生宛電報出してくれ給へ船は大抵立つであらう以上匆々 一月三十日

  二日夜發行所へ謙ちやんに泊つて頂くやう御依頼下さい小生は修ぜん寺へ山越はとても駄目なり御承知下さい船は少時間のうちに立たなくなる事あり廿七日も一二時間前より風出で發航を中止した

 

       一二六一 【二月六日・封書 東京麹町區下六番町二十七より 京都市上京區田中飛鳥井町三二 西田幾多郎氏宛】

 

拜呈日を經るに從ひ御悲愁更に新なるを覺え給はんと奉拜察候

御生前アララギ御覽下され候由承り感慨を加へ申候小生一度も拜顔せず遺憾奉存候御縁を以てアララギに發行補助費御寄贈下され候段恐縮の至に不堪肅敬して拜受仕候深く御禮申上候小生妻を失ひしは二十七歳その間生れし子は當時三歳この子十八歳にして又逝けり先月末より土肥温泉に一人起居して一夜端なく往時を追懷して夜を更かし候先生の御胸中を小生の心にて拜察するは及ばざるの甚しきものに候へ共何とも申上げやうなき心持して此の筆執り居り候土肥にての歌押しがましく候へ共一首御目通し下され候はば幸慶存上候敬白

   亡きがらを一夜抱きて寢しことも猶飽き足らずとはに思はむ

      二月六日    俊生

    西田先生座下

 

(670)       一二六二 【二月九日・封書 東京麹町區下六番町二十七より 曾根正次氏宛】

 

拜啓御令息正庸樣の御儀何とも申上やうなき御悲歎に存上候御存生中の御歌非常によき素質を有せられ至る處彌深きを覺え將來の期待淺からず存上奉り候處殘念と申すも愚か悲傷此上なく奉存候昨日は態々御志を寄せられ忝く奉存候丁度小生の面會日にて會員多數來集につき一同にて拜受仕候深く御禮申上候御弔問旁御禮申上候匆々

 

       一二六三 【二月九日・端書 東京麹町區下六番町廿七より 信濃上伊那郡伊那町小學校 原田彦治氏宛】

 

今日君の歌見るいつもより出來惡しきは固くなり過ぎはせぬか御べん強下さい 二月九日

  諸君に宜しく

 

       一二六四 【二月十一日・封書 信濃下諏訪高木より 東京神田區南神保町十六 岩波茂雄氏宛】

 

   土肥の海漕ぎ出でて見れば白雪を天《あめ》に懸けたり不二の高根は

今朝生れましたこれは多少いいかも知れぬと思ひ不二思ひの貴下にそして土肥の海を實際に知つてゐる貴下に初めに御目に懸けます硯の水凍りてよく書けず失禮々々

  先夜珍味歡談大謝存上候まだ二三生まれるかも知れません

 

       一二六五 【二月十二日・端書 信濃下諏訪町より 愛知縣知多郡大高町本町 山口兼好氏宛】

 

今日君の歌を見るに大抵取り得るを喜ぶ斯の如く素直に現れること肝要に候過日は御名産御送下され忝く存候小(671)生一昨日歸國のため御禮も遲延失禮いたし候信濃は猶筆凍るほどの寒さに侯御自愛祈上候匆々 二月十二日

 

       一二六六 【二月十二日・端書 信濃下諏訪町高木より 東京麹町區下六番町二十七アララギ發行所 藤澤實氏宛】

 

小生ノ歌ノー番ハジメへ

   軒の氷柱障子に明かく影をして晝の飯食ふころとなりけり

を入れ若し已に渡して困る場合は「耳に響かふ天龍川の音」を削つて下さい御厄介々々なりせん歌は明朝送る電報大謝

 

       一二六七 【二月十三日・端書 信州下諏訪高木より 東京日本橋區本石町 石榑茂氏宛】

 

拜啓先夜は烈風中風邪を推して御高來下され御歸宅後大に心配いたし候昨日藤澤君より大體を知せ來り今日は貴君より巨細御知せ下され萬明了難有存上候あの日の鎌倉行は隨分御決心の上の御事と存候風邪却つて退散は快哉の至りに候斷じて行へば斯る事往々に有之らしく候木下氏小康を得られし事欣喜の至に候且つ十一首超過の事も御配慮によりて問題なくなり大安心致し候原稿は勿論そのまゝ改造へ渡すべきものと愚考仕候右御盡力に對し厚く御禮申上候匆々

  當地猶硯の水凍るほどの寒さに候來月は御歌御示しの程待上候木下氏へ御序も候はゞ宜しく御傳言下され度候

 

       一二六八 【二月十五日・封書 信濃下諏訪高木より 東京麹町區下六番町廿七アララギ發行所 藤澤實・高田浪吉氏宛】

 

〇編輯便一通りよんでくれ給へこの校正嚴に願ふ(句讀點も)遺漏は君の方へ書いて下さい〇君等の年刊原稿至急(672)送り給へ〇小生の夜著修ぜん今月中に出來れば有難い佐々木さんへ願つて下さい事によると三月は一二日頃上京する(小諸を經て)〇時計修ぜん出來たら書留御送願上候〇學校へ行つてますか 二月十五日    俊生

    藤澤君高田君

  編輯便中西田先生の所の文金圓とあるは金十圓の十を落したるにあらず態ざと左樣に書きしなり御承知下さい

 

       一二六九 【二月十六日・封書 下諏訪町高木より 上諏訪町中學校寄宿舍 久保田健次氏宛】

 

廣野氏より入學志願心得を送り來りしゆゑ同封して送る

〇國學院ではもう願書を受付けて居るよし四月四日締切の由なり中學試驗終へたら一寸家へ歸るべし

〇富山高等學校は縣立なり縣立でも大學へ接續すること他の公立高等學校等と同じなりやこれを古山校長か他の確かな先生に伺ふべし〇牛乳飲むべし新聞切拔送る 二月十六日

 

       一二七〇 【二月十六日・封書 信州下諏訪町高木より 兵庫縣神戸市外西須磨中稻荷廿ノ一加藤方 土田耕平氏宛】

 

拜啓「種蒔いて暖き雨を聽く夜かな」惡しとにあらず俳句に季を重しとすれば一句中二つの季題を避くるが自然にして時に季題重なりて不可なきもあれどそれは特殊に生動し來る場合なるべく此句種蒔の季題に對して暖きの季題を重ぬる要なく雨を聽く夜かな丈けの意の方よし暖きが入りて却りて合ひ過ぎて甘き感あり且斯樣な句法子規の勃興時代に盛に流行せしかと記憶す恐らく蕪村の「閣に|ゐて《坐して?》遠き蛙を聽く夜かな」等より來りしものならん當時蕪村調より脱化して一時の流行を成したるもの多々あり「二本の梅に遲速を愛すかな」より何々を愛すかなの句多く出で子規にも惡しきものありきと記憶す「蛙を愛す蛙露石を愛すかな」など覺え居りこれは上等の方と布候そんな所より常套に非ずやと言ひし也この句恐らく鬼城氏初年に屬せんか如何同氏句集一寸拜借願上候同氏の句が今(673)の俳人中に超出して居るの貴説は小生も賛成也

遠見君ので「胸の上に」は少し不通なれど日光が目へ來さうなのを避けてゐる事大體判り得べしそれ丈けの點に少し疵あれど氏の特殊性を認め得なければ取れぬ歌なり此點大切也遠見君にはわが齋藤君の如き萌芽ありて然も大へん異る點ありじみな眞實性の非常に強きは此人の特に注意せらるべき所也此人一首のために二度でも三度でも來り小生の訂正せしは雜誌へ出さぬといふ調子也その芽を伸ばし行く事を考へるは大切なり疵といひても程度也その所を非常に窮屈に考へて大きな生きたものを漏らすは惡しその意は疵は構はぬといふ意には非ず「秋の日の光さやけき」は意味通ずるにあらずや光鮮明な日でもわが家族は慰む所少なしといふは他の背景を聯想せしむべし光さやけき家ぬちのは未だ下手な所あれど不通とは言へず「友とゐて」は事實が多すぎてゐるが小説一部とは同氏歌境に同情出來ぬより出づる詞なり「おもひ見る」「いとまあれば」等の取れぬといふ事も同樣なり理解を廣くせよとは嚴肅さを緩めよとの意にあらず角を矯むるはよしそれが牛を殺してはいけぬアララギの歌に僅少ながらその憂なきにあらず此點も御考へ合せ祈上候猶詳しく御書きならば小見をそれへ詳しく書き可申候匆々 二月十六日正午    俊生

    土田君机下

 

       一二七一 【二月十六日・封書 信濃國下諏訪町高木より 東京神田區南神保町十六 岩波茂雄氏宛】

 

  遠見君へは御心通じ置き候

拜啓昨日は態々御稱讃下され恐入候御詞敢て當らず只安らかに生れしまでにて候あと二三は他日御評願ふ時ありと存候

一、扨て昨日發行所より手紙あり三月號よりの部數の事に候過日御話し申上げし如く關西の方へ殖やして頂くを(674)得れば此處二三百部増刷斷行致し度併しこれは強いこと申す心無之貴店がそのため地方取次の口數を増し從て店員諸君の御手を餘計に煩多にする事かと存候此點貴店の御方針も有之べく(例へば委託はせぬ方針なりとか地方へは東京の大取次店をして當らしむるとか)その點御牴觸ならば少しの御躊躇なく御裁斷下され度然らざる範圍にて關西へ増配の御心配を蒙るを得ば増刷いたし度と存候此處少しの御遠慮もなく御決定御通知相煩し度何卒願上候堤氏とも御相談奉願上候印刷所への註文都合も有之候へば右御伺ひ申上候

一、土屋文明君は例の美學飜譯か或は心理叢書一部分(ゼームス?)の分擔が成り立てば甚忝く存候心理叢書の方は主任の御方か或はその助手の御方かより一度土屋君に話ありしとの事に候土屋君は心理の出身(帝大出大正五年頃)にて性格の謹嚴確實にて頭の利く事は充分保證し得る所に候只小生は門外の事ゆゑ專門御方と御談合下され度候同氏はそれが成立すれば此際專心それに從事して地方へ求職を止める方針のよしにつき此事も御無理ならぬ範圍にて早く御裁斷願上候今日の手紙は富士の歌と類を異にす恐縮奉存候

長野縣教育の事は此内長野にて守屋西尾二君に逢ふつもりに候匆々 二月十六日    俊彦

    岩波大兄侍史

  雜誌増刷の事はどうしても増し度いとは思ひ居らず御躊躇なく御裁斷願上候

 

       一二七二 【二月十七日・端書 東京麹町區下六番町二十七より 信濃下水内郡豐井村小學校 神田すみれ氏宛】

 

拜見昨年は失靈致し候御歌特別に拜見することは不能に候へ共毎月發行所へ御送の原稿初めへ赤彦選と御朱書下され候はゞ小生それを拜見可仕候

御地の雪は大したるものならん御自愛祈上候匆々 二月十七日

 

(675)       一二七三 【二月十八日・端書 信濃下諏訪町高木より 東京麹町區下六番町廿七 アララギ發行所宛】

 

校正用

〇小生第一首(追加したもの)「晝の飯《いひ》食《く》ふころとなりけり」とルビ入れて下さい〇伊那行の歌のうち「光身に沁みて朝晴れにけり」と書いてあつたら夫れを「光身に沁みて晴るる朝空」と御訂正下さい以上 二月十八日

  氷魚廣告文ハ今朝出シタ御落手下サイ岡サンノ文章アリテ有難シ萬事願フ編輯便文ハ少シ自慢ナリ如何呵々

 

       一二七四 【二月二十日・封書 信濃下諏訪町高木より 神戸市外西須磨中稻荷 加納巳三雄氏宛】

 

拜啓御ハガキは東京で拜見せりあれを土田にも見せてくれ給へ君が歌にも少し專心になれるといゝ商業の方今尤も大切ゆゑその時間を取りては惡し君の苦心そこにあり夜二三時間を全く歌に入る事出來るとそれで澤山なり酒の勢では本物にあらずこの邊御工夫願上候男根力をも顧みぬ程の潜心が續くと大した事なり中村も土田も上方に永居するにあらず貴兄の決心尤も重要なり君の歌今迄玉石混淆の感あり玉ならざるは輕易に歌にまとめるより來ると見ゆこの點のみが今の處大切なるかと存じ候貴意如何 二月廿日         俊生

    加納兄几下

  小生の歌も左樣の缺點多かるべしそれは又別問題なり

 

       一二七五 【二月二十日・信濃下諏訪町より 神戸市外西須磨中稻荷廿ノ一加藤方 土田耕平氏宛】

 

種蒔の句は數年して今一度誦して見給へ辻村の「われの言ふこときかなくなれり」は今も取れぬ歌なりや小生は今でも取り得る歌と思ひ居るなり辻村は其後新に開拓せんと努めしはよけれど今はどちらへも徹し得ず苦心の所と(676)見ゆ先々月の如きは一首も取る能はざりき遠見なども何度でも持歸らしむその實状を知り置き給へ東京では相變らず火の出る如きやり方なり藤澤の千葉縣大演習の歌も一月號へ出すといふのを數ケ月練るやうにせり「しがらみ」評少しでも出し給へ外文章不足困る 二月二十日

 

       一二七六 【二月二十日・端書 信州下諏訪町より 東京麹町區下六番町二十七アララギ内 藤澤實氏宛】

 

〇御尊父樣御容態惡しき由其模樣で御歸國を可とす歸國の時アララギより何か御見舞を差上げるやうして下さい舶来の肉汁エキスなどは如何か何か考へ給へ〇岩波より入りしものは元眞等への餘りあらば積み立て置かれたし振替へ入れてもよく或は郵便貯金にして置いて何時でも出せるやうしてもよし〇木下氏家族へは弔状を昨日出した〇高田竹尾辻村諸君へよろしく當方皆無事 二月廿日夜

 

       一二七七 【二月二十八日・端書 東京麹町區下六番町二十七アララギ發行所より アララギ會員宛】

 

拜呈古今書院發行萬葉集叢書は主としてアララギ會員の後援により續行せらるる實情に有之三月上旬を以て下河邊長流著「萬葉集管見」(定價參圓貳拾錢)の刊行を見るべく該書は徳川時代萬葉研究の先驅にして契沖は之を基礎として代匠記を著し春滿は手づから本書の書寫を企てたるものにして一昨年大震災の際原本燒失後は本邦中唯一つ水戸家書寫本の殘るあるのみにてこれが書寫を乞ひ得且つ書寫を了する迄に多大の苦心を要したるものに有之本書の公刊は學界を利すること甚だ大なりと信じ候例により右御紹介旁小生よりも御購讀御願ひ申上候返信用にて御購否古今書院へ御知せ被下度御手數願上候猶この端書により御購求の御方は金參圓貳拾錢(定價)を同書院へ御送然るべき由に候匆々

  追て萬葉集攷證卷二は只今印刷中にて三月中發兌の由に候

 

(677)       一二七八 【三月二日・封書 信濃より 東京神田區南神保町十六 岩波茂雄氏宛】

 

拜呈長野にて守屋西尾君に逢ひ申候「信濃教育」三月號へ女師問題の事多く載せそれを持して上京文部の人に逢ひたしとの事多分二君と傳田精爾(女師附屬を辭せし人)手塚君位にて上京かと存候その上は貴君の御紹介御仲介にて關谷氏等に逢ひ度き事と存候御承知奉願候これは改めて守屋君より御意見伺上候事と存候あまり多人數押寄せる必要なしとも存候匆々

  小生四日中に上京十日頃迄居るつもりに候アララギ増刷のよし難有奉存候 三月二日

 

       一二七九 【三月九日・封書 信濃より 麹町區下六番町二十七より 市外下澁谷 羽生永明氏宛】

 

拜呈感激讀了仕候削るべき所なきは眞實に有之決して小生の遜辭諛辭に無之と奉存侯

一、歌御發見の由來あるもの詳しく御附記の程是非願上度存じ候これは必要に存候

一、小生の前年拜見せし際愚見記入御覽に入れしうち如何はしきものありやと心に懸り候毫末御遠慮なく御措置願上候

一、御註解中二三首引用アララギへ愚文書き申度是は小生參上御願可申の處に候へ共餘りの忙しさに書中御願申上候詳しくは橋本君より御聞取奉願上候つまり御書出版に對する愚見披歴のつもりに候

一、〇〇〇〇〇〇の誤點別にアララギヘ御寄稿被下候はゞ大幸の至奉存候

欣快一書呈上如此に候敬具 三月九日    俊生

    羽生永明樣侍史

 

(678)       一二八〇 【三月九日・端書 東京麹町區下六番町廿七より 信濃國東筑摩郡鹽尻村小學校 三村邦雄氏宛】

 

拜啓過日參上御厄介樣相成難有存上候猶遺稿の事御願申上げ大に安心いたし候其後の御經過御ハガキにて御知せ被下候はヾ有難く存候國元にて御ハガキ拜見胡桃澤氏家族病氣の由もしそのため拾輯長びくやうならば同氏に話したる上材料の方ズ/\御運び願上候馬醉木アカネアララギはその模樣にては小生より御送申上げて宜しく候併しこれは胡桃澤君の處にあるべく存じ候小生十二日歸國可仕候匆々 三月九日夜

  戸谷君其他諸君に宜しく願上候

 

       一二八一 【三月十三日・封書 東京麹町區下六番町廿七アララギ内より 麹町區元衛町中央氣象臺官舍 藤原咲平氏宛】

 

拜呈先夜は難有奉存候その際御詞の如き御手紙知事へ御出し下され候はゞ尤も機宜に當り忝き事と奉存上候御力添の程奉願上候頓首 三月十三日    俊彦

    藤原咲平樣侍曹

 

       一二八二 【三月十五日・封書 信濃下諏訪町高木より 滿洲大連市千歳町四十三 池内忠義氏宛】

 

  小生元氣御安心下され度候

拜讀非常御無音いたし候御病氣被成候趣遠地にて御心配被成候事と存候餘程御快方の由安心いたし候併し猶暫く御注意且つ御養生の程祈上候其内御郷里へ御歸りの由御老親樣御欣びの御事と存上候東京は齋藤君歸朝して大に賑やかになり申候貴詠四月號へ出るもの大へんよく欣しく存候昨日は又御稿御送これもよきものあり益々御出精御奮發の程祈上候滿洲で貴兄あたりが振つて下されば諸人多く奮起可致ことゝ存じ候御精勵至囑存上候

(679)白水君の事非常に御配慮下され候由感謝の至りに候同君に數日前東京で逢ひ候何とか道を拓かせ度存じ候その時貴兄の御病氣も聞き申候東京にて小川千甕氏に逢ひしに同氏近く滿洲に遊ぶよし貴兄を御訪ね申上る事と存候御逢ひ下され度願上候猶御迷惑ならざる範圍にて萬事御配慮下され度奉願上候同封甚だ失禮に候へ共貴兄の御養生費へ御加へ下され候はゞ大幸の至に候奥樣へ宜しく御傳聲願上候匆々 三日十五日夜

    池内兄貴臺

  返禮などと心配しては困ります白水君より聞きしよりも御快方の事喜しく存候

 

       一二八三 【三月十八日・封書 信濃下諏訪町高木より 東京市外池袋一一一九 横山安夫氏宛】

 

  大さは四六判の事に願上候只今御手紙拜受難有存上候

拜啓過日は度々御光來下され恐入申候歌集裝幀は如何樣になされ候哉もし森田恒友畫伯に御願ひ下され候はば尤も有難く存候この事齋藤中村二君とも話し合ひ候同一裝幀にて三人色を異にしても宜しく候齋藤君は赤を欲し中村君は緑かなど語り合ひ候へ共それも畫の樣子による事と存候同畫伯に御願ひ下さるとせば小生よりも同氏へ依頼状さし上げ申度存じ候匆々

  森田畫伯は市外中野町上ノ原八〇五東中野より線路に沿ひ行き右五六町に候

 

       一二八四 【三月十九日・端書 信濃下諏訪町より 東京麹町區下六番町二十七アララギ内 藤澤古實氏宛】

 

〇寺澤孝太郎氏(伊豆國土肥温泉)へ三月號一册御送下度候伊豆國船原温泉鈴木旅館へも一册願上候(目次へん輯便の處へ朱丸をつけて)〇信州下高井郡往郷村山崎作次氏へ振替金十圓至急御送願上候これは内山紙の代金に候發行所へ到着可仕そのまゝ御保存被下度候百穗畫伯へ差上るつもりに候〇小生の合評とへん輯便は著いたでせ(680)う哀草果君歸國と存候〇當方皆元氣に候浪吉君謙君佐々木さんへ宜しく 三月十九日

 

       一二八五 【三月二十日・封書 信州下諏訪町高木より 東京市外上目黒五八五 平福百穗氏宛】

 

拜呈過日は再度に亙り多大御配慮に預り恐縮の至奉存候久振りにて多人數相會し歡ばしく存候中村君あの後猶拜眉を得し事と存候長々御心配下され候長塚氏日記昨日順次郎氏より到著大に歡び申候直に筆寫に取りかゝり可申引つづき古泉所持のものも參り候はゞ茲に大團圓と相成可申候御安心下され度長き間御心に懸け下され忝く奉存候古泉の方のも順次郎氏に對し御序の節御促し被下度奉願上候

とく子さん中耳炎もう大丈夫に成らせられ候御事と存上候皆々樣御大切圍上候當方春寒猶料峭咋朝は硯の水凍り侯一同元氣御安心下され度候比叡山への御紹介何卒奉願上候そこがいけねば他を求め可申候中村より此際一度登山してもらふ樣昨日依頼申候匆々 三月二十日           俊彦

    畫伯老臺下

 

        一二八六 【三月二十一日・端書 信濃下諏訪町高木より 東京芝區白金三光町五三八 辻村直氏宛】

 

莢豌豆胡瓜見るからに清しく茄子のさゝやかにしてうち竝びたる姿愛でたしといはんも及ばず椎茸の黒々として鮮やかなるも配合の妙言はん方なし殊に早蕨のくぐもりたるさまにて小さきこぶしうち握りたるさま譬へんやうもなし御厚意如何計り辱く彼岸中日にあたれば早速佛壇に供へてさて二三を味ひつつ春光の早く身邊に沁み來るを覺えぬ如何なる詞もて御禮申上ぐべきかを知らず取あへずハガキして御高慮を謝し上げ奉るばかりぞあなかしこ/\ 三月廿一日夕      俊彦

   石走る垂水の上の早蕨の萌出づる春になりにけるかも  志貴皇子

 

(661)       一二八七 【三月二十四日・端書 信濃下諏訪町高木より 東京市麹町下六番町廿七アララギ發行所内 藤澤實氏宛】

 

大封筒の手紙二通それに岩波さんとのよせ書き以上落手健次の受驗票も正に落手難有存上候堤さん追々宜しき由尤も喜ばしく候四月號合評の歌を通知出して下さい(四首位?)(哀草果へも知せて下さい)各新聞文藝部へ四月特別號の事知せて下さい一通り片付かば歸國したまへ御尊父御大切の事何か買つて行つて差上げ給へ子供へ菓子等御持參あれ健次は四日頃上京四日に旅宿見付けて下さい下宿でなくていゝ二三泊位なりあと十日迄佐々木氏へ置いて頂く小生四日朝迄に上京すべし萬葉の事拜承せり廿六七八日不在なり原稿つけば直ぐやる 三月廿四日夜

 

       一二八八 【三月二十九日・封書 信濃下諏訪町高木より 東京市外上目黒五八五 平福百穗氏宛】

 

拜呈昨夜長野より歸り御書面拜見忝く奉存候長野縣教育の事御配慮下され難有奉存候その事にて一昨日と昨日教育會に四五人と會し附屬小學修身問題につき各方面の意見を問ひ誌上に公開する事になり甚不躾乍ら徳富老先生へも教育會より手紙出す事に相成其の資料として信濃教育昨年十月號の拔き刷りと今年三月號を呈する事になり是甚だ出過ぎ候へ共事は一縣の問題に非ずと存じ押して御願申出でし儀に候甚以て御迷惑奉存候へ共此際貴臺より特に老先生へ御願御申出で下され候はゞ幸慶此上なし御面接の機等も候はゞ尤も難有奉存候貴臺御參照のため別封雜誌二冊同封御目に懸け申上候御寸暇御目通し下され候はゞ幸甚奉存候老先生へは二三日中に會より御依頼状さし出し可申と存候

  三宅雪嶺澤柳政太郎古島一雄の如き人も文部省高師の人も大學の先生へも出し可申候西田田邊阿部諸氏へも出し可申候只今郵便屋の時來り居り亂筆用事のみ申上候御海容奉願候匆々 三月廿九日    俊彦

 〇雜誌表紙繪の事御承知下され歡喜奉存候何卒奉願上候小生上京の時頂きに參上可仕候

(682)    畫伯老第

 

       一二八九 【三月三十一日・端書 信濃下諏訪町より 東京市外西大久保一六六 笠原もと氏宛】

 

拜啓はつせ非常の御厄介樣相成恐縮の至奉存候咋朝歸國御安心被下度候御主人樣へもよろしく御傳へ被下度候取あへず御禮申上候匆々 三月卅一日

 

       一二九〇 【三月三十一日・端書 信州下諏訪町より 東京麹町區下六番町二十七アララギ内 藤澤實氏宛】

 

今卷一卷四ヲ送ルアト送ルナ三日夜行上京ス間ニ紙挾ミアルユエソロ/\ト解イテクレ給ヘ 三月卅一日

 

       一二九一 【四月三日・封書 下諏訪町高木より 上諏訪小學校 田中一造・藤森省吾氏宛】

 

拜復小生儀今年は何うしても萬葉一二卷だけ纏め度四月より專心從事いたし度存候月二囘參上何の事でもなけれど幾分特別の用意も必要かと存候今年秋頃か來年四日よりならば參上し得るかと存候御高意に封しよく考へ見て右の如くに候段御諒察被下度何れ拜眉萬御話申上度存じ候敬具 四月三日    俊彦

    田中兄藤森兄侍史

  芳賀矢一氏著日本文學十講(名はよく知らず)もし拜借出來候はゞ願上候御煩忙中とんだ御手數に候はつせ御つかひまはし被下度役に立たぬゆゑずん/\御さしづ御小言申し下され度候

  法王帝説の事春日氏へ申遣し候此事丸山君へ御傳言下され度候

 

       一二九二 【四月五日・封書 麹町區下六番町二十七より 府下豐多摩郡高井戸村中高井戸北三十三 武田祐吉氏宛】

 

(683)拜啓御手紙忝く奉拜見候若し境界線に立ち候樣の場合御配慮を得候はゞ尤も忝恭く奉存候此點高柳樣の御了解願はれ候樣御口添下され候はゞ大幸の至奉存候併しこれも御迷惑に入りては恐縮の儀に有之御考により御截斷奉願上候高柳氏へは此際伺上る事はさし控へし方宜しと存じ此書呈上仕候何れ高柳樣へも拜芝の時ありと存じ候御煩多申上候段御高容奉願上候匆々 四月五日    俊彦

    武田樣侍史

  代匠記の事尤も難有奉存上候自筆本御勘合尤も奉謝上候翹足奉待上候五月號へ詳記可仕猶記すべき事も候はば御知せ願上候

 

       一二九三 【四月八日・封書 東京麹町區下六番町廿七より 攝津國西宮町香櫨園池端 中村憲吉氏宛】

 

拜啓昨夜齋藤又來り上等てんどん一つづつ取りぺろり平げて小生のを分ち食ふといふ元氣なり併し病院問題依然で困る市外に地を求めてもゐるやう也

〇比叡山の事其後如何何卒願ふ京都在住の人確實に用意してくれぬと其場に至りて手違ひを來してはいけぬその邊御配慮願上候

〇「松の芽」「夏霞」のうち早く擇び給へ齋藤も同説なり後者の方据りよしと言ひ居る齋藤のはもう製本するだらう小生のも校正中也古泉も已に渡したる由よく出來たもの也四百何首とかの由也折口は六七百首との事

〇大阪毎日の歌二枚送る今月中に出すやう願ふ來月になれば舊くなるもの也出た新聞御送願上候

〇藤澤は初めて稿料貰へるゆゑそれを國の病父(胃癌)に送ると言ひ居りしも遂に來ざる由也その邊御盡力願上候

〇へん輯前亂筆失敬々々小生神經痛二日寢る今日大體よし 四月八日    俊生

    中村兄侍史

(684)  奥樣に宜しく

 

       一二九四 【四月九日・端書 東京麹町區下六番町廿七より 山形縣南村山郡本澤村菅澤 結城光三郎氏宛】

 

ゆつくり御上京にて宜しかりき毎年一度位出られると極いゝ今度より合評書いてくれ給へこれから農事忙しからんが歌丈けは出してくれたまへあさをの散髪どうでした流行は何でもやるといふ女也 四月九日

 

       一二九五 【四月十一日・端書 信濃下諏訪町高木より 東京市外代々木山谷一八五 岡三郎氏宛】

 

拜啓昨日は懇々御高來下され恐縮の至に不堪候不在殘念の至に候馬醉木三株正に拜受御持參願ひ候ては恐入申候萬事ゴタ/\致し遂失念し御手數相煩し候段幾重にも御海容願上候健次國學院入學許可され忝く思ひ居候御安心被下度候御禮のみ申上候匆々 四月十山日

  一株は發行所へ頂きおき候

 

       一二九六 【四月十二日・端書 信濃下諏訪町より 高柳光壽氏宛】

 

拜呈益御清昌奉賀上候陳ば今囘は愚息健次につき多大御配慮相蒙り感謝の至奉存上候甚愚昧のものに有之今後御叱導の程奉懇願候近日上京拜芝を得申度取あへず以書中御厚禮申述候敬具

 

       一二九七 【四月十二日・封書 信州下諏訪町高木より 東京市外上目黒五八五 平福百穗氏宛】

 

拜啓過日は參堂奉大謝候昨朝歸り候處長塚氏より故人遺記屆き居り多忙のためまだ荷を解かず候へ共先以て大安心右御高配深く御禮申上候過日參堂の節申上ぐるつもりなりしも來訪客多く遂黙示仕候それは今春より子ども一(685)人は國學院に入り一人は女學校卒業後縣立長野女學校國語專攻科に入り(年限三年)寄宿生括をせしむるに至り兩人合せて六七十圓を要するかと存じ小生の力として不相當の事に存じ候へ共已むなき勢と相成申候甚我儘の至に候へ共今後アララギより百圓以内小生へ補助して頂き度これは諸會計その餘祐ある月に左樣願はんとするの意に有之そのためにアララギに負傷さする如き事は致すまじく御高諒被下候はゞ喜しく奉存候長年月御配慮を蒙り少し餘裕出でし時我儘申候事心苦しく候へ共右事情御承知被下度奉願上候この事は兩三日前齋藤君へも話し置き了解を得申置候これも御承知被下度候岡土屋二氏へは話し居らず候中村君よりは過日左樣申され同君の意に從ふかも知れずと答へ置きし次第に候從來とても近來小生可なり補助を受け居りし儀に候猶三四ケ月に一度づつ百圓位を齋藤君に提供いたし度同君今困り居るゆゑ左樣いたし度これもアララギの餘裕範圍にての事に有之是亦御承知置被下度奉願上候匆々 四月十二日        俊生

    畫伯老臺下

  今月は座敷つづき便所建てやら子ども方々の受驗やらで二百圓頂き申これは恐縮存じ居候當地非常に暖くなり低き山には雪なく梅の蕾ふくらみ庭下の畑に草青み居候

 

       一二九八 【四月十三日・封書 下諏訪町高木より 長野高等女學校寄宿舍 久保田水脈氏宛】

 

ハガキ二枚著き候只今言海と萬年筆とを同封し書留小包便にて送るゆゑ認印を用意すべし靴の金は直ぐ後より送るべし健次國學院大學合格のことは前に知らせしゆゑ知りたるべし十一日朝ここに歸り十四日上京十五日入學式なり當分發行所に居るべしハガキ手紙等に誤字や假名づかひの違ひ多し注意して丁寧に書く習慣を養ふべし今日は便所建前にて祝のこは飯をつくる體大切こちら皆元氣也

 

(686)       一二九九 【四月十三日・封書 下諏訪町高木より 諏訪郡湖南村大熊 藤森平右衛門氏宛】

 

拜啓早く細君を定め給へ岩本木外氏令孃今は前と事情違へりとも聞く然るべき人を介して至急御申込あるべし小生不在勝なれども充分應援をするぐづ/\してゐてはいつも駄目也決然敢行せよ君は少し鄭重すぎるそれが歌にも現れてゐる御考慮あれ至望々々 四月十三日朝          俊彦

    青二君几下

 

       一三〇〇 【四月十三日・封書 信濃下諏訪町より 東京麹町下六番町廿七アララギ内 藤澤實・高田浪吉氏宛】

 

拜啓今囘は健次の事實に御厄介になり千謝萬謝する

〇在京保證人を佐々木修氏に御願申度此の事君より佐々木さんに御願ひし十四日夜に認印を捺して頂くやう願ふ(名ノ下ト印紙割印)〇當分佐々木氏二階へ御厄介願ふこれも佐々木さんへ改めて御願ひ下さい〇小生十七日に上京する〇同封原稿御落手下さい間に合ふならんと存じ候

〇編輯所便一頁は君書いて下さい小生今日原稿後頭疲れて駄目也何卒願ふ編輯便中へ齋藤の童馬漫語短歌私鈔及「あらたま」春陽堂より再版出ること改造社自選歌集の表紙畫森田畫伯描いて下さり柳若芽三珠情趣生動せりと書いて下さい小林孝則氏の事大澤祐二氏遺稿「……」の事これは來月號で少し書くと書いておいて下さい小生忘れて來て書くこと出來ずその他心付きし事御書き下さい 十三日夕方        俊彦

    藤澤君高田君凡下

 

       一三〇一 【四月二十五日・封書 信濃下諏訪町より 東京小石川區小日向水道町 堤常氏宛】

 

(687)拜啓御退院大賀々々存上候御入院中も伺はず過般上京中も遂參上を得ず失禮を重ね居り候猶暫く御靜養を要し可申決して御無理なさらぬやう呉々祈上申候匆々 四月二十五日           俊彦

    堤常樣侍史

 

       一三〇二 【四月二十七日・封書 下諏訪町高木より 上諏訪小學校.田中一造氏宛】

 

拜啓過日は御繁用中態々御光來下され恐入候はつせの件につき明日頃參上のつもりに候處急に明日松本へ參る用事出來餘り延引につき乍略儀以書中申上候事情御諒得願上候

第一に先方の兩親より貴兄に依頼ありし哉如何これは形式の如けれど他日行違を生ずるの例往々にして有之先以て御聞き申上度存じ候手紙にて依頼にて可なり全然親より依頼なくては不備と存候間御伺ひ申上候

第二に先方の家系血統家風等に缺點なきか如何を御調べ願上度御煩勞恐入候へ共奉願上候これは小生方にても査べ可申猶あの地御知己等も候はゞ確實の人により御聞質しの上御知せ被下度願上候以上を基礎として熟考仕度御高諒願上候本人の事は小生知悉致し居候右藤森君へも御話し合ひ願上候匆々 四月廿七日    俊彦

    田中兄侍史

  今日守屋君來られ直ぐ歸り候

 

       一三〇三 【四月二十七日・封書 信濃下諏訪町より 東京銀座一丁目七安全金庫會社 長塚順次郎氏宛】

 

拜呈故人日記その他一切正に拜受忝く奉存候小生所用にて數次上京不在久しかりし爲め御禮も申述べず今日に至り候段幾重にも御高宥願上候今度は全部完了可仕一二ケ月後御手許へ一切を御屆け可申上候その節二囘にわたる御預り品も御返し可申上御承知被下度候御盡力大謝々々奉存候匆々 四月二十七日    俊彦

(688)    長塚順次郎樣侍曹

 

       一三〇四 【四月二十七日・封書 信濃下諏訪町高木より 東京市外向島寺島町一〇七三 安塚千春氏宛】

 

拜啓過日は態々御來訪下され候處甚失禮いたし候其節御願申上候爲櫻及びツルゲネーフ小説書入早速御送下され山鳥の渡の校合其他に非常に便利を得候事如何計り忝く御禮申上候早速御禮申述ぶべきの處あれより歸國して直ぐ又折返し上京の用事有之是は長野縣教育上の用件にて少々馴れぬ事ゆゑ意外に日數を費し漸く數日前歸國の有樣それゆゑ思ひ乍ら非常の缺禮仕り甚心苦しく奉存候右樣の次第にて御返事遲延の事情御洞察下され度幾重にも御詫申上候猶順次郎氏よりも故人日記類一切送り下され便益不尠欣喜存候御喜び被下度候小生やゝ忙しく取纒めに猶一ケ月か一ケ月半位かゝり可申その上御返却申上度御承知奉願上候

五味君へも宜しく御傳へ願上候例の神經痛にて昨日迄床上にあり今日やゝ宜しく五味君心配して手紙下され候ゆゑ同君へ大丈夫なりと御傳言奉願上候匆々 四月廿七日       俊彦

  こちらは今日頃梅と櫻の盛りに候

    安塚樣侍史

 

       一三〇五 【四月二十八日・封書 信濃下諏訪町より 東京市神田南神保町十六 岩波茂雄氏宛】

 

拜啓昨日守屋君來る廿六日佐藤會長守屋西尾三人にて知事官舎を訪ひ昨年來の一切につき縷陳せし由知事も傾聽したらしい京都のことも話し合へり第一に貴君行つて下さらば尤もよし貴君本月十日頃迄に都合惡しければ小生行くと話し置けり御承知願ふ昨夜半手塚來る府縣學務課長を事務官に引上ぐるにつき目下内相と潮局長等と協議中との事廿七日の新聞に見ゆ從來の學務課長に異動あるべしこの機を逸せず潮惠之助氏等に説く法如何との事大(689)によし未弘嚴太郎氏は潮氏と親しき由末弘氏は手塚君と相識る由(東筑教育會へも來れり)一つ貴君と手塚氏守屋氏と三人位(?)にて末弘氏と會談して下さらぬかこのこと或は一二日中に守屋手塚等貴君を御訪問申上ぐべし御熟談の上御助力奉願上候手塚は昨夜引返し今日長野に行き相談せんその上直ぐ上京かと思ふ右御熟考と御助勢奉願候匆々 四月二十八日

  答集さるもの十五人、三宅古島澤柳阿部次郎石原謙北澤種一土居篠原伊藤長七和辻哲郎等實に忝いそれに貴兄も御書き下され大謝々々存候

 

       一三〇六 【四月二十八日・封書 信濃下諏訪町より 京都市丸太町富小路下ル 田邊元氏宛】

 

拜呈承れば御病臥の由一向存知せずして過日長き手紙を差し上申候

徒年の如き御病氣に候哉これは充分御靜養肝要と存上候御歸朝後瑞分御無理なされし御事と存上候山國の初夏新緑都人士未だ雜閙し來らずやゝ心腸に爽なるものあらん御思ひ切りにて二三週間富士見あたりに御靜養如何に候か御知せ下され候はゞよき宿見付け可申候御自重御自愛呉々祈上候匆々 四月廿八日    俊彦生

    田邊樣侍史

  過日教育會より願申上げし事は御快癒の後に讓り可申候やゝ詳しく西田先生へ申上げ置き候御快方後他日御序も候はゞその手紙御一見下され候はゞ幸甚奉存候併し追て拜芝の時も可有之と存候

  小生も少々神經痛を起し居りもはや快方御安心被下度候

 

       一三〇七 【五月一日・封書 信濃下諏訪町高木より 長野高等女學校寄宿舍 久保田水脈氏宛】

 

今朝出せる行李荷物を受取るに必要かと思ひこの切符を同封して送る驛より配達するやうにして置きしゆゑ寄宿(690)舍へ屆くならん承知あれ金十四圓は今日頃着きしならむはつせへの手紙今日つく今日うちは味噌焚きにて孫さが來てゐる予は三四日頃上京すべし當方皆無事なり餘り寂しがらずズン/\勉強せよ大山捨松夫人の如きは十歳位にて英國へ留學せり長野位は屁の如し 五月一日

 

       一三〇八 【五月二日・封書 信濃下諏訪町より 東京淺草區下平右衛門町十四 美濃部榮子氏宛】

 

大賀々々小生も安心いたし候御睦じく幾久しく御暮し被遊候御事と存上候

   神の世の神も然りき人のよの人も笑まはしいもせの道は

小生四日中に著京のつもり御光來待上候匆々 五月二日    俊彦

    榮子樣御もと

 

       一三〇九 【五月三日・封書 下諏訪町高木より 諏訪郡湖南村大隈 藤森平右衛門氏宛】

 

拜啓今日は失禮いたし候 一、上スワの方は斷念の姿なり 一、兄及び母は貴兄へ嫁せしめ度き希望なり一二日來本人に説きつゝあり 一、本人は未だウンと言はず或は百姓の為事を恐れ居るにあらざるか之は小生の想像にて分らず

猶よく考へて見るやう小生より本人に話せり

折角こゝまで榜ぎ付けし事ゆゑ何卒成立せしめたし伊藤氏には恐入れどこゝで今一度勸めに來て頂きたし返事聞きに來たでは具合惡しからん返事の遲れ居るを大へん氣にして居るゆゑ「返事聞きに來た」と言はば困るべしこの事を伊藤氏に御話し申上げて「勸めに來しなり」「返事は少し位遲れてよし」といふ意に言つて頂くがよからん小生今日上京十日頃歸國のつもり也匆々 五月二日夜    俊彦

(691)    青二君几下

 

       一三一〇 【五月七日・封書 東京麹町下六番町二十七より 長野縣上伊那郡箕輪村上棚 藤澤茂氏宛】

 

拜啓御尊父樣御長逝被遊候趣御悲傷の程御察し申上候平素の御侍養に於て御遺憾なき御事に候へ共親子の情誼猶忍び得ざるの御悲嘆可有之特に實君は御臨終に會し給はず御遺憾御察申上候小生平素思ひ乍ら御見舞も仕らず後悔此事に奉存候折節目下上京中に有之親しく拜芝弔意を表し難く書状を以て御悔み申上候段御海容奉願上候猶別送金御香料中の一端に御供へ下され度振替にいたし候儀略儀の至にて失禮存上候へ共御容赦奉願上候匆々

  猶實君はゆつくり後事御營みの上御上京祈上候

 

       一三一一 【五月七日・封書 信濃下諏訪町高木より 滿洲長春三井物産會社内 石原善吉氏宛】

 

拜啓久しく御疏遠いたし失禮存上候益御壯健被為入候御事と存上候小生頑健御安心被下度候陳ば長春市三笠町三丁目二番地赤木槌右衝門といふ御方が赤彦會を組織し小生の筆蹟を要求し來り候小生には有難きに過ぐる感有之恐縮いたし居り候甚恐入候へ共赤木氏に就き會の性質會員の種類事業等御聞き質し被下候はゞ難有存上候御煩多中へ斯る事御願申出で候事恐縮存候へ共捨てゝも置かれず何かの御暇に右御調べ被下候はゞ大慶の至に候右御願のみ申上候匆々

  斯る會には色々の種類有之有名無實も少からず又爲事の性質によりては遠ざかる方宜しき事あり御地のを左樣思ふにあらざるも心に懸り候 五月七日          俊彦

    石原兄侍史

  清島貢(江口さんの兄)氏に御逢ひの節宜しく御傳聲願上候

 

(692)       一三一二 【五月八日・封書 東京麹町區下六番町二十七より 市外千駄ケ谷八五四今井健彦氏御内 今井邦子氏宛】

 

拜見自分の計らひにて歌を休むといふ事は惡い、事情ありとも存上候へ共内に御忍びなさられ候事御工夫祈上候今月は爲方なし來月歌御持參祈上候特に茲暫くの間御勉強祈上候これを切望いたし候匆々

  失禮なれど小生の言を信じ給へ 五月八日    俊彦

    邦子樣几下

  言ひたい事も有り給はん來月まで言はずに置いて見給へ

 

       一三一三 【五月十二日・封書 諏訪高木より 東筑摩郡里山邊村 傳田精爾氏宛】

 

拜啓若葉清爽の季に入り候御變りなく候哉伺上候信濃教育誌多人數の立論喜しく通讀いたし候且學務課長轉任慶賀の至に候併し長野縣人いゝ氣になりては惡し此際特に引緊めて寸分の隙なき爲事してゐる事大切と存候如何今迄可なり放漫な教育が行はれて居りはせぬかと存候御知己に對し御愼戒下され度奉希上候同封のもの昨今原稿料入りしゆゑ甚少々なれども牛乳代にてもと存じ御送金申上候御高受奉願上候馬鹿にせしぼどの少額なれども御叱りなく微志御笑納被下候はば本望に候

六月號の御歌にいゝものあり歡ばしく存候七月廿七日より五日間安居會を比叡山山上宿院に開き岡百穗茂吉文明中村諸君も出席可仕御參會如何小生元氣御安心下され度候匆々 五月十二日

 

       一三一四 【五月十三日・封書 信濃國下諏訪町高木より 東京市駒込區本郷曙町十三 寺田寅彦氏宛】

 

拜呈新緑清爽の氣山澤に滿ち申候益御清健被爲入候哉伺上候久しく御疎遠いたし心外存上候

(693)陳ばアララギ八月號を小著大※〔虍/丘〕集批評號といたし度一文御高寄賜はり候はゞ幸慶の至奉存候御煩多中へ時々御願申出候事甚恐縮奉存候へ共御高承下され候はゞ如何許り忝く奉存上候六月一ぱいに相願申上度長短御意に任せ申上候突然の御願無躾偏に御許容奉願上候敬具 五月十三日    俊彦

    寺田寅彦樣侍曹

 

       一三一五 【五月十九日・端書 信州下諏訪町より 東京麹町區下六番町二十七アララギ發行所 藤澤實・高田浪吉氏宛】

 

〇安居會稟告中

 △會期を 七月二十九日より八日二日まで五日間と訂正△人數を 百人と訂正△申込所はアララギ發行所にしておいて下さい(原稿の通り)△參會者は七月二十八日日没迄に山上宿院に到著すべきやう訂正して下さい

〇昨夜長野より歸り藤澤君の手紙高田君のハガキ拜見校正初まりしならん御盡力願ふ

〇京都の會員を中村君に知せて下さい 五月十九日

 

       一三一六 【五月二十一日・封書 下諏訪高木より 木曾福島 北原禎一氏宛】

 

拜呈清緑の候益御快適奉存上候陳ば來る卅日木曾福島教育會にて齋藤茂吉君講演卅一日森林鐵道にて山中に入るを得候はゞ尤も有難く存候小生も卅日夜迄に福島著翌日山中へ同行いたし度存じ候右につき鐵道便乘の便宜御配慮を賜り候はゞ大慶の至奉存候或は東京より女人三四人同行を願ふ哉も計り難く數人同時に願ひ候事御不都合に候哉その邊も御伺ひ申上度存じ候木曾教育會より御役所へ御願出づるかとも存じ候へ共その上に小生も加はり事によりては女人も加はる事に候へば特に貴兄の御配慮願出で候段御高諒願上候先は御願のみ申上度萬拜芝を期し候匆々 五月廿一日

(694)  猶昨年の如き御世話蒙りては心苦しく決して御配慮無之樣願上候食料品等は悉く携帶可仕候

 

       一三一七 【五月二十一日・封書 信濃下諏訪町高木より 東京市外田端 芥川龍之介氏宛】

 

拜啓新緑清爽の氣山澤に滿ち申候益御清健被爲入候御事と存上候陳ば甚突然にて失禮の至存候へ共アララギ八月號を拙著太※〔虍/丘〕集批評號といたし度一文御惠寄下され候はゞ大慶の至奉存候御批評御感想御隨意御執筆相願申上度く長短も御任意御願申上候(長ければ最も忝く存候)六月一ぱいに願はるれば尤も難有存上候

無躾なる御願恐縮奉存候御許容下され候はば幸慶此上なく存候敬具 五月二十一日    俊彦

    芥川龍之介樣侍曹

 

       一三一八 【五月二十二日・端書 信濃下諏訪町高木より 東京市外上落合六六七 阪田幸代氏宛】

 

來る三十一日朝木曾福島を立ち森林鐵道で木曾山中へ入ります齋藤茂吉君と同行です若し御希望者あらば二三人聯合して御出でになりては如何三十日夕方迄に木曾福島驛著にして下さい宮原今井美濃部葦名諸君へ貴下より御話し下さい今井さんへもハガキは出します。東京を朝九時頃ので出ると木曾へ夜八時頃つきます時間を御知せ下さい福島驛で迎へますから二十九日諏訪へ御泊りならば木曾へ同行します

 

       一三一九 【五月二十二日・端書 下諏訪町より 東京本郷區菊坂町十六第二春秋館 矢島祐利氏宛】

 

御無沙汰いたし居候筑波の新緑は爽快なりし御事と存候御歌はあせらず一歩々々踏みしめて行かれればよいと存候自己の眞實にさへ徹し居れば自然に進み可申と存候一高一低は誰でも免れず候御面晤を期し候匆々 五月二十二日

 

(695)       一三二〇 【五月二十二日・端書 下諏訪町より 東京本郷區菊坂町十六第二春秋館 矢島祐利氏宛】

 

高木君を呼んであの話をして見てくれませんか何ういふ方法を本人が立てゝ居るかそこを確めてくれ給へそして方法確立せば今度小生上京の時來訪してそれを示すやうに願ふ校正出來るだけ嚴密に願ふ高田竹尾辻村武藤諸君によろしく願ふ匆々 五月二十三日

  大へん寒く伊那の山雪白くふれり今日又炬燵かけるといふ有樣なりそれでもかつこう簡鳥時鳥がないてゐる

 

       一三二一 【五月二十四日・封書 信濃國下諏訪町より 兵庫縣西宮町香櫨園池端 中村憲吉氏宛】

 

拜啓關西に大きな地震あり兵庫縣中心なりと當地新聞にあり大丈夫と思へど心に懸り候御安泰祈上候今日の東京新聞で分ると思へど取敢へず御安否伺上候畫伯は廿二日夜行にて立たれし由御逢ひなされしか、安居會期日は貴示二案中の一を採りし次第發行所の校正發送にも都合よく且つ小學校にも都合よき事貴示の如し小生毎月の面會日を延してあと一二日遊びてもよく或はそれ前一二日早く行きてもよろしく候何れ七月に入りて定め可申候

次に改造社にて歌叢書刊行の記念會する由小生は著者五人丈け會すると思ひしに昨日茂吉君よりの知せによれば發起人は岡畫伯土屋諸君に願ひ古泉君の方は日光同人に願ふとの事さうなれば大仕掛なりこれは改造社の例の廣告的やり方なりあれ丈けのものにさう大騷ぎされては困りものなりそれに日光も加はり岡さん等にも參加願ふといふ事甚考へものなり一體岩波さんはあの刊行には甚不平也古今書院か岩波書店より出すならば自然なれど改造社の企ては兩書店のよい汁を吸はんとするものそれに賛するはアララギの人々に似合はぬといふ意を洩したる事あり併しこれは畢竟計畫通りにする事了解を得たれども眞意はそこにあり會などして大騷ぎするは小生にはよき心地せず日光誌上にて常にアララギの惡口言ひ居る(それは主として小生を目ざす)連中と會合は小生には氣が進(696)まず此點貴意如何已むを得ずば小生丈け缺席すべく存じ候狹いやうなれど不自然な會合をして世間騷ぎするは改造社に使はるゝに過ぎず製本でも活字でも實にいゝ加減のものにて不快なりそんな費用あらば活版や製本に費すべき也岩波氏曰くアララギの人々改造にやられしなりと橋本君も同じ意見らしこれは小生としてそれ程ならず一面の眞理と思ふのみ切火氷魚太※〔虍虍/丘〕集の傑作のみを他より出すといへば二書店へ失禮なれどそれ丈の意味にあらず一方「十年」出ししために氷魚以下も賣れるといふ事あり併し色々の點より考へて世間的大騷ぎするほどの出版にあらずと存候この事昨日承りしなり直ぐ齋藤に手紙出したけれど廿三日夜行にて近江蓮華寺へ行きし筈寺名を知れど場所不明にて手紙出されず候三十日夕方木曾へ行き逢ふゆゑ話し合ひ可申貴意御知せ願上候右のみ匆々 五月廿四日    俊生

    中村兄貴臺

  「十年」は四十部寄送せり北原土岐あたりへも出せり御參考迄に申上候アララギの若い人にも贈つてくれ給へ

  耕平曉石實浪吉忠吉辻村等なり

  卅日午後迄に木曾福島へ來ては如何齋藤君に御逢ひならば此手紙御見せ下さつていい

 

       一三二二 【五月二十七日・端書 下諏訪町高木より 上田市小學学校本校 牛山米平氏宛】

 

詳細御調べ下され御厚志感謝の至奉存候アララギ七月號にて訂正可仕候今日は千樫君の歌集評十五枚書き少々疲れ候七月號に出し可申御高覽願上候御歌少しにてもよし御示し被下度待上候今日少雨時鳥かつこうこも/”\啼きて日暮れ候御禮のみ匆々 五月廿七日夜

 

       一三二三 【五月二十七日・封書 高木より 上諏訪小學学校 森山藤一氏宛】

 

(697)拜啓過日は失禮いたし候筆記もの非常に多くなり御骨折心苦しく存居候今一息(二息も三息もならん)の御援助奉願上候會費正に拜受いつもの御煩勞感謝の至に不堪候柳平君の妻君の事は齋藤君と猶話し可申格別惡いのではないが永引くかと申居候或は家で療養の方がよいかとも同君申し居られ候(これは柳平君に露骨に御話しなきやう願上候)小生卅日木曾行卅一日齋藤君と山中に入りその夜か六月一日に布半に參るべく到著と共に貴寓へ御知せ可申上御光來願上候その時萬事御相談願上候柳平君御困りの境遇と存候長塚全集出れば印税の幾分を家族より贈り來るべくその全部を御兩君に差上げ申度只それまでに時日あるが困り候困り方の程度によりては誰からか前借してさし上げ度とも存じ居候萬拜芝を期し候匆々 五月二十七日夜       俊彦生

  今日千樫君の歌集評十五枚を書き上げて夜に入りやゝ疲勞のためこんな紙へ書き候段失禮御赦し被下度候

    汀川兄貴臺

 

       一三二四 【五月二十八日・封書 下諏訪町高木より 長野市狐池 三澤精英氏宛】

 

  木曾でも藝者のは駄目に候

拜啓此間貴地へ行きしも遂失敬いたし候新舊學務課長へ與へし貴文實にいゝ感謝々々存上候

〇信州より木曾伊那安曇等の踊りを東京へ出してやるよしこれは大變結構にて各地より中央へ持出す事になれば日本全國の地方色を間接にも直接にも保存する途となり可申存候就ては出演(?)につき特に妙な潤色を施さぬ事尤も大切に有之地方そのまゝのものにて出し候樣貴紙上にて御勸告被下度至望存上候過日御目に懸り度かりしもそのひまなく手紙にて御願申上候匆々 五月廿八日     俊彦

    背山大兄侍史

  御令閨お子さん方へよろしく願上候

 

(698)       一三二五 【六月一日・繪端書 木曾より 東京麹町區下六番町二十七アララギ内 藤澤實・高田浪吉氏宛】

 

昨夜氷ケ瀬一泊福島より七里の入りなり佛法僧鳥も十一も聞く 六月一日    赤彦

 

       一三二六 【六月九日・封書 東京麹町區下六番町 信濃木曾福島 北原禎一氏宛】

 

拜呈過日氷ケ瀬行のため非常の御盡力相蒙り且態々御引伴れ下され御厚志感謝の至奉存上候早速御禮状も差上げず缺禮致し居り候昨日些少粗菓小旬便にて差上寸志御笑納下され候はゞ本懷の至奉存候御禮申上度如此に候匆々

  氷ケ瀬事務所へあての一包御送申上候御序の節御屆被下度御手數願上候

 

       一三二七 【六月九日・端書 麹町區下六番町二十七より 四谷區右京町十四 廣瀬公三・吉田白流氏宛】

 

甚恐入ります特に不在して失禮いたしました 六月九日

 

       一三二八 【六月九日・端書 麹町區下六番町廿七より 信濃國下水内郡飯山中學校職員室 屋敷頼雄氏宛】

 

   こゝにして妙高黒姫飯綱の山裾を交じへて雪眞白也

これは大へんいゝその他にもあり忙中右のみ匆々 六月九日

  今夜歸國月未御地へ參上可仕候

 

       一三二九 【六月九日・端書 麹町區下六番町二十七より 市外西ケ原四一二 鹿兒島壽藏氏宛】

 

昨日不在失禮御ゆるし被下度候廿二首出し候よきもあり輕きもあり至らぬもあり何れ御面晤に讓り候貴君のは已(699)に一通りは皆いいのだから此上は更に大切なものが現るべく期待いたし候御令閨のにもよきもの多く有之よろしく御傳へ被下度候匆々 六月九日  (小生今夜歸國する)

 

       一三三〇 【六月十日・端書 信濃下諏訪町高木より 兵庫縣西宮町香櫨園池畔 中村憲吉氏宛】

 

今朝歸國どうしても返書書く時なく非常に失禮忘れては居らぬ貴兄の「生きてゐても言ひ解き難し」は實にいゝそれを申上げんとして書く時なかりき「松の芽」拜愛大謝々々寄送は小生五十位になつた芥川阿部小宮倉田西田田邊等諸氏その他女流會員五六人へもさし上げたりさう多くなくていゝと思ふ三縁亭へは出席せり別にどういふ事もなし寺田寅彦さん芥川さん石榑さん高島米峰さん等來て下さり恐縮せり茂吉小生も一通りの演説(挨拶)をしておいた釋君に久し振で逢つた別にへんてつもなし岡土屋諸氏も出席下さる一寸五十人近いやうでした古泉又熱出した樣子もう平熱と茂吉より聞けり芥川齋藤土屋小生四人で田端で一昨夜飲んだ 六月十日朝

       第二

  謄寫すべきものは七月二十日までに小生宛へ御遣し下さい

安居會講演題目  茂吉――良寛、子規、短歌夜話 文明――大伴旅人、家持 麓――古事記第一卷より 赤彦――萬葉十四、人麿

等豫告貴兄のを決定して發行所へ御知せ下され度候會へ持參すべき本は矢張豫告しておく方よし

奥さんへよろしく御全家御健康と存候當方皆元氣に候 六月十日

 

       一三三一 【六月十三日・端書 下諏訪町より 淵浩一氏宛】

 

拜啓大へん御煩多をかけて恐縮に存じ上げます今朝御送の本が著きました有難く御禮申上げます萬葉梯はことに

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(814)てつかれ候且黄疸にかゝり執筆懶く御返事遲延御ゆるし被下度候御禮のみ申上候匆々 三月二日

 

       一六一六 【三月二日・端書 信濃下諏訪町高木より 東京青山南町五ノ八十一青山腦病院内 齋藤茂吉氏宛】

 

今度は黄疸にやられ一昨日來食慾減退體非常にだるい斯ういろいろやられてはかなはぬ一昨夜よりどうかかうか夜横臥を得匆々

  畫伯へ御序の節御傳へ下さい

 

       一六一七 【三月二日・端書 信濃下諏訪町より 東京麹町區下六番町二十七アララギ發行所内 藤澤實氏宛】

 

今日は不二より御願申上げ恐入候何卒願上候それから手塚縫藏氏二月分を岩波より受取り御送願上候小生黄疸にかゝり重ね/”\困り候匆々 三月二日夜

手塚君は松本市西町藤塚なり

 

       一六一八 【三月三日・端書 信濃下諏訪町より 兵庫縣西宮市香櫨園池畔 中村憲吉氏宛】

 

パンヤ布團實に有難い尻の痛みこれで小康を得たり大謝々々一昨日來今度は黄疸にやられ體だるく神經痛と共に實に困る殆ど終日呻吟の有樣なり黄だんは三週間位かゝる由三月御出で下さつても迚も話の交換も面倒也四五月の時に延してくれ給へそれまでに恢復する 三月二日

 

       一六一九 【三月三日・端書 信濃下諏訪町高木より 東京麹町區下六番町廿七 佐々木氏修氏宛】

 

拜啓珍肴御惠送下され度々の事恐縮に不堪候御高意深く奉謝上候小生神經痛追々快方らしく昨今横に臥られ申候(815)黄疸を併發せしも不日退散と存候御禮のみ匆々 三月三日

 

       一六二〇 【三月三日・端書 信濃下諏訪町高木より 東京麹町區下六番町二十七アララギ發行所 久保田健次氏宛】

 

〇歸國の時忘れずに時計を持來ること小生のが時々止まるゆゑお前のを周介が新潟へ持ち行くやうにしたい〇此頃横臥を得黄疸今に退散と思ふ〇歸る時小生のねまきを持參せよ〇みを今夜歸宅大した事なし御安心あれ〇此の間の寫眞オソイヂヤナイカ未ダ來ヌ

 

       一六二一 【三月三日・端書 信濃下諏訪町より 東京市芝區白金三光町五三八 辻村直氏宛】

 

御手紙感謝今とても他行出來ず大小便を室内でやるといふ有樣也此二三夜構に臥られて大に有難し瘠せることも思ひ切つて瘠せた痛まぬ折を見てこれ丈け書く失禮御ゆるし下さい關君へよろしく願ふ湯たんぽはモウ要ラズ御高志大謝 三月三日

 

       一六二二 【三月六日・端書 信濃下諏訪町より 東京 竹尾忠吉氏宛】

 

拜啓京都大阪三四年はかへつて君のためにいゝであろこちらへは成る可く來るなこの一二ケ月は絶對人に逢はぬ方よし東京往復の序等に來てくれ給へ萬事御折角なり京都には宇野五味等も居り全く寂しくはないであろ今日アララギ著いたが疲れてゐて見られぬ匆々

 

       一六二三 【三月六日・代筆封書 信州下諏訪町より 東京麹町區下六番町二十七アララギ發行所 藤澤實氏宛】

 

拜啓早速の御送金涙出でんばかり難有存候後もすぐ著するならんと存候色々の補助材料必要にて醫師へ昨日五圓(816)以上一昨日八圓以上といふ有樣に候それに今日よりマツサージ一人づゝ遣しくれ候等にてどうも出費多く困り候來月は多少多く入るかも知れず御承知置き願上候神經痛大體よろしき方に候間御安心下され度黄疸は別状なけれどそのため食慾減りて困り候匆々 三月六日    俊彦代

    藤澤樣

  高田堀内馬場諸君へよろしく願上候

 

       一六二四 【三月六日・代筆端書 信濃下諏訪町より 東京麹町下六番町廿七 馬場謙一郎氏宛】

 

大賀々々猶一心に勉強を續け給へ小生病も追々よからん御心配なく願ふ一二ケ月は絶體に誰れにも逢はぬ佐々木樣馬場樣によろしく匆々 三月六日夜

 

       一六二五 【三月六日・代筆端書 信濃下諏訪町より 東京麹町下六番町二十七アララギ發行所 藤澤實氏宛】

 

拜啓振替大謝これは二ケ月分と存候小生今日よりマツサージ明日より牛山學士も立會診察し下さる牛山氏は三角氏と同級小生と同村同區追々黄疸退散せば食慾いづるならむ健次歸りがけに長崎屋のカステラ少々と文旦漬少々とを托してくれ給へ(麹町五六丁目なり)九段の寫眞待ち遠い目で見る物のみ樂しみなり文章はだめなり御靈のみ匆々 三月六日夜

 

       一六二六 【三月八日・代筆端書 信濃下諏訪町より 東京市外上目黒五八五 平福百穗氏宛】

 

拜啓體だるく食慾なきは黄疸のためと存じ候今に快復いたすべく存じ候オキシヘラー何とも有り難く存じ奉り候電氣とも磁石ともともつかぬえたいの知れぬものにてかへつてよきかも知れず少なくも害なかるべしと伴氏も申され(817)到著を待ち居り候昨日は豫備のため牛山醫學士を伴氏自から伴ひ來りて二人にて御相談下され候心強く存じ候マツサージも風雪の日は車にて來り之はよくきく樣にて二十日以内位に全治せしむる 續く

2 一擧手も疲れ居り又々代筆御ゆるし下され度候

豫定らしけれどさうはゆくまじく候兎に角金も貪らずよき按摩に候御歌大によろこばしく存じ候あの内ちよいちよい如何と思ふ點あれどそれは老兄及び齋藤君にてよろしく願上候毎月御示し下され候はゞ大に小生の樂しみとなり申すべく候小生もかうして炬燵によりかゝり居り時々歌湧き出づる事あり紙にしるし或はしるさしめて原稿といたしをり候四月號へも三四送るかも知れず候みな出たらめの物に候 三月八日

 

       一六二七 【三月九日・端書 信濃下諏訪町より 東京市外上目黒五八五 平福百穗氏宛】

 

拜呈オキシヘラー昨日無事著早速昨日より使用大謝奉り候構臥は何とかして出來れど黄だんのため食進まず全身疲れ物持つを懶しと思ひ居候蛤利くやうにて昨日より試み居り候(汁のみ)取あへず御禮申上候牛山國手は三角國手と同級に候大體は前より樂に候マツサージも利くらしく候 三月九日

 

       一六二八 【三月九日・端書 信濃下諏訪町より 東京市外上目黒五八五 平福百穗氏宛】

 

御歌あのうち少しへんな所もあらんが齋藤と御相談願上候毎月御示し被下候はゞ小生大に樂しみになり可申何卒願上候月末迄には執筆し得る體になりうるつもり奥樣へも御傳へ被下度候 三月九日

 

       一六二九 【三月九日・端書 信濃下諏訪町より 東京麹町下六番町廿七 アララギ發行所宛】

 

明日歌を十六送る訂正は數日のうちにおくる今夜腰痛み酒糟温濕布しつつはつせに原稿書かしむ今に訂正原稿を(818)送る匆々 三月九日夜一時

 

       一六三〇 【三月十三日・端書 東京麹町區下六番町二十七アララギ發行所より アララギ會員宛】

 

拜啓益々御清穆大慶に存上候陳ば古今書院の萬葉集叢書漸次進展の事吾等研究者の便益不尠と存候更に來廿五六日頃同叢書第七輯として池永秦良稿上田秋成補「萬葉集目安補正」を發兌する事に相成候由本書は今より百二十年前に著はされたる萬葉集の辭書にて早世したる池永氏の業を其師上田秋成の補正したる完本に有之候例により會員諸君の御購讀を小生より御願申上候御返事は直接古今書院へ御申出被下度願上候敬具

 萬葉集叢書第七輯 【池永秦良稿上田秋成補】 萬葉集目安補正 完 定價貳圓

 

       一六三一 【三月十三日・代筆端書 長野縣下諏訪町より 東京市外上目黒五八五 平福百穗氏宛】

 

拜啓屏風繪大作實によろこばしい非常に拜見したい殘念なり小生昨夜より又痛み出し今朝までねむらず先程伴先生來り注射五本分して下さる今日は少し身滯へ力をつけて湯に入り度いと思ふ十七八日においで下されてもこの具合にては小生談話面倒なり四五月頃ならば立川彫刻及び立川家へも御同行出來ると思ふ實に意氣地ないが又々代筆にて失禮しますオキシヘラー常用してをります有難う御座います全集のことも大謝大謝歌はかうしてゐても時々出ます 三月十三日

 

       一六三二 【三月十三日・代筆端書 長野縣下諏訪町より 兵庫縣西宮池端香櫨園 中村憲吉氏宛】

 

拜啓昨夜また腰痛みて今朝迄ねむらず今のところ食毎に妻から養つてもらふ有樣なり十七八日おいで下されても到底談話面倒なり四五月御光來下さらば大幸なり實に意氣地ないが代筆にて失禮する

(819)パンヤのおかげにてしり骨痛みなほる實に有難い 三月十三日

 

       一六三三 【三月十四日・端書 長野下諏訪町より 東京市外上目黒五八五 平福百穗氏宛】

 

今度の御作四月號へ原色版として是非願上度御手數乍ら御手配願上候匆々 三月十四日

  晝夜痛む 三日十四日

 

       一六三四 【三月十四日・端書 信濃下諏訪町高木より 東京麹町區下六番町廿七 アララギ發行所宛】

 

畫伯の鶴原色版とLて四月號へ願つて下さい    俊彦

 

       一六三五 【三月十七日・代筆端書 信州下諏訪町より 東京市外上目黒五八五 平福百穗氏宛】

 

あらけづりにして御送申し上げ度いと思ふ明日は伴先生牛山先生御二人にてごらん下さる筈である原色版に行かず殘念なれど致し方なし來月號をたのしむ 三月十七日夜

 

       一六三六 【三月十八日・代筆端書 信州下諏訪町より 東京市外上目黒五八五 平福百穗氏宛】

 

拜啓昨日も今日も筆とれる心地してつひ又だめである殘念ながら代筆で失禮する今の處黄疸が一番わるものらしい炬燵の上に座布團を折りそれに枕をのせそれに頭をのせて居りたまには構にもなり得る頭をのせてうつらうつらして居る時に歌が割合に出て來る然し大半價値はないさういふ時秋田校歌のこといつも意識にのぼつて來る今日もさうであるたゞ少し長い故一寸かたづけてしまへない然しどうかしてこゝで


(820)       一六三七 【三月二十一日・代筆封書 信濃下諏訪町高木より 東京神田南神保町十六 岩波茂雄氏宛】

 

拜啓長田君御光來のところ御面會出來ず失禮の至りに候日夜の神經痛それに黄疸が三週間も加りをり食慾なくすべて衰弱どなたにも御面談し得ず意氣地なく候へど執筆も當分見こみなく又々代筆せしめ候段ひらに御海容下され度候見事なる草花目もさやかに拜見致し候御高志千萬忝なく候長田君へもよろしく草々 三月二十一日

 

       一六三八 【三月二十三日・代筆名刺 下諏訪町高木より幸便 上諏訪町 伴鎌吉氏宛】

 

〇注射をやめれば確に横寢がしづらいと思ふうつむいてゐても安眠出來ればいいが痛む御參考迄に申しあげます

〇小水量は二十一日午後六時より二十二日午後六時迄六百それより今朝十一時迄五百であります便通は未だありません〇脈搏昨夜七十六熱は計りません今日も御來診願ひ上げ奉ます 三月二十三日

    伴先生