一二二〇 【十一月二十八日・端書 東京麹町區下六番町廿七番地アララギ發行所より アララギ會員宛】
拜啓益御清祥奉賀上候陳ば岸本由豆流の「萬葉集攷證」は著者自筆本を上野圖書館に保存せらるる以外未だ世に發表せられざる寶典にして特に同圖書館の厚意により館内に於て筆寫を許され之れを筆寫するため小生外五人の寫字生が大正十一年三月二十日より五月二十二日までを費したる次第に有之頗る浩瀚の書なるため早速刊行の運びに到らず例により古今書院主人の義侠的厚意により萬葉集叢書第五輯として今囘その第一囘を刊行し引き續き全部(全六卷に至る)刊行の豫定に有之候讀者は例により主としてアララギ會員に求むるの外無之事情御諒察の上御購求を賜らば幸甚の至に候右御紹介旁御願申上候匆々 十一月二十八日
猶御購求有無返信用端書にて古今書院へ御知らせ被下度願上候發兌は十二月七日の由定價一卷貳圓八拾錢郵税拾八錢に候萬葉集卷一の初めより終りまでに有之候
一二二一 【十一月(推定)・端書 下諏訪町高木より 諏訪郡湊村 小澤菊彌氏宛】
不在いたし失禮存候今日上京十八九日歸宅廿二日より又々他行の筈に候御知せのみ申上候匆々
一心に寫生に骨折つて見給へ
一二二二 【十二月五日・端書 東京麹町區下六番町廿七より 岡山縣倉敷町朝日町松雄方 荒川左千代氏宛】
(652)御懇書拜讀致し候加納|巳三雄《ミサヲ》(曉)君は西須磨中稻荷に候土田君も中稻荷廿ノ一加藤方に候毎月御出詠の程祈上候匆々 十二月五日
一二二三 【十二月八日・封書 東京麹町區下六番町二十七より 名古屋市東區杉村町船付七十二 村上廉氏宛】
拜啓御尊父樣御逝去の御報知に接し驚き入申使先年御持病に艱させられ其後御快癒にて追々御健康に入らせられ候御事とのみ存じ居候處圖らざる御訃報言の出づべきを知らざる感有之哀悼の情を禁ぜず候特に近來閑地に就かせられ御歌集の刊行も御企圖の際に有之未だ印刷に付するに至らずして御永眠の儀如何にも殘念至極に奉存候去り乍ら永年御教育の子弟皆父を仰ぐが如く景慕せられ候事今日の世にありて稀有と云ふべく眞に教育の精神に徹せられて一生を畢へ給ひしこと靈天に在して滿足せられ給ふべく奉存上候過日はアララギ發行費中へ御寄贈の事あり御歌集の事と共に御禮状さし上ぐべき心算にて遂に今日に至り囘すべからざる悔を遺し候事慚愧の至奉存候右謹で御悔み申述候匆々 十二月八日
村上廉樣御座下
一二二四 【十二月八日・封書 麹町區下六番町廿七より 仙臺市良覺院町四十四 阿部次郎氏宛】
拜啓過日は御ハガキ下され難有拜見致し候近來餘り御無沙汰いたし時々思ひ出して寂寥の感に堪へず御便り拜見Lて歡喜の心湧き申候時々アララギのため御通信等下され候はゞ幸甚至極存じ可申候二月號は中村の「しがらみ」合評號に有之萬一御所見御寄せ下され候はゞ大幸の至奉存候猶小著歌集につきても追々同樣願はれ候はゞ難有奉存候非常に御繁忙の御樣子にて近來御文章も多く拜見せす左樣の中へ御願申上候事心無きに似候へ共衷情御高諒被下度願上候
(653)「槻の落葉」書店より御送申上るやういたし置候御受納願上候奥樣に宜しく願上候匆々 十二月七日夜 俊彦
阿部次郎樣侍史
齋藤は十一月卅日乘船の由に候
一二二五 【十二月十六日・端書 下諏訪町高木より 栃木縣眞岡中學校 關卯一氏宛】
拜啓アララギ年刊歌集刊行の事新年號に禀告いたし置候右原稿中へ先年の御作「彼の時は切つて捨てむと思ひけり……」の御歌御加入被下度思ひ付きしまま申上候匆々 十二月十六日
新年號は二十五六日に出で可申大册相成申候
一二二六 【十二月十七日・端書 信濃下諏訪町より 東京麹町區下六番町二十七アララギ内 藤澤實・高田浪吉氏宛】
〇藤澤君の書く消息に餘白あらば「しがらみ」「歌道小見」共岩波書店より再版が出たこと書いてくれ給へ太※〔虍/丘〕集も三版が出來たと書いてくれ給へ餘白無ければ止めてくれ給へ(小生の書いた方へは書くな)
〇廣告社へ高田君談判してくれ給へ一度ハガキ出して返事來なかつたら談判してくれ給へ大阪の人へは十五圓にしてやつてくれ給へこれも通知出してくれ給へ 十二月十七日
一二二七 【十二月十八日・封書 信州下諏訪町高木より 東京麹町區下六番町廿七アララギ内 藤澤實・高田浪吉・馬場謙一郎氏宛】
拜啓校正隨分御骨折の御事と存上候陳ば愚息健次周介二人來る廿三日の學期試驗を濟まし同日午後二時發の汽車にて上京二月七日迄發行所に滯在いたし度甚御厄介樣に存じ候へ共左の如く奉願上候
一、廿三日夜九時新宿著、十時前佐々木氏へ到著。この日夕飯は汽車中にて濟ますゆゑ佐々木氏方にて御用意に(654)及ばずすし一人分許り發行所で取りよせおいて下さい
〇一、ふとん一人分佐々木氏より拜借相願ふ事それを藤澤君用ひてもよし 一、室は發行所二階六疊に願ふ机一つ御貸し下さい(一つでいい) 一、廿四日朝より一月七日迄講習會へ通學
〇一、朝飯七時半に願ふ事夕飯は八時に歸宅して頂きたし(これは佐々木さん御厄介かと思ふ)
晝飯は健次一人頂く草周介は朝より夜まで會に居るゆゑ晝飯はパン等で過さしむ(健次は國語だけにて午後より會へ行くなり午前中は二階で勉強の豫定)
△一、廿四日朝恐入るが謙一郎君二人を市ケ谷停車場前の停留場へつれ行き電車へ乘らせて下さい(歸りは新宿行へ乘るといふことも注意して下さい)行先は神田錦町三丁目考へ方社なり下車は駿河臺下か小川町か忘れたり御指示を乞ふ(それより後は一停留ゆゑ歩く方よし)
△一、一つ謙二郎君に願ひあり廿三日夕方パン一食分買つておいて下さい
その他萬事御指圖奉願候匆々 十二月十七日夜 俊彦
藤澤君 高田君 馬場君 几下
〇印の所を佐々木サンヘ△印の所を謙チヤンへ御願して下さい
一二二八 【十二月二十日・端書 信州下諏訪町高木より 東京市麹町區下六番町二十七アララギ發行所 藤澤實・高田浪吉・馬場謙一郎氏宛】
〇畫伯十二月號「後れがちにしつきゆく仔馬」正誤を何處かでやつておいて下さいその他の人のもあらば願ふ
〇健次周介二人の事二三日前の手紙で御願せり右手紙御落手と存じ候二十三日午后二時上スワ驛發九時新宿驛へつく筈貴所へは十時前につくと思ふ萬事奉願上候佐々木樣へも宜しく願上げて下さい岩波氏よりの計算安心せり君は今月學校へ少しは行きしか一二日行くといい國へはいつ歸られるか伊那町小學校の小島君等が一日遊びに來(655)てくれと申す島田忠夫氏住所御知せ下さい
其二
もし會計許し得たら武田さんへ金二十圓振替で送つて下さいさうして別に手紙出し今年中種々御高慮に預つて有難い意味を書き別便振替些少なれども御落手願ふと書いて下さい會計めんだうなら小生より送金するゆゑ至急御申越し下さい森田さんへは何か諏訪産のもの小生より送呈するゆゑ御承知置き下さい 十二月二十日
一二二九 【十二月二十一日・封書 信濃下諏訪町より 東京市外巣鴨宮仲二二四三 武田祐吉氏宛】
拜呈寒さ日に加はり候御壯康被爲入候御事と存上候陳ば國學院大學豫科入學出願期日及び入學試驗施行期日決定相成候はゞ御一報相煩し申上度斯樣の事にまで貴臺を相煩し候事恐入候へ共成るべく早く承知いたし度事情有之右御願申上候御聽許下され候はゞ幸甚の至奉存候御願のみ申上候匆々 十二月二十日
武田祐吉樣侍史
御返事は決定の時にて宜しく御承知下され度候參考書等にて御心付きのものも候はゞ併せて御示教奉願候郵便局にて添記
一二三〇 【十二月二十三日・封書 信濃下諏訪町高木より 東京麹町區下六番町二十七 アララギ諸兄宛】
拜啓百九十七頁とは驚いた盛なる哉出來たら一册直ぐ送つてくれ給へ子ども參上よろしく御指圖下さい我まゝゆゑ御叱り下さい佐々木さん皆々樣へ宜しく藤澤君はいつ歸國するか 十二月二十二日夜 俊生
アララギ諸兄臺下
(656) 一二三一 【十二月二十三日・封書 下諏訪町高木より 長野市後町小學校 高田吉人氏宛】
拜呈好果許多御惠與下され席上紅積んで山の如し冬心地即ち賑ふを覺え候御厚志恐縮の至に存候深く御禮申上候諸兄に宜しく御傳言下され度奉願候匆々 十二月二十三日 俊彦生
高田兄臺下
一二三二 【十二月二十三日・端書 信濃より 東京 竹尾忠吉氏宛】
百九十七頁には驚き候校正その他御骨折り下され大謝々々存候信濃隨分寒く少々閉口いたし候胃腸も少し恐縮し居るらしく來月は是非熱海行決行のつもりに候忠臣藏如何なりしか左團次では大星は面倒らしく候御壯健御超歳を祈り候匆々
一二三三 【十二月二十五日・端書 下諏訪町高木より 東筑摩郡里山邊村兎側寺藤丸方 傳田精爾氏宛】
拜啓今冬は感慨深大の御事と存上候併しこれによりて却つて新しき生面に入られ候御事と存じ居候この間に一つ何か御勉強の程祈り上候歌は勿論の事に候アララギ今日製本出來候よし百九十七頁の大册には驚き候嚴寒の折から御自愛祈上候御令室樣にも宜しく願上候匆々 十二月廿五日
一二三四 【十二月二十七日・封書 信濃下諏訪町高木より 東京市外代々木山谷一七九 岡三郎氏宛】
子ども二人冬期講習を受くるため廿四日より發行所の厄介になり居候大晦日も元日もなく受講のよしにつき御宅へも伺はせず御諒承願上候
(657)拜啓手紙差上げんと存じ乍ら不精に打過ぎ失禮いたし居候今日は沖君に托し御状並に水仙と香魚を賜はり嚴冬の山居に生氣忽ち動き來るを覺え申候兩品とも珍らしき中に寒中の香魚は珍中の珍早速今晩拜味老父はじめ家族一同比ひなき風味を拜受いたし候斯樣の事田舍には得られぬ事に候深く御厚志を謝し申候今日沖君アララギ持參しくれ候今月貴臺の御歌並びに御文實に感銘の至に候ゆる/\拜讀のつもりに候百九十七頁の大册には驚入申候次に此頃より申上げんと存じ居候事有之大正十四年に御歌集御出し下され度此事拜眉可申上候へ共年末中に御決心被下候樣切望申上候小生等常に御先きへ失禮のみ致し居り候今は是非御出し下さるべき時來り居りと信じ申候何卒御目をつぶりて御斷行被下度願土候必御聽許願上候
小生秋以來神經痛等にて食慾と根氣と少し乏しく成り今日上諏訪に出で受診候處矢張主として胃が弱り居り侯由少しく服藥をつづけ一月熱海に數日過し度存じ候大したる事無之決して御心配下さらぬ樣願上候
御家族樣御一同御壯健御超歳の程祈上候拙家一同無事越年可仕御安心被下度候湖水毎朝氷結して午後は解け申候今に全く氷結可致候一同より宜しくと申出で候敬具 十二月二十六日夜 俊彦
岡樣臺下
水仙は晝は炬燵に置き夜は地下床に置き可申正月は咲き出づべく樂しみ居候末子の喜び一方ならず候
一二三五 【十二月三十日・端書 信濃下諏訪町高木より 東京麹町區下六番町二十七アララギ發行所内 藤澤實・高田浪吉氏宛】
電報も頂き且つ詳しく御知らせ下され大謝いたし候齋藤君今後餘程苦心を要することにて困つた事に候死者を出したるは實に殘念なれど致し方なかりしならん手傳ふべき事あらば御手傳ひ下され度願上候古泉君の病氣も困つた事に候只今見舞状出し申候諸兄の御自愛を祈候 十二月三十日夜
君はまだ信州と思ひ居り伊那へハガキ出せり
(658) 大正十四年
一二三六 【一月一日・封書 信濃下諏訪町高木より 兵庫縣西宮町香櫨園池端 中村憲吉氏宛】
拜啓新年御慶び申上候只今雜煮を食べ了りて此書認め申候皆々樣によろしく願上候小家一同元氣に候健次周介二人は束京の冬期講習に行き發行所の厄介になり居りそこで迎年いたし候匆々 一月一日 俊彦
中村兄臺下
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青山病院の全燒は實に困つた事に成り候茂吉兄歸朝後苦心甚しかるべく心配に堪へず候茂太君がバアヤと共に烟の中を逃げ了ほせし事大幸々々存候一寸の手に行かぬ損害實に困つた事に候今度はも少し小ぢんまり創めるといいが親父の氣質ゆゑそこが色々面倒なるべし千樫君の肺病は一昨日藤澤よりの通知にて初めて知り候病氣しては哀れ也小生も心痛昨日取あへず見舞金十圓を送り候嚢中乏しきゆゑ多くは送られず一つ小生等數人にて金を少し集め纒めて送る事如何のものか君の御意見聞きし上にて畫伯へも御話し申さんかと存候御返事願上候
昨日は御手紙難有存候二首脱落は殘念也二月號へ補遺として出すやう發行所へ御申遣し願上候小生三囘に原稿さし上候へ共(貴兄宛)御落手且つ役に立ちしか如何出た新聞を社の方より送るやう順序つき居ると大へんいゝ送り(659)てそのまゝにては出詠者張合惡しこの邊社の編輯部にて心得居る方よしと存候原稿料なども朝日の方は十二月廿日に送りしもの廿四五日にこちらにつき居り候これも貴兄ゆゑ申上置き候金なき文士はさういふ零碎のものをあてにして居る事と存候
批評號阿部さんへ手紙出してくれ二月號はとても間に合はぬゆゑ三月號にする方よしそれでも一月中には原稿書いて送りくるゝ樣依頼必要なり小宮氏へも手紙出し給へ小生よりも出す用事のみ匆々又書 一月一日
茂吉君御夫妻によろしく願ふ小生は一月廿日頃上京すると申し御傳へ被下度候六日上陸直ちに汽車歸宅せん又々書
一二三七 【一月二日・封書 信濃下諏訪町高木より 東京麹町區下六番町二十七 アララギ發行所諸氏宛】
新年おめでたう存じますこちらは元日より急に暖くなれり
〇二月號以下のカツト下を四枚送る1234の順序で毎月出して下さい併し他のものと隔月位に交じへるもよし
〇齋藤君へ新年號を左の宛所で送つて下さい 兵庫縣西宮町香櫨園池端中村憲吉樣氣付 齋藤茂吉
〇小生は二十日上京すべし二月號へ歌十首位あるべし〇健次周介は何日に歸るか一旦高木へ歸つて關方へ行くべし〇佐々木さんへ宜しく火の用心大切なり特に健次周介注意すべし 一月二日 俊彦
古實君 浪吉君 謙一郎君 健次周介殿
周介は上伊那郡宮田村小學校松澤平一殿へ年賀状出すべし
一二三八 【一月四日・封書 長野縣諏訪郡下諏訪町高木より 東京市外代々木山谷一七九 岡三郎氏宛】
新年御慶申上候皆々樣御清榮被爲入候段大賀の至存上候小家一同頑健罷在候間御安心被下度候
(660)齋藤君御宅燒失の事、實に困惑の至に候同君の研究ものも燒亡せしかと尤も心に懸り候
アルス新聞によれば子規居士家屋保存會のため金割その他にて金を集むるよしこの保存會は已に完成して舊宅も正岡家所有になり居りしかと存候へ共如何に候か御序の節承り度存候
御惠送の水仙大晦日より開きはじめ新年の机上に二輪の白花を飾り居り候清楚欽すべし深く御禮申上候皆々樣御自愛祈上候こちらも新年に入りて却りて暖く候匆々 一月三日夜 俊彦
岡麓樣侍曹
一二三九 【一月四日・封書 信濃下諏訪町より 東京市外上目黒五八五 平福百穗氏宛】
卅一日御手紙正に拜受いたし候
拜啓新年御慶芽出度申納め候御子樣方風邪御快癒の趣歡しく存候御令閨樣益御健全御事と存上候小家一同無事御安心被下度候小生體の具合も大した事なく御安心願上候
齋藤君宅の燒失實に困惑の至りに候研究もの印刷して送りあるやに想像いたし居候これも燒かれては千歳の遺憾に候其際は電報等非常の御配慮を賜はり感謝の至に存上候小生七日夜行上京八日朝茂吉君に逢ひ九日歸國仕り度どうも逢はねば心落ち付かずもし八日に猶御在京ならば歡しく存候(御出産前御他行は大丈夫に候哉御出産後になされ候ては如何に候か)萬拜芝を期し候匆々 一月四日 俊彦
百穗畫伯臺下
千樫君の肺病は困つた事に候萬拜芝を期し候
一二四〇 【一月五日・端書 下諏訪町高木より 上伊那郡伊那町小學校 三澤孔文氏宛】
(661)謹賀新年 六首四首皆宜しく歡しく存候何れも二月號へ出し置可申御承知被下度候匆々 一月五日
六首の一等終りは少し落ちる
一二四一 【一月五日・端書 信濃下諏訪町高木より 東京麹町區富士見町二ノ四十七各務方 山口茂吉氏宛】
も少し深く寫生に專念し給へ焚火に跨をあぶる歌は面白い風邪御大切になさる樣祈上候匆々 一月五日夜
一二四二 【一月六日・端書 信濃下諏訪町高木より 東京神田區豐島町九 淺羽茂太郎氏宛】
謹賀新年 今度の御歌素直にて皆よし忙中失敬々々一月六日
一二四三 【一月十日・封書 信州下諏訪町高木より 東京市外西巣鴨池袋九七〇 廣野三郎氏宛】
新年御慶申上候御全家御揃ひ御清昌奉賀上候小家一同元氣越年御安心被下度候國學院の事につき非常に御配慮被下恐悦の至奉存候今日は試驗問題御送り被下豚兒のため大に參照となり可申厚く御禮申上候濟み候上は直に御返送可申上候猶出願期日相分り候はゞ御知せ被下度御手數乍ら願上候小生一泊にて上京濟藤君に逢ひ昨夜歸り申候明曉下伊那行につき下調べいたし居り蕪詞亂輩失禮御ゆるし被下度候匆々 一月十日夜 俊生
廣野兄侍史
一二四四 【一月十日・封書 信濃下諏訪町高木より 兵庫縣西宮町池端 中村憲吉氏宛】
拜啓東京に一泊して昨夜十二時歸宅齋藤の元氣なるに第一安心せり肥えたれど頭髪その他に老いの色現る八日には午前より夕方迄殘館に話せり小宮さんも來れり依て「しがらみ」を頼みしに君よりは依頼なしと申されたり至(662)急依頼手紙出して下さい(阿部さんへも)一月一ぱいの事アララギの事も古泉杉浦らの事も話せり只あの始末の中にて多く話されず畫伯も小生と同時に御來會下され有難かりき木下杢さんにも逢へり橋田東聲君も來り久しく話し居たり此人中々歩く古泉への見舞は當分樣子を見る方よしといふ君の説に皆賛成せり御承知置き下さい
齋藤の書物中歌の方丈けの一部分だけさし當り揃へるに數百圓要るらしい畫伯貴兄小生それに岡土屋等で三四百圓集めて橋本君より本を揃へてもらひては如何と畫伯とも申合せしがすべて一月廿四五日小生上京の時又打合せするとせりアララギより年末目ぼしい會員に依頼状出せしゆゑ會費前納多く今五百圓位あるやうなり此内百圓位出してもいゝと思ふ貴兄も少しふん發してくれ給へそれから今年は岡さんから歌集出して頂くやういたしたし君より是非御勸め被下度願上候近年の丈けでいゝと思ふ引續いては畫伯なれど先づ岡さんに御願するがいゝと思ふ是非御さん成御勸め申上げ被下度願上候成るべく早く御手紙出して下さい明朝早く下伊那行きその下調べ急しく亂筆失敬々々 一月十日 俊彦
中村兄臺下
小生一月廿五日頃伊豆土肥温泉へ行くつもりに候土屋君の歌集原稿成就小生も昨日一寸拜見いゝ歌集也蘇峰先生太※〔虍/丘〕集を長く國民に書いて下され感謝の至に候
一二四五 【一月十日・端書 信濃下諏訪町高木より 東京市外下澁谷五四一 篠遠喜人氏宛】
謹賀新年 久し振りで御便り拜見の心地いたし候御歌近頃御中絶に候哉御續けならば歡しく候 二月十日
一二四六 【一月十日・端書 信州下諏訪町高木より 東京市外代々木山谷一七九 岡三郎氏宛】
拜丁今囘は一泊にて忙しく上京のため遂御伺ひ出來ず昨夜歸宅いたし候茂吉君元氣なるが何物にも代へられぬ歡(663)びに候併しあの慘憺たる燒跡は痛心の至に候水仙花さきて久しく候忝く存候
代々木雜筆は頂かれませうか頂かれ候はゞ大慶の至に候 一月十日
一二四七 【一月十日・端書 信州下諏訪町高木より 東京麹町區下六番町二十七アララギ發行所内 藤澤實氏宛】
橋田東聲氏曰く「先年左千夫書簡二通送りて返らず返して下さい」とこの事言ふを忘却せり慥かに同氏より送りくれたり小生は已に返したりと思へりその邊御探し願上候ハガキではなかつたと思ふ手紙なりしかと思ふ猶高木君に聞いてくれ給へ(今朝雪六七寸つもれり) 一月十日
一二四八 【一月十六日・封書 長野縣諏訪郡下諏訪町高木より 兵庫縣西宮町香櫨園池端 中村憲吉氏宛】
拜啓諏訪湖全く氷結寒氣嚴しく候齋藤の事は前便御知せ申上げし事と存候今は元氣なれど追々心痛を増し來るべく存候一通の書物揃ふだけでも慰めとなり可申三四百圓の書物買入れ度存じ候アララギより百圓位出してもよしと存候畫伯貴兄それに岡土屋小生は少額と存候國歌大觀だけで五十圓位するらしく候古義は三十圓で得る方法を知り居り候萬葉叢書は橋本君より寄贈せり代匠記眞淵全集宣長全集等今は皆高價の由に候畫伯には大體御相談申上置候古泉の事も三人で話し合ひ候今暫く樣子見ての上の事と申合ひ候水難會の方も如何かと存候つまりは故郷へ歸るべきでないかとも申合ひ候
大阪毎日より歌と文とにて三十五圓頂き候これは甚だ有難く存候小生月末に熱海か土肥へ行くつもりに候どうも胃に痛みあり候醫藥は服用致し居り候
新聞御送下され難有存候六七首の事そのうち出來たら御送可申候へ共何うも例の遲作閉口に候年刊歌集もそのうち御送下され度候今集まりつゝあり岡さん今年歌集出すやうに御すゝめ被下度御賛成願上候引つづき畫伯も出し(664)た方よく藤澤もそろ/\出してよしと存候岡さんは此數年のを纒めて出した方よきかと存候如何望月篠原のも今春中に整理可仕堀内のを貴兄の手にて一通り御撰定被下度候これは貴兄の手許にありと存候
加納に選歌してもらふ事小生も初めより左樣存じ居れり只茂吉君が伯林より東京以外へ選者を擴げるなと申來り居りしゆゑ過日も控へ居りし次第に候加納今一年位歌熱心に勉強してからなら猶よしと存候高田も今熱心に國文を勉強し居り候一年も經たら選歌してよしと存候〇〇同輩に具合惡しとの御注意難有存候これは〇〇にも幾分缺點あるべくそれを言ふ連中が少々噂談の多い種類かも知れず候注意は怠らざるべく候 一月十五日夜 俊生
中村兄臺下
一二四九 【一月十六日・端書 信州下諏訪町高木より 東京麹町區下六番町二十七アララギ發行所 藤澤實氏宛】
書留の御手紙とハガキ二枚正に落手難有存候小生明朝五時小縣郡縣村小學校行十九日歸り廿日より四五日原稿を書き上京して直ぐ伊豆へ行く豫定に候加納君のはあれでは未だ透らず小生意見を書いて返送いたし候間御承知被下度候匆々 一月十六日夜
國民の(九)が來ないあらば御送願上候高田君に宜しく願上候湖水スケート盛也
一二五〇 【一月二十日・端書 信濃國下諏訪町高木より 東京市外大森山王臺 徳富蘇峰氏宛】
謹呈國民新聞紙上連日小著御評を賜はり初め驚喜し後愼肅再度三四度練り返し謹誦仕候すべて未成の稚作に有之今後愈々奮勉の覺悟を存し居候圖らずも先生御知遇の一端に置かるゝを得しは無上の光榮にして先生の意亦小生を鞭撻し激勵し給ふにあるを思ひ一段の覺悟を得し心地致し申候遠くは王氏より近くは先生の玉什を併記し給はりし如きは小作到底當らず恐縮此事に奉上候過日來一書捧呈の意ありて旅程延引咋夜深更歸宅今日一書謝意を(665)呈上仕度如此に候信濃の地炬燵にありて耳朶猶痛みを覺ゆるの寒さに候
御自愛の程切に奉祷上候敬具 一月二十日 赤彦 久保田俊彦
徳富先生老臺下
一二五一 【一月二十日・端書 信濃下諏訪町より 東京市外高井戸村中高井戸字北三十三 武田祐吉氏宛】
拜啓昨夜歸宅今日手紙書く事山積の有樣ハガキ失勵幾重にも御赦し下され度候學校の事御知せ被下奉萬謝候頭鈍きゆゑ一度では入れるか如何かと存候猶御稿御寄せ下され候由御厚情大謝の至奉存候御新居御閑靜にて皆々樣御幸福と奉存上候匆々 一月廿日
一二五二 【一月二十日・封書 信濃下諏訪町高木より 東京銀座一丁目安全金庫會社 長塚順次郎氏宛】
拜啓只今旅行より歸り急ぎ御手紙さし上度原稿紙などへ失禮御ゆるし願上候
横瀬氏より岩波氏に對し(一)原稿を他人に渡して燒失せしめし損害百圓(二)右筆寫料百圓、以上を要求し來りし由不當至極と存候岩波氏はじめより全集編輯に同情して下さりこれを尊兄に御渡し申上けしものに有之この點恐入候へ共同氏を御訪問等にて御話し合ひ御相談下され度願上候猶この原稿なきため全集は中止の姿に有之これ以外は悉く筆寫等を終り居候次第御盡力奉願上候右取急ぎ申上候匆々 一日廿日 俊彦
長塚順次郎樣貴臺下
一二五三 【一月二十一日・端書 下諏訪町高木より 束筑摩郡鹽尻小學校 三村邦雄氏宛】
御ハガヰ難有拜見いたし候故望月君の歌集は是非出し度出版の都合より堀内卓造篠原志郡兒二君のと合著にいた(666)し申度存じ居り候堀内君のは已に全部集まり居れど望月君のは比牟呂アララギ以前のもの集まり居らず大兄の御盡力により整備いたし候はゞ幸甚奉存候小生一二日中に伊豆に行き二月十日頃歸國可仕改めて小生御伺ひ申上ぐべく貴兄の御足勞を煩しては相濟まず存じ候以上アララギ編輯會にて決定せしより二年もたち居り心苦しく存じ居候御返事旁御依頼申上候匆々 一月廿一日
萬拜眉を期し候
一二五四 【一月二十二日・端書 信濃下諏訪町高木より 東京麹町區下六番町廿七 アララギ發行所宛】
節忌に兼ねて齋藤君の歡迎歌會を開きたいその事消息に忘れた八日の日曜は如何か丁度節氏の忌日であらう雜誌に書き得たら書いて下さい然らざればあとでハガキ出してもいゝ齋藤君の承知を一通り得てくれ給へ小生よりもハガキ出す齋藤君には一寸でも出席してくれと書いて置いた多分いゝであろ會場は適宜きめてくれ給へ辻村君御宅御都合如何かとも思ふ 一月廿二日夜半
一二五五 【一月二十八日・端書 伊豆國土肥温泉土肥館より 信濃國上伊那郡箕輪村上棚 藤澤實氏宛】
今日は可なり疲れた體は元氣旺盛なり
御尊父樣如何かと存上候此間は木下驛より夜おそくて御困りと存候小生昨日朝六時廿五分東京驛發沼津下車の處風強くて船出ず引返して修善寺驛に下車そこより三里の船原温泉に宿り候こゝの鈴木旅館は溪流に沿ひ茅葺の棟いくつもに分れて建ち居り庭には幾抱へもの推古木その他樹木多く且つ杉山つづきにて大へん宜しく候そこを今朝出立三里山越をして表記に来り候三里といひても四里位はあり候樫椎馬醉木つげ椿等の冬葉日に光り殊に山上は草原にて雲天微茫の間に大洋の横たふを見るべく山の半分より下は椿の花盛り土肥は梅の花盛りにて室内殆ど(667)火氣を要せぬほどの暖さに候五日迄はこゝに居り可申高田は三日に來るかと存候御尊父樣御大切祈上候御令兄にも宜しく願上候匆々 一月廿八日夜
草山のいづれの山を人に問ひても天城の山のつづきなりといふ
一二五六 【一月二十八日・端書 伊豆國土肥温泉土肥館より 東京麹町區下六番町二十七アララギ發行所 高田浪吉氏宛】
船原よりここまで三里というても四里はある併し實にいゝ山越をせり今電報出せりこちらより船原へはとても越しかねる山道がこちら側は手を立てた如き急坂二里なり依てもし三日に沼津より船立たずば君は單獨に修善寺停車場へまはり(沼津市内電車より聯絡す切符も修善寺まで賣る)乘合自動車にて修善寺温泉へ行き二日も居て歸り給へ小生の山越はとても無理ゆゑ右申上ぐそれゆゑ東京より金用意して出立すべし(今朝船原よりハガキ二枚出せり)
一二五七 【一月二十八日・端書 伊豆國土肥温泉土肥館より 兵庫縣神戸市外西須磨村 加納巳三雄・土田耕平氏宛】
昨日沼津下車の處風荒れて船立たず引返して修善寺驛下車そこより三里の船原温泉に泊り候溪流に沿ひ庭に幾抱へもある古椎その他樹木多く特に杉山つづきにて閑寂の一夜を過し候今朝船原を立ち三里(四里あるべし)山越をして午後表記へつき候山道はつげ樫椎馬醉木等の冬葉日に光り飽くを知らぬ心地いたし候殊に山上の枯草原より大海原を雲際微茫の間に望みしは壯快限りなく候下り道は半以下は椿の花盛りに候土肥は今日あたりは室内に火氣を要せぬほどの暖さに候小生體益元氣らしく御安心被下度候一昨日半日齋藤に逢ひ候假小屋にもあたらぬ處にて診察するといひて一人で頑張り居る元氣悲壯を覺え候その日一人外來患者ありし由に候二三日温泉行をすゝめしにいつ外來診察あるか分らぬ故毎日ここに居らねばならぬと申し候覺悟の程察すべし小生五日にここを立たん(668)と存候それより發行所に歸るべく候古實廿五日歸國せり父少し病氣惡しとの事に候連名宛失敬々々 一月廿八日
一二五八 【一月二十九日・端書 伊豆土肥温泉より 東京神田區南神保町十六岩波書店 岩波茂雄氏宛】
最早御歸京頃かと存候沼津より船出ず(凰荒れて)昨夜は船原温泉の閑寂に浸り今日三里の山越をしてここに來り候山上の枯草原より伊豆の海駿河の海の雲際に接するを見しは壯快に候山の半分下よりは椿の花盛り土肥は梅の盛りにて室内殆ど火氣を要せず百穗畫伯門下も一年來土肥海岸に住居いろいろ世話になゎ候宿の主人にも會ひしに貴下をよく存知し居り候五日にここをたち歸京七日の會に間に合せ度存じ居り候匆々 一月二十八日
一二五九 【一月二十八日・端書 伊豆土肥温泉土肥館より 東京小石川區大塚窪町(醫院) 美濃部榮子・葦名君子・阪田幸代氏宛】
沼津から船出ず(風にて)修善寺驛より船原温泉に出でそこより三四里の山越をして昨日表記へつきました伊豆西海岸唯一の温泉です山道は椿の花の盛りで土肥は梅の花がもう盛りを過ぎてゐます室内に火氣を要せぬほど暖かです二月五日頃までこゝに居ります面會日は八日に延ばしましたから御承知下さい七日齋藤君の歡迎歌會を清水谷公園で開きますから御出席下さい
二月號に詳しく書いてありませう葦名さんの番地を知らず阪田さんも六四四か一六四四か忘れて居りますから連名で失敬します御厄介ですが御兩君へ御轉送下さい 一月二十九日夜
草枯のいづれの山を人に問ひても天城の山のつゞきなりといふ
高田も一二日遊びに來ると言つてゐました
一二六〇 【一月三十日・端書 伊豆土肥温泉土肥館より 東京麹町區下六番町二十七アララギ發行所内 高田浪吉氏宛】
(669)君は一日か二日に立つて來給へこちらから立ちたい日に風が荒れゝば延ばさねばならず一二日餘裕ある方よし二日三日と泊り船安全ならば四日に歸京船立たねば五日か六日に延ばすといゝ兎に角二泊のつもりでやつて來給へそれで矢張り朝六時廿五分で立ち給へ荷物はもつなかれ大船驛で鯛めしで朝飯すまし給へ沼津からは十二時に立つゆゑ停車場より直ぐ人力車に乘り給へもし船立たずば土肥をやめて修善寺温泉に二泊ばかりして歸京し給へ出立の日謙ちやんに頼み小生宛電報出してくれ給へ船は大抵立つであらう以上匆々 一月三十日
二日夜發行所へ謙ちやんに泊つて頂くやう御依頼下さい小生は修ぜん寺へ山越はとても駄目なり御承知下さい船は少時間のうちに立たなくなる事あり廿七日も一二時間前より風出で發航を中止した
一二六一 【二月六日・封書 東京麹町區下六番町二十七より 京都市上京區田中飛鳥井町三二 西田幾多郎氏宛】
拜呈日を經るに從ひ御悲愁更に新なるを覺え給はんと奉拜察候
御生前アララギ御覽下され候由承り感慨を加へ申候小生一度も拜顔せず遺憾奉存候御縁を以てアララギに發行補助費御寄贈下され候段恐縮の至に不堪肅敬して拜受仕候深く御禮申上候小生妻を失ひしは二十七歳その間生れし子は當時三歳この子十八歳にして又逝けり先月末より土肥温泉に一人起居して一夜端なく往時を追懷して夜を更かし候先生の御胸中を小生の心にて拜察するは及ばざるの甚しきものに候へ共何とも申上げやうなき心持して此の筆執り居り候土肥にての歌押しがましく候へ共一首御目通し下され候はば幸慶存上候敬白
亡きがらを一夜抱きて寢しことも猶飽き足らずとはに思はむ
二月六日 俊生
西田先生座下
(670) 一二六二 【二月九日・封書 東京麹町區下六番町二十七より 曾根正次氏宛】
拜啓御令息正庸樣の御儀何とも申上やうなき御悲歎に存上候御存生中の御歌非常によき素質を有せられ至る處彌深きを覺え將來の期待淺からず存上奉り候處殘念と申すも愚か悲傷此上なく奉存候昨日は態々御志を寄せられ忝く奉存候丁度小生の面會日にて會員多數來集につき一同にて拜受仕候深く御禮申上候御弔問旁御禮申上候匆々
一二六三 【二月九日・端書 東京麹町區下六番町廿七より 信濃上伊那郡伊那町小學校 原田彦治氏宛】
今日君の歌見るいつもより出來惡しきは固くなり過ぎはせぬか御べん強下さい 二月九日
諸君に宜しく
一二六四 【二月十一日・封書 信濃下諏訪高木より 東京神田區南神保町十六 岩波茂雄氏宛】
土肥の海漕ぎ出でて見れば白雪を天《あめ》に懸けたり不二の高根は
今朝生れましたこれは多少いいかも知れぬと思ひ不二思ひの貴下にそして土肥の海を實際に知つてゐる貴下に初めに御目に懸けます硯の水凍りてよく書けず失禮々々
先夜珍味歡談大謝存上候まだ二三生まれるかも知れません
一二六五 【二月十二日・端書 信濃下諏訪町より 愛知縣知多郡大高町本町 山口兼好氏宛】
今日君の歌を見るに大抵取り得るを喜ぶ斯の如く素直に現れること肝要に候過日は御名産御送下され忝く存候小(671)生一昨日歸國のため御禮も遲延失禮いたし候信濃は猶筆凍るほどの寒さに侯御自愛祈上候匆々 二月十二日
一二六六 【二月十二日・端書 信濃下諏訪町高木より 東京麹町區下六番町二十七アララギ發行所 藤澤實氏宛】
小生ノ歌ノー番ハジメへ
軒の氷柱障子に明かく影をして晝の飯食ふころとなりけり
を入れ若し已に渡して困る場合は「耳に響かふ天龍川の音」を削つて下さい御厄介々々なりせん歌は明朝送る電報大謝
一二六七 【二月十三日・端書 信州下諏訪高木より 東京日本橋區本石町 石榑茂氏宛】
拜啓先夜は烈風中風邪を推して御高來下され御歸宅後大に心配いたし候昨日藤澤君より大體を知せ來り今日は貴君より巨細御知せ下され萬明了難有存上候あの日の鎌倉行は隨分御決心の上の御事と存候風邪却つて退散は快哉の至りに候斷じて行へば斯る事往々に有之らしく候木下氏小康を得られし事欣喜の至に候且つ十一首超過の事も御配慮によりて問題なくなり大安心致し候原稿は勿論そのまゝ改造へ渡すべきものと愚考仕候右御盡力に對し厚く御禮申上候匆々
當地猶硯の水凍るほどの寒さに候來月は御歌御示しの程待上候木下氏へ御序も候はゞ宜しく御傳言下され度候
一二六八 【二月十五日・封書 信濃下諏訪高木より 東京麹町區下六番町廿七アララギ發行所 藤澤實・高田浪吉氏宛】
〇編輯便一通りよんでくれ給へこの校正嚴に願ふ(句讀點も)遺漏は君の方へ書いて下さい〇君等の年刊原稿至急(672)送り給へ〇小生の夜著修ぜん今月中に出來れば有難い佐々木さんへ願つて下さい事によると三月は一二日頃上京する(小諸を經て)〇時計修ぜん出來たら書留御送願上候〇學校へ行つてますか 二月十五日 俊生
藤澤君高田君
編輯便中西田先生の所の文金圓とあるは金十圓の十を落したるにあらず態ざと左樣に書きしなり御承知下さい
一二六九 【二月十六日・封書 下諏訪町高木より 上諏訪町中學校寄宿舍 久保田健次氏宛】
廣野氏より入學志願心得を送り來りしゆゑ同封して送る
〇國學院ではもう願書を受付けて居るよし四月四日締切の由なり中學試驗終へたら一寸家へ歸るべし
〇富山高等學校は縣立なり縣立でも大學へ接續すること他の公立高等學校等と同じなりやこれを古山校長か他の確かな先生に伺ふべし〇牛乳飲むべし新聞切拔送る 二月十六日
一二七〇 【二月十六日・封書 信州下諏訪町高木より 兵庫縣神戸市外西須磨中稻荷廿ノ一加藤方 土田耕平氏宛】
拜啓「種蒔いて暖き雨を聽く夜かな」惡しとにあらず俳句に季を重しとすれば一句中二つの季題を避くるが自然にして時に季題重なりて不可なきもあれどそれは特殊に生動し來る場合なるべく此句種蒔の季題に對して暖きの季題を重ぬる要なく雨を聽く夜かな丈けの意の方よし暖きが入りて却りて合ひ過ぎて甘き感あり且斯樣な句法子規の勃興時代に盛に流行せしかと記憶す恐らく蕪村の「閣に|ゐて《坐して?》遠き蛙を聽く夜かな」等より來りしものならん當時蕪村調より脱化して一時の流行を成したるもの多々あり「二本の梅に遲速を愛すかな」より何々を愛すかなの句多く出で子規にも惡しきものありきと記憶す「蛙を愛す蛙露石を愛すかな」など覺え居りこれは上等の方と布候そんな所より常套に非ずやと言ひし也この句恐らく鬼城氏初年に屬せんか如何同氏句集一寸拜借願上候同氏の句が今(673)の俳人中に超出して居るの貴説は小生も賛成也
遠見君ので「胸の上に」は少し不通なれど日光が目へ來さうなのを避けてゐる事大體判り得べしそれ丈けの點に少し疵あれど氏の特殊性を認め得なければ取れぬ歌なり此點大切也遠見君にはわが齋藤君の如き萌芽ありて然も大へん異る點ありじみな眞實性の非常に強きは此人の特に注意せらるべき所也此人一首のために二度でも三度でも來り小生の訂正せしは雜誌へ出さぬといふ調子也その芽を伸ばし行く事を考へるは大切なり疵といひても程度也その所を非常に窮屈に考へて大きな生きたものを漏らすは惡しその意は疵は構はぬといふ意には非ず「秋の日の光さやけき」は意味通ずるにあらずや光鮮明な日でもわが家族は慰む所少なしといふは他の背景を聯想せしむべし光さやけき家ぬちのは未だ下手な所あれど不通とは言へず「友とゐて」は事實が多すぎてゐるが小説一部とは同氏歌境に同情出來ぬより出づる詞なり「おもひ見る」「いとまあれば」等の取れぬといふ事も同樣なり理解を廣くせよとは嚴肅さを緩めよとの意にあらず角を矯むるはよしそれが牛を殺してはいけぬアララギの歌に僅少ながらその憂なきにあらず此點も御考へ合せ祈上候猶詳しく御書きならば小見をそれへ詳しく書き可申候匆々 二月十六日正午 俊生
土田君机下
一二七一 【二月十六日・封書 信濃國下諏訪町高木より 東京神田區南神保町十六 岩波茂雄氏宛】
遠見君へは御心通じ置き候
拜啓昨日は態々御稱讃下され恐入候御詞敢て當らず只安らかに生れしまでにて候あと二三は他日御評願ふ時ありと存候
一、扨て昨日發行所より手紙あり三月號よりの部數の事に候過日御話し申上げし如く關西の方へ殖やして頂くを(674)得れば此處二三百部増刷斷行致し度併しこれは強いこと申す心無之貴店がそのため地方取次の口數を増し從て店員諸君の御手を餘計に煩多にする事かと存候此點貴店の御方針も有之べく(例へば委託はせぬ方針なりとか地方へは東京の大取次店をして當らしむるとか)その點御牴觸ならば少しの御躊躇なく御裁斷下され度然らざる範圍にて關西へ増配の御心配を蒙るを得ば増刷いたし度と存候此處少しの御遠慮もなく御決定御通知相煩し度何卒願上候堤氏とも御相談奉願上候印刷所への註文都合も有之候へば右御伺ひ申上候
一、土屋文明君は例の美學飜譯か或は心理叢書一部分(ゼームス?)の分擔が成り立てば甚忝く存候心理叢書の方は主任の御方か或はその助手の御方かより一度土屋君に話ありしとの事に候土屋君は心理の出身(帝大出大正五年頃)にて性格の謹嚴確實にて頭の利く事は充分保證し得る所に候只小生は門外の事ゆゑ專門御方と御談合下され度候同氏はそれが成立すれば此際專心それに從事して地方へ求職を止める方針のよしにつき此事も御無理ならぬ範圍にて早く御裁斷願上候今日の手紙は富士の歌と類を異にす恐縮奉存候
長野縣教育の事は此内長野にて守屋西尾二君に逢ふつもりに候匆々 二月十六日 俊彦
岩波大兄侍史
雜誌増刷の事はどうしても増し度いとは思ひ居らず御躊躇なく御裁斷願上候
一二七二 【二月十七日・端書 東京麹町區下六番町二十七より 信濃下水内郡豐井村小學校 神田すみれ氏宛】
拜見昨年は失靈致し候御歌特別に拜見することは不能に候へ共毎月發行所へ御送の原稿初めへ赤彦選と御朱書下され候はゞ小生それを拜見可仕候
御地の雪は大したるものならん御自愛祈上候匆々 二月十七日
(675) 一二七三 【二月十八日・端書 信濃下諏訪町高木より 東京麹町區下六番町廿七 アララギ發行所宛】
校正用
〇小生第一首(追加したもの)「晝の飯《いひ》食《く》ふころとなりけり」とルビ入れて下さい〇伊那行の歌のうち「光身に沁みて朝晴れにけり」と書いてあつたら夫れを「光身に沁みて晴るる朝空」と御訂正下さい以上 二月十八日
氷魚廣告文ハ今朝出シタ御落手下サイ岡サンノ文章アリテ有難シ萬事願フ編輯便文ハ少シ自慢ナリ如何呵々
一二七四 【二月二十日・封書 信濃下諏訪町高木より 神戸市外西須磨中稻荷 加納巳三雄氏宛】
拜啓御ハガキは東京で拜見せりあれを土田にも見せてくれ給へ君が歌にも少し專心になれるといゝ商業の方今尤も大切ゆゑその時間を取りては惡し君の苦心そこにあり夜二三時間を全く歌に入る事出來るとそれで澤山なり酒の勢では本物にあらずこの邊御工夫願上候男根力をも顧みぬ程の潜心が續くと大した事なり中村も土田も上方に永居するにあらず貴兄の決心尤も重要なり君の歌今迄玉石混淆の感あり玉ならざるは輕易に歌にまとめるより來ると見ゆこの點のみが今の處大切なるかと存じ候貴意如何 二月廿日 俊生
加納兄几下
小生の歌も左樣の缺點多かるべしそれは又別問題なり
一二七五 【二月二十日・信濃下諏訪町より 神戸市外西須磨中稻荷廿ノ一加藤方 土田耕平氏宛】
種蒔の句は數年して今一度誦して見給へ辻村の「われの言ふこときかなくなれり」は今も取れぬ歌なりや小生は今でも取り得る歌と思ひ居るなり辻村は其後新に開拓せんと努めしはよけれど今はどちらへも徹し得ず苦心の所と(676)見ゆ先々月の如きは一首も取る能はざりき遠見なども何度でも持歸らしむその實状を知り置き給へ東京では相變らず火の出る如きやり方なり藤澤の千葉縣大演習の歌も一月號へ出すといふのを數ケ月練るやうにせり「しがらみ」評少しでも出し給へ外文章不足困る 二月二十日
一二七六 【二月二十日・端書 信州下諏訪町より 東京麹町區下六番町二十七アララギ内 藤澤實氏宛】
〇御尊父樣御容態惡しき由其模樣で御歸國を可とす歸國の時アララギより何か御見舞を差上げるやうして下さい舶来の肉汁エキスなどは如何か何か考へ給へ〇岩波より入りしものは元眞等への餘りあらば積み立て置かれたし振替へ入れてもよく或は郵便貯金にして置いて何時でも出せるやうしてもよし〇木下氏家族へは弔状を昨日出した〇高田竹尾辻村諸君へよろしく當方皆無事 二月廿日夜
一二七七 【二月二十八日・端書 東京麹町區下六番町二十七アララギ發行所より アララギ會員宛】
拜呈古今書院發行萬葉集叢書は主としてアララギ會員の後援により續行せらるる實情に有之三月上旬を以て下河邊長流著「萬葉集管見」(定價參圓貳拾錢)の刊行を見るべく該書は徳川時代萬葉研究の先驅にして契沖は之を基礎として代匠記を著し春滿は手づから本書の書寫を企てたるものにして一昨年大震災の際原本燒失後は本邦中唯一つ水戸家書寫本の殘るあるのみにてこれが書寫を乞ひ得且つ書寫を了する迄に多大の苦心を要したるものに有之本書の公刊は學界を利すること甚だ大なりと信じ候例により右御紹介旁小生よりも御購讀御願ひ申上候返信用にて御購否古今書院へ御知せ被下度御手數願上候猶この端書により御購求の御方は金參圓貳拾錢(定價)を同書院へ御送然るべき由に候匆々
追て萬葉集攷證卷二は只今印刷中にて三月中發兌の由に候
(677) 一二七八 【三月二日・封書 信濃より 東京神田區南神保町十六 岩波茂雄氏宛】
拜呈長野にて守屋西尾君に逢ひ申候「信濃教育」三月號へ女師問題の事多く載せそれを持して上京文部の人に逢ひたしとの事多分二君と傳田精爾(女師附屬を辭せし人)手塚君位にて上京かと存候その上は貴君の御紹介御仲介にて關谷氏等に逢ひ度き事と存候御承知奉願候これは改めて守屋君より御意見伺上候事と存候あまり多人數押寄せる必要なしとも存候匆々
小生四日中に上京十日頃迄居るつもりに候アララギ増刷のよし難有奉存候 三月二日
一二七九 【三月九日・封書 信濃より 麹町區下六番町二十七より 市外下澁谷 羽生永明氏宛】
拜呈感激讀了仕候削るべき所なきは眞實に有之決して小生の遜辭諛辭に無之と奉存侯
一、歌御發見の由來あるもの詳しく御附記の程是非願上度存じ候これは必要に存候
一、小生の前年拜見せし際愚見記入御覽に入れしうち如何はしきものありやと心に懸り候毫末御遠慮なく御措置願上候
一、御註解中二三首引用アララギへ愚文書き申度是は小生參上御願可申の處に候へ共餘りの忙しさに書中御願申上候詳しくは橋本君より御聞取奉願上候つまり御書出版に對する愚見披歴のつもりに候
一、〇〇〇〇〇〇の誤點別にアララギヘ御寄稿被下候はゞ大幸の至奉存候
欣快一書呈上如此に候敬具 三月九日 俊生
羽生永明樣侍史
(678) 一二八〇 【三月九日・端書 東京麹町區下六番町廿七より 信濃國東筑摩郡鹽尻村小學校 三村邦雄氏宛】
拜啓過日參上御厄介樣相成難有存上候猶遺稿の事御願申上げ大に安心いたし候其後の御經過御ハガキにて御知せ被下候はヾ有難く存候國元にて御ハガキ拜見胡桃澤氏家族病氣の由もしそのため拾輯長びくやうならば同氏に話したる上材料の方ズ/\御運び願上候馬醉木アカネアララギはその模樣にては小生より御送申上げて宜しく候併しこれは胡桃澤君の處にあるべく存じ候小生十二日歸國可仕候匆々 三月九日夜
戸谷君其他諸君に宜しく願上候
一二八一 【三月十三日・封書 東京麹町區下六番町廿七アララギ内より 麹町區元衛町中央氣象臺官舍 藤原咲平氏宛】
拜呈先夜は難有奉存候その際御詞の如き御手紙知事へ御出し下され候はゞ尤も機宜に當り忝き事と奉存上候御力添の程奉願上候頓首 三月十三日 俊彦
藤原咲平樣侍曹
一二八二 【三月十五日・封書 信濃下諏訪町高木より 滿洲大連市千歳町四十三 池内忠義氏宛】
小生元氣御安心下され度候
拜讀非常御無音いたし候御病氣被成候趣遠地にて御心配被成候事と存候餘程御快方の由安心いたし候併し猶暫く御注意且つ御養生の程祈上候其内御郷里へ御歸りの由御老親樣御欣びの御事と存上候東京は齋藤君歸朝して大に賑やかになり申候貴詠四月號へ出るもの大へんよく欣しく存候昨日は又御稿御送これもよきものあり益々御出精御奮發の程祈上候滿洲で貴兄あたりが振つて下されば諸人多く奮起可致ことゝ存じ候御精勵至囑存上候
(679)白水君の事非常に御配慮下され候由感謝の至りに候同君に數日前東京で逢ひ候何とか道を拓かせ度存じ候その時貴兄の御病氣も聞き申候東京にて小川千甕氏に逢ひしに同氏近く滿洲に遊ぶよし貴兄を御訪ね申上る事と存候御逢ひ下され度願上候猶御迷惑ならざる範圍にて萬事御配慮下され度奉願上候同封甚だ失禮に候へ共貴兄の御養生費へ御加へ下され候はゞ大幸の至に候奥樣へ宜しく御傳聲願上候匆々 三日十五日夜
池内兄貴臺
返禮などと心配しては困ります白水君より聞きしよりも御快方の事喜しく存候
一二八三 【三月十八日・封書 信濃下諏訪町高木より 東京市外池袋一一一九 横山安夫氏宛】
大さは四六判の事に願上候只今御手紙拜受難有存上候
拜啓過日は度々御光來下され恐入申候歌集裝幀は如何樣になされ候哉もし森田恒友畫伯に御願ひ下され候はば尤も有難く存候この事齋藤中村二君とも話し合ひ候同一裝幀にて三人色を異にしても宜しく候齋藤君は赤を欲し中村君は緑かなど語り合ひ候へ共それも畫の樣子による事と存候同畫伯に御願ひ下さるとせば小生よりも同氏へ依頼状さし上げ申度存じ候匆々
森田畫伯は市外中野町上ノ原八〇五東中野より線路に沿ひ行き右五六町に候
一二八四 【三月十九日・端書 信濃下諏訪町より 東京麹町區下六番町二十七アララギ内 藤澤古實氏宛】
〇寺澤孝太郎氏(伊豆國土肥温泉)へ三月號一册御送下度候伊豆國船原温泉鈴木旅館へも一册願上候(目次へん輯便の處へ朱丸をつけて)〇信州下高井郡往郷村山崎作次氏へ振替金十圓至急御送願上候これは内山紙の代金に候發行所へ到着可仕そのまゝ御保存被下度候百穗畫伯へ差上るつもりに候〇小生の合評とへん輯便は著いたでせ(680)う哀草果君歸國と存候〇當方皆元氣に候浪吉君謙君佐々木さんへ宜しく 三月十九日
一二八五 【三月二十日・封書 信州下諏訪町高木より 東京市外上目黒五八五 平福百穗氏宛】
拜呈過日は再度に亙り多大御配慮に預り恐縮の至奉存候久振りにて多人數相會し歡ばしく存候中村君あの後猶拜眉を得し事と存候長々御心配下され候長塚氏日記昨日順次郎氏より到著大に歡び申候直に筆寫に取りかゝり可申引つづき古泉所持のものも參り候はゞ茲に大團圓と相成可申候御安心下され度長き間御心に懸け下され忝く奉存候古泉の方のも順次郎氏に對し御序の節御促し被下度奉願上候
とく子さん中耳炎もう大丈夫に成らせられ候御事と存上候皆々樣御大切圍上候當方春寒猶料峭咋朝は硯の水凍り侯一同元氣御安心下され度候比叡山への御紹介何卒奉願上候そこがいけねば他を求め可申候中村より此際一度登山してもらふ樣昨日依頼申候匆々 三月二十日 俊彦
畫伯老臺下
一二八六 【三月二十一日・端書 信濃下諏訪町高木より 東京芝區白金三光町五三八 辻村直氏宛】
莢豌豆胡瓜見るからに清しく茄子のさゝやかにしてうち竝びたる姿愛でたしといはんも及ばず椎茸の黒々として鮮やかなるも配合の妙言はん方なし殊に早蕨のくぐもりたるさまにて小さきこぶしうち握りたるさま譬へんやうもなし御厚意如何計り辱く彼岸中日にあたれば早速佛壇に供へてさて二三を味ひつつ春光の早く身邊に沁み來るを覺えぬ如何なる詞もて御禮申上ぐべきかを知らず取あへずハガキして御高慮を謝し上げ奉るばかりぞあなかしこ/\ 三月廿一日夕 俊彦
石走る垂水の上の早蕨の萌出づる春になりにけるかも 志貴皇子
(661) 一二八七 【三月二十四日・端書 信濃下諏訪町高木より 東京市麹町下六番町廿七アララギ發行所内 藤澤實氏宛】
大封筒の手紙二通それに岩波さんとのよせ書き以上落手健次の受驗票も正に落手難有存上候堤さん追々宜しき由尤も喜ばしく候四月號合評の歌を通知出して下さい(四首位?)(哀草果へも知せて下さい)各新聞文藝部へ四月特別號の事知せて下さい一通り片付かば歸國したまへ御尊父御大切の事何か買つて行つて差上げ給へ子供へ菓子等御持參あれ健次は四日頃上京四日に旅宿見付けて下さい下宿でなくていゝ二三泊位なりあと十日迄佐々木氏へ置いて頂く小生四日朝迄に上京すべし萬葉の事拜承せり廿六七八日不在なり原稿つけば直ぐやる 三月廿四日夜
一二八八 【三月二十九日・封書 信濃下諏訪町高木より 東京市外上目黒五八五 平福百穗氏宛】
拜呈昨夜長野より歸り御書面拜見忝く奉存候長野縣教育の事御配慮下され難有奉存候その事にて一昨日と昨日教育會に四五人と會し附屬小學修身問題につき各方面の意見を問ひ誌上に公開する事になり甚不躾乍ら徳富老先生へも教育會より手紙出す事に相成其の資料として信濃教育昨年十月號の拔き刷りと今年三月號を呈する事になり是甚だ出過ぎ候へ共事は一縣の問題に非ずと存じ押して御願申出でし儀に候甚以て御迷惑奉存候へ共此際貴臺より特に老先生へ御願御申出で下され候はゞ幸慶此上なし御面接の機等も候はゞ尤も難有奉存候貴臺御參照のため別封雜誌二冊同封御目に懸け申上候御寸暇御目通し下され候はゞ幸甚奉存候老先生へは二三日中に會より御依頼状さし出し可申と存候
三宅雪嶺澤柳政太郎古島一雄の如き人も文部省高師の人も大學の先生へも出し可申候西田田邊阿部諸氏へも出し可申候只今郵便屋の時來り居り亂筆用事のみ申上候御海容奉願候匆々 三月廿九日 俊彦
〇雜誌表紙繪の事御承知下され歡喜奉存候何卒奉願上候小生上京の時頂きに參上可仕候
(682) 畫伯老第
一二八九 【三月三十一日・端書 信濃下諏訪町より 東京市外西大久保一六六 笠原もと氏宛】
拜啓はつせ非常の御厄介樣相成恐縮の至奉存候咋朝歸國御安心被下度候御主人樣へもよろしく御傳へ被下度候取あへず御禮申上候匆々 三月卅一日
一二九〇 【三月三十一日・端書 信州下諏訪町より 東京麹町區下六番町二十七アララギ内 藤澤實氏宛】
今卷一卷四ヲ送ルアト送ルナ三日夜行上京ス間ニ紙挾ミアルユエソロ/\ト解イテクレ給ヘ 三月卅一日
一二九一 【四月三日・封書 下諏訪町高木より 上諏訪小學校 田中一造・藤森省吾氏宛】
拜復小生儀今年は何うしても萬葉一二卷だけ纏め度四月より專心從事いたし度存候月二囘參上何の事でもなけれど幾分特別の用意も必要かと存候今年秋頃か來年四日よりならば參上し得るかと存候御高意に封しよく考へ見て右の如くに候段御諒察被下度何れ拜眉萬御話申上度存じ候敬具 四月三日 俊彦
田中兄藤森兄侍史
芳賀矢一氏著日本文學十講(名はよく知らず)もし拜借出來候はゞ願上候御煩忙中とんだ御手數に候はつせ御つかひまはし被下度役に立たぬゆゑずん/\御さしづ御小言申し下され度候
法王帝説の事春日氏へ申遣し候此事丸山君へ御傳言下され度候
一二九二 【四月五日・封書 麹町區下六番町二十七より 府下豐多摩郡高井戸村中高井戸北三十三 武田祐吉氏宛】
(683)拜啓御手紙忝く奉拜見候若し境界線に立ち候樣の場合御配慮を得候はゞ尤も忝恭く奉存候此點高柳樣の御了解願はれ候樣御口添下され候はゞ大幸の至奉存候併しこれも御迷惑に入りては恐縮の儀に有之御考により御截斷奉願上候高柳氏へは此際伺上る事はさし控へし方宜しと存じ此書呈上仕候何れ高柳樣へも拜芝の時ありと存じ候御煩多申上候段御高容奉願上候匆々 四月五日 俊彦
武田樣侍史
代匠記の事尤も難有奉存上候自筆本御勘合尤も奉謝上候翹足奉待上候五月號へ詳記可仕猶記すべき事も候はば御知せ願上候
一二九三 【四月八日・封書 東京麹町區下六番町廿七より 攝津國西宮町香櫨園池端 中村憲吉氏宛】
拜啓昨夜齋藤又來り上等てんどん一つづつ取りぺろり平げて小生のを分ち食ふといふ元氣なり併し病院問題依然で困る市外に地を求めてもゐるやう也
〇比叡山の事其後如何何卒願ふ京都在住の人確實に用意してくれぬと其場に至りて手違ひを來してはいけぬその邊御配慮願上候
〇「松の芽」「夏霞」のうち早く擇び給へ齋藤も同説なり後者の方据りよしと言ひ居る齋藤のはもう製本するだらう小生のも校正中也古泉も已に渡したる由よく出來たもの也四百何首とかの由也折口は六七百首との事
〇大阪毎日の歌二枚送る今月中に出すやう願ふ來月になれば舊くなるもの也出た新聞御送願上候
〇藤澤は初めて稿料貰へるゆゑそれを國の病父(胃癌)に送ると言ひ居りしも遂に來ざる由也その邊御盡力願上候
〇へん輯前亂筆失敬々々小生神經痛二日寢る今日大體よし 四月八日 俊生
中村兄侍史
(684) 奥樣に宜しく
一二九四 【四月九日・端書 東京麹町區下六番町廿七より 山形縣南村山郡本澤村菅澤 結城光三郎氏宛】
ゆつくり御上京にて宜しかりき毎年一度位出られると極いゝ今度より合評書いてくれ給へこれから農事忙しからんが歌丈けは出してくれたまへあさをの散髪どうでした流行は何でもやるといふ女也 四月九日
一二九五 【四月十一日・端書 信濃下諏訪町高木より 東京市外代々木山谷一八五 岡三郎氏宛】
拜啓昨日は懇々御高來下され恐縮の至に不堪候不在殘念の至に候馬醉木三株正に拜受御持參願ひ候ては恐入申候萬事ゴタ/\致し遂失念し御手數相煩し候段幾重にも御海容願上候健次國學院入學許可され忝く思ひ居候御安心被下度候御禮のみ申上候匆々 四月十山日
一株は發行所へ頂きおき候
一二九六 【四月十二日・端書 信濃下諏訪町より 高柳光壽氏宛】
拜呈益御清昌奉賀上候陳ば今囘は愚息健次につき多大御配慮相蒙り感謝の至奉存上候甚愚昧のものに有之今後御叱導の程奉懇願候近日上京拜芝を得申度取あへず以書中御厚禮申述候敬具
一二九七 【四月十二日・封書 信州下諏訪町高木より 東京市外上目黒五八五 平福百穗氏宛】
拜啓過日は參堂奉大謝候昨朝歸り候處長塚氏より故人遺記屆き居り多忙のためまだ荷を解かず候へ共先以て大安心右御高配深く御禮申上候過日參堂の節申上ぐるつもりなりしも來訪客多く遂黙示仕候それは今春より子ども一(685)人は國學院に入り一人は女學校卒業後縣立長野女學校國語專攻科に入り(年限三年)寄宿生括をせしむるに至り兩人合せて六七十圓を要するかと存じ小生の力として不相當の事に存じ候へ共已むなき勢と相成申候甚我儘の至に候へ共今後アララギより百圓以内小生へ補助して頂き度これは諸會計その餘祐ある月に左樣願はんとするの意に有之そのためにアララギに負傷さする如き事は致すまじく御高諒被下候はゞ喜しく奉存候長年月御配慮を蒙り少し餘裕出でし時我儘申候事心苦しく候へ共右事情御承知被下度奉願上候この事は兩三日前齋藤君へも話し置き了解を得申置候これも御承知被下度候岡土屋二氏へは話し居らず候中村君よりは過日左樣申され同君の意に從ふかも知れずと答へ置きし次第に候從來とても近來小生可なり補助を受け居りし儀に候猶三四ケ月に一度づつ百圓位を齋藤君に提供いたし度同君今困り居るゆゑ左樣いたし度これもアララギの餘裕範圍にての事に有之是亦御承知置被下度奉願上候匆々 四月十二日 俊生
畫伯老臺下
今月は座敷つづき便所建てやら子ども方々の受驗やらで二百圓頂き申これは恐縮存じ居候當地非常に暖くなり低き山には雪なく梅の蕾ふくらみ庭下の畑に草青み居候
一二九八 【四月十三日・封書 下諏訪町高木より 長野高等女學校寄宿舍 久保田水脈氏宛】
ハガキ二枚著き候只今言海と萬年筆とを同封し書留小包便にて送るゆゑ認印を用意すべし靴の金は直ぐ後より送るべし健次國學院大學合格のことは前に知らせしゆゑ知りたるべし十一日朝ここに歸り十四日上京十五日入學式なり當分發行所に居るべしハガキ手紙等に誤字や假名づかひの違ひ多し注意して丁寧に書く習慣を養ふべし今日は便所建前にて祝のこは飯をつくる體大切こちら皆元氣也
(686) 一二九九 【四月十三日・封書 下諏訪町高木より 諏訪郡湖南村大熊 藤森平右衛門氏宛】
拜啓早く細君を定め給へ岩本木外氏令孃今は前と事情違へりとも聞く然るべき人を介して至急御申込あるべし小生不在勝なれども充分應援をするぐづ/\してゐてはいつも駄目也決然敢行せよ君は少し鄭重すぎるそれが歌にも現れてゐる御考慮あれ至望々々 四月十三日朝 俊彦
青二君几下
一三〇〇 【四月十三日・封書 信濃下諏訪町より 東京麹町下六番町廿七アララギ内 藤澤實・高田浪吉氏宛】
拜啓今囘は健次の事實に御厄介になり千謝萬謝する
〇在京保證人を佐々木修氏に御願申度此の事君より佐々木さんに御願ひし十四日夜に認印を捺して頂くやう願ふ(名ノ下ト印紙割印)〇當分佐々木氏二階へ御厄介願ふこれも佐々木さんへ改めて御願ひ下さい〇小生十七日に上京する〇同封原稿御落手下さい間に合ふならんと存じ候
〇編輯所便一頁は君書いて下さい小生今日原稿後頭疲れて駄目也何卒願ふ編輯便中へ齋藤の童馬漫語短歌私鈔及「あらたま」春陽堂より再版出ること改造社自選歌集の表紙畫森田畫伯描いて下さり柳若芽三珠情趣生動せりと書いて下さい小林孝則氏の事大澤祐二氏遺稿「……」の事これは來月號で少し書くと書いておいて下さい小生忘れて來て書くこと出來ずその他心付きし事御書き下さい 十三日夕方 俊彦
藤澤君高田君凡下
一三〇一 【四月二十五日・封書 信濃下諏訪町より 東京小石川區小日向水道町 堤常氏宛】
(687)拜啓御退院大賀々々存上候御入院中も伺はず過般上京中も遂參上を得ず失禮を重ね居り候猶暫く御靜養を要し可申決して御無理なさらぬやう呉々祈上申候匆々 四月二十五日 俊彦
堤常樣侍史
一三〇二 【四月二十七日・封書 下諏訪町高木より 上諏訪小學校.田中一造氏宛】
拜啓過日は御繁用中態々御光來下され恐入候はつせの件につき明日頃參上のつもりに候處急に明日松本へ參る用事出來餘り延引につき乍略儀以書中申上候事情御諒得願上候
第一に先方の兩親より貴兄に依頼ありし哉如何これは形式の如けれど他日行違を生ずるの例往々にして有之先以て御聞き申上度存じ候手紙にて依頼にて可なり全然親より依頼なくては不備と存候間御伺ひ申上候
第二に先方の家系血統家風等に缺點なきか如何を御調べ願上度御煩勞恐入候へ共奉願上候これは小生方にても査べ可申猶あの地御知己等も候はゞ確實の人により御聞質しの上御知せ被下度願上候以上を基礎として熟考仕度御高諒願上候本人の事は小生知悉致し居候右藤森君へも御話し合ひ願上候匆々 四月廿七日 俊彦
田中兄侍史
今日守屋君來られ直ぐ歸り候
一三〇三 【四月二十七日・封書 信濃下諏訪町より 東京銀座一丁目七安全金庫會社 長塚順次郎氏宛】
拜呈故人日記その他一切正に拜受忝く奉存候小生所用にて數次上京不在久しかりし爲め御禮も申述べず今日に至り候段幾重にも御高宥願上候今度は全部完了可仕一二ケ月後御手許へ一切を御屆け可申上候その節二囘にわたる御預り品も御返し可申上御承知被下度候御盡力大謝々々奉存候匆々 四月二十七日 俊彦
(688) 長塚順次郎樣侍曹
一三〇四 【四月二十七日・封書 信濃下諏訪町高木より 東京市外向島寺島町一〇七三 安塚千春氏宛】
拜啓過日は態々御來訪下され候處甚失禮いたし候其節御願申上候爲櫻及びツルゲネーフ小説書入早速御送下され山鳥の渡の校合其他に非常に便利を得候事如何計り忝く御禮申上候早速御禮申述ぶべきの處あれより歸國して直ぐ又折返し上京の用事有之是は長野縣教育上の用件にて少々馴れぬ事ゆゑ意外に日數を費し漸く數日前歸國の有樣それゆゑ思ひ乍ら非常の缺禮仕り甚心苦しく奉存候右樣の次第にて御返事遲延の事情御洞察下され度幾重にも御詫申上候猶順次郎氏よりも故人日記類一切送り下され便益不尠欣喜存候御喜び被下度候小生やゝ忙しく取纒めに猶一ケ月か一ケ月半位かゝり可申その上御返却申上度御承知奉願上候
五味君へも宜しく御傳へ願上候例の神經痛にて昨日迄床上にあり今日やゝ宜しく五味君心配して手紙下され候ゆゑ同君へ大丈夫なりと御傳言奉願上候匆々 四月廿七日 俊彦
こちらは今日頃梅と櫻の盛りに候
安塚樣侍史
一三〇五 【四月二十八日・封書 信濃下諏訪町より 東京市神田南神保町十六 岩波茂雄氏宛】
拜啓昨日守屋君來る廿六日佐藤會長守屋西尾三人にて知事官舎を訪ひ昨年來の一切につき縷陳せし由知事も傾聽したらしい京都のことも話し合へり第一に貴君行つて下さらば尤もよし貴君本月十日頃迄に都合惡しければ小生行くと話し置けり御承知願ふ昨夜半手塚來る府縣學務課長を事務官に引上ぐるにつき目下内相と潮局長等と協議中との事廿七日の新聞に見ゆ從來の學務課長に異動あるべしこの機を逸せず潮惠之助氏等に説く法如何との事大(689)によし未弘嚴太郎氏は潮氏と親しき由末弘氏は手塚君と相識る由(東筑教育會へも來れり)一つ貴君と手塚氏守屋氏と三人位(?)にて末弘氏と會談して下さらぬかこのこと或は一二日中に守屋手塚等貴君を御訪問申上ぐべし御熟談の上御助力奉願上候手塚は昨夜引返し今日長野に行き相談せんその上直ぐ上京かと思ふ右御熟考と御助勢奉願候匆々 四月二十八日
答集さるもの十五人、三宅古島澤柳阿部次郎石原謙北澤種一土居篠原伊藤長七和辻哲郎等實に忝いそれに貴兄も御書き下され大謝々々存候
一三〇六 【四月二十八日・封書 信濃下諏訪町より 京都市丸太町富小路下ル 田邊元氏宛】
拜呈承れば御病臥の由一向存知せずして過日長き手紙を差し上申候
徒年の如き御病氣に候哉これは充分御靜養肝要と存上候御歸朝後瑞分御無理なされし御事と存上候山國の初夏新緑都人士未だ雜閙し來らずやゝ心腸に爽なるものあらん御思ひ切りにて二三週間富士見あたりに御靜養如何に候か御知せ下され候はゞよき宿見付け可申候御自重御自愛呉々祈上候匆々 四月廿八日 俊彦生
田邊樣侍史
過日教育會より願申上げし事は御快癒の後に讓り可申候やゝ詳しく西田先生へ申上げ置き候御快方後他日御序も候はゞその手紙御一見下され候はゞ幸甚奉存候併し追て拜芝の時も可有之と存候
小生も少々神經痛を起し居りもはや快方御安心被下度候
一三〇七 【五月一日・封書 信濃下諏訪町高木より 長野高等女學校寄宿舍 久保田水脈氏宛】
今朝出せる行李荷物を受取るに必要かと思ひこの切符を同封して送る驛より配達するやうにして置きしゆゑ寄宿(690)舍へ屆くならん承知あれ金十四圓は今日頃着きしならむはつせへの手紙今日つく今日うちは味噌焚きにて孫さが來てゐる予は三四日頃上京すべし當方皆無事なり餘り寂しがらずズン/\勉強せよ大山捨松夫人の如きは十歳位にて英國へ留學せり長野位は屁の如し 五月一日
一三〇八 【五月二日・封書 信濃下諏訪町より 東京淺草區下平右衛門町十四 美濃部榮子氏宛】
大賀々々小生も安心いたし候御睦じく幾久しく御暮し被遊候御事と存上候
神の世の神も然りき人のよの人も笑まはしいもせの道は
小生四日中に著京のつもり御光來待上候匆々 五月二日 俊彦
榮子樣御もと
一三〇九 【五月三日・封書 下諏訪町高木より 諏訪郡湖南村大隈 藤森平右衛門氏宛】
拜啓今日は失禮いたし候 一、上スワの方は斷念の姿なり 一、兄及び母は貴兄へ嫁せしめ度き希望なり一二日來本人に説きつゝあり 一、本人は未だウンと言はず或は百姓の為事を恐れ居るにあらざるか之は小生の想像にて分らず
猶よく考へて見るやう小生より本人に話せり
折角こゝまで榜ぎ付けし事ゆゑ何卒成立せしめたし伊藤氏には恐入れどこゝで今一度勸めに來て頂きたし返事聞きに來たでは具合惡しからん返事の遲れ居るを大へん氣にして居るゆゑ「返事聞きに來た」と言はば困るべしこの事を伊藤氏に御話し申上げて「勸めに來しなり」「返事は少し位遲れてよし」といふ意に言つて頂くがよからん小生今日上京十日頃歸國のつもり也匆々 五月二日夜 俊彦
(691) 青二君几下
一三一〇 【五月七日・封書 東京麹町下六番町二十七より 長野縣上伊那郡箕輪村上棚 藤澤茂氏宛】
拜啓御尊父樣御長逝被遊候趣御悲傷の程御察し申上候平素の御侍養に於て御遺憾なき御事に候へ共親子の情誼猶忍び得ざるの御悲嘆可有之特に實君は御臨終に會し給はず御遺憾御察申上候小生平素思ひ乍ら御見舞も仕らず後悔此事に奉存候折節目下上京中に有之親しく拜芝弔意を表し難く書状を以て御悔み申上候段御海容奉願上候猶別送金御香料中の一端に御供へ下され度振替にいたし候儀略儀の至にて失禮存上候へ共御容赦奉願上候匆々
猶實君はゆつくり後事御營みの上御上京祈上候
一三一一 【五月七日・封書 信濃下諏訪町高木より 滿洲長春三井物産會社内 石原善吉氏宛】
拜啓久しく御疏遠いたし失禮存上候益御壯健被為入候御事と存上候小生頑健御安心被下度候陳ば長春市三笠町三丁目二番地赤木槌右衝門といふ御方が赤彦會を組織し小生の筆蹟を要求し來り候小生には有難きに過ぐる感有之恐縮いたし居り候甚恐入候へ共赤木氏に就き會の性質會員の種類事業等御聞き質し被下候はゞ難有存上候御煩多中へ斯る事御願申出で候事恐縮存候へ共捨てゝも置かれず何かの御暇に右御調べ被下候はゞ大慶の至に候右御願のみ申上候匆々
斯る會には色々の種類有之有名無實も少からず又爲事の性質によりては遠ざかる方宜しき事あり御地のを左樣思ふにあらざるも心に懸り候 五月七日 俊彦
石原兄侍史
清島貢(江口さんの兄)氏に御逢ひの節宜しく御傳聲願上候
(692) 一三一二 【五月八日・封書 東京麹町區下六番町二十七より 市外千駄ケ谷八五四今井健彦氏御内 今井邦子氏宛】
拜見自分の計らひにて歌を休むといふ事は惡い、事情ありとも存上候へ共内に御忍びなさられ候事御工夫祈上候今月は爲方なし來月歌御持參祈上候特に茲暫くの間御勉強祈上候これを切望いたし候匆々
失禮なれど小生の言を信じ給へ 五月八日 俊彦
邦子樣几下
言ひたい事も有り給はん來月まで言はずに置いて見給へ
一三一三 【五月十二日・封書 諏訪高木より 東筑摩郡里山邊村 傳田精爾氏宛】
拜啓若葉清爽の季に入り候御變りなく候哉伺上候信濃教育誌多人數の立論喜しく通讀いたし候且學務課長轉任慶賀の至に候併し長野縣人いゝ氣になりては惡し此際特に引緊めて寸分の隙なき爲事してゐる事大切と存候如何今迄可なり放漫な教育が行はれて居りはせぬかと存候御知己に對し御愼戒下され度奉希上候同封のもの昨今原稿料入りしゆゑ甚少々なれども牛乳代にてもと存じ御送金申上候御高受奉願上候馬鹿にせしぼどの少額なれども御叱りなく微志御笑納被下候はば本望に候
六月號の御歌にいゝものあり歡ばしく存候七月廿七日より五日間安居會を比叡山山上宿院に開き岡百穗茂吉文明中村諸君も出席可仕御參會如何小生元氣御安心下され度候匆々 五月十二日
一三一四 【五月十三日・封書 信濃國下諏訪町高木より 東京市駒込區本郷曙町十三 寺田寅彦氏宛】
拜呈新緑清爽の氣山澤に滿ち申候益御清健被爲入候哉伺上候久しく御疎遠いたし心外存上候
(693)陳ばアララギ八月號を小著大※〔虍/丘〕集批評號といたし度一文御高寄賜はり候はゞ幸慶の至奉存候御煩多中へ時々御願申出候事甚恐縮奉存候へ共御高承下され候はゞ如何許り忝く奉存上候六月一ぱいに相願申上度長短御意に任せ申上候突然の御願無躾偏に御許容奉願上候敬具 五月十三日 俊彦
寺田寅彦樣侍曹
一三一五 【五月十九日・端書 信州下諏訪町より 東京麹町區下六番町二十七アララギ發行所 藤澤實・高田浪吉氏宛】
〇安居會稟告中
△會期を 七月二十九日より八日二日まで五日間と訂正△人數を 百人と訂正△申込所はアララギ發行所にしておいて下さい(原稿の通り)△參會者は七月二十八日日没迄に山上宿院に到著すべきやう訂正して下さい
〇昨夜長野より歸り藤澤君の手紙高田君のハガキ拜見校正初まりしならん御盡力願ふ
〇京都の會員を中村君に知せて下さい 五月十九日
一三一六 【五月二十一日・封書 下諏訪高木より 木曾福島 北原禎一氏宛】
拜呈清緑の候益御快適奉存上候陳ば來る卅日木曾福島教育會にて齋藤茂吉君講演卅一日森林鐵道にて山中に入るを得候はゞ尤も有難く存候小生も卅日夜迄に福島著翌日山中へ同行いたし度存じ候右につき鐵道便乘の便宜御配慮を賜り候はゞ大慶の至奉存候或は東京より女人三四人同行を願ふ哉も計り難く數人同時に願ひ候事御不都合に候哉その邊も御伺ひ申上度存じ候木曾教育會より御役所へ御願出づるかとも存じ候へ共その上に小生も加はり事によりては女人も加はる事に候へば特に貴兄の御配慮願出で候段御高諒願上候先は御願のみ申上度萬拜芝を期し候匆々 五月廿一日
(694) 猶昨年の如き御世話蒙りては心苦しく決して御配慮無之樣願上候食料品等は悉く携帶可仕候
一三一七 【五月二十一日・封書 信濃下諏訪町高木より 東京市外田端 芥川龍之介氏宛】
拜啓新緑清爽の氣山澤に滿ち申候益御清健被爲入候御事と存上候陳ば甚突然にて失禮の至存候へ共アララギ八月號を拙著太※〔虍/丘〕集批評號といたし度一文御惠寄下され候はゞ大慶の至奉存候御批評御感想御隨意御執筆相願申上度く長短も御任意御願申上候(長ければ最も忝く存候)六月一ぱいに願はるれば尤も難有存上候
無躾なる御願恐縮奉存候御許容下され候はば幸慶此上なく存候敬具 五月二十一日 俊彦
芥川龍之介樣侍曹
一三一八 【五月二十二日・端書 信濃下諏訪町高木より 東京市外上落合六六七 阪田幸代氏宛】
來る三十一日朝木曾福島を立ち森林鐵道で木曾山中へ入ります齋藤茂吉君と同行です若し御希望者あらば二三人聯合して御出でになりては如何三十日夕方迄に木曾福島驛著にして下さい宮原今井美濃部葦名諸君へ貴下より御話し下さい今井さんへもハガキは出します。東京を朝九時頃ので出ると木曾へ夜八時頃つきます時間を御知せ下さい福島驛で迎へますから二十九日諏訪へ御泊りならば木曾へ同行します
一三一九 【五月二十二日・端書 下諏訪町より 東京本郷區菊坂町十六第二春秋館 矢島祐利氏宛】
御無沙汰いたし居候筑波の新緑は爽快なりし御事と存候御歌はあせらず一歩々々踏みしめて行かれればよいと存候自己の眞實にさへ徹し居れば自然に進み可申と存候一高一低は誰でも免れず候御面晤を期し候匆々 五月二十二日
(695) 一三二〇 【五月二十二日・端書 下諏訪町より 東京本郷區菊坂町十六第二春秋館 矢島祐利氏宛】
高木君を呼んであの話をして見てくれませんか何ういふ方法を本人が立てゝ居るかそこを確めてくれ給へそして方法確立せば今度小生上京の時來訪してそれを示すやうに願ふ校正出來るだけ嚴密に願ふ高田竹尾辻村武藤諸君によろしく願ふ匆々 五月二十三日
大へん寒く伊那の山雪白くふれり今日又炬燵かけるといふ有樣なりそれでもかつこう簡鳥時鳥がないてゐる
一三二一 【五月二十四日・封書 信濃國下諏訪町より 兵庫縣西宮町香櫨園池端 中村憲吉氏宛】
拜啓關西に大きな地震あり兵庫縣中心なりと當地新聞にあり大丈夫と思へど心に懸り候御安泰祈上候今日の東京新聞で分ると思へど取敢へず御安否伺上候畫伯は廿二日夜行にて立たれし由御逢ひなされしか、安居會期日は貴示二案中の一を採りし次第發行所の校正發送にも都合よく且つ小學校にも都合よき事貴示の如し小生毎月の面會日を延してあと一二日遊びてもよく或はそれ前一二日早く行きてもよろしく候何れ七月に入りて定め可申候
次に改造社にて歌叢書刊行の記念會する由小生は著者五人丈け會すると思ひしに昨日茂吉君よりの知せによれば發起人は岡畫伯土屋諸君に願ひ古泉君の方は日光同人に願ふとの事さうなれば大仕掛なりこれは改造社の例の廣告的やり方なりあれ丈けのものにさう大騷ぎされては困りものなりそれに日光も加はり岡さん等にも參加願ふといふ事甚考へものなり一體岩波さんはあの刊行には甚不平也古今書院か岩波書店より出すならば自然なれど改造社の企ては兩書店のよい汁を吸はんとするものそれに賛するはアララギの人々に似合はぬといふ意を洩したる事あり併しこれは畢竟計畫通りにする事了解を得たれども眞意はそこにあり會などして大騷ぎするは小生にはよき心地せず日光誌上にて常にアララギの惡口言ひ居る(それは主として小生を目ざす)連中と會合は小生には氣が進(696)まず此點貴意如何已むを得ずば小生丈け缺席すべく存じ候狹いやうなれど不自然な會合をして世間騷ぎするは改造社に使はるゝに過ぎず製本でも活字でも實にいゝ加減のものにて不快なりそんな費用あらば活版や製本に費すべき也岩波氏曰くアララギの人々改造にやられしなりと橋本君も同じ意見らしこれは小生としてそれ程ならず一面の眞理と思ふのみ切火氷魚太※〔虍虍/丘〕集の傑作のみを他より出すといへば二書店へ失禮なれどそれ丈の意味にあらず一方「十年」出ししために氷魚以下も賣れるといふ事あり併し色々の點より考へて世間的大騷ぎするほどの出版にあらずと存候この事昨日承りしなり直ぐ齋藤に手紙出したけれど廿三日夜行にて近江蓮華寺へ行きし筈寺名を知れど場所不明にて手紙出されず候三十日夕方木曾へ行き逢ふゆゑ話し合ひ可申貴意御知せ願上候右のみ匆々 五月廿四日 俊生
中村兄貴臺
「十年」は四十部寄送せり北原土岐あたりへも出せり御參考迄に申上候アララギの若い人にも贈つてくれ給へ
耕平曉石實浪吉忠吉辻村等なり
卅日午後迄に木曾福島へ來ては如何齋藤君に御逢ひならば此手紙御見せ下さつていい
一三二二 【五月二十七日・端書 下諏訪町高木より 上田市小學学校本校 牛山米平氏宛】
詳細御調べ下され御厚志感謝の至奉存候アララギ七月號にて訂正可仕候今日は千樫君の歌集評十五枚書き少々疲れ候七月號に出し可申御高覽願上候御歌少しにてもよし御示し被下度待上候今日少雨時鳥かつこうこも/”\啼きて日暮れ候御禮のみ匆々 五月廿七日夜
一三二三 【五月二十七日・封書 高木より 上諏訪小學学校 森山藤一氏宛】
(697)拜啓過日は失禮いたし候筆記もの非常に多くなり御骨折心苦しく存居候今一息(二息も三息もならん)の御援助奉願上候會費正に拜受いつもの御煩勞感謝の至に不堪候柳平君の妻君の事は齋藤君と猶話し可申格別惡いのではないが永引くかと申居候或は家で療養の方がよいかとも同君申し居られ候(これは柳平君に露骨に御話しなきやう願上候)小生卅日木曾行卅一日齋藤君と山中に入りその夜か六月一日に布半に參るべく到著と共に貴寓へ御知せ可申上御光來願上候その時萬事御相談願上候柳平君御困りの境遇と存候長塚全集出れば印税の幾分を家族より贈り來るべくその全部を御兩君に差上げ申度只それまでに時日あるが困り候困り方の程度によりては誰からか前借してさし上げ度とも存じ居候萬拜芝を期し候匆々 五月二十七日夜 俊彦生
今日千樫君の歌集評十五枚を書き上げて夜に入りやゝ疲勞のためこんな紙へ書き候段失禮御赦し被下度候
汀川兄貴臺
一三二四 【五月二十八日・封書 下諏訪町高木より 長野市狐池 三澤精英氏宛】
木曾でも藝者のは駄目に候
拜啓此間貴地へ行きしも遂失敬いたし候新舊學務課長へ與へし貴文實にいゝ感謝々々存上候
〇信州より木曾伊那安曇等の踊りを東京へ出してやるよしこれは大變結構にて各地より中央へ持出す事になれば日本全國の地方色を間接にも直接にも保存する途となり可申存候就ては出演(?)につき特に妙な潤色を施さぬ事尤も大切に有之地方そのまゝのものにて出し候樣貴紙上にて御勸告被下度至望存上候過日御目に懸り度かりしもそのひまなく手紙にて御願申上候匆々 五月廿八日 俊彦
背山大兄侍史
御令閨お子さん方へよろしく願上候
(698) 一三二五 【六月一日・繪端書 木曾より 東京麹町區下六番町二十七アララギ内 藤澤實・高田浪吉氏宛】
昨夜氷ケ瀬一泊福島より七里の入りなり佛法僧鳥も十一も聞く 六月一日 赤彦
一三二六 【六月九日・封書 東京麹町區下六番町 信濃木曾福島 北原禎一氏宛】
拜呈過日氷ケ瀬行のため非常の御盡力相蒙り且態々御引伴れ下され御厚志感謝の至奉存上候早速御禮状も差上げず缺禮致し居り候昨日些少粗菓小旬便にて差上寸志御笑納下され候はゞ本懷の至奉存候御禮申上度如此に候匆々
氷ケ瀬事務所へあての一包御送申上候御序の節御屆被下度御手數願上候
一三二七 【六月九日・端書 麹町區下六番町二十七より 四谷區右京町十四 廣瀬公三・吉田白流氏宛】
甚恐入ります特に不在して失禮いたしました 六月九日
一三二八 【六月九日・端書 麹町區下六番町廿七より 信濃國下水内郡飯山中學校職員室 屋敷頼雄氏宛】
こゝにして妙高黒姫飯綱の山裾を交じへて雪眞白也
これは大へんいゝその他にもあり忙中右のみ匆々 六月九日
今夜歸國月未御地へ參上可仕候
一三二九 【六月九日・端書 麹町區下六番町二十七より 市外西ケ原四一二 鹿兒島壽藏氏宛】
昨日不在失禮御ゆるし被下度候廿二首出し候よきもあり輕きもあり至らぬもあり何れ御面晤に讓り候貴君のは已(699)に一通りは皆いいのだから此上は更に大切なものが現るべく期待いたし候御令閨のにもよきもの多く有之よろしく御傳へ被下度候匆々 六月九日 (小生今夜歸國する)
一三三〇 【六月十日・端書 信濃下諏訪町高木より 兵庫縣西宮町香櫨園池畔 中村憲吉氏宛】
今朝歸國どうしても返書書く時なく非常に失禮忘れては居らぬ貴兄の「生きてゐても言ひ解き難し」は實にいゝそれを申上げんとして書く時なかりき「松の芽」拜愛大謝々々寄送は小生五十位になつた芥川阿部小宮倉田西田田邊等諸氏その他女流會員五六人へもさし上げたりさう多くなくていゝと思ふ三縁亭へは出席せり別にどういふ事もなし寺田寅彦さん芥川さん石榑さん高島米峰さん等來て下さり恐縮せり茂吉小生も一通りの演説(挨拶)をしておいた釋君に久し振で逢つた別にへんてつもなし岡土屋諸氏も出席下さる一寸五十人近いやうでした古泉又熱出した樣子もう平熱と茂吉より聞けり芥川齋藤土屋小生四人で田端で一昨夜飲んだ 六月十日朝
第二
謄寫すべきものは七月二十日までに小生宛へ御遣し下さい
安居會講演題目 茂吉――良寛、子規、短歌夜話 文明――大伴旅人、家持 麓――古事記第一卷より 赤彦――萬葉十四、人麿
等豫告貴兄のを決定して發行所へ御知せ下され度候會へ持參すべき本は矢張豫告しておく方よし
奥さんへよろしく御全家御健康と存候當方皆元氣に候 六月十日
一三三一 【六月十三日・端書 下諏訪町より 淵浩一氏宛】
拜啓大へん御煩多をかけて恐縮に存じ上げます今朝御送の本が著きました有難く御禮申上げます萬葉梯はことに(700)感謝いたしますそれから神田にあるといふ八雲御抄完本でしたら買つて頂きたく存じます御手數を重ねますが何卒願上げます代金は今日町へ出られず明日は日曜ゆゑ明後十五日に上諏訪局から金子御送の事に致します右何卒願上げます昨夜松本在から歸宅しました信州今年の初夏は冷氣過ぎるやうですそれでも時鳥かつこう慈悲心鳥筒鳥など元氣に鳴いてゐます
一三三二 【六月十四日・端書 信州下諏訪町高木より 東京市外代々木山谷一八五 岡三郎氏宛】
拜啓ハガキ失禮御ゆるし被下度候過日は態々三縁亭へ御出席下され恐縮の至奉存候安居會御講義題目古事記といたし置候へ共別のものを御講じ下され候はゞ發行所へ御知せ被下度願上候猶古事記何の卷とやうに豫告すれば尤もよろしと存候右何れにせよ發行所へ御知せ願上候猶又會員へは古事記持參せよと編輯便に記るし置き候御承知願上候當方少し冷氣に過ぎ候へ共ほととぎすかつこう筒鳥慈悲心鳥の類元氣に啼き居り候乍末筆皆々樣御自愛祈上候小家一同壯健御安心被下度候匆々 六月十四日夜
一三三三 【六月十四日・端書 信州下諏訪町高木より 東京麹町區下六番町二十七アララギ發行所内 藤澤古實・高田浪吉氏宛】
〇近江國比叡山山上事務所内即眞周湛師あてにてアララギ六月號を送つて下さい七月號も同じく願上候
〇美作小一郎君を招いて夕飯たべてくれ給へ簡單でいゝ(三河屋あたりへ行くか)二十日過ぎの方よしとか聞いた都合問合せて下さい猶大久保日吐男氏逝去の日も御書き入れ下さい
〇岡さんの安居會講義は古事記と書いて置いたが同氏より別のもの御知せあらば御訂正願上候
〇明朝へん輯便安居會畫伯消息の原稿一まとめにして送る
○岡中村土屋君原稿來たか齋藤君文章あるか中村より京都より比えい山上り口知せる筈ゆゑアララギの何處へか(701)のせてくれ原稿ついたら返事くれ選歌ついたか 六月十四日夜
一三三四 【六月二十二日・封書 下諏訪町より 諏訪郡湖南村大熊 藤森平右衛門氏宛】
拜啓今日めでたく酒肴取換せを了し候間御安心被下度先以て慶賀の至奉存候小生參堂すべきなれど御尊父樣へ申上げし如く省略して貴兄より御光來願上候そして伊藤氏より先方の酒肴御持參願ひ候樣いたし度存候右我儘御承知願上候めでたくかしく 六月廿二日 俊彦
青二兄侍史
一三三五 【六月二十二日・封書 信濃下諏訪町字高木より 房州富津萬福寺方 小林巣居氏宛】
拜啓御體近頃如何に候か御案じ申上居候梅雨鬱陶しく餘計御困りと存上候
御苦心の御事多少小生も承知いたし居り左樣の經驗に對しては深く御同情申上候殊に貴君の如き御性質には如何計り正面より眞面目に御苦しみなされ候御事と奉拜察候乍併この經驗は萬人の一度通る所にしてこの難關を切りぬけてはじめて眞劔に深みある底力ある藝術に入り得るものにあらずやと平素愚考いたし居り候
東洋人傳統の精神は自己犠牲の眞諦に人つてはじめて蘇生し來る底力を尊び候小生等の藝術もこの精神の現れ以外に尊きものを生み得ずと愚考いたし候近來流行の戀愛論の如きは自我滿足自我肯定にして尤も自我を尊ぶに似て却て自我の深所自我の靈所に參し得ずと存じ居候
貴君の力よく現在の御苦しみに打克ち難關御切りぬきにて蘇生の新境を拓かれ候はゞ如何計りの悦びと奉存上候これは大勇猛心を要し候自我に執着せずして眞の自我に到著するは釋迦以來の尊き道と愚考いたし候小生は平素内心貴君の藝術に囑望する事多大に有之(之失禮ながら)候敵失禮を顧みずして此言を呈し候微意御叱責を免れ(702)候はゞ如何計り喜ばしく存候失禮の段幾重にも御赦し願上候畫伯河西君二氏以外に小生の口をさし出し候事要らぬ事に候へ共止みがたき心中貴君に披瀝いたし度一書さし上申候衷情御洞察願上候匆々 六月二十二日夜
小林兄貴下
御體御自愛の程祈上候
一三三六 【六月二十三日・封書 下諏訪町高木より 下高井郡穗高村小學校 土屋現勲氏宛】
拜啓御書状の趣拜承仕候廿八日飯山を濟ませその日野澤行の事に御承知被下度候參考書は別に要せず有合せの註釋書にて宜しく候(無くてもよろしく候)若し豫備をせんとの御方は竹里歌話(アルス發行)等御讀み被下候はゞ好都合に候袖珍本の萬葉なき人多數あらば卷一だけ謄寫して會員に御渡し被下度候(袖珍本により謄寫の事)(飯山でもさうしてゐるでせう)萬拜芝を期し候匆々 六月廿三日夜 久保田生
土星兄侍史
若し野澤菜の種子二三十粒御周旋被下候はゞ大幸存上候
一三三七 【六月二十三日・端書 信州下諏訪町高木より 東京麹町區下六番町二十七アララギ發行所内 藤澤實・高田浪吉氏宛】
拜啓今後アララギ原稿の主なるものは校了後一括して書留小包として長野縣上諏訪町小學校宛に送り出して下さい同町の諏訪圖書館で保存してくれる筈ですさうすれば永世になくならず保存出來ませう(非常事以外)同圖書館の土藏も近く出來るとの事ですこの方は同校長及び汀川君等世話してくれますから大丈夫です右申上候匆々 六月二十三日
健次廿九日何時で立つか知せよと御傳言願上候毎日汀川君來宅してくれ共に專門に長塚全集の事をやつてゐ(703)る今日は大體濟むかと思ふ
一三三八 【六月二十四日・封書 下諏訪町より 更級郡御厨村小學校 馬場源六氏宛】
拜啓御手紙正に披見いたし候十一日十二日の事拜承いたし候十一日は御申遣しの通り午後より三四時間講義可仕候參上の時間はその頃改めて御知せ可申上候參考書は別に要せず袖珍本を謄寫して會員に御渡し被下度候豫備には却つて竹里歌話(アルス發行)等により萬葉の大體を諒し居る方宜しかるべく候參考書も一册にては不足少くも數種の權威あるものを見ざるべからず是は特志者の事と存候右取敢へず御返事申上候忙中亂筆御赦し被下度候匆々 六月廿三日夜 俊彦
馬場樣貴臺
河西君よりの申遣しより日數經て御手紙無きゆゑいつそ延期して頂かんかと存候昨夜河西君へハガキ出し今日入違ひに東京宛の御手紙轉送し來り候依て河西君へ申上げし事は取消し申候
一三三九 【六月二十四日・封書 下諏訪町高木より 諏訪郡湖東村小學校 金井國雄氏宛】
拜啓久しく御無音いたし候其後御體如何に候か梅雨鬱陶しき事に候それでも雲の間より時々伊那駒ケ岳の白雪見え候事信濃は矢張天惠多しと存候偖甚以て御厄介樣の御事に候へ共東京四谷の人にて廣瀬公三といふ人(二十七八歳)百穗畫伯の門下にてアララギに毎月歌出し居る人に候此の人七月よりスハの山浦殊に新湯に近き村落に一二ケ月滯在したしとの事に候就ては貴村内て一室拜借出來且つ飯と味そ汁つけ物等を供給しくるゝ家ならば尤も宜しく左樣な家御配慮下され候はゞ大幸の至奉存候少しもぜい澤は申さず候只寫生の勉強したいだけの望に候恐入候へ共東京發行所の方へ御返事被下度願上候謝禮は相當さし出し可申候右御依頼のみ申上候近頃御歌見えず(704)或は御健康惡しき爲めに哉とも存じ候如何に候か少し位體の具合わるくても歌作ればなほり可申御べん強の程切望仕候紙盡きてこんなものへ書き失禮いたし候段御赦し被下度候匆々 六月廿四日
金井國雄樣侍曹
一三四〇 【六月二十五日・封書 信濃下諏訪町高木より 東京市外田端 芥川龍之介氏宛】
梅雨空の間より時々高山頂の雪見え候一度是非御來遊の程祈上候小生明日北信濃へ旅立ち來月はじめそこより直ぐ上京のつもりに候
拜啓修竹數叢閑寂の一室にて半日を過し夜は亭中にせつ子さんに逢ひ候事忝く一日を過し申候深く御禮申上候豫ねて御願置候拙著太※〔虍/丘〕集御評今月一ぱいにアララギ發行所へ御惠送下され候はゞ大慶の至奉存候御都合により七月五日迄にても宜しく候重ねての御願御繁多中恐縮奉存候匆々 六月廿五日 俊彦
芥川樣侍曹
一三四一 【六月二十五日・端書 信州下諏訪町高木より 東京麹町區下六番町二十七アララギ發行所 藤澤實・高田浪吉氏宛】
今長塚全集大體纒めて一括りにした所だ一貫八百匁ありまだ手を入れねばならぬ所は東京で二三日やれば終るそれに年刊集も今度は東京でやつてしまひたいそれ故今度は選歌は他の人々に分けて下さい五日に來る人々だけにしてくれ給へ我儘なれどどうもやり切れません君も萬葉で困るならん土田竹尾二君に多くやつてもらふか土屋君も少し多くやつて頂くか御考へ願上候小生明日飯山行つづいて野澤そこより上京一二日に著京すべく候これは前便申上げしと存候それから森田さんへ手紙出し七月五日迄に文章頂きたいと御依頼下され度候君等の太※〔虍/丘〕集評も是非願上候竹尾君にも御傳言下され度候小原君にも同樣願上候美作君と夕飯食べましたか用事のみ申上候匆々(705) 六月廿五日
一三四二 【六月二十六日・端書 信濃下諏訪町より 東京麹町區下六番町廿七アララギ發行所内 藤澤實氏宛】
改造(やる歌は如何にせしか成るべくべん強して送り給へ小生目を通さずともよし或は後より校正原稿送りて少し位の訂正してもいゝ今出立前至急書く 六月廿六日
一三四三 【七月一日・封書 麹町區下六番町二十七より 四谷區右京町十四 廣瀬公三氏宛】
今朝ついたらこの手紙あり御目に懸け候どうもこの位の家しかないらしい場所は新湯に尤も近くこの村より裾野になりて湯に行くなり貴意如何發信人は湖東村の校長に候 七月一日
一三四四 【七月一日・封書 麹町區下六番町廿七佐々木方より 京橋區銀座一丁目安全金庫會社 長塚順次郎氏宛】
拜呈向暑の折から益御清健被爲入候御事と存上候陳ば故長塚氏全集大體完了いたし候につき近日持參御手許に御屆け可申上存候總て二貫目に近く分つて六卷といたし度存じ候
就ては發行の書肆御決定御取急ぎ被下度その書店に委細の注意指圖を與へ且つ刊行方法等の相談を要し可申存候小生は八日朝北信へ向け出立引つづき郷里に歸り再度上京は八月上旬となり可申書店との打合せを六日か七日に致し度存じ候先以て春陽堂より刊行を自然の順序とすべきかに思はれ候これは過日も四谷にて御話申上げし所に候今囘の刊行中歌と小説紀行文は春陽堂出版の書物を元といたし候且つ同店より再三小生へ編輯を促し來り居候尤も同書店目下の状態により早速着手出來ぬ如き有樣ならば他店にやらせてもよろしかるべくその邊御確め被下度一二册を出してあとそろ/\といふ如きやり方では困るべく存候
(706) 一、豫約方法によるか 一、各册分賣にするか 一、何月より著手して何月に終らしむる豫定か
印税も御確めの方宜しと存上候一割二分位が普通かと存候成るべく前以て約定するを可とすべく存候何れ拜眉萬可申上候書肆との御交渉御急ぎ被下度願上候匆々
數日旅行して出先より今朝上京旅中手紙さし上ぐるひまなく遲延御承知願上侯 七月一日
長塚順次郎樣侍史
一三四五 【七月三日・封書 麹町區下六番町二十七より 市外田端四三五 芥川龍之介氏宛】
拜呈昨夜半御稿拜受歡喜々々候あんなに詳しく御覽下され冴え/”\しき一篇を賜はり候事感謝の至奉存候のろまの御説大に痛み入り申候盛唐詩人に御比べ下され候事は甚汗顔奉存候うれしく深く御禮申上候當用のみ匆々敬具 七月三日 俊彦
芥川大兄侍曹
七月號小作第一首五句「夏となりにけり」は「夏となりけり」に有之校正の過りに候輕少の事且つ上等作でもなけれど序を以て御見に達し候
一三四六 【七月三日・封書 東京麹町區下六番町二十七より 京都市富小路丸太町下ル 田邊元氏宛】
拜呈御病氣漸次御快復の趣欣喜の至奉存候木崎の序に小谷《ヲタリ》温泉等へ御入浴如何に候か大町より遠けれど自動車有之候(越後に近し)何れにせよ暑中は暫く御靜養なされ候樣祈る所に候御病後御疲勞の處且つ御忙しき中を太※〔虍/丘〕集御評御書き下され感銘の至奉存候御高見により鞭撻せらるるもの多大に有之感謝の至奉存候何卒誌上へ掲載の事御許容下され度奉願上候今後至らんとする所遠くして往々疎懶の心生じ候御刺撃を弛め給はぬ御高志衷心より(707)忝く奉有候取あへず御禮申上候敬具 七月三日 俊彦
七月號拙作第一首の第五句は「夏となりけり」に候「夏となりにけり」とあるは校正者の過りに候輕少の事乍ら一寸序を以て御見に達し置候
田邊元樣侍史
一三四七 【七月六日・端書 東京麹町區下六番町二十七より 信濃國上諏訪町小學校 森山藤一氏宛】
齋藤君畫伯と打合せをし今日あれを提げて順次郎樣を訪ね一通りお目に懸け候春陽堂よりは未だ同氏へ交渉なしとの事に候安塚氏により疑問明白の所あり島馬は鳥馬(てうま)にてツグミ鳥の方言なるよし「米〇は」は「半ばは」に候露霜の歌の年代等は安塚氏より三浦氏へ聞きて下さるよし多分明了にならんとの事に候猶手紙にて新しきものも少し出るらしく候詳しくは拜芝にゆづり候匆々 七月六日
柳平君によろしく
一三四八 【七月七日・端書 東京麹町區下六番町二十七より 福岡市外馬出濱松原九八〇木原方 小原節三氏宛】
御評詳しく拜見大謝の至奉存候今十年位精出して何かへ到着いたし度祈念致し居候毎月御歌御示しの程願上候御大切々々の事匆々 七月七日
一三四九 【七月十三日・封書 信州下諏訪町高木より 兵庫縣西宮町香櫨園池畔 中村憲吉氏宛】
拜啓手紙書く時なく今日迄失敬いたし候昨夜漸く歸宅(北信を經て)今日筆執り候
比叡山非常に御骨折下され大謝の至に候廿日迄に名簿をこちらへ廻すゆゑそれによりハガキ印刷して各會員へ廻(708)し可申候(二十二三日迄に)今の處七八十人の由百人かそれ以上にても大した増加にはなるまじく丁度宜しと存候室割は御送の圖により豫め大體を作り可申候貴兄は何日頃出て下さるか小生は廿七日朝大津へ著き(こちらを廿六日夜出立)申度存じ候
廿六日 上諏訪發夜十一時三十分 廿七日 鹽尻發曉十二時五十分 名古屋著朝六時廿分 名古屋發二三等急行朝六時五十七分 大津著九時五十八分
廿七日は一日湖水附近に遊びて大津あたりへ一泊し廿八日早朝比叡山へ登り室割その他の準備いたし度京都會員諸君は同じく廿八日正午迄に山上宿院に到達しくるゝやう御依頼の程願上候
昨年上諏訪にては毎日菓子を山上持參しもらへり(午後の茶話會)これは如何すればよきか京都の諸君へ御依頼適宜願上候それから謄寫版ものは二十二日迄に貴兄へ送り貴兄より京都の人々へ御依頼願上候枚數は名簿により後に御知せ可申候紙代金等は山上にて差上可申候小生の謄寫は上諏訪小學校にてやつてもらひて小生持參可仕候講師六人(岡畫伯齋藤中村土屋小生)へは三十圓づつアララギより送る事にいたし候ほんの旅費丈けなり山僧六時間の御講演は謝禮等を要すべし御考へ置き被下度候その他猶御心付の事御知せ願上候
猶貴兄が廿七日午前中に大津へ出て下されば尤も難有存候共に一日話し歩き翌日共に登上いたし度存じ候これも御都合御知せ願上候小生は八月二日朝迄に茅ケ崎へ到著の約束有之これは高座郡教育會の夏期大學講義を引受るの已むを得ざる事情になりしために候依て八月一日中に大津へ下り可申それ以後の所何卒願上候時間わりは大ざつぱに決めしもこれはほんの豫定なり便宜融通すべく存候御返事待上候匆々 七月十三日夜 俊彦
それから齋藤君へ書籍費寄贈の金こゝで差上げてしまひ度く發行所へ御送金願上候當方皆無事御安心被下度
萬拜芝を期し候奥さんへよろしく願上候
中村兄侍史
(709) 太※〔虍/丘〕集評是非願上候
朝食前・二三時間 朝食後・三時間 晝食後・二三時間
廿九日 齋藤 岡 島木
卅 日 齋藤 岡・土屋 左千夫忌歌會
卅一日 土屋 岡・中村 島木
一 日 中村 平福・齋藤 土屋
二 日 中村 平福南 歌會
此他僧より叡山の話六時間及夜話隨時
これは大體表なり隨時融通のこと、小生を先にせしは二日朝茅ケ崎へ到著の要あり我儘させて頂く也
一三五〇 【七月十三日・端書 信州下諏訪町より 東京麹町區下六番町廿七アララギ發行所内 藤澤實・高田浪吉氏宛】
昨夜歸宅いたし候
〇安居會名簿十八日にこちらへ御僧被下度候(書留にて)申込金は高田君比叡山へ御持參被下度候〇あれから後太※〔虍/丘〕集評何處かより來りしか〇謄寫原稿その他を中村君へ送つて下さるやう岡平福齋藤土屋諸氏へ小生よりハガキ出したるゆゑ君等より出さずとも宜しく候色々願上候 七月十三日
一三五一 【七月十四日・封書 信濃國下諏訪町より 東京市外大森町源藏原 徳富蘇峰氏宛】
拜呈過般國民新聞紙上御連載を賜はり候太※〔虍/丘〕集御評アララギ八月號へ轉掲仕度御寛容下され候はゞ大幸の至奉存(710)候炎暑漸く至り候折から尊體御愛重の程奉祈上候御願のため如此に候敬白 七月十四日 赤彦生
蘇峰先生榻下
一三五二 【七月十四日・端書 信濃下諏訪町より 東京市外向島寺島町一〇七三 安塚千春氏宛】
拜呈一昨夜歸國御手紙拜見いたし候御手數相煩し忝く奉存候「爲櫻」大へん益を得候事如何計り奉謝上候「旅行に就いて」は十七號三四五六頁落丁の所ありそこにありし事と存候分明いたし喜しく存候「獨」「木像」の方も御手配被下候由難有奉存候御禮のみ申上候匆々 七月十四日
ハガキ略儀失禮御ゆるし被下度候
一三五三 【七月十六日・端書 信州下諏訪町より 東京市外代々木山谷一八五 岡三郎氏宛】
拜啓申忘れ居候アララギ所載の御歌は只今白水君の手にて筆寫しもらひ居り候それを基として御歌集御編み下され度と存じ候重複せぬやう右申上るつもりにて打忘れ居り取急ぎ申上候匆々 (大正四五年よりに候)
一三五四 【七月十七日・封書 信濃下諏訪町高木より 東京麹町區下六番町廿七 アララギ發行所宛】
只今須坂へ立つ所なり編輯便あと一段ばかり君書いてくれ給へ可なり忙しい安居會の下調べもある二泊して歸る〇謙一郎君來る時にこの手紙の如き封筒三つばかり御托し御つかはし願上候經師屋の隣の紙屋にあり〇安居會名簿〆切りて送りくれよ謄寫版の枚數もあり姓名を謄寫する〇齋藤計さん御知せ願ふ〇高木を訪ねて下さい何卒願ふ 七月十七日 俊生
藤澤君几下
(711) 一三五五 【七月二十日・端書 高木より 上諏訪小學校 丸山東一氏宛】
人名簿は御用の後御返却願上候
拜啓別封名簿により安居會員氏名謄寫願上候加藤淘綾(神奈川)栗原美彦(束京)高久謙吉(東京)……といふ具合に願上候さうすれば紙も少くてよろしく候(住所を詳記せざるやう願上候)順序もこの帳の通りにて宜しく候帳の終りにある吉見以下四人は番外として終りへ御入れ下され度候
〇上スハその他にて講義筆記左の如く擔當願上候
平福畫伯(筆記二人) 齋藤君(同上) 中村君(同上) 土屋君(同上) 計八人
岡さんは不要かと存候併し擔當者御つくり下されば猶よく候大抵不要と存候小生のは全く不用に候畫伯の筆記は誰々齋藤のは誰々とやうに氏名を御確定被下度願候
丸山、原田、木下、森山諸君の上諏訪小學校以外に信州人中筆記によしと思ふ諸氏を御選定御わりあて被下度候森山君にはあまり今迄多く御厄介を願ひ居れば今囘は休んで頂くがよしとも存候
〇小生の講義原稿数日中に御屆け可申この謄寫御厄介願上候
〇すべて謄寫物は貴兄等にて比叡山へ御持參願上候小生へ一部づつ御送願上候
以上甚御手數恐入候へ共御援助願上候匆々 七月廿日 久保田生
丸山君机下
謄寫物は凡て百二三十人分の見當にて願上候
官製ハガキへ謄寫
拜啓比叡山山上宿院に於ける安居會(確定數百十二人)は二十八日日没迄に會場へ御到著被下度候古事記(何(712)本にても宜し)及び齋藤茂吉著子規選集(小石川區表町アルス出版價一圓)成るべく御携帶被下度猶御歌一二首歌會のため御用意被下度候匆々 七月二十一日
猶廿八日夕食は宿院にて用意可有之候
一三五六 【七月二十一日・端書 信濃下諏訪町より 広島縣豐田郡瀬戸田町 得能賀衛氏宛】
御ハガキ拜見いたし候轉呼のため廿九日安居會へ御到著のよし拜承いたし候公用のためには構ひ申さず御用濟の後御來會下され度候只今合計百十二人に有之候御返事のみ匆々 七月廿一日
一三五七 【七月二十一日・端書 信州下諏訪町高木より 東京麹町區下六番町二十七アララギ發行所 藤澤實・高田浪吉氏宛】
〇會員名簿正に落手いたし候〇筆記は信州の會員に分擔してもらふやう定め候〇編輯便は十七日に發送せり御落手と存候〇高木をたづねて下さい御厄介乍ら何卒願ふ 七月廿一日
一三五八 【七月二十二日・端書 下諏訪町より 下伊那郡松尾村 山本理逸氏宛】
拜啓安居會にて同氏の講義を薄井一氏と御兩人にて筆記して下され度候御願迄匆々 七月廿二日
用紙は用意あり候
一三五九 【七月二十二日・端書 下諏訪町より 上伊那郡伊那町小學校 小島守人・三澤孔文氏宛】
安居會にて叡山住職の講話御筆記被下度願上候匆々 七月廿二日
逢つて又願ふ紙は用意有之候
(713) 一三六〇 【七月二十二日・端書 下諏訪町高木より 長野市山王小學校 松澤廉氏宛】
安居會にて百補畫伯の話を御筆記願上候匆々(紙は用意あり) 七月二十二日
神田五六君と組みて願上候逢つて御話し申上可く候
一三六一 【七月二十二日・端書 信州下諏訪町より 東京麹町區下六番町廿七アララギ發行所 藤澤實・高田浪吉氏宛】
拜啓中央公ろん社内婦人公論にて小生の推薦にて歌十二首出すやう新進作家を擇びくれと申來り候(先月より二度)藤澤君は已に改造へ出ししゆゑ今度は高田君出すがよいかと存候若し出來れば安居會出立前に麹町區丸の内ビルヂング七七六區中央公論社内婦人公論部高島曉一氏宛御送下され度候或は比叡山にて一度拜見したる上送りてもよろしく候猶高田君面倒ならば竹尾君にてもよろしく候御相談の上成るべく高田君御出詠下され度候匆々(明朝謙一郎君來著と存じ居候) 七月二十二日夜
高木君に御逢ひ下され度願上候
一三六二 【七月二十三日・封書 信濃國下諏訪町より 東京市外代々木山谷一八五 岡三郎氏宛】
拜呈今日は結構なる佃煮御惠送下され度々の御高志恐縮の至奉存上候御歌稿も屆き候由安心いたし候御出版の日を待ち上申候盛夏の折から遠路の旅行相願ひ甚だ心苦しく存候へ共何分御助力奉願上候山上にて拜眉を樂しみ申候敬具 七月二十三日 俊彦
岡老兄臺下
森山氏へ御送の品不著なりと同氏より申越され候(今月十二三日頃御送か)何と申上げんかと申來り候ゆゑ(714)小生より申上るよし返事いたし置き候御參考迄申添へ候
一三六三 【七月二十三日・端書 信州下諏訪町高木より 東京麹町區下六番町廿七アララギ発行所宛】
近江國比叡山山上宿院及び曾根正庸氏父君へアララギ七月號送つて無ければ今でもいゝから送つて下さい
藤澤君の御手紙今日著色々有難う高木は小生へ手紙出せと君から注意してくれ給へアララギ廿六日出る由有難し
謙一郎君今日無事到著いたし候状袋難有存候 七月廿三日
一三六四 【七月二十五日・端書 下諏訪町高木より 上諏訪小學校 田中一造・藤森省吾氏宛】
拜啓昨日藤森君よりはつせに對し御意見御示し被下難有奉存候學校の立場を重視すべきこと勿論に有之先方さへ結婚延期を了解し居らば當方にては是に從ひ可申何等異議無之存候只先方が主にして當方は從なり先方にて延期して可しとの御意見ならば當方は之に從ひ可申從つて來年三月迄御厄介相成可申存候此點御兩人御相談の上丸山氏及び同氏家庭の意見御聞き質し被下度膜上候御多端中非常に恐入申候匆々
只長期婚約は往々事端を生じ易く此點も御考慮に御加へ被下度願上候當方にては葦穗以外には誰にも話し居らず桑原の叔母に一寸耳に入れあり候これは最親身ゆゑ已むを得ざる儀に有之御承知願上候丸山氏御家にてはどの位の範圍へ話しありやその邊も御聞きにて御參照被下度候 七月二十五日
田中一造樣藤森省吾樣侍史
猶若しここにて辭職するならば「老父老病看護者を要す」との理由にいたさんと思ひ居りし所に候
一三六五 【七月二十六日・端書 信濃下諏訪町より 東京芝區白金三光町五三八 辻村直氏宛】
(715)若し間に合ひ候はゞ畫伯へ伺ひ畫伯御話の材料(畫帳寫本等)の比えい山へ持ち行くべきものあらば君等にて御携帶御持ち行き下され度願上候此ハガキ高田へ申しやらんと思ひしも明日留守へ著くかと思ひ即ち貴兄へ御願申出で候次第御高承被下度願上候萬拜芝を期し候匆々 七日廿六日
一三六六 【七月二十六日・封書 信濃國下諏訪町高木より 東京市外上目黒五八五 平福百穗氏宛】
拜復只今御手紙拜受いたし候非常に多忙中安居會御出席恐縮の至奉存候三十一日頃にても御出會下され候はば如何計り歡ばしく存候切に御助勢奉願上候
齋藤君の書籍費の事御高見御尤と存上候それゆゑ一月頃岡氏へ一寸話し申上たるのみにて其後御話申し居らずそのまゝに致し居り候これは失張そのまゝが宜しからんと存候猶拜芝を期し申度候
短册會の事御配慮下され感謝の至に候大に助かり可申奉存候特に貴臺森田畫伯等と組になり候事は歡喜の至に候併し恐縮の感伴ひ居候
小生今夜出立可仕候愚息周介先月はじめより手足に皮下出血あり海岸鹽の温泉よからんとて今曉和倉温泉へ出し申候諏訪赤十字院長と他の一人より受診大した事もなかるべく胃の惡しきに伴ひて起るらしく候もし心當りの事も候はば御注意御與へ下され度奉願上候健次は同じく今朝槍ケ岳方面の山へ三泊にて出かけ申候
御子樣方今年夏は如何御過し成され候哉御全家御自愛專一奉存候廣瀬公三君北山の宿にて急劇腹をやみもう快復せしも一旦歸京して受診更に來信するらしく今朝一寸小生方を訪ねくれ候元氣には元氣らしく見受け候夕立ありて涼しく候日中は可なり暑く候ここ暫く快晴つづくらしく候萩もう少し咲きはじめ夕顔棚は毎夕白く咲き盛り候匆々 七月二十六日 俊彦
百穗畫伯老臺下
(716) 一三六七 【八月一日・繪端書 比叡山大衆より 東京麹町區下六番町廿七アララギ發行所内 藤澤實氏宛】
表記の堂にて左千夫節志都兒卓光の法會をなす留守何卒たのむ 八月一日 赤彦
一三六八 【八月六日・端書 東京麹町區下六番町廿七より 兵庫縣武庫郡大社村森具 大村呉樓氏宛】
山上では非常に御厄介になりました御蔭樣にて萬事好郡合にまゐりました感謝の至に堪へません嘸御疲れでせう私もやつと元氣を恢復しょした明日歸國につき一寸此ハガキさし上げます來月又御便り申上げます 八月六日
一三六九 【八月六日・端書 東京麹町區下六番町廿七より 京都府立第一高等女學校寄宿 中島ふく氏宛】
會では大へん御骨折り下され御蔭樣で都合よくまゐり感謝の至に存じ上げます嘸御疲れでせう小生もやつと元氣を恢復しました御自愛を祈り上げます 八月六日
小生明日歸國します
一三七〇 【八月六日・端書 東京麹町區下六番町二十七より 京都市清閑寺 西村俊一氏宛】
山では非常に御骨折り下され御蔭樣で萬事都合よくゆき大謝の至に存じ上げます嘸御疲れでせう小生もやつと元氣恢復しました御自愛を祈る勿々 八月六日
來月又便りさし上げます明日歸國します
一三七一 【八月九日・端書 信濃下諏訪町高木より 東京市外上落合六六七 阪田幸代氏宛】
(717)拜啓過日はよき歌御示し下され愉快に存じ候段々單純化せられ候樣拜見喜しく存じ候其節御話申上候婦人公論への御歌二十日頃迄に十二首御送り下され間敷候哉(小生宛にて)右特に願上候今井さんへも申上げ度けれど今頃新進作家でもあるまじく却つて如何と存じ候御逢ひの節一寸この事御話し下され候て若し出してよいやうならば小生へ送りくるゝ樣願上候宮原樣へよろしく「エビ」のサンドヰツチの御禮申上げて下さい 八月九日
一三七二 【八月九日・端書 信濃下諏訪町より 京都府下丹後宮津町金屋谷 中村時次郎氏宛】
拜啓御壯健にて學校の事業に潜心せられ候事非常に歡ばしく存候一の學校の基礎をつくりそれを大成するといふ事は凡人にて出來ぬことなり貴君がそれに潜心することは大賛成なり不撓不折の覺悟で向ひ給へ安居會などはどちらでもいゝ歌は毎月出詠してくれ給へこちら皆元氣です御自愛を折る匆々 八月九日
一三七三 【八月十日・端書 信濃下諏訪町高木より 愛知縣知多郡大高町 山口兼好氏宛】
山上では失禮いたしました御骨折でしたらうと存じ上げます「天地のめぐみに馴れて……」の御歌下句を猶御考へにて特別にその一首を小生へ御示し願ひます御自愛祈り上げます 八日十日
一三七四 【八月十日・封書 信濃下諏訪町高木より 東京青山南町五ノ八十一青山腦病院内 齋藤茂吉氏宛】
拜啓山上にては非常に御骨折下され先以て充實せる數日を過し得候事歡喜大謝の至に候可なりの御疲れならん引續き紀州めぐりは御疲勞と存上候もう今日頃は御歸京と存上候脚部の腫れは如何か心に懸り候
木曾の歌改造九日號に御發表と存じ候へ共小生はまだ四つ五つ位しか纒らず一ケ月後れて發表可仕此儀御承知願上候その代り小生のを作り了るまで貴作拜見仕るまじく候之に反し比叡山のは小生のを改造十月號に發表可仕御(718)承知下され度候どうも彌々となれば固くなる癖ありて數も少いらしく候
畫伯は脚を藪蚊に螫されしあと腫れ上り日本橋區新和泉町立松醫院入院中に候それに蕁麻疹にて可なり難澁せられし由に候人形町停留場の交番で聞けば直ぐ分り可申或はもう退院かとも存候
九月六日子規忌修行の事にして下されば小生は好都合に候例の山田せつ子より便りあり參拜を共にして下さいとの事に候九月號原稿貴兄疲勞中にて恐縮なれど御配慮願上候土屋君も元氣にて歸國せられし事と存候匆々
一三七五 【八月十日・封書 信濃諏訪郡下諏訪町より 東京市外代々木山谷一八五 岡三郎氏宛】
〇畫伯は或は已に退院せしかとも存候〇小生歌集御評を賜り候はゞ忝く奉存候
拜啓今日頃は已に御歸京かと存上候山上にては非常の御骨折相願ひ恐縮の至奉存上候併し會員一同一方ならざる感謝を捧げ其後小生方へ來るもの皆それを口にいたし候事忝きの至に奉存候御疲れに引つづき高野那智へ御遊行定めて御疲れ被成候御事と奉存候暫く御靜養を必要といたし可申御無理なさらぬやう奉祈上候百穗畫伯は蚊の口より足に腫れを生じ引つづき蕁麻疹を生じ日本橋新和泉町立松外科醫院入院中に候大したる事なしと存候へ共とんだ目に遭はれ申候(人形町停留場の交番にて分り可申候)一寸御知せ申上候猶諏訪にて昨年御講演のつづき是非々々御願申度これは改めて御面晤萬事御願可申上存候それから子規忌を九月六日(日曜)にすれば小生は好都合なれど學生多數は歸京せずいつそ九月未に延してもよろしく發行所より御願に參上可仕御意見御さしづ被下度奉願候猶御歌集御選拔御著手奉願候十月中に發行する方賣行もちがひ申すべく存候色々ごた/\申上候主としては山上の御禮申述ぶるつもりにて筆執り申候炎暑中御一統樣御自愛專一奉存候匆々 八月十日 俊彦
(719) 一三七六 【八月十二日・封書 下諏訪町高木より 木曾福島町 北原禎一氏宛】
拜啓炎暑の折から益御清昌被爲入候御事と存上候過日は旅行先より御便り下され有難く存じ候小生今夏は比叡山に數日を送り茅ケ崎海濱を經て暫く滯京昨今歸國いたし候元氣罷在候間御安神被下度候かねて御話承り居候檜材八疊一室を造るに足るべきもの御周旋願はれ候はゞ幸慶の至存候木の大小により相違可有之候へ共成るべく大材にして本數を少くいたし度存じ候大凡何本位となり可申かその價格をも合せて御知せに預り申度御多用中御厄介恐入候へ共何卒奉願上候尤も御用の御暇にて御選定奉願上候
右甚恐入候へ共御配慮奉願候敬具
一三七七 【八月十七日・封書 信濃下諏訪町高木より 東京麹町區下六番町二十七アララギ發行所 高田浪吉・藤澤實氏宛】
拜啓昨夕山浦より歸り候今日野分にて冷氣也田圃は稻の穗出ず百姓憂色あり高田君の詠草大體よしと存候少し書きこみせしは御參考の爲めのみ御自由の事廿日迄に先方へ屆くやう送つて下さい高田君は比叡山にて疲れ居りしやう也少し骨を休めて恢復させる方よし一二日休み給へ藤沢君もう郷里より歸京と存候
第一に〇〇の消息不明にて心に懸る多忙最中にて甚恐入れど藤澤君が是非逢つて如何なりしかを確めてくれ給へ月々五十圓でも四十圓でも三十圓でもいゝから御返却する事にし信じ得べき方法を立て岩波氏に御話し申上るやう願ふ岩波氏への話しは小生が申上げていゝとに角不確實では實に困る一度に多額返却などは不自然でだめ也一體〇〇は小生の岩波に對する面目如何を承知し居るや否や不明也手紙も一度も來ない實に不可解也右何卒願上候 八月十七日 俊彦
高田君藤澤君几下
(720) アララギ九月號へん輯は如何なりしか御知せ下され度候 〇〇のは月々三十圓がいゝであらう 叡山安居會の歌を出すならあの中から二三四十位出しておいてもいゝ宜しく願ふ萬葉攷證三卷下の近刊の事も書いて下さい
一三七八 【八月十九日・端書 下諏訪町高木より 諏訪郡原村小學校 小池晴豐氏宛】
拜啓御地方赤岳温泉(?)(美ノド山あたりに近頃出來し湯)へ行く順路御教へ願上度存じ候
茅野より自動車は何處まで通じ得るかそれより何里の歩行なりや温泉は今こみ居るか一人一室は不可能なりや右御手數乍ら御教へ下され度願上候小生少々疲勞し居り人を避けて數日獨居いたし度ゆゑ右御伺申上候只今の頭具合にては二里以上の歩行は却つて惡しきかと存じ居候出來るならば湯の近くまで自動車を用ひ度存じ候甚贅澤の事に候へ共身體にかへがたき次第御了知願上候匆々 八月十九日
一三七九 【八月二十日・端書 信濃下諏訪町より 丹後國宮津町盲學校 中村時次郎氏宛】
拜啓今夜年刊歌集君の歌を見るにどうもいゝ盲生徒を歌ひしもの甚傑出せり御勉強を祈る學校の方も可なり骨が折れませう不撓の心貫徹し給へ短氣を出し給ふなかれ匆々 八月廿日
當方皆元氣です
一三八〇 【八月二十一日・端書 下諏訪町高木より 諏訪郡原村 清水敏一氏宛】
拜啓昨夜は態々電話下され忝く存候折節来訪者有之愚息を電話へ遣し失禮いたし候大體相分り難有存上候
廿四日晴天ならば朝八時三十分頃上スハ驛發茅野より柳澤迄自動車(九時半頃柳澤へ著くかと存候)にて參り可申(721)それより馬に乘り得るやう御配慮奉願候御厚意に任せ右御願申上候匆々 八月廿一日
雨天その他變更の場合は電報にて御知せ可申上候君は何區なりしか序に御知せ願上候
一三八一 【八月二十一日・端書 下諏訪町高木より 諏訪郡永明村塚原 上條行雄氏宛】
拜啓度々の事甚恐入り候へ共廿四日朝八時半頃上スハより茅野驛到著仕るべくそこより直ぐ自働車にて原村柳澤まで行かれ候樣前日夕方迄に自働車屋へ御談じ置き被下度奉願候小生頭疲れ居り贅澤なれど柳澤より馬にて赤岳温泉に行き三四日靜居いたし度存じ候右何卒奉願候匆々 八月二十一日
萬一柳澤まで自働車通ぜずば穴山あたりでも宜しく雨天ならば順延可仕候賃銭は相當で宜しく候
一三八二 【八月二十一日・端書 下諏訪町高木より 諏訪郡原村柳澤 清水秀勝氏宛】
拜啓昨夜清水敏一君より電話下され赤岳温泉の樣子分り申候依て廿四日朝八時半上スハ驛發茅野驛より柳澤迄自働車(九時半柳澤へつくか)それ以後馬を傭ひ申度清水君と御相談の上何卒御周旋願上候小生頭疲勞し居り數里歩行しては益々疲れ可申且つ温泉に靜居して顕をやすめ申度存候取急ぎ御願申上候匆々 八月廿一日
一三八三 【八月二十二日・端書 信濃下諏訪町高木より 東京日本橋區新和泉町立松外科醫院 平福百穗氏宛】
拜呈其後御經過御順當の御事と存上候可なり永くなり御退屈御察し申上候青峯集の裝幀實によく大したるものと存候銀座も兩國橋も觀劇も新鮮感に滿ち候そして皆大畫の感じ致し候よき本項き深く/\感謝いたし候小生も會員になり居り不日一本來る事と存候
當地冷氣至り夕顔萩の花庭に盛りに候小生數日頭疲れて少し眠りかね明後日頃赤岳温泉へ數日行つて來ようと思(722)ひ居り候大した事には無之山に遊べば癒り可申候御大切御辛抱祈上候匆々
其二
岩あひにたゝへ靜もる青淀のおもむろにして瀬に移るなり 木曾
霧はるる岩より岩にあな寂し傾きざまに橋をかけたり
山人は蕨を折りて岩が根の細徑をのぼり歸りゆくなり
御臥床の御笑艸に御目にかけ候茂吉の木曾歌を見ないうちに作らんと思ひ今二三十位出來居り傑作は一つも無之候 八月二十二日
一三八四 【八月二十二日・封書 下諏訪町高木より 諏訪郡上諏訪町小學校 田中一造氏宛】
灰啓過日は態々御高來下され恐縮存上候陳ば今朝はつせ俸給牛山氏より態々御屆け被下候へ共七月卅日附退職願書さし出し有之八月分は頂く筈無之何かの間違ひと存じ候依て御預りして不日參上御返し可申上御承知被下度候右用事のみ申上候匆々 八月廿二日 俊彦生
田中兄臺下
一三八五 【八月二十五日・繪端書 信濃山浦赤岳温泉より 兵庫縣西宮市香櫨園池端 中村憲吉氏宛】
頭少し疲れてこゝへ來た赤岳(八ケ岳主峰)直下でつが林の谷あひなり谷川の音が高い昨日茂吉山人の改造の歌見て驚いた木曾の歌實にい、二十首位は永久的のものならん小生のは十月號に出る大に忸怩たり
君は可なり忙しさうで困つたものなり爲事の方も何とか考へるといゝ畫伯も一月入院では大に閉口せられしならん奥さんへ宜しく願ふ
(723)赤岳は今つと近い寫眞が惡い比叡山の寫眞も惡るかつた 八月廿五日朝
一三八六 【八月二十五日・繪端書 信濃赤岳温泉より 東京麹町區下六番町廿七アララギ發行所内 藤澤實・高田浪吉氏宛】
どうもいゝ寫眞がない赤岳直下の谷で栂林の中なり二三泊で歸るいゝ寫眞二枚ありしも畫伯と茂吉君へ送つた序あつたら見給へ中々いゝ處だ茂吉君の改造の歌「木曾」非常によく驚嘆せり永久的のもの可なりありと思ふ小生のは十月號に出るとてもかなはぬ校正等萬事願上候匆々 八月二十五日朝
竹尾辻村武藤其他よろしく
一三八七 【八月二十六日・繪端書 信濃赤岳の湯より 東京市外田端 芥川龍之介氏宛】
こゝへ來て改造を見堂々たる俳句を拜見しました茂吉山人のも大作でした來月號へ小作「木曾」出る筈ですがこれは貧弱ですこゝは終日曠衣を著てゐます下より來し人は下界は晴天なりしと云ふが山は大抵雲と雨です寫眞横嶽は八ケ岳の第二峯です第一峰赤岳も直ぐ右に竝んで見えてゐます 八月廿六日
一三八八 【八月二十九日・端書 信濃下諏訪町より 東京麹町區下六番町二十七アララギ發行所内 高田浪吉・藤澤實氏宛】
昨夜歸りて御手紙拜見色々御配慮感謝々々高木消息如何原稿紙も屆く有難う東京大水害ありし由下山して知れり本所高田君お宅如何御無事を祈る轉送の書信類も著、萬葉解題は御引受け申候平賀元義實にいゝもの出たり歡喜歡喜、當地二三日中々暑し小生二三日頃上京すべし 八月廿九日
畫伯大に輕快の由賀上申候子規忌は六日か
(724) 一三八九 【八月三十日・封書 信濃下諏訪町高木より 東京青山南町五ノ八十一青山腦病院内 齋藤茂吉氏宛】
御ハガキ拜受忝し周介(十九才)は能登温泉以來例の手足皮下出血の現象なしこの分なら或は大事ないかと存じ候成るべく野菜を食せしめ候赤岳の湯より一昨夕歸り候いく分體に利き候貴君箱根の大荒れ前に歸りしらしく大幸なりき小生も一度箱根に行きたく存じ候畫伯益快方大慶の至に候一ケ月を病院に過したることとんだ事に候色々豫定崩れし事と存上候貴兄の閑居吟は勿論よろしと存じ居候特に終りの方にいいもの續出して居り候要するに改造貴作は大作なると共に秀作多かりし感あり歡ばしく存じ居候赤岳も二十位は纒まるかも知れず貴兄より刺撃せられしらしく候小生の木曾は貴兄と畫伯とよりほめられ喜しく候取材貧弱兄のを見て大にそれを感じ候「白斑」のこと大に失敬々々これを生かすこと面倒なり只作りし當時之を使へばいゝがと思ひて止め候それは
夏にして御嶽山に殘りたる雪の白斑は照りにけるかな
なり昨夜よりそれを生かさんかと考へしにさうすると原作二首を廢し左の二首をつづける事にせねば連作として具合惡しく即ち
(訂正) 谷の上にやゝ開きたる空青し雪山の秀《ほ》の現れにけり
(新) やゝしばし御嶽山の雪照りて谷の曇りは移ろひにけり
を加へ「夏ながら」「梅雨空の曇りの上に」を削ることにいたし候御承知ありたし白斑の借用はアララギにて書き申すべく大に失敬をし且つ忝しと存候次に安居會講義筆記を纒めそれに諸同人會員安居會の歌を加へ臨時増刊號を出すこと如何これはアララギ全會員に別に買つてもらふ上に店でも可なり賣れるべくその益金あらば講師に呈上するといゝと存候九月三日頃上京可仕御考へ置き被下度候殘暑烈しく候茂太君疲勞せぬやぅ御工夫祈上候皆々樣によろしく顧上候匆々
(725) 一三九〇 【八月三十一日・封書 信濃下諏訪町より 東京市外霜澁谷五二七 羽生永明氏宛】
拜呈山上より歸來貴著拜受貴重なる賜胎の文壇に現れ來りし感深く感謝の念更に新なるを覺え候卷末年譜非常に精細是のみにても大なる貴重品に候多年御潜心御研究の一部が世に出でし事自分の事の如く歡しく存候他の大部分が早く世に出で候樣今より期待仕候取あへず御禮申上候敬白 八月三十一日 俊彦
アララギ十月號より元義につき何か御寄稿被下度懇願申上候九月十日迄に頂かれ候樣奉願上候
羽生先生貴臺
御序文中へ齋藤小生等の名を御列ね被下光榮の至に有之恐肅奉存候十月號にて更に會員へ購求を勸め申度存じ居候
一三九一 【九月一日・封書 諏訪郡下諏訪町高木より 上田市小學校東校 小松直志氏宛】
拜啓今日は震災二週年に當り戦慄すべき當時を囘想いたし居候
御手紙頂き候處小生八ケ岳山中に新に設けられし赤岳の湯へ行き居りしため拜見遲延御返事も申上げず甚失禮存候小生講演に類する事を成るべく節減いたし度候も行き懸りにて遂引受くる場合出來只今少々困り居候青木村諸氏も折角の御望みゆゑ考へて見候へ共さうなると益々擴大いたされ遂に講演掛りになり了るの感有之從つて自分の爲事空疎になり申すべく存候是は露骨なる感想を貴兄だけに御打明け申上る次第に候甚以て心外に候へ共何とかして青木村諸君へ貴兄より御辯疏下され度一二年後機を得候はゞ御高囑に應じ申上度今囘は御宥免の程奉願上候御返事遲れし上に斯の如き書面さし上げ候事心苦しく奉存候御寛容願上候匆々 九月一日夜 俊彦
小松兄貴臺
(726) 一三九二 【九月八日・封書 東京麹町區下六番町二十七アララギ發行所内より 相模國湯河原伊藤方 平福百穗氏宛】
拜呈
蝋燭をふき消し(て)未だ寢ねなくに早くも鼠床を走る音
これは「て」を入れし方句ぎりハツキリ致すべく存上候
高梁酒の香り強きに驚けり卓の上靜かに杯置きて
これは「靜かに杯を置く」の方落付きを生ずべきか今夕茂吉君に逢ふゆゑ猶相談可仕存候其他皆結構と存上候支那の景状よく現れ居りと存候
其後益御快癒御事と存上候小生腸具合追々快復と存候まだ食事注意いたし居候一日湯ケ原へ參上せんと思ひしも少し早く歸りて色々纒め度存じ今二日位にて退京せんと存じ居候來月御健康御囘復のとき御目に懸り可申候秋田行の事難有存上候これは畫伯御都合よろしき時いつにても御伴願上度強ひて今年にも限らずと奉存候こんな紙失禮御ゆるし被下度候匆々 九月八日 俊生
畫伯老臺下
朝日新聞(九月五日)飛行機の歌御笑覽被下候はゞ難有存候あれで三四晩眠りそこねつづいて腸を痛め申候呵々そのくせ作品は惡しく候
一三九三 【九月九日・端書 東京麹町區下六番町廿七より 京都市府立第一高等女学校寄宿 中島ふく氏宛】
只今御歌拜見いづれも皆傑れ居り大に喜しく存候毎月御つづけ被下度祈上候山上にては非常に御厄介相煩し感謝の至に候御自愛專一存上候匆々 九月九日夜
(727) 一三九四 【九月十日・端書 東京麹町區下六番町廿七より 相模國大磯町台町安田方 加藤淘綾氏宛】
よきものあり十一とる御精勵祈上候匆々 九月十日
落せん位は屁と思ひて御べん強下され度候
一三九五 【九月十日・端書 東京麹町區下六番町廿七より 福岡市外箱崎網屋町御茶屋跡 小原節三氏宛】
今月號の御歌いゝ十月號第一首平凡第三首「岩の上に……」は少し古いあと三首いゝ御べん強を願ふこれより湯ケ原の畫伯を訪ねて明日歸國する 九月十日
一三九六 【九月十日・端書 東京市麹町區下六番町二十七より アララギ會員宛】
拜啓益々御清穆奉賀上候陳者岸本由豆流の「萬葉集攷證第三卷下」來る九月十六日頃古今書院より發兌せらるべく候全卷七册と相成るべく候該書の萬葉學上に於ける位置は已に再三申上げし如くこれが漸次續刊せらるること近頃萬葉學上の慶賀と申すべく特にアララギ各人を裨益すること甚大なりと信じ候該書出版も當初よりアララギを對象として計畫せられしものに有之候へば從來御購讀の御方は勿論其他の御方に於ても御購讀被下度例により小生より御願申上候御返事返信用にて古今書院へ御知せ被下度願上候猶定價左に記載仕候匆々
萬葉集攷證第一卷 定價貳圓八拾錢 既刊 同 第二卷 定價參圓五拾錢 既刊
同 等三巻上 定價貳圓四拾錢 既刊 同 第三卷下 定價貳圓貳拾錢 新刊
一三九七 【九月十二日・封書 東京麹町區下六番町廿七より 信濃國諏訪郡茅野停車場前 原治郎右衛門氏宛】
(728)拜復御令甥二十歳を一期として御長逝被遊候趣拜承驚入申候貴兄の御血縁とは存ぜず御手紙拜受驚愕いたし候御悲歎の程深く御察し申上候御遺稿御收輯の儀非常に結構に存候小生一通り拜見の事拜承仕候御纒まり次第御送被下度候下諏訪町高木小生宛に願上候もしアララギにて探す要も候はば御申遣し被下度同人間にて盡力可仕候取あへず要件のみ御返事申上候平素久※〔闊のさんずいが外〕平に御海容願上候御自愛專一奉存候敬具 九月十二日 俊彦
原大兄臺下
一三九八 【九月十二日・端書 東京麹町區下六番町二十七より 佐賀市松原町一〇三 諸岡芳夫氏宛 】
拜啓御手紙の趣拜承致し候講義は一月頃になりて一纒めにして出すやう相成可申歟と存候それまで御待ち被下度候御歌毎月御出し被下度候御返事のみ匆々 九月十二日
一三九九 【九月十四日・封書 信州下諏訪町高木より 兵庫縣西宮市香櫨園池端 中村憲吉氏宛】
拜呈どうも失敬してゐる東京宛ての御手紙も御稿も拜受した岩波橋本齋藤土屋小生五人大擧して湯ケ原畫伯療養中を襲ひ一日一夜遊び暮して餘計忙しくしてしまつた罰があたつて齋藤土屋小生三人十月號歌出來ず餘り寂しいと思ひ一昨夜夜行で立ちがけに二首ひねくり出して汽車に飛び乘つたといふ騷ぎなりそれゆゑ返事思ひ乍ら書けず御仁恕を乞ふ大兄繁忙中へ斯ういふのんき言うて甚だ癪にさはると思ふゆるしてくれ給へ畫伯もう大丈夫なり湯河原で齋藤は八木節を軍隊青年團延いて全國に流布すると氣焔あげ夜一時まで土屋を相手に雄たけび立つた
一、橋本君より「馬鈴薯の花」古今書院より改版發行を頼み來れりその方よしと思ふ君も御承知下さると思ふさうすれば齋藤が東雲堂へ掛け合ひくるゝ由なり御意見御知らせ下され度候猶橋本よりも御願ひ申上ぐる筈也
一、比叡山講演を一纒めにして來年一月十五日臨時増刊號を出すことこれは岡齋藤土屋三君承知して下さつた大(729)兄の御賛成を麒ふ今皆苦勞して筆記を打合せてゐてくれる可なり大分ある樣子なり(坊さんの話もある)それゆゑ臨時號にすると平常號が頁ふえずしてよし且つその純益金を以て講師に謝禮をさし上げたいと思ふ(可なり賣れること請合なり)山上ではあゝいふ事になりしがどうも小生は謝禮さし上げねば氣が濟まないその中に小生も居るゆゑ變なれど岡さんにせよ土屋齋藤にせよ金はなしあれ丈け骨折らせて謝禮せぬといふこと發行所詰めの小生には氣になるなり臨時號でそれが出來れば實にいゝと思ふたとひ二三十圓づつでも氣が濟むなり畫伯も賛成して下さり且つあの時の腹案を誰か筆記してその中に加へることも承知して下さつた何卒御賛成を願ふ貴君の筆記は今整理中との事傳田君より知らせあり清書次第君へ送るゆゑそれを元にして手を入れて十二月はじめ迄十日頃に御送附下さい
君の歌文げい春秋で拜見せり六號で來月號に收めるゆゑ御承知下さいいゝものがあると思ふ齋藤改造の百四十首も來月收める小生も木曾行を改造へ送る約束ゆゑ齋藤のを見ないうちに纒めんとして苦勞せしも三十四首しか出ず心中如何に齋藤なりとも百以上は生意氣なり稀薄ではないかと思ひ改造へ發送と共に上スハにて雜誌買ひ一見して驚けりどうして稀薄なんといふ代物でない小生木曾の歌齋藤と競爭のつもりなりしも負けたり併し改造來月號一寸見て下さい改造よりは一月號に三十首出せと申來れり君の處へも行きしと思ふ如何一つ又競爭する「ふゆくさ」評小生は來月號にする齋藤宇野芥川等書いてくれたり又書く奥さんによろしく齋藤の幼子百日咳で困つてゐる畫伯も君も子ども百日咳で困つた事を思ひ出せり東京コレラ戰々兢々也小家一同元氣に候 九月十四日
中村兄臺下
一四〇〇 【九月十四日・端書 下諏訪町高木より 諏訪郡湖東村小學校 金井國雄氏宛】
拜啓御懇書拜受いたしました御申遣しの儀早速拜承すべきでありますが實は小生來年の一二月頃と秋頃に纒めて(730)しまはねばならぬもの有之今迄怠慢のためここ一年ばかり全くその方をやりつづけても押し付け得るか否かと思つて居りますそれゆゑ前以て約束してある各所の萬葉講義も此際御斷り申上げて居る次第右の事情御諒察にて當分の間御引出し無之樣何卒願上ますこれは若し改めてどなたが御出かけ下さりましても同じ事ゆゑ何卒さういふ事なく小生の事情御汲み分け下さる樣願上げます手紙に認むべきをハガキにて失禮いたしますこれも御高恕願上げます廣瀬君も大へん御厄介になり感謝いたします其後どうも體が本當でないやうです本來弱い質ゆゑどうも困ります十月號には御歌あり喜しく存じます成るべく毎月御出詠の程祈り上げます御歌によれば澁の湯御家族にて御出のよしいゝ事をしました御自愛を祈ります 九月十四日
一四〇一 【九月十四日・端書 信濃下諏訪町より 東京麹町區下六番町二十七アララギ發行所内 久保田健次氏宛】
無事著京と思ふ四谷はコレラの中心なる觀ありあそこで成るべく物を買はぬ方よし諸君にもさう申上げよ豫防注射も必ずせよ 九月十四日
一四〇二 【九月十五日・端書 信濃下諏訪町高木より 東京麹町區下六番町二十七アララギ發行所 藤澤實・廣野三郎氏宛】
昨日半日諸書を參照し今日一日夜まで書いて漸く一枚半しか進まぬあと少くも五六枚か七八枚書かねばならぬ明日中には何とかして片付ける就ては御約束より一日後れて濟まぬが御諒承を乞ふ 九月十四日夜十時
四谷はコレラ中心地なり御注意を祈る橋本君へはハガキ出さず御序に宜しく願ふ
一四〇三 【九月十五日・端書 下諏訪町高木より 長野市山王小學校 山田良春氏宛】
拜啓一昨日歸國して御手紙拜見いたし候御歌稿今度拜見せしは梓村より御出しのものにて中の御手紙にて愚弟郡(731)視學に出しことが書きありその原稿で無ければ何れにか紛失せしかも知れず甚だ申譯無之奉存候今後は成るべく發行所の方へ御出し被下度願上候今度拜見せしものは十月號に出で可申候右御返事申上候猶紛失せしものならば再度御送被下度願上候紛失の如き事甚失態に候へ共來書多く一旦よみしものと混合する事あり發行所ならばその患ひ無之候匆々 九月十五日夜
御歌毎月御勉強被下度候
一四〇四 【九月十五日・封書 下諏訪町高木より 長野高等女學校寄宿舍 久保田水脈氏宛】
拜啓體は如何かすべて注意して無理する勿れ 〇太平記見當らずそちらで買へ〇大正リーダー詳解といふもの日新堂光明社その他に無し手帳はそちらで買へ〇爲替七圓來たのがあるから同封して送るそれで色々買ひ殘りは月末の計算に用ひよ猶月末不足するかと思ふゆゑ大體の不足額分らば支拂數日前までに知らすべし〇文字を誤記せぬやうに注意すべし例へば健次を建次と誤記する類なり「英語云々」を「英語云」と書くは同じく誤りなり〇當方皆元氣なり夏樹子どもらを集めて毎日そこらを遊び歩き居れり、周介もこれから勉強させる今屋根屋來り便所廂立派に出來る 九月十五日
一四〇五 【九月十六日・橋書 信濃下諏訪町より 東京麹町區下六番町廿七アララギ發行所 藤澤實・廣野三郎氏宛】
大體十枚書き終へしゆゑ明日午後二時發上り汽車に間に合ふやぅ古今書院へ出すアララギへは題目左の如く願ふ
萬葉集解題 萬葉集全卷本の首に 島木赤彦
新聞へ十月號廣告出すならば 萬葉集全卷本……島木赤彦 とすればいゝコレラ御注意の事 九月十六日夜十一時
(732) 一四〇六 【九月十七日・端書 信濃下諏訪町高木より 東京市外中野町粗い六五八 濱野英太郎氏宛】
拜呈過日は珍味難有拜受いたし候今日は又々佳香心に懸けさせられ御惠送下され重ね/”\御高志感謝の至に存候右取あへず御禮申上候匆々
一四〇七 【九月十七日・封書 下諏訪町高木より 上諏訪町小學校 田中一造氏宛】
拜復御申遣しの事過日森山君よりも御話あり以前よりの御話もあり如何にもして參上いたし度存じ候へ共今月は殊に數種の用事重なり合ひ今の處どうしても見當つかず殘念存候實は來年一二月迄に纒め度き爲事もあり今春來約束ありし萬葉講義も多く延期して頂き居りそのうちもし都合出來れば廿六七日に一度顔を出さねばならぬ處有之夫れが若し都合出來ぬやうならば貴校へ廿六日土曜日に半日御邪魔可仕その事見當つき候節は數日前に小生より御知せ可申上御承知被下度候甚だ不得要領な申上げ方にて惡しく存候御諒知奉願候藤森君兩角君へよろしく願上候はつせ元氣家事手傳ひ居り乍餘事御安心被下度候匆々 九月十七日 俊生
田中兄侍史
群書類聚中に袋双子ありや(歌學書)もしあり候はば一寸御知せ奉願候(藤原清輔著)藤原朝末期
一四〇八 【九月十七日・端書 信濃下諏訪町高木より 岡山縣倉敷町旭町 荒川左千代氏宛】
拜啓山上にては失禮いたし候昨日は寫眞御送下され難有存候御歌御勉強の程祈上候匆々 九月十七日
一四〇九 【九月二十日・封書 下諏訪町高木より 埴科郡雨宮縣村小學校 馬場源六氏宛】
(733)拜啓度々の御懇書恐入申候貴方の御豫定に齟齬を來さしめ候事心苦しく平に御高宥奉願上候今月二十日迄に纒むべきもの二つありそれが漸く一方だけ半分纒まるといふ有樣今迄の怠慢ここに酬いし事に有之如何樣にもいたし難く相成申候兎に角御約束せし事に候へば今年中に一囘だけは何とか繰合せ參上いたし度その他は何れへも御斷り申居候右偏に御海容奉願候小生の不足はどなたかにて御補ひ下され度東京より御求めならば御仲介申上げ候てもよろしく御申遣し被下度候匆々 九月廿日 俊彦生
馬場兄各諸兄御中
一四一〇 【九月二十三日・端書 信濃下諏訪町高木より 東京小石川區上富坂町廿三いろは館内 土屋文明氏宛】
「いで如何にねもころ/\に利心の失するまで思ふ戀らくの故」(萬十一初めの方人磨集)この念を「おもふ」と訓むか「もふ」と訓むか貴見御知らせ奉願候翠微今日拜受實に立派にて歡ばしく候感謝いたし候一同健在に候(新居猶定まらざるか)毎晩勉強して居ます
一四一一 【九月二十三日・端書 信濃下諏訪町より 東京麹町區下六番町二十七アララギ發行所内 高田浪吉・藤澤實氏宛】
藤澤君の塑像間に合ふか御べん強を祈る
本屆く有難う校正願上候小生來月上京少し覺束なし萬葉にて晝夜膏がのつてゐるここ半月位何處へも出られぬかと思ふ改造見てくれ給へ別便で編輯便と豫告一頁分送る後れて濟まぬ萬葉全卷本の小文アララギ分未校ならば井上通泰の次ぎへ「折口信夫氏の口譯萬葉集」と入れて下さい
〇健次に兵役猶豫の事役場へ問合せると御傳言願上候藤澤君に宜しく佐々木樣によろしく校正諸君によろしく御傳へ願上候萬葉全卷本の小文はいゝだらう如何 九月廿三日夜
(734) 一四一二 【九月二十六日・封書 信濃下諏訪町より 富山市外山商業學校 沖大兄氏宛】
拜啓御赴任奉賀上候手紙さし上げんとして忙しく失禮いたし居候新しき御境遇ゆゑ萬事御戒心御努力の程祈上候
生徒等に對して如何なる事ありとも腹を立て給ふ勿れむかつぱらを立て給ふ勿れ癪にさはる事隨分多かるべしそこをこらへるといふ事は屈する心にあらず強く自分を立て通す事なり説法がましくなりて變なれど無遠慮申上候
北地追々寒冷に向ふべし御自愛祈上候歌も作り給へ小生晝夜を通じて勉強致し居候匆々 九月廿六日 俊彦
沖君几下
一四一三 【九月二十八日・封書 信濃下諏訪町より 東京麹町區下六番町廿七アララギ發行所 久保田健次氏宛】
拜啓朝夕大分冷氣になり候壯健の由安心いたし候當方一同元氣御安心可有之候洋服の金二十日に小爲替三枚にて五拾圓送り候間御落手有之度候小爲替ゆゑ中六の郵便局でも受取り得べく候(何處にてもよし)猶受取りし上はハガキにて一寸御知せ有之度候周介いく分勉強いたし居り候みをも元氣らしく候十月は一度歸りたしと申來り候佐々木さん皆々樣藤澤高田馬場諸君へ宜しく御願ひ候萬事注意必要に候匆々 九月二十八日
一四一四 【九月二十九日・端書 信濃下諏訪町より 東京市外代々木山谷一八五 岡三郎氏宛】
拜呈ハガキのインキ書き御ゆるし被下度候小生今萬葉の方少し書き出して手がぬけず來月上京後れ可申存候甚恐入候へ共四日の會何卒御盡力たまはり度奉願上候發行所へもよく申し置候齋藤土屋二君へもハガキ出し可申候 九月二十九日
晝夜筆とり候へ共よきもの書けず時々悲觀して又筆とり直し居候小生の爲事は熱間歇的に來るゆゑ駄目に候(735)そのうち又ほうつてしまつてはいけぬゆゑ今精出し居り候末筆に候へ共十月廿四五日の事御承知置奉願上候皆々樣によろしく願上候匆々
一四一五 【九月二十九日・封書 高木より 上諏訪町 丸山東一・原田彦治・木下右二氏宛】
其一(名刺)
甚恐入候へ共三日間位に(明日より)御寫し下され候はゞ有難く奉存候
〇句讀轉もこの原稿紙の書き方に御據り下され度候〇行書位にてよろしく候分り切りたるは草書でもかまはず候
〇歌の書き方は別紙の如く願上候〇振り假名もそのまゝに御寫し被下度候 九月廿九日 俊彦
丸山君原田君木下君几下
○、。ハ一劃間ヲ用ヒル〇原稿ノ紙ト紙ト空位アルハ繼ギ足シタルタメナリ續ケテ書イテ下サイ
其二(原稿紙端紙)
歌書キ方……………………………………………………
○
上二字アケ
下一字アケル (一二五)※〔采+女〕女《たわやめ》の袖《そで》吹きかへす明日香風《あすかかぜ》京《みやこ》を遠《とほ》み徒《いたづ》らに吹《ふ》く(巻一)
ニ行ニ亙ル故頭揃ヘル……………………………………………………
(コノ歌ノ如ク)
一四一六 【九月二十九日・端書 信濃下諏訪町より 東京麹町區下六番町二十七アララギ發行所内 藤澤實氏宛】
拜啓小生來月の上京は中旬か下旬になる依て四日の會も五日の面會日も何卒御盡力願上候五日は原稿置いてかへ(736)つてもらつてもいゝ齋藤土屋二君來て見てくれゝば尤もいゝ君が見てくれゝば同じく有難い然らざれば六日一まとめにして小生へ御送被下度候大體は君見てくれ竹尾高田と共にすればいゝいけずば小生見る右願上候匆々 九月廿九日
一四一七 【十月一日・端書 信濃下諏訪町高木より 東京麹町區下六番町廿七アララギ發行所内 藤澤實氏宛】
長日月の骨折愈々完成大賀々々存候
校正刷有難うこれは返さずともよからん違ひ居らば御知せ被下度候
小生今日で滿二十日晝夜兼行といふ姿也今迄に二百五十首計り書けり健次傘要らば願ふ 十月一日夜
一四一八 【十月二日・封書 下諏訪町高木より 上諏訪町 小林勉氏宛】
拜啓小林先生御逝去の趣御家族皆々樣御悲傷御察し申上候小生の娘下諏訪小學校にて御敦へを受け居り候御高恩を想ひ悲傷罷在候封中略儀乍ら御靈前へ御供へ被下度願上候敬具 十月二日
小林先生御家族樣侍史
一四一九 【十月二日・封書 下諏訪町高木より 東京神田區豐島町九 淺羽茂太郎氏宛】
御尊父樣御逝去の趣御悲傷御察申上候以前より御容子承り居り御感慨の程推測仕候謹で御弔問申上候匆々 十月二日
同封略儀失禮に候へ共御靈前へ御供へ被下候はゞ本懷奉存候
淺羽茂太郎樣侍史
(737) 一四二〇 【十月二日・端書 下諏訪町高木より 上水内郡戸隱村中社宮澤旅館 加藤淘綾氏宛】
戸隱の秋はもう寒からんと存上候併し非常にいゝ時に候御勉強祈上候此間は失禮いたし候今日やゝ一段落になり少し落付き申候御自愛祈上候匆々 十月二日
一四二一 【十月二日・端書 下諏訪町高木より 下伊那郡飯田中學校 薄井一氏宛】
〇市毛君へよろしく願上候
岡氏講演御筆寫被下大謝々々奉存候とんだ御手數相煩し恐縮の至に不堪候一月十五日アララギ増刊號「比叡山號」を出し可申御承知被下度候只今小生晝夜勉強少々忙しくハガキ失禮御ゆるし被下度御禮のみ申上候匆々 十月二日夜
一四二二 【十月二日・端書 下諏訪町高木より 下伊那郡飯田町小學校 山本理逸氏宛】
拜啓岡氏講演御筆寫被下大謝々々奉存候非常の御手數相煩し恐縮の至に候一月十五日臨時比えい山號出し可申御承知被下度候小生只今晝夜忙しくハガキの御返事失禮御ゆるし被下度取あへず御禮のみ申上候匆々 十月二日朝
一四二三 【十月三日・封書 下諏訪町高木より 下伊那郡飯田町箕瀬町 丸山東一氏宛】
拜啓承り候へば御老祖母樣御病氣の處御養生叶はせられず御長逝被遊候趣驚入申候御高齢の御事とは申し乍ら御肉親の御永訣皆々樣御悲傷如何計りと御察申上候さる事とは存知せず過日は筆記のものなど御願申上げ恐肅存上候甚略儀失禮に候へ共同封のもの御靈前へ御供へ被下候はゞ幸甚奉存候右謹で弔意を表し候敬具 十月三日
(738) 丸山東一樣侍史
一四二四 【十月四日・端書 信濃下諏訪町より 東京小石川區上富坂町二十三いろは館内 土屋文明氏宛】
〇足柄のをてもこのもに刺すわなの……(十四東歌)これを解説の中へ左の如く書いた御承知願ふ誤りの點あらば御知らせ願上候「この歌土屋文明君は男女山野にて相紐解いた古俗の現れならんと小生に話したことがある多分さうであらう」萬葉一通りせい理したら又補正の所目につき來り今少し手を入れるつもりに候五日の發行所のこと忝し々々倉田氏へは手紙出し申候小生今月又「ふゆくさ」へ手が出ず十二月號新年號中必ず書く御承知願ふ遲れた代りに多く書きます齋藤子どもどうもよくないらしい困つた事なり小家一同元氣に候小生思ひの外體つゞき居り候消化はよくない
一四二五 【十月四日・端書 信濃下諏訪町高木より 東京市外田端 芥川龍之介氏宛】
只今アララギを見しに貴文中往々誤植あり殘念に存候どうもうまく行かず困り居候猶貴兄御病臥のよし傳承いたし候御快方か如何かと存じ上候御靜養祈上候匆々 十月四日夜
朝は霜ふらん程に寒く候小生今月は上京むづかしく候
一四二六 【十月四日・端書 信濃下諏訪町より 東京麹町區下六番町二十七 アララギ發行所宛】
今日アララギ來た大册校正大骨折りと想像いたし候誤植目につく來月號からは藤澤君も加はつてしつかり願ふ齋藤君の「高田評」の評は明了に御尤もなりしつかりやれ匆々 十月四日
小生大車りん也
(739) 一四二七 【十月六日・端書 下諏訪町高木より 中洲村神宮寺 笠原槐氏宛】
拜啓來年の受驗準備今より御勉強の程祈上候匆々
〇御父上御病氣御大切に祈上候〇大へん御無沙汰いたし居候間よろしく御兩親に御申上げ下されたく候當方一同無事まかりあり候 十月六日
一四二八 【十月六日・端書 信濃下諏訪町より 兵庫縣西宮町香櫨園池端 中村憲吉氏宛】
〇齋藤より「馬れい薯の花」あのまゝの方よしと又言ひ來る小生はあのまゝで出さうと思ふ貴意至急小生か古今書院へ御知せ願上候(急ぐ) 〇「萬葉集の鑑賞及び其批評」といふ長い名の本の原稿今日やつと岩波さんへ送る三四百頁なり少し骨折れり九月十二日より今日迄一歩も動かず食慾全く萎縮せり呵々一月書きしものへ今囘増補をやりしなり出たら御批評を何卒願ふ〇皆さま御無事と思ふ小家一同元氣也
其二
〇年刊集はとても間に合はぬゆゑ小生一人の責任選として今年丈けは出すことに御承知下さい今迄なまけて濟まぬ明日よりズン/\やり直ぐ岩波氏へ送る
〇萬葉十四「足柄のをてもこのもに刺すわなのか鳴るま靜み子ろ吾れ紐とく」はその頃山野で男女相紐どきし習慣ならんとの想像は土屋君から出たと思ひしに同君よりは中村君あたりが本もとかも知れぬ由申來れり貴君の説如何これは今度の著に入り居るゆゑ追記したい至急御返事奉願候匆々 十月六日
一四二九 【十月七日・端書 下諏訪町高木より 東京麹町區下六番町二十七アララギ發行所 久保田健次氏宛】
(740)本の原稿三百六七十頁分昨日全部岩波さんへ御送せりこれから年刊歌集へ取りかゝるかなり忙しけれど元氣なりこちら一同無事昨夜は雨にて胡桃子ぽたり/\落ち一夜に五六升落ちたるを數度に拾へり體を大切にしてウンと勉強すべし周介もいく分やつてゐる佐々木皆樣によろしく 十月七日
一四三〇 【十月七日・端書 下諏訪町高木より 南佐久郡青沼小學校 高見澤一郎氏宛】
拜啓御手紙こちらへ轉送拜見いたし候小生今年前半を外出し歩きしため後半非常に忙しくなり只今も已に二十五六日以來一室の外に出ず打籠り居る有樣にて豫め御約束の處へも皆失禮いたし居候甚以て恐入候へ共今年は御宥免被下度一旦拜承せし事ゆゑ一度は參上仕るべく右失禮の段平に御海容被下度奉願上候不本意乍ら右取あへず御詫旁御返事申上候匆々 十月七日
一四三一 【十月七日・端書 下諏訪町高木より 諏訪郡中洲村下金子 伊藤一哉氏宛】
拜啓態々御書面難有存候御書中土橋廣目と申さるゝ御方は何處如何なる御方に候哉御序の節御教へ奉願上候はがき失禮御ゆるし被下度候匆々 十月七日夜
一四三二 【十月七日・封書 信濃下諏訪町より 東京麹町區下六番町廿七アララギ發行所内 藤澤實氏宛】
子規忌難有存候
拜啓先日は健次へ色々御支出を願ひ恐入候右差引きて少々御送金下され度膜上候萬葉講演皆斷り居るゆゑ收入絶無に候依て右御願申上候萬葉集もうそろ/\出るならんと待居候小著も昨日一切岩波氏へ送稿せり合計三百六七八十頁かと存候昨日迄一歩も室外に出ず胃がすつかり駄目に候今日より年刊歌集にかゝり可申候これも忙しけれ(741)ど樂に候諸君に宜しく願上候匆々 十月七日 俊彦
藤澤君凡下
君の彫刻は如何出品は間に合はざりしか來年から御ふん發を祈る
一四三三 【十月八日・端書 信濃より 東京 竹尾忠吉氏宛】
アララギ校正毎月御厄介樣相成候事と存じ候今月は特に見事な大册子になり喜しく存候校正方法を三四人にて御相談下され度願上候小生珍しくべん勉いたし居候匆々
一四三四 【十月八日・端書 信濃下諏訪町より 東京麹町區下六番町二十七アララギ發行所内 藤澤實氏宛】
栗まんぢう少し御送下され度願上候時々食べたくなる匆々 十月八日
一四三五 【十月九日・端書 信濃下諏訪町高木より 東京牛込區余丁町七十二 山田ちま子氏宛】
「縁に出でたる足ざはり」の歌よしと存上候毎月御歌ありていとよし小生もべん強します 十月九日
一四三六 【十月九日・端書 信濃下諏訪町より 東京麹町區下六番町廿七アララギ發行所内 藤澤實氏宛】
御手紙拜見卷末記の事拜承廣野君よりもその手紙ありよろ七く御傳言願ふ十一二日刊行の由欣喜々々早く見たい塑像も出した由大出來なり當落などは構はぬ小生長塚全集の事で春陽堂より度々手紙あり或は十五日以後に出京するかも知れぬさうでなければ二十日頃萬葉の校正のため專門に上京する事になり可申それ前に年刊集纒めねばならぬ〇アララギせん歌は今日郵便つくと思ふゆゑ著いたら今夜中にやりて明日發送すべし御承知下さい皆さん(742)によろしく佐々木皆々樣にも宜しく願ふ胃の具合追々よし茶は多くのまぬ匆々 十月九日
辻村その他の歌は來てゐる小生實に忙しくやつてゐる
一四三七 【十月九日・端書 信濃下諏訪町より 東京市外西ケ原四一二 鹿兒島壽藏氏宛】
頭の具合如何あまりくよ/\せずに勉強し給へ御示しの歌まだ考へ過ぎた所あり追々に脱出すべし心永く苦しめばよしたまには遊び給へ五首とる「埃氣もなし」はいゝ奥さんによろしく願上候匆々 十月九日
小生べん強中に候
一四三八 【十月九日・端書 信濃下諏訪町より 東京市外高田町學習院官舍 村田利明氏宛】
拜啓君のはどうもごたついてゐる萬葉集の秀歌等から盛に感化を受けるといゝやうに思ふ中にいゝのもあるが總體より言へばその感あり御苦心を願ふ 十月九日夜
一四三九 【十月九日・端書 信濃下諏訪町高木より 京都市上京區神樂岡町十八村松金次郎方 五味保義氏宛】
今度のは玉石甚混淆せり「ませ垣に………衣ほしにけり」の歌甚だいゝ「茗荷の花きざみ入れたる瓜もみ……」もいいと思ふ忙中失敬 十月九日夜
一四四〇 【十月十日・封書 信州下諏訪町高木より 兵庫縣西宮町香櫨園池端 中村憲吉氏宛】
拜啓忙中御手紙大謝々々 一、成馬いしよ少し御削り必要ならばその歌を橋本君へ至急御知せ下され度候橋本の方では先日より待ち居るつまり十一月早く出さねば十二月では賣行上具合惡しきならん茂吉君よりは話してあり(743)大丈夫ゆゑずん/\やれと申來てゐる御承知あれ 一、太※〔虍/丘〕集評大謝々々何卒々々願ふ 一、萬葉はそんな大したものでない開拓の餘地非常に多くいくらもあり貴兄も一つ何か纒める必要あり著手を望む記紀勿論よし萬葉もよし萬葉以後もよし 一、「念ふ」の貴説有難し失張面白くて有益也齋藤土屋小生は念《オモ》ふ説なり併し猶よく考へ申すべしあの手紙と齋藤の手紙とを附記に入れる御承知願ふ◎「足柄のをてもこのも」の歌の事も御返事待つ 一、畫博健康ならん一向手紙なし齋藤子ども病氣困るならん病院も新築中のよしそのMの事も心配してゐるやうなり場所は玉川電車白田舍よりも遠いらしい 一、藤澤入選大賀萬葉もよくやれり歌のこと藤澤へ申しやる 十月十日夜 俊彦
憲兄臺下
奥さんによろしく小生今大べん強也「馬れい薯の花」は今日橋本へ送る
一四四一 【十月十日・端書 下諏訪町より 上伊那郡箕輪村上棚 藤澤茂氏宛】
拜啓實君帝展彫刻部に入選せられ如何計り喜しく存候皆々樣御喜悦如何計りと御祝申上候御父上樣今日迄御存命ならば如何計り御滿足と存じ上候併し地下にて御喜びの儀と奉存候右御祝中上度如此に候匆々 十月十日
一四四二 【十月十日・端書 信州下諏訪町より 東京麹町區下六番町廿七アララギ撥行所内 藤澤實氏宛】
〇入選ノ新聞今朝見タ今年ハムヅカシイト思ヒ居タリ大賀々々拜見ヲ樂シム本ノ方モ彫刻モ大出來也
〇選歌昨日夕方ツク依テ今朝十一月集分ダケ送リアトハ明日中ニ出ス小生トテモ歌ナシ君等の力作デウント威張リタマヘソノコト必要ナリト高田竹尾等ニ言ツテ下サイ
〇賀伯ノ十一月號ノハ(今朝送リシ歌稿)實ニ傑作デ驚入ル君カラモ歡ビノハガキ差上ゲタマヘアンナノヲツヅケ(744)ラレルト小生顔色ナシ 十月十日
一四四三 【十月十日・端書 信州下諏訪町高木より 東京神田區南神保町十六岩波書店出版部 山田武匡氏宛】
御手紙難有存候元氣恢復大賀々々扨萬葉集御配慮難有存候歌の前に〇印なきは二首以上をべた/\と竝べし時に左樣せしかと記憶いたし居候(小生の記述文なき場合)その他の場合に〇なければ當方書き方の誤りに候何とも今分りかね候猶御注意下され候はゞ難有存候猶又校正出で候場合は小生專門に上京可仕これは岩波堤御兩氏にも申上置き候御承知下され度候匆々 十月十日夜
御主人樣堤樣によろしく御傳言願上候
一四四四 【十月十一日・端書 信濃下諏訪町より 東京四谷區永住町一伊東方 井上幸子氏宛】
「病みの身の足さきつめたし足袋はきて」の御歌感吟仕候御大切祈上候匆々 十月十一日
忙中失禮
一四四五 【十月十一日・端書 信州下諏訪町高木より 東京神田區南神保町十六岩波書店出版部宛】
拜啓萬葉見本刷り早速御示し下され奉謝上候體裁甚だ宜しく安心致し候大へん早く御運び被下難有存上候(表題活字の大さはあれでよいかと存候猶上京の上御相談申上度候)校正十三日より出で候由小生十七日に上京いたし度く十五日午前迄のをこちらへ御送被下度十五日午後のよりはアララギ發行所の方へ御屆け置き被下度願上候若しそれより前に上京の都合つき候はゞ電報にて御知せ可申上候右御承知願上候匆々 十月十一日
一四四六 【十月十一日・端書 信濃下諏訪町高木より 東京小石川區水道端町一ノ廿五佐藤方 新井貞司氏宛】
(745)素直な歌多くありて心持よし益御ふん發を祈る.匆々 十月十一日
一四四七 【十月十一日・端書 信州下諏訪町より 東京麹町區下六番町廿七アララギ内 藤澤實氏宛】
〇選歌原稿只今書留郵便にて出す外に一封は君と竹尾君とでやつてくれ給へ少し胃が痛みどうしても爲事つづかず何卒願ふ體少し疲れしも年刊集丈けはどうしても果さねばならぬ
〇今朝御手紙つく故郷の兄上喜び給はむ父上今少し御存命ならば喜び給はむ
〇振替正に著大謝々々改造の小生歌婦人公論の高田の歌6號で出してくれ
〇萬葉の校正十三日より出る由依て小生十六七日に專門に上京すべし何れ委しくは又申上る 十月十一日夜
〇健次ニ
フトン荷物十二日出ス中ニアルタウ南瓜二ツノ中一ツハ佐々木サン一ツハ平福サンヘサシ上ゲヨ胡桃子ハ發行所デタベ半分佐々木サンヘ上ゲヨ(一年志願許可ノ名新聞ニアリ健次モソノ中ニアリ)
一四四八 【十月十四日・封書 信濃下諏訪町より 兵庫縣西宮町香櫨園池端 中村憲吉氏宛】
小生十七日上京廿一二日秋田行齋藤同行かも知れぬ百穗畫伯郷里へ一寸行き直ぐ歸る(校歌を作る)中學新設
コノ手紙御一覽願上候朱書失敬々々御削ノヲ古今書院ヘ御知セ下サイ
表紙・ハモトノ畫ノ通リ箱張リヲモトノ包紙ノ模樣ニシタラドウカト返事セリ如何 角山・コレハ製本弱キユヱドチラデモイヽト返事セリ 印税率・向ウニ任セテハ如何 五十圓・コレハ小生ノ借リユヱ小生出ス 中村氏ノ書面・兄ノ手紙ヲ廻迭セリ藤澤ノ歌ノコトモアリ 十月十四日
中村憲吉兄廻覽
(746) 畫伯頑健の由に候
一四四九 【十月十四日・封書 信濃下諏訪町高木より 東京市外代々木山谷一八五 岡三郎氏宛】
拜呈度々の御手紙難有拜誦いたし候御歌集彌々月末御脱稿のよし承り欣賀々々奉存候
迂生の萬葉十三日より校正出で候由につき專門從事致し度來る十七日中に上京いたし度拜芝を樂しみ居候この方早く出で候模樣ゆゑアララギ叢書廿一編といたし置候貴著を二十二篇と御定め被下度願上候廿一二日に秋田縣へ參る事になり東京へ廿四五日頃歸り度さすれば又々諏訪にてかけ違ひになり殘念に候へ共諏訪の人々によく申し置候間御不自由は御遠慮なく御仰せ被下度奉願上候すべて拜芝を期し候匆々 十月十四日 俊彦
岡老兄臺下
菓子御送の御手紙忝く奉存候そのうち到著と存候度々の事決して御介意被下間敷奉存上候
一四五〇 【十月十五日・端書 信濃下諏訪町より 東京麹町區下六番町廿七 アララギ発行所宛】
十八日日曜誰か二人專門に年刊集の整理を手傳ひくるヽやう御準備下され度願上候匆々 十月十五日
竹尾辻村その他の人にてもよし十九日には岩波氏へ御渡し申し上げたし廿一二日頃小生秋田へ行くもし餘裕あらば假名づかひも見て頂きたし
一四五一 【十月十六日・端書 信濃下諏訪町より 東京神田區南神保町岩波書店出版部 山田武匡氏宛】
〇御注意難有存候貴部の校正にて猶一度御目通し被下候はゞ尤も難有存候 〇歌はすべて上六字アキ下七字アキにするやう前より二劃あがる譯也至急印刷所へ御通じ被下度候それから歌の前の○は六號を用ひるやう是も御通(747)じ願上候 〇十四日御送のが今日屆き候小生今夜出立上京可仕候 〇十五日のはアララギ發行所へ御送下されし事と存候 〇只今一臺(今日の)別封御返送申上候匆々 一月十六日
岩波樣堤樣其他皆々樣によろしく願上候
「 」 ( )コレハ何レモ上下合セテ一劃ニスル方見ヨシト思フ校正部ノ御意見御聞キ下サイアララギハイツモサウデスソレカラ。何レモ一カクアケルガイヽト思フ
一四五二 【十月十八日・端書 東京麹町區下六番町二十七より 長野縣諏訪郡宮川村 小尾喜作氏宛】
拜啓二十四五日岡さん講演後二十六日木曾へ行き山林鐵道にて山に伴ひ被下度願上候或は森山君丸山君(束一君)等に御願ひ下されても宜しく右前以て願上候鐵道の方は小生掛け合ひ置き可申候二十五日夜行で立ち二十六日朝上松へつくやうになるかも知れず候兎に角朝上松著がよろしく候匆々 十月十八日
小生二十二日頃秋田へ行き數日居るつもりに候過日は御令閨樣態々御光來被下忝く奉存候
一四五三 【十月二十二日・端書 麹町區下六番町二十七より 市外代々木山谷一八五 岡三郎氏宛】
ハガキにて濟まぬ事御ゆるし被下度候今夜十一時國元の叔母死去電報來り萬葉校正を今十臺終らせて歸り仕度する所に候明日參上のつもりにて駄目になり候後日を期し候只一つ廿三日夜は新宿を十時何分ので御出かけ被下度諏訪教育會より依頼されて切符と寢室券を廿二日中に御屆け可申上何卒御承知願上候十時のでなければ寢室無之枉げてそれに御のり被下度上スワで小池その他御待ち可申上候匆々 十月二十二日朝四時書く
秋田行中止いたし候切符等は橋本君持參御屆けの筈に候
(748) 一四五四 【十月二十三日・封書 長野縣諏訪郡下諏訪町高木より 東京市外上目黒五八五 平福百穗氏宛】
拜啓實に殘念々々に存じ候折角年來樂しみにいたし且貴臺にも萬事御配慮被下愈々出立の間際になりて挫折せし事心外の至に候廿二日夜貴電拜受その返電と生保内行切符買ひ方とを藤澤に依頼して寢に就きし所へ叔母死去の電報屆き候依て徹夜して萬葉の初校七臺を了へ一番汽車にて歸國の途につき申候藤澤より電報出してもらひ置きしゆゑ横手にて御落手御落膽被下候事と恐縮に不堪候この叔母は小家より嫁したる人にて(今の父の妹)小生と愚妻のため非常に力を盡しくれし人にて他の肉親よりも恩愛深く小生も數日位は看病したかりしに突然に逝かれて心殘り多く候不二は一日だけ看病出來申候心臓弱り居りしため急に落命年六十八歳に候明日葬式それより一二日の手傳をなし廿六日頃再び上京今度は小生單獨にて秋田縣へ參上のつもりに候齋藤行けば猶よけれど駄目かと存候一人にて結構に候
廿七八日頃は著書の再校正をし廿九日卅日頃角館行そこに一二日滯在序でに田澤湖へも行きて五日面會日前に歸京可仕候多分束京にて御面晤を得べくその際萬可申上存候種々御高配下され感謝の至奉存上候この手紙秋田へさし上げては間に合はぬと存じ東京へ宛て申候萬々拜芝を期し候敬具 十月二十三日 俊彦
畫伯老臺下
昨夜納棺を濟ませてよりこゝに歸り今日又叔母宅行明夜こゝに歸り可申候長塚氏全集の事御序の節齋藤より御聞き被下度願上候萬葉の裝幀は「歌道小見」と同裝にいたし候御承知被下度何もかも拜芝を待ち可申候
一四五五 【十月二十三日・端書 信州下諏訪町より 兵庫縣西宮町香櫨園池端 中村憲吉氏宛】
上京以來どうしても返事書くひまなく申譯なし今日頃齋藤と秋田行のつもりなりし處一昨夜叔母死去の電報に接(749)しその夜四時半までに萬葉初校を片付け六時何分の一番で昨夜歸國明日葬式明後日初七日忌を了へて夜行上京今度は小生單獨にて秋田へ行くつもりなり「馬れい薯」も「年刊集」も間に合ひて忝し馬れい薯は小生寸暇なくすべて原本のまゝに願ひ置けり印税は藤澤等の萬葉の方を多くして小生等の方を少くしてくれと申置けり御賛成下さい萬葉の方一わりの由ゆゑそれを一割二分にしてもらへり小生等の五六分でいゝと申置けり御承知下さい(併し橋本君はそれでは少な過ぎるといひ居り候)長塚氏全集も二月より一册づつ六册出るこれは順次郎氏茂吉君春陽堂の小峰氏小生集まりて定めたり詳しくは又申上る傳田君より君の講演筆記今少し待ちくれと申來るそのうち出來れば直ぐ送る匆々 十月二十三日夜
一四五六 【十月二十三日・端書 下諏訪町より 東京市本郷區菊坂町十六第二春秋館 矢島祐利氏宛】
拜啓過日は御手紙下され候處遂御返事も申上げず心に掛り乍ら失禮いたし居候今囘御申遣しの事小生の出來るだけの手を盡し可申何れその模樣は分り次第御知せ可申上候必ず出來るか否かは不明ゆゑ他の方も手をゆるべ給はぬやう祈上候萬拜芝を期し候匆々 十月廿三日
一四五七 【十月二十三日・封書 信濃下諏訪町高木より 東京青山南町五ノ八十一青山腦病院内 齋藤茂吉氏宛】
御手紙とハガキ拜受大謝存候小生及び妻のため餘計に恩愛ありし叔母ゆゑ一二日位は小生も看柄したかりしに殘念いたし候大兄秋田へ御出で下されば實に忝く存候小生は廿六日法忌を濟ませて上京廿七八日頃萬葉の再校を濟ませてから單獨秋田へ參るつもりに候萬拜芝に讓り申候竹の里人選歌金槐集出版非常に有難し何卒御盡力願上候長塚氏全集印税の事御知せ下され難有存候校正が可なり大事件と存候初校だけ小生目を通し後は森山君丸山君よりやつて頂き申度存候校正はどうしても三四校を重ねざる可らずと存候印税分配の事は大兄と平福畫伯と御相談(750)にて御定め被下度願上候それを三人にて分け可申候編輯費(春陽堂で出すといふ)の方は主として森山君にさし上げ柳平君にも分ち申度存候(筆寫の大部分は森山君なり)只長塚順次郎氏の横瀬夜雨氏へ渡したる五十圓はこの編輯費より支出して正當なりと存候萬畫伯と御談合御決定被下度願上候匆々
一四五八 【十月二十三日・端書 信州下諏訪町高木より 東京市外上目黒五八五 平福百穗・平福ます子氏宛】
拜啓折角の秋田行叔母死去のため急に挫折いたし心外の至に奉存候廿六七日頃上京いたし卅日頃小生單獨にて秋田縣へ參上のつもりに候先程さし上げし手紙は奥樣にて御開封下され候て宜しく候右申上度ハガキ失禮いたし候匆々 十月二十三日
大分寒冷相成候皆々樣御大切祈上候小家一同無事御安心被下度候
一四五九 【十月二十三日・端書 信濃國下諏訪町高木より 岡山縣和氣郡伊里村 正宗敦夫氏宛】
拜啓度々御手紙相煩し恐入申候三ノ下、七ノ上二册當分拜借願はれ候はゞ幸甚奉存候筆寫して御返上可申右御手數恐縮の至に候へ共御願申上候敬具 十月二十三日
東京麹町區下六番町廿七アララギ方小生宛に奉願上候
一四六〇 【十月二十六日・封書 下諏訪町高木より 木曾福島町 北原禎一氏宛】
拜啓昨日は御蔭樣により坐乍ら王瀧沿流の風光に接し得られ候事感謝の至奉存候山谷と紅菓と清譚と碧空と相合して夢魂を去らざるの感有之永く感銘可仕候加之種々御馳走相成御禮の詞も無之深く感謝仕候取敢へず以書中御厚禮申述候敬具 十月廿六日
(751) 一四六一 【十月二十八日・封書 東京麹町區下六番町より 京都市等持院中町十 宇野喜代之介氏宛】
拜啓承れば御令妹御逝去の趣久しく存知せず失禮いたし居り候信州へ御入り以來御辛苦を重ね折角御骨折りにて御入學後間もなく御發病遂に起たせられず殘念至極奉存候夜小生方へ御出で下され歸りに大和舊道にて犬に吠えられ候事など今より非常にあはれに想起せられ候運命如何とも致し難し長大息此事に存候謹で御弔問申上候匆々
貴兄等御兩人樣御健康御恢復と存上候猶御自愛祈上候過日は松だけ名品御送與被下候由御高志奉謝上候みね子樣によろしく願上候猶同封のもの略儀失禮乍ら御序の節御靈前へ御供へ被下度願上候
一四六二 【十月二十九日・封書 東京麹町區下六番町廿七アララギ發行所より 京都市上京區神樂岡町十八村松金次郎方 五味保義氏宛】
拜啓大へん御無音いたし候少し忙しくどなたへも便り怠り申候陳ば矢嶋祐利君來年東大理科卒業東京の學校に就職いたし度候由若し貴君の今迄居りし向島の學校等にて採用しくれ候はゞ幸甚の至に候安塚さんかどなたかに御相談願はれ候はば難有存候右御願まで申上候猶同君專攻は物理學に有之候匆々 十月廿九日 俊彦
五味兄臺下
明日頃秋田へ行き數町中に歸京可仕候猶一つ君の教へし一年生宮川藤吉といふ少年より小生の十月號編輯便に市立中學を退きとあるは府立の誤りなりとて少し奮慨してハガキ遣され候御序の節一寸御託び御傳へ願上候子どもは斯ういふ事にて亢ふんするらしく小生も爲めになり候
一四六三 【十月二十九日・端書 麹町區下六番町廿七アララギ方より 神田區南神保町十六岩波書店出版部 山田武匡氏宛】
校正御注意忝く奉存候御示しの紙へ〇印せしは貴示の如く御訂正願ひ上げ候×印せしは元の印刷のまゝが宜しく(752)御なほし下さらぬやう願上候右念のため申上候匆々 十月二十九日夕
一四六四 【十一月一日・繪端書 田澤湖畔より 束京市外上目黒五八五平福氏御内 平福ます子氏宛】
彌々角館よりこゝに來て泊りこみました丁度紅葉の盛りでそれが清冽無比の湖にそつくり映つて居り驚嘆しました非常の御厄介樣になつて居ります御蔭樣にて多年の望みが遂げられました夜十時 十一月一日夜 俊彦
一四六五 【十一月二日・繪端書 秋田縣角館町より 束京 竹尾忠吉氏宛】
咋夜田澤湖一泊今日畫伯出生の町を巡り歩き申候山河の形勢自ら莊重なり明夜々行にて歸京大黒、高橋、鈴木、谷澤君等秋田六郷等より態々來訪せらる
一四六六 【十一月二日・繪端書 田澤湖にて平福片野二氏と寄書 東京麹町區下六番町二十七 高田浪吉・藤澤實氏宛】
湖の清冽驚くべし紅葉も盛り日和も二日共よし天幸なり風邪追々よしと佐々木馬場健次へ御傳へ下さい 十一月二日 田澤湖 三人
一四六七 【十一月九日・封書 長野縣諏訪郡下諏訪町高木より 京都府下丹後剋宮津町金屋谷 中村時次郎氏宛】
拜啓君は學校創始の寄附金を募るために小生等二三人の名を文中に書き列ねし由それは(一)誰々の名前なりや (二)左樣の手紙を誰々に出したか至急御返事被下度候猶それに對する君の考へと今後の善後處置につき御知せ被下度候右至急願上候匆々 十一月九日 俊彦
中村君几下
(753) 一四六八 【十一月十日・端書 信州下諏訪町高木より 東京芝區白金三光町五三八 辻村直氏宛】
拜啓過般は臥床いたし居り大に失禮致し候陳ば年刊歌集初校だけを貴兄より御目通し相願申上度重ね/”\の御骨折甚だ恐縮の至に候へ共何卒御助力奉願上候小生手紙さし上げんとせしも東京出立前床上にありて目の廻るほど忙しく遂其意を得ず多分藤澤君より御願申出でし事と存候右遲れ馳せ乍ら御依頼皇で申上候匆々
猶十五日は米吉忌にて御宅拜借の由忝く奉存上候當方紅葉已に素枯れはじめてかけすひよの聲が朝霧の中に聞え候 十一月十日
一四六九 【十一月十一日・封書 下諏訪町高木より 中洲村神宮寺 笠原田鶴氏宛】
拜啓過日の手紙拜見種々御苦心と存候何れ今年中に一度參上可仕候陳ばすみれ眼病の由困りし事に候どんな具合かと心にかゝり候若し目に差支へなくば少しの間小生宅へ御手傳に御出で下さるまじく哉御都合伺上候御病人中ゆゑ無理の御願ひしては惡しくそこは御自由に御考へにてもし少しの間御手傳ひ下され候はゞ難有存候勝手の仕事や少し位の縫ひものを手傳つて頂き度候今年中來て下されば最も有難けれどさう長からずとも宜しく候病院へはこちらから通へば宜しく候遠慮要らす候
右御都合伺上候御主人樣へ宜しく願ひ候御大切可被成候匆々 十一月十一日
一四七〇 【十一月十一日・端書 信州下諏訪町より 東京麹町區下六番町二十七アララギ發行所 藤澤實氏宛】
拜啓年刊歌集の表紙畫只今岩波書店へ直送いたし候間同店へ御出かけの上萬事御相談御決定被下度願上候匆々
(754) 一四七一 【十一月十二日・封書 下諏訪町より 上諏訪町小學校 森山藤一・丸山東一氏宛】
拜啓 十一月十八日白田舍拜借アララギ編輯會相開き度午後一時參集午後四時散會致し度御多忙中に候へ共御繰合せ御集り下され度奉願上候也
一、年刊歌集の事
一、安居會の事
一、一月臨時號の事
一、組み方及び會費の事
一、選者のこと
一、五十一歳以後選者御免を蒙り得ること
其他問題御持參奉願上候
十一月十三日 アララギ發行所
〇ハガキ十枚へコレヲ謄寫し小生へ御壯願上候御手數願上候匆々 十一月十二日 俊彦
丸山君森山君
一四七二 【十一月十三日・端書 信州下諏訪町より 東京麹町區下六番町廿七アララギ發行所 藤澤實・竹尾忠吉氏宛】
若シ畫伯ヨリ白田寫都合惡シトイフ知セアラバ發行所デヤルユヱ岡、畫伯、齋藤、土屋、竹尾諸君ニ知セテクレ給へ選歌ノコリ發見今送ルアトヘツヅケテ下サイ小生ハ十五六日中ニ上京スル 十一月十三日
(755) 一四七三 【十一月十四日・封書 下諏訪町より 上諏訪町 三村安治氏宛】
拜啓大に御無音いたし候今月初め秋田縣へ參り候處今日畫伯令兄(秋田縣平鹿郡横手町富士見町平福善藏氏)より同氏織物工場所産布とん縞送村有之大兄宛のもの同封有之候に付別包御屆申上候御落手被下度候角館は仙北平野を控へたる峽谷の入口にて川に臨み山を背にし古來要害堅固の城なる由一見莊重の城下町にて巨樹町中に並立偉觀を呈し居候餘り久しく御無音故今年中に一度拜芝を得度存じ居候用事のみ申上候匆々
茂吉君來諏厄介樣相成候御事と存じ候
一四七四 【十一月十七日・封書 麹町區下六番町廿七より 東京府下寺島町府立第七中學校 安塚千春氏宛】
拜啓益御清適奉賀上候陳ば五味君より矢島氏就職の事につき御配慮願上候由恐縮の至奉存候履歴書同封いたし置候間可然校長殿へ御進達奉願上候猶何分の御心添奉願上候敬具
御蔭樣にて長塚全集來年二月より著手の事と相成候御安神被下度候
爲櫻校正用として猶暫く御貸し置被下度願上候
安塚樣侍史
一四七五 【十一月二十日・封書 下諏訪町より 下伊那郡飯田町小學校 北原順一氏宛】
拜見十二月廿日廿一日の事に御決定被下度候午前午後各二時間位に御豫定願上候つづきは何處よりしか忘れ居り御知せ願上候古今書院發行の藤澤廣野二氏合編萬葉集全卷(三圓八十錢)を各會員御備へ下され度願上候行渡らざる所は何とか御工夫願上候取あへず御返事のみ申上候匆々 十一月廿日 俊彦
(756) 北原樣侍史
小著「萬葉集の鑑賞及び其批評」岩波書店發行御參照下され候はゞ難有存候併しこれは必須には無之候
一四七六 【十一月二十日・端書 下諏訪町高木より 諏訪郡湊村花岡 小澤菊彌氏宛】
拜復小生十二月半ばまでは御面會面倒かと存候御承知願上候御歌は拜見の上アララギへ(新年號)出し可申是亦御承知被下度候匆々 十一月廿日夜
一四七七 【十一月二十一日・端書 信州下諏訪町高木より 山形縣南村山郡本澤村菅澤 結城光三郎氏宛】
拜啓忙中ハガキ御ゆるし被下度候十八日白田舍にてへん輯會來年一月號より貴君と高田君と二人から新に選者になりて頂くことに決議いたし齋藤君も賛成下され君へ手紙出すと言はれしも今色々事柄多く未だ申上げぬかも知れず候はじめは少數にして一且君の選びしを齋藤君へ送り同君が一通目を通して誌上に出すことにいたすやうこれも齋藤君賛成に候斯く二三ケ月もすれば見當つき可申候右何卒御異議なく御承諾被下度候斯樣に責任もてばその本人の歌も進み可申存候益御べん強の程祈上候匆々 十一月廿日夜
十一月はじめ秋田縣まで行き急ぎ歸り申候
一四七八 【十一月二十一日・端書 信州下諏訪町より 東京下谷區谷中初音町四ノ二 金原省吾氏宛】
拜啓寫生ろん中御注意被下大に有難く存上候あれは何本に據りしか今記憶し居らず和本なりしやとも思ひ候へど思ひ出されず東洋畫論集成中には無かりしと存候若し御發見下され候はゞ可成早くアララギにて正誤いたし度右御願申上候寫生ろん御書下され候よし是も有難く存候成るべく十二月五日迄に願度正月號に出で可申候屋代の事(757)は馬場君よりも御申越ありあの通りにいたすべく御手數相煩し難有存候右御願のみ申上候匆々(猶その本には石川鴻齋の畫ろんも出て居たかと存候)
貴文新年號豫告に出し置き可申御承知下され度候よしを奥さんによろしく願上候 十一月二十一日夜
一四七九 【十一月二十四日・封書 下諏訪町高木より 諏訪郡湖南村大熊 藤森長次郎・藤森平右衛門氏宛】
拜啓昨夜岩本氏御來訪左記御知せ申上候
一、當日參上は母、兄、本人、叔父、伯母の五人それに仲人加はる 一、荷は仰せの如く人を御遣し下されば最も有難し手車二だいほどの分量也 一、婿人は當日早く御入來願ひたし
御承御願上候猶左記も御承知被下度候
一、結納料金は半分を岩本氏方より御返禮するが當地方の習慣の由につき岩本氏へも話し置き候 一、婿入の席上袴を進呈の由に候 一、御遣しの着物は廿六日迄に出來候よし
其他巨細の點は御打合せ可申上候小生廿七日上京來月五六日迄滯在可仕萬事愚妻と御打合せ奉願上候御足勞にて相濟まず候へ共何分願上候猶婿入嫁入の時間割は小生作り可申萬事その通り御從ひ下され度さし出がましく候へ共右願上候何れ時間割は御目に懸け可申上候匆々
この手紙恐入候へ共一應伊藤一哉先生へ御目に懸け萬事御意見御伺ひ被下度小生あまり忙しきまゝ右省略して左樣御願申上候匆々 十一月二十四日 俊彦
藤森皆々樣侍史
〇荷を取りに御遣し被下候日と時間御知せ願上候前日にても當日にても御自由に御定め被下度候
十二月九日式
(758)一、藤森家一同久保田へ到着 十一時 一、岩本家へ到着 十二時
一、岩本家より退出 午后二時
一、岩本家出發 六時 一、藤森家へ到着 七時
一、式 七時半 一、退出 九時
一四八〇 【十一月廿五日・封書 信州下諏訪町高木より 東京神田區南神保町十六岩波書店出版部 山田武匡氏宛】
拜呈箋書三十七册分(三十六枚中一枚ハ二册ノモノアリ平福氏)御發送置願上候小生の方へは別に五册御送被下度合計四十二册になり申すべく候猶アララギ發行所内名宛の七册は合包して御送差支無之候左樣に願上候貴君へ一册さし上げ度これは上京の時扉へ書いてさし上げ可申候右御願申上候匆々 十二月廿五日 久保田生
山田君几下
一四八一 【十一月二十五日・端書 下諏訪町より 下高井郡穗高村 土屋現勲氏宛】
またゝび御惠送被下御高志大謝の至奉存候早速庭に植ゑ可申芽ぶくべき來春を樂しみ申候只今苦吟中に有之ハガキ失禮乍ら御禮のみ申上候匆々 十一月二十五日
わが馬の腹にさはらふ女郎花色の古りしは霜や至りし
御一笑々々(今日作りしゆゑ御目に懸け候のみ) 十一月廿五日
一四八二 【十一月二十七日・封書 下諏訪町高木より 諏訪郡湖南村大熊 藤森長次郎氏宛】
拜啓昨日は遠路御高來相煩し恐縮存上候猶結構なる茸澤山頂き法奉謝上奉候御高示の趣昨夜一々岩本家へ傳達いた(759)し候御承知被下度候
一、荷物は成るべく前日中に御運ばせ被下候方岩本氏も好都合との事に候間天気宜しくぼば日に車御遣し被下度願上候七日にても宜しとの事に候御承知願上候荷附添人は略し可申候
一、九日當日夜岩本氏母及び愚妻二人は御仰せに從ひ一泊相願ひ可申是亦御承知被下度候
一、衣服仕立は月末迄に必調製の事に話し置候御承知被下度候
一、今一つ式の翌日(十日)聟が嫁の生家へ禮に行く習慣ありそれに關らぬ家もいくらもありどちらに成され候か岩本氏より問合せ有之御序の節御聞かせ被下度候
一、時間割はあれにて岩本氏も異議無之候右の外猶申上ぐべきは後便に讓り候匆々 十一月廿七日
藤森樣侍史
一四八三 【十一月二十七日・端書 下諏訪より 玉川村神ノ原 原田泰人氏宛】
拜啓其後御消息を詳にせず御壯健の御事と存上候陳ば小生玉川に居りし頃玉川村の歌といふ唱歌を作りて生徒に謠はせし事あり松田君等と御話し合ひ右の唱歌分り候はゞ菊澤區五味玉作氏へ御知せ被下度奉願上候小生昨今忙しくごた/\いたし居候皆々樣によろしく願上候匆々 十一月二十七日
一四八四 【十一月二十七日・端書 信濃國下諏訪町高木より 東京府豐多摩郡高井戸村中高井戸字北三十三 武田祐吉氏宛】
拜呈御注意難有奉存上候「家待たなくに」は早速校本萬葉參照仕候橋本氏のがてぬがてまし考は何れに掲載有之候哉御手數乍ら御教示奉願上候猶「時じ」語原研究も何かに現れ居り候はゞ御教示の程奉願上候其他御心付の點御遠慮なく御指示被下度御繁多中恐縮至極に候へ共併せて奉願上候契沖全集も彌々出刊相成祝著の至奉存候猶御知せ(760)被下難有存上候昨日一時拂にて東京朝日社へ拂込み申候
末筆恐入候へ共アララギ新年號へ一文御惠送被下候はゞ大幸の至奉存候匆々 三月廿七日
十二月五日迄に願はれ候はゞ大幸存上候
一四八五 【十一月・封書 信濃下諏訪町高木より 東京下目黒一四八〇 河井醉茗氏宛】
河井酔茗氏五十歳に達せりと聞く予も亦同年なり即ち詠みて河井氏に呈す 五首
行きゆきて五十路の坂も越えにけりつひに寂しき道と思はむ
この道に寂しき光常にありて唄うたふ人を行かしめにけり
和泉な堺の浦にわが君と水を浴みしは三十年《みそとせ》の昔
海にして君がかうべに照りにける月の光は今も思《も》はしむ
君は詩におのれは歌にわかれたる道なつかしく顧るかな
一四八六 【十二月二日・封書 東京麹町區下六番町二十七より 信濃西筑摩郡福島町 北原禎一氏宛】
拜啓只今御手紙轉送拜見御高志大謝の至奉存上候丁度よき材に有之深く奉感謝候もし三本頂くを得ば尤も有難く即ち只今電報にて御願申上候御都合により御取計ひ被下度奉願上候二本にても勿論難有存上候送金方法下諏訪の方へ御教示奉願上候小生七日迄には歸國可仕候
猶運搬方法を存知せず御教示奉願候運送會社に依頼かと存候その節は下諏訪高木自宅迄運搬するやういたし度存候この邊も御注意奉願候忙中用事のみ申上候匆々 十二月二日 俊彦
北原大兄臺下
(761) 一四八七 【十二月二日・封書 麹町區下六番町二十七より 市外寺島町一〇七三 安塚千春氏宛】
拜啓「木像」の事御知せに預り如何計り難有存上候下スハ町宛の御手紙も拜受重ね/”\御手數相煩し恐入申候御禮申述べんと思ひつゝ忙しく打過し居り自然失禮いたし居り申譯無之存候猶其後も御心付の點も候はゞ御高示下され度奉願上候寸暇を以て右御禮のみ申上候敬具 十二月二日 俊彦生
安塚大兄臺下
全集は今猶書き入れ等いたし居候数日中に春陽堂にわたり可申候
一四八八 【十二月二日・封書 東京麹町區下六番町二十七より 長野縣上伊那郡中箕輪小學校 松井源衛氏宛】
拜啓承り候へば御幼子樣急に御病氣御逝去被成候趣驚き入り申候御悲傷如何計りと存じ深く御察し申上候人生の變轉近來餘計に心境に滲み來り萬事思ふに堪へず瞑目して謹而御弔問申上候匆々 十二月二日 俊彦
松井兄侍史
一四八九 【十二月四日・端書 東京麹町區下六番町二十七より 信州上諏訪町 飯田太金治氏宛】
鶫刺來御高意大謝々々奉存上候取あへず御禮申上候匆々 十二月四日
畫伯へも屆け申候
一四九〇 【十二月五日・端書 麹町より 麹町區下二番町 相澤貫一氏宛】
子の歌中々よきものあり可賀方々忙中失敬々々 十二月五日
(762) 一四九一 【十二月五日・封書 麹町區下六番町二十七より 代々木山谷三一六 岡三郎氏宛】
拜呈御風邪中大作二篇驚喜踊躍して拜受いたし候丁度小生不在殘念致し申候田安の方は二月號へ奉願上候せん歌丈け明日中御願申上候夕方頂きに參上可仕候小生明日夜か次の朝歸國再び上京の節御目に懸り可申候
御風邪大切/\に願上候匆々 十二月五日 俊彦
今度は庭苔御まとめ御急ぎ奉願候少くも今年中には御稿を印刷に御廻し被下候樣奉祈上候
岡樣侍史
畫伯はもう庭苔の口繪かくと申居られ候
一四九二 【十二月五日・端書 麹町區下六番町二十七より 市外瀧野川町五二一 高木今衛氏宛】
今度のもの皆いゝ可賀/\ 十二月五日
一四九三 【十二月六日・封書 麹町區下六番町廿七より 市外上目黒五八五 平福百穗氏宛】
拜呈過日は夕方參上御馳走相成且つ色々御心配賜はり奉深謝候發行所迄御同伴下され恐肅の至奉存候
陳ば又々恐縮の御儀御願申出候岩波書店の堤氏永年アララギに盡力し下され且アララギの賣捌き紙の仕入等一切同氏に任せ居り今囘齋藤君の事等も同氏の考慮を煩す事多く存候同氏は謝禮等を中々受取らぬ人にて岩波氏より賞與等をやるにも大へん面倒にて困るとの事此際考へ候結果判紙大の紙へ畫伯より竹二三本描きて頂き幅裝して年末同氏へ贈り申度誠に虫のよき事にて慚愧仕り候へ共右の竹御許容被下候はゞ幸慶の至奉存候八日九日のうち午後藤澤が紙をもちて御願に參上可仕此儀伏して奉願上候敬具 十二月六日 俊生
(763) 小生今夜歸國可仕候
畫伯御左右臺下
一四九四 【十二月六日・封書 東京麹町區下六番町二十七アララギ發行所より 伊豆國湯河原温泉伊藤屋方 田邊元氏宛】
拜啓御靜養を得させられ候由にて大に喜しく存上候一度拜芝を得度候へ共目を廻すやぅに過し居り其意を得ず殘念存候
近什少々御目に懸け申上候御慰みにも當らず御一笑に付し被下度候匆々
赤岳温泉
直立《すぐた》ちの栂生の入りし料られず恐れをもちて戀ひ思ふなり
谷の入りの黒き森には入らねども心に觸りて起臥すわれは
安らかなる眠りに向ふ時のあひだ谷まの水の音を聞くなり
温泉の上千段の瀧に登る
をがせ垂る木のたたずまひ皆古りて心に響く瀧落つるなり
谷かげに苔むせりける倒れ木を息づきこゆる我老いにけり
赤岳は八ケ岳中主峰に候御自愛御加餐偏に奉祈上候匆々 十二月六日 俊生
明日歸國年末又上京或は伊豆の湯へ行かんと存じ居候
田邊畏兄侍史
一四九五 【十二月六日・封書 麹町區下六番町廿七より 府下豐多摩郡中高井戸字北三十三 武田祐吉氏宛】
(764)拜啓早速御禮申述ぶべきの處毎日目を廻す如き有樣にてとても長く書くいとまなく今朝小閑を以て取あへず御禮のみ申上候御稿と橋本氏研究と實に忝く拜受如何計り感謝の至奉存上候御稿は早速新年號に頂き申候橋本氏のは暫く拜借相願度稗益甚多しと存上候萬一高見も候はゞ御示教に預り申度願上奉り候亂筆偏に御高赦奉願上候敬白 十二月六日 俊生
祐吉畏兄
一四九六 【十二月七日・端書 信州下諏訪町より 東京麹町區下六番町二十七アララギ發行所内 藤澤實・高田浪吉氏宛】
西下經一といふ人の歌三日に見て持ち歸り四日頃速達便で送りしものを窓下のごた/\中にありと思ふ少し足してあるかも知れぬ故御選の上選歌の終りへ御加へ被下度(右一人……選)とすればよし右願上候匆々 十二月七日
〇確か小生選中へ漏らしたと存候〇昨夜謙一郎君御送り有難うと御傳言下さい〇當方皆無事
一四九七 【十二月七日・端書 信州下諏訪町より 東京麹町區下六番町廿七 アララギ發行所宛】
今原稿を出す(冬くさ評)四枚半なり活字指定宜しく願ふ匆々 十二月七日夕
頭スツカリ疲る
一四九八 【十二月八日・端書 下諏訪町高木より 諏訪郡泉野村槻の木 堀内皆作氏宛】
茅野より新宿迄の切符にて乗り新宿下車直に市内電車口へ出でて市内電車に乘り四谷見付停留場にて下車(途中乘換なし)鐵橋を渡りて左斜めに番町小學校の四ツ角に出でそこの荒物屋にて聞けば直ぐ分る著かへ一枚寢卷一枚位持參せよあと一切不要夜具布團等十五日前に新調してある筈ゆゑ心配無用なり汽車賃は發行所より送る筈ゆ(765)ゑこれも心配するな新宿驛は出口二つあり市内電車口といふ方へ出でよ分らずば驛員か誰かに聞くと教へてくれる發行所よりは給料は出ない小づかひ位は充分出すゆゑ金は少しも用意するな精出して働いて下さい小生は一二日中に又旅へ出るゆゑ來るな廿三日には上京するゆゑそこで逢ふ上京の日を藤澤に知せよ 十二月八日
一四九九 【十二月八日・端書 信州下諏訪町より 東京麹町區下六番町二十七アララギ發行所内 藤澤實氏宛】
〇掘内へ送る旅費早く送り下さい〇夜具ふとんも手順願ふ〇昨夜周介をして上スワ停車場へ「ふゆくさ」評原稿を投函せしむ今日はつく事と思ふ宜しく願ふ〇西下氏の歌稿分りしか一寸御ハガキ願ふ〇信州は二三日前の降雪三寸位にて家裏の日蔭には少しまだ殘り居る〇佐々木さん高田さん謙ちやん等に宜しく〇今より新聞の文章二つ書く 十二月八日
一五〇〇 【十二月十日・封書 諏訪郡下諏訪町より 下伊那郡飯田町小學校 北原順一氏宛】
拜復卷二つづき拜承いたし候十九日龍丘を終へて等日中貴地に入り可申御承知被下度候猶小生疲勞いたし居候へば書きもの一切御免蒙り候樣御取計ひ下され度我儘の儀御高宥下され候はゞ忝く奉存候
右御返事旁御願申出候敬具 十二月十日
北原順一樣硯北
新聞へは出ないやう願上候
一五〇一 【十二月十日・橋書 諏訪郡下諏訪町より 東京麹町區下六番町二十七アララギ發行所内 藤澤實氏宛】
(766)〇頭疲れ海鼠の如し廣告文は今夜書き明朝岩波さんへ送る〇振替大謝あと又書く西下原稿たのむ 十二月十日夕
畫伯へ御願に參上せしか
一五〇二 【十二月十一日・封書 下諏訪町より 諏訪郡玉川村神ノ原 原田泰登人氏宛】
拜啓御尊父樣御永眠のよし承り驚入候一向存知せず甚殘念存上候御家族御一同如何計り御心寂しく御過し成され候御事と深く御察し申上候貴君も彌々一本立ちとなり候事腕に撚りをかけ御奮勵の程奉祈上候悲傷中猶其意氣あるを要すると存上候略儀甚失禮に候へ共同封心許り御靈前へ御供へ被下候はゞ本懷の至に候匆々 十二月十一日
原田兄貴下
玉川の歌御厄介樣難有存上候
一五〇三 【十二月十一日・封書 下諏訪町高木より 上高井郡須坂町小學校 山口菊十郎氏宛】
拜啓こんな紙にて失禮至極に候へ共忙中御ゆるし被下度候御命の儀小生も何とかして參上いたし度存候へ共初秋以來一日の暇なき有樣にて諸方へ失禮いたし居りこゝ一年ばかりは到底面倒と存候此儀不惡御高諒皆々樣へも右可然御取做し被下度奉願上候蕪雜認め上候匆々 十二月十一日 久保田俊彦
山口菊十郎樣貴下
一五〇四 【十二月十四日・封書 下諏訪町高木より 東京神田南神保町十六番地岩波書店 岩波茂雄・堤常氏宛】
拜啓昨夜歸宅印税計算拜受大謝の至奉存候奈良旅行萬葉校本豫約費等一切打すてあり申譯無之右漸く御返濟を得て心平らぎ申候深く御禮申上候猶宇野君細君より來状あり只今忙中後便達貴聞可申取あへず御禮申上候猶印税多(767)額頂き忝く御禮申上候匆々 十二月十四日
年刊集御厄介難有存上候
一五〇五 【十二月十五日・端書 信濃下諏訪町高木より 東京麹町區下六番町二十七アララギ發行所 久保田健次氏宛】
拜啓試驗は如何軍事教育の方注意して怪我せぬやう祈り候二十日はみをも歸宅の由に候一同當人の歸りを待ち居り候予は明日下伊那へ行き廿一日夜歸宅の豫定に候匆々 十二月十五日
歸りに予の綿入寢卷が大鞄中に入らば持參してくれよ他に荷が多くて入らねばよし當方皆無事庭の仕事明日すべて竣工すべし歸りに己の外套を著て歸るといゝ藤澤氏に二枚のハガキ見たと傳言せよ
一五〇六 【十二月十五日・端書 下諏訪町高木より 上伊那郡中箕輪村小學校 松井源衛氏宛】
拜啓兒童讀みものについては今迄發表せしもの以外に少しも愚見無之候へば御訪問御中止下され度奉願上候アララギ六號欄(何月號か覺えず去年あたりかも知れず)に轉載せし外には何も無之候世上の讀み物中純眞に甘え無邪氣に甘えしみ/”\に甘え親愛に甘ゆるものありその邊御注意にならん事を祈り上候實物を提示するは小生到底その時なかるべく候小生此秋以來殊に忙しく今日迄訪問を謝絶いたし居り候有樣この事甚失禮なれど如何ともいたし難く御高宥奉願上候明日下伊那行(これも嬉しくてのつぴきならず)直ぐ續いて上京年末の括りをつけねばならず候右事情御高諒の程奉願上候ハガキを以て御返事申上候匆々 十二月十五日夜
千春氏病氣いく分よしとの事學校の方御不都合御察し申上候暫く何等かの應急策御執り置被下度高橋氏へも可然御願下され度願上候
(768) 一五〇七 【十二月二十二日・端書 信州下諏訪町高木より 東京麹町區下六番町廿七アララギ発行所内 藤澤實・高田浪吉氏宛】
昨夜下伊那より歸り明日上京のつもりの處例の神經痛にて一二日後れ可申候
〇堀内はもう上京せしか來ずば電報で問合せ給へ〇健次への御傳言年刊寄贈よろしく願上候立派に出來申候〇畫伯御忙しきやうならば強ひて御願せぬがよし 十二月廿二日
一五〇八 【十二月二十三日・端書 信州下諏訪町高木より 東京市外岩淵町稻付五八五 大道寺吉次氏宛】
「川ど」の御説大へん參考になり難有存候忙中御返事のみ申上候匆々 十二月廿三日
御健勝祈上候
一五〇九 【十二月二十四日・封書 東京麹町區下六番町二七 長野縣下伊那郡飯田町 丸山東一氏宛】
拜啓今朝上諏訪停車場にて矢ケ崎君より承り候へば御母堂御重病御入院のよし驚入申候御心痛如何計りと深く御察し申上候寒氣の節特に御困難被成候御事と存上候何卒御看護御醫療双乍ら備はり一日も早く御快癒被成候樣奉祈上候取敢へず御見舞申上候敬具 十二月廿四日
丸山東一樣 几下
小生は二十五六兩日在京廿七日頃歸國のつもりに候
一五一〇 【十二月二十七日・封書 下諏訪町髙木より幸便 上諏訪町 笠原延徳氏宛】
謹呈今日は參上失禮仕候同封のもの薄謝にも當らず候へ共御受納下され候はば本懷の至奉存候略儀平に御赦し願(769)上候猶來春又々御手數相煩し申度奉願上候敬具 十二月二十六日
笠原先生台下
一五一一 【十二月二十八日・端書 中央線汽車中より 麹町區下六番町二十七アララギ發行所内 高田浪吉氏宛】
「さぶしゑ」といへば輕いとか。「射せる日ざし」が惡いとか。「山あひのいでゆの宿」が要を得ぬとか。椎木立の歌で作者の位置木立の位置云々。み湯はいけぬとか。斯ういふことは一應二應先輩友人らによく聞いてから書け歌評甚だ不成積也。「谷川の」を「谷川は」などひどい汽車中通讀して直ぐ書く藤澤竹尾はこれを何とも言はぬか
一五一二 【十二月二十九日・封書 信濃髙木より 東京 藤森良藏氏宛】
拜啓御老母樣御長逝の段御悲傷御察し申上候深く御悔み申上候小姓旅行より歸り參上仕り候處その前夜御歸京のよしにて御面晤を得ず殘念存候以書中御弔問申上候敬具
序でにて甚失禮に候へ共考へ方社より選歌料御送被下毎度の事恐入申候厚く御禮申上候
一五一三 【十二月三十日・端書 信州下諏訪町より 東京市外上落合二四二 半田良平氏宛】
拜啓たんざく料は非常に恐入申候折角の御高志ゆゑ難有頂戴仕候御著一茶俳句集及び不旱氏著人麿御惠送に預り是亦恐縮の至に候厚く御禮申上候來年御作御示し被下候よし喜しく存上候大に期待いたし候寒氣の折から御自愛の程祈上候匆々 十二月卅日
小生一昨夜歸國御禮遲延申譯無之候
(770) 大正十五年
一五一四 【一月二日・端書 信濃國下諏訪町高木より 東京青山南町五ノ八十一青山腦病院 齋藤茂吉氏宛】
五號は三十六字詰よしと思ふ如何春陽堂と御相談願上候 一月二日
一五一五 【一月二日・端書 下諏訪町高木より 神奈川縣大磯町安田靱彦氏方 加藤淘綾氏宛】
謹賀新年 別封小包甚だ粗末の出來にて如何かと存じ候へ共御送申上候御役に立たぬ感有之候 一月二日
一五一六 【一月六日・端書 東京麹町區下六番町廿七より 信濃下諏訪町高木 久保田不二氏宛】
拜啓東京も中々寒く候へ共毛布ありて丁度助かり候汽車中火の用心が心にかゝり大月驛より電報出し候萬事御注意可有之候とに角鮎川温泉へ行くべくそこより便り出し可申候匆々 一月六日
改造一月號を郵便で至急御送り下さいポストへ入らすば郵便局受付へ出せばいゝ(六錢ばかり貼るといゝ)
一五一七 【一月七日・端書 東京麹町區下六番町二十七より 福岡市外箱崎町網屋 小原節三氏宛】
謹賀新年 一月號の御歌大によし諸人揃ひてふん發大に欣ばしく候今年は秀歌勃然として現るべく期待いたし居(771)候年末大へん結構なる魚御惠送下され御厚意大謝の至に候御住所不明にて御禮延引失禮いたし候奥樣へよろしく願上候小生明日常陸海岸の湯へ行く 一月七日
一五一八 【一月七日・端書 東京麹町區下六番町二十七より 神戸市外西須磨村中稻荷 加納巳三雄氏宛】
謹賀新年 今日試筆いたし候別便一葉御目にかけ候御笑ひまでに候匆々 一月七日
藤澤訪問せしならん明日常陸の温泉へ行く
一五一九 【一月八日・端書 東京麹町區下六番町二十七より 信濃下諏訪町高木 久保田不二氏宛】
健次の外套のボタンの孔その他を修ぜんすること今日午前十時何分常陸鮎川温泉へ出立する 一月八日
一五二〇 【一月八日・端書 茨城縣多賀郡鮎川村鮎川温泉島崎館より 東京麹町區下六番町二十七 アララギ發行所諸君宛】
中々いゝ處なり電報は河原子《カハラゴ)局なりあとより書く匆々 一月八日午後四時
佐々木皆々樣によろしく
一五二一 【一月九日・繪端書 茨城縣多賀郡鮎川温泉島崎館より 東京麹町區下六番町二十七アララギ發行所 高田浪吉・堀内皆作氏宛】
昨日相川と書きしは鮎川の誤りです昨日は上野驛まで有難う宿のうらは直ぐ砂濱で外海の波が押しょせて可なり騷がしい下孫驛からここまで廿五町の間松原で所々畑ありてよい道です湯は海水をわかして青い石を燒いて入れる何だか温まりさうです藤澤君そろ/\歸るならむ宜しく匆々 一月九日
(772) 一五二二 【一月九日・端書 鮎川温泉島崎館より 多賀郡助川町 町山正利氏宛】
昨日こゝへ來ましたまだ三四日は居るつもわです御ひまならばやつて來給へ 一月九日
一五二三 【一月九日・端書 茨城縣多賀郡鮎川温泉島崎館より 長野高等女學校寄宿舎 久保田水脈氏宛】
水戸から五つ六つ北の驛(下孫)から廿四五町右へ下つて鮎川温泉へ來ます家の裏は直ぐ砂濱で外海の波が押しよせて騷いでゐます湯は海水をわかしてそれに青い石を燒いて入れるといふ奇妙な湯です何だか温まりさうです萬事注意して勉強すべし四五日して東京へ歸ります 一月九日
一五二四 【一月十日・繪端書 常陸國鮎川温泉島崎館より 兵庫縣西宮町香櫨園池端 中村憲吉氏宛】
こんな處より新年の御慶申上候貴兄はもう紀伊より歸られし事と存候御家族御一同の事ゆゑ大によき事をなせりと存上候神經痛によしと聞きて八日こゝに來り候少し温まるやうに候へ共襖障子等の建てつけ粗雜にて風が侵入して夜割合にさむく候そろ/\歸京のつもりに候奥さんお子さん方によろしく願上候
〇小生の歌の出てゐる大阪毎日を御送被下候はゞ難有存候まだ見ず候送りしのみにて何の挨拶もまだありよせん
〇堀内の歌稿御送願上候(書留にて)望月のも大抵に行き居り候 一月十日
この川の岸崖下の道等にちよい/\椿が咲いてゐる諏訪より遙かに暖い
一五二五 【一月十日・繪端書 常陸國鮎川温泉より 北海道函館市稱名寺 武藤善友氏宛】
こんな處より新年の御慶び申上候君の一月號の作は非常によく歡ばしく存候概して一月號にはよきもの見え居り(773)候神經痛のためここに居り候へ共もうそろ/\歸京可仕候大した事は無之御心配御無用に候
藤澤ももう奈良より歸りし事と存候(年末よりいつてゐる)發行所へは今堀内皆作君が手傳に來て居り候信州八ケ岳麓の産に候 一月十日
一五二六 【一月十日・繪端書 常陸國鮎川温泉より 秋田市農事試驗場 大黒冨治氏宛】
こんな處より新年の御慶申上候昨年秋は久振りに御目に懸り喜しく存候折ふし風邪のため諸君に失禮いたし殘念に候あの時貴君と高橋君との外御兩人の名前發行所へ御知せ被下度願上候匆々 一月十日 赤彦生
此處は水戸より北八里海岸の大邊鄙な湯場ですそろ/\歸京します
其二
秋田は今風雪劇しい時でせうこちらはまだ雪がふらぬやうです崖下の道に椿の咲いてるのを見ますこの畫を見ると景氣よけれど今宿るは小生一人きりです海水をわかしてそれに青色の石を燒いて入れるといふ奇妙な湯です神經痛のため一人でこゝへ來ました
一五二七 【一月十日・繪端書 常陸國鮎川温泉より 長野縣下諏訪町高木 久保田夏樹氏宛】
湯は海水をわかして青石を燒いて入れる非常に鹹くて温まりさうですまだ利いたほどには思ひません小生著いてからまだ他に一人の客も來ません全く一人で占領の有樣です波がこの石垣の下まで來て盛にぷち當つてゐる昨夜大風ありしゆゑ今日は波が高い空はよく晴れて日が明るく當つてゐる魚類は鯛その他皆新鮮です崖下の道に所々椿の花がさいてゐる 一月十日
(774) 一五二八 【一月十二日・端書 汽車中より 信濃下諏訪町高木 久保田不二氏宛】
先程下孫驛より電報出せり今日宵のうちに著京する歸國は大抵十三日夜行になるかと思ふ猶東京よりハガキ出す疊はもう出來しか 一月十一日汽車中
コノハガキ忘れて投函せず著京後夜になつて出す健次も元氣今日より出校藤澤も今朝奈良より歸る堀内は明夜歸國する由小生どうしても十三日夜行か十四日でなければ歸國出來ぬ温泉はいく分利いたかと思ふ
◎「メートル」は借りること
一五二九 【一月十二日・端書 東京麹町區下六番町二十七より 長野市花咲町 菅沼知至氏宛】
隣家の樅の大木のあひだより朝かげさせりわれの炬燵に
この歌柄どうもいゝこのやうに簡明に直接に現れると心地がいゝ選歌最中亂筆失敬々々
奥さんによろしく殿上候 一月十二日
一五三〇 【一月十二日・端書 東京麹町區下六番町二十七より 秋田市農事試驗場 大黒冨治氏宛】
どうもいゝ所が出てゐるこの際うんと勉強を御續け下され度候匆々 一月十二日
御稿を拜見して。湯より昨夜歸京いたし候明日歸國する
一五三一 【一月十二日・端書 東京麹町區下六番町二十七より 信濃國上諏訪町北小路 宮坂健治氏宛】
拜啓座敷竣工のよし御繁忙中非常に御さし繰り下され如何ばかり忝く存上候小生十四日中には歸國の豫定に有之十(775)五日一寸御光來相煩し度計算書御持參願上候匆々 一月十二日
春頃あれへ廂を出して頂き度願上候
一五三二 【一月十五日・端書 信濃下諏訪町より 東京麹町區下六番町二十七 アララギ諸君・佐々木修・馬場謙一郎氏宛】
無事著き申候色々難有存候腰の方別にかはりなく候萬事願上候匆々 一月十五日
汽車中よく眠り候こちらも思の外寒からず候
一五三三 【一月十七日・端書 信濃下諏訪町より 東京市麹町區下六番町二十七 アララギ發行所宛】
今信濃便り稟告二つ前月の歌一綴右の原稿を送る御落手被下度候匆々
書留にはせす大丈夫屆くならん 一月十七日
一五三四 【一月十九日・端書 信濃下諏訪町より 東京麹町區下六番町二十七 アララギ發行所宛】
拜啓只今小生の歌五首の校正原稿を送り候それにより御校正被下度候匆々 一月十九日
信濃便り稟告は一昨夕御送申上候御落手と存候過日岩波書店へ行きし時山田武匡君歌を出しありと云ひしも小生は見ざりしかと思ひ候何處かにあらば見て選して二月號へ御出し被下度候
一五三五 【一月二十日・封書 信濃下諏訪町より 東京麹町區下六番町二十七アララギ發行所 藤澤實・高田浪吉氏宛】
拜啓
一、金九拾七圓振替にて長野縣諏訪郡上諏訪町濱町柳澤市之丞氏へ至急御送願上候(材木代金)これは小生の借り(776)として御控へ置き下され度候 一、次ぎに小生廿三四日頃上京伊豆へ參り度この金五十圓御用意置き被下度願上候上京して二三日齋藤君の注射を受けてから伊豆へ行くつもりに候
小生容態大した事もなけれどどうも具合惡しく且つ胃腸活動せず困り候或は當地醫師より診てもらはんかと存候
校正用小生の歌御落手と存候匆々 一月廿日 俊彦
御願の件申上候
藤澤君高田君机下
護國寺燒失のよし惜しむべし
〇
何處かの餘白あらば「小生選として信州小生宅へ送らるる歌稿は今後一切發行所へ宛て御送願ひます」斯ういふ意味のもの御掲げ願上候腰は相變らずなり食慾不進で閉口併し大丈夫なり 一月廿日 赤彦
一五三六 【一月二十一日・端書 信濃下諏訪町より 茨城縣助川町半田末吉方 町山正利氏宛】
拜啓過日は失禮いたし候名産梅盆甚雅致に富み候もの御送被下御厚志感謝の至奉存候今日到著取あへず御禮申上候匆々 一月廿一日
小生病氣大したる變りも無之候御歌御勉強祈上候
一五三七 【一月二十一日・端書 下諏訪町より 上諏訪町桑原町 飯田太金治氏宛】
拜啓石碑の文字は何字位が恰適に候か猶文字數の最多最少數をも併せて御知せ被下度候御返事は東京麹町區下六番町廿七アララギ方小生宛に願上候猶文章依頼は只今詮衡中に有之少々御待ち被下度候匆々 一月廿一日
(777) 小生一兩日中に上京可仕候
一五三八 【一月二十一日・端書 信濃下諏訪町より 東京市外上目黒五八五 平福百穗氏宛】
拜啓ハガキにて失禮御高免願上候小生神經痛捗々しからず自然胃腸の活動乏しく一兩日中上京伊豆へ參り度存候注射は少し見合せ置き度と存候甚恐入候へ共岩垂先生石碑文依囑の御方御物色方奉願上候何れ束京にて拜芝を期し申候只今醫者へ出かけ先きこれにて失禮いたし候匆々 一月廿一日
一五三九 【一月二十一日・端書 信濃下諏訪町より 東京麹町區下六番町二十七 アララギ發行所諸氏宛】
今日伴氏の診察を受け候處四五日模樣を見てから旅行せよとの事依て少し上京後れるかと存候御承知被下度候匆々 一月廿一日
胃の方が先きにてそれより神經痛に入りしものらしく候
一五四〇 【一月二十二日・封書 諏訪郡下諏訪町高木より 下伊那郡飯田町 丸山東一氏宛】
拜啓寒氣甚しき折から其後御母堂樣御容態如何に候か心に懸り乍ら今日まで打過ぎ申候寒中の事特に御困難被成候御事と存上候精々御看護御盡力にて一日も早く快方に御向ひ被成候樣千祈存候貴君も隨分御疲勞ならん御自愛の程祈上候匆々 一月二十一日夜 久保田生
丸山東一樣几下
一五四一 【一月二十二日・端書 下諏訪町より 下伊那郡飯田中學校 薄井一氏宛】
(778)拜啓正誤御送被下忝く奉存候詳細御覽被下難有存候「止どまる」の如きは便宜上小生のやる癖に候取あへず御禮のみ申上候匆々 一月二十二日
「今つと」は「もそつと」などの意諏訪訛りかも知れず市毛君によろしく願上候
一五四二 【一月二十二日・端書 信濃下諏訪町より 東京市外西ケ原四一二 鹿兒島壽藏氏宛】
宇治茶御惠送奉謝上候小生只今胃の具合にて胃師にかゝり居り候へば快方次第風味に接し度存じ居候御厚志深く御禮申上候過日は失禮改し候匆々 一月廿二日
一五四三 【一月二十二日・封書 下諏訪町高木より 長野市縣町 守屋喜七氏宛】
拜啓土星君より今日同封の如く申來り候間一通り供貴覽候土屋君のためには實際どういふものかと存候併し今一度つき當つて見るがよしと存じ候小生上京は一寸見當つかず且つ只今半病臥の有樣に候三村樋口二君より先以て話して頂き度存候小生神經痛は胃より來てゐるらしく胃の方を確めてから上京のつもりに候胃師の言ふ模樣にて何日頃になるか分らず且つ或は伊豆の湯へ行かんかと存じ居り候兎に角その事又御知せ可申上候匆々 一月廿二日夜 俊彦
守屋老兄凡下
一五四四 【一月二十四日・封書 信州下諏訪町高木より 東京市外上目黒五八五 平福百穗氏宛】
拜啓今日は硯の水も筆も凍るほどの寒さに候御全家御一同御壯健御事と存上候小生病氣昨日第二囘受診第一診の際より(實ハソレ以前ヨリ)豫想されし如く癌腫と見るを當れりとすべく醫師は斷言し居らざれどそれは病人に(779)對する遠慮より出で居るものにして殆ど宣告同樣に申し居り候へば妻女をして別に聞かしむる必要もなき程度に有之候此上は一度上京してとに角名醫の診察を得度其上天命に從ふべきなりと決心罷在候甚恐入候へ共御心當りの醫師一人御選定御紹介の勞を執り給はらんこと奉懇願候伊豆は止め可申來月四五日上京七日の長塚節忌にて在京諸君に御目に懸り申度受診も其時にいたし度存候
以上の次第に候へば今後小生の餘命長短により爲事のやりのこりを處置せざる可らず醫師は昨日通常にて三年と言ひしもそれは小生に對する慰安の言辭にして大腰一ケ年とすれば最終三ケ月は何も出來ずと見るべく残り九ケ月あれば萬葉鑑賞の後篇と萬葉研究卷一二位は目鼻つき可申かと存候小生も斯く定まれば案外安心して從事出來さうにて爲事をも樂しみ起臥談笑をも樂しみ得べく心中何の不平も無之候幸一室新に成りしゆゑそこに立こもり可申もし案外元氣ならば偶まには上京して諸兄に御目に懸り得べく存候
次は小生の財政問題なれどこれは健次周介(中學五年)夏樹(中學一年)三人の學資一部分をかせぎ得れば最幸とすべく小著述以外もし幸に中央協會の例の催し等にて勉強し得れば最上等に有之是も毫末も慾張りは考へ居らず御序の節齋藤君とも御相談にてよき機會も候はば御考へ置き被下度奉願上候
總じて小生は御想像(?)よりも元氣に有之決して落膽阻喪の患無之此點何卒御安心願上候煙草は目下三分ノ一に減じ居り追々減縮いたし度存候茶は今年に入りて多く用ひず只今は殆ど廢し居り候盗を見て絢ふに庶幾けれど一日でも一時間でも長く保つ工夫いたし度存じ候其他長塚全集年刊集等いろ/\御相談願度候へ共すべて拜芝を期し候猶小生病名は老兄と齋藤中村藤澤諸氏にだけ申上げ置候つまり分るべけれどさう急いで騷ぎ候事を避け度存候皆々樣御自愛專一に奉祷上候御令室樣にもよろしく奉願上候匆々 一月廿四日 俊彦
畫伯老臺下
齋藤藤澤へ今日手紙書くつもりに候(780)癌は胃の後部(背の方)にして未だ小さしと申され候へどもこれも慰安の詞にLて小生の指頭にて觸知し得べく可なり大きいかと存じ居候昨年伊豆行の時の腰部神經痛も矢張り同根より來て居たらしく思はれ候
一五四五 【一月二十四日・封書 信濃下諏訪町高木より 東京青山南町五ノ八十一青山腦病院内 齋藤茂吉氏宛】
拜啓只今貴兄へ手紙書かんとしてゐる處へ二通の御手紙拜受感謝いたし候全集の事御心配により進行大謝の至に候小生儀昨日第二囘受診第一診前よりやや豫想され居し如く大體癌腫と定まり候醫師より本人へ宣告下すのは苦しからんかと思ひよくその邊の小生の心持を話して質問せしゆゑ可なり明了に癌なることを遠廻しながら話して下され候その方小生もさつぱりして宜しく候依て此中に一度上京して名醫の診察を受け申度此事只今畫伯へも御願申上候御相談の上宜しく御取計被下度奉願上候
猶醫師は通常三年位は保つと申されしもこれは小生に對する慰安の詞にして若し一年保てば小生も少しは爲事の殘りが出來可申存候最終三月はだめとして九ケ月中三ケ月を萬葉鑑賞の後篇六ケ月を萬葉研究の卷一二位に充て得べきか是も雲を攫むやうな話に候へ共若しそんな具合に行けば大なる仕合せに有之萬々一一年以上保てば餘計何か出來可申存候宣告前より少々豫想致し居り宣告闇きし後やや平靜になり得し如く今後勉強をも樂しみ起臥行住談笑をも樂しみ得る心地いたし候此心理状態不自然ならざるやうに存候併し今後どうかはるかも知れず昨夜も前に引きつづき充分安眠出來申候左樣の有樣ゆゑ決してその邊の御掛念無之樣願上候只爲事の慾は可なり旺盛なり事に一室新に成りしゆゑそこに立籠りぽつぽつやつて行き度存じ居候今一つは經濟状態の方なれどこれも小著述の印税中央美術協會の例の催し等にて健次周介(中學五年)夏樹(中學二年)三人學資一部を得られ候はゞ滿足に有之大した慾は思ひよらざる所に候貯金は郵便局に三四十圓殘り居る丈けにて一文も無之候もし畫伯と御話し合ひにて何かよき機會ありて金かせぎ得るやうな事あらば御心掛置奉願上候
(781)病名は早くより世間に吹聽せぬ方よく大兄畫伯中村藤澤土屋岡諸氏以外には成るべく御話しなき樣願上候併し自然に分り可申と存候來月四五日上京七日の節忌にて在京諸君に逢ひその時名醫より一度診察を願ひ申度存候元氣さへよくば偶まには上京して貴兄等に逢ひ可申是は病氣の進行如何により可申候患部は指頭にて觸知し得べく可なり大きくなり居るかと存候大便のけん査は血液等見えず大分具合よしとの事併し一囘では分らざるべく存候小便もけん査して異状なし腫れは醫の後部に候湯ケ原にてハカリにかかりし時十四貫の體重に驚き(平素十五貫以上あり)衡器《ハカリ》の惡いのだと思ひ居りしも實際は瘠せたりと思はれ候昨年伊豆土肥行の時の腰の痛みも多分病根同じかりしならんと思はれ候たばこ三分一にせり猶追々減ぜんと思ふ茶は一月に入りてより多く飲まず殆ど廢止の姿なり賊を見て絢ふに庶幾けれど一日でも一時間でも長生きした方有難しと存じ居候今日は寒さ甚しく右手非常に冷え候ゆゑ一先づ擱筆いたし候亂筆御判讀被下度候
皮膚病はどうも温泉がいゝ湯ケ原の橋本君居りし宿へ御出で如何御自愛切望いたし候匆々
今一つ長野市教育會で二月中に一度講演して下さりませんか昨年よりの切望で又申して參りました何とか御都合して土曜夜行にて立ち日曜少し話して後温泉へ入るやうにして御承知下されば實に有難い再々無理と知れど何とか御都合下さりませぬかこんな所へ書いて失禮なれど御ゆるしを願ふ
一五四六 【一月二十四日・封書 信濃下諏訪町高木より 東京麹町區下六番町二十七アララギ發行所 藤澤實氏宛】
こちらでは親戚隣家へも話す事を控へ居るゆゑそちらで大騷ぎするな食物も相當に食べてゐる苦しみもない
廢啓今校正最中ならん御骨折大謝存候
扨小生病氣昨日伴氏より第二囘受診の結果胃癌より來る疼痛と大體決定いたし候歸國以來どうも痛みが胃より來るらしく思はれ伊豆行前に確め置かんと存じ廿一日第一囘受診その時已に小生に豫想つきし次第にして第二囘に(782)て殆ど完全なる宣告を受け申候小生は事已に決定の上は存外安心出來以前より種々の經驗に徴し彌々となれば存外平氣になり得る心地いたし候龜原の風の夜も金華山沖の風波遭遇もその一例に候以後は仕事を樂しみ行住坐臥談笑を樂しみて餘命を天に任せ可申この點御想像よりも安心出來居るらしく候へば多分の御配慮無之樣祈上候醫師は三年と申せどそれは愛想を言ひしにて一年保てば小生有難く存候終りの三ケ月は駄目として殘り九ケ月を萬葉鑑賞後篇と萬葉一二研究位に費し樂しみつつその爲事に從ふを得べく存候今迄はアクセク爲事せしも餘生幾何もなしと定まれば一日一時でも樂しみて勉強する心起り可申存候此點後或は變るかも知れねど今の所衷心よりそんな心動き居り候患部は胃の後方らしく指頭にても觸知し得べければ已に可なり大きくなり居るらしく候詳しくは畫伯齋藤二氏へ御知せ申上置候へば御序の節その方の手紙も御借覽被下度候右の如く候へば伊豆行は中止いたし候間御承知被下度候二月四五日上京一度大家の診察を受け七日の節忌に在京諸氏に逢ひて歸國いたし度その後ももし元氣ならばたまには上京諸君に御目に懸り可申候「赤彦病氣のため五日の面會日を廢し七日節忌にて逢ふ」由在京會員へハガキ御出し被下度御手數乍ら願上候猶小生病氣の名前は畫伯齋藤中村岡土屋貴君高田竹尾君等にて承知し置きその他へはあまり御話しなき方よろしく候早くより騷ぐは宜しからず健次へは「どうも癌ではないかと言へど上京受診迄はよく分らぬ」とやうに御話し置き被下度佐々木氏へもそんな具合に願上候郵便急ぐ故右取あへず御知せ申上候あとより書き可申候
柳澤市之丞氏へフリカヘ御出し被下候哉右願上候これは小生の借りにして記るして下さい上諏訪行の人待ち居るゆゑ右のみ匆々 一月廿四日 久保田生
藤澤君高田君几下
一五四七 【一月二十四日・封書 下諏訪町高木より 長野市縣町 守屋喜七・塚原葦穗氏宛】
(783)拜啓紙盡きしゆゑこんな紙にて失禮致し候小生の轉送御目に懸けし土屋君の手紙御落手と存候三村氏等上京の時小生在京し得るや不明なりしためその意も申上げ置き候實は小生昨年一月頃より身體變調昨今に至りて甚だ具合惡しく一月は常陸の泥泉へ行きしも依然腰部神經痛増進の有樣に有之同時に昨年來消化非常に不良ゆゑ或は胃の方が先きにて神經痛は副貳的のものにあらずやと考へはじめ候それと共に胃中に不審の所あり今度伊豆温泉行(昨年も伊豆にて神經痛を醫せり)の前に以上干係を確め度く廿一日廿三日兩日伴氏の診察を受け申候その結果癌腫なる事殆ど明了となり申候今は大きくないといへど小生の指頭にて觸知し得べく可なり進み居るかと存候(胃の後部なり)
大兄御承知の通り小生は彌々事茲に定まれば割合に平靜沈着になる性質也問題落著してやつと心に落ちつきを得し心地いたし候今後一年保つか否かを知らず候へ共萬葉鑑賞の後篇と萬葉卷一二研究の纒まり位は數ケ月にしてつけ得るかと存じ候もし一年以上保てば猶爲事は出來申すべく慾を言へば限りなけれど突然長逝する等に比して甚幸福なりと存じ居候それで今後は爲事を樂しみ行住坐臥を樂しみ末年を樂しむ心で暮し得る心地いたし候現に咋夜までもよく安眠出來居り候今の處苦痛といふほどのいたみは無之末期になればそんなわけに行くまじけれどこれも致し方なき運命に候幸此冬南向一室新設したればそこにて餘生を樂しみ申すべく候以上の有樣にて胃師は手足の連動をも控へよとの事それゆゑ東涼にて諸所を歩くといふ如き事は今後可成せぬつもりに候來月四五日上京一應名醫受診のつもりなれどこれは只形式のみに候直ぐ引返し歸國のつもりに候この事情は暫く諸人に吹聽を控へ度アララギにて平福百穗齋藤中村土屋岡藤澤位外にて大兄及び脚穂位にしたく家人は知り居れど親戚近隣へは知せずに居り候家の老人にも未だ話さぬつもりに候これも御承知願上候自然に大方へ知れ可申候實は今日は朝より畫伯等諸人へ手紙書き可なり疲れしゆゑ此手紙は御兩人連名にいたし候段御承知願上候元氣は中々旺盛に候間御安心被下度候
(784) 〇葦穗に以前より頼み度く思ひ居し事ありソレハ塚原淺茅(父)さい(小生ノ母)ノ生年月日分ラバ知リタクさいノ死役年月日及ビ年齢ヲモ知リタク田鶴ノ生年月日文夫豐穂ノ生年月日モ知リタク候今一つさよ(祖母)生年月日逝去年月日泰藏秀彦武彦生年月日及び死歿年月日以上何か帳面により分るかと思ふ三月か八月の休みにてよく御調べ願ふ〇古田へも一度は參上したい併し藥や床や食物の干係あり泊ることはめん倒かと思ふ又書き可申候 一月廿四日夜 俊彦
守屋兄葦穂殿几下
女學校のみを子にもまだ知せぬ方宜し
齋藤君を長野市教育會へ招聘の事今日よく頼んで申遣し候これは葦穂への返事也
一五四八 【一月二十四日・封書 信濃下諏訪町高木より 兵庫縣西宮市香櫨園池端 中村憲吉氏宛】
ゝ比えい山講義筆記は二月二十日迄に間に合ふや如何確かな所を御知せ願上候、馬れい薯印税は未だ來ず御承知置被下度候 ゝ藤澤西下して御厄介になりよかつた
謹啓紙が終りになり候故組字にて認め上げ候今日は筆も硯も氷るほどの寒さなり御一同御無事と存上候小生事久しく神經痛にて具合惡しきと共に胃の消化スツカリ減退の有樣ゆゑ或は胃の方が先にて腰の痛みは從屬現象ならずやと考へそれに少し思ひ當る所もあり廿一日上散訪の伴醫師より受診昨日第二囘受診の結果大體癌腫と定まり申候この診察は小生の潜かに期したる所にして伴氏の言ふ所よく筋立ち居り信用するに足れりと存じ候小生もここに至りては却つて平靜になり餘命を樂しむといふ心も起り不安裡に過せし時より大に落着きを生ぜし如くに候腫れは可なり大きくなり居るらしく指頭にて觸知し得べく位置は胃の後方との事に候猶普通三年位保つと言はれしも是れは小生に對する愛想にてもし一年保てば小生は遺憾少く候その間最終三ケ月位は何も出來ずとするも(785)九ケ月間に萬葉鑑賞の後篇と萬葉研究の卷一二位を纏め得べしと存じ候是れは雲を攫む如き豫定なれど更らに又萬々一一年以上を保つとすれば爲事も可なり出來可申存候そして今迄はアクセクと爲事したりしも今度は惜しき月日ゆゑ樂みつゝ爲事する心起り可申其他起臥談笑行住坐臥一事一事を樂しみ得る心地いたし小生としては末年意外なる經驗に入る心地も致し候それは心構へして得し所にあらず最近さういふ心理に自然に推移したらしく存候小生は今迄難事ある毎に難事に立ち至る前にクヨクヨ心配すれど彌々難局に入れば案外平氣になる性質あり今後どう變るか分らねどその點何卒多大の御介意無之樣願上候現に昨夜迄非常によく安眠し居り候併し乍ら小生としては急劇の變化なるに自ら驚き居り候二月五日頃一度上京名醫より受診七日の節忌にて在京諸君に逢ひて歸國いたし度其後もし元氣ならばたまには上京して畫伯齋藤等に逢ふ事も出來可申候もし大兄が二月上旬上京の事あらば幸實に大なり兎に角貴兄もそろそろ國へ隱退の事故それ前に一度逢ひ置く樣御取計らひ被下度奉願上候
今一つは小生の經濟状態なれどこれは小著述の印税等にて今年多少貯蓄して三兒の學費の一部に供へ置き度存候(貯金といふものなし三四十圓郵便局にあるのみ呵々)昨冬幸ひ土間をつぶして南向の新室一つつくりしゆゑこの冬はここに立て籠り靜かに筆とり可申候小生の病名は貴兄と東京の畫伯齋藤土屋岡藤澤にて當分知り居ればよしさう早くから騷ぎたくなし土田加納へは大兄より内密(?)に御傳へ置き被下度その中には自然大方へ分り可申それは致し方なく候親戚へも老父へも近隣へも當分話さぬつもりに候苦痛もさしたる程ならず候右取あへず御知らせ申上度筆も氷る有樣又あとから書き可申御令室樣へよろしく願上候 一月廿四日夜 俊彦
中村兄貴下
一五四九 【一月二十五日・封書 下諏訪町高木より 上諏訪町末廣町 森山藤一・藤森省吾氏宛】
拜啓先程は態々御高來下され奉謝上候あれより愚妻伴氏より歸り御兩兄共小生の病氣を心配して御出で下さりし(786)事分り甚以て恐縮存上候伴氏より貴兄等へ相談せしことを知らざりしため小生も話を控へ居りし次第甚だ變な具合にて相濟まず奉存候小生の豫想と伴氏の診斷と合せて大體の症状明了と存じ居り只事をせきて人々を騷がせる事を愼み度く依て御兩兄へもその點を黙し居りし次第御高諒奉願候何卒御兩兄以外どなたへも當分御吹聽無之樣奉願上候追々に分り可申候へ共先以て少數者の間に限りおき申度存じ候さうでないと隨分うるさくなり可申存候小生は彌々難局に没入すれば案外平氣になり得る性質に有之伴氏受診後もよく安眠をつづけ居り且つ一事一物一擧手一投足をも樂しむといふ心理自然に動き居り少くも今迄の如き粗笨の心理に住するを脱し得る心地いたし居候それにて天命に從ふは人間の本懷とすべき所かと存じ居り候この點深く御心配無之樣願上候そのうちどういふ向きに心理が變るかは分り申さず少くも現在は衷心より以上の如く思ひ居る次第に候一年あれば可なりの爲事出來可申存じ居候猶守屋君へは昨日大體御知せ申置候畫伯齋藤中村藤澤土屋岡諸氏へも知せ可申その他へは當分だまり居るつもりに候猶病氣進行の模樣により御兩兄はじめ諸兄の御配慮を煩す事も出で可申何分の御掛念奉願上候二月はじめ上京一度名醫の診察を受け可申併しこれは非常の重きを置き居らず候取急ぎ右御高見に達し置き度書餘は後日を期し申すべく候御配慮幾重にも御禮申上候匆々 一月廿五日夜 俊生
藤森兄森山兄侍史
田中君へは一通り御話し置き被下度候夜おそきゆゑ御連名にてさし上げ候段御ゆるし被下度森山君御一覽の上藤森君へ御廻し被下度願上候
一五五〇 【一月二十五日・封書 下諏訪町高木より 下伊那郡飯田町箕瀬町三丁目 丸山東一氏宛】
拜啓御手紙拜見いたし候御母堂樣御容態捗々しからず御苦心の御樣子にて心痛の至奉存上候五十日來寢食を忘れての御看護到底通常人のよくする所にあらず何卒天この人のために祐を下し漸次御快方に向はせられ候樣千祈萬(787)祈仕候貴兄に於ても一方自身の健康をも御省慮にてよく/\御自愛なされ候樣至望仕候御尊父樣はじめ皆々樣へも可然御傳聲奉願上候小生方一同無事御安心被下度候小生少々胃を害し候へ共臥床に至らず御安心被下度候匆々 一月廿五日 俊彦
丸山東一樣侍史
一五五一 【一月二十五日・端書 下諏訪町高木より 下伊都郡神稻村 片桐且良氏宛】
拜啓見事なる柿御惠送被下御厚意大謝の至奉存候取あへず御禮のみ申上候匆々 一月廿五日夜
過日は失禮いたし候少々臥床のため御返事遲延失禮存上候
一五五二 【一月二十六日・封書 信濃下諏訪町高木より 東京青山南町五ノ八十一青山腦病院内 齋藤茂吉氏宛】
貴書拜誦御配慮の御心情身にしみて辱く奉存候東京にては腰のみ痛しと思ひ居たり歸國少し前より堀内が腰筋を揉みくるるに上の方深く筋の張り居るに心付きたり胃の働き鈍り居る事は昨秋以來のつづきにして小生は一途心身の疲勞休養と共に消化力は自然に恢復するものと信じ居たりそれは從來勉強後に於ける經驗を信じたるなりそれ故胃の方はむしろ顧慮せず神經痛のみを癒えしむる工夫をし昨年一月の如く今年も伊豆の湯へ行くつもりにて居りし也過日歸國後どうも胃の方が變なりと思ひつき神經痛はその方より來るのでないかとも思ひ入湯以前に診察を受け置かんと思ひて伴醫師の診察を受けしなり今思へば一昨年十二月半にも胃が變にて伴氏より受診その際も手に觸れ得るシコリあり伴氏は癌にあらずと申されたり今囘もそれ故癌問題を遺却し居たる也今少し早くたとへば小生在京中に自ら心付き得たらば直ぐに貴兄及び諸君の御配慮を願ひ專門家にも診て頂くを得べかりしなり此點甚遺憾なれども致し方なし(788)昨年九月末湯河原行の時も伊藤屋の臺秤にて體量十四貫なりしに驚きしもこれは秤器の惡しきならん位に思ひ居たるは不覺なり(平素十五貫以上なり)どうも今度は突然貴兄畫伯その他を驚かしめし事恐縮に不堪小生前便に認めし心理は不自然に無之樣思はれ候へば小生が茫然自失してゐるやうな事全然無之原稿書くにも命を樂しみつつ筆とるといふ心有之此點却す却す御安心奉願候妻子らと談笑するにも今迄のやうな粗笨心理でないやう思はれ候夜は實によく安眠いたし候今少し苦痛出で候はばそんな譯には行くまじくその時はその時の事と思ひ居り候
貴言に從ひ上京して診察を受くる心組に有之此數日(水藥散藥のみはじめしより)胃も體も具合大によろしくも少し元氣になりてから上京いたし度存じ居候それも貴言に從ひここ數日のうちに上京可仕その際何分の御盡力奉願上候肉汁も利き食物もうまく候平素麁食し居り且つ藥のみし事なきゆゑ餘計に利き目ありと思はれ候
今囘取あへず報知したるは大兄と畫伯藤澤中村守屋諸兄なり何れも當分吹聽せぬやう申し置き候家内にても老人には知せず居り候然るに伴醫師は心配のあまり森山汀川氏に相談し打川氏は小學校長と藤森省吾氏に知せし由ゆゑ今朝使を以て此の人々に他聞を控へくれよと申し遣し候自然分り可申候へ共あまり早くより擴がらぬやう冀ひ居り候然らざれば甚だ厄介にて困るべく存候右大略の返事申上候萬事何分の配慮奉願上候匆々
自覺症状
一、腰部筋膨脹疼痛 一、腰部筋ニ續ケル脊髓ト腹トノ中間筋同上 一、胃ノ消化不良食慾不進便秘食事一時半位ノ後ヤヽ痛ム 一、胃ノ左上部ヲ押シテ固キ所アリゴリゴリスル 一、稀ニ頭痛ス此數日ナシ
備考
一、嘔吐ノ氣ナシ 一、胃ノ痛ミハチク/\ト痛マズヤヽ鈍キ痛ミナリ 一、毎夜肩ヲモミ腰ヲ揉マシム快シ 一、胃師ノスヽメニヨリ可成運動ヲ控ヘ居ル
(789) 一五五三 【一月二十六日・封書 信濃下諏訪町高木より より 東京市外上目黒五八五 平福百穗氏宛】
三四の御方にのみお知せするつもりの處伴醫師心配して森山君に刺談し森山君より小學校長や藤森省吾君に相談せし由昨日聞きしゆゑ使をやりて多く吹聽せぬやう手紙遣し申候家の老人にも知せず居り候
拜啓一昨日は突然あのやぅなる御知せをいたし御驚愕被下候御事と存候心外の至奉存候平素服藥せし事少きためか醫藥の利き目多く此三日ばかり時々空腹を感ずる事あり胃の具合も少し宜しきやう思はれ候大事に取扱ひ居り候はば存外長く保つかも知れず何れにせよ時日切迫の問題に無之候へば急逼して御心配下さるまじく樣奉願上候咋年一月土肥温泉行の時も胃が惡しく伴醫師(今度も伴氏也)の診察を請ひし事ありその時矢張醫部にシコリやうのものありしも伴氏は惡性のものにあらずと言ひ其後神經痛も胃も自然平癒せしゆゑ今囘も最近まで胃の方を心配せず例の如く身神休養さへすれば消化力は自然恢復する如く考へ居りしが小生の不覺に候東京にて堀内が腰を押しくれし時腰の上部ほど利き目あり神經痛の根源或は胃の方に無きかと心付きし事ありしもそのまゝにて歸國しこちらにて益々その疑を増し候ゆゑ伊豆行前念のため診て頂かんと思ひ伴氏を訪ひし次第に候併し惡性のものならばここ一月や二月早く發見せりとて結果に於て大したる相違なきかも知れず併し乍ら此際上京して一度名醫の診察を受け眞相を確め申度此事につき齋藤君大に心配して同君の友神保孝太郎氏に診て頂けと申遣され候同氏はその道の大家かと存じ候へ共この點猶齋藤君と一應御相談煩し申上度何卒奉願上候老兄御承知の大學柄院及びその系統の醫師中よりも御物色下されその上御定め被下候樣何卒奉願上候最も確實なる一人者に診て頂きそして妥協的宣告をせぬ事が小生要求の第一條件に有之候氣休め的の宣告は小生の今後の爲事を破滅せしむべく候一年にても半年にても宜しそのつもりにてかゝり候はば多少の爲事は出來可申かと存候それが小生の命に候へば小生要求の第一條件は小生に必須的のものに有之此點御含み置き被下度奉願上候何れ數日中に上京可仕拜芝萬々申上(790)度存じ候今頃こんな御心配を願はんとは夢にも思はざりき併し人間にはそれがむしろ通常に候この點小生よくよく呑みこみ居り候へば深く御心配を賜らぬやう奉願上候一昨日申上げし心理は只今の小生には自然なりと存じ候毎晩甚だよく安眠し茶をのまぬゆゑ夜中小便にも起きず朝まで何も知らずに眠り居り候煙草も從來の三分一に減じ居り今少しすれば更に減じ得べく存じ候急に攝生家になり申候呵々
この數日の經過御知せ申上度夜中亂筆御判讀願上候匆々 一月廿六日夜 俊彦
畫伯老臺下
ゝ夜更かしも放しません ゝ胃は食後一時間半位して痛みしも昨日も今日もその事なし ゝ腰の筋も痛みが大に減じました ゝ嘔吐の氣なし(ハジメヨリ)ゝ胃左上部に押すと分るほどのシコリありこれが難物らしく候 ゝ一食粥二椀位外に肉汁その他の滋養物攝取明日より牛乳も試みんと思ひます寒中故刺身等を得る便宜あり。一昨日の小生の手紙と入違ひにて御手紙頂き申候忝く拜誦仕候種々御心配被下實に身にしみて難有存上候老臺今年は大作御製作の程奉千祷候鶴首期待仕候小生今後の爲事は從來の如くアクセクと致さぬつもり御安心願上候。碑文の儀御配慮願はれ候はば大幸奉存候
一五五四 【一月二十七日・端書 信濃下諏訪町高木より 東京下谷區谷中初音町四ノ二 金原省吾氏宛】
拜啓集約的のものをアララギへ御書き下され候由大に難有存候竹窓小話の方も君より畫伯に催促するやうにして御完成され度奉願上候秋田洋畫の事も貴君に願ひたしと申居られ候小生舊冬より少し弱り居り只今臥床中に有之簡單御返事失禮いたし候匆々 一月二十七日
よしを樣によろしく願上候
(791) 一五五五 【一月二十七日・封書 信濃下諏訪町高木より 東京市外代々木山谷一八五 岡三郎氏宛】
拜啓思ひ乍ら非常の御無音心外の至奉存候常陸國より歸りて健康依然思はしからずこちらへ來ても猶ぐづ/\いたし居り逐に御無沙汰を重ね候段幾重にも御容赦奉願候
三月號へ田安宗武御稿是非御掲載被下度あの筆記大へん結構に有之殆ど御訂正なく御出し下され候樣願上候字句等に誤りも有之候かと存じ候へば一通り御目通し被下候はゞそれにて結構と奉存候猶御作盛に御示し被下度大に期待申上候庭ごけの方は如何樣相成候哉これもあまり御手入なきがよしと存上候且つ今年は諸同人の歌集出で可申先以て尊兄の御上梓を初春と御定め被下度千冀仕候小生の胃少し惡性らしく一度上京して一名醫の診斷を得度畫伯の知己(醫)か齋藤君の知己かどなたかに御願申上度御兩人へは一兩日前手紙さし上げ申候もし御高見も候はゞ兩君中へ御通じ置被下度奉願上候併し小生案外平氣にて萬事を樂しみつゝ爲事いたし居り夜はよく安眠いたし候間御安心の程願上候御來書によれば又々何か御投惠被下候趣き度々の事實に恐縮仕候御高志千萬忝く奉存上候寒氣の折から御家族御一同樣御攝生の程奉祈上候小家一同元氣御安心被下度候匆々 一月廿七日 俊彦
麓老詞兄臺下
小生病氣は當分他へ御話し被下ぬやう願上候
一五五六 【一月廿七日・端書 信州下諏訪町より 東京市外瀧野川町 白水吉次郎氏宛】
拜啓非常の御骨折を煩し筆寫完結のよし大謝の至に存候小生少し臥床中ゆゑ早速御返事も申上げず失禮仕候取あへず御禮申上候御傑作御示し被下度待上候匆々 一月廿七日
(792) 一五五七 【一月二十八日・封書 下諏訪町高木より 長野市師範校附屬小學校 小野巳代志氏宛】
拜啓下諏訪に新設の女學校へ貴君を招聘申上度希望五味校長より聞き及び候授業時間も少きよし貴君御勉強にも都合よくないかと存候御考慮の上御決行如何に候か巨細の事情は小生一向存知せずその邊に御不都合も有之候はば御一考如何と存じ上候右御勵め申上度如此に候匆々 一月二十八日 俊彦生
小野兄几下
君等の原稿を紛失せぬやぅ別包にしてしまひ置きしを忘却昨今整理中発見大に恐縮いたし候遲怠乍らアララギ三月へ出し可申御承知被下度候小生方は小生の留守も多く時々斯の如き事あり且小生今年は病氣多く選歌を休み度存候間今後の御原稿は發行所へ御送被下度願上候右失禮幾重にも御わび申上候菅沼君にも右御傳へ被下度候
一五五八 【一月二十八日・端書 信濃國下諏訪町より 東京代々木山谷一八五 岡三郎氏宛】
拜啓本日御惠送の品々到着御心づくしのほど感佩の至に不堪奉存候小生の病氣につき齋藤君等と御心配下され候趣承り大に恐縮いたし候小生大へん元氣にて消光罷在候間その點御安心被下度奉願上候ハガキ失禮乍ら御禮のみ申上候匆々 一月二十八日
二月二三日頃上京名醫より受診のつもりに候
一五五九 【一月二十九日・封書 信濃下諏訪町高木より 東京青山南町五ノ八十一青山腦病院内 齋藤茂吉氏宛】
拜呈御心痛感泣の至に存候二月一日午前十一時發にて上京夕方七時頃佐々木氏方へ到著可仕御呼び立て申しては(793)濟まぬ儀に候へ共一日夕か二日朝御高來を給らば大幸の至に存候畫伯にも相濟まねど同時御高來下される樣御打合せ被下度奉願候
昨夜守屋君來訪せられ即夜松本行卅一日朝迄に東京へつく樣子に候是は信濃教育會へ土屋君を招聘の用事に候
〇長野市教育會へ御講演の事何とかして御承知被下間敷候哉御考へ置被下度願上候〇小生一般状態變りなし食後一二時大儀にして一時間位より疹痛を覺ゆ(圍のうしろから背の筋へかけて)〇諏訪講演筆記印刷大謝大謝に存候これは貴重の材料也今迄御禮忘れ居り失禮いたし候匆々
一五六〇 【一月二十九日・端書 信濃下諏訪町高木より 東京麹町區下六番町廿七アララギ發行所内 藤澤實・馬場謙一郎・高田浪吉・堀内皆作・久保田健次氏宛】
小生二月一日午前十一時發にて上京夕方七時到著可仕御承知被下度候四谷より車でゆくから何も御心配無之樣願上候その夜畫伯齋藤氏來て下さるかも知れず掃除でもしておいて下さい長塚全集につき會員への連名書状はアララギ同人誰へでも出すやう御記名願上候たとへば畫伯齋藤岡小生等へも出す如し小生その後一般状態宜しき方なり御安心被下度候匆々 一月廿九日
佐々木樣へ右宜しく御傳へ願上候
〇新宿へ五時四十九分につく故健次迎へに出てゐるやう願ふ電車へ乘りかへるに荷物もつて貰ふ方よし
一五六一 【一月二十九日・端書 信濃下諏訪町より 東京麹町區下六番町廿七 佐々木修氏宛】
拜啓皆々樣益御清榮奉賀候陳ば小生二月一日夜七時頃貴宅へ割著可仕少し胃を害し居り候ゆゑ粥を御用意置き被下度御手數乍ら奉願上候牛乳を二日朝より願上候若し肉汁を配達してくれる家あらば御註文願上候(三十餞より五十錢位)匆々 一月廿九日
(794) 一五六二 【一月二十九日・封書 信濃國下諏訪町より 東京市外上目黒五八五 平福百穗氏宛】
拜呈二月一日午前十一時頃上スワ發にて上京夕七時頃佐々木氏へつき可申御呼び立て申上げては實に恐入候へ共茂吉君と御打合せの上その夜か二日朝か御高來の上御打合せ賜はり候はば大慶の至奉存候
小生その後一般状態よろしく食慾も進み居候只食後二時間許り大儀にて終り一時間位は胃のうしろより背部へかけ疼痛を覺え候その他は甚元氣に有之候
三月號御歌何卒御用意奉願上候小生も出し度存じ居候竹窓小話河西君參上いたし候はば御口授の程奉願候萬拜眉を樂しみ候中村は紀伊有田町へ行きしよし同地より便り有之候
御令室樣へよろしく御傳達奉願上候匆々 一月二十九日 俊生
百穗畫伯老臺下
小宅他のものども壯健御安心被下度候
一五六三 【一月三十日・封書 下諏訪町高木より 南佐久郡青沼小學校 高見澤一郎氏宛】
拜啓度々御懇書を賜はり且つ東京小宅をも御訪ね下され候由にて恐縮の至存じ居り候然る處小生病状その後思はしからず今年は月一囘の上京も止め選歌をも當分休みて專心休養いたし度醫師の勸告も甚切實に有之右樣の次第にて何とも申譯無之候へ共貴地參上の事當分その見込立たず一旦承知せし事を今更斯の如く申上候事不本意の至に候へ共右事情御洞察の上御高宥被下度奉願上候常陸の温泉へ行きしも不結果に終り更に伊豆の温泉へ參らんと存じ候處醫師より遊行を止められ申候此上は一室に臥して徐に筆とり申すべく少くも數ケ月は外界との交渉より離れ申し度存候右事情かへすがへす殘念に候へ共御會合の諸君へも可然御傳達の程奉願上候床上執輩亂雜申譯無(795)之候敬白
一度名醫の診斷を得度明後日上京直ぐ歸國のつもりに候
一五六四 【一月三十日・端書 下諏訪町高木より 諏訪郡豐平村下古田 塚原公井氏宛】
拜啓非常の御無音いたし居り候御老人樣はじめ皆々樣如何かと心に懸り乍ら遂參上を得ず殘念存候小生儀舊年中より少し具合惡しく只今は醫師より成るべく外出せぬやうすゝめられ居り大したる事なきやも知れざれど目下何れの會へも御斷り申し居る次第右細川校長によろしく御傳へ下され度奉願上候皆々樣御自愛專一存候小宅は小生以外皆元氣に候小生の事も御老人樣決して御心配下さるまじく存候匆々 一月三十日
神經痛と胃病に候
一五六五 【一月三十日・端書 信濃下諏訪町より 兵庫県西宮市香櫨園池端 中村憲吉氏宛】
拜啓御手紙拜誦身にしみて有難く奉存候どうも君等を心配させて誠に心外に存じます其後一般状態具合よろしく食慾も出で體も元氣づき居り候へば先以て非常の御心配無之樣願上候夜もよく安眠いたし候齋藤より毎日のやうに上京をすゝめ來り候ゆゑ二月一日上京のつもりに候而して小生は成るべく長く滯在いたしたからず診察さへ終れば歸國して一室に安息致し度東京では佐々木氏にても旅宿にてもそんな具合に行かず今最も安靜を要し可申存候大兄態々上京下され候事實に辱く候もし三四日頃御上京下されば尤も忝く候節忌には小生出ないかも知れず候猶小生病状は土田加納二氏位には御話し下されても宜しけれど二人共他へ吹聽せぬやう願上候世間に擴がり候はば色々厄介多くなり煩雜を加ふべく候併し追々は分り可申存候有田行ヱハガキ拜受健羨存候新設の一室日當りよく冬籠りに適し喜ばしく候御令室樣によろしく匆々 一月卅日
(796) この病氣は運動等最も惡しき由に候可成靜居いたし度候大阪毎日の原稿返送してくれ給へ控へがない
一五六六 【一月三十日・端書 信濃諏訪郡下諏訪町高木より 東京小石川區上富坂町いろは館留置 守屋喜七氏宛】
拜啓一昨日は夜中恐縮奉存候もし一日に齋藤君を御訪ねならば初めに畫伯を御訪ね下され畫伯の御意向を先づ御參酌の上御話し合ひ下され度存候朝九時十時頃迄は上目黒五八五自宅(澁谷驛より玉川電車に乗り二つ目の大坂上の停留場で下車)に居り可申それ以後は白田舍(同じく玉川電車|三宿《ミシユク》停留場下車約一丁)の畫室に居り可申存候電話は青山五百五十番ゆゑいろは館より電話かけて在否を訪ねられる方よしと存候最も一日夜は小生著京畫伯も齋藤も來て下さるかと存候へばその時貴兄も小宅へ御來談下され候てもよしと存候匆々 一月卅日
齋藤君は青山の市内電車代々木神宮前にて下車番地は青山南町五ノ八一電話番號は忘れたり
一五六七 【一月三十日・封書 下諏訪町高木より 北佐久郡小諸町小學校 山本武雄氏宛】
拜呈御無音いたし居候小生今後當分外出を避けて專心勉強致し度御高示の儀も何卒御高赦被下候樣祈上候折角の御申遣しに對し不本意に候へ共微意不惡御承知被下度奉願上候且小生昨年末より病床にあり庭上の散歩をも控へよといふ醫師の命令に有之重ね/”\の事情御諒察奉願上候諸君へよろしく御鳳聲被下度候敬具 一月卅日 俊彦
山本兄貴臺
一五六八 【一月三十日・端書 下諏訪町より 諏訪郡四賀村神戸 五味卷作氏宛】
拜啓過日は失禮いたし候小生當分靜養を要し可申選歌も一時休み申度御歌は以後毎月發行所へ御送被下度候冬の内特に御べん強祈上候上原君へも御序の節御傳へ被下度候匆々 一月送日
(797) 一五六九 【二月一日・端書 下諏訪町より 上諏訪町小學校 田中一造氏宛】
拜啓日々新聞御送被下難有奉存候過日は御多忙中御光來下され忝く奉存候匆々 二月一日
今日一寸上京可仕候藤森森山二君へよろしく願上候
一五七〇 【二月四日・端書 東京麹町區下六番町廿七より 信濃下伊那郡飯田町 丸山東一氏宛】
長き御熱は筋炎より來りしものか然らば割合よきかも知れずと茂吉君の話に候一寸御知らせ申し上げ候返す返す御大切になさるべく存じ上け候 二月四日
一五七一 【二月五日・端書 東京麹町區下六番町廿七より 信濃下諏訪町高木 久保田不二子氏宛】
昨日より熱下り卅六度臺に納まり居り候そのため特に畫伯より名醫を遣され昨日も二囘來診下され候齋藤君も毎日心配して來て居り佐々木一家發行所の人々晝夜手當してくれ感謝の至に候各々へ御禮の手紙出すべしこれで平靜なれば試驗を一二日中につゞけて行ひ可申候匆々 二月五日
體の用心火の用心
一五七二 【二月六日・封書 麹町區下六番町廿七より 神田南神保町十六岩波書店 岩波茂雄氏宛】
拜啓二月一日上京せしもどなたへも不在の事にして平臥いたし居り失禮いたし居候一度御目に懸り申度乍勝手御ひまの折一寸御枉駕被下候はゞ大幸の至奉存上候匆々 二月六日
一昨日は御懇書忝く奉存候
(798) 一五七三 【二月六日・封書 東京麹町區下六番町二十七より 信濃國下伊那郡飯田町 丸山東一氏宛】
拜呈只今國許よりの知せによれば御母堂樣御儀御家族樣の非常なる御骨折も其甲斐なく遂に御長逝被遊候趣驚愕悲傷言語に絶する心地いたし候御一同樣御悲歎推察に餘り候筋炎の方の御熱ならば望みなきにあらずと齋藤茂吉君より承り一路の望を嘱し居り候處殘念々々此事に候小生儀一日上京の日より發熱卅九度以上に上り今猶絶對安靜を要し醫師の厄介相成居り到底久しく外出を得ず直樣參上御弔問申上ぐべく存候へ共右樣にて其意を得ず書中愚意開陳候段幾重にも御海容願上候かへす/”\皆々樣御自重にて後事御營み被成候樣奉祈上候床中筆を執り候ゆゑ殊に意を盡さず取り敢へず哀悼の誠意を表し申候敬具 二日六日 俊彦
書中同封略儀恐入候へ共微意御靈前に御供へ被下候はゞ本懷奉存候
丸山樣御一家臺下
小生は平熱に向ひ候間御安心被下度候
一五七四 【二月七日・端書 東京麹町區下六番町二十七より 信濃下諏訪町高木 久保田不二子氏宛】
丸山君母堂御氣の毒の至に候どうも致し方なし同君の歎きを察し申候香奠は5圓昨日手紙同封さし出し候小生平熱御安心を乞ふ今日も齒醫者來るこれももういゝ二三日中に佐藤外科より受診して直ぐ歸國する胃の具合變化なし健次健康なり一同氣候によく注意せよ
岡さんのお子さんも松山を第二志望とせし由畫伯の一郎さんは一高の由也 二月七日
一五七五 【二月八日・端書 麹町區下六番町二十七より 牛込余丁町 山田ちま子氏宛】
(799)わざ/\の御光來に對し甚失禮いたし心外の至に候そのうち健康恢復候はゞ元の如く活動可仕しばらく我儘御ゆるし願上候匆々
結構なる品物拜受恐入候
一五七六 【二月八日・封書 麹町區下六番町廿七より 市外上目黒五八五 平福百穗氏宛】
拜啓昨日は御高來被下奉謝上候老先生の御診察を得候はば畢生の感銘に可有之欣んで天の命ずる所に從ひ可申存候御高配を得候はば感謝の至りに候只御好意に甘えて御願の數を重ね候事恐縮奉存候昨日は遲く迄御列席下され且つ御講話下され候由大謝々々存上候盛會なりしは暮しく存候席上の御歌感誦仕候匆々 二月八日 赤彦生
畫伯老臺下
奥樣によろしく御傳へ願上候
一五七七 【二月八日・封書 東京麹町區下六番町廿七より 信州上諏訪町小學校 田中一造氏宛】
拜啓小生留守中態々御光來下され酒肴交換の式を御行ひ下され且つ今日は兩家のため御祝福の御詞を寄せ給ひ如何計り忝く奉存候右謹而御禮申上候降て小生病状今猶試驗中に有之兩三日中に佐藤老先生の診察をも受けその上御知せ可申上御心配下され候御厚情感謝の至に候此事藤森森山二君へ御傳言願上候取あへず御禮申上度如此に候匆々 二月八日 俊生
田中兄臺下
一五七八 【二月八日・端書 東京麹町區下六番町二十七より 信濃國上諏訪町末廣町 森山藤一氏宛】
(800)拜啓甚恐入ルガ左ノコト御取計ヒノ程願ヒ上ゲマス〇十二日(?)頃何時カノ汽車デ上諏訪驛ニ下車スルユヱ直グ自働車ニ乘リ込メルヤウ改札口近ク待タセ置クヤウ願ヒタキコト〇日モ時間モ分リ次第電報デオ知ラセスル故ソノ電報ヲ待ツテ自働車屋ヘ話シテ下サイ〇自働車ハ高木ノ奮道マデ行クコトニ話シテ置テ下サイ賃錢ハ向ウノ言フ通リニシテ下サイ〇停車場構内人力車立テ場ヘ御申込ミガ便利ナリアソコニ二臺アリテ大抵間ニ合フ小生イツモソレヲ頼ンデヰル右御手數乍ラ何卒願フ 二月八日夜
一五七九 【二月九日・封書 東京麹町區下六番町廿七より 信濃下諏訪町高木 久保田不二氏宛】
拜啓今日神保博士の胃液試けんを受けて一般診察結了せり
一、便にも胃液にも血を交じへず結果良好也 一、消化力も割合によし 一、その他一般症状に惡性として認むべきものなし 一、只胃中にある腫物は何なるか急に斷言し難したとひ癌とするもその症状未だ現はれぬゆゑ攝生營養に留意せば案外長く保ち得べし
以上は伴先生と一致せり大きな心配をする勿れ明日佐藤老先生より受診序に代田先生よりも受診十一日に中央美術協會と長塚全集を片づけ十二日に歸國すべし多分こちらを午前九時か十一時ので出發すべし上スワ驛自働車の事は豫め森山打川君に願ひ置きしゆゑ改めて頼むに及ばず田中君へは禮状を出せりこの手紙を伴先生へ御目に懸けよ夏樹登校の時 二月九日
一五八〇 【二月九日・封書 東京麹町區下六番町二十七より 長野市縣町 守屋喜七・塚原葦穗氏宛】
拜啓今日神保博士の胃液試けん了る
一、便にも液にも血のあと全くなし 一、その他惡性としての症状極めて少し(消化力も惡しからず) 一、シコ(801)リは何か一番近いは矢張癌なり併し遲進性のものらし攝生等よく注意せば存外長く保たんとの事
明日佐藤老先生より受診十二日頃歸國のつもりに候大體右の如く御承知被下度候大へん心配かけて誠に濟みません大謝々々 二月九日 俊彦
吹雪兄侍史
手塚今日來り卅分許りにて去れり
一五八一 【二月十日・端書 東京市麹町區下六番町二十七より 信州下諏訪町高木 久保田不二氏宛】
拜啓今日畫伯と齋藤君に伴はれ(藤澤も同乘)彌々佐藤老先生の診察を頂き候非常に鄭重に御覽下され一語一語感佩の感あり候
一、腫物は或は胃の後方なる膵臓かも知れずそれとすれば胃中よりも更に緩慢なり 一、胃としてはあまり症状が乏しい事 一、食物も今つと自由でよい事散歩同樣の事
以上大體申上候とに角思ひしより性急のものならずあまり心配無用に候小生も大に元氣に候右至急御知せ申上候大抵十二日に歸るつもりに候草々
一五八二 【二月十一日・封書 東京麹町區下六番町二十七より 信州上諏訪町末廣町 森山藤一氏宛】
拜啓佐藤老博士(三吉先生)御診察によれば或は膵臓の腫物ならずやとの事然らば性質の善惡に關らず進行緩慢かも知れず要するに營養と攝生とに留意して長く保つ道を考ふる外なし歸國の上は專心伴先生の御投藥を服し引籠り可申候
伴先生田中藤森二君へは君より宜しく願上候手紙書く事多過ぎて疲れ候故也匆々 二月十一日 俊生
(802) 汀川老兄侍史
十三日午後六時上スワ著のつもりゆゑ自働車御用意下され度(直ぐ乘れるやう)我まゝ乍ら願上候もし變更すれば電報出し可申候電報行かずば六時と御承知下され度候
一五八三 【二月十一日・封書 東京麹町區下六番町廿七より 長野市縣町 守屋喜七・塚原葦穗氏宛】
拜啓佐藤三吉先生御診察によればむしろ膵臓の腫物らしそれならば猶性質緩慢なり(惡性としても)胃の腫物としてはあまり症状少しとの事この御説甚御尤もと存候何れにせよ攝生に注意して長く保たせる外なし右小生も可なり安心に候先生は食物もあまり病人臭くなく自分の胃と相談して攝取せよとの事御尤もと存候老先生に接して心甚だ爽やかなるを覺ゆ右御知せのみ貴兄も御自愛の事奥さんによろしく 二月十一日 俊生
守屋兄葦穗殿
十三日に歸國する
一五八四 【二月十二日・端書 東京麹町區下六番町廿七より 信濃國上諏訪町末廣町 森山汀川氏宛】
拜啓實にいろ/\御世話樣を願ひ恐縮してゐますその上に猶御願ひして誠に心外に存じますが實は小生今後成るべく毎日二囘位づつ入浴したくそれには村の温泉では天候により都合惡しきゆゑ家の東側の室の縁つづきへ一寸した浴室を作りたくこの事貴兄より宮坂健治氏へ事情を御話しにて至急著手して頂くやう御依頼下さいませんか簡單でいゝのですが板壁で圍つて洗ひ場も一寸つけたいのです此儀何卒願上げます廂も序にやつて頂けばいゝのですが(これは家の南側)宮坂氏の御都合でこの方は三四月でも構ひません猶明十三日午後六時上スハ驛著の時自働車の事何分願上ます拜眉萬々匆々 二月十二日
(803) 一五八五 【二月十二日・端書 東京麹町區下六番町二十七より 信州上諏訪町北小路 宮坂健治氏宛】
拜啓過日は參上難有存候別封小包便にて粗品少々御目にかけ候御老人お子さまの御慰みにも相成候はゞ幸甚存候猶森山君より又々湯殿の事御厄介御願申上るかと存候何分の御配慮願上候匆々 二月十二日
一五八六 【二月十二日・封書 麹町區下六番町二十七より 市外田端二八三 太田貞一氏宛】
拜啓非常に御疎音いたL候小生病氣につき御心配下され態々の御手紙難有奉存候昨秋より神經病をわづらひ居り候へど春暖にもなり候はゞ自然輕快に相向ひ可申御省慮願上候
明日歸國につき取急ぎ御禮のみ申越候勿々 二月十二日夜 俊彦
太田兄貴臺
光子樣によろしく願上候
一五八七 【二月十五日・端書 下諏訪町高木より 上諏訪町北小路 宮坂健治氏宛】
拜啓昨日は態々難有存候風呂の底に栓を設けて水を放出し得るやう御命じ被下度奉願上候匆々 二月十五日
一五八八 【二月十五日・端書 信濃下諏訪町より 東京麹町區下六番町廿七 佐々木修氏宛】
拜啓過日來の御骨折感謝の詞も無之候六三よけは昨日いたし候御安心被下度候紳經痛もいく分よろしく御安心被下度候匆々 二月十五日
(804) 一五八九 【二月十五日・端書 信濃下諏訪町より 東京市外代々木山谷一八五 岡三郎氏宛】
今囘の御配慮御厚意感謝の詞も無之候途中より肋間神經痛にやられ執輩不如意ハカギ失禮御ゆるし被下度其中よくなり可申御案じ無之樣願上候匆々 二月十五日
一五九〇 【二月十五日・端書 信濃下諏訪町より 兵庫縣西宮市香櫨園池端 中村憲吉氏宛】
態々の御上京大謝々々萬事よかつた途中より肋間紳經痛にやられ執輩困難かん單御赦し被下度候奥さんへよろしく願上候神經痛は不日よくなり可申御放心願上候匆々 二月十五日
カキは森山藤森(省吾)二君に分ち申候
.
一五九一 【二月十五日・端書 信濃下諏訪町高木より 東京神田區南神保町十六 岩波茂雄氏宛】
過日來御配慮奉深謝候途中にて肋間神經痛にやられ執筆不如意ハガキ失禮いたし候其中よくなり可申御心配御無用願上候猶あの日多額御寄送被下痛み入り候あんなに頂くは如何と存じ諸人相談の處御厚意を拜受しあのまゝ保管してアララギ有用の事に用ひる事にいたし候深く御禮申上候匆々 二月十五日
一五九二 【二月十六日・端書 下諏訪町高木より 長野江東署学校寄宿舎 久保田水脈氏宛】
中耳炎は大切にしてよく冷やさねばなりません私は今神經痛でなやみ居るゆゑ取りあへず塚原叔父さんを頼みたり叔父さんと醫師のさしづに從ひよく注意して治療せよ學校へ早く出てはいけぬ 二月十六日
(805) 一五九三 【二月十六日・端書 信濃下諏訪町より 東京麹町區下六番町二十七アララギ發行所内 藤澤實氏宛】
昨日二本柱射で少し樂なり今日四五本注射して頂くつもり也六三除けは寺からやつて頂けりこの事佐々木樣へ御傳へ下さい今月は上京して大へんアララギの迷惑をかけしゆゑ例の金は二三十圓御送下さい願ひ上げます佐々木樣其他アララギ諸君へよろしく堀内君はもう大丈夫か無理してはいけぬ 二月十六日
一五九四 【二月十七日・端書 信濃下諏訪町より 東京麹町區下六番町二十七アララギ發行所内 藤澤實氏宛】
昨夜は一氣に今朝まで眠り申候少し熱あれど大した事なからん御安心を乞ふ東筑摩郡鹽尻小學校戸谷績氏と横川文悦氏とが望月光男君の歌十一年間を筆寫して持參し呉れたり右筆寫謝意を表して金二十圓振替にて戸谷氏宛御送被下度裏へ兩氏の名を書いて謝意を表し候と御記し被下度候 二月十七日
一五九五 【二月十八日・封書 信濃下諏訪町高木より 東京上目黒五八五 平福百穗氏宛】
拜呈今日は胸の神經痛輕快少々筆執る心生じ候十五日二本十六日四本の注射にて少しよく今日は別種の注射をして頂く筈に候汽車中胸痛くて臥られず一定の姿勢にて八時間居りしため餘計疲れしやうに候それに一昨日より發熱三十八度に至り今朝は卅六度六分先以て大丈夫と存候發熱は酒粕の温濕布(腰)熱過ぎて皮膚の力を薄弱にせしためかと存候只今は濕布も止め居り候胃は具合よきらしく以前は食後一二時にして疼痛ありしも今は根絶に候されど熱もあり神經痛も強きため多く食する能はず粥一椀半位が平均量に候それに牛乳二合と鷄の肉汁をやり居り皆消化するらしく候御教へにより野菜スープもつくりうまく食べ居り候
只今の所上京前程の體力は無之候へ共こゝ猶數日靜養せば必恢復と信じ候間御省慮被下度候湯殿も今日より大工(806)數人來り著手二三日にて落成可仕これも大に樂しみ居り候今囘の上京につきて御心を勞し給ふ事特に甚しく實に感謝の詞も無之候御惠與の金子にて羽布とんをも買ひ申候贅澤と存じたれども今の體にては普通のよき布團も體を壓迫して横臥に困難に候毎夜輕々と寢ね得ること身にあまりて難有奉存候神保先生三角先生佐藤老先生へは未だ禮状もさし上げ居らずも少し元氣になりて一書さし上げ申度存候大體の經過のみ御知せ申上候御令室樣も此手紙御一覽の上御安心被下候はば難有存候匆々 二月十八日 俊彦
百穗畫伯老臺下
議事院の大作御完成を祈上候小生も今月一ぱいは體力恢復に盡力し來月より勉強いたし度存候
一五九六 【二月十八日・代筆封書 下諏訪町高木より 長野市西長野六 小野巳代志氏宛】
拜啓六年間一人の先生より教へらるゝは幸福なれども教育者が完全ならざる限り二三人の先生より教へらるゝも子供のために益なしとせず之は貴君の場合に押あてんとして考へしにも非ず下諏訪に都合よき方面より考へし部分もあるべし宜しく御取捨下されたく一つ大奮發して御決心いかゞ過日は名産御惠贈下され有り難く存じ上候神經痛にて床に居り執筆困難口授代筆失禮御ゆるし下され度候 二月十八日
小野兄貴下
一五九七 【二月十八日・端書 信濃下諏訪町高木より 東京神田區南神保町一六岩波書店 岩波茂雄・堤常氏宛】
拜呈小生の方の入費と娘の病氣(長の高女寄宿)とにて至急金子入用に相成恐入候へ共來月頂くべき印税中金貳百圓大至急御前貸被下度伏して奉願上候庚床中神けい痛にて覽筆且つハガキ失禮幾重にも御ゆるし被下度候匆々
至急湯殿をつくる必要あり明後日頃落成 二月十八日
(807) 一五九八 【二月十九日・端書 信濃下諏訪町より 東京青山南町五ノ八十一青山腦病院内 齋藤茂吉氏宛】
拜啓胸と背と腰との神經痛に惱まされて手紙書かれず昨日畫伯へ一書書きてヘト/\になり候今日ハガキ失敬いたし候今朝早く伴氏御來車ロイミンを六本注射し下さわ何やら樂になれり三四日前より七度臺八度位の熱あり温濕布餘り熱かりしためかと思ふ昨夜より三十六度臺に下れり蛔蟲の大きなのが二つ昨日出た今日も出るかと思ふ食慾は割合に出で居り粥一椀半平均牛乳二合肉汁(鷄)三十錢野菜スープ等をやり居り候その他異状なし伴氏の熱心親切感謝いたし居り候神保先生へはまだ手紙も上けず心に懸り居り候そのうち書く匆々
湯殿昨日より著手一二日中に落成する
一五九九 【二月十九日・端書 信濃下諏訪町より 東京麹町區下六番町二十七アララギ發行所内 藤森實氏宛】
神經痛のため手紙書く事苦労なり
拜啓とら屋の菓子一圓より二圓以内御せん擇御送願上候色々御願ひして濟まぬ
小生神經痛(胸と背と腰)昨日甚惡しく今朝伴氏來りてロイミン六木注射少し樂になりし樣なり(胸と背は今大體いゝ)食慾は出てゐる伴氏非常に注意して調劑して下さるおかげなり※〔鷄の鳥が隹〕の肉汁も牛肉(一|片《ペン》位)もやつてゐる時々腹すきて飯食べる事あり喜しく候深く御心配なきやう願上候昨日大なる蛔蟲二つ出づ今日も出でん諸氏に宜しく 二月十九日
湯殿一二日中に落成すべし
一六〇〇 【二月二十日・端書 信濃下諏訪町より 東京市外上目黒五八五 平福百穗氏宛】
(808)拜啓日に九囘の服藥(除虫藥も入りて)と牛乳二囘(一合ヅツ)肉汁一囘にて他のものを攝る時なく神經痛の疼痛と戰ふに力が盡きて食事の方も減退の傾ありそれに昨日迄三十七度臺より八度臺の體熱つづき候ため御高志のハマチサもそのまゝになり居り不本意に候へ共熱も下り(【昨夜よりつづいて今日は熱なき如し】)伴氏の注射にて痛みも去らば即時服用いたし度願ひ居り候あと猶御惠送被下候由にて如何計り忝く奉存候伴氏は毎日風雪の中をも公休日をも構はず來られ険便その他細心任意下され藥も大へん適應するらしく食慾もその御かげにて減退の度少しと存候ハガキ一枚書くがせい/”\の有樣なれど二三日中にも少しよくなるつもりに候
其二
注射はロイミン(一度に二十本が極量)といふ新藥を今度東京より取りよせ昨日六木やりしに大に利くらしく今日八本位に願ふつもりこれを今數囘つづけたならば疼みはズツト宜しかるべく存候伴氏初診が一月廿一日なりしゆゑ今日まで丁度一ケ月經過せし次第に候御令室樣によろしく願上候匆々 二月二十日
熱は慥に一時的のものゆゑ決して御掛念なく願上候
一六〇一 【二月二十一日・端書 信濃下諏訪町高木より 東京麹町區下六番町二十七アララギ發行所 久保田健次氏宛】
荷物(菓子鴨シヤツ等)何れも著き候菓子も大體無事に候小生追々宜しく候間諸君にも右御傳へ下され度候匆々 二月二十一日
胸ノ痛ミ大體去ル腰ハ頑強ナリ夜ハ大抵寢ラレル。毎日注射をしてゐる風邪せぬやうにして勉強せよみをは中耳炎をやみしも快方の由數日間痛みと熱で手紙も書けなかつた
一六〇二 【二月二十一日・端書 信州下諏訪町より 東京麹町區下六番町廿七 佐々木修氏宛】
(809)拜啓結構の魚御心にかけさせられ御惠送下され感謝の至に候厚く御禮申上候小生追々宜しく候間御安心被下度候匆々 二月廿一日
猶種々御注意下され難有存上候
一六〇三 【二月二十二日・封書 信濃下諏訪町より 東京麹町區下六番町二十七アララギ發行所方 藤澤實氏宛】
拙歌訂正とてもやつて居られず候
拜啓今月は小生のため發行所入費多く遠慮すべきなれど二三十圓丈け御補助下され度願上候此事一週間ばかり前にハガキにて願上げしが屆きましたか右願上候匆々 二月廿二日夜 俊生
どうも神惠痛一進一退にて困る胃は此二日痛く今日はくず湯等を用ふ寢てゐて覽筆御ゆるし下さい今にいゝと思ふ諸君へよろしく
藤澤君
伴氏非常に熱心細密に見て下さる感謝々々
一六〇四 【二月二十四日・端書 信濃下諏訪町より 神戸市外西須磨町下澤 土田耕平氏宛】
何れにせよズン/\作つて出す事肝要なりお互に缺點はあるがそれは仕方ない
河西榮君春陽會へ合格大に喜ばしい同君へ御祝の意を御傳へ下さい「あかときを目ざめてをれば」二月號貴作第五句「音かたばしる」の「か」斯ういふ所が君の意識的か無意識に入つてゐる惡い所ではあるまいか猶御考へを冀ふ小生神經痛にて昨夜遂に横臥せず一昨夜も一時間半眠りしのみなりこんな具合が幾日もつづいてゐるゆゑ大に瘠せて肝腎の胃の方を何うする事も出來ぬ今夜小康を得て思ひ付きし事一寸書くなり小生病氣伴先生も神保孝(810)太郎博士も佐藤三吉先生も略同樣の見立てなりそのうち佐藤先生と伴先生と可なり相近い神保先生のも非常に參考になり感謝に堪へぬ今度の上京畫伯齋藤二氏毎日つき切りにして色々心配下さり中村君は大阪より來り岡土屋諸氏にも非常に御厄介になれり序の時よろしく申上げてくれ給へ藤澤高田堀内諸君にも同樣なり君は元氣ならん詳しくは中村君に聞いてくれ他へは當分話すな 二月二十四日
一六〇五 【二月二十四日・端書 下諏訪町より 長野市縣町 守屋喜七氏宛】
それからそれへと御厄介のみ煩し何とも恐入候みを快方御安心下され度度々御見舞下され候よし深謝の至に候小生神經痛にて猶惱み居り候不日よい事と存候御令室御病氣如何御大切祈上候 二月廿四日
一六〇六 【二月二十四日・端書 信濃下諏訪町より 東京市外上目黒五八五 平福百穗氏宛】
廣島嚴島より御手紙としやもじ忝く拜受いたし候伊能氏多少良好との御事猶大切可被成存候京郡大學松尾博士は膽石專門といふほどの名人にて手術せずして石を排出する由御參考に申上候小生神經痛追々宜しけれど猶大小便を室内でする有樣一昨夜一時間半眠り昨夜は胸痛み出して遂横臥せず併し大體前よりよろしく伴氏非常に御盡力下され力強く存じ居候ロイミンといふ注射小生に利くらしく候今少しすればよき御知せ出來可申御心配なきやう願上候右の如くにてハガキ一枚位でスツカリ疲れ候有樣ゆゑ封書にもせず御ゆるし被下度候血液試けん(大便)はこちらでも陰性に候其他胃は割合によろしく候湯殿代用出來上り昨日より入浴非常に具合よく胃にも神經痛にもよしと存候贅澤なれど思ひ切りて作り候御令室樣によろしく願上候匆々 二月廿四日
一六〇七 【二月二十四日・端書 信濃下諏訪町高城より 東京青山南町五ノ八十一青山腦病院内 齋藤茂吉氏宛】
(811)銀波の方白鷺よりも黒味あり惣體よき感じ也感謝存上候宜しく願上候神保先生よりの御柱意忝し小生も未だ室内で大小便する状態にて神經痛に惱まされ居り一昨夜一時間半眠り昨夜は遂に横臥を得ずそんな具合ゆゑとても書かれず又々ハガキで失禮する實に痩せた併し熱昨今平熱ゆゑ食慾も次第に出るやぅ也伴先生毎日來られて風雪でも定休日でも構はず身にしみて感謝今注射中なり今に退治するそれに湯殿代用も出來昨日より居乍入浴實に具合いゝ今によい知せ出すゆゑ御安心を願ふ胃はどうもいゝやうだ諏訪醫師會にてやり居る檢査所にても血液陰性也(小生の大便を伴氏が同所で調べて下さる)
横物及半切の事も拜承今少し恢復すれば直ぐ書く歌はどういふ種類がよきか神保先生に宜しく御傳言下さい今に手紙差し上ると申上げて下さい森園君氣の毒の至也
一六〇八 【二月二十五日・印刷封書 東京麹町區下六番町廿七アララギ發行所より アララギ會員宛】
肅啓寒威料峭の折から益御清穆の段奉賀上候陳ば長塚節氏全集編纂の儀大正十二年五月以來アララギ同人の微力を盡し故人令弟長塚順次郎氏岩波書店主人岩波茂雄氏外大方諸彦の御聲援により今囘一切の編纂を了し候事欣喜の至に存じ候言ふまでもなく故人は子規歿後伊藤左千夫翁と相駢んでアララギの歌道を開拓して今日に傳へたる先進者に有之その作品手記書簡其の他斷簡零墨に至るまで氏の清澄透徹せる歌道の由來する所を攷ふるに必要缺く可らざるものなるを信じ申候就ては小生等の希望として全篇六卷(一卷平均五六百頁?)を豫約出版として刊行致し度旨出版元春陽堂主人に希望申入れ候之が成否は主としてアララギ會員の豫約數に關係有之候へば特に小生等より會員諸彦の豫約御加入方御願申上る次第に有之御承諾下され候はば刊行の事も滯りなく成立を得べしと奉存候何卒別册見本御熟覽の上御加入の榮を得度奉懇願候猶御手數乍ら同封ハガキを以て取敢へず御加入の有無御返事被下度春陽堂の參考に資し申度候段御諒承願上候敬具
(812) 大正十五年二月二十五日 長塚節全集編纂者總代
岡麓 平福百穗 齋藤茂吉 中村憲吉 土星文明 森山打川 島木赤彦
アララギ會員
樣硯北
追て出版經營方面には小生等一切關係無之念のため申添へ候
一六〇九 【二月二十五日・端書 信濃下諏訪町高木より 攝津國西宮市香櫨園池端 中村憲吉・中村靜子氏宛】
君からも奥さんからも手紙頂き感謝に堪へぬ返事どうしても書けない昨夜でもう三晩横に寢られず晝夜痛みつづけなり程度は樂になりし故今にいゝと思ふ一本の手紙かいてくた/\する程度なり胃は元氣なりよつて御安心下さい(痛みは腰と胸の神經痛也)今人が來ても話が出來ぬ三月君の來て下さるまでにせめて話を少しつづけられるやうになりたいきつとさうなると信じてゐる敷物御總下されし由實に忝い毎日待つてゐる不二子も晝夜つききりで手紙書けぬ御ゆるし下さい又書く 二月廿五日
一六一〇 【二月二十五日・端書 信濃下諏訪町より 東京麹町區下六番町二十七アララギ發行所内 藤澤實氏宛】
書留正に拜受奉謝上候小生もう三晩横臥出來ず胸の神經痛みて閉口なり併し前より程度淺し且つ胃の方具合よきゆゑ御安心被下度候痛くて手紙書かれすハガヰ失禮々々 二月廿五日
一六一一 【二月二十六日・端書 信濃下諏訪町より 東京市外代々木山谷一八五 岡三郎氏宛】
只今御惠與品到來實に恐入申候非常に結構なる鰈に候斯く度々にては御禮の詞もなく存じ候昨夜迄四晩横臥出來(813)ず(胸の神經痛にて)大に閉口いたし候へ共其内よろしかるべく存候筆とるに懶く又ハガキ御ゆるし願上候 二月二十六日
一六一二 【二月二十六日・端書 信濃下諏訪町より 熊本市外清水村室園二七六 美作小一郎・赤星信一氏宛】
神經痛にて苦しみ居る所へ御惠與品屆き大に慰み申候御厚志奉深謝候床上ハガキ失禮御ゆるし被下度候 二月二十六日
神經の痛みに負けて泣かねども四夜さ寢ねゝば心弱るなり
わが病重れる時に猿きゞしうちつれだちて訪ね來にけり
山の婆の木彫りのきゞし雉子に似て雉子に似ざるがをかしかりけり
一六一三 【二月二十八日・端書 信濃下諏訪町高木より 東京市外上落合六六七 阪田幸代氏宛】
過日は珍果頂き難有存じ候神經痛相變らずにて手紙書かれず大へん失禮いたし居候そのうち快方かと樂しみ居候匆々 二月二十八日
一六一四 【二月二十八日・端書 下諏訪町より 上諏訪町柳並 三村安治氏宛】
人參大謝々々存上候毎日湯に浸し居候過日は態々忝く奉存候御令室樣によろしく願上候匆々 二月二十八日
一六一五 【三月二日・端書 信濃下諏訪町より 神戸市外西須磨中稻荷 加納巳三雄氏宛】
拓本辭源何れも立派なもの御高送下され奉深謝候御高遊羨望に不堪候小生此二ばん許り構に臥られ候へ共體やせ(814)てつかれ候且黄疸にかゝり執筆懶く御返事遲延御ゆるし被下度候御禮のみ申上候匆々 三月二日
一六一六 【三月二日・端書 信濃下諏訪町高木より 東京青山南町五ノ八十一青山腦病院内 齋藤茂吉氏宛】
今度は黄疸にやられ一昨日來食慾減退體非常にだるい斯ういろいろやられてはかなはぬ一昨夜よりどうかかうか夜横臥を得匆々
畫伯へ御序の節御傳へ下さい
一六一七 【三月二日・端書 信濃下諏訪町より 東京麹町區下六番町二十七アララギ發行所内 藤澤實氏宛】
今日は不二より御願申上げ恐入候何卒願上候それから手塚縫藏氏二月分を岩波より受取り御送願上候小生黄疸にかゝり重ね/”\困り候匆々 三月二日夜
手塚君は松本市西町藤塚なり
一六一八 【三月三日・端書 信濃下諏訪町より 兵庫縣西宮市香櫨園池畔 中村憲吉氏宛】
パンヤ布團實に有難い尻の痛みこれで小康を得たり大謝々々一昨日來今度は黄疸にやられ體だるく神經痛と共に實に困る殆ど終日呻吟の有樣なり黄だんは三週間位かゝる由三月御出で下さつても迚も話の交換も面倒也四五月の時に延してくれ給へそれまでに恢復する 三月二日
一六一九 【三月三日・端書 信濃下諏訪町高木より 東京麹町區下六番町廿七 佐々木氏修氏宛】
拜啓珍肴御惠送下され度々の事恐縮に不堪候御高意深く奉謝上候小生神經痛追々快方らしく昨今横に臥られ申候(815)黄疸を併發せしも不日退散と存候御禮のみ匆々 三月三日
一六二〇 【三月三日・端書 信濃下諏訪町高木より 東京麹町區下六番町二十七アララギ發行所 久保田健次氏宛】
〇歸國の時忘れずに時計を持來ること小生のが時々止まるゆゑお前のを周介が新潟へ持ち行くやうにしたい〇此頃横臥を得黄疸今に退散と思ふ〇歸る時小生のねまきを持參せよ〇みを今夜歸宅大した事なし御安心あれ〇此の間の寫眞オソイヂヤナイカ未ダ來ヌ
一六二一 【三月三日・端書 信濃下諏訪町より 東京市芝區白金三光町五三八 辻村直氏宛】
御手紙感謝今とても他行出來ず大小便を室内でやるといふ有樣也此二三夜構に臥られて大に有難し瘠せることも思ひ切つて瘠せた痛まぬ折を見てこれ丈け書く失禮御ゆるし下さい關君へよろしく願ふ湯たんぽはモウ要ラズ御高志大謝 三月三日
一六二二 【三月六日・端書 信濃下諏訪町より 東京 竹尾忠吉氏宛】
拜啓京都大阪三四年はかへつて君のためにいゝであろこちらへは成る可く來るなこの一二ケ月は絶對人に逢はぬ方よし東京往復の序等に來てくれ給へ萬事御折角なり京都には宇野五味等も居り全く寂しくはないであろ今日アララギ著いたが疲れてゐて見られぬ匆々
一六二三 【三月六日・代筆封書 信州下諏訪町より 東京麹町區下六番町二十七アララギ發行所 藤澤實氏宛】
拜啓早速の御送金涙出でんばかり難有存候後もすぐ著するならんと存候色々の補助材料必要にて醫師へ昨日五圓(816)以上一昨日八圓以上といふ有樣に候それに今日よりマツサージ一人づゝ遣しくれ候等にてどうも出費多く困り候來月は多少多く入るかも知れず御承知置き願上候神經痛大體よろしき方に候間御安心下され度黄疸は別状なけれどそのため食慾減りて困り候匆々 三月六日 俊彦代
藤澤樣
高田堀内馬場諸君へよろしく願上候
一六二四 【三月六日・代筆端書 信濃下諏訪町より 東京麹町下六番町廿七 馬場謙一郎氏宛】
大賀々々猶一心に勉強を續け給へ小生病も追々よからん御心配なく願ふ一二ケ月は絶體に誰れにも逢はぬ佐々木樣馬場樣によろしく匆々 三月六日夜
一六二五 【三月六日・代筆端書 信濃下諏訪町より 東京麹町下六番町二十七アララギ發行所 藤澤實氏宛】
拜啓振替大謝これは二ケ月分と存候小生今日よりマツサージ明日より牛山學士も立會診察し下さる牛山氏は三角氏と同級小生と同村同區追々黄疸退散せば食慾いづるならむ健次歸りがけに長崎屋のカステラ少々と文旦漬少々とを托してくれ給へ(麹町五六丁目なり)九段の寫眞待ち遠い目で見る物のみ樂しみなり文章はだめなり御靈のみ匆々 三月六日夜
一六二六 【三月八日・代筆端書 信濃下諏訪町より 東京市外上目黒五八五 平福百穗氏宛】
拜啓體だるく食慾なきは黄疸のためと存じ候今に快復いたすべく存じ候オキシヘラー何とも有り難く存じ奉り候電氣とも磁石ともともつかぬえたいの知れぬものにてかへつてよきかも知れず少なくも害なかるべしと伴氏も申され(817)到著を待ち居り候昨日は豫備のため牛山醫學士を伴氏自から伴ひ來りて二人にて御相談下され候心強く存じ候マツサージも風雪の日は車にて來り之はよくきく樣にて二十日以内位に全治せしむる 續く
2 一擧手も疲れ居り又々代筆御ゆるし下され度候
豫定らしけれどさうはゆくまじく候兎に角金も貪らずよき按摩に候御歌大によろこばしく存じ候あの内ちよいちよい如何と思ふ點あれどそれは老兄及び齋藤君にてよろしく願上候毎月御示し下され候はゞ大に小生の樂しみとなり申すべく候小生もかうして炬燵によりかゝり居り時々歌湧き出づる事あり紙にしるし或はしるさしめて原稿といたしをり候四月號へも三四送るかも知れず候みな出たらめの物に候 三月八日
一六二七 【三月九日・端書 信濃下諏訪町より 東京市外上目黒五八五 平福百穗氏宛】
拜呈オキシヘラー昨日無事著早速昨日より使用大謝奉り候構臥は何とかして出來れど黄だんのため食進まず全身疲れ物持つを懶しと思ひ居候蛤利くやうにて昨日より試み居り候(汁のみ)取あへず御禮申上候牛山國手は三角國手と同級に候大體は前より樂に候マツサージも利くらしく候 三月九日
一六二八 【三月九日・端書 信濃下諏訪町より 東京市外上目黒五八五 平福百穗氏宛】
御歌あのうち少しへんな所もあらんが齋藤と御相談願上候毎月御示し被下候はゞ小生大に樂しみになり可申何卒願上候月末迄には執筆し得る體になりうるつもり奥樣へも御傳へ被下度候 三月九日
一六二九 【三月九日・端書 信濃下諏訪町より 東京麹町下六番町廿七 アララギ發行所宛】
明日歌を十六送る訂正は數日のうちにおくる今夜腰痛み酒糟温濕布しつつはつせに原稿書かしむ今に訂正原稿を(818)送る匆々 三月九日夜一時
一六三〇 【三月十三日・端書 東京麹町區下六番町二十七アララギ發行所より アララギ會員宛】
拜啓益々御清穆大慶に存上候陳ば古今書院の萬葉集叢書漸次進展の事吾等研究者の便益不尠と存候更に來廿五六日頃同叢書第七輯として池永秦良稿上田秋成補「萬葉集目安補正」を發兌する事に相成候由本書は今より百二十年前に著はされたる萬葉集の辭書にて早世したる池永氏の業を其師上田秋成の補正したる完本に有之候例により會員諸君の御購讀を小生より御願申上候御返事は直接古今書院へ御申出被下度願上候敬具
萬葉集叢書第七輯 【池永秦良稿上田秋成補】 萬葉集目安補正 完 定價貳圓
一六三一 【三月十三日・代筆端書 長野縣下諏訪町より 東京市外上目黒五八五 平福百穗氏宛】
拜啓屏風繪大作實によろこばしい非常に拜見したい殘念なり小生昨夜より又痛み出し今朝までねむらず先程伴先生來り注射五本分して下さる今日は少し身滯へ力をつけて湯に入り度いと思ふ十七八日においで下されてもこの具合にては小生談話面倒なり四五月頃ならば立川彫刻及び立川家へも御同行出來ると思ふ實に意氣地ないが又々代筆にて失禮しますオキシヘラー常用してをります有難う御座います全集のことも大謝大謝歌はかうしてゐても時々出ます 三月十三日
一六三二 【三月十三日・代筆端書 長野縣下諏訪町より 兵庫縣西宮池端香櫨園 中村憲吉氏宛】
拜啓昨夜また腰痛みて今朝迄ねむらず今のところ食毎に妻から養つてもらふ有樣なり十七八日おいで下されても到底談話面倒なり四五月御光來下さらば大幸なり實に意氣地ないが代筆にて失禮する
(819)パンヤのおかげにてしり骨痛みなほる實に有難い 三月十三日
一六三三 【三月十四日・端書 長野下諏訪町より 東京市外上目黒五八五 平福百穗氏宛】
今度の御作四月號へ原色版として是非願上度御手數乍ら御手配願上候匆々 三月十四日
晝夜痛む 三日十四日
一六三四 【三月十四日・端書 信濃下諏訪町高木より 東京麹町區下六番町廿七 アララギ發行所宛】
畫伯の鶴原色版とLて四月號へ願つて下さい 俊彦
一六三五 【三月十七日・代筆端書 信州下諏訪町より 東京市外上目黒五八五 平福百穗氏宛】
あらけづりにして御送申し上げ度いと思ふ明日は伴先生牛山先生御二人にてごらん下さる筈である原色版に行かず殘念なれど致し方なし來月號をたのしむ 三月十七日夜
一六三六 【三月十八日・代筆端書 信州下諏訪町より 東京市外上目黒五八五 平福百穗氏宛】
拜啓昨日も今日も筆とれる心地してつひ又だめである殘念ながら代筆で失禮する今の處黄疸が一番わるものらしい炬燵の上に座布團を折りそれに枕をのせそれに頭をのせて居りたまには構にもなり得る頭をのせてうつらうつらして居る時に歌が割合に出て來る然し大半價値はないさういふ時秋田校歌のこといつも意識にのぼつて來る今日もさうであるたゞ少し長い故一寸かたづけてしまへない然しどうかしてこゝで
(820) 一六三七 【三月二十一日・代筆封書 信濃下諏訪町高木より 東京神田南神保町十六 岩波茂雄氏宛】
拜啓長田君御光來のところ御面會出來ず失禮の至りに候日夜の神經痛それに黄疸が三週間も加りをり食慾なくすべて衰弱どなたにも御面談し得ず意氣地なく候へど執筆も當分見こみなく又々代筆せしめ候段ひらに御海容下され度候見事なる草花目もさやかに拜見致し候御高志千萬忝なく候長田君へもよろしく草々 三月二十一日
一六三八 【三月二十三日・代筆名刺 下諏訪町高木より幸便 上諏訪町 伴鎌吉氏宛】
〇注射をやめれば確に横寢がしづらいと思ふうつむいてゐても安眠出來ればいいが痛む御參考迄に申しあげます
〇小水量は二十一日午後六時より二十二日午後六時迄六百それより今朝十一時迄五百であります便通は未だありません〇脈搏昨夜七十六熱は計りません今日も御來診願ひ上げ奉ます 三月二十三日
伴先生
〔2025年4月28日(月)午後1時35分、入力終了、なお赤彦はこの年の三月二七日午前九時四五分に死去している、最後のメモから四日後である〕