赤彦全集第8巻、岩波書店、874頁、2200円、1930.10.15(1969.12.20.再版)

 

書簡集

 

(1)目次

 

書簡集 前篇
明治三十年  五通……………………………………………………………

明治三十一年 三通……………………………………………………………一〇

明治三十二年 八通……………………………………………………………一三

明治三十三年 五通………………………………………………………………一九

明治三十四年 四通………………………………………………………………二三

明治三十五年 二通………………………………………………………………二五

明治三十六年 四通………………………………………………………………二六

明治三十七年 六通………………………………………………………………二九

明治三十八年 九通…………………………………………………………………三二

明治三十九年 十一通………………………………………………………………三七

明治四十年  二十通………………………………………………………………四四

(2) 明治四十一年 四十六通……………………………………………………六一

明治四十二年 二十九通……………………………………………………………九六

明治四十三年 十九通…………………………………………………………………一一三

明治四十四年 三十五通……………………………………………………………一二三

明治四十五年・大正元年 三十六通………………………………………一四四

大正二年   三十七通……………………………………………………………一六四

大正三年   十六通…………………………………………………………………一八九

 

書簡集後篇

 

大正三年   五十八通……………………………………………………………二〇一

大正四年   六十通…………………………………………………………………二三五

大正五年   六十七通……………………………………………………………二六九

大正六年   五十四通………………………………………………………………三〇五

大正七年   四十五通………………………………………………………………三二六

大正八年   九十八通………………………………………………………………三四六

(3)大正九年   百五通…………………………………………………………………三九四

大正十年   八十一通…………………………………………………………………四五〇

大正十一年  九十六通…………………………………………………………………四九〇

大正十二年  百三十通……………………………………………………………………五二九

大正十三年  百四十六通………………………………………………………………五九六

大正十四年  二百七十八通……………………………………………………………六五八

大正十五年  百二十五通…………………………………………………………………七七○

書簡集 索引……………………………………………………………………………………………八二一

年譜……………………………………………………………………………………………………………八五一


書簡集 前篇

(7)明治三十年

 

       一 【八月七日・端書 堺市扇屋より 信濃國下水内郡外樣村.清水謹治氏宛】

 

七日七條の停車場に別るさはりなく名古屋に著けりや奈何父君の御病勢如何心配いたし居り候僕等は大阪を一通り見物し當堺市に來り醉茗君に面會し當旅宿に投じ申候明日は神戸泊のつもり也 八月七日夕  塚原

 

       二 【八月九日・封書 廣島市吉川旅館より 長野縣下水内郡外樣村 清水謹治氏宛】

 

拜呈堺にて差上候書状御落手被下候哉否や本日は已に御歸省の御事と遠察いたし居候御尊父樣の御樣子いかゞ心痛罷在候

小生等は昨日は神戸より乘船せずして直ちに岡山まで直行いたし自由舍と申す旅舍につき申候室の綺麗その他今迄第一等と判じ申候實は人力でやり込んだで斷られなかつたかも知れず今朝は尾道の汽船にのり込むつもりにて自由舍に発著時間問ひ合せたる處午後二時と申したるにより今朝は樂つくり後樂園城跡市街を見物し尾道へは午後一時著仕候處汽船は矢張り一時何分の發にて小生等の港に走りたる際汽笛は波に響きて出發をはじめために殘念ながら當地まで直行と定め只今吉川旅館と申すに腕車をかり申候明日は是非汽船に乗り込まねばならぬと存居候最早早く福岡につきたく相成候

(8)願置き候電カハセの儀は振出人をば清水謹治受取人をば清水俊彦となし被下度こちらよりの電報も小生は清水俊彦にて發信可仕左樣御承知被下度十二三日には是非頼むつもり何分願上候福岡著の上種々御報知可致候御看病專一に存候 八月九日                             大森 塚原

    清水君

 

       三 【八月十一日・封書 筑前福岡市萬町二十一番地篠崎方より 信濃國下水内郡外樣村 清水謹治氏宛】

 

拜呈堺、廣島より差上候書状御落手被下候御事と存候

昨日午前廣島兵營公園等遊覽仕候午後宇品に至りこゝより汽船龍田丸に乘り込申候船は頗る廣大のものにして長さ四十間にも達すとの話に有之候嚴島をへてはじめて瀬戸内の波浪に入る大小の島嶼起伏峙立風光の絶佳なる實に言盡し難く存候恰かも呉の海兵二十名ほど乘込み居り共に晩餐を喫しそれより各甲坂上に出でゝ天邊より襲ひ來る凉風に吹かれつゝ軍歌雜談等に快活なる月を眺め申候

今朝黎明門司著船は多少動搖したるも幸ひ吐瀉チヤルもやらず無難に渡航いたし候間御安心被下度候門司より二番にて當市に到着仕候處岡村氏は未だ來らず加之本尊の觀音樣たるべき篠崎君が未だ歸省し來らず只今の住所不明との事に吾人の想像の快も大に破損いたされ候

詮方なく篠崎君の家が旅舍なるを以て宿を頼み明日まで待ちそれにても來らねば(多分來らざらん)直ちに馬關にかへりて大森と別るゝ計畫なれど如何せん岡村氏來らざれば大森の旅費が大不足なるを、僕は岡山にて又々金嚢紛失したれば夫れ以來悉皆大森の腰にて旅行いたし居候へば大森は目下窮乏の體已むを得ず足下に過分の電報を打ち猶他にも打電したるの罪何卒々々惡しからず御赦し被下度候御家内中樣にも可然御わび申上被下度願上候猶これ以後の状況はその都度御報可申候僕は十四五日頃は須磨に過すつもりなればおそくも廿日頃には歸宅可致(9)候若し長野へ早く出ればゆる/\快談致さん乍末筆失禮御尊父樣はじめ皆々樣の御容體如何一同心配罷在候御子諏訪郡豐平村へあて御一報なし置き被下度候先は亂筆 八月十一日                伏龍

    眼虎樣

 

       四 【八月十三日・端書 福岡市萬町篠崎方より 信濃下水内郡外樣村四九番 清水謹治氏宛】

 

電爲替本朝正に落掌御心樓のほど實に感謝の外無之候然る處大森は旅行券下附相成らず已むを得ずかの朝鮮行は中止と致し候間右樣御承知被下度これより九州の夏をとふつもりとの事小生歸國すべし 八月十三日

 

       五 【八月十七日・封書 尾張國名古屋停車場前一樓より 長野縣下水内郡外樣村四九番 清水謹治氏宛】

 

今日十二時名古屋著今夜八時夜行列車乘組明朝九時新橋ニ入ラム束京ニテ食策ノツキ次第早速歸郷ス可シ君ノ手紙ハ諏訪郡豐平村ヘアテテ出シテ呉レテ置キ玉ヘ僕ハ今只家ニ歸リテ君等同輩ヤ子供カラノ手紙ヲミルノミヲ樂ンデ居ル

名古屋停車場前ノ一樓ニアリ未ダ晝飯ヲ食ハズ空腹甚シ今夜夕飯ト共ニ一食ノ名義ニシテ經濟ヲハカルツモリ亦一興ナリ名古屋ガ持ツトカ持タレルトカイフ城ノ金ノサチホコモ見物イタシ候廣小路モ大阪神戸ヨリ入リ來リタル發生期(化學的ニイヘバ)ノ眼カラハ見モノトイフ程ニアラズ、モーイヤニナツタ早ク歸宅シタイ

今日ハ大垣ノ城ヲミタ中々ヨロシイ城ノ側ノ小學校カラ生徒ガ皆白帽ト袴デヤツテ出テクルヲミテ坐ロニ附屬ヲ思ヒ出シタ君長野ヘ出タラ何卒會ツテヨロシク奬勵シテヤツテ呉レ玉ヘアトノ手紙ハ故郷ヨリ以上 八月十七日午後三時三十二分

                              俊彦

    清水君 几下                


(10) 明治三十一年

 

       六 【二月二十三日・封書 長野縣帥範學校より 諏訪郡豐平村高等學校 木川寅次郎氏宛】

 

拜啓諏訪地方も中々大雪の由新聞紙にて拜承仕候當市も已に一尺以上の積雪を見北越行の汽車は不通と相成申候極盛念會の模樣御しらせに預り面白く拜謁仕り候小生赴任の件に付ては諸君より存外の心配を煩はし誠に赤面のいたりに不堪〇〇〇〇兩氏の異見は或は對舊古田學區チカルを意味するやと考へられ候若し單にそれ丈けの意味とせば甚だ狹量にて又最も利己的非公共的無見識的の擧動と存候相共に教育の壇上に立て非を正し邪を排し善に進み道に就く豈に區々たる私情を挾む可けむや吾人は此の如き人を教へ此の如き人を覺醒せしめんと欲するや久し矣今の教育者一般に眼孔局小豆の如し吾人は國家のために今の教育なる者を憂ふ(中略)余は何處に赴任せんも教育の爲めに一臂を振はんとするは一なり只しかく有志多數諸君の勞を煩はすを思へば豈に奮勵努力する者なくて已まんや吾人が思ふ所實に只如此而已然りと雖も物各命數あり成否は餘程まで天に背く可らずこの際強ひて運動などなすも如何にや勿論小生よりは何等の運動などは成さざる可く考へ居り候(中略)金、日、兩曜毎に米人メツセス・スキヤツターに英語を學ぶ大に得る所あり亂筆誠に申譯無之御判讀被下度餘は後便可申上候 (アララギ赤彦追悼號所載)

 

(11)       七 【四月三日・封書 池田(?)より 松本町(?)太田貞一氏宛】

 

   放浪多年信濃地 所到山水都(テ)是詩  昨夜北窓愛兒別  今朝筑野帶霞過

去ル三十一日三澤ト共ニ車ヲカツテ松木ニ入リヌ途ニ君ガ寓ヲ尋ヌルニ在ラズ松本ニ君等一行ヲ探ス事數十分意ヲ得ズシテ又南安ニ向フ車上筑摩ノ連山ヲ顧眄シテ遙カニ翠巒ノ霞ヲ帶テ木曾ノ一方ニ消エ行クヲ望ム四阿山の暮色善光寺の晩鐘アヽ我レハソノ樂寰ニ四星霜ノ春夢チ破テ何處ノ空ニ一片ノ詩骨ヲヨセントスルヤ感慨ノ間ニ車ハ梓川ヲコエテ豐科ノ小邑ヲ過ギリ薄暮岡村ノ寓ヲ叩ク、カレ未ダアラズl二人即チ酒ヲ蒙リ快談高論夜已ニ十時ニ垂ントシテ相共ニイネントス忽然戸ヲ排シテ入リ來ル者アリ曰ク岡村千馬太ナリコヽニ於テ又酒ヲ置キ快談三時ニ及ブ翌余又ヅクヲヌカシテ池田町ニ入ラズ近郊ヲ逍遙シテ千里弧客ノ情ヲ慰ム翌則チ昨二日余一人飄然トシテ車ヲ池田ニカル岡村等ハ七貫村ノ於岡ヲサソヒテ余ニ合セントスルナリ薄暮三人ノ來會スルアリ松澤ニ打電ス返事ニ曰ク、ヅツウユケヌヲシム ト、コノ夜山本仁佐郎片セ榮次亦來テ快哉殆ンド夜ヲ徹セントス今朝雪降ル池田ノ古村枯木寒林滿眼坐ロニ寂寥ナリ三澤ハ岡村ト車ヲカツテ已ニ歸途ニ向ヒ余一人人見エヌ一室ニ降リ積ル雪ニ兒等ノ寫眞ヲナガメツヽ茫然トシテ夢ノ如キ空想ニ浮バサレツヽアリ。アヽ、長野ノ山、長野ノ兒等、我ハ何レノ日カカレラノ樂園ヲ忘レテコノ乾換無味ノ一古村ニ老イン、アヽ

矢じ太田高野宮田等ヨリ來信アリ九圍ノ弧城ニ援兵ヲ望ムノ感アリ多謝々々

  春の海に注ぐ小川のかすみけり  鹽尻峠にて

      桔梗ケ原ニ來ル

  みねをいでて桔梗ケ原のひろきかな 筑摩七里は皆春の風

  車かつて春の野行けば里つきて 電信柱日ななめなり

(12)   朝行けば野におりてゐる雲雀かな

   菜の花や背戸をいづれば雲雀なく

   月影の城櫻遠くかすみけり   池田にて

   北にきて何處やらさむし春の風   池田ニ人ル

尚消息をもらせ (アララギ赤彦追悼號所載)

 

       八 【十月九日・封書 池田より 太田貞一氏と寄書 下水内郡飯山町眞宗寺 清水謹治氏宛】

 

拜啓太田醒め三澤と小生は未だ床の中にあり乍ら今筆を染め申候太田は相不變の赭顔にて小生は昔乍らの美男子にこれあり候池田にてうれしきものは小林と申す美少年と梅香亭の才三にこれあり候子供のトンマ顔には今でも一驚を喫し居り候小生の組には鼻が左眼の下にありて(むしろ)その左眠が萎へ居るものが有之候これは行年十五年に候子供は町中をドド逸やら俗曲やらを歌つて歩るき先生に行逢ふと頭を下け直ぐにその歌をつづけ申候今日はお祭りにて芝居も相撲も有之當地有名なる夜這ひをする女どもがそこらをねり行き玉ひ候

太田は一昨夜來大のろけの鼻下長にて今日も明日も流連可致候三澤と昨夜もシヨウトツ致し小生が賢明なる裁判を與へて收まり申候この手紙へは太田が眞面目顔なる手紙を書き候へ共それは大うそに候

只憐む市外一歩を出づれば秋風落莫三畦の黄波速く松本平の長風に動き愁人をしてそゞろに懷古の情に沈ましむるあるを、こんな手紙をかくも久し振りにて浮かれたる故と御免被下度候長野の子らからも一月許手紙が來ぬ

   朝さむの枕擁して語りけり

以上 高のは東京に居り候か 十月九日            二水軒

    清水樣 御侍史

 

(13) 明治三十二年

       九 【一月二十四日・封書 池田學校より 大町一番に北の端なる三井屋といふ旅宿屋方 市川多十氏宛】

 

啓今日は失敬いたし候今晩笠原校長の宅に至り君の事を談じ候處校長も是非それなら運動を始む可し付ては近日中に大町へ罷越し學校と其次ぎに郡役所へ行つて今年の新卒業を大町にやりその代りに市川をこつちに取るとかういふ都合にやる可しと一先づ決定候

それで其前に河野先生に一寸「池田に行かねばならぬ都合ある」由御申込有之候方よろしからむとこれは小生の考なり又それには松岡休職の事も校長にしれぬ先きの方貴公の得策ならん併しこれは一寸人が惡い話なり一切の事松澤によく相談して呉れよ 一月廿四日夜十一時三澤に別れて           二水軒

    市川兄

 

       一〇 【七月十一日・封書 北安曇郡社村田中の一つ家より 大町小學校 矢ケ崎榮次郎氏宛】

 

啓先日は待つて居たが一寸も來ない大失望薄井山崎來らんとすこの期に乘じていつか話した同志の會同を開け期日は北城神城の方より極めてよこすが至當ぢや吉澤新井にもさう云てやりぬ貴樣が盡力しろ今度日曜くるかこないか一報しろ、いつうかつからの話は何となつた一寸もわからぬ行くと云て居てもさう/\はづくが續かぬ田中(14)の一つ家がいかにも氣に合ふ紛々たる世事、騷ぐならうんとさわぐ馬鹿なこせ/\した事を我いつまでか關し得ん子供が可愛い其れのみが生命 七月十一日                    二水軒

    矢ケ崎大兄

 

       一一 【七月二十三日・封書 池田より 大町學校 市川多十氏宛】

 

 汝もし來らば先日忘れ置きし西洋手拭を持參せよたのむ

啓拒絶チカルに出でたるマスターの抗辯を流してさらに彼の弱所に乘ずこれ余が手腕の利敏なるに依らずんばあらず彼の件は略ぼ落著せり近日の内マスターより談判に行く筈併し誰にも|黙々たれ必ず黙々たれ〔付ごま圏点〕汝のマスにも大澤にも(コレハァル條件ノ蟄伏ヲ意味スレバナリ)

詳細は次便もしくは面晤にゆづるせくな/\八月中と念ぜよ 二十三日                        二水拜

    市川兄

 

       一二 【八月二十八日・封書 池田會染尋常小學校より 廣津村北山 北城傳次郎氏宛】

 

謹啓承り候へば御令息傳君忽然長逝被致候由驚愕いたし候過般流行病に御かかりの由傳承仕候以來朝夕憂慮罷在候處追々快方に被爲向候由承り及び程なく御出校の御事と悦び居り候ひしに意外の御不幸かへす/”\も悲嘆の情に不堪候

天稟の御怜質六十餘人の生徒中特に傳君の將來には望を囑し居り候處不圖の御災難眞個落膽の外無之候歸校の途上中學校入學の事など語り合ひ明年は是非など小生も御勸め申候時斯く果敢なき御末期ならんとは思ひがけきや凜乎たる其容温乎たるその眼猶眼にあり思へば只夢の心地に候學問優等なる生徒は世間いくらも有之候人物高尚(15)にして後來の有望なる傳君の如くにして今日の凶聞ある實に浩嘆の至りに不堪小生も今年四月より受持の任にあたり只管級のの成績上進に盡力罷在候處圖らざる御訃聞眞個落膽仕り候

さるにても先般諏訪郡修學旅行の際などは非常の御健脚よそめよりも頼母存じ候ひしに近頃種々の御病氣御併發途にこの御末期に至りしこと殘念至極奉存候所詠の和歌甚だ拙劣に候へ共只だ微衷御諒察何卒御靈前へ御手向被下度候涙言

   なれを見ぬ二十日のほどもながかりきいくよをかけて今はたのまむ

   打笑みてかたりしことを今さらにゆめになさんと思ひかけきや

   いとせめて夢路にだにもかよへかし天かけるてふ魂し殘らば

   なきころとおもひつつ猶朝にはなが來しみちを眺めこそやれ

   雲井まで名のりあぐべき音をすてて死出の山路に入るほととぎす

     八月廿八日               久保田俊彦

    北條傳次郎樣

 

       一三 【十月二十八日・封書 池田驛より 大町 市川多十・松澤實藏氏宛】

 

天邊の明月に萬斛の愁思な寄す池田の古驛已に秋風なり天涯の孤客(むしろ)焉ぞ情に堪へんや我に病めるの父あり侍して醫藥をすすむる能はず我に信を通ずるの兒あり共に咫尺して舊を語るのすべなし諏訪湖の波は長へに動けども飯綱の原は舊によりて美しけれど老いたる人のよはひは年若き人の情は見よ時のまも變轉の軌道を急ぎつつあるに非ずや我に爲す可きの業あり我に企つ可きの計あり十年若かりせばといふ勿れ機は顛々累々として吾人の目前に轉べり何れにつき何れに憶ひ何れに行き何れに止まらむもし夫れ我に個人の生活を許さば社會がわが(16)身邊よりあらゆる同情あらゆる冷情凡ての顧※〔目+分〕凡ての干渉を取拂はば余は今直ちに滿腔の感謝をわが恩顧ありしこの社會と國家と部落と衆人とに遺して一葉の舟一襲の衣一竿の杖とによつて遠くかの蒼穹を友とせむ悲哉※〔さんずい+文〕々の俗流相應呼して穢臭を吾人の身邊に釀す三澤來らず穀清の二階あゝ只古人を友とせむのみ苦めるものに空想といふものを許せかし平ならざるものに狂態といふものを許せかし煩悶せるものに痴情といふものを許せかし之を如何と見る末世の象か亡國の兆か政界の事の如きは今更ら言はず噫それの國本を造る教育界の近時咄々之を如何と見る近く各所各種の學校に於て師弟間に紛攘事件の惹起頻々其現れたる形ちのみを輕々觀過すれば事や小なるに似たるも深く其由る所を究めんか寔に寒心すべく戰慄すべく恐れて懼れざるべからざる大惡因積重又積重仔細に探ぐれば日本國中處として之れが磅薄潜積せざるはなしそれの紛攘事件惹起や偶々或る動機の爲めに僅に其一端が暴露して外に見れたりと謂ふのみ憂ふべきは紛攘の惹起にあらず紛攘の起るは起るの日に起るにあらずして必ずや由て來る所あり只それ空行く月あり秋風白雪を驅て探夜滿天の白露を仰ぐときはしなく靈氣の悠然と相應ずるありて魂魄天の一方に彷徨ふ多謝す自然の大樂土あるを 二十八日夜      二水軒

    市川兄 松澤兄

  松澤君の病氣如何父病漸次快にむかふ土曜頃或は訪はむ

   軒ごとにむしの鳴音となりにけり下駄音たえしうまやぢの月

   氷うるかどは戸ざしてうら町の並木の柳秋風ぞ吹く

 

       一四 【十二月六日・封書 池田町小學校より 常磐村小學校 松岡郡松氏宛】

 

長野にあること三日東都阿兄重病の報に接し惚※〔りっしんべん+空〕父と共に旅程に上る佐々木病院より失望せる最後の宣告を受け本月二日輿に侍して故郷に入る餘命素より久しからず看護終日猶時の足らざるを憾む咋五日夜地田に入り今日歳(17)晩の用意を終へ明朝又々故山に向はんとするに際し吉澤兄大患の報に接す嗚呼人生何ぞ悲慘の多きや眞に夢の如し

吉澤兄の病状如何我今日到底枕頭に至て慰藉するの遑なし願くば市川松澤諸同人と謀てあらゆる看護療法の道を盡くして呉れい吐血は眞の叶血か若く喀血か胃の叶血ならば充分の望みあり願くば胃の吐血ならんを切望す

時は嚴寒に入て重衾猶その寒を凌ぐに苦しむ病者看護者その勞誠に察するに堪へたり余が兄の病は素より望なし若し葬事速かならば今年再び北安にかへらん然れどもこれはアテにする能はず言を盡さず遺憾筆を收む 十二月六日午後三時                                  俊彦

    松岡君 市川君 松澤君 池田人諸君

 

       一五 【十二月十三日・封書 諏訪郡豐平村より 北安曇郡大町小學校 松澤實藏氏宛】

 

訃音を得て驚愕言の出づ可きなしあゝ生たるもの遂に死せざる可らざるか死するもの遂に又歸る事能はざるか長野旅舍の一室※〔りっしんべん+空〕※〔にんべん+總の旁〕として君と談じ余は直ちに束都に、君は直ちに郷に向へりしは思へば永き別れなりけん

あゝ我不幸今年何ぞ人と別るるの甚きや觀じ來ればこれが人生! 所詠願くは哀をたれよ

思へば北安乃至安筑縣下吉澤兄の思慮を要するもの幾何ぞやあゝ圖南の志遂に挫け囘天の意氣長へに地下の瞑々に歸す悲哉

   へだてなき友が送りしふみをさへ疑ふばかり驚かれつつ

   いひ出でん言葉もしらず涙のみまづ先立てて文をみしかな

   そのまことその志いかばかり怨をのみて君や行きけん

   おちつきて事にあたりし我友は只安らかにねむりましけん

(18)   世の中に君が殘しし怨さへ聞かで別れしことを悲しむ

   かくしつつ誰も行く可き道なれど一日さきだつ友をこそなげけ

 病に侍しつつ 十三日             俊彦

謹で三兄の勞を謝す

 

       一六 【十二月二十四日・封書 豐平村より 湖南村小學校 三澤精英氏宛】

 

拜啓今朝君の家を訪ひたれどもあらず咋雪を踏で故山に入る家に著くの前二時間兄已に不歸の人となり了りぬ人生は如斯のみあゝこんな世に誰れか久しからん

二十二日松本に入り岡村の父の死を弔ふ岡曰く我誠に三澤と同境遇に陷れりと而して汝等には我より知らせん事を頼めり正月同人相會して其面を見互に身の上話と世話話をせん事を望むと岡云へり汝意如何我と共に松本に入れ 十二月二十四日

 

(19) 明治三十三年

 

       一七 【三月二日・封書 北安曇郡池田町より 下伊那郡喬木村 城下清一氏宛】

 

甚しき久闊なりしかな君の病めるも仄に耳にせりしに未だ一囘の書を馳するなかりし罪許せかし

今や華燭の儀をあげ玉ふをきく何ぞ吉報を吾人に傳ふるの甚しき

詩作は近來やらぬ舊作少々送る身體大切新妻君に吸はるゝな以上 三月二日夜               二水

    城下樣

 

     落日故人情

   人なき庭に佇みて    ひとり思ひにしづむ時

   かかるもうしや久方の  雲の旗手の天つ雁

 

   人の世遠き雲井にも   吹かぬ隈なき秋風を

   よわき翼につつみかね  鳴きても行くか天つ雁

 

   旅より旅の身にあらば  汝も故郷に親やもつ

   あはれはおなじ身の上を いたくななきそ天つ雁


(20)      悼教子溺死

   川のべの殘りし衣に取りすがりひづち泣くらむちちははらはも

   いとせめて取りすがりてもなげくべしからをだに見ぬ親ぞ悲しき

   今よりは池田の道を立ちて眺めゐてながむとも子のかへらめや

      悼教子死

   大みねの山立別れゆく雲をなれにたぐへて見るぞかなしき

   まり投げて遊べる庭にきのふ迄見えし姿はををしかりしを

   秋風のことしはいかに身にしみて教の庭のさびしからまし

      悼亡友吉澤兄

   へだてなき友がおくりし文をさへ疑ふばかり驚かれつつ

   世の中に君がのこしし怨さへ聞かで別れし事を悲む

   かくしつつ誰も行くべき道なれど一日先立つ友をこそなげけ

      悼兄死

   願くは只やすらかに眠りませゆきけん魂に幸ありぬべく

   さむしとも早やのたまはず新しきおくつき所雪はふれども

以上昨年に於ける余が日記中の物なりこれによりて余が近況をしれかし

 

       一八 【三月十七日・封書 池田町學校より 神城村小學校 市川多十・荒井常一氏宛】

 

拜啓近状? 小生目下轉任(諏訪玉川)運動中

(21)家兄新に死して老父門によるの情我あらゆる名譽を犠牲とするに躊躇せずあゝ北安に入りて盡したるもの何事ぞ愧赧面冷汗啻ならず願くは公等僕をせむるに聲言の大にして功の添ふなかりしを以てする勿れあゝ二年! ユメ只夢! 成效は著々として歩を進め來れり而して今や君等に十五若くは廿圓の才覺を頼む我昨年銀行の借金三十圓を濟まして新に十五圓を生徒の父にかる月々の俸給は五圓ヅヽの月無盡に取られ本月迄は奈何ともするなし荒井兄は七月を以て當に東都に入らん兄の分は夫迄に返却すべし玉川學校へは家より通勤し得るを以て今より以往自ら前非を悔いて徐ろに救濟の策を講ずべし是非二人にて何うか方法をつけて呉れい今度去るには如何にするも三十圓を要するなり度々心配をかけて申譯なけれど何分頼む池田の地新に雪を得て四山又沈み我去るの頃は花もさくらむ 三月十七日               二水より

    市川 荒井二兄

 (返事まつ)

 

       一八 【四月十日・封書 池田學校より 北城村尋常高等小學校 市川多十氏宛】

 

近況如何小穴去り新長未だ來凍らず而し内山内閣早く已に成る奇觀々々僕八分の光明を以て遠く將に諏訪に入らむとす何時かの依頼(金伍圓)直ちに送れ以下次便 ヘンマ  二水拜

    一皮樣

 

       二〇 【十二月四日・端書 玉川學校内より 湖南村小學校 三澤精英氏宛】

 

松本より歸來腦神經と心臓疲勞とに苦しめられつつあり今度の日曜貴兄を訪はむとせしも心進まざりき例の新聞の件は如何なりしか御一報あれ


(22)       二一 【十二月十七日・封書 諏訪郡玉川村小學校内より 松本大柳町工藤かる方 薄井秀一氏宛】

 

拜啓先月より腦神經衰弱の爲め學校も過半休み御手紙拜見せしも返事遲滯平に申譯無之候中學をやめ小學校へ出るとの事甚だ遺憾ならずや家庭の事情堂しても駄目なりや若しこゝ一二年凌ぎて連續在校するも到底永遠の見込なしとせば今の内に止めるも宜しからむ而らば余は來春師範入校を勸めまゐらせんとするもの也小學校などへ出てゐてこゝ數年は宜しからむも畢竟何をかせむ正式の準備を踏むに如かず然らずんば何か官費の學校を擇び玉へ銀行事務も面白かれど君には不向ならむか兎に角方向を誤らぬ樣漂流せぬ樣何か針路を設けて獨立獨行の覺悟を以て奮進すべし以上切に君に望む

〇作文教授ノ秘訣ハ猥リニ文語ヲ以テ生徒ヲ苦シメヌニアリ思想發表ハ作文ノ第一義ナリ生徒ヲシテ思想ノ殘ラズヲ遺憾ナク發表セシメンニハ文章ノ規則ヲ以テ苦シムル可ラズ口語ナラデハ發表出來ヌ所ハドシドシ口語ヲ用ヒシムベシ尋一ヨリ高四迄如斯豫備トシテハ談話ヲ上手ニ練習セシム可シソノ談話ノ通リヲ筆ニセシムレバ上手ノ作文デアル

三澤先生の令弟月島丸遭難中にあり三澤の住所諏訪郡湖南村小學校内

こんな具合でをる也小生の新體詩は今月発行の「文庫」より續載の筈也早々 夜十時   二水

    うすゐ君

 

(23) 明治三十四年

       二二 【四月二十八日・端書 諏訪郡玉川村小學校より 伊那町箕輪屋方毎日新聞記者 三澤精英氏宛】

 

教育大會ニハ各郡氣風ノ批評ヲスル積ヂヤカラ上伊那ニ於ケル貴兄ノ批評眼ヲ充分ニ蓄ヘテ置テ呉レヨ (材料豐富ナラザル可ラズ)

      幼兒を悼む

   花は根にむくろは土にかへるなり

 

       二三 【六月二十二日・端書 諏訪郡玉川村より 長野市旭町師範講習寄宿舍 小尾喜作氏宛】

 

過日は御祖父樣御死去の由御愁傷の事と奉察候月俸木外子の出長に托し候處折惡しく御歸省中にて空しく持歸りし由依てこちらより更に御送可申由に候印形は拙父預り忘れ居り候間直ちに御家迄屆けませう

 

       二四 【十月十日・封書 諏訪郡玉川村より 長野市師範學校講習生 小尾喜作氏宛】

 

拜啓大に御無音致しました秋風わ今諏訪平一面お吹渡てゐる何處も豐年だので山浦にも芝居がボツボツある樣だ長野の景況如何玉川學校も今や氣焔萬丈だ全職員和諧一致協心同力熱心精勵斯の如くにして天下何物か成らざる(24)有らんや基本財産の二十年計畫年々二百圓づつ一萬圓以上を得べし十日より三ケ月間特別學級設置十五日より父兄懇話會十日夜濃飛育兒院生來校大繁昌々々々

長田君の金少し延して呉れい木外のも來月にまわして呉れい 七日夜  久保田

    兩君

  熱心眞面目の御勉強お望む

 

       二五 【十一月十二日・端書 玉川村より 上諏訪町片羽町 三澤精英氏宛】

 

三澤兄足下 一週の休みお小泉園裡に消了したのわ大なる編纂事業があつた故だ已に其一半お終つたので來る十六日の土曜にわ早々出町する積だから必ず在宅あれ                         久保田二水

   石垣にかくる嵐や稻をこく

 

(25) 明治三十五年

 

       二六 【一月十四日・端書 高木より 上諏訪町片羽 三澤精英氏宛】

先日わ感謝寂寥に不堪何か雜誌お送るべし(小説ならば猶よからん)諏訪新報發刊次第直ちに下諏宛にて送るべし何でもよし(十九日山浦行) 十四日

 

       二七 【五月十四日・端書 玉川村小泉園より 上諏訪町片羽 三澤精英氏宛】

 

拜讀今日義會長お訪うて勸めたが丁度農繁迚駄目との事意が向かぬものと見た

小生十三日より小泉園の單獨生活寂しいが併し勉強にわ持て來い出て來れ大森昨日歸るスワ新報出來次第送れ待つて居る 五月十四日夜十時五分                  久保田山百合

 

(26) 明治三十六年

 

       二八 【四月八日・封書 玉川村小泉より 上諏訪小學校東舍 守屋喜七氏宛】

 

昨日から出校して居ります追々全快の方へ向-から決して案じて呉れるな肺病などにわ大丈夫成らないから安心せよ

一日千秋と云-が一別以來已に十二日になるど-しても淋しくて溜らない考えて見れば妙な動物で孤獨で生活する事わ堪えられぬ昨日久し振りで學校え出た時のうれしさよ併し君よ余おして衷心お披かしめよ君と三澤と吉田とに逢わねば眞に友に逢つた氣がせぬのだ余わ此の十二三日が實に淋しくて/\溜らないのであつた只床の申で「大國民」お見て三日間の鬱お忘れ得たのみだそして今一つうれしかつた事わ母が草餅を拵えて呉れた事だ

   故郷の草餅を食ふ病かな

君よ余わ今婦人の心になつて居ると思-三澤が大阪え行くが切なかつた君の上伊那やら湖南やら上スワあたりで困却しつゝあるお思つても切なかつた馬鹿な話だ余の精神わ恐らくわ目下異状を呈しつゝあらんか余わ全體春お好まぬが切ない春お想像し得るとわチト困つた現象ならざらんや

更に聞け余わ昨日學校宿直室で藤村作小説「舊主人」およんで泣き出した今日職員室で薄暮迄讀んで頭がガンとして仕舞つた此手紙も恐らくわ何の事だか判じられぬかもしれぬ君の手紙の如く不得要領と思-

(27)君よ

○余のために十一日の午後お上スワに待つて居て呉れい余わ授業終らば駈足お以て矢ケ崎に下り腕車お驅つて上スワに至らん上の學校迄上る事わ疲れる仕業なれば下の校舍に居て呉れよそして極めてうまい物お食ひ度いイヤになるまでムダ話おして見たい余の滿心の希望只是れのみ必ず/\ダゾヨ-實わな-三澤樓上で鼎坐の話しお熱愛するがマーダメダ下の校舍でもよい山崎屋でもよい巴屋わ俗也鐵礦調わ俗色牡丹屋調わキザ也布半調惡しからず

〇上伊那郡役所より打電あり中村國穗不承知との事依つて芦部今朝高遠え向け出發せり多分日曜頃歸らん(コノ件上スワデ話すべし)是れわソノ位にして余の身體にも目下垢が非常になつた湯えも入り度い

〇平林の事大安心ヨカツタイザサラバ 八日

    守屋兄侍史

   遠方によき人去りぬ春の月

 

       二九 【五月十四日・封書 玉川村小學校より 菅澤 河西音三郎氏宛】

 

先日わ失禮いたしました其當時一寸思い浮びませんでしたが當校に高等卒業生の補習科なるものがありますが御子息樣お之れにお入れなされてわ如何ですか學科わ算術國語地理理科歴史圖畫等其他ですが何れも小生が擔任して居りますさすれば其時間外に教育學其他の御教授お致しても宜しゆーございますお勸め申すでわありませんが御參考までに申上けます 五月十四日

 

       三〇 【六月十九日・端書 下諏訪町高木より 北山村柏原 兩角福松氏宛】

(28)御地女子婚嫁年齢の平均その最若年最老年?(事情が分らば併せて)只今の處十年若くわ十年以上の昔の所二つ乍ら大體御聞き合わせの上御一報被下度乍御手數御通知願上候歌の消息も久しく聞かず淋しく存候 六月十九日

 

       三一 【九月五日・封書 諏訪郡玉川村より 南佐久郡岸野小學校 森山藤一氏宛】

 

森山君足下

原稿うれしく拜見しました四號漸く出來五號の原稿わ十日に活版所にまわす事にせりど-も發行部數僅少にて高價になるのに閉口するがど-も仕方がない助長すべく盡力してくれ玉え他に何か原稿あらば十日前に送つて頂きたい

守屋兄からの申込わ小生もかねて承知して居る小生わ君が高しま學校の歡迎お容れて速に諏訪に入るべく大々的に希望するのである佐久の地實わ乾燥無味察するに君が情お慰する所以にあらざるべし諏訪の地今や諸同人の漸く集り會するあらんとして氣運猶全く昂るに至らず貴兄の來て大に奮發あらんお切望する所以也

君よ 生活わ人間一生の唯一大連鎖のたづきならずや一日の生活猶輕んず可らず一時一分皆同價値あり更に想え吾人わ如何なる生活に向て渇仰の首を擡ぐべきか吾人の生活わ情的ならんお望まざる可きか吾人の生活わ慰安的ならんお望む可からざるか共同的ならんお望む可らざるか向上的ならんお望む可らざるか松相倚る茲に颯々の天籟お聞くべし絃相鳴る茲に哭鬼の悲曲お聞くお得べし

足下よ 孤情お抱いて淺間山下の客心お傷むる我已にそのあまりに強きお思-加-るに守屋大森吉田諸君の君お思-切なるあり切に意お決して諏訪の天地お賑かすあらんお望む余の心斯の如し亂筆不盡 五日  二水生

    汀川兄

 

(29) 明治三十七年

 

       三二 【六月八日・封書 上諏訪學校より 湖東村菅澤 河西省吾氏宛】

 

お手紙うれしく拜見中々大元來で勉強してゐるらしいな理科教科書わ誰にか聞いて置こ-教育學のことも小説なんかマーやめて置くべし大人になつてゆつくり讀めばよい交際問題日本今日の有樣でわダメなり小生わ高四受持なり此間霧ケ峯から鷲ケ峯に登れり今年の登山第二囘暑中にわ赤嶽えわ又々登るつもり秋わ釜無山なり

忙しくて歌も出來ず別に報ずべき事もなし

書物の事追々知らすべし 六月八日             久保田生

    河西君

 

       三三 【九月三日・封書 上諏訪西學校より 湖東村上菅澤 河西省吾氏宛】

 

御手紙うれしく拜見せりよく御勉強の由大賀大賀入學參考書大抵よろしいとの事それわそれでよいが油斷してわいかぬよい加減でも-大丈夫など早斷するのわ輕卒なり大丈夫と思つても猶細心密慮すべし

  歴史でわ有賀長雄の帝哭史畧小生にあり地理でわ博文屋形の百科全書中なる帝哭地理(二三十錢)名わよく覺え居らず山上万次郎著の日本と外國との地理(30)等宜しかるべし數學お重入り勉強して行くべし算術不出來なればダメなり何も蚊もよく勉強すべし問題等にて出來ぬ者あらば申越すべし和歌にてよき本わ竹の里人撰歌集なり御用なら送るべし和歌の雜誌でわ「馬醉木」なり發行所本所區茅場町三丁目十八番地根岸短歌會定價十錢郵便一錢毎月一囘なり今月末頃來てわ如何よく/\勉強すべし 九月三日              久保田生

    河西君

明日わ霧ケ峯に登るべし本年三囘目なり金なくてよき放行わ登山なり父上樣によろしく

 

    三四 【十月二十五日・端書 上諏訪町より 平野村小井川小學校 森山藤一氏宛】

 

御手紙拜見仕り候小生近作一向に無之御恥かしく存じ候伊藤左千夫氏此の内に來遊のよしついてわ盛につばな會員の會合仕り度右につき一人一圓づゝ會費として御差出し相願度右わ先生の旅費の幾分と會合の會費全體お支辨せんとするものに候右御承諾の上小生迄御屆け被下度候也 十月廿五日

 

       三五 【十一月十三日・封書 下諏訪町より 北山村湯川 篠原圓太氏宛】

 

御手紙拜見脚氣未だよろしからずとの御事困つた事に候まづ氣を永くして靜養するに如かず和歌などが丁度よろしからんと存じ候馬醉木久し振りで發判定めて貴兄等の玉什山積と思ひしに一向見當らず落膽せり何故なるかちと呑氣すぎると存じ候比牟呂も大怠慢なれど諸方から原稿集まらぬ故困り居り候澤山御寄送被下度待上候左千夫君來遊の日が確定せずきまれば云つてやるから車ででも御出かけ被下度候

小生わ去る日松本にまゐり太田君奇峯君三川君等に面會致し一昨日歸宅仕り候小生の詩集「湖上」を今度金色社から出す筈で已に原稿を送り置き候出版の上わ御批評被下度候尤も皆新體詩に有之候目下收穫にて御多忙ならん(31)かへす/”\も歌作御出精祈望に不堪先は右のみあなかしこ十三日   山百合

    千洲兄 侍史

 

       三六 【十二月二日・封書 下諏訪町高木より 東京府下澁谷陸軍病院 武居正義氏宛】

 

其後わ非常の御無音致しました大そ-快方に赴かれた御樣子を承りうれしく存じます當地わ已に數囘の降雪あり隨分寒くなりました別に異變もありません先日東京の根岸派和歌の先生伊藤左千夫氏來諏盛に和歌會お開きました木外君も別に變りなく玉川學校に出勤して居ります比牟呂も十二月初旬にわ出る筈ですから御送りいたします何か御高吟があらば御知らせ下さい家内中より宜しくと申出でました 十二月二日

 

       三七 【十二月十七日・封書 信濃下諏訪町高木より 東京陸軍豫備病院氷川分院 久保田久吉氏宛】

 

拜啓承れば去月二十七日二百三高地戰爭にて御負傷十四日氷川分院御入院の由驚き入りました

戰地御出發間もない事故今囘の戰爭にわ加わらぬ事と存じ居りしに第一囘の戰爭に於てはからぬ御負傷定めて殘念の事と推察致します併し負傷中にてわ極めて輕些の方ならんかと存じますこれわまづ不幸中の幸と申すべきならむ去り乍ら折角御注意御療養一日も早く御輕快に向-樣呉々も祈り居ります先わ取あえず御見舞申上げます 十二月十七日


(32) 明治三十八年

 

       三八 【四月五日・端書 信濃國諏訪郡上諏訪町西小學校より 高崎歩兵第十五聯隊補充大隊第五中隊 兩角福松氏宛】

 

拜啓愈々兵士とおなりの由承り隊名分らざりしため御無沙汰放し居り候

一時諏訪から君お失ふのわ打撃だが歌界のためにわ君が新しき經驗お得るお喜び候今日戰爭などお歌つてゐるもの皆平凡淺薄陳腐極まるのわ彼等が只想像の上にのみ馳せて實際の寫實がないからに候戰爭わ實に人間活劇の極致なり足下が身を挺して此の間に踏込むわ百千の駄歌お得るよりも優れり子規先生わ肺患お犯して迄も戰地に赴けり馬醉木の足立清知君の戰地詠お見てもその歌のいかに靈活の光お帶び居るかが分り申候小生等もかつて六週間現役兵で高崎に居り候早晩召集せらるゝ由傳承して實に雀躍待ち居る事に候死ぬ位わ物が咽につかえても死に候疊の上の怪我てふ事もあり候併し當分さぞ御苦勞の事だろ-深く御察し申上候

小生目下學期始めで俗務蝟集大忙しで歌も何も出來ず夜家に歸ればダラリとして筆も碌に執られずこんな事ぢや駄目と存じ居り候

東筑摩の胡桃澤君十五日來諏のよし十六日にわ歌會を催し度候兵營内の歌何でも珍らしき材料充實の事ならん故充分御把捉御遺漏なからんお切望す小生も十五日以後頃からわちと活動致すすべく候木外君わ豐平村下古田分教場勤務になり候諏訪教育界の俗物共の騷ぎイヤに成り候小生など他郡放逐の方餘程うれしく候北山村に○○○○お(33)置く如きわ北山村の大々的不名譽也 四月五日夜十時半認む

    楊の戸兄

 色鉛筆御使用わよすべし毒があるから

 

       三九 【六月二十六日・端書 東京本郷三ノ十八東雲館より 信州東筑摩郡島内村 望月光男氏宛】

 

左千夫氏に面會今日大にブラツキ申候子規先生宅にも參り候東京でわ矢張小生共よりもケンキウして居る今日初雷天はる 六月廿六日

 

       四〇 【九月十九日・封書 下の學校より 上の學校 田中一造氏宛】

 

此間はなした子規居士四囘忌わ放課後直ちにやつて早く歸宅し度いからそのつもりで直ぐ下つてくれ場所わみゆき(勸工場と仕立屋との間に狹い入口の家がある美由幾と書いてある)とするそこで待つて居るよ

      十九日雨                   久保田生

    田中君

 

       四一 【十月一日・封書 上諏訪町小學校より 南佐久郡臼田町島祐三方 河西省吾氏宛】

 

      登淺間山歌十八首

   シヤツかさね衣かさねてこの朝げ雨の淺間に登るべく出づ.雨の淺間わ窮したり

   足引の山鳥の尾の長々し松原こえて川渡り行く 下句よろし

   木鳥居の高きがいたくかたぶきてあやうくたてる下くぐり行く かたぶくといへば危きなど付くる必要なし「山(34)裾の茅生のかや原木鳥居のかたぶき立てる下くぐり行く」などせば面白からん

   山そばのあやうき道に我立てば目下の谷に瀧かかるみゆ まづよし

   木の葉かげかかれる瀧の名をとへばイチホヒの瀧と呼ぶといひけり 木の葉といへば大景に對すべきものにあらず全首何の巧もなし

   赤き水と白き水とがなみてわくジヤボンの谷の源平の泉 よし、はしがきお要す

   雨|がうつつめたき《そそぐ野中の》石に腰かけて|にぎりめしひらき《ほしひ食ひつつ(加筆)》霧の|行くをみる《せまるみる》

   雨にぬれて|紅葉でんとする《うす紅葉する》向つ峰《を》の岩のはざまを霧はしり行く よし

   しみ立ちのつがむら□《が》上に|さか《そぎ》だてる|岩のはざまを《千むらほついは 秀岩》霧はしり行く よき所を捉へたり

   杖つきてのぼる坂路|けはし路《のつづら折》雨脊にとほり凍るが如し よし

   丈ひくき落葉松立てる裾原|の《に》虎杖かれて秋さびにけり よし

   燒け山の淺間の裾野草生ひずつめたき霧の|ただ〔付傍線〕はしり行くも《よろしからず》 下句わろし

   まへかけの山のを長き燒石|原いふみさくみて《の石原さくみ》我が登り來し よし

   天つ神のみ臼ひかすか今日の日を山なりひびき|山ふるふなり《み谷ふるふも》

   淺間山の火を|ふく口のはたに《はく谷の岸に》立てば硫黄の氣くさく鼻つき來る 下句平凡なり

   赤岩のさけ目ゆのぼる白きゆげは|あが脊をつつみ《風を時じみ》地をはひて行く よし

   いただきのここにしてひろく國みまくほりせしかもよ|遂に《今日》みえずかも よし

   故郷の山は遠みか故郷の山は遠みか見まくほりすも つまらぬ詞づかひ也

前のより大に進歩せり新しき境遇に立ちて觀察せるが故也事柄の面白きを捉えて詠む工夫常に必要也こまかきも(35)のにても常に怠らず觀察せば材料つくべからず試驗豫備中なればあまり凝り過ぎぬがよしそろ/\萬葉集でも見給ふべし御健康を祈る 十月一日         久保田生

    河西君

 

       四二 【十月廿三日・封書 山浦より 長野市縣町 三澤精英氏宛】

 

大御無音いたし候あや子さんの轉任説君の主張どの位の程度なりや十二月までとするも三月までとするも大した差わなし可成わ年度のかわりまで我慢出來ざるか又長野移轉ならば母君も同行の方世間え對して宜しからずやちと老婆心ながら一寸左樣思-一人して故郷に居るわ變ならずや冷靜に御考えあり度し

上諏訪も大森今井皆具合惡しく目下困却中也三月延期して貰えればよいが如何にや

  實わ大森わ肺尖カタルとなれり大困却中也併し岩垂五味等にわ目下一先づ秘し居り方策考案中誠に弱り居れり御返事おまつ 二十三日夜山浦にて   俊彦

    三澤兄

 

       四三 【十月三十日・封書 下諏訪町より 中洲村神宮司 笠原常次・笠原田鶴氏宛】

 

拜啓昨日男子御出生御兩人健全との事大安心のいたりに存じ候早速參上いたすべきの處用事のため兩三日延引可致惡しからず御承知被下度候

萬事注意清潔靜肅を旨とし産蓐熱等の患なき樣千望いたし候先は御祝のみ匆々 十月卅日

 

       四四 【十一月六日・封書 信州上諏訪町より 東京京橋區銀座四丁目四番地松本樂器合資會社 米久保喜雄氏宛】

(36)益々御清適奉賀候當分の處よき口なく專科わ事局にて見合せの處多く頗る困難の事と存じ候猶他の方面にても精々御依頼可然と存上候小生數日中に松本に遊ぶつもりに候少々繁忙につき右のみ申上候也 十一月六日 俊

    米窪兄

 

       四五 【十二月十六日・端書 上諏訪町小學校より 北山村柏原 兩角國五郎・兩角珂堂氏宛】

 

御無音失敬々々其後如何に候か馬醉木に今度出なんだから何だか淋しかつたちと奮發すべし過日蕨氏來遊のときわ君等が上諏訪に居たそ-な、なぜ小生に知らせなんだ實に殘念だその際の歌會にわ森山君と三人のみなり課題犬夜柚子三首位づつ小生に宛てて送つてくれ玉え二月のアシビに出すから、一月七日甲州御嶽山上で根岸歌會をひらくから今より御用意大擧出陣あり度し 十二月十五日夜一時

  柳の戸君の消そく如何

 

       四六 【十二月二十五日・封書 高木より 下諏訪小學校 森山藤一氏宛】

 

拜啓先日話した甲州御嶽山上根岸歌會の件左翁も賛成して成立した會日わ正月七日也

諏訪でわこ-しよ-と思-柳の戸が歸つたからその歡迎會お正月五日上諏訪穀屋にひらき(正午から)六日打揃つて米倉に一泊しこゝで東京連と會し七日登上する貴意如何御返事を待つ吉田有賀小林諸君にも云つてやつた五日の穀屋會わ別に云つてやらぬから必來てくれ給へ 十二月廿五日            久保田生

    汀川君

 

(37) 明治三十九年

 

       四七 【三月八日・封書 上諏訪小學校より 松本町高等女學校 太田貞一氏宛】

 

過日わ御迷惑願上げ奉謝候此後も煩雜の事多かるべきも何分願上候横田氏の早速なる承諾三輪玄のために欣喜に堪えず候咋日三輪父君と相談左の如くに決定いたし候間何分願上候

 一、ヒザカナ(日肴の意か? 諏訪の方言か、君の所謂手〆と同樣なるべし)を交換すべく良日を擇んで構田家に豫告し當日左のものを三輪|半《ナカバ》(父の名)名にて横田家に持參の事

 金一圓 御酒料として

 金十錢 するめ料として

  右二包君が包んで持つて行つて呉れ

 二、三輪家でわ日の吉凶を更に云わぬから先方で三輪家によこすヒザカナの日わ先方の勝手たる事

 三、結納わ諏訪地方でわ結婚日少し前に嫁の方に贈る事になつている、不都合なくば今少し後日になりて贈らんと思う事

 四、日肴終り次第結婚日等巨細の事について協議する事(これわ君だけ承知していて呉れゝば宜しいのだ)

 五、横田父君の名前を手紙の序に君から知らせて貰い度い事

(38) 六、先日君の手紙に横田ゆきと書いてあつたが三輪家で貰うのわ横田とよなり多分君の手紙の間違ならんが猶確め度き事(即ち姉の方を貰う也)

そこで二包の金員〆て一圓十錢わ三輪家で小生によこすと云つたが考えて見れば些少の金をかわせにても面倒なり何れ横田からも同樣君に依頼するだろ-からその金を君が受取つて三輪家の金を小生が受取つて差引にするが便利ならんその差額わ何れ又小生から差上けるから差當り金一圓十錢だけわ君が出越して包んでやつてくれそ-云うに頼む日肴終り次第一寸御通知下され度右用件のみ申上候也(アララギ赤彦追悼號所載)

 

       四八 【六月十五日・封書 上諏訪町より 長野師範學校第二東舍 河西省吾氏宛】

 

拜啓愚女肺炎にて看病のため返事相後れ申譯無之候中々盛に活動している御樣子賀し上げ候學校授業だけわ眞面目に勉強しあまり不成績をとらぬ樣にした上盛に御活動のほど祈上候種々の方面え遠足なされ候樣御すゝめ申上候野尻湖遠足の際の御歌大に進境を認め候つまり寫實だから他に得られぬ面白さが有之候只觀察を今少し精密にせば更に佳作を得たるべしと存じ候別紙御詠草御返し申上候間御一覽被下度候

十六七日信濃教育會には三宅雄次郎先生來席のよし演説の巧拙に關らず必ず御聽可有之候小生も今囘は出長せんと思いしも子供病氣にてその意を得ず殘念に存じ候舍監が氣に入らぬなど決して御奮慨有之べからず只眞面目に勉強すればよい黙つている人間がえらいと存じ候先わ御返事まで早々不一 六月十五日  久保田生

  子供病氣は最早よろしく候間御安心被下度候

    河西君

 

       四九 【六月十九日・封書 下諏訪町高木より 長野市 三澤精英氏宛】

 

(39)拜啓出長出來ざりし遺憾御洞察被下度候三宅先生の演説果して傾聽すべし名譽心を大にせよ赤裸々で奮闘せよの警醒わ先生としてわ珍しからずと雖も紛々たる教育者にわ最も適中している大賛成の敬意を表する所以也

扨かねて閑を見て書き染め置き候「子供のしつけ」目下積りて三四十枚以上と成り居り候山田肇君に出版せよとすゝめしも原稿少な過ぐとて應ぜず貴新聞に連載せば優に十數日若くわ二十日に亙るの講談と相成るべく行文わつとめて平俗に致し置き候へば普通人に充分領會いたさるべく章わ、はしがき、しつけの目あて、獨立心の一、獨立心の二、健康衣服、その他賞罰、家族の一致、玩具、子守の選擇、禮義の僞り等十章位に相成り居り候はじめの方わかつて君に見せた事と存じ候右原稿貴新聞で採用多少の原稿料を支出いたすまじくや(五圓以上)御返事被下度候變挺な経文なれど是迄仕上げるには隨分骨を折り候へば多少の報酬を要求しても不都合なかるべきか見込ありそ-ならば一應右原稿御覽に入るべし

小兒大によろしく候間御安心被下度候一時わ大心配ために小生も腦をわろくし胃病をおこし目下服藥中也今年は祖父病死長男ヂフチリヤ兼眼病次男ジフテリヤ耳下腺炎で危く愚妻もヂフテリヤ傳染今度わ長女肺炎何れも平凡ならざる病氣大閉口いたし候前半年で打どめにして後半年を景氣にし度く候先わ用件のみ早々不一

     六月十九日                 俊生

    三澤兄

 

       五〇 【六月二十八日・封書 下諏訪町高木より 長野市西後町 三澤精英氏宛】

 

過日の長手紙慥に拜見いたし候「赤裸々になつて話し度い」小生と雖も多くこの境遇にあり守屋去り三澤去りたる諏訪の寂寥御察し可被下候守屋わ二泊して歸宅いたし候案外強健の體を見て欣喜いたし候二泊の快談近來の傑出に候

(40)小生の子供全く快復いたし候間御安心被下度候承れば御出産近きにあらんとの事隨分御攝養專一になさるべく候産前の思は父親の方が苦しいものゝ由也

別紙原稿貴意にまかせ至急御送申上候今日山浦より歸り貴書拜見直ちに着手多少訂正して差上げ申候増補中男女の平等差別わ尤も詳密にして光輝可有之と信じ候著手すれば早いが今夜の間にわ合わぬ御採用とあれば直ちに始むべく候振假名も御返稿被下候はゞ附けて上ぐべく候併し苦しい思をして採用する勿れ決して強賣わせぬよ勝手にすべし 六月廿八日夜             久保田生

    三澤兄

  明早朝登山歸途餅屋一泊の豫定

 

       五一 【八月十一日・封書 下諏訪町より 豐平村下古田 塚原葦穗氏宛】

 

拜啓熱心誠實なる御手紙拜見嬉しく存じ候充分の責任を自覺して事に當る何事もその覺悟次第で出來るものと信じ候足下已に牢乎動すべからざるの決心あり只勇猛に進行すべし小生も商船の方は全く賛成を表すべく候大活動は常に細心の用意を伴ふ事を御承知あるか大成功は常に細微なる秩序に伴ふ事を御承知あるか

足下日日の定課あるか 足下日日の自省あるか

眼病の全治策如何商船校に再度失敗せばその後の針路如何と思慮しつつありや何事も遺漏ある考は駄目なり眞面目に考量せよ父母につき一家につき瑞穗につき細かに觀察し細かに考へよ右當用のみ申上げ置き候小生大に輕快御安心ある樣母上にも申上ぐべし此内に行く佐倉兄上具合よく父上直に御歸國のよし大賀々々小生も非常によいから十六日頃參上すると御傳言を乞ふ 八月十一日        俊生

 

(41)       五二 【八月十二日・端書 下諏訪町より 北山村湯川 篠原圓太氏宛】

 

腦病先づほとんど快復いたし候間御安心被下度候此内に御來訪との事已屈指待上候御出での節わ一寸御しらせ置き被下度候小生今小説製作中なり君が來たら見せるよ早く來たまえ 八月十二日夕

 

       五三 【九月一日・端書 千葉町より 信州上諏訪小學学職員宛】

 

又々學校を願い恐入り候兄昨日死去につき一週間位は出られぬよろしくお願い 九月一日

 

       五四 【九月八日・封書 信州諏訪郡豐平村塚原方より 東京神田駿河壹西紅梅町一〇 濱かつ子氏宛】

 

眞情こもれる手紙拜見大へんうれしく思いました小生わ去月三十一日千葉町の病院に居る兄が危篤との電報に接しその夜直に夜行列車にて上京兩國橋から乘車午前中に千葉に著きました兄わ小生の出發頃死去しましたから遂に生前の面晤が出來ませんでした以後兄の任地なる佐倉町に滯在して殘務を處理し五日午後漸く歸國して御手紙を拜見しました御手紙を拜見した時わ非常に嬉しかつた眞情のこもつた文字わ人を泣かせる昨日葬儀終了今日少閑を見て此手紙を書きます今年わ三囘上京しました第一囘わ帶川君の發病入院のため第二囘わ帶川君死去のため第三囘わ兄死去のためと斯くの如き不幸な上京で誠に話しにも成りません御心配下さる如く小生も今年わ家族五人の病氣友の死去兄の死去で全く弱りました併し御來示の如く充分注意して元氣を落しませんから御安心下さい身體を惡くしてわ萬事休すだからあなたも充分御注意然るべしと思います御尊父樣はじめ御同胞にて一家を御形成のよし如何ばかりの樂しみかと存じますまつ樣せん樣にもよろしく御傳言下さいちせさんにも同樣願いますちせさんの番地を忘れたから手紙を下さいと御傳へ下さい今度の夏休にわ一度ユツクリあなたとちせさんと話し度(42)く思いました處何や蚊やでその機なく殘念でした先わ右のみ早々 九月八日     久保田生

  野の草花稻ふく風故郷わもう秋の景氣です人は逝き秋は來る斯の如し

 

       五五 【十二月十二日・封書 上諏訪町より 長地學校 矢崎作右衛門氏宛】

 

拜啓湖岸の冬枯そろ/\山國の眞相を發揮し來り諏訪の趣味漸く吾曹の感興を惹かんとす湖水の色わ初冬に於て眞に深碧也湖岸の樹木わ冬に於て眞に山國的也

下筋の金扱業者も冬の湖畔を通る時わ寒そ-也貧相也百千の烟突も冬の鹽尻颪に逢つてわ寒國的風骨に化せざる能わず是故に諏訪湖の眞趣味わ冬に於て最もよく山國的の發揮を存すと云ふ也

次に要件を申上げ候それは數年前から君を上諏訪學校に欲しいといふ望わ連續しているのだが今度は斷じて承諾して貰い度いのだ色々六ケ敷い事わ拔きにして只僕は君の來校を切望するのだ君の長地村に居た三年は全く君の犠牲的時期であつたと考へる(失敬だが)も-動いても不都合なしと思-今度わ問題を六ケ敷くせずして全く僕等の學校え來ると決心して呉れたまえ僕は只君を望む情の切なるを披瀝し君が吾人の情を諒とし斷然來て呉れんを望むと云ふより外長く書いてもドーモ同じ事を繰返すに過ぎぬ今出來れば猶よいが(一日早ければ一日丈け有難い)來年三月わ是非そ-して頂き度い右至望に堪えず御熟考を切望す以上不盡 しはす十二日

 

       五六 【十二月十三日・封書 上諏訪町より 北山村 篠原圓太氏宛】

 

今年中には出向かぬとの事情けなし併し小生も例の繁忙で作歌に懶し之れも致方なし蕨氏大に快復いくら金をかけてもよいから來春大々的に歡喜號を出すと云つてる由大慶至極と歡喜いたし候アシビわ内容主もに伊藤氏がやつて居れども之れが維持は蕨、長塚二氏とありて確實なる生命を得て居るのだから單にアシビの運命から云つて(43)も蕨氏の快復歡呼いたすべき也

貴稿一通り拜見愚見相加へ御返却申上候折角御年越遊ばされ候樣祈上候也 十二月十三日  久保田柿生

    篠原兄

   湖ノ風氷魚賣ル軒を吹キナラス

  新年會ヲ上スワニ開イテハ如何

 

     五七 【十二月二十一日・封書 信州上諏訪町より 東京下谷區西黒門町二十二前田方 平福百穗氏宛】

 

度々御手紙下され有難く拜見仕り候諏訪の風物冬に入つて益々蕭條たり前の平野彼の丘陵白斑に冬木の群わ骨の如く此の間に參差す

   冬木立透いて見らるる湖水かな


(44) 明治四十年

 

       五八 【一月九日・封書 下諏訪町高木より 下諏訪町小湯の上 矢崎作右衛門氏宛】

 

※〔羊の字の古体〕羊の年の出立わ何だか豐かな感じがする先づ以て改暦の御祝を申上げる昨冬の御返書慥に拜見しました僕の方でわ只君を見込んでたつてお願い致し度いと云ふより外何等の理由なし未熟云々の言甚だ意に滿たぬ全熟した人が社會に何人ありや諏訪の教員に何人ありや未熟なるが故にお互に胸襟お披いて斯の道に進む侶伴を求むるのだ氣の合つた同行者を求むるのだど-か僕等が君に望む所以お御了解願い度い

「村長に叱られそ-」の貴意御尤もなり村長の君を信任している事初めよりよく僕の知る處併乍ら誰が學校を出るにしても苟も普通以下ならざる限り村長にも校長にも叱られる事と思-村長に叱られるのわ轉任に對する普通事のみど-か御決意お願い度し

僕わ更らに改めて君の御来來任を切望する我校の尋常科に君の居らん事を切望する幾多の諏訪郡の教員中特に君の御來任を切望する(お世辭とする勿れ)之れ二三年前より我校の希望なり手紙のみで坐ながら斯の言を作す甚だ意お得ぬが又手紙を上げるのだ

斷乎御決意を願います 一月九日夜十一時半

(45)    矢崎君

村長とても上スワに行くのを止める譯にわ行くまい(失禮言葉だが

僕わ冬の中上スワに止宿する

 

       五九 【二月十四日・封書 下諏訪町高木より 下諏訪町小湯の上 矢崎作右衛門氏宛】

 

拜啓例の件宮下にわあの後直ぐ申出で置けり

昨日小口村長來訪是非中止して呉れよとの意なりしも絶對的拒絶せりむしろ貴村としてわ善後策を取るの優れるに如かずと申置き候此の上わ君から大島に宛て及び郡視學に宛て是非出し呉れよとの意頻繁に御申出下され度小生方よりも頻繁に宮下に交渉すべく候之れより外成功の策なし右何分願入候猶之れに對する大島氏の態度おも御一報願上候撥表した上わ急撃肝要と存じ候

先わ右のみ早々 二月十四日              久保田生

    矢崎君

  小學数員とわ何ぞや岡谷お見よ原お見よ諏訪の平に蠢々たる小學校舍お見よイヤニモナルヨ之れわ別問題也

 

       六〇 【三月二十一日・封書 下諏訪町高木より 長野市後町 三澤精英氏宛】

 

謹啓御手紙拜見事情明了安心いたしました西村の去りたるは實に悲しむべきだ落たんのいたりだ、だが小學教員威張れる丈け威張つた處如何程でもないせん方ない泣寢入りをつゞける小人跋扈は今つと激烈になつてもよい改革の聲は斯の如くにして天の一方より來らん

伊勢旅行京阪巡遊羨しさに堪へぬこんな時が骨延ばしだウンとやつて來べし大垣の柘植《ツゲ》潮音(子規の直參歌人)(46)氏は未見なれど未通信なれど小生の事をよく賛めてる人ださうな雜誌「馬醉木」上でも顔を合せてるからよく分つてる彼人を尋ねられたし伊勢の桃澤茂春已に死し備中に赤木格堂雌伏せり餘り遠くてだめならん京阪の地一人の同志者なしこれ根岸派の根岸派たる所以か京都大學の文學科(?)に池田の勝山氏未だ在學か大覺寺近邊に杷栗も居るならん紳戸市小學に笠原徳十君あり大阪東區高木小學校長に小松武平(舊笹岡)君あり逢つたら御無沙汰を謝して呉れ玉へ福井市師範に四賀村の北澤種一君あり

小生は四月老父を伴ひて甲府から御嶽見物に行くつもり小旅行と雖も希望温き豫定なり小生の豫定は斯の如し先は御返事のみ匆々 廿一日夜     久保田生

    背山兄

お手紙うれしく拜見いたしました去年の旅行は實に樂しくありました御家庭の温かさに歡喜の情を催しました子供の世話學校の仕事御辛苦さこそと深く御同情申上げます守屋去り背山君去りたる諏訪の寂寞に一人身を置く苦しさを御推察願ひます併し今日では平氣の平左ですそのために心を傷め身を害ふ樣な事はせぬつもりですお庭の柿が冬枯れになつて雪見燈籠に雪が積るでせう御大切に三七君もみささんも

    あや子樣                廿一日夜    俊生

  三輪ます子さんも愈々生れさうです

 

       六一 【四月三十日・封書 下諏訪町高木より 長野市縣町 三澤精英氏宛】

 

      歌日記                   柿乃村人

      三月卅一日雪降る

   夕暮ゆ雪となりたる春の雨の雫滴る黄梅の上に

(47)                                  梅の花咲くは未だししかれども福壽草散り黄梅比良久

      四月十四日家に籠る久し振りの閑散無事なり

   草いほの庭のかくみに錦木の百株千株植ゑなんとおもふ

   我やどの二反の畠の桑を刈りて百羽の※〔鷄の鳥が隹〕を放たんと思ふ

      四月十八日梅已に開きたるに諏訪の湖風北西より吹きつけて寒し

   湖つ風西吹きあぐる岡の上の高木磯村梅さきにけり

   湖津風ふたたび寒み梅さける磯の藁屋に氷柱垂りたり

      四月三十日櫻散り桃咲く

   高木人種おろし立つ田のくろのカリンの低木若芽のぴたり

注意して靜かによんでくれ給へ

別所温泉からの御手紙拜見いたし候當時小生實父を伴ひて遊びに出て居り御返事差上げず申譯無之候

扨小生は數年來色々考へてゐるが全然文學を以て身を立つる(?)が行く/\の方針として適當かと愚按いたし候

教育者も面白いがそれ以上に文學と小生は縁の深い樣考へられ候併し急に文學專門と參り候とも食はねばならぬといふ問題あり左樣に早速には參り難し小生も徐々に方策をめぐらす心得に候「人間は一生なり」といふ事が眞面目に熱心に今小生の心頭に念ぜられて居る小生は一生を少くも馬鹿らしく暮し度くない惜しい一生だから一日と雖も馬鹿らしく暮す譯に行かぬ理窟は單純でも陳腐でも目今小生には最も眞面目の問題に候

小生は今迄馬醉木といふ一雜誌以外に自作を發表した事なし併し今後追々各方面に發表の素地を作るつもり也信州の文壇は勿論東京の新聞社雜誌社に手を延さんと考へ居り候貴新聞へは毎月二三囘づつ掲載相願度今少し經過したら貴新聞の歌壇を貰ひ受けんかとも存じ居り候御許しなくばそれ迄也

(48)右貴兄だけ(守屋君にも三村君にも誰にも少しの間御發表無之やう願上候)へ申上候別紙可然御取計願上候

      四月卅日             俊生

    三澤大兄机下

  君だけに心中を申上けるのだ話さずに置いてくれたまへ

 

       六二 【六月廿七日・封書 下諏訪町高木より 東筑摩郡島内村 胡桃澤勘内・望月光男氏宛】

 

一昨夜左翁と共に歸宅昨日左翁を送りて上スワ停車場に行きはからず志都兒君に逢ひ共に布半一泊今夜相別れ申候左翁一週間の豫定が二週間となり急ぎ候ため松本へはダメと相成遺憾存じ候

岐蘇旅行は餘程面白く有之候岐蘇の風景に接せんとせば南木曾に行くべく人情に接せんとするものは北木曾を訪はざるべからず南北の分界は福島なりと存じ候山のこせつかずして水の清冽日本無双なる樹木森林の無盡藏なるこの三者の特徴が木曾の風景を作つて居り申候もしそれ木曾の人々に至つては敦の敦なるもの今世に於て他に多く接し難し藪原少女我が爲に檜笠の緒をすげてくれ茣蓙を著せてくれたるから始よつて隨分記憶を打つものあり況や連日の雨岐蘇路に入つて新に霽れ旅情の殊に爽快を助けたるがあるに於てをや歌は近々作り可申候

三澤君の事少しも誤解いたさず候過日三澤に逢ひし際長塚といふ人來りしも逢ふこと能はず氣の毒の事したりと申居り候新聞社の方にて約束の時間まで待ち居りしも來らず仕方なしと申居り候尤も三澤といふ男隨分氣儘者故あてにはならず候併し長塚君の所用は辨じたればなに不都合なからむと左翁も申し居り候御安心可有之候神經衰弱は遠足散歩に限る旅行に限る家居してグヅ/\思ふ事尤も不可也ウマキ者を食ひ運動をするが第一と存じ候君のおひまの頃一度出松共に淺間にでも會すべく候

うまき謌を作らんなど苦心し玉ふな感情を養ひ置けば何時か自然に湧き出づべしイラ立ちても何の效なし人生ハ(49)短イケレドモ長イヨ

望月君病氣如何小生よりは大に御疎音申譯無之候矢張呑氣に御療養專一に思ひ候精神療法と云ふ事あり醫藥の如きは第二のもの也煩悶大禁物也強大なる意志を以てすれば正岡先生の病躯猶七年を支へしに非ずや君の如きは心《シン》(眞底からの勇猛心)から大勇猛を振起せば病氣の如きは自然消滅なり僕の病氣が害ヲナサヌは多少この般の消息を存すと自信いたし居り候今日午後歸宅今夜久振にて少閑つまらぬ事書きつらね申上候也 六月廿六日夜 柿生

    二兄

 

       六三 【七月二日・端書 下諏訪町高木より 東筑摩都鳥内村 望月光男氏宛】

 

   撫子の花のはたけに立ちたりし君は消えずも花さくかぎり

至情と詞と共に隨一なりと拜見いたし候左翁と大に談じて愉快に有益に有之き小生の木曾行も長野新聞に出すべし御一覽下され度候也近來の起居如何御自愛を折る 七月二日

 

       六四 【七月九日・端書 下諏訪町より 東筑摩都鳥内村 望月光男氏宛】

 

八日「日本」若葉貴作拜見せり

   若葉風凉しき岸のつなぎ舟漕ぎて見ましを人も居らぬかも

は非常によい傑出の作だ

「□《不明》倉の山田のくろの柿葉」は比較的遠くから見た景だ「蛙どよめり」は比較的近い調和せぬかと思ふ 七月九日

 

       六五 【八月十日・端書 信州下諏訪町より 東京小石川區春日町須田病院 兩角國五郎氏宛】

(50)御負傷の事は一日に紫水明より聞いた住所が分らぬので手紙が出せぬ紫水明から今知らせて來たから此端書を出す大分快方との事欣喜に堪へぬ暑中東京での入院定めて退屈の事だらう辛棒を望む蠶が飼へぬから收入が減る入院してゐるから出費が増す何で取りかへすつもりだラムネ製造を始めて取かへすのか成案如何斯る時眼ふたぎて世の中に苦しみ迷ふ人を想ふべし 八月十日

 

       六六 【八月十日・封書 信濃下諏訪より 東京小石川區春日町須田病院 兩角國五郎氏宛】

 

今日は諏訪の盆會だ昨夜蠶のひまに父が佛棚を造つた小生は寢ころび乍ら足の蚊を叩きつゝ父の手の動くのを見て居るランプの燈で手の影が佛棚の白木の上に大きく不定形に映る棚は三尺に四尺高さは六尺許りのワクになつてゐてその三分二位の高さに板のシキリがあるその坂を基點として四周に草花を立るのが面白い後の方へ萩を立てる二本立てる三本立てるしまひには立派の萩垣になる僅に花を持てる枝がランプの光で鮮に見ゆる父の手の影と頭の影とが床の間の上の壁にうつる脚の蚊をピシヤリ打つ父も尻のあたりをピシヤリやる手の影がピシヤリとも云はずに床の間の上に落ちる萩の花が手の影をはづれて全面に見ゆる手の影と萩の花とを見つめて居るうちにそろ/\眠くなる眠くなりつゝ時々ピシヤリやるそのうちに益々眠くなる眼をあいて見たら盆棚はもう立派に出來上つて居た右の圍には女郎花と桔梗と萩よりも立派に竝んでゐる左の圍には我木香の花が盛に首を揃へて居る女郎花も僅ばかり仲間入をして居る向うの萩の花が左右兩列の奥に高尚に照つてゐるその前に先祖代々の位牌が三基立つてその前に燭臺が一つあるが火はともしてないその前に線香立があつてそれから前はカトギのムシロが板から下まで長く垂れさがつてゐる父も居ない誰も居ないランプは明煌と輝いて盆棚を滿面に照らしてゐる今夜この盆棚に切籠な吊つてその下でこの手紙を書く盆歌が村の辻で聞える蚊が相變らず來る御大切に御療養あれ頓首 八月十四日夜          俊生

(51)    竹舟兄

 

       六七 【九月八日・封書 下諏訪町より 北山村柏原 兩角福松氏宛】

 

日曜だから手紙を出す詞が第二第三の問題だと云ふのは君の弊所に對して云つたのだ君は子規先生の趣味が分ると云つてゐるが分りはせまいと思ふ君の云ふ所を聞いたでは少しも分つてゐる所がないぢやないか鐵幹の趣味も面白い子規の趣味も面白いといふのは即ち君の解らぬ事を證明してゐる「平凡無味不自然なものをゴマカス詞」に驚嘆してゐる程度の人に子規先生の趣味が分るか驚いた愚説だ「抽象的概敍的句法を許さぬだらう」位に僕の思ふ所を解してくれる樣な君だから張合がない俳句には俳句的敍法がある歌には歌的叙法がある歌に俳的敍法とは何の事ぞや十七字詩に對する形式と三十一字詩に對する形式とを混同する樣な考へは基本から間違つてゐる全く融通出來ぬ事はあるまい(極めて小なる場合に於て)併しそんな事は第一問題になる程の事でない君はつまらぬ所へ力を入れてゐる事を悟らぬのだ自分の弊所は何處にあるか悟れぬのだから困る自分の弊所を悟るには苦心が要る僕は君の才を惜むから極端の詞を以て君の眞面目なる反省を促すのだ君は自信々々と云つてゐるが僕から見れば實に憐むべき自信だよ下手な反省は自棄となり下手な自信は所謂己惚になる工夫の困難なるは此處也失敬だが君などが自信を振廻すのは早過ぎるよ今つと修養の苦心を經驗するがよいそんなチツポケな自信と心中したでは實に惜しいと僕は思ふ貴詠一々の辯解一も感心せず詳しき事は書くひまなしこの手紙を見て怒る樣な事ぢや君はもうだめだぞ失敬萬死 九月八日         俊生

    柳の戸大兄

  僕ノ君ニイフ所ハ前便ト更ニ變ラヌ重記ヲ省俊  生


(52)       六八 【九月九日・封書 下諏訪町高木より 長野市西後町 三澤精英氏宛】

 

御書拜見仕り候種々御厚志奉謝候和歌選者の件その際になりて可成御引受申度存じ居候よろしく願上候どうしても來年一月からでなくては困り候「野の人」の御決心大賛成いたし候飽迄堅實に御進行希望に不堪候猶それに對する用向何なりとも御盡力申度存じ候種々御意見御相談御申越可被下候あや子樣の件も多分成功いたすべく十二月頃岩垂先生に談合いたすべく候正岡子規を更に御研究希望いたし候馬醉木御覽の事是又希望いたし候此内に歌日記又々御送可申よろしく願上候可成は第一面にのせ度候十四日に松本行村井驛の八幡農園で水蜜桃を食ふ豫定也十九日糸瓜忌は小庵にて營み可申候三七郎さ丈夫や皆々樣御大切不盡 九月九日夜十二時  俊生

    背山兄

 

       六九 【十月二十五日・封書 下諏訪町高木より 東京 伊藤幸次郎氏宛】

 

  〔欄外〕馬醉木ヲ今後諏訪郡中洲村小學校小林善一郎宛毎囘御発送願上候(號山水)發行ハ何日ニヤ待遠サ萬丈ナリ

拜啓信濃は寒氣頓に加はり今晩炬燵を擁して書面認め申候

日本新聞「空」は前囘に比して寂寥に存じ居り候處昨日貴詠拜見千萬の援兵を得しが如く力づき欣喜いたし候連作十首悉く活躍非常に力の動きたる作と存じ候これを十首一體にまとめて見れば各首相依つて殊によろし連作のよき特徴と存じ候例により細評申上ぐべく御心付の所直に御來示相願候

   高山のいはほにやどり夢つかれ魂は翔りぬおほそらの上に

全體よくしまり居る特に「夢つかれ」がよく緊密に利いて居るヤドリ、ユメツカレと層々相據つて疊みかけ下句が(53)力に承けている全首の力ある所以調がよく想に添つてゐる

   小夜ふけて天の白露(雲なるべし)山をつつみ星の青空上にのみ見ゆ

露では無理なり雄大なれども疵あり「上にのみ」など非なるべし「のみ」の助辭、調の強みを害する甚し「頭に近し星の青空」などやう緊密ならんを欲す「小夜ふけて天の白雲山をつつみ星の青空雲に浮き見ゆ」の如く欲し「露」が誤ならずば別に考あり一天白露などの意ならば「上にのみ見ゆ」益々据らず御來示願上候

   天の門に風立ちしかば四方つ空四方つ國土に寄合にけり

三四五句に對し一二句意味薄く思はる三四五句の雄宕は論に及ばず

   蒼空の眞洞にかかれる天漢《あまのかは》あらはに落ちて海に入る見ゆ

完璧摩すべからず

   ひんがしの空の一すみやや白みやや朱けにつつ月出でんとす

同上。三四句斯の如く細かに表はして大景生動驚くべしかゝる句法はじめてなり

   日を讀めば二十日の月を天の原の高山の上にむかへつるかも

第一句この連作の上に容易に得べからず前五首を經てこの快に接す興更に加はるかゝる歌體は殊に一氣に讀み下し得て調整ふを覺ゆ

   月よみは神にしませば天の河ひた波ふみて空渡らすも

非常に振へりとも思はず

   生死の境をはなれとことはに處女にいます月夜見の神

「生死の境をはなれ」は必要の詞なりや「はなれ」など他になくや且三四句未だしまらずと思ふ

   まぼろしか夢かしらしら雲踏ます嫦娥の神をまのあたり見し

(54)絶唱三嘆山上の靈光肌に迫れり第一二句の如き重き句をのせてチヤント据り居る雄姿驚くべし

   澄みとほる天の眞澄に肉むらのむくろむなしき思せりけり

結末の歌一氣よみ下し得て竹を裂くの概あり大賛成なり思付けるまゝの走り書き高慮を測り得ずして勝手の駄評たるべくやと恐居り候例により言はねば解らぬから感じたるまゝを羅列いたし候御高教至囑に不堪候

篠原志都兒目下木崎湖にあり四五十首位は土産あらむと待ち居り候明日は久し振りにて短歌會を布半亭に開き可申悉く集れば十人もあれど如何やと存じ候何れ結果御報知可申候根岸派の歌はどうしても信州に發達すべきものと信じ候信濃百四十萬の人衆過半は山國むき出しの眞面目を失はず文明を知らず都會を知らず近來鐵道の開通を得てやゝ動き出したる新元素の自覺力は自覺さへ出來たら目醒しきものと信じ候諏訪諸同人惜哉未だ自覺に達せず自ら自分の眞價を知らず天賦の靈性を持して發するを知らず只今後追々上達と樂しましく候

今や小生の胸中は脈々抑ふべからざるの希望充溢横奔せり足はヂダンダ踏んで前途の使命を望み居り候我は少くも我の一生に對する我の使命を悟れる心地す使命茲にあり千萬苦闘千萬奔馳わが勞とする所ならんや眞個使命を自覺する所苦即樂、生存の意義茲に於て一日と雖も重大なり教育は神聖なり小學教育は特に神聖なり然りと雖も小生は文學の前に我生命を捧ぐるの快樂を有するを如何せん小生の一生(一日二分でも)は文學と伴隨せざるべからず斯く信ずれば愉快だしこの信念を一寸でも妨害せられては實に不都合なり今日小生のヂダンダ踏むは之れがためなり明治四十一年は小生の紀元第一年なり重大問題雀躍問題を前に控へて知らぬ顔してゐる愈々ヂダンダを踏まざるべからざる所以なり。やゝ朱けにつゝ月出でんとす。あゝこの希望この胸中先生只夫れ知るを得んか

  〔罫紙欄外〕 來年三月退職ソレマデハ誰にも云ハヌ云フト留任問題ナド面倒ニナルベシ

文學問題と聯關して※〔鷄の鳥が隹〕の問題は矢張重大なり小生は今後三十五圓の月給を抛つて百羽の※〔鷄の鳥が隹〕に米を得ざるべからず文學に携つて文學に衣食するは斷じて御免なりこゝに於て百羽の※〔鷄の鳥が隹〕はさし當り小生の文學問題と重大の干係あり(55)是故に例の寢坊を強ひて全廢して未明※〔鷄の鳥が隹〕の糞の掃除に骨折るなり薄暮疲れ歸つて直に※〔鷄の鳥が隹〕小屋の手入寢道具の始末に取り懸るなり夜半夢醒めて※〔鷄の鳥が隹〕のクヽと鳴くを聞く時胸中半ば恐れ半ば躍る全力を以て躍るヂダンダを踏まざる可らざる所以なり

※〔鷄の鳥が隹〕大分成長成績良好御喜び被下度候十二月頃から然部産卵可致と存じ候産めば貧しと雖も一家五六口を養ひ得べし來年の末には二百羽以上に致し度存居り候さうなれば大分都合よろしく候(今年末から小生等妻子は別に一家を持ちて生活する譯なり家は已にあり)以上誰に話す人もなく胸中にてのみ思ふ愈々ヂダンダ踏みて堪へがたきまゝ思はず長く書き申候前後錯雜自分乍ら何を書いたやら分らず御笑覽被下候

過日只乘切符の件小生の方甚だ覺束なく相成り候それは諏訪教育會の事業として淺間山妙義山八ケ岳その他上州地方に岩石採集旅行として十一月五日より十二日迄旅行せざるべからずそれが終れば農事休も直に終るからどうしても出京出來かねる事に有之胸中一寸困り居候この旅行實は小生の發議なり今更責任を逃ること惡し來年三月迄は小學校教員だから教育の職業を疎にすべきに非ず斯の如くなれば十中八九出京覺束なく(他人が引受けて行けばよいがあてにならず)然る上は是非共先生の方を御都合下され十一月十三日小宅著の御見込にて御出掛下され度何やら蚊やら御話し申度事近來山積の姿につき是非共御差繰り願度希望のいたりに候先生には只乘器あり十一月來り一、二月に來ること比較的安樂なり只(氷の時)時間問題あれば數日の御差繰今より御考案願入候尤もこの旅行のこと確定次第又々可申上候大分長くなり候まゝ擱筆いたし候匆々亂筆

    左翁老臺

  山顆累々〔封筒ニ追書〕

 

       七〇 【十一月十三日・封書 高木より 下諏訪町小學校 森山藤一氏宛】

 

(56)拜啓途中落伍遺憾に存じ候益々壯勇旅行結了の趣大賀いたし候小生病氣上田にて受診少しむきあしく申されしも長野赤十字にて二囘上諏訪にて二囘受診の結果何等の障害なき事に相成り候間御安心下され度候斯囘の旅行に歌なかるべからず御示し相待申候 十一月十三日                   俊生

    森山汀川樣 侍史

   淺間根をそがひに見つつ碓氷路の枯芒道君たどりけむ

 

       七一 【十一月二十三日・封書 下諏訪町高木より 東筑摩郡島内村 望月光男氏宛】

 

拜復小生大に快復いたし候間御安心下され度候醫者ハ本ヲ讀ムナト云フ字ヲ書クナト云フ朝早ク外ニ出ルナト云フタ遲ク外ニ出ルナト云フ夜ハ直グ寢ヨト云フソノ他色々小言ヲ云フ醫者ナドト云フ者ハ器械的ニ肉體ヲ診察スルニ止ル者ダカラソノ勸告ハスベテ皮相デアル僕ト雖モ肺柄ニナリタクナイハ勿論デアル併シ文學ハ肺病以上ダヨ一日文學ト離ルヽハ一日吾人ノ苦痛ヲ加フル所以ダ病苦以上ノ病苦ダ吾人ハ肉體上ニ於ケル雖者ノ勸告ヲ參考トシテ採用スル併シソノ勸告ヲ採用シタ以上ニ吾人ノ用意ガナクチヤナラヌ僕ハ今ノ處病氣ニ對シテ大ニ瞥戒シテ居ルコレハ他ノ病人ニ讓ラヌ併シソノ反面ニ於テ大ニ平氣デ居ル餘リ一身ノ至要問題トシテ病氣ヲ待遇セナイノダコレガ小生目下ノ眞實ナル心事デアル

毎日歌ヲ詠ム毎日本ヲヨム夜モ遲クナルコトガアル併シ奇妙ニ病氣ハ追々退散スルー昨日胃者ハ非常ニ驚イタコンナニズン/\本復スルハ奇妙ダト云フ僕ハ奇妙ヂヤナイト自信シテ居ル廣言スル樣ダガ僕等ノ病氣ニ對スル考ハ醫者以上ダヨ高慢ヂヤナイヨコンナ病氣ナラー年デモ二年デモ續イテ貰ヒ度イ家人モ用ヲ言ハヌ學校デモ出テ來イト云ハヌ出校スルト云ヘバ今少シ休メト強ヒテ來ル詮方ナク籠居スル歌ヲ作ル本ヲ讀ム何ト面白イダラウ僕ガ病氣ヲ下等ノモノトシテ待遇スルニ對シ世人ガ餘リニ貴重視スルノガ怪訝ニ堪ヘヌ

(57)僕ノ精神状態斯ノ如シ君モ病人ノ部屬デアルカラ參考ノタメ僕ノ病氣觀ヲ申上グルノダ如何君ハ病氣ヲ餘リ重視シ過ギハセヌカ精神活動ヲ盛ニシ玉ヘ病氣ナドハ自然退滅ダヨソシテヨイ歌ガ出來ルヨ頭ガ愉快ニナルヨ

僕ハ今別ニ家ヲ移シテ獨立スベク準備中デアル來年四月カラ學校ヲ退イテ全ク分學ニタヅサハル決心ダ百姓ヲスル※〔鷄の鳥が隹〕ヲ飼フ蠶モ飼フソシテ晴耕雨讀主人ヲ氣取ルノダ實ニ愉快ダヨ君今少シ健康ニ復サバ一週間僕ノ家デ迎ビ給ヘ是非來タマヘ必ズ病氣ナドハ退散スルヨ君等ハ弱イコトバカリ言ツテ困ル僕ハ對ガ弱イダノ僕ノ歌ハダメダノソンナコト云ツテルカラ益々弱クナリダメニナルヨ比牟呂再興ハ余ハ來年四月以後ト考ヘテ居タ篠原モセク朗君モセク樣ダソコデ一月カラ發刊セヨウカト考ヘテ居ル併シセイテヘタナモノ作ルヨリユル/\取懸タ方ガヨイト思テヰル胡君等トヨク相談シテ置イテ呉レ給ヘ愈々出ストスレバシツカリ懸ラナクチヤ困ル一月出スナラバ十二月中ニ原稿ヲ盛ニ作ツテ貰ヒ度イ購讀者五十人ハアルマイ實費ヲ頭割ニシテ取ル積ダ一人四五十錢ニモ當ルコトアリト覺悟セナクチヤ出來ヌ年ニ六囘ハ六ケ敷イダラウ如何

左翁來月來ルヨシ待居り候根岸歌集出版ノ相談アリトノ事賛成ニ候今ブラツキ乍ラ妻ヲ督シテ移轉著手中ナリ閑ニシテ忙メチヤクチヤノ感アリ今月中ニ新居ナルベシ是非來ラレルヤウ健康ヲ囘復セラレタシ(新居ト云ツテモ古イ家ダヨ)十一月廿三日                         俊比古

    望月詞兄

 本日長野新聞淺間登山ノ歌御評願上候新聞ナクバ小生ヨリ送ルベシ匆々

 「日本」課題信州人見エズ寂寥ニ堪ヘズ齋藤君一人振フ(十九日迄ヲ見ル)

 

       七二 【十一月廿六日・端書 信州下諏訪町より 東京赤坂區青山南町二ノ六十五 平福百穗氏宛】

 

病氣デ一寸ブラツキ居リ候今※〔鷄の鳥が隹〕小屋ヲ作リ移轉最中ナリ病人デモ忙シク御手紙ヲ見テ去年ヲ思出シ候馬肉ノ件又(58)ヤリ度ク來月左翁ト共ニ御來遊御スヽメ申上候小宅ニテ何日デモゴロツキ下サレ度候馬肉ハ實ニ面白カツタ志都兒ハ明日來ルト申來レリ二人デ馬肉ツツキ可申候(左翁十二月來ルト申來レリ)馬醉木遲刊小言諸方ニ聞エ候左翁何ト思居リヤ志都兒ト二人デ又何力書イテ送ル 十一月廿六日

 

       七三 【十二月十日・封書 下諏訪町高木より 北山村湯川 篠原圓太郎氏宛】

 

拜啓長野新聞今日の歌(澁崎行)御覽なりや同社背山君二三年來小生に長野新聞の歌を見ろとの勸め今囘は山本聖峰が牛山君を介して是非受持ち呉れよとの事小生も斷然一月から見る事に決心いたし候根岸趣味を信州山國に鼓吹する事多少の效果あるべきを信じやれるだけやつて見る決心なり從つて南信日日の方は閑却となるべし是に就ては諏訪筑摩諸同人の努力助力を借らざるべからず盛に御出詠希望いたし候信濃毎日にみづほのや選者となり盛に例の歌を出して賑はせ居れり我黨の歌は彼の如く盛ならざるべし(數ノコト也)吾人は吾人の趣味に立つて眞贄なる理想的の歌壇を長野新聞の上に立つてやつて見る事大に興味ありと今の處想像出來る就ては一日初刷に十數人の作を連ね度何首にても御送下され度十八日までに遲くも御送願上候(新年に因めるもの)

二、比牟呂の事につき打合せもし度しかた/”\十五日午前十一時から上スワ中町うら巴屋にて月次歌會相開き度それまでに活版屋との相談を濟ませ置き可申候雨降るも雪降るも御出掛下され度候二人揃つて御出會希望いたし候重要問題だから柏原連も必來る樣申送りたり君等からも御申送り願上候(朴葉にも云つてやる)山水、汀川、釜溪、唖水等

三、胡桃澤の留守居面白し左翁の食物のこと面白し

先は右用のみ急ぎ匆々 十二月十日夜            俊生

    篠原志都兒兄

 

(59)       七四 【十二月十二日・端書 下諏訪町高木より 上伊那郡朝日村 大森祥太郎氏宛】

 

悲痛言留ふ所を知らず御全家御心中御察申上候小生儀直に參上いたすべき處先月來少々病氣今猶時々出校する如き有樣何れ機を得て御伺申度取あへず御弔詞のみ匆々 十二月十二日

 

       七五 【十二月十二日・封書 下諏訪町高木より 上伊那郡朝日村小學校 大森祥太郎氏宛】

 

謹啓忠三君の御遠逝かね/”\遂に斯るべしとは存じ候へ共昨今の内とは存ぜず御報知に預り只々驚入悲痛いたし候御全家御嘆きいかばかりぞ御老父母御兄弟の御心中實に御同情に不堪小生儀已に十數年御厚誼を忝うし非常の御厄介相成り候事故取り分け悲痛の情に堪へず候然るに御歸省御臥床の間一度も拜趨の機を得ず昨日手紙差上げんとしたる處に御端書頂き只々茫乎といたし候同級生代表葬儀參列すべき處小生儀十一月七日淺間登山後少々呼吸器を損じ目下殆ど快癒せしも猶時々出校する位にて引籠り居りその意を得ず殘念に存じ候太田貞一君に依頼し參列の手筈はこび居り候折柄今日御手紙拜見いたし候處已に昨日の御葬儀との御事何も彼も手遲れいたし實に慚愧いたし候數日の中に太田參上いたすべく先は小生より取あへず御弔詞申上度如斯に御座候

  二伸 〇上諏訪方面生前の禮状御差出しならば

  一、上スワ小學校岩垂今朝吉外諸員一同宛一通 二、上スワ町小學校藤森省吾宛一通房州同居の人 三、上スワ町小學校三村斧吉宛一通 これだけにて宜しと存じ候

  〇忠三君病氣見舞金過日御送の後

  長の城山小學校今井一二(壹圓) 長の附屬小學校山崎邦次(壹圓)

  右計貳圓小生へ送附いたしありその他の人未著故それを待ちて御預り申置候何れその内に御屆申上ぐべく(60)候御承知下され度候右恐入り候へ共禮状一寸御差出し願上候 十二月十二日    俊彦

 

       七六 【十二月二十二日・封書 下諏訪町高木より 長野市西後町 三澤精英氏宛】

 

拜啓

一、新年原稿社へあて御送申上置き候御落手下され候事と存じ候(萬葉新年歌論と募集歌と二通)

二、就ては一月一日以後長野新聞小生宛御寄送下され候樣社の方へ御話し下され度候猶東京本所區茅場町三ノ十八伊藤幸次郎宛同樣願上候(左千夫氏也)

三、あや子樣の件當方は確定いたし候間其運びに願上候當校にては一月から御出勤下され候へば極めて好都合也どうせ四月から長野退散なる故一月から長野の家を疊んでは如何(君は下宿して)尤も之れは當方の勝手な譯なり如何樣にても好都合の方に御取定め下さるべく候

四、※〔鷄の鳥が隹〕五羽差上可申候相場が高いからそのつもりに願上候 二十二日夜       俊生

    背山兄

 

       七七 【十二月二十九日・端書 下諏訪より 北山村柏原 兩角福松・兩角國五郎・北澤金左衛門・兩角珂堂氏宛】

 

アシビは今後「アカネ」と改題一月一日より三井君主となりて發刊の由也盛に御出詠希望いたし候比牟呂は一月七日〆切いたすべく文章和歌何にても澤山御送願上候餘は新春を待つ 十二月二十九日

 

(61) 明治四十一年

 

       七八 【一月一日・封書 下諏訪町高木より 長野市西後町 三澤精英氏宛】

 

謹啓多望なる新年を迎へ御同慶存上候昨年は非常なる御厄介相成り感謝いたし候猶相變らず御引立御愛顧被下度悃願いたし候長野新聞元旦の賑ひ驚入り候とても一度に眼は通らずさし當り歌と貴兄「福島の宿」と太田兄の四十年文壇とを見申候貴兄の小説は初めて故殊に注意して拜見いたし候非常に面白く拜見いたし候筋が氣に入り候姥さんの話を聞きつゝ福島町を見下ろして居る所大に宜しく候姥さんをあんなに泣かせぬ方宜しと存じ候繪草紙の段最も苦心と存じ候膝と膝とがつき合ふ云々は拔いた方がよいと存じ候繪草紙の段が全部の重心なり結末の夢云々のぼかし方はいやに候朦朧なる描寫でごまかしてゐると存じ候あんな事一行ばかり書て大に事をこはし申候力が拔け申候貴説伺ひ度候「おりさんは夢である……は夢ぢやない」何の事やら鵺文學に候あれは夢でなく全く現實とすべきものと存じ候全部感情一貫して面白く候處々細かき疵あるは詮方なしと存じ候

一、左千夫氏へ新聞郵送有難く存じ候 二、小生續稿は明日御送可申候 三、應寡歌の三分は慥に不都合に候殊に小生のは連作として續いてゐるものを分けられて悲しく候 四、年賀の廣告感謝いたし候 五、弟兵役の件御手數恐入り候當方でも問合すべく候へ共猶何分願上候 六、新聞は當方共同店より毎日配達いたし居り候貴社の命令にて配達と存じ候

(62)御令閨樣に可然御傳言願上候匆々頓首 元旦夜      俊彦

    背山詞伯 座下

 

       七九 【一月三日・封書 下諏訪高木より 北山村湯川 篠原圓太氏宛】

 

新年匆々謌の議論をして來たのは君だ馬醉木も來ずホトトギスも來ず甚だ寂寥の處へ歌のぎろんと草餅とは大にうれしい草餅は御好意特に感謝する

「司らの咎もあらず」の歌は小生は感服せぬ司等のとがめなきなど消え極的な事柄はどんど火の如き盛なものを表はすには不適當である、吉野山霞の奥は|しらねども〔付○圏点〕見ゆる限りはさくら也けり 西行?の如き子規先生がかつて消極法について説かれた事ありと思へり特に|咎もあらず〔付○圏点〕と置いて末に神|ゆるしたり〔付○圏点〕と置くなど甚だイヤと思ふ|神許したり〔付○圏点〕ならば只積極に盛に焚き立てる火を神が許してゐると詠むべきと思ふ何しても|司らのとがめ〔付○圏点〕云々は大失敗と存じ候御意見折返し御洩し被下度候その他全部につき氣に入らぬ歌へ批評を添へて至急御送被下度候

三四十人のを十四五に削つてしまつたのだから出詠者には氣の毒に存じ候南信日日の方は多數中遂に一首を拔く能はず自分でも張合が拔け申候取るは樂ヂヤが拔くが苦しい手數だ小生のも振へりと信ぜず候南信日日へ出したのも御批評下され度候比牟呂に原稿澤山御送願上候此間差上げし「朝の歌」は御落手と存じ候新年會は廿五日の土曜にしては如何胡君その頃は少し閑になるとの事也日本課題御出しにや小生はこれからにて候

      寒さ

   校長の顔細く居る寒さかな

   一山の常磐木摧く寒さかな

(63)   この驛に一茶死んだる山さむし

   芒盡きて裸湖見ゆ寒さかな

   物たのむ鼻筋長き寒さかな

御一笑可下候

額の事一二日中出町催促いたすべく候先は急ぎ亂筆申上候 一月三日夜  俊生

    志都兒大兄 座下

 

       八〇 【一月七日・端書 下諏訪高木より 湖東村上菅澤 河西省吾氏宛】

 

賀正 蓼科歌非常に面白きものあり今春目に入りしものゝ傑作也愉快に拜見いたし候十二日在宅いたすべく候間御來遊被下度待上候也御尊父樣によろしく願上候 一月七日

 

       八一 【一月十九日・封書 下諏訪町より 豐平村上古田 小尾喜作氏宛】

 

御手紙拜見いたし候種々御苦心の程御同情申上候今東京に出るは早過ぎるかと思ふ無論よい事には相違ないが今少し教員としての實地經驗を經たる上出京する事更に得る所多かるべし教員をしてゐるとすれば玉川か上諏訪が宜しかるべし玉川に居るよりも上諏訪に居る方研究も出來るべし併し玉川も惡しきに非ず玉川で研究的にやる事も大によろし之は君の考通りでよし上諏訪では第一岩垂が君を非常に欲しがつてゐるその他の職員も同上だ只上諏訪では藤森に氣の毒だから躊躇してゐるのだ君の決心で自己の利害上より上諏訪轉任を藤森に請求しても不都合はあるまい君の決心は如何小生は三月限り學校は止めて百姓になる(多くの人に言ふ勿れ)

右愚見のみ 一月十九日          俊彦

    小尾君


(64)       八二 【二月七日・封書 上諏訪町より 下諏訪町小學校 森山藤一氏宛】

 

拜啓君が川柳をやるのは甚だ譯が分らぬ君が文學の上に立つて世に生存してゐるのが眞面目の仕事である以上川柳などに頭を使ふのはつまらぬ事ぢやないかと思ふ僕は必ず歌でなくちやならぬなどと云はぬ俳句でも歌でも長詩でも小説でも構はぬ併し乍ら何れにしても始めたら專心にミツシリやらなくちやならぬ忌憚なく云へば君は餘り多く手を出し過ぎるだから深刻に君の天分を表はす事が出來ぬと思ふ新體詩もその後見えぬ小説もたまには見えるが熱心とは見えぬ今の處で歌と俳句は君として尤も成效しつゝあると思ふ川柳など何處に研究の價値があるか僕には分らぬ或は僕が川柳を解せぬ誤解かも知れぬが僕は君が左樣に矢鱈多くへ手を出すのを遺憾と思ふ

天外から聞いた君が長野新聞の川柳を見るとの事僕は即時に不賛成を唱へた天外もさうか知らんと云ふ昨夜背山に逢つたそれはもう決定してゐると話した僕は背山にも牛山君へと同樣の意味に話した僕は長野新聞より何より根本から川柳全廢を君に勸める熱心に勸める御熟考が願ひ度い君の歸校後直に神來談が願ひ度い何もかも露骨に云つた失敬 二月七日                 俊生

    汀川兄

 

       八三 【二月十八日・封書 上諏訪町布半より 松本市本町松本銀行 胡桃澤勘内氏宛】

 

御返事申上候今比牟呂の至急分が發送終つて志都兒と茶をのみつゝ此手紙認め候解嘲歌大に面白く候君の眞情が直截に活きてゐるから讀んで生動して居り候捉へ所の適應と思ひ候春の歌や戀の歌の評は參上の上ゆる/\御話し申度候誰のどの歌面白い面白くないと段々言つて來れば遠方に居て「只斯う思ふ」だけでは思想がまとまらぬつまり水掛論に類して來る大體の傾向が近來斯樣になつて來たこりや惡いとか善いとか云ふ注意が必要である乙(65)字君の俳論など僕等にはよく俳句が判らぬが研究的用意は感心である僕等から見れば諸同人近來の傾向は思想に餓ゑてゐる觀察も進歩せぬよい歌を作らうといふ興味は盛であるが思想上の興味は之に伴はぬ思想や趣味が活動せぬのだ此根本問題を誰も遺却せんとしては居らぬけれど弱味は矢張り此點に在る吾人は人生觀を進めねばならぬ哲學的研究も宗教問題も必要である併し吾人が有する眞の人生觀は只哲學の如き智的修養のみからは得られぬ偉人の自然感化にも浴せねばならぬ人生活世間の辛酸にも鍛へられねばならぬかくして吾人は眞個の人生觀を抱く同時に或人格品性が築かれるその源泉から日常の行動は流れ出る吾人の興味は高くなる大きくなる斯樣な順序であらうそこで吾人には日常行爲の問題が出て來ねばならぬ今日吾人同人間に日常行爲問題が盛であるか正岡先生の病床六尺時代の書きものには常に斯る問題が出て來てゐる正岡先生などは哲學など學んだかどうか知らぬが高い哲人であつた眞個の哲人は必空漠の人生の理想論などよりも活世界の上に隨時の判斷を下して行く日常行爲問題を必離れぬこゝまで來て居らねば詩人も困る

吾人は吾同人の比較的(鐵斡等よりも)この間題を捉へて居るを諒とするけれども此根本問題に大熱心であるとは云はれぬだから少し面白い作が出來ると直ぐあとが續かぬ發生期の堀内君や柳澤君などは面白いものが出來るのは思想が活動してゐるからだ併し思想界の修養を盛にせねば直ぐ下落する僕にも充分この傾向がある「諏訪神社」陳腐問題は全く諾肯する志都兒にもこの傾向がある君にも望月にも此傾向がある事を諾肯して貰ひ度いよい歌を作り度いなどあまりあせらぬがよいよい歌は自然湧いて來るよ(怠れぢやない)細かい一首つつの事は此内に參上御話し申度候奇遇君の歌矢張り面白く拜見いたし候中に少し立入り過ぎたもの有之かと存じ候別紙加入御返し申上候此手紙望月君に御見せ願上候どうも書くと要領を失し困入り候全然分らぬ事書いた樣にも思はれ困入り候廿四日に參上いたすべく候望月君が出松して呉れれば大幸甚に候暖氣を祈り候宿屋の硯に墨なく非常の薄墨字も亂暴申譯無之候一日中字をつづけて已に眠くなり候比牟呂御評待人り候 二月十八日夜  俊彦

(66)    御兩君

 

       八四 【二月十九日・端書 下諏訪町より 東筑摩郡島内村 望月光男氏宛】

 

比牟呂御落手と存じ候印刷屋とけんくわして遂ひ發行所を小生方といたし候御評御待申上候氷の歌難有存じ候終りのは感心せず候甲之君狐云々の歌貴意賛成に候舊比牟呂数册あり二十四日持參可致候 二月十九日夜

 

       八五 【三月四日・端書 下諏訪町より 東筑摩郡島内村 望月光男氏宛】

 

今朝手紙出さんとする時御端書拜見いたし候未だ繁忙にて創作物を見しのみ也甲之君の小説は徹頭徹尾觀念を列べたので理解が直接ならず特色はあるが不賛成に候胡君のはよい併し第一、二が散漫也第三が振つてゐる兎に角作者の感情が始終を一貫してゐるのは嬉しい左翁の和歌矢張りよい蓼科歌はよくない次に君の朝の歌の終り七首は非常によいあれは山上の眺望といふ題でもあるべきと思ふ千里君のにもよいのがある小生の氷切終り一首の御批評全く同感なりあゝいふ歌はこけ威どしなるべし「一つりの灯さげ行く」が自分では一番よいと思つてる九日頃參上いたすべく候尤も君が出松出來なくちやだめだ匆々失敬 三月四日朝

 

       八六 【三月五日・端書 下諏訪町より 中洲村神宮寺 笠原田鶴氏宛】

 

拜啓一の病氣心配の至りに候肺炎は藥よりも手入に有之折角氷冷法その他御周到祈望いたし候當方にても政彦又又ヂフテリヤを始め今日注射いたし候此方は心配無之と存じ候大に無音申譯無之候へ共右の次第故早速參上出來ず取あへず右申上候也 三月五日夜

 

(67)       八七 【三月七日・端書 下諏訪町より 東筑摩郡島内村 望月光男氏宛】

 

又々延引いたし候長男ヂフテリヤにてこゝ二三日は拔けられず今度は出し拔けに參上いたすべく候寫生から主觀に進み暗示に進む徑路は八風乙字二君の云ふ通りなれど之がために客觀的寫生的が生命なしと考ふるは大間違なり人間の思想が進歩する限りは寫生は進歩すべし印象明了も進歩すべし進歩せず死滅する時は同時に主觀の死滅する時也如何

 

       八八 【三月十五日・封書 下諏訪町より 南佐久郡大日向村小學校 井手八井・佐々木牧童氏宛】

 

拜啓學期末御繁忙の御事と存じ上げ候小生もやゝ忙しく手紙差上げんとして矢禮いたし居り候今日御稿猶一囘拜見長野新聞の方へ送り置き候八井君のは七首牧童君のは三首(二首は過日の手紙の末にありしもの)選出いたし置き候御兩君とも或は御不平かと存じ候へ共小生の採る能はざりし理由は過日の書面にて御承知願度候こんなこと一々出詠者に對して申送りきれず候へ共御兩君に對し過日の書面も差上げ置き且御返事も頂戴いたし有り候間云はねば氣が濟まず又々一書差上ぐる次第に候歌は輪廓のみにては淺く候内容の特色が眼前に躍如せねば困り候これには只抽象的文字を併列したのみぢやだめに候光明よ希望よ運命よ呪詛よなど云ひ居るものの多くは徒らに衒氣多くして淺薄なるは此理に外ならずと信じ候此點に於て根岸派の寫生趣味は千古不動の特色を有せりと信じ居り候

       病閑              子規

   四年寢て一たび立てば草も木も皆眼の下に花さきにけり

   不二に行きて歸りし人の物語ききつつ細き足さする我は

(68)   人皆の箱根伊香保と遊ぶ日を庵にこもりて蠅ころす我は

寫生的趣味を以て平凡陳腐など申すものありもし果して平凡ならばそは作者が平凡といふ事也作者の趣味が平凡でなくば寫生の歌も平凡の筈無之と存じ候甚だ失禮に候へ共御兩君の歌未だ寫生趣味に乏しきの感有之候今月中位に學校もしくは貴宅の庭上に見ゆる何物にてもよろしく候間五首乃至十首御作歌の上御高示に預り度研究上の事に候間無遠慮に愚見申上ぐべく氣に喰はぬ所は失張露骨に御申越下され度祈望いたし候甚だ不得要領の手紙にて毎度失禮に存じ候先は右申上度匆々不盡 三月十五日夜              俊生

    井出八井樣 佐々木牧童樣 梧右

  牧童君に申上げ候諏訪郡居住の件今の所早急には困り候何れゆる/\詳細拜聽可仕候也

 

       八九 【三月十八日・端書 下諏訪町より 長野市師範學校 河西省吾氏宛】

 

拜復試けんにて御折角に奉存候主かん的の歌暗示法の歌(乙字氏の所説)とて格別進歩したものには無之客觀的活現法の歌が面白くばそれを詠んで居ればよろしくと存じ候その内に暗示法(會下の友の如き)的のも面白かるべくと信じ候小生氷切の歌は矢張り活現法のものなり試けん終へたら少し御作り希望いたし候原田秋郎は誰れだか知らず匆々 三月十八日

 

       九〇 【三月三十日・封書 下諏訪町より 東筑摩郡島内村 望月光男氏宛】

 

拜啓御返書遲延いたし候急用出來しため處々往來遂に廿八日新湯へも行き得ず殘念至極存じ候アレから御歸宅後腹具合惡しかりし由昨今如何にや大した事なからんを切望いたし候

御詠草愚見記入御覽に入れ候歌が出來ぬと云ひつゝこの位出來れば澤山也小生の歌についての御評大抵異議なく(69)候「松山の松の下道車押す湯原少女に雪しづれつつ」の松山を殿山とせなんだのは固有名詞二つ並用の調和惡しからんと思ひて也湯原少女を中心として活かし度いには餘り特殊性ならぬ「松山」位の普通名詞が適當ならずや御意如何「見まくほり君を思へば春の日の雪げの道の長き松山」は山裾がよからんと存じ候「檐つたひ」云々は全然失敗也「一夜に似つゝ雨を聽くかも」は再考ものに候

お亭の間の一夜長き記念也山邊に籠りて長きもの作り度し淺間は短篇的山邊は長篇的也よき時見計らひて何時にても御出掛下され度候志都君今東京に在り四月上旬まで滯在のよし歸國を見計ひて御出掛下され度候君の來り次第新湯會を開き可申候アカネ三號僕の文章は四號に廻す由申來り候比牟呂〆切は四月七日まで延す何か御送り下され度候長野新聞選歌に今度はよいものありたり嬉しく候

※〔鷄の鳥が隹〕舍増營に著手こゝ少し忙しく候大に暖く成り卵を産み出し候右のみ匆々不宣 三月卅日夜  俊生

    光男樣

 

       九一 【四月十二日・端書 長野縣諏訪郡下諏訪町より 東京市赤坂區青山南町 平福百穗氏宛】

 

大御無沙汰誠に申譯無之候四月一日より閑散となり※〔鷄の鳥が隹〕專門にいたし居り候今月中は※〔鷄の鳥が隹〕の世話で忙しく候それが終へれば東京へ遊び可申候蕨君西京行只々羨望也左翁小説熱心驚くべし密畫的な所がちよい/\見えをかしく候小生も小説の密畫がやり度く成り候匆々 申四月十二日夜

 

     九二 【四月十二日・端書 下諏訪町より 富士見村神戸小學校 兩角喜重氏宛】

 

彌々不二見原乘込の由先づ/\それで落著と存上候田舍の靜な處で讀書するが專一と存じ候不平も何もあつたものに非ず修養が專一と信じ申候何れ遊び乍ら參上可仕候匆々 申四月十二日夜


(70)       九三 【四月二十三日・封書 下諏訪町より 宮川村中河原區 唐澤うし子氏宛】

 

御返事相後れ申譯無之候折角御出掛下され候處不在いたし遺憾に存じ候夫れ前の日曜まではお待ち申居り候處その後御手紙參るだらうなど思ひ居りウツカリいたし候段御許し下され度候宮坂親一と申す男つまらぬ人間に有之候校長がそんな事まで干渉するとは彌々たはけた事也そんな事は御構ひ御無用と存上候

和歌は今迄どんな本どんな雜誌御覽にや小生の御すゝめ申さんとするは雜誌にては「アカネ」(根岸歌會機かん)古書にては萬葉集金槐集(實朝全集)田安宗武卿家集曙覽全集等明治の書物にては正岡子規先生遺稿全部ことに竹の里歌は必御一讀必要と存じ候古今集新古今集等の如きはつまらぬものなり御覽の必要可無之と存じ候古今集新古今集西行の歌賀茂眞淵の歌本居宣長の歌の如き多く俗惡にして讀むに堪へず明治に入りても佐々木信綱與謝野晶子等の歌何れも馬鹿らしく存じ候小生等は正岡先生の指導の下に根岸派和歌を研究するを欣び居り候正岡子規先生は人格に於て偉大なりし故和歌も俳句もその他の文學も皆偉大に候子規遺稿は是非共御一讀御すゝめ申上候以上の書物御志望に候はば小生より御世話申してもよろしく小生所持のものは御貸し申してもよろしく候先は御返事のみ取急ぎ申上候亂筆御ゆるし下され度候也 四月二十三日         俊彦

 

       九四 【五月一日・封書 下諏訪町より 東筑摩郡島内村 望月光男氏宛】

 

拜啓何時かの長い手紙拜見後返事書かん書かんと思ひつゝ今日にいたり候捨てゝ居たのぢやない四月以來の繁忙にて何も書けず昨夜漸く長野新聞の歌を見了り今夜君への手紙を書くなり目下※〔鷄の鳥が隹〕百餘羽ありその手入のために朝から晩まで動き續け立ち續け居り候これで五月中旬又々百羽増加すべくそれが成長するまで忙しかるべし暇を得んために教員をやめて此繁忙に逢ふは滑稽なれども※〔鷄の鳥が隹〕成長の上はズツと樂に成り可申候

(71)貴兄の近状如何春暖に逢ひて追々健康増加せりや心に懸り候今月中に是非御來遊ありたし繁忙と云つても一日や二日君と漫歩する位の餘裕はあり御出掛二三日前一寸御知らせ下されば萬事片をつけて置き可申候汽車があるから何でもないよ左翁五六日頃來遊との事今度は松本が主眼にや先生中々餘裕あるには驚入り候

比牟呂は目下印刷中の由に候近頃上スワ行の機なく手紙にて催促いたし居り候不折畫伯の表紙(字ナリ)も間に合ひ候五日から十日の間位に出來可申候次號は必ず六月中に出すべく今月廿五日頃までに原稿御作り願上候堀内君病氣よろしからずとの事困入り候非常に神經過敏の事申來り候何とかして御慰め下され度小生よりは明晩長く書いて送るべく候あの男の顔は只一度逢つたのみだが明了に想像出來候何かあると思出し候妙な所のある男なり清淨温雅當世の人に非ず

萬葉の件|しく〔付○圏点〕問題は貴説全く當り居り候小生の失言に候莫囂云々(萬葉一)難解の歌君の如くよめば慥に分るあれを「ウネビノ山シオモホユ」とどうしてよめるか分らず候紀の國云々の詠み方全く意を得ず候

萬葉十七「たち山の雪か|くらしも〔付○圏点〕延槻の川のわたりせ鐙つかすも」を|來らしも〔付○圏点〕(貴説)とは何の意にや解せず候雪がとけて來るの意でも無からん小生は矢張り消える方に解し度く候

萬葉十七相聞の歌「庭にふる雪は千重しくしかのみに思ひて君をあが|またなくに〔付○圏点〕」を|戯れに反對〔付○圏点〕云々の貴説仝く非なり「勝間田の池は我しる」とは異れりこの次の歌「白浪の寄する磯田を榜ぐ船のかぢとるまなくおもほえし君」と連作的に出來てゐる歌にあらずや前後の關係や詠みたる場合を考ふべし家持の歌にはどうも技巧勝ち過ぎたるもの散見いたし候以上二首もそんなによい歌と思はず候深くないと思ひ候、如何。久しく萬葉を離れ大に忘却いたし候そろ/\調べはじめ可申候疊語同語御集めの事面白く候何とか纒めて比牟呂へ御遣し下され度候斯樣な研究も一方より必要に候萬葉を研究する人が奈良朝を研究せねば心得ぬ事に候吾人はすべての方面より研究して奈良朝の人間に接し度く候奈良朝の人間を研究せねば萬葉も淺いものと存じ候

(72)挿入句の件如何小生の方にてはその後未だ調べて見ず候御説あらば聞かせてくれ玉へ山邊の一夜忘れ難し山邊で廿日ばかり讀書し度いお亭の間の歌會は比牟呂原稿書いてゐる内に和文體になつてしまひ變なものに出來候改むるも面倒故その儘出し置き候佐久間象山論御評願上候右のみ匆々不盡 申五月一日夜  俊生

    光兄臺下

 

       九五 【五月四日・端書 下諏訪町より 松本局島内村 望月光男氏宛】

 

「アカネ」の歌不振不愉快ナリ下手な議論ばかりしてゐるからいかぬのだ小説評など見當違也裸體あれば下等など困りもの也隣の嫁をよんで「入浴の所」誰か劣情を起す者ぞ君の歌餘り悲慘に過ぎて情を傷る傾あり未の一首大によし如何御返事まつ 五月四日

 

       九六 【五月二十日・封書 下諏訪町より 長野市師範學校 河西省吾氏宛】

 

復啓益々壯健のよし賀し上げ候小生日々養※〔鷄の鳥が隹〕にかまけ居り候健康大に増し身體も太り候間御喜び下され度候

高山植物の歌振ひ居らず候千島桔梗長之助白山いちげの如き特殊專門家にあらざれば知らぬ名のものその儘を用ひて作るといふ事第一に考へものに候小生も以前そんな事をしたれど今日より見れば皆不成功に候もしその物の中のどれかに非常に興味ありてそれを詠まむとならば前書きの文によくその説明を書いてその説明文中の一部を詩的に歌ふより外手段無之かと存じ候只一般に高山植物に興味ありといふならば千島桔梗とか何んとかいふものを特殊的に詠まずして一般的高山植物開花の有樣やその四近との配合などを主として詠むべき事と存じ候

   寸にみたぬ花の梗のべて筒かたの紫にさく千島桔梗の花 の類は全く失敗に候何處にも高山的感じが表れ居らず候平地の花を斯樣に詠みても同じ歌を得べし用意淺しと可申候

(73)                                   燒砂のなだれて黒き山の背になよなよ咲ける駒草の花 の如きは前

に比して高山的用意備れり

   遠くにわが行く山の砂原になよなよ咲ける花をあはれむ(猶改むべし)

の如く更に之を感じ的に詠む工夫必要に候この用意御熟考希望いたし候手紙にてはよく悉し難く候前の貴詠「竹籠|さむく〔付○圏点〕唐松ちるも」を「竹籠の上に唐松ちるも」等では利かぬ事に候詳しくは南信日日紙上御覽下され度候課題は橋、草、生徒、長野新聞今度の課題可成多く御送り下され度候同紙上にて根岸趣味を信州に鼓吹いたすべく候信州には猶根岸兒多かるべきを信じ候

比牟呂二十五日頃出來るから送る 十九日夜十二時半亂筆      俊生

 

       九七 【五月二十五日・封書 信濃諏訪郡豐平村より 東京本郷區元町二ノ六六藤森良藏方 塚原葦穗氏】

 

拜復昨夕新湯より歸宅して書面を見今日古田に來り(建碑手傳を兼ねて)種々相談いたし候先づ今日の處大阪高等工業を受けて見るがよからんとの協議故その方の手續いたされ度候

一、大阪工業に入るとして大阪にての費用どの位のものにや大阪市の衛生は如何、右熟考の上にて受檢を宜しとせばその手續御踏みありたし 一、水産の方も今一度よく良藏君等と協議して見るべし 一、高等學校の方は六年は長すぎたり一家の事情迚もだめなり

右の内にて如何樣にも御決定御返事ありたし(古田と高木へ)それで猶失敗ならば暑中休に相談するがよいどの道を歩いても人間の價値に高下なしクヨ/\するな以上 五月廿五日

 

       九八 【五月三十一日・封書 下諏訪訪町高木より 東京本郷區元町二ノ六六藤森良藏方 塚原葦穗氏】

 

卅日出の手紙披見苦心察し入り申候苦境必しも人の爲めに惡しからず餘り煩惱せぬ樣希望いたし候師範入校の決(74)心賛成いたし候然れども是は最後の手段に候へば先づ以て大阪工業を受けて見ては如何落第したとて恥にはならず平氣でやつて見ればよき也よければ結構いけなくても困らぬといふ心持でやつて見ては如何。衛生惡しければ市外に居りてもよろしかるべく候同地には米澤村小松武平君も居り下諏訪町友の町の高木君も工業学校に在り多少好都合なり是が氣に向かずば斷然師範入學と御決心可有之候よくく御熟考の上決定あり度し古田にても只今にては大阪工業受驗のつもり也何もかも餘裕ある態度にて御進退あるべし

〇何れとも決定次第直に御報知あり度し

〇暑中休迄は日本大學の方に出席すべし代人を出して歸國し居る事危險也兵役取締嚴重なれば也 五月卅一日夜

 

       九九 【六月二日・封書 下諏訪町高木より 北山村湯川區 篠原圓太氏宛】

 

拜啓比牟呂モ出來タ、アカネモ出來タ比牟呂ノ責任ハ今ノ時ニ當テ特ニ重キチ感ズル如何ナル困厄ニ逢テモ屈シテハナラヌト益々自奮スル今度ノ比牟呂ハ四十頁バカリニナツタカラ定價ハ廿八錢トイフ高イモノニナツタ我々熱心者ノ仲間ハ二十錢デモ三十錢デモヨイガ一般ノ人ニハ氣ノ毒デナラヌ比牟呂ハ今後全國ヲ相手ニシテ活動スルノ覺悟ダ少クモ信濃ノ青少年ニハ今後我黨主張ノ貫徹スル機會アリト信ズル

然ル時ニ四十頁ノ小雜誌(外形ニ於テ)ヲ定價二十錢三十錢ヲ呼ブハ無常識スギル今ノ處三川人ノ寄送ガアルカラ未ダヨイガ全費用ヲ讀者敬ニ正直ニ割當テレバ更ニ高價ノ者ニナル僕ニ若シ生活費ノ餘裕サヘ多少アレバー册十五錢位ニ定メテ仕舞フ一册十五錢ニ賣レバ損高ハ七八圓以上ノモノニナル一度出ス度二十圓カラノ足前ヲスルコト小生現今ノ境遇デハ少クモ一年バカリノウチハ堪ヘラレヌ小生ノ生活ハ現今隨分苦シイ養※〔鷄の鳥が隹〕八十羽ガ僕一家生活ノ費用デアルソノ他ニ收入ハ少シモナイ春蠶夏蠶一枚ヅヽ飼ツテモ知レタモノダ長野新聞カラ月二三圓来ル南信日日カラ一圓來ル悉合セテモ親子六人ノ口ハ糊セヌ僕ハコンナ境遇ヘ自ラ好ンデ踏入ツテヰル小學教員ヲシ(75)テ居レバ兎ニ角月ニ三十五圓取レタ三十五圓ヲ捨テヽ※〔鷄の鳥が隹〕八十羽ニ就イタノモ自分ノ物好キカラ起ツタコトデアルカラ困リハセヌ困リハセヌガ物質的ノ困苦ハ大ニ増加シテヰル養父カラ多少ヅヽノ補助ヲ仰デ居ルガ男子三十三歳ニシテ一家ヲ經營出來ズ、サウ/\ネダルコト情ニ於テ忍ビヌ今年※〔鷄の鳥が隹〕ヲ増殖シテ百五十羽乃至二百羽ニスル計畫デアルコノ計畫ガ具合ヨク出來レバ比牟呂ニ一度十圓位ノ金ヲ出スコトハドウカカウカ出來ルツモリデヰル只今年一年ガ大ニ苦シイ創始時代ノ苦シミデアルカラ愉快デハアルガ苦シイコトハ實際苦シイ茲所デ君が五十圓ノ金ヲ二年バカリノ期限デ小生ニ貸シテ呉レヽバ大ニ有難イ五十圓ノ餘裕アレバ今年一年カラ來春マデ小生ノ執ル事業ハ非常ニ餘裕ヲ生ジテクル五十圓デ餘裕出來ルナンテ哀レナ者ダガ實際僕ノ程度ハソンナ者デアルコトヲ白状スル雜誌ノ方ハ斷然定價十五錢ニ定メテ仕舞フ寄送ナド必シモアテニセヌ一二囘位ノ旅行モ心配ナシニ出來ル君モ隨分旅行シテヰル妹君ハ遠ク出デテヰル金ノ餘裕或ハ六ケ敷カラン無理ナエ面ハシテ貰ヒ度クナイ只都合出來ル範囲ニ於テ心配ヲ願ヒ度イト云フノミデアル必シモ出來ナンデモヨイ只思付イタマヽヲ相談スルノダ今不可ニシテ七月八月頃ナラヨイト云フナラソレデモヨイ

比牟呂ハ印刷所變更ノタメ不馴デマヅイ所ガアル消息ノ追加ハ丸デ落シタ活字ノ不足ハスグ東京カラ取寄セルト云ツテヰル胡君カラモ望月君カラモ何トモ云テコヌノデ張合ガナイ甲之君カラハ盛ニ云テ來タ左千夫ハ子規七囘忌記念トシテ諸同人ノ歌集ヲ出スカラ比牟呂全部ヲ送レト(最初カラノ)云テ來タ

タラノ芽早ク送ツテクレ食ヒ方モ書イテ呉レタラノ芽ヲ持ツテ出テ來レバ猶妙ダ共ニ料理シテ食フ話ス落合歌會ハ振ツタツモリダ長野新聞ヘ今ニ山ルカラ批評シテクレ玉ヘ三四日消化不良デ具合惡シ 六月二日正午 俊生

    志都兒兄

  科野舍トイフ人南安曇郡東穗高村ノ人ナリ有望ナリ

 

(76)       一〇〇 【六月五日・封書 下諏訪町高木より 北山村湯川區 篠原圓太氏宛】

 

拜復御配慮相掛け恐入り候御來意に從ひ八月末迄に金五十圓御融通御貸附下され度主として比牟呂發行用に供すべく候へば失敬だが無利息の事に願上候その代り從來の定期寄送は三號より御依頼を止め可申候然る上は早速次號より定價十五錢と相定め可申購讀者二三十人殖え候へば十二錢か十錢に改め度と存じ候

次號はおそくも七月中に出し度原稿可成多數御送下され度本月二十日頃迄に願上候二號は原稿何囘にもまとめしため統一なき編輯いたし遺憾に存じ候今少し長き御批評意見待居り候胡君からは著いたとも云ひ來らず返事を催促したれども何も云ひ來らず病氣ぢやないかと氣に懸り居り候甲之君からは非常に長い評が來り候

中央俳句界の誰かに依囑して俳句選をして貰はんかと存じ候小生も俳句作り度けれど信州によき人なしアカネの六花、乙字などよきかと思ひ候右御意見御申越待上候望月胡桃澤等も賛成ならば斷行いたすべく候長い批評來ぬが一番張合なし朴葉など何も云ひ來らず不都合に候褒められ度いのぢやない惡口(?)や議論や質問が同人間に流行らぬが寂しき也七月の飛騨旅行今より御用意希望いたし候

   朝露の葦ゆすり鳴く葭切りのさやけき言を聞かず久しも

      六月五日              柿乃村人

    志都兒兄

  比牟呂メタ寄送シタラ殘部二册ニナツテシマツタ數日中ニ註文ナケレバ送ルソレマデ待ツテクレ給ヘ

 

       一〇一 【六月二十日・封書 上諏訪町布半方より 松本局島内村 望月光男氏宛】

 

蠶が庭休で疲れを養ふべく布半に來て半日寢ころぶ晝夜の勞働で前後も分らぬほど眠い、だるい。明日から八日(77)働けばもう千秋樂である寢乍ら君ノ原稿ヲ見タガ文章甚ダ振ハヌ和文であれ丈けの長さを續けるが無理だどうも冗長に過ぎる甚だ失敬だが今一度訂正しては如何和文と言文一致との混淆も如何のものだ今つと急所を力入れてアトは省き度い余の神經衰弱で正鵠を過つてゐるかも知れぬが今一度御通讀を望むソレデモ猶確信あらばこの儘にて返せ失敬多罪 六月廿日    久保田生

    望月光男樣

  コレカラ家ニ歸ル午後七時 卅日迄デヨシ

 

       一〇二 【六月二十一日・封書 下諏訪町より 北山村湯川區 篠原圓太氏宛】

 

  比牟呂原稿月末迄でよし盛に御送あれ柳澤君にも云へこんな紙で失敬

拜復昨日庭休み今日口付け今七八日にて全く終り可申候成績最上等には非ずとの事兎に角はじめて自分が全責任を負つて養蠶して見申候體は非常に疲れるに驚入り候此手紙書き居る時已に睡魔頻りに襲ふ併し今十日位は充分續くよ御安心是折る(ヤセ我慢ヂヤ無イ)御申越により君の歌稿御送申上候不二兄第一會のは要らぬだらうと思ふが御端書の意味充分に分らぬ故念のためこれも同時に御送申上候小生の記入御一覽被下度候

望月君の「諏訪行」の文章昨日庭休を利用して布半にごろつき乍ら一讀大にまづかりし故返送今一度作り直さんを勸めやり候今に來るだらうと存じ候小生月末は何もだめ也あと次便のこと 六月廿一日夜          柿乃村人

    志都児兄

 

       一〇三 【六月二十一日・端書 下諏訪町より 上諏訪町片羽 牛山郡藏氏宛】

諏訪地方蠶桑繭の消息長野新聞に見えざるは缺點と存じ候殊に新繭出などは尤も急速に掲載所望いたし候餘計な