赤彦全集第8巻、岩波書店、874頁、2200円、1930.10.15(1969.12.20.再版)
書簡集
(1)目次
書簡集 前篇
明治三十年 五通……………………………………………………………七
明治三十一年 三通……………………………………………………………一〇
明治三十二年 八通……………………………………………………………一三
明治三十三年 五通………………………………………………………………一九
明治三十四年 四通………………………………………………………………二三
明治三十五年 二通………………………………………………………………二五
明治三十六年 四通………………………………………………………………二六
明治三十七年 六通………………………………………………………………二九
明治三十八年 九通…………………………………………………………………三二
明治三十九年 十一通………………………………………………………………三七
明治四十年 二十通………………………………………………………………四四
(2)明治四十一年 四十六通……………………………………………………六一
明治四十二年 二十九通……………………………………………………………九六
明治四十三年 十九通…………………………………………………………………一一三
明治四十四年 三十五通……………………………………………………………一二三
明治四十五年・大正元年 三十六通………………………………………一四四
大正二年 三十七通……………………………………………………………一六四
大正三年 十六通…………………………………………………………………一八九
書簡集後篇
大正三年 五十八通……………………………………………………………二〇一
大正四年 六十通…………………………………………………………………二三五
大正五年 六十七通……………………………………………………………二六九
大正六年 五十四通………………………………………………………………三〇五
大正七年 四十五通………………………………………………………………三二六
大正八年 九十八通………………………………………………………………三四六
(3)大正九年 百五通…………………………………………………………………三九四
大正十年 八十一通…………………………………………………………………四五〇
大正十一年 九十六通…………………………………………………………………四九〇
大正十二年 百三十通……………………………………………………………………五二九
大正十三年 百四十六通………………………………………………………………五九六
大正十四年 二百七十八通……………………………………………………………六五八
大正十五年 百二十五通…………………………………………………………………七七○
書簡集 索引……………………………………………………………………………………………八二一
年譜……………………………………………………………………………………………………………八五一
書簡集 前篇
(7)明治三十年
一 【八月七日・端書 堺市扇屋より 信濃國下水内郡外樣村.清水謹治氏宛】
七日七條の停車場に別るさはりなく名古屋に著けりや奈何父君の御病勢如何心配いたし居り候僕等は大阪を一通り見物し當堺市に來り醉茗君に面會し當旅宿に投じ申候明日は神戸泊のつもり也 八月七日夕 塚原
二 【八月九日・封書 廣島市吉川旅館より 長野縣下水内郡外樣村 清水謹治氏宛】
拜呈堺にて差上候書状御落手被下候哉否や本日は已に御歸省の御事と遠察いたし居候御尊父樣の御樣子いかゞ心痛罷在候
小生等は昨日は神戸より乘船せずして直ちに岡山まで直行いたし自由舍と申す旅舍につき申候室の綺麗その他今迄第一等と判じ申候實は人力でやり込んだで斷られなかつたかも知れず今朝は尾道の汽船にのり込むつもりにて自由舍に発著時間問ひ合せたる處午後二時と申したるにより今朝は樂つくり後樂園城跡市街を見物し尾道へは午後一時著仕候處汽船は矢張り一時何分の發にて小生等の港に走りたる際汽笛は波に響きて出發をはじめために殘念ながら當地まで直行と定め只今吉川旅館と申すに腕車をかり申候明日は是非汽船に乗り込まねばならぬと存居候最早早く福岡につきたく相成候
(8)願置き候電カハセの儀は振出人をば清水謹治受取人をば清水俊彦となし被下度こちらよりの電報も小生は清水俊彦にて發信可仕左樣御承知被下度十二三日には是非頼むつもり何分願上候福岡著の上種々御報知可致候御看病專一に存候 八月九日 大森 塚原
清水君
三 【八月十一日・封書 筑前福岡市萬町二十一番地篠崎方より 信濃國下水内郡外樣村 清水謹治氏宛】
拜呈堺、廣島より差上候書状御落手被下候御事と存候
昨日午前廣島兵營公園等遊覽仕候午後宇品に至りこゝより汽船龍田丸に乘り込申候船は頗る廣大のものにして長さ四十間にも達すとの話に有之候嚴島をへてはじめて瀬戸内の波浪に入る大小の島嶼起伏峙立風光の絶佳なる實に言盡し難く存候恰かも呉の海兵二十名ほど乘込み居り共に晩餐を喫しそれより各甲坂上に出でゝ天邊より襲ひ來る凉風に吹かれつゝ軍歌雜談等に快活なる月を眺め申候
今朝黎明門司著船は多少動搖したるも幸ひ吐瀉チヤルもやらず無難に渡航いたし候間御安心被下度候門司より二番にて當市に到着仕候處岡村氏は未だ來らず加之本尊の觀音樣たるべき篠崎君が未だ歸省し來らず只今の住所不明との事に吾人の想像の快も大に破損いたされ候
詮方なく篠崎君の家が旅舍なるを以て宿を頼み明日まで待ちそれにても來らねば(多分來らざらん)直ちに馬關にかへりて大森と別るゝ計畫なれど如何せん岡村氏來らざれば大森の旅費が大不足なるを、僕は岡山にて又々金嚢紛失したれば夫れ以來悉皆大森の腰にて旅行いたし居候へば大森は目下窮乏の體已むを得ず足下に過分の電報を打ち猶他にも打電したるの罪何卒々々惡しからず御赦し被下度候御家内中樣にも可然御わび申上被下度願上候猶これ以後の状況はその都度御報可申候僕は十四五日頃は須磨に過すつもりなればおそくも廿日頃には歸宅可致(9)候若し長野へ早く出ればゆる/\快談致さん乍末筆失禮御尊父樣はじめ皆々樣の御容體如何一同心配罷在候御子諏訪郡豐平村へあて御一報なし置き被下度候先は亂筆 八月十一日 伏龍
眼虎樣
四 【八月十三日・端書 福岡市萬町篠崎方より 信濃下水内郡外樣村四九番 清水謹治氏宛】
電爲替本朝正に落掌御心樓のほど實に感謝の外無之候然る處大森は旅行券下附相成らず已むを得ずかの朝鮮行は中止と致し候間右樣御承知被下度これより九州の夏をとふつもりとの事小生歸國すべし 八月十三日
五 【八月十七日・封書 尾張國名古屋停車場前一樓より 長野縣下水内郡外樣村四九番 清水謹治氏宛】
今日十二時名古屋著今夜八時夜行列車乘組明朝九時新橋ニ入ラム束京ニテ食策ノツキ次第早速歸郷ス可シ君ノ手紙ハ諏訪郡豐平村ヘアテテ出シテ呉レテ置キ玉ヘ僕ハ今只家ニ歸リテ君等同輩ヤ子供カラノ手紙ヲミルノミヲ樂ンデ居ル
名古屋停車場前ノ一樓ニアリ未ダ晝飯ヲ食ハズ空腹甚シ今夜夕飯ト共ニ一食ノ名義ニシテ經濟ヲハカルツモリ亦一興ナリ名古屋ガ持ツトカ持タレルトカイフ城ノ金ノサチホコモ見物イタシ候廣小路モ大阪神戸ヨリ入リ來リタル發生期(化學的ニイヘバ)ノ眼カラハ見モノトイフ程ニアラズ、モーイヤニナツタ早ク歸宅シタイ
今日ハ大垣ノ城ヲミタ中々ヨロシイ城ノ側ノ小學校カラ生徒ガ皆白帽ト袴デヤツテ出テクルヲミテ坐ロニ附屬ヲ思ヒ出シタ君長野ヘ出タラ何卒會ツテヨロシク奬勵シテヤツテ呉レ玉ヘアトノ手紙ハ故郷ヨリ以上 八月十七日午後三時三十二分
俊彦
清水君 几下
(10) 明治三十一年
六 【二月二十三日・封書 長野縣帥範學校より 諏訪郡豐平村高等學校 木川寅次郎氏宛】
拜啓諏訪地方も中々大雪の由新聞紙にて拜承仕候當市も已に一尺以上の積雪を見北越行の汽車は不通と相成申候極盛念會の模樣御しらせに預り面白く拜謁仕り候小生赴任の件に付ては諸君より存外の心配を煩はし誠に赤面のいたりに不堪〇〇〇〇兩氏の異見は或は對舊古田學區チカルを意味するやと考へられ候若し單にそれ丈けの意味とせば甚だ狹量にて又最も利己的非公共的無見識的の擧動と存候相共に教育の壇上に立て非を正し邪を排し善に進み道に就く豈に區々たる私情を挾む可けむや吾人は此の如き人を教へ此の如き人を覺醒せしめんと欲するや久し矣今の教育者一般に眼孔局小豆の如し吾人は國家のために今の教育なる者を憂ふ(中略)余は何處に赴任せんも教育の爲めに一臂を振はんとするは一なり只しかく有志多數諸君の勞を煩はすを思へば豈に奮勵努力する者なくて已まんや吾人が思ふ所實に只如此而已然りと雖も物各命數あり成否は餘程まで天に背く可らずこの際強ひて運動などなすも如何にや勿論小生よりは何等の運動などは成さざる可く考へ居り候(中略)金、日、兩曜毎に米人メツセス・スキヤツターに英語を學ぶ大に得る所あり亂筆誠に申譯無之御判讀被下度餘は後便可申上候 (アララギ赤彦追悼號所載)
(11)七 【四月三日・封書 池田(?)より 松本町(?)太田貞一氏宛】
放浪多年信濃地 所到山水都(テ)是詩 昨夜北窓愛兒別 今朝筑野帶霞過
去ル三十一日三澤ト共ニ車ヲカツテ松木ニ入リヌ途ニ君ガ寓ヲ尋ヌルニ在ラズ松本ニ君等一行ヲ探ス事數十分意ヲ得ズシテ又南安ニ向フ車上筑摩ノ連山ヲ顧眄シテ遙カニ翠巒ノ霞ヲ帶テ木曾ノ一方ニ消エ行クヲ望ム四阿山の暮色善光寺の晩鐘アヽ我レハソノ樂寰ニ四星霜ノ春夢チ破テ何處ノ空ニ一片ノ詩骨ヲヨセントスルヤ感慨ノ間ニ車ハ梓川ヲコエテ豐科ノ小邑ヲ過ギリ薄暮岡村ノ寓ヲ叩ク、カレ未ダアラズl二人即チ酒ヲ蒙リ快談高論夜已ニ十時ニ垂ントシテ相共ニイネントス忽然戸ヲ排シテ入リ來ル者アリ曰ク岡村千馬太ナリコヽニ於テ又酒ヲ置キ快談三時ニ及ブ翌余又ヅクヲヌカシテ池田町ニ入ラズ近郊ヲ逍遙シテ千里弧客ノ情ヲ慰ム翌則チ昨二日余一人飄然トシテ車ヲ池田ニカル岡村等ハ七貫村ノ於岡ヲサソヒテ余ニ合セントスルナリ薄暮三人ノ來會スルアリ松澤ニ打電ス返事ニ曰ク、ヅツウユケヌヲシム ト、コノ夜山本仁佐郎片セ榮次亦來テ快哉殆ンド夜ヲ徹セントス今朝雪降ル池田ノ古村枯木寒林滿眼坐ロニ寂寥ナリ三澤ハ岡村ト車ヲカツテ已ニ歸途ニ向ヒ余一人人見エヌ一室ニ降リ積ル雪ニ兒等ノ寫眞ヲナガメツヽ茫然トシテ夢ノ如キ空想ニ浮バサレツヽアリ。アヽ、長野ノ山、長野ノ兒等、我ハ何レノ日カカレラノ樂園ヲ忘レテコノ乾換無味ノ一古村ニ老イン、アヽ
矢じ太田高野宮田等ヨリ來信アリ九圍ノ弧城ニ援兵ヲ望ムノ感アリ多謝々々
春の海に注ぐ小川のかすみけり 鹽尻峠にて
桔梗ケ原ニ來ル
みねをいでて桔梗ケ原のひろきかな 筑摩七里は皆春の風
車かつて春の野行けば里つきて 電信柱日ななめなり
(12)朝行けば野におりてゐる雲雀かな
菜の花や背戸をいづれば雲雀なく
月影の城櫻遠くかすみけり 池田にて
北にきて何處やらさむし春の風 池田ニ人ル
尚消息をもらせ (アララギ赤彦追悼號所載)
八 【十月九日・封書 池田より 太田貞一氏と寄書 下水内郡飯山町眞宗寺 清水謹治氏宛】
拜啓太田醒め三澤と小生は未だ床の中にあり乍ら今筆を染め申候太田は相不變の赭顔にて小生は昔乍らの美男子にこれあり候池田にてうれしきものは小林と申す美少年と梅香亭の才三にこれあり候子供のトンマ顔には今でも一驚を喫し居り候小生の組には鼻が左眼の下にありて(むしろ)その左眠が萎へ居るものが有之候これは行年十五年に候子供は町中をドド逸やら俗曲やらを歌つて歩るき先生に行逢ふと頭を下け直ぐにその歌をつづけ申候今日はお祭りにて芝居も相撲も有之當地有名なる夜這ひをする女どもがそこらをねり行き玉ひ候
太田は一昨夜來大のろけの鼻下長にて今日も明日も流連可致候三澤と昨夜もシヨウトツ致し小生が賢明なる裁判を與へて收まり申候この手紙へは太田が眞面目顔なる手紙を書き候へ共それは大うそに候
只憐む市外一歩を出づれば秋風落莫三畦の黄波速く松本平の長風に動き愁人をしてそゞろに懷古の情に沈ましむるあるを、こんな手紙をかくも久し振りにて浮かれたる故と御免被下度候長野の子らからも一月許手紙が來ぬ
朝さむの枕擁して語りけり
以上 高のは東京に居り候か 十月九日 二水軒
清水樣 御侍史
(13)明治三十二年
九 【一月二十四日・封書 池田學校より 大町一番に北の端なる三井屋といふ旅宿屋方 市川多十氏宛】
啓今日は失敬いたし候今晩笠原校長の宅に至り君の事を談じ候處校長も是非それなら運動を始む可し付ては近日中に大町へ罷越し學校と其次ぎに郡役所へ行つて今年の新卒業を大町にやりその代りに市川をこつちに取るとかういふ都合にやる可しと一先づ決定候
それで其前に河野先生に一寸「池田に行かねばならぬ都合ある」由御申込有之候方よろしからむとこれは小生の考なり又それには松岡休職の事も校長にしれぬ先きの方貴公の得策ならん併しこれは一寸人が惡い話なり一切の事松澤によく相談して呉れよ 一月廿四日夜十一時三澤に別れて 二水軒
市川兄
一〇 【七月十一日・封書 北安曇郡社村田中の一つ家より 大町小學校 矢ケ崎榮次郎氏宛】
啓先日は待つて居たが一寸も來ない大失望薄井山崎來らんとすこの期に乘じていつか話した同志の會同を開け期日は北城神城の方より極めてよこすが至當ぢや吉澤新井にもさう云てやりぬ貴樣が盡力しろ今度日曜くるかこないか一報しろ、いつうかつからの話は何となつた一寸もわからぬ行くと云て居てもさう/\はづくが續かぬ田中(14)の一つ家がいかにも氣に合ふ紛々たる世事、騷ぐならうんとさわぐ馬鹿なこせ/\した事を我いつまでか關し得ん子供が可愛い其れのみが生命 七月十一日 二水軒
矢ケ崎大兄
一一 【七月二十三日・封書 池田より 大町學校 市川多十氏宛】
汝もし來らば先日忘れ置きし西洋手拭を持參せよたのむ
啓拒絶チカルに出でたるマスターの抗辯を流してさらに彼の弱所に乘ずこれ余が手腕の利敏なるに依らずんばあらず彼の件は略ぼ落著せり近日の内マスターより談判に行く筈併し誰にも|黙々たれ必ず黙々たれ〔付ごま圏点〕汝のマスにも大澤にも(コレハァル條件ノ蟄伏ヲ意味スレバナリ)
詳細は次便もしくは面晤にゆづるせくな/\八月中と念ぜよ 二十三日 二水拜
市川兄
一二 【八月二十八日・封書 池田會染尋常小學校より 廣津村北山 北城傳次郎氏宛】
謹啓承り候へば御令息傳君忽然長逝被致候由驚愕いたし候過般流行病に御かかりの由傳承仕候以來朝夕憂慮罷在候處追々快方に被爲向候由承り及び程なく御出校の御事と悦び居り候ひしに意外の御不幸かへす/”\も悲嘆の情に不堪候
天稟の御怜質六十餘人の生徒中特に傳君の將來には望を囑し居り候處不圖の御災難眞個落膽の外無之候歸校の途上中學校入學の事など語り合ひ明年は是非など小生も御勸め申候時斯く果敢なき御末期ならんとは思ひがけきや凜乎たる其容温乎たるその眼猶眼にあり思へば只夢の心地に候學問優等なる生徒は世間いくらも有之候人物高尚(15)にして後來の有望なる傳君の如くにして今日の凶聞ある實に浩嘆の至りに不堪小生も今年四月より受持の任にあたり只管級のの成績上進に盡力罷在候處圖らざる御訃聞眞個落膽仕り候
さるにても先般諏訪郡修學旅行の際などは非常の御健脚よそめよりも頼母存じ候ひしに近頃種々の御病氣御併發途にこの御末期に至りしこと殘念至極奉存候所詠の和歌甚だ拙劣に候へ共只だ微衷御諒察何卒御靈前へ御手向被下度候涙言
なれを見ぬ二十日のほどもながかりきいくよをかけて今はたのまむ
打笑みてかたりしことを今さらにゆめになさんと思ひかけきや
いとせめて夢路にだにもかよへかし天かけるてふ魂し殘らば
なきころとおもひつつ猶朝にはなが來しみちを眺めこそやれ
雲井まで名のりあぐべき音をすてて死出の山路に入るほととぎす
八月廿八日 久保田俊彦
北條傳次郎樣
一三 【十月二十八日・封書 池田驛より 大町 市川多十・松澤實藏氏宛】
天邊の明月に萬斛の愁思な寄す池田の古驛已に秋風なり天涯の孤客(むしろ)焉ぞ情に堪へんや我に病めるの父あり侍して醫藥をすすむる能はず我に信を通ずるの兒あり共に咫尺して舊を語るのすべなし諏訪湖の波は長へに動けども飯綱の原は舊によりて美しけれど老いたる人のよはひは年若き人の情は見よ時のまも變轉の軌道を急ぎつつあるに非ずや我に爲す可きの業あり我に企つ可きの計あり十年若かりせばといふ勿れ機は顛々累々として吾人の目前に轉べり何れにつき何れに憶ひ何れに行き何れに止まらむもし夫れ我に個人の生活を許さば社會がわが(16)身邊よりあらゆる同情あらゆる冷情凡ての顧※〔目+分〕凡ての干渉を取拂はば余は今直ちに滿腔の感謝をわが恩顧ありしこの社會と國家と部落と衆人とに遺して一葉の舟一襲の衣一竿の杖とによつて遠くかの蒼穹を友とせむ悲哉※〔さんずい+文〕々の俗流相應呼して穢臭を吾人の身邊に釀す三澤來らず穀清の二階あゝ只古人を友とせむのみ苦めるものに空想といふものを許せかし平ならざるものに狂態といふものを許せかし煩悶せるものに痴情といふものを許せかし之を如何と見る末世の象か亡國の兆か政界の事の如きは今更ら言はず噫それの國本を造る教育界の近時咄々之を如何と見る近く各所各種の學校に於て師弟間に紛攘事件の惹起頻々其現れたる形ちのみを輕々觀過すれば事や小なるに似たるも深く其由る所を究めんか寔に寒心すべく戰慄すべく恐れて懼れざるべからざる大惡因積重又積重仔細に探ぐれば日本國中處として之れが磅薄潜積せざるはなしそれの紛攘事件惹起や偶々或る動機の爲めに僅に其一端が暴露して外に見れたりと謂ふのみ憂ふべきは紛攘の惹起にあらず紛攘の起るは起るの日に起るにあらずして必ずや由て來る所あり只それ空行く月あり秋風白雪を驅て探夜滿天の白露を仰ぐときはしなく靈氣の悠然と相應ずるありて魂魄天の一方に彷徨ふ多謝す自然の大樂土あるを 二十八日夜 二水軒
市川兄 松澤兄
松澤君の病氣如何父病漸次快にむかふ土曜頃或は訪はむ
軒ごとにむしの鳴音となりにけり下駄音たえしうまやぢの月
氷うるかどは戸ざしてうら町の並木の柳秋風ぞ吹く
一四 【十二月六日・封書 池田町小學校より 常磐村小學校 松岡郡松氏宛】
長野にあること三日東都阿兄重病の報に接し惚※〔りっしんべん+空〕父と共に旅程に上る佐々木病院より失望せる最後の宣告を受け本月二日輿に侍して故郷に入る餘命素より久しからず看護終日猶時の足らざるを憾む咋五日夜地田に入り今日歳(17)晩の用意を終へ明朝又々故山に向はんとするに際し吉澤兄大患の報に接す嗚呼人生何ぞ悲慘の多きや眞に夢の如し
吉澤兄の病状如何我今日到底枕頭に至て慰藉するの遑なし願くば市川松澤諸同人と謀てあらゆる看護療法の道を盡くして呉れい吐血は眞の叶血か若く喀血か胃の叶血ならば充分の望みあり願くば胃の吐血ならんを切望す
時は嚴寒に入て重衾猶その寒を凌ぐに苦しむ病者看護者その勞誠に察するに堪へたり余が兄の病は素より望なし若し葬事速かならば今年再び北安にかへらん然れどもこれはアテにする能はず言を盡さず遺憾筆を收む 十二月六日午後三時 俊彦
松岡君 市川君 松澤君 池田人諸君
一五 【十二月十三日・封書 諏訪郡豐平村より 北安曇郡大町小學校 松澤實藏氏宛】
訃音を得て驚愕言の出づ可きなしあゝ生たるもの遂に死せざる可らざるか死するもの遂に又歸る事能はざるか長野旅舍の一室※〔りっしんべん+空〕※〔にんべん+總の旁〕として君と談じ余は直ちに束都に、君は直ちに郷に向へりしは思へば永き別れなりけん
あゝ我不幸今年何ぞ人と別るるの甚きや觀じ來ればこれが人生! 所詠願くは哀をたれよ
思へば北安乃至安筑縣下吉澤兄の思慮を要するもの幾何ぞやあゝ圖南の志遂に挫け囘天の意氣長へに地下の瞑々に歸す悲哉
へだてなき友が送りしふみをさへ疑ふばかり驚かれつつ
いひ出でん言葉もしらず涙のみまづ先立てて文をみしかな
そのまことその志いかばかり怨をのみて君や行きけん
おちつきて事にあたりし我友は只安らかにねむりましけん
(18)世の中に君が殘しし怨さへ聞かで別れしことを悲しむ
かくしつつ誰も行く可き道なれど一日さきだつ友をこそなげけ
病に侍しつつ 十三日 俊彦
謹で三兄の勞を謝す
一六 【十二月二十四日・封書 豐平村より 湖南村小學校 三澤精英氏宛】
拜啓今朝君の家を訪ひたれどもあらず咋雪を踏で故山に入る家に著くの前二時間兄已に不歸の人となり了りぬ人生は如斯のみあゝこんな世に誰れか久しからん
二十二日松本に入り岡村の父の死を弔ふ岡曰く我誠に三澤と同境遇に陷れりと而して汝等には我より知らせん事を頼めり正月同人相會して其面を見互に身の上話と世話話をせん事を望むと岡云へり汝意如何我と共に松本に入れ 十二月二十四日
(19)明治三十三年
一七 【三月二日・封書 北安曇郡池田町より 下伊那郡喬木村 城下清一氏宛】
甚しき久闊なりしかな君の病めるも仄に耳にせりしに未だ一囘の書を馳するなかりし罪許せかし
今や華燭の儀をあげ玉ふをきく何ぞ吉報を吾人に傳ふるの甚しき
詩作は近來やらぬ舊作少々送る身體大切新妻君に吸はるゝな以上 三月二日夜 二水
城下樣
落日故人情
人なき庭に佇みて ひとり思ひにしづむ時
かかるもうしや久方の 雲の旗手の天つ雁
人の世遠き雲井にも 吹かぬ隈なき秋風を
よわき翼につつみかね 鳴きても行くか天つ雁
旅より旅の身にあらば 汝も故郷に親やもつ
あはれはおなじ身の上を いたくななきそ天つ雁
(20) 悼教子溺死
川のべの殘りし衣に取りすがりひづち泣くらむちちははらはも
いとせめて取りすがりてもなげくべしからをだに見ぬ親ぞ悲しき
今よりは池田の道を立ちて眺めゐてながむとも子のかへらめや
悼教子死
大みねの山立別れゆく雲をなれにたぐへて見るぞかなしき
まり投げて遊べる庭にきのふ迄見えし姿はををしかりしを
秋風のことしはいかに身にしみて教の庭のさびしからまし
悼亡友吉澤兄
へだてなき友がおくりし文をさへ疑ふばかり驚かれつつ
世の中に君がのこしし怨さへ聞かで別れし事を悲む
かくしつつ誰も行くべき道なれど一日先立つ友をこそなげけ
悼兄死
願くは只やすらかに眠りませゆきけん魂に幸ありぬべく
さむしとも早やのたまはず新しきおくつき所雪はふれども
以上昨年に於ける余が日記中の物なりこれによりて余が近況をしれかし
一八 【三月十七日・封書 池田町學校より 神城村小學校 市川多十・荒井常一氏宛】
拜啓近状? 小生目下轉任(諏訪玉川)運動中
(21)家兄新に死して老父門によるの情我あらゆる名譽を犠牲とするに躊躇せずあゝ北安に入りて盡したるもの何事ぞ愧赧面冷汗啻ならず願くは公等僕をせむるに聲言の大にして功の添ふなかりしを以てする勿れあゝ二年! ユメ只夢! 成效は著々として歩を進め來れり而して今や君等に十五若くは廿圓の才覺を頼む我昨年銀行の借金三十圓を濟まして新に十五圓を生徒の父にかる月々の俸給は五圓ヅヽの月無盡に取られ本月迄は奈何ともするなし荒井兄は七月を以て當に東都に入らん兄の分は夫迄に返却すべし玉川學校へは家より通勤し得るを以て今より以往自ら前非を悔いて徐ろに救濟の策を講ずべし是非二人にて何うか方法をつけて呉れい今度去るには如何にするも三十圓を要するなり度々心配をかけて申譯なけれど何分頼む池田の地新に雪を得て四山又沈み我去るの頃は花もさくらむ 三月十七日 二水より
市川 荒井二兄
(返事まつ)
一八 【四月十日・封書 池田學校より 北城村尋常高等小學校 市川多十氏宛】
近況如何小穴去り新長未だ來凍らず而し内山内閣早く已に成る奇觀々々僕八分の光明を以て遠く將に諏訪に入らむとす何時かの依頼(金伍圓)直ちに送れ以下次便 ヘンマ 二水拜
一皮樣
二〇 【十二月四日・端書 玉川學校内より 湖南村小學校 三澤精英氏宛】
松本より歸來腦神經と心臓疲勞とに苦しめられつつあり今度の日曜貴兄を訪はむとせしも心進まざりき例の新聞の件は如何なりしか御一報あれ
(22) 二一 【十二月十七日・封書 諏訪郡玉川村小學校内より 松本大柳町工藤かる方 薄井秀一氏宛】
拜啓先月より腦神經衰弱の爲め學校も過半休み御手紙拜見せしも返事遲滯平に申譯無之候中學をやめ小學校へ出るとの事甚だ遺憾ならずや家庭の事情堂しても駄目なりや若しこゝ一二年凌ぎて連續在校するも到底永遠の見込なしとせば今の内に止めるも宜しからむ而らば余は來春師範入校を勸めまゐらせんとするもの也小學校などへ出てゐてこゝ數年は宜しからむも畢竟何をかせむ正式の準備を踏むに如かず然らずんば何か官費の學校を擇び玉へ銀行事務も面白かれど君には不向ならむか兎に角方向を誤らぬ樣漂流せぬ樣何か針路を設けて獨立獨行の覺悟を以て奮進すべし以上切に君に望む
〇作文教授ノ秘訣ハ猥リニ文語ヲ以テ生徒ヲ苦シメヌニアリ思想發表ハ作文ノ第一義ナリ生徒ヲシテ思想ノ殘ラズヲ遺憾ナク發表セシメンニハ文章ノ規則ヲ以テ苦シムル可ラズ口語ナラデハ發表出來ヌ所ハドシドシ口語ヲ用ヒシムベシ尋一ヨリ高四迄如斯豫備トシテハ談話ヲ上手ニ練習セシム可シソノ談話ノ通リヲ筆ニセシムレバ上手ノ作文デアル
三澤先生の令弟月島丸遭難中にあり三澤の住所諏訪郡湖南村小學校内
こんな具合でをる也小生の新體詩は今月発行の「文庫」より續載の筈也早々 夜十時 二水
うすゐ君
(23)明治三十四年
二二 【四月二十八日・端書 諏訪郡玉川村小學校より 伊那町箕輪屋方毎日新聞記者 三澤精英氏宛】
教育大會ニハ各郡氣風ノ批評ヲスル積ヂヤカラ上伊那ニ於ケル貴兄ノ批評眼ヲ充分ニ蓄ヘテ置テ呉レヨ (材料豐富ナラザル可ラズ)
幼兒を悼む
花は根にむくろは土にかへるなり
二三 【六月二十二日・端書 諏訪郡玉川村より 長野市旭町師範講習寄宿舍 小尾喜作氏宛】
過日は御祖父樣御死去の由御愁傷の事と奉察候月俸木外子の出長に托し候處折惡しく御歸省中にて空しく持歸りし由依てこちらより更に御送可申由に候印形は拙父預り忘れ居り候間直ちに御家迄屆けませう
二四 【十月十日・封書 諏訪郡玉川村より 長野市師範學校講習生 小尾喜作氏宛】
拜啓大に御無音致しました秋風わ今諏訪平一面お吹渡てゐる何處も豐年だので山浦にも芝居がボツボツある樣だ長野の景況如何玉川學校も今や氣焔萬丈だ全職員和諧一致協心同力熱心精勵斯の如くにして天下何物か成らざる(24)有らんや基本財産の二十年計畫年々二百圓づつ一萬圓以上を得べし十日より三ケ月間特別學級設置十五日より父兄懇話會十日夜濃飛育兒院生來校大繁昌々々々
長田君の金少し延して呉れい木外のも來月にまわして呉れい 七日夜 久保田
兩君
熱心眞面目の御勉強お望む
二五 【十一月十二日・端書 玉川村より 上諏訪町片羽町 三澤精英氏宛】
三澤兄足下 一週の休みお小泉園裡に消了したのわ大なる編纂事業があつた故だ已に其一半お終つたので來る十六日の土曜にわ早々出町する積だから必ず在宅あれ 久保田二水
石垣にかくる嵐や稻をこく
(25)明治三十五年
二六 【一月十四日・端書 高木より 上諏訪町片羽 三澤精英氏宛】
先日わ感謝寂寥に不堪何か雜誌お送るべし(小説ならば猶よからん)諏訪新報發刊次第直ちに下諏宛にて送るべし何でもよし(十九日山浦行) 十四日
二七 【五月十四日・端書 玉川村小泉園より 上諏訪町片羽 三澤精英氏宛】
拜讀今日義會長お訪うて勸めたが丁度農繁迚駄目との事意が向かぬものと見た
小生十三日より小泉園の單獨生活寂しいが併し勉強にわ持て來い出て來れ大森昨日歸るスワ新報出來次第送れ待つて居る 五月十四日夜十時五分 久保田山百合
(26)明治三十六年
二八 【四月八日・封書 玉川村小泉より 上諏訪小學校東舍 守屋喜七氏宛】
昨日から出校して居ります追々全快の方へ向-から決して案じて呉れるな肺病などにわ大丈夫成らないから安心せよ
一日千秋と云-が一別以來已に十二日になるど-しても淋しくて溜らない考えて見れば妙な動物で孤獨で生活する事わ堪えられぬ昨日久し振りで學校え出た時のうれしさよ併し君よ余おして衷心お披かしめよ君と三澤と吉田とに逢わねば眞に友に逢つた氣がせぬのだ余わ此の十二三日が實に淋しくて/\溜らないのであつた只床の申で「大國民」お見て三日間の鬱お忘れ得たのみだそして今一つうれしかつた事わ母が草餅を拵えて呉れた事だ
故郷の草餅を食ふ病かな
君よ余わ今婦人の心になつて居ると思-三澤が大阪え行くが切なかつた君の上伊那やら湖南やら上スワあたりで困却しつゝあるお思つても切なかつた馬鹿な話だ余の精神わ恐らくわ目下異状を呈しつゝあらんか余わ全體春お好まぬが切ない春お想像し得るとわチト困つた現象ならざらんや
更に聞け余わ昨日學校宿直室で藤村作小説「舊主人」およんで泣き出した今日職員室で薄暮迄讀んで頭がガンとして仕舞つた此手紙も恐らくわ何の事だか判じられぬかもしれぬ君の手紙の如く不得要領と思-
(27)君よ
○余のために十一日の午後お上スワに待つて居て呉れい余わ授業終らば駈足お以て矢ケ崎に下り腕車お驅つて上スワに至らん上の學校迄上る事わ疲れる仕業なれば下の校舍に居て呉れよそして極めてうまい物お食ひ度いイヤになるまでムダ話おして見たい余の滿心の希望只是れのみ必ず/\ダゾヨ-實わな-三澤樓上で鼎坐の話しお熱愛するがマーダメダ下の校舍でもよい山崎屋でもよい巴屋わ俗也鐵礦調わ俗色牡丹屋調わキザ也布半調惡しからず
〇上伊那郡役所より打電あり中村國穗不承知との事依つて芦部今朝高遠え向け出發せり多分日曜頃歸らん(コノ件上スワデ話すべし)是れわソノ位にして余の身體にも目下垢が非常になつた湯えも入り度い
〇平林の事大安心ヨカツタイザサラバ 八日
守屋兄侍史
遠方によき人去りぬ春の月
二九 【五月十四日・封書 玉川村小學校より 菅澤 河西音三郎氏宛】
先日わ失禮いたしました其當時一寸思い浮びませんでしたが當校に高等卒業生の補習科なるものがありますが御子息樣お之れにお入れなされてわ如何ですか學科わ算術國語地理理科歴史圖畫等其他ですが何れも小生が擔任して居りますさすれば其時間外に教育學其他の御教授お致しても宜しゆーございますお勸め申すでわありませんが御參考までに申上けます 五月十四日
三〇 【六月十九日・端書 下諏訪町高木より 北山村柏原 兩角福松氏宛】
(28)御地女子婚嫁年齢の平均その最若年最老年?(事情が分らば併せて)只今の處十年若くわ十年以上の昔の所二つ乍ら大體御聞き合わせの上御一報被下度乍御手數御通知願上候歌の消息も久しく聞かず淋しく存候 六月十九日
三一 【九月五日・封書 諏訪郡玉川村より 南佐久郡岸野小學校 森山藤一氏宛】
森山君足下
原稿うれしく拜見しました四號漸く出來五號の原稿わ十日に活版所にまわす事にせりど-も發行部數僅少にて高價になるのに閉口するがど-も仕方がない助長すべく盡力してくれ玉え他に何か原稿あらば十日前に送つて頂きたい
守屋兄からの申込わ小生もかねて承知して居る小生わ君が高しま學校の歡迎お容れて速に諏訪に入るべく大々的に希望するのである佐久の地實わ乾燥無味察するに君が情お慰する所以にあらざるべし諏訪の地今や諸同人の漸く集り會するあらんとして氣運猶全く昂るに至らず貴兄の來て大に奮發あらんお切望する所以也
君よ 生活わ人間一生の唯一大連鎖のたづきならずや一日の生活猶輕んず可らず一時一分皆同價値あり更に想え吾人わ如何なる生活に向て渇仰の首を擡ぐべきか吾人の生活わ情的ならんお望まざる可きか吾人の生活わ慰安的ならんお望む可からざるか共同的ならんお望む可らざるか向上的ならんお望む可らざるか松相倚る茲に颯々の天籟お聞くべし絃相鳴る茲に哭鬼の悲曲お聞くお得べし
足下よ 孤情お抱いて淺間山下の客心お傷むる我已にそのあまりに強きお思-加-るに守屋大森吉田諸君の君お思-切なるあり切に意お決して諏訪の天地お賑かすあらんお望む余の心斯の如し亂筆不盡 五日 二水生
汀川兄
(29)明治三十七年
三二 【六月八日・封書 上諏訪學校より 湖東村菅澤 河西省吾氏宛】
お手紙うれしく拜見中々大元來で勉強してゐるらしいな理科教科書わ誰にか聞いて置こ-教育學のことも小説なんかマーやめて置くべし大人になつてゆつくり讀めばよい交際問題日本今日の有樣でわダメなり小生わ高四受持なり此間霧ケ峯から鷲ケ峯に登れり今年の登山第二囘暑中にわ赤嶽えわ又々登るつもり秋わ釜無山なり
忙しくて歌も出來ず別に報ずべき事もなし
書物の事追々知らすべし 六月八日 久保田生
河西君
三三 【九月三日・封書 上諏訪西學校より 湖東村上菅澤 河西省吾氏宛】
御手紙うれしく拜見せりよく御勉強の由大賀大賀入學參考書大抵よろしいとの事それわそれでよいが油斷してわいかぬよい加減でも-大丈夫など早斷するのわ輕卒なり大丈夫と思つても猶細心密慮すべし
歴史でわ有賀長雄の帝哭史畧小生にあり地理でわ博文屋形の百科全書中なる帝哭地理(二三十錢)名わよく覺え居らず山上万次郎著の日本と外國との地理(30)等宜しかるべし數學お重入り勉強して行くべし算術不出來なればダメなり何も蚊もよく勉強すべし問題等にて出來ぬ者あらば申越すべし和歌にてよき本わ竹の里人撰歌集なり御用なら送るべし和歌の雜誌でわ「馬醉木」なり發行所本所區茅場町三丁目十八番地根岸短歌會定價十錢郵便一錢毎月一囘なり今月末頃來てわ如何よく/\勉強すべし 九月三日 久保田生
河西君
明日わ霧ケ峯に登るべし本年三囘目なり金なくてよき放行わ登山なり父上樣によろしく
三四 【十月二十五日・端書 上諏訪町より 平野村小井川小學校 森山藤一氏宛】
御手紙拜見仕り候小生近作一向に無之御恥かしく存じ候伊藤左千夫氏此の内に來遊のよしついてわ盛につばな會員の會合仕り度右につき一人一圓づゝ會費として御差出し相願度右わ先生の旅費の幾分と會合の會費全體お支辨せんとするものに候右御承諾の上小生迄御屆け被下度候也 十月廿五日
三五 【十一月十三日・封書 下諏訪町より 北山村湯川 篠原圓太氏宛】
御手紙拜見脚氣未だよろしからずとの御事困つた事に候まづ氣を永くして靜養するに如かず和歌などが丁度よろしからんと存じ候馬醉木久し振りで發判定めて貴兄等の玉什山積と思ひしに一向見當らず落膽せり何故なるかちと呑氣すぎると存じ候比牟呂も大怠慢なれど諸方から原稿集まらぬ故困り居り候澤山御寄送被下度待上候左千夫君來遊の日が確定せずきまれば云つてやるから車ででも御出かけ被下度候
小生わ去る日松本にまゐり太田君奇峯君三川君等に面會致し一昨日歸宅仕り候小生の詩集「湖上」を今度金色社から出す筈で已に原稿を送り置き候出版の上わ御批評被下度候尤も皆新體詩に有之候目下收穫にて御多忙ならん(31)かへす/”\も歌作御出精祈望に不堪先は右のみあなかしこ十三日 山百合
千洲兄 侍史
三六 【十二月二日・封書 下諏訪町高木より 東京府下澁谷陸軍病院 武居正義氏宛】
其後わ非常の御無音致しました大そ-快方に赴かれた御樣子を承りうれしく存じます當地わ已に數囘の降雪あり隨分寒くなりました別に異變もありません先日東京の根岸派和歌の先生伊藤左千夫氏來諏盛に和歌會お開きました木外君も別に變りなく玉川學校に出勤して居ります比牟呂も十二月初旬にわ出る筈ですから御送りいたします何か御高吟があらば御知らせ下さい家内中より宜しくと申出でました 十二月二日
三七 【十二月十七日・封書 信濃下諏訪町高木より 東京陸軍豫備病院氷川分院 久保田久吉氏宛】
拜啓承れば去月二十七日二百三高地戰爭にて御負傷十四日氷川分院御入院の由驚き入りました
戰地御出發間もない事故今囘の戰爭にわ加わらぬ事と存じ居りしに第一囘の戰爭に於てはからぬ御負傷定めて殘念の事と推察致します併し負傷中にてわ極めて輕些の方ならんかと存じますこれわまづ不幸中の幸と申すべきならむ去り乍ら折角御注意御療養一日も早く御輕快に向-樣呉々も祈り居ります先わ取あえず御見舞申上げます 十二月十七日
(32) 明治三十八年
三八 【四月五日・端書 信濃國諏訪郡上諏訪町西小學校より 高崎歩兵第十五聯隊補充大隊第五中隊 兩角福松氏宛】
拜啓愈々兵士とおなりの由承り隊名分らざりしため御無沙汰放し居り候
一時諏訪から君お失ふのわ打撃だが歌界のためにわ君が新しき經驗お得るお喜び候今日戰爭などお歌つてゐるもの皆平凡淺薄陳腐極まるのわ彼等が只想像の上にのみ馳せて實際の寫實がないからに候戰爭わ實に人間活劇の極致なり足下が身を挺して此の間に踏込むわ百千の駄歌お得るよりも優れり子規先生わ肺患お犯して迄も戰地に赴けり馬醉木の足立清知君の戰地詠お見てもその歌のいかに靈活の光お帶び居るかが分り申候小生等もかつて六週間現役兵で高崎に居り候早晩召集せらるゝ由傳承して實に雀躍待ち居る事に候死ぬ位わ物が咽につかえても死に候疊の上の怪我てふ事もあり候併し當分さぞ御苦勞の事だろ-深く御察し申上候
小生目下學期始めで俗務蝟集大忙しで歌も何も出來ず夜家に歸ればダラリとして筆も碌に執られずこんな事ぢや駄目と存じ居り候
東筑摩の胡桃澤君十五日來諏のよし十六日にわ歌會を催し度候兵營内の歌何でも珍らしき材料充實の事ならん故充分御把捉御遺漏なからんお切望す小生も十五日以後頃からわちと活動致すすべく候木外君わ豐平村下古田分教場勤務になり候諏訪教育界の俗物共の騷ぎイヤに成り候小生など他郡放逐の方餘程うれしく候北山村に○○○○お(33)置く如きわ北山村の大々的不名譽也 四月五日夜十時半認む
楊の戸兄
色鉛筆御使用わよすべし毒があるから
三九 【六月二十六日・端書 東京本郷三ノ十八東雲館より 信州東筑摩郡島内村 望月光男氏宛】
左千夫氏に面會今日大にブラツキ申候子規先生宅にも參り候東京でわ矢張小生共よりもケンキウして居る今日初雷天はる 六月廿六日
四〇 【九月十九日・封書 下の學校より 上の學校 田中一造氏宛】
此間はなした子規居士四囘忌わ放課後直ちにやつて早く歸宅し度いからそのつもりで直ぐ下つてくれ場所わみゆき(勸工場と仕立屋との間に狹い入口の家がある美由幾と書いてある)とするそこで待つて居るよ
十九日雨 久保田生
田中君
四一 【十月一日・封書 上諏訪町小學校より 南佐久郡臼田町島祐三方 河西省吾氏宛】
登淺間山歌十八首
シヤツかさね衣かさねてこの朝げ雨の淺間に登るべく出づ.雨の淺間わ窮したり
足引の山鳥の尾の長々し松原こえて川渡り行く 下句よろし
木鳥居の高きがいたくかたぶきてあやうくたてる下くぐり行く かたぶくといへば危きなど付くる必要なし「山(34)裾の茅生のかや原木鳥居のかたぶき立てる下くぐり行く」などせば面白からん
山そばのあやうき道に我立てば目下の谷に瀧かかるみゆ まづよし
木の葉かげかかれる瀧の名をとへばイチホヒの瀧と呼ぶといひけり 木の葉といへば大景に對すべきものにあらず全首何の巧もなし
赤き水と白き水とがなみてわくジヤボンの谷の源平の泉 よし、はしがきお要す
雨|がうつつめたき《そそぐ野中の》石に腰かけて|にぎりめしひらき《ほしひ食ひつつ(加筆)》霧の|行くをみる《せまるみる》
雨にぬれて|紅葉でんとする《うす紅葉する》向つ峰《を》の岩のはざまを霧はしり行く よし
しみ立ちのつがむら□《が》上に|さか《そぎ》だてる|岩のはざまを《千むらほついは 秀岩》霧はしり行く よき所を捉へたり
杖つきてのぼる坂路|けはし路《のつづら折》雨脊にとほり凍るが如し よし
丈ひくき落葉松立てる裾原|の《に》虎杖かれて秋さびにけり よし
燒け山の淺間の裾野草生ひずつめたき霧の|ただ〔付傍線〕はしり行くも《よろしからず》 下句わろし
まへかけの山のを長き燒石|原いふみさくみて《の石原さくみ》我が登り來し よし
天つ神のみ臼ひかすか今日の日を山なりひびき|山ふるふなり《み谷ふるふも》
淺間山の火を|ふく口のはたに《はく谷の岸に》立てば硫黄の氣くさく鼻つき來る 下句平凡なり
赤岩のさけ目ゆのぼる白きゆげは|あが脊をつつみ《風を時じみ》地をはひて行く よし
いただきのここにしてひろく國みまくほりせしかもよ|遂に《今日》みえずかも よし
故郷の山は遠みか故郷の山は遠みか見まくほりすも つまらぬ詞づかひ也
前のより大に進歩せり新しき境遇に立ちて觀察せるが故也事柄の面白きを捉えて詠む工夫常に必要也こまかきも(35)のにても常に怠らず觀察せば材料つくべからず試驗豫備中なればあまり凝り過ぎぬがよしそろ/\萬葉集でも見給ふべし御健康を祈る 十月一日 久保田生
河西君
四二 【十月廿三日・封書 山浦より 長野市縣町 三澤精英氏宛】
大御無音いたし候あや子さんの轉任説君の主張どの位の程度なりや十二月までとするも三月までとするも大した差わなし可成わ年度のかわりまで我慢出來ざるか又長野移轉ならば母君も同行の方世間え對して宜しからずやちと老婆心ながら一寸左樣思-一人して故郷に居るわ變ならずや冷靜に御考えあり度し
上諏訪も大森今井皆具合惡しく目下困却中也三月延期して貰えればよいが如何にや
實わ大森わ肺尖カタルとなれり大困却中也併し岩垂五味等にわ目下一先づ秘し居り方策考案中誠に弱り居れり御返事おまつ 二十三日夜山浦にて 俊彦
三澤兄
四三 【十月三十日・封書 下諏訪町より 中洲村神宮司 笠原常次・笠原田鶴氏宛】
拜啓昨日男子御出生御兩人健全との事大安心のいたりに存じ候早速參上いたすべきの處用事のため兩三日延引可致惡しからず御承知被下度候
萬事注意清潔靜肅を旨とし産蓐熱等の患なき樣千望いたし候先は御祝のみ匆々 十月卅日
四四 【十一月六日・封書 信州上諏訪町より 東京京橋區銀座四丁目四番地松本樂器合資會社 米久保喜雄氏宛】
(36)益々御清適奉賀候當分の處よき口なく專科わ事局にて見合せの處多く頗る困難の事と存じ候猶他の方面にても精々御依頼可然と存上候小生數日中に松本に遊ぶつもりに候少々繁忙につき右のみ申上候也 十一月六日 俊
米窪兄
四五 【十二月十六日・端書 上諏訪町小學校より 北山村柏原 兩角國五郎・兩角珂堂氏宛】
御無音失敬々々其後如何に候か馬醉木に今度出なんだから何だか淋しかつたちと奮發すべし過日蕨氏來遊のときわ君等が上諏訪に居たそ-な、なぜ小生に知らせなんだ實に殘念だその際の歌會にわ森山君と三人のみなり課題犬夜柚子三首位づつ小生に宛てて送つてくれ玉え二月のアシビに出すから、一月七日甲州御嶽山上で根岸歌會をひらくから今より御用意大擧出陣あり度し 十二月十五日夜一時
柳の戸君の消そく如何
四六 【十二月二十五日・封書 高木より 下諏訪小學校 森山藤一氏宛】
拜啓先日話した甲州御嶽山上根岸歌會の件左翁も賛成して成立した會日わ正月七日也
諏訪でわこ-しよ-と思-柳の戸が歸つたからその歡迎會お正月五日上諏訪穀屋にひらき(正午から)六日打揃つて米倉に一泊しこゝで東京連と會し七日登上する貴意如何御返事を待つ吉田有賀小林諸君にも云つてやつた五日の穀屋會わ別に云つてやらぬから必來てくれ給へ 十二月廿五日 久保田生
汀川君
(37)明治三十九年
四七 【三月八日・封書 上諏訪小學校より 松本町高等女學校 太田貞一氏宛】
過日わ御迷惑願上げ奉謝候此後も煩雜の事多かるべきも何分願上候横田氏の早速なる承諾三輪玄のために欣喜に堪えず候咋日三輪父君と相談左の如くに決定いたし候間何分願上候
一、ヒザカナ(日肴の意か? 諏訪の方言か、君の所謂手〆と同樣なるべし)を交換すべく良日を擇んで構田家に豫告し當日左のものを三輪|半《ナカバ》(父の名)名にて横田家に持參の事
金一圓 御酒料として
金十錢 するめ料として
右二包君が包んで持つて行つて呉れ
二、三輪家でわ日の吉凶を更に云わぬから先方で三輪家によこすヒザカナの日わ先方の勝手たる事
三、結納わ諏訪地方でわ結婚日少し前に嫁の方に贈る事になつている、不都合なくば今少し後日になりて贈らんと思う事
四、日肴終り次第結婚日等巨細の事について協議する事(これわ君だけ承知していて呉れゝば宜しいのだ)
五、横田父君の名前を手紙の序に君から知らせて貰い度い事
(38)六、先日君の手紙に横田ゆきと書いてあつたが三輪家で貰うのわ横田とよなり多分君の手紙の間違ならんが猶確め度き事(即ち姉の方を貰う也)
そこで二包の金員〆て一圓十錢わ三輪家で小生によこすと云つたが考えて見れば些少の金をかわせにても面倒なり何れ横田からも同樣君に依頼するだろ-からその金を君が受取つて三輪家の金を小生が受取つて差引にするが便利ならんその差額わ何れ又小生から差上けるから差當り金一圓十錢だけわ君が出越して包んでやつてくれそ-云うに頼む日肴終り次第一寸御通知下され度右用件のみ申上候也(アララギ赤彦追悼號所載)
四八 【六月十五日・封書 上諏訪町より 長野師範學校第二東舍 河西省吾氏宛】
拜啓愚女肺炎にて看病のため返事相後れ申譯無之候中々盛に活動している御樣子賀し上げ候學校授業だけわ眞面目に勉強しあまり不成績をとらぬ樣にした上盛に御活動のほど祈上候種々の方面え遠足なされ候樣御すゝめ申上候野尻湖遠足の際の御歌大に進境を認め候つまり寫實だから他に得られぬ面白さが有之候只觀察を今少し精密にせば更に佳作を得たるべしと存じ候別紙御詠草御返し申上候間御一覽被下度候
十六七日信濃教育會には三宅雄次郎先生來席のよし演説の巧拙に關らず必ず御聽可有之候小生も今囘は出長せんと思いしも子供病氣にてその意を得ず殘念に存じ候舍監が氣に入らぬなど決して御奮慨有之べからず只眞面目に勉強すればよい黙つている人間がえらいと存じ候先わ御返事まで早々不一 六月十五日 久保田生
子供病氣は最早よろしく候間御安心被下度候
河西君
四九 【六月十九日・封書 下諏訪町高木より 長野市 三澤精英氏宛】
(39)拜啓出長出來ざりし遺憾御洞察被下度候三宅先生の演説果して傾聽すべし名譽心を大にせよ赤裸々で奮闘せよの警醒わ先生としてわ珍しからずと雖も紛々たる教育者にわ最も適中している大賛成の敬意を表する所以也
扨かねて閑を見て書き染め置き候「子供のしつけ」目下積りて三四十枚以上と成り居り候山田肇君に出版せよとすゝめしも原稿少な過ぐとて應ぜず貴新聞に連載せば優に十數日若くわ二十日に亙るの講談と相成るべく行文わつとめて平俗に致し置き候へば普通人に充分領會いたさるべく章わ、はしがき、しつけの目あて、獨立心の一、獨立心の二、健康衣服、その他賞罰、家族の一致、玩具、子守の選擇、禮義の僞り等十章位に相成り居り候はじめの方わかつて君に見せた事と存じ候右原稿貴新聞で採用多少の原稿料を支出いたすまじくや(五圓以上)御返事被下度候變挺な経文なれど是迄仕上げるには隨分骨を折り候へば多少の報酬を要求しても不都合なかるべきか見込ありそ-ならば一應右原稿御覽に入るべし
小兒大によろしく候間御安心被下度候一時わ大心配ために小生も腦をわろくし胃病をおこし目下服藥中也今年は祖父病死長男ヂフチリヤ兼眼病次男ジフテリヤ耳下腺炎で危く愚妻もヂフテリヤ傳染今度わ長女肺炎何れも平凡ならざる病氣大閉口いたし候前半年で打どめにして後半年を景氣にし度く候先わ用件のみ早々不一
六月十九日 俊生
三澤兄
五〇 【六月二十八日・封書 下諏訪町高木より 長野市西後町 三澤精英氏宛】
過日の長手紙慥に拜見いたし候「赤裸々になつて話し度い」小生と雖も多くこの境遇にあり守屋去り三澤去りたる諏訪の寂寥御察し可被下候守屋わ二泊して歸宅いたし候案外強健の體を見て欣喜いたし候二泊の快談近來の傑出に候
(40)小生の子供全く快復いたし候間御安心被下度候承れば御出産近きにあらんとの事隨分御攝養專一になさるべく候産前の思は父親の方が苦しいものゝ由也
別紙原稿貴意にまかせ至急御送申上候今日山浦より歸り貴書拜見直ちに着手多少訂正して差上げ申候増補中男女の平等差別わ尤も詳密にして光輝可有之と信じ候著手すれば早いが今夜の間にわ合わぬ御採用とあれば直ちに始むべく候振假名も御返稿被下候はゞ附けて上ぐべく候併し苦しい思をして採用する勿れ決して強賣わせぬよ勝手にすべし 六月廿八日夜 久保田生
三澤兄
明早朝登山歸途餅屋一泊の豫定
五一 【八月十一日・封書 下諏訪町より 豐平村下古田 塚原葦穗氏宛】
拜啓熱心誠實なる御手紙拜見嬉しく存じ候充分の責任を自覺して事に當る何事もその覺悟次第で出來るものと信じ候足下已に牢乎動すべからざるの決心あり只勇猛に進行すべし小生も商船の方は全く賛成を表すべく候大活動は常に細心の用意を伴ふ事を御承知あるか大成功は常に細微なる秩序に伴ふ事を御承知あるか
足下日日の定課あるか 足下日日の自省あるか
眼病の全治策如何商船校に再度失敗せばその後の針路如何と思慮しつつありや何事も遺漏ある考は駄目なり眞面目に考量せよ父母につき一家につき瑞穗につき細かに觀察し細かに考へよ右當用のみ申上げ置き候小生大に輕快御安心ある樣母上にも申上ぐべし此内に行く佐倉兄上具合よく父上直に御歸國のよし大賀々々小生も非常によいから十六日頃參上すると御傳言を乞ふ 八月十一日 俊生
(41)五二 【八月十二日・端書 下諏訪町より 北山村湯川 篠原圓太氏宛】
腦病先づほとんど快復いたし候間御安心被下度候此内に御來訪との事已屈指待上候御出での節わ一寸御しらせ置き被下度候小生今小説製作中なり君が來たら見せるよ早く來たまえ 八月十二日夕
五三 【九月一日・端書 千葉町より 信州上諏訪小學学職員宛】
又々學校を願い恐入り候兄昨日死去につき一週間位は出られぬよろしくお願い 九月一日
五四 【九月八日・封書 信州諏訪郡豐平村塚原方より 東京神田駿河壹西紅梅町一〇 濱かつ子氏宛】
眞情こもれる手紙拜見大へんうれしく思いました小生わ去月三十一日千葉町の病院に居る兄が危篤との電報に接しその夜直に夜行列車にて上京兩國橋から乘車午前中に千葉に著きました兄わ小生の出發頃死去しましたから遂に生前の面晤が出來ませんでした以後兄の任地なる佐倉町に滯在して殘務を處理し五日午後漸く歸國して御手紙を拜見しました御手紙を拜見した時わ非常に嬉しかつた眞情のこもつた文字わ人を泣かせる昨日葬儀終了今日少閑を見て此手紙を書きます今年わ三囘上京しました第一囘わ帶川君の發病入院のため第二囘わ帶川君死去のため第三囘わ兄死去のためと斯くの如き不幸な上京で誠に話しにも成りません御心配下さる如く小生も今年わ家族五人の病氣友の死去兄の死去で全く弱りました併し御來示の如く充分注意して元氣を落しませんから御安心下さい身體を惡くしてわ萬事休すだからあなたも充分御注意然るべしと思います御尊父樣はじめ御同胞にて一家を御形成のよし如何ばかりの樂しみかと存じますまつ樣せん樣にもよろしく御傳言下さいちせさんにも同樣願いますちせさんの番地を忘れたから手紙を下さいと御傳へ下さい今度の夏休にわ一度ユツクリあなたとちせさんと話し度(42)く思いました處何や蚊やでその機なく殘念でした先わ右のみ早々 九月八日 久保田生
野の草花稻ふく風故郷わもう秋の景氣です人は逝き秋は來る斯の如し
五五 【十二月十二日・封書 上諏訪町より 長地學校 矢崎作右衛門氏宛】
拜啓湖岸の冬枯そろ/\山國の眞相を發揮し來り諏訪の趣味漸く吾曹の感興を惹かんとす湖水の色わ初冬に於て眞に深碧也湖岸の樹木わ冬に於て眞に山國的也
下筋の金扱業者も冬の湖畔を通る時わ寒そ-也貧相也百千の烟突も冬の鹽尻颪に逢つてわ寒國的風骨に化せざる能わず是故に諏訪湖の眞趣味わ冬に於て最もよく山國的の發揮を存すと云ふ也
次に要件を申上げ候それは數年前から君を上諏訪學校に欲しいといふ望わ連續しているのだが今度は斷じて承諾して貰い度いのだ色々六ケ敷い事わ拔きにして只僕は君の來校を切望するのだ君の長地村に居た三年は全く君の犠牲的時期であつたと考へる(失敬だが)も-動いても不都合なしと思-今度わ問題を六ケ敷くせずして全く僕等の學校え來ると決心して呉れたまえ僕は只君を望む情の切なるを披瀝し君が吾人の情を諒とし斷然來て呉れんを望むと云ふより外長く書いてもドーモ同じ事を繰返すに過ぎぬ今出來れば猶よいが(一日早ければ一日丈け有難い)來年三月わ是非そ-して頂き度い右至望に堪えず御熟考を切望す以上不盡 しはす十二日
五六 【十二月十三日・封書 上諏訪町より 北山村 篠原圓太氏宛】
今年中には出向かぬとの事情けなし併し小生も例の繁忙で作歌に懶し之れも致方なし蕨氏大に快復いくら金をかけてもよいから來春大々的に歡喜號を出すと云つてる由大慶至極と歡喜いたし候アシビわ内容主もに伊藤氏がやつて居れども之れが維持は蕨、長塚二氏とありて確實なる生命を得て居るのだから單にアシビの運命から云つて(43)も蕨氏の快復歡呼いたすべき也
貴稿一通り拜見愚見相加へ御返却申上候折角御年越遊ばされ候樣祈上候也 十二月十三日 久保田柿生
篠原兄
湖ノ風氷魚賣ル軒を吹キナラス
新年會ヲ上スワニ開イテハ如何
五七 【十二月二十一日・封書 信州上諏訪町より 東京下谷區西黒門町二十二前田方 平福百穗氏宛】
度々御手紙下され有難く拜見仕り候諏訪の風物冬に入つて益々蕭條たり前の平野彼の丘陵白斑に冬木の群わ骨の如く此の間に參差す
冬木立透いて見らるる湖水かな
(44) 明治四十年
五八 【一月九日・封書 下諏訪町高木より 下諏訪町小湯の上 矢崎作右衛門氏宛】
※〔羊の字の古体〕羊の年の出立わ何だか豐かな感じがする先づ以て改暦の御祝を申上げる昨冬の御返書慥に拜見しました僕の方でわ只君を見込んでたつてお願い致し度いと云ふより外何等の理由なし未熟云々の言甚だ意に滿たぬ全熟した人が社會に何人ありや諏訪の教員に何人ありや未熟なるが故にお互に胸襟お披いて斯の道に進む侶伴を求むるのだ氣の合つた同行者を求むるのだど-か僕等が君に望む所以お御了解願い度い
「村長に叱られそ-」の貴意御尤もなり村長の君を信任している事初めよりよく僕の知る處併乍ら誰が學校を出るにしても苟も普通以下ならざる限り村長にも校長にも叱られる事と思-村長に叱られるのわ轉任に對する普通事のみど-か御決意お願い度し
僕わ更らに改めて君の御来來任を切望する我校の尋常科に君の居らん事を切望する幾多の諏訪郡の教員中特に君の御來任を切望する(お世辭とする勿れ)之れ二三年前より我校の希望なり手紙のみで坐ながら斯の言を作す甚だ意お得ぬが又手紙を上げるのだ
斷乎御決意を願います 一月九日夜十一時半
(45)矢崎君
村長とても上スワに行くのを止める譯にわ行くまい(失禮の言葉だが)
僕わ冬の中上スワに止宿する
五九 【二月十四日・封書 下諏訪町高木より 下諏訪町小湯の上 矢崎作右衛門氏宛】
拜啓例の件宮下にわあの後直ぐ申出で置けり
昨日小口村長來訪是非中止して呉れよとの意なりしも絶對的拒絶せりむしろ貴村としてわ善後策を取るの優れるに如かずと申置き候此の上わ君から大島に宛て及び郡視學に宛て是非出し呉れよとの意頻繁に御申出下され度小生方よりも頻繁に宮下に交渉すべく候之れより外成功の策なし右何分願入候猶之れに對する大島氏の態度おも御一報願上候撥表した上わ急撃肝要と存じ候
先わ右のみ早々 二月十四日 久保田生
矢崎君
小學数員とわ何ぞや岡谷お見よ原お見よ諏訪の平に蠢々たる小學校舍お見よイヤニモナルヨ之れわ別問題也
六〇 【三月二十一日・封書 下諏訪町高木より 長野市後町 三澤精英氏宛】
謹啓御手紙拜見事情明了安心いたしました西村の去りたるは實に悲しむべきだ落たんのいたりだ、だが小學教員威張れる丈け威張つた處如何程でもないせん方ない泣寢入りをつゞける小人跋扈は今つと激烈になつてもよい改革の聲は斯の如くにして天の一方より來らん
伊勢旅行京阪巡遊羨しさに堪へぬこんな時が骨延ばしだウンとやつて來べし大垣の柘植《ツゲ》潮音(子規の直參歌人)(46)氏は未見なれど未通信なれど小生の事をよく賛めてる人ださうな雜誌「馬醉木」上でも顔を合せてるからよく分つてる彼人を尋ねられたし伊勢の桃澤茂春已に死し備中に赤木格堂雌伏せり餘り遠くてだめならん京阪の地一人の同志者なしこれ根岸派の根岸派たる所以か京都大學の文學科(?)に池田の勝山氏未だ在學か大覺寺近邊に杷栗も居るならん紳戸市小學に笠原徳十君あり大阪東區高木小學校長に小松武平(舊笹岡)君あり逢つたら御無沙汰を謝して呉れ玉へ福井市師範に四賀村の北澤種一君あり
小生は四月老父を伴ひて甲府から御嶽見物に行くつもり小旅行と雖も希望温き豫定なり小生の豫定は斯の如し先は御返事のみ匆々 廿一日夜 久保田生
背山兄
お手紙うれしく拜見いたしました去年の旅行は實に樂しくありました御家庭の温かさに歡喜の情を催しました子供の世話學校の仕事御辛苦さこそと深く御同情申上げます守屋去り背山君去りたる諏訪の寂寞に一人身を置く苦しさを御推察願ひます併し今日では平氣の平左ですそのために心を傷め身を害ふ樣な事はせぬつもりですお庭の柿が冬枯れになつて雪見燈籠に雪が積るでせう御大切に三七君もみささんも
あや子樣 廿一日夜 俊生
三輪ます子さんも愈々生れさうです
六一 【四月三十日・封書 下諏訪町高木より 長野市縣町 三澤精英氏宛】
歌日記 柿乃村人
三月卅一日雪降る
夕暮ゆ雪となりたる春の雨の雫滴る黄梅の上に
(47)梅の花咲くは未だししかれども福壽草散り黄梅比良久
四月十四日家に籠る久し振りの閑散無事なり
草いほの庭のかくみに錦木の百株千株植ゑなんとおもふ
我やどの二反の畠の桑を刈りて百羽の※〔鷄の鳥が隹〕を放たんと思ふ
四月十八日梅已に開きたるに諏訪の湖風北西より吹きつけて寒し
湖つ風西吹きあぐる岡の上の高木磯村梅さきにけり
湖津風ふたたび寒み梅さける磯の藁屋に氷柱垂りたり
四月三十日櫻散り桃咲く
高木人種おろし立つ田のくろのカリンの低木若芽のぴたり
注意して靜かによんでくれ給へ
別所温泉からの御手紙拜見いたし候當時小生實父を伴ひて遊びに出て居り御返事差上げず申譯無之候
扨小生は數年來色々考へてゐるが全然文學を以て身を立つる(?)が行く/\の方針として適當かと愚按いたし候
教育者も面白いがそれ以上に文學と小生は縁の深い樣考へられ候併し急に文學專門と參り候とも食はねばならぬといふ問題あり左樣に早速には參り難し小生も徐々に方策をめぐらす心得に候「人間は一生なり」といふ事が眞面目に熱心に今小生の心頭に念ぜられて居る小生は一生を少くも馬鹿らしく暮し度くない惜しい一生だから一日と雖も馬鹿らしく暮す譯に行かぬ理窟は單純でも陳腐でも目今小生には最も眞面目の問題に候
小生は今迄馬醉木といふ一雜誌以外に自作を發表した事なし併し今後追々各方面に發表の素地を作るつもり也信州の文壇は勿論東京の新聞社雜誌社に手を延さんと考へ居り候貴新聞へは毎月二三囘づつ掲載相願度今少し經過したら貴新聞の歌壇を貰ひ受けんかとも存じ居り候御許しなくばそれ迄也
(48)右貴兄だけ(守屋君にも三村君にも誰にも少しの間御發表無之やう願上候)へ申上候別紙可然御取計願上候
四月卅日 俊生
三澤大兄机下
君だけに心中を申上けるのだ話さずに置いてくれたまへ
六二 【六月廿七日・封書 下諏訪町高木より 東筑摩郡島内村 胡桃澤勘内・望月光男氏宛】
一昨夜左翁と共に歸宅昨日左翁を送りて上スワ停車場に行きはからず志都兒君に逢ひ共に布半一泊今夜相別れ申候左翁一週間の豫定が二週間となり急ぎ候ため松本へはダメと相成遺憾存じ候
岐蘇旅行は餘程面白く有之候岐蘇の風景に接せんとせば南木曾に行くべく人情に接せんとするものは北木曾を訪はざるべからず南北の分界は福島なりと存じ候山のこせつかずして水の清冽日本無双なる樹木森林の無盡藏なるこの三者の特徴が木曾の風景を作つて居り申候もしそれ木曾の人々に至つては敦の敦なるもの今世に於て他に多く接し難し藪原少女我が爲に檜笠の緒をすげてくれ茣蓙を著せてくれたるから始よつて隨分記憶を打つものあり況や連日の雨岐蘇路に入つて新に霽れ旅情の殊に爽快を助けたるがあるに於てをや歌は近々作り可申候
三澤君の事少しも誤解いたさず候過日三澤に逢ひし際長塚といふ人來りしも逢ふこと能はず氣の毒の事したりと申居り候新聞社の方にて約束の時間まで待ち居りしも來らず仕方なしと申居り候尤も三澤といふ男隨分氣儘者故あてにはならず候併し長塚君の所用は辨じたればなに不都合なからむと左翁も申し居り候御安心可有之候神經衰弱は遠足散歩に限る旅行に限る家居してグヅ/\思ふ事尤も不可也ウマキ者を食ひ運動をするが第一と存じ候君のおひまの頃一度出松共に淺間にでも會すべく候
うまき謌を作らんなど苦心し玉ふな感情を養ひ置けば何時か自然に湧き出づべしイラ立ちても何の效なし人生ハ(49)短イケレドモ長イヨ
望月君病氣如何小生よりは大に御疎音申譯無之候矢張呑氣に御療養專一に思ひ候精神療法と云ふ事あり醫藥の如きは第二のもの也煩悶大禁物也強大なる意志を以てすれば正岡先生の病躯猶七年を支へしに非ずや君の如きは心《シン》(眞底からの勇猛心)から大勇猛を振起せば病氣の如きは自然消滅なり僕の病氣が害ヲナサヌは多少この般の消息を存すと自信いたし居り候今日午後歸宅今夜久振にて少閑つまらぬ事書きつらね申上候也 六月廿六日夜 柿生
二兄
六三 【七月二日・端書 下諏訪町高木より 東筑摩都鳥内村 望月光男氏宛】
撫子の花のはたけに立ちたりし君は消えずも花さくかぎり
至情と詞と共に隨一なりと拜見いたし候左翁と大に談じて愉快に有益に有之き小生の木曾行も長野新聞に出すべし御一覽下され度候也近來の起居如何御自愛を折る 七月二日
六四 【七月九日・端書 下諏訪町より 東筑摩都鳥内村 望月光男氏宛】
八日「日本」若葉貴作拜見せり
若葉風凉しき岸のつなぎ舟漕ぎて見ましを人も居らぬかも
は非常によい傑出の作だ
「□《不明》倉の山田のくろの柿葉」は比較的遠くから見た景だ「蛙どよめり」は比較的近い調和せぬかと思ふ 七月九日
六五 【八月十日・端書 信州下諏訪町より 東京小石川區春日町須田病院 兩角國五郎氏宛】
(50)御負傷の事は一日に紫水明より聞いた住所が分らぬので手紙が出せぬ紫水明から今知らせて來たから此端書を出す大分快方との事欣喜に堪へぬ暑中東京での入院定めて退屈の事だらう辛棒を望む蠶が飼へぬから收入が減る入院してゐるから出費が増す何で取りかへすつもりだラムネ製造を始めて取かへすのか成案如何斯る時眼ふたぎて世の中に苦しみ迷ふ人を想ふべし 八月十日
六六 【八月十日・封書 信濃下諏訪より 東京小石川區春日町須田病院 兩角國五郎氏宛】
今日は諏訪の盆會だ昨夜蠶のひまに父が佛棚を造つた小生は寢ころび乍ら足の蚊を叩きつゝ父の手の動くのを見て居るランプの燈で手の影が佛棚の白木の上に大きく不定形に映る棚は三尺に四尺高さは六尺許りのワクになつてゐてその三分二位の高さに板のシキリがあるその坂を基點として四周に草花を立るのが面白い後の方へ萩を立てる二本立てる三本立てるしまひには立派の萩垣になる僅に花を持てる枝がランプの光で鮮に見ゆる父の手の影と頭の影とが床の間の上の壁にうつる脚の蚊をピシヤリ打つ父も尻のあたりをピシヤリやる手の影がピシヤリとも云はずに床の間の上に落ちる萩の花が手の影をはづれて全面に見ゆる手の影と萩の花とを見つめて居るうちにそろ/\眠くなる眠くなりつゝ時々ピシヤリやるそのうちに益々眠くなる眼をあいて見たら盆棚はもう立派に出來上つて居た右の圍には女郎花と桔梗と萩よりも立派に竝んでゐる左の圍には我木香の花が盛に首を揃へて居る女郎花も僅ばかり仲間入をして居る向うの萩の花が左右兩列の奥に高尚に照つてゐるその前に先祖代々の位牌が三基立つてその前に燭臺が一つあるが火はともしてないその前に線香立があつてそれから前はカトギのムシロが板から下まで長く垂れさがつてゐる父も居ない誰も居ないランプは明煌と輝いて盆棚を滿面に照らしてゐる今夜この盆棚に切籠な吊つてその下でこの手紙を書く盆歌が村の辻で聞える蚊が相變らず來る御大切に御療養あれ頓首 八月十四日夜 俊生
(51)竹舟兄
六七 【九月八日・封書 下諏訪町より 北山村柏原 兩角福松氏宛】
日曜だから手紙を出す詞が第二第三の問題だと云ふのは君の弊所に對して云つたのだ君は子規先生の趣味が分ると云つてゐるが分りはせまいと思ふ君の云ふ所を聞いたでは少しも分つてゐる所がないぢやないか鐵幹の趣味も面白い子規の趣味も面白いといふのは即ち君の解らぬ事を證明してゐる「平凡無味不自然なものをゴマカス詞」に驚嘆してゐる程度の人に子規先生の趣味が分るか驚いた愚説だ「抽象的概敍的句法を許さぬだらう」位に僕の思ふ所を解してくれる樣な君だから張合がない俳句には俳句的敍法がある歌には歌的叙法がある歌に俳的敍法とは何の事ぞや十七字詩に對する形式と三十一字詩に對する形式とを混同する樣な考へは基本から間違つてゐる全く融通出來ぬ事はあるまい(極めて小なる場合に於て)併しそんな事は第一問題になる程の事でない君はつまらぬ所へ力を入れてゐる事を悟らぬのだ自分の弊所は何處にあるか悟れぬのだから困る自分の弊所を悟るには苦心が要る僕は君の才を惜むから極端の詞を以て君の眞面目なる反省を促すのだ君は自信々々と云つてゐるが僕から見れば實に憐むべき自信だよ下手な反省は自棄となり下手な自信は所謂己惚になる工夫の困難なるは此處也失敬だが君などが自信を振廻すのは早過ぎるよ今つと修養の苦心を經驗するがよいそんなチツポケな自信と心中したでは實に惜しいと僕は思ふ貴詠一々の辯解一も感心せず詳しき事は書くひまなしこの手紙を見て怒る樣な事ぢや君はもうだめだぞ失敬萬死 九月八日 俊生
柳の戸大兄
僕ノ君ニイフ所ハ前便ト更ニ變ラヌ重記ヲ省俊 生
(52) 六八 【九月九日・封書 下諏訪町高木より 長野市西後町 三澤精英氏宛】
御書拜見仕り候種々御厚志奉謝候和歌選者の件その際になりて可成御引受申度存じ居候よろしく願上候どうしても來年一月からでなくては困り候「野の人」の御決心大賛成いたし候飽迄堅實に御進行希望に不堪候猶それに對する用向何なりとも御盡力申度存じ候種々御意見御相談御申越可被下候あや子樣の件も多分成功いたすべく十二月頃岩垂先生に談合いたすべく候正岡子規を更に御研究希望いたし候馬醉木御覽の事是又希望いたし候此内に歌日記又々御送可申よろしく願上候可成は第一面にのせ度候十四日に松本行村井驛の八幡農園で水蜜桃を食ふ豫定也十九日糸瓜忌は小庵にて營み可申候三七郎さ丈夫や皆々樣御大切不盡 九月九日夜十二時 俊生
背山兄
六九 【十月二十五日・封書 下諏訪町高木より 東京 伊藤幸次郎氏宛】
〔欄外〕馬醉木ヲ今後諏訪郡中洲村小學校小林善一郎宛毎囘御発送願上候(號山水)發行ハ何日ニヤ待遠サ萬丈ナリ
拜啓信濃は寒氣頓に加はり今晩炬燵を擁して書面認め申候
日本新聞「空」は前囘に比して寂寥に存じ居り候處昨日貴詠拜見千萬の援兵を得しが如く力づき欣喜いたし候連作十首悉く活躍非常に力の動きたる作と存じ候これを十首一體にまとめて見れば各首相依つて殊によろし連作のよき特徴と存じ候例により細評申上ぐべく御心付の所直に御來示相願候
高山のいはほにやどり夢つかれ魂は翔りぬおほそらの上に
全體よくしまり居る特に「夢つかれ」がよく緊密に利いて居るヤドリ、ユメツカレと層々相據つて疊みかけ下句が(53)力に承けている全首の力ある所以調がよく想に添つてゐる
小夜ふけて天の白露(雲なるべし)山をつつみ星の青空上にのみ見ゆ
露では無理なり雄大なれども疵あり「上にのみ」など非なるべし「のみ」の助辭、調の強みを害する甚し「頭に近し星の青空」などやう緊密ならんを欲す「小夜ふけて天の白雲山をつつみ星の青空雲に浮き見ゆ」の如く欲し「露」が誤ならずば別に考あり一天白露などの意ならば「上にのみ見ゆ」益々据らず御來示願上候
天の門に風立ちしかば四方つ空四方つ國土に寄合にけり
三四五句に對し一二句意味薄く思はる三四五句の雄宕は論に及ばず
蒼空の眞洞にかかれる天漢《あまのかは》あらはに落ちて海に入る見ゆ
完璧摩すべからず
ひんがしの空の一すみやや白みやや朱けにつつ月出でんとす
同上。三四句斯の如く細かに表はして大景生動驚くべしかゝる句法はじめてなり
日を讀めば二十日の月を天の原の高山の上にむかへつるかも
第一句この連作の上に容易に得べからず前五首を經てこの快に接す興更に加はるかゝる歌體は殊に一氣に讀み下し得て調整ふを覺ゆ
月よみは神にしませば天の河ひた波ふみて空渡らすも
非常に振へりとも思はず
生死の境をはなれとことはに處女にいます月夜見の神
「生死の境をはなれ」は必要の詞なりや「はなれ」など他になくや且三四句未だしまらずと思ふ
まぼろしか夢かしらしら雲踏ます嫦娥の神をまのあたり見し
(54)絶唱三嘆山上の靈光肌に迫れり第一二句の如き重き句をのせてチヤント据り居る雄姿驚くべし
澄みとほる天の眞澄に肉むらのむくろむなしき思せりけり
結末の歌一氣よみ下し得て竹を裂くの概あり大賛成なり思付けるまゝの走り書き高慮を測り得ずして勝手の駄評たるべくやと恐居り候例により言はねば解らぬから感じたるまゝを羅列いたし候御高教至囑に不堪候
篠原志都兒目下木崎湖にあり四五十首位は土産あらむと待ち居り候明日は久し振りにて短歌會を布半亭に開き可申悉く集れば十人もあれど如何やと存じ候何れ結果御報知可申候根岸派の歌はどうしても信州に發達すべきものと信じ候信濃百四十萬の人衆過半は山國むき出しの眞面目を失はず文明を知らず都會を知らず近來鐵道の開通を得てやゝ動き出したる新元素の自覺力は自覺さへ出來たら目醒しきものと信じ候諏訪諸同人惜哉未だ自覺に達せず自ら自分の眞價を知らず天賦の靈性を持して發するを知らず只今後追々上達と樂しましく候
今や小生の胸中は脈々抑ふべからざるの希望充溢横奔せり足はヂダンダ踏んで前途の使命を望み居り候我は少くも我の一生に對する我の使命を悟れる心地す使命茲にあり千萬苦闘千萬奔馳わが勞とする所ならんや眞個使命を自覺する所苦即樂、生存の意義茲に於て一日と雖も重大なり教育は神聖なり小學教育は特に神聖なり然りと雖も小生は文學の前に我生命を捧ぐるの快樂を有するを如何せん小生の一生(一日二分でも)は文學と伴隨せざるべからず斯く信ずれば愉快だしこの信念を一寸でも妨害せられては實に不都合なり今日小生のヂダンダ踏むは之れがためなり明治四十一年は小生の紀元第一年なり重大問題雀躍問題を前に控へて知らぬ顔してゐる愈々ヂダンダを踏まざるべからざる所以なり。やゝ朱けにつゝ月出でんとす。あゝこの希望この胸中先生只夫れ知るを得んか
〔罫紙欄外〕 來年三月退職ソレマデハ誰にも云ハヌ云フト留任問題ナド面倒ニナルベシ
文學問題と聯關して※〔鷄の鳥が隹〕の問題は矢張重大なり小生は今後三十五圓の月給を抛つて百羽の※〔鷄の鳥が隹〕に米を得ざるべからず文學に携つて文學に衣食するは斷じて御免なりこゝに於て百羽の※〔鷄の鳥が隹〕はさし當り小生の文學問題と重大の干係あり(55)是故に例の寢坊を強ひて全廢して未明※〔鷄の鳥が隹〕の糞の掃除に骨折るなり薄暮疲れ歸つて直に※〔鷄の鳥が隹〕小屋の手入寢道具の始末に取り懸るなり夜半夢醒めて※〔鷄の鳥が隹〕のクヽと鳴くを聞く時胸中半ば恐れ半ば躍る全力を以て躍るヂダンダを踏まざる可らざる所以なり
※〔鷄の鳥が隹〕大分成長成績良好御喜び被下度候十二月頃から然部産卵可致と存じ候産めば貧しと雖も一家五六口を養ひ得べし來年の末には二百羽以上に致し度存居り候さうなれば大分都合よろしく候(今年末から小生等妻子は別に一家を持ちて生活する譯なり家は已にあり)以上誰に話す人もなく胸中にてのみ思ふ愈々ヂダンダ踏みて堪へがたきまゝ思はず長く書き申候前後錯雜自分乍ら何を書いたやら分らず御笑覽被下候
過日只乘切符の件小生の方甚だ覺束なく相成り候それは諏訪教育會の事業として淺間山妙義山八ケ岳その他上州地方に岩石採集旅行として十一月五日より十二日迄旅行せざるべからずそれが終れば農事休も直に終るからどうしても出京出來かねる事に有之胸中一寸困り居候この旅行實は小生の發議なり今更責任を逃ること惡し來年三月迄は小學校教員だから教育の職業を疎にすべきに非ず斯の如くなれば十中八九出京覺束なく(他人が引受けて行けばよいがあてにならず)然る上は是非共先生の方を御都合下され十一月十三日小宅著の御見込にて御出掛下され度何やら蚊やら御話し申度事近來山積の姿につき是非共御差繰り願度希望のいたりに候先生には只乘器あり十一月來り一、二月に來ること比較的安樂なり只(氷の時)時間問題あれば數日の御差繰今より御考案願入候尤もこの旅行のこと確定次第又々可申上候大分長くなり候まゝ擱筆いたし候匆々亂筆
左翁老臺
山顆累々〔封筒ニ追書〕
七〇 【十一月十三日・封書 高木より 下諏訪町小學校 森山藤一氏宛】
(56)拜啓途中落伍遺憾に存じ候益々壯勇旅行結了の趣大賀いたし候小生病氣上田にて受診少しむきあしく申されしも長野赤十字にて二囘上諏訪にて二囘受診の結果何等の障害なき事に相成り候間御安心下され度候斯囘の旅行に歌なかるべからず御示し相待申候 十一月十三日 俊生
森山汀川樣 侍史
淺間根をそがひに見つつ碓氷路の枯芒道君たどりけむ
七一 【十一月二十三日・封書 下諏訪町高木より 東筑摩郡島内村 望月光男氏宛】
拜復小生大に快復いたし候間御安心下され度候醫者ハ本ヲ讀ムナト云フ字ヲ書クナト云フ朝早ク外ニ出ルナト云フタ遲ク外ニ出ルナト云フ夜ハ直グ寢ヨト云フソノ他色々小言ヲ云フ醫者ナドト云フ者ハ器械的ニ肉體ヲ診察スルニ止ル者ダカラソノ勸告ハスベテ皮相デアル僕ト雖モ肺柄ニナリタクナイハ勿論デアル併シ文學ハ肺病以上ダヨ一日文學ト離ルヽハ一日吾人ノ苦痛ヲ加フル所以ダ病苦以上ノ病苦ダ吾人ハ肉體上ニ於ケル雖者ノ勸告ヲ參考トシテ採用スル併シソノ勸告ヲ採用シタ以上ニ吾人ノ用意ガナクチヤナラヌ僕ハ今ノ處病氣ニ對シテ大ニ瞥戒シテ居ルコレハ他ノ病人ニ讓ラヌ併シソノ反面ニ於テ大ニ平氣デ居ル餘リ一身ノ至要問題トシテ病氣ヲ待遇セナイノダコレガ小生目下ノ眞實ナル心事デアル
毎日歌ヲ詠ム毎日本ヲヨム夜モ遲クナルコトガアル併シ奇妙ニ病氣ハ追々退散スルー昨日胃者ハ非常ニ驚イタコンナニズン/\本復スルハ奇妙ダト云フ僕ハ奇妙ヂヤナイト自信シテ居ル廣言スル樣ダガ僕等ノ病氣ニ對スル考ハ醫者以上ダヨ高慢ヂヤナイヨコンナ病氣ナラー年デモ二年デモ續イテ貰ヒ度イ家人モ用ヲ言ハヌ學校デモ出テ來イト云ハヌ出校スルト云ヘバ今少シ休メト強ヒテ來ル詮方ナク籠居スル歌ヲ作ル本ヲ讀ム何ト面白イダラウ僕ガ病氣ヲ下等ノモノトシテ待遇スルニ對シ世人ガ餘リニ貴重視スルノガ怪訝ニ堪ヘヌ
(57)僕ノ精神状態斯ノ如シ君モ病人ノ部屬デアルカラ參考ノタメ僕ノ病氣觀ヲ申上グルノダ如何君ハ病氣ヲ餘リ重視シ過ギハセヌカ精神活動ヲ盛ニシ玉ヘ病氣ナドハ自然退滅ダヨソシテヨイ歌ガ出來ルヨ頭ガ愉快ニナルヨ
僕ハ今別ニ家ヲ移シテ獨立スベク準備中デアル來年四月カラ學校ヲ退イテ全ク分學ニタヅサハル決心ダ百姓ヲスル※〔鷄の鳥が隹〕ヲ飼フ蠶モ飼フソシテ晴耕雨讀主人ヲ氣取ルノダ實ニ愉快ダヨ君今少シ健康ニ復サバ一週間僕ノ家デ迎ビ給ヘ是非來タマヘ必ズ病氣ナドハ退散スルヨ君等ハ弱イコトバカリ言ツテ困ル僕ハ對ガ弱イダノ僕ノ歌ハダメダノソンナコト云ツテルカラ益々弱クナリダメニナルヨ比牟呂再興ハ余ハ來年四月以後ト考ヘテ居タ篠原モセク朗君モセク樣ダソコデ一月カラ發刊セヨウカト考ヘテ居ル併シセイテヘタナモノ作ルヨリユル/\取懸タ方ガヨイト思テヰル胡君等トヨク相談シテ置イテ呉レ給ヘ愈々出ストスレバシツカリ懸ラナクチヤ困ル一月出スナラバ十二月中ニ原稿ヲ盛ニ作ツテ貰ヒ度イ購讀者五十人ハアルマイ實費ヲ頭割ニシテ取ル積ダ一人四五十錢ニモ當ルコトアリト覺悟セナクチヤ出來ヌ年ニ六囘ハ六ケ敷イダラウ如何
左翁來月來ルヨシ待居り候根岸歌集出版ノ相談アリトノ事賛成ニ候今ブラツキ乍ラ妻ヲ督シテ移轉著手中ナリ閑ニシテ忙メチヤクチヤノ感アリ今月中ニ新居ナルベシ是非來ラレルヤウ健康ヲ囘復セラレタシ(新居ト云ツテモ古イ家ダヨ)十一月廿三日 俊比古
望月詞兄
本日長野新聞淺間登山ノ歌御評願上候新聞ナクバ小生ヨリ送ルベシ匆々
「日本」課題信州人見エズ寂寥ニ堪ヘズ齋藤君一人振フ(十九日迄ヲ見ル)
七二 【十一月廿六日・端書 信州下諏訪町より 東京赤坂區青山南町二ノ六十五 平福百穗氏宛】
病氣デ一寸ブラツキ居リ候今※〔鷄の鳥が隹〕小屋ヲ作リ移轉最中ナリ病人デモ忙シク御手紙ヲ見テ去年ヲ思出シ候馬肉ノ件又(58)ヤリ度ク來月左翁ト共ニ御來遊御スヽメ申上候小宅ニテ何日デモゴロツキ下サレ度候馬肉ハ實ニ面白カツタ志都兒ハ明日來ルト申來レリ二人デ馬肉ツツキ可申候(左翁十二月來ルト申來レリ)馬醉木遲刊小言諸方ニ聞エ候左翁何ト思居リヤ志都兒ト二人デ又何力書イテ送ル 十一月廿六日
七三 【十二月十日・封書 下諏訪町高木より 北山村湯川 篠原圓太郎氏宛】
拜啓長野新聞今日の歌(澁崎行)御覽なりや同社背山君二三年來小生に長野新聞の歌を見ろとの勸め今囘は山本聖峰が牛山君を介して是非受持ち呉れよとの事小生も斷然一月から見る事に決心いたし候根岸趣味を信州山國に鼓吹する事多少の效果あるべきを信じやれるだけやつて見る決心なり從つて南信日日の方は閑却となるべし是に就ては諏訪筑摩諸同人の努力助力を借らざるべからず盛に御出詠希望いたし候信濃毎日にみづほのや選者となり盛に例の歌を出して賑はせ居れり我黨の歌は彼の如く盛ならざるべし(數ノコト也)吾人は吾人の趣味に立つて眞贄なる理想的の歌壇を長野新聞の上に立つてやつて見る事大に興味ありと今の處想像出來る就ては一日初刷に十數人の作を連ね度何首にても御送下され度十八日までに遲くも御送願上候(新年に因めるもの)
二、比牟呂の事につき打合せもし度しかた/”\十五日午前十一時から上スワ中町うら巴屋にて月次歌會相開き度それまでに活版屋との相談を濟ませ置き可申候雨降るも雪降るも御出掛下され度候二人揃つて御出會希望いたし候重要問題だから柏原連も必來る樣申送りたり君等からも御申送り願上候(朴葉にも云つてやる)山水、汀川、釜溪、唖水等
三、胡桃澤の留守居面白し左翁の食物のこと面白し
先は右用のみ急ぎ匆々 十二月十日夜 俊生
篠原志都兒兄
(59)七四 【十二月十二日・端書 下諏訪町高木より 上伊那郡朝日村 大森祥太郎氏宛】
悲痛言留ふ所を知らず御全家御心中御察申上候小生儀直に參上いたすべき處先月來少々病氣今猶時々出校する如き有樣何れ機を得て御伺申度取あへず御弔詞のみ匆々 十二月十二日
七五 【十二月十二日・封書 下諏訪町高木より 上伊那郡朝日村小學校 大森祥太郎氏宛】
謹啓忠三君の御遠逝かね/”\遂に斯るべしとは存じ候へ共昨今の内とは存ぜず御報知に預り只々驚入悲痛いたし候御全家御嘆きいかばかりぞ御老父母御兄弟の御心中實に御同情に不堪小生儀已に十數年御厚誼を忝うし非常の御厄介相成り候事故取り分け悲痛の情に堪へず候然るに御歸省御臥床の間一度も拜趨の機を得ず昨日手紙差上げんとしたる處に御端書頂き只々茫乎といたし候同級生代表葬儀參列すべき處小生儀十一月七日淺間登山後少々呼吸器を損じ目下殆ど快癒せしも猶時々出校する位にて引籠り居りその意を得ず殘念に存じ候太田貞一君に依頼し參列の手筈はこび居り候折柄今日御手紙拜見いたし候處已に昨日の御葬儀との御事何も彼も手遲れいたし實に慚愧いたし候數日の中に太田參上いたすべく先は小生より取あへず御弔詞申上度如斯に御座候
二伸 〇上諏訪方面生前の禮状御差出しならば
一、上スワ小學校岩垂今朝吉外諸員一同宛一通 二、上スワ町小學校藤森省吾宛一通房州同居の人 三、上スワ町小學校三村斧吉宛一通 これだけにて宜しと存じ候
〇忠三君病氣見舞金過日御送の後
長の城山小學校今井一二(壹圓) 長の附屬小學校山崎邦次(壹圓)
右計貳圓小生へ送附いたしありその他の人未著故それを待ちて御預り申置候何れその内に御屆申上ぐべく(60)候御承知下され度候右恐入り候へ共禮状一寸御差出し願上候 十二月十二日 俊彦
七六 【十二月二十二日・封書 下諏訪町高木より 長野市西後町 三澤精英氏宛】
拜啓
一、新年原稿社へあて御送申上置き候御落手下され候事と存じ候(萬葉新年歌論と募集歌と二通)
二、就ては一月一日以後長野新聞小生宛御寄送下され候樣社の方へ御話し下され度候猶東京本所區茅場町三ノ十八伊藤幸次郎宛同樣願上候(左千夫氏也)
三、あや子樣の件當方は確定いたし候間其運びに願上候當校にては一月から御出勤下され候へば極めて好都合也どうせ四月から長野退散なる故一月から長野の家を疊んでは如何(君は下宿して)尤も之れは當方の勝手な譯なり如何樣にても好都合の方に御取定め下さるべく候
四、※〔鷄の鳥が隹〕五羽差上可申候相場が高いからそのつもりに願上候 二十二日夜 俊生
背山兄
七七 【十二月二十九日・端書 下諏訪より 北山村柏原 兩角福松・兩角國五郎・北澤金左衛門・兩角珂堂氏宛】
アシビは今後「アカネ」と改題一月一日より三井君主となりて發刊の由也盛に御出詠希望いたし候比牟呂は一月七日〆切いたすべく文章和歌何にても澤山御送願上候餘は新春を待つ 十二月二十九日
(61)明治四十一年
七八 【一月一日・封書 下諏訪町高木より 長野市西後町 三澤精英氏宛】
謹啓多望なる新年を迎へ御同慶存上候昨年は非常なる御厄介相成り感謝いたし候猶相變らず御引立御愛顧被下度悃願いたし候長野新聞元旦の賑ひ驚入り候とても一度に眼は通らずさし當り歌と貴兄「福島の宿」と太田兄の四十年文壇とを見申候貴兄の小説は初めて故殊に注意して拜見いたし候非常に面白く拜見いたし候筋が氣に入り候姥さんの話を聞きつゝ福島町を見下ろして居る所大に宜しく候姥さんをあんなに泣かせぬ方宜しと存じ候繪草紙の段最も苦心と存じ候膝と膝とがつき合ふ云々は拔いた方がよいと存じ候繪草紙の段が全部の重心なり結末の夢云々のぼかし方はいやに候朦朧なる描寫でごまかしてゐると存じ候あんな事一行ばかり書て大に事をこはし申候力が拔け申候貴説伺ひ度候「おりさんは夢である……は夢ぢやない」何の事やら鵺文學に候あれは夢でなく全く現實とすべきものと存じ候全部感情一貫して面白く候處々細かき疵あるは詮方なしと存じ候
一、左千夫氏へ新聞郵送有難く存じ候 二、小生續稿は明日御送可申候 三、應寡歌の三分は慥に不都合に候殊に小生のは連作として續いてゐるものを分けられて悲しく候 四、年賀の廣告感謝いたし候 五、弟兵役の件御手數恐入り候當方でも問合すべく候へ共猶何分願上候 六、新聞は當方共同店より毎日配達いたし居り候貴社の命令にて配達と存じ候
(62)御令閨樣に可然御傳言願上候匆々頓首 元旦夜 俊彦
背山詞伯 座下
七九 【一月三日・封書 下諏訪高木より 北山村湯川 篠原圓太氏宛】
新年匆々謌の議論をして來たのは君だ馬醉木も來ずホトトギスも來ず甚だ寂寥の處へ歌のぎろんと草餅とは大にうれしい草餅は御好意特に感謝する
「司らの咎もあらず」の歌は小生は感服せぬ司等のとがめなきなど消え極的な事柄はどんど火の如き盛なものを表はすには不適當である、吉野山霞の奥は|しらねども〔付○圏点〕見ゆる限りはさくら也けり 西行?の如き子規先生がかつて消極法について説かれた事ありと思へり特に|咎もあらず〔付○圏点〕と置いて末に神|ゆるしたり〔付○圏点〕と置くなど甚だイヤと思ふ|神許したり〔付○圏点〕ならば只積極に盛に焚き立てる火を神が許してゐると詠むべきと思ふ何しても|司らのとがめ〔付○圏点〕云々は大失敗と存じ候御意見折返し御洩し被下度候その他全部につき氣に入らぬ歌へ批評を添へて至急御送被下度候
三四十人のを十四五に削つてしまつたのだから出詠者には氣の毒に存じ候南信日日の方は多數中遂に一首を拔く能はず自分でも張合が拔け申候取るは樂ヂヤが拔くが苦しい手數だ小生のも振へりと信ぜず候南信日日へ出したのも御批評下され度候比牟呂に原稿澤山御送願上候此間差上げし「朝の歌」は御落手と存じ候新年會は廿五日の土曜にしては如何胡君その頃は少し閑になるとの事也日本課題御出しにや小生はこれからにて候
寒さ
校長の顔細く居る寒さかな
一山の常磐木摧く寒さかな
(63)この驛に一茶死んだる山さむし
芒盡きて裸湖見ゆ寒さかな
物たのむ鼻筋長き寒さかな
御一笑可下候
額の事一二日中出町催促いたすべく候先は急ぎ亂筆申上候 一月三日夜 俊生
志都兒大兄 座下
八〇 【一月七日・端書 下諏訪高木より 湖東村上菅澤 河西省吾氏宛】
賀正 蓼科歌非常に面白きものあり今春目に入りしものゝ傑作也愉快に拜見いたし候十二日在宅いたすべく候間御來遊被下度待上候也御尊父樣によろしく願上候 一月七日
八一 【一月十九日・封書 下諏訪町より 豐平村上古田 小尾喜作氏宛】
御手紙拜見いたし候種々御苦心の程御同情申上候今東京に出るは早過ぎるかと思ふ無論よい事には相違ないが今少し教員としての實地經驗を經たる上出京する事更に得る所多かるべし教員をしてゐるとすれば玉川か上諏訪が宜しかるべし玉川に居るよりも上諏訪に居る方研究も出來るべし併し玉川も惡しきに非ず玉川で研究的にやる事も大によろし之は君の考通りでよし上諏訪では第一岩垂が君を非常に欲しがつてゐるその他の職員も同上だ只上諏訪では藤森に氣の毒だから躊躇してゐるのだ君の決心で自己の利害上より上諏訪轉任を藤森に請求しても不都合はあるまい君の決心は如何小生は三月限り學校は止めて百姓になる(多くの人に言ふ勿れ)
右愚見のみ 一月十九日 俊彦
小尾君
(64) 八二 【二月七日・封書 上諏訪町より 下諏訪町小學校 森山藤一氏宛】
拜啓君が川柳をやるのは甚だ譯が分らぬ君が文學の上に立つて世に生存してゐるのが眞面目の仕事である以上川柳などに頭を使ふのはつまらぬ事ぢやないかと思ふ僕は必ず歌でなくちやならぬなどと云はぬ俳句でも歌でも長詩でも小説でも構はぬ併し乍ら何れにしても始めたら專心にミツシリやらなくちやならぬ忌憚なく云へば君は餘り多く手を出し過ぎるだから深刻に君の天分を表はす事が出來ぬと思ふ新體詩もその後見えぬ小説もたまには見えるが熱心とは見えぬ今の處で歌と俳句は君として尤も成效しつゝあると思ふ川柳など何處に研究の價値があるか僕には分らぬ或は僕が川柳を解せぬ誤解かも知れぬが僕は君が左樣に矢鱈多くへ手を出すのを遺憾と思ふ
天外から聞いた君が長野新聞の川柳を見るとの事僕は即時に不賛成を唱へた天外もさうか知らんと云ふ昨夜背山に逢つたそれはもう決定してゐると話した僕は背山にも牛山君へと同樣の意味に話した僕は長野新聞より何より根本から川柳全廢を君に勸める熱心に勸める御熟考が願ひ度い君の歸校後直に神來談が願ひ度い何もかも露骨に云つた失敬 二月七日 俊生
汀川兄
八三 【二月十八日・封書 上諏訪町布半より 松本市本町松本銀行 胡桃澤勘内氏宛】
御返事申上候今比牟呂の至急分が發送終つて志都兒と茶をのみつゝ此手紙認め候解嘲歌大に面白く候君の眞情が直截に活きてゐるから讀んで生動して居り候捉へ所の適應と思ひ候春の歌や戀の歌の評は參上の上ゆる/\御話し申度候誰のどの歌面白い面白くないと段々言つて來れば遠方に居て「只斯う思ふ」だけでは思想がまとまらぬつまり水掛論に類して來る大體の傾向が近來斯樣になつて來たこりや惡いとか善いとか云ふ注意が必要である乙(65)字君の俳論など僕等にはよく俳句が判らぬが研究的用意は感心である僕等から見れば諸同人近來の傾向は思想に餓ゑてゐる觀察も進歩せぬよい歌を作らうといふ興味は盛であるが思想上の興味は之に伴はぬ思想や趣味が活動せぬのだ此根本問題を誰も遺却せんとしては居らぬけれど弱味は矢張り此點に在る吾人は人生觀を進めねばならぬ哲學的研究も宗教問題も必要である併し吾人が有する眞の人生觀は只哲學の如き智的修養のみからは得られぬ偉人の自然感化にも浴せねばならぬ人生活世間の辛酸にも鍛へられねばならぬかくして吾人は眞個の人生觀を抱く同時に或人格品性が築かれるその源泉から日常の行動は流れ出る吾人の興味は高くなる大きくなる斯樣な順序であらうそこで吾人には日常行爲の問題が出て來ねばならぬ今日吾人同人間に日常行爲問題が盛であるか正岡先生の病床六尺時代の書きものには常に斯る問題が出て來てゐる正岡先生などは哲學など學んだかどうか知らぬが高い哲人であつた眞個の哲人は必空漠の人生の理想論などよりも活世界の上に隨時の判斷を下して行く日常行爲問題を必離れぬこゝまで來て居らねば詩人も困る
吾人は吾同人の比較的(鐵斡等よりも)この間題を捉へて居るを諒とするけれども此根本問題に大熱心であるとは云はれぬだから少し面白い作が出來ると直ぐあとが續かぬ發生期の堀内君や柳澤君などは面白いものが出來るのは思想が活動してゐるからだ併し思想界の修養を盛にせねば直ぐ下落する僕にも充分この傾向がある「諏訪神社」陳腐問題は全く諾肯する志都兒にもこの傾向がある君にも望月にも此傾向がある事を諾肯して貰ひ度いよい歌を作り度いなどあまりあせらぬがよいよい歌は自然湧いて來るよ(怠れぢやない)細かい一首つつの事は此内に參上御話し申度候奇遇君の歌矢張り面白く拜見いたし候中に少し立入り過ぎたもの有之かと存じ候別紙加入御返し申上候此手紙望月君に御見せ願上候どうも書くと要領を失し困入り候全然分らぬ事書いた樣にも思はれ困入り候廿四日に參上いたすべく候望月君が出松して呉れれば大幸甚に候暖氣を祈り候宿屋の硯に墨なく非常の薄墨字も亂暴申譯無之候一日中字をつづけて已に眠くなり候比牟呂御評待人り候 二月十八日夜 俊彦
(66)御兩君
八四 【二月十九日・端書 下諏訪町より 東筑摩郡島内村 望月光男氏宛】
比牟呂御落手と存じ候印刷屋とけんくわして遂ひ發行所を小生方といたし候御評御待申上候氷の歌難有存じ候終りのは感心せず候甲之君狐云々の歌貴意賛成に候舊比牟呂数册あり二十四日持參可致候 二月十九日夜
八五 【三月四日・端書 下諏訪町より 東筑摩郡島内村 望月光男氏宛】
今朝手紙出さんとする時御端書拜見いたし候未だ繁忙にて創作物を見しのみ也甲之君の小説は徹頭徹尾觀念を列べたので理解が直接ならず特色はあるが不賛成に候胡君のはよい併し第一、二が散漫也第三が振つてゐる兎に角作者の感情が始終を一貫してゐるのは嬉しい左翁の和歌矢張りよい蓼科歌はよくない次に君の朝の歌の終り七首は非常によいあれは山上の眺望といふ題でもあるべきと思ふ千里君のにもよいのがある小生の氷切終り一首の御批評全く同感なりあゝいふ歌はこけ威どしなるべし「一つりの灯さげ行く」が自分では一番よいと思つてる九日頃參上いたすべく候尤も君が出松出來なくちやだめだ匆々失敬 三月四日朝
八六 【三月五日・端書 下諏訪町より 中洲村神宮寺 笠原田鶴氏宛】
拜啓一の病氣心配の至りに候肺炎は藥よりも手入に有之折角氷冷法その他御周到祈望いたし候當方にても政彦又又ヂフテリヤを始め今日注射いたし候此方は心配無之と存じ候大に無音申譯無之候へ共右の次第故早速參上出來ず取あへず右申上候也 三月五日夜
(67)八七 【三月七日・端書 下諏訪町より 東筑摩郡島内村 望月光男氏宛】
又々延引いたし候長男ヂフテリヤにてこゝ二三日は拔けられず今度は出し拔けに參上いたすべく候寫生から主觀に進み暗示に進む徑路は八風乙字二君の云ふ通りなれど之がために客觀的寫生的が生命なしと考ふるは大間違なり人間の思想が進歩する限りは寫生は進歩すべし印象明了も進歩すべし進歩せず死滅する時は同時に主觀の死滅する時也如何
八八 【三月十五日・封書 下諏訪町より 南佐久郡大日向村小學校 井手八井・佐々木牧童氏宛】
拜啓學期末御繁忙の御事と存じ上げ候小生もやゝ忙しく手紙差上げんとして矢禮いたし居り候今日御稿猶一囘拜見長野新聞の方へ送り置き候八井君のは七首牧童君のは三首(二首は過日の手紙の末にありしもの)選出いたし置き候御兩君とも或は御不平かと存じ候へ共小生の採る能はざりし理由は過日の書面にて御承知願度候こんなこと一々出詠者に對して申送りきれず候へ共御兩君に對し過日の書面も差上げ置き且御返事も頂戴いたし有り候間云はねば氣が濟まず又々一書差上ぐる次第に候歌は輪廓のみにては淺く候内容の特色が眼前に躍如せねば困り候これには只抽象的文字を併列したのみぢやだめに候光明よ希望よ運命よ呪詛よなど云ひ居るものの多くは徒らに衒氣多くして淺薄なるは此理に外ならずと信じ候此點に於て根岸派の寫生趣味は千古不動の特色を有せりと信じ居り候
病閑 子規
四年寢て一たび立てば草も木も皆眼の下に花さきにけり
不二に行きて歸りし人の物語ききつつ細き足さする我は
(68)人皆の箱根伊香保と遊ぶ日を庵にこもりて蠅ころす我は
寫生的趣味を以て平凡陳腐など申すものありもし果して平凡ならばそは作者が平凡といふ事也作者の趣味が平凡でなくば寫生の歌も平凡の筈無之と存じ候甚だ失禮に候へ共御兩君の歌未だ寫生趣味に乏しきの感有之候今月中位に學校もしくは貴宅の庭上に見ゆる何物にてもよろしく候間五首乃至十首御作歌の上御高示に預り度研究上の事に候間無遠慮に愚見申上ぐべく氣に喰はぬ所は失張露骨に御申越下され度祈望いたし候甚だ不得要領の手紙にて毎度失禮に存じ候先は右申上度匆々不盡 三月十五日夜 俊生
井出八井樣 佐々木牧童樣 梧右
牧童君に申上げ候諏訪郡居住の件今の所早急には困り候何れゆる/\詳細拜聽可仕候也
八九 【三月十八日・端書 下諏訪町より 長野市師範學校 河西省吾氏宛】
拜復試けんにて御折角に奉存候主かん的の歌暗示法の歌(乙字氏の所説)とて格別進歩したものには無之客觀的活現法の歌が面白くばそれを詠んで居ればよろしくと存じ候その内に暗示法(會下の友の如き)的のも面白かるべくと信じ候小生氷切の歌は矢張り活現法のものなり試けん終へたら少し御作り希望いたし候原田秋郎は誰れだか知らず匆々 三月十八日
九〇 【三月三十日・封書 下諏訪町より 東筑摩郡島内村 望月光男氏宛】
拜啓御返書遲延いたし候急用出來しため處々往來遂に廿八日新湯へも行き得ず殘念至極存じ候アレから御歸宅後腹具合惡しかりし由昨今如何にや大した事なからんを切望いたし候
御詠草愚見記入御覽に入れ候歌が出來ぬと云ひつゝこの位出來れば澤山也小生の歌についての御評大抵異議なく(69)候「松山の松の下道車押す湯原少女に雪しづれつつ」の松山を殿山とせなんだのは固有名詞二つ並用の調和惡しからんと思ひて也湯原少女を中心として活かし度いには餘り特殊性ならぬ「松山」位の普通名詞が適當ならずや御意如何「見まくほり君を思へば春の日の雪げの道の長き松山」は山裾がよからんと存じ候「檐つたひ」云々は全然失敗也「一夜に似つゝ雨を聽くかも」は再考ものに候
お亭の間の一夜長き記念也山邊に籠りて長きもの作り度し淺間は短篇的山邊は長篇的也よき時見計らひて何時にても御出掛下され度候志都君今東京に在り四月上旬まで滯在のよし歸國を見計ひて御出掛下され度候君の來り次第新湯會を開き可申候アカネ三號僕の文章は四號に廻す由申來り候比牟呂〆切は四月七日まで延す何か御送り下され度候長野新聞選歌に今度はよいものありたり嬉しく候
※〔鷄の鳥が隹〕舍増營に著手こゝ少し忙しく候大に暖く成り卵を産み出し候右のみ匆々不宣 三月卅日夜 俊生
光男樣
九一 【四月十二日・端書 長野縣諏訪郡下諏訪町より 東京市赤坂區青山南町 平福百穗氏宛】
大御無沙汰誠に申譯無之候四月一日より閑散となり※〔鷄の鳥が隹〕專門にいたし居り候今月中は※〔鷄の鳥が隹〕の世話で忙しく候それが終へれば東京へ遊び可申候蕨君西京行只々羨望也左翁小説熱心驚くべし密畫的な所がちよい/\見えをかしく候小生も小説の密畫がやり度く成り候匆々 申四月十二日夜
九二 【四月十二日・端書 下諏訪町より 富士見村神戸小學校 兩角喜重氏宛】
彌々不二見原乘込の由先づ/\それで落著と存上候田舍の靜な處で讀書するが專一と存じ候不平も何もあつたものに非ず修養が專一と信じ申候何れ遊び乍ら參上可仕候匆々 申四月十二日夜
(70) 九三 【四月二十三日・封書 下諏訪町より 宮川村中河原區 唐澤うし子氏宛】
御返事相後れ申譯無之候折角御出掛下され候處不在いたし遺憾に存じ候夫れ前の日曜まではお待ち申居り候處その後御手紙參るだらうなど思ひ居りウツカリいたし候段御許し下され度候宮坂親一と申す男つまらぬ人間に有之候校長がそんな事まで干渉するとは彌々たはけた事也そんな事は御構ひ御無用と存上候
和歌は今迄どんな本どんな雜誌御覽にや小生の御すゝめ申さんとするは雜誌にては「アカネ」(根岸歌會機かん)古書にては萬葉集金槐集(實朝全集)田安宗武卿家集曙覽全集等明治の書物にては正岡子規先生遺稿全部ことに竹の里歌は必御一讀必要と存じ候古今集新古今集等の如きはつまらぬものなり御覽の必要可無之と存じ候古今集新古今集西行の歌賀茂眞淵の歌本居宣長の歌の如き多く俗惡にして讀むに堪へず明治に入りても佐々木信綱與謝野晶子等の歌何れも馬鹿らしく存じ候小生等は正岡先生の指導の下に根岸派和歌を研究するを欣び居り候正岡子規先生は人格に於て偉大なりし故和歌も俳句もその他の文學も皆偉大に候子規遺稿は是非共御一讀御すゝめ申上候以上の書物御志望に候はば小生より御世話申してもよろしく小生所持のものは御貸し申してもよろしく候先は御返事のみ取急ぎ申上候亂筆御ゆるし下され度候也 四月二十三日 俊彦
九四 【五月一日・封書 下諏訪町より 東筑摩郡島内村 望月光男氏宛】
拜啓何時かの長い手紙拜見後返事書かん書かんと思ひつゝ今日にいたり候捨てゝ居たのぢやない四月以來の繁忙にて何も書けず昨夜漸く長野新聞の歌を見了り今夜君への手紙を書くなり目下※〔鷄の鳥が隹〕百餘羽ありその手入のために朝から晩まで動き續け立ち續け居り候これで五月中旬又々百羽増加すべくそれが成長するまで忙しかるべし暇を得んために教員をやめて此繁忙に逢ふは滑稽なれども※〔鷄の鳥が隹〕成長の上はズツと樂に成り可申候
(71)貴兄の近状如何春暖に逢ひて追々健康増加せりや心に懸り候今月中に是非御來遊ありたし繁忙と云つても一日や二日君と漫歩する位の餘裕はあり御出掛二三日前一寸御知らせ下されば萬事片をつけて置き可申候汽車があるから何でもないよ左翁五六日頃來遊との事今度は松本が主眼にや先生中々餘裕あるには驚入り候
比牟呂は目下印刷中の由に候近頃上スワ行の機なく手紙にて催促いたし居り候不折畫伯の表紙(字ナリ)も間に合ひ候五日から十日の間位に出來可申候次號は必ず六月中に出すべく今月廿五日頃までに原稿御作り願上候堀内君病氣よろしからずとの事困入り候非常に神經過敏の事申來り候何とかして御慰め下され度小生よりは明晩長く書いて送るべく候あの男の顔は只一度逢つたのみだが明了に想像出來候何かあると思出し候妙な所のある男なり清淨温雅當世の人に非ず
萬葉の件|しく〔付○圏点〕問題は貴説全く當り居り候小生の失言に候莫囂云々(萬葉一)難解の歌君の如くよめば慥に分るあれを「ウネビノ山シオモホユ」とどうしてよめるか分らず候紀の國云々の詠み方全く意を得ず候
萬葉十七「たち山の雪か|くらしも〔付○圏点〕延槻の川のわたりせ鐙つかすも」を|來らしも〔付○圏点〕(貴説)とは何の意にや解せず候雪がとけて來るの意でも無からん小生は矢張り消える方に解し度く候
萬葉十七相聞の歌「庭にふる雪は千重しくしかのみに思ひて君をあが|またなくに〔付○圏点〕」を|戯れに反對〔付○圏点〕云々の貴説仝く非なり「勝間田の池は我しる」とは異れりこの次の歌「白浪の寄する磯田を榜ぐ船のかぢとるまなくおもほえし君」と連作的に出來てゐる歌にあらずや前後の關係や詠みたる場合を考ふべし家持の歌にはどうも技巧勝ち過ぎたるもの散見いたし候以上二首もそんなによい歌と思はず候深くないと思ひ候、如何。久しく萬葉を離れ大に忘却いたし候そろ/\調べはじめ可申候疊語同語御集めの事面白く候何とか纒めて比牟呂へ御遣し下され度候斯樣な研究も一方より必要に候萬葉を研究する人が奈良朝を研究せねば心得ぬ事に候吾人はすべての方面より研究して奈良朝の人間に接し度く候奈良朝の人間を研究せねば萬葉も淺いものと存じ候
(72)挿入句の件如何小生の方にてはその後未だ調べて見ず候御説あらば聞かせてくれ玉へ山邊の一夜忘れ難し山邊で廿日ばかり讀書し度いお亭の間の歌會は比牟呂原稿書いてゐる内に和文體になつてしまひ變なものに出來候改むるも面倒故その儘出し置き候佐久間象山論御評願上候右のみ匆々不盡 申五月一日夜 俊生
光兄臺下
九五 【五月四日・端書 下諏訪町より 松本局島内村 望月光男氏宛】
「アカネ」の歌不振不愉快ナリ下手な議論ばかりしてゐるからいかぬのだ小説評など見當違也裸體あれば下等など困りもの也隣の嫁をよんで「入浴の所」誰か劣情を起す者ぞ君の歌餘り悲慘に過ぎて情を傷る傾あり未の一首大によし如何御返事まつ 五月四日
九六 【五月二十日・封書 下諏訪町より 長野市師範學校 河西省吾氏宛】
復啓益々壯健のよし賀し上げ候小生日々養※〔鷄の鳥が隹〕にかまけ居り候健康大に増し身體も太り候間御喜び下され度候
高山植物の歌振ひ居らず候千島桔梗長之助白山いちげの如き特殊專門家にあらざれば知らぬ名のものその儘を用ひて作るといふ事第一に考へものに候小生も以前そんな事をしたれど今日より見れば皆不成功に候もしその物の中のどれかに非常に興味ありてそれを詠まむとならば前書きの文によくその説明を書いてその説明文中の一部を詩的に歌ふより外手段無之かと存じ候只一般に高山植物に興味ありといふならば千島桔梗とか何んとかいふものを特殊的に詠まずして一般的高山植物開花の有樣やその四近との配合などを主として詠むべき事と存じ候
寸にみたぬ花の梗のべて筒かたの紫にさく千島桔梗の花 の類は全く失敗に候何處にも高山的感じが表れ居らず候平地の花を斯樣に詠みても同じ歌を得べし用意淺しと可申候
(73)燒砂のなだれて黒き山の背になよなよ咲ける駒草の花 の如きは前
に比して高山的用意備れり
遠くにわが行く山の砂原になよなよ咲ける花をあはれむ(猶改むべし)
の如く更に之を感じ的に詠む工夫必要に候この用意御熟考希望いたし候手紙にてはよく悉し難く候前の貴詠「竹籠|さむく〔付○圏点〕唐松ちるも」を「竹籠の上に唐松ちるも」等では利かぬ事に候詳しくは南信日日紙上御覽下され度候課題は橋、草、生徒、長野新聞今度の課題可成多く御送り下され度候同紙上にて根岸趣味を信州に鼓吹いたすべく候信州には猶根岸兒多かるべきを信じ候
比牟呂二十五日頃出來るから送る 十九日夜十二時半亂筆 俊生
九七 【五月二十五日・封書 信濃諏訪郡豐平村より 東京本郷區元町二ノ六六藤森良藏方 塚原葦穗氏】
拜復昨夕新湯より歸宅して書面を見今日古田に來り(建碑手傳を兼ねて)種々相談いたし候先づ今日の處大阪高等工業を受けて見るがよからんとの協議故その方の手續いたされ度候
一、大阪工業に入るとして大阪にての費用どの位のものにや大阪市の衛生は如何、右熟考の上にて受檢を宜しとせばその手續御踏みありたし 一、水産の方も今一度よく良藏君等と協議して見るべし 一、高等學校の方は六年は長すぎたり一家の事情迚もだめなり
右の内にて如何樣にも御決定御返事ありたし(古田と高木へ)それで猶失敗ならば暑中休に相談するがよいどの道を歩いても人間の價値に高下なしクヨ/\するな以上 五月廿五日
九八 【五月三十一日・封書 下諏訪訪町高木より 東京本郷區元町二ノ六六藤森良藏方 塚原葦穗氏】
卅日出の手紙披見苦心察し入り申候苦境必しも人の爲めに惡しからず餘り煩惱せぬ樣希望いたし候師範入校の決(74)心賛成いたし候然れども是は最後の手段に候へば先づ以て大阪工業を受けて見ては如何落第したとて恥にはならず平氣でやつて見ればよき也よければ結構いけなくても困らぬといふ心持でやつて見ては如何。衛生惡しければ市外に居りてもよろしかるべく候同地には米澤村小松武平君も居り下諏訪町友の町の高木君も工業学校に在り多少好都合なり是が氣に向かずば斷然師範入學と御決心可有之候よくく御熟考の上決定あり度し古田にても只今にては大阪工業受驗のつもり也何もかも餘裕ある態度にて御進退あるべし
〇何れとも決定次第直に御報知あり度し
〇暑中休迄は日本大學の方に出席すべし代人を出して歸國し居る事危險也兵役取締嚴重なれば也 五月卅一日夜
九九 【六月二日・封書 下諏訪町高木より 北山村湯川區 篠原圓太氏宛】
拜啓比牟呂モ出來タ、アカネモ出來タ比牟呂ノ責任ハ今ノ時ニ當テ特ニ重キチ感ズル如何ナル困厄ニ逢テモ屈シテハナラヌト益々自奮スル今度ノ比牟呂ハ四十頁バカリニナツタカラ定價ハ廿八錢トイフ高イモノニナツタ我々熱心者ノ仲間ハ二十錢デモ三十錢デモヨイガ一般ノ人ニハ氣ノ毒デナラヌ比牟呂ハ今後全國ヲ相手ニシテ活動スルノ覺悟ダ少クモ信濃ノ青少年ニハ今後我黨主張ノ貫徹スル機會アリト信ズル
然ル時ニ四十頁ノ小雜誌(外形ニ於テ)ヲ定價二十錢三十錢ヲ呼ブハ無常識スギル今ノ處三川人ノ寄送ガアルカラ未ダヨイガ全費用ヲ讀者敬ニ正直ニ割當テレバ更ニ高價ノ者ニナル僕ニ若シ生活費ノ餘裕サヘ多少アレバー册十五錢位ニ定メテ仕舞フ一册十五錢ニ賣レバ損高ハ七八圓以上ノモノニナル一度出ス度二十圓カラノ足前ヲスルコト小生現今ノ境遇デハ少クモ一年バカリノウチハ堪ヘラレヌ小生ノ生活ハ現今隨分苦シイ養※〔鷄の鳥が隹〕八十羽ガ僕一家生活ノ費用デアルソノ他ニ收入ハ少シモナイ春蠶夏蠶一枚ヅヽ飼ツテモ知レタモノダ長野新聞カラ月二三圓来ル南信日日カラ一圓來ル悉合セテモ親子六人ノ口ハ糊セヌ僕ハコンナ境遇ヘ自ラ好ンデ踏入ツテヰル小學教員ヲシ(75)テ居レバ兎ニ角月ニ三十五圓取レタ三十五圓ヲ捨テヽ※〔鷄の鳥が隹〕八十羽ニ就イタノモ自分ノ物好キカラ起ツタコトデアルカラ困リハセヌ困リハセヌガ物質的ノ困苦ハ大ニ増加シテヰル養父カラ多少ヅヽノ補助ヲ仰デ居ルガ男子三十三歳ニシテ一家ヲ經營出來ズ、サウ/\ネダルコト情ニ於テ忍ビヌ今年※〔鷄の鳥が隹〕ヲ増殖シテ百五十羽乃至二百羽ニスル計畫デアルコノ計畫ガ具合ヨク出來レバ比牟呂ニ一度十圓位ノ金ヲ出スコトハドウカカウカ出來ルツモリデヰル只今年一年ガ大ニ苦シイ創始時代ノ苦シミデアルカラ愉快デハアルガ苦シイコトハ實際苦シイ茲所デ君が五十圓ノ金ヲ二年バカリノ期限デ小生ニ貸シテ呉レヽバ大ニ有難イ五十圓ノ餘裕アレバ今年一年カラ來春マデ小生ノ執ル事業ハ非常ニ餘裕ヲ生ジテクル五十圓デ餘裕出來ルナンテ哀レナ者ダガ實際僕ノ程度ハソンナ者デアルコトヲ白状スル雜誌ノ方ハ斷然定價十五錢ニ定メテ仕舞フ寄送ナド必シモアテニセヌ一二囘位ノ旅行モ心配ナシニ出來ル君モ隨分旅行シテヰル妹君ハ遠ク出デテヰル金ノ餘裕或ハ六ケ敷カラン無理ナエ面ハシテ貰ヒ度クナイ只都合出來ル範囲ニ於テ心配ヲ願ヒ度イト云フノミデアル必シモ出來ナンデモヨイ只思付イタマヽヲ相談スルノダ今不可ニシテ七月八月頃ナラヨイト云フナラソレデモヨイ
比牟呂ハ印刷所變更ノタメ不馴デマヅイ所ガアル消息ノ追加ハ丸デ落シタ活字ノ不足ハスグ東京カラ取寄セルト云ツテヰル胡君カラモ望月君カラモ何トモ云テコヌノデ張合ガナイ甲之君カラハ盛ニ云テ來タ左千夫ハ子規七囘忌記念トシテ諸同人ノ歌集ヲ出スカラ比牟呂全部ヲ送レト(最初カラノ)云テ來タ
タラノ芽早ク送ツテクレ食ヒ方モ書イテ呉レタラノ芽ヲ持ツテ出テ來レバ猶妙ダ共ニ料理シテ食フ話ス落合歌會ハ振ツタツモリダ長野新聞ヘ今ニ山ルカラ批評シテクレ玉ヘ三四日消化不良デ具合惡シ 六月二日正午 俊生
志都兒兄
科野舍トイフ人南安曇郡東穗高村ノ人ナリ有望ナリ
(76)一〇〇 【六月五日・封書 下諏訪町高木より 北山村湯川區 篠原圓太氏宛】
拜復御配慮相掛け恐入り候御來意に從ひ八月末迄に金五十圓御融通御貸附下され度主として比牟呂發行用に供すべく候へば失敬だが無利息の事に願上候その代り從來の定期寄送は三號より御依頼を止め可申候然る上は早速次號より定價十五錢と相定め可申購讀者二三十人殖え候へば十二錢か十錢に改め度と存じ候
次號はおそくも七月中に出し度原稿可成多數御送下され度本月二十日頃迄に願上候二號は原稿何囘にもまとめしため統一なき編輯いたし遺憾に存じ候今少し長き御批評意見待居り候胡君からは著いたとも云ひ來らず返事を催促したれども何も云ひ來らず病氣ぢやないかと氣に懸り居り候甲之君からは非常に長い評が來り候
中央俳句界の誰かに依囑して俳句選をして貰はんかと存じ候小生も俳句作り度けれど信州によき人なしアカネの六花、乙字などよきかと思ひ候右御意見御申越待上候望月胡桃澤等も賛成ならば斷行いたすべく候長い批評來ぬが一番張合なし朴葉など何も云ひ來らず不都合に候褒められ度いのぢやない惡口(?)や議論や質問が同人間に流行らぬが寂しき也七月の飛騨旅行今より御用意希望いたし候
朝露の葦ゆすり鳴く葭切りのさやけき言を聞かず久しも
六月五日 柿乃村人
志都兒兄
比牟呂メタ寄送シタラ殘部二册ニナツテシマツタ數日中ニ註文ナケレバ送ルソレマデ待ツテクレ給ヘ
一〇一 【六月二十日・封書 上諏訪町布半方より 松本局島内村 望月光男氏宛】
蠶が庭休で疲れを養ふべく布半に來て半日寢ころぶ晝夜の勞働で前後も分らぬほど眠い、だるい。明日から八日(77)働けばもう千秋樂である寢乍ら君ノ原稿ヲ見タガ文章甚ダ振ハヌ和文であれ丈けの長さを續けるが無理だどうも冗長に過ぎる甚だ失敬だが今一度訂正しては如何和文と言文一致との混淆も如何のものだ今つと急所を力入れてアトは省き度い余の神經衰弱で正鵠を過つてゐるかも知れぬが今一度御通讀を望むソレデモ猶確信あらばこの儘にて返せ失敬多罪 六月廿日 久保田生
望月光男樣
コレカラ家ニ歸ル午後七時 卅日迄デヨシ
一〇二 【六月二十一日・封書 下諏訪町より 北山村湯川區 篠原圓太氏宛】
比牟呂原稿月末迄でよし盛に御送あれ柳澤君にも云へこんな紙で失敬
拜復昨日庭休み今日口付け今七八日にて全く終り可申候成績最上等には非ずとの事兎に角はじめて自分が全責任を負つて養蠶して見申候體は非常に疲れるに驚入り候此手紙書き居る時已に睡魔頻りに襲ふ併し今十日位は充分續くよ御安心是折る(ヤセ我慢ヂヤ無イ)御申越により君の歌稿御送申上候不二兄第一會のは要らぬだらうと思ふが御端書の意味充分に分らぬ故念のためこれも同時に御送申上候小生の記入御一覽被下度候
望月君の「諏訪行」の文章昨日庭休を利用して布半にごろつき乍ら一讀大にまづかりし故返送今一度作り直さんを勸めやり候今に來るだらうと存じ候小生月末は何もだめ也あと次便のこと 六月廿一日夜 柿乃村人
志都児兄
一〇三 【六月二十一日・端書 下諏訪町より 上諏訪町片羽 牛山郡藏氏宛】
諏訪地方蠶桑繭の消息長野新聞に見えざるは缺點と存じ候殊に新繭出などは尤も急速に掲載所望いたし候餘計な(78)事申上候匆々 六日廿一日夜
一〇四 【八月九日・端書 高木より 上諏訪町 牛山郡藏氏宛】
文林堂やけて比牟呂困る信陽といふ雜誌の印刷所で八月中に出して呉れぬか大至急都合きいて呉れたまへ御返事待上候一頁二十錢の組代印刷費は四十頁八十五部で三圓位の所でやれぬか猶聞いて呉れ玉へ今下諏訪の方を聞くつもりだが二三所聞いた上|價《ね》うちの方へたのむ匆々失禮 八月九日
一〇五 【八月二十二日・封書 下諏訪町より 北山村湯川區 篠原圓太氏宛】
啓昨日は種々有難く存じ候あれから茅野へ十二時過に著きし處汽車二時間も後るゝとの事故已むを得ず上諏訪迄馬車にて馳つけ一臺八人つめ込みし熱苦しさ弱入申候
〇胡桃澤より來書あり曰く上高地へは行かれぬ曰く此牟呂原稿中「百合の雨」は拔いた(胡桃澤の文章也)斯う反復常なくちや困入り候不快に候兎に角一度入れたものを拔く事イヤに候へ共本人が撤囘するといへば詮方なく候上高地も詮方なく候君と二人で行けば宜しく候行かれぬ人を無理やりに連れて行く事面白からず候斯くなれば君の方の秋蠶上りたる頃紅葉見乍ら出掛けてもよろしく候今月末か來月はじめに行けば最上等なれどこれはどちらでもよろし御返事待上候(君の都合問題だ(一)八月末九月ハジメ若くは(二)九月終十月ハジメこれ丈けの時期中で選ればよい小生にはこれから後は何の都合もない)〇二十四五日に君の方の盆會に行き得れば面白いが何だか分らぬ兎に角堀内の歸る時共に上スワへ來い一泊して舟で遊べ◎金のこと出來うる範圍に於て今30(それに猶十圓追加出來れば小生としては完全であるがそんなに云はれても困るだらう)こしらへて貰ひたい今月大に弱るのだそんな手筈にして置いたから困るのだ地に住む者のつらさだ一年位はこんな味も甞めて見る來年は今少し振つて(79)見せる今の處差當り世間的に困入るこれを切り拔ければあと比牟呂發行も自腹を切つて不都合なくやるつもりだ只八月が小生の問題であるこれも返事か君の上スワに下る時かでよい兎に角早く消息聞き度い物質的のことでこんなに書くこと心苦し仕方がない○左翁から長く書いて來た色々書いてあつて面白いスワへ來るかも知れぬと書いてあるアララギを助けろと書いてある水害牛疫で復舊がさわぎだと書いてある毎年のことで氣の毒に堪へぬ平福左千夫合作の繪ハガキも著いてゐる湯禿山のもついてゐる蕨橿堂のもついてゐる河西省吾のは非常に眞面目な手紙で面白い望月のもついてゐる牛山天外のもついてゐるその他色々ある今それをひろげて讀んでゐる〇今頃堀内は湯に一人で淋しがつてゐるだらう 八月廿二日 柿生
志郡兒詞兄
金のこと定めて困るだらうその模樣で一部分を來年の五六月に返す約束で借入れてもよい
一〇六 【八月二十五日・封書 下諏訪町より 松本局島内村 望月光男氏宛】
拜啓何度もはがきを見たろくな返事を出さなんだのは忙しかつたからである廿三日から盆といふへんてこな農村の慣習に住んで借金取對抗策を講じてゐたからである貧乏人の苦しみは現實に苦責を受けるそれが濟めば氣樂なものである精神界とは甚だ交渉が遠い交渉は遠いが是がために縛られる貧乏の繩に縛られて見ぬやうな男は共に語るに足らぬ斯る時妻子が餘計に氣の毒になる大切になる同情が出る自分が貧乏の繩に縛られて妻子共の寂しい顔を眺めてゐる時君へ書くべき手紙は全く忘れてゐた神樣でないから仕方がない
卓君と不二見の散歩は極めて靜寂であつたむしろ嚴肅であつた天の夕暗に地の薄墨山も森も沈黙の中に野の白い花を踏んで歩く時無音の二人は天の妙な威力に感じ入つた批評の態度から冥合の域に進入したのであつた斯る時人間はいくら沈黙してゐても躁急なものである一歩を移す時天は人間よ靜かなれと言ふ二歩を移す時更に靜かな(80)れと言ふ三歩四歩五歩する時自分の足音も耳に入らぬ自分の形骸も吾念から離れる天の命令も耳に入らぬ自分が天地と合體したかせぬかそんな事も分らぬぼんやりとして野の道が盡きる時林の聞から灯が見える人聲が聞える夢からさめたやうにぷらりと宿屋の前に立つ詞では表せないが書いて來るとこんなやうなものになる書き表す事は出來ぬものに相違ない絶對の域に立つものを書き表す事は大文豪でも恐らく出來まい人間には出來る事であるまい大自然に讃美する極は絶對である山上の白雲に立つてもこの域に入る大海の孤島に立つてもこの域に入る十里の杉林を歩して氣死し鳥鳴かざるの境に立つてもこの域に入る爽快から沈痛に入り沈痛から嚴肅に入り嚴肅から冥々に入るこんな順序のやうに書いて見るがこれで表れてゐるものぢやあるまい斯の如き順序を通るものとして吾人を絶對の位置に立たしむるものは人間でも天然でも感化の模樣は同じものであらう偉大なる人間偉大なる天然この二者から得る吾人の感化は同意味のものに相違ない不二見野を歩き乍らワシントンを語つたリンコルンを語つた西郷を語つた子規先生を語つた大自然に感歎するの極大偉人を想出すのは吾人の自然なる順序であると思ふ卓君と北山志都兒訪問の事を書かうと思つたが筆が茲まで進んで來たから序に猶横道に這入らう吾人が|自然〔付○圏点〕の威靈に接し|人間〔付○圏点〕の偉大なる性格に接して受くる感激は少くも吾人の眞の力を養成助長するものであるこの力が根本であるこの力より歌も生るゝのだ力より生れぬ歌が作り歌となるのだ感激にも種々ある一寸面白い爽快だ嚴肅だなど云つてゐるうちは淺薄を脱せぬ感激は絶對の域に達してはじめて極限であるこの極限を一度通る二度通る何度も通り得る人は眞に幸福な人である偉人の研究はこの點に於て甚だ有益なものである吾人同人が歌の研究をするに半面にこの研究がなくちやならぬ事を痛切に感ずる
君から歌について熱心な研究問題を提出するのは嬉しい僕は決してのんきに思つてゐるつもりは無い併しこの研究問題は歌の研究として必しも根本的のものでない事を忘れちやならぬさう言いつても研究問題の熱を冷さんとするの意では無い是を思ふ時彼を忘れぬ用意を言ふのみである第一問題第二問題乃至第三四に至るまで猛然として(81)進み進んで倦まぬの用意が必要である君が盛に言論を寄せるので小生も大に興奮されるやうな氣がする百年の事業も一歩から進まねばならぬ百年の氣ありて一歩のづくなき如きは宜しくない小生もたま/\一歩のづくを無くする事があるすべての研究問題は共に勉勵するつもりだ只餘り足元から火が附くやうに性急にせめ立てるな足元がマゴツイて困る呵々 過日長い御手紙中松本で逢ひし時話した事が大分あり候故大略左に御返事申上候
「れり」は好まずといふ事譯なき事なり此間面談の節も過去になり冷淡になるとやうの説ありたれどそんな事少しも無しと今日にて愈々思入候「れり」は矢張り助動詞的のものなり詳しく云へば|れ〔付○圏点〕は四段活(主として)良行の働きにして|り〔付○圏点〕が助動詞的につくわけなり良行ならずともこの|り〔付○圏点〕は「吹け|り〔付○圏点〕」「押せ|り〔付○圏点〕」「打て|り〔付○圏点〕」「思へ|り〔付○圏点〕」「汲め|り〔付○圏点〕」などつきて小過去の意味になる大槻の廣文典矢張り助動詞小過去の部に説けり文法上では小過去としても現在的に感じうる事|つ・ぬ〔付○圏点〕などと同じ「たり〔付○圏点〕」などの大過去でさへ現在的に感ずる事ありその例乏しからざるべし「れり」と用ひても過去りし感ある事も現在的にとる事も場合によりて有之べき也
江つたひにわがゆく舟の舟はた|に〔付○圏点〕葦葉|は〔付○圏点〕さやる|わが〔付○圏点〕肩|の〔付○圏点〕へ|に〔付○圏点〕
詞が第一に|こせつき〔付○圏点〕て居り候「に」「は」「の」「に」の弖仁波やら「わが」の副詞やら斯樣のもの多きに過ぐれば(殊に結句)歌を摧き候「葦葉|は〔付○圏点〕」など強く言ひても強くならず只調子くだけるのみ「我肩のへに」は目的格二個になる故すてたには無之候舷に觸る上に猶殊更に肩といふ事重く加へたりとて景情を添へずアンナ云ひ方をすれば「わが肩のへに」が非常に重くなり過ぐる故
江つたひにこぎ行く舟は寢ころぶしわが居る顔に葦葉さやれり
と訂正したつもり也これならば葦葉さやるが重き感じを掟へ可申候けれど猶他になほしやう有之べく候寢ころんでゐる顔に葦葉さやるイヤな感じでは無之候(小生は)顔にさはるがイヤな感じだなど實際ならばこの歌のやうな處(わが肩のへにのやうな處)へは遊びには行かれぬ肩へさばればよい感じだが顔にさはればイヤな感じだな(82)ど云ふ人葦茂る汀に舟をやり得るや長汀曲浦青蘆亂るゝが中に遊ぶおもしろさが分らぬと思ひ候そんな小膽な事云ふ事面白からず候如何
その他の事は別に御返事に及ばぬ事のやうに候短文募集賛成に候第四號より掲げるべく豫告して置いた題は「屋根」なり比牟呂ももう出る長い批評たのむ二號の時は誰も何とも云はず張合拔いたし候きのふ今日雨堀内寒いだろ書き殘しアレバ直ぐ書く 八月廿五日 柿生
望月詞兄
一〇七 【八月廿九日・封書 下諏訪町より 東筑摩郡島内村 望月光男氏宛】
コノ手紙トコノ前ノ長イ手紙ト堀内ニ元シテ二人デ話シテ見給へ胡君ニモ拜復大に叱られ困入り候
一、研究云々は賛成なり
君ハ不賛成ト云ヒモセヌニオコルノハ分ラヌ色々ノコトト一緒ニ審イテヤツチヤ惡イノカ、グヅル事ニナルノカ僕ハ明了ニ賛成ダト書イテヤツタト思ツテ居タ
一、望月ガ根本ヲ知ラヌカラ共ニ研究ナドイヤダ 二、久保田ハソンナ歌ノ研究ハイヤダ 三、久保田ハ根本問題バカリ振廻シテエラガル
コノ三場合ノ一若クハ二若クハ三ノ原因ニヨツテ久保田ハ不賛チイヒ若クハ言ヲ左右ニ托シテヰル宜シクナイ男ダ
君ノ言分ハカウダ隨分ヒドイコンナニ深ク立入テ僕ヲ叱ルナラ(?)僕ハ何モ云ハヌ只君ノ怒ルニ任セテ置ク
二、根本問題(コンナニ箇條書ニスルト根本問題トイフ字ガ殊更メキテイヤナモノニ見エル)
(83)君ハ根岸派ノ振ハヌハ礎ガ重ク強クテ建物ガ弱イカラダト思ツテヰル全然話セナイ
根岸派ノ振ハヌハ礎ガ重カラザルニ坐す礎ノ重サヲ今ツト頼母シクセヌ内ハ何年タツテモ振ヒツコナイ君ナドガソンナコトヲ云ツデヰルノヲ見ルト君ノ根本問題ハ幼稚ナモノニ相違ナイ君ノ歌ニ近來力ノナイ感アルハ原因ガココニアル今ツト人間ヲ研究シタマヘ猫ノ歌モ水泳ノ歌モ馬ノ繪ノ歌モ君トシテ一通ハ勿論マトマツテヰルケレドモ重ミガナイ君ノ根本問題ニ缺損アル所以也吾々ハ月並ダトカ俗ダトカ云ツテ人ヲ罵ル併シ乍ラ今ノ精神活動ノ過半ハ(コトニ和歌ニ於テ)故子規先生ノ力ヲ通シテ活動シテヰルノダ眞ノ人間トシテノ|自己ノ力〔付○圏点〕ハ未ダ/\カ弱イモノダト深ク信ズル|自己ノ行爲自己ノ心事ヲ深ク反省スルトキ吾人ハコノ感コトニ深シ古人ノ偉大ナル心事ニ接スル時吾人ノ小ナルコトラ感ズルコトニ深シ〔付○圏点〕
吾人精神ノ生活(即チ根本問題)ハ吾人ノ全部也吾人ノ和歌生活ハソノー部也君ハ聞キ飽キタト云フ彌々哀レナ者ダ僕カラ聞キ飽キタナラ何モイハヌガ君ノ心ガ斯樣ナ問題カラ聞キ飽キタトイフナラ君トシテノ大事件ダ 君ガイクラ君ノ所謂建築(礎ニ對スル)ニ腐心シテモ何ニモナラヌ斯ク云フハ建築問題ヲ冷セトイフノトハ違フヨク考ヘ玉ヘ
三、「レリ」問題
萬葉ニ用ヒテナケリヤ何ゼ用ヒテワルイ「セリ」ヤ「埋レリ」ダケハヨイガ他ノ「レリ」ハイヤトハ受取レヌ話ダレリヲ用ヒテ振フモノモアル振ハヌモノモアル日本ノ國語ノ一種ノ働キヲ全然歌ニ用ヒヌトハ何ノ根據アル考ナリヤ感服出來ヌコト也僕ノ用ヒシ「レリ」ガマヅイト云フ論ト「レリ」ハ全體ニワルイト云フ諭ト混合セザランヲ望ムコノ「リ」ハ動詞ニアラズ全ク獨立シタ助動詞ニモアラズ思フニコノリハハジメ左變「セリ」ナドニ働キシニ始マリ追々後代ニ至ルニ從ヒ四段活等ニ及ビタルモノナランカ(憶測ナリ調ベテ見ント思フ)現時ニ於テハ兎ニ角立派ナ國語ノ働キナリ君ハ弱クテ緩クテ歌ニ採用出來ヌトイヒ小生ハ君ノ思フヨリモ重ク(84)テ採用出來ルト云フ水掛論トモ見ユ第三者ニ聞カントナラ君ノ却リ居ルスベテノ「レリ」歌ヲ示シ玉ヘ一ツデモ物ニ成リ居レバコレレリガ歌ニ恰適ノ場合ヲ實證シタルモノナリ 八月廿九日夜 梯生
光大兄
一〇八 【九月廿二日・封書 下諏訪町より 東筑摩郡島内村 望月光男氏宛】
拜復子規忌一人にて御營みの由寂しき中に樂しかりし君の風※〔蚌の旁〕想像出來候
布半會の模樣胡君から御聽きならんと存じ候胡君去りて後梨村來り作歌いたし候梨村新に父を亡へり彼は今後一家の主人公となりて立たざるべからず境遇の變遷は人生の危機也墮落するか人間を上げるかの岐れ目也彼にこの警告を與へんと思ひし處へ丁度逢ひたり彼曰く余は墮落せずと而してその面を見るに極めて平穩無事なものなり彼猶曰く余の校長たる以來身を教育に委するや極めて深刻なる意義の上に立てりと、梨村の如く平穩な顔付にて自己の深刻を云ひ不墮落を云ふ人餘り見た事なし歌多からず木兎はあとより送るといひ胡君もあとから送る筈也送つた上君の方へ廻すべし
小生の歌評有難し眞面目に批評されるは人生一の快事也あの作只小生作歌の動機に或る興奮ありし事を見てもらへばよいつもりだ第三首「霧さむき野べ」の結句動く動かぬの説も連作大體上より見てこの連作の意想が霧に適當なりや不適當なりやを先決問題にして貰ひたし連作大體の精神が(1)霧に不相應ならば(若くは霧でも何でもよいとすれば)全部失敗なり(2)不相應ならざれば只その中の一首の結句「霧さむき野邊」が「月さむき野邊」に動く「梅の木のかげ」に動く傾向ありても小生は苦にならず尤もこれは「霧さむき野」「月さむき野べ」「梅の木かげ」等が結句としてながら同等に据る場合の事をいふ也小生は今一つ連作につきて「連作中には時として一二首」の平凡なれども缺くべからざる――或は重きを成す――歌が交る事を許さざるべからざる」事を思ひ居り候
(85)兎に角あの連作が小生の意を言ひ盡したる思は不致君が「云ひ足らぬ感あり」は甘受いたし候「悔なく思ほゆ」を「悔なし」とやうに強めたきは同感なり第八首霧の季なきは霧が入らずにまとまりし故まとめて置けり連作中には(殊に課題の如きは作りものに傾くもの故)この異例必しも不可なしと信じ居り候(ヤタラ題ヲハナレルトハ違フ)否寧ろ今後の連作は(課題の場合也)斯樣に發展して行き度く存じ候
題詠の場合連作大體の精神が題に副つて居れば題の入らざる一二首は交じつて不都合なし。是却て題詠の弊を除く一生面なるべし
夫れぢや全く題詠を止めろといふ人あらば譯の分らぬ人なり題詠にしてはじめて得べき想ありこれ題詠の無用ならざる所以也左千夫の「戀嫦娥歌」の如きも空といふ題ありてはじめて得べき想なりあの十首中二三首は空といふ事入り居らず是連作として益々生氣に富み居る一方の例證也以下貴詠の評をいたし候「七」といふ題は全部失敗に候「七カヘル大人ガマカリ日ツカマツル科野男子ヲ知ラズアラレキ」「七年ノ遠ノヨミヂニミ心ヲ安マセ大人トイハマク思ヘド」二首を除けば悉く故意に生みたるの感ありこの二首も材料の自然なるに似合はず感じ強からず平板に候平板なるべくして平板なるはよし「デアボロといふ遊びせりけり」これらの二首はこんな熱なき云ひ方失敗に候その前の歌七周忌の歌は比較的宜しけれど矢張熱が不足に候材料は七周忌として皆自然也その自然な好適な材料を詠じ乍ら感じに強みを覺えざるは熱を以て作らぬ故也「歌は宜しく自然なるべし」など思ひて歌を作る事已に不自然なりその事已に規矩を成《ツク》れば也作る時は只「感じ」あるのみ感じにて作る時規矩なし拘束なし天馬空をかけるの自由を存して一氣三十一文字を呵すこれ作歌の理想なり
コトハリハ論ラヒセズ只管ニ大人ガ心ニイソヒマツラン
クレ竹ノ根岸ノ大人ハ目ニ見エズ目ニハ見エネド我ヲ守レり
歌思フ片トキ大人ヲ忘ラエズ靈在スコト疑モナシ
(86)何ニヨリ歌ハヨムヤト吾ニトハバ大人ガミタメト答申サン
の如き最も散文的で感じが乘らず
世ノ中ノヨロシキ歌ト大人ガ云ヒシ事ヲマコトト只歌ヲヨム
是等が失張理性で作つたものと思はれ候信仰の極意は勿論斯の歌の内容の如し然れども眞にその極意に達したる時只歡喜あり歡喜の至極して言語に發表する時はじめて風動の生氣を生じ來るこの歌の現はす所只子規信仰の箇條書きに類す何れの處に歡喜の響きを聞き得るやその他猶散文的のもあれども猶「七」の課題よりは取り得べしと思ひ候馬醉木終刊號志都兒子規忌の歌是非御覽希望いたし候甚だ惡口申し候へ共君の歌の缺點は感じの深からざるにある事左千夫の端書の通なり同人みな左樣に感じ居ると思ひ候君が「根岸派は根本が振つてるけれど即ち礎石が振つてるけれど建築が疎漫だから六年間著しき進歩ありやを疑はしむ」とやうの語を寄せしを見て君の根本の甚だいぶかしきものなるを思へり吾人凡小畢世の修養を累ぬるも猶根本の淺からんを恐る然るを君は一言の下に根本は振つてるが建築がいけぬといふ是れ君の根本と稱するもの果して何物なりやを訝る所以也口で云へば直ぐ振へばよいがさうはいかぬ只心全く根本を疎外するもの果して根本の振ふを得べきか
君に一美質あり露骨に自己を発表する事也只是あり是故に君は自己を進め得る機會に遭遇するを疑はず現に僕へ極めて正直な所を云つて來てゐるから僕が微言を書き送るに忌憚なく云へる見當がよく分る故なり
男兒處世の奮勵あり不平益々大なると共に奮勵益々大なり悲哀益々深きと共に歡喜益々深し不安益々深きと共に安心盆々深しこの兩面を有するの機に接したる者は已に餘程根柢を有する人なり
余の意は建築は疎漫でもよいとの意ならざる事猶御承知ありたし
左千夫先生のはがき拜見せり訂正問題はじめより左樣に重大に思ひ居らず久保田が小刀細工したといふ事甘受いたし候れり問題につき云ふ事澤山あれど今夜は省き候妄言多罪 九月廿二日夜 柿生
(87)光兄几下
追加長野新聞歌アルノダケ今後送ル
一〇九 【九月二十二日・封書 下諏訪より 長野師範學校 河西省吾氏宛】
拜復暑中休御來訪二囘乍ら不在遺憾至極也その後書面怠りし罪御許し下され度候
白根行歌拜見君のは濫作で困り候今つと數を少くしてよく錬るが肝要に候頭に深く感ずる所あればそれを可成緊密に現さんとするには無造作にては現るべからず無造作にても現るればよけれど現れぬものを自らよしとして甘ずるやうでは根本の感じが強く深くなき證左となるべし強き深き感じあれば必ず現れるまでは苦心するの努力を伴ふ筈と存じ候これが君の作に對する不平に候新らしき所を發見して生氣常に活動して居るは君の着眼の特長なりこの特長に一層の熱を伴はしむべし御熟考希望いたし候鑛物旅行愉快想像いたし候芒美を聞いて魂飛ぶを覺え候佐久は信州の原野也佐久の美は秋にあり更に滿目蕭條の冬にあり佐久で一、二年暮したい
比牟呂三號屆いた事と存じ候※〔鷄の鳥が隹〕のトヤ時機にて目下大に具合惡しく候今少したてば※〔鷄の鳥が隹〕屋繁昌可致候十月初旬不二見原にて比牟呂誌友會を開き可申左千夫も來る筈に候長野新聞へ歌澤山やりあれど共進會とやらで大騷して居り一向出さず張合なし新聞などでやる事は淺薄なもの也只比牟呂が吾輩の生命也 九月二十三日 柿乃村人
河西省吾樣
青魚 省吾ニ肖ル戯レニ代フ
一一〇 【九月廿九日・封書 下諏訪町より 中洲村小學校 小林善一郎氏宛】
御老人御逝去の由御悲傷御察申上候さう病人頻々にては定めて御辛苦一通りならざりし事と存上候左樣な目に逢(88)ふ事人間として一の大切なる修養には相違なけれど辛酸は何處までも辛酸悲痛は何處までも悲痛に有之候左千夫又々來遊につき今度は不二見油屋にて比牟呂同人會相開き可申十日初旬(三日か十日か)になるべく確定次第數日前に御通知申べく候處々御旅行の由子供の世話隨分苦勞の事に有之候一人でのんきな旅行をすると違ひ申候比牟呂原稿追々御送下され度候御返事のみ匆々 九月廿八日 柿生
山水樣
長野新聞課題「草花、夕ぐれ、垣」十月十五六日迄に出來候はゞ御送下され度候左千夫の比牟呂批評は君が旅行中との事故あとから廻す御承知あれ比牟呂誌友會は十月十日と決定す 〔封筒ニ追記〕
一一一 【十月三日・封書 下諏訪町より 玉川村小學校 小尾喜作氏宛】
拜啓金ノコトデ申上ゲル此間ノ二十圓今二三日タタネバドウシテモ出來ヌ(餘所カラ送ツテ來ルモノデアル)ソコデコノ二十圓ヲ來年四月迄借リテ置カレレバ極メテ好都合デアル實ハココデ廉價ノヒヨコヲ買入レ度イノダ來年四月ハ退職金ヲ二百圓足ラズ貰フソノ時ハ相當ノ利ヲ附シテ返ス併シコレハ今日急ニ考ヘ付イタノダ直グ返スト云ツテ來年迄ナドイフノハ甚不都合ノコトニ思フ只君ノ方デ都合惡シカラヌ範圍ニ於テ頼ミ得レバ頼ムトイフノダ君ノ方デ不都合ナラバ勿論直グ御返却スル併シ二三日若シクハ四五日待ツテ貰ハネバナラヌ至急返マツ
十月三日 俊彦
小尾木兎君
長野新聞課題直ぐ送れ(草花、夕暮、垣)めた作れ
一一二 【十月十六日・端書 信濃下諏訪町高木より 東京本所區緑町三ノ三十二瀧澤方 古泉幾太郎氏宛】
(89)拜啓意外の御來遊非常に愉快に存じ候御無事御歸京の由今日御手紙拜見いたし候信州人の批評おもしろく拜見歌會席上の歌など振はずともよろしく候御作りならば今月末迄に御送願上候左翁雨に降られて豫定より後れし事と想像いたし居り候アララギ未だ來ず待遠く候信濃同人につき猶御気付の事あらば無遠慮に御申送希望に候はがきにて失禮 十月十六日夜
一一三 【十一月九日・封書 下諏訪町より 東筑摩郡島内村 望月光男氏宛】
拜啓手紙出さう/\として失禮いたし候堀内より別紙來り候間御送申上候堀内へは斷然退校して歸れと申やり候小生昨夕長野より歸り候不折の「老人」「女彫刻師」の前に立つて二日間過し候彼は明治の大天才也只々感嘆いたし候一茶の展覽會も一寸面白く大本願の彫刻物と繪畫ともよろしく候此三所にて大に得たるを覺え候歸途松本へ立寄る能はずさう遊んでは居られず御察し下され度候長野新聞課題御送願上候 十一月九日 柿生
光君
此間の松本會おもしろく候酒のんで騷ぐも面白く候
一一四 【十一月九日・封書 下諏訪町より 豐平村上古田 小尾喜作氏宛】
別紙歌稿御返し申上候粗末なる批評削正御寛恕下され度候君のは意想皆振ひ居れども云ひ表はし方未だよろしからず併しこれはよき傾向に候兎に角萬葉集を一つ研究して頂き度しそのうちには解つて來るべく存じ候永田登茂治君詠草を送る果して皆宜し欣喜のいたりなり玉川學校あたりで月に二三囘づつ萬葉研究會を開いては奈何人數は多きを要せず熱心の少數者にて可なり確實に行はるれば毎囘小生參上講釋(ト云ツテハ失敬ナレド)もし意見も交換すべし此事雉谷君定治君その他諸君に御相談ありたし原田泰人なども勿論賛成希望なるべし但し小生より(90)強ひるのではなし先は右のみ餘は後便にゆづる 十一月九日夜 俊生
小尾君
一一五 【十一月十六日・封書 下諏訪町高木より 北山村湯川 篠原圓太氏宛】
柿ハ一俵送ル今少シ待ツテ呉レタマヘ
コノ頃ハ毎晩一時過マデ比牟呂ヲ書ク歌ヲ作ル長野新聞ノ歌ヲ書クコンナコトデ晩ク寢ル今夜ハ早クカラ厭ニナツタ眠イ寢ヨウカト思ツタラ君ニ手紙出シタクナツタ手紙ヲ出シタクテ何日モ居タガ錢ガ無イ今嚢ニ六錢アルコレデ手紙出シタイガ明日柿モギ人足ガ來ルコレ二十五錢カ二十錢ヤラネバナラヌ六錢ハコノ足シニスルソレデモ六錢デハ不足ダ又向ウノ家ヘ借リニ行カネバナラヌコンナコトデ何度モ借リニ(貰フ?)行ク九月カラコンナ調子デ暮シテ居ル貧乏ノ味ハヨク分ツタ平氣デ貧乏ノ味ハ嘗メテルツモリダソレデモ時々苦シイコトガアル君カラ借リタ四十圓ハ實ニ命ノ親ダアレガ無ケレバ今頃何ヲシテ居ルカ分ラヌ比牟呂ノ金ニ大部分使フツモリノガミンナ自分デ使ツタ申譯ナイ事情ヲ察シテ許セソノカハリ比牟呂ノ金ハドンナ苦心シテモ自分カラ出スソレデ罪ハ差引ニナルダラウ比牟呂原稿ハ未ダ松本ヘ送ラヌ君ノ原稿ナキハ不都合千萬ナリ故ニ苦シキ一錢五厘ヲ出シテ催促シタノダ今夜考ヘテ見レバ君ノ事バカリ催促シテモ僕カラツバナ會ノ歌ヲ送ツテナイ他人ノコトバカリ云ツテヰレバコンナヌカリガアルツバナ會ハソノ後ドゥシタ少シハ集マツタカ何シテモ逢フコトガ必要ダ布半デ菓子ヲ食フコトガ必要ダ斷然出テ來イコレデヤメル 十一月十六日夜 林乃村人
一一六 【十二月七日・封書 下諏訪町より 長野市師範學校 河西省吾氏宛】
拜復大に御疎音いたし候試驗にて御骨折のよし小生壯健養※〔鷄の鳥が隹〕罷在候間御安心下され度候
(91)過日御送「白根行七十餘首」著想皆面白けれど聲調整はず殘念に候二十首足らず多少の削正を加へて比牟呂に出し置候君のは想が働いてるから修正すれば皆物になる今後和歌の聲調について御研究希望いたし候聲調を顧みぬ歌は三十一字併列した處が韻文にならず 君の歌の缺點は慥に此點にあり萬葉その他につき御會得希望に候萬葉の歌は平凡なものに至るまで聲調整然としてダレ味弱味なきはその當時の時代風の然らしむる所と思はれ候
今囘の「易水歌」は白根歌に比して大に劣れり荊軻の事實を寫したる以外何等の働きなしあれだけの事ならば君が荊軻を見ても中學生が見ても小生が見ても同じ事なり河西省吾の見た荊軻としての特色なければ詠史として何等新生命を得る事なし匕首易水蕭々の如きは只作歌の材料なり材料のみでは強くも弱くも感じを與ふる事なし琥珀だの瑠璃だのと云へばもう立派な歌だと思ふと一般なり材料陳列は幼稚な人に示すこけ嚇しの看板なり易水の歌匕首易水など陳列せるのみにて一向深き感じを與へざるは無用意に過ぎたる證據也
長野新聞の歌いけずば自分から振つたもの澤山作つて振はすべし只だめ丈けにては物足らず根岸派の不平幼き事也。手ぬるいとは何のことなりや手ぬるからぬ歌御示しあるべし小生より見れば君の易水歌の如きが手ぬるき淺き者と思ふ御歌所晶子の歌などいふ所を見れば君には根岸派の歌がほんとうに分り居らぬ事と思はる晶子のどの歌が氣に入りしや御示し可被下候人生に直接云々の事之もをかしな事也人生を問題とすれば直に人生に觸れてゐるなど思つては困り候自然物をよめば人生に接せぬなど思つては困り候アララギ一號左千夫の歌に新しきもの非常に多し御熟読希望いたし候根岸派の現状に滿足せぬは小生も然る所なり只君の不滿足と小生の不滿足とは意味相違し居らぬかと思はれ候思ふことそのままに記るし上け候氣に入らずば折返し御手紙有之度候昨日湯川より車を曳來り今日腹筋痛く執筆不自由亂筆失敬多謝冬休には必御面談いたし度候 十二月七日夜 林乃村人
一一七 【十二月十七日・封書 下諏訪町より 富士見村神戸小學校 兩角喜重氏宛】
(92)本日石圃山人來ル北山ノ件全然承諾セリ
一、北山生活ヲ數年ヤツテ見ンノ興味アルコト
一、今ノ農生活ヲ數年延期スルノ多少利アルコト
一、身上ノ都合ヨリ云ヘバ右ノ如シ種々御心配有難ク御禮申上候不二見ノ件當分沈著ナルベシ輕動ヲ戒メラレタシ 十二月十七日 柿生
維君
一一八 【十二月十九日・封書 下諏訪町高木より 諏訪郡北山村 柳澤市之丞氏宛】
只今郡役所へ出頭黒河内君に逢ひ今迄の經過一通りを話し置けり是れ已に小生が北山へ承諾せる以上當然取るべき順序を踏みしまでなり依頼的の文句は一言も云はずに置けり〇視學の意見と共に一課長の意見は重大の關係を有せり〇役場の決心を極力示し置くより他に道なし右一寸御報申上候匆々敬具
〇出町郡役所へ何か御申出でならばそれ前に松川屋へ一寸御よび下さるべく候 十二月十九日
一一九 【十二月二十日・封書 下諏訪町より 埴科郡寺尾字柴 小沼清松氏宛】
山越君に此はがき御見せ下され度候
拜啓新年課題と雜詠と今日拜見いたし候非常によきもの兩君共散見うれしく存じ候(旋頭歌にも面白きがあり)由來信州北部にて歌の振ひし事なし今迄投稿のもの何處の人も非常に低調にて張合なく思ひ居り候處兩兄の歌一囘は一囘より進歩の跡ある尤も嬉しく感じ申候三年や五年で屈撓せぬ勇氣を持して御進みのほど至望に存じ候はじめての手紙にはがきなどで申上げ失禮に候へ共御許し下され度候今月發刊の「比牟呂」一册差上げ候同誌初めの(93)小生の歌は不成功に候何もかも意見は露骨に御申越下され度候露骨を缺くと停滯する 十二月二十日夜
一二〇 【十二月二十三日・封書 高木より 下諏訪小學校 森山藤一氏宛】
先日は有難く存じ候どう工面しても今十圓ばかり不足にて困入り候君の處で今十圓出來るか五圓出來るか全部出來ぬか御返事願上候その模樣で何處か探す必要有之候出來るとすれば何日頃出來るか併せて御報願上候
借金 十圓也――活版屋 五圓也――時借金 五圓也――年末の拂也小使 〆二十圓也
入金豫定 五圓也――東京雜誌社 五圓也――比牟呂集金 コノ集金六ケ敷モノナリ 〆十圓
差引不足十圓也 無理ナサンダン無用也
妻未だ産まず早く産ませてのんきに遊びたし北山の忘年歌會には此分では行けぬ 廿三日夜
一二一 【十二月二十七日・封書 下諏訪町高木より 北山村 篠原圓太郎氏宛】
比牟呂評有難く存じ候大體に於て異存無之むしろ賛成也小生の歌全く失敗也胡君のは君の見る以上によい所ありと思ふ君の云ふ弊あるは勿論也雲袖歌貴評と一致す卓君のは第一首が比牟呂中の壓卷也長塚君からもほめて来れり禿山評大賛成也その他大抵賛成也「比喩歌」はあれで悉《つく》せりや否やは知らずアソコに書いただけは當を得て居ると信じ候左翁は無理に論を作つたやうだと申來れり意外なり小生は無理に論を作つた事は一度も無いつもり也不二見會「秋草のしげき思をいひかてにまつはる露を手に振り落す」を「比喩歌」と同筆法にて不平云ひやりし故その不平いふために「比喩歌」一篇を作りしやに思ひしかと存じ候困入り候絲瓜の件貴説おもしろしあれは九月十八日の詠なり三十五年九月十五六日が名月にあたりしやソレが確かならば貴説おもLろく候君は明月と書いたがあれは名月の誤と存じ候竹舟の元氣尤もうれし柳ノ戸より今日久し振の手紙來れり新年から大に作ると云ひ來れり(94)柏原連果して振起せば愉快也望月子規忌の歌小生は大によしと思ふ貴君と異る散文と異らずとはひどいと思ひ候齒のいたみ如何大した事なきを折り候出産未だ無し忘年會ダメとなれり來春新年會開き可申候この間の御送金正に拜受只々大謝いたし候今年の越年は甚だ不景気なりそれも不都合なし取急ぎ御返事申上候 明治四十一年十二月廿七日 柿生
北山學校の件承諾はせり郡視學がいやがる由也どうなるか分らず赴任するかも知れず黙つてゐてくれ
志都大兄
比牟呂五號へ出すべく候
一二二 【十二月廿七日・封書 下諏訪町より 北山村柏原 兩角福松氏宛】
久し振で御書面拜見うれしく存じ候實を申せば柏原連中へ比牟呂やりても誰も何とも云ひ來らず不平に思ひ居り候勇氣已に銷失せるに非ずやと思ひ居れり昨日志都兒より比牟呂細評ありその内に竹舟が志都兒に逢ひ元氣相變らずで嬉しかつたとあり今日又君から比牟呂評來る一種の來柏原に磅※〔石+薄〕せるを思ひ候新春匆々捲土の勢を持して御振起のほど至望に存じ候御評大體賛成に候四號の作は三號に比しても劣り居り候只傑作といふものさう頻々と出來るものに非ず一年一囘快心の者を出す猶且つ足れりとすべし要は休息なき努力に在り弛緩なき策勵に在り努力策勵が處世の上作物の上に間斷なく存する以上五年十年二十年の間何時か或ものに到達すべきを信じ居り候大なる熱心の反面には大なるのんき無かるべからずのんきなるが故に熱心なきに非ず此消息御靜思希望いたし候小生の病友を思ふの歌多少新しきものを拓くつもりで失敗いたし候今見れば調が全く緩び居り候長塚君は堀内卓の
いささかの高きによれば宵更くる草野に低き沼明り見ゆ
一首をほめ來り候この歌小生も非常によいと思ひ居り候寫生を出でゝ或域に至り得しものと思ひ候小生の布半歌會(95)二首は自分でもさう惡く思ひ居らねど猶卓君のに比して所謂作者の或物(或る感じ)を現し居らずと思ひ居り候足が地にのみついて居て頭の方の感じが足らず候頭の方の感じのみにあこがれ候時足が地から離れるも一の弊也足と頭との關係尤考慮すべき問題と思ひ候この事歳のうちに北山にて忘年會ひらき諸君に逢つた上話し度かりしも妻出産迫り居るためその意を得ず新年どこかで會を開き度く思ひ居り候小生の「比喩歌」は單に比喩歌のみならずすべて歌の調といふものにつき考へたつもり御意見伺ひ上げ候今度は二月に出し可申一月中に原稿盛に御送下され度付舟工圭珂堂にも御奬め下され度候只貧生活の上に誌代は多くは集まらず發行毎にその問題に窮し居り候ため君方に誌代の催促する事心苦しく候へ共シカタなし御寛恕願上候
學校問題御好意謝し上げ候小生の眼中には村政もゴタ/\も何もなし關君の去りし後村民がいかにゴタ/\云ひ居るやも顧慮する必要なし學校に北山の子供を集めて教へる事の外何の關する所なし面倒不面倒などいふ事今迄一度も顧みし事無之もし北山に行けば君等と研究も多少餘計に出來るやうな氣がいたし居り候教員といふもの氣が小さく評判惡しきかよきかなど顧慮しつゝ仕事する故絶對神聖な教育出來ず哀れなもの也教育でも歌でも用意に二なしと信じ居り候教員らしき教員をして志成らぬ時退くは教員としての成功なり貴答まで匆々 十二月二十七日正午 柿生
柳兄
竹舟工圭珂堂三君に此手紙御示し下され度候
一二三 【月日不明・封書 下諏訪町高木より 上伊那郡飯島村 蘆部猪之吉氏宛】
この手紙書き終る時牛前二時、金のこと思うて未だ眠らず 柿の村人
芦部芦庵柿の村人
(96) 明治四十二年
一二四 【一月一日・端書 信濃下諏訪町より 東京赤坂區青山南町 平福百穗氏宛】
賀正 吹雪の中に水を汲む菽桿を焚く 元且
一二五 【一月七日・端書 下諏訪町より 北山村 篠原圓太氏宛】
二枚ハガキ拜見新小説御送申上候間御覽下さるべく候君のハガキと左千夫のハガキと共に來り新小説を君に送るべき事が分り候それならば今つと早く送ればよかつたホトトギス長塚君と左翁との小説御覽と存じ候非常に振ひ居り驚嘆以上に驚嘆いたし候新小説の方のは胡頽子に比すべきものに非ざるも猶よろしく候自然派先生たちよりズツと拔け居り候根岸歌人の斯る活動は實に心強く忍ばれ候吾人の自重すべき所以益々明確になり來り候アララギも非常に賑はしく只々嬉しく候卓の歌丸で段違ひに拔け出で居り候茂吉君の研究おもしろけれど少しづつ徹底せぬ感ある事貴意の如く候比牟呂同人の自重すべき所以益々重くなり申候新年會は十六日頃になり可申改めて御報可申候その際例の草餅十切ばかり御ねだり申上候妻出産延引驚入り候併し健康御安心あれ 一月七日夜
一二六 【一月十三日・端書 下諏訪町より 東京市本所區緑町三ノ三十二瀧澤方 古泉幾太郎氏宛】
(97)貴兄の作には新しき傾向慥かに現れ居り候いかに変遷し行くべきかは注目の價あり(失敬々々)左翁の採草餘香の「一」は分らず「二」「三」おもしろく候堀内卓ノハ大ニヨシ
一二七 【一月十四日・封書 下諏訪町より 富士見村神戸小學校 兩角喜重氏宛】
拜啓種々御心配被下候へ共郡役所の模樣惡しき樣子故斷然北山行は小生より取消し可申此件の御厚志御禮申上候小生のために北山教育をゴタつかせ一方郡役所と北山村役場との折合を損ずるはイヤの事也諸君の御好意只々感謝いたし候少くもスワでは教員はやらず候 一月十四日
雉夫兄
〇今日女子出安産母子健康御歡び下され度候忙しき故亂筆御めん下され度候
〇二十二日に比牟呂新年會を開く追て御通知申べく候
一二八 【一月十九日・封書 下諏訪町より 北山村湯川 篠原圓太氏宛】
拜啓今日はがきにて新年歌會のこと申上け候定めて御落手と存上候實は妻出産後四日目即ち一昨日より發熱四十度以上に達し昨日は大心配いたし候處今日餘ほど宜しく此分にて經過せば成績良好なるべく思ひ候へ共萬一二十三日の會に出られぬやうな事無きかと懸念致し居り候付ては當日君や小生が居らずしては不都合と思ひ候故貴兄は是非繰合せ正午頃までに布半に御著下され度君も小生も居らねば來會者皆引返し可申候尤もこれは萬一の場合の事にして大した差支さへ無くば小生も勿論午前より布半に行き可申條兎に角右よくく御願申上け置き候
次に左翁よりの來書君にまはすべしとの事なりしが前述の如き有樣にてこゝ數日間ごたつき居り延引いたし候今日同封差上げ候間御覽下され度候書中長塚云々の件は長塚君に氣の毒と思ひ候小生は事情多少知り居る故餘分に(98)左樣思ひ候何れ御面談可申候
次に南信日日の選歌小生は止め度くそして貴君からやつて貰ひ度く御同意願上候小生やめて他のヘボ選者にするは惜しく候御承諾下され度候尤も未だ新聞社へは交渉せず居り候先は右用件のみ申上候匆々 一月十九日夜
志都兄
妻今日午後より平熱この儘平安なるべく二三日たゝば大丈夫と思ひ候御心配下さるまじく候昨日は小生も痛く心配いたし候そのため口がにがくなり小便が黄になり候子供と夕飯の膳に向ひて窃かに泣き申候今考へれば馬鹿げ候
一二九 【一月二十五日・端書 下諏訪町より 東京市本所區緑町三ノ三十二瀧澤方 古泉幾太郎氏宛】
拜啓比牟呂評有難く拜見いたし候悉く同意いたし候左翁評も同樣に候只「鳴くらく」問題は文法論に係り過ぎた御説と思ひ候一齋その他の漢學者が處理文法をこはしてもそれが一般に通じれば日本の文法に候近來歌なく困入り候一昨日上スワにて新年會九人集り面白かりき妻少々病臥男手にて炊事やら何やらでゴタつき候故ハガキで失禮いたし候 一月廿五日夜
一三〇 【一月二十八日・端書 下諏訪町より 北山村 篠原圓太氏宛】
歌會の翌日は山浦の實父見舞に來りしため出町を得ず殘念に存じ候草餅昨日持來り早速拜味いたし候その後愚妻益々平靜に向ひ最早危險の點無之候間御安心下され度候これからそろ/\本をよみ可申候比牟呂の歌可成多數御送下され度候此間の車曳の歌(柿)も今少し御作り下され度候連名にて比牟呂に出し可申候黙坊の歌によいもの有之候
(99)一三一 【二月一日・封書 下諏訪より 富士見村小學校 關佐一郎氏宛】
拜復北山ノ件小生ニハ極メテ平凡ノ出來事デアツイタ柳澤君ガ來テ盛ニ奬勵スルカラ「ウン」ト云ツタ郡視學ガ首ヲ振ルト聞イタカラ「ソレナラ止メル」ト云ツテヤツタソノウチニ柳澤ソノ他ノ人ガ來テ「申譯ナイ」ト云フカラ「チツトモ申譯ナイ事ハナイ僕ハ北山ヘ行カネバナラヌカラダヂヤナイ」ト云ツタ事件ハコレダケデアル僕ハ今北山ノ事ハ忘レテ居ル君ニ逢ツテヒヨツクリ思出シタカラ話サウト思ツタノダ御病氣極メテ御大切ニナサレ切ニ御自愛ヲ所望スル逢ツタラ又話ス 二月一日夜 俊生
一三二 【三月六日・封書 高木より 下諏訪小學校 森山藤一氏宛】
此間は失禮いたし候湖南よりも四賀の方君のゐる位置として宜しかるべく思ひ候上スワに居住するは同人から見て好都合と思ひ候一方には湖南問題は一寸六ケ敷からんとも思はれ候(雉夫の校長問題が)色々で四賀の方矢張宜しきやう思はれ候下スワの方は君が決心した上は只濱君に申出づればよろしく候引止めても止まらぬ決心ならば宜しく候只々強硬に出てさへ居れば貫徹いたすべく候尤もそれ前によく平林なら平林と打合せて堅い約束にして置くが必要に候小生明日午後一時過ぎの下りにて出發すべく松本一泊の上廣丘に赴任可仕候御面會の時間なければ貴所は素通りに可致御承知下され度候匆々 三日六日 柿生
汀川君臺下
元義集と雜誌と李塘君へ御屆け願上候代匠記御返し申上候
一三二 【三月十七日・封書 東筑摩郡廣丘村より 諏訪郡北山村 篠原圓太氏宛】
(100)大に御無音いたし候當地に來りてより忙しとに非ずむしろ閑散に苦しむ位なれど只精神茫乎として何も手に付かず何處へも大に失禮いたし候
妻子を家に遺し置きたる寂寥なり君たちと境を隔て住む寂寥なり知る人なき桔梗原の一弧村に來りし寂寥なり一望平蕪雪殘り雲寒し森多くして畠少しこの間の孤村に爐を擁する心地何だかすさまじく覺ゆ學校の方は少しも心配なし毎日火鉢に對してたばこを吸ふのみされど格別面白味も生ぜず斯の如くして茫乎たり目下の境遇御想像下され度候此の如き境遇は一生中矢張餘り多からざるべし故に余は勉めて自己の境遇を批評するの態度を離れ充分に茫乎の味を嘗むるつもりに候嘗むるつもりと云へば已に多少客觀的なるの嫌ひあり故に只無言の積りに候歌にせんなどとは思ひ見ず候此地方の森林に富めるはうれしく候何處を見ても森林に候多くは松なれども楢も榛もあり學校の裏庭に松木立あり直に森林につづきて奈良井川に至る雪消えねば川は未だ行きて見ず松本へ行かんとも思はず只家に歸らんを思ふ妻を思ひ子を思ふ斯の如し
君も彌々芽出度由大慶のいたりに候平生竊かに氣に懸り居りしにこの吉報に接す喜悦の至に候老親方の喜色想見し得べし只愛せ愛の力は金石を熔かすべし愛を以て始終する人は神聖にして且つ幸福なり目下の君の情緒御察申候比牟呂は今二三日にして出來る樣子なり出來たら直ぐ送るべし胡君卓君の歌後れたれど間に合ひてうれし末尾に補ひ置けり君の原稿風はおもしろし猷は賛成せず詳見の上申上ぐべし匆々不盡 三月十七日夜 柿乃村人
志都兒大兄臺下
未だ何か云ひ落したやうな氣がする長野新聞十週年記念祝歌廿二三日迄に一首でも二首でも送つてくれ玉へ洗錬を要せず黙君にもさう云つて出させてくれ玉へ 〔封筒ニ追記〕
一三四 【三月二十三日・封書 東筑摩郡廣丘村より 下諏訪町小學校 森山藤一氏宛】
(101)長野新聞歌頼む
新に羈客となつて多少の感慨有之候桔梗ケ原の廣域一望平蕪寒雲迷ひ殘雪鎖すの所孤客爐を擁して家を思ひ友を思ふの状御遠察下され度候學校の方は何も忙しからず毎日懷手で過し居り候一寸天道樣に申譯無きかも知れず併し學期末にイチヤツク事大抵値打なき俗事業に候此際懷手で過すは小生位のものならんか呵々
轉任の件君が腰を強くして頻りに濱君に迫ればツマリ成効すべく候比牟呂は今日頃は出來居り候匆々不盡 三月二十二日夜 柿生
汀川樣
一三五 【四月廿九日・封書 東筑摩郡廣丘村より 上諏訪町諏訪ホテル内 岩本木外・河西河柳・森山汀川氏宛】
拜啓碧梧桐氏來遊諏訪俳句界の賑かさを想像いたし候俳句に對する氏の見識文學に對する氏の抱持を眞に了解し得るは實は少數の人なるべし此點に於て貴兄等が此好機を逸せざらんを希望いたし候小生も非常に參り度候へ共用事山積にてその意を得ず遺憾此事に候松本に何日滯在せられ候かその際は必面晤いたし度候
〇信州に來てその特色を窺はんとせば少くも信州の小學校一二を見る事肝要と思はれ候信州にて信州らしき特色ある學校は先以て上スワ小學校と存じ候へば是非上スワ小學校を一日參觀いたし候やう御勸め希望いたし候松本や長野の學校は御承知の如くダメに候此事昨日申上げんとして歡迎會の酒に醉ひ打忘れ候間今朝取あへず申上げ候 四月廿九日朝 柿の村人生
木外兄 河柳兄 汀川兄
一三六 【五月七日・封書 下諏訪町より 長野市師範學校 河西省吾氏宛】
(102)御無音いたし候旅行して小言云ひ居るとは餘程贅澤な話に候僕等は旅行その物に渇し居るから足に脚絆つければ已に或る快感を得申候君の歩きし處は小生一度も見し事なき故何とも云はずされど善光寺參詣老若男女を見ても社會活動の或面が輝き居り候足尾山の熔爐と墓とは實によき人生の感受所でありしを思ひ候人生の感受――眞意義――は書物では分らず哲學論でも倫理論でも分らず坑夫活殺の大舞臺に對して歸來何等の歌なかるべからずと思ひ候日光編はおもしろさう也實地を見た上にて御返事申べく候
戸隠のささ原の中に大槻の若葉きやきや新よそひすも
草の上にふみをひらけばふみの上黄に見ゆるまで若葉せりけり
二首は大によろしく候それ前の信濃の夏の活氣云々の歌は一人よがりにて内容のおもしろさが現れず候左翁に逢ひし由どんな話ありしか聞き度候蕨君はあれは一の好人物に候わるげは少しも無之候暑中休のかへりにここで一泊したまへ匆々不備 五月七日夜 柿の村人
河西省吾樣
一三七 【五月十四日・端書 信濃東筑摩郡廣丘小學校より 東京本所區緑町三ノ三十二瀧澤方 古泉幾太郎氏宛】
御手紙拜見いたし候何處へも手紙やらず諸方から催促いたされ候境遇一變の故か兎角妙な感想にのみ耽り居り歌もよまず字も書かず本もよまず一寸茫然として居り候過日の合評有難く存じ候アララギの合評此内に致すべく候君が「新しき云々」は私信の序に書きしものにて意は表れ居らず原稿にするつもりならば全體を今つと立派に書き可申筈也匆々 五日十四日
一三八 【五月十四日・端書 東筑摩郡廣丘村より 埴科郡寺尾村柴區 小沼清松氏宛】
(103))御無音いたし候御詠草今夜拜見四首を長野へ出す事にいたし候今少し強く重き心あらんを切望いたし候いつも露骨な事申上げ恐縮に候
さくらさく毛の國原を壓し立てる赤城の山は雪いただけり
斯の如く訂正した方宜しからんと存じ候ヒムロは別に御寄稿被下度候尤も自信あるものを嚴選して御送下され度候 五月十四日夜
一三九 【六月十日・封書 下諏訪町より 東筑摩郡島内村 望月光男氏宛】
拜啓今に逢へる/\と思ひ乍ら逢へず手紙も出さねど君の事一日も忘れ申さず候病氣はよいとも聞き惡しとも聞くほんとの所御返事願上候松本で會を開くと云つても君は來ず胡君に聞いてもよく分らず迷ひ申候實際わるいならば大に靜養の御工夫可有之存じ候アカネ貴詠氣は溢れ居れど猶足らぬが多し勿論アカネ中の第一に候
わが胸は裂くにはあらず千萬の毛蟲はふ蟲はひまつはれり
目に見ゆる心なのものを罵りすれどすずろの心しばしも落居ず
すり鉢のめぐりの坂をさかしみと底ひさ迷ふ一人かも己れ
等は面白く讀み候比喩的のもの力なく候はじめの方すべて氣に入らず候
アカネ今度の評論見る氣せず中途で止め申候三井君は神經過敏の詩人に非ずして神經過敏の經營家に候文學士なる名稱が誤つて彼を事業家にせし事を彼は自覺して居らず悲しむべく候乙字等の方が議論も宜しく面白く候
小生は四月以來一首も作らず廣丘の森にごろつき居るのみ只一種の妙な悲しみに籠り居り候只今は小生の感受時代なれば只感受に甘じ申べく候昨年との境遇變化がこの心の寂寞を作り申候誰にも手紙出さぬを皆怪しみ來り候へど獨書く氣に成らず自分乍ら惡しき事と思ひ候へども仕方なく候君からは不平來らず變に思ひ候君も小生と一(104)寸似た境遇に居る事と思ひ候兎に角逢ひ度いな、なあ君
比牟呂トアララ木ト合併シテ東京カラ新ニ出シタ方宜イト恩フ如何賛成シロ
左翁ニスヽメ玉ヘ 六月十日 柿乃村人
光兄
廿三日は家に休息すべく候
一四〇 【七月二日・封書 東筑摩郡廣丘村より 東筑摩郡島内村 望月光男氏宛】
拜啓一昨日は參上久し振の談笑近頃の快事に存じ候實は御病勢非常に氣に懸りて出掛け候處意外の元氣なるに小生も心強く思はず長談議いたし歸來君を疲勞させたかと掛念いたし居り候處御はがきを見て喜び入り候この分にて無理さへせねば案外早く快復疑ひ無之候
松本停車場にて胡君に逢ひ胡君も急に廣丘行に決し二人にて歸宅せしに小尾石馬ありて待ち居り三人鼎坐深更迄語り更かし候胡君は昨日午後歸宅石馬は今朝歸宅いたし候それ故手紙書くが今日に延び申候不惡御承知被下度候
猶御母公御繁忙中種々御手數相掛け恐入り候君より宜しく御禮願上候
何もかも平靜に御思念有之候樣希望に堪へず條紫雲英の歌「こもりく」を具象名詞にすべきか否かは考へものに候君の云ふやうにこの方がゆつくりした情調を帶ぶるやうに思はれ候紫雲英連作中猶
妻子らを遠くおき來ていとまある心さびしく花ふみ遊ぷ
川のべのわら屋にめぐる水車響きはおそし夕日花小田
など有之候御笑覽に供し候石馬は神經衰弱とかにて遊び乍ら來り候處廣丘の森林中に入りてより元氣急に恢復藥を飲まぬやうなりしとて喜び歸り候折々通信可仕候匆々不宣 七月二日 柿生
(105)光兄臺下
君の氣を損ぜじと母公の苦心側目によく分り候餘り困らせるな萩筆は大へん使ひよく候
一四一 【七月九日・端書 東筑摩郡廣丘村より 埴科郡寺尾村 小沼清松氏宛】
御來示の趣き繭かきと牡丹とそんなに時節相違しては歌として宜しからず只蠶籠を干す位の事が宜しかるべく候小生の不用意を恥入り候
飼ふ蠶らの籠ならべ干す庭すみに白牡丹さけり風にさゆらぐ
此第四句にて切りたる所御注意下され度候此囘は出詠のは皆おもしろく振ひ居り候比牟呂稿に御保存被下度候一度御面談いたし度候
一四二 【七月九日・封書 廣丘村より 東筑摩郡島内村 望月光男氏宛】
復啓もう晴れるか晴れるかと待入り候へ共毎日の陰雨に困入り候定めて病氣に障る事と存上候小生も氣候にあてられ二三日口がまづく腹の筋が張り粥を食べ居り候御來示の説大に賛成に侯人眞似な人生觀などよい加減にこねくり居りては主觀もへちまも無く候新傾向だの何のと云ふ時は必この輕浮な氣風が附いてまはり候之をハイカラと申す也吾人の要は只深く切なる人生の經驗を得ればよしこの經驗より生るゝ詩は主觀客觀を問ふの要なく何れにしても同程度の高さのものが生れ出づべし生ま悟りの人生觀は鼻についてイヤに候客觀の詩は失敗してもイヤ味は無し主觀詩は普通のものにては多く淺薄とイヤ味とを感ずべし今一つ主觀詩と稱するもその根柢に矢張り寫生的素地が非常に必要に候寫生的用意の缺けたる主觀詩は作者感興の特色を没却いたし候
男の子われ祖のしるしと今更らに血潮はたぎつ青嵐の風 千樫
(106)連作中より取離しては惡しけれど兎に角斯樣な空漠のものはいくらでも詠み得ると共に特色なき駄作となる事請合也
朝もやに鳴くや鶯人乍ら我常世ぺにいほりせりけり(連作中) 左千夫
これらは矢張り寫生的用意を自ら具し居りと思ひ候
貴詠中第一首が一番おもしろし一般の弊を云へば材料も見付け所も皆新しく面白けれど現し方が散漫に失してごたつき居りと思ひ候
艫まはすはしけゆり越しうつ浪の引けの濕りの砂のよろしさ
大へんおもしろい材料乍らこれ丈けの材料をやつと三十一字にまとめ得たといふ感あり從て調子の上にゆとり無きが氣に喰はず候第一句の如きは何故今つと無意味の詞を用ひざりしやと疑はれ候
はしけ曳く蜑の手綱に眞砂なめ腹はふ浪の泡流れ行く
の如きも多少その憾有之候次の歌「歩むそそぎに」の末句は意味を知らず御序の節御知せ願上候詞を折々知らずして失敗いたし候明日淺間に會合あり志都兒も來るやうなり卓君近い内に歸るよし待入り候君の具合惡しきが悲しく候相携へて廣丘の森中を※〔行人偏+尚〕※〔行人偏+羊〕せばうれしからんと悲しく候それにつけても自愛御攝養專一奉存候取急ぎ匆々 不一 七月九日夜 柿生
光大兄
妻子らを遠くおき來ていとまある心さびしく花ふみ遊ぷ (紫雲英連作ノ中)
一四三 【八月十九日・端書 東筑摩郡廣丘村より 埴科郡寺尾字柴 小沼清松氏宛】
足尾ノ歌非常ニ面白ク拜見イタシ候北信ノ気勢近來大ニ高マリウレシク候他ノ歌稿(失敗ノ友ニ送ル歌)ハ失敗(107)ト存ジ候千樫君來遊シテ君ノ旋頭歌大ニ振ヘリト左翁言ヒ居ルトノ話ナリキ失敬々々
一四四 【八月二十八日・端書 東筑摩郡廣丘村より 諏訪郡北山村 兩角福松氏宛】
夏日照る草にいこへる喇叭手の喇叭の房の紅の色
これは見付所賛成に候へ共全首を通じた精神の動きが現れぬ事殘念に候つまり材料はよく按配され居れどその材料を通じて作者の感じが現れ居らぬを遺憾に思ひ候一二三句は暑苦しく同情に堪へられぬさまの現れ方也四五句は是を受けてその情調を以て貫く所の感じが更に重く現れ居らざる可らず然るに喇叭の房の紅の色の如き現し方にては只形象が敍しあるのみ形象のみにても調子の上に暑苦しくいつて居れば無論よいが是では何だか只美しいやうにも受取り得るこれでは歌として一貫の調を成さずと思ひ候御意見如何
其二
咲きつづく松蟲草の花の野に雲影うごく早雨すらしも
を
咲つづく松蟲草に風吹立ち電影うごく早雨すらしも
ト訂正セルハ第一ノハガキト同ジ立場カラ見タノデアルコレモ御返事ヲマツ干瓢ノハ平凡ナレド取リ得ルト思フ(失敬々々)
一四五 【九二十八日・端書 東筑摩郡廣丘村より 南安曇郡東穗高村 西澤本衛氏宛】
拜復今度の歌何れも自然にて面白く候是前のは凝り過ぎた感今になつて是あり候此秋はどこか歩いて來たまへ自己の境遇を變じたる時新しき純なる生命を生じ來るべく候深山に入るといふ事も一種の境遇變化なり新しき生命(108)の上に立つといふ事なり我執や習慣から脱離するといふ事也一方から見れば本來の自己純粹無雜の我にかへるといふ事也讀者の感激といふ事もこの意味に外ならざらんか日曜と土曜は家に居らずその他の日に是非出て來たまへ來る事分らばハガキ出せ失敬 九月廿八日夜
一四六 【十月五日・封書 廣丘村より 東筑摩郡島内村 望月光男氏宛】
拜復風土記トミレーの繪トハ實ニ惡イコトヲシタ心ナキコトデアツタ筆ヲ執テ何トモ云ヒヤウナクナツタオレハ惡イ考ハ持タヌツモリダガ行動思慮共ニ粗雜デ困ル。放ゲヤリデ氣ノ拔ケタコトヲスル。ヤリハジメタ事ノカガリヲ付ケズ置クコトガ少クナイ。自分ノコトデモ他人ノコトデモコノ缺點ハ共通シテ働イテヰル。君ノヤウニ露骨ニ云ツテ來ルノガ少イカラ自分デ氣付カヌヤツガキツトアルダラウ。自分デ決シテ許シテ居ルノハデナイガ天性ノ放慢實ニ困ル。風土記ヲ胡君ニ貸シテオイテ今日迄ボンヤリ君ニ貸シタヤウニ思ツテヰタ。君ノ手紙ヲヨンデハテナモウ望月ニヤツテアツタガト思ツタガ直グサウデナイコトヲ考出シタ。卓君ノ歸校スル頃カラ君ヲ訪問シヨウシヨウト腹ノ中デハ思ツテヰタ。此間「ハガキ」ヲ見タ時モ今ニ行クカラソノ時返サウト思ツテヰタ。一笑ニ付シテ返事セナンダノヂヤナイ。
アノ繪ヲ一昨日モ昨日モ出シテ見タ。君ノハガキ見タ前ハ久シク見ナンダ。君ノハガキ見タ後ハ度々思付テ出シテ見タ。今日ミレーの忌日ナルコトヲ初メテ知ツタ。
實ヲイフト予ハ廣丘ヘ來テカラ毎日毎晩暇サヘアレバ妻子ノコトヲ思ツテヰル。餘程ハゲシク思ツテヰル。ダカラ友人ノコトヲ考ヘルコトハ去年ヨリ少イ。予ニ今ノ處一番興味アル者トイヘバ妻デアル子デアル。土曜日ニハ五人ノ子供ガ(一人ハ小サクテダメダ)皆オレヲ待チアグンデ居ル。オレノ顔ヲ見ルト三歳ニナルノハ顔中皺ダラケニシテ喜ブ。ソレカラ風呂敷ヲ自分デ開イテオ土産ヲ請求スル。汽車賃クライシカ金ノナイ時ハ汽車ニ乘ラズ峠(109)ヲ越シテソノ金デ菓子ヲ買ツテ行ク。妻ハ予ノ歸ル前ノ晩アタリカラ寢ラレヌト云ツテヰル。コノ妻子ヲ殘シテ他郷ノ一室ニランプヲ吊シテ本ヲヨムノハ實ニツライ。妻子ノ寫眞ガ欲シクナツタ。コンナ鹽梅デアルカラ君ノ病氣ニ對シテモ予ノ思ヒ方ガ不足シテヰルコトト思フ。實ニ惡イコトダト今夜シミ/”\思テ見タ。
ソレヂヤ君ノコトヲ忘レテヰルカト云ヘバソンナ譯ヂヤナイ。君ガ大ニ煩悶シテヰルコトモ知ツテヰル。話シテ見レバキツトヨカラウト常ニ思ツテヰル。堀内去リシ後ハコトニサウ思ツテヰル。君ニヨク云ツテ置キ度イガ「歌ガヒネクレテ居ル云々」モ一通リノ反省ハヨイガ眞實反省ノ點ヲ見出シ得ナンダラサウ凝ラズニ打棄テ置クベシ。今ノ處デハ歌ハ君ヲ生カサズ君ヲ殺シツヽアル。自分ヲ殺スヤウナモノハ打棄テルガ正常ダ。打棄テテアカノ他人トナツタ時君ハ天眞無碍ノ人間ニナル。天眞無碍ノ望月光男ナル一人間ガ再ビ新シク歌ニ接シテ猶感受アラバ歌ヲ作ルモ妨ナシ。凝テハ思案ニ能ハズトイフ諺アリ。思案ニ能ハヌトキハ思案セヌガ一番良キ道ナリ。君ハ強ヒテ思案シヨウト思フノハ適々以テ自己ヲ傷フノ道トナルノミデアル。君ガ六月家ヲ離レタ時家ノナツカシサガ解ツタニ相違ナイ。父母ノナツカシサガ解ツタニ相違ナイ。父母ヲ目ノ前ニ据ヱテナツカシガレト云ツテモ困ルコトガアル。歌ヲ離レ、離レテ猶ナツカシキハ眞ノ愛著ナリ。離レテモウナツカシクモ無ケレバ歌ハ君ノ有難イ物デハ無イノダ。君ハ凝リ過ギタ。全ク歌トイフ形ヲ見ルナ姿ヲ見ルナ。
僕ノ妻ハ僕ノ旅ニ出テカラ大ニ歌ヨミニナツタ。亭主思ヒニナツタヤウダ。土曜日ニハ何ヲ措イテモ歸宅スル。桔梗ケ原ノ森林ハモウ寂シクナツタ。畠ノ粟モ刈ラレタ。十月五日夜 俊彦生
光男樣臺下
一四七 【十月十四日・端書 東筑摩郡廣丘村より 諏訪郡北山村 篠原圓太氏宛】
大に失敬いたし候アララギに貴詠と堀内詠なきは實に寂しく候黙坊君も如何にせしか左翁のと茂吉君のは傑作に(110)候千樫のもよく候小生のは多少成功のつもり只調が柔かすぎ候御苦言下され度候近來誰にも逢はず全くの一人生活に候それで本をよまぬには呆れ入り候
一四八 【十月十七日・端書 東筑摩郡廣丘村より 埴科郡寺尾村 小沼清松氏宛】
返事相後れ申譯無之候拙歌御評おもしろく拜見いたし候「妻子らを遠くおき來て」の歌は尤も得意のつもり也余暇多きを却て寂しく感ずるの情と花ふみ遊ぶ寂しさとは見方も感想も異り居候二號の歌にて齋藤茂吉君のは尤も振ひ居り候左千夫翁のは勿論宜しく候千樫君のもよろしく候へ共ちと薄きやうに候
芋井村御旅行の由羨望いたし候御詠四首細かき難はあるやうなれど一通りよいと思はれ候多少誇張の傾きあるは此種の歌の通弊に候御返事のみ匆々
一四九 【十月二十九日・封書 東筑摩郡廣丘村より 南安曇郡東穗高村 西澤本衛氏宛】
拜復此度の歌稿皆振ひ居り喜び入り申候君の歌は感じそのまゝを率直に素朴に歌ふが特長なれば感じに何かの興趣湧く時驚くべきものを生み申候從て課題の歌は適せぬやうに候強ひて作らんとする時平板になり候餘程興趣湧きても君のはむしろ平板に陷り易く候此度のも慾をいへば今少し平板に遠ざかり度かりき右愚見申上候御叱りなく願上候歌稿御返却申上候間御異存の點御申越下され度候天長節のにもおもしろいもの見え候青木湖行大に愉快なりしならんと想像致し候よき事を爲され候十一月中旬御出掛下され度候アララギ「羈烏」はよきつもりに候如何、胡君にも禿君にも光君にも逢はず桔梗ケ原の一人坊ツチに候 十月廿九日夜 柿生
科野舍大兄
(111)一五〇 【十一月十五日・端書 東筑摩郡廣丘村より 信濃諏訪郡上諏訪町片羽 牛山郡藏氏宛】
拜復度々御手紙下され深謝仕り候二十七日の日曜に參上可仕其際種々御話申度候御高志に甘え御申遣のテン丈け失敬仕り度願上候
師範問題にて大分賑ひはじめ候男二校の位なら長野に二校置く方勿論よろしく條上田など第一教育地に無之候一校論の勝利神かけて折り候矢じまの合格只々喜び入り候あれは我級の天才に候エライ男に候三澤病める由其後の樣子を知らず松本へは左團次來るべし羨しいだらう見に來たまへ 十一月十五日 柿の村人
一五一 【十二月四日・封書 東筑摩郡廣丘村より 諏訪郡玉川村學校 小尾喜作氏宛】
拜復御書面ヲ見ルコト相後レ遺憾千萬ナリ貴書ハ昨日著キシモ全校休ミテ學校參觀ニ出掛ケシタメ知ラズニ居リキ今朝出校セシモ貴書ヲ見ルノ暇遑ナク晝飯ヲ日没後ニ食ヘルノ始末只今宿ニ歸リ夕飯ヲタベユツクリ貴書ヲ拜見セントシテ御文意ヲ一讀シ驚キ入リ申候早速飛ビ歸ラント思ヘドモ當校非常ノ繁忙期ニテ火水二日共父兄懇話會招集シアリテ手ガ拔ケズ八日ニ夜汽車デ下諏訪ヘ歸リ九日貴校訪問ノ上種々打合セテ古田ヘ行カント思ヒ候依テソレマデ病勢御監現下サレ度ソノ模樣デハ直ニ御發電下サレバ何ヲ措イテモ歸宅仕ルベクソレマデ第一學校ヲ休ムヤウ第二學校ヲ退クツモリニナル樣極力御勸告下サレ度老母一人ノ心配ニ候ヘバ何卒御盡力頼入リ候此手紙今夜態夫ニテ停車場ヘ飛バセルソノ後ノ模樣君カラ御知セ願上候匆々 四日七時半 久保田
小尾兄侍史
一五二 【十二月四日・封書 東筑摩郡廣丘村より 諏訪郡玉川村小學校 小尾喜作氏宛】
(112)拜啓過日は失禮いたし候今日父より來書「原醫師曰く咽喉部に異状ありたま/\充血す過日の血は肺の方では無いらしい」と申し越せり眞に然るや本人は喜びて居るやうなり一つ原君へ行き御確め被下度御苦勞願上候そして直ぐ御返事願上候序に過日顯微鏡の險査(痰)をせしか御糺し願上候以上用件
それから新年の歌(長野南信)二君で詠みて御送り被下度候二十三日頃に御送り願上候以上用事のみ匆々 十二月十九日午後三時 柿生
石兄
(113)明治四十三年
一五三 【一月十五日・端書 下諏訪町より 松本市松本銀行 胡桃澤勘内氏宛】
賀状も差上げず失禮いたし候左翁の「眞面目の妻」心理的の深さはあれど已に型に入り候左翁に動ありて靜なし靜に人生を思ひ見るといふ情趣缺けたり惜しき事に候正月に入りて短篇もの作りアララギに出し置き候御笑見下され度候長塚君のも同君には古し二十三日遊びに來られぬか禿君と話して小生は十九日歸校
一五四 【一月二十一日・封書 東筑摩郡廣丘村より 上諏訪町片羽 牛山郡藏氏宛】
過日借用願ひし十圓の利息は別に差上げ可申候右はがきにて一寸御返事下され度御手數願上候もしよければ二月何日頃參上すれば宜しきか是又願上候
今日又々雨と成り湖水心配に候氷切出來ねば高木邊のみにても大外れと思候當地雪深く道路未だ踏みぬけず困却いたし候一里餘の夜學分教場より歸り疲勞亂筆いたし申譯無之候先は用件のみ匆々敬具
御令閨樣に宜しく
ますらをの膝を折らしむるうつし世の黄金のみこと尊かりけり 呵々々々 一月廿一日 俊生
天外大兄臺下
(114) 一五五 【一月二十二日・端書 東筑摩郡廣丘村より 諏訪郡北山村柏原 兩角國五郎氏宛】
君ノコトヲ忘レハセヌ君ノ作ラヌコトヲ惜シク思ツテ居ル一ツ奮發シテ三四十作ツテ見タマヘキツト何カヲ掟ヘ得ルト信ズル捉ヘ得ナンデモヨイヂヤナイカソンナニ勘定高ク歌ヲヨムコトハナイヨウマク出來ナイト思ツテヨメバ平來ダヨ今年中行事中一番氣樂ナ時ダラウ冬眠モソロ/\醒メルベキダヨ
其二
僕ノ居ル處ハ桔梗ケ原ノ片隅見タヤウナ處ダ土地ガヤセテ林ガ多イ冬枯ノ曠野ニ一人デポツチリ坐ツテルノハ寂シイコトダ僕ハハジメテ靜寂ヲ味ヒ得タヤウダ靜寂ヲ味フノガ僕ノ今ノ慰藉ダー人デ坐スル時ハ夜一時デモ二時デモ樂シク起キテヰル今夜ヒヨツクリ思付テハガキ二枚書ク 一月二十二日夜
一五六 【二月七日・封書 東筑摩郡廣丘村より 東筑摩郡島内村 望月光男氏宛】
大に失禮した大に具合よいと聞いて喜んでゐた歌をウンと送つたと聞いて大に喜んでゐたひまを見付けて訪はんとしていつも土曜日曜を家に歸つてしまふ誰にもこんな調子にして失敬してゐる桔梗ケ原は寂しい森林地である冬枯の桔梗ケ原は僕の心をすさまじくしてゐる荒寥な生活は時を經るに從つて僕の心の幾分を變化させたと見える僕は近來弧獨の生活を深く樂しむ夜洋燈の下で外を吹く風を聞いてるのが只うれしい人が來て話をしてゐれば十時頃から眠い一人で起きてゐれば一時二時になつても眠くない夫れで本をよむでもないたまに本をよむのも樂しみだが毎晩よむ氣にもならぬ田舍に住んで世間の刺撃を感ぜぬからである僕の近状は斯んな樣子である友人に對する興味の薄らいだのでは無い只今迄より多少變化した心が生じたのである君の事は常に考へてゐる胡君に逢へば直ぐ樣子を聞くそして元氣よいと聞き歌も作ると聞いて大に安心し喜んでゐ(115)るのだ君も此一年間に大に變化せねばならぬ筈だきつと變つてる堀内も非常に變つて來た變るうちは何とか方がつくと思つて嬉しいいつ迄しても變らぬやうな人には逢つてもおもしろくない大に逢ひ度い斯う書いて來れば愈逢ひ度い俗的な不平も一杯あるぞ
十二日午後小柳ノ湯で麻葉歌會をやるべく通知を今日書いた君は未だ來られぬか來れば實によい東京へ送つたといふ歌を持つて來て見せろ僕は近來盛々歌が難産になつた標準が高くなつた故と思ふ高慢の至りだが實際さうとしか思へぬアララギの歌大に氣に入らぬ小説も歌も今つと局面を開かねば困ると思ふ俳句も同上である俳句を一つウントやつて旗を飜してもよい碧梧桐では駄目である
今日は之れだけ學校にて認む 二月七日 柿乃村人
光兄臺下
一五七 【二月九日・封書 東筑摩郡廣丘村より 諏訪郡北山村柏原區 兩角國五郎氏宛】
拜復久振リノ御手紙歡ビ入リ申候眼病ハ已ニ全ク御平癒ニヤトンダ災難セシモノカナ久シク作ラズニ居レバオツクーニナルコト自然ノコトニ候只歌テ作ルト云ツテモサウ勘定高ク作ルニハ及バズ作レバ必ヨイモノデナクチヤナラヌト相場ヲ高ク極メルト出テハ來ズ候相場ヲ安クスレバスラ/\ト自然ニ出テ來ルモノニ候高クスル必要モアレド同時ニ安クスル必要大ニアリ小生等モドウモ高クシテ困リ候從ツテ打算的ニ成リ申候アララギ出デ候ハヾ批評シテ志都兒ト君等トニ送リ可申御意見御申越下サレ度候選歌ノ標準ヲ今ツト高ムル必要ハ小生モ感ジ居リ候信州デ今一番進歩シテ居ルハ堀内卓造ニ候アレハ何時逢テモ少シヅツハ變化シ居リ候彼ノ作物ニハ御注意有之度候御返事のみ匆々 二月八日夜 俊彦生
竹舟兄侍曹
(116)冬枯の野にむく窓や夕ぐれの寒さ早かり日はてらしつつ
一五八 【二月二十三日・端書 東筑摩郡廣丘村より 長野市長門町四十 櫻井一氏宛】
拜啓今夜貴稿拜見著眼大に宜しく優に群儕を拔けり斯の如き原稿に接するは實に愉快に候今迄御作りの文ありや猶今少し御示し下され度待上候はがきにて失敬 二月廿三日夜
一五九 【二月二十五日・端書 廣丘村より 東筑摩郡島内村 望月光男氏宛】
人目なく物うちかむるわが影の常にさむけき二十日まりの月
は大に宜しいと思ふ新しい上に感じがシツクリいつて居る新しいが感じのまとまらず且淺薄に陷るは「平瀬風」の缺點である
更けさむの寢覺にかあらんいたはりの聲かくるさへ吾に寒けく
我が歸宅を父母などのいたはる聲を聞きつゝ起る感じであらう夫れには一二句はシツクリいかぬ
さ夜床に足さし入れてのばし見るぬくもりのけも聊か殘れり
面白いが結句のあたりが不足してゐるやうだ、「け|も〔付○圏点〕」「|聊かのこれり〔付○圏点〕」今少し考ふべきだと思ふ
厨べに物しむ音の耳に入り又寢る夜具は肩の寒けさ
|肩の寒けさ〔付○圏点〕の如き部分的な事をいつてはいかぬと思ふ(此處では)
うとうととつかれのねむけさすほどに尿しほしく又さめにけり
戸のすきの白みは月か朝あけか寒さしみ來もえりのほとりに
散文になつてゐる
(117)物にうみうつつなくある心からゆたにありえぬ淋しき朝夕
斯樣な感じは面白いが矢張り感じにシツクリ合はぬ「淋しき朝夕」といふ感じが今つと全體にしみ渡つて居らねばならぬと思ふ
上かわく庭の置石時雨さぶこのぬか降りの小まだらのよさ
新しいが詞が細かく働き過ぎて感じより形の方が強く感じるのが遺憾だ
この見ゆる西の高山はだら衣とり著む春を戀しむ雨か つまらぬと思ふ
五日の歌會には來られぬか 二月廿五日 柿乃村人
近什
わたつみの遠つ底ひに冷やかにとはに動かぬ水あるを思ふ
一六〇 【三月二十三日・封書 信州東筑摩郡廣丘村より 朝鮮京城 矢島音次氏宛】
拜啓二度のはがき嬉しく拜見いたし候令閨同伴に非ざる由何だか寂しき感じいたし候何とかして同伴する譯に行かざるか故山萬里客心猶定まらざるの状遙かに想見いたされ候仕官の道として韓國が適當なるか否かを知らざれども道は荊棘の中にも求め得べし今囘の任を輕んぜざる御用心切望の至に候我等は衝動時代は已に經過せり有意義なる自覺を得んとする努力は樂しき努力なるを思ひ候小生は今の處に臨時止まるつもりいたし居り候田舍故金の工面にも讀書の工面にも都合宜しく候ソレデモ鹽尻峠一つ隔てゝ妻子と別居し居るはヘンな氣が致し候況や君に於てをや小生は昨年はじめて孤獨生活の寂しさを味ひ得申候これはヘンな趣味に候樂しく寂しく落著きて宜しく候枯野に對して一人居る時寂しくぅれしき心地いたし候夜の燈火もシンとして宜しく候妻子を思ふにも非ず思はぬにもあらず茫乎たる靜思に遊ぶはヲカシナものに候時々はがきにて宜しく御惠み下され度候右のみ匆々不宣
(118)(アララギ赤彦追悼號所載)
一六一 【六月四日・封書 廣丘小學校より 廣丘村 赤津信雄氏宛】
拜啓久し振りの御詠草喜ばしく拜見いたし候歌がら皆自然なるを第一に喜び候飾らず衒はぬが第一の素地に候この素地を離るゝ時輕薄の歌を生じ可申此點に於て今囘の貴詠の傾向を喜び申候十六首大抵取り得るやう思ひ候只秀れたる著眼に一盾御志し希望に候急には行かぬがその内に相達し可申候五月號のアララギは平凡にしてつまらぬ歌のみ多くいやに成り候朴葉のは久し振り故か一寸おもしろしと見候
夕の空筑摩花原うつりしか紫雲英花さく樣に雲はゆ
は不成功と存じ候先は御返事のみ匆々不一 六月四日 柿生
赤津兄
明日より十九日迄歸宅いたすべく候其内に御話いたし度候
一六二 【七月二十三日・封書 信濃國東筑摩郡廣丘村より 東京府下上澁谷百三十五 平福百穗氏宛】
拜啓炎暑相加り候處益々御健勝被爲入候哉伺上候小生無事桔梗ケ原寓居に起臥いたL居候間御安心被下度候扨甚恐入り候へ共當校卒業生(本年度)記念品として大西郷翁肖像を講堂に掲け度大兄の御迷惑相煩し度御許容願上候大さは新聞全紙大紙質は御地に於て適當のもの御撰定下され度密畫(眞の)を要せず大兄特獨の略畫をも妙と存じ候(如何ナル體ニテモ宜シク候)肖像原據も當地に適當のもの無之候へ共是は大抵の肖像を見るに大同小異と存じ候へば適宜御撰び下され度此儀御迷惑に候はゞ當地にて何か見出し御送申上べく候少年輩の事故謝儀は出來申さず甚失禮に候へ共右寛恕下され度願入候右の如くに候へば時期は定め申さず今秋か今冬頃迄にて宜しく斯(119)疾くより御願申さんとして今日に至り候御許容願上候匆々不盡
アララギ一向出ずやゝ難産かと思ひ候小生も八月は閑居何か致し可申候不二山位へは出掛度存じ候 七月十三日 俊彦生
百穗畫伯臺下
背山君に宜しく願上候
一六三 【七月廿五日・端書 東筑摩郡廣丘村より 諏訪郡宮川村新井區 鵜飼三治郎氏宛】
御繁忙と察し上候御子息樣御亡なりの由御悲痛御察し申上候無邪氣な幼者の遠く逝くは單純に悲しきだけ他と異る悲しみあり謹で御悔申述候 七月二十五日
一六四 【八月八日・端書 下諏訪町より 東筑摩郡島内村平瀬 望月光男氏宛】
君ニハ逢ヘナンデ殘念デアツタ信州號ヲ出スニキメタコチラノ理由ハ第一ニ信州人ヲ覺醒セシメ得ルコト幾分カ有之ナラント思ヒシコト第二主トシテ東京同人等ノ歌ヲ遠慮ナク批評シテ出スニハ好機會ナルコト第三ツマラヌ歌ヲ捨テヽ選ヲ嚴ニシテ見ルコト面白キコトタトヘバ民部ノ今度ノ歌ノ如キハ一首モ出サヌヤウニスルコト面白ヵラント思フコト君ニハ迷惑ト思フガ我慢シテ胡君カラ御聞ノコト御願申上候ソレカラ歌ヲ可成御送リ下サレ度候 十一日不二山行十三日歸宅 八月八日
一六五 【八月十四日・封書 下諏訪町より 永明村塚原 矢崎源藏氏宛】
拜啓木外君肋膜肺炎にて二週間來熱度去らず甚だ重症と見受申候俳句同人にて多少づつ醵出御送贈如何に候か病(120)氣に使用する故日數取りては惡しく候此手紙は貴兄と河柳打川二君とに出し申候何とか御心配下され度候匆々不一八月十四日
一六六 【八月二十一日・封書 下諏訪町高木より 諏訪郡永明村塚原 矢崎源藏氏宛】
拜啓木外子起たず悲痛の至に候遺族の困苦甚しきものあり生前同志者の配慮を願度河柳打川右衝門諸君へ手紙出し置き此内に天外君宅へでも御集まり願ひ下相談いたし度御承知願上候昨日小生蛙宅遲れしため拜眉を得ず遺憾に存じ候取急ぎの際亂筆御宥恕下され度候匆々不盡 八月二十一日
一六七 【八月二十二日・封書 下諏訪町より 東筑摩郡上川手村小學校 鹽原政雄氏宛】
拜啓態々御出でを願ひ恐肅の至奉存候只今御手紙拝見御苦心相煩し萬謝奉り候評議員會では手塚君の意よく通じ居らざりしならん少くも個人の意見を積極的に述ぶるに至らざりしならんと存候諏訪不可ならば伊那云々は出來ぬ話ならん諏訪に許さずして伊那に許す筈なし別に方法あり喧嘩か懇請の二途なり喧嘩は何うせせねばなるまい併しそれによりて任命は不可能なり學務を改革するは別に道あらんも即急には行かず下手な手を出すと却つて惡し愼重を要す貴兄等も御考へ置き被下度候手塚兄には別に手紙出すか逢ふか致すべく候却す/”\御高配拜謝致し候匆々 八月廿二日 俊生
鹽原兄侍史
一六八 【九月二日・封書 東筑摩郡廣丘村より 西筑摩郡藪原局 湯川寛雄氏宛】
拜啓御返稿緩慢に相流れ候段平に御海容被下度候本日詳敷拜讀いたし候處滿紙悉く血涙覺えず聲を呑む數度斯の(121)如き文章は決して他人の冷靜なる筆を加ふべきものにあらず只心附き候箇處へ少しつゝ朱を附し申候失禮の段御容恕被下度候續稿早く御示し被下度待上申候匆々敬具 九月二日二百十日軟風
湯川兄侍曹
左翁の水害果して豫想の如く慘烈なり而して左翁の奮闘も亦豫想の如く悲痛也夜は自ら牛乳を搾り自ら配達し晝は復舊事業に從ひ候よし夫れも翁自身には筆執るの餘裕もなきものゝ如し千樫君より萬事通信し來り候アララギ信州號は二三日中に出來可申候
一六九 【九月十五日・封書 信濃國東筑摩郡廣丘村より 東京本所區緑町三ノ三十二瀧澤方 古泉幾太郎氏宛】
拜讀信州の特長少しとの御批評分り申さず平生も「アララギ」に出し居り候へば別に今度變化ある理由無之候只執筆者に信州人多かりしのみに候
批評は決して巧妙には無之と思ひ候茂吉兄の歌非常によいと思ひ候上手過ぎずと思ひ候汀川のは今見れば矢張感じの輪廓に了り候胡君振はず小生のは惡しく候自分でも不足に思ひ居り候秋風來の方が少し自分の希望してゐるものに近づきはじめ居る位に思ひ居り候貴君は大に進歩せりと思ひ候千夜江のも進歩に候黙坊にも面白い所あり山越も進み居り候大兄の作を見ざる久し何故ぞや待入り申候左翁その後如何にや氣掛りに候三四日中に何か書き可申先は御返事のみ匆々不盡 柿の村人
一七〇 【九月二十一日・端書 東筑摩郡廣丘村より 上水内郡芋井村上ゲ屋 古澤喜市・内田義久氏宛】
左千夫先生水害の程度隨分甚しきやうに付き信州同人で少し金を集めて送つては如何といふ議起り候に付下マセ(122)五十錢(以上無制限)位の見當にて御賛成被下度小生へ宛てゝも松本市松本銀行胡桃澤勘内君へ宛てゝもよろしく御送被下度候 十月五日限り 九月二十一日
一七一 【十二月十二日・封書 東筑摩郡廣丘村より 松本市女子師範學校附屬小學校 金原よしを氏宛】
拜啓過日は折角御出で下され候處失禮致し遺憾に存じ候夫れでも御滿足の御手紙頂き喜び申候今年は餘日無く御出掛無之由明春早々御一泊にて御出掛下され度待ち申候
御示しの歌稿一通り拜見致し候
明けき星の下庭とこしなへに別るるありとは露しらずいねし
非常に宜しく候すべて此調子にて御進みのほど希望致し候そのつづきにある歌概ねおもしろき傾向に候へ共電報だの夢だの胸だのといふ文字あまりに仰々しく竝べありて却て感情よとまらぬ恨ありすべて實事件を並列するのみにては情調を生ぜず庭作りが庭を作るやぅに石や松を竝べることをやめて音樂家がバイオリンを弾くやうに只調の響きにて感じを現はし候やぅ静望仕候「明けき……」の御歌はこの點に於て大に宜しと被存候今度のアララギ左千夫先生望月光君千樫君芋の花人君等の歌御熟讀希望に候今度の休中にちと澤山作りて御持參被下度直接に批評申上ぐる方心通じて宜しく候此の間の原稿の細評は何れあとより差上ぐべく餘り延引故今夜は大體論のみ申上候猶中原さんへの御書面中同封のものは未だよく拜見せず今夜この席に無之故何れ追ていろ/\同時に細評申上ぐべく御承知下され度候先は右のみ匆々頓首 十二月十一日夜十二時過ぎ 柿の村人
金原よしを樣 御もと
亂筆御ゆるし下され度候
(123)明治四十四年
一七二 【一月一日・端書 東筑摩郡廣丘村より 上水内郡芋井村 内田義久氏宛】
元旦は何かの氣が四方に磅※〔石+薄〕して居ると思ふ 元旦
一七三 【一月五日・封書 豐平村下古田より 玉川小學校 小尾喜作氏宛】
謹賀新年 昨年中は御厚志に預り奉謝候今年も相變らず願上候舊冬中兩角村長態々廣丘に來られ恐入候小生も其後熟考は致し候へ共どうも此處にて去るべき適當の理由無く困り入り候さうかと云つて一年釣り置く如きは双方の爲め惡しき事に候へば斷然交渉を絶ち新しき候補者を定め候樣願度此旨本朝兩角村長へ通じ置き候間可然御承知願上候實は村の學務委員等と少し物言ひ致し丁度よいから去らんかとも思ひしが去るに値する程でも無く色々思案の末斯く御返事申上ぐる次第なればどうかそこを惡しからず御承知願上候御縁あれば又何時何處で一緒に仕事するか分らず其の折一臂を振ひ御厚志に酬い可申存候君の方でもそろ/\候補者を定めて取掛らねばならぬ事に候へば望みなき小生へ何時迄も御交渉は御止め被下度決して君等を顧みぬ積では無く廣丘を今去る理由も事情もなきが故に候へば此點は何卒惡しからず御受納被下度少しづゝ手を擴げた事が纒り次第ゆるゆる諏訪へも歸り君等と撞携して諏訪に動き度考は有之候今後とても宜しく願ひ上候先は右のみ匆々 一月四日夜 俊生
(124)小尾君侍史
今日山浦に來り候故御面談せんかとも思ひしが手紙にて略し置き候今年はチト歌でも詠むべし
筑摩野の冬木の松のまばら松小鳥と我と住み馴れにけり 十二月作
まばらなる冬木がもとの緒土《あけつち》に夕日さし入りぬその土の色 同上
一七四 【一月三十日・端書 東筑摩郡廣丘村より 上水内郡芋井村上ゲ屋 内田義久氏宛】
双方より消息絶え申候御無事に候哉望月光君死去痛惜に候御同樣命は大切に候一寸の命も惜しみて働かねば惡しき事に候アララギもこんな具合では氣飢ゑ可申候小生壯健に候
一七五 【二月十日・端書 東筑摩郡廣丘村より 諏訪郡宮川村新井區 鵜飼三治郎・藤森知降久氏宛】
今夜諸君の御稿すべて拜見致し候一般に申せば感覺的の歌多くして人をして自づから考へしめるやうな深く重いものが無いさやうな刺撃は只五官を刺撃するのみで神靈を刺撃してくれぬ所謂與謝野や其他の新派と自稱する連中のは斯る感覺的なものであつて一寸見ればスベラカク美しいが淺くて卑俗なもの斗り也この弊所を脱せられん事を祈り候
一七六 【二月十六日・端書 東筑摩郡廣丘村より 上水内郡芋井村上ゲ屋 内田義久・古澤喜市氏宛】
拜啓芋花君ノ今度ノ歌子供ノハ大抵面白カリシモリノ他ノハ餘リ作リ放シニテ濫作ニ近ヅキ候ト思ヒ候今ツト苦心シテ彫琢スル必要アリト思ヒ候ソレカラ芋ノ里人ノハドウモ深ミガ不足シテ居リ候今ツト深刻ナル自己ノ感興(125)ヲ基礎として大膽ニ御詠ミヲ希望イタシ候君ノハ歩ミ乍ラアヤブミツヽ歩クヤウナ感ガ致シ候何ダカ梁ノ上デモ歩クトキノヤウナ感ガシテ泰然タル風ガ缺ケ申候ソレニ比シテ芋花君ノハ往々大膽スギ泰然スギ申候二人ソンナニ相違シテ居ルハ妙ニ候
堀内望月二君去リタル信州人ハチト奮發スル覺悟ナクテハイケヌコトト思ヒ候 二月十六日夜十二時半
一七七 【三月十七日・端書 松本出先より 北安曇郡池田町百六番 松島梧風氏宛】
大へんおもしろく拜見致しましたあの中で八首ばかり取りました作者の感情が落付いてしんみりした情趣が浮んでゐるのを喜びます只現し方の洗錬が不足してゐるのを殘念に思ひます今つと語と句とを適切に使つて頂きたいと云ふ感じがします左の歌の一、二、三句の類であります
落葉して冬おそくまで落葉して青く芽をふくさびしき木かな
一七八 【三月十九日・封書 東筑摩郡廣丘村より 上諏訪町片羽 牛山郡藏氏宛】
拜啓過日は度々參上御迷惑相願ひ恐入り候然る處今又新に御願申上ぐる事心苦しく候夫れは小生本年中の新聞手當を前借する事に候二月分は二圓ばかり殘るかと思ひ候以後十ケ月分を合して四十二圓と相成り候夫れを年一割五分利率にて二月に三十七圓拜借するとすれば年末に至り元利合計四十二圓位と相成可申丁度皆濟の譯に相成申候 37+(37×.15×11/12)=42.0875圓
右御都合出來候はば毎度ながら御工面願度ちよくちよく參上御無心のみいたし小生も心苦しく貴兄も面倒の事と存じ上候いつもこんな事のみにて申譯無之是全く昨年の失敗と懲り入申候御憫笑下され度候
(126) -七九 【三月二十一日・封書 東筑摩郡廣丘村より 諏訪郡玉川村小學校 小尾喜作氏宛】
拜見何やら蚊やらでどうLても歸宅出來ず失禮仕り候つまり二十八九日で無ければ御面談六ケ敷候明日夜一寸歸るが二十二日午前中に松本行の用ありこれも忙しくて御面談の機なし組織大に宜しく奉謝候戸田某女を泉野へでも廻して吉田を取り得れば尤も妙その他には今居る人を出してその人を入るゝ事出さるゝ人氣の毒なり成る可くは出さぬ方よし併し僕には實際がよく分らぬのだから宜しく御決定を望むそしてずんずん御斷行を望む手紙の交渉では好機を逸する事あるべし御考量の上御斷行被下度候矢島助け得ば助け被下度候匆々亂筆失禮 三月二十日夜十二時 久保田生
小尾君机下
一八〇 【三月二十三日・封書 束筑磨郡廣丘村より 諏訪郡富士見村 丸山爲之助氏宛】
拜啓不二見公園設計に付きかねて左千夫先生に依頼承諾を得居り候へ共あの件は如何取計ひて可然候哉設計圖を造るにや牛山君の處にある設計圖樣のものを訂正するにや兎に角實地觀察の上ならでは手が附かぬかと被思候而して左千夫先生分擔の仕事に對して費用どの位御支出の御豫定に候哉詳細御知せ被下度其上にて改めて左千夫先生へ紹介仕るべく御返事待上候匆々不一 三月廿≡日夜
丸山爲之助樣 几下
一八一 【三月二十三日・封書 束筑磨郡廣丘村より 諏訪郡湖南村小學校 河西省吾氏宛】
拜啓すべての事四月はじめ迄返事御待ち下され度候それまでは手の付けやう無之候それで返事おくれたり小生(127)大抵三月末日にて當地打切り可申しコレも四月になりてゆる/\御面談可仕候森へ雪たまり遊ぶ時なしに此地を去るべし兩角君によろしく歌稿忙しいからあとでよむ 三月廿三日
河西君几下
一八二 【三月三十一三日・封書 諏訪郡玉川村より 小縣郡武石村 中原閑古氏宛】
鹽尻にて二三十分下車遠く傾く森林の野を一人して眺めそして別れを告げ候暗い頭の中に只牛屋の火鉢が光りてボーツと頭に入り來り候詮方なく候
拜啓筑摩の野もこれにて全くカラに成り候人事變移斯の如し堀内逝き望月逝く逝くもの歸る時なし湯本去り私去り閑子去る去るもの又再會を必すべからず只森あり彼依然として彼の處にあり森伐られ野墾かるゝ頃我等遂に何物ぞや心は遷り老い滅すあゝ果して然るか靈魂の不滅は私に於て常に堅く信ずる所不滅ならんを欲し不滅ならんを希ひ遂に不滅なるを信ずるに至れり私共の心は遂にこの形骸を離るゝに至つて只至聖至靈なるべし私は今一人死火山の裾野にあり而して心は遠く馳せて筑摩の舊林に逍遙す心の自由は鐵も隔つべからず私は只この自由に一瞬づゝの生を覺ゆるのみ
丸子の新生活如何御知せ被下ば幸甚に候束京へは四月末に行き五月半に歸るつもりに候近頃歌についての議論やや高まり左千夫翁と我々との間に著しき隔りを生ぜしを愉快に思ひ候(?)アララギの歌御覽になれば分ると存じ候此事いつか詳しく御話し致し度候茂吉憲吉千樫梨郷等とも目下盛な議ろんの由にて諸君から皆知せて呉れ愉快に見て居り候思想や感興が異るに至るは自然の道にして一種の進歩也左千夫先生からも今に分つて下さると思ひ居る所に候私の學校へ土田耕牢(十八歳)が來り候此人弱年なれど思想進み歌も大變宜しくよき人來りうれしく候五味保徳も來りうれしく候丑助相變らずよく候羊といふ人も私の處に居り候延川としゑさんの亭主に候今夜も十(128)一時まで話してかへり候歌出來るやうなら御示し願上候待上候私の子供全快御安心被下度候御自愛のこと匆々不盡 三月卅一日夜 柿の村人生
閑古樣貴下
一八三 【四月十八日・封書 玉川村より(推定) 藤森六七氏宛】
拜啓今日予ノ母ノ二十七年目ノ命日デアル今カラ二十七年前小生十歳ノトキ午後ノ暖カナ日ニ予ノ母ハ六人ノ子供ヲ置イテ逝ツタノデアツタ今日ハ學校カラ歸ツテ位牌ニ燈明ヲアゲテ芋汁チ備ヘテ二十七年前ノ子供ノトキヲ思ツテ見タソレカラ五十日目ニ二才ニナル弟ガ痲疹デ死ンダ母ノ乳ヲ離レテ他人に預ケラレタカラ死ヌ前ノ日家ニ歸ツテ二日ダケ僕等ノソバデ暮シタ正確ノコトヲ父ニ聞キタイガ年老イタ人ニ悲シイ追懷ヲ話サセルノハ忍ビヌコトデアルカラ黙ツテヰタ予ノ十六歳ノ正月三日ニ小兄ガ死ンダソレヲ心配シテ父ガ病ンダ予ノ二十五歳ノ年ノ十二月二十七日ニ仲兄ガ死ンダ臺灣カラモ七年振リニ歸ツテ二十日許リ老親ノ側デ病ンデ死ンダ兄ハ死ニ場所ニ家ヲ撰ンダトイフヨリ七年振リノ家郷ヲ見タクナツテ逢ヒタクナツテ病ミ衰ヘタ身ヲ勵マシテ歸ツタノダ丸子ノ驛デ父ト大兄ト病兄ト小生ト弟ト五人數年振リデ顔ヲ合セタノガ五人ノ顔ノ揃ヒ終ヒデアツタコレハ只一晩デアツタ小生ガ三十一歳ノトキ大兄ガ千葉病院デ死ンダ兄等ノ病ム度ニ父モ心配シテ病ンダ小生ノ二十六歳ノトキ一月五日妻ヲ喪ツタソノ前年ハ一子ヲ失ツタコンナ生活ヲ續ケテ來テモ自分ハ世ノ中ニ猶幸福ガ私ノタメニ充滿シテヰルコトヲ感ズル私ハ境遇ト生命トヲ區別シテ行キタイ暮シ方ト生キ方トヲ區別シテ行キタイ境遇ハスベテ私ノ生キ方ノ修養デアツテ貰ヒタイ
私ハ私ノ卅六年ノ歴史ニ別レテ衷心カラ感謝スルソレカラ後モサウデアリタイ
十二時過ギニ思ヒ付イテコンナコトヲ書ク氣ニナツタ君等ニ話シタクナツタ 四月十八日夜 俊彦生
(129) 諸大兄諸大姉各位
昨日ハ有難ウ
一八四 【四月十九日・封書 諏訪郡玉川村小學校より 松本市新町大和醇方 金原よしを氏宛】
拜啓過日は御厄介相成奉謝候何だか久し振りの御面談の如く思はれ欣喜致し候なをさんにも宜しく御禮願上候五味君にも宜しく願上候翌夜は御兩人の御出掛遲かりしを悔い申候あの課題の歌今二三首御送被下度候そして萬葉集を順次御調べ希望致し候分らぬ所は御申越被下度手紙で分らぬ所は御面會の節御話しに入れ可申候何もかも五月の御來諏待上申候それから貴下は普通よりも少し多く沈み入る御氣質相見え候年若き時は有り勝と存じ候へ共修養の如何によりては身心を傷ぶり可申よく/\御心附願上候小生も此風あり自分でも近頃は餘程まで境遇を修養の機會とする分子殖え候へ共猶心の方が境遇に負けて困り入候猶何か御困りの事情も候はゞ決してかくさず御打明け御相談下され度小生は費下が何を御打明けになりても驚き申さざる迄に思はれ候御心配なく御打明け希望に候右のみ匆々 四月十八日 俊彦
夜汐子樣御前に
一八五 【四月三十日・端書 諏訪郡玉川村より 上水内郡芋井村上ゲ屋區 内田義久氏宛】
新生活感如何人生ノ新シキ意義ヲ加ヘテ深キ或ル物ヲ掟フルノ機會ナルヲ思ヒ候急ニ歌ニ現レズトモ可ナリ今ニ現ハルヽ機アルヲ樂シク待上候此頃中村憲吉君來遊樂シカリキ歸途ハ信越線ナリシモ急グカラ君等ニ逢ハザリキ輕井澤ノ翠色ヲ喜ビテ申シ來リ候小生玉川ニ入リテ多少變遷アリ歌モ出來可申候近況御伺ヒ申度候
(130) 一八六 【五月十六日・封書 諏訪郡玉川村より 下伊那郡飯田町高等女學校 湯本政治氏宛】
拜啓大に御無沙汰仕り候御着任後御動靜如何に候か新しき仕事の初期折角御忙しき事と御推察仕り候御令閨樣には已に御出産の御事と存じ候定めて御安産と存じ候へ共猶心に掛り候猶御全家御移轉は未だ御延引の御事と推察仕り候束筑部會も彌々三山氏來國の由御盡力相現れ候儀と欣び申候小生轉任後別にさしたる事件も無く日々校務齷齪罷在り候身體大に健全御欣び被下度候山浦地方は地寒けれども肥沃也木の種類も桔梗ケ原に比して多樣從て若葉の特色千態にして甚だうれしく候學校近傍には猶森多く毎日快き散策致し居り候若菜の鮮なる色は新しき生命の色に候我等は新しき生命と始終する一生涯を過し度心願いたされ候廣丘の人たちも毎日手紙越し或は來訪いたし二年間の同棲無意義ならざりしを欣び候宿は學校を距る數町の民家離れ座敷一間(六疊)を借りうけ至極閑散にて宜しく候今年は少し讀書して見んと思ひ居り候
アララギ五月號貴兄如何に候か千樫は兎に角いつも生き居り候今度のも輕快にして何物にか餘念なき情緒よく現はれ居候中村君の輕井澤行は大へん宜しく思はれ候左翁のは面白けれども斯の如き作は遂に輕きを免れずつまり輕き面白味なるべく候其他によき作甚だ少しと思ひ候選歌數非常に少きも異樣に思はれ候
アララギ今月も十圓送れと茂吉君より申來られ一寸困り候へ共とに角何とか可致今月の大兄分五圓のうち二圓差引(色々の勘定にて小生より差上けんと思ひ居るもの)三圓丈け茂吉君へ御送り被下度殘り七圓を小生より送り可申右御承知被下度候(先月分は胡君より出せり)近來一向作歌せず困り居り候六月號へは何も出すもの無之候
今夜下諏訪町歸宅思ひ付き候事のみ申上候書餘は期後便匆々不宣 五月十六日 柿村書屋主人
湯禿山詞臺
(131) 一八七 【五月十六日・封書 諏訪郡玉川村より 松本市本町松本銀行内 胡桃澤勘内氏宛】
大に御無沙汰仕り候益々御清康に候か伺上候小生健在御安心下され度候志都兒には未だ一度も逢はず候
アララギ千樫は兎に角いつも新しき生命の動くを見申し候憲吉君のは大へんよろしく候一番よいと思ひ候左千夫先生のは輕き面白味に候若葉の情味に候動きては居れども此の種のものに深味を求む可からず梨郷の囚はれざる歌を尤も平氣によみ居り候現在の作家と云はんよりむしろ將來の作家と申すべきかこせ付かずして規模大なる尤も欣ぶべし信州人も追々だれ來り候甲州人のはどうも靴を隔てゝ痒きを掻くの感あり候アララギ又十圓送れと申來り候間禿君の今月分と合せて十圓にして送り置き可申候アカネ出で候由どんなもの出つるや大抵想像つき申すやう也
山浦は木の種類多く若葉の色各々特色ありて動きありうれしく候地相も平野に比して廣野なれど複雜多樣久し振で接すれば大に宜しく候學校より數町離れたる民家の六疊を借りて牛屋的に生活いたし居り候其後新生活の御樣子如何新しき欣びには新しき苦痛當然免る可らず豈ひとり君のみならんや御努力願上候猶模樣多少御洩し被下度願上候堀内君宅へも御序アラバ宜しく願上候同君の歌アララギにあり欣びと悲しみと一時せまり候あの歌はよい歌に候今夜下スワに歸り思ひ付いてこんな事順序もなく書き列ね申候御ひまの時御覽被下度候 五月十六日夜
胡老兄臺下
一八八 【六月十一日・端書 長野市縣町逢瀬館より 諏訪郡湖南村小學校 兩角喜重・河西省吾氏宛】
今日は梅雨らしい雨が降つたりやんだりしてゐる咋夜は一時半迄藤村の「犠牲」を讀んだ今日は誰も來なんで靜かなシミ/”\した日である本を讀んでゐると何時しか色々の考へに引入れられる私の心は何處へ行つても動搖を(132)靜める事が出來ない何時この動搖が靜かになるだらうと思ひ乍ら居る窓の下は桑畑で麥畑が續いてゐる雨の中で蛙が少L許り鳴いてゐる斯樣な寂しい中で今日の一日は終らんとする毎日午前だけ授業して午後はこの二階にゐる私は斯る機會に可成多くの本をよみ度いと思つてゐる 六月十一日日曜
教育會に出て來ないか
一八九 【六月二十四日・封書 長野市縣町逢瀬館より 松本市新町大和醇方 金原よしを氏宛】
二十三日夜十時ヒヨツクリ書く
この手紙は二人で見て頂き度い中原さんが松本へ出なんだら廻送して頂き度い
中原さんからの手紙がやつと今夜ついた途中でどうか成つたのかなど思つて見た廣丘の樣子がよく分つて田川近邊が想像出來る田川里人の顔も想像出來た大に感謝する
金原さんは十九日夕方停車場へ來て下さつた樣子誠に申譯無かつたいつも素通りして實は夜の八九時頃の汽車で松本を通つた時二人の内誰か見えるかなど思つて窓から顔を出して居た大丈夫居ないと思ひ乍ら顔を出して居たそして居なんで何だか安心したやうな心持になつた漸つと居ないとつきとめたといふやうな安心であつた
長野は其後毎日人が來て話して居て一寸も勉強が出來ぬ大に弱つてしまふ昨夜は久し振りに眠り得て今日は多少頭が樂になつた按摩なよんで揉んで貰つたら大へんよく眠れた明後日の日曜は朝の三時半頃の汽車で柏原迄行つて野尻湖へ遊ばうと思ふ朝の北國の眺めは私の心に相應した感じを與へるだらうと思ふ小泉信平といふ上スワの人が一緒に行く約束である私は朝早く起きて夜は早く寢るやうにしいいくらか勉強するために
福澤君の説は月並で取れぬ新古今を此上なしに喜んだのは數年前の與謝野夫婦である與謝野たちでももう新古今からは出て居る子供に歌の形を眞似さするなどいふ事は弊の尤も大なるものである福澤君もその邊になると一寸(133)徹底し兼ねるやうだ後町の小學校では大分萬葉集好きが出來たやうだ併し眞に味ひ得るや否やは疑問である一人でもあれば私の努力は無駄で無いと思つてゐる清書の原稿は慥に落手致しました
中原さん「親の愛」云々は何だか切ない詞であつた併し親の愛が離れるといふやうな事は決して無いそれは一時の現象に過ぎぬ決して氣を小さく持つな私は世間に自分の趣味に同情を有してくれる人が一人あれば感謝して居たい(自分が世間に只一人ではつらい)私の全人格に同情を有してくれる人が一人あれば感謝して居たい之以上の事はここには書かぬあなたの心を小さく持たぬ工夫が切に望ましい
七月八日に講習が終へるその日の夕方松本へ歸つて泊るそしてその翌日皆で鹽尻へ行つて果物を食べたいその時によく話さうと思つてる大勢に吹聽しなんで呉れたまへ雜駁になつていけぬから大勢でのから騷ぎはもう飽きたこれで此の手紙を終る 柿生
御二人樣御もとへ
夕ちかき雨のあがりに國原の麥の黄ばみは早くうすれぬ
麥原の黄ばみのはてよ時あかり雨のはれ間をほのめきて見ゆ
麥の秋の國に雨ふり民らみな家にこもれか動くものなし
駄作メチヤクチヤ也何とか補足して後にお目に懸ける
一九〇 【七月五日・封書 長野市縣町逢瀬館より 松本市新町大和醇方 金原夜汐氏宛】
啓實に申譯無之車中只々途方に暮れ申候今日の御心中推察に餘り候小生の罪なり御許被下度候あの汽車で是非歸る事にしてあり廣丘の宴會をも辭退し一人は荷物のため態々送り來りし折柄急遽の御面晤遂ひ一列車延す事をせずして今更ら心地惡しく候著早々筆を執らんとして只今夕食後になり候例の件第一は貴君が北安に轉ずるにあり(134)その口は小生より高山君に依頼して見るべし(通學出來ずとも家に近き利ありといふ譯にて老母之を云々を云ひて校長に迫る)併し是は先以て六ケ敷と見ざる可らず第二は一年間貴君が反抗しつゝあるにあり併し之も甚だ忍びざる事にて眞に萬一の場合の事也第三は現状の儘にて小生より貴家御兩親に對して問題を切り出すにあり是は八月御歸省の際一問題起るに際し一旦貴君が御拒みの上にて小生より切り出す方利ありと思はる(私も思ふ所あり少しの内待つてくれと云ひて諾せず居るがよし)
第三に對しては明日直ぐ長野へ相談打合せすべし第三を施す以前御兩親より御提出の問題にて大に困らば直ぐ電報を出すべし小生は直に大町に行き御相談して臨機の處置をすべし今の處で是れ以外の策なし是れに對する御意見直ぐに御申越下され度(玉川へ)候小生は大概成ると思へど萬一の場合を保し難しその時の事兼々申上げし如く決して自暴自棄に陷いるべからず斯る心は問題なくとも修養の必要あり御工夫祈り候そして平素に於ても極めて理性を活かすべし是れ苦悶の消滅法に非ず苦悶の指導法なり中原にもこの事よく云ひ聞かせたり「聰明の女」になる用意君等には特に必要なり濃き畫を見詰めた目はしまひには淡き畫を好むべしこの意味の淡き畫ば決して淺き畫に非ず御修養是祈り候中原といふ賢き女性ありよく打明けて共に共に御工夫あるべし得る所あるを信ずこの手紙中原に見せてもよし守屋(第三)に相談の結果は直ぐに御報する、以上三者はうす生君と相談せる結果なり
亂筆匆々御返事下され度候色々御厄介奉謝候匆々不盡 七月十日
別紙閑古子へ御送り願上候この手紙の事など書いてはなし以上
一九一 【七月九日・端書 松本より 諏訪郡玉川村小學校 小尾喜作氏宛】〕
廣丘へ立寄りて明日歸宅可仕と存じ候へ共事にヨレバ又泊められるかと思ひ候水、木中に歸校可仕御承知下され度候縣廳の方は聞糺し置き候間設計を進めて宜しく候勿論不都合無し只村債にするのは面倒のみ手工室の設計圖(135)は齋藤に依頼調整の話にして歸り候新村君もう出られしか其他諸君は健在か萬事面晤の事用アラバ下諏訪へ御手紙のこと 七月九日 柿の村人
一九二 【八月十八日・端書 玉川村より 四賀村飯島 森山藤一・河西民作氏宛】
二十日の一周忌には可成行く考へて置いてくれ玉へ
拜啓木外居士碑文は不折先生に書かせれば書くがとても一月や二月の埒に行くかを保せす三川氏のも未だやらぬよし左翁より申來り候依て表丈けでも不折に書かせ裏の文章は紫竹にでも書かせては如何今秋に間に合せるには全部紫竹にでも書かせては如何 八月十八日
一九三 【九月六日・風書 諏訪郡玉川村より 松本市新町大和醇方 金原よしを氏宛】
拜啓久しぶりの學校生活如何大町よりの御手紙拜見少々波瀾を見候由親子骨肉の間にはたまには左樣の事あり深く御留意に及ばず直ちに釋然たるべし年の違ひあるために思想上の懸隔あるは詮なき事にして此思想上の懸隔よりして當然なる衝突を生み候へ共離るべからざる因縁の絲ありて直ちに結び付き可申之が他人ならば衝突も無き代り結び付きもせず衝突は同時に融合の反對とも見得るべし只々融合に御勉めなさるべく之甚だ自然にして美しき事と存候親はこちらで大に謹愼の意を表すればそれだけで釋け可申候續けて手紙書き御兩親へ御送り成され度希望いたし候例の件も別に當面の問題には成らざりしが如し正月頃はそろそろ切り出してもよいかとも思ひ候何もかも愼重の態度に願上候理窟を申せば色々理窟もあれど只々内心の御工夫を望み候苦痛の御工夫なりと御同情に堪へざれども致し方無之候左千夫先生今月廿日頃來遊今度は何とかして御逢ひ如何猶閑古子とも御相談成さるべく候閑古子も今日頃は已に歸省と存じ居り候閑古子は沈み居りしか快活なりしか小蟹氏も病み居るらし氣の毒(136)に堪へず候小生學校七日より十七日迄秋蠶休みに候下スワの方に居り可申何か小説でも作り可申かと思ひ居り候猶近状御示し下され度歌稿もあらば御示し被下度候 九月四日夜 柿生
夜汐樣貴下
一九四 【九月十日・端書 玉川村より 湖東村笹原區 兩角丑助氏宛】
昨夜君の牟呂に泊つた今日是れから歸宅する十三日は二番の汽車で茅野から乘りたまへ小尾もさうする筈也依て矢島安平氏宛「十三日午前八時頃迄に來校して呉れよ」と頼みやれそしてもし矢じまが間に合はずとも九時何分かの二番で來たまへその間小便に留守させればよい小便にはさう云つて置く不二見から直ぐ境村へ行くのださうだから改めて此はがき書く同じ汽車で無ければ都合が惡い雨天でも行くよ 九月十日朝
一九五 【九月十二日・封書 下諏訪町より 諏訪郡不二見村 丸山爲之助氏宛】
拜啓伊藤先生より別紙はがきの如く廿一日來著の由申參り候間取敢へず御通知申上候不二見村へは二泊の豫定に候間左樣御承知下され度貴人の別荘などはイヤの由に候へば油屋と緑屋泊位がよろしかるべき歟宜敷御取計ひ願上候猶酒客の集合に終るやうにてもうれしからずその邊御承知願上候
小生は廿一日十二時頃不二見油屋に參り可申萬事御面晤を期し候匆々不盡 九月十二日 柿生
露乃舍樣臺下
小生十九日迄在宅二十日玉川行廿一日不二見へ參り可申候
一九六 【九月二十一日・端書 不二見驛より 玉川村小學校 小尾喜作氏宛】
(137)子規忌に使ひたいから僕の寓の座敷にかざつてある子規石膏像を出町の人に託して布半迄屆けてくれ給へ尤も必しも必要ぢやないから然るべく頼む明日の晩も小川別莊に泊るかも知れぬ 九月二十一日
一九七 【十月二十一日・封書 玉川小學校より 宮川村西茅野區 五味勝次氏宛】
拜啓今朝聞き及び驚嘆仕り候御心中只々御察し申上候取あへず御見舞の詞のみ匆々急々 十月廿一日 久保田
五味兄几下
諺に燒け太りといふ事あり只資産のみを云ふにあらず心も持ち方によりて太り得べし萬事御折角是祈る旅行の朝急ぎ記す
一九八 【十月二十六日・封書 諏訪郡玉川村より 松本市新町大和醇方 金原よしを氏宛】
拜啓大に失敬しました信州號を印刷にまはして十一日間草鞋をはきました伊那木曾の方へ二度行きました村の青年等と一度學校先生たちと一度木曾川を四里奥へ溯りました紅葉は丸で血でありました深い淵が青く淀んでそれに紅葉の濃い色が溶けてゐる斯んなものは畫にも歌にも成りません
木曾では廣丘の人たちに逢ひました中原さんも行つてゐました廣丘の人たちは山の中へは入らぬ豫定でありました相變らず大騷ぎして酒を飲んでゐょした
私は少し忙しいために自分の感じに執著してゐる事が出來ぬのを悲しみます今少し落付かねばつまらぬやうに思ひますあなたの競爭の勝つた知せは大へん生き/\した感じを私に投げ付けました子供と一緒に飛歩いて喜んでゐるやうな若い潔白な感情は貴い感情である左樣なものが段々除去されて行くのは哀れな事である人生に對する自己の價値は自覺する必要がある併し自己に起り來る事件の自認――事々物々を自認して行ふ心――斯樣なもの(138)は大抵醇粹な感情から離れるものである我に起り來る事件に對する時は只純粹な興奮によりて行ひたい自己も他人も中心に置かぬ興奮によりて行ひたい價値を自認するといふ事は事件の行動を不純にする子供と飛び歩いて只喜ばしい競技に勝つて只喜ばしいといふやうな感じで我世を送り度い我々は餘り物事へ理窟を付けすぎる理窟を付けたがる是れが惡い心である家出の歌は失敗してゐるそれは家出する男子の今はの心情を女子が想像してゐるのだから薄いにきまつてゐる一通り誰でも想像出來さうな事より言へないのである夫れよりもあとに殘つた人々の哀しさを中心としてその空氣の中へ家出の人を寫したなら女子とLて尤も成功しさうに思へるどうも十四首中二首より上は取れない
批評は直截に言はねば困るから言ふ十月のアララギ憲吉の歌はよい歌である私のは乾からびてゐるイヤになる十一月號を見てくれ玉へ小生の歌少し自慢してゐる御批評願ひたい信州號にはかなりよいのがあるつもりである久し振りで下宿に靜居して今夜は手紙を七本書いたもう根氣が續かぬあと少し書かねばならぬ小蟹子の批評も今夜書いた大に小言書いた中原は一向歌を送らぬなまけてゐるやうだ今に作る中原は奈良朝史を研究するといふがやつてゐるかやつてゐたら感想を書いて送るがよい
土曜に中原來たら此手紙見せてくれ玉へあと又書く失敬 十月二十六日夜半 柿生
夜汐樣御許へ
一九九 【十月二十六日・封書 諏訪郡玉川村より 西筑摩郡藪原 湯川寛雄氏宛】
拜啓此間は參上非常の御厚意に預り奉深謝候久振りの御面談欣ばしくやがて悲しく心に沁み入り申候御境遇の變遷これ天の力にして人間畢竟如何ともするなし境遇に對する吾人の修養のみは人の力によりて如何ともなし得べし願くは今の方を愛し玉へ是れ小生の至願也而して御子供方の至幸也今の方の至幸也少くも深き同(139)情を以て接し玉へ御一家の至幸也御親族の至幸也感情に生くる固より貴けれども所詮は理性にも生きざる可らず分別にも生きざる可らず種々の方面より考へて小生の志願也御參考の一端にも相成候はゞ大慶の至りに候
父上樣其他皆々樣にも大兄より宜しく御鳳聲被下度御禮旁匆々不備 十月二十五日夜 柿人生
比良夫樣貴下
二〇〇 【十一月二十一日・封書 諏訪郡玉川村より 絵本市新町大和方 金原よしを氏宛】
拜呈今夜ハ紙ガ足ラヌカラ斯ンナモノヘ詰メテ書ク昼間ノ手紙御覽ト思フ
私ハ心ノ自由ヲ束縛シヨウトイフヤウナ考ヘハ少シモナイ束縛シタカラト云ツテ何ウナル者デモ無イコトヲ知ツテヰル只人間ハ神デ無イ一方カラ見レバ動物デアル如何ニ動物タルコトヲ拒マントシテモソレハ人間スベテガ拒ミ得ヌ事實デアル從ツテ物ヤ形カラ束縛サレル部分ガ斯樣ナ意味カラ生ジテ來ルコトモ許サレネバナラヌ事實デアル私ハ昨年ヨリ深ク貴下ノ人ト成リヲ知ツタソシテ今迄親シキ交際ヲシテ來ツタコトヲ思フ者デアルソレ故私ハ私ノ思想界ガ如何デアル無イトイフコトヲ別問題ニシテ兎ニ角私ハアナタノ一身ノ幸福ヲ熱心ニ希望スルニ於テ人後ニ落チヌコトヲ斷言シ得ルノデアル自分デ眞面目ニ左樣ニ信ジテヰルノデアルアナタニ私ノコノ心ガドウ見エルヤ否ヤハ私ニハ分ラヌ問題デアル
貴下ノ行動言動ハ時々人ノ目ヲ惹ク傾キガアルソレハ他ノ人ニ比較シテ言フノデハナイ絶對ニ考ヘテ左樣ナ傾キガアル人ノ目テ惹ク惹カヌト云フ丈ケデ判斷スルノハ間違ツテヰルガ深刻ナ痛切ナ心ノ動キホド人目ヲ惹カヌノガ實際デアル特ニ女子トシテハ内ニ苦シイ程外ニ現ハサヌトイフ傾向ガ益々ソノ心ヲ深クシ立派ニ貴クスルト云フコトヲ注意スベキデアルソレハ歌ナドノ一般傾向カラ考ヘテモ刺激的ナ動的ナ傾向カラ進ンデ靜的ナ瞑想的ナモノニ移ルトイフノニヨク似テ居ル瞑想的デアリ靜的デアルカラ心ノ動キガ弱イ淺イ卑イト見ルベキデハ無イコ(140)ノ關係ノー端ハ信州號ニモ少シハ云ヒソノ他デモ一寸ヅツハ私ノ言ツタヤウナ覺エデアル私ノ今日昼間申上ゲタ事ヲコレト關聯シテ御考慮アランコトヲ熱心ニ希望スルソレデ貴下ニ叱ラレレバ夫レ迄デアル私ハ黙ツテヰテ貴下ガ社會的ニ人ニ誤解サレルヤウナ不仕合セヲサセル心ニナレナイノデアル私ガ決シテ貴下ノ心ノ自由ヲ束縛シヨウト考ヘテヰルノデナイコトヲヨク解ツテ頂キタイ少クモ社會的ニ行動言動ヲ外ニ現ストイフヤウナコトヲ幾分餘計ニ考慮シテ貰ヒタイノデアル若イ人ニハ多少ノヤリ損ヒハ許シ得ルト思フガソレヲ機會ニシテ益々深ク生キル心ヲ養ヒタイ者デアルコトニ女子トシテハコレハ餘程大切ナコトデアル私ガ完全デ總明デソノ心デ人ニ教ヘルトイフヤウナ態度デ言フト見テ貰ヒタクナイ只全然貴下ノタメ(形カラモ心力ラモ)ヲ思ツテ云フツモリデアル誤レリヤ否ヤハ別問題トシテ私ハ只熱心ニ言フツモリデアル斯ノ如キコトハ私ハ責任ヲモツテ只一人ノ貴下ニ對シテ言フソノ他ノ誰ニモ申サヌ五味ニモ申サヌ中原ニモ申サヌ河西ニモ申サヌ(コトニ貴下ニ斯樣ナコトヲ言ツタトイフコトヲ)只河西ニハ失張リ社會的ニ少シ注意シロト言フツモリデアル面談シテ言フツモリデアル私ハ清イ若イ人々ヲドウカシテ社會的ニ殺シタクナイト思フ(老婆心カハ知ラネドモ)心デ言フノデアルト云フコトヲ眞面目ニ思ツテ下サイ人ノ心ノ自由ヲ束縛スルノトハ違フト思フヨク考ヘテクレ玉ヘ私ハ怒ツテヰルノデハ無イ心配シテ困ツテヰルノデアル貴下等ノ眞面目ノ心ノ動キヲ直接私ニ話シテ下サルコトハ少シモ差支ヘナイ差支ヘナイ處カソレハ大ニ歡迎スル及バズ乍ラ私ノ意見モ申上ゲルツモリデアル取ルベキ方法モ取ルツモリデアルソンナコトハ當前《アタリマヘ》ノコトデアル左樣ナ事ト別意味デ前陳ノ意ヲ了解シテ呉レルコトヲ望ム二、三日前ノ行動ガ全然斯ノ如キ意味ニ取扱ハルベキ着ニ非ザルコトモ承知ナレド轉バヌ先ノ杖トイフ意義デコンナニ永ク書イタノデアルコトニヨレバ貴下等ニ怒ラレルト思フガドウモ仕方ガナイ 二十一口夜十一時 柿人生
○夫レカラ此間玉川にて申上げし事も遠慮なく御申越下され度現在ノ貴下ノ感想ヲ誇張ナク制限ナク有リノ儘ニ知セテ頂キタイ成ベク結論ダケヲ箇條書的ニ願フ結論ヲ見レバ大抵私ニソノ理由ガ理解出來ルト思フ(141)併シ必要アリト思フ丈ケハ永ク書イテクレ玉ヘ
二〇一 【十一月廿六日・封書 玉川村より 上諏訪町片羽町 牛山郡藏氏宛】
拜啓御留守に申上げしものは石屋にありて濱君が東京へ送り返しし由に候(双鉤して貰ふために)その内に返り可申候碧氏中々面倒の人也呵々
それから今度の日曜あたりに幹事全體(六人)を何處かへ集めて萬事相談しては如何それは(一)金の集め方(二)石碑除幕式のやり方(三)遺稿成本と石碑との費用大體の見つもり及遺族へ贈金の大體見つもり(四)要するに除幕式迄にすべき事業の尻のくくり方是等に就き確かな豫定を拵へて今からやつた方宜しきかと思ひ候 十一月廿六日
二〇二 【十一月廿六日・封書 玉川村より 小縣郡武石村 中原しづ子氏宛】
拜啓久しく御通信が無いがわるいのぢやないかと心に懸る此間二三日雨が降り其後めつきり寒くなつた體にさはりはせぬか私は近來少し弱つて居りますが心配のやうな事は無い髪も刈らず六ケ敷い氣分で毎日の仕事に動いて居ります此一週間許りはつまらぬ村の紛擾事件で苦しめられました昨日終を告げて今日頭も心もがつかりしてしまつた今夜原稿書かうとするが書かれない家の外は明かな月夜で柿の枯木が影の如くに立つてゐる寂しい冬の生活に又入るやぅになりました斯くて我々は年を經て行くのです私は近頃餘り話を致しません一人で自分を見つめる時の多からんを希ひます見じめな見つめ方夫れも我身の影を思へばいとしいのです古いシヤツ古い外套昔の私を想像して下さいそれが今の私です斯くして年を經るのでせう或は轉地の後かも知れぬどうも樣子が心に懸るから此手紙書きます東京から歸つて何も書きません正月は何か書く約束です馬鈴薯の花は春陽堂から出ます御自愛千祈萬祈匆々 十一月廿六日夜 柿人生
(142) 中原さん御もとへ
二〇三 【十一月廿九日・端書 諏訪郡玉川村より 松本市新町大和醇方 金原よしを氏宛】
〕
拜復形よりすれば急轉直下されど是れ却て貴下等のため宜しかるべく今日となりては色々申さぬ方がよいと存じ候冷やかに明かなる道を歩くこと決して惡しからず結構の事に候心も疲れたるべし暫時は可成靜かに養はれん事を希望仕り候
明春は故山に入りて兩親の膝下に節制ある生活をやつて見玉へ人間の一面には固く端正なるものを要求可致候孤獨生活も久しく續けば心に偏する色を生ずべし貴下も中原も明春より厨房にくすぶる修養と長者に奉仕する修養とを成され度冀望仕り候歌出來たら御示し下され度候匆々不一 十一月廿九日夜 柿人子
二〇四 【十二月六日・封書 玉川村より 北山村湯川區 篠原志都兒氏宛】
拜啓行かう/\と思ひつゝ行かず今年も暮れさう也壯健なりや山浦の寒氣には驚けり今頃家裏の霜柱終日解けず體にも少しさはりさう也次に君の村(湯川區)に賣家澤山ある由眞か新しき家にて三間半か四間若しくは夫れより狹い家ありや平家にても二階造にてもよし有らば一寸御知せ下され度他に少し心配してやらねばならぬ人ありて御尋ね申上候無ければ御返事に及ばず
アララギ正月號は六十頁以上の由待入り候小生も歌八首送り置き候四十四年作中にては多少宜しきかと思ひ居り候御批評賜り度候君も四十五年には作つてくれ玉へ大に頼むよ北山の沈黙氣に懸り申候今年中は君の方へ行かれざるべし正月はどうかして逢ひ度いぢやないか 十二月六日夜 柿人子
志都兒樣貴下
(143) 二〇五 【十二月二十・端書 玉川村より 四賀村飯島 森山藤一氏宛】
木外居士小學入學は七歳小學卒業は上スワ小學校也(十六歳)上スワ小學何年出しか不明也十六歳にして下スワ小學校へ授業生に出で宮川小井川を經て玉川學校に來り候由妻女を迎へしは今年にて二十二年目即ち明治44年-21年=23年明治二十三年也との事右御知せ申上候石碑の地高木區尾掛松借地の件區へ正式に申出で候間不日明了可致候長塚君喉頭結核氣の毒也 十二月二十日
二〇六 【十二月二十八・封書 諏訪郡玉川村より 北安曇郡大町 金原よしを氏宛】
一月はじめより玉川村に居ります原稿は少し御待ちを願ひますアララギは月末には送り出す筈也
拜啓もう今年も餘日なし多感の年であつた事と想像します眼を瞑して過去の足跡を思ふのは悲しくて感謝すべき事と思ひます至純なる理性は至純なる感情と一致します吾人は常にそこに何等かの距離を造りますこれ自己の足らざる缺所であります吾人は一年を顧みて感謝と共に多少の不快を伴ひますこれ吾人に修養の必要ある所以と思ひます如何なる一刻でも自己に滿足するのは惡い吾人はこの不滿足を自覺し得るだけ多少何とか動きうると思ひますたまさかの御歸省家庭の眞味を味はれんを望む明年の御幸福を心から神に折ります年末の辭とす 十二月廿七日夜 哀れなる同行者 柿人生
(144) 明治四十五年・大正元年
二〇七 【二月廿一日・封書 諏訪郡玉川村より 東筑摩郡廣丘村小學校 武井翠浪氏宛】
御返事後れ申候俳句御示し被下奉謝候
子が足袋の十日命を快と見し は大へんよいぢやないか子の病氣よしと見しは二一時足袋はいて十日ばかり進んで居たと思つたら快方では無くて死んでしまつたといふ所ならん
筐底の足袋此の佳節にと叔母が文 文字のみ活動して情趣活動せず
木曾の寒里謠にも亦足袋の事 所謂新しき調子といふのみならずや夫れ程に思ひ申さず
中々御持續らしく賀し上げ候うんとやり玉へ滴水山人は如何相變らずやるか此間廣丘を通り候たまに行つて見ると荒凉の處也萬葉の解はどうも略解より外に無し有れども皆品切の由に候略解ならば中原にあり小池にもありしと思ふ池田には誠に申譯無しあやまり申す外無之困り候時々御通信被下度候匆々敬具
二月廿一日夜 柿人生
翠浪樣貴下
別紙中原へ願上候
(145) 二〇八 【二月二十三日・封書 玉川村より 下諏訪町小學校 五味えい氏宛】
拜啓過日は誠に失禮致し御禮申上げやうも無之候親戚に少々出來事ありあの日午前中に片付くつもりの處夜半に入り猶明日に入り大へんの失禮心苦しく存じ候御稿今夜拜見一通り愚見記入亂暴な事申述べ候事は宥恕被下度候惣體にイヤ味の分子無きを喜び候慨敍的に述べ輪郭的に歌はれしもの多きを喜ばず候從て理智に陷り冷靜に過ぐるものを見受け候此點に於て萬葉集はエライものに候御研究希望致し候猶今度の在宅には豫め御通知申上べく御こり無く御出掛被下度候御返事旁々御詫のみ匆々不盡 二月廿三日 柿の村人生
五味えい子樣 貴下
〇印のは採れる歌のつもりに候
二〇九 【三月二日・端書 信州諏訪郡玉川村より 東京本郷區菊富士本店方 中村憲吉氏宛】
待ツテ居タ感謝々々健全過ギルハ自分デサウ思ヒマス理ニ落チルモタマ/\云ハレル多少サウカト思フ自分デドゥモソレ程ニ思ヒ得ナイアトデ見テ今ツト濃ク云ヘナイカナアト思フハ大ニアルノデアル一月號第一首ハ確ニ概敍ニ陷ツテヰル第二首ハ自分デモ未ダイヽヤウデアル山ノ驛ノ説ハ賛成也「ウレシカルラン」――棄權スル「アルモノハ」ソレ前四首程ニ自信ガナイ漫畫デモ書クヤウナ積リデ作ツタノダ長塚君ガ大ニ褒メルモノダカラサウカナアト思ツテ出シタノサ左千夫先生カラ自信ガ無イトテ批評ヲ囘避スルハ卑怯ダト云ツテ來タ囘避ハセナイツモリ也只自信ノ程度ヲソノ儘ニ云ツタノダ先生カラハ毎日ノヤウニハガキ來ル二枚三枚ト續キ物ニナツテ來ル盛ニ小言ヲ言ハレル今デハ人格論迄ニ入ツテ來タココラデ一休ミセネバナラヌ私共ニハ今第一ニ新シイ自由ガ必要デアル先生ニ叱ラレテモソレ丈ケハ困ル今ニ分ツテ下サルトイフ感ジガ今ボーツト私ニアルソレデ安心シテヰル私(146)ハ今日デハ即イテ見ルヨリ離レテ見ル方ガ好キデアル事件ト合體スル場合モイヽガ事件ヲ味ツテ見ルトイフ方ガ好キデアル叫ブヨリモ瞑想シタイ發作的感情ヨリモ情趣的ノモノガナツカシイイツカ動ト靜ヲ以テ言ツテ見タノモコンナツモリデアル先生ハコレガ大ニ氣ニ入ラヌノデアルソレデ私ハ今先生ノ「我ガ命」「黒髪」ナドヨリ「冬の曇」ノ方ガズツトイイ三月號ヲ頼ムドウカ短クテイヽカラズント批評シテクレタマヘ病氣ドウカ、ヨク轉宿スル堀内モヨク轉ジタ匆々
二一〇 【三月十五日・封書 下諏訪町高木より 玉川村小學校 小尾喜作氏宛】
拜啓過日は大謝々々平均して熱度下り疲勞加れり概して言へば良好か手が離されず今日にて丁度一週間帶をとかず閉口致す學校明日より行かんと思ひしもとてもだめらしい萬事宜不頼むその内に何とかするどうしても出られずば又端書出して君から出町して貰ふ事に御承知相願候失禮なれど外に致し方なし優等生を調べて賞の本を註文してくれ給へ一册の大凡の代價と册數とを知らせて見本を持參せしむる落第は初級生には有效なる種類ありその他は大抵功を奏せす特に望みなきものを久しく引張り置くこと不明の策也此邊御考の上御相談願上候何れ面談其他萬事君が考へで計らつてくれ給へ頼む補習同上匆々不盡 三月十五日 柿の村人
石馬樣
昨夜守屋より熊夫來り一時間ばかり布半にて話す別條無し上諏訪には困りものなり
二一一 【三月二十日・封書 諏訪郡玉川村より 西筑摩郡藪原 湯川寛雄氏宛】
御尊父樣に宜敷御傳言願上候
拜復大變御無音申譯無之候益々御清祥奉賀候小生頑健御安心被下度候
(147)アララギ追々遲刊原稿の定日に揃はぬと經濟上の打撃とでいつも如斯困入り候三月號も表紙出來ず後れ居り候由併しもうはい來ねば困ると思ひ居り候そろ/\送つてくれるだらうと待居り候小生事によれば月末出京諸君と此件について相談して見ようと思ひ居り候もし行はれずとも四月中には出京致し度存居候次に御令弟御轉任の件小校にては今年は異變無く組織も早くに定まり居り今一人も入るゝ餘地無之殘念存候惡しからず願上候猶他の學校にて必要も候はゞ御知せ可申上是れは今の處當てには成らむと御承知願上候餘は後便匆々不備
三月二十日 柿の村人
湯川大兄臺下
二一二 【三月二十六日・封書 下諏訪町より 玉川村小學校 小尾喜作氏宛】
一、昨日ノ職員會原稿ヲ上ゲル
一、補習出席表ヲ役場ヘ出シテクレ給ヘ
一、西尾カラモシ返電來テ君ガ郡役所ニ行キタラバソノ結果ヲ(萬一ノコト也)西尾ニ返電出シテクレ玉ヘ(僕ノ名デ)
一、萬事タノム今夜歸ルカ明朝一番デ歸ルカシカトハ分ラズ來賓席モ作ツテクレ 三月二十六日朝 柿生
石馬樣
塚田君ニ申ス大和ノオバアサンガ飯田へ行クサウダ二十七日カ二十八日ニ出掛ルサウダ大和ノ家ハモウ明ケテ上ノ土田宗次氏ニ頼ンデアルサウダオバアサンハ角市カ小和田アタリニ居テソコカラ飯田ヘ行クサウダ昨日忘レタカラ申上ゲル
(148) 二一三 【三月二十六日・端書 下諏訪町より 諏訪郡中洲村福島區 平林榮吉氏宛】
(Mハドノ位出セバヨイノダ)
拜見御知せ被下大謝少し待つてくれ玉へ今他に紹介してるのがあつて決定しないから何れ又申上る
盗難とは傑作なり似合はぬ事をした盗人也哉併し僕もやられた事あり變な感じのもの也一度位は經驗してもよいが幾度もはいけぬ
二一四 【四月四日・封書 信濃諏訪郡玉川より 東京本郷區菊坂町菊富士本店 中村憲吉氏宛】
拜見只馬車馬ノヤウニ奔ツテ居タ十數日間頭はボツとしてしまうた三四日少し閑になつたら體が疲れて來たそして信濃の春は又私には惱ましい春になつたオイ君私はどうしても安靜な心にはなれないで苦しいよ仕方がないでは無いか自分で持て餘す事は自然に放任して置くより仕方がないでは無いか大に君等に失敬して居た原稿も失敬して居今日から取り掛れる昨夜少し見たが久し振りで歌を見たせゐか大へんよいのが見えたザンゲ録も今日送る月末に上京するロダンと巽畫會を見る百穗さんたちの會は何日あるか松本へも一寸寄つたきりであつた利子サンにも一寸御目に懸つた齋藤君古泉君によろしく 四月四日 俊生
中村君
二一五 【四月十一日・封書 玉川村より 湖南村小學校 兩角喜重氏宛】
拜啓新學年如何私も一寸忙しくやつて居る月末に帝國教育會主催の小學教員會へ行くそこで洋服が無いから君のフロツクを五月五日迄拜借したい出來ますか著るのは只四日間であるから左樣にはよごれぬ行歸りはかばんに入(149)れて歩くからよごれず出來るなら願ひますそれから許可せばこの明後日の土曜に橋本の家か盛文堂迄出して置いてくれ玉へ著て見て體に合はねば他に何とかせねばならぬ以上御願匆々 四月十一日 柿人
雉夫樣
二一六 【四月十八日・封書 玉川より 豐平村上古田 小尾喜作氏宛】
拜啓東京ヘ出ル金ドウシテモ出來ヌ石碑ノ金費ヒコンデルカラダ無盡シテクレマセンカ一口十圓デ小尾田中兩角久保田ノ四人(四十圓ニナル)トス毎月隔月カ何レニテモヨシ四月私ガ取リ六月以後ノハセリ會ニスル會場ハイツモ布半夕飯酒ハ毎會私ガオゴルコト毎月トスレバ七月終ル隔月トスレバ十月終ル君ト雉夫ヨササウナラバ田中ニモ云ツテ二十八日に布半ニ開ク今夜大ニ困リ右案出返事タノム失敬々々 四月十八日夜 柿の村人
石馬樣
玉川學校の人には云ふな二十三四五日頃はヒマ也御來遊あれ
二一七 【四月十九日・封書 玉川村より 上諏訪町裏町北澤印刷所方 田中一造氏宛】
拜啓丸デ忙シクテ夜二三時迄起キテルソレデ失敬シテヰル
東京ヘ出ル金ガドウシテモ出來ヌ石碑ノ金ヲ費ヒコンデルカラダ無盡シテクレマセンカ一口金十圓デ小尾田中兩喜久保田ノ四人トス毎月カ隔月カ何レニシテモヨシ四月私ニ取ラセテクレ玉ヘソレ後ハセリ會ニスル會場毎囘布半トス夕飯酒ハ私ガオゴルコト毎月トスレバ七月ニテ終ル隔月トスレバ十月ニテ終ル今夜大ニ困ッテ右案出無理スル必要ハナイ返事ハガキデ頼ム出來レバ二十八日布半ニ開ク 四月十八日夜一時 柿生
田中君貴下
(150) 亂筆々々
二一八 【五月五日・封書 神田區表神保町日芳館より 信濃國諏訪郡玉川村 兩角幾三郎氏宛】
拜啓會も今日終了明日より各所縱覽を許され候へば歸校豫定より二三日後れ候へば宜敷願上候
昨日は文部大臣官邸へ招かれ大臣次官局長膝を交へて談話致し候今日は宮城拜觀と靖國神社參拜相許され夫れで午前を終り申候先は右のみ匆々 五月五日
兩角樣貴下
校舎請負等如何相成候哉宜敷御配慮被下度候缺席兒童の件も宜敷願上候
二一九 【五月八日・端書 信濃國諏訪郡玉川村より 東京本郷區菊坂町菊富士本店方 中村憲吉氏宛】
今度の東京は非常に愉快でありました君たちを通じて美しい東京を覗いたのであります私には新しいものが附き加つた事と思ひます太平洋會の畫よりも先輩會の方が興味を惹きました新しい活き/\した活動の色が動いて居りました平福君のを見られなくて殘念でありました幾日も君たちの時間を潰した事を感謝致します甲州の道は大抵眠つて都合よくありました妙な女と一緒に上スワ迄參りました夏は屹度信州へ來る事と信じて居ります土屋君に宜敷願ひます 五月八日
二二〇 【五月九日・端書二枚ツヅキ 信濃諏訪郡玉川村より 東京府下上澁谷町一三五 平福百穗氏宛】
過日は御忙しき中を推參して大へん御厄介になりました久振りで逢ひ得たのを心の中で喜んで居りました私は上野の畫會へ二度行きましたそして太平洋畫會よりも无聲會の畫が興多く思ひました丁度私たちの歩いてるやうな(151)新しい道が无聲會にもあるやうな感じがしました私たちよりも今つと思ひ切つた歩き方をしてゐると思つて愉快であります益々やつて行つて下さい大兄の畫が是から掛けるといふ所で未だ見られず殘念でありました小杉さんのも邦助さんのも愉快でありました素明さんの模樣も大へん好きでありました素明さんの弟子らしい名の方のが入口にありました今目に殘つて居ります柳塢さんのはそれほどに思はれません今つと頭を新しくしてはどうかと思はれました生意氣ですがさう思ひました玩具店などはこの方にはいゝ方でありませう江亭のはイヤでありました千甕さんのは面白い併し今少し深入りしたいやうに思ひました素明さんのも未だ少なくていけませんでした今二三日たつて來て見たいと思ひましたが是非なく歸りました美術協會の參考品中呉何とかいふ支那人の花鳥三幅は實によくありました銚子迄遊んで來ました銚子町の利根川邊の方がよくありました御禮のみ匆々 五月九日
二二一 【五月二十一日・端書 諏訪郡玉川村より 小縣郡上田町上田病院内 中原しづ子氏宛】
御樣子如何金原は訪ね行きましたか齋藤は變な男である夜おそく暇乞ひしてかへる三十分もたつと又來る又歸つて三十分もたつと來るそしてしまひには宿まつて行く明日になつてからも病院を休むふだん勤勉だからいゝと云つて休むそれから方々を連れて歩く話しの切れ目にはきつと「アララギ」の事を言ふ何か書いてくれと云ふ熱心はとても及ばぬ銭の勘定の餘りがあればアララギへ寄附してくれと言つて貰つて行くこんな具合の男であるもう一ケ月退屈であろ熱出ぬやう大切にすべし無理な動き方をするなよ 五月廿一日夜
二二二 【六月一日・封書 諏訪郡玉川村より 北安曇郡會染村小學校 金原よしを氏宛】
拜讀上田迄尋ねて下さつたと聞いてうれしく思ひました嘸喜んだでせうと感謝致します初めて病室で逢つた時の二人の心が私を泣かせました今日は一日夫れを繰り返してせつなく暮しました二十何人のお客樣が來て騷がしい
〔一回分未記入あり、追って記入〕
(154)堪へられません夕方あの農園へも行きました田川の橋を遠く川上に歩いて太田さんの家は見えるかと幾町も上りました見えませんでした紫雲英の花のある田が未だあります川邊の茨は白く咲き盛つてゐますアララギ六月號の貴詠はあはれでありました手紙は玉川の方へくれ玉へ 六月十二日夜
二二八 【七月十四日・封書 玉川村より 湖南村小學校 河西省吾氏宛】
御返事待ちあげ候
今夜出校したら机上にあり何と申上ぐべきかを知らず私も只人の子也弱き人の子也罪を負ひたる人の子也人に向ひて説法するやうな態度が若し今迄にありたりとすれば皆私の間違ひ也貴兄に對して道を説くやうな態度ありたりとも思はる是れ生の僭越也眞に爾か感ぜらることの今更に深し眞に自ら悔み入わ候御宥し下され度候
色々の問題に接する毎に只私は問題(内容迄入れて)に教へられ導かれ鞭撻せらるるを思ひ候今度スハに歸りてヤツト落付いて考へて斯樣に思ひ斯樣な點から天上の何物かに感謝致し候只私に猶取るべき何物かがあらば從來の如き御交際願上度誠心に折り候何と申上げてよきかこんなに書いて來たがサツパリ頭はまとまらず只貴君等のためになる事で盡力すべきあらばどんな事しても盡し度存念は變らず次に現實問題! 現實問題なるが故に淺しと思はるる能はず且つ當面の問題なるが故に兎に角何とか考へて置かねば暑中にでも困りはせぬかと心配されたる也失禮な申方なれど若き人たちに萬一問題なきうちにと焦りて思ひしなりき問題の進行の模樣によりては松本なり大町なり出掛けて御相談するを辭せず色々申上けたけれど今日は頭がまとまらず後から書き申すべく御返事のみ匆々敬具 七月十四日
(155) 二二九 【七月三十日・端書 信州上諏訪町より 東京小石川區久堅町七九 若月岩吉氏宛】
拜啓過日上京の際は非常の御厄介相成大謝いたし候御蔭樣を以て萬事捗り去る廿四日は故郷に於て葬儀執行いたし候早速御禮申べきの處君の住所を忘れ今日ヤツト伊藤君から知らせて貰ひ取りあへず御禮申上候也 七月卅日
二三〇 【二月七日・端書 下諏訪町より 諏訪郡役所 今井眞樹氏宛】
拜啓八重垣姫の事につき御敬へ下され如何許り難有御禮申上候とんだ御手數相願ひ恐入申候渡邊先生より通知も候はゞ猶御知せ相願度乍勝手重ねて御依頼申上候匆々 二月七日
二三一 【大正元年八月十六日・封書 上諏訪町布半方より 小縣郡武石村 中原しづ子氏宛】
八月十六日 金曜
昨日から手紙書かう/\としてどうしても書かれず今日は講師藤井氏を富士見驛迄造り歸町しました夫れから勞れて二時間眠つて今起きた所であります久しく御たより無いが體の方に變りはありませんか一寸心に掛るハガキでいゝから知せてくれたまへ諏訪も大へん暑い日中は少し堪へられぬ萱草の河原-武石川月見草の河原-依田川其處の暑さを想像しますそして夏の終りから流行する病――夜腹を冷して出る病それを心配致しますどうか注意してくれ給へ其次に悲しい事は「アララギ」の廢刊であります九月號迄出してあと止めにせねばならぬやうに私共の財政が押しつまつて來たのです茂吉が大へん工面して今迄やつて來たのですが要するに續かなくなりました伊藤先生や蕨君たちも金を出さなくなりました私も大へん悲しいから茂吉君と二人相談してゐる所です併し一先づ廢刊にはなりますアララギは廢されても詩は亡びないし私どもの心は益々どうかならねばならぬ私は追々東京へ(156)出ねばなりません今から準備するつもりであります八月號は今に出るでせう古泉から何とも云つて來ません私は三四日中に何處かへ一週間許り遊びに行きたいと思つて居ります行けば知せます貴家のお隣へ雷が落ちたさうだがその時の驚きがさはりませんでしたか上諏訪へも三ケ所落ちました
北斗星――北極星――夜の秋の空はもう秋らしくなりました是から歌を作ります 八月十六日 柿の村人
閑古樣
二三二 【八月二十四日・端書 木曾藪原湯川寛雄方より 小縣郡武石村 中原しづ子・小林いとの氏宛】
アララギ御兩人ノ歌大ニヨシ九月號以後モ兎ニ角出スコトニセリ
廢啓今日藪原ヘ參リマシタ湯川君ノ周旋デ此處ノオ寺ヘ泊メテ貰フコトニ成リマシタ暫ク逗留シテ何カ讀マウト思ヒマスコトニヨレバ中村君モ來ルカモ初レマセン私ハ大抵廿九日迄泊ツテヰテ卅日ニ歸宅スルツモリデス寺ノ座敷ハ居間カラズーツト離レテ三方ノ壁ヤ縁ニ仕切ラレタ狹イ庭ニ草ト椹ノ自然草トガ生エテヰマス草ノ中ニ赤過ギル程ノ果ノ房ガ直立シテ居マス私ノ室ハ暗クテ陰氣デアリマス左樣ナ中ニ暮シテ見ルコトヲ喜ンデヰマス小縣ハ大ヘン地震ガスルサウデスガ大丈夫デスカ御兩人乍ラ體注意ノコト 八月廿四日夜 柿乃村人
二三三 【九月二日・端書 上諏訪町郡役所内より 木曾藪原極樂寺内 中村憲吉氏宛】
一人では少し淋し過ぎるかと思ふ其後如何ですか澤山本よめますか木曾に居るうちに鳥居峠を宮ノ越驛へは是非行つて来たまへ鳥居峠は夕方の方がいい
今日は日曜で朝から歌をやつて見て居るがどうも纒らない二百十日の雨が降つてゐる諏訪ももう餘程凉しくなつて朝晩は單衣一枚では過しにくいやうだアララギ長野や松本で大へん註文來る面白くなつたやうだ師範の校友會(157)何會などで取りはじめた一つうんとやつて見やうでは無いか頼む 九月二日
今度の土曜頃(七日)迄出張する其後に來るやうにしてくれ玉へ
二三四 【九月九日・封書 諏訪郡上諏訪町布半方より 小縣郡武石村 中原閑古氏宛】
御手紙拜見第一に益々快方に向ふのを喜ぶあなたの心の修養と病氣に對する用心とが今迄の調子に行けば此冬をも無事に經過し得る事を信ずる此夏の暑さを少し氣遣つたが夫れも無事に經過したのは何よりの喜びであつた此調子でどうか進んでくれたまへ何もかもクヨ/\してはいけません快活な心の調子を張つてゐて下さい至祈至望であります木曾では中村君と遊んで歩きました上松驛迄盆踊見に行つたが御大喪でだめでありました夫れで夜の十二時頃から踊るのださうだ木曾式の敬意であると面白く聞いたのであつた私共は夜半迄待つてゐる譯に行かぬから福島驛迄來てあそこの女を二人よんで木曾節を謠つて貰ひましたがうまく聞かれませんでした夫れでも木曾は或る特徴ある面白い土地でありました中村は未だ木曾に居ります今日頃松本へ出てそれから今晩か明日上諏訪へ來る筈です中村と二人で不二見へでも遊ばうと思ひます松本は赤痢があるから秋遊びに來るなら注意せねばいけません諏訪へ一日來て下されば尤も喜ばしい今少し秋冷を待つ方がいゝでせう太田さんは病氣はよいさうだが氣の毒であります事によれば日向國(牧水の家)へ行くかも知れぬよし也
木曾の歌其内にまとめて御覽に入れますアララギは十五日頃出來る十月號から必一日に出す何か御送り下さい夫れから金原は河西と結婚する事に定りました十六日に式を擧げてそれから河西は上京して書生をする十六日には私が河西を連れて大町へ行きます仕方ありません行きがけに一列車ばかり太田さんを慰問して行かうと思ひます
〇何もかものんきに健康を待てそれが第一の急務にしてよきやり方なり 九月九日 柿人生
閑古樣貴下
(158) 二三五 【九月十四日・端書 信州下諏訪より
今雉夫君ト話シテ居リマス白川君ト一緒ニナツテ大ヘン賑カデアリマシタガユツクリ話スコトガ又出來ナクナツテ大へン惜シクアリマシタ君モサゾ迷惑ダツタラウト思ツテ氣ノ毒デアリマシタ富士見ノ勘定ト雉夫君カラ上ゲタ少シノmハ決シテ御送リハ要リマセン當方デ片ガ付キマスカラ御心配ナキヤウニ願ヒマス秋ヲ待ツソレカラ詩集ノコト齋藤ニ話シテクレ玉ヘアララギ昨夜來ル君ノハ次號ニナツタ盛ニ出シテクレタマヘ
二三六 【九月二十日・封書 上諏訪より 長野市縣町逢瀬館 小尾喜作氏宛】
拜啓此程は失禮仕り候大町の方無事終了御安心被下度小生の具合格別の事無かるべく御心配被下間敷候
横山重を貴校へ取る事如何に候か御賛成ならば貴下より本人へ語話し被下度貴校へ出ぬにしても履歴書丈けは此際至急小生へ御送り候樣御傳言願ひ候書式等後町へ行き法令を見てまてに書かすべし猶貴校一人増員の事も村長と御協議さへ出來れば當方にては取扱ひ可申候折角御勉強是祈り候 九月二十日 久保田生
小尾君.
俸給も餘るし一二學年合級は具合惡しければ分けてやる方よしといふやうに村長に話したら横山の外今一人入れ得べく候幼兒又々入院他の子供皆風邪人間如此
二三七 【十月一日・封書 信濃上諏訪町布半方より 東京本郷區菊坂町菊富士本店 中村憲吉氏宛】
宿屋でこんなものへ書く
いけない事した今年は惡い年だつた君にも私にもなんにもいゝ事がない年だ君の色々の出來事察するに堪へぬ困(159)つてしまふ夫れに國へ歸らねばならぬのは定めて何か心配だらう御尊父は如何でありますかどうか靜かな心になつて事件に對して居てくれ給へ頭をヤケにしたり傷ぶり過ぎたりしないでくれ給へ僕にも人に知れぬ苦しみがある僕は自分で自分を捨てゝしまはねばならぬ僕の心の蔭は黒く暗い影法師だそれを底へ押しつめて置いて平氣な顔してゐるのが悲しい併し僕はさう思ひ得る丈け近頃平靜になりつゝあるこの平靜は悲しいつらい平靜である事を思つてくれよ
君、誰でも苦しい事はあるよその苦しみを眞面目に眞劔に正面から向き合ふ私たちは悲しい幸福者であると思ひます併し私たちは未だ勇氣が足らない久しく正面に對するに堪へぬやうになる。君、私は斯うして心の弱者になつて光の底に潜まねばなりません君は私とは大に質を異にしてゐる君は私よりも純だ(失敬だが)そして自然だそして弱い脆い此際どうか強くしつかりしてゐてくれよやけ酒など飲まぬやう氣を付けてゐてくれたまへ心からの頼みであるあの手紙を今日見て心が急に暗く引込んでしまうた妻にも讀んで聞かせて二人で同情した今妻の宿屋から布半へ歸つて來てこの返事書くのだ一年間は實際惜しい併しこの間に文學をやる餘裕だけはあるこれが差引勘定の殘りである。オイ君――君がこゝに居ればいゝな――ウンと文學をやつて下さい君の文學はコヽデ屹度變化するよ
齋藤君から色々言つて來た御尤だと思ふ無理はないよ實際先生も今少し純粹の質であるといゝがなどうもへんに拘る所が出て來る齋藤と古泉と君と僕と四人でウンとやるより外無い齋藤を何うか慰めて勵ましてくれよ氣の毒だよ他に構はずズン/\歩けばいゝぢやないか信州同人は三四を除いて他は悉く我々の仲間だよズン/\殖えるよやれ/\譯はないよ齋藤を今一度訪ねて慰めて勵ましてくれよ私も十月末には上京出來るつもりだその時シツカリ話したいそして君と二晩ばかりゆつくり話したい
私は大抵全快した子供も明後日一時歸宅して三日おきに病院へ來るまでに運んだ冬さへうまく通れば來年からは(160)健全に行くと信ずる堀内へ寄つたらお母さんのみであつた父さんは廣さんをつれて御大葬へ行かれて留守利子さんたちは學校で留守――その時私は熱が三十八度以上あつた――お母さんはようく分つてゐて下さつた白川さんには困ると云つて居られた今夜はこれ丈で失敬する 十月一日夜布半にて 柿乃村人生
中村君貴下
二三八 【十月八日・封書 郡役所内より 諏訪郡湖南村眞志野小學校 兩角喜重氏宛】
拜啓旅行うまく行きし事と存上候途中よりの繪はがき奉謝候来る十一日か十二日朝貴校視察に出掛け可申其際萬事御話し申度條牛山政雄の事〇〇へ申遣し置候例のフロツク又々二三日拜借いたし度豫め御願申置候(十二日貴方にて借るればよし態々御遣しに及ばず)今度は東京にて古物買入れ可申に付き以後は御願申さず候廿一日より十一月十日頃迄上京可仕候 十月八日 柿生
雉兄
二三九 【十月二十九日・封書 東京神田區表神保町日芳館支店より 東筑摩郡廣丘村吉田 太田喜志氏宛】
太田さん二十日から束京に來て居ます色々紛糾した刺撃の世界に今日で十日許り交じつてゐて大へん疲れを感じます昨夜は水穗君を訪ねましたそして廣丘の鴨と鴫を思ばず味ひ得て悲しい感じがしました私からは大へん御無沙汰もして居ります太田君とあなたの身の上なども語りました
廣丘! 懷しい寂しい廣丘! 私は思ひ入るほど悲しくなる私の近頃は黒いものゝ中にやつと小さい眼をあけてしよぼ/\見廻してゐるやうな氣がしてゐる
一人で下宿にゐる今日は雨が降る私は色々の事を考へてゐる
(161)中原さんはどうも具合が惡るさうだ長野へ行つてから急に又惡くしてしまつたやうだ近頃便りも無い私は眠つてからも心に懸つてゐてなやまされる實に哀れなんだ何と云つたらいゝだらうあなたが彼を訪ねて二三日慰めて下されば實に有難いどんなに喜んで泣くだらう哀れで/\仕方がない兎に角手紙やつて下さい勵まして下さい頼みます貴下は何時上京されます若山さんは早く御上京になれませんか私は來月の十日頃迄居ります寂しいから手紙下さいアララギ七八日頃出來るから送ります 十月廿九日夕方 柿の村人
岸子樣御もとへ
二四〇 【十一月十二日・封書 信濃上諏訪町布半方より 東京本郷區菊坂町菊富士本店方 中村憲吉氏宛】
非常な御厄介になりました非常にうれしく過しました僕も早く東京で暮したいよ昨日東京を離れて郊外の丘陵の起伏を見てうれしくありました新しい日光が芒に光つてゐて惜しい氣持がした
子供は餘程快方に向いてゐたうれしかつた併し當分病院の御厄介物だ今から原稿書く少し何か書いて見たくなつてゐる私から心のなやみを少しのうち取除いてもらひたいといふ氣持で東京でも眠つたり起きたりした故郷へ來ても同じだ何時迄も同じだおい君我々は別の惡い世界を持つてるよ夢にまでおびやかされて生きてるでは無いか君に大へん金を出させて申譯無いが少しのうち待つてくれ玉へそれから毛布(下宿へ忘れた)の事ハガキ汽車中で出したが屆きましたかどうか頼みます今日は未だ頭がボーツとしてゐる落付いてから書く
十一月十二日 柿人生
中村君貴下
あのこと齋藤君に言はぬ方よし黙つてそつとしてゐる方よし冬は出て來い
(162) 二四一 【十一月十八日・封書 信濃下諏訪町高木より 東京府下上澁谷町百三十五 平福百穗氏宛】
拜啓上京中は度々參上御厄介樣相成大謝奉り候畫に對する御話大へん面白く私共の歌に對する平素の感想と照合する所多く愉快に存候夫れにつけても无聲會四五の作家に對して自愛と奮勵と切に祈望致し候今後の日本畫は諸君によりて新しき生命を得べきを確信いたし候來年の无聲會には必出京のつもりに有之候大兄の新聞社を退かるるは極めて喜しく候專門に時間をかけて御研鑽成され候はばと今より期待致し居り候諸兄の時機今に來るべきを確信仕り候
今度は御迷惑な御執筆を願ひ實は心苦しく思ひ候時間をむしり取るやうにして強ひて願ひし事失禮に存入り候併し大兄の畫をうれしがる事小生を以て第一とすべきを信じ候感謝に堪へず深く御禮申上候そして時々アララギで何か話して頂き度小生等は只畫のみの御話とは思ひ申さず候
冬の氷湖へ御來遊千祈致し候世間が八釜しければそつと來らるれば宜しく候是非御思立下され度侯歸來少しの病人などあり手紙遲延今日漸く一書差上申候匆々敬具 十一月十八日 柿の村人生
二四二 【十二月二十六日・封書 諏訪郡役所より 玉川村小學校 塚田廣路・同羊子氏宛】
一、校長問題ハ役場ヘ交渉セシカ
一、圖書館ノ付箋訂正至急御差出アリタシ信濃圖書館規則三村醇二君ノ處ニアリ來テ見テ訂正シテ出シテモヨシ
一、休中補習生【男女】勸誘御心配ノコト 五味勝君ト相談シテ
一、郡長ハ一月ハジメニ君ノ學校ヘ行ク以上 十二月廿六日
(163) 塚田君貴下
ソレカラ無盡掛金君ノ處カラ出シテ置イテ呉レ得レバ頼ムイケネバ何トカ工面スルカラ至急御申越願上候
十二月廿六日 柿ノ村人
羊樣貴下
(164) 犬正二年
二四三 【一月十一日・封書 上諏訪町布半より 豐平村下古田 塚原浅茅氏宛】
拜啓先日は參上御馳走になり有難く存じます小生益々健全只今布半に止宿いたし居ります小正月に年賀にお出でなされませんか(高木宅へ)もしお出でなら一寸端書で布半か學校へ知らせて頂けば小生も歸宅いたします布半へ御一泊なら猶よろしい
それから地所の件坪七圓として百六十二坪ならば千百三十四圓なり之は先方の望みなれば坪八圓とすれば千二百九十六圓(一寸千三百圓)位に出來さうに思ひます千三百圓不可ならば千二百圓位なら大丈夫賣れると思ひますから誰か中へ立つ人を擇び度くあります藤森良知氏か藤井屋の久さか金井か誰か擇んで委托したら如何ですか
皆々樣御大切少し具合わろくば醫者の事 一月十一日朝
二四四 【一月十六日・端書 富士見より 相模國鎌倉町坂ノ下木村豐吉方 中原しづ子氏宛】
毎朝攝氏零下一五度トイフ寒サダ今年ノヤウニ雪ガ深クテ寒イコトハ珍シイ今日又富士見ヘ來タ寒サウナ洋服姿ニ雪ノ山道ヲ想像シテ見テクレ玉ヘ今日モ日ガ暮レテシマツタ富士見驛ノ油屋デコレカラ夕飯シヨウトシテヰル筆ノ片端カラ氷ツテシマフ明日ハ又長野ヘ行カネバナラヌ三年前ノ桔梗ケ原ノ住ヒ今カラ見レバ眞ノ極樂淨土(165)デアツタモウソロ/\コノ仕事モ足ヲ洗ヒタイ一體ガ無理ナ職業デアツタ
變リナキカ切ニ御大切ヲ祈リマス 一月十六日夜七時半
二四五 【二月十三日・封書 信濃上諏訪町布半方より 東京本郷區菊坂町菊富士本店 中村憲吉氏宛】
(り) 東京のさわぎ面白い國民社破壞でアララギも歌集も困りはせぬか
頭が疲れました誰かつゝけば直ぐころびます
歌集御心配有難う兎に角出せ今少し精選して送る月末迄に
第一囘に湯川君の50をやつて第二囘からは賣上代で餘程助かるかと思ふ
一つ御心配と御盡力を君に頼む
表紙可成よくたのむ紙はアララギのでは本がうすくなりはせぬかよろしく願ふ
十六日から七日間長野市にゐる松本へよります堀内に逢ひます
信濃で百五十部乃至二百部は必引請ける 二月十三日 久保田柿人生
中村君
二四六 【四月十三日・封書 信濃上諏訪町より 東京本郷區菊坂町菊富士本店 中村憲吉氏宛】
拜啓只今別封書留にて原稿御送申上候
一、年毎に紙を新にすること
二、( )内の字は六號括字のこと
右に願上候色々の面倒皆見て頂きて濟まず何分願上候歌も直し度けれど今は到底出來ず已むを得ず其儘御送申上(166)候大正二年の處へ今少し送れるかと思ひ居り候君のは何首許りになりしや頁數がうすいから紙質は厚い方宜しからずや表紙は厚く固く美しく品よくしたい素明さん模樣を書いて呉れぬか私十九日の夜行で行き(數人連れて)その日の夜行でかへるつもりに候兎に角逢ひたく候そして利子さんへも勸めて申してやるべく候君の胸中を想ひ悲しく候中原も大へん喜んで居り大謝致し候何卒見てやつて下さい頼み上げ候あんなに快くなりうれしく候私も近頃は餘計に氣弱くなり困り候世に細い寂しい道が私のために設けて居り候その道を歩く外なく候春は寂しく悲しく候今夜は是にて失禮致し候 四月十三日夜 俊生
中村君貴下
勿論四六版と存候削りたいのはズン/\削つてくれ玉へ終り八首は他と一緒に纒めて五月號へ出す
二四七 【四月二十六日・封書 信濃上諏訪町より 東京市本郷區菊坂町聞く富士本店 中村憲吉氏宛】
私モソノ後アマリ食物ガ進マヌ體ハ十日許リ前ト同ジヤウダ頭ガ痛イドウモ仕方ガナイヤウダ少シ氣ニ懸ケテクレヨ(君ダケデ)此内ニ何處カヘ旅ニ出ヨウカト思フソレモ一月位後レルダラウト思ツテヰル
白樺會ハヨカツタ无聲會ノ百穗サンハ矢張リイヽ去年ヨリモ餘計ニ氣分的ニナツテヰルアヽイフ風ニ畫ハ進ムダロ私共ノ歌モ、畫ノ賣約有難ウ御厄介デアリマシタ永田君喜ブグロ金ハ矢張リ百穗サンニ上ゲタ方ガヨカロト思フ百穗サントノ散歩ウレシカツタデセウアノ人ハイヽ人ダヨ馬鈴薯ノ花ドウカ急イデクレヨ何分タノムアノアト未ダ幾分送レルヨ(十首カ二十首位ハアル)
東雲堂ノ件モドウカ頼ム千樫君ニ催促ヲ頼ム表紙ハ兎ニ角厚クシタイソシテウント澁ク百穗サンニ願フ信濃デ二百部賣レルトヨク言ツテクレヨ實際ダカラナ諏訪ノ若イ人タチモドウモ薄クテイカヌ歌ノ前途モドウイフモノカト思フ又手紙上ゲル自愛シテクレヨ私モ切ニ自愛スルヨ 四月廿六日夜 俊彦
(167)憲吉樣貴下
二四八 【五月二十七日・封書 信濃上諏訪より 東京本郷區元町一ノ十九東館方 河西省吾氏宛】
拜見仕り候學校の方も追々御忙しき由先以て結構の儀と奉賀候御攝生御勉強の程千祈仕り候試驗も有之候由イヤならむも之も課程なりとあきらめて御辛棒の程念じ上げ候そしてユツクリ御歸省の程願上候此間久し振りにて金原さんへ手紙差上げうれしく存候それはアララギ維持困難にて五月上旬一旦休刊と決定せしに其後又未練生じ今度は會員組織とし月30錢の人と50錢の人とを募り少數者に局限して發行部數を少くせんとの件に候信濃にて只今二三十人は出來候御心當りも候はゞ御考へ被下度願上候〆て百人あれば發行して行かれ候金原さんも賛成して下され寺島理吉松島梧凰さんも二三人周旋して下され池田町大に振ひうれしく奉存候併し只買うて讀む人々はすゝめられず一册二十五錢位にて賣るつもりに候此邊御含み置き被下度候
五月分拾五圓を五小爲替券三枚にて御送り申上候間落手被下度六七月分は六月中旬に一纒めにして御送可申上候間左樣御承知被下度候小口光君に一寸逢ひ申候大へん山國の郷里がうれしさうにて語り居り候有賀君肋膜惡しき由困り入候何卒早く全治させ度事に祈り候先は當用のみ匆々敬具 五月二十七日 久保田俊彦
河西省吾樣梧右
二四九 【六月三日・端書 諏訪山浦より 東筑摩郡廣丘村吉田區太田喜志子方 宮坂武吉氏宛】
今日南大鹽を通つて裾野を上りました谿流の凹みの田には水が入つて青葉らしくなりました丘へ登るとつつじが赤々と燃えてゐました藤の花が青葉の蔭に咲いてるのを見ると山浦の田植の一近づく事を思ひます廣丘の田もげんげがもう耕されてゐませう私もその田のほとりに二年くらしました此間は御ハガキ拜見しましたあれをアララギ(168)に頂くから御承知願ひます今日途中から君を思ひ出したからハガキ書きますそして岸子さんにどうか宜しく言つて下さい今少し醉つて居る 六月三日 柿の村人
二五〇 【六月九日・封書 信濃上諏訪町より 東京本郷區元町一ノ十九東館方 河西省吾氏宛】
拜啓有賀君の事數々御知らせ被下奉謝候彼の病氣可愛相にてあはれに存候天命を待つの外無く候
六七月分合せて三十圓御送申上候間御落手の上一寸お知らせ被下度候それから何時頃御歸りにやそれも一寸お知らせ被下度歸る時に中村君に一寸逢うて下さいませんかそして彼の休中の豫定を聞いて來て下さいそして「馬鈴薯の花」の模樣をも聞いて來て下さい表紙どんな具合かと存居り候廣告料が乏しいから一つ諸方の新聞に批評を書いてもらふつもりに候長野新聞と南信日日とへ二三囘づつ君から書いてもらふ事に御承却下され度願上候大抵二十日か二十五六日迄に出來可申候信濃毎日へは水穗君から書いてもらひ松本の新聞へは胡桃澤君から書いてもらふべし南信日日への催促は明日太田に逢ひて直ぐ送らせ可申候猶馬鈴薯の花のうり方も少し御心配願上候用事のみ申上候餘は御面談を期し候匆々 六月八日夜 柿人生
青五樣貴下
松井須磨子等の事不愉快に存候到底別れるより外なし須磨子に大に同情致し居り候
二五一 【六月二十四日・封書 信濃上諏訪町より 東京本郷區菊坂町菊富士本店 中村憲吉氏宛】生)
拜啓長野の方へ行き昨日歸り候長野では清水や名取其他アララギ讀者に逢ひて話し候松井須磨子同情説を話し合ひ候そして夜行で歸郡致し候
「馬鈴薯の花」上田町方面にて新しく三四册あり信州より必追加參るべくうれしく存候長野で五十册引受けたの(169)だからあれ以上長野ヘやる事は六ケ敷候そして松本市のは三十册が餘り少く存候へ共胡桃澤君が奔走してくれた結果だからこれも自然の需要を待つより外無く追加は必行くならんと存候上田のは長野の本店より行く事に候まあ此の處にて模樣見て居るといふものならん湯川君から二三日中に御送金可致と存候
製本出來の上は一つ御厄介乍ら御送本願上候そして太田貞一と河西省吾へも直ぐ御送願上候私の處へは十部も下さればよろしく候佛畫出來候由齋藤から今日知らせあり君のの校正終るを待ち候御厄介大謝の至りに候そして月末は直ぐ歸らるゝにや私も毎日鬱陶しく候安靜ならず困り候その上に長男(十四才)の眼惡しく成り今醫者の家へ泊めて置き候今は一寸も見えず末の子は矢張り醫者にかゝり居り母がロイマチスにて起床目も口も明かず友人に色々の事ありもうやり切れず候あれ是れに關係してゐる方が一方の深みを減じて行く事にもなれど今は只安靜のみを欲しく候色々の事思ひ切れぬものにて候妻も疲れ居り候併し私共は今夫婦親しく暮し居り候間決して御心配して下さるな只是れが嬉しく候詰らぬ事書き竝べ申候決して心に掛けらるゝなこんな時アララギの遲刊は癪にさはりしかど今はうれしく候いゝ歌多く候清水謙一郎よく蛇川よく不二子も夜汐子もよく候私のは思の外惡しく候七月號の方よいかも知れず候茅眞子の乳房の歌二首はアララギには破天荒なりとて笑ひ合ひ候あれもよく候
君試驗はいつ判りますか分つたら御知らせ被下度候堀内さん何時歸國にやと存じ居り候却て松本に居た方思は安靜なるべしどうも君我々は駄目だよどうか安靜になりたい是で筆を擱く 六月廿四日 俊彦生
中村兄
北信の方に會員殖える事新しき現象にて有望也うれしく候かなり面白い男が居り候昨夜も逢ひて話し三人出來そして皆馬鈴薯を買ふ由に候
二五二 【七月六日・封書 信濃下諏訪町高木より 東京青山南町五ノ八十一 齋藤茂吉・古泉千樫氏宛】
(170)拜啓アララギノ經營ハ我等ニハ今甚重大ノ仕事ナリ
一、會計簿ヲ精確ニ記入シテ行クコト
1、會員名簿ヲ備フルコトソシテコレニ會費納入濟ヲ明了ニ記入シ行クコト
2、雜誌費會計簿ヲ備フルコト
收入ノ部 會費 賣捌代金 寄附金其ノ他
支出ノ部 印刷所 其他郵税
3、雜誌發送簿ヲ備フルコト((1)ノ會員名簿ト時々合セルコト)
二、原稿受取簿ヲ備フルコト(月日種類掲載濟等記入)
附 信濃ノ方ハアララギ名簿ヲ小生ニ備ヘ置キ會費納入欄ト東京ヘ送付欄トヲ設ケ毎月束京ヘ發送ト共ニコノ帳簿ヲ送ルカラ君ノ方デ記入シテ返送シテ下サイソシテ君ノ方ノ捺印欄ヲ作ツテ置クカラソコヘ捺印シテ返送シテ下サイ(カウシタ方ガ各會員ガ餘計ニ安心モシ餘計ニ本氣ニナツテヤツテクレルナリ)ソシテ信濃ノ會費ハスベテ毎月小生ヘ送ルヤウニ八月號ヘ禀告シテ下サイサウスレバ月々ノ集金ヲ一括ニシテ御送スルコノ方便宜ニシテ誤リナシ今五人ニ集金掛ヲ頼メリ五人共月々草鞋ガケデ集メテクレルツモリデ居ル實ニ有難イ此五人ニ受持ノ會員名簿ヲ作ツテ送ル所ナリ
三、今迄ノ申込會員ヲ念ノタメ左ニ記スカラ束京ノ帳面ト引合セテ見テ下サイ(住所略ス)
五十錢ノ部
寺島理吉 金原よしを 松島義治 柳澤茂樹 榛葉嘉一 湯本政治
湯川寛雄 小尾喜作 原田泰人 兩角丑助 兩角喜重 森山藤一(以上十二人)
三十錢ノ部
(171) 吉川ふみ 田中一造 矢島鱗太郎 胡桃澤勘内 西澤本 犬飼寛
一柳忍月 櫻井みね 中原しづこ 小林いとの 名取堯 中山滿吉
笹岡義一 赤羽豐次 小林梓 清水謙一郎 永田登茂治 土田耕平
兩角きぬの 鵜飼三治郎 飯山鶴雄 伊東壽一 唐澤うし 久保田ふじの
河西ますゑ 山田ちま 山田ひさえ 五味えい 久保じゆん 武井すみ
熊谷文子 平林榮吉 守屋吉竹 後町良次 山本長衝 藤森すへ
横山重 百瀬清作 功刀宗一 篠原圓太 柳澤廣吉 兩角福松
青木誠四郎 松澤平一 窪田茂喜 永田敏貞 内田義久 古澤喜一
堀田茂樹 奥村政治郎 五味勝次 兩角波雄 井澤太郎 塚田廣路
(熊谷住所下スワ町久保ト訂正ノ事前には下スワ町小湯ノ上ト書イタカ知レヌ小湯ノ上ハ誤也)
(塚田ハ前ニ五十錢ノ方ヘ知セタカモ知レズソレハ間違ナリ)(以上五十四人)
新ニ入レル會員六人
上伊那郡中澤小學校 矢澤泰助 諏訪郡四賀小學校 湯澤博寛 同中洲村下金子小學校 吉田好
以上總計七十二人 玉川小學校 篠原徳一 同 古畑銀作 同 古田知秀
〇七月號いゝ歌がある要するに皆進みたるなり梧風のに大へんいゝのあり大兄のよろし
朱の墨琉璃色其他みなよし謙一郎の「一歩々々」よし女の人のもよし此位也私のも六月號よりいゝと思つてゐる
汀川の歌稿さがして下さい 七月六日日曜 赤彦生
少し家の内を掃除する妻も君を大へん待つてゐる
濟藤兄 古泉兄
(172) 二五三 【七月七日・端書 信濃上諏訪より 東京本郷區菊坂町菊富士本店方 中村憲吉氏宛】
今朝著く色々の事あとから言ふ
1、目次齋藤と中村から申されしやうがよし
2、表紙の紙今つと鮮かにしたい金の「馬鈴薯の花」の文字位置惡し
3、活字惡し(非常に惡い)
4、全體の紙今少し鮮やかのものにならぬか
試けん喜悦いたし候よかつた色々有難う出來るだけ改めさせて下さいもし文字の訂正をなし得る餘裕あらば訂正して貰ひたき所あり誤植二字あり(煤煙)。電報で知せて下さい 七月七日
二五四 【七月十三日・端書 信濃上諏訪町より 東京本郷區菊坂町菊富士本店方 中村憲吉氏宛】
拜啓昨夜は妻と二人して君のをしみ/”\讀んで見た非常にいゝそして妻と十二時頃迄話し合つた――君の事――君の歌の事――君の歌は情緒の色で霑んでゐる特殊の事象を詠んでゐ乍らその事象から湧く感受が最も純粹に我等の頭にひゞくこの點が非常に嬉しい所であるそして堀内の死を中心とした近頃迄の歌が最もその特色を發揮してゐる昨夜は幾度も繰り返したそして妻と二人で只うれしく悲しくなつたそして大へん話した君のに比べると私のは肌が粗い(特色もあるのだが)そして私は特殊の事實を事實として詠む點が多い情緒に純粹化されない――折角いゝ所を捉へ乍らその點が惜しいのだどうも記述的である事が私の缺點であるやうだ
君も之から變化が必要である併し下手に變化々々を求むるもどういふものか自然の變化に任せるといふ部分を多くしたい君の歌集をよんでどうもさういふ風に思はれた
(173)何時御歸國にや色々の御心中御察申上候利子さんはもう歸國されましたか父母の國を見るのも必要だよ齋藤は信濃に來るというて來た私も追分(輕井澤近傍の古驛)か越後の海岸かへ行かうと思つてゐる富士八湖もいヽね
此頃は私も少し頭が平靜であるから安心してくれ玉へ又書く匆々敬具 七月十三日 赤彦
中村君
妻から宜しくステロ昨日著御厚意奉謝候文鎭にする
二五五 【七月二十五日・封書 東京神田區和泉町一小川眼科病院より 信濃國諏訪郡豐平村下古田 塚原淺茅・塚原葦穗氏宛】
拜啓出立の際は種々御配慮下され奉謝候途中無事にて今朝着京表記へ入院いたし候院長は小川博士と申し眼科の大家に有之候院長の診察によれば惡しき方の眼も大したる事無かるべきか兎に角今少し經過を見ざれば斷言は出來ずとの事依て直に入院仕り候間御一報申上候次に附添人として事によれば足穗拜借仕り度御都合の程願上候十日か十五日位願へれば尤も有難く候小生は廿八日に歸國の筈に候へば廿七日迄に着京候やう願度尤も高木より右の儀御依頼申上けざれば御出京無之樣御承知下され度候本人の元氣至極よろしく候間御安心被下度其他萬事御心配無之樣祈上候匆々不宣 七月二十四日
塚原父上様 塚原葦穗樣
二五六 【八月一日・封書 信州上諏訪町布半より 備後國双三郡布野村 中村憲吉氏宛】
何から書いていゝか分らない左千夫先生の死は只驚駭の外ないあまり平氣に去られて行つたので我々の頭はだし拔かれてしまつて何とも思ひ得ない齋藤と目を見張つたのみだ齋藤は諏訪に居たどうも先生には驚いた
僕は廿五日の夕方二時間許り面談してゐるのだから一層驚いた廿五日夜先生は相變らず論ぜられた大元氣であつ(174)た(尤も頭が痛いと云つてゐられたそして今日鼻を診て貰つたから明日又診て入院するかも知れぬと言つてゐられた)
先生が今死なれるなら今つと早く九十九里の歌の出來た頃去られた方がよかつたかも知れぬ併L今少し生き延びて思想が新しく變つてから死なれたら嬉しかつたらうと思ふ併し去年養子貰はれて置いて家のためには大幸であつた是は大へんよかつたのだ色々考へられるが未だ頭がまとまらぬ
それに私は廿三日の夜行で急に上京したそして菊富士へ休んで直ぐ齋藤から神田和泉町の小川眼科病院へ行つた長男の眼が急に異變を生じたからだ小川博士がよく診てくれて直ぐ入院した一眼は先づ普通になりさうだ他の一眼は少し萎縮したが幾らか視力は惨るまあ心配よりも輕くて大謝する私はそれから一週間病院に付添人としてゐて卅日の夜行で歸つた(弟を付添人として代替によんだ)その晩先生は死なれた齋藤は廿七日に諏訪に來てゐたそして二人で一緒に八ケ岳山の湯に行く筈でゐたのに先生死なれて昨夜上京したそして胡桃澤も一緒に上京した色々困るのだが今私には思ひまとめる譯に行かぬから、赴くがまゝにと只思ひ悲しんでゐ
る中原も少し又病んだらしい、おい君は注意してくれ病んではいけぬよ
君の村は丸で藪原そつくりだねいゝ所だよ繪葉書ありがたぅ馬鈴薯の花うれるやうだ早稻田文學に批評あり青年日本にもあり讀賣新聞に水穗二日ばかり書く筈也其の他あとから匆々 八月一日 俊彦
憲吉君
二五七 【八月二日・端書 信濃下諏訪町より 東京神田區和泉町一小川眼科病院内 塚原葦穗氏宛】
拜啓毎日御苦勞奉大謝候其後異變無之哉三日に一度位づつ御ハガキ願度候此二三日冷氣に候へ共東京如何か多少凌ぎよきかと存候へ共冷氣と共に夜の寢冷えを御注意下され度候晝もあまり眞裸にて風を引かぬやうに御注意の(175)程願上候猶異變も候はゞ御知せ願度候
左千夫先生は卅日の夜死去致され候腦出血の由どうも小生在京中三四日待ちしも來らず不思議と思ひ候
齋藤茂吉君卵を持ち行かれし事と存候同君に色々頼むべし眼をつかはぬやう御申聞かせ下され度候 八月二日
二五八 【八月二日・封書 下諏訪町高木より 豐平村下古田 塚原淺茅氏宛】
拜啓卅日夜歸來早速手紙差上申度存候處一週間留守の爲め多忙一時に加はり遲延申譯無之候卅日朝足穗著京今囘は非常の厄介を願ふ事になりすべての御不都合御察し申上候右深く感謝仕り候政彦も一週間の經過により醫師の意見相伺ひ候處一眼(右)は大丈夫に取留め得べく一眼(左方の惡しき方)も全く失明するやうの事無かるべしとの事今後注意加療候はゞ當初心配せしやうの事無かるべく御安心下され度猶母の病氣も幾分は宜敷候間御安心下され度右大要御報知申上候猶東京は暑く候へ共政彦の身對異状無之御安心下され度候院長一日に三囘宛診察して呉れ申候皆々樣御加養專一奉存候匆々謹言 八月二日
塚原淺茅樣 皆々樣
二五九 【八月六日・端書 上諏訪町布半より 豐平村上古田 小尾喜作氏宛】
過日は御手紙奉謝候御厄介願ひ恐入り候何分願上候左千夫先生の葬式を終りし胡桃澤君昨日立寄り色々詳しく聞き申候南信日日に(今日のへ)出し置候間葬式の模樣御承知被下度候十二日地藏寺にて追悼會相開き可申候百穗君の臨終後先生の肖像寫生も軸物になり間に合ひ可申候何もかも御面會を待候久しく御逢ひ不致病氣しては居らぬかと心に懸り候アララギ又後れもう困り候 八月六日
(176) 二六〇 【八月十八日・封書 上諏訪町布半より 豐平村上古田 小尾喜作氏宛】
拜啓伏見若宮殿下明朝六時御出發明治温泉へ成ラセラレ候ニ付ては光蘚採取に付き貴下の御案内を得度御依頼申上候殿下には笹原迄自轉車笹原より御徒歩の筈につき貴下は朝七時頃迄に湖東役場へ御出頭有之度右御依頼申上候但雨天延期の事原周司氏にも同樣依頼致し候 八月十八日
小尾校長殿
二六一 【八月二十五日・封書 信濃下諏訪町高木より 備後國双三郡布野村 中村憲吉氏宛】
南信日日切拔ヲ送ル(見タラアトヲ中原ニ送ツテクレ)ソシテ今長野新聞デ批評ヲハジメテ居ルコレハ一週一囘ゾツ出シテ居ル完結次第送ル南信日日河西省吾ノ評ハ少シ長ク書キスギタ君ノ歌ノ肉感ガ精細ヲ求メ精細ガ肉感ヲ求メテヰルトイフ批評ハイヽ僕ニハソレガ不足ダ
九月號ヘハ勉強シテ書イタ二頁分歌ヲヤツタ消息モ書イタソシテ「創作」ヘ評論ヤウノモノモ送ツタ
宮殿下ガ十五六日滯在シテ居ラレタリ夏期講習アリシテ丸デ忙シイ夏を送ツタ何モ心モ纒ラヌ暮シ方ヲシテ來タ纒ラヌ悲シサデ頭ガボツトシテ暮シテ來タ誰カ今來テヤサシイ言ヲ云ハレヽバ泣キ出シサウナ頭ニナツテヰル
君モ郷里ノ複雜ナ事情ニ住ンデシカモ生活ガアマリ單純デ苦シイダラウ切ナイダラウ氣ノ毒デナラヌ齋藤モ戀ノ歌大ヘン出來テ居ルラシイヒマナラ少シ長ク書イテ消息シテクレマセンカ古泉カラ今度ハ一日ニ出ルト申來ル私健康ナリ妻モ
子供段々ヨクナルラシイ齋藤ニ大ヘン厄介カケタ 八月廿五日 俊生
中村君
(177) 二六二 【八月二十六日・端書 信濃下諏訪町高木より 東京神田區和泉町一小川眼科病院 福田定美氏宛】
過日は役所へおそく御出掛下され候由御迷惑の段奉深謝候御上京につきては色々御迷惑相願ひ恐縮此事に存候何卒萬端御願ひ申上候猶本人の模樣御知らせ相願度(左右眼の模樣)我儘ものに候間萬事御叱り下され度御依頼申上候用事のみ匆々 八月二十六日
二六三 【九月五日・封書 信濃上諏訪町より 備後國双三郡布野村 中村憲吉氏宛】
長野新聞明日頃送ルコノ評ハイヽ君ノアトヲ「アララギ」ヘ送ツテ十月號ニ出シタイト思フ(河西ノ評也)
誰カト逢ツテ話シ度イ氣ガ頻リニ底ノ方ニ湛ヘラレテ切ナイノヲ平氣ナ顔シテ幾日モ過ギタ信濃ハ全ク秋ノ色ニナツタ今朝ハ單衣デハ寒カッタ清水謙一郎來テ泊ツテ色々話シタソシテ赤光ヲ二人シテウント賣ルコトヲ話シタ「創作」ノ尾山篤二郎ノ馬鈴薯批評ハ丸デ分ラヌコトヲ言ツテルコノ人今ツト分ルト思ヒ居レリ小生ノモ變ナコトヲ言ヒ居ルシ君ノヲ全ク認メヌヤウナ態度ハ丸デケシカラヌコトダ尤モ牧水ガ今日手紙ヨコシテ尾山モ悔イテルヤウナコト言ヒ來レリ牧水ガ來月號デ書クト言ヒ來レリ色々ノ中デ夕暮ガ一番分ツタコトヲ書イタ「創作」モ「詩歌」モ第一歌ガワルクテ氣ノ毒ノ位ダ邦子キシ子等ヲ拔ケバ殆ド零ダ、アララギハ失張リイヽノダ今月號短歌號ノ由茂吉八十首ハ愉快ダドウシテモ一日ニハ出ナイモノトアキラメタ
君ノ妹サン氣ニナルドウダカ知セテクレ若イ女ノ病氣ハモウ堪ヘラレナイ胸ガ苦シイ可愛サウデカナハヌ私ノ子供少シ眠が充血シタ由少シ心配ニナル大シタコトアルマイ忙シクテ何處ヘモ出ナカツタ松本ヘモ久シク行カヌ君ノ心中ヲ察スルドウモ思フヤウニ行カヌコトバカリダ今度ハ信濃ヘ來イ君ト話スノガ一番深入リスル氣ガスル堀内生キテタライヽダラウニナア、女ノ心ノイヽノガ欲シイ諏訪ノ女八九人明後日私ノ家デ萬葉會ヲスルソレデモ(178)心ニ足ラヌノダ秋ハ上京スルヨ文展ノ時ソノ前ニ妻ヲ上京サセル子供ヲ見ルタメニ
齋藤ハ赤光マトメタ由大勉強也先生ノ追悼會ヲ九月ニヤレバイヽ子規忌ト共ニ啄木ノヤウニ、束京ノ雜誌皆左千夫先生ヲ敬悼シテヰルソレニアララギノコト皆本氣ニ書イテルコレハ結構デアル馬鈴薯ノ花ノ功能ガアルノダ君ト話シタノハコノ爲メダチヤント目的ニハヅレナカツタノダ我々ノ本當ノモノハ來年來々年ニミツシリ出セバ足リルト思ツテヰル僕モモウニ年デ四十歳ニナル四十歳トイフ聲ハ逆襲ノ如ク恐ロシク耳ヲ衝ク併シ僕ハ益々若クナルツモリダ五十六十デ歌集ズン/\出スツモリグサウト思ヘバ又哀レナ私ノ四十姿ガ氣ノ毒ニ目ニツイテ來ル一人ボツチトイフ哀レナモノガ今目ニ見エテ來ルドウモ仕方ガナイ私モ強イ所アルガソレハ輪廓デ内面ハ實ニ弱イ君ヨリズツト弱イ平氣デハ何モヤリ得ナイソレデ困ツテヰル
クダラヌ泣言書イタヤウダ時々僕ノコトヲ思ヒヤツテクレ 九月五日 俊彦
憲吉君
二六四 【九月八日・封書 信州上諏訪布半より 備後國双三郡布野村 中村憲吉氏宛】
九月號今夕方來た歌が大へん賑しいやうだそして今齋藤と古泉に手紙出した所だ
野の木犀といふ人の峻烈な批評見たそして二度よむうちにこの人の歌の分らぬ事が思へた歌の批評が見當ちがつてゐる我々は缺點の要點急所を捉まれることは氣持がよい丁度肩の凝つて困る時急所を揉んでもらふやうに氣持がいい急所を外れゝば骨や皮を痛めるのみで揉んでもらはぬ方がいゝあの批評は名取堯であるかと思ふアララギ劈頭の「馬鈴薯」の批評としてあれを採用した古泉君の勇氣に驚く私は古泉のやり方にはどうしても解せぬ所があるすべてに於てであるそして僕が何を言うても返事よこさぬ返事よこしても別事を言うてゐる八月號の蒼くくれたるを蒼うくれたると訂正してくれと七月末小川病院で二三度頼んだ彼は唯々としてゐた八月號を見れば訂正(179)してない八月十七日原稿送るとき態々訂正の原稿として送つたそして九月號には訂正してあると思うてゐたそれが無い先生追悼會の事も早くから知せてくれと何度も言つてやつた早くから知らねば官吏などは都合つかぬからと頼んだのだ何とも言つて來ないそして今月號にはチヤンと書いてある
良寛號を十月出すといつて齋藤と古泉と三人で東京で話した僕は原稿が出來かけてゐるそして九月號に左千夫翁號の豫告はあるが良寛號の豫告はない斯樣な種類の事今迄幾つあつたか知れぬが怒らせてはと思つてあまり云はなんだ私はもう古泉の編輯によつてアララギをやつて頂くのは堪へられないイヤな氣がする古泉の苦勞も思ふのだがイヤで堪らぬ九月號來て愈々イヤになつた私は下らぬと思ふが當分アララギヘ原稿を送る事をやめる諸君に申譯無いと思ふがこれで當分アララギと手を別つ氣持を惡くして歌を出す事は無いから是から私は一人で歌をよんで一年に一囘づつ歌集作ると決心したアララギを送つて貰つて讀んでゐるどうか惡く思ふな許してくれ僕は今夜泣き度い色々悲しい事が私に集ると見えるアララギに別れるのも實に切ないがもう私は斷然左樣に決心して齋藤と君と古泉に言つてやつた私は八月末から頭が痛んでゐる此上痛ませるのは堪へられぬ
齋藤への手紙書いた時は齋藤の顔を思うて泣けて仕方が無かつた今君に此手紙書く時餘程樂になつて君が一番驚かなんで呉れると思ふから私も少し氣樂だなにいゝよ一人で詠んでる事も貴いよ毎月せかれて勉強してよむのは愚だよ併しアララギは悲しい雜誌だなつかしい雜誌だ君と齋藤ゐてくれゝば私はうれしく毎月待つてゐるよ謙一郎の顔も見える耕平の顔も見える女の人たちの顔も見える盛にやつてくれ十六日の先生の會には私はどうかして行くよ先生のお墓へ行つて清い心でその墓の土に跪きたいよ今日は是れで失敬するその頃君は東京に未だゐないだらう又逢ふを樂しむよ達者にしてくれ妹さんはどうだ氣になる私の子供は追々いい未だ松本へ行けぬ今月中には必行ける用がある
河西省吾の長野新聞に書いた批評を送らうと思うて今日綴つてもらつたこの手紙と同時に送るこの批評アララギ
(180)の十月へ出さうと思つてゐたが今はそんな興味もない君が見たら齋藤君へ送つて齋藤から私に返すやうに頼みます又書きますこれで失敬する 九月八日朝 赤彦
中村君
桐軒も書いたね桐軒は愛嬌があつておもしろい罪がない
二六五 【九月九日・封書 信濃下諏訪町より 東京神田和泉町一小川眼科病院 久保田雅彦氏宛】
木室さんにあてた手紙を木室さんに上げよ
拜啓涼しくなりました體はかはり無きか眼もかはりなきか今日小包郵便で袷を送るそしてうすい綿入をあとから送る小包の内に味噌漬と諏訪豆を入れた家は變りありません祖母上の手紙を同封するから眼のよき時見るべし無理して讀むな寢冷えをするな健次も周介もはつせも毎日學校へ行つてゐるみをも夏樹も丈夫でさわいでゐる高木は今秋蠶の盛りだうちの庭には夏菊の花がさいてゐるそしてうらの家にはえぞ菊が美しくさいてゐる蟲がしきりに鳴いてゐる夜はちと凉しすぎる位だ さよなら 九月九日 父より
荷が著いたら端書で返事だせ木室さんから書いていただいて、木室さんによろしく
久保田政彦殿
二六六 【九月九日・封書 信濃下諏訪より 東京神田和泉町一小川眼科病院 木室氏宛】
拜呈政彦につきては非常の御厄介樣相成感謝此事に候過日は種々御通知に預り奉謝候御返事もさし上げず失禮の段御赦し被下度候御蔭樣にて追々順調に進み候事喜悦此事に候猶今後も御心添の程何分御願申上候猶他の御一人樣へも貴兄より可然御鳳聲被下度先は序乍ら一筆御禮申述度此之如くに候 九月五日
(181) 木室樣貴下
二六七 【九月十四日・端書 東京市神田區和泉町ノ一小川眼科院より 下諏訪町 久保田正信氏宛】
今朝七時著政彦の眼大體に於て前よりもきれいになり曇りも少なく薄し左の惡い方は上の方大へんよく下の方の曇りもうすくなり見え方よくなれり右の方は此間の充血のあとの曇りありて見え方前よりも惡し併し追々よくなるべく候今朝一通り院長よりお聞き申候へ共猶明日は今少し精しく聞きて申上べく候體は少し細りしも丈夫なり肉がしまりしやうに思はれ候取敢へず右のみ申上候母上御大切の事東京も涼し齋藤今に來るろと電話 九月十四日朝九時
二六八 【九月十八日・端書 佐久蘆田驛より 小縣郡武石村 中原閑古・小林小蟹氏宛】
御牧ケ原ハ草花ガモウ末デアリマシタソシテソノ深イ色ノ殘リガ松林ノカグヲ深クシテヰマシタ同ジヤウナナダラカナ丘ガ幾ツモ/\只連ツテヰマシタソシテ時々冷タイ水ノ堤ガ林ノ中ニ沈ンデヰマシタ依田窪モ見エマシタ武石ノ深イ雄壯ナ谿谷モ見渡サレマシタ私ハ明後日ノ朝小諸ヲ立チマス今度ハオ訪ネ出來マセン諸君ニ宜シク願ヒマス來月ノアララギハ必一日ニ出マス「赤光」大變進ミマシタ今ニ校正ヲ終リマス會ニハ十六人不折百穗秀眞等モ來レリ夜十一時迄會シマシタ 九月十八日 赤彦生
二六九 【十月九日・端書 上諏訪町より 玉川村中澤區 飯山鶴雄氏宛】)
此間は失禮いたし候伊那町の方はその方の來書を待ちて申遣すべく哉(東京へ)アララギの今月號齋藤のを除けば一般に固著して同一生命に固著するの觀あり不振と存候今少し噴き出すやうな生き/\した生命を欲し候只金(182)原中原二女史のは大によく存候貴詠今少し自ら嚴選するの要あり削られて御不平の歌を示してくれ玉へ充分意見可申述候出た歌數の多少など心配してゐてはいけぬ我々は二十年三十年後の大成を期する勇氣と覺悟と規模とを要する所謂投書家氣質に陷らば萬事体すべし失敬々々 十月九日
二七〇 【十月十日・封書 信濃上諏訪町布半方より 東京青山原宿穩田 平福百穗氏宛】
拜呈過日は失禮仕り候甲州は如何に候ひしか勝沼在に鎌倉時代の寺ありと左翁より傳承せしのみにて見ず一度參り度存候大兄の行かれしは夫れかと存候輕井澤より追分の原は矢張宜しく遂に三泊致し候淺間山麓より千曲川の低所に入り更に諏訪境の蓼科山麓に通ずる道路大へんよく其の間に御牧ケ原あり丁度盛裝せる馬二頭に逢ひ申候文展へは御見合せの由聊か落膽いたし候實は文展といふものに甚しき期待をなす能はずと存候へ共作家蝟集の中に貴作を置き度事昨年よりの至望に有之今は明春の無聲會を待ち可申候
土田麥僊といふ人の島の女猶頭に在り今年は海女を出し候由どんなものかと思ひ居り候
故に今夏より申上げんと思ひ居りし御願有之候夫れは上諏訪町土橋源藏と申す人是非貴作一軸を得度志望に有之再三小生へ話あり半切物一葉是非御厄介相願度絹は東京にて可然よきもの御買入れの上御描き願度(失禮に候へ共その方よろしと存候へば)土橋氏は當地の素封家に候へば謝禮は充分爲致得べくと存候どうも御厄介と存候へ共御快心の時御揮ひ被下度御願申上候
赤光も大へん御厄介相願ひ候由上諏訪にて五十册本屋と約束いたし候信州にて百二三十册は賣れ可申候此間東京にて一寸校正を見申候近年の傑出せる歌集と存候馬鈴薯の花も御蔭樣にてよく賣れ申候中村憲吉君此頃來遊昨日上京致し候小生も十一月は上京致し度存居り候色々の事書き列ね申候匆々頓首 十月十日 赤彦生
百穗老兄貴臺
(183) 二七一 【十月二十四日・封書 上諏訪町より 玉川村中澤區 飯田鶴雄氏宛】
拜復敬虔なる態度の御手紙拜誦嬉しく存候此の如く精進の心を以て御進行有之候はゞ他日の御造詣甚大なる可きを思ひ候而して愚生の苦言に對し眞面目に御考慮被下候事欣喜の至に存候
五十九首をよみかへして今夏イヤに成り候との事が已に貴下の一大進歩に候多作は一時誰にも有之強ち貴下のみと言ふ可らず只單に容易に多く作るのみにて趣味著眼の進歩伴はざれば多作益々多作にして何等の進歩無之るべく趣味の標準高まり候程自己の作も他人の歌も緩みが目につきイヤに成り可申斯の如くにして初めて一歩々々高き歌を得可申と存候御示しの歌成る程左程惡しき歌とは思ひ申さず中にも、雨足のくらく包める云々など面白く存候へ共嚴密に見るときは遠き夜の雨に「雨足」は不穩なるべく第三四五句も一通り宜しけれど四五句の接續猶緊密なるべきかに被布候 遠方《をちかた》の灯はなつかしや馬車に乘り居り など假りに斯樣に致し候方自然の力充ち可申歟とも被存候、萩の花云々も惡しからず存候へ共事件も感じも輕きものたるを免れず「父は今」も必しも利かず振はず「この日暮」とか「無造作に」とか夫れに對する情趣を惹くべき詞を要し可申候、はらはらと雨をはらひて風吹けば云々、普通の見方感じ方なるを免れず、電柱云々、作者は汽車中に居る感じなりや果して然らば第四五句は無理に候全體の見付所は賛成致し候へ共表現に一段二段の苦心を經べき歌と存候
貴下はすべて見方が利き居り慥かに一の特長を有し候之れははじめより小生の注意を惹きし所に有之候只精進の心を以て御勇進の苦勞を經たまへと祈居り候
我々は毎月何首かの歌を雜誌に印刷致し候へ共天下後世の人心迄も響き候もの何首か有之候べき何れも一時的のものにして永き生命は無之が常態に候哀れなものに候我々の製作せる藝術品は少くも天下後世に亙りて永劫光明を放つべきの大抱負を有せざる可らず量の多からんよりも質の濃く深からんを冀ふ所以に候此點に於て「馬鈴薯(184)の花」の如きは決して有難き歌集には無之我々は只今後二十年二十年の大成を期するより外無之今の作家が少し位世に持て囃され直ぐに天狗に成り大家に成り先生に成り候事抱負豆小と愍然に不堪候過日は種々混さつ致し且つ性急に成り居り候際或は過激の事申上げ失禮せしかも知れずと恐縮改し居り候只微意のある所御了知被下皮祈上候何れ拜眉の節萬申上べく今夜は是にて擱筆 失敬罪多々 十月二十四日夜 赤彦生
津涙男君貴下
會員三十錢云々は歌を出すからといふ表面の理由と今一つはアララギ貧乏にて不足故會員から十錢多く出して頂くといふ譯に候店に竝べて一の賣品とすれば二十錢より上は取られず候アララギは毎月三十圓以上不足に候内情如此に候呵々
二七二 【十一月一日・端書 信濃上諏訪町布半より 東京本所區南二葉町廿三アララギ發行所 古泉幾太郎氏宛】
拜啓遂に来られず遺憾存候冬はスケートの頃茂吉君等と來てくれ玉へ詩歌も創作も已に來り候アララギは何日頃出るかいつもこんな催促して濟まぬが申上候小生十三日頃上京雉夫等今夜行く 十一月一日 赤彦生
二七三 【十一月十一日・端書 長野市縣町逢瀬館より 諏訪郡下諏訪町高木 久保田不二氏宛】
真樹肺炎の氣味にて昨夜夜行にて歸國の由院長(高しま病院)に見せし上にて入院せしめし方埒明くべく候もうあの小和田の下宿は襖障子等空氣寒くて惡しかるべく候 十一月十一日
〇院長の診察結果直ぐ御知せ下され度候
二七四 【十一月十八日・端書 東京下谷區池之端仲町十六小川眼科醫院より 下諏訪町 久保田政信氏宛】
(185)昨夜著京今朝よく院長に相談し候處退院は早しとの事に候夫れは大體に於ては快くなり居れども雲の吸收さるる藥を注しそれに眼が刺激されて充血する内は退院は早し此間一日半その藥を試みたるに充血して多少逆戻りの姿をなせり今當分從來の療法を續けざれば具合惡しかるべし夫には眼の模樣により毎日藥の模樣を變化増減せざる可らず處方箋を出す位何時にても出すべけれど病院の仕事は一定の藥を注すに非ざれば今の所處方箋にて他の醫師に任せる事如何あらんとの事甚だ御尤もに候先以て當分入院の外無からん兩眼共前よりは宜しく奇麗になり候
第二信
右眼少し曇りが移轉して瞳孔にかゝりし故見方少し惡しけれど是は當座の事なる由左眼の曇りは前より大へんきれいに成り候體も丈夫に候十九日夜新築へ移轉の由二十日より牛乳をやめて山羊の乳をやらせんかと存じ候牛乳も時々變化させたる方よろしく山羊の乳は滋養も多し一合にて二錢高し(七錢なり)
小生は明日移轉させて新築に泊り二十日鎌倉へ參り可申候夏樹よき由安心致し候此處一週間許り最も大切に願上候不二は一週間ばかり室内に嚴重に籠り逆戊りせぬやう願上候
そばへ寄せれば細かな者をも見るを得候遠眼未だ利かず 十一月十八日
二七五 【十一月二十日・繪端書 鎌倉より 中村憲吉氏と寄書 信濃下諏訪町小學校 五味えい・河西ますえ・山田ちま氏宛】
今夜鎌倉の海に宿る濤聲階下にあり中村君と二人也 十一月廿日夜 赤彦生
二七六 【十一月二十二日・封書 沼津町より 東京市外代々木山谷百二十二今井内 山田邦子氏宛】
拜啓漸く今夜手紙差上る機會を得申候何度も書かう/\として書かずお許し被下度候夫れは何か長く書き度くて忙しくて書けぬといふ齒に物のはさまりたる心地にて一ケ月以上經過致し候楊子にてうまく齒の物をつゝき出し(186)たるやうな心持にて今夜手紙書き申候。貴下の歌をしんみり讀んで見ようとして旅に「詩歌」「創作」近刊二ケ月分を持ち出したれど見る時なく今夜カバンの底より出して見れば十一月の詩歌一册伺處へか忘れ來れり仕方なく三册の雜誌の貴下の歌だけを今一通り(二通り許り)讀み申候それで貴下の歌が盆々深く進み居るを感得してうれしく相成候夫れは一樣にどの歌にも泌み出て居り候へ共「八月と九月」詩歌十月號及び「しづかさ」創作十一月號に特にうれしきもの發見致し候。おしろいとこほろぎの歌故郷の生家に歸れる歌特によく候
靜かなる沈黙の海それには底深き千里の波を藏し居り候沈黙にして愈々底力ある海靜かにして愈々重壓ある海小生は左樣のものを切に欲求して居り候貴下の歌は誠に左樣な道に進みつゝあるを感得し候小生の歌は靜かにして往々乾燥枯淡に陷るを恐れ居り候貴下の歌を見てうれしきは靜かにして同時に脈々たる生動の力加はる點にあり候小生のは筋と骨が勝ちて肉と血とが枯れる傾あり實際これは小生の缺點に候貴下のを見てうれしといふのは此點が非常に具合よきにあり靜かな波が風吹けば直ちに千丈の濤を起し得る力無かるべからず貴下には此傾ありどうか自重して今十分粉骨して精進して下さいその動力は二十年五十年に突進し得べし失禮と思ひ候へど感じたる儘を此處に陳列するなり小生は強い事を言ひ乍ら氣が弱くていけず餘計に貴下等にお願ひする也どうかズンズン強く進んで下さい正岡先生は眞に強き人也左千夫先生も力の強き人なりき私も勉強せんとする心願は大にある也少し氣に入りたる歌あればうれしく成る也實際「詩歌」にも「創作」にもうれしき歌少なし武山英子の自選號は弱けれど哀れにてうれしかりし創作といふ雜誌失禮なれども間口廣くて奥行乏しうれしき歌を與へず營業に苦心する弊なり(若山さんに叱られるだろ)詩歌はどうも生き/\せずその中にたま/\よきもの見出でては嬉しがり居り候アララギも今つとしつかりせねばならず夫れはかへす/”\も承知し居り候今少し急所を捕まへて叱つてくれる方よし私の歌決して/\いゝと思はず叱られる事正當也
九日に家を出て今にブラツキ居り候そろ/\歸國せんと存候東京には二日居りしのみにて御目に懸らず惡しから(187)ず願上候長男が入院して居る故成るべく彼の側に居り候故何處へも行かず齋藤古泉にも一度逢ひしのみ中村と二人にて鎌倉に二夜を過し今日別れ候よき木像幾つも見てうれしく候鎌倉へは悲しき事ありて囘想に參り候今日海と磯に黙禮して別れ候明日は伊豆の大仁の方へ參り候書き來れば系統なきだら/\のものにて誠に惡しく候へ共御判讀被下度候宿屋にて亂暴な字を書き候事御許し被下度候匆々不盡 十一月廿二日夜十一時半 赤彦生
山田邦子樣 貴下
十一月號詩歌遺失致し候もし一册御送被下候はゞ有難く候靜岡にあるかも知れず
二七七 【十二月十二日・封書 信濃上諏訪町布半より 東京谷中天王寺町三十四 阿倍次郎氏宛】
拜呈甚だ唐突に候へ共一書呈上仕り候
小生の歌につき時事新報にて御發表被下候由齋藤茂吉君より特に通知有之誠に望外の感有之奉謝候私共アララギの歌は今迄一般より殆ど認められ居らず今年に至り歌集一二出し候より多少他の歌人の問題になり候程の事にて先生の如き比較的門外の方より多少なりとも認められ候事今迄の經路より見て甚だ意外の感致し候次第にて深く欣び入り申候先生にはアララギ誌上かつて象徴主義の話につき御書き下され北原白秋歌集桐の花につきて御意見御發表下され且つ齋藤君より時々御噂承りひそかにうれしく思ひ居り候折から特に感銘奉存候私は現今發行さるる文學の本一向讀み居らずどなたがどの樣なる御考を持ち居らるゝかどの樣なる作物を出し居らるゝか誠に知る所なく誠に恋しく候へ共先生の御著述も一册も讀み居らず甚だ失禮致し居り候何卒私の歌につき御心附の所露骨に御忠告下され度切に御願申上候御教導により一歩づつ進み申度右呉々も御願申上候猶從來の拙歌につき御感想御示し被下候はゞ望外の事に存候先は微意申上度御繁忙の處甚だ失禮仕り候匆々謹言 大正二年十二月十七日
阿部先生貴臺
(188) 二七八 【十二月二十二日・封書 高木より 片羽町 牛山郡藏氏宛】
拜啓先夜御伺ひ申候處御不在遺憾存上候木外居士母屡々來り候も小生留守にて逢はず一昨夜又々來宅の用件は例の弔慰金の依頼に候あれも已に長日月に相成候へば此際集不集に係らず一結末を附けてしまひ候方宜敷からんと存じ候君に非常に御手數を掛け誠に相濟まず候へ共右一つ御手數相願度不集の分は追つて集るを待つか然らざれば打捨て候より外無之と存じ候而して一切の今迄收支計算一通り發起人會を開きて報告致し候方可ならんかと存じ候是れは急がずとも宜敷と存候次に長崎佐次郎渡邊伊三郎二人への謝意として茶盆位のもの此際贈り候樣御配慮相願度如何に候哉贈るとすれば矢張り年末中と致度候次に小生の拜借金誠に申譯無之如何なる勘定と相成居り候哉此際は誠に都合惡しく一月末にも相成候はば多少差上申度御勘辨願上候年末御繁忙中御迷惑匆々不盡 十二月廿二日 久保田生
牛山天外様貴臺
二七九 【十二月二十六日・端書 信州上諏訪町布半より 東京本郷區菊坂町菊富士本店 中村憲吉氏宛】
何を言つて上けてよいか私の頭はへんになつてゐるこんなつまらぬ年の早く行かんことを欲す人の世の縁の刃はうすくて壞ち易い痛ましい思を腹に疊んで一年々々と年取るのだ私ももうそろ/\四十歳に近づいた昨夜も十二時頃村會から歸つて來てそして夜晩く人の手紙を出してよんだ一年前と今年の秋の手紙であつた信州の寒さはひどくなつた冬至前から湖水でスケートしてゐる長男は病院で越年させる事にしたたまに見てやつてくれアララギ今年中に出るか(湯川君に一寸手紙やつて下さい)堀内母堂は何に上京されしか病人でもありしか 十二月二十六日 赤彦生
(189) 大正三年
二八〇 【一月五日・封書 信州上諏訪町布半より 東京市外上目黒五八五 平福百穗氏宛】
百穗兄足下
新春から斯んな手紙を書くそれは嬉しくてそして困る所のある手紙である私は今日布半の宿へ行つたそして大兄からの荷物を受取つた今日は座敷へは上らなかつたそして勝手で小刀を借りて一寸紐をほどいて見たのだ僕は全く林檎だらうと思うてその儘袋へ入れて家へ歸つて來た家へ歸つて來て女の客を送り出してその荷包をほどいて見て驚いた僕の頭は直ぐにうまい鹽梅に千年前の美しい日本の世界へ送られてしまうた凡ての彩色とゴムの地色との調和は只うれしくて何とも言へません何といふ世界を私は眼の前に見る事であらう私はくり返し/\球を廻轉して見入つてしまうたそれは丁度若い女の客を送つてから直ぐ後の事であつたその女は今年二十三歳になるしをらしい怜悧な教育のある優しい女であるその女は許嫁の男がある正直で律義な息子さんであるがふとした事から遠方に住む他の女を見知つたその女を私は見た事がないやはり教育もあつて美しい息女さんであるさうだ男は二人の女について色々に思ひ煩うたそしてその男は長野の町へ彷徨うてそこへ居付いてしまうたそんな事を思ひ乍らあの荷をほどいて美しい三つの球に見入つたのだそして私は少し不安の心が底に湧きはじめたそれはこの球は土橋氏へ送るのが至當だと考へ付いたのだ夫れはつまらぬやうであるがどうもその方が至當だと思へるのだそ(190)して急に不安のやうな困るといふやうな念が出て來たのだ
十二月未に鯉を土橋君が送つたそして夫れは恐らく兄に對して未知の土橋君が僕の名を以て發送したのであらうと思ふ夫れを私はよく聞いて置かなんだが恐らく左樣であつたであらう大事件では無いがそんな譯であるそんな事は必しも顧慮せなんでいゝのかも知れぬが何だかこの球をこの儘私の手に收めて置くのは困る氣がするそれなら直ぐ土橋君へ送ればいゝのであるがさあ送るとなれば僕は誠に玉を見て直ぐ失ふといふ氣がする實際の所惜しいのだ見ずばよかつたらうに見てからは惜しくて/\溜らない申上るも變であると思ふが實際さういふ不安が今夜盛に湧きつゝあるのだそして球を今机の上に竝べつゝ見つゝ居る惡い事と思ふのである
そして私は考へた先日お願ひして置いた掛物を近い内に送つて頂けば土橋氏の希望は全く叶うた譯であつて土橋君は從來の希望を果す事が出來る譯であるさうすれば今眼の前のこの物を私が手に收めても幾らか心が安まる事になる實に濟まぬのでありますが其望みを叶へて下さいませんかひどい申分かと思うて惡い心持が少しするのであります實際惡いのでありますそれでどうも困るのでありますどうか願ひを叶へて下さりませんか斯んな手紙書くのはいゝ心持致しませんが遂長く書いてしまひました 一月四日夜 俊彦生
百穗老兄
絹迄買つて頂くのは失禮ですがどうか暫く立替へて置いて下さい
アララギの表紙も又お願ひした事と思ひ恐縮致しますアララギも貧しくて遂元日に出なくて悲しいのであります六日に出ると今日通知ありました私も子供を未だ東京に置いて居ります病院で年越をさすのをいやに思ひましたが仕方ありません一月末か二月に退院出來るので家族中喜んで居ります去年は實に惡年でありました左千夫先生は亡くなる中村は不幸續きで齋藤もあれで事件があつた古泉は相變らず氣の毒だ私の外の友人中一人は重い肺炎一人は腎臓結核一人は胃潰瘍一人は肋膜炎といふ譯で腎臓の人と肋膜に人は未だ惡いので(191)あります今年は吉、大吉ならん事を祈ります運勢表では三十九歳は大へん吉のやうで賛成しました(呵々)過日のスケツチ會は是非始めて頂き度いのであります信州には餘程仲間あたらと思ひます 會が松本長野の青年で開かれましたそして此上皺でも開かうとしてゐます諏訪の教育會でも一つ開かうといふ下相談があります此間山浦の湖東小學校内で開いて青年に見せました勿論有り合せの陳列會でありました石井さんその他の方のが出ましたそして大兄の清水谷、象は非常に注意せられました左翁の繪葉書も軸物(【志都兒藏の絹半切歌】)も出ました若い人達が私の處から五六點借りて行きました北海道の馬、盛裝の馬、冬木立(繪ハガキ)も竝べました山裏山中迄斯んな調子であります文展その他のために態々上京する人が非常に殖えました矢澤原二君など出品した爲めでもありませう彫刻は私が勸めて二點出させましたが不合格でありました藝術を少し入れる必要が諏訪にはありますあまり實利的で固まつて居りますから土橋君のやぅな素封家が新しい美術を解し始めたのは甚だ都合よくあります最も此人は自費で學生を十人以上上京させて牛込の二十騎町へ寄宿舎を作つて學生を入れて置く位の心掛のいゝ人でありまして歳も未だ四十歳前で甚だ面白い人であります諏訪の中學校高等女學校皆その創設は土橋氏であります河西省吾の學資も此人と外に二人で出して居ます夫れで威張らない寛つくりした人で決して惡い心地せぬ人であります上諏訪町土橋源藏で手紙屆きます此間の御來諏は實に殘念なりき丁度急ぎたる爲め束京にても逢はず重々遺憾でありました川越の町は氣に入りました宿屋の女中を米澤市の生家へ逃がしてやりました太田むつといふ元禄型の顔の愛らしい悲しい子でありました米澤市へ行つたら立寄らうと思ひます鎌倉は氣に入りました土の方が海に負けなんでよくありましたあんなに木が茂つてそして堂々たる建物があつて纒まりのあるよい土地でありましたそれに比べると沼津は思つた程でありません下らぬ事遂又長く書きました
(192) 二八一 【一月六日・封書 信濃上諏訪町布半方より 東京本郷區菊坂町十六番菊富士本店 中村憲吉氏宛】
今の處齋藤の歌は天馬空を馳るの概がある一體夕暮白秋茂吉三人には共通點がある濃くて烈しくてけば/\しい所が似て居る其内夕暮のが一番空虚がある詞の方が駈足して腹の方が並足してゐるそこに空虚を感ずるのである(十二月號にはいゝのがあつた)白秋はよく見ぬが純一で氣味がいゝ併し深さが足らない眼を閉ぢさせるやうな歌ひ方をせぬ茂吉のは二人に比して一番純一で一番感情が高調に入つてゐて他人が近寄れないといふ威力を持つてゐるけれども失張深さが足らぬ白秋よりも深いのだが沈痛な重々しい深いもの瞑目させられるやうな幽かな深いものが足らない僕は齋藤が一轉進する機の來るべきを思ひつゝあるそこへ行くと中村のは淡い哀れな幽かな深さがある色々未だ具備せぬ所あれども探さの素質は一番富んでゐる齋藤に此事をも書いてやつた
古泉の事件とは何かありしか氣の毒な境遇だから苦痛も隨分多いであらうアララギ遲刊も仕方がないよ併し惜しい齋藤西洋へ去りし後はどうなるだらう困る事繼出せねばいゝがと思つてゐる明日はアララギ來るかと思ふ女人の萬葉會七人集れり(昨日)十日にアララギ批評會あり又書く 一月六日夜 赤彦生
中村君
二八二 【一月八日・端書 信濃下諏訪町より 東京本郷區菊坂町十六番菊富士本店 中村憲吉氏宛】
悲しき手紙を見たどうして古泉君はアララギに斯樣な問題を絶つてくれぬだらうどうももう言ても駄目であらう古泉君の心の中心にはどうも麻痺した所があるらしいそして色々の境遇からそれが盆々慢性を帶びて來てゐるらしいどうも今迄はさういふ感がぼんやりと私に感應してゐた急に刺激を受けて全然亢奮するといふ事は望みがあるまい齋藤が洋行後をどうするかと内々心配してゐたのが今頃こんな問題を見てゐるやうでは困る事甚しいアラ(193)ラギを止めるのは誠に悲しいどうか工夫は無いか
來る併し君等が充分見てやる必要がある此處で私が大發奮して四月から東京に自活だけの職業を求めるも一方法だ兎に角急に何とも考へられぬ熟考して申上げる何か一つ考へて見て下さい此處で中止するのはどうも惜しく殘念だ「創作」は全く頽れてゐるし「詩歌」も餘り張つては居らぬアララギの使命今や誠に重大なるを思ふ正月の歌大抵目を通したり矢張り此感を深くす君と齋藤の「詩歌」の歌矢張りシツカリ握つてゐる歡しい私の芒五首と蛇三首とあと一二首もいゝと思ふウンと奮發の心集注しつゝあれど今の處頭痛み疲れ夜も心深入り出來ずどうも職業を代へる必要がある一月から三月迄は全くだめである君の手紙の返事にはならぬが悔み言丈け書いて送るのだあと又書く君からも一つ齋藤と話して何か又通信してくれ頼む夜一時にて亂筆甚し 一月八日夜 赤彦生
中村君
君もいくらか心安まりし由子供の樣子有難く存候歸國の時は又面倒乍ら汽車にのせて下さい頼む二月は上京する事あるかも知れず
二八三 【一月十二日・封書 信濃上諏訪町布半方より 東京本郷區菊坂町菊富士本店 中村憲吉氏宛】
後レルニシテモヒドイデハ無イカ今頃新年號ハ田舍デモ氣ガ利カナイ他デハ二月號編輯濟ムデアラウソノ後齋藤ト話シ合ツタカ古泉ト話シテ見タカ除リガミ/\古泉ニ言フモイヤデアルシ困リ入ル初賣(正月二日)ノ日三光堂ヘ二十人以上アララギ買ヒニ來タサウダ 一月十二日夜 赤彦生
二八四 【一月十三日・封書 上諏訪町より 玉川村小學校 兩角丑助氏宛】
拜啓此程は話出來ず飽足らず御別れ申候君は今一生の一危朔に入りつつある事を自覺して頂き度候一通りの人英(194)氣ある活動を止められ候第一關は妻帶期に候、第二關は子供二三人出來候時機に候此二關を通り拔けて猶溌々たる生氣あるにして始めて本物なりと平素信じ居り候君今や此第一關に立てり何處迄も暖き濃き情の海に浴すると共に愈々深みある英氣の生動を祈り候要らざる世話乍ら君の前途を祝すると共に警戒をもと思ひ態々申上候匆々 以上一月十三日夜 赤彦生
二八五 【一月二十六日・端書 信濃上諏訪町布半方より 東京本郷區菊坂町菊富士本店 中村憲吉氏宛】
廣島からの繪ハガキ拜見もう御歸京かと存候小生よりは忙しく何も申上げず祖母上少しは快く宜敷存候齋藤君二月號編輯は實に氣の毒にて察し入り候夫れで私もうんと勇氣出し毎晩遲く迄眠らず作り候ため頭少し疲れ入り候アララギ廢止となれば大へん悲しくそれにつきかつて申上候へ共今晩齋藤へ少し長く書き候へば齋藤君から君丈けに話すかと存候間熟議熟考して見て下され度願上候どうかして三四月號迄出してくれゝばどうかなると思ひ候我々は雜誌といふ有形のものに束縛されつゝ刺撃されつゝ勵む事多かるべく候人間に一定の職業要ると似たるかと存候無職業は自由なれども却つて放漫に導かれ易く奮勵を缺き可申候
疲れ候故短く書き候新年號未だ來らず古泉も氣の毒の事多く候 一月廿六日夜
二八六 【一月二十六日・封書 信濃下諏訪町より 東京市下谷區池之端町小川眼科病院 久保田政彦氏宛】
前略少々發熱の處直ちに快復の由安心致し候眼の方も追々宜しき由安心致し候退院もそろ/\致すべき時と相成り候へば二月十日私が上京いたすべく候間夫れ迄今十餘日間辛棒敦され度候今僅かの間なれば治療其他萬事細かく注意いたされ度寢冷えして風邪ひき外出して風にあたり若くは怪我などせぬやう專心御注意ありたく祈り候それからチヨコ/\いたづらなどして病院の迷惑をせぬやう御注意ありたく候當方皆々かはりたる事も無之祖父上(195)の方にては白玉粉製造中にて島一郎氏も參り居り候
湖水は今年は氷張らず珍らしき事に候先は右のみ匆々以上 一月二十六日夜 父より
二八七 【一月二十七日・端書 信濃下諏訪町より 東京本郷區菊坂町菊富士本店 中村憲吉氏宛】
篠原圓太君の妻と父と同日に死去(廿五日)驚入り候妻は生後一ケ月の兒を殘せり、何もかも惡しきかな。右御知せ申上候 一月廿七日 赤彦
二八八 【一月二十八日・端書 信濃上諏訪町より 東京本郷區菊坂町菊富士本店 中村憲吉氏宛】
新年號アララギハ未ダ會員ノ誰ニモ著カナイ三光堂ヘモ著カナイ
ソシテ今日小サナ繪草紙屋デ新年號ヲ發見シテ呆レテ物ガ言ヘナカツタ何時來タト問ウタラ昨日來タト言ツタコレハ東京堂アタリカラ取ルノダ僕ニハモウアララギハ不可解ノモノニナツタ會費ヲ集メルニモ困ルデハナイカコレ丈ケ齋藤古泉君三人ニ告ゲテ置ク 一月廿八日夜 赤彦
二八九 【二月五日・端書 信濃下諏訪町より 東京市外高田村新倉甚藏方 河西省吾氏宛】
拜復再度御知せ被下大謝此事に候彼ももう飽き候樣子なれば兎に角一先づ歸國させんと存候小生八日夜行か九日一番にて上京連れ歸り可申其英際御目に懸り色々御話し申上度候アララギ二月號痛快に早く出で欣喜雀躍致し候齋藤君の熱は何に向きても斯樣に熱く有難く候この熱に追々深みが出で候事特に欣しく存候牧水に對する文章は當然に候小生ならば今つと冷やかしてやり可申候牧水も存外簡單の器械らしく候中村も大へん歌よくなり候齋藤や中村はどうもえらく候山田邦子にも感心致し居り候君の早稻田文學アララギの歌大體の傾向うれしく拜見特に姉(196)さんの紫蘇《しそ》つみ、弟さんの兵隊よろしく、烏の聲が聞えないといふ歌、氣ぬけしたる顔の歌、兵營にてつつましくするといふ歌、敬禮の顔を崩した歌等氣に入り候 二月四日夜
二九〇 【二月十日・端書 東京下谷區池之端小川眼科醫院より 信濃下諏訪町久保田政信氏宛】
小生の都合にて一日延期の事になり明十一日夜行にて出立十二日朝八時頃上スワ著と御承知下され度眼の方別に變りなく元氣よろしく候家に歸れば全く素人療治にてよろしく處方箋を貰ひかへる筈に候注射は出來ぬからすり込み可致候西の六疊を政彦の室に御當て置き下され度候只今電報出し申候 二月十日
二九一 【三月九日・端書 上諏訪町より 湖東村小學校 藤森省吾氏宛】
忙しくてユツクリ話せず遺憾也君の話した過日の事絶對に斷念せよ。今は君は自力では考へ切れぬであらう自然に任せる外ない時ではないかどうかさう思へかし 三月九日 俊彦
二九二 【三月十五日・端書 上諏訪より アララギ會員宛】
百穗畫伯が「アララギ」のために從來盡して下さつた好意は私共の衷心感謝してゐる所であります御承知の如く「アララギ」の經營は貧しく哀れなものであります經營費の不足が今年二月迄で二百圓位になつてゐます畫伯は夫れを救つて下さるために畫を描いてその收入全部を「アララギ」に寄附して下さるといふ事になりました畫伯は今迄賣るために畫を描いた事は一度もありません私共の感激は實に譬へやうもありません左記規定により同志御勸誘の上三月三十日迄に御申込願ひます
一、絹半切 十圓 紙五圓
(197) 一、申込と同時拂込みのこと(但月賦は三ケ月は以内のこと)
一、信濃の方は上諏訪布半方久保田俊彦に申込
一、成品は申込順に發送のこと
大正三年三月十五日 齋藤茂吉 古泉千樫 中村憲吉 久保田俊彦
二九三 【三月十七日・端書 信濃上諏訪町布半より 東京本郷區菊坂町菊富士本店 中村憲吉氏宛】
三月十七日夜書ク
何モ彼モ御返事忘レ居リ申譯無之候小生ノ上京ハ分ラズ居リ候モシ上京シテモ君ガ居ラネバ寂シク候モシ上京シテ君ガ居ラネバ君ノ轉地ヘ訪ネ行キテモヨキカ
明日ヨリ彼岸ニ人リ候信濃モ梅ノ芽赤ラミ柳メグミテ寂シク候
今ハ君ニ只々逢ヒタクテ堪ヘラレズ候。アヽ君ヨ、今ハ君ニモ私ノ胸ハ永ク告ゲラレズナリ候イカニ悲シキ運命ニ君ト小生トハ生レ來ツラン。ドウカ永久ニ哀レニ見守ツテクダサレ度候
例ノ件心配スナソシテ健康ダケハ注意ニ注意シテクレヨ
三月十七日夜又書く
君の體は必健康になる事を眞に信ずる天地神明に誓つて信ずる私は嘗て或る人の病氣にも直に直覺的に左樣信じたそしてそれは慥であつたそれは確かの話である私は君の身體に少しも危惧の念はない只輕々しく體を取扱つてくれるな是れ丈け眞面目に眞劔に頼む
君に始めて逢つたのは明治四十四年のはじめであつた二人して始めて逢つて望月の村へ行くとき寒い風に吹かれ乍ら色々と話したそしてその晩淺間の小柳の湯に宿つて夜の一時頃迄話した師範に金原さんを訪ねたのも其時で(198)あつたあれから未だ滿三年しかたゝないのか。僕は少くも十年もたつた心地がする君には天地間の何物をも打明けるつもりで居たそして今は君にも打明ける事の出来ない私となつた。君よ、是れが眞の運命だどうか一生僕を見守つてくれよ悲しんでくれよ胸の中が泣き出しさうになつてゐる毎日夫れをこらへてゐる琴の音が今夜胸の中を撫でるやうにくすぐるやうに響いてゐる
二九四 【三月二十三日・封書 上諏訪町より 湖東村小學校 藤森省吾氏宛】
謹呈斷然思ヒ止マツテクレヨク靜ニ考ヘロ少クモ今一年考ヘロ靜ニ冷ニソシテ序ニ湖東ノコトヲモ考ヘテクレ全然私ノ言ニ賛成シテクレタノム 三月二十三日 俊彦
下ツテ來テ一晩話シテクレ郡視學ガイフノデハナイゾ
二九五 【四月三日・端書 信濃上諏訪町布半より 東京本郷區菊坂町菊富士本店 中村憲吉氏宛】
御書面度々奉謝候
小生三月限り退職相成候へば四月半には出掛可申滿事御心配願上候彌々浪人と成り候御察し被下度候信濃を去る心を察してくれよ君には察して呉れらるゝと思ひ候(下略) 四月三日夜
書簡集 後篇
(201) 大正三年
二九六 【四月十五日・端書 東京小石川區上富坂町二十三いろは館より 信濃諏訪郡湖東村小學校 藤森省吾氏宛】
未だ落付きません阿部さんの「三太郎の日記」が出たやうです一つ讀んで見ませんか君に是非勧めたい氣がしますすべて御自愛を折ります 四月十五日
逢はずに來て殘念に思ひます遊びに來る氣になりませんか
二九七 【四月十五日・端書 東京小石川區上富坂町いろは館より 信濃諏訪郡本郷立澤小學校 秋山紋作氏宛】
御見送被下奉謝候御自愛祈上候 四月十五日
二九八 【四月十六日・封書 東京小石川區上富坂町二十三いろは館より 信濃上諏訪町 兩角喜重氏宛】
毎日毎夜雜誌の編輯やら相談やらで暮して居りますそのため博覽會も何處も見ません在郷中の御厚誼只々感謝の外ありません昨夜も一昨夜も齋藤中村等と君の話しが出ました深く感謝致します
誠に惡いのですが記念品料の集まつた金を差し上るとして六十圓許り工面して下さいませんか此上に心配かけるのは心苦しいのですが百穗さんの畫會の金を悉皆つかつて來ましたから東京で今直ぐスケツチ會始めるのに事業(202)費一文もありませんから著手に困るのであります蓋會の金は四百圓位は集りますがそのうち二百餘圓をアララギに貰ひ殘りでスケツチ會を直ぐ實行する事に致しました(百穗茂吉憲吉と相談の上)今の處集つてゐるのは私の集めた丈です其金が今急務になつたのであります此手紙を五味先生三村斧吉君に見せて頂いてもよろしくあります利息付いてもいゝからほんの臨時御心配出來たら願ひたくあります記念品料がそれ丈け集らねば何とかして御返し致します右急ぎ御願迄匆々 四日十六日 俊彦生
兩角兄貴下
教育會には出られませんでしたか今は中止ですか昨夜手塚が一寸來ました私はアララギの外スケソチ會に全力を集中するつもりです女學校の方を事によれば止めて捨て身になります
二九九 【四月二十五日・封書 東京小石川上富坂町二十三いろは館より 信濃上諏訪町 兩角雉夫氏宛】
御無沙汰致し候アララギ四月號未だ出ず奮慨の至に候五月號を休み六月より齋藤と二人で編輯し必一日にキチンと出し可申決め候何卒御助力願上候編輯局も移し可申古泉やゝ不平なれども詮方無之候會計の方も非常に不整理にて困り候是も小生一人にて引受け今年中には必會計を獨立させて見せる心算に候齋藤が洋行すれば今の樣にては潰れ可申どうしても今年中に獨立させねばならず全力を傾注可致此點よりも御助力願上候
百穗さんの畫は五月上旬に一切出來て發送の事に相成り已に著手され居り候へば金の集まるものは集めて御送被下度實は此處にて四月號へ少くも五十圓を拂はねば具合惡しく候上諏訪で今少し仲間あらば御作り被下度候(無理するに及ばず)月賦にて宜敷候齋藤が非常に熱心にて有難く存候
東京未だ忙しく博覽會も見ず今夜も原稿書きかけ居り候諸君によろしく願上候
阿部次郎さんへも行かず居り候今に行き可申君は何時頃來られ候哉待上候學校の方は如何やゆる/\御始め被成(203)が宜しく候そして無盡の人名一寸御知せ被下度禮状を出し度候色々御厄介相成實に謝し居り候守屋東京にて風邪し寢て居り候併し大したる事無かるべく候此間は御送金下され息を致し奉深謝候御令閨樣にもよろしく匆々不一
四月二十五日 俊彦
雉夫兄
三〇〇 【四月二十六日・封書 東京小石川上富坂町二十三いろは館より 相模國鎌倉町海月樓方 中村憲吉氏宛】
堀内からも此間の小生の手紙に對し何も返事來らす返事來ぬ方よき點も有之候
拜啓今お葉書と共に松本から手紙著き候間御送申上候而して全く無根なる事彌々確まり安心の至に候手紙御一覽下され度候前の三浦君も此の武野君も極めて眞面目の人にて充分信じ得べき人物に候へば御安心可然と存候
鎌倉からの御たよりは何だか悲しき心地にていつも拜見致し候どうか御攝養下され度色々考へぬ工夫願上候桐軒君の方う急く行かぬ由家は借り得たるか私も毎晩へんな心地にて眠り候併しよく眠れ候是れが小生のよき所に候悲しき手紙を肌につけて寢候馬鹿らしきあはれなわけに候而して昨日より一心作歌して居り候大分よきもの今度は出さうに候もう二十位纒まりかけ候併し雜誌へは出されぬ材料に候或は詩歌へでも出さうかと存候
アララギ未だ出ず候二三日前齋藤と二人で古泉の處へ行き編輯局變更の事を談判致し候齋藤君大へん苦痛らしく見え候而して古泉は多少不平らしく候これが古泉君の惡しき缺點の所に供そして編輯局を齋藤の處に移す事に話し四月號へその事廣告する事にして話を結び歸り候齋藤の處にて極力手傳ひをして必一日に發行可致決心候五月號はとても一日には出ず(四月號が今出ぬのだから)依て五月を休刊して六月號から正確に出す事に致し候小生の腹の中にてはアララギは今年中に必經濟の獨立を成就せしむるつもりに候左樣の決心にて懸り可申候然らざれば濟藤も洋行すればあと成り立たずなり可申と存候金を月末に印刷所へ五十圓はやり度いと申し候そして小生の下(204)宿料も今手に一圓ばかりと成り候此間御話しの方のお名前を忘れ候(御下宿も)どうか直ぐその方へ御申遣し被下度御依頼申上候此間の殘金は平福さん御歸國にて急に皆さし上け置候幾日も一室に籠り胃の加減少し惡しく候今日午後上野へでも歩かうかと思ひ候。時々ハガキ呉れ寂しいから左樣なら 四月廿六日正午頃 俊彦
憲吉兄
三〇一 【四月二十九日・封書 東京小石川區上富坂町二十三いろは館より 信濃國諏訪郡玉川村神ノ原 原田泰人氏宛】
拜啓樺上京後心落付かず失禮して居り候君は色々心配が重なるやうなれど一面から洒脱坦懷の修養が肝要に候兩面を備へざる修養は動きのとれぬ融通の利かぬものとなるべし此の邊尤も御潜心必要と布候餘り悲哀に執せぬ態度必要と存候河西清水土田横山皆熱心に進路を拓き居り候事嬉しく候アララギ四月號はやつと五月一日に出で可申五月號は休刊し六月號より濟藤と小生と二人で專心に編輯すべく是にてアララギも一段落つき申候盛に御助勢被下度候今度は毎號一日に出候事確實に候御喜び被下度丑助君たちにも一寸御話し被下度候そして經濟の方も今年中に必獨立させて見せる決心に候然らざれば齋藤洋行すれば潰れ可申と存候
〇小生上京につきとんだ御心配相掛何とも感謝の外なく深く御禮申越候右御禮やら報告やら御願やら取交ぜ匆々謹言 四月二十九日夜 久保田生
原田泰人君 貴臺
百穗さんの畫は五月上旬悉皆出來可申猶他に希望もあらば申込ませ被下度候
三百二 【五月四日・端書 小石川區上富坂町二十三いろは館方より 相模國鎌倉町坂ノ下海月樓 中村憲吉氏宛】
宿は定まりしか小生も近頃一人で堪らぬ今日一日中引籠りふとん著て居れり私の頭だん/\馬鹿になりさう也肖(205)像大へんよしよく描いたと存候昨夜アララギ批評會をやり八人集れり僕の歌大に叩かれ痛快に存候實際いけぬ事あり小生も實際左樣思ひ候今日は少し歌作りしも手紙來て又考へ出し遂寢てしまひ候長塚さんから來てくれと今電話あり今夜行つて見ようと思ひ候何だか氣の毒に思ひつゝ今日迄行かず外へ出る氣がせず困り候君の宿は定まりしかどうなりしか頭はよくなるかどうか毎日か二日に一度かはがきくれてくれよたのむ 九月四日
松本へは直ぐ送り申候
三〇三 【五月八日・端書 東京小石川上富坂町二十三いろは館より 信濃諏訪郡豐平村御作田 兩角波雄氏宛】
歌を今日一通り拜見致しましたそして君の強烈な主觀は例によりて嬉しく拜見しましたがその主觀を遺憾なく現す方法について今つとずつと多くの錬磨をせねばならぬと思ひます此點より見て萬葉集の研究は非常に必要と存じます藝術は何に限らず根柢となるべき或階梯の練習が必要であります繪がの寫生に似たものが歌になければならぬのです萬葉集を研究すると共に寫生の歌の練習をするのも必要と思ひます子規先生の歌集も研究して頂きたい田中君にも萬葉集を研究するやう御話し被下度候 五月八日
三〇四 【五月八日・端書 東京小石川區上富坂町二十三いろは館より 信濃諏訪郡豐平村下古田 長田林平氏宛】
拜啓アララギは古泉君から御送致し候事と存じ候御歌稿以前拜見致し候頃よりも非常に進まれ候事と存候どうか純一無雜の感性に住して專念御作りあらん事を祈り候と共に寫生の歌を基礎として御練習の程御勸め申上候寫生は畫ばかりで無く歌にも文章にも必要と存じ候アララギの新しき作家が未だ人眞似を脱せず借著の觀あるは缺點を斯の如き所にも有する事と信じ申候 五月八日
(206) 三〇五 【五月十一日・封書 東京小石川上富坂町二十三いろは館より 信濃國諏訪郡金澤村 小林善一郎氏宛】
拜啓職員諸君の御餞別を賜り恐縮に不堪折角の御厚志恭く拜受仕り候
次に百穗畫會の金五圓及び會費一圓七十錢も慥かに受取申候百穗氏のは今月中には御送可申上候アララギは南安曇の方へ御送申候事と存候(古泉君発送せし故君の轉任を知らず)四月のアララギを五月になりて發行せし如きブマを致し候に依り五月號を休み六月號より一日に必出し可申六月號は革新號として七八十頁と相成可申從つて五月分會費を會員より出して頂く事に致し候間是又御承知被下度候次に過日御依頼申上候件君の手にて何處よりか求め得る事出來ず候哉成るべく過日申上候額を望み候萬一不可なれば半分にても宜しく小生より貴兄證文を入れ確實に致し可申餘り御發表無之樣願度候少くも今月中に相願度如何に候哉甚だ恐入り候へ共御周旋方御盡力願度候
◎此件御見込可成早く御返事被下度願上候
六月御上京のよし御待ち申上候穗屋社奉納額の件俳句の人々に任せ候方よろしと存候歌を額にして社外に曝し候事へんな心地致し候御返事旁重ねて御依頼迄匆々 五月十一日 久保田生
小林君
どうせ借り候事に候へば全額御盡力願度候
三〇六 【五月十六日・封書 東京市小石川區上富坂町三いろは館より 信州小縣郡武石村 中原しづ子氏宛】
御書面拜見仕り候御安心の状を想見して喜悦仕り候東京の空毎日雨にて鬱陶しく空の星も見ず居り候毎日籠居の折から御便拜見欣び申候太田喜志さんには一切御話し申候喜志子さんは胸晴れたるらしく喜んでくれ申候喜志子(207)さんは存外驚かぬ人に候色々の苦勞といふ苦勞を經し結果かとも思ひ候へ共性質にも可有之と存候苦しみ拔いての平氣は貴く候貴下よりの手紙を大へん待ち居られ候模樣に候そして中原さんはズンと強くなる所なかるべからずと申し居られ候非常に貴下の事を心に掛け居る樣子に候六月號のアララギへ歌を下され候貴下もどうか相變らずアララギ御覽下され度その位迄には強くなりて頂き度存候六月號は八十頁以上になり非常によき原稿有之候(長塚さんの評論木下杢太郎さんの文章四人の萬葉輪講前月號批評會記事齋藤君の文章等)十五日に民友社へ九分以上送り候へば廿八九日頃或は出るかと存候貴詠も七月號分六月五日迄に御送被下度願上候
長塚さんの婚約ありし人(四年前)長塚さんの結核病に罹り候と共に破約相成候處(四年前に)今年二十六才に至る迄何れの縁談をも拒絶しそのうちには工學博士等よりの申込もあり父兄は非常に勸め候由に候然るに今日迄毎日家に籠り服裝も繕はず今囘長塚氏入院につき二三囘訪ね来り長塚さんも非常に感激しその娘さんの兄も(醫學士)感激して茲に或は婚約復活相成べき模様長塚さんより今夜詳しく聞き入り小生も大へん亢奮致し候只今長塚さんより歸り此手紙相認め候序に一寸記し上げ候小生大へん嬉しく心から此娘さんに感謝致し候女子大學出身の方のよしに候乍併此儀御他聞御控へ被下度候切に御自愛の程祈上候毎日の雨に飽き入申候御家内皆々様御無事に候哉宜敷御傳聲願上候匆々以上 五月十六日夜十一時半 久保田生
中原様貴下
別紙御覽被下度候
三〇七 【五月二十一日・端書 東京小石川上富坂町三いろは館より 信濃下諏訪町高木 久保田不二氏宛】
只今齋藤君を訪ねて詳しくお聞き申候處腎臓病は二週間位全く絶對的安靜を保たざれば經過心配なり大小便も床の上にて辨ずべし少しにても動くべからず此の爲には如何なる犠牲をしても安靜ならざる可らずそのため入院す(208)るも宜しからむ(家にては少しづつ我儘する故)而して食物は二週間許り全く牛乳のみにて過し得れば尤も宜し卵その他のものは惡し鹽からきもの米の飯も惡しもし不可ならば粥か重湯位なり此儀嚴重に守らざれば甚だ惡しとの事右至急申上候其後の經過御知らせ下され度待人り候 五月二十一日夕方
三〇八 【五月二十二日・封書 東京小石川區上富坂町二十三いろは館より 長野縣諏訪郡中洲村神宮寺 笠原常次郎・笠原長兵衛氏宛】
拜呈承り候へば御老父樣には御病氣の處養生叶はせられず御永眠被遊候趣國元より通知に接し驚入申候嘗て御重病後全然御恢復引續き御壯健今年は金婚式御祝典と承り竊に御喜び申上居り候處突然御訃音相承り深く御悔み申入候御老年の御事とは申乍ら皆々樣の御哀傷遙に御察し申上候謹で御弔詞申上候匆々謹言 五月二十二日
笠原常次郎樣 笠原長兵衛樣 御一統樣
三〇九 【五月二十三日・端書 東京小石川上富坂町二十三いろは館より 信濃諏訪郡湖東村小學校 小尾喜作氏宛】
色々御心配下されて有難うございますいつ御上京ですか御待ち申します私毎日女學校の方も勉強して一日も休みませんから御安心願上ます昨日からアララギの初校正に入りまして大へん忙しいからこんなハガヰに認めます九十頁になりましたそして賣る丈けはどうしても賣らねば困ります今年中に經濟を獨立させねば齋藤洋行後は潰れてしまひます今度は雜誌は二十八九日頃に出來ます非常にいい雜誌になります少し歌送つて下さいそして今月中に少し集めて送金して下さい願上ます御上京の上種々御話申上ます北山へは今ハガキ出しますどうか集めて下さい少くてもいい 五月二十二日
三一〇 【五月二十三日・端書 小石川上富坂町二十三いろは館より 本郷區菊坂町菊富士樓本店 赤桁平氏宛】
(209)○第一首 日は眞晝この野の驛にそはそはとわれ立ち下りてすべを知らねば
○第三首 野の遠は亞鉛の屋根の尖り秀に嵐明か明か光りにしかな
〇第六首 家かげは霜凝る土のかたまりに嵐かすれて明るかりしも
〇第八首 夕まぐれ林檎をむきて宿の兒にやる心中は哀しきろかも
右朱の所校正の際御訂正願はれ候はゞ有難く存候亂筆匆々
題目も「林檎をむきて」と訂正して頂き度御厄介申譯なく候 五月廿三日夜
三一一 【五月二十五日・端書 東京小石川區上富坂町二十三いろは館より 相模國葉山堀内鍵屋方 中村憲吉氏宛】
御ハガキ拜見政彦餘程快き由父と醫師離とから知せて來た未だ旅へは出るなと醫師から注意して來た併し大分安心になつて來たから心配せずにしてくれ玉へ昨夜は御葬式を拜して青山に泊つた曇りの低い街の灯を暗くして御轜車の通る音は非常に有難かつた石原さんの會を廿七日午後五時頃支那料理でやるさうだ是非來ぬかアララギ六十八頁初校來る卅日には出來るだらう 五月廿五日夕方
三一二 【五月・端書 東京小石川區上富坂町二十三いろは館より 信濃上諏訪町角間町 河西ますえ氏宛】
過日は詳しい御手紙を頂いてうれしく有難く存じます私からは何も申上けず誠に申譯ありません東京へ來てもさつぱり何處へも出ません博覽會も見に行きません毎日引籠つて居ります併し體は丈夫ですから御安心下さいアララギは四月號遲刊のため五月號は休む事になりました六月號からは必キチンと一日に出ますからお待ち下さいそれから六月號へは五六月を收めて頁數を増しますから五月分の會費も六月に一緒に出して下さるやう願ひます甚だ失禮と思ひますが本年中に經濟を獨立させて見たいと思ひますそして私は愚痴ですから子供が氣の毒で困りま(210)すどうか學校で三人の子供をいたはつてやつて下さい頼み上げます
堀内吉田諸君及び女の方御一同へよろしく願上候
三一三 【六月五日・端書 東京小石川區上富坂町二十三いろは館より 信濃東筑摩郡廣丘村堅石 三村りゑ氏宛】
拜啓入會して下さつてうれしく存じます澤山御投稿願ひます廣丘は私の一生中最も印象を深く止どめた土地でありますもう紫雲英は刈られて榛の木の若葉がいゝ時でせう御上京ありませんか 六月四日夜
三一四 【六月六日・封書 東京小石川區上富坂町二十三いろは館より 信濃松本市外新橋 胡桃澤勘内氏宛】
拜復
一、畫とんだ事致し荷造の不注意深く御詫申上候百穗先生に願ひ今一枚餘計に書いて頂き可申候間夫れ迄御待ち被下度候百穗さんにも濟まずと存じ大へん惡しき心持いたし候詮方無之候
一、一つ厄介にても松本平の會費徴集書店三軒雜誌代金徴集一手に御統轄被下度支部といふ名はどちらでも御便宜御取計被下度候此事齋藤中村二君と相談致し候諏訪と長野の方は今迄會費徴集大へんうまく參り候へば松本平を君からやつて頂けば信州は夫にて殆ど盡し得る事と相成アララギには大へんうれしく存候何卒御願申上候會員名は左に列記可致候何月迄納入濟なるか古泉君どうしても會費徴集簿をよこさす困り候到底望みなしと存候間單に御催促被下候上送金の際本人に何月分なるかを記さしめられ度ウソは言はざるべし(分ラヌノハ四月迄濟トシテクレ玉ヘ)アララギの會計も如此状態にては何時迄も整理すべからず此處にてウンと刷新を要し可申候スワの方は何月迄齋むといふ事分明致し居り候松本平分は殆ど分らず候
書店是に準ずそして書店の言を信じて金御徴し被下度願上候
(211) 松本市外 ○胡桃澤勘内 【女】池田町 ○金原よしを 同 ○松島義治 同 ○柳澤茂樹 北安松川村 ○榛葉嘉一 島内村 犬飼覺 松川村 一柳勝一 【女】北安會染村 櫻井みね 南安東穗高村 西澤本衛【西澤君は脱會すると言ひしもまあ雜誌は送り居る】 大町 百瀬愼太郎 廣丘村郷原 鹽原常雄 倭村 松岡虎生 東筑中山村學校 青木ゆきい 廣丘村郷原 牛丸與茂藏【六月入會】 【女】同堅石 三村利惠【六月入會】 同吉田 赤津源治【七月ヨリ入會】 以上十六人〇印は特別會員50錢の人也
鶴林堂毎月4册 松榮堂同3册 明倫堂同5册
以上の人と書店へは小生及び齋藤古泉中村の四人連名のハガキ書きて東京より出し可申候間御承知被下度候御参考までにハガキ内容
一 會費徴集一切【松本市外新橋】胡桃澤勘内に依囑の事 一 毎月十五日迄に胡桃澤に送附すべきこと
一 振替口座等巨細は胡桃澤より知らすること 一 可成會隱入會勸誘依頼の事
右甚だ亂筆なれども今は夜の二時過ぎなり御赦し被下度候是からうまく行けば會費毎月五圓八十錢を得べしアララギには萬人の應援に候そして雜費は遠慮なく差引いて送つて下さい
長塚さん君に御無沙汰と常々申居り候明日福岡へ出立可敦候
中學校出の新しい人師範出の新しい男女女子師範の生徒等最も有望の會員と存候御勸誘方御考へ被下度願上候併し強ひて方法を作るも惡しく可然御考へ被下度毎月批評會の會合するは大へんよき事と存候
六月號は何だか大へん景氣よく今日も岩波書店より主人來り賣切れしと申されしも殘本小生に一册も無之といふ状態に候先以て御喜び被下度長塚さんも大へん氣乘り致し居り候同氏の七月號の歌大へんよろしく候驚入り候是にて要領を盡したりと存候もし遺漏あらば御申越願上候あら/\かしく 六月六日夜二時三十二分 赤彦生
泣崖樣貴臺
(212) 通牒文の原稿は御返し申さずとも宜敷からん
三一五 【六月八日・封書 東京小石川區上富坂町二十三いろは館より 信州小縣郡武石村 中原しづ子氏宛】
拜復原稿正に落手心に滲みて拜見致し候初夏の暑さ甚しき折柄信濃は既に蠶の時節に入り候由炎天に桑畑へ出で候事體に差支へず候哉深く/\御注意被下度暑にあたり候はゞ困り可申力に任せて勞働は惡しく候へば(御家のためにも惡しく候へば)御注意大へん肝要と存上候何もかも餘程のんきに御考へなされ候樣祈上候御家族皆々樣御變りも無之候哉東京は信濃に比し大へん暑く晝は殆ど裸かにて過し居り候會費御送り被下奉謝候アララギ大へん賣れ東京堂岩波書店皆賣り切れ只今は小生の處に一册も無之候新入會も増加し此分にては一ケ年中には餘程景氣よろしかるべくと喜び居り候會員四五百人になり候へば小生一家を構へ老婆一人雇ひて生活せんと存候御同志も御心當り候はゞ御勸め被下度願上候何もかもくよ/\せず快活に心強く御暮しの程肝要存上候
齋藤君元氣よく暮し居り候中村君海邊より歸り(葉山に居れり)目下試驗にて忙しがり居り候古泉君には少し困り居り候何れ又御話し可申候東京信州同人皆丈夫に候間御安心被下度成るべく多く御通信被下度待上候小林さんにもよろしく願上候小生室外衣更けには葉ずれの音さやかにて寂しさ加り申候かへす/”\我慢せず無理せず御自愛祈上候 六月八日午後 俊彦生
志づ子殿 御もとへ
別紙三吉君の模樣御笑覽々々御忙しと存候へ共近状御知せ被下度候
三一六 【六月十七日・端書 小石川上富坂町二十三いろは館より 小石川大塚窪町二十若山牧水方 守屋其翠氏宛】
昨日は失禮致し候雨のもの一本しか無之何とかして御序の節御屆け願上候 六月十七日夜 赤彦生
(213) 三一七 【六月二十七日・封書 東京小石川區上富坂町二十三いろは館より 信濃諏訪郡豐平村御作田 兩角七美雄氏宛】
拜啓早く手紙書かんと思ひつゝ校正手間取れ今日やつと民友社に齋藤君と二人で濟まし歸宅仕り候これで一日迄には大丈夫出で可申候徴兵檢査は如何相成候哉心に掛り候兵役といふ事本當の御奉公にて當籤の人は隨分苦勞の事と存候併しあの生活も一つの經驗には充分相成可申と存侯(小生も四十二日間兵營で生活致し候)
今度の貴詠大に嚴選致し候君としてはもうそろ/\一足踏み出して貰ひ度き感有之候故在來のものと餘り替らぬやうなもの思ひきりて捨て申候誰もさう急に變化は出來ず候へ共何時迄も同じ圏内に「足ぶみ」なして居りてははがゆく候「前へ進め」といふ號令が掛り可申候御參考のため朱書記入御返申上候御意見も候はゞ御申越被下度候尤も〆切後に今一通屆き候へ共夫れは忙しくて未だ見るを得ず更に來月五日迄に御送被下度待居り候君の歌には非常に大きな特徴あれども現し方や感じ方にもはや一足を踏み出すべき時來りて居りと存候御考へ願ひ候次に永田敏貞君の死去誠に氣の毒の事致し候小生も一度逢ひし事あり青春の人をむざむざ死なし候事堪へ難き悲痛に候あの君の原稿屆きて間も無く死去と聞き駭き入り候あの原稿の歌大抵よく候君が少しは手を入れしか御序の節御知せ被下度候今夜已に一時半に候是にて失敬匆々以上 六月二十七日夜 赤彦生
七美雄君
猶博君登君によろしく願上候猶博君脱會の通知來り候惜しく候
3首
大きな畦ずうつと塗られてみづみづと晝の陽そそぐもとなりしかや 第五句充實せず
大きな畦塗りて男はたちたれば空遙々と夏となりぬれ 取れぬ事は無いが従來の七美雄としては更に深く突き進んで貰ひたし
(214) あつぼつたき夏こそ來れと瞑れば草のいきれの流れたらずや 第二首と同樣の感あり
泥々の水の流れの絶へまなけれ思い入りたる面なるらん?
眠るらん凝《じつ》といきづき居りたれば地面ひそかに吹き來る風よ
新らしき畔を歩める百性の女の足に風たつらんぞ 足を何故今つと鮮やかに現さゞりしか無理也
きらきらと水を出で來し虫なれば畦のとんばは凝つと動かず 無理也
水面に夕陽爛れて今はいまどらんらんとぞおどりたるかな 言語勝ちすぎて現れ方不足也
三一八 【七月二日・封書 東京小石川區上富坂町いろは館より 信濃北安曇郡池田町丸十方 金原よしを氏宛】
よしをさん、病んだと聞いて特殊の悲しさを抱きました青吾君から少しいいとハガキ下さつて多少眉を開きましたそれから後はどうですか遂病みましたか矢張り弱い、強い人でなくてはなりません強い心で生活して下さい其後どんなであるか無理して學校などへ出てはいけません青吾君が代理に行つて下さるのはあなたの大きな幸福の現れであると深く思つて下さいそして一心に注意して早く治つて下さい廣丘に私の居る頃あなたは矢張り弱かつたその後色々の苦しい道を歩いた何年も疲れの道を歩いた今度の病氣はその疲れから一時休息して更に新しく元氣よく踏み出す機會になつて下さい此の一夏は病人のつもりで遊んで下さい只今の模樣一寸御知らせを願ひます私は病みません束京は大へん暑くて少し困ります夫れでも必病みません此上病んで溜るものですか一心にさう思つて居ります必病みませんアララギ見られましたか追々によくなりさうで喜んで居りますあなたの今度のは少しなげやりに作られた點がありました數が少くて大へん心苦しかつたがあれ丈けにして置きましたもしあれから後に作つたのがあらば青吾君か櫻井さんかに書いてもらひて十日前迄に御送下さい願ひます歌などどうでもいいからどうか一日も早く全快したいといふ知らせを書いて下さい色々は又追々申上げます 七月二日夜 赤彦生
(215) よしを樣
君の原稿(成るべく秋風の歌批評)矢張り十日前迄に御送り下さい茅野昌栖が創作で大分私を槍玉にあげました昌栖は齋藤の歌評も古泉の評も丸で無茶です「性きの力」の歌が解釋出來なんでゐるのだから驚く 赤生
青吾君
寺島君は川端研究所でデツサンを習つてあと月に三日許り百穗さんの處へ行く事にきめました
三一九 【七月三日・封書 東京小石川區上富坂町いろは館より 信濃小縣郡武石村 中原しづ子氏宛】
拜啓養蠶も切り拔けられる由身體の恢復非常に確かなるを祝し申し候併し大へん御疲勞の事と奉察候あとを病まぬ工夫大へん必要に候東京は暑さ頓に嚴しくやゝ凌ぎかね候併し壯健に候間御安心被下度候此の上病んでは溜らず必病まぬ決心に候アララギ御覽の事と存候小生の歌相變らず惡しく今に何とか成り可申と存候貴稿後半は少し後に出し候方宜しくと存候へ共貴兄如何十日迄に少くも一段分(成るべく一頁)御送被下度願上候貴詠よき歌に候へ共今少し字句を鍛錬する必要は有之候小生のも是れが不足して齋藤君大へん氣に致し候實は少し位の字句必しも全生命に響かぬ事も候へ共我等としては充分反省せねばならぬ事と存候(特に短歌として)それで萬葉集も又少し見る氣になり候金原さん病氣よき方のよしうれしく存候あの人も誠に氣の毒に存候
束京は學生は國に歸り私方もめつきり人少くなり候河西清水等皆已に歸國致し候アララギ大變に賣れ先月號はもう一册も殘らず候今月もよく候併し他の雜誌へは黙り居るやうに申し合せ居り候茅野昌栖といふ男例により頭より尾迄判らぬ批評致し候相手になるも馬鹿々々しければまあ黙殺せんと今日二三人して話し候この男齋藤君の歌を欣びの歌と思ひ居る事噴飯に候古泉の子供死にし歌の批評をし乍らその歌が分らずに居るらしく驚き入り候併し小生いま/\しく思ひ候牧水もあんなもの雜誌にのせては困る事に候まあ/\よしくだらぬ事迄書き竝べ申候(216)御大切祈上候匆々以上 七月二日夜十二時卅五分 赤彦生
信濃峽の村にて
しづ子殿 御もとへ
三二〇 【八月二十三日・端書 東京小石川區上富坂町いろは館より 信濃下諏訪町高木 渡邊伊三郎氏宛】
歸國中は萬事失禮のみ仕り申わけ無之候出發の際はとんだ御厄介樣相成何とも御禮の詞を知らず深く感謝仕り候昨夜著京今日よりアララギ校正にかかり申候出來候上一部進呈可仕候先は御禮のみ申上度如此に候 敬具
御令閨樣にもよろしく願上候留守中何分萬事御心添のほど願上候東京は以前に比すれば大へん凉しく相成候併し夜も裸體に候 八月二十三日
三二一 【八月二十九日・端書 東京小石川上富坂町いろは館より 信濃諏訪郡湖東村小學校 赤羽豐二・横山重氏宛】
十月短歌號の歌非常に澤山御作り下され度世界を驚かし可申候私毎日作り居り候九月號の御感想御知せ被下度候匆々 逢ふ人毎に作れと御申し被下度候 八月二十九日
三二一 【八月三十日・封書 東京小石川區上富坂町二十三いろは館より 信濃諏訪郡湖東村小學校 藤森省吾氏宛】
小尾君輕快何よりうれしく存候いつか見舞ひしとき少し膨れし故心配せしに安心此事に候君もいろ/\で折角と存候へ共強くなりて御辛棒被下度願上候秋は是非出て來てくれ玉へそして一緒に歌澤か長唄か新内か富本かを聞き可申よき日取を注意して居り御知せ可申上其頃は小尾も出校し得べく少し今度は君が遊んでも宜しかるべく候東京暴風雨にて出水も有之候へ共大した事無之候十月號短歌號にせんと思ひ小生大奮發中に候五六十首作らんと(217)存候匆々 八月卅日夜十二時
藤森省吾様貴下
三二三 【九月二日・封書 東京小石川區上富坂町二十三いろは館より 信濃國諏訪郡豐平村御作田 兩角波雄氏宛】
拜復貴書よく拜讀致し候御同樣到底滿足に表現し得ぬ憾み充分有之此故に苦しく存候併し乍ら此不足を感じ候故に奮發も致し候事にて不足はすべての奮發の源泉と相成可申と存候御同樣前途猶遠き黄口の兒と深く思ひ入るべき儀と存候
御申越によれば過日上諏訪會の小生の詞何か不遜の事申上け候哉と不安に存候自分にては苟も歌の事特に他人の作に對して一點たりとも無責任なる言論を致す間敷覺悟に候而してあの時申上候事は皆小生の所感を眞面目に申上げしつもりに有之「つまらぬ事」を申上ぐるつもりにては自分丈けは無之儀に候へば貴君がつまらぬと御感じ成され候點巨細御知せ被下度小生としてよき反省とも相成り可申かと存候小生は他人の言論は眞面目に聞かねば氣が濟まずいゝ加減に聞きいゝ加減に言ひ候事尤もイヤに候輕薄な研究はせぬ方がましに候此點に於てアララギ同人は隨分議論致し候へ共イヤな感じ致さずうれしく思ひ居り候粗雜な言論をいゝ加減に發表して得意がり居り候幾多文士の氣風蛇蝎の如くイヤに候次に豐平會の名は多人數連名故左樣にして出し候へ共惡しければ十月號より止め可申大問題には可無之と存候歌會の歌は從來餘り多く出さず沼津の柞家歌會の如き二百餘首中よりあれ丈け出し居り候本當を言へば吾人の毎月發表し居る歌中長い年月に亙り生命あるもの何程有之候哉考へ來れば哀れに思はれ候要するに雜誌を作り候事は只吾人が歌を勉強する道具たるに過ぎず吾人の到達點は猶遠き前途に有りと深く信じ申候歌數の多少の如きは第二第三以下の問題と存候併し乍ら第二三の問題なりとて閑却すべきに非ざるは當然の儀に有之候御意見御待ち申上候匆々以上 九月二日
(218) 上諏訪歌會の歌十月號へ出し可申候
三二四 【九月二日・封書
御無沙汰致居候殘暑劇しく奈良井川の砂猶燒け候事と想像致し候水と草と多き低地の御家思ひ出し候これから秋は寂しかるべく候東京も夜の虫しげく秋づき申候御歌拜見十月號は短歌號に致し候故今三四首御送り被下度丁度一段に組み得べく候御歌柄素直にして要を掟へ居り候事いつもうれしく拜見致し候中村齋藤等と時々その話致し候アララギ女作者皆まじめにて輕薄ならず所謂新しがる連中と相違致し居り候事心強く思ひ居り候この夏は久し振りで廣丘へ行きあなたにも御逢ひ致し度思ひ居り候處東京の方アララギ校正にせき立てられ松本へは行きしもそこにて一泊翌日上京してしまひ惜しく存候どうかして此秋は廣丘より木曾へ行き度思ひ居り候木曾へは毎年の秋に參り候王瀧川の紅葉は天下の逸品と存候何卒時々廣丘の秋色御知せ被下度候廣丘にて小生の歌は育てられ申候なつかしきは學校裏の林中に候林の中の青苔に候あのこけの中へ寢ころびし二年を感謝致し候學校を幾度も轉じ候へ共廣丘を去る時のみは泣けて/\しかたなかりし牛屋のおばあさんよき人にてよくそばを打ちいもをすりてくれ候事もなつかしく候寂しさにまかせくだらぬ事長々と書き連ね申候御笑讀下され度候歌は成るべく五六日頃迄に御送被下度御困りならば二三日位延びてもよろしく候横山重君昨夜東京へ歸られ候匆々以上 九月二日二百十日平穩 赤彦生
三村利惠樣貴下
三二五 【九月三日・端書 東京青山南町五ノ八十一アララギ社より 山形縣南村山郡本 村菅澤 結城哀草果氏宛】
拜啓特別會員御入會被下奉謝候九月會費正に拜受御禮申上候十月號よりは選歌を嚴密にし内容を充實させ度存じ(219)居り候會員少數なれども家族的に眞面目に研究し奮勵して行き度存候益々御奮勵被下度祈上候匆々以上
畫會入會は特別に畫伯に願ひ申すべく候御希望も候はゞ御申越被下度候 九月三日
三二六 【九月六日・端書 小石川上富坂町二十三いろは館より 信濃國東筑摩郡廣丘村郷原 赤羽豐二氏宛】
集金御厄介有難く存上候
原稿奉謝候Mも横山君より頂き奉謝候アララギも到底擴大せず今のにてよろしく候それで内容を今つと洗錬して選歌も少數の輝く光のみをのせ申度存候 九月六日
三二七 【九月九日・端書 小石川區上富坂町二十三いろは館より 深川八幡前宮川氣付 北原白秋・河野愼吾氏宛】
拜謝參上致し度さ山の如くに候處少々滯り有之今囘は其意を得ず殘念奉存候宜敷御諒承被下度皆樣へもよろしく願上候敬具
大へん殘念に候
三二八 【九月十九日・封書 東京小石川區上富坂町二十三いろは館より 信濃下諏訪小學校 塚田廣路氏宛】
今井兩角兩先生へ何卒よろしく御願申上候
御手紙下され奉謝候東京も追々秋づき暮しよく相成候信濃の秋色想見致候御令閨御子息皆々樣御變りも無之候哉小生至極壯健に候間御安心被下度候修學旅行には愚息も御厄介相成候歟と存じ候彼れ少々薄弱に候へば何分の御心添被下度何分願上候規律を亂す事も甚し充分御叱り下され度ポンとして人に後れチョコ/\して行衛不明の事有之右何分願上候東京にては是非御目に懸り可申待上候
(220)そして恐入り候へ共下諏訪の何れの店にてもよろしく候間六十錢の茶一斤御買求め御持來被下度御厄介乍ら願上候束京にて代金差上可申御承知被下度候東京の茶の小賣は非常に高く目下一圓のを飲み候へ共諏訪の六十錢に當らぬ位に候右御迷惑と存候へ共願上候鑵は澤山あり候間袋にてよろしく只途中にて移り香せぬやう御用心願上候新聞紙にて幾重も包み候はゞ宜敷からんと存候色々御願申度匆々以上
上諏訪で無くてよろしく候 九月十九日子規十三囘忌日 赤彦
塚田大兄臺下
若し萬一途中發病等の事も候はゞ小生へ電報下され度直樣參り可申候
三二九 【十月四日・封書 東京小石川區上富坂町二十三いろは館より 信濃國北佐久郡小諸町赤坂 唐澤うし子氏宛】
拜啓先程ハガキ出し候處今夜頻りに寂しく又手紙書き候小諸へ遊びしは今頃なりしか今少し後なりしかなど考へ申候今日池上の本門寺へ詣り稻の黄ばみしを見てなつかしく佇み申候行くも歸るも一人なり氣炎といへば氣炎に候アララギ怠り申譯無之候今日諸同人來り小生の留守にスッカリ整理してくれ奉謝候此手紙と同時に御落手と存候十月號は紙數うすけれども非常によき歌多く天下に誇示し得べしと信じ申候よく御注意下され度候萬葉集御調べ被下度願上候是れは大へん必要に候萬葉集略解ならば博文館出版のもの一二圓にて買ひ得べく候さし當り是より外仕方なく候時々御通信下され度候待上候匆々 十月四日夜仲秋名月 赤彦生
唐澤樣御もと
御上京等の事は無之候哉用も無きにこんな手紙出し失禮々々
三三〇 【十月四日・封書 東京小石川區上富坂町いろは館より 信濃國上諏訪町衣ノ渡 小尾喜作・同よね子氏宛】
(221)此間葦穗より聞き入り候へば少々惡しき由其の後の模樣如何かと心に掛り乍ら忙しく御無沙汰誠に申譯無之候過日はよね子樣より詳しく御知せ被下候處御返事も差上げず誠に誠に申譯無之決して忘れては居らず候間何卒々々御許し被下度願上候餘り心せき候はゞ惡しかるべく何事もゆつくり御構へ被下度色々御癪に障り可申存候へ共可成廣大に御考へ被下度此儀呉々も願上候其の後の御樣子一寸ハガキにて宜敷よね子樣より御知せ被下度貴君は筆など當分持たぬ御覺悟に願候今日アララギ用事終りヤツと筆を執り申し候返す/”\も御自愛御自重願上候よね子樣も隨分御疲れなるべしと存候 十月四日仲秋の夜十一時 赤彦生
石馬樣 よね子樣
非常に失禮にて申譯無之候へ共全然快復する迄御同寢下さらぬやう願上候失禮なりとて御叱り下さらぬやう祈り上候
三三一 【十月十四日・封書 東京小石川區上富坂町いろは館より 信濃北安曇郡池田町丸十方 河西省吾氏宛】
飯田氏へは本人參上すべき由返事出し置候
御歸國のよし別紙飯田太金治氏より參り候間御覽に入れ候依て御歸途上諏訪へ立寄り岩垂先生に此手紙見せ一話して頂きそして君はその成否に係らず三氏宅に行き厚く禮を述べて下され度候匆々
先方ではそれを要求せざれども逢ひて禮を述ぶべき事と存じ候金原さん御丈夫と存候御無沙汰御許し被下度よろしく御傳言被下度候 十月十四日 俊彦
三三二 【十月十五日・封書 東京小石川區上富坂町二十三いろは館より 長野縣諏訪郡湖東村小學校 藤森省吾氏宛】
拜啓非常の無理御願申上候處早速御送りに預り感謝の至奉存候何れ詳しく申上度存じ候へ共暫く御待ち被下度御(222)禮のみ申上候次に萬元和歌御送被下奉謝候良寛に比すればズツト劣り居り候へ共坊樣の歌大抵あのやうのものらしくひとり萬元のみならずと被存候
御自愛の程切望仕り候乍末筆小生壯健に候間御放念被下度候 十月十五日 赤彦
藤森省吾兄貴臺
赤羽豐君によろしく御傳へ被下度候
三三三 【十月十五日・封書 東京小石川區上富坂町二十三いろは館より 長野縣諏訪郡玉川村菊澤 兩角丑助氏宛】
拜啓彌々父親の第一歩に踏み入られ候由欣賀奉り候追々複雜なる世相に接せられ候事喜ぶべく又恐るべし益々御英進の程千祈仕り候御母子御兩人樣御健康に被爲入候哉當分のうち特に御自愛専一と奉存候
次に無理の御願申上誠に恐入り候早速御送に預り深く御禮申上候何れ詳しくは御知せ申すべき機ありと存候取敢へず御祝詞并に御返事のみ申上度此の如に候匆々敬具 十月十五日夕 赤彦生
兩角丑助兄貴臺
三三四 【十月十八日・封書 東京小石川區上富坂町二十三いろは館より 信濃國上諏訪町小學校 兩角喜重氏宛】
拜啓御無沙汰致し居り候處御家族樣如何に候かもうスツカリ皆樣御全快に候哉
扨て河西省吾氏の件飯田太金治氏へ申遣し候處別紙の如く申來り今一ケ年出してくれ候由三氏の御厚意には小生殆ど感泣致し候河西省吾氏來り候はゞよく此事御話しの上自身訪問して謝意をよく述べ候樣御傳へ被下度呉々も願上候先は右御願迄匆々 十月十八日夜 俊彦
兩角雉夫兄臺下
(223) 石馬君捗々しからず困り候氣永く治療し居り候やう御慰問被下度願上候私の事御心配無之樣願上候
三三五 【十月二十日・封書 東京小石川區上富坂町二十三いろは館より 信濃國小縣郡武石村 中原しづ子氏宛】
アララギ編輯今日濟み候
拜啓少しく御無沙汰致し候御變りなき事と存候小生例の遊び癖出で急に八丈島へ渡る事に相成明日出發明後日正午までには著可仕幸空晴れ風凪ぎ候へば日頃の空想通りに愉快の海路ならんと存じ候留守中アララギは同人皆手傳ひくれ可申御安心被下度候あの地へ參り候ても永くは遊ばず御安心下され度體にも大へん宜敷からんと存候諸同人皆羨しがり申譯なくも思ひ候あの地より又色々御通信可申電信も通じ居り候へば不便無之と存候よき人々より島廳へ紹介状もらひ候間猶更便宜多かるべしと存候あまり諸人に知せず微行のつもりに候へば多く御吹聽無之やう願上候郵便は東京府下伊豆八丈島にてつき可申少し寂しいかも知れず御通信下され度金原さんへも一寸御知せ申上置候歌澤山作らんと樂しみ居り候乱筆匆々
皆々樣へよろしく御鳳聲被下度候御自愛御壯健を折る 十月廿日夜 赤彦
閑古樣貴下
三三六 【十月二十二日・繪端書 八丈島大賀郷村大脇旅館より 東京芝公園地 松濤泰巖氏宛】
拜啓種々御厚意に預り奉深謝候今朝無事著島致し候間御安心被下度候風雨の中に黒い島山へ船の近づきし時一寸へんな心致し候島の樹は皆常緑に候奥樣によろしく願上候 十月廿二日
三三七 【十月二十八日・封書 東京府下八丈島大賀郷村大脇旅館より 東京本郷區菊坂町菊富士本店 齋藤茂吉・中村憲吉・古泉千樫氏宛】
(224)拜啓アララギ君たちに申譯無之何卒今少しの處何分願上候小生も精出して原稿書き居り可申おそくも來月十五日までには輪講俚謠二ケ月分御送可申歌も可成精出し可申候毎日愉快に安息いたし候一昨日夕方は主人に連れられて千鳥金土《チドリカナド》といふ漁村のバナナ畑に遊び候島廳のある村のやゝ急峻なる切通し坂を下れば八丈富士の裾ひろく平にひらけて海に達せる廣※〔澗の日が舌〕なる眺望なり畑の周圍と畝間とは秣芒といふ常緑の芒生ひ靡ければ一望したる所は只青芒の原の如く見え候へど歩きつゝ行けばそれが皆甘藷畑にて青い赤い蔓の延び茂り居り中には里薯の※〔澗の日が舌〕葉も交じり居り候夕日の赤く染れる地上に立ちて黄色の果皮を剥き新しきバナナの句ひを貪り候家の娘庖刀にて莖乍ら切りてくれしバナナの果をかつぎつゝ家にかへり申候去る廿二日著島廿三日島司の家を訪ね候處山がかりの離れ村にて中途雨風劇しく道を失ひ民家に寄り道を聞き候處若き姉と(廿五歳位よき娘也)弟出でて丁寧に教へくれ候事うれしく五六間進みし時後より件の二人又呼び返して雨甚しければ立寄り火にあたれとの事早速立寄候處機五六臺にて赤黄樺の機を織り居候その娘島の女らしく優しく心柔かにて一寸小生の心を引き候その娘小生の衣服皆かわかし尺度の兩端へ白い木綿を吊り着物を乾してくれ候事氣が利き居り申候その下にて色々話し候處この娘いよいよよき娘に候夫は七月南洋にて没し子供は六日死し候由それより小生毎日彼の家に通ひ候處彼の家皆純にしてよし(山下ていといふ女性に候)二十四日娘の夫の葬式にて彼娘は三根村へ行けり未だ歸らず弟を使にやり候處小生の炊事を擔當してくれ候由依て今日彼家に移り可申候尤もその隣家の一室(新築にて一寸よし)を借りる譯に候この家の庭より直ぐ下に梅見え小島(爲朝の死せし離島)も見え候右御承知被下度今その家へ立出前にて忙しく三君へ手紙書かれずこの手紙御覽の上郵便にて御廻覽被下度候樣御取計願上候丸で文章をもなさず御判讀被下度且アララギヘは出さぬやう願上候匆々 十月廿八日午前 俊彦
小生風邪未だ殘り居り熱あり手紙は矢張大賀郷村大脇旅館内にてよろしく候
茂吉 千樫 憲吉三兄臺下
(225)第二信
ふとんも彼女新しく作りしを敷きくれ候彼女の夫に著せるつもりの處夫は南洋にて死せし由に候子も生まれて死にし由に候
拜啓昨夜こゝの宿へ移り候おていさんは一昨夜から來て待つて居られうれしく存候昨夕二度ぶりで逢ひしことに候最初見し時より顔の色黒く候へ共島の女らしく年よりも若き所あり(三十才の由)可愛らしく小生には好きの女に候感情の濃やかなるは眼の色によく現れ居り候お茶が好きにて夜はおそく迄眠られず毎朝朝寢する事は小生によく似て居り候人には大へんのんきと言はれ乍ら内心に苦勞多きといふ女に候夢を見て困ると申し居り候今朝は久し振りで早起せしとて朝から來て床を上げ茶をのみ卅分ばかりにて歸り候早く來てくれゝばいゝと待ち乍ら「星の世界」をよみ居り候星の世界の星學者と妻君と許嫁君とジドフ君はいゝ人に候ボラアクもいゝ人に候島に來てサツパリ心配なく色々の事氣に掛らず晴れ/”\しく相成候寓居の縁より足下の平地に直ぐ海が光り居り候居室新しく心持よく候バナナ、ビンラウジユ、シユロ、ソテツ等大抵の家に植ゑてあり候追々模樣御知せ可申上も君一つ來年頃來ては如何
〇次に昨日の手紙にて御願申上候金は五日頃迄に電報爲替にて御送被下度昨日宿を立つ時今迄の勘定借り置かんと頼みしに少し澁られ少し心持よからず早くやり度存候主人にも五六日迄と頼み置き候廿圓送つて頂けば一月支へて歸國出來可申何分願上候小生歸京の上にて又如何樣にも致すべく候
〇アララギ三四册御送被下度少し位會員出來るかも知れず候 十月廿九日午前九時相五分 赤彦
中村兄貴臺
三三八 【十月三十一日・繪端書 東京府下八丈島大賀郷村大脇旅館より 信濃國東筑摩郡廣丘村堅石 三村利惠氏宛】
(226)木曾へ行く所を遂にこんな島へ來てしまひました南の温いそして雨の多いそして椿や椎やァスナロ等の常緑葉林で包まれた天國であります島の家では八丈絹を多く織つて居ります五六人づゝ集よつて優しいをさの音を障子窓の中にさせて居ますその家の御厄介になり隣家の一室を借りて起臥して居ります此間は旅館の主人に連れられて海濱の村のバナナ畑に行きました夕日の赤く染めた地上に立つて黄いろい其の皮をむいて新しい果の匂ひを口にしました又御通信致します 十月相一日書く 赤彦生
今つと長い髪の人がいくらもあるさうです全體に島の女人は美しい髪を持つてゐますこのハガキ御落手は十一月半頃なるべし
三三九 【十月三十一日・繪端書 八丈島大賀郷村より 東京小石川區淑徳高等女學校 諸先生宛】
皆々樣益轟々御健勝奉賀候小生一寸こんな處に居り御無沙汰致し居り候椿やアスナロ椎等の常緑林多くその中にぽつぽつ草屋を交へ居り候それが此島の村落に候椿は一抱へ以上の老樹もあり候大へん暖く只今島の人は單衣に候數日前バナナ畑に連れ行かれ夕日赤き地上に黄ろき果皮を剥ぎ新しき匂を喫し申候
一般に髪美しく長くこれより長き女いくらも有之候
其二
この山八丈富士と申し居り候富士山より形式ばらずなだらかにてよろしく候この裾が常緑葉の樹海に候港四つあり小生はこの港につき候こゝより島廳ある大賀郷村へ七八丁坂道なり路傍の甘薯畑の畔には島芒立ち居り候八丈絹織る家の厄介になりその隣家に起臥致し居り候
こんぽ森の中に絹織る音コロリカラリと夜おそく迄響き居り候此手紙御覽被下候は來月半頃ならんと存候生徒に手紙出さず惡しきかと思ひ候へ共宜敷願上候
(227) 黒き熔岩に候
其三
海濱は島芒の中に濱グミの銀色の葉交りて茂れりその中に牛數多遊び居り候牛乳は東京より品よろしく一合二錢五厘うれしく存候
今日は雨の中を隣家に招かれお婆さんから島の昔の唄うたひてもらひうれしく聽き入り候黄の機樺の機織る窓明りに美しき聲響き申候 十月卅一日
三四〇 【十一月三日・繪端書 八丈島大賀郷村より 東京芝公園第十四號地 松濤泰巖氏宛】
盆々御壯健被爲入候哉伺上候小生其後甚だ都合よく只今民家一室を借り受け隣家より炊事してもらひ居り非常によろしく候間御安心被下度留守中何分萬事願上候誠に我儘御願申出で申譯無之候一昨夜は十三夜にて島の踊と唄とを聞き申候御令閨樣には其後御壯健に向はせられ候哉御案じ申上候
必用無之候へば御手紙下され候に及ばず校用等も候はゞ電報御發し被下度願上候
追記(昨日御ハガキ著奉謝候〇はもし電報さし上げ候節は電信爲替にて御送被下度夫れ迄は御送被下候に及ばず候五日)
三振村の道に候
三四一 【十一月四日・封書 八丈島大賀郷村山下貞藏方より 東京本郷區菊坂町菊富士本店 中村憲吉氏宛】
宛所は大脇旅館にても宜しけれど八丈島|大賀郷村山下貞藏方《オホガガウムラヤマシタテイザウカタ》の方よし
拜啓今夜小生非常にうれしく逐ひ泣き出し今夏恥かしく困り候晝いろ/\しみ/”\話し夜|酢《すし》つくりくれ酒の酌し(228)てくれ候故こんな嬉しき夕飯何年振りかと思ひつき急にうれしく泣き出し申候實に今となりて恥かしく存候おていさん非常に明けさらしの性質にて直截なるうちに感情の濃やかに言ひ知れず柔き所ありうれしく候何年かの苦慘にあひ神經過敏になり危くすれば狂的になりはせぬかと思はれ候へ共彼の氣質自然に人を引付け申候こんな女内地には無しと存候年は卅才にて苦慘を經しこと多き故話が分りてうれしこの位頭利きてゐ乍ら人工的の所少き女無かるべしいつか寫眞御目にかけ可申候夜は三晩位眠らぬ事珍しからず飯も一日一食にて(インキ盡く明日書く十一月三日)(今朝郵便來る急ぎ書かねば間に合はぬ)四日朝 過すことあり情が濃やかにて優し
御手紙有難う今月位には立退かねばなるまい色々心配させて申譯なしMの事何分たのむ五六日迄につくやう電爲替にて頼む小生も歸京して郷里から少し借入れ可申夫れ迄何分願上候只今一圓足らずしか無しおていさんに毎日感激して居り何もせず申譯なしそのうちに書いて送る郵便月に二囘乃至三囘(大抵は三囘)來るよし御たより下さい 十一月四日 俊生
中村君几下
三四二 【十一月二十七日・封書 東京市小石川區上富坂町いろは館より 信濃下諏訪町高木 長崎佐次郎・渡邊伊三郎氏宛】
拜啓御無沙汰御許下され度候陳ば平福百穗畫伯の畫會アララギにて主催致し居候處期限經過に候へ共今少し畫いてもらひ候樣頼み候間もし御志も候はば好機と存候間御卸せのみ申上置候百穗氏は金の註文によりて畫いた事なき希有の畫人に候アララギの貧窮を憫み畫會開き下され収入全部をアララギにくれ申候事にて小生方感謝いたし居り候併し決して御すすめは致さず只々御卸せのみ申上候御地有志者も候はゞ御周旋下され度願上候
一、【絹一尺二寸四尺】 金拾圓
留守中萬事御厄介樣相成奉感謝候小生少々旅行いたし居り色々御無沙汰御海容下され度候數日前歸京いたし候東(229)寒く炬燵ほしく候 十一月二七日
三四三 【十一月二十八日・繪端書 東京市小石川區上富坂町二十三いろは館より 信濃東筑摩郡廣丘村堅石 牛丸四方造・鹽原彦雄・酒井明一氏宛】
大へん御無沙汰致し候小生少し八丈島へ參り昨今歸京いたし候十二月號は目下校正中に候一月號は九日迄に御送稿被下度候島は目下單衣に候椿紅くさき居り候萬葉集や子規の歌御研究下され度今にして益々子規先生の偉らきを想ひ候 十一月廿八日
三四四 【十一月三十日・封書 東京市小石川區上富坂町二十三いろは館より 信濃諏訪郡豐平村御作田 兩角波雄氏宛】
大へん御無沙汰致し申譯無之候今朝御手紙下され拜見いたし候小生十月より一寸八丈ケ島へ行き昨今歸京せし處に候留守中アララギ諸同人に厄介かけ申譯無之候來年よりは專門に勉強可致候到底現代人を相手に仕事は出來ず況や現時をや、現時の拍手喝采を得るが如きは少し通俗に下れば何でもなき事に候アララギも百年の後知己少し位あるかも知れず紙質をよくして立派に印刷し保存致し度候紙はどんなに貧乏しても立派にしておくべく候我々は一生かゝりてどれ丈けの歌を得べきや多少特獨の光彩を放つもの十首以下あれば欣喜滿足可致候小生等の仕事は實に是れからに候今日にては萬葉集の何處を開き見ても吾人は壓倒されてしまひ候我々は強ひて強い事言ふ事イヤに候萬葉集の如き敬服すべき光輝に對しては最も從順に感服して謹讀研鑽致すべく候是れ吾人の修業に候十年二十年後のための眞實なる修業に候君の歌大豆のはじけた歌非常の光輝に候特に 束の間も秋の光は暑かるかもよ の歌の如きは今日の歌壇にありて大した開拓者の位置に居るものと存候苦心に苦心を重ね居り候へばいつしか斯樣のものひよつと生れ出で可申候存外苦心の際に出ず候へ共その苦心の潜勢力となりて我々の血液中にひそむと思はれ曾それにつけても萬葉集その他のもの盛に御研鑽の程祈上候子規全集も一月頃は出で可申是非御讀(230)み下され度候小生只今子規先生の俳句を見て居り候へ共とても我々現代歌人の百歩千歩先方を歩み居らるる心地致し候斯る光輝を知り居る我らは幸福と信じ居り候。天下の人餘り悠長に構へ候はゞ大事去るべく候天下の人餘り氣短に急ぎ候はゞ大事破るべく候 と先生は申され居候有難き先生を我々は有し居る事を深く思ひ候
十二月號明後日頃出来可申候小生留守中にてこんなに後らせ候段申譯無之候一月號の歌今少し澤山御送被下度五日〆切八日には印刷屋にやらねば年末故間に合はず候
八丈島は只今まだ單衣に候椿の花さき居り候村落は椿の林中にポツ/\草屋を交へ居るといふ有樣に候一抱へ以上の椿澤山有之候五六人づつ女集りて機織り居り候所謂八丈絹に候機織る家の厄介になり長き日を過し居り候歌も少しは出來さうに候
校正より歸りて疲れ居り候今日は烟草も吸はず晝飯も略して校正いたし候夜に入りて歸り候東京隨分寒く候諸君によろしく願上候 十一月三十日夜十時半 赤彦生
七美碓君
三四五 【十一月三十日・封書 東京都小石川區上富坂町二十三いろは館より 信濃諏訪郡富士見村小學校 小池晴豐氏宛】
拜見敦し候紀行文は今書く事出來ず歌は百首位出來るかと存候そのうち八首丈け十二月號へ出し置候これから十二月初迄に作り可申候八丈島は冬を知らぬ土地に候小生滯在中單衣一枚にて暖き程なりき今頃未だ單衣ならんと存候是は黒潮の關係の由に候女多く男少なく女皆美人?にして頭髪は背丈けが普通にて候それらの女一軒の家に五六人位集りて毎日八丈絹を織り居り候丁度山浦の女衆が五六人して夜なべをするが如し半ば茶のみ話半ば機織といふ模樣に候小生その家の御厄介になりて一室借りうれしく有難く存候村落はすべて樹(皆常緑樹)の中にありその中に尖りたる草屋根チヨイ/\頭を出し居り候その木は八九分は椿一抱以上の椿澤山有之候椿の下にて(231)島の女麥の臼など四五人してつき居るを見申候〔余白に「只今椿咲き居り候」〕夕方は海岸へ行きて赤い魚青い魚など買ひ鰓を草にとほし吊して歸り申候大抵芒の中の道に候大體の構樣斯の如くに候いつか御面談致し度候次に君は歌をやらず候へ共アララギの會員になりて下さらぬか願上候只今經營益々苦しく同人頭痛中に候アララギこんなに不足の事天意なりや如何と思ひ候夫れに小生一月遊びし故經營の方諸同人大へん困り候事小生誠に申譯無之候どうかして持續致し度實際の所は只今六百部刷り二百部寄附二百部會員といふ有樣に候それで月々二三十圓不足に候本年は小生方へ發行所を移して專門にやれと言はれ一寸困り居候或はさうなるかと存候會員は
特別會員 資格差別なし 月五十錢 普通會員 月卅錢 購讀者 月二十五錢
に候何れかへ入つてくれませんか無理と存候へ共少々の間にてもよろしく願上候そして御心當りの誰れかをも御勸め被下度候只今校正中忙しく御願迄申上候匆々 十一月卅日 赤彦
小池樣
三四六 【十二月五日・端書 東京都小石川上富坂町二十三いろは館より 信濃諏訪郡豐平村小學校 小松佐治氏宛】
第二
平福さん位の方があれ丈けの價にて描きくれ候事異常の事に候現にホトトギスにても募集いたし居り候へ共丁度あの倍額に候平福さんはそんな事平氣にてかきくれ申候そして全部をアララギに寄附しくれ候事天下後世の逸話と信じ申候文部展覽會の三等賞の如きは平福さんを上げもせず下げもせず平氣の平左也 十二月五日 赤彦生
三四七 【十二月六日・端書 小石川上富坂町二十三いろは館より 本郷區田町二十七柳澤方 河野愼五氏宛】
拜讀いたし候アララギ返送訝しく存候處齋藤君より御轉居の由承り申候雜誌更に齋藤君より御送申上候事と存候(232)地上巡禮の歌出來さへすれば必御送可申候へ共今日の處一首も無之候一つ勉強して見可申候 十二月六日夜
三四八 【十二月十五日・端書 東京小石川區上富坂町二十三いろは館より 福岡市東公園平野旅館方 長塚節氏宛】