赤彦全集第8巻、岩波書店、874頁、2200円、1930.10.15(1969.12.20.再版)

 

書簡集

 

(1)目次

 

書簡集 前篇
明治三十年  五通……………………………………………………………

明治三十一年 三通……………………………………………………………一〇

明治三十二年 八通……………………………………………………………一三

明治三十三年 五通………………………………………………………………一九

明治三十四年 四通………………………………………………………………二三

明治三十五年 二通………………………………………………………………二五

明治三十六年 四通………………………………………………………………二六

明治三十七年 六通………………………………………………………………二九

明治三十八年 九通…………………………………………………………………三二

明治三十九年 十一通………………………………………………………………三七

明治四十年  二十通………………………………………………………………四四

(2) 明治四十一年 四十六通……………………………………………………六一

明治四十二年 二十九通……………………………………………………………九六

明治四十三年 十九通…………………………………………………………………一一三

明治四十四年 三十五通……………………………………………………………一二三

明治四十五年・大正元年 三十六通………………………………………一四四

大正二年   三十七通……………………………………………………………一六四

大正三年   十六通…………………………………………………………………一八九

 

書簡集後篇

 

大正三年   五十八通……………………………………………………………二〇一

大正四年   六十通…………………………………………………………………二三五

大正五年   六十七通……………………………………………………………二六九

大正六年   五十四通………………………………………………………………三〇五

大正七年   四十五通………………………………………………………………三二六

大正八年   九十八通………………………………………………………………三四六

(3)大正九年   百五通…………………………………………………………………三九四

大正十年   八十一通…………………………………………………………………四五〇

大正十一年  九十六通…………………………………………………………………四九〇

大正十二年  百三十通……………………………………………………………………五二九

大正十三年  百四十六通………………………………………………………………五九六

大正十四年  二百七十八通……………………………………………………………六五八

大正十五年  百二十五通…………………………………………………………………七七○

書簡集 索引……………………………………………………………………………………………八二一

年譜……………………………………………………………………………………………………………八五一


書簡集 前篇

(7)明治三十年

 

       一 【八月七日・端書 堺市扇屋より 信濃國下水内郡外樣村.清水謹治氏宛】

 

七日七條の停車場に別るさはりなく名古屋に著けりや奈何父君の御病勢如何心配いたし居り候僕等は大阪を一通り見物し當堺市に來り醉茗君に面會し當旅宿に投じ申候明日は神戸泊のつもり也 八月七日夕  塚原

 

       二 【八月九日・封書 廣島市吉川旅館より 長野縣下水内郡外樣村 清水謹治氏宛】

 

拜呈堺にて差上候書状御落手被下候哉否や本日は已に御歸省の御事と遠察いたし居候御尊父樣の御樣子いかゞ心痛罷在候

小生等は昨日は神戸より乘船せずして直ちに岡山まで直行いたし自由舍と申す旅舍につき申候室の綺麗その他今迄第一等と判じ申候實は人力でやり込んだで斷られなかつたかも知れず今朝は尾道の汽船にのり込むつもりにて自由舍に発著時間問ひ合せたる處午後二時と申したるにより今朝は樂つくり後樂園城跡市街を見物し尾道へは午後一時著仕候處汽船は矢張り一時何分の發にて小生等の港に走りたる際汽笛は波に響きて出發をはじめために殘念ながら當地まで直行と定め只今吉川旅館と申すに腕車をかり申候明日は是非汽船に乗り込まねばならぬと存居候最早早く福岡につきたく相成候

(8)願置き候電カハセの儀は振出人をば清水謹治受取人をば清水俊彦となし被下度こちらよりの電報も小生は清水俊彦にて發信可仕左樣御承知被下度十二三日には是非頼むつもり何分願上候福岡著の上種々御報知可致候御看病專一に存候 八月九日                             大森 塚原

    清水君

 

       三 【八月十一日・封書 筑前福岡市萬町二十一番地篠崎方より 信濃國下水内郡外樣村 清水謹治氏宛】

 

拜呈堺、廣島より差上候書状御落手被下候御事と存候

昨日午前廣島兵營公園等遊覽仕候午後宇品に至りこゝより汽船龍田丸に乘り込申候船は頗る廣大のものにして長さ四十間にも達すとの話に有之候嚴島をへてはじめて瀬戸内の波浪に入る大小の島嶼起伏峙立風光の絶佳なる實に言盡し難く存候恰かも呉の海兵二十名ほど乘込み居り共に晩餐を喫しそれより各甲坂上に出でゝ天邊より襲ひ來る凉風に吹かれつゝ軍歌雜談等に快活なる月を眺め申候

今朝黎明門司著船は多少動搖したるも幸ひ吐瀉チヤルもやらず無難に渡航いたし候間御安心被下度候門司より二番にて當市に到着仕候處岡村氏は未だ來らず加之本尊の觀音樣たるべき篠崎君が未だ歸省し來らず只今の住所不明との事に吾人の想像の快も大に破損いたされ候

詮方なく篠崎君の家が旅舍なるを以て宿を頼み明日まで待ちそれにても來らねば(多分來らざらん)直ちに馬關にかへりて大森と別るゝ計畫なれど如何せん岡村氏來らざれば大森の旅費が大不足なるを、僕は岡山にて又々金嚢紛失したれば夫れ以來悉皆大森の腰にて旅行いたし居候へば大森は目下窮乏の體已むを得ず足下に過分の電報を打ち猶他にも打電したるの罪何卒々々惡しからず御赦し被下度候御家内中樣にも可然御わび申上被下度願上候猶これ以後の状況はその都度御報可申候僕は十四五日頃は須磨に過すつもりなればおそくも廿日頃には歸宅可致(9)候若し長野へ早く出ればゆる/\快談致さん乍末筆失禮御尊父樣はじめ皆々樣の御容體如何一同心配罷在候御子諏訪郡豐平村へあて御一報なし置き被下度候先は亂筆 八月十一日                伏龍

    眼虎樣

 

       四 【八月十三日・端書 福岡市萬町篠崎方より 信濃下水内郡外樣村四九番 清水謹治氏宛】

 

電爲替本朝正に落掌御心樓のほど實に感謝の外無之候然る處大森は旅行券下附相成らず已むを得ずかの朝鮮行は中止と致し候間右樣御承知被下度これより九州の夏をとふつもりとの事小生歸國すべし 八月十三日

 

       五 【八月十七日・封書 尾張國名古屋停車場前一樓より 長野縣下水内郡外樣村四九番 清水謹治氏宛】

 

今日十二時名古屋著今夜八時夜行列車乘組明朝九時新橋ニ入ラム束京ニテ食策ノツキ次第早速歸郷ス可シ君ノ手紙ハ諏訪郡豐平村ヘアテテ出シテ呉レテ置キ玉ヘ僕ハ今只家ニ歸リテ君等同輩ヤ子供カラノ手紙ヲミルノミヲ樂ンデ居ル

名古屋停車場前ノ一樓ニアリ未ダ晝飯ヲ食ハズ空腹甚シ今夜夕飯ト共ニ一食ノ名義ニシテ經濟ヲハカルツモリ亦一興ナリ名古屋ガ持ツトカ持タレルトカイフ城ノ金ノサチホコモ見物イタシ候廣小路モ大阪神戸ヨリ入リ來リタル發生期(化學的ニイヘバ)ノ眼カラハ見モノトイフ程ニアラズ、モーイヤニナツタ早ク歸宅シタイ

今日ハ大垣ノ城ヲミタ中々ヨロシイ城ノ側ノ小學校カラ生徒ガ皆白帽ト袴デヤツテ出テクルヲミテ坐ロニ附屬ヲ思ヒ出シタ君長野ヘ出タラ何卒會ツテヨロシク奬勵シテヤツテ呉レ玉ヘアトノ手紙ハ故郷ヨリ以上 八月十七日午後三時三十二分

                              俊彦

    清水君 几下                


(10) 明治三十一年

 

       六 【二月二十三日・封書 長野縣帥範學校より 諏訪郡豐平村高等學校 木川寅次郎氏宛】

 

拜啓諏訪地方も中々大雪の由新聞紙にて拜承仕候當市も已に一尺以上の積雪を見北越行の汽車は不通と相成申候極盛念會の模樣御しらせに預り面白く拜謁仕り候小生赴任の件に付ては諸君より存外の心配を煩はし誠に赤面のいたりに不堪〇〇〇〇兩氏の異見は或は對舊古田學區チカルを意味するやと考へられ候若し單にそれ丈けの意味とせば甚だ狹量にて又最も利己的非公共的無見識的の擧動と存候相共に教育の壇上に立て非を正し邪を排し善に進み道に就く豈に區々たる私情を挾む可けむや吾人は此の如き人を教へ此の如き人を覺醒せしめんと欲するや久し矣今の教育者一般に眼孔局小豆の如し吾人は國家のために今の教育なる者を憂ふ(中略)余は何處に赴任せんも教育の爲めに一臂を振はんとするは一なり只しかく有志多數諸君の勞を煩はすを思へば豈に奮勵努力する者なくて已まんや吾人が思ふ所實に只如此而已然りと雖も物各命數あり成否は餘程まで天に背く可らずこの際強ひて運動などなすも如何にや勿論小生よりは何等の運動などは成さざる可く考へ居り候(中略)金、日、兩曜毎に米人メツセス・スキヤツターに英語を學ぶ大に得る所あり亂筆誠に申譯無之御判讀被下度餘は後便可申上候 (アララギ赤彦追悼號所載)

 

(11)       七 【四月三日・封書 池田(?)より 松本町(?)太田貞一氏宛】

 

   放浪多年信濃地 所到山水都(テ)是詩  昨夜北窓愛兒別  今朝筑野帶霞過

去ル三十一日三澤ト共ニ車ヲカツテ松木ニ入リヌ途ニ君ガ寓ヲ尋ヌルニ在ラズ松本ニ君等一行ヲ探ス事數十分意ヲ得ズシテ又南安ニ向フ車上筑摩ノ連山ヲ顧眄シテ遙カニ翠巒ノ霞ヲ帶テ木曾ノ一方ニ消エ行クヲ望ム四阿山の暮色善光寺の晩鐘アヽ我レハソノ樂寰ニ四星霜ノ春夢チ破テ何處ノ空ニ一片ノ詩骨ヲヨセントスルヤ感慨ノ間ニ車ハ梓川ヲコエテ豐科ノ小邑ヲ過ギリ薄暮岡村ノ寓ヲ叩ク、カレ未ダアラズl二人即チ酒ヲ蒙リ快談高論夜已ニ十時ニ垂ントシテ相共ニイネントス忽然戸ヲ排シテ入リ來ル者アリ曰ク岡村千馬太ナリコヽニ於テ又酒ヲ置キ快談三時ニ及ブ翌余又ヅクヲヌカシテ池田町ニ入ラズ近郊ヲ逍遙シテ千里弧客ノ情ヲ慰ム翌則チ昨二日余一人飄然トシテ車ヲ池田ニカル岡村等ハ七貫村ノ於岡ヲサソヒテ余ニ合セントスルナリ薄暮三人ノ來會スルアリ松澤ニ打電ス返事ニ曰ク、ヅツウユケヌヲシム ト、コノ夜山本仁佐郎片セ榮次亦來テ快哉殆ンド夜ヲ徹セントス今朝雪降ル池田ノ古村枯木寒林滿眼坐ロニ寂寥ナリ三澤ハ岡村ト車ヲカツテ已ニ歸途ニ向ヒ余一人人見エヌ一室ニ降リ積ル雪ニ兒等ノ寫眞ヲナガメツヽ茫然トシテ夢ノ如キ空想ニ浮バサレツヽアリ。アヽ、長野ノ山、長野ノ兒等、我ハ何レノ日カカレラノ樂園ヲ忘レテコノ乾換無味ノ一古村ニ老イン、アヽ

矢じ太田高野宮田等ヨリ來信アリ九圍ノ弧城ニ援兵ヲ望ムノ感アリ多謝々々

  春の海に注ぐ小川のかすみけり  鹽尻峠にて

      桔梗ケ原ニ來ル

  みねをいでて桔梗ケ原のひろきかな 筑摩七里は皆春の風

  車かつて春の野行けば里つきて 電信柱日ななめなり

(12)   朝行けば野におりてゐる雲雀かな

   菜の花や背戸をいづれば雲雀なく

   月影の城櫻遠くかすみけり   池田にて

   北にきて何處やらさむし春の風   池田ニ人ル

尚消息をもらせ (アララギ赤彦追悼號所載)

 

       八 【十月九日・封書 池田より 太田貞一氏と寄書 下水内郡飯山町眞宗寺 清水謹治氏宛】

 

拜啓太田醒め三澤と小生は未だ床の中にあり乍ら今筆を染め申候太田は相不變の赭顔にて小生は昔乍らの美男子にこれあり候池田にてうれしきものは小林と申す美少年と梅香亭の才三にこれあり候子供のトンマ顔には今でも一驚を喫し居り候小生の組には鼻が左眼の下にありて(むしろ)その左眠が萎へ居るものが有之候これは行年十五年に候子供は町中をドド逸やら俗曲やらを歌つて歩るき先生に行逢ふと頭を下け直ぐにその歌をつづけ申候今日はお祭りにて芝居も相撲も有之當地有名なる夜這ひをする女どもがそこらをねり行き玉ひ候

太田は一昨夜來大のろけの鼻下長にて今日も明日も流連可致候三澤と昨夜もシヨウトツ致し小生が賢明なる裁判を與へて收まり申候この手紙へは太田が眞面目顔なる手紙を書き候へ共それは大うそに候

只憐む市外一歩を出づれば秋風落莫三畦の黄波速く松本平の長風に動き愁人をしてそゞろに懷古の情に沈ましむるあるを、こんな手紙をかくも久し振りにて浮かれたる故と御免被下度候長野の子らからも一月許手紙が來ぬ

   朝さむの枕擁して語りけり

以上 高のは東京に居り候か 十月九日            二水軒

    清水樣 御侍史

 

(13) 明治三十二年

       九 【一月二十四日・封書 池田學校より 大町一番に北の端なる三井屋といふ旅宿屋方 市川多十氏宛】

 

啓今日は失敬いたし候今晩笠原校長の宅に至り君の事を談じ候處校長も是非それなら運動を始む可し付ては近日中に大町へ罷越し學校と其次ぎに郡役所へ行つて今年の新卒業を大町にやりその代りに市川をこつちに取るとかういふ都合にやる可しと一先づ決定候

それで其前に河野先生に一寸「池田に行かねばならぬ都合ある」由御申込有之候方よろしからむとこれは小生の考なり又それには松岡休職の事も校長にしれぬ先きの方貴公の得策ならん併しこれは一寸人が惡い話なり一切の事松澤によく相談して呉れよ 一月廿四日夜十一時三澤に別れて           二水軒

    市川兄

 

       一〇 【七月十一日・封書 北安曇郡社村田中の一つ家より 大町小學校 矢ケ崎榮次郎氏宛】

 

啓先日は待つて居たが一寸も來ない大失望薄井山崎來らんとすこの期に乘じていつか話した同志の會同を開け期日は北城神城の方より極めてよこすが至當ぢや吉澤新井にもさう云てやりぬ貴樣が盡力しろ今度日曜くるかこないか一報しろ、いつうかつからの話は何となつた一寸もわからぬ行くと云て居てもさう/\はづくが續かぬ田中(14)の一つ家がいかにも氣に合ふ紛々たる世事、騷ぐならうんとさわぐ馬鹿なこせ/\した事を我いつまでか關し得ん子供が可愛い其れのみが生命 七月十一日                    二水軒

    矢ケ崎大兄

 

       一一 【七月二十三日・封書 池田より 大町學校 市川多十氏宛】

 

 汝もし來らば先日忘れ置きし西洋手拭を持參せよたのむ

啓拒絶チカルに出でたるマスターの抗辯を流してさらに彼の弱所に乘ずこれ余が手腕の利敏なるに依らずんばあらず彼の件は略ぼ落著せり近日の内マスターより談判に行く筈併し誰にも|黙々たれ必ず黙々たれ〔付ごま圏点〕汝のマスにも大澤にも(コレハァル條件ノ蟄伏ヲ意味スレバナリ)

詳細は次便もしくは面晤にゆづるせくな/\八月中と念ぜよ 二十三日                        二水拜

    市川兄

 

       一二 【八月二十八日・封書 池田會染尋常小學校より 廣津村北山 北城傳次郎氏宛】

 

謹啓承り候へば御令息傳君忽然長逝被致候由驚愕いたし候過般流行病に御かかりの由傳承仕候以來朝夕憂慮罷在候處追々快方に被爲向候由承り及び程なく御出校の御事と悦び居り候ひしに意外の御不幸かへす/”\も悲嘆の情に不堪候

天稟の御怜質六十餘人の生徒中特に傳君の將來には望を囑し居り候處不圖の御災難眞個落膽の外無之候歸校の途上中學校入學の事など語り合ひ明年は是非など小生も御勸め申候時斯く果敢なき御末期ならんとは思ひがけきや凜乎たる其容温乎たるその眼猶眼にあり思へば只夢の心地に候學問優等なる生徒は世間いくらも有之候人物高尚(15)にして後來の有望なる傳君の如くにして今日の凶聞ある實に浩嘆の至りに不堪小生も今年四月より受持の任にあたり只管級のの成績上進に盡力罷在候處圖らざる御訃聞眞個落膽仕り候

さるにても先般諏訪郡修學旅行の際などは非常の御健脚よそめよりも頼母存じ候ひしに近頃種々の御病氣御併發途にこの御末期に至りしこと殘念至極奉存候所詠の和歌甚だ拙劣に候へ共只だ微衷御諒察何卒御靈前へ御手向被下度候涙言

   なれを見ぬ二十日のほどもながかりきいくよをかけて今はたのまむ

   打笑みてかたりしことを今さらにゆめになさんと思ひかけきや

   いとせめて夢路にだにもかよへかし天かけるてふ魂し殘らば

   なきころとおもひつつ猶朝にはなが來しみちを眺めこそやれ

   雲井まで名のりあぐべき音をすてて死出の山路に入るほととぎす

     八月廿八日               久保田俊彦

    北條傳次郎樣

 

       一三 【十月二十八日・封書 池田驛より 大町 市川多十・松澤實藏氏宛】

 

天邊の明月に萬斛の愁思な寄す池田の古驛已に秋風なり天涯の孤客(むしろ)焉ぞ情に堪へんや我に病めるの父あり侍して醫藥をすすむる能はず我に信を通ずるの兒あり共に咫尺して舊を語るのすべなし諏訪湖の波は長へに動けども飯綱の原は舊によりて美しけれど老いたる人のよはひは年若き人の情は見よ時のまも變轉の軌道を急ぎつつあるに非ずや我に爲す可きの業あり我に企つ可きの計あり十年若かりせばといふ勿れ機は顛々累々として吾人の目前に轉べり何れにつき何れに憶ひ何れに行き何れに止まらむもし夫れ我に個人の生活を許さば社會がわが(16)身邊よりあらゆる同情あらゆる冷情凡ての顧※〔目+分〕凡ての干渉を取拂はば余は今直ちに滿腔の感謝をわが恩顧ありしこの社會と國家と部落と衆人とに遺して一葉の舟一襲の衣一竿の杖とによつて遠くかの蒼穹を友とせむ悲哉※〔さんずい+文〕々の俗流相應呼して穢臭を吾人の身邊に釀す三澤來らず穀清の二階あゝ只古人を友とせむのみ苦めるものに空想といふものを許せかし平ならざるものに狂態といふものを許せかし煩悶せるものに痴情といふものを許せかし之を如何と見る末世の象か亡國の兆か政界の事の如きは今更ら言はず噫それの國本を造る教育界の近時咄々之を如何と見る近く各所各種の學校に於て師弟間に紛攘事件の惹起頻々其現れたる形ちのみを輕々觀過すれば事や小なるに似たるも深く其由る所を究めんか寔に寒心すべく戰慄すべく恐れて懼れざるべからざる大惡因積重又積重仔細に探ぐれば日本國中處として之れが磅薄潜積せざるはなしそれの紛攘事件惹起や偶々或る動機の爲めに僅に其一端が暴露して外に見れたりと謂ふのみ憂ふべきは紛攘の惹起にあらず紛攘の起るは起るの日に起るにあらずして必ずや由て來る所あり只それ空行く月あり秋風白雪を驅て探夜滿天の白露を仰ぐときはしなく靈氣の悠然と相應ずるありて魂魄天の一方に彷徨ふ多謝す自然の大樂土あるを 二十八日夜      二水軒

    市川兄 松澤兄

  松澤君の病氣如何父病漸次快にむかふ土曜頃或は訪はむ

   軒ごとにむしの鳴音となりにけり下駄音たえしうまやぢの月

   氷うるかどは戸ざしてうら町の並木の柳秋風ぞ吹く

 

       一四 【十二月六日・封書 池田町小學校より 常磐村小學校 松岡郡松氏宛】

 

長野にあること三日東都阿兄重病の報に接し惚※〔りっしんべん+空〕父と共に旅程に上る佐々木病院より失望せる最後の宣告を受け本月二日輿に侍して故郷に入る餘命素より久しからず看護終日猶時の足らざるを憾む咋五日夜地田に入り今日歳(17)晩の用意を終へ明朝又々故山に向はんとするに際し吉澤兄大患の報に接す嗚呼人生何ぞ悲慘の多きや眞に夢の如し

吉澤兄の病状如何我今日到底枕頭に至て慰藉するの遑なし願くば市川松澤諸同人と謀てあらゆる看護療法の道を盡くして呉れい吐血は眞の叶血か若く喀血か胃の叶血ならば充分の望みあり願くば胃の吐血ならんを切望す

時は嚴寒に入て重衾猶その寒を凌ぐに苦しむ病者看護者その勞誠に察するに堪へたり余が兄の病は素より望なし若し葬事速かならば今年再び北安にかへらん然れどもこれはアテにする能はず言を盡さず遺憾筆を收む 十二月六日午後三時                                  俊彦

    松岡君 市川君 松澤君 池田人諸君

 

       一五 【十二月十三日・封書 諏訪郡豐平村より 北安曇郡大町小學校 松澤實藏氏宛】

 

訃音を得て驚愕言の出づ可きなしあゝ生たるもの遂に死せざる可らざるか死するもの遂に又歸る事能はざるか長野旅舍の一室※〔りっしんべん+空〕※〔にんべん+總の旁〕として君と談じ余は直ちに束都に、君は直ちに郷に向へりしは思へば永き別れなりけん

あゝ我不幸今年何ぞ人と別るるの甚きや觀じ來ればこれが人生! 所詠願くは哀をたれよ

思へば北安乃至安筑縣下吉澤兄の思慮を要するもの幾何ぞやあゝ圖南の志遂に挫け囘天の意氣長へに地下の瞑々に歸す悲哉

   へだてなき友が送りしふみをさへ疑ふばかり驚かれつつ

   いひ出でん言葉もしらず涙のみまづ先立てて文をみしかな

   そのまことその志いかばかり怨をのみて君や行きけん

   おちつきて事にあたりし我友は只安らかにねむりましけん

(18)   世の中に君が殘しし怨さへ聞かで別れしことを悲しむ

   かくしつつ誰も行く可き道なれど一日さきだつ友をこそなげけ

 病に侍しつつ 十三日             俊彦

謹で三兄の勞を謝す

 

       一六 【十二月二十四日・封書 豐平村より 湖南村小學校 三澤精英氏宛】

 

拜啓今朝君の家を訪ひたれどもあらず咋雪を踏で故山に入る家に著くの前二時間兄已に不歸の人となり了りぬ人生は如斯のみあゝこんな世に誰れか久しからん

二十二日松本に入り岡村の父の死を弔ふ岡曰く我誠に三澤と同境遇に陷れりと而して汝等には我より知らせん事を頼めり正月同人相會して其面を見互に身の上話と世話話をせん事を望むと岡云へり汝意如何我と共に松本に入れ 十二月二十四日

 

(19) 明治三十三年

 

       一七 【三月二日・封書 北安曇郡池田町より 下伊那郡喬木村 城下清一氏宛】

 

甚しき久闊なりしかな君の病めるも仄に耳にせりしに未だ一囘の書を馳するなかりし罪許せかし

今や華燭の儀をあげ玉ふをきく何ぞ吉報を吾人に傳ふるの甚しき

詩作は近來やらぬ舊作少々送る身體大切新妻君に吸はるゝな以上 三月二日夜               二水

    城下樣

 

     落日故人情

   人なき庭に佇みて    ひとり思ひにしづむ時

   かかるもうしや久方の  雲の旗手の天つ雁

 

   人の世遠き雲井にも   吹かぬ隈なき秋風を

   よわき翼につつみかね  鳴きても行くか天つ雁

 

   旅より旅の身にあらば  汝も故郷に親やもつ

   あはれはおなじ身の上を いたくななきそ天つ雁


(20)      悼教子溺死

   川のべの殘りし衣に取りすがりひづち泣くらむちちははらはも

   いとせめて取りすがりてもなげくべしからをだに見ぬ親ぞ悲しき

   今よりは池田の道を立ちて眺めゐてながむとも子のかへらめや

      悼教子死

   大みねの山立別れゆく雲をなれにたぐへて見るぞかなしき

   まり投げて遊べる庭にきのふ迄見えし姿はををしかりしを

   秋風のことしはいかに身にしみて教の庭のさびしからまし

      悼亡友吉澤兄

   へだてなき友がおくりし文をさへ疑ふばかり驚かれつつ

   世の中に君がのこしし怨さへ聞かで別れし事を悲む

   かくしつつ誰も行くべき道なれど一日先立つ友をこそなげけ

      悼兄死

   願くは只やすらかに眠りませゆきけん魂に幸ありぬべく

   さむしとも早やのたまはず新しきおくつき所雪はふれども

以上昨年に於ける余が日記中の物なりこれによりて余が近況をしれかし

 

       一八 【三月十七日・封書 池田町學校より 神城村小學校 市川多十・荒井常一氏宛】

 

拜啓近状? 小生目下轉任(諏訪玉川)運動中

(21)家兄新に死して老父門によるの情我あらゆる名譽を犠牲とするに躊躇せずあゝ北安に入りて盡したるもの何事ぞ愧赧面冷汗啻ならず願くは公等僕をせむるに聲言の大にして功の添ふなかりしを以てする勿れあゝ二年! ユメ只夢! 成效は著々として歩を進め來れり而して今や君等に十五若くは廿圓の才覺を頼む我昨年銀行の借金三十圓を濟まして新に十五圓を生徒の父にかる月々の俸給は五圓ヅヽの月無盡に取られ本月迄は奈何ともするなし荒井兄は七月を以て當に東都に入らん兄の分は夫迄に返却すべし玉川學校へは家より通勤し得るを以て今より以往自ら前非を悔いて徐ろに救濟の策を講ずべし是非二人にて何うか方法をつけて呉れい今度去るには如何にするも三十圓を要するなり度々心配をかけて申譯なけれど何分頼む池田の地新に雪を得て四山又沈み我去るの頃は花もさくらむ 三月十七日               二水より

    市川 荒井二兄

 (返事まつ)

 

       一八 【四月十日・封書 池田學校より 北城村尋常高等小學校 市川多十氏宛】

 

近況如何小穴去り新長未だ來凍らず而し内山内閣早く已に成る奇觀々々僕八分の光明を以て遠く將に諏訪に入らむとす何時かの依頼(金伍圓)直ちに送れ以下次便 ヘンマ  二水拜

    一皮樣

 

       二〇 【十二月四日・端書 玉川學校内より 湖南村小學校 三澤精英氏宛】

 

松本より歸來腦神經と心臓疲勞とに苦しめられつつあり今度の日曜貴兄を訪はむとせしも心進まざりき例の新聞の件は如何なりしか御一報あれ


(22)       二一 【十二月十七日・封書 諏訪郡玉川村小學校内より 松本大柳町工藤かる方 薄井秀一氏宛】

 

拜啓先月より腦神經衰弱の爲め學校も過半休み御手紙拜見せしも返事遲滯平に申譯無之候中學をやめ小學校へ出るとの事甚だ遺憾ならずや家庭の事情堂しても駄目なりや若しこゝ一二年凌ぎて連續在校するも到底永遠の見込なしとせば今の内に止めるも宜しからむ而らば余は來春師範入校を勸めまゐらせんとするもの也小學校などへ出てゐてこゝ數年は宜しからむも畢竟何をかせむ正式の準備を踏むに如かず然らずんば何か官費の學校を擇び玉へ銀行事務も面白かれど君には不向ならむか兎に角方向を誤らぬ樣漂流せぬ樣何か針路を設けて獨立獨行の覺悟を以て奮進すべし以上切に君に望む

〇作文教授ノ秘訣ハ猥リニ文語ヲ以テ生徒ヲ苦シメヌニアリ思想發表ハ作文ノ第一義ナリ生徒ヲシテ思想ノ殘ラズヲ遺憾ナク發表セシメンニハ文章ノ規則ヲ以テ苦シムル可ラズ口語ナラデハ發表出來ヌ所ハドシドシ口語ヲ用ヒシムベシ尋一ヨリ高四迄如斯豫備トシテハ談話ヲ上手ニ練習セシム可シソノ談話ノ通リヲ筆ニセシムレバ上手ノ作文デアル

三澤先生の令弟月島丸遭難中にあり三澤の住所諏訪郡湖南村小學校内

こんな具合でをる也小生の新體詩は今月発行の「文庫」より續載の筈也早々 夜十時   二水

    うすゐ君

 

(23) 明治三十四年

       二二 【四月二十八日・端書 諏訪郡玉川村小學校より 伊那町箕輪屋方毎日新聞記者 三澤精英氏宛】

 

教育大會ニハ各郡氣風ノ批評ヲスル積ヂヤカラ上伊那ニ於ケル貴兄ノ批評眼ヲ充分ニ蓄ヘテ置テ呉レヨ (材料豐富ナラザル可ラズ)

      幼兒を悼む

   花は根にむくろは土にかへるなり

 

       二三 【六月二十二日・端書 諏訪郡玉川村より 長野市旭町師範講習寄宿舍 小尾喜作氏宛】

 

過日は御祖父樣御死去の由御愁傷の事と奉察候月俸木外子の出長に托し候處折惡しく御歸省中にて空しく持歸りし由依てこちらより更に御送可申由に候印形は拙父預り忘れ居り候間直ちに御家迄屆けませう

 

       二四 【十月十日・封書 諏訪郡玉川村より 長野市師範學校講習生 小尾喜作氏宛】

 

拜啓大に御無音致しました秋風わ今諏訪平一面お吹渡てゐる何處も豐年だので山浦にも芝居がボツボツある樣だ長野の景況如何玉川學校も今や氣焔萬丈だ全職員和諧一致協心同力熱心精勵斯の如くにして天下何物か成らざる(24)有らんや基本財産の二十年計畫年々二百圓づつ一萬圓以上を得べし十日より三ケ月間特別學級設置十五日より父兄懇話會十日夜濃飛育兒院生來校大繁昌々々々

長田君の金少し延して呉れい木外のも來月にまわして呉れい 七日夜  久保田

    兩君

  熱心眞面目の御勉強お望む

 

       二五 【十一月十二日・端書 玉川村より 上諏訪町片羽町 三澤精英氏宛】

 

三澤兄足下 一週の休みお小泉園裡に消了したのわ大なる編纂事業があつた故だ已に其一半お終つたので來る十六日の土曜にわ早々出町する積だから必ず在宅あれ                         久保田二水

   石垣にかくる嵐や稻をこく

 

(25) 明治三十五年

 

       二六 【一月十四日・端書 高木より 上諏訪町片羽 三澤精英氏宛】

先日わ感謝寂寥に不堪何か雜誌お送るべし(小説ならば猶よからん)諏訪新報發刊次第直ちに下諏宛にて送るべし何でもよし(十九日山浦行) 十四日

 

       二七 【五月十四日・端書 玉川村小泉園より 上諏訪町片羽 三澤精英氏宛】

 

拜讀今日義會長お訪うて勸めたが丁度農繁迚駄目との事意が向かぬものと見た

小生十三日より小泉園の單獨生活寂しいが併し勉強にわ持て來い出て來れ大森昨日歸るスワ新報出來次第送れ待つて居る 五月十四日夜十時五分                  久保田山百合

 

(26) 明治三十六年

 

       二八 【四月八日・封書 玉川村小泉より 上諏訪小學校東舍 守屋喜七氏宛】

 

昨日から出校して居ります追々全快の方へ向-から決して案じて呉れるな肺病などにわ大丈夫成らないから安心せよ

一日千秋と云-が一別以來已に十二日になるど-しても淋しくて溜らない考えて見れば妙な動物で孤獨で生活する事わ堪えられぬ昨日久し振りで學校え出た時のうれしさよ併し君よ余おして衷心お披かしめよ君と三澤と吉田とに逢わねば眞に友に逢つた氣がせぬのだ余わ此の十二三日が實に淋しくて/\溜らないのであつた只床の申で「大國民」お見て三日間の鬱お忘れ得たのみだそして今一つうれしかつた事わ母が草餅を拵えて呉れた事だ

   故郷の草餅を食ふ病かな

君よ余わ今婦人の心になつて居ると思-三澤が大阪え行くが切なかつた君の上伊那やら湖南やら上スワあたりで困却しつゝあるお思つても切なかつた馬鹿な話だ余の精神わ恐らくわ目下異状を呈しつゝあらんか余わ全體春お好まぬが切ない春お想像し得るとわチト困つた現象ならざらんや

更に聞け余わ昨日學校宿直室で藤村作小説「舊主人」およんで泣き出した今日職員室で薄暮迄讀んで頭がガンとして仕舞つた此手紙も恐らくわ何の事だか判じられぬかもしれぬ君の手紙の如く不得要領と思-

(27)君よ

○余のために十一日の午後お上スワに待つて居て呉れい余わ授業終らば駈足お以て矢ケ崎に下り腕車お驅つて上スワに至らん上の學校迄上る事わ疲れる仕業なれば下の校舍に居て呉れよそして極めてうまい物お食ひ度いイヤになるまでムダ話おして見たい余の滿心の希望只是れのみ必ず/\ダゾヨ-實わな-三澤樓上で鼎坐の話しお熱愛するがマーダメダ下の校舍でもよい山崎屋でもよい巴屋わ俗也鐵礦調わ俗色牡丹屋調わキザ也布半調惡しからず

〇上伊那郡役所より打電あり中村國穗不承知との事依つて芦部今朝高遠え向け出發せり多分日曜頃歸らん(コノ件上スワデ話すべし)是れわソノ位にして余の身體にも目下垢が非常になつた湯えも入り度い

〇平林の事大安心ヨカツタイザサラバ 八日

    守屋兄侍史

   遠方によき人去りぬ春の月

 

       二九 【五月十四日・封書 玉川村小學校より 菅澤 河西音三郎氏宛】

 

先日わ失禮いたしました其當時一寸思い浮びませんでしたが當校に高等卒業生の補習科なるものがありますが御子息樣お之れにお入れなされてわ如何ですか學科わ算術國語地理理科歴史圖畫等其他ですが何れも小生が擔任して居りますさすれば其時間外に教育學其他の御教授お致しても宜しゆーございますお勸め申すでわありませんが御參考までに申上けます 五月十四日

 

       三〇 【六月十九日・端書 下諏訪町高木より 北山村柏原 兩角福松氏宛】

(28)御地女子婚嫁年齢の平均その最若年最老年?(事情が分らば併せて)只今の處十年若くわ十年以上の昔の所二つ乍ら大體御聞き合わせの上御一報被下度乍御手數御通知願上候歌の消息も久しく聞かず淋しく存候 六月十九日

 

       三一 【九月五日・封書 諏訪郡玉川村より 南佐久郡岸野小學校 森山藤一氏宛】

 

森山君足下

原稿うれしく拜見しました四號漸く出來五號の原稿わ十日に活版所にまわす事にせりど-も發行部數僅少にて高價になるのに閉口するがど-も仕方がない助長すべく盡力してくれ玉え他に何か原稿あらば十日前に送つて頂きたい

守屋兄からの申込わ小生もかねて承知して居る小生わ君が高しま學校の歡迎お容れて速に諏訪に入るべく大々的に希望するのである佐久の地實わ乾燥無味察するに君が情お慰する所以にあらざるべし諏訪の地今や諸同人の漸く集り會するあらんとして氣運猶全く昂るに至らず貴兄の來て大に奮發あらんお切望する所以也

君よ 生活わ人間一生の唯一大連鎖のたづきならずや一日の生活猶輕んず可らず一時一分皆同價値あり更に想え吾人わ如何なる生活に向て渇仰の首を擡ぐべきか吾人の生活わ情的ならんお望まざる可きか吾人の生活わ慰安的ならんお望む可からざるか共同的ならんお望む可らざるか向上的ならんお望む可らざるか松相倚る茲に颯々の天籟お聞くべし絃相鳴る茲に哭鬼の悲曲お聞くお得べし

足下よ 孤情お抱いて淺間山下の客心お傷むる我已にそのあまりに強きお思-加-るに守屋大森吉田諸君の君お思-切なるあり切に意お決して諏訪の天地お賑かすあらんお望む余の心斯の如し亂筆不盡 五日  二水生

    汀川兄

 

(29) 明治三十七年

 

       三二 【六月八日・封書 上諏訪學校より 湖東村菅澤 河西省吾氏宛】

 

お手紙うれしく拜見中々大元來で勉強してゐるらしいな理科教科書わ誰にか聞いて置こ-教育學のことも小説なんかマーやめて置くべし大人になつてゆつくり讀めばよい交際問題日本今日の有樣でわダメなり小生わ高四受持なり此間霧ケ峯から鷲ケ峯に登れり今年の登山第二囘暑中にわ赤嶽えわ又々登るつもり秋わ釜無山なり

忙しくて歌も出來ず別に報ずべき事もなし

書物の事追々知らすべし 六月八日             久保田生

    河西君

 

       三三 【九月三日・封書 上諏訪西學校より 湖東村上菅澤 河西省吾氏宛】

 

御手紙うれしく拜見せりよく御勉強の由大賀大賀入學參考書大抵よろしいとの事それわそれでよいが油斷してわいかぬよい加減でも-大丈夫など早斷するのわ輕卒なり大丈夫と思つても猶細心密慮すべし

  歴史でわ有賀長雄の帝哭史畧小生にあり地理でわ博文屋形の百科全書中なる帝哭地理(二三十錢)名わよく覺え居らず山上万次郎著の日本と外國との地理(30)等宜しかるべし數學お重入り勉強して行くべし算術不出來なればダメなり何も蚊もよく勉強すべし問題等にて出來ぬ者あらば申越すべし和歌にてよき本わ竹の里人撰歌集なり御用なら送るべし和歌の雜誌でわ「馬醉木」なり發行所本所區茅場町三丁目十八番地根岸短歌會定價十錢郵便一錢毎月一囘なり今月末頃來てわ如何よく/\勉強すべし 九月三日              久保田生

    河西君

明日わ霧ケ峯に登るべし本年三囘目なり金なくてよき放行わ登山なり父上樣によろしく

 

    三四 【十月二十五日・端書 上諏訪町より 平野村小井川小學校 森山藤一氏宛】

 

御手紙拜見仕り候小生近作一向に無之御恥かしく存じ候伊藤左千夫氏此の内に來遊のよしついてわ盛につばな會員の會合仕り度右につき一人一圓づゝ會費として御差出し相願度右わ先生の旅費の幾分と會合の會費全體お支辨せんとするものに候右御承諾の上小生迄御屆け被下度候也 十月廿五日

 

       三五 【十一月十三日・封書 下諏訪町より 北山村湯川 篠原圓太氏宛】

 

御手紙拜見脚氣未だよろしからずとの御事困つた事に候まづ氣を永くして靜養するに如かず和歌などが丁度よろしからんと存じ候馬醉木久し振りで發判定めて貴兄等の玉什山積と思ひしに一向見當らず落膽せり何故なるかちと呑氣すぎると存じ候比牟呂も大怠慢なれど諸方から原稿集まらぬ故困り居り候澤山御寄送被下度待上候左千夫君來遊の日が確定せずきまれば云つてやるから車ででも御出かけ被下度候

小生わ去る日松本にまゐり太田君奇峯君三川君等に面會致し一昨日歸宅仕り候小生の詩集「湖上」を今度金色社から出す筈で已に原稿を送り置き候出版の上わ御批評被下度候尤も皆新體詩に有之候目下收穫にて御多忙ならん(31)かへす/”\も歌作御出精祈望に不堪先は右のみあなかしこ十三日   山百合

    千洲兄 侍史

 

       三六 【十二月二日・封書 下諏訪町高木より 東京府下澁谷陸軍病院 武居正義氏宛】

 

其後わ非常の御無音致しました大そ-快方に赴かれた御樣子を承りうれしく存じます當地わ已に數囘の降雪あり隨分寒くなりました別に異變もありません先日東京の根岸派和歌の先生伊藤左千夫氏來諏盛に和歌會お開きました木外君も別に變りなく玉川學校に出勤して居ります比牟呂も十二月初旬にわ出る筈ですから御送りいたします何か御高吟があらば御知らせ下さい家内中より宜しくと申出でました 十二月二日

 

       三七 【十二月十七日・封書 信濃下諏訪町高木より 東京陸軍豫備病院氷川分院 久保田久吉氏宛】

 

拜啓承れば去月二十七日二百三高地戰爭にて御負傷十四日氷川分院御入院の由驚き入りました

戰地御出發間もない事故今囘の戰爭にわ加わらぬ事と存じ居りしに第一囘の戰爭に於てはからぬ御負傷定めて殘念の事と推察致します併し負傷中にてわ極めて輕些の方ならんかと存じますこれわまづ不幸中の幸と申すべきならむ去り乍ら折角御注意御療養一日も早く御輕快に向-樣呉々も祈り居ります先わ取あえず御見舞申上げます 十二月十七日


(32) 明治三十八年

 

       三八 【四月五日・端書 信濃國諏訪郡上諏訪町西小學校より 高崎歩兵第十五聯隊補充大隊第五中隊 兩角福松氏宛】

 

拜啓愈々兵士とおなりの由承り隊名分らざりしため御無沙汰放し居り候

一時諏訪から君お失ふのわ打撃だが歌界のためにわ君が新しき經驗お得るお喜び候今日戰爭などお歌つてゐるもの皆平凡淺薄陳腐極まるのわ彼等が只想像の上にのみ馳せて實際の寫實がないからに候戰爭わ實に人間活劇の極致なり足下が身を挺して此の間に踏込むわ百千の駄歌お得るよりも優れり子規先生わ肺患お犯して迄も戰地に赴けり馬醉木の足立清知君の戰地詠お見てもその歌のいかに靈活の光お帶び居るかが分り申候小生等もかつて六週間現役兵で高崎に居り候早晩召集せらるゝ由傳承して實に雀躍待ち居る事に候死ぬ位わ物が咽につかえても死に候疊の上の怪我てふ事もあり候併し當分さぞ御苦勞の事だろ-深く御察し申上候

小生目下學期始めで俗務蝟集大忙しで歌も何も出來ず夜家に歸ればダラリとして筆も碌に執られずこんな事ぢや駄目と存じ居り候

東筑摩の胡桃澤君十五日來諏のよし十六日にわ歌會を催し度候兵營内の歌何でも珍らしき材料充實の事ならん故充分御把捉御遺漏なからんお切望す小生も十五日以後頃からわちと活動致すすべく候木外君わ豐平村下古田分教場勤務になり候諏訪教育界の俗物共の騷ぎイヤに成り候小生など他郡放逐の方餘程うれしく候北山村に○○○○お(33)置く如きわ北山村の大々的不名譽也 四月五日夜十時半認む

    楊の戸兄

 色鉛筆御使用わよすべし毒があるから

 

       三九 【六月二十六日・端書 東京本郷三ノ十八東雲館より 信州東筑摩郡島内村 望月光男氏宛】

 

左千夫氏に面會今日大にブラツキ申候子規先生宅にも參り候東京でわ矢張小生共よりもケンキウして居る今日初雷天はる 六月廿六日

 

       四〇 【九月十九日・封書 下の學校より 上の學校 田中一造氏宛】

 

此間はなした子規居士四囘忌わ放課後直ちにやつて早く歸宅し度いからそのつもりで直ぐ下つてくれ場所わみゆき(勸工場と仕立屋との間に狹い入口の家がある美由幾と書いてある)とするそこで待つて居るよ

      十九日雨                   久保田生

    田中君

 

       四一 【十月一日・封書 上諏訪町小學校より 南佐久郡臼田町島祐三方 河西省吾氏宛】

 

      登淺間山歌十八首

   シヤツかさね衣かさねてこの朝げ雨の淺間に登るべく出づ.雨の淺間わ窮したり

   足引の山鳥の尾の長々し松原こえて川渡り行く 下句よろし

   木鳥居の高きがいたくかたぶきてあやうくたてる下くぐり行く かたぶくといへば危きなど付くる必要なし「山(34)裾の茅生のかや原木鳥居のかたぶき立てる下くぐり行く」などせば面白からん

   山そばのあやうき道に我立てば目下の谷に瀧かかるみゆ まづよし

   木の葉かげかかれる瀧の名をとへばイチホヒの瀧と呼ぶといひけり 木の葉といへば大景に對すべきものにあらず全首何の巧もなし

   赤き水と白き水とがなみてわくジヤボンの谷の源平の泉 よし、はしがきお要す

   雨|がうつつめたき《そそぐ野中の》石に腰かけて|にぎりめしひらき《ほしひ食ひつつ(加筆)》霧の|行くをみる《せまるみる》

   雨にぬれて|紅葉でんとする《うす紅葉する》向つ峰《を》の岩のはざまを霧はしり行く よし

   しみ立ちのつがむら□《が》上に|さか《そぎ》だてる|岩のはざまを《千むらほついは 秀岩》霧はしり行く よき所を捉へたり

   杖つきてのぼる坂路|けはし路《のつづら折》雨脊にとほり凍るが如し よし

   丈ひくき落葉松立てる裾原|の《に》虎杖かれて秋さびにけり よし

   燒け山の淺間の裾野草生ひずつめたき霧の|ただ〔付傍線〕はしり行くも《よろしからず》 下句わろし

   まへかけの山のを長き燒石|原いふみさくみて《の石原さくみ》我が登り來し よし

   天つ神のみ臼ひかすか今日の日を山なりひびき|山ふるふなり《み谷ふるふも》

   淺間山の火を|ふく口のはたに《はく谷の岸に》立てば硫黄の氣くさく鼻つき來る 下句平凡なり

   赤岩のさけ目ゆのぼる白きゆげは|あが脊をつつみ《風を時じみ》地をはひて行く よし

   いただきのここにしてひろく國みまくほりせしかもよ|遂に《今日》みえずかも よし

   故郷の山は遠みか故郷の山は遠みか見まくほりすも つまらぬ詞づかひ也

前のより大に進歩せり新しき境遇に立ちて觀察せるが故也事柄の面白きを捉えて詠む工夫常に必要也こまかきも(35)のにても常に怠らず觀察せば材料つくべからず試驗豫備中なればあまり凝り過ぎぬがよしそろ/\萬葉集でも見給ふべし御健康を祈る 十月一日         久保田生

    河西君

 

       四二 【十月廿三日・封書 山浦より 長野市縣町 三澤精英氏宛】

 

大御無音いたし候あや子さんの轉任説君の主張どの位の程度なりや十二月までとするも三月までとするも大した差わなし可成わ年度のかわりまで我慢出來ざるか又長野移轉ならば母君も同行の方世間え對して宜しからずやちと老婆心ながら一寸左樣思-一人して故郷に居るわ變ならずや冷靜に御考えあり度し

上諏訪も大森今井皆具合惡しく目下困却中也三月延期して貰えればよいが如何にや

  實わ大森わ肺尖カタルとなれり大困却中也併し岩垂五味等にわ目下一先づ秘し居り方策考案中誠に弱り居れり御返事おまつ 二十三日夜山浦にて   俊彦

    三澤兄

 

       四三 【十月三十日・封書 下諏訪町より 中洲村神宮司 笠原常次・笠原田鶴氏宛】

 

拜啓昨日男子御出生御兩人健全との事大安心のいたりに存じ候早速參上いたすべきの處用事のため兩三日延引可致惡しからず御承知被下度候

萬事注意清潔靜肅を旨とし産蓐熱等の患なき樣千望いたし候先は御祝のみ匆々 十月卅日

 

       四四 【十一月六日・封書 信州上諏訪町より 東京京橋區銀座四丁目四番地松本樂器合資會社 米久保喜雄氏宛】

(36)益々御清適奉賀候當分の處よき口なく專科わ事局にて見合せの處多く頗る困難の事と存じ候猶他の方面にても精々御依頼可然と存上候小生數日中に松本に遊ぶつもりに候少々繁忙につき右のみ申上候也 十一月六日 俊

    米窪兄

 

       四五 【十二月十六日・端書 上諏訪町小學校より 北山村柏原 兩角國五郎・兩角珂堂氏宛】

 

御無音失敬々々其後如何に候か馬醉木に今度出なんだから何だか淋しかつたちと奮發すべし過日蕨氏來遊のときわ君等が上諏訪に居たそ-な、なぜ小生に知らせなんだ實に殘念だその際の歌會にわ森山君と三人のみなり課題犬夜柚子三首位づつ小生に宛てて送つてくれ玉え二月のアシビに出すから、一月七日甲州御嶽山上で根岸歌會をひらくから今より御用意大擧出陣あり度し 十二月十五日夜一時

  柳の戸君の消そく如何

 

       四六 【十二月二十五日・封書 高木より 下諏訪小學校 森山藤一氏宛】

 

拜啓先日話した甲州御嶽山上根岸歌會の件左翁も賛成して成立した會日わ正月七日也

諏訪でわこ-しよ-と思-柳の戸が歸つたからその歡迎會お正月五日上諏訪穀屋にひらき(正午から)六日打揃つて米倉に一泊しこゝで東京連と會し七日登上する貴意如何御返事を待つ吉田有賀小林諸君にも云つてやつた五日の穀屋會わ別に云つてやらぬから必來てくれ給へ 十二月廿五日            久保田生

    汀川君

 

(37) 明治三十九年

 

       四七 【三月八日・封書 上諏訪小學校より 松本町高等女學校 太田貞一氏宛】

 

過日わ御迷惑願上げ奉謝候此後も煩雜の事多かるべきも何分願上候横田氏の早速なる承諾三輪玄のために欣喜に堪えず候咋日三輪父君と相談左の如くに決定いたし候間何分願上候

 一、ヒザカナ(日肴の意か? 諏訪の方言か、君の所謂手〆と同樣なるべし)を交換すべく良日を擇んで構田家に豫告し當日左のものを三輪|半《ナカバ》(父の名)名にて横田家に持參の事

 金一圓 御酒料として

 金十錢 するめ料として

  右二包君が包んで持つて行つて呉れ

 二、三輪家でわ日の吉凶を更に云わぬから先方で三輪家によこすヒザカナの日わ先方の勝手たる事

 三、結納わ諏訪地方でわ結婚日少し前に嫁の方に贈る事になつている、不都合なくば今少し後日になりて贈らんと思う事

 四、日肴終り次第結婚日等巨細の事について協議する事(これわ君だけ承知していて呉れゝば宜しいのだ)

 五、横田父君の名前を手紙の序に君から知らせて貰い度い事

(38) 六、先日君の手紙に横田ゆきと書いてあつたが三輪家で貰うのわ横田とよなり多分君の手紙の間違ならんが猶確め度き事(即ち姉の方を貰う也)

そこで二包の金員〆て一圓十錢わ三輪家で小生によこすと云つたが考えて見れば些少の金をかわせにても面倒なり何れ横田からも同樣君に依頼するだろ-からその金を君が受取つて三輪家の金を小生が受取つて差引にするが便利ならんその差額わ何れ又小生から差上けるから差當り金一圓十錢だけわ君が出越して包んでやつてくれそ-云うに頼む日肴終り次第一寸御通知下され度右用件のみ申上候也(アララギ赤彦追悼號所載)

 

       四八 【六月十五日・封書 上諏訪町より 長野師範學校第二東舍 河西省吾氏宛】

 

拜啓愚女肺炎にて看病のため返事相後れ申譯無之候中々盛に活動している御樣子賀し上げ候學校授業だけわ眞面目に勉強しあまり不成績をとらぬ樣にした上盛に御活動のほど祈上候種々の方面え遠足なされ候樣御すゝめ申上候野尻湖遠足の際の御歌大に進境を認め候つまり寫實だから他に得られぬ面白さが有之候只觀察を今少し精密にせば更に佳作を得たるべしと存じ候別紙御詠草御返し申上候間御一覽被下度候

十六七日信濃教育會には三宅雄次郎先生來席のよし演説の巧拙に關らず必ず御聽可有之候小生も今囘は出長せんと思いしも子供病氣にてその意を得ず殘念に存じ候舍監が氣に入らぬなど決して御奮慨有之べからず只眞面目に勉強すればよい黙つている人間がえらいと存じ候先わ御返事まで早々不一 六月十五日  久保田生

  子供病氣は最早よろしく候間御安心被下度候

    河西君

 

       四九 【六月十九日・封書 下諏訪町高木より 長野市 三澤精英氏宛】

 

(39)拜啓出長出來ざりし遺憾御洞察被下度候三宅先生の演説果して傾聽すべし名譽心を大にせよ赤裸々で奮闘せよの警醒わ先生としてわ珍しからずと雖も紛々たる教育者にわ最も適中している大賛成の敬意を表する所以也

扨かねて閑を見て書き染め置き候「子供のしつけ」目下積りて三四十枚以上と成り居り候山田肇君に出版せよとすゝめしも原稿少な過ぐとて應ぜず貴新聞に連載せば優に十數日若くわ二十日に亙るの講談と相成るべく行文わつとめて平俗に致し置き候へば普通人に充分領會いたさるべく章わ、はしがき、しつけの目あて、獨立心の一、獨立心の二、健康衣服、その他賞罰、家族の一致、玩具、子守の選擇、禮義の僞り等十章位に相成り居り候はじめの方わかつて君に見せた事と存じ候右原稿貴新聞で採用多少の原稿料を支出いたすまじくや(五圓以上)御返事被下度候變挺な経文なれど是迄仕上げるには隨分骨を折り候へば多少の報酬を要求しても不都合なかるべきか見込ありそ-ならば一應右原稿御覽に入るべし

小兒大によろしく候間御安心被下度候一時わ大心配ために小生も腦をわろくし胃病をおこし目下服藥中也今年は祖父病死長男ヂフチリヤ兼眼病次男ジフテリヤ耳下腺炎で危く愚妻もヂフテリヤ傳染今度わ長女肺炎何れも平凡ならざる病氣大閉口いたし候前半年で打どめにして後半年を景氣にし度く候先わ用件のみ早々不一

     六月十九日                 俊生

    三澤兄

 

       五〇 【六月二十八日・封書 下諏訪町高木より 長野市西後町 三澤精英氏宛】

 

過日の長手紙慥に拜見いたし候「赤裸々になつて話し度い」小生と雖も多くこの境遇にあり守屋去り三澤去りたる諏訪の寂寥御察し可被下候守屋わ二泊して歸宅いたし候案外強健の體を見て欣喜いたし候二泊の快談近來の傑出に候

(40)小生の子供全く快復いたし候間御安心被下度候承れば御出産近きにあらんとの事隨分御攝養專一になさるべく候産前の思は父親の方が苦しいものゝ由也

別紙原稿貴意にまかせ至急御送申上候今日山浦より歸り貴書拜見直ちに着手多少訂正して差上げ申候増補中男女の平等差別わ尤も詳密にして光輝可有之と信じ候著手すれば早いが今夜の間にわ合わぬ御採用とあれば直ちに始むべく候振假名も御返稿被下候はゞ附けて上ぐべく候併し苦しい思をして採用する勿れ決して強賣わせぬよ勝手にすべし 六月廿八日夜             久保田生

    三澤兄

  明早朝登山歸途餅屋一泊の豫定

 

       五一 【八月十一日・封書 下諏訪町より 豐平村下古田 塚原葦穗氏宛】

 

拜啓熱心誠實なる御手紙拜見嬉しく存じ候充分の責任を自覺して事に當る何事もその覺悟次第で出來るものと信じ候足下已に牢乎動すべからざるの決心あり只勇猛に進行すべし小生も商船の方は全く賛成を表すべく候大活動は常に細心の用意を伴ふ事を御承知あるか大成功は常に細微なる秩序に伴ふ事を御承知あるか

足下日日の定課あるか 足下日日の自省あるか

眼病の全治策如何商船校に再度失敗せばその後の針路如何と思慮しつつありや何事も遺漏ある考は駄目なり眞面目に考量せよ父母につき一家につき瑞穗につき細かに觀察し細かに考へよ右當用のみ申上げ置き候小生大に輕快御安心ある樣母上にも申上ぐべし此内に行く佐倉兄上具合よく父上直に御歸國のよし大賀々々小生も非常によいから十六日頃參上すると御傳言を乞ふ 八月十一日        俊生

 

(41)       五二 【八月十二日・端書 下諏訪町より 北山村湯川 篠原圓太氏宛】

 

腦病先づほとんど快復いたし候間御安心被下度候此内に御來訪との事已屈指待上候御出での節わ一寸御しらせ置き被下度候小生今小説製作中なり君が來たら見せるよ早く來たまえ 八月十二日夕

 

       五三 【九月一日・端書 千葉町より 信州上諏訪小學学職員宛】

 

又々學校を願い恐入り候兄昨日死去につき一週間位は出られぬよろしくお願い 九月一日

 

       五四 【九月八日・封書 信州諏訪郡豐平村塚原方より 東京神田駿河壹西紅梅町一〇 濱かつ子氏宛】

 

眞情こもれる手紙拜見大へんうれしく思いました小生わ去月三十一日千葉町の病院に居る兄が危篤との電報に接しその夜直に夜行列車にて上京兩國橋から乘車午前中に千葉に著きました兄わ小生の出發頃死去しましたから遂に生前の面晤が出來ませんでした以後兄の任地なる佐倉町に滯在して殘務を處理し五日午後漸く歸國して御手紙を拜見しました御手紙を拜見した時わ非常に嬉しかつた眞情のこもつた文字わ人を泣かせる昨日葬儀終了今日少閑を見て此手紙を書きます今年わ三囘上京しました第一囘わ帶川君の發病入院のため第二囘わ帶川君死去のため第三囘わ兄死去のためと斯くの如き不幸な上京で誠に話しにも成りません御心配下さる如く小生も今年わ家族五人の病氣友の死去兄の死去で全く弱りました併し御來示の如く充分注意して元氣を落しませんから御安心下さい身體を惡くしてわ萬事休すだからあなたも充分御注意然るべしと思います御尊父樣はじめ御同胞にて一家を御形成のよし如何ばかりの樂しみかと存じますまつ樣せん樣にもよろしく御傳言下さいちせさんにも同樣願いますちせさんの番地を忘れたから手紙を下さいと御傳へ下さい今度の夏休にわ一度ユツクリあなたとちせさんと話し度(42)く思いました處何や蚊やでその機なく殘念でした先わ右のみ早々 九月八日     久保田生

  野の草花稻ふく風故郷わもう秋の景氣です人は逝き秋は來る斯の如し

 

       五五 【十二月十二日・封書 上諏訪町より 長地學校 矢崎作右衛門氏宛】

 

拜啓湖岸の冬枯そろ/\山國の眞相を發揮し來り諏訪の趣味漸く吾曹の感興を惹かんとす湖水の色わ初冬に於て眞に深碧也湖岸の樹木わ冬に於て眞に山國的也

下筋の金扱業者も冬の湖畔を通る時わ寒そ-也貧相也百千の烟突も冬の鹽尻颪に逢つてわ寒國的風骨に化せざる能わず是故に諏訪湖の眞趣味わ冬に於て最もよく山國的の發揮を存すと云ふ也

次に要件を申上げ候それは數年前から君を上諏訪學校に欲しいといふ望わ連續しているのだが今度は斷じて承諾して貰い度いのだ色々六ケ敷い事わ拔きにして只僕は君の來校を切望するのだ君の長地村に居た三年は全く君の犠牲的時期であつたと考へる(失敬だが)も-動いても不都合なしと思-今度わ問題を六ケ敷くせずして全く僕等の學校え來ると決心して呉れたまえ僕は只君を望む情の切なるを披瀝し君が吾人の情を諒とし斷然來て呉れんを望むと云ふより外長く書いてもドーモ同じ事を繰返すに過ぎぬ今出來れば猶よいが(一日早ければ一日丈け有難い)來年三月わ是非そ-して頂き度い右至望に堪えず御熟考を切望す以上不盡 しはす十二日

 

       五六 【十二月十三日・封書 上諏訪町より 北山村 篠原圓太氏宛】

 

今年中には出向かぬとの事情けなし併し小生も例の繁忙で作歌に懶し之れも致方なし蕨氏大に快復いくら金をかけてもよいから來春大々的に歡喜號を出すと云つてる由大慶至極と歡喜いたし候アシビわ内容主もに伊藤氏がやつて居れども之れが維持は蕨、長塚二氏とありて確實なる生命を得て居るのだから單にアシビの運命から云つて(43)も蕨氏の快復歡呼いたすべき也

貴稿一通り拜見愚見相加へ御返却申上候折角御年越遊ばされ候樣祈上候也 十二月十三日  久保田柿生

    篠原兄

   湖ノ風氷魚賣ル軒を吹キナラス

  新年會ヲ上スワニ開イテハ如何

 

     五七 【十二月二十一日・封書 信州上諏訪町より 東京下谷區西黒門町二十二前田方 平福百穗氏宛】

 

度々御手紙下され有難く拜見仕り候諏訪の風物冬に入つて益々蕭條たり前の平野彼の丘陵白斑に冬木の群わ骨の如く此の間に參差す

   冬木立透いて見らるる湖水かな


(44) 明治四十年

 

       五八 【一月九日・封書 下諏訪町高木より 下諏訪町小湯の上 矢崎作右衛門氏宛】

 

※〔羊の字の古体〕羊の年の出立わ何だか豐かな感じがする先づ以て改暦の御祝を申上げる昨冬の御返書慥に拜見しました僕の方でわ只君を見込んでたつてお願い致し度いと云ふより外何等の理由なし未熟云々の言甚だ意に滿たぬ全熟した人が社會に何人ありや諏訪の教員に何人ありや未熟なるが故にお互に胸襟お披いて斯の道に進む侶伴を求むるのだ氣の合つた同行者を求むるのだど-か僕等が君に望む所以お御了解願い度い

「村長に叱られそ-」の貴意御尤もなり村長の君を信任している事初めよりよく僕の知る處併乍ら誰が學校を出るにしても苟も普通以下ならざる限り村長にも校長にも叱られる事と思-村長に叱られるのわ轉任に對する普通事のみど-か御決意お願い度し

僕わ更らに改めて君の御来來任を切望する我校の尋常科に君の居らん事を切望する幾多の諏訪郡の教員中特に君の御來任を切望する(お世辭とする勿れ)之れ二三年前より我校の希望なり手紙のみで坐ながら斯の言を作す甚だ意お得ぬが又手紙を上げるのだ

斷乎御決意を願います 一月九日夜十一時半

(45)    矢崎君

村長とても上スワに行くのを止める譯にわ行くまい(失禮言葉だが

僕わ冬の中上スワに止宿する

 

       五九 【二月十四日・封書 下諏訪町高木より 下諏訪町小湯の上 矢崎作右衛門氏宛】

 

拜啓例の件宮下にわあの後直ぐ申出で置けり

昨日小口村長來訪是非中止して呉れよとの意なりしも絶對的拒絶せりむしろ貴村としてわ善後策を取るの優れるに如かずと申置き候此の上わ君から大島に宛て及び郡視學に宛て是非出し呉れよとの意頻繁に御申出下され度小生方よりも頻繁に宮下に交渉すべく候之れより外成功の策なし右何分願入候猶之れに對する大島氏の態度おも御一報願上候撥表した上わ急撃肝要と存じ候

先わ右のみ早々 二月十四日              久保田生

    矢崎君

  小學数員とわ何ぞや岡谷お見よ原お見よ諏訪の平に蠢々たる小學校舍お見よイヤニモナルヨ之れわ別問題也

 

       六〇 【三月二十一日・封書 下諏訪町高木より 長野市後町 三澤精英氏宛】

 

謹啓御手紙拜見事情明了安心いたしました西村の去りたるは實に悲しむべきだ落たんのいたりだ、だが小學教員威張れる丈け威張つた處如何程でもないせん方ない泣寢入りをつゞける小人跋扈は今つと激烈になつてもよい改革の聲は斯の如くにして天の一方より來らん

伊勢旅行京阪巡遊羨しさに堪へぬこんな時が骨延ばしだウンとやつて來べし大垣の柘植《ツゲ》潮音(子規の直參歌人)(46)氏は未見なれど未通信なれど小生の事をよく賛めてる人ださうな雜誌「馬醉木」上でも顔を合せてるからよく分つてる彼人を尋ねられたし伊勢の桃澤茂春已に死し備中に赤木格堂雌伏せり餘り遠くてだめならん京阪の地一人の同志者なしこれ根岸派の根岸派たる所以か京都大學の文學科(?)に池田の勝山氏未だ在學か大覺寺近邊に杷栗も居るならん紳戸市小學に笠原徳十君あり大阪東區高木小學校長に小松武平(舊笹岡)君あり逢つたら御無沙汰を謝して呉れ玉へ福井市師範に四賀村の北澤種一君あり

小生は四月老父を伴ひて甲府から御嶽見物に行くつもり小旅行と雖も希望温き豫定なり小生の豫定は斯の如し先は御返事のみ匆々 廿一日夜     久保田生

    背山兄

お手紙うれしく拜見いたしました去年の旅行は實に樂しくありました御家庭の温かさに歡喜の情を催しました子供の世話學校の仕事御辛苦さこそと深く御同情申上げます守屋去り背山君去りたる諏訪の寂寞に一人身を置く苦しさを御推察願ひます併し今日では平氣の平左ですそのために心を傷め身を害ふ樣な事はせぬつもりですお庭の柿が冬枯れになつて雪見燈籠に雪が積るでせう御大切に三七君もみささんも

    あや子樣                廿一日夜    俊生

  三輪ます子さんも愈々生れさうです

 

       六一 【四月三十日・封書 下諏訪町高木より 長野市縣町 三澤精英氏宛】

 

      歌日記                   柿乃村人

      三月卅一日雪降る

   夕暮ゆ雪となりたる春の雨の雫滴る黄梅の上に

(47)梅の花咲くは未だししかれども福壽草散り黄梅比良久

      四月十四日家に籠る久し振りの閑散無事なり

   草いほの庭のかくみに錦木の百株千株植ゑなんとおもふ

   我やどの二反の畠の桑を刈りて百羽の※〔鷄の鳥が隹〕を放たんと思ふ

      四月十八日梅已に開きたるに諏訪の湖風北西より吹きつけて寒し

   湖つ風西吹きあぐる岡の上の高木磯村梅さきにけり

   湖津風ふたたび寒み梅さける磯の藁屋に氷柱垂りたり

      四月三十日櫻散り桃咲く

   高木人種おろし立つ田のくろのカリンの低木若芽のぴたり

注意して靜かによんでくれ給へ

別所温泉からの御手紙拜見いたし候當時小生實父を伴ひて遊びに出て居り御返事差上げず申譯無之候

扨小生は數年來色々考へてゐるが全然文學を以て身を立つる(?)が行く/\の方針として適當かと愚按いたし候

教育者も面白いがそれ以上に文學と小生は縁の深い樣考へられ候併し急に文學專門と參り候とも食はねばならぬといふ問題あり左樣に早速には參り難し小生も徐々に方策をめぐらす心得に候「人間は一生なり」といふ事が眞面目に熱心に今小生の心頭に念ぜられて居る小生は一生を少くも馬鹿らしく暮し度くない惜しい一生だから一日と雖も馬鹿らしく暮す譯に行かぬ理窟は單純でも陳腐でも目今小生には最も眞面目の問題に候

小生は今迄馬醉木といふ一雜誌以外に自作を發表した事なし併し今後追々各方面に發表の素地を作るつもり也信州の文壇は勿論東京の新聞社雜誌社に手を延さんと考へ居り候貴新聞へは毎月二三囘づつ掲載相願度今少し經過したら貴新聞の歌壇を貰ひ受けんかとも存じ居り候御許しなくばそれ迄也

(48)右貴兄だけ(守屋君にも三村君にも誰にも少しの間御發表無之やう願上候)へ申上候別紙可然御取計願上候

      四月卅日             俊生

    三澤大兄机下

  君だけに心中を申上けるのだ話さずに置いてくれたまへ

 

       六二 【六月廿七日・封書 下諏訪町高木より 東筑摩郡島内村 胡桃澤勘内・望月光男氏宛】

 

一昨夜左翁と共に歸宅昨日左翁を送りて上スワ停車場に行きはからず志都兒君に逢ひ共に布半一泊今夜相別れ申候左翁一週間の豫定が二週間となり急ぎ候ため松本へはダメと相成遺憾存じ候

岐蘇旅行は餘程面白く有之候岐蘇の風景に接せんとせば南木曾に行くべく人情に接せんとするものは北木曾を訪はざるべからず南北の分界は福島なりと存じ候山のこせつかずして水の清冽日本無双なる樹木森林の無盡藏なるこの三者の特徴が木曾の風景を作つて居り申候もしそれ木曾の人々に至つては敦の敦なるもの今世に於て他に多く接し難し藪原少女我が爲に檜笠の緒をすげてくれ茣蓙を著せてくれたるから始よつて隨分記憶を打つものあり況や連日の雨岐蘇路に入つて新に霽れ旅情の殊に爽快を助けたるがあるに於てをや歌は近々作り可申候

三澤君の事少しも誤解いたさず候過日三澤に逢ひし際長塚といふ人來りしも逢ふこと能はず氣の毒の事したりと申居り候新聞社の方にて約束の時間まで待ち居りしも來らず仕方なしと申居り候尤も三澤といふ男隨分氣儘者故あてにはならず候併し長塚君の所用は辨じたればなに不都合なからむと左翁も申し居り候御安心可有之候神經衰弱は遠足散歩に限る旅行に限る家居してグヅ/\思ふ事尤も不可也ウマキ者を食ひ運動をするが第一と存じ候君のおひまの頃一度出松共に淺間にでも會すべく候

うまき謌を作らんなど苦心し玉ふな感情を養ひ置けば何時か自然に湧き出づべしイラ立ちても何の效なし人生ハ(49)短イケレドモ長イヨ

望月君病氣如何小生よりは大に御疎音申譯無之候矢張呑氣に御療養專一に思ひ候精神療法と云ふ事あり醫藥の如きは第二のもの也煩悶大禁物也強大なる意志を以てすれば正岡先生の病躯猶七年を支へしに非ずや君の如きは心《シン》(眞底からの勇猛心)から大勇猛を振起せば病氣の如きは自然消滅なり僕の病氣が害ヲナサヌは多少この般の消息を存すと自信いたし居り候今日午後歸宅今夜久振にて少閑つまらぬ事書きつらね申上候也 六月廿六日夜 柿生

    二兄

 

       六三 【七月二日・端書 下諏訪町高木より 東筑摩都鳥内村 望月光男氏宛】

 

   撫子の花のはたけに立ちたりし君は消えずも花さくかぎり

至情と詞と共に隨一なりと拜見いたし候左翁と大に談じて愉快に有益に有之き小生の木曾行も長野新聞に出すべし御一覽下され度候也近來の起居如何御自愛を折る 七月二日

 

       六四 【七月九日・端書 下諏訪町より 東筑摩都鳥内村 望月光男氏宛】

 

八日「日本」若葉貴作拜見せり

   若葉風凉しき岸のつなぎ舟漕ぎて見ましを人も居らぬかも

は非常によい傑出の作だ

「□《不明》倉の山田のくろの柿葉」は比較的遠くから見た景だ「蛙どよめり」は比較的近い調和せぬかと思ふ 七月九日

 

       六五 【八月十日・端書 信州下諏訪町より 東京小石川區春日町須田病院 兩角國五郎氏宛】

(50)御負傷の事は一日に紫水明より聞いた住所が分らぬので手紙が出せぬ紫水明から今知らせて來たから此端書を出す大分快方との事欣喜に堪へぬ暑中東京での入院定めて退屈の事だらう辛棒を望む蠶が飼へぬから收入が減る入院してゐるから出費が増す何で取りかへすつもりだラムネ製造を始めて取かへすのか成案如何斯る時眼ふたぎて世の中に苦しみ迷ふ人を想ふべし 八月十日

 

       六六 【八月十日・封書 信濃下諏訪より 東京小石川區春日町須田病院 兩角國五郎氏宛】

 

今日は諏訪の盆會だ昨夜蠶のひまに父が佛棚を造つた小生は寢ころび乍ら足の蚊を叩きつゝ父の手の動くのを見て居るランプの燈で手の影が佛棚の白木の上に大きく不定形に映る棚は三尺に四尺高さは六尺許りのワクになつてゐてその三分二位の高さに板のシキリがあるその坂を基點として四周に草花を立るのが面白い後の方へ萩を立てる二本立てる三本立てるしまひには立派の萩垣になる僅に花を持てる枝がランプの光で鮮に見ゆる父の手の影と頭の影とが床の間の上の壁にうつる脚の蚊をピシヤリ打つ父も尻のあたりをピシヤリやる手の影がピシヤリとも云はずに床の間の上に落ちる萩の花が手の影をはづれて全面に見ゆる手の影と萩の花とを見つめて居るうちにそろ/\眠くなる眠くなりつゝ時々ピシヤリやるそのうちに益々眠くなる眼をあいて見たら盆棚はもう立派に出來上つて居た右の圍には女郎花と桔梗と萩よりも立派に竝んでゐる左の圍には我木香の花が盛に首を揃へて居る女郎花も僅ばかり仲間入をして居る向うの萩の花が左右兩列の奥に高尚に照つてゐるその前に先祖代々の位牌が三基立つてその前に燭臺が一つあるが火はともしてないその前に線香立があつてそれから前はカトギのムシロが板から下まで長く垂れさがつてゐる父も居ない誰も居ないランプは明煌と輝いて盆棚を滿面に照らしてゐる今夜この盆棚に切籠な吊つてその下でこの手紙を書く盆歌が村の辻で聞える蚊が相變らず來る御大切に御療養あれ頓首 八月十四日夜          俊生

(51)    竹舟兄

 

       六七 【九月八日・封書 下諏訪町より 北山村柏原 兩角福松氏宛】

 

日曜だから手紙を出す詞が第二第三の問題だと云ふのは君の弊所に對して云つたのだ君は子規先生の趣味が分ると云つてゐるが分りはせまいと思ふ君の云ふ所を聞いたでは少しも分つてゐる所がないぢやないか鐵幹の趣味も面白い子規の趣味も面白いといふのは即ち君の解らぬ事を證明してゐる「平凡無味不自然なものをゴマカス詞」に驚嘆してゐる程度の人に子規先生の趣味が分るか驚いた愚説だ「抽象的概敍的句法を許さぬだらう」位に僕の思ふ所を解してくれる樣な君だから張合がない俳句には俳句的敍法がある歌には歌的叙法がある歌に俳的敍法とは何の事ぞや十七字詩に對する形式と三十一字詩に對する形式とを混同する樣な考へは基本から間違つてゐる全く融通出來ぬ事はあるまい(極めて小なる場合に於て)併しそんな事は第一問題になる程の事でない君はつまらぬ所へ力を入れてゐる事を悟らぬのだ自分の弊所は何處にあるか悟れぬのだから困る自分の弊所を悟るには苦心が要る僕は君の才を惜むから極端の詞を以て君の眞面目なる反省を促すのだ君は自信々々と云つてゐるが僕から見れば實に憐むべき自信だよ下手な反省は自棄となり下手な自信は所謂己惚になる工夫の困難なるは此處也失敬だが君などが自信を振廻すのは早過ぎるよ今つと修養の苦心を經驗するがよいそんなチツポケな自信と心中したでは實に惜しいと僕は思ふ貴詠一々の辯解一も感心せず詳しき事は書くひまなしこの手紙を見て怒る樣な事ぢや君はもうだめだぞ失敬萬死 九月八日         俊生

    柳の戸大兄

  僕ノ君ニイフ所ハ前便ト更ニ變ラヌ重記ヲ省俊  生


(52)       六八 【九月九日・封書 下諏訪町高木より 長野市西後町 三澤精英氏宛】

 

御書拜見仕り候種々御厚志奉謝候和歌選者の件その際になりて可成御引受申度存じ居候よろしく願上候どうしても來年一月からでなくては困り候「野の人」の御決心大賛成いたし候飽迄堅實に御進行希望に不堪候猶それに對する用向何なりとも御盡力申度存じ候種々御意見御相談御申越可被下候あや子樣の件も多分成功いたすべく十二月頃岩垂先生に談合いたすべく候正岡子規を更に御研究希望いたし候馬醉木御覽の事是又希望いたし候此内に歌日記又々御送可申よろしく願上候可成は第一面にのせ度候十四日に松本行村井驛の八幡農園で水蜜桃を食ふ豫定也十九日糸瓜忌は小庵にて營み可申候三七郎さ丈夫や皆々樣御大切不盡 九月九日夜十二時  俊生

    背山兄

 

       六九 【十月二十五日・封書 下諏訪町高木より 東京 伊藤幸次郎氏宛】

 

  〔欄外〕馬醉木ヲ今後諏訪郡中洲村小學校小林善一郎宛毎囘御発送願上候(號山水)發行ハ何日ニヤ待遠サ萬丈ナリ

拜啓信濃は寒氣頓に加はり今晩炬燵を擁して書面認め申候

日本新聞「空」は前囘に比して寂寥に存じ居り候處昨日貴詠拜見千萬の援兵を得しが如く力づき欣喜いたし候連作十首悉く活躍非常に力の動きたる作と存じ候これを十首一體にまとめて見れば各首相依つて殊によろし連作のよき特徴と存じ候例により細評申上ぐべく御心付の所直に御來示相願候

   高山のいはほにやどり夢つかれ魂は翔りぬおほそらの上に

全體よくしまり居る特に「夢つかれ」がよく緊密に利いて居るヤドリ、ユメツカレと層々相據つて疊みかけ下句が(53)力に承けている全首の力ある所以調がよく想に添つてゐる

   小夜ふけて天の白露(雲なるべし)山をつつみ星の青空上にのみ見ゆ

露では無理なり雄大なれども疵あり「上にのみ」など非なるべし「のみ」の助辭、調の強みを害する甚し「頭に近し星の青空」などやう緊密ならんを欲す「小夜ふけて天の白雲山をつつみ星の青空雲に浮き見ゆ」の如く欲し「露」が誤ならずば別に考あり一天白露などの意ならば「上にのみ見ゆ」益々据らず御來示願上候

   天の門に風立ちしかば四方つ空四方つ國土に寄合にけり

三四五句に對し一二句意味薄く思はる三四五句の雄宕は論に及ばず

   蒼空の眞洞にかかれる天漢《あまのかは》あらはに落ちて海に入る見ゆ

完璧摩すべからず

   ひんがしの空の一すみやや白みやや朱けにつつ月出でんとす

同上。三四句斯の如く細かに表はして大景生動驚くべしかゝる句法はじめてなり

   日を讀めば二十日の月を天の原の高山の上にむかへつるかも

第一句この連作の上に容易に得べからず前五首を經てこの快に接す興更に加はるかゝる歌體は殊に一氣に讀み下し得て調整ふを覺ゆ

   月よみは神にしませば天の河ひた波ふみて空渡らすも

非常に振へりとも思はず

   生死の境をはなれとことはに處女にいます月夜見の神

「生死の境をはなれ」は必要の詞なりや「はなれ」など他になくや且三四句未だしまらずと思ふ

   まぼろしか夢かしらしら雲踏ます嫦娥の神をまのあたり見し

(54)絶唱三嘆山上の靈光肌に迫れり第一二句の如き重き句をのせてチヤント据り居る雄姿驚くべし

   澄みとほる天の眞澄に肉むらのむくろむなしき思せりけり

結末の歌一氣よみ下し得て竹を裂くの概あり大賛成なり思付けるまゝの走り書き高慮を測り得ずして勝手の駄評たるべくやと恐居り候例により言はねば解らぬから感じたるまゝを羅列いたし候御高教至囑に不堪候

篠原志都兒目下木崎湖にあり四五十首位は土産あらむと待ち居り候明日は久し振りにて短歌會を布半亭に開き可申悉く集れば十人もあれど如何やと存じ候何れ結果御報知可申候根岸派の歌はどうしても信州に發達すべきものと信じ候信濃百四十萬の人衆過半は山國むき出しの眞面目を失はず文明を知らず都會を知らず近來鐵道の開通を得てやゝ動き出したる新元素の自覺力は自覺さへ出來たら目醒しきものと信じ候諏訪諸同人惜哉未だ自覺に達せず自ら自分の眞價を知らず天賦の靈性を持して發するを知らず只今後追々上達と樂しましく候

今や小生の胸中は脈々抑ふべからざるの希望充溢横奔せり足はヂダンダ踏んで前途の使命を望み居り候我は少くも我の一生に對する我の使命を悟れる心地す使命茲にあり千萬苦闘千萬奔馳わが勞とする所ならんや眞個使命を自覺する所苦即樂、生存の意義茲に於て一日と雖も重大なり教育は神聖なり小學教育は特に神聖なり然りと雖も小生は文學の前に我生命を捧ぐるの快樂を有するを如何せん小生の一生(一日二分でも)は文學と伴隨せざるべからず斯く信ずれば愉快だしこの信念を一寸でも妨害せられては實に不都合なり今日小生のヂダンダ踏むは之れがためなり明治四十一年は小生の紀元第一年なり重大問題雀躍問題を前に控へて知らぬ顔してゐる愈々ヂダンダを踏まざるべからざる所以なり。やゝ朱けにつゝ月出でんとす。あゝこの希望この胸中先生只夫れ知るを得んか

  〔罫紙欄外〕 來年三月退職ソレマデハ誰にも云ハヌ云フト留任問題ナド面倒ニナルベシ

文學問題と聯關して※〔鷄の鳥が隹〕の問題は矢張重大なり小生は今後三十五圓の月給を抛つて百羽の※〔鷄の鳥が隹〕に米を得ざるべからず文學に携つて文學に衣食するは斷じて御免なりこゝに於て百羽の※〔鷄の鳥が隹〕はさし當り小生の文學問題と重大の干係あり(55)是故に例の寢坊を強ひて全廢して未明※〔鷄の鳥が隹〕の糞の掃除に骨折るなり薄暮疲れ歸つて直に※〔鷄の鳥が隹〕小屋の手入寢道具の始末に取り懸るなり夜半夢醒めて※〔鷄の鳥が隹〕のクヽと鳴くを聞く時胸中半ば恐れ半ば躍る全力を以て躍るヂダンダを踏まざる可らざる所以なり

※〔鷄の鳥が隹〕大分成長成績良好御喜び被下度候十二月頃から然部産卵可致と存じ候産めば貧しと雖も一家五六口を養ひ得べし來年の末には二百羽以上に致し度存居り候さうなれば大分都合よろしく候(今年末から小生等妻子は別に一家を持ちて生活する譯なり家は已にあり)以上誰に話す人もなく胸中にてのみ思ふ愈々ヂダンダ踏みて堪へがたきまゝ思はず長く書き申候前後錯雜自分乍ら何を書いたやら分らず御笑覽被下候

過日只乘切符の件小生の方甚だ覺束なく相成り候それは諏訪教育會の事業として淺間山妙義山八ケ岳その他上州地方に岩石採集旅行として十一月五日より十二日迄旅行せざるべからずそれが終れば農事休も直に終るからどうしても出京出來かねる事に有之胸中一寸困り居候この旅行實は小生の發議なり今更責任を逃ること惡し來年三月迄は小學校教員だから教育の職業を疎にすべきに非ず斯の如くなれば十中八九出京覺束なく(他人が引受けて行けばよいがあてにならず)然る上は是非共先生の方を御都合下され十一月十三日小宅著の御見込にて御出掛下され度何やら蚊やら御話し申度事近來山積の姿につき是非共御差繰り願度希望のいたりに候先生には只乘器あり十一月來り一、二月に來ること比較的安樂なり只(氷の時)時間問題あれば數日の御差繰今より御考案願入候尤もこの旅行のこと確定次第又々可申上候大分長くなり候まゝ擱筆いたし候匆々亂筆

    左翁老臺

  山顆累々〔封筒ニ追書〕

 

       七〇 【十一月十三日・封書 高木より 下諏訪町小學校 森山藤一氏宛】

 

(56)拜啓途中落伍遺憾に存じ候益々壯勇旅行結了の趣大賀いたし候小生病氣上田にて受診少しむきあしく申されしも長野赤十字にて二囘上諏訪にて二囘受診の結果何等の障害なき事に相成り候間御安心下され度候斯囘の旅行に歌なかるべからず御示し相待申候 十一月十三日                   俊生

    森山汀川樣 侍史

   淺間根をそがひに見つつ碓氷路の枯芒道君たどりけむ

 

       七一 【十一月二十三日・封書 下諏訪町高木より 東筑摩郡島内村 望月光男氏宛】

 

拜復小生大に快復いたし候間御安心下され度候醫者ハ本ヲ讀ムナト云フ字ヲ書クナト云フ朝早ク外ニ出ルナト云フタ遲ク外ニ出ルナト云フ夜ハ直グ寢ヨト云フソノ他色々小言ヲ云フ醫者ナドト云フ者ハ器械的ニ肉體ヲ診察スルニ止ル者ダカラソノ勸告ハスベテ皮相デアル僕ト雖モ肺柄ニナリタクナイハ勿論デアル併シ文學ハ肺病以上ダヨ一日文學ト離ルヽハ一日吾人ノ苦痛ヲ加フル所以ダ病苦以上ノ病苦ダ吾人ハ肉體上ニ於ケル雖者ノ勸告ヲ參考トシテ採用スル併シソノ勸告ヲ採用シタ以上ニ吾人ノ用意ガナクチヤナラヌ僕ハ今ノ處病氣ニ對シテ大ニ瞥戒シテ居ルコレハ他ノ病人ニ讓ラヌ併シソノ反面ニ於テ大ニ平氣デ居ル餘リ一身ノ至要問題トシテ病氣ヲ待遇セナイノダコレガ小生目下ノ眞實ナル心事デアル

毎日歌ヲ詠ム毎日本ヲヨム夜モ遲クナルコトガアル併シ奇妙ニ病氣ハ追々退散スルー昨日胃者ハ非常ニ驚イタコンナニズン/\本復スルハ奇妙ダト云フ僕ハ奇妙ヂヤナイト自信シテ居ル廣言スル樣ダガ僕等ノ病氣ニ對スル考ハ醫者以上ダヨ高慢ヂヤナイヨコンナ病氣ナラー年デモ二年デモ續イテ貰ヒ度イ家人モ用ヲ言ハヌ學校デモ出テ來イト云ハヌ出校スルト云ヘバ今少シ休メト強ヒテ來ル詮方ナク籠居スル歌ヲ作ル本ヲ讀ム何ト面白イダラウ僕ガ病氣ヲ下等ノモノトシテ待遇スルニ對シ世人ガ餘リニ貴重視スルノガ怪訝ニ堪ヘヌ

(57)僕ノ精神状態斯ノ如シ君モ病人ノ部屬デアルカラ參考ノタメ僕ノ病氣觀ヲ申上グルノダ如何君ハ病氣ヲ餘リ重視シ過ギハセヌカ精神活動ヲ盛ニシ玉ヘ病氣ナドハ自然退滅ダヨソシテヨイ歌ガ出來ルヨ頭ガ愉快ニナルヨ

僕ハ今別ニ家ヲ移シテ獨立スベク準備中デアル來年四月カラ學校ヲ退イテ全ク分學ニタヅサハル決心ダ百姓ヲスル※〔鷄の鳥が隹〕ヲ飼フ蠶モ飼フソシテ晴耕雨讀主人ヲ氣取ルノダ實ニ愉快ダヨ君今少シ健康ニ復サバ一週間僕ノ家デ迎ビ給ヘ是非來タマヘ必ズ病氣ナドハ退散スルヨ君等ハ弱イコトバカリ言ツテ困ル僕ハ對ガ弱イダノ僕ノ歌ハダメダノソンナコト云ツテルカラ益々弱クナリダメニナルヨ比牟呂再興ハ余ハ來年四月以後ト考ヘテ居タ篠原モセク朗君モセク樣ダソコデ一月カラ發刊セヨウカト考ヘテ居ル併シセイテヘタナモノ作ルヨリユル/\取懸タ方ガヨイト思テヰル胡君等トヨク相談シテ置イテ呉レ給ヘ愈々出ストスレバシツカリ懸ラナクチヤ困ル一月出スナラバ十二月中ニ原稿ヲ盛ニ作ツテ貰ヒ度イ購讀者五十人ハアルマイ實費ヲ頭割ニシテ取ル積ダ一人四五十錢ニモ當ルコトアリト覺悟セナクチヤ出來ヌ年ニ六囘ハ六ケ敷イダラウ如何

左翁來月來ルヨシ待居り候根岸歌集出版ノ相談アリトノ事賛成ニ候今ブラツキ乍ラ妻ヲ督シテ移轉著手中ナリ閑ニシテ忙メチヤクチヤノ感アリ今月中ニ新居ナルベシ是非來ラレルヤウ健康ヲ囘復セラレタシ(新居ト云ツテモ古イ家ダヨ)十一月廿三日                         俊比古

    望月詞兄

 本日長野新聞淺間登山ノ歌御評願上候新聞ナクバ小生ヨリ送ルベシ匆々

 「日本」課題信州人見エズ寂寥ニ堪ヘズ齋藤君一人振フ(十九日迄ヲ見ル)

 

       七二 【十一月廿六日・端書 信州下諏訪町より 東京赤坂區青山南町二ノ六十五 平福百穗氏宛】

 

病氣デ一寸ブラツキ居リ候今※〔鷄の鳥が隹〕小屋ヲ作リ移轉最中ナリ病人デモ忙シク御手紙ヲ見テ去年ヲ思出シ候馬肉ノ件又(58)ヤリ度ク來月左翁ト共ニ御來遊御スヽメ申上候小宅ニテ何日デモゴロツキ下サレ度候馬肉ハ實ニ面白カツタ志都兒ハ明日來ルト申來レリ二人デ馬肉ツツキ可申候(左翁十二月來ルト申來レリ)馬醉木遲刊小言諸方ニ聞エ候左翁何ト思居リヤ志都兒ト二人デ又何力書イテ送ル 十一月廿六日

 

       七三 【十二月十日・封書 下諏訪町高木より 北山村湯川 篠原圓太郎氏宛】

 

拜啓長野新聞今日の歌(澁崎行)御覽なりや同社背山君二三年來小生に長野新聞の歌を見ろとの勸め今囘は山本聖峰が牛山君を介して是非受持ち呉れよとの事小生も斷然一月から見る事に決心いたし候根岸趣味を信州山國に鼓吹する事多少の效果あるべきを信じやれるだけやつて見る決心なり從つて南信日日の方は閑却となるべし是に就ては諏訪筑摩諸同人の努力助力を借らざるべからず盛に御出詠希望いたし候信濃毎日にみづほのや選者となり盛に例の歌を出して賑はせ居れり我黨の歌は彼の如く盛ならざるべし(數ノコト也)吾人は吾人の趣味に立つて眞贄なる理想的の歌壇を長野新聞の上に立つてやつて見る事大に興味ありと今の處想像出來る就ては一日初刷に十數人の作を連ね度何首にても御送下され度十八日までに遲くも御送願上候(新年に因めるもの)

二、比牟呂の事につき打合せもし度しかた/”\十五日午前十一時から上スワ中町うら巴屋にて月次歌會相開き度それまでに活版屋との相談を濟ませ置き可申候雨降るも雪降るも御出掛下され度候二人揃つて御出會希望いたし候重要問題だから柏原連も必來る樣申送りたり君等からも御申送り願上候(朴葉にも云つてやる)山水、汀川、釜溪、唖水等

三、胡桃澤の留守居面白し左翁の食物のこと面白し

先は右用のみ急ぎ匆々 十二月十日夜            俊生

    篠原志都兒兄

 

(59)       七四 【十二月十二日・端書 下諏訪町高木より 上伊那郡朝日村 大森祥太郎氏宛】

 

悲痛言留ふ所を知らず御全家御心中御察申上候小生儀直に參上いたすべき處先月來少々病氣今猶時々出校する如き有樣何れ機を得て御伺申度取あへず御弔詞のみ匆々 十二月十二日

 

       七五 【十二月十二日・封書 下諏訪町高木より 上伊那郡朝日村小學校 大森祥太郎氏宛】

 

謹啓忠三君の御遠逝かね/”\遂に斯るべしとは存じ候へ共昨今の内とは存ぜず御報知に預り只々驚入悲痛いたし候御全家御嘆きいかばかりぞ御老父母御兄弟の御心中實に御同情に不堪小生儀已に十數年御厚誼を忝うし非常の御厄介相成り候事故取り分け悲痛の情に堪へず候然るに御歸省御臥床の間一度も拜趨の機を得ず昨日手紙差上げんとしたる處に御端書頂き只々茫乎といたし候同級生代表葬儀參列すべき處小生儀十一月七日淺間登山後少々呼吸器を損じ目下殆ど快癒せしも猶時々出校する位にて引籠り居りその意を得ず殘念に存じ候太田貞一君に依頼し參列の手筈はこび居り候折柄今日御手紙拜見いたし候處已に昨日の御葬儀との御事何も彼も手遲れいたし實に慚愧いたし候數日の中に太田參上いたすべく先は小生より取あへず御弔詞申上度如斯に御座候

  二伸 〇上諏訪方面生前の禮状御差出しならば

  一、上スワ小學校岩垂今朝吉外諸員一同宛一通 二、上スワ町小學校藤森省吾宛一通房州同居の人 三、上スワ町小學校三村斧吉宛一通 これだけにて宜しと存じ候

  〇忠三君病氣見舞金過日御送の後

  長の城山小學校今井一二(壹圓) 長の附屬小學校山崎邦次(壹圓)

  右計貳圓小生へ送附いたしありその他の人未著故それを待ちて御預り申置候何れその内に御屆申上ぐべく(60)候御承知下され度候右恐入り候へ共禮状一寸御差出し願上候 十二月十二日    俊彦

 

       七六 【十二月二十二日・封書 下諏訪町高木より 長野市西後町 三澤精英氏宛】

 

拜啓

一、新年原稿社へあて御送申上置き候御落手下され候事と存じ候(萬葉新年歌論と募集歌と二通)

二、就ては一月一日以後長野新聞小生宛御寄送下され候樣社の方へ御話し下され度候猶東京本所區茅場町三ノ十八伊藤幸次郎宛同樣願上候(左千夫氏也)

三、あや子樣の件當方は確定いたし候間其運びに願上候當校にては一月から御出勤下され候へば極めて好都合也どうせ四月から長野退散なる故一月から長野の家を疊んでは如何(君は下宿して)尤も之れは當方の勝手な譯なり如何樣にても好都合の方に御取定め下さるべく候

四、※〔鷄の鳥が隹〕五羽差上可申候相場が高いからそのつもりに願上候 二十二日夜       俊生

    背山兄

 

       七七 【十二月二十九日・端書 下諏訪より 北山村柏原 兩角福松・兩角國五郎・北澤金左衛門・兩角珂堂氏宛】

 

アシビは今後「アカネ」と改題一月一日より三井君主となりて發刊の由也盛に御出詠希望いたし候比牟呂は一月七日〆切いたすべく文章和歌何にても澤山御送願上候餘は新春を待つ 十二月二十九日

 

(61) 明治四十一年

 

       七八 【一月一日・封書 下諏訪町高木より 長野市西後町 三澤精英氏宛】

 

謹啓多望なる新年を迎へ御同慶存上候昨年は非常なる御厄介相成り感謝いたし候猶相變らず御引立御愛顧被下度悃願いたし候長野新聞元旦の賑ひ驚入り候とても一度に眼は通らずさし當り歌と貴兄「福島の宿」と太田兄の四十年文壇とを見申候貴兄の小説は初めて故殊に注意して拜見いたし候非常に面白く拜見いたし候筋が氣に入り候姥さんの話を聞きつゝ福島町を見下ろして居る所大に宜しく候姥さんをあんなに泣かせぬ方宜しと存じ候繪草紙の段最も苦心と存じ候膝と膝とがつき合ふ云々は拔いた方がよいと存じ候繪草紙の段が全部の重心なり結末の夢云々のぼかし方はいやに候朦朧なる描寫でごまかしてゐると存じ候あんな事一行ばかり書て大に事をこはし申候力が拔け申候貴説伺ひ度候「おりさんは夢である……は夢ぢやない」何の事やら鵺文學に候あれは夢でなく全く現實とすべきものと存じ候全部感情一貫して面白く候處々細かき疵あるは詮方なしと存じ候

一、左千夫氏へ新聞郵送有難く存じ候 二、小生續稿は明日御送可申候 三、應寡歌の三分は慥に不都合に候殊に小生のは連作として續いてゐるものを分けられて悲しく候 四、年賀の廣告感謝いたし候 五、弟兵役の件御手數恐入り候當方でも問合すべく候へ共猶何分願上候 六、新聞は當方共同店より毎日配達いたし居り候貴社の命令にて配達と存じ候

(62)御令閨樣に可然御傳言願上候匆々頓首 元旦夜      俊彦

    背山詞伯 座下

 

       七九 【一月三日・封書 下諏訪高木より 北山村湯川 篠原圓太氏宛】

 

新年匆々謌の議論をして來たのは君だ馬醉木も來ずホトトギスも來ず甚だ寂寥の處へ歌のぎろんと草餅とは大にうれしい草餅は御好意特に感謝する

「司らの咎もあらず」の歌は小生は感服せぬ司等のとがめなきなど消え極的な事柄はどんど火の如き盛なものを表はすには不適當である、吉野山霞の奥は|しらねども〔付○圏点〕見ゆる限りはさくら也けり 西行?の如き子規先生がかつて消極法について説かれた事ありと思へり特に|咎もあらず〔付○圏点〕と置いて末に神|ゆるしたり〔付○圏点〕と置くなど甚だイヤと思ふ|神許したり〔付○圏点〕ならば只積極に盛に焚き立てる火を神が許してゐると詠むべきと思ふ何しても|司らのとがめ〔付○圏点〕云々は大失敗と存じ候御意見折返し御洩し被下度候その他全部につき氣に入らぬ歌へ批評を添へて至急御送被下度候

三四十人のを十四五に削つてしまつたのだから出詠者には氣の毒に存じ候南信日日の方は多數中遂に一首を拔く能はず自分でも張合が拔け申候取るは樂ヂヤが拔くが苦しい手數だ小生のも振へりと信ぜず候南信日日へ出したのも御批評下され度候比牟呂に原稿澤山御送願上候此間差上げし「朝の歌」は御落手と存じ候新年會は廿五日の土曜にしては如何胡君その頃は少し閑になるとの事也日本課題御出しにや小生はこれからにて候

      寒さ

   校長の顔細く居る寒さかな

   一山の常磐木摧く寒さかな

(63)   この驛に一茶死んだる山さむし

   芒盡きて裸湖見ゆ寒さかな

   物たのむ鼻筋長き寒さかな

御一笑可下候

額の事一二日中出町催促いたすべく候先は急ぎ亂筆申上候 一月三日夜  俊生

    志都兒大兄 座下

 

       八〇 【一月七日・端書 下諏訪高木より 湖東村上菅澤 河西省吾氏宛】

 

賀正 蓼科歌非常に面白きものあり今春目に入りしものゝ傑作也愉快に拜見いたし候十二日在宅いたすべく候間御來遊被下度待上候也御尊父樣によろしく願上候 一月七日

 

       八一 【一月十九日・封書 下諏訪町より 豐平村上古田 小尾喜作氏宛】

 

御手紙拜見いたし候種々御苦心の程御同情申上候今東京に出るは早過ぎるかと思ふ無論よい事には相違ないが今少し教員としての實地經驗を經たる上出京する事更に得る所多かるべし教員をしてゐるとすれば玉川か上諏訪が宜しかるべし玉川に居るよりも上諏訪に居る方研究も出來るべし併し玉川も惡しきに非ず玉川で研究的にやる事も大によろし之は君の考通りでよし上諏訪では第一岩垂が君を非常に欲しがつてゐるその他の職員も同上だ只上諏訪では藤森に氣の毒だから躊躇してゐるのだ君の決心で自己の利害上より上諏訪轉任を藤森に請求しても不都合はあるまい君の決心は如何小生は三月限り學校は止めて百姓になる(多くの人に言ふ勿れ)

右愚見のみ 一月十九日          俊彦

    小尾君


(64)       八二 【二月七日・封書 上諏訪町より 下諏訪町小學校 森山藤一氏宛】

 

拜啓君が川柳をやるのは甚だ譯が分らぬ君が文學の上に立つて世に生存してゐるのが眞面目の仕事である以上川柳などに頭を使ふのはつまらぬ事ぢやないかと思ふ僕は必ず歌でなくちやならぬなどと云はぬ俳句でも歌でも長詩でも小説でも構はぬ併し乍ら何れにしても始めたら專心にミツシリやらなくちやならぬ忌憚なく云へば君は餘り多く手を出し過ぎるだから深刻に君の天分を表はす事が出來ぬと思ふ新體詩もその後見えぬ小説もたまには見えるが熱心とは見えぬ今の處で歌と俳句は君として尤も成效しつゝあると思ふ川柳など何處に研究の價値があるか僕には分らぬ或は僕が川柳を解せぬ誤解かも知れぬが僕は君が左樣に矢鱈多くへ手を出すのを遺憾と思ふ

天外から聞いた君が長野新聞の川柳を見るとの事僕は即時に不賛成を唱へた天外もさうか知らんと云ふ昨夜背山に逢つたそれはもう決定してゐると話した僕は背山にも牛山君へと同樣の意味に話した僕は長野新聞より何より根本から川柳全廢を君に勸める熱心に勸める御熟考が願ひ度い君の歸校後直に神來談が願ひ度い何もかも露骨に云つた失敬 二月七日                 俊生

    汀川兄

 

       八三 【二月十八日・封書 上諏訪町布半より 松本市本町松本銀行 胡桃澤勘内氏宛】

 

御返事申上候今比牟呂の至急分が發送終つて志都兒と茶をのみつゝ此手紙認め候解嘲歌大に面白く候君の眞情が直截に活きてゐるから讀んで生動して居り候捉へ所の適應と思ひ候春の歌や戀の歌の評は參上の上ゆる/\御話し申度候誰のどの歌面白い面白くないと段々言つて來れば遠方に居て「只斯う思ふ」だけでは思想がまとまらぬつまり水掛論に類して來る大體の傾向が近來斯樣になつて來たこりや惡いとか善いとか云ふ注意が必要である乙(65)字君の俳論など僕等にはよく俳句が判らぬが研究的用意は感心である僕等から見れば諸同人近來の傾向は思想に餓ゑてゐる觀察も進歩せぬよい歌を作らうといふ興味は盛であるが思想上の興味は之に伴はぬ思想や趣味が活動せぬのだ此根本問題を誰も遺却せんとしては居らぬけれど弱味は矢張り此點に在る吾人は人生觀を進めねばならぬ哲學的研究も宗教問題も必要である併し吾人が有する眞の人生觀は只哲學の如き智的修養のみからは得られぬ偉人の自然感化にも浴せねばならぬ人生活世間の辛酸にも鍛へられねばならぬかくして吾人は眞個の人生觀を抱く同時に或人格品性が築かれるその源泉から日常の行動は流れ出る吾人の興味は高くなる大きくなる斯樣な順序であらうそこで吾人には日常行爲の問題が出て來ねばならぬ今日吾人同人間に日常行爲問題が盛であるか正岡先生の病床六尺時代の書きものには常に斯る問題が出て來てゐる正岡先生などは哲學など學んだかどうか知らぬが高い哲人であつた眞個の哲人は必空漠の人生の理想論などよりも活世界の上に隨時の判斷を下して行く日常行爲問題を必離れぬこゝまで來て居らねば詩人も困る

吾人は吾同人の比較的(鐵斡等よりも)この間題を捉へて居るを諒とするけれども此根本問題に大熱心であるとは云はれぬだから少し面白い作が出來ると直ぐあとが續かぬ發生期の堀内君や柳澤君などは面白いものが出來るのは思想が活動してゐるからだ併し思想界の修養を盛にせねば直ぐ下落する僕にも充分この傾向がある「諏訪神社」陳腐問題は全く諾肯する志都兒にもこの傾向がある君にも望月にも此傾向がある事を諾肯して貰ひ度いよい歌を作り度いなどあまりあせらぬがよいよい歌は自然湧いて來るよ(怠れぢやない)細かい一首つつの事は此内に參上御話し申度候奇遇君の歌矢張り面白く拜見いたし候中に少し立入り過ぎたもの有之かと存じ候別紙加入御返し申上候此手紙望月君に御見せ願上候どうも書くと要領を失し困入り候全然分らぬ事書いた樣にも思はれ困入り候廿四日に參上いたすべく候望月君が出松して呉れれば大幸甚に候暖氣を祈り候宿屋の硯に墨なく非常の薄墨字も亂暴申譯無之候一日中字をつづけて已に眠くなり候比牟呂御評待人り候 二月十八日夜  俊彦

(66)    御兩君

 

       八四 【二月十九日・端書 下諏訪町より 東筑摩郡島内村 望月光男氏宛】

 

比牟呂御落手と存じ候印刷屋とけんくわして遂ひ發行所を小生方といたし候御評御待申上候氷の歌難有存じ候終りのは感心せず候甲之君狐云々の歌貴意賛成に候舊比牟呂数册あり二十四日持參可致候 二月十九日夜

 

       八五 【三月四日・端書 下諏訪町より 東筑摩郡島内村 望月光男氏宛】

 

今朝手紙出さんとする時御端書拜見いたし候未だ繁忙にて創作物を見しのみ也甲之君の小説は徹頭徹尾觀念を列べたので理解が直接ならず特色はあるが不賛成に候胡君のはよい併し第一、二が散漫也第三が振つてゐる兎に角作者の感情が始終を一貫してゐるのは嬉しい左翁の和歌矢張りよい蓼科歌はよくない次に君の朝の歌の終り七首は非常によいあれは山上の眺望といふ題でもあるべきと思ふ千里君のにもよいのがある小生の氷切終り一首の御批評全く同感なりあゝいふ歌はこけ威どしなるべし「一つりの灯さげ行く」が自分では一番よいと思つてる九日頃參上いたすべく候尤も君が出松出來なくちやだめだ匆々失敬 三月四日朝

 

       八六 【三月五日・端書 下諏訪町より 中洲村神宮寺 笠原田鶴氏宛】

 

拜啓一の病氣心配の至りに候肺炎は藥よりも手入に有之折角氷冷法その他御周到祈望いたし候當方にても政彦又又ヂフテリヤを始め今日注射いたし候此方は心配無之と存じ候大に無音申譯無之候へ共右の次第故早速參上出來ず取あへず右申上候也 三月五日夜

 

(67)       八七 【三月七日・端書 下諏訪町より 東筑摩郡島内村 望月光男氏宛】

 

又々延引いたし候長男ヂフテリヤにてこゝ二三日は拔けられず今度は出し拔けに參上いたすべく候寫生から主觀に進み暗示に進む徑路は八風乙字二君の云ふ通りなれど之がために客觀的寫生的が生命なしと考ふるは大間違なり人間の思想が進歩する限りは寫生は進歩すべし印象明了も進歩すべし進歩せず死滅する時は同時に主觀の死滅する時也如何

 

       八八 【三月十五日・封書 下諏訪町より 南佐久郡大日向村小學校 井手八井・佐々木牧童氏宛】

 

拜啓學期末御繁忙の御事と存じ上げ候小生もやゝ忙しく手紙差上げんとして矢禮いたし居り候今日御稿猶一囘拜見長野新聞の方へ送り置き候八井君のは七首牧童君のは三首(二首は過日の手紙の末にありしもの)選出いたし置き候御兩君とも或は御不平かと存じ候へ共小生の採る能はざりし理由は過日の書面にて御承知願度候こんなこと一々出詠者に對して申送りきれず候へ共御兩君に對し過日の書面も差上げ置き且御返事も頂戴いたし有り候間云はねば氣が濟まず又々一書差上ぐる次第に候歌は輪廓のみにては淺く候内容の特色が眼前に躍如せねば困り候これには只抽象的文字を併列したのみぢやだめに候光明よ希望よ運命よ呪詛よなど云ひ居るものの多くは徒らに衒氣多くして淺薄なるは此理に外ならずと信じ候此點に於て根岸派の寫生趣味は千古不動の特色を有せりと信じ居り候

       病閑              子規

   四年寢て一たび立てば草も木も皆眼の下に花さきにけり

   不二に行きて歸りし人の物語ききつつ細き足さする我は

(68)   人皆の箱根伊香保と遊ぶ日を庵にこもりて蠅ころす我は

寫生的趣味を以て平凡陳腐など申すものありもし果して平凡ならばそは作者が平凡といふ事也作者の趣味が平凡でなくば寫生の歌も平凡の筈無之と存じ候甚だ失禮に候へ共御兩君の歌未だ寫生趣味に乏しきの感有之候今月中位に學校もしくは貴宅の庭上に見ゆる何物にてもよろしく候間五首乃至十首御作歌の上御高示に預り度研究上の事に候間無遠慮に愚見申上ぐべく氣に喰はぬ所は失張露骨に御申越下され度祈望いたし候甚だ不得要領の手紙にて毎度失禮に存じ候先は右申上度匆々不盡 三月十五日夜              俊生

    井出八井樣 佐々木牧童樣 梧右

  牧童君に申上げ候諏訪郡居住の件今の所早急には困り候何れゆる/\詳細拜聽可仕候也

 

       八九 【三月十八日・端書 下諏訪町より 長野市師範學校 河西省吾氏宛】

 

拜復試けんにて御折角に奉存候主かん的の歌暗示法の歌(乙字氏の所説)とて格別進歩したものには無之客觀的活現法の歌が面白くばそれを詠んで居ればよろしくと存じ候その内に暗示法(會下の友の如き)的のも面白かるべくと信じ候小生氷切の歌は矢張り活現法のものなり試けん終へたら少し御作り希望いたし候原田秋郎は誰れだか知らず匆々 三月十八日

 

       九〇 【三月三十日・封書 下諏訪町より 東筑摩郡島内村 望月光男氏宛】

 

拜啓御返書遲延いたし候急用出來しため處々往來遂に廿八日新湯へも行き得ず殘念至極存じ候アレから御歸宅後腹具合惡しかりし由昨今如何にや大した事なからんを切望いたし候

御詠草愚見記入御覽に入れ候歌が出來ぬと云ひつゝこの位出來れば澤山也小生の歌についての御評大抵異議なく(69)候「松山の松の下道車押す湯原少女に雪しづれつつ」の松山を殿山とせなんだのは固有名詞二つ並用の調和惡しからんと思ひて也湯原少女を中心として活かし度いには餘り特殊性ならぬ「松山」位の普通名詞が適當ならずや御意如何「見まくほり君を思へば春の日の雪げの道の長き松山」は山裾がよからんと存じ候「檐つたひ」云々は全然失敗也「一夜に似つゝ雨を聽くかも」は再考ものに候

お亭の間の一夜長き記念也山邊に籠りて長きもの作り度し淺間は短篇的山邊は長篇的也よき時見計らひて何時にても御出掛下され度候志都君今東京に在り四月上旬まで滯在のよし歸國を見計ひて御出掛下され度候君の來り次第新湯會を開き可申候アカネ三號僕の文章は四號に廻す由申來り候比牟呂〆切は四月七日まで延す何か御送り下され度候長野新聞選歌に今度はよいものありたり嬉しく候

※〔鷄の鳥が隹〕舍増營に著手こゝ少し忙しく候大に暖く成り卵を産み出し候右のみ匆々不宣 三月卅日夜  俊生

    光男樣

 

       九一 【四月十二日・端書 長野縣諏訪郡下諏訪町より 東京市赤坂區青山南町 平福百穗氏宛】

 

大御無沙汰誠に申譯無之候四月一日より閑散となり※〔鷄の鳥が隹〕專門にいたし居り候今月中は※〔鷄の鳥が隹〕の世話で忙しく候それが終へれば東京へ遊び可申候蕨君西京行只々羨望也左翁小説熱心驚くべし密畫的な所がちよい/\見えをかしく候小生も小説の密畫がやり度く成り候匆々 申四月十二日夜

 

     九二 【四月十二日・端書 下諏訪町より 富士見村神戸小學校 兩角喜重氏宛】

 

彌々不二見原乘込の由先づ/\それで落著と存上候田舍の靜な處で讀書するが專一と存じ候不平も何もあつたものに非ず修養が專一と信じ申候何れ遊び乍ら參上可仕候匆々 申四月十二日夜


(70)       九三 【四月二十三日・封書 下諏訪町より 宮川村中河原區 唐澤うし子氏宛】

 

御返事相後れ申譯無之候折角御出掛下され候處不在いたし遺憾に存じ候夫れ前の日曜まではお待ち申居り候處その後御手紙參るだらうなど思ひ居りウツカリいたし候段御許し下され度候宮坂親一と申す男つまらぬ人間に有之候校長がそんな事まで干渉するとは彌々たはけた事也そんな事は御構ひ御無用と存上候

和歌は今迄どんな本どんな雜誌御覽にや小生の御すゝめ申さんとするは雜誌にては「アカネ」(根岸歌會機かん)古書にては萬葉集金槐集(實朝全集)田安宗武卿家集曙覽全集等明治の書物にては正岡子規先生遺稿全部ことに竹の里歌は必御一讀必要と存じ候古今集新古今集等の如きはつまらぬものなり御覽の必要可無之と存じ候古今集新古今集西行の歌賀茂眞淵の歌本居宣長の歌の如き多く俗惡にして讀むに堪へず明治に入りても佐々木信綱與謝野晶子等の歌何れも馬鹿らしく存じ候小生等は正岡先生の指導の下に根岸派和歌を研究するを欣び居り候正岡子規先生は人格に於て偉大なりし故和歌も俳句もその他の文學も皆偉大に候子規遺稿は是非共御一讀御すゝめ申上候以上の書物御志望に候はば小生より御世話申してもよろしく小生所持のものは御貸し申してもよろしく候先は御返事のみ取急ぎ申上候亂筆御ゆるし下され度候也 四月二十三日         俊彦

 

       九四 【五月一日・封書 下諏訪町より 東筑摩郡島内村 望月光男氏宛】

 

拜啓何時かの長い手紙拜見後返事書かん書かんと思ひつゝ今日にいたり候捨てゝ居たのぢやない四月以來の繁忙にて何も書けず昨夜漸く長野新聞の歌を見了り今夜君への手紙を書くなり目下※〔鷄の鳥が隹〕百餘羽ありその手入のために朝から晩まで動き續け立ち續け居り候これで五月中旬又々百羽増加すべくそれが成長するまで忙しかるべし暇を得んために教員をやめて此繁忙に逢ふは滑稽なれども※〔鷄の鳥が隹〕成長の上はズツと樂に成り可申候

(71)貴兄の近状如何春暖に逢ひて追々健康増加せりや心に懸り候今月中に是非御來遊ありたし繁忙と云つても一日や二日君と漫歩する位の餘裕はあり御出掛二三日前一寸御知らせ下されば萬事片をつけて置き可申候汽車があるから何でもないよ左翁五六日頃來遊との事今度は松本が主眼にや先生中々餘裕あるには驚入り候

比牟呂は目下印刷中の由に候近頃上スワ行の機なく手紙にて催促いたし居り候不折畫伯の表紙(字ナリ)も間に合ひ候五日から十日の間位に出來可申候次號は必ず六月中に出すべく今月廿五日頃までに原稿御作り願上候堀内君病氣よろしからずとの事困入り候非常に神經過敏の事申來り候何とかして御慰め下され度小生よりは明晩長く書いて送るべく候あの男の顔は只一度逢つたのみだが明了に想像出來候何かあると思出し候妙な所のある男なり清淨温雅當世の人に非ず

萬葉の件|しく〔付○圏点〕問題は貴説全く當り居り候小生の失言に候莫囂云々(萬葉一)難解の歌君の如くよめば慥に分るあれを「ウネビノ山シオモホユ」とどうしてよめるか分らず候紀の國云々の詠み方全く意を得ず候

萬葉十七「たち山の雪か|くらしも〔付○圏点〕延槻の川のわたりせ鐙つかすも」を|來らしも〔付○圏点〕(貴説)とは何の意にや解せず候雪がとけて來るの意でも無からん小生は矢張り消える方に解し度く候

萬葉十七相聞の歌「庭にふる雪は千重しくしかのみに思ひて君をあが|またなくに〔付○圏点〕」を|戯れに反對〔付○圏点〕云々の貴説仝く非なり「勝間田の池は我しる」とは異れりこの次の歌「白浪の寄する磯田を榜ぐ船のかぢとるまなくおもほえし君」と連作的に出來てゐる歌にあらずや前後の關係や詠みたる場合を考ふべし家持の歌にはどうも技巧勝ち過ぎたるもの散見いたし候以上二首もそんなによい歌と思はず候深くないと思ひ候、如何。久しく萬葉を離れ大に忘却いたし候そろ/\調べはじめ可申候疊語同語御集めの事面白く候何とか纒めて比牟呂へ御遣し下され度候斯樣な研究も一方より必要に候萬葉を研究する人が奈良朝を研究せねば心得ぬ事に候吾人はすべての方面より研究して奈良朝の人間に接し度く候奈良朝の人間を研究せねば萬葉も淺いものと存じ候

(72)挿入句の件如何小生の方にてはその後未だ調べて見ず候御説あらば聞かせてくれ玉へ山邊の一夜忘れ難し山邊で廿日ばかり讀書し度いお亭の間の歌會は比牟呂原稿書いてゐる内に和文體になつてしまひ變なものに出來候改むるも面倒故その儘出し置き候佐久間象山論御評願上候右のみ匆々不盡 申五月一日夜  俊生

    光兄臺下

 

       九五 【五月四日・端書 下諏訪町より 松本局島内村 望月光男氏宛】

 

「アカネ」の歌不振不愉快ナリ下手な議論ばかりしてゐるからいかぬのだ小説評など見當違也裸體あれば下等など困りもの也隣の嫁をよんで「入浴の所」誰か劣情を起す者ぞ君の歌餘り悲慘に過ぎて情を傷る傾あり未の一首大によし如何御返事まつ 五月四日

 

       九六 【五月二十日・封書 下諏訪町より 長野市師範學校 河西省吾氏宛】

 

復啓益々壯健のよし賀し上げ候小生日々養※〔鷄の鳥が隹〕にかまけ居り候健康大に増し身體も太り候間御喜び下され度候

高山植物の歌振ひ居らず候千島桔梗長之助白山いちげの如き特殊專門家にあらざれば知らぬ名のものその儘を用ひて作るといふ事第一に考へものに候小生も以前そんな事をしたれど今日より見れば皆不成功に候もしその物の中のどれかに非常に興味ありてそれを詠まむとならば前書きの文によくその説明を書いてその説明文中の一部を詩的に歌ふより外手段無之かと存じ候只一般に高山植物に興味ありといふならば千島桔梗とか何んとかいふものを特殊的に詠まずして一般的高山植物開花の有樣やその四近との配合などを主として詠むべき事と存じ候

   寸にみたぬ花の梗のべて筒かたの紫にさく千島桔梗の花 の類は全く失敗に候何處にも高山的感じが表れ居らず候平地の花を斯樣に詠みても同じ歌を得べし用意淺しと可申候

(73)燒砂のなだれて黒き山の背になよなよ咲ける駒草の花 の如きは前

に比して高山的用意備れり

   遠くにわが行く山の砂原になよなよ咲ける花をあはれむ(猶改むべし)

の如く更に之を感じ的に詠む工夫必要に候この用意御熟考希望いたし候手紙にてはよく悉し難く候前の貴詠「竹籠|さむく〔付○圏点〕唐松ちるも」を「竹籠の上に唐松ちるも」等では利かぬ事に候詳しくは南信日日紙上御覽下され度候課題は橋、草、生徒、長野新聞今度の課題可成多く御送り下され度候同紙上にて根岸趣味を信州に鼓吹いたすべく候信州には猶根岸兒多かるべきを信じ候

比牟呂二十五日頃出來るから送る 十九日夜十二時半亂筆      俊生

 

       九七 【五月二十五日・封書 信濃諏訪郡豐平村より 東京本郷區元町二ノ六六藤森良藏方 塚原葦穗氏】

 

拜復昨夕新湯より歸宅して書面を見今日古田に來り(建碑手傳を兼ねて)種々相談いたし候先づ今日の處大阪高等工業を受けて見るがよからんとの協議故その方の手續いたされ度候

一、大阪工業に入るとして大阪にての費用どの位のものにや大阪市の衛生は如何、右熟考の上にて受檢を宜しとせばその手續御踏みありたし 一、水産の方も今一度よく良藏君等と協議して見るべし 一、高等學校の方は六年は長すぎたり一家の事情迚もだめなり

右の内にて如何樣にも御決定御返事ありたし(古田と高木へ)それで猶失敗ならば暑中休に相談するがよいどの道を歩いても人間の價値に高下なしクヨ/\するな以上 五月廿五日

 

       九八 【五月三十一日・封書 下諏訪訪町高木より 東京本郷區元町二ノ六六藤森良藏方 塚原葦穗氏】

 

卅日出の手紙披見苦心察し入り申候苦境必しも人の爲めに惡しからず餘り煩惱せぬ樣希望いたし候師範入校の決(74)心賛成いたし候然れども是は最後の手段に候へば先づ以て大阪工業を受けて見ては如何落第したとて恥にはならず平氣でやつて見ればよき也よければ結構いけなくても困らぬといふ心持でやつて見ては如何。衛生惡しければ市外に居りてもよろしかるべく候同地には米澤村小松武平君も居り下諏訪町友の町の高木君も工業学校に在り多少好都合なり是が氣に向かずば斷然師範入學と御決心可有之候よくく御熟考の上決定あり度し古田にても只今にては大阪工業受驗のつもり也何もかも餘裕ある態度にて御進退あるべし

〇何れとも決定次第直に御報知あり度し

〇暑中休迄は日本大學の方に出席すべし代人を出して歸國し居る事危險也兵役取締嚴重なれば也 五月卅一日夜

 

       九九 【六月二日・封書 下諏訪町高木より 北山村湯川區 篠原圓太氏宛】

 

拜啓比牟呂モ出來タ、アカネモ出來タ比牟呂ノ責任ハ今ノ時ニ當テ特ニ重キチ感ズル如何ナル困厄ニ逢テモ屈シテハナラヌト益々自奮スル今度ノ比牟呂ハ四十頁バカリニナツタカラ定價ハ廿八錢トイフ高イモノニナツタ我々熱心者ノ仲間ハ二十錢デモ三十錢デモヨイガ一般ノ人ニハ氣ノ毒デナラヌ比牟呂ハ今後全國ヲ相手ニシテ活動スルノ覺悟ダ少クモ信濃ノ青少年ニハ今後我黨主張ノ貫徹スル機會アリト信ズル

然ル時ニ四十頁ノ小雜誌(外形ニ於テ)ヲ定價二十錢三十錢ヲ呼ブハ無常識スギル今ノ處三川人ノ寄送ガアルカラ未ダヨイガ全費用ヲ讀者敬ニ正直ニ割當テレバ更ニ高價ノ者ニナル僕ニ若シ生活費ノ餘裕サヘ多少アレバー册十五錢位ニ定メテ仕舞フ一册十五錢ニ賣レバ損高ハ七八圓以上ノモノニナル一度出ス度二十圓カラノ足前ヲスルコト小生現今ノ境遇デハ少クモ一年バカリノウチハ堪ヘラレヌ小生ノ生活ハ現今隨分苦シイ養※〔鷄の鳥が隹〕八十羽ガ僕一家生活ノ費用デアルソノ他ニ收入ハ少シモナイ春蠶夏蠶一枚ヅヽ飼ツテモ知レタモノダ長野新聞カラ月二三圓来ル南信日日カラ一圓來ル悉合セテモ親子六人ノ口ハ糊セヌ僕ハコンナ境遇ヘ自ラ好ンデ踏入ツテヰル小學教員ヲシ(75)テ居レバ兎ニ角月ニ三十五圓取レタ三十五圓ヲ捨テヽ※〔鷄の鳥が隹〕八十羽ニ就イタノモ自分ノ物好キカラ起ツタコトデアルカラ困リハセヌ困リハセヌガ物質的ノ困苦ハ大ニ増加シテヰル養父カラ多少ヅヽノ補助ヲ仰デ居ルガ男子三十三歳ニシテ一家ヲ經營出來ズ、サウ/\ネダルコト情ニ於テ忍ビヌ今年※〔鷄の鳥が隹〕ヲ増殖シテ百五十羽乃至二百羽ニスル計畫デアルコノ計畫ガ具合ヨク出來レバ比牟呂ニ一度十圓位ノ金ヲ出スコトハドウカカウカ出來ルツモリデヰル只今年一年ガ大ニ苦シイ創始時代ノ苦シミデアルカラ愉快デハアルガ苦シイコトハ實際苦シイ茲所デ君が五十圓ノ金ヲ二年バカリノ期限デ小生ニ貸シテ呉レヽバ大ニ有難イ五十圓ノ餘裕アレバ今年一年カラ來春マデ小生ノ執ル事業ハ非常ニ餘裕ヲ生ジテクル五十圓デ餘裕出來ルナンテ哀レナ者ダガ實際僕ノ程度ハソンナ者デアルコトヲ白状スル雜誌ノ方ハ斷然定價十五錢ニ定メテ仕舞フ寄送ナド必シモアテニセヌ一二囘位ノ旅行モ心配ナシニ出來ル君モ隨分旅行シテヰル妹君ハ遠ク出デテヰル金ノ餘裕或ハ六ケ敷カラン無理ナエ面ハシテ貰ヒ度クナイ只都合出來ル範囲ニ於テ心配ヲ願ヒ度イト云フノミデアル必シモ出來ナンデモヨイ只思付イタマヽヲ相談スルノダ今不可ニシテ七月八月頃ナラヨイト云フナラソレデモヨイ

比牟呂ハ印刷所變更ノタメ不馴デマヅイ所ガアル消息ノ追加ハ丸デ落シタ活字ノ不足ハスグ東京カラ取寄セルト云ツテヰル胡君カラモ望月君カラモ何トモ云テコヌノデ張合ガナイ甲之君カラハ盛ニ云テ來タ左千夫ハ子規七囘忌記念トシテ諸同人ノ歌集ヲ出スカラ比牟呂全部ヲ送レト(最初カラノ)云テ來タ

タラノ芽早ク送ツテクレ食ヒ方モ書イテ呉レタラノ芽ヲ持ツテ出テ來レバ猶妙ダ共ニ料理シテ食フ話ス落合歌會ハ振ツタツモリダ長野新聞ヘ今ニ山ルカラ批評シテクレ玉ヘ三四日消化不良デ具合惡シ 六月二日正午 俊生

    志都兒兄

  科野舍トイフ人南安曇郡東穗高村ノ人ナリ有望ナリ

 

(76)       一〇〇 【六月五日・封書 下諏訪町高木より 北山村湯川區 篠原圓太氏宛】

 

拜復御配慮相掛け恐入り候御來意に從ひ八月末迄に金五十圓御融通御貸附下され度主として比牟呂發行用に供すべく候へば失敬だが無利息の事に願上候その代り從來の定期寄送は三號より御依頼を止め可申候然る上は早速次號より定價十五錢と相定め可申購讀者二三十人殖え候へば十二錢か十錢に改め度と存じ候

次號はおそくも七月中に出し度原稿可成多數御送下され度本月二十日頃迄に願上候二號は原稿何囘にもまとめしため統一なき編輯いたし遺憾に存じ候今少し長き御批評意見待居り候胡君からは著いたとも云ひ來らず返事を催促したれども何も云ひ來らず病氣ぢやないかと氣に懸り居り候甲之君からは非常に長い評が來り候

中央俳句界の誰かに依囑して俳句選をして貰はんかと存じ候小生も俳句作り度けれど信州によき人なしアカネの六花、乙字などよきかと思ひ候右御意見御申越待上候望月胡桃澤等も賛成ならば斷行いたすべく候長い批評來ぬが一番張合なし朴葉など何も云ひ來らず不都合に候褒められ度いのぢやない惡口(?)や議論や質問が同人間に流行らぬが寂しき也七月の飛騨旅行今より御用意希望いたし候

   朝露の葦ゆすり鳴く葭切りのさやけき言を聞かず久しも

      六月五日              柿乃村人

    志都兒兄

  比牟呂メタ寄送シタラ殘部二册ニナツテシマツタ數日中ニ註文ナケレバ送ルソレマデ待ツテクレ給ヘ

 

       一〇一 【六月二十日・封書 上諏訪町布半方より 松本局島内村 望月光男氏宛】

 

蠶が庭休で疲れを養ふべく布半に來て半日寢ころぶ晝夜の勞働で前後も分らぬほど眠い、だるい。明日から八日(77)働けばもう千秋樂である寢乍ら君ノ原稿ヲ見タガ文章甚ダ振ハヌ和文であれ丈けの長さを續けるが無理だどうも冗長に過ぎる甚だ失敬だが今一度訂正しては如何和文と言文一致との混淆も如何のものだ今つと急所を力入れてアトは省き度い余の神經衰弱で正鵠を過つてゐるかも知れぬが今一度御通讀を望むソレデモ猶確信あらばこの儘にて返せ失敬多罪 六月廿日    久保田生

    望月光男樣

  コレカラ家ニ歸ル午後七時 卅日迄デヨシ

 

       一〇二 【六月二十一日・封書 下諏訪町より 北山村湯川區 篠原圓太氏宛】

 

  比牟呂原稿月末迄でよし盛に御送あれ柳澤君にも云へこんな紙で失敬

拜復昨日庭休み今日口付け今七八日にて全く終り可申候成績最上等には非ずとの事兎に角はじめて自分が全責任を負つて養蠶して見申候體は非常に疲れるに驚入り候此手紙書き居る時已に睡魔頻りに襲ふ併し今十日位は充分續くよ御安心是折る(ヤセ我慢ヂヤ無イ)御申越により君の歌稿御送申上候不二兄第一會のは要らぬだらうと思ふが御端書の意味充分に分らぬ故念のためこれも同時に御送申上候小生の記入御一覽被下度候

望月君の「諏訪行」の文章昨日庭休を利用して布半にごろつき乍ら一讀大にまづかりし故返送今一度作り直さんを勸めやり候今に來るだらうと存じ候小生月末は何もだめ也あと次便のこと 六月廿一日夜          柿乃村人

    志都児兄

 

       一〇三 【六月二十一日・端書 下諏訪町より 上諏訪町片羽 牛山郡藏氏宛】

諏訪地方蠶桑繭の消息長野新聞に見えざるは缺點と存じ候殊に新繭出などは尤も急速に掲載所望いたし候餘計な(78)事申上候匆々 六日廿一日夜

 

       一〇四 【八月九日・端書 高木より 上諏訪町 牛山郡藏氏宛】

 

文林堂やけて比牟呂困る信陽といふ雜誌の印刷所で八月中に出して呉れぬか大至急都合きいて呉れたまへ御返事待上候一頁二十錢の組代印刷費は四十頁八十五部で三圓位の所でやれぬか猶聞いて呉れ玉へ今下諏訪の方を聞くつもりだが二三所聞いた上|價《ね》うちの方へたのむ匆々失禮 八月九日

 

       一〇五 【八月二十二日・封書 下諏訪町より 北山村湯川區 篠原圓太氏宛】

 

啓昨日は種々有難く存じ候あれから茅野へ十二時過に著きし處汽車二時間も後るゝとの事故已むを得ず上諏訪迄馬車にて馳つけ一臺八人つめ込みし熱苦しさ弱入申候

〇胡桃澤より來書あり曰く上高地へは行かれぬ曰く此牟呂原稿中「百合の雨」は拔いた(胡桃澤の文章也)斯う反復常なくちや困入り候不快に候兎に角一度入れたものを拔く事イヤに候へ共本人が撤囘するといへば詮方なく候上高地も詮方なく候君と二人で行けば宜しく候行かれぬ人を無理やりに連れて行く事面白からず候斯くなれば君の方の秋蠶上りたる頃紅葉見乍ら出掛けてもよろしく候今月末か來月はじめに行けば最上等なれどこれはどちらでもよろし御返事待上候(君の都合問題だ(一)八月末九月ハジメ若くは(二)九月終十月ハジメこれ丈けの時期中で選ればよい小生にはこれから後は何の都合もない)〇二十四五日に君の方の盆會に行き得れば面白いが何だか分らぬ兎に角堀内の歸る時共に上スワへ來い一泊して舟で遊べ◎金のこと出來うる範圍に於て今30(それに猶十圓追加出來れば小生としては完全であるがそんなに云はれても困るだらう)こしらへて貰ひたい今月大に弱るのだそんな手筈にして置いたから困るのだ地に住む者のつらさだ一年位はこんな味も甞めて見る來年は今少し振つて(79)見せる今の處差當り世間的に困入るこれを切り拔ければあと比牟呂發行も自腹を切つて不都合なくやるつもりだ只八月が小生の問題であるこれも返事か君の上スワに下る時かでよい兎に角早く消息聞き度い物質的のことでこんなに書くこと心苦し仕方がない○左翁から長く書いて來た色々書いてあつて面白いスワへ來るかも知れぬと書いてあるアララギを助けろと書いてある水害牛疫で復舊がさわぎだと書いてある毎年のことで氣の毒に堪へぬ平福左千夫合作の繪ハガキも著いてゐる湯禿山のもついてゐる蕨橿堂のもついてゐる河西省吾のは非常に眞面目な手紙で面白い望月のもついてゐる牛山天外のもついてゐるその他色々ある今それをひろげて讀んでゐる〇今頃堀内は湯に一人で淋しがつてゐるだらう 八月廿二日                 柿生

    志郡兒詞兄

  金のこと定めて困るだらうその模樣で一部分を來年の五六月に返す約束で借入れてもよい

 

       一〇六 【八月二十五日・封書 下諏訪町より 松本局島内村 望月光男氏宛】

 

拜啓何度もはがきを見たろくな返事を出さなんだのは忙しかつたからである廿三日から盆といふへんてこな農村の慣習に住んで借金取對抗策を講じてゐたからである貧乏人の苦しみは現實に苦責を受けるそれが濟めば氣樂なものである精神界とは甚だ交渉が遠い交渉は遠いが是がために縛られる貧乏の繩に縛られて見ぬやうな男は共に語るに足らぬ斯る時妻子が餘計に氣の毒になる大切になる同情が出る自分が貧乏の繩に縛られて妻子共の寂しい顔を眺めてゐる時君へ書くべき手紙は全く忘れてゐた神樣でないから仕方がない

卓君と不二見の散歩は極めて靜寂であつたむしろ嚴肅であつた天の夕暗に地の薄墨山も森も沈黙の中に野の白い花を踏んで歩く時無音の二人は天の妙な威力に感じ入つた批評の態度から冥合の域に進入したのであつた斯る時人間はいくら沈黙してゐても躁急なものである一歩を移す時天は人間よ靜かなれと言ふ二歩を移す時更に靜かな(80)れと言ふ三歩四歩五歩する時自分の足音も耳に入らぬ自分の形骸も吾念から離れる天の命令も耳に入らぬ自分が天地と合體したかせぬかそんな事も分らぬぼんやりとして野の道が盡きる時林の聞から灯が見える人聲が聞える夢からさめたやうにぷらりと宿屋の前に立つ詞では表せないが書いて來るとこんなやうなものになる書き表す事は出來ぬものに相違ない絶對の域に立つものを書き表す事は大文豪でも恐らく出來まい人間には出來る事であるまい大自然に讃美する極は絶對である山上の白雲に立つてもこの域に入る大海の孤島に立つてもこの域に入る十里の杉林を歩して氣死し鳥鳴かざるの境に立つてもこの域に入る爽快から沈痛に入り沈痛から嚴肅に入り嚴肅から冥々に入るこんな順序のやうに書いて見るがこれで表れてゐるものぢやあるまい斯の如き順序を通るものとして吾人を絶對の位置に立たしむるものは人間でも天然でも感化の模樣は同じものであらう偉大なる人間偉大なる天然この二者から得る吾人の感化は同意味のものに相違ない不二見野を歩き乍らワシントンを語つたリンコルンを語つた西郷を語つた子規先生を語つた大自然に感歎するの極大偉人を想出すのは吾人の自然なる順序であると思ふ卓君と北山志都兒訪問の事を書かうと思つたが筆が茲まで進んで來たから序に猶横道に這入らう吾人が|自然〔付○圏点〕の威靈に接し|人間〔付○圏点〕の偉大なる性格に接して受くる感激は少くも吾人の眞の力を養成助長するものであるこの力が根本であるこの力より歌も生るゝのだ力より生れぬ歌が作り歌となるのだ感激にも種々ある一寸面白い爽快だ嚴肅だなど云つてゐるうちは淺薄を脱せぬ感激は絶對の域に達してはじめて極限であるこの極限を一度通る二度通る何度も通り得る人は眞に幸福な人である偉人の研究はこの點に於て甚だ有益なものである吾人同人が歌の研究をするに半面にこの研究がなくちやならぬ事を痛切に感ずる

君から歌について熱心な研究問題を提出するのは嬉しい僕は決してのんきに思つてゐるつもりは無い併しこの研究問題は歌の研究として必しも根本的のものでない事を忘れちやならぬさう言いつても研究問題の熱を冷さんとするの意では無い是を思ふ時彼を忘れぬ用意を言ふのみである第一問題第二問題乃至第三四に至るまで猛然として(81)進み進んで倦まぬの用意が必要である君が盛に言論を寄せるので小生も大に興奮されるやうな氣がする百年の事業も一歩から進まねばならぬ百年の氣ありて一歩のづくなき如きは宜しくない小生もたま/\一歩のづくを無くする事があるすべての研究問題は共に勉勵するつもりだ只餘り足元から火が附くやうに性急にせめ立てるな足元がマゴツイて困る呵々 過日長い御手紙中松本で逢ひし時話した事が大分あり候故大略左に御返事申上候

「れり」は好まずといふ事譯なき事なり此間面談の節も過去になり冷淡になるとやうの説ありたれどそんな事少しも無しと今日にて愈々思入候「れり」は矢張り助動詞的のものなり詳しく云へば|れ〔付○圏点〕は四段活(主として)良行の働きにして|り〔付○圏点〕が助動詞的につくわけなり良行ならずともこの|り〔付○圏点〕は「吹け|り〔付○圏点〕」「押せ|り〔付○圏点〕」「打て|り〔付○圏点〕」「思へ|り〔付○圏点〕」「汲め|り〔付○圏点〕」などつきて小過去の意味になる大槻の廣文典矢張り助動詞小過去の部に説けり文法上では小過去としても現在的に感じうる事|つ・ぬ〔付○圏点〕などと同じ「たり〔付○圏点〕」などの大過去でさへ現在的に感ずる事ありその例乏しからざるべし「れり」と用ひても過去りし感ある事も現在的にとる事も場合によりて有之べき也

   江つたひにわがゆく舟の舟はた|に〔付○圏点〕葦葉|は〔付○圏点〕さやる|わが〔付○圏点〕肩|の〔付○圏点〕へ|に〔付○圏点〕

詞が第一に|こせつき〔付○圏点〕て居り候「に」「は」「の」「に」の弖仁波やら「わが」の副詞やら斯樣のもの多きに過ぐれば(殊に結句)歌を摧き候「葦葉|は〔付○圏点〕」など強く言ひても強くならず只調子くだけるのみ「我肩のへに」は目的格二個になる故すてたには無之候舷に觸る上に猶殊更に肩といふ事重く加へたりとて景情を添へずアンナ云ひ方をすれば「わが肩のへに」が非常に重くなり過ぐる故

   江つたひにこぎ行く舟は寢ころぶしわが居る顔に葦葉さやれり

と訂正したつもり也これならば葦葉さやるが重き感じを掟へ可申候けれど猶他になほしやう有之べく候寢ころんでゐる顔に葦葉さやるイヤな感じでは無之候(小生は)顔にさはるがイヤな感じだなど實際ならばこの歌のやうな處(わが肩のへにのやうな處)へは遊びには行かれぬ肩へさばればよい感じだが顔にさはればイヤな感じだな(82)ど云ふ人葦茂る汀に舟をやり得るや長汀曲浦青蘆亂るゝが中に遊ぶおもしろさが分らぬと思ひ候そんな小膽な事云ふ事面白からず候如何

その他の事は別に御返事に及ばぬ事のやうに候短文募集賛成に候第四號より掲げるべく豫告して置いた題は「屋根」なり比牟呂ももう出る長い批評たのむ二號の時は誰も何とも云はず張合拔いたし候きのふ今日雨堀内寒いだろ書き殘しアレバ直ぐ書く 八月廿五日                  柿生

    望月詞兄

 

       一〇七 【八月廿九日・封書 下諏訪町より 東筑摩郡島内村 望月光男氏宛】

 

  コノ手紙トコノ前ノ長イ手紙ト堀内ニ元シテ二人デ話シテ見給へ胡君ニモ拜復大に叱られ困入り候

一、研究云々は賛成なり

 君ハ不賛成ト云ヒモセヌニオコルノハ分ラヌ色々ノコトト一緒ニ審イテヤツチヤ惡イノカ、グヅル事ニナルノカ僕ハ明了ニ賛成ダト書イテヤツタト思ツテ居タ

  一、望月ガ根本ヲ知ラヌカラ共ニ研究ナドイヤダ 二、久保田ハソンナ歌ノ研究ハイヤダ 三、久保田ハ根本問題バカリ振廻シテエラガル

  コノ三場合ノ一若クハ二若クハ三ノ原因ニヨツテ久保田ハ不賛チイヒ若クハ言ヲ左右ニ托シテヰル宜シクナイ男ダ

 君ノ言分ハカウダ隨分ヒドイコンナニ深ク立入テ僕ヲ叱ルナラ(?)僕ハ何モ云ハヌ只君ノ怒ルニ任セテ置ク

二、根本問題(コンナニ箇條書ニスルト根本問題トイフ字ガ殊更メキテイヤナモノニ見エル)

(83) 君ハ根岸派ノ振ハヌハ礎ガ重ク強クテ建物ガ弱イカラダト思ツテヰル全然話セナイ

 根岸派ノ振ハヌハ礎ガ重カラザルニ坐す礎ノ重サヲ今ツト頼母シクセヌ内ハ何年タツテモ振ヒツコナイ君ナドガソンナコトヲ云ツデヰルノヲ見ルト君ノ根本問題ハ幼稚ナモノニ相違ナイ君ノ歌ニ近來力ノナイ感アルハ原因ガココニアル今ツト人間ヲ研究シタマヘ猫ノ歌モ水泳ノ歌モ馬ノ繪ノ歌モ君トシテ一通ハ勿論マトマツテヰルケレドモ重ミガナイ君ノ根本問題ニ缺損アル所以也吾々ハ月並ダトカ俗ダトカ云ツテ人ヲ罵ル併シ乍ラ今ノ精神活動ノ過半ハ(コトニ和歌ニ於テ)故子規先生ノ力ヲ通シテ活動シテヰルノダ眞ノ人間トシテノ|自己ノ力〔付○圏点〕ハ未ダ/\カ弱イモノダト深ク信ズル|自己ノ行爲自己ノ心事ヲ深ク反省スルトキ吾人ハコノ感コトニ深シ古人ノ偉大ナル心事ニ接スル時吾人ノ小ナルコトラ感ズルコトニ深シ〔付○圏点〕

吾人精神ノ生活(即チ根本問題)ハ吾人ノ全部也吾人ノ和歌生活ハソノー部也君ハ聞キ飽キタト云フ彌々哀レナ者ダ僕カラ聞キ飽キタナラ何モイハヌガ君ノ心ガ斯樣ナ問題カラ聞キ飽キタトイフナラ君トシテノ大事件ダ 君ガイクラ君ノ所謂建築(礎ニ對スル)ニ腐心シテモ何ニモナラヌ斯ク云フハ建築問題ヲ冷セトイフノトハ違フヨク考ヘ玉ヘ

三、「レリ」問題

 萬葉ニ用ヒテナケリヤ何ゼ用ヒテワルイ「セリ」ヤ「埋レリ」ダケハヨイガ他ノ「レリ」ハイヤトハ受取レヌ話ダレリヲ用ヒテ振フモノモアル振ハヌモノモアル日本ノ國語ノ一種ノ働キヲ全然歌ニ用ヒヌトハ何ノ根據アル考ナリヤ感服出來ヌコト也僕ノ用ヒシ「レリ」ガマヅイト云フ論ト「レリ」ハ全體ニワルイト云フ諭ト混合セザランヲ望ムコノ「リ」ハ動詞ニアラズ全ク獨立シタ助動詞ニモアラズ思フニコノリハハジメ左變「セリ」ナドニ働キシニ始マリ追々後代ニ至ルニ從ヒ四段活等ニ及ビタルモノナランカ(憶測ナリ調ベテ見ント思フ)現時ニ於テハ兎ニ角立派ナ國語ノ働キナリ君ハ弱クテ緩クテ歌ニ採用出來ヌトイヒ小生ハ君ノ思フヨリモ重ク(84)テ採用出來ルト云フ水掛論トモ見ユ第三者ニ聞カントナラ君ノ却リ居ルスベテノ「レリ」歌ヲ示シ玉ヘ一ツデモ物ニ成リ居レバコレレリガ歌ニ恰適ノ場合ヲ實證シタルモノナリ 八月廿九日夜 梯生

    光大兄

 

       一〇八 【九月廿二日・封書 下諏訪町より 東筑摩郡島内村 望月光男氏宛】

 

拜復子規忌一人にて御營みの由寂しき中に樂しかりし君の風※〔蚌の旁〕想像出來候

布半會の模樣胡君から御聽きならんと存じ候胡君去りて後梨村來り作歌いたし候梨村新に父を亡へり彼は今後一家の主人公となりて立たざるべからず境遇の變遷は人生の危機也墮落するか人間を上げるかの岐れ目也彼にこの警告を與へんと思ひし處へ丁度逢ひたり彼曰く余は墮落せずと而してその面を見るに極めて平穩無事なものなり彼猶曰く余の校長たる以來身を教育に委するや極めて深刻なる意義の上に立てりと、梨村の如く平穩な顔付にて自己の深刻を云ひ不墮落を云ふ人餘り見た事なし歌多からず木兎はあとより送るといひ胡君もあとから送る筈也送つた上君の方へ廻すべし

小生の歌評有難し眞面目に批評されるは人生一の快事也あの作只小生作歌の動機に或る興奮ありし事を見てもらへばよいつもりだ第三首「霧さむき野べ」の結句動く動かぬの説も連作大體上より見てこの連作の意想が霧に適當なりや不適當なりやを先決問題にして貰ひたし連作大體の精神が(1)霧に不相應ならば(若くは霧でも何でもよいとすれば)全部失敗なり(2)不相應ならざれば只その中の一首の結句「霧さむき野邊」が「月さむき野邊」に動く「梅の木のかげ」に動く傾向ありても小生は苦にならず尤もこれは「霧さむき野」「月さむき野べ」「梅の木かげ」等が結句としてながら同等に据る場合の事をいふ也小生は今一つ連作につきて「連作中には時として一二首」の平凡なれども缺くべからざる――或は重きを成す――歌が交る事を許さざるべからざる」事を思ひ居り候

(85)兎に角あの連作が小生の意を言ひ盡したる思は不致君が「云ひ足らぬ感あり」は甘受いたし候「悔なく思ほゆ」を「悔なし」とやうに強めたきは同感なり第八首霧の季なきは霧が入らずにまとまりし故まとめて置けり連作中には(殊に課題の如きは作りものに傾くもの故)この異例必しも不可なしと信じ居り候(ヤタラ題ヲハナレルトハ違フ)否寧ろ今後の連作は(課題の場合也)斯樣に發展して行き度く存じ候

  題詠の場合連作大體の精神が題に副つて居れば題の入らざる一二首は交じつて不都合なし。是却て題詠の弊を除く一生面なるべし

夫れぢや全く題詠を止めろといふ人あらば譯の分らぬ人なり題詠にしてはじめて得べき想ありこれ題詠の無用ならざる所以也左千夫の「戀嫦娥歌」の如きも空といふ題ありてはじめて得べき想なりあの十首中二三首は空といふ事入り居らず是連作として益々生氣に富み居る一方の例證也以下貴詠の評をいたし候「七」といふ題は全部失敗に候「七カヘル大人ガマカリ日ツカマツル科野男子ヲ知ラズアラレキ」「七年ノ遠ノヨミヂニミ心ヲ安マセ大人トイハマク思ヘド」二首を除けば悉く故意に生みたるの感ありこの二首も材料の自然なるに似合はず感じ強からず平板に候平板なるべくして平板なるはよし「デアボロといふ遊びせりけり」これらの二首はこんな熱なき云ひ方失敗に候その前の歌七周忌の歌は比較的宜しけれど矢張熱が不足に候材料は七周忌として皆自然也その自然な好適な材料を詠じ乍ら感じに強みを覺えざるは熱を以て作らぬ故也「歌は宜しく自然なるべし」など思ひて歌を作る事已に不自然なりその事已に規矩を成《ツク》れば也作る時は只「感じ」あるのみ感じにて作る時規矩なし拘束なし天馬空をかけるの自由を存して一氣三十一文字を呵すこれ作歌の理想なり

   コトハリハ論ラヒセズ只管ニ大人ガ心ニイソヒマツラン

   クレ竹ノ根岸ノ大人ハ目ニ見エズ目ニハ見エネド我ヲ守レり

   歌思フ片トキ大人ヲ忘ラエズ靈在スコト疑モナシ

(86)   何ニヨリ歌ハヨムヤト吾ニトハバ大人ガミタメト答申サン

の如き最も散文的で感じが乘らず

   世ノ中ノヨロシキ歌ト大人ガ云ヒシ事ヲマコトト只歌ヲヨム

是等が失張理性で作つたものと思はれ候信仰の極意は勿論斯の歌の内容の如し然れども眞にその極意に達したる時只歡喜あり歡喜の至極して言語に發表する時はじめて風動の生氣を生じ來るこの歌の現はす所只子規信仰の箇條書きに類す何れの處に歡喜の響きを聞き得るやその他猶散文的のもあれども猶「七」の課題よりは取り得べしと思ひ候馬醉木終刊號志都兒子規忌の歌是非御覽希望いたし候甚だ惡口申し候へ共君の歌の缺點は感じの深からざるにある事左千夫の端書の通なり同人みな左樣に感じ居ると思ひ候君が「根岸派は根本が振つてるけれど即ち礎石が振つてるけれど建築が疎漫だから六年間著しき進歩ありやを疑はしむ」とやうの語を寄せしを見て君の根本の甚だいぶかしきものなるを思へり吾人凡小畢世の修養を累ぬるも猶根本の淺からんを恐る然るを君は一言の下に根本は振つてるが建築がいけぬといふ是れ君の根本と稱するもの果して何物なりやを訝る所以也口で云へば直ぐ振へばよいがさうはいかぬ只心全く根本を疎外するもの果して根本の振ふを得べきか

君に一美質あり露骨に自己を発表する事也只是あり是故に君は自己を進め得る機會に遭遇するを疑はず現に僕へ極めて正直な所を云つて來てゐるから僕が微言を書き送るに忌憚なく云へる見當がよく分る故なり

男兒處世の奮勵あり不平益々大なると共に奮勵益々大なり悲哀益々深きと共に歡喜益々深し不安益々深きと共に安心盆々深しこの兩面を有するの機に接したる者は已に餘程根柢を有する人なり

余の意は建築は疎漫でもよいとの意ならざる事猶御承知ありたし

左千夫先生のはがき拜見せり訂正問題はじめより左樣に重大に思ひ居らず久保田が小刀細工したといふ事甘受いたし候れり問題につき云ふ事澤山あれど今夜は省き候妄言多罪 九月廿二日夜     柿生

(87)                                              光兄几下

追加長野新聞歌アルノダケ今後送ル

 

       一〇九 【九月二十二日・封書 下諏訪より 長野師範學校 河西省吾氏宛】

 

拜復暑中休御來訪二囘乍ら不在遺憾至極也その後書面怠りし罪御許し下され度候

白根行歌拜見君のは濫作で困り候今つと數を少くしてよく錬るが肝要に候頭に深く感ずる所あればそれを可成緊密に現さんとするには無造作にては現るべからず無造作にても現るればよけれど現れぬものを自らよしとして甘ずるやうでは根本の感じが強く深くなき證左となるべし強き深き感じあれば必ず現れるまでは苦心するの努力を伴ふ筈と存じ候これが君の作に對する不平に候新らしき所を發見して生氣常に活動して居るは君の着眼の特長なりこの特長に一層の熱を伴はしむべし御熟考希望いたし候鑛物旅行愉快想像いたし候芒美を聞いて魂飛ぶを覺え候佐久は信州の原野也佐久の美は秋にあり更に滿目蕭條の冬にあり佐久で一、二年暮したい

比牟呂三號屆いた事と存じ候※〔鷄の鳥が隹〕のトヤ時機にて目下大に具合惡しく候今少したてば※〔鷄の鳥が隹〕屋繁昌可致候十月初旬不二見原にて比牟呂誌友會を開き可申左千夫も來る筈に候長野新聞へ歌澤山やりあれど共進會とやらで大騷して居り一向出さず張合なし新聞などでやる事は淺薄なもの也只比牟呂が吾輩の生命也 九月二十三日  柿乃村人

    河西省吾樣

  青魚 省吾ニ肖ル戯レニ代フ

 

       一一〇 【九月廿九日・封書 下諏訪町より 中洲村小學校 小林善一郎氏宛】

 

御老人御逝去の由御悲傷御察申上候さう病人頻々にては定めて御辛苦一通りならざりし事と存上候左樣な目に逢(88)ふ事人間として一の大切なる修養には相違なけれど辛酸は何處までも辛酸悲痛は何處までも悲痛に有之候左千夫又々來遊につき今度は不二見油屋にて比牟呂同人會相開き可申十日初旬(三日か十日か)になるべく確定次第數日前に御通知申べく候處々御旅行の由子供の世話隨分苦勞の事に有之候一人でのんきな旅行をすると違ひ申候比牟呂原稿追々御送下され度候御返事のみ匆々 九月廿八日    柿生

    山水樣

  長野新聞課題「草花、夕ぐれ、垣」十月十五六日迄に出來候はゞ御送下され度候左千夫の比牟呂批評は君が旅行中との事故あとから廻す御承知あれ比牟呂誌友會は十月十日と決定す 〔封筒ニ追記〕

 

       一一一 【十月三日・封書 下諏訪町より 玉川村小學校 小尾喜作氏宛】

 

拜啓金ノコトデ申上ゲル此間ノ二十圓今二三日タタネバドウシテモ出來ヌ(餘所カラ送ツテ來ルモノデアル)ソコデコノ二十圓ヲ來年四月迄借リテ置カレレバ極メテ好都合デアル實ハココデ廉價ノヒヨコヲ買入レ度イノダ來年四月ハ退職金ヲ二百圓足ラズ貰フソノ時ハ相當ノ利ヲ附シテ返ス併シコレハ今日急ニ考ヘ付イタノダ直グ返スト云ツテ來年迄ナドイフノハ甚不都合ノコトニ思フ只君ノ方デ都合惡シカラヌ範圍ニ於テ頼ミ得レバ頼ムトイフノダ君ノ方デ不都合ナラバ勿論直グ御返却スル併シ二三日若シクハ四五日待ツテ貰ハネバナラヌ至急返マツ

      十月三日                俊彦

    小尾木兎君

  長野新聞課題直ぐ送れ(草花、夕暮、垣)めた作れ

 

       一一二 【十月十六日・端書 信濃下諏訪町高木より 東京本所區緑町三ノ三十二瀧澤方 古泉幾太郎氏宛】

 

(89)拜啓意外の御來遊非常に愉快に存じ候御無事御歸京の由今日御手紙拜見いたし候信州人の批評おもしろく拜見歌會席上の歌など振はずともよろしく候御作りならば今月末迄に御送願上候左翁雨に降られて豫定より後れし事と想像いたし居り候アララギ未だ來ず待遠く候信濃同人につき猶御気付の事あらば無遠慮に御申送希望に候はがきにて失禮 十月十六日夜

 

       一一三 【十一月九日・封書 下諏訪町より 東筑摩郡島内村 望月光男氏宛】

 

拜啓手紙出さう/\として失禮いたし候堀内より別紙來り候間御送申上候堀内へは斷然退校して歸れと申やり候小生昨夕長野より歸り候不折の「老人」「女彫刻師」の前に立つて二日間過し候彼は明治の大天才也只々感嘆いたし候一茶の展覽會も一寸面白く大本願の彫刻物と繪畫ともよろしく候此三所にて大に得たるを覺え候歸途松本へ立寄る能はずさう遊んでは居られず御察し下され度候長野新聞課題御送願上候 十一月九日  柿生

    光君

  此間の松本會おもしろく候酒のんで騷ぐも面白く候

 

       一一四 【十一月九日・封書 下諏訪町より 豐平村上古田 小尾喜作氏宛】

 

別紙歌稿御返し申上候粗末なる批評削正御寛恕下され度候君のは意想皆振ひ居れども云ひ表はし方未だよろしからず併しこれはよき傾向に候兎に角萬葉集を一つ研究して頂き度しそのうちには解つて來るべく存じ候永田登茂治君詠草を送る果して皆宜し欣喜のいたりなり玉川學校あたりで月に二三囘づつ萬葉研究會を開いては奈何人數は多きを要せず熱心の少數者にて可なり確實に行はるれば毎囘小生參上講釋(ト云ツテハ失敬ナレド)もし意見も交換すべし此事雉谷君定治君その他諸君に御相談ありたし原田泰人なども勿論賛成希望なるべし但し小生より(90)強ひるのではなし先は右のみ餘は後便にゆづる 十一月九日夜    俊生

    小尾君

 

       一一五 【十一月十六日・封書 下諏訪町高木より 北山村湯川 篠原圓太氏宛】

 

  柿ハ一俵送ル今少シ待ツテ呉レタマヘ

コノ頃ハ毎晩一時過マデ比牟呂ヲ書ク歌ヲ作ル長野新聞ノ歌ヲ書クコンナコトデ晩ク寢ル今夜ハ早クカラ厭ニナツタ眠イ寢ヨウカト思ツタラ君ニ手紙出シタクナツタ手紙ヲ出シタクテ何日モ居タガ錢ガ無イ今嚢ニ六錢アルコレデ手紙出シタイガ明日柿モギ人足ガ來ルコレ二十五錢カ二十錢ヤラネバナラヌ六錢ハコノ足シニスルソレデモ六錢デハ不足ダ又向ウノ家ヘ借リニ行カネバナラヌコンナコトデ何度モ借リニ(貰フ?)行ク九月カラコンナ調子デ暮シテ居ル貧乏ノ味ハヨク分ツタ平氣デ貧乏ノ味ハ嘗メテルツモリダソレデモ時々苦シイコトガアル君カラ借リタ四十圓ハ實ニ命ノ親ダアレガ無ケレバ今頃何ヲシテ居ルカ分ラヌ比牟呂ノ金ニ大部分使フツモリノガミンナ自分デ使ツタ申譯ナイ事情ヲ察シテ許セソノカハリ比牟呂ノ金ハドンナ苦心シテモ自分カラ出スソレデ罪ハ差引ニナルダラウ比牟呂原稿ハ未ダ松本ヘ送ラヌ君ノ原稿ナキハ不都合千萬ナリ故ニ苦シキ一錢五厘ヲ出シテ催促シタノダ今夜考ヘテ見レバ君ノ事バカリ催促シテモ僕カラツバナ會ノ歌ヲ送ツテナイ他人ノコトバカリ云ツテヰレバコンナヌカリガアルツバナ會ハソノ後ドゥシタ少シハ集マツタカ何シテモ逢フコトガ必要ダ布半デ菓子ヲ食フコトガ必要ダ斷然出テ來イコレデヤメル 十一月十六日夜              林乃村人

 

       一一六 【十二月七日・封書 下諏訪町より 長野市師範學校 河西省吾氏宛】

 

拜復大に御疎音いたし候試驗にて御骨折のよし小生壯健養※〔鷄の鳥が隹〕罷在候間御安心下され度候

(91)過日御送「白根行七十餘首」著想皆面白けれど聲調整はず殘念に候二十首足らず多少の削正を加へて比牟呂に出し置候君のは想が働いてるから修正すれば皆物になる今後和歌の聲調について御研究希望いたし候聲調を顧みぬ歌は三十一字併列した處が韻文にならず 君の歌の缺點は慥に此點にあり萬葉その他につき御會得希望に候萬葉の歌は平凡なものに至るまで聲調整然としてダレ味弱味なきはその當時の時代風の然らしむる所と思はれ候

今囘の「易水歌」は白根歌に比して大に劣れり荊軻の事實を寫したる以外何等の働きなしあれだけの事ならば君が荊軻を見ても中學生が見ても小生が見ても同じ事なり河西省吾の見た荊軻としての特色なければ詠史として何等新生命を得る事なし匕首易水蕭々の如きは只作歌の材料なり材料のみでは強くも弱くも感じを與ふる事なし琥珀だの瑠璃だのと云へばもう立派な歌だと思ふと一般なり材料陳列は幼稚な人に示すこけ嚇しの看板なり易水の歌匕首易水など陳列せるのみにて一向深き感じを與へざるは無用意に過ぎたる證據也

長野新聞の歌いけずば自分から振つたもの澤山作つて振はすべし只だめ丈けにては物足らず根岸派の不平幼き事也。手ぬるいとは何のことなりや手ぬるからぬ歌御示しあるべし小生より見れば君の易水歌の如きが手ぬるき淺き者と思ふ御歌所晶子の歌などいふ所を見れば君には根岸派の歌がほんとうに分り居らぬ事と思はる晶子のどの歌が氣に入りしや御示し可被下候人生に直接云々の事之もをかしな事也人生を問題とすれば直に人生に觸れてゐるなど思つては困り候自然物をよめば人生に接せぬなど思つては困り候アララギ一號左千夫の歌に新しきもの非常に多し御熟読希望いたし候根岸派の現状に滿足せぬは小生も然る所なり只君の不滿足と小生の不滿足とは意味相違し居らぬかと思はれ候思ふことそのままに記るし上け候氣に入らずば折返し御手紙有之度候昨日湯川より車を曳來り今日腹筋痛く執筆不自由亂筆失敬多謝冬休には必御面談いたし度候 十二月七日夜       林乃村人

 

       一一七 【十二月十七日・封書 下諏訪町より 富士見村神戸小學校 兩角喜重氏宛】

 

(92)本日石圃山人來ル北山ノ件全然承諾セリ

一、北山生活ヲ數年ヤツテ見ンノ興味アルコト

一、今ノ農生活ヲ數年延期スルノ多少利アルコト

一、身上ノ都合ヨリ云ヘバ右ノ如シ種々御心配有難ク御禮申上候不二見ノ件當分沈著ナルベシ輕動ヲ戒メラレタシ 十二月十七日        柿生

    維君

 

       一一八 【十二月十九日・封書 下諏訪町高木より 諏訪郡北山村 柳澤市之丞氏宛】

 

只今郡役所へ出頭黒河内君に逢ひ今迄の經過一通りを話し置けり是れ已に小生が北山へ承諾せる以上當然取るべき順序を踏みしまでなり依頼的の文句は一言も云はずに置けり〇視學の意見と共に一課長の意見は重大の關係を有せり〇役場の決心を極力示し置くより他に道なし右一寸御報申上候匆々敬具

  〇出町郡役所へ何か御申出でならばそれ前に松川屋へ一寸御よび下さるべく候 十二月十九日

 

       一一九 【十二月二十日・封書 下諏訪町より 埴科郡寺尾字柴 小沼清松氏宛】

 

  山越君に此はがき御見せ下され度候

拜啓新年課題と雜詠と今日拜見いたし候非常によきもの兩君共散見うれしく存じ候(旋頭歌にも面白きがあり)由來信州北部にて歌の振ひし事なし今迄投稿のもの何處の人も非常に低調にて張合なく思ひ居り候處兩兄の歌一囘は一囘より進歩の跡ある尤も嬉しく感じ申候三年や五年で屈撓せぬ勇氣を持して御進みのほど至望に存じ候はじめての手紙にはがきなどで申上げ失禮に候へ共御許し下され度候今月發刊の「比牟呂」一册差上げ候同誌初めの(93)小生の歌は不成功に候何もかも意見は露骨に御申越下され度候露骨を缺くと停滯する 十二月二十日夜

 

       一二〇 【十二月二十三日・封書 高木より 下諏訪小學校 森山藤一氏宛】

 

先日は有難く存じ候どう工面しても今十圓ばかり不足にて困入り候君の處で今十圓出來るか五圓出來るか全部出來ぬか御返事願上候その模樣で何處か探す必要有之候出來るとすれば何日頃出來るか併せて御報願上候

  借金 十圓也――活版屋 五圓也――時借金 五圓也――年末の拂也小使 〆二十圓也

  入金豫定 五圓也――東京雜誌社 五圓也――比牟呂集金 コノ集金六ケ敷モノナリ 〆十圓

   差引不足十圓也  無理ナサンダン無用也

妻未だ産まず早く産ませてのんきに遊びたし北山の忘年歌會には此分では行けぬ 廿三日夜

 

       一二一 【十二月二十七日・封書 下諏訪町高木より 北山村 篠原圓太郎氏宛】

 

比牟呂評有難く存じ候大體に於て異存無之むしろ賛成也小生の歌全く失敗也胡君のは君の見る以上によい所ありと思ふ君の云ふ弊あるは勿論也雲袖歌貴評と一致す卓君のは第一首が比牟呂中の壓卷也長塚君からもほめて来れり禿山評大賛成也その他大抵賛成也「比喩歌」はあれで悉《つく》せりや否やは知らずアソコに書いただけは當を得て居ると信じ候左翁は無理に論を作つたやうだと申來れり意外なり小生は無理に論を作つた事は一度も無いつもり也不二見會「秋草のしげき思をいひかてにまつはる露を手に振り落す」を「比喩歌」と同筆法にて不平云ひやりし故その不平いふために「比喩歌」一篇を作りしやに思ひしかと存じ候困入り候絲瓜の件貴説おもしろしあれは九月十八日の詠なり三十五年九月十五六日が名月にあたりしやソレが確かならば貴説おもLろく候君は明月と書いたがあれは名月の誤と存じ候竹舟の元氣尤もうれし柳ノ戸より今日久し振の手紙來れり新年から大に作ると云ひ來れり(94)柏原連果して振起せば愉快也望月子規忌の歌小生は大によしと思ふ貴君と異る散文と異らずとはひどいと思ひ候齒のいたみ如何大した事なきを折り候出産未だ無し忘年會ダメとなれり來春新年會開き可申候この間の御送金正に拜受只々大謝いたし候今年の越年は甚だ不景気なりそれも不都合なし取急ぎ御返事申上候 明治四十一年十二月廿七日               柿生

  北山學校の件承諾はせり郡視學がいやがる由也どうなるか分らず赴任するかも知れず黙つてゐてくれ

    志都大兄

  比牟呂五號へ出すべく候

 

       一二二 【十二月廿七日・封書 下諏訪町より 北山村柏原 兩角福松氏宛】

 

久し振で御書面拜見うれしく存じ候實を申せば柏原連中へ比牟呂やりても誰も何とも云ひ來らず不平に思ひ居り候勇氣已に銷失せるに非ずやと思ひ居れり昨日志都兒より比牟呂細評ありその内に竹舟が志都兒に逢ひ元氣相變らずで嬉しかつたとあり今日又君から比牟呂評來る一種の來柏原に磅※〔石+薄〕せるを思ひ候新春匆々捲土の勢を持して御振起のほど至望に存じ候御評大體賛成に候四號の作は三號に比しても劣り居り候只傑作といふものさう頻々と出來るものに非ず一年一囘快心の者を出す猶且つ足れりとすべし要は休息なき努力に在り弛緩なき策勵に在り努力策勵が處世の上作物の上に間斷なく存する以上五年十年二十年の間何時か或ものに到達すべきを信じ居り候大なる熱心の反面には大なるのんき無かるべからずのんきなるが故に熱心なきに非ず此消息御靜思希望いたし候小生の病友を思ふの歌多少新しきものを拓くつもりで失敗いたし候今見れば調が全く緩び居り候長塚君は堀内卓の

   いささかの高きによれば宵更くる草野に低き沼明り見ゆ

一首をほめ來り候この歌小生も非常によいと思ひ居り候寫生を出でゝ或域に至り得しものと思ひ候小生の布半歌會(95)二首は自分でもさう惡く思ひ居らねど猶卓君のに比して所謂作者の或物(或る感じ)を現し居らずと思ひ居り候足が地にのみついて居て頭の方の感じが足らず候頭の方の感じのみにあこがれ候時足が地から離れるも一の弊也足と頭との關係尤考慮すべき問題と思ひ候この事歳のうちに北山にて忘年會ひらき諸君に逢つた上話し度かりしも妻出産迫り居るためその意を得ず新年どこかで會を開き度く思ひ居り候小生の「比喩歌」は單に比喩歌のみならずすべて歌の調といふものにつき考へたつもり御意見伺ひ上げ候今度は二月に出し可申一月中に原稿盛に御送下され度付舟工圭珂堂にも御奬め下され度候只貧生活の上に誌代は多くは集まらず發行毎にその問題に窮し居り候ため君方に誌代の催促する事心苦しく候へ共シカタなし御寛恕願上候

學校問題御好意謝し上げ候小生の眼中には村政もゴタ/\も何もなし關君の去りし後村民がいかにゴタ/\云ひ居るやも顧慮する必要なし學校に北山の子供を集めて教へる事の外何の關する所なし面倒不面倒などいふ事今迄一度も顧みし事無之もし北山に行けば君等と研究も多少餘計に出來るやうな氣がいたし居り候教員といふもの氣が小さく評判惡しきかよきかなど顧慮しつゝ仕事する故絶對神聖な教育出來ず哀れなもの也教育でも歌でも用意に二なしと信じ居り候教員らしき教員をして志成らぬ時退くは教員としての成功なり貴答まで匆々 十二月二十七日正午     柿生

    柳兄

  竹舟工圭珂堂三君に此手紙御示し下され度候

 

       一二三 【月日不明・封書 下諏訪町高木より 上伊那郡飯島村 蘆部猪之吉氏宛】

 

この手紙書き終る時牛前二時、金のこと思うて未だ眠らず     柿の村人

    芦部芦庵柿の村人


(96) 明治四十二年

 

       一二四 【一月一日・端書 信濃下諏訪町より 東京赤坂區青山南町 平福百穗氏宛】

 

賀正 吹雪の中に水を汲む菽桿を焚く 元且

 

       一二五 【一月七日・端書 下諏訪町より 北山村 篠原圓太氏宛】

 

二枚ハガキ拜見新小説御送申上候間御覽下さるべく候君のハガキと左千夫のハガキと共に來り新小説を君に送るべき事が分り候それならば今つと早く送ればよかつたホトトギス長塚君と左翁との小説御覽と存じ候非常に振ひ居り驚嘆以上に驚嘆いたし候新小説の方のは胡頽子に比すべきものに非ざるも猶よろしく候自然派先生たちよりズツと拔け居り候根岸歌人の斯る活動は實に心強く忍ばれ候吾人の自重すべき所以益々明確になり來り候アララギも非常に賑はしく只々嬉しく候卓の歌丸で段違ひに拔け出で居り候茂吉君の研究おもしろけれど少しづつ徹底せぬ感ある事貴意の如く候比牟呂同人の自重すべき所以益々重くなり申候新年會は十六日頃になり可申改めて御報可申候その際例の草餅十切ばかり御ねだり申上候妻出産延引驚入り候併し健康御安心あれ 一月七日夜

 

       一二六 【一月十三日・端書 下諏訪町より 東京市本所區緑町三ノ三十二瀧澤方 古泉幾太郎氏宛】

 

(97)貴兄の作には新しき傾向慥かに現れ居り候いかに変遷し行くべきかは注目の價あり失敬々々左翁の採草餘香の「一」は分らず「二」「三」おもしろく候堀内卓ノハ大ニヨシ

 

       一二七 【一月十四日・封書 下諏訪町より 富士見村神戸小學校 兩角喜重氏宛】

 

拜啓種々御心配被下候へ共郡役所の模樣惡しき樣子故斷然北山行は小生より取消し可申此件の御厚志御禮申上候小生のために北山教育をゴタつかせ一方郡役所と北山村役場との折合を損ずるはイヤの事也諸君の御好意只々感謝いたし候少くもスワでは教員はやらず候 一月十四日

    雉夫兄

  〇今日女子出安産母子健康御歡び下され度候忙しき故亂筆御めん下され度候

  〇二十二日に比牟呂新年會を開く追て御通知申べく候

 

       一二八 【一月十九日・封書 下諏訪町より 北山村湯川 篠原圓太氏宛】

 

拜啓今日はがきにて新年歌會のこと申上け候定めて御落手と存上候實は妻出産後四日目即ち一昨日より發熱四十度以上に達し昨日は大心配いたし候處今日餘ほど宜しく此分にて經過せば成績良好なるべく思ひ候へ共萬一二十三日の會に出られぬやうな事無きかと懸念致し居り候付ては當日君や小生が居らずしては不都合と思ひ候故貴兄は是非繰合せ正午頃までに布半に御著下され度君も小生も居らねば來會者皆引返し可申候尤もこれは萬一の場合の事にして大した差支さへ無くば小生も勿論午前より布半に行き可申條兎に角右よくく御願申上け置き候

次に左翁よりの來書君にまはすべしとの事なりしが前述の如き有樣にてこゝ數日間ごたつき居り延引いたし候今日同封差上げ候間御覽下され度候書中長塚云々の件は長塚君に氣の毒と思ひ候小生は事情多少知り居る故餘分に(98)左樣思ひ候何れ御面談可申候

次に南信日日の選歌小生は止め度くそして貴君からやつて貰ひ度く御同意願上候小生やめて他のヘボ選者にするは惜しく候御承諾下され度候尤も未だ新聞社へは交渉せず居り候先は右用件のみ申上候匆々 一月十九日夜

    志都兄

  妻今日午後より平熱この儘平安なるべく二三日たゝば大丈夫と思ひ候御心配下さるまじく候昨日は小生も痛く心配いたし候そのため口がにがくなり小便が黄になり候子供と夕飯の膳に向ひて窃かに泣き申候今考へれば馬鹿げ候

 

       一二九 【一月二十五日・端書 下諏訪町より 東京市本所區緑町三ノ三十二瀧澤方 古泉幾太郎氏宛】

 

拜啓比牟呂評有難く拜見いたし候悉く同意いたし候左翁評も同樣に候只「鳴くらく」問題は文法論に係り過ぎた御説と思ひ候一齋その他の漢學者が處理文法をこはしてもそれが一般に通じれば日本の文法に候近來歌なく困入り候一昨日上スワにて新年會九人集り面白かりき妻少々病臥男手にて炊事やら何やらでゴタつき候故ハガキで失禮いたし候 一月廿五日夜

 

       一三〇 【一月二十八日・端書 下諏訪町より 北山村 篠原圓太氏宛】

 

歌會の翌日は山浦の實父見舞に來りしため出町を得ず殘念に存じ候草餅昨日持來り早速拜味いたし候その後愚妻益々平靜に向ひ最早危險の點無之候間御安心下され度候これからそろ/\本をよみ可申候比牟呂の歌可成多數御送下され度候此間の車曳の歌(柿)も今少し御作り下され度候連名にて比牟呂に出し可申候黙坊の歌によいもの有之候

 

(99)       一三一 【二月一日・封書 下諏訪より 富士見村小學校 關佐一郎氏宛】

 

拜復北山ノ件小生ニハ極メテ平凡ノ出來事デアツイタ柳澤君ガ來テ盛ニ奬勵スルカラ「ウン」ト云ツタ郡視學ガ首ヲ振ルト聞イタカラ「ソレナラ止メル」ト云ツテヤツタソノウチニ柳澤ソノ他ノ人ガ來テ「申譯ナイ」ト云フカラ「チツトモ申譯ナイ事ハナイ僕ハ北山ヘ行カネバナラヌカラダヂヤナイ」ト云ツタ事件ハコレダケデアル僕ハ今北山ノ事ハ忘レテ居ル君ニ逢ツテヒヨツクリ思出シタカラ話サウト思ツタノダ御病氣極メテ御大切ニナサレ切ニ御自愛ヲ所望スル逢ツタラ又話ス 二月一日夜  俊生

 

       一三二 【三月六日・封書 高木より 下諏訪小學校 森山藤一氏宛】

 

此間は失禮いたし候湖南よりも四賀の方君のゐる位置として宜しかるべく思ひ候上スワに居住するは同人から見て好都合と思ひ候一方には湖南問題は一寸六ケ敷からんとも思はれ候(雉夫の校長問題が)色々で四賀の方矢張宜しきやう思はれ候下スワの方は君が決心した上は只濱君に申出づればよろしく候引止めても止まらぬ決心ならば宜しく候只々強硬に出てさへ居れば貫徹いたすべく候尤もそれ前によく平林なら平林と打合せて堅い約束にして置くが必要に候小生明日午後一時過ぎの下りにて出發すべく松本一泊の上廣丘に赴任可仕候御面會の時間なければ貴所は素通りに可致御承知下され度候匆々 三日六日        柿生

    汀川君臺下

  元義集と雜誌と李塘君へ御屆け願上候代匠記御返し申上候

 

       一三二 【三月十七日・封書 東筑摩郡廣丘村より 諏訪郡北山村 篠原圓太氏宛】


(100)大に御無音いたし候當地に來りてより忙しとに非ずむしろ閑散に苦しむ位なれど只精神茫乎として何も手に付かず何處へも大に失禮いたし候

妻子を家に遺し置きたる寂寥なり君たちと境を隔て住む寂寥なり知る人なき桔梗原の一弧村に來りし寂寥なり一望平蕪雪殘り雲寒し森多くして畠少しこの間の孤村に爐を擁する心地何だかすさまじく覺ゆ學校の方は少しも心配なし毎日火鉢に對してたばこを吸ふのみされど格別面白味も生ぜず斯の如くして茫乎たり目下の境遇御想像下され度候此の如き境遇は一生中矢張餘り多からざるべし故に余は勉めて自己の境遇を批評するの態度を離れ充分に茫乎の味を嘗むるつもりに候嘗むるつもりと云へば已に多少客觀的なるの嫌ひあり故に只無言の積りに候歌にせんなどとは思ひ見ず候此地方の森林に富めるはうれしく候何處を見ても森林に候多くは松なれども楢も榛もあり學校の裏庭に松木立あり直に森林につづきて奈良井川に至る雪消えねば川は未だ行きて見ず松本へ行かんとも思はず只家に歸らんを思ふ妻を思ひ子を思ふ斯の如し

君も彌々芽出度由大慶のいたりに候平生竊かに氣に懸り居りしにこの吉報に接す喜悦の至に候老親方の喜色想見し得べし只愛せ愛の力は金石を熔かすべし愛を以て始終する人は神聖にして且つ幸福なり目下の君の情緒御察申候比牟呂は今二三日にして出來る樣子なり出來たら直ぐ送るべし胡君卓君の歌後れたれど間に合ひてうれし末尾に補ひ置けり君の原稿風はおもしろし猷は賛成せず詳見の上申上ぐべし匆々不盡 三月十七日夜 柿乃村人

    志都兒大兄臺下

未だ何か云ひ落したやうな氣がする長野新聞十週年記念祝歌廿二三日迄に一首でも二首でも送つてくれ玉へ洗錬を要せず黙君にもさう云つて出させてくれ玉へ 〔封筒ニ追記〕

 

       一三四 【三月二十三日・封書 東筑摩郡廣丘村より 下諏訪町小學校 森山藤一氏宛】

 

(101)  長野新聞歌頼む

新に羈客となつて多少の感慨有之候桔梗ケ原の廣域一望平蕪寒雲迷ひ殘雪鎖すの所孤客爐を擁して家を思ひ友を思ふの状御遠察下され度候學校の方は何も忙しからず毎日懷手で過し居り候一寸天道樣に申譯無きかも知れず併し學期末にイチヤツク事大抵値打なき俗事業に候此際懷手で過すは小生位のものならんか呵々

轉任の件君が腰を強くして頻りに濱君に迫ればツマリ成効すべく候比牟呂は今日頃は出來居り候匆々不盡 三月二十二日夜     柿生

    汀川樣

 

       一三五 【四月廿九日・封書 東筑摩郡廣丘村より 上諏訪町諏訪ホテル内 岩本木外・河西河柳・森山汀川氏宛】

 

拜啓碧梧桐氏來遊諏訪俳句界の賑かさを想像いたし候俳句に對する氏の見識文學に對する氏の抱持を眞に了解し得るは實は少數の人なるべし此點に於て貴兄等が此好機を逸せざらんを希望いたし候小生も非常に參り度候へ共用事山積にてその意を得ず遺憾此事に候松本に何日滯在せられ候かその際は必面晤いたし度候

〇信州に來てその特色を窺はんとせば少くも信州の小學校一二を見る事肝要と思はれ候信州にて信州らしき特色ある學校は先以て上スワ小學校と存じ候へば是非上スワ小學校を一日參觀いたし候やう御勸め希望いたし候松本や長野の學校は御承知の如くダメに候此事昨日申上げんとして歡迎會の酒に醉ひ打忘れ候間今朝取あへず申上げ候 四月廿九日朝               柿の村人生

    木外兄 河柳兄 汀川兄

 

       一三六 【五月七日・封書 下諏訪町より 長野市師範學校 河西省吾氏宛】

(102)御無音いたし候旅行して小言云ひ居るとは餘程贅澤な話に候僕等は旅行その物に渇し居るから足に脚絆つければ已に或る快感を得申候君の歩きし處は小生一度も見し事なき故何とも云はずされど善光寺參詣老若男女を見ても社會活動の或面が輝き居り候足尾山の熔爐と墓とは實によき人生の感受所でありしを思ひ候人生の感受――眞意義――は書物では分らず哲學論でも倫理論でも分らず坑夫活殺の大舞臺に對して歸來何等の歌なかるべからずと思ひ候日光編はおもしろさう也實地を見た上にて御返事申べく候

   戸隠のささ原の中に大槻の若葉きやきや新よそひすも

   草の上にふみをひらけばふみの上黄に見ゆるまで若葉せりけり

二首は大によろしく候それ前の信濃の夏の活氣云々の歌は一人よがりにて内容のおもしろさが現れず候左翁に逢ひし由どんな話ありしか聞き度候蕨君はあれは一の好人物に候わるげは少しも無之候暑中休のかへりにここで一泊したまへ匆々不備 五月七日夜             柿の村人

    河西省吾樣

 

       一三七 【五月十四日・端書 信濃東筑摩郡廣丘小學校より 東京本所區緑町三ノ三十二瀧澤方 古泉幾太郎氏宛】

 

御手紙拜見いたし候何處へも手紙やらず諸方から催促いたされ候境遇一變の故か兎角妙な感想にのみ耽り居り歌もよまず字も書かず本もよまず一寸茫然として居り候過日の合評有難く存じ候アララギの合評此内に致すべく候君が「新しき云々」は私信の序に書きしものにて意は表れ居らず原稿にするつもりならば全體を今つと立派に書き可申筈也匆々 五日十四日

 

       一三八 【五月十四日・端書 東筑摩郡廣丘村より 埴科郡寺尾村柴區 小沼清松氏宛】

 

(103))御無音いたし候御詠草今夜拜見四首を長野へ出す事にいたし候今少し強く重き心あらんを切望いたし候いつも露骨な事申上げ恐縮に候

   さくらさく毛の國原を壓し立てる赤城の山は雪いただけり

斯の如く訂正した方宜しからんと存じ候ヒムロは別に御寄稿被下度候尤も自信あるものを嚴選して御送下され度候 五月十四日夜

 

       一三九 【六月十日・封書 下諏訪町より 東筑摩郡島内村 望月光男氏宛】

 

拜啓今に逢へる/\と思ひ乍ら逢へず手紙も出さねど君の事一日も忘れ申さず候病氣はよいとも聞き惡しとも聞くほんとの所御返事願上候松本で會を開くと云つても君は來ず胡君に聞いてもよく分らず迷ひ申候實際わるいならば大に靜養の御工夫可有之存じ候アカネ貴詠氣は溢れ居れど猶足らぬが多し勿論アカネ中の第一に候

   わが胸は裂くにはあらず千萬の毛蟲はふ蟲はひまつはれり

   目に見ゆる心なのものを罵りすれどすずろの心しばしも落居ず

   すり鉢のめぐりの坂をさかしみと底ひさ迷ふ一人かも己れ

等は面白く讀み候比喩的のもの力なく候はじめの方すべて氣に入らず候

アカネ今度の評論見る氣せず中途で止め申候三井君は神經過敏の詩人に非ずして神經過敏の經營家に候文學士なる名稱が誤つて彼を事業家にせし事を彼は自覺して居らず悲しむべく候乙字等の方が議論も宜しく面白く候

小生は四月以來一首も作らず廣丘の森にごろつき居るのみ只一種の妙な悲しみに籠り居り候只今は小生の感受時代なれば只感受に甘じ申べく候昨年との境遇變化がこの心の寂寞を作り申候誰にも手紙出さぬを皆怪しみ來り候へど獨書く氣に成らず自分乍ら惡しき事と思ひ候へども仕方なく候君からは不平來らず變に思ひ候君も小生と一(104)寸似た境遇に居る事と思ひ候兎に角逢ひ度いな、なあ君

  比牟呂トアララ木ト合併シテ東京カラ新ニ出シタ方宜イト恩フ如何賛成シロ

  左翁ニスヽメ玉ヘ 六月十日          柿乃村人

    光兄

  廿三日は家に休息すべく候

 

       一四〇 【七月二日・封書 東筑摩郡廣丘村より 東筑摩郡島内村 望月光男氏宛】

 

拜啓一昨日は參上久し振の談笑近頃の快事に存じ候實は御病勢非常に氣に懸りて出掛け候處意外の元氣なるに小生も心強く思はず長談議いたし歸來君を疲勞させたかと掛念いたし居り候處御はがきを見て喜び入り候この分にて無理さへせねば案外早く快復疑ひ無之候

松本停車場にて胡君に逢ひ胡君も急に廣丘行に決し二人にて歸宅せしに小尾石馬ありて待ち居り三人鼎坐深更迄語り更かし候胡君は昨日午後歸宅石馬は今朝歸宅いたし候それ故手紙書くが今日に延び申候不惡御承知被下度候

猶御母公御繁忙中種々御手數相掛け恐入り候君より宜しく御禮願上候

何もかも平靜に御思念有之候樣希望に堪へず條紫雲英の歌「こもりく」を具象名詞にすべきか否かは考へものに候君の云ふやうにこの方がゆつくりした情調を帶ぶるやうに思はれ候紫雲英連作中猶

   妻子らを遠くおき來ていとまある心さびしく花ふみ遊ぷ

   川のべのわら屋にめぐる水車響きはおそし夕日花小田

など有之候御笑覽に供し候石馬は神經衰弱とかにて遊び乍ら來り候處廣丘の森林中に入りてより元氣急に恢復藥を飲まぬやうなりしとて喜び歸り候折々通信可仕候匆々不宣 七月二日      柿生

(105)                                              光兄臺下

君の氣を損ぜじと母公の苦心側目によく分り候餘り困らせるな萩筆は大へん使ひよく候

 

       一四一 【七月九日・端書 東筑摩郡廣丘村より 埴科郡寺尾村 小沼清松氏宛】

 

御來示の趣き繭かきと牡丹とそんなに時節相違しては歌として宜しからず只蠶籠を干す位の事が宜しかるべく候小生の不用意を恥入り候

   飼ふ蠶らの籠ならべ干す庭すみに白牡丹さけり風にさゆらぐ

此第四句にて切りたる所御注意下され度候此囘は出詠のは皆おもしろく振ひ居り候比牟呂稿に御保存被下度候一度御面談いたし度候

 

       一四二 【七月九日・封書 廣丘村より 東筑摩郡島内村 望月光男氏宛】

 

復啓もう晴れるか晴れるかと待入り候へ共毎日の陰雨に困入り候定めて病氣に障る事と存上候小生も氣候にあてられ二三日口がまづく腹の筋が張り粥を食べ居り候御來示の説大に賛成に侯人眞似な人生觀などよい加減にこねくり居りては主觀もへちまも無く候新傾向だの何のと云ふ時は必この輕浮な氣風が附いてまはり候之をハイカラと申す也吾人の要は只深く切なる人生の經驗を得ればよしこの經驗より生るゝ詩は主觀客觀を問ふの要なく何れにしても同程度の高さのものが生れ出づべし生ま悟りの人生觀は鼻についてイヤに候客觀の詩は失敗してもイヤ味は無し主觀詩は普通のものにては多く淺薄とイヤ味とを感ずべし今一つ主觀詩と稱するもその根柢に矢張り寫生的素地が非常に必要に候寫生的用意の缺けたる主觀詩は作者感興の特色を没却いたし候

   男の子われ祖のしるしと今更らに血潮はたぎつ青嵐の風  千樫

(106)連作中より取離しては惡しけれど兎に角斯樣な空漠のものはいくらでも詠み得ると共に特色なき駄作となる事請合也

   朝もやに鳴くや鶯人乍ら我常世ぺにいほりせりけり(連作中)   左千夫

これらは矢張り寫生的用意を自ら具し居りと思ひ候

貴詠中第一首が一番おもしろし一般の弊を云へば材料も見付け所も皆新しく面白けれど現し方が散漫に失してごたつき居りと思ひ候

   艫まはすはしけゆり越しうつ浪の引けの濕りの砂のよろしさ

大へんおもしろい材料乍らこれ丈けの材料をやつと三十一字にまとめ得たといふ感あり從て調子の上にゆとり無きが氣に喰はず候第一句の如きは何故今つと無意味の詞を用ひざりしやと疑はれ候

   はしけ曳く蜑の手綱に眞砂なめ腹はふ浪の泡流れ行く

の如きも多少その憾有之候次の歌「歩むそそぎに」の末句は意味を知らず御序の節御知せ願上候詞を折々知らずして失敗いたし候明日淺間に會合あり志都兒も來るやうなり卓君近い内に歸るよし待入り候君の具合惡しきが悲しく候相携へて廣丘の森中を※〔行人偏+尚〕※〔行人偏+羊〕せばうれしからんと悲しく候それにつけても自愛御攝養專一奉存候取急ぎ匆々 不一 七月九日夜     柿生

    光大兄

  妻子らを遠くおき來ていとまある心さびしく花ふみ遊ぷ (紫雲英連作ノ中)

 

       一四三 【八月十九日・端書 東筑摩郡廣丘村より 埴科郡寺尾字柴 小沼清松氏宛】

 

足尾ノ歌非常ニ面白ク拜見イタシ候北信ノ気勢近來大ニ高マリウレシク候他ノ歌稿(失敗ノ友ニ送ル歌)ハ失敗(107)ト存ジ候千樫君來遊シテ君ノ旋頭歌大ニ振ヘリト左翁言ヒ居ルトノ話ナリキ失敬々々

 

一四四 【八月二十八日・端書 東筑摩郡廣丘村より 諏訪郡北山村 兩角福松氏宛】

 

   夏日照る草にいこへる喇叭手の喇叭の房の紅の色

これは見付所賛成に候へ共全首を通じた精神の動きが現れぬ事殘念に候つまり材料はよく按配され居れどその材料を通じて作者の感じが現れ居らぬを遺憾に思ひ候一二三句は暑苦しく同情に堪へられぬさまの現れ方也四五句は是を受けてその情調を以て貫く所の感じが更に重く現れ居らざる可らず然るに喇叭の房の紅の色の如き現し方にては只形象が敍しあるのみ形象のみにても調子の上に暑苦しくいつて居れば無論よいが是では何だか只美しいやうにも受取り得るこれでは歌として一貫の調を成さずと思ひ候御意見如何

        其二

   咲きつづく松蟲草の花の野に雲影うごく早雨すらしも

   咲つづく松蟲草に風吹立ち電影うごく早雨すらしも

ト訂正セルハ第一ノハガキト同ジ立場カラ見タノデアルコレモ御返事ヲマツ干瓢ノハ平凡ナレド取リ得ルト思フ(失敬々々)

 

       一四五 【九二十八日・端書 東筑摩郡廣丘村より 南安曇郡東穗高村 西澤本衛氏宛】

 

拜復今度の歌何れも自然にて面白く候是前のは凝り過ぎた感今になつて是あり候此秋はどこか歩いて來たまへ自己の境遇を變じたる時新しき純なる生命を生じ來るべく候深山に入るといふ事も一種の境遇變化なり新しき生命(108)の上に立つといふ事なり我執や習慣から脱離するといふ事也一方から見れば本來の自己純粹無雜の我にかへるといふ事也讀者の感激といふ事もこの意味に外ならざらんか日曜と土曜は家に居らずその他の日に是非出て來たまへ來る事分らばハガキ出せ失敬 九月廿八日夜

 

       一四六 【十月五日・封書 廣丘村より 東筑摩郡島内村 望月光男氏宛】

 

拜復風土記トミレーの繪トハ實ニ惡イコトヲシタ心ナキコトデアツタ筆ヲ執テ何トモ云ヒヤウナクナツタオレハ惡イ考ハ持タヌツモリダガ行動思慮共ニ粗雜デ困ル。放ゲヤリデ氣ノ拔ケタコトヲスル。ヤリハジメタ事ノカガリヲ付ケズ置クコトガ少クナイ。自分ノコトデモ他人ノコトデモコノ缺點ハ共通シテ働イテヰル。君ノヤウニ露骨ニ云ツテ來ルノガ少イカラ自分デ氣付カヌヤツガキツトアルダラウ。自分デ決シテ許シテ居ルノハデナイガ天性ノ放慢實ニ困ル。風土記ヲ胡君ニ貸シテオイテ今日迄ボンヤリ君ニ貸シタヤウニ思ツテヰタ。君ノ手紙ヲヨンデハテナモウ望月ニヤツテアツタガト思ツタガ直グサウデナイコトヲ考出シタ。卓君ノ歸校スル頃カラ君ヲ訪問シヨウシヨウト腹ノ中デハ思ツテヰタ。此間「ハガキ」ヲ見タ時モ今ニ行クカラソノ時返サウト思ツテヰタ。一笑ニ付シテ返事セナンダノヂヤナイ。

アノ繪ヲ一昨日モ昨日モ出シテ見タ。君ノハガキ見タ前ハ久シク見ナンダ。君ノハガキ見タ後ハ度々思付テ出シテ見タ。今日ミレーの忌日ナルコトヲ初メテ知ツタ。

實ヲイフト予ハ廣丘ヘ來テカラ毎日毎晩暇サヘアレバ妻子ノコトヲ思ツテヰル。餘程ハゲシク思ツテヰル。ダカラ友人ノコトヲ考ヘルコトハ去年ヨリ少イ。予ニ今ノ處一番興味アル者トイヘバ妻デアル子デアル。土曜日ニハ五人ノ子供ガ(一人ハ小サクテダメダ)皆オレヲ待チアグンデ居ル。オレノ顔ヲ見ルト三歳ニナルノハ顔中皺ダラケニシテ喜ブ。ソレカラ風呂敷ヲ自分デ開イテオ土産ヲ請求スル。汽車賃クライシカ金ノナイ時ハ汽車ニ乘ラズ峠(109)ヲ越シテソノ金デ菓子ヲ買ツテ行ク。妻ハ予ノ歸ル前ノ晩アタリカラ寢ラレヌト云ツテヰル。コノ妻子ヲ殘シテ他郷ノ一室ニランプヲ吊シテ本ヲヨムノハ實ニツライ。妻子ノ寫眞ガ欲シクナツタ。コンナ鹽梅デアルカラ君ノ病氣ニ對シテモ予ノ思ヒ方ガ不足シテヰルコトト思フ。實ニ惡イコトダト今夜シミ/”\思テ見タ。

ソレヂヤ君ノコトヲ忘レテヰルカト云ヘバソンナ譯ヂヤナイ。君ガ大ニ煩悶シテヰルコトモ知ツテヰル。話シテ見レバキツトヨカラウト常ニ思ツテヰル。堀内去リシ後ハコトニサウ思ツテヰル。君ニヨク云ツテ置キ度イガ「歌ガヒネクレテ居ル云々」モ一通リノ反省ハヨイガ眞實反省ノ點ヲ見出シ得ナンダラサウ凝ラズニ打棄テ置クベシ。今ノ處デハ歌ハ君ヲ生カサズ君ヲ殺シツヽアル。自分ヲ殺スヤウナモノハ打棄テルガ正常ダ。打棄テテアカノ他人トナツタ時君ハ天眞無碍ノ人間ニナル。天眞無碍ノ望月光男ナル一人間ガ再ビ新シク歌ニ接シテ猶感受アラバ歌ヲ作ルモ妨ナシ。凝テハ思案ニ能ハズトイフ諺アリ。思案ニ能ハヌトキハ思案セヌガ一番良キ道ナリ。君ハ強ヒテ思案シヨウト思フノハ適々以テ自己ヲ傷フノ道トナルノミデアル。君ガ六月家ヲ離レタ時家ノナツカシサガ解ツタニ相違ナイ。父母ノナツカシサガ解ツタニ相違ナイ。父母ヲ目ノ前ニ据ヱテナツカシガレト云ツテモ困ルコトガアル。歌ヲ離レ、離レテ猶ナツカシキハ眞ノ愛著ナリ。離レテモウナツカシクモ無ケレバ歌ハ君ノ有難イ物デハ無イノダ。君ハ凝リ過ギタ。全ク歌トイフ形ヲ見ルナ姿ヲ見ルナ。

僕ノ妻ハ僕ノ旅ニ出テカラ大ニ歌ヨミニナツタ。亭主思ヒニナツタヤウダ。土曜日ニハ何ヲ措イテモ歸宅スル。桔梗ケ原ノ森林ハモウ寂シクナツタ。畠ノ粟モ刈ラレタ。十月五日夜           俊彦生

    光男樣臺下

 

       一四七 【十月十四日・端書 東筑摩郡廣丘村より 諏訪郡北山村 篠原圓太氏宛】

 

大に失敬いたし候アララギに貴詠と堀内詠なきは實に寂しく候黙坊君も如何にせしか左翁のと茂吉君のは傑作に(110)候千樫のもよく候小生のは多少成功のつもり只調が柔かすぎ候御苦言下され度候近來誰にも逢はず全くの一人生活に候それで本をよまぬには呆れ入り候

 

       一四八 【十月十七日・端書 東筑摩郡廣丘村より 埴科郡寺尾村 小沼清松氏宛】

 

返事相後れ申譯無之候拙歌御評おもしろく拜見いたし候「妻子らを遠くおき來て」の歌は尤も得意のつもり也余暇多きを却て寂しく感ずるの情と花ふみ遊ぶ寂しさとは見方も感想も異り居候二號の歌にて齋藤茂吉君のは尤も振ひ居り候左千夫翁のは勿論宜しく候千樫君のもよろしく候へ共ちと薄きやうに候

芋井村御旅行の由羨望いたし候御詠四首細かき難はあるやうなれど一通りよいと思はれ候多少誇張の傾きあるは此種の歌の通弊に候御返事のみ匆々

 

       一四九 【十月二十九日・封書 東筑摩郡廣丘村より 南安曇郡東穗高村 西澤本衛氏宛】

 

拜復此度の歌稿皆振ひ居り喜び入り申候君の歌は感じそのまゝを率直に素朴に歌ふが特長なれば感じに何かの興趣湧く時驚くべきものを生み申候從て課題の歌は適せぬやうに候強ひて作らんとする時平板になり候餘程興趣湧きても君のはむしろ平板に陷り易く候此度のも慾をいへば今少し平板に遠ざかり度かりき右愚見申上候御叱りなく願上候歌稿御返却申上候間御異存の點御申越下され度候天長節のにもおもしろいもの見え候青木湖行大に愉快なりしならんと想像致し候よき事を爲され候十一月中旬御出掛下され度候アララギ「羈烏」はよきつもりに候如何、胡君にも禿君にも光君にも逢はず桔梗ケ原の一人坊ツチに候 十月廿九日夜    柿生

    科野舍大兄

 

(111)       一五〇 【十一月十五日・端書 東筑摩郡廣丘村より 信濃諏訪郡上諏訪町片羽 牛山郡藏氏宛】

 

拜復度々御手紙下され深謝仕り候二十七日の日曜に參上可仕其際種々御話申度候御高志に甘え御申遣のテン丈け失敬仕り度願上候

師範問題にて大分賑ひはじめ候男二校の位なら長野に二校置く方勿論よろしく條上田など第一教育地に無之候一校論の勝利神かけて折り候矢じまの合格只々喜び入り候あれは我級の天才に候エライ男に候三澤病める由其後の樣子を知らず松本へは左團次來るべし羨しいだらう見に來たまへ 十一月十五日   柿の村人

 

       一五一 【十二月四日・封書 東筑摩郡廣丘村より 諏訪郡玉川村學校 小尾喜作氏宛】

 

拜復御書面ヲ見ルコト相後レ遺憾千萬ナリ貴書ハ昨日著キシモ全校休ミテ學校參觀ニ出掛ケシタメ知ラズニ居リキ今朝出校セシモ貴書ヲ見ルノ暇遑ナク晝飯ヲ日没後ニ食ヘルノ始末只今宿ニ歸リ夕飯ヲタベユツクリ貴書ヲ拜見セントシテ御文意ヲ一讀シ驚キ入リ申候早速飛ビ歸ラント思ヘドモ當校非常ノ繁忙期ニテ火水二日共父兄懇話會招集シアリテ手ガ拔ケズ八日ニ夜汽車デ下諏訪ヘ歸リ九日貴校訪問ノ上種々打合セテ古田ヘ行カント思ヒ候依テソレマデ病勢御監現下サレ度ソノ模樣デハ直ニ御發電下サレバ何ヲ措イテモ歸宅仕ルベクソレマデ第一學校ヲ休ムヤウ第二學校ヲ退クツモリニナル樣極力御勸告下サレ度老母一人ノ心配ニ候ヘバ何卒御盡力頼入リ候此手紙今夜態夫ニテ停車場ヘ飛バセルソノ後ノ模樣君カラ御知セ願上候匆々 四日七時半    久保田

    小尾兄侍史

 

       一五二 【十二月四日・封書 東筑摩郡廣丘村より 諏訪郡玉川村小學校 小尾喜作氏宛】

(112)拜啓過日は失禮いたし候今日父より來書「原醫師曰く咽喉部に異状ありたま/\充血す過日の血は肺の方では無いらしい」と申し越せり眞に然るや本人は喜びて居るやうなり一つ原君へ行き御確め被下度御苦勞願上候そして直ぐ御返事願上候序に過日顯微鏡の險査(痰)をせしか御糺し願上候以上用件

それから新年の歌(長野南信)二君で詠みて御送り被下度候二十三日頃に御送り願上候以上用事のみ匆々 十二月十九日午後三時        柿生

    石兄

 

(113) 明治四十三年

 

       一五三 【一月十五日・端書 下諏訪町より 松本市松本銀行 胡桃澤勘内氏宛】

 

賀状も差上げず失禮いたし候左翁の「眞面目の妻」心理的の深さはあれど已に型に入り候左翁に動ありて靜なし靜に人生を思ひ見るといふ情趣缺けたり惜しき事に候正月に入りて短篇もの作りアララギに出し置き候御笑見下され度候長塚君のも同君には古し二十三日遊びに來られぬか禿君と話して小生は十九日歸校

 

       一五四 【一月二十一日・封書 東筑摩郡廣丘村より 上諏訪町片羽 牛山郡藏氏宛】

 

過日借用願ひし十圓の利息は別に差上げ可申候右はがきにて一寸御返事下され度御手數願上候もしよければ二月何日頃參上すれば宜しきか是又願上候

今日又々雨と成り湖水心配に候氷切出來ねば高木邊のみにても大外れと思候當地雪深く道路未だ踏みぬけず困却いたし候一里餘の夜學分教場より歸り疲勞亂筆いたし申譯無之候先は用件のみ匆々敬具

  御令閨樣に宜しく

   ますらをの膝を折らしむるうつし世の黄金のみこと尊かりけり 呵々々々 一月廿一日  俊生

    天外大兄臺下


(114)       一五五 【一月二十二日・端書 東筑摩郡廣丘村より 諏訪郡北山村柏原 兩角國五郎氏宛】

 

君ノコトヲ忘レハセヌ君ノ作ラヌコトヲ惜シク思ツテ居ル一ツ奮發シテ三四十作ツテ見タマヘキツト何カヲ掟ヘ得ルト信ズル捉ヘ得ナンデモヨイヂヤナイカソンナニ勘定高ク歌ヲヨムコトハナイヨウマク出來ナイト思ツテヨメバ平來ダヨ今年中行事中一番氣樂ナ時ダラウ冬眠モソロ/\醒メルベキダヨ

       其二

僕ノ居ル處ハ桔梗ケ原ノ片隅見タヤウナ處ダ土地ガヤセテ林ガ多イ冬枯ノ曠野ニ一人デポツチリ坐ツテルノハ寂シイコトダ僕ハハジメテ靜寂ヲ味ヒ得タヤウダ靜寂ヲ味フノガ僕ノ今ノ慰藉ダー人デ坐スル時ハ夜一時デモ二時デモ樂シク起キテヰル今夜ヒヨツクリ思付テハガキ二枚書ク 一月二十二日夜

 

       一五六 【二月七日・封書 東筑摩郡廣丘村より 東筑摩郡島内村 望月光男氏宛】

 

大に失禮した大に具合よいと聞いて喜んでゐた歌をウンと送つたと聞いて大に喜んでゐたひまを見付けて訪はんとしていつも土曜日曜を家に歸つてしまふ誰にもこんな調子にして失敬してゐる桔梗ケ原は寂しい森林地である冬枯の桔梗ケ原は僕の心をすさまじくしてゐる荒寥な生活は時を經るに從つて僕の心の幾分を變化させたと見える僕は近來弧獨の生活を深く樂しむ夜洋燈の下で外を吹く風を聞いてるのが只うれしい人が來て話をしてゐれば十時頃から眠い一人で起きてゐれば一時二時になつても眠くない夫れで本をよむでもないたまに本をよむのも樂しみだが毎晩よむ氣にもならぬ田舍に住んで世間の刺撃を感ぜぬからである僕の近状は斯んな樣子である友人に對する興味の薄らいだのでは無い只今迄より多少變化した心が生じたのである君の事は常に考へてゐる胡君に逢へば直ぐ樣子を聞くそして元氣よいと聞き歌も作ると聞いて大に安心し喜んでゐ(115)るのだ君も此一年間に大に變化せねばならぬ筈だきつと變つてる堀内も非常に變つて來た變るうちは何とか方がつくと思つて嬉しいいつ迄しても變らぬやうな人には逢つてもおもしろくない大に逢ひ度い斯う書いて來れば愈逢ひ度い俗的な不平も一杯あるぞ

十二日午後小柳ノ湯で麻葉歌會をやるべく通知を今日書いた君は未だ來られぬか來れば實によい東京へ送つたといふ歌を持つて來て見せろ僕は近來盛々歌が難産になつた標準が高くなつた故と思ふ高慢の至りだが實際さうとしか思へぬアララギの歌大に氣に入らぬ小説も歌も今つと局面を開かねば困ると思ふ俳句も同上である俳句を一つウントやつて旗を飜してもよい碧梧桐では駄目である

  今日は之れだけ學校にて認む 二月七日        柿乃村人

    光兄臺下

 

       一五七 【二月九日・封書 東筑摩郡廣丘村より 諏訪郡北山村柏原區  兩角國五郎氏宛】

 

拜復久振リノ御手紙歡ビ入リ申候眼病ハ已ニ全ク御平癒ニヤトンダ災難セシモノカナ久シク作ラズニ居レバオツクーニナルコト自然ノコトニ候只歌テ作ルト云ツテモサウ勘定高ク作ルニハ及バズ作レバ必ヨイモノデナクチヤナラヌト相場ヲ高ク極メルト出テハ來ズ候相場ヲ安クスレバスラ/\ト自然ニ出テ來ルモノニ候高クスル必要モアレド同時ニ安クスル必要大ニアリ小生等モドウモ高クシテ困リ候從ツテ打算的ニ成リ申候アララギ出デ候ハヾ批評シテ志都兒ト君等トニ送リ可申御意見御申越下サレ度候選歌ノ標準ヲ今ツト高ムル必要ハ小生モ感ジ居リ候信州デ今一番進歩シテ居ルハ堀内卓造ニ候アレハ何時逢テモ少シヅツハ變化シ居リ候彼ノ作物ニハ御注意有之度候御返事のみ匆々 二月八日夜          俊彦生

    竹舟兄侍曹

(116)   冬枯の野にむく窓や夕ぐれの寒さ早かり日はてらしつつ

 

       一五八 【二月二十三日・端書 東筑摩郡廣丘村より 長野市長門町四十 櫻井一氏宛】

 

拜啓今夜貴稿拜見著眼大に宜しく優に群儕を拔けり斯の如き原稿に接するは實に愉快に候今迄御作りの文ありや猶今少し御示し下され度待上候はがきにて失敬 二月廿三日夜

 

       一五九 【二月二十五日・端書 廣丘村より 東筑摩郡島内村 望月光男氏宛】

 

   人目なく物うちかむるわが影の常にさむけき二十日まりの月

は大に宜しいと思ふ新しい上に感じがシツクリいつて居る新しいが感じのまとまらず且淺薄に陷るは「平瀬風」の缺點である

   更けさむの寢覺にかあらんいたはりの聲かくるさへ吾に寒けく

我が歸宅を父母などのいたはる聲を聞きつゝ起る感じであらう夫れには一二句はシツクリいかぬ

   さ夜床に足さし入れてのばし見るぬくもりのけも聊か殘れり

面白いが結句のあたりが不足してゐるやうだ、「け|も〔付○圏点〕」「|聊かのこれり〔付○圏点〕」今少し考ふべきだと思ふ

   厨べに物しむ音の耳に入り又寢る夜具は肩の寒けさ

|肩の寒けさ〔付○圏点〕の如き部分的な事をいつてはいかぬと思ふ(此處では)

   うとうととつかれのねむけさすほどに尿しほしく又さめにけり

   戸のすきの白みは月か朝あけか寒さしみ來もえりのほとりに

散文になつてゐる

(117)   物にうみうつつなくある心からゆたにありえぬ淋しき朝夕

斯樣な感じは面白いが矢張り感じにシツクリ合はぬ「淋しき朝夕」といふ感じが今つと全體にしみ渡つて居らねばならぬと思ふ

   上かわく庭の置石時雨さぶこのぬか降りの小まだらのよさ

新しいが詞が細かく働き過ぎて感じより形の方が強く感じるのが遺憾だ

   この見ゆる西の高山はだら衣とり著む春を戀しむ雨か つまらぬと思ふ

五日の歌會には來られぬか 二月廿五日            柿乃村人

近什

   わたつみの遠つ底ひに冷やかにとはに動かぬ水あるを思ふ

 

       一六〇 【三月二十三日・封書 信州東筑摩郡廣丘村より 朝鮮京城 矢島音次氏宛】

 

拜啓二度のはがき嬉しく拜見いたし候令閨同伴に非ざる由何だか寂しき感じいたし候何とかして同伴する譯に行かざるか故山萬里客心猶定まらざるの状遙かに想見いたされ候仕官の道として韓國が適當なるか否かを知らざれども道は荊棘の中にも求め得べし今囘の任を輕んぜざる御用心切望の至に候我等は衝動時代は已に經過せり有意義なる自覺を得んとする努力は樂しき努力なるを思ひ候小生は今の處に臨時止まるつもりいたし居り候田舍故金の工面にも讀書の工面にも都合宜しく候ソレデモ鹽尻峠一つ隔てゝ妻子と別居し居るはヘンな氣が致し候況や君に於てをや小生は昨年はじめて孤獨生活の寂しさを味ひ得申候これはヘンな趣味に候樂しく寂しく落著きて宜しく候枯野に對して一人居る時寂しくぅれしき心地いたし候夜の燈火もシンとして宜しく候妻子を思ふにも非ず思はぬにもあらず茫乎たる靜思に遊ぶはヲカシナものに候時々はがきにて宜しく御惠み下され度候右のみ匆々不宣