赤彦全集第8巻、岩波書店、874頁、2200円、1930.10.15(1969.12.20.再版)
書簡集
(1)目次
書簡集 前篇
明治三十年 五通……………………………………………………………七
明治三十一年 三通……………………………………………………………一〇
明治三十二年 八通……………………………………………………………一三
明治三十三年 五通………………………………………………………………一九
明治三十四年 四通………………………………………………………………二三
明治三十五年 二通………………………………………………………………二五
明治三十六年 四通………………………………………………………………二六
明治三十七年 六通………………………………………………………………二九
明治三十八年 九通…………………………………………………………………三二
明治三十九年 十一通………………………………………………………………三七
明治四十年 二十通………………………………………………………………四四
(2)明治四十一年 四十六通……………………………………………………六一
明治四十二年 二十九通……………………………………………………………九六
明治四十三年 十九通…………………………………………………………………一一三
明治四十四年 三十五通……………………………………………………………一二三
明治四十五年・大正元年 三十六通………………………………………一四四
大正二年 三十七通……………………………………………………………一六四
大正三年 十六通…………………………………………………………………一八九
書簡集後篇
大正三年 五十八通……………………………………………………………二〇一
大正四年 六十通…………………………………………………………………二三五
大正五年 六十七通……………………………………………………………二六九
大正六年 五十四通………………………………………………………………三〇五
大正七年 四十五通………………………………………………………………三二六
大正八年 九十八通………………………………………………………………三四六
(3)大正九年 百五通…………………………………………………………………三九四
大正十年 八十一通…………………………………………………………………四五〇
大正十一年 九十六通…………………………………………………………………四九〇
大正十二年 百三十通……………………………………………………………………五二九
大正十三年 百四十六通………………………………………………………………五九六
大正十四年 二百七十八通……………………………………………………………六五八
大正十五年 百二十五通…………………………………………………………………七七○
書簡集 索引……………………………………………………………………………………………八二一
年譜……………………………………………………………………………………………………………八五一
書簡集 前篇
(7)明治三十年
一 【八月七日・端書 堺市扇屋より 信濃國下水内郡外樣村.清水謹治氏宛】
七日七條の停車場に別るさはりなく名古屋に著けりや奈何父君の御病勢如何心配いたし居り候僕等は大阪を一通り見物し當堺市に來り醉茗君に面會し當旅宿に投じ申候明日は神戸泊のつもり也 八月七日夕 塚原
二 【八月九日・封書 廣島市吉川旅館より 長野縣下水内郡外樣村 清水謹治氏宛】
拜呈堺にて差上候書状御落手被下候哉否や本日は已に御歸省の御事と遠察いたし居候御尊父樣の御樣子いかゞ心痛罷在候
小生等は昨日は神戸より乘船せずして直ちに岡山まで直行いたし自由舍と申す旅舍につき申候室の綺麗その他今迄第一等と判じ申候實は人力でやり込んだで斷られなかつたかも知れず今朝は尾道の汽船にのり込むつもりにて自由舍に発著時間問ひ合せたる處午後二時と申したるにより今朝は樂つくり後樂園城跡市街を見物し尾道へは午後一時著仕候處汽船は矢張り一時何分の發にて小生等の港に走りたる際汽笛は波に響きて出發をはじめために殘念ながら當地まで直行と定め只今吉川旅館と申すに腕車をかり申候明日は是非汽船に乗り込まねばならぬと存居候最早早く福岡につきたく相成候
(8)願置き候電カハセの儀は振出人をば清水謹治受取人をば清水俊彦となし被下度こちらよりの電報も小生は清水俊彦にて發信可仕左樣御承知被下度十二三日には是非頼むつもり何分願上候福岡著の上種々御報知可致候御看病專一に存候 八月九日 大森 塚原
清水君
三 【八月十一日・封書 筑前福岡市萬町二十一番地篠崎方より 信濃國下水内郡外樣村 清水謹治氏宛】
拜呈堺、廣島より差上候書状御落手被下候御事と存候
昨日午前廣島兵營公園等遊覽仕候午後宇品に至りこゝより汽船龍田丸に乘り込申候船は頗る廣大のものにして長さ四十間にも達すとの話に有之候嚴島をへてはじめて瀬戸内の波浪に入る大小の島嶼起伏峙立風光の絶佳なる實に言盡し難く存候恰かも呉の海兵二十名ほど乘込み居り共に晩餐を喫しそれより各甲坂上に出でゝ天邊より襲ひ來る凉風に吹かれつゝ軍歌雜談等に快活なる月を眺め申候
今朝黎明門司著船は多少動搖したるも幸ひ吐瀉チヤルもやらず無難に渡航いたし候間御安心被下度候門司より二番にて當市に到着仕候處岡村氏は未だ來らず加之本尊の觀音樣たるべき篠崎君が未だ歸省し來らず只今の住所不明との事に吾人の想像の快も大に破損いたされ候
詮方なく篠崎君の家が旅舍なるを以て宿を頼み明日まで待ちそれにても來らねば(多分來らざらん)直ちに馬關にかへりて大森と別るゝ計畫なれど如何せん岡村氏來らざれば大森の旅費が大不足なるを、僕は岡山にて又々金嚢紛失したれば夫れ以來悉皆大森の腰にて旅行いたし居候へば大森は目下窮乏の體已むを得ず足下に過分の電報を打ち猶他にも打電したるの罪何卒々々惡しからず御赦し被下度候御家内中樣にも可然御わび申上被下度願上候猶これ以後の状況はその都度御報可申候僕は十四五日頃は須磨に過すつもりなればおそくも廿日頃には歸宅可致(9)候若し長野へ早く出ればゆる/\快談致さん乍末筆失禮御尊父樣はじめ皆々樣の御容體如何一同心配罷在候御子諏訪郡豐平村へあて御一報なし置き被下度候先は亂筆 八月十一日 伏龍
眼虎樣
四 【八月十三日・端書 福岡市萬町篠崎方より 信濃下水内郡外樣村四九番 清水謹治氏宛】
電爲替本朝正に落掌御心樓のほど實に感謝の外無之候然る處大森は旅行券下附相成らず已むを得ずかの朝鮮行は中止と致し候間右樣御承知被下度これより九州の夏をとふつもりとの事小生歸國すべし 八月十三日
五 【八月十七日・封書 尾張國名古屋停車場前一樓より 長野縣下水内郡外樣村四九番 清水謹治氏宛】
今日十二時名古屋著今夜八時夜行列車乘組明朝九時新橋ニ入ラム束京ニテ食策ノツキ次第早速歸郷ス可シ君ノ手紙ハ諏訪郡豐平村ヘアテテ出シテ呉レテ置キ玉ヘ僕ハ今只家ニ歸リテ君等同輩ヤ子供カラノ手紙ヲミルノミヲ樂ンデ居ル
名古屋停車場前ノ一樓ニアリ未ダ晝飯ヲ食ハズ空腹甚シ今夜夕飯ト共ニ一食ノ名義ニシテ經濟ヲハカルツモリ亦一興ナリ名古屋ガ持ツトカ持タレルトカイフ城ノ金ノサチホコモ見物イタシ候廣小路モ大阪神戸ヨリ入リ來リタル發生期(化學的ニイヘバ)ノ眼カラハ見モノトイフ程ニアラズ、モーイヤニナツタ早ク歸宅シタイ
今日ハ大垣ノ城ヲミタ中々ヨロシイ城ノ側ノ小學校カラ生徒ガ皆白帽ト袴デヤツテ出テクルヲミテ坐ロニ附屬ヲ思ヒ出シタ君長野ヘ出タラ何卒會ツテヨロシク奬勵シテヤツテ呉レ玉ヘアトノ手紙ハ故郷ヨリ以上 八月十七日午後三時三十二分
俊彦
清水君 几下
(10) 明治三十一年
六 【二月二十三日・封書 長野縣帥範學校より 諏訪郡豐平村高等學校 木川寅次郎氏宛】
拜啓諏訪地方も中々大雪の由新聞紙にて拜承仕候當市も已に一尺以上の積雪を見北越行の汽車は不通と相成申候極盛念會の模樣御しらせに預り面白く拜謁仕り候小生赴任の件に付ては諸君より存外の心配を煩はし誠に赤面のいたりに不堪〇〇〇〇兩氏の異見は或は對舊古田學區チカルを意味するやと考へられ候若し單にそれ丈けの意味とせば甚だ狹量にて又最も利己的非公共的無見識的の擧動と存候相共に教育の壇上に立て非を正し邪を排し善に進み道に就く豈に區々たる私情を挾む可けむや吾人は此の如き人を教へ此の如き人を覺醒せしめんと欲するや久し矣今の教育者一般に眼孔局小豆の如し吾人は國家のために今の教育なる者を憂ふ(中略)余は何處に赴任せんも教育の爲めに一臂を振はんとするは一なり只しかく有志多數諸君の勞を煩はすを思へば豈に奮勵努力する者なくて已まんや吾人が思ふ所實に只如此而已然りと雖も物各命數あり成否は餘程まで天に背く可らずこの際強ひて運動などなすも如何にや勿論小生よりは何等の運動などは成さざる可く考へ居り候(中略)金、日、兩曜毎に米人メツセス・スキヤツターに英語を學ぶ大に得る所あり亂筆誠に申譯無之御判讀被下度餘は後便可申上候 (アララギ赤彦追悼號所載)
(11)七 【四月三日・封書 池田(?)より 松本町(?)太田貞一氏宛】
放浪多年信濃地 所到山水都(テ)是詩 昨夜北窓愛兒別 今朝筑野帶霞過
去ル三十一日三澤ト共ニ車ヲカツテ松木ニ入リヌ途ニ君ガ寓ヲ尋ヌルニ在ラズ松本ニ君等一行ヲ探ス事數十分意ヲ得ズシテ又南安ニ向フ車上筑摩ノ連山ヲ顧眄シテ遙カニ翠巒ノ霞ヲ帶テ木曾ノ一方ニ消エ行クヲ望ム四阿山の暮色善光寺の晩鐘アヽ我レハソノ樂寰ニ四星霜ノ春夢チ破テ何處ノ空ニ一片ノ詩骨ヲヨセントスルヤ感慨ノ間ニ車ハ梓川ヲコエテ豐科ノ小邑ヲ過ギリ薄暮岡村ノ寓ヲ叩ク、カレ未ダアラズl二人即チ酒ヲ蒙リ快談高論夜已ニ十時ニ垂ントシテ相共ニイネントス忽然戸ヲ排シテ入リ來ル者アリ曰ク岡村千馬太ナリコヽニ於テ又酒ヲ置キ快談三時ニ及ブ翌余又ヅクヲヌカシテ池田町ニ入ラズ近郊ヲ逍遙シテ千里弧客ノ情ヲ慰ム翌則チ昨二日余一人飄然トシテ車ヲ池田ニカル岡村等ハ七貫村ノ於岡ヲサソヒテ余ニ合セントスルナリ薄暮三人ノ來會スルアリ松澤ニ打電ス返事ニ曰ク、ヅツウユケヌヲシム ト、コノ夜山本仁佐郎片セ榮次亦來テ快哉殆ンド夜ヲ徹セントス今朝雪降ル池田ノ古村枯木寒林滿眼坐ロニ寂寥ナリ三澤ハ岡村ト車ヲカツテ已ニ歸途ニ向ヒ余一人人見エヌ一室ニ降リ積ル雪ニ兒等ノ寫眞ヲナガメツヽ茫然トシテ夢ノ如キ空想ニ浮バサレツヽアリ。アヽ、長野ノ山、長野ノ兒等、我ハ何レノ日カカレラノ樂園ヲ忘レテコノ乾換無味ノ一古村ニ老イン、アヽ
矢じ太田高野宮田等ヨリ來信アリ九圍ノ弧城ニ援兵ヲ望ムノ感アリ多謝々々
春の海に注ぐ小川のかすみけり 鹽尻峠にて
桔梗ケ原ニ來ル
みねをいでて桔梗ケ原のひろきかな 筑摩七里は皆春の風
車かつて春の野行けば里つきて 電信柱日ななめなり
(12)朝行けば野におりてゐる雲雀かな
菜の花や背戸をいづれば雲雀なく
月影の城櫻遠くかすみけり 池田にて
北にきて何處やらさむし春の風 池田ニ人ル
尚消息をもらせ (アララギ赤彦追悼號所載)
八 【十月九日・封書 池田より 太田貞一氏と寄書 下水内郡飯山町眞宗寺 清水謹治氏宛】
拜啓太田醒め三澤と小生は未だ床の中にあり乍ら今筆を染め申候太田は相不變の赭顔にて小生は昔乍らの美男子にこれあり候池田にてうれしきものは小林と申す美少年と梅香亭の才三にこれあり候子供のトンマ顔には今でも一驚を喫し居り候小生の組には鼻が左眼の下にありて(むしろ)その左眠が萎へ居るものが有之候これは行年十五年に候子供は町中をドド逸やら俗曲やらを歌つて歩るき先生に行逢ふと頭を下け直ぐにその歌をつづけ申候今日はお祭りにて芝居も相撲も有之當地有名なる夜這ひをする女どもがそこらをねり行き玉ひ候
太田は一昨夜來大のろけの鼻下長にて今日も明日も流連可致候三澤と昨夜もシヨウトツ致し小生が賢明なる裁判を與へて收まり申候この手紙へは太田が眞面目顔なる手紙を書き候へ共それは大うそに候
只憐む市外一歩を出づれば秋風落莫三畦の黄波速く松本平の長風に動き愁人をしてそゞろに懷古の情に沈ましむるあるを、こんな手紙をかくも久し振りにて浮かれたる故と御免被下度候長野の子らからも一月許手紙が來ぬ
朝さむの枕擁して語りけり
以上 高のは東京に居り候か 十月九日 二水軒
清水樣 御侍史
(13)明治三十二年
九 【一月二十四日・封書 池田學校より 大町一番に北の端なる三井屋といふ旅宿屋方 市川多十氏宛】
啓今日は失敬いたし候今晩笠原校長の宅に至り君の事を談じ候處校長も是非それなら運動を始む可し付ては近日中に大町へ罷越し學校と其次ぎに郡役所へ行つて今年の新卒業を大町にやりその代りに市川をこつちに取るとかういふ都合にやる可しと一先づ決定候
それで其前に河野先生に一寸「池田に行かねばならぬ都合ある」由御申込有之候方よろしからむとこれは小生の考なり又それには松岡休職の事も校長にしれぬ先きの方貴公の得策ならん併しこれは一寸人が惡い話なり一切の事松澤によく相談して呉れよ 一月廿四日夜十一時三澤に別れて 二水軒
市川兄
一〇 【七月十一日・封書 北安曇郡社村田中の一つ家より 大町小學校 矢ケ崎榮次郎氏宛】
啓先日は待つて居たが一寸も來ない大失望薄井山崎來らんとすこの期に乘じていつか話した同志の會同を開け期日は北城神城の方より極めてよこすが至當ぢや吉澤新井にもさう云てやりぬ貴樣が盡力しろ今度日曜くるかこないか一報しろ、いつうかつからの話は何となつた一寸もわからぬ行くと云て居てもさう/\はづくが續かぬ田中(14)の一つ家がいかにも氣に合ふ紛々たる世事、騷ぐならうんとさわぐ馬鹿なこせ/\した事を我いつまでか關し得ん子供が可愛い其れのみが生命 七月十一日 二水軒
矢ケ崎大兄
一一 【七月二十三日・封書 池田より 大町學校 市川多十氏宛】
汝もし來らば先日忘れ置きし西洋手拭を持參せよたのむ
啓拒絶チカルに出でたるマスターの抗辯を流してさらに彼の弱所に乘ずこれ余が手腕の利敏なるに依らずんばあらず彼の件は略ぼ落著せり近日の内マスターより談判に行く筈併し誰にも|黙々たれ必ず黙々たれ〔付ごま圏点〕汝のマスにも大澤にも(コレハァル條件ノ蟄伏ヲ意味スレバナリ)
詳細は次便もしくは面晤にゆづるせくな/\八月中と念ぜよ 二十三日 二水拜
市川兄
一二 【八月二十八日・封書 池田會染尋常小學校より 廣津村北山 北城傳次郎氏宛】
謹啓承り候へば御令息傳君忽然長逝被致候由驚愕いたし候過般流行病に御かかりの由傳承仕候以來朝夕憂慮罷在候處追々快方に被爲向候由承り及び程なく御出校の御事と悦び居り候ひしに意外の御不幸かへす/”\も悲嘆の情に不堪候
天稟の御怜質六十餘人の生徒中特に傳君の將來には望を囑し居り候處不圖の御災難眞個落膽の外無之候歸校の途上中學校入學の事など語り合ひ明年は是非など小生も御勸め申候時斯く果敢なき御末期ならんとは思ひがけきや凜乎たる其容温乎たるその眼猶眼にあり思へば只夢の心地に候學問優等なる生徒は世間いくらも有之候人物高尚(15)にして後來の有望なる傳君の如くにして今日の凶聞ある實に浩嘆の至りに不堪小生も今年四月より受持の任にあたり只管級のの成績上進に盡力罷在候處圖らざる御訃聞眞個落膽仕り候
さるにても先般諏訪郡修學旅行の際などは非常の御健脚よそめよりも頼母存じ候ひしに近頃種々の御病氣御併發途にこの御末期に至りしこと殘念至極奉存候所詠の和歌甚だ拙劣に候へ共只だ微衷御諒察何卒御靈前へ御手向被下度候涙言
なれを見ぬ二十日のほどもながかりきいくよをかけて今はたのまむ
打笑みてかたりしことを今さらにゆめになさんと思ひかけきや
いとせめて夢路にだにもかよへかし天かけるてふ魂し殘らば
なきころとおもひつつ猶朝にはなが來しみちを眺めこそやれ
雲井まで名のりあぐべき音をすてて死出の山路に入るほととぎす
八月廿八日 久保田俊彦
北條傳次郎樣
一三 【十月二十八日・封書 池田驛より 大町 市川多十・松澤實藏氏宛】
天邊の明月に萬斛の愁思な寄す池田の古驛已に秋風なり天涯の孤客(むしろ)焉ぞ情に堪へんや我に病めるの父あり侍して醫藥をすすむる能はず我に信を通ずるの兒あり共に咫尺して舊を語るのすべなし諏訪湖の波は長へに動けども飯綱の原は舊によりて美しけれど老いたる人のよはひは年若き人の情は見よ時のまも變轉の軌道を急ぎつつあるに非ずや我に爲す可きの業あり我に企つ可きの計あり十年若かりせばといふ勿れ機は顛々累々として吾人の目前に轉べり何れにつき何れに憶ひ何れに行き何れに止まらむもし夫れ我に個人の生活を許さば社會がわが(16)身邊よりあらゆる同情あらゆる冷情凡ての顧※〔目+分〕凡ての干渉を取拂はば余は今直ちに滿腔の感謝をわが恩顧ありしこの社會と國家と部落と衆人とに遺して一葉の舟一襲の衣一竿の杖とによつて遠くかの蒼穹を友とせむ悲哉※〔さんずい+文〕々の俗流相應呼して穢臭を吾人の身邊に釀す三澤來らず穀清の二階あゝ只古人を友とせむのみ苦めるものに空想といふものを許せかし平ならざるものに狂態といふものを許せかし煩悶せるものに痴情といふものを許せかし之を如何と見る末世の象か亡國の兆か政界の事の如きは今更ら言はず噫それの國本を造る教育界の近時咄々之を如何と見る近く各所各種の學校に於て師弟間に紛攘事件の惹起頻々其現れたる形ちのみを輕々觀過すれば事や小なるに似たるも深く其由る所を究めんか寔に寒心すべく戰慄すべく恐れて懼れざるべからざる大惡因積重又積重仔細に探ぐれば日本國中處として之れが磅薄潜積せざるはなしそれの紛攘事件惹起や偶々或る動機の爲めに僅に其一端が暴露して外に見れたりと謂ふのみ憂ふべきは紛攘の惹起にあらず紛攘の起るは起るの日に起るにあらずして必ずや由て來る所あり只それ空行く月あり秋風白雪を驅て探夜滿天の白露を仰ぐときはしなく靈氣の悠然と相應ずるありて魂魄天の一方に彷徨ふ多謝す自然の大樂土あるを 二十八日夜 二水軒
市川兄 松澤兄
松澤君の病氣如何父病漸次快にむかふ土曜頃或は訪はむ
軒ごとにむしの鳴音となりにけり下駄音たえしうまやぢの月
氷うるかどは戸ざしてうら町の並木の柳秋風ぞ吹く
一四 【十二月六日・封書 池田町小學校より 常磐村小學校 松岡郡松氏宛】
長野にあること三日東都阿兄重病の報に接し惚※〔りっしんべん+空〕父と共に旅程に上る佐々木病院より失望せる最後の宣告を受け本月二日輿に侍して故郷に入る餘命素より久しからず看護終日猶時の足らざるを憾む咋五日夜地田に入り今日歳(17)晩の用意を終へ明朝又々故山に向はんとするに際し吉澤兄大患の報に接す嗚呼人生何ぞ悲慘の多きや眞に夢の如し
吉澤兄の病状如何我今日到底枕頭に至て慰藉するの遑なし願くば市川松澤諸同人と謀てあらゆる看護療法の道を盡くして呉れい吐血は眞の叶血か若く喀血か胃の叶血ならば充分の望みあり願くば胃の吐血ならんを切望す
時は嚴寒に入て重衾猶その寒を凌ぐに苦しむ病者看護者その勞誠に察するに堪へたり余が兄の病は素より望なし若し葬事速かならば今年再び北安にかへらん然れどもこれはアテにする能はず言を盡さず遺憾筆を收む 十二月六日午後三時 俊彦
松岡君 市川君 松澤君 池田人諸君
一五 【十二月十三日・封書 諏訪郡豐平村より 北安曇郡大町小學校 松澤實藏氏宛】
訃音を得て驚愕言の出づ可きなしあゝ生たるもの遂に死せざる可らざるか死するもの遂に又歸る事能はざるか長野旅舍の一室※〔りっしんべん+空〕※〔にんべん+總の旁〕として君と談じ余は直ちに束都に、君は直ちに郷に向へりしは思へば永き別れなりけん
あゝ我不幸今年何ぞ人と別るるの甚きや觀じ來ればこれが人生! 所詠願くは哀をたれよ
思へば北安乃至安筑縣下吉澤兄の思慮を要するもの幾何ぞやあゝ圖南の志遂に挫け囘天の意氣長へに地下の瞑々に歸す悲哉
へだてなき友が送りしふみをさへ疑ふばかり驚かれつつ
いひ出でん言葉もしらず涙のみまづ先立てて文をみしかな
そのまことその志いかばかり怨をのみて君や行きけん
おちつきて事にあたりし我友は只安らかにねむりましけん
(18)世の中に君が殘しし怨さへ聞かで別れしことを悲しむ
かくしつつ誰も行く可き道なれど一日さきだつ友をこそなげけ
病に侍しつつ 十三日 俊彦
謹で三兄の勞を謝す
一六 【十二月二十四日・封書 豐平村より 湖南村小學校 三澤精英氏宛】
拜啓今朝君の家を訪ひたれどもあらず咋雪を踏で故山に入る家に著くの前二時間兄已に不歸の人となり了りぬ人生は如斯のみあゝこんな世に誰れか久しからん
二十二日松本に入り岡村の父の死を弔ふ岡曰く我誠に三澤と同境遇に陷れりと而して汝等には我より知らせん事を頼めり正月同人相會して其面を見互に身の上話と世話話をせん事を望むと岡云へり汝意如何我と共に松本に入れ 十二月二十四日
(19)明治三十三年
一七 【三月二日・封書 北安曇郡池田町より 下伊那郡喬木村 城下清一氏宛】
甚しき久闊なりしかな君の病めるも仄に耳にせりしに未だ一囘の書を馳するなかりし罪許せかし
今や華燭の儀をあげ玉ふをきく何ぞ吉報を吾人に傳ふるの甚しき
詩作は近來やらぬ舊作少々送る身體大切新妻君に吸はるゝな以上 三月二日夜 二水
城下樣
落日故人情
人なき庭に佇みて ひとり思ひにしづむ時
かかるもうしや久方の 雲の旗手の天つ雁
人の世遠き雲井にも 吹かぬ隈なき秋風を
よわき翼につつみかね 鳴きても行くか天つ雁
旅より旅の身にあらば 汝も故郷に親やもつ
あはれはおなじ身の上を いたくななきそ天つ雁
(20) 悼教子溺死
川のべの殘りし衣に取りすがりひづち泣くらむちちははらはも
いとせめて取りすがりてもなげくべしからをだに見ぬ親ぞ悲しき
今よりは池田の道を立ちて眺めゐてながむとも子のかへらめや
悼教子死
大みねの山立別れゆく雲をなれにたぐへて見るぞかなしき
まり投げて遊べる庭にきのふ迄見えし姿はををしかりしを
秋風のことしはいかに身にしみて教の庭のさびしからまし
悼亡友吉澤兄
へだてなき友がおくりし文をさへ疑ふばかり驚かれつつ
世の中に君がのこしし怨さへ聞かで別れし事を悲む
かくしつつ誰も行くべき道なれど一日先立つ友をこそなげけ
悼兄死
願くは只やすらかに眠りませゆきけん魂に幸ありぬべく
さむしとも早やのたまはず新しきおくつき所雪はふれども
以上昨年に於ける余が日記中の物なりこれによりて余が近況をしれかし
一八 【三月十七日・封書 池田町學校より 神城村小學校 市川多十・荒井常一氏宛】
拜啓近状? 小生目下轉任(諏訪玉川)運動中
(21)家兄新に死して老父門によるの情我あらゆる名譽を犠牲とするに躊躇せずあゝ北安に入りて盡したるもの何事ぞ愧赧面冷汗啻ならず願くは公等僕をせむるに聲言の大にして功の添ふなかりしを以てする勿れあゝ二年! ユメ只夢! 成效は著々として歩を進め來れり而して今や君等に十五若くは廿圓の才覺を頼む我昨年銀行の借金三十圓を濟まして新に十五圓を生徒の父にかる月々の俸給は五圓ヅヽの月無盡に取られ本月迄は奈何ともするなし荒井兄は七月を以て當に東都に入らん兄の分は夫迄に返却すべし玉川學校へは家より通勤し得るを以て今より以往自ら前非を悔いて徐ろに救濟の策を講ずべし是非二人にて何うか方法をつけて呉れい今度去るには如何にするも三十圓を要するなり度々心配をかけて申譯なけれど何分頼む池田の地新に雪を得て四山又沈み我去るの頃は花もさくらむ 三月十七日 二水より
市川 荒井二兄
(返事まつ)
一八 【四月十日・封書 池田學校より 北城村尋常高等小學校 市川多十氏宛】
近況如何小穴去り新長未だ來凍らず而し内山内閣早く已に成る奇觀々々僕八分の光明を以て遠く將に諏訪に入らむとす何時かの依頼(金伍圓)直ちに送れ以下次便 ヘンマ 二水拜
一皮樣
二〇 【十二月四日・端書 玉川學校内より 湖南村小學校 三澤精英氏宛】
松本より歸來腦神經と心臓疲勞とに苦しめられつつあり今度の日曜貴兄を訪はむとせしも心進まざりき例の新聞の件は如何なりしか御一報あれ
(22) 二一 【十二月十七日・封書 諏訪郡玉川村小學校内より 松本大柳町工藤かる方 薄井秀一氏宛】
拜啓先月より腦神經衰弱の爲め學校も過半休み御手紙拜見せしも返事遲滯平に申譯無之候中學をやめ小學校へ出るとの事甚だ遺憾ならずや家庭の事情堂しても駄目なりや若しこゝ一二年凌ぎて連續在校するも到底永遠の見込なしとせば今の内に止めるも宜しからむ而らば余は來春師範入校を勸めまゐらせんとするもの也小學校などへ出てゐてこゝ數年は宜しからむも畢竟何をかせむ正式の準備を踏むに如かず然らずんば何か官費の學校を擇び玉へ銀行事務も面白かれど君には不向ならむか兎に角方向を誤らぬ樣漂流せぬ樣何か針路を設けて獨立獨行の覺悟を以て奮進すべし以上切に君に望む
〇作文教授ノ秘訣ハ猥リニ文語ヲ以テ生徒ヲ苦シメヌニアリ思想發表ハ作文ノ第一義ナリ生徒ヲシテ思想ノ殘ラズヲ遺憾ナク發表セシメンニハ文章ノ規則ヲ以テ苦シムル可ラズ口語ナラデハ發表出來ヌ所ハドシドシ口語ヲ用ヒシムベシ尋一ヨリ高四迄如斯豫備トシテハ談話ヲ上手ニ練習セシム可シソノ談話ノ通リヲ筆ニセシムレバ上手ノ作文デアル
三澤先生の令弟月島丸遭難中にあり三澤の住所諏訪郡湖南村小學校内
こんな具合でをる也小生の新體詩は今月発行の「文庫」より續載の筈也早々 夜十時 二水
うすゐ君
(23)明治三十四年
二二 【四月二十八日・端書 諏訪郡玉川村小學校より 伊那町箕輪屋方毎日新聞記者 三澤精英氏宛】
教育大會ニハ各郡氣風ノ批評ヲスル積ヂヤカラ上伊那ニ於ケル貴兄ノ批評眼ヲ充分ニ蓄ヘテ置テ呉レヨ (材料豐富ナラザル可ラズ)
幼兒を悼む
花は根にむくろは土にかへるなり
二三 【六月二十二日・端書 諏訪郡玉川村より 長野市旭町師範講習寄宿舍 小尾喜作氏宛】
過日は御祖父樣御死去の由御愁傷の事と奉察候月俸木外子の出長に托し候處折惡しく御歸省中にて空しく持歸りし由依てこちらより更に御送可申由に候印形は拙父預り忘れ居り候間直ちに御家迄屆けませう
二四 【十月十日・封書 諏訪郡玉川村より 長野市師範學校講習生 小尾喜作氏宛】
拜啓大に御無音致しました秋風わ今諏訪平一面お吹渡てゐる何處も豐年だので山浦にも芝居がボツボツある樣だ長野の景況如何玉川學校も今や氣焔萬丈だ全職員和諧一致協心同力熱心精勵斯の如くにして天下何物か成らざる(24)有らんや基本財産の二十年計畫年々二百圓づつ一萬圓以上を得べし十日より三ケ月間特別學級設置十五日より父兄懇話會十日夜濃飛育兒院生來校大繁昌々々々
長田君の金少し延して呉れい木外のも來月にまわして呉れい 七日夜 久保田
兩君
熱心眞面目の御勉強お望む
二五 【十一月十二日・端書 玉川村より 上諏訪町片羽町 三澤精英氏宛】
三澤兄足下 一週の休みお小泉園裡に消了したのわ大なる編纂事業があつた故だ已に其一半お終つたので來る十六日の土曜にわ早々出町する積だから必ず在宅あれ 久保田二水
石垣にかくる嵐や稻をこく
(25)明治三十五年
二六 【一月十四日・端書 高木より 上諏訪町片羽 三澤精英氏宛】
先日わ感謝寂寥に不堪何か雜誌お送るべし(小説ならば猶よからん)諏訪新報發刊次第直ちに下諏宛にて送るべし何でもよし(十九日山浦行) 十四日
二七 【五月十四日・端書 玉川村小泉園より 上諏訪町片羽 三澤精英氏宛】
拜讀今日義會長お訪うて勸めたが丁度農繁迚駄目との事意が向かぬものと見た
小生十三日より小泉園の單獨生活寂しいが併し勉強にわ持て來い出て來れ大森昨日歸るスワ新報出來次第送れ待つて居る 五月十四日夜十時五分 久保田山百合
(26)明治三十六年
二八 【四月八日・封書 玉川村小泉より 上諏訪小學校東舍 守屋喜七氏宛】
昨日から出校して居ります追々全快の方へ向-から決して案じて呉れるな肺病などにわ大丈夫成らないから安心せよ
一日千秋と云-が一別以來已に十二日になるど-しても淋しくて溜らない考えて見れば妙な動物で孤獨で生活する事わ堪えられぬ昨日久し振りで學校え出た時のうれしさよ併し君よ余おして衷心お披かしめよ君と三澤と吉田とに逢わねば眞に友に逢つた氣がせぬのだ余わ此の十二三日が實に淋しくて/\溜らないのであつた只床の申で「大國民」お見て三日間の鬱お忘れ得たのみだそして今一つうれしかつた事わ母が草餅を拵えて呉れた事だ
故郷の草餅を食ふ病かな
君よ余わ今婦人の心になつて居ると思-三澤が大阪え行くが切なかつた君の上伊那やら湖南やら上スワあたりで困却しつゝあるお思つても切なかつた馬鹿な話だ余の精神わ恐らくわ目下異状を呈しつゝあらんか余わ全體春お好まぬが切ない春お想像し得るとわチト困つた現象ならざらんや
更に聞け余わ昨日學校宿直室で藤村作小説「舊主人」およんで泣き出した今日職員室で薄暮迄讀んで頭がガンとして仕舞つた此手紙も恐らくわ何の事だか判じられぬかもしれぬ君の手紙の如く不得要領と思-
(27)君よ
○余のために十一日の午後お上スワに待つて居て呉れい余わ授業終らば駈足お以て矢ケ崎に下り腕車お驅つて上スワに至らん上の學校迄上る事わ疲れる仕業なれば下の校舍に居て呉れよそして極めてうまい物お食ひ度いイヤになるまでムダ話おして見たい余の滿心の希望只是れのみ必ず/\ダゾヨ-實わな-三澤樓上で鼎坐の話しお熱愛するがマーダメダ下の校舍でもよい山崎屋でもよい巴屋わ俗也鐵礦調わ俗色牡丹屋調わキザ也布半調惡しからず
〇上伊那郡役所より打電あり中村國穗不承知との事依つて芦部今朝高遠え向け出發せり多分日曜頃歸らん(コノ件上スワデ話すべし)是れわソノ位にして余の身體にも目下垢が非常になつた湯えも入り度い
〇平林の事大安心ヨカツタイザサラバ 八日
守屋兄侍史
遠方によき人去りぬ春の月
二九 【五月十四日・封書 玉川村小學校より 菅澤 河西音三郎氏宛】
先日わ失禮いたしました其當時一寸思い浮びませんでしたが當校に高等卒業生の補習科なるものがありますが御子息樣お之れにお入れなされてわ如何ですか學科わ算術國語地理理科歴史圖畫等其他ですが何れも小生が擔任して居りますさすれば其時間外に教育學其他の御教授お致しても宜しゆーございますお勸め申すでわありませんが御參考までに申上けます 五月十四日
三〇 【六月十九日・端書 下諏訪町高木より 北山村柏原 兩角福松氏宛】
(28)御地女子婚嫁年齢の平均その最若年最老年?(事情が分らば併せて)只今の處十年若くわ十年以上の昔の所二つ乍ら大體御聞き合わせの上御一報被下度乍御手數御通知願上候歌の消息も久しく聞かず淋しく存候 六月十九日
三一 【九月五日・封書 諏訪郡玉川村より 南佐久郡岸野小學校 森山藤一氏宛】
森山君足下
原稿うれしく拜見しました四號漸く出來五號の原稿わ十日に活版所にまわす事にせりど-も發行部數僅少にて高價になるのに閉口するがど-も仕方がない助長すべく盡力してくれ玉え他に何か原稿あらば十日前に送つて頂きたい
守屋兄からの申込わ小生もかねて承知して居る小生わ君が高しま學校の歡迎お容れて速に諏訪に入るべく大々的に希望するのである佐久の地實わ乾燥無味察するに君が情お慰する所以にあらざるべし諏訪の地今や諸同人の漸く集り會するあらんとして氣運猶全く昂るに至らず貴兄の來て大に奮發あらんお切望する所以也
君よ 生活わ人間一生の唯一大連鎖のたづきならずや一日の生活猶輕んず可らず一時一分皆同價値あり更に想え吾人わ如何なる生活に向て渇仰の首を擡ぐべきか吾人の生活わ情的ならんお望まざる可きか吾人の生活わ慰安的ならんお望む可からざるか共同的ならんお望む可らざるか向上的ならんお望む可らざるか松相倚る茲に颯々の天籟お聞くべし絃相鳴る茲に哭鬼の悲曲お聞くお得べし
足下よ 孤情お抱いて淺間山下の客心お傷むる我已にそのあまりに強きお思-加-るに守屋大森吉田諸君の君お思-切なるあり切に意お決して諏訪の天地お賑かすあらんお望む余の心斯の如し亂筆不盡 五日 二水生
汀川兄
(29)明治三十七年
三二 【六月八日・封書 上諏訪學校より 湖東村菅澤 河西省吾氏宛】
お手紙うれしく拜見中々大元來で勉強してゐるらしいな理科教科書わ誰にか聞いて置こ-教育學のことも小説なんかマーやめて置くべし大人になつてゆつくり讀めばよい交際問題日本今日の有樣でわダメなり小生わ高四受持なり此間霧ケ峯から鷲ケ峯に登れり今年の登山第二囘暑中にわ赤嶽えわ又々登るつもり秋わ釜無山なり
忙しくて歌も出來ず別に報ずべき事もなし
書物の事追々知らすべし 六月八日 久保田生
河西君
三三 【九月三日・封書 上諏訪西學校より 湖東村上菅澤 河西省吾氏宛】
御手紙うれしく拜見せりよく御勉強の由大賀大賀入學參考書大抵よろしいとの事それわそれでよいが油斷してわいかぬよい加減でも-大丈夫など早斷するのわ輕卒なり大丈夫と思つても猶細心密慮すべし
歴史でわ有賀長雄の帝哭史畧小生にあり地理でわ博文屋形の百科全書中なる帝哭地理(二三十錢)名わよく覺え居らず山上万次郎著の日本と外國との地理(30)等宜しかるべし數學お重入り勉強して行くべし算術不出來なればダメなり何も蚊もよく勉強すべし問題等にて出來ぬ者あらば申越すべし和歌にてよき本わ竹の里人撰歌集なり御用なら送るべし和歌の雜誌でわ「馬醉木」なり發行所本所區茅場町三丁目十八番地根岸短歌會定價十錢郵便一錢毎月一囘なり今月末頃來てわ如何よく/\勉強すべし 九月三日 久保田生
河西君
明日わ霧ケ峯に登るべし本年三囘目なり金なくてよき放行わ登山なり父上樣によろしく
三四 【十月二十五日・端書 上諏訪町より 平野村小井川小學校 森山藤一氏宛】
御手紙拜見仕り候小生近作一向に無之御恥かしく存じ候伊藤左千夫氏此の内に來遊のよしついてわ盛につばな會員の會合仕り度右につき一人一圓づゝ會費として御差出し相願度右わ先生の旅費の幾分と會合の會費全體お支辨せんとするものに候右御承諾の上小生迄御屆け被下度候也 十月廿五日
三五 【十一月十三日・封書 下諏訪町より 北山村湯川 篠原圓太氏宛】
御手紙拜見脚氣未だよろしからずとの御事困つた事に候まづ氣を永くして靜養するに如かず和歌などが丁度よろしからんと存じ候馬醉木久し振りで發判定めて貴兄等の玉什山積と思ひしに一向見當らず落膽せり何故なるかちと呑氣すぎると存じ候比牟呂も大怠慢なれど諸方から原稿集まらぬ故困り居り候澤山御寄送被下度待上候左千夫君來遊の日が確定せずきまれば云つてやるから車ででも御出かけ被下度候
小生わ去る日松本にまゐり太田君奇峯君三川君等に面會致し一昨日歸宅仕り候小生の詩集「湖上」を今度金色社から出す筈で已に原稿を送り置き候出版の上わ御批評被下度候尤も皆新體詩に有之候目下收穫にて御多忙ならん(31)かへす/”\も歌作御出精祈望に不堪先は右のみあなかしこ十三日 山百合
千洲兄 侍史
三六 【十二月二日・封書 下諏訪町高木より 東京府下澁谷陸軍病院 武居正義氏宛】
其後わ非常の御無音致しました大そ-快方に赴かれた御樣子を承りうれしく存じます當地わ已に數囘の降雪あり隨分寒くなりました別に異變もありません先日東京の根岸派和歌の先生伊藤左千夫氏來諏盛に和歌會お開きました木外君も別に變りなく玉川學校に出勤して居ります比牟呂も十二月初旬にわ出る筈ですから御送りいたします何か御高吟があらば御知らせ下さい家内中より宜しくと申出でました 十二月二日
三七 【十二月十七日・封書 信濃下諏訪町高木より 東京陸軍豫備病院氷川分院 久保田久吉氏宛】
拜啓承れば去月二十七日二百三高地戰爭にて御負傷十四日氷川分院御入院の由驚き入りました
戰地御出發間もない事故今囘の戰爭にわ加わらぬ事と存じ居りしに第一囘の戰爭に於てはからぬ御負傷定めて殘念の事と推察致します併し負傷中にてわ極めて輕些の方ならんかと存じますこれわまづ不幸中の幸と申すべきならむ去り乍ら折角御注意御療養一日も早く御輕快に向-樣呉々も祈り居ります先わ取あえず御見舞申上げます 十二月十七日
(32) 明治三十八年
三八 【四月五日・端書 信濃國諏訪郡上諏訪町西小學校より 高崎歩兵第十五聯隊補充大隊第五中隊 兩角福松氏宛】
拜啓愈々兵士とおなりの由承り隊名分らざりしため御無沙汰放し居り候
一時諏訪から君お失ふのわ打撃だが歌界のためにわ君が新しき經驗お得るお喜び候今日戰爭などお歌つてゐるもの皆平凡淺薄陳腐極まるのわ彼等が只想像の上にのみ馳せて實際の寫實がないからに候戰爭わ實に人間活劇の極致なり足下が身を挺して此の間に踏込むわ百千の駄歌お得るよりも優れり子規先生わ肺患お犯して迄も戰地に赴けり馬醉木の足立清知君の戰地詠お見てもその歌のいかに靈活の光お帶び居るかが分り申候小生等もかつて六週間現役兵で高崎に居り候早晩召集せらるゝ由傳承して實に雀躍待ち居る事に候死ぬ位わ物が咽につかえても死に候疊の上の怪我てふ事もあり候併し當分さぞ御苦勞の事だろ-深く御察し申上候
小生目下學期始めで俗務蝟集大忙しで歌も何も出來ず夜家に歸ればダラリとして筆も碌に執られずこんな事ぢや駄目と存じ居り候
東筑摩の胡桃澤君十五日來諏のよし十六日にわ歌會を催し度候兵營内の歌何でも珍らしき材料充實の事ならん故充分御把捉御遺漏なからんお切望す小生も十五日以後頃からわちと活動致すすべく候木外君わ豐平村下古田分教場勤務になり候諏訪教育界の俗物共の騷ぎイヤに成り候小生など他郡放逐の方餘程うれしく候北山村に○○○○お(33)置く如きわ北山村の大々的不名譽也 四月五日夜十時半認む
楊の戸兄
色鉛筆御使用わよすべし毒があるから
三九 【六月二十六日・端書 東京本郷三ノ十八東雲館より 信州東筑摩郡島内村 望月光男氏宛】
左千夫氏に面會今日大にブラツキ申候子規先生宅にも參り候東京でわ矢張小生共よりもケンキウして居る今日初雷天はる 六月廿六日
四〇 【九月十九日・封書 下の學校より 上の學校 田中一造氏宛】
此間はなした子規居士四囘忌わ放課後直ちにやつて早く歸宅し度いからそのつもりで直ぐ下つてくれ場所わみゆき(勸工場と仕立屋との間に狹い入口の家がある美由幾と書いてある)とするそこで待つて居るよ
十九日雨 久保田生
田中君
四一 【十月一日・封書 上諏訪町小學校より 南佐久郡臼田町島祐三方 河西省吾氏宛】
登淺間山歌十八首
シヤツかさね衣かさねてこの朝げ雨の淺間に登るべく出づ.雨の淺間わ窮したり
足引の山鳥の尾の長々し松原こえて川渡り行く 下句よろし
木鳥居の高きがいたくかたぶきてあやうくたてる下くぐり行く かたぶくといへば危きなど付くる必要なし「山(34)裾の茅生のかや原木鳥居のかたぶき立てる下くぐり行く」などせば面白からん
山そばのあやうき道に我立てば目下の谷に瀧かかるみゆ まづよし
木の葉かげかかれる瀧の名をとへばイチホヒの瀧と呼ぶといひけり 木の葉といへば大景に對すべきものにあらず全首何の巧もなし
赤き水と白き水とがなみてわくジヤボンの谷の源平の泉 よし、はしがきお要す
雨|がうつつめたき《そそぐ野中の》石に腰かけて|にぎりめしひらき《ほしひ食ひつつ(加筆)》霧の|行くをみる《せまるみる》
雨にぬれて|紅葉でんとする《うす紅葉する》向つ峰《を》の岩のはざまを霧はしり行く よし
しみ立ちのつがむら□《が》上に|さか《そぎ》だてる|岩のはざまを《千むらほついは 秀岩》霧はしり行く よき所を捉へたり
杖つきてのぼる坂路|けはし路《のつづら折》雨脊にとほり凍るが如し よし
丈ひくき落葉松立てる裾原|の《に》虎杖かれて秋さびにけり よし
燒け山の淺間の裾野草生ひずつめたき霧の|ただ〔付傍線〕はしり行くも《よろしからず》 下句わろし
まへかけの山のを長き燒石|原いふみさくみて《の石原さくみ》我が登り來し よし
天つ神のみ臼ひかすか今日の日を山なりひびき|山ふるふなり《み谷ふるふも》
淺間山の火を|ふく口のはたに《はく谷の岸に》立てば硫黄の氣くさく鼻つき來る 下句平凡なり
赤岩のさけ目ゆのぼる白きゆげは|あが脊をつつみ《風を時じみ》地をはひて行く よし
いただきのここにしてひろく國みまくほりせしかもよ|遂に《今日》みえずかも よし
故郷の山は遠みか故郷の山は遠みか見まくほりすも つまらぬ詞づかひ也
前のより大に進歩せり新しき境遇に立ちて觀察せるが故也事柄の面白きを捉えて詠む工夫常に必要也こまかきも(35)のにても常に怠らず觀察せば材料つくべからず試驗豫備中なればあまり凝り過ぎぬがよしそろ/\萬葉集でも見給ふべし御健康を祈る 十月一日 久保田生
河西君
四二 【十月廿三日・封書 山浦より 長野市縣町 三澤精英氏宛】
大御無音いたし候あや子さんの轉任説君の主張どの位の程度なりや十二月までとするも三月までとするも大した差わなし可成わ年度のかわりまで我慢出來ざるか又長野移轉ならば母君も同行の方世間え對して宜しからずやちと老婆心ながら一寸左樣思-一人して故郷に居るわ變ならずや冷靜に御考えあり度し
上諏訪も大森今井皆具合惡しく目下困却中也三月延期して貰えればよいが如何にや
實わ大森わ肺尖カタルとなれり大困却中也併し岩垂五味等にわ目下一先づ秘し居り方策考案中誠に弱り居れり御返事おまつ 二十三日夜山浦にて 俊彦
三澤兄
四三 【十月三十日・封書 下諏訪町より 中洲村神宮司 笠原常次・笠原田鶴氏宛】
拜啓昨日男子御出生御兩人健全との事大安心のいたりに存じ候早速參上いたすべきの處用事のため兩三日延引可致惡しからず御承知被下度候
萬事注意清潔靜肅を旨とし産蓐熱等の患なき樣千望いたし候先は御祝のみ匆々 十月卅日
四四 【十一月六日・封書 信州上諏訪町より 東京京橋區銀座四丁目四番地松本樂器合資會社 米久保喜雄氏宛】
(36)益々御清適奉賀候當分の處よき口なく專科わ事局にて見合せの處多く頗る困難の事と存じ候猶他の方面にても精々御依頼可然と存上候小生數日中に松本に遊ぶつもりに候少々繁忙につき右のみ申上候也 十一月六日 俊
米窪兄
四五 【十二月十六日・端書 上諏訪町小學校より 北山村柏原 兩角國五郎・兩角珂堂氏宛】
御無音失敬々々其後如何に候か馬醉木に今度出なんだから何だか淋しかつたちと奮發すべし過日蕨氏來遊のときわ君等が上諏訪に居たそ-な、なぜ小生に知らせなんだ實に殘念だその際の歌會にわ森山君と三人のみなり課題犬夜柚子三首位づつ小生に宛てて送つてくれ玉え二月のアシビに出すから、一月七日甲州御嶽山上で根岸歌會をひらくから今より御用意大擧出陣あり度し 十二月十五日夜一時
柳の戸君の消そく如何
四六 【十二月二十五日・封書 高木より 下諏訪小學校 森山藤一氏宛】
拜啓先日話した甲州御嶽山上根岸歌會の件左翁も賛成して成立した會日わ正月七日也
諏訪でわこ-しよ-と思-柳の戸が歸つたからその歡迎會お正月五日上諏訪穀屋にひらき(正午から)六日打揃つて米倉に一泊しこゝで東京連と會し七日登上する貴意如何御返事を待つ吉田有賀小林諸君にも云つてやつた五日の穀屋會わ別に云つてやらぬから必來てくれ給へ 十二月廿五日 久保田生
汀川君
(37)明治三十九年
四七 【三月八日・封書 上諏訪小學校より 松本町高等女學校 太田貞一氏宛】
過日わ御迷惑願上げ奉謝候此後も煩雜の事多かるべきも何分願上候横田氏の早速なる承諾三輪玄のために欣喜に堪えず候咋日三輪父君と相談左の如くに決定いたし候間何分願上候
一、ヒザカナ(日肴の意か? 諏訪の方言か、君の所謂手〆と同樣なるべし)を交換すべく良日を擇んで構田家に豫告し當日左のものを三輪|半《ナカバ》(父の名)名にて横田家に持參の事
金一圓 御酒料として
金十錢 するめ料として
右二包君が包んで持つて行つて呉れ
二、三輪家でわ日の吉凶を更に云わぬから先方で三輪家によこすヒザカナの日わ先方の勝手たる事
三、結納わ諏訪地方でわ結婚日少し前に嫁の方に贈る事になつている、不都合なくば今少し後日になりて贈らんと思う事
四、日肴終り次第結婚日等巨細の事について協議する事(これわ君だけ承知していて呉れゝば宜しいのだ)
五、横田父君の名前を手紙の序に君から知らせて貰い度い事
(38)六、先日君の手紙に横田ゆきと書いてあつたが三輪家で貰うのわ横田とよなり多分君の手紙の間違ならんが猶確め度き事(即ち姉の方を貰う也)
そこで二包の金員〆て一圓十錢わ三輪家で小生によこすと云つたが考えて見れば些少の金をかわせにても面倒なり何れ横田からも同樣君に依頼するだろ-からその金を君が受取つて三輪家の金を小生が受取つて差引にするが便利ならんその差額わ何れ又小生から差上けるから差當り金一圓十錢だけわ君が出越して包んでやつてくれそ-云うに頼む日肴終り次第一寸御通知下され度右用件のみ申上候也(アララギ赤彦追悼號所載)
四八 【六月十五日・封書 上諏訪町より 長野師範學校第二東舍 河西省吾氏宛】
拜啓愚女肺炎にて看病のため返事相後れ申譯無之候中々盛に活動している御樣子賀し上げ候學校授業だけわ眞面目に勉強しあまり不成績をとらぬ樣にした上盛に御活動のほど祈上候種々の方面え遠足なされ候樣御すゝめ申上候野尻湖遠足の際の御歌大に進境を認め候つまり寫實だから他に得られぬ面白さが有之候只觀察を今少し精密にせば更に佳作を得たるべしと存じ候別紙御詠草御返し申上候間御一覽被下度候
十六七日信濃教育會には三宅雄次郎先生來席のよし演説の巧拙に關らず必ず御聽可有之候小生も今囘は出長せんと思いしも子供病氣にてその意を得ず殘念に存じ候舍監が氣に入らぬなど決して御奮慨有之べからず只眞面目に勉強すればよい黙つている人間がえらいと存じ候先わ御返事まで早々不一 六月十五日 久保田生
子供病氣は最早よろしく候間御安心被下度候
河西君
四九 【六月十九日・封書 下諏訪町高木より 長野市 三澤精英氏宛】
(39)拜啓出長出來ざりし遺憾御洞察被下度候三宅先生の演説果して傾聽すべし名譽心を大にせよ赤裸々で奮闘せよの警醒わ先生としてわ珍しからずと雖も紛々たる教育者にわ最も適中している大賛成の敬意を表する所以也
扨かねて閑を見て書き染め置き候「子供のしつけ」目下積りて三四十枚以上と成り居り候山田肇君に出版せよとすゝめしも原稿少な過ぐとて應ぜず貴新聞に連載せば優に十數日若くわ二十日に亙るの講談と相成るべく行文わつとめて平俗に致し置き候へば普通人に充分領會いたさるべく章わ、はしがき、しつけの目あて、獨立心の一、獨立心の二、健康衣服、その他賞罰、家族の一致、玩具、子守の選擇、禮義の僞り等十章位に相成り居り候はじめの方わかつて君に見せた事と存じ候右原稿貴新聞で採用多少の原稿料を支出いたすまじくや(五圓以上)御返事被下度候變挺な経文なれど是迄仕上げるには隨分骨を折り候へば多少の報酬を要求しても不都合なかるべきか見込ありそ-ならば一應右原稿御覽に入るべし
小兒大によろしく候間御安心被下度候一時わ大心配ために小生も腦をわろくし胃病をおこし目下服藥中也今年は祖父病死長男ヂフチリヤ兼眼病次男ジフテリヤ耳下腺炎で危く愚妻もヂフテリヤ傳染今度わ長女肺炎何れも平凡ならざる病氣大閉口いたし候前半年で打どめにして後半年を景氣にし度く候先わ用件のみ早々不一
六月十九日 俊生
三澤兄
五〇 【六月二十八日・封書 下諏訪町高木より 長野市西後町 三澤精英氏宛】
過日の長手紙慥に拜見いたし候「赤裸々になつて話し度い」小生と雖も多くこの境遇にあり守屋去り三澤去りたる諏訪の寂寥御察し可被下候守屋わ二泊して歸宅いたし候案外強健の體を見て欣喜いたし候二泊の快談近來の傑出に候
(40)小生の子供全く快復いたし候間御安心被下度候承れば御出産近きにあらんとの事隨分御攝養專一になさるべく候産前の思は父親の方が苦しいものゝ由也
別紙原稿貴意にまかせ至急御送申上候今日山浦より歸り貴書拜見直ちに着手多少訂正して差上げ申候増補中男女の平等差別わ尤も詳密にして光輝可有之と信じ候著手すれば早いが今夜の間にわ合わぬ御採用とあれば直ちに始むべく候振假名も御返稿被下候はゞ附けて上ぐべく候併し苦しい思をして採用する勿れ決して強賣わせぬよ勝手にすべし 六月廿八日夜 久保田生
三澤兄
明早朝登山歸途餅屋一泊の豫定
五一 【八月十一日・封書 下諏訪町より 豐平村下古田 塚原葦穗氏宛】
拜啓熱心誠實なる御手紙拜見嬉しく存じ候充分の責任を自覺して事に當る何事もその覺悟次第で出來るものと信じ候足下已に牢乎動すべからざるの決心あり只勇猛に進行すべし小生も商船の方は全く賛成を表すべく候大活動は常に細心の用意を伴ふ事を御承知あるか大成功は常に細微なる秩序に伴ふ事を御承知あるか
足下日日の定課あるか 足下日日の自省あるか
眼病の全治策如何商船校に再度失敗せばその後の針路如何と思慮しつつありや何事も遺漏ある考は駄目なり眞面目に考量せよ父母につき一家につき瑞穗につき細かに觀察し細かに考へよ右當用のみ申上げ置き候小生大に輕快御安心ある樣母上にも申上ぐべし此内に行く佐倉兄上具合よく父上直に御歸國のよし大賀々々小生も非常によいから十六日頃參上すると御傳言を乞ふ 八月十一日 俊生
(41)五二 【八月十二日・端書 下諏訪町より 北山村湯川 篠原圓太氏宛】
腦病先づほとんど快復いたし候間御安心被下度候此内に御來訪との事已屈指待上候御出での節わ一寸御しらせ置き被下度候小生今小説製作中なり君が來たら見せるよ早く來たまえ 八月十二日夕
五三 【九月一日・端書 千葉町より 信州上諏訪小學学職員宛】
又々學校を願い恐入り候兄昨日死去につき一週間位は出られぬよろしくお願い 九月一日
五四 【九月八日・封書 信州諏訪郡豐平村塚原方より 東京神田駿河壹西紅梅町一〇 濱かつ子氏宛】
眞情こもれる手紙拜見大へんうれしく思いました小生わ去月三十一日千葉町の病院に居る兄が危篤との電報に接しその夜直に夜行列車にて上京兩國橋から乘車午前中に千葉に著きました兄わ小生の出發頃死去しましたから遂に生前の面晤が出來ませんでした以後兄の任地なる佐倉町に滯在して殘務を處理し五日午後漸く歸國して御手紙を拜見しました御手紙を拜見した時わ非常に嬉しかつた眞情のこもつた文字わ人を泣かせる昨日葬儀終了今日少閑を見て此手紙を書きます今年わ三囘上京しました第一囘わ帶川君の發病入院のため第二囘わ帶川君死去のため第三囘わ兄死去のためと斯くの如き不幸な上京で誠に話しにも成りません御心配下さる如く小生も今年わ家族五人の病氣友の死去兄の死去で全く弱りました併し御來示の如く充分注意して元氣を落しませんから御安心下さい身體を惡くしてわ萬事休すだからあなたも充分御注意然るべしと思います御尊父樣はじめ御同胞にて一家を御形成のよし如何ばかりの樂しみかと存じますまつ樣せん樣にもよろしく御傳言下さいちせさんにも同樣願いますちせさんの番地を忘れたから手紙を下さいと御傳へ下さい今度の夏休にわ一度ユツクリあなたとちせさんと話し度(42)く思いました處何や蚊やでその機なく殘念でした先わ右のみ早々 九月八日 久保田生
野の草花稻ふく風故郷わもう秋の景氣です人は逝き秋は來る斯の如し
五五 【十二月十二日・封書 上諏訪町より 長地學校 矢崎作右衛門氏宛】
拜啓湖岸の冬枯そろ/\山國の眞相を發揮し來り諏訪の趣味漸く吾曹の感興を惹かんとす湖水の色わ初冬に於て眞に深碧也湖岸の樹木わ冬に於て眞に山國的也
下筋の金扱業者も冬の湖畔を通る時わ寒そ-也貧相也百千の烟突も冬の鹽尻颪に逢つてわ寒國的風骨に化せざる能わず是故に諏訪湖の眞趣味わ冬に於て最もよく山國的の發揮を存すと云ふ也
次に要件を申上げ候それは數年前から君を上諏訪學校に欲しいといふ望わ連續しているのだが今度は斷じて承諾して貰い度いのだ色々六ケ敷い事わ拔きにして只僕は君の來校を切望するのだ君の長地村に居た三年は全く君の犠牲的時期であつたと考へる(失敬だが)も-動いても不都合なしと思-今度わ問題を六ケ敷くせずして全く僕等の學校え來ると決心して呉れたまえ僕は只君を望む情の切なるを披瀝し君が吾人の情を諒とし斷然來て呉れんを望むと云ふより外長く書いてもドーモ同じ事を繰返すに過ぎぬ今出來れば猶よいが(一日早ければ一日丈け有難い)來年三月わ是非そ-して頂き度い右至望に堪えず御熟考を切望す以上不盡 しはす十二日
五六 【十二月十三日・封書 上諏訪町より 北山村 篠原圓太氏宛】
今年中には出向かぬとの事情けなし併し小生も例の繁忙で作歌に懶し之れも致方なし蕨氏大に快復いくら金をかけてもよいから來春大々的に歡喜號を出すと云つてる由大慶至極と歡喜いたし候アシビわ内容主もに伊藤氏がやつて居れども之れが維持は蕨、長塚二氏とありて確實なる生命を得て居るのだから單にアシビの運命から云つて(43)も蕨氏の快復歡呼いたすべき也
貴稿一通り拜見愚見相加へ御返却申上候折角御年越遊ばされ候樣祈上候也 十二月十三日 久保田柿生
篠原兄
湖ノ風氷魚賣ル軒を吹キナラス
新年會ヲ上スワニ開イテハ如何
五七 【十二月二十一日・封書 信州上諏訪町より 東京下谷區西黒門町二十二前田方 平福百穗氏宛】
度々御手紙下され有難く拜見仕り候諏訪の風物冬に入つて益々蕭條たり前の平野彼の丘陵白斑に冬木の群わ骨の如く此の間に參差す
冬木立透いて見らるる湖水かな
(44) 明治四十年
五八 【一月九日・封書 下諏訪町高木より 下諏訪町小湯の上 矢崎作右衛門氏宛】
※〔羊の字の古体〕羊の年の出立わ何だか豐かな感じがする先づ以て改暦の御祝を申上げる昨冬の御返書慥に拜見しました僕の方でわ只君を見込んでたつてお願い致し度いと云ふより外何等の理由なし未熟云々の言甚だ意に滿たぬ全熟した人が社會に何人ありや諏訪の教員に何人ありや未熟なるが故にお互に胸襟お披いて斯の道に進む侶伴を求むるのだ氣の合つた同行者を求むるのだど-か僕等が君に望む所以お御了解願い度い
「村長に叱られそ-」の貴意御尤もなり村長の君を信任している事初めよりよく僕の知る處併乍ら誰が學校を出るにしても苟も普通以下ならざる限り村長にも校長にも叱られる事と思-村長に叱られるのわ轉任に對する普通事のみど-か御決意お願い度し
僕わ更らに改めて君の御来來任を切望する我校の尋常科に君の居らん事を切望する幾多の諏訪郡の教員中特に君の御來任を切望する(お世辭とする勿れ)之れ二三年前より我校の希望なり手紙のみで坐ながら斯の言を作す甚だ意お得ぬが又手紙を上げるのだ
斷乎御決意を願います 一月九日夜十一時半
(45)矢崎君
村長とても上スワに行くのを止める譯にわ行くまい(失禮の言葉だが)
僕わ冬の中上スワに止宿する
五九 【二月十四日・封書 下諏訪町高木より 下諏訪町小湯の上 矢崎作右衛門氏宛】
拜啓例の件宮下にわあの後直ぐ申出で置けり
昨日小口村長來訪是非中止して呉れよとの意なりしも絶對的拒絶せりむしろ貴村としてわ善後策を取るの優れるに如かずと申置き候此の上わ君から大島に宛て及び郡視學に宛て是非出し呉れよとの意頻繁に御申出下され度小生方よりも頻繁に宮下に交渉すべく候之れより外成功の策なし右何分願入候猶之れに對する大島氏の態度おも御一報願上候撥表した上わ急撃肝要と存じ候
先わ右のみ早々 二月十四日 久保田生
矢崎君
小學数員とわ何ぞや岡谷お見よ原お見よ諏訪の平に蠢々たる小學校舍お見よイヤニモナルヨ之れわ別問題也
六〇 【三月二十一日・封書 下諏訪町高木より 長野市後町 三澤精英氏宛】
謹啓御手紙拜見事情明了安心いたしました西村の去りたるは實に悲しむべきだ落たんのいたりだ、だが小學教員威張れる丈け威張つた處如何程でもないせん方ない泣寢入りをつゞける小人跋扈は今つと激烈になつてもよい改革の聲は斯の如くにして天の一方より來らん
伊勢旅行京阪巡遊羨しさに堪へぬこんな時が骨延ばしだウンとやつて來べし大垣の柘植《ツゲ》潮音(子規の直參歌人)(46)氏は未見なれど未通信なれど小生の事をよく賛めてる人ださうな雜誌「馬醉木」上でも顔を合せてるからよく分つてる彼人を尋ねられたし伊勢の桃澤茂春已に死し備中に赤木格堂雌伏せり餘り遠くてだめならん京阪の地一人の同志者なしこれ根岸派の根岸派たる所以か京都大學の文學科(?)に池田の勝山氏未だ在學か大覺寺近邊に杷栗も居るならん紳戸市小學に笠原徳十君あり大阪東區高木小學校長に小松武平(舊笹岡)君あり逢つたら御無沙汰を謝して呉れ玉へ福井市師範に四賀村の北澤種一君あり
小生は四月老父を伴ひて甲府から御嶽見物に行くつもり小旅行と雖も希望温き豫定なり小生の豫定は斯の如し先は御返事のみ匆々 廿一日夜 久保田生
背山兄
お手紙うれしく拜見いたしました去年の旅行は實に樂しくありました御家庭の温かさに歡喜の情を催しました子供の世話學校の仕事御辛苦さこそと深く御同情申上げます守屋去り背山君去りたる諏訪の寂寞に一人身を置く苦しさを御推察願ひます併し今日では平氣の平左ですそのために心を傷め身を害ふ樣な事はせぬつもりですお庭の柿が冬枯れになつて雪見燈籠に雪が積るでせう御大切に三七君もみささんも
あや子樣 廿一日夜 俊生
三輪ます子さんも愈々生れさうです
六一 【四月三十日・封書 下諏訪町高木より 長野市縣町 三澤精英氏宛】
歌日記 柿乃村人
三月卅一日雪降る
夕暮ゆ雪となりたる春の雨の雫滴る黄梅の上に
(47)梅の花咲くは未だししかれども福壽草散り黄梅比良久
四月十四日家に籠る久し振りの閑散無事なり
草いほの庭のかくみに錦木の百株千株植ゑなんとおもふ
我やどの二反の畠の桑を刈りて百羽の※〔鷄の鳥が隹〕を放たんと思ふ
四月十八日梅已に開きたるに諏訪の湖風北西より吹きつけて寒し
湖つ風西吹きあぐる岡の上の高木磯村梅さきにけり
湖津風ふたたび寒み梅さける磯の藁屋に氷柱垂りたり
四月三十日櫻散り桃咲く
高木人種おろし立つ田のくろのカリンの低木若芽のぴたり
注意して靜かによんでくれ給へ
別所温泉からの御手紙拜見いたし候當時小生實父を伴ひて遊びに出て居り御返事差上げず申譯無之候
扨小生は數年來色々考へてゐるが全然文學を以て身を立つる(?)が行く/\の方針として適當かと愚按いたし候
教育者も面白いがそれ以上に文學と小生は縁の深い樣考へられ候併し急に文學專門と參り候とも食はねばならぬといふ問題あり左樣に早速には參り難し小生も徐々に方策をめぐらす心得に候「人間は一生なり」といふ事が眞面目に熱心に今小生の心頭に念ぜられて居る小生は一生を少くも馬鹿らしく暮し度くない惜しい一生だから一日と雖も馬鹿らしく暮す譯に行かぬ理窟は單純でも陳腐でも目今小生には最も眞面目の問題に候
小生は今迄馬醉木といふ一雜誌以外に自作を發表した事なし併し今後追々各方面に發表の素地を作るつもり也信州の文壇は勿論東京の新聞社雜誌社に手を延さんと考へ居り候貴新聞へは毎月二三囘づつ掲載相願度今少し經過したら貴新聞の歌壇を貰ひ受けんかとも存じ居り候御許しなくばそれ迄也
(48)右貴兄だけ(守屋君にも三村君にも誰にも少しの間御發表無之やう願上候)へ申上候別紙可然御取計願上候
四月卅日 俊生
三澤大兄机下
君だけに心中を申上けるのだ話さずに置いてくれたまへ
六二 【六月廿七日・封書 下諏訪町高木より 東筑摩郡島内村 胡桃澤勘内・望月光男氏宛】
一昨夜左翁と共に歸宅昨日左翁を送りて上スワ停車場に行きはからず志都兒君に逢ひ共に布半一泊今夜相別れ申候左翁一週間の豫定が二週間となり急ぎ候ため松本へはダメと相成遺憾存じ候
岐蘇旅行は餘程面白く有之候岐蘇の風景に接せんとせば南木曾に行くべく人情に接せんとするものは北木曾を訪はざるべからず南北の分界は福島なりと存じ候山のこせつかずして水の清冽日本無双なる樹木森林の無盡藏なるこの三者の特徴が木曾の風景を作つて居り申候もしそれ木曾の人々に至つては敦の敦なるもの今世に於て他に多く接し難し藪原少女我が爲に檜笠の緒をすげてくれ茣蓙を著せてくれたるから始よつて隨分記憶を打つものあり況や連日の雨岐蘇路に入つて新に霽れ旅情の殊に爽快を助けたるがあるに於てをや歌は近々作り可申候
三澤君の事少しも誤解いたさず候過日三澤に逢ひし際長塚といふ人來りしも逢ふこと能はず氣の毒の事したりと申居り候新聞社の方にて約束の時間まで待ち居りしも來らず仕方なしと申居り候尤も三澤といふ男隨分氣儘者故あてにはならず候併し長塚君の所用は辨じたればなに不都合なからむと左翁も申し居り候御安心可有之候神經衰弱は遠足散歩に限る旅行に限る家居してグヅ/\思ふ事尤も不可也ウマキ者を食ひ運動をするが第一と存じ候君のおひまの頃一度出松共に淺間にでも會すべく候
うまき謌を作らんなど苦心し玉ふな感情を養ひ置けば何時か自然に湧き出づべしイラ立ちても何の效なし人生ハ(49)短イケレドモ長イヨ
望月君病氣如何小生よりは大に御疎音申譯無之候矢張呑氣に御療養專一に思ひ候精神療法と云ふ事あり醫藥の如きは第二のもの也煩悶大禁物也強大なる意志を以てすれば正岡先生の病躯猶七年を支へしに非ずや君の如きは心《シン》(眞底からの勇猛心)から大勇猛を振起せば病氣の如きは自然消滅なり僕の病氣が害ヲナサヌは多少この般の消息を存すと自信いたし居り候今日午後歸宅今夜久振にて少閑つまらぬ事書きつらね申上候也 六月廿六日夜 柿生
二兄
六三 【七月二日・端書 下諏訪町高木より 東筑摩都鳥内村 望月光男氏宛】
撫子の花のはたけに立ちたりし君は消えずも花さくかぎり
至情と詞と共に隨一なりと拜見いたし候左翁と大に談じて愉快に有益に有之き小生の木曾行も長野新聞に出すべし御一覽下され度候也近來の起居如何御自愛を折る 七月二日
六四 【七月九日・端書 下諏訪町より 東筑摩都鳥内村 望月光男氏宛】
八日「日本」若葉貴作拜見せり
若葉風凉しき岸のつなぎ舟漕ぎて見ましを人も居らぬかも
は非常によい傑出の作だ
「□《不明》倉の山田のくろの柿葉」は比較的遠くから見た景だ「蛙どよめり」は比較的近い調和せぬかと思ふ 七月九日
六五 【八月十日・端書 信州下諏訪町より 東京小石川區春日町須田病院 兩角國五郎氏宛】
(50)御負傷の事は一日に紫水明より聞いた住所が分らぬので手紙が出せぬ紫水明から今知らせて來たから此端書を出す大分快方との事欣喜に堪へぬ暑中東京での入院定めて退屈の事だらう辛棒を望む蠶が飼へぬから收入が減る入院してゐるから出費が増す何で取りかへすつもりだラムネ製造を始めて取かへすのか成案如何斯る時眼ふたぎて世の中に苦しみ迷ふ人を想ふべし 八月十日
六六 【八月十日・封書 信濃下諏訪より 東京小石川區春日町須田病院 兩角國五郎氏宛】
今日は諏訪の盆會だ昨夜蠶のひまに父が佛棚を造つた小生は寢ころび乍ら足の蚊を叩きつゝ父の手の動くのを見て居るランプの燈で手の影が佛棚の白木の上に大きく不定形に映る棚は三尺に四尺高さは六尺許りのワクになつてゐてその三分二位の高さに板のシキリがあるその坂を基點として四周に草花を立るのが面白い後の方へ萩を立てる二本立てる三本立てるしまひには立派の萩垣になる僅に花を持てる枝がランプの光で鮮に見ゆる父の手の影と頭の影とが床の間の上の壁にうつる脚の蚊をピシヤリ打つ父も尻のあたりをピシヤリやる手の影がピシヤリとも云はずに床の間の上に落ちる萩の花が手の影をはづれて全面に見ゆる手の影と萩の花とを見つめて居るうちにそろ/\眠くなる眠くなりつゝ時々ピシヤリやるそのうちに益々眠くなる眼をあいて見たら盆棚はもう立派に出來上つて居た右の圍には女郎花と桔梗と萩よりも立派に竝んでゐる左の圍には我木香の花が盛に首を揃へて居る女郎花も僅ばかり仲間入をして居る向うの萩の花が左右兩列の奥に高尚に照つてゐるその前に先祖代々の位牌が三基立つてその前に燭臺が一つあるが火はともしてないその前に線香立があつてそれから前はカトギのムシロが板から下まで長く垂れさがつてゐる父も居ない誰も居ないランプは明煌と輝いて盆棚を滿面に照らしてゐる今夜この盆棚に切籠な吊つてその下でこの手紙を書く盆歌が村の辻で聞える蚊が相變らず來る御大切に御療養あれ頓首 八月十四日夜 俊生
(51)竹舟兄
六七 【九月八日・封書 下諏訪町より 北山村柏原 兩角福松氏宛】
日曜だから手紙を出す詞が第二第三の問題だと云ふのは君の弊所に對して云つたのだ君は子規先生の趣味が分ると云つてゐるが分りはせまいと思ふ君の云ふ所を聞いたでは少しも分つてゐる所がないぢやないか鐵幹の趣味も面白い子規の趣味も面白いといふのは即ち君の解らぬ事を證明してゐる「平凡無味不自然なものをゴマカス詞」に驚嘆してゐる程度の人に子規先生の趣味が分るか驚いた愚説だ「抽象的概敍的句法を許さぬだらう」位に僕の思ふ所を解してくれる樣な君だから張合がない俳句には俳句的敍法がある歌には歌的叙法がある歌に俳的敍法とは何の事ぞや十七字詩に對する形式と三十一字詩に對する形式とを混同する樣な考へは基本から間違つてゐる全く融通出來ぬ事はあるまい(極めて小なる場合に於て)併しそんな事は第一問題になる程の事でない君はつまらぬ所へ力を入れてゐる事を悟らぬのだ自分の弊所は何處にあるか悟れぬのだから困る自分の弊所を悟るには苦心が要る僕は君の才を惜むから極端の詞を以て君の眞面目なる反省を促すのだ君は自信々々と云つてゐるが僕から見れば實に憐むべき自信だよ下手な反省は自棄となり下手な自信は所謂己惚になる工夫の困難なるは此處也失敬だが君などが自信を振廻すのは早過ぎるよ今つと修養の苦心を經驗するがよいそんなチツポケな自信と心中したでは實に惜しいと僕は思ふ貴詠一々の辯解一も感心せず詳しき事は書くひまなしこの手紙を見て怒る樣な事ぢや君はもうだめだぞ失敬萬死 九月八日 俊生
柳の戸大兄
僕ノ君ニイフ所ハ前便ト更ニ變ラヌ重記ヲ省俊 生
(52) 六八 【九月九日・封書 下諏訪町高木より 長野市西後町 三澤精英氏宛】
御書拜見仕り候種々御厚志奉謝候和歌選者の件その際になりて可成御引受申度存じ居候よろしく願上候どうしても來年一月からでなくては困り候「野の人」の御決心大賛成いたし候飽迄堅實に御進行希望に不堪候猶それに對する用向何なりとも御盡力申度存じ候種々御意見御相談御申越可被下候あや子樣の件も多分成功いたすべく十二月頃岩垂先生に談合いたすべく候正岡子規を更に御研究希望いたし候馬醉木御覽の事是又希望いたし候此内に歌日記又々御送可申よろしく願上候可成は第一面にのせ度候十四日に松本行村井驛の八幡農園で水蜜桃を食ふ豫定也十九日糸瓜忌は小庵にて營み可申候三七郎さ丈夫や皆々樣御大切不盡 九月九日夜十二時 俊生
背山兄
六九 【十月二十五日・封書 下諏訪町高木より 東京 伊藤幸次郎氏宛】
〔欄外〕馬醉木ヲ今後諏訪郡中洲村小學校小林善一郎宛毎囘御発送願上候(號山水)發行ハ何日ニヤ待遠サ萬丈ナリ
拜啓信濃は寒氣頓に加はり今晩炬燵を擁して書面認め申候
日本新聞「空」は前囘に比して寂寥に存じ居り候處昨日貴詠拜見千萬の援兵を得しが如く力づき欣喜いたし候連作十首悉く活躍非常に力の動きたる作と存じ候これを十首一體にまとめて見れば各首相依つて殊によろし連作のよき特徴と存じ候例により細評申上ぐべく御心付の所直に御來示相願候
高山のいはほにやどり夢つかれ魂は翔りぬおほそらの上に
全體よくしまり居る特に「夢つかれ」がよく緊密に利いて居るヤドリ、ユメツカレと層々相據つて疊みかけ下句が(53)力に承けている全首の力ある所以調がよく想に添つてゐる
小夜ふけて天の白露(雲なるべし)山をつつみ星の青空上にのみ見ゆ
露では無理なり雄大なれども疵あり「上にのみ」など非なるべし「のみ」の助辭、調の強みを害する甚し「頭に近し星の青空」などやう緊密ならんを欲す「小夜ふけて天の白雲山をつつみ星の青空雲に浮き見ゆ」の如く欲し「露」が誤ならずば別に考あり一天白露などの意ならば「上にのみ見ゆ」益々据らず御來示願上候
天の門に風立ちしかば四方つ空四方つ國土に寄合にけり
三四五句に對し一二句意味薄く思はる三四五句の雄宕は論に及ばず
蒼空の眞洞にかかれる天漢《あまのかは》あらはに落ちて海に入る見ゆ
完璧摩すべからず
ひんがしの空の一すみやや白みやや朱けにつつ月出でんとす
同上。三四句斯の如く細かに表はして大景生動驚くべしかゝる句法はじめてなり
日を讀めば二十日の月を天の原の高山の上にむかへつるかも
第一句この連作の上に容易に得べからず前五首を經てこの快に接す興更に加はるかゝる歌體は殊に一氣に讀み下し得て調整ふを覺ゆ
月よみは神にしませば天の河ひた波ふみて空渡らすも
非常に振へりとも思はず
生死の境をはなれとことはに處女にいます月夜見の神
「生死の境をはなれ」は必要の詞なりや「はなれ」など他になくや且三四句未だしまらずと思ふ
まぼろしか夢かしらしら雲踏ます嫦娥の神をまのあたり見し
(54)絶唱三嘆山上の靈光肌に迫れり第一二句の如き重き句をのせてチヤント据り居る雄姿驚くべし
澄みとほる天の眞澄に肉むらのむくろむなしき思せりけり
結末の歌一氣よみ下し得て竹を裂くの概あり大賛成なり思付けるまゝの走り書き高慮を測り得ずして勝手の駄評たるべくやと恐居り候例により言はねば解らぬから感じたるまゝを羅列いたし候御高教至囑に不堪候
篠原志都兒目下木崎湖にあり四五十首位は土産あらむと待ち居り候明日は久し振りにて短歌會を布半亭に開き可申悉く集れば十人もあれど如何やと存じ候何れ結果御報知可申候根岸派の歌はどうしても信州に發達すべきものと信じ候信濃百四十萬の人衆過半は山國むき出しの眞面目を失はず文明を知らず都會を知らず近來鐵道の開通を得てやゝ動き出したる新元素の自覺力は自覺さへ出來たら目醒しきものと信じ候諏訪諸同人惜哉未だ自覺に達せず自ら自分の眞價を知らず天賦の靈性を持して發するを知らず只今後追々上達と樂しましく候
今や小生の胸中は脈々抑ふべからざるの希望充溢横奔せり足はヂダンダ踏んで前途の使命を望み居り候我は少くも我の一生に對する我の使命を悟れる心地す使命茲にあり千萬苦闘千萬奔馳わが勞とする所ならんや眞個使命を自覺する所苦即樂、生存の意義茲に於て一日と雖も重大なり教育は神聖なり小學教育は特に神聖なり然りと雖も小生は文學の前に我生命を捧ぐるの快樂を有するを如何せん小生の一生(一日二分でも)は文學と伴隨せざるべからず斯く信ずれば愉快だしこの信念を一寸でも妨害せられては實に不都合なり今日小生のヂダンダ踏むは之れがためなり明治四十一年は小生の紀元第一年なり重大問題雀躍問題を前に控へて知らぬ顔してゐる愈々ヂダンダを踏まざるべからざる所以なり。やゝ朱けにつゝ月出でんとす。あゝこの希望この胸中先生只夫れ知るを得んか
〔罫紙欄外〕 來年三月退職ソレマデハ誰にも云ハヌ云フト留任問題ナド面倒ニナルベシ
文學問題と聯關して※〔鷄の鳥が隹〕の問題は矢張重大なり小生は今後三十五圓の月給を抛つて百羽の※〔鷄の鳥が隹〕に米を得ざるべからず文學に携つて文學に衣食するは斷じて御免なりこゝに於て百羽の※〔鷄の鳥が隹〕はさし當り小生の文學問題と重大の干係あり(55)是故に例の寢坊を強ひて全廢して未明※〔鷄の鳥が隹〕の糞の掃除に骨折るなり薄暮疲れ歸つて直に※〔鷄の鳥が隹〕小屋の手入寢道具の始末に取り懸るなり夜半夢醒めて※〔鷄の鳥が隹〕のクヽと鳴くを聞く時胸中半ば恐れ半ば躍る全力を以て躍るヂダンダを踏まざる可らざる所以なり
※〔鷄の鳥が隹〕大分成長成績良好御喜び被下度候十二月頃から然部産卵可致と存じ候産めば貧しと雖も一家五六口を養ひ得べし來年の末には二百羽以上に致し度存居り候さうなれば大分都合よろしく候(今年末から小生等妻子は別に一家を持ちて生活する譯なり家は已にあり)以上誰に話す人もなく胸中にてのみ思ふ愈々ヂダンダ踏みて堪へがたきまゝ思はず長く書き申候前後錯雜自分乍ら何を書いたやら分らず御笑覽被下候
過日只乘切符の件小生の方甚だ覺束なく相成り候それは諏訪教育會の事業として淺間山妙義山八ケ岳その他上州地方に岩石採集旅行として十一月五日より十二日迄旅行せざるべからずそれが終れば農事休も直に終るからどうしても出京出來かねる事に有之胸中一寸困り居候この旅行實は小生の發議なり今更責任を逃ること惡し來年三月迄は小學校教員だから教育の職業を疎にすべきに非ず斯の如くなれば十中八九出京覺束なく(他人が引受けて行けばよいがあてにならず)然る上は是非共先生の方を御都合下され十一月十三日小宅著の御見込にて御出掛下され度何やら蚊やら御話し申度事近來山積の姿につき是非共御差繰り願度希望のいたりに候先生には只乘器あり十一月來り一、二月に來ること比較的安樂なり只(氷の時)時間問題あれば數日の御差繰今より御考案願入候尤もこの旅行のこと確定次第又々可申上候大分長くなり候まゝ擱筆いたし候匆々亂筆
左翁老臺
山顆累々〔封筒ニ追書〕
七〇 【十一月十三日・封書 高木より 下諏訪町小學校 森山藤一氏宛】
(56)拜啓途中落伍遺憾に存じ候益々壯勇旅行結了の趣大賀いたし候小生病氣上田にて受診少しむきあしく申されしも長野赤十字にて二囘上諏訪にて二囘受診の結果何等の障害なき事に相成り候間御安心下され度候斯囘の旅行に歌なかるべからず御示し相待申候 十一月十三日 俊生
森山汀川樣 侍史
淺間根をそがひに見つつ碓氷路の枯芒道君たどりけむ
七一 【十一月二十三日・封書 下諏訪町高木より 東筑摩郡島内村 望月光男氏宛】
拜復小生大に快復いたし候間御安心下され度候醫者ハ本ヲ讀ムナト云フ字ヲ書クナト云フ朝早ク外ニ出ルナト云フタ遲ク外ニ出ルナト云フ夜ハ直グ寢ヨト云フソノ他色々小言ヲ云フ醫者ナドト云フ者ハ器械的ニ肉體ヲ診察スルニ止ル者ダカラソノ勸告ハスベテ皮相デアル僕ト雖モ肺柄ニナリタクナイハ勿論デアル併シ文學ハ肺病以上ダヨ一日文學ト離ルヽハ一日吾人ノ苦痛ヲ加フル所以ダ病苦以上ノ病苦ダ吾人ハ肉體上ニ於ケル雖者ノ勸告ヲ參考トシテ採用スル併シソノ勸告ヲ採用シタ以上ニ吾人ノ用意ガナクチヤナラヌ僕ハ今ノ處病氣ニ對シテ大ニ瞥戒シテ居ルコレハ他ノ病人ニ讓ラヌ併シソノ反面ニ於テ大ニ平氣デ居ル餘リ一身ノ至要問題トシテ病氣ヲ待遇セナイノダコレガ小生目下ノ眞實ナル心事デアル
毎日歌ヲ詠ム毎日本ヲヨム夜モ遲クナルコトガアル併シ奇妙ニ病氣ハ追々退散スルー昨日胃者ハ非常ニ驚イタコンナニズン/\本復スルハ奇妙ダト云フ僕ハ奇妙ヂヤナイト自信シテ居ル廣言スル樣ダガ僕等ノ病氣ニ對スル考ハ醫者以上ダヨ高慢ヂヤナイヨコンナ病氣ナラー年デモ二年デモ續イテ貰ヒ度イ家人モ用ヲ言ハヌ學校デモ出テ來イト云ハヌ出校スルト云ヘバ今少シ休メト強ヒテ來ル詮方ナク籠居スル歌ヲ作ル本ヲ讀ム何ト面白イダラウ僕ガ病氣ヲ下等ノモノトシテ待遇スルニ對シ世人ガ餘リニ貴重視スルノガ怪訝ニ堪ヘヌ
(57)僕ノ精神状態斯ノ如シ君モ病人ノ部屬デアルカラ參考ノタメ僕ノ病氣觀ヲ申上グルノダ如何君ハ病氣ヲ餘リ重視シ過ギハセヌカ精神活動ヲ盛ニシ玉ヘ病氣ナドハ自然退滅ダヨソシテヨイ歌ガ出來ルヨ頭ガ愉快ニナルヨ
僕ハ今別ニ家ヲ移シテ獨立スベク準備中デアル來年四月カラ學校ヲ退イテ全ク分學ニタヅサハル決心ダ百姓ヲスル※〔鷄の鳥が隹〕ヲ飼フ蠶モ飼フソシテ晴耕雨讀主人ヲ氣取ルノダ實ニ愉快ダヨ君今少シ健康ニ復サバ一週間僕ノ家デ迎ビ給ヘ是非來タマヘ必ズ病氣ナドハ退散スルヨ君等ハ弱イコトバカリ言ツテ困ル僕ハ對ガ弱イダノ僕ノ歌ハダメダノソンナコト云ツテルカラ益々弱クナリダメニナルヨ比牟呂再興ハ余ハ來年四月以後ト考ヘテ居タ篠原モセク朗君モセク樣ダソコデ一月カラ發刊セヨウカト考ヘテ居ル併シセイテヘタナモノ作ルヨリユル/\取懸タ方ガヨイト思テヰル胡君等トヨク相談シテ置イテ呉レ給ヘ愈々出ストスレバシツカリ懸ラナクチヤ困ル一月出スナラバ十二月中ニ原稿ヲ盛ニ作ツテ貰ヒ度イ購讀者五十人ハアルマイ實費ヲ頭割ニシテ取ル積ダ一人四五十錢ニモ當ルコトアリト覺悟セナクチヤ出來ヌ年ニ六囘ハ六ケ敷イダラウ如何
左翁來月來ルヨシ待居り候根岸歌集出版ノ相談アリトノ事賛成ニ候今ブラツキ乍ラ妻ヲ督シテ移轉著手中ナリ閑ニシテ忙メチヤクチヤノ感アリ今月中ニ新居ナルベシ是非來ラレルヤウ健康ヲ囘復セラレタシ(新居ト云ツテモ古イ家ダヨ)十一月廿三日 俊比古
望月詞兄
本日長野新聞淺間登山ノ歌御評願上候新聞ナクバ小生ヨリ送ルベシ匆々
「日本」課題信州人見エズ寂寥ニ堪ヘズ齋藤君一人振フ(十九日迄ヲ見ル)
七二 【十一月廿六日・端書 信州下諏訪町より 東京赤坂區青山南町二ノ六十五 平福百穗氏宛】
病氣デ一寸ブラツキ居リ候今※〔鷄の鳥が隹〕小屋ヲ作リ移轉最中ナリ病人デモ忙シク御手紙ヲ見テ去年ヲ思出シ候馬肉ノ件又(58)ヤリ度ク來月左翁ト共ニ御來遊御スヽメ申上候小宅ニテ何日デモゴロツキ下サレ度候馬肉ハ實ニ面白カツタ志都兒ハ明日來ルト申來レリ二人デ馬肉ツツキ可申候(左翁十二月來ルト申來レリ)馬醉木遲刊小言諸方ニ聞エ候左翁何ト思居リヤ志都兒ト二人デ又何力書イテ送ル 十一月廿六日
七三 【十二月十日・封書 下諏訪町高木より 北山村湯川 篠原圓太郎氏宛】
拜啓長野新聞今日の歌(澁崎行)御覽なりや同社背山君二三年來小生に長野新聞の歌を見ろとの勸め今囘は山本聖峰が牛山君を介して是非受持ち呉れよとの事小生も斷然一月から見る事に決心いたし候根岸趣味を信州山國に鼓吹する事多少の效果あるべきを信じやれるだけやつて見る決心なり從つて南信日日の方は閑却となるべし是に就ては諏訪筑摩諸同人の努力助力を借らざるべからず盛に御出詠希望いたし候信濃毎日にみづほのや選者となり盛に例の歌を出して賑はせ居れり我黨の歌は彼の如く盛ならざるべし(數ノコト也)吾人は吾人の趣味に立つて眞贄なる理想的の歌壇を長野新聞の上に立つてやつて見る事大に興味ありと今の處想像出來る就ては一日初刷に十數人の作を連ね度何首にても御送下され度十八日までに遲くも御送願上候(新年に因めるもの)
二、比牟呂の事につき打合せもし度しかた/”\十五日午前十一時から上スワ中町うら巴屋にて月次歌會相開き度それまでに活版屋との相談を濟ませ置き可申候雨降るも雪降るも御出掛下され度候二人揃つて御出會希望いたし候重要問題だから柏原連も必來る樣申送りたり君等からも御申送り願上候(朴葉にも云つてやる)山水、汀川、釜溪、唖水等
三、胡桃澤の留守居面白し左翁の食物のこと面白し
先は右用のみ急ぎ匆々 十二月十日夜 俊生
篠原志都兒兄
(59)七四 【十二月十二日・端書 下諏訪町高木より 上伊那郡朝日村 大森祥太郎氏宛】
悲痛言留ふ所を知らず御全家御心中御察申上候小生儀直に參上いたすべき處先月來少々病氣今猶時々出校する如き有樣何れ機を得て御伺申度取あへず御弔詞のみ匆々 十二月十二日
七五 【十二月十二日・封書 下諏訪町高木より 上伊那郡朝日村小學校 大森祥太郎氏宛】
謹啓忠三君の御遠逝かね/”\遂に斯るべしとは存じ候へ共昨今の内とは存ぜず御報知に預り只々驚入悲痛いたし候御全家御嘆きいかばかりぞ御老父母御兄弟の御心中實に御同情に不堪小生儀已に十數年御厚誼を忝うし非常の御厄介相成り候事故取り分け悲痛の情に堪へず候然るに御歸省御臥床の間一度も拜趨の機を得ず昨日手紙差上げんとしたる處に御端書頂き只々茫乎といたし候同級生代表葬儀參列すべき處小生儀十一月七日淺間登山後少々呼吸器を損じ目下殆ど快癒せしも猶時々出校する位にて引籠り居りその意を得ず殘念に存じ候太田貞一君に依頼し參列の手筈はこび居り候折柄今日御手紙拜見いたし候處已に昨日の御葬儀との御事何も彼も手遲れいたし實に慚愧いたし候數日の中に太田參上いたすべく先は小生より取あへず御弔詞申上度如斯に御座候
二伸 〇上諏訪方面生前の禮状御差出しならば
一、上スワ小學校岩垂今朝吉外諸員一同宛一通 二、上スワ町小學校藤森省吾宛一通房州同居の人 三、上スワ町小學校三村斧吉宛一通 これだけにて宜しと存じ候
〇忠三君病氣見舞金過日御送の後
長の城山小學校今井一二(壹圓) 長の附屬小學校山崎邦次(壹圓)
右計貳圓小生へ送附いたしありその他の人未著故それを待ちて御預り申置候何れその内に御屆申上ぐべく(60)候御承知下され度候右恐入り候へ共禮状一寸御差出し願上候 十二月十二日 俊彦
七六 【十二月二十二日・封書 下諏訪町高木より 長野市西後町 三澤精英氏宛】
拜啓
一、新年原稿社へあて御送申上置き候御落手下され候事と存じ候(萬葉新年歌論と募集歌と二通)
二、就ては一月一日以後長野新聞小生宛御寄送下され候樣社の方へ御話し下され度候猶東京本所區茅場町三ノ十八伊藤幸次郎宛同樣願上候(左千夫氏也)
三、あや子樣の件當方は確定いたし候間其運びに願上候當校にては一月から御出勤下され候へば極めて好都合也どうせ四月から長野退散なる故一月から長野の家を疊んでは如何(君は下宿して)尤も之れは當方の勝手な譯なり如何樣にても好都合の方に御取定め下さるべく候
四、※〔鷄の鳥が隹〕五羽差上可申候相場が高いからそのつもりに願上候 二十二日夜 俊生
背山兄
七七 【十二月二十九日・端書 下諏訪より 北山村柏原 兩角福松・兩角國五郎・北澤金左衛門・兩角珂堂氏宛】
アシビは今後「アカネ」と改題一月一日より三井君主となりて發刊の由也盛に御出詠希望いたし候比牟呂は一月七日〆切いたすべく文章和歌何にても澤山御送願上候餘は新春を待つ 十二月二十九日
(61)明治四十一年
七八 【一月一日・封書 下諏訪町高木より 長野市西後町 三澤精英氏宛】
謹啓多望なる新年を迎へ御同慶存上候昨年は非常なる御厄介相成り感謝いたし候猶相變らず御引立御愛顧被下度悃願いたし候長野新聞元旦の賑ひ驚入り候とても一度に眼は通らずさし當り歌と貴兄「福島の宿」と太田兄の四十年文壇とを見申候貴兄の小説は初めて故殊に注意して拜見いたし候非常に面白く拜見いたし候筋が氣に入り候姥さんの話を聞きつゝ福島町を見下ろして居る所大に宜しく候姥さんをあんなに泣かせぬ方宜しと存じ候繪草紙の段最も苦心と存じ候膝と膝とがつき合ふ云々は拔いた方がよいと存じ候繪草紙の段が全部の重心なり結末の夢云々のぼかし方はいやに候朦朧なる描寫でごまかしてゐると存じ候あんな事一行ばかり書て大に事をこはし申候力が拔け申候貴説伺ひ度候「おりさんは夢である……は夢ぢやない」何の事やら鵺文學に候あれは夢でなく全く現實とすべきものと存じ候全部感情一貫して面白く候處々細かき疵あるは詮方なしと存じ候
一、左千夫氏へ新聞郵送有難く存じ候 二、小生續稿は明日御送可申候 三、應寡歌の三分は慥に不都合に候殊に小生のは連作として續いてゐるものを分けられて悲しく候 四、年賀の廣告感謝いたし候 五、弟兵役の件御手數恐入り候當方でも問合すべく候へ共猶何分願上候 六、新聞は當方共同店より毎日配達いたし居り候貴社の命令にて配達と存じ候
(62)御令閨樣に可然御傳言願上候匆々頓首 元旦夜 俊彦
背山詞伯 座下
七九 【一月三日・封書 下諏訪高木より 北山村湯川 篠原圓太氏宛】
新年匆々謌の議論をして來たのは君だ馬醉木も來ずホトトギスも來ず甚だ寂寥の處へ歌のぎろんと草餅とは大にうれしい草餅は御好意特に感謝する
「司らの咎もあらず」の歌は小生は感服せぬ司等のとがめなきなど消え極的な事柄はどんど火の如き盛なものを表はすには不適當である、吉野山霞の奥は|しらねども〔付○圏点〕見ゆる限りはさくら也けり 西行?の如き子規先生がかつて消極法について説かれた事ありと思へり特に|咎もあらず〔付○圏点〕と置いて末に神|ゆるしたり〔付○圏点〕と置くなど甚だイヤと思ふ|神許したり〔付○圏点〕ならば只積極に盛に焚き立てる火を神が許してゐると詠むべきと思ふ何しても|司らのとがめ〔付○圏点〕云々は大失敗と存じ候御意見折返し御洩し被下度候その他全部につき氣に入らぬ歌へ批評を添へて至急御送被下度候
三四十人のを十四五に削つてしまつたのだから出詠者には氣の毒に存じ候南信日日の方は多數中遂に一首を拔く能はず自分でも張合が拔け申候取るは樂ヂヤが拔くが苦しい手數だ小生のも振へりと信ぜず候南信日日へ出したのも御批評下され度候比牟呂に原稿澤山御送願上候此間差上げし「朝の歌」は御落手と存じ候新年會は廿五日の土曜にしては如何胡君その頃は少し閑になるとの事也日本課題御出しにや小生はこれからにて候
寒さ
校長の顔細く居る寒さかな
一山の常磐木摧く寒さかな
(63)この驛に一茶死んだる山さむし
芒盡きて裸湖見ゆ寒さかな
物たのむ鼻筋長き寒さかな
御一笑可下候
額の事一二日中出町催促いたすべく候先は急ぎ亂筆申上候 一月三日夜 俊生
志都兒大兄 座下
八〇 【一月七日・端書 下諏訪高木より 湖東村上菅澤 河西省吾氏宛】
賀正 蓼科歌非常に面白きものあり今春目に入りしものゝ傑作也愉快に拜見いたし候十二日在宅いたすべく候間御來遊被下度待上候也御尊父樣によろしく願上候 一月七日
八一 【一月十九日・封書 下諏訪町より 豐平村上古田 小尾喜作氏宛】
御手紙拜見いたし候種々御苦心の程御同情申上候今東京に出るは早過ぎるかと思ふ無論よい事には相違ないが今少し教員としての實地經驗を經たる上出京する事更に得る所多かるべし教員をしてゐるとすれば玉川か上諏訪が宜しかるべし玉川に居るよりも上諏訪に居る方研究も出來るべし併し玉川も惡しきに非ず玉川で研究的にやる事も大によろし之は君の考通りでよし上諏訪では第一岩垂が君を非常に欲しがつてゐるその他の職員も同上だ只上諏訪では藤森に氣の毒だから躊躇してゐるのだ君の決心で自己の利害上より上諏訪轉任を藤森に請求しても不都合はあるまい君の決心は如何小生は三月限り學校は止めて百姓になる(多くの人に言ふ勿れ)
右愚見のみ 一月十九日 俊彦
小尾君
(64) 八二 【二月七日・封書 上諏訪町より 下諏訪町小學校 森山藤一氏宛】
拜啓君が川柳をやるのは甚だ譯が分らぬ君が文學の上に立つて世に生存してゐるのが眞面目の仕事である以上川柳などに頭を使ふのはつまらぬ事ぢやないかと思ふ僕は必ず歌でなくちやならぬなどと云はぬ俳句でも歌でも長詩でも小説でも構はぬ併し乍ら何れにしても始めたら專心にミツシリやらなくちやならぬ忌憚なく云へば君は餘り多く手を出し過ぎるだから深刻に君の天分を表はす事が出來ぬと思ふ新體詩もその後見えぬ小説もたまには見えるが熱心とは見えぬ今の處で歌と俳句は君として尤も成效しつゝあると思ふ川柳など何處に研究の價値があるか僕には分らぬ或は僕が川柳を解せぬ誤解かも知れぬが僕は君が左樣に矢鱈多くへ手を出すのを遺憾と思ふ
天外から聞いた君が長野新聞の川柳を見るとの事僕は即時に不賛成を唱へた天外もさうか知らんと云ふ昨夜背山に逢つたそれはもう決定してゐると話した僕は背山にも牛山君へと同樣の意味に話した僕は長野新聞より何より根本から川柳全廢を君に勸める熱心に勸める御熟考が願ひ度い君の歸校後直に神來談が願ひ度い何もかも露骨に云つた失敬 二月七日 俊生
汀川兄
八三 【二月十八日・封書 上諏訪町布半より 松本市本町松本銀行 胡桃澤勘内氏宛】
御返事申上候今比牟呂の至急分が發送終つて志都兒と茶をのみつゝ此手紙認め候解嘲歌大に面白く候君の眞情が直截に活きてゐるから讀んで生動して居り候捉へ所の適應と思ひ候春の歌や戀の歌の評は參上の上ゆる/\御話し申度候誰のどの歌面白い面白くないと段々言つて來れば遠方に居て「只斯う思ふ」だけでは思想がまとまらぬつまり水掛論に類して來る大體の傾向が近來斯樣になつて來たこりや惡いとか善いとか云ふ注意が必要である乙(65)字君の俳論など僕等にはよく俳句が判らぬが研究的用意は感心である僕等から見れば諸同人近來の傾向は思想に餓ゑてゐる觀察も進歩せぬよい歌を作らうといふ興味は盛であるが思想上の興味は之に伴はぬ思想や趣味が活動せぬのだ此根本問題を誰も遺却せんとしては居らぬけれど弱味は矢張り此點に在る吾人は人生觀を進めねばならぬ哲學的研究も宗教問題も必要である併し吾人が有する眞の人生觀は只哲學の如き智的修養のみからは得られぬ偉人の自然感化にも浴せねばならぬ人生活世間の辛酸にも鍛へられねばならぬかくして吾人は眞個の人生觀を抱く同時に或人格品性が築かれるその源泉から日常の行動は流れ出る吾人の興味は高くなる大きくなる斯樣な順序であらうそこで吾人には日常行爲の問題が出て來ねばならぬ今日吾人同人間に日常行爲問題が盛であるか正岡先生の病床六尺時代の書きものには常に斯る問題が出て來てゐる正岡先生などは哲學など學んだかどうか知らぬが高い哲人であつた眞個の哲人は必空漠の人生の理想論などよりも活世界の上に隨時の判斷を下して行く日常行爲問題を必離れぬこゝまで來て居らねば詩人も困る
吾人は吾同人の比較的(鐵斡等よりも)この間題を捉へて居るを諒とするけれども此根本問題に大熱心であるとは云はれぬだから少し面白い作が出來ると直ぐあとが續かぬ發生期の堀内君や柳澤君などは面白いものが出來るのは思想が活動してゐるからだ併し思想界の修養を盛にせねば直ぐ下落する僕にも充分この傾向がある「諏訪神社」陳腐問題は全く諾肯する志都兒にもこの傾向がある君にも望月にも此傾向がある事を諾肯して貰ひ度いよい歌を作り度いなどあまりあせらぬがよいよい歌は自然湧いて來るよ(怠れぢやない)細かい一首つつの事は此内に參上御話し申度候奇遇君の歌矢張り面白く拜見いたし候中に少し立入り過ぎたもの有之かと存じ候別紙加入御返し申上候此手紙望月君に御見せ願上候どうも書くと要領を失し困入り候全然分らぬ事書いた樣にも思はれ困入り候廿四日に參上いたすべく候望月君が出松して呉れれば大幸甚に候暖氣を祈り候宿屋の硯に墨なく非常の薄墨字も亂暴申譯無之候一日中字をつづけて已に眠くなり候比牟呂御評待人り候 二月十八日夜 俊彦
(66)御兩君
八四 【二月十九日・端書 下諏訪町より 東筑摩郡島内村 望月光男氏宛】
比牟呂御落手と存じ候印刷屋とけんくわして遂ひ發行所を小生方といたし候御評御待申上候氷の歌難有存じ候終りのは感心せず候甲之君狐云々の歌貴意賛成に候舊比牟呂数册あり二十四日持參可致候 二月十九日夜
八五 【三月四日・端書 下諏訪町より 東筑摩郡島内村 望月光男氏宛】
今朝手紙出さんとする時御端書拜見いたし候未だ繁忙にて創作物を見しのみ也甲之君の小説は徹頭徹尾觀念を列べたので理解が直接ならず特色はあるが不賛成に候胡君のはよい併し第一、二が散漫也第三が振つてゐる兎に角作者の感情が始終を一貫してゐるのは嬉しい左翁の和歌矢張りよい蓼科歌はよくない次に君の朝の歌の終り七首は非常によいあれは山上の眺望といふ題でもあるべきと思ふ千里君のにもよいのがある小生の氷切終り一首の御批評全く同感なりあゝいふ歌はこけ威どしなるべし「一つりの灯さげ行く」が自分では一番よいと思つてる九日頃參上いたすべく候尤も君が出松出來なくちやだめだ匆々失敬 三月四日朝
八六 【三月五日・端書 下諏訪町より 中洲村神宮寺 笠原田鶴氏宛】
拜啓一の病氣心配の至りに候肺炎は藥よりも手入に有之折角氷冷法その他御周到祈望いたし候當方にても政彦又又ヂフテリヤを始め今日注射いたし候此方は心配無之と存じ候大に無音申譯無之候へ共右の次第故早速參上出來ず取あへず右申上候也 三月五日夜
(67)八七 【三月七日・端書 下諏訪町より 東筑摩郡島内村 望月光男氏宛】
又々延引いたし候長男ヂフテリヤにてこゝ二三日は拔けられず今度は出し拔けに參上いたすべく候寫生から主觀に進み暗示に進む徑路は八風乙字二君の云ふ通りなれど之がために客觀的寫生的が生命なしと考ふるは大間違なり人間の思想が進歩する限りは寫生は進歩すべし印象明了も進歩すべし進歩せず死滅する時は同時に主觀の死滅する時也如何
八八 【三月十五日・封書 下諏訪町より 南佐久郡大日向村小學校 井手八井・佐々木牧童氏宛】
拜啓學期末御繁忙の御事と存じ上げ候小生もやゝ忙しく手紙差上げんとして矢禮いたし居り候今日御稿猶一囘拜見長野新聞の方へ送り置き候八井君のは七首牧童君のは三首(二首は過日の手紙の末にありしもの)選出いたし置き候御兩君とも或は御不平かと存じ候へ共小生の採る能はざりし理由は過日の書面にて御承知願度候こんなこと一々出詠者に對して申送りきれず候へ共御兩君に對し過日の書面も差上げ置き且御返事も頂戴いたし有り候間云はねば氣が濟まず又々一書差上ぐる次第に候歌は輪廓のみにては淺く候内容の特色が眼前に躍如せねば困り候これには只抽象的文字を併列したのみぢやだめに候光明よ希望よ運命よ呪詛よなど云ひ居るものの多くは徒らに衒氣多くして淺薄なるは此理に外ならずと信じ候此點に於て根岸派の寫生趣味は千古不動の特色を有せりと信じ居り候
病閑 子規
四年寢て一たび立てば草も木も皆眼の下に花さきにけり
不二に行きて歸りし人の物語ききつつ細き足さする我は
(68)人皆の箱根伊香保と遊ぶ日を庵にこもりて蠅ころす我は
寫生的趣味を以て平凡陳腐など申すものありもし果して平凡ならばそは作者が平凡といふ事也作者の趣味が平凡でなくば寫生の歌も平凡の筈無之と存じ候甚だ失禮に候へ共御兩君の歌未だ寫生趣味に乏しきの感有之候今月中位に學校もしくは貴宅の庭上に見ゆる何物にてもよろしく候間五首乃至十首御作歌の上御高示に預り度研究上の事に候間無遠慮に愚見申上ぐべく氣に喰はぬ所は失張露骨に御申越下され度祈望いたし候甚だ不得要領の手紙にて毎度失禮に存じ候先は右申上度匆々不盡 三月十五日夜 俊生
井出八井樣 佐々木牧童樣 梧右
牧童君に申上げ候諏訪郡居住の件今の所早急には困り候何れゆる/\詳細拜聽可仕候也
八九 【三月十八日・端書 下諏訪町より 長野市師範學校 河西省吾氏宛】
拜復試けんにて御折角に奉存候主かん的の歌暗示法の歌(乙字氏の所説)とて格別進歩したものには無之客觀的活現法の歌が面白くばそれを詠んで居ればよろしくと存じ候その内に暗示法(會下の友の如き)的のも面白かるべくと信じ候小生氷切の歌は矢張り活現法のものなり試けん終へたら少し御作り希望いたし候原田秋郎は誰れだか知らず匆々 三月十八日
九〇 【三月三十日・封書 下諏訪町より 東筑摩郡島内村 望月光男氏宛】
拜啓御返書遲延いたし候急用出來しため處々往來遂に廿八日新湯へも行き得ず殘念至極存じ候アレから御歸宅後腹具合惡しかりし由昨今如何にや大した事なからんを切望いたし候
御詠草愚見記入御覽に入れ候歌が出來ぬと云ひつゝこの位出來れば澤山也小生の歌についての御評大抵異議なく(69)候「松山の松の下道車押す湯原少女に雪しづれつつ」の松山を殿山とせなんだのは固有名詞二つ並用の調和惡しからんと思ひて也湯原少女を中心として活かし度いには餘り特殊性ならぬ「松山」位の普通名詞が適當ならずや御意如何「見まくほり君を思へば春の日の雪げの道の長き松山」は山裾がよからんと存じ候「檐つたひ」云々は全然失敗也「一夜に似つゝ雨を聽くかも」は再考ものに候
お亭の間の一夜長き記念也山邊に籠りて長きもの作り度し淺間は短篇的山邊は長篇的也よき時見計らひて何時にても御出掛下され度候志都君今東京に在り四月上旬まで滯在のよし歸國を見計ひて御出掛下され度候君の來り次第新湯會を開き可申候アカネ三號僕の文章は四號に廻す由申來り候比牟呂〆切は四月七日まで延す何か御送り下され度候長野新聞選歌に今度はよいものありたり嬉しく候
※〔鷄の鳥が隹〕舍増營に著手こゝ少し忙しく候大に暖く成り卵を産み出し候右のみ匆々不宣 三月卅日夜 俊生
光男樣
九一 【四月十二日・端書 長野縣諏訪郡下諏訪町より 東京市赤坂區青山南町 平福百穗氏宛】
大御無沙汰誠に申譯無之候四月一日より閑散となり※〔鷄の鳥が隹〕專門にいたし居り候今月中は※〔鷄の鳥が隹〕の世話で忙しく候それが終へれば東京へ遊び可申候蕨君西京行只々羨望也左翁小説熱心驚くべし密畫的な所がちよい/\見えをかしく候小生も小説の密畫がやり度く成り候匆々 申四月十二日夜
九二 【四月十二日・端書 下諏訪町より 富士見村神戸小學校 兩角喜重氏宛】
彌々不二見原乘込の由先づ/\それで落著と存上候田舍の靜な處で讀書するが專一と存じ候不平も何もあつたものに非ず修養が專一と信じ申候何れ遊び乍ら參上可仕候匆々 申四月十二日夜
(70) 九三 【四月二十三日・封書 下諏訪町より 宮川村中河原區 唐澤うし子氏宛】
御返事相後れ申譯無之候折角御出掛下され候處不在いたし遺憾に存じ候夫れ前の日曜まではお待ち申居り候處その後御手紙參るだらうなど思ひ居りウツカリいたし候段御許し下され度候宮坂親一と申す男つまらぬ人間に有之候校長がそんな事まで干渉するとは彌々たはけた事也そんな事は御構ひ御無用と存上候
和歌は今迄どんな本どんな雜誌御覽にや小生の御すゝめ申さんとするは雜誌にては「アカネ」(根岸歌會機かん)古書にては萬葉集金槐集(實朝全集)田安宗武卿家集曙覽全集等明治の書物にては正岡子規先生遺稿全部ことに竹の里歌は必御一讀必要と存じ候古今集新古今集等の如きはつまらぬものなり御覽の必要可無之と存じ候古今集新古今集西行の歌賀茂眞淵の歌本居宣長の歌の如き多く俗惡にして讀むに堪へず明治に入りても佐々木信綱與謝野晶子等の歌何れも馬鹿らしく存じ候小生等は正岡先生の指導の下に根岸派和歌を研究するを欣び居り候正岡子規先生は人格に於て偉大なりし故和歌も俳句もその他の文學も皆偉大に候子規遺稿は是非共御一讀御すゝめ申上候以上の書物御志望に候はば小生より御世話申してもよろしく小生所持のものは御貸し申してもよろしく候先は御返事のみ取急ぎ申上候亂筆御ゆるし下され度候也 四月二十三日 俊彦
九四 【五月一日・封書 下諏訪町より 東筑摩郡島内村 望月光男氏宛】
拜啓何時かの長い手紙拜見後返事書かん書かんと思ひつゝ今日にいたり候捨てゝ居たのぢやない四月以來の繁忙にて何も書けず昨夜漸く長野新聞の歌を見了り今夜君への手紙を書くなり目下※〔鷄の鳥が隹〕百餘羽ありその手入のために朝から晩まで動き續け立ち續け居り候これで五月中旬又々百羽増加すべくそれが成長するまで忙しかるべし暇を得んために教員をやめて此繁忙に逢ふは滑稽なれども※〔鷄の鳥が隹〕成長の上はズツと樂に成り可申候
(71)貴兄の近状如何春暖に逢ひて追々健康増加せりや心に懸り候今月中に是非御來遊ありたし繁忙と云つても一日や二日君と漫歩する位の餘裕はあり御出掛二三日前一寸御知らせ下されば萬事片をつけて置き可申候汽車があるから何でもないよ左翁五六日頃來遊との事今度は松本が主眼にや先生中々餘裕あるには驚入り候
比牟呂は目下印刷中の由に候近頃上スワ行の機なく手紙にて催促いたし居り候不折畫伯の表紙(字ナリ)も間に合ひ候五日から十日の間位に出來可申候次號は必ず六月中に出すべく今月廿五日頃までに原稿御作り願上候堀内君病氣よろしからずとの事困入り候非常に神經過敏の事申來り候何とかして御慰め下され度小生よりは明晩長く書いて送るべく候あの男の顔は只一度逢つたのみだが明了に想像出來候何かあると思出し候妙な所のある男なり清淨温雅當世の人に非ず
萬葉の件|しく〔付○圏点〕問題は貴説全く當り居り候小生の失言に候莫囂云々(萬葉一)難解の歌君の如くよめば慥に分るあれを「ウネビノ山シオモホユ」とどうしてよめるか分らず候紀の國云々の詠み方全く意を得ず候
萬葉十七「たち山の雪か|くらしも〔付○圏点〕延槻の川のわたりせ鐙つかすも」を|來らしも〔付○圏点〕(貴説)とは何の意にや解せず候雪がとけて來るの意でも無からん小生は矢張り消える方に解し度く候
萬葉十七相聞の歌「庭にふる雪は千重しくしかのみに思ひて君をあが|またなくに〔付○圏点〕」を|戯れに反對〔付○圏点〕云々の貴説仝く非なり「勝間田の池は我しる」とは異れりこの次の歌「白浪の寄する磯田を榜ぐ船のかぢとるまなくおもほえし君」と連作的に出來てゐる歌にあらずや前後の關係や詠みたる場合を考ふべし家持の歌にはどうも技巧勝ち過ぎたるもの散見いたし候以上二首もそんなによい歌と思はず候深くないと思ひ候、如何。久しく萬葉を離れ大に忘却いたし候そろ/\調べはじめ可申候疊語同語御集めの事面白く候何とか纒めて比牟呂へ御遣し下され度候斯樣な研究も一方より必要に候萬葉を研究する人が奈良朝を研究せねば心得ぬ事に候吾人はすべての方面より研究して奈良朝の人間に接し度く候奈良朝の人間を研究せねば萬葉も淺いものと存じ候
(72)挿入句の件如何小生の方にてはその後未だ調べて見ず候御説あらば聞かせてくれ玉へ山邊の一夜忘れ難し山邊で廿日ばかり讀書し度いお亭の間の歌會は比牟呂原稿書いてゐる内に和文體になつてしまひ變なものに出來候改むるも面倒故その儘出し置き候佐久間象山論御評願上候右のみ匆々不盡 申五月一日夜 俊生
光兄臺下
九五 【五月四日・端書 下諏訪町より 松本局島内村 望月光男氏宛】
「アカネ」の歌不振不愉快ナリ下手な議論ばかりしてゐるからいかぬのだ小説評など見當違也裸體あれば下等など困りもの也隣の嫁をよんで「入浴の所」誰か劣情を起す者ぞ君の歌餘り悲慘に過ぎて情を傷る傾あり未の一首大によし如何御返事まつ 五月四日
九六 【五月二十日・封書 下諏訪町より 長野市師範學校 河西省吾氏宛】
復啓益々壯健のよし賀し上げ候小生日々養※〔鷄の鳥が隹〕にかまけ居り候健康大に増し身體も太り候間御喜び下され度候
高山植物の歌振ひ居らず候千島桔梗長之助白山いちげの如き特殊專門家にあらざれば知らぬ名のものその儘を用ひて作るといふ事第一に考へものに候小生も以前そんな事をしたれど今日より見れば皆不成功に候もしその物の中のどれかに非常に興味ありてそれを詠まむとならば前書きの文によくその説明を書いてその説明文中の一部を詩的に歌ふより外手段無之かと存じ候只一般に高山植物に興味ありといふならば千島桔梗とか何んとかいふものを特殊的に詠まずして一般的高山植物開花の有樣やその四近との配合などを主として詠むべき事と存じ候
寸にみたぬ花の梗のべて筒かたの紫にさく千島桔梗の花 の類は全く失敗に候何處にも高山的感じが表れ居らず候平地の花を斯樣に詠みても同じ歌を得べし用意淺しと可申候
(73)燒砂のなだれて黒き山の背になよなよ咲ける駒草の花 の如きは前
に比して高山的用意備れり
遠くにわが行く山の砂原になよなよ咲ける花をあはれむ(猶改むべし)
の如く更に之を感じ的に詠む工夫必要に候この用意御熟考希望いたし候手紙にてはよく悉し難く候前の貴詠「竹籠|さむく〔付○圏点〕唐松ちるも」を「竹籠の上に唐松ちるも」等では利かぬ事に候詳しくは南信日日紙上御覽下され度候課題は橋、草、生徒、長野新聞今度の課題可成多く御送り下され度候同紙上にて根岸趣味を信州に鼓吹いたすべく候信州には猶根岸兒多かるべきを信じ候
比牟呂二十五日頃出來るから送る 十九日夜十二時半亂筆 俊生
九七 【五月二十五日・封書 信濃諏訪郡豐平村より 東京本郷區元町二ノ六六藤森良藏方 塚原葦穗氏】
拜復昨夕新湯より歸宅して書面を見今日古田に來り(建碑手傳を兼ねて)種々相談いたし候先づ今日の處大阪高等工業を受けて見るがよからんとの協議故その方の手續いたされ度候
一、大阪工業に入るとして大阪にての費用どの位のものにや大阪市の衛生は如何、右熟考の上にて受檢を宜しとせばその手續御踏みありたし 一、水産の方も今一度よく良藏君等と協議して見るべし 一、高等學校の方は六年は長すぎたり一家の事情迚もだめなり
右の内にて如何樣にも御決定御返事ありたし(古田と高木へ)それで猶失敗ならば暑中休に相談するがよいどの道を歩いても人間の價値に高下なしクヨ/\するな以上 五月廿五日
九八 【五月三十一日・封書 下諏訪訪町高木より 東京本郷區元町二ノ六六藤森良藏方 塚原葦穗氏】
卅日出の手紙披見苦心察し入り申候苦境必しも人の爲めに惡しからず餘り煩惱せぬ樣希望いたし候師範入校の決(74)心賛成いたし候然れども是は最後の手段に候へば先づ以て大阪工業を受けて見ては如何落第したとて恥にはならず平氣でやつて見ればよき也よければ結構いけなくても困らぬといふ心持でやつて見ては如何。衛生惡しければ市外に居りてもよろしかるべく候同地には米澤村小松武平君も居り下諏訪町友の町の高木君も工業学校に在り多少好都合なり是が氣に向かずば斷然師範入學と御決心可有之候よくく御熟考の上決定あり度し古田にても只今にては大阪工業受驗のつもり也何もかも餘裕ある態度にて御進退あるべし
〇何れとも決定次第直に御報知あり度し
〇暑中休迄は日本大學の方に出席すべし代人を出して歸國し居る事危險也兵役取締嚴重なれば也 五月卅一日夜
九九 【六月二日・封書 下諏訪町高木より 北山村湯川區 篠原圓太氏宛】
拜啓比牟呂モ出來タ、アカネモ出來タ比牟呂ノ責任ハ今ノ時ニ當テ特ニ重キチ感ズル如何ナル困厄ニ逢テモ屈シテハナラヌト益々自奮スル今度ノ比牟呂ハ四十頁バカリニナツタカラ定價ハ廿八錢トイフ高イモノニナツタ我々熱心者ノ仲間ハ二十錢デモ三十錢デモヨイガ一般ノ人ニハ氣ノ毒デナラヌ比牟呂ハ今後全國ヲ相手ニシテ活動スルノ覺悟ダ少クモ信濃ノ青少年ニハ今後我黨主張ノ貫徹スル機會アリト信ズル
然ル時ニ四十頁ノ小雜誌(外形ニ於テ)ヲ定價二十錢三十錢ヲ呼ブハ無常識スギル今ノ處三川人ノ寄送ガアルカラ未ダヨイガ全費用ヲ讀者敬ニ正直ニ割當テレバ更ニ高價ノ者ニナル僕ニ若シ生活費ノ餘裕サヘ多少アレバー册十五錢位ニ定メテ仕舞フ一册十五錢ニ賣レバ損高ハ七八圓以上ノモノニナル一度出ス度二十圓カラノ足前ヲスルコト小生現今ノ境遇デハ少クモ一年バカリノウチハ堪ヘラレヌ小生ノ生活ハ現今隨分苦シイ養※〔鷄の鳥が隹〕八十羽ガ僕一家生活ノ費用デアルソノ他ニ收入ハ少シモナイ春蠶夏蠶一枚ヅヽ飼ツテモ知レタモノダ長野新聞カラ月二三圓来ル南信日日カラ一圓來ル悉合セテモ親子六人ノ口ハ糊セヌ僕ハコンナ境遇ヘ自ラ好ンデ踏入ツテヰル小學教員ヲシ(75)テ居レバ兎ニ角月ニ三十五圓取レタ三十五圓ヲ捨テヽ※〔鷄の鳥が隹〕八十羽ニ就イタノモ自分ノ物好キカラ起ツタコトデアルカラ困リハセヌ困リハセヌガ物質的ノ困苦ハ大ニ増加シテヰル養父カラ多少ヅヽノ補助ヲ仰デ居ルガ男子三十三歳ニシテ一家ヲ經營出來ズ、サウ/\ネダルコト情ニ於テ忍ビヌ今年※〔鷄の鳥が隹〕ヲ増殖シテ百五十羽乃至二百羽ニスル計畫デアルコノ計畫ガ具合ヨク出來レバ比牟呂ニ一度十圓位ノ金ヲ出スコトハドウカカウカ出來ルツモリデヰル只今年一年ガ大ニ苦シイ創始時代ノ苦シミデアルカラ愉快デハアルガ苦シイコトハ實際苦シイ茲所デ君が五十圓ノ金ヲ二年バカリノ期限デ小生ニ貸シテ呉レヽバ大ニ有難イ五十圓ノ餘裕アレバ今年一年カラ來春マデ小生ノ執ル事業ハ非常ニ餘裕ヲ生ジテクル五十圓デ餘裕出來ルナンテ哀レナ者ダガ實際僕ノ程度ハソンナ者デアルコトヲ白状スル雜誌ノ方ハ斷然定價十五錢ニ定メテ仕舞フ寄送ナド必シモアテニセヌ一二囘位ノ旅行モ心配ナシニ出來ル君モ隨分旅行シテヰル妹君ハ遠ク出デテヰル金ノ餘裕或ハ六ケ敷カラン無理ナエ面ハシテ貰ヒ度クナイ只都合出來ル範囲ニ於テ心配ヲ願ヒ度イト云フノミデアル必シモ出來ナンデモヨイ只思付イタマヽヲ相談スルノダ今不可ニシテ七月八月頃ナラヨイト云フナラソレデモヨイ
比牟呂ハ印刷所變更ノタメ不馴デマヅイ所ガアル消息ノ追加ハ丸デ落シタ活字ノ不足ハスグ東京カラ取寄セルト云ツテヰル胡君カラモ望月君カラモ何トモ云テコヌノデ張合ガナイ甲之君カラハ盛ニ云テ來タ左千夫ハ子規七囘忌記念トシテ諸同人ノ歌集ヲ出スカラ比牟呂全部ヲ送レト(最初カラノ)云テ來タ
タラノ芽早ク送ツテクレ食ヒ方モ書イテ呉レタラノ芽ヲ持ツテ出テ來レバ猶妙ダ共ニ料理シテ食フ話ス落合歌會ハ振ツタツモリダ長野新聞ヘ今ニ山ルカラ批評シテクレ玉ヘ三四日消化不良デ具合惡シ 六月二日正午 俊生
志都兒兄
科野舍トイフ人南安曇郡東穗高村ノ人ナリ有望ナリ
(76)一〇〇 【六月五日・封書 下諏訪町高木より 北山村湯川區 篠原圓太氏宛】
拜復御配慮相掛け恐入り候御來意に從ひ八月末迄に金五十圓御融通御貸附下され度主として比牟呂發行用に供すべく候へば失敬だが無利息の事に願上候その代り從來の定期寄送は三號より御依頼を止め可申候然る上は早速次號より定價十五錢と相定め可申購讀者二三十人殖え候へば十二錢か十錢に改め度と存じ候
次號はおそくも七月中に出し度原稿可成多數御送下され度本月二十日頃迄に願上候二號は原稿何囘にもまとめしため統一なき編輯いたし遺憾に存じ候今少し長き御批評意見待居り候胡君からは著いたとも云ひ來らず返事を催促したれども何も云ひ來らず病氣ぢやないかと氣に懸り居り候甲之君からは非常に長い評が來り候
中央俳句界の誰かに依囑して俳句選をして貰はんかと存じ候小生も俳句作り度けれど信州によき人なしアカネの六花、乙字などよきかと思ひ候右御意見御申越待上候望月胡桃澤等も賛成ならば斷行いたすべく候長い批評來ぬが一番張合なし朴葉など何も云ひ來らず不都合に候褒められ度いのぢやない惡口(?)や議論や質問が同人間に流行らぬが寂しき也七月の飛騨旅行今より御用意希望いたし候
朝露の葦ゆすり鳴く葭切りのさやけき言を聞かず久しも
六月五日 柿乃村人
志都兒兄
比牟呂メタ寄送シタラ殘部二册ニナツテシマツタ數日中ニ註文ナケレバ送ルソレマデ待ツテクレ給ヘ
一〇一 【六月二十日・封書 上諏訪町布半方より 松本局島内村 望月光男氏宛】
蠶が庭休で疲れを養ふべく布半に來て半日寢ころぶ晝夜の勞働で前後も分らぬほど眠い、だるい。明日から八日(77)働けばもう千秋樂である寢乍ら君ノ原稿ヲ見タガ文章甚ダ振ハヌ和文であれ丈けの長さを續けるが無理だどうも冗長に過ぎる甚だ失敬だが今一度訂正しては如何和文と言文一致との混淆も如何のものだ今つと急所を力入れてアトは省き度い余の神經衰弱で正鵠を過つてゐるかも知れぬが今一度御通讀を望むソレデモ猶確信あらばこの儘にて返せ失敬多罪 六月廿日 久保田生
望月光男樣
コレカラ家ニ歸ル午後七時 卅日迄デヨシ
一〇二 【六月二十一日・封書 下諏訪町より 北山村湯川區 篠原圓太氏宛】
比牟呂原稿月末迄でよし盛に御送あれ柳澤君にも云へこんな紙で失敬
拜復昨日庭休み今日口付け今七八日にて全く終り可申候成績最上等には非ずとの事兎に角はじめて自分が全責任を負つて養蠶して見申候體は非常に疲れるに驚入り候此手紙書き居る時已に睡魔頻りに襲ふ併し今十日位は充分續くよ御安心是折る(ヤセ我慢ヂヤ無イ)御申越により君の歌稿御送申上候不二兄第一會のは要らぬだらうと思ふが御端書の意味充分に分らぬ故念のためこれも同時に御送申上候小生の記入御一覽被下度候
望月君の「諏訪行」の文章昨日庭休を利用して布半にごろつき乍ら一讀大にまづかりし故返送今一度作り直さんを勸めやり候今に來るだらうと存じ候小生月末は何もだめ也あと次便のこと 六月廿一日夜 柿乃村人
志都児兄
一〇三 【六月二十一日・端書 下諏訪町より 上諏訪町片羽 牛山郡藏氏宛】
諏訪地方蠶桑繭の消息長野新聞に見えざるは缺點と存じ候殊に新繭出などは尤も急速に掲載所望いたし候餘計な(78)事申上候匆々 六日廿一日夜
一〇四 【八月九日・端書 高木より 上諏訪町 牛山郡藏氏宛】
文林堂やけて比牟呂困る信陽といふ雜誌の印刷所で八月中に出して呉れぬか大至急都合きいて呉れたまへ御返事待上候一頁二十錢の組代印刷費は四十頁八十五部で三圓位の所でやれぬか猶聞いて呉れ玉へ今下諏訪の方を聞くつもりだが二三所聞いた上|價《ね》うちの方へたのむ匆々失禮 八月九日
一〇五 【八月二十二日・封書 下諏訪町より 北山村湯川區 篠原圓太氏宛】
啓昨日は種々有難く存じ候あれから茅野へ十二時過に著きし處汽車二時間も後るゝとの事故已むを得ず上諏訪迄馬車にて馳つけ一臺八人つめ込みし熱苦しさ弱入申候
〇胡桃澤より來書あり曰く上高地へは行かれぬ曰く此牟呂原稿中「百合の雨」は拔いた(胡桃澤の文章也)斯う反復常なくちや困入り候不快に候兎に角一度入れたものを拔く事イヤに候へ共本人が撤囘するといへば詮方なく候上高地も詮方なく候君と二人で行けば宜しく候行かれぬ人を無理やりに連れて行く事面白からず候斯くなれば君の方の秋蠶上りたる頃紅葉見乍ら出掛けてもよろしく候今月末か來月はじめに行けば最上等なれどこれはどちらでもよろし御返事待上候(君の都合問題だ(一)八月末九月ハジメ若くは(二)九月終十月ハジメこれ丈けの時期中で選ればよい小生にはこれから後は何の都合もない)〇二十四五日に君の方の盆會に行き得れば面白いが何だか分らぬ兎に角堀内の歸る時共に上スワへ來い一泊して舟で遊べ◎金のこと出來うる範圍に於て今30(それに猶十圓追加出來れば小生としては完全であるがそんなに云はれても困るだらう)こしらへて貰ひたい今月大に弱るのだそんな手筈にして置いたから困るのだ地に住む者のつらさだ一年位はこんな味も甞めて見る來年は今少し振つて(79)見せる今の處差當り世間的に困入るこれを切り拔ければあと比牟呂發行も自腹を切つて不都合なくやるつもりだ只八月が小生の問題であるこれも返事か君の上スワに下る時かでよい兎に角早く消息聞き度い物質的のことでこんなに書くこと心苦し仕方がない○左翁から長く書いて來た色々書いてあつて面白いスワへ來るかも知れぬと書いてあるアララギを助けろと書いてある水害牛疫で復舊がさわぎだと書いてある毎年のことで氣の毒に堪へぬ平福左千夫合作の繪ハガキも著いてゐる湯禿山のもついてゐる蕨橿堂のもついてゐる河西省吾のは非常に眞面目な手紙で面白い望月のもついてゐる牛山天外のもついてゐるその他色々ある今それをひろげて讀んでゐる〇今頃堀内は湯に一人で淋しがつてゐるだらう 八月廿二日 柿生
志郡兒詞兄
金のこと定めて困るだらうその模樣で一部分を來年の五六月に返す約束で借入れてもよい
一〇六 【八月二十五日・封書 下諏訪町より 松本局島内村 望月光男氏宛】
拜啓何度もはがきを見たろくな返事を出さなんだのは忙しかつたからである廿三日から盆といふへんてこな農村の慣習に住んで借金取對抗策を講じてゐたからである貧乏人の苦しみは現實に苦責を受けるそれが濟めば氣樂なものである精神界とは甚だ交渉が遠い交渉は遠いが是がために縛られる貧乏の繩に縛られて見ぬやうな男は共に語るに足らぬ斯る時妻子が餘計に氣の毒になる大切になる同情が出る自分が貧乏の繩に縛られて妻子共の寂しい顔を眺めてゐる時君へ書くべき手紙は全く忘れてゐた神樣でないから仕方がない
卓君と不二見の散歩は極めて靜寂であつたむしろ嚴肅であつた天の夕暗に地の薄墨山も森も沈黙の中に野の白い花を踏んで歩く時無音の二人は天の妙な威力に感じ入つた批評の態度から冥合の域に進入したのであつた斯る時人間はいくら沈黙してゐても躁急なものである一歩を移す時天は人間よ靜かなれと言ふ二歩を移す時更に靜かな(80)れと言ふ三歩四歩五歩する時自分の足音も耳に入らぬ自分の形骸も吾念から離れる天の命令も耳に入らぬ自分が天地と合體したかせぬかそんな事も分らぬぼんやりとして野の道が盡きる時林の聞から灯が見える人聲が聞える夢からさめたやうにぷらりと宿屋の前に立つ詞では表せないが書いて來るとこんなやうなものになる書き表す事は出來ぬものに相違ない絶對の域に立つものを書き表す事は大文豪でも恐らく出來まい人間には出來る事であるまい大自然に讃美する極は絶對である山上の白雲に立つてもこの域に入る大海の孤島に立つてもこの域に入る十里の杉林を歩して氣死し鳥鳴かざるの境に立つてもこの域に入る爽快から沈痛に入り沈痛から嚴肅に入り嚴肅から冥々に入るこんな順序のやうに書いて見るがこれで表れてゐるものぢやあるまい斯の如き順序を通るものとして吾人を絶對の位置に立たしむるものは人間でも天然でも感化の模樣は同じものであらう偉大なる人間偉大なる天然この二者から得る吾人の感化は同意味のものに相違ない不二見野を歩き乍らワシントンを語つたリンコルンを語つた西郷を語つた子規先生を語つた大自然に感歎するの極大偉人を想出すのは吾人の自然なる順序であると思ふ卓君と北山志都兒訪問の事を書かうと思つたが筆が茲まで進んで來たから序に猶横道に這入らう吾人が|自然〔付○圏点〕の威靈に接し|人間〔付○圏点〕の偉大なる性格に接して受くる感激は少くも吾人の眞の力を養成助長するものであるこの力が根本であるこの力より歌も生るゝのだ力より生れぬ歌が作り歌となるのだ感激にも種々ある一寸面白い爽快だ嚴肅だなど云つてゐるうちは淺薄を脱せぬ感激は絶對の域に達してはじめて極限であるこの極限を一度通る二度通る何度も通り得る人は眞に幸福な人である偉人の研究はこの點に於て甚だ有益なものである吾人同人が歌の研究をするに半面にこの研究がなくちやならぬ事を痛切に感ずる
君から歌について熱心な研究問題を提出するのは嬉しい僕は決してのんきに思つてゐるつもりは無い併しこの研究問題は歌の研究として必しも根本的のものでない事を忘れちやならぬさう言いつても研究問題の熱を冷さんとするの意では無い是を思ふ時彼を忘れぬ用意を言ふのみである第一問題第二問題乃至第三四に至るまで猛然として(81)進み進んで倦まぬの用意が必要である君が盛に言論を寄せるので小生も大に興奮されるやうな氣がする百年の事業も一歩から進まねばならぬ百年の氣ありて一歩のづくなき如きは宜しくない小生もたま/\一歩のづくを無くする事があるすべての研究問題は共に勉勵するつもりだ只餘り足元から火が附くやうに性急にせめ立てるな足元がマゴツイて困る呵々 過日長い御手紙中松本で逢ひし時話した事が大分あり候故大略左に御返事申上候
「れり」は好まずといふ事譯なき事なり此間面談の節も過去になり冷淡になるとやうの説ありたれどそんな事少しも無しと今日にて愈々思入候「れり」は矢張り助動詞的のものなり詳しく云へば|れ〔付○圏点〕は四段活(主として)良行の働きにして|り〔付○圏点〕が助動詞的につくわけなり良行ならずともこの|り〔付○圏点〕は「吹け|り〔付○圏点〕」「押せ|り〔付○圏点〕」「打て|り〔付○圏点〕」「思へ|り〔付○圏点〕」「汲め|り〔付○圏点〕」などつきて小過去の意味になる大槻の廣文典矢張り助動詞小過去の部に説けり文法上では小過去としても現在的に感じうる事|つ・ぬ〔付○圏点〕などと同じ「たり〔付○圏点〕」などの大過去でさへ現在的に感ずる事ありその例乏しからざるべし「れり」と用ひても過去りし感ある事も現在的にとる事も場合によりて有之べき也
江つたひにわがゆく舟の舟はた|に〔付○圏点〕葦葉|は〔付○圏点〕さやる|わが〔付○圏点〕肩|の〔付○圏点〕へ|に〔付○圏点〕
詞が第一に|こせつき〔付○圏点〕て居り候「に」「は」「の」「に」の弖仁波やら「わが」の副詞やら斯樣のもの多きに過ぐれば(殊に結句)歌を摧き候「葦葉|は〔付○圏点〕」など強く言ひても強くならず只調子くだけるのみ「我肩のへに」は目的格二個になる故すてたには無之候舷に觸る上に猶殊更に肩といふ事重く加へたりとて景情を添へずアンナ云ひ方をすれば「わが肩のへに」が非常に重くなり過ぐる故
江つたひにこぎ行く舟は寢ころぶしわが居る顔に葦葉さやれり
と訂正したつもり也これならば葦葉さやるが重き感じを掟へ可申候けれど猶他になほしやう有之べく候寢ころんでゐる顔に葦葉さやるイヤな感じでは無之候(小生は)顔にさはるがイヤな感じだなど實際ならばこの歌のやうな處(わが肩のへにのやうな處)へは遊びには行かれぬ肩へさばればよい感じだが顔にさはればイヤな感じだな(82)ど云ふ人葦茂る汀に舟をやり得るや長汀曲浦青蘆亂るゝが中に遊ぶおもしろさが分らぬと思ひ候そんな小膽な事云ふ事面白からず候如何
その他の事は別に御返事に及ばぬ事のやうに候短文募集賛成に候第四號より掲げるべく豫告して置いた題は「屋根」なり比牟呂ももう出る長い批評たのむ二號の時は誰も何とも云はず張合拔いたし候きのふ今日雨堀内寒いだろ書き殘しアレバ直ぐ書く 八月廿五日 柿生
望月詞兄
一〇七 【八月廿九日・封書 下諏訪町より 東筑摩郡島内村 望月光男氏宛】
コノ手紙トコノ前ノ長イ手紙ト堀内ニ元シテ二人デ話シテ見給へ胡君ニモ拜復大に叱られ困入り候
一、研究云々は賛成なり
君ハ不賛成ト云ヒモセヌニオコルノハ分ラヌ色々ノコトト一緒ニ審イテヤツチヤ惡イノカ、グヅル事ニナルノカ僕ハ明了ニ賛成ダト書イテヤツタト思ツテ居タ
一、望月ガ根本ヲ知ラヌカラ共ニ研究ナドイヤダ 二、久保田ハソンナ歌ノ研究ハイヤダ 三、久保田ハ根本問題バカリ振廻シテエラガル
コノ三場合ノ一若クハ二若クハ三ノ原因ニヨツテ久保田ハ不賛チイヒ若クハ言ヲ左右ニ托シテヰル宜シクナイ男ダ
君ノ言分ハカウダ隨分ヒドイコンナニ深ク立入テ僕ヲ叱ルナラ(?)僕ハ何モ云ハヌ只君ノ怒ルニ任セテ置ク
二、根本問題(コンナニ箇條書ニスルト根本問題トイフ字ガ殊更メキテイヤナモノニ見エル)
(83)君ハ根岸派ノ振ハヌハ礎ガ重ク強クテ建物ガ弱イカラダト思ツテヰル全然話セナイ
根岸派ノ振ハヌハ礎ガ重カラザルニ坐す礎ノ重サヲ今ツト頼母シクセヌ内ハ何年タツテモ振ヒツコナイ君ナドガソンナコトヲ云ツデヰルノヲ見ルト君ノ根本問題ハ幼稚ナモノニ相違ナイ君ノ歌ニ近來力ノナイ感アルハ原因ガココニアル今ツト人間ヲ研究シタマヘ猫ノ歌モ水泳ノ歌モ馬ノ繪ノ歌モ君トシテ一通ハ勿論マトマツテヰルケレドモ重ミガナイ君ノ根本問題ニ缺損アル所以也吾々ハ月並ダトカ俗ダトカ云ツテ人ヲ罵ル併シ乍ラ今ノ精神活動ノ過半ハ(コトニ和歌ニ於テ)故子規先生ノ力ヲ通シテ活動シテヰルノダ眞ノ人間トシテノ|自己ノ力〔付○圏点〕ハ未ダ/\カ弱イモノダト深ク信ズル|自己ノ行爲自己ノ心事ヲ深ク反省スルトキ吾人ハコノ感コトニ深シ古人ノ偉大ナル心事ニ接スル時吾人ノ小ナルコトラ感ズルコトニ深シ〔付○圏点〕
吾人精神ノ生活(即チ根本問題)ハ吾人ノ全部也吾人ノ和歌生活ハソノー部也君ハ聞キ飽キタト云フ彌々哀レナ者ダ僕カラ聞キ飽キタナラ何モイハヌガ君ノ心ガ斯樣ナ問題カラ聞キ飽キタトイフナラ君トシテノ大事件ダ 君ガイクラ君ノ所謂建築(礎ニ對スル)ニ腐心シテモ何ニモナラヌ斯ク云フハ建築問題ヲ冷セトイフノトハ違フヨク考ヘ玉ヘ
三、「レリ」問題
萬葉ニ用ヒテナケリヤ何ゼ用ヒテワルイ「セリ」ヤ「埋レリ」ダケハヨイガ他ノ「レリ」ハイヤトハ受取レヌ話ダレリヲ用ヒテ振フモノモアル振ハヌモノモアル日本ノ國語ノ一種ノ働キヲ全然歌ニ用ヒヌトハ何ノ根據アル考ナリヤ感服出來ヌコト也僕ノ用ヒシ「レリ」ガマヅイト云フ論ト「レリ」ハ全體ニワルイト云フ諭ト混合セザランヲ望ムコノ「リ」ハ動詞ニアラズ全ク獨立シタ助動詞ニモアラズ思フニコノリハハジメ左變「セリ」ナドニ働キシニ始マリ追々後代ニ至ルニ從ヒ四段活等ニ及ビタルモノナランカ(憶測ナリ調ベテ見ント思フ)現時ニ於テハ兎ニ角立派ナ國語ノ働キナリ君ハ弱クテ緩クテ歌ニ採用出來ヌトイヒ小生ハ君ノ思フヨリモ重ク(84)テ採用出來ルト云フ水掛論トモ見ユ第三者ニ聞カントナラ君ノ却リ居ルスベテノ「レリ」歌ヲ示シ玉ヘ一ツデモ物ニ成リ居レバコレレリガ歌ニ恰適ノ場合ヲ實證シタルモノナリ 八月廿九日夜 梯生
光大兄
一〇八 【九月廿二日・封書 下諏訪町より 東筑摩郡島内村 望月光男氏宛】
拜復子規忌一人にて御營みの由寂しき中に樂しかりし君の風※〔蚌の旁〕想像出來候
布半會の模樣胡君から御聽きならんと存じ候胡君去りて後梨村來り作歌いたし候梨村新に父を亡へり彼は今後一家の主人公となりて立たざるべからず境遇の變遷は人生の危機也墮落するか人間を上げるかの岐れ目也彼にこの警告を與へんと思ひし處へ丁度逢ひたり彼曰く余は墮落せずと而してその面を見るに極めて平穩無事なものなり彼猶曰く余の校長たる以來身を教育に委するや極めて深刻なる意義の上に立てりと、梨村の如く平穩な顔付にて自己の深刻を云ひ不墮落を云ふ人餘り見た事なし歌多からず木兎はあとより送るといひ胡君もあとから送る筈也送つた上君の方へ廻すべし
小生の歌評有難し眞面目に批評されるは人生一の快事也あの作只小生作歌の動機に或る興奮ありし事を見てもらへばよいつもりだ第三首「霧さむき野べ」の結句動く動かぬの説も連作大體上より見てこの連作の意想が霧に適當なりや不適當なりやを先決問題にして貰ひたし連作大體の精神が(1)霧に不相應ならば(若くは霧でも何でもよいとすれば)全部失敗なり(2)不相應ならざれば只その中の一首の結句「霧さむき野邊」が「月さむき野邊」に動く「梅の木のかげ」に動く傾向ありても小生は苦にならず尤もこれは「霧さむき野」「月さむき野べ」「梅の木かげ」等が結句としてながら同等に据る場合の事をいふ也小生は今一つ連作につきて「連作中には時として一二首」の平凡なれども缺くべからざる――或は重きを成す――歌が交る事を許さざるべからざる」事を思ひ居り候
(85)兎に角あの連作が小生の意を言ひ盡したる思は不致君が「云ひ足らぬ感あり」は甘受いたし候「悔なく思ほゆ」を「悔なし」とやうに強めたきは同感なり第八首霧の季なきは霧が入らずにまとまりし故まとめて置けり連作中には(殊に課題の如きは作りものに傾くもの故)この異例必しも不可なしと信じ居り候(ヤタラ題ヲハナレルトハ違フ)否寧ろ今後の連作は(課題の場合也)斯樣に發展して行き度く存じ候
題詠の場合連作大體の精神が題に副つて居れば題の入らざる一二首は交じつて不都合なし。是却て題詠の弊を除く一生面なるべし
夫れぢや全く題詠を止めろといふ人あらば譯の分らぬ人なり題詠にしてはじめて得べき想ありこれ題詠の無用ならざる所以也左千夫の「戀嫦娥歌」の如きも空といふ題ありてはじめて得べき想なりあの十首中二三首は空といふ事入り居らず是連作として益々生氣に富み居る一方の例證也以下貴詠の評をいたし候「七」といふ題は全部失敗に候「七カヘル大人ガマカリ日ツカマツル科野男子ヲ知ラズアラレキ」「七年ノ遠ノヨミヂニミ心ヲ安マセ大人トイハマク思ヘド」二首を除けば悉く故意に生みたるの感ありこの二首も材料の自然なるに似合はず感じ強からず平板に候平板なるべくして平板なるはよし「デアボロといふ遊びせりけり」これらの二首はこんな熱なき云ひ方失敗に候その前の歌七周忌の歌は比較的宜しけれど矢張熱が不足に候材料は七周忌として皆自然也その自然な好適な材料を詠じ乍ら感じに強みを覺えざるは熱を以て作らぬ故也「歌は宜しく自然なるべし」など思ひて歌を作る事已に不自然なりその事已に規矩を成《ツク》れば也作る時は只「感じ」あるのみ感じにて作る時規矩なし拘束なし天馬空をかけるの自由を存して一氣三十一文字を呵すこれ作歌の理想なり
コトハリハ論ラヒセズ只管ニ大人ガ心ニイソヒマツラン
クレ竹ノ根岸ノ大人ハ目ニ見エズ目ニハ見エネド我ヲ守レり
歌思フ片トキ大人ヲ忘ラエズ靈在スコト疑モナシ
(86)何ニヨリ歌ハヨムヤト吾ニトハバ大人ガミタメト答申サン
の如き最も散文的で感じが乘らず
世ノ中ノヨロシキ歌ト大人ガ云ヒシ事ヲマコトト只歌ヲヨム
是等が失張理性で作つたものと思はれ候信仰の極意は勿論斯の歌の内容の如し然れども眞にその極意に達したる時只歡喜あり歡喜の至極して言語に發表する時はじめて風動の生氣を生じ來るこの歌の現はす所只子規信仰の箇條書きに類す何れの處に歡喜の響きを聞き得るやその他猶散文的のもあれども猶「七」の課題よりは取り得べしと思ひ候馬醉木終刊號志都兒子規忌の歌是非御覽希望いたし候甚だ惡口申し候へ共君の歌の缺點は感じの深からざるにある事左千夫の端書の通なり同人みな左樣に感じ居ると思ひ候君が「根岸派は根本が振つてるけれど即ち礎石が振つてるけれど建築が疎漫だから六年間著しき進歩ありやを疑はしむ」とやうの語を寄せしを見て君の根本の甚だいぶかしきものなるを思へり吾人凡小畢世の修養を累ぬるも猶根本の淺からんを恐る然るを君は一言の下に根本は振つてるが建築がいけぬといふ是れ君の根本と稱するもの果して何物なりやを訝る所以也口で云へば直ぐ振へばよいがさうはいかぬ只心全く根本を疎外するもの果して根本の振ふを得べきか
君に一美質あり露骨に自己を発表する事也只是あり是故に君は自己を進め得る機會に遭遇するを疑はず現に僕へ極めて正直な所を云つて來てゐるから僕が微言を書き送るに忌憚なく云へる見當がよく分る故なり
男兒處世の奮勵あり不平益々大なると共に奮勵益々大なり悲哀益々深きと共に歡喜益々深し不安益々深きと共に安心盆々深しこの兩面を有するの機に接したる者は已に餘程根柢を有する人なり
余の意は建築は疎漫でもよいとの意ならざる事猶御承知ありたし
左千夫先生のはがき拜見せり訂正問題はじめより左樣に重大に思ひ居らず久保田が小刀細工したといふ事甘受いたし候れり問題につき云ふ事澤山あれど今夜は省き候妄言多罪 九月廿二日夜 柿生
(87)光兄几下
追加長野新聞歌アルノダケ今後送ル
一〇九 【九月二十二日・封書 下諏訪より 長野師範學校 河西省吾氏宛】
拜復暑中休御來訪二囘乍ら不在遺憾至極也その後書面怠りし罪御許し下され度候
白根行歌拜見君のは濫作で困り候今つと數を少くしてよく錬るが肝要に候頭に深く感ずる所あればそれを可成緊密に現さんとするには無造作にては現るべからず無造作にても現るればよけれど現れぬものを自らよしとして甘ずるやうでは根本の感じが強く深くなき證左となるべし強き深き感じあれば必ず現れるまでは苦心するの努力を伴ふ筈と存じ候これが君の作に對する不平に候新らしき所を發見して生氣常に活動して居るは君の着眼の特長なりこの特長に一層の熱を伴はしむべし御熟考希望いたし候鑛物旅行愉快想像いたし候芒美を聞いて魂飛ぶを覺え候佐久は信州の原野也佐久の美は秋にあり更に滿目蕭條の冬にあり佐久で一、二年暮したい
比牟呂三號屆いた事と存じ候※〔鷄の鳥が隹〕のトヤ時機にて目下大に具合惡しく候今少したてば※〔鷄の鳥が隹〕屋繁昌可致候十月初旬不二見原にて比牟呂誌友會を開き可申左千夫も來る筈に候長野新聞へ歌澤山やりあれど共進會とやらで大騷して居り一向出さず張合なし新聞などでやる事は淺薄なもの也只比牟呂が吾輩の生命也 九月二十三日 柿乃村人
河西省吾樣
青魚 省吾ニ肖ル戯レニ代フ
一一〇 【九月廿九日・封書 下諏訪町より 中洲村小學校 小林善一郎氏宛】
御老人御逝去の由御悲傷御察申上候さう病人頻々にては定めて御辛苦一通りならざりし事と存上候左樣な目に逢(88)ふ事人間として一の大切なる修養には相違なけれど辛酸は何處までも辛酸悲痛は何處までも悲痛に有之候左千夫又々來遊につき今度は不二見油屋にて比牟呂同人會相開き可申十日初旬(三日か十日か)になるべく確定次第數日前に御通知申べく候處々御旅行の由子供の世話隨分苦勞の事に有之候一人でのんきな旅行をすると違ひ申候比牟呂原稿追々御送下され度候御返事のみ匆々 九月廿八日 柿生
山水樣
長野新聞課題「草花、夕ぐれ、垣」十月十五六日迄に出來候はゞ御送下され度候左千夫の比牟呂批評は君が旅行中との事故あとから廻す御承知あれ比牟呂誌友會は十月十日と決定す 〔封筒ニ追記〕
一一一 【十月三日・封書 下諏訪町より 玉川村小學校 小尾喜作氏宛】
拜啓金ノコトデ申上ゲル此間ノ二十圓今二三日タタネバドウシテモ出來ヌ(餘所カラ送ツテ來ルモノデアル)ソコデコノ二十圓ヲ來年四月迄借リテ置カレレバ極メテ好都合デアル實ハココデ廉價ノヒヨコヲ買入レ度イノダ來年四月ハ退職金ヲ二百圓足ラズ貰フソノ時ハ相當ノ利ヲ附シテ返ス併シコレハ今日急ニ考ヘ付イタノダ直グ返スト云ツテ來年迄ナドイフノハ甚不都合ノコトニ思フ只君ノ方デ都合惡シカラヌ範圍ニ於テ頼ミ得レバ頼ムトイフノダ君ノ方デ不都合ナラバ勿論直グ御返却スル併シ二三日若シクハ四五日待ツテ貰ハネバナラヌ至急返マツ
十月三日 俊彦
小尾木兎君
長野新聞課題直ぐ送れ(草花、夕暮、垣)めた作れ
一一二 【十月十六日・端書 信濃下諏訪町高木より 東京本所區緑町三ノ三十二瀧澤方 古泉幾太郎氏宛】
(89)拜啓意外の御來遊非常に愉快に存じ候御無事御歸京の由今日御手紙拜見いたし候信州人の批評おもしろく拜見歌會席上の歌など振はずともよろしく候御作りならば今月末迄に御送願上候左翁雨に降られて豫定より後れし事と想像いたし居り候アララギ未だ來ず待遠く候信濃同人につき猶御気付の事あらば無遠慮に御申送希望に候はがきにて失禮 十月十六日夜
一一三 【十一月九日・封書 下諏訪町より 東筑摩郡島内村 望月光男氏宛】
拜啓手紙出さう/\として失禮いたし候堀内より別紙來り候間御送申上候堀内へは斷然退校して歸れと申やり候小生昨夕長野より歸り候不折の「老人」「女彫刻師」の前に立つて二日間過し候彼は明治の大天才也只々感嘆いたし候一茶の展覽會も一寸面白く大本願の彫刻物と繪畫ともよろしく候此三所にて大に得たるを覺え候歸途松本へ立寄る能はずさう遊んでは居られず御察し下され度候長野新聞課題御送願上候 十一月九日 柿生
光君
此間の松本會おもしろく候酒のんで騷ぐも面白く候
一一四 【十一月九日・封書 下諏訪町より 豐平村上古田 小尾喜作氏宛】
別紙歌稿御返し申上候粗末なる批評削正御寛恕下され度候君のは意想皆振ひ居れども云ひ表はし方未だよろしからず併しこれはよき傾向に候兎に角萬葉集を一つ研究して頂き度しそのうちには解つて來るべく存じ候永田登茂治君詠草を送る果して皆宜し欣喜のいたりなり玉川學校あたりで月に二三囘づつ萬葉研究會を開いては奈何人數は多きを要せず熱心の少數者にて可なり確實に行はるれば毎囘小生參上講釋(ト云ツテハ失敬ナレド)もし意見も交換すべし此事雉谷君定治君その他諸君に御相談ありたし原田泰人なども勿論賛成希望なるべし但し小生より(90)強ひるのではなし先は右のみ餘は後便にゆづる 十一月九日夜 俊生
小尾君
一一五 【十一月十六日・封書 下諏訪町高木より 北山村湯川 篠原圓太氏宛】
柿ハ一俵送ル今少シ待ツテ呉レタマヘ
コノ頃ハ毎晩一時過マデ比牟呂ヲ書ク歌ヲ作ル長野新聞ノ歌ヲ書クコンナコトデ晩ク寢ル今夜ハ早クカラ厭ニナツタ眠イ寢ヨウカト思ツタラ君ニ手紙出シタクナツタ手紙ヲ出シタクテ何日モ居タガ錢ガ無イ今嚢ニ六錢アルコレデ手紙出シタイガ明日柿モギ人足ガ來ルコレ二十五錢カ二十錢ヤラネバナラヌ六錢ハコノ足シニスルソレデモ六錢デハ不足ダ又向ウノ家ヘ借リニ行カネバナラヌコンナコトデ何度モ借リニ(貰フ?)行ク九月カラコンナ調子デ暮シテ居ル貧乏ノ味ハヨク分ツタ平氣デ貧乏ノ味ハ嘗メテルツモリダソレデモ時々苦シイコトガアル君カラ借リタ四十圓ハ實ニ命ノ親ダアレガ無ケレバ今頃何ヲシテ居ルカ分ラヌ比牟呂ノ金ニ大部分使フツモリノガミンナ自分デ使ツタ申譯ナイ事情ヲ察シテ許セソノカハリ比牟呂ノ金ハドンナ苦心シテモ自分カラ出スソレデ罪ハ差引ニナルダラウ比牟呂原稿ハ未ダ松本ヘ送ラヌ君ノ原稿ナキハ不都合千萬ナリ故ニ苦シキ一錢五厘ヲ出シテ催促シタノダ今夜考ヘテ見レバ君ノ事バカリ催促シテモ僕カラツバナ會ノ歌ヲ送ツテナイ他人ノコトバカリ云ツテヰレバコンナヌカリガアルツバナ會ハソノ後ドゥシタ少シハ集マツタカ何シテモ逢フコトガ必要ダ布半デ菓子ヲ食フコトガ必要ダ斷然出テ來イコレデヤメル 十一月十六日夜 林乃村人
一一六 【十二月七日・封書 下諏訪町より 長野市師範學校 河西省吾氏宛】
拜復大に御疎音いたし候試驗にて御骨折のよし小生壯健養※〔鷄の鳥が隹〕罷在候間御安心下され度候
(91)過日御送「白根行七十餘首」著想皆面白けれど聲調整はず殘念に候二十首足らず多少の削正を加へて比牟呂に出し置候君のは想が働いてるから修正すれば皆物になる今後和歌の聲調について御研究希望いたし候聲調を顧みぬ歌は三十一字併列した處が韻文にならず 君の歌の缺點は慥に此點にあり萬葉その他につき御會得希望に候萬葉の歌は平凡なものに至るまで聲調整然としてダレ味弱味なきはその當時の時代風の然らしむる所と思はれ候
今囘の「易水歌」は白根歌に比して大に劣れり荊軻の事實を寫したる以外何等の働きなしあれだけの事ならば君が荊軻を見ても中學生が見ても小生が見ても同じ事なり河西省吾の見た荊軻としての特色なければ詠史として何等新生命を得る事なし匕首易水蕭々の如きは只作歌の材料なり材料のみでは強くも弱くも感じを與ふる事なし琥珀だの瑠璃だのと云へばもう立派な歌だと思ふと一般なり材料陳列は幼稚な人に示すこけ嚇しの看板なり易水の歌匕首易水など陳列せるのみにて一向深き感じを與へざるは無用意に過ぎたる證據也
長野新聞の歌いけずば自分から振つたもの澤山作つて振はすべし只だめ丈けにては物足らず根岸派の不平幼き事也。手ぬるいとは何のことなりや手ぬるからぬ歌御示しあるべし小生より見れば君の易水歌の如きが手ぬるき淺き者と思ふ御歌所晶子の歌などいふ所を見れば君には根岸派の歌がほんとうに分り居らぬ事と思はる晶子のどの歌が氣に入りしや御示し可被下候人生に直接云々の事之もをかしな事也人生を問題とすれば直に人生に觸れてゐるなど思つては困り候自然物をよめば人生に接せぬなど思つては困り候アララギ一號左千夫の歌に新しきもの非常に多し御熟読希望いたし候根岸派の現状に滿足せぬは小生も然る所なり只君の不滿足と小生の不滿足とは意味相違し居らぬかと思はれ候思ふことそのままに記るし上け候氣に入らずば折返し御手紙有之度候昨日湯川より車を曳來り今日腹筋痛く執筆不自由亂筆失敬多謝冬休には必御面談いたし度候 十二月七日夜 林乃村人
一一七 【十二月十七日・封書 下諏訪町より 富士見村神戸小學校 兩角喜重氏宛】
(92)本日石圃山人來ル北山ノ件全然承諾セリ
一、北山生活ヲ數年ヤツテ見ンノ興味アルコト
一、今ノ農生活ヲ數年延期スルノ多少利アルコト
一、身上ノ都合ヨリ云ヘバ右ノ如シ種々御心配有難ク御禮申上候不二見ノ件當分沈著ナルベシ輕動ヲ戒メラレタシ 十二月十七日 柿生
維君
一一八 【十二月十九日・封書 下諏訪町高木より 諏訪郡北山村 柳澤市之丞氏宛】
只今郡役所へ出頭黒河内君に逢ひ今迄の經過一通りを話し置けり是れ已に小生が北山へ承諾せる以上當然取るべき順序を踏みしまでなり依頼的の文句は一言も云はずに置けり〇視學の意見と共に一課長の意見は重大の關係を有せり〇役場の決心を極力示し置くより他に道なし右一寸御報申上候匆々敬具
〇出町郡役所へ何か御申出でならばそれ前に松川屋へ一寸御よび下さるべく候 十二月十九日
一一九 【十二月二十日・封書 下諏訪町より 埴科郡寺尾字柴 小沼清松氏宛】
山越君に此はがき御見せ下され度候
拜啓新年課題と雜詠と今日拜見いたし候非常によきもの兩君共散見うれしく存じ候(旋頭歌にも面白きがあり)由來信州北部にて歌の振ひし事なし今迄投稿のもの何處の人も非常に低調にて張合なく思ひ居り候處兩兄の歌一囘は一囘より進歩の跡ある尤も嬉しく感じ申候三年や五年で屈撓せぬ勇氣を持して御進みのほど至望に存じ候はじめての手紙にはがきなどで申上げ失禮に候へ共御許し下され度候今月發刊の「比牟呂」一册差上げ候同誌初めの(93)小生の歌は不成功に候何もかも意見は露骨に御申越下され度候露骨を缺くと停滯する 十二月二十日夜
一二〇 【十二月二十三日・封書 高木より 下諏訪小學校 森山藤一氏宛】
先日は有難く存じ候どう工面しても今十圓ばかり不足にて困入り候君の處で今十圓出來るか五圓出來るか全部出來ぬか御返事願上候その模樣で何處か探す必要有之候出來るとすれば何日頃出來るか併せて御報願上候
借金 十圓也――活版屋 五圓也――時借金 五圓也――年末の拂也小使 〆二十圓也
入金豫定 五圓也――東京雜誌社 五圓也――比牟呂集金 コノ集金六ケ敷モノナリ 〆十圓
差引不足十圓也 無理ナサンダン無用也
妻未だ産まず早く産ませてのんきに遊びたし北山の忘年歌會には此分では行けぬ 廿三日夜
一二一 【十二月二十七日・封書 下諏訪町高木より 北山村 篠原圓太郎氏宛】
比牟呂評有難く存じ候大體に於て異存無之むしろ賛成也小生の歌全く失敗也胡君のは君の見る以上によい所ありと思ふ君の云ふ弊あるは勿論也雲袖歌貴評と一致す卓君のは第一首が比牟呂中の壓卷也長塚君からもほめて来れり禿山評大賛成也その他大抵賛成也「比喩歌」はあれで悉《つく》せりや否やは知らずアソコに書いただけは當を得て居ると信じ候左翁は無理に論を作つたやうだと申來れり意外なり小生は無理に論を作つた事は一度も無いつもり也不二見會「秋草のしげき思をいひかてにまつはる露を手に振り落す」を「比喩歌」と同筆法にて不平云ひやりし故その不平いふために「比喩歌」一篇を作りしやに思ひしかと存じ候困入り候絲瓜の件貴説おもしろしあれは九月十八日の詠なり三十五年九月十五六日が名月にあたりしやソレが確かならば貴説おもLろく候君は明月と書いたがあれは名月の誤と存じ候竹舟の元氣尤もうれし柳ノ戸より今日久し振の手紙來れり新年から大に作ると云ひ來れり(94)柏原連果して振起せば愉快也望月子規忌の歌小生は大によしと思ふ貴君と異る散文と異らずとはひどいと思ひ候齒のいたみ如何大した事なきを折り候出産未だ無し忘年會ダメとなれり來春新年會開き可申候この間の御送金正に拜受只々大謝いたし候今年の越年は甚だ不景気なりそれも不都合なし取急ぎ御返事申上候 明治四十一年十二月廿七日 柿生
北山學校の件承諾はせり郡視學がいやがる由也どうなるか分らず赴任するかも知れず黙つてゐてくれ
志都大兄
比牟呂五號へ出すべく候
一二二 【十二月廿七日・封書 下諏訪町より 北山村柏原 兩角福松氏宛】
久し振で御書面拜見うれしく存じ候實を申せば柏原連中へ比牟呂やりても誰も何とも云ひ來らず不平に思ひ居り候勇氣已に銷失せるに非ずやと思ひ居れり昨日志都兒より比牟呂細評ありその内に竹舟が志都兒に逢ひ元氣相變らずで嬉しかつたとあり今日又君から比牟呂評來る一種の來柏原に磅※〔石+薄〕せるを思ひ候新春匆々捲土の勢を持して御振起のほど至望に存じ候御評大體賛成に候四號の作は三號に比しても劣り居り候只傑作といふものさう頻々と出來るものに非ず一年一囘快心の者を出す猶且つ足れりとすべし要は休息なき努力に在り弛緩なき策勵に在り努力策勵が處世の上作物の上に間斷なく存する以上五年十年二十年の間何時か或ものに到達すべきを信じ居り候大なる熱心の反面には大なるのんき無かるべからずのんきなるが故に熱心なきに非ず此消息御靜思希望いたし候小生の病友を思ふの歌多少新しきものを拓くつもりで失敗いたし候今見れば調が全く緩び居り候長塚君は堀内卓の
いささかの高きによれば宵更くる草野に低き沼明り見ゆ
一首をほめ來り候この歌小生も非常によいと思ひ居り候寫生を出でゝ或域に至り得しものと思ひ候小生の布半歌會(95)二首は自分でもさう惡く思ひ居らねど猶卓君のに比して所謂作者の或物(或る感じ)を現し居らずと思ひ居り候足が地にのみついて居て頭の方の感じが足らず候頭の方の感じのみにあこがれ候時足が地から離れるも一の弊也足と頭との關係尤考慮すべき問題と思ひ候この事歳のうちに北山にて忘年會ひらき諸君に逢つた上話し度かりしも妻出産迫り居るためその意を得ず新年どこかで會を開き度く思ひ居り候小生の「比喩歌」は單に比喩歌のみならずすべて歌の調といふものにつき考へたつもり御意見伺ひ上げ候今度は二月に出し可申一月中に原稿盛に御送下され度付舟工圭珂堂にも御奬め下され度候只貧生活の上に誌代は多くは集まらず發行毎にその問題に窮し居り候ため君方に誌代の催促する事心苦しく候へ共シカタなし御寛恕願上候
學校問題御好意謝し上げ候小生の眼中には村政もゴタ/\も何もなし關君の去りし後村民がいかにゴタ/\云ひ居るやも顧慮する必要なし學校に北山の子供を集めて教へる事の外何の關する所なし面倒不面倒などいふ事今迄一度も顧みし事無之もし北山に行けば君等と研究も多少餘計に出來るやうな氣がいたし居り候教員といふもの氣が小さく評判惡しきかよきかなど顧慮しつゝ仕事する故絶對神聖な教育出來ず哀れなもの也教育でも歌でも用意に二なしと信じ居り候教員らしき教員をして志成らぬ時退くは教員としての成功なり貴答まで匆々 十二月二十七日正午 柿生
柳兄
竹舟工圭珂堂三君に此手紙御示し下され度候
一二三 【月日不明・封書 下諏訪町高木より 上伊那郡飯島村 蘆部猪之吉氏宛】
この手紙書き終る時牛前二時、金のこと思うて未だ眠らず 柿の村人
芦部芦庵柿の村人
(96) 明治四十二年
一二四 【一月一日・端書 信濃下諏訪町より 東京赤坂區青山南町 平福百穗氏宛】
賀正 吹雪の中に水を汲む菽桿を焚く 元且
一二五 【一月七日・端書 下諏訪町より 北山村 篠原圓太氏宛】
二枚ハガキ拜見新小説御送申上候間御覽下さるべく候君のハガキと左千夫のハガキと共に來り新小説を君に送るべき事が分り候それならば今つと早く送ればよかつたホトトギス長塚君と左翁との小説御覽と存じ候非常に振ひ居り驚嘆以上に驚嘆いたし候新小説の方のは胡頽子に比すべきものに非ざるも猶よろしく候自然派先生たちよりズツと拔け居り候根岸歌人の斯る活動は實に心強く忍ばれ候吾人の自重すべき所以益々明確になり來り候アララギも非常に賑はしく只々嬉しく候卓の歌丸で段違ひに拔け出で居り候茂吉君の研究おもしろけれど少しづつ徹底せぬ感ある事貴意の如く候比牟呂同人の自重すべき所以益々重くなり申候新年會は十六日頃になり可申改めて御報可申候その際例の草餅十切ばかり御ねだり申上候妻出産延引驚入り候併し健康御安心あれ 一月七日夜
一二六 【一月十三日・端書 下諏訪町より 東京市本所區緑町三ノ三十二瀧澤方 古泉幾太郎氏宛】
(97)貴兄の作には新しき傾向慥かに現れ居り候いかに変遷し行くべきかは注目の價あり(失敬々々)左翁の採草餘香の「一」は分らず「二」「三」おもしろく候堀内卓ノハ大ニヨシ
一二七 【一月十四日・封書 下諏訪町より 富士見村神戸小學校 兩角喜重氏宛】
拜啓種々御心配被下候へ共郡役所の模樣惡しき樣子故斷然北山行は小生より取消し可申此件の御厚志御禮申上候小生のために北山教育をゴタつかせ一方郡役所と北山村役場との折合を損ずるはイヤの事也諸君の御好意只々感謝いたし候少くもスワでは教員はやらず候 一月十四日
雉夫兄
〇今日女子出安産母子健康御歡び下され度候忙しき故亂筆御めん下され度候
〇二十二日に比牟呂新年會を開く追て御通知申べく候
一二八 【一月十九日・封書 下諏訪町より 北山村湯川 篠原圓太氏宛】
拜啓今日はがきにて新年歌會のこと申上け候定めて御落手と存上候實は妻出産後四日目即ち一昨日より發熱四十度以上に達し昨日は大心配いたし候處今日餘ほど宜しく此分にて經過せば成績良好なるべく思ひ候へ共萬一二十三日の會に出られぬやうな事無きかと懸念致し居り候付ては當日君や小生が居らずしては不都合と思ひ候故貴兄は是非繰合せ正午頃までに布半に御著下され度君も小生も居らねば來會者皆引返し可申候尤もこれは萬一の場合の事にして大した差支さへ無くば小生も勿論午前より布半に行き可申條兎に角右よくく御願申上け置き候
次に左翁よりの來書君にまはすべしとの事なりしが前述の如き有樣にてこゝ數日間ごたつき居り延引いたし候今日同封差上げ候間御覽下され度候書中長塚云々の件は長塚君に氣の毒と思ひ候小生は事情多少知り居る故餘分に(98)左樣思ひ候何れ御面談可申候
次に南信日日の選歌小生は止め度くそして貴君からやつて貰ひ度く御同意願上候小生やめて他のヘボ選者にするは惜しく候御承諾下され度候尤も未だ新聞社へは交渉せず居り候先は右用件のみ申上候匆々 一月十九日夜
志都兄
妻今日午後より平熱この儘平安なるべく二三日たゝば大丈夫と思ひ候御心配下さるまじく候昨日は小生も痛く心配いたし候そのため口がにがくなり小便が黄になり候子供と夕飯の膳に向ひて窃かに泣き申候今考へれば馬鹿げ候
一二九 【一月二十五日・端書 下諏訪町より 東京市本所區緑町三ノ三十二瀧澤方 古泉幾太郎氏宛】
拜啓比牟呂評有難く拜見いたし候悉く同意いたし候左翁評も同樣に候只「鳴くらく」問題は文法論に係り過ぎた御説と思ひ候一齋その他の漢學者が處理文法をこはしてもそれが一般に通じれば日本の文法に候近來歌なく困入り候一昨日上スワにて新年會九人集り面白かりき妻少々病臥男手にて炊事やら何やらでゴタつき候故ハガキで失禮いたし候 一月廿五日夜
一三〇 【一月二十八日・端書 下諏訪町より 北山村 篠原圓太氏宛】
歌會の翌日は山浦の實父見舞に來りしため出町を得ず殘念に存じ候草餅昨日持來り早速拜味いたし候その後愚妻益々平靜に向ひ最早危險の點無之候間御安心下され度候これからそろ/\本をよみ可申候比牟呂の歌可成多數御送下され度候此間の車曳の歌(柿)も今少し御作り下され度候連名にて比牟呂に出し可申候黙坊の歌によいもの有之候
(99)一三一 【二月一日・封書 下諏訪より 富士見村小學校 關佐一郎氏宛】
拜復北山ノ件小生ニハ極メテ平凡ノ出來事デアツイタ柳澤君ガ來テ盛ニ奬勵スルカラ「ウン」ト云ツタ郡視學ガ首ヲ振ルト聞イタカラ「ソレナラ止メル」ト云ツテヤツタソノウチニ柳澤ソノ他ノ人ガ來テ「申譯ナイ」ト云フカラ「チツトモ申譯ナイ事ハナイ僕ハ北山ヘ行カネバナラヌカラダヂヤナイ」ト云ツタ事件ハコレダケデアル僕ハ今北山ノ事ハ忘レテ居ル君ニ逢ツテヒヨツクリ思出シタカラ話サウト思ツタノダ御病氣極メテ御大切ニナサレ切ニ御自愛ヲ所望スル逢ツタラ又話ス 二月一日夜 俊生
一三二 【三月六日・封書 高木より 下諏訪小學校 森山藤一氏宛】
此間は失禮いたし候湖南よりも四賀の方君のゐる位置として宜しかるべく思ひ候上スワに居住するは同人から見て好都合と思ひ候一方には湖南問題は一寸六ケ敷からんとも思はれ候(雉夫の校長問題が)色々で四賀の方矢張宜しきやう思はれ候下スワの方は君が決心した上は只濱君に申出づればよろしく候引止めても止まらぬ決心ならば宜しく候只々強硬に出てさへ居れば貫徹いたすべく候尤もそれ前によく平林なら平林と打合せて堅い約束にして置くが必要に候小生明日午後一時過ぎの下りにて出發すべく松本一泊の上廣丘に赴任可仕候御面會の時間なければ貴所は素通りに可致御承知下され度候匆々 三日六日 柿生
汀川君臺下
元義集と雜誌と李塘君へ御屆け願上候代匠記御返し申上候
一三二 【三月十七日・封書 東筑摩郡廣丘村より 諏訪郡北山村 篠原圓太氏宛】
(100)大に御無音いたし候當地に來りてより忙しとに非ずむしろ閑散に苦しむ位なれど只精神茫乎として何も手に付かず何處へも大に失禮いたし候
妻子を家に遺し置きたる寂寥なり君たちと境を隔て住む寂寥なり知る人なき桔梗原の一弧村に來りし寂寥なり一望平蕪雪殘り雲寒し森多くして畠少しこの間の孤村に爐を擁する心地何だかすさまじく覺ゆ學校の方は少しも心配なし毎日火鉢に對してたばこを吸ふのみされど格別面白味も生ぜず斯の如くして茫乎たり目下の境遇御想像下され度候此の如き境遇は一生中矢張餘り多からざるべし故に余は勉めて自己の境遇を批評するの態度を離れ充分に茫乎の味を嘗むるつもりに候嘗むるつもりと云へば已に多少客觀的なるの嫌ひあり故に只無言の積りに候歌にせんなどとは思ひ見ず候此地方の森林に富めるはうれしく候何處を見ても森林に候多くは松なれども楢も榛もあり學校の裏庭に松木立あり直に森林につづきて奈良井川に至る雪消えねば川は未だ行きて見ず松本へ行かんとも思はず只家に歸らんを思ふ妻を思ひ子を思ふ斯の如し
君も彌々芽出度由大慶のいたりに候平生竊かに氣に懸り居りしにこの吉報に接す喜悦の至に候老親方の喜色想見し得べし只愛せ愛の力は金石を熔かすべし愛を以て始終する人は神聖にして且つ幸福なり目下の君の情緒御察申候比牟呂は今二三日にして出來る樣子なり出來たら直ぐ送るべし胡君卓君の歌後れたれど間に合ひてうれし末尾に補ひ置けり君の原稿風はおもしろし猷は賛成せず詳見の上申上ぐべし匆々不盡 三月十七日夜 柿乃村人
志都兒大兄臺下
未だ何か云ひ落したやうな氣がする長野新聞十週年記念祝歌廿二三日迄に一首でも二首でも送つてくれ玉へ洗錬を要せず黙君にもさう云つて出させてくれ玉へ 〔封筒ニ追記〕
一三四 【三月二十三日・封書 東筑摩郡廣丘村より 下諏訪町小學校 森山藤一氏宛】
(101)長野新聞歌頼む
新に羈客となつて多少の感慨有之候桔梗ケ原の廣域一望平蕪寒雲迷ひ殘雪鎖すの所孤客爐を擁して家を思ひ友を思ふの状御遠察下され度候學校の方は何も忙しからず毎日懷手で過し居り候一寸天道樣に申譯無きかも知れず併し學期末にイチヤツク事大抵値打なき俗事業に候此際懷手で過すは小生位のものならんか呵々
轉任の件君が腰を強くして頻りに濱君に迫ればツマリ成効すべく候比牟呂は今日頃は出來居り候匆々不盡 三月二十二日夜 柿生
汀川樣
一三五 【四月廿九日・封書 東筑摩郡廣丘村より 上諏訪町諏訪ホテル内 岩本木外・河西河柳・森山汀川氏宛】
拜啓碧梧桐氏來遊諏訪俳句界の賑かさを想像いたし候俳句に對する氏の見識文學に對する氏の抱持を眞に了解し得るは實は少數の人なるべし此點に於て貴兄等が此好機を逸せざらんを希望いたし候小生も非常に參り度候へ共用事山積にてその意を得ず遺憾此事に候松本に何日滯在せられ候かその際は必面晤いたし度候
〇信州に來てその特色を窺はんとせば少くも信州の小學校一二を見る事肝要と思はれ候信州にて信州らしき特色ある學校は先以て上スワ小學校と存じ候へば是非上スワ小學校を一日參觀いたし候やう御勸め希望いたし候松本や長野の學校は御承知の如くダメに候此事昨日申上げんとして歡迎會の酒に醉ひ打忘れ候間今朝取あへず申上げ候 四月廿九日朝 柿の村人生
木外兄 河柳兄 汀川兄
一三六 【五月七日・封書 下諏訪町より 長野市師範學校 河西省吾氏宛】
(102)御無音いたし候旅行して小言云ひ居るとは餘程贅澤な話に候僕等は旅行その物に渇し居るから足に脚絆つければ已に或る快感を得申候君の歩きし處は小生一度も見し事なき故何とも云はずされど善光寺參詣老若男女を見ても社會活動の或面が輝き居り候足尾山の熔爐と墓とは實によき人生の感受所でありしを思ひ候人生の感受――眞意義――は書物では分らず哲學論でも倫理論でも分らず坑夫活殺の大舞臺に對して歸來何等の歌なかるべからずと思ひ候日光編はおもしろさう也實地を見た上にて御返事申べく候
戸隠のささ原の中に大槻の若葉きやきや新よそひすも
草の上にふみをひらけばふみの上黄に見ゆるまで若葉せりけり
二首は大によろしく候それ前の信濃の夏の活氣云々の歌は一人よがりにて内容のおもしろさが現れず候左翁に逢ひし由どんな話ありしか聞き度候蕨君はあれは一の好人物に候わるげは少しも無之候暑中休のかへりにここで一泊したまへ匆々不備 五月七日夜 柿の村人
河西省吾樣
一三七 【五月十四日・端書 信濃東筑摩郡廣丘小學校より 東京本所區緑町三ノ三十二瀧澤方 古泉幾太郎氏宛】
御手紙拜見いたし候何處へも手紙やらず諸方から催促いたされ候境遇一變の故か兎角妙な感想にのみ耽り居り歌もよまず字も書かず本もよまず一寸茫然として居り候過日の合評有難く存じ候アララギの合評此内に致すべく候君が「新しき云々」は私信の序に書きしものにて意は表れ居らず原稿にするつもりならば全體を今つと立派に書き可申筈也匆々 五日十四日
一三八 【五月十四日・端書 東筑摩郡廣丘村より 埴科郡寺尾村柴區 小沼清松氏宛】
(103))御無音いたし候御詠草今夜拜見四首を長野へ出す事にいたし候今少し強く重き心あらんを切望いたし候いつも露骨な事申上げ恐縮に候
さくらさく毛の國原を壓し立てる赤城の山は雪いただけり
斯の如く訂正した方宜しからんと存じ候ヒムロは別に御寄稿被下度候尤も自信あるものを嚴選して御送下され度候 五月十四日夜
一三九 【六月十日・封書 下諏訪町より 東筑摩郡島内村 望月光男氏宛】
拜啓今に逢へる/\と思ひ乍ら逢へず手紙も出さねど君の事一日も忘れ申さず候病氣はよいとも聞き惡しとも聞くほんとの所御返事願上候松本で會を開くと云つても君は來ず胡君に聞いてもよく分らず迷ひ申候實際わるいならば大に靜養の御工夫可有之存じ候アカネ貴詠氣は溢れ居れど猶足らぬが多し勿論アカネ中の第一に候
わが胸は裂くにはあらず千萬の毛蟲はふ蟲はひまつはれり
目に見ゆる心なのものを罵りすれどすずろの心しばしも落居ず
すり鉢のめぐりの坂をさかしみと底ひさ迷ふ一人かも己れ
等は面白く讀み候比喩的のもの力なく候はじめの方すべて氣に入らず候
アカネ今度の評論見る氣せず中途で止め申候三井君は神經過敏の詩人に非ずして神經過敏の經營家に候文學士なる名稱が誤つて彼を事業家にせし事を彼は自覺して居らず悲しむべく候乙字等の方が議論も宜しく面白く候
小生は四月以來一首も作らず廣丘の森にごろつき居るのみ只一種の妙な悲しみに籠り居り候只今は小生の感受時代なれば只感受に甘じ申べく候昨年との境遇變化がこの心の寂寞を作り申候誰にも手紙出さぬを皆怪しみ來り候へど獨書く氣に成らず自分乍ら惡しき事と思ひ候へども仕方なく候君からは不平來らず變に思ひ候君も小生と一(104)寸似た境遇に居る事と思ひ候兎に角逢ひ度いな、なあ君
比牟呂トアララ木ト合併シテ東京カラ新ニ出シタ方宜イト恩フ如何賛成シロ
左翁ニスヽメ玉ヘ 六月十日 柿乃村人
光兄
廿三日は家に休息すべく候
一四〇 【七月二日・封書 東筑摩郡廣丘村より 東筑摩郡島内村 望月光男氏宛】
拜啓一昨日は參上久し振の談笑近頃の快事に存じ候實は御病勢非常に氣に懸りて出掛け候處意外の元氣なるに小生も心強く思はず長談議いたし歸來君を疲勞させたかと掛念いたし居り候處御はがきを見て喜び入り候この分にて無理さへせねば案外早く快復疑ひ無之候
松本停車場にて胡君に逢ひ胡君も急に廣丘行に決し二人にて歸宅せしに小尾石馬ありて待ち居り三人鼎坐深更迄語り更かし候胡君は昨日午後歸宅石馬は今朝歸宅いたし候それ故手紙書くが今日に延び申候不惡御承知被下度候
猶御母公御繁忙中種々御手數相掛け恐入り候君より宜しく御禮願上候
何もかも平靜に御思念有之候樣希望に堪へず條紫雲英の歌「こもりく」を具象名詞にすべきか否かは考へものに候君の云ふやうにこの方がゆつくりした情調を帶ぶるやうに思はれ候紫雲英連作中猶
妻子らを遠くおき來ていとまある心さびしく花ふみ遊ぷ
川のべのわら屋にめぐる水車響きはおそし夕日花小田
など有之候御笑覽に供し候石馬は神經衰弱とかにて遊び乍ら來り候處廣丘の森林中に入りてより元氣急に恢復藥を飲まぬやうなりしとて喜び歸り候折々通信可仕候匆々不宣 七月二日 柿生
(105)光兄臺下
君の氣を損ぜじと母公の苦心側目によく分り候餘り困らせるな萩筆は大へん使ひよく候
一四一 【七月九日・端書 東筑摩郡廣丘村より 埴科郡寺尾村 小沼清松氏宛】
御來示の趣き繭かきと牡丹とそんなに時節相違しては歌として宜しからず只蠶籠を干す位の事が宜しかるべく候小生の不用意を恥入り候
飼ふ蠶らの籠ならべ干す庭すみに白牡丹さけり風にさゆらぐ
此第四句にて切りたる所御注意下され度候此囘は出詠のは皆おもしろく振ひ居り候比牟呂稿に御保存被下度候一度御面談いたし度候
一四二 【七月九日・封書 廣丘村より 東筑摩郡島内村 望月光男氏宛】
復啓もう晴れるか晴れるかと待入り候へ共毎日の陰雨に困入り候定めて病氣に障る事と存上候小生も氣候にあてられ二三日口がまづく腹の筋が張り粥を食べ居り候御來示の説大に賛成に侯人眞似な人生觀などよい加減にこねくり居りては主觀もへちまも無く候新傾向だの何のと云ふ時は必この輕浮な氣風が附いてまはり候之をハイカラと申す也吾人の要は只深く切なる人生の經驗を得ればよしこの經驗より生るゝ詩は主觀客觀を問ふの要なく何れにしても同程度の高さのものが生れ出づべし生ま悟りの人生觀は鼻についてイヤに候客觀の詩は失敗してもイヤ味は無し主觀詩は普通のものにては多く淺薄とイヤ味とを感ずべし今一つ主觀詩と稱するもその根柢に矢張り寫生的素地が非常に必要に候寫生的用意の缺けたる主觀詩は作者感興の特色を没却いたし候
男の子われ祖のしるしと今更らに血潮はたぎつ青嵐の風 千樫
(106)連作中より取離しては惡しけれど兎に角斯樣な空漠のものはいくらでも詠み得ると共に特色なき駄作となる事請合也
朝もやに鳴くや鶯人乍ら我常世ぺにいほりせりけり(連作中) 左千夫
これらは矢張り寫生的用意を自ら具し居りと思ひ候
貴詠中第一首が一番おもしろし一般の弊を云へば材料も見付け所も皆新しく面白けれど現し方が散漫に失してごたつき居りと思ひ候
艫まはすはしけゆり越しうつ浪の引けの濕りの砂のよろしさ
大へんおもしろい材料乍らこれ丈けの材料をやつと三十一字にまとめ得たといふ感あり從て調子の上にゆとり無きが氣に喰はず候第一句の如きは何故今つと無意味の詞を用ひざりしやと疑はれ候
はしけ曳く蜑の手綱に眞砂なめ腹はふ浪の泡流れ行く
の如きも多少その憾有之候次の歌「歩むそそぎに」の末句は意味を知らず御序の節御知せ願上候詞を折々知らずして失敗いたし候明日淺間に會合あり志都兒も來るやうなり卓君近い内に歸るよし待入り候君の具合惡しきが悲しく候相携へて廣丘の森中を※〔行人偏+尚〕※〔行人偏+羊〕せばうれしからんと悲しく候それにつけても自愛御攝養專一奉存候取急ぎ匆々 不一 七月九日夜 柿生
光大兄
妻子らを遠くおき來ていとまある心さびしく花ふみ遊ぷ (紫雲英連作ノ中)
一四三 【八月十九日・端書 東筑摩郡廣丘村より 埴科郡寺尾字柴 小沼清松氏宛】
足尾ノ歌非常ニ面白ク拜見イタシ候北信ノ気勢近來大ニ高マリウレシク候他ノ歌稿(失敗ノ友ニ送ル歌)ハ失敗(107)ト存ジ候千樫君來遊シテ君ノ旋頭歌大ニ振ヘリト左翁言ヒ居ルトノ話ナリキ失敬々々
一四四 【八月二十八日・端書 東筑摩郡廣丘村より 諏訪郡北山村 兩角福松氏宛】
夏日照る草にいこへる喇叭手の喇叭の房の紅の色
これは見付所賛成に候へ共全首を通じた精神の動きが現れぬ事殘念に候つまり材料はよく按配され居れどその材料を通じて作者の感じが現れ居らぬを遺憾に思ひ候一二三句は暑苦しく同情に堪へられぬさまの現れ方也四五句は是を受けてその情調を以て貫く所の感じが更に重く現れ居らざる可らず然るに喇叭の房の紅の色の如き現し方にては只形象が敍しあるのみ形象のみにても調子の上に暑苦しくいつて居れば無論よいが是では何だか只美しいやうにも受取り得るこれでは歌として一貫の調を成さずと思ひ候御意見如何
其二
咲きつづく松蟲草の花の野に雲影うごく早雨すらしも
を
咲つづく松蟲草に風吹立ち電影うごく早雨すらしも
ト訂正セルハ第一ノハガキト同ジ立場カラ見タノデアルコレモ御返事ヲマツ干瓢ノハ平凡ナレド取リ得ルト思フ(失敬々々)
一四五 【九二十八日・端書 東筑摩郡廣丘村より 南安曇郡東穗高村 西澤本衛氏宛】
拜復今度の歌何れも自然にて面白く候是前のは凝り過ぎた感今になつて是あり候此秋はどこか歩いて來たまへ自己の境遇を變じたる時新しき純なる生命を生じ來るべく候深山に入るといふ事も一種の境遇變化なり新しき生命(108)の上に立つといふ事なり我執や習慣から脱離するといふ事也一方から見れば本來の自己純粹無雜の我にかへるといふ事也讀者の感激といふ事もこの意味に外ならざらんか日曜と土曜は家に居らずその他の日に是非出て來たまへ來る事分らばハガキ出せ失敬 九月廿八日夜
一四六 【十月五日・封書 廣丘村より 東筑摩郡島内村 望月光男氏宛】
拜復風土記トミレーの繪トハ實ニ惡イコトヲシタ心ナキコトデアツタ筆ヲ執テ何トモ云ヒヤウナクナツタオレハ惡イ考ハ持タヌツモリダガ行動思慮共ニ粗雜デ困ル。放ゲヤリデ氣ノ拔ケタコトヲスル。ヤリハジメタ事ノカガリヲ付ケズ置クコトガ少クナイ。自分ノコトデモ他人ノコトデモコノ缺點ハ共通シテ働イテヰル。君ノヤウニ露骨ニ云ツテ來ルノガ少イカラ自分デ氣付カヌヤツガキツトアルダラウ。自分デ決シテ許シテ居ルノハデナイガ天性ノ放慢實ニ困ル。風土記ヲ胡君ニ貸シテオイテ今日迄ボンヤリ君ニ貸シタヤウニ思ツテヰタ。君ノ手紙ヲヨンデハテナモウ望月ニヤツテアツタガト思ツタガ直グサウデナイコトヲ考出シタ。卓君ノ歸校スル頃カラ君ヲ訪問シヨウシヨウト腹ノ中デハ思ツテヰタ。此間「ハガキ」ヲ見タ時モ今ニ行クカラソノ時返サウト思ツテヰタ。一笑ニ付シテ返事セナンダノヂヤナイ。
アノ繪ヲ一昨日モ昨日モ出シテ見タ。君ノハガキ見タ前ハ久シク見ナンダ。君ノハガキ見タ後ハ度々思付テ出シテ見タ。今日ミレーの忌日ナルコトヲ初メテ知ツタ。
實ヲイフト予ハ廣丘ヘ來テカラ毎日毎晩暇サヘアレバ妻子ノコトヲ思ツテヰル。餘程ハゲシク思ツテヰル。ダカラ友人ノコトヲ考ヘルコトハ去年ヨリ少イ。予ニ今ノ處一番興味アル者トイヘバ妻デアル子デアル。土曜日ニハ五人ノ子供ガ(一人ハ小サクテダメダ)皆オレヲ待チアグンデ居ル。オレノ顔ヲ見ルト三歳ニナルノハ顔中皺ダラケニシテ喜ブ。ソレカラ風呂敷ヲ自分デ開イテオ土産ヲ請求スル。汽車賃クライシカ金ノナイ時ハ汽車ニ乘ラズ峠(109)ヲ越シテソノ金デ菓子ヲ買ツテ行ク。妻ハ予ノ歸ル前ノ晩アタリカラ寢ラレヌト云ツテヰル。コノ妻子ヲ殘シテ他郷ノ一室ニランプヲ吊シテ本ヲヨムノハ實ニツライ。妻子ノ寫眞ガ欲シクナツタ。コンナ鹽梅デアルカラ君ノ病氣ニ對シテモ予ノ思ヒ方ガ不足シテヰルコトト思フ。實ニ惡イコトダト今夜シミ/”\思テ見タ。
ソレヂヤ君ノコトヲ忘レテヰルカト云ヘバソンナ譯ヂヤナイ。君ガ大ニ煩悶シテヰルコトモ知ツテヰル。話シテ見レバキツトヨカラウト常ニ思ツテヰル。堀内去リシ後ハコトニサウ思ツテヰル。君ニヨク云ツテ置キ度イガ「歌ガヒネクレテ居ル云々」モ一通リノ反省ハヨイガ眞實反省ノ點ヲ見出シ得ナンダラサウ凝ラズニ打棄テ置クベシ。今ノ處デハ歌ハ君ヲ生カサズ君ヲ殺シツヽアル。自分ヲ殺スヤウナモノハ打棄テルガ正常ダ。打棄テテアカノ他人トナツタ時君ハ天眞無碍ノ人間ニナル。天眞無碍ノ望月光男ナル一人間ガ再ビ新シク歌ニ接シテ猶感受アラバ歌ヲ作ルモ妨ナシ。凝テハ思案ニ能ハズトイフ諺アリ。思案ニ能ハヌトキハ思案セヌガ一番良キ道ナリ。君ハ強ヒテ思案シヨウト思フノハ適々以テ自己ヲ傷フノ道トナルノミデアル。君ガ六月家ヲ離レタ時家ノナツカシサガ解ツタニ相違ナイ。父母ノナツカシサガ解ツタニ相違ナイ。父母ヲ目ノ前ニ据ヱテナツカシガレト云ツテモ困ルコトガアル。歌ヲ離レ、離レテ猶ナツカシキハ眞ノ愛著ナリ。離レテモウナツカシクモ無ケレバ歌ハ君ノ有難イ物デハ無イノダ。君ハ凝リ過ギタ。全ク歌トイフ形ヲ見ルナ姿ヲ見ルナ。
僕ノ妻ハ僕ノ旅ニ出テカラ大ニ歌ヨミニナツタ。亭主思ヒニナツタヤウダ。土曜日ニハ何ヲ措イテモ歸宅スル。桔梗ケ原ノ森林ハモウ寂シクナツタ。畠ノ粟モ刈ラレタ。十月五日夜 俊彦生
光男樣臺下
一四七 【十月十四日・端書 東筑摩郡廣丘村より 諏訪郡北山村 篠原圓太氏宛】
大に失敬いたし候アララギに貴詠と堀内詠なきは實に寂しく候黙坊君も如何にせしか左翁のと茂吉君のは傑作に(110)候千樫のもよく候小生のは多少成功のつもり只調が柔かすぎ候御苦言下され度候近來誰にも逢はず全くの一人生活に候それで本をよまぬには呆れ入り候
一四八 【十月十七日・端書 東筑摩郡廣丘村より 埴科郡寺尾村 小沼清松氏宛】
返事相後れ申譯無之候拙歌御評おもしろく拜見いたし候「妻子らを遠くおき來て」の歌は尤も得意のつもり也余暇多きを却て寂しく感ずるの情と花ふみ遊ぶ寂しさとは見方も感想も異り居候二號の歌にて齋藤茂吉君のは尤も振ひ居り候左千夫翁のは勿論宜しく候千樫君のもよろしく候へ共ちと薄きやうに候
芋井村御旅行の由羨望いたし候御詠四首細かき難はあるやうなれど一通りよいと思はれ候多少誇張の傾きあるは此種の歌の通弊に候御返事のみ匆々
一四九 【十月二十九日・封書 東筑摩郡廣丘村より 南安曇郡東穗高村 西澤本衛氏宛】
拜復此度の歌稿皆振ひ居り喜び入り申候君の歌は感じそのまゝを率直に素朴に歌ふが特長なれば感じに何かの興趣湧く時驚くべきものを生み申候從て課題の歌は適せぬやうに候強ひて作らんとする時平板になり候餘程興趣湧きても君のはむしろ平板に陷り易く候此度のも慾をいへば今少し平板に遠ざかり度かりき右愚見申上候御叱りなく願上候歌稿御返却申上候間御異存の點御申越下され度候天長節のにもおもしろいもの見え候青木湖行大に愉快なりしならんと想像致し候よき事を爲され候十一月中旬御出掛下され度候アララギ「羈烏」はよきつもりに候如何、胡君にも禿君にも光君にも逢はず桔梗ケ原の一人坊ツチに候 十月廿九日夜 柿生
科野舍大兄
(111)一五〇 【十一月十五日・端書 東筑摩郡廣丘村より 信濃諏訪郡上諏訪町片羽 牛山郡藏氏宛】
拜復度々御手紙下され深謝仕り候二十七日の日曜に參上可仕其際種々御話申度候御高志に甘え御申遣のテン丈け失敬仕り度願上候
師範問題にて大分賑ひはじめ候男二校の位なら長野に二校置く方勿論よろしく條上田など第一教育地に無之候一校論の勝利神かけて折り候矢じまの合格只々喜び入り候あれは我級の天才に候エライ男に候三澤病める由其後の樣子を知らず松本へは左團次來るべし羨しいだらう見に來たまへ 十一月十五日 柿の村人
一五一 【十二月四日・封書 東筑摩郡廣丘村より 諏訪郡玉川村學校 小尾喜作氏宛】
拜復御書面ヲ見ルコト相後レ遺憾千萬ナリ貴書ハ昨日著キシモ全校休ミテ學校參觀ニ出掛ケシタメ知ラズニ居リキ今朝出校セシモ貴書ヲ見ルノ暇遑ナク晝飯ヲ日没後ニ食ヘルノ始末只今宿ニ歸リ夕飯ヲタベユツクリ貴書ヲ拜見セントシテ御文意ヲ一讀シ驚キ入リ申候早速飛ビ歸ラント思ヘドモ當校非常ノ繁忙期ニテ火水二日共父兄懇話會招集シアリテ手ガ拔ケズ八日ニ夜汽車デ下諏訪ヘ歸リ九日貴校訪問ノ上種々打合セテ古田ヘ行カント思ヒ候依テソレマデ病勢御監現下サレ度ソノ模樣デハ直ニ御發電下サレバ何ヲ措イテモ歸宅仕ルベクソレマデ第一學校ヲ休ムヤウ第二學校ヲ退クツモリニナル樣極力御勸告下サレ度老母一人ノ心配ニ候ヘバ何卒御盡力頼入リ候此手紙今夜態夫ニテ停車場ヘ飛バセルソノ後ノ模樣君カラ御知セ願上候匆々 四日七時半 久保田
小尾兄侍史
一五二 【十二月四日・封書 東筑摩郡廣丘村より 諏訪郡玉川村小學校 小尾喜作氏宛】
(112)拜啓過日は失禮いたし候今日父より來書「原醫師曰く咽喉部に異状ありたま/\充血す過日の血は肺の方では無いらしい」と申し越せり眞に然るや本人は喜びて居るやうなり一つ原君へ行き御確め被下度御苦勞願上候そして直ぐ御返事願上候序に過日顯微鏡の險査(痰)をせしか御糺し願上候以上用件
それから新年の歌(長野南信)二君で詠みて御送り被下度候二十三日頃に御送り願上候以上用事のみ匆々 十二月十九日午後三時 柿生
石兄
(113)明治四十三年
一五三 【一月十五日・端書 下諏訪町より 松本市松本銀行 胡桃澤勘内氏宛】
賀状も差上げず失禮いたし候左翁の「眞面目の妻」心理的の深さはあれど已に型に入り候左翁に動ありて靜なし靜に人生を思ひ見るといふ情趣缺けたり惜しき事に候正月に入りて短篇もの作りアララギに出し置き候御笑見下され度候長塚君のも同君には古し二十三日遊びに來られぬか禿君と話して小生は十九日歸校
一五四 【一月二十一日・封書 東筑摩郡廣丘村より 上諏訪町片羽 牛山郡藏氏宛】
過日借用願ひし十圓の利息は別に差上げ可申候右はがきにて一寸御返事下され度御手數願上候もしよければ二月何日頃參上すれば宜しきか是又願上候
今日又々雨と成り湖水心配に候氷切出來ねば高木邊のみにても大外れと思候當地雪深く道路未だ踏みぬけず困却いたし候一里餘の夜學分教場より歸り疲勞亂筆いたし申譯無之候先は用件のみ匆々敬具
御令閨樣に宜しく
ますらをの膝を折らしむるうつし世の黄金のみこと尊かりけり 呵々々々 一月廿一日 俊生
天外大兄臺下
(114) 一五五 【一月二十二日・端書 東筑摩郡廣丘村より 諏訪郡北山村柏原 兩角國五郎氏宛】
君ノコトヲ忘レハセヌ君ノ作ラヌコトヲ惜シク思ツテ居ル一ツ奮發シテ三四十作ツテ見タマヘキツト何カヲ掟ヘ得ルト信ズル捉ヘ得ナンデモヨイヂヤナイカソンナニ勘定高ク歌ヲヨムコトハナイヨウマク出來ナイト思ツテヨメバ平來ダヨ今年中行事中一番氣樂ナ時ダラウ冬眠モソロ/\醒メルベキダヨ
其二
僕ノ居ル處ハ桔梗ケ原ノ片隅見タヤウナ處ダ土地ガヤセテ林ガ多イ冬枯ノ曠野ニ一人デポツチリ坐ツテルノハ寂シイコトダ僕ハハジメテ靜寂ヲ味ヒ得タヤウダ靜寂ヲ味フノガ僕ノ今ノ慰藉ダー人デ坐スル時ハ夜一時デモ二時デモ樂シク起キテヰル今夜ヒヨツクリ思付テハガキ二枚書ク 一月二十二日夜
一五六 【二月七日・封書 東筑摩郡廣丘村より 東筑摩郡島内村 望月光男氏宛】
大に失禮した大に具合よいと聞いて喜んでゐた歌をウンと送つたと聞いて大に喜んでゐたひまを見付けて訪はんとしていつも土曜日曜を家に歸つてしまふ誰にもこんな調子にして失敬してゐる桔梗ケ原は寂しい森林地である冬枯の桔梗ケ原は僕の心をすさまじくしてゐる荒寥な生活は時を經るに從つて僕の心の幾分を變化させたと見える僕は近來弧獨の生活を深く樂しむ夜洋燈の下で外を吹く風を聞いてるのが只うれしい人が來て話をしてゐれば十時頃から眠い一人で起きてゐれば一時二時になつても眠くない夫れで本をよむでもないたまに本をよむのも樂しみだが毎晩よむ氣にもならぬ田舍に住んで世間の刺撃を感ぜぬからである僕の近状は斯んな樣子である友人に對する興味の薄らいだのでは無い只今迄より多少變化した心が生じたのである君の事は常に考へてゐる胡君に逢へば直ぐ樣子を聞くそして元氣よいと聞き歌も作ると聞いて大に安心し喜んでゐ(115)るのだ君も此一年間に大に變化せねばならぬ筈だきつと變つてる堀内も非常に變つて來た變るうちは何とか方がつくと思つて嬉しいいつ迄しても變らぬやうな人には逢つてもおもしろくない大に逢ひ度い斯う書いて來れば愈逢ひ度い俗的な不平も一杯あるぞ
十二日午後小柳ノ湯で麻葉歌會をやるべく通知を今日書いた君は未だ來られぬか來れば實によい東京へ送つたといふ歌を持つて來て見せろ僕は近來盛々歌が難産になつた標準が高くなつた故と思ふ高慢の至りだが實際さうとしか思へぬアララギの歌大に氣に入らぬ小説も歌も今つと局面を開かねば困ると思ふ俳句も同上である俳句を一つウントやつて旗を飜してもよい碧梧桐では駄目である
今日は之れだけ學校にて認む 二月七日 柿乃村人
光兄臺下
一五七 【二月九日・封書 東筑摩郡廣丘村より 諏訪郡北山村柏原區 兩角國五郎氏宛】
拜復久振リノ御手紙歡ビ入リ申候眼病ハ已ニ全ク御平癒ニヤトンダ災難セシモノカナ久シク作ラズニ居レバオツクーニナルコト自然ノコトニ候只歌テ作ルト云ツテモサウ勘定高ク作ルニハ及バズ作レバ必ヨイモノデナクチヤナラヌト相場ヲ高ク極メルト出テハ來ズ候相場ヲ安クスレバスラ/\ト自然ニ出テ來ルモノニ候高クスル必要モアレド同時ニ安クスル必要大ニアリ小生等モドウモ高クシテ困リ候從ツテ打算的ニ成リ申候アララギ出デ候ハヾ批評シテ志都兒ト君等トニ送リ可申御意見御申越下サレ度候選歌ノ標準ヲ今ツト高ムル必要ハ小生モ感ジ居リ候信州デ今一番進歩シテ居ルハ堀内卓造ニ候アレハ何時逢テモ少シヅツハ變化シ居リ候彼ノ作物ニハ御注意有之度候御返事のみ匆々 二月八日夜 俊彦生
竹舟兄侍曹
(116)冬枯の野にむく窓や夕ぐれの寒さ早かり日はてらしつつ
一五八 【二月二十三日・端書 東筑摩郡廣丘村より 長野市長門町四十 櫻井一氏宛】
拜啓今夜貴稿拜見著眼大に宜しく優に群儕を拔けり斯の如き原稿に接するは實に愉快に候今迄御作りの文ありや猶今少し御示し下され度待上候はがきにて失敬 二月廿三日夜
一五九 【二月二十五日・端書 廣丘村より 東筑摩郡島内村 望月光男氏宛】
人目なく物うちかむるわが影の常にさむけき二十日まりの月
は大に宜しいと思ふ新しい上に感じがシツクリいつて居る新しいが感じのまとまらず且淺薄に陷るは「平瀬風」の缺點である
更けさむの寢覺にかあらんいたはりの聲かくるさへ吾に寒けく
我が歸宅を父母などのいたはる聲を聞きつゝ起る感じであらう夫れには一二句はシツクリいかぬ
さ夜床に足さし入れてのばし見るぬくもりのけも聊か殘れり
面白いが結句のあたりが不足してゐるやうだ、「け|も〔付○圏点〕」「|聊かのこれり〔付○圏点〕」今少し考ふべきだと思ふ
厨べに物しむ音の耳に入り又寢る夜具は肩の寒けさ
|肩の寒けさ〔付○圏点〕の如き部分的な事をいつてはいかぬと思ふ(此處では)
うとうととつかれのねむけさすほどに尿しほしく又さめにけり
戸のすきの白みは月か朝あけか寒さしみ來もえりのほとりに
散文になつてゐる
(117)物にうみうつつなくある心からゆたにありえぬ淋しき朝夕
斯樣な感じは面白いが矢張り感じにシツクリ合はぬ「淋しき朝夕」といふ感じが今つと全體にしみ渡つて居らねばならぬと思ふ
上かわく庭の置石時雨さぶこのぬか降りの小まだらのよさ
新しいが詞が細かく働き過ぎて感じより形の方が強く感じるのが遺憾だ
この見ゆる西の高山はだら衣とり著む春を戀しむ雨か つまらぬと思ふ
五日の歌會には來られぬか 二月廿五日 柿乃村人
近什
わたつみの遠つ底ひに冷やかにとはに動かぬ水あるを思ふ
一六〇 【三月二十三日・封書 信州東筑摩郡廣丘村より 朝鮮京城 矢島音次氏宛】
拜啓二度のはがき嬉しく拜見いたし候令閨同伴に非ざる由何だか寂しき感じいたし候何とかして同伴する譯に行かざるか故山萬里客心猶定まらざるの状遙かに想見いたされ候仕官の道として韓國が適當なるか否かを知らざれども道は荊棘の中にも求め得べし今囘の任を輕んぜざる御用心切望の至に候我等は衝動時代は已に經過せり有意義なる自覺を得んとする努力は樂しき努力なるを思ひ候小生は今の處に臨時止まるつもりいたし居り候田舍故金の工面にも讀書の工面にも都合宜しく候ソレデモ鹽尻峠一つ隔てゝ妻子と別居し居るはヘンな氣が致し候況や君に於てをや小生は昨年はじめて孤獨生活の寂しさを味ひ得申候これはヘンな趣味に候樂しく寂しく落著きて宜しく候枯野に對して一人居る時寂しくぅれしき心地いたし候夜の燈火もシンとして宜しく候妻子を思ふにも非ず思はぬにもあらず茫乎たる靜思に遊ぶはヲカシナものに候時々はがきにて宜しく御惠み下され度候右のみ匆々不宣
(118)(アララギ赤彦追悼號所載)
一六一 【六月四日・封書 廣丘小學校より 廣丘村 赤津信雄氏宛】
拜啓久し振りの御詠草喜ばしく拜見いたし候歌がら皆自然なるを第一に喜び候飾らず衒はぬが第一の素地に候この素地を離るゝ時輕薄の歌を生じ可申此點に於て今囘の貴詠の傾向を喜び申候十六首大抵取り得るやう思ひ候只秀れたる著眼に一盾御志し希望に候急には行かぬがその内に相達し可申候五月號のアララギは平凡にしてつまらぬ歌のみ多くいやに成り候朴葉のは久し振り故か一寸おもしろしと見候
夕の空筑摩花原うつりしか紫雲英花さく樣に雲はゆ
は不成功と存じ候先は御返事のみ匆々不一 六月四日 柿生
赤津兄
明日より十九日迄歸宅いたすべく候其内に御話いたし度候
一六二 【七月二十三日・封書 信濃國東筑摩郡廣丘村より 東京府下上澁谷百三十五 平福百穗氏宛】
拜啓炎暑相加り候處益々御健勝被爲入候哉伺上候小生無事桔梗ケ原寓居に起臥いたL居候間御安心被下度候扨甚恐入り候へ共當校卒業生(本年度)記念品として大西郷翁肖像を講堂に掲け度大兄の御迷惑相煩し度御許容願上候大さは新聞全紙大紙質は御地に於て適當のもの御撰定下され度密畫(眞の)を要せず大兄特獨の略畫をも妙と存じ候(如何ナル體ニテモ宜シク候)肖像原據も當地に適當のもの無之候へ共是は大抵の肖像を見るに大同小異と存じ候へば適宜御撰び下され度此儀御迷惑に候はゞ當地にて何か見出し御送申上べく候少年輩の事故謝儀は出來申さず甚失禮に候へ共右寛恕下され度願入候右の如くに候へば時期は定め申さず今秋か今冬頃迄にて宜しく斯(119)疾くより御願申さんとして今日に至り候御許容願上候匆々不盡
アララギ一向出ずやゝ難産かと思ひ候小生も八月は閑居何か致し可申候不二山位へは出掛度存じ候 七月十三日 俊彦生
百穗畫伯臺下
背山君に宜しく願上候
一六三 【七月廿五日・端書 東筑摩郡廣丘村より 諏訪郡宮川村新井區 鵜飼三治郎氏宛】
御繁忙と察し上候御子息樣御亡なりの由御悲痛御察し申上候無邪氣な幼者の遠く逝くは單純に悲しきだけ他と異る悲しみあり謹で御悔申述候 七月二十五日
一六四 【八月八日・端書 下諏訪町より 東筑摩郡島内村平瀬 望月光男氏宛】
君ニハ逢ヘナンデ殘念デアツタ信州號ヲ出スニキメタコチラノ理由ハ第一ニ信州人ヲ覺醒セシメ得ルコト幾分カ有之ナラント思ヒシコト第二主トシテ東京同人等ノ歌ヲ遠慮ナク批評シテ出スニハ好機會ナルコト第三ツマラヌ歌ヲ捨テヽ選ヲ嚴ニシテ見ルコト面白キコトタトヘバ民部ノ今度ノ歌ノ如キハ一首モ出サヌヤウニスルコト面白ヵラント思フコト君ニハ迷惑ト思フガ我慢シテ胡君カラ御聞ノコト御願申上候ソレカラ歌ヲ可成御送リ下サレ度候 十一日不二山行十三日歸宅 八月八日
一六五 【八月十四日・封書 下諏訪町より 永明村塚原 矢崎源藏氏宛】
拜啓木外君肋膜肺炎にて二週間來熱度去らず甚だ重症と見受申候俳句同人にて多少づつ醵出御送贈如何に候か病(120)氣に使用する故日數取りては惡しく候此手紙は貴兄と河柳打川二君とに出し申候何とか御心配下され度候匆々不一八月十四日
一六六 【八月二十一日・封書 下諏訪町高木より 諏訪郡永明村塚原 矢崎源藏氏宛】
拜啓木外子起たず悲痛の至に候遺族の困苦甚しきものあり生前同志者の配慮を願度河柳打川右衝門諸君へ手紙出し置き此内に天外君宅へでも御集まり願ひ下相談いたし度御承知願上候昨日小生蛙宅遲れしため拜眉を得ず遺憾に存じ候取急ぎの際亂筆御宥恕下され度候匆々不盡 八月二十一日
一六七 【八月二十二日・封書 下諏訪町より 東筑摩郡上川手村小學校 鹽原政雄氏宛】
拜啓態々御出でを願ひ恐肅の至奉存候只今御手紙拝見御苦心相煩し萬謝奉り候評議員會では手塚君の意よく通じ居らざりしならん少くも個人の意見を積極的に述ぶるに至らざりしならんと存候諏訪不可ならば伊那云々は出來ぬ話ならん諏訪に許さずして伊那に許す筈なし別に方法あり喧嘩か懇請の二途なり喧嘩は何うせせねばなるまい併しそれによりて任命は不可能なり學務を改革するは別に道あらんも即急には行かず下手な手を出すと却つて惡し愼重を要す貴兄等も御考へ置き被下度候手塚兄には別に手紙出すか逢ふか致すべく候却す/”\御高配拜謝致し候匆々 八月廿二日 俊生
鹽原兄侍史
一六八 【九月二日・封書 東筑摩郡廣丘村より 西筑摩郡藪原局 湯川寛雄氏宛】
拜啓御返稿緩慢に相流れ候段平に御海容被下度候本日詳敷拜讀いたし候處滿紙悉く血涙覺えず聲を呑む數度斯の(121)如き文章は決して他人の冷靜なる筆を加ふべきものにあらず只心附き候箇處へ少しつゝ朱を附し申候失禮の段御容恕被下度候續稿早く御示し被下度待上申候匆々敬具 九月二日二百十日軟風
湯川兄侍曹
左翁の水害果して豫想の如く慘烈なり而して左翁の奮闘も亦豫想の如く悲痛也夜は自ら牛乳を搾り自ら配達し晝は復舊事業に從ひ候よし夫れも翁自身には筆執るの餘裕もなきものゝ如し千樫君より萬事通信し來り候アララギ信州號は二三日中に出來可申候
一六九 【九月十五日・封書 信濃國東筑摩郡廣丘村より 東京本所區緑町三ノ三十二瀧澤方 古泉幾太郎氏宛】
拜讀信州の特長少しとの御批評分り申さず平生も「アララギ」に出し居り候へば別に今度變化ある理由無之候只執筆者に信州人多かりしのみに候
批評は決して巧妙には無之と思ひ候茂吉兄の歌非常によいと思ひ候上手過ぎずと思ひ候汀川のは今見れば矢張感じの輪廓に了り候胡君振はず小生のは惡しく候自分でも不足に思ひ居り候秋風來の方が少し自分の希望してゐるものに近づきはじめ居る位に思ひ居り候貴君は大に進歩せりと思ひ候千夜江のも進歩に候黙坊にも面白い所あり山越も進み居り候大兄の作を見ざる久し何故ぞや待入り申候左翁その後如何にや氣掛りに候三四日中に何か書き可申先は御返事のみ匆々不盡 柿の村人
一七〇 【九月二十一日・端書 東筑摩郡廣丘村より 上水内郡芋井村上ゲ屋 古澤喜市・内田義久氏宛】
左千夫先生水害の程度隨分甚しきやうに付き信州同人で少し金を集めて送つては如何といふ議起り候に付下マセ(122)五十錢(以上無制限)位の見當にて御賛成被下度小生へ宛てゝも松本市松本銀行胡桃澤勘内君へ宛てゝもよろしく御送被下度候 十月五日限り 九月二十一日
一七一 【十二月十二日・封書 東筑摩郡廣丘村より 松本市女子師範學校附屬小學校 金原よしを氏宛】
拜啓過日は折角御出で下され候處失禮致し遺憾に存じ候夫れでも御滿足の御手紙頂き喜び申候今年は餘日無く御出掛無之由明春早々御一泊にて御出掛下され度待ち申候
御示しの歌稿一通り拜見致し候
明けき星の下庭とこしなへに別るるありとは露しらずいねし
非常に宜しく候すべて此調子にて御進みのほど希望致し候そのつづきにある歌概ねおもしろき傾向に候へ共電報だの夢だの胸だのといふ文字あまりに仰々しく竝べありて却て感情よとまらぬ恨ありすべて實事件を並列するのみにては情調を生ぜず庭作りが庭を作るやぅに石や松を竝べることをやめて音樂家がバイオリンを弾くやうに只調の響きにて感じを現はし候やぅ静望仕候「明けき……」の御歌はこの點に於て大に宜しと被存候今度のアララギ左千夫先生望月光君千樫君芋の花人君等の歌御熟讀希望に候今度の休中にちと澤山作りて御持參被下度直接に批評申上ぐる方心通じて宜しく候此の間の原稿の細評は何れあとより差上ぐべく餘り延引故今夜は大體論のみ申上候猶中原さんへの御書面中同封のものは未だよく拜見せず今夜この席に無之故何れ追ていろ/\同時に細評申上ぐべく御承知下され度候先は右のみ匆々頓首 十二月十一日夜十二時過ぎ 柿の村人
金原よしを樣 御もと
亂筆御ゆるし下され度候
(123)明治四十四年
一七二 【一月一日・端書 東筑摩郡廣丘村より 上水内郡芋井村 内田義久氏宛】
元旦は何かの氣が四方に磅※〔石+薄〕して居ると思ふ 元旦
一七三 【一月五日・封書 豐平村下古田より 玉川小學校 小尾喜作氏宛】
謹賀新年 昨年中は御厚志に預り奉謝候今年も相變らず願上候舊冬中兩角村長態々廣丘に來られ恐入候小生も其後熟考は致し候へ共どうも此處にて去るべき適當の理由無く困り入り候さうかと云つて一年釣り置く如きは双方の爲め惡しき事に候へば斷然交渉を絶ち新しき候補者を定め候樣願度此旨本朝兩角村長へ通じ置き候間可然御承知願上候實は村の學務委員等と少し物言ひ致し丁度よいから去らんかとも思ひしが去るに値する程でも無く色々思案の末斯く御返事申上ぐる次第なればどうかそこを惡しからず御承知願上候御縁あれば又何時何處で一緒に仕事するか分らず其の折一臂を振ひ御厚志に酬い可申存候君の方でもそろ/\候補者を定めて取掛らねばならぬ事に候へば望みなき小生へ何時迄も御交渉は御止め被下度決して君等を顧みぬ積では無く廣丘を今去る理由も事情もなきが故に候へば此點は何卒惡しからず御受納被下度少しづゝ手を擴げた事が纒り次第ゆるゆる諏訪へも歸り君等と撞携して諏訪に動き度考は有之候今後とても宜しく願ひ上候先は右のみ匆々 一月四日夜 俊生
(124)小尾君侍史
今日山浦に來り候故御面談せんかとも思ひしが手紙にて略し置き候今年はチト歌でも詠むべし
筑摩野の冬木の松のまばら松小鳥と我と住み馴れにけり 十二月作
まばらなる冬木がもとの緒土《あけつち》に夕日さし入りぬその土の色 同上
一七四 【一月三十日・端書 東筑摩郡廣丘村より 上水内郡芋井村上ゲ屋 内田義久氏宛】
双方より消息絶え申候御無事に候哉望月光君死去痛惜に候御同樣命は大切に候一寸の命も惜しみて働かねば惡しき事に候アララギもこんな具合では氣飢ゑ可申候小生壯健に候
一七五 【二月十日・端書 東筑摩郡廣丘村より 諏訪郡宮川村新井區 鵜飼三治郎・藤森知降久氏宛】
今夜諸君の御稿すべて拜見致し候一般に申せば感覺的の歌多くして人をして自づから考へしめるやうな深く重いものが無いさやうな刺撃は只五官を刺撃するのみで神靈を刺撃してくれぬ所謂與謝野や其他の新派と自稱する連中のは斯る感覺的なものであつて一寸見ればスベラカク美しいが淺くて卑俗なもの斗り也この弊所を脱せられん事を祈り候
一七六 【二月十六日・端書 東筑摩郡廣丘村より 上水内郡芋井村上ゲ屋 内田義久・古澤喜市氏宛】
拜啓芋花君ノ今度ノ歌子供ノハ大抵面白カリシモリノ他ノハ餘リ作リ放シニテ濫作ニ近ヅキ候ト思ヒ候今ツト苦心シテ彫琢スル必要アリト思ヒ候ソレカラ芋ノ里人ノハドウモ深ミガ不足シテ居リ候今ツト深刻ナル自己ノ感興(125)ヲ基礎として大膽ニ御詠ミヲ希望イタシ候君ノハ歩ミ乍ラアヤブミツヽ歩クヤウナ感ガ致シ候何ダカ梁ノ上デモ歩クトキノヤウナ感ガシテ泰然タル風ガ缺ケ申候ソレニ比シテ芋花君ノハ往々大膽スギ泰然スギ申候二人ソンナニ相違シテ居ルハ妙ニ候
堀内望月二君去リタル信州人ハチト奮發スル覺悟ナクテハイケヌコトト思ヒ候 二月十六日夜十二時半
一七七 【三月十七日・端書 松本出先より 北安曇郡池田町百六番 松島梧風氏宛】
大へんおもしろく拜見致しましたあの中で八首ばかり取りました作者の感情が落付いてしんみりした情趣が浮んでゐるのを喜びます只現し方の洗錬が不足してゐるのを殘念に思ひます今つと語と句とを適切に使つて頂きたいと云ふ感じがします左の歌の一、二、三句の類であります
落葉して冬おそくまで落葉して青く芽をふくさびしき木かな
一七八 【三月十九日・封書 東筑摩郡廣丘村より 上諏訪町片羽 牛山郡藏氏宛】
拜啓過日は度々參上御迷惑相願ひ恐入り候然る處今又新に御願申上ぐる事心苦しく候夫れは小生本年中の新聞手當を前借する事に候二月分は二圓ばかり殘るかと思ひ候以後十ケ月分を合して四十二圓と相成り候夫れを年一割五分利率にて二月に三十七圓拜借するとすれば年末に至り元利合計四十二圓位と相成可申丁度皆濟の譯に相成申候 37+(37×.15×11/12)=42.0875圓
右御都合出來候はば毎度ながら御工面願度ちよくちよく參上御無心のみいたし小生も心苦しく貴兄も面倒の事と存じ上候いつもこんな事のみにて申譯無之是全く昨年の失敗と懲り入申候御憫笑下され度候
(126) -七九 【三月二十一日・封書 東筑摩郡廣丘村より 諏訪郡玉川村小學校 小尾喜作氏宛】
拜見何やら蚊やらでどうLても歸宅出來ず失禮仕り候つまり二十八九日で無ければ御面談六ケ敷候明日夜一寸歸るが二十二日午前中に松本行の用ありこれも忙しくて御面談の機なし組織大に宜しく奉謝候戸田某女を泉野へでも廻して吉田を取り得れば尤も妙その他には今居る人を出してその人を入るゝ事出さるゝ人氣の毒なり成る可くは出さぬ方よし併し僕には實際がよく分らぬのだから宜しく御決定を望むそしてずんずん御斷行を望む手紙の交渉では好機を逸する事あるべし御考量の上御斷行被下度候矢島助け得ば助け被下度候匆々亂筆失禮 三月二十日夜十二時 久保田生
小尾君机下
一八〇 【三月二十三日・封書 束筑磨郡廣丘村より 諏訪郡富士見村 丸山爲之助氏宛】
拜啓不二見公園設計に付きかねて左千夫先生に依頼承諾を得居り候へ共あの件は如何取計ひて可然候哉設計圖を造るにや牛山君の處にある設計圖樣のものを訂正するにや兎に角實地觀察の上ならでは手が附かぬかと被思候而して左千夫先生分擔の仕事に對して費用どの位御支出の御豫定に候哉詳細御知せ被下度其上にて改めて左千夫先生へ紹介仕るべく御返事待上候匆々不一 三月廿≡日夜
丸山爲之助樣 几下
一八一 【三月二十三日・封書 束筑磨郡廣丘村より 諏訪郡湖南村小學校 河西省吾氏宛】
拜啓すべての事四月はじめ迄返事御待ち下され度候それまでは手の付けやう無之候それで返事おくれたり小生(127)大抵三月末日にて當地打切り可申しコレも四月になりてゆる/\御面談可仕候森へ雪たまり遊ぶ時なしに此地を去るべし兩角君によろしく歌稿忙しいからあとでよむ 三月廿三日
河西君几下
一八二 【三月三十一三日・封書 諏訪郡玉川村より 小縣郡武石村 中原閑古氏宛】
鹽尻にて二三十分下車遠く傾く森林の野を一人して眺めそして別れを告げ候暗い頭の中に只牛屋の火鉢が光りてボーツと頭に入り來り候詮方なく候
拜啓筑摩の野もこれにて全くカラに成り候人事變移斯の如し堀内逝き望月逝く逝くもの歸る時なし湯本去り私去り閑子去る去るもの又再會を必すべからず只森あり彼依然として彼の處にあり森伐られ野墾かるゝ頃我等遂に何物ぞや心は遷り老い滅すあゝ果して然るか靈魂の不滅は私に於て常に堅く信ずる所不滅ならんを欲し不滅ならんを希ひ遂に不滅なるを信ずるに至れり私共の心は遂にこの形骸を離るゝに至つて只至聖至靈なるべし私は今一人死火山の裾野にあり而して心は遠く馳せて筑摩の舊林に逍遙す心の自由は鐵も隔つべからず私は只この自由に一瞬づゝの生を覺ゆるのみ
丸子の新生活如何御知せ被下ば幸甚に候束京へは四月末に行き五月半に歸るつもりに候近頃歌についての議論やや高まり左千夫翁と我々との間に著しき隔りを生ぜしを愉快に思ひ候(?)アララギの歌御覽になれば分ると存じ候此事いつか詳しく御話し致し度候茂吉憲吉千樫梨郷等とも目下盛な議ろんの由にて諸君から皆知せて呉れ愉快に見て居り候思想や感興が異るに至るは自然の道にして一種の進歩也左千夫先生からも今に分つて下さると思ひ居る所に候私の學校へ土田耕牢(十八歳)が來り候此人弱年なれど思想進み歌も大變宜しくよき人來りうれしく候五味保徳も來りうれしく候丑助相變らずよく候羊といふ人も私の處に居り候延川としゑさんの亭主に候今夜も十(128)一時まで話してかへり候歌出來るやうなら御示し願上候待上候私の子供全快御安心被下度候御自愛のこと匆々不盡 三月卅一日夜 柿の村人生
閑古樣貴下
一八三 【四月十八日・封書 玉川村より(推定) 藤森六七氏宛】
拜啓今日予ノ母ノ二十七年目ノ命日デアル今カラ二十七年前小生十歳ノトキ午後ノ暖カナ日ニ予ノ母ハ六人ノ子供ヲ置イテ逝ツタノデアツタ今日ハ學校カラ歸ツテ位牌ニ燈明ヲアゲテ芋汁チ備ヘテ二十七年前ノ子供ノトキヲ思ツテ見タソレカラ五十日目ニ二才ニナル弟ガ痲疹デ死ンダ母ノ乳ヲ離レテ他人に預ケラレタカラ死ヌ前ノ日家ニ歸ツテ二日ダケ僕等ノソバデ暮シタ正確ノコトヲ父ニ聞キタイガ年老イタ人ニ悲シイ追懷ヲ話サセルノハ忍ビヌコトデアルカラ黙ツテヰタ予ノ十六歳ノ正月三日ニ小兄ガ死ンダソレヲ心配シテ父ガ病ンダ予ノ二十五歳ノ年ノ十二月二十七日ニ仲兄ガ死ンダ臺灣カラモ七年振リニ歸ツテ二十日許リ老親ノ側デ病ンデ死ンダ兄ハ死ニ場所ニ家ヲ撰ンダトイフヨリ七年振リノ家郷ヲ見タクナツテ逢ヒタクナツテ病ミ衰ヘタ身ヲ勵マシテ歸ツタノダ丸子ノ驛デ父ト大兄ト病兄ト小生ト弟ト五人數年振リデ顔ヲ合セタノガ五人ノ顔ノ揃ヒ終ヒデアツタコレハ只一晩デアツタ小生ガ三十一歳ノトキ大兄ガ千葉病院デ死ンダ兄等ノ病ム度ニ父モ心配シテ病ンダ小生ノ二十六歳ノトキ一月五日妻ヲ喪ツタソノ前年ハ一子ヲ失ツタコンナ生活ヲ續ケテ來テモ自分ハ世ノ中ニ猶幸福ガ私ノタメニ充滿シテヰルコトヲ感ズル私ハ境遇ト生命トヲ區別シテ行キタイ暮シ方ト生キ方トヲ區別シテ行キタイ境遇ハスベテ私ノ生キ方ノ修養デアツテ貰ヒタイ
私ハ私ノ卅六年ノ歴史ニ別レテ衷心カラ感謝スルソレカラ後モサウデアリタイ
十二時過ギニ思ヒ付イテコンナコトヲ書ク氣ニナツタ君等ニ話シタクナツタ 四月十八日夜 俊彦生
(129) 諸大兄諸大姉各位
昨日ハ有難ウ
一八四 【四月十九日・封書 諏訪郡玉川村小學校より 松本市新町大和醇方 金原よしを氏宛】
拜啓過日は御厄介相成奉謝候何だか久し振りの御面談の如く思はれ欣喜致し候なをさんにも宜しく御禮願上候五味君にも宜しく願上候翌夜は御兩人の御出掛遲かりしを悔い申候あの課題の歌今二三首御送被下度候そして萬葉集を順次御調べ希望致し候分らぬ所は御申越被下度手紙で分らぬ所は御面會の節御話しに入れ可申候何もかも五月の御來諏待上申候それから貴下は普通よりも少し多く沈み入る御氣質相見え候年若き時は有り勝と存じ候へ共修養の如何によりては身心を傷ぶり可申よく/\御心附願上候小生も此風あり自分でも近頃は餘程まで境遇を修養の機會とする分子殖え候へ共猶心の方が境遇に負けて困り入候猶何か御困りの事情も候はゞ決してかくさず御打明け御相談下され度小生は費下が何を御打明けになりても驚き申さざる迄に思はれ候御心配なく御打明け希望に候右のみ匆々 四月十八日 俊彦
夜汐子樣御前に
一八五 【四月三十日・端書 諏訪郡玉川村より 上水内郡芋井村上ゲ屋區 内田義久氏宛】
新生活感如何人生ノ新シキ意義ヲ加ヘテ深キ或ル物ヲ掟フルノ機會ナルヲ思ヒ候急ニ歌ニ現レズトモ可ナリ今ニ現ハルヽ機アルヲ樂シク待上候此頃中村憲吉君來遊樂シカリキ歸途ハ信越線ナリシモ急グカラ君等ニ逢ハザリキ輕井澤ノ翠色ヲ喜ビテ申シ來リ候小生玉川ニ入リテ多少變遷アリ歌モ出來可申候近況御伺ヒ申度候
(130) 一八六 【五月十六日・封書 諏訪郡玉川村より 下伊那郡飯田町高等女學校 湯本政治氏宛】
拜啓大に御無沙汰仕り候御着任後御動靜如何に候か新しき仕事の初期折角御忙しき事と御推察仕り候御令閨樣には已に御出産の御事と存じ候定めて御安産と存じ候へ共猶心に掛り候猶御全家御移轉は未だ御延引の御事と推察仕り候束筑部會も彌々三山氏來國の由御盡力相現れ候儀と欣び申候小生轉任後別にさしたる事件も無く日々校務齷齪罷在り候身體大に健全御欣び被下度候山浦地方は地寒けれども肥沃也木の種類も桔梗ケ原に比して多樣從て若葉の特色千態にして甚だうれしく候學校近傍には猶森多く毎日快き散策致し居り候若菜の鮮なる色は新しき生命の色に候我等は新しき生命と始終する一生涯を過し度心願いたされ候廣丘の人たちも毎日手紙越し或は來訪いたし二年間の同棲無意義ならざりしを欣び候宿は學校を距る數町の民家離れ座敷一間(六疊)を借りうけ至極閑散にて宜しく候今年は少し讀書して見んと思ひ居り候
アララギ五月號貴兄如何に候か千樫は兎に角いつも生き居り候今度のも輕快にして何物にか餘念なき情緒よく現はれ居候中村君の輕井澤行は大へん宜しく思はれ候左翁のは面白けれども斯の如き作は遂に輕きを免れずつまり輕き面白味なるべく候其他によき作甚だ少しと思ひ候選歌數非常に少きも異樣に思はれ候
アララギ今月も十圓送れと茂吉君より申來られ一寸困り候へ共とに角何とか可致今月の大兄分五圓のうち二圓差引(色々の勘定にて小生より差上けんと思ひ居るもの)三圓丈け茂吉君へ御送り被下度殘り七圓を小生より送り可申右御承知被下度候(先月分は胡君より出せり)近來一向作歌せず困り居り候六月號へは何も出すもの無之候
今夜下諏訪町歸宅思ひ付き候事のみ申上候書餘は期後便匆々不宣 五月十六日 柿村書屋主人
湯禿山詞臺
(131) 一八七 【五月十六日・封書 諏訪郡玉川村より 松本市本町松本銀行内 胡桃澤勘内氏宛】
大に御無沙汰仕り候益々御清康に候か伺上候小生健在御安心下され度候志都兒には未だ一度も逢はず候
アララギ千樫は兎に角いつも新しき生命の動くを見申し候憲吉君のは大へんよろしく候一番よいと思ひ候左千夫先生のは輕き面白味に候若葉の情味に候動きては居れども此の種のものに深味を求む可からず梨郷の囚はれざる歌を尤も平氣によみ居り候現在の作家と云はんよりむしろ將來の作家と申すべきかこせ付かずして規模大なる尤も欣ぶべし信州人も追々だれ來り候甲州人のはどうも靴を隔てゝ痒きを掻くの感あり候アララギ又十圓送れと申來り候間禿君の今月分と合せて十圓にして送り置き可申候アカネ出で候由どんなもの出つるや大抵想像つき申すやう也
山浦は木の種類多く若葉の色各々特色ありて動きありうれしく候地相も平野に比して廣野なれど複雜多樣久し振で接すれば大に宜しく候學校より數町離れたる民家の六疊を借りて牛屋的に生活いたし居り候其後新生活の御樣子如何新しき欣びには新しき苦痛當然免る可らず豈ひとり君のみならんや御努力願上候猶模樣多少御洩し被下度願上候堀内君宅へも御序アラバ宜しく願上候同君の歌アララギにあり欣びと悲しみと一時せまり候あの歌はよい歌に候今夜下スワに歸り思ひ付いてこんな事順序もなく書き列ね申候御ひまの時御覽被下度候 五月十六日夜
胡老兄臺下
一八八 【六月十一日・端書 長野市縣町逢瀬館より 諏訪郡湖南村小學校 兩角喜重・河西省吾氏宛】
今日は梅雨らしい雨が降つたりやんだりしてゐる咋夜は一時半迄藤村の「犠牲」を讀んだ今日は誰も來なんで靜かなシミ/”\した日である本を讀んでゐると何時しか色々の考へに引入れられる私の心は何處へ行つても動搖を(132)靜める事が出來ない何時この動搖が靜かになるだらうと思ひ乍ら居る窓の下は桑畑で麥畑が續いてゐる雨の中で蛙が少L許り鳴いてゐる斯樣な寂しい中で今日の一日は終らんとする毎日午前だけ授業して午後はこの二階にゐる私は斯る機會に可成多くの本をよみ度いと思つてゐる 六月十一日日曜
教育會に出て來ないか
一八九 【六月二十四日・封書 長野市縣町逢瀬館より 松本市新町大和醇方 金原よしを氏宛】
二十三日夜十時ヒヨツクリ書く
この手紙は二人で見て頂き度い中原さんが松本へ出なんだら廻送して頂き度い
中原さんからの手紙がやつと今夜ついた途中でどうか成つたのかなど思つて見た廣丘の樣子がよく分つて田川近邊が想像出來る田川里人の顔も想像出來た大に感謝する
金原さんは十九日夕方停車場へ來て下さつた樣子誠に申譯無かつたいつも素通りして實は夜の八九時頃の汽車で松本を通つた時二人の内誰か見えるかなど思つて窓から顔を出して居た大丈夫居ないと思ひ乍ら顔を出して居たそして居なんで何だか安心したやうな心持になつた漸つと居ないとつきとめたといふやうな安心であつた
長野は其後毎日人が來て話して居て一寸も勉強が出來ぬ大に弱つてしまふ昨夜は久し振りに眠り得て今日は多少頭が樂になつた按摩なよんで揉んで貰つたら大へんよく眠れた明後日の日曜は朝の三時半頃の汽車で柏原迄行つて野尻湖へ遊ばうと思ふ朝の北國の眺めは私の心に相應した感じを與へるだらうと思ふ小泉信平といふ上スワの人が一緒に行く約束である私は朝早く起きて夜は早く寢るやうにしいいくらか勉強するために
福澤君の説は月並で取れぬ新古今を此上なしに喜んだのは數年前の與謝野夫婦である與謝野たちでももう新古今からは出て居る子供に歌の形を眞似さするなどいふ事は弊の尤も大なるものである福澤君もその邊になると一寸(133)徹底し兼ねるやうだ後町の小學校では大分萬葉集好きが出來たやうだ併し眞に味ひ得るや否やは疑問である一人でもあれば私の努力は無駄で無いと思つてゐる清書の原稿は慥に落手致しました
中原さん「親の愛」云々は何だか切ない詞であつた併し親の愛が離れるといふやうな事は決して無いそれは一時の現象に過ぎぬ決して氣を小さく持つな私は世間に自分の趣味に同情を有してくれる人が一人あれば感謝して居たい(自分が世間に只一人ではつらい)私の全人格に同情を有してくれる人が一人あれば感謝して居たい之以上の事はここには書かぬあなたの心を小さく持たぬ工夫が切に望ましい
七月八日に講習が終へるその日の夕方松本へ歸つて泊るそしてその翌日皆で鹽尻へ行つて果物を食べたいその時によく話さうと思つてる大勢に吹聽しなんで呉れたまへ雜駁になつていけぬから大勢でのから騷ぎはもう飽きたこれで此の手紙を終る 柿生
御二人樣御もとへ
夕ちかき雨のあがりに國原の麥の黄ばみは早くうすれぬ
麥原の黄ばみのはてよ時あかり雨のはれ間をほのめきて見ゆ
麥の秋の國に雨ふり民らみな家にこもれか動くものなし
駄作メチヤクチヤ也何とか補足して後にお目に懸ける
一九〇 【七月五日・封書 長野市縣町逢瀬館より 松本市新町大和醇方 金原夜汐氏宛】
啓實に申譯無之車中只々途方に暮れ申候今日の御心中推察に餘り候小生の罪なり御許被下度候あの汽車で是非歸る事にしてあり廣丘の宴會をも辭退し一人は荷物のため態々送り來りし折柄急遽の御面晤遂ひ一列車延す事をせずして今更ら心地惡しく候著早々筆を執らんとして只今夕食後になり候例の件第一は貴君が北安に轉ずるにあり(134)その口は小生より高山君に依頼して見るべし(通學出來ずとも家に近き利ありといふ譯にて老母之を云々を云ひて校長に迫る)併し是は先以て六ケ敷と見ざる可らず第二は一年間貴君が反抗しつゝあるにあり併し之も甚だ忍びざる事にて眞に萬一の場合の事也第三は現状の儘にて小生より貴家御兩親に對して問題を切り出すにあり是は八月御歸省の際一問題起るに際し一旦貴君が御拒みの上にて小生より切り出す方利ありと思はる(私も思ふ所あり少しの内待つてくれと云ひて諾せず居るがよし)
第三に對しては明日直ぐ長野へ相談打合せすべし第三を施す以前御兩親より御提出の問題にて大に困らば直ぐ電報を出すべし小生は直に大町に行き御相談して臨機の處置をすべし今の處で是れ以外の策なし是れに對する御意見直ぐに御申越下され度(玉川へ)候小生は大概成ると思へど萬一の場合を保し難しその時の事兼々申上げし如く決して自暴自棄に陷いるべからず斯る心は問題なくとも修養の必要あり御工夫祈り候そして平素に於ても極めて理性を活かすべし是れ苦悶の消滅法に非ず苦悶の指導法なり中原にもこの事よく云ひ聞かせたり「聰明の女」になる用意君等には特に必要なり濃き畫を見詰めた目はしまひには淡き畫を好むべしこの意味の淡き畫ば決して淺き畫に非ず御修養是祈り候中原といふ賢き女性ありよく打明けて共に共に御工夫あるべし得る所あるを信ずこの手紙中原に見せてもよし守屋(第三)に相談の結果は直ぐに御報する、以上三者はうす生君と相談せる結果なり
亂筆匆々御返事下され度候色々御厄介奉謝候匆々不盡 七月十日
別紙閑古子へ御送り願上候この手紙の事など書いてはなし以上
一九一 【七月九日・端書 松本より 諏訪郡玉川村小學校 小尾喜作氏宛】〕
廣丘へ立寄りて明日歸宅可仕と存じ候へ共事にヨレバ又泊められるかと思ひ候水、木中に歸校可仕御承知下され度候縣廳の方は聞糺し置き候間設計を進めて宜しく候勿論不都合無し只村債にするのは面倒のみ手工室の設計圖(135)は齋藤に依頼調整の話にして歸り候新村君もう出られしか其他諸君は健在か萬事面晤の事用アラバ下諏訪へ御手紙のこと 七月九日 柿の村人
一九二 【八月十八日・端書 玉川村より 四賀村飯島 森山藤一・河西民作氏宛】
二十日の一周忌には可成行く考へて置いてくれ玉へ
拜啓木外居士碑文は不折先生に書かせれば書くがとても一月や二月の埒に行くかを保せす三川氏のも未だやらぬよし左翁より申來り候依て表丈けでも不折に書かせ裏の文章は紫竹にでも書かせては如何今秋に間に合せるには全部紫竹にでも書かせては如何 八月十八日
一九三 【九月六日・風書 諏訪郡玉川村より 松本市新町大和醇方 金原よしを氏宛】
拜啓久しぶりの學校生活如何大町よりの御手紙拜見少々波瀾を見候由親子骨肉の間にはたまには左樣の事あり深く御留意に及ばず直ちに釋然たるべし年の違ひあるために思想上の懸隔あるは詮なき事にして此思想上の懸隔よりして當然なる衝突を生み候へ共離るべからざる因縁の絲ありて直ちに結び付き可申之が他人ならば衝突も無き代り結び付きもせず衝突は同時に融合の反對とも見得るべし只々融合に御勉めなさるべく之甚だ自然にして美しき事と存候親はこちらで大に謹愼の意を表すればそれだけで釋け可申候續けて手紙書き御兩親へ御送り成され度希望いたし候例の件も別に當面の問題には成らざりしが如し正月頃はそろそろ切り出してもよいかとも思ひ候何もかも愼重の態度に願上候理窟を申せば色々理窟もあれど只々内心の御工夫を望み候苦痛の御工夫なりと御同情に堪へざれども致し方無之候左千夫先生今月廿日頃來遊今度は何とかして御逢ひ如何猶閑古子とも御相談成さるべく候閑古子も今日頃は已に歸省と存じ居り候閑古子は沈み居りしか快活なりしか小蟹氏も病み居るらし氣の毒(136)に堪へず候小生學校七日より十七日迄秋蠶休みに候下スワの方に居り可申何か小説でも作り可申かと思ひ居り候猶近状御示し下され度歌稿もあらば御示し被下度候 九月四日夜 柿生
夜汐樣貴下
一九四 【九月十日・端書 玉川村より 湖東村笹原區 兩角丑助氏宛】
昨夜君の牟呂に泊つた今日是れから歸宅する十三日は二番の汽車で茅野から乘りたまへ小尾もさうする筈也依て矢島安平氏宛「十三日午前八時頃迄に來校して呉れよ」と頼みやれそしてもし矢じまが間に合はずとも九時何分かの二番で來たまへその間小便に留守させればよい小便にはさう云つて置く不二見から直ぐ境村へ行くのださうだから改めて此はがき書く同じ汽車で無ければ都合が惡い雨天でも行くよ 九月十日朝
一九五 【九月十二日・封書 下諏訪町より 諏訪郡不二見村 丸山爲之助氏宛】
拜啓伊藤先生より別紙はがきの如く廿一日來著の由申參り候間取敢へず御通知申上候不二見村へは二泊の豫定に候間左樣御承知下され度貴人の別荘などはイヤの由に候へば油屋と緑屋泊位がよろしかるべき歟宜敷御取計ひ願上候猶酒客の集合に終るやうにてもうれしからずその邊御承知願上候
小生は廿一日十二時頃不二見油屋に參り可申萬事御面晤を期し候匆々不盡 九月十二日 柿生
露乃舍樣臺下
小生十九日迄在宅二十日玉川行廿一日不二見へ參り可申候
一九六 【九月二十一日・端書 不二見驛より 玉川村小學校 小尾喜作氏宛】
(137)子規忌に使ひたいから僕の寓の座敷にかざつてある子規石膏像を出町の人に託して布半迄屆けてくれ給へ尤も必しも必要ぢやないから然るべく頼む明日の晩も小川別莊に泊るかも知れぬ 九月二十一日
一九七 【十月二十一日・封書 玉川小學校より 宮川村西茅野區 五味勝次氏宛】
拜啓今朝聞き及び驚嘆仕り候御心中只々御察し申上候取あへず御見舞の詞のみ匆々急々 十月廿一日 久保田
五味兄几下
諺に燒け太りといふ事あり只資産のみを云ふにあらず心も持ち方によりて太り得べし萬事御折角是祈る旅行の朝急ぎ記す
一九八 【十月二十六日・封書 諏訪郡玉川村より 松本市新町大和醇方 金原よしを氏宛】
拜啓大に失敬しました信州號を印刷にまはして十一日間草鞋をはきました伊那木曾の方へ二度行きました村の青年等と一度學校先生たちと一度木曾川を四里奥へ溯りました紅葉は丸で血でありました深い淵が青く淀んでそれに紅葉の濃い色が溶けてゐる斯んなものは畫にも歌にも成りません
木曾では廣丘の人たちに逢ひました中原さんも行つてゐました廣丘の人たちは山の中へは入らぬ豫定でありました相變らず大騷ぎして酒を飲んでゐょした
私は少し忙しいために自分の感じに執著してゐる事が出來ぬのを悲しみます今少し落付かねばつまらぬやうに思ひますあなたの競爭の勝つた知せは大へん生き/\した感じを私に投げ付けました子供と一緒に飛歩いて喜んでゐるやうな若い潔白な感情は貴い感情である左樣なものが段々除去されて行くのは哀れな事である人生に對する自己の價値は自覺する必要がある併し自己に起り來る事件の自認――事々物々を自認して行ふ心――斯樣なもの(138)は大抵醇粹な感情から離れるものである我に起り來る事件に對する時は只純粹な興奮によりて行ひたい自己も他人も中心に置かぬ興奮によりて行ひたい價値を自認するといふ事は事件の行動を不純にする子供と飛び歩いて只喜ばしい競技に勝つて只喜ばしいといふやうな感じで我世を送り度い我々は餘り物事へ理窟を付けすぎる理窟を付けたがる是れが惡い心である家出の歌は失敗してゐるそれは家出する男子の今はの心情を女子が想像してゐるのだから薄いにきまつてゐる一通り誰でも想像出來さうな事より言へないのである夫れよりもあとに殘つた人々の哀しさを中心としてその空氣の中へ家出の人を寫したなら女子とLて尤も成功しさうに思へるどうも十四首中二首より上は取れない
批評は直截に言はねば困るから言ふ十月のアララギ憲吉の歌はよい歌である私のは乾からびてゐるイヤになる十一月號を見てくれ玉へ小生の歌少し自慢してゐる御批評願ひたい信州號にはかなりよいのがあるつもりである久し振りで下宿に靜居して今夜は手紙を七本書いたもう根氣が續かぬあと少し書かねばならぬ小蟹子の批評も今夜書いた大に小言書いた中原は一向歌を送らぬなまけてゐるやうだ今に作る中原は奈良朝史を研究するといふがやつてゐるかやつてゐたら感想を書いて送るがよい
土曜に中原來たら此手紙見せてくれ玉へあと又書く失敬 十月二十六日夜半 柿生
夜汐樣御許へ
一九九 【十月二十六日・封書 諏訪郡玉川村より 西筑摩郡藪原 湯川寛雄氏宛】
拜啓此間は參上非常の御厚意に預り奉深謝候久振りの御面談欣ばしくやがて悲しく心に沁み入り申候御境遇の變遷これ天の力にして人間畢竟如何ともするなし境遇に對する吾人の修養のみは人の力によりて如何ともなし得べし願くは今の方を愛し玉へ是れ小生の至願也而して御子供方の至幸也今の方の至幸也少くも深き同(139)情を以て接し玉へ御一家の至幸也御親族の至幸也感情に生くる固より貴けれども所詮は理性にも生きざる可らず分別にも生きざる可らず種々の方面より考へて小生の志願也御參考の一端にも相成候はゞ大慶の至りに候
父上樣其他皆々樣にも大兄より宜しく御鳳聲被下度御禮旁匆々不備 十月二十五日夜 柿人生
比良夫樣貴下
二〇〇 【十一月二十一日・封書 諏訪郡玉川村より 絵本市新町大和方 金原よしを氏宛】
拜呈今夜ハ紙ガ足ラヌカラ斯ンナモノヘ詰メテ書ク昼間ノ手紙御覽ト思フ
私ハ心ノ自由ヲ束縛シヨウトイフヤウナ考ヘハ少シモナイ束縛シタカラト云ツテ何ウナル者デモ無イコトヲ知ツテヰル只人間ハ神デ無イ一方カラ見レバ動物デアル如何ニ動物タルコトヲ拒マントシテモソレハ人間スベテガ拒ミ得ヌ事實デアル從ツテ物ヤ形カラ束縛サレル部分ガ斯樣ナ意味カラ生ジテ來ルコトモ許サレネバナラヌ事實デアル私ハ昨年ヨリ深ク貴下ノ人ト成リヲ知ツタソシテ今迄親シキ交際ヲシテ來ツタコトヲ思フ者デアルソレ故私ハ私ノ思想界ガ如何デアル無イトイフコトヲ別問題ニシテ兎ニ角私ハアナタノ一身ノ幸福ヲ熱心ニ希望スルニ於テ人後ニ落チヌコトヲ斷言シ得ルノデアル自分デ眞面目ニ左樣ニ信ジテヰルノデアルアナタニ私ノコノ心ガドウ見エルヤ否ヤハ私ニハ分ラヌ問題デアル
貴下ノ行動言動ハ時々人ノ目ヲ惹ク傾キガアルソレハ他ノ人ニ比較シテ言フノデハナイ絶對ニ考ヘテ左樣ナ傾キガアル人ノ目テ惹ク惹カヌト云フ丈ケデ判斷スルノハ間違ツテヰルガ深刻ナ痛切ナ心ノ動キホド人目ヲ惹カヌノガ實際デアル特ニ女子トシテハ内ニ苦シイ程外ニ現ハサヌトイフ傾向ガ益々ソノ心ヲ深クシ立派ニ貴クスルト云フコトヲ注意スベキデアルソレハ歌ナドノ一般傾向カラ考ヘテモ刺激的ナ動的ナ傾向カラ進ンデ靜的ナ瞑想的ナモノニ移ルトイフノニヨク似テ居ル瞑想的デアリ靜的デアルカラ心ノ動キガ弱イ淺イ卑イト見ルベキデハ無イコ(140)ノ關係ノー端ハ信州號ニモ少シハ云ヒソノ他デモ一寸ヅツハ私ノ言ツタヤウナ覺エデアル私ノ今日昼間申上ゲタ事ヲコレト關聯シテ御考慮アランコトヲ熱心ニ希望スルソレデ貴下ニ叱ラレレバ夫レ迄デアル私ハ黙ツテヰテ貴下ガ社會的ニ人ニ誤解サレルヤウナ不仕合セヲサセル心ニナレナイノデアル私ガ決シテ貴下ノ心ノ自由ヲ束縛シヨウト考ヘテヰルノデナイコトヲヨク解ツテ頂キタイ少クモ社會的ニ行動言動ヲ外ニ現ストイフヤウナコトヲ幾分餘計ニ考慮シテ貰ヒタイノデアル若イ人ニハ多少ノヤリ損ヒハ許シ得ルト思フガソレヲ機會ニシテ益々深ク生キル心ヲ養ヒタイ者デアルコトニ女子トシテハコレハ餘程大切ナコトデアル私ガ完全デ總明デソノ心デ人ニ教ヘルトイフヤウナ態度デ言フト見テ貰ヒタクナイ只全然貴下ノタメ(形カラモ心力ラモ)ヲ思ツテ云フツモリデアル誤レリヤ否ヤハ別問題トシテ私ハ只熱心ニ言フツモリデアル斯ノ如キコトハ私ハ責任ヲモツテ只一人ノ貴下ニ對シテ言フソノ他ノ誰ニモ申サヌ五味ニモ申サヌ中原ニモ申サヌ河西ニモ申サヌ(コトニ貴下ニ斯樣ナコトヲ言ツタトイフコトヲ)只河西ニハ失張リ社會的ニ少シ注意シロト言フツモリデアル面談シテ言フツモリデアル私ハ清イ若イ人々ヲドウカシテ社會的ニ殺シタクナイト思フ(老婆心カハ知ラネドモ)心デ言フノデアルト云フコトヲ眞面目ニ思ツテ下サイ人ノ心ノ自由ヲ束縛スルノトハ違フト思フヨク考ヘテクレ玉ヘ私ハ怒ツテヰルノデハ無イ心配シテ困ツテヰルノデアル貴下等ノ眞面目ノ心ノ動キヲ直接私ニ話シテ下サルコトハ少シモ差支ヘナイ差支ヘナイ處カソレハ大ニ歡迎スル及バズ乍ラ私ノ意見モ申上ゲルツモリデアル取ルベキ方法モ取ルツモリデアルソンナコトハ當前《アタリマヘ》ノコトデアル左樣ナ事ト別意味デ前陳ノ意ヲ了解シテ呉レルコトヲ望ム二、三日前ノ行動ガ全然斯ノ如キ意味ニ取扱ハルベキ着ニ非ザルコトモ承知ナレド轉バヌ先ノ杖トイフ意義デコンナニ永ク書イタノデアルコトニヨレバ貴下等ニ怒ラレルト思フガドウモ仕方ガナイ 二十一口夜十一時 柿人生
○夫レカラ此間玉川にて申上げし事も遠慮なく御申越下され度現在ノ貴下ノ感想ヲ誇張ナク制限ナク有リノ儘ニ知セテ頂キタイ成ベク結論ダケヲ箇條書的ニ願フ結論ヲ見レバ大抵私ニソノ理由ガ理解出來ルト思フ(141)併シ必要アリト思フ丈ケハ永ク書イテクレ玉ヘ
二〇一 【十一月廿六日・封書 玉川村より 上諏訪町片羽町 牛山郡藏氏宛】
拜啓御留守に申上げしものは石屋にありて濱君が東京へ送り返しし由に候(双鉤して貰ふために)その内に返り可申候碧氏中々面倒の人也呵々
それから今度の日曜あたりに幹事全體(六人)を何處かへ集めて萬事相談しては如何それは(一)金の集め方(二)石碑除幕式のやり方(三)遺稿成本と石碑との費用大體の見つもり及遺族へ贈金の大體見つもり(四)要するに除幕式迄にすべき事業の尻のくくり方是等に就き確かな豫定を拵へて今からやつた方宜しきかと思ひ候 十一月廿六日
二〇二 【十一月廿六日・封書 玉川村より 小縣郡武石村 中原しづ子氏宛】
拜啓久しく御通信が無いがわるいのぢやないかと心に懸る此間二三日雨が降り其後めつきり寒くなつた體にさはりはせぬか私は近來少し弱つて居りますが心配のやうな事は無い髪も刈らず六ケ敷い氣分で毎日の仕事に動いて居ります此一週間許りはつまらぬ村の紛擾事件で苦しめられました昨日終を告げて今日頭も心もがつかりしてしまつた今夜原稿書かうとするが書かれない家の外は明かな月夜で柿の枯木が影の如くに立つてゐる寂しい冬の生活に又入るやぅになりました斯くて我々は年を經て行くのです私は近頃餘り話を致しません一人で自分を見つめる時の多からんを希ひます見じめな見つめ方夫れも我身の影を思へばいとしいのです古いシヤツ古い外套昔の私を想像して下さいそれが今の私です斯くして年を經るのでせう或は轉地の後かも知れぬどうも樣子が心に懸るから此手紙書きます東京から歸つて何も書きません正月は何か書く約束です馬鈴薯の花は春陽堂から出ます御自愛千祈萬祈匆々 十一月廿六日夜 柿人生
(142) 中原さん御もとへ
二〇三 【十一月廿九日・端書 諏訪郡玉川村より 松本市新町大和醇方 金原よしを氏宛】
〕
拜復形よりすれば急轉直下されど是れ却て貴下等のため宜しかるべく今日となりては色々申さぬ方がよいと存じ候冷やかに明かなる道を歩くこと決して惡しからず結構の事に候心も疲れたるべし暫時は可成靜かに養はれん事を希望仕り候
明春は故山に入りて兩親の膝下に節制ある生活をやつて見玉へ人間の一面には固く端正なるものを要求可致候孤獨生活も久しく續けば心に偏する色を生ずべし貴下も中原も明春より厨房にくすぶる修養と長者に奉仕する修養とを成され度冀望仕り候歌出來たら御示し下され度候匆々不一 十一月廿九日夜 柿人子
二〇四 【十二月六日・封書 玉川村より 北山村湯川區 篠原志都兒氏宛】
拜啓行かう/\と思ひつゝ行かず今年も暮れさう也壯健なりや山浦の寒氣には驚けり今頃家裏の霜柱終日解けず體にも少しさはりさう也次に君の村(湯川區)に賣家澤山ある由眞か新しき家にて三間半か四間若しくは夫れより狹い家ありや平家にても二階造にてもよし有らば一寸御知せ下され度他に少し心配してやらねばならぬ人ありて御尋ね申上候無ければ御返事に及ばず
アララギ正月號は六十頁以上の由待入り候小生も歌八首送り置き候四十四年作中にては多少宜しきかと思ひ居り候御批評賜り度候君も四十五年には作つてくれ玉へ大に頼むよ北山の沈黙氣に懸り申候今年中は君の方へ行かれざるべし正月はどうかして逢ひ度いぢやないか 十二月六日夜 柿人子
志都兒樣貴下
(143) 二〇五 【十二月二十・端書 玉川村より 四賀村飯島 森山藤一氏宛】
木外居士小學入學は七歳小學卒業は上スワ小學校也(十六歳)上スワ小學何年出しか不明也十六歳にして下スワ小學校へ授業生に出で宮川小井川を經て玉川學校に來り候由妻女を迎へしは今年にて二十二年目即ち明治44年-21年=23年明治二十三年也との事右御知せ申上候石碑の地高木區尾掛松借地の件區へ正式に申出で候間不日明了可致候長塚君喉頭結核氣の毒也 十二月二十日
二〇六 【十二月二十八・封書 諏訪郡玉川村より 北安曇郡大町 金原よしを氏宛】
一月はじめより玉川村に居ります原稿は少し御待ちを願ひますアララギは月末には送り出す筈也
拜啓もう今年も餘日なし多感の年であつた事と想像します眼を瞑して過去の足跡を思ふのは悲しくて感謝すべき事と思ひます至純なる理性は至純なる感情と一致します吾人は常にそこに何等かの距離を造りますこれ自己の足らざる缺所であります吾人は一年を顧みて感謝と共に多少の不快を伴ひますこれ吾人に修養の必要ある所以と思ひます如何なる一刻でも自己に滿足するのは惡い吾人はこの不滿足を自覺し得るだけ多少何とか動きうると思ひますたまさかの御歸省家庭の眞味を味はれんを望む明年の御幸福を心から神に折ります年末の辭とす 十二月廿七日夜 哀れなる同行者 柿人生
(144) 明治四十五年・大正元年
二〇七 【二月廿一日・封書 諏訪郡玉川村より 東筑摩郡廣丘村小學校 武井翠浪氏宛】
御返事後れ申候俳句御示し被下奉謝候
子が足袋の十日命を快と見し は大へんよいぢやないか子の病氣よしと見しは二一時足袋はいて十日ばかり進んで居たと思つたら快方では無くて死んでしまつたといふ所ならん
筐底の足袋此の佳節にと叔母が文 文字のみ活動して情趣活動せず
木曾の寒里謠にも亦足袋の事 所謂新しき調子といふのみならずや夫れ程に思ひ申さず
中々御持續らしく賀し上げ候うんとやり玉へ滴水山人は如何相變らずやるか此間廣丘を通り候たまに行つて見ると荒凉の處也萬葉の解はどうも略解より外に無し有れども皆品切の由に候略解ならば中原にあり小池にもありしと思ふ池田には誠に申譯無しあやまり申す外無之困り候時々御通信被下度候匆々敬具
二月廿一日夜 柿人生
翠浪樣貴下
別紙中原へ願上候
(145) 二〇八 【二月二十三日・封書 玉川村より 下諏訪町小學校 五味えい氏宛】
拜啓過日は誠に失禮致し御禮申上げやうも無之候親戚に少々出來事ありあの日午前中に片付くつもりの處夜半に入り猶明日に入り大へんの失禮心苦しく存じ候御稿今夜拜見一通り愚見記入亂暴な事申述べ候事は宥恕被下度候惣體にイヤ味の分子無きを喜び候慨敍的に述べ輪郭的に歌はれしもの多きを喜ばず候從て理智に陷り冷靜に過ぐるものを見受け候此點に於て萬葉集はエライものに候御研究希望致し候猶今度の在宅には豫め御通知申上べく御こり無く御出掛被下度候御返事旁々御詫のみ匆々不盡 二月廿三日 柿の村人生
五味えい子樣 貴下
〇印のは採れる歌のつもりに候
二〇九 【三月二日・端書 信州諏訪郡玉川村より 東京本郷區菊富士本店方 中村憲吉氏宛】
待ツテ居タ感謝々々健全過ギルハ自分デサウ思ヒマス理ニ落チルモタマ/\云ハレル多少サウカト思フ自分デドゥモソレ程ニ思ヒ得ナイアトデ見テ今ツト濃ク云ヘナイカナアト思フハ大ニアルノデアル一月號第一首ハ確ニ概敍ニ陷ツテヰル第二首ハ自分デモ未ダイヽヤウデアル山ノ驛ノ説ハ賛成也「ウレシカルラン」――棄權スル「アルモノハ」ソレ前四首程ニ自信ガナイ漫畫デモ書クヤウナ積リデ作ツタノダ長塚君ガ大ニ褒メルモノダカラサウカナアト思ツテ出シタノサ左千夫先生カラ自信ガ無イトテ批評ヲ囘避スルハ卑怯ダト云ツテ來タ囘避ハセナイツモリ也只自信ノ程度ヲソノ儘ニ云ツタノダ先生カラハ毎日ノヤウニハガキ來ル二枚三枚ト續キ物ニナツテ來ル盛ニ小言ヲ言ハレル今デハ人格論迄ニ入ツテ來タココラデ一休ミセネバナラヌ私共ニハ今第一ニ新シイ自由ガ必要デアル先生ニ叱ラレテモソレ丈ケハ困ル今ニ分ツテ下サルトイフ感ジガ今ボーツト私ニアルソレデ安心シテヰル私(146)ハ今日デハ即イテ見ルヨリ離レテ見ル方ガ好キデアル事件ト合體スル場合モイヽガ事件ヲ味ツテ見ルトイフ方ガ好キデアル叫ブヨリモ瞑想シタイ發作的感情ヨリモ情趣的ノモノガナツカシイイツカ動ト靜ヲ以テ言ツテ見タノモコンナツモリデアル先生ハコレガ大ニ氣ニ入ラヌノデアルソレデ私ハ今先生ノ「我ガ命」「黒髪」ナドヨリ「冬の曇」ノ方ガズツトイイ三月號ヲ頼ムドウカ短クテイヽカラズント批評シテクレタマヘ病氣ドウカ、ヨク轉宿スル堀内モヨク轉ジタ匆々
二一〇 【三月十五日・封書 下諏訪町高木より 玉川村小學校 小尾喜作氏宛】
拜啓過日は大謝々々平均して熱度下り疲勞加れり概して言へば良好か手が離されず今日にて丁度一週間帶をとかず閉口致す學校明日より行かんと思ひしもとてもだめらしい萬事宜不頼むその内に何とかするどうしても出られずば又端書出して君から出町して貰ふ事に御承知相願候失禮なれど外に致し方なし優等生を調べて賞の本を註文してくれ給へ一册の大凡の代價と册數とを知らせて見本を持參せしむる落第は初級生には有效なる種類ありその他は大抵功を奏せす特に望みなきものを久しく引張り置くこと不明の策也此邊御考の上御相談願上候何れ面談其他萬事君が考へで計らつてくれ給へ頼む補習同上匆々不盡 三月十五日 柿の村人
石馬樣
昨夜守屋より熊夫來り一時間ばかり布半にて話す別條無し上諏訪には困りものなり
二一一 【三月二十日・封書 諏訪郡玉川村より 西筑摩郡藪原 湯川寛雄氏宛】
御尊父樣に宜敷御傳言願上候
拜復大變御無音申譯無之候益々御清祥奉賀候小生頑健御安心被下度候
(147)アララギ追々遲刊原稿の定日に揃はぬと經濟上の打撃とでいつも如斯困入り候三月號も表紙出來ず後れ居り候由併しもうはい來ねば困ると思ひ居り候そろ/\送つてくれるだらうと待居り候小生事によれば月末出京諸君と此件について相談して見ようと思ひ居り候もし行はれずとも四月中には出京致し度存居候次に御令弟御轉任の件小校にては今年は異變無く組織も早くに定まり居り今一人も入るゝ餘地無之殘念存候惡しからず願上候猶他の學校にて必要も候はゞ御知せ可申上是れは今の處當てには成らむと御承知願上候餘は後便匆々不備
三月二十日 柿の村人
湯川大兄臺下
二一二 【三月二十六日・封書 下諏訪町より 玉川村小學校 小尾喜作氏宛】
一、昨日ノ職員會原稿ヲ上ゲル
一、補習出席表ヲ役場ヘ出シテクレ給ヘ
一、西尾カラモシ返電來テ君ガ郡役所ニ行キタラバソノ結果ヲ(萬一ノコト也)西尾ニ返電出シテクレ玉ヘ(僕ノ名デ)
一、萬事タノム今夜歸ルカ明朝一番デ歸ルカシカトハ分ラズ來賓席モ作ツテクレ 三月二十六日朝 柿生
石馬樣
塚田君ニ申ス大和ノオバアサンガ飯田へ行クサウダ二十七日カ二十八日ニ出掛ルサウダ大和ノ家ハモウ明ケテ上ノ土田宗次氏ニ頼ンデアルサウダオバアサンハ角市カ小和田アタリニ居テソコカラ飯田ヘ行クサウダ昨日忘レタカラ申上ゲル
(148) 二一三 【三月二十六日・端書 下諏訪町より 諏訪郡中洲村福島區 平林榮吉氏宛】
(Mハドノ位出セバヨイノダ)
拜見御知せ被下大謝少し待つてくれ玉へ今他に紹介してるのがあつて決定しないから何れ又申上る
盗難とは傑作なり似合はぬ事をした盗人也哉併し僕もやられた事あり變な感じのもの也一度位は經驗してもよいが幾度もはいけぬ
二一四 【四月四日・封書 信濃諏訪郡玉川より 東京本郷區菊坂町菊富士本店 中村憲吉氏宛】
拜見只馬車馬ノヤウニ奔ツテ居タ十數日間頭はボツとしてしまうた三四日少し閑になつたら體が疲れて來たそして信濃の春は又私には惱ましい春になつたオイ君私はどうしても安靜な心にはなれないで苦しいよ仕方がないでは無いか自分で持て餘す事は自然に放任して置くより仕方がないでは無いか大に君等に失敬して居た原稿も失敬して居今日から取り掛れる昨夜少し見たが久し振りで歌を見たせゐか大へんよいのが見えたザンゲ録も今日送る月末に上京するロダンと巽畫會を見る百穗さんたちの會は何日あるか松本へも一寸寄つたきりであつた利子サンにも一寸御目に懸つた齋藤君古泉君によろしく 四月四日 俊生
中村君
二一五 【四月十一日・封書 玉川村より 湖南村小學校 兩角喜重氏宛】
拜啓新學年如何私も一寸忙しくやつて居る月末に帝國教育會主催の小學教員會へ行くそこで洋服が無いから君のフロツクを五月五日迄拜借したい出來ますか著るのは只四日間であるから左樣にはよごれぬ行歸りはかばんに入(149)れて歩くからよごれず出來るなら願ひますそれから許可せばこの明後日の土曜に橋本の家か盛文堂迄出して置いてくれ玉へ著て見て體に合はねば他に何とかせねばならぬ以上御願匆々 四月十一日 柿人
雉夫樣
二一六 【四月十八日・封書 玉川より 豐平村上古田 小尾喜作氏宛】
拜啓東京ヘ出ル金ドウシテモ出來ヌ石碑ノ金費ヒコンデルカラダ無盡シテクレマセンカ一口十圓デ小尾田中兩角久保田ノ四人(四十圓ニナル)トス毎月隔月カ何レニテモヨシ四月私ガ取リ六月以後ノハセリ會ニスル會場ハイツモ布半夕飯酒ハ毎會私ガオゴルコト毎月トスレバ七月終ル隔月トスレバ十月終ル君ト雉夫ヨササウナラバ田中ニモ云ツテ二十八日に布半ニ開ク今夜大ニ困リ右案出返事タノム失敬々々 四月十八日夜 柿の村人
石馬樣
玉川學校の人には云ふな二十三四五日頃はヒマ也御來遊あれ
二一七 【四月十九日・封書 玉川村より 上諏訪町裏町北澤印刷所方 田中一造氏宛】
拜啓丸デ忙シクテ夜二三時迄起キテルソレデ失敬シテヰル
東京ヘ出ル金ガドウシテモ出來ヌ石碑ノ金ヲ費ヒコンデルカラダ無盡シテクレマセンカ一口金十圓デ小尾田中兩喜久保田ノ四人トス毎月カ隔月カ何レニシテモヨシ四月私ニ取ラセテクレ玉ヘソレ後ハセリ會ニスル會場毎囘布半トス夕飯酒ハ私ガオゴルコト毎月トスレバ七月ニテ終ル隔月トスレバ十月ニテ終ル今夜大ニ困ッテ右案出無理スル必要ハナイ返事ハガキデ頼ム出來レバ二十八日布半ニ開ク 四月十八日夜一時 柿生
田中君貴下
(150) 亂筆々々
二一八 【五月五日・封書 神田區表神保町日芳館より 信濃國諏訪郡玉川村 兩角幾三郎氏宛】
拜啓會も今日終了明日より各所縱覽を許され候へば歸校豫定より二三日後れ候へば宜敷願上候
昨日は文部大臣官邸へ招かれ大臣次官局長膝を交へて談話致し候今日は宮城拜觀と靖國神社參拜相許され夫れで午前を終り申候先は右のみ匆々 五月五日
兩角樣貴下
校舎請負等如何相成候哉宜敷御配慮被下度候缺席兒童の件も宜敷願上候
二一九 【五月八日・端書 信濃國諏訪郡玉川村より 東京本郷區菊坂町菊富士本店方 中村憲吉氏宛】
今度の東京は非常に愉快でありました君たちを通じて美しい東京を覗いたのであります私には新しいものが附き加つた事と思ひます太平洋會の畫よりも先輩會の方が興味を惹きました新しい活き/\した活動の色が動いて居りました平福君のを見られなくて殘念でありました幾日も君たちの時間を潰した事を感謝致します甲州の道は大抵眠つて都合よくありました妙な女と一緒に上スワ迄參りました夏は屹度信州へ來る事と信じて居ります土屋君に宜敷願ひます 五月八日
二二〇 【五月九日・端書二枚ツヅキ 信濃諏訪郡玉川村より 東京府下上澁谷町一三五 平福百穗氏宛】
過日は御忙しき中を推參して大へん御厄介になりました久振りで逢ひ得たのを心の中で喜んで居りました私は上野の畫會へ二度行きましたそして太平洋畫會よりも无聲會の畫が興多く思ひました丁度私たちの歩いてるやうな(151)新しい道が无聲會にもあるやうな感じがしました私たちよりも今つと思ひ切つた歩き方をしてゐると思つて愉快であります益々やつて行つて下さい大兄の畫が是から掛けるといふ所で未だ見られず殘念でありました小杉さんのも邦助さんのも愉快でありました素明さんの模樣も大へん好きでありました素明さんの弟子らしい名の方のが入口にありました今目に殘つて居ります柳塢さんのはそれほどに思はれません今つと頭を新しくしてはどうかと思はれました生意氣ですがさう思ひました玩具店などはこの方にはいゝ方でありませう江亭のはイヤでありました千甕さんのは面白い併し今少し深入りしたいやうに思ひました素明さんのも未だ少なくていけませんでした今二三日たつて來て見たいと思ひましたが是非なく歸りました美術協會の參考品中呉何とかいふ支那人の花鳥三幅は實によくありました銚子迄遊んで來ました銚子町の利根川邊の方がよくありました御禮のみ匆々 五月九日
二二一 【五月二十一日・端書 諏訪郡玉川村より 小縣郡上田町上田病院内 中原しづ子氏宛】
御樣子如何金原は訪ね行きましたか齋藤は變な男である夜おそく暇乞ひしてかへる三十分もたつと又來る又歸つて三十分もたつと來るそしてしまひには宿まつて行く明日になつてからも病院を休むふだん勤勉だからいゝと云つて休むそれから方々を連れて歩く話しの切れ目にはきつと「アララギ」の事を言ふ何か書いてくれと云ふ熱心はとても及ばぬ銭の勘定の餘りがあればアララギへ寄附してくれと言つて貰つて行くこんな具合の男であるもう一ケ月退屈であろ熱出ぬやう大切にすべし無理な動き方をするなよ 五月廿一日夜
二二二 【六月一日・封書 諏訪郡玉川村より 北安曇郡會染村小學校 金原よしを氏宛】
拜讀上田迄尋ねて下さつたと聞いてうれしく思ひました嘸喜んだでせうと感謝致します初めて病室で逢つた時の二人の心が私を泣かせました今日は一日夫れを繰り返してせつなく暮しました二十何人のお客樣が來て騷がしい(152)中でそれを思ひつつ居りました快方に向ひつつある病人のために幸福多かれと祈ります尋ねる人は歸る一人殘つた人はもう一ケ月を旅の病室に過します一時の長さも猶堪へられぬ事があらう私には夫れを慰める事が出來ないどうか手紙を澤山送つてやつて下さいそして感情を痛く刺さないやうに言つて下さい頼みます私も成るべく平氣な手紙送つてゐます夫れでも惡いかと思ふ事がある
池田の生活は寂しいでありませう話す人の無いのが苦しいだらうと思ひます――女は特に――私は一人で籠つてゐたい早く宿へ歸つて一人で考へてゐたい人と話すのがいやである世の中は遂に一人なり――以前は寂しいのが樂しかつた今では寂しいのが苦しいどうもやりやうがないあなたの六月號の歌齋藤が大へん喜んで言つてよこした今日拜見のも大へん生き/\してゐるといふ事に異議ないが今つと語感を顧みたい聲調を顧みたいキメが粗くはないか率直に申上げます御返事のみ匆々 五月卅日夜 柿生
蛙のはなしもやみぬ二人して遠き蛙に耳かたぶけぬ
たばこのけぷりの未も見えぬまで庭のしげりは暮れてありけり
二二三 【六月五日・端書 信濃諏訪郡玉川村より 東京府下上澁谷百三十五 平福百穗氏宛】
拜呈毎日持ツテ居リマススマヌト思ヒマスガ頂クヤウニ願ヒマス
女ト知リタクハナイ男ト知リタクハナイ只藝術ト知リタイ畫ト知リタイ音樂ト知リタイ藝術ト二人デ目ヲ閉ヂテ純ナルー瞬ノ呼吸ヲシタイ私共ハソノ時ノミ此世ガウレシイダラウト思ヒマス
无聲會ノ愚感ヲ新聞ニ少シ書イタラ生意氣ナモノニ見エテ居リマス書クトソレガ少シヅヽ感ジト隔リガアル私ノ歌ハ變ラネバナリマセンサウイフ必要ガ心ノ中ヘ強ク湧イテ來タノデアリマスソレデ歌ヘバ矢張リ隔リガ出來ル數日苦ンデモ今出來ズニ困ツテ居リマス 六月四日夜一時
(153) 今度美術學校卒業ノ繪篠原圓次ハ志郡兒ノ從弟デアリマス美術新報ノ寫眞デ見マシタ以上
二二四 【六月十一日・端書 松本より 諏訪郡豐平局澁ノ湯温泉 塚田廣路・兩角丑助氏宛(笹原ノ人)】
梅雨のはれ間を一日かゝつて峠を越した徐ろに一人で歩いた夕方石馬と小蟹と村井の郊外を散歩してオランダ苺を買つて歸つた田舍の驛の夜は寂しい私は寂しい驛から昔の生活の古い遺跡――あの桔梗ケ原を望みつゝ三日間暮すつもりである 六月十一日 柿の村人生
二二五 【六月十一日・端書 信州村井驛旅先より 東京本郷菊坂町菊富士本店 中村憲吉氏宛】
文明君のはいゝみんないゝ特にはじめの方の三首がいゝ夜汐子のもいゝかういふ具合に行きたい歌の少いのが氣になる寂しい淺野君の文章は面白いいゝ文章であります歌論が大へん盛でありました木曾はどうしますか可成來るやうにして下さい頼みます明日松本堀内を訪ねる 六月十一日 柿の村人子
二二六 【六月十二日・端書 村井の伏見屋より 廣丘村堅石區 牛丸與茂造・百瀬清作・外諸氏宛】
今夜こゝに居り候御出掛如何
二二七 【六月十二日・端書 村井驛伏見屋方より 北安曇郡大町 金原よしを氏宛】
盆燈籠を灯もせば佛樣が歸つて來るといふ盆燈籠に歸つて來て昔の自分の生活を昔の家に偲ぷ佛樣はどんなに哀れでありませうと思ひます私はその佛樣のやうに今桔梗ケ原の一隅に歸つて來て昔の自分の生活を夜の野の村に偲んで居るのでありますそこには悲しい思出が充ち滿ちてそしてそれがもう冷やかになつてゐます私の胸はもう(154)堪へられません夕方あの農園へも行きました田川の橋を遠く川上に歩いて太田さんの家は見えるかと幾町も上りました見えませんでした紫雲英の花のある田が未だあります川邊の茨は白く咲き盛つてゐますアララギ六月號の貴詠はあはれでありました手紙は玉川の方へくれ玉へ 六月十二日夜
二二八 【七月十四日・封書 玉川村より 湖南村小學校 河西省吾氏宛】
御返事待ちあげ候
今夜出校したら机上にあり何と申上ぐべきかを知らず私も只人の子也弱き人の子也罪を負ひたる人の子也人に向ひて説法するやうな態度が若し今迄にありたりとすれば皆私の間違ひ也貴兄に對して道を説くやうな態度ありたりとも思はる是れ生の僭越也眞に爾か感ぜらることの今更に深し眞に自ら悔み入わ候御宥し下され度候
色々の問題に接する毎に只私は問題(内容迄入れて)に教へられ導かれ鞭撻せらるるを思ひ候今度スハに歸りてヤツト落付いて考へて斯樣に思ひ斯樣な點から天上の何物かに感謝致し候只私に猶取るべき何物かがあらば從來の如き御交際願上度誠心に折り候何と申上げてよきかこんなに書いて來たがサツパリ頭はまとまらず只貴君等のためになる事で盡力すべきあらばどんな事しても盡し度存念は變らず次に現實問題! 現實問題なるが故に淺しと思はるる能はず且つ當面の問題なるが故に兎に角何とか考へて置かねば暑中にでも困りはせぬかと心配されたる也失禮な申方なれど若き人たちに萬一問題なきうちにと焦りて思ひしなりき問題の進行の模樣によりては松本なり大町なり出掛けて御相談するを辭せず色々申上けたけれど今日は頭がまとまらず後から書き申すべく御返事のみ匆々敬具 七月十四日
(155) 二二九 【七月三十日・端書 信州上諏訪町より 東京小石川區久堅町七九 若月岩吉氏宛】
拜啓過日上京の際は非常の御厄介相成大謝いたし候御蔭樣を以て萬事捗り去る廿四日は故郷に於て葬儀執行いたし候早速御禮申べきの處君の住所を忘れ今日ヤツト伊藤君から知らせて貰ひ取りあへず御禮申上候也 七月卅日
二三〇 【二月七日・端書 下諏訪町より 諏訪郡役所 今井眞樹氏宛】
拜啓八重垣姫の事につき御敬へ下され如何許り難有御禮申上候とんだ御手數相願ひ恐入申候渡邊先生より通知も候はゞ猶御知せ相願度乍勝手重ねて御依頼申上候匆々 二月七日
二三一 【大正元年八月十六日・封書 上諏訪町布半方より 小縣郡武石村 中原しづ子氏宛】
八月十六日 金曜
昨日から手紙書かう/\としてどうしても書かれず今日は講師藤井氏を富士見驛迄造り歸町しました夫れから勞れて二時間眠つて今起きた所であります久しく御たより無いが體の方に變りはありませんか一寸心に掛るハガキでいゝから知せてくれたまへ諏訪も大へん暑い日中は少し堪へられぬ萱草の河原-武石川月見草の河原-依田川其處の暑さを想像しますそして夏の終りから流行する病――夜腹を冷して出る病それを心配致しますどうか注意してくれ給へ其次に悲しい事は「アララギ」の廢刊であります九月號迄出してあと止めにせねばならぬやうに私共の財政が押しつまつて來たのです茂吉が大へん工面して今迄やつて來たのですが要するに續かなくなりました伊藤先生や蕨君たちも金を出さなくなりました私も大へん悲しいから茂吉君と二人相談してゐる所です併し一先づ廢刊にはなりますアララギは廢されても詩は亡びないし私どもの心は益々どうかならねばならぬ私は追々東京へ(156)出ねばなりません今から準備するつもりであります八月號は今に出るでせう古泉から何とも云つて來ません私は三四日中に何處かへ一週間許り遊びに行きたいと思つて居ります行けば知せます貴家のお隣へ雷が落ちたさうだがその時の驚きがさはりませんでしたか上諏訪へも三ケ所落ちました
北斗星――北極星――夜の秋の空はもう秋らしくなりました是から歌を作ります 八月十六日 柿の村人
閑古樣
二三二 【八月二十四日・端書 木曾藪原湯川寛雄方より 小縣郡武石村 中原しづ子・小林いとの氏宛】
アララギ御兩人ノ歌大ニヨシ九月號以後モ兎ニ角出スコトニセリ
廢啓今日藪原ヘ參リマシタ湯川君ノ周旋デ此處ノオ寺ヘ泊メテ貰フコトニ成リマシタ暫ク逗留シテ何カ讀マウト思ヒマスコトニヨレバ中村君モ來ルカモ初レマセン私ハ大抵廿九日迄泊ツテヰテ卅日ニ歸宅スルツモリデス寺ノ座敷ハ居間カラズーツト離レテ三方ノ壁ヤ縁ニ仕切ラレタ狹イ庭ニ草ト椹ノ自然草トガ生エテヰマス草ノ中ニ赤過ギル程ノ果ノ房ガ直立シテ居マス私ノ室ハ暗クテ陰氣デアリマス左樣ナ中ニ暮シテ見ルコトヲ喜ンデヰマス小縣ハ大ヘン地震ガスルサウデスガ大丈夫デスカ御兩人乍ラ體注意ノコト 八月廿四日夜 柿乃村人
二三三 【九月二日・端書 上諏訪町郡役所内より 木曾藪原極樂寺内 中村憲吉氏宛】
一人では少し淋し過ぎるかと思ふ其後如何ですか澤山本よめますか木曾に居るうちに鳥居峠を宮ノ越驛へは是非行つて来たまへ鳥居峠は夕方の方がいい
今日は日曜で朝から歌をやつて見て居るがどうも纒らない二百十日の雨が降つてゐる諏訪ももう餘程凉しくなつて朝晩は單衣一枚では過しにくいやうだアララギ長野や松本で大へん註文來る面白くなつたやうだ師範の校友會(157)何會などで取りはじめた一つうんとやつて見やうでは無いか頼む 九月二日
今度の土曜頃(七日)迄出張する其後に來るやうにしてくれ玉へ
二三四 【九月九日・封書 諏訪郡上諏訪町布半方より 小縣郡武石村 中原閑古氏宛】
御手紙拜見第一に益々快方に向ふのを喜ぶあなたの心の修養と病氣に對する用心とが今迄の調子に行けば此冬をも無事に經過し得る事を信ずる此夏の暑さを少し氣遣つたが夫れも無事に經過したのは何よりの喜びであつた此調子でどうか進んでくれたまへ何もかもクヨ/\してはいけません快活な心の調子を張つてゐて下さい至祈至望であります木曾では中村君と遊んで歩きました上松驛迄盆踊見に行つたが御大喪でだめでありました夫れで夜の十二時頃から踊るのださうだ木曾式の敬意であると面白く聞いたのであつた私共は夜半迄待つてゐる譯に行かぬから福島驛迄來てあそこの女を二人よんで木曾節を謠つて貰ひましたがうまく聞かれませんでした夫れでも木曾は或る特徴ある面白い土地でありました中村は未だ木曾に居ります今日頃松本へ出てそれから今晩か明日上諏訪へ來る筈です中村と二人で不二見へでも遊ばうと思ひます松本は赤痢があるから秋遊びに來るなら注意せねばいけません諏訪へ一日來て下されば尤も喜ばしい今少し秋冷を待つ方がいゝでせう太田さんは病氣はよいさうだが氣の毒であります事によれば日向國(牧水の家)へ行くかも知れぬよし也
木曾の歌其内にまとめて御覽に入れますアララギは十五日頃出來る十月號から必一日に出す何か御送り下さい夫れから金原は河西と結婚する事に定りました十六日に式を擧げてそれから河西は上京して書生をする十六日には私が河西を連れて大町へ行きます仕方ありません行きがけに一列車ばかり太田さんを慰問して行かうと思ひます
〇何もかものんきに健康を待てそれが第一の急務にしてよきやり方なり 九月九日 柿人生
閑古樣貴下
(158) 二三五 【九月十四日・端書 信州下諏訪より
今雉夫君ト話シテ居リマス白川君ト一緒ニナツテ大ヘン賑カデアリマシタガユツクリ話スコトガ又出來ナクナツテ大へン惜シクアリマシタ君モサゾ迷惑ダツタラウト思ツテ氣ノ毒デアリマシタ富士見ノ勘定ト雉夫君カラ上ゲタ少シノmハ決シテ御送リハ要リマセン當方デ片ガ付キマスカラ御心配ナキヤウニ願ヒマス秋ヲ待ツソレカラ詩集ノコト齋藤ニ話シテクレ玉ヘアララギ昨夜來ル君ノハ次號ニナツタ盛ニ出シテクレタマヘ
二三六 【九月二十日・封書 上諏訪より 長野市縣町逢瀬館 小尾喜作氏宛】
拜啓此程は失禮仕り候大町の方無事終了御安心被下度小生の具合格別の事無かるべく御心配被下間敷候
横山重を貴校へ取る事如何に候か御賛成ならば貴下より本人へ語話し被下度貴校へ出ぬにしても履歴書丈けは此際至急小生へ御送り候樣御傳言願ひ候書式等後町へ行き法令を見てまてに書かすべし猶貴校一人増員の事も村長と御協議さへ出來れば當方にては取扱ひ可申候折角御勉強是祈り候 九月二十日 久保田生
小尾君.
俸給も餘るし一二學年合級は具合惡しければ分けてやる方よしといふやうに村長に話したら横山の外今一人入れ得べく候幼兒又々入院他の子供皆風邪人間如此
二三七 【十月一日・封書 信濃上諏訪町布半方より 東京本郷區菊坂町菊富士本店 中村憲吉氏宛】
宿屋でこんなものへ書く
いけない事した今年は惡い年だつた君にも私にもなんにもいゝ事がない年だ君の色々の出來事察するに堪へぬ困(159)つてしまふ夫れに國へ歸らねばならぬのは定めて何か心配だらう御尊父は如何でありますかどうか靜かな心になつて事件に對して居てくれ給へ頭をヤケにしたり傷ぶり過ぎたりしないでくれ給へ僕にも人に知れぬ苦しみがある僕は自分で自分を捨てゝしまはねばならぬ僕の心の蔭は黒く暗い影法師だそれを底へ押しつめて置いて平氣な顔してゐるのが悲しい併し僕はさう思ひ得る丈け近頃平靜になりつゝあるこの平靜は悲しいつらい平靜である事を思つてくれよ
君、誰でも苦しい事はあるよその苦しみを眞面目に眞劔に正面から向き合ふ私たちは悲しい幸福者であると思ひます併し私たちは未だ勇氣が足らない久しく正面に對するに堪へぬやうになる。君、私は斯うして心の弱者になつて光の底に潜まねばなりません君は私とは大に質を異にしてゐる君は私よりも純だ(失敬だが)そして自然だそして弱い脆い此際どうか強くしつかりしてゐてくれよやけ酒など飲まぬやう氣を付けてゐてくれたまへ心からの頼みであるあの手紙を今日見て心が急に暗く引込んでしまうた妻にも讀んで聞かせて二人で同情した今妻の宿屋から布半へ歸つて來てこの返事書くのだ一年間は實際惜しい併しこの間に文學をやる餘裕だけはあるこれが差引勘定の殘りである。オイ君――君がこゝに居ればいゝな――ウンと文學をやつて下さい君の文學はコヽデ屹度變化するよ
齋藤君から色々言つて來た御尤だと思ふ無理はないよ實際先生も今少し純粹の質であるといゝがなどうもへんに拘る所が出て來る齋藤と古泉と君と僕と四人でウンとやるより外無い齋藤を何うか慰めて勵ましてくれよ氣の毒だよ他に構はずズン/\歩けばいゝぢやないか信州同人は三四を除いて他は悉く我々の仲間だよズン/\殖えるよやれ/\譯はないよ齋藤を今一度訪ねて慰めて勵ましてくれよ私も十月末には上京出來るつもりだその時シツカリ話したいそして君と二晩ばかりゆつくり話したい
私は大抵全快した子供も明後日一時歸宅して三日おきに病院へ來るまでに運んだ冬さへうまく通れば來年からは(160)健全に行くと信ずる堀内へ寄つたらお母さんのみであつた父さんは廣さんをつれて御大葬へ行かれて留守利子さんたちは學校で留守――その時私は熱が三十八度以上あつた――お母さんはようく分つてゐて下さつた白川さんには困ると云つて居られた今夜はこれ丈で失敬する 十月一日夜布半にて 柿乃村人生
中村君貴下
二三八 【十月八日・封書 郡役所内より 諏訪郡湖南村眞志野小學校 兩角喜重氏宛】
拜啓旅行うまく行きし事と存上候途中よりの繪はがき奉謝候来る十一日か十二日朝貴校視察に出掛け可申其際萬事御話し申度條牛山政雄の事〇〇へ申遣し置候例のフロツク又々二三日拜借いたし度豫め御願申置候(十二日貴方にて借るればよし態々御遣しに及ばず)今度は東京にて古物買入れ可申に付き以後は御願申さず候廿一日より十一月十日頃迄上京可仕候 十月八日 柿生
雉兄
二三九 【十月二十九日・封書 東京神田區表神保町日芳館支店より 東筑摩郡廣丘村吉田 太田喜志氏宛】
太田さん二十日から束京に來て居ます色々紛糾した刺撃の世界に今日で十日許り交じつてゐて大へん疲れを感じます昨夜は水穗君を訪ねましたそして廣丘の鴨と鴫を思ばず味ひ得て悲しい感じがしました私からは大へん御無沙汰もして居ります太田君とあなたの身の上なども語りました
廣丘! 懷しい寂しい廣丘! 私は思ひ入るほど悲しくなる私の近頃は黒いものゝ中にやつと小さい眼をあけてしよぼ/\見廻してゐるやうな氣がしてゐる
一人で下宿にゐる今日は雨が降る私は色々の事を考へてゐる
(161)中原さんはどうも具合が惡るさうだ長野へ行つてから急に又惡くしてしまつたやうだ近頃便りも無い私は眠つてからも心に懸つてゐてなやまされる實に哀れなんだ何と云つたらいゝだらうあなたが彼を訪ねて二三日慰めて下されば實に有難いどんなに喜んで泣くだらう哀れで/\仕方がない兎に角手紙やつて下さい勵まして下さい頼みます貴下は何時上京されます若山さんは早く御上京になれませんか私は來月の十日頃迄居ります寂しいから手紙下さいアララギ七八日頃出來るから送ります 十月廿九日夕方 柿の村人
岸子樣御もとへ
二四〇 【十一月十二日・封書 信濃上諏訪町布半方より 東京本郷區菊坂町菊富士本店方 中村憲吉氏宛】
非常な御厄介になりました非常にうれしく過しました僕も早く東京で暮したいよ昨日東京を離れて郊外の丘陵の起伏を見てうれしくありました新しい日光が芒に光つてゐて惜しい氣持がした
子供は餘程快方に向いてゐたうれしかつた併し當分病院の御厄介物だ今から原稿書く少し何か書いて見たくなつてゐる私から心のなやみを少しのうち取除いてもらひたいといふ氣持で東京でも眠つたり起きたりした故郷へ來ても同じだ何時迄も同じだおい君我々は別の惡い世界を持つてるよ夢にまでおびやかされて生きてるでは無いか君に大へん金を出させて申譯無いが少しのうち待つてくれ玉へそれから毛布(下宿へ忘れた)の事ハガキ汽車中で出したが屆きましたかどうか頼みます今日は未だ頭がボーツとしてゐる落付いてから書く
十一月十二日 柿人生
中村君貴下
あのこと齋藤君に言はぬ方よし黙つてそつとしてゐる方よし冬は出て來い
(162) 二四一 【十一月十八日・封書 信濃下諏訪町高木より 東京府下上澁谷町百三十五 平福百穗氏宛】
拜啓上京中は度々參上御厄介樣相成大謝奉り候畫に對する御話大へん面白く私共の歌に對する平素の感想と照合する所多く愉快に存候夫れにつけても无聲會四五の作家に對して自愛と奮勵と切に祈望致し候今後の日本畫は諸君によりて新しき生命を得べきを確信いたし候來年の无聲會には必出京のつもりに有之候大兄の新聞社を退かるるは極めて喜しく候專門に時間をかけて御研鑽成され候はばと今より期待致し居り候諸兄の時機今に來るべきを確信仕り候
今度は御迷惑な御執筆を願ひ實は心苦しく思ひ候時間をむしり取るやうにして強ひて願ひし事失禮に存入り候併し大兄の畫をうれしがる事小生を以て第一とすべきを信じ候感謝に堪へず深く御禮申上候そして時々アララギで何か話して頂き度小生等は只畫のみの御話とは思ひ申さず候
冬の氷湖へ御來遊千祈致し候世間が八釜しければそつと來らるれば宜しく候是非御思立下され度侯歸來少しの病人などあり手紙遲延今日漸く一書差上申候匆々敬具 十一月十八日 柿の村人生
二四二 【十二月二十六日・封書 諏訪郡役所より 玉川村小學校 塚田廣路・同羊子氏宛】
一、校長問題ハ役場ヘ交渉セシカ
一、圖書館ノ付箋訂正至急御差出アリタシ信濃圖書館規則三村醇二君ノ處ニアリ來テ見テ訂正シテ出シテモヨシ
一、休中補習生【男女】勸誘御心配ノコト 五味勝君ト相談シテ
一、郡長ハ一月ハジメニ君ノ學校ヘ行ク以上 十二月廿六日
(163) 塚田君貴下
ソレカラ無盡掛金君ノ處カラ出シテ置イテ呉レ得レバ頼ムイケネバ何トカ工面スルカラ至急御申越願上候
十二月廿六日 柿ノ村人
羊樣貴下
(164) 犬正二年
二四三 【一月十一日・封書 上諏訪町布半より 豐平村下古田 塚原浅茅氏宛】
拜啓先日は參上御馳走になり有難く存じます小生益々健全只今布半に止宿いたし居ります小正月に年賀にお出でなされませんか(高木宅へ)もしお出でなら一寸端書で布半か學校へ知らせて頂けば小生も歸宅いたします布半へ御一泊なら猶よろしい
それから地所の件坪七圓として百六十二坪ならば千百三十四圓なり之は先方の望みなれば坪八圓とすれば千二百九十六圓(一寸千三百圓)位に出來さうに思ひます千三百圓不可ならば千二百圓位なら大丈夫賣れると思ひますから誰か中へ立つ人を擇び度くあります藤森良知氏か藤井屋の久さか金井か誰か擇んで委托したら如何ですか
皆々樣御大切少し具合わろくば醫者の事 一月十一日朝
二四四 【一月十六日・端書 富士見より 相模國鎌倉町坂ノ下木村豐吉方 中原しづ子氏宛】
毎朝攝氏零下一五度トイフ寒サダ今年ノヤウニ雪ガ深クテ寒イコトハ珍シイ今日又富士見ヘ來タ寒サウナ洋服姿ニ雪ノ山道ヲ想像シテ見テクレ玉ヘ今日モ日ガ暮レテシマツタ富士見驛ノ油屋デコレカラ夕飯シヨウトシテヰル筆ノ片端カラ氷ツテシマフ明日ハ又長野ヘ行カネバナラヌ三年前ノ桔梗ケ原ノ住ヒ今カラ見レバ眞ノ極樂淨土(165)デアツタモウソロ/\コノ仕事モ足ヲ洗ヒタイ一體ガ無理ナ職業デアツタ
變リナキカ切ニ御大切ヲ祈リマス 一月十六日夜七時半
二四五 【二月十三日・封書 信濃上諏訪町布半方より 東京本郷區菊坂町菊富士本店 中村憲吉氏宛】
(り) 東京のさわぎ面白い國民社破壞でアララギも歌集も困りはせぬか
頭が疲れました誰かつゝけば直ぐころびます
歌集御心配有難う兎に角出せ今少し精選して送る月末迄に
第一囘に湯川君の50をやつて第二囘からは賣上代で餘程助かるかと思ふ
一つ御心配と御盡力を君に頼む
表紙可成よくたのむ紙はアララギのでは本がうすくなりはせぬかよろしく願ふ
十六日から七日間長野市にゐる松本へよります堀内に逢ひます
信濃で百五十部乃至二百部は必引請ける 二月十三日 久保田柿人生
中村君
二四六 【四月十三日・封書 信濃上諏訪町より 東京本郷區菊坂町菊富士本店 中村憲吉氏宛】
拜啓只今別封書留にて原稿御送申上候
一、年毎に紙を新にすること
二、( )内の字は六號括字のこと
右に願上候色々の面倒皆見て頂きて濟まず何分願上候歌も直し度けれど今は到底出來ず已むを得ず其儘御送申上(166)候大正二年の處へ今少し送れるかと思ひ居り候君のは何首許りになりしや頁數がうすいから紙質は厚い方宜しからずや表紙は厚く固く美しく品よくしたい素明さん模樣を書いて呉れぬか私十九日の夜行で行き(數人連れて)その日の夜行でかへるつもりに候兎に角逢ひたく候そして利子さんへも勸めて申してやるべく候君の胸中を想ひ悲しく候中原も大へん喜んで居り大謝致し候何卒見てやつて下さい頼み上げ候あんなに快くなりうれしく候私も近頃は餘計に氣弱くなり困り候世に細い寂しい道が私のために設けて居り候その道を歩く外なく候春は寂しく悲しく候今夜は是にて失禮致し候 四月十三日夜 俊生
中村君貴下
勿論四六版と存候削りたいのはズン/\削つてくれ玉へ終り八首は他と一緒に纒めて五月號へ出す
二四七 【四月二十六日・封書 信濃上諏訪町より 東京市本郷區菊坂町聞く富士本店 中村憲吉氏宛】
私モソノ後アマリ食物ガ進マヌ體ハ十日許リ前ト同ジヤウダ頭ガ痛イドウモ仕方ガナイヤウダ少シ氣ニ懸ケテクレヨ(君ダケデ)此内ニ何處カヘ旅ニ出ヨウカト思フソレモ一月位後レルダラウト思ツテヰル
白樺會ハヨカツタ无聲會ノ百穗サンハ矢張リイヽ去年ヨリモ餘計ニ氣分的ニナツテヰルアヽイフ風ニ畫ハ進ムダロ私共ノ歌モ、畫ノ賣約有難ウ御厄介デアリマシタ永田君喜ブグロ金ハ矢張リ百穗サンニ上ゲタ方ガヨカロト思フ百穗サントノ散歩ウレシカツタデセウアノ人ハイヽ人ダヨ馬鈴薯ノ花ドウカ急イデクレヨ何分タノムアノアト未ダ幾分送レルヨ(十首カ二十首位ハアル)
東雲堂ノ件モドウカ頼ム千樫君ニ催促ヲ頼ム表紙ハ兎ニ角厚クシタイソシテウント澁ク百穗サンニ願フ信濃デ二百部賣レルトヨク言ツテクレヨ實際ダカラナ諏訪ノ若イ人タチモドウモ薄クテイカヌ歌ノ前途モドウイフモノカト思フ又手紙上ゲル自愛シテクレヨ私モ切ニ自愛スルヨ 四月廿六日夜 俊彦
(167)憲吉樣貴下
二四八 【五月二十七日・封書 信濃上諏訪より 東京本郷區元町一ノ十九東館方 河西省吾氏宛】
拜見仕り候學校の方も追々御忙しき由先以て結構の儀と奉賀候御攝生御勉強の程千祈仕り候試驗も有之候由イヤならむも之も課程なりとあきらめて御辛棒の程念じ上げ候そしてユツクリ御歸省の程願上候此間久し振りにて金原さんへ手紙差上げうれしく存候それはアララギ維持困難にて五月上旬一旦休刊と決定せしに其後又未練生じ今度は會員組織とし月30錢の人と50錢の人とを募り少數者に局限して發行部數を少くせんとの件に候信濃にて只今二三十人は出來候御心當りも候はゞ御考へ被下度願上候〆て百人あれば發行して行かれ候金原さんも賛成して下され寺島理吉松島梧凰さんも二三人周旋して下され池田町大に振ひうれしく奉存候併し只買うて讀む人々はすゝめられず一册二十五錢位にて賣るつもりに候此邊御含み置き被下度候
五月分拾五圓を五小爲替券三枚にて御送り申上候間落手被下度六七月分は六月中旬に一纒めにして御送可申上候間左樣御承知被下度候小口光君に一寸逢ひ申候大へん山國の郷里がうれしさうにて語り居り候有賀君肋膜惡しき由困り入候何卒早く全治させ度事に祈り候先は當用のみ匆々敬具 五月二十七日 久保田俊彦
河西省吾樣梧右
二四九 【六月三日・端書 諏訪山浦より 東筑摩郡廣丘村吉田區太田喜志子方 宮坂武吉氏宛】
今日南大鹽を通つて裾野を上りました谿流の凹みの田には水が入つて青葉らしくなりました丘へ登るとつつじが赤々と燃えてゐました藤の花が青葉の蔭に咲いてるのを見ると山浦の田植の一近づく事を思ひます廣丘の田もげんげがもう耕されてゐませう私もその田のほとりに二年くらしました此間は御ハガキ拜見しましたあれをアララギ(168)に頂くから御承知願ひます今日途中から君を思ひ出したからハガキ書きますそして岸子さんにどうか宜しく言つて下さい今少し醉つて居る 六月三日 柿の村人
二五〇 【六月九日・封書 信濃上諏訪町より 東京本郷區元町一ノ十九東館方 河西省吾氏宛】
拜啓有賀君の事數々御知らせ被下奉謝候彼の病氣可愛相にてあはれに存候天命を待つの外無く候
六七月分合せて三十圓御送申上候間御落手の上一寸お知らせ被下度候それから何時頃御歸りにやそれも一寸お知らせ被下度歸る時に中村君に一寸逢うて下さいませんかそして彼の休中の豫定を聞いて來て下さいそして「馬鈴薯の花」の模樣をも聞いて來て下さい表紙どんな具合かと存居り候廣告料が乏しいから一つ諸方の新聞に批評を書いてもらふつもりに候長野新聞と南信日日とへ二三囘づつ君から書いてもらふ事に御承却下され度願上候大抵二十日か二十五六日迄に出來可申候信濃毎日へは水穗君から書いてもらひ松本の新聞へは胡桃澤君から書いてもらふべし南信日日への催促は明日太田に逢ひて直ぐ送らせ可申候猶馬鈴薯の花のうり方も少し御心配願上候用事のみ申上候餘は御面談を期し候匆々 六月八日夜 柿人生
青五樣貴下
松井須磨子等の事不愉快に存候到底別れるより外なし須磨子に大に同情致し居り候
二五一 【六月二十四日・封書 信濃上諏訪町より 東京本郷區菊坂町菊富士本店 中村憲吉氏宛】生)
拜啓長野の方へ行き昨日歸り候長野では清水や名取其他アララギ讀者に逢ひて話し候松井須磨子同情説を話し合ひ候そして夜行で歸郡致し候
「馬鈴薯の花」上田町方面にて新しく三四册あり信州より必追加參るべくうれしく存候長野で五十册引受けたの(169)だからあれ以上長野ヘやる事は六ケ敷候そして松本市のは三十册が餘り少く存候へ共胡桃澤君が奔走してくれた結果だからこれも自然の需要を待つより外無く追加は必行くならんと存候上田のは長野の本店より行く事に候まあ此の處にて模樣見て居るといふものならん湯川君から二三日中に御送金可致と存候
製本出來の上は一つ御厄介乍ら御送本願上候そして太田貞一と河西省吾へも直ぐ御送願上候私の處へは十部も下さればよろしく候佛畫出來候由齋藤から今日知らせあり君のの校正終るを待ち候御厄介大謝の至りに候そして月末は直ぐ歸らるゝにや私も毎日鬱陶しく候安靜ならず困り候その上に長男(十四才)の眼惡しく成り今醫者の家へ泊めて置き候今は一寸も見えず末の子は矢張り醫者にかゝり居り母がロイマチスにて起床目も口も明かず友人に色々の事ありもうやり切れず候あれ是れに關係してゐる方が一方の深みを減じて行く事にもなれど今は只安靜のみを欲しく候色々の事思ひ切れぬものにて候妻も疲れ居り候併し私共は今夫婦親しく暮し居り候間決して御心配して下さるな只是れが嬉しく候詰らぬ事書き竝べ申候決して心に掛けらるゝなこんな時アララギの遲刊は癪にさはりしかど今はうれしく候いゝ歌多く候清水謙一郎よく蛇川よく不二子も夜汐子もよく候私のは思の外惡しく候七月號の方よいかも知れず候茅眞子の乳房の歌二首はアララギには破天荒なりとて笑ひ合ひ候あれもよく候
君試驗はいつ判りますか分つたら御知らせ被下度候堀内さん何時歸國にやと存じ居り候却て松本に居た方思は安靜なるべしどうも君我々は駄目だよどうか安靜になりたい是で筆を擱く 六月廿四日 俊彦生
中村兄
北信の方に會員殖える事新しき現象にて有望也うれしく候かなり面白い男が居り候昨夜も逢ひて話し三人出來そして皆馬鈴薯を買ふ由に候
二五二 【七月六日・封書 信濃下諏訪町高木より 東京青山南町五ノ八十一 齋藤茂吉・古泉千樫氏宛】
(170)拜啓アララギノ經營ハ我等ニハ今甚重大ノ仕事ナリ
一、會計簿ヲ精確ニ記入シテ行クコト
1、會員名簿ヲ備フルコトソシテコレニ會費納入濟ヲ明了ニ記入シ行クコト
2、雜誌費會計簿ヲ備フルコト
收入ノ部 會費 賣捌代金 寄附金其ノ他
支出ノ部 印刷所 其他郵税
3、雜誌發送簿ヲ備フルコト((1)ノ會員名簿ト時々合セルコト)
二、原稿受取簿ヲ備フルコト(月日種類掲載濟等記入)
附 信濃ノ方ハアララギ名簿ヲ小生ニ備ヘ置キ會費納入欄ト東京ヘ送付欄トヲ設ケ毎月束京ヘ發送ト共ニコノ帳簿ヲ送ルカラ君ノ方デ記入シテ返送シテ下サイソシテ君ノ方ノ捺印欄ヲ作ツテ置クカラソコヘ捺印シテ返送シテ下サイ(カウシタ方ガ各會員ガ餘計ニ安心モシ餘計ニ本氣ニナツテヤツテクレルナリ)ソシテ信濃ノ會費ハスベテ毎月小生ヘ送ルヤウニ八月號ヘ禀告シテ下サイサウスレバ月々ノ集金ヲ一括ニシテ御送スルコノ方便宜ニシテ誤リナシ今五人ニ集金掛ヲ頼メリ五人共月々草鞋ガケデ集メテクレルツモリデ居ル實ニ有難イ此五人ニ受持ノ會員名簿ヲ作ツテ送ル所ナリ
三、今迄ノ申込會員ヲ念ノタメ左ニ記スカラ束京ノ帳面ト引合セテ見テ下サイ(住所略ス)
五十錢ノ部
寺島理吉 金原よしを 松島義治 柳澤茂樹 榛葉嘉一 湯本政治
湯川寛雄 小尾喜作 原田泰人 兩角丑助 兩角喜重 森山藤一(以上十二人)
三十錢ノ部
(171) 吉川ふみ 田中一造 矢島鱗太郎 胡桃澤勘内 西澤本 犬飼寛
一柳忍月 櫻井みね 中原しづこ 小林いとの 名取堯 中山滿吉
笹岡義一 赤羽豐次 小林梓 清水謙一郎 永田登茂治 土田耕平
兩角きぬの 鵜飼三治郎 飯山鶴雄 伊東壽一 唐澤うし 久保田ふじの
河西ますゑ 山田ちま 山田ひさえ 五味えい 久保じゆん 武井すみ
熊谷文子 平林榮吉 守屋吉竹 後町良次 山本長衝 藤森すへ
横山重 百瀬清作 功刀宗一 篠原圓太 柳澤廣吉 兩角福松
青木誠四郎 松澤平一 窪田茂喜 永田敏貞 内田義久 古澤喜一
堀田茂樹 奥村政治郎 五味勝次 兩角波雄 井澤太郎 塚田廣路
(熊谷住所下スワ町久保ト訂正ノ事前には下スワ町小湯ノ上ト書イタカ知レヌ小湯ノ上ハ誤也)
(塚田ハ前ニ五十錢ノ方ヘ知セタカモ知レズソレハ間違ナリ)(以上五十四人)
新ニ入レル會員六人
上伊那郡中澤小學校 矢澤泰助 諏訪郡四賀小學校 湯澤博寛 同中洲村下金子小學校 吉田好
以上總計七十二人 玉川小學校 篠原徳一 同 古畑銀作 同 古田知秀
〇七月號いゝ歌がある要するに皆進みたるなり梧風のに大へんいゝのあり大兄のよろし
朱の墨琉璃色其他みなよし謙一郎の「一歩々々」よし女の人のもよし此位也私のも六月號よりいゝと思つてゐる
汀川の歌稿さがして下さい 七月六日日曜 赤彦生
少し家の内を掃除する妻も君を大へん待つてゐる
濟藤兄 古泉兄
(172) 二五三 【七月七日・端書 信濃上諏訪より 東京本郷區菊坂町菊富士本店方 中村憲吉氏宛】
今朝著く色々の事あとから言ふ
1、目次齋藤と中村から申されしやうがよし
2、表紙の紙今つと鮮かにしたい金の「馬鈴薯の花」の文字位置惡し
3、活字惡し(非常に惡い)
4、全體の紙今少し鮮やかのものにならぬか
試けん喜悦いたし候よかつた色々有難う出來るだけ改めさせて下さいもし文字の訂正をなし得る餘裕あらば訂正して貰ひたき所あり誤植二字あり(煤煙)。電報で知せて下さい 七月七日
二五四 【七月十三日・端書 信濃上諏訪町より 東京本郷區菊坂町菊富士本店方 中村憲吉氏宛】
拜啓昨夜は妻と二人して君のをしみ/”\讀んで見た非常にいゝそして妻と十二時頃迄話し合つた――君の事――君の歌の事――君の歌は情緒の色で霑んでゐる特殊の事象を詠んでゐ乍らその事象から湧く感受が最も純粹に我等の頭にひゞくこの點が非常に嬉しい所であるそして堀内の死を中心とした近頃迄の歌が最もその特色を發揮してゐる昨夜は幾度も繰り返したそして妻と二人で只うれしく悲しくなつたそして大へん話した君のに比べると私のは肌が粗い(特色もあるのだが)そして私は特殊の事實を事實として詠む點が多い情緒に純粹化されない――折角いゝ所を捉へ乍らその點が惜しいのだどうも記述的である事が私の缺點であるやうだ
君も之から變化が必要である併し下手に變化々々を求むるもどういふものか自然の變化に任せるといふ部分を多くしたい君の歌集をよんでどうもさういふ風に思はれた
(173)何時御歸國にや色々の御心中御察申上候利子さんはもう歸國されましたか父母の國を見るのも必要だよ齋藤は信濃に來るというて來た私も追分(輕井澤近傍の古驛)か越後の海岸かへ行かうと思つてゐる富士八湖もいヽね
此頃は私も少し頭が平靜であるから安心してくれ玉へ又書く匆々敬具 七月十三日 赤彦
中村君
妻から宜しくステロ昨日著御厚意奉謝候文鎭にする
二五五 【七月二十五日・封書 東京神田區和泉町一小川眼科病院より 信濃國諏訪郡豐平村下古田 塚原淺茅・塚原葦穗氏宛】
拜啓出立の際は種々御配慮下され奉謝候途中無事にて今朝着京表記へ入院いたし候院長は小川博士と申し眼科の大家に有之候院長の診察によれば惡しき方の眼も大したる事無かるべきか兎に角今少し經過を見ざれば斷言は出來ずとの事依て直に入院仕り候間御一報申上候次に附添人として事によれば足穗拜借仕り度御都合の程願上候十日か十五日位願へれば尤も有難く候小生は廿八日に歸國の筈に候へば廿七日迄に着京候やう願度尤も高木より右の儀御依頼申上けざれば御出京無之樣御承知下され度候本人の元氣至極よろしく候間御安心被下度其他萬事御心配無之樣祈上候匆々不宣 七月二十四日
塚原父上様 塚原葦穗樣
二五六 【八月一日・封書 信州上諏訪町布半より 備後國双三郡布野村 中村憲吉氏宛】
何から書いていゝか分らない左千夫先生の死は只驚駭の外ないあまり平氣に去られて行つたので我々の頭はだし拔かれてしまつて何とも思ひ得ない齋藤と目を見張つたのみだ齋藤は諏訪に居たどうも先生には驚いた
僕は廿五日の夕方二時間許り面談してゐるのだから一層驚いた廿五日夜先生は相變らず論ぜられた大元氣であつ(174)た(尤も頭が痛いと云つてゐられたそして今日鼻を診て貰つたから明日又診て入院するかも知れぬと言つてゐられた)
先生が今死なれるなら今つと早く九十九里の歌の出來た頃去られた方がよかつたかも知れぬ併L今少し生き延びて思想が新しく變つてから死なれたら嬉しかつたらうと思ふ併し去年養子貰はれて置いて家のためには大幸であつた是は大へんよかつたのだ色々考へられるが未だ頭がまとまらぬ
それに私は廿三日の夜行で急に上京したそして菊富士へ休んで直ぐ齋藤から神田和泉町の小川眼科病院へ行つた長男の眼が急に異變を生じたからだ小川博士がよく診てくれて直ぐ入院した一眼は先づ普通になりさうだ他の一眼は少し萎縮したが幾らか視力は惨るまあ心配よりも輕くて大謝する私はそれから一週間病院に付添人としてゐて卅日の夜行で歸つた(弟を付添人として代替によんだ)その晩先生は死なれた齋藤は廿七日に諏訪に來てゐたそして二人で一緒に八ケ岳山の湯に行く筈でゐたのに先生死なれて昨夜上京したそして胡桃澤も一緒に上京した色々困るのだが今私には思ひまとめる譯に行かぬから、赴くがまゝにと只思ひ悲しんでゐ
る中原も少し又病んだらしい、おい君は注意してくれ病んではいけぬよ
君の村は丸で藪原そつくりだねいゝ所だよ繪葉書ありがたぅ馬鈴薯の花うれるやうだ早稻田文學に批評あり青年日本にもあり讀賣新聞に水穗二日ばかり書く筈也其の他あとから匆々 八月一日 俊彦
憲吉君
二五七 【八月二日・端書 信濃下諏訪町より 東京神田區和泉町一小川眼科病院内 塚原葦穗氏宛】
拜啓毎日御苦勞奉大謝候其後異變無之哉三日に一度位づつ御ハガキ願度候此二三日冷氣に候へ共東京如何か多少凌ぎよきかと存候へ共冷氣と共に夜の寢冷えを御注意下され度候晝もあまり眞裸にて風を引かぬやうに御注意の(175)程願上候猶異變も候はゞ御知せ願度候
左千夫先生は卅日の夜死去致され候腦出血の由どうも小生在京中三四日待ちしも來らず不思議と思ひ候
齋藤茂吉君卵を持ち行かれし事と存候同君に色々頼むべし眼をつかはぬやう御申聞かせ下され度候 八月二日
二五八 【八月二日・封書 下諏訪町高木より 豐平村下古田 塚原淺茅氏宛】
拜啓卅日夜歸來早速手紙差上申度存候處一週間留守の爲め多忙一時に加はり遲延申譯無之候卅日朝足穗著京今囘は非常の厄介を願ふ事になりすべての御不都合御察し申上候右深く感謝仕り候政彦も一週間の經過により醫師の意見相伺ひ候處一眼(右)は大丈夫に取留め得べく一眼(左方の惡しき方)も全く失明するやうの事無かるべしとの事今後注意加療候はゞ當初心配せしやうの事無かるべく御安心下され度猶母の病氣も幾分は宜敷候間御安心下され度右大要御報知申上候猶東京は暑く候へ共政彦の身對異状無之御安心下され度候院長一日に三囘宛診察して呉れ申候皆々樣御加養專一奉存候匆々謹言 八月二日
塚原淺茅樣 皆々樣
二五九 【八月六日・端書 上諏訪町布半より 豐平村上古田 小尾喜作氏宛】
過日は御手紙奉謝候御厄介願ひ恐入り候何分願上候左千夫先生の葬式を終りし胡桃澤君昨日立寄り色々詳しく聞き申候南信日日に(今日のへ)出し置候間葬式の模樣御承知被下度候十二日地藏寺にて追悼會相開き可申候百穗君の臨終後先生の肖像寫生も軸物になり間に合ひ可申候何もかも御面會を待候久しく御逢ひ不致病氣しては居らぬかと心に懸り候アララギ又後れもう困り候 八月六日
(176) 二六〇 【八月十八日・封書 上諏訪町布半より 豐平村上古田 小尾喜作氏宛】
拜啓伏見若宮殿下明朝六時御出發明治温泉へ成ラセラレ候ニ付ては光蘚採取に付き貴下の御案内を得度御依頼申上候殿下には笹原迄自轉車笹原より御徒歩の筈につき貴下は朝七時頃迄に湖東役場へ御出頭有之度右御依頼申上候但雨天延期の事原周司氏にも同樣依頼致し候 八月十八日
小尾校長殿
二六一 【八月二十五日・封書 信濃下諏訪町高木より 備後國双三郡布野村 中村憲吉氏宛】
南信日日切拔ヲ送ル(見タラアトヲ中原ニ送ツテクレ)ソシテ今長野新聞デ批評ヲハジメテ居ルコレハ一週一囘ゾツ出シテ居ル完結次第送ル南信日日河西省吾ノ評ハ少シ長ク書キスギタ君ノ歌ノ肉感ガ精細ヲ求メ精細ガ肉感ヲ求メテヰルトイフ批評ハイヽ僕ニハソレガ不足ダ
九月號ヘハ勉強シテ書イタ二頁分歌ヲヤツタ消息モ書イタソシテ「創作」ヘ評論ヤウノモノモ送ツタ
宮殿下ガ十五六日滯在シテ居ラレタリ夏期講習アリシテ丸デ忙シイ夏を送ツタ何モ心モ纒ラヌ暮シ方ヲシテ來タ纒ラヌ悲シサデ頭ガボツトシテ暮シテ來タ誰カ今來テヤサシイ言ヲ云ハレヽバ泣キ出シサウナ頭ニナツテヰル
君モ郷里ノ複雜ナ事情ニ住ンデシカモ生活ガアマリ單純デ苦シイダラウ切ナイダラウ氣ノ毒デナラヌ齋藤モ戀ノ歌大ヘン出來テ居ルラシイヒマナラ少シ長ク書イテ消息シテクレマセンカ古泉カラ今度ハ一日ニ出ルト申來ル私健康ナリ妻モ
子供段々ヨクナルラシイ齋藤ニ大ヘン厄介カケタ 八月廿五日 俊生
中村君
(177) 二六二 【八月二十六日・端書 信濃下諏訪町高木より 東京神田區和泉町一小川眼科病院 福田定美氏宛】
過日は役所へおそく御出掛下され候由御迷惑の段奉深謝候御上京につきては色々御迷惑相願ひ恐縮此事に存候何卒萬端御願ひ申上候猶本人の模樣御知らせ相願度(左右眼の模樣)我儘ものに候間萬事御叱り下され度御依頼申上候用事のみ匆々 八月二十六日
二六三 【九月五日・封書 信濃上諏訪町より 備後國双三郡布野村 中村憲吉氏宛】
長野新聞明日頃送ルコノ評ハイヽ君ノアトヲ「アララギ」ヘ送ツテ十月號ニ出シタイト思フ(河西ノ評也)
誰カト逢ツテ話シ度イ氣ガ頻リニ底ノ方ニ湛ヘラレテ切ナイノヲ平氣ナ顔シテ幾日モ過ギタ信濃ハ全ク秋ノ色ニナツタ今朝ハ單衣デハ寒カッタ清水謙一郎來テ泊ツテ色々話シタソシテ赤光ヲ二人シテウント賣ルコトヲ話シタ「創作」ノ尾山篤二郎ノ馬鈴薯批評ハ丸デ分ラヌコトヲ言ツテルコノ人今ツト分ルト思ヒ居レリ小生ノモ變ナコトヲ言ヒ居ルシ君ノヲ全ク認メヌヤウナ態度ハ丸デケシカラヌコトダ尤モ牧水ガ今日手紙ヨコシテ尾山モ悔イテルヤウナコト言ヒ來レリ牧水ガ來月號デ書クト言ヒ來レリ色々ノ中デ夕暮ガ一番分ツタコトヲ書イタ「創作」モ「詩歌」モ第一歌ガワルクテ氣ノ毒ノ位ダ邦子キシ子等ヲ拔ケバ殆ド零ダ、アララギハ失張リイヽノダ今月號短歌號ノ由茂吉八十首ハ愉快ダドウシテモ一日ニハ出ナイモノトアキラメタ
君ノ妹サン氣ニナルドウダカ知セテクレ若イ女ノ病氣ハモウ堪ヘラレナイ胸ガ苦シイ可愛サウデカナハヌ私ノ子供少シ眠が充血シタ由少シ心配ニナル大シタコトアルマイ忙シクテ何處ヘモ出ナカツタ松本ヘモ久シク行カヌ君ノ心中ヲ察スルドウモ思フヤウニ行カヌコトバカリダ今度ハ信濃ヘ來イ君ト話スノガ一番深入リスル氣ガスル堀内生キテタライヽダラウニナア、女ノ心ノイヽノガ欲シイ諏訪ノ女八九人明後日私ノ家デ萬葉會ヲスルソレデモ(178)心ニ足ラヌノダ秋ハ上京スルヨ文展ノ時ソノ前ニ妻ヲ上京サセル子供ヲ見ルタメニ
齋藤ハ赤光マトメタ由大勉強也先生ノ追悼會ヲ九月ニヤレバイヽ子規忌ト共ニ啄木ノヤウニ、束京ノ雜誌皆左千夫先生ヲ敬悼シテヰルソレニアララギノコト皆本氣ニ書イテルコレハ結構デアル馬鈴薯ノ花ノ功能ガアルノダ君ト話シタノハコノ爲メダチヤント目的ニハヅレナカツタノダ我々ノ本當ノモノハ來年來々年ニミツシリ出セバ足リルト思ツテヰル僕モモウニ年デ四十歳ニナル四十歳トイフ聲ハ逆襲ノ如ク恐ロシク耳ヲ衝ク併シ僕ハ益々若クナルツモリダ五十六十デ歌集ズン/\出スツモリグサウト思ヘバ又哀レナ私ノ四十姿ガ氣ノ毒ニ目ニツイテ來ル一人ボツチトイフ哀レナモノガ今目ニ見エテ來ルドウモ仕方ガナイ私モ強イ所アルガソレハ輪廓デ内面ハ實ニ弱イ君ヨリズツト弱イ平氣デハ何モヤリ得ナイソレデ困ツテヰル
クダラヌ泣言書イタヤウダ時々僕ノコトヲ思ヒヤツテクレ 九月五日 俊彦
憲吉君
二六四 【九月八日・封書 信州上諏訪布半より 備後國双三郡布野村 中村憲吉氏宛】
九月號今夕方來た歌が大へん賑しいやうだそして今齋藤と古泉に手紙出した所だ
野の木犀といふ人の峻烈な批評見たそして二度よむうちにこの人の歌の分らぬ事が思へた歌の批評が見當ちがつてゐる我々は缺點の要點急所を捉まれることは氣持がよい丁度肩の凝つて困る時急所を揉んでもらふやうに氣持がいい急所を外れゝば骨や皮を痛めるのみで揉んでもらはぬ方がいゝあの批評は名取堯であるかと思ふアララギ劈頭の「馬鈴薯」の批評としてあれを採用した古泉君の勇氣に驚く私は古泉のやり方にはどうしても解せぬ所があるすべてに於てであるそして僕が何を言うても返事よこさぬ返事よこしても別事を言うてゐる八月號の蒼くくれたるを蒼うくれたると訂正してくれと七月末小川病院で二三度頼んだ彼は唯々としてゐた八月號を見れば訂正(179)してない八月十七日原稿送るとき態々訂正の原稿として送つたそして九月號には訂正してあると思うてゐたそれが無い先生追悼會の事も早くから知せてくれと何度も言つてやつた早くから知らねば官吏などは都合つかぬからと頼んだのだ何とも言つて來ないそして今月號にはチヤンと書いてある
良寛號を十月出すといつて齋藤と古泉と三人で東京で話した僕は原稿が出來かけてゐるそして九月號に左千夫翁號の豫告はあるが良寛號の豫告はない斯樣な種類の事今迄幾つあつたか知れぬが怒らせてはと思つてあまり云はなんだ私はもう古泉の編輯によつてアララギをやつて頂くのは堪へられないイヤな氣がする古泉の苦勞も思ふのだがイヤで堪らぬ九月號來て愈々イヤになつた私は下らぬと思ふが當分アララギヘ原稿を送る事をやめる諸君に申譯無いと思ふがこれで當分アララギと手を別つ氣持を惡くして歌を出す事は無いから是から私は一人で歌をよんで一年に一囘づつ歌集作ると決心したアララギを送つて貰つて讀んでゐるどうか惡く思ふな許してくれ僕は今夜泣き度い色々悲しい事が私に集ると見えるアララギに別れるのも實に切ないがもう私は斷然左樣に決心して齋藤と君と古泉に言つてやつた私は八月末から頭が痛んでゐる此上痛ませるのは堪へられぬ
齋藤への手紙書いた時は齋藤の顔を思うて泣けて仕方が無かつた今君に此手紙書く時餘程樂になつて君が一番驚かなんで呉れると思ふから私も少し氣樂だなにいゝよ一人で詠んでる事も貴いよ毎月せかれて勉強してよむのは愚だよ併しアララギは悲しい雜誌だなつかしい雜誌だ君と齋藤ゐてくれゝば私はうれしく毎月待つてゐるよ謙一郎の顔も見える耕平の顔も見える女の人たちの顔も見える盛にやつてくれ十六日の先生の會には私はどうかして行くよ先生のお墓へ行つて清い心でその墓の土に跪きたいよ今日は是れで失敬するその頃君は東京に未だゐないだらう又逢ふを樂しむよ達者にしてくれ妹さんはどうだ氣になる私の子供は追々いい未だ松本へ行けぬ今月中には必行ける用がある
河西省吾の長野新聞に書いた批評を送らうと思うて今日綴つてもらつたこの手紙と同時に送るこの批評アララギ
(180)の十月へ出さうと思つてゐたが今はそんな興味もない君が見たら齋藤君へ送つて齋藤から私に返すやうに頼みます又書きますこれで失敬する 九月八日朝 赤彦
中村君
桐軒も書いたね桐軒は愛嬌があつておもしろい罪がない
二六五 【九月九日・封書 信濃下諏訪町より 東京神田和泉町一小川眼科病院 久保田雅彦氏宛】
木室さんにあてた手紙を木室さんに上げよ
拜啓涼しくなりました體はかはり無きか眼もかはりなきか今日小包郵便で袷を送るそしてうすい綿入をあとから送る小包の内に味噌漬と諏訪豆を入れた家は變りありません祖母上の手紙を同封するから眼のよき時見るべし無理して讀むな寢冷えをするな健次も周介もはつせも毎日學校へ行つてゐるみをも夏樹も丈夫でさわいでゐる高木は今秋蠶の盛りだうちの庭には夏菊の花がさいてゐるそしてうらの家にはえぞ菊が美しくさいてゐる蟲がしきりに鳴いてゐる夜はちと凉しすぎる位だ さよなら 九月九日 父より
荷が著いたら端書で返事だせ木室さんから書いていただいて、木室さんによろしく
久保田政彦殿
二六六 【九月九日・封書 信濃下諏訪より 東京神田和泉町一小川眼科病院 木室氏宛】
拜呈政彦につきては非常の御厄介樣相成感謝此事に候過日は種々御通知に預り奉謝候御返事もさし上げず失禮の段御赦し被下度候御蔭樣にて追々順調に進み候事喜悦此事に候猶今後も御心添の程何分御願申上候猶他の御一人樣へも貴兄より可然御鳳聲被下度先は序乍ら一筆御禮申述度此之如くに候 九月五日
(181) 木室樣貴下
二六七 【九月十四日・端書 東京市神田區和泉町ノ一小川眼科院より 下諏訪町 久保田正信氏宛】
今朝七時著政彦の眼大體に於て前よりもきれいになり曇りも少なく薄し左の惡い方は上の方大へんよく下の方の曇りもうすくなり見え方よくなれり右の方は此間の充血のあとの曇りありて見え方前よりも惡し併し追々よくなるべく候今朝一通り院長よりお聞き申候へ共猶明日は今少し精しく聞きて申上べく候體は少し細りしも丈夫なり肉がしまりしやうに思はれ候取敢へず右のみ申上候母上御大切の事東京も涼し齋藤今に來るろと電話 九月十四日朝九時
二六八 【九月十八日・端書 佐久蘆田驛より 小縣郡武石村 中原閑古・小林小蟹氏宛】
御牧ケ原ハ草花ガモウ末デアリマシタソシテソノ深イ色ノ殘リガ松林ノカグヲ深クシテヰマシタ同ジヤウナナダラカナ丘ガ幾ツモ/\只連ツテヰマシタソシテ時々冷タイ水ノ堤ガ林ノ中ニ沈ンデヰマシタ依田窪モ見エマシタ武石ノ深イ雄壯ナ谿谷モ見渡サレマシタ私ハ明後日ノ朝小諸ヲ立チマス今度ハオ訪ネ出來マセン諸君ニ宜シク願ヒマス來月ノアララギハ必一日ニ出マス「赤光」大變進ミマシタ今ニ校正ヲ終リマス會ニハ十六人不折百穗秀眞等モ來レリ夜十一時迄會シマシタ 九月十八日 赤彦生
二六九 【十月九日・端書 上諏訪町より 玉川村中澤區 飯山鶴雄氏宛】)
此間は失禮いたし候伊那町の方はその方の來書を待ちて申遣すべく哉(東京へ)アララギの今月號齋藤のを除けば一般に固著して同一生命に固著するの觀あり不振と存候今少し噴き出すやうな生き/\した生命を欲し候只金(182)原中原二女史のは大によく存候貴詠今少し自ら嚴選するの要あり削られて御不平の歌を示してくれ玉へ充分意見可申述候出た歌數の多少など心配してゐてはいけぬ我々は二十年三十年後の大成を期する勇氣と覺悟と規模とを要する所謂投書家氣質に陷らば萬事体すべし失敬々々 十月九日
二七〇 【十月十日・封書 信濃上諏訪町布半方より 東京青山原宿穩田 平福百穗氏宛】
拜呈過日は失禮仕り候甲州は如何に候ひしか勝沼在に鎌倉時代の寺ありと左翁より傳承せしのみにて見ず一度參り度存候大兄の行かれしは夫れかと存候輕井澤より追分の原は矢張宜しく遂に三泊致し候淺間山麓より千曲川の低所に入り更に諏訪境の蓼科山麓に通ずる道路大へんよく其の間に御牧ケ原あり丁度盛裝せる馬二頭に逢ひ申候文展へは御見合せの由聊か落膽いたし候實は文展といふものに甚しき期待をなす能はずと存候へ共作家蝟集の中に貴作を置き度事昨年よりの至望に有之今は明春の無聲會を待ち可申候
土田麥僊といふ人の島の女猶頭に在り今年は海女を出し候由どんなものかと思ひ居り候
故に今夏より申上げんと思ひ居りし御願有之候夫れは上諏訪町土橋源藏と申す人是非貴作一軸を得度志望に有之再三小生へ話あり半切物一葉是非御厄介相願度絹は東京にて可然よきもの御買入れの上御描き願度(失禮に候へ共その方よろしと存候へば)土橋氏は當地の素封家に候へば謝禮は充分爲致得べくと存候どうも御厄介と存候へ共御快心の時御揮ひ被下度御願申上候
赤光も大へん御厄介相願ひ候由上諏訪にて五十册本屋と約束いたし候信州にて百二三十册は賣れ可申候此間東京にて一寸校正を見申候近年の傑出せる歌集と存候馬鈴薯の花も御蔭樣にてよく賣れ申候中村憲吉君此頃來遊昨日上京致し候小生も十一月は上京致し度存居り候色々の事書き列ね申候匆々頓首 十月十日 赤彦生
百穗老兄貴臺
(183) 二七一 【十月二十四日・封書 上諏訪町より 玉川村中澤區 飯田鶴雄氏宛】
拜復敬虔なる態度の御手紙拜誦嬉しく存候此の如く精進の心を以て御進行有之候はゞ他日の御造詣甚大なる可きを思ひ候而して愚生の苦言に對し眞面目に御考慮被下候事欣喜の至に存候
五十九首をよみかへして今夏イヤに成り候との事が已に貴下の一大進歩に候多作は一時誰にも有之強ち貴下のみと言ふ可らず只單に容易に多く作るのみにて趣味著眼の進歩伴はざれば多作益々多作にして何等の進歩無之るべく趣味の標準高まり候程自己の作も他人の歌も緩みが目につきイヤに成り可申斯の如くにして初めて一歩々々高き歌を得可申と存候御示しの歌成る程左程惡しき歌とは思ひ申さず中にも、雨足のくらく包める云々など面白く存候へ共嚴密に見るときは遠き夜の雨に「雨足」は不穩なるべく第三四五句も一通り宜しけれど四五句の接續猶緊密なるべきかに被布候 遠方《をちかた》の灯はなつかしや馬車に乘り居り など假りに斯樣に致し候方自然の力充ち可申歟とも被存候、萩の花云々も惡しからず存候へ共事件も感じも輕きものたるを免れず「父は今」も必しも利かず振はず「この日暮」とか「無造作に」とか夫れに對する情趣を惹くべき詞を要し可申候、はらはらと雨をはらひて風吹けば云々、普通の見方感じ方なるを免れず、電柱云々、作者は汽車中に居る感じなりや果して然らば第四五句は無理に候全體の見付所は賛成致し候へ共表現に一段二段の苦心を經べき歌と存候
貴下はすべて見方が利き居り慥かに一の特長を有し候之れははじめより小生の注意を惹きし所に有之候只精進の心を以て御勇進の苦勞を經たまへと祈居り候
我々は毎月何首かの歌を雜誌に印刷致し候へ共天下後世の人心迄も響き候もの何首か有之候べき何れも一時的のものにして永き生命は無之が常態に候哀れなものに候我々の製作せる藝術品は少くも天下後世に亙りて永劫光明を放つべきの大抱負を有せざる可らず量の多からんよりも質の濃く深からんを冀ふ所以に候此點に於て「馬鈴薯(184)の花」の如きは決して有難き歌集には無之我々は只今後二十年二十年の大成を期するより外無之今の作家が少し位世に持て囃され直ぐに天狗に成り大家に成り先生に成り候事抱負豆小と愍然に不堪候過日は種々混さつ致し且つ性急に成り居り候際或は過激の事申上げ失禮せしかも知れずと恐縮改し居り候只微意のある所御了知被下皮祈上候何れ拜眉の節萬申上べく今夜は是にて擱筆 失敬罪多々 十月二十四日夜 赤彦生
津涙男君貴下
會員三十錢云々は歌を出すからといふ表面の理由と今一つはアララギ貧乏にて不足故會員から十錢多く出して頂くといふ譯に候店に竝べて一の賣品とすれば二十錢より上は取られず候アララギは毎月三十圓以上不足に候内情如此に候呵々
二七二 【十一月一日・端書 信濃上諏訪町布半より 東京本所區南二葉町廿三アララギ發行所 古泉幾太郎氏宛】
拜啓遂に来られず遺憾存候冬はスケートの頃茂吉君等と來てくれ玉へ詩歌も創作も已に來り候アララギは何日頃出るかいつもこんな催促して濟まぬが申上候小生十三日頃上京雉夫等今夜行く 十一月一日 赤彦生
二七三 【十一月十一日・端書 長野市縣町逢瀬館より 諏訪郡下諏訪町高木 久保田不二氏宛】
真樹肺炎の氣味にて昨夜夜行にて歸國の由院長(高しま病院)に見せし上にて入院せしめし方埒明くべく候もうあの小和田の下宿は襖障子等空氣寒くて惡しかるべく候 十一月十一日
〇院長の診察結果直ぐ御知せ下され度候
二七四 【十一月十八日・端書 東京下谷區池之端仲町十六小川眼科醫院より 下諏訪町 久保田政信氏宛】
(185)昨夜著京今朝よく院長に相談し候處退院は早しとの事に候夫れは大體に於ては快くなり居れども雲の吸收さるる藥を注しそれに眼が刺激されて充血する内は退院は早し此間一日半その藥を試みたるに充血して多少逆戻りの姿をなせり今當分從來の療法を續けざれば具合惡しかるべし夫には眼の模樣により毎日藥の模樣を變化増減せざる可らず處方箋を出す位何時にても出すべけれど病院の仕事は一定の藥を注すに非ざれば今の所處方箋にて他の醫師に任せる事如何あらんとの事甚だ御尤もに候先以て當分入院の外無からん兩眼共前よりは宜しく奇麗になり候
第二信
右眼少し曇りが移轉して瞳孔にかゝりし故見方少し惡しけれど是は當座の事なる由左眼の曇りは前より大へんきれいに成り候體も丈夫に候十九日夜新築へ移轉の由二十日より牛乳をやめて山羊の乳をやらせんかと存じ候牛乳も時々變化させたる方よろしく山羊の乳は滋養も多し一合にて二錢高し(七錢なり)
小生は明日移轉させて新築に泊り二十日鎌倉へ參り可申候夏樹よき由安心致し候此處一週間許り最も大切に願上候不二は一週間ばかり室内に嚴重に籠り逆戊りせぬやう願上候
そばへ寄せれば細かな者をも見るを得候遠眼未だ利かず 十一月十八日
二七五 【十一月二十日・繪端書 鎌倉より 中村憲吉氏と寄書 信濃下諏訪町小學校 五味えい・河西ますえ・山田ちま氏宛】
今夜鎌倉の海に宿る濤聲階下にあり中村君と二人也 十一月廿日夜 赤彦生
二七六 【十一月二十二日・封書 沼津町より 東京市外代々木山谷百二十二今井内 山田邦子氏宛】
拜啓漸く今夜手紙差上る機會を得申候何度も書かう/\として書かずお許し被下度候夫れは何か長く書き度くて忙しくて書けぬといふ齒に物のはさまりたる心地にて一ケ月以上經過致し候楊子にてうまく齒の物をつゝき出し(186)たるやうな心持にて今夜手紙書き申候。貴下の歌をしんみり讀んで見ようとして旅に「詩歌」「創作」近刊二ケ月分を持ち出したれど見る時なく今夜カバンの底より出して見れば十一月の詩歌一册伺處へか忘れ來れり仕方なく三册の雜誌の貴下の歌だけを今一通り(二通り許り)讀み申候それで貴下の歌が盆々深く進み居るを感得してうれしく相成候夫れは一樣にどの歌にも泌み出て居り候へ共「八月と九月」詩歌十月號及び「しづかさ」創作十一月號に特にうれしきもの發見致し候。おしろいとこほろぎの歌故郷の生家に歸れる歌特によく候
靜かなる沈黙の海それには底深き千里の波を藏し居り候沈黙にして愈々底力ある海靜かにして愈々重壓ある海小生は左樣のものを切に欲求して居り候貴下の歌は誠に左樣な道に進みつゝあるを感得し候小生の歌は靜かにして往々乾燥枯淡に陷るを恐れ居り候貴下の歌を見てうれしきは靜かにして同時に脈々たる生動の力加はる點にあり候小生のは筋と骨が勝ちて肉と血とが枯れる傾あり實際これは小生の缺點に候貴下のを見てうれしといふのは此點が非常に具合よきにあり靜かな波が風吹けば直ちに千丈の濤を起し得る力無かるべからず貴下には此傾ありどうか自重して今十分粉骨して精進して下さいその動力は二十年五十年に突進し得べし失禮と思ひ候へど感じたる儘を此處に陳列するなり小生は強い事を言ひ乍ら氣が弱くていけず餘計に貴下等にお願ひする也どうかズンズン強く進んで下さい正岡先生は眞に強き人也左千夫先生も力の強き人なりき私も勉強せんとする心願は大にある也少し氣に入りたる歌あればうれしく成る也實際「詩歌」にも「創作」にもうれしき歌少なし武山英子の自選號は弱けれど哀れにてうれしかりし創作といふ雜誌失禮なれども間口廣くて奥行乏しうれしき歌を與へず營業に苦心する弊なり(若山さんに叱られるだろ)詩歌はどうも生き/\せずその中にたま/\よきもの見出でては嬉しがり居り候アララギも今つとしつかりせねばならず夫れはかへす/”\も承知し居り候今少し急所を捕まへて叱つてくれる方よし私の歌決して/\いゝと思はず叱られる事正當也
九日に家を出て今にブラツキ居り候そろ/\歸國せんと存候東京には二日居りしのみにて御目に懸らず惡しから(187)ず願上候長男が入院して居る故成るべく彼の側に居り候故何處へも行かず齋藤古泉にも一度逢ひしのみ中村と二人にて鎌倉に二夜を過し今日別れ候よき木像幾つも見てうれしく候鎌倉へは悲しき事ありて囘想に參り候今日海と磯に黙禮して別れ候明日は伊豆の大仁の方へ參り候書き來れば系統なきだら/\のものにて誠に惡しく候へ共御判讀被下度候宿屋にて亂暴な字を書き候事御許し被下度候匆々不盡 十一月廿二日夜十一時半 赤彦生
山田邦子樣 貴下
十一月號詩歌遺失致し候もし一册御送被下候はゞ有難く候靜岡にあるかも知れず
二七七 【十二月十二日・封書 信濃上諏訪町布半より 東京谷中天王寺町三十四 阿倍次郎氏宛】
拜呈甚だ唐突に候へ共一書呈上仕り候
小生の歌につき時事新報にて御發表被下候由齋藤茂吉君より特に通知有之誠に望外の感有之奉謝候私共アララギの歌は今迄一般より殆ど認められ居らず今年に至り歌集一二出し候より多少他の歌人の問題になり候程の事にて先生の如き比較的門外の方より多少なりとも認められ候事今迄の經路より見て甚だ意外の感致し候次第にて深く欣び入り申候先生にはアララギ誌上かつて象徴主義の話につき御書き下され北原白秋歌集桐の花につきて御意見御發表下され且つ齋藤君より時々御噂承りひそかにうれしく思ひ居り候折から特に感銘奉存候私は現今發行さるる文學の本一向讀み居らずどなたがどの樣なる御考を持ち居らるゝかどの樣なる作物を出し居らるゝか誠に知る所なく誠に恋しく候へ共先生の御著述も一册も讀み居らず甚だ失禮致し居り候何卒私の歌につき御心附の所露骨に御忠告下され度切に御願申上候御教導により一歩づつ進み申度右呉々も御願申上候猶從來の拙歌につき御感想御示し被下候はゞ望外の事に存候先は微意申上度御繁忙の處甚だ失禮仕り候匆々謹言 大正二年十二月十七日
阿部先生貴臺
(188) 二七八 【十二月二十二日・封書 高木より 片羽町 牛山郡藏氏宛】
拜啓先夜御伺ひ申候處御不在遺憾存上候木外居士母屡々來り候も小生留守にて逢はず一昨夜又々來宅の用件は例の弔慰金の依頼に候あれも已に長日月に相成候へば此際集不集に係らず一結末を附けてしまひ候方宜敷からんと存じ候君に非常に御手數を掛け誠に相濟まず候へ共右一つ御手數相願度不集の分は追つて集るを待つか然らざれば打捨て候より外無之と存じ候而して一切の今迄收支計算一通り發起人會を開きて報告致し候方可ならんかと存じ候是れは急がずとも宜敷と存候次に長崎佐次郎渡邊伊三郎二人への謝意として茶盆位のもの此際贈り候樣御配慮相願度如何に候哉贈るとすれば矢張り年末中と致度候次に小生の拜借金誠に申譯無之如何なる勘定と相成居り候哉此際は誠に都合惡しく一月末にも相成候はば多少差上申度御勘辨願上候年末御繁忙中御迷惑匆々不盡 十二月廿二日 久保田生
牛山天外様貴臺
二七九 【十二月二十六日・端書 信州上諏訪町布半より 東京本郷區菊坂町菊富士本店 中村憲吉氏宛】
何を言つて上けてよいか私の頭はへんになつてゐるこんなつまらぬ年の早く行かんことを欲す人の世の縁の刃はうすくて壞ち易い痛ましい思を腹に疊んで一年々々と年取るのだ私ももうそろ/\四十歳に近づいた昨夜も十二時頃村會から歸つて來てそして夜晩く人の手紙を出してよんだ一年前と今年の秋の手紙であつた信州の寒さはひどくなつた冬至前から湖水でスケートしてゐる長男は病院で越年させる事にしたたまに見てやつてくれアララギ今年中に出るか(湯川君に一寸手紙やつて下さい)堀内母堂は何に上京されしか病人でもありしか 十二月二十六日 赤彦生
(189) 大正三年
二八〇 【一月五日・封書 信州上諏訪町布半より 東京市外上目黒五八五 平福百穗氏宛】
百穗兄足下
新春から斯んな手紙を書くそれは嬉しくてそして困る所のある手紙である私は今日布半の宿へ行つたそして大兄からの荷物を受取つた今日は座敷へは上らなかつたそして勝手で小刀を借りて一寸紐をほどいて見たのだ僕は全く林檎だらうと思うてその儘袋へ入れて家へ歸つて來た家へ歸つて來て女の客を送り出してその荷包をほどいて見て驚いた僕の頭は直ぐにうまい鹽梅に千年前の美しい日本の世界へ送られてしまうた凡ての彩色とゴムの地色との調和は只うれしくて何とも言へません何といふ世界を私は眼の前に見る事であらう私はくり返し/\球を廻轉して見入つてしまうたそれは丁度若い女の客を送つてから直ぐ後の事であつたその女は今年二十三歳になるしをらしい怜悧な教育のある優しい女であるその女は許嫁の男がある正直で律義な息子さんであるがふとした事から遠方に住む他の女を見知つたその女を私は見た事がないやはり教育もあつて美しい息女さんであるさうだ男は二人の女について色々に思ひ煩うたそしてその男は長野の町へ彷徨うてそこへ居付いてしまうたそんな事を思ひ乍らあの荷をほどいて美しい三つの球に見入つたのだそして私は少し不安の心が底に湧きはじめたそれはこの球は土橋氏へ送るのが至當だと考へ付いたのだ夫れはつまらぬやうであるがどうもその方が至當だと思へるのだそ(190)して急に不安のやうな困るといふやうな念が出て來たのだ
十二月未に鯉を土橋君が送つたそして夫れは恐らく兄に對して未知の土橋君が僕の名を以て發送したのであらうと思ふ夫れを私はよく聞いて置かなんだが恐らく左樣であつたであらう大事件では無いがそんな譯であるそんな事は必しも顧慮せなんでいゝのかも知れぬが何だかこの球をこの儘私の手に收めて置くのは困る氣がするそれなら直ぐ土橋君へ送ればいゝのであるがさあ送るとなれば僕は誠に玉を見て直ぐ失ふといふ氣がする實際の所惜しいのだ見ずばよかつたらうに見てからは惜しくて/\溜らない申上るも變であると思ふが實際さういふ不安が今夜盛に湧きつゝあるのだそして球を今机の上に竝べつゝ見つゝ居る惡い事と思ふのである
そして私は考へた先日お願ひして置いた掛物を近い内に送つて頂けば土橋氏の希望は全く叶うた譯であつて土橋君は從來の希望を果す事が出來る譯であるさうすれば今眼の前のこの物を私が手に收めても幾らか心が安まる事になる實に濟まぬのでありますが其望みを叶へて下さいませんかひどい申分かと思うて惡い心持が少しするのであります實際惡いのでありますそれでどうも困るのでありますどうか願ひを叶へて下さりませんか斯んな手紙書くのはいゝ心持致しませんが遂長く書いてしまひました 一月四日夜 俊彦生
百穗老兄
絹迄買つて頂くのは失禮ですがどうか暫く立替へて置いて下さい
アララギの表紙も又お願ひした事と思ひ恐縮致しますアララギも貧しくて遂元日に出なくて悲しいのであります六日に出ると今日通知ありました私も子供を未だ東京に置いて居ります病院で年越をさすのをいやに思ひましたが仕方ありません一月末か二月に退院出來るので家族中喜んで居ります去年は實に惡年でありました左千夫先生は亡くなる中村は不幸續きで齋藤もあれで事件があつた古泉は相變らず氣の毒だ私の外の友人中一人は重い肺炎一人は腎臓結核一人は胃潰瘍一人は肋膜炎といふ譯で腎臓の人と肋膜に人は未だ惡いので(191)あります今年は吉、大吉ならん事を祈ります運勢表では三十九歳は大へん吉のやうで賛成しました(呵々)過日のスケツチ會は是非始めて頂き度いのであります信州には餘程仲間あたらと思ひます 會が松本長野の青年で開かれましたそして此上皺でも開かうとしてゐます諏訪の教育會でも一つ開かうといふ下相談があります此間山浦の湖東小學校内で開いて青年に見せました勿論有り合せの陳列會でありました石井さんその他の方のが出ましたそして大兄の清水谷、象は非常に注意せられました左翁の繪葉書も軸物(【志都兒藏の絹半切歌】)も出ました若い人達が私の處から五六點借りて行きました北海道の馬、盛裝の馬、冬木立(繪ハガキ)も竝べました山裏山中迄斯んな調子であります文展その他のために態々上京する人が非常に殖えました矢澤原二君など出品した爲めでもありませう彫刻は私が勸めて二點出させましたが不合格でありました藝術を少し入れる必要が諏訪にはありますあまり實利的で固まつて居りますから土橋君のやぅな素封家が新しい美術を解し始めたのは甚だ都合よくあります最も此人は自費で學生を十人以上上京させて牛込の二十騎町へ寄宿舎を作つて學生を入れて置く位の心掛のいゝ人でありまして歳も未だ四十歳前で甚だ面白い人であります諏訪の中學校高等女學校皆その創設は土橋氏であります河西省吾の學資も此人と外に二人で出して居ます夫れで威張らない寛つくりした人で決して惡い心地せぬ人であります上諏訪町土橋源藏で手紙屆きます此間の御來諏は實に殘念なりき丁度急ぎたる爲め束京にても逢はず重々遺憾でありました川越の町は氣に入りました宿屋の女中を米澤市の生家へ逃がしてやりました太田むつといふ元禄型の顔の愛らしい悲しい子でありました米澤市へ行つたら立寄らうと思ひます鎌倉は氣に入りました土の方が海に負けなんでよくありましたあんなに木が茂つてそして堂々たる建物があつて纒まりのあるよい土地でありましたそれに比べると沼津は思つた程でありません下らぬ事遂又長く書きました
(192) 二八一 【一月六日・封書 信濃上諏訪町布半方より 東京本郷區菊坂町十六番菊富士本店 中村憲吉氏宛】
今の處齋藤の歌は天馬空を馳るの概がある一體夕暮白秋茂吉三人には共通點がある濃くて烈しくてけば/\しい所が似て居る其内夕暮のが一番空虚がある詞の方が駈足して腹の方が並足してゐるそこに空虚を感ずるのである(十二月號にはいゝのがあつた)白秋はよく見ぬが純一で氣味がいゝ併し深さが足らない眼を閉ぢさせるやうな歌ひ方をせぬ茂吉のは二人に比して一番純一で一番感情が高調に入つてゐて他人が近寄れないといふ威力を持つてゐるけれども失張深さが足らぬ白秋よりも深いのだが沈痛な重々しい深いもの瞑目させられるやうな幽かな深いものが足らない僕は齋藤が一轉進する機の來るべきを思ひつゝあるそこへ行くと中村のは淡い哀れな幽かな深さがある色々未だ具備せぬ所あれども探さの素質は一番富んでゐる齋藤に此事をも書いてやつた
古泉の事件とは何かありしか氣の毒な境遇だから苦痛も隨分多いであらうアララギ遲刊も仕方がないよ併し惜しい齋藤西洋へ去りし後はどうなるだらう困る事繼出せねばいゝがと思つてゐる明日はアララギ來るかと思ふ女人の萬葉會七人集れり(昨日)十日にアララギ批評會あり又書く 一月六日夜 赤彦生
中村君
二八二 【一月八日・端書 信濃下諏訪町より 東京本郷區菊坂町十六番菊富士本店 中村憲吉氏宛】
悲しき手紙を見たどうして古泉君はアララギに斯樣な問題を絶つてくれぬだらうどうももう言ても駄目であらう古泉君の心の中心にはどうも麻痺した所があるらしいそして色々の境遇からそれが盆々慢性を帶びて來てゐるらしいどうも今迄はさういふ感がぼんやりと私に感應してゐた急に刺激を受けて全然亢奮するといふ事は望みがあるまい齋藤が洋行後をどうするかと内々心配してゐたのが今頃こんな問題を見てゐるやうでは困る事甚しいアラ(193)ラギを止めるのは誠に悲しいどうか工夫は無いか
來る併し君等が充分見てやる必要がある此處で私が大發奮して四月から東京に自活だけの職業を求めるも一方法だ兎に角急に何とも考へられぬ熟考して申上げる何か一つ考へて見て下さい此處で中止するのはどうも惜しく殘念だ「創作」は全く頽れてゐるし「詩歌」も餘り張つては居らぬアララギの使命今や誠に重大なるを思ふ正月の歌大抵目を通したり矢張り此感を深くす君と齋藤の「詩歌」の歌矢張りシツカリ握つてゐる歡しい私の芒五首と蛇三首とあと一二首もいゝと思ふウンと奮發の心集注しつゝあれど今の處頭痛み疲れ夜も心深入り出來ずどうも職業を代へる必要がある一月から三月迄は全くだめである君の手紙の返事にはならぬが悔み言丈け書いて送るのだあと又書く君からも一つ齋藤と話して何か又通信してくれ頼む夜一時にて亂筆甚し 一月八日夜 赤彦生
中村君
君もいくらか心安まりし由子供の樣子有難く存候歸國の時は又面倒乍ら汽車にのせて下さい頼む二月は上京する事あるかも知れず
二八三 【一月十二日・封書 信濃上諏訪町布半方より 東京本郷區菊坂町菊富士本店 中村憲吉氏宛】
後レルニシテモヒドイデハ無イカ今頃新年號ハ田舍デモ氣ガ利カナイ他デハ二月號編輯濟ムデアラウソノ後齋藤ト話シ合ツタカ古泉ト話シテ見タカ除リガミ/\古泉ニ言フモイヤデアルシ困リ入ル初賣(正月二日)ノ日三光堂ヘ二十人以上アララギ買ヒニ來タサウダ 一月十二日夜 赤彦生
二八四 【一月十三日・封書 上諏訪町より 玉川村小學校 兩角丑助氏宛】
拜啓此程は話出來ず飽足らず御別れ申候君は今一生の一危朔に入りつつある事を自覺して頂き度候一通りの人英(194)氣ある活動を止められ候第一關は妻帶期に候、第二關は子供二三人出來候時機に候此二關を通り拔けて猶溌々たる生氣あるにして始めて本物なりと平素信じ居り候君今や此第一關に立てり何處迄も暖き濃き情の海に浴すると共に愈々深みある英氣の生動を祈り候要らざる世話乍ら君の前途を祝すると共に警戒をもと思ひ態々申上候匆々 以上一月十三日夜 赤彦生
二八五 【一月二十六日・端書 信濃上諏訪町布半方より 東京本郷區菊坂町菊富士本店 中村憲吉氏宛】
廣島からの繪ハガキ拜見もう御歸京かと存候小生よりは忙しく何も申上げず祖母上少しは快く宜敷存候齋藤君二月號編輯は實に氣の毒にて察し入り候夫れで私もうんと勇氣出し毎晩遲く迄眠らず作り候ため頭少し疲れ入り候アララギ廢止となれば大へん悲しくそれにつきかつて申上候へ共今晩齋藤へ少し長く書き候へば齋藤君から君丈けに話すかと存候間熟議熟考して見て下され度願上候どうかして三四月號迄出してくれゝばどうかなると思ひ候我々は雜誌といふ有形のものに束縛されつゝ刺撃されつゝ勵む事多かるべく候人間に一定の職業要ると似たるかと存候無職業は自由なれども却つて放漫に導かれ易く奮勵を缺き可申候
疲れ候故短く書き候新年號未だ來らず古泉も氣の毒の事多く候 一月廿六日夜
二八六 【一月二十六日・封書 信濃下諏訪町より 東京市下谷區池之端町小川眼科病院 久保田政彦氏宛】
前略少々發熱の處直ちに快復の由安心致し候眼の方も追々宜しき由安心致し候退院もそろ/\致すべき時と相成り候へば二月十日私が上京いたすべく候間夫れ迄今十餘日間辛棒敦され度候今僅かの間なれば治療其他萬事細かく注意いたされ度寢冷えして風邪ひき外出して風にあたり若くは怪我などせぬやう專心御注意ありたく祈り候それからチヨコ/\いたづらなどして病院の迷惑をせぬやう御注意ありたく候當方皆々かはりたる事も無之祖父上(195)の方にては白玉粉製造中にて島一郎氏も參り居り候
湖水は今年は氷張らず珍らしき事に候先は右のみ匆々以上 一月二十六日夜 父より
二八七 【一月二十七日・端書 信濃下諏訪町より 東京本郷區菊坂町菊富士本店 中村憲吉氏宛】
篠原圓太君の妻と父と同日に死去(廿五日)驚入り候妻は生後一ケ月の兒を殘せり、何もかも惡しきかな。右御知せ申上候 一月廿七日 赤彦
二八八 【一月二十八日・端書 信濃上諏訪町より 東京本郷區菊坂町菊富士本店 中村憲吉氏宛】
新年號アララギハ未ダ會員ノ誰ニモ著カナイ三光堂ヘモ著カナイ
ソシテ今日小サナ繪草紙屋デ新年號ヲ發見シテ呆レテ物ガ言ヘナカツタ何時來タト問ウタラ昨日來タト言ツタコレハ東京堂アタリカラ取ルノダ僕ニハモウアララギハ不可解ノモノニナツタ會費ヲ集メルニモ困ルデハナイカコレ丈ケ齋藤古泉君三人ニ告ゲテ置ク 一月廿八日夜 赤彦
二八九 【二月五日・端書 信濃下諏訪町より 東京市外高田村新倉甚藏方 河西省吾氏宛】
拜復再度御知せ被下大謝此事に候彼ももう飽き候樣子なれば兎に角一先づ歸國させんと存候小生八日夜行か九日一番にて上京連れ歸り可申其英際御目に懸り色々御話し申上度候アララギ二月號痛快に早く出で欣喜雀躍致し候齋藤君の熱は何に向きても斯樣に熱く有難く候この熱に追々深みが出で候事特に欣しく存候牧水に對する文章は當然に候小生ならば今つと冷やかしてやり可申候牧水も存外簡單の器械らしく候中村も大へん歌よくなり候齋藤や中村はどうもえらく候山田邦子にも感心致し居り候君の早稻田文學アララギの歌大體の傾向うれしく拜見特に姉(196)さんの紫蘇《しそ》つみ、弟さんの兵隊よろしく、烏の聲が聞えないといふ歌、氣ぬけしたる顔の歌、兵營にてつつましくするといふ歌、敬禮の顔を崩した歌等氣に入り候 二月四日夜
二九〇 【二月十日・端書 東京下谷區池之端小川眼科醫院より 信濃下諏訪町久保田政信氏宛】
小生の都合にて一日延期の事になり明十一日夜行にて出立十二日朝八時頃上スワ著と御承知下され度眼の方別に變りなく元氣よろしく候家に歸れば全く素人療治にてよろしく處方箋を貰ひかへる筈に候注射は出來ぬからすり込み可致候西の六疊を政彦の室に御當て置き下され度候只今電報出し申候 二月十日
二九一 【三月九日・端書 上諏訪町より 湖東村小學校 藤森省吾氏宛】
忙しくてユツクリ話せず遺憾也君の話した過日の事絶對に斷念せよ。今は君は自力では考へ切れぬであらう自然に任せる外ない時ではないかどうかさう思へかし 三月九日 俊彦
二九二 【三月十五日・端書 上諏訪より アララギ會員宛】
百穗畫伯が「アララギ」のために從來盡して下さつた好意は私共の衷心感謝してゐる所であります御承知の如く「アララギ」の經營は貧しく哀れなものであります經營費の不足が今年二月迄で二百圓位になつてゐます畫伯は夫れを救つて下さるために畫を描いてその收入全部を「アララギ」に寄附して下さるといふ事になりました畫伯は今迄賣るために畫を描いた事は一度もありません私共の感激は實に譬へやうもありません左記規定により同志御勸誘の上三月三十日迄に御申込願ひます
一、絹半切 十圓 紙五圓
(197) 一、申込と同時拂込みのこと(但月賦は三ケ月は以内のこと)
一、信濃の方は上諏訪布半方久保田俊彦に申込
一、成品は申込順に發送のこと
大正三年三月十五日 齋藤茂吉 古泉千樫 中村憲吉 久保田俊彦
二九三 【三月十七日・端書 信濃上諏訪町布半より 東京本郷區菊坂町菊富士本店 中村憲吉氏宛】
三月十七日夜書ク
何モ彼モ御返事忘レ居リ申譯無之候小生ノ上京ハ分ラズ居リ候モシ上京シテモ君ガ居ラネバ寂シク候モシ上京シテ君ガ居ラネバ君ノ轉地ヘ訪ネ行キテモヨキカ
明日ヨリ彼岸ニ人リ候信濃モ梅ノ芽赤ラミ柳メグミテ寂シク候
今ハ君ニ只々逢ヒタクテ堪ヘラレズ候。アヽ君ヨ、今ハ君ニモ私ノ胸ハ永ク告ゲラレズナリ候イカニ悲シキ運命ニ君ト小生トハ生レ來ツラン。ドウカ永久ニ哀レニ見守ツテクダサレ度候
例ノ件心配スナソシテ健康ダケハ注意ニ注意シテクレヨ
三月十七日夜又書く
君の體は必健康になる事を眞に信ずる天地神明に誓つて信ずる私は嘗て或る人の病氣にも直に直覺的に左樣信じたそしてそれは慥であつたそれは確かの話である私は君の身體に少しも危惧の念はない只輕々しく體を取扱つてくれるな是れ丈け眞面目に眞劔に頼む
君に始めて逢つたのは明治四十四年のはじめであつた二人して始めて逢つて望月の村へ行くとき寒い風に吹かれ乍ら色々と話したそしてその晩淺間の小柳の湯に宿つて夜の一時頃迄話した師範に金原さんを訪ねたのも其時で(198)あつたあれから未だ滿三年しかたゝないのか。僕は少くも十年もたつた心地がする君には天地間の何物をも打明けるつもりで居たそして今は君にも打明ける事の出来ない私となつた。君よ、是れが眞の運命だどうか一生僕を見守つてくれよ悲しんでくれよ胸の中が泣き出しさうになつてゐる毎日夫れをこらへてゐる琴の音が今夜胸の中を撫でるやうにくすぐるやうに響いてゐる
二九四 【三月二十三日・封書 上諏訪町より 湖東村小學校 藤森省吾氏宛】
謹呈斷然思ヒ止マツテクレヨク靜ニ考ヘロ少クモ今一年考ヘロ靜ニ冷ニソシテ序ニ湖東ノコトヲモ考ヘテクレ全然私ノ言ニ賛成シテクレタノム 三月二十三日 俊彦
下ツテ來テ一晩話シテクレ郡視學ガイフノデハナイゾ
二九五 【四月三日・端書 信濃上諏訪町布半より 東京本郷區菊坂町菊富士本店 中村憲吉氏宛】
御書面度々奉謝候
小生三月限り退職相成候へば四月半には出掛可申滿事御心配願上候彌々浪人と成り候御察し被下度候信濃を去る心を察してくれよ君には察して呉れらるゝと思ひ候(下略) 四月三日夜
書簡集 後篇
(201) 大正三年
二九六 【四月十五日・端書 東京小石川區上富坂町二十三いろは館より 信濃諏訪郡湖東村小學校 藤森省吾氏宛】
未だ落付きません阿部さんの「三太郎の日記」が出たやうです一つ讀んで見ませんか君に是非勧めたい氣がしますすべて御自愛を折ります 四月十五日
逢はずに來て殘念に思ひます遊びに來る氣になりませんか
二九七 【四月十五日・端書 東京小石川區上富坂町いろは館より 信濃諏訪郡本郷立澤小學校 秋山紋作氏宛】
御見送被下奉謝候御自愛祈上候 四月十五日
二九八 【四月十六日・封書 東京小石川區上富坂町二十三いろは館より 信濃上諏訪町 兩角喜重氏宛】
毎日毎夜雜誌の編輯やら相談やらで暮して居りますそのため博覽會も何處も見ません在郷中の御厚誼只々感謝の外ありません昨夜も一昨夜も齋藤中村等と君の話しが出ました深く感謝致します
誠に惡いのですが記念品料の集まつた金を差し上るとして六十圓許り工面して下さいませんか此上に心配かけるのは心苦しいのですが百穗さんの畫會の金を悉皆つかつて來ましたから東京で今直ぐスケツチ會始めるのに事業(202)費一文もありませんから著手に困るのであります蓋會の金は四百圓位は集りますがそのうち二百餘圓をアララギに貰ひ殘りでスケツチ會を直ぐ實行する事に致しました(百穗茂吉憲吉と相談の上)今の處集つてゐるのは私の集めた丈です其金が今急務になつたのであります此手紙を五味先生三村斧吉君に見せて頂いてもよろしくあります利息付いてもいゝからほんの臨時御心配出來たら願ひたくあります記念品料がそれ丈け集らねば何とかして御返し致します右急ぎ御願迄匆々 四日十六日 俊彦生
兩角兄貴下
教育會には出られませんでしたか今は中止ですか昨夜手塚が一寸來ました私はアララギの外スケソチ會に全力を集中するつもりです女學校の方を事によれば止めて捨て身になります
二九九 【四月二十五日・封書 東京小石川上富坂町二十三いろは館より 信濃上諏訪町 兩角雉夫氏宛】
御無沙汰致し候アララギ四月號未だ出ず奮慨の至に候五月號を休み六月より齋藤と二人で編輯し必一日にキチンと出し可申決め候何卒御助力願上候編輯局も移し可申古泉やゝ不平なれども詮方無之候會計の方も非常に不整理にて困り候是も小生一人にて引受け今年中には必會計を獨立させて見せる心算に候齋藤が洋行すれば今の樣にては潰れ可申どうしても今年中に獨立させねばならず全力を傾注可致此點よりも御助力願上候
百穗さんの畫は五月上旬に一切出來て發送の事に相成り已に著手され居り候へば金の集まるものは集めて御送被下度實は此處にて四月號へ少くも五十圓を拂はねば具合惡しく候上諏訪で今少し仲間あらば御作り被下度候(無理するに及ばず)月賦にて宜敷候齋藤が非常に熱心にて有難く存候
東京未だ忙しく博覽會も見ず今夜も原稿書きかけ居り候諸君によろしく願上候
阿部次郎さんへも行かず居り候今に行き可申君は何時頃來られ候哉待上候學校の方は如何やゆる/\御始め被成(203)が宜しく候そして無盡の人名一寸御知せ被下度禮状を出し度候色々御厄介相成實に謝し居り候守屋東京にて風邪し寢て居り候併し大したる事無かるべく候此間は御送金下され息を致し奉深謝候御令閨樣にもよろしく匆々不一
四月二十五日 俊彦
雉夫兄
三〇〇 【四月二十六日・封書 東京小石川上富坂町二十三いろは館より 相模國鎌倉町海月樓方 中村憲吉氏宛】
堀内からも此間の小生の手紙に對し何も返事來らす返事來ぬ方よき點も有之候
拜啓今お葉書と共に松本から手紙著き候間御送申上候而して全く無根なる事彌々確まり安心の至に候手紙御一覽下され度候前の三浦君も此の武野君も極めて眞面目の人にて充分信じ得べき人物に候へば御安心可然と存候
鎌倉からの御たよりは何だか悲しき心地にていつも拜見致し候どうか御攝養下され度色々考へぬ工夫願上候桐軒君の方う急く行かぬ由家は借り得たるか私も毎晩へんな心地にて眠り候併しよく眠れ候是れが小生のよき所に候悲しき手紙を肌につけて寢候馬鹿らしきあはれなわけに候而して昨日より一心作歌して居り候大分よきもの今度は出さうに候もう二十位纒まりかけ候併し雜誌へは出されぬ材料に候或は詩歌へでも出さうかと存候
アララギ未だ出ず候二三日前齋藤と二人で古泉の處へ行き編輯局變更の事を談判致し候齋藤君大へん苦痛らしく見え候而して古泉は多少不平らしく候これが古泉君の惡しき缺點の所に供そして編輯局を齋藤の處に移す事に話し四月號へその事廣告する事にして話を結び歸り候齋藤の處にて極力手傳ひをして必一日に發行可致決心候五月號はとても一日には出ず(四月號が今出ぬのだから)依て五月を休刊して六月號から正確に出す事に致し候小生の腹の中にてはアララギは今年中に必經濟の獨立を成就せしむるつもりに候左樣の決心にて懸り可申候然らざれば濟藤も洋行すればあと成り立たずなり可申と存候金を月末に印刷所へ五十圓はやり度いと申し候そして小生の下(204)宿料も今手に一圓ばかりと成り候此間御話しの方のお名前を忘れ候(御下宿も)どうか直ぐその方へ御申遣し被下度御依頼申上候此間の殘金は平福さん御歸國にて急に皆さし上け置候幾日も一室に籠り胃の加減少し惡しく候今日午後上野へでも歩かうかと思ひ候。時々ハガキ呉れ寂しいから左樣なら 四月廿六日正午頃 俊彦
憲吉兄
三〇一 【四月二十九日・封書 東京小石川區上富坂町二十三いろは館より 信濃國諏訪郡玉川村神ノ原 原田泰人氏宛】
拜啓樺上京後心落付かず失禮して居り候君は色々心配が重なるやうなれど一面から洒脱坦懷の修養が肝要に候兩面を備へざる修養は動きのとれぬ融通の利かぬものとなるべし此の邊尤も御潜心必要と布候餘り悲哀に執せぬ態度必要と存候河西清水土田横山皆熱心に進路を拓き居り候事嬉しく候アララギ四月號はやつと五月一日に出で可申五月號は休刊し六月號より濟藤と小生と二人で專心に編輯すべく是にてアララギも一段落つき申候盛に御助勢被下度候今度は毎號一日に出候事確實に候御喜び被下度丑助君たちにも一寸御話し被下度候そして經濟の方も今年中に必獨立させて見せる決心に候然らざれば齋藤洋行すれば潰れ可申と存候
〇小生上京につきとんだ御心配相掛何とも感謝の外なく深く御禮申越候右御禮やら報告やら御願やら取交ぜ匆々謹言 四月二十九日夜 久保田生
原田泰人君 貴臺
百穗さんの畫は五月上旬悉皆出來可申猶他に希望もあらば申込ませ被下度候
三百二 【五月四日・端書 小石川區上富坂町二十三いろは館方より 相模國鎌倉町坂ノ下海月樓 中村憲吉氏宛】
宿は定まりしか小生も近頃一人で堪らぬ今日一日中引籠りふとん著て居れり私の頭だん/\馬鹿になりさう也肖(205)像大へんよしよく描いたと存候昨夜アララギ批評會をやり八人集れり僕の歌大に叩かれ痛快に存候實際いけぬ事あり小生も實際左樣思ひ候今日は少し歌作りしも手紙來て又考へ出し遂寢てしまひ候長塚さんから來てくれと今電話あり今夜行つて見ようと思ひ候何だか氣の毒に思ひつゝ今日迄行かず外へ出る氣がせず困り候君の宿は定まりしかどうなりしか頭はよくなるかどうか毎日か二日に一度かはがきくれてくれよたのむ 九月四日
松本へは直ぐ送り申候
三〇三 【五月八日・端書 東京小石川上富坂町二十三いろは館より 信濃諏訪郡豐平村御作田 兩角波雄氏宛】
歌を今日一通り拜見致しましたそして君の強烈な主觀は例によりて嬉しく拜見しましたがその主觀を遺憾なく現す方法について今つとずつと多くの錬磨をせねばならぬと思ひます此點より見て萬葉集の研究は非常に必要と存じます藝術は何に限らず根柢となるべき或階梯の練習が必要であります繪がの寫生に似たものが歌になければならぬのです萬葉集を研究すると共に寫生の歌の練習をするのも必要と思ひます子規先生の歌集も研究して頂きたい田中君にも萬葉集を研究するやう御話し被下度候 五月八日
三〇四 【五月八日・端書 東京小石川區上富坂町二十三いろは館より 信濃諏訪郡豐平村下古田 長田林平氏宛】
拜啓アララギは古泉君から御送致し候事と存じ候御歌稿以前拜見致し候頃よりも非常に進まれ候事と存候どうか純一無雜の感性に住して專念御作りあらん事を祈り候と共に寫生の歌を基礎として御練習の程御勸め申上候寫生は畫ばかりで無く歌にも文章にも必要と存じ候アララギの新しき作家が未だ人眞似を脱せず借著の觀あるは缺點を斯の如き所にも有する事と信じ申候 五月八日
(206) 三〇五 【五月十一日・封書 東京小石川上富坂町二十三いろは館より 信濃國諏訪郡金澤村 小林善一郎氏宛】
拜啓職員諸君の御餞別を賜り恐縮に不堪折角の御厚志恭く拜受仕り候
次に百穗畫會の金五圓及び會費一圓七十錢も慥かに受取申候百穗氏のは今月中には御送可申上候アララギは南安曇の方へ御送申候事と存候(古泉君発送せし故君の轉任を知らず)四月のアララギを五月になりて發行せし如きブマを致し候に依り五月號を休み六月號より一日に必出し可申六月號は革新號として七八十頁と相成可申從つて五月分會費を會員より出して頂く事に致し候間是又御承知被下度候次に過日御依頼申上候件君の手にて何處よりか求め得る事出來ず候哉成るべく過日申上候額を望み候萬一不可なれば半分にても宜しく小生より貴兄證文を入れ確實に致し可申餘り御發表無之樣願度候少くも今月中に相願度如何に候哉甚だ恐入り候へ共御周旋方御盡力願度候
◎此件御見込可成早く御返事被下度願上候
六月御上京のよし御待ち申上候穗屋社奉納額の件俳句の人々に任せ候方よろしと存候歌を額にして社外に曝し候事へんな心地致し候御返事旁重ねて御依頼迄匆々 五月十一日 久保田生
小林君
どうせ借り候事に候へば全額御盡力願度候
三〇六 【五月十六日・封書 東京市小石川區上富坂町三いろは館より 信州小縣郡武石村 中原しづ子氏宛】
御書面拜見仕り候御安心の状を想見して喜悦仕り候東京の空毎日雨にて鬱陶しく空の星も見ず居り候毎日籠居の折から御便拜見欣び申候太田喜志さんには一切御話し申候喜志子さんは胸晴れたるらしく喜んでくれ申候喜志子(207)さんは存外驚かぬ人に候色々の苦勞といふ苦勞を經し結果かとも思ひ候へ共性質にも可有之と存候苦しみ拔いての平氣は貴く候貴下よりの手紙を大へん待ち居られ候模樣に候そして中原さんはズンと強くなる所なかるべからずと申し居られ候非常に貴下の事を心に掛け居る樣子に候六月號のアララギへ歌を下され候貴下もどうか相變らずアララギ御覽下され度その位迄には強くなりて頂き度存候六月號は八十頁以上になり非常によき原稿有之候(長塚さんの評論木下杢太郎さんの文章四人の萬葉輪講前月號批評會記事齋藤君の文章等)十五日に民友社へ九分以上送り候へば廿八九日頃或は出るかと存候貴詠も七月號分六月五日迄に御送被下度願上候
長塚さんの婚約ありし人(四年前)長塚さんの結核病に罹り候と共に破約相成候處(四年前に)今年二十六才に至る迄何れの縁談をも拒絶しそのうちには工學博士等よりの申込もあり父兄は非常に勸め候由に候然るに今日迄毎日家に籠り服裝も繕はず今囘長塚氏入院につき二三囘訪ね来り長塚さんも非常に感激しその娘さんの兄も(醫學士)感激して茲に或は婚約復活相成べき模様長塚さんより今夜詳しく聞き入り小生も大へん亢奮致し候只今長塚さんより歸り此手紙相認め候序に一寸記し上げ候小生大へん嬉しく心から此娘さんに感謝致し候女子大學出身の方のよしに候乍併此儀御他聞御控へ被下度候切に御自愛の程祈上候毎日の雨に飽き入申候御家内皆々様御無事に候哉宜敷御傳聲願上候匆々以上 五月十六日夜十一時半 久保田生
中原様貴下
別紙御覽被下度候
三〇七 【五月二十一日・端書 東京小石川上富坂町三いろは館より 信濃下諏訪町高木 久保田不二氏宛】
只今齋藤君を訪ねて詳しくお聞き申候處腎臓病は二週間位全く絶對的安靜を保たざれば經過心配なり大小便も床の上にて辨ずべし少しにても動くべからず此の爲には如何なる犠牲をしても安靜ならざる可らずそのため入院す(208)るも宜しからむ(家にては少しづつ我儘する故)而して食物は二週間許り全く牛乳のみにて過し得れば尤も宜し卵その他のものは惡し鹽からきもの米の飯も惡しもし不可ならば粥か重湯位なり此儀嚴重に守らざれば甚だ惡しとの事右至急申上候其後の經過御知らせ下され度待人り候 五月二十一日夕方
三〇八 【五月二十二日・封書 東京小石川區上富坂町二十三いろは館より 長野縣諏訪郡中洲村神宮寺 笠原常次郎・笠原長兵衛氏宛】
拜呈承り候へば御老父樣には御病氣の處養生叶はせられず御永眠被遊候趣國元より通知に接し驚入申候嘗て御重病後全然御恢復引續き御壯健今年は金婚式御祝典と承り竊に御喜び申上居り候處突然御訃音相承り深く御悔み申入候御老年の御事とは申乍ら皆々樣の御哀傷遙に御察し申上候謹で御弔詞申上候匆々謹言 五月二十二日
笠原常次郎樣 笠原長兵衛樣 御一統樣
三〇九 【五月二十三日・端書 東京小石川上富坂町二十三いろは館より 信濃諏訪郡湖東村小學校 小尾喜作氏宛】
色々御心配下されて有難うございますいつ御上京ですか御待ち申します私毎日女學校の方も勉強して一日も休みませんから御安心願上ます昨日からアララギの初校正に入りまして大へん忙しいからこんなハガヰに認めます九十頁になりましたそして賣る丈けはどうしても賣らねば困ります今年中に經濟を獨立させねば齋藤洋行後は潰れてしまひます今度は雜誌は二十八九日頃に出來ます非常にいい雜誌になります少し歌送つて下さいそして今月中に少し集めて送金して下さい願上ます御上京の上種々御話申上ます北山へは今ハガキ出しますどうか集めて下さい少くてもいい 五月二十二日
三一〇 【五月二十三日・端書 小石川上富坂町二十三いろは館より 本郷區菊坂町菊富士樓本店 赤桁平氏宛】
(209)○第一首 日は眞晝この野の驛にそはそはとわれ立ち下りてすべを知らねば
○第三首 野の遠は亞鉛の屋根の尖り秀に嵐明か明か光りにしかな
〇第六首 家かげは霜凝る土のかたまりに嵐かすれて明るかりしも
〇第八首 夕まぐれ林檎をむきて宿の兒にやる心中は哀しきろかも
右朱の所校正の際御訂正願はれ候はゞ有難く存候亂筆匆々
題目も「林檎をむきて」と訂正して頂き度御厄介申譯なく候 五月廿三日夜
三一一 【五月二十五日・端書 東京小石川區上富坂町二十三いろは館より 相模國葉山堀内鍵屋方 中村憲吉氏宛】
御ハガキ拜見政彦餘程快き由父と醫師離とから知せて來た未だ旅へは出るなと醫師から注意して來た併し大分安心になつて來たから心配せずにしてくれ玉へ昨夜は御葬式を拜して青山に泊つた曇りの低い街の灯を暗くして御轜車の通る音は非常に有難かつた石原さんの會を廿七日午後五時頃支那料理でやるさうだ是非來ぬかアララギ六十八頁初校來る卅日には出來るだらう 五月廿五日夕方
三一二 【五月・端書 東京小石川區上富坂町二十三いろは館より 信濃上諏訪町角間町 河西ますえ氏宛】
過日は詳しい御手紙を頂いてうれしく有難く存じます私からは何も申上けず誠に申譯ありません東京へ來てもさつぱり何處へも出ません博覽會も見に行きません毎日引籠つて居ります併し體は丈夫ですから御安心下さいアララギは四月號遲刊のため五月號は休む事になりました六月號からは必キチンと一日に出ますからお待ち下さいそれから六月號へは五六月を收めて頁數を増しますから五月分の會費も六月に一緒に出して下さるやう願ひます甚だ失禮と思ひますが本年中に經濟を獨立させて見たいと思ひますそして私は愚痴ですから子供が氣の毒で困りま(210)すどうか學校で三人の子供をいたはつてやつて下さい頼み上げます
堀内吉田諸君及び女の方御一同へよろしく願上候
三一三 【六月五日・端書 東京小石川區上富坂町二十三いろは館より 信濃東筑摩郡廣丘村堅石 三村りゑ氏宛】
拜啓入會して下さつてうれしく存じます澤山御投稿願ひます廣丘は私の一生中最も印象を深く止どめた土地でありますもう紫雲英は刈られて榛の木の若葉がいゝ時でせう御上京ありませんか 六月四日夜
三一四 【六月六日・封書 東京小石川區上富坂町二十三いろは館より 信濃松本市外新橋 胡桃澤勘内氏宛】
拜復
一、畫とんだ事致し荷造の不注意深く御詫申上候百穗先生に願ひ今一枚餘計に書いて頂き可申候間夫れ迄御待ち被下度候百穗さんにも濟まずと存じ大へん惡しき心持いたし候詮方無之候
一、一つ厄介にても松本平の會費徴集書店三軒雜誌代金徴集一手に御統轄被下度支部といふ名はどちらでも御便宜御取計被下度候此事齋藤中村二君と相談致し候諏訪と長野の方は今迄會費徴集大へんうまく參り候へば松本平を君からやつて頂けば信州は夫にて殆ど盡し得る事と相成アララギには大へんうれしく存候何卒御願申上候會員名は左に列記可致候何月迄納入濟なるか古泉君どうしても會費徴集簿をよこさす困り候到底望みなしと存候間單に御催促被下候上送金の際本人に何月分なるかを記さしめられ度ウソは言はざるべし(分ラヌノハ四月迄濟トシテクレ玉ヘ)アララギの會計も如此状態にては何時迄も整理すべからず此處にてウンと刷新を要し可申候スワの方は何月迄齋むといふ事分明致し居り候松本平分は殆ど分らず候
書店是に準ずそして書店の言を信じて金御徴し被下度願上候
(211) 松本市外 ○胡桃澤勘内 【女】池田町 ○金原よしを 同 ○松島義治 同 ○柳澤茂樹 北安松川村 ○榛葉嘉一 島内村 犬飼覺 松川村 一柳勝一 【女】北安會染村 櫻井みね 南安東穗高村 西澤本衛【西澤君は脱會すると言ひしもまあ雜誌は送り居る】 大町 百瀬愼太郎 廣丘村郷原 鹽原常雄 倭村 松岡虎生 東筑中山村學校 青木ゆきい 廣丘村郷原 牛丸與茂藏【六月入會】 【女】同堅石 三村利惠【六月入會】 同吉田 赤津源治【七月ヨリ入會】 以上十六人〇印は特別會員50錢の人也
鶴林堂毎月4册 松榮堂同3册 明倫堂同5册
以上の人と書店へは小生及び齋藤古泉中村の四人連名のハガキ書きて東京より出し可申候間御承知被下度候御参考までにハガキ内容
一 會費徴集一切【松本市外新橋】胡桃澤勘内に依囑の事 一 毎月十五日迄に胡桃澤に送附すべきこと
一 振替口座等巨細は胡桃澤より知らすること 一 可成會隱入會勸誘依頼の事
右甚だ亂筆なれども今は夜の二時過ぎなり御赦し被下度候是からうまく行けば會費毎月五圓八十錢を得べしアララギには萬人の應援に候そして雜費は遠慮なく差引いて送つて下さい
長塚さん君に御無沙汰と常々申居り候明日福岡へ出立可敦候
中學校出の新しい人師範出の新しい男女女子師範の生徒等最も有望の會員と存候御勸誘方御考へ被下度願上候併し強ひて方法を作るも惡しく可然御考へ被下度毎月批評會の會合するは大へんよき事と存候
六月號は何だか大へん景氣よく今日も岩波書店より主人來り賣切れしと申されしも殘本小生に一册も無之といふ状態に候先以て御喜び被下度長塚さんも大へん氣乘り致し居り候同氏の七月號の歌大へんよろしく候驚入り候是にて要領を盡したりと存候もし遺漏あらば御申越願上候あら/\かしく 六月六日夜二時三十二分 赤彦生
泣崖樣貴臺
(212) 通牒文の原稿は御返し申さずとも宜敷からん
三一五 【六月八日・封書 東京小石川區上富坂町二十三いろは館より 信州小縣郡武石村 中原しづ子氏宛】
拜復原稿正に落手心に滲みて拜見致し候初夏の暑さ甚しき折柄信濃は既に蠶の時節に入り候由炎天に桑畑へ出で候事體に差支へず候哉深く/\御注意被下度暑にあたり候はゞ困り可申力に任せて勞働は惡しく候へば(御家のためにも惡しく候へば)御注意大へん肝要と存上候何もかも餘程のんきに御考へなされ候樣祈上候御家族皆々樣御變りも無之候哉東京は信濃に比し大へん暑く晝は殆ど裸かにて過し居り候會費御送り被下奉謝候アララギ大へん賣れ東京堂岩波書店皆賣り切れ只今は小生の處に一册も無之候新入會も増加し此分にては一ケ年中には餘程景氣よろしかるべくと喜び居り候會員四五百人になり候へば小生一家を構へ老婆一人雇ひて生活せんと存候御同志も御心當り候はゞ御勸め被下度願上候何もかもくよ/\せず快活に心強く御暮しの程肝要存上候
齋藤君元氣よく暮し居り候中村君海邊より歸り(葉山に居れり)目下試驗にて忙しがり居り候古泉君には少し困り居り候何れ又御話し可申候東京信州同人皆丈夫に候間御安心被下度成るべく多く御通信被下度待上候小林さんにもよろしく願上候小生室外衣更けには葉ずれの音さやかにて寂しさ加り申候かへす/”\我慢せず無理せず御自愛祈上候 六月八日午後 俊彦生
志づ子殿 御もとへ
別紙三吉君の模樣御笑覽々々御忙しと存候へ共近状御知せ被下度候
三一六 【六月十七日・端書 小石川上富坂町二十三いろは館より 小石川大塚窪町二十若山牧水方 守屋其翠氏宛】
昨日は失禮致し候雨のもの一本しか無之何とかして御序の節御屆け願上候 六月十七日夜 赤彦生
(213) 三一七 【六月二十七日・封書 東京小石川區上富坂町二十三いろは館より 信濃諏訪郡豐平村御作田 兩角七美雄氏宛】
拜啓早く手紙書かんと思ひつゝ校正手間取れ今日やつと民友社に齋藤君と二人で濟まし歸宅仕り候これで一日迄には大丈夫出で可申候徴兵檢査は如何相成候哉心に掛り候兵役といふ事本當の御奉公にて當籤の人は隨分苦勞の事と存候併しあの生活も一つの經驗には充分相成可申と存侯(小生も四十二日間兵營で生活致し候)
今度の貴詠大に嚴選致し候君としてはもうそろ/\一足踏み出して貰ひ度き感有之候故在來のものと餘り替らぬやうなもの思ひきりて捨て申候誰もさう急に變化は出來ず候へ共何時迄も同じ圏内に「足ぶみ」なして居りてははがゆく候「前へ進め」といふ號令が掛り可申候御參考のため朱書記入御返申上候御意見も候はゞ御申越被下度候尤も〆切後に今一通屆き候へ共夫れは忙しくて未だ見るを得ず更に來月五日迄に御送被下度待居り候君の歌には非常に大きな特徴あれども現し方や感じ方にもはや一足を踏み出すべき時來りて居りと存候御考へ願ひ候次に永田敏貞君の死去誠に氣の毒の事致し候小生も一度逢ひし事あり青春の人をむざむざ死なし候事堪へ難き悲痛に候あの君の原稿屆きて間も無く死去と聞き駭き入り候あの原稿の歌大抵よく候君が少しは手を入れしか御序の節御知せ被下度候今夜已に一時半に候是にて失敬匆々以上 六月二十七日夜 赤彦生
七美雄君
猶博君登君によろしく願上候猶博君脱會の通知來り候惜しく候
3首
大きな畦ずうつと塗られてみづみづと晝の陽そそぐもとなりしかや 第五句充實せず
大きな畦塗りて男はたちたれば空遙々と夏となりぬれ 取れぬ事は無いが従來の七美雄としては更に深く突き進んで貰ひたし
(214) あつぼつたき夏こそ來れと瞑れば草のいきれの流れたらずや 第二首と同樣の感あり
泥々の水の流れの絶へまなけれ思い入りたる面なるらん?
眠るらん凝《じつ》といきづき居りたれば地面ひそかに吹き來る風よ
新らしき畔を歩める百性の女の足に風たつらんぞ 足を何故今つと鮮やかに現さゞりしか無理也
きらきらと水を出で來し虫なれば畦のとんばは凝つと動かず 無理也
水面に夕陽爛れて今はいまどらんらんとぞおどりたるかな 言語勝ちすぎて現れ方不足也
三一八 【七月二日・封書 東京小石川區上富坂町いろは館より 信濃北安曇郡池田町丸十方 金原よしを氏宛】
よしをさん、病んだと聞いて特殊の悲しさを抱きました青吾君から少しいいとハガキ下さつて多少眉を開きましたそれから後はどうですか遂病みましたか矢張り弱い、強い人でなくてはなりません強い心で生活して下さい其後どんなであるか無理して學校などへ出てはいけません青吾君が代理に行つて下さるのはあなたの大きな幸福の現れであると深く思つて下さいそして一心に注意して早く治つて下さい廣丘に私の居る頃あなたは矢張り弱かつたその後色々の苦しい道を歩いた何年も疲れの道を歩いた今度の病氣はその疲れから一時休息して更に新しく元氣よく踏み出す機會になつて下さい此の一夏は病人のつもりで遊んで下さい只今の模樣一寸御知らせを願ひます私は病みません束京は大へん暑くて少し困ります夫れでも必病みません此上病んで溜るものですか一心にさう思つて居ります必病みませんアララギ見られましたか追々によくなりさうで喜んで居りますあなたの今度のは少しなげやりに作られた點がありました數が少くて大へん心苦しかつたがあれ丈けにして置きましたもしあれから後に作つたのがあらば青吾君か櫻井さんかに書いてもらひて十日前迄に御送下さい願ひます歌などどうでもいいからどうか一日も早く全快したいといふ知らせを書いて下さい色々は又追々申上げます 七月二日夜 赤彦生
(215) よしを樣
君の原稿(成るべく秋風の歌批評)矢張り十日前迄に御送り下さい茅野昌栖が創作で大分私を槍玉にあげました昌栖は齋藤の歌評も古泉の評も丸で無茶です「性きの力」の歌が解釋出來なんでゐるのだから驚く 赤生
青吾君
寺島君は川端研究所でデツサンを習つてあと月に三日許り百穗さんの處へ行く事にきめました
三一九 【七月三日・封書 東京小石川區上富坂町いろは館より 信濃小縣郡武石村 中原しづ子氏宛】
拜啓養蠶も切り拔けられる由身體の恢復非常に確かなるを祝し申し候併し大へん御疲勞の事と奉察候あとを病まぬ工夫大へん必要に候東京は暑さ頓に嚴しくやゝ凌ぎかね候併し壯健に候間御安心被下度候此の上病んでは溜らず必病まぬ決心に候アララギ御覽の事と存候小生の歌相變らず惡しく今に何とか成り可申と存候貴稿後半は少し後に出し候方宜しくと存候へ共貴兄如何十日迄に少くも一段分(成るべく一頁)御送被下度願上候貴詠よき歌に候へ共今少し字句を鍛錬する必要は有之候小生のも是れが不足して齋藤君大へん氣に致し候實は少し位の字句必しも全生命に響かぬ事も候へ共我等としては充分反省せねばならぬ事と存候(特に短歌として)それで萬葉集も又少し見る氣になり候金原さん病氣よき方のよしうれしく存候あの人も誠に氣の毒に存候
束京は學生は國に歸り私方もめつきり人少くなり候河西清水等皆已に歸國致し候アララギ大變に賣れ先月號はもう一册も殘らず候今月もよく候併し他の雜誌へは黙り居るやうに申し合せ居り候茅野昌栖といふ男例により頭より尾迄判らぬ批評致し候相手になるも馬鹿々々しければまあ黙殺せんと今日二三人して話し候この男齋藤君の歌を欣びの歌と思ひ居る事噴飯に候古泉の子供死にし歌の批評をし乍らその歌が分らずに居るらしく驚き入り候併し小生いま/\しく思ひ候牧水もあんなもの雜誌にのせては困る事に候まあ/\よしくだらぬ事迄書き竝べ申候(216)御大切祈上候匆々以上 七月二日夜十二時卅五分 赤彦生
信濃峽の村にて
しづ子殿 御もとへ
三二〇 【八月二十三日・端書 東京小石川區上富坂町いろは館より 信濃下諏訪町高木 渡邊伊三郎氏宛】
歸國中は萬事失禮のみ仕り申わけ無之候出發の際はとんだ御厄介樣相成何とも御禮の詞を知らず深く感謝仕り候昨夜著京今日よりアララギ校正にかかり申候出來候上一部進呈可仕候先は御禮のみ申上度如此に候 敬具
御令閨樣にもよろしく願上候留守中何分萬事御心添のほど願上候東京は以前に比すれば大へん凉しく相成候併し夜も裸體に候 八月二十三日
三二一 【八月二十九日・端書 東京小石川上富坂町いろは館より 信濃諏訪郡湖東村小學校 赤羽豐二・横山重氏宛】
十月短歌號の歌非常に澤山御作り下され度世界を驚かし可申候私毎日作り居り候九月號の御感想御知せ被下度候匆々 逢ふ人毎に作れと御申し被下度候 八月二十九日
三二一 【八月三十日・封書 東京小石川區上富坂町二十三いろは館より 信濃諏訪郡湖東村小學校 藤森省吾氏宛】
小尾君輕快何よりうれしく存候いつか見舞ひしとき少し膨れし故心配せしに安心此事に候君もいろ/\で折角と存候へ共強くなりて御辛棒被下度願上候秋は是非出て來てくれ玉へそして一緒に歌澤か長唄か新内か富本かを聞き可申よき日取を注意して居り御知せ可申上其頃は小尾も出校し得べく少し今度は君が遊んでも宜しかるべく候東京暴風雨にて出水も有之候へ共大した事無之候十月號短歌號にせんと思ひ小生大奮發中に候五六十首作らんと(217)存候匆々 八月卅日夜十二時
藤森省吾様貴下
三二三 【九月二日・封書 東京小石川區上富坂町二十三いろは館より 信濃國諏訪郡豐平村御作田 兩角波雄氏宛】
拜復貴書よく拜讀致し候御同樣到底滿足に表現し得ぬ憾み充分有之此故に苦しく存候併し乍ら此不足を感じ候故に奮發も致し候事にて不足はすべての奮發の源泉と相成可申と存候御同樣前途猶遠き黄口の兒と深く思ひ入るべき儀と存候
御申越によれば過日上諏訪會の小生の詞何か不遜の事申上け候哉と不安に存候自分にては苟も歌の事特に他人の作に對して一點たりとも無責任なる言論を致す間敷覺悟に候而してあの時申上候事は皆小生の所感を眞面目に申上げしつもりに有之「つまらぬ事」を申上ぐるつもりにては自分丈けは無之儀に候へば貴君がつまらぬと御感じ成され候點巨細御知せ被下度小生としてよき反省とも相成り可申かと存候小生は他人の言論は眞面目に聞かねば氣が濟まずいゝ加減に聞きいゝ加減に言ひ候事尤もイヤに候輕薄な研究はせぬ方がましに候此點に於てアララギ同人は隨分議論致し候へ共イヤな感じ致さずうれしく思ひ居り候粗雜な言論をいゝ加減に發表して得意がり居り候幾多文士の氣風蛇蝎の如くイヤに候次に豐平會の名は多人數連名故左樣にして出し候へ共惡しければ十月號より止め可申大問題には可無之と存候歌會の歌は從來餘り多く出さず沼津の柞家歌會の如き二百餘首中よりあれ丈け出し居り候本當を言へば吾人の毎月發表し居る歌中長い年月に亙り生命あるもの何程有之候哉考へ來れば哀れに思はれ候要するに雜誌を作り候事は只吾人が歌を勉強する道具たるに過ぎず吾人の到達點は猶遠き前途に有りと深く信じ申候歌數の多少の如きは第二第三以下の問題と存候併し乍ら第二三の問題なりとて閑却すべきに非ざるは當然の儀に有之候御意見御待ち申上候匆々以上 九月二日
(218) 上諏訪歌會の歌十月號へ出し可申候
三二四 【九月二日・封書
御無沙汰致居候殘暑劇しく奈良井川の砂猶燒け候事と想像致し候水と草と多き低地の御家思ひ出し候これから秋は寂しかるべく候東京も夜の虫しげく秋づき申候御歌拜見十月號は短歌號に致し候故今三四首御送り被下度丁度一段に組み得べく候御歌柄素直にして要を掟へ居り候事いつもうれしく拜見致し候中村齋藤等と時々その話致し候アララギ女作者皆まじめにて輕薄ならず所謂新しがる連中と相違致し居り候事心強く思ひ居り候この夏は久し振りで廣丘へ行きあなたにも御逢ひ致し度思ひ居り候處東京の方アララギ校正にせき立てられ松本へは行きしもそこにて一泊翌日上京してしまひ惜しく存候どうかして此秋は廣丘より木曾へ行き度思ひ居り候木曾へは毎年の秋に參り候王瀧川の紅葉は天下の逸品と存候何卒時々廣丘の秋色御知せ被下度候廣丘にて小生の歌は育てられ申候なつかしきは學校裏の林中に候林の中の青苔に候あのこけの中へ寢ころびし二年を感謝致し候學校を幾度も轉じ候へ共廣丘を去る時のみは泣けて/\しかたなかりし牛屋のおばあさんよき人にてよくそばを打ちいもをすりてくれ候事もなつかしく候寂しさにまかせくだらぬ事長々と書き連ね申候御笑讀下され度候歌は成るべく五六日頃迄に御送被下度御困りならば二三日位延びてもよろしく候横山重君昨夜東京へ歸られ候匆々以上 九月二日二百十日平穩 赤彦生
三村利惠樣貴下
三二五 【九月三日・端書 東京青山南町五ノ八十一アララギ社より 山形縣南村山郡本 村菅澤 結城哀草果氏宛】
拜啓特別會員御入會被下奉謝候九月會費正に拜受御禮申上候十月號よりは選歌を嚴密にし内容を充實させ度存じ(219)居り候會員少數なれども家族的に眞面目に研究し奮勵して行き度存候益々御奮勵被下度祈上候匆々以上
畫會入會は特別に畫伯に願ひ申すべく候御希望も候はゞ御申越被下度候 九月三日
三二六 【九月六日・端書 小石川上富坂町二十三いろは館より 信濃國東筑摩郡廣丘村郷原 赤羽豐二氏宛】
集金御厄介有難く存上候
原稿奉謝候Mも横山君より頂き奉謝候アララギも到底擴大せず今のにてよろしく候それで内容を今つと洗錬して選歌も少數の輝く光のみをのせ申度存候 九月六日
三二七 【九月九日・端書 小石川區上富坂町二十三いろは館より 深川八幡前宮川氣付 北原白秋・河野愼吾氏宛】
拜謝參上致し度さ山の如くに候處少々滯り有之今囘は其意を得ず殘念奉存候宜敷御諒承被下度皆樣へもよろしく願上候敬具
大へん殘念に候
三二八 【九月十九日・封書 東京小石川區上富坂町二十三いろは館より 信濃下諏訪小學校 塚田廣路氏宛】
今井兩角兩先生へ何卒よろしく御願申上候
御手紙下され奉謝候東京も追々秋づき暮しよく相成候信濃の秋色想見致候御令閨御子息皆々樣御變りも無之候哉小生至極壯健に候間御安心被下度候修學旅行には愚息も御厄介相成候歟と存じ候彼れ少々薄弱に候へば何分の御心添被下度何分願上候規律を亂す事も甚し充分御叱り下され度ポンとして人に後れチョコ/\して行衛不明の事有之右何分願上候東京にては是非御目に懸り可申待上候
(220)そして恐入り候へ共下諏訪の何れの店にてもよろしく候間六十錢の茶一斤御買求め御持來被下度御厄介乍ら願上候束京にて代金差上可申御承知被下度候東京の茶の小賣は非常に高く目下一圓のを飲み候へ共諏訪の六十錢に當らぬ位に候右御迷惑と存候へ共願上候鑵は澤山あり候間袋にてよろしく只途中にて移り香せぬやう御用心願上候新聞紙にて幾重も包み候はゞ宜敷からんと存候色々御願申度匆々以上
上諏訪で無くてよろしく候 九月十九日子規十三囘忌日 赤彦
塚田大兄臺下
若し萬一途中發病等の事も候はゞ小生へ電報下され度直樣參り可申候
三二九 【十月四日・封書 東京小石川區上富坂町二十三いろは館より 信濃國北佐久郡小諸町赤坂 唐澤うし子氏宛】
拜啓先程ハガキ出し候處今夜頻りに寂しく又手紙書き候小諸へ遊びしは今頃なりしか今少し後なりしかなど考へ申候今日池上の本門寺へ詣り稻の黄ばみしを見てなつかしく佇み申候行くも歸るも一人なり氣炎といへば氣炎に候アララギ怠り申譯無之候今日諸同人來り小生の留守にスッカリ整理してくれ奉謝候此手紙と同時に御落手と存候十月號は紙數うすけれども非常によき歌多く天下に誇示し得べしと信じ申候よく御注意下され度候萬葉集御調べ被下度願上候是れは大へん必要に候萬葉集略解ならば博文館出版のもの一二圓にて買ひ得べく候さし當り是より外仕方なく候時々御通信下され度候待上候匆々 十月四日夜仲秋名月 赤彦生
唐澤樣御もと
御上京等の事は無之候哉用も無きにこんな手紙出し失禮々々
三三〇 【十月四日・封書 東京小石川區上富坂町いろは館より 信濃國上諏訪町衣ノ渡 小尾喜作・同よね子氏宛】
(221)此間葦穗より聞き入り候へば少々惡しき由其の後の模樣如何かと心に掛り乍ら忙しく御無沙汰誠に申譯無之候過日はよね子樣より詳しく御知せ被下候處御返事も差上げず誠に誠に申譯無之決して忘れては居らず候間何卒々々御許し被下度願上候餘り心せき候はゞ惡しかるべく何事もゆつくり御構へ被下度色々御癪に障り可申存候へ共可成廣大に御考へ被下度此儀呉々も願上候其の後の御樣子一寸ハガキにて宜敷よね子樣より御知せ被下度貴君は筆など當分持たぬ御覺悟に願候今日アララギ用事終りヤツと筆を執り申し候返す/”\も御自愛御自重願上候よね子樣も隨分御疲れなるべしと存候 十月四日仲秋の夜十一時 赤彦生
石馬樣 よね子樣
非常に失禮にて申譯無之候へ共全然快復する迄御同寢下さらぬやう願上候失禮なりとて御叱り下さらぬやう祈り上候
三三一 【十月十四日・封書 東京小石川區上富坂町いろは館より 信濃北安曇郡池田町丸十方 河西省吾氏宛】
飯田氏へは本人參上すべき由返事出し置候
御歸國のよし別紙飯田太金治氏より參り候間御覽に入れ候依て御歸途上諏訪へ立寄り岩垂先生に此手紙見せ一話して頂きそして君はその成否に係らず三氏宅に行き厚く禮を述べて下され度候匆々
先方ではそれを要求せざれども逢ひて禮を述ぶべき事と存じ候金原さん御丈夫と存候御無沙汰御許し被下度よろしく御傳言被下度候 十月十四日 俊彦
三三二 【十月十五日・封書 東京小石川區上富坂町二十三いろは館より 長野縣諏訪郡湖東村小學校 藤森省吾氏宛】
拜啓非常の無理御願申上候處早速御送りに預り感謝の至奉存候何れ詳しく申上度存じ候へ共暫く御待ち被下度御(222)禮のみ申上候次に萬元和歌御送被下奉謝候良寛に比すればズツト劣り居り候へ共坊樣の歌大抵あのやうのものらしくひとり萬元のみならずと被存候
御自愛の程切望仕り候乍末筆小生壯健に候間御放念被下度候 十月十五日 赤彦
藤森省吾兄貴臺
赤羽豐君によろしく御傳へ被下度候
三三三 【十月十五日・封書 東京小石川區上富坂町二十三いろは館より 長野縣諏訪郡玉川村菊澤 兩角丑助氏宛】
拜啓彌々父親の第一歩に踏み入られ候由欣賀奉り候追々複雜なる世相に接せられ候事喜ぶべく又恐るべし益々御英進の程千祈仕り候御母子御兩人樣御健康に被爲入候哉當分のうち特に御自愛専一と奉存候
次に無理の御願申上誠に恐入り候早速御送に預り深く御禮申上候何れ詳しくは御知せ申すべき機ありと存候取敢へず御祝詞并に御返事のみ申上度此の如に候匆々敬具 十月十五日夕 赤彦生
兩角丑助兄貴臺
三三四 【十月十八日・封書 東京小石川區上富坂町二十三いろは館より 信濃國上諏訪町小學校 兩角喜重氏宛】
拜啓御無沙汰致し居り候處御家族樣如何に候かもうスツカリ皆樣御全快に候哉
扨て河西省吾氏の件飯田太金治氏へ申遣し候處別紙の如く申來り今一ケ年出してくれ候由三氏の御厚意には小生殆ど感泣致し候河西省吾氏來り候はゞよく此事御話しの上自身訪問して謝意をよく述べ候樣御傳へ被下度呉々も願上候先は右御願迄匆々 十月十八日夜 俊彦
兩角雉夫兄臺下
(223) 石馬君捗々しからず困り候氣永く治療し居り候やう御慰問被下度願上候私の事御心配無之樣願上候
三三五 【十月二十日・封書 東京小石川區上富坂町二十三いろは館より 信濃國小縣郡武石村 中原しづ子氏宛】
アララギ編輯今日濟み候
拜啓少しく御無沙汰致し候御變りなき事と存候小生例の遊び癖出で急に八丈島へ渡る事に相成明日出發明後日正午までには著可仕幸空晴れ風凪ぎ候へば日頃の空想通りに愉快の海路ならんと存じ候留守中アララギは同人皆手傳ひくれ可申御安心被下度候あの地へ參り候ても永くは遊ばず御安心下され度體にも大へん宜敷からんと存候諸同人皆羨しがり申譯なくも思ひ候あの地より又色々御通信可申電信も通じ居り候へば不便無之と存候よき人々より島廳へ紹介状もらひ候間猶更便宜多かるべしと存候あまり諸人に知せず微行のつもりに候へば多く御吹聽無之やう願上候郵便は東京府下伊豆八丈島にてつき可申少し寂しいかも知れず御通信下され度金原さんへも一寸御知せ申上置候歌澤山作らんと樂しみ居り候乱筆匆々
皆々樣へよろしく御鳳聲被下度候御自愛御壯健を折る 十月廿日夜 赤彦
閑古樣貴下
三三六 【十月二十二日・繪端書 八丈島大賀郷村大脇旅館より 東京芝公園地 松濤泰巖氏宛】
拜啓種々御厚意に預り奉深謝候今朝無事著島致し候間御安心被下度候風雨の中に黒い島山へ船の近づきし時一寸へんな心致し候島の樹は皆常緑に候奥樣によろしく願上候 十月廿二日
三三七 【十月二十八日・封書 東京府下八丈島大賀郷村大脇旅館より 東京本郷區菊坂町菊富士本店 齋藤茂吉・中村憲吉・古泉千樫氏宛】
(224)拜啓アララギ君たちに申譯無之何卒今少しの處何分願上候小生も精出して原稿書き居り可申おそくも來月十五日までには輪講俚謠二ケ月分御送可申歌も可成精出し可申候毎日愉快に安息いたし候一昨日夕方は主人に連れられて千鳥金土《チドリカナド》といふ漁村のバナナ畑に遊び候島廳のある村のやゝ急峻なる切通し坂を下れば八丈富士の裾ひろく平にひらけて海に達せる廣※〔澗の日が舌〕なる眺望なり畑の周圍と畝間とは秣芒といふ常緑の芒生ひ靡ければ一望したる所は只青芒の原の如く見え候へど歩きつゝ行けばそれが皆甘藷畑にて青い赤い蔓の延び茂り居り中には里薯の※〔澗の日が舌〕葉も交じり居り候夕日の赤く染れる地上に立ちて黄色の果皮を剥き新しきバナナの句ひを貪り候家の娘庖刀にて莖乍ら切りてくれしバナナの果をかつぎつゝ家にかへり申候去る廿二日著島廿三日島司の家を訪ね候處山がかりの離れ村にて中途雨風劇しく道を失ひ民家に寄り道を聞き候處若き姉と(廿五歳位よき娘也)弟出でて丁寧に教へくれ候事うれしく五六間進みし時後より件の二人又呼び返して雨甚しければ立寄り火にあたれとの事早速立寄候處機五六臺にて赤黄樺の機を織り居候その娘島の女らしく優しく心柔かにて一寸小生の心を引き候その娘小生の衣服皆かわかし尺度の兩端へ白い木綿を吊り着物を乾してくれ候事氣が利き居り申候その下にて色々話し候處この娘いよいよよき娘に候夫は七月南洋にて没し子供は六日死し候由それより小生毎日彼の家に通ひ候處彼の家皆純にしてよし(山下ていといふ女性に候)二十四日娘の夫の葬式にて彼娘は三根村へ行けり未だ歸らず弟を使にやり候處小生の炊事を擔當してくれ候由依て今日彼家に移り可申候尤もその隣家の一室(新築にて一寸よし)を借りる譯に候この家の庭より直ぐ下に梅見え小島(爲朝の死せし離島)も見え候右御承知被下度今その家へ立出前にて忙しく三君へ手紙書かれずこの手紙御覽の上郵便にて御廻覽被下度候樣御取計願上候丸で文章をもなさず御判讀被下度且アララギヘは出さぬやう願上候匆々 十月廿八日午前 俊彦
小生風邪未だ殘り居り熱あり手紙は矢張大賀郷村大脇旅館内にてよろしく候
茂吉 千樫 憲吉三兄臺下
(225)第二信
ふとんも彼女新しく作りしを敷きくれ候彼女の夫に著せるつもりの處夫は南洋にて死せし由に候子も生まれて死にし由に候
拜啓昨夜こゝの宿へ移り候おていさんは一昨夜から來て待つて居られうれしく存候昨夕二度ぶりで逢ひしことに候最初見し時より顔の色黒く候へ共島の女らしく年よりも若き所あり(三十才の由)可愛らしく小生には好きの女に候感情の濃やかなるは眼の色によく現れ居り候お茶が好きにて夜はおそく迄眠られず毎朝朝寢する事は小生によく似て居り候人には大へんのんきと言はれ乍ら内心に苦勞多きといふ女に候夢を見て困ると申し居り候今朝は久し振りで早起せしとて朝から來て床を上げ茶をのみ卅分ばかりにて歸り候早く來てくれゝばいゝと待ち乍ら「星の世界」をよみ居り候星の世界の星學者と妻君と許嫁君とジドフ君はいゝ人に候ボラアクもいゝ人に候島に來てサツパリ心配なく色々の事氣に掛らず晴れ/”\しく相成候寓居の縁より足下の平地に直ぐ海が光り居り候居室新しく心持よく候バナナ、ビンラウジユ、シユロ、ソテツ等大抵の家に植ゑてあり候追々模樣御知せ可申上も君一つ來年頃來ては如何
〇次に昨日の手紙にて御願申上候金は五日頃迄に電報爲替にて御送被下度昨日宿を立つ時今迄の勘定借り置かんと頼みしに少し澁られ少し心持よからず早くやり度存候主人にも五六日迄と頼み置き候廿圓送つて頂けば一月支へて歸國出來可申何分願上候小生歸京の上にて又如何樣にも致すべく候
〇アララギ三四册御送被下度少し位會員出來るかも知れず候 十月廿九日午前九時相五分 赤彦
中村兄貴臺
三三八 【十月三十一日・繪端書 東京府下八丈島大賀郷村大脇旅館より 信濃國東筑摩郡廣丘村堅石 三村利惠氏宛】
(226)木曾へ行く所を遂にこんな島へ來てしまひました南の温いそして雨の多いそして椿や椎やァスナロ等の常緑葉林で包まれた天國であります島の家では八丈絹を多く織つて居ります五六人づゝ集よつて優しいをさの音を障子窓の中にさせて居ますその家の御厄介になり隣家の一室を借りて起臥して居ります此間は旅館の主人に連れられて海濱の村のバナナ畑に行きました夕日の赤く染めた地上に立つて黄いろい其の皮をむいて新しい果の匂ひを口にしました又御通信致します 十月相一日書く 赤彦生
今つと長い髪の人がいくらもあるさうです全體に島の女人は美しい髪を持つてゐますこのハガキ御落手は十一月半頃なるべし
三三九 【十月三十一日・繪端書 八丈島大賀郷村より 東京小石川區淑徳高等女學校 諸先生宛】
皆々樣益轟々御健勝奉賀候小生一寸こんな處に居り御無沙汰致し居り候椿やアスナロ椎等の常緑林多くその中にぽつぽつ草屋を交へ居り候それが此島の村落に候椿は一抱へ以上の老樹もあり候大へん暖く只今島の人は單衣に候數日前バナナ畑に連れ行かれ夕日赤き地上に黄ろき果皮を剥ぎ新しき匂を喫し申候
一般に髪美しく長くこれより長き女いくらも有之候
其二
この山八丈富士と申し居り候富士山より形式ばらずなだらかにてよろしく候この裾が常緑葉の樹海に候港四つあり小生はこの港につき候こゝより島廳ある大賀郷村へ七八丁坂道なり路傍の甘薯畑の畔には島芒立ち居り候八丈絹織る家の厄介になりその隣家に起臥致し居り候
こんぽ森の中に絹織る音コロリカラリと夜おそく迄響き居り候此手紙御覽被下候は來月半頃ならんと存候生徒に手紙出さず惡しきかと思ひ候へ共宜敷願上候
(227) 黒き熔岩に候
其三
海濱は島芒の中に濱グミの銀色の葉交りて茂れりその中に牛數多遊び居り候牛乳は東京より品よろしく一合二錢五厘うれしく存候
今日は雨の中を隣家に招かれお婆さんから島の昔の唄うたひてもらひうれしく聽き入り候黄の機樺の機織る窓明りに美しき聲響き申候 十月卅一日
三四〇 【十一月三日・繪端書 八丈島大賀郷村より 東京芝公園第十四號地 松濤泰巖氏宛】
盆々御壯健被爲入候哉伺上候小生其後甚だ都合よく只今民家一室を借り受け隣家より炊事してもらひ居り非常によろしく候間御安心被下度留守中何分萬事願上候誠に我儘御願申出で申譯無之候一昨夜は十三夜にて島の踊と唄とを聞き申候御令閨樣には其後御壯健に向はせられ候哉御案じ申上候
必用無之候へば御手紙下され候に及ばず校用等も候はゞ電報御發し被下度願上候
追記(昨日御ハガキ著奉謝候〇はもし電報さし上げ候節は電信爲替にて御送被下度夫れ迄は御送被下候に及ばず候五日)
三振村の道に候
三四一 【十一月四日・封書 八丈島大賀郷村山下貞藏方より 東京本郷區菊坂町菊富士本店 中村憲吉氏宛】
宛所は大脇旅館にても宜しけれど八丈島|大賀郷村山下貞藏方《オホガガウムラヤマシタテイザウカタ》の方よし
拜啓今夜小生非常にうれしく逐ひ泣き出し今夏恥かしく困り候晝いろ/\しみ/”\話し夜|酢《すし》つくりくれ酒の酌し(228)てくれ候故こんな嬉しき夕飯何年振りかと思ひつき急にうれしく泣き出し申候實に今となりて恥かしく存候おていさん非常に明けさらしの性質にて直截なるうちに感情の濃やかに言ひ知れず柔き所ありうれしく候何年かの苦慘にあひ神經過敏になり危くすれば狂的になりはせぬかと思はれ候へ共彼の氣質自然に人を引付け申候こんな女内地には無しと存候年は卅才にて苦慘を經しこと多き故話が分りてうれしこの位頭利きてゐ乍ら人工的の所少き女無かるべしいつか寫眞御目にかけ可申候夜は三晩位眠らぬ事珍しからず飯も一日一食にて(インキ盡く明日書く十一月三日)(今朝郵便來る急ぎ書かねば間に合はぬ)四日朝 過すことあり情が濃やかにて優し
御手紙有難う今月位には立退かねばなるまい色々心配させて申譯なしMの事何分たのむ五六日迄につくやう電爲替にて頼む小生も歸京して郷里から少し借入れ可申夫れ迄何分願上候只今一圓足らずしか無しおていさんに毎日感激して居り何もせず申譯なしそのうちに書いて送る郵便月に二囘乃至三囘(大抵は三囘)來るよし御たより下さい 十一月四日 俊生
中村君几下
三四二 【十一月二十七日・封書 東京市小石川區上富坂町いろは館より 信濃下諏訪町高木 長崎佐次郎・渡邊伊三郎氏宛】
拜啓御無沙汰御許下され度候陳ば平福百穗畫伯の畫會アララギにて主催致し居候處期限經過に候へ共今少し畫いてもらひ候樣頼み候間もし御志も候はば好機と存候間御卸せのみ申上置候百穗氏は金の註文によりて畫いた事なき希有の畫人に候アララギの貧窮を憫み畫會開き下され収入全部をアララギにくれ申候事にて小生方感謝いたし居り候併し決して御すすめは致さず只々御卸せのみ申上候御地有志者も候はゞ御周旋下され度願上候
一、【絹一尺二寸四尺】 金拾圓
留守中萬事御厄介樣相成奉感謝候小生少々旅行いたし居り色々御無沙汰御海容下され度候數日前歸京いたし候東(229)寒く炬燵ほしく候 十一月二七日
三四三 【十一月二十八日・繪端書 東京市小石川區上富坂町二十三いろは館より 信濃東筑摩郡廣丘村堅石 牛丸四方造・鹽原彦雄・酒井明一氏宛】
大へん御無沙汰致し候小生少し八丈島へ參り昨今歸京いたし候十二月號は目下校正中に候一月號は九日迄に御送稿被下度候島は目下單衣に候椿紅くさき居り候萬葉集や子規の歌御研究下され度今にして益々子規先生の偉らきを想ひ候 十一月廿八日
三四四 【十一月三十日・封書 東京市小石川區上富坂町二十三いろは館より 信濃諏訪郡豐平村御作田 兩角波雄氏宛】
大へん御無沙汰致し申譯無之候今朝御手紙下され拜見いたし候小生十月より一寸八丈ケ島へ行き昨今歸京せし處に候留守中アララギ諸同人に厄介かけ申譯無之候來年よりは專門に勉強可致候到底現代人を相手に仕事は出來ず況や現時をや、現時の拍手喝采を得るが如きは少し通俗に下れば何でもなき事に候アララギも百年の後知己少し位あるかも知れず紙質をよくして立派に印刷し保存致し度候紙はどんなに貧乏しても立派にしておくべく候我々は一生かゝりてどれ丈けの歌を得べきや多少特獨の光彩を放つもの十首以下あれば欣喜滿足可致候小生等の仕事は實に是れからに候今日にては萬葉集の何處を開き見ても吾人は壓倒されてしまひ候我々は強ひて強い事言ふ事イヤに候萬葉集の如き敬服すべき光輝に對しては最も從順に感服して謹讀研鑽致すべく候是れ吾人の修業に候十年二十年後のための眞實なる修業に候君の歌大豆のはじけた歌非常の光輝に候特に 束の間も秋の光は暑かるかもよ の歌の如きは今日の歌壇にありて大した開拓者の位置に居るものと存候苦心に苦心を重ね居り候へばいつしか斯樣のものひよつと生れ出で可申候存外苦心の際に出ず候へ共その苦心の潜勢力となりて我々の血液中にひそむと思はれ曾それにつけても萬葉集その他のもの盛に御研鑽の程祈上候子規全集も一月頃は出で可申是非御讀(230)み下され度候小生只今子規先生の俳句を見て居り候へ共とても我々現代歌人の百歩千歩先方を歩み居らるる心地致し候斯る光輝を知り居る我らは幸福と信じ居り候。天下の人餘り悠長に構へ候はゞ大事去るべく候天下の人餘り氣短に急ぎ候はゞ大事破るべく候 と先生は申され居候有難き先生を我々は有し居る事を深く思ひ候
十二月號明後日頃出来可申候小生留守中にてこんなに後らせ候段申譯無之候一月號の歌今少し澤山御送被下度五日〆切八日には印刷屋にやらねば年末故間に合はず候
八丈島は只今まだ單衣に候椿の花さき居り候村落は椿の林中にポツ/\草屋を交へ居るといふ有樣に候一抱へ以上の椿澤山有之候五六人づつ女集りて機織り居り候所謂八丈絹に候機織る家の厄介になり長き日を過し居り候歌も少しは出來さうに候
校正より歸りて疲れ居り候今日は烟草も吸はず晝飯も略して校正いたし候夜に入りて歸り候東京隨分寒く候諸君によろしく願上候 十一月三十日夜十時半 赤彦生
七美碓君
三四五 【十一月三十日・封書 東京都小石川區上富坂町二十三いろは館より 信濃諏訪郡富士見村小學校 小池晴豐氏宛】
拜見敦し候紀行文は今書く事出來ず歌は百首位出來るかと存候そのうち八首丈け十二月號へ出し置候これから十二月初迄に作り可申候八丈島は冬を知らぬ土地に候小生滯在中單衣一枚にて暖き程なりき今頃未だ單衣ならんと存候是は黒潮の關係の由に候女多く男少なく女皆美人?にして頭髪は背丈けが普通にて候それらの女一軒の家に五六人位集りて毎日八丈絹を織り居り候丁度山浦の女衆が五六人して夜なべをするが如し半ば茶のみ話半ば機織といふ模樣に候小生その家の御厄介になりて一室借りうれしく有難く存候村落はすべて樹(皆常緑樹)の中にありその中に尖りたる草屋根チヨイ/\頭を出し居り候その木は八九分は椿一抱以上の椿澤山有之候椿の下にて(231)島の女麥の臼など四五人してつき居るを見申候〔余白に「只今椿咲き居り候」〕夕方は海岸へ行きて赤い魚青い魚など買ひ鰓を草にとほし吊して歸り申候大抵芒の中の道に候大體の構樣斯の如くに候いつか御面談致し度候次に君は歌をやらず候へ共アララギの會員になりて下さらぬか願上候只今經營益々苦しく同人頭痛中に候アララギこんなに不足の事天意なりや如何と思ひ候夫れに小生一月遊びし故經營の方諸同人大へん困り候事小生誠に申譯無之候どうかして持續致し度實際の所は只今六百部刷り二百部寄附二百部會員といふ有樣に候それで月々二三十圓不足に候本年は小生方へ發行所を移して專門にやれと言はれ一寸困り居候或はさうなるかと存候會員は
特別會員 資格差別なし 月五十錢 普通會員 月卅錢 購讀者 月二十五錢
に候何れかへ入つてくれませんか無理と存候へ共少々の間にてもよろしく願上候そして御心當りの誰れかをも御勸め被下度候只今校正中忙しく御願迄申上候匆々 十一月卅日 赤彦
小池樣
三四六 【十二月五日・端書 東京都小石川上富坂町二十三いろは館より 信濃諏訪郡豐平村小學校 小松佐治氏宛】
第二
平福さん位の方があれ丈けの價にて描きくれ候事異常の事に候現にホトトギスにても募集いたし居り候へ共丁度あの倍額に候平福さんはそんな事平氣にてかきくれ申候そして全部をアララギに寄附しくれ候事天下後世の逸話と信じ申候文部展覽會の三等賞の如きは平福さんを上げもせず下げもせず平氣の平左也 十二月五日 赤彦生
三四七 【十二月六日・端書 小石川上富坂町二十三いろは館より 本郷區田町二十七柳澤方 河野愼五氏宛】
拜讀いたし候アララギ返送訝しく存候處齋藤君より御轉居の由承り申候雜誌更に齋藤君より御送申上候事と存候(232)地上巡禮の歌出來さへすれば必御送可申候へ共今日の處一首も無之候一つ勉強して見可申候 十二月六日夜
三四八 【十二月十五日・端書 東京小石川區上富坂町二十三いろは館より 福岡市東公園平野旅館方 長塚節氏宛】
只今信州より歸京中村君と電話で話し候處十二月號貴下のが未著の由發送の際そんな手落萬なしと存候へ共如何なる譯に哉非常に惡しく存候急ぎ御送申上候御落手被下度候歌大へん澤山下され候との事奉大謝候 十二月十五日正午 赤彦生
編輯は留守中齋藤君等にて十三日終り候由正月前に出で可申候
三四九 【十二月十六日・端書 東京小石川上富坂町いろは館より 信濃上諏訪町衣ノ渡 小尾喜作氏宛】
遂御立寄り出來ず非常に殘念に思ひます心苦しく存じますそれは私十五日迄に民友社へ屆けねばならぬ歌と歌評との原稿の仕事を持つて十一日の午後二時飯田町を出ましたそれ前四晩乍ら朝の三時四時迄起きて歌を作つて居ました汽車中では眠かつたけれど十二月の歌の雜誌六七種へ目を通して丸い印をつけましたそして甲府から富士見の間に歌を三つ下書きしましたその翌日から歌を作り續けて毎夜四時迄起きました家人とも話が出來ぬ夜忙しく書きました其中で少し長地の方へも用がありました十四日の午後三時に原稿書き上げた時はもう頭も體もスツカリ疲れてわけが分らなくなりました金市で酒をのんだら一層だめになりました汽車中でスツカリ眠つて眼をあいにら新宿驛でしたこんな具合でスツカリ失禮しました年末は必ず御面談出來ます樂んで居ます 十二月十六日
三五〇 【十二月二十一日・封書 東京市小石川區白山御殿町一二七より 信濃上諏訪町衣ノ渡 小尾喜作氏宛】
拜見追々御快方の由欣喜の至に存候過日は如何に繁忙中とはいへ失禮致し心にかかり居り候年末歸國御目に懸り(233)申度存じ居り候上諏訪にて御年越相成候哉もし年末山浦へ行かれ候はゞ一寸ハガキにて何日御上りか御知せ被下度小生は二十八日迄には是非歸國の筈に候例の件是非に御迷惑相掛心中慚愧の至奉存候貴示の如く此際御工夫下され候はゞ明年半期中には必清算相出來可申此際の所何分御工夫被下度願上候利息も勿論相應御拂ひ置き被下度その分も同時に借り置被下度候小生二十四日より表記轉宅可仕大正四年よりアララギ事務所と存候專心經營の道相開け候間御知せ申上候土田横山藤澤と小生四人同居諸人にて事務分擔の筈に候小生歌集二三月出で可申七八百册賣り度さうすれば大へん助かり申候改年めでたく色々御盡力願上候小生大車輪活動少しも疲れず御安心被下度皆々樣によろしく願上候 十二月廿一日
小尾君貴臺
矢崎君のも小生より申上置可申候へ共猶貴下より暫時猶豫方御願申上候
三五一 【十二月二十四日・端書 東京市小石川區白山御殿町一二七より 信濃下諏訪町高木 久保田不二氏宛】
拜見母上御病氣の由驚き入り候寒氣の最中如何ばかりの御困難かと痛心の至に堪へず早速一日も早く歸國可仕候何卒萬事手落ちなく御看病下され度願上候小生廿七日には成るべく歸宅候やう可仕父上母上によろしく御傳言下され度候先は取り急ぎ右のみ匆々 十二月廿四日
下著《したぎ》は歸國の節にてよろしく候小生廿六日か廿七日午前に移轉可仕候土田君等は今日引移り申候
三五二 【十二月三十日・端書 下諏訪町より 諏訪郡玉川村神之原 原田泰人氏宛】
拜啓母中風の氣味にて急に廿八日歸國仕り候大した事なく候へ共老人故少々困り候アララギ新年號御覽被下候事と存候例より早く出で候事御喜び被下度表紙畫も裏畫も御氣に入り被下度候歌も大へんよきものあり雉夫丑助及(234)び貴兄の作物大へん振ひ居りうれしく存候君の歌見付所いつもよく候へば表現法を素直になし下され度言語の上に無理ありては矢張り作物として價値を損じ可申候此の弊從來の小生の歌にも有之やつと此二三ケ月多少素直に表し得るやう思はれ來り候へ共未だ/\大へんいけず候茂吉憲吉二人の歌正月號矢張りよろしく候二人は大した作家と存候次に過日御申越被下候件少々心當り有之目下腹の中を聞き居り候所に候へば大體の見當つき候はゞ直に御相談可申上數日間御待ち下され度候何れ後便にて可申上候次に小生數日前小石川區白山御殿町一二七へ移轉土田横山藤澤と小生と四人にて共同生活相營み候アララギ發行所も此處へ移し新年より小生專門に經營に當り可申萬事御助力被下度侯歌集「切火」も二月下旬には出し度存候目下原稿を書きはじめ居り候御兩親樣にもよろしく御傳言被下度候匆々以上 十二月卅日
三五三 【十二月三十日・端書 下諏訪町より 諏訪郡豐平村下古田 永田登茂治氏宛】
拜啓帳簿の相違にて勘違へ致し居り非常に失禮仕り候雉夫君の方と引合せ會費御出し被下候事分明相成候段甚だ手落致し申譯無之存候右惡しからず御承知願上候大正四年よりは發行人名義を小生に改め專門に經營可仕御助力の程願上候小生も久しくは滯京出來ぬ身の上に候へば滯京中に必アララギの基礎を確立させる丈けの事出來候はゞ幸甚に存候一月三四日頃歸京の上すべての方面相働き可申時々御刺撃被下度候樣在郷諸君に懇願奉り候小生只今丸裸の眞劔に候縱横に切つてまくる決心を定めねば一生の事去るべく候色々何分願上候 十二月卅日
(235) 大正四年
三五四 【一月九日・封書 東京小石川區白山御殿町一二七より 信濃國諏訪郡玉川村中澤 伊東壽一氏宛】
新年おめでたう
幾らじり/\感激して作つてもそれが必ずいゝ歌になるとは限りません丁度畫かきが幾ら眼を丸くして汗しどろになつて描いてもいゝ畫が描かれると限らないと同じ事です畫かきが畫をかく素地を養ふのは其ためです名高い畫家ほど人にデツサンを勸め自らもデツサンを精勵するさうです不折さんが佛國にいつてロマン・ローランの弟子になつた時一年も一年半も毎日/\同じ石膏像を與へてデツサンを勉強させたさうです他の弟子は皆イヤになつた中に不折だけはそれをやり遂げた一年か一年半たつた時やつとローランが「よからう」と一言言つたさうだ君は上諏訪でロダンのデツサンを見たでせうデツサンはつまり畫の下描きです下描きといつては當らないが木炭で物の形を寫生する仕事です毎日/\同じものを何度でも寫生するのですさういふ苦行をしてゐるうちにやうやう
(1) 物の形や陰影やの微妙なものが見えて來るやうになり
(2) 腕に描き得るやうな力即ち技術が出て來るのです
長塚さんなどは五六首の歌に何程の寫生をしてゐるか知れないさうして歌にする迄には一月も二月も稀には三四ケ月もかかる我々もさういふ例はいくらもあるそんな必要はない感じそのまゝをパツと描き出せばそれでいゝと(236)いふ小事を言ふ人間もあるそれは自分を天才と誤認してゐる妄想者か藝術といふことを知らない素人のいふ事であるさういふ事をいふ人間が自分の藝術をズン/\落して行く例は眼の前に充滿してゐる貴君はこんなに苦心してもいけないのかと云つて奮慨してゐる奮慨するのは宜しいが君の苦心は果してどれ丈けの苦心であろか歌ひ現す技術にもどれ丈けの苦心をして居られるか歌を作る素地の修養にどれ丈けの苦心を積んで居られるか我々の仕事は前途千里も愚かである我々は現在の怠慢をこそ悲しめ自分の苦心を大したものだなど思つた事はない眞に左樣である歌は一個の藝術であるさうチョコリといゝ歌の生るべき筈がない在京の同人たちは何度原稿持つて來て抹殺されるか知れない抹殺されては持ち歸り又作つて來る何度もそんな事してやつと半頁位出すやうな有樣だそれは非常にいゝ修練であると信ずる一生の最後を達觀すれば左樣な苦行はいくら重ねても有益であるさういふ時に萬葉集やその他の家集を見て成程古人は偉大な所迄進んでゐるといふ事に氣が付いて感嘆する事が出來るさうして自分が未だ/\ズンと小さい事に氣が付いてくる百穗さんなどは古畫に入り浸る位にした人で無ければ眞に自分を現すやうな畫は描けないと言つてゐる古畫などは骨董品だと思つて茶にしてゐるやうな畫かきに限つて碌な畫はかけないさうである滿天下の歌何ぞ輕々しき無造作な厚みのない歌のみ充滿せるその由來する所知るべきのみこれは君に言ふのではない現今の歌人一般に對する小生の不足を遂口走つたのである
茂吉君の名人になれと言つたのは名高い人になれと言ふのではない名劔を鍛へるやうなつもりで苦心慘憺せよといつたのであらう劔を鍛へる人が只力任せに顔を赤くして鎚をふり上げ/\てもそれでは名劔は出來ぬ技術が要る入神の技術が要る入神の技術は一朝一夕に得らるべきものでない
中村憲吉の物の觀察の微妙な所に深入りしてゐる事をよく氣を付けて御覽下さいさうして表現にどれ丈けの用意を持つてゐるかを注意して下さい我々は疎大で只々恥入るのみである茂吉の技巧も非常に入神の概がある時雨の(237)二首の如きは大した作物であると思つてゐる君の今度御示しの歌にはいゝのがある大へん取れるやうである
ヽ天そゝる雲のうてな ヽ空澄み晝たけたれば ・天よりは天の光りの大きくて
の如き種類はコケ威どしの歌と思ふそれ以外に忠實に寫生されたいゝ歌がある何れあとから細かく愚見を記入して御返しする今夜はおそいから是れで失敬する妄言多罪 一月九日夜 赤彦
伊東君
この手紙諸同人に御見せ下されば猶よく候詞づかひも無理ではいけない
三五五 【一月九日・端書 東京小石川區白山御殿町一二七より 信濃上諏訪町片羽根 森山藤一氏宛】
改年御慶芽出度申納め候御揃ひ御壯健奉賀上候小生歸國候處御目に懸らず殘念存候小松君の件も無事終了安心仕り候非常の御手數と御心配と相掛け深く謝し上申候小松君新婚旅行先より手紙くれ申候これで益々安心仕り候歌御出來に候はゞ大至急御送被下度候今年は一生の一大事として全力を注ぎ可申御勢援と御刺撃と両方乍ら何分願上候切火は二月中に必出し可申候定價八十錢送費八錢の處會員紹介に限り送費共七十錢にて頒ち可申御盡力被下度願上候奥樣によろしく願上候 大正四年一月九日
三五六 【一月十日・端書 東京小石川區白山御殿町一二七より 信濃北安曇郡會染村林中 河西省吾・金原よしを氏宛】
樣々の事重なりて御心配の事と存候是れから益々現實の苦しみに接觸いたす事と御覺悟のほど呉れ/”\も祈上候人間も前半生はじようだん半分で暮らすらしく候意力々々是れ最も必要の力に候私共を偉大にしてくれるものあらばそれは只意力に候匆々 一月十日夜
(238) 三五七 【一月二十七日・端書 東京市小石川區白山御殿町一二七より 信濃下諏訪町高木 久保田不二氏宛】
母上樣益々御快方に候哉御案じ申上候政彦追々によろしく候間御安心下され度候今日編輯終へうれしともうれし毎日疲れるだろと察し居り候もしひまあらば長い手紙下さいひまになると寂しくてこんなハガキ出す齋藤君への見舞の手紙出しては如何餘程よろしき由なり(齋藤の父中風也)金は送らずとも宜しく候 一月二十七日夜
三五八 【一月二十七日・封書 東京市小石川區白山御殿町一二七より 信濃松本市外新橋 胡桃澤勘内氏宛】
拜啓今夜紙が無いからこれで失敬する久しく御便りが無いから色々心配してゐるどうか手紙呉れませんか大兄に腹立たせはせぬかとそんな事迄考へて見る事もあるどうも久しいから色々の事を考へてくよ/\してゐたが編輯が昨夜遲く迄掛つたものだから今夜手紙書く明日から校正に掛る齋藤も今日迄かかつて一頁作つてくれた中村も夜泊りで論文書いてくれた古泉は少しも顔を見せず原稿も呉れない困つてゐる今度のには君のもない榛葉が非常に高飛びして上達したかなりいゝ歌は集つたが古泉胡桃澤の無いのは困る僕の編輯は只雜務見る丈けの事だからアララギの盛衰は諸同人から心配してもらはねばならぬ三月號へは是非々々一頁ばかり組むもし僕に惡い所あらば叱つてくれいくら叱られてもおこりません感謝する長塚さんも幾分快方の由少し安堵した齋藤父上も先以てよかつた若山喜志さんも退院する手紙下さい願ひます 一月廿七日夜 赤生
胡桃澤君
三五九 【一月三十一日・端書 小石川區白山御殿町一二七より 神田區岩本町三五牛山 四郎方 高木今衛氏宛】
折角御出で下され候處留守いたし殘念存候今夜アララギ到著いたし候間明日は御入手下さると存御ひまならば二(239)三日中是非遊びに御出で下され度今度はユツクリ遊んでくれ給へ 一月卅一日夜十二時
會費正午落手いたし候
三六〇 【二月一日・封書 東京小石川區白山御殿町一二七より 信濃諏訪郡豐平村下古田 長田林平氏宛】
吾が腕の内切り開くメスの音|とほくはるかにふるへけるかも 利カズ如何ナル感ジニヤ
立科のおろしのやみて|一つ家《我が》にとしより深く|ね入れるけはひ《不適切也》 「一つ家」などは外から見た光景也
さむ風がおこるところに永り光り尊きかにも|つひに言ひたり 〇ノ所特ニ分ラズ
はりつめし氷の上に立つひとり諏訪湖の眞中にして言ひにけるかも 不明何ヲ言ヒシニヤ
氷上にしたたか打ちぬこの頭しんしんとしてしびれ立てなく 一通リノ歌也
履齒《ハ》|はしばし《無理》|月を待つ間《惡シ》に吸ひつきぬ赤土坂のその赤土に コノ歌見付ケ方ヨシ今一度御詠ミアリタシ
〇田の面に雪|は平におかれいま《ふりつもりたる雪の上に》雪踏のあと圓く竝べる
星いくつまばらに寒く野の|こぬれ《惡シ》しんしんと夜は靜まり更けぬ 誰ニテモコレ迄ハ見付ケルベシ今一足細カク立入ルベシ寫生が必要ナリ
日光を怖るる眼の底にして青針葉のひかりふるしも 不明作者ハドンナ所ヲ見て居ラルヽ歌ナリヤ實際ヲ知リタシ
蹲《うづくま》りひとり思ふかかたはらの白銀の流れの音を聞|すに《ずにカ》 白銀ノ流惡シヨク考ヘテ頂キタシ
(240) 野に雪は|おかれて《惡シ「積リテ」ノ方ヨシ》稗のから立てりいたくさびしくふるへけるかも 利カズ齋藤君ノ「いたく」「寂しく」ト御比較ノ事
あさぼらけ弓張月の白壁に殘れる今は身に寂びしけれ 一遇リノ言ヒ方ナリ現シ方モ下手ナリ
冬木かげ寒く黒く雪の上さびしく枯葉ふるへころがり 現シ方下手ナリ○凍りたる雪の面にいづくより吹かれ來りてころがる落葉)
〇この腕に力をこめて|おもひさま《惡シ》空にひびくか打つ木の幹は
なんすれと今またおなじ嘆かひてこそばゆき手に頬擦りにけり 不明
〇秋の田の刈穗|の今はよせなんと月夜の《積まんと月さむみ》時雨《の雨》に逢ひにけるかも 一通リノ歌也
この夜更け小雪まじりに枯葉とぶその音にこそ耳のさへたる
冬深む北向の窓かたくとぢ|そこに《成ルベク斯樣ナ言ヒ方セヌガヨシ散文的ニスル惧レアリ》柳は寒くゆれたり 〇冬いく日閉められてある窓の下柳は寒く搖れてをるかもナドトスル方穩當ナリヨク比ベラレタシ
やすらはでねなまじものを小夜ふけて月夜の烏ききにけるかも 意味不明ナリ御説明ヲ聞キタシソレカラ古歌ノ大半ヲ其儘ニ使用スル如キハ大抵ノ場合惡シ
久方のうらら日|紅梅《ウメ》の|つほみはれ|花片いつぱい《コノ關係不明ナラズヤ》に咲きほこりたれ
一心に這ひのぼり|つき《×》黒き虫こぬれにはやく夕さりにけり 上句ト下句トノ關係不明
黒き虫木肌にひつたりとまり居て風の吹く夜を明かしけるかも 初メノ光景ハ今目前ニ見テ居る光景ナリ終リハ長キ時間ノ敍述ナリ
やすらはで眠りたらむか黒き虫夜もすがら木は搖れにけるかも 一通リノ見方ナリ意味ハ通ズ
(241) たへられぬあはれひびきよ尚さらに眼をとぢにつつ聞くとしよりは 意味明カナラズ何ノ響キニヤ
夜もすがらねもやらず虫木ぬれにして大日輪にあひにけるかも 大日輪利カズ虫ト日輪トノ關係ハ如何ナル状態ニアリヤ
山路は雪に埋れてこぬ人に淋しきかもとつげたきものを 一通リノ歌ナリ意味通ズ
さび寒しぴりぴり笹の葉のかへりそこに吾が影短かかりしも 少シ訂正シテ見タマヘコレハイヽ歌ニナル
ふるへ鳴る一本芒とらへ今ふと何事か思ひくいたり 分ラズ
以上朱書御熟讀の上全體ヲ今一度御考ヘアリタシ今夜已ニ二時體疲レシコト甚シ貴稿ニ限リ十日迄延期シ置ク故ソレ迄ニ今一度作リテ御送アリタシ要スルニ外物ノ微細ナル觀察ガ不足セリヨク寫生スレバコノ弊ヲ免ルベシト存ズ失禮々々 二月一日
今度御送稿の時此の一綴をも同時に御送を乞ふ御入用ならば又御返しする
三六一 【二月四日・端書 東京小石川區白山御殿町一二七より 仙臺市北四番町一六七庄司方 宮坂武吉氏宛】
拜啓詳しく御知らせ下され仙臺の雪の冬想像いたされ申候とぼ/\と廣い街道を歩かれ候君の顔見え申候今晩は節分にて土田横山藤澤小生の長男等と豆をまき候長男大聲にて鬼は外を唱へ申候それから福茶人れて幼時談をいたし今、夜の十一時に候少し歌作りたまへ 二月四日夜
三六二 【二月九日・端書 東京小石川區白山御殿町一二七より 愛知縣丹羽郡千秋尋常小學校 佐々治之氏宛】
拜啓長塚節氏今日午前十時九州大學病院にて死去いたされ候私共も益々勉強せねば天命に對し申譯無之と存候新入會員及び會費それから松本氏の原稿皆落手奉謝候貴地方に一大力を御集中奉祈候詳しくは又々可申上候諸君へよろしく願上候(242)「切火」御申込下され奉謝候微力にて到底廣告等いたしかね候間可然方へ御吹聽被下度願上候「屋上の土」消息不明に候分り次第御知せ可申上候北斗社の事どういふ事に候哉少々不分明に候出す出さぬといふ事當方はどちらにても宜敷候御出しなれば少し位會員外の人交じり居り候ても差支無之候 二月九日
三六三 【二月十三日・端書 東京小石川區白山御殿町一二七より 信濃北安曇郡會染林中 金原よしを氏宛】
櫻井さんによろしく
拜啓御病氣勝ちのよし心に掛り候長塚さんの逝去痛恨の至に候遺骨一昨夜到著昨日郷里下總へ出立いたし候あの病氣にてこれ丈け長持ちせしこと全く氏の氣力の強硬なりしに職由する事と存候そのため後世に「鍼の如く」が殘り候事せめてもの慰藉と存候目下アララギの方と切火の方と原稿にて少々忙しく候切火製本の上一寸信濃へ歸り可申候其節池田まで若し行かれず候はゞ一列車間明科迄櫻井さんと出て居て下されば有難く存候切火自費出版にて一寸面喰ひ居り候間可然向の人も候はゞ御紹介下され度願上候御大切の程祈上候喜志さん大によし
三六四 【二月十三日・端書 東京小石川區白山御殿町一二七より 信濃東筑摩郡廣丘村吉田 赤津源治氏宛】
拜復長塚さんも遂逝去され哀悼の至に候併し喉頭結核としては長く持ちし事と存候その間あれ丈け歌の出來し事せめてもの滿足と存候早速御見舞下され奉謝候歌出來ませんか御待ち申上候 二月十二日后
三六五 【二月十八日・封書 小石川區白山御殿町一二七より 日本橋區檜物町九東雲堂書店内 西村陽吉氏宛】
拜啓益々御多祥奉賀候別紙廣告「生活と藝術」三月號へ御掲載願上度廣告料御割引下され候はゞ幸甚の至存候別紙ハガキにて御報下され次第御納め可申上候先は御願迄匆々敬具 二月十八日
(243)西村陽吉樣貴臺
三六六 【二月十八日・封書 東京小石川區白山御殿町一二七より 信濃諏訪郡玉川村小學校 兩角丑助氏宛】
拜啓非常の御無沙汰申譯無之候目下亂麻の如き忙しさに候切火愈々三月五日頃迄に出で可申毎日紙屋を走り廻り隨分苦しみ申候少々賣らねばならず候全部自費出版に候前便の廣告を出し申候玉川の分兩角君から纏めて頂き度出來次第小生持參して諏訪へ歸り可申候
一、学校の人
一、泰人君廣美君上原照藏君五味友治君牛山益雄君(子の神新入會員)穴山の長田……君中澤の飯山鶴雄伊東壽一君其他御心當りの人是らの人へ一寸手紙やりて數を御纏め被下度御厄介願上候勸める事はせぬ方宜しく候間御承知被下度只數を纒めるから返事くれと御申遣しの程願上候
右何分願ふ毎晩二時三時迄起きて頭分らず亂筆平に御許被下度候 二月十八日夜二時半 赤彦
兩角君
諸君によろしく手塚君御元氣なるか其他は次便失敬々々
三六七 【二月十九日・封書 東京小石川區白山御殿町一二七より 信濃諏訪郡湖東村小學校 藤森省吾・赤羽豐二氏宛】
拜啓亂麻の如く忙しすべて許し被下度候切火御通知被下御心配非常に有難く奉拜謝候可然心當りも候はゞ御心配被下度願上候生活うまく行き居り候間御安心被下度小尾妻君病氣實に/\/\困り候諸君自愛してくれ玉へ小生頑丈也 二月十八日夜二時半 赤彦生
藤森君 赤羽君
(244) 出來候上は持參歸國可仕候奥さんによろしく願上候
三六八 【二月二十日・封書 束京小石川區白山御殿町一二七より 信濃國上伊那郡中箕輪村小學校 松澤平一氏宛】
拜啓アララギに非常に御同情下され候由奉深謝候非常に微小なる歩みにて爲に十年ならんとするに未だ獨立の經營も覺束なき境遇に有之此際の御同情心に徹して奉謝上候
河西君より傳承いたし候へば貴地小原氏より御寄贈の御議有之候由未見の人より斯の如き厚志を得候事前例無之非常に感謝致し居り候早速一書差上度候へ共突然申上候事如何かと存じ差控へ居り候次第に候百穗さんの畫會にも小原松澤二氏御加入下され候由有難く存候收入金部アララギに寄附して下され候百穗氏の厚志も天下比類なしと存候
極めて少數にして且つ非常に深き同情者を有し候アララギは天下に比類なき慰藉と奮勵とを得候事と信じ居り候阿部次郎氏も來月(四月號)よりは毎號何か書きくれ候樣申遣され候木下杢太郎氏もいつも心配して下され候赤木桁平氏も同樣に候斯の如き諸先輩を有し候事何卒御喜び下され度小生等も一途勉強せねば實に濟まずと存じ候近來五時間以上眠りし夜は無之奮勵いたし居り候時々作品に對する貴見御洩し御刺撃下され度願上候切火自費出版といふ柄になき事はじめ是も少々困り居り候貴地には可然向も候はゞ何卒御紹介下され度廣告のはがき同封いたし置候間御厄介願上候もし貴下の手にて取纒め御知せ下され候はゞ非常に有難く存候先は願用旁御禮申述度此の如に候匆々 二月十九日夜 赤彦
松澤君貴臺
三六九 【二月二十一日・端書 束京小石川區白山御殿町一二七アララギ發行所より アララギ會員宛】
(245)【歌集】切火 アララギ叢書 第四篇 島木赤彦著 平福百穗畫
△「馬鈴薯の花」以後の歌を嚴選し且補訂す
△山に住して山に安ぜず、都會に住して都會に安ぜず、島に渡りて島に安ぜず、沈潜の悲界より念々分泌せる「切火」一卷は著者に取りては特に重要なる時期を劃せるものなり。
刊行
一 發賣 三月五日
二 定價 八拾錢「アララギ」發行所直接申込に限り送費共七拾錢
三 申込 東京市小石川区白山御殿町一二七 アララギ發行所
四 送金 アララギ會員に限り送本後にて宜し 大正四年二月二十日 アララギ發行所
三七〇 【二月二十二・封書 東京小石川區白山御殿町一二七より 信濃下諏訪小學校 塚田廣路氏宛】
御無沙汰致し候御機嫌克きか御令閨如何御子樣如何小生頑丈にて毎晩二三時まで勉強せり今夜も二時過ぎたり「切火」君の會費を集めて下さる範圍中の希望者を取纒めて御知せ被下度願上候御厄介と存候出版次第小生持參して歸國可仕候廣告ハガキ封入致し候間御見計ひ御配り下され度學校以外にては山田茅眞子、増澤千代子、武井すみ子、久保夫人、熊谷文子、岩本長衛君等に候(山田久江子)只希望者は申出でよと君の名で御申遣し被下度小生より直接申しては強ひることになり惡しと存じ候故に御厄介願候事に候(今一人宮坂緑穗、湯田の下平初藏方)學校にも希望者萬一候はゞ同時御願申上候自費出版いたし候放こんな事御願申す譯に候夜は遲し是にて擱筆匆々以上 二月二十二日夜 赤彦
(246) 塚田君貴臺
來學年度組織御苦心と存候小松佐治下筋へ出度し御校へ如何小松の新夫人北澤まさ子(松本職業學校教諭東京の職業學校卒業にて中等免許状あり)も諏訪へ來たし
三七一 【二月二十六日・封書 東京小石川區白山御殿町一二七より 信濃東筑摩郡廣丘村 藤森六七氏宛】
拜啓御手紙披見驚嘆いたし候御心中想像に堪へず貴下の如き至誠至純の人をして此苦衷を抱かしむる如き天の無情眞に慨嘆すべし非常の御災難にて後圖にも如何許りの御苦心を累ねられ候御事かと深く/\御察し申上候併し乍ら來るべき災難は何人と雖も避く可らず此間に處して沈着御冷靜深く心身を御痛め成さらぬ樣呉々も祈上候 恩借の金子小生所々流浪のため今日に至り誠に申譯無之候早速御返濟可申上の處出京浪々のため其意に任せず貴命の寛大なるに從ひ今年中に必御送金可申右御了承被下度何分願上候御令閨樣其他皆々樣御別條も無之候哉小生よりは平素御無沙汰のみ致し居り誠に申譯無之候御上京等も候はゞ是非共御立寄り被下度先は御返事のみ如此に候以上 二月廿六日 俊彦
藤森大兄貴臺
御自愛專一奉存上候
三七二 【二月二十六日・封書 東京小石川區白山御殿町一二七より 信濃上伊那郡中箕輪村小學校 松澤平一氏宛】
拜啓非常に御盡力下され深く拜謝仕り候切火とアララギにて毎夜二三時昨夜は五時迄起き居り御返事書くひまもなく申譯無之候只々貴君の非常なる御好意を謝し候畫會の方林君のも書き候樣平福さんに御願申候間御承知下され度此内に御送申上ぐべく候小原御兩君のは絹、林君のは紙と致し置候夫れにてよろしく候哉
(247)林君御入會下されうれしく存候何卒貴君より宜敷御傳言の程願上候伊那も非常に新氣運めぐり候樣察せられ愉快に存候左樣なる時機は同時に愼重なる考慮も必要の時と存候へば年若き輕進者を生ぜぬやう御指導の程祈上候阿部次郎氏などから講習して頂けば非常によいかと存候忙中且つ睡く亂筆御容赦被下度候長塚さんの御弔詞下され奉謝候四月號を追悼號に致し候 二月廿五日夜十二時卅分 赤彦生
松澤樣貴臺
三七三 【二月二十八日・封書 東京小石川區白山御殿町一二七より 信濃諏訪郡豐平村下古田 田中赤秋・長田林平氏宛】
御返シスベキ長田君ノ歌稿少シ待ツテクレ給ヘ
萬葉集ヲ勉強シタマヘ歌ノ聖典コノ以外ニナシト深ク信ジテ只々一途ニ萬葉集ニ没頭シタマヘコレカラ出發セネバ有難キ歌出來申スマジ現代ノ雜誌ヤ新聞ノ歌ノ如キハ歌ノ屑ナリ品位ナク眞ノ力モナシ明治ニ入リテノ歌人ハ只子規先生一人ナリ左千夫、節續キ出デテ皆萬葉集ヲ宗トセリコレラ少數以外ノ歌ハ見ル必要ナシ見ザル方可ナリ謹デ右申上候 二月二十八日夜半
三七四 【三月一日・端書 小石川區白山御殿町一二七より 日本橋檜物町九東雲堂書店 西村陽吉氏宛】
拜啓廣告一葉分校正まで濟ませ候處頁の都合惡しく已むを得ず來月號へ廻し候段不本意至極右御高免被下度候來月號へは必出し可申御承知願上候匆々
三七五 【三月四日・封書 小石川白山御殿町一二七より 信州下諏訪町小學校 塚田廣路氏宛】
大謝詞なし先以て御安産を祝す其他御壯健に候哉小生御疎音平に申譯無之候切火非常に有難く自費出版を危み居(248)り候折柄大援軍の心地いたし候深く奉謝上候御厄介乍ら十三人の御名前ハガキにて一寸御知せ被下度自分の本よんで下さる方の御名前を知りたし願上候切火にて毎晩三時過迄なり小生の元氣自ら驚入り候自愛可仕候十五日には出來可申小生持參可仕候今度は逢ひたい御禮と御願迄敬具 三月四日 赤彦
塚田君
小松の妻君取つて下され度小松の方は下筋でも何處でもよし亭主と同勤不可か不可なくば宜しかるべし小松めつきりよくなれり妻君が第一問題なり此方心配出來る丈頼む人物等〇〇某の比に非ず手も利く學校の成績よかりき
三七六 【三月十一日・封書 東京小石川區白山御殿町一二七より 長野縣諏訪郡役所 岡村千馬太氏宛】
遠眼鏡で申上ぐる事ほんの御參考一端たる事勿論に御座候
拜呈今日にて二週間御無沙汰其間毎夜おそくつめ居り一昨日やつと了り申候右の事情御高恕を願上候
一、手塚兩角等休職者にあらずと聞き安心致し候師範は實に困り問題に候どうなるかと存候
一、中洲の件奉大謝候小生など少しも功なし深く祝し申候
一、〇〇〇出來る丈け留めて置きたし併しつまりが〇〇に見苦しき最後させるやうにては踏み止りても惡しと存ずよき樣御見計ひの程願上候彼も少し下手なりし由なり惜し
一、〇〇もう去りても勿論よいが或は現況よしとも思ふあの村へ適當した人間はあょり無し〇〇〇は無能也あの村小さき事色々言ひ地味過ぎて若手は適せず
一、〇〇はもう退きてもよき人也併し村の意向御參酌を望むあの村分らず屋なり
一、〇〇今少し威張らせ置きてもよしこれは使ひ道ある故いづれにしても心配にはならず
(249)一、〇〇〇問題にせぬ方よし
一、主座の件何分願上候よき人物交代期なるべし豐田は村の意向少し見て下さい奥村君が困つてはいけぬからそこの干係さへよければ關心するに及ばぬかと存候由田榮吉君は譯が分る人の方候
一、〇〇、〇、〇〇〇皆ペケ御同感
一、下諏訪を小生いゝ加減にして置き申譯なしよき人入れて下され度何分願上候塚田昨年より心配して居り候間御相談願上候
一、これは別の事なれども小松佐治の妻君(北澤まさ)を平野農蠶へ取り得ば願上候今松本の女子職業に居り俸給少し位下りてもよからん下諏訪にてもよし小生教へし生徒にて一通りよし手はあるべし蕪雜御許し被下度候敬具 三月十一日夜一時半 久保田生
岡村老兄臺下
小生廿三日頃は歸國可仕候期御面談
三七七 【三月十五日・端書 東京小石川區白山御殿町一二七より 信濃上諏訪町小學校 兩角喜重・森山藤一氏宛)
拜啓此間御願申上候切火御購読者氏名御知せ被下度奉願上候匆々
廿日には出で可申直に客車便にて御送可申上候土田君も手傳ひ可申何卒願上候口繪は十七八日に御見せ可申上候兩角君御忙しくと存候間森山君より御知せ被下度候
〇小生は廿八日卒業式有之廿九日歸國可仕候卅日に上スワにて歌會御開き被下候はゞ大へん好都合に候夫れは切火配布にもよろしく存候學校先生方は忙しくと存候へ共他の者には郡合宜しかるべく汀川君に通知等萬事御願申上候會費も其時迄に御集め被下度三光堂の勘定も願上候色々御手數願上候
(250) 第二
只今入違ひに御ハガキ拜見非常に多數にて驚き且つ喜び且つ謝し申候
右の氏名御書き下され候は非常に御厄介と存じ候併し小生へ申込候人と重複いたし居るとも存じ候且つ些かなる小生の歌集といふもの讀んで下され候方の氏名を承知して居り度存候兩角君忙しく候間汀川君より御卸せ被下候樣御取計何分願上候 三月十五日
三七八 【三月十五日・封書 東京小石川區白山御殿町一二七より 長野市後町小學校 松本深氏宛】
拜啓師範問題にて犠牲者を生じ犠牲者中に貴下を見候事感慨限りなし志を持する者困憊を以て慰安となす御自重御自愛千祈萬祈敬具々々 三月十五日 俊彦生
松本樣臺下
三七九 【三月十七日・端書 小石川區白山御殿町一二七より 日本橋區箱崎町四ノ一増田ふさ方 赤城桁平氏宛】
拜啓原稿御送附下され有難く奉深謝候いつも御願のみ致し居り申譯無之と存じ居り候切火の校正やら何やらにて毎日ごたつき居り御返事も差上けず失禮いたし候明日やつと校了相成可申廿一二日頃御目に懸けられるかと存じ居り候ブマのみ目につき申候「明る妙」立派に出來申候ひまを見て四五十頁よみしのみにて全く目を通さず今迄讀みしうちにて四五首感心いたし候よくよまねばしつかりした事申されずと存候忙中匆々矢禮 三月十七日
三八〇 【三月十九日・封書 小石川區白山御殿町一二七より 本郷區西片町一〇番地との三號本多方 山宮允氏宛】
拜啓御著述御惠送被下奉謝上候大部のものにて御苦心奉拜察候ゆつくり拜見致し候樂しみ居り候御禮のみ匆々以(251)上 三月十九日
山宮允樣侍史
アララギ四月號にて御紹介申すつもりに候
三八一 【三月二十日・封書 東京小石川區白山御殿町一二七より 信濃諏訪郡玉川村 兩角丑助氏宛】
拜見
一、學校の事詮方なき儀に候すべて自然の儘に致すべき事に候良校長を得んことを祈上奉り候雉夫君は少し無理なるかも知れず候兎に角此際君が兩腕を振つて勇往直進すべく存じ候大體の組織さへよければあと心配なく候餘り色々のもの澤山人れては却りて困るべく候口の人よりも手の人を多く入れ給へ頭の人が上に二三人居ればよし
二、四月より小生全く學校をやめ專門に自分の勉強して見んと存じ候今の樣にては上京しても何もならず候晝を全く學校に費し候間苦勞にて候此一年を全然アララギと自分の勉強に費し一つ大に振つて見度く相成り候付ては生活に困り候間萬葉集講義を上諏訪と豐平で開かんかと存じ候毎月三日間づつ午後三時半より二時間三時間位やり一年にて終了とす歌の話も出來可申候會費月三十錢の事湖東豐平玉川にて只今會員二十四人あり二十人位は集るかも知れずこれは双方の利益かとも存じ候もし成立すれば君には発起人になつて頂き度候君等發起人にて小生をよぷ事にした方宜しきかと存じ候小尾君永田登茂治君それに波夫君でも發起人として頂き度かと存じ候併し山浦は農もありて色々都合惡しければ止め申すべく候御忙しからんが小尾君の家にて一寸御打合せ被下度候小尾君へ手紙出し置き候(兩角喜重君の勸めによりて考へ出し候)前に小尾君とも話し候へ共山浦の方如何かと申してそのまゝにして置きぬ御相談の上御返事被下度いつも濟まぬ事に候へ共何分の心配願上候上スワ豐平にて五十人もあれば難有存じ候毎月國へも歸れて宜しく候一週間を毎月全く萬葉研究に用ひ可申候成立すれば規定をハガキに(252)刷りて御送可申會員へ御分送被下度候右のみ匆々以上 三月二十日 久保田生
小生忙しく亂筆致し候
三八二 【四月一日・端書 下諏訪町より 諏訪郡湖東村小學校 藤森省吾氏宛】
岩波から異常の厄介になりそのお蔭で切火が出來た事を感謝してゐます君からも一寸禮のハガキ出して下さい願ふ今夜夜行にて歸京可仕 四月一日
三八三 【四月五日・封書 東京市小石川區白山御殿町より 信濃國諏訪郡豐平村下古田 塚原淺茅氏宛】
謹啓過日は參上尊顔を拜し奉欣喜候種々御厄介相成奉謝候御産屋内益々壯健に御肥立ちの事と存上候命名は此間の候補以外
あや(あや、は文なり。綾なり女に相應す) ふさ(ふさ、は多なり。房なり甚だよし)
等も宜しきかと存候さよは甚だよろしと存候其他葦穗殿きみい殿にてよきと思ふもの御選定可然と存候
切火一部膝下に呈し候御保存下され候はゞ光榮の至奉存候匆々皆ゞ樣御自愛專一と奉存候 四月五日朝
三八四 【四月五日・封書 東京市小石川區白山御殿町一二七より 愛知縣丹羽郡千秋第一尋常小學校 佐々黙々氏宛】
拜啓度々御便り下され難有存上候陳ば御紹介下され候淺田鋼保氏より原稿を送らなかつた月は會費を免除せよとの御ハガヰ有之候へ共左樣の會員はアララギには今迄一人も無之淺田氏より云ふもアララギの方より云ふも此際何れのか會へ御轉じ成され候方然るべくと存じ返事出さんと存じ候處貴下御紹介の會員に候へば一應御耳に入れ候方穩當かと存じ此儀申上候次第御承知置被下度候
(253)アララギは決して多數の會員を得て喜ぶものに無之少數にてもアララギを己が歌の住家と定めて眞實なる生活を共にせんと希ふもの今日は飯を食はぬから下宿料は拂はぬといふやうな商法向の考へはアララギには絶對容れ得ず候毎月の會費三十錢を是非欲しいと申すす心には無之此儀大兄丈けはよく御含み置被下度從て淺田氏に轉會御勸め申上候小生の動機充分御了解の上不惡御承知被下度願上候誤解ありてはと存じ此儀特に手紙を以て申上候
志と趣味と相容れざれば會員半減四半減たとひ全減いたし候とも退會して頂く方快心に候只少數の同行者あれば滿足に候此根本義を棄てゝアララギの繁昌を願ふ如きものはアララギの友に非ずと信じ居り候
淺田氏にも同時に簡單に御返事申上ぐべく此書意貴君丈け御含み置被下度多數の人々に聲言すべきに非ずと存候此儀も御含み置被下度候匆々以上 五月十三日 赤彦生
佐々黙々樣貴下
會費を負けろと言はれし腹いせを申上ぐるに非ざる事よく御了解願上候異趣味分子一人にても多く退會する事アララギの本望に候歡喜に候猶今後入會者も候はゞ深くアララギに共鳴するや否や御質しの上然らざる人には御謝絶下され度候チヨイと入りチヨイと脱し候如きは不快の種子にして入らざるに如かず候長塚氏追悼號にて忙しく亂筆御赦し下され度猶切火殘本多く少々困り候もし望の人も候はゞ御紹介被下度願上候
三八五 【五月十六日・封書 小石川白山御殿町一二七より 市外代々木山谷一二二今井氏御内 山田邦子氏宛】
こんな紙へ書いて濟みませんもう深夜ですから卷紙買ひに行かれません御免を蒙ります
「片々」少々遲れ候由待ち遠しく存じ候何日頃出で候か出はじめて居て中々出ぬものに候御苦心御察申上候大へん御待ち申候いつ御出で下され候てもゆつくり御話いたす時なく物足らず存じ居り候いつか一度其機あらんを祈り候女子文壇今月休刊の由是れも失望仕り候これを機として盛に御作歌御もり返しの程かへす/”\祈上候現今女流(254)歌人の作を見て常に物足らずあなたの御出現なされんこと衷心より至望いたし候此間は私の怠慢より夜中御婦人の御出でを煩し候事慚愧の至りに候深く後悔いたし候久え樣其後如何に候か御案じ申上候病氣が病氣故自然御本復とは存じ候へ共隨分御疲弊の由に候へば御案じ申居り候小生廿四五日よりすきに相成可申候御來遊被下度候 五月十六日夜半 赤彦生
山田邦子樣貴下
「片々」出で候はゞ直ぐ一册御送り被下度願上候見返しへ何か一寸書いて下さい鴈次郎の忠臣藏一寸見て置かんと思ひ乍ら其機なささうに候
三八六 【五月三十一日・端書 東京小石川區白山御殿町一二七より 信濃諏訪郡玉川村小學校 兩角丑助氏宛】
御厄介被下奉謝候非常に助り申候今度は二百頁に成り候長塚さんの手紙は一世の名文に候尤も氏の生活を伺ひ得べく候それでこんな大部のもの出し申候定価五十錢に候四五日後れ可申候 五月卅一日夜書く
三八七 【六月八日・端書 東京小石川上富坂町二十三いろは館より 信濃諏訪郡玉川村神ノ原 原田泰人氏宛】
拜啓繁忙とは申し乍ら異常の御無沙汰御怪しみなされ候歟と存候過日は結構なる草餅御送に預り一同幾日も拜味久し振りで故山の草の香を味ひ候段うれしく奉深謝候御答禮に何か君を驚かすやうな菓子差上げんと思ひ乍ら繁忙に打紛れ數日間延し居り候がくされにて愈々億劫に相成其うちには金の方無くなる事あり決して/\一日も忘れ申さず候へ共延び/\相成候段非常に心苦しく奉存候此んなに延る位ならば其節御返事のみ出し置けばよかりしに直ぐ何か御送可申上積りにてそれが今日迄の御無沙汰の因を成し候事却す/”\も慚愧仕り候
御睦じく御働きの由承り小生の心中如何ばかりうれしきか御察し下され度君も長い年の苦しみはしたれど此の天(255)の恩寵を忝く御思ひ下され度そして永い年の事はサラリと御忘れ下され度願上候御令閨樣にも何卒宜敷/\/\御傳言の程願上候小生非常にうれしく感謝し居る事御申傳へ下され度願上候
長塚氏追悼號今夜やつと出來申候明日發送すれば少しひまになり可申候何も御目に懸るもの無く別封小包便にて少々乍ら菓子差出し候間御兩人にてお茶お飲み下され度願上候
今度はこんな御無沙汰不仕惡しからず願上候表記移轉御承知被下度候 六月七日 赤彦
原田泰人君貴臺
三八八 【七月十二日・封書 東京小石川區上富坂町いろは館より 信濃上諏訪町小學校 兩角喜重氏宛】
御無沙汰御許し被下度候昨年貴郡夏期講習會阿部次郎氏講義筆記同氏より催促を受け候間至急御取纒め御送被下度御厄介と存じ候へ共右成るべく御取急ぎ被下度岩垂先生岡村君にも御話しの上何分とも願上候
藤原咲平氏の昇階うれしく存候諏訪の若い人に刺撃あるべしと存候此上は吉川晴十氏を早く博士にいたし度存候御願迄匆々以上 七月十一日夜二時 俊彦
兩角兄侍史
扇子の事拜承仕り候
三八九 【七月三十一日・封書 東京小石川區上富坂町いろは館より 信濃國北安曇郡池田町 松島義治氏宛】
拜復家を出る事御考を要し候近來左樣の人増えて困り候只無意味の生活して詮方なく歸國いたし候非常に困る事に候自分の職業はどこまでもかへずに辛棒すべき事と存候百姓は百姓にて通るが大道に候小生如きも今に教員して飯を食べ居り候此事よく御考へ被下度候齋藤君の家は一ばいにて誰も入る能はず候歌の先輩等地方人をそゝる(256)事よろしからずと存候小生明日歸國可致候 七月卅一日 久保田生
松島君
齋藤よりよろしく
三九〇 【七月三十一日・封書 東京小石川區上富坂町いろは館より 信濃國諏訪郡玉川村辻屋方 兩角七美雄氏宛】
濃黒葉《こくろば・窮屈なり》をつくづくと見て思へるは吾れすこやかになりてありにけり 一通り取れる歌と存候
思へれど思ひ盡くせねばこのままにして置きて音れは|かへり行くらし《不可》 作者にのみ分りて他の人には内容分らず
總じて今つと自然の歌をよみて下され度候貴兄近來考へすぎあせりすぐと存候萬葉をよまねばほんとうの歌よみには斷じてなる能はずと存候歸國の時よく御話出來れば好しと存候自分にのみ求むべからず他の偉大なる前に膝を屈すべし 七月卅一日明日歸國 赤彦
兩角君
この紙の歌採らず現し方は他の紙のより素直なれども感興無造作に過ぐ
おなじ歩みをつづけてい行く|此足を《力入りすぐ》休めんと思ふ林に來にけり 感じよりも現し方の方をわざと重大にしすぎたり
横になりて身を休むればおのが手はまはりの草を撫でまはしたり 同上
ひとり只野道を行きつ手の指を動かす事をたのしみにけり それ程の事にあらず
家の中に讀みたき本もあらざればまなこを閉ぢて居りにたりけり 同上
水に映る吾顔見れば今しかた人と爭ひし事が悲しくてならぬ わざとらし
(257) 血の如き赤きとんぼが只ひとつ暑き路上に居りにたりけり 一通りなり
田圃なか防風林の木の景色をひとつひとつと見て過ぎにけり わざとらしき言ひ方あり
青山や青野はすべて目に近し林のなかに身はありにけり 現し方不明
三九一 【八月五日 信濃下諏訪町九一九より 東京 土岐哀果氏宛】
拜啓三日朝信濃へ來ました毎日の降雨で非常に凉しく前世へ行つた感があります萬葉集の序文(?)はあれを少しづつ訂正しましたから二三日中に送ります御承知願ひます早く御出版あらんことを翹望致しますそれから讀賣新聞へあれをお書き下され度待上けます夫れに依つて小生の眞意をも書いて公然御返事申上けたいと思ひます御出しになりましたら御厄介乍ら御郵送下さいませんか田舍で購讀の便なき故です小生廿日頃歸京いたします歌をうんと作つて驚かしたく思ひつゝあり匆々 八月五日夜更(生活と藝術所載)
三九二 【八月五日・端書 信濃下諏訪町高木より 東京本郷區菊坂町菊富士樓本店 中村憲吉氏宛】
いろ/\我儘言つて濟まなかつた汽車中のは吉原連中の御岳講登山連中であつた一夜眠られなかつたが面白かつた河野愼吾君と亞米利加の齋藤五男氏へ送るアララギの事忘れずに頼む諏訪では皆丈夫だ子供喜ぶ事限りなし日頃の予の罪を想ふべし君の住所定つたら知せてくれ齋藤はもう常陸へ行きしか土田耕平は上諏訪町湯の脇新道竹の湯へ引移つた金がないから安くあけげばならぬのだ雉夫にも汀川にも未だ逢はぬ昨夜から降雨ありて凉し食物旨し肥えて歸るべし 八月五日
三九三 【八月九日・信濃下諏訪町九一九より 東京 土岐哀果氏宛】
(258)歸國してから心ゆつくりして何もするに懶く魚釣りなどして遊び出し申候明日木崎湖の方へ遊び數日中に歸る豫定に候炎暑の候御自愛專一に奉存候 八月九日(生活と藝術所載)
三九四 【八月九日 繪端書 信濃下諏訪町より 東京芝公園地 松濤泰巖氏宛】
酷暑の候御起居御伺ひ申上候過日は一寸御伺申上候處二日前御出立の由にて遺憾仕り候何れ廿日頃歸京御面談を得候事と存候奥樣によろしく願上候 八月九日
これは私の村はづれの光景に候對岸は上諏訪に候
三九五 【八月十日 繪端書 信濃下諏訪町より 高知市 宮地數千木氏宛】
信濃は朝夕單衣一つにては凉しすぐる位に候空氣の清澄尤もうれしく候廿日頃は歸京のつもりに候御自愛千一奉存候匆々 八月十日
諏訪神社は上社下社に分れ兩者間二里半許り下社は更に春宮秋宮に分れ居り春秋二期の遷宮の式を行ひ申候下社は下諏訪町に在り小宅より半里許りに候屋根の上の平たき石は諏訪より天然に産する石に候輝石安山岩にて板状節理を有するものに候
三九六 【八月十五日 信濃より 東京 土岐哀果氏宛】
御葉書と新聞有難く存候「鴉と雨」の批評上面白く拜見仕り候下の方は本を見ねば分らず候へ共恐らく貴評適切かと想像いたし候大家になる故に老いるか年取る故に老いるか早老の國人腑甲斐無く存じ候小生二十日頃は歸京可仕候北原君未だ來らず (生活と藝術所載)
(259) 三九七 【八月十九日・端書 下諏訪町高木より 上伊那郡箕輪村 藤澤實氏宛】
拜啓草刈は如何暑い事と存候歌は東京の方へ御送被下度小生廿一日頃上京可仕候小生十四五首は出來候へ共アルスの分少しも出來ず困り居り候御自愛專一の事匆々 八月十九日
土田少し熱出でしも今は平靜歌會二囘に四五十人集り候
三九八 【八月二十二日・端書 高木より 下諏訪町牛山菅次郎方 小松佐治・小松まさ氏宛】
御ハガキ昨日長野より歸りて拜見今度は遂に失禮いたし申譯無之御自愛御奮勵の程祈上候小生明朝一番にて出立可仕候匆々 八月二十二日
三九九 【九月一日・端書 東京小石川區上富坂町廿三いろは館より 信濃木曾福島町岩屋方 今井邦子氏宛】
拜啓いよ/\木曾へ御出掛のよし成るべく多く御遊觀の程祈上候もし少しにても王瀧川へ溯り得れば大した事に候女人の方木曾の山に入るなど中々其の機なく候常磐橋にてよろしと存候併しお子さん御引連れと存候へば此事至難なるべしと存候過日は非常に不躾な事申上げ候處却て微意御納れ下され感激仕り候只小生全く其任にあらざるを知り恐縮甚しく候然る處御歌稿一々批評相入れ保存致し置き候處昨今どうしても見當らずアララギ稿中へ交りはせずやと紙屑迄打かへし見付け候へ共見えず惡しき所へ紛れ行かざる事は確かに候へ共非常に失禮いたし申譯無之候因つてあの時の歌全部御持參御見せ下され度願上候小生の採りしは終りの二首に候へ共全部につき詳しき愚見申上度存候大へん失禮に候へ共決していゝ加減な心で取扱ひしには無之候間御承知被下度候其内發見するやと心にかけ居り候此儀非常に恐縮存候 〇早く御歸京下され度待上候
(260) 其二
夫れから藪原もよき處に候あそこは上流の靜寂地に候土地すべてなだらかに素樸にてよし藪原郵便局長の湯川寛雄君を訪ね候へば色々世話してくれ可申湯川君へは小生より通じて有之候湯川君は左千夫先生以來のアララギ會員に候藪原にてお六櫛挽き居り候家の構造も違ひ居り候木曾にては盆躍御覽に候哉しをで(木曾にてしゆうでと呼ぶ)といふ草のひたしものもよし蕨餅も木曾あたりで無ければ食べて見る氣にならず蕗の砂糖漬も福島町のはよし御歸京御待申上候匆々敬具 九月一日
四〇〇 【九月二日・封書 東京小石川區上富坂町二十三いろは館より 信濃木曾藪原町 湯川寛雄氏宛】
謹啓久闊謝するの辭無之候上諏訪へ御出掛のよし御はがき下され其の際丁度上諏訪に居り(十六日鷺の湯に歌會)候ものをと遺憾此上なく存候二十三日歸京以來アララギ編輯をつゞけやつと昨日校正濟み明日は發行の事に相成可申候貴下及び御全家樣御別條も無之候哉折々中村君と木曾の事話し合ひ候へ共遂々御無沙汰にのみ打過ぎ居り失禮の段實に謝する辭も無之次第に候只今山田邦子氏貴示により木曾福島町岩屋に居り多分四五日頃迄滯在の事と存候もし藪原へ參り候はゞ婦人の事に候間一通りの御配慮何分願上候小生四月よりは高等女學校一學級擔任の先生と成り作文のみにても一度に二百十何人のを添削せざる可らず毎日夕刻歸宿夜はじめてアララギの雜務を片づけ(横山葉山二人助けてくれ居候)十時十一時頃より自分の仕事に取かゝり候ため寢に就くは何時も二時三時稀には徹夜と相成其ため餘計に諸君へ御無沙汰心苦しき次第に存上候何卒今迄の御無禮御宥免被下度決して心中には御忘れ申上げず不惡御高諒の程偏に願上候中村君は只今高等文官受檢最中に候茂吉君も千樫君も丈夫に候四人揃ひて困り乍らもアララギ丈けはどうにか今迄打續け居り候部數も昨年の二倍以上に相成從來の借錢さへ無之ればそろ/\獨立出來さうに相成此處更に大奮發を要し候事と覺悟罷在候くだらぬ事書き竝べ申候皆樣(261)に宜しく御鳳聲の程願上候敬具 九月二日夜 赤彦生
湯川大兄老臺
四〇一 【九月二十四日・封書 東京小石川區上富坂町二十三いろは館より 信濃國諏訪郡豐平村下古田 長田林平氏宛】
拜啓御稿落手致し候一通り目を通し候時々よき作交り居るやうに候一般に言ひ現し方順直に素直になり無理なきは宜しき事と存候今後は今少し御精選被下度あの七八十首中當然自らつまらぬと思ふ歌を發見するやうに成られ度存候御送の原稿は十一月號に廻り候事と御承知被下度猶一ケ月に一囘だけの御送稿に願度卅首の規定も當方にては三百人以上の會員に候へば到底整理出來ずそのため歌の數を嚴定せし次第御承知被下度候原稿の書き方以前より大へん明了に成り都合よろしく候感謝致し候次に爲替券は貴下の名記入致しあり候故小生の名にては受取得ず御返却申上候この券にては貴下より外金を受取り得る人は無之次第に候へば改め御手續被下度候而してあれ丈けの原稿を封じて御送ありし故不足税十二錢を徴せられ候以後御注意被下度候 九月廿四日夜 久保田生
長田樣
夫れ以前の御歌稿とは如何なる歌稿にや不明に候御一報被下度候五日以後のは皆來月の選歌にまはし可申候
四〇二 【九月二十四日・封書 東京小石川區上富坂町二十三いろは館より 備後國双三郡布野村 中村憲吉氏宛】
拜見致しました只今夜の十一時
君のために祝杯を重ねました横山と二人で、僕が一人で酒を呼んだ事は滅多にない今夜は萬感交錯の感がいたします今日は朝からすべてがいゝ日でありました多感なしんみりした日でありましたその内容は御面談にします君の多幸なる事を君も感謝して下さい君のために眞に幸福を祷るものは小生一人でない事を思つて下さいそれから(262)今後はどうか君の日常生活を少し引緊めて下さい私の心に懸つてゐるから申上けますそれが君の幸福を生み出す源泉と思ひます惡しからず考へて下さい今度還る時も途中は遊ばなんで下さい幾度も通る道だから眞直に歩いて還つて下さい我々は御同樣金を貴重に思はねばなりません少くも世間でどの位貴重に考へてるかを知らねばなりませんどうか色々考へて世に處して下さいその覺悟をして下さい兄きぷつた事を言ふ事を許して下さいあとは御面談を待ちます今日は諸方から手紙の來た日でありました 九月廿八日 赤彦
憲吉樣貴臺
アララギ今夜纒めて速達便で送りました六七十頁でせう茂吉來り二時間にして去る君の手紙も見たり
四〇三 【九月二十九日・封書 東京小石川區上富坂町廿三いろは館より 信濃北佐久郡小諸町赤坂 唐澤うし子氏宛】
大へん御無沙汰してゐます今日伊藤君に逢ふ米國行果して夫れ程に成功し得べきやと言ふこの上は手續にも準備にも渡航にも隨分金が要る事になる夫れ丈けの金――或は借金をして――費しても一面には危險を伴へり(色々の方面の)全費しても中途にして又々不許可等にならばマゴツク事多し貴説の如く力行會必しも頼む可らずとせば殊に考へ物なり夫れよりも伊藤君より純水館へ話して(主人數日中に歸る由)その方で働きぬいた方確實に成功せざるかと思はる重大事なればよく/\御思案肝要と存候血気にのみはやりてはいけぬなり伊藤君も大へん心配してゐたり春の手續すら/\と行きさへしたら問題ならざれども又々手續するとしたら萬一又々いけぬ場合を考へざる可らず金つかひてまごつくべし種々の危險件ふと存ずるなり只一人の男のお子さん故最もよく考へざる可らず若き人ははじめを餘りまごつかせては惡しと存ずるなり伊藤君と右の如き事話し合へり御參考ともならば幸甚に候青島の方の活動も決して有望ならずとせずよく御考へ下され度候匆々 九月廿九日 久保田生
唐澤うし子樣唐澤俊文様貴下
(263) 中村さんに今度又保證頼み得るやも疑問なり
四〇四 【十月十三日・封書 東京小石川區上富坂町二十三いろは館より 信濃諏訪郡豐平村下古田 永田登茂治氏宛】
拜啓過日は匆卒の際失禮仕り候陳ば塚原の記念館の儀御配慮被下奉謝上候父已に老衰に候へば落成を見せて天壽を終らせ申度此儀特に御配慮被下候はヾ幸慶の至奉存候此書状小生一存にして内々貴君と小尾君篠原君に御願申上候儀と御承知被下疫願上候匆々敬具 十月十三日夜 久保田生
永田君御左右
御子息樣骨膜炎如何に候哉アララギの方も毎々御願申し恐縮奉存候忙中亂輩御赦し被下度候
四〇五 【十月十四日・封書 東京小石川區上富坂町二十三いろは館より 信濃諏訪郡豐平村下古田 塚原葦穗氏宛】
此間は失敬皆々樣御無事か
一、小尾篠原永田三君へ今夜手紙出せり御承知を乞ふ
一、父上書畫帖へ杉浦重剛先生三宅雪嶺先生から少しづゝ書いて頂けり雪嶺先生はどうしても字を書かず(日常の手紙も奥さん代筆也)因て落款だけして頂けり付ては干瓢少々有之候はヾ小生へ御送被下度一寸御禮の印に差上痩澤山は要らず候もし無ければ小生北安曇より取り寄せ可申その代金は要らず候
中村不折森鴎外兩先生へ願ひそれにて右奉祝書畫帖御送可申上候北原白秋君からも書いてもらひ候土岐哀果君にも頼むつもりに候用事のみ匆々 十月十三日 俊彦
御兩親樣皆々樣によろしく申上て下さい
〇今朝父上よりの御ハガキ拜見いたし俊彦
(264) 塚原葦穗樣
四〇六 【十一月十三日・封書 東京小石川區上富坂町廿三より 信濃上伊那郡中箕輪村小學校 松澤平一氏宛】
拜啓秋冷加り候處御壯健に候哉過日は御來訪下され候處何の風情も無之失禮仕り候例の試驗は如何相成候哉心に掛り居り候扨て甚だ唐突に候へ共小生目下金子に窮し居り當惑罷在候何も贅澤は致さず遊びも致し申さず候へ共生活に追はれ居り候段慚愧の至に候
付ては小生所持子規子の短册(絹にて和歌を書く)及び手紙(左千夫宛手紙子規書簡集下卷九八五頁書簡第四七八に出て居るもの書中に俳句も歌も書いてあり、その手紙を小生に贈りし時の左千夫先生の手紙を添へたり)を賣拂ひ度此儀心苦しく存じ候へ共目下の窮状致し方なき次第に候右三點(左翁の手紙も入れて)は當方にて五十圓にて引取り候人は有之候へ共今少し多く金要り候へば躊躇いたし居り候萬一貴地小原氏の御侠氣を以て夫れ以上にて御引取願はれ申間敷哉最も右三品を御預り願ひて金子拜借致し候樣願ひ得れば尤も好都合に有之小生より御返金出氣候際右品御返却下され候はゞ有難き仕合せとも存じ候實は此品手離し候はよく/\の窮餘策に有之候
此件只貴下にのみ御知せ申上候貴考の上到底出來ぬとの御見込に候はゞ御黙止願度萬貴慮に任せ候此手紙小原氏へは御見せ被下候ても苦しからず候へ共以外他見御憚りの程願上候先は要件のみ入貴見度我儘申上候段は平に御海涵被下度候敬具 大正四年十一月十三日夜 島木赤彦
松澤平一樣貴臺
四〇七 【十二月十三日・封書 東京小石川區上富坂町二十三いろは館より 信濃上諏訪町小學校 兩角喜重氏宛】
拜啓御無沙汰致し居り候過日は祖父母曾祖父法事のため土曜日曜と歸國いたし候處上諏訪へ出る機なく諸君へ御(265)御無沙汰致し候段申譯無之候只今新年號にて少々忙殺致され居り候元氣だけは宜しく候間御安心被下度候十二月號は古泉千樫一頁出す事に定り候間小生は御免蒙り居り候も例によりて印刷の間に合はず齋藤中村は國に居り遂に四人乍ら缺席致し候事心外に候各所より小言頂き恐縮致し候只今「新潮」と「潮音」の新年號へ十二三首づつ歌出す約束致し新潮の方へは一昨夜一時頃發送潮音の方へは十五日迄に送る筈に候夫れからアララギの歌へ掛り可申候廿日迄に締切り可申候歌少し御送被下度候十七八日迄にて宜しく候無盡の件誠に申譯無之小生目下その方の窮境に有之數日中何とか工夫をつけて御返事可申上候小生此度の歸國は早くて十二月廿七八日頃と存候アララギを發送して歸り可申候次に學校問題は先日飯田太金治君上京の節始めて拜聽いたし候困つた事になり候由要するに上諏訪の議員が馬鹿に候アララギ盛ならずして齒の浮く明星派の歌などが流行りし現象と似て居り候小生の察する所にては岩垂先生に對する反感にては寧ろこれ無く他に原因ありと存じ候へ共これ今更致し方無之儀此際に對する貴兄等の立場も少々考慮を要すべき儀と存じ候何れ歸國の際御面談を期し候只今學校にて少し暇有之一通りの返事のみ匆々敬具 十二月十三日午前十一時
兩角大兄貴臺
森山君によろしくアララギの事も御話し被下度候乍失例北澤條衛氏の客も願上候と御傳へ被下度候
四〇八 【十二月十五日・端書 小石川上富坂町廿三いろは館より 下谷區仲徒士町二ノ二十七安達改治方 高木今衛氏宛】
こんなはがきで失例萬葉の事態々御知せ下され謝上候年末故ずんと引くかも知れず其内小生をその店へ御連れ下され度願上候何れ日取は小生より可申上候匆々 十二月十五日
大多忙にて閉口いたし候萬一廿一日にそろばんの御手傳願はれ候はば難有存候
(266) 四〇九 【十二月二十二日・封書 東京小石川上富坂町二十三いろは館より 信濃上諏訪町 牛山郡藏氏宛】
拜啓爾來御疎音に打過候段平に御海容被下度候寒氣相加り候處御全家皆々樣御別條も被爲在ず候哉伺上候小生例により頑健消光罷在候間乍憚御安心被下度候陳ば甚以て恐縮の至に候へ共小生今囘信濃銀行支店より金壹百圓當座信用貸出相願ひ昨日伊藤清四郎氏より承知の旨御返事有之付ては又々恐縮に存候へ共貴下御連帶相願申度度々の御願にて御厄介至極に候へ共年末臨時の窮乏御憐察の上御聽許被成下度不日證書捺印の上貴下へ御廻し可申上此儀決して御迷惑相掛け申す間敷期限は九十日間に有之小生時々信銀より此借出を成し助かり居り候されば期限を誤る如き事は必致し申間敷此儀御含み被下度何れ年末歸國御面晤の上萬々御禮申述べく御願の用向のみ如此に候敬具
奥樣にもよろLく御傳聲被下度候アララギも昨年小生引受けし時の二倍以上に發行相成大正五年中にはスツカリ整理の見込相立ち候段御安心被下度正月號より順次御送呈申上べく小生の事業御一覽被下候はゞ幸甚奉存候猶連帶人は三人の名前を列記して伊藤氏に誰を御願申すべきか御伺申上候處貴下を御願申べき樣申され候内状不惡御諒知願上候小生十餘日間殆ど徹夜の姿にて作歌いつもの半年分位の歌數を得申候一昨夜アララギをまとめ今日猶疲勞甚しく此手紙も一昨日より差上げんと思ひつゝ今夜に相成候有樣新年號の歌は多少歌壇の反響を期し居り候 十二月二十二日夜
牛山大兄貴臺
四一〇 【十二月二十二日・端書 小石川上富坂町二十三いろは館より 下谷區仲徒士町二ノ二十七安達方 高木今衛氏宛】
昨日來の御助力百千の援軍の如く有難く存候深く御禮申上候只今御葉書拜見致し候 十二月廿一日夜
(267)
四一一 【十二月二十四日・封書 東京小石川上富坂町二十三いろは館より 信濃國諏訪郡落合村 森山藤一氏宛】
謹啓承り候へば御老父樣御病氣御養生叶はせられず御永眠被遊候趣御愁傷の程奉拜察候老者壽を全うして逝かれ候事天の自然なる命數と存候へ共子としての情は之を以て慰す可らず況や急遽の場合御臨終にも間に合はれざりし御無念深く御察し申上候何卒後事遺憾なく御營み遊され度逝者の滿足此に過ぐるもの可無之と存上候小生十數日來殆ど徹夜致し心身疲勞亂筆御高免被下度取敢へず御弔訪迄敬具再拜 大正四年十二月廿四日
御令閨樣にも可然御鳳達被下度候小生年末歸國可仕其際御面談可申上候アララギ會費大體にて宜しく候間振替口座にて東京二八三四三を以て最寄局より御送附相煩し度御愁傷中恐入候得共會計困難の場合右御願申上候
四一二 【十二月二十九日・封書 東京小石川區上富坂町二十三いろは館より 信濃國木曾藪原局 湯川寛雄氏宛】
拜啓此御無沙汰と失禮と何と申上げてよろしきか今夜も已に三時に相成頭疲れ居り候失禮と知りつゝこの怠慢何とも御託の申上樣も無之候月の十日頃より繁忙に繁忙を累ね十數日は殆ど徹夜の姿にてしまひには一日一食あとは牛乳にて過し候有樣アララギの雜務と學校年末の第二期試驗とにて殆ど何も手が出ずどちらへも手紙書く能はず明日雜誌發送を了れば歸國致さんと存候
御恩借の金子決して相忘れ申さずいつも早く御返し申上ぐべきの處如此怠慢定めて御腹立下され候事と恐縮の至奉存候小生束京に來りて毎月不足致し居り返錢益々嵩み候有樣思ひ乍ら御無沙汰致し候段平に御詫申上候御手紙により直に郷國へ申遣し候へ共二三口共思ふ樣に參らず誠に申譯無之候へ共今日金拾圓丈け爲替券にて御送申上候腑甲斐なき話に候へ共下宿へも恥しき有樣にて如何とも致し方無之殘二十五圓は如何樣にもして明春御返金方(268)相盡し可申此儀何卒御宥免被下度間をかき候事心苦しく存候へ共何分の御推察願奉り候詳しくは何れ歸國の上萬申上べく今夜はやつとこれ丈け申上候次第失禮の段何卒御海容頓上候疲勞甚しく亂筆いたし候段申譯無之正月號の編輯所便御一覽御憐憫被下度願上候炭の犠も屹度心掛け可申初春を期し候皆々樣御無事御越年の程奉祈上候敬具 十二月二十九日夜
湯川樣老臺
四一三 【十二月三十一日・端書 信濃下諏訪町高木より 小石川區上富坂町廿三いろは館より 藤澤實氏宛】
此手紙つき候頃は新年なるべきか御機嫌克く御超歳を祈り候小生あの晩おそく歸り今日一日眠り申候アララギ今一册小生へ御送被被下度願上候それから小石川區表町一〇九永地秀太樣宛一册御發送願上候謹呈の印をつきて今一册は小生へ寫眞送りし塚原瑞穗(北海道小樽の何病院なりしか忘れたりあの寫眞の表紙を見れば分り可申候)へも御送願上候今日よく讀み候處選歌皆よくうれしく存候横山のもよし
△中川忠順津田青楓石井柏亭萩原直正の住所御知らせ被下度候汀川君より金屆き候哉いろは館皆々樣へよろしく御傳言願上候 十二月三十一日
(269) 大正五年
四一四 【一月三日・端書 信濃下諏訪町高木より 小石川區上富坂町廿三いろは館より 藤澤實氏宛】
拜啓雜誌未だ著かず驚入り候郵便局の緩慢に候今後はもう御發送無之樣願上候六日歸京可仕候間小生のふとん乾し置き候樣いろは館へ御頼み下され度願上候餘は拜顔に讓る 一月三日夕方
四一五 【一月七日・封書 東京小石川區上富坂町廿三より 信濃諏訪郡湖東小學校 小尾喜作氏宛】
拜啓昨夜歸京任り候扨年末の書面下され候處小生歸國と行違ひにて咋夜始めて開封拜見種々御心配を煩し候段深く謝し上申候從來種々の御配慮願ひ候勘定も明了に相分り有難く存候而して子規書簡及び短册類の御配慮も此際小生甚だのつぴきならぬ仕儀に候へば又々何とか御心配相願度重ねての御願甚だ厚かましく候へ共小生も今年はアララギの方に全力を注ぎ多少從來の物質的不面目も恢復いたし度必しも成算無きに非ず從來御願ひ申候方は今年中に何とか端緒を開きて御心配を薄らがせ申度心願に有之此儀御洞察被下度願上候過日願上候方は成るべく一月中に御心配御願申度候へ共もし二月に入りても必しも惡しからず此儀御含みにて何分願上候猶過日は態々高木へ御出掛下され候處丁度出違相成貴下には上諏訪停車場にて御待ち下され候由の處小生は汽車に乘り後れて馬車にのり上諏訪に入り重ね/”\の行違殘念此事に候御土産等種々頂戴いたし恐入り候御令閨樣へも此儀よろしく御(270)鳳聲の段願上候歸京して見れば手紙山積年賀のみにても數百枚に上り返事必要の書類のみにても一二日中には整理難く候依て覽筆相認め候儀御高免被下度時節柄皆々樣御自愛專一と奉存候東京二三日來信州と同じく寒く成り炬燵にしがみつき居り候今日は筆の持ち續けにて腕も不平を言ひさうに候御禮迄謹言 一月七日夜
小尾大兄貴下
矢ケ崎よりの馬車中歌少し出來嬉しく存候
四一六 【一月八日・端書 東京小石川區上富坂町いろは館より 信濃諏訪郡豐平村上古田 小尾榮氏宛】
謹賀新年 忍耐者は多力者なり小生すべてのもの成るべくこらへ可申そしてよき歌作り度候 一月八日
四一七 【一月九日・端書 東京小石川上富坂町二十三より 信濃諏訪郡中洲村 原治郎右衛門氏宛】
御早々御年賀状を賜り奉深謝候御勇健御超歳奉賀上候小生頑健にして碌々たり御安心被下度候 一月八日
四一八 【一月二十九日・封書 東京小石川區上富坂町廿三いろは館より 信濃諏訪郡豐平村 小尾喜作氏宛】
御手紙拜見御好意の程感佩此事に候何卒御令閨樣にも御禮御傳達被下度願上候御厚意に從ひ早速御借用方御願申上度若し御配慮に依り貳百圓願はれ候はば最も難有奉存候利息は御通知のは大へん安く難有存候どうせ小生明年歸國の事に相成り候はゞ纏りし金の工夫致しすべての方面の借金返濟可仕覺悟に有之候今年一ぱいは在京のつもりに相成候へば何うせ在京するとすれば學校の方今迄の如くにては心身共に不足疲勞可致只今にても少々堪へがたき有樣に有之今少し歌の方の書物等勉強せねば馬鹿になり可申此處小生も緊褌を要する時節と存候へば學校の方時間を減じ度願に候さ候へばアララギの方も今迄よりも力を注ぎ得べしと存じ候アララギも勉強して千部にな(271)り候へば歌も盛になり經濟の方も小生一人食つて行く位の事は出來可申此處尤も奮勵を要する所と存候もし百圓餘分御配慮の儀相叶ひ候はゞ小生は安んじて學校の方を時間減じ可申多少日子かゝりても宜しく候是は御願の上に又の御願ひにて彌々失禮と存候へ共もし出來るものならばと厚顔ましくも御願申上候次第御海涵願上候時節柄皆々樣御自愛專一奉存候
アララギ今日より校正の事に相成一日頃は發行相成可申候匆々敬具 一月二十九日 赤彦生
石馬樣侍史
四一九 【二月二日・端書 東京小石川區上富坂町二十三いろは館より 信濃諏訪郡玉川村小學校 兩角丑助氏宛】
拜啓歌會毎月御開きの由大へんよろしと存候何うか尻拔けせぬやうに願上候金御送被下候處未だ御返事差上げず申譯無之候難有存上候紙が三倍騰貴して非常にまごつき申候仕方なく二百圓借りて前分へ入れあと六月迄の紙を今の處で買つて置かんと存候何分色々願上候皆樣によろしく願上候 二月二日夜
四二〇 【二月五日・封書 東京小石川區上富坂町二十三いろは館より 信濃諏訪郡玉川村辻屋方 兩角波雄氏宛】
拜啓手紙書かん/\と思ひ乍ら今日に至り候晝は學校夜は來訪者にて小生の時間少く困り居り候今度の御稿皆振ひ居り第一に喜悦いたし候これ丈けのもの誰人も容易に出來るべからず詞もすなほに候貴君は主觀の働き鋭敏にして力あり作歌の動機よく充實致し居り候へ共現し方にすなほならざる所見え居り候處今囘のは皆洗練せられ居り候すなほならずとは意義の通じ難きを申候つもりなり此點充分御留意に成り候はゞ大した歌出來申すべくとも存候何の事も十年二十年と辛苦を積まざれば本當の事出來申す間敷萬葉集其他の大なる力の下に屈伏する時代ある事必要と存じ候古よりの偉人は尤も多く長く多力者に屈伏し得たるものなる事よく/\御考量祈上候世に忍辱(272)ほどの多力は有之間敷候そこを下手な素人考へをしてはならぬ事に候今の青年が全人格の露出など云ひて主觀の情熱を迸出せしむればよしなど考ふるもの多く之れ等は忍辱の修業道を知らず皆時々の少力者となりて消え失すべきものに候さし當り元義の歌など暗記する位に御讀み下され度祈上候聲調の堂々たる事歌柄の大きやかなる事元義位の人は珍しく候小生等は元義より學ぶべきもの猶多々ありと思ひ居り候自分をえらい/\と思つてもそれほどえらからず候矢張り偉大者に屈伏する方が偉大者に成り得べき事に候偉大者に屈伏する能はざるは器局の小なる所以と存じ候屈伏といふ事少しも恥辱には無之と存候貴君にして屈伏數年なるを得ば大した歌出來可申と確信致し候大成は十年二十年三十年四五六十年の後に候
右は小生の確信を披瀝したる所に候決して君と議論せんと思ふにあらず議論などに勝つても負けても損にも得にもなり申間敷候要するに歌人は歌を作る上の多力者たり得ればよろしく候愚意澁晦御不明の點も候はんと存じ候猶他日重ねて貴意を得申すべく候匆々 二月五日夜十二時半 赤彦
七美雄君
四二一 【二月五日・封書 東京小石川區上富坂町二十三いろは館より 信濃諏訪郡豐平村 小尾喜作氏宛】
拜啓今朝振替貯金を以て金二百圓到著仕り候今更ならぬ御芳志感泣仕り候濟まぬすまぬと思ひ乍ら遂に貴兄の手を煩すに至り候事心苦しく候へ共現境御洞察御海涵下され候樣祈上候此儀御令閨樣にも呉々御禮申上候此の御志何を以て報ず可きかを知らず候猶過日は四月以後の計劃につき御配慮を煩し恐縮仕り候御來意明了得心仕り候猶今後何分の御力添何分願上候來月よりはそろそろ歌論の方にも手を出し度存じ居り候萬葉集の方も少し參考書を購入して詳しく書いて見度存じ候四月よりは圖書館へも通ひ可申候四月以後の計劃につきては餘り廣く御話し被下らぬやう願上候アララギも今囘は紙の相場暴騰致し昨秋の三倍と相成り候上に又々印刷費の方も値上と成り重(273)ね重ね困却致し候へ共何とか切り拔け可申候會員益々増加致し候間御喜び下され度候中村憲吉君彌々上京小生も大きなる力を得し心地致し候四人揃へば大抵の事致し可申候二月號へ書きし編輯所便山浦の會員等へはどんな影響反響有之候哉御觀察被下度願上候皆々樣御自愛專一奉存候匆々敬具 二月五日夜 赤彦
石馬樣貴臺
四二二 【二月六日・端書 小石川上富坂町二十三いろは館より 府下巣鴨町字巣鴨一六二三 半田良平氏宛】
拜啓過日は初めて御出で下され候處非常に失禮致し且無遠慮の事申上げ恐縮の至奉存候御海容の程願上候其節御願申上候洋畫史記載の雜誌一通り御送被下候はゞ幸甚奉存候代金は直に差上可申候それから姿先情後の事も明了候はゞ御教示被下度願上候藤澤實の儀も御督勵の程願上候小生も精々勉強爲致可申右のみ匆々敬具 二月六日夜
四二三 【二月十四日・端書 東京小石川區上富坂町廿三いろは館より 信濃諏訪郡豐平村小學校 永田登茂治・宮崎嘉隆氏宛】
拜啓度々御手紙煩して相濟まず存候十錢にても廿錢にても多く集れば有難き有樣に候紙代三倍騰貴の上に印刷費迄三割上騰甚だ困難の有樣に相成り申候宮崎君より何程頂けばよろしきか御催促申しては濟まぬ事に候少々づつ御願申上候雜誌營業人の私には金の集まらぬが第一の心配に候惡しからず願上奉り候父の事誠に感謝の至深く御禮申上候二月十四日夜
四二四 【二月十九日・端書 東京小石川上富坂町二十三いろは館より 信濃諏訪郡玉川村小學校 兩角丑助氏宛】
「飛脚申し遣さる趣」は俊齋が「飛脚を以て申し遣されし趣」との事なるべしこの手紙にて母は大事を知りしなるべし有村俊齋は海江田信義といひしかに覺ゆ西郷等と共に薩人なり
(274)歌會如何手塚君によろしく紙と印刷費騰貴して困る也あとより返事出す 二月十九日夜
名と題を一行前をあけて罫の第二行へ書いて下さい欄外は困る綴れば字が隱れる今度の歌現し方大抵自然にてよし夫れでも少し訂正を要せり三月號にて御覽願上候
四二五 【二月二十八日・封書 東京小石川區上富坂町廿三いろは館より 信濃國諏訪郡四賀村小學校 矢崎作右衛門氏宛】
拜啓何も彼も御無沙汰申譯無之怠慢の罪萬死に當り候小尾君より過日御話し申上候件早速と思ひ乍ら今日に至り申譯無之候やつと編輯を終り今夜諸方へ手紙書き申候萬事相忘れ申さず此事のみ只今申上置候何卒不惡御高諒被下度願上候御無沙汰致すのは決して疎※〔さんずい+門/舌〕に存ずるには無之何卒々々御海容被下度候小生も今少し東京にて修業の上歸國致し度只今その工夫中に候學校は止めて一心に勉學し度と頻りに思案致し居り候目下教員の交迭期にて多少御算段も有之候儀と存候御自愛御折角被成候樣祈上奉り候葬送敬具 二月廿七日夜二時半
央崎作右衝門樣貴臺
四二六 【三月十四日・封書 東京小石川區上富坂町廿三より 信濃上諏訪町高等女學校 田中一造・小尾石馬氏宛】
拜啓此間は奉謝上候小池元武君を岩波書店へ聘するは年來の問題にして岩波氏にてもやつとその手筈に定め二囘彼地に行き話し候へ共本人は岩波の厚意は分れども遠慮して行かぬ由殘念に候いつ迄沼津に居り候とも孤立の小池君がとても長くあの地に安全なる譯に行かざるべく岩波氏に來らば一生のため最も安全に候岩波氏にては會計と帳簿だけやつてもらひ外交その他の雜務はさせぬつもりに候小池君の最適任と存候四月より參り候様御兩兄より別々に御勸め下され度(至急)何分奉願候四月より直ぐに東京で生活するだけの月手當を出すつもりに候こんな口は何處にもあるまじく候小池君は岩波氏の厚意は分れども氣の毒がりて決せぬらしく候昨日岩波氏と談合の上(275)此手紙差上申候忙中亂筆平に御海容願上候
恐入候へ共此下紙小尾君へ御廻しの程奉願候也岩垂先生五味先生其他諸君によろしく三月十四日 俊彦
田中君 小尾石馬君
三錢切手入
四二七 【三月十四日・封書 東京小石川區上富坂町廿三いろは館より 信濃上諏訪町小學校 森山藤一氏宛】
御令閨樣御詠艸正に拜受仕り候
拜啓歸國の際は御厄介樣相成奉謝上候一昨日は御手紙難有拜見仕り候
萬葉會は小生も矢張り貴兄と兩角君の御発起の形にて御開き願ひ度つもりに有之發起者に猶一二人加へ候方宜しきかにつき過日御相談申上候次第に有之候小生が創めて學校拜借は少し如何はしかるべく候萬一相開き候樣なる手順に向ひ候はゞ御迷惑乍ら發起人として貴兄と兩角君に萬事御世諸見て頂き度存じ候兩角君よりは其後御音信も無之御意見如何に候哉少しも御遠慮に及び申さず候へば有りのまゝなる御意見御聞かせ被下度此會は是非成立させねばならぬといふにあらず國の方の多數の御意見が向はねば無論止め候方宜しき事に候小生必しも固執せず左樣の事何とも思ひ申さず何か方途相考へ可申候此會はもとく小生の勝手より生れし事勿論に候へ共其中には自然會員及び有志諸君の利益をも考へしつもりに有之乍併萬葉集の如きは澤山の講義本出版有之候へば獨學にて分らぬ事も無之次第に候只いつも乍ら貴兄等に御厄介掛け候事心苦しき次第に有之候萬一創始致し候としても必しも四月ならずとも宜しく其邊御ゆつくり御考へ下され度四月は學校の忙しき時期に候へば其邊も御考慮願上候會費も高いかも知れざれば少くして多數の便益相計り候てもよろしく其邊萬事兩角君に御相談被下度願上候兩角君も今は忙しき最中と存じ修猶右の次第に候へば成立不成立等其他萬事決定までは岩垂先生には何も小生より申(276)上げざるつもりに候之れも如何に候哉伺上候
兩三日心も體もだるく成り居りやつと手紙書く有樣覽筆御判讀願上候葬送敬具 三月十三日夜 赤彦
汀川樣貴臺
四二八 【三月十八日・端書 東京小石川區上富坂町二十三いろは館より 信濃上諏訪町大手町鐵道官舍裏 兩角喜重氏宛】
御手紙拜見感謝仕り候小生忙中兩三日中に手紙書き可申御返事迄匆々以上
發起人名前へ今井黙天氏五味えい氏を加へて頂かうか其他適當の人あらば知らせてくれ其方博く募るによろしきかと存ず如何汀川君其他諸君によろしく願上候 三月十八日
四二九 【三月二十日・封書 東京小石川區上富坂町廿三いろは館より 信濃國上諏訪町小學校 兩角喜重氏宛】
拜啓今囘小生等相謀り島木赤彦氏を聘して毎月三日間萬葉集講義相聽き候事に相成り博く同志を募り候に付き御賛成御入會被下度此段得御意候敬具
規定
一、一年を以て終了とす
一、毎月第一金曜日より三日間とす
一、時間は金曜午後、 時より二時間、土曜日曜午後二時より三時間、其他隨時歌批評會
一、會費毎月三十錢入會當時三ケ月分を納む
一、會場上諏訪小學校
一、入會希望者は上諏訪小學校兩角喜重森山藤一宛 月 日迄に申込むべし
(277)一、書物は三教書院發行萬葉集上中下(一册定價二十五錢)其他何れにてもよし
大正五年 月 日 兩角喜重 森山藤一
拜啓こんな向きでは何うか御覽の上御訂正下さいそれでこの紙御返送下さいこちらでハガキに印刷して御送する(アララギ會員名簿を添へて)
横山中學卒業二三日中に歸國する湖東へ出る由よろしく御指導を願ふ一人減りて都合惡し藤澤は未だ居る四月より小生萬事行るべし御援助を願ふ學年末にて御忙しき事ならん諸君によろしく岩垂先生五味先生には今に別に手紙出すよろしく願ふ小生も忙しいから覽筆御許し下さい 三月十九日夜二時 赤彦
三兄臺下
四三〇 【三月二十一日・端書 東京市小石川區上富坂町二十三いろは館より 信濃國下諏訪町高木 久保田不二氏宛】
今日は彼岸仲日なり傳通院へ詣づ横山も去り藤澤も去る春雁の歸るが如し小生少し寂しけれど月末には歸り得べし萬葉會の方も大分うまく行くやうなり子供等如何小生の方の卒業式は廿八日なり雜誌十九日頃片づけたし皆樣御大切之事 三月廿一日
四三一 【三月二十七日・端書 東京小石川區上富坂町廿三いろは館より 信濃國上伊那郡箕輪村上棚 藤澤實氏宛】
こんなはがき御免被下度候昨日中學校の半田良平先生態々淑徳學校迄來られ君の及第した事を知せたり伐て御知せ申上候此間は御はがき奉謝候久振りにて面白く御過しと存候小生忙しく候へ共無事に候間御安心被下度今朝民友社へ送稿せり高木君四五日泊り呉れる 三月廿七日
(278) 四三二 【三月二十九日・封書 東京小石川區上富坂町廿三いろは館より 信濃上諏訪町小學校 兩角喜重・森山藤一氏宛】
拜啓別包小包郵便を以てハガキ印刷差上候間御落手被下度名前は此手紙へ同封致し候間夫れにより御發送被下度願上候猶其他にて心當りの處へ御差出し願上候山浦の方はやめに致し候其内機あれば又やり可申候萬事は御面晤に讓り申候御願迄匆々
◎五味えい今井黙夫二氏へは貴兄等よりも一寸發起者に御願ひ置被下度願上候無斷にて發起者にして公表しては惡し其上にて夫れ/”\ハガキ御發送被下度候
〇一枚下スワ町高木久保田ふじのへ御送被下度候
〇小生大抵卅一日夜八時半頃ので上スワへ着き可申候 三月廿九日夜忙しく亂筆 俊彦
雉夫樣汀川樣貴下
アララギ明晩は出來可申候名簿には脱落もあるべくよろしく願上候
玉川村 伊東壽一 玉川小學校 小林富三郎 湖南村大熊 關喜良 飯山鶴雄 小井川學校 小松佐治 中ス村福島 田中正臣
玉川村子ノ神 牛山益雄 豐平村南大鹽 小平輝一 豐平村下古田 田中露村
神ノ原 上原照藏 永明 五味勝治 同 長田林平
湖南村小學校 牛山久雄 豐平 小林梓 上スワ町 田中一造
永明村横内 小川文子 永明 矢崎作右衝門 武井伊平
上スワ 小口正美 上スワ 湯澤博寛 ○長地小學校 塚田廣路
郡役所 岡村千馬太 ○玉川學校 功力宗一 ○上スワ町 塚原葦穗
(279) 平野村今井小學校 小野巳代志 下諏訪學校 五味えい 下スワ小學校 手塚寅之
豐平村上古田 小尾榮 中洲村 後町勝 下スワ町高木 長崎正文
神宮寺 笠原吉郎 同 同 英久 豐平村上古田 永由健一
上諏訪桑原町 河西靜江 同 同 良次 〇上スワ小學校 永田澄茂治
上諏訪町 北澤まつ 富士見小學校 小池晴豐 下スワ小學校 中島千代
中洲村 小泉汲男 永明村 篠原徳一 玉川村 原田泰人
同 小泉愛治 湖東村 篠原作郎 同 松田廣美
〇上スワ町 橋本福松 上スワ町 溝口卓郎 玉川村 保延武司
湖南村 藤森剛 下スワ湯田【下平初藏方】 宮坂緑穗 下スワ町友之町 山田ちま子
川岸村 藤田定雄 平野村今井小學校 百瀬とく 〇上スワ小學校 柳平末雄
川岸村小學校 古田知秀 宮川村新井 兩角權藏 長地村中村 山田お葉
北山村 森元善久 玉川村神之原辻屋 兩角波雄 下スワ町 吉田好
下諏訪町友之町 増澤ちよ 上スワ町大和 小口きぬの 中洲村下金子 小泉歌碓
永明小學校 三村哲郎 玉川村 兩角丑助 同 後町青柳
以下會員ニアラズハガキ出シテ頂ク方ヨカラン
湖南村田邊 大田直人 玉川村小學校御中 下スワ小學校御中
同 伊藤恒雄 中ス小學校御中 小井川小學校御中
上スワ町岡村 守屋吉竹 湖南小學校御中 岡谷小學校御中
長地村 早出道之助 永明小學校御中 永明村 矢崎射川城
上スワ柳町 關正也 同 後町富佐治 鵜飼増人
(280) 下スワ横町 河合五百里 湖東 小尾喜作 横山重
中洲村下金子 矢嶋重平 赤羽豐治 久保田ふじ子
四三三 【三月二十九日・端書 東京小石川區上富坂町二十三いろは館より 信濃國下諏訪町小湯の上 五味えい子氏宛】
拜呈久敷御無音いたし申譯無之候益々御壮康被爲入候哉伺上候小生幸頑健孜々罷在候間乍憚御安心被下度候偖甚だ唐突の儀に候へ共小生儀上諏訪町兩角貴重森山藤一諸氏と相話し候上にて毎月三日間上諏訪小學校にて萬葉集講義相開き候事に相成り候に付き右會發起者中に貴下を御出して頂くつもりにして用務等は一切兩角森山二君にて相辨じ可申猶貴地方可然方へ御傳達被下候はゞ幸甚奉存候甚だ失禮に候へ共其のつもりにて趣意書印刷可仕此儀御承知置被下候樣願上候猶序乍ら下スワの方の毎月會費御迷惑に候へ共御取集め御送付方御心配相願度此儀亦何分御願申上候御願のみ申上候敬具 三月二十九日
小生卅一日歸國數日滯在可仕儀忙中ハガキにて失禮仕り候
四三四 【四月八日・封書 東京小石川區上富坂町二十三いろは館より 長野市後町小學校 藤森省吾氏宛】
拜復ごた/\して御返事遲延奉謝上候彌々長野へ行かれし由御自愛御自重跣一奉存候
萬葉會の儀御配慮被下難有存上候御厚志恭くて參上の事に決心いたし候毎月第二金曜より二日間の事に願度金曜午后二時間土曜午后三時間位にて如何に候か尤も一日の時間は今一時間づつ増してもよろしく候一年を以て一先づ終了の事に御吹聽被下度候本は神田區三教書院の袖珍文庫萬葉集(上中下一册廿五錢づつ)にてよろしく其他何本にてもよろしく候其他萬事宜しく願上候
大體の要領を二三の新聞へ御出し被下度三澤君へは小生より決定次第依頼申上ても宜しく候四月は廿一日(第三(281)金曜)より始めたく候右御都合及び諸兄の御意見御伺申上候御遠慮なく御申越願上候三村兄及び諸兄によろしく願上候用件のみ亂筆御免被下度候 四月八日釋尊誕生會 赤彦生
藤森兄貴臺
四三五 【四月十七日・封書 東京小石川區上富坂町二十三アララギ發行所より 信濃小縣郡武石村 中原しづ子氏宛】
拜啓束京は今花の眞盛りに候電車も道路も醉へる如き人にて滿され居り候諏訪にて萬葉集講習會あり五十人許りにて三日致し今朝歸京任り候これから雜誌の方にて忙しき事に候小生今年は學校の方を時間減らし一週四日間午前十一時まで相勤むる事に相成候間幾分餘計に勉強出來可申候歌も作りかけは澤山あり候へ共推敲の時なく其のため草稿山積の姿に候來月郷へは少し多く發表致し度存じ居り候アララギ先年小生出京の頃は四百部に足らざりしも追々進展して今夏迄には是非千部位は出して見たく存じ居り候雜誌仲間は面倒に候へば發行部数お互に秘し居り候相變らず信濃の會員が尤も多く候北信の方もポツ/\殖え居り候小生は只今歌と雜誌との外何の心も願もなく勉強致し居り候平均の睡眠時間五時間位に候併し壯健罷在候間御安神被下度候御ひま候はゞ近況御知せ被下度候匆々 四月十七日 久保田生
中原樣貴下
四三六 【四月二十六日・封書 東京小石川區上富坂町廿三いろは館より 信濃諏訪郡豐平村 小尾喜作氏宛】
拜復手紙差上げんとしたる處へ御書拜見仕り候塚原の件につきては多年非常の御配慮を煩し候結果彌々落成五月五日芽出度擧式相成候趣欣喜拜承深く奉感謝候小生當日正午までに必參向光榮の意味深き式の末に列し申度御承知被下度候式日の順序すべて貴見適順と存上候色々塚原のために御取計被下候御厚志奉謝上候何卒猶色々御盡力(282)に預り候樣奉願候しん身になり候人なければ何もかも捗り申す間敷候何卒御願申上候次に毎度恐入り候へ共金三十圓臨時御周旋相願度五十圓ならば尤もよろしく候へ共三十圓にてもよろしく何れよりか御工面被下候はゞ幸甚奉存候實は三月末必要なりしも今迄延引致し居りし次第重ね重ねの御願に候へ共此儀御願申上候金子は五日の式の日にてよろしく候萬葉會の儀何れ五日に御面談申上度これも都合よく參れば非常によろしく候アララギ五月號明日より校正可仕今度は大分賑かに候小生も二頁出し申候白秋君九十首ばかりに候横山のも間に合ひし由御傳言被下度利きたるもあり利かぬもあり八首はゆつくり取り得たりと御傳言被下度候忙中亂筆御赦し被下度候奥さんにもよろしく願上候 四月二十六日 赤彦
石馬兄貴臺
四三七 【五月三日・端書 東京小石川上富坂町いろは館より 長野市後町小學校 傳田精爾氏宛】
御稿正に拜受これは今度持參して御面接し乍ら愚評申述べ候方宜しと存候青木氏の金有難く拜受仕り候これも御面會の時にて宜しかりしに御厄介下され奉謝上候次に長野の雜誌へ小生の歌出し度候へ共新作とても苦しくて出ずアララギ丈けへやう/\出し候始末、よりてもし五月號中より何首にても御出し被下候へば少しも異議無之と御傳へ被下度願上候匆々以上 五月三日 島木赤彦
今度參上の節はどうか酒など飲ませ給ふな勿體なき事なり諸君によろしく
四三八 【五月九日・端書 小石川上富坂町いろは館より 市外代々木山谷一〇八今井氏方 山田邦子氏宛】
拜啓東廣に底力を與へ呂昇に張りと冴えを與へ候はば大したものなるべしと昨夜思ひ申候素人耳の生意氣説たるべく候御一笑被下度候御蔭樣にて樂しく打過し候段奉深謝候今井俊起樣にも御序の節よろしく御傳言下され度候(283)水木兩日のうち御出で下され候はば幸甚存じ候御母上様御東上の由に候へば御ひま無しとも存じ候御出で下され候はゞ十一時頃宜しく候歌集の方ズン/”\材料御集め成され候方宜しく候十一月號別に差上候 五月九日
四三九 【五月十一日・端書 小石川上富坂町廿三いろは館より 下谷區仲徒士町二ノ二十七安達政治方 高木今衛氏宛】
此間は失禮致候良寛歌集御知せ被下奉謝候負けさせてあり丈け買ひて御持參下され度願上候土曜日正午頃より夕方迄會費催促のハガキ書く事御手傳下され度願上候藤澤君と二人で願上候小生は明日長野へ行き候 五月十一日
ありたけ買へば負けるかも知れぬ
四四〇 【五月十一日・封書 小石川區上富坂町二十三より 市外代々木山谷一〇八今井氏御内 山田邦子氏宛】
龜井戸の藤の紫久しくて※〔草がんむり/溪〕※〔草がんむり/孫〕《あやめ》の花の咲くとふものを
藻の花とあやめの花とめづるさへ苦しきばかり咲くあやめかも
むらさきの※〔草がんむり/溪〕※〔草がんむり/孫〕の花の一もとに五月《さつき》深くも思ほゆるかも
五月雨のいぶせき時にあやめ草さく紫の花をこそ歎け
神の代の神の子どもが遊びけむ藤波の花は年を經にけり
すつきりと菖蒲かをれる湯の光起き出でて吾が體をひたす
ほの/”\と黒髪ぬれて菖蒲湯の匂へる門を出でにけるかも
五月《さつき》の光あふるゝ野邊をうたひつゝ小學の子ら行きにけるかも
五月《さつき》眞晝光のなかを鳥一羽餌をくはへてとびゆくあはれ
鴉一羽餌をくはへて晝|明《あか》き都の空をとび過ぐる見ゆ
(284) 鴉一羽餌をくはへて飛ぶ久しまひるの人ら目をあげず歩む
空の中に餌をくはへてとび過ぐる烏一羽をまさに見にけり
うつそみの人動きやまぬ地《つち》の上にかはりもなし空を飛ぶ鴉 かかばりもなし空を飛ぶ鴉
空のも中にいよ/\高く輝ける鴉一羽を見てゐる我は
例により無遠慮に生意氣致し候へ共今少し考へねば落付かず候天神樣の御歌一首は少し小生に分らず御逢ひしてお聞き申すべく候小生訂正致し候は主として歌の調子を張らせ度と思ひしなり原作と御比べにて御意見御遠慮なく御申聞かせ被下度考へを申合ひ候方益になり可申候終りの歌は内容殆ど前よりの歌と同じに候へば少し中味をかへてはと存じ高く舞ひ上る所にして見候へ共落付かず候終りより第二首「空を飛ぶ鴉」の方字餘りにて重く響くかとも存じ候今二三日して見ればよく分ると存じ候
夫れから今少し御作りにて來月號へ一頁御出しなさる間敷候哉歌集御出しの前なれば少し賑かき方宜しきかと存じ候二十二三日迄にて宜しく候御奮發を望み候夫れから他の雜誌へも少し粒揃ひを御出し下され度然らざれば此際惡しと存候いつそアララギヘ二頁位御出しにて振つて見せるも宜しかるべく候來月號は第二短歌號に致し度と存じ候部數も少し殖し可申候潮音等へ出さねば義理惡しく候はゞ前記のを御送有之候ても宜しく候あと四五十首も御作りならばアララギへも澤山頂き得べく候前記八首は皆よしと存じ候今一つ
野の面《も》には日影うら/\みちければ遠足の子らうたひ出でにけり
もよろしと存候これらへ少し足せば潮音一頁になり可申候併し大奮發なされ候て全部アララギへ御出し下されば尤も結構に候日曜の朝六時歸京可仕候御來車御待申上候取急ぎ亂筆御赦被下度候敬具 五月十一日 赤彦生
邦子様御もとへ
少し郊外の寫生をなされ候樣望み候必新しくて生き/\したるもの出で可申候新しき自然と接し候事最も必(285)要に候今日はもう御出なきかと存候手紙少し詳しく書き候處ごたつこ申候御母上樣によろしく御傳へ願上候
四四一 【五月二十日・端書 東京市小石川區上富坂町二十三いろは館より 信濃下諏訪町高木 久保田不二氏宛】
今萬葉輪講書いて臥る所なり數日來尻へ腫物出來今日午後よりは横臥しつつ物を書く痛さ頗る甚し齋藤膏藥を貼りて呉る大したる事なし明日頃はうみが出るならん普通のネブツなり蠶出ば困難ならむ萬事御注意の事小生六月一日に歸る 五月十九日夜一時書く
四四二 【五月二十八日・封書 小石川區上富坂町二十三いろは館より 市外代々木山谷一〇八今井氏御内 山田邦子氏宛】
今日は一日悲しく苦しく何も手に付かずほんやりして居ます私の衷情も申上げ度くあなたの御心中も考へられ途方に暮れてしまひました
一、子規先生は鐵斡是ならば子規非なり子規是ならば鐵幹非なり兩者竝稱すべきにあらずと公言してゐますアララギの頑固な氣質は子規先生の時から根ざして居ります(只子規先生の確信と小生等今日のものの頑固とは同一に談ずるは不可併し傳統は自ら然りと存じます)そして小生等は是か非か知らねど他流とは俄然異つたものを守つて居ます是れは大體御分り下さつてるかと思ひます
一、此或物はアララギの盛否に係らず小生等は終生放棄せぬ覺悟です
一、歌集に自己の寫眞載せるといふ事世間から見れば何でもない事であるかも知れませんが私共はさういふことを非常にイヤがりますこれは我々の氣質の一つの現れであると存じます西洋人は割合に左樣の事すべて好きのやうです東洋人は一般に控へ目の血を持つてゐる西洋人には日本畫でも浮世繪位しか分らない芭蕉などの境地になれば迚も分りつこありますまい内に湛へて外に靜なのだと思ひます東郷大將乃木大將などがその一例であ(286)るかと思ひます私共は左樣なものをさびとか冴えとか澁味(?)とか稱へてゐます生ま/\しさに對してさびてゐるのであると思ひます私共は決してそんなにさびても冴えても居りませんと思ひますが望む所は左樣なものに存する事は言ひ得ます間口の廣い派手な事は迚も私共には出來ません望む所はつつましく一途に深く進むにあります
一、私共の氣質は他の人々とどうしても同じに參りませんつまり野暮な人間の集りです
一、私はあなたの心の深底にいつも非常に眞面目な眞劔な堅いものを持つてゐる事を信じてゐますそこを私は心から尊敬してゐますそれで私はあなたの歌が近來非常に小生等に接近せられるのを歡んで注意して居りました今度の歌集も色々の意味でどの位興味持つたか知れませんこれはあなたにも分つて下さると思ひます私は今度の御歌集を恰も自分の歌集のやうに大切に考へました考へすぎて出すぎた事を申上げてしまつて今日は苦しく悲しく仕方ありません
一、私は何うあつてもあなたの歌集を愛せぬ譯にまゐりませんもし御寫眞がのる事になつても序文をのせて頂きます序文撤囘が矢張苦しくてなりませんもし寫眞版註文の方が具合よくて寫眞出iさぬ事に御定めならば私は勿論歡んで賛成します御寫眞御出しになつても出版所の行掛り仕方ない事と思ひますから私の序文をのせて下さいまし私今夜さういふ心になりました男らしくもなく晝間の言を取消します小生の心中を御洞察下さつて御承諾下さいまし
一、今は夜の一時につき明朝早く速達便で出します
一、あとは明後卅日に御面談いたします
一、明日は小生メキシコ行の友人を送つて午前十一時より横濱へ行きます夕方は六時頃には歸りますもし急ぎの御用あらば何處からでも電話かけて下さい直ぐ出掛ますから
(287)一、明朝の御手紙を待ちます 五月廿八日夜一時四十五分
邦子樣貴下
四四三 【六月十二日・端書 小石川上富坂町二十三いろは館より 下谷區仲徒士町二ノ二十七安達方 高木今衛氏宛】
一、山田孝雄著奈良朝文法史 寶文館發行定價一圓八十錢位
一、國學院大學出版の国文註釋全書の中の萬葉集仙覺抄あるもの右二種も一緒に御探し被下度願上候匆々
四四四 【六月十八日・端書 東京小石川區上富坂町廿三いろは館より 信濃諏訪郡豐平村下古田 田中露村氏宛】
何事も皆人間の修業道也兵隊の歌を作ると覺悟して盆々御勉強あれ 六日十八日
四四五 【六月二十日・端書 小石川上富坂町二十三いろは館より 市外代々木山谷一〇八今井氏御内 山田邦子氏宛】
拜啓「心ぐし」の意義は大體御答へ申上候通りにて宜敷歟と存じ候すべて御發表は愼重にも愼重を念とせられ候樣祈上候勿體ぶるには無之自己を重ずる事に候自分にて表現遺憾なしと信じ候上にて發表致し候はばその上の世評はかまはぬ事に候(參考にはなる場合あるも)語句聲調の上に鈍感なる群衆には何と發表しても分るまじく候へ共少し鋭敏なる鑑賞家には機微相響き可申候萬葉の偉大なるは斯る點に於て一毫の弛緩なく麻痺なき事に候我々は作歌者としては及ばず乍ら最高程度に立つて歌作るべき事と存じ候容易に他を容さず自己を容さざる見地を具すべき事に候要求の程度高ければ自ら容す範圍も狹まり可申儀と存候阿部さん原稿くれ候由今日通知ありうれしく存候小生只今アララギ以外に大事な雜誌は無之候アララギ一寸でもよくなれば大なる歡喜と滿足に候貴詠御勉強よき歌盛に御寄せ被下度願上候匆々以上 六月廿日夜 赤彦
(288) 山田邦子樣貴下
別紙御令弟樣に御願申上候
四四六 【六月二十七日・端書 東京小石川區上富坂廿三いろは館より 信濃國下諏訪町小湯の上 五味えい子・五味ます子氏宛】
拜啓過日は御入湯の由にて繪はがきの御寫生難有拜見仕り候湯は利き候哉杜鵑と青葉の山中を想はれ候昨日やつと編輯を終へ申候御返事相後れ候段御海容被下度候匆々 六月廿七日
七月一日講義可仕候
四四七 【七月二日・封書 小石川區上富坂町廿三いろは館より 市外代々木山谷一〇八今井氏御内 山田邦子氏宛】
拜啓只今の電話意外に思ひました私の批評のどういふ所がそんな刺撃を與へたのか小生茫然とする思ひ違へがありはせぬかと今又読み直して見たそんな點はないあの文は小生考へに考へた要點のみを遺さぬやうに書いたつもりである固くなり過ぎて文章が晦澁であるが小生の考と隔つた所はないつもりであるあの文については小生全責任を持つこと勿論である小生は是に付いては何處迄もあなたに申上げる必要があるそれには御面談を必要とするあなたも私のあの一文を冗談でないと信じて下さらば是非共御面談下さい私は自分を重ずると共にあなたを重ずるあなたはあなたを重ずると共に私を重じて下さい御互に自らを輕じてはいけぬ麁忽に取扱つてはいけぬ變だと思つたら突きつめねばならぬ突きつめるのは我を重じ人を重ずる所以である事と思ひます私は眞面目に言つたつもりである只今の今も疑はぬそれであなたに對しても只今毫も疑惧を感じて居らぬあなたが分つて下さると信じてゐるもし又あなたが分らぬならば何處までも分らぬで通すつもりで御出で下さい何處までも突きつめ突き當るべき底まで突きあたるつもりで來て下さいさうでなければ無意義に終る我々はお互いに恥づべきでもない何の惧か(289)これあらん
明日成るべく早い程宜しうございます何卒御來訪下され度存じます敬具 七月二日夜十二時 久保田生
山田邦子樣御もとへ
四四八 【七月三日・封書 小石川上富坂町廿三いろは館より 市外中野町一〇一八 阿部次郎氏宛】
拜呈お蔭樣にて卷頭あんなに立派に出來候段如何ばかり嬉しく御禮申上候小生等勉強不足少しも活動せず心外存じ候歯痒く御覽下され候事と恐縮仕り候皆揃つて勉強せねばならぬと存じ入り候
來月號引續き御惠送御願申度何卒願上候小生等あまり怠慢につき今後廿日編輯〆切に致し遲刊なきを期し度貴稿成るべく十九日迄に御願申し得べく候はゞ幸甚存候猶雜誌御一覽の際御心付の廉も候はゞ細大に係らず御遠慮なく御指摘御注意下され度願上候何れ拜趨色々御伺ひ申度と存じ候御願迄匆々敬具 七月二日夜 俊彦
阿部次郎樣貴臺
四四九 【七月三日・封書 小石川上富坂町廿三いろは館より 市外代々木山谷一〇八今井氏御内 山田邦子氏宛】
拜啓萬葉集以下古今の歌人と列して批評した用意分つて下さい
矢張嚴し過ぎるなど今夜あたり考へ直してゐては困る子供の時からいつも人にほめられて居るからもある夫れは藥にならぬあの批評どんな期待を持て小生書いてゐるかといふ事少數の人には分ると思ふ夫れでいゝ《あの批評の文章は下手である》我々の批評や作品は日本中で高級の數人に分つて貰へばいゝ其他は相手にする必要がない女に對して甘たるい事言ふのは男の無責任である(今は遠慮なく言ふ)小生は貴下の歌につき大きな期待を持つてるから嚴格な事言ふそれで萬葉以下女流歌人を出したのだこの心切に分つて下され私の批評によつて多少引緊る心出で給はば小生の願足れりさう(290)かと言つて無やみに藪をたたいて惡口を言ふとにあらず穴を探さう/\と考へるに非ず分つてゐると思ふが以上少しくどく言つたのを我慢して下さい今日普通の女流歌人と伍して言ふならばあの歌集に對して何も一寸の不足を言ふ必要はない嶄然群を拔いた歌集である事は言を待たぬ併し我々は今時の群小を相手にし對照にして批評したり自分の歌を評價したりなどして居てはならぬ前田夕暮の「生る日」批評(大正三年十一月號)を參照して下さい牧水の「死か藝術か」合評(大正二年十一月?)も參照して下さい「生る日」の茂吉評(大正三年十一月)に對し長塚さんや小生等が少々奮慨したのは矢張りアララギに昔から多少標準があるからである左千夫先生の晶子評も御目に懸け度し小生等は作品はだめでも藝術を貴ぶ心は誰にも讓らぬつもりである安く人を許さぬ故苦言し安く己れを許さぬゆゑ苦作する斯樣な批評や苦作に依つてのみ我々は眞の意味の成長をする夫れを精進の心と言ひその道に居るものを精進の友と言ふ精進の友は少數である何物をも許すものは一物の長所をも認め得ぬものである分つてゐるのにくどいと思ふか知らぬがしつかり申上げて置き度い心地す猶切欠合評につき茂吉千樫憲吉の評も是非御覽下さい
小生も今廿年位は進歩して行きたい貴下は今卅年位は進歩する覺悟を願ふその頃迄にお互に大したものを出す今日の作品の如きは下の下である日本人三四十歳にして大家になり濟し早々元老顔するは片腹痛し吾々はこの線を突破する覺悟なかるべからず一生書生なり貴下も一生書生たり得る素質を持つてゐる今日の群小を相手にせず只天下後世に笑はれざらんと心掛くべき也後世恐るべしの譬なり一途專念そこに貴き苦しみあり貴き歡びあり貴き感謝あり苦歡道を共にするもの寡し寡くてよし非常に興味湧きて此手紙書くよく思へば貴下のためにのみ書きしにあらず小生の爲に書きし部分多き樣子也もし氣に食はぬ所ありとも御立腹なきやう願上候此手紙書き居るうちに今夜は勇氣出し樣子なれば新體詩でも作らうと思ひ候
勇氣の事勇氣の事小生弱蟲をせざるべし匆々敬具 七月三日夜十時 赤彦
(291)邦子樣御座右
四五〇 【七月五日・封書 小石川區上富坂町二十三アララギ發行所より 市外代々木山谷一〇八今井氏御内 山田邦子氏宛】
拜啓「光を慕ひつゝ」貴下の處にある殘部悉皆小生方へ御廻し被下度稻葉氏へは當方より御話し申上べく候間左樣御承知被下度候アララギ今月は早く〆切いたし候に付き貴稿も十五日迄に御遣し被下候樣何分願上候文章世界の貴作も拜見面白く奉存候潮音のは左程感心不致候猶愚見申上度存候野外へ時々寫生に御出掛の程祈上候事象に微細に觸れ候事尤も肝要事と存候新しき歌人此事を等閑に致し候故一般的の歌のみ作り居る事と存候そして徒らに聲を大にして主觀の燃燒など申し居り候事お人好しの至極に候まるで坊ちやんのだゞ言に候それにつけても小生等よい氣せず謙虚なる勉強心を起さねばならぬ事と存候今月の御作刮目して相待ち申すべく候夜中亂筆御許し被下度候猶アララギ今月號につき御心付も候はゞ御申越被下度願上候匆々 七日五日夜 赤彦生
山田邦子樣貴下
四五一 【七月七日・端書 汽車中より 小石川區上富坂町廿三いろは館 藤澤實氏宛】
今朝入場券を買ふ處へ洋傘を忘れしかと思ふ御問合せ置を願ふ(あそこに無ければ電車の中なり)傘はサツクに入り絹繻子張りなり金《カネ》の細い心棒にて持つ處の柄は木にして直角に曲り居れり實物は藤澤君見れば分る 七月七日
高木君の番地を忘れし故此ハガキ高木君に見せて下さい願ふ
四五二 【七月九日・端書 小石川上富坂町廿三いろは館より 市外代々木山谷一〇八今井氏御内 山田邦子氏宛】
今日の會は九人なりしも大分いゝ會でうれしくありました歌もかなりいゝのが出來ました十一時に終りました小(292)生新體詩一所懸命に作つて見ようかと思ひます歌は勿論勉強します十日會へは茂吉と一緒に行く事にしました釋迢空氏からいゝ原稿もらひました 七月九日夜 島木赤彦
四五三 【七月二十二日・端書 下諏訪町高木より 北佐久郡岩村田小學校 佐藤英保氏宛】
拜呈御返事相後れ申藥無之候如何なる御同人の御會合に候哉小生參り候て如何なる事を御話致すにて候哉歌の事ならば多少話題も有之候へ共(それも有益の話題にはあらず)其他の事一切駄目に有之候小生は廿七八日頃歸國の都合に候へ共一二日は後れ候哉も計り難く候御返事は束京市小石川區上富坂町廿三番地小生宛御差出被下度明晩歸京いたすべく候御伺迄敬具 七月二十二日
四五四 【七月二十六日・封書 小石川上富坂町廿三いろは館より 市外代々木山谷一〇八今井氏御内 山田邦子氏宛】
拜啓御發熱の由何んな御模樣に候哉殊に何か御心配あらせられ候由如何なる事かと掛念いたし候何事も寂滅の根柢に徹して世相に接し候へば環境の事相に朝夕變化すと雖も動ずべきにあらず驚くべきに非ず悲しむべきに非ず傷むべきにあらず何卒貴下の根柢まで傷ぶる事なきやう御工夫專一存じ候のんきな事言ふと御思ひなく御工夫成され候事懇望仕り候どの位の御發熱にやと心に掛り申候早く病敵退散念じ上げ申候匆々 七月廿六日 赤彦生
山田邦子樣貴下
アララギ明朝九時迄に來る筈に候若手のもの發送してくれる筈に候間御安心被下度候
四五五 【七月二十七日・端書 東京市小石川區上富坂町廿三いろは館より 信濃上諏訪町桑原町萬年小路 森山藤一氏宛】
今日からアララギ發送の筈に候
(293)拜啓「高原と湖」只今拜見仕り候例により唐紙心地よく存じ候貴君の「形式尊重論」立派な議論と存じ候形式短ければ短きほど形式を尊重せねばならぬかと存じ候俳句の事近頃殊に縁遠くて分り申さず候へ共近頃流行の俳句を見れば餘計に左樣な感じ致し候小生岩村田を經て八月一二日頃歸國可仕候岩村田で何か歌を話せとの事に候六日の會はもし諸方繁忙で惡しきやうならば適宜の日に御延し被下度此事兩角君と御話し被下度候 七月二十七日
四五六 【八月八日・繪端書 信濃下諏訪町より 東京市外中野町一〇一八 阿部次郎氏宛】
諏訪湖も八ケ岳の裾野を見通せば宜しく候毎日夕立ありて土濕ひ天の川鮮かに成り候先月末箱根へ御出での由承り候暑中休前に一度御伺ひ申さんと思ひ乍ら意を果さず殘念存候又々御稿御願申上候毎度恐縮存じ候へ共失禮の段何卒御赦し被下度候廿日迄に屆き候樣何分願上候 八月八日夜
たたなはる山のくぼみの湖に天の川白くふけにけるかも
小夜ふかく桑の畑の風はげし土用螢の流れけるかも
四五七 【八月二十九日・端書 小石川上富坂町廿三いろは館より 市外中野町一〇一八 阿部次郎氏宛】
恥かしい心持もしましたが思ひ切つて三頁出しました(小曲を)恐入りますが注意して見て居て下さいそして御氣付の事あつたら御知せ下さい懇望致します今日校正が濟みました咋夜少し亢奮して曉迄編輯所便を書きました今日は疲れました明後日國へ一寸歸ります其後御伺ひ申しますゲーテの詩御骨折下され難有存じます 八月二十九日夜
夏の日の下宿の室に我一人裸となりて寂しくもゐるか
(294) 四五八 【八月三十日・封書 小石川上富坂町いろは館より 神田區宮本町八長澤方 河野愼吾氏宛】
拜啓過日は態々御手紙下され奉謝上候同人間にて一通り相談仕り候處貴兄は古くより白秋氏につき御作歌成され居り候へば依然白秋氏と事を共にせられ候方一切の感じ好適かと存じ候小生の方にて拒絶するといふ方でなく切に貴兄の白秋氏に御始終成され候事を祈上候白秋も「煙草の花」發行の由今日の歌壇には期待少からざる儀と存候貴兄が新しき誌上にて非常の御活動成され候樣小生等一同冀望仕り候昨日やうやく校正を終へ候御無沙汰申譯無之候匆々敬具 八月卅日 赤彦生
河野樣几下
四五九〔 【八月三十日・封書 小石川上富坂町二十三いろは館より 市外代々木山谷一〇八今井氏御内 山田邦子氏宛】
拜啓只今夜十一時眠より覺めて筆を執る夕方より今迄大抵眠る頭の疲れなるべし今日は身に沁みて感謝す斯の如く深く突き入られし事なし言ばれし事明了に理解いかばかりうれしきか知れずそんな高所まで突き入り居る人少なければなり離れんとしたる動機寸分も弛緩と曖昧となし至純に人を思ふにあらずして何うして此處に到り得べき胸中を察すれば感涙する苦しかりし事よく分る此事私は全然屈服する屈服せねば心持惡し私は鈍根なれども是非曲直は嚴正に持する誠意あるつもりなり自身の惡しきを善しと辯護する勇氣なし此誠意だけは認めて下さい他の人より直截に切り込まるゝ事めつたに無きをはがゆく思ひ居れり予を思ふに非ずして何うして直截に切りこまんや切りこまるゝは直截にして至深至高至微なるを快とす今日の心境稀有にして珍し歌の傑作を見せてくれしよりも嬉し予は怒るべきを怒り威張るべきを威張りあやまるべきをあやまり屈すべきに屈するの心だけは鋭敏にあり今日の小生の心境分りくれし事と信ず 八月卅日夜
(295) 四六〇 【九月十五日・封書 東京小石川上富坂町廿三より 伊豆大島元村 土田耕平氏宛】
小生病氣せし事は諏訪の誰にも秘密に願ふ
拜啓御無沙汰致し候金の事少しも御心配を要せず御健康に一足つつ向はれ候樣御心懸け祈上候
齋藤君の申し候に熱位少しありてもよし適度の運動をし自分のすきなうまい物を食べて居りさへすれば大丈夫との事に候それから肝油飲む方よしとの事肝油無ければ御送可申上候御申越下され度候近頃の歌皆非常によし一心に御勉強祈上候決して病氣に障らずと存候それから少しつつ參考書を調べて訊正か准教員の資格取り給ひては如何定まつた仕事あればその方に心集中して少し位の病氣には却つて宜しきかも知れず候御參考迄に申上候東京府のでも長野縣のでもよしと存候資格もらへば島で教員も成し得べく候本は當方で買ひ調へて送ればよろしく候
次に小生睾丸の左の丸へ結核性の瘤出來しを八月末湯にて發見九月五日左丸全部を切り取り數日仰臥のまゝに居り候處此兩三日大に輕快もう數日にて學校へ出るべく候間御安心被下度候始末よき處へ集りし故最も確實に除去し得たるを歡び候醫師も保證してくれ自分も保證するから大丈夫に候小生平常元來よき故病毒體内に居る能はずして末端に蟄伏せしと見え候小生益々元氣にて仕事すべく候間御安心被下度候
もう十二時半にて疲れ候間亂筆に認め候匆々
體は一寸も左右へ動かれず數日間困り入り候處兩三日前より大に自由を得申候併し未だ多少疲れ居り候
東京一昨日より凉しく成り候藤澤丈夫 九月十四日夜 赤彦
耕平樣貴臺
歌十九日迄に送れ
(296) 四六一 【九月十六日・封書 東京小石川區上富坂町廿三より 攝津國須磨村 加納巳三雄氏宛】
拜呈御母堂樣御訃音に接し驚愕仕り候親子の縁容易ならず特に君の御苦心異状なりし御衷情を思へば御悲傷想像に餘り候君の自愛して世に出で給はんを期すべし亡靈の御慰藉今は此外にあるべからず乍去昨今の御心状まさに如何ばかりぞやと申上ぐべき詞もなく候懇ろに後事御營み成され候樣祈上候御香料些少乍ら同封略儀失禮に候へ共御香御供へ下され候はゞ難有存上候敬具 九月十五日
四六二 【九月十八日・封書 小石川區上富坂町二十三より 市外代々木山谷一〇八今井氏御内 山田邦子氏宛】
拜啓今日は非常に殘念致しました誠に濟みません今夜又少し鼻がつまつて氣分が變です此れは體が疲れてゐる爲かと思ひます體の恢復するまでは無理致しません明後日十一時に學校をしまひ一時迄に一寸御伺ひ申しますミケランゼロの畫も見せて下さい聖書は悦んで見ます必見ます冗談に見るのではありませんから御承知下さい藤澤君から湯のタヲルで體ふいて貰つた所ですよい心持です今夜はもう寢ます疲れてゐる樣だから左樣なら 九月十八日夜十一時
四六三 【十月一日・封書 小石川上富坂町廿三いろは館より 市外代々木山谷一〇八今井氏御内 山田邦子氏宛】
拜啓潮音にあなたの歌を見てやる人あるから惡いとやうな事書いてありあの雜誌でこんな事(若い人か書いて)言ふこと當然の事に候決して驚き給ふ勿れ大磐石の上に居る心して笑つてゐたまへ歸來目を廻し居り候明日やつと校正に候民友社愛想盡き候明日は臨時増刊の原稿も渡さねばならず今夜は徹夜に候昨夜夜行で來たから今頃からもう眠くて困り居り候小生命の限りやり可申候水曜の萬葉會はたとひ小時間にてもやり可申御承知被下度候國の(297)もの明日の夜行か明後日午前中に歸り可申候忙中ゆゑ是れ丈け申上候匆々 十月一日夜十一時半 赤彦生
邦子樣御もと
四六四 【十月十一日・封書 小石川局より 代々木山谷一〇八 今井邦子氏宛】
只今中村よりの歸りに候平福齋藤古泉小生集り平福さん五人の顔をかき五人皆歌書き候貴下がおいでならば丁度女一人入りて六歌仙となりしものをと五人して惜しみ申候惜しき事致し候明日牛後四時東京驛を出發の由もし御見送り下されば非常にうれしく候中村も惜しがり申候併し強ひて御都合には及ばず候御出でならば午後二時と三時の間に一寸電話下され度候(萬一時間を延期するかも知れぬゆゑ)明後日は十二時前に御出掛被下度待上候十一時迄には歸り居り可申候匆々 十月十一日夜十一時半
四六五 【十月十五日・封書 東京小石川區上富坂町廿三より 信濃國北安曇郡大町 金原よしを氏宛】
久しく御無沙汰致し候御手紙難有拜見いたし候金御送被下奉謝候御都合も有る事に候へば御送金下さらぬ場合も雜誌は御送り可申上候御遠慮はいらず候人に惡しく思はるるは思はるる人に惡しき所あるべし他人の心は比較的公平なるが故也小生の惡しきなりと思ひ候何處へも出ずに居り候
只今歌集と増刊號にて一寸のひまもなく候放これにて失禮いたし候御自愛祈上候 十月十五日朝 久保田生
四六六 【十月十六日・端書 東京市小石川上富坂町廿三アララギ發行所より 信濃國諏訪郡豐平村下古田 長田林平氏宛】
只今林泉集と檜抓にて非常に繁忙に候
彌々御入營の由それまでに詳しく批評して御返稿可申候入營後もすきあらば御勉強成され度萬葉集の如きは兵營(298)に持ち入りても叱られはすまいと思ひ候作らずとも見て居れば宜しく自然に湧き出で可申候アララギも絶えず見て居られ候樣祈上候ユツクリ修業するつもりで兵士になり可申却つてよき歌人となり得べく熱心に兵務御つとめの程祈上候 十月十六日 島木赤彦
四六七 【十月二十一日・封書 東京小石川上富坂町廿三いろは館より 長野縣下伊那郡飯田町 湯本政治氏宛】
拜啓今更御詫びの詞も無し
御歌稿により御子樣御不幸と心付き直ぐ御伺ひ申さんとして今日に至り候如何に忙しとてこれほどの怠惰何とか申さん辯ずる詞も無之候昨夕の御手紙にて彌々御不幸と明り候如何なる御病氣せられしに候哉どのお子樣に候哉御心中深く御察申上候御令閨樣御丈夫か嘸かし御力落しなるべし御心中拜察に堪へず候小生只今頑健に候八月末結核性副睾丸を生じ切斷致し候(左の睾丸と共に)早く見付けしため體の内部に及ばず幸甚奉存候結核なる事は秘して居り候只今頑丈にて從來通り勉強敦し居り候間御安心下され度候今月は林泉集と臨時號にて寸暇なくやり居り候中村歸國してしまひ小生皆しよひこみ閉口致し居り候十一月號も編輯せねばならず困却此事に候
金一圓些少に候へ共御靈前に御燒香被下度略儀失禮乍ら爲替券にて御送申上候不惡御承知被下度候皆々樣御自愛專一奉存上候 十月廿一日 俊彦
湯本老兄臺下
林泉集も檜抓も遲れ可申御承知被下度候
四六八 【十月二十一日・封書 東京小石川區上富坂町廿三より 信濃諏訪郡永明村塚原 矢崎源藏氏宛】
謹呈突然御願申上候段心外奉存候格別深交なく又アララギと關係なき貴下に對しアララギの事御願申上候儀常識(299)なきに似たるを思ひ恐縮奉存候アララギ從來民友社に印刷せしめ居り候處組代印刷代其他すべて格別の高價にて引き合はず他に印刷せしめんと欲し候へ共小生引受當時の借金そのままになり居り候へばそれを殘して他へ持ち行くこともならす自然放任いたし置候處他に比して餘りの懸隔に有之例へば一頁組代民友社三十五錢に對し他は二十五錢總頁數毎月全部百頁としてこれのみにて十圓の相違あり刷代の如きは他の二倍半になり居り月々すべて拾數圓の差を生じ居り候次第民友社にては官廳の仕事を主とし居ればアララギの如きは眼中に無くその上官廳並の代價を求め居り候餘り馬鹿馬鹿しければ此際如何にもして全部償却の上他へ廻し申度と焦慮致し居り候去り乍らアララギは貧窮にして利息多き金など借り居る事相成らず即ち思案の末貴下に御願ひして毎月割賦にて御返却の方法を以て御惠借御願ひ申し得べきかと考へ候次第に候關係なき貴下に對し斯の如き事御願申候心中甚だ逡巡に堪へず萬一格別の御侠意を以てアララギ現状御憐み下され候はば如何ばかり幸甚奉存候この御願普通ならざれば成立するとはゆめゆめ思はず萬一の場合もと存じ御聽に入れ候次第失禮の段幾重にも御海容被下度候
一、民友社よりの數年前よりの借金三百圓に近し
一、現在殆ど千部を出し居り發行費すべて百二十圓程也此金はゆつくり支拂ひ居れり
一、二百圓の御恩借を願ひたし
一、十一月より毎月二十圓宛十ケ月間に御返却の事に致し度し
一、利息は失禮なれども非常に少く願ひたし
一、アララギ一昨年小生引受け當時發行三百五十部なりしを只今千部に達し候事なれば來春よりは千二百部位を見込み候ても無謀ならずと存じ候即ち毎月二十圓の御返金は餘裕有之儀と存じ候御恩借により毎月の發行費二十圓以上づつ減じ候はば未來永久にアララギの幸福に候現在にてもこれ丈けの餘裕は有之候
猶アララギは近きうちに萬葉集檜抓を出し可申(橘守部遺著)この方にも少々困難致し居り候此方は多少の損失と(300)存じ候へ共寄附者も有之只今折角校正中に候幾分にても有益な仕事致し度心願に候別封アララギ近刊號御一覽願上候敬具 十月二十一日
四六九 【十月三十一日・封書 東京市小石川區上富坂町二十三アララギ發行所より 信濃諏訪郡永明村塚原 矢崎源藏氏宛】
謹呈今囘は突然御無理なる御願申上候段失禮此上なき儀と恐縮仕り候然る處却て金員の御寄贈を蒙り御高志感謝の至に不堪御禮の申述べやうも無之候拜借の儀は御申遣しの段御家法必至の理正に拜承仕り候爾後乍粗末アララギ毎號貴覽に供し度御笑留下され候はば幸甚奉存候早速御厚禮申述べきの處本月は多忙殊に甚しく毎夜三時乃至五時迄起き居り候有樣にて遂に今日に至り候段重ね重ね恐縮奉存候右謹で御禮申述候敬具 十月卅一日
四七〇 【十一月十五日・端書 東京小石川區上富坂町二十三アララギ發行所より 信濃下諏訪町高木 久保田不二氏宛】
大分快し御安心下され度候只頭痛相変らず甚しきのみ何故に頭痛するかは八月以來の事なり此打撃非常なり如何とも致し難し予の頭痛除かるる事は予及び予の周圍のすべての至大なる幸福なるかを知れり斯く痛むこと一度もなし殆ど堪へられずして寐てゐる熱下る早く歸宅すべし 十一月十五日
四七一 【十一月廿一日・端書 東京小石川區上富坂町廿三アララギ發行所より 信濃國諏訪郡永明村矢ケ崎俵井旅館方 よろづ葉會アララギ會長田・田中二君送別會宛】
拜啓露村林平二君入營につき御會合の由丁度いゝ機會だから歌の議論でも徹夜してやり給へ小生今月二日から臥こんでゐる臥てゐると用事がないから議論でもしてまぎらしたくなる妙なものである熱が少し位ある方が元氣が出るものである今一週間も臥てゐれば起きられるつもりである今十二月號をまとめてゐる埒が明かなくて困つてゐる露村君長田君に申上るが入營は非常にいゝ鍛錬の機會であるさういふ鍛錬を經る事が歌の修業の重大な部分(301)である御健在を祈る 十一月廿一日夜
長田田中二君送別會御中
四七二 【十一月二十三日・封書 東京小石川區上富坂町廿三より 信濃諏訪郡豐平村下古田 田中周三氏宛】
愈々御入營の由萬端御心忙しき御事と存上候一生中のよき修養期に候へばしつかり御鍛への程祈上候御入營にても一二ケ月經候はゞ少し位歌作られ可申成るべくつづけて御勉強の程祈上候今度の御稿非常の傑作に候此の分にて御進みならば大したものに候十二月號へのせ可申當方へ書きうつして御稿は御返し申上候小生病中簡單にあらあら申上候御自愛專一奉存候匆々 十一月廿三日 俊彦
四七三 【十二月二日・封書 東京小石川區上富坂町廿三より 市外代々木山谷一〇八 今井邦子氏宛】
拜啓御病氣の由驚入り候併しさう取越苦勞してはいけませぬ早まはりして心配する位損の事なしと存候御工夫のほど祈上候小生未だ床上にあり昨今アララギに目を廻し居り御無沙汰申譯なく候御心配のやうな事決して心にかけられぬやうくれ/”\も祈上候今度の貴下の歌よくよめば益々宜しくうれしく存候明日は製本相成可申御目に懸け得べく候夫れから一月號は十日が〆切に候間その御つもりにて今より御作り被下度願上候うんと御ふん發被下度候病氣に決してくよ/\なされぬ樣祈上候早く御全快にて御來遊被下度待上候小生も來週よりは出校して見ようかと存じ候猶御申越の品は小包便にて明日差出し可申御承知被下度候
小生の深林評は丁度十頁になり候少し熱ある時の方亢奮して仕事出來るらしく候寢てゐて左の肱をついて書く故うまく書けずこれにて御免蒙り候かへす/”\も御心配なさらぬ樣念じ上候いろ/\にて寢てゐても忙しくらつくり出來申さず候御自愛專一奉存候匆々 十二月二日 赤彦生
(302) 邦子樣御もとへ
こんな上等の紙へはじめて書き候そのわけアララギ御覽になれば分り候呵々
四七四 【十二月四日・封書 東京小石川區上富坂町廿三いろは館より 備後國双三郡布野村 中村憲吉氏宛】
奥樣によろしく御産前御大切に
只今御手紙拜見小生猶床中に在り困り居り候快方には向ひ居り候間御安心被下度候金御送被下候由奉謝候付ては此間申上げし如く今あと百三十圓大至急御工面被下度何分奉願上候萬葉檜抓此の八日に出版の處只今口座に十八九圓あるのみ如何とも致し難く候此儀大至急願上候林泉集評判よろしく候賣行も六百部は慥かと存じ候すべて前便に申上げし事と存じ候間御承知被下度候アララギ今日發行に候小包は未だ著せず今日は來るならんと存候 十二月四日 俊彦
憲吉兄
◎選歌は八日に發送の程奉願候
◎峽村雜記二三頁にてもよろしく必御發迭被下度十三日以後著にては困る選歌は必八日御發送願上候
四七五 【十二月五日・端書 東京小石川區上富坂廿三より アララギ會員宛】
拜啓盆々御清榮奉賀候陳ばアララギ會計御承知の如く從來困難敦し居り候處印刷所變更のため多年の負擔を一時に處置せざる可らざるの境地に立ち至り年末の際非常に急迫を告ぐるの現状に有之候特に此の際會員諸兄の御助勢相願ひ候外道なく甚だ恐縮に候へども貴下地方會員大正六年一月迄今月十五日迄に屆き候樣御送附被下度此段奉願候猶御註文被下候「檜抓」遲刊申譯無之候今月十日頃製本相成可申種々の事情アララギ御一覽にて御承知御容(303)赦願上候元來「檜抓」はアララギとしては殆ど無謀に近き企に有之旁々困難不尠諸兄の御助勢猶何分奉願上候御依頼迄匆々敬具
追て會費計算に誤り有之候はば詳細御知せ願上候十五日と定め候は發行所專務のもの三人共年末歸國の要有之候ために候不惡御諒察願上候
大正五年十二月五日 久保田俊彦 齋藤茂吉 古泉千樫 中村憲吉
四七六 【十二月九日・端書 東京小石川區上富坂町二三番地より 府下巣鴨一六二三 半田良平氏宛】
圖畫教育いつも難有存上候檜抓は差上るつもりにて居り候
拜啓御手紙難有存上候小生の評未だ徹底せず言ふべき事多く殘り申候何分二ケ月に亙る臥床にて元氣出で申さず候年内に快復新年より少し仕事致し度存居り候貴兄の御作も批評もおもしろく拜見致し居り候「深林」の貴評は非常に宜しく存候現歌壇につき少しの不平讀賣新聞へ二三日前送り置き候御一覽被下候はゞ難有存上候猶貴見も拜承致度候臥てゐるのゑハガキにて御免被下度候匆々不盡 十二月九日
四七七 【十二月十日・端書 東京市小石川區上富坂町廿三番地アララギ發行所より 本郷區菊坂町菊富士本店 赤木桁平氏宛】
漱石先生御訃普驚嘆の他なく候痛惜とは此事に候敬具 十二月十日
四七八 【十二月十二日・端書 東京市小石川區上富坂町二十三番地アララギ發行所より 信濃國諏訪郡玉川小學校 兩角丑助氏宛】
小生追々快方御安心被下度候
拜見仕り候婦人會御開催の由小生御招待被下候に付き是非共參上いたし度候處小生儀十一月二日より病臥今に至(304)るも學校を休み居り候處數日前より又々發熱の模樣にて全く平臥の有樣にて何分參上致しかね候段不惡御承知の程願上候猶會費の儀記帳まちがひ申譯無之候御申越の通りに有之候大へん失禮致し候事に候直樣玉川の會員へ御詫状出し可申御承知の上御海容被下度候 十二月十二日
四七九 【十二月二十四日・封書 東京小石川區上富坂町二十三いろは館より 信濃國上諏訪町片羽町 牛山郡藏氏宛】
拜啓本日信濃銀行支店伊藤清四郎氏より約束手形用紙送附下され候間記入捺印の上御願に及び候未だ御承諾の御返事に接せざる由にて失禮至極に候へ共急速を要し候場合御高恕の程奉願上候猶御手數の段恐縮に候へ共此金信濃銀行より御受取下され送料書留料金等すべて御差引の上御送附御願申度此金受領の上直に歸國仕るべく夫れ故取急ぎ御願に及び候段御高諒の程願上候歸國の上參上萬々御禮申述べく先は乍卒爾御願迄申上候匆々敬具 十二月廿四日夜
四八〇 【十二月三十一日・端書 小石川區上富坂町廿三アララギ發行所より 信濃諏訪郡四賀村桑原 高木今衛氏宛】
今頃は年取りしてウツカリしてゐるだろ午後座敷スツカリ片付けて顔剃りに行き藤澤と二人で夕飯たべ未だ起きてる是より寢る處だ病氣の模樣大へんよろしい福山へも皆拂つたから御安心下さい平福さんから君に校正御苦勞樣と申して來た君の兄さんより手紙來て振替で御出し下され候由今につくだろ兎に角いろは館へは皆拂つたから御安心あれ藤澤の下宿は昨日神田へきめた森山君より振替屆き候 十二月三十一日
(305) 大正六年
四八一 【一月五日・封書 東京小石川區上富坂町廿三いろは館より 伊豆大島元村 土田耕平氏宛】
正月も五日になつた大抵は寢てゐるが具合は大へん宜しい八日から完全に出校し得るつもりだ君のはあんまり思はしくないがどうか心落著けて養生してくれ玉へ金を壹圓丈け送るこれは正月の小使だ少くて惡いがおれも餘り餘裕がないから惡しからず受けてくれ玉へ歌一頁づつ送つてくれ玉へ新年號賑かでよかつた女流が非常の進歩だ負けてはならぬズン/\作つてくれ玉へ藤澤は當分勉強ため神田の素人下宿へ行くことにした今日引移る筈である高木は今日あたり歸京する高木は一月から東京驛へ勤める筈古泉は四五の諸雜誌新聞へ歌出してアララギへ違約してゐる例の如しと思へど不都合なりし御自愛を祈る匆々 一月五日 俊彦
耕平様
四八二 【一月九日・端書 東京小石川上富坂町廿三いろは館より 信濃諏訪郡豐平村下古田 長田林平氏宛】
謹賀新年 忍辱者のみ多力者なり又曰、素以て絢をなす 一月九日 島木赤彦
四八三 【一月十日・封書 小石川上富坂町二十三いろは館より 市外上目黒五八五 平福百穗氏宛】
(306)拜呈過日はとんだ御心配御かけ申し誠に恐縮の至存じ候七日の夜千樫君來り昨日茂吉君來り何れも熟談アララギのために何處迄も結束するの意をお互に披瀝し候事勿論の事乍ら欣暑の至存じ候昨日は釋君を誘ひ三人して酒を飲み夜一時半迄快談いたし小生も新年度はじめて正月らしき心持に成り嬉しさに不堪候とんだ御心配相かけ條事非常に相濟まず存じ候へ共之を動機としてアララギの活動が新に目覺しく相成候事かと存じ候何卒相變らず御策勵の程奉祈上候右取敢へず御勵旁御知せ申上度此の如くに候敬具 一月十日 俊彦
百穗畫伯侍史
小生數日前より尿の模樣全く平常に復し昨日齋藤君より見て頂きもはや萬事解禁致され候間御安心願上候乍去用心猶必要と存じ居り候明日か明後日一寸歸國一二日して歸京の上御伺ひ申度存じ候
四八四 【一月二十四日・端書 小石川上富坂町二十三番地アララギ發行所より 神田區一橋通五番地池田方 藤澤實氏宛】
今日は廣告原稿の手傳願ふ夜の學校終へたら原稿をこゝまで取りに來てくれよ高木君が六時七時八時の間に君の處へ行く筈なり二人で今夜中に發送してくれよ以上匆々 一月二十四日
四八五 【一月二十四日・端書 小石川上富坂町アララギ發行所より 下谷區東黒門町二十四 津端修氏宛】
甚恐縮に候へ共原稿廿七日朝速達にて御送可申上此犠御承知被下度願上候匆々 一月二十四日
過日は例により御粗末致し申譯無之候
四八六 【一月三十日・端書 小石川上富坂町アララギ發行所より 下谷區東黒門町二十四 津端修氏宛】
拜啓體の具合も惡しきに校正疊まり來り執筆到底困難に候甚以て恐縮存上候何卒一ケ月御休ませ被下度二月は成(307)るべく早く役を果し可申御詫迄匆々
四八七 【二月五日・繪端書 東京小石川上富坂町いろは館より 信濃下諏訪町高木 久保田初瀬氏宛】
平福さんの繪は大したものです明日送ります今日は齋藤と岩波書店主人と酒をのんで話しました 二月五日
四八八 【二月十二日・端書 東京市小石川區上富坂町廿三番地より 四谷區北伊賀町十七 山宮允氏宛】
拜啓今日は御著英詩抄御惠贈下され難有拜受任り候大へん心持よき書物に候三月號にて御紹介可申上候御勵迄匆々 二月十二日
四八九 【二月十五日・封書 東京小石川上富坂町廿三いろは館より 信濃諏訪郡豐平村 小尾喜作氏宛】〕
拜啓小生全快御放心下され度候暖地へ行かれるとの御意見は君か御家族かの健康上よりの問題に候哉伺上候然らざれば御中止祈望致し候君のために永く湖東に止らんことを祈り候湖東に數十年居りてほんとうの教化を施さんことを望み候轉々して歩き候はゞ一生虻蜂取らずになり可申教員として何の主我もなきに終るべく傾轉任などを普通とするは從來の惡しき傾向と存じ候湖東位の村柄ならば辛棒出來申すべく候そんなによい所は無之ものと存じ候此儀よくよく御考への程祈り上候御周旋願上候金員誠に相濟まぬ次第に候何とか出來る丈けの都合致度存じ候元利共にてどの位になり居り候哉一寸御知せ被下度候學校は勤勉にて健康の人にて御固め祈上候これ以外によき條件は無之候匆々以上 二月十五日 俊彦
石馬樣貴臺
(308) 四九〇 【三月十四日・封書 東京小石川區上富坂町二十三より 信濃國南安曇郡東穗高村 唐澤うし子氏宛】
敗復御轉任さき御定りの由奉賀上候月末御上京の由其頃丁度小生は國許へ歸り可申或は御面談を得ざるかと存じ候此度は家族引まとめ東京に一家を構へ申度試驗休中にやつてしまひ申度と存じ候小生も色々にて健康すぐれず一意專心小生の仕事を勵み申すべく命あるうちに仕事して置き度存じ居り候
萬事御注意專念その道のため御盡し下され候樣奉祈上候御轉任にて萬事御忙しき御事と存上候折角御加餐の程奉祈上候敬具 三月十四日夜 久保田生
唐澤樣貴下
四九一 【三月十九日・端書 小石川區上富坂町二十三アララギ發行所より 神田區一橋通五池田方 藤澤實氏宛】
試驗終へたら平氣なるべし明日午後來れ 三月十九日
四九二 【三月十九日・封書 東京小石川上富坂町廿三いろは館より 長野市後町小學校 藤森省吾氏宛】
拜啓〇〇氏より別紙の如く申來り居り何卒出來る丈けの御盡力願上候此手紙君に見せる事〇〇氏へ惡いかも知れず小生今は絶體安靜を要して寢て居り候長い手紙はかかれず御許被下度候
又睾丸が瘤を生じ來り候當分如何なる人にも秘密の事匆々 ねてゐて書く 三月十九日 俊彦
君から〇〇へ何とか言つてやつてくれ玉へ
藤森君
(309) 四九三 【四月二十七日・封書 東京小石川區上富坂町廿三いろは館より 伊豆大島元村 土田耕平氏宛】
拜啓御稿なく殘念に候今月より毎月島日記一頁づつ送られ度候此事是非願上候小生半分寢てゐるためアララギ未だ編輯せず候明日はやり可申候病勢は大へん宜しく候間御安心被下度候御上京のよしそれもよからむ靜坐もやつて見るべし金五圓送る御落手被下度候
歌をやめてゐてはいけぬ何をしてゐる 四月廿七日曇天風 床上にて 赤彦
耕平君
島日記の事忘る可らずどんなものでもよし五六ケ月分書き溜めてから歸京せよ一ケ月分づつ紙を別にする事
四九四 【五月六日・封書 信濃下諏訪町高木より 靜岡縣沼津町商業學校 小池元武氏宛】
拜呈貴下が躊躇する心は同感出來る心地致し候へ共何人も適任と謎める事は間違つて居らぬかと存じ候岩波氏の事業は御承知の如く献身的のものに候岩波氏を助けんと貴下が決心なさる事は岩波氏と岩波氏を知るものすべての喜びに候此事御分り下さらば幸甚奉存候費下に萬一猶遠慮あらば夫れは岩波氏に取りては遺憾なる事なるべきを信じ候御斷行の時期にあらずかと思ひ候差出がましく候へ共切寛恕願上候 五月六日夜 俊彦
四九五 【五月六日・端書 信濃下諏訪町高木より 東京市外中野町淤一〇一八 阿部次郎氏宛】
アララギ御稿奉謝上候七日に出で可申大へんの遲刊に候
(310咋夜歸國只今思潮のダンテ生涯を見終りし處に候嚴肅なるこの雜誌が現代思想界の總てから渇仰さるゝ事を欲し候雜誌界の新生に候事と欣幸不尠存じ候小生大へん快く成り候ゆゑ今度は家族を連れて上京するつもりに候小さい家を營まんと存じ候家定らず定まり次第御報可申上候此間は御ハガキ難有存上候匆々 五月六日夕方
明日一先小生のみ上京十二日頃引うつるつもりに候
四九六 【五月十日・端書 小石川區上富坂町廿三アララギ發行所より 神田區一橋通五池田方 藤澤實氏宛】
非常に御心配下され候處雜司ケ谷町龜原五番地によき家見付かり候依て明日成るべく早く御出で御手傳の程願上候匆々 五月十日
四九七 【五月二十一日・封書 龜原五より幸便 本郷區湯島天神町丸中館方 高木今衛氏宛】
配啓今夜お萩の餅をつくる待つてゐるから五時に來てくれ給へ 五月廿一日 赤彦
歌あらば持參の事
今衝樣
四九八 【五月二十二日・封書 市外雑司ケ谷龜原五より 市外中野町一〇一八 阿部次郎氏宛】
この手紙認めし處へ南安曇の小泉信平君來たり此手紙不要と成り候へ共他の御願もあり候ゆゑ此儘差上候御承諾下され候由奉謝上候
拜啓過日は態々御出でを願ひ失禮のみ致し申譯無之候諸兄御揃ひ御出席下されアララギ未曾有の盛會となり欣喜(311)此の事に存じ候少し御心地惡しく御歸り成され其後の後模樣心に掛り候大したる事も無之候哉伺上候今日は御願の件二つあり
一、長野縣南安曇教育會にて貴兄に二日間の御話を願ひ度き由にて代表者上京致し候に付き豫め御内意小生より伺ひ呉れよとの事これはこの郡の人々より時々申されし所に有之彼地主として青年教育者の熱心なる希望に候へば成るべく御承諾相願度御意見小生迄御洩し被下度願上候期日は六月初旬迄ならば何日にても宜しかるべきも或は土、日二日に亙るを好郡合とするやも計られず候六月上旬迄が御不郡合ならば其後にても宜しとの事に候つまり御話さへ承わ得れば宜しき事と存候題目などは申來らす候へば倫理美學其他文學に干する何等の御話にても宜しき事と存候御忙中恐縮に候へ共御快諾下され候はゞ幸甚奉存候
二、ゲーテ詩抄御稿來る廿五日夕方迄につき候樣御惠送相願度毎度乍ら御願申上候御承諾の程願上候用事のみ匆々敬具 五月二十二日 俊彦
阿部次郎樣貴下
月末迄に一度拜趨致度存じ候山田さんも同伴致し度と申居り御承知願上候
四九九 【六月六日・封書 東京市外雑司ケ谷龜原五より 長野市神明町神明館 守屋喜七氏宛】
拜呈昨日は失禮な手紙差上慚愧致し候學校より歸りて入違ひに貴書拜見今日佐藤氏よりの書面著致し候就ては甚恐入候へ共左記御返事下され度御厄介願上候
一、(イ)編輯は何時も何日を〆切として居りしか (ロ)發行は一日なりや (ハ)以後發行日を變更するは困り候哉
以上アララギ編輯との千係あり
一、小生の仕事は常に何か書き且つすべての原稿を取捨鹽梅して期日に編輯を終へれば宜しきか若くは夫れ以後(312)の校正迄も引受るにや
一、印刷は何處なるか
一、紙及び印刷費同じ値段ならば東京でやり東京より發送しても宜しきか
(この項はもし小生の領分ならざれば御返事に及ばず)
一、信州各地全員及學校より來る原稿は毎月多きか少くて困るか隨分催促せねば集らぬか従來の模樣如何
忙中亂筆申譯無之御返事成るべく御取急ぎ被下度此手紙三村君へも御見せ被下度其他干係諸君へ御示し差支無く候風邪して寢てゐて書く匆々以上 六月六日夜 俊彦
守屋君三村君貴臺
五〇〇 【六月九日・封書 市外雜司ケ谷龜原五より 神田區一橋通五池田方 藤澤實氏宛】
拜呈昨夜申した事は少しよく考へてくれ給へ僕の方も望みが叶ふし君の爲めに決して不爲めにはならぬと思はれます(窮屈であるから一層勉強に都合よいかも知れませぬ)元來一心に勉強する決心さへ付けば何處に居ても勉強出來ぬといふ事無いと思ふ僕が君のために出來る丈けすべての都合を考へて取計ふのだからこの處よく考へて見てくれ給へ窮屈だと考へる樣では未だ君の決心のしかとせぬ證據であると思ふ長野の方は殆ど話が進行してゐるのだ餘り氣樂な處に居ては長い間にはつまりいけないのである 六月九日 俊生
藤澤君
五〇一 【六月十四日・橋書 雜司ケ谷龜原五より 芝區三田北寺町西藏院 宮地數千木氏宛】
拜啓御蔭樣にて木の樣子相分り難有奉存候御多忙中とんだ御手數相かけ恐入り候小生毎晩殆ど徹夜致し居り候へ(313)共間に合はず困居り候御歌十九日迄に御郵送の程願上候匆々 六月十四日
池田君に宜しく願上候横山の歌も十九日迄の事
五〇二 【六月三十日・橋書 東京市外雜司ケ谷龜原五より 山形縣南村山郡本澤村菅澤 結城哀草果氏宛】
アララギ明日は出來可申候
拜啓遠藤書店の事とんだ御心配を願ひ難有存上候返送は小生及び高木二人共覺えなけれどこちらにも手落も忘却も多き事ゆゑ勿論貴示の如くにて宜しく御陰樣で落著難有御禮申上候
とにかく今迄送金せずして居るのは先方が人柄よしとは思ばれず候アララギにつき貴君の如く御掛念下され候事如何ばかり心強くうれしく存候御禮まで匆々 六月卅日夜
御尊父樣如何御大切可被成候
五〇三 【七月十一日・封書 東京雜司ケ谷龜原五より 長野市後町小學校 藤森省吾氏宛】
拜啓御柄氣なりし由此間長野迄日歸りに參り候も失敬致し候
私今度信濃教育の方をする事に成り八月號より著手する事に成り候萬事御助勢被下度願上候校正をどなたかに願ひ度きかも知れず毎月多少の謝禮をしてどなたにか願はるまじく哉急がずともよし御考へ下され度候此内一寸參上するかも知れず萬事御面談にゆづる匆々 七月十一日 俊彦
藤森君
もうすつかりよきか時節柄御用心專一に候
(314) 五〇四 【七月二十四日・端書 東京市外雑司ケ谷龜原より 長野縣諏訪郡豐平村御作田 兩角波雄氏宛】
君に言海をやつてあるあれがあれば假名ちがひや漢字のまちがひはせずに濟む筈であるそれを相かはらず間違つてゐるのは君が文字の書き方や假名遣ひに忠實でないためであるすべてに對して忠實でないうちは歌も上らないと思ひ給へ 七月二十四日
五〇五 【七月二十四日・端書 東京市外雑司ケ谷龜原五より 信濃諏訪郡豐平村上古田 永田健一氏宛】
御合格のよし軍隊生活によりて御鍛錬なさるは非常によき事に候御勇みにて御入隊成さるべく候匆々
御兩親樣によろしく 七月廿四日
五〇六 【八月三日・端書 東京市外雑司ケ谷龜原五より 秋田縣仙北郡六郷町 高橋哲之氏宛】
拜呈小生明日北海道へ參り歸途秋田縣通過致し候忙しく候ゆゑゆる/\御面會六ケ敷候へ共御都合により一列車の間位大曲町へ下車してもよろしく候此事丹羽富二君へも御知せ申置候 八月三日
御用候はゞ北海道後志國余市大川町三溝與八郎方小生宛御發信被下度候秋田縣に入るは十日か十日過と存候
五〇七 【八月五日・端書 鹽釜より 東京小石川區金富町高梨方 折口信夫・鈴木金太郎氏宛】
昨夜は難有存上候今夜より石原さんから方々連れて歩きて頂き今夜四時に立ち可申候
山門の道古りにけり鹽風に梢枯れたる松の木の下
(315) 五〇八 【八月六日・繪端書 中尊寺より 信濃諏訪郡下諏訪町高木 久保田政彦氏宛】
さても義臣すぐつてこの城にこもり功名一時の草叢となれり……
五月雨の降り殘してや光堂 芭蕉
五〇九 【八月六日・繪端書 陵中中尊寺より 信濃下諏訪町高木 久保田不二氏宛】
昨日朝早く仙臺につき石原さんを訪ね直ぐに石原さんから伴れて方々見せてもらひ昨夜一晩御厄介相成り松島へも鹽竈樣へも伴れて行つて頂き候今朝四時半出發只今中尊寺へ參り候此邊一望平蕪自ら他と趣を異にせり匆々 八月六日
今夜陸奥のアサムシへ泊る明日北海道行、八月十一日と十二日二日間上スワで石原さんの講習あり十一日の午後一時頃布半へお訪ねしてお逢ひ申しよくお禮を述べて下さい眞綿持つて行くがよしお前がもし都合惡しければ政彦でもはつせでもよし健次でもよし二圓なら猶よし一圓でもよし
五一〇 【八月十日・端書 小樽より 旭川六條通十二丁目 田中彌藤次氏宛】
拜啓明十一日新得迄行き引きかへして午後十一時卅分旭川驛著驛前の三浦屋宮越屋のうちに泊り翌十二日諸兄に御逢ひ可申御承知被下度候 八月十日夜
五一一 【八月十二日・繪端書 北海道下富良野より 東京市外雑司ケ谷龜原五アララギ發行所 藤澤實氏宛】
昨日は石狩十勝國境の峠を越しました鐵道が螺旋状にめぐりめぐつて山の上に出ます十勝一面の森林が天と接し(316)てゐます一寸驚きましたこの停車場の下猶四哩餘下りて新得といふ驛あり小生十五日の朝に歸京する色々たのむ 八月十二日
五一二 【八月十九日・端書 東京市外雜司ケ谷龜原五より 秋田縣大曲町農事試驗場 丹羽富二氏宛〕
どうも忙しく御訪ねしてすみませんでした汽車に乘つてからも心殘り致しました此の次は屹度ユツクリ參上致しますから今度のセツカチを御許し下さい歌を澤山御つくり下さい福島ではあの翌晩出立して歸京しました伊藤君伊岐君にも逢ひました門間君は大分快くなられました只今アララギで一心になつて書いてゐます御禮のみ匆々
佐藤君によろしく願上候(御名前御住所を却らず) 八月十九日
五一三 【八月二十六日・端書 長野市逢瀬館より 東京市外雜司ケ谷龜原五アララギ發行所 藤澤實氏宛〕
拜見「△釋古泉兩氏選歌のみ」とある項目は何の事か意味不明なり兩氏の選歌未だ來ぬとならば齋藤に話して十月號へまはすべしその場合は兩氏の選歌未着につき兩氏分は十月號に廻るよしアララギへ御記載被下度候此事御返事願上候加納君歌一段は十月號へ廻してもよろしく候その他雜誌編輯上の具合如何齋藤君の歌來りしか之も御知せ被下痩候兎に角一日の發行が後れるやうでは困るからおそい原稿は仕方なく十月號へ廻すべし猶中村君の歌あと一段は來りしか來ねば待たずに進行すべし後らせては困る不二子等明日午前九時十三分上スハ發にて飯田町につくべく荷物等何卒願上候一枚のはがきに幾所も不明の所あるやうにては困る國語讀本を勉強すべし〇廣野君歸京せしか〇不二子等著したら知らせよと御申傳被下度候 八月二十六日
五一四 【十月一日・端書 雜司ケ谷龜原五より 神田區小川町一長井方 高木今衛氏宛〕
(317)昨夜は二人して戸を押へて曉に至り候御蔭樣にて無事御安心被下度候御知せの事は何かの間違なるべし御心配無用なるべし内容分つたら一寸御知せあれ金二圓岩波様へ預け置く故御受取被下度候 十月一日
五一五 【十月二日・端書 東京市外雜司ケ谷龜原五より 信濃下諏訪町 久保田政信氏宛〕
拜啓卅日の夜の風雨は東京市中大したるものにて死者のみにても百數十人あり行方不明多數あり大なる家屋さへ崩壞せしもの多く候小生方は夜三時より危くなりしため藤澤と二人にて二階の雨戸を力一ぱいに押して五時に至り二階の下にはふじとはつせが子供を負ひてまさかの時逃け出す用意して居り候隣家の二階は皆破れて避難致し候小生の家のみ助かりしは沈著に大膽に雨戸を押して居りしためと存じ候右御安心下され度候今日も未だ腕がいたく候呵々
五一六 【十月五日・封書 東京市外雜司ケ谷龜原五番地より 長野市箱清水 藤森省吾氏宛〕
拜啓五六日前良藏君に逢ひしも小生手紙出すひまなく思ひ乍ら失敬して居り候良藏君は長野へ行かれぬらしく候隨分忙しくやつて居られ候君の轉地の事については充分承知して居られ候へば其の方面は安心して專心に治療の方に努められよ熱は未だ出で候哉體と心と双方を平靜に保たれ候樣祷上候そのうち本復請合と存じ候只此際を利用してのんきに好きな事我儘して見給へ勉強の好機に候考へて見給へ毎日勤めをもてる人如何に焦心したりとて勉強はいくらも出來ぬなり一年一心に勉強したらばいゝ加減の事に非ず熱平靜になりたらば直ぐ始め給へ他の人人の事は暫く心配する事を中止し給へ守屋君等の事は夫れ/”\心配する人あるべし土田の事も同樣なり土田今月アララギの文章大したものなり體も追々恢復するらしく候アララギ水害のため瓦斯動力供給せず印刷所の方著手する能はず明後日頃より刷る事になるべしこれは小生も甚だ損害なり仕方なき事に候嵐の夜は藤澤と二人で徹夜(318)して二階の雨戸を押し居り下には妻が子供を負ひ二階から命令下れば逃げ出す用意して居たり幸無事御安心下され度候近隣皆二階を破壞せし中に立ちて小家のみ少しの破損もなかりしは全く沈着なりしの致す所と大へん愉快に存じ候他の家は皆避難致し候事を夜明けて知り申候くれ/”\も御大切に願上候御令閨樣にもよろしく願上候 十月四日夜 俊彦生
五一七 【十月六日・端書 東京市外雜司ケ谷龜原五より 松本市安原町 三原與十郎氏宛】
御見舞被下奉謝上候馬吉君と二人にて徹宵戸を押して凌ぎ申候妻子は逃仕度して土間に立たせこれもそのままにて夜を明し候近隣皆二階を破られ中には全壞もありしやにて無事なりしは天※〔示+右〕と存居り候御安心被下度候匆々
水害にて瓦斯動力杜絶アララギ印刷出來ず大へん後れ可申候 十月六日
五一八 【十月八日・封書 東京市外雜司ケ谷龜原五より 備後國双三郡布野村 中村憲吉氏宛】
拜呈手紙書かん/\と思ひ乍ら失敬しました何だか落ち著いて居られない氣分が續きました今日やつとアララギ發送の手順になつて少し安心しました毎日印刷所へ行きました三十日夜の暴風雨のため瓦斯動力供給杜絶して昨日からやつと少し瓦斯が通じました校正は三十日夜八時頃終つたのだがそれから恐ろしい風雨になつてしまひました夜の二時頃から非常な風になつて三時四時が絶頂でありました馬吉と二人で夜明まで二階の戸を押してゐました六枚の戸を二人で押したので腕が疲れて頭を加へて押してゐました丁度縁側であるため障子の敷居に足がかりをして押したから都合がよかつたそれでも一時は體の方が押されさうでしかたが無かつた雨が隙間から吹き込むため體中びしよ濡れになつた不二は幼兒を負ひはつせはみをを負ひ健次と共に下の土間に立つて夜を明しました命令が二階から掛つたら直ぐ飛び出せる準備にして起きました幸朝まで無事に凌ぎました近隣の二階は皆吹拂は(319)れてめちや/\になりました朝外へ出てみた自分の家のみ無事であつた事が不思議でありました隨分沈勇に大膽であつたと思ひました二階の戸を押した事が要點を捕へた事になりました朝になつて昨夜避難した人々が破れた家に歸つて來て呆れて立つてゐるといふ始末でした夫れから毎日印刷所に通ひました君の原稿は間に合はなかつたから十一月號に貰ひます阿部さんの林泉集も十一月號に致します十一月へ君の歌今少しくれ給へ少し賑しくして出した方がいゝと思ひます文章も何か布野のあたりの事を隨筆的に書いてくれ玉へ少し賑しく出した方がいゝと思ひます僕の處へ送つて置いて間に合はねば珊瑚礁へ送れといふ事は無理だと思ひます三井が方々の雜誌へ茂吉赤彦及阿部次郎の惡口を書いて出してゐます一寸知つてる丈けでも雄辯詩歌さんご礁短歌雜誌鐘文章世界その他未だ有りませう例の歌壇衆が面白がつて一寸尻馬に乘らうと言ふ光景です中には三井に感謝してゐる人が隨分有りませう人にやらせて面白がつて見て居るといふ圖柄です彼等は其際君の事を何とも蚊とも申す事を忘れてゐます馬鹿です茂吉にした處が雄辯で牧水晶子よりも夕暮白秋の方に共鳴しつづいて同人たる赤彦千樫等に嚮ふといふ事書いて君吉の書いてありませんこれは不都合甚しいと思ひますアララギの會へ無斷で珊瑚礁の人々を呼んだりしてほんとうに困る氣がします夕暮に共鳴するは構ひませんが諸同人よりも著しき意味に發表する必要は毫もありません次號には夫れ等には當りさはり無しに小生の意見を積極的に書いて置きますもうアララギは他派との交渉など氣にしてゐてはいけません天の命が重いのだから寸時でも自分の道を確つかり歩かねばなりません小生など生意氣だが反抗的にもさう思ふ方がいゝと思ひます筆がこんな向きに辷つてしまひました小生の方の事ばかり言つてゐました
奥さんお子さん如何が、君の紙の製造は具合よく進むか醋酸どうなつたか餘り手をひろげはせぬか此間の歌は少し削れば矢張いゝと思ふも少し(一頁)作つてくれられぬか今度はきつと/\二十日に福山に渡すから二十日前に屆くやうに願ふ選歌も今夜送るから頼むどうか成るべく早く顧ひます消した部分と訂正の部分と明了になつてゐ(320)るやう御注意願ふもし文展へ來られゝば非常にいゝ平福さんは今秋田にゐる文展へ出した豫讓は遂拜見に行くひまなかりし殘念なり長野へは十日間も行けば宜しき模樣なり
今日は又大雨なり本所深川の罹災民は雨中に彷徨してゐる由なり一寸行つて見ようと思ひ乍らその時なし
はつせは三輪田女學校の三年に入れました編入試驗割合によく十二人中の二人に合格してやつと落著き場所が出來ました田舍者で調和しなくて面白い姿です土田はいく分づつ宜しいさうですどうも永くて困ります平福さんの畫も未だ出來ません例の掛物今度は送る申譯ありません馬吉勉強いく分はする小生心配してゐる横山大勉強なり第一學期には四番になりし由二三年うんとやる由申居れり結構の至なり
多く言ふ事あるやうにて無しこれから他出して來る用事ありこれにて失敬します奥さん御病氣如何御自愛の程祈上候宜しく御傳言被下度候原稿何分早く願上候匆々 十月八日午前十時 俊彦
憲吉樣貴下
五一九 【十月十二日・端書 東京市外雜司ケ谷龜原五より 仙臺市琵琶首新町五 掛谷宗一氏宛】
拜復御丁寧なる御端書に接し恐縮致し候過般より貴詠御寄せ被下諸同人歡喜罷在り候次第今後も盛に御寄せ被下候はヾ幸甚奉存上候當地風水害につき御尋問被下難有存候幸諸同人何れも無事御放心麒上候取敢へず御返事のみ匆々敬具 十月十二日
五二〇 【十月十二日・封書 東京市外雜ケ谷龜原五アララギ發行所より 伊豆大島元村 土田耕平氏宛】
夜の三時過ぎだから簡單に書く藤子氏の手紙を御覽に入れる藤子は大抵の人の分らぬ所が分る所がある一種の天才である横濱市元町一丁目五番地なり今の天下の歌人何も分らぬ少し深入りした點は全く了解出來ぬそれでよき(321)なり當然の事なりアララギは十年前の覺悟を失ふ可らず夫れにしてもよき歌作るが第一に肝要なり君の病氣如何大切にせよ歌と日記十九日前に屆いてくれと祈るこちらは皆無事元氣よし 十月十二日夜 俊彦
土田君
一つ封書で少し長く手紙書いてくれませんか(疲勞せぬ程度にて)たまには氣※〔餡の旁+炎〕上げよ胸すくべし
五二一 【十月十八日・端書 信濃淺間温泉菊の湯より 攝津國西須磨村 加納巳三雄氏宛】
昨夜は松本で泣崖君等七八人で歌會をした初めから終まで短册を書いてゐた短册會とでも言ひさうな會であつた偶まには斯ういふ事もあるこんな具合に松が亂立してゐる赤土山の半分が畑になつてゐる一寸奇妙な山であるこの山が温泉宿の二階から目の前に正面に立つてゐるこの畑に白い笠が今日一日立つてゐた一時間許りして見ると位置が變つてゐるので笠の所有者の動いてゐるのが分る 十月十八日
五二二 【十月十八日・端書 淺間菊の湯より 松本市東町二丁目 胡桃澤勘内氏宛】
昨日御厄介相成奉謝候何も話す事なく困り候間萬葉集を話さうかと存じ候間萬葉集略解上卷と袖珍ポケツトの萬葉集上中下三册とも御貸し下され度明日序あるゆゑ一寸貴宅へ御立寄り可申候匆々 十月十八日淺間菊の湯にて
五二三 【十一月一日・繪端書 榛名湖より 東京市外雜司ケ谷龜原五 久保田不二子・藤澤實氏宛】
岩波さんと急に伊香保に來り今日は榛名湖迄參り候今夜長野まで行くべし多謝多謝 十一月一日
五二四 【十一月十三日・封書 東京市外雜司ケ谷龜原五より 信濃諏訪郡豐平村 小尾喜作氏宛】
(322)拜啓御女子樣御逝去の由驚入り候御病氣とも存ぜずに居り候如何なる御病氣に候哉御兩人樣御悲歎奉御察候小生思ひ乍ら非常の御無沙汰に打過ぎ候段何とも申上げやうなき苦しみを覺え候去る九日長野より歸り來り俗事蝟集今日は長男政彦を入院せしめて鼻を切り只今枕頭にて此手紙認め居るやうの有樣に候それが爲め餘計に御無沙汰致し候特に近來アララギに少し心を費す事ありてその方やゝ工未を要し居り候かねて御恩誼により御願申上候金員爾來何とか致し度二三ケ所捜し候へ共何れもうまく參らず誠に以て恐縮中の恐縮に候へ共此際暫時何とかして置いて下され度せめて利息丈けは此際如何とか致し度候間御申越被下度願上候右の儀かへすがへすも心外の至に候へ共御高誼により何分の御處置下置き候樣御取計の程奉願候猶何日頃迄豐平村に居られ候か御知せ被下度候赤羽豐治君歸京昨夜小生宅一泊明日歸國の由に候湯本禿山三村安治君にも遂面會出來ず遺感存候奥樣によろしく御傳言の程願上候敬具 十一月十三日 神尾病院にて 赤彦
小尾雅兄侍史
五二五 【十一月二十一日・端書 東京市外雜司ケ谷龜原五より 信濃諏訪郡原村小學校 清水祐吉氏宛】
拜啓御歌拜見すればお子さん病氣なされし由如何に候か心に掛り候御歌非常に緊張して居り襟を正して拜見致し候近來の傑作と乍失禮存上候匆々 十一月廿一日夜
一段だけ頂き申候
五二六 【十一月二十三日・端書 東京市外雜司ケ谷龜原五より 攝津西須磨村 加納巳三雄氏宛】
非常ニ惜シイコトヲシタ一寸留守シタタメ逢ハレナカツタ小生九時頃ニカヘツタ御ハガキガ後レタノデ萬事ヲ破ツタノダ立派ナモノ色々頂キ如何ニモ恐入リマシタアレヘ今ニ數千圓ノ金ヲ入レテ懷中シテヰルヨ呵々、又是非(323)御上京アレ 十一月廿三日夜
五二七 【十一月二十四日・封書 雜司ケ谷龜原五より 下谷區上野櫻木町十七 池崎忠孝氏宛】
拜復齋藤君の儀御心に掛けさせられ難有存上候辭令發表迄誰にも話さぬ方宜しき事情ありとの事ゆゑ小生も一昨日誰にも話さず居り候處他より訪問せる人の熟知するあり怪しく存じ候處もはや諸方にて知り居りとの事自然御配慮被下奉深謝候辭令が來月十日頃出るゆゑそれ以後にいつかの深川の如き會合致し度何卒御賛成され度願上候當方より御知せ可申上の處却て御書賜り恐縮存候風邪臥床中亂筆御赦し被下度候敬白 十一月廿四日 俊彦
赤木大兄貴下
五二八 【十一月二十四日・封書 東京市外雜司ケ谷龜原五より 大阪市北區中之島三丁目朝日新聞社 花田大五郎氏宛】
拜啓御懇書恭く拜見致し候アカネ以來御歌及び御研究拜見致し畏敬罷在候潮騷毎號有益に拜見致し居り候拙歌十首今年内に差出し候樣御申遣し被下正に拜承仕り候期限内に必御送可申上候先は御返事のみ匆々敬具
古泉氏へ貴書差し出し置き候 十一月廿四日
五二九 【十一月二十九日・端書 長野市鶴林館より 東京市外雜司ケ谷龜原五アララギ發行所 木曾馬吉氏宛】
拜啓又はがき書く小生宛手紙中新年號への註文らしきもの他より來り候はばこちらへ御轉送被下度次に會費の三ケ月以上不納のもの何人許りなるか不二子に數へさせ置き被下度百人前後ならば此際はがきへ刷りて催促したく候(昨年のやうに同人連名にて)その原稿は今夜あたり送る匆々 十一月二十九日
(324) 五三〇 【十一月三十日(年代推定)・封書 信濃下諏訪町字高木より 東京市外雜司ケ谷上屋婦人之友社 河井幸三郎氏宛】
拜呈歌遲延申譯無之存候別紙八首間に合ひ候はゞ幸甚奉存候時節柄御自愛專一奉存候匆々 十一月卅日夜 俊彦
河井樣侍史
忙中亂筆御ゆるし被下度候
五三一 【十二月二日・封書 長野市權堂町鶴林館より 北安曇郡大町新町 櫻井みね子氏宛】
拜啓又々飛んだ御無沙汰せし事と存候長野に來て雪の白く積れるに驚き居り候
扨て早速乍ら貴詠草につき申上候貴下のは感じ方醇直にして詞句の行り方自由に且自然にしてアララギ誌上の異彩と存じ候へ共往々にして平板に流るゝ事と詞句の間に惜しと思はるゝほどの小主觀を交ふる事あり今囘のは捉へ方惡しからねども殆ど同じ捉へ方を形をかへて多数の歌に詠み出す傾あり斯樣な種類のものにても各一首に何かの特異なる一點を交へ居り候はゞ充分性命あるべしと存じ候へ共(今迄のは左樣のもの隨分ありて面白く存じ居り候)今囘のは夫れ程に參らず強ひて一段として取れば取れぬ事もなく候へ共成るべく秀作を發表致し候方貴下のためにも宜しかるべくと存じ今囘は貴君の御歌を十二月號へ載せず一月號へ一緒にして發表致す事に決心致し候何度も考へて躊躇致し候へ共その方宜しと存じ逐に無斷にて左樣に定め候段微意御高諒下され御立腹下さらぬ樣幾重にも祈上候依つて御稿同封御返送申上候此内朱丸印を付し候もの一月號御稿中へ御加へ置き被下度その中より更に精選致度候十二月號は又々後れ申すべく候一月號御稿は成るべく早く願上候いつもより十日許り早く印刷に廻さねば年末ゆゑに間に合はず候右用事のみ申上候小生五日頃東京へ歸り可申候御自愛專一願上候頓首
(325) 五三二 【十二月九日・端書 雜司ケ谷龜原五より 本郷駒込林町十一 河西省吾氏宛】
拜啓十一日午後正五時より日本橋區下槇町末廣本店(通三丁目下車)にて齋藤君送別會ありアララギ以外には阿部小宮赤木岩波茂雄氏の諸氏のみに候〆て十五六人なり御出席被下度否やを至急小生迄はがき御差出被下度候會費は發行所にて出し置き可申候匆々 十二月九日
明日中にはがき出して下さい小生方病人二人して寢て居り來客に對しても當分身動きも取れぬ有樣ゆゑ萬事はがきで御用辨下され度候政彦の方は大抵盲腸炎らしく候速達便にてもよろしく候
五三三 【十二月二十八日・端書 東京市外雜司ケ谷龜原五より 信濃國諏訪郡中洲村神宮寺 原治郎右衛門氏宛】
拜啓長男死去の際は懇々御供物御遣し被下御厚志の段幾重にも御禮申上候敬具 十二月廿八日
五三四 【十二月三十日・封書 市外雜司ケ谷龜原五より 大阪市北區朝日新聞編輯局 花田大五郎氏宛】
拜啓こんな手紙書いて申譯ありません御約束の歌御送いたすつもりで居りし處長男十二月初旬より發病はじめは大した事とも思ひませんでしたのに性の惡い病を併發して十八日に死去致しましたそのため今日まで歌を作る心に遠ざかつて居ります別紙は發病後二三日經た或夜の歌稿で不充分極まるものですが御約束もありますゆゑ兎に角御目に丈けは懸けようと思つて今晩晩く認めました鹵莽極まるものですから貴紙を汚すやうなものになりませうと思ひます故御取捨何れにても小生に異存ありません何卒よろしく御取計願上ます敬具
(326) 大正七年
五三五 【一月三日・端書 東京市外雜司ケ谷龜原五より 信濃國諏訪郡豐平村上古田 篠原徳一氏宛】
拜呈長男死去の際は態々御弔詞を賜わり御香料御心掛け被下御厚意奉謝上候十八歳にて逝かしめ候事殘念に候へども人事を盡したる上は致し方なしと諦め申候神尾病院にては御令妹樣及び御甥子樣(鹽の目の兩角樣)の御厄介樣相成奉謝候番地を存ぜず候間大兄より御序の節よろしく御申傳被下度奉願候敬具 一月三日
五三六 【一月四日・端書 東京市外雜司ケ谷龜原五より 北海道空知郡下富良野字鳥沼 小田觀螢氏宛】
拜復御令閨樣御逝去被成候趣御悲傷の程御察申上候妻を失ふは人間最恨事に有之小生にも十五年前その經驗あり當時三歳なる遺子を擁して途方にくれし事ありその遺寸は舊臘十八日腹膜炎にて死去小生只今多く引籠り居り候十八歳にて逝かしめし事殘念存じ候へども何もかも天命に從ふの外なしと諦め居り候御弔詞に添へ右のみ敬具 一月四日
五三七 【一月十日・端書 東京市外雜司ケ谷龜原五より 信濃上諏訪町小學校 森山藤一氏宛】
拜啓一寸歸國せしも御面會の機を得ず殘念存じ候政彦死去の際は一方ならざる御厚志を賜り奉拜謝候
(327)偖甚御手數候へども長野縣立中學入學試驗準備ともいふべき本(毎年の問題等を集めし如きものにてもよろしく)有之候はば一番よささうなものを一册御求め御送附相願度代金及び送料は會費御送の際御差引き被下度右毎度御厄介樣乍ら御願申上候(葦穗に相談被下度候)(健次を諏訪中學に受驗せしめ度候) 一月十日夜
五三八 【一月十二日・端書 東京市外雜司ケ谷龜原五より 仙臺市琵琶首新町五番地 掛谷宗一氏宛】
拜呈子ども死去につき度々御慰問を賜り御厚志難有拜謝候此度はアララギ經營費中へ御厚志御寄附被下恐縮の至奉存候深き御同情に接し感奮の心起り候舊臘以來兎角心引籠り居り作歌の心と遠ざかり困り居り候勉強可致候折折御鞭達被下度御願申上候珍しき寒さ御地は定めて凌ぎ難き程と存上候御自愛の程祈上候敬具 一月十二日
五三九 【一月十六日・封書 雜司ケ谷龜原五より 市外上目黒五八五 平福百穗氏宛】
拜復門間氏の件拜誦致し候昨日早速万佐に參り候處熱度猶七度八分ありどうも發熱久し過ぐる感有之候この熱を退かせなくては轉地も問題にならず氏も少々焦慮して居るらしく候平塚方面は萬事に心地惡しかるべきを話し候處首肯致し居られ候へども伊東といへば遠地にて博士の如き人居らぬを心に掛け居る樣子見え候佐々木博士は當分入院しては如何かと勸め候由に候門間氏は當分宿屋にてこのまゝ模樣を見るつもりの意見ゆゑ小生も賛成致し候入院して熱が下るといふ譯にも無之と存候當分熱の模樣を見てからに萬事考へし方可然歟と存候門間氏ははや久しく病みし爲めか心弱くなり居る所相見え候二三日中に又々參り可申候
過日は非常に御馳走相成難有存上候あれよりかへりて手紙差上げんと思ひし處へ貴書披見致し候愚子死去の際御心掛け被下候金子全部を頂き候は餘り巨額にて恐縮の至に候あの時御用立願ひしのみにて如何計り助かりしか分らず御厚志感銘致し候處さうかと申して今あれを御返却する力も無之如何なる方法にせんかと思ひ居る矢先に此(328)間の席上の御詞を伺ひし次第に候如何にせばよきかと思ふのみなりしゆゑ兎角の御返事も口に出でざりし次第に候御厚意に甘ゆるに似る心地も致し候又御厚意をおとなしく受くるがよしと思ふ心地も致し候夫れは只今小生に力なきため如何に考ふるも當分致し方なきゆゑに候小生二三日考へて有難く御厚意を受くる心になり候心苦しく存じ候へども横著より出でし心に無之候今は只眞實に感銘拜受仕り候他に謝するの詞無之候何れ御面會の節御厚禮可申述存じ居り候猶土田の件御厚志感銘に不堪早速問合せ御返事申上べく存候
御令閨樣或は御産前かと存じ候御自愛切に祈上候敬白 一月十六日 俊彦
平福樣侍史
森田氏へ御序の節口畫の事御願申上候
五四〇 【一月二十八日・端書 信濃諏訪町豐平村下古田より 東京市外雜司ケ谷龜原五アララギ發行所 藤澤實氏宛】
アイヌ謠の校正は正確に行かぬやうならば金田一氏に見て頂く方よし
昨夜は汽車中スツカリ眠り今曉信濃に目ざめて見れば一面に白皓々たり。あまり熟睡せしため茅野驛にて危く乘り越さんとし、慌てゝ下車、すぐ八ケ岳山麓に向ひ候。道の上は昨夜降りし雪三寸許り積れり。小生寺子供の頃は雪降れば村々の人各戸より出拂ひて道の雪掻きしも今は左る事なきにやと車夫に聞けば、今は殆どその事なし大雪の時は協同して掻く事もあるとの事。空よく澄みて所謂雪晴日和の日光が雪の上に照り渡りて山々谷々酷だ明るしその中に上川の橋を渡る。谷川の水藍よりも青く押して流るる勢をなせり。老父柄氣衰弱著し。此冬を持ち越させたしと祷れり。鯛味噌うましとて食がり給へり。六神丸も喜び給へり。山國の奥へ河岸の魚持ち行きしゆゑ珍らしく喜び給へり。風もなく日照りて割合に暖き日なり。小生三十日には長野に行くべし。校正千樫文明諸君に御厄介成る事ならん君勉強してやつてくれ給へ。 一月二十八日
(329) 先夜ハガキで出した左千夫翁寄附追加人名を仙臺歌會の下段へ組む此のハガキアララギ埋めくさにしてよし長スギタラ中途で切つてよし
五四一 【二月四日・端書 長野市縣町逢瀬館より 備後國双三郡布野村 中村憲吉氏宛】
アララギ昨日頃出來しかと思ふ二三日中に諏訪を經て歸京實父やゝよしとの事なり
拜呈今後は他の短歌機關雜誌へ出さぬやうにしてくれませんか小生左樣致し度存じ居り候アララギに立籠る方小生等のためによくアララギの爲めに勿論よし晴れの場所は違ふ原稿料を得る場合も今の小生等には止を得ぬ事ありと思ふ今日は七七忌に當り候ゆゑ善光寺へ位牌を納め禮拜して只今歸れり吹行きして日あたれり 二月四日吹雪
五四二 【二月十六日・封書 東京市外雜司ケ谷龜原五より 長野市神明町神明館 守屋喜七氏宛】
拜啓過日は奉謝上候扨其際一寸拜承致し候長野新聞お伽噺の事土田耕平氏に御書かせ下され候はゞ幸甚存候此儀如何に候かどんなもの書くかは信濃毎日に出るので御覽被下度候而して月收どの位なりや伺ひ度候右毎月に困り候境遇につき貴意伺上候匆々 二月十六日 俊彦
守屋兄臺下
拜借のM五圓次に行くまで願上候
五四三 【三月十八日・封書 市外雜司ケ谷龜原五より 市外上目黒五八五 平福百穗氏宛】
森田氏より其後別に御知せ無之候へども御取運び下され候事と存じ居り候
拜啓今日迄參上のつもりに候處編輯前少し忙しく成り其上種痘六つ乍ら善感少々都合惡しく手紙にて申上候
(330)久しく御無沙汰致し居り申譯無之候中村君チブスに罹りし由にて選歌全部返し來り候大したる事なしと存じ候へども心に掛り候第一に御願申上度候は信濃教育の表紙畫御願申上度儀に候先年御願申してより餘程經過致し居り候間四月號より改め度しとの事如何なる模樣にてもよろしく(矢張り山岳森林等よろしきか)寫眞等取寄せの必要あらば直に取寄せ可申候從來のは三度刷に有之その邊御適宜願度御許容の程奉願候三月二十四五日迄に願はれ候はば幸甚奉存候第二に土屋文明君四月より諏訪高等女學校赴任の事に相成送別會相開き度青山のいろは牛肉屋會費一圓位にて廿四日頃如何かと存じ候御意見御伺ひ申上候
第三只今アララギ會員四百餘人一ケ月會費送附のもの百廿圓内外(今月は半月間に丁度五十圓)岩波氏にて賣りて下さるもの六七十圓外合計收入百八十圓位のものと存じ候支出は紙代九十圓附近、印刷所七十圓位表紙毎月十八圓八十錢郵税すべて十五圓位それに雜費を入れ二百圓以上を要し居りこのまゝではどうも工合惡しく候ゆゑ送別會の時一つ又々御相談相願度と存じ候頁數もつまり多くはへらぬかと存じ候會費五錢上ぐれば月々廿圓位は多くなり可申これも考へものと存じ候只今紙代岩波氏にて少々積り居り候これも方法立て申度と存じ居り候
何れ御面談萬事申上度と存じ候右現状他の諸君へも話し置き候一通り御承知置願上候御令閨樣其後御肥立の御事と存上候匆々以上 三月十七日夜 俊彦
平福百穗樣貴臺
五四四 【三月二十日・封書 東京市外雜司ケ谷龜原五より 信濃上諏訪町片羽町 牛山郡藏氏宛】
拜啓非常に御無沙汰致し居り申譯無之存候皆樣御機嫌克く被爲入候哉小生健在に候間御安心被下度候扨て毎度恐入候へども例の信濃銀行より一二ケ月間金百五十圓借入申度此儀何分御承諾被下度伊藤氏へも貴下より御談判被下度願上候用紙直に小生へ御さし送り被下度願上候而して保證人には又々貴下を御願申上度何卒願上候斯樣の事(331)のみ御願申上甚だ申譯無之此儀不惡願上候金は二十四五日に欲しく候もし銀行ならずして他によき處あれば猶有難く存上候右のみ御願迄匆々 皆々樣によろしく願上候 三月二十日 俊彦
牛山耶藏樣貴下
五四五 【四月三日・封書 東京市外雜司ケ谷龜原五より 攝津國西須磨 加納巳三雄氏宛】
拜啓此間から手紙書かん/\と思ひて果さず今夜々行にて長野行の前此手紙認め申候此間は多大の金御送り下され難有存候アララギ紙代堆積數百圓に上り驚きて取調べし處大體左の如くに候
支出(毎月) 紙代 百圓以上百十圓位 印刷 七十圓以上(今度一割五分上ル) 表紙 二十圓
切手その他十五圓 雜費 二三十圓 〆 二百三四十圓
収入 百二十圓位會員四百數十人不納者隨分あり平均毎月此位に候 七十圓位岩波にて賣りくるゝものこれは六十圓より八十圓位を上下して居り候 〆 二百圓位
差引どうしても三四十圓の不足に候それを一年以上うつかりして居りしゆゑこんな事に相成り候依て此際會費卅五錢を徴し候樣相談致し候猶不納者に送本を止むる事に致し候寄送も大分城らし申候交換廣告も全廢せんかと存じ居り候こんな事情に有之候貴下御送被下候うち特別會員として六圓頂きあとを御寄贈として計算致し候段斯樣の場合何卒御寛恕の程願上候貴稿五月號へは何か御送被下度御歌五首ばかり前の殘りが保存してあり候間其御つもりにて御送稿下さればよろしく候中村君チブスにて臥て居り候大丈夫と存じ候へども心に掛り候小家一同無事罷在候間御放神下され度候出發の前にて覽筆意を盡さず御判讀下され度候 四月三日 俊彦
加納曉樣貴下
今月より百部減じて刷り申候
(332) 五四六 【四月七日・封書 長野市より 下諏訪町小學校 濱孝吉氏宛】
拜呈益御清榮奉賀上候愚息周介儀今迄貴校にて非常御厄介樣相成奉謝上候家事都合により今囘東京小石川區青柳小學校へ入學せしめ候間御承知被下度從來御厚誼奉深謝候此儀受持先生にも可然御鳳聲願上候次に二男健次儀諏訪中學校入學試驗に落第致し候に付き貴校高等科一學年に入學爲致度何分願上候猶來年度再び中學校へ受驗爲致度希望に有之可然御含み御指導の程願上候受持先生にもよろしく御願申上候御願のみ敬具 四月七日 長野市出先にて
濱孝吉樣侍史
五四七 【四月十二日・端書 東京市外雜司ケ谷龜原五より 攝津國西宮町前松原一六八 花田大五郎氏宛】
拜啓太へん御無沙汰致し居り候過日は御入會下され難有存上候御歌御出し下され度候御上京等の事も有之候哉一度御目に懸り度存じ居り候潮騷眞劔御努力欣ばしく拜見致し居り候東京歌壇の方が溜つて居る事と存候敬具
御歌は廿日迄に屆き候樣願上候
五四八 【四月廿八日・端書 雜司ケ谷龜原五より 市外上目黒五八五 平福百穗氏宛】
拜呈過日は參上難有存上候法隆寺よりの御ハガヰ難有拜見致し候もはや御歸京被成候御事と存侯小生今日家を見付け候間アララギ發送等を濟ませて移轉可仕候小石川區關口町百七十四番地に候(寺崎廣業氏の前に候坂を上る左側)大抵此次の日曜に成り可申候今度は寫生につき遂書いてしまひ候畫道などに論及致し候事生意氣千萬の至りに候へども勢止むを得ず諸兄に御心配かけるかと思ひ只今大に心に掛り候前以て今つと御教示を仰げばよい事(333)に候校正昨日よりはじまり拜趨を得ず殘念に候古泉今日まで歌待たせて來らず又少しふん慨致し候頁餘白出來困り候其内是非參上致度候敬具
江戸川終點に近く色々便利多いかと存候女の子もあそこからなら通はせ得べく候家賃十五圓に候八、六、四半、二疊家新しく候 四月二十八日夜
五四九 【五月三日・端書 小石川區關口町一七四より アララギ會員宛】
拜啓小生儀今囘左記へ移轉致し候間此段御知せ申上候江戸川終點にて下車し橋を渡り目白坂(高田老松町方面行きの坂)を少し上り左側の家に候右御知せのみ匆々頓首 五月三日
五五〇 【五月六日・端書 東京市小石川區關口町一七四より 信濃上諏訪町片羽町 牛山郡藏氏宛】
拜啓種々御知らせ下され難有存候御上京御待ち申上候小林文夫君の御病氣痛ましさに堪へず今日御手紙及び小林君のハガキ拜見落涙を催し候何卒一日も長く御存命祈居り候此ハガキと共に小林君へハガキ差出し申候同君の歌稿も今日屆き申候今夜長野行忙中御返事のみ申上候匆々 五月六日夜
五五一 【五月二十日・端書 東京市小石川區關口町一七四より 大阪市東區空堀通一ノ八二 寺澤亮氏宛】
選歌集りしを調べ見るに貴歌なし小生の何れへかしまひそこなひしなり恐縮の至に候七月號分へあの御歌を餘計に御送下度願上候非常に申譯なき事致し候敬具 五月廿日夜
五五二 【五月三十日・端書 長野市縣町逢瀬館より 東京神田神保町十二紀本方 藤澤實氏宛】
(334)御はがき只今拜見非常に盡力して下され難有存候卅一日に出れば成績よき方に候古泉君にはいつも乍ら困り候卅一日都合よくば發送御手傳ひ下され度候短歌雜誌自選歌號數度催促し來りしも遂に送らず小生只今畫論を見て居り候 五月卅日夜
馬吉ノ字ニ草氣アリ今衛達三ノ字ニ閨閤ノ氣アリ美穗ノ字ニ蹴馬ノ氣アリ畫道ヲ以テ書道ニ推シ得ベシ小生ノ字ニ至リテハ匠氣アリ久シク脱セズ呵々
五五三 【六月十一日・封書 小石川區關口町一七四より 市外上目黒五八五 平福百穗氏宛】
萬葉輪講一昨日濟ませ土屋君に點送致し候
拜呈過日は御幼兒御病中思はず長座致し失禮致し候其節は土田及び小生に御見舞下され恐縮の至奉存上候
一昨日山本君來訪候處川崎の方へ口出來候よし安心致し候色々非常の御配慮を蒙り奉探謝候猶過日山本君に對し兩度の御配慮下され候よし承り恐縮の至奉存候扨過日御相談申上げんと存じ候處夫れに及ばず歸宅只今書中を以て一應御意を得申候小生長男死去以後老父やゝ張合拔けの姿有之老母も床に就きづめなる上に衰弱やゝ加はり今囘小生一寸歸宅の節父より東京引上げの議提出致され小生も甚だ尤もの儀なりと存候次第少くも愚妻及び子供は歸國せしめざる可らざるかと存ゾ小生歸國も自然之に伴ふ儀に候へども第一アララギの處置に困り候齋藤中村土屋諸君皆遠く去り候場合小生の手を離れては繼續やゝ心配に有之已むなくば
第一、小生も共に引上げて歸國し信濃教育に月のはじめ七日乃至十日位を費して長野に居りアララギに月の廿日より月の終迄を費して東京に居りその他を諏訪の自宅に暮さんかと存候左すれば馬吉若くは今衛と下宿の一室を借り毎月十日許りそこに共宿するを得策とすべく候
第二、今の家に小生と娘と次男と三人にて暮し娘を三輪田に通はせ朝夕の※〔者/火〕焚きを彼にさせ申さんかこれも一法(335)に候へども只小生長野行の留守に困り候これには東京にて何か職業を求めざる可らずと存候
第三、小生今一度下宿生活に返り必要に應じて長野なり諏訪なりへ出掛け可申歟これは便法に候へども再び全く下宿生活にに返り候事少々億劫の感なきにあらず候
アララギを挫折せしむる事は如何なる場合ありとも成し得る所にあらず何れ暑中休を期として何とか方法をつけねばならずと愚考致し候其内小生參堂可仕御意見御伺ひ申上度いつも御心配のみ相掛け心外存じ候へども右の事情御含みの程願上候
〇次に今日志都兒氏を訪ひ候處あの畫はがき大へん喜び床の前の壁に貼り眺め居り候あの畫は眺めるに少し小さいからあれより一寸大きな畫を御願ひしてくれぬかとの事彩色美しきが非常に快よしと申居り候もし御序の節あれより一寸大きなもの御描き下され候はば幸甚の至に候小生十三日夜行にて長野に行き十六日夜行にて歸宅十七日貴宅御伺ひ可申上其節頂くを得候はば幸甚此上なく候矢つぎ早に御願のみ申上げ心外に候へども御許容の程願上候只今は二人一室の處に居り看護婦以外はあまり出入者無之候へ共御名前は現さずして可なるべく存候眼より二尺位離れて壁ありそれに眼と同じ位の高さに貼る事に候あまり大きくては困り可申候尤も室時々變るらしく候ゆゑ如何のものとも存じ候
〇又次に抒情詩社の内藤※〔金+辰〕策氏より貴下の畫尺五絹本十枚を御願して下さらぬかと申來り候相濟まねど前金にて五百圓の御禮にて御承諾相願ひ度しとの事之は六ケ敷からんと返事出し置き候へども申來り候事ゆゑ右の意だけ御通じ申上候内藤氏何の意ありて十枚を御願ひするか之れは分らず候
色々申上げ恐入り候要事のみ匆々敬白 六月十一日夜 赤彦生
百穗畫伯臺下
御子樣御快方に候哉御大切に成さるべく候貴下鼻血如何に候か御治療專一奉存候
(336) 五五四 【七月五日・封書 小石川關口町一七四より幸便 市外巣鴨町字巣鴨一六二三 半田良平氏宛】
拜呈圖畫教育毎號御惠贈に預り御厚志奉謝上候墨繩瞥保局より面倒申候由遺憾此事に存候隨分大部のものと存候へば御出版も御思案至極致し候豫約方法等にてうまく行き申間敷哉これが出來れば小生等の大幸に候御閑暇も候はゞ御光來願上候敬具 七月五日 赤彦
半田詞兄貴臺
追て藤澤實精々勉強可爲致猶御心付の程何分奉願上候
五五五 【七月十一日・端書 小石川關口町一七四より 本郷區湯島天神町一ノ二十九丸中旅館方 高木今衛氏宛】
僕は國にゐる老親の衰弱により今度一家を引あげて國に歸るつもりである小生は半分東京にゐてアララギをやるつもりであるそれで八月からは小生又々浪人なり此事は御話ししたつもりにて居たり忘れしと覺ゆ就いては八月稻毛行の件は御自由になされ度し匆々 七月十一日
八月號の歌用意の事
五五六 【七月十一日・封書 小石川關口町一七四より 神田區南神保町十二紀本方 藤澤實氏宛】
拜啓家は七月末頃たゝむつもり也七月末から小生だけ素人下宿に入るつもり也岡氏が周旋して呉るゝ由也就ては貴君小生と同居するや否や考へて見て如何樣にもきめてくれ同居勉強不都合ならばやめろ仕事は
一、小生留守中手紙類と原稿と分けて各の箱に保存の事
一、原稿を各選者に分けて發送する事(手紙や振替や記帳は小生一手にて一切處理する多人數でやると不整理の(337)もと也)
小生は毎月廿日か十七八日頃に來て月末まで居る初稿位をすませば長野へ行き度いと思つて居るつまり二十七八日頃は長野へ行き度しと思つてゐる(毎月さう行くか何うか分らぬが)校正と發送は君等二三人からやつてもらひたし以上御熟考の上御返事下され度もう小生も用意せねばならぬから匆々 七月十一日 俊彦
馬吉樣
成るべくは君に同居してもらひたし昨日今井邦子汽車負傷のよし氣の毒千萬也輕いとの由也
五五七 【七月十七日・封書 小石川關口町一七四より 府下巣鴨町一一二六 小川多三郎氏宛】
誠に申譯無之候怠慢甚しく候終りの數首大へんよろしく拜見致し候重み加はり候はゞ堂々たるものと存候此點御志しの程祷上候氣の利きたるは輕く相成可申と存候我儘亂暴の言御海容被下度候
此の御稿八月號へ頂くを得ば幸甚存上候以後アララギへ御發表被下度存上候八月號へ御出し下され候はゞ廿日迄に御送稿のほど願上候一度拜趨のつもりにて失禮致し居り候御病後御經過御宜しく候哉御攝養專一奉存候敬具 七月十七日 俊彦
小川樣貴臺
五五八 【七月十七日・端書 東京小石川區關口町一七四より 信濃諏訪郡中洲村小學校 田中一造氏宛】
拜啓小生等今囘家をしまひて高木に歸り小生は毎月半分づつ束京に暮す事に相成り候就てははつせを如何致して宜しきか御意見御知せ被下度願上候一度出た處へ復かへるはいやだなどとも申し居候東京にて橋本福松君の御宅にて置いて上げてもいゝと申され居り候小生も少々迷ひ居り候御意見御洩し被下度願上候匆々 七月十七日夜
(338) 五五九 【七月十八日・端書 小石川關口町一七四より 本郷區湯島天神町丸中旅館方 高木今衛氏宛】
實父危篤の電報に接し今夜々行にて歸國普門院に行き働いてくれ玉へ金や品物は藤澤と廣野に渡し置けり行つてくれさへすればよし廿一日夜岡さんと折口さんへ原稿頂きに行つてくれ給へ其他萬事頼む 七月十八日夜
五六〇 【七月二十八日・封書 小石川區關口町一七四より 市外上目黒五八五 平福百穗氏宛】
拜復昨夜は態々御見舞下され候由不在致し遺憾千萬存じ奉り候家族を廿三日に歸國せしめ妻のみ殘り居り未だ神樂坂を見ずとの事故風邪を押して連れ參り(今日より校正はじまり候故)其の留守に御出で下され候儀に有之失禮の段奉深謝候小生今囘歸京後少し疲弊の度多く今日もゴロ/\致し居り候只今馬吉書を印刷屋へ校正刷取りにやり候處に候數日中に勿論快復の事に有之べく御介意無之樣願上候アララギの事は勿論全力を集中する覺悟に候へば猶萬事御力添のほど懇望奉り候困りさへすれば大兄を煩し候事平素衷心の責を感じ居り候併し一方よりは純粹なる御同情に對し他人行儀するは惡しと存じ遂色々御厚意に甘え候場合にも立至り候段失禮御海容願上候今囘は移轉費等少々國許より取寄せ大體私用間に合ひ居り候雜誌の方は岩波氏への紙代七月號分は辨じて有之印刷代も大體振替貯金月末高にて相辨じ可申表紙代殘り雜費等少々不足に有之候へども取急ぎ候に至らず右情況一通り御知せ申上候右樣に候へば御用意下され候金子暫く貴兄へ御保存被下度願上候八月號へは拙歌拙文一もなく自ら寂しく存候その代り久振りなる大兄の御作あり岡氏結城氏土田氏門間氏小川千甕氏其他の人顔を揃へ居り心強く存候古泉中村齋藤相變らず作物なきを寂しく存じ候中村齋藤は仕方なし古泉殘念に存候
石原さんも今月は作物は無之候中村も令弟一進一退の病勢にて困り居るらしく候來月は必歌送ると昨日申來り候齋藤君よりは一ケ以上音信無之候別條なきかと存じ候選歌と歌評と十首選の原稿は來り候校正終り次第直に家(339)を片付けて小生は長野に參り可申御旅行前一度相伺ひ度存じ候へ共或は心に任せざるかも知れず彼地にて歌少し御作り下され度願上候酷暑中皆々樣御自愛のほど願上候敬具 七月廿八日 俊彦
平福百穗様侍史
五六一 【八月六日・端書 長野市縣町逢瀬館より 小石川區關口町一七四アララギ發行所 藤澤實氏宛】
新時代社から選歌原稿が來たら直ぐ下諏訪町高木の方へ御廻送を乞ふ福山から紙の殘高計算書が來たら同じく下諏訪の方へ御知せを乞ふ(殘高だけハガキで知らせてくれゝばよし)報文社にして見ようと思ふが如何(福山から來なんだらハガキで催促してくれ給へ)一、選歌はもう分けて發送してくれ給へ(小生のもの)隨分暑いだらうと思ふが我慢して朝早くか夜かに二三時間づつ勉強してくれ給へ規則正しく機械的にやり給へそれが一番樂で有效である長野も日中は暑い大宮から出した端書見てくれにしか(福山へ一册アララギ八月號を送る事)△選歌ヲ分ケルトキニ大學評論ノ原稿一枚アル故ソレモ一緒ニ小生ヘ迭ルコト御飯ハ梅干一ツ中へ入レテ置ケバ久シク腐敗セズ小生九日カ十日ニスワヘ行クベシ 八月六日
五六二 【八月八日・端書 長野市縣町逢瀬館より 長野市横町 徳武とく子氏宛】
拜啓一昨日差上候ハガキ御覽下され候哉甚恐入候へども昨年のアララギ中湯本禿山氏が子どもを失ひし時の歌ある雜誌(或は一昨年か)御さがし明日午前御貸し下さるまじく候哉御都合により當方より使を差上け候てもよろしく候もし御來訪下され候はゞ藤井氏(?)御同伴若しからず候匆々 八月八日
五六三 【八月二十八日・端書 東京麹町區下六番町廿七佐々木方より 信濃國諏訪郡玉川村 原田泰人氏宛】
(340)拜復父死去につき御弔詞下され難有御禮申上候小生養母病弱のため妻子を國に歸し毎月二十日より月末迄アララギを出すために小生一人上京し表記に馬吉君と同居する事に相成候間此事松田上原原田諸君に御序の節御話下され度候二十五日伯母死去のため二十六日急に歸國し昨日葬式を濟ませ今日上京丁度貴翰拜讀いたし候八月號何かの間違と存候時々左樣の事あり困り候只今別封御送申上候會費一圓正に拜受致し候帳面は只今高木今衛君の處にありこちらに參り候次第記入可仕候御兩親樣御壯健に候哉歌御勉強を乞ふ匆々 八月二十八日
五六四 【八月三十一日・端書 麹町區下六番町二十七佐々木方より 市外雜司ケ谷水久保一一七 篠遠喜人氏宛】
拜啓會費御送被下難有存候名簿へ記入せんとしてひらき見るに貴名なし記帳の人如何にかせしと覺え候貴作久しく拜見せず心待ちに致し居り手紙差上げんと思ひ乍ら忙しくて今日に到り候即ち諏訪郷友會報にて御住所をさがし此手紙書き申候小生家族と歸國し毎月アララギつくるため月末を十日間上京表記止宿致し候歌澤山御送の程待上候帳簿に貴名落ちしは如何なる譯か分らず八月號屆き候哉否や心に掛り候今日長野へ行きそれより諏訪にかへるべく候 八月三十一日
五六五 【九月二日・端書 長野市縣町逢瀬館より 麹町下六番町廿七佐々木方 藤澤實氏宛】
アララギ出來たらこゝと下諏訪町と兩方へ一册づつ送つてくれ給へここから歌評の歌の通知を出すから一册位は差出局變更手續き濟まなくても大丈夫なりここへ先きに一册送つてくれ給へ夫から土田耕平に二圓振替で送つてくれ給へ以上 九月二日
仰臥漫録見本來たらここへ五部位送つてくれ給へ△上伊那郡南箕輪小學校藤澤正俊が名簿になくば記入してくれ給へ九、十、十一月會費入る△小生六日頃までここに居る
(341) 五六六 【九月二十七日・端書 麹町區下六番町二十七より 府下巣鴨二二四三 武田祐吉氏宛】
拜呈毎號有益なる御研究御寄稿下され一同如何許り欣喜いたし居り候東歌御考の一部無斷にて信濃教育に轉載右取急ぎ御許容を得べき筈の處忙中今日迄延引申譯無之何卒失禮御赦し被下度偏に願上候
右雜誌只今御送申上候匆々 九月二十七日
五六七 【十月一日・封書 縣町逢瀬館より 古牧小學校 藤森克氏宛】
拜復御無沙汰して居ります六日午后一時より後町小學校男子同窓會にて一時間許り話をしそれから直ぐ車で貴校へ參上します就ては婦人會と申すは年齢や程度大體どの位の人たちに候か御知せ被下度願上候
小生明後日から佐久の方へ參かんに行き五日夜歸るかも知れませんこの事はまだ確定はしてゐません覽筆御赦し被下度候匆々 十月一日 俊彦
藤森兄臺下
五六八 【十月十日・封書 信濃伊那町箕輪屋より 東京市外上目黒五八五 平福百穗氏宛】
拜啓我等ノ目ザスベキハ只精進ノ一道ノミマコトノ命ハ人知ラズ世知ラザル間ニノミ湧クベシコノ道寂シクコノ命悲シケレドモ終生居ルペキニ居ル亦以テ自ラ樂シムニ足ル
今日伊那町ニ來リテ新聞ヲ見ル都路トイフ人ヲ知ラズ他ノ三氏ノ繪ハ小生略ボ知ル推薦カ推薦カ推セン何ゾ關セン十六日上京貴作ヲ見ルヲ樂シムノミ 十月十日夜伊那町天龍川岸ニテ 俊彦
百穗畫伯臺下
(342) 飯田町マデ行キ十四日頃下諏ニ引キカヘスベク候
五六九 【十月十一日・繪端書 信濃伊那町みのわ屋より 東京本郷區湯島天神町丸中旅館 高木今衛氏宛】
飯田行の途中こゝに泊る禿山君のあとを弔ふつもりなり信濃はもう寒し十六日頃歸京歌つくれ 十月十日
五七〇 【十月二十二日・端書 東京市麹町區下六番町廿七より 長野縣諏訪郡湖南村 金子茂氏宛】
拜啓御入營のよし隨分御體御厭ひ御壯健に入らせられ候樣祈上候東京なれば御逢ひする時もあらんと存候會費殘りの事御厚志奉謝候 十月二十二日
五七一 【十一月一日・封書 長野市縣町逢瀬館より 麹町區下六番町廿七佐々木方 藤澤實氏宛】
拜啓富士見から高木を經て今日長野著取あへず金貳十圓送り候間振替で下げたのと一緒にして用を辨ぜられ度御請取の上は一寸ハガキ下され度候宇野君は今日より富士見に居り可申候小生明日飯山町に行き二三日中に歸り可申候高木にては今健次風邪して居り候其他無事に候アララギ如何待居候匆々
此金で與市の授業料出ずば直ぐに御申越の事 十一月一日 俊彦
藤澤君
五七二 【十一月四日・端書 信濃上林温泉より 麹町下六番町二十七アララギ發行所 木曾馬吉・三溝與市氏宛】
飯山町を立つてここに來る山かげの一地域滿目皆紅葉なり山の雜木の中に柿畑あり眞紅なりこの温泉よりは北信越後の山は勿論遠く安曇高峰連亙せるを望むべし五日長野に歸るよ 醉ひて書く 赤彦
(343) 五七三 【十一月二十五日・封書 麹町區下六番町廿七佐々木方より 本御駒込林町十一 河西省吾氏宛】
拜啓上伊那行の事は御止めになりては如何それにつき今君の生計のため君の働く種類詳しく御知せ下され度候
一、何々にて月何圓 一、何々にて月何圓 といふ風に知り度存じ候
束京でやり通せれば尤もよしと存候追々權威あるものに筆をつけ候樣御考へ希望に候さうするには束京にゐなければいけぬと存じ候廿七八日の午前に御出で下されば家に居り候右用事のみ匆々 十一月廿四日夜 俊彦
河西君
大町の方のそん害御氣の毒存じ候とんだ災難と存じ候
五七四 【十一月二十七日・端書 東京麹町區下六番町廿七より 信濃諏訪郡豐平村上古田 小尾榮氏宛】
御報知拜讀もう山村は歌會の季節に入りし事と存候長田君も田中君も除隊の頃かと存候相共に苦研あらんことを祈り候孔子は終日思へども益なし學ぶに如かずと申され候歌に苦心するはよろしけれどそれ丈けでは足らず萬葉集子規歌集は勿論すべて價値ある古典より現代權威の書物御精讀尤も必要と存じ候山中に居れば一人ずましになり易し此點諸君の御心づきを願ひ候此ハガキ諸君に御見せ被下度候 十一月二十七日
五七五 【十一月二十九日・封書 東京麹町區下六番町二十七より 備後國双三郡布野村 中村憲吉氏宛】
只今御手紙拜讀御令閨樣御病氣よく/\御大切願上候御心配御察申上候少しづつ御快しき由御注意に御注意祈上候次に貴君風邪せぬ用心大切に候心をつかひ筋肉よわりし時風ひく事に候看護婦の手を見て君は第一に睡眠を充分にすべしと存候眠り不足にてはいけません高崎君實に御氣の毒に候あの書信中不都合なき所十二月餘白へ御承(344)知被下度候昨日より校正捗らずクサ/\致し候明日信濃行御令閨の模樣信濃下諏訪町の方へ御知せ被下度待上候(ハガキにてよし)畫伯より百圓紙代中へ御寄附下され候右貴君よりも序の節御禮申上け下され痩候何かまだあると思ひ候へども出立しがけにてこれにて止め申候風ひかぬ御用心大切々々に候 十一月廿九日 俊彦
中村兄貴下
選歌は一二日中に御送可申上候
五七六 【十二月一日・端書 長野市より 攝津西宮町前松原一六八 花田大五郎氏宛〕
拜啓御無沙汰致し居り候今月は十日編輯致し度御歌それ迄に間に合ひ候樣御發送下され度願上候新年號へ皆の歌を竝べ度存じ居り候右御願申上候しほさゐ拜讀新聞の方御退きのよし御感慨奉存候
しほさゐ益々御緊張欣ばしく存じ居り候御自愛奉願候敬具
五七七 【十二月十九日・端書 麹町區下六番町二十七より 本郷區湯島天神町丸中旅館 高木今衛氏宛〕
今夜思ひつく著物も羽織も袴も木綿にて澤山なり絹などは今十年後の事也はきもの杉のぶつきり澤山なりそれ丈けの元氣あるか如何 十二月十八日夜
校正廿二日よりでなければ出ない
五七八 【十二月二十七日・封書 東京麹町區下六番町廿七より 信濃國諏訪郡原村 清水祐吉氏宛〕
御心中拜察に餘り候折から又々御尊父樣の御逝去拜承重ね重ねの御悲傷言語に絶するを覺え候幼き子どもを殘し行くあはれさ思ふに堪へず候へども殘され候貴君の御心中如何(345)許りと深く御察し申し上げ候小生儀御悔み申上げん/\と思ひ乍ら多忙に取紛れ遂々今日に至り候段幾重にも御海容を祈り候今夜も十二時まで印刷所に居り歸宅して只今茶をのみし所に候ゆつくり色々を申上げ度かりしも到底果てしなく候ゆゑ一書呈上微意を致し候段御高諒願上候 敬白 十二月廿六日夜 俊彦
清水兄貴下
十一十二月の御歌非常のものと存上候校正は今夜四時迄に初校出てしまふ嚴約一寸寝てすぐ又印刷所へ參るべく候やつと今年中に出るらしく候
五七九 【十二月二十七日・封書 東京麹町區下六番町廿七より 信濃中洲村神宮寺 笠原田鶴氏宛〕
拜啓此間は子ども大ぜい御つかはし下され有り難く存じ候何のあいそもなく殘念に候小生新年號のため忙しく毎日印刷所へ參り居り候皆々樣御無事御越年の御事と存上侯小生壯健御安心下され度候さぞ苦勞するだろと存上候同封のかはせ券半ぱものにて具合惡しけれど子どもに下駄でも御買ひなされ度ほんの少々ゆゑ御禮の手紙など出さずともよろしく候常次樣外皆々樣によろしく御傳聲下され度候一よく働くやう親のいふ事をきくやう御つたへ下され度候匆々 十二月廿七日
今年は父上在さず心寂しき年越致し候事に候
(346) 大正八年
五八〇 【一月四日・端書 信州下諏訪町より 東京麹町區下六番町廿七佐々木方 藤澤實氏宛】
貴作傑作也分るか
新年御めでたう萬事やつてもらひ有難し二日雜誌つく紙粗末也その他よく出來し方なり大卅日より輪講と信濃教育をかきはじめ今朝六時迄起きてねむし明日長野行君歸國せざるか 一月三日
岩波へは卅日にアララギ屆きしか
五八一 【一月二十七日・端書 麹町區下六番町廿七より 本郷湯島天神町丸中旅館 高木今衛氏宛】
今夜出先より電報歸りて御ハガキ拜見廿八日と廿九日だけ校正願上候少し無理なれど小生どうしても廿九日終列車にて歸らねばならず候卅日に殘れば馬吉やり可申候廣瀬君丸中へ御厄介と存侯よろしく願ひ候小生來月十五日頃歸京すべく候匆々 一月廿七日
五八二 【二月五日・端書 長野市縣町逢瀬館より 東京麹町區下六番町二十七佐々木方アララギ發行所 藤澤實氏宛】
只今長野ヘつき貴書拜見風邪せしよし今度のは危險性ありとの事ゆゑ仕方なく休校して充分/\靜養下され度願(347)上候家に居りても動き歩いては惡し藥ものむべし山本君風邪も如何と心に掛り居れりアララギここへ未だ屆き居らず候今日松本より出せしハガキ御覽下され度與市君風邪せぬ樣願ふ匆々 二月五日夕方
せきのそばへ與市行くなせきはハンケチ手拭にて口を蔽ひてせよ
五八三 【二月六日・封書 長野市旅宿よりより 長野縣廳 佐藤寅太郎氏宛】
拜呈信濃教育へ小生の執輩致し候事冒涜と存じ候につき今月より執筆差控へ可申御承知被下度就ては後任御詮議方御取計被下度今月號は編輯だけ致し可申來月よりは編輯委員諸氏へ可然御命じ下され度候昨夜歸長參上に及ばず以紙上右得貴意候匆々 二月六日
佐藤寅太郎樣侍史
五八四 【二月十四日・端書 信州下諏訪町より 東京市外上目黒五八五 平福百穗氏宛】
拜啓彌々御退院なされ候由先以て一大事徑過欣賀の至奉存候丁度一ケ月の御入院隨分御退屈なされ候御事と存上候併し萬事順序よく進行御根治なされ候段慶事の至に存上候鼻の方御中止なされ候事賛成に存上候體御弱りの所に候へばあとまはしになされ候事可然歟と奉存候病院よりは度々御通信下され難有存候小生山浦地方を巡り歩き昨夜歸宅すべて拜見致し候明日上京十六七日御伺ひ申度存じ候匆々 二月十四日
五八五 【二月十六日・封書 東京麹町區下六番町二十七より 信濃埴科郡屋代町京屋方 唐澤うし氏宛】
拜啓此間は參上御厄介樣相成奉謝上候其後御病氣如何に候か寒中特に御注意御攝養のほど祈上候歌も絶間なく御勵みのほど祈上祖過日の會の歌諸君皆よきもの作り居られ驚き喜び申候年若き男女相會することはあまり好しか(348)らず此點貴下の胸の中にて特に御注意ありたく此事歌の上にも大切の事と存候安易なる交際は大抵安易なる心を生み申すべく候一人して黙つて精出して作り居れば宜しき事に候心づき候まま申進め候匆々
亂筆そのまま書き直さず御容赦下され度候 二月十六日 久保田生
唐澤丑子樣貴下
五八六 【二月十七日・封書 東京麹町區下六番町二十七より 長野市神明町神明館 守屋喜七氏宛】
拜呈過日は種々御厄介樣相成奉謝上候陳ば其際申出で候辭任の儀は其後熟考いたし候へども双方のため此際斷然留任せざるを得策と存候間引留め方法御考へ御無用に願上候小生も今より以上の時間をかけて一生の仕事にとりかゝらねば自分に濟まず此機會を以て一途に自分の道に進みはじめ可申候此決心は過日長野在留中よりも固く相成今日如何とも動し難く候へば決して/\引留めの道など御講じ被下間敷かたく/\願上候自らはからずして教育雜誌などへとび出し天罰を受け申候これ非常に小生の爲め宜しく候後任の有無なども小生只今考へ居られず此儀も御赦し被下度從つて後任定まるまで留任などといふ事もいたしかね候犠と御承知被下度候如何なる道によりても留任致すまじく此事キツパリに願上候東京にかへりて見れば一ケ月たゝぬうち二人の友逝けり人生はうろうろしては居られず皆自分の道を驀進すべき事と存候貴下も轉任の事よく御考への上何れなりとも御決定のうへ一途に御進み被下度只管祈上候他の關係など終局御考へなくてもよろしと存候忙中大亂筆御赦し被下度實は小生御引留めにつき貴慮を煩し居りと存じ無駄な事に骨折る時間惜しむべしと存じ此手紙差上候次第小生の事はかへすがへすきつばり御手を引き被下度如何なる人が如何なる道により候とも留任せぬ事に決心いたし候間此事貴君まで御通じ申上候匆々 二月十七日 俊生
守屋大兄貴下
(349) 五八七 【二月二十八日・封書 東京麹町區下六番町廿七より 攝津國西須磨 加納巳三雄氏宛】
拜呈婚儀は一生の大典偕老は終生の大義嚴肅と愉悦に充ちたち新しき御生活に對し衷心よりの敬意と祝意とを捧げ申候とくに御祝申上べきのところ去る十五日上京以來一人にて編輯に從事し寸暇なくゆつくり御祝詞申上げんと思ひつゝ今日に至り候御婚儀記念として多大の御寄贈を蒙り感謝の至奉存候深く御禮申上候
過日は御風邪なされ猶其後腸カタルなされしよし承り候ももはや御全快の御事と存上候原稿も慥かに落手喜ばしく存候四月號は特別號に有之いま十數首御送被下度願上候近來新進の人々長足の進歩にて驚き喜び居り候達三も熱を生じ來り喜ばしく存候新しき御生活の御傾到にて作歌の方如何かと存候へども辛棒して少しづゝにても御勉強下され度祈上候御祝旁右申上度此の如に候敬具 二月廿八日 俊彦
加納曉兄貴下
畫帖御送のよし御手紙有之候へども未著に候未だ御発送無之候はゞ當方にて求めそれに書き可申候御令閨樣によろしく御鳳聲下され度候馬吉は試驗前につき此程より神田の方へ參り居り候
五八八 【三月四日・封書 麹町區下六番町廿七より 府下巣鴨町字巣鴨一六二三 半田良平氏宛】
拜啓思ひ乍ら御無沙汰改し居り候益御清健奉賀上候藤澤實の事につきては年來厚き御配慮に預り難有存上候今囘卒業を得候はゞ美術學校彫刻科へ入り候樣致し度證明書等請求に及び候哉と存候間可然御便誼御與へ被下度御高配願上候殘寒料峭風邪御自愛專一奉存上候敬具 三月四日 俊彦
半田大兄貴臺
猶藤澤本年度後半勉強罷在候へ共卒業試驗奈何かと心配いたされ候その邊の消息等分り候はゞ御一報相煩し(350)度願上候兎に角彫刻の方へ出願いたし置き度猶それにつき御高見御知せ被下候はゞ幸甚奉存候何卒萬事御高配被下度偏に奉願上候
五八九 【三月四日・端書 麹町區下六番町廿七より 神田區仲猿樂町十七富士館方 藤澤實氏宛】
試驗明日了る事と存候今日半田君へ手紙出し置き候彫刻科へ志願するならその證明書下附につきよろしく御配慮下され度旨申置き候半田氏より貴君に問ひ候はゞ同樣御答へ置き被下度もう一日の所ゆゑヘビーといふ奴をかけて御努力被下度しけん了へたら一寸來てくれ給へ 三月四日朝十一時
五九〇 【三月九日・端書 信濃下諏訪町より 東京麹町區下六番町廿七佐々木方 藤澤實氏宛】
拜啓今夜電報來るかと待ちしも來らず心に掛り居り候いけずとも落膽すべからず候次に此ハガキ著きし翌朝平福さん方へ行き奥さんに逢ひ山口好氏の事につき御願ひする金と申して金二十圓受取りそれを十圓小爲替二枚につくり書留にて君の手紙の中に入れて山口氏に御發送被下度し山口君は廿日頃著京のよしに候御願のみ早々
只今十一時半電報つく萬事上京のうへ話すべし落膽するなかれ 三月八日夜
五九一 【三月十九日・端書 東京麹町區下六番町廿七佐々木方より 長野市後町小學校 守屋喜七氏宛】
拜啓此間は失禮仕り候御暇乞の挨拶に參り候處諸兄の御厚志に對し熟考する事に成り歸京その後一二の人と話し合ひ荏苒日を經候段申譯無之存候諸兄の御志は充分了解致し恐縮の至に存じ候へども今迄の如く繼續致し候事相變らず虻蜂取らずに了り可申衷心疚しきを感じ可申先以て小生の方六ケ敷事に御考へ萬事御進行成し下され度あまりのび/\に相成り居り今日編輯のひまを得候間大體愚意申進候匆々 三月十九日 俊生
(351)守屋兄貴下
五九二 【三月二十八日・端書 信濃下諏訪町より 東京麹町區下六番町二十七佐々木方 三溝與市氏宛】
荷物屋に風呂敷を用意さすべし歸りのふとんをつゝむに入用也
山口好氏の荷物九州から小生宛にて著かばその荷を直ぐ本郷區駒込富士前町十九原安民樣方日本美術社内山口好宛にて此間の荷車屋へたのみ送り屆けさせその荷車の歸りに小生のふとん二枚山口君より佐々木方まで持つて歸るやう頼むべし運賃すべてこちらにて拂へ 三月廿八日
新聞は朝のうちに見てしまひあと直ぐ送つて下さい
五九三 【三月三十一日・端書 信濃下諏訪町より 東京神田區仲猿樂町十七富士館方 藤澤實氏宛】
昨日箕輪村貴宅へ行き一通り相話し候萬事御心配なく御進行可有之存じ候色々御馳走相成候留守中與市の方時々御覽被下度匆々 三月卅日
五九四 【三月三十一日・封書 信濃下諏訪町高木より 東京麹町區下六番町二十七佐々木方 三溝與市・藤澤實氏宛】
拜啓信濃教育會青木氏ヨリノ五十圓ト振替三十五圓トノ内カラ佐々木ヘノ勘定トオ前ノ教科書授業料(定期乘車券モナケレバ買ヘ)等ヲ差引キ殘リアラバ皆コチラヘ送ツテクレ給ヘ小生今一文モナクテ困ツテヰルカラ郵便小爲替ハ十圓マデシカ組ンデクレヌカラ十圓以上ナラバ二枚ニシテ組メ二十圓以上ナラバ三枚ニシテ組メ中六ノ郵便局ニテヨシソシテソノ爲替券ヲ封入シテ送ル手紙ハ必ズ書留ニセヨ(以上成ルベク急イデクレヨ)以上萬一分ラヌコトアラバ藤澤君ニキケ健次周介明日ヨリ二日試驗ナリ 三月卅一日 俊彦
(352) 與市殿
色々留守中注意してやつてくれ給へ成績如何北海道へも大體の成績を知らすべし
五九五 【四月十日・封書 下諏訪町高木より 諏訪郡豐平村小學校 兩角丑助氏宛】
拜見大賀奉存候若き人々の作り居る學校は何うも放縱の傾きあり此點非常に憂ふべしと存候すべての規律を嚴肅ならしむるの御工夫先以て希望申上候豐平は村風惡しけれど盡すべき餘地はある處に候御精勵のほど祈上候小生昨夜長野より歸り明朝上京のつもりに候取あへず御祝詞申上候匆々 四月十日 俊彦
兩角丑助君貴下
御令閨によろしく御傳言被下度候
五九六 【四月十二日・封書 東京麹町區下六番町廿七より 愛知縣丹羽郡千秋村加納二六九 佐々治之氏宛】
拜呈度々御通信下され難有存候尾張會員の研究會御開き成され候よしはじめたら毎月(若くは定期)必御續行のほど祈上候斯樣の會大抵熱心者は一二人のものに候一二人にても續行されなばよろしく斯の如くにしてはじめて意義を生じ來り可申候會合の御模樣は簡單に御報下され度アララギにのせ可申候
一度貴地へ參り親しく諸君に御逢ひ申してもよろしと存じ居り候只毎月三ケ所を巡り居り暇のないに閉口に候右のみ匆々以上 四月十二日 久保田生
佐々君貴下
五九七 【四月十二日・封書 東京麹町區下六番町二十七より 備後國双三郡布野村 中村憲吉氏宛】
(353)拜啓畫伯と合作御ハガキ羨望して拜見致し候もはや畫伯も歸京の頃かと存候小生十一日歸京その夜齋藤君宅に相談會あり石原さんも一寸出席千樫迢空山本杉浦も來り候
一、今月の課題「自歌評釋」は「萬葉調」に改む併し「自歌評釋」にて御書きならば夫れにてよろし
一、左千夫號を七月に出す事各一文必ず書く事(六月一日迄に屆くやう)先生の手紙類を見計らひ清書して送られたき事
一、左千夫歌集を今秋中に出す事(春陽堂引受の由)これは今小生目を通し居れり千樫より茂吉茂吉より貴君へ廻送すべし
一、左千夫先生碑石(普門院墓地)三四百圓今秋中に建立の事夫れにつき茂吉と大兄と畫伯に三十圓づつ石原十五圓小生十圓他は五圓つつにして頂き度貴意を伺ふ事その他五十錢以上づつの寄附をアララギにて募集の事
右御意見御申越下され度忙中之れのみ中上候匆々 四月十三日夜 俊彦
中村兄貴下
原稿御待申侯小生廿日歸國可仕候
五九八 【四月十五日・封書 東京麹町區下六番町二十七より 信濃上諏訪町小學校 松澤平一・波多越經十郎氏宛】
拜啓益御多祥奉賀候
陳ば今囘愚息の事につき葦穗よりとんだ御迷惑の犠御願申上げ恐縮の至奉存候甚御厄介樣の事と存候へ共何卒御許容被下度願上候第一に居常規律惡しく不勉強にて困り候ゆゑ此點嚴重に御監督下され度第二に胃が弱く候ゆゑ間食等節約せしめ度菓子あまり食べぬ樣願上候其他御心附の事御遠慮なく御叱責下され候樣幾重にも願上候月末歸郷親しく御願可申上候へ共取あへず乍略儀書中を以て御依頼申上候敬具 四月十五日 俊彦
(354) 松澤樣波多腰樣貴臺
掃除その他適宜御申付け被下度候
五九九 【四月十八日・封書 東京麹町區下六番町二十七より 備後國双三郡布野村 中村憲吉氏宛】
玉きはる生きの命し生れたるおたまじやくしは動きにうごく
畫ノ具ノ所油アリテ墨ツカヌ
癈啓書留便昨夜著今囘は非常の心配をして下され驚喜致し候このまゝそつくり岩波さんへ入れ可申深く感謝致し候アララギも紙代少しも下らず一昨年來の有樣を依然持續の姿に候紙二割下れば二十圓餘樂になり可申その時を待ち居り候部數はもとのまゝに候千二百刷ると殘本多くなり候正月號も矢張り左樣に候四月號千二百は少し多過ぎしと存候五月は千百に候只今編輯中二日經て何れゆつくり申上ぐる事澤山あり
左翁の事詳しく申上ぐべく候大要は
一、遺稿出版の事さし當り歌集だけ出す
一、建碑の事(普門院)貴君に卅圓出して頂き度しといふ事(茂吉卅圓石原さん十五圓小生十圓)その他詳しくはあとから
一、七月號は左千夫號とする事貴兄一文必御用意の事左翁の手紙も二三通發見して置いて下さい
御令閨御出産近づき候由御大切に成され候樣祈上候平福さん元氣にて歸京一度逢ひ候さんご會へは出品なき樣子に候君のうら山の畫の事引きうけ申候忙中大亂輩御免被下度喜びて大急ぎに一筆如此に候匆々
四月十八日午前 俊彦
中村兄貴下
(355) 今朝選歌つき候貴歌待ち居り候次男健次中學に入れり長女はつせ女學校卒業補習科に居る
六〇〇 【四月二十二日・端書 麹町下六番町廿七より 攝津國西宮町前松原一六八 花田大五郎氏宛】
癈啓今日潮騷拜受一通り拜見せし所に候大へん御發展の姿見え喜しく存候勝山氏の歌にいゝのが目につきました貴作末尾悼歌のやぅなのを私は賛成します「いたつきに臥りてあらむ身をもちて起きてぞましき今し悲しも」大へん賛成致します途中から言文一致になりました失禮々々
六〇一 【四月二十三日・端書 麹町區下六番町二十七より 府下巣鴨町一一二六 小川多三郎氏宛】
拜復小生こそ非常の御無沙汰申譯なく存上候御病氣なされ候由御困りの事に存候過日平福さんより承れば御令閨樣も御不快なりし由色々重なりあひ御心痛なされし御事と存上候早く御恢復御旅行なされ候樣祈上候小生明晩か明後日歸國可仕來月十三四日上京可仕候その頃すつかり御恢復にて拜顔致し度存候門間君の御文章御心掛下され度願上候結城君書き申候匆々 四月二十三日
六〇二 【四月二十四日・封書 麹町區下六番町二十七佐々木方より 市外上目黒五八五 平福百穗氏宛】
拜呈今月は何や彼やにて毎日目を廻し居り出發前一度御目に懸り度切望いたし居り候處其意を得ず明朝一番出發可仕候色々御逢ひ申度事有之且つ布野村より出雲の事も承り度存じ居り候ひしも來月十二三日上京の時にゆづり可申候
一、左翁石碑の事は古泉君主となりて致すやう話合ひ候へども例のズポラゆゑ一人に任せきりでは六ケ敷かるべく已にアララギに公表の上は是非とも手際よく竣工に到らしめざる可らず設計等は勿論岡氏の指導を待たざるべ(356)からざるも工事の方も捗り方の急所々々を岡さんと談合するやう致し度此儀千樫に御逢ひの節も候はゞ貴下よりも御話し置願上痩且同氏へも右の點御序の節御依頼のほど願上候左千夫先生御宅を昨日訪ね一通りの事御承知置きを願ひおき候蕨氏へは知せる方よきかと存候其他にも御心付有之候はゞ下諏訪町宛にて御知せのほど願上候石碑の金は一切發行所にて取扱ふやうに致し置き候
一、山口好の儀御配意下され候處原氏工場は折角岡さんの御周旋を願ひしも不常識に行動せしため原氏へも岡さんへも非常に相濟まぬ事に成り殘念に存候性質は惡しからぬ男らしくしつかりもした所見え候へども技倆的職人の一種偏窟氣質と本人の性質と加はり候ためか他人に對する義理禮儀を缺き從て責任を缺き候やうなる事にて遺憾存じ候只今は臨時他の工場に行き弟は東京日日の給仕(?)にて日に三四十錢づゝもらひ妹は内職の編物いたし居り候由山口は不日砲兵工廠か何處かへ出る事に相成可申此點につきても同氏の御心配を願はねばならず惡しき心ではなきやうなれど左樣な場合小生等に一向相談せず今日は小生方へよびてよく事理を言ひ聞かせ申候その上岡さんと今夜色々御話申合ひ候今月は山口を件ひ一寸貴宅へ參上のつもりに候處山口は九州へ飛行くやら歸來身のふり方定らぬやら且つ小生特に忙しき事のみ出で來り候ため遂に其意を得ず何れ來月迄には山口も色々定まり可申かと存じ候へば其上參上いたし度存じ候右御高諒下され度候今度はほんたうに心配させられ申候九州へ行きて歸るやら何やら返事も返電もなき時は何うしようかと迷ひ申候人の世話容易ならぬ事と存候
一、挨拶状印刷の紙質あんなに惡しく非常に失禮致し候先方で呑込みし事と思ひ入りとんだ手落いたし恐縮存候
一、今日六十四頁校正出であと馬吉からやつてもらひ可申少々疲れ居り亂筆御判讀下され度候何か未だ申上度事ありしかと存候思ひ出で候節郷里より可申上候岡氏一二日中に參上致し度しと今晩申居られ候石原氏平熱になり候よし喜しく存候
一、中村より百五十圓紙代へ送りくれ申し候早速振替にて岩波へ送金いたし候中村歌一頁あり齋藤も文章間に合ひ(357)候古泉選歌も間に合はず憤慨致し候へど仕方なく候匆々 四月廿四日夜十一時 俊彦
平福百穗樣侍史
六〇三 【四月二十六日・封書 東京麹町區下六番町二十七アララギ發行所より 上總國山武郡睦岡村 蕨桐軒氏宛】
拜啓益御清祥奉賀上候陳ば今年は故左千夫先生七囘忌に當り候につき先生の碑を普門院墓地に建て申度此儀過日同人會にて決定申候大さは子規居士の碑と同じ位にいたし度萬事同氏の指導を待ちていたし度候樣決定仕り候御賛助下され候はゞ幸甚存候右大略御知せ申上度如斯に候匆々 四月廿六日
猶左翁歌集も今秋中發刊可仕候
蕨桐軒樣几下
六〇四 【四月二十八日・封書 長野市縣町逢瀬館 東京麹町區下六番町二十七佐々木方アララギ發行所 藤澤實氏宛】
御うけとりの上は一寸ハガキをこちらへ御出し被下度し只今不二よりハガキ來り母少し快き由依て一二日迄ここに居るべく候
御はがき只今拜見即ち金拾五圓(小爲替二枚)同封差上候間御落手下され度候此内に與市君の授業料入り居りや否や忘れ申候もし入り居らずばこちらへ一寸御知せ被下度し實は養母少し變兆を來し居り或は今囘はむづかしきかと存候につき小生急に昨日來長至急用事を濟ませ明日頃大抵下諏訪へ歸り可申候アララギは矢張り兩方へ一册づつ御送願上候(事によれば一日迄ここに居るから)校正難有存候萬事願上候
一日に畫の學校へ入學間違ひなくやり玉へ五月から一心御勉強あれ匆々 四月廿八日 俊彦
藤澤實樣几下
(358)もし横山から來たら夫れで洋服等下げられるだけ下げてくれ給へ下げられずばその金保存してくれ給へ
六〇五 【四月二十九日・封書 長野市縣町逢瀬館より 上諏訪町小學校 松澤平一氏宛】
拜啓旅中こんな紙に認め失禮致し候過日は色々難有存上候只今金拾圓小爲替同封御送申上候周介の費用へ御加へ下され度願上候今後すべて貴兄へ御送り申上度御厄介樣乍ら萬事御支拂ひ下され度願上候猶彼の費用は全然貴兄等並みに御割あて下され度然らざれば却つて心苦しく困り可申候此事御承知願上候實は今日頃諏訪に歸るつもりの處一二日延び可申相成依つて取敢へず以書中右御依頼旁申上候波多腰君へもよろしく御傳言下され度候敬具 四月廿九日
松澤兄貴下
明後日は歸諏のつもりに候
六〇六 【五月四日・端書 下諏訪町高木より 諏訪郡豐平村御作田 兩角七美雄氏宛】
拜啓左の歌は(1)如何なる場合の歌なるか(2)「ことはりの許さふべしや」のこの歌に於ける意義右二點至急御返事下され度候匆々
理のゆるさふぺしやありがてにひたひよりつつ心おくるる
御返事は下諏訪町小生宛の事 五月三日夜
六〇七 【五月十二日・端書 麹町區下六番町廿七より 本郷區湯島天神町丸中旅館 高木今衛氏宛】
(359)拜啓今朝歸京いたし候母一日死去君の御宅より令兄御來弔下され恐入り候御來談をまつ 五月十二日
六〇八 【五月十三日・端書 東京麹町區下六番町廿七より 信濃諏訪郡湖南村田邊 伊藤恒雄氏宛】
要求し希望する次第に候歌に現し方は拙づくても當分かまはぬから物の捉へ方に御苦心あらんことを祈り候此事は過日の會にも申上げしつもりに候一年や二年や三年では行きつかれず五年十年五十年を期するの御覺悟を祈り候あまりあせる必要もなくさりとて怠りては猶いけぬ匆々 五月十三日
六〇九 【五月十三日・端書 東京麹町區下六番町廿七より 信濃東筑摩郡鹽尻村小學校 小野三好氏宛】
拜啓花屋日記大へんせんさく致し候へどももとありし本屋分らず小生方の殘本も大抵の人に分ちしと見え一册もなく御約束に背く事になりはせぬかと心に掛り候處馬吉の處に二册保存せるを發見し即ち一册馬吉より送呈してもらひ候間御落手被下度候健次補缺にて入學色々厄介樣相成奉深謝候齋藤鹽原其他諸君へよろしく 五月十三日
六一〇 【五月十七日・封書 麹町區下六番町廿七佐々木方より 府下巣鴨町字巣鴨一六二三 半田良平氏宛】
拜呈今囘出京して承り候へば御老母樣には不慮の御災難に罹らせられ御長逝被遊候趣驚愕いたし候天壽を保ちてさへ親子の永訣は忍び難きの常なるを貴兄の御心中御察し申上ぐるも胸いたきを覺え申候定めて御悲嘆に御經過の御事と存上奉り候右謹で御悔み申上候敬具 五月十七日
一度藤澤と共に御伺ひ申上度存じ居り乍ら今以て失禮いたし居り候段心苦しく存候近々一寸拜趨いたし度候
六一一 【五月十九日・端書 東京麹町區下六番町廿七より 信濃諏訪郡豐平村上古田 小尾榮氏宛】
(360)今囘の貴稿取れる歌多し前囘までのに比ぶれば大へんの進歩なりこの勢で御進みあれ匆々 五月十九日
六一二 【五月二十一日・端書 東京麹町區下六番町廿七より 信濃諏訪郡豐平村上古田 永由健一氏宛】
君は勉強が足らぬ方丈記もあまり精読して居らぬだらう詞の使ひ方が分らぬやうで歌が出來るか勉強は苦しいのである何事も気樂してゐる勿れ匆々 五月二十一日
六一三 【五月二十二日・封書 麹町區下六番町二十七佐々木方より 市外上目黒五八五 平福百穗氏宛】
癈呈今日參上御不在殘念存じ候石碑の事にて參上いたし候然るに今夜岡さん又々御訪ね下され鱸猛鱗といふ人の目論見書出來癈見非常に具合よく一も二もなく之に決定して宜しからんと存じ候就ては二十五日朝岡氏が千樫君を御誘ひ下され貴宅御訪問の上にて右に決定したしと今夜御話し合ひ申候貴宅御訪問の前に千樫に青山墓地の石碑少し見せて下さる由に候間御宅へつくのは少しおそかるべしと存じ候目論見書は猛鱗の處に本御影なかりしゆゑ今日になり申候それまで岡さん二度も石屋へ足を運んで下され恐縮存じ候青山墓地へも猛鱗と今日同行して石碑御覽下さりし由に候詳しくは同氏より御話有之べく候今夜獨斷に定めてもよきほどに候へども千樫をよぶひまもなく右の順序に定め申候七月の間には充分合せてくれるよしに候右岡氏より詳しく御聽取の上御決定のほど恐入候へども願上候小生不在して何もせず申譯無之候廿一二日に歸宅すると申しおき候ゆゑ廿五日まではどうしても東京に居られず月末に木曾へ行きそこより長野に行き長野より來月五日頃上京せんと存じ候それゆゑ廿五日決定の日まで居られず何卒右御決定の事願上候實は二三日前岡さんと御相談致し石原さん廿四日頃御上京ゆゑ石原さんの祝賀會を簡單にやりその席上にて決定せんと話定まり取あへず石原氏へ都合よき日と時間の分り次第岡さんへ知せて下さるやう御願申置き候併しもはや右申上げし如く今夜拜見せし目論見書大へん結構ゆゑ石原さんを(361)待つ必要もなきかと申合ひ依て廿五日午前貴宅御訪問の事を定め候次第に候それゆゑ會の事は石原さんに二日許り前通じあり候事なれば石原さんより岡さんへ御通知あり次第會を開いて頂き度小生思ふに發行所の二階にて何か取りよせ一二時間話し候てもよしと存じ候石原さん胃を弱くして居られ候ゆゑ澤山の御馳走も却つて要らぬ事かと存じ候且つ石原さんの割き得る時間も甚少からんと存じ候此事岡さんよりも御相談申上ぐる事と存じ候もし發行所にてなされば下の家の方へはその意を明日小生より通じておくべければ何日何時に御使用苦しからず存じ候併しこれは他にてなされ候ともよき事ほんの最簡單程度の事を申上けし次第に候
猶石工手附金は百圓やる方よしとの事に今夜拜承然る場合何卒御融通下され度願上候猶又過日御話し下され候事は(【小生等出金につきの貴意】)折口氏岡氏だけに御承知を得おき候間御含み置き被下度古泉君にはあの後逢はず山本君には今朝逢ひしも忘れてしまひ候これは來月小生より申候てもよしと存じ候色々ごた/\書き候上に今夜これから返事書く事澤山溜り居りこれにて擱筆いたし候只今岡さん歸られし所に候匆々 五月廿二日夜十時 俊彦
平福様貴臺
門人らのすべき事を御兩人に大へん御厄介かけ恐縮の至存じ候
六一四 【五月二十四日・封書 信濃下諏訪町高木より 備後國双三郡布野村 中村憲吉氏宛】
「逝く子」も書いて東京の方へ送つて下され度願上候
拜啓東京にて手紙書かん/\と思ひその時なく昨日歸國いたし候母死後の用事そのまゝになしあり夫れで東京の方を片づけて歸り申候相一日木曾の教育會へ行き五日頃長野より歸京のつもり來月は左千夫號編輯ゆゑ早くせねば間に合はず十日頃一切を了りあと校正にかゝり度候總べて二百數十頁の大册となり可申定價は一圓のつもりに候左千夫先生の書簡今囘は成るべく多く掲げ度貴君所持のものは七八通若くは十數通發行所へ御送被下度(今月(362)中に)東京にて原稿紙へ諸方のを寫すこと少々閉口に候併し出來るだけやり可申小生の書く文章は此四五日に書いてしまひあと東京にて事務專門にいたさんと思ひ居り候普通號の上に左千夫號を加へるのだから大した事になるつもりに候夫れから貴君の書いて下さる文章は成るべく長いものを願ひ候先生の歌の事について書いて下されば尤も有難く候歌の事小生も書かんと思ひ候へども何人書きても猶宜しき事に候
過日は多大の金御用立下され忝き心にて受取申候右深く御禮申上候石碑の事千樫にてはとても何ケ月にて著手するか分らず畫伯と相談の上主として岡さんに盡力を御願申上候已に二日許り前鱸猛鱗といふ(大した名前なり六十以上の老人にて子規のを彫りし人)石工の名手に設計させそれを小生拜見大へん上等に有之總經費も三百圓位にてあがるらしく大へん難有存候千樫に無斷にてやる事具合惡しきゆゑ明朝(日曜)岡さんが千樫を訪問して設計の話をし打つれて畫伯を訪ひその場にて註文の事確定すべく七月の十三日迄に確かに仕上げられ可申候右御安心下され度候石は最上の本御影を用ゐる事に候貴君よりも岡さんへ一寸御禮申述べ下され度願上候成立迄岡さんに主もに見て頂くつもりに候千樫も勿論加はる歌集は小生より文明文明より茂吉茂吉より貴君へ廻り可申貴閲の上胡桃澤君へ御廻し下され度候千樫猶全集を企て居れど賛成はとても出來ず毎月の原稿さへむづかしき有樣に候小生も時々困り居り候まあ惡い道づれ居りとあきらめるより外なく候原稿紙の事昨日馬吉に書き遣す事を忘れ只今申遣し候間三越のを二三百枚其内近く御送可申上候ゴタ/\してゐるうちに延び/\になり申譯無之候
御子さん丈夫に御成長と存上候奥さんによろしく御傳言下され度候小生方皆無事に候健次は今年危く諏訪の中學に入り只今英語の片言をしやべり習ひ居り聞いてゐると可笑しく存じ候匆々 五月廿四日午後 俊彦
中村兄貴臺
鱸猛鱗《スズキマウリン》と訓む本姓鈴木のよし也支那人の如き名なり來月は選歌も十日迄に願ふ
(363) 六一五 【五月二十四日・端書 信濃下諏訪町高木より 東京麹町下六番町廿七佐々木方 藤澤實氏宛】
拜啓佐々木氏への勘定は三人にて五十圓以上六十圓以内位かと思ふ依てこれを振替にて拂ひ置かれたし小生來月五日頃行きて辨ずべしわざ/\爲替にて送ること面倒ゆゑ右に願上候輿市氏宅よりも月末には送金し來るべし君の家よりもその頃までに來るべしさうすれば大した事はなき筈なり右願上候當方皆無事に候卅一日木曾へ行き可申アララギ出來次第一册長野の方へ御送願上候匆々 五月廿四日
其二
又それから石碑の廣告(?)文の所へ個條書のはじめに肩をそろへて一、中村不折書、鈴木猛鱗刻と御伽へ下され度候併しこれは岡さんに伺ひし上にて御加入下され度候匆々
校正終り居らば加入せずともよし選歌一二日頃より中村土屋に御發送被下度 五月廿四日午後
六一六 【五月二十五日・端書 信濃下諏訪町より 東京麹町下六番町廿七佐々木方 藤澤實氏宛】
それから金何とか都合して三越の原稿用紙を二三百枚中村憲吉氏に送つて下さい金の都合出來なければふりかへの金來てから願ひます小生宅裏山もうすつかり若葉になつて杜鵑かつこう山鳩が盛に鳴いてゐます頬白も目白も丁度今囀る時季のやうです柿の葉未だ黄色ですこのはがき先程につづき書きしも開函時間に後れしゆゑ一日おそくつくべし
佐々木氏へ金貳圓茶代やつて下さい 五月廿四日書く
六一七 【五月二十五日・端書 下諏訪町より 水戸市外常盤村吉村方 宇野喜代之介氏宛】
(364)拜啓此間は歌評有難う大分深入りして書いて頂いて嬉しく思ひますあの歌には色々の見方がある事を想像して居ます君の今度の歌富士見よりも猶いゝ所ありと思ふ繼續する事が可なり必要な事であると思ふが月末に長野へ行き五日頃上京する君その頃出て來給へ
其二
君は繼續する必要をどの位の程度に考へてゐる今日三十五六年頃の小生の歌論をよみ返して見た人間といふもの存外進歩の遲々たるものである事と思はれる一寸一分の進歩も何年間精一ばいの努力である一寸一分も進まぬものは實は何年かの後の退歩者である小生五日頃上京その頃出て來たまへ
六一八 【六月二日・端書 信濃下諏訪町高木より 攝津國西宮町香櫨園池端 中村憲吉氏宛】
又書く(奥樣によろしく願上候左千夫號へ是非書いてくれ給へ十五日迄に)
どうも貴作には永久的のもの多く心歡ばしく熟覽いたし候こんなに詳しく貴作を見し事小生の益になり申候眞實アララギの人々には大したもの多く如何計りの幸福と存候貴君や齋藤のには眞劔にぶつつかりし所あるゆゑ皆永久性を帶びて生き居りと存候平福さんのにどうもいゝものがある時々作るといゝが畫の方も疎かにならず時々君からも歌を作るやうに御すゝめ被下度候耕平の今日のは矢張偉れてゐる若いのがよくなければ困る馬吉も病氣は切上けてべん強專一にすべきなり武藤の歌よし御訪問せばよくいろ/\教へてくれ給へ 六月二日
六一九 【六月九日・封書 東京より 阪田幸代氏宛】
拜啓下諏訪へ御出し下され候御弔詞昨日漸く拜讀致し候下諏訪より貴方へ廻送(遲れて)せしと行違ひに小生信濃へ行き昨日歸京せしゆゑに候そのため御返事も差上げず大へんな失禮をいたし候段御容し被下度候養母は中風に(365)て七年床に在り昨年より餘計に疲勞し起臥自由ならず依て取急ぎ妻子を歸國せしめし次第にして不二も一年看病して臨終に至り候事せめてもの心遣りに存じ候小生も丁度歸國の際にて一家打集りて枕頭に在り病人は非常に平靜なる往生を遂げ申候貴女も幼少にして御生母を失はれ候由小生も十歳にして母を失ひ候以來兄弟四人に別れ妻に別れ父に別れ一昨年は長子に別れ色々の目に逢ひて是迄生き來り候小生如き色々の目に逢ひしものは悲痛事に接して泣いて居るなどの事は出來申さず他人の泣き悲しむを見れば羨しき心地致され候泣くといふことは一の慰安に候小生は悲しみに接して泣くといふ唯一慰安さへも奪はれし經驗再三ならず五月號の歌は多少そんな心持もして歌ひしものに候御弔詞に對して思ひ出づることごたごた書き竝べ申候態々御悔みに接し難有御禮申上候
貴作毎月新しき道に進まれ喜ばしく拜見致し居り候御中絶なく御奮進の程祈上候貴女のは動機よく充實し實感が鮮かに出で居るゆゑ生き/\とした所を具へ候現し方は未だ完からず此點猶御苦心願上候併し現し方に苦心するものは往々詞を無理やりにあつかひ候ためひねくりこねくり出で却て大體を傷くるやうの事あり詞も句法も極めて自然に平氣に出で候様祈所上候今囘の第一首
二夜さの雨に芽ぶきの色さえて黄楊の小花は散りゐたりけり
第二三句迄は何の芽ぶきか分らず第四句に至りて黄楊が現れ來り候事現し方に無理あり譬へば呉市四番町二丁目といふ順序を四番町呉市――とするが如し
歌には斯様な現し方も往々ある事はあるが普通には大體の順序を自然にあらしむべき也御注意迄に申上候今日は七月號の割増と石碑寄附難有存上候御自愛祈上候
前述の如きわけにて妻よりも御返事草々出し居らず失禮に存じ候
六二〇 【六月十二日・端書 麹町區下六番町二十七より 本郷區元町一ノ二東肥軒方 藤澤實氏宛】
(366)今夜來る時岩波へまはり六月號五册ばかりもらひ來て下され度三册にてもよし無ければ何處かで三册買つて來てくれ給へ昨夜君が來るかと思つてゐた 六月十二日
六二一 【六月十三日・封書 東京より 小松虎生氏宛】
拜啓御出京の御望みよく御考へを要し候事と存じ候突然今迄の境遇を脱して飛び出すこと一生の爲めにならぬ場合多し眞面目に自己の天職を考ふればさう變轉は出來申す間敷今迄飛出して來し人小生の知る範圍にても成績思はしからず第一職業にありつくが容易にあらず此の方の御周旋は小生は殆ど無能力者に候歌の人(それもアララギだけの人)より他に交際なき小生は何うする手だても無之候次弟殊にアララギ發行所に一人の人を入るゝなどは今後何年たちてもさ樣な景氣のよい時來るべしと思はれず候只今八疊四疊二間借りて藤澤三溝二君に同居してもらひ手傳を頼み居れど二者とも一切費用自辨にて只厚志によりアララギの會計雜務を手傳ひ呉るゝだけに候アララギの忙しさは隨分ひどく忙しけれど專任の事務家を入るゝの餘裕はおろかの事毎月紙代に於て借財を累ね居り候有樣右御承知被下度候左千夫號編輯にて昨夜も三四時間しか眠らず今日も來客を引き止めて手傳を頼み居る次第故大要のみ申上げ意を盡さず貴君に於てもよくよく御考へのほど切望致候眞面目に百姓してゐる七美雄哀草果等の眞似をなされ候方貴君の得策ならずやと乍憚愚考仕候右のみ匆々 六月十三日
六二二 【六月十八日・端書 東京麹町區下六番町より 信濃諏訪郡豐平村上古田 小尾榮氏宛】
アララギは經費不如意にて百餘首の歌を一ケ月に出す事は出來ぬこれ殘念なれど仕方なし吾々の勞苦もつゞかぬ有樣也
今度の中二三十首取れるが一度には出しかねる今は一頁に數圓づゝかゝつてゐる夫れで毎月金不足してゐるわけ(367)なりこんな事も申上げおかねばならぬ也七月號へ兎に角一頁出して置いた 六月十八日
六二三 【六月二十三日・端書 東京麹町區下六番町二十七より 仙臺市 石原純氏宛】
拜啓忙しく御便りも申上げず只今御ハガキ拜見愉悦存じ候御訂正の事易き事に候丁度まだあそこが校正了らず候間何の面倒も無之候今囘の賜賞は大へん傑れ居りと存候生命の傾注が重く澁き調べを帶びて叫ばれ居るを感じ候 六月二十三日
六二四 【六月二十三日・封書 麹町區下六番町二十七佐々木方より 市外上目黒五八五 平福百穗氏宛】
拜啓昨夜わざ/\御立寄下され難有存候あれより歸りて見れば山本君居り二人して散歩し乍ら話し合ひ候第一に先方の家系を調べねば母堂六ケ敷く言ふらしく此點少し閉口に候山崎氏の言だけにてはいけぬらしく候形式だけにても興信社のやうなものに依頼したら如何と存候今日山本君が林さんに逢ひ林氏は今日中に山崎氏及び保證人を尋ね明日退く手續を濟す事に候退きし上は山崎氏方に臨時居てもらふより外なしと山本君申候猶母堂と相談したがよからんと申置き候家探しもせねばならずと存候小生廿六日には何うしても歸國したく色々にて困る事に候興信社の事にて明朝一寸御伺ひ申度存じ候次に宮地數千木氏松本の高等學校教授に赴任につき廿五日午後五時四谷見付三河屋にて六七人にて送別會致し度之は只御知せ申上るまでにて御都合御さしくり下され候に及ばず候會費の方もいつも御心配下され候事今囘は御心配下さらぬやう願上候一人二圓五十錢に定めて通知出し置き候右二件さし當り申上候小生留守になり候はゞ貴兄を煩し候事出來候かと存じ恐縮にたへず候はじめより御手を煩はさぬやう考へ居りしもだん/\左樣のことに相成り恐縮存じ候今日は校正どつさり參り亂輩御赦し被下度候匆々 六月廿三日 俊彦
(368) 平福樣貴下
六二五 【五月二十三日・端書 東京麹町區下六番町二十七より 信濃諏訪郡豐平村 永由健一氏宛】
こんな葉書に失敬君の今度の皐月は大へんいゝあゝいふ具合に毎月苦心して見給へ君のは捉へ方利いてゐながら現し方ぞんざいのため失敗する事がある今度のは大へんいゝから一段分採つた 六月二十三日
六二六 【六月二十五日・端書 麹町區下六番町より 芝區白金三光町六十七 宮地數千木氏宛】
拜啓昨日は懇々御光來下され候處不在致し殘念の至に存候今囘は松本へ御轉居遊され候趣にて御用意萬端忙しき御事と御察申上候小生一度如何にもして貴宅拜趨のつもりにて今日に至り失禮の至奉存候昨夜も徹布致し今朝六時半より八時迄眠り只今起床の有樣疎懶の罪偏に御寛容願上候宮地兄には今夜御逢ひ可申候につき取あへず貴所あて御詫申上候匆々 六月二十五日
結構なる品物頂き難有御禮申上候
六二七 【六月二十五日・端書 東京麹町區下六番町廿七より 備後國双三郡布野村 中村憲吉氏宛】
拜啓只今朝御稿落手惜しき事限りなし校正附録迄今曉了り今追加の道なし深く遺憾に存候昨夜は校正やら何やらにて夜を徹し編輯便書きし時朝の鳥啼き候ゆゑ遂起きて居り今一時間一寸寢て起きたり過日御送の選歌さへやうやう頼みて追加してもらひし始末に候殘念乍ら八月號へ出で可申御承知被下度候石碑の事七月十五日出來上る事昨夕岡氏につき確かめ編輯便だけ昨夜加へ申候明日歸國のつもりに候御歌一段だけありせめて喜び居り候七月の石碑に出て來られゝば非常によく候十九日に左千夫忌を致すべく候アララギ二百五十頁に(369)なり候八日より今朝まで首も廻らぬ有樣それへ雜誌に關係なき雜用馬鹿に出來上り閉口に閉口いたし候幸少しの疲れにてすみ候明日歸國青葉の中で一二日ユツクリ致すべく候平福さん金鈴社の山水畫非常のもの也君に見せたし君の裏山は未だ書ぬらしく候古泉の選歌又々間に合はず困り居り候岡さん釋さん丈夫宮地君松本の高等學校へ行く今夜三河屋にて送別會す眠くて整はず匆々 六月廿五日
六二八 【六月二十六日・封書 麹町區下六番町二十七より 市外上目黒五八五 平福百穗氏宛】
校正は今朝全く了り候表紙畫うまく行き欣しく存候岡氏より御目に懸け可申候
拜啓餘計な御心配をかけ恐縮存候手紙昨日も書かれず要領のみ申上候昨日午後山本氏母堂を訪問致し候
一、先方の家系を調ぶる事山崎氏に信頼して依頼の事
一、山本氏を此際山崎氏に引合せ置き少々の用事山本氏が足を運ぶか山崎氏と書信を往復するかにした方よし就ては廿六日小生出發につき廿六日早朝山本氏を小生が連れて山崎へ行く事何れも母堂は信一と相談すべしとの事に候昨夜山本信一氏にあひ候
一、山本氏は第一項母とよく相談すべしとの事第二項はそれに及ばざらんとの事
母堂少し事理を解せぬ所あり山本氏少々自分の事のみ分りてその外を思はざる點あり昨夜そのまゝ別れ申候小生留守中餘り捗らぬと存じ候へどももし重要の事も候はゞ何卒御援助のほど願上候一寸した事は御手を煩すに及ばず候一昨夜は夜通し校正し昨曉編輯所便を書きて一時間半眠り光風館に木下氏詩集の事に行き山田邦子を見舞ひ(【二三ケ月目にて見たれど餘計に疲れて寢て居り候】)それより山本君宅に行き歸れば宮地君送別會それへ齋藤より木下氏詩集の事申參りその方の事もあり色々にて一寸閉口の姿に候昨夜は七時間眠り候のゑ今日元氣に候十一時出發可仕候色々にて亂筆御容赦被下度候匆々 六月廿六日 俊生
(370) 畫伯座右
六二九 【六月二十七日・端書 信濃下諏訪町より 東京本郷區元町一ノ二東肥軒 藤澤實氏宛】
拜啓昨夜十二時歸宅今日はあまり用がなく却つて調子外れの感あり候明日不二子と八ケ岳の湯へ行き三泊して歸り直ぐ長野へ行き可申候發送の事願上候寄贈者名簿のうち今度丈け省く人々の名の下に何か印しをつけ置きしも忘れ候土橋源藏武川又兵衛氏等の下にもつけてありしと記憶せりもし分らばそれらの人は今囘だけ拔きてよろしく候高木か與一かこの印を知り居るかも知れず候切手は今度から貼らずに出し得べしとの事高木承知し居る筈高木に御相談願上候(印を新につくる事なり)廣告は小生の文を入れしか如何小生一日に高木へ歸るべく候
其二
發送費を誰から出せしかを長野の方へ御知せ被下度し
それから發送の費用十一二圓かゝるかと思ふこれを臨時君が出してくれゝばよいが出せぬかと思ふ依て岡さんへ行き頼まれたし(臨時金いくらか二三日貨して下さいと言へばよし)小生二日に長野へ行き直ぐ送金する君が出せば君へ送り岡さん出せば岡さんへ送る此事願上候今から振替下げては間に合はぬべしふりかへは出さずに置いてくれ給へ同氏へ改まつて手紙も出さぬからいゝやうに頼み候匆々
發送の日横山と相談してもよし 六月廿七日
六三〇 【六月二十七日・端書 信濃下諏訪町より 本郷區湯島天神町丸中旅館 高木今衛氏宛】
拜啓集金郵便今一度帳簿と引合せて手續して下され度候(與市と共に)今一つの用は君に頼み置きし(スタンプか麹町郵便局へこれ丈押して出せば切手貼らずしてよきなり)發送迄に造らせその印を押して御發送下され度候(371)印の代金臨時に出し置き被下度切手代金の事藤澤へ申置き候發送の袋は卅日でなければ出來ぬかと存候さうなれば發送は一日でも二日でもよろしく候匆々 六月二十七日
明日不二子と瀧の湯へ行く一日頃かへる
六三一 【七月二日・端書 信濃下諏訪町より 東京本郷區元町一ノ二東肥軒 藤澤實氏宛】
小生六日頃迄長野に居りこゝに歸るべく候御返事長野の方へ願上候(逢瀬館方)
今日アララギ著色々難有存候只今長野へ行きがけに候アララギ岩波書店へ何部行きしか同書店につき御聞き糺し御記憶下され度それと發行所へ來し部數と合せて千四百部になり居るか如何かを御しらべ下され度し此事必岩波につき御調べ被下度候發行所へ何部來しかは與市君も知り居ると存候匆々
アララギ盛大喜しく候誤植もあれど仕方なし 七月二日
六三二 【七月三日・端書 長野市逢瀬館より 松本市河野旅館 宮地數千木氏宛】
拜復愈々御入信の由欣賀存じ奉り候御家族御引移りの日一日も早からんを祈上候小生六日大町に行き(松本より北十里信濃鐵道終點)九日頃貴所御訪ね可申上候アララギも今月は非常な大册になり盛な事に候小生十日迄には上京いたし度存じ居り候何れ拜眉萬可申上候風土の相違御注意御攝生のほど祈上候匆々 七月三日
六三三 【七月三日・端書 長野市縣町逢瀬館より 東京本郷區元町一ノ二東肥軒 藤澤實氏宛】
なにしても今月御歌の盛大なるは空前也大した事なり御盡力深く謝上候發送費の事御知せの通りに可致候小生六日大町に行き十日頃一旦上京廿二三日より又々松本平を巡り可申暑い時に閉口に候へどもこれが務ゆゑ仕方なく候(372)岩波氏へ部數をきく事前便の通り願上候時々發行所に行き御覽被下度候匆々 七月三日
六三四 【七月六日・端書 長野市逢瀬館より 東京本郷區元町東肥軒 藤澤實氏宛】
二枚つづき二度に配達し來れり留守中萬事頼む小生今日頃大町行のつもりの處未だぐづ/\してゐる多分明後日頃になるだらう富士山ヒマラヤ杉の事一言にして盡せといふは六ケ敷ことなり只感嘆ばかりしてゐては歌にはならぬこちらから働きかけて其物を掟へることが出來ぬうちは藝術にはならぬ捉へるといふのは勿論そのものゝ急所である一點急所を捉へればそこからズンズン糸口が出て來る富士山にしても杉にしても君のは未だ急所を捉へることに至つてゐない只感嘆してゐて持て餘してゐるといふ姿である小生も政彦の死を今日迄もてあましてゐたから歌にならなかつたのである十二日頃歸京するかと思ふその時又話すよ急所の説依て如件匆々 七月六日
六三五 【七月十二日・封書 高木より 上諏訪小學校 松澤平一氏宛】
拜呈此間は周介無斷歸宅のためとんだ御心配相掛け候趣頑童の始末を御願致し恐縮の至存候嚴重御叱責下され候樣何卒願上候今日參上御面晤申上度存じ候へ共昨夜おそく大町より歸り明朝一番にて上京のため其意を得ず何れ次囘歸國の節御目に懸り可申候
波多腰君御病氣快方の趣欣賀存候よろしく御傳言の程願上候匆々 七月十一日 俊生
松澤兄貴下
明日差支も無之候はゞ周介を歸宅せしめ候樣御取計願上候但是非必要と申すには無之候
六三六 【七月十六日・端書 麹町區下六番町二十七より 巣鴨町一六二三 半田良平氏宛】
(373)拜啓一度拜趨のつもりにて御無沙汰致し居り心苦しく存じ居り候折から御手紙拜受恐縮存候御災厄に對する御態度歡しく拜讀致し候御心中深く御察申上候彌々御歌集御出し成され候よし待上候必愚評御目に懸け可申候近頃多くの歌の雜誌似よりの歌多すぎ候かと存候貴兄如何尤も小生詳しく目を通すひまなく候其内一度御目に懸り得べく存居り候匆々 七月十六日
六三七 【七月二十日・端書 東京麹町區下六番町廿七より 旭川六條通十二丁目 田中彌藤次氏宛】
拜啓貴君の歌追々によし今月のは一段だけ取れり毎月御勉強を祈る今夜は石碑へ御寄附難有存候今月の左千夫號一字一句もよく御注意御覽願上候左千夫の生命の偉大なるを御考へ下され度候匆々 七月廿日夜
六三八 【七月二十日・端書 東京麹町區下六番町より 信濃諏訪郡四賀村 五味卷作氏宛】
拜啓貴作矢張よし終りの「梯子をばかけて屋根より……」「ごみをはけば掃きゆくあとにまひもどり……」「外皮のはじけ……」の三首は八月送稿の時も一度書いてよこしてくれ給へ小生の處に殘し置けば紛失の患ありその他にて一段とる匆々 七月二十日
六三九 【七月二十一日・封書 麹町區下六番町二十七佐々木方より 市外上目黒五八五 平福百穗氏宛】
先日は御光來下され難有存上候
拜復先程は速達便御遣し被下難有存候今月はどうも頭疲れあれより一週間位ゴロ/\いたし居り何も手につかず閉口致し匆々一昨日より少し筆もちはじめ申候二三日中に片をつけその上御伺ひ申上度存じ居り候
舊友會追加難有存上候八月號の報告に間に合ひ可申候招待状及び七月號贈呈貴意の通りに致すつもり今迄のも七(374)月號を呈し置き候(鳴雪、左衛門、碧梧桐等)七月號百册以上手許に有之候これは長いうちに必賣れる事と存候長塚號も左樣に候長塚號は今殆ど殘部なき有樣に候七月號の事御心配下され難有存上候印刷費二百七十圓紙代一寸三百圓【一連十三圓を廿三連】23 13|69 23|299 雜費五十圓位【發送丈けにて二十圓それに廣告十五圓その他にて大體五十圓】總計六百圓餘の支出に候この收入岩波書店【五百部賣れると見て】三百七十五圓會費二百圓【毎月百三四十圓集る七月追徴分只今の所百人(四十圓)位來て居り】として五百七十五圓大體六百圓位にはなり可申かと存候集金郵便先日出し居り候へども未だ集り來らず二三ケ月位の怠納可なり多く仕方なく集金郵便出し居り申候何れ拜眉の上萬可申上候古泉君より先月今月共選歌未だ來らず困り候
もし何處か御外遊等も候はゞ三二日前御ハガキ御知せ被下度願上候兎に角二三日中には是非參上いたし度屏風の鶴も是非拜見致し度存じ候山本君の家どうも見付からず困り候御返事のみ匆々 七月廿一日 俊彦
百穗畫伯侍史
六四〇 【七月二十五日・封書 麹町區下六番町二十七佐々木方より 市外上目黒五八五 平福百穗氏宛】
拜呈今日は參上石碑費につき多大の御願申上恐縮の至奉存候御蔭樣にて萬事進行難有深謝奉り候次に山本君今夜八時過に來り市川説不賛成の由日によりては朝六時半頃より準備に掛る日あり兩國へ一番早くつく汽車六時二分故これも困るとの事猶兩國より病院迄二十分餘かゝる事との事病院より電話かゝりて出で來るに不便なりとの事(汽車の間卅分より一時間あるゆゑ)その他巨細聞き申候(押上の方も)要するに仕方なしと存候家の事誠に閉口小生もさう取掛り居られず候右の次第ゆゑ速達便を出す事止め申候日曜に山本君一寸參上との事に候家の事迄御心配願ひては恐縮の儀に候次に古泉君へ今夜馬吉行きしも歌集明日迄待てとの事明日持參すると申來られ候へどももし來ねば明夜小生參るつもりに候
今日校正殆ど全部參り少々やり切れずこれより寢る所に候亂筆御高覽願上候敬具 七月廿五日夜二時 俊彦
(375) 百穗畫伯侍史
石碑今夜計算したるに今迄の寄附〆て四百六十三圓十錢此内未納卅二圓差引今集れるもの四百卅一圓十錢に候此内今日頂きしもの百四十五圓昨日のが六十圓合せて二百十圓その他は振替になり居り候(二百二十一圓十錢)この内を百五十圓許わ臨時印刷費へ拜借來月はじめ岩波氏左千夫號賣上及び會費集りしものにて返却可仕岩波氏六百ノ内五百部賣れても三百七十五圓(一册七十五錢)そのうち紙代二百七八十圓(廿三連)引きて殘り百圓ありそれに會費の集りを加へて返却し得べしと存候餘白を以て大體を御知せ置申上候
六四一 【七月二十九日・端書 麹町區下六番町廿七より 本郷湯島天神町丸中旅館 高木今衛氏宛】
明日はとても移轉出來ぬだろ卅日は法會卅一日に引移り候樣御定下され度匆々 七月二十八日夜
校正はもうよし
六四二 【七月二十九日・端書 東京麹町區下六番町廿七より 信濃北安曇郡大町荒町三井方 河西省吾氏宛】
校正未だ了へず千樫期に後るる四日なる故なりとても駄目なり今八十頁迄見て心くさ/\してゐる所なり西洋諸家の説參考になり難有存候藝苑にうんと腕を搾つて書き給へ初めが大事也君の大切な時なり
アララギにあるないなど何ちらでもよしアララギに近頃書く文體非常に緊まりて威嚴ありてよしあんな具合に願ふ固いものを書き給へ八月は大町へ行かれさうになし
君の字はこちや/\してゐるも少しのんぴり出來ぬか失禮々々 七月二十九日夜二時書く
六四三 【七月三十日・端書 東京麹町區下六番町二十七より 福島縣耶麻郡山都村田代與三久氏方 小川千甕氏宛】
(376)どうも御無沙汰のみしてゐて申譯ありません山中の御生活健羨の至に存じます小生今月頭わろく何もまとまりません貴兄のにはよきもの多く暮しく存じます一頁頂きました今夜校正のひまを見て此ハガキ書きます八月三四日でなければ發行になりません明日七囘忌をいたします八月號は貴所へ御贈いたします匆々 七月二十九日夜
六四四 【八月七日・端書 信濃下諏訪町より 備後双三郡布野村 中村憲吉氏宛】
拜啓今夜長野より歸りて費翰拜見あの御稿は今御返しすればとても十五日迄の間に合はずあのまゝにて出し候事御承却被下度何卒願上候敬白
もしどうしてもあれで困るやうなら束京發行所高木今衝へ「ゲンコウカヘセ」と御打電被下度高木へ小生より旨を申途るべく候匆々
◎とても訂正してゐては間に合はず君のが間に合はねば第二左千夫號は全然困り候何卒あのまゝで御出し置き被下度候
第二便
君は十日過に歸宅される事と思ふその上電報で東京から取りよせて訂正して又束京へ送ればどうしても間に合はぬと思ふ君の處へついてから二日や三日はかゝるだろどうかあのまゝにして置いてくれ給へ此事頼む君のが間に合はねば全然困る故に是非頼む 八月七日
六四五 【八月十四日・端書 信濃下諏訪町より 下六番町廿七アララギ發行所内 高木今衛氏宛】
拜見◎兎に角十七日上京いたすべく早く歸國可仕候その日君が留守ならば用事の小生に言ふべきを書き殘して置いてくれ給へ◎内藤※〔金+辰〕策氏へは十二卷八月號及び檜嬬手一册を送つてくれ給へ◎釋古泉岡土屋四氏に十七日迄に(377)一切原稿著くやう願ふと君の名で端書出してくれ給へ◎今朝馬吉來り共に山浦の歌會に行く今夜馬吉不二見泊○短歌雜誌はもう贈らずともよし 八月十四日
六四六 【八月二十一日・端書 麹町區下六番町廿七より 本郷區元町一ノ二東肥軒方 藤澤實氏宛】
今月ノ校正ハ高木君ガ引受ケテヤル筈デアルツイテハ君ハ全力ヲ學問ニ注ギタマヘモウ八月モ十日キリナイ疊ノ上ニゴロツイテ東京ニ暮シテヰテハ困ル 八月廿一日
勉強ノ模樣一寸知セテクレ給ヘ
六四七 【八月二十二日・端書 麹町區下六番町二十七より 巣鴨町一一二六 小川多三郎氏宛〕
拜啓今月は後れて編輯し今夜貴稿拜見仕り候處御令閨様又々御病氣なされ候由度々の御心勞遠く御察申上候昨今如何に候か御大切に成され候様祈上候夫れにつき今夜高木今衛より聞き候へば去る十五日御來訪下され久しく御待ち下され候よし夫れ前に十五日小生不在の旨高木より貴兄へハガキ出したる筈に候へ共不著なりし事と存候とんだ失禮を致し殘念の至奉存候面會日を定め乍ら不在せし罪只管御詫申上候十六日亡母新盆墓參のため遂遲く上京いたし候右かへす/”\失禮を謝し候御稿のうち「うみ近みやゝまばらなる松原に潮ふくむ風のさわやかに吹き」はよき所なれど現し方ごたつき居りと存候御改作如何全體にて一頁頂き申候匆々 八月二十一日夜
六四八 【八月二十二日・端書 東京麹町區下六番町廿七佐々木方より 信濃上諏訪町岡村吉田堅方 松澤平一・波多腰經十郎氏宛〕
拜啓暑氣去らず候處御起居如何に候か波多腰君もうすつかり御宜しく候哉御伺ひ申上候周介いつも非常御厄介様相成奉萬謝候
(378)耳(中耳炎らしき事來京して知れり)の事も御厄介樣かと存候御考により病院の方から診てもらひてもよろしく靜居を要し候はゞ其旨御申含め被下度何卒願上候すべて御考により如何樣にも願上候小生廿四日頃歸國につきその上御伺ひ可申上候兎に角靜居の事御申付け被下度願上候もし手術を要し候はゞ恐入候へ共前以て高木の方へ御知せ被下度候 八月二十二日
六四九 【八月二十七日・封書 信濃下諏訪町高木より 東京麹町區下六番町二十七佐々木方アララギ發行所氣附 辻村直氏宛】
拜啓藤澤の事につき又々御迷惑相願ひ候よし小生はくれぐも今迄の處にて修學希望致し候へ共本人が何度も考へて轉校を望み候へば仕方なき儀と存候御手數重々恐入候へ共大切の場合貴兄に御願申上るより外途なく何卒御盡力御願申上候
猶藤澤中學校の方が確實となる迄今迄の學校を離籍せぬやう本人に御打合せ被下候樣詳細御注意願上候
小生明後日出發長野に行き九月四五日頃歸宅八九日頃上京のつもりに候その頃御知せ可申御來訪待上候それまでに歌御用意置き被下度候九月十五日には仙臺行にて東京不在と相成可申候匆々 八月二十七日 久保田生
辻村直樣貴臺
六五〇 【八月三十日・端書 信濃下諏訪町より 東京麹町區下六番町廿七アララギ發行所内 高木今衛氏宛】
〇便りするたびに厄介を言つてすまぬ〇原稿紙二十枚か三十枚かを下諏訪の方へ送つてくれ給へ
○七月左千夫號を左記へ送呈してくれ給へ 上諏訪町 關一郎
○集金郵便そのうちに願ふ
○明日か明後日長野ヘ行き五日頃こゝにかへり九日頃上京するつもり也 八月卅日
(379) 六五一 【九月四日・端書 長野市縣町逢瀬館より 松本市西王町 宮地數千木氏宛】
拜呈過日は參堂圖らざる御厄介樣相成奉深謝候大町行は山見物の目的を達し得られうれしく存候此事奥樣にもよろしく御禮御申傳へ被下度願上候
〇矢張り都合つけても五日は松本へ行かれぬらしく殘念に存候とても明日迄に原稿書き上けられまじく存候非常に遺憾に候へ共如何とも致し方なく御寛恕願上候此事折口君へも胡桃澤君へも宜しく御取做し願上候兩君へは松北倶樂部あてハガキ出し可申候匆々 九月四日
六日午前中は此處に居可申候
六五二 【九月五日・端書 長野市縣町逢瀬館より 東京麹町區下六番町二十七佐々木方アララギ發行所内 高木今衛氏宛】
△小生明日歸諏のつもり也
色々有難う〇紙は廿二日か廿三日小生岩波氏に會ひて御願ひせしも繁忙中忘却せられしかと存じ候七連願ひおきし次第に候已に事すみと存候こんな具合では發行何日なるか不安に存候下諏訪の方へ御報被下度候〇小生何も手につかず長野市の暑さ非常に候〇會員への端書は今朝書いて送る忙しければあと廻しにてもよし小生行き相談してもよし(やる人々の撰樣)萬事頼む 九月五日
六五三 【九月十日・端書 麹町區下六番町二十七より 神奈川縣藤澤町天野方 藤澤實氏宛】
拜啓昨日一番にて歸京明後十二日仙臺行十六日歸京のつもり十六日以後一度出て來ては如何廿日の土曜でもよし歌あらば十六日中につく樣送られたし萬事都合よくはこび喜しく候何處の學校でも勉強はせざる可らず御油斷な(380)きやう切望いたし候國元皆丈夫に候 九月十日
小生歌事によれば二頁あり候廿一日中には歸國すべし(廿三日に飯田へ行くゆゑ)
六五四 【九月十五日・繪端書 陸前金華山より 東京牛込區鶴卷町二二七田代方 飯山鶴雄氏宛】
十三日石原さんと島に来り候處大時化にあひ今日も滯在明日も船來るか否か分らず閉口いたし居り候全島花崗岩の岩山にて老木茂り泉迸り鹿遊び心地よき處に候陸と九町隔て居り候浪の荒き事驚くべく候十七日に歸京出来るかどうか分らなくなり候 九月十五日
今日も船來ず風依然たり十七日歸京出來ず歌は御郵送を乞ふ
六五五 【九月十七日・端書 東京麹町區下六番町二十七佐々木方より 千葉縣富津町富津館 平福百穗氏宛】
只今歸京丸で暴風雨にあひに行きしやうな具合にて三日間島に閉ぢこめられ昨日も迚も來ぬと思ひし船來りしゆゑ乘りこみし處闇夜風浪暴れ狂ひ甲板が水面にぷちあたると云ふ有樣にてやつとの事鹽釜上陸すぐ汽車にて今朝上野につき申候石原さんの體あと何ともなければよいと心に掛り居り候帝國?美術院とは何物なりや今日新聞を見て憤らしくも馬鹿らしくも思ひ居り候御自重千萬祈上候歸京の御知せのみ急ぎ申上候餘は後便匆々
廿日迄に編輯廿一日歸國の用あり候ゆゑ參上出來ず今月御目に懸られず殘念に存候
島からのハガキは未だ屆きますまい尤もお宅の方へ宛てました島は大へんよくありました 九月十七日正午
六五六 【九月三十日・封書 信濃下諏訪町高木より 麹町區下六番町二十七佐々木方アララギ發行所内 高木今衛氏宛】
拜啓
(381)○一、十圓十錢 小生佐々木へ拂ひ分 一、五圓 小生君から借り分 一、十圓 小生岡さんより借り分 〆二十五圓十錢
右小爲替券三枚にて御送申上候間岡さんへ直ぐ御返し被下度
〇與市君のは北海道より來り次第十九圓七十錢(佐々木氏)と五圓(授業料その他分)計二十五圓丈け振替より御引出し被下度
〇發行所費は佐々木費十圓十錢と月末發送費だけ御引出し被下度候(與市君と合せて一口にして引出す方よしその内譯を拂出の紙に書いて置いてくれ給へ)
〇此手紙は九月廿二日に書く爲替を組みて出すのは何日になるか分らぬ 九月廿二日 俊彦
高木君
此手紙をここ迄持つて來てしまつた下伊那飯田町より 廿七日飯田町より送りし廿五圓は御落手と存候(小爲替三枚書留)
佐々木氏計算書もここに御送申上候二十六日出御手紙も拜見色々奉謝候よろしく願ふ小生三日に長野へ行く(家を明日か明後日出る)
六五七 【九月三十日・繪端書 信濃下諏訪町より 神奈川縣藤澤町天野方 藤澤實氏宛】
下伊那の南の方に行き居り昨日伊那町より歸宅せり御ハガキ拜見御勉強のよし欣ばしく存候小生明日か明後日長野へ行くべく候天龍峽一寸よき處に候自由畫展覽會へは片上伸氏山本鼎氏及び報知新聞記者谷氏も行かれ候大愉快也 九月三十日
岩へ好な字を刻みつけてしまつて甚だ殺風景にしてしまうた何うも近世人は仕方ありません
(382) 六五八 【十月二十一日・封書 東京麹町區下六番町廿七佐々木方より 備後國双三郡布野村 中村憲吉氏宛】
拜啓何日頃御上京の御豫定なりや成るべく早く御出かけ祈上候小生廿七八日頃土田の處へ行く用ありこれは土田の生活改善の要あり只今二疊の日あたり惡しき處に自炊し熱あれば飯を焚かぬといふ有樣の由を彼地に行きし人より聞き候ために候さうでなくても一寸行かんと思ひし處に候食物等もみじめすぎるとの事之には同人より少しづつ今後も御心配を願ひたきかと存候今迄主もに畫伯がやつて下され申候詳しくは御面晤にゆづり候
さういふ次第ゆゑ君が廿七日以前に來てくるれば非常に好都合に候其他アララギについても色々御相談を要し候右のみ匆々 十月廿一日 俊彦
憲吉兄貴下
へん輯は昨日スツカリ終り候明日慶應にて一寸歌の話をせよとの事承諾を致し候鐵幹と二人の由に候小生は矢張萬葉につきて申し度候御家族御壯健か子供さん賢くなりつゝあらん
六五九 【十月二十八日・封書 東京麹町區下六番町二十七より 攝津國西須磨村 加納巳三雄氏宛】
拜啓御稿及び御通信暮しく拜見致し候〆切後になりしゆゑ乍遺憾十二月號へ廻り可申御承知願上候今後一段づつにても毎月御送被下候樣願上候君の體力衰へしやうな御通信心もとなし元氣を鼓吹せられんこと切望存上候酒の方幾分節しては如何さて甚だ恐縮の御願に候へ共アララギ左千夫號の際費用いつもの二倍半を要したるため石碑の方より臨時拜借いたし候處その方今以て埋合せつかず今月中に二百圓許り先生御遺族の方へ差上ぐるに差支を生じ居り如何とも致し難く此の内百圓丈けは小生何とか工夫致し候もあと百圓の處置に困り居り候もし大兄に於(383)て臨時右百圓丈御融通下され候はゞ幸甚の至存上候此金毎月十圓づつ十ケ月にて御返却候てもよろしく或は三四ケ月に纒めて三四十圓つつ御返し申上てもよろしく御工夫出來候はゞ御援助願上候斯んな御願をしては濟まぬ事に候へ共のつぴきならず思ひ切りて御願申上候次第御承知願上候アララギは只今毎月二三十圓づつ不足印刷と紙馬鹿々々しき昂騰にて仕方なく來月より會費五十錢(特別會員七十錢)に上ぐる事にいたし候編輯費は一文もなく候只疊代だけを時々出してもらひ候(小生都合惡しき月)有樣に候
従て紙代も大へん疊まり居り此方は別に方法立ち可申過般中村君より多大の金を出してもらひ申候次に土田耕平生活状態非常に惡しく只今にては二疊の狹き室に一人にてとぢ籠り熱ある時は御飯を焚かず物食ふ事もせぬらしく依て今夜靈岸島發彼島に行き實地を見てよき室を借り飯たき婆を頼みて歸り度只今その用意中に候此方も同人數人にて毎月二三圓づつ出費するやう致し度存じ居り候御賛成下され候はゞ幸甚奉存候
出立前アララギ用事を一通り片付け度亂輩にて色々御願申候段不惡願上候匆々 十月廿八日 俊生
加納兄貴臺
いつか必御地へ參上可仕候
六六〇 【十月三十日・繪端書 伊豆大島元村より 攝津國西須磨村 加納巳三雄氏宛】
昨朝著土田君存外元氣にて喜しく存候八丈よりも金華山よりも地相穩かにて心地よく候もう椿がさいて落ちてゐるのもあり候明日歸京のつもりに候御令閨によろしく 十月卅日 赤彦
「乳ケ崎沖まぢや(迄は)見送りましよがそれからさきは神だのみ」といふ島唄があるさうですどうですいゝでせう
(384) 六六一 【十一月三日・端書 麹町區下六番町二十七より 相模藤澤町天野方 藤澤實氏宛】
拜啓土田の事逢つて話し度いが大抵今日小生歸國するから今度上京にゆづる體量十四貫以上元氣よし病氣は大した事ないらしい君は成るべく缺席せぬやう勉強を望む殊に來年三月迄辛棒大切なり大抵歸國出來るつもり今山本君を待ち居れど來ぬそのひまに此手紙書く横山へは少し詳しく土田の事書いて置いたから序の節御覽あれ 十一月三日
六六二 【十一月六日・端書 信濃下諏訪町より 東京麹町區下六番町廿七佐々木方 高木今衛氏宛】
拜啓咋朝無事歸國いたし候御見送り下され有難く存候
一、「信州」十一月號を平福氏に御送する約束して忘れたり二階八疊のうちにあり同氏へ御送願上候(山本鼎氏の童展記事あるもの)
二、石榑茂といふ人の詠草は小生選歌中へお加へおき被下度(石榑千亦氏の子息らし)
三、選歌御分送被下度小生分は送らずともよし
四、小生明日長野行
六六三 【十一月十七日・封書 東京麹町區下六番町二十七より 攝津國西須磨村 加納巳三雄氏宛】
拜啓とんだ御依頼致し候處御都合下され如何計助かり申候探く御禮申上候小生十三日歸京以來意外の出來事のみ打つづき緩々御禮の手紙さし上げんと存ずるため却つて筆を執る時なく思ひ乍ら今日に至り候段失禮御赦し被下度候昨日も今日も朝飯食べずに外へ飛び出すやうな有樣心外存じ候
(385)中村君上京久し振りにて懇談非常に歡ばしく離れ居る同人の顔を見れば自から安心するやうな心地になり未だ一語を出さずして萬事通ずるの感有之候同君の事につき御尊父樣をはじめ貴君の厚き御配慮に預り候由感謝の至り奉存候貴君の御令閨につきても中村君より傳聞喜しく且安心致し候御勇奮祈上候
京都迄同行せよと中村君より申されそれにつきて貴意も傳承心中非常に誘惑を感じ候へ共今度は到底決行六ケ敷殘念に候アララギ丈けなれば都合つき候へ共他に閉口至極なる用事出來居り候ために候いつか貴地迄數日間御邪魔致し度存じ候心切に動き居り候一昨日石原氏も上京せられ候ゆゑ明日四谷見附の魚きんにてアララギ相談會も開き可申候次に土田耕平氏の費用臨時左の通りに有之少々御寄附下され候はゞ難有仕合せに候重ね/”\の事に候へ共同氏目下の状態數人にて心配せねば追付かず御願申上候次第御承知願上候
一、十八圓五十錢 ふとん五布一枚
一、十五圓 幕(土間と座敷との間)布三反半高六尺長さ二間半
一、仕立料送料 三圓
〆卅六圓五十錢
分擔寄附者 百穗 茂吉 憲吉 純 曉 藤森(これは信州人小學先生) 小生
御承知下され候はゞあの金の内御返金中より支出可仕候雜多の事申上候御禮を主として右のみ匆々頓首 十一月十七日夜 俊彦
加納兄貴臺
御稿十二月號へ出で可申御承知被下度候新年號へ十二三日迄に御送稿下され度候いつかの歌の事も少し御待ち被下度候
(386) 六六四 【十一月十九日・封書 東京麹町區下六番町廿七より 相模國藤澤町平野町天野方 藤澤實氏宛】
一向消息ワカラズ歌ハナイコトト思フ勉強シテヰルカ辻村君來リ曰フ「缺席シテハ及第ニ困ルアノ學校ハココガ肝腎ナリ」ト御荘意アレ石原中村二氏來り昨夜魚きんニテ來年度アララギ相談會ヲ開ケリ中村廿二三日迄居ル予モソノ頃マデハ居ル 十一月十八日 俊生
馬吉君
カネイチエンツカヘ
(第二便) 手紙のあと高木かへり君の歌稿を見る
つぎつぎにまだ咲きつづくつはぶきの花をうづめて落葉つもりつ
空あかりながき夕べは庭に出てくらくなるまで子供らと遊ぶ
二首尤も傑る合計一段とる匆々 十一月十八日夜二時
六六五 【十一月二十日・端書 東京麹町區下六番町より 信濃諏訪郡玉川村小學校 小尾喜作氏宛】
拜啓御子さん如何御大切願上候釋君は第一日夜の歌會の方よろしき樣子に候講演了りてから新湯に行き度きよし原田泰人君たちの仲間にて誰か案内旁入浴してくれゝば難有存候誰にてもよろしく候諏訪神社を調べ度くば林八十司君に頼めばよし林君へは小生よりもハガキ出し候
六六六 【十一月二十五日・端書 東京麹町區下六番町廿七より 松本市歩兵五十聯隊召集豫備兵 長田林平氏宛】
拜復彌々召集御勇奮祈上候北地寒さ嚴しかるべしよく/\御自愛祈上候男子一度戰場に臨むは子々孫々迄の榮譽(387)貴君のためにも如何計りの好機と存候時々御歌もあらば一つ二つにてもよし御送被下度候田中君も同様かよろしく願ふ 十一月二十五日
六六七 【十一月二十六日・端書 麹町區下六番町二十七より 市外上目黒五八五 平福百穗氏宛】
佛畫もよろしと存候裏畫も何か御見立被下候はゞ難有存候
拜啓もはや明日頃は御歸京かと存候へ共端書にて御願申上候アララギ新年號表紙畫又々御手を相煩し申度十二月二三日に貴宅へ誰か御伺ひ可申夫れ迄に御心配願はれ候はゞ幸慶の至奉存候矢張□の申へ御入れ相願度鳥象等如何かと存候へ共御自由に御取計相願度御許諾の程奉懇願候小生風邪にて今日まで臥ね候へ共大抵よろしく今夜夜行にて諏訪に歸り二日長野に出で四五日に上京新年號に取りかゝり可申候何れ又々可申上候土田のものスツカリ荷物を出し候間御安心被下度何れ歸京の上色々御願申度存じ居り候
それから森田恒友氏に新年號へ何か書いて下さるやう小生より依頼状出し候へ共(風邪にて行かれず)貴下より一寸此事御依囑下され度願上候匆々 十一月廿六日夜
六六八 【十一月二十七日・端書 信濃下諏訪町高木より 東京麹町區下六番町二十七佐々木方 高木今衛氏宛】
拜啓咋朝無事歸り候二日に河西省吾君が新年號の表紙畫と裏畫を持つて行くから寸法を一二年のに倣ひ御定の上元眞社へ御屆け被下度元眞社へは大切保管として御屆け願上候小生二日長野行四日上京のつもりに候
家内皆無事御安心被下度それから中村君の手紙をおうつし被下度(全部)集金郵便は早く願上候 十一月廿七日
六六九 【十二月五日・端書 東京麹町區下六番町二十七より 長野縣上伊那郡伊那町小學校 原才三郎・高橋愼一郎氏宛】
(388)拜啓只今電報で申上けし如く片上氏十日以前は都合つかず依つて小生明六日夜行にて出立伊那町迄直行可仕御承知下され度候併し十四日に御延しの電報明日中に參れば小生出發せざるべく候あまり火急にて少々まごつき居り候御返電を待ち候匆々 十二月五日午後一時半
十四日ならば片上氏都合つき可申候
六七〇 【十二月十二日・封書 麹町區下六番町廿七佐々木方より 本所區柳原町一ノ十六エナメル會社内佐藤政之介氏方 伊藤とく子氏宛】
謹呈寒さ相加はり今年も押し迫り候處貴堂皆々樣如何御暮し被遊候か伺上候過日は御轉居の御知らせ下され有難く拜承仕り候陳ば故伊藤先生石碑醵金殘金アララギ十月號にて報告後猶矢崎源藏氏より金一圓を寄せられ居り總殘金百九十九圓拾一錢を貴家へ御贈呈可申の處今日まで延引いたし誠に申譯無之存じ候今日別便振替貯金を以て右全額御送申上候御落手御快納下され候はゞ幸甚の至奉存候實は小生拜趨いたすべきの處新年號のため忙しく乍失禮振替を以て御屆申上候段不惡御承知のほど願上候猶御落手の上一寸はがきにてよろしく御返事賜り度願上候 敬具
御息女樣御容態如何に候か御大切に成され候樣願上候 十二月十二日
伊藤とく子樣侍史
振替の到着は二三日後れ申すべく念のため申添候
六七一 【十二月十五日・端書 麹町區下六番町二十七より 巣鴨町一一二六 小川多三郎氏宛】
拜啓今日ハ松倉米吉ノ法會ニ行キ御光來ノ節留守イタシ非常ニ失禮イタシ候段御詫ノ申上ヤウモ無之存ジ候原稿モ今月ハ十日迄ニ郵送シテ頂クヤウ諸方ヘ手紙出サセ候處貴兄ヘハ洩シタリト思ハレ候折角ノ御稿新年ニ間ニ合(389)ハズ殘念ニ存ジ候今日ノコト御詫ノ申ヤウモ無之恐縮存ジ候 十二月十五日夜
六七二 【十二月十六日・封書 東京麹町區下六番町二十七より 北海道空知郡富良野町鳥沼 小田觀螢氏宛】
拜啓御歌集御贈り下され難有存候拜読後の所感を申上れば第一に作者はすべての環境に對して眞面目なる態度を保ち居られ候事すべての作を通じて現れ居り從つて眞面目に此の書を繙くことを得ると云ふ感を起さしめ候現今の歌壇は自己に對しても自己の歌に對しても放縱なる態度多くそれらのものが大家と言はれて騷がれ居る有樣に候左樣な中に純粹の感じを保ち居る隱沼を拜見せし事喜しく存上候卷頭の歌その他より秀れしと思ふもの五六摘出アララギ新年號に愚見書きおき候間御笑覽下され度候自然物に對しても人事に對してもよきもの有之斯樣なものを鍛へて所謂冴えの境地に到らしむる御工夫祈上候多少くだ/\しき説明が歌の勢を挫き苦くはごたつかせるやうな場合も目につき候例へば
叱られて母をよび泣く幼子に母なければぞ我も泣かゆる
は大體よき歌に候へども「母なければぞ」をとり去りし方遙かによろしく候若し「亡い」ことを現すならば「亡き母をよび泣く」とやうにしても宜しくこの第四句巧みなるやうにて説明になりごたつき可申と存候これらの歌に出あへば歌柄を大きくあらしめよといふ感じ起り候
泣く子負ひむつきを洗ふかかる夜は亡き靈も來て我をなげくらむ
これらの歌は大したものに候概して貴兄の御歌はアララギ調多しと存候夫れゆゑ小生に餘計に親しみを感ずるのかも知れず斯樣な事申上候事失禮に候哉小生左樣感じたるまゝを申上候御意見御聞かせ下され度候粗雜なる物の言ひ方にて惡しく候へ共新年號編輯にて疲れ居りこれにて御免を蒙り候匆々 十二月十六日 赤彦
過日御手紙下されしも忙しきまゝ御返事相後れ失禮致し候
(390) 觀螢詞兄貴下
六七三 【十二月十六日・封書 東京市麹町區下六番町二十七番地アララギ發行所より 大阪市東區農人橋一ノ二池崎商會 池崎忠孝氏宛】
拜呈何とも御詫の申上やうも無之候中村君上京の節貴兄大阪へ御歸りの事を聞き候も逐に御伺ひ申止る時なく其後大阪より御書信頂きしも今以て御無沙汰の有樣重ね/”\の失禮御わびの詞無之存候大へん書いて申上げねばならぬやうな氣が致しそれで餘計に億劫になり今日まで過し申候昨日にて新年號編輯スツカリ終り今日ひまになり即ち手紙差上申候大阪にては矢張り文學の方專ら御續け成され候哉東京よりも話相手少く幾分御寂しきことも可有之と存候へ共却つて專心に御從ひ成さる事を得べくと存上候聖徳太子の事も二三人より聞き及び候御大成のほど待上申候猶アララギへも時々御執輩相願度いつも厚かましく申上候へ共何卒御助勢のほど冀上候齋藤石原中村土屋等皆東京に居らず小生は東京長野諏訪三ケ所を毎月廻り居りてアララギに專門になられず千樫は小生よりも多くなまけ候有樣此處にて少し考へて出直さねばならぬと思ひ居り候小生も來年からは長野の教育雜誌を止め申度と存じ居り候(思ひつき候過日諏訪の住所を知らせよとの御ハガキ之にも失禮して居り何とも申やうも無之候重々失禮の事に候信州下諏訪町高木小生宛御發信下され度候毎月廿五六日より月末迄そこに居り候)中村も或は來年頃より神戸大阪方面に住むかも知れぬとの事に候少々我々も精出し可申候木下杢太郎氏の「食後の唄」いよいよ一二日申に出で可申一本御高覽に供すべく候御批評等御寄せ下され候はヾ欣喜奉存候童馬漫語は已に御手元に屆き居る事と存候これも何か御書き下され候はゞ幸甚の至奉存候小宮さん正月號に書て下され申候阿部さんと貴兄にも御願いたし度かりしも御子樣御逝去のよし承り差控へ申候阿部さん大へん悲しみ居られ候樣子を岩波氏より聞き申候貴兄も御幼兒の事なれどとんだ事にて御悲傷御察申上候追々色々の世相に接せねばならぬ事恐しく存候小生十歳にて母を亡ひしより兄二人弟一人妻と子父斯樣に多人數に訣かれ申候一昨年の明晩長男を雜司ケ谷に(391)なくし申候人の心少しは察せらるゝ心地いたし候いろ/\ごた/\書き陳ね申候御無沙汰の罪偏に御高宥願上候敬具 十二月十六日夜 俊彦
池崎詞兄侍史
啓御幼兒樣御逝去の由御悲傷のほど深く御察申上候略儀に候へ共爲替同封香花御供へ被下度候他の書信と同封失禮御赦し被下度候 十二月十六日 俊彦
池崎樣侍史
追て香奠返の儀當方よりも差上けず候間御同樣になし下され度願上候
六七四 【十二月十八日・端書 麹町區下六番町廿七より 相模國藤澤町平野町天野方 藤澤實氏宛】
今火鉢に線香立てた所だ試驗最中だらうから終へたら一二日出て來よそこで年越のつもりかアララギ百五六十頁特價八十錢大册なり石原二頁千樫迢空赤彦各一頁文明耕平等一段千樫文章十一頁茂吉二篇とも長く石原釋も長篇大したもの也達三の萬葉もよしりん講も長篇四人揃ふ 十二月十八日
六七五 【十二月二十日・端書 東京麹町區下六番町二十七番地より 長野縣上諏訪小學校 アララギ會員宛】
拜啓今年も餘日無之候處益々御清昌奉賀上候年内何かと御世話樣に相成り奉謝上候來年も相變らず御厚情を賜り度冀上げ候小生忌中につき新年賀状差挫へ申すべく御承知被下度候敬具 大正八年十二月二十日
六七六 【十二月二十日・風書 麹町區下六番町二十七佐々木方より 市外上目黒五八五 平福百穗氏宛】
拜啓過日來御申聞の御高志恭く勿體なく奉存上候夫れにつき色々考へ候へ共考へ纒らず御高志に浴し仕事に取掛(392)り候ても何れほどのもの出來候哉勿論立派なるものは出來ず幾分にても世間に稗益するほどのもの出來るや否哉この點先づ以て心に掛り申候材料等は小生としては今十種以内も集むれば足り申すべく大抵のものは已に備へ居り(古事記傳日本書紀通釋の如きは上諏訪の學校にあり)あとは上野圖書館等にて毎月四五日づつ材料を集むれば宜しきつもりに候併し何とかして來年より取懸り度き願望は持ち居り少々工夫いたし居り候矢先き御高志御披瀝下されし次第に候純一なる御高志に對し感激極りなく色々考へて見申候アララギ及びアララギ同人事ある毎に貴兄の御厚意に縋り候事數を知るべからず貴兄としては御厚意を以て御盡し下され候事に候へ共アララギよりすれば往々にして御厚意に狎るる如き事なきかと思ふ事なきにあらず寸分の隔意を存するに無之候へ共此點時にふれて關心せらるる事あり特に今囘小生に關する問題は非常の大事なるを思ひ恐怖の念に不堪存じ候一方御厚志に對し何處迄も素直なる念を以て徹せざるべからず之れ御高志に對する小生唯一の道なりと存じ候色々考へ候末四年五年と申し候ては非常の事に有之小生の責任愈々重きを感じ候につき向一年間御厚志に浴し仕事進捗の模樣とその成績を見申度小生に追々自信つき候樣ならば更に又御配慮相煩し申度と存じ候一年間といへども大したる事に有之厚顔の至と存じ候へ共今日迄に斯樣に決心致し候次第御寛容下され候はば欣喜の至に奉存候
今日迄信濃教育より毎月六十圓を受け他に旅費慰勞等にて七八十圓に達し居りし事に候その内信濃教育を退き候へば宿料旅費等にて十四五圓を減じて生活し得べく主なる使途は東京三十圓乃至四十圓(今迄の模樣に候これは多少猶儉約をなし得べく候)子供に二十圓(他に預けある子供毎月十五圓中學校女學校授業料その他にて五六圓)合せて六十圓以内と存じ候而して小生も多少原稿講評の如きものにて收入を得べく候へば六十圓中の幾分を自給し得べき事に候小生一家の生活費はそれほど小生が見てやらずともかつ/\過し行き得る有樣に候
甚無遠慮に申上げし次第にて心中忸怩たるを覺え候御高志に甘え願意披瀝仕り候御寛容被下候はば幸甚の至奉存候敬具 十二月十九日夜 俊彦
(393) 猶岩波氏と御會見下され候はば出版の方餘計にしつかり行き可申存候併しこれは必ずを要せずと存候何れ廿一二日頃拜趨可仕拜眉の上萬可申上候
平福百穗樣侍史
六七七 【十二月二十三日・端書 東京麹町區下六番町廿七より 信濃諏訪郡湖南村田邊 伊藤恒雄氏宛】
御はがき拜見委細承卸致し候歌を止めて考へるほどにせずとも宜しかるべく考へ過ぎても惡しく其邊面倒と存候此機會とに角眞劔御工夫祈上候匆々 十二月廿三日夜
(394) 大正九年
六七八 【一月二日・端書 信濃下諏訪町より 東京麹町區下六番町二十七佐々木方アララギ發行所内 高木今衛氏宛】
おめでたう此間表裝屋へ頼みし二枚の畫は矢張りどちらも絹表裝(大したものでなくともよし)にして下さいと御命じ願上候併しもう着手してしまつたら仕方なく候右願上候匆々 一月一日夜
新年號久保田ふじ宛のもの今日屆くそれにてもうあと送らずとも宜しく候今一つお願ひあり四谷見附の壺屋支店にて二圓四十錢(?)のやうかんの折ありそれを買ひ小包にて信濃上伊那郡藤澤村片倉守屋喜七宛にて小包便を出されたし差出人小生の名を書いて下され度し小包だけにてよしハガキ等はいらぬ
六七九 【一月八日・端書 長野市逢瀬館より 東京本郷區林町十一 河西省吾氏宛】
束京朝日新聞選歌承諾いたし置候
御はがき拜見致し候原稿今二ケ月御ふん發を願ふアララギの方は三四頁づつ願ふ併しその時により多くても構はず候淑徳の事拜承小生十三日頃上京のつもりに候胃けいれんのあと宜しきか少し體を靜かに養はん事を祈る病氣までしては困る今度は是非逢ひたい
(395) 六八〇 【一月九日・端書 長野市逢瀬館より 相模國藤澤町天野方 藤澤實氏宛】
其後如何新年御めでたく存じ候小生今年より束京朝日新聞の選歌をする事になりしゆゑ歌三つ乃至四五をハガキに書き東京の小生方へ御知せ下され度根岸派の歌をちと世間に見せてやり申度右御願のみ匆々
十一日諏訪に行き十三日上京、アララギ歌批評も書けアララギの歌は十六日頃迄に送れ
六八一 【一月九日・端書 長野市縣町逢瀬館より 麹町區下六番町二十七アララギ發行所内 高木今衛氏宛】
今度は色々多く頼み厄介なりしならん
(一)文章世界の廣告は文章世界編輯主任加能作次郎氏へ問合せおきしゆゑ不日金額と送稿期日を申來るべし(アララギ發行所へ)それを見てやつてくれ給へ最初の頁の上等の處へ出す事餘り高價ならば中等の處でよし自由に御取計被下度し
(二)新年號を左記のうち未だ寄贈せぬ處へ寄贈してくれ給へ但し發行所に無ければよし
讀賣時事東京朝日萬朝国民報知東京日日大阪朝日大正日日大阪毎日(コレハ宛所分ラネバヨシ)
(三)小生十一日諏訪に來り十三日には大抵上京事によれば十四日になる萬事頼む
惡性風邪流行君も與市君も注意の事うたたね無用 一月九日夜 早稻田文學は廣告止める
六八二 【一月十四日・端書 麹町區下六番町二十七より 相模國藤澤町平野町天野方 藤澤實氏宛】
僕の歌は最近に變化してゐる夫れを少しも君が氣付かないのに驚く變化の價値の如何は別問題である夫れに對して僕は主張をするつもりなし「遠く來て」はあの前書があるから少し生きて來てゐるのである 一月十四日
(396) 六八三 【一月二十五日・封書 東京麹町區下六の廿七より 信濃國東筑摩郡廣丘村 赤羽豐治氏宛】
拜呈御多幸なる年を迎へられ欣喜御祝申上候多年の雲霧一時に飛消せし思ひあり清く健かなる御生活に入らせられ候事遠く想像して衷心愉悦を覺え候猶御兩親樣に御孝養御盡し成され候樣祈上候流行風邪猖獗の有樣に候へ共發行所皆々頑健御安心被下度候思ひ乍ら御疎音に打過ぎ候御海容願上候御令閨樣にもよろしく御傳へ被下度候頓首 一月廿五日 俊彦
赤羽豐治君貴下
小生明朝歸國のつもりに候
六八四 【一月二十七日・端書 信濃下諏訪町高木より 東京麹町區下六番町廿七アララギ發行所 高木今衛氏宛】
一、廿六日中に濱野氏より校正の日を申來る筈なりき小生不在ゆゑ佐々木樣方にて濱野氏より聞きおきくるる筈にしてあり何ともまだ挨拶なくば元眞社へ行きて聞かれたし
一、小生二月二日迄此處に居り三日の夜長野につき五六日迄居るべし長野にゐる日數は長野へつき次第御知せ申すべし
一、豫防注射は矢張りやつた方よし山本君と時間の打合せをして行つてやつて頂き給へ
一、東京朝日選歌廿五日迄のは小生こちらへ持ち來れり
一、紙は十連岩波氏より元眞社へ入る筈になり居れり
一、佐々木さんが同勞舍の印刷をを聞いて下さらばその模樣御知せ被下度他へは話すな
第二信
(397)○東京朝日新聞その他雜誌社より原稿その他の用事にて至急を要する事を申來らばその手紙を小生へ轉送すると共にその社へあて「只今赤彦氏信州行き來月十日頃迄不在ゆゑ御手紙は直に轉送しおけり」といふ意味の返事直ぐに御出し置き被下度願上候匆々 一月二十七日
△朝日の投稿歌は來月四五日頃長野へ送つて下さい少ければ今つと後でもよし
△朝日新聞の予の取りし歌等につき意見を寄せしもの來らば投稿歌を送る時一緒に送つてくれ給へ(矢張り小包便がよからん)
△與市氏岡さんへ雨傘を返せしかたのむ
六八五 【二月五日・端書 長野市縣町逢瀬館より 東京麹町區下六番町二十七アララギ發行所内 高木今衛氏宛】
拜啓長野へ來て何の御消息なく〇今朝ハガキ著(氷豆腐ノコト校正百十頁出シコト七日頃發送ノコト)〇そのハガキに昨夜出したハガキ云々の事あれども其のハガキは未だ著かず從つて同勞印刷の事も朝日新聞選歌を發送してくれしか否かも分らず〇依て只今電報にて御問合せ申候〇小生明日諏訪へ歸るべく候へ共もし歸りし後へ朝日新聞選歌原稿が著けば困る也〇電報の御返事は今夜迄につくであらう〇何もかも一向不明にて困り候〇校正はあとどの位殘り居るか皆で何頁位になるか△端書の文字を丁寧に讀んでくれ給へ〇原稿は書留の事 二月五日
第二信
三日夜出した御ハガキ只今著電報を出さねばよかつたがもう仕方なし失敬々々
校正厄介に候古泉君手傳ひ下され難有存候同勞社の返事は分らぬか小生明日下諏訪へ歸り可申候匆々
〇小包今夜か明朝つくだらう〇雜誌は下諏訪の方へ一部送ればよろしく候出來たら直ぐたのむ〇八日朝諏訪へ來るならアララギ持參してくれれば有難い併し都合あること故さうせずともよろしく候
(398) 六八六 【二月十四日・端書 麹町區下六番町廿七より 巣鴨町一一二六 小川多三郎氏宛】
小生は三時より四時位の間(一時間)一寸參會可仕候
拜啓明十五日午後一時より平福畫伯新畫室にて中村土屋その他アララギ同人會し可申猪肉を頂く約束に候是非御參會下され度畫伯よりの意を小生より御傳へ申上候匆々 二月十四日
小生方より御一緒にてもよろしく候
六八七 【二月二十五日・端書 麹町區下六番町廿七より 相模國藤澤町平野町天野方 藤澤實氏宛】
來月九日迄一心不亂勉強の事それからあとで三月號の平福さんの歌の中でどれが一番感心したかを御申越下され度感心するもの無ければ無いと御申越下されたし今夜から校正君の處もやつた前月より落ちてるやうだ中村君未だ在京今夜横山新村二君來りて去る今衛大將夜二時になりて未だ歸らず匆々 二月二十四日夜半
六八八 【三月三日・端書 長野市逢瀬館より 麹町區下六番町二十七佐々木方アララギ發行所内 高木今衛氏宛】
日光二月二十九日消印はがき只今拜見致し候小生三月一日夜行にて出立二日朝著き申候アララギ明日は落手するかと待ち居り候
〇新小説二月號一册御買ひ置き下され度願上候君のは小生こちらへ持つて來ました(今の内なら二月號まだ有るかと思ふ二三軒きいて見てくれ給へ)〇用事一通り濟まばアララギ合册御註文下され度しその時檜嬬手も一册願上候○諏訪も春めき來り候風邪も追々退散と存候○君も與市君も自愛專一に候佐々木さん方へよろしく願上候匆々 三月三日
(399) 六八九 【三月五日・封書 東京麹町區下六番町二十七番地より 北海道余市 三溝與八郎氏宛】
拜啓こんな紙に認め申候春暖漸く相催し候處御全家樣御起居如何に候か今年は流行風邪殊の外惡性にて各地恐慌を來し候處皆々樣御無事被爲入候哉小生方一同壯健罷在候間御安心下され度候
扨てかねて御問合せ有之候明治藥學校速成科の儀過日同校へ出頭詳しく聞き糺しの處同校に限らず一般藥學校にて今後高等小學校卒業生を收容する科は無くなり申すべく況して尋常小學卒業生を容るゝ科は全然何處にも無之樣子に候只明治藥學校にては今年に限り高等小學卒業を容るゝ速成科あるもそれも來年よりは無くなり可申樣子に候從て御令息桃助君を入るゝには矢張中學校卒業の上可然學校を擇びて入學せしめられ候より外に道なしと存候今後大抵の學校は左樣なる傾向に相成可申かと存候
次に與市君儀は小生同居種々その性質を觀察いたし候に商業その他の實業には餘り適當せず寧ろ高等專門の學問を單純に修めて進まれ候方同君の大を成さしむる所以にあらずやと愚考仕候小生は斯樣な事與市君に對しては一切口外いたさざりし處此間に到りて本人より高等學校に入りたしと申出で候之は與市君に尤もよき道ならずやと存候よく御勘考の上御許容のほど祈上候第一高等學校も宜しけれど第二校(仙臺)もよく松本の高等學校もよろしと存候高等學校に入りて後自身に尤も適する學科を撰びて專攻するを宜しとすべく此邊は本人に一任すべきかと存候貴家にても多人數の男子有之候事ゆゑ一人位學士をつくりてもよろしかるべく殊に本人の腦力かなり宜しく心もしつかりして居り候ゆゑ殊に御すゝめ申上候本人甚だ世才なく機略なし商業その他の實業寧ろ不適當ならずやと存候此點貴意如何に候か高等學校入學試驗は中學四年修業にて受けられ申すべく候ゆゑ此四月よりちとしつかり勉強する必要有之候左樣するには小生方同居は一室に多人數雜居し且つ訪問客引つきりなしの有樣にて迚も滿足に勉強出來ざるべく四月より何處かよき素人下宿にても探し四疊半一室位に立籠り專心勉強致し候方可然と(400)存候御異存無之候はゞ四月より左樣取計ひ可申御令閨樣とも御熟議の上何分の御返事下され度候小生十日以後上京可仕御返事は東京の方へ御出し下され度候匆々 三月五日
三溝與八郎樣侍史
過日は珍物海苔茶拜受難有拜味仕候序乍ら御禮申上候
六九〇 【三月六日・端書 長野市逢瀬館より 麹町區下六番町二十七佐々木方アララギ發行所内 高木今衛氏宛】
〇三月號今日こゝへ來て見る印刷の際の脱字非常に多し仕方なし
〇此間紙に書いて與市君に頼み置きし土田君の事願ふそれからあの紙を見て中村君の令弟と今一人のお醫者樣(同じく中村の親戚)の住所氏名を高木の方へ知せくれよ小生より未だ依頼状を出さず 以上三月六日書く
〇日光より高木への繪はがき正午拜讀
〇小生八日高木へ歸る〇選歌遠い方から段々送つてくれよ小生のも送つてくれ給へ(十日の前につくやう)
〇與市君に言ふ高等學校入學の事北海道へ言ひやれり本人からも直ぐ手紙出せ 以上六日夕方
第二
〇光風館へ行き木下氏の原畫を頂き度しといひそれを木下氏に鄭重に包みて送りくれ給へ未だ無いといつたら何日來ればよいか聞いて再度行つてくれ給へ
六九一 【三月九日・封書 信濃下諏訪町高木より 東京市外上目黒五八五 平福百穗氏宛】
拜呈長野にて突然友人の葬儀(流行風邪年四十五)係をつとめ豫定より一日後れて今晩歸宅御書面拜見仕り候山本君の事重ね/”\御配慮を相煩し恐縮の至奉存上候貴示異見も無之先方の父に對する交渉こちらの落度にならぬや(401)う山本氏へ御話のほど願上候(1)何日迄に引取りくれよといふ事(2)それ以後當方に責任なしといふ事(3)その日に至りて言ひ渡すこと(4)當人の事實(不都合なる)を列記して言ひやるがよきか如何かこれは考へものと存候山崎氏より大體を先方へ報告して下されば尤もよしと存候
要するに小生は破談問題の初めよりこれ山本氏一人にて處理するが山本氏のため尤も賢き道なりと思ひしゆゑ熊本行を主張したる次第にて熊本行以外に道なしとは思ひ居らざりし次第に候小生不在多く從て貴下へ餘分の御心配を願ひ心苦しく存候此手紙山本氏へ御示し下され候て宜しく候小生多分十三日上京と成り可申尤もそれらの事にて必要あればいつにても上京可仕電報御出し下され候てもよろしと山本君に御傳へ願上候土田は九日か十日頃上京の由知せあり下宿は高木が追分町あたりに見付ける筈に候六日に一度見付に行きしも七日に又行くと知せあり候船のつく晩は高木か馬吾が靈岸島へ迎へに行く事になり居り候大島發の時電報打つ筈に候追分町附近に宿を求むるは香川氏も原田氏(【中村親戚中國の副院長内科醫師】)もその町に居住せられ居るために候此事も又々御配慮を蒙り候儀に有之誠に恐縮至極いたし候小生今月限長野辭任今日會長その他に暇乞して歸宅御安心下され度候取急ぎ用事のみ申上候敬具 三月九日 俊彦
畫伯老臺
當地今頃になりて流行風邪あり人心やゝ恟々いたし居り候小家一同幸無事小生も元氣に候間御安心下され度候湖水すつかり溶けて暖くなり候
乍末御令閨樣によろしく御傳聲願上候皆々樣御大切に成され候樣祈上候中村君より加納君合作のはがきを寄せ來り候岡中村山田、藤子(【これは二月號】)の歌合評いたし度少しにても御書き下され候はゞ喜しく存候四月號は特別號に候間貴作一段にても頂かれ候はゞ喜しく存候小生も今度はしつかり作り度存候子供中學の試驗あり今は毎晩その下調を見てやり居り候出來惡しく閉口に候呵々 早く上京御面晤仕度候
(402) 六九二 【三月十日・端書 信濃下諏訪町高木より 東京麹町區下六番町二十七佐々木方 高木今衛氏宛】
拜啓小生十四日上京となるかも知れず候此間本所より諸氏合作のはがき頂けりそれをよく見ると君の文字が一番上等なり是れ甚だ喜ぶべし是れ只に文字のみの問題に非ざるなり匆々 三日十日夜
馬吉如何
六九三 【三月十五日・端書 東京麹町區下六番町二十七より 相模國藤澤町平野町天野方 藤澤實氏宛】
拜啓東京へ來て見ても君の消息は一向分らない一體卒業したのか何うかそれを知せないのは不都合也卒業したとしてその後をどうするつもりか檢査(徴兵)の事も心に掛る土田上京今各方面の診察を受けてゐる所なり内科の方も大した事なささうなり痔瘻ではないかとも思ふ島の六十歳以上の醫者が痔瘻の疑ありと言ふのださうだ併し未だ分らない 三月十五日
六九四 【三月十八日・端書 東京麹町區下六番町二十七より 攝津國西宮町前松原一六八 花田大五郎氏宛】
拜啓昨日畫伯を訪問色々相談仕候處貴著のはいつそ見返しを秋草模樣等に立派になされては如何とも申合せ候併しこれは貴兄の御好みに一任すべき事に存候(1)秋草模樣の見返しになさるか(2)口繪になさるか口繪とすれば如何なる種類のものを望まれ候か右を直接畫伯へ御知せ下され度願上候匆々 三月十八日
加納曉氏上京昨日畫伯宅にて相談申候
六九五 【三月十八日・端書 東京麹町區下六番町より 山形縣南村山郡本澤村菅津 結城光三郎氏宛】
(403)春雄兄の事文章に書いてくれ給へ二十四字詰二十行の紙四枚六枚八枚といふやうに丁度に書いて下さい(二枚にて一頁)本文はじめの處を四行あけそこに題と氏名を書いてくれ給へ書いたら直ぐ茂吉君に送つてくれ給へ今後は毎月十五日締切にするゆゑ歌も文もそれ以後は困る今月君の歌如何せしか廿日迄まる匆々 三月十八日
原稿紙こちらから送つてもいゝ
六九六 【三月二十五日・封書 生品新太郎氏宛】
拜啓筆禍事件にて御退きなされ候由御手紙下され候處御返事もさし上けず申譯無之候御就職につき御方針等も有之候御事と存上候少々心當りの處も有之もし明日正午頃小生宅まで御光來下され候はゞ幸甚奉存候乍併貴下に於て左樣の必要無之場合に候はゞ猶更結構に存上候乍突然右のみ申上候失禮の段御赦し下され度候匆々 三月廿五日夜
生品新太郎樣貴下
午前中ならば猶好都合に候
六九七 【三月三十日・端書 信濃下諏訪町より 麹町區下六番町二十七佐々木方 藤澤實氏宛】
合格のよし大した事をなせりあまり早く分つたが確定か大體いゝといふのか兎に角欣賀々々國へも知せよ當分發行所にゐてもよし手傳ひくれよ
〇高木に申す原稿紙成るべく早く送つてくれ給へ朝日新聞より金來しか發送に困りはせぬか萬事正確にたのむ
與市代數をべん強せよ 三月三十日
(404) 六九八 【四月一日・封書 高木より幸便 藤本屋方 松澤平一・波多腰經十郎氏宛】
拜呈周介今日の試驗模樣御知せ申上候甚不出來なれど仕方なく候御心配下され候事と存じ兎に角御知せ申上候明日は歸途御校へ立寄らせ可申候明後日午前小生一寸御宿へ參上可仕候匆々 四月一日 久保田生
松澤樣 波多腰樣
恐入り候へ共波多腰兄へ此手紙御廻し被下度候
(2)ハ0.09トスベキヲ0.9トセリ依ツテ答合ハズ(4)ハ「殘り」ノ取扱ヲセズ出來ズ(5)ハ大違ヒナリ完全ニ出來シハ(1)(3)也國語ハ大抵出來シヤウナリ明日ノ算術ノ模樣等歸リガケニ御話シ申上グルヤウ申付ケ置ケリ
六九九 【四月一日・端書 信濃下諏訪町高木より 東京麹町下六番町廿七 高木今衛・藤澤實氏宛】
拜啓氷魚今日大體訂正し了れり然るに昨年一月何かの雜誌に出したる(新聞か)佐々木方の二階をよみし一聯の歌遺失しあるを發見せり
二階下物うりとほる聲きけばみぞれ降りつつ日の暮ちかし
……………………………向つ家の窓の下なるうめもどきの果
……………………………肩こりぬれば頸根をまはす
藤澤は知り居るかと思ふ
といふやうのもの交じれる筈文章世界ではないかとも思ふ兎に角大至急調べて知せてくれ給へ右願上候、霰ふる冬とはなりぬこの街に借りてわが住む二階のひと室 もありしかと思ふ 四月一日
このハガキ忘れて今朝下諏訪郵便局にて別に書いて出せりアララギを待つ
(405) 七〇〇 【四月十六日・端書 東京麹町區下六番町二十七より 攝津國西宮町前松原一六八 花田大五郎氏宛】
拜啓一昨日歸京今日畫伯へ參り貴著口繪(矢張相談の上口繪にいたし候御承知被下度候)を描きて頂き候別便御送申上候三色版入念に御命じ被下度願上候もし東京の方よろしければ折返し御送被下度こちらの優秀な處へ依頼可仕候小生の口畫は冬木立を願ひ候未だ出來ず候右取敢へず申上候匆々
畫は正倉院御物の畫をもとにいたし候萬葉人遊獵の所に候
七〇一 【四月十八日・封書 東京麹町下六番町廿七より 攝津國西宮町前松原一六八 花田大五郎氏宛】
拜啓今月初め頃御手紙下され候由にて一旦當發行所にて同封要事と思ひし故下諏訪へ廻送せし由なるも夫れが小生の手に入らぬうちに上京今日に至り話の序にその事を耳にし(留守のものは小生已に御手紙を見しものと思ひ居れり)非常に失禮せし事に存候今夜再び岩波氏に逢ふを得て今まで懇談仕り候貴著の事につきては丁度岩波氏方にて小生出版物の事もあり貴著が具合惡しき場合小生の立場非常に心苦しく只今迄色々話し合ひ申候岩波氏は非常に御志に同感せし故今迄熟考し來りし由なるも昨年以來豫定のもの輻輳を極めどうしても手が伸されず殊に氏の積極的やり方に對し親友よりはも少し引締めて集中せよと注意を受くるほどの有樣今日取りかかり居る事のみにて手が足らぬ姿ゆゑ今囘は忍びざる心を以て御斷り申度樣申され大に困入申候小生の心苦しさ非常に候今迄熟考せらるるとの事なりしもどうしても都合つかぬ由先以て斷言せられし有樣に有之如何とも致し難く候岩波氏より御返事差上る事と存候へ共先以て六ケ敷かと存候此儀不本意非常に候へ共小生より今夜の有樣御知せ申上候其他にて小生の盡力すべき事何にても御申越下され度出來る丈けの事仕るべく候只在京日數毎月十五日以内にて何も思ふに任せず殘念存じ候森園氏も岩波氏へ御勸め下され候由同氏と御談合出版上の事方針御定め下され候樣(406)願上候深更取急ぎ概略申上候匆々
猶發行費中へ金圓御寄送に預り候由恐縮に不堪謹で御禮申上候右申上候次第にて知らずに過し居り重ね/”\失禮仕り候
七〇二 【四月十八日・封書 東京麹町區下六番町廿七佐々木方より 京都市上京區田中玄京町七番地二號 田邊元氏宛】
拜呈御懇書並に御稿御惠送下され忝く拜受仕り候御忙し中殊に御病後御疲勞の中にて御入念御執筆下され感謝の至奉存候御禮旁々詳しく愚見申上げんと存じ候ため思ひ乍ら御返書非常に相後れ失禮いたし候段恐縮の至奉存候アララギ編輯と自分の歌集整理と重なり候上に他の用事二つ出來今日迄筆を執る能はず今日もまだごた/\致し心靜に筆を持つ能はずあまり延び/\に相成候間取あへず御禮のみ申上候次第不惡御海容被下度候
御稿小生等に對して非常によき刺撃となり可申と存候深き人生の一片が現れ居らねば寫生と思ひ居らざる小生の信念は感謝して貴説を了得するを覺え候只左樣な信念未だ具體的に深きを致さず歌に現るるものはいくらも此信念を實現し得ず斯る時費元の如き御意見を得候事は衷心より感謝の情に不堪候且つ小生等の歌に體し斯く迄御注視下され候事を知り忝く且つ恐縮の感深く候何卒今後も御感想等候はゞ少しも御遠慮なく御洩し下され候樣祈上候猶此上は小生等の歌につき具體的に御意見御示し下され候はゞ如何計り喜しく存候小生の歌一月號四月號のもの御ほめ下され嬉しく奉存候近作中にては比較的現れ居る心地いたし居りし故に候併し乍ら高き標準を以てすれば到底淺薄を免れ申すまじくと存候三月號のは極めて忙中に出詠しあとにて心持惡しく殆ど全體を改め申候
第一首は こゝにして坂の下なる湖の氷うづめて雪つもりをり
第二首は みづうみの氷に立てる人の聲坂の上までひびきて聞ゆ
その他 朝な/\人ら曳きおろす材木の木の皮剥げつ凍れる坂に
(407)これらは未だいけぬと存候下らぬ歌を書中に書きて惡しく候へ共已に御目をとほし下され居るを知り居り候ゆゑ御目に懸け申候何卒今後手嚴しく御意見御加へ下され候樣ひたすら御願申上候
石原氏の連作論は小生にも少し異論有之何れ連作諭纒まりし上にて愚見を陳ぶるつもりに有之候小生の歌集は昨日全部を岩波さんへ御屆け申上候五月中には出るかと存候出版の上は一本机邊に呈し度御一讀の上御高示下され候はゞ幸慶の至に存候右御禮旁下らぬ愚存を申陳べ候失禮御海容願上候敬具 四月十八日 俊彦
田邊元樣侍史
猶もし御歌作等も候はゞアララギに御發表下され度至望仕り候
七〇三 【四月二十六日・端書 東京麹町下六番町廿七より 伊勢國宇治山田町神宮皇學館 土屋氏甚二郎氏宛】
拜呈三月一日御差出しのハガキ只今東京朝日新聞選歌稿の中より發見御返事非常に相後れ申譯無之存候御申越の事大へんよき御質問にて小生も參考になり申候
つばらかに冬空はれてはづかなる水田に星は影うつり居り
「はづかなる」は未だ曖昧を脱せす大體から言へば「水田」の全體にかゝると見べく存候此邊も少し現し方あるべしと存候「星は」にても意義は通じ候へ共「星の」方遙かに宜しく候(主もに聲調の上より)斯樣な御質問は小生等のためになり奉謝上候時々御意見御もらし願上候匆々 四月二十六日
七〇四 【四月二十七日・端書 信濃下諏訪町高木より 東京市外上目黒五八五 平福百穗氏宛】
拜呈夫れから夫れへと用事片付かずその上歌集の事にて廿五六日花田氏大阪より態々來るとのことゆゑ昨夜迄待ちしも來らず依て昨夜行にて出立今朝歸宅仕り候甲信國境の原野より八ケ嶽の新に雪を被り居るを見申候富士見(408)は梅櫻の莟未だ堅く落葉松のほかは未だ木の芽ふかず諏訪平に入りて櫻と梅と李の滿開を見申候小宅附近の柿胡桃欅等皆冬枯の姿にて裏山の櫟林は古葉を着け居り候五月二日三日御柱祭にて全郡各村準備(長持唄のけいこ等)最中に候古泉折口二氏或は來るとの事に候今日朝日選歌全部を濟まし(昨夜東京にて三百枚あと千枚以上あり候)明日より古事記の方に取りかゝり可申候古事記日本紀風土記だけ一通り濟まして萬葉にかゝり度存じ候今度は早く上京の事になり可申古事記を持參のつもりに候竹の子大喜びにて神棚にそなへ申候匆々 四月廿七日
七〇五 【四月二十八日・端書 信濃下諏訪より 麹町區下六番町廿七佐々木方アララギ初行所内 高木今衛氏宛】
只今電報來りしも文句不明小生の胡桃の歌の第一句不明なりとの意味に取り「春の嵐吹きて小暗《をぐら》し」と返電出し置き候(下諏訪局より)電報ではとても歌の通信は六ケ敷かるべし近頃のやうに誤電のみ多くては全くあてにならず依て不明の所は萬事よろしき樣御取計ひ下され度古泉か藤澤君に相談して定めてもよろしく候此手紙の返事一寸御出し被下度甚だ御苦勞樣存じ候よろしく願上候匆々 四月廿八日
花田氏の事御知せ下され難有存候君からハガキでも出せしか小生今日ハガキ出せり校正了りたらば一寸御知せ下され度このハガキ上諏訪へ子供をやりて出す
七〇六 【五月一日・端書 下諏訪町高木より 四賀村神戸 五味卷作氏宛】
ひとりにて情をむさぽる…………
おさへかたき情わき起れり………
のやうなのは非常に六ケ敷、と思ひます此二首では未だ/\ズツと不足ですどんな種類のものは惡いといふやうな事はありません只どんな種類のものでも苦勞に苦勞を重ねて徹して行かねば本當のものは現れません君の歌多(409)く秀れ居れど勉強はこれからです御自愛を祈ります小生氷魚の校正が出ますから四五日頃上京しますいつか一度御來遊下さい匆々 五月一日
七〇七 【五月一日・端書 下諏訪町高木より 東筑摩郡宗賀村洗馬志村方 小島守人氏宛】
拜啓御手紙おそく開封のため辛うじてアララギの間に合ひ候今囘の御作には大へん秀れしもの有之喜しく存候あの調子でずん/\御進み下され度候雜誌は四五日頃出る事と存候小生もその頃は上京可仕候帳簿に違ひあらば御遠慮なく御申遣しのほど願上候小野君その他によろしく願上候匆々 五月一日
萬葉はたまには行つても宜しうございきす
七〇八 【五月一日・端書 信濃下諏訪町より 東京小石川區大塚窪町高等師範學校教授室 掛谷宗一氏宛】
拜啓久しく御疎音仕り申譯無之存候今囘東京へ御轉任の趣度々御面談の機を得べくと欣喜存候御作もそろ/\御示し下され度奉待上候小生三四日中に上京のつもりに候何れ御面晤を期し候敬具 五月一日
雜誌は貴校内宛で出し候樣申置き候御承知被下度候
七〇九 【五月一日・端書 下諏訪町より 諏訪郡豐平村御作田 兩角七美雄氏宛】
くたびれて烟草の味にふけりつゝものを思はむたどきしらずも 第四五句足らず
左歌麿のこもれる土室《むろ》の埃のなか鉢植の花たけなはに咲けり 普通なるべし
山里にたゞにのぽり來《く》春寒のみちべの雪の漸く多し 管通なるべし
くづれかゝる石垣下につなぎたる舟におりたち見る水の底 此歌はいい
(410)小生直ぐ上京の事になれり何れ又申上る諸君御勉強の由喜しく存候耕平馬吉皆大したものなり
七一〇 【五月一日・端書 信濃下諏訪町より 浦鹽斯徳二番川歩兵第五十聯隊第八中隊 田中周三氏宛】
拜啓當地は櫻ちりて木の芽ふき居り候御起居如何に候か一生に二度となき御經驗御勇奮御從事祈上候氣候の違ひも甚しき由充分御自愛御健全被爲入候樣切に祈上候小生一寸歸國二三日中に上京可仕候右のみ匆々
明日より上社御柱祭に候 五月一日
七一一 【五月一日・端書 信濃下諏訪町高木より 東京本郷區元町一ノ二東肥軒方 藤澤實氏宛】
拜啓森田さんの畫難有存候へん桃腺炎の由當分靜養を要すべく候大隅氏の事留守のよし困り候よろしく願上候氷魚校正廿六日より出で今日岩波氏よりこちらへ校正原稿を送られ候依て四五日中に小生も上京せねばならぬ事と存候何れ逢ひて色々御話し可申候病氣大切の事匆々
森田さんの畫どんな具合か上京のうへ聞く當方皆無事 四月三十日夕方書く
七一二 【五月一日・端書 東京麹町區下六番町廿七より 浦鹽斯徳二番川歩兵第五十聯隊第八中隊 田中周三氏宛】
拜啓度々御通信下され難有存候今囘の事變に御參加成されしも御無事の由大慶の至に候萬事御注意御精勵のほど祈上候異れる風土をよく觀察しておかれ度足一たび異域を踏んで一の歌なくては歌人にあらず御ひまもあらば御作りおきなさるべく候手帳に控へおきあとで直してもよし匆々 五月十三日
七一三 【五月十五日・封書 東京麹町區下六番町廿七より 北海道後志國余市大川町 三溝與八郎氏宛】
(411)拜啓與市君の居場所方々に依頼せしもよき所なく今日迄ぐづぐづ致し候今囘知人の紹介にて市外千駄ケ谷町七八 六徳江道世氏方に依頼する事に決定仕り候此の人は陸軍少佐未亡人にて年四十三四才の人確なる學生のみを選び預りて家庭的に世話をやき規律も嚴正なるよしにつき今日小生親しく徳江氏を妨問色々樣子をきき申候他出にも行き場所と歸りの時間を申出でしめ夜は十時以後歸ることを禁じ(特別の用事の外)室内にては飲食をなさしめぬ等可なりよく行とどくらしく人物もしつかりして居れどあまり窮屈にあらず頗る親切に見てやるとの事ははじめ知人より聞きしも大體そんならしく先もつて此邊かと思ひ歸宅の上與市君と相談の上直樣引移ることに定め申候今迄より靜かに勉強出來申すべく候通學も今迄より三つの停車場(市外線)丈け近く乘りかへもなくなり好都合に候費用は舍費一ケ月卅圓に候(普通の下宿より少しやすし)それに入舍の時に卅圓を納めて据ゑ置きとなし退舍の時本人に返却の事に候依て今月の費用別紙の如く相成申すべく小生にて臨時どうかして置き可申候間此手紙御覽の上御送金下され度(七十四圓位)六月よりは毎月四十圓づつ御送り下され度小生の振替にてもよろしく(小生より渡す樣にして)直接爲替にて與市君へ御送にてもよろしく候猶右の家は小生の知人二人の人に近く且小生の處よりも電車(市外線)にて十分は掛らずこの方も好都合に候小生時々訪ねて樣子を見可申候忙中右のみ申上候匆々
明後日引越可申候貴兄よりも徳江氏へ依頼状出す方よろしく候皆々樣御自愛專一に存候
今月の費用
三十圓 入舍据置キ金 十圓 佐々木食費半月分 十五圓 徳江氏食費半月分 五圓 授業料五月分 五圓 授業料六月分 これは毎月はじめに出す故五月申に送つておけば都合よし今迄は小生方にて何とかして置きしも徳江方にては都合惡からん
二圓 引越し 五圓 雑費 一人にてをればこの位一ケ月に要る此際少し位は買物も要る金ダラヒ等の如し 二圓位 教科書 高等學校志願者のため學校にて特別に科外教授を時間後にやつて下さるよし 〆(412)て七十四圓
六月以後は大體毎月左の見當に願上候
三十圓 徳江氏へ納める金 五圓 授業料 五圓 電車賃他雜費 〆四十圓
七一四 【五月二十二日・端書 麹町區下六番町廿七より 信濃國下水内郡常磐村小學校 山本武雄氏宛】
拜復御返事差上げしか如何かをも忘れ居り申譯なく存候片上さんによろしく願上候歌御復活切望仕り候自然に巧まずに作られ候はゞ面倒にもあらざるべし實は面倒なりやれば出來可申候匆々 五月二十二日
七一五 【五月二十九日・端書 下六番町二十七佐々木方より 有楽町二ノ二伊東方 井上幸子氏宛】
矢張り萬葉集を何度も御讀みなされ候方よろしと存候
拜復御懇書喜ばしく拜讀仕り候如何なる藝術も短い年月にては奥所に到達むづかしく候長い間御苦心を積まれ候御覺悟祈上候費詠新しき所へ御着眼にて生き/\したるもの多く歡しく存候現し方成るべく自然にて調子張り候樣御つとめ願上候例へば昨日御示しの歌第一首は「我が家より川向うなる公園の青葉がくれに瓦斯の灯つけり」などの方自然かと存候如何小生十數日風邪臥床中ハガキの走り書きにて失禮御ゆるし被下度候匆々 五月廿九日
七一六 【五月三十日・端書 東京市麹町區下六番町廿七アララギ發行所より アララギ會員宛】
拜啓益御清適奉賀上候陳者今囘「松倉米吉歌集」及び拙著歌集「氷魚」何れも發行相成候につきては會員諸君より御 を賜はり度奉希上候御著は諸同人の自費出版に有之後者は岩波氏の義侠的出版に有之何れも會員諸君の御勢援を借らざる可らざる有樣に有之此儀御含みにて御購讀下され候はば幸慶の至りに奉存候猶詳しくはアララギ五(413)月號廣告欄及び編輯所便御一覽被下度候右御依頼のみ申上候敬具 五月三十日
七一七 【六月七日・端書 麹町區下六番町廿七より 芝區白金三光町五三八 辻村直氏宛】
拜啓隨分御重症にて御なやみなされ候趣に拜見心痛の至奉存候併し絶對に御靜臥の上嚴重に醫師の命令に從はれ候はゞ自然御恢復も早くなられ可申此儀御忍耐御努力のほど偏に祈上候無理は必御止め成さるべく存上候小生一昨日はじめて床をはなれ昨日一寸外出のため今日又一日靜臥いたし居り候何れ拜眉の日を期し候匆々
七一八 【六月九日・封書 東京麹町區下六番町二十七より 長野市縣廳内 三村安治・岡村千馬太氏宛】
拜啓用事のみ申上候樋口氏の平野學校任命手間取り岩波氏非常に心配敦し度々小生にも話され今朝も來談あり何とか至急任命の運びにならず候哉樋口氏は今迄の學校を無理にして退き待ち居りとの事に候これは林八十司君來京の上岩波氏が仲に入りて決定せしものの由に候猶發令の日附は前に溯り得るかと存候其邊も御配慮下され度候岩波氏は態々長野に行きて樋口氏につき貴兄等に御話し申上げてもよしと申居り候何分の御配慮願上候匆々
小生風邪して廿日許り臥床二日前より外へ出られ申候今夜諏訪に歸るつもりに候亂輩失禮御ゆるし被下度候 六月九日 俊彦
兩兄臺下
七一九 【六月十五日・端書 東京麹町區下六番町廿七より 京都市上京區田中玄京町七番地二號 田邊元太氏宛】
拜啓過日諏訪の方へ御ハガキを頂きました此十日に久振りで歸つて拜見しましたそして昨日又上京しましたそれで御返事が今頃迄延びました大へん失禮してしまひました御示しの如く吉田雪技子のは二首共傑れて居ると思ひ(414)ますあの位の歌はさう澤山は見られないかも知れぬと思ひます第一首の「雪山につき/”\動く天雲のかげりを見つゝ登り行く我は」を甲之氏は何とか云つてゐますがそんな譯でないと思ひます第二首非常にいゝと思ひます新聞の選歌御覽下され恐縮します何卒御心づきの事ドシ/\仰つて下さい願ひます
小生の氷魚今二三日かゝるやうですこれも御意見ドシ/\仰つて下さる樣願上げます永く書いて下されば永いほど忝く思ひます 六月十五日夜
七二〇 【七月一日・端書 信濃下諏訪町より 京都市上京區田中玄京町七番地二號 田邊元氏宛】
十二三日後上京のつもりに候
拜啓過日は氷魚につき御丁寧なる御書面拜受且つ御感想御洩し下され如何ばかり欣しく拜讀仕り候御ほめ下され候御詞何れも過分と存候へ共迂生を刺撃して下されし事多大に有之愼しみの心にて深く御禮申上候
あゝいふやうに一册に纒めて見れば自分にても今更自分の今迄の道に心付くこと多く幾分今後の爲になり可申存じ居り候九月號頃にて批評號を出し度平素小生の尊敬し居る三四人の方々より是非忌憚なき御批評や感想を頂き申度存じ居り候此事或は不遜かとも思ひ候へども道を求むる心に憚りなしとも存じ候何卒貴下の一文を御惠與下され度偏に願上奉り候端書にて御返事やら御願やら失禮御ゆるし被下度候當地只今時鳥郭公夜は水※〔鷄の鳥が隹〕頻りになき滿目青葉清爽を盡し居り候匆々 七月一日
七二一 【七月六日・封書 信濃下諏訪町高木より 東京市外上目黒五八五 平福百穗氏宛】
拜復御書面今日拜受難有拜讀仕り候やす子樣御無難は天運と存じ懽ばしく存候とんだ事にて驚き申候御一家の御驚き御察申上候難を免れしは餘慶と信じ申候其後別に御變なく候哉御驚愕の後は特に御靜養のほど祈上候齋藤(415)君邸を態々御訪ね下され忝く奉謝候御手紙にて今迄よりも模樣推量出來申候矢張り少し重大なりと思はれ候土橋君へ詳報を頼みやりしも未だ返事なし六月はじめの事ならば土橋君たちよりも少し早く知せてくれさうなものとも思ひ候兎に角小生十二日頃上京十五六日頃長崎へ參り候やう大體腹を定め居り候へん輯は馬吉君等よりやつてもらへば宜しく候猶土橋君より返事あり次第御知せ可申上候匆々 七月五日夕方 俊彦
畫伯臺下
七月號は已に出し事と存候紙幾分よくせしがどんな具合かと心に懸り居り候明日頃はこちらへも來るかと存候乍末御令閨樣へ宜敷願上候
七二二 【七月十四日・端書 東京麹町區下六番町より 埼玉縣秩父郡横瀬村 横田貞雄氏宛】
過日ははじめて御出で下され候處失禮のみ致し申譯無之存候山中にて御清臥健羨存候東京の熱さ非常に候御歌未だ拜見せず小生少しごた/\致し居り何れ拜眉可申述候御自愛專一奉存候 七月十四日
二三日中他出せねばならぬかと存候
七二三 【七月十六日・封書 麹町區下六番町廿七佐々木方より 東京市外上目黒五八五 平福百穗氏宛】
拜啓今日彼より來信あり事情判明とんだ間違をして濟まぬといふ手紙にて大體分り申候併し小生は今囘の事を小生としても彼としても重大なりと存じ候ゆゑ今夜夜行歸國此間御話申上げし如く當分熟思反省の期間を與へ申度存候
〇最大急行は矢張り東京よりの方便利のよし贅澤なれども十八日上京十九日か廿日に東京驛より出立すべく一寸御目に懸り可申候十九日御在宅か否かを發行所の方へ御ハガキ願上候下スワの方には十七日朝著き十七日夜行か(416)十八日朝一番かにて上京故下スワヘハガキ下されても拜見出來ず候
〇以上ことに前項の事とんだ御配慮を煩し恐縮を絶し申候小生の心配しすぎたる事もあらんと存候へ共兎に角これを機として確固なる根本的反省を得るに至らせ度眞劔に彼に向ひ可申決して彼を窮地に入るゝ如き事無之御安心のほど願上候匆々 七月十六日 俊彦
畫伯御左右
急ぎて亂筆御ゆるし被下度候
一部寫し(こんなもの馬鹿らしけれど御心配かけし事ゆゑ事情判明の材料に御目にかけます)
……よりも來信あり夫れによりますれば全くあなたの仰の如くにて私の思ひ過しにすぎませんでした大變おどろきましたがだん/\考へて見ますれば全く私とは何のかゝはりもなきに相違ございません腹立しくも思ひましたが私は只責任を感じて非常にくるしみしのみでありますから却つて心はれ/”\といたし可笑しくもなつてしまひましたとんだ御心配をかけて済みません……
七二四 【七月十六日・端書 麹町區下六番町廿七より 市外田端百四十三 宮坂武吉氏宛】
拜啓愈々御卒業の由先以つて大賀の至に奉存候御手紙國元より轉送し來り候小生留守中態々御來訪下され候由不在殘念存候小生今夜夜行にて一寸歸國直ぐ旅に出で可申ハガキにて失禮に候へ共取あへず御卒業の御祝申上候奥樣にもよろしく願上候朝鮮云々は彌々著手せらるればいやになるかも知れず候よき仕事あれかしと存候匆々
岩波氏へも一寸御挨拶下され候方よろしく候 七月十六日
七二五 【七月十八日・端書 東京麹町區下六番町廿七方より 札幌北一條帝室林野局支局 花見達二氏宛】
(417) 眞劔に眞面目に一歩々々進んで行き給はむを望む一生の中に何處まで達せられるかゞ第一の問題にして最終の問題也
七二六 【七月十九日・封書 麹町區下六番町廿七佐々木方より 市外田端四三五 芥川龍之介氏宛】
拜啓此間香取秀眞氏を訪ねし時貴下が齋藤君の歌を澤山御記憶になつて愛誦してゐて下さるといふ事を同氏より承り驚き且つ喜んで齋藤君へ知せてやりましたそして取あへずアララギを呈上したいと思ひまして香取氏を通じて七月號を御送り申上げました
その時丁度私の歌集氷魚が出版になつて居りましたので直ぐ一本を呈上しようと思ひましたが何だかおれのも序でに見てくれといふやうな厚かましさに當りはせぬかと思ひしゆゑ差控へて居りました今日信濃から上京して長谷川零餘子が御訪問下されし際貴下が氷魚を詳しく見てゐて下さるといふことを同氏より聞きましたので非常に暮しく且恐縮しまして御覽になつて下さるならば小生より呈上したいと思ふ心が起りましたその後短歌雜誌で貴文拜見大へん有難く思ひました一茶觀西行觀一々暮しく拜見出來ました此春或る俳句の雜誌で芭蕉觀一茶觀を募つたのを見まして今の俳人文人の一茶を見る事のあまりに買被つてゐることを知つて驚いて居りましたあれで芭蕉が本當に分るのかと思ひましたそこへ貴文を拜見しましたから餘計に嬉しく思ひました色々の事からして遂氷魚を差上けたい心が勝ちました差上る心は小生のも序でに認めて下さいといふやうな心ではありません氷魚を御覽下さつてゐるといふ御心を非常に有難く思ひ第一に其御心に對して一本を差上ぐべきだと思ふゆゑです第二にもし貴下から小生に對しお示し下さるやうな御心付きの點あらば御高示を得たいと思ふ心があります併しこれは強ひて御願すべきでありません第一斯樣な事がありますれば滿悦此上もありませんもし此手紙が貴下の御高讀を強ひもしくは御示教を強ひるやうなものであつたら小生の不本意此上もありません微志御諒察を願ひます氷魚は(418)別便にて御屆け申上ます
明日より一週間許り九州へ行きます亂文意を爲さず御判讀を願ひます 七月十九日 俊彦
芥川龍之介樣貴下
不遜ナ言カト思ヒマスガ歌人ニ却ツテ歌ガ分ラナイ感ガシマス歌集ヲ刊行スルノハ只賣レレバヨイノデアリマセンカラ本當ニ見テ下サル方ガアレバコチラカラ進ンデ呈上シタイト思ヒマス萬一御心付キノ方ガアツテソノ方ヲ貴下カラ御示シ下サレバ謹呈シタイト思ヒマス何卒願ヒ上ゲマス
七二七 【七月二十一日・封書 長崎市八百屋町卅九土橋康通方より 東京市外上目黒 平福百穗氏宛】
拜呈途中無事今日午後五時十五分長崎著直に齋藤君宅に參り候大に喜び少し話すぎるかと思ふほど話しかけられ候今は起きたり寢たりして居り熱は無けれど實は幾分つゝ例のもの痰に交り居り依然絶對安靜を要し候極少量なれども二三日に一度位は交り居る由此事輕視すべからず而して長崎の熱さにては是非轉地を要し温泉岳が尤もよろしき由(貴説の如く)例のものさへ無くなれば直ぐ出掛るつもりの由に候小生は二三日居りて神戸中村へ一泊して廿五六日頃歸京可仕大體のみ今夜相認めあとより又々御報可申上候體は此二週間ばかりに大へん肥えしよし窶れては居らず候元氣もよろしく候 七月廿一日夜 俊生
畫伯御左右
奥樣によろしく願上候小生寢臺車など贅澤し御蔭樣にて少しも疲れず元氣に候間御安心被下度候神戸にては四五分疲れて眠りしために驛を通過してしまひ中村加納二君に非常に氣の毒致し大に失敬仕り候どうも仕方なく後悔此事に候暑氣皆々樣御自愛專一奉祈上候
(419) 七二八 【七月廿四日・端書 長崎市八百屋町卅九土橋方より 攝津國西宮町香櫨園池端 中村憲吉氏宛】
齋藤君足馴らしのため昨夜數丁の道を共に散歩大體益々良好に候明後日温泉岳へ轉地小生同行の方よしと存候間そこに共に一泊して小生は歸り可申廿七日夜行廿八日朝神戸につき直に貴宅に參上可仕出發の時電報出し可申今度は必眠らず御ゆるし被下度候匆々 七月廿四日
七二九 【八月三日・端書 下諏訪町高木より 上諏訪町湯の脇 藤森省吾氏宛】
拜復泉野は十六日に願ひ度やう昨日あちらへハガキ出し候十五日は小生束京の面會日ゆゑその夜夜行にて十六日朝茅野著直に泉野へ向ひ可申御承知願上候暑中といへど信濃の冷しさ驚くべし小生十日許り長崎に居りて歸り來り驚き申候田邊さんも肺惡しくせし由小生迄落膽いたし候御自愛祈上候 八月三日
七三〇 【八月五日・封書 信濃下諏訪町より 福岡縣嘉穗郡桂川村土師 秦美穗氏宛】
拜啓汽車中御認めの御ハガキ拜見驚入申候御尊父樣病氣の事も東京にて承らず或は急劇の御逝去にあらずやと拜察仕り候貴君の御心中想像に餘りて悲しく存上候旅順より直ぐ御上京の由なれば日立鑛山御視察を了へてゆつくり御掃省の御豫定なりし事と存上候人事急速變轉窮りなし不測の變は何人にも起り候へ共今囘の御不幸貴君の御心永久に慰む能はざるべし諦むるの道もさる事乍ら悲しき事は悲しき心に浸り候事自然にして泣くべきを泣くより外致し方なしと存候折角後事御營み成さるべく謹で弔意を表して一書呈上仕り候匆々 八月五日 俊彦
秦兄座下
もはや御上京はなさらず候哉御上京ならば今一度御目に懸り申度候十三日より十五日迄在京仕候御歌毎月御(420)送り下され度候
七三一 【八月七日・端書 信濃下諏訪町より 東京近衛歩兵第三聯隊第九中隊 金子茂氏宛】
君の歌はもう少し節約して數を精選して送り給へ一首が複雜すぎるかも知れないもつと單純に自然にのび/\と歌ひ給へ暑中御自愛を祈る匆々 八月七日
七三二 【八月八日・端書 下諏訪町より 泉野村 松澤常毅氏宛】
貴君わざ/\御出かけ下されては恐縮の至に候とんだ贅澤を申上け候事御海涵願上候十六日御面晤の上萬可申上候匆々 八月八日
七三三 【八月十一日・端書 下諏訪町高木より 諏訪郡泉野村 松澤常毅氏宛】
今一つ申上候(只今上京の途上急ぎ認め申候)小生の話終り次第下古田に行き小生の子どもを伴れてその日のうちに高木迄歸らざる可らず夫れ故話の後にて歌會等に出席いたしかね候萬已むを得ざれば卅分か一時間位歌についての話をしても宜しけれどそのため態々諸君の御集まりは恐縮に候間成るべく御止め下され度候 八月十一日
十六日朝飯は下古田にて食べる事に定めあり候
七三四 【八月十二日・端書 東京麹町區下六番町二十七より 信濃諏訪郡泉野村小屋場 行田正規氏宛】
松澤君へも此事申上置き候
拜復十六日は貴村より下古田にかへりそこに待ち居る子どもをつれてその日のうちに高木へ歸らざる可らず歌會(421)へは殆ど顔を出す能はず殘念存候已を得ずば小生の話の後卅分かせいぜい一時間歌についての話をしてもよろしく候左樣の場合は時間が正確に行つづき候樣御配慮被下度候我まゝのみ申上候匆々 八月十二日
七三五 【八月十三日・封書 東京麹町區下六番町廿七より 長崎市縣立病院醫局 高谷寛氏宛】
拜呈過日貴地參上の節は一方ならざる御厄介樣相成奉謝上候歸來早速御挨拶可申上の處あの時伺ひし御住所を紛失し土橋氏に問合せ候處縣立柄院の方を教へ來り候次第餘儀なく此書状病院宛差上申候今は暑中休ゆゑ此手紙の貴見に入るは大へん遲延可相成と存候齋藤君已に長崎へ歸りし由其後の症状御手數に候へ共御一報に預り度何卒願上候主治醫の御意見も伺ひて御談合下され候はゞ幸甚の至奉存候御厄介の御願に候へ共時々御内報下され度折入御願申上候他に依頼すべき人なく且つ貴兄が直接病者に手を下し給ふ事ゆゑ非常の心強さを以て萬事御依頼申候次第失禮御ゆるし被下度願上候當地毎日蒸暑く暮しにくゝ候長崎もさこそと推察奉り候御自愛專一になさるべく候敬具 八月十三日 俊彦
高谷雅兄臺下
御手紙はいつも當所あてにて願上候
七三六 【八月十七日・端書 信濃下諏訪町より 東京麹町區下六番町二十七佐々木方アララギ發行所 高木今衛氏宛】
〇高田戸塚は遂泉野村迄同行今日甲斐へ向ひしならん〇左千夫歌集の紙型を印刷所へ頼みくれよこれは古泉君より君にさしづし来るべし廣告文も〇費用明細に帳簿へ御記し下され度願上候〇原稿(君等の)今送る間に合ふならんと存候木曾馬吉のあとのものは適宜自選して出してよし〇カツトの下明日送る〇謙一郎君は臥てゐるか大切にするやうに御傳言下さい〇澁谷の舟木重借氏より氷魚今一册欲しいと言つて來たら送つてくれ給へ言つて來ずば(422)よし當方皆無事諸君によろしく匆々 八月十七日
七三七 【八月十七日・端書 下諏訪町高木より 泉野村小屋場 松澤常毅氏宛】
拜啓昨日はわざ/\茅野迄御出掛相願御苦勞相かけ衷心恐入申候御蔭樣にて疲勞を減じ感謝の至奉存候高田君戸塚君も大へん御厄介樣相成忝く奉存候會へは何の益をも與へず御禮を頂き恐入申候諸君によろしく願上候匆々
歌會は盛なりし事と存候行田君等と一度遊びにやつて來絵へ 八月十七日
七三八 【八月十九日・封書 信濃下諏訪町高木より 東京市外上目黒五八五 平福百穗氏宛】
拜啓過日は小生參上のつもりに候處あの朝岡さん御光來下され夕方貴臺御出掛下され候由承り遂横著を致しその上多人數にて御馳走に相成恐縮奉存候口畫の事御厄介願ひし上に代金御立替下されあまり蟲のよき次第に有之汗顔の至に奉存候何卒暫くの間御容赦下され度乍毎度奉願上候
御歌稿の事もあの夜つひ申上けられず獨斷にて甚だ失禮と存候へ共第四首を
たまきはる命にせまりし昨日《きぞ》のことを聞くにしぬべや寢ざめしよきに
として九月號へ出し置き候段御寛容下され度此事あれから直ぐ申上るつもりにて少し山浦に用事あり「現代」へ出す原稿も今日までかゝり遂遲延いたし申候御高諒の程願上候秋田御旅行は成るべく日數御節約御歸京のほど祈上候大丈夫と存候へ共大事を御取り成され候方よろしと奉存候山本君へは直ぐ電話かけられ候樣祈上候
齋藤君より便りなて候へ共大したる事なかれかしと祈り居り候高谷氏(長崎病院助手?)より發行所へ消息あり次第その手紙貴兄ヘ廻送するやう高木に申置き候岡古泉諸氏へも高木より要點を御知せ可申上筈に有之候。
信濃は日中單衣にては凉しすぎ候稻も穗を出し桑は摘まれスツカリ秋になり申候昨年一貫廿圓附近せし繭は今四(423)
圓位になり(山浦は三圓臺)農村も町もひつそりしたる秋に候稻作の方よろしき故人氣は穩かに候明日より萬葉に取りかゝり可申只今一書差上申候奥樣皆樣御大切に成され候樣呉々も祈上候敬具 八月十九日 俊彦
百穗畫伯御左右
七三九 【八月二十四日・端書 信濃下諏訪町より 東京麹町區下六番町二十七佐々木方アララギ發行所内 高木今衛氏宛】
昨夜瀧の湯より歸り御手紙等すべて拜見いろいろ難有存候すべて御注意願上候元眞社へは小生よりハガキ出し可申候猶岩波氏よりも言つてもらひ可申候謙さん可なり病みし由氣の毒に存候其後如何か御知せ願上候染物の小包は未だ來らず候如何せしかと存居候へ共明日頃は來る事と存候書留に願ひ候諸君によろしく匆々 八月廿四日
土橋氏より十圓寄附すると申來り候著いたら禮のハガキを出し給へ佐々木氏への計算は振替にて出す事小生のは朝日新聞の十圓にて支拂ふこと
七四〇 【八月二十六日・端書 信濃下諏訪町より 東京麹町區下六番町二十七佐々木方アララギ發行所内 高木今衛氏宛】
拜見△謙一郎君快方喜しく存候編輯所便へ左千夫歌集の事成るたけ詳しく書く事
一、染物の事御端書にてよく分かり難有存候御手數御厄介と存候一二日中に參るべく存候
一、左千夫歌集廣告は定價送料等も確に分らねば困るべし寫眞筆蹟等の事も書かねばならぬ裝幀は平福さんなり歌の數年數(明治三十一年より大正二年迄)等何れにせよ千樫でなくては萬事分らぬ萬一石泉君間に合ずば紙型の下に近刊と二號活字かなどで入れて廣告文へは四號か三號で「左千夫歌集が彌々九月に世に出るこれはアララギの大歡喜であると共に一般歌界及藝術界の大歡喜であると信ずる詳しくは次號に報ずる」と書いてくれ給へ赤彦と署名せざる事 八月二十六日
(424) 七四一 【九月一日・封書 信濃下諏訪町高木より 東京麹町區下六番町二十七アララギ發行所内 高木今衛氏宛】
拜讀〇〇の事に驚けり斯の如きにてはアララギ同人と彼との交通はどの程度に於てすべきかを考へざる可からず眞相分らぬうちは斷定を下すべからざるも兎に角輕々しき問題にあらず君の執りし處置にはすべて宜しきに適し理に合せり喜ぶべしそんな事件ありとは知らず染物の事電報にて催促失禮せり明日は屆くと思ふ大謝々々
〇〇の事は成るべく多人數に聞かせぬ方よし先以て内密にする方よし小生上京の上互細を聞くべし岡さん平福さんに伺はんとせし事もよし又書く 八月卅一日
高木君几下
昨夜電報見た 九月一日 俊彦
七四二 【九月二日・信濃下諏訪町高木より 東京麹町區下六番町廿七佐々木方アララギ發行所内 高木今衛氏宛】
〇萬葉集古寫本考(佐々木氏著)が竹柏會發行になつてゐる夫れが有るか無いか往復ハガキで竹柏會へ問合せてくれ給へ價も聞いてくれ給へ〇木村正辭の萬葉集文字辨證訓義辨證字音辨證はいつか君から買つてもらつたと思ふあれを小生へ賣つてくれ給へ惡しくば貸してくれ給へ厄介でも小包で送つてくれ給へ
〇諏訪湖誌下卷その他東洋畫論集成合本支那繪畫史も發行所にあると思ふこれはいつか歸國の際持ちかへるから他人に貸さぬやう保存してくれ給へ
〇染物は今日つかず明日來るならん〇アララギ發行如何〇此ハガキ小生上京迄保存してくれ給へ(十一日頃上京)
○新聞二枚共來る何處にか見る所あるのか分らぬあつたら教へてくれ給へ以後朱を施してくれ給へ○萬事御注意願上候竹尾君によろしく匆々 九月二日
(425) 七四三 【九月四日・端書 信濃下諏訪町高木より 東京麹町區下六番町廿七佐々木方アララギ發行所内 宇野喜代之介・高木今衛氏宛】
〇宇野君 (連名失敬御ゆるし下さい)御ハガキ難有拜見仕り候雄辨拜見を待ち居り候小生グヅ/\して居り未だ何も手をつけず候大町から束京へ入れば隨分暑いでせう
〇高木君 (宇野君不在ならば態々轉送に及ばず候)萬葉二册小包今日著難有存候代金は上京の節差上可申候新聞も今日二枚著仕候朱丸を入れてあり都合よろしく候必要なきものは御送に及ばず候アララギ明日頃は來るかと待ち居り候十月號へは鴎外博士執筆して下さるべく候(題目定まるまで新聞へは出さぬ)石原さんへ發行所の名で十六七日迄に文章と歌を下さいと申送り下され度候匆々 九月四日
七四四 【九月七日・端書 信濃下諏訪町高木より 東京麹町區下六番町二十七佐々木方 高木今衛氏宛】
一昨日は態々御高來下され難有存上候
〇萬葉古事の(長短歌だけ)について「閑」の字「閃」の字何字用ひありや(二十卷中)御ひま/\に少しづつ御心掛下され度願上候竹尾君に少し分けて手傳つて頂けば猶よし閃《せん》(多く閃《せ》の假字に用ひたるべし)の字は或はないかと思ふ〇予は昨日より萬葉以外の本にて調べ居れり十三日上京せん 九月七日
七四五 【九月十日・封書 信濃下諏訪より 東京麹町アララギ發行所 宇野喜代之介氏宛】
御ハガキ拜見仕り候冬の御準備御盡力祈上候貴君今囘の作は大へん秀で居り候喜しく拜見仕候御面晤を期し候舟木君御來信なき由秋にでも御出で如何に候か
いく日もわれは待てりき家の※〔鷄の鳥が隹〕《かけ》おどろき鳴けば君が來しかと
(426)今日作り候此歌舟木君に御傳へ下され度候
七四六 【九月十三日・封書 信濃下諏訪町より 京都市上京區田中玄京町七番地二號 田邊元氏宛】
拜復御健康大へん御恢復御歸洛成され候由承り如何計り喜しく存上候敦賀の地御身神に適し候事非常の御幸福と存候猶小生の失禮なるさし出口に對し御禮の詞を賜り慚愧の至に存候只御恢復拜承の歡び心に充ち候折から御禮の詞まで喜しく拜受致し候學界に於ける大兄の深刻眞摯なる態度を傳承致し居り候小生は過般來更に文學藝術方面に於ける御要求の根本的なるを伺ひ得折々の御感想がいつも問題とせらるゝものゝ中核を穿たれ候事に敬服の意を動かし居り候事より御病氣に對しても非常に心に懸り居りし次第にして今後の御自愛切に祈願奉り候これ小生衷情の露はなる告白に候自分の事などいつも申上げてあまり烏滸がましと存候へ共以上の次第より遂色々申上る心になり候事御笑諒下され度奉願候これも又自分の事に候へ共小生の歌に對して小生の同輩(左千夫門人)以外より意見を寄せらるゝ内失禮に候へ共大兄及び木曾馬吉築地藤子土田耕平諸同人の言いつも小生の心を動かし居り實は大兄が歌を作る多からずして歌の生命の中核を掟へられ候事に内心驚異を感じ居り候次第にして大兄の御評はいつも小生をほめて下され候へどそれがいつも小生作の急所に立入られ候事に驚異を感じ居り候次第(勿論御賛賞の詞の十分一にも當らぬ作と存じ居り候へど)にして他より褒められても非議されてもそれが歌の急所にふれて居らねば有難くも悲しくもなき次第現今所謂歌人なるものゝ批評は小生とは殆ど没交渉の感有之候斯る際大兄の御所感を拜承し得る事は小生の大なる幸福と存じ居り候次第に候今囘御作歌につき御鄭重なる御尋ねに預り却りて恐縮の感を起し申候アララギにて御勉強下され候はゞ如何許り小生等の欣びと存上候小生は歌につきても人の師となるやうなものに無之師弟の干係といふやうなる事全然あるまじき事に存候へ共一日の長により御作を拜見する事は喜んで事に當り可申御遠慮なく御示し下され候樣祈上候
(427)會員云々の事は正確なる内規も何も無之御歌は直接小生方へ御送り下され候はゞ宜しかるべく存候御示しの御歌に對しては隨分無遠慮に申上る事と存候へ共これは御同樣左樣にせねば徒ら事になり可申愚見に對して御不承も多く可有之是も心ゆく迄御意見御示し下され候樣祈上候繁忙の際云々の御詞は誰も同樣に有之喉併し忙しき時却りて頭張り居りてよき歌出來ひまの時却りて頭弛み居りて出來ぬ事も有之やつて見ねば誰も向うは分り不申と存候御作歌につきての參考書は矢張り第一が萬葉集に有之べく略解は或參考には宜しけれど良き註解書にては無之と存候
1契沖の代匠記 古本四五圓か 2雅澄の古義 十册廿圓乃至卅圓?
等よろしかるべく古義は尤もよきかと存候もし御望ならば圖書刊行會へ小生直接行きて談判すれば殘本あるかも知れず只今豫約刊行中に有之已に三四册出て居るべく候古本屋には先年刊行のものあり心掛け居れば見付かり可申候その他
1子規歌集 これは子規全集(一册)の中にあり古本にてあり三圓位?
2良寛歌集 一二圓にて得らるべく色々の本有之御望有之候はゞ選擇可仕候
3平賀元義集 これは絶本なれど一册位どうかして差上けらるゝかも知れず
4實朝家集 良寛と實朝は齋藤君の本の中によきもの殆ど擧げられ居りと存候
5左千夫歌集 春陽堂近刊
6赤光 茂吉著これは前書と共に是非御すゝめ申上度候東雲堂にあり候御申越次第御送可申上候アララギ發行所へ御申越下されば御送申す樣致すべく候
等御讀み下され候樣祈上候林泉集御覽下され候由喜しく存候非常に深入りした歌多く敬服致し居り候小生等到底及び付かず候猶氷魚賛といふ名は恐入り候只御感想の一部にても御示し下され候はゞ小生の喜び多大に有之候た(428)だこと歌といふ詞は今は大抵貴用の如く用ひ居り候
小生もそれに從ひて書きし事有之と覺え居り候眞實なる聲は底に沁み可申候過日の「素人の感想」の如くに候眞心を裏切りては惡しけれど然らざる以上言ふべきを言ひて可なりと存候大兄の御感想を承り度は前陳の愚見より出で居り候事御了察下され度候非議すべき所御遠慮なく御指示され度切望仕候もし公表を御憚り成され候樣ならば小生に丈け御示し下され候はゞ難有存候併しこれは御急ぎを願ふにあらず御ひまの折少しづゝ御示し下され候はば結構に有之候小生明朝一番上京十七日迄に歸國可仕候御手紙下され候はゞこちらへ願上候先程まで萬葉のもの書き居り明朝早起きせねばならず此手紙亂文意を盡さざるべしと存候失禮の申方も可有之と存候御判讀願上候萬葉の註釋はやればやるほど面倒になり閉口いたし居り候一向に纒らず候
大兄御身體かへす/”\御自重のほど祈上候不悉 九月十二日夜 俊彦
田邊元樣侍史
歌の方の本は必要のもの御申越し下され度探してあるものを御送可申上候
七四七 【九月十四日・端書 信濃下諏訪町より 東京本郷區駒込林町十一 河西省吾氏宛】
拜啓芥舟學畫編傳神論中但落々たる數筆勾勒のみ云々勾勒とは何か御示教下され度候序に白描法も御説明下され度右願上候小生二三日中上京につき御返事は麹町區下六番町二七佐々木方へ御出し被下度候右御依頼まで匆々
御消息如何當方皆無事に候 九月十三日夜
〇夫れから畫論のつづき三四頁分御書き下され度願上候十八日〆切嚴重
七四八 【九月十六日・封書 麹町區下六番町二十七より 高崎市赤坂 村上成之氏宛】
(429)拜啓御無沙汰のみ致し申譯無之候出過ぎた字句の改めなどを致し失禮の段幾重にも御容し被下度候今月の一段分に餘りしもの同封御預け申上候次ぎに御送稿の時一緒にして御送被下度願上候當方にて萬一紛失致してはと存候間右御承知被下度候今夜歸國亂筆平に御ゆるし被下度候匆々 九月十六日
村上先生御座下
七四九 【九月十七日・封書 信濃下諏訪町高木より 東京麹町區下六番町廿七佐々木方アララギ發行所内 高木今衛氏宛】
〇宇野君に御願の件
一、恐縮ノコトナレド十八日夕方カ夜カ古泉君ヘ行キ一切ノ原稿ヲ御受取リ下サレ度(歌セン歌)(萬葉リン講モ古泉ニ行キ居ラバ古泉書カズトモ御受取リ下サレ度)コノコト古泉君ニモ刺撃ニナリ申スベク候
一、校正ソノ他御ヒマノ節チヨイ/\御手傳ひ下され度高木より樣子御聞き被下度願上候
〇高木君へ
一、迢空君ノ「茂吉へ」(六號組)ハ昨日出スト言ツタガ十月號ヘハヤメニスル原稿ヲ保存シテクレ給ヘ
一、十八日夕方迢空君ヘ行キ一切ノ原稿(歌選歌萬葉リン講マダ同氏ノ處ニアラバ夫レモ合セテ)ヲモラヒクレヨ
一、ソノ他萬事一切正確ニ願フ
一、不二子ノ歌三ケ島氏等ノ終リヘ入レルコト 十七日朝 俊生
宇野君 高木君
横山君ノ原稿モ十八日中ニ渡シテクレ金田一氏ノハ來ネバ廻シナリ
〇定價ハ頁數ヲ見テサウ多クナケレバ六十錢位ニツケテクレ諸君二三人御相談願フ
〇イツモノ形式デ讀賣新聞ダケヘ廣告原稿ヲカキ岩波氏ヘ依頼ノコト(二十日過ギテカラデヨシ二十二三日(430)迄ニタノム)イツモ三段ヌキ十五行ナリ竝ベ方目次ノ順序ニテヨカラン適宜ニ願フコノ手紙保存ノコト
七五〇 【九月二十日・封書 信濃下諏訪町高木より 攝津國西須磨村 加納巳三雄氏宛】
拜啓信濃は夜布とんを二枚重ぬるほどに成り冷氣俄かに催し申候店用隨分御繁多と存候御自愛賤一存上候
貴稿を要らぬ手紙と思ひて手紙ごと破りし由非常に失禮の事に存候それなら夫れと直ぐ貴君に通じてくれるといいのに小生の顔を見るまで黙り居りしため急ぎ電報出せしが間に合ひしか如何かと心に掛り候尤も貴君が十二三日上京するかも知れぬと言ひしゆゑ知せを出さず待ち居りし由併し上京の途中にては原作貴君にも不明かも知れず大事の事をぽかんと致され候には閉口に候小生此頃在京日少なく今月の如きは三日居りて歸國せし有樣これでは困り候故何とか考へ可申候失禮の段かへす/”\御高免願上候中村君小生の歸りし日(十六日夜)の翌日出京せし由歸りを信濃に來るよしにて明日にも來るかと待ち居り候小生廿三日より廿六日迄又々飯山町にて萬葉講義可仕夫れより家に居り專心萬葉講養(起稿中のもの)に取りかゝり可申候
愚妻を引つれての高野詣りは今年は娘嫁入りにて色々不都合ゆゑ來年に延し申候併し貴君母校への事は約を果し申度日取は成るべく早く御知せ願上候成るべく十一月初旬迄のうちを御擇び被下度十一月中ばより終頃迄に娘の婚禮をせねばならず候尤も學校の方の都合にて來年等に延すならば夫れにて結構に候御自愛專一存上候匆々 九月廿日 俊彦
加納曉兄臺下
七五一 【九月二十一日・封書 信濃下諏訪町高木より 東京本郷區元町一ノ二東肥軒方 藤澤實氏宛】
拜啓昨夜鹽尻より歸り候拜借の金拾圓小爲替にて同封御返し申上候御蔭にて汽車に乘り得たる事難有存候も少し(431)御送り申上度けれど丁度京都より來しカワセ券を御送申上候勉強の方ゆるませぬやう祈上候小生二十六日夜行にて長野より上京二十七日に上野の展覽會を見可申候その時色々捕話すべく候中村石原二氏上京のよし小生不在殘念に候中村君は明日頃信濃へ來るらしく候用事のみ申上候匆々 九月廿日 俊彦
馬吉君
アララギの仕事御手傳ひ願ひ候、書留便で送るから受取の返事も要りません
七五二 【九月二十二日・端書 信濃下諏訪町高木より 東京麹町區下六番町廿七アララギ發行所内 高木今衛氏宛】
〇色々御苦勞と存候〇釋氏のはそのままにてよし小生廿七日は上京すべし〇發行所ゴタつく由今によくなるだらう下にて困らぬ程度にすべし〇カツトの下忘れて申譯なし子規隨筆等より適宜出して置き給へ横山宇野君から擇つてもらひ給へ君でもいい〇來月からはも少し小生も多く東京に居る矢張り手を拔いてはいけぬやうだ〇會計嚴格にたのむ毎日記帳してくれ給へ〇宿つた諸君の勘定は濟まないが君から貰うて下へ拂つてくれ給へ小生明日飯山町に行く忙しく書く△富士見村樋口隆次小池晴豐二氏の内より小生に手紙來たら大事にしまつておいてくれ給へ
七五三 【九月三十日・封書 信濃下諏訪町高木より 長野市後町小學校 三村安治・守屋喜七氏宛】
〇紙がないので斯んなものへ書く事を御許し下され度候此間は有難うございました廿六日長野へ寄るつもりの處飯山にて夜となり遂豐野から十時の夜行に乘り直ぐ上野著東京に二日間ゴタ/\して昨夜高木へ歸宅しました西洋の畫もそれほど小生の頭を刺撃してくれません森田さんの畫ががき一枚御目に懸けます
〇今度平福百穗畫伯が郷里秋田縣へ一ケ月許り行き縣の人々や町の人々と相談して取あへず一二人此際平福さんの町(432)から長野縣へ留學(大袈裟な詞になるが畫伯は本心からそのつもりです)に出す事に大體定まりし由これは秋田縣教育を改革する第一著手で非常に重い意味のある事と思ひますそれで派遣する人は必しも師範出身といふやうな窮屈な事を定めず少壯氣鋭にして正直なる人を派したいといふやうです是も大へん結構と思ひますそれで前々から貴兄と三村兄とに御願してあるやうに此派遣の人を收容する學校につき第一に心配を顧ひたいのであります小生も此事責任重大ゆゑ必要次第貴地迄參上して御願ひするつもりです何うか御兩人で一つ御考へ置き願ひます岡村兄にも御話し下さつて御意見を加へて頂きたいと思ひます第一に一人は長野へ置いて貴兄等に直接に始終接してゐるやうにしたいと思ひますこれは第一に必要と思ひます第二には上諏訪鹽尻等の如き眞面目な譯の分つた人人の多くゐる處がいゝかと思ひます小生も縣下の樣子よく知らぬゆゑその他の學校について御考へ願上げます尤も此際は一人か二人か分りませんつまり毎年二三人位を送りたいといふやうです在留は少くも一年事によれば二年三年でいゝと思ひます受持をさせて頂きたいといふ希望のやうですどんな苦役にでも服させて下さいといふ意見です學校に苦役(?)はないと思ひますがどんな苦勞でもさせて頂けば頂くほど有難いといふ意氣込で來る弭です俸給などは要らぬつもりのやうです(之れは前々に畫伯から承りし所なり今囘は咋朝早々上野で會し新宿迄電車を共にして二三十分話したのだから詳しい事は十月中旬上京の時畫伯から聞きます)俸給を出さぬ譯に行かぬといふならば少額で結構と思ひます取あへず右の御心配を御願申上度今日から又書くもの多きゆゑ失禮して兩兄へ宛て此一書だけ書き上げます御忙しいと思ひますが何卒願上よす 九月三十日 俊彦
三村守屋兩兄臺下
〇「出歩き過ぎる」との御詞至極同感に存じ自分も出來るだけ潜んでゐたいと思ひます只萬葉などを聞かうとするのは此際信濃人の尤もよい傾向と思ふ事もありますし(うぬぼれかもしれません)今一つは小生も幾分かせがねば暮して行けぬといふ事も充分あります一寸哀れになります匆々 九月卅日 俊生
(433) 守屋兄
氷魚は田邊さんのやうな先進の方から愛讀して色々御申遣し下され森田さんの如き旅行に必携へて下さると知せて下され斯樣な事を(極少數と思ふ)感謝して過して居ります
七五四 【十月五日・封書 信濃下諏訪町より 熊本市六間町 白路社宛】
私は今信濃に居ります紙がつきてこんなものへ書くこと失禮ですが御許し下さい
九月中に御申遣しの原稿を御送りしたいと思ひながら近頃歌が出來ぬため遂今日までのびました原稿を差し上けたいとは思つてゐましたそれで別紙のやうな妙なものを御送り申します
貴誌の御都合で二三囘に御分け下さつて結構ですもし又掲載御不都合ならば御遠慮なく御返送下さいほんの責ふさぎです用事のみ申上ます 十月五日 赤彦
白路社諸兄
御用事は矢張り東京のアララギ發行所内宛にて御申越下さいこちらには毎月長くは居りません
御掲載下さらば掲載の雜誌を東京の方へ御寄送願ひます御掲載なき場合は御厄介樣ながら此原稿を同じく東京の方へ御返送願ひます
七五五 【十月六日・封書 信濃下諏訪町より 京都市上京區田中玄京町七番地二號 田邊元氏宛】
拜呈御稿飯山町にて一度拜見その後東京を經て歸國候處つぎ/\に外出の用事出來思ひ乍ら御返稿遲延申譯無之存上候非常に亂暴なる詞を朱にて書き込み失禮の至に存候へ共思ひの丈けを申上る事最も宜しと思ひ候ゆゑ無遠慮にそのまゝ貴覽に供し候事御容し下され度願上候それにつきての貴見も勿論御遠慮なく御申聞け被下度小生の(434)爲めに相成可申何卒願上奉り候次に齋藤君の「赤光」態々御返送被下恐入候とんだ御手數相掛申候
小生の村は日に一度の郵便に有之此手紙夫れに間に合ふや如何と思ひこれ丈けにて擱筆仕候申上度事有之と思ひ候へ共後便を期し申候敬具 十月六日 俊彦
田邊元樣貴臺
「氷魚」につきての貴稿につき再度御申遣し下され難有奉謝上候御詞如何計り喜しく存上候御來示に任せ此手紙と同時に御送申上候間御加輩の上御送被下候はゞ幸甚奉存候亂筆御ゆるし被下度候
〇御歌稿はこちらに轉寫してあり候ゆゑ再度御送に及ばず候
七五六 【十月九日・端書 信濃下諏訪町高木より 東京麹町區下六番町二十七アララギ初行所内 高木今衛氏宛】
發熱下痢の由大切にしてゐ給へ長引けば山本君から診てもらひ給へ病中は竹尾君や馬吉から仕事してもらひ給へ小生十六日頃上京となるべしいつも來る人々へ十七日に來てくれ給へとはがき出してくれ給へ(なるべく洩なく)君臥てゐたら馬吉にでもたのみ給へ
七五七 【十月十日・封書 信濃下諏訪町より 東京市外下澁谷五四五 羽生永明氏宛】
拜復御書面今日こちらへ廻送のため御返事相後れ失禮仕候御來示の家は愚父割合によく存知いたし居り好都合に存候渡邊千秋氏(長地村)妻の出所伊藤氏(湖南村)も三井氏(上諏訪)も双方士族に有之相當の家柄の由血統も詳しく調べしにあらねど純良の事たらんとの事に候もし御必要も候はゞ取調べてもよろしく候小生十五日迄當方に居り可申それ後ならば麹町の方へ御手紙下され度候
次ぎに平賀元義續稿御惠送下され候はゞ幸甚の至に存候四五頁づゝ頂かれ候はゞ有難く存候
(435)アララギ粗末に候へども御目に懸け申度御遠慮なく御受納下され候はゞ幸甚奉存候敬具 十月十日 俊彦
羽生永明樣臺下
七五八 【十月十日・封書 信濃下諏訪町高木より 東京小石川區大塚窪町東京高等師範嶽校教授室 掛谷宗一氏宛】
拜呈一度御面晤を得んと思ひ乍ら今日迄御疎音に打過ぎ心苦しく存候今囘は御稿御相り下され且つアララギのため金員御惠み下され喜しく恐縮に奉存上候御書面東京より今日ここに廻送し來りしため御返事も遲延致し失禮の段御高赦被下度候
御稿只今一通拜見新しく生き/\したる御作多く喜しく存上候之をアララギへ掲載することを御容し被下度願上候アララギ小生不勉強にて宜しからず他の諸氏の勉強にて繼續いたし居り候今月號土田耕平の如き作ありて心強く存じ居り候大兄には今後成るべく毎月御出詠下され度此儀懇望存上候石原さんも十一月號には歌あるべく待居り候何れ上京の節親しく御面談仕り度樂しみ居り候御禮旁御返事のみ申上候匆々 十月十日 俊彦生
掛谷大兄臺下
小生毎月十四五日より廿日頃迄在京仕候今月は十六七日上京のつもりに候
七五九 【十月十日・封書 信濃下諏訪町高木より 束京麹町區下六番町二十七佐々木方アララギ發行所内 高木今衛氏宛】
拜啓高木の村にハガキなし三錢切手にて御返事申上候下痢とまりし由あと少しの間注意し給へ無理すること勿れ掛谷羽生二氏書状正に落手いたし候その他色々御知せ下され離有存候松田書店へは可成早く書いてやり給へ別紙宇野君への手紙同君水戸より來たら君が留守にても分るやう二階の疊の上においてくれ給へ下へ「久保田より」の手紙ありと宇野君へ傳言するやう依頼しておき給へ小生は十六日中に發行所へつき可申候
(436)毎月十五日に來る人々へ通知の事忠吉君馬吉君等へ御依頼あれ色々願上候匆々 十月十日 赤生
高木君貴下
七六〇 【十月十一日・端書 信濃下諏訪町より 東京麹町區下六番町廿七佐々木方アララギ發行所内 高木今衛氏宛】
〇折口君のあの原稿久保田よりの命令だというて折口君へ御返送下され度書留にて願上候
〇森先生の原稿到着次第印刷所へ御出し下され度候(十五日迄といひて願置き候)森山田品田齋藤の順序にてよし
〇小生十六日中に上京する十七日を面會日とする
〇病後無理し給ふなかれ馬吉君忠吉君によろしく匆々 十月十一日
七六一 【十月十六日・封書 東京麹町區下六番町廿七より 信濃下諏訪町高木 久保田不二子氏宛】
拜啓汽車は岡谷よりこみつづけにて今朝つき候こちら無事に候父上老後樂しみ少なし寫眞など出して御覽になる御心を察すべし出來るだけ慰めまつるべし小生近頃少しづつ心付くなり明日面會日これから大車輪にてはたらく染物や買物引受く御心配なし子供等その他萬端御心付き下され度し草々
七六二 【十月二十二日・封書 東京麹町區下六番町二十七より 信濃諏訪郡永明小嶽校講習會 矢崎作右衛門・小尾喜作氏宛】
拜啓今朝阿部さんを訪ねました明日二番で諏訪へ立たれる由萬事願ひます講習講演の種類は同じ人を何年も繼續する方がいいと思ひます或る人格者を聘してその人に繼續的に接するのが大切と思ひます多數の人を聘するのは雜駁に陷り易いと思ひますたとへば阿部さんとか田邊さんとか石原さんとかいふ人にいつも接してゐればいゝと思ひますそんな事考へ付きしゆゑ亂筆申上げます 十月二十二日 俊彦
(437) 矢崎君小尾君
小尾君に申上候上古田の岩波弟子病氣如何に候か東京へ歸るつもりが變化せざらんを祈る弟らへよろしく願上候
七六三 【十月二十三日・封書 東京麹町區下六番町二十七アララギ發行所より 下總國神崎町 寺田憲氏宛】
拜呈益御清適奉拜賀候陳ば今囘はアララギのため多額御寄賜の御厚志に接し恐縮の至奉存上候いつも御心に掛けさせられ候事同人一同感銘する所に候早速御返事可申上の處小生近來在京の日少なく遲怠相成候段平に御赦し下され度候御近詠等も候はゞアララギヘ御送り下され度待上申候
信濃教育發行の理科案手に屆き候間一部御屆け可申上御落手下され度候秋冷加はり候折柄御全家皆々樣御自愛のほど祈上候匆々 十月二十三日 赤彦生
寺田雅兄臺下
七六四 【十月二十六日・封書 信濃下諏訪町高木より 東京市外上目黒五八五 平福百穗氏宛】
拜呈廿四日石原氏も參會午前中に相談を濟ませ共に午飯をなし午後一時少し前皆歸散せしゆゑ小生も午後二時の汽車にて歸途につき申候古泉君より貴下午前十時頃迄御都合惡しき由承り午後になり猶御都合出來ざるならんと申合ひ退散の處あれより後に態々御光來下され候由高木より通知有之せめて小生丈けにても居殘ればよかりしに非常に失禮いたし殘念存上候小生も反物類を國の方にて仕立方急ぎ居る由申來りしゆゑいつもより慌てゝ歸途につき失禮致し申譯無之存じ候昨日上諏訪にて阿部次郎氏と逢ふ約束ありそのためにも少々慌て申候同氏と上諏訪下諏訪間舊道を歩き下諏訪にて同氏講演夕方同氏と別れ申候氏は今日上林温泉より草津温泉に向け出立此道は先(438)年長塚氏の歩きし道に有之候偖て相談會の事一通御報申上候
一、會計八月中旬より詳しく記帳計算九月丈けは全一ケ月の出入明了(【十月も八月も半ば】)別紙計算書御覽下だれ度候九月は今年中尤も具合よかりし月に候はじめ毎月岩波氏より賣上額と紙代とを差引き幾分の殘金を受取り居りしに別紙末尾朱欄記入の如く四月號より少しづつ不足を生じ五月號六月號七月號八月號の四ケ月非常に不足となりしゆゑ驚き出し少々緊縮を加へ八月中旬より詳細記帳計算して見しに九月號は全體より見て不足なき事明かになり申候而して五六月の不足は大阪朝日東京朝日讀賣の廣告多額に上りしため(八九十圓位)七八月は東京堂の誤りにて二ケ月共地方への發送を忘れしめたる事明了(【岩波氏調べて下さり分明いたし候】)然れば四ケ月間の不足は臨時的のものにして永久的のものにあらざる事分明致したる次第に候前四ケ月不足のため印刷所への拂ひも二ケ月後れの姿となりし處九月號具合よかりしため九月になりて印刷所へ支拂模樣よくなり殆ど一ケ月だけ恢復して大體一ト月後れと成りし次第是れ丈け具合よくなりし譯にして岩波氏への不足は只今四ケ月不足へ入金を差引て四百十圓有之候猶詳細記帳をつづけ三ケ月平均を御覽に供し可申存候(先年の殘額三百餘圓は別に候)
右の次第にて大體の經濟状態は必しも悲観的ならざる事御承知被下度候
一、頁數 百頁乃至百十頁を限りとす
一、部數 千四五百部(當分) 頁數と部數と合しての支出及び收入の關係御面談の上小生より御話可申上候
一、來年より又歌評をなす事
一、萬葉人の生活(折口)阜上偶語(赤彦)等を續くる事
一、氷魚左千夫歌集批評號を出すこと
一、元義號萬葉號寫生號東歌號子規號等を出すこと(追々)
一、新年號執筆の第目を十一月十五日迄に通知の事
(439)一、子規忌左千夫忌節忌の會合の外年三囘會合をなす事(東京會員)
一、選歌 茂吉兄一人三首以上採る事提議あり一同に議論ありしも結局「採り得るものを見洩さぬ事」「愼重に訂正等をする事」「短評の必要あるものに短評を加ふる事」等の事を決議せり
一、萬葉輪講出版の事
一、卷一の輪講をはじむる事
一、岩波書店より出版の事
大體右の如くに候詳しくは御面談に讓り申候小生明日一ぱい雑用を濟ませ廿八日より仕事にかゝり可申候御旅行も近々と存上候途中切に御自愛祈上候
山本君の事も其まゝにして歸國心に殘り候重々の御配慮を煩し恐縮の至に存候どうも餘り重なり過ぎて心苦しさ非常に存候のつぴきならぬ場合御助力を仰ぐことになり可申御寛容是祈り候御令閨樣にもよろしく御傳聲願上候
當地毎朝霧深く霧霽るれば好晴終日紅葉漸く盛りにして湖水の色めつきり澄み來り候森田畫伯來月下旬諏訪教育會のため兒童寫生畫を御覽下さる事を御承知下され難有存候敬具 十月二十六日 俊彦
畫伯臺下
其二
過日は御厚志に接し千萬恭く奉存候御蔭樣にて一通りのものを持歸るを得候段愚娘の仕合せに存候奥樣にも可然御厚禮御傳へ下され度候 十月廿六日 俊生
畫伯御左右
七六五 【十一月二日・端書 信濃下諏訪町より 京都紫野大徳寺專門道場内 小國宗碩氏宛】
(440)拜復彌御上洛のよし專心御修道のほど祈上候匆々 十二月二日
七六六 【十一月七日・封書 下諏訪町高木より 北安曇郡大町大黒町丸山健一方 宇野喜代之介氏宛】
御懇書拜讀仕り候お歌御訂正のよし色々御忙しき中に山の生活御寂寥と御察申上候貴下の如き文學に對する專心なる奉仕者は苦しみも人一倍なるべく御覺悟の上にも猶苦しき事出で來り可申絶大勇猛心を鼓せられ候樣千祈奉り候御配慮の事は當方にて已に道立ち居り候間決して御掛念に及ばず只專心御從事のほど祈上候此一冬を山中に通し候事のみにて大した事に候たまには諏訪あたりまで御出掛下され度候小生萬葉に從事の日少なく漸く昨日より三四枚書きしのみに候こんな事では仕方なく候二十四日娘を嫁入らせてしまへば少し樂になり可申今年中に少し餘計書き度存居り候貴兄の林間獨語を三四頁位づつ新年號より御出し下され度願上候(五頁位でもよし)十二月十日迄に發行所へつき候樣何卒願上候此頃日和つづき高木の山色甚だ穩靜に候今朝霜多く來りしも日は暖く候家族一同無事御安心下され度候異郷風土御自愛祈上候匆々
燒鳥は木曾より北安曇に至るアルプス連山地方に限り候山脈頂上の雪を見乍ら燒鳥する事小生池田時代の記憶に止まり居り候
七六七 【十一月八日・端書 信濃下諏訪町高木より 東京麹町區下六番町廿七アララギ發行所内 高木今衛氏宛】
拜啓今日雑誌著立派なものになり驚き候萬事上京の上御話し可申候鴎外先生へは一册奈良市帝室博物館へ送り給へ畫伯へは長崎市東中町五四齋藤茂吉方にて一册送り給へ小生大抵十日中に著京のつもりなれど事によれば十日夜行かも知れぬ匆々 十一月八日
九日夜行にするかも知れぬ萬葉かきかけありて分らぬ讀賣に赤彦消息今日頃出てゐるかも知れぬ下から貰つ(441)ておいて下さい
七六八 【十一月九日・封書 信濃下諏訪町高木より 大阪市東區農人橋二ノ二 池崎忠孝氏宛】
拜啓非常の御疎音平に御海容被下度候陳ば氷魚批評號を來年二月に出し候事に定め候につき是非共貴下の御評を御願申上度此儀御承知下され候はゞ恭く奉存上候御承知下され候はゞ一月十日までに御稿拜受仕り度存候そして甚慾深き話に候へ共新年號へ何か御寄せ下され候はゞ大慶の至に候これは十二月十日迄に頂き申度厚かましき事に候へ共是亦御願申上候久しく御文に接せず御稿御惠送被下候はゞ諸同人はじめ皆々如何計り喜び可申歟と存候當地今年の秋は稀なる温暖にて未だ炬燵を要せぬほどに候夫れでも紅葉は衰へ山の小鳥多くなりそろ/\冬らしき光景になり申候過日中村君來信せられしも小生の忙しき中にてゆつくりしてもらへず殘念存候明日上京一週間滯在のつもりに候御自愛のほど祈上候匆々 十一月九日夜雨ふる 赤彦
赤木樣侍史
七六九 【十一月十二日・端書 下諏訪町より 豐平村下古田 塚原葦穗氏宛】
拜啓此間は御馳走相成候地所の事容易にこちらより口を切るべからずいよ/\手離す段になれば飯田保太郎氏を頼んでやるからそのつもりにせよ(井筒屋の西店なり)氏は先方とも懇意の由につき父より依頼すれば丁度よき人なり意見あらば東京へ御申越ありたし小生明日上京可仕候兎に角瑞穗と打合せの上高木へ來て父に直接意見をききし上西店を御頼するがよからんこちらから弱腰に出てはいけぬとの事なり西店ならば大丈夫也と父申す時期は今時がよからんとの事也瑞穗と打合せすべし坪七圓位にこちらより出てもよからんとのこと也お前が直接高木へ來て父に頼みてよしその方埒明くべし 十一月十二日
(442) 七七〇 【十一月十五日・端書 東京麹町區下六番町二十七より 伊豆大島元村 土田耕平氏宛】
長く書かうと思つてその時なくこんなに御無沙汰して濟まぬ長女が二十四日に岡谷へ嫁に行くので二三ケ月前より忙しく今月も十一日上京して明日歸國せねばならぬ來月は早くより上京して久しくゐるつもりその折ゆつくり書く「たまもの」訂正のもの今日つく矢張りいゝ作である終りのはし書きは「國なる人に送る」と六號で出しておいた此事私事にて申譯なけれど少しわけがあるゆゑ御勘辨を願ふ君一人丈けで承知してゐてくれ給へ拙作の評感謝感謝成るべくその都度願ふ六號談話欄へ寄せてくれてもいゝ第三首「湯の山」は小生もさう思つて居た所なり適中第四首「たまさか見ゆる」も貴説適中小生困つてゐし所なりこんな具合に適中すると大に喜ばしい第二首「なだらかに」第一二句は草山にかゝるなり君の「はつきりしません」といふ説適中せず次に山の兎の人を見て逃ぐるは普通の事なり貴説中らず女が湯の庭で踊りををどる事山浦にていくらもある事實なり北安曇あたりも左樣なり 十一月十五日夜
七七一 【十一月十五日・端書 麹町區下六番町廿七アララギ發行所より 市外千駄ケ谷原宿二九二 渚景三氏宛】
拜啓御多祥奉賀上候陳ばアララギ本年會員の増加未曾有にして諸兄作歌態度の一般に益嚴肅を加へられ候事欣幸の至奉存候新年號は更に面目を一新して一同元氣に歩み出し申度御奮勵のほど祈上候新年號原稿は特に十一月二十五日限り〆切り申すべく豫め御承知にて御揃ひ御送稿の程冀ひ上げ候會費の儀新年號迄を十二月十日迄に當方に著き候樣御拂込願上候アララギの紙質と頁數にては會費常に不足を氣し可申事御想像被下候事と奉存候先年來の不足も未だ償ひ得ざる状況に有之越年に非常なる困難を來し居り候萬一會費滯納の向も候はば此際必御納入下され候樣特に御願申上候時節柄御自愛專一に奉存候敬具 十一月十五日
(443) 七七二 【十一月十九日・封書 下諏訪町高木より 上諏訪町小學校 田中一造氏宛】
拜啓こんな紙失禮御赦し被下度候補習の事詳しく御知せ下され御厄介存上候幾分心當りもあるかと思ひ御伺ひ申したる次第なれど時間その他模樣を伺へば少し六ケ敷かと存候猶心がけ可申候へ共他に適當の人御求めのほど祈上候次に森田畫伯は小生歸國迄猶歸京せられず(山陰道寫生旅行)詳しく手紙遺しおき候近日御歸京と存候へばそのうち期日定まり可申大抵今月廿九卅日になりはせぬかと存候(前日生徒の畫を見て翌日一寸話をする)定まり次第御知せ可申小口君へも右御傳へ願上候匆々 十一月十九日 俊彦
小生昨日歸り申候
田中兄貴下
畫伯の見るべき畫の大體の枚數豫想一寸周介に御申遣し祈上候
七七三 【十一月十九日・端書 信濃下諏訪町高木より 東京麹町區下六番町二十七アララギ發行所内 高木今衛氏宛】
〇……四郎とあるを(……忘る)赤壁四郎と校正の時なほして下さい小生選歌の中にあります
。五圓アララギの方へやることを忘れました小生の勘定四圓位(佐々木氏へ)と共に上諏訪へ出た時に御送金申します失敬しました夫れから濱茶の代金もスツカリ忘れました月末迄に一緒に送ります
〇新年號の寄稿依頼状等が來たら直ぐこちらへ御轉送願ひます(他雑誌や新聞等よりの依頼なり)
〇ハガキ七百枚は可成早く出して下さい藤澤竹尾平木諸君から色々手傳つてもらひ給へ餘りあらば一枚小生宛に送り給へ保存しておくから〇辻村君一段は何うなりました〇廣告紙は是非赤紙にしてもらひ給へ
◎……四郎を思ひ出した鳥羽四郎です夫れを本名の赤壁四郎になほすのです〇新年選歌は遲くも三十日に各選者(444)に発送してくれ給へそして是非八日以前に著くやう敬意を表して依頼の端書出し給へ〇編輯所便は明日元眞社へ直接發送する書留にて〇山田ちま氏の住所を御知せ被下度 十一月十九日
七七四 【十一月二十八日・封書 下諏訪町高木より 北安曇郡大町大黒町丸山健一方 宇野喜代之介氏宛】
拜啓廿四日はつせの式を濟ませその前後割合に雑用多く今夜漸く手紙書く事を得申候明日より自分の仕事に取りかゝり得べく候貴兄への手紙も數日前より差上げんと思ひ乍らその機を得ず今日に至り候
これは決して貴君へ御勸め申上るつもりに無之只萬一貴君に御望みもあらばと思ひ候ゆゑ申上候それは上諏訪小學校にて高等科卒業男子廿人位を十二月より三月迄四ケ月間一日五六時間づつ補習教育をするにつき主もなよき先生より國語算術修身(これは先生の隨意の談話にてよし)を受持ちてもらひたしとの事時間は毎日午前中二時間乃至三時間にてよく月俸は少けれど七十圓迄出すとの事に候
貴兄は目下全力を創作に注ぎつゝある有樣ゆゑ小生より決して右御勸めは致さず只貴兄が財政上此一冬を大町にて越すこと困難の有樣にて御苦心中などの事あらば上諏訪へ來るも一つの方法なりと考へ候ゆゑ念のため申上る次第に候然らずして大町に此冬を通す覺悟ならば最も結構の儀と存じ候ほんの念のために申上る事ゆゑその程度にて此手紙御覽の上御返事被下度貴兄に御望みなければ他に求むる必要有之候ゆゑ小生迄御意見御申遣し被下度候猶小生に對する金の關係などは全然此御考慮の中より除きて御考へ下され度然らざれば小生の本意に悖り申候今日より寒さ強く感じ申候小生十日以來子のために忙しく且心を煩し頭疲れ今日は一日腹痛にて寢てしまひ候子に對する親の心配は餘所目より馬鹿らしかるべく存じ候
上諏訪邊の下宿は廿五圓位ならば充分との事に候 十一月廿七日夜
宇野兄几下
(445) ○新年號へ何か雑感もの御書き下され度懇望仕候十二月七八日迄に東京へ屆き候樣願上候
〇舟木君の住所御序に御知せ願上候
七七五 【十二月一日・封書 信濃下諏訪町高木より 東京市外目黒五八五 平福百穗氏宛】
拜啓御旅行中より度々御便り下され忝く存上候長崎にては土屋君も參り合せ候由隨分永き御旅行御疲勞成され候御事と存上候已に御歸京と存上候別に御變りも無之候哉御家族樣も御變りあらせられず候哉小生十一月十七日一寸御伺ひ申せしも折惡しく御令閨樣に御目に懸られずその夜歸國せしため遂ひ失禮いたし候十八日仲媒人へ行き打合せをなしたるより今日迄下らぬ田舍の儀式にてスツカリ困らせられ御便りも申上げず失禮仕り候式は極めて簡單との下相談なりしも土地の習慣が實に厄介にて大略しに略しても煩瑣極りなく閉口仕り候それでも萬事具合よく進捗神尾大將なども態々祝に先方へ來られ一同滿足致し候樣子ゆゑ小生も安心致し居り候少々無理な事に頭を使ひしためか年來かつて知らざる胃痛を起し頭も少々疲れ數日來弱り候處今日は痛み退き此模樣にては大丈夫と思ひ居り候酒を飲むことも殆どせざりしに遂やられ申候子を心配する事の深きものなるを覺り申候明日は森田畫伯諏訪教育會のため御來諏下され候事になり居り候小生富士見迄參りあそこを少し散歩せんと思ひ居り候それにて小生の心も大分樂になり可申と喜び居り候畫伯寒い國に御出で下され候事恐縮の至に候あれこれにて今月は萬葉の方全然手が付けられず貴下にも自分にも心苦しき心地頻りに候豫定にては廿四日式を濟ませ廿六日より五日間位手を付け得るつもりなりしに今日已に三十日ゆゑ全く一日も手を付けざりし事になり心苦しく存候卷一いくつかの歌に手を付け居り大體完結せしは僅かに雄略天皇の長歌のみに有之これを今度上京の節御目に懸け度存じ居り候これとても未定稿にて慚愧すべきものに候
はつせ(愚娘)婚儀終了の御禮を申上げんとして種々の事書き陳ね申候御令閨樣にもよろしく御傳言被下度候猶山(446)本君よりその後音信なく如何かと心掛りに候これにも多大の御配慮を蒙り恐縮の至に候御蔭樣にて一日も早く轉地し得るやぅ快復を祈り居り候匆々 十一月三十日夕方 俊彦
百穗畫伯侍史
齋藤君大へん快復の由喜ばしく存候十二月歸京尤も喜しく存候土田も別に變りなき事と思ひ居り候小生も一寸音信を怠り居り候〇今一つ又々御願の件に候へ共來年アララギ表紙畫何か御執筆被下度此儀何卒願上候小生十二月五六日上京拜趨可仕候裏畫も何かよきものあらば御心付置き被下度何卒願上候
七七六 【十二月十一日・封書 東京麹町區下六番町廿七佐々木方より 秋田市縣農會内 大黒富二氏宛】
拜啓今君の歌を見て驚いた君は人に知せずにいゝ事をしたやうだどうも人が惡いね歌も久し振りで喜んだが御新婚は誠に喜しい御歌を見て君と御令閨の容子しつくり目に入る心地したどうか永久に睦じき眞面目な圓滿な御家をつくり給へ姓の異つてるので變だなと思つて高木に聞いて分つた小生一昨日上京して今忙しいからこんな亂雑な手紙書く事御容しを願ふ千龜萬鶴めでたくかしく 十二月十一日 赤人
富二仁兄侍史
御令閨樣によろしく御傳へ願上候
七七七 【十二月十一日・端書 東京麹町區下六番町二十七佐々木方より 信濃東筑摩郡鹽尻村小學校 小島守人氏宛】
みな取らぬといふ事はきつとありませんきつと一月號分へ入つてるでせう誰の處に行つてるか今分りません一月號へのものも誰かの處でせうそのうちに拜見して愚見を申上げます御手紙の御心持よく分りますがさうあせつても仕方ありません矢張り自己の感情の動きをそのまゝ從順に率直に現すより外はないでせう獨自の境を有つとい(447)ふやうなことさう熱望して直ぐ得られるものではないでせう只出來るだけ自己の眞情に即して作ることより外道のない事でせう何れ詳しく拜見した上申上けませう正月の三四日頃下諏訪町高木小生宛で一つ送稿して見給へ國にゐればいく分ひまも出ますから好都合です檜つま手ここに一册もないさうです之も國へ歸つてよく探しませう或は一册位あるかと思ひます明朝印刷所〆切今頭疲れ居り右のみ匆々 十二月十一日
諸君によろしく願上候
七七八 【十二月十八日・封書 東京麹町區下六番町二十七より 伊豆大島元村 土田耕平氏宛】
馬吉正月になりて君の處へ行くとの事也小生廿三四日迄こゝに居る
どうもいつも忙しくて手紙書かず申譯ありません過日の御手紙拜見せり熱大切にし給へ大した事なからん猶時々御知せ被下度候來年よりの事喜しく存候小生の心も君が來れば大に樂になり可申候御元氣に願上候只今金貳拾四圓御送申上候此中拾圓は平福さんより出して下されたり一寸御禮のハガキ御出し下され度候
今歌作りつつあり已に二十二首を東京朝日大阪朝日へ送れりあとアララギのはまづくて困る小生胃惡しく二十二首で疲る併し何とかまとめる今度は二百十頁歌皆揃ふ萬葉もの多きゆゑ「新年萬葉號」と題せり千六百部刷る御大切の事匆々々 長女はつせ先月岡谷へ嫁し候小生今に祖父さんになる呵々 十二月十八日 俊生
土田君貴下
今君に郵便貯金(?)(つまり餘裕)ありやあれば何程ありや無ければ何程か餘計に送る御知せあれ歌訂正承知
七七九 【十二月二十日・封書 東京麹町區下六番町廿七より 信濃埴科郡屋代町學校 唐澤うし子氏宛】
拜啓八日上京以來一歩も出られす忙しがり候ため御返事もおくれ申譯無之存候歌のべん強に御出京といふ事かつ(448)て聞かぬことに有之どういふものかと存上候夫より田舍にて自然物と自然人に接してそれより受くる感懷を歌ひ居らるゝ方遙かに尊からずやと存上候只一心に御勉強成さればよろしかるべく存上候十一月號森田畫伯の文章よく御味ひ成され候やう祈上候何事もあせり候へば小我の心出で惡しかるべく泰然と御構へにて自然の心に任され候樣祈上候只今深夜愚見のみ申述候亂筆御ゆるし被下度候匆々 十二月廿日夜 久保田生
唐澤樣
七八〇 【十二月二十日・端書 東京麹町區下六番町廿七より 京都聖護院西町萩村方 山根浩氏宛】
拜啓會報難有存候御厄介樣に候へ共會のある毎に御知せ被下度候盛會喜しく存候貴詠第一句「この牧に」などする方よく生動し來らずやと存候如何一月號に間に合はぬかと存候二月に出し可申候(事によれば餘白出來可申候)忙中亂筆御ゆるし被下度候匆々 十二月二十日
七八一 【十二月二十日・端書 東京市麹町區下六番町二十七アララギ發行所より アララギ會員宛】
拜啓益御清昌奉賀上候陳ばアララギの會計依然不振に有之候處今囘新年號を「新年萬葉號」とし總べて二百十頁の豫定にて發行の事に相成費用非常に相嵩み申すべく候に付き一月に限り會費二ケ月分御納入被成下度願上候既に來年分數ケ月御納入濟の御方には重複恐入候へども帳簿記入換の手數を省き侯爲め此際同じく一ケ月分御納入被下候はば難有奉存候御手數恐縮の至に候へども事情御諒察被下度願上候先は取敢ず以端書御願のみ申上候敬具
追て原稿は毎月必五日到著の豫定を以て(二錢切手開封にて)御發送被下度然らざれば毎月一日の發行相遲れ申すべく候書體楷書にて正確丁寧に御認め被下度候選歌と印刷との手數に影響可仕御承知願上候 大正九年十二月二十日
(449)
〇一月號三十三頁より四十八頁迄の歌につき御感想若しくは御批評御送り下され度く歌をあぐるにはその歌全部を御書き下され度く總て十行位に願上候〆切一月十二日の事
宛名人 馬吉 浪吉 悠三郎 忠吉 星丸 美穗 史郎 洋一 富二 音吉 成行 今衛 汀川(今一二人アラバ忠吉音吉ト相談セヨ)
〇一月號五十九頁より七十一貫迄の歌につき……以下前と同文
宛名人 與茂平 土橋 松井芒人 平一 三好 青二 卷作 黙々 寺澤 北山松夫 草生 小舟
〇一月號選歌中より一二首をあげ御批評被下度……以下同文
宛名人 胡桃澤 宮地 岡 石原 平福 中村 古泉 齋藤 土屋 迢空 土田 哀草果 兩角 原 三ケ島 今井邦子 杉浦 櫻井
差出人發行所内島木赤彦の事右端書四十三枚出してくれ給へ 十二月三十日夜
(450)大正十年
七八三 【一月一日・端書 信濃下諏訪町より 東京麹町區下六番町廿七アララギ發行所 高木今衛氏宛】
〇藤森秀夫氏の住所至急御知せ下され度〇昨日の三四十枚のハガキ人名中横山達三の名ありしやもし無くば「一月號選歌中一二首の批評下され度……」としてお出し下され度宇野君はまあよし(出してもいゝ)〇岡さんの處へだけは年賀をのべに行くべし上にあがらずともょし〇新年號の校正全部を保存してくれ給へ(初校も再校も)浪吉の所の誤植は實にひどい發行所からあやまつてやつてくれ給へ 一月一日
七八四 【一月三日・端書 信濃下諏訪町高木より 東京市外上目黒五八五 平福百穗氏宛】
拜啓御子さん如何に候かと心に掛り候もはや順路を追ひ御快復と存上候へ共猶心に掛り候山木君の事心に掛り候河西は六日より二三日不在のよし萬一の場合發行所へ電報願上候(小生へも勿論)小生二三日寒さに負け居り候へ共明日は起床のつもりに候山を拔く元氣あり御安心被下度候呵々
元暦本を寫し可申候 一月三日午後
七八五 【一月五日・端書 信濃下諏訪町高木より 東京麹町區下六番町廿七アララギ發行所 高木今衛氏宛】
(451)○畫伯より山本君の事につき電報その他にて申越さるる事あらば直樣御出むき下され度願上候○君が留守にする時(他へ泊る事)あらば竹尾君か平木君かに右の事御依頼置き被下度候〇君は七日か八日に小宅に來る弭なりと思ひ御待ち申居候〇諸君へよろしく願上候〇馬吉に言ふ大島行前畫伯へ伺ひ土田の處へ行つて來ると話し給へ(用があるかも知れぬ) 一月五日
七八六 【一月六日・端書 下諏訪町高木より 信濃大町大黒町丸山健一方 宇野喜代之介氏宛】
二日出はがき今日拜見いろ/\御知せ下され且いろ/\御心配下され難有存候氷魚評は書いてもらふべき人少し夫れゆゑあのうち二つでも三つでも見て何とか思つて下されし人あれば(夫れは誰でもい、といふ訣には行かず)それを書いて頂くので結構に存じ候君もそのつもりで書いて下されば難有存候併し創作の方へ集中してゐるとすれば強ひては御願せず候宇野浩二氏へ願ひしも右の意に外ならず候寒さ割合に身にこたへ何も出來ず居り候林間獨語は御つづけ下され度願上候匆々 一月六日
第二
櫻井さん大町に居らば同氏に御願ひして下さい
大町にてもはや氷そば(乾《ほ》しそばに非ず)出來居り候はゞ三圓ばかり買ひ荷造を運送屋に頼みしつかり荷造してもらひ東京の方へ御發迭下され度御厄介至極に候へ共何卒頓上候代金東京より直ぐ御送り可申上候匆々
七八七 【一月六日・端書 下諏訪町高木より 上諏訪町小學校 森山藤一氏宛】
拜復小生今年は寒さ身にこたへ少しづつ弱り居り不思議に存候こんな事從來なかりし事に候十日の會何時にてもよろしく御定めの時間を御知せ下され度課題は近作二首位でいゝかも知れず如何もし體と頭の具合惡しく缺勤い(452)たし候はゞ萬御赦し下され度豫め願上候出來るだけ都合可仕つもりに候匆々 一月六日
七八八 【一月九日・端書 東京麹町區下六番町二十七より 信濃下諏訪町高木 久保田不二子氏宛】
山本氏今朝八時三十五分遂に逝去す享年三十二歳明十日自宅出棺荼毘に附すべし今通夜より歸る青山七丁目より電車なく約一里を歩みて歸る寒さ甚し餘り鼻水出るゆゑおでん屋により燒豆腐のあついのを二つ喰ふ平福さんの御厄介になる甚し健次如何二日に一度位御便りを乞ふ父上樣御大切に皆風邪せぬやう
七八九 【一月十二日・端書 東京麹町區下六番町廿七より 攝津國西須磨村 加納巳三雄氏宛】
山本君は卅二歳を一期として九日朝八時半逝去した實に急劇の變轉特に驚くのみであるあと母堂と令妹と遺子(三才女)の事心痛の至なり何れ同人間であとの事を相談し家の成立つことを考へねばならずその際多少の御配慮煩し度豫め御願申上候
昨年來の変動に處して今日迄苦しみぬきたる貴君の御精力と意志とに非常なる尊敬の心を起します歌の道と雖も精進の道この外に出でずと存じ居り候御令弟樣より今日ハガキ頂き候兩三日中御出で下さるよし御待ち申候敷布の事いつも乍らの御厚意感謝に堪へず御禮申上げます喜しく使用致します小生葬式の日より風邪明日一日位で全快のつもりです匆々 一月十二日夜
七九〇 【一月十二日・端書 麹町區下六番町廿七番地より 伊豆大島元村土田耕平方 藤澤實氏宛】
小便は一合瓶位へ少量入れ蝋燭の蝋にて密封し著京の翌朝大學病院佐藤外科看護婦長藤本氏へ君が屆けてくれ給へ(平福さんよりの依頼なりと言へば足るべし)日數經ぬ方よき故出立の頃の小便持參の事
(453) 只今畫伯御來訪下され此ハガキ認む早々 一月十二日夜
七九一 【一月十五日・端書 下六番町二十七より 麹町區有樂町二ノ二伊東方 井上幸子氏宛】
過日は御手紙下され喜しく存候木枯の歌の事あの樣の事いくらもあり後にて氣の付くことも付かぬこともあり構はぬ事に候御取消は御丁寧に候御心のまゝにて宜しかるべく存上候決して御氣に懸くる事に及ばずと存候今月の御歌によれば御病臥の御樣子らしく如何に候か御心配申上候小生十日より風邪臥床中に有之御返事も怠り申譯無之候もはや全快明日より起き出で可申候御歌直に御送り被下度候匆々 一月十五日
七九二 【二月一日・封書 信濃下諏訪町より 東京麹町區下六番町二十七佐々木方アララギ發行所内 高木今衛氏宛】
此ハガキハ何處カヘヤルノノ誤リナラント思ヒ返送ス
小生終リノ二首訂正ハ間ニ合ハザリシコトト思フ序ノトキ一寸御返事願フ少シ遲刊ラシイ仕方ガナイダロ三月號カラ少シ早クヘン輯シヨウ廿六日出トイフ御返信ハコチラヘ屆カズ風邪ヨク御注意ノコト夜ウタタ寢尤モ惡シ校正間ニ合ハズバ馬吉忠吉音吉等ニ知セテ手傳ツテモラヒ給ヘ大堀君モ校正ハイイダロ本職ダカラ 二月一日 俊彦
高木君机下
小生長崎ノ歌ハサウ惡クナイツモリダ如何終二首訂正間ニ合ハヌコト殘念ナレド仕方ナシ三月號ノ餘白ニ一寸書イテ置キタイ
七九三 【二月九日・封書 下諏訪町高木より 諏訪郡役所内郡史編纂會 今井眞樹氏宛】
(454)拜啓度々の御知せを蒙り御厚志忝く奉謝上候理慶尼記今月末頃拜借相願度小生十一日上京廿二三日歸國可仕その上郡役所の方へ御伺ひ可申上候御禮旁重ねて御依頼申上候匆々 二月九日
今井仁兄貴臺
七九四 【二月十六日・封書 東京麹町區下六番町廿七より 長野市後町小學校 守屋喜七氏宛】
小生今月二十日一日だけ小諸町に居り可申候へ共その夜直ちにこちらへ引返し可申御面談を得ずと存候これはかつて御返事を願ひし萬葉の會に候
拜啓御壯健に候か伺上候小生近頃元氣恢復御安心下され度候岩波氏參り小池元武君の事につき色々話され申候同氏は現校長より多く認められず且つ氏の永く世話せし生徒も卒業させてしまひ候上は他へよき所を求むる方宜しからんと存じ候埼玉縣人寄宿舎(二百人位收容)の世話を見るに適當の人を探し居り候由此の方の重位に在る人と岩波氏と懇親にて岩波氏は小池君を推し候處非常に喜び是非御願申度とのこと舍宅ありて屋賃不要月收百圓位のよしなれば生計には困らず舍生は大學生より中學位迄あり監督とか指導とかの意味でなく只一通りの交渉あればよき由先方にては今迄在任の軍人上り大|□《不明》が軍人式を發揮したる弊害に懲り居る由此の處も小池君の口の一つの候補なりと存じ候併し小生はそこよりも寧ろ岩波氏に入り候方小池君には猶更によき地位なりと愚考仕り候且又岩波氏の營業は近來益々好況のよしそれと共に内部にしつかり引緊める人二三人益々必要と存じ候是には小池君最適任かと存候貴兄如何御考への上貴君より小池君へ御勸誘下され度貴君の申すのが一番利くべしと存候ゆゑ此儀又々申上候兎に角何處にてもよき口を發見してその方に向ひ候樣致す事可然かと奉存候右忙中亂文御判察願上候匆々 二月十六日 俊彦
守屋兄侍史
(459) かねて御心配願ひ候秋田縣小學先生の長野縣留學(?)の事秋田縣廳より此程貴方へ出張貴君にも面接して色々御願せし由何卒御配慮願上候畫伯の考にては今一二人參るやうに致し度しとの事に候へ共或は來年頃追て一二人御厄介樣になり候かも知れず是は畫伯非常の熱誠に有之或は二月未三月はじめ頃態々長野へ行き御面談の上御願するに至るかも知れずさうなれば小生も同道仕るべく縣廳三村岡村二君及び貴君と三人位に御面會を願度かと存じ候これは小生より御勸めしたるには無之畫伯より進んで再三申され居り或は實際になるかと存候その際は改めて三村岡村氏にも小生より御願申出つべくその頃貴君等のうち他行の事等もあらば殘念
と心配致し居り候右一寸申添候
七九五 【二月二十二日・端書 東京麹町區下六番町廿七より 信濃東筑摩郡鹽尻小學校 藤井久代氏宛】
拜啓友に逢へる御歌捉へ所は大へんよけれど現し方が勸念的にて惜しく存上候御ふん發願上候諸君によろしく願上候匆々 二月二十二日
小野君歌なし如何御べん強を望む
七九六 【二月二十四日・封書 東京麹町區下六番町廿七アララギ發行所より 長野市後町小學校 守屋喜七氏宛】
拜呈議員會等にて必要の場合も候はんかと存候ゆゑ左記大略御承知置き被下度願上候
一、長野滯在の日數少けれども毎月前後に各地の會合等へ出席しその數三四囘に上る事あり長きは一ケ所三四日を費す場合生じ居り候
一、原稿の集め方少けれど有望なる青年教育者の書きしものは手紙若くは自身にて携へ行き再考の點を指示若くは熟談して想を練ることを勸め居り候今迄のは南佐久南安曇松本等也
(456)一、大正七年に顔を出さざりしは西筑更級二郡にて他は一通り巡り居れり
信濃教育に盡せし所は極めて微少にして慚愧に不堪此點は如何に御叱り蒙りても殘念ならず候
正當なる自分の名譽は自分にて保持する必要あることあり小生に元來名譽なし特に信濃教育執筆は小生従來中尤も不名譽を感ずるものに候あの表紙畫の如きも三月より成るべく撤去を希望致し候思ひつき候事一二申上候匆々 二月廿四日 俊生
守屋大兄貴臺
編纂委員諸氏へは夫れ/”\挨拶状(謝禮状か)出し置き可申候
七九七 【二月廿六日・封書 東京麹町區下六番町廿七より 長野市縣廳學務課 三村安治・岡村千馬太氏宛】
拜啓益御清適奉賀上候陳者かねて御願申出置候秋田縣より長野縣小學校へ御厄介相願ふの件已に人選も了り候樣子就ては發超人たる平福百穗氏態々貴地へ參上して諸兄に御面談親しく御願申上度由に有之來る三月二日夜か三日朝貴地へ參上可仕(諏訪經由小生諏訪より同行)御兩兄及び守屋兄に主として御逢ひ申度御都合御くり合せ御在長下され候はゞ忝く奉存候猶學務課長殿にも勿論親しく御面晤を乞ひ直接御願申上度儀に有之こちらより二人とも一面識なき方《かた》ゆゑ出張等の御都合迄くり合せて下さるやう御願するは失禮と存候その邊宜しく御取計ひ被下度守屋兄へも同時に手紙出し置き候へば可然御相談願上候忙中につき要用のみ認め御願申出候匆々々 二月廿五日夜 俊生
三村兄岡村兄侍史
變更等も候はゞ直ぐ電報にて御知せ可申上候小生は明後日歸諏可仕候
○ひそかに參上のつもりに候間他の人へ御話し無之樣特に願上候新聞等へも現れぬやう願上候
(457) 七九八 【二月二十八日・封書 東京麹町區下六番町廿七佐々木方より 信濃大町大黒町丸山健一方 宇野喜代之介氏宛】
色々失禮仕候君が昨夜夜行で歸るかと思ひ高木君より新宿列車を探してもらひしも見えぬゆゑ猶舟木君方かと思ひ電報出し候處今日午後君の已に大町へ歸られし事分り申候
昨日平福さんと相談の上貴兄から仙臺へ行つて頂く方却つて石原氏が一種の壓迫感から少し免れ得るかと思ひ其の事にて貴兄に電報出し御依頼せんと思ひし事に候併し已に御歸りの上にては態々仙臺迄は如何のものと存候間御依頼さし控へ申候萬一貴君が御考への上にて面談した方よしと御思ひなされ候て仙臺へ御出で下されば猶幸甚に存候併し石原さんも今急に具體的處置を取るでもないらしく今夜令弟御來談下され申候(今日純氏が令妹を訪ねてそんな向きに話し候由)も少し模様を見る事も宜しかるべく存候どうもかういふ事何とも見當つかず困り申候もし仙臺へ御出かけ被下やうな事にも候はゞ諏訪へ一寸下車して御打合せを要する事有之御出立の際電報御出し被下度右御承知置被下度候小生一日より六日迄諏訪七日八日留守九日より十一日迄諏訪十一日夜から十二日十一二日南安曇郡東穗高小學校十四日下諏訪十五日東京のつもりに候今夜又々歸國出來ず明朝出立のつもりに候匆々 二月廿八日夜半 俊生
宇野兄貴下
亂筆文意を達せず候昨日晝後に石原氏を招き畫伯と小生とにて面談のつもりなりしも辭して來らずどうも小生等の逢ふ事は一種の壓迫を感ずるかと存候夫れでも迫りたる場合はこちらから押しかけるつもりに候仙臺へは平福さんも小生も行き度き事山々なれども結果却りて惡しくてはと思ひ機を見てゐる次第に候壓迫から餘計責任感を強くしては困ると思ふ次第に候今夜封筒なしこんなものへ失敬々々
(458) 七九九 【二月二十八日・封書 麹町區下六番町二十七佐々木方より 市外上目黒五八五 平福百穗氏宛】
拜啓昨日は終日御心配を願ひ殊に御多忙中恐縮の至奉存候あれより歸りもし宇野君夜行で歸國してはと思ひ高木から新宿へ行つてもらひ夜行列車を調べたれど居らず依て猶舟木氏方に在りと思ひ至急電報を出し今日午後まで待ちしも來ず依て使を舟木氏に出し候處昨日晝の中に出立せし樣子殘念存じ候依て大町へ手紙出し大町より仙臺へ行つてもらひてもよし(宇野君の心によりては)と思ひ右手紙認めんとする處へ石原氏令弟來られ申候右の談話によれば石原氏(仙臺の)が自ら令妹を訪ね夕方迄色々話し候由その模樣にては今急に如何なる處置を取るといふほどにあらざる如し暫く時日を待つ事如何との意見に候(令弟の意見)さうすれば宇野君へは右の程度にて手紙出し可申大抵態々行くこと暫く控へんとの意見ならんと存候兎に角萬一仙臺行ならば一旦諏訪に下車し小生と打合せの上行くやう致すべく右御承知下され度候右事情のみ簡單に申上候今夜夜行のつもりなりしも色々にて立たれず明朝歸國可仕候御令閨樣の速かに御全快相成候樣千祈仕り候
諏訪にて御待ち申上ぐべく樂しみ居り候ゴタ/\の中にて大亂筆御ゆるし被下度候御預りの金子(宇野君旅費)は右のわけにて當分御預り置き可申御承知被下度候匆々 二月廿八日夜半 俊生
画伯御左右
八〇〇 【三月二日・封書 下諏訪町より 長野市南縣町 三村安治氏宛】
拜呈昨夜歸國今日御ハガキ拜見仕り候二月廿五日頃小生の出したる封書は學務課貴下及び岡村君連名宛に出したる親展書に有之不著は心外存候用向は今囘平福百穗畫伯發起にて秋田縣より長野縣小學校へ留學的見習教員を派出するにつき手初めに此四月より一人參り候樣相成已に縣視學一人貴廳に參上貴兄へも面談御願申上げし事と存(459)候此事平福氏は秋田縣のため重大事件と思ひ居り非常の意氣込に有之是非自身長野に行きて貴下等御面談して懇願申出でたくついては小生にも同道して貴兄等に紹介して呉れよとの事小生も畫伯の眞摯なる熱誠に感じ居る際とて一もなく承知仕り候依て二日貴地へ參るといふ事になり此旨貴君岡村二氏と別に守屋君へも通じ御在長を願ひし次第に候然るに畫伯と小生との都合により日取變更大體六日夜か七日午前貴地へ參上の事に相成その事ハガキにて御知せ申候次第に候長野には一日滯在のつもりに候二人參上しても貴兄岡村及び守屋これら諸兄一人不在にても目的大に外るる次第に有之失禮に候へども特に御郡合御くり合せを願ひその日長野に御出で下さる樣御願申上度改めて御依頼申出で候岡村兄へも別に手紙を出さず何卒よろしく御話し合ひ下され度奉願上候六日野澤卒業式を濟ませ候上御歸長下され候はゞ萬々難有奉存候畫伯の此擧は教育界に對する純粹なる美事と存候御同情賜はり度願上候御ハガキ拜見取急ぎ要領のみ認め御願申出候段御判讀祈上候敬具
縣廳宛にては書信類ゴタツクカと思ひ南縣町の方へ此手紙出し申候
〇新聞記者等へ知れぬやう願上候人が訪ね來てめんだうに候
八〇一 【三月三日・封書 下諏訪町高木より 北安曇郡大町大黒町丸山健一方 宇野喜代之介氏宛】
拜啓大町より仙臺までは大した事に有之もし行つて頂くにしてもも少し時機を見てからにしても宜しと存候何れにしても御意見御返事下され度願上候令妹の逢ひし時は石原さんも餘程心に餘裕ありし樣子なりと令弟よりの話に候(令妹の逢ひしは廿八日)兎に角石原さんの重大事に候へば小生等同人は出來る丈けの相談をして意見を交換し合ひ取るべき處置を取らねばならずと存候要するに只今にては具體的處置を延して數ケ月の熟考を乞ふの外無之今急に思ひ返せといふは無理なるべく存候多分六日朝平福さん上諏訪に來らるべく七日朝同道して長野に行き八日小生は歸諏可仕その際猶相談可仕候猶小生は十二日十三日東穗高小學校に居り可申或はその時御面談を得る(460)かとも存じ候右重複と存じ候へ共前便取急ぎ居りせきこみ居りし事と存候ゆゑ更に此手紙さし上げ申候匆々
八〇二 【三月六日・端書 信濃下諏訪町高木より 東京麹町區下六番町二十七アララギ發行所内 高木今衛・藤澤實氏宛】
此んなハガキ失敬失敬發行所に比牟呂二册あり此の中にある小生の歌を年代別に書いて中村憲吉君に御送下され度(原稿紙へ書く)願上候高木君忙しと思ふゆゑ馬吉君に願ひ候右御願迄匆々 三月六日
畫伯は六日夜行にのばしし由昨夕電報あり
〇三月號の模樣御知せ下され度〇中村君へは成るべく早く願饑え候〇切火は上京の時持つて行く(高木君に)
八〇三 【三月十一日・封書 松本市西町西尾方より 北安曇郡大町大黒町丸山健一方 宇野喜代之介氏宛】
拜啓七日百穗畫伯諏訪に來り八日長野へ同行九日小生畫伯に別れて諏訪に來り十日と今日用事疊まりて手紙書かれず今松本西尾君御宅にて此の手紙認め申候此間は詳しく御返事下され有難く存上候貴意すべて分り申候例の件につきては至急を要するや否やの見當小生等にも付かず只學期末にも有之此際退職等の事ありては困るとも思ひ申候貴君御來示の意味よく分り申候もし貴君御出かけの心湧きて一度行つて逢はうといふ御心持出で候範圍にて御出掛下され候はゞ如何計り喜しく存候明日は穗高のとうし屋といふ宿屋に泊り明後日は下諏訪に歸らねばならず貴兄穗高へ御出で下されば非常に有難けれどそれもどうかと思ひ候小生大町迄行きたけれど今になりては時間出ず殘念なれど此手紙をさし上げ候仙臺へ御出で下さるならば小生方へ御立寄り下され度色々御打合せ願度存候小生十四十五十六日頃迄は諏訪に居り十七日頃より廿二日頃迄束京に居り可申候旅費も不充分乍ら小生の手許に用意してあり少しも御遠慮なく御使ひ下され度願上候
用事のみ亂筆御判じ願上候匆々 三月十一日 松本にて 俊彦
(461) 宇野喜代之介樣貴下
八〇四 【三月十四日・端書 信濃下諏訪町高木より 攝津國西宮町香櫨園池端 中村憲吉氏宛】
拜啓京都より畫伯と連名の御ハガキ喜しく拜見致し候十七八日は齋藤神戸へ來るよし貴君も一時多くの同人に會ふ事にて喜しく賑しき事と存候三月號貴評非常に骨折りて下され大謝の至存候各人の評概ね取り/”\におもしろく存候四月號へ小生歌なし千樫君も分らぬゆゑ貴作を十六七日に御送下され度何卒願上候どうしても校正うまく行かず編輯を早めて校正をユツクリする要あり來月よりはすべての原稿を十五日〆切に致し度此儀御承知被下度候齋藤君によろしく願上候匆々 三月十四日夜
小生明後日頃上京可仕候
八〇五 【三月十五日・端書 信濃下諏訪町高木より 東京市外上目黒五八五 平福百穗氏宛】
拜呈今朝差上げしハガキ御覽下され候御事と存上候(長野小學校後町部長の話に三月卅一日に新學期の職員會あり秋田の御方その日に間に合へば尤も結構なりとの事に候御參考迄に申上候)陳ば宇野舟木諸氏の同人なる藤森秀夫氏(氷魚批評號へも一寸執筆)の詩集出版につき裝幀を貴臺に御願申度旨切望小生迄紹介と御依頼とを申出で候不日同氏貴宅へ御訪ね可申上存候恐入候へ共成るべく御承諾を御與へ被下度奉願上候序文は島崎藤村氏が書きし由に候取あへず御願のみ匆々 三月十五日
小生十七日二番出立可仕候十七日夕方著京の事に候御面晤を樂しみ申候
八〇六 【三月十九日・封書 東京麹町區下六番町二十七佐々木方より 仙臺市北三番町三十六石原純氏方 宇野喜代之介氏宛】
(462) 名古屋はどうぞ延してくれ給へ
拜見意外の事で長引いて君も困るだらうがどうか今少し萬事を放擲して滯在してくれ給へ石原氏も君の心が遂には通ずると思ふ病氣は大體想像がつくが心配の性質ではないと思ふ一通り石原さんの熱下りし頃を見てツツコンで話してくれ給へ石原さんもきつと君にスツカリ話したいと思つてゐるそこをよく捉まへて突つこんでくれ給へ石原さんも丁度臥てゐて色々離れて考へ得るのは好機會なり暗黒裡から徐々に光明を開いて行かれさへすればいいのだ原へは小生か畫伯からか手紙を出し置くべし「行動を此際特に愼重にし給へ」といふ意を申すべし
mはあれで不足と思ふが東京迄來てから何とでもするからそのつもりにして置いてくれ給へ今急ぐゆゑ是のみ御願申上候匆々 三月十九日 俊彦
宇野君貴下
君から原に當分仙臺へ來ないでくれ給へといふ手紙出してくれ給へ 麻布區谷町五十三 三ケ島葭子方
八〇七 【三月二十一日・封書 東京麹町區下六番町廿七より 信濃諏訪郡豐平村小學校 兩角丑助氏宛】
拜啓雪袴大へん立派に出來恭く奉存候布代仕立賃御知せ下され度何卒願上候いよ/\長野行御決定のよし一生の中一度位は遠征もよろしかるべく武者修業のつもりにて二三年御磨き成され候樣祈上候御移轉等隨分御手數と存候御令閨樣にもよろしく御傳へ願上候匆々 三月二十日 俊彦
丑助兄貴臺
八〇八 【三月二十二日・端書 東京麹町區下六番町二十七より 信濃上田市小學校 齋藤統二氏宛】
拜啓御返事遲怠申譯無之存候四月は特にいろ/\の事柄重なり居り都合つき難く此儀心苦しく候へ共御高諒下さ(463)れ度願入候匆々 三月二十二日
とくに御返事可申上の處段々郡合を考へ居りそのうち用事益重なり來り參上の見込なく相成候段不惡願上候
土屋文明君に御依頼如何に候かと存候同君ならば小生より申しても宜しく候
八〇九 【三月二十六日・端書 信濃下諏訪町高木より 東京市外上目黒五八五 平福百穗氏宛】
拜呈どうも小生等の原について言ふことが筒ぬけに石原さんに傳はり原を經て傳はると石原さんによく響かず(くやしさを石原さんたちに甘く訴へるであらう)例へば常習犯云々の言が石原さんの處へは「人間扱ひをせぬ」と傳はり石原さんからは現在は人間以上に見えてる美人を「人間扱ひせぬ」といはれゝばいゝ氣味せぬかと想像せられ候過日の御手紙に對しても「私は充分なる責任を持つてる覺悟なり」とて奮慨してゐる事古泉よりの話にて分明なり夫れ所でない古泉まで奮慨の口氣で話してゐるので宇野も大へん氣を腐らせて居たりこれが又彼の女の口調で石原さんへ響くかと思ひ候どうも考へて見るに石原さんには終生原を惡しざまに思ふこと出來ぬのではないかとも思はれ候どうしても石原さんには眞面目な人間として妻子家族血縁友人學問の立場を今暫くの間熟慮してもらひたくアララギ同人の言を重ずる丈けでも同樣の實行を一年半年延し足をしつかり地面につけて考へて見る工夫を勸め申度存候その上どうしてもと言ふならばもう仕方がないと存候猶今囘の事につきアララギ同人には一人も賛成者なしといふ意を石原さんに對し明にして置き度存じ候その心は原を認めず石原さんをあはれむの意なることを明にしたし齋藤中村二君上京のうへ小生も參上して相談のうへ總括的に斯樣な意を石原さんに傳へること一方法かと存候どうも困却してしまひ候長い御手紙御書き下され候由宇野君より承り候御心中感激の外無之存候その手紙齋藤上京一通り御相談下され候由宇野君より拜承夫れにも及ばぬ儀と存候へ共御相談下され候はゞ猶以て好都合と存上候どうも手紙でも盡せず近日上京を期し申候小生四月二日迄用事有之三日以後いつにても上京出(464)來可申候敬白 三月二十六日朝 俊生
百穗畫伯御左右
耕平へ旅費十圓一再ならざる御芳意難有御禮申上候あれも早く出るやう致し度候千樫はどうも病氣に罹つてゐないと思ひ候〇〇より洩れし事も御手紙にて拜受仕り候とに角原三ケ島の音ふ所とそつくり同じ事を言つてるので始末にならず仕方なく候どうも〇〇とそつくり通じてゐる所ありとく子さん大へん御宜しき由早くスツカリ丈夫にしたく存候度々の發熱は親がスツカリ閉口に候御大切祈上候小生昨日汽車中スチームなく風邪ひき今日鼻水盛にもれ頭少し具合惡し手紙も亂暴にして筋立たずつまり石原を醒ますべき手段の考がまとまらぬ心地に候石原さんへは今日是と同時に
一、妻子をころし自己の學問をころすことについて今一度熟考を給へそのために暫く妻子にも離れ原にも離れて半年一年位の熟考をしてくれ
一、貴下は今足が地について居らぬ自分では分らぬであらう進むならば足大地を踏んで沈著に毅然と進め寢臺の上では分らない病後信濃へでも行き靜かにして御熟考を賜へといふ意味の手紙を出し可申御承知願上候
下書供御高覽
拜啓其後一ケ月餘リ貴下ノコト念頭ヲ去ラズ何ト申シテ上グベキカニ心餘リ居リ候如何ニ思ヒ返シテ見テモ山王臺ニテ申上ゲシコト以外ニ道ヲ發見シ得ズスベテノ點ヨリ考ヘテ彌々左樣ニ信ゼラルヽ次第千慮ノ上ニ猶一度再慮ヲ乞ヒ奉り候
一、妻子ヲコロス前ニ猶周密ニ考フベキ道ヲ遺却シテナキカソノタメニ猶相當ノ時間ヲ置キ給フコトハ妻子ニ對シ血縁ニ對シ朋友ニ對シ乃至人間道ニ對シテ敬意ヲ致ス所以ニアラザルカ
一、失禮ナガラ貴下ノ足ハ今確實ニ地ニ著キ居ラズコノコト當事者タル貴下ニ分リ得ザルコト當然ナリ足ノ地(465)ニツカザルハ知情意ノスベテノ方面ヲ充實シテ考ヘ給ハザルタメナリ足下若シ敢テ進マントセバ未ダ盡サヾル知ト情ノ遺却セル(情ノ偏レルタメニ)方面トヲ顧ミ萬遺漏ナキ道ニ立チ確實ニ地ヲ踏ミ悠揚ニ嚴肅ニ進ミ給フベシ貴下今自己ノ心ヲ顧ミテフラツキタル所ナシト信ジ給フヤ若シ信ジ給フトモソハ當事者ニシテ自己ノ足元ヲ見ル能ハザルナリ
一、妻子ヨリ離レ給ヘ原ヨリ離レ給ヘ暫クスベテノモノヨリ離レテ沈思ノ時間ヲ費シ給ヘコレ貴下ノ足ヲ確實ニ地ニ著クル道也切望ニタヘズ御病後山地等ニ入リテ靜養シツヽ御工夫ヲ費シ給ハンコトヲ祈ル
一、同棲後ノ破綻ハ目ノ前ニ見ル心地ス貴下ニ分ラザル也(理由ヲ御問ヒナラバ材料非常ニ多シ)貴下ニモ原ニモ斷ジテ幸福ナラズ萬人皆左樣ニ信ズルヲ斷言スソレラモフリ切リテ邁進セント思ヒ給ハヾ切ニ願クハ時間ノ猶豫ヲオキ給ヘ人間道ニ對スル敬意ヨリコレヲ音フ也妄言失禮頓首再拜 三月二十七日 俊彦
石原賢契臺下
八一〇 【四月十三日・封書 東京麹町區下六番町二十七アララギ發行所より 北海道小樽區色内町谷黒藥店 塚原瑞穗氏宛】
拜讀三溝氏の事心痛の至に候貴下多年の恩に酬ゆる秋なりと存候出來る丈け力を盡し誠實に御助力祈上候主人不在の事ゆゑすべての方面より注意して力を盡され度存候餘程周到に考へて一寸なりとも有望の方面へ御導きの程祈上候與市は數日中に臨時アララギ發行所へ引あげさせその上にてよき處を探し可申候此の方は小生よく督勵すべく御安心下され度し今迄の處は金かゝり過ぎ候茅野氏も宿所につき心配してくれ可申候貴下も體や色々注意して決して危險の事してはいけませんよくよく御注意祈上候匆々 四月十三日
高等商業工業の事もよく考へて見ませう與八郎君還り來て感謝の意を表するほどのやり方をせよ
(466) 八一一 【四月十四日・端書 東京麹町區下六番町二十七より 信濃南安曇郡梓村花見河越方 宇野喜代之介氏宛】
拜復仙臺よりの電報と御同封の御手紙拜見仕り候まさかH氏を同伴して轉地しはせぬと思へどすべて變態の現在ゆゑ何とも分らずあの位言を盡しその上貴君をわざ/\仙臺まで煩し候上はこの際急に手の出しやうもなく貴意の通りに小生も存じ申候あの電報と御手紙は齋藤と畫伯とに見せ可申御承知下され度候ほんたうに色々心配下され心喜しく存候我々も可なり理を盡して言ひもし申しやりしつもりに候此上いけなければ仕方なしとも思ひ候中村君廿四五日頃上京小生もその時上京よく相談可仕その上又御知せ可申上候梓村御移轉御厄介と存候落付いて何か書かれ候樣祈上候へん輯中ほんの御返事のみ申上候匆々 四月十四日夜 俊彦
宇野兄几下
此時謙氏來訪候同氏昨日仙臺より歸來純氏變態心理の状態との事猶心痛存候
〇御稿正に落手大謝々々〇耕平來るいろ/\難有存候
八一二 【四月二十五日・封書 信濃下諏訪町高木より 東京芝區白金三光町五三八松秀寺 辻村直氏宛】
拜呈過日は多人數の會合にて非常の御厄介樣相成御蔭樣にて近來珍しき盛會を見候段有難く御禮申上候大切なる御座敷ゆゑ注意して使用すべきなれど往々汚損等も生じ申すべく心苦しく存候何卒御兩親樣によろしく御禮御傳達下され度且又御宅内の若き方々に御厄介樣御かけ恐入候段よろしく右諸氏へ御傳へ下され度奉願上候會費計算等あんなに詳しく御報せ要せぬ儀に有之御芳志奉謝候あのうち貴宅にて御立替のもの猶他に有之べく存上候何卒少しの御遠慮もなく御控除下され度願上候猶又發行所をも御訪ね下され候よし重ね/”\忝く存上候時々必要に應じ御助力願ひ出づべく御聲援願上候右御禮のみ申述候書餘御面晤に讓り候敬白 四月二十五日 俊生
(467) 辻村兄貴臺
夜行にて歸り候ため中座失禮餘計諸君へ御厄介かけ申候廿二日朝著き候處叔父その時刻に死去それより昨夜迄叔父宅に詰め居り昨夜おそく歸り御手紙拜見仕り候
八一三 【四月三十日・封書 信濃下諏訪町高木より 東京小石川區上富坂町廿三いろは館方 高木今衛氏宛】
拜啓
一、山本信一氏令妹を貴君の部下若くは鐵道省の或る所へ雇ふこと見込無之候哉(高等小學卒業)薄給にて宜しと存じ候此事御考へ下され度願上候もし見込あらば山本氏へ御かけ合ひ下されば難有存候小生五月七八日上京するゆゑ其際の事にしてもよろしく候
二、雜誌發送等いろ/\御手傳ひ願ひ候
三、二日に發行所に行き選歌を〆切りて各選者へ發送下され度小生のは發行所へ置くやう願上候すべて電車賃等土田君から受取りたまへ
夜學へは出て居りや〇十日迄に歌つくりおく事 四月三十日 久保田生
高木君几下
八一四 【四月三十日・封書 長野縣下諏訪町高木より 東京市外上目黒五八五 平福百穗氏宛】
拜啓御手紙忝く奉存候石原氏の事當分如何とも致し難かるべく相談役の件も呆るる他無之存候全く昏迷に陷り居り候病氣否認も彼としては寧ろ平氣なるべくこの畜生めといふ心起り申候機會もあらば迷夢を醒ましたきこと山々なれど是も望み得ぬかと存候小生等としては心配すべきを心配したるにて自分の心の滿足を求むる外無之とて(468)もはじめより黙視は出來ず事が希望通りに行かぬとて仕方なしと存候盡し得る丈けは盡したるかと存じ居り候只淨き人を醜空氣の中に沈溺せしめたる事を慨歎仕り候中村に對して千樫の言ひ分は小生癪にさはる事非常にして到底今後彼と本當の交りは續け得られず斯の如き人と交際する恐ろしさを痛感致し居り候詳しくは御面晤を期し申度候
山本氏の件も非常の御心配相蒙り恐縮奉存候今迄が程度を超ゆる事甚しきを感じ居り候行掛り上つひ/\斯樣な事になり心苦しく存じ奉り候松坂屋裏の家到底問題にならず一軒の店をやる迄に第一日々生活の道を考へざる可らず内職も宜しかるべく八重子氏が何處かへ勤むる事も宜しかるべく只拱手して居ては仕方なく候過日大體を山本氏迄手紙にて申上げしも今日再び内職と通勤との事を申上げ置き候此儀御承知下され度願上候アララギの方にても二三百圓と思ひしも今の模樣にては二百圓に足らざるべく想像仕り候此内五十圓を振替にて送り置き候へば貴臺より當分山本氏へ御心配を賜らぬやう願上度その方山本氏の決心を固むる道となり可申存候右御含み置き願上候益々範圍を擴め候事際限なき事にして左樣の事宜しからずと存候
土田は御蔭樣にて先以て快復し發行所にありてその方より一通りの生計費は出で可申大體に於て此一人が從來の御補助を要せぬ事になりし事貴臺にも小生にも失本人にも欣喜の至と存候御心配を願ひても斯樣に心持よく參れば欣しく存候へ共往々左樣に行かず心外の結果を貴臺に御見せ申す度毎に小生心中の痛恨禁じ難く候山本氏の事件の如きは今更還らぬ事なれど殘念に堪へず候責任の大部分は小生にあり心苦しき至奉存候
叔父の事は小家より分家したる人(小生の養父の弟)放縱にして産を成さざりし人にて葬式は小家にて見てやらねばならぬかと心配して居りしに末年よくかせぎて貯金等あり獨立して葬式を出し且つ妻が年若くて今迄の仕事を嗣ぎ行かれ候事にて大安心を致し候當地櫻の花盛りを過ぎ木の芽やうやく萌え出で落葉松の若芽心地よき時期に候鶯山鳩その他小禽の聲いくつも終日家に聞え居り候木の芽交へ蓬蕨薺等口に入る事多く候
(469)御返事旁々ゴタ/\申上候御令閨樣によろしく御傳言願上候敬具 四月卅日 俊彦
平福樣貴臺
猶〇〇に小生が多少の金を出したる事は出過ぎたる事にて宜しからずと思ひ候へ共彼が醫師の家にて動かれずなり夜中入院の場所を探すに先立ち金なくてはどうしても居られず仕方なく岩波氏に行きて氷魚増版の前借をなしその内を少し許り融通したる次第御高諒下され度此事或は御聞き及びかと思ひ候ゆゑ辯明がましき事序を以て御耳に入れおき申候(此事は病院探しの前にして焦眉の急を告げ居りし際に有之候)
八一五 【五月十八日・封書 東京麹町區下六番町二十七佐々木方より 北海道小樽區色内町谷黒藥店内 塚原瑞穗氏宛】
貴示の事實大也三溝の名前でやるか塚原の名前でやるか
一、三溝の名前でやるとせば (1)損益及び事業の推移を常に三溝氏に報告し居らざるべからず (2)若し損失の場合誰の責任なりや (3)純益は如何に處置するや
一、塚原の名前なりとせば
(1)視存の家屋へは昼賃を見つもり商品へは價格を付する等によりて三溝氏との干係を明かにせざる可からず
大體右に準ずる巨細の打合せを要すべし漫然と手をつけ後日三溝氏も貴下も不愉快の事ありては惡しその邊の考へ行亙り居るか
一、三溝氏今囘の失敗の工面大體處置が片付きしとせば三溝氏來りて經營するが專一の良策なり暫時なりとも家庭離散は考へものなり貴下は只三溝氏の來るまで橋渡しを充分ならしむる工夫に苦心するが尤も適當なりと思ふ併し之は三溝氏夫人及び夫人身内の人とも談合の上にて御考へありたし大略右の如く考へ候明日歸國ゆゑ葦穗ともよく相談して又御返事可申上候目の廻る忙しさに亂筆御容赦を乞ふ
(470)〇小樽に住むか東京かは末の問題なり〇與市君は當分佐々木方にあるべし發行所は移轉して與市君のみ殘るやうになるべし夫れで八疊に居て食費共三十圓にて大丈夫なりあと十圓なれば授業料其他を辨ずべし此手紙三溝夫人に御目にかけてよし
八一六 【五月二十四日・端書 信濃下諏訪町高木より 東京本郷區駒込林町十一 河西省吾氏宛】
色々御知せ下され難有存上候邊鸞の畫といふもの分り候はゞ御探し下され度何卒願上候小生七八日頃上京可仕候史學研究會講演集第三册の事も難有御禮申上候これは何處より發行せられしかお知りならば御知せ願上候御面晤の時にてもよろしく候胃痙れんの方は如何過度に苦勞し給はぬ御工夫專一と存候平福さんの方月二囘の事は小生よりも話し置き候
澤べよりとり來し蟹を串にさし火に燒きて居りわがいへの子ども
山中の生活貴君には分り可申存候呵々 御令閨によろしく願上候 五日二十四日
八一七 【五月二十五日・封書 信濃下諏訪より 北海道小樽區花園町西四丁目六番地 塚原瑞穗氏宛】
拜啓にしん乾物珍しく難有存候家内一同拜味仕り候数日前蘆穗を訪ねて色々相談せり大體小生の東京より出せし手紙の趣旨に同じ蘆穗より書面行きし事と存候第一は與八郎君が余市へ歸るがよし家族永々離れ居る事惡しき事なり小ぢんまりしたやり方でも同居の方が本當なり又貴君が同店を引請るとせば前申上げし事をよく考へありたく殊に三溝夫人の男兄弟の方とよく協議の上話を前以て慥かにしてから御著手可有之存候何分遠方にて事情に通ぜず貴下の熟慮によりて三溝家も貴君も後々にまづき思ひをせぬ御工夫を重要と存候匆々 五月二十五日
(471) 八一八 【五月二十六日・端書 信濃下諏訪町より 東京淺草區北清島町二十七足立方 飯田治三郎氏宛】
拜復過日は折角御出で下され候處何やら蚊やらで御構ひ申上げず失禮いたし候雪の山を越して若葉の國へ下りし旅行健羨存候愚息はもうよろしく學校へ出で居り候間御安心被下度候行路社諸君へよろしく匆々 五月廿六日
八一九 【五月二十七日・端書 下諏訪町高木より 東筑摩郡里山邊村小學校 菅沼知至氏宛】
拜啓御轉任の由萬事御骨折の御事と存上候御稿のうち「春をまつ……再びうつるわれらのはらから」の「はらから」は此場合一寸想像し難き感あり「うから」では惡いか如何か一寸御返事下され度願上候御轉任の事發行所の方へ御知せ置き被下度候只今小生は月の上旬を東京に暮し居り候毎月御送稿下され度祈上候匆々
其二
あのうち十首位よしと存候成るべく一首に力を集中して動かし得ざる緊張力を現し候樣御心掛祈上候数は少くてもよろしく候一首に力が集中されゝば自然にその歌は單純になり可申氷魚の前半などは特に單純化せざるもの多きを感じ居り候御參考までに申上候匆々
八二〇 【六月二日・封書 信濃下諏訪町高木より 大阪市東區農人橋二ノ二 池崎忠孝氏宛】
拜呈過日は態々御手紙下され恭く拜讀仕り候早速御返事認めんと存候處あちこち歩き居り今日に至り候段心苦しく奉存候書くには長く書き度しと思ひ候ゆゑ餘計延び/\に成り失禮致し候段かへす/”\御赦し下され度候過日齋藤君歸京の途次も貴兄に御逢ひせし由同君より承り非常の御元氣にあらせられ候趣にて心強く存じ居り候朝日新聞にて聖徳太子の御研究御發表成され候折も喜しく拜見仕り候結論に當世に言及せられし所も面白く拜見仕り(472)候小生只今毎月一週間位上京あとはこちらにて少し勉強のつもりにて取掛りしものもあれど一向進捗せず怠慢をつづけ居り候アララギも多年の御策勵を蒙り御蔭樣にて發行を續け居り候へ共猶到るべき處へは遼遠に有之何卒時々御刺撃下され度奉悃願候猶久し振りにて御稿を御願ひするを得ば諸同人如何計り喜び可申かと存候いつも御願のみを申上候事心苦しき至に候七月號は左千夫歌集批評號に致し度もし一文を御寄せ下され候はゞ幸慶之れに過ぎず候六月十五日迄に發行所の方へ屆き候はゞ難有存候その次は十月頃「あら玉」批評號を出し申度之も御執筆を願はれ候はゞ難有奉存候其他のものにても隨時何か御寄せ下され候はゞ難有仕合せに奉存候小生も中村君西宮在住中一度ゆつくり上方に遊び度存じ居り候左樣の事も候はゞ是非御面晤を得久※〔さんずい+(門/舌)〕を敍し度存じ居り候昨年七月下旬長崎行の時は急ぎの用事を國に控へ居り中村君の處へも一泊もせす歸り候事殘念に存候あの時に比すれば齋藤君の健康見違へるほどに恢復欣喜いたし居り候土田も皆々樣の御蔭樣にて健康恢復七年振りにて島より歸り只今發行所に居り專らアララギの事に當りくれ心強く思ひ居り候〇〇は社會主義にでもかぶれたのか物質觀が勝ち來り歌作も一年餘中絶の姿に候アララギも幾分づつ變遷致し居り候御自愛呉々も祈上候御願やら何やらゴタゴタ書き申候匆々敬具 六月二日 俊彦
赤木仁兄侍曹
高山の頂に新に雪ふり若葉のいろ餘計に鮮かに寒く感ぜられ候時鳥郭公山鳩よしきり家をめぐりて啼きしきり居り候
ほととぎすしき鳴く山に一人居れば昨日も今日も同じきに似たり 俊生追書
八二一 【六月三日・端書 信濃下諏訪町高木より 攝津國西宮町香櫨園池端 中村憲吉氏宛】
今朝子供に二百首選を貴兄に宛て出させた處正午頃貴書拜見仕り候寫眞も正に落手仕り候例の件すべて貴説同感(473)に存候七月號に歌ある事心強く存候此際少し多く作りてそろ/\歌集に御著手祈所上候今度は岩波書店より出し給へ左千夫歌集號齋藤は着手せりと申來り候小生明後日よりはじめ可申小生今度は短文なるべく貴君成るべく長く御書き下され度願上候今夜石原氏の長文手紙を寫し了りて明日茂吉君へ返却すべし何れ御目に懸け可申候又々ハガキ失禮々々 六月三日夜
八二二 【六月十三日・繪端書 東京麹町區下六番町廿七より 兵庫縣西宮町香櫨園池端 中村憲吉氏宛】
畫伯門中八人十點入選内小林巣居君中央美術賞を得申候(君の泊つて居た家の小林臨川君ではない)一昨日土田平木その他と拜見日本畫一般に眞面目な努力にて心地よく存候 六月十三日
是はアララギの廣瀬公三君也(照太郎に非ず)無邪氣無野心の畫にて心地よし土田元氣馬吉追々快復御安心被下度候奥樣によろしく願上候 六月十三日
八二三 【六月十八日・端書 麹町區下六番町廿七より 小石川區上富坂町二十三いろは館方 高木今衛氏宛】
子どもをこちらへよこし放しにして置いて氣にかからぬか今に來るかと思つてゐるうちに歸國の日になつた子どものことは土田から聽いてくれ子どもとは君の生んだ歌の事なり 六月十八日夜
八二四 【六月十九日・端書 麹町區下六番町二十七より 信濃諏訪郡泉野村小学校 上原良一氏宛】
拜啓今日漸く阿部氏を訪ね貴意を通じ候處新しき處は皆斷り居れど貴會に限り大體承諾するとの事につき右御知せ申上候十一月頃にしたしと申居られ候匆々 六月十九日
阿部氏目下洋行準備中のよしに候小生明日歸國可仕候
(474) 八二五 【六月二十三日・封書 下諏訪町高木より 諏訪郡宮川村小學校 塚原葦穗氏宛】
拜復大賀々々名前又間に合はぬかも知れぬ御參考迄に書き連ね候へ共他に御求めにて結構なり
森太 次男政次ノ方ヨカラン ドチラニテモヨシ 森吉 先君ノ幼名也 森ハ盛貌也
節二 節度也 操守也 坦 タン タヒラ 君子坦蕩々
弘 コウ ヒロシ 寛廣也 卓 タク 立貌也
母子共御大切に成さるべく候母上樣によろしく願上候匆々 六日二十三日
八二六 【六月二十四日・封書 信州下諏訪町高木より 兵庫縣西宮町香櫨園池端 中村憲吉氏宛】
拜啓少し頭の具合惡しく不二をつれて小縣都田澤浪泉へ行き昨夜歸宅御手紙二通とも拜見致し候石原氏の事少しも見當つかず今つとはつきりした意見を以て行動しさうなものに候これも狐のしわざに候廣告文賛成に候訂正の通り先程書店へ送り置き候(二行目の所は貴訂少し變なり元通りでなければ意やゝ通じ難し)
お子さん具合よく喜しく候一安心に候畫伯の子どもさん消息不明心に掛り居候君の處も猶御用心肝心に候
選歌の事貴君がやると尤もよい關西の方であるから特にさう思ふどうかしてさうしたい小生より主任和氣律次郎氏か?へ手紙出してもいゝこれは非常に惜しい歌ろんの註文は可なり大へんらしい猶考へて見る今日は手紙何本も書かねばならずこれにて失禮いたし候石原氏の手紙早速畫伯へ廻送可致候匆々 六月廿四日 俊生
中村兄侍史
八二七 【六月二十五日・端書 信濃下諏訪町高木より 兵庫縣西宮町香櫨園池端 中村憲吉氏宛】
(475)○飴賣唄の息つぐ見れば……」と假りにして置く校正の時猶御考へを乞ふ「飴賣の唄ふを見れば……」でもいゝが「息つぐ」を削る少し惜し〇「霧降りてさびしき街にぞろ/\と人ながれつ……」は原作の方よしと思ふ如何「霧降りて」では「くもり行きけり」が感銘うすくなると思ふ〇槻の道の「高くはなひりて」は前後の勢如何暫く「わがはなひりて」として置けりあとで御覽を願ふ〇「山峽の夏」中「峽の宿驛《まや》に」は「峽の驛に」の方よからん如何〇「居すくめて朝々妻が顔をふく……」の「妻が顔を拭く」は妻がやる動作にまがひ易し「居すくめて朝々顔をふきてやる」として「妻」を割愛して書いて置いたが校正の時御訂正を願ふ〇大體貴下の補足を取りしも數が多くなり閉口今日やつと二百にして送る校正の時すべて貴見により更に御訂正願上候 六月二十五日
八二八 【六月二十七日・封書 下諏訪町高木より 下伊那郡役所 小尾喜作氏宛】
拜啓紙なくこんなものへ書くことを御免下され度候下伊那は厄介な處なれどそれ丈けやるべき餘地もあり御べん強願上候如何なる道に向ひても皆犠牲なり元氣に御取りかゝりを冀ふ君の家族は上諏訪あたりへ移した方よくないかお産も近いさうだから隣家の人々へよく依頼し特に原哲氏に豫めよくよく御依頼なされ置くやう願上候矢ケ崎にも醫者ありや用心はおく病を第一とすべく存上候折角御光來下されしに不在殘念の至に候いつか御目に懸り可申候小生等で用の足る事ならば下伊那まで應接に進軍可仕候元來にやり給へ匆々 六月廿七日 久保田生
小尾兄侍史
八二九 【六月二十九日・封書 下諏訪町高木より 諏訪郡富士見村小學校 小池晴豐氏宛】
拜啓こんな紙にて失禮御赦し被下度候
陳ば齋藤茂吉君此夏富士見へ來てべん強したしとの事何處かよき室を借り得まじく候哉朝せんの人の別莊でも借(476)りられゝば尤も有難くさうすれば食物は宿屋からでも運びてもらへばよろしく小川氏別莊はとても無理なるべくと存候その他にても適當の家も候はゞ御周旋相願度尤も大體の見込をつけて豫め本人と打合せして懸らねば決定してから止めると云ふやうな事になれば貴兄へも先方へも申譯無之大體の御見込御知せ下され度願上候猶經費の事も大體の見當御知せ下され度願上候家によれば夫人や子息が來るらしく候さう贅澤は要らず居る所は少し清潔の方よろしく候右御厄介樣乍ら御盡力奉願候匆々 六月二十九日
小池晴豐樣侍史
小生來月七八日に上京可仕候
八三〇 【七月四日・封書 下諏訪町高木より 上伊那郡箕輪村上棚 藤澤實氏宛】
拜啓再度御ハガキ拜見歸國後體の具合如何勞働もいゝ加減にすべしそして八月號へは歌少しでも出し給へ十四日頃までに屆くやう願ふ小生は八日より十六七日迄在京すべし
君は少し歌の勉強を今迄よりも多くやり給へアララギの前途を考へると心に掛る事多し君や耕平その他の人からしつかりやつてもらはねばアララギの胤は此の世に盡き果つべしそこをよくく御考へ下さい齋藤中村畫伯諸氏も皆左樣に思ひ居る也歌ばかりでなくすべて自重して出來るだけの勉強を祈る小家一同元氣御安心下さい小生もいく分勉強してゐる御家族皆樣によろしく願ふ 七月四日 俊生
馬吉兄侍史
八三一 【七月十三日・端書 代々木山谷二九一井上方より 芝區白金三光町五三八 辻村直氏宛】
御手紙と御稿拜受古義の事拜承仕り候信濃では茅野驛下車(上スワノ一ツ手前ノ驛)それより四五里蓼科山下の新(477)湯(又の名巖温泉)へ是非行き給へ左千夫先生の毎年行きし處なりそれ迄の村落も裾野も皆よし平福森田兩畫伯も行けり新湯の傍に瀧温泉ありあれもよし新湯と五六町離れ居るのみ也
小生十五六日迄こゝに居るつもりその頃貴兄は御忙しき事と存候匆々 七月十三日
八三二 【七月十九日・端書 信濃下諏訪町より 攝津國西宮町香櫨園池端 中村憲吉氏宛】
子規の短册(絹)「畑の中に筵掛けたる村芝居菜の花咲けり花道の下に」これを貴兄に進呈するつもりなりしが已に進呈せしか如何今日調べて見しに見當らぬゆゑ小生忘却せしかと思ひ此事のみ伺上候信濃は失張凉しい土田は暑さで少し閉口してゐる大兄の歌四十首は實に有難い訂正稿は早く願上候御令閨樣によろしく願上候 七月十九日
八三三 【七月二十二日・端書 信濃下諏訪町高木より 東京芝區白金三光町五三八 辻村直氏宛】
拜啓今日土田の手紙で見ると此暑さで少々弱つてゐるらしいそこで八月一日頃から七日頃迄貴兄猶信州へ來られないやうならばその間竹尾君と二人で交替に毎日一二時間づつ發行所へ行き手紙や振替を帳簿につけて下さいませんかさうすれば土田は八月を信濃で過すやうにする八日頃は小生上京十五日迄居る十六日よりは平木君に泊りこんでもらつてもいゝ餘り多數の人に依頼したくはない貴兄と竹尾土田三人御打合せ下さいませんか竹尾君へも同じ意味のハガキ出しました右何卒願ふ 七月二十二日夕方
八三四 【七月三十日・端書 下諏訪町高木より 上伊那郡箕輪村上棚 藤澤實氏宛】
夏蠶の繁忙期と存候その後體追々御宜しき事と存候小家一同無事に候間御安心下され度候「桐の花も散りがたとなれる……」はあの活字の通りに候斯樣な場合は「散りがた」にてよきかと思ひ居り候八月號への三四首は少しよ(478)きかも知れず御意見待上候土田暑さにて弱るらしく八月中信濃へ來るやうすゝめ申候竹尾辻村及び平木(八月上旬上京のよし)三君に手傳ひを願はんと思ひ居り候御自愛祈上候匆々 七月三十日 皆々樣によろしく願上候
八三五 【七月三十日・端書 下諏訪町高木より 諏訪郡泉野村小學校 上原良一氏宛】
拜復御鄭重御申越に預り謹受仕り候八月十五日東京夜行出發十六日朝七時何分茅野著可仕馬の係は非常に恐縮存候へ共一晩疲れ居り可申御厚意に甘え御手數相煩し申候匆々 七月三十日
八三六 【八月二日・繪端書 御嶽頂上より 上伊那郡箕輪村上棚 藤澤實氏宛】
六合目一泊九合目日の出朝七時頂上快晴子どもの足の方強く小生引かるる有樣滑けいに候今日下山 八月二日
八三七【八月十七日・端書 下諏訪町高木より 上諏訪町岡村 金井國雄氏宛】
拜啓昨夜は態々停車場へ御出で下され恐入申候會場色々申上げ御迷惑樣かけ申候小生の歌左記一首仲間入願上候
桑摘みていたく凝りたる妻の肩をわれ揉みてやらむ心起れり
文字も此通りに御寫し願上候匆々 八月十七日
八三八 【八月二十三日・封書 信濃下諏訪町高木より 東京市外上目黒五八五 平福百穗氏宛】
拜啓もはや御歸京の頃かと存上候今年の夏は暑さ非常に有之御全家如何御起居被成候かと心に懸り居り候殊に御令閨御子樣方秋田縣へ御出でなされ候よし御旅行中御健勝と存じ乍ら如何かと心に懸り居り候齋藤君元氣旺盛一昨日歌會七十餘人出席昨日數人にて湖水を横ぎり對岸丘上にて夕食夜遲く歸り申候一二日中に輝子さんも來信の(479)よしに候杉浦女史も富士見停車場に滯在の處今日頃歸京のよしに候
石原氏急に東京より富士見に來り(單獨)宿屋に勉強中のよし小生未だ逢はず候同氏のためには可成永く信濃に居る方よろしからんと存候同氏の事過日來東京の新聞にあの如く發表せられ自然の成行と存候へ共殘念の至に候殊にアララギの名が盛に羅列せられ候事不快至極に候此際諸同人の意見公表といふやうな事はお互に愼み度思ひ居り候古泉君新家庭といふ雜誌に一頁半位意見發表と話し候ゆゑ是は原稿撤囘を勸め置き候へ共如何かと存候皆雑誌屋の際物の種に使はるゝに不過候殊に三ケ烏女史與謝野女史等も同時列ぶよし不快甚しく候而して此社より原の歌集を發行との事驚くの外なし原も歌集にまで無節操也此際際物として發行する雜誌屋と夫を承諾する本人と相待つてよい面の皮也九月号編輯所便へ少し書き置き候アララギとしての立場だけを申置く要ありと思ひし故に候而して原へは小生加筆等の歌は一切原作のまゝにて出されたしと簡單にハガキ出し置き候色々御面談を期し居り候郵便の時間切迫につき是にて擱筆仕り候匆々 八月廿三日 俊生
百穗畫伯臺下
八三九 【八月二十四日・繪端書 信濃下諏訪町高木より 東京市外中野町一〇一八 阿部次郎氏宛】
御ハガキ難有存上候燕岳へ御登りのよし大した事に候此ハガキは御郷里より御歸りの上御覽になる樣相成べく候へ共取あへず願申出で候件はアララギ十月號にて茂吉君の「あら玉」合評致し度もし集の全部にても一部にても御高見御惠送被下候はゞ忝く奉存候九月十三日迄に願上度御多忙中恐入候へ共何卒奉願上候匆々 八月二十四日小生子ども二人を伴れて木曾御岳へ登り申候十數年振りの山登りに候奥樣へ宜敷願上候
谿に殘るみ雪を見れば久方の空高くして時とふものなし 御一笑々々
此處より樹木絶えて岩山になる也
(480) 八四〇 【八月二十九日・繪端書 信濃下諏訪町より 東京市外上目黒五八五 平福百穗氏宛】
拜啓伏羲氏寫眞を三色版にすべきか一色刷にすべきか中央美術が原色ゆゑアララギは一色の方よきかとも思ひ候へ共御考へ願上度付ては恐縮の至に候へ共寫眞原版だけ然るべき寫眞屋へ御申附の儀相願度田中製版の方は小生上京のうへ間に合ふやう依頼可仕御迷惑の御願偏に御寛容願上候只今齋藤夫妻を下スワ驛に送り(淺間温泉一泊明日歸諏)歸りがけ局にて書き申候伏羲氏につき御稿御認めの程奉願上候 八月二十九日
八四一 【八月二十九日・端書 信濃下諏訪町高木より 東京市外上目黒五八五 平福百穗氏宛】
〇只今電報出し申候
拜啓昨日齋藤君を下諏訪驛に送りし後歸宅貴翰拜受仕候中村君と共に御來遊下され候よし欣書の至存候齋藤君は今日淺間温泉より富士見に歸り可申明日齋藤君送別歌會(これは小規模)明後日(九月一日)齋藤君夫妻信越線にて歸る豫定に候へ共貴臺御光來下され候はゞ勿論一日位は延期苦しからぬことと存候其他の事は此のハガキに認めず日取豫定取急ぎ御知せ申上候中村君へ御傳へ願上候明日夜行御出立下され候はゞ好都合存候只今電報出し申候 八月卅日朝
八四二 【九月十七日・端書 東京市外代々木山谷二九一井上方より 信濃諏訪郡湖南村 金子茂氏宛】
拜呈「※〔さんずい+顯〕」之は萬人(?)に通ぜず印刷屋の活字にもなし今一つ名前を御考へ被下候はゞ難有存候匆々 九月十七日
八四三 【八月二十日・端書 長野縣諏訪郡下諏訪町高木より 東京市外上目黒五八五 平福百穗氏宛】
(481)拜呈秋田より御ハガキ一昨夜歸宅拜見仕候御母堂樣御快方欣賀の至奉存候此冬を御大切に御過し成され候樣祈上候御顔の腫物專門醫より御受診可然奉存上候大した事なからんと存候へ共御用心祈上候〇伏羲氏の寫眞何卒御配慮下され度御迷惑乍ら奉願上候二月號へは必間に合せ申度十月の特別號へ間に合はず殘念存候十月は「あらたま」評にて可なり賑かに存候香取氏は「子規の萬葉は我々より傳へし(?)ものにて萬葉尊重も今のアララギの人々の言ふ程ならず」といふやうな事を俳諧雜誌に發表し居る由驚き申候是は岡氏より傳聞仕り候〇一昨夜丁度小生歸宅の時全村に亙りて漏電あり各家屋より火花を發し雨水にて火が流れ死者一人重傷多數なりしも小宅一軒丈け何故か電氣消えて無事なりしは不思議の至と感謝致し候匆々 九月廿日午前
色々申上度事有之今日は省き申し候皆々樣によろしく願上候
八四四 【八月二十一日・封書 長野縣下諏訪町高木より 臺灣臺北市府前街一丁目十番區日清生命保險會社内 三溝與八郎氏宛】
拜啓御起居如何に候か伺上候小宅一同無事御安心下され度候陳ば今囘與市殿東京へ歸られ候に付親しく御家の模樣承り申候種々の事情を綜合して考ふるに此際どうしても貴君北海道へ御歸りにて萬事御處置成され候方家のために爲り可申余市にては諸人皆同情し居る樣子にて何れも無理なことはせぬ模樣なれば御歸りにて直接事にあたり候方諸人も安心可致と存候貴君多年の信用積りをる事ゆゑ貴君が直接顔をみせ居り候はばすべての方面(内外共)追々順調に行き可申と存候瑞穗も初め貴店に入るつもりにて谷黒氏方を引退申出で候もその後御宅及御親せきとの間に話が具合よく行かず一先づ手を控へ候由此事瑞穗より巨細御報告申上げし事と存じ候多年の御恩顧に酬ゆる時節來れりとの覺悟小生へも申來り小生よりも萬事注意してしつかりやり候樣申つかはし候へども左樣に成候事本人も小生も殘念に存候谷黒氏へは殆ど退店の覺悟申出でしゆゑ同氏店へ入るは變なものになり只今花園町へ星製藥販賣所を谷黒氏より出してもらひその主任となり一戸の店を經營候よしに候右にて例の妻入籍必要に(482)なりし由小生及葦穗へ申來り候多年の事に有之今更如何樣にもなり申すまじく亡父もつまり仕方なしと申し居りし事なれば入籍手續なさんと思ひ候へども萬事親になり代り居る貴君へ申通ずる必要ありと存じ此手紙したため申候御異見等も候はば御申しつかはし下されたく願上候氣候風土の變り居る土地に御住ひの事萬事御自愛にて病氣なさらぬ樣返すがへす祈上候猶北海道へ御歸りの事は急務中の急務と存候間よくよく御考への上一日も早く御歸道のほど祈上候瑞穗でも專門に入り居れば或は當分よろしからんも然らざる場合よくよく御明察有之御處置御定めの程くどく御すゝめ申上候匆々 九月二十一日
八四五 【九月二十一日・端書 下諏訪町高木より 豐平村下古田 塚原葦穗氏宛】
皆々樣御壯健に候か今月は忙しくて思ひ乍らどうしても下町へ出られず(毎晩三時五時まで起きてる有樣)來月時計買ひて持ち歸るべく御承知を乞ふ(十八日夜全村漏電小家のみ電氣消えて何等の被害なし神佛の加護なりと存候)御全家御自愛專一存上候匆々 九月二十一日 小家一同元氣御安心下され度候
八四六 【九月二十一日・端書 信濃下諏訪町高木より 東京銀座一丁目讀賣新聞編輯局 花田大五郎氏宛】
拜呈手紙差上けんと存じ乍ら今日に至り失禮致し居り候段御わびの申上けやうも無之存候今囘はいよ/\東京に御引移りのよし如何計り喜しく存上候小生毎月東京に居る事一週間位に候へ共今後御面晤の機會有之べく布候只一週間のうち晝夜ゴタ/\致し殆ど外出の機なきためすべての方面へ御無沙汰致し居り貴兄に對しても思ひ乍ら失禮する場合多かるべく心苦しく奉存候今囘短歌の雜誌御創め成され候よしにて原稿御申遣し下され候處是も遂御無沙汰に了り候段幾重にも御海涵の程願上候眞劔の氣分缺けたる歌界に大きく鋭き警鐘を鳴らされ候事と存じ如何計り期待存じ上げ候もし然るべき機會を得られ候はゞ拙稿御採用願上ぐる事も可有之と存じ候創刊號今より鶴(483)首待上奉り候甚遲れ馳せ乍ら御返事旁申上候敬白
八四七 【九月二十二日・端書 下諏訪町高木より 諏訪郡平野村蠶絲學校 樋口長衛氏宛】
拜復過日は種々御厚志に預り恐縮奉存候御手紙頂き候處小生不在にて御返事申上げず失禮仕候校歌とても小生の手に畢へ申すまじく此儀何卒御赦免願上候はがきの御返事失禮御ゆるし被下度候敬具 九月二十一日
八四八 【九月二十六日・端書 信州下諏訪町より 東京小石川區上富坂町二十三いろは館方 高木今衛氏宛】
拜啓丁度十八日夜漏電の時小生歸宅村中大さわぎ致し候死者一人負傷者可なりありしも小宅のみは中途にて電燈消え何のさはりもなく神佛の加護と思ひ居り候右御安心被下度候校正の際「故門馬春雄氏の歌アララギ所載以外のものにて承知の人は福島縣梁川町(?)中木勝彌氏宛にて知らせ下されたし」と何處かへ御記入願上候色々御手傳ひ願上候 九日廿六日
追伸
森本君が印刷の挨拶状を方々へ送りたり(今月はじめか八月中か)それが君にあらば至急齋藤君へ送つてくれ給へ(青山南町五ノ八十一)齋藤君がそれに倣つて挨拶状を印刷するから右願上候匆々 九月二十六日夜半
八四九 【十月六日・封書 信濃下諏訪町より 京都市上京區田中玄京町七 田邊元氏宛】
拜啓再度の御手紙拜誦仕り候御返事差上げんと存じ乍ら今日に至り候御海容下され度候小生などは他に修養道も無之ゆゑ一途に短歌に縋り居り候次第なれど貴下は之と異り居られ候へば作歌の要求出でざる場合致し方もなく他に御研鑽の大道開け居り候事なれば一途にその道を御進み成され候御儀と存上候御進行の途上もし作歌の心と(484)相觸るるものも候はゞ如何計り喜しく存可申候小生は作歌を以つて日常生活の整理なりと心得居りその整理に若し多少の向上が意味せられ候はゞ望外の事と思ひ居り候へども整理がいつも混亂と相伴ひ居り一生を通じてどれ丈けの整理境に入り得るかを恐れ居り候小さく早く整理する人もあり内容を大きくして追々に整理する人もある事と存じ候へ共小生などはその何れにも迷ひ居る有樣衷心より慚愧に不堪候左樣の歌が澄明境に入る筈なく澄明境に入り居らざるは慥かなれどどれまで瀾濁してゐるかが自分に分らず斯の點に於て他の批評が自分を益し可申アララギ誌上等にて御氣付きの所御遠慮なく御仰せ越し下され候はゞ如何計り喜しく奉存候作歌の御要求なくなり候とも萬一小生の歌が御目に入りて何か御感想御浮びの節御申遣し下され候事偏に奉冀上候是れ特に貴下に御願申上度き衷心に有之御洞察奉願候中村君との互選集の如きは製本出來しゆゑ御目に懸けしに止まり居り機械的に二百首選出を依頼されてこれに應じたるため中村のよきものを多く逸したりと思ひ居り候可なり愼重にはやりしつもりなれど矢張中村のものは林泉集にて見るべく小生のは氷魚にて見る方よろしと思ひ居り候中村も一心になつてやつてくれ候へども兩集を通じて中村の見る所と小生の見る所とに相違あるは自然にして致し方なき事と思ひ居り候石原氏の事同居も別居も今は小生等の手の出しやぅもなく傍観しつゝあるの状に候富士見よりは已に歸京いたし候へ共其後の模樣を知らず候富士見にては體の具合宜しからず其後如何かと心に掛り居り候明日小生出京可仕事情分り候かと存じ居り候毎日の霖雨にて閉口致し候御自愛專一奉存候匆々 十月六日夜半 俊彦
田邊樣貴臺
夜中亂筆御ゆるし被下度候
八五〇 【十月十一日・封書 東京市外代々木山谷二九一アララギ發行所内より 岡山縣兒島郡小串村 赤木龜一氏宛】
拜呈益御清祥奉大賀候アララギのため時々御心にかけさせられ材料御惠送下され忝く奉存候今日は又々左千夫先(485)生書柬態々御送り下され御厚志感謝の至奉存候追々誌上へ頂き可申存候猶アララギに對し時々御刺撃を賜り候はば如何計り欣幸奉存候齋藤君への御詞必相傳へ可申候敬具 十月十一日 俊彦
赤木樣貴臺
八五一 【十月十一日・端書 東京市外代々木山谷二九一井上方より 信濃下諏訪町高木 久保田氏不二氏宛】
十五日早朝出立十六、七、八日萬葉講習十九日下水内教育會に出席此の間十五日夜より十九日晝まで下水内郡飯山町丸山館宿泊十九日夜長野市神明町神明館守屋喜七氏方泊廿日も多分同所宿泊ならむ廿一日午前九時半長野發十二時十二分松本著停車場に三人を待つべし依て同日(廿一日金曜日)午前十一時卅二分下諏訪發にて午後一時十四分松木著にて來るべし此時間を間違へば非常に困る
廿一日廿二日淺間泊廿三日夜行にて小生は上京廿四日の齋藤君送別宴會に出席すべし依て右の豫定必御變更なきやう願ふ尤も父上御病氣の具合悪しくば飯山か長野へ前以て知らすべし小生一昨夜より風邪今日も臥てゐるが元氣よし匆々(廿一日みをも夏樹も休校せしむべし) 十月十一日夜
八五二 【十月十二日・端書 東京市外代々木山谷二九一井上方より 信濃東筑摩郡鹽尻小嶽校 小島守人氏宛】
拜啓今日御稿詳しく拜見哀傷の歌より四つ夫れ前のより一つ採り申候惣體に力を入れ居ることは分り候へ共その力急所に入らず下手な按摩が力ありたけ揉めども肩に利かぬ如き恨みあり就ては是非子規歌集と左千夫選集御熟覽下され度(子規選集は齋藤君選び左千夫集は小生選びて今月末アルスより出つ代金各一圓三四五十錢ならん)尤も力の利きたるものを選びしつもり御參考の程奉祈候議論するよりもさういふものを熟讀するがよしと存候
(486) 八五三 【十月十五日・端書 飯山町丸山館より 長野市附屬小學学校 兩角丑助・小野巳代志・松井源衛氏宛】
拜啓廿日朝長野に入り一泊可仕候午後あたり宿直室でも拜借してアララギの人集りては如何形は簡素なるがよし右のみ申上候匆々
徳武とく氏の今の姓を知らず鍋屋田あたりの藤井久代氏は知り居るかも知れず 十月十五日夜
八五四 【十月十六日・繪端書 信州飯山町丸山館より 攝津國西宮町香櫨園池端 中村憲吉氏宛】
コノ木像ハ白隱ノ彫リシモノ也惠端ハ少シ偉ラカツタラシイ 十九日迄此處に居る奥さんによろしく願ふ 十月十五日
八五五 【十月二十三日・封書 信濃下諏訪町高木より 山形縣南村山郡本澤村菅澤 結城哀草果氏宛】
旅から旅を歩き居り思ひ乍ら手紙さし上けず失禮此事に候一昨日歸宅明日一寸上京可仕候貴君の御歌拜見の事承知致し俵出來るだけ苦勞可仕候
同封御稿今一度御改訂の上御送下され度乍失禮右願上候貴君のは一通りは已に或所に入り居れどそれ以後の御工夫を要すべく存上候御稿へ不躾に朱記致し候へ共失禮の段は偏に御赦し下され度候來月御送の時此朱記の原稿も同封にて御送下され度小生も猶考へ可申候雜誌へは一ケ月後れ候へ共一月後るる位の事はどちらでも宜しくと存候御自愛專一存上候これから上京の所にて亂筆御赦し被下度候匆々 十月二十三日夕方 俊彦
結城兄貴臺
(487) 八五六 【十月二十五日・繪端書 東京代々木山谷三一六より 信濃諏訪郡豐平村下古田 塚原葦穗氏宛】
白樺の有島武郎脚本「御柱」を今日アララギで惣見しました吉右衛門の立川和四郎可なりよくやります有島氏にも吉右衛門にも一寸逢ひました 十月廿五日
朝日新聞から態々新富座へ小生を訪ねて寫眞などとりました明日頃の新聞へ出るかも知れません
八五七 【十月二十八日・端書 東京代々木山谷三一六より 信濃上諏訪町末廣町 森山藤一氏宛】
〇此間の晩は失禮しました小生一二日中に歸國します
今日齋藤君横濱を出帆しました天氣快晴で吉兆を思ひます朝日新聞で小生と吉右衛門の寫眞を竝べて出して少々閉口してゐます小生は吉右衛門のやうな名人ではないのだからくすぐつたいのです夫れに記者へ小生は立川和四郎の子孫でない立川が塚原家より出たのだと注意して話したのをあんな具合に出すと何だか小生が昔の名人の子孫を横取りしたやうな形になつて具合悪いのです。あの事につき「南信日日」「信毎」「長野」等へ何か關係の記事が出たら新聞を高木へ送つて下さいませんか一通り目を通して置く必要があります何卒願ひます 十月二十八日夜
八五八 【十月三十一日・端書 代々木山谷三一六より 本郷區元町一ノ二東肥軒方 藤澤實氏宛】
今朝七八時頃畫伯を一寸見舞ひに行つてくれ給へ君都合惡しくば平木君にてもよし二人同行してもよし以上度々御願ひ恐縮々々 十月三十一日
八五九 【十一月十九日・端書 信濃小諸町つたや方より 東京本郷區元町一ノ二東肥軒方 藤澤實氏宛】
(488)御ハガキ大謝畫伯段々快復喜しく存候猶當分毎朝模樣を伺ひ御知せ被下度候此の間の話は君の發意として言ひ出し給へ小生も畫伯も大體質成してゐるらしいと申添へ給へ 十一月十九日
八六〇 【十一月二十三日・端書 長野顯諏訪郡下諏訪町高木より 東京市外上目黒五八五 平福百穗氏宛】
拜呈此ハガキつく頃は最早御退院御歸宅かと存じ候如何計り喜しく存上候あと當分御靜養のほど偏に祈上候御令閨樣はじめ御全家如何計り御安堵と御察申上候當地一昨日雪一二寸つもり未だ全く消えず今朝四時半に湖水の温泉に行きしに有明月夜にて寒さ骨に入り清洌の感に打たれ候歸りには手拭棒の如く凍り申候齋藤森本二君より香港便り有之候元氣の樣子に候當方すべて健康御安心願上候宇野君の件御序も候はゞハガキにて瀧田氏の意見御問合せ被下度願上候匆々 十一月二十二日
八六一 【十一月二十三日・端書 信濃下諏訪町より 東京本郷區元町一ノ二東肥軒 藤澤實氏宛】
毎日の御知せ大謝仕り候二十日の少出血その後何のさはりなく進捗の事と思ひ居り候猶明日の御便り待ち居候發行所の移轉は何日に候か小生二日上京ゆゑそれ前にやつて置けば好都合なるべし君が八疊に居て小生在京中同居すればよからん土田と御相談下され度候 十一月二十三日
八六二 【十一月二十九日・端書 下諏訪町高木より 上諏訪町小學校 田中一造氏宛】
拜啓笠原冬子氏の畫會の事宜しく御取計置き被下度候其他御申遣しの儀すべて拜承仕り候兩氏へ手紙出し置き申候次に愚娘はつせ貴兄の御意見を伺ひ度しと申居る事有之もし參上いたし候はゞ御高見御申聞かせ被下度願上候尤も參上するか如何かは分らず御待ち下さらぬやう祈上候匆々 十一月二十九日
(489) 八六三 【十二月十七日・端書 下諏訪町高木より 永明村塚原 矢崎作右衛門氏宛】
拜啓御尊父様御逝去の際は不在勝にて遂に御無沙汰仕り失禮仕候段平に御海容願上候今年は皆々様御心寂しき御越年をなされ候御事と奉存上候同封爲替些少に候へ共御靈前へ香花御手向被下候はゞ幸甚奉存候右乍遲延御悔みまで申上候匆々 十二月十七日
矢崎作右衝門様侍史
(490) 大正十一年
八六四 【一月十五日・端書 東京市外代々木山谷三一六より 香川師範學校 城生資雄氏宛】
よべの雨に多く落ちざりき吾が庭の橙の果は朝日に光る
此れは大へんいゝ毎月御勉強下され度候 匆々 當方諸同人今年益元氣なり 一月十五日
八六五 【一月十五日・端書 東京市外代々木山谷三一六より 熊本市坪井六軒町 美作小一郎氏宛】
小生一昨夜上京いたし候
拜啓とんだ目に御逢ひなされ候少しづゝにても御快方に向はせらるゝ由欣しく存候中耳炎は餘程の間御注意なされる必要ありよく醫師と御相談の上ならでは御上京然るべからずと存上候體の事ゆゑ試驗には代へられず候御靜養かへす/”\祈上候匆々 一月十五日
八六六 【一月二十一日・端書 代々木山谷より 北品川町御殿山下一本木三九三井上方 横田貞雄氏宛】
拜啓過日は失禮仕り候玄關の處の包みを誰れかの忘却物と思ひ昨日漸く開封して見候處貴君の御手紙と其他發見そのため今迄御返事もせず大に失禮存候あまり上等品にて心後れ候へ共來月國より上等の墨を持參して書き可申(491)候畫伯のは一寸六ケ敷かと存候今迄いつも左樣に候御歌は益貴君の特長を御進め成され候事に御專心のほど祈上候潜心の時を多くするには一人を靜かに保つ御工夫專一と存候他人との往來などは多く役に立たぬものに候一心になれば愈一人を保つ工夫必要になり可申と存候 匆々
八六七 【二月三日・端書 信濃下諏訪町高木より 東京市外上目黒五八五 平福百穗氏宛】
拜啓元暦萬葉寫眞版今日拜受大謝の至奉存候あれでも大に參考になり可申候只惜しむべきは萬葉假名本文の略されし事にて主としてその方の字體及本文の如何が研究材料となり可申存候無論無きに優る萬々に存じ候もし晩翠軒主人が今一ふん發して本文全部を出してくれ候はゞ如何計りの功績と存じ候御厚情かへす/”\御禮申述候敬白
今日珍しく雨ふり氣候ゆるみ申候 二月三日夜
八六八 【二月三日・端書 信濃下諏訪町高木より 諏訪郡富士見村 丸山爲之助氏宛】
拜啓今日は珍らしく雨に候陳ば過般申上候石碑の儀小生上京前の仕事山積の有様ゆゑ歸國の上參上の事に願上候段々延引失禮存候不惡願上候匆々 二月廿日頃は歸國可仕候 二月三日
八六九 【二月九日・端書 東京市外代々木山谷三一六より 信濃下諏訪町高木 久保田不二氏宛】
拜啓汽車すき/”\にて高木卯之助氏と二人切りなり甲府より少し多くなれり體の具合如何はつせぐづ/\思ふ勿れ健次周介大べん強せよみを夏樹も少しはべん強せよ發行所皆元氣也 二月九日夜
八七〇 【二月十日・端書 市外代々木山谷三一六より 芝區白金三光町五三八 辻村直氏宛】
(492)御書面拜見仕候處御兩親樣共御病臥の御樣子御心配のほど御察し申上候御母堂樣幾分御宜しき由御尊父樣の御介抱專一に被下成候やう偏に祈上候御歌は御郵送下され度候十九日歌會も御都合により會場變更可仕少しも御遠慮なく御申遣し被下度願上候御病人の御内へ多數參上は悪しく候呉々も御大切になされ度奉願上候匆々 二月十日
八七一 【二月十二日・端書 東京市外代々木山谷三一六より 府下伊豆大島元村山田深吉方 武田治三郎氏宛】
御靜養を祈り候鼻の蓄膿や鼻茸肥厚性鼻炎等には大根おろしの絞り汁へ純良の酢を加へ土鍋等にて適宜に温めそれを布に浸して鼻梁の外面より罨法すること二日位にして必全治するとの事確例多きよし少くも害にはならぬ事也是非やつて見給へ匆々 二月十二日
あん法の字を忘る外部より温め蒸すなり
八七二 【二月十二日・端書 市外代々木山谷三一六より 信濃下諏訪町高木 久保田不二・久保田初瀬氏宛】
今朝出した手紙只今到著二つの手紙共よく判然大安心いたし候猶いろ/\氣を付くべし一家揃うて快括に進むべし匆々 二月十二日夜十時
八七三 【二月十七日・封書 東京代々木山谷三一六より 東京西巣鴨宮仲二四八九 川上四郎氏宛】
本は四六版に有之御承知置き願上候
拜啓昨日は突然參上御厄介樣相願ひ恐入申候其際本文各頁に入るべきカツト(三種)御願の儀を忘却仕り今日改めて御願に參上仕るべきに候へ共略儀失禮乍ら手紙にて御願申出で候
本文頁數三分の一はカツトを上へ刷り次の三分の一は下へ刷り最後の三分一は上へ刷り度つまりカツト三通り必(493)要になり申候三つ乍ら彩色を用ひぬつもりに候凸版等にして黒く刷り申度候カツトの中は別紙見本位にいたし度御書き下されしものを寫眞にて縮め得べく適宜御描き被下度奉願候猶挿畫は別紙の童謠四篇へ頂き度願上候これは三月四五日迄に相願度候へ共カツトの方はそれによりて活字を組み可申につき至急を要し候ゆゑ恐入候へ共今月二十一日迄に御描き下され度同日夕刻橋本氏頂きに參上可仕もし日取御都合等も候はゞ西大久保四五九橋本福松氏へ御郵報相願度存じ候右御願申出で候失禮御寛容奉願候匆々 二月十七日
川上四郎樣侍史
八七四 【二月二十一日・端書 代々木山谷三一六より 市外西巣鴨宮仲二四八九 川上四郎氏宛】
拜啓橋本君參上色々御願申上げ難有奉存候挿畫を願ひし「行水」の終りは
夕顔白い お月樣まるい
と致し候間御承知願上候
猶四枚共等大と申上げしは四つの畫の寸法等しとの意味小生申上け疎漏なりし事と恐入申候匆々 二月二十一日
八七五 【二月二十八日・封書 信濃下諏訪町高木より 東京市外西巣鴨宮仲二二四三 武田祐吉氏宛】
拜復思ひ乍ら御無沙汰致し居り候益御清昌奉賀上候南京遺文正誤表態々御送下され御厚意恭く奉存上候「大勢」への原稿貴意拜承仕候遲作の習慣に有之多數は御送出來申すまじく一頁分位を三月廿日迄に貴臺迄御送可申上御承知願上候御禮旁御返事申上候敬白 二月廿八日夜 久保田俊生
武田老兄臺下
小生風邪にて昨日より少しづつ起床の有樣御返事遲延失禮仕候もう大丈夫に候間御放念下され度候一度東京(494)にて御訪ね申上るつもりにていつもその機を得ず殘念存候
八七六 【二月二十八日・端書 信濃下諏訪町高木より 東京市外上目黒五八五 平福百穗氏宛】
拜啓筑波は雨雪なりしかと御察し申上候もはや御歸京成され候哉小生昨日より床を離れ申候割合に永引き申候もう大丈夫に候童謠論口繪と靡御厄介樣恐縮の至に奉存候それほどの内容でないゆゑ餘計慚愧仕候へ共矢張心持よきものを作り度微衷御酌量願上候田中製版非常に繁忙ゆゑ早速出來ぬ由橋本君より通知有之就ては三月五日頃馬吉白田舍へ御伺ひ可申上萬一その際頂き得れば大慶の至に候匆々 二月二十八日
一郎樣試驗如何に樣か齋藤伯林より通信來る住所猶不明
八七七 【三月四日・端書 信濃下諏訪町高木より 東京市外代々木山谷三一六アララギ發行所 土田耕平・藤澤實氏宛】
ちよいちよい誤植目につく特に歌は困るかう誤植つづきでは作物を發表すること考へものになる小生の歌終りより二番目「愚かとしただに言はめや」を「愚かとして……」になつてゐる原稿について調べて見てくれ給へ小生の誤記ならば仕方なし「なるがままになるに隨ふ……」のつもりの所も「ただに……」となつてる校正用原稿(小生の出立の時托しおける)に誤記してゐるか見てくれ給へ君等に厄介になつてゐながら小言いふのは殘念なれど仕方なし廣告用紙俗惡厭ふべし歌と歌の間は四月號より必一行あきの事今後ちよい/\した改め方をせぬ方よし讀者もその度に見當が違ふべし小生今月は廿日後に上京すべし圖書館にて讀み合せのため也十日面會日の原稿は土田君見てくれ給へ選歌は餘り多くないやうにして至急こちらへ送つてくれ給へ椎茸著く有難う 三月四日
八七八 【三月八日・端書 信濃下諏訪町高木より 東京市外代々木山谷三一六アララギ發行所 土田耕平・藤澤實氏宛】
(495)拜啓 一、平福さんへ御出で下され候よし難有存候もはや出來て參り候哉廣瀬君持參して下され候哉 一、雜誌小包つき申候(選歌稿を待ち居り候) 一、小生原稿十三四日迄につくやう御送可申上候 一、森田氏へ參り手紙か名刺を頂き田中製版所へ口畫依頼に御出で願上候 ソレデモ森田氏ガ行ツテ下サルトイヘバ御願ヒシテヨケレド近頃アマリ同氏願用量ナリ心苦シク成ルベク二君ノ中ニテ田中へ御出デ願上候(田中ハ須田町ナリ) 三月八日
八七九 【三月十日・封書 信濃下諏訪町高木より 東京市外滝野川町馬場六四五 高木今衛氏宛】
拜啓先以て大慶の至存上候
人としての歩みは誰にても是れからなり清健なる和樂より貴君のすべての道の出發せられんことを祈り候何れ御令閨樣にも御面面時の期ありと存候へ共貴君より宜しく御傳聲被下度御祝詞のみ申上候匆々 三月十日 俊彦
高木君凡下
小生今月は二十日過ぎ上京のつもりに候例の筆記物その際頂れ候はば難有存候少し位殘り居りても宜しく候
八八〇 【三月十一日・封書 信濃下諏訪町高木より 東京市外上目黒五八五 平福百穗氏宛】
一郎樣の試驗何日に候か御苦心の御事と存上候
拜啓口繪及靡御忙しき中へ御厄介なもの御願仕り御迷惑の御儀恐縮奉存候態々廣瀬君を煩し御屆け被下候よし藤澤より通知有之一層恐入申候厚く御禮申述候廣瀬君へも可然御傳聲奉願上候
御歌益自然な現れ方に入り居られ大に喜しく奉存候はじめ二首は猶苦心の要ありと存候例により亂暴書き入れ候段御高宥奉願候第一首は「見えなくに」の言ひぶりと「雪ふりつめり」との干係も如何かその他にも何處か足らぬ所あり(或は丘のくま/\といふやうに詳しく言ひすぎしか)これはも少し御手入のほど祈上候
(496)中央公ろん難有奉存候餘分になりしゆゑ中村君へ送り可申候土田へ御申聞けの事如何なる事に候か何れ廿日過ぎ上京御聞き可申上候選歌批評は大へんよろしく存候四月號分より暫くはじめ申度存候
段ぬき分せん歌と體裁かけ離れの事は氣にかゝり居り候つまりせん歌も追々五號にするをよしと存候併し今急には行くまじく暫く仕方なしと存候已に大體が兩欄體裁を異にし居る事なれば段ぬき欄は段ぬき欄にて體裁を成さざる可らず各人の間一行あきは必要と存候今月號の如きにては一體にごつちやりして具合惡しく候各人間な一行つめる事によりて兩欄體裁の相違を何うする事も出來ずと存候御高見も候はゞ御漏し願上候
上諏訪御來任の方御定まりのよし結構に存上候諏訪ならば小生も時々御目に懸り得べく存候猶申上べき事有之哉と存候へ共色々ごたつき居り洩れし事後便にゆづり可申候平和博覽會白田舍諸君の御出品御入選を祷り候
御家族樣御一統御壯健被爲入候哉御自愛祈上候小家一同元氣御安心被下度候今頃になりて雪ふり閉口仕候蕗の薹は已に花を開き畑くろの小さき草案外花をもち居り候御禮旁御返事申上候匆々 三月十一日夜 俊彦
畫伯臺下
三色版田中製版は四月半迄に間に合はず有樂町の田中製版へ囑し候由通知有之乍遺憾御承知願上候
八八一 【三月十三日・封書 東京市外代々木アララギ發行所より 北海道小樽區稻穗町西八丁目十四星製薬賣捌所 塚原瑞穗氏宛】
拜見只今振替にて參百圓御送申上候數日中に到著可仕候此うち半分は貴君より拜借せしものに候殘り半分は御都合よき時高木の小生方へ御送下され度候數年間のうちにて宜しく候利息は一文も要らぬその代り前の拜借のも一文も上げません創業の際萬事御注意無やみに氣の大きい事をせぬやう祈上候引きしめて丁度いゝ加減に候體裁上の事へ金を用ふるな世に一番低級な事也必要已むを得ぬを程度とすべし開店出來たら知せ給へ金受取つたら高木の方へ知せてくれ給へ小生二三日中に歸國可仕候匆々
(497) 愛子殿へよろしく願上候三溝へ一應相談せしか其方よしと思ふ
八八二 【三月十三日・端書 東京市代々木山谷三一六より 信濃諏訪郡豐平村下古田 塚原葦穗氏宛】
拜啓瑞穗へ只今小生分擔だけ送つた貴君の方も可成急いでやり給へ長野は何うした高木の方へ御知せ下さい小生十六日朝歸國する母上樣きみゐ樣によろしく何れ近々參上する 三月十三日
八八三 【三月十四日・端書 信濃下諏訪町より 東京市代々木山谷三一六アララギ發行所内り 土田耕平・藤澤古實氏宛】
別紙原稿書留故大丈夫と存じ候へ共一應送稿目録と照合して御落手の御返事御出し願上候田中製版所忝し森田さんがルドンについて書いて下さる由につき十四日頃頂きに參上し給へ十五日夜でもよし匆々 三月十三日夜
其二
それから段ぬき欄の短歌は各人の間一行あけること二月號の如くし給へ大體が選歌欄と相違してゐるのだから一行をどうかうする事によりてその相違をどうする事も出來ぬそれよりも段ぬき欄は段ぬき欄で體裁をなす方が本當である匆々 三月十四日晝
重要な精神に影響するやうなことは些事でも大事であるさうでない些事に關つてゐべきでないさういふことが小細工になる小細工は小變化屡次にして止まらない
八八四 【三月十六日・端書 下諏訪町高木より 長野市城山小學校 清水謹治氏宛】
益々御清昌奉賀候守屋君四月はじめより一ケ月位何處かへ靜養に出し候やう高田五味山崎諸君と御相談下され度願上候守星君はよほど強ひて言はねば靜養などに出ない此邊御含みにてたつて御すゝめ願上候匆々 三月十六日
(498) 小生元氣御安心下され度候
八八五 【三月十九日・端書 下諏訪町より 松本市本町松本銀行 胡桃澤勘内氏宛】
拜啓土俗傳説研究方法につき諏訪教育會より貴兄の御來話を願ふやう御頼申上るかと存侯左樣の場合御忙中御くり合せ御承諾下され候樣特に御願申上候昨夜依頼を受け候故取あへず御願申出で候匆々 三月十九日
八八六 【三月二十日・端書 下諏訪町高木より 東筑摩郡鹽尻村小學校 小島守人氏宛】
拜啓故木下清子氏の御歌非常にすぐれ居りあはれ深く拜誦仕り候これほどのものを遺して逝かれしこと短生涯も決して無意義ならずと存候併し乍ら若き人々の夭折は心にしみて悲しみを覺え候匆々 三月廿日
八八七 【三月二十五日・封書 東京代々木山谷三一六アララギ發行所より 長野附屬小學校 奥村政治郎・兩角丑助氏宛】
拜啓御清健奉賀侯小生無事御安神下され度候陳ば別紙のうち〇印の所を筆寫致し度貴地にて筆寫生の如き人を御探しの上御依頼下され度新聞社は三澤背山氏へ此手紙と共に依頼状差出し置候間同氏に依り御話し下され度御繁忙中恐入候へ共御世話樣奉悃願候學者でなくともよろしく多少の假名違位ありてもよろしく候それを衣食の料とするやうな人を御求め下されて結構に候料金適宜御定めにてよろしく當方に何の異議も無之候期限成るべく早く願ひ度けれど四月に入りてもよろしく候右度々の御迷惑御高宥下され度候匆々 三月二十五日 俊彦
奥村兄両角兄侍史
(499) 八八八 【四月八日・封書 代々木山谷三一六より 市外上目黒五八五 平福百穗氏宛】
拜啓奈良よりの御ハガキ難有拜見仕候芝中學は大へんよき學校の由こゝに入られしは一中等へ御入りよりも御仕合せと存候皆々樣御安心御察し申上候長塚全集につき順次郎氏より別紙の如く申遣され今日小生參上御面晤申上候結局今迄の印税の處置があまりひどき由申され御尤もの儀と存候小生よりは順次郎氏御自身發行せらるとも春陽堂より發行せらるゝとも當方には關係なし兎に角編纂だけして何れへなりとも差出し可申樣御話申上置候氏自身にて發行は急に出版業者の如き仕事せねばならず隨分厄介の事と存候併しそれも氏自身なさるゝとの御事ならば夫れでよろしと存候經過一通り御知せ申上度右認め申候圖書館が來週限り室を貸し與へぬ事になり毎日朝より夕迄器械になり仕事して居り原本照合が猶一人にて二十日を要するゆゑ人を二人頼みてせつせとやり居り候そのため小生國へ歸られず且つ御宅へ伺ひ得ず遺憾に存候明日日曜なれど選歌日也あまり仕事一時に集り閉口の有樣に候右一通り御話申上置度如此に候匆々 四月八日夜 俊彦
國元より子供二人よこされ三日間丸つぷしに致し候昨日一番にて歸國せしめ申候(十四歳女・十二歳男)
畫伯御左右
八八九 【四月九日・端書 東京市外代々木山谷三一六より 信濃國下水内郡常磐村小學校 山本武雄氏宛】
未だ東京にぐづ/\してゐます二三日中に歸國今度は久しく出京せぬつもりです今毎日圖書館通ひです茂吉君の軸物も送らずにおき申譯ありません只今小包で御送します御うけ取りの返事は下諏訪の方へ願ひます歌は出來ませんか宮崎氏の生徒の歌につき同氏へ返事上げたくてそのひまなし御序によろしく願ひますアララギ廣告童謠集を御知人に御吹聽願ひます 四月九日
(500) 八九〇 【四月十五日・端書 下諏訪町高木より 上諏訪町末廣町 森山藤一氏宛】
昨日は御厄介樣難有奉存候又一つ願上候それは讀賣新聞四月十三日の廣告に赤彦童謠集出で居り可申一葉御貸し被下候はゞ難有存候拜見の上御返却可申上候御見付かり不能ならばよろしく候匆々
長塚全集いよ/\著手御助力願上候 四月十五日朝
八九一 【四月十六日・端書 信濃下諏訪町より 東京市外上目黒五八五 平福百穗氏宛】
拜呈今朝童謠集到著口繪實に非常のものにて是れ丈けにて書物の引立つこと莫大に候森田さんの箱表紙も大したもの誠に皆小生には過ぎものにて恐縮と感銘に堪へず存候川上氏も地味にて心持よく喜しく存じ候内容皆相添はず殊に惡いもの二三あり恥入申候匆々 四月十六日夜
八九二 【四月十八日・端書 信濃下諏訪町高木より 東京市外西巣鴨宮仲二二四三 武田祐吉氏宛】
又々御願申上候徳川時代國語國文學史といふやうなもの有之候はゞ御教示に預り度若し無之候はゞ一般國學國文史にて徳川時代を可なり詳しく説きしもの御教へ下され度願上候金子元臣氏著柿本人麿歌集は明治書院に品切に候有り場所御存知ならば御教示願上候いつも御厄介樣恐入候匆々 四月十八日
有り場所は圖書館名にてもよろしく候
八九三 【五月三日・端書 信濃下諏訪町より 東京代々木山谷三一六アララギ發行所 藤澤實氏宛】
只今土田君へ端書出したが思ひついて此ハガキ書く此間は御手紙有難し今月の貴詠猶洗練を要す文章今一つ二つ(501)欲しい○阿部次郎氏五月七日午前九時半東京驛出立につき東京驛にてアララギを代表して見送つてくれ給へ小生の名刺をさし出してくれ給へ猶時間は前日頃岩波氏に聞合せて今一度確め給へ右願上候當地櫟の芽ひらき心地よし 五月三日
八九四 【五月九日・端書 信濃下諏訪町高木より 東京市外代々木山谷三一六 土田耕平・藤澤古實氏宛】
拜啓一昨日よりみを子發熱三十九度以上持續昨日受診せしに流行病の惧れあり且腎臟病併發の惧れもあり平熱に入りても三週間靜臥を要すとの事依て上京當分止め申候十日集りし人の原稿及選歌こちらへ御送り下され度十三日中に小生より發送可仕候此ハガキ著次第選歌の方を御送被下度候金鈴社も佛らん西の畫も見られず殘念に候夫れから畫伯へ行き金鈴社出品作をアララギ六月號の口繪とし且つ畫伯よりそれにつき一文書きて頂くやう御願ひ下され度すべて畫伯の御さし圖に從ひ御取計被下度候小生よりは「左千夫の歌」つづきと歌とカツトの下を送り可申候倉持氏の事解決安心いたし候十日に來會の人によろしく願上候匆々 大正十一年五月九日
君一つ文章書いてくれ給へ
八九五 【五月九日・封書 信濃下諏訪町より 東京市外代々木山谷三一六アララギ發行所 土田耕平・藤澤古實氏宛】
岩波氏より寺田寅彦氏につきての返事來り候はゞ當方へ御廻送願上候
拜啓みを子の病氣は猩紅熱らしく正式に屆出れば避病舍へ行かねばならぬかも知れず只今經過を見て居り候此病氣は腎臟と心臟を警戒する必要あり妻とかはる/”\床に附添ひ居り傳染病ゆゑ他の子供も用心を要し少々閉口の體に候今日は熱いく分引きて八度臺に居り最高卅八度七分食慾も少し出で候順潮の經過を祈居り候要するに餘病さへ出ねば大丈夫に有之餘病も大抵出さずに濟ますつもりにて努力致し居り候
(502)斯の如くに候へばもし選歌一切をやり了せざる場合も可有之と存候これもそんな事にせぬつもりに候へ共事情豫め御承知被下度候次に過日御送願ひし金子橋本君よりの印税にて御返し申上るつもりの處出費驛多くなり來り候ゆゑ再版の時の印税にて御返し申上るやう御承知被下度候再版も近々の由同氏より申來り候へばその時の事に願上候初版のは直接同氏より小生へ送りくるゝやう昨日御願申出で置候御ハガキ等へは病名御書きなきやぅ顧上候匆々 五月九日夜 俊彦
畫伯口畫及文章先便の通り御願下され候歌も出して下さるやう御すゝめ被下度候
兩兄侍史
〇病氣快復次第兎に角一寸上京可仕候
八九六 【五月十五日・端書 信濃下諏訪町より 東京市外代々木山谷三一六アララギ内 土田耕平・藤澤古實氏宛】
今日あたりが岐れ路になると思ふ故一心不亂看護してゐる色々にて昨日振替の事御慣難有存候あと知らせる匆々
畫伯にも時々御知せ願上候手紙は出さぬ 五月十五日
八九七 【五月十七日・封書 高木より 上諏訪町 伴鎌吉氏宛】
廢啓連日の御來診に預り御高志深謝の至奉存候今夜睡眠多けれども今迄よりも疲勞の状あり且兩脚を動かす事殆ど不自由の有樣にて困難仕候明日の御來診奉待上候恐入候へ共何卒御願申上候匆々
熱 脈膊 便
五月十六日
午前九時 三十八度 大便一囘 小便四囘 小便 一,八七 換算五六一グラム 外(503)漏推定四・五グラム
五月十七日 午前二時 八十位 午前零時十分 小便四分五厘(外漏推定一分五厘ヲ含ム)
午前四時二十分 八十四位
脚の運動の痛みと咳の苦痛を訴ふること甚しく暫く安眠に入る状態の間は檢温器挿入も濕布も控ふる有樣にて今朝に至り申候脚の連動不自由は何の故にやと思ひ居り候疲勞も可なり來り居り候今日は成るべく早く御來診相願度恐縮の至に候へ共奉願上候
五月十七日朝四時十分再書
別瓶檢尿願上候小便も脚不自由のため便器意の如くならず外漏の場合多く今朝は便器挿入も面倒かと存候
〇今朝六時三十八度一分に有之候 六時十五分記す
八九八 【五月十八日・封書 高木より 上諏訪町 伴鎌吉氏宛】
久保田みを
五月十七日 熱 便
午前六時 三八・一 小便合計五囘(外漏) 量相應多く前二日の六〇〇より多かりし事と存じ外漏につき數明ならず
三七・九(御來診の時)
午后二時 三七・六
午后六時十分 三八・一
夜 平靜
(504)五月十八日
午前一時 三六・五 午前三時 小便(外漏)
午前七時 三六・七
十七日食事 牛乳二合 卵二 カステラ三切 羊かん三切 夏みかん一
拜呈昨日不時御來診を願ひ恐入申居候御蔭樣にてあれよりすべて平靜に相成夜より熱引き候段感謝此事に存上候猶御迷惑樣乍ら今日御高來の程伏而奉願候敬具
八九九 【五月□日・端書 信濃下諏訪町高木より 東京市外代々木山谷三一六アララギ發行所 藤澤古實氏宛】
拜啓本郷三丁目裏(廣小路ヘ向ツテ小半町モ行キ左ノ小路ニ入レバ直グ分ル)(加賀樣屋敷の近傍なり)藤村の羊羹を三圓から五圓まで適宜に小包に造りもらひ信州上諏訪町上町伴鎌吉樣苑にて出して下さい差出人代々木山谷三一六久保田俊彦として下さい藤村で小包に作りくるるゆゑ筆を借りて店で書き近くの郵便局で出せば早い大邊御厄介と思ふが何卒願上候金は發行所より臨時出してもらつてくれ給へみを子段々順を取り餘病も出ずにすむかと思ふ御心配なく願上候今日平均八度二分位でゐる土田君によろしく選歌稿正に著いたし候匆々
宇野君から文章行くかも知れぬ
九〇〇 【五月二十一日・端書 信濃下諏訪町より 東京市外代々木山谷三一六アララギ内 土田耕平・藤澤實氏宛】
拜啓臀部切開後經過よく昨日より卅六度臺の熱に候間今一週間も寢て居れば餘病も全く心配なかるべく御安心被下度匆々 五月二十一日
岡中村二君歌ありしか古泉君は如何○新聞へ要目通知の事○此ハガキアルコール消毒○岩波氏へは見舞状出せり
(505) 九〇一 【五月二十四日・端書 下諏訪町より 上諏訪小學校 森山藤一氏宛】
拜啓子ども病氣のため今月は遂上京見合せ居り候もはや全快御安心被下度候
彫り方は太い所は丸ぼりに願度細い所はやげん彫りより致し方なきものかと存候その邊よろしく守屋君へ御話し願上候とに角出來るだけは深い方よろしくそれも字の大さにより程度あるべく存候右御返事のみ申上候匆々
九〇二 【五月二十六日・端書 信濃下諏訪町より 東京市外代々木山谷三一六アララギ内 土田耕平・藤澤實氏宛】
拜呈一昨夜入浴せしめ昨日室内消毒青天白日になり候間御安心被下度候三つの餘病何れも本物にせざりし事天幸と存候校正最中のよし萬事願上候匆々 五月廿六日 畫伯岡諸氏へは小生よりハガキ出し申候
九〇三 【六月九日・端書 信濃下諏訪町より 大阪市東區北久太郎町二丁目八代商店方 岡田眞氏宛】
拜啓過般は民謠詳しく御知らせ下され御厚志奉深謝候子供病氣のため御返事も申上けざりし事と存じ恐縮奉存候乍遲延御禮申述候匆々 六月九日
九〇四 【六月九日・端書 下諏訪町より 諏訪郡富士見村 名取健郎氏宛】
除幕式は何日にするかアララギヘ書くに入用ゆゑ十四日頃迄に東京へ御知らせ下され度候
小生は十五日以後ならば何日にてもよく候(七月の事) 六月九日
九〇五 【六月十二日・封書 下諏訪町より 東京市外代々木山谷三一六より 信濃上伊那郡伊那町九〇一 松澤平一氏宛】
(506)拜啓御病氣なされ候よし承り御案じ申上候數日前藤森君より承ればよほど御快復なされ候よし欣喜の至奉存候御攝養專専一になされ候樣呉々祈上候今年は宮田問題やら何やら御苦心多く剰へ御病臥なされ候御心中深く御察申上候何事も天地自然の力に御倚藉成され候はゞ御心も安まり可申と奉存上候
別封菓子粗品に候へ共御病閑の徒然に御笑味下され候はゞ幸甚存候匆々 六月十二日 俊生
松澤大兄侍史
九〇六 【六月十四日・端書 東京市外代々木山谷三一六より 信濃諏訪郡豐平村下古田 田中周三氏宛】
拜啓過日は左翁の歌のハガキ寫眞御惠送下され難有存上候あのハガキの年月日分り居り候はゞ至急土田耕平君あて御知せ下され度願上候歌近頃御べん強進境著しとて土田君喜び話し候御努力祈上候匆々 六月十四日
九〇七 【六月二十三日・端書 信濃下諏訪町より 東京市外大久保百人町一二一桂方 美作小一郎氏宛】
御病臥のよし御大切に被成候やう祈上侯此夏すつかり體を作り給へそして精力をこめて歌をつくり給へ來月御不在ならば當分御目に懸られず御令兄及び熊本諸君によろしく御傳へ被下度候匆々 六月二十三日
六月號大久保日吐男氏の歌大へんよし
九〇八 【六月二十三日・封書 信濃下諏訪町高木より アウストリア・ウヰン 齋藤茂吉氏宛】
君の原稿何か來るかと首を伸して待つ歌あれば尤も有難し
拜啓手紙を怠けて申譯ないこちらは梅雨期なれど一向雨なしから梅雨也君の不二見に來し頃が又來たあの頃の昔を思ひ出しアララギに一筆書いたあれは小生の衷心ゆゑ惡しからず願ふその時の歌は中央公論へ出した一册送る(507)(今月末に出る)この歌甚だまづい
アララギ六月號へ小生等の仲間一人も歌なし非常に殘念也今の處小生一番べん強してゐるやう也歌はまづい五月殆ど一ケ月みを子(二女十四才)に猩紅熱に病まれ餘病も三つ計り出さうにて晝夜看護しまひには小生の目が腫れて裏山の木の葉が見えぬまでになつた幸餘病一つも物にならずして全治そのため六月號は選歌まで休んでしまつた古泉は數日前發行所へ來て久振りに歌合評まで書いてくれたさうすると大に歡しい來月は歌をきつと出す約束也中村は新聞忙しいさうだ何度言つてやつても歌なし土屋は松本女學校へ行き久しく歌なし岡さんも歌なし作る作ると申居らる來月は必あるだらう石原さんの靉日評是非送つてくれ給へ青杉も何卒願ふ石原さんへ洋行をすすめるよし(東北大學より)是は大によし岩波氏より間接に申込まるるかも知れず原は今東京新宿の某病院に居るよし也もうそろ/\イヤになつてゐるとの事を畫伯を經て聞けり畫伯の法然上人大へんよかりし由小生子ども病気にて上京せず拜見せずして殘念也畫伯に胃の痛みありとて少々心配して居らるるやう也ヘソのあたりを押すと少しづつ痛くレントゲンの寫眞は(幽門の口近く僅か少し)デコボコあるよし佐藤外科諸君より猶よく見て頂きその模樣では佐藤先生より見て頂くと申居らる大したことなからむと思ふ(五月はじめ頃よりか?)御意見あらば御申遣しを冀ふ
田邊さんも阿部さんも林久男さんも獨逸に居るゆゑ君は逢ひ得るであらう逢つたら宜しく御傳へを願ふ發行所土田藤澤二人居り何れも丈夫且熱心也此頃年若き人々の方熱心なるは元老の老いたる歟少々用心を要す年若き人々早くよき氣にさへならねばずん/\進むべし元老等はこれから向うが一生の岐れ目なりと心得べき也釋さんはどうも具合惡し先年合評以來殆ど融和し來らず今は小生も多く口を出さずに居るあの合評の態度惡しとて由利より原稿手紙等を送ること頻々也これは大へん面白い事也これはとても雜誌へ出されず(反對するものを退ける意にあらず)由利には閉口也アララギに分れて他の雜誌で盛に言論を吐き給へと申置けり折口君は今白鳥といふ雜誌(508)を出し堂々たる雜誌となれりこれをアララギ發行所以外の同人へは送らぬよし岡氏よりも話ありこれも困るなり(阿部さんなどへは雜誌行き居るよし)中村は今年一年うんと勉強して來年早々歌集出すやう君よりもすゝめて下され度し長塚全集は小生纒める事にせり赤光評も入れてよしと思ふ如何書簡の君に宛てしもの君留守にて分らぬかも知れぬ兎に角來月御伺ひして願ふつもり御令閨へ思ひ乍ら御無沙汰申譯なし雜誌は御尊父宛にては出し居りしよし今月よりは令閨の名宛にて出すやう申置けり全集の事は順次郎樣とも再度打合せたり春陽堂より出す事に決めし由也印税は全部順次郎樣に渡すやう春陽堂へも順次郎樣へも申置けり小生に苦労料下さるならば順次郎樣より印税の一二割を頂くつもり也その方ハツキリしてゐてよしアララギ會計近來よし紙代減り賣上け多く且土田萬事引しめてくるゝため也今千七百部也秋より二千でもいゝかも知れぬ今は殘本は殆どなき姿也(以前に比して)君の健康如何御注意を祈る匆々 六月二十三日高木にて 俊彦
茂吉大兄臺下
九〇九 【六月二十六日・封書 信濃下諏訪町より 東京市外代々木山谷三一六アララギ發行所 土田耕平・藤澤古實氏宛】
一、由利氏會費殘額アラバ(六月以後)返送シ給ぺ 一、由利氏に對シテ取リシ順序大體古泉岡平福三氏ニ御話シ下サイコレハ矢張必要也 一、君等モ月ニ一囘位岡古泉平福氏等ヲ訪問シ給ヘ先方デモ一囘位ハ來テ下サルニ對シテ禮也 一、工藝史大切御保存ヲ乞フ 一、昨日ヨリ雨フリ農家蘇生ノ思アリ 一、古實徴兵如何 六月二十六日 俊生
二者
小生歌訂正間に合ひしか
(509) 九一〇 【六月二十九日・端書 信濃國下諏訪町より 磐城國田村郡要田村荒和田 遠藤時雄氏宛】
拜啓民謠御知せ下され御厚意難有存上候「落ちる木の葉の下に住む」の如き佳品あり喜しく存候猶此他御心付も候はゞ何時にても御ひまの節御教へ下され度奉願候取あへす御禮のみ申上候匆々 六月二十九日
九一一 【六月三十日・端書 信州下諏訪町より 東京市外代々木山谷三一六アララギ發行所 藤澤古實氏宛】
甲種合格は豫想通り也矢張卒業後入營の方よからずや土田君とも相談し給へ畫伯の御意見を伺ふもよし小生八九日小諸へ行くかも知れずさうすれば十日朝までに上京する(十日面會日を延すこと確定のつもりで話し合ひはせなかつたと記憶す)それが定まれば五六日迄に通知するゆゑ十人許りに通知出して下さい 六月卅日
由利に會費返したかアララギ守屋君のは病院へ送り給へ再訂正間に合はず刷つた後ならどうも仕方ない
九一二 【七月十日・端書 東京代々木山谷三一六より 墺太利維也納 齋藤茂吉氏宛】
昨日上京して鴎外先生重態を聞き御宅へ參上すれば已に逝去せらる明治の偉才斯の如くして次ぎ/\に逝く未だ誰にも逢はず明日畫伯へ參上すべし胃の具合其後よしとの便りなり貴君の御攝養を已る匆々 七月十日
九一三 【七月十一日・封書 東京市外代々木山谷三一六より 信濃諏訪郡富士見村原ノ茶屋 名取健郎氏宛】
拜呈過日は丁度よき所にて御逢ひいたし候東京より四五人行くらしく確定次第御知せ可申上候事によれば平福岡二氏も行かるゝかも知れずこれも確定次第御知せ可申上候次に昨年齋藤君御厄介になりし名取君御宅を此夏土田君拜借致し度やう今日話し合ひ申候もし昨年齋藤君の御厄介になりしやうにして今年御厄介になり得ば尤も難有(510)奉存候此事名取御主人に直接に御願可申上なれども貴兄を介して右御都合御伺ひ申上度何卒御厄介樣奉願候而して御承諾を得ば十三日か十四日に貴方到著にて參り申度此儀電報にて御返事下され度願上候あまり急の事にて恐入申候匆々 七月十一日 久保田生
名取健郎兄侍史
電報料同封致しおき候
九一四 【七月十四日・端書 東京市外代々木山谷三一六より 信濃上諏訪町桑原町飯田太金治方 登内保雄氏宛】
貴君のは數多くて多く取れない一首へ心を集中する御工夫を望むさうすると數は自然に減る土田君等一月苦しんで三四首纒める態度を學び給へ 七月十四日
九一五 【七月十七日・封書 下諏訪町より 諏訪郡富士見村原ノ茶屋 小池晴豐・丸山爲之助・名取健郎・名取才吉氏宛】
拜啓今囘は非常に御厄介樣相成殊に東京より多人數來り餘計に御世話樣相かけ恐入申候右深く御禮申上候
あの費用中へ少々差出し候もの以外は石碑の會より出すが正當と存候諸君が自腹を切るべき性質のものにあらずその區別は立てて宜しと存候遺族へ贈呈のもの減りても苦しからずと存じ候此事畫伯と話し合ひ小生より申上候御禮旁右申上度如此に候匆々 七月十七日 久保田生
小池兄丸山兄(失禮々々)名取兄名取兄
九一六 【七月二十五日・封書 東京市外代々木山谷三一六より 信濃上伊那郡箕輪村上棚 藤澤作之助氏宛】
拜啓炎暑の候益々御清榮奉賀候平素御無沙汰のみ致し居り候陳れば別封實君宛て書状さし出し候同君山より御歸り(511)まで御保存下され度願上候皆々樣によろしく願上候匆々 七月二十五日
九一七 【八月二日・端書 東京市外代々木山谷三一六より 羽後國本莊町中堅町 大和資雄氏宛】
拜啓御手紙國もとより廻送し來り只今拜見四月より御在京のよし少しも知らずに居り候九月は是非御光來下され度小生七八九日頃より十一二日まで居り可申候久し振り御面談いたし度存じ候御書面により只今御歌拜見大體よろしと存候つづけて御勉強祈上候君には君の特長あるゆゑ必或ものに到達させる意氣込あらんを祈り候萬々拜眉を樂しみ候匆々 御結婚大賀奥さんによろしく 八月二日
九一八 【八月七日・端書 信州下諏訪町より 東京市外代々木山谷三一六アララギ發行所 藤澤實氏宛】
畫伯男子出生めでたしく君歸京したら祝旁々歸京を知せ置き給へ九日頃房州へ行かれるらしい君歸京したら二三人招いて夕飯でも共にし山岳談をし給へ守屋君によろしく守屋君六日診斷如何心にかゝる 八月七日
九一九 【八月十日・端書 東京市外代々木山谷三一六より アララギ會員宛】
拜啓益々御清昌奉賀候陳ば今囘古今書院より「萬葉集燈」出版相成候事アララギ八月號にて御承知の御事と存じ候萬葉集叢書刊行のことは先年萬葉集檜嬬手出版に引續きアララギ發行所にて企劃せし所なれど力足らずして今日に及び候次第にて今囘古今書院にて右刊行を決意せしは殆ど利害の打算を度外に置きし所に有之アララギ會員の特に御聲援あらんことを希望仕候古今書院主人の恃む所も主としてこゝにあるべくと存じ候其模樣にては刊行部數の加減を要すべくと存じ候就ては貴下御購讀の有無御手數乍ら一應お知らせ下され候はば有難く存じ候會員購讀數を取纒めて書院の參照に資し度存じ候猶御購讀送金はアララギ發行所振替へ御振込み苦しからず直に書院(512)に送本せしめ候樣話し合ひ置き候右御依頼まで申上候
追て當所にて手數料等を受くるものに無之念の爲め申添候猶發賣は九月上旬となり申すべく候へども御囘答は成るべく至急に願度是亦念の爲め申添候 大正十一年八月十日
九二〇 【八月十一日・端書 下諏訪町高木より 諏訪郡富士見村原ノ茶屋 名取健郎氏外諸兄宛】
拜啓歌碑歌會の歌及びアララギに出すべき報告書至急表記小生方へ御送下され度遲くも十五日迄に小生の手に入り候やう願上候然らざれば九月號に間に合はず候今月は東京無人ゆゑ小生方にて大體順序つくりて東京へ送るべく候猶石摺の際遺族、岡、平福、齋藤、古泉、中村の外今一枚望み人あり餘計に願上候 八月十一日
九二一 【八月十三日・端書 下諏訪町高木より 諏訪郡泉野小學校 北澤正吉氏宛】
拜啓十六日は上スハ一番(六時二十分頃)發にて參上可仕候馬は御都合次第何れにてもよろしく候決して強ひて御都合に及ばず候若し雨天ならば却りて馬無き方よろしく候何れにせよ十時頃は貴校へ到着可仕候匆々 八月十三日
九二二 【八月十四日・端書 信濃下諏訪町より 東京市外代々木山谷三一六アララギ發行所 藤澤實氏宛】
守屋君は今朝上スワヘ著いたかと思ふ色々御厄介になりました燈の往復ハガキを寄贈名簿の中左の人だけへ出して下さい(ハガキの殘あらば)矢崎幸貞、今井邦子、内本浩亮、手塚縫藏、その他の人へ出す方よしと思ふ人あらば一寸小生に聞き合せた後にしてくれ給へ諏訪も旱魃で井水の盡きる所もあり小生の井戸賑ふ昨夜少し夕立ありて土しめれり 八月十四日
(513) 九二三 【八月廿三日・封書 信濃下諏訪町より 東京市外澁谷五二七 羽生永明氏宛】
拜啓御子息樣御儀久しく御心を摧かれ御手を盡され候甲斐もなく御長逝被成候趣拜承悲傷の至奉存候天命如何ともすべからずと雖も骨肉の情は理智の力にて抑ふべくもあらず御衷情只々拜察に餘り候
早速參堂御悔み申上度存じ候へ共遠隔に有之何れ來月上京の時を期し可申取敢へず乍略儀以書中深く哀悼の微衷を表し候敬具 八月二十三日
羽生永明樣侍史
九二四 【八月廿三日・端書 信濃下諏訪町より 東京市外代々木山谷三一六アララギ發行所 藤澤實氏宛】
本文最終一頁の原稿と小生の歌の訂正(三首分)を送る編輯便のうち大龍寺行市内電車の下車迄を御訂正願ふそれから十七圓寄送の木村(?)氏は齋藤の友人醫學博士にて仙臺在任の人なり慥か呉博士の聟さんなりと思ふ寄贈名簿を見て御記入願ふ齋藤より來信元氣のよし畫伯は千葉縣君津郡富津町富津館方なりたまに手紙出し給へ色々願ふ小生今日頃から腹工合恢復すべし頭は未だ少し病む心配なし
其二
ソレカラM30振替でも何でも送つてくれ給へどうしても過されない何卒願ふ高田一晩發行所へ泊りしならん
秦皮詩社へ燈の廣告未だ送らずば送つて下さい(送つたか覺えがない)依頼はしてある 八月二十三日
九二五 【八月二十五日・端書 下諏訪町高木より 諏訪郡境村小學校 山田茂保氏宛】
拜啓御蒐集材料態々御示し被下難有存上候暫く拜借奉願候境村地方のもの御蒐集のよし必有益なるべく存じ候可(514)成故老にも御たゞし可然存上候子どものみに關せず一般民謠によきもの可有之存じ候御禮旁匆々 八日廿五日
九二六 【八月廿九日・端書 下諏訪町より 諏訪郡泉野村小學校 諸先生宛】
拜啓「油とろ/\しんとろとろと……」の民謠下の句御存知に候はゞ御高示相願度御厄介樣乍ら0御依頼申上候成るべく早い方よろしく候 八月二十九日 過日は失禮仕候北澤兄よりの御懇書恐縮拜讀仕候
九二七 【八月三十日・封書 信濃下諏訪町高木より 東京市外西巣鴨宮仲二二四三 武田祐吉氏宛】
拜啓今年の暑気異常殘暑猶凌ぎ難く候處御起居如何被爲在候哉伺上候小生幸無事碌々罷在候間御安心下され度候陳ば毎々の事にて恐入候へ共左件又々御高教相仰ぎ申度御手數乍ら奉願上候
一、仙覺本(文永本)寫本の所在京都大學もその一と拜承仕候
一、下河邊長流の萬葉に關する著書ありや御返事はハガキにて宜敷何卒願上候匆々 八月三十日 俊生
武田仁兄臺下
九二八 【九月五日・端書 下諏訪町より 東筑摩郡洗馬村蘆ノ田熊谷方 藤井侃一郎氏宛】
拜啓數日間御邪ませしのみならず色々御世話樣相成御厚意奉深謝候御宅おばさんへよろしく御傳言願上候猶久保君その他諸君へ貴兄よりよろしく願上候匆々 九月五日
九二九 【九月五日・端書 下諏訪町より 東筑摩郡洗馬村小學校内 東筑摩西南部教育支會宛】
拜啓數日の間色々御厄介樣相成奉謝上候御爲にならず申譯無之存じ候匆々 九月五日
(515) 九三〇 【九月六日・端書 信濃下諏訪町より 大牟田市不知火町三井三池鑛業所合宿所 齋藤次郎氏宛】
御壯健に候哉當地大分凉しくなり申候時々御便り下され候處小生失禮致し居り申譯無之候歌毎月御送下され度候匆々 玄女節難有御禮申上候 九月六日
九三一 【九月六日・端書 信濃下諏訪町高木より 東京芝區白金三光町五三八 辻村直氏宛】
御旅先より度々御便り下され難有存上候小生一昨夜松本平より歸り申候萬事十日面會日を樂しみ候過日一寸御願申置候沼津借室の事御心當りの方も候はゞ御周旋願上候小さい家ならば一軒借りてもよろしく然らざれば二室位借りればよろしく只、今迄病人居りし家を避け申度此點よく御申遣し願上候こちらは肺病にては無之候右何分御配慮願奉り候萬事十日を期し候御兩親樣御令室樣によろしく願上候十月終頃沼津へ參り度候匆々 九月六日
九三二 【九月九日・端書 市外代々木山谷三一八より 市外大島七ノ六二五山本保次方 伊藤とく氏宛】
拜啓殘暑の候益清榮の御儀と奉存上候小生無事御安心被下度候陳ば信州富士見公園に故先生の歌碑建立の報告書等御目に懸け申度來る十二日午前中に參上仕り度恐入候へ共御在宅如何御返事下され度奉願候萬拜芝を期し候匆々 當日御不都合ならば十一日にても十三日にてもよろしく御申遣し願上候 九月九日
九三三 【九月十一日・端書 代々木山谷より 相澤貫一氏宛】
拜啓昨夜は失禮仕候伊藤先生奥さんは芝區田町九ノ四谷口巳之助氏方に居るよし山本氏より返事あり右谷口氏へ行くには電車を何處で下り何う行くべきか速達便にて御教へ奉願候匆々 九月十一日朝
(516) 九三四 【九月十二日・端書 東京市外代々木山谷三一六より 信濃諏訪郡富士見村 名取健郎氏宛】
發起者各位へ貴君よりよろしく御傳達被下度候石摺費中へ少し御送申置候御落手と存候
今日左千夫先生未亡人を訪ね報告書と金員を御渡し申上候禮状印刷各寄附者に差出し可申候只先生御息女産後重患奥さん幼子を負ひ乍ら一人して看護の有樣發起者各位への御挨拶も少し後るゝかと存候御承知被下度候
御歌すゝきの穗の柔かさなどは體驗者でなければ言へぬ所にて面白存候直土もあれでよろしく候御手紙中禮に行く云々は同窓會の事かそれならば絶對に御斷り申上候そのため御光來御無用に存上候匆々 九月十二日
九三五 【九月十四日・端書 東京市外代々木山谷三一六より 信濃上水内郡三水村 宮本松雄氏宛】
御懇書拜見いたし候御示しの歌大體整ひ居りと存上候何れの道をとりてもよし御勉強御つづけ成さるやう祈上候雜誌九月號より四月號迭送仕候今日御手紙拜見致し候 九月十四日
九三六 【九月二十五日・封書 下諏訪町より 下水内郡常磐村小學校 山本武雄氏宛】
拜啓來月は十二三日に束京より歸り廿日頃(大體)より京都へ參り度それより奈良地方にて萬葉古跡を歩き十一月はじめ頃迄には歸國のつもりに候貴方へは十月十七八日頃までか然らざれば十一月中旬頃にいたし度若し十月中に參るとすれば期日より十日位前に豫定分り候樣相願度存じ候それから萬葉は伺處から講義するのか忘れ居り候間是亦御知せ願上候猶御都合によりては日は一日や二日はどちらへ寄りても不都合無之京都の方は萬葉筆寫に行くなれば一二日を爭ふには無之候以上事情御考慮の中に入れて日取等御定め願上候用事のみ匆々 九月二十五日 久保田生
(517) 山本兄侍史
九三七 【九月三十日・端書 信濃下諏訪町より 東京市外代々木山谷三一六アララギ内 土田耕平・藤澤實氏宛】
同人寄合語
秀眞を訪ふ(連作) (明治卅二年子規)齋藤茂吉著子規選集三十八頁參照
わが口を觸れしうつはは湯をかけて灰すりつけてみがきたぶべし
右に對する意見〆切十月十五日これを諸同人へ御知せ願上候匆々 小生の歌の合評やれば猶いゝ
東京市役所社會教育課から市民歌及童謠審査につき通知あらば直ぐ御知せ願ふもし市役所へ會合等の事あらば兎に角電報にて御知せ願上候 九月三十日
九三八 【十月一日・封書 信濃下諏訪町より 東京市外上目黒五八五 平福百穗氏宛】
中村君とは京都行の節逢ひ可申候
灰啓中村君よりの手紙御目に懸け候痛ましき心地にて讀み申候人間の行路も恐ろしきものに候博士も惡縁に遇ひて斯樣な道に入れば再び出ること難し齋藤君非常に健康にて血色よしと伊藤長七君より知せ來り候二人連名伯林よりハガキ昨日來り候中村の歌集今年中に纒め申度候それと共に歌に油が乘るやう祈り候
貴臺の歌集も來年は是非御出し被下度これは已に必要熟し居り候纒めることは大體を小生等に御やらせ下されて宜しと存候切に願上候岡さんのも同樣に存じ候纒める事は小生等當り可申候
發行所土田藤澤別居説を申來り候(喧嘩にてはなく候)必しも不可なけれど一通小生異見申遣し候費臺へ御話しに參上すると申來り候參上したら御考へ御申聞け願奉り候皆々樣御別條も御座なく被爲入候哉小宅皆元氣に候可(518)なり寒くなり子供はもう炬燵かけろなど申出で居り候霜が二度來たらかけると申居る次第に候高い山には皆雪見え候立川へ御滯在に候はば一寸御知せ願上候御令閨樣に宜しく願上候匆々 十月一日 俊生
畫伯臺下
文士賭博事件久米正雄ノ辯明苦笑ノ至ニ候
九三九 【十月六日・端書 下諏訪町高木より 豐平村下古田 塚原葦穗氏宛】
拜啓秋冷相成候皆々樣御起居如何に候か小宅一同壯健御安心下され度候母上樣御ひまを御覽にて御光來下され候樣待上候十月は博らん會ありきみい樣子どもを引つれて御光來下され度母上樣は博らん會か秋休みか何れにしても御くり合せ下され度候匆々 十月六日
今朝宮川學校へ手紙出し申候(生徒の事にて)
九四〇 【十月二十一日・繪端書 京都市黒谷瑞泉院より 信濃下諏訪町高木 久保田不二氏宛】
コノヱハガキハ餘リヨクナイマツト松ノ茂ツタ山下ノ方ヲトツテナイノラ惜シム今小包少シ送ル大ヘン値ガ安イユヱ思ヒ付イテオクルコレハ京都ノ山ノ産也四ツ辻デ立チ賣リシテヰルノヲ買ツタ百目七十錢也今日卷一殆ド了ル明日ハ日曜ユヱ中村來ルデアラウ明日半日位見物スルダケ也アト朝カラ夕方マデ圖書館ナリ
健次周介等試驗前勉強ノコト萬葉菜ノコト頼ム 十月二十一日
九四一 【十月二十四日・端書 黒谷瑞泉院より 京都大學病院眼科 山根浩氏宛】
拜啓十九日より大學圖書館で新點本を寫してゐます諸君の御住所を知らず且ひまもないので何處へも御知せしま(519)せん黙つてゐるのも不本意と思ひ御ハガキ書きます夕方四時に圖書館を出てあとは表記に居ります御ひまならば御出かけ下さい小川福島諸君へは貴下より電話で御知せ願ひます早川氏にも濟まぬと思つてゐますが御住所を知りませんペン走り書き御容し願上ます朝も七時に起き八時半迄は宿に居ります朝でも夜でも小生は差支ありませんあまり多く知せぬやう願ひます 十月廿四日夜
九四二 【十月二十四日・端書 京都黒谷瑞泉院より 東京市外代々木山谷四〇一瓦林方 藤澤實氏宛】
仕事割合に捗つてゐます昨日から卷二へかゝりました一昨日は中村君と金閣寺嵐山を歩き暮しました廿八日頃から二人で大和巡りします只日柄が少いのを遺憾に思ひます私の住んでゐる僧院は熊谷蓮牲坊たちの修業した所に接してゐます松木立深し只朝夕木魚の音がするのみでひつそりしたものです平等院へは今度行かれない
九四三 【十月二十五日・繪端書 京都黒谷瑞泉院より 信濃下水内郡常磐村小學校 山本武雄氏宛】
御手紙轉送してこちらで拜見しました小生は今京都大學の圖書館へ通つてゐます廿八日一旦切り上げて奈良飛鳥地方を歩きますので歸國は十一月初めになりますそれから上京するのであるから迚も十一日十二日の會に間に合ひません十八十九日か猶それ後ならば都合しませう大へん不本意乍ら御承知下さい御知せは下スワの方へ願ひます御都合惡しくばずつと來年まで御延しになつては何うです十八九日或はそれ後ならば小生の方は都合つけます一年位拔いてもいゝではないかとも思ひますやるならば卷十四の東歌がいゝでせうこれも御知せ願ひます 十月二十五日夜
九四四 【十月三十一日・端書 奈良より中村憲吉氏と寄書 東京市外上目黒五八五 平福百穗・平福ます子氏宛】
(520)大和國三日間快晴清爽此上なし坂田金剛寺の山間にて中村君亡友高崎氏の塞を訪ね感慨少からずこの邊一帶に飛鳥朝の遺址らし山間の徑多きを面白く思ひ申候 十月三十一日
九四五 【十一月一日・繪端書 奈良より中村憲吉氏と寄書 東京市外代々木山谷四〇一瓦林方 藤澤實氏宛】
今日で三日大和國をめぐる中村君同道大へん有難かりき君の書いたもの大に役立てり有難う萬事御面晤匆々
大和國ハ柿ガウマイ女ガ甘イ
九四六 【十一月二日・端書 麹町區下六番町廿七より 近衛歩兵第三聯隊第三中隊 上原吉之助氏宛】
今貴兄の詠草拜見大へんい、少しの缺點はあるが大抵あれでいゝ忙しい中で出來るのは偉らい 十一月二日
九四七 【十一月三日・端書 信濃下諏訪町より 東京市外上目黒五八五 平福百穗氏宛】
昨夜歸宅仕候
拜啓中村君と三日大和巡りしたのは欽幸の至りに存候萬葉遺址も幾分分りし心地して喜しく存候法隆寺夢殿は奈良高等師範教授同道してくれ詳細に見せて下され忝く存じ居候三月堂も丁度拜見出來申候一體に奈良地方の自然は京都よりも伸び/\した廣さあり地相も素朴にて感じよく候只人間は甚しく淫靡の樣に存じ候アララギの御文章及歌昨夜拜見喜しく存上候小生等より會員に至るまで有益なるべく存じ上候
新年號へ御歌是非願上度存じ候國民新聞の文章痛快に存じ候皆々樣によろしく願上候 十一月三日
九四八 【十一月四日・端書 信濃下諏訪町より 山形縣西置賜郡長井村五十川 大道寺吉次氏宛】
(521)拜復貴詠追々澄み行く所有之喜しく存上候數を多くするより一首に集中するを先きとし一首に集中するよりも一心を集中することを先きにすべき事と存じ居候清澄の境はここより生れ來るべく存じ候御精進專要と存上候匆々 十一月四日
九四九 【十一月七日・端書 信濃下諏訪町より 大和國生駒郡伏見村疋田 上村孫作氏宛】
拜復小生旅行の事アララギにて御覽と存候あれは十月の事にて小生十月十八日より今月二日迄にて京都大和を巡り畢り申候不惡願上候會員諸君に御知せ申さゞりしは此旅行全く萬葉の研究に時間を費したるために候今後再三大和へ參る用事可有之その節御面晤を期し申候すべて御高諒願上候匆々
九五〇 【十一月九日・端書 信濃下諏訪町高木より 奈良市東笹鉾町 春日正治氏お子樣宛】
こちらにできるかりんとくるみをすこしばかりいまてつだうびんでおおくりいたしますおいしくはありませんかりんはじせつがおくれていいものがなくざんねんですにほひがいいからかいでみてくださいおとうさまおかあさまによろしくねがひますさよなら
おほのろ三吉
稻を刈るとて
手をきつた
そのきずを
なめて
(522) おさへて
ゆはへて
ながめて
日がくれた
あまり上等のうたではありませんおわらひぐさまでにかいたのです 十一月九日
春日政治楼お子さま
九五一 【十一月十日・端書 信濃下諏訪町より 東京市外瀧野川町五二一 高木今衛氏宛】
言海大謝々々昨九日正に拜受致し候小生風邪にて上京出來ず殘念に存じ候十七日終列車にて上京二三日在京可仕候歌ありますか新年からはズツト御つづけ被下度候御令閨御壯健に候か宜しく御傳言願上候匆々 十一月十日夜
九五二 【十一月十三日・端書 信濃下諏訪町より 東京市外代々木山谷三一六アララギ内 土田耕平・藤澤實氏宛】
御ハガキ拜見色々御厄介大謝々々小生今日は殆ど平熱らしい今少し我慢して寢て居た方よいと思つてゐるそろそろ二週間の風邪には閉口する元氣はいゝ
胡桃澤君からどんなこと言つてやつたか知らぬがさういふ原稿は成るべく出して置き給へ言ふべきことは君が更に書く方がいゝ小生は今迄この方針でやつて來た妙な反對説でも惡意のない限り出して愚見を書き添へて來た反對説を抹殺するは器局狹いことなり由利の如きものでも出來るだけ小生は出してゐた尤もあの程度では考へものなり談話らんは斯ういふことのために設けたるなりこれは胡桃澤君の事のみにて言ふにあらずすべてに亙りて言(523)つておく方よいと思ふなりこのハガキ藤澤と二人で見てくれ給へ
それから恐入るが小生夜具を乾し襟のカビを刷毛で撫でて見て下さい濟まぬが 十一月十二日夕
九五三 【十一月十三日・端書 信濃下諏訪町高木より 東京市外代々木山谷三一六アララギ内 土田耕平・藤澤實氏宛】
胡桃澤君ノ原稿ヲ見タ驚クニ足ラヌアノ邊ノ思想ガ可ナリ多イノデアルサウイフ思想ニ對シテ物言フニ絶好ノ材料ト機會デアル土田君一ツビシリト意見ヲ書キタマヘアレヲ出サヌト「困ツタカラ出サヌ」ト大抵ソンナ風ニ思フニ極ツテヰル文中或人ノ手紙引用非常ニ面白イ手紙ノ主ハ君等ニモ分ルデアラウ物言ツテオクニ非常ニ好機會ナリ去年以來歌評ノ度ニ歌ヲ出サヌ大人ガ殖エテヰルノハ半以上ハサウイフ思想ニ類似シテヰルデアラウ
小生未ダ寢テヰルドウモ長引クノハ變ダ十七日ハ何ウアツテモ行クツモリ也選歌明日ヨリ專門ニヤル
書クノハ敬語ヲ用ヒタマヘ先輩ニ物言フツモリデ書キタマヘコノハガキ藤澤君ニモ見セタマヘ
胡桃澤君原稿コノハガキト共ニ送ル 十一月十三日夜
九五四 【十一月十四日・封書 信濃下諏訪町高木より 秋田縣横手町富士見町平福方 平福百穗氏宛】
拜呈どうも失禮の至でありますがこんな紙に書きます御海容の程願上げます風邪一昨日頃より平熱なれど咳頻出今日もまだ床の中に居りますどうも京都奈良の疲れが出てゐるやうですそれゆゑ失禮乍らこんな紙へ書きますもう大體大丈夫です十七日はどうしても上京します選歌を明日明後日中に濟ませて自分の原稿も持つて出かけます東京は帝展だけ見てさつさと歸國のつもりです十二月御面晤を樂しみます自分のことばかり書いてゐますが久し振りの御歸國御母堂樣の御欣び如何計りと存じ上げます御壯健に入らせられ候哉宜しく御申上げ願上ます
杉浦の事でとんだ御迷惑かけて濟まぬことを致しましたあの後今度は胡桃澤君より十一月號歌評につき猛烈(?)(524)な師弟論のやうなものを土田藤澤に寄せて來て小生に轉送して來ました小生考ふるに是は絶好の機會と存じます今迄合評のたびに頬をふくらませて歌を寄せなくなつた大人がいく分多いその度にアララギに批評神聖論を書きたい位に思つて居りしも態とらしくて控へて居りました胡桃澤の原稿はこのまゝ出して土田のそれに對する意見をぴしりと書いておいた方がいゝと思ひます胡桃澤君の意見の中には某氏の手紙といふを多く引いてゐるので非常に面白いこれは勿論アララギに歌を出さぬ大人の側から出て居りますアララギには學問がないから自分を肥すことが出來ぬといふやうな種類の手紙ですどうも面白い小生も土田の驥尾に附け足す考へで胡桃澤の意見につき多少物を言ひ且つ土田等の評に對する愚見をも加へて十五枚の原稿を昨日今日に書き上げました十二月號は多少奇觀を呈するだらうと思ひます
發行所に居れば色々の異見抗議の來ること承知して居らねばなりません土田も杉浦には叱られ釋由利諸氏には惡しざまに思はれ胡桃澤君には異見を申し立てられ(小生は勿論の事)皆藥になりますずん/\反駁することもやつて見る方爲めになります十二月はどうしても編輯會を開きたく思ひます併し實際に於て折口古泉二君は遂に駄目でせう中村君にも言つてやりました發行所でもよけれど白田舍拜借出來れば猶有難く存じます何れで開くにしても貴臺の御出席は是非相煩し度存じ上げます何うぞ願ひますそれから序を以て申上げますが新年號の表紙新年號の文章及歌を何卒御用意願上げます畫は毎年のことで誠に恐入りますが例により御心配願上げます何れ御歸京の頃土田君參上期日等のこと御願中上げます畫題は適宜に願上ます
愚娘は色々考へ込んで困入りましてその結果遂奈良女子高等師範なら入つてもいゝと許しました外の學校へは必入れぬと約束して許しましたこゝが一番經費も入らずして比較的確實のやうです尤もここは女學校順位總員の十分ノ一以上に居らねばならず學校より縣へ推せんし縣で選拔して本校へ行き本校で六七人中から一人位の割に取るさうです愚娘は學校で推せんし縣も通過して此頃本校へ行きし由なれど勿論だめと思ひます本人もそのつもり(525)で居ります小生としては出過ぎた事なれど如何とも致し方なくこの事先月御話し出來ず今月御話申上度かりしも御面晤を得ず何れ詳しく申上けたく思ひます中村君とは今度話し合ひましたどうも致し方なく斯んなことになり殘念に存じます京都の三千院等遂行き得ず殘念に存じます帝展ハガキ度々有難く深く御禮申上げますこちらは紅葉が末方になつて小鳥が少しつつ庭に參ります收穫はスツカリ終りました
屋島山頂は第一句「山下に」の方よくありませんかいゝ御歌と存じますあと二つは完全でいゝと存じます
十一月十四日夜亂筆多謝 俊彦
畫伯臺下
九五五 【十一月十五日・端書 信濃下諏訪町高木より 東京市外代々木山谷四〇一瓦林方 藤澤實氏宛】
拜見崎山氏のよく見申すべく候小生大體よけれど咳多し床の中に居り候十七日は夜十時新宿へつくゆゑ君も發行所に居てくれ給へ久し振りで色々話したい奈良の事尤も話相手を欲す胡桃澤君の文章はあれは絶好の原稿なりああいふ思想に對して今迄態々でも一言云つておきたかつたのだからあれに對して君等か自分の態度アララギの態度を聲明しておくことは非常にいゝ機會が來たのであるあゝいふ原稿を見す/\見逃すとは何といふのろまさであらう小生も土田の次へ出すやう昨夜から一文書いた胡桃澤の事は要點のみ書いたそして君等の批評に對する愚見を成るべく詳しく書いた雜誌として實にいゝ材料である近來の愉快事である人から何か言はれることをイヤがつてはいけないズン/\反駁すればいゝのであるこの事土田へも連名で書いたが序が出來たから又重ねて書く小生に向つて書いた原稿なら小生一人でうんと書くこれは土田が書くべきなり 十一月十四日夕方
(第二便)平木大賀々々どうもあれはいゝまつ先きにアララギへ來た由十七日の夜平木も發行所へ來てゐるといゝ平木の番地を知らぬゆゑ君から小生の祝意を傳へてくれ給へ 十一月十四日夜
(526) 九五六 【十一月二十四日・封書 信濃下諏訪町高木より 東京市外上目黒五八五 平福百穗氏宛】
横手町よりの御ハガキ歸國して拜見難有存上候
拜啓そろ/\御歸京の頃かと存上候長き旅行御疲勞の御事と存上候小生二十日帝展拜見二十一日夜行にて歸國風邪スツカリよく湯に入り垢を落し心清々しく期成候御放心被下度候來月は初めより上京の要あり只今少しべん強いたし居り候扨小生萬葉研究も先年より並々ならぬ御庇護により多少の進捗を得候事心肝に透りて感謝罷在候只小生生來の疎懶にて雜用を交じへ幾分の成績をも擧げ得ず殘念の至奉存候今年末迄に卷一二位をまとめ御高覽に供するつもりにて此程までもそのつもりに致し居り候處如何にしても今三四ケ月を要し事によれば來年半ばに至るかと思はれ申候就ては毎年の御厚志も際限なき事に有之此際御辭退申上べき儀と存じ候處右樣の次第に有之甚以て厚顔を絶し候感有之候へ共此處三四ケ月の御援助を賜り候はゞ小生安堵の心にて事に従ひ得べきかと存じ圖々しき御願に有之且つ御厚志に甘ゆるに類するかと存じ幾度も思案いたし候へ共思ひきりて願意貴兄に達し候次第に有之候小宅只今月々の經費何うしても百數十圓を要し此内小生毎月の定收入六七十圓有之(朝日現代童話恩給等)これに年々一二の小著收入有之年々の御補助と共に生活持續の有樣に有之來年も秋頃は歌集を出し第二童謠集も出し可申後半は生活に困難無之かと存じ候依て此際御願申上候額も精々一二百圓の事と御承知下され度是も此際必要と申すに無之來年に入り時々必要に應じて御願出來候はゞ難有仕合せと存上候いつも年末御配慮下され候ゆゑ前以て申上る方宜しと存じ只今より右事情開陳いたし候次第御了承願上候何れ御目に懸り委細御願申上度存じ候へ共以手紙状を陳じ申上候何卒奥樣へも貴臺より可然御傳達の程奉希上候御援助により微志を果し萬葉出版の機至り候事を衷心期待罷在候只喜んで頂けるやうなもの出來るか何うかを心中恐居り申候
○次にアララギへん輯會の事表紙畫裏畫御願の事何れも書面にて失禮に候へ共何卒御配慮奉願候御歸京の上は土(527)田參上御願申出づべく何卒御助力奉願上候編輯會は白田舍拜借尤も有難く候へ共發行所にてもよろしく土田と御話し合ひ奉願候日も大體十二月三日(日曜)がよきかと存じ候へ共九日(土曜)十日(日曜)にても差支なく存じ候何れにせよ必ず貴臺の御出席を煩し度存じ上候何卒願上候中村君へも日が決まり次第土田より知せる筈に候
〇子供の奈良高師入學は十中八九以上駄目に候全府縣より推薦八人中一人取る割合に候とても駄目に候これも出過ぎたる事に有之候へ共事情如何とも致し方なく何れ御面晤を期し申度候萬々一入るを得れば小生如何にもして毎月かせぎ可申覺悟いたし居り候〇寒氣烈しく相成候御全家皆々樣御自愛專一に奉存候小家一同元氣に有之御安心下され度候匆々 十一月二十四日 俊彦
平福畫伯臺下
九五七 【十二月二十四日・封書 信濃下諏訪町高木より 東京府下滝野川町五二一 高木今衛氏宛】
拜啓大賀々々存じ上候御兩人樣益御壯健と存上候
圭一 (圭は玉也字形合シテ十一十一一トナル十一年十二月生ナリ)
朝一 朝吉 森太《モリタ》
森太郎《モリタラウ》 林太郎(鴎外ト同ジナレド構ヒマセン)
林藏
等の中にて御選擇如何に候か別に御考へにても勿論結構と存候猶御兩人樣共當分殊に御自愛御壯健被爲入候樣祈上候御祝旁右愚案申進候匆々 十二月二十四日 俊坐
高木君案下
御令閨によろしく御傳へ被下度し
(528) 九五八 【十二月二十五日・封書 下諏訪町高木より 中洲村神宮寺 笠原田鶴氏宛】
御手紙拜見常次郎樣御大切に成さるべく候指はさぞ難儀なりしならん大切にしてよく醫師に見するやう願上候マント古けれど當方の子供皆大きくなりて用ひられずお子どものうち誰かお使ひになれるかと思ひ進呈致し候失禮に候へ共御用ひ下され度候砂糖は指の御見舞なり寸志御受け下され度候忙しく亂筆匆々
御主人によろしく御傳へ願上候皆樣御自愛御きげんよく御年越され候樣願上候當方皆無事に候一殿槐殿その他正月遊びに御遣しあれ匆々 十二月二十五日
九五九 【十二月二十八日・封書 下諏訪町高木より 松本市附屬小學校 傳田精爾氏宛】
拜啓今囘は疎雜なる談話をいたし愉悦存上候種々御もてなしに預り恐入申候
停車場にて頂きし汽車賃は東京よりの往復金額らしく是は下諏訪よりのが至當と存じ候實は下諏訪より松本行片道が匂みありと思ひ居り歸宅後調べし所多額にて驚き候少くも貴君が松本より下諏訪迄御買ひ下されし事は重複に候是は何れ御返却可申上候へ共其他の東京下諏訪間往復分も御返却を至當と考へ申候一應貴見に達し置き候御意見も候はゞ御洩し願上候匆々 十二月廿八日 俊彦
傳田兄臺下
御機嫌克く御年越下され候樣祈上候小林君によろしく願上候
(529) 大正十二年
九六〇 【一月六日・端書 信濃下諏訪町高木より 東京市外上目黒五八五 平福百穗氏宛】
拜啓新年皆々樣御機嫌よく入らせられ候御事と存上候正月二日よりの寒さ非常にて白晝水氷り筆も持たれず候夫れでも例の袋状座ぶとんにて大に助かり幾分何か致し居候只輩持つ手の甲が一番冷え候これは指なしの手袋にて凌ぐことを昨日より試み居り候火鉢の炭を多くすれば頭痛くこれは閉口に候家内皆無事これを喜び過し居り候九日頃上京いたしたく思ひ居り候御令閨樣へよろしく御傳言願上候匆々 一月六日
御老母樣御丈夫に入らせられ候哉御自愛祈上候
二月號へ是非一文御惠み被下度願上候御歌も願上候表紙其他清新爽快存居候
九六一 【一月十五日・封書 信濃下諏訪町高木より 東京市外上目黒五八五 平福百穗氏宛】
拜啓今日は中央出版協會より態々此地迄來訪せられとんだ厄介をかけ申候見本八枚書きてさし出し申候全く貴臺の御紹介に依り候事と奉存候歌の相手は牧水に非ずして武鳥羽衣に候之は御歌所あたりへ出て居るかと存候この人を歌人と思ひ居らず候へ共協會の都合と存候妙な氣も致し候へ共餘り離れ居りて却つてよきかも知れず小生は構ひ申さざるべく候或は舊人二人新人二人の二組を作りて會員に何れをか指定希望せしむるも一方法と存じ候ひ(530)しも何も申さずに置き候文字各行の頭に高低をつけし方よしと申され高低なきものと高低有るものと二通り書きてさし出し候これは貴臺より是非御一覽御判別を願ひ度かりしも意に任せず慘念存候若し御序ありて同協會へ御出で等の事も候はば是非御判定相願度存じ候コロタイプにして新聞へ出すらしくさういふ事初めてなれば何れがよきかと恐しく存じ候小生は高低なきものゝ方が自然と思ひ候へ共世間の思はくもある事と存じ候大事件には無之候態々御出かけ下さるまじく候非常に御配慮相煩し候よし深謝の至奉存候只今原稿纒め中にて覽筆失禮御赦し被下度候敬具 一月十四日夜 俊彦
畫伯臺下
八枚のうち何れを新聞へ出すかをももし八枚を御覽下され候はば御擇び願上候歌も成るべく人に分りてその上よきものならざる可からずその資格に乏しく候御撰び奉願候
九六二 【一月十八日・封書 信州下諏訪町高木より 東京市外上目黒五八五 平福百穗氏宛】
拜啓今日は一日中筆氷り墨用ひられず斯樣な失禮御赦し下され度候
昨日は御手紙拜受今日は過分のもの拜受驚入申候大した貴重品にて勿體なき感湧き候へ共御厚意忝く拜受仕候何とも御禮の申上やうも無之存じ候早速著用仕候處身體の具合非常によろしく今迄眞綿にて過せしと全く趣を異に致し候特に體の廣い部分に行亙りて有難く候御蔭樣にて此冬は温く凌ぎ得べく毎度乍らの御芳情幾重にも感謝仕候妻も非常に感銘して相語り合ひ申候これを著て怠けてゐては仕方ないと申合ひ候今諏訪郡にてかういふものを著て冬を過してゐる人は殆どあるまいと語り合ひ候何とも勿體なき事に奉存候
下山氏の書畫會の事いろ/\申上げしは不足申すつもりでは無之と御承知願上候全く貴臺の御心配によりて小生などに依頼し來りし事と存じ感謝いたし居り候何もかも發奮可仕候さる中に二月號の小生の歌惡しく閉口いたし(531)候文章も齋藤君の所謂廻覽雜誌(廻らん雜誌なりとは昨年夏短歌雜誌にも言はれ申候)たらしめぬやううにと存じ勇氣を出して水穗白秋を槍玉にいたし候この槍鈍董にして手並怪しく候へ共一夜おそくよで奮發し發送間に合ひし事と存じ候餘り急ぎて発送せしゆゑ蕪雜甚しかるべく心に掛り申候三月號へは貴文貴詠兩つ乍ら頂き申上度御繁忙中乍ら何卒御援助奉願候千樫の件も御心配を相煩し恐縮の至に候何うもこれは濟度に難くあの日干樫宅へ小生の書き遺し置きし拙書に對して小生へも一片の手紙だに參らず候末節に氣が利き大切の點に感覺なくそのためいつもこの調子に候誠に申譯無き事に存じ候十二日發行所へ御高來下され候由恐入申候守匿君は三月上京のよしその時共に御邪魔に參上仕度存じ候御厚禮旁申上候敬具
愚妻よりくれ/”\宜しくと申出で候一月十八日夕 俊彦
畫伯臺下 御令室樣
何削る冬の夜寒ぞ鉋の音隣合せにまた削るなり 白秋
「隣合せ」といふ詞東京秋田その他にて用ひ候哉御序の節御教へ願奉り候
當地今年寒暖常なく湖水半分解けしも又々寒さ烈しく小宅子供毎日スケート致し居候これはよき運動らしく汗を流して歸り來り候女の子までやり居り候只今飛行機六臺毎日湖上で滑走し湖水を中心として高く翔り居り諏訪人大騷ぎして居り候小宅木戸の坂道氷張りて下駄にては危險の有樣に候井水の冬に入りて涸れしことは昨年來の旱天に原因するらしく古來なき事の由に候雪も一向降らず候
九六三 【一月十九日・端書 下諏訪高木より 上諏訪町末廣町 森山藤一氏宛】
出羽の事意外長文御厄介樣相煩し恐入申候アララギ其他原稿忙しく御返事も申上げず失禮いたし居り候右深く御禮申上候手袋御蔭樣にて温く過し得候事忝く存上候奥樣によろしく御禮御傳へ被下度願上候亂筆御赦し被下度候(532)匆々 一月十九日夜
九六四 【二月二十一日・端書 東京市外代々木山谷三一六より 信濃東筑摩郡淺間温泉 三浦仁佐郞氏宛】
拜復過日失禮致し申候字書きの事何か序の節心がけ可申紙等御送に及ばず小生方に上等が澤山有之候忙中御返事のみ匆々 二月二十一日
九六五 【二月二十六日・封書 信濃下諏訪町高木より 在墺太利維也納 齋藤茂吉氏宛】
拜啓度々御便り大謝々々小生思ひ乍ら怠れりこれから又度々書く貴兄少し健康を害へりと傳へ聞くこれは何の影響にやと心にかゝる輝子さんも御渡航と聞く早く御出立を祈る要するにすべてに無理をする勿れ四十歳を越しては酒も多く過ごさぬ方よし小生など眼が遠くなり夜は電燈にて新聞讀めず追々斯の如し君がアララギ廻覽雜誌になれりとの説に奮起して二月號以來他流試合をはじめしももともと他を譏る(?)はいゝ氣味のものにあらず向うで赤くなつて來れば少々勇氣も出るなれど白秋老人水穗老人では少々思ひも及ばずいゝ加減で切り上るかと思ふ併し貴意のある所よく分り居れば勉強すべし古泉も三月號へは長文書きて喜し中村も少しつつ歌あり貴君の通信文を待つこと切又切也チヨイチヨイ一二頁づつ助太刀してくれると非常に有難いアララギもだんだん賣れる三月號より千八百部にすべし會計はもう不足の如き事なし紙代下り以前とは毎月百圓以上違ふ頁數も少なくなつたこれが大に影響してゐる百穗畫伯いつも大元氣也そして勉強して居られて有難い畫論も少しづつ書いて下さる筈なり一郎さん中學やす子とく子二孃小學といふ勢也是非一二頁書いてくれ給へ至囑々々燈も僻案抄も出た僻案君の分は小生方へ預るその方保存によし古泉の子規全歌集ももう直ぐ出るよしこれ大に有難い貴君のも材料にして入れし由也門間君歌集今小生手許にありこれは一度貴君より目を通してもらひたい藤澤の分來月頃より選歌しても(533)らふつもり也御承知下さいどうも今の選歌は思ふやうにいかぬ第一は熱心と同情が必要也小生も不熱心のつもりではないがつひ數が多くて粗雜になる三月に入らんとして信州も春色いく分動く今年の冬は炬燵なしに勉強しとほした蕗の薹も食膳に上るかへすがへす御自愛專一に祈る
九六六 【三月五日・端書 下諏訪町高木より 上伊那郡七久保村 紫芝邦藏氏宛】
御手紙拜見仕候「雪消えのか黒き土」「ほの/”\とさ霧はれ行く」「昨夜の雪はれて雫す」「霧雨の南瓜ひろ葉に」「久にして見まはる」等夫れ/\よき所有之候小生選歌を制限いたし居り制限外の歌一切拜見出來ぬ有樣に有之此儀不本意乍ら御寛假願上候自分の勉強に時間乏しきために有之候匆々 三月五日
九六七 【三月八日・端書 信濃下諏訪町字高木より 東京小石川區大原町五深堀氏方 沖大兄氏宛】
拜啓東筑摩御友人御所持の萬葉集は小生に一度全部御見せ下され候はゞやゝ明瞭可仕小生にも仕合せに候十五六日迄に表記へ屆き候やう書留小包にて御送下さるまじく候哉貴兄より御手紙御差出し被下度願上候返送は小生よりも書留にて確實にいたすべく候猶元持主の家名いつ頃よりの所持なりや筆記の來歴は幾分分り居るや等御知せ被下度候猶只今御所持の御方住所氏名發行所へハガキにて御知せ被下度候匆々 三月八日夜
(小生明日中に上京可仕候)コチラヘ送ツテ頂キユツクリ調ベテ見ル方ヨシ依テ表記ヘ御願申候
九六八 【三月八日・封書 信濃下諏訪町字高木より 東京市外西巣鴨町宮仲二二四三 武田祐吉氏宛】
拜復今日午後御書面到著御注意に預り吃驚して原據筆記を調べ候處全く小生の拔摘帳の誤りなるを發見慚愧仕候(534)御懇切なる御指示なければあの誤りをうつかり通る所に候御厚志只々感謝の至に奉存候岱赭と朱は京都本の誤寫に候覺え書きの中に十六卷の上に天治本と小記したるが今一つの誤りの源に候
此事アララギ四月號にて取消し可申御厚志かへす/”\忝く御禮申上候以後注意可仕候相變らず御教示御指導のほど奉願候小生等智識乏しく大言のみ致し慚愧の至に候それについても萬葉その他古歌の御研究を御纒めにて御出版被下候はゞ小生等如何計り助かり可申存候此儀アララギ一同切望の至に候
御禮のみ申上候明日中に上京いたし度忙中覽筆御海容被下度候敬白 三月八日夜 俊生
武田老兄臺下
猶十二日(月曜)午前十一時頃帝大國語研究室へ參上京都本御寫本拜見相願度新點百五十二へ印だけにても致し度存候十一日御宅の方へ參上してもよろしく(右本御宅に有之候はゞ)さすれば正午過ぎに御邪魔仕度存候此儀御厄介樣乍ら御許容奉願候恐入候へ共御都合御ハガキにて御返事奉願候(代々木山谷三一六アララギ發行所内小生宛)
九六九 【三月十九日・封書 信濃下諏訪町高木より 東京市外代々木山谷三一六アララギ内 土田耕平・藤澤實氏宛】
岡サンノ御意見一應伺ヒテハ如何
拜啓年刊歌集ノコト藤澤高田竹尾ヘ申來リシカ小生ヘハ五十一首乃至六十九首送レト書イテアリ八九十人中アララギヨリ岡、千樫、憲吉、畫伯、胡桃澤、小生、土田、哀草果(?)、古實、忠吉、浪吉、邦子、翠子等十三人位ナラン80-13=67六七十人ノ他ノ人加ハル譯ナリソレニ一人ノ歌數モ皆差等アルラシイコレハアマリ乘氣ニモナレヌガ歌壇ヘノオツキアヒトシテ兎ニ角今囘ダケ一人十首十數首位ヅツ出シテオクカ(コトニ古泉君ヘノ義理)或ハ小生一人その位ニ顔ヲ出シオキテ君タチハ止メテオクカ小生ハ前者ノ方ヨシト思ヘド強ヒテ君タチニ出セト(535)モ言ハレヌコレハ畫伯ノ御意見ヲ伺ヒテモヨシ(土田君具合無理ナラバ藤澤君參上シタマヘ)
皆出サズシテ同盟對抗ノヤウニ見エテモイケヌ尤モ岡、中村、畫伯三氏ノ如キハスベテ御隨意ニテヨシト思フコチラデ相談シテ同盟スルヤウニナルト彌々角《カド》ガタツ二人デ考ヘテ御返事下サイ
アララギ年刊ハ小生一人デモ責任ヲ負ツテ來春カラ必出ス 三月十九日春雨 赤彦生
土田君藤澤君几下
コノ手紙岡氏畫伯ニ御見セ申上ゲテモヨシ
九七〇 【三月三十日・封書 下諏訪町高木より 南安曇郡東穗高村 西澤本衛氏宛】
過日は御懇書下され難有拜讀仕候早速御返事申上べきの處忙しく打過し候ため遂今日迄延引失禮の段幾重にも御海容被下度候御歌作の由承り大へん歡しく存候あの頃の友人も追々年老い熱心に繼續し居る人少く心細く存じ居候歌の到達は到底一生涯を歩みても足らず鈍根乍ら一歩々々最後までの歩みを續け度く念じ居り候へ共意到りて手足及ばず遺憾多く存じ居り候何卒御同樣相刺撃して斯の道に進み度存じ候何卒合力奉希上候御歌稿は當方へ御送被下候てもよろしく發行所の方にても宜しく候貴地方にては梓村の山田良春氏熱心に候倭村の小松正次氏も素朴にてよき話相手になり可申存じ候念のため申上候御自愛祈上候匆々 三月廿九日夜
西澤兄臺下
九七一 【四月四日・端書 信濃下諏訪町高木より 東京市外代々木山谷三一六アララギ發行所 土田耕平氏宛】
アララギ今日漸くつく卅日のが六日目の今日つくのではかなはぬ淀橋局長へ注意のハガキを出したいゝ歌が多くて喜しい皆汗しと/\に稽古してゐるといふ觀がある小生八日頃上京する何れ又御知せする昨日の朝日新聞から(536)前田夕暮が物を言うてゐる君一つ書き給へ如何
藤澤ニ頼ミテ五六圓ノ墨一挺冥ツテ貰フ金ヲ藤澤ニ渡シテ下サイ何レ面談ニユヅル 四月四日
九七二 【四月四日・端書 信濃下諏訪町高木より 東京市外代々木深町一六一三 藤澤實氏宛】
今日アララギ著貴詠矢張いゝ忠吉終り二首最もいゝ畫伯のも非常にいゝ自炊は面倒であらう遂行出來るか小生八日頃上京する前田夕暮が昨日の朝日新聞から物を言うてゐる
三十日出したのが六日目の今日つくのでは當惑の至也
其二
ソレカラ厄介デ迷惑ナレドコノ間ノ錦町?ノ筆屋ヘ行キ一挺形五六圓の墨(【紅花墨《コウクワボク》ガイイカト思フ】)ヲ一挺買ツテ下サイ上京次第直グ書クコトアリソレマデニ願フ紅花墨デナクトモイヽ金ハ土田君カラ貰ツテクレ給ヘ土田ニモ言ツテヤル一挺形《イツチヤウガタ》トハ普通ノ大サノ墨ナリ二挺形三挺形デハ一個ニテ大へン高價ニナリヤリ切レヌ 四月四日
九七三 【四月十八日・封書 信濃諏訪郡下諏訪町高木より 東京市外上目黒五八五 平福百穗氏宛】
拜啓冬構の御歌削除は大へん惜しく存候あれは活かし置き度存じ上候(御出しの如何に係らず)御示しの菊の歌少し窮屈かと存候心持は大へん利き居り候
冬にして佛にささげまつらむは軒に吊り干す菊の花のみ
吊り干せる小菊の花をみ佛にささげまつりぬ【冬の日にして・冬もなかにて】
などの方おとなしきかと存候へ共心持率直ならぬかとも存じ候「冬花」は「冬の花」の方よしと存候歌例はほんの御參考までに申上候御考案願上候
(537)當方百鳥囀り交はし木の芽もやゝ萌えはじめ清新の氣充ち來り候から松の新芽今丁度よろしく候櫟楢は古葉も有之候皆々樣御自愛祈上候小宅一同元氣御安心下され度候匆々 四月十八日 俊彦
百穗畫伯御左右
年刊歌集編輯員に小名を列ねし事右發行所へ抗議申遣し候處古泉さんよりの指圖なり手紙は古泉さんへ廻すと申來り候古泉へはそれ前に小生より同じく抗議(?)申遣し置候
九七四 【四月二十一日・封書 下諏訪町より 長野市神明町神明館 守屋喜七氏宛】
拜啓こんな紙で失敬々々大森忠三君ノ墓石ヲ建テタイト思フ守屋喜七岩波茂雄岡村千馬太三澤精英伊藤長七太田貞一矢島音次小池元武者田淺治郎小生藤森省吾三村斧吉小尾喜作兩角喜重大森祥太郎等十四五人ト思フ餘リ廣クセヌガ本人ノ本意ナラン一人六七圓位デイヽカト思フ大キナモノハ要ラズ石尤モ堅牢ヲ要ス表ハ大森忠三之墓裏ハ生年月日學歴任命ノ學校没年月日享年ダケデヨクナイカ長野御在任ノウチニ岡村三澤二君トヨク打合セテクレ給ヘ人選モ考ヘテクレ給ヘ大切ノ人洩レテハイケヌ筆者ハ守屋喜七ノコトコレハ縛り付ケニ願フイツ頃長野ヲヤメルカ退職カ轉任カ 四月二十一日 俊彦
守屋兄几下
白梅ノ花咋ヒチラス椋鳥ノ遊ビヲ見レバ我モ樂シム 庭上※〔目+屬〕目
五味先生ハ御願ヒスルカ如何カ 沼津義郎君益々御健康と存候
九七五 【四月二十六日・封書 信濃下諏訪町高木より 東京市外上目黒五八五 平福百穗氏宛】
拜啓御懇書拜受仕候御歌十一首傑れしもの多く歡ばしく拜見仕候例により無遠慮なる事書き加へ候段御寛容願上(538)候この十一首必一首も御棄てなきやう祈上候これ前のもあれは御すて成さるべきものでないと存じ候兎に角この十一首は六月號に御載せ下され候樣祈上候猶委しくは來月御面晤に讓り申候
中村より來書東京の新聞の學藝欄は空氣如何との事小生よく知らず宇野君の友人關口氏朝日に居るよし宇野君より聞いてもらはんと存じ候つまり外界などとの下らぬ交渉交際などありや否やといふ事と存候國民新聞等の模樣御知せやり下され候はゞ難有存上候轉ずるならば無ろん東京日々の事と存候尤もこの事畫伯小生以外誰にも口外すなとの事に候中村長女今年入學のよし彼東京を去り備後山中に長女生れしは昨日の如し老い行く事の早さは昨今餘計に身に感ぜらるるを覺え候
筍食膳に上るとの御便り目黒世田ケ谷玉川地方の竹林を想はしめ候郊外はこれより清爽になり可申候小宅山林雨氷損害にて只今杉松落葉松の苗木準備まで捗り來り候これまでの整理閉口仕候これより植付を終れば一段落に候隨分厄介させられ申候三ケ所にて五六千坪あり落葉松と杉は殆ど全滅に候(植付より十九年目に候)今十年もすれば電信柱になり可申殘念に候小さき木が胴中より折れしゆゑ杭等の外使途なき有樣に候こんな事は古來無かりし事の由に候折れし夜はそれほどと思はずいゝ音がする位に思ひ居り後になりて驚き申候
落葉松の芽ぶきはじめ焦げ茶の如く鶯茶の如く昨今漸く薄緑になり清新の感有之候櫟はほんの一寸芽ぐみしのみにて遠望は枯木の姿に候その中の處々に山吹の花見えはじめ候
夜中これにて擱筆仕候御全家樣によろしく願上候頓首 四月二十五日夜 俊彦
畫伯御左右
土田ノコト御心配下サレ忝ク奉存候小生ト交替ニ一週間位海岸ヘ行クヤウ可致候起因ハ幾分思ヒ當リ居候大シタコトナシト存ジ候近來快イト二三日前申來リ候遊ンデ來ル位ノ金ハ充分有之候コノ點御心配下サラヌヤウ願上候
(539) 九七六 【五月一日・端書 信濃下諏訪町高木より 東京市外代々木山谷三一六アララギ内 土田耕平・藤澤實氏宛】
貴作歌がらは皆いゝ「春埃」の歌第五句「ともしも」未だ利かぬ「角ぐみし」の詞この場合何うかと思ふ「ゆれめぶくらん」ば窮屈也。次の歌「しづかになりぬ」は何か現し足らぬのであらう「道とほりたり」も少し疑問也「子どもらの」「わが宿は」(この三句は「春の日の」方よし?)「夕ごとに」「片岡の」の四首が尤もいゝやうだ。杉浦を大分叩いたな高田の妹の二首辻村の二三首武藤等よし畫伯益々いゝものあり萬事御面晤にゆづるこのハガキ君の住所忘れしゆゑ土田君と連名也風邪はもう大抵いゝ 五月一日夜
風神の畫御持參下されしか今度の色も大へんいゝ
九七七 【五月十一日・封書 代々木山谷三一六アララギ發行所より 上目黒五八五 平福百穗氏宛】
拜啓どうも御作に驚き居り候大した作と存候只今石實と感嘆したる處に候殊に數首非常によしと存上候御仰に從ひ御稿御返し申上候こちらへ寫し置き候間御承知下され度候
迂生明後日二番出立廿日に出京可仕候(高等師範附屬の會廿一日午後に有之)その時本郷の齋藤氏へ御同行相願度奉存候少々忙しく亂筆申上候匆々 五月十一日夕 俊彦
畫伯左右
土田高尾山二軒茶屋小宮方に居り候小生出立後は藤澤留守してくれ可申候晝は戸をしめ可申候(嚴重に)
この紙來月まで御保存願上候考へ足らぬ所猶ありと思ひ居り候時をおきて見かへすと氣の付く所出て來るべく候
十四才畫を學ぶ 平福百穗
(540) ちちのみの父がかきくれし繪手本は二た筆ばかりのさ蕨のゑ 太き、肥えし、小さき、わかき
第五句斯樣の方よきかと存候或は「さ蕨にして二た筆ばかり」などでもいゝかと思へど猶前の方よしと存候大へんいゝ感じにてよき歌と存じ候
父上は机に凭らせものかくにみ心なほも吾のうへにあり これはこのまゝで大へんよしと存上候
※〔漱のさんずいが女〕草にふりおく霜のしかすがにこゝろに沁みて父のかしこき 大へんよしと存候
夕ちかき鑛山《かねやま》みちのすすき原|駄馬《うま》に|し《て》父は歸り來ませり 「て」の万素直かと存候これもいゝ感じ喜しく存候
みちのべの莠ぐさにかぶる土埃り馬のあとにつき歩みかへりし 莠ぐさで充分よしと存候これもこのまゝで大へんよしと存候馬のあとにつき歩みかへりしこの邊少し散文の匂ひあり併し考へて見るにこれ以外致し方なきやうに候下手に直すと率直味を失ひ申すべくこのまゝにせられんを祈り候
咲きみだる垣のむら菊束ね起し霜にてり映ゆ朝をさぶしむ る「亂るる」の方正しかるべく候 る「映ゆる」の方正しかるべく候清肅の氣あり朝の所に日があると猶具合よし或は「霜に照り映ゆる日をさびしむも」などの方よいか猶考へ可申候
いく度か霜を經につつ庭菊の匂ひいよいよふかきをおもほふ 「思ふ」の方素直かと存候結構の作と存候或は「おぼゆ」?或は「匂ひいよ/\深くおもほゆ」?この方よいかと存候
匂ひふかき千咲きの小菊枝ながら軒につり干す冬のみ花に 「となりにし」などの方單純かと存候矢張いゝ
裏やぶにここだく赤きうめもどき手ぐりて引けば實をこぼしたり どうもいゝ「手ぐりて引けば」にて結構ならんと存じ候如何
十二月十一日
み佛にささげまつらむ冬花は軒に干しある菊の花のみ 冬の花は軒ねに干せる菊のみにして
(541)先便以外こんな向きにも考へ申候この歌も決して棄て給ふ勿れ
花瓶《はなだて》の水かきすてゝさす花は|冬の《乏し》干し花小菊うめもどき 「冬の」コノ方ヨシ
大へんよしすべて皆利きて活き居り歡しく拜見仕候以上
九七八 【五月十四日・端書 長野縣下諏訪町高木より 東京市外中野上ノ原 森田恒友氏宛】
沼の水の色とても寫眞では出まいと思ひ殘念に存じ候
拜啓近來在京日數少く思ひ乍ら御訪ね申上る機會を得ず失禮いたし居候御作を口繪に願ひ候事につき種々御厚情を賜り忝く奉存候御蔭樣にて來月はよき雜誌を得候事と樂しみ居り候春陽會招待券多數御惠送下され奉謝上候去る九日觀覽久し振りにて御作に接し歡ばしく奉存候多數御制作にて殊に心強く拜見仕候小生昨日歸國仕候六日居らぬうちに野山すつかり緑になり驚き申候櫟と柿が一番遲く芽ぶき候へ共それがもう目に立つまでに伸び出で候鳴禽の種類多きゆゑ賑やかく清がしく候今丁度蕨の食膳に上る時に候山地にては草の食ひもの多くコレイ(擬寶珠草の一種)シホデ木ノ芽(眞弓等數種あり〕ミネバ(ツリガネニンジンの一種)アヅキツバ(南天萩のこと)等多數口に人り申候御令室御子樣御丈夫に被爲入候哉小家一同元氣御安心被下度候 五月十四日
九七九 【五月十六日・端書 東京市外代々木山谷三一六より アララギ會員宛】
拜啓益御清昌奉賀上候陳ば大正五年アララギ特別號として橘守部著「萬葉集檜嬬手」を單行本として刊行仕候處忽ちにして絶本となり爾來會員諸氏より度々殘本の有無御問合せ有之候も御希望に副ふ能はざるを遺憾と致し居り候然る處今囘古今書院主人橋本氏が萬葉集叢書刊行につき右叢書中の一として再版の希望申出で候處快く承諾せられ且つ著者嫡孫橘純一氏もこの擧を快諾せられ愈々出版の事に決定相成候御承知の如く守部の古學は眞淵宣1(542)長等の系統と趣を異にし萬葉研究も自然獨自の特徴を有し居り候檜嬬手は著者晩年になせる註釋書にして著者萬葉觀の究極を窺ふに足るべきものに候一本を左右に供へられんことを冀望仕候御購讀有無例により直接橋本氏へ御返事下され度願上候匆々 五月十六日
追て本書は五月二十日より發賣定價貳圓八拾錢送料十八錢の由に候詳しくはアララギ六月號御覽下され度候
九八〇 【五月二十三日・繪端書 信濃小縣郡別所温泉より 東京市外代々木山谷四〇四遠藤方 藤澤實氏宛】
昨夜は有難う別所は山の懷にて樹木多くいゝ處也四重塔も佛像も經藏もい、(安樂寺)
頭大へんいゝ御安心願ふ今日合計三時間やりしのみにて樂也 五月二十三日 赤彦
九八一 【五月二十四日・繪端書 信濃別所温泉より 東京芝區白金三光町五三八 辻村直氏宛】
此間は折角御出で下されしに外出をして失禮しました昨日今日講義をすまして下諏訪へ歸ります此處の安樂寺の四重塔及び足利時代佛像二躯國寶です昨日拜見しました今朝時鳥が鳴いてゐます君から頂いた茶をこれから飲まうとしてゐます 五月廿四日
九八二 【五月二十八日・封書 下諏訪町高木より 下諏訪町小學校 小山久長氏宛】
拜呈一度御面晤を得んと存じ其機を得ず候愚息夏樹今年度より御厄介樣相成候よし不躾ものに有之可然御鞭撻のほど奉願上候同人は幼少肋膜を患ひ體質不良に有之一度山中の温泉に伴れ度存じ候處其機なく小生數日中に又々他出の用事有之已を得ず明日より三日間休校せしめ蓼科山の湯へ引連れ申度此儀我儘の至と存じ候へ共來月は梅雨季に有之夏季は炎暑にて歩行如何かと存じ候次第事情御高諒被下候はゞ幸甚奉存候取あへず御願申出候何れ拜(543)眉萬御禮申述度存じ候頓首 五月廿八日
小山先生几下
九八三 【六月一日・端書 信濃下諏訪町より 東京市外代々木山谷三一六アララギ發行所内 土田耕平・藤澤實氏宛】
中村には申してやる小生も書く在京諸同人によろしく御返事も出さずに居るアララギはもつと文章なくてはいけぬ君の芭蕉觀でも書き給へ藤澤は萬葉十四について何か書き給へ君等も追々規模を大きくして行く必要也岡さんへ今から文章御依頼し給へ何度も何度も催促して願ひたまへ森田さんへも今より同樣也みを今日より出校御安心下され度候 六月一日
九八四 【六月三日・封書 信濃國下諏訪町字高木より 奈良市東笹鉾町四十八 春日政治氏宛】
拜啓初夏清爽益御清穆被爲入候御事と存上候迂生頑健御安心被下度候陳ば先般は御著校訂法王帝説御惠送に預り鳴謝の至奉存候これは佐々木氏の解説等にて歌のみを拜見致し居り未だ全卷を識らず御厚志により宿志を果し候事如何計り忝く奉存候殊に從來の所傳誤訛多きを原據により御訂し下され候事學界のため如何計り稗益と奉存候右深く御禮申上候小生近來諸方を歩くこと多くして家居少く思ひ乍ら御禮遲延失禮の至奉存候不惡御海容被下候樣願上候御全家樣御自愛專一奉存上候匆々 六月三日 俊生
春日仁兄臺下
松濤先生へよろしく御傳言願上候
九八五 【六月七日・端書 下諏訪町高木より 上水内郡三水村 宮本松雄氏宛】
(544)拜復小生明日上京可仕十五日より二十日迄の間ならば大抵在宅可仕もし御光來ならば一二日前に分り居り候はゞ成るべく都合つけ可申御ハガキ被下度候小生少々忙しき用事いたし居り候へばせい/”\二三時間の御面談に願度此際御許し願上候猶こゝまでは長途に有之其内小生長野へ參る節御知せ可申上あそこまで御光來にて事足り可申左樣成されては如何に候かと存候萬葉集子規選集左千夫選集等をくり返し御精讀のほど祈上候匆々 六月七日
高木は下諏訪上諏訪兩驛の中間にある村落に候下スハより三十分歩行を要し候
九八六 【六月七日・端書 信濃下諏訪町高木より 東京市外中野町上ノ原八〇五 森田恒友氏宛】
拜復小生より手紙差上げんと思ひ居りし處へ御状頂き恐入申候口繪を賜り如何計り有難く奉存候原色ことにあの沼の色等は到底寫眞版に出まいと存じ居候處果して想像通りに有之殘念に候へ共致し方なきかと存じ候あの初冬(題を忘る山の原の窪地一軒家丘の上に落葉松あり)の方ならば割合によく出で可申あれを一度出させて頂き度奉存候あれの持主東京に居れば撮影させて頂くやう御話被下度奉願候此儀發行所の方へ一寸御ハガキ被下度奉願候近々大阪へ御出かけのよし中村喜び可申存候「初冬」の撮影は大阪より持ち歸りし後になるべきか萬一遠方の人手に渡り候やうならば種板にすること丈け御心配賜り度奉願候久しく御無沙汰いたし候皆々樣御壯健に候哉小生方皆元氣御安心被下度候状袋つき町へは少し遠くハガキ失禮御赦し被下度候奥樣によろしく願上候匆々
第二
五月二十三日北信別所温泉に浴し久し振りに春蝉を聞き申候此蝉は諏訪には居らず候それより諏訪に歸り例の蓼科山の湯へ家族をつれて二三日遊び申候湯より一里程上は殆ど平らにて一面つつじの原にて未だ蕾に候その上を時鳥がないて過ぎ居り候鈴蘭や櫻草の花が盛りにて子どもらは手を土だらけにして慾深く掘り取り申候村落より湯までの裾野は今丁度藤躑躅の花盛りに候藤は丈低くて草むらの中に咲き居り割合に花房大きく長く候あそこへ(545)今一度御遊びの程奉待上候小生明日上京可仕今囘も參堂覺束なく失禮可仕候春蝉と蓼科の湯はそのうち愚詠御笑覽を願ひ度思ひ居候匆々 六月七日
九八七 【六月十五日・端書 信濃下諏訪町より 伊勢國四日市濱町 中村徳之助氏宛】
拜復御健康思はしからずとの御事御困りの事と存上候上諏訪温泉は單純泉にて格別の效能無之澁の方遙かに優り居り候上スハならば停車場あり澁ならば豐野驛より自動車有之候其他效能ある湯は皆山中にて行くのに不便に候小縣郡別所温泉田澤温泉は何れも上田驛より三里にて電車有之これも神經衰弱等には效能有之候もし上諏訪へ御光來ならば適當の宿探しおき可申最上中等何れにするかを御知せ下され度候最上は一泊四圓(晝飯は別)それより三圓二圓等も可有之候温泉は上スハよりも下スハの方宿が丁寧にて森林多く心持よかるべく候泉質は同じに候小生廿一日より四日間不在可仕候御承知下され度候匆々 六月十五日夜 御自愛專一存上候
九八八 【六月十七日・端書 信濃下諏訪町より 肥前國平戸禅寺 小國宗碩氏宛】
拜啓京都大徳寺の方ヘハガキ差上け候へ共或は目下平戸に御住ひかと存じ重ねて此ハガキさし上候益御壯健の御事と存上候小子頑健御安神下され度候先年長崎土橋君御宅にて同君のお子さんが貴兄の頭を撫でし時小生のよみし歌御記憶に候はゞ御知せ下され度御厄介樣乍ら奉願上候もうそろ/\御歌御示し下され度候アララギも同人皆元氣にて精出し居候右御願のみ匆々 六月十七日
九八九 【六月二十日・封書 下諏訪町高木より 上諏訪町末廣町 森山藤一氏宛】
今日か來週かあたり東京日日水曜附録と來週あたりの東京朝日月曜附録へ小文出るかと思ひ候御笑覽候はゞ(546)仕合せに存候
拜啓御手紙難有奉存候御仰せの如く六卷は九號十號を出さざりしらしく候七卷合册さし出し申上候御落手下され度候夕暮白秋へ少し長く書き申候七月號にて御覽願上候もう此位にて止め可申候夕暮は正面より小生に答へ居るだけ正直に候水穗白秋の態度はダ棄すべく候小生明日より東筑今井小學校と木曾福島小學校へ參り候廿四日歸宅仕可廿六日頃書棚あつらへの爲め上スハ小學校へ藤森君を訪ね可申上候書棚出來し上箱の荷を解き度その上長塚節號三四册さし出し可申御承知被下度候それから長塚氏書簡一通同封さし出し申上候(平福さん宛封書)これも願上候色々難有奉存候匆々 六月二十日 俊生
森山大兄机北
九九〇 【六月二十七日・封書 下諏訪町高木より 下水内郡飯山町小學校 清水謹治氏宛】
拜啓飯山へ御歸りのよし自然の道と存じ喜ばしく存上候下水内はどうも他と異る特性あり御保育のほど奉祈上候偖甚だ唐突に候へ共小生等同人中の土田耕平氏(アララギ發行所常詰めの人)病氣でないが體弱く毎年夏期山國へ轉地し居候今年は七月中旬より一ケ月ほど飯山へ參り度成るべく寺院を擇び申度閑靜でさへあれば他は何の要求も無之食物も自炊して宜しく然らずとも魚や肉は要らぬ人間に有之貴兄御盡力にて第一寺院第二素人の家(夜靜かにて眠り得る程度)御周旋相願はれ候はば幸福の至に奉存候御繁用中へ申出で候事恐入候へ共御盡力奉願上候謝禮等は幾分は多くてよろしく候其點は御遠慮なく御定め願上候右御願のみ申上候匆々 六日廿七日 俊彦
清水大兄臺下
九九一 【六月二十七日・封書 下諏訪町高木より 長野市神明町神明館 守屋喜七氏宛】
(547)拜啓義郎君歸國後は小生も少し安心の姿にて上スワの方へも參上せず今月手紙さし上げんとせしも今長野に居らるゝや否かと思ひ中止致し候二三日前東筑へ參り候處新校開校中との事を傳承致し候小生來月六日迄こゝに居り可申今度御歸宅の節御逢ひ申度存じ候貴兄を教育會專任幹事に云々の事も一寸傳承いたし候之は愚見など申上るにも及ばざる程度の説と存候その位ならば長野に小學校長として居らるゝ方意義可有之存候併し之は小生申上るまでもなき事にて贅説仕らず候長野に御いでのうちに三澤君に例の大森墓石の事御話し置き被下度願上候岡村君にも御逢ひならば同樣願上候小家一同元氣御安心被下度候匆々 六月廿七日 俊彦生
吹雪老兄臺下
九九二 【七月六日・封書 信州下諏訪より 北海道小樽市西四丁目ホシ藥局 塚原瑞穗氏宛】
拜見先以て開店を喜ぶ創業は隨分苦しきもの也萬事都合よく行きし事尤も喜ばしく候最初から景氣いゝといふ事は樂觀出來ぬ氣を許すと却つて害になる少くも數年間ふんどしを〆めぬく覺悟を祈り候當方何れも無事に候塚原の母上この春より少し具合惡しかりしも少しよしとの事此うちに參上のつもりに候葦穗長野へ轉任せし故色々都合惡しく候御兩人共御自愛專一に存上候ふじより宜しく申出候匆々
九九三 【七月十二日・端書 代々木山谷三一六より 市外中野町上ノ原八〇五 森田恒友氏宛】
拜啓昨日は久し振りにて御面晤大へん喜しく存上候御風邪の所を長座いたし失禮仕候其節つひうつかり忘れてしまひ候へ共アララギヘ文章御書き相願度此儀何卒願上候九月號ならば尤も有難く十月號にても御執輩下され候はば忝く存候右御願のみ匆々 明朝寫眞師參上のよし何卒願上候 七月十二日
(548) 九九四 【七月二十二日・端書 信濃下諏訪町高木より 東京市外西巣鴨町宮仲二二四三 武田祐吉氏宛】
拜呈彌々土用の暑さに入り申候益御清適被爲入候御事と存上候陳ば萬葉十・七夕三十八首終り流布本には右柿本朝臣人麿歌集出と有之候處拾穗穂抄には三十八首はじめに柿本朝臣人麿と記し有之これは冷泉本等より出しものなりや其邊消息御見御教示に預り申度度々の御願ひ煩瑣恐入候へ共何卒奉願上候匆々
ハガキ失禮御ゆるし願上候御返事御ハガキに願上候 七月二十二日
九九五 【七月二十三日・封書 信濃下諏訪町高木より 東京市外上目黒五八五 平福百穗氏宛】
拜復御手紙今日拜受非常の御配慮と御手數相煩し恐縮の至奉存候少くも五百圓位はと思ひしにその通りに候これが茶屋酒や歌人旅行や著物や柾目下駄になりしことを思ひ胸惡く存じ候齋藤連帶は齋藤の不仕合せに候齋藤君より辨濟のことにするの御意尤も難有奉存候御心付下され感謝の至に候金は二百五十圓齋藤君方へ送るやう發行所へ申遣すべく候それにて宜しきか若し四百八十八圓持參していくらでも正岡家より下さるだけ頂けばよいか御考へも候はば御通じ下され度奉願上候兎に角二百五十圓を輝子さんへ送るやう申遣し可申候今度アララギヘ歌を送りたりとももうこれ限り何とも言ばぬつもりに候選歌は斷じてこちらより送り申さず候色々の事齋藤不在を不便と致し候へ共(中村もそこを考へ居るかも知れず)或は却つて不在のうちに關係を片付くる方齋藤も面倒でなく宜しき點もありと存じ候このこと岡さんよりよきやう取計つて頂けばよいかとも存じ候
春陽堂の方は小生上京の節聞きに參るべくさう急ぐ必要もなきゆゑ御手數相煩さぬ樣願上候何うもいつも斯樣の問題頭に引つかゝり居り胸惡しく閉口仕候渡りかゝりし橋にて致し方も是なく何卒御助力の程奉願上候
一郎君山登り學校引率ならば大丈夫と存じ候秋田の登山は尤も恰適と存じ上候郷國の土、山川を知らしむること(549)大切の事と存じ候愚息二人甲斐御嶽へ日還りに行きて歸り候三寸足の高足駄にて往復九里上下大元氣にて歸り來り今日少し疲れ居るらしく候
取あへず御返事のみ申上候岡さんへも中村へも書き可申候齋藤へ未だ書かず明後日迄には書き得べく候小林君大に安心いたし候非常に結構の事にてその決心出來れば却つてよき經驗に存じ候小生は御耳に入れし日の前日はじめて聞きし事に候紙つまり失禮御ゆるし被下度候匆々 七月二十三日 俊生
畫伯老臺
追伸
輝子サンヨリ再版以後ハ印税ヲ齋藤家~持來ルヤウアルスヘ交渉シテ置ク方ヨシト存ジ候如何ニ候カ御考ヘノ上電話ニテ御通ジ下サラバ忝ク存ジ候或ハ正岡家ヨリ再版ハヤメテクレトアルスヘ申入ルルモ不可ナシト存ジ候コレハ小生ヨリ岡サンニ願ヒテ宜シク候(コレナラバ確カニマヰリ申スベク候)七月二十三日
畫伯臺下
九九六 【七月二十八日・端書 信州下諏訪町高木より 東京市外代々木山谷三一六アララギ發行所 藤澤實氏宛】
高田ハ今朝歸京シタ(此ハガキ今朝出ス今日ノ暑サ非常也御用心々々々 七月廿八日)
天氣快復今日東宮殿下御登山吉瑞慶賀ノ至也小生今日ヨリ彌々勉強ニカヽル校正隨分苦勞ナラン體ヲ注意シ乍ラヤリ給ヘ發送終ヘタラ留守ヲ辻村君ニ頼ミ海邊ヘデモ一泊ニ行キ給ヘ留守ハ確カナ人間デナクテハ困ルソレカラ原稿用紙二百枚送ツテクレ給ヘ大急ギデナクトモヨシ齋藤輝子サンヘ振替ヲ出シテクレマシタカ東京神田錦町一ノ一内外出版株式會社(振替東京五四七六七番)ヘ金十圓三十錢振替デ送リ裏面ヘ大屋徳城著寧樂刊經史ヲ送ルヤウ記載シテクレ玉ヘ發行所ヘ送ツテモラヘバヨシ備ヘ付ケニシテオイテクレ玉ヘ當方皆元氣御安心下サイ 七月(550)二十七日
九九七 【八月二日・端書 信濃下諏訪町高木より 東京市外代々木山谷三一六アララギ内 藤澤實氏宛】
拜見編輯便著きし由安心いたし候炎暑定めて御困りの事と存上候辻村か高田に一夜泊つて頂き君は海へでも一寸行つて來給へ小生只今童謠熱中の有樣なり七八篇新に作り九十頁までにまとめたり矢張り熱くて頭閉口也もうそろそろ打切りにする匆々 八日二日
「しがらみ」廣告うまく行きし事と存候中村よりまだ原稿送り來らず悠長のもの也
九九八 【八月六日・封書 信濃下諏訪町高木より 東京市外上目黒五八五 平福百穗氏宛】
拜啓御書拜見仕候態々高濱氏まで御出かけ被下候由恐縮の至に存じ候猶春陽堂も御手を煩し候由重ねて忝く奉存上候御蔭樣にて一段落になり安き心地いたし候小生は只手を拱し居り横著の至に存じ候深く御禮申上候齋藤君御實父の事輝子氏よりも知せ下され驚入候海外にて肉身の父の訃に接する心情想ふに堪へずどうもおれの留守のうちにあぶないかも知れぬと小生に話したる事を想出し候出立前父君わざ/\山形より上京せし事と記憶いたし候土田は心臓をあの地の醫學士に診て貰ひしに矢張神經衰弱がもとなりと云はれ安心せし樣子に候金は充分に有之(行くとき百圓用意し懷にして行きしは八九十圓かと存候)あとから又送る約束に候
一郎君御無事御歸り御安心存上候今頃秋田の雨天は不思議に候小生子ども又白馬山へ行きたいなど文句申居候御歌何れも素直にて喜しく拜見仕候最後のが少々無理ありやと存候四五句の所に候猶少々考へて見可申存候
小生は九日上京のつもりに候へ共其頃或は御避暑かと存候お子さん方夏は日光と空氣の新鮮なる中に浸られん事を切に祈上候御避暑等候はば發行所へ一寸御ハガキ下され度願上候中村君子どもを伴れて六甲山より諸所を歩き(551)し由通信有之候小生この一週間許り童謠狂ひになり毎夜を更し候もう止め可申體は頑固に候間御安心下され度候小林君より房州より手紙頂き候近く歸京するとの事故返事もさし上げずよろしく御傳達願上候子どもらは午後の日盛りに蝉を取つたり蟲を追つたり漆にかぶれたり山中の生活中々賑やかに候
御令閨樣によろしく御傳達願上候匆々 八月五日 俊彦
畫伯臺下
審査員改革とはどんな事にや黒田氏の話として新聞に見え候
第二
年刊歌集といふもの愈々出で候實に愚劣展覽會に候斯ういふものを出せば歌界の正味がよく世間に分り却つて好都合に候貴臺岡中村諸兄御出しにならなんで宜しかりきと存候
末輩にて甚失禮に候へ共今度出す第二童謠集の扉畫だけを何卒御助力奉願候草か木にてよろしく(先年は穗草)一寸蟲位とまつてゐれば猶難有存候石版摺に候何卒願上候以上追伸匆々 八月五日夕方
石原氏が富士見に來てゐるとの事に候多分二人同伴ならん
九九九 【八月九日・端書 信濃下諏訪町より 攝津國西須磨村 加納巳三雄氏宛】
ケーベル先生のもの敬服して拜見してゐる人相からして常人に超絶してゐるあの祖母さまの人相も實にいゝアララギあれでは小生一人で書いてる觀あり實に困る何か書いてくれ給へ歌はないか少しでもいゝ今月はこちらへ送つてくれ給へ御尊父樣奥さんお子さん御變りなきか此暑さは信州でも應へる小家一同頑健御安心被下度候匆々
齋藤君實父逝去せり山形縣にて 八月九日
(552) 一〇〇〇 【八月十日・封書 東京市外代々木山谷三一六より 兵庫縣柏原町西町 市毛豐備氏宛】
拜啓度々御手紙下され難有存候御手紙一通御ハガキー通今日著京して拜見仕候左千夫先生の歌の事竹里歌話によりあの事發見大兄よりも御知せ下され小生の「左千夫の歌」續稿を書きつぐ時その事を書かんと思ひ御返事も怠り居り非常に失禮仕候あの原稿も直ぐ書きつゞくるつもりにて茶器の歌にて今さし支へ居りも少し茶器の事に親しみし上にて致さんと思ひぐづ/\致し候そのうち書き出し可申その際貴兄より注意されし事も明記可仕此儀御諒承被下度願上候小生の書きしものを自分にてなげやりにして置くつもりには萬々無之續稿の際必明記して小生の考へを書きおき可申只今日まで御返事もさし上げず再度御申遣しに接し候事怠慢幾重にも御赦し被下度候御歌久しく拜見せざるやに存じ居候御示し下され候はゞ歡しく存候東京非常の暑さに有之明日歸國のつもりに候
小生只今殆ど信州下諏訪町字高木自宅に居候へば御手紙等すべてその方へ願上候然らざれば日を多く經て書面拜見の事になりそれも諸方よりのもの大へん多く積り居り遂返事を失禮する事多くなり申候貴兄への御返事怠りしは返す/”\申譯無之深く御託び申上候右惡しからず御諒承奉願上候匆々 八月十日正午 俊生
市毛豐備樣侍史
追伸
西行のは新古今によりしものに有之もし猶御心付の點も候はゞ御知せ下され度願上候山家集になき丈けにてはその點如何かと存候あの歌西行でなくとも小生の論旨にはさし響き申さず猶御意見御申聞願上候 俊生
一〇〇一 【八月十一日・封書 東京市外代々木山谷三一六より 獨逸ミユンヘン 齋藤茂吉氏宛】
拜啓非常に御無沙汰をした遂億劫になつてしまつた然るに輝子さんより悲しいお知せを頂いた實に悲しい君が出(553)立前留守中六ケ敷いかも知れぬと言うたその通りになつてしまうたので實に感慨に堪へぬ海外にゐる君の心中推察に堪へぬ君の生みのお父さんに遂一度もお目に懸らざりしは小生としても大へん殘念也
畫伯よりも中村(?)よりも色々知せて下つたと思ふその事小生よりも申上げる筈なれど億劫になつてしまつた大體は御承知になつたと思ふしどうも巨細は厄介ゆゑ申上げぬ要するに古泉も自然アララギ同人から離れるに至るならん歌界の人々はよくアララギが古泉をいぢめると申す由アララギも小生も未だ一度もいぢめたる事なしこちらが始終苦しめられてゐる也それもズベラとかのんきとかの事ならばよしとても人間として忍び得ぬことを平氣で忍んで(?)ゐる事實は君の歸朝後をまつ此の間中村上京野田大塊の子息と飲みしに橋田東聲氏子規全集を出さんとして正岡氏を訪ねしに子規のものを出して下さる人多けれど近頃印税も來ずたとへば子規短歌全集も一月出でし事なれど編者よりの何の挨拶もなしと話されし由それを野田氏が中村に話したるよしこれは貴兄が連帶の事ゆゑ岡さんに願ひ岡さん正岡家を二度訪問して貴兄の立場を諒解してもらひ印税約五百圓の半分だけ屆ける事にせりこれは輝子さんより貴君代理として行つて頂く方がよしと存じ左樣願ひ置けりこの事につき畫伯も非常に心配して下され岡さん同伴にて高濱氏をも訪ねて了解を得たる由御知せあり恐縮の至也これはほんの一例也貴兄連帶の事ゆゑ手を出したれど古泉一人の事は到底手が出ない先月もアララギを決して離れぬと態々申來り「詩と音樂」へ歌多く出せし上はアララギへも出さねば世間に變ゆゑ歌を送ると言ひそれも送らず外界の交通は彌繁くしてアララギとは自然疎くなる也小生もいゝ顔をしてゐればいゝが腹に不快にて表にいゝ顔も出來ず自然疎外になる事已むを得ず畫伯も中村も彼が刑事問題を惹起せねばいゝがと言ふ事こゝに至るも小生等が責任を以て彼を保證する事は出來ぬと思ふどうも直接衝に當るのは發行所になるこれは御承知置きを願ふ
アララギ土田弱くて困る今飯山に居る今月號の如きは小生一人で書いてゐるやうなもの也實に困る君の言ふ通り私信は出さぬが出していゝもの少し送られぬか一枚のハガキと雖も非常に有難いそれは君に分ると思ふ勉強を妨(554)げては惡いが死後は萬づの罪障消滅す私信の貴説必しも當らずと思ふ如何君の説に從ふと歴史家は大に困難すると思ふ岡さんは糖尿病なり良い事と思ふ從つて原稿をあまり催促出來ぬ實に悲しい四苦八苦の態なり釋氏もアララギより離れ古泉も殆ど然り土星君も一向寄り付かずこれ小生の罪ならんその愚痴を君に申上るなり
ミケロアンゼロやダヴヰンチやルノアールを實際に見る君の幸福を羨んでゐる度々の御通信感謝に堪へぬハガキ書く事旅にてはことに億劫なり君いつか小生がミレーを一番好むでゐるやうに書いてよこしたがあれは違ふ小生はミレーの素質を尊んでゐるが一番好んでゐるといふ譯ではないこれは序に取消してゐる富士見へは其後一向行かぬ高木茅屋中子どもと雑居していく分づつ勉強もしてゐる一同元氣御安心を願ふ今日でもう十九日間旱天つづく一度夕立降りしのみなり長塚全集は秋までに必纒まる森山君多く筆記してゐて下さる感謝の至也「茂吉男を下げた云々」の所束京から御送する今夜々行で上京する古實留守をしてゐる畫伯にも逢へるかも知れぬ
年刊歌集といふもの出づこれは現歌界を一通り見るに都合よし參考になつておもしろい實にひどい歌の陳列也君には送りし事と思ふ無ければ一册送るアララギの若手皆イヤだと申して出詠せず強ひて出せとも言はず本當はどちらでもよき事なり小生を無斷にて編輯者に入れて廣告するといふやり方なりとても眞面目の爲事でなしどうも小生彼等に跋を合せる事出來ず交りもせず惡口の焦點になり居ることよき修業也と觀念してゐます
今年の秋は文京郡と明日香へ行く萬葉をぽつ/\ほじくつてゐるつもり也切に御自愛を祈る君はいつ頃御歸朝の豫定なりやこれも序に伺ひたし 八月九日東京へ出立前高木にて 俊彦
茂吉仁兄侍史
東京へ來て見たら暑さ非常也依て今夜歸國する畫伯は房州に行かれて留守岡さんやゝ元氣快復糖尿病といへば長いであらう白秋のも藤澤に依頼する今月も相變らず唾を飛ばして大威張也 八月十一日夕方
(555) 一〇〇二 【八月十五日・端書 信濃下諏訪町より 東京市外代々木山谷三一六アララギ發行所 藤澤實氏宛】
〇只今別封九月集原稿トカツト下ノ原稿ヲ送ルカツト下ハ他ニアレバソレニシテイヽ九月集ハ大體アノ順序ソレニ君ト土田ノハ今度ハ加納ノ次ギ七美雄ノ前ニ入レ給ヘソノ他ヨロシク願フ(女性ノハイツモノ如シ)〇咋夜ハ遂白秋ニ一文ヲ書イテ今朝ニナリ一眠モシナイコレカラ豐田ヘ講演ニ行キ歸ツテ一寸文ヲ訂正シ明朝泉野ヘ行キガケニ停車場ヘ出ス歌ハ昨日半日ニ作ツタ選歌ニ引ツヅキ大車輪也驚キ給ヘ〇「詩ト音樂」五月號七月號ヲ今一度ヨク見テ小生ニ答ヘル文アラバ電報で知ラセクレ給ヘ直グ上京シテ書キ足シテモイヽ簡單ナラバ直グ切ツテ封入シテクレテモイヽ十六日夕方出セバ十八日朝ツク〇選歌ハ昨日出シタ〇辻村ノヲ今オクル別ニ〇小包今朝ツク大謝々々 八月十五日朝九時
其二
〇山房獨語を送る御落手下さい〇高田の談話欄を送る(同封)〇談話欄は一頁に不足ならん小生十七日に少し書いて送るそれと新刊紹介を書いて一頁にしてくれ給へ「藝術道徳」「ダヴヰンチ」は小生書いておくる〇森田サンより御稿來りしか〇小生の歌第三頸末句「清《スガ》しむわれは」のルビーありや否や無かつたら是非忘れずにルビー入れてくれ給へ〇君も一寸書くといゝ 八月十五日夜
一〇〇三 【八月十五日・封書 信州下諏訪町高木より 東京西巣鴨宮仲 川上四郎氏宛】
拜啓久しく御無音いたし候炎暑中御壯健被爲入候御事と存じ大賀奉り候小生頑健御安心下され度候
陳ば九月頃又々童謠集を出し申度三色版口繪一枚さし畫四枚(凸版)何卒御揮毫下され度奉願上候小生只今當方に居り手紙を以て御願申出で候段御高諒下され度御繁忙中恐入候へ共何卒御承却下され候樣奉願上候匆々
(556) 平素まづき唄をさし出し御揮毫を煩し恐入申候近來益面白く拜見いたし居候
口繪は御會心のもの何にても御自由に奉願候さし畫は歌を御目にかけ候かつて雑誌に御描き下されし如きもの結構に存じ候表紙は森田氏のあれをそのまゝ用ひ候(色を變へて) 八月十五日 俊彦
川上樣臺下
一〇〇四 【八月十八日・信濃下諏訪町高木より 東京市外代々木山谷三一六アララギ初行所 藤澤實氏宛】
〇岩波書店より長塚節氏病中日記原稿をアララギ發行所へ送りし由之れを芝區新幸町一木庭商會内長塚順次郎氏へ書留にて御送下され度候〇九月號二千部とすれば岩波樣へ何册お願する事になるかこの數前以て堤氏へ御知せ申上げ且厚く御願の意を申上げられ度候〇編輯便へは諸同人の消息書き給へ
齋藤茂吉氏御實父七月二十八日山形縣金瓶の御宅にて逝去の事も書いてくれ給へ中村の歌集小生の童謠集の事も願ふ小生のは信濃便り一頁明朝御送申上ぐべく候 八月十八日
一〇〇五 【八月二十日・端書 信濃下諏訪町高木より 北海道函館稱名寺 武藤善友氏宛】
遠路の御來訪に不在殘念至極存上候土田には御逢ひの御事と存候御歌毎月御出し下され度祈る所に候匆々
小生不在にても御泊め申すやう申付け置けばよかりしにうつかりして居り後悔此事に候いつか改めて御來遊の期あらんことを切に祈り候函館名果大へん具合よく拜味難有存上候 八月二十日夜
一〇〇六 【八月二十二日・端書 信濃下諏訪町高木より 東京市外代々木山谷三一六アララギ内 藤澤實氏宛】
うつくしく山の姿は顯れそめつ夜明けま近き空の明りに 相澤貫一
(557)校正間に合ひ候はゞつをぬに御改め願上候
〇長塚さんへあれを御轉送下され候哉(書留便なりしか)
〇森山藤一君より十六日アララギ發行所より同氏へ何か送りし事ありや(普通小包)
郵便局より同氏へ受取方紹介し來りしも受取りし事なしとの事に候六日頃アララギを送りし事の間違かも知れず同氏へ一寸ハガキ御出し被下度候(上スワ町末廣町に候) 八月二十二日
一〇〇七 【八月三十日・端書 信濃下諏訪町より 攝津國西須磨村 加納巳三雄氏宛】
第一「見ゆる也けり」は使ひ方利かぬ一般になりけりの使ひ方下手なる事は長塚さんもよく言うてゐる長塚追悼號を見給へ(中島某の書いた追悼文)原作よりも愚案猶よし完全とは思はねども少し御考へありたし第二よびて遊ばむ云々愚案はそれを單純化せしのみこれは君が喜んでくれると思つてゐた君も單純化といふが未だ歌になつて居らぬ呼びて遊ばんをずつと心の奥で單純化して見給へ來り遊ばんでいゝ。人の子とは愛人に近い詞にて親しみの詞なり萬葉には澤山ある「物思ひ瘠せぬ人の子ゆゑに」などは戀人の事也第三はまだ生まにて露はなとげ/\しい感じが勝つてゐるこれがしみ/”\内に籠るといゝ惣じて貴作誰も持たぬよき所ありて欣ばしい今一息の勉強を要す半年うんと苦しんで見給へそれを至祈至囑するアララギ今人乏しふん發を祈る事切なり
第二
近頃のアララギを見給へ小生等年輩者はいくらも振はず土田病弱馬吉一人ふん闘の有樣のみ君が半年ばかり苦しんでくれると實にいゝ君等が今一番力を入るべき時季也たまに歌を見せる位ではいくぢがない君の境遇はよく知つて居りその中で稀に歌あるは君の特長なれどそれを以て許すは惜しい如何々々 八月三十日
(558) 一〇〇八 【九月二日・端書 信濃東筑摩郡洗馬村より 東京市外代々木山谷三一六アララギ發行所 藤澤實氏宛】
地震發行所如何同人如何心配也電報とこのハガキと遲速如何焦慮の至に候匆々 九月二日
一〇〇九 【九月四日・端書 長野驛より 東京市外代々木山谷三一六アララギ發行所 藤澤實氏宛】
心配の至也昨日出發停車場毎に乘り得ずして後に殘され遂長野に來てこゝより今午後四時乘りこまんと思へど乘れるか何うか乘れても市内に入り得るか否か氣遣ひ也せめてもの心やりに此ハガキ書く體無事ならんことを神明に祈る匆々 九月四日午後二時 俊彦
一〇一〇 【九月七日・封書 東京市外代々木山谷三一六アララギ發行所より 信濃下諏訪町高木 久保田不二氏宛】
皆無事長野からは一度で乘れた各驛人波澎湃戰爭の如し五日朝大宮にて降車させられ七里の道を荷を負ひ五日午後東京に入る(途中より自働車ありて助かる發行所無事岡さん二度目の火事にて遂家を燒かれ全家發行所へ避難畫伯無事橋本無事岩波さん全家無事(書店は勿論燒く)高田はとてもだめと思ひ定め居りしに昨日(六日)午前十時突然シヤツ一枚にて來る驚愕言出でずこれは天佑以上の天佑也川向うは人口の七八分以上は確かに死せる由高田君の母妹四人は行衛不明の由高田は晝より明日の朝まで隅田川の水につかり或は岸に居て免る背中は燒疵點々たり岡さん二人の男のお子さん鎌倉に居り家の下になりやつと這出せりこれ亦天佑也岩波氏家族鎌倉にて無事これも天祐也元眞社燒けず食物やゝ供給をはじめし由なれども發行所は米殆どなし岡さんの持ち逃げし米を臨時用bひ居れり岡さん一家も著のみ著のまま也高田は一文も持たず慘状也小生三岳の時の如く足痛み二三日歸國出來ずこの手紙を藤森青二君の歸國に依頼し茅野か上諏訪驛にて出して頂く夜はデンキなしロウソクももう半本しか(559)ない家の子供贅沢するな
一〇一一 【九月七日・封書 東京市外代々木山谷三一六より 兵庫縣西宮町香櫨園池端 中村憲吉氏宛】
拜啓想像以上の天災也小生三日がかりにて大宮口より徒歩入京(五日午後)發行所畫伯皆無事岡さん二度目の火にて家燒かれ全家發行所へ避難岩波書店燒け小石川自宅に居り全家族全店員無事岡さん二人の男の子どもさん鎌倉に居り家の下になり這ひ出して無事岩波さん妻君子ども鎌倉に居りて無事青山もまだ行かねどあの方面は無事ならん地震大した事なけれど火にて大變になれり下町全部焦土死屍まだ片付かず小生ヘドが出はじめ日本橋より鎌倉河岸へ外れしもあの濠にも屍あり全く地獄を目の前に見る心地也高田昨日になり漸く來る(シヤツ一枚にて)一日晝より朝まで隅田川につかり居て助かりし由背には火のあと點々たり母妹四人見込なしとの事高田は本所ゆゑあきらめ居りしに天佑也川に居りし人大抵死にし由也アララギは發送のものだけ無事竹尾家燒く其他追々卸せる匆々 皆樣御自愛の事小生二三日して歸國すべし足痛み棒の如し 九月七日朝八時半 俊彦
中村君奥さんお子さん
茅野驛まで幸便
一〇一二 【九月十一日・端書 信濃下諏訪町高木より 東筑摩郡鹽尻小學校 曾賀日出夫氏宛】
在京同人皆無事御安心下され度候家燒けしは岡さん岩波書店高田廣野竹尾等也岡さん家族八人發行所へ避難アララギ千部だけ燒く(その日店にやりしもの)童謠集組版その他燒く右諸君へ御傳言被下度候匆々 九月十一日
高田隅田川に一晝夜浸りて助かる
(560) 一〇一三 【九月十一日・端書 下諏訪町高木より 南安曇郡梓村小學校 岡村千馬太・山田良春氏宛】
一昨夜歸宅東京アララギ同人皆無事家の燒けしは岡さん岩波書店竹尾高田廣野也岡さん發行所へ避難中也岩波さん店員まで一人も負傷なし橋本君一同無事アララギその日店にやりし一千部だけ燒く童謠集組版寫眞版燒く當分見込なしアララギの印刷所は燒けず太田君伊藤君も無事らしい東京の女を田舍女ならしめば女の死者恐らく半滅すべし田舍のどん底を養ふ事益々肝要也東京人の慌て方ひどすぎる御令弟安否如何御心配と存候 九月十一日
一〇一四 【九月十一日・端書 下諏訪町高木より 下伊那郡上郷村 小喜作氏宛】
三日上京一昨夜歸國天神町御令弟の處へ立寄りしに一同御無事家も燒けず潰れず御安心可被成候アララギ同人皆無事家燒けしは岡さん岩波書店高田竹尾廣野なり高田は一晝夜隅田川に浸りて不思議に助かりしも女四人駄目らしく氣の毒の至なり岡さん家族八人發行所へ避難せらる岩波さん店員まで皆助かる橋本君も同樣なりアララギ店にやりしもの千部だけ燒く童謠集組版舍眞版燒くアララギ印刷所は燒けず東京の女を田舍女ならしめば女の死者半滅すべし田舍人のどん底を養ふこと尤も尤も肝要なり樋口氏及び令夫人へも御傳言を願ふ 九月十一日
一〇一五 【九月十二日・端書 信州下諏訪町高木より 茨城縣稻敷郡安中村大字大山石橋義之助方 廣野三郎氏宛】
御手紙驚喜拜見先以て御家族御無事大した幸福に候君だけ分らず非常に心配してゐたり小生三日上京九日歸國高田は大川に浸りて助かる家族女四人だけ行衛不明何うも駄目らしい父と弟二人無事なり家燒けしはその他竹尾岡さん等也岡さん全家發行所に避難せりアララギ同人皆命ありし事天佑に候貴君は昨年今年ひどい目に逢はれ實に御氣の毒に不堪候岩波書店燒けしも店員無事家族も無事に候古今書院同様に候御安心下され度候土屋君深川在住(561)家族も無事なり御疲勞の後御全家御病みなさらぬやう切に祈上候アララギ店にやりし千部だけ燒く奥さんによろしく願上候 九月十二日
一〇一六 【九月十五日・端書 信州下諏訪町より 大和國生駒郡伏見村疋田 上村孫作氏宛】
御激勵下され如何計り忝く奉存上候在京同人皆生命無事御安心被下度候十月號は震災報告號として來る二十日私方より刊行十一月號より東京にて出し可申御安心下され度候九月號も會員へ配布分は燒けずに發行所に有之不日發送し得べく候萬事御力添奉願上候匆々 九月十五日
一〇一七 【九月二十日・端書 市外代々木山谷三一六より 東京市外大井町四一三八我妻醫院方 別所なか子氏宛】
三日上京九日歸國昨日上京明日又歸國貴下は尤も危險なりと思ひ非常に心配し二三日前藤澤が横濱に行き北方等をさがしたるも番地當該の所潰れずにありしも一切分らず貴下は實にむづかしいと思ひ居りしに昨日御ハガキ拜見驚喜いたし候これは天天祐中の天祐也特に御一家生命御無事と承り幸慶此上なく存じ上候定めて御不自由多からんと存上候來月初旬上京の節御目に懸り可申御主人樣へもくれ/”\宜しく御傳へ被下度候皆樣御大切に祈上候アララギ同人今囘悉く生命無事奇蹟に候本所の高田廣野も川に浸りて助かり候震災報告號明日出來上スワより發送可仕候皆々樣かへす/”\御大切に祈上候高田藤澤今發行所に居り候岡さんも隣りに居候病院生活は或はどなたか御負傷か御知らせ下され度候 九月二十日
一〇一八 【九月二十一日・端書 信濃下諏訪町より 兵庫縣西宮町香櫨園池端 中村憲吉氏宛】
今東京の歸り森山君宅に寄り報告號發送をしてゐる昨日元眞社支配人に逢ひしに十一月號よりは確實に引受ける(562)との事次いで岩波氏を訪ふ氏も今迄通り發賣所になる事勿論なりと言はる東京堂北隆館等もバラツク式にて仕事をはじむる由言はる「思想」も十月號を少し後らせて出す事にせるよし右につき御配慮下さりし印刷問題は充分解決つきし次第御安心被下度候猶萬々一の場合も考へざる可らず御留意願上候齋藤輝子氏を訪ひしに君の電報大へん喜び申候宅では十三日打電せし由に候輝子さんも大童にて連日働きしよしよき事也復舊修繕に金かゝる事も話し候小宮古泉二家を訪ひて畫伯に行き不在ゆゑ奥さんと話し歸宅せしに夜畫伯雨をついて來訪せられアララギ報告號は臨時號として十月號を平常の如く出すやう是から著手如何との事此元氣に並ゐる岡橋本藤澤高田小生大に瞠若たり結局十一月を倍大號にしてウンと厚くして出す事になれり(十月號は是から著手とても出來ません)さし當り君の歌は勿翰「震災雑感」を書いてくれ給へ何れも六七日までに高木につくやう小生七八日上京十日にきつちり印刷所に出す約束也この事必願上候奥さんによろしく願上候匆々 九月二十一日夜
コノハガキ森山君方にて書く
一〇一九 【九月二十二日・端書 信州下諏訪町より 兵庫縣西宮町香櫨園池端 中村憲吉氏宛】
いつもハガキ失敬昨夜森山汀川君方にて書きしハガキ二枚御落手と思ふ歸宅したら君の小包ついてゐた大した品物でこれは實に有難いかはせ東京へ通ずれば尤もいゝこれも忝い品物は此うちに東京行學生をさがして發行所へ屆ける御承知下さい十月號は實に見すほらしく却つて出さぬ方よかりし程に今思へど會員より危惧のハガキ頻りに來しゆゑ急に出す氣になり報告だけしたわけなり御承知願ふ咋夜皆發送せしゆゑ今日明日明後日頃は著くであらう十一月號は倍大號ゆゑ切に御奮發を願ふ「震災について」は諸同人皆書く事に四五人してきめたり之れも是非願ふ十月六日迄にすべて原稿こゝへつくやう願ふ七日上京十日原稿すべて印刷所に渡す約束して歸國せり(七日については間に合はぬ)これは何うあつても願ふ輝子君君が電報出せしこと非常に感謝してゐた畫伯元氣盛大(563)十月號を今一つ出せと言ふ元氣なりこれは間に合はぬ汽車猶混ざつ也一般義捐見當つかぬ十圓以上なら猶有難い一人百圓づつ贈るとして六七八人分六七八百圓集めるといゝ會員六百人三百人が二圓づつ出せば大體いゝ譯なれど何と行くやら分らぬそれゆゑ小生等は五圓か十圓出すといゝ併し十圓以上いく分にても多ければ多いほど有難い畫伯にも十圓願ふつもり也併し今後數年畫も需要少からん畫伯自身も警戒を要する也矢張十圓願ひ置かんと思ひ居る兎に角出來るだけ作りそれ以上致し方ない見當つかぬ罹災者も何人になるやら今の所不明なり築地藤子生存せり一昨日ハガキ發行所に屆く猶御意見御申聞せ願上候 九月廿二日
一〇二〇 【九月二十二日・端書 信州下諏訪町高木より 東京市外代々木山谷三一六アララギ發行所 岡三郎氏宛】
拜啓昨朝は未明に御起床御見送り下され非常に恐入申候小生はいつも禮を缺き居り心ぐるしく存上候何卒御赦し被下度候歸つて見れば中村君より貴宅へ御見舞品屆き居りこれは誰か上京の學生に御屆申上げるやういたすべく品物は女物羽織著物(冬)男の羽織著物(冬)これは御仕入れの御參考のため御却せ申上置き候留守中アララギ何分奉願候ハガキ失禮御ゆるし被下度アララギは昨夜悉く發送いたし候匆々
奥さまによろしく願上候 九月二十二日朝
一〇二一 【九月二十二日・端書 信州下諏訪町高木より 東京市外代々木山谷三一六アララギ内 藤澤實・高田浪吉氏宛】
昨夜悉く發送森山丸山守屋(例の守屋君にあらず)諸氏手傳つてくれ候リクサツク徒歩中墜落閉口いたし候肩にかつぎ歩き候袋破つて申譯なし御承知下さい歌と文章必御用意の事高田君もふん發せよ文章は君のはあの時の光景を只寫生的にありのまゝに書いて見給へきつと非常也萬事願上候三種便もういゝだらうとの事フリカヘも願ふ 九月二十二日夜
(564) 一〇二二 【九月二十三日・端書 信濃下諏訪町より 東京芝區白金三光町五三八 辻村直氏宛】
御宅大破の由は岡氏よりも承りたれど遂參上出來ず失禮いたし居候定めて御心痛の御事と存上候只アララギ同人悉く生命無事なりしは天の助くる所と存じ驩喜いたし候高田廣野築地藤子等の無事なりしは實に天祐に候十月號を右報告號として一昨夜上スハより發送いたし候其内御落手と存じ候九月號は發行所に殘り居候皆々樣御自愛の程願上候來月御目に懸るべく候
高田は發行所に居候小生地震以來二囘上京いたし候御全家皆々樣に宜しく願上候匆々
「震災雑感」短文十月八日迄に發行所に屆けて下さい十日に〆切りて印刷所に渡す約束なり 九月二十三日
一〇二三 【九月二十三日・端書 信濃下諏訪町より 東京市外中野町上の原 森田恒友氏宛】
今囘は非常の天災にて驚嘆いたし候御宅は高地ゆゑ御異状なしと存上候へ共猶御損害等も如何かと心に懸り候二度上京せしも歩きまはり居りて遂伺ふ能はず失禮いたし居候アララギ同人皆生命無事御安心下され度候雑誌も十月號は報告號としてこちらで出し十一月號より東京で出すことに印刷所と約束いたし候間御安心下され度候童謠集につき橋本君御相談を願ひに參上可仕何卒願上候箱の木版燒けしは實に殘念に候表紙も同樣に候御自愛專一奉存上候匆々 九月二十三日
一〇二四 【九月二十三日・端書 下諏訪町高木より 東京神田區佐久間町四ノ四森田與一方 淺羽茂太郎氏宛】
御震災深く御同情申上候アララギ同人悉く生命無事なりしは天助と存じ候これより隨分御苦心なさらねばならず人間本來の力は左樣の所より生れ申すべく御緊張のほど祈り上候歌も左樣の所から生れ申すべく存じ候小生震災(565)後二囘上京十月號は上スワにて發行已に發送せり十一月號よりは元眞社にて從來通り出ることに約束成り候間御安心下され度候燒け出されしは岡高田廣野齋藤義直竹尾築地藤子等に候御自愛祈上候匆々
貴下の雑誌も三種郵便通じ次第送るべく候 九月二十三日
一〇二五 【九月二十三日・端書 信濃下諏訪町より 東京府下瀧野川町五二一 高木今衛氏宛】
コンナハガキ失禮々々
御無事大賀存じ上候十一號より元眞社で出し可申候地震以來小生二度上京十月號は一昨夜上諏訪より發送いたし候九月號は發行所に保存有之岩波書店へやりしもののみ燒失いたし候岩波氏へのもの如何なり居るやこれは小生にも貴君にも重要事に有之御知せ願上候匆々
御令閨もお子さんも此際病氣せぬやう御注意肝要に存上候 九月二十三日
一〇二六 【九月二十四日・端書 信濃下諏訪町高木より 東京市外代々木山谷三一六アララギ發行所 藤澤實・高田浪吉氏宛】
只今松本より歸りしに元眞社の原稿五日迄に屆けよと橋本氏より申來る五日〆切り六日屆けていゝであろ五日を面會日に通知してくれ給へ岡さんに短文はどうしても書いて頂くやう願ふ事振替何日より取扱ふか往復ハガキで問合せてくれよその模樣で會員へハガキ出し當分カハセで送金するやう通知出す色々願ふ 九月二十四日夜
一〇二七 【九月二十七日・封書 信濃下諏訪町高木より 大阪市東區農人橋一ノ十六池崎商會 池崎忠孝氏宛】
今度上洛の節は御面晤を得度存じ居候
拜復御激勵下され如何計り歡しく奉存上候何うも非常の天災にて驚嘆し切れぬ感有之候東京の人も急に人間のど(566)ん底赤裸々の姿を知り得て考へ直す心出で候哉に見受けられ候あゝいふ時は何人も一樣に緊張して割合に沈著なるは會心の感有之候色々人間の美しき所を見せられ候これは有難き事に存じ居候アララギ十一月號より平常の如く出し得べく御安心下され度候來月十一月號は震災號として諸家の「震災雑感」をのせ申度もし短文にても御寄せ下され候はゞ望外の幸に存上候印刷上の都合にて十月五日迄に必印刷所へ屆けねばならぬ約束になり居り恐入候へ共十月三日迄に東京のアララギ發行所に著き候樣御發送奉願候御多忙中へ恐入候へ共御願申上候御禮旁御願申上候匆々 大正十二年九月二十七日 俊彦
赤木仁兄侍史
一〇二八 【九月廿八日・封書 信州下諏訪町高木より 沖大兄氏ニ托ス 藤澤實氏宛】
コノ手紙沖大兄君ニ依頼
拜啓何度モハガキ出シタガ著否コノ際明ナラズ重複ト思ヘド左ニ箇條書キニスル(二十六日君ノ出シタハガキハ今日ツク)
一、アララギ發行所九月ノ會計ハ振替通ズルマデ倉持サンニ願ヒオキ給ヘ(倉持サンニ臨時融通シテ頂キ振替來次第御返却)コノコト正確ニ倉持サント話シ合ヒオクコト金高モ正確ニ計算シオキ明白ニスルコト
一、振替ハ兎ニ角東京振替貯金課宛拂下手續郵送シオクコト(紛失ハ大丈夫ナシイツモノ如ク通信事務ト朱書シ差出シオケバ通ジ次第早ク來ルベシ)
一、十一月號ハ橋本氏ノ通知ニヨリ五日夕方〆切六日早朝全部元眞社へ原稿屆ケルコト五日小生面會日ノコト(成ルベク晝間トス)
一、震災燒跡スケツチ平福畫伯ニ願ヒ口繪トシテ早ク元眞社ヘ社眞版依頼ノコト(畫伯ヘハハガキト電報出セリ)
(567)一、表紙寫眞版ハ既ニ元眞社ヘ頼ミ下サリシヤ(スベテ寫眞版等元眞社デ困ルコトアラバ橋本君ニ依頼周旋シテ頂ク事)
一、中村君ヨリノ五十圓ハ岡サントアララギ義損金トニ充テロト今日中村ヨリ小生ヘ申來レリ感謝々々コノウチ三十圓ヲ岡サン二十圓ヲアララギ義捐金ニスルガヨイカト思フ君參上シタラ御意見伺ツテクレ給ヘソシテソノ金ハ直グ岡サンヘサシ上ゲテクレ給ヘ布團類等買入レニ要ルデアラウ殘金ハ成ルベク用ヒヌヤウ保存シテオキ給ヘ
一、震災雑感ハ君モ高田モ竹尾モ必書クコト畫伯ト森田サンヘモ必ト顧ヒオケリ猶君ヨリモ願ヒ給ヘ五日マデニハ必屆クヤウ辻村ヘモ廣野ヘモ横山ヘモ河西ヘモ齋藤義直ヘモ申シテヤツタ猶願フ西田先生安倍能成木下利玄岩波茂雄西尾實諸氏ニモ依頼出シテオイタ中村加納土田土屋結城等ニハ勿論ハガキ出セリ中村、加納必書クト返事アリ土田書ケレバ書クトイフ土屋、胡桃澤返事ナシ十一月號ハ目ザマシク出ルト信ズル小生毎日一心不亂ニヤツテヰル土田カラハ歌來テヰル(昨日)岡サンヘ文章歌ノ願ヒヲハガキデ出シタガ著否如何猶君ヨリ御願ヒシテ下サイ必ト畫伯ヘモ必ト(歌文章)
一、震災報告號ハ二十二日發送各地ヨリ返事一昨日ヨリ蛸集皆赤心ヲ以テ喜ビ來ルアレガ早ク出タタメ會員ハ安定シタヤウダ小生各人ノ返事ニ感激シ居レリ皆保存スルツモリ也義援金モ此三日間ニ百五圓バカリ集レリコノ勢ナラバ豫定ノ六百圓以上ニ進ムナランサウスレバ一人ヘ百圓位ヅツサシ上ゲラレル實ニイヽ成績デアル物品ハイケヌカト福岡ノ女人伊藤某ヨリ申來レリ君ノハヨシト返事シテヤレリ實ニ有難イコノ模樣高田ニモ知ラセテクレ給ヘ高田ハ體弱ラセテハイケヌイク分ヨキ食物モ取ルベシ
一、小生ハ三日夜行カ四日朝ノデ上京スル事ニヨレバ五日夜カ六日早朝東京ヨリ小諸ヘ行ツテ歸京スル(二日滯在)コレハマダ分ラヌ小諸ヨリ發行所ヘ手紙來タラ保存シテオイテクレ給ヘ
(568)一、沖大兄君明日小宅ヘ立寄ツテ上京シテクレル筈也沖君ニコノ手紙ト報告號ト岡サンヘノ小包(中村ヨリ)ヲ托ス
一、報告號ハ過日包紙ヘ書キ漏シノ人ヘ御送願フコレモ發送出來ヌカト思フ岡サン畫伯岩波ソノ他ノ方ヘハ序ノ度ニ持參シテサシ上ゲルトイヽ畫伯ヘモ未ダ屆カヌデアラウ早ク御見セ申シタイ
一、昨日小生宛ノアララギ九月號一册突如郵便ニテ屆イタコレハ何ウイフワケカ或ハ已ニ發送出來シカ
以上ゴタ/\書ク萬願上候匆々 九月二十八日 俊彦
君の上伊那御宅へ小生三日上京といふハガキ昨日出せり和辻哲郎氏へ「震災雑感」短文にて宜しく四日迄に御書き下され度と願上げてくれ給へ小生より申上げたけれど住所番地を知らず代つて御願ひせよと申來れり云々といふやうに認めてくれ給へ五日正午頃頂きに參上すると書いてもよし(千駄ケ谷ならむ)
藤澤君
一〇二九 【九月二十九日・封書 信州下諏訪町より 東京市外代々木山谷三一六アララギ發行所内 藤澤實・高田浪吉氏宛】
拜啓二十七日出の御ハガキ今日落手倉持さん大熱は大に困り候どんな模樣か醫師によく診てもらふやう願上候決してもう無理してはいけぬそして萬一チブスなどにしては大變也よく/\御注意願上候今日沖君雑誌もつて上京せり御落手と存候萬事願上候表紙金版も頼みしか(アララギの四字金版也)萬一間に合はねばこちらで新調せし木版を持ち行きてもよし(兎に角持つて行きませう)高田君によろしく匆々 九月廿九日夜 俊彦
藤澤君
一〇三〇 【九月三十日・端書 信州下諏訪町より 東京市外下澁谷 齋藤義直氏宛】
震災報告號二十二日發行東京のは今日沖君上京に託し發行所へ屆け候御序に御持ち下され候はゞ好都合と存じ候(569)小生四日上京五日夜信州小諸町へ參り候稿その間に拜見し得ば幸に候「震災雑感」御書き下され度候五日中に印刷へ廻し可申候奥樣によろしくお子さん御丈夫にや御自愛祈上候匆々
一〇三一 【九月三十日・封書 下諏訪町高木より 東筑摩郡洗馬村小學校 小口惣太郎氏宛】
拜啓昨日は態々御來宅下され貴會よりアララギに對し多大の御見舞を賜り何とも恐縮の至奉存上候同人一同如何計り感激可仕奉存候小生十月三日第三囘の上京いたさねばならずそれ前少々忙しく筆意を盡さず何卒諸兄へ可然御禮御傳へ奉願候匆々 九月三十日夜 俊彦生
朝日今井笹賀三校へアララギ報告號差上げ且三校長宛禮状差出し申候アララギは貴兄の手に有之候故貴校へは差出さず御承知被下度候御志望も候はば御申遣し被下度御送可申上候
小口大兄侍史
一〇三二 【十月二日・端書 信濃下諏訪町より 兵庫縣西須磨村 加納巳三雄氏宛】
御返事はこちらへ願上候小生明日上京七八日歸國可仕候
妙な事を伺ひ上候君には流行おくれで著ないといふ洋服ありやもしあらば小生に御讓り被下問敷哉それを著て二週間位の旅に出たいかと存候今君の使用してゐるものは絶對に不可なり實は急に滿鐵より講演に來いと申來り或は行かんかと思案中なり洋服新調してはたまらぬ小生如き閑人は大古もので足る故に御伺ひ申上候御笑ひ下さるべしと存候無理しては不可呉々も不可 十月二日
一〇三三 【十月七日・端書 代々木山谷三一六より 市外上大崎四一二福田良太郎方北隆館内 丸山冷長氏宛】
(570)生命御無事大賀存上候アララギ一同生命助かり候間御安心下され度候十月號は九月二十日信濃より發送致し候十一月號は増大號として從來通り束京より出で可申御安心下され度候賣捌につき御配慮願上候匆々
小生一二日中に下スハ町へ歸國可仕候 十月七日
一〇三四 【十月十日・封書 信濃下諏訪町より 東京市外代々木山谷三一六アララギ發行所 藤澤實・高田浪吉氏宛】
編輯便部
△今囘の震災にて左千夫先生御遺族住居御無事幸慶存上候
これを辻村君の助かりし記事の前に入る
△蕨一郎氏よりアララギへ見舞とLて金二十圓御寄送下され忝く奉拜謝候
これは君の所の終りへ入れる、或は小生の所の終りへ入れてもいゝ(十月七日)は元のまゝにしておいて次へ
△………………(十月▲日)▲金のついた日を書く、と入れゝばいゝ
○それから會費記入の紙をこちらへ持つて來てしまつたから同封して送る御記帳被下度候高田君風邪大切の事藤澤君今朝は有難う色々願ふ 十月十日夜 俊生
藤澤君
△ソレカラ小生ノ絹ノ夏シヤツヲ忘レテオイテ來タカト思フ八疊ノウチカソノ押入ノ右下アタリカヲ見テオイテクレ給ヘ
一〇三五 【十月十一日・封書 信濃下諏訪町高木より 東京市本郷區駒込曙町十三 寺田寅彦氏宛】
拜呈過般御願申出でし事有之候信濃南安曇郡教育會より又々御講話相願度切望小生まで申參是非小生より御願(571)申上候樣懇囑し來り候これは「來年にもならば」と昨年言葉を殘し置きしよりその時節を待ち居りし事と存候御健康及び御爲事に多く御差支無之範圍に於て御承知下され候はゞ幸慶の至奉存候汽車もその頃(十月未)にならば混雑少かるべく存じ候御都合御返事下され度奉願上候序に爲念同會當事者よりの手紙同封致し候時間三四時間とあれど是れは御隨意にて宜しき事に候御出でさへ下さらば如何計り喜び可申候匆々 十月十一日 俊彦
寺田寅彦樣侍史
過日は御多忙中へとんだ御願申出で失麗奉存候萬一今月中位に御執筆下され候はゞ大謝の至に奉存候短文にて宜しく候
一〇三六 【十月十一日・端書 信州下諏訪町高木より 攝津國西須磨村 加納巳三雄氏宛】
南滿より乘車券つき次第出立のつもりに候
昨夜東京より歸り貴書發見冬服の事忝し御來示の通りで結構也何卒願上侯カラもワイシヤツも願ふ(十五でいゝ)オーバコートも願はれ候はゞ有難し無くば電報願ふこちらで作らせ候大抵十八九日頃出立と思ふ靴はこちらで作らせ候丸で俄か芝居なり滑稽の極なり神戸下車神戸若くは貴宅にて著替へその夜中村宅に泊るか夜行で出かけ度候歸りに貴宅へ御寄り申上度候へば成るべく神戸で著かへさせて頂けば尤も有難し我まゝの出放題御驚き下さると存候一日も早く歸つて十一月二日の面會日五日〆切の原稿書く要あり御寛恕奉願候何れ詳しき日取時間は御知せ可申上候すべて心苦しき御願にて心怯れ候へ共致し方もなき場合思ひ切つて御願申上候大切に著用可仕候下著はこちらにて求め可申御用意なく願上候奥さんへかへす/”\よろしく御傳言願上候匆々 十月十一日夜
神戸の御宅の町名番地屋號御知せ被下度候
(572) 一〇三七 【十月十一日・端書 信濃下諏訪町より 山梨縣鰍澤町 志村治之助氏宛】
御地も被害多かりし由御宅も多少の御損害御氣の毒に奉存候さる中にて義捐金御送下され恐縮の至奉存候深く御禮申上候猶歌御べん強下され度冀上候匆々 小生昨夜歸國いたし候 十月十一日
一〇三八 【十月十二日・封書 信濃下諏訪町高木より 大連市伏見臺七區十ノ六 池内忠義氏宛】
拜啓度々の御懇書恐縮の至奉存上候御厚志に依り候事と奉存上候小生の講演何程の値打もなく心怯れ候へ共御懇情に任せ參上の決心仕候依て只今南滿社牧野虎次樣宛て電報出し同時に貴兄へも電報出し申候乘車賃の事まで御心配下され難有奉存候往復十日乃至十二日位にいたし度日取等宜しく御打合せ願上候猶小生は多く旅行に馴れず貴地の習慣に熟せず萬事御指圖奉願上候出立の途中釜山か京城かで電報さし上可申候
左の諸君は會員に候貴兄より御傳達奉願候
寺子溝十一 湯本勇之助 神明町高等女學校 秦楠於 近江町ウ區三八城島方 羽室長靖 同前 武田尊市 乃木町四ノ一號 玉木道之助 市外嶺前屯嶺前莊 溪友吉 鞍山井々寮一七七號 加藤鐶 瓦房店列車區 清水健雄 旅順乃木町三ノ一 荒川憲之 大連山縣通三井物産會社 石原善吉 越後町メ區一號地 江口とり子
或は違ひ居るかも知れず遺漏あるかも知れず候牧野樣に宜しく願上候萬拜芝を期し候候々 十月十二日 俊彦
池内樣侍史
東京宛震後第三信も拜受仕候書き出したる氏名は遠方まで念のため認め候御通知は御取捨被下度候
(573) 一〇三九 【十月十二日・端書 信濃下諏訪町より 下伊那郡飯田町傳馬町八四 樋口しほ子氏宛】
大謝々々奉存候御身内御火難に罹らせられ候由何とも御氣の毒に不堪今囘の事はどちらへ向いても詞出で申さず候高田家族四人は駄目に候あの邊は全滅の家多く候へばまだ仕合の方に候(仕合せとはひどい詞なれど)昨夜東京より歸り拜見取急ぎ御返事申上候御主人樣へ宜しく奉願候 十月十一日
一〇四〇 【十月十二日・端書 信濃下諏訪町より 大連市神明町高等女學校 秦楠於氏宛】
御無沙汰してゐます今度南滿會社社會部長牧野虎次氏より沿線各驛で講演せよとの事申來られ只今承諾の電報出しました廿日過ぎに御地へ參上するかと思ひます萬御面晤を期しますかねて御依頼のものも書いて持參します伏見臺七區十ノ六池内忠義氏が滿鐵へ提言して下さつたのです同君にも未だ逢つたことありません諸君に遭へることを樂しんで出かけます
今度の震災でアララギ同人生命無事御安心下さい只九月號店にあるものを燒きしためその印刷費紙代等支拂ひだけ厄介になりました小生としては童謠集が九月に出る筈であり十一月は第四歌集出すつもりのが駄目になりました之れは難中の小難です命からがらの中でこんな事は言ふにも足りません報告號は御覽と思ひます 十月十二日
一〇四一 【十月十三日・端書 下諏訪町より 大連市近江町三丁目西五城島方 羽室長靖・武田尊市氏宛】
拜啓震災義捐金御送下され御厚志奉謝上候陳ば今囘滿鐵會社の招きにより十八日當地出立貴地まで參り可申或は御目に懸り得るかと存候日取等は滿鐵社會課長牧野虎次氏若くは伏見臺十ノ六池内忠義氏かに御問合せ下され度候右御禮旁一寸御知せのみ申上候過日は電報御出し下され難有存上候 十月十三日
(574) 一〇四二 【十月十四日・端書 下諏訪町高木より 上伊那郡伊那富村小學校 中山滿吉氏宛】
拜啓只今北信より歸宅御書面拜見いたし候御延期の事は少しも苦しからず存じ候只小生滿鐵社の申越により十七八日出立ハルピン大連間四五ケ所に講演の筈に有之昨日は電報にて催促し來り居り十七日か十八日に出かけ申度歸國は月末となり可申それより直ぐ出京五日迄に原稿を〆切り印刷所に渡さねばならず歸宅は十日頃になり可申いつそ收穫終る頃の二十日過ぎになされては如何併し之れは貴方にも御都合有之候へば此度は他の人を招聘なされ候事如何に候か小生は來年にでも伺ひ可申候之れは何れとも御自由に御定め被下度候 十月十四日夜半
中山滿吉兄
一〇四三 【十月十五日・端書 下諏訪町高木より 諏訪郡湖南村小學校 小林清信・藤森平右衛門氏宛】
態々御來宅恐入候十一月未の事拜承いたし候少し忙しく右のみ申上候匆々
十八日出立月末には歸り可申候歌は小宅へ送つておき給へ 十月十五日
一〇四四 【十月十五日・端書 信濃下諏訪町高木より 大連市越後町三 江口とり子氏宛】
拜啓震災義捐金難有拜受任候小生今囘滿鐵社の招きにより貴地へ參上可仕十八日出立二十日過到著と存じ候或は御面晤を得べきかと存候日取は同社社會課牧野虎次氏か伏見臺十六池内忠義氏かに御問合せ被下度候御禮旁御知せ申上候匆々 十月十五日
一〇四五 【十月十七日・端書 信州下諏訪町より 相州大磯臺町 加藤淘綾氏宛】
(575)震後如何計り御困難の御事と存じ上げます義捐金は斯樣な御方へさし上げ度く存じて募りますので今日御送のは御返し申上げたく存じますその心御分り下さるかと存じます私今日滿鐵社に招かれて大連まで參ります少々取急ぎ居り失禮乍ら取あへずハガキの御返事差上げます何れ歸來書き上げます御自愛祈上ます 十月十七日
一〇四六 【十月十七日・端書 信濃下諏訪町高木より 東京市外西巣鴨宮仲二二四三 武田祐吉氏宛】
拜啓アララギ新年號のために「校本萬葉の由來」若くは「燒失せる萬葉諸本について」といふ如き題目にて一文御起稿下され候は々大幸の至奉存候十一月一ぱいにて宜しく右何卒奉願上候匆々
度々の御願御寛容奉願上候小生明日より半月ばかり大連ハルピン間に遊び可申候 十月十七日
一〇四七 【十月十九日・端書 對馬水道より 東京市外代々木山谷三一六アララギ發行所 岡三郎・藤澤實・高田浪吉・倉持つや氏宛】
昨夜中村加納と神戸で夕食し今朝下關著午前十時半出帆海上好日和也今左手に遠く對馬連山見え居り今夜直ぐ奉天行にのり明夜おそく奉天につくべし何れ又御知せする
沖がぼんやりしてゐて壹岐は見えませんでした岡さんへ連名失禮々々 十月十九日夕方五時 俊彦
一〇四八 【十月十九日・端書 對馬水道より 東京市外代々木山谷三一六アララギ發行所 岡三郎・藤澤實・高田浪吉・倉持つや氏宛】
信濃から丸三晝夜半汽車にのりつゞけました京城以北殊に平壌以北の荒涼たる野が頭に沁みました鴨緑江附近は山遠く野ひろく川大きくて落日が異常の感を惹きました安東以西地に雪あり奉天より乘りかへて今朝大連著これから旅順行のつもり急ぎますから簡單に書きます元氣益旺盛御安心下さい明夜更に北行き長春撫順まで行きます發行所萬事願ひます十月廿一日旅順行前忙しく書く 十月廿一日
(576) 一〇四九 【十月二十二日・端書 大連市信濃町花屋より 東京市外代々木山谷三一六アララギ内 藤澤實・高田浪吉氏宛】
昨夜著旅順二百三高地頂上にて夕日渤海灣に入る山上の岩むらや枯草に夕日の殘る頃沈黙して當時の日露將卒を思ひ候今日話今夜又奉天に引返し次に長春次に撫順次に鞍山次に又大連卅日出帆船にて下の關に向ふ二日面會日の原稿預りくれよ編輯は間に合はせる 十月二十二日夜
一〇五〇 【十月二十三日・端書 奉天琴平町瀋陽館より 東京市外代々木山谷三一六アララギ發行所氣付 岡三郎氏宛】
二百三高地で夕日の渤海わんに沈むのを見ました山の岩むらに殘光のあるのを踏んでやゝ感慨に沈みました道ばたに量らず小さな骨片を發見しました今朝奉天へ引返し明日長春明後日撫順次に鞍山次に湯崗子(温泉場)それより更に又大連へ出ねばならず依つて三十日船で大連を立ちます東京に入るのは三四日頃になりませうと思ひます御家族皆々樣御變りありませんか何卒御自愛祈上げます小生甚だ元氣です足(踵)が靴ずれでいたむゆゑ今支邦靴を買つてゐる所です私の座の前支那兒童が靴の箱を持つて來て畏まつてゐます
二十日雪ふり昨夜又ふる 十月二十三日午前十一時半書く
一〇五一 【十月二十三日・端書 奉天より 東京府下上落合 築地藤子・阪田幸代氏宛】
朝せんより大連に入り旅順を拜見今日又奉天に來る北陵及び城内宮殿の宏壯美麗なるに驚き候一望平蕪にして山なし昨夜又雪ふり寒き事信濃の冬の如し明日長春次に撫順次に鞍山次に温泉次に大連に引返し三十日出帆のつもりに候小生元氣御安心下され度候藤子さんよりの御手紙出がけに拜見いたし候匆々
支那の子どもの小學通ひ可愛しあの頭あれはいゝ
(577) 一〇五二 【十月二十四日・端書 奉天瀋陽館より 東京市外代々木山谷三一六アララギ發行所内 藤澤實・高田浪吉氏宛】
大連より奉天まで汽車十一時間の間すべて日露戰爭の跡也今日奉天北陵(清朝の墳墓)及び宮殿を拜觀し規模の宏壯にして輪奐の美なるに驚けり昨夜又雪ふる今日天晴れて寒き事信濃の冬に等し小生元氣旺盛也萬事願ふ明日長春明後日撫順(二泊)次に鞍山次に温泉次に大連次に出帆下ノ關に向ふ萬事願ふ倉持さんに宜しく竹尾辻村その他諸君にハガキ御見せ下され度候今日頃校正と思ひ居る二十二日大阪朝日を今朝見た保存してくれ 廿四日朝
一〇五三 【十月二十四日・端書 長春行汽車中より 大連市伏見臺七區十ノ六 池内忠義氏宛】
北陵の規模宏壯輪奐美麗なるに驚けり域内宮殿亦然りどうも大變よかつた足痛み支那沓にて歩き居る滑稽なり奉天は千人位入るべき公會堂に聽衆十人足らずなりきこれは又滑稽なり主任の人には會場で逢ひしのみなり併し宿屋にて停車場までの面倒見てくれ大變便利なりき奉天の新聞のどれにも小生の來し事書いてないやうなりこれが當然にて驚くことなし今汽車に搖られつゝこのハガキ書く大連で早く君等に逢ひたい御躰如何大へん疲らせて申譯ない 十月廿四日午前十一時 俊彦生
一〇五四 【十月二十四日・端書 長春行汽車中より 鞍山井々寮一七七號 加藤鐶氏宛】
拜啓計らず貴地へ參る事になり廿七日午前十時半御地到著可仕或は御目に懸り得るかと存候一寸御知せのみ申上候詳しくは滿鐵事務所社會課にて御聞き下され度候只今汽車中にて急ぎ書き申候匆々 十月廿四日
一〇五五 【十月二十五日・繪端書 滿洲より 東京 竹尾忠吉氏宛】
(578)今日長春より奉天へ引返す所です今夜撫順につき二泊しますそれから湯崗子温泉に體を休めて大連に引返し三十日出帆歸國いたします何處まで行つても一望只平蕪ですもう雪がつもり空が限りなく澄んでゐます大陸といふ感じがします旅順では二百三高地頂上で夕日の渤海に沈むを見ました感慨多かりき匆々
日本人町は斯の如くよく整つて道路もよく出來てゐます 十月二十五日
一〇五六 【十月二十六日・繪端書 撫順より 日本北海道函館市稱名寺内 武藤善友氏宛】
十九日より朝鮮をへてこちらに來てゐます昨日長春より奉天に引返し夜半に撫順へ來ましたすべての苦しみに堪へて歌御勉強なさるやうこゝより遙かに祈り上げます明日湯崗子温泉に休養し大連に引返し卅日に大連より出帆歸國します北陵は清朝の御陵です隨分思ひ切つた宏麗のものです一望平蕪の中に斯ういふものがあるので餘計大きさを感ぜさせられます 十月二十六日 俊彦
一〇五七 【十一月一日・端書 下關より汽車中 東京市外代々木山谷三一六アララギ發行所内 藤澤實・高田浪吉氏宛】
大連より丁度二晝夜で黄海と玄海灘を通り越した今下關で電報出せり御落手と思ふ明日神戸中村加納に逢ひ三日中に下スハへ歸り五日頃上京依て編輯二三日後れる相濟まぬ今濱野君へも端書出せり御承知願ふ小生元氣益盛なり滿洲行は實によかつたアララギはハガキのみ著きて雑誌つかぬうちに出帆せり 十一月一日午後三時十分書く
一〇五八 【十一月四日・端書 下諏訪町高木より 滿洲鞍山中學校 矢澤邦彦氏宛】
拜啓今囘は圖らず滿洲のまん中にて御兩所に御目に懸り且つ非常の御厚意に預り御蔭樣にて旅愁を忘れ喜悦と感謝の心に滿ち申候昨日無事歸國明日直ぐ上京可仕甚だ失禮ながらハガキにて取あへず御禮申上候御令閨樣お子さま(579)方にも宜しく願上候御家のうらの芝原今も目の前にある心地いたし候匆々
アララギ毎號御送可申上御一覽下され候はゞ仕合せに存じ候 十一月四日
一〇五九 【十一月四日・端書 信濃下諏訪町高木より 大連市越後町メ區一號地 江口とり子氏宛】
何ウモ今囘ハ非常ナ御世話ニナリマシタ御蔭樣デ愉快ニ大自然ノ中ヲ巡遊シマシタ長春デハ御令弟樣ノ御厄介ニナリ非常ニ旅情ヲ慰メラレマシタ何ウカ御序ノ節宜シク御傳達願上ゲマス御歌毎月御勉強ノホド祈リ上ゲマス私方ヘ御送リ下サツテ宜シウゴザイマス此間ノハアノマヽ十二月號ヘ出シマス御承却下サイ昨日歸宅明日上京忙シク乍失禮ハガキニテ御禮申上ゲマス御主人樣ニモ宜シク願上ゲマス猶貴重品御贈リ下サレ恐縮存ジ上ゲマスコレヲ永久記念ニシマス市花照子サンノ住所姓名御教ヘ願ヒマス 十一日四日
一〇六〇 【十一月四日・端書 信濃下諏訪町高木より 大連市伏見臺七區十ノ六 池内忠義氏宛】
今囘は御厚意により滿洲を遍歴し且つアララギの諸君にも親しく御目に懸つて如何許り歡ばしく存じます諸君に御厄介ばかり懸けて甚だ心苦しかつたが諸君の御厚志は心に沁みて忝く存じました特に君は初より終まで色々心配して下さつて何とも感謝に堪へぬ小生も新しき境土で得た生命の新鮮さを持して益々勉強するつもりです諸君の懸命に御勉強なさることを祈る心甚だ切です海上無事昨日歸宅明日上京甚だ忙しきゆゑ失禮乍らハガキで失敬します御歌は今後下スハの方へ送り給へ毎日必送り給へ苦しむつもりで直進してくれ給へこれのみが只小生の※〔目+屬〕望です奥さんに宜しく願ひます諸君へもハガキ出すが猶宜しく願ふ 十一月四日
一〇六一 【十一月四日・端書 信濃下諏訪町より 神戸市元居留地浪花町六十四番館信友組 加納巳三雄氏宛】
(580)今囘ハ君ノ御蔭デ滿洲ヘ行カレ何トモ御禮ノ詞ナク恐縮感謝スル神戸デノ御厚遇何トモ忝イ寫眞モ記念ニスル明日上京七日ニハヘン輯スマセル御尊父御令閨御弟妹サンニ宜シク願フ
御令弟ノ宿ノコト上京後同志社監督ノ笹岡君ニ逢ツテ話ス 十一月四月
一〇六二 【十一月四日・端書 信濃下諏訪町高木より 大連市三井物産會社 石原善吉氏宛】
今囘ハ實ニ非常ナ御厄介樣ニナリマシタ御蔭樣デ滿洲ノ大自然ヲ愉快ニ遍歴シマシタ何ウモ何囘モ御出迎八御案内ヲ願ヒ且ツ御見送下サレ恐縮ノ至リニ存ジ上ゲマス何卒御歌御勉強下サルヤウニ祈上ゲマス昨日歸國明日上京忙シク御禮ノミ申上ゲマス猶貴重品御贈リ下サレ深ク御禮申上ゲマス 十一月四日
一〇六三 【十一月十一日・端書 代々木山谷三一六より 府下西巣鴨大字池袋九七〇 廣野三郎氏宛】
拜啓萬葉假名交り書き下しを貴兄御擔當下さりませんか恐入候へ共發行所へ夜御出で下され候て藤澤君と御相談下され度奉願候委細は藤澤君分り居候匆々
古義によるものなり 十一月十一日
一〇六四 【十一月十四日・端書 信濃下諏訪町より 東京市外代々木山谷三一六アララギ發行所内 藤澤實・高田浪吉氏宛】
〇父平靜御安心下され度候〇畫伯來年の口畫裏畫出來廣瀬君に依頼し下さりし由これは早いがいゝ〇倉持さんへ加納令弟御厄介相成るべく倉持さんへよろしく御願ひ下され度候(小生よりもハガキ出せり)〇「信濃便り」今朝送れり○歌の訂正は明日頃送る成るべく訂正の方によつて校正願ふ
(倉持氏萬一不都合ならば直ぐ小生へ知せて下さい併し大體承知してゐて下さる故大丈夫と思ふ) 十一月十四日
(581) 一〇六五【十一月十五日・端書 信州下諏訪町高木より 東京市外代々木山谷三一六アララギ發行所 藤澤實・高田浪吉氏外諸君宛】
今朝送つた校正原稿のうち第三首を
このごろの晴れのつづきに落葉したるからまつの枝は細く直《すぐ》なり
と第一句を訂正してくれ給へ間に合はずば何處かへ六號で入れて置いて下さい看病のひま/\にちよい/\見るのだから斯んな具合になる御諒知願ふ
父の具合何とも今見當がつかぬ萬一月末に小生上京出來ぬとすれば東京同人の歌を何うすればいゝか今から考へて置いてくれ給へ前の欄に收める人々は自分で擇んでくれていゝ其他の人のは藤澤君見てくれるといゝ或は一切原稿を廿八日頃高田君持參して信濃へ來てくれてもいゝ兎に角二十日頃までの歌はこちらへ郵送してくれ給へ尤も小生も二日や三日は出られるだらう以上は萬一の時の事を考へしなり父の模樣何れ知せる今日は大分ふるひ出しがあつて具合惡い明日は院長來る何れ又知せる 十一月十五日
一〇六六 【十一月十六日・端書 信州下諏訪町より 東京市外代々木山谷三一六アララギ發行所氣付 岡三郎氏宛】
拜啓今日は父のため珍菓御心にかけさせられ態々御惠送下され忝く拜受仕候父今日は餘程平靜に有之御安心下され度夕方醫師二人立會ひし所にては生命に急に關るやうな事なからんとの事に候
御禮のみ申上候匆々 十一月十六日夜
一〇六七 【十一月十八日・封書 信濃國下諏訪町高木より 大連市伏見臺七區十ノ六 池内忠義氏宛】
拜啓歸國後直に上京して十二月號を編輯してゐる處へ國元より父病氣の電報來り直ぐ歸國以來こゝ四五日になり(582)昨今少し平靜になり候ゆゑ今夜十二時この手紙書き申候實は君の手紙來るかと心待ちに待ち居候滿洲では餘り君の御心配をかけあとで御疲勞か御病氣等を惹起したではないかとも思ひ心に掛り候あの時の臺南丸は内海にて他船と正面衝突せし由小生は下關にて上陸税關の檢査を受け居る時丁度風と雨がやつて參り候非常の幸運なりこれも君たちの御心配により御厚意が小生に徹したのだと歡ばしく存じ居候貴君等の御厚意に酬ゆる道只小生の心力を盡して御歌と眞劔に交渉するの外なしと存じ居候御歌について御考への事遠慮なく御申遣し下され度愚見の存する限り率直に開陳可仕候且今後御歌は必毎月御送下され度左樣にして少し御繼續ならば進歩必著しかるべく存上候貴君の歌は皆利き居り候へば此上少しづゝ鍛錬せられ候はばズンと面目を改められ候御事と乍失禮奉存候一心不亂の御覺悟ひたすらに祈上候
仲間同志で會合する事は年に一二度で澤山に候多數集りては話が深入り出來ず候一人にて潜心工夫するが尤も肝要と存候詩人歌人俳人よくお祭り騷ぎに類する事をやりて盛會なりなど言ひて歡ぶは淺薄に候世の中に凡作者百人千人あるよりも秀でしもの一人ある方よし一人にて深入りせん/\と心掛くるうちには眞の仲間一人二人と出で來るべし眞の仲間は決して多數にあらずそれより外致し方なしいゝ加減の仲間澤山あるは却つて恐ろしき事に候滿洲諸君皆この覺悟にて潜心して頂き度これを先づ貴君に訴へ申候御諒察被下度候滿洲愚詠明日より作り申すべく出來れば御目に懸け候何だか恐ろしき心いたし居候二月號は震災歌特別號にすべく候あの時の御歌猶あらば十二月中に御送願上侯夜中亂筆御寛恕願上候匆々 十一月十八日夜十二時四十分 俊生
池内兄侍史
童謠二篇だけ南滿社教育研究所宛にて數日前送りおき候宛所はそれにてよろしく候哉
第二童謠集出づ小生より御寄送可申候月末上京扉へ自署の上御送可申上少々御待ち下され度候
諸君へ君よりよろしく御傳へ下され度候一々手紙書き切れず不惡願上候
(583) 一〇六八 【十一月十八日・端書 信州下諏訪町より 東京市外代々木山谷三一六アララギ内 藤澤古實氏宛】
色々御厄介有難し/\
〇滿洲の人の東京宿所へあの童謠を送り下さりしや〇岡さんへm御返却下されしや〇大阪毎日への廣告は進捗し居りや〇君はいつ頃歸國するや〇入營場所まだ不明にや〇入營等に要する費用はアララギのを用ふべし〇校正出しか
父は先以て平靜の方に候只時々三十九度より四十度の發熱突發原因醫師にも不明故少々不安心に候併し大抵月末には小生上京出來ると思ひ居り候選歌はこちらへ送らずにおいてくれ給へ送つてもらつた方がいゝやぅならば電報出す廿七八日に上京出來ると思ふ拙歌第二訂正のハガキ屆きしならん 十一月十八日夜半
藤澤古實君
一〇六九 【十一月十九日・端書 下諏訪町高木より 下伊那郡上郷村 小尾喜作・小尾よね子氏宛】
詳しく御知せ下され忝く存じ上げます矢張行く所まで行つて居たいので朝五時何分上諏訪發といふので參ります午前十時頃貴方へ著くといふのですわざわざ御出迎へは恐入ります櫻町停留場で下車します貴宅で晝飯を頂きます二三時間休息せて頂いて龍丘へ行きますあちらへついてから少し調べたいものがあります小尾君その日に御歸りか如何か兎に角御目には懸れませう滿洲では濱ぜんさんの御宅で大へん御厄介になりました御面晤を樂しみます色々御厄介せぬやうに願ひます 十一月十九日
一〇七〇 【十一月二十一日・封書 信濃下諏訪町高木より 大連市伏見臺七區十ノ六 池内忠義氏宛】
(584)拜啓一昨日御手紙拜見安心いたし候それより急ぎあの速記訂正に取かゝり候處意外に削除と加筆を要し今日までに漸く五十枚了したるのみ(全部百何枚)是は小生の談話が要を得ざりしと談話の性質が特殊なる故と存じ候兎に角斯樣の次第にて今二日位はかゝり可申候然るに小生明日より萬葉講義のため下伊那郡へ行き三日間逗留廿五日夜歸宅の筈に有之それより廿七日は新年號編輯のため上京を要し候依てこの間に何とかして朱を入れ橋本氏へ御送可申上多分廿七八日發送の事になり可申御地へつくのは十二月五日頃かと存候此儀橋本氏へよろしく御傳達下され度願上候今迄一寸目さへ通せばよしと思ひ居り大に失敬いたし候次に貴兄の今度の歌稿は前に大連にて拜見せしよりも見劣りいたし居候一ケ所へ集中して單純に澄み入ることを御心掛け祈上候
木祐の|深く和みて《・(吹きしづまりて)》燈火のつきそむる頃|ぞ《・は》家|居しおもほゆ《しおもほゆ》 「深く」ここにはまだすつきり利かぬ
家居は變なり單に家といへばわが家の事になりませぅ、「ぞ」といひて「し」とおくこと強過ぎはせぬか(この場合)この歌にて「深く」「家居」「ぞ」等は皆素直に行かぬ所なり如何
拍子木の音稀にして吹きすさぶ外の面疾風の中をゆきけり
これは特に惡い「外の面」は内に對して言ふ詞なり内にゐて外の面といへば活きるこの場合は野とか町とかいふが素直なり如何「吹きすさぶ」と「疾風」の間に「外の面」のはさまれるも素直ならず「疾風の中を行きけり」も拙也
拍子木の音稀にして吹きすぐる木祐疾し町上の道に
などとある方穩當か五句或は「町の大路に」「ひろき衢に」等猶考ふべし「大き衢に」
火の燃ゆる音にまぎれて外の面吹く木祐の風音にたちけり
第二句に對して第五句利かぬ「遠過ぎにけり」など言ふべき場合でせうさうでないと「紛れて」が死ぬ「遠過ぎにけり」といへばどうもいゝ如何
(585) あたゝかく降れる雨かもそぞろ行く街の灯影の照らすたまゆら
第五句全く利かず何故に「たまゆら」と瞬間的にせねばならぬかこれは「照りあひにつつ」などの方穩にて活動すべし
床のぶるその床の上にうれしくて寢ころぶ子らの臀かなし
この歌素直にてよく活きたり只「ゐさらひ」と特にいふはこの歌の場合やゝ突然にてわざとらし「顔のかなしさ」「振りのかなしさ」等にすれば大へんいゝ
暖く煖爐燃しつゝ暢々し心に妻とはかること多し
「暢々し」だけで「心」は要らぬ理解も上句につき或は下句につきて分岐する「ねもごろに妻と事をはかるも」等の方よしよく活きたり
散りしける道の落葉におく霜の朝冷めたし山蔭にして
第四句不要何となれば全體に「朝冷めたし」といふ心持充分出て居ればなり「消ゆらくおそし」等言はば第五句に利くべし
しがゐるに心安しや子ら二人|家内《やぬち》とよもす騷ぎしにけり
「しが」は「わが」「父が」等の方自然なり「心安きか」の方確かなり原作にては「や」が感動詞にも取れて理解分岐すべしこの歌どうもいゝ。心付きしものを書きぬき御參考に無遠慮申上候御異言も候はばズン/\御申遣し下され度候村人の訪ね來し歌あれらは散文に候ズツト澄んで來ねば歌にならずその程度の心地いたし候是れから明朝出立の用意せねばならす尻切れにて擱筆御海容下され度候匆々 十一月廿一日夜九時 俊生
赤太郎兄臺下
大連諸兄へ大抵御挨拶出したれど萬一不行屆に候はば御注意願上候青沼氏へは今出す
(586) 一〇七一 【十一月二十三日・端書 下伊那郡龍丘村時又より 上伊那郡箕輪村上棚 藤澤實氏宛】
君は今頃國にゐるかと思つて此ハガキ出す
〇何處へ入營かを高木の方へ知せくれ給へ〇小生廿五日諏訪へ行き廿七八日に東京に入る歌會は何日かこれも一寸知せてくれ給へ〇昨日大平街道の土田の候補地を見たが駄目なり隣り座敷へ酒をのむ客が來るのだから問題にならない阿島の方がいゝだろ樋口しほ子氏猶探してくれる筈也 十一月廿三日
一〇七二 【十一月二十五日・封書 下諏訪町高木より 上諏訪小學校 藤森省吾・丸山東一・森山藤一・土田耕平氏宛】
今夜留守失禮いたしました樋口しほ子さん(女學校長妻)が今日飯田停車場へ來て櫻町に近い長久寺とかいふ殿樣の菩提寺で泊めてくれるらしいとの事詳しくは明日頃荒井氏より知せて下さるでせうこゝは善ささうですが御飯以外は世話出來ぬとの事(オカズ等)これも不郡合でせう今一度行きて頼んで見るとの事ですそれを明日頃荒井氏より知せませうこゝがいけずばもう斷然阿島に定めるやう土田に御話し下さい飯田より一里半で人力車あり醫者は信頼出來る人が一人すぐそばに居るとの事也土田飯田についたら荒井氏樋口氏夫妻小尾氏夫妻によく禮を述ぶること一通りの厄介ではない方々奔走して下され居る今夜も君がたわざ/\御光來恐縮の至りです深く感謝致します小生は廿八日朝八九時ので上京します橋本君のも御預りいたしませう種々御厄介相成恐入りますこの手紙土田へも連名で書く御廻し下さい小生今夜猶用事あり匆々 十一月廿五日夜 俊彦
丸山樣森山樣土田君
高木樣によろしく願ひますいづれ又小生御訪ねすると御申傳へ下さい
(587) 一〇七三 【十一月二十七日・封書 信濃下諏訪町より 獨逸ミユンヘン 齋藤茂吉氏宛】
拜啓どうも非常に御無音した君の震災を心配したハガキ一昨日來て濟まなかつたと思つた手紙怠けてゐて申譯ない外國の封書きが面倒の氣がしてつひ斯うなる御寛恕を願ふ
地震當時御宅へ行きしのみにてその後失禮してゐる照子さんが地震で入院者も減るだらうと心配して居られたがその後東京に狂人多くどこも入院が滿ちると聞いた只御宅の修ぜんが騷ぎであらう小生宅では父が一ケ月病み今日頃は大丈夫になつたらしい不定發熱(四十度位)にて赤十字院長と町立病院と二人で診ても原因分らぬ七十歳高齢ゆゑ用心してゐる夫れにしても君の父上は殘念なり君の誕生日に亡くなられたと聞いた君も殘念父上も殘念であつたらう小生の實父も小生の侍するなくして逝いたこれは七十四歳なりき大正七年七月十八日なり
アララギは地震後二百増して二千部にしたどうも變だが増えるのは惡くはないと思つてゐる只會員多くなれば手が足らぬ藤澤は十二月一日世田ケ谷の砲兵聯除へ入る選者も追々増さねばならず相當の人は選んで見る方腕が上る哀草果は君何う思ふ御意見御知せ下さい加納曉竹尾忠吉等も候補者にしていゝと思ふ發行所は高田が燒け出されて留守番する小生餘計上京して見てやるべし土田は神經がどうも衰へてゐてまだ歸京出來ぬ下伊那の田舍で一冬過す筈なり歌の人々アララギ以外で一聯になり何とかいふ雑誌發行の由これは大へん面白い小生等にも勉強になるだろ誰と誰とけんくわしてゐるとか仲直りしたとかそんな噂が多いらしい勉強が緩るむと井戸ばた會議が多くなつて來る大阪の新聞では赤彦と土田が仲惡く土田が新團體へ馳せ參ずると報じてゐる實に面白いアララギも今仲間廣大ゆゑ噂の持主などもつて來るであらうそこを注意してゐる必要あり
小生明日上京する新年號〆切を十二月一日にする畫伯の上總九十九谷(京都展覽會出品)を口畫にしたいと思つてゐる畫伯にはいつも御厚意になつてゐる此頃歌非常の勉強なりズン/\進んでゐる恐るべく進んでゐる
(588)發行所に今迄岡さん九人家族が居た小生等は隣りの倉持さんの八疊にゐた夜は頭も足も棚や本につかへてうまく寢られず(藤澤、高田、小生)岡さん亦然り畫伯には一時〆て二十人詰めこんでゐた震後皆然り森田さんも亦然り岡さん家見付かつて今度は小生等も發行所へ戻り得た阿部次郎さんの家も可なり傾いた壁も柱もねぢけたもう修ぜんした此間御訪ねしたら仙臺山形行で逢へず今度は逢ふつもり也小宮さん御宅は尤も安全なりき奥さん元氣にて一寸御目にかゝれり岩波氏更に大活勤してゐる中村歌集も近く出る橋本も大元氣なり第二赤彦童謠集は上京の上御送する見て何とか言うてくれ給へ
小生十月朝鮮より滿洲に進んで長春まで行つた南滿會社で是非來いと申來り衆説を聞いて行つた歌はいゝもの出ぬ一月號へ少し出す二月號を震災の歌の號にする君にも二三首あると非常にいゝ通信文はつまり駄目か
選歌も我々老人共の方兎角遲れる會員を愛する熱必要なり二首以上説は實際やつて見ると何うも困る人が中にあるひどすぎるのも今は可なり名だけ聞いて入つて來るであろ惡しくても何とかして一首は取れと言うてゐる批評つけてもいゝ家族殖えると些少事でも中々一定出來なくなる
今信州は紅葉過ぎて枯山となり高山は皆眞白い高木の村已に柿を摘み入れて寂しくなつた四十雀|小雀《こがら》が多く來る空が毎日澄んで高い君はいつ歸るか體は如何か早く對面したい 十一月二十七日 俊彦
茂吉兄侍史
一〇七四 【十一月二十七日・端書 信濃下諏訪町高木より 熊本市六間街町四十八 美作小一郎氏宛】
拜啓過日は危き命助かり給ひ全く天の加護により候事と喜しく存上候御手紙下され候處不在やら何やらで大に失禮いたし候御歌御勉強の程祈上候其後 御健康御囘復の御事と存上候御自愛專一奉存候小生明日上京可仕候ハガキ失禮御赦し被下度候匆々 十一月廿七日夜
(589) 一〇七五 【十一月三十日・封書 下諏訪町高木より 上諏訪町小學校 森山藤一氏宛】
拜啓思ひ乍ら御面晤の機なく殘念存じ候望月君宛のは鹽尻の三村氏といふ人從弟のよし此人に橋本君を通じて依囑の方却つて埒明くかと存候これは小生上京の上話し可申候篠原君宛のは貴兄に何かよき次手は有之間敷哉小生只今北山村迄參りかね候何とか依頼の方法なきかと存じ居候長塚氏の作物試驗手帳長々しきもの也この筆記を願ふは殊に心後るゝ感ありとに角一度御目に懸け申上度小生二日夜行にて上京可仕八時二十分頃停車場迄御足勞を願ひ候はゞ忝く存候土田の文章御送下され難有存じ候匆々 十一月三十日 俊彦
森山兄侍史
一〇七六 【十二月三日・端書 東京市外代々木山谷三一六より 信濃諏訪郡永明村塚原 矢崎源藏氏宛】
拜啓益御多祥奉賀上候陳ば會員菅原茂子氏(本名美濃部榮子)の父は小石川大塚窪町の醫師にて工女の水むしによき膏藥をつくり候よしこれは糸の光澤を少しも損ぜずとの事御試用御吹聽被下度願上候匆々 十二月三日
一〇七七 【十二月三日・端書 代々木山谷三一六より 市外世田ケ谷野砲兵第一聯隊第八中隊志願兵 藤澤實氏宛】
元氣の由安心せり大體纒めて明朝早く元眞へ送るあと六號文章は五日に屆ける御安心あれ土田まだ住所知せ來ず美術學校より一年間休學許可通知し來る小生五日か六日歸國して十八九日上京する 十二月三日夜半 赤彦生
一〇七八 【十二月五日・端書 信濃下諏訪町高木より 兵庫縣西宮町香櫨園池端 中村憲吉氏宛】
〇校正は十一二日よりはじまるだろ歌訂正の所はその頃までに著くやう願ふ近來君べん強し畫伯大勉強歌に苦心(590)する事想像以上なり感謝々々と思ひ居るなり
〇岡さんまだ風邪癒らぬもう一ケ月になる困つた事也學校へ出てゐるから無理多しと思ふ
〇「しがらみ」早く願ふ君二月出版してくれ給へ小生のを五月にする名は
太※〔虍/丘〕《タイキヨ》集
如何か何か思ひ付あらば知せてくれ給へこれも岩波より出すつもり也
〇義捐金〆て七百八十九圓五十錢被害數三十人也寄寓の家燒けし人に十圓全家族燒出されし人に三十三圓ばかりやれば計算當るやう也これは一昨日畫伯と相談せし所御意見願ふ人々の困る程度は到底調べ切れぬこれ以上何等にも分つとすれば東京横濱に亙り一人々々を調べて見ねば分らぬ不明者はどうも致方ない十二月號不明とした人のぅち二三人分明せり甲の部に一人誤りあり乙にも少し誤りあり一月號で訂正する金は小生十二月十六七日上京するゆゑその時皆分呈するつもり也猶御意見御申遣し下され度候
〇口畫御厄介樣に候畫伯の處にて拜見せり成る程よく出ないやう也それに畫伯は他のものを他日出してくれと言はるるその御意に從ふことにせり御承知願ふ大へん御手數恐入る
〇君の新聞への歌は何日迄なのか切迫してゐてはとても出來ぬ數は何首なりや題は新年か
〇東京可成り寒いバラツク生活は夜も板の上にゴザ敷いて布とん敷く人多き由高田なども發行所に寢れば極樂世界の如しと言つてゐる氣の毒に堪へぬ 十二月五日夜十時 俊彦
中村兄
亂筆御赦しを乞ふ是から寢る
一〇七九 【十二月九日・端書 信濃下諏訪町高木より 諏訪郡湖東村小學校 金井國雄氏宛】
(591)御懇書頂き正に拜見いたし候上スハ八時何分にて參り可申候(十五日)馬は大へん御厄介に候それに寒氣の節小生に具合惡しと存候間御見合せ下され度何とかして正午頃までに參上可仕御迎へは全く御無益に有之必御遣し無之樣願候講演終り次第直に歸宅可仕一泊の餘裕は迚も無之と存候へば此儀御承知下され度小平君へも可然御傳言下され度候匆々
青年會長云々の御手紙なれど小生は婦人會へ話すつもり何かの間違ではなきか
きつちり一時に初まるやう願上候 十二月九日夜
一〇八〇 【十二月十二日・封書 下諏訪町高木より 諏訪郡泉野村小學校 宇野喜代之介氏宛】
十五日は湖東へ行き古田へ一泊するかも分らず候
拜啓大へん御無沙汰致し候岩波氏の件過日(十一月卅日夜)束京にて同氏に遭ひ震災の影響にて作物も需要少ければあれは當然延期してもらふ樣相話し同氏も快諾し居候これをゴタ/\して御知せ申上けず昨日みね子樣御出で下され失禮いたし候みね子樣の言はれるやうにしては無理なきか決して無理せぬ方宜しく候何か岩波氏より貴君へ申越したる事などあり候哉(そんな事なしと思へど)或は何かそれにつき妙な風説でも御耳に入りしにはあらずやそれもそんな事思ひよらず候へ共萬一そんな事あらば御打明け願上候小生十七八日上京數日滯在のつもりに候泉野は寒かるべし御自愛專一奉存候匆々 十二月十二日夜 俊彦
宇野兄侍史
藤澤は十二月一日世田ヶ谷砲兵隊へ入營いたし候御歌御示し下され度待上候
一〇八一 【十二月十三日・封書 長野縣下諏訪町高木より 獨逸ミユンヘン 齋藤茂吉氏宛】
(592)拜啓御手紙二通ツヅケテ拜見御來示御尤ナリ如何樣ニテモ盡力スルソノ手紙ヲ畫伯ヘ廻シタルニ入違ヒニ畫伯ヨリ君ノ手紙ヲ封入シテ(畫伯宛ノ)送リ來リ且ドンナニデモ盡力スルト申來ル欣喜ノ至ナリ中村ヘモ同時ニ申シヤレリ中村勿論賛成スベシ御介意アルコト勿レ詳シクハ來ル十七八日一寸上京ノ用アルユヱソノ時畫伯ニモ逢フユヱ御相談相願フベシ畫伯ニハ小生モ非常ニ御厄介ニナリ居リ恐肅感銘ノ至ニ存ジ居ル昨年ニテ打切ルヤウヨク申上ゲ置キ今年ハ地震以後却ツテ内々畫伯ノ勝手如何ヲ氣遣ヒシニ今日ノ御手紙デハソンナコトハナイ中村モ心配シテクレタガ心配無用且ツ齋藤君ノタメニ力ヲ出ス位ハ何デモナイト大元氣ニ申遣サレ欣書慶賀イタシ候何レ詳シクハ上京後申上グベク貴君ハ毫未ノ顧慮ナシニ專心研究ニ從ヒ給フベシタトヒ半折短册書キ候トモ畫伯ノ力九分九厘以上ナリ小生等ノ力ハ九牛ノ一毛ニモ當ラザレド奮發ダケハイクラデモスルアララギモ御蔭樣ニテ地震後二千部ニ増大シ猶ズン/\賣レサウナリトノコトコレハ何ノ理由カ分ラネドモ天ノ御助ケト存ジ愼ミニ愼ミテ事ニ從フベシ決シテ賣レサウナリナド有頂天ニハナラズコレ以上早速ハ増サセヌツモリ今半年モ樣子ヲ見ント思フ森本富十雄君シベリヤヲ經テ歸國セリ中村ヨリノ電報ハ森本君ガ大使館(?)デ發見シテ醫師會ヘ廻セリトノコト奇縁ナリ
今大阪朝日ヘノ歌ヲ作ツテヰル今夜ハコレデ失敬スル 十二月十三日夜半 俊生
茂吉大兄几下
御自愛專一ナリ
一〇八二 【十二月十七日・端書 信州下諏訪町高木より 東京府下北豐多摩郡井荻村上荻窪三六二 川上四郎氏宛】
拜啓久しく御疎音いたし居候童謠集御骨折り願ひ候處震災のため原畫まで燒失殘念の至に存じ候從つて思ひしほどの本にならず貴臺にも失禮に相成恐縮存じ上候何卒御諒願上候書籍は古今書院より進呈申上げし由につき小(593)よりは相略し申候御禮旁君御承知願上度如此に候匆々 十二月十七日
一〇八三 【十二月十九日・端書 信濃下諏訪町高木より 北海道旭川野砲兵第七聯隊第五中隊四班乙 笠原一氏宛〕
拜復無事入營のよし大賀に存じ候一所懸命に御服務のほど祈上候御地は寒さ烈しければ身體特に御注意肝要に候こちらの方は御心配に及ばず候右のみ匆々
當地今年は例年より暖く雪も積らず候 十二月十九日
一〇八四 【十二月二十日・封書 下諏訪町高木より 松本市女子師範學校附屬小學校 傳田精爾氏宛】
拜啓今年の冬は少し暖く存候御起居如何に候か小子頑健御安心下され度候陳ば中村時次郎氏(美穗)明年三月東京盲學校師範(講習部か)部を卒業可仕貴校内設置の盲學校へ御招聘下され候はゞ本人の仕合せと奉存候尤も貴方の御都合も有之候へば勿論強く御願申上べきに無之矢澤先生と御相談の上可然御詮議下され度願上候中村は大ざつぱの男なれど心持よく且つ盲生を愛する點に於ては珍しきほどに見受け申候此點保證する所に候(甲斐鹽山驛在の人に候)(廿七八歳に候)
小生明朝上京廿三四日歸國可仕候二月號御稿正月二三日迄に御送願上候三日に小生は上京の筈に候奥さんにはまだ一度も御目に懸らず宜しく御傳聲願上候匆々 十二月十九日夜 俊生
傳田兄侍史
一〇八五 【十二月廿三日・端書 市外代々木山谷三一六より 市外上落合六六七 阪田幸代・別所なか子氏宛】
昨日は失漣致し候藤子さんには御目に懸られず残念に候へ共皆さん御揃ひにて御壯健御越年何よりの御事に存じ(594)上候來年は皆さまのためによき年なることを信じ申候元氣にて御越年成さるべく祈上候一月三日出京可仕四日朝は割合に來訪も少かるべく御兩人樣御出かけ下され度候猶今日阪田さんへ御托し申上げしものは甚だ少額に候へ共會員の誠意こもれるもの御快納被下度候御自愛專一に存上候 十二月二十三日夕
阪田幸代樣別所なか千樣
一〇八六 【十二月二十五日・封書 下諏訪町高木より 中洲村神宮寺 笠原田鶴氏宛】
拜啓一殿無事入營喜しく存候此間は結構の品物御贈り下され一同難有拜味いたし候今年も餘日なく皆々樣御忙しき御事と存候御無事御越年祈上候同封金十圓些少乍ら子どもの何かに御用ひ下され度候御主人樣にも宜しく御傳へ下され度候匆々 十二月廿五日 俊彦
田鶴殿
一〇八七 【十二月二十五日・封書 長野縣下諏訪町高木より 東京市外西巣鴨宮仲二二四三 武田祐吉氏宛】
拜啓今年も餘日無之候處御壯健被為入候御事と奉賀上候來年は日本のためによき年ならん事を祈り候平素アララギ及小生等のため種々御助力を賜り如何計り難有奉存上候年末參上親しく御禮申述べきの處書中を以て右御厚禮申越候略儀御海容の程祈上候同封爲替甚少額に候へ共微志御笑納下され度何か粗品呈上可仕の處相略し候儀御寛容願上候皆々樣御揃ひ芽出度御越年可被遊候敬具
年賀状すべて相賂し候へば御承知願上候 十二月二十五日 俊彦
武田祐吉樣侍史
(595) 一〇八八 【十二月二十八日・端書 下諏訪町高木より 諏訪郡湖南村田邊 伊藤恒雄氏宛】
御手紙拜見御面晤を得ざりし事殘念に候繁閑を問はず歌熱心に御作りの程祈上候御返事のみ申上候匆々 十二月廿八日夜半
一〇八九 【十二月二十九日・端書 信濃下諏訪町より 東京市外代々木山谷一七九 岡三郎氏宛】り〕
拜啓御忙しき中詳細御知せ被下忝く拜讃仕候發行所の事すべて拜顔の上御意見相承り申度候あのお寺の方も御序も候はゞ御ただし置き被下候はゞ難有奉存候倉持氏臨時同居は少しも苦しからず存候却つて御心配かけ恐入申候鼻の御具合御困りの御事に奉存候すべて御自愛專一奉存候興津鯛珍肴老父よりくれ/”\宜しく申出で候御厚志恐縮の至に候鮎は決して御心にかけさせられぬやう願上候これはくれ/”\御辭退申上候御全家御揃ひめでたく御越年の程祈上候小家一同元氣御安心願上候ハガキ失禮御ゆるし被下度候震災の御歌成るべく多く願上奉り候 十二月二十九日
(596)大正十三年
一〇九〇 【一月一日・封書 日本信濃下諏訪より 在獨逸ミユンヘン 齋藤茂吉氏宛】
拜啓今日は一月一日なり今年はすべての人によき年であるやうに祈る
東京も攝政宮殿下にあゝいふことをする馬鹿ものが生れてゐる人の柄が惡變してゐることも確かであるそれゆゑわがアララギの徒は自重せねばならぬと思つてゐる今少し世が惡くなつた後にアララギなどは國益人類益になるであらうそれゆゑ今年は更に奮發して取かゝる君が通信文寄せるといふこと大旱の雲霓を望み得た心地する
畫伯がアララギの孤弱に同情して下さつてうんと力をつけるつもりで風神を描いて下さつたあの風神は只の風神でない果して東京に大地震大火災大旋風を捲き起した畫の力が神に通ずること幾多例ありあの地震は當然天の人に下すべき刺戟であつて日本人類を異常に覺醒したあの覺醒に目ざめぬ如き種族はアララギに縁なき儕輩である
それにしても我々は勉強せねばならぬその點常に殘念がある
君の勉強について心配すべき事は畫伯が主になつて心配して下さる決して貴意を勞する勿れ中村よりも二千圓位は用意すべしと申來り小生等皆御尤もと患つてゐる取りあへず一月上旬中に畫伯より現金一千を中村に送り中村が正金銀行の方を適宜に取計つてくれる筈である畫伯にのみ依頼は腑甲斐なけれど小生等も中村と充分に方法を考へる先以て畫伯の御厚意を素直に受けた方よしと思う何卒御承知あれかし
(597)アララギも正月より二千百部發行する御欣びを乞ふ地震後ズンズン殖える(地震前は千八百なり)只いゝ氣にはならぬゆゑ御安心願ふどうぞ通信公表文月に一頁にても御送りを願ふ君の御實父に干する御手紙實に頭に沁みた哀草果の一月號の文君に相談せずして勝手に出せしこと御寛恕を乞ふ小生も一度君の父上には逢ひたかつた殘念である二月號より畫伯の感想文を河西が筆記して出させて頂くつもり也武田祐吉氏三四月號より萬葉を書いて下さるべし中村の歌集まだ原稿出來ぬ小生も引つづき出す御承知を乞ふ「太※〔虍/丘〕集」としようかと思ふ威張りすぎるか如何御自愛を切望する匆々
〇
言にしていはむはかしこはなたれし弾丸に向ひて生かせ給へり
第三句殊に惡し湖水今朝少し凍る例年になき暖さなり
一〇九一 【一月七日・端書 代々木山谷三一六より 府下瀧野川五二一 高木今衛氏宛】
今朝の歌大傑作なり欣喜々々 一月七日
御丈夫に入らせられ何より暮しく存じます御自愛なさいませ 俊彦
奥樣
一〇九二 【一月九日・端書 東京代々木山谷三一六より 長野縣(飯田局)下伊那郡飯田中學校 薄井一氏宛】
御歌何れも一通りに纒つてゐる傾あり斯ういふのは輕く辷るかも知れず矢張り萬葉や子規左千夫等の歌をよく御よみあらんことを祈ります深夜のことこれで失禮します亂暴申上げて申譯ありません 一月九日夜二時
(598) 一〇九三 【一月十六日・端書 信濃下諏訪町高木より 大連市伏見臺七區十ノ六 池内忠義氏宛】
新年大賀存上候不思議の縁にて滿洲が親しくなり新春初頭に立ちて貴兄等の歌の益々御成長あらんことを心に祈り居り候何卒御勇奮被下度候金州御住居は非常によき事に候新生涯に入ると共に最後まで御貫徹の御覺悟願はしく存候滿洲の歌は出來次第御送可申上候一部分は出來居れど閉口の所多く一月中か二月はじめまでには御目に懸け可申上御承知被下度候大阪毎日のはほんの一部に候小生今年は何方へも年賀状出さず諸兄に御逢ひの節右よろしく御傳へ被下度候二月號震災の歌は大へんいゝ作多く集まり喜しく存候小生も十七八首出し候御高評願上候
其二
それから土田君の選歌の事は貴方の無理になりては惡しく候此事強ひて左樣にする程度にならぬ樣願上候匆々
信濃も今年は珍しく温く候昨日の地震當地もやゝ劇しく時計とまりし家もあり東京は猶甚しかりし由併し被害は少しと存候奥樣によろしく願上候 一月十六日又書く
一〇九四 【一月十七日・端書 信州下諏訪町高木より 東京市外世田ケ谷野砲兵第一聯隊第八中隊志願兵 藤澤實氏宛】
十五日の地しん大した事無かりし由にて胸撫で下ろし安心いたし候こちらも時計止まりし家さへありて騷ぎ申候二月號よき歌多く集まり感謝いたし候君のも三四いいものあり喜ばし藤子氏は四十何首の多數大抵よし小家一同無事御安心被下度候 一月十七日
一〇九五 【一月二十二日・封書 下諏訪町高木より 諏訪郡泉野村小學校 宇野喜代之介氏宛】
拜啓京都は高等學校は希望者大へん多くて面倒のよし中學校に或は望み有るかも知れず就ては中學ならば英語を(599)受持たねばならずその點に貴君の自信ありや變な質問に候へ共先方にて考慮してゐるかと思ひ候ゆゑ一應御意見伺上候成るべく早く御返事願上候匆々
例のMは十二日朝岩波さんに手渡しに御返し申上候御承知下され度候 一月廿二日 俊生
宇野兄侍史
一〇九六 【一月二十七日・封書 信濃下諏訪町より 東京市外瀧野川町五二一 高木今衛氏宛】
腎臓は絶對平臥を要す嚴重御守りあらんことを祈り候奥さんによろしく匆々 一月二十六日夜
一〇九七 【一月三十一日・端書 信濃下諏訪町高木より 東京市外上落合二四二 半田良平氏宛】
久しく御無沙汰して居ります今囘は御著述御惠送下され忝く存じ上げます小生へも言及して下さつて甚だ有難く存じます小生も毎月上京してゐますが成るべく多くこちらに居たく思ひ東京のどなたにも御無沙汰して居ります大兄等益御奮進の状を喜しく想見してゐますアララギは多分毎號御手許へ屆いてゐる事と思ひます時々御刺戟の程願ひます二月號へは震災の歌を主として輯めました御意見御知せ下さらば幸甚に存じます猶過般芭蕉の御著をこちらへ御送下さつたとか聞き何か間違あつてはと存じ巣鴨の前御住宅宛ハガキさし上げし處附箋して戻つて參りました併しハガキ差し上げることが御寄贈の催促のやうになつては如何と思ひそのまゝに過しましたあれは發行所の方へ頂いてありますこれも御禮申上げます御自愛專一に存じ上げます 一月三十一日
一〇九八 【二月四日・端書 東京市外代々木山谷三一六より 長野縣上伊那郡伊那町小學校 小島守人氏宛】
拜啓二日夜著京いたし候こちらへ來て見ればこちらの用積り居り豫定の如く歸國むづかしく候十四卷講義少くも(600)一日や二日は下調べを要し候へば七日にかへりても九日に參上するに辛うじて間に合ふわけに候それが今日豫定つかず詰まりへん輯がさうは片付かずと存候それに間一日位は小生も頭を休めたく候それで七日に歸國し得るとしても十日一日だけ參上の事に願ふか或は二月二十三四日(土、日)にして頂くか何れかに願ひ申度再三變更心苦しく候へ共何卒願上候三澤君諸君によろしく願上候二月號の歌御熟讀祈上候匆々
御返事は下スワ町高木小生宛願上候 二月四日
一〇九九 【二月七日・端書 東京市外代々木山谷三一六より 山梨縣東山梨郡諏訪村 岡泰元氏宛】
坏啓大へん失禮して居ります御歌大へん多く御示し下されましたので少々億劫にしてゐて申譯ありません其うち必御返送申上げます御ゆるし願上げます今度御示しのものも御郵送願ひます態々御光來は恐入ります小生編輯遲延まだごた/\して居ります 二月七日
一一〇〇 【二月九日・端書 信濃下諏訪町高木より 東京市外代々木山谷三一六アララギ發行所 高田浪吉氏宛】
〇倉田百三氏以下三人ノ選歌ヲ今元眞社ヘオクルコレハ小生選歌早春集六七番目ヘ入レルヤウ濱野氏ヘ申シヤレリ御承知下サイソノタメ目次早春集ノ所ノ人名ニ變化生ズルヤウナラバ校正ノ時ソノ目次ノ所ノ人名ヲナホシ置クコト〇カツトノ下同時ニ元眞社ヘ送ル〇土屋君ノ選歌來リシカ〇岩波氏ト紙ノコト如何ニナリシカ〇當方意外ニ暖シ皆元氣ナリ土田ノ布團ハ一切荷物屋ニ頼メバイヽ君ガ畫ハ留守ユヱ倉持さんニ指圖ヲ願ヘバヨシ 二月九日夜
一一〇一 【二月十四日・封書 下諏訪町高木より 上諏訪町小學校 森山藤一・丸山東一氏宛】
(601)拜啓御厄介樣願上げし處御心配下され忝く奉存候今月二十五日頃までに願はれ候はゞ尤も難有存候書體別紙御參照願上候一首にても紙を氏名別に願上候紙は直ぐ發行所か橋本君より御送可申上候それまで御待ち下され度候拜眉萬御禮申述度候匆々
月一ぱいにても宜しく候 二月十三日 俊彦
森山兄丸山兄机下
〇
〇紙ヲ氏名別ニシテ頂キタシツマリ十一月號十二月號一月號二月號ヲ通ジ同一作者ノハ同ジ紙ニ書イテ行ク一枚ニテ不足ナラバ二枚ニテモ三枚ニテモヨシ〇初メヲ一行アケル(氏名ノ前)〇一行二十字
〇コノ〇ハ氏名ノ上ヘ必ズ書イテ下サイ 氏名
コノ所ニハシガキ文章アラバ〇ノ次行ヘ御書キ下サレ度候
……………………………………………………………………………
……………………………………………………………………………
はしがきの文章あれば五字下げて御書き下され度候
一一〇二 【二月十五日・端書 信濃下諏訪町より 東京市外西巣鴨町池袋九七〇 廣野三郎氏宛】
ハガキでは失禮なれど御宥し下され度候震災事蹟詳しく御知せ下され如何計り忝く奉存候これによりて見るも平安朝頃迄震災の歌なきを知るべきかと存候深く御禮申上候奥樣へ宜しく願上候匆々
當方皆無事に候 二月十五日夜
(602) 一一〇三 【二月十七日・端書 下諏訪町より 大阪市東區東平野町十丁目天野留次方 武田治三郎氏宛】
拜啓大へん御無沙汰致し候其後御きげん如何に候か昨日は良寛歌集わざ/\御送り下され御芳志奉深謝候御歌久しく拜見せず御示し下され候はゞ喜しく存候當地昨今に至りて少し寒くなり候御自愛祈上候匆々 二月十七日
一一〇四 【二月十八日・端書 信濃下諏訪町高木より 東京市外瀧野川町四七五 山中一氏宛】
拜復過日は失禮致し候村松氏の曲ぐる可らずは小生も一見せし歌に候誤りなる事勿論に候斯樣の場合の誤りは許し得ずと存じ候御歌御專念に御進め成され候よし喜しく存上候何れ拜芝を期し候匆々 二月十八日
一一〇五 【二月廿二日・端書 信濃下諏訪町高木より 東京市外西ケ原四一二 鹿兒島壽藏氏宛】
過日は失禮いたし候寒國旅行貴君には珍しかりしならん大へん御麁末免未をしました何れ上京御目に懸ります(一日か二日に上京)發行所の用事有難うございましたこちら毎日曇つて時々雪がまひます 二月二十二日夜
一一〇六 【二月二十八日・端書 信濃下諏訪町より 大阪市東區空堀通一 寺澤亮氏宛】
拜啓過日は御者「白樫」御惠送下され忝く奉存候早速御禮も申上げず失禮いたし候小生一月よりやゝ忙しく文章書き居りこれが終へぬうちは何へも手が出ず御歌集もその後ゆつくり拜見の上アララギへ愚見書き可申何卒御承知御寛容被下度候匆々
音馬氏へも宜しく願上候 二月廿八日
(603) 一一〇七 【三月一日・封書 信濃下諏訪町高木より 京都市武者小路小川東入 澤瀉久孝氏宛】
拜啓御懇書拜受恐縮奉存候貴見をも承り愚見をも申上候事に相願申上度御承知被下度候藝文御送下され候よし其内入手と存じ樂しみ居候御禮申上候小生今日上京四五日中に歸國のつもりに候森本君には殆ど毎月御目に懸り居候長足の進歩喜しく存じ居候取敢へず御返事のみ申上候敬具 三月一日 俊彦
澤瀉樣臺下
一一〇八 【三月九日・端書 信濃下諏訪町より 東京市外代々木山谷三一六アララギ發行所 高田浪吉氏宛】
〇小生文章子規の歌「ねろねむの花」のは取消して
狩人の笛とも知らで谷川を鳴きなきわたる小男鹿あはれ
を入れて下さい從つて三四行後の所に「ねろ」「思ひきり」が口語的發想だと書いてあるかと思ふゆゑそこを「鳴きなき」や「思ひきり」が口語的發想だと訂正してくれ給へ辻褄が合へばいゝ校正前に訂正すれば猶いゝが大した訂正でないから校正の時でもいゝ竹尾君に相談してやつてくれ給へ
〇色々有難う何卒願ふ昨日は汽車中驚くべく大に眠つた
某氏の結婚を祝する歌といふ文句も消して只子規に……の歌があると丈けになる 三月九日
其二
〇日本畫に於ける線描(平福百穗)〇畫生活の斷片(森田恒友)〇萬葉集……(武田祐吉)〇短歌の用語(島木赤彦)〇……(竹尾忠吉)〇短歌(麓、憲吉、赤彦、百穗、古實、曉.哀草果、浪吉、忠吉、邦子、藤子等)
こんな具合に要目を新聞へ知せてくれ給へ新聞廣告もこれに準じてくれ給へ新聞廣告の歌題目は三四字でうまく(604)考へてくれ給へ小生のは「諏訪湖畔」としてくれ給へ 三月九日
一一〇九 【三月十六日・封書 信濃下諏訪町より 東京市外上目黒五八五 平福百穗氏宛】
何れ著京の上速達便さし上げ可申候
拜呈御手書齋藤手紙新間切拔難有拜見仕候此三四日寒中の如き寒さにて硯氷り閉口いたし候ストーブの石油も小買ひは出來ぬゆゑ我まんして一室に籠り居候可なり勉強出來候ゆゑ御安心被下度候
齋藤もあれでは通信文も書けさうもなく候健康で研究出來れば大幸に候校長候補の事守屋にも岡村にも相談いたし候何れ拜眉を期し申候小生廿一日上京大連の池内赤太郎君が滿洲見學團にて上京ゆゑ一寸逢ひ廿二日夜發行所にて夕飯を共にしたしと存候萬一御在京にて御出席被下候はゞ池内欣喜と存上候併し御都合上御自由に奉願候池内君には滿洲にて大へん厄介になり申候何れにせよ御在京ならば御面晤可仕樂しみ居候小生は廿三四日に歸國のつもりに候秋田の三澤力太郎氏は小生よく知らず所謂やり手の人ではないかと存じ居候人挌者と信州人は思ひ居らぬやうに候中村出産如何心に掛り候今日ハガキ出し申候殘寒料峭皆々樣御自愛專一奉存候小家皆元氣御安心被下度候此間の頂戴品老人非常に欣び申候度々の事恐縮いたし居候深く御禮申上候
土田秋まで飯田に居たいとも申候それもよいが發行所を如何にか考へねばならぬかと存じ候何れ拜眉御意見相伺ひ申上度存上候健康は大體よきやうに候匆々 三月十六日 俊生
畫伯老臺下
今日初午屋敷の小祠に赤白青黄の紙旗立て久保田同姓集りて餅食ひ酒のみ申候御手紙と齋藤手紙と中村へ廻覽御承知被下度候(古泉の事もあり)
(605) 一一一〇 【三月十六日・封書 長野縣下諏訪町高木より 甲斐國東山梨郡松里村藤木 中村時次郎氏宛】
拜啓長野は組織已に了れりと申來り候松本も不明それゆゑ他を御探し可然存候何うも面倒の世の中に候御忍耐專一に候やけを起さぬやう祈り候匆々 三月十六日 俊生
一一一一 【三月十六日・端書 信濃下諏訪町より 東京市小石川區高等師範學校寄宿舍内 五味保義氏宛】
御ハガキ難有存候東京に居られゝば大した事に候御令弟具合御宜しきよし欣しく存上候忙中御返事のみ匆々
二三日硯凍るほどの寒さに候 三月十六日
一一一二 【三月十六日・端書 信濃下諏訪町高木より 伊豆國田方郡川西村※〔土+間〕々上和多屋方 高木今衛氏宛】
追々御快方奉賀候此間は御歸京かと存じ代々木より瀧の川の方へハガキさし上候御自愛專一に存候歌來月三四日迄に送つてくれ給へ此二三日硯凍るほどの寒さに候 三月十六日
一一一三 【三月十七日・封書 下諏訪町高木より 北安曇郡大町中學校 三村安治氏宛】
拜啓過日は御出で下され候處一寸の拜芝にて失禮放し殘念存上候
扨而今月四五日頃東京アララギ發行所へ百穗畫伯御來訪午前より夜更に亙り相談せし事あり之は今囘畫伯殆ど一人の苦心にて氏の郷里角館町に縣立中學校新設の事に確定し縣知事とも相談の上人挌傑出の校長に委囑して創業を遺憾無からしめんとの事にて畫伯は先づ長野縣より校長を得んと志し先以て大兄を懇望する由申來り候(畫伯の縁者井野氏も君を知れる由只今長崎縣警察部長群馬縣人也)小生は三村君を失ふは長野縣として堪へ得ざる所(606)なりと即座に返答せし處然らば三村守屋諸氏と相談して長野縣人より適良の人を擇びくれよとの依囑に付き承知して歸國いたし候然るに數日前承る所によれば大兄は大町を去りて諏訪女學校へ來らるゝ由然らば此際畫伯の懇望を容れて一つ秋田縣へ長野縣教育精神の地歩を擴められ候事如何に候かもし御志も候はゞ畫伯直ちに其地に推參御懇囑可仕と存候これははじめより小生だめと思ひ黙し居りしが大兄の大町を動くを聞き即ち貴意を伺ひ上ぐる次第に候小生は大兄動くならば例の專任幹事の如き重要意義ある所へ向はるゝならんと思ひし故(過日御來訪も此の事と思へり)畫伯へはとても駄目と申したる次第に候諏訪女學校へ復歸は縣として或は左遷の意なきか人を馬鹿にしてゐるのではなきか此邊の消息も御伺ひ申上度存じ候左樣な推測も出來候ゆゑ少々奮慨したる次第に候右要點を陳ねて御高見御伺ひ申上候小生廿日迄ここに居り廿一日上京廿三日迄居り廿四日に歸國のつもりに候もし小生在京中御返事を得ば畫伯と話し合ふに尤も好都合に存候
きん子樣益御良好に候哉皆々樣へよろしく御傳へ被下度候匆々 三月十七日 俊生
三村學兄臺下
畫伯の獨り合點では勿論無けれど彌々となれば知事等と無論談合しての上の事とは存じ候併し人選は知事と諒解ある樣子に候
一一一四 【三月二十四日・端書 東京市外代々木山谷三一六より 兵庫縣西宮町香櫨園池端 中村憲吉・中村靜子氏宛】
御安産大賀々々存上候お子さんの百日せき御大切祈上候今日歸國いたすべく候 三月廿四日
一一一五 【三月二十七日・端書 信濃下諏訪町高木より 東京市外世田ケ谷野砲兵第一聯隊第八中隊志願兵 藤澤實氏宛】
此間は自動車間に合ひし由大に安心いたし候あの夜藤森君來り話しくれ候倉持氏廢業につき發行所問題高田と話(607)し合ひ置き候發行所へ御出での節猶御相談願上候つまり岡さんが見付け下されば尤もよろしく候どうしても無ければ佐々木氏へ歸ると腹を決めて居ればよろしく候それから今井邦子氏より先年島崎藤村著新生を借り昨今催促されしも何處にもなし萬一貴君御心覺えなきか發行所へ御出での節君の處でも一寸御覽被下度願上候匆々 三月二十七日
一一一六 【四月一日・端書 信濃下諏訪町より 東京市外代々木山谷三一六アララギ發行所 高田浪吉氏宛】
合評を一はじめてくれ給へ岡、平福、中村、小生、土田、藤澤、加納、高田、竹尾、辻村、小原位にしてくれ給へ歌は毎囘四五人以下の事畫伯のは「江の川の川波の渦は……」小生のは「みづうみの氷はとけて……」をやつてくれ給へ「人聲もたえはてにけり家燒くる……」などもいゝ藤澤竹尾諸君と相談してくれ給へ
毎歌紙を別にし一行二十字詰はじめに……曰と入れしむること 四月一日
一一一七 【四月二日・端書 信濃下諏訪町より 東京市外上落合六六七阪田幸代方 別所なか子氏宛】
阪田さんと今一人の御方によろしく御傳へ下さい
大へん御無沙汰しました御歌毎月ありて歡ばし雪の中の家その他よきものあり雛のは推敲少し不足と思ひ訂正せし所あり御承知下さい御主人樣愈々御歸國御安心御察し申上候永い間御心勞なされし事に候御歸りの節よろしく御傳言奉願候家はありましたかこれは急務なり御歸國以後阪田さん方では双方とも御困りなりと存上候
年刊集は去年誰も出さず小生一人出しおけり今年どちらでもよろしく候誰も自由にいたし候 四月二日
一一一八 【四月二日・封書 下諏訪町高木より 中洲村神宮寺 笠原田鶴氏宛】
(608)拜啓すみれを來年女子師範校か上スハの專修學校へ入れては何うかその方が後々のためにいゝと思ふ在學中の費用はどうにかしてやるから一つ考へて見てその上常次殿に相談しては如何何うしてもかせがせなくては困る事情か女の子多きゆゑ皆を上の學校に入らせることは困るといふのかそれは又何うにか工夫すれば出來ると思ふ一つよく考へて見た方よし今年勉強しておけば來年女子師範へ入ることむづかしくないであらういけずば專修學校へ入れば三年で裁縫正教員になれる一つよく御考へあれ在學中の費用は小生持つ
すみれ色々有難う御麁末しました 四月二日夜
一一一九 【四月二日・端書 信濃下諏訪町より 東京神田區豐島町九 淺羽茂太郎氏宛】
御令閨御子さん御病氣のよし御心痛御察し申上候何人にも苦惱纒ひ候そこを正面より切りぬくる工夫むづかしく存候御自重の程祈上候今月のアララギ加納君によきもの見え居候今日風烈しけれども暖く候匆々 四月二日
一一二〇 【四月四日・封書 信濃下諏訪町高木より 東京芝區白金三光町五三八 辻村直氏宛】
拜見何とも申上げやうなき御悲しみに候御心中深く御察し申上候幼く汚されずして逝き給へる御子さまのため來世永き幸福あらんことを祈念いたし候御一統樣へ可然御悔み御傳へ下され度願上候敬具 俊彦
一一二一 【四月四日・端書 信濃下諏訪町より 東京市外西巣鴨池袋九七〇 廣野三郎氏宛】
八代氏御逝去如何計り御悲傷存上候
御歌三つ頂き申候委しくは御面晤にゆづり可申候何卒毎月少しにても御出詠願上候文部省の方へ御出のよし大賀存上候萬葉の方もつぎ/\願上候只今選歌中忙しく書き申候御令閨樣によろしく願上候匆々
(609) 小家一同元氣御安心下され度候一度スハへ來たまへ 四月四日
一一二二 【四月九日・端書 信濃下諏訪町高木より 京都市東丸太町熊野神社東入荒川タキ方 田中耕耘氏宛】
拜啓映るの活用部を延音にして「らふ」とせしつもりに有之若しこの場合更に「ふ」だけを活用にすれば「うつろふ」にても通じ申すべくさうすると「うつろ」が語根となり可申候へ共「る」の活用部を「らふ」とする事も許し得べく哉に思はれ候猶御意見御示し被下度候土田の長詩は今に何とかなり可申存候愚説御注意下され喜しく存候御歌毎月御示し被下度祈上候匆々 四月九日
一一二三 【四月十二日・封書 代々木山谷三一六より 市外上落合六六七 阪田幸代氏宛】
拜啓別所氏非常に久しき間御厄介樣相成漸く一段落つき如何計り喜しく奉存候のつぴきならぬ場合にて無理を御願いたし御厄介と御迷惑を相かけ恐縮の至奉存候何事もなく經過せしは全く資下及び宮原氏及び御姉上樣の賜物と感謝いたし候何れ拜眉のつもりに候へ共著京早々の際手紙にて御禮申述候
姉上樣と宮原樣へよろしく御傳へ被下度願上候匆々 四月十二日
一一二四 【四月十四日・封書 東京市外代々木山谷三一六より 下總國神崎町 寺田憲氏宛】
拜呈久しく御無音いたし候處益御清昌の御事と奉存上候陳ば先年御厚意賜り候今井健彦氏今囘又々御地にて候補に立ち候由小生は全く門外漢に候へ共萬一政派の上に御主張等の反對も無之候はゞ同氏のため御助力被成下度特に御願申上候伊藤先生没後已に滿十一年を經申候明年は十三囘忌に候年月の早き感慨に不堪存候御自愛奉祈上候敬具 四月十四日
(610) 寺田憲樣侍史
一一二五 【四月十六日・端書 東京市外代々木山谷三一六より 群馬縣群馬郡上郊村 土屋文明氏宛】
拜啓昨日は態々御訪ね下され難有存上候只今いろは館へ參りし處何とか都合つけ可申樣申し候間御上京の上電話(小石川四三〇五)か直接御出でになるかして御掛合ひ下され度候若しょき室なければ暫くすれば都合つくと申居候室を御覽になる方よしと存候二十日前後に上京すると話し置き候奥さまへよろしく願上候匆々
第二
これを機會に歌御作り下され候はゞ欣喜の至りに候匆々 四月十六日小雨 俊彦
一一二六 【四月十七日・端書 代々木山谷三一六アララギ發行所より 市外世田ケ谷野砲兵第一聯隊第八中隊志願兵 藤澤實氏宛】
拜啓二十日の日曜に御光來下され候はば好都合に存じ候發行所移轉の事にて御相談申度もし小生歸國ならば高田君と御相談願上候大抵小生まだその頃在京かとも存じ候匆々
朝御光來下され候はば有難く候高田在宅の都合に候アララギ校正初校大抵出で候 四月十七日
一一二七 【四月十八日・端書 東京市外代々木山谷三一六アララギ發行所より 岡山市門田屋敷一八〇 上代皓三氏宛】
拜見いたし候折角の御來訪に不在いたし失禮仕候御歌毎月御送下され度祈上候横田君此頃歌を見せず候今月末麹町區下六番町二十七佐々木方へ發行所を移し可申御承知被下度候匆々 四月十八日
一一二八 【四月十九日・封書 代々木山谷三一六より 市外上目黒五八五 平福百穗氏宛】
(611)拜啓過日は參上難有奉存候御蔭樣にて表紙口畫肖像畫等一切具合よく如何計り忝く奉存候二日間も餘計な日を御費し下され恐縮の至奉存候
扨發行所の事倉持氏引越後の事を考へ候に第一郵便物第二來訪者に不便甚しく速達便の如きは不在なれば持歸り候有樣書留便等もつまり困り申候それに高田の通ふ時間も片道二時間を要し候有樣にて夜は早くて八時歸宅の有樣に候依て二三日來岡、竹尾、高田、橋本諸氏と相談し竹尾は兵營に藤澤を訪ねて相談しくれ結局もとの佐々木方へ引移る事に定め申候恰も御不在中にて殘念なりしも移るならば倉持氏引越と共にする方よしと存じ四月廿七日日曜移轉と定め申候此事御承知下され度態々御旅行先へ御知せ下さるに及ばず御歸京次第此書御目に懸け被下度奥樣へ願上候小生歌道小見の校正少しも捗らず月一ぱいかゝる由今日つきとめ申候依てぐづ/\して居られず明日歸國月末より五月三日の面會日にかけて上京のつもり其際御在京ならば喜しく存候
御老母樣御同道善光寺御參詣は何日頃になされ候かその時諏訪へ御廻りの程祈上候その時は是非國に居り申度少し前に御豫定御知せ下され度願上候小生も善光寺に參りあの邊御案内申上げて宜しく候皆々樣御自愛の程祈上候匆々 四月十九日 俊彦
畫伯臺下御令室樣
中村の校正出で安心いたし候拜借聖徳太子は二三日中に白田舍へ御返上可申上候
一一二九 【四月二十一日・端書 下諏訪町より 下水内郡飯山町飯山小學校 屋敷頼雄氏宛】
拜啓飯山は以前に比し可なり世俗的の處となりし樣なれど猶昔の面影あり冬の雪は貴兄のため感興多からんと存上候御辛抱祈上候兎に角君が信濃へ來て下さつて有難く存候御盡瘁祈上候匆々
昨夜東京より歸り候女學校の宮崎小學校の本山諸氏に御逢ひ被下度候 四月廿一日
(612) 一一三〇 【四月二十一日・端書 信濃下諏訪町高木より 京都市東丸太町熊野神社東入荒川タキ方 田中耕耘氏宛】
拜啓昨夜歸國御手紙拜誦いたし候「らふ」の事詳しく御却せ下され難有存候るを延音にして語根のろと發音する場合はろふの方正しきかも知れず候あの場合移ろふなどと分ちたき心も交じり居りしと存候時々御心付の事御知せ下され度願上候歌の事を主としてのせる事御尤もに存候成るべくそのつもりなれど怠け居り殘念に候五月號は藤澤竹尾遠見高田諸君の歌大へんよく喜しく思ひ居り候歌について御意見御知せ願上候中村憲吉君は大阪毎日新聞經濟部の記者に候御逢ひ下され度候匆々 四月二十一日
一一三一 【四月二十二日・端書 下諏訪町より 松本市第一中學校 岡泰元氏宛】
ハガキ失禮御海容願上候あの御稿まだ見とほし終へず怠慢御叱りに値するを覺え候少し多數に有之そのうち必拜見可仕御寛假奉願上候毎月せい/”\二十位を御送下され度願上候
御在諏中は失禮のみいたし候子どもら永らく御厄介樣相成奉深謝候今年又一人中學へ御厄介相成申候
アララギ發行所は月末麹町區下六番町廿七佐々木方へ移り可申御承知下され度候土屋君斷然決心し下され心強く思はれ候あの位に出ねばいくぢなき事に候生意氣申上多謝々々候
昨夜東京より歸り申候 四月廿二日
一一三二 【四月二十二日・端書 信濃下諏訪町高木より 東京市外代々木山谷三一六アララギ内 高田浪吉氏宛】
○淀橋郵便局御中として四月廿七日左記移轉につき當所あて郵便物一切その方へ御轉送下され度願上候といふ手紙を出し給へ
(613)○轉居通知ハガキ餘りあらば左の人々へも御知せ下さい
長野市信濃毎日新聞社 三澤背山 北海道余市大川町 三溝與市
小石川區表町 淑徳女學校 小石川區林町五十七 コドモ社
〇寄送者への通知出した人の頭へ一寸印シつけておいてくれ給へ寄送者へは大抵通知出し給へハガキ不足ならば今五十枚か百枚追加し給へ最も大概にしておいて小生上京の節見計つて書いてもいゝ
〇今日花散り風吹く山上に風の音あり 四月二十二日
一一三三 【四月二十三日・端書 信濃下諏訪町より 東京市外世田ケ谷野砲兵第一聯隊第八中隊志願兵 藤澤實氏宛】
合評のうち選歌を一人ぐらゐづゝ加へていつては如何君の選の中から先づ一人出しては如何廿七日若し發行所へ行き得たら高田等と相談してきめてくれ給へこちら今花ちり鳥多く囀る落葉松の若芽の色丁度よし 四月廿三日
一一三四 【四月二十三日・端書 信濃下諏訪町より 東京市外代々木山谷三一六アララギ内 高田浪吉氏宛】
合評は成るべく早く通知出し給へ今度は竹尾藤澤遠見今一人か二人位はいゝ一人選歌の歌を加へては何うか藤澤あたりの選でいゝのがあるか藤澤に聞いて下さい序の時遠見一郎君の住所を教へて下さい色々忙しいであろ新聞廣告岩波さんへ御依頼下さい震災歌も願ふ中村から來たら一緒にこちらへ願ふ忙しいだらうから竹尾辻村から來てもらひ給へ 四月二十三日
一一三五 【四月二十四日・端書 信濃下諏訪町より 東京芝區白金三光町五三八 辻村直氏宛】
今朝初めて山鳩を聞く鶯豆まはし頬白四十雀その他知らぬ鳥が無數に鳴いて却つて山中靜寂の感を深めます花散(614)りぎはで暖く風のない日がつづきます昨日は久し振りで故郷の町に夜櫻を見ました家族を引きつれて斯ういふことは小生には珍しいのです其後定めて御寂寥の御事と察し上げます
歌道小見校正の都合で月末上京するかも知れません二十七日の發行所移轉(これは前に申上げしつもりですが或は忘れてゐるかも知れませんどうも記憶が惡くて困ります御心配下されしも結局もとの佐々木方へ移ります御承知願ひます)には高田困ると思ひますから御打合せの上御手傳ひ下され度竹尾小原等と御協力願ひ上げます
一一三六 【四月二十四日・封書 信濃下諏訪町高木より 滋賀縣彦根市連雀町廿七馬場友次郎方 中村時次郎氏宛】
拜復第一に親の御承諾を得た方がいゝでせう御母上も君も御同意見ならば事が容易でせう金澤は市内ですか郡部ですかあそこには會員甚だ少いと思ひますがその模樣で調べませう御返事下さい
歌御べん強の事發行所は麹町區下六番町廿七佐々木方へ移します廿七日に移りませう
こちら今山の鳥多く鳴いてゐます御自愛祈上候匆々 四月廿四日 俊生
中村兄几下
一一三七【四月二十七日・端書 信濃下諏訪町より 束京市外上洛合 半田良平氏宛】
拜啓「大隈言道」早速御惠送下され御厚志忝く奉存上候卷頭言道に對する概評に賛意を表し候詳しく拜見可仕候言道はつまり古今の心より外へは出られなかつた人と存じ居候それゆゑよきものも輕く候小生は曙覽もそれほどに思はれず元義等の方遙かに高所に居りと存じ候貴意如何數日中に上京可仕御來遊下され度候今度前の麹町區下六番町廿七佐々木方へ移轉いたし候市ケ谷停車場より麹町六丁目に通ずる廣き坂を上り少し行くと右に交番ありそこで御聞き下され度候番町小學校四ツ角荒物屋でも分り候御歌發表待上候匆々
(615) 四谷見付の方より双葉女學校わきを通りてもよろしく候 四月二十七日
一一三八 【四月二十八日・端書 信濃下諏訪町高木より 束京市外西巣鴨宮仲二二四三 武田祐吉氏宛】
拜啓アララギのためいつも御書き下され御厚志拜謝の至奉存候陳ば荒木田久老の信濃漫録(槻乃落葉信濃下向病床漫録といふか)刊行本一卷右御配慮により何處かで拜見出來候はゞ大幸の至奉存上候一兩日中上京可仕御返事麹町區下六番町廿七佐々木方アララギ發行所へ奉願上候(發行所移轉致し候)小生參上一時間ばかり拜見出來ればよろしく候萬葉槻乃落葉の解題を書きはじめて右必要なり又々御厄介樣申上候御海容の程願上候長流のもの御出し下され候由如何計り忝く奉存候態々水戸にて筆記せしめ下され候由古今書院より承り感謝致し居候猶「神と神を祭るものの文學」近刊喜しく奉存候鶴首待上候御願のみ申上候匆々
ハガキ失禮御高宥願上候 四月二十八日
一一三九 【四月二十八日・端書 信濃下諏訪町高木より 束京麹町區下六番町廿七佐々木方アララギ發行所内 鹿兒島壽藏氏宛】
木ささぎの枝のさやぶさ吹く風に音さへかれて秋は過ぎなむ
震災歌校正の原稿來ずして分らねど右に誤りなきか「技」が如何かと思ふゆゑ念のため御聞き申候御返事は古今書院へ願上候その通りにて違ひなければ御返事に及ばず候技でも宜しく候 四月二十八日
鹿兒島君の住所今一寸見付からず至急御廻送願上候 高田君
一一四〇 【五月一日・封書 麹町區下六番町廿七佐々木方より 市外西巣鴨宮仲二二四三 武田祐吉氏宛】
拜啓信濃漫録早速御教へ下され忝く奉存候慶應ならば拜見の便宜可有之と存候難有御禮申上候
(616)扨信州上伊那郡教育會にて昨年五十嵐力氏を聘し國文學史と和歌の發達につき夏期講習を受け候處今年は貴下を御願ひして奈良時代までの國文學につき思想方面を主として御講習相願度此儀特に小生より御願ひして御許諾を得べく樣申來り候上伊那には萬葉等に興味を持ち居る人多くその人々とは時々小生も會し居り此儀小生よりも是非御受諾御願申上度御都合御繰合せ下され候はゞ幸甚の至奉存候小生參上して御願可申上に候へ共略儀手紙を以て申出候事平に御海容被成下度侯日數は追て可申上候へ共御繁忙中御都合によりては上伊那の希望日數より減少しても宜しく一日の時間數の如きは適宜貴下にて御定め被下候て宜しくと存上候何分の御高配偏に御願申上候敬具 五月一日 俊彦
武田樣侍史
御返事はこちらへ願上候猶アララギヘ御稿頂き得ば幸甚奉存候これは六日中に頂き得れば難有存上候
追伸
教育會長原才三郎氏は小生の師範校時代よりの友人に有之此の人態々上京して御願すると申居り候につき小生代つて御願すると話し合ひし次第に有之御承知願上候すべて略儀失禮御赦し被下度平素の御厚誼に甘ゆるに似て恐縮奉存候夏期講習に候へば七月末より八月中旬頃迄へかけて御郡合よき日を御擇び被下候はゞ宜しかるべく存候
一一四一 【五月二日・端書 東京麹町區下六番町二十七佐々木方より 長野市附屬小學校 兩角丑助・小野巳代志・松井源衛氏宛】
只今電報にて御厄介樣願上候平福百穗畫伯老母を伴ひて善光寺參詣につき藤屋へ泊り得るやう何卒願上候猶善光寺へどなたにても御同行被下候はゞ忝く奉存候小生は上諏訪にて待つことに約束いたし候右御願申上候匆々
御ひまなき場合西尾君に願上候同君へ御傳言も何卒奉願上候 五月二日
(617) 一一四二 【五月二日・端書 東京麹町區下六番町二十七佐々木方より 信濃上諏訪小學校 田中一造・藤森省吾氏宛】
平福畫伯老母と共に二日長野泊三日上諏訪行萬拜芝を期す小生三日上スワヘ出る匆々
小生今夜夜行で歸る 五月二日
一一四三 【五月七日・端書 麹町區下六番町二十七より 世田ケ谷区野砲兵第一聯隊第八中隊志願兵 藤澤實氏宛】
實に忙しい一昨夜スワより來り昨日四十人位に逢ひ今日も人來るせん歌も何もまだせず明日一日に片づけて九日歸國のつもり也戰地より詳しくハガキ難有存候四種の校正丈けでもうんざりなり匆々 五月七日
御自愛の事
一一四四 【五月十日・端書 信濃下諏訪町高木より 東京麹町區下六番町廿七佐々木方アララギ發行所 高田浪吉氏宛】
よく眠り今朝早く歸宅御安心下され度候
〇小生の机の上か下かに新聞へ包みて荒木田久老著信濃漫録(一名槻の落菜漫筆)ありこれは日本に一册しかないものなり古は寫本一册なりこのハガキ御覽次第ボール紙の間に挾み書留便にて至急御送り奉願候匆々(必ず書留便の事)
コレハ電報デ橋本君ニタノミタリ〇選歌今送る匆々 選歌は小生選の終へそのまゝ加へればいゝ 五月十日夕方
一一四五 【五月十一日・封書 信濃下諏訪町高木より 東京市外上目黒五八五 平福百穗・中村憲吉氏宛】
(618)拜呈古泉ノ態度已ニ過日御話申上ゲシ如シ今猶アララギニ居タイト言フコト明了ナリコノ希望ハ古泉ガ中村ト齋藤ニ逢フトキ必古泉ノ口ヨリ出ヅベシソノトキ明截ニ返事シテオイテ下サイ小生ノ憎マレモノニナルコトハ覺悟ノ上ノコトニテ驚キ恐レザレドコノ點アララギヲモ古泉ヲモ生長セシムル所以ニアラズ今囘中村君上京ユヱ餘計ナガラコノ點承知シテオイテ頂キタク存ジ候
いろは館時代橋田ノ原稿ヲ二囘乍ラ中村君返シテクレ橋田不滿ナリシコト今モ小生ノ頭ニ殘レリ(一度ハ橋田ノ歌一度ハ野田某ノ漱石論)斯ウイフコトハアララギノ歴史ニ大ナル關係アリテ重要ナリト思ツテヰマス
從來ノ經驗ニ徴シ去就拒否等大切ノ場合ニ足並ヲソロヘルコト最モ肝要ナリ今囘古泉來訪ニ對スル小生ノ返事ハ獨斷ナリシモコレハ已ニ日光同人トナリシ後ノコトニテ當然カト思ヒマスコノコト歸國後詳シク中村君齋藤君ヘ知セヨウト思ヒヰシ所ナリ何卒小生ノ畫伯ヘ御話シ申上ゲシ古泉來訪ノ模樣ヲ中村君ニ御話シ奉願候同座シタルハ會員二三人ナリ今名ヲ思ヒ出サレズ
電報忝ク拜受イタシ候又出京ドウモ億劫ニテ都合モ惡シ中村君御高諒ヲ願フ併シ話シ合フベキコトアレバイツニテモ參リマス今一度電報願上マス若シ御兩人打揃ヒ巖温泉ヘ御出デナラバ驚喜仕候中村君一人デモ決行如何十四日中ニ電報頂ケバ西筑摩ノ萬葉會ヲ延シマス十五日デハ惡イヤウデス(十七日カラ故)ドゥモ不精シテ上京セズ勝手ヲ申上ゲマス御寛恕願ヒ上マス 五月十一日夕 俊彦
畫伯中村兩臺下
一一四六 【五月十三日・封書 信濃國下諏訪町高木より 下聰國香取郡神崎町 寺田憲氏宛】
拜呈今井氏當選の事今日の新聞にて知り申候是れは貴臺多大の御聲援により候事と存上候深く御禮申上候今囘の選擧にて政友本黨の當選少かりしは日本の思想發達のために賀すべきなりと存候(619)但既成政黨の情弊殆ど根柢的にして眞に日本を憂ふふる政治家の團體出現を要すること焦眉の急務と存じ候此點に於て政友會の反省を促すべき點も多大なりと愚考仕候今井氏今後の行動が吾人の囑望に副ふ事を期待いたし候今井氏の親分高橋氏は割合に從來の政治家的狡猾臭を脱し居るやう存じ居り候政友會を分裂せしめしは高橋氏なれど分裂によりて政治的主張はじめて鮮明になりし事政治的進歩と存じ候素人の政治談御一笑に附し給はんことを願ひ候御禮申上度此の如くに候敬具 五月十三日
寺田憲樣侍史
アララギも最近に至り石原古泉諸君を失ひ申候これも主張の自然なる相違より來る所致し方無之存じ居候只伊藤先生時代よりの經路を顧れば感慨なき能はず候
一一四七 【五月十五日・端書 信州下諏訪町より 大連市西公園町 白水吉次郎氏宛】
遠い處へ御出でになりましたので驚きました色々御苦心多い事と存じ上げます御歌まとまつたのから少しづつ御送下さい遠見一郎氏此頃著しく進歩しました小生毎月五六日間上京してゐます御自愛を祈ります
一一四八 【五月十五日・封書 信濃下諏訪町より 東京府下大森入斗一三〇二 別所直尋・別所なか子氏宛】
御報に接し驚愕いたしました何といふ悲しい事が出來たものでせうあんな圓々太つて元氣よく御出でになつたまき子さんが急に御亡くなりになつたとは急には思はれません御兩親の御歎き御推察に餘ります何とも申上る詞がありません阪田藤澤高田等どんなに驚き且つ悲しむことでせう淨い悲しみの涙でまき子さんの幼靈を御送りいたしませうあゝ幼く清く美しかりしまき子さんよ願はくは安らかに樂しく眠り給へ瞑目して御祈り申上げます 五(620)月十五日 俊彦 不二子
別所樣御兩人御前へ
一一四九 【五月十七日・端書 信州下諏訪町より 神戸市浪花町六十四番信友組 加納巳三雄氏宛】
過日は帽子御惠送下され忝く存上候小生の頭には勿體ないほどの上等品恐入申候深く御禮申上候拜受の翌日か翌々日に御禮の封書を西須磨村御宅宛さし上げしが御落手無之候哉めつたに途中紛失はせぬと存候へ共御伺ひ申上候御遺品も拜受恐入申候之も同時に御禮申上候御歌は間に合ひ申候忙しき中にて御製作喜しく存上候高田も夜八時頃歸所してアララギの爲事するゆゑ自然御返事等手落ちあるかと存候御海容願上候今朝初めて杜鵑を聞き申候
中村今夜來諏の電報來る 五月十七日
一一五〇 【五月二十五日・端書 下諏訪町高木より 下伊那郡河野村 代田文誌氏宛】
過日は御ハガキ難有存候御示し二首皆結構に拜見いたし候土田君に時々御逢ひに候哉作歌御勉強祈上候御健康如何御自愛專一に存上候匆々 五月二十五日
一一五一 【五月二十五日・端書 下諏訪町高木より 上伊那郡中箕輪村松島小學校 向山ちはる氏宛】
木曾の竹の子忝く拜味いたしました大へん結構でありました度々の御芳志厚く御禮申上げますあの時御書き下さつた原稿昨日も今日もかばん探すけれど見えません恐入りますが東京の方へ直ぐ御送下さい封筒へ赤彦選了原稿と書いて下さい大へんすまぬ事をしました此れからはいつも東京へ送つて下さいその方大丈夫です原稿へ赤彦選と朱書して置けば私へ來ます 五月廿五日
(621) 一一五二 【五月二十七日・封書 信濃下諏訪町高木より 東京府下大森不入斗一二六四 別所直尋・別所なか子氏宛】
拜啓其後如何計りの御心中かと拜察いたし居候詳しく御知らせ下され卒讀に堪へず數囘御目に懸りし面影が顔前に見ゆる心地に候並々ならぬ御骨折りも運命の前には如何とも致し方なく候
御發病以後の御模樣を拜讀して先年の身の上を囘顧し感慨に沈み申候病者の有樣大へんよく似て居るために候さるにてもまき子さまは御兩親のそれほどの御慈愛に抱かれて樂々天國にいまし給ふべし天國にありて御兩親の愛を眞實に永く享け給ふべし魂魄互に相通ひ給ふべしと存じ上候かへす/”\後事御大切に御營み成され候樣祈上候高田も大へん悲しみて便りよこしくれ候小生三十日上京來月三四日迄滯在可仕或は御伺ひ出來るかと存じ居候遺れる皆々樣特にお子さま御自愛御攝養の程祈上候匆々 五月廿七日 俊彦
御兩所樣侍史
愚妻よりくれ/”\宜しくと申上候
一一五三 【五月二十七日・封書 信濃下諏訪町より 東京市外上目黒五八五 平福百穗氏宛】
拜啓御手紙及び齋藤君よりの手紙同封正に拜受忝く拜見致し候可なり御忙しき中御手數相煩し恐入申候中村君の時は遂不精して坐乍ら中村を待つ事になり失禮いたし候玉川の清遊を聞き健羨の情を催し申候新湯はほんの一泊なりしも珍しき快晴にて上りも下りにも一點の雲なく山上の若葉猶稚なきにかつこう頻りに鳴き居候中村はあの原を馬上にて行き滿足したる樣子に候古泉の事も色々話しあひ好都合に存じ候村上氏の事も御意見傳承いつもごたごたを畫伯に持ち行き御厄介樣掛ける事を申合ひ候その後土屋君御宅へ伺ひし由あれはあゝするより外致し方なしと存じ候土屋君が歌を繼續してくれると實にいいと存候
り手紙出します(二三日中に上京)田邊さんに逢つたら
佛等の回想でもいゝ貴兄歌作つて下さい少しでもいゝから見せてくれ給へ京都でも下加茂あたりなら歌が生れさ
ひ通りのもの出來ず頭も苦しく候へどもずん/\押して行かれ候はば にさしかゝられ居るならんと推察奉り候俄かに平地へ出たがるべからず何處までも自分の感動に即して御進みあ
こんな處からハガキさし上げます大へん御無音して申譯ありません過日御預りのものこゝで漸く目を通しました
貴君の如き母親より愛護 餘り身神を傷けられぬやう御用意願上候これ御肝要に候御歌多く採り得て喜しく候さういふものに心を遣り給へ
(里數記入)(田中より温泉迄)實は愚息とその友人二人で勉強に行きたき由(中學五年生)右御願申上候費用は大
(814)てつかれ候且黄疸にかゝり執筆懶く御返事遲延御ゆるし被下度候御禮のみ申上候匆々 三月二日
一六一六 【三月二日・端書 信濃下諏訪町高木より 東京青山南町五ノ八十一青山腦病院内 齋藤茂吉氏宛】
今度は黄疸にやられ一昨日來食慾減退體非常にだるい斯ういろいろやられてはかなはぬ一昨夜よりどうかかうか夜横臥を得匆々
畫伯へ御序の節御傳へ下さい
一六一七 【三月二日・端書 信濃下諏訪町より 東京麹町區下六番町二十七アララギ發行所内 藤澤實氏宛】
今日は不二より御願申上げ恐入候何卒願上候それから手塚縫藏氏二月分を岩波より受取り御送願上候小生黄疸にかゝり重ね/”\困り候匆々 三月二日夜
手塚君は松本市西町藤塚なり
一六一八 【三月三日・端書 信濃下諏訪町より 兵庫縣西宮市香櫨園池畔 中村憲吉氏宛】
パンヤ布團實に有難い尻の痛みこれで小康を得たり大謝々々一昨日來今度は黄疸にやられ體だるく神經痛と共に實に困る殆ど終日呻吟の有樣なり黄だんは三週間位かゝる由三月御出で下さつても迚も話の交換も面倒也四五月の時に延してくれ給へそれまでに恢復する 三月二日
一六一九 【三月三日・端書 信濃下諏訪町高木より 東京麹町區下六番町廿七 佐々木氏修氏宛】
拜啓珍肴御惠送下され度々の事恐縮に不堪候御高意深く奉謝上候小生神經痛追々快方らしく昨今横に臥られ申候(815)黄疸を併發せしも不日退散と存候御禮のみ匆々 三月三日
一六二〇 【三月三日・端書 信濃下諏訪町高木より 東京麹町區下六番町二十七アララギ發行所 久保田健次氏宛】
〇歸國の時忘れずに時計を持來ること小生のが時々止まるゆゑお前のを周介が新潟へ持ち行くやうにしたい〇此頃横臥を得黄疸今に退散と思ふ〇歸る時小生のねまきを持參せよ〇みを今夜歸宅大した事なし御安心あれ〇此の間の寫眞オソイヂヤナイカ未ダ來ヌ
一六二一 【三月三日・端書 信濃下諏訪町より 東京市芝區白金三光町五三八 辻村直氏宛】
御手紙感謝今とても他行出來ず大小便を室内でやるといふ有樣也此二三夜構に臥られて大に有難し瘠せることも思ひ切つて瘠せた痛まぬ折を見てこれ丈け書く失禮御ゆるし下さい關君へよろしく願ふ湯たんぽはモウ要ラズ御高志大謝 三月三日
一六二二 【三月六日・端書 信濃下諏訪町より 東京 竹尾忠吉氏宛】
拜啓京都大阪三四年はかへつて君のためにいゝであろこちらへは成る可く來るなこの一二ケ月は絶對人に逢はぬ方よし東京往復の序等に來てくれ給へ萬事御折角なり京都には宇野五味等も居り全く寂しくはないであろ今日アララギ著いたが疲れてゐて見られぬ匆々
一六二三 【三月六日・代筆封書 信州下諏訪町より 東京麹町區下六番町二十七アララギ發行所 藤澤實氏宛】
拜啓早速の御送金涙出でんばかり難有存候後もすぐ著するならんと存候色々の補助材料必要にて醫師へ昨日五圓(816)以上一昨日八圓以上といふ有樣に候それに今日よりマツサージ一人づゝ遣しくれ候等にてどうも出費多く困り候來月は多少多く入るかも知れず御承知置き願上候神經痛大體よろしき方に候間御安心下され度黄疸は別状なけれどそのため食慾減りて困り候匆々 三月六日 俊彦代
藤澤樣
高田堀内馬場諸君へよろしく願上候
一六二四 【三月六日・代筆端書 信濃下諏訪町より 東京麹町下六番町廿七 馬場謙一郎氏宛】
大賀々々猶一心に勉強を續け給へ小生病も追々よからん御心配なく願ふ一二ケ月は絶體に誰れにも逢はぬ佐々木樣馬場樣によろしく匆々 三月六日夜
一六二五 【三月六日・代筆端書 信濃下諏訪町より 東京麹町下六番町二十七アララギ發行所 藤澤實氏宛】
拜啓振替大謝これは二ケ月分と存候小生今日よりマツサージ明日より牛山學士も立會診察し下さる牛山氏は三角氏と同級小生と同村同區追々黄疸退散せば食慾いづるならむ健次歸りがけに長崎屋のカステラ少々と文旦漬少々とを托してくれ給へ(麹町五六丁目なり)九段の寫眞待ち遠い目で見る物のみ樂しみなり文章はだめなり御靈のみ匆々 三月六日夜
一六二六 【三月八日・代筆端書 信濃下諏訪町より 東京市外上目黒五八五 平福百穗氏宛】
拜啓體だるく食慾なきは黄疸のためと存じ候今に快復いたすべく存じ候オキシヘラー何とも有り難く存じ奉り候
ともつかぬえたいの知れぬものにてかへつてよきかも知れず少なくも害なかるべしと伴氏も申され(817)到著を待ち居り候昨日は豫備のため牛山醫學士を伴氏自から伴ひ來りて二人にて御相談下され候心強く存じ候マツサージも風雪の日は車にて來り之はよくきく樣にて二十日以内位に全治せしむる 續く
2 一擧手も疲れ居り又々代筆御ゆるし下され度候
豫定らしけれどさうはゆくまじく候兎に角金も貪らずよき按摩に候御歌大によろこばしく存じ候あの内ちよいちよい如何と思ふ點あれどそれは老兄及び齋藤君にてよろしく願上候毎月御示し下され候はゞ大に小生の樂しみとなり申すべく候小生もかうして炬燵によりかゝり居り時々歌湧き出づる事あり紙にしるし或はしるさしめて原稿といたしをり候四月號へも三四送るかも知れず候みな出たらめの物に候 三月八日
一六二七 【三月九日・端書 信濃下諏訪町より 東京市外上目黒五八五 平福百穗氏宛】
拜呈オキシヘラー昨日無事著早速昨日より使用大謝奉り候構臥は何とかして出來れど黄だんのため食進まず全身疲れ物持つを懶しと思ひ居候蛤利くやうにて昨日より試み居り候(汁のみ)取あへず御禮申上候牛山國手は三角國手と同級に候大體は前より樂に候マツサージも利くらしく候 三月九日
一六二八 【三月九日・端書 信濃下諏訪町より 東京市外上目黒五八五 平福百穗氏宛】
御歌あのうち少しへんな所もあらんが齋藤と御相談願上候毎月御示し被下候はゞ小生大に樂しみになり可申何卒願上候月末迄には執筆し得る體になりうるつもり奥樣へも御傳へ被下度候 三月九日
一六二九 【三月九日・端書 信濃下諏訪町より 東京麹町下六番町廿七 アララギ發行所宛】
明日歌を十六送る訂正は數日のぅちにおくる今夜腰痛み酒糟温濕布しつつはつせに原稿書かしむ今に訂正原稿を
(820) 一六三七 【三月二十一日・代筆封書 信濃下諏訪町高木より 東京神田南神保町十六 岩波茂雄氏宛】
拜啓長田君御光來のところ御面會出來ず失禮の至りに候日夜の神經痛それに黄疸が三週間も加りをり食慾なくすべて衰弱どなたにも御面談し得ず意氣地なく候へど執筆も當分見こみなく又々代筆せしめ候段ひらに御海容下され度候見事なる草花目もさやかに拜見致し候御高志千萬忝なく候長田君へもよろしく草々 三月二十一日
一六三八 【三月二十三日・代筆名刺 下諏訪町高木より幸便 上諏訪町 伴鎌吉氏宛】
〇注射をやめれば確に横寢がしづらいと思ふうつむいてゐても安眠出來ればいいが痛む御參考迄に申しあげます
〇小水量は二十一日午後六時より二十二日午後六時迄六百それより今朝十一時迄五百であります便通は未だありません〇脈搏昨夜七十六熱は計りません今日も御來診願ひ上げ奉ます 三月二十三日
伴先生