風巻景次郎全集第3巻 古代文学の発生、527頁、4800円、北海道大学国文学会編、桜楓社、1969.8.25(79.12.20.3p)
 
(264)   山部赤人      初出万葉集大成、53.6・54.9
 
       一
 
 『万葉集』には山部赤人の作が、長歌短歌あわせて五十首見えている。くどいけれども所在を明らかにすれば、巻三に二【*】十首、巻六に二十三首、巻八に六首、巻十七に一首であって、この他には見えていない。
 さて巻三は雑歌、譬喩歌、挽歌の三部からなっているが、制作年月の記載の見えるのは挽歌の部だけで、雑歌、譬喩歌の部にはまったく年月の記載がない。挽歌のはじめは聖徳太子が死人を見て悲傷して詠まれたと称する有名な伝説的な作であるから、これをやや類の異なったものとして扱えば、大体は持統朝(687−697)から聖武朝の天平十六年(744)までの作である。見たところ、雑歌、譬喩歌には年月の記載はないけれど、時代の範囲は挽歌とまったく同じと見てよいようである。赤人の作は巻三ではすべて雑の部だけに見えているのだから、したがってたしかな制作年月は決められない。決められないが、巻三の性質が以上のようなわけだから大体の時代の範囲が、持統朝から聖武朝の間のどのあたりかに当たることだけは分かるのである。もすこし範囲を狭めるならば、ごく大体は歌が新古の順で並べられているらしいことを尺度にすることができよう。つまり柿本人麿の歌が出なくなり、高市黒人の歌も出なくなってからはじめて赤人の歌が出てくるのであるから、和銅・霊亀・養老を堺にして、その前に制作した人麿・黒人たちに対し、その後に制作したろう、すくなくとも巻三に見える所では、その制作だけが載せら(265)れているのではないかということが考えられるわけである。もすこし範囲を狭めれば、式部卿藤原|宇合《うまかい》が命によって難波の都を修造したときの歌、
  (1) 昔こそ難波|田舎《ゐなか》といはれけめ今は都ひき都びにけり(三・三一二)
のあとにはじめて赤人の歌が出てくるので、それを楯に取るならば大体聖武朝の作だと言うことができる。宇合《うまかい》が難波京《なにわのきよう》修造の長官、つまり知造難波宮事に任命されたのは、聖武天皇即位の三年日、神亀三年(726)十月のことで、難波宮の復興のことは聖武朝の国力を傾けた華麗で賛沢な建設事業の第一歩だったからである。けつきょく巻三に見える赤人の作は、すくなくも編者によって聖武朝のものと見られたものばかりだということになるわけである。
 巻三の事情がけっきょくそのように漠然としたものであるに対して巻六は雑歌一本で、制作年月日も大体は記載されており、養老七年(723)五月から天平十六年(744)正月にわたっている。その中で赤人の作の一番古いものは、編者が記録を検注して神亀元年(724)十月と決めたものであって、聖武天皇即位の年の冬に当たっている。この点は年月の記載のない巻三の赤人作がすべて型式朝のものとして編者から扱われたらしいことと符節を合わせるのであって、これは偶然の結果ではなく、赤人の制作の旺盛であった時期を指し示している客観的事象と見てよいであろう。
 もし巻三が従来も考えられているように、聖武朝の天平十六七年(744−745)ごろにその原型を作り上げ(1)、巻六が天平十八年(745)ごろから天平感宝元年(749)あたりまでの間に原型の編集に着手されたろう(2)ということが、当たらずとも真実に遠いものでないとするならば、これらの巻々に載せられている赤人作の年代的上限はもとよりとして、その下限もまた型式朝(724−748)を出るものでないことを決めても、それほど危険ではないと思われる。
 次に巻八は春雑歌、春相聞、夏雑歌、夏相聞、秋雑歌、秋相聞、冬雑歌、冬相聞の八部に分かれているが、年月を注している箇所はきわめて少ない。少ないけれどもそこに見えている年号については巻六とほぼ一致していて、(266)秋雑歌に載せられた山上憶良の七夕の歌(巻八・言二八)に「養老八年(724)七月七日令に応《こた》へて作《よ》める」とあるのが一番古い。養老八年というのは神亀元年(724)であって、二月に改元になっているようだからこの書き方は一応不思議でもある。しかしとにかく聖武天皇の即位後で、聖武朝のものであることはたしかである。その外に、右の憶良のすぐ次の作は「神亀元年(724)七月七日夜左大臣の宅にて作《よ》める」という歌(巻八・一五一九)で、その他には夏雑歌の部に式部大輔|石上堅魚《いそのかみのかつお》朝臣の歌(巻八・一四七二)があって、それに神亀五年(728)の注がついている。その外年号の見えるものはすべて天平であって、その最も新しいのは天平十五年(743)である。これらの年号は、この巻に見える作者名と照らしあわせて、大体この巻の含む作品の時代が聖武朝であることを推定させる。この巻の成立年代については、従来異説も見えているけれども、『万葉集』の各巻が一気に現在型のようになったと考えることが今日の常識としてすでに不可能のことである上は、すくなくとも原型成立後の手入れが何度か行なわれたことは十分考えに入れなければならぬことである。その点からいって、すくなくも巻八の原型の成立年代を天平十五年(743)以後、十七八年(745−746)ごろと考えうるならば(3)、ここに含まれた赤人作六首の制作年代もまた聖武朝を逸するものでないことは推定されてよいであろう。
 巻十七の一首は「年月所処、いまだ詳審なることを得ず。但聞きし時のままにここに記し載す」と大伴家持が注して天平十三年(741)四月の歌のあとに記載している。その作歌年代の上限は不明であるけれども下限は天平中期であることは確実で、他の赤人作の年代から考えて、この一首だけが、ひどく聖武朝から逸脱するということは考えられないであろう。
 私は念のため簡略に赤人作品の時代の範囲の大まかな限定を聖武朝としたのであるが、それは一つ前の元正天皇朝までは一切作らないで、聖武朝から急に作り出したということを意味するものでもないし、したがって、聖武朝以前にも作は多くあったかもしれず、しかしそれが赤人の地位身分なり、または『万葉集』の各巻の原編集者との(267)関係からして、知られずに消滅し、または知られながらも取り上げられることなしに終わったという事がなかったとは言えない。
 しかしそうした問題は、赤人の伝記がほとんどまったく考えがたい現在としては、追及すればするだけただ想像の範囲をひろげる結果となるに過ぎないであろう。赤人にとって一番確かなものは、やはり大体聖武朝のものと限定し得たところの『万葉集』所載の五十首の作品そのものに外ならない。その作品について考えられる点をいますこし追及していってみよう。
    注1 「巻三・四論」(境田四郎氏・春陽堂『万葉集講座』第六巻四七六頁。)『万葉年表大成』(佐佐木信綱氏・六七頁)。
     2 「巻第六の成立時期」(徳田浄氏・『万葉集撰定時代の研究』四、巻第十六以前の十六巻の成立、第一節、一三五頁)。
     3 「巻八論」(武智雅一氏・春陽堂『万葉集講座』第六巻二五五頁)。
 
        二
 
 『古今和歌集』の序によると、柿本人麿と山部赤人とは、どちらが上とも下とも定めがたい歌の聖であったということになっているし、それがまた平安朝以後の常識となって、三十六歌仙にも人麿と赤人と大伴家持と三人だけが取られるようになると、赤人の評判は一応決定してしまった形になったが、人麿が持統・文武朝ではたしたような役割を聖武朝ではたしたのは、決して山部赤人一人とは言うことができなかった模様である。すくなくとも『万葉集』の上で見ると、そうした歌人が三人はあった。それは笠《かさの》朝臣|金村《かなむら》と車持《くらもちの》臣朝|千年《ちとせ》と、そして山部宿禰赤人とに外ならない。この三人はそれぞれ歌風の上で個人的な特色が感じられるにかかわらず、天皇の行幸に陪侍した時の作品などを見較べると、たがいに非常に接近していて、もし作者不詳にでもなっていたら、容易に見分けることが困難だろうと思われるくらい、発想の上に類似性を持っている。これは大切なことで、その作品から見れば同一(268)の流派《シユーレ》を形づくっていたと言うように思われる。
 流派が根本において共通の発想によって束ねられ、したがって末端の技法においても類似するところから生まれるとすれば、赤人|派《シユーレ》の地盤は従駕の作の必要に支えられたものであったようであり、技法における類似性は共通の源流にこれを享けているためのように思われる。共通の源流というのは外ならぬ柿本人麿である。今ここでさし当たり取り上げようと思う問題は、赤人派の流派的な特徴と、その特徴によっても消しきれない赤人の個人性との関係である。そして、それらがわれわれに感じさせる文学的な意味についてである。
 『万葉集』巻六ではこの三人の従駕の作がいくつか見えるが、その重なものは三人全部か、またはそうでなくても二人ぐらいが名を連ねて作っている。そしてその順序は古くからすでに十分注意されているように、笠金村・車持千年・山部赤人となっていて、その反対の場合は見当たらない。これで見ると、今日赤人だけを重く見るにかかわらず、当時としては、官職位階の上で金村が最も上席にあったとか、もし同格の者同志であったならば年齢が一番長じていたとかいうことがあったかも知れず、したがってまた歌人としての名声ないしは活躍の上で、金村が最も長い前歴を持ち、したがって最もみとめられており、赤人が最も若輩下級で、それだけ創作者としての名声もまだ金村や千年に一歩を譲っていたのかも知れぬ。とするならば、この一派は赤人|派《ソユーレ》ではなくて実に金村|派《シユーレ》であったのかも知れない。そうした点はほとんどまったく決め手の資料が見られないのだから、けっきょく想像仆れになる怖れが多いので、やはりこの一団の名は、赤人によって代表させて置く方が便利であるかも知れない。
 とにかく実例を引いてみることにしよう。
  1 三諸《みもろ》の 神奈備《かむなぴ》山に 五百枝《いほえ》さし 繁《しじ》に生《お》ひたる 樛《つが》の木の いやつぎつぎに 玉かづら 絶ゆることなく 在《あ》りつつも 止《や》まず通はむ 明日香《あすか》の 旧き京師《みやこ》は 山高み 河とほしろし 春の日は 山し見が欲《ほ》し 秋の夜《よ》は 河し清《さや》けし 朝雲に 鶴《たづ》は乱れ 夕霧に 蝦《かはづ》はさわく 見るごとに 哭《ね》のみし泣(269)かゆ いにしへ思へば(巻三・三二四)
     反歌
  2 明日香河川淀さらず立つ霧の思ひ過ぐべき恋にあらなくに(巻三・三二五・神岳に登りて、山部宿禰赤人の作れる歌一首並に短歌)
 この赤人作は巻三の雑歌の部のもので、たしかな年月は未詳であるが、この部が大体は時代を追って歌を並べようとしたものであるらしい点に頼るならば、藤原|宇合《うまかい》が神亀三年(726)十月知造難波宮事と成って、ある程度工事がはかどってから詠んだと思われる歌(巻三・三一二)や、神亀四年(727)ごろ大伴旅人がまだ中納言で在京中、吉野離宮行幸の従駕の時の作(巻三・三一五・三一六)などの後にあり、また旅人が神亀四年ごろ太宰帥として太宰府に下って、その後いつかその地で作ったと思われる作(巻三・三三一−三三五)よりは前にあって、赤人作として有名な不尽《ふじ》山の長歌(巻三・三一七)や伊予の温泉に行って詠んだ長歌(巻三・三二二)などと同居しているのだから、大体の見当はつかなくもない。それにこの三つは、どれも従駕の作ではない――というのは、別に行幸に侍したか否かの関係でなく、行幸に陪しても、天皇に奉るために作ったのでなければ個人の旅の作と見てよいわけである、――それであるいは行幸に侍しなかったばかりでなく、官人としてのまったく別途の旅行が縁となっているものであるかも知れない。そこでこの神岳《かみおか》に登って詠んだ(1)(2)の作は、たしかに改まった態度で詠んでいるというよりは、一見まことに個人の感慨に沈んで作ったというように見えると思う。その手本は確実に柿本人麿の有名な「近江の荒都を過る時」の作である。念のため較べあわせてみよう。
  3 玉襷《たまだすき》 畝火《うねび》の山の 橿原《かしはら》の 日知《ひじり》の御代ゆ 生《あ》れましし 神のことごと 樛《つが》の木の いやつぎつぎに 天の下 知ろしめししを 天《そら》にみつ 倭を置きて あをによし 奈良山を越え いかさまに おもほしめせか 天離《あまざか》る 夷《ひな》にはあれど 石走《いはばし》る 淡海《あふみ》の国の ささなみの 大津の宮に 天《あめ》の下 知ろしめし(270)けむ 天皇《すめろぎ》の 神の尊《みこと》の 大宮は ここと聞けども 大殿は ここと言へども 春草の 茂く生ひたる 霞立つ 春日の霧《き》れる ももしきの 大宮どころ 見れば悲しも(巻一・二九)
     反 歌
  4 ささなみの志賀の辛碕《からさき》幸《さき》くあれど大宮人の船待ちかねつ(巻二三〇)
  5 ささなみの志賀の大曲《おほわだ》淀むとも昔の人にまたも逢はめやも(巻一・三一)
 両者とも従駕の作でない。両者ともかつて都であったが今ではそうではなくなった土地に身みずから赴いての感慨である。「樛の木のいやつぎつぎに」という成句は、明らかに人麿の(3)の作から受けて赤人が(1)の中に用いたものと思われるが、そうした句を一個の成句としてそのまま受け入れてくるぐらいに、赤人の発想を規|程《ママ》したものは、人麿の(3)の歌に外ならなかったと言っても、ほぼ間違いではないであろう。旧都の地に立って想を述べるのに、先縦とすべき作は人麿作の(3)以外には手早く入手できるものがなかったのである。あるいは当時として、この外には皆無であったのかも知れない。
 この(3)の歌の三分の二まで『古事記』的な感慨であるといって過言でない。神武朝以来、「生れましし神のことごと」、すなわち歴代の現つ神(天皇)のすべてが、「樛の木のいやつぎつぎに」統治された大和の国を捨てて、大津の宮に「天の下知ろしめしけむ」天智・弘文両帝の大宮はここだとは聞くものの、大殿はここだと言うものの、という長い叙述は、荒廃しきって転変のはげしさだけを感じさせる大津宮址の現実の印象によって呼びさまされた歴史的感動であって、これが歌われなければ、最後の三分の一は決着しないと言えるであろう。その大きな変動の時代を若くして生きてきた主体だから、そしてかれが天武天皇の舎人であったから、そしてまた大和国土着の柿本氏であったから、天智天皇の近江遷都は解しかねる問題であったかも知れぬ。しかしたとえ解しかねる世界においての神の摂理であったとしても、大和を捨てて、「いかさまにおもほしめせか」「石走る淡海の国のささなみの大津(271)の宮に天の下」を知ろしめした天智帝の宮址がここだと聞いたとき、やはり解しかねる天智帝の行動に対する不可思議さは決して消すことができなかったのであろう。(3)の前半三分の二あまりは、その解しがたさが基調となっているように受け取れる。それにはもっと立ち入った条件までも加えて考えてもよいことかも知れない。たとえば――かりに人麿の(3)の歌が『万葉集』巻一の排列の通り持統朝の作であることが確実であるとすれば――現在現つ神として天の下知ろしめす持統女帝は、舎人人麿のかつての唯一の大君と仰いだ天武帝の皇后であると同時に、天武帝の疾風迅雷のような行動によって大津の宮の壊滅と運命を共にされた弘文帝とも父を同じくする天智帝の、皇女であり皇子であった。そうした微妙な関係をも、人麿が(3)の歌でうたった感慨の成立条件に加えてよいかも知れない。そうしたことまでもが人麿を混沌とした内部的動揺でゆさぶったかも知れない。というわけは、近江遷都を解しかねるものと見ているらしくありながら、近江の荒都に立った感動は後半の三分の一の言葉の上にあらわに感じられるからである。「春草の茂く生ひたる、霞立つ春日の霧れる、ももしきの大宮どころ、見れば悲しも」の表白は、春の山河に包まれた静かな廃墟の感じを、そのままになんら分析することもなく直叙しているからである。そこにはまだ個人としての意識の遊離していないどころでなく、朝廷と柿本氏との関係における限り、社会に対立する個人意識も成立していない主体のままでありながら、わが大君天武帝が敵とした帝――それもまた現の神であった――その帝の宮地に立って、混沌とした感動に包まれてしまっているらしいからである。いわばなにがなんだか分からない感動に一杯になって未分の状態にあると言ったらよいであろうか。その未分の状態のままにそれは帝徳を讃える従駕の詩ではなくなっている。それは同一の神銃の上に立つ現つ神、すべて絶対者であるはずの現つ神の間での対立と勝敗とに対する疑問が、星雲の状態を保ちながらに、じぶんの仕えたとは反対者の荒廃の址に感動するという事によって、より個人的な感動に分化しようとする状況を反映させているようである。
 赤人が(1)の歌を詠ずるに当たって、このきわどい状況にある人麿の(3)の歌に学んだらしいということはありうる(272)事であるし、発想の類似にたよっている点でも素直だと言えるであろう。もちろん創造と模倣とにはひらきがある。(3)の「橿原の日知の御代ゆ生《あ》れましし神のことごと、樛《つが》の木のいやつぎつぎに天の下知ろしめししを」の「樛の木」の句が「いやつぎつぎに」以下を言い出すつながりには隙がない。それは「いやつぎつぎに」の意味するものが創作主体に受けとめられている重さによる点が多いのかも知れぬ。が、それにしても、赤人の(1)の歌の中に出てくる「樛の木のいやつぎつぎに」は軽い。それは個人の願望の表白に使われているのに過ぎないかに見えるかも知れない。とにかく、「三諸《みもろ》の神奈備山に、五百枝《いほえ》さし繁に生ひたる樛の木のいやつぎつぎに、玉かづら絶ゆることなく在りつつも止まず通はむ」は、そこで終止していると見ても、「明日香の旧き京師《みやこ》」の形容詞であると見ても、(3)の歌の前半三分の二に感じられるような創作主体の感動の必然感に伴われていない。措辞は美しいけれども、感動の重量感ははるかに軽くなっている。そしてこの歌の最も印象的な中心的部分は、むしろ「明日香の旧き京師」をうたった次の数句、「山高み河とほしろし、春の日は山し見が欲し、秋の夜は河し清《さや》けし、朝雲に鶴《たづ》は乱れ、夕霧に蝦《かはづ》はさわく」の所であるであろう。しかしその春と秋、朝と夕とを対称的対句に仕立てた表現は、辞句の美しさ、調子の良さに支配されているけれども、いわば軽快に愉しくて、(3)の歌の「春草の茂く生ひたる、霞立つ春日の霧れる大宮どころ」の表現のふとく一気に貫いているような感じとはずいぶんと違っている。それにくらべれば幾分冗舌とさえ感じられる。だからかえって「見るごとに哭《ね》のみし泣かゆ、いにしへ思へば」がまた(3)の方の「大宮どころ見れば悲しも」にくらべて大仰であって内容にそぐわないようにさえ感じられる。けっきょく、旧都明日香の地は、四季を通じて美しいのである。だからいつもいつも通って行こうと言うのである。もしはたして(1)の歌の発想の中心が、すでに聖武朝の時代、聞化した官僚詩人の意識によって魅力的に感じられた、かなり個人的な選択によって濾過された自然美であるならば、反歌(2)が「明日香河川淀さらず立つ霧の思ひ過ぐべき恋にあらなくに」というときも、その思い過ぐべき恋ではないとする思慕の対象は、赤人の個人的意識によってはっきり選択され限定され(273)た旧都の自然美であるように受けとれるのである。そうした作であるゆえに(1)の終末の「見るごとに哭《ね》のみし泣かゆ、いにしへ思へば」の句が(3)の人麿の作のそれに較べてなにか大仰で浮いてくるように感じられるのである。
 私はここに赤人が人麿の伝統継承者でありながら、人麿とは別の主体として成立してきた姿を見ることができるように思う。今は廃された旧都の景観を眼にして歌うとき、歴史的感動を軸にしなければならぬことを人麿から学んでいても赤人の真実の感動は現実に眺める自然の景観の美しさの方に引かれるのである。その伝統継承者でもありながら新しい発想にいつか乗り移っている創作主体の状況は、(3)との比較において、(1)の上にはっきり認めることができると思うのである。
 それならば赤人|派《シユーレ》の他の作の中にもそれに似たことが見られるかどうか。そうした点について面白いと思われるものとしては、笠金村の作が眼につくと思う。
  6 滝《たき》の上の 三舟《みふね》の山に 瑞枝《みづえ》さし 繁《しじ》に生ひたる 栂《とが》の樹の いやつぎつぎに 万代に かくし知らさむ み芳野《よしの》の 蜻蛉《あきつ》の宮は 神《かむ》からか 貴《たふと》かるらむ 国からか 見が欲《ほ》しからむ 山川を 清《きよ》み清《さや》けみ うべし神代ゆ 定めけらしも(巻六・九〇七)
     反歌二首
  7 毎年《としのは》にかくも見てしがみ吉野の清き河内《かふち》のたぎつ白波(巻六・九〇八)
  8 山高み白木綿《しらゆふ》花に落ちたぎつ滝の河内は見れど飽かぬかも(巻六・九〇九・養老七年癸亥夏五月、芳野離宮に幸せる時、笠朝臣金村の作れる歌一首並に短歌)
 この作は巻六のもので、養老七年(723)と明記されているから、神亀改元の前年で、赤人の作がすでに触れた通りおそらく神亀三年(726)以後のものであるとすれば、この金村の作の方が確実に赤人のよりも前に出来たと考えることができる。とすれば、「栂の樹のいやつぎつぎに」の成句を人麿から借りたのは金村の方が先であったこと(274)にもなる。その上人麿と金村と赤人との三つを較べてみると、漸時的変化の層さえ見える気がして注意を引かれる。と言うのは、
  人麿 橿原の日知の御代ゆ生れましし神のことごと 樛の木のいやつぎつぎに 天の下知ろしめししを
  金村 滝の上の三舟の山に瑞枝さし繁に生ひたる 栂の木のいやつぎつぎに 万代にかくし知らさむ
  赤人 三諸の神奈備山に五百枝さし繁に生ひたる 樛の木のいやつぎつぎに 玉かづら絶ゆることなく在りつつも止まず通はむ
この三つの場合、樛の木(あるいは栂の樹)を中にして、その前の句が、人麿では「代々の現つ神天皇が」の意で主格であり、「いやつぎつぎに天の下知ろしめししを」にかかっている。「樛の木」は「いやつぎつぎに」の枕詞にすぎない。ところが金村になると、「栂の樹」の前の句はまったく枕詞としての栂の木を形容する修飾句になりはてていて、「いやつぎつぎに万代にかくし知らさむ」の主格は、字面からは隠れてしまっているけれど、吉野離宮行幸の従駕の作でもあるし、天皇であることははっきりしている。ところが赤人の作では、「樛の木」の前の句がまったく枕詞の樛の木の修飾句になっていることは金村の場合と同じであるが、その上に「いやつぎつぎに……止まず通はむ」の隠れたる主格は、たしかに天皇ではなくて作歌者自身になり代わっているようである。
 この三段の変化を見ると、変化の順序から言ってもこの順序が自然であることが感じられると思うのであるが、その上に栂の樹または樛の木の前に置かれた金村と赤人の修飾句の類似はただごとではなく、これは確かに赤人が金村に学んでいると言うことができると思う。そのようにして、人磨からまず一歩離れたのは金村であったのだが、その離れ方をさらに進めて新しい一派の発想を形成させたのは赤人であった、と、そういうように定位させてみることができるのでないかと思う。これはただに「樛の木」の一例に限定されたことでなくて、ごく大体から言うならば、より全般的な関係であったと見なされて誤りはないであろう。
 
(275)       三
 
 そうした関係は従篤の作の上にも見えている。
  1 やすみしし わご大君の 高知らす 芳野《よしの》の宮は 畳《たたな》づく 青墻隠《あをかきごも》り 河次《かはなみ》の 清き河内《かふち》ぞ 春べは 花咲き撓《をを》り 秋されば 霧立ち渡る その山の いや益益《ますます》に この河の 絶ゆることなく 百磯城《ももしき》の 大宮人は 常に通はむ(巻六・九二三)
     反歌二首
  2 み吉野の象《きさ》山の際《ま》の木末《こぬれ》には幾許《ここだ》も騒く鳥の声かも(巻六・九二四)
  3 ぬばたまの夜《よ》の深《ふ》けぬれば久木《ひさき》おふる清き河原に千鳥しぼ鳴く(巻六・九二五・「山部宿禰赤人の作れる歌二首並に短歌」と詞書のある中、後の長歌及び反歌を略す)
 この作の前には例によって笠金村の作が載っている。その作は
  4 あしひきの み山も清《さや》に 落ちたぎつ 芳野の河の 河の瀬の 浄きを見れば 上《かみ》辺には 千鳥しば鳴く 下《しも》辺には 蝦《かはづ》妻呼ぶ 百磯城《ももしき》の 大宮人も をちこちに 繁《しじ》にしあれば 見る毎に あやに羨《とも》しみ 玉葛《たまかづら》 絶ゆることなく 万代に 斯くしもがもと 天地の 神をぞ祷《いの》る 恐《かしこ》かれども(巻六・九二〇)
     反歌二首
  5 万代に見とも飽かめやみ吉野のたぎつ河内の大宮どころ(巻六・九二一)
  6 皆人の寿《いのち》も吾もみ吉野の滝《たき》の床磐《とこは》の常ならぬかも(巻六・九二二)
というのであって、(4)のはじめに 「神亀二年乙丑夏五月、芳野離宮に幸《いでま》せる時、笠朝臣金村の作れる歌一首井に短(276)歌」という詞書が見えているが、この詞書の中で人名の前、「幸《いでま》せる時」までの部分は、金村の歌だけでなく、その次の赤人の歌にまでかかるのであって、つまり(1)(2)(3)もこの詞書に包括されているのである。金村も赤人もが神亀二年(725)の行幸に従ってこれらの歌を詠んだのであるが、金村の(4)の長歌に「千鳥しば鳴く」の句が見え、赤人の(3)の短歌の結句にも「千鳥しば鳴く」の句が見えているのは、この時の情景であった事がたしかである上に、金村・赤人両人の仲の、制作者として近しいものであったらしいことを感じさせるが、全体としては一方が一方を模倣したとか、一方が一方に影響したとかいう直接の関係は見られないようである。
 しかしすでに前節で触れてきた赤人作・金村作の類似までを併せて考えれば、種々な問題に気がつくであろう。
 第一に金村・赤人の作はここでも、多く人麿のなまな模倣を見せているようである。特に巻第一の「吉野宮に幸せる時、柿本朝臣人麿の作《よ》める歌」とある二首の長歌並びに短歌(巻一・三六・三七・三八・三九)から学んでいる点は多いように思われる。それらの歌を引くことは、引例ばかりが多くなり過ぎるからここでは省略するが、たとえば(4)に見える「芳野の河の河の瀬の浄きを見れば」の発想は、陰に巻一・三六番人麿作の「天の下に国はしも多《さは》に有れども、山川の清《きよ》き河内《かふち》とみ心を吉野の国の」から導かれているかも知れないし、同じく(4)の中の「上辺《かみべ》には千鳥しば鳴き、下辺には蝦妻呼ぶ」は巻一・三八番の「上《かみ》つ瀬に鵜川を立て、下《しも》つ瀬に小網《さで》さし渡す」の対句形式から来ているかも知れない。しかしそうした部分的な句作りは、かならずしも直接の関係を考えるためには決定的なものとは言えないかも知れない。しかし赤人の(1)の歌の冒頭が「やすみししわご大君《おほきみ》の高知らす芳野の宮は」ではじまっている、この作全体の発想は、明らかに「やすみしし吾が大王《おほきみ》の聞《きこ》し食す天の下に」ではじまる人麿の巻一・三六番の歌のそれをそのままに承けていると思う。そして句作りの上から見ても、(1)の歌の中の「芳野の宮は畳《たたな》づく青墻隠り」には人麿の巻一・三八番の歌に見える「畳はる青垣山、山神《やまつみ》の……」からの影響が見られよう。つづいて(1)の「河次《かはなみ》の清き河内ぞ」、この河次という語の解釈にはいろいろ問題があるとしても、とにかくこの句はやはり(277)人麿の巻一・三六番の歌に見える「山川の清き河内と」に関係があるであろう。まして(1)の結末の「その山のいや益益に、この河の絶ゆることなく、百磯城の大宮人は 常に通はむ」にいたっては、人麿作(巻一・三六)の中に見える「ももしきの大宮人は 船並《な》めて朝川渡り 舟競ひ夕川渡る この川の絶ゆることなく この山のいや高からし」と直接の関係を考えても大丈夫であろうし、また(1)の「春べは花咲き撓《をを》り秋されば霧立ち渡る」も人麿(巻一・三八)の「春べは花挿頭《かざ》し持ち 秋立てば黄葉《もみぢ》かざせり」と関係づけて間違いはなかろう。
 しかし人麿の吉野行幸の歌と、赤人・金村の吉野行幸の歌とでは、そうした細部の句作りに摸倣の跡が多く見られるにかかわらず、発想の根拠において、確かに著しい相違の存する点は見逃がすことができない。
 人麿の歌では吉野の地を特に選定して離宮を作られたのは「やすみしし吾が大王」であって、その結果として、大宮人が船を並べて吉野川を渡るようになった(巻一・三六)とも歌い、また、山神《やまつみ》が天皇に奉るみつぎとして、山々は春は花をかざし、秋は黄葉をかざし、川の神も天皇の大御食《おおみけ》に仕えまつるために、上つ瀬に鵜川を立て、下つ瀬に小網《さで》さし渡すというように、「山川も依りて奉《つか》ふる神の御代」である(巻一・三八)とも歌っていて、あくまで帝徳の讃美が発想の根本を支配しており、そのために作全体が隙なく感動に満ちている。それに較べると、(1)や(4)の赤人・金村の作は、どれもその作の中心が吉野の山河の美しさの讃美に移っている。その点は前節に触れたところとまったく同一であって、赤人派が修辞を人麿から承けながら、発想の根拠は遠くそこから脱け出してきている点を、ここでも認めなければならないであろう。
 しかし赤人派の作品が、従駕の歌においても、ただに自然を特殊の美において捕えたというにとどまらず、もっと根本的な特色として、その創作主体が人麿のように混沌を感ぜしめた所から、著しく明晰に個人中心の発想を取るようになったことである。そのことは同時に人麿の帝徳讃美から自然美の詠嘆に転じたことと表裏していることであるのだが、従駕の際の創作として人麿を尺度に考える場合、注意すべき新しい傾向であると言わねばならない。
(278) そのよい例は、これまで扱ってきた(1)や(4)やのように神亀二年(725)でなく、それよりすこし前の養老七年(723)行幸の時の作の中に見えている。それは巻第六の巻頭に載せられた笠朝臣金村と車持朝臣千年との長歌とその反歌とであるが、その中で、金村の作は前節で「栂の樹のいやつぎつぎに」の成句を辿ったときのものであって、ここには関係がない。必要なのは車持千年の作である。次にそれを引用しよう。
  7 うまごり あやにともしく 鳴神《なるかみ》の 音のみ聞きし み芳野の 真木立つ山ゆ 見|降《おろ》せば 川の瀬毎に 開《あ》け来れば 朝霧立ち 夕されば かはづ鳴くなへ 紐解かぬ 旅にしあれば 吾《あ》のみして 清き川原を 見らくし惜しも(巻六・九二二)
     反歌一首
  8 滝の上の三船の山は畏けど思ひ志るる時も日もなし(巻六・九一四)
     或本の反歌に曰く
  9 千鳥鳴くみ吉野川の川音の止《や》む時なしに思ほゆる君(巻六・九三)
  10 あかねさす日並べなくに吾が恋は吉野の河の霧に立ちつつ(巻六・九一六)
   右は年月審ならず。但歌の類を以《も》ちて此の次に載す。或本に云く、「養老七年五月、芳野離宮に幸せる時作めり。」
この左注に「類を以ちて此の次に載す」というのは巻頭の金村の歌の詞書にある養老七年五月の吉野行幸の時の歌と同類として見て扱うということで、或本にはそれが明記されていたことも左注の最後に記されている通りである。それで、大体そのころの作として見ると、この作の一番著しい点は、前節の(1)に引用した赤人の神岳に登って作った明日香の旧都の歌と同じように、個人的詠嘆をもって終始しているということである。それも赤人派らしく、「開け来れば朝霧立ち 夕さればかはづ鳴くなへ」などの句は、人麿から発して、神亀二年の金村の作(4)の「上辺には千鳥しば鳴き 下辺には蝦《かはづ》妻よぶ」や、赤人の作(1)の「春べは花咲き撓り 秋されば霧立ち渡る」やなどに連な(279)るものと言えようが、しかしこの(7)の歌の特色はなんといってもその結末の「紐解かぬ旅にしあれば 吾《あ》のみして清き川原を 見らくし惜しも」にあるであろう。そしてこの気持は、反歌の(8)(9)(10)には一首の発想を規定するものとして露骨に扱われている。
 (8)の「思ひ忘るる時も日もなし」は例の「吾《あ》のみして清き川原を見らくし惜しも」とともに、残してきた妻のことを思っていることは確かである。(9)(10)の「或本の反歌」の方ではそれは一層はっきりしている。「止《や》む時なしに思ほゆる君」、「あかねさす日並べなくに吾が恋は吉野の河の霧に立ちつつ」。みな読み誤ることはない。それはもちろん帝徳の讃美でもなければ、離宮の所在地吉野の自然の讃美でもない。吉野の自然をわが想う人とともに見ていないことへの関心である。この点は注意するに足る点であるように思われる。
 つまり、従駕の時の作にも、帝王を中心にした発想でなしに、私情を根柢に持つ詩が作られ、かつまた、それが天皇行幸の際の詩と注記されて記載されているという事情が新しいと思うのである。その注記は要するに作詩の時を限定するだけであって、決して、作詩の動機や発想の対象を限定するものではなくなっている。これが大切な点であると思う。もちろんこのような作は、天皇に奉られたものではない。天皇に奉る作は、やはり侍宴の詩、従駕の詩としての内容的限定を持っているのであって、それはたとえば天皇から召されることがなければ奏上を経ないで終わることもしばしばであったと思われる。たとえば、巻三の大伴旅人の歌などのようなよい一例がある。それをそのまま引用するならば、
   暮春の月芳野離宮に幸せる時、中納言大伴卿勅を奉《うけたまは》りて作める歌一首並に短歌(【未だ奏上を経ざる歌】)
  11 み吉野の 芳野の宮は 山からし 貴くあらし 水《かは》からし 清《さや》けくあらし 天地と 長く久しく 万代に 改《かは》らず有らむ 行幸《いでまし》の宮(巻三・三一五)
     反歌
(2)  編集委員
      澤瀉久孝
      小島憲之
      佐伯梅友
      高木市之助
      久松潜一
      正宗敦夫
      尾山篤二郎
 
(3)山 部 赤 人(下)    平凡社萬葉集大成
               風 巻 景 次 郎
 
(280)  12 昔見し象《きさ》の小河を今見ればいよよ清けくなりにけるかも(巻三・三一六)
奏上を経ない歌であることが注記されているのは非常に大切で、このために旅人は、歌を召される時を考えてあらかじめ作ったことが想像されるが、その発想は明らかに離宮の所在地としての吉野の良さを中心に置いている。これが本来は従駕の作であることの条件であったであろう。
 千年の歌がそうでないのはそれが奏上を予想しない歌であることを意味するとともに、いま一つ、私的発想の歌にもまた、行幸に陪して旅にあった時の作であることを注記しても、かならずしも誤りであるとは言えなくなっていたことを想像させるのである。そして、このような自由さは、意識の自由さであり、または意識を統括する規範の変化であるとも言えるかも知れない。
 私はそこから赤人の旅の歌をも考えるよすががたぐられるのでないかと思うのである。そこにも行幸に陪しつつ、故郷に残した女をおもう歌が見られるのである。そして自然に対する感覚の変化をも、あわせて見ることができるのである。それは個の意識のある種の成立であり、一方には帝王に対する関係の変化であるかも知れない。その方に向かって次に触れていってみよう。
 
        四
 
 さて前説までで考へて見たやうに、聖武朝の歌人群――かりに赤人派と呼ぶことにした金村・千年・赤人などのやうな人々の流派――の特色の一つは、構成のうへでは人麿から筋を引いてゐるやうでありながら、発想のうへでは人麿から次第にずれてきてゐるといふ點に見ることができた。それは勿論人麿のすべての作と赤人派のすべての作とに通じての問題といふのではなくて、大體從駕の際の長歌を中心にして考へたことに過ぎないのであつたが、さういふ共通した、しかし特殊な事情のもとでの作歌のうへでこそ、反つて兩者の特色は一層具體的に捕へることが出來ると思つたからのことであった。しかしそれは大體は辭句の上での比較にすぎなかつたから、これから次の問題に移るに先だつて、吉野行幸に陪した時の兩者の作品を全體として較べ合せて見て行かうと思ふ。
      吉野宮に幸ませる時、柿本朝臣人麿の作れる歌
  1 やすみしし 吾大王の 聞しをす 天の下に 國はしも 多にあれども 山川の 清き河内と み心を 吉野の國の 花散らふ 秋津の野邊に 宮柱 太敷ませば ももしきの 大宮人も 船竝めて 朝川渡り 舟競ひ 夕川わたる この川の 絶ゆることなく この山の いや高からし 石激る 瀧の宮處は 見れど飽かぬかも(巻一・三六)
      反歌
(4) 2 見れど飽かぬ吉野の河の常滑の絶ゆることなくまた還り見む(巻一・三七)
  3 やすみしし 吾大王 神ながら 神さびせすと 芳野川 たぎつ河内に 高殿を 高知りまして 登り立ち 國見をすれば 疊はる 青垣山 山祇の 奉る御調と 春べは 花かざし持ち 秋立てば 黄葉かざせり 逝き副ふ 川の神も 大御食に 仕へ奉ると 上つ瀬に 鵜川を立て 下つ瀬に 小網さし渡し 山川も 依りてつかふる 神の御代かも(巻一・三八)
  4 山川もよりてつかふる神ながらたぎつ河内に船出せすかも(巻一・三九)
 それに對して赤人派の方は、巻六の巻頭の金村作を振り出しに、矢張り吉野行幸に陪した作を二組取ることにする。一つの組は金村と千年。
     養老七年癸亥夏五月、芳野離宮に幸せる時、笠朝臣金村の作れる歌一首并に短歌
  5 瀧の上の 三舟の山に 瑞枝さし 繁に生ひたる 栂の樹の いや繼ぎ繼ぎに 萬代に かくし知らさむ み芳野の 蜻蛉の宮は 神からか 貴かるらむ 國からか 見が欲しからむ 山川を 清み清けみ うべし神代ゆ 定めけらしも(巻六・九〇七)
     反歌二首
  6 年のはにかくも見てしがみ吉野の清き河内のたぎつ白波(巻六・九〇八)
  7 山高み白木綿花に落ちたぎつ瀧の河内は見れど飽かぬかも(巻六九〇九)
    (ここにある或本の反歌三首は略す。)
 車持朝臣千年の作れる歌一首并に短歌
  8 うまごり あやにともしく 鳴紳の 音のみ聞きし み芳野の 眞木立つ山ゆ 見降ろせば 川の瀬毎に 明來れば 朝霧立ち 夕されば 蝦鳴くなへ 紐解かぬ 旅にしあれば 吾のみして 清き川原を 見らくし惜しも(巻六・九()一三)
     反歌一首
  9 瀧の上の三船の山は畏こけど思ひ忘るる時も日も無し(巻六・九一四)
     或本の反歌に曰く
  10 千鳥鳴くみ吉野川の川音の止む時なしに思ほゆる君(巻六・九一五)
  11 あかねさす日並べなくに吾が戀は吉野の河の霧に立ちつつ(巻六・九一六)
      右年月審ならず。但歌の類を以てこの次に載す。或本に云ふ、養老七年五月、芳野離宮に幸せる時の作。
 この千年の作は多少制作年月に疑がかかるが、或本の注によつて、一應この時のものと見ることにする。今一つの組は金村と赤人。
     紳龜二年乙丑五月、芳野離宮に幸せる時、笠朝臣金村の作れる歌一首并に短歌
  12 あししびきの み山も清に 落ちたぎつ 芳野の河の 河の瀬の 浄きを見れば 上邊には 千鳥しば鳴く 下邊には 蝦妻よぶ ももしきの 大宮人も をちこちに 繁にしあれば 見る毎に あやに羨Lみ 玉葛 絶ゆろことなく 萬代に かくしもがもと 天地の 神をぞ祷る 恐かれども(巻六・九二〇)
     反歌二首
  13 萬代に見とも飽かめやみ吉野のたぎつ河内の大宮どころ(巻六・九二一)
  14 皆人の壽も吾もみ吉野の瀧の床磐の常ならぬかも(槙六・九二二)
     山部宿禰赤人の作れる歌二首并に短歌
  15 やすみしし わご大君の 高知らす 芳野の宮は 疊づく 青墻隠り 河次の 清き河内ぞ 春べは 花咲き撓り 秋されば 霧立ち渡る その山の いや益益に この河の 絶ゆることなく ももしきの 大宮人は 常に通はむ
  (巻六・九二三)
(6)   反歌二首
  16 み吉野の象山の際の木末にはここだも騒ぐ鳥の聲かも(巻六・九二四)
  17 ぬばたまの夜のふけぬれば久木生ふる清き河原に千鳥しば鳴く(巻六・九二五)
 以上の三群十七首の歌を全體として、何といふことなしに讀みくらべてゐると、第二群の(5)(6)(7)(8)(9)(10)(11)は一ばん人麿の(1)(2)(3)(4)に遠く、殆ど別箇の構成とも見うる位であるが、それは前節までで觸れたやうに「樛(又は栂)の木のいやつぎづぎに」を共有する人麿・金村・赤人の長歌でくらべ合せるならば、三者互に密接の關係のある事が明白であるから、一方から言へば、ここの場合としては、吉野行幸の際の歌だからと言つて、印象を混亂させる怖れがあつたかも知れない。それにも拘らす強ひて持ち出したわけは、この群の方には千年の歌があるが赤人のものはないし、第三の群の方には赤人の歌はあるが千年のものはないので、一應三者の歌を皆な出して見たかつた爲に外ならない。それだけの心づかひにも拘らず、千年の歌(8)(9)(10)(11)は年月に不審の點があつて、やや確實でないのは残念であるが、吉野の歌であることは確實なのであるから、左注に言ふ所の或本に従て一應金村と同じ時に作つたと見做して扱ふことにすると、千年の方の作は金村の作のやうに「樛の木のいやつぎつぎに」の一群に入れるべき作とはちがつて、たしかに人麿の(1)(2)(3)(4)の歌を先例として知つてゐて、少くとも意識の上にそれがあつたか、範例としたか、兎に角それにすがつてゐることだけはたしかなやうに感じられる。しかし又、さうだとすれば、その構成全體は何といつても萎靡してゐて、人麿の作(1)(2)(3)(4)の張り切つて豪宕の氣の漲つてゐるのに較べ得べくもない。しかしその點についてならば、あへて千年の作だけが立ち向ふことを得ないだけではない。神龜二年に作られた第三群の金村作(12)(13)(14)でも、赤人作(15)(16)(17)でも全く同じことで、何等えらぶ所はないのである。それは一體何故なのであらうか。
 一般的に見て人麿の歌が萬葉集中でも最も力のこもつた感じを與へることは定説といつてよくこれに異議を唱へる(7)人はまづ有るまいと思ふのであるが、問題はさうした一般論にあるのではない。さうではなくて、當面の吉野行幸の従駕の作だけに限つて見ても、さうした時と場合とに於て、何うして人麿と赤人派との間にそれだけのひらきが生れて來なければならないのであらうか、といふ點にかかつて來るのである。
 それで人麿の(1)と(3)との長歌をよく讀んでみると、(1)の作ではまづ吉野の國が、何處にもまさつて良い場所である事を言つて.つづいてそこに作られた吉の宮が、繁栄してゐることを讃へてゐるかのやうである。前半節の「やすみしし吾大王の聞しをす天の下に川はしも多にあれども、山川の清き河内と御心を吉野の國の」が、なぜ吉野の國を良い國として天皇が心を寄せられたかを言つてゐることは確かであつて、さうした勝絶の地に出現した吉野の宮に、「ももしきの大宮人は船竝めて朝川渡り舟競ひ夕川わたる」ことを歌つてゐる後半は.その宮の繁栄または帝徳の宏大を讃してゐりるもののやうに感じられる。しかしよく注意すると、その最後の納め方は必ずしも宮の繁栄を言つてゐるのでもなく、帝徳の宏大を讃してゐるのでもなささうである。「この川の絶ゆることなく.この山のいや高からし。石激る瀧の宮處は見れど飽かぬかも」。この締めくくりは確かに吉野の國の勝絶を讃へてゐるのに違ひない。それに間違のないことは、反歌が同じことを繰り返してゐる點からも覘ふことが出來よう。普通に考へられてゐる通り反歌が大體長歌の主旨を締めくくつてゐるものとするならば、「見れど飽かぬ吉野の河の常滑の絶ゆることなくまた還り見む」は、やはり吉野の宮がそれに臨んでゐたとされてゐる吉野川の清麗をたたへたものと取ることができるであらう。さうだとするならば(1)(2)の全體は結局吉野の山河に対する褒め稱への歌であつて、それが吉野離宮行幸といふことに結びつけられてゐる點だけが特殊と言へば特殊だと言へるであらう。つまり吉野離宮の所在地の山川の秀麗さが、感にたへたるものだから、行幸に陪してその地に至つた人麿が、その美をたたへないでゐられなかつたのだといふ事になると見るべきであらうか。
(8) しかしさうであるとするならば、それでまた種々な疑問も提出し得ないではない。一體吉野宮の名は日本紀の應神紀にも雄略紀にも見えてゐるし、斉明紀にも新しく吉野宮を作ることが見えてゐるから、古くからここに離宮のあつたことだけは信じられるであらう。しかしその場所が一箇所であるか數箇所であるか、その點になると頗る不確かなことになつてしまふ。關祖衡の名著五畿内志の中の大和志にも、五箇所ばかり名が擧げてあるのでも分るやうに、諸説は以前からあつたのであるし、今後にも追加されるかも分らない。吉田東伍博士の大日本地名辭書以來、宮瀧に決着しさうになつてゐたのに、昭和になつてから現に森口奈良吉氏の丹生川上説が生れて、豊田八十代氏が宮野離宮考で全面的にこれに賛成し、その後まだ決定といふ所までは來てゐないやうである。しかし當面の問題は離宮所在の決定といふ點にあるのではなくて、實は丹生川上説の據り所とした點が大切なのだと言ふことである。豊田説にたよつて簡単に言ふと、持統女帝の三十回に及ぶ吉野行幸は、ただ遊覧の爲だけのものではなかつたのであつて、ことに寒い吉野に十二月や一月の行幸が五回もあつたことからもそれは證據だてられる。それでは何の爲であつたかと言へば、持統紀の吉野行幸記事に接して廣瀬大忌神と龍田風神とへ奉幣のために勅使を遣したことが十二回も出て來ることで分るやうに、吉野行幸自體もまた古代信仰の祭儀に關係のあつたものと推定することが出來る。廣瀬神社は五穀の神であり、龍田神社は風の神である。それに奉幣すると共に吉野行幸があるとすれば、これもまた矢張り風水の順調五穀の仙豊熟に關する祭儀のためであつたに違ひない。そこで吉野をその點から調査して見ると、宮瀧のあたりよりも奥まつて、丹生川の流れ落ちてゐるあたり、丹生川上に、丹生川上神社があつて、それは水の神である罔象女神《ミヅハノメノカミ》を祭神としてゐる。持統女帝の吉野行幸はこの水神を祈るためのものであつて、廣瀬龍田への勅使差遣とあはせて、天皇自ら祈年祭《トシゴヒノマツリ》をされ風水の順調を祈られたものに外ならなかつたわけである。その眼でみると、吉野行幸に陪した人々の歌に丹生川上のあたりに關係のある歌がしばしば見出される。――私は必ずしもさうは思はないのであるが。――そして、水神のなかでも特に丹生川上(9)の罔象女神社が持統女帝の信仰の對象となつたのは、二十二社注式にも見えてゐるやうに、この神社が白鳳四年に天武天皇によつて創建されたものであつたためであらう。以上のやうな理由によつて豊田氏は持統朝の吉野離宮は丹生川上にあつたことを確證し得るとされてゐるが、その結論は少し飛躍があり過ぎるのでないかと思はれる。罔象女神の社は丹生川上にあつても、離宮が神社に接してなければならぬといふ事はない。たとへば離宮はもともと宮瀧のあたりにあつたので、そこを足場として、丹生川上神社への参拝が行はれた。さういふ事も十分考へられることであつて、両者が場所的に一つでなけばならぬとするためには、吉野従駕の作に見えてゐる地名が従来の考とはちがつて、すべて丹生川上のあたりにあるものとしなければならなくなる。しかしそのやうな論の決着はさう簡単につくものとは思はれないのであつて、今後も萬葉地理学の問題になつて行くことであらう。それだから吉野離宮の丹生川上説そのことの當否にはしばらく觸れないことにしても、最初に言つた通りその論の據り所となつた點はまことに意味の深いものであらねばならぬ。つまり持統帝の丹生川上神社信仰が、吉野行幸の主動機であつたと言ふ點である。そして、離宮所在論の方がまだ定着しきつたとは言へないにかかはらず、持統帝の吉野行幸の動機についての考察の方は、大體信仰關係に落ち着いて來てゐるやうに思はれるのであつて、寧ろ決着はその方が一歩を先んじたと言ふことが出來るであらう。
 さてさうだとすれば、持統天皇の行幸は五穀豊熱のための自然の巡環、ことに風水の順調を神々に祈る祭儀のためであつて、持統天皇が女帝であつたことも、特別の意味を持つてゐたことを考へなければならないであらう。なぜならば神に斎《いつ》くことば古代の神信仰の上では女性に負はされた神聖な行事であつたからである。持統帝の頻繁な諸国巡幸と同じやうに、吉野行幸もまた國家を中心としての女性の役目をはたされたものに外ならない。しかし特に持統帝にそれが著しかつたのは、持統帝が個人的に特に信仰の強い女性であられたからと言ふやうな意味も多少は影響してゐたかも知れないけれども、ただ単にそれだけではなく、壬申亂後の天武朝を繼承して、まだ國家經營には些かも緊張を缺くこと(10)の出來なかつた時期であり、その時期を背負つた女性として、特に強い責任感にその身を捧げられたといふことの方が重もではなかつたかと思はれる。
 それだから、この女帝の諸國巡幸や吉野行幸は、遊覧といふのではなくて、神聖な神業《かみわざ》だつたと見るべきである。さうした祭政一致的な雰圍気が、持統朝には強く支配してゐて、それは自然と「大君は神にしませば」といふ観念を規實のものとしてゐたのであつた。それで、天武天皇を英雄として、半神として仰いだ壬申亂以來の廷臣たちの皇室に對する結びつきは、持統朝には、たとへ微妙な推移は生じつつあつたにしても、全體としては猶かはりなく保たれてゐたのである。
 人麿の吉野行幸に陪した(1)(2)(3)(4)は、さういつた雰圍気の中で作られたと見られる。だからそれは根本に於て、単に遊山のお件の歌ではない。そしてそれらしく、たしかにその作も森厳であつて豪宕である。けれどももつと注意を引くことは、「花散らふ秋津の野邊に、宮柱太敷き」建てた大宮が、賑つてゐるといふだけでなく、その大宮のある吉野の地がいつ見ても飽くことがあるまいといふ(1)の発想と、現神《あきつかみ》であるわが大王《おほきみ》が高殿で国見をされると、山川の地祇《くにつかみ》たちもこれに奉仕する神の代の神々しさよといふ(3)の発想とが、似てゐるやうで少し違ふことである。(1)は山川自然への頌歌であり、(3)は帝徳の讃歌であるやうに見える。けれども遊楽の氣の撼じられることの殆どない點では共通である。たしかに(1)や(3)には祈りがあり呪術の臭がする。とすればことに(1)は天皇の宮居となる離宮に対しての新室壽詞《にひむろほぎのことば》であり、大殿祭《おほとのほがひ》の祝詞であり、地鎮祭の祝詞でもあつた、少くもその心持からする発想であつたと見られるであらう。言霊《ことだま》のさきはふことに對する信仰から、舎人人麿の忠誠心が、かうした形で限神《あきつかみ》に對して捧げられたのであつたと見ることが出來よう。旅の庵の安全の爲にも、地祇に對する祭があつて、それがその土地柄の美しさを讃へる発想をとり、自然の叙景歌を成立させてきたであらうとする説は、折口信夫博士から高崎正秀博士にもうけ繼がれてゐ(11)て、現に本大成の「作家研究篇」上の高崎氏「高市黒人」にも、その説がはつきりと述べられてゐるが、人麿の(1)や(3)の歌には黒人のやうに叙景歌といひ得るやうな表現はだ成立してゐない。けれどもそこに新室壽詞のにほひが感じられることだけは確かであらう。はじめに疑を存したやうに、人麿の作は、唯單に吉野の山河に對する褒め稱へを表現の対象に置いた言葉ではなかつたのであつて、もつと直叙的に叙事的に壽詞的発想を取つてゐるのであつた。それが斎藤茂吉氏この方言はれる所の「人麿の混沌」といふものの一面であつたと言ふ事ができよう。
 それとくらべた場合、聖武朝の歌人群、金村や千年や赤人やの吉野従駕の作ば、可成りはつきり性質の違つてゐることを感じとることに躊躇する必要はもはや存しないであらう。金村の(5)の歌は明らかに、前代からつぎつぎに歴代の帝王吉野の秋津の宮に行幸になるのは、この山川の清くさやけくあるによつて、神代この方定められたものであらう、と歌つてゐる。この発想は新室壽詞であるとはとても言へないものであつて、離宮の設立そのことが最初から吉野の山川の美に囚つたものとして、将来もさうであらうことを歌つてゐるに過ぎない。吉野離宮建設の一つの目的としては、六朝随唐の山川遊覧に模しようとする點もあつたかも知れないが、少くも人麿の従駕の作を生んだ持統女帝の吉野行幸の主たる動機がただ單に遊覧や宴飲やに止まらなかつた事は、以上に考へてきた通りであつた。それと較べると金村は萬代不易の吉野山川の美によるものとして歌つてゐる。彼は人麿の発想に模しながら、全く別の自分の解釈に於て吉野行幸をうたつてゐる。もしも人麿の作の形式と内容とが不可分のものであるといふ事が出来るならば、金村の作に於ては、その形式は必ずしも必然のものではなかつた筈である。千年の例の歌にいたつては、音にのみ聞いてゐた吉野の山から見降せば、川の眺めも朝夕に面白いが、旅のことだから、自分だけで眺めるのは惜しいことである、と歌ひ來つて、全く故郷にのこした女に對する思慕に心は向けられてゐる。(8)の歌に伴つた反歌(9)ではそれが一層はつきりしてゐる。以上の養老七年またはそれに准ずる歌の一群(5)(6)(7)(8)(9)等の特色は、可成りはっきりと自然の美をうたふ(12)ものになつてゐるといふことである。
 しかしその點を取りあげて言ふならぼ、次の神龜二年の金村と赤人との一群は一層完璧なものになつてきてゐると言はなければならない。先づ金村の(12)の歌では、吉野河の美をたたへる部分が全作の半ばに及んでゐて、美しい土地に大宮人たちも数多く集つてゐることだから、萬代にかくありたいものと天神地祇曰に祷《いの》りをささげるのだと歌つてゐる。離宮の末永く變らないことを神にいのつてはゐるが、それは吉野山川の美をたたへるものとして稱へるのである。赤人の(15)の歌にいたつては、その殆ど全部が吉野の春秋の美しさをたたへることに費されてゐて、最後は「この河の絶ゆることなく百磯城の大宮人は常に通はむ」と結んでゐる。吉野離宮の永久に榮えることへの祷は、金村の作ではまだ言葉の上にでてをつて、人麿以来の発想の伝統がうかがはれるけれども、ここでは言葉のはしにもそれは見られなくなつてゐる。それでゐて萬代不易に吉野の美がたたへられ、行幸は引き繼ぐことを予想してゐることに於ては、何の思ひ違ひも起し得ないくらゐその表現は確乎としたものである。さてその反歌の(16)(17)は、古來有名な「ここだも騒ぐ鳥の聲かも」と「清き河原に千鳥しば鳴く」の絶唱である。この(15)(16)(17)あたりになると、歌は全く新しい面貌を持つにいたつてゐるといふ氣がする。それは自然の景を寫してきはどい一線で主観的面現に傾くことをくひとめてゐるといつた、客観的に平衡の取れた感じである。そして古来(15)の歌は殆ど問題にされないで、専ら(16)(17)の二首だけが独立の短歌作品であるかのやうに赤人の代表作として稱讃もされ問題にもされてきたのである。しかし、(16)(17)はあくまでも(15)の短歌であつて、(15)(16)(17)全體として見るべきものである事部は、忘れてはならない筈なのである。それにも拘らず(16)(17)だけが獨立して問題になり、長歌は間題とならなくなつてしまつたのは、一體何うしたことであつたらうか。これはあへて(15)(16)(17)けについての問題に限られるものではなくて、幾分赤人の全作品についての問題でもあるし――事實これまでの赤人の諭は、不盡山や手古奈の墓やの長歌をのぞいては、多く短歌作品が中心に考へられてきた(13)更らに一歩をすすめれば、赤人派全般についての問題でもある。聖武朝の赤人派、千年や金村やが赤人に匹敵する短歌作品を持つてをらず、したがつて金村・千年等は、人麿の長歌と赤人の短歌との間にはさまれてその何れにも肩を並べることが出來ず、自然に影を沒したかの如くにも考へられる。さうした赤人派の運命を赤人個人の上に移して考へる場合、それは赤人作品のためにも極めて意味の深い問題であるかのやうに思はれるのである。
 赤人派として問題をとりあげて來る限り、金村・千年・赤人は人麿の伝統をうけ繼ぐものとして、吉野従駕を中心にした長歌作品を残した。辭句の上でも構成の上でも可成り忠実に人麿に學んだ後繼者であつた。吉野従駕の作では、人麿以上のものが見られなかつたのだから自然の結果としてさうなつたのであらう。しかしながら、持統朝と聖武朝とでは、吉野行幸の諸種の動機に著しい軽重の變化が生じてゐたのではないであらうか。つまり持統女帝の場合には丹生川上神社に風雨の順調を析願するのが主動機で、吉野の美を稱したり、宴樂を愉しむといつた動機は従であつたかと思はれるのに對して、聖武朝になっては、名勝の美を稱し遊宴を愉しむことの方が主たる動機になつてしまつてゐたと考へられるのではないかと言ふ事である。
 もしさうであるとするならば、さうした行幸の動機の變化は神信仰の微妙な、しかし的碓な變化に伴ふものでもあるし、それは更に創成期の持統朝と完成期の聖武朝との問に生じた社会状況の微妙な變化に應じたものであつたらう。したがつてまたそこには、天皇と官僚群との間の社会的制度的な關係の變化、それに伴ふ天皇と完了群との精神的紐帯の變化が生じつつあつたに違ひない。なぜさう言ふことを想像しなければならないかと言へば、人麿と赤人との間の吉野従駕の作の差を承認する限り、創作主體として見たこの二人の間の、人間の形成の差異を承認せざるを得ないわけであるが、さうした人間形成を時代的に或は段階的に區切るやうな力を持つた原因は、個人の内部に生じた自己発生的なものだけに求めることは無理であつて、もつと社会的存在である人間を、その名の如く社会的に超個人的に、個人の外側(14)から動かして行くものの中に捕へなければならないからである。そのやうなわけで金村・千年・赤人たちは、その個人的な資質の何ういふ人間であつたかは第二として、何のやうに人麿に學んだところで、持統朝に於ける人麿のやうには歌ふことが出來ない作家として仕立てられてしまつてゐたと見なけれぼならぬ筈である。事実吉野従駕の作だけに見てもそれは言ひうる點であると思ふ。その點を今少し明らかにする爲に、当時の漢文学を對照的に考へて見よう。そしてあはよくばそれを鏡に使つて、和歌を今一度映し直して見よう。
 
       五
 
 少し強い調子で言ふとすれば、聖武朝の文學は漢文学を抜きにしては考へられないし、和歌の面を見るにしても、漢文学を抜きにしては考へられないといつても過言ではあるまい。赤人派を問題にするにしてもそれは完く同じことである。それで、必要な限りに於て、少しくそれに觸れて見よう。
 大化以後に生れた中央集権国家の理念が唐帝国のそれに學んだものであることは、論じつくされた通りであるが、長安に模した奈良の都城が成る頃には、次々に大寶養老の律令も発布されて、近江朝この方の制定事業も一應の終止符を打つたし、日本紀の編纂も終つて、治道参考書としての前代の歴史を持つこともできた。それに伴つて宮廷の儀礼も唐風に燻染して、中央官僚であつた上流貴族の都での生活は、衣食住ともに唐風が滲潤してきてゐた。官僚組織そのものの機能を発揮させる官公文書はすべて漢文であるから貴族たちの教養は漢学の修得と同じものといつてもよい位であつたし、宮廷の習慣に唐風が加れば、當然のこととして讌飲に伴ふ歌舞音樂から侍宴應詔の制作に至るまでやはり唐風が取り入れられる。唐風といつても古文複興の新風はまだ唐に於ても新運動に外ならなかつたから、勿論さうした制作の面では六朝から唐初を風靡してゐた四六駢※[馬+麗]體の詩がうけ繼がれてゐて、したがつて文選や初唐の詩文が學ばれ、制作(15)の粉本となたつたことも當然であつたらう。それにしても、三月三日曲水宴や七夕やの宴席で詩を作つて詠じたり、行幸の駕に陪して帝徳を讃美することは、次第にその頻度を増し、儀礼化されていつた。
 その一般を今日に傳へるものは懐風藻一巻である。懐風藻は平安中期惟宗孝言の筆写した本が親本となつてその後轉寫された爲に、わづかに滅びることをまぬがれたことは幸であったと言はなければならないが、現存の本は少しく逸したもののやうで、漸く百十七首を載せるに過ぎないし、辭句の異同が可成り著しいが、それでもほぼ原本の全貌を覗ふには足りるであらう。それにしても懐風藻そのものの規模が、当時の全制作の數から言へば何分の一をしか傳へたものでないことも想像するに難くはないことである。その事は別の面からも想像することが出来る。懐風藻はその序文の日付によつて天平勝寶三年(751)に編まれたものと見るならば、それは孝謙天皇の弟三年であるから、収載作品の殆どすべては大體孝謙朝に一つ先立つ聖武朝の末期頃までのものと考へることが許されるであらう。としてもその期間内に作られたことの明らかな漢文作品、たとへば萬葉集に見えてゐる山上憶良、大伴家持たちの漢詩や、憶良、大伴旅人、大伴家持たちの歌序や尺牘の類の有る事を以て推せば、懐風藻に見える以外に幾人かの作家も居た事が想像できる。また藤原宇合集二巻や、石上乙麻呂の銜悲藻二巻のやうな、私家集の有つた作者も居る。それにも拘らず、懐風藻には宇合は六首、乙麻呂は四首、旅人はただ一首、憶良も家持も加へられてゐない。第一詩数も全部でわづか百十七首であつて見ると、懐風藻に収めてあるものは、當時の作家と作品のごく少部分に過ぎなかつたと想像してもあながち不當であるとは言へないであらう。さうした少数の作品の中で、侍宴従駕の詩は三十四首、讌集二十二首、遊覧十七首、これが第一位から弟三位までであつて、併せて七十三首、全作品の半ば以上に達してゐる。侍宴従駕の詩だけでも四分の一以上を占めてゐる。これで見ても、當時の作詩が宮廷関係の公的な場合に結びついてゐた度合の強さを推定するに困難でない。かりに懐風藻の編者が努めて侍宴従駕の詩を多く収載したのだと仮定して見ても、さういふ選び方が生じ得るといふ事(16)自體、やはり當時の詩の作られ方と関係のあつたものだと言はざるを得ないであらう。その侍宴従駕の詩の中でも、吉野の詩は殊に多いのである。
 懐風藻には作家にして十人、作にして十五首だけ吉野関係のものがある。その一は太政大臣藤原不比等の遊2吉野−二首で、それに対して大津連首の和スd藤原太政ガ遊ブ2吉野川1之作ニUの五言律詩一首と、葛井連廣成の奉ルv和シ2藤太政ガ佳野之作ニ1
の五言律詩一首とがある。これ等ははつきりと藤太政つまり不比等の詩に和したと題してゐるから、同じ時の作である事が察しられる。勿論不比等は何回も行づたかも知れないけれども、懐風藻に収められた不比等の二首で見ると.その中の二つ目の作が真韻を踏んであるのに対して、大津首の作も葛井連廣成の作も眞韻である。特に大津連首の作の題詞の下には、仍ツテ用フ2前韻ヲ1、つまり藤太政の用ひた韻を用ひると注してあるから、本当ならば同韻であるだけでなく、藤太政の用ひた韻字を一々踏まなければ十分ではないのでないかと思ふけれども、当時はまだ初期の時代だつたので、詩技に十分熟してゐなかつたので、字は別であつても同じ韻の字を用ひさへすれば許されてゐたのかと思ふ。何れにしてもこれはたしかに韻を和したと見られるやうで、その點からも同じ時の作として大過はなささうに思ふ。
 それに対して不比等の子藤原宇合は、尊卑分脈にも詩集二巻があつたと見えて、岡田正之博士は日本漢文学史に、石上乙麻呂の銜悲藻に先んじて、「我が邦に於ける詩の別集の嚆矢となすべし」と述べてゐるが、懐風藻にも六首を取られてゐて、たしかに優れた作家であつたことが推測できる。その遊吉野川五言排律一首も他の作に較べて彫琢をきはめてゐるやうに見える。しかし父不比等に従つての作であるか何うかは決しがたい。不比等は元正女帝の養老四年(720)に六十二歳で薨じてゐるが、その時宇合は二十七歳である。不比等が吉野川に遊んだのはその以前でなければならぬから、宇合ももつと若かつたに違ひない。それにしては立派過ぎる位の作と言はねばならぬやうに思ふ。その上、父子共に行つたのであれば題詞にも作品の上にも何等かの反映があつたかも知れない。所がそれが全く存してゐない。その(17)上、韻は不比等の二首の作の何れとも全然別で、侵韻である。唱和したものでないことも察せられる。宇合の作に恐らく不比等亡き後の吉野遊覧の作であるに違ひない。
 そこで不比等関係はしばらく措いて、次に従駕の詩であることを明記したものを求めると四首ある。その二つは大伴王の従テ2駕ニ吉野ノ宮ニ1應ズv詔ニの五言律一首と五言絶句一首であり、次の一つは高向朝臣諸足の従フ2駕ニ吉野宮ニ1の五言律一首であり、今一つば紀朝臣男人の扈2従ス吉野ノ宮ニ1の五言律一首である。この大伴王は續日本紀の光仁紀に見える大伴王では時代が下りすぎると思はれるので、誰人であるかまだ明らかにし得ないのは残念であるが、諸足は聖武朝の天平五年(733)三月辛亥の日に正六位上から外従五位下を授けられた高向朝臣諸足にちがひないから、この吉野従駕の詩はほぼ聖武朝のものと見てよいであらう。また男人は文武朔の慶雲二年(705)十二月癸酉に従五位下に叙せられて、聖武朝の天平十年(738)十月甲午に太宰大貮正四位下として卒した紀朝臣男人にちがひないから、この従駕は大體元明・元正・聖武三朝のものとして考へることができる。
 ところがこれ等の従駕のことが明記されてゐる詩にも、先の藤原不比等の遊吉野の作やそれに和した由の明記されてゐる詩にも、そしてそれ以外の遊吉野宮・遊吉野川・遊吉野山などとだけ記されてゐて、従駕の作であるか藤原不比等に従つての作であるか、それ以外の場合の作であるか、題詞だけを見たのではその點のはつきりしない六首ばかりの作にも、共通した一つの特色がある。それは藤原不比等の作と同韻の詩が非常に多いことである。不比等の作二首は東韻と眞韻とであるが、大半の作がその何れかと同韻の作品である。韻のことは釋清潭の斬釋にも澤田總清の註釋にも杉本行夫の註釋にも觸れてゐるが、このことからひよつとすると間違を生じないかといふ恐れを感じる。殊に杉本行夫氏の註釋では、吉野の詩の最後に位置してゐる葛井連廣成の作の條で、特に吉野関係作を総括して精細の論評を加へてゐるが、その所で一々この韻は藤原不比等のどの作の韻と同じであるといふやうに注してゐるのを見ると、何かそれ等の作(18)が皆な不此等の作に和したのではないかといふ考へに導かうとしてゐるやうにも取れないとは限らない。そして高向朝臣諸足の従駕吉野宮も大伴王の従駕吉野宮應詔二首中の一首も紀朝臣男人の扈従吉野も、同韻といふ點から言へばみな不比等の二首の中のどちらかと同韻である。しかし同韻だからといづて不比等に和したのであるとするならば、これはをかしいのであつて、詔に應じながら一方また不此等に和したといふことに成りさうである。一體さういふ事があり得たのであらうか。また杉本行夫氏の註釋は人々をさう考へる方に誘導しようとしてゐるのであらうか。恐らくさうではない。さうした點は一言も觸れられてゐないのであつて、多分吉野の詩の最も前に掲げらられてゐるのが不比等の作であるために、それを尺度として見ると、あまりにも同韻の作が多いので、その點に注意を喚起しただけに過ぎないのであらうと思ふ。事實吉野の詩の作家としては、不比等は最も早く世を去つた人物の一人と思はれるし、その権力その地位からしても、後來の作家が多くそれに倣つたといふ事は大いに有りさうなことに思へるのである。それは韻の上の事だけではない。着想の上でも同じであつたに違ひない。不比等は吉野を仙境と見て神仙傳説を多く使つてゐる。
  飛バスv文ヲ山水ノ地 命ズv爵ヲ辟(草冠)蘿ノ中  文《ぶん》を飛ばす山水の地 爵《さかづき》を命ず辟(草冠)蘿の中、  漆姫控v鶴擧 柘媛接v魚通             漆姫は鶴を控へて擧り、柘媛は魚に接して通ぜり、
  煙光巌上翠ニ 日影※[さんずい+脣]前紅     煙光巌上翠に、日影※[さんずい+脣]前紅なり、
  翻ツテ知ル玄圃近 對翫ス入ルv松ニ風        翻つて知る玄圃の近きことを、対翫す松に入る風。
 少し注を加へると、漆姫は契沖の萬葉代匠記この方七姫であらうとしてゐる。漆は七の本字だからである。七人の姫が鶴に乗つて天に昇つたと取られてゐる。しかしこれは竹柏園文庫藏狩谷掖(木偏)斎書入本懐風藻の掖(木偏)斎の書入に見えてゐるやうに、日本霊異記にだけ傳へられた古傳説に因るものである。それは同書上巻第十三話の女人好2風聲之行ヲ1食2仙草ヲ1以現身飛v天ニ縁第十三に見えるもので、大和の国字太(宇陀〕郡漆部の里に風流女《みさをめ》がゐた、それは漆部造麿の妾、本性(19)風聲を行として、極窮にあつて衣食にこまり乍ら、日々沐浴し、家を潔め、常に野に菜を摘んで調理し、七人の子と咲を含み親しげに話しあひつつ食事をした。その気調あたかも天上客のやうであつた。つひに難波長柄豊前宮の時(孝徳朝)、甲寅の年、神仙感應して春野に菜を採り仙草を食して天に飛んだとある。吉野ではないが大和宇陀郡の地であるから作者が借りたのである。控v鶴擧は仙人となつて昇天した意味である。神仙鶴にのつて飛ぶのは漢民族輸入の幻想である。柘媛v魚通は晋通に接莫v通となつてゐるが、新釋に其の字魚に似るとして魚に改めてゐる。群書類従本の一本にも魚とあり、日本詩紀や箋註にも接v魚通となつてゐるので、ここにもさうして置く。控鶴擧と接魚通とは対句である。武田祐吉博士は「柘枝傳」(「奈良文化」十号・後、「萬葉集論考」に収載)で、接梁通でもあらうかとして居られる。意は収りやすいが、鶴との對は魚の方が良いやうである。とにかく萬葉集巻三の仙柘枝歌三首(三八五・三八六・三八七)の左注に、但し柘枝傳を見るに此の歌あることなしと記してあるので、當時は柘枝傳といふものが有つたことが分るが、今はない。しかしこの歌と、懐風藻の他の詩と、續日本後紀巻十九嘉祥二年三月興福寺が仁明帝四十の寶算奉賀のために献じた長歌などとによつて想像すると、吉野の昧稲といふ男が吉野川に梁を打つて魚を取てゐると柘枝が流れてきてかかつたので取り上げて持つて歸ると美女に化生して交通した。その後夫婦となつて住んだが終に天羽衣をまとつて天界に飛び去つたと言ふものであるらしい。この傳説をもとにして考へるならば、柘媛接魚通の一句は、柘枝の仙女が魚と近づきになつて(簗にかかつて)味稲と情交したと言ふ意味になるであらう。も一つ本朝月令の残篇に見えてゐるものに、天武帝が吉野の宮で天女が霓裳羽衣曲を空中に舞ふのを見たといふ傳説が見えてゐるが、吉野が神仙の思想に附會されて行く傾向のあつたことは、これ等の傳説が和歌作者よりも漢詩作者によつて好材料として取り上げられた點から見ても十分に覗ふことが出来ると思ふ。その筆頭が藤原不比等であつたわけである。
 不比等の今一つの作は
(20)夏身夏色古 秋津秋気新      菜摘(川)は夏色古り、秋津(野)は秋気新なり、
  昔者同汾后 今之見2吉賓ヲ1    むかしは汾后と同じく、今は吉賓を見る、
  霊山駕v鶴去 星客乗v査逡     霊山は鶴に駕して去り、星客は査に乗じてかへる、
  清性相(手偏)2流水1 素心開2靜仁1 清性流水を相(手偏)み、素心靜仁を開く、
 これもまた雅霊山駕鶴去といつて漆姫のことを持ち出し、星客乗査逡といつて張騫について六朝頃にすでに出来てゐた神仙小説を踏んでゐるやうに見える。それは荊楚歳時記に見えてゐるもので、それを抄出すると「張騫尋2河源1、乗v査經v月、至2一處1、見3城郭如2州府1、室内有2女織1、又見2一丈夫牽v牛飲1v河、騫問曰、此是何處、答曰、可v問2嚴君平1、織女取2支機石1與v騫倶還、後至v蜀間2君平1、君平曰、某年某月、客星犯2牛女1、支機石為2東方朔所1v識」、とあるものだが、しかし、この二句は、また別の解釈ができないものでもない。霊山駕鶴去は柘媛が羽衣をつけて昇天したこと、星客乗査逡は仙女と交つた味稲が、またもとの俗界に獨り残されたことを張騫に結びつけて比喩的に言つたものと取れなくもない。もし以上の二句が、さう解すべきものとして、仙女柘枝は結局昇天し、味稲は仙女と交歓したけれど結局吉野河畔に住みついたといふ意味の比喩的表現であるとするならば、その直ぐ前の昔者同汾后、今之見賓の二句も比喩的表現と見られるかも知れぬ。汾后は堯帝。位を舜に譲つて汾水の陽に居たので汾后といふ。昔賓は吉人であらう。賓は韻を踏む為に人と換へて用ひたと見られる。さて吉人は天武帝の「吉野よく見よよき人よく見つ」のよき人である。書經泰誓の「我聞吉人ハ為ニv善ノ惟レ日モ不v足」の吉人である。ここでは明王の意味であらう。それ故この詩の大意は言つて見れば、「菜摘川夏の色更け、秋津野に秋の気動く、古の帝《きみ》は徳たけ、今の王《きみ》またすぐれます、柘姫は仙界に逝ねど、味稲は川のほとりにとどまれり、性情もとより清くあれば、流れをくんで仁心む開かむ」といつたことに近くはなからうか。最後の二句は、仁者は山を愛し智者は水を愛すといふ有名な言葉がふまへられてゐる事はもとよりで、不比等のこ(21)の詩の表現はやや舌足らずの感じだが、とも角儒教的な帝王観人間観に奇妙に神仙の息吹が入り交つてゐる作品だと言つてよいであらう。そしてその他の詩人たちもみな何とか神仙的世界に結びつけようとしてゐる所が注意に値する。しかし必ずしも紳仙が出てくるとは限らないし、詩の出來榮はみな不比等より良ささうに思はれる。中臣人足は「遊吉野宮」の五言律で「惟山且惟水、能智亦能仁」と言ひ出して仁山智水の定石を行くが、結末は「此地即方丈、誰説桃源賓」とをさめて、吉野は即ち方丈の島であると、實に簡単に神仙臭を発揮してゐる。しかし詩句の敷置は不比等よりもこの方が余程形はととのつてゐるやうに見える。しかし殊に今一つの五言絶句の方は、
    仁山狎鳳閣 智水啓龍楼 花鳥堪沈翫 何人不淹留
     仁山鳳閣に狎れ、智水龍楼に啓く、花鳥沈翫するに堪へたり、何人か淹留せざらん。
と言ふのであつて、対句の巧緻さは一應立派である。詩としての出来栄えは何の程度かよく分らないが、大体仁山智水の定石通りと言つてよいから珍しくもなささうである。しかし花鳥堪沈翫、何人不淹留の納め方は、不比等の作の苦しげなのと、何か違ふやうで、實は非常に印象的である。ただこれには神仙臭は露骨には出てゐない。
 大伴王の「従駕吉野宮應詔」も、律詩の方は、「欲尋張騫跡、幸遂河源風」といつて、張騫が天の河を訪れた故事が聯想されてゐた事が分るし、今一つの絶句の方も、
    山幽仁趣遠 川淨智懐深 欲訪神仙迹 追従吉野潯
     山幽にして仁趣遠く、川淨くして智懐深し、神仙の迩を訪んと欲して、追ふて吉野の潯に従ふ。
といつてゐて、吉野は仙跡であるといふこととを露骨に言葉の上に出してゐる。結句は從駕の作だからそれに應はしく納められてゐるが.大体の発想は前の小田人足の絶句と著しく近いやうである。違ふ所は人足の結句には仁山智水の對句はあつても神仙臭が全くないのにくらべて、大伴王の作は露骨に欲潯張騫跡とか欲訪神仙迩とかといつて、大いに神仙(22)臭を言葉の上に出してゐる點である。仁山智水の定石で出ながら平気で神仙に飛び移るところ、無邪気といふに近いやうで、やはり中臣人足の絶句の方が立派なのでないかと思ふ。しかし紀男人の「遊吉野川」の七言絶句には結句に留連美稲逢槎洲の句が出てくるから、その逢槎洲と、前の不比等の星客乗査逡の乗査とをくらべて見ると、どちらも張騫の槎(査)に乗つて歸つた故事に頼つて、昧稲の吉野川邊に淹留したことを表現しようと試みたことが推定できるであらう。同じ妃男人の「扈従吉野宮」の五言律にも、此地仙霊宅の句があるし、また藤原萬里の「遊吉野川」の五言律にも簗前柘吟古の句が見えてゐるし、丹遲廣成の「遊吉野山」の五言律には、、栖心佳野域、尋問美稲津の句が見え、同じく「吉野之作」の七言絶句には、美稲逢仙同洛洲の句が見えてゐる。高向諸足の「従駕吉野宮」の五言律にも弾琴與仙戯、投江將神通とか、柘歌泛寒渚、霞景飄秋風とかの句が見えてゐる。
 かう見てくると、懐風藻に入集した限りに於て、當時の吉野の詩は大体に於て神仙的臭氣を持ち、それも柘枝傳を中心にして、それを他の二三の伝説と組み合せて潤色してゐることが分る。そして吉野の詩にそのやうな発想の類型を生じさせる誘因を作つたのは、藤原不比等の吉野遊覧と、その時に催された賦詩の宴であつたらしく思はれる。不比等の作と同韻の作が多いことも、柘枝傳を軸にした発想が多いことと併せて考へれば、それは全く推定以上に出るものではないけれども.矢張り吉野の作のいくつかの中には、不比等の讌飲賦詩の席に列した際の作も含まれてゐるのかもしれない。そして、それが一つの型となつて後の従駕の作にまで影響を及ぼすやうになつていつたものと見ることが出来るかも知れないであらう。
 もしこの推定が當らずとも遠からぬものであつたとするならば、既に一度觸れたやうに藤原不比等は元正朝の養老四年(720)に六十二歳で薨じたのであるから、その吉野遊覧はそれ以前に溯るものでなければならぬ。聖武朝は神亀元年(724)に始まるのであるから、不比等の吉野行は聖武朝開始前少くも五六年(薨去直前と見れば)、或は今少しゆとり(23)を考へて十年位前(薨去前数年、霊亀・養老の間のことと見れば)、と言つた頃のことと考へるならば、大体において元正朝のことである。持統朝と聖武朝との中間には文武・元明・元正の三朝約二十七年ばかりが存してゐるが、漢詩の世界では、この期間にすでに侍宴・遊覧・従駕の作は、以上に見てきたやうな儒教的と神仙的との大陸伝来の二思潮の奇妙ではあるが無邪気で自然な混用(或は寧ろ六朝風と言つた方がよいやうな融合)が生じつつあつたことが分る。
 それは言はば思想的にも生活的にもある種の開化期といふ事ができる。それは私が、本大成の総記篇で「萬葉集と歌風の変遷」を担当した時に、歌風の第三の段階として開化的と規定した、さういふ歌風を支へるのと同一系統の社会が成立してきてゐた時期であることを暗示してゐる。開化期の特色として、輸入文化の直接的な享受の面が一歩を先んじるから、和歌の方にまでさうした影響が顕著になつてくるには、幾分時間的にすれることは勘定に入れなければならない。
 私は前に開化的の段階の代表として、旅人・憶良・赤人を考へたのであるが、旅人の讃酒歌十三首のやうな老莊的立場(それはやがて神仙的なものに通じる)も、憶良のやうな慷慨悲傷する批評家型も赤人的な立場もの地盤は、聖武朝以前に、保守的な立場からの強い抵抗にも拘らず、表面的な急進的な開化主義者を旗頭に立てながら、すでに次第に基礎を形成させつつあつたのである。
 たとへぼ越智直廣江は續日本紀によれば、養老七年(723)正月從五位下を授けられ、懐風藻で見ると位はそれで停つたらしい人物で、恐らく聖武朝に於ては既に晩年を送りつつあつた人物と見てよいかも知れない。つまり天平三年(731)に世を去つた大伴旅人などとほぼ同時代人と見てよいとこに成るであらう。彼の「述懐」といふ絶句に
    文藻ハ我ガ所v難シトスル 莊老ハ我ガ所v好 行年已ニ過ギヌv半バヲ 今更ニ爲ニカv何ノ労セン
     文藻はわが難しとすろところ、莊老はわが好むところ、行年すでに半ばを過ぎぬ、今さらに何のためにか労せん。
(24)といふのがある。何時の作か不明であるけれども行年すでに半ばを過ぎぬだから、五十を越してゐたのであらう。そして姓(氏の階級を示す称号)は直だから卑姓であつて、越智氏は決して高姓の氏族ではなかつた。それから越智氏は廣江以後になると伺族の人がしばしば續日本紀の上に名を並べるやうになるが、廣江以前には殆どそのことがない。少くとも廣江の頃までは決して大氏族の人ではなかつた。高姓でも大氏族でもなかつた廣江として見ると、年五十にして漸く従五位下刑部少輔大學博士といふ所が、非常に自然で、その氏姓にほゞ釣合つてゐると思はれる。したがつて右の絶句も彼が従五位下になつた養老七年を中にして、養老天平の間を遠く出るものではなかつたであらう。
 かうした現世に執する気持から疎遠になつて、隠逸に心引かれる心的状況は、懐風藻中にしばしば感じ得る所の、主導音ではないが主陪音であるといゝふことが出来よう。隠士民黒人の「幽棲」といふ律詩にも、
   試ニ出デテ2囂塵ノ處ヲ1 追2尋ス仙桂ノ叢ヲ1      試みに囂塵のところを出でて、仙桂の叢を追尋すれば、
   巌谿無2俗事1      山路有リ2樵童1        巌谿事なく、山路には樵童あり、
   泉石行行異ナリ     風烟處處同ジ         泉石は行くにつれて異なり、風烟はいづこも同じ、
   欲セバv知2山人ノ樂ヲ1  松下有リ2清風1        山人の樂みを知らんとならば.松下に清風あり。
といふのがあつて、その外でも個の心境が何らかの程度に表現の対象に据ゑられた作品は、多かれ少なかれ老荘的な隠棲と俗塵からの高踏とに誘なはれる感懐を反映させてゐるのを見る。かうした個人の感懐の詩と吉野遊覧の詩などとでは、句の構へ方から見れば可成りの相違を持つてゐるけれども、吉野に仙境を見ようとする所などは共通の老莊的基盤に立つてゐることを感じさせるのであつて、結局宴の詩と述懐の詩との相違であり、公的な発想と私的な発想との相違に外ならないが、それは同時に時代の表と裏との相違でもあつたのである。当時すでに絶対集権国家の行事が幾分宮廷の儀礼的装飾に化しはじめてゐて、群小官僚の私生活はそれとは別箇の利害得失に立脚した独立性を持つやうにな(25)つてきてゐた。それがこの時代の真実の姿に外ならなかつたのである。
 さうした公的儀礼のいよいよ華麗に大袈裟に高まつて行く習慣的な絶対性と、その非人間的な豪華さについて行けなくなつた官僚個々人の間に、確実に生じてきた脱落の意識と抵抗の意識を通しての個人的自覚の形成。この対立は官僚機構の中に組み込まれてゐた人々に官僚としての公人の行動の外に、それからは乖離した私人としての生活の知慧と感覚とをめざめさせた。持統朝の人麿に完璧な表現を見た混沌たる統一は、聖武朝の開化期の人々にはすでになかつた。
 赤人派の問題はやはり以上の點を考慮に加へることによつてのみ、一歩前進させることが出来るであらう。
 
       六
 赤人派の人々は、和歌を以て従駕の作をものしたから、人麿の伝統を承けたけれども、聖武朝の開化期的意識は特に中央の高級官僚に花をひらいてゐて、持統朝の意識からは相當かけ離れた所へ移つてきてしまつてゐた。それで、発想の上で人麿の流を汲んでゐても、何うしても人麿と同じには行かないで、形式と内容との奇妙な分離といふ事が生れてきてしまつた。その分裂については何回となく觸れてきた通りであるが、その結果は長歌自体の解体といふことに外ならなかつた。
 新室壽詞としての呪言を奏する意識を汲んでゐる人麿の天皇家との結びつきと、六朝随唐風の侍宴従駕の詩を、それも外国語で綴りながら、その異国文化の外形から感じられる魅力に溺れてゐる聖武朝官僚と帝室との結びつきとが、同じ筈もないことで、さうした新時代の意識の中では、赤人派の和歌もまた、新しい立場に押しやられざるを得ない。たとへば明治の前半朔、文明開化の鳴物入りの宣伝の中、鹿鳴館の夜宴の一時期を通して、和歌改良論の激しい応酬が生れ、つづいて新派和歌や新俳句やの運動が芽をふいたのと似通つた状勢の推移はその頃にも確乎として跡づけることが(26)出来るわけである。
 さうした時代を通る間に、長歌は形式だけを残してその伝統的な発想の根據を喪失する。そして新しい長歌の成立根拠は成立してゐない。むしろ反対に、さうした新長歌を発芽させない新しい地盤は確実に固まりつつあつた。それは何か。くり返し言ふやうであるが人麿的な精神的地盤の解消に入れかはつて、私人的な個の人間の意識が成立したことであり、しかもそれが絶対的な社会権力との内発的な相関関係を持つてゐない、むしろそれとの乖離の自覚に支へられたやうな自我の意識の成立したことであつた。
 さうした中では、長歌と短歌とでは、その発想に於ける形式上の適否といふ點では、結果ははつきりしてゐた。第四節に引いた赤人の(15)(16)(17)を今一度ここに引かう。
      山部宿禰赤人の作れる歌二首并に短歌
  15 やすみしし わご大王の 高知らす 芳野の宮は 疊づく 青垣隠り 河次の 清き川内ぞ 春べは 花咲き撓り 秋されば 霧立ち渡る その山の いや益益に この河の 絶ゆることなく ももしきの 大宮人は 常に通はむ
(巻六・九二三)
   反歌二首
  16 み吉野の象山の際の木末にはここだも騒ぐ鳥の聲かも(巻六・九二四)
  17 ぬばたまの夜のふけぬれば久木生ふる清き河原に千鳥しば鳴く(巻六・九二五)
 この人麿伝統をふまへながら、その中核に於て、ただ吉野山川の美を句に畳んで叙べるだけである。これがもし人麿のやうに室壽の詞を地祇にささげる爲であるならば、やや冗漫であつて、平板な自然の叙述に成りすぎてゐる。むしろ高市黒人の短歌や、この反歌やに見えるやうに、思ひきつてその地祇が支配する土地柄の写実的讃美に進んだ方がより緊密で、人麿の長歌が持つやうな森厳な印象はないにしても、せめて空疎な修飾の感からは逃れることが出来るであら(27)う。長いものを作りたいなら、一層のこと紀男人の「扈従吉野宮」の五言律詩のやうに
   鳳蓋停ル2南岳ニ1   追尋ス智ト與v仁     鳳蓋南岳に停り、追尋す智と仁と。
   嘯v谷将v※[獣偏+孫《そん》]語リ  攀キテv藤ニ共ニv鳥ト親シム 谷に嘯いて※[獣偏+孫]《さる》と語り、藤に攀ぢて鳥と共に親しむ。
   峰巌夏景変ジ  泉石秋光新ナリ        峰巌は夏景変じ、泉石は秋光新たなり。
   此ノ地仙霊ノ宅  何ゾ須ン姑射《こや》ノ倫  この地は仙霊の宅、なんぞ姑射《こや》の倫《たぐひ》をもちひんや。
とでも言つた方が、開化期の発想としては、より一層從駕高官の感懐に即してゐたのではないであらうか。和歌としては(16)(17)のやうにならざるを得なかつたであらう。
 この二首は客観的な写実の作として、ことに島木赤彦以来絶讃されたものであつたが、勿論客観的といつても、個体的自我を持つた主体を通して把握されてゐる吉野の自然である限り、この歌が傳へる自然は鏡にうつつた映像のやうに無意味な自然の姿ではない。赤人といふ主体によつて濾過された素材が再構築されてゐる。さうした意味に於て藝術でありえてゐるのだが、そして高木市之助教授がすでに「古文藝の諭」で適確にそれを言はれて居る通りであるが、さうして構成された藝術が、(16)のやうに、また(17)のやうに精麗な自然の姿を傳へるものとなつてゐるのは何うしたことであらうか。しかもそれは従駕の詩である。漢詩ならば何としても仁山狎2鳳閣1、智水啓2龍楼1、花鳥堪2沈翫1、何人不2淹留1(中臣人足)といつた所に落ちつかないでは居られまい。これは懐風藻の吉野の詩中、我々のやうに漢詩に素養のない者には、最も親しみ易く愛すべき作の一つと見えるのであるが、それにしても何と人事と自然とがわづか二十字の間に錯綜してゐることであらう。赤人の作は(15)の長歌で従駕の作らしい委曲をつくしたから、(16)(17)では安心して、つき放して自然に自分を投げ入れてゐるのだらうか。恐らくさうでない。反歌はむしろ長歌の骨髄を歌つたもののやうだから、だとすれば、(16)(17)こそ(15)で扱ひたかった眼目のところであつたと見てもよい。それは、静寂として自然と交(28)感してゐる人間、或は自意識を忘失して、主体的な自己と感性的な外界との枠をはづしてしまつた人間を感じさせる。かういふ境涯に自分を落着させることの出来る人間は、一個の個人的人間としたところで、決して近代人的な人間ではあり得ない。遠く近代以前の、したがつて近代社会とは全く別の社会の人間であつたと言はなければならぬわけだが、實はそればかりではない。その當時としても、漢詩など作れる教養の持ち主から見れば、余程平凡な、新しい学問などには縁の深くない、民間人とは同類の人間の一人であつたのであらうと見ることが出来よう。
 
       七
 
 赤人が新しい學問に縁がない人であらうといふ事は、同じ開花的歌風の段階を代表させ得る歌人として、大伴旅人や山上憶良やと較べれば簡単に想像できる事である。二人とも抜群の漢学の力を有してゐたことは、萬葉集の巻第五を見るだけでも十分にうなづけるのであるが、その中で旅人は高姓の大氏族の氏の上であつて、官界の要人に列したし、憶良は卑姓の小氏族の人間で努力して地方長官に昇つたが、その官人としての社会的相違は、旅人に老莊的な世界を覗うよすがを與へたし、憶良に強烈な現実批判の倫理主義と、何か激しく熱つぽい時代への抵抗とを與へたやうである。しかしその何れもが、聖武朝としては、その時代の特色であつた開化主義を、推し進める――立役者ではなかつたとしても――同じ側に屬した人々の一人であつたことだけは確実であらう。
 それに較べれば、赤人は非常に違ふと見なければならない。それは赤人一人のことに止まるものでなく、赤人派全体のこととして見ることの出来る問題でもあるやうに思ふのである。そこで何うしても赤人派の氏姓や身分を當面の問題として探索して見る必要を感じざるを得ないのである。勿論他の有名な萬葉作家の多くがさうであるやうに、赤人派の氏姓家系身分などは誠に漠としてゐて取りとめがない。中でも赤人その人について、それが最も甚だしいのである。し(29)かし分つてゐるだけの記録をもとにしてでも、出来るだけ間題を考へて見ようと思ふ。
 
       八
 
 日本紀の天武天皇紀十三年冬十月己卯朔の詔に、「更ニ改メテ2諸氏之族姓ヲ1、作リ2八色之姓ヲ1、以テ混《マロガス》2天下ノ萬姓ヲ1、一曰2眞人1、二曰2朝臣1、三曰2宿禰1、四曰2忌寸1、五曰2道師1、六曰v臣、七イレ連、八曰2稲置1、」とあつて、これが有名な天武天皇の八色改姓の詔である。この日同時にもともと公を稱した皇別の十三氏に眞人の姓を賜る皆の発表があり、十一月戊申朔に、神別皇別の大部分の臣、それに連の二氏と君の七氏を併せて五十二氏に朝臣の姓を賜はり、つづいて十二月戊寅朔には、神別の舊連姓の諸氏に臣の一氏を加へて五十氏に、宿禰の姓を賜つた。翌十四年六月に忌寸賜姓の発表があつて、それ以下の賜姓はその時行はれたか何うか、紀に記載がないから不明であるが、その後、聖武・孝謙・称徳朝に賜姓の乱発が行はれるやうになつてからも、臣・連の賜姓はあつても、道師・稲置はないので、恐くこれは用ひられないで終つたものらしい。八色改姓といつても施行されたのは六姓であつた。さてそれはそれとして、この改賜姓も全氏一律に行はれたのではなかつたし、また同一氏族に對してもすべて同一の姓が與へられたわけではない。ある家筋は舊姓のまま残されて、ある家筋だけが新姓を與へられたといつた事情が相当多く存してゐたやうである。それは、天武朝においての八色改姓の構想といふものが、壬申亂を契機として、天皇家の忠誠な親衛貴族團を設定し、その中から人材を任用して、中央官僚組絨を構成しようとする所にあつたからで、したがつて同一氏族ならすべて一律に同一の姓を賜るといふことは出来なかつたのである。
 そこで、赤人派の連中の問題であるが、八色改姓に當つて、笠氏は舊姓臣から朝臣を授けられ、車持氏は舊姓君から朝臣を授けられ、山部氏は舊姓連から宿禰を授けられてゐる。しかしこの三氏とも、大化壬申の以前にあつては、少く
(30)とも中央政府との關係から言へば、それほど大した勢力をもつた氏族ではなかつたに違ひないのであつて、日本紀の上ではそれ程顕著な役割はつとめてゐないのである。したがつてその記事も至つて少い上に、第一、その少数の記事が何れも大したものではないのである。しかし一二回でも日本紀に出て来る所を見れば、地方豪族として、その本貫の地に於ては、相当の地盤を持づてゐた雄族であらう、といふ點は想像に入れて置いてよいであらう。
 笠朝臣の祖笠臣は古事記の中巻孝霊天皇の條に、その皇子の若日子建吉備津日子命が吉備下道臣と笠臣との祖であ
ると見えて居り、日本紀巻十の応神紀二十二年秋九月の條には、吉備國に幸した時、御友別が参り赴いたが、その謹ん
で奉侍する様子に天皇悦びの情あり、吉備國を割いてその子等を封じた。それからさらに波區藝縣を以て御友別の弟の鴨別を封じた。これが笠臣の始祖だとある。また新撰姓氏録の右京皇別の條下に、笠朔臣といふのがあつて、孝霊の皇子稚武彦命の後であつて、応神天皇吉備國巡幸の節、加佐米山で大風が吹いて御笠を吹き放つたので、天皇これを怪しんだ、すると鴨別命がこれは神祇が天皇に奉ぜんとするに外ならぬと申したので、天皇はその真偽を知るためにその山で獵をさせた所が、獲物が頗る多かつたので、天皇大いに悦び、鴨別命に名を賀佐と賜つたと記してある、少異はあるが大體は諸書一致して、孝霊の皇子から出て、応神朝の頃、吉備に住したその子孫の鴨別から笠氏を稱したといふ事になる。ところが笠氏のその後の動静については殆ど何も分らない。ただ日本紀巻十一、仁徳天皇六十七年の條を見ると.吉備國中島河の分岐する所に大蛇がゐたが、笠臣の先祖の笠縣守が勇悍強力で、これを退治したことが見えてゐるが、その外には大したことがない。これを要するに、吉備に蟠居して臣の姓を受けてゐた笠氏といふ氏族は、地方の豪族としては相当のものであつたらしいが、大化前代の畿内を中心にした政争史の上では、別に大きな存在ではなかつたらしいことが分る。
 ところが、日本紀巻二十五、孝徳紀の大化元年九月の條を見ると、古人大兄皇子の謀反のことが載つてゐる。その時(31)皇子に與する者は蘇我の山口の臣川堀・物部の朴井連稚子・吉備の臣垂・倭の漢の文直麻呂・朴市の秦造田来津たちであつたが、吉備笠臣垂は中大兄皇子のもとに自首して出たので、中大兄はすぐ軍兵をさし向けて古人大兄皇子を討つたとある。日本紀巻二十の孝謙天皇天平寶字元年十二月に、太政官の奏上が記してあるが、それは乙巳以来、つまり大化元年以来、人々が功を立てて夫々封賞に與つてゐる。但しその等級は律令の條々に載てゐるに拘らす、功田の記文――即ち賞として田地を賜つた折の証書――に等級の落ちてゐるものが多い。よつて當時と現在とをよく比校してその等級を議定するのであるとして、先朝の所定として鎌足以下の十箇條の例を擧げ、それにつづいて佐伯古麻呂以下十四箇條について、それぞれ乙巳・壬申・大寶・養老・天平寶字の功をしるして、これを當今の所定として掲げてゐるのである。その十四箇條の中の一つに笠臣垂の件が見えてゐる。それによると、自首密告の恩賞は功田二十町であったことが分るが、孝謙朝に於ける議定は、大錦下笠臣志太留告シ2吉野ノ大兄ガ(古人大兄皇子)密ヲ1功田二十町、所レ告グル岱微言、尋テ非ズ2露驗セルニ1、雖ドモv云フト2大事ヲ1、理合ベシ2軽重ス1、依テレ令ニ中功ナリ、合ベシレ傳フ2二世ニ1、といふのであつた。つまり笠氏に與へられた功田二十町は、令の規定によつて改めて大上中下四等の内の中功と議定したから、二世の孫まで傳へた後、官に返納させるといふのである。これで見てもはつきり想像できることであるが、笠臣垂の功が、八色改姓の時に姓氏を朝臣に列せしめた最も大きな原因であつたであらう。大化以後の功しか新制度下の国家では問題にならなかつたからである。
 この笠朝臣は、そのやうな次第で、大伴・石上・紀などのやうに大化以前から中央の重臣として繁榮した氏族でないから、天武朝以後朝臣に列しても、急に以前からの大氏族に伍して官僚陣の要所要所にその一族の者を敷置し得る程の力は持つてゐない。それ故割に國史の上に活躍する者は少いのである。
 その中で、文武朝の慶雲元年にはじめて從五位下に叙せられた笠臣麻呂は、笠臣垂の直系であるのか何うか明碓ではないが、その後元明・元正両朝に仕へて中級官僚としては順当に累進し、従四位上右大辨まで昇つて、養老五年五月(32)勅許を得て出家した。これが萬葉集にもその歌の見えて居る沙彌満誓である。彼は養老七年二月勅命によつて太宰府に於て観世音寺の造営に當つた。萬葉集によると聖武朝の天平二年太宰帥大伴旅人が大納言に昇つて帰京した時に、まだ筑紫にあつて健在だつたことが分る。これと並んで元正朝に笠朝臣御室といふのが居て、養老三年正月はじめて従五位下に列したが、養老四年三月、まだ中納言だつた大伴旅人が征隼人持節大将軍に任ぜられた時、御室は副将軍となつて九州に下つた。養老五年七月歸京してゐる。その外に聖武朝の神亀五年五月に外從五位下になった笠朝臣三助といふのが居り、少しおくれて聖武朝の天平十八年十一月に中務少輔となり、孝謙朝の天平勝寶四年五月に上野守となつた従五位下笠朝臣簑麻呂といふ人物がゐる。桓武朝以後になると一族割に中級官僚としてはその地位を得てゐて、中には從三位に上つた者も出てゐるが、赤人派作者笠金村が生存してゐた時に中央に在つて、少しは頭を出してゐた同族は、麻呂(満誓)・御室・三助・簑麻呂位なものであつたやうである。その親族關係は全く分らない。と同時に萬葉集で見ても分るやうに、五位に達しなかつた金村は、國史の上にも全く名を見せてゐないのである。
 次に車持千年の一族に移らう。車持氏の皇別であることは、記紀の上にははつきり出てゐないやうである。しかし古事記中巻の崇神天皇の條に、皇子豊木入日子命は上毛野君・下毛野君等の祖だとある。また日本紀巻五、崇神紀の四十八年の條に、豊城命を以て東国を治めしめた。これが上毛対君や下毛野君の始祖だと見えてゐる。そして新撰姓氏録の左京皇別の下を見ると、下毛野朝臣について、「崇神天皇皇子豊城入彦命之後也、日本紀合、」と注して、それ以下に上毛野朝臣・池田朝臣・住吉朝臣・池原朝臣・上毛野坂本朝臣・車持公・大網公・桑原公・川合公・垂水史・商長首・吉彌侯部をすべて同祖としてゐる。ただ何代目の孫から分派したかによつて違つてゐるやうである。それで車持公は豊城入彦命八世の孫の射狭君の後だと言つてゐる。それから摂津國皇別の條を見ると、韓矢田部造と車持公とがやはり同組である事が出てゐる。さて八色改姓の時に真人を授けられ十三氏中には車持公といふのは見當らない。皇別ではあつ(33)ても眞人を授けられなかつたのだから、乙巳・壬申の功臣でなかつたことがほぼ推測できるし、その上注意しなければならないのは、新撰姓氏録には車持公は二箇所に見えてゐるけれども、八色改姓の際わづかに與へられた車持朝臣といふのは一全然所在が見られないことである。姓氏録は都と五幾内だけのもので、その上全本でなく抄本であるらしい點からも、簡単には論断出来ないけれども、姓氏録の文面から察し得る所では、車持氏は皇別の舊氏族ではあるが、新時代を打建てる為の転換期に當つて、時代から取残され、改姓の選にも洩れて舊姓をそのまま車持公を稱してゐた。その家筋が二筋ばかり都と摂津とに在つたけれども、恐らく車持朝臣を賜つた家筋は五畿内にはその木貫も持つてゐなかつた家筋ではなかつたか、と言ふことになる。それに、何によつて朝臣の姓を受けたかも全く手がかりがない。それにしても、先祖車持君については、履中紀の五年にあまりこの氏族にとつては好都合とはいへない関係記事も見えてゐるし、旁々聖武朝において中央の大氏族といへるものでなかつた事だけは明らかである。ただ一つ想像を逞しくするならば、尊卑分脈の藤原不比等公傳、または帝王編年記に見えてゐるやうに、中大兄皇太子(天智帝)妃の車持國子君の女、與志古娘を鎌足に夫人として賜つたが、その車特夫人はすでに妊娠六月であつて、やがて生れたのが不比等であつた。だから不此等は實は天智天皇の皇子であるといふ所傳が事實であつて、この関係から、藤原氏の興隆にたよつて少しづつ官邊に顏を出す者も生じたのかも知れない。さてその一族では、元正朝の養老四年正月に従五位下に叙せられた車持朝臣益といふのがゐて、主税頭などを經てゐるし、また天平十二年正月に外從五位下に叙せられた車持朝臣國人といふのがゐて、伊豫守などになつてゐるが、この一家は聖武朝以後平安朝にかけても、笠氏ほどに官僚としては蕃息してはゐない。そして益とか國人とかも赤人派の作家車持朝臣千年に対して、何のやうな親族關係をもつてゐたか手がかりは遺憾ながら何もつかむことが出來ない。しかし千年やまた萬葉集の文面から明らかなやうに、笠金村と同じく五位にも昇らすに終つた人物であつて、勿論国史の上には一度もその名を現さずにしまつた點でも金村と同じである。
(312) 次にいよいよ山部赤人であるが、これについても事情は金村や千年の場合とすこしも変わらない。赤人については、契沖の『万葉集代匠記』精選本の惣釈に赤人事という一節があり、鹿持雅澄の『万葉集古義』の人物伝にももちろん山部赤人の伝があって、どちらにも山部氏に関する『日本紀』の記事は引用されている。しかしその前に誤られやすい山辺氏のことを注意しておこう。これは『新撰姓氏録』の右京皇別の下に山辺公《やまのべのきみ》は和気朝臣と同祖だと出ており、和気朝臣は垂仁天皇皇子|鐸石別命《ぬでしわけのみこと》の後だとある。摂津国皇別の条にも山辺公が見えていて、やはり和気朝臣と同祖、鐸石和居《ぬでしわけ》命の後だと記している。ただし『古事記』中巻垂仁天皇の条には大中津日子命が山辺之別《やまのべのわけ》の祖だとあるが、所伝の相違である。とにかく山辺君では安麻呂というのが壬申の際に天武天皇に従っているが、八色改姓の時には山辺氏は現われていない。外に山辺県主だの山辺宿禰だのがあって、後には光仁朝の宝亀二年になって、新しく王族を降して山辺真人氏を立ててもいるが、これらの山辺氏はどれも山部氏とは全く別であった。
 それに対して山部氏のことは『日本紀』巻十五の清寧・顕宗・仁賢紀に繰り返し出てくる。それは清寧天皇のとき、播磨国司であった伊与来目部《いよのくめべの》小楯が大嘗供奉の料をみずから弁じようとして、赤石郡に行ったとき、たまたま縮見屯倉首《しじみのみやけのおぶと》が勝手に新室寿《にいむろほぎ》をして昼夜をわかず酒宴しているのに出あわせた。その首のもとには安康天皇のために殺された市辺押磐皇子(履中天皇皇子)の子|億計《おけ》王・弘計《こけ》王が丹波(の)小子《わらわ》と偽って仕えていた。首は客人をねぎらうために二人を呼び出してぜひ歌舞をせよと強いる。弘計王が思い切って歌った歌の詞で小楯はそれと察しただちに都に詣でて二王を迎えることを求め、また清寧天皇は皇子がなくて継嗣のことは心を痛める問題であったから、大いに喜ばれて小楯を使節として二王を迎えた。清寧崩御の後、弟弘計王まず即位して、それが顕宗天皇である。そこで小楯の功を賞して願うことを憚らず申せと詔があった。その状況を紀の文は次のように記している、「小楯謝(シテ)曰(ク)、山(ノ)官|宿《モトヨリ》所(ナリ)v(313)願(フ)、乃(チ)拝《マケタマフ》2山(ノ)官(ニ)1、改(テ)賜(フ)2姓《カバネヲ》山部(ノ)連氏《ムラジノウジト》1、以(テ)2吉備(ノ)臣(ヲ)1為(シ)v副《ソヒヅカサト》、以(テ)2山守部《ヤマモリベヲ》1為v民《カキト》、褒(メテ)v善《ホマレヲ》顕(ハシ)v功(ヲ)、酬(テ)v恩《メグミニ》答(ヘ)v厚《アツキニ》、寵愛|殊絶《スグレ》、富莫(シ)2能(ク)儔(フ)1。」しかしこの山部連は大化・壬申の際には別に功を著わしたのでもないらしいが、天武朝の八色改姓に当たって宿禰を授けられている。『日本紀』にもこの氏族についての記事は外に見えていないし、特に注意すべきことは、『新撰姓氏録』に全然見えていないことで、遠祖は伊予の国の来目部、山部連を称した初祖は小楯であるとすれば、その本貫の地は伊予であったり播磨であったりして、畿内からは遠く離れていたことだけは確かであろう。来目部という以上は、より強力な氏族に従属して統率されたものであろう。『古事記』上巻では天孫降臨のとき、天忍日《あめのおしひの》命と天津久米《あまつくめの》命と二人が先駆をしたと記して、天津久米命には特に「此者《こは》久米(の)直等之祖《あたへらがおや》也」と注してある。それだのに『日本紀』の方では「大伴(の)連《むらじの》遠祖天(の)忍日《おしひの》命|帥《ひきゐ》2来目部《くめべの》遠祖|天〓津大来目《あめのくしつおほくめを》1」とある。この後も『古事記』には大久米命の名が見えるのに『日本紀』の方では常に大来目部とか来目部とか言っている。これについて精細な論をしているのは本居宣長で、『古事記伝』巻十五の天津久米命の条下で次のように言っている――『日本紀』の雄略紀に大伴室屋大連に詔して、来目部をしてしかじかさせたとあるのを見ると、当時早くも大伴氏だけが栄えて、久米氏衰え、久米部は大伴氏に属するものと成り終わっていたらしく見える。――そう考える外ないようで、『万葉集』巻十八の大伴家持の有名な「陸奥国より金《くがね》を出せる詔書を賀《ことほ》ぐ歌一首并に短歌」(四〇九四・四〇九五)の一節にも、「大伴の遠つ神祖《かむおや》の其の名をば大来目主《おほくめぬし》(大来目部の統率者、筆者注)と負《お》ひもちて仕へし官《つかさ》海行かば水清《みづ》く屍山行かば草|生《む》す屍」といっているのも、大伴の祖神が大来目を統率したという観念で、『日本紀』と一致している。また『新撰姓氏録』の左京神別の中の、大伴宿禰の条下に、天孫降臨のとき、天押日《あめのおしひの》命大来目部を御前に立てて高千穂峰に下ったと見えていて、すべて所伝は一致している。つづいてすこしあとに、久米(の)直《あたえ》があって、「高御魂八世孫|味耳《うましみみ》命之後也」とあり、同じく右京神別の上の部に久米(の)直《あたえ》があって、「神御魂命八世孫味日命之後也」とあるから、『古事記』に大久米命を久米直の祖だというのとは伝が別である。あるいは奈良朝以来の(314)久米氏というのは別系の氏族であるかも知れない。しかし左京神別の久米直にならんで、浮穴《うきあなの》直があって、「移受々愛比命五世孫弟意孫連之後也」とあるが、こうした祖先の伝承を第二として見ると、伊予国に久米郡と浮穴郡とが並んでいて、山部連の祖の伊予来目部が、この久米郡の地にあったとすれば、『姓氏録』に久米直と浮穴直と並んでいることと結びつけて考えるに、当時の久米直と来目部とは、やはり系譜的関係を辿ることが不可能ではないのかも知れない。しかしそうした点は、『古事記伝』巻十五の天津久米命・久米直、巻十九白橿原の宮の段(神武天皇)の大伴連また久米直などの条をよく読み、また栗田寛博士の『新撰姓氏録考証』をよく読んだ上で、なお考察すべき点が多いと思うので、ここではこのくらいにとどめよう。それにしても山部宿禰が来目部から一系を立てた山部連小楯の子孫であることを考え、『姓氏録』によれば五畿内に本拠を持たなかった氏族であり、『続日本紀』以後に絶えてその名を見ない所を見ると、笠氏や車持氏ほどにも官僚陣の中に根を張る力を持っていなかった氏族であることが想像される。しかしもちろんその氏族が消滅したわけではない。桓武天皇延暦四年五月の詔に、白髪武氏は真髪部、山部《やまべ》氏は山《やま》氏と改めよと見えている。それは光仁天皇の諱白壁、桓武天皇の諱山部を忌むためであった。こうして山氏となったのは山部氏だけのことで、山辺公氏は関係していない。それからいま一つ景行天皇紀に九州肥国葦北郡の山部阿弭古《やまべのあじこ》というもののことが見えているが、光仁天皇の宝亀元年(770)、改元の宣命を見ると、八月五日に肥後国葦北郡の日奉部広主売が、また八月十七日に同国益城郡の山稲主《やまのいなぬし》が」それぞれ白亀を献じた瑞祥によるものであることが宣べられているが、この山稲主が肥後の人であり、また無姓であるのを見ると、これは景行紀の山部阿弭古の方の系統であることが分かる。平安朝になってから少数山氏の名は見えるが、言ってみれば、もともと山官を望んだ山部氏、後の山氏は、本来中央官僚となる氏族ではなく、したがって、一族がどのくらい繁栄していたにしても、国史の表面に顔を出すような中央官僚の地位には縁の遠い氏族であったことが推定できる。山部宿禰赤人ももちろん国史の上に名を見せていない。五位に至らなかった人間であることが分かる。
(315) 私は右のごく粗雑な調査から、一つの結論を出すことができると思う。赤人派の人々が期せずして五畿内の外に蟠居したらしい氏族に属していて、『日本紀』の上にも一応書きとめられねばならないような氏の伝承に飾られてはいながら、そしてそれぞれ別様の理由によったのであったろうが、八色改姓の折に朝臣や宿禰に列せられていながら、新時代の新官僚としては、別に頭角を擢んでるでもなく、中流以下の所に肩を並べ、地方の豪族として生きたらしい点は見逃がされてはならない。中でも笠氏の族員は新官僚としても応分の地位を得、車持氏もそれほどではなくても官僚として乗り出した者もすこしはあったが、山部氏に至っては、眼に立つほどの者はだれも持ってはいなかった。この相違は、聖武朝ごろの官僚社会に生活する者にとっては決定的な意味を持ったであろう。沙弥満誓のごときを頭に何人かの中央官僚を一族に持っていた笠金村と、かつては不比等の実母を出した氏族であり、今も征隼人副将軍などを一族に持った車持千年と、そうした族員をだれ一人持たない山部赤人とでは、三人ながら当人は五位に至らなかった人物であったにしても、社会でのそれらの氏族に対する評価ははっきり決まっていたに違いない。『万葉集』の記載が、金村・千年・赤人の順位を決して誤らなかったのも、個人的な先輩後輩とか、年齢の順とかいうだけでなく、実はそうした氏族そのものへの評価といったものを反映していたのかも知れない。しかしながらまた、山部連小楯が、顕宗帝の恩典に浴して、「富莫2能儔1」と言われたのは、小楯一代のことでなく、その後の山部氏、ないしは多少とも、『日本紀』編纂の時代における山部氏の富力に対する意識の反映も見られるのではないであろうか。
 これらの人々をこうした面から考えてくると、かれらの歌が、聖武朝の開化期において、旅人のようにもならず、憶良のようにもならないで、より強く人麿以来の伝統をまもりながら、従駕の詩を作っていた境地が分かるようでもある。地方の旧族であったかれらの意識はおのずから新時代を背負うものでなく、おのずから新時代を背負ったと勢い立っている新官僚群のそれとは同ずるを得ない。もっと保守的に、文化開明の都びた、派手な新思想家ぶり(316)からは遠く、全国民の多くと大差のない郷土人としての生活につながりながら、新しい政治体制の中になかなか溶けこめず、まして思想など身につくはずもなく、ふり仰ぐような高い世界の天皇家や藤原氏、大伴氏、石上氏、紀氏、橘氏などの栄華を一段別世界のものと見つつ、なんとなく旧時代のままに生きていたのである。かれらの長歌は形式的な点が眼につくが、潜熱がなく、人麿に比すべくもないのは、無自覚に過去へ向けられたかれらの眼を感じさせるが、それは、かれらの生活の旧さから来たものに外ならないであろう。新国家に対して抵抗したり悲憤したりしないのは、生活の根拠がどこかに存在するからである。
 けれども、かれらの生活がそうであればあるほど、中央の眼まぐるしい世界の近くで、しかし下級の者として接していると、表面的な政治的な動きに意識的につながる必然性がなく、ただ官僚組織中の小さな歯車の一つとして、受動的に御用をつとめているだけになる。激しい流れの一部に生じた淀みのように、急瑞の近くにありながら静かに、かれらの意識は淀み、表面の動きから離れる。そうした意識の状況から、赤人の自然観照歌ともいうべき作は生まれてきたと言えるであろう。かれらの旧さが、そして現世における存在の無用さが、かれらの歌を形成させる。
  み吉野の象山の際の木末にはここだも騒く鳥の声かも
こうした歌は、新時代の流れへのはげしい抵抗から生まれるものではない。そこから生まれるのはむしろ旅人や憶良やの歌であろう。これは新時代の流れに淀むところから生まれる詩である。初めから渦の外に捨てられた詩である。そうした状況には赤人がその身の上から見て一番至りやすかったのではないか、赤人派はやはり赤人によって代表的な境地を掴んだのではないかと思われる。赤人の歌の静かな自然観照を見ていると、それは全民衆のそのころの生活に限りもなくつづいているように見える。その何とない静かさは家持のように悒情というにはもっと無邪気で、しかし無意識なさびしさに彩どられているのでないかという不審をいだかせる。
 聖武朝の中央の動きは大化以来の氏族に支えられた動きから、少数大氏族の独裁に転じる転換期のそれであって、小氏族を中央上層の機構から振るい落す傾向を生じさせたものであった。やがて来る混乱の前にあって、無意識の(117)中に小氏族が茫乎として手を放していた静かな一瞬であったかも知れぬ。それだから全民衆の一部に外ならなかった赤人のような作者によってあやうく捕えられ得たのだといってよいかも知れない。疑いもなく素直に長歌の伝統をまもっていた赤人派は、そしてそれは疑いもなく素直に生活の伝統をまもっていた多くの氏族員の一人として、期せずして一般民衆の政治的に置かれた歴史上の静止の一瞬を捕えたのである。
 
        九
 
 赤人の歌を赤人派のものとして考える都合から、吉野の歌だけを中心にしてきたが、赤人の歌や赤人派の意味やについての私の考えは、蕪雑の限りだけれども一応叙べてきた。莫間手古奈墓の歌、不尽山の歌、瀬戸内海の旅の歌、和歌浦の従駕の作と、赤人派の人々に関係させつつ考えたい有名な作がまだまだ多く残されている。しかしそれはまた改めて取り上げられて良いはずである。ただ一言、高市黒人の叙景歌などにくらべ、人麿の旅の歌などにくらべ、赤人たちのそれは、そのいずれにも負けるかも知れぬ。たとえば赤人の和歌浦の反歌よりも、黒人の桜田の歌の方が、同じ田鶴の歌でも一段すぐれているかも知れない。明石の旅の歌でも、赤人のそれは人麿のそれに遠く及ばないかも知れぬ。しかしそういう問題はすべてふり捨てることにして、赤人でないと作れなかった吉野従駕の反歌二首(16)(17)のような作のありえた理由を、すこしでも追及してみたかったのである。ここでは赤人の個人的天才は極度にせまく見られ、かれをそうした作者にさせただろうところの事情ができるだけ重く考えられた。
 赤人をかく考える事によって、その後の家持の時代に、歌の上に生じた問題に素直に移って行けるように思うのである。
 (『万葉集大成』第九巻・作家研究篇 上・昭和二十八年六月、第十巻同篇下・昭和二十九年五月・『日本文学史の研究』上)
    (二六四)*「或本の歌に曰く」の歌も含む。
    (三一一)*車持君が、宗像三神の神領の部民を私に検校したため、神崇による皇妃の死を招き、事露われて解任された事をさす。