編輯及解説 京大教授文學博士 藤井乙男
歌謠俳書選集 八
萬葉集楢の杣 全 文献書院発行、2圓四十銭、1928.2.20
〔入力者注、頭注は省略した。読みやすくするために、中央公論社の上田秋成全集第2巻の校訂を参照したところがある。〕
序例
(1)楢の葉の習はぬ事も人の分見《わけみ》し跡とめつゝゆかば、いにしへの野中ふる道もあやし迷はし神はつくまじきを、おのれ此十とせばかりこなた、あしびきの病に繋がれて、天にます神の目ひとつさへあしたゆふべの霧霞におほにしもなりにたるには、何のなすわざもあらで、いたづらにのみとし月を過すには、つれ/”\と歌よむ事を遊び敵とすれど、誰教へねば人に見する事をもせず、おのがじししいひほこりて心をやるには、たゞ此ひとすぢにともおぼし定めず侍るを、まづ萬葉集は歌のおやなれば、讀つべきものぞとてひらきむかふるに、いと有がたき世の心して打出たれば、今いかでかくと思ふたまへる事少からず、それは人の心直ければ、いふ言もあからさまに男はますらをだち、女はめゝ(2)しくて、それ/”\見わかち安かりき。しかよみ出せる心の後の世に異なりと云ふは、おほやけの御使、又國の守にまけて遠き所にいきかふ道々、此浦山のけしきなん世に似ぬ、是をいかで家の人に見せぬよと打歎きしを、後々の人は男さびせぬとや嘲みつべき。筑紫のそちの君の國にて相思ふ女を失ひしが、年みてゝのぼりくるに、くだりし時ともに見し浦々山々の面白かりし處に來ては、いともかなしき心をよみ、家にかへりきては、いよ/\其ありのすさび共を戀しのひつるは、男だましひもなしとや、淺はかなる心には見らむかし。土左の守なりし人のかしこにていとし子を失ひしかば、かへりくる舟の道々にも家に來ても、たゞ此面影を忘るゝひまもなくおぼしみだるゝを、女の文のさまに書なせしは、人めゝしとや云はうしろめたさに、しかこゝろをば用ひしものよ。七くさの寶も我は何せんにと、あからさまいひしとは、あはつけく表をのみつくらへる事よ。世は榮え人の心花にのみ成ゆくには、まことを歎くてふためしをも譌《いつはり》かざりて物は云ふと、私には思はるゝなりけり。上野の國に下る人のけふのうまや路のはるけ(3)かりつるにや、月の夜かけて田子の浦づたひして、不盡の高嶺をあふぎ見て、大君の御言かしこめば、かゝる所をかゝる夜には見るぞと云出たるに、月清しとも嶺高しともいはねど、心の眞ごゝろの有がたく聞ゆるは、作らずいつはらぬ眞ことのいちじるかりけるものになん。
一、近き代の歌のさまをのみ歌とおし戴く人は、萬葉集の歌はぬえふくろうの夜聲のいまはしく恐ろしげに云立るは、よくも讀み見ず、たゞ人のしりにつきて云ふとこそ思え侍れ。此集の中なるを古今和歌集よりして後々の集にも、あまた載《のせ》られしよき歌あり。今おもひ出るまゝに、わづか書つけて見せ奉る。
きのふこそ年は暮しか春霞かすがの山にはや立にけり
梅がえに鳴てうつろふ鶯のはね白妙に沫雪ぞふる
我宿に梅咲たりと告げやればこてふに似たりちりぬともよし
岩そゝぐたる水のうへの早蕨の萌え出づる春に逢ひにけるかも
(4) 君が爲山田の澤にゑぐ摘む雪消の水に裳の裾ぬらす
あすよりはわか菜摘まんとしめし野にきのふも今日も雪は降つゝ
かはづ鳴神並河に影見えていまやさくらん山吹の花
春の野に董つみにとこし我ぞ野をなつかしみひと夜寢にける
ものゝふの岩瀬の森の子規今も鳴ぬか山の外陰《とかげ》に
ゆふ立の雨降る毎に春日野の男花の上の白露おもほゆ
墨の江の遠里小野の眞榛《まはり》もて摺りし衣の盛過ぎ行く
飛鳥河ゆきゝの丘の秋萩はけふふる雨に散りか過ぎなん
あすの夜に照らん月夜を片よりにこよひによりて夜長からなん
しなが鳥猪奈野を過ぎて有馬山夕霧立ちぬ宿はなくして
あすか川もみぢ葉流る葛城の山の木の葉は今し散るらし
よしのなる菜摘の河の川淀に鴨ぞ鳴くなる山陰にして
(5) みよし野の山の嵐のさむけきにはたやこよひも我獨寢ん
秋風の寒き朝けに佐野の岡こゆらん君にきぬかさましを
蘆邊ゆく鴨の羽がひに霜降りて寒きゆふべは大和し思ほゆ
若の浦に汐みちくれば潟をなみあし邊をさしてたづ鳴きわたる
武士の八十氏河の網代木にいざよふ浪の行くへしらずも
はた薄尾花刈りふき黒木もて造れる家は萬代迄に
住の江の岸にむかへる淡路嶋あはれと君をこひぬ日もなし
波高しいかに※[楫+戈]取水鳥のうきねやせまし猶や漕がまし
さゝ浪の志賀の大和田よどむとも昔の人に又あはめやも
旅人のやどれる野べに霜ふらは我子はぐゝめ天の鶴《たづ》むら
神風の伊勢のはま荻折りふせてたび寢やすらん荒き濱邊に
しがの蜑はめかり鹽やきいとまなみ櫛笥の小櫛とりも見なくに
(6) 天さかるひなに五とせ住居して都の手ぶり忘らえにけり
さ夜中と夜は更けぬらし鴈がねの聞ゆる空に月渡る見ゆ
淺香山影さへ見ゆる山の井のあさき心は我思はなくに
家にあれば笥《け》にもる飯を草枕旅にしあれは椎の葉に盛る
夕されば秋風寒しわきも子か解洗ひ衣ゆきてはや着ん
にほ鳥の沖中河は絶えぬとも君にかたらんことつきめやも
なには戸を漕出て見れば神さぶる生駒か峰に雲ぞ棚びく
四極《しはつ》山打越えみれは笠ぬひの嶋漕めぐる棚無小船
さゝ波の比良山かぜの海ふけば釣する蜑の袖かへる見ゆ
あしびきの山鳥の尾のしだり尾の長々し夜を獨かもねん
春過ぎて夏來たるらし白妙の衣さらせり天のかぐ山
田子の浦に打出て見れば眞白にぞ不盡の高根に雪はふりたる
(7)猶多かめれど大空には思ひも出ず、いづとも言あやまちしたらむにはやみぬべし。さていにしへぶり好める人の私ごゝろして、かゝる口ぶりならずは歌ともおぼえぬ者にいへり。其後々の世にさかしら人の出て、今一しほ力をいりて巧みなせるには、あはれにもはかなくも云ひすさびて、いにしへにまさりたりやと思すも有を、それをさへつらねて忌みにくむはいかにぞや。はやき世にうまれあひていとかたじけなき事は有らめど、又後のさかゆく時に出て、かひ有事もあるべし。李攀龍と云ふ人の唐の代の詩をおのが好めるをのみ撰び出しをば、いともかたはなるものに云へる人もありき。其定め誰かはせん、おのがむき/\の私言にこそあらめ。
一、古今集の叙の詞につきて、人丸赤人を歌のおやに今の世までもいへど、其手ぶりよみうつすにはあらで、たゞ貫之忠岑等のしりにつきて云ひはやすのみ。此二人の歌は萬葉集を常によみ見る人ならでは、形ばかりもまねぶべからず。後撰集拾遺集を始に後ゝのえらびに入りたるは、人々ののみにはあらでよみ人しらえぬ歌をも、人々のよめるに(8)名をしるしたれば、そを見てよみうつすともかひ無きものから、しらべなんおのづからかよひて、あたらずとも遠からぬは、同じふみの歌なれば也。されど正しきにあらずは、巧める意、しらぶるさまのたがふべきことわりなり。されば彼の人々のにあらぬにも、をさ/\立ちおとるまじきも有りとおぼゆるを、只人々のみたとむる事とするは、かのしりにつきて云ふ人のうきたる言也。つらゆき忠みねとても好むところにわたくしは有るべきもの歟。
一、歌とはうたふ物故にいへり、さるはいみじく言えりして調《シラ》べをとゝのへずは、いかで|ふし《歌》は|かせ《腔》にかなふべき。後の教へに詞花言葉を專ら玩ぶべきものに云ひしは、おのづからふしはかせにも叶ふべきを、それたゞ詞に花さかするには、野山におふる色香のおのがまゝにはあらで、土かひ水そゝぎなす人の巧みに、彼もしたがひてちひさげなりしは大けく、ひとへなりしは八重なゝへに、色もくさ/”\ににほふとすれど、其香はおのづからに薄らぎゆくを、もとの荒野の物にとりなべて見たれば、いとも異ものとこそ(9)見ゆらめ。ましてけづり花にとりつくろひたらむには、打見ばかりのはかな物にや心高き人は云ふべき、俑をつくるとて打泣きたるにも、此歌造る人のさかしきをもつらねて歎くべかめり。古き歌はそのかみの常言もてや打出つらむ。たゞ心に思ふ事をあまりては言に擧げて永くうたふものから、しらべは取りつくろはでもよろしかりき。それは心を本として言にはつらねたる、其言のあらびて聞ゆるあり。又心をは述べんとする/\、言のもとほりてえいひおふせぬよとおぼしきも有り。其中にしも秀でたる人のは、既に擧げし類に千とせ經ても色香うつろはぬしのばしさはあるぞとは、誰もしか思すらん。今の世の歌よむ人こと/”\に上衆《じやうず》かは、まさり劣りのけぢめはた同じ、心まことに言のあらびたるは見るめなけれど、いひふりたる事をのみ、いつも/\取出て言のみ花さかすとはいづれ。
一、いにしへの歌は心におもふ事のあまりて、言に擧げてうたふものなれば、歌は心の中よりいづる者なり。文とて事長くつらぬるは、たゝへ言とそのかみは云ひて、外よ(10)り來たるものよといひし人あり、聞き教ふる人の言をかきとゞめむにはこそあれ、外より來たらずとても、おのが思ふ心ばへをしも云ひつらねんには、こも中より出てまことあるつとめの歌にしもおとるべきかは。歌といひ文と云ふ、たゞ事の繁くてやむべからぬのたがひのみ。長歌のそことはかなくいひつらぬるは、文と云ふに似たるか、たゞ歌垣たてゝしらべかい合さんとするのたがひ有るよと見れば、宣命《ミコトノリコト》壽詞《ヨゴト》の事長なるを、おほんまへに聲をとゝのへて高らかならむは、はた同じさまならずや。このことわりもろこしの人も云へりき。六經の文には異體なかりし也、故に易の文は詩に似て、詩の語は書に似たり、書亦禮にひとしき者あり。鳴鶴在v陰、其子和v之、我有2好爵1、吾與v爾靡v之と云ふを、詩の中に取交へんに、孰《タレ》か是を爻の辭と見あかたん。其在2于今1、興迷2亂于政1、顛2覆厥徳1、荒2淫于酒1、女雖2湛樂從1、弗v念2厥紹1、罔4敷求3先王、克共2明刑1、この章を書の誥に入れたりとも、雅の詞のこゝに入れまぎらせしとてとり出づべきや。かしこもここも古言はひとつためしになん有りける。かしこには音韻をたふとみて聲をとゝのへ(11)歌ふとや、こゝには言を延べ約めつゝして、しらべをゆたけくうたひしものぞ。さるからからぶみにも歌にも、同じ冠よそひして言をばあやなせし、それなん世のさま人の心のゆたけきをば、かつ/\にもおぼし知らるゝなりけり。
一、詞の上におきてよそひなせるをば枕言と云ふ名、今は聞習はしゝかば、誰もしかるものに見過せるを、日本書紀の私記に發語と名付られしは心もゆかずと、さいつ人もいはれたりき。荷田《かだ》の東丸《あづままろ》の是をば冠言と云ふべくいはれしは、寔に古言よく學びし人の名付親になんおはせりき。歌枕とは歌よむ人のおほやけ私にまれ、遠き國おのれ/\がうぶすな國にいきかふ便《たより》に、見つゝふる所々を物にめで時に臨みて、心すさびしつゝ打出たらん草ぶしの枕言なれば、此上にも中さたにもいひつゝあやなせし名ともおぼしたらずなん。又かむり言としもいはんに、猶心もゆかずやとおのれはおもふなり。其故は冠帽の始は推古のおほん時、十二階の次第を定められて、唯元日のみ髻華《ウズ》を著《サス》べく見えし。然は冠帽とても太古よりこゝに有りし物ならず。もろこしの製に擬《ナラ》ひたるには、此冠(12)ことと云はんも、神代より云はやせし言の名には猶ふさはしからずなん思ゆるはいかに。さらば髻華《ウズ》挿頭《カザシ》などいはんぞ、いにしへなるべきを、猶私には装ひとやいはまほしく思ふは、必ず言の上にのみはあらで、歌の調べのまゝに詞のなからにも云ならはせたれば也。其よそひたらむは、足引玉鉾の五言のみにはあらで、千葉《チバ》の葛《カツ》野は三言也、にひはり筑波、野《ヌ》津鳥きゞしは四言也、ことひ牛の三宅、木《コ》のくれ闇卯月は六言にて、かきくらし雨ふる川は七言を詞の中に立入れたりき。わきも子に衣かすがのよし木河は八言、湊入の蘆分小舟さはり多みは十二言、波間より見ゆる小嶋の濱ひさ木久しく成りぬといはんとて、本の十七言またくの冠り也。わさだかりがねはやもなかなん河風さむみ衣かせ山は、三言を中に立入れたり。又吾妹子が赤裳ひづちて植ゑし田を刈りて收めん藏無の濱とは、名のをかしとて廿四言またく冠らせたり。さるはかざし冠り枕ことも世のならはせ言ばかりには、いづれをも言ふべけれど、装ひとしもいはんぞおほらかに、且古言のこゝろにも叶ふべく思ふはいかに。
(13)一、五言、七言のみならず、十二言十九言にもかむらすをば、誰そや序歌と呼びならはせし。こもいかにぞや思ゆ。序とは事を卷のはじめに列ねて云ふ義なる由には、此装ひのみにあやなしつる言の名にもふさはしからず思ゆれば、こも世の轍《わだち》の跡のみとめて、ひたぶるにおしとゞろかす人にむかひて、言問ひがてらに云ひおどろかすのみ。
一、冠装ひは必よ古ごとの跡のみによるにはあらで、言のつらね音の便りのまゝには、あらたにもすさびなせし事、中比の世までも物に見えたり。源大夫順の家の馬の毛合てふふみには、ほの/”\と山のは赤毛《アケ》、木の下|鹿毛《カゲ》、天のかはら毛《ゲ》、葦原の鶴斑《ツルブチ》、難波のあし毛、神人のかくるゆふ鹿毛、わたの腹白など打ちたはれ、あやによそひしも有りけり。その後の人はしひて言の心を求むる事無く、足びきは山といはんに、玉鉾は道と云ふべきはしにとのみ心得をれとて、猶古き跡につきてぞ装ひしを、いよゝ世くだちては、この心永きためし共はふつに打出る事なく成りんたるこそは、人の心さかしくいらつけく、言は狹く心はいつはりがちにしも成ぬる、いと下《した》なげかしき世のさまな(14)りけれ。大かたの人は、衣にもうつは物にも、いにしへをあなくりとめて摸さまくするよ。我は此言の宮ひをのみ戀おもふ也けり。
一、詞花言葉とのみにいにしへにたどらぬ人は、此集の歌をよきあしきのえらびなく、只鵺ふくろうの夜聲に音鳴《ネナキ》あしくとのみ忌きらふよ。そのかみの人の口には、うたふに叶ひ歌ととしもおぼせしかばこそえらびとゞめ、聞きもつたへては書きおきたるものぞ。歌のみしかならず、萬のくさはひ日ゝにとりまかなふうつは物にも、さるべき物とはおぼゆかし。春の鶯の木ぬれ立くゞり囀る、秋の松虫の叢にすだきつゝこゝろぐ音は、いにしへ今もかはらず人めではやする也。藤袴の香なつかしとても、色のおぼつかなさにいまは折りもかざゝず、をみなへし掘うゑて前栽合する人かけてもあらず、茅花《つばな》をくへどいや痩せにやす、是喰へば肥油づきたりとや、野蒜《ぬびる》つみに蒜つみにとおほんよみませしは、おものにきこしめしゝなり。是のみならず延喜の大内正膳等の式には、今はくふともしらぬ物を貢ぎ奉りしをよみては、いかでとあやしまるゝ事の多く侍(15)り。
一、今の都となりんて、嵯峨のみかどもはらから國の道を學ばせ給ひしかば、宮づかへ人も文や歌やからざまをのみ玩びて、譽れあらん事をつとむるほどに、御國ぶりは風の前のともし火にきえ/”\なりしと云ふ事、物識達のいはれたり。仁明の御寓より又盛なりけん、花山の僧正、在中將、文屋康秀、大友黒主、女がたにも伊勢の子、小町等の上衆きそひ出て、再びことの花さかす春となん成りにたる。草木の花の其初めは一いろひとくさ也けんを、人巧みに土かひ水灌ぎて養ひたるほどに、花のちひさかりしはおほけく、大けきはさゝやかに、ひとへは八重なゝ重にめづらかならんとす。此歌もかくの如くに、さるは心も詞もいかで人のいはざるふしを思ひめぐらせつゝ打出るほどに、よろこびかなしびをも思ふに過ぎりやとおぼしきも聞ゆ。言巧に過ぐれば仁鮮しと云ふにたぐひやする。されば、友則、貫之、躬恒等、歌奉れとおほせ賜りてよみて奉れると云ふ歌は、必ずしも巧に過ぎず、詞も直くしらべはいにしへを學びうつされたるをもて、心(16)詞巧に過ぐる事のいやしきに似たるをしらるゝ也。花山の僧正は詞の花まばゆく、在中將の心巧みに溢るゝは、此人々のほまれにていともかたきにや。後の人の是に擬《ナラ》へるも見しらずなん。
一、いにしへの事學ぶべし。されど今の世に捨てられし事も多かれば、いにしへを知りたりとて、今にむかひて誇るはあぢきなし。今の事のみを學びていにしへはしらずともよしと云ふもあぢきなし。翁も眼だにあらばいにしへの書を讀みて、さて嗣々の代のうつれるさまを知りつゝ、今にいたるべくおぼえ侍れ。さてなんおほやけなる物識人とは云ふべき、この歌もかくの如くなるべし。
一、いにしへは大まつり事のあまりは、よろづ天つちのまゝにぞありし、今は何ごとにも法の立ちておのづからあめつちに違ふ事さへ多かり。よつ時ゝなる花鳥の音色は、おのがむき/\春秋をついでて、年のはやきおそきまに/\何のさだまれる法はあらぬをまで、今は事立てたるいとこちたし。まづ梅の年の内ににほひ出てむ月を盛と、きさら(16)ぎの水の鏡に老を見するを初めにて、櫻の品多き、八重ひとへのついで云ふもさら也、年の老たるとわかきにつきて、やよひを待たず散るかと見れば、吉野初瀬の山ぶみを夏近きまでまどひありく春もあり、藤、山吹、躑躅、ぼうたん、かきつばた、春の末より夏かけて咲くくさはひを、是かれ方わきて云こそ言|狹《サ》くくるほしけれ。我宿の池の藤浪さきにけりと云ふ歌は、夏のはじめにえらばれ、花のもとにて廿日經にけりは、春の部に見えたるを、たそや春さかぬ花の心やふかみ草とはいひし。かきつばた衣に摺りつけますら男のきそひ狩すとは、是も年のおくれたるにこそ、瞿麥は夏花ながら久しきぞとて常夏とも呼ぶを、必ずみな月の物とせしはかたくな也。此集には秋の七くさのひとつにかぞへ、後撰集にはかんな月ばかりに折りて贈れる事見え、さらしなの記には夏はやまと撫子のこく薄く錦を引けるやぅになん咲たる、是は秋の末なればと云ふに、猶處々に打こぼれつゝあはれげにとしるせりき。紅葉は秋の末にかぎれるには、かつ散るといはではかなふまじく、打任せて散る冬也と云ふよ、さは天つちにもいにしへの歌に(18)もたがひて事狹しや、染むとも散りかふとも、其所にいきてまさめならんは本よりの事にて、題に向ひたらむにも、あらぬ私言に煩はされて、言のにほひおくれたらんぞうたてし。今も狩あるく人の時雨に袖かづきあへつゝ、をちこち尋ねあるくをいつとかする、大かたは冬立ちて望の比の遊びならずや。鶯のおのがすむ山寒しとや、冬の木末のあらはなるより谷の戸出て木づたふに、日影あたゝかなる晝つかたなどには、ひとく/\の聲ほころび出たるまづなつかしき。む月の梅さかりなるを待ちよろこびて高音囀りつるも、桃にさくらに夏山の青葉がくれに、聲いとあやにころびてなくを聞けば、是やおのか時にもとおぼしき。さみだれの雨間に打しめりたるも、みな月に猶音を入れずぞある。清少納言の冊子に、夏秋の末まで老聲に鳴きて、虫喰などよくもあらぬ者は名を付けかへて云ぞ、くちをしきこゝちせらると書けるも見えたり。鶯のかよふ垣根の卯の花の、春されはうの花くたし降る雨とよむも、年のまゝ天つちのまゝならずや。四つの時のうつりゆくは、是なん天の道といへる、其道ふみたがへんは、言の林に住む迷(19)はし神にいざなはるゝ也。草の鵙ぐき春さればともよめり。おのがさ月と鳴く鳥を、もろ越《ごし》人は必ずよ春の末をさかりの物に云ふは、かしこにも私するや、且は物のたがへるにも有るべし。清女の草紙にさみだれの比ほとゝぎすの聲たづねありかばやと云ふを聞きて、我も/\と出たつ、加茂の奥に何がしとかや、棚機のわたる橋にはあらでにくき名ぞ聞えし、其わたりになん日毎に鳴くといへば、それは日暮しなりといらふる人もありしと云へり。蝉てへば夏なく虫にて、日ぐらしは秋來て後にと云ふ、此集には蝉をよむと題して、大かたは日暮しとよむが、只一首のみせみと云ふ字の音のまゝにはよみたる也。一とせ大原野を分入りし時、卯月の望ばかりに、梢ゆすりて鳴く物あり、かれは何と問ひしに、里人のひぐらし也と答へしを、思ひかけず聞きしが、朝ぼらけ日ぐらしの聲聞ゆ也、こや明ぐれと人の云ふらん、あしたより鳴きて日ぐらしにとは云ふなるべし。蝦《かはづ》はいにしへは山河に住みて、聲さや/\しきをのみめでしを、澤水に鳴くうたてがましき物をもよむ事と成りんての世の人の、井出の河瀬の物をほしさらして、人にし(20)めしたりとや。春の末より鳴き初めて、今も秋を盛と聲面しろく、さゝやかなる鈴を風に吹きならせるに似たり。おもほえず來ませる君を佐保川の、かはづきかせてかへしつるかも、此まらうどに夕かはつの音聞さぬが口をしと歎きたる也、猶多からめど空には思ひ出づべからず。さは天つちのまに/\打出なば、冬より春をかけ、やよひの卯月にわたり、夏をむねなる物の秋まで殘り、秋咲くが夏の半よりもにほひ出、長月のかんな月に立さかゆるくさはひをも事立てんにこそ、天つちに私なく心ひろく、詞もくるほしからずこそあらめ。一とせを四段《ヨキダ》に切りたち、又十二月に刻みなしつゝ、それに關の戸さしかためたる私わざを、さることわりぞとのみこゝろえしは、深き窓の中に養はれたるをとめ子が心にて、おほやけ事に立ちなるゝ男さびたらんものゝ云ひしらふべき定めともおぼえ侍らずなん。
一、さて此集のうは書を、或人の萬葉とは萬世に傳ふべき由もて名付しとも云ひ、又莊子と云ふ書に物を計る數の萬にとゞまらぬと云ふを意得《こゝろえ》て、四千三百餘りの歌を指か(21)ゞめずして萬とは呼ぶとぞ、葉は即歌也、後漢の劉煕の釋名と云ふ書に人聲を歌と云ふ、歌は柯也、いふこゝろは吟咏上下あり、たとはゞ草木の柯葉有るに似たりと云ふを由にて、萬葉と云ふが千ちゞの歌をかいつめしと云ふこゝろぞといへるを、人大方に此ことわりにこゝろ得る事と成りんたり。思ふに萬葉は平城の萬葉寺の由と同じきものにせまくするを、さは何を集めしふみぞと問たゞせる人にむかひて、言なかるべければ、葉と云ふが歌也と云ふ方をこそ採り用うべけれ。されど人の聲には事に臨みて喜怒哀樂長短緩急の有るを、それ皆歌といはゞうべなはんや、いともおろそけなる事也。人の聲の打聞くにも樂しげなるを歌樂しといひ、身にしみてかなしき事は歌しのび、言しのびとは云ふ、さるや草木の柯葉も風むかへずはうたはじものを、むかふとも暴き風、誰かはあはれと聞きなすべき、事の危きに臨みて短急の聲を聞く人、うたて耳ふたがんものぞ。おのれだにことわり得ぬ事、人おし戴かんやは。彼の釋名はこちたき私ざまのこゝろことわり多かれば、今は人とりはやさず成りにき。されど此題號をことわるには、葉即歌(22)也と云ふべし。因て是につきてぞ延喜の勅撰の序に、やまと歌はひとつこゝろを種として、萬の言の葉とぞなれりけると云ひとかれしより、言の葉とも言葉ともいふ事の起りて、詞、辭、言、語等の訓みをばこと葉と皆云ふは、いにしへに暗きぞかし。言靈《コトダマ》の幸《サキ》はふ國又こと玉のたすくる國と云ひしを本と、みこと、みことのり、言ほぎ、ことわり、ことかよはすなど云ふより外には、こと葉とも言の葉ともいひし例はあらずなん。舜典に歌は永言也と云ふを本として、同じ後漢の許慎と云ふ人の歌は詠也と云ひしぞよろしき。歌はよろこび悲しびにつきて、聲永くうたひあぐるものなれば、歌たのし歌しのびとは云ふ。
一、撰べる世えらめる人つばらかならず。袋草子、古來風體抄に、聖武の御時左大臣橘の諸兄公のえらびて奉りしと見ゆるを、世繼の物がたりには、高野の御時としるされたり。いづれも勅撰ならば聖武孝謙の二紀に載すべきを、あらぬは誰人にもあれ、家にかい集めおかれし物から、やがて近き世にもさだかならず、貞觀の御時にいづれの世にぞ(23)と、こと問せ給しかば、奈良の都の古ごとぞ是と御こたへは申せしにて、そのかみも定かならざりし事しるかりき。さは力車押したつるともいたづら言ぞかし。又左大臣殿と大伴の中納言家持卿と議り合せて撰みし歟と云ふ人も、いさゝかの由はあれど猶從ひがたし。又廿卷すべて家持卿のかい集めおかれしと云ふ人有り、よん所どもをいはれしかど、是も亦盡さぬなるべし。思ふに廿の卷の末に、天平寶字三年正月と云ふに筆はとゞめられたるに、卿は桓武の延暦四年まで世におはせしかば、其間廿七年の詠をいかでしるされぬ事の有るべき、さは猶はしたなるふみとは論ぜざる、又古萬葉集は廿の卷の中にわづかに、今の一二十一二三四の卷々のみ左大臣殿の撰びぞと、ことわりげに云はれしかど、よん處なき誣言なれば誰もうけずぞある。是につきていはゞ源氏の物語の梅がえの卷に、さま/”\の繼紙の本えり出させたまへるついでに、みこの侍從して、宮にさむらふ本ども取りに遣はす、嵯峨の帝の古萬葉集をえらび書せ給へる四卷、延喜のみかどの古今和歌集二十卷を、唐の淺花田の紙を繼ぎてと見えし、是をよん處に四卷とは云(24)べし。さてそはいづれの卷々ぞと人間はんには、されどしらずと答へて止みぬべかりける。一條院の御代までは古萬葉集四卷なるが別に傳はりしや、あらずとも名のあればこそ、文には作り出たれとはおぼさぬか、されどかく驚しいふとも猶やくなきいたづら言也き。
此ふみの書樣を昔は草の手のなだらかなるにて有りしを、後ゝの人の楷字に見安からむとて、寫改めしよりあらぬ物になせしと云、そのかみの世に手書く人は唐の代の人に學ぶ、其唐人の手ぶりは晉の王羲之父子の筆をもはらと習ひたるには、其いにしへならぬ人の限には見たがふべく、この集よむ大事の煩ひとはなりんたりき。さるから天暦の御時に廣幡の女御のすゝめたまひて、源の順におほせ賜りてよませしとも、梨壺の人ゝにおほせしとも云傳へたる、又法成寺どのゝ上東門院に奉るとて、藤原の家隆朝臣に寫させて、假名は別にとも聞ゆるにつきて、古き筆の跡の世に散りよろぼへるを、我見し中に四條の大納言の筆也とて、
久佐麻久良多比乃於伎奈等於母保之天波里曾多麻敝流奴波牟物能毛賀
くさまくらたひのおきなとおもほしてはりそたまへるぬはむものもか
芳理夫久路等利安宜麻敝爾於吉可邊佐婆於能等母於能夜宇良毛都藝多利
はりふくろとりあ|き《けカ》まへにおきかへさはおのともおのやうら|む《もカ》つ|け《きカ》たり
又二條大納言殿のかゝせしと云ふは、
樂浪之思賀乃辛崎雖幸有大宮人之船待兼津
サヽナミシカノカラサキサチハアレトオホミヤヒトノフネマチカネツ
などやうに書けるは古きさま也とや、又小野の道風のかんなに書れしと云ふは、彼の朝臣の秋はぎ帖とて世に寫しもてはやせるさまにやとも思ふはいかに。
安幾破起乃之多者以呂都久以末餘理處悲東理安留悲東乃以禰可傳仁數流
此たぐひにて手習ひにや書きすさび給へるにて、この集をよみかうがへし物にはあらざるべし。しかして後には追點次點新點等のよみ方ありし、其人ゝは大江の佐國、匡房、(26)藤の孝言、基俊、敦隆、源の國信、師頼、其名聞えたれど、仙覺律師の是等をば合せてよまれしにつきて、今は補ひわざをもすなるとや。
一、集の鈔は八雲御抄に、紀の貫之が書きし五卷の物有りとしるしたまひぬ。廿の卷をいかにしてしか言少なゝりけん、名のみにて傳はらぬは、しか論ずるだにいたづら言也き。又廿卷作者知られぬも記されしかど、是も傳はらず、又人の物がたり共を書きつめし物の中に、前の中書王の抄と云ふも有りしと云ふ、又平の忠度の書きおかれし物に、藤原の盛方の萬葉集の抄をかりて侍りはけるに、身まかりて後にかへしつかはすとて、在りし世におもはざりけん書置きて是をかたみと人しのべとは、妻の返し、見ても猶袖は濡れぬるなき人のかたみとしのぶ水莖の跡、是も跡なくて傳はらず。敦隆の抄と云ふは、部類を分ちて目安からんのまめわざのみに、言わりの方は勤めたりともあらず、又顯昭の時代難事、又抄も有りといへど傳はらず、拾芥抄に定家卿の抄と云ふは、彼の長歌短歌を論ぜられしは此書なるべし、又萬葉佳詞とて阿佛尼の奥書せられしも名聞ゆ、(27)見安とて堯以法印のえらびと云ふがあり、わづかに詞を拔出てそれだにことわり得ず、藤澤の由阿上人の詞林采葉と云ふは、專ら此集をことわりなすが、十卷の餘《ほか》に百卷のも有りといへども、我見しはし/”\にだに、いにしへならぬには、其卷の數々積みたりともなつかしからず、宗祇の抄二卷は、仙覺の云へりし事共を僅に摘みて出せしのみ、又十卷なるも有りと云ふは、一つの傳へには藤の爲廣卿の撰び也とも云へり、是等を合せて季吟の拾穗抄はつとめられけんが、いにしへに便りするかん名の法を私に改られしかば、古ごとしのぶ人の爪彈きして拙なき者に云ふは、いさゝかことわりのありげ也。我難波の長流と云ふ人、燭明、管見等の抄どもこそ、いにしへ窺ふべき便りの梯立なる、次で高津の阿闍梨世にあらはれてぞ、ことわりがたきふし/”\も大よそに考へ定めて、水戸の中納言殿に奉られしと云ふ、是を心柱として釋萬葉集おぼし立せて、靈元院へ奏覽有るべきも、事はたさせぬほどに身まからせ給ひ、契沖も次でむなしく成ぬとや、あざ梨のいにしへの野中古道を、うばらしの薄刈やらひて後は、人皆このしりに立ちて物(28)ら云ふにぞ、大かたの隈なくなん成りぬるは、いとも有難きいさをにこそ有りけれ。次での世に稻荷山の荷田の東丸、遠江の賀茂の眞淵等出て、古ごとのことわりのみかは、文にも歌にもいにしへを學びうつす時世とさへ成りにたる、いにしへよりかゝる世はいとも稀々也とはおぼさぬか。さて其人々のいづれまさりおとりは云ふべきにあらず。たゞ/\時世につきて夕づく夜をぐらの山をたどる/\と、燈火のあかしの浦を漕過ぐるとのたがひにてこそあれ、しかすがに高きにのぼれば、うまごりの綾錦を織り、しづ機にのぼれば、あらたへの麻布をおるよ。はじめよりの教へにこそといはれしは、いとも有りがたき道の栞也けり。師をおしいたゞくはまめ心なれど、その師おろそげならばいかにかせまし、師に問ひ聞けばやゝ其半に到ると聞くには、いと得がたきはよき師なり、今や秋津島の外ゆく浪も吹たゝず、人皆ありかさためて住みつきたるには、よき師すぐれたる人しき/\に出くるは、今のおほん時ばかり有りがたき御代はあらじと、かゝるにつけてもおぼししみて侍る、さは言たてゝ物はいふまじきを、こししはり折離れ(29)たる弱車も挽くかたは有りて、おのがうぶ砂なる入江の芦のうら穢《きたな》くてなん、彼下河邊の長流が栞せし道に便して、高津の阿闍梨のうばら芦がや刈りそけつとゝ、神代の事人の君のはじめの事を高くおもひめぐらせつゝして、此集のことわりがたきをまで、おほな/\思ひ得られしは、いとかたじけなき事にこそ侍れ。翁か老いよろぼひて、住の江の小濱の蜆あけてだに見ゆまじき事をまで、此御問言のしりにつきておぼしめぐらすは、此長流と阿闍梨が道の栞にしるべせらるゝ也けり。水戸の中納言どのに篤くもちひられ奉りて、代匠記ふたゝびの撰びの後に、卿は元禄十三年十二月六日と云ふに薨ぜられしをうけ給りて、契沖おもへらく、今は吾を知りたる人無き世に在りて何せんとひとりごちつゝ、其あくる年の春む月廿五日と云ふにむなしく成りぬとぞ。聖徳の御子世におはさずと聞えて、高麗の惠慈がおくれぬものにはかなかりしと云ふひとつ物語に、いと有難かりし人々にこそおはせりき。あざ梨の老ての世にまめ/\しく參りて物學びし玉造の丘の若沖と云ひ人の餘多《あまた》藏《をさ》めしふみの中に、代匠紀の補註の如く所々片假名文字して(30)書きくはへしを新註と唱ふ、此ふみや再びの抄なるべき歟、是だに今は※[奚+隹]肋なりとて人擧げ用ひずかし。
一、正訓義訓はおほろかにも意得らるべし、假訓いと煩しきを、御目とゞめてんにはこも知らるべし。戯訓と云ふはいかでかくまでたはれくつがへりてはと思ふに、こはそのかみのさかしら人の、かくてはかくもよむべきかと、はかなく巧みなせしは、もろこしに黄絹幼婦外孫※[草冠/齊の上半/韮の草冠なし]臼のためし、或は四つの眼六つの耳に傳へなど、かくろひ言せしにや擬《ナラ》ひけん、いとこちたく物狂ひざまにこそおぼえ侍れ。又假名よみは音のみに字の義無くとり用ひたるに、是すら世移りては乎弘を遠に假り、意は古くは於、中比に伊に用ひたる。此餘にも今はしかよむまじきがあり、今もよみ習はせど、いといぶかしむべきも有り、又古則とていにしへ學ぶ人のおし戴けるも、天のなしませる音のおのづからにたがへるもあり、こは私に立てたる法ぞと思ふ事の侍るを、わづかながらしるし出て、靈語通の第五篇に書きおきて侍るを見そなはしつゝ、遠くもうまくもおもひはからせたまへ。
(31)一、小序は大かたに失はれしを、中比の誰人か補ひなせし、敦隆と云ふ君の目録とか云ふ名の傳はりしを思へべ、此人より今少しさいつ人のしわざにや、歌の意にたがへるもはし/”\見ゆるには試みに補ひものして侍るも、いにしへを知りむかしの人の思ひを扶くるならめとおぼし侍るも、かへりては栞さしたがふる愚わざにしも侍れ。且小序の書樣は、から文に擬ひたるを、さかしこゝの文のさまに讀みなすべくするは、いたづら言なるべし。
一、是はこの文字のたがへる也、こや寫したがへ書漏したらむなど云ふは、私に過ぎたるものから、幾度も/\大直日の神ごゝろに見直し聞きなほしてこそさだめ給へ。凡四千三百餘りの歌の數を盡してよみかなへんとはせし、よむにこちたくしひてよむとも、あやしの囀りならんをまで、よみならはして何にかはする。我門に榎の實はむ鳥のはみもらさじとするは、いといやしげなる夷ごゝろにもこそ侍るめれ。知らざるはそがまゝにと云ふ教へのたふとくも侍るを、しひて我知らむとするは無識也と云ふ人もありけ(32)り。あなおぼつかな竹のは山にやどるめなし鳥のさへづり、垣ねにおふる夏草の物忘れがちなるかたゐ翁が、空かぞふおほよそ言はよくもえらびたまひて、さかしき御こゝろにとゞめさせたまへ、あなかしこしともかしこし。
寛政庚申の夏の初めに、筆執りそめて、河づらのいつ藻の花のいつの日にか事はたさむ、うたてき老の物ぐるひにこそ侍れ。
(33) 楢の杣 卷一
楢の杣人云、卷の首に雜歌と有るは、賀詞、戀情、羇旅、交會の時に臨みて興有る事共を混じて撰びしかば、後の撰集に異に部を立て雜歌と云ふに違へり。
泊瀬朝倉宮御宇天皇代は雄略帝の御時也、初めの尊號を大泊瀬|幼武《わかたけ》天皇と稱し奉る、朝倉宮は初瀬の邊に今そこと跡さだかならずと云へり。
天皇御製歌 とのみ有るは小序を漏したる也、例に依る則《とき》は天皇遊2獵于某地1、賜2釆菘女子1御製歌と有るべ、此例は古事記に吉野河の邊にて※[白/ハ]よき童女を召して還らせ、又初瀬川にて衣洗ふ女兒の名を問せ給ふ後は、年久しく忘れさせ給ひし事の類也。
1 籠《かたま》もよ みかだま持 ふぐしもよ みふぐしもち 此|丘《ヲカ》に 菜つみす兒《コ》 家|告閇《ノラヘ》 名|告《ノラ》さね 虚《ソラ》に見つ 大和の國は 押なべて 朕《ワレ》こそ居《ヲラ》し 告《ノリ》なべ て 朕《ワレ》こ(34)そ座《ヲ》れ 朕こそは 夫《セ》とは告《ノラ》め 家をも名をも
御製の意は、某の丘に菘を摘む童女《ワラハメ》の容よきを見そなはして、汝が家はいづこ誰がむすめぞ、家を告申せ、名をもあらはし申せ、かく云ふ朕こそは此大和の國の君にて、天の下を押知りこゝに宮居してをるなれ、今よりは朕を夫《セ》君と告《ノリ》て打たのめ、さて朕名をあらはしたれば、汝が家をもあらはせと、御心すさびしてうたはせたまふ也。古歌は詠吟を宗とすれば、詞章をかへしてしらべをとゝのふる事、西土の詩經を見て詞章の體を思ふべし。家を告り名をもあらはし申すべき事、いにしへより今の世にかはらぬ禮法也、女は別《コト》に男にあひて名をあらはすは、即心をゆるす例也。
籠は字の如く竹にて編る器也、かだまかたみと云ふは古語也、かご又ことのみも後にはいへり。
ふぐしは木竹の秀末《ホズヱ》にて作れる串也、野菜をほる料の具、其かたちさま/”\あるべし。
丘の字集中大方に岳に作るはわろし、菜採す兒なつみす子とよむべし。
家告閇刊本告閑に作りて、家聞かんとよむはわろし、家告へ名のらさねは、家告れ名(35)告れを延べてうたふ也。
虚にみつ大和の國、虚にのには付讀也、付《つけ》よむは集中さま/”\例多し、下に天爾滿《ソラニミツ》と見ゆ、しかよむ由は、天孫饒速日(ノ)命日向の國より立て、東の方に住むべき所もとめまく、天の石楠船に乘りて國廻りし給ふに、難波の海より東の方に伊駒葛城の高嶺々々のかたちの宜しきを虚に仰ぎ見つと云ふ文言也。伊駒は今河内の國なれど、其東邊は大和に屬す、且伊駒谷と云ふは大和の方につきて、伊古麻彦の神祠はそこに祭れり、又葛城も高間山の嶺までは河内に屬すれど、葛城上下の二郡は大和に在り、是國郡の制あらざりし以往《サキ》は大和河内の分界無りしを知らる、難波の海よりはこの嶺々を天《ソラ》に望み見つる也、天爾滿と書きしには、高嶺の天に滿つるばかりの義かとも云ふべけれど、さは唐言めきてこゝの古意ならず、見つと云ふに滿は例の假言也。
背齒一本に背者に作る、背とは告めとよむとは付讀也。
我許曾者、刊本曾の字を脱す。
(36)高市崗本宮御宇天皇代は舒明帝の御時也、故の尊號|息長足廣額《オキナガタラシヒロヌカノ》天皇と稱し奉る也。
天皇、登2香具山1、望v國之時御製歌
香山は高市郡に在り、岡本の都と相遠からず、山の形状《カタチ》高からずして、しかも國のかぎりよく見わたさるゝ所也。
2 大和には 群《ムラ》山あれど 取よろふ 天の香具山 騰《ノボ》り立 國見をすれば 國原は 煙立|籠《コメ》 海原は 加萬目立たつ 怜※[立心偏+可]《オモシロキ》國ぞ 蜻島《アキツシマ》 大和の國は
大和の國は東西南の三方高山立廻りて、北一方のみ那羅山の低きに到るまで平原曠野の國也、されば香山は高く秀でざれど、こゝに登臨し給へば、國原は雲煙炊烟立こめて賑はゝしく、又、此山下の埴安《ハニヤス》の池、藤原の池、劔の池等の心廣きに、鴎の魚を食《くふ》とて立居るなど、いと面白き國ぞ朕國はと咏嘆したまふ也。御作意詞章古雅に高調にこそうけたまはり侍れ。
(37)煙立籠、一本、立龍に作るに由て、たちたつと次章に同じくよめといへど、煙といへば立こめと云ふぞかなふべく思ゆ。
池の心廣しとて、海原とたゞに見なさせしは古雅也、三の卷に人丸の輕の池を荒山中に海をなすかもとよまれしは、よくことわりなせしが却て後のさかしき也とおぼゆるはいかに。
大和の國原は南は飛鳥の郷より北は奈良山に到る平遠の間を、今は國中と呼ぶ、是ぞいにしへより大和の國と云ひけんは大和の神社と申して、此國の地靈《クニタマ》の祠は山邊郡にいはひ祭れるにしるかりける、其山の邊と云ふ郡名は即大和の山の邊と云ふ名義にやとも思ゆ。
蜻島は神武の御言に、我國は蜻蛉《アキツムシ》の※[口+占]臀《トナメ》せるに似たりと興ぜせ給へるより、あきつ島と呼ぶと成りぬ、國のかたち三方に山の立繞りたるを、彼虫がおのがか臀《シリヘ》を身を廻らせて※[口+占]る状也と、見そなはし給へるなり、あきつ島と云ふは大和島と云ふに同じ。
(38)怜※[立心偏+可]國、おもしろき國とよむをうまし國とよめといふおほんの傳へたしかならねば、古點のまゝによみつべし、強ひて改めんはおそれあるさかしら也。
天皇遊2獵内野1之時、中(ノ)皇女(ノ)命使2間人《ハシウトノ》連|老《オユ》1献歌
舒明の宇智郡の宇智野に御狩に出させしに、皇女の使して歌奉らせし也、此皇女は後に文武の皇后に立せ給ひて、間人皇后と申奉りし也、使の間人の老と云ふ人は、御乳母方の人成るべ、皇子皇女の御名を乳母の姓氏に名付奉る事上古の法例也、此老は孝徳紀に小乙下中臣間人連老入唐して歸ると見えし人也、刊本中皇命に作る、女の字を脱せし也。
3 八隅知之 我大王の あしたには 取撫給ひ 夕べには 伊|縁立《ヨセタヽ》しゝ 御執《ミトラシ》の 梓の弓の 奈加|弭《ハズ》の 音|爲《ス》なり 朝獵に 今立すらし 暮獵《ユフカリ》に 今たゝすらし 御とらしの 梓の弓の 中弭の 音すなり
(39) 反歌
4 玉刻春《タマキハル》宇智の大野に馬|數《ナメ》て朝ふますらむ其草|深野《フカノ》
心《ウラ》安く御國しらせます我大君と先|言《コト》ほぎ奏《まうし》て、其があまりに御狩の遊びして、大御手に弓執して朝には出立たまひ、夕へには枕に立おかせ給ふらめ、其弓の獲物に臨みて射放ちたまはんに、中弭のうつろ金の弓反《ユガヘ》りして、高鞆《タカトモ》にあたらん音のいさましく武々《タケ/”\》しくおはしまさんと言ほぎし奉る也、詞章とゝのはり古雅にめでたし。
反歌は朝狩のいさましきをいへる也。君をはじめ陪從の臣達の勒列《クツハヅラ》を並べて、草深き野をそこときらひなく入立て狩しあるき給ふ也。千載新古今集の文彩をのみ推戴ける人の、駒なめてとはいかで言はざる、其草ふか野とはいともむくつけき詞といひくたせる人も、そのかみに生《ウマ》れあひたらば、あなめでた、あなうるはしなども打聞侍らんにや。古歌は今打きくにはまれ/\唐囀りなるがあれど、作意に於ては直く武々し(40)く、男はをとこさび、女はをとめさびして、眞心のかぎりを打いづるなり。人丸赤人其中に勝れたるを、後の世にいはひ祭るは何事ぞ、虚しき犬吼の輩にこそ。
八隅知之、一に安見しゝと書るが古意也、心《ウラ》安く國しらせますと云|祝詞《ヨゴト》也。
君を大君と申すは直《タヾ》にむかへ奉りて崇稱する語也。されば至尊をはじめ奉り、親王皇子三世の王にもむかひては大君と申すなり。
君の御手觸させし物は御とらしと申し、取撫給ふと云事、今も御撫物といへり。
梓は弓の良材也。
中弭の音とは古制に弓弦の中央に矢を夾むべき料に、金にて※[ドングリか壺のような絵あり]圖の如くうつろに作りて、弦を貫通し、こゝと定むる所にて糸もて卷とゞめ、其に矢を夾めば矢次早ならんに手つがひのよきと也。空形《ウツロガタ》なれば音はさえて、弓がへりの鞆にあたりて鳴るがいさましき、是を中弭の音す也とは云、又木竹にて輪に作り、弦の中央に繋《カケ》とゞめしも有歟、平城の興福寺の寶庫に藏めし古弓の圖にさる物を見たり。弓法家には弭金《ハズカネ》(41)中弦とも云とぞ。
伊|縁《ヨセ》立しゝの伊は虚辭也、うたふにつきては此伊と云一言を、上にも下にもくはふる事有、いよせたゝしゝはたゞ寄立す也、行憚かるを伊行はゞかる、はひもとほるを伊はひもとほる、又下に加へてはしひ伊は申せ、君伊し無くは、杙をくひ伊、椎はしひ伊などは、うたふに延ると意得らるゝを、人の名に、藤原の麻呂伊、百濟の福信伊と有も見ゆるは、朝堂に大臣の立て召るゝ聲を、筆には記しとゞめたるにや。福信の音を延《ヒ》けば伊は生るゝを、麻呂は伊の音の生れぬをおもへば、音便にあらで呼せたまふ例にやと思ゆ。
幸2讃岐國安益郡1之時軍王見v山作歌
此古注に日本紀を檢するに、讃岐の國の行幸見えず、軍王と云人も載せず、類緊歌林に天皇十一年十二月に、伊豫の温泉の宮の行幸見ゆ、此度の便にこゝをや過させけん。さて讃岐も山國なるを、山の名をいはで山を見てとのみ有は、例の脱《オチ》たるなるべ(42)し。
5 霞たち 長き春日の 晩《クレ》にける 和豆肝《ワヅキモ》しらず むら肝の 心を痛み ぬえこ鳥 うら鳴をれば 玉だすき かけのよろしく 遠つ神 吾大君の 行幸《イデマシ》の 山|越《コス》風の 獨|座《ヲ》る 吾衣手に 朝夕に かへらひぬれば 丈夫《マスラヲ》と おもへる我も 草枕 旅にしあれば 思ひやる たづきをしらに 網の浦の あまをとめ等が 燒《ヤク》鹽の おもひぞ所燒《モユル》 吾|下情《シヅゴヽロ》
反歌
6 山越の風を時じみぬる夜|不落《オチズ》家なる妹をかけてしぬびつ
都を年の暮かたに出て、今は長き春日に成ぬれど、歸る日いつと知ぬには心を傷みて、さすがにますら男と頼めりし我も心碎けて、何に思ひをやらむたづきをもしらぬに(43)は、此|行廬《カリヘ》する浦邊に燒鹽の如く思ひの絶えず燃ゆると云へる、旅のわびしさを述る也。さてかへしてうたふ歎きには、我宿る浦山風の寒くおろしくるに、いの寢られねば一夜も忘れず妹を戀ひて、家の方をのみおもひかけてしのばるゝと也。
和豆肝しらずと云語、集中には是のみかとおぼゆ、わかちもしらぬと云にことわれど、音も通はねば肯《うけ》がたし。憶ふに和の字は多を寫たがへにも有べし、多豆肝しらずは下にも鶴寸乎白土《タヅキヲシラニ》と見ゆるには同語しかあらじと思へど、山陰の浦郷に日の暮果ぬれば、手着《タヅキ》無き事をかへす/”\思ひにまかせて云べし。此歌は長《タケ》たるよみ口にも聞えねばさるくり言も有べきものぞ。
むら肝の心、又肝向ふ心とも云は、何ともなき詞也。上古の人は萬に精しきに過ぎざれば、人の臓腑を心肝肺胃脾膽など、つばらには云人稀々にて、すべてを肝と云とや意得つらん、其肝の屯《ムラ》がりて包まれをる者は心ぞと思ひてや、肝向ふ心とも云歟、又後の物語に心肝も潰るゝとも、又肝魂も消るなど云、只心と肝とのみに文辭をなす(44)事を思へば、如是《シカ》は云ぞ。黄岐の術に深く心を用ひし人の論に、五臓と云て名を分ちて付たる事のいぶかしき、人死ては必開藏すべき物ならば名も有べし、是は西土にて牛馬を開きて廟に供ふる事のあれば、其《ソレ》にこそ名を付て、是は何彼は何と呼び習はしけんを、刀圭の術さかしく成んて、人の腹内をつばらかに云べき事と、此大牢の供へ物の名を、假初言して云ならはせしにやといはれしは、當れりや否やをしらねど、今も開臓と云事して見し人のかたり言に、五臓とて色も何も分明にはあらで、たゞ紫色の物の屯がりたるは魚腸に異ならずと云り。さらば屯肝《ムラキモ》の心と云文言も、おろ/\に意得らるゝ也、猶是につきていはまほしき事もあれど、こゝには長言なればおきぬべし。
ぬえと云鳥の聲はいと患はしきを、心傷くしのびに泣るゝにたとふ。
遠津神とは今の至尊を人に遠き現《ウツ》し神ぞと申す崇稱の語也。
山越風とはいづれの山より吹きこしくる風ぞ、小序に山を見てと後より補へるは、こ(45)の句に係りて作爲せしと思ゆ。憶ふに是は大君の出ましのと云下に、二句ばかり有しかとも思ゆ、山の名も其に從ひて失ひけん。さて反歌の山ごしの風は長歌にある山の名に打まかせて、こゝには略きて山ごしの風とのみ云つらむ。
網の浦は綱の浦歟といへど、津野の郷は多度郡に在と聞けり、こゝは安益《アヤ》郡なれば網の浦と云も在りしを、今は名の傳はらぬなるべし。歌の作意に煩らひなき事はしひて尋ねずともあれかし。
明日香河原宮御宇天皇代は、舒明の皇后にてましませしが、帝崩御の後、蘇我大臣蝦夷執政して、女主を立て皇極帝と申奉るは是也、嗣主孝徳崩御の後に重祚有て齊明と尊稱し奉る、はじめの尊號は、天(ノ)豐財重日足姫《トヨタカライカシヒタラシ》天皇と申せし也。
小序に額田女王歌と有は、詞の脱たる也、古註に類聚歌林を引て、近江の比良に行幸の事を云へ其度ならむを、女王のおぼし出てよめるなるべし、さらば額田女王羇旅歌と有べし。
(46)7 金《アキノ》野《ノ》のみ草苅ふき宿れりし兎道の都のかり庵《ホ》しおもほゆ
秋に心をよする女王の宇治の宿り殊にあはれなりとてよませし也。詞章直くをとめさびしてよろしき歌也。
後岡本宮御宇天皇代は即重祚の女主なり、
この小序は天皇幸2于伊豫温泉宮1時額田女王作歌
8 熟田津《ニギタヅ》に船乘《フナノリ》せむと月まてば潮もかなひぬ今はこげ乞《コソ》な
おほん舟出の汐待得て、月もいとさやけく海面いかに面白かりつらむ、されど下の章は今はよみうつすまじき詞也。
熟田津、伊豫風土記には美枳多頭と見ゆ、刊本熟の字※[就/火]に誤る。
幸2于紀温泉1之時額田女王作歌
温泉は三熊野の本宮と云所に在、又湯崎と云所にも有、いづれぞ。此女王は鏡女王の(47)女子、初め天智の太子なりし時より思はれ奉りて、後には天武の宮妃なる事國史に見ゆ。刊本上と共に女王の女の字を脱す、女主の行幸なれば陪從の列に出たまへる也。
9 莫囂圓隣之大相土兄爪謁氣吾瀬子之射立爲兼五可新何本
この歌はよみうまじき事に人のいへば、たゞさしおくべきを、さま/”\に力車を押立るにつきて、我もこゝろみによみつ。
ゆふづきのおほにてとへば我せ子が伊たゝせるかねいづかしが本。かくよむは行幸のゆくての御やどりのいづこなりけん、山路なれば夕影はやくをぐらきに、月さし出づれど、いとおぼつかなきに、思はれ奉る君のいかにおはすらんと、使して問奉れば、いと大きなる※[木+諸]《カシ》の木の下に行庵《カリホ》作りておはす、いとわびしき獨寢にこそと云おくれるかと思へど、是もはた空《ムナ》車おしたつる業なるべし。
莫囂圓隣をゆふ月とよみしはうけがたけれど、是をしばし古訓としておきぬべし。此集に夕づく夜をぐらの山、又古今和歌集に夕月夜おぼつかなきをと云しを由として、(48)夕月のおほにとはよむ也、大相をおほと訓む、刊本の七の字一本に土に作るを取てにとよむ、兄爪の二字を合せて手と戯訓して、又其手を而の義に假しはあやしうなまさかしけれど、他に訓べきやうを思ひ得ねば、古訓のまゝに差おくべし。謁氣は問へばとよむべし、射立爲兼の射は例の虚辭、立すかねは後にかなと云に同じく咏歎の辭也、五可新何本を嚴※[木+諸]《イツカシ》が下《モト》とよむは嚴威稜威を伊豆とも美伊豆ともよむ嚴《イツ》の大御手など云は、必伊豆と濁るべきを五の字に假訓したり、いにしへは清濁の定のおほにて有し也、今も大きなる物を見てはいづましと云ぞ是なる、いづかしが本は古事記に雄略の御製に、三諸《ミモロ》のいづかしが本かしが本と云章によると、先學達の云れたりき、此よめるはよろしく思ゆ。
中皇女命往2于紀温泉1之時御歌 と有は同じ度なるべし。
10 君が齒《ヨ》も吾代もしれや岩代の岡の草根をいざ結びてな
(49)是行幸に從ひ奉りて君を言ほぎ御みづからも肖《アエ》たてまつらんとて、常磐なる岩白と云名のしるしは見つ、いざ其岩根の草を刈て行在所を倶にしろしめすべきと也。草をかやとよむは家に取葺料に云也、くさと云へば生《オヒ》たるまゝを云、神名に草《カヤ》野姫と申も草の用專ら家に取ふくを稱する故也、草をむすぶと云が即家をかりそめに作る事なれば、後には庵をむすぶとも云へり。
11 吾勢子はかり庵《ホ》作らすかやなくば小松が下のかやをからさね
此岩白の濱にこよひやどるべき行庵作らするに、よき刈草のあの小松が下に有ぞと告給へる、此夫子は皇女の兄み子の中大兄を指奉るなるべし。
12 吾|欲《ホリ》し野島は見せつ底深き阿胡根の浦の玉ぞ拾はぬ
見まほしかりし野島は見つ、いざこゝよりあこねの浦遊びして石貝のうるはしきを拾はさせ給へとは、誰も聞うるを、この野嶋と云は紀と淡路の間に在と云、いかでわ(50)たりして御遊びなど有べき事ともおぼえねど、上古の事はまさ目ならねば言のみ傳へのまゝに解くべくす。猶此野島の事は第三の卷の人丸の羇旅の歌の下に云べし、或人は一本の子島は見しをと有を取れど、島の大小を云には必其本の名を云が例也、吉備の小島の類擧てかぞふべからず。
阿胡根の浦は明光《アカ》の浦の事といへり、さらば根は虚辭歟。
中大兄 近江宮御宇天皇三山歌一首 と有。
小序は何事ぞや、是は三山をのみよみませしにあらず、又中(ノ)大兄とのみも書くべからず、近江宮云々と有も、悉に例違へり、仍て今補はんには、中大兄皇子命到2于播磨國印南野1見2天|覆槽《ウケフネ》1御作歌と有べき者也。
13 香山は 畝火雄々しと 耳梨と 相|諍競《アラソヒ》き 神代より 如是《シカ》に有らし 古昔《イニシヘ》も 爾《シカ》にあれこそ うつせみも 妻を 相挌《アラソフ》らしき
(51) 反歌
14 香山と耳梨山とあひし時立て見にこし伊奈美國原
15 渡津海の豐旗雲に入日さし今夜の月夜|清明《サヤケクモ》こそ
長歌の御作意は印南野の天の覆槽《ウケフネ》を見そなはして、此物語をおぼし出給へるにつきて、御みづからも感ずる事のおはしませる也。此國の風土記に、昔の出雲の國の阿菩の神と申が、大和の畝火香山耳梨の三山相戰ふと聞て、いきてあつかはんとてはろ/”\こゝまで出立給しに、今は闘ひはてたりと聞しめして、乘て來し天の鳥船を此渚に覆《フセ》おきて陸路より歸らせしとかたり傳へたる。其三山の爭ひと云は、香山の神は女神にておはせるを、うね火耳梨の男神達の我めとらんとて爭ひたまへりしとぞ、耳梨の神や得たまひつらん、かく山と耳なし山とあひし時と反歌に見えたり。さはいにしへよりも神だに妻爭ひはしたまへりきを、御身の上にも現に今妻あらそひのみそかわざ(52)はするよとおぼしあはせて、言にうたひ擧給ふ也。憶ふに其爭ひ給ふ女は額田姫にてやおはしけん、御あらそひ敵は弟君の天武の、兄帝崩御の後に宮妃にめされしもて爾は云也き。
播磨風土記に覆形《フセカタ》と有は覆船の誤か、さらずは何を覆《フセ》たりとも語をなさゞる也。其古物語につきてさる形を造りてこゝにはとゞめし歟。我|弱《ワカ》き時彼國のあたり見ありきしに、荒井川とか所の畑中に、天の石船とて小き右の船を見しが、譌り物ながら其かたみに好事の作りておきし也。香山と書きしを高山と見たがへて刊本には書きけん、いとも高からぬ山なれば義訓には有べからず。
反歌の香山と耳梨山とあひし時、それを阿菩の神のこゝまで出立て見にこし給ふといふ御作意にて、風土記の傳へには異也。古き物がたりは人毎に違ふものなれば、此御製の意も一つの傳へなるべし。
印南野は東西いと廣き原野也、國原とむべも云べき地圖《クニカタ》なる。さて此野のこよひのや(53)どり、いとのどかなる天《ソラ》の氣《ケ》はひをあはれがらせ給て、見るまゝにうたひ出させ給ふよ。海には波たゝず空には大いなる旗雲の立靡きたるに、入日のかゞやきてあか/\と見ゆるは、はた今夜の月さやけからんにこそとながめさせし也。
海邊に今宵ばかりならんは、打聞てだに心もゆたにおぼゆる也。
清明はさやけくもこそと、もを一言付よみにすべし。
近江大津宮御宇天皇代とは、天智の御時也、始は天命開別《アメノミコトヒラクワキノ》天皇と尊號を奉りし也。
天皇詔2内臣藤原卿1競2憐春山萬花之艶秋山千葉之彩1之時額田女王以v歌判v之とは、太政の御いとまの内宴に唐土人の春秋の興を云爭ふに擬ひ給て、春秋花紅葉の色香いづれぞと鎌公に問せ給しかば、額田姫に譲りて判の歌よませらる、女王いなみがたくてやおはしけん、此歌は打出給へる也。
16 冬|木成《ゴモリ》 春去來ば 鳴ざりし 鳥も來なきぬ 咲ざりし 花もさけれど 山を(54)茂《シミ》み 入ても取ず 草深み 執ても見ず 秋山の 木の葉を見ては 黄葉《モミヂ》をば 取てぞしのぶ 青きをば おきてぞ歎く そこし恨めし 秋山ぞ吾《ア》は
この歌寔にをみな心也、春になれば鳥の音ほがら/\とおもしろく、待し花の木どもゝやぅ/\咲出るに、野山に交りて遊べば山は茂き隈々のおそろしげなれば、深うもえ入らず、野は草葉のうら若きもすさまじき虫のはひをらんには、手ふれんも安からずおぼえて、心ものどかならず、秋はおそろしと見し茂山も色よく染わきて散りかふには、あらはに入立て遊ふべし、こ染なるは拾ひて思ふ君の御心にたぐへつゝめでたうしのばしき、さるは色なきはさしおかれて下歎きをぞする、それこそ怨めしけれ、秋にぞ打まかせてたのしき遊びはせんとよめる、いと優しき人の心ばへ也。
冬木成は盛の誤かといへり、釋名には成の字をたゞに盛茂の義有とす、そのかみは此書を專ら採用ひしかば、さる書法にも有べし。
(55)春去來者、春さればと云は春にぞなりくれば、春にぞあればと云義かと思ゆ、古語の延約あやしう自在也、假名の反切の唐ざまに違ふ事少からず、是御國の言靈《コトタマ》の幸はひ也、去來の字は時去時來と語を採《つ》みてや書ける。
さて春秋の爭ひと云事、西土の作文に擬《ナラ》ひてこゝにも云へど、たゞ時に臨みての戯言なるを、此歌は不負情《マケジゴヽロ》のはかな言にはあらで、實にたをやめのよみつべき意也、月の遊びする秋の夜に花もひとつに霞むを、夜よしといひしはめゝしからぬあだ言ぞとおぼゆ。
額田女王下2近江國1時作歌 と有て、下に井(ノ)戸《ヘ》王即和歌
と有は、この次にさる歌の有つらんを脱して、小序もみだりしならむ、此御代の六年の春に飛鳥の都を近江の大津に遷されし事國史に見ゆ。
17 味酒 三輪の山 青丹吉 奈良の山の 山際に 伊隱るまで 道の隈 いつもる(56)までに 委曲《クハシク》も 見つゝゆかんを 數々《シバ/\》も 見|放《サケ》ん山を 情《コヽロ》無く 雲の かくさふべしや
反歌
18 三輪山をしかもかくすか雲だにも心あらなむかくさふべしや
飛鳥は久しき都なるをおぼし棄て、今度近江に遷させ給ふ事心もとなきを、女の下なげきしてや出たゝすらん國原を漸過ぎて、奈良山に來て顧見すれば、三和山こそいとよう見ゆれ、其ほかに立廻れる山々峰々、朝夕に見馴れたれば、いとも別れをしくて、くはしくもけふは見つゝゆかむを、春の雲霞に立さへらるゝぞ怨みなる、那羅山をこえはてゝは見ゆまじきに、こゝに來て獨のみ見ゆる三和山を、雲心無くもあらず立隱さで見するはと云也、是も男も如是《シカ》歎くべきから、女歌にて殊にあはれ也。
味酒三輪と云文辭は、うまき酒を瓮《ミワ》に湛ふると云事といへり。
(57)青丹吉、奈良の文言、さま/”\説あれど聽くべきはあらず。
山の際《ハ》、字の如く山の間と云を略言して云、又山の末とも云。
伊隱る、伊積る、伊は共に虚辭也。
委曲をつばらとよめといへど、故郷の名殘なればくはしくもとよむを宜とす。
19 綜麻形乃林始乃狹野榛能衣爾著成目爾都久和我勢
是を荷田の東丸のみわ山のしげきがもとのさのはぎのきぬにつきなす目につくわが夫《セ》とよまれしは、いとよしとおもへるに、又私に憶ふ、此歌は次の蒲生野の御狩に天智の御出立の装《ヨソ》ほしきを、殊にめでたく見上奉りてやよみつらむ、さは次の小序の次に此歌有て、又皇太子に茜草《アカネ》さすの歌をおくると云小序も脱《おち》し歟と思へど、是はあまりなるしひ言なれば、筆もいざよふまゝにしるしぬ。
綜麻形は古事記に據て三わ山とよみしは宜し、林始しげきがもと少し迂遠也、一に林(58)がさきのとよめとも云へり、さてたとへ歌なれば故郷の方なる三和山おぼし出んも女しき也、榛染はよく染つけば衣につきなすよ、さて吾夫の君は吾目にのみつくと云、いと面白き詞章也。
天皇遊2獵蒲生野1時、額田女王作歌
是は御代の七年五月五日に有し事史に見ゆ、弟諸王内臣及群臣皆悉從焉とぞ、五月五日の獵は競狩とも藥狩とも云て、鹿の角を取て藥用に備ふると也。
20 茜草《アカネ》さす紫野|逝《ユキ》標野《シメノ》行《ユキ》野守は見ずや君が袖ふる
此皇太子によみかけ奉るは、大友の御出立の装ほしきを見たてまつりて、世に殊に稀なる君ぞと譽し也。君の御狩野は常に標を立、守部を居ゑおかるゝ其等に出て見よと指示す也。此大友の傳は懷風藻に委しく見えたり。皇太子者淡海帝之長子也と書けるに、嗣君なる事|見露《アラハ》なるを脱されしを恨みとして、猶事を精しく擧げられたる其傳(59)に、御かたちの武々しくおはせしをも記されたり。
皇太子答御歌は
21 紫草《ムラサキ》のにほへる妹をにくかれば人妻|故《カラ》に我戀めやも
我を男々《ヲヽ》しくいさほしと見しよ、こなたよりもをみなしくあて也とは見る。されど人妻故に戀はせじと戯れてこたへ給へる也。父帝のおもひ人なれば、さる無禮《ナメ》しき言やはと思ふは後の世の心也、そのかみはふと見しまゝ思ふまゝを打出て興ぜし也。西學を宗とする世となりては、かゝる言のみの戯れも獣類の如く思ふらめ。書記文苑も其世の風俗を先こゝろ得て後にことわりを云ぞよき。
紫草、古點は秋はぎとよめり、よみかけたるにあかねさす紫野とあれば紫とよむべき歟。この草の名紫の一もとからに武藏野の草は皆がらあはれとぞ見るとよみしもあれば、昔はなつかしき物にめではやせし草也。
(60)にくかればゝめづるあまりに今もさはにくきものぞと云、いにしへよりの艶言也。さて此格はにくかれば云もよらめど、と言を加へて意得べし、古歌に例多し、其所々に云を見たまへ。
明日香清御原天皇代とは天武の御時にて、初の尊號を天渟中原瀛《アメノヌナハラオキノ》眞人(ノ)天皇と申奉る。
十市皇女參2赴於伊勢神宮1時見2波多横山巖1吹黄刀自作歌
天武の御むすめにて、初め大友に嫁し給ふ事懷風藻に見ゆ、後に異《コト》腹の御兄の高市の太子におもはれ給ふ事集中に見ゆ。伊勢に詣たまふ事、御代の四年二月と史に見えたり。波多の横山は伊賀の名張郡に在、こゝにやどり給ひて、この山の岩むらのかたちおもしろきにつきて、御供なる吹黄の刀自が言ほぎしてよめる也。
22 河上のゆづ岩むらに草むさず常にもがもな常《トコ》をとめにて
岩むらのときはかきはに苔も小草も蒸《むさ》ぬに肖《アエ》給ひて、とこよ人にて世にいませかしと(61)いはひてうたひし也、人々あなめでたとほめだゝへけん、いにしへの上手の口ぶり也。
ゆづ岩むらは神代紀に五百箇磐村と書て、ゆづいはむらとよめり、五百箇は多數の語、いほつを約めてゆづと言《いふ》。
もがなといへば得られまじき事を歎ずる也、がもなと云も同じ。
刀自は老若をいはず人の妻と成てを云。
允恭紀の注に戸母に覩自と云と見ゆ、戸主と云も同じ。
麻續王流2於伊良虞島1之時或人哀傷作歌
と有しを、伊勢に同名のあるをもて裏書せしが紛れたる也、人の上にも或の字脱たらめ、史に正しく四年の四月に三品麻續王を罪有て因幡に流す、一子は伊豆に、一子は血鹿島に流つかはさるゝと見ゆ。又常陸風土記に行方《ナメカタ》郡の板木村の海濱に麻續王の謫所在と見ゆるは、血鹿島に流されし一子の、私に隣の國に來て死《しに》やしけむ。
23 打麻《ウチソ》乎|麻續《ヲミ》の大君蜑なれや伊良こが島の玉藻苅ます
(62)此よめるは男女をしらねど、いとよく情を盡してあはれによみたり、故ある人のなげき也。
麻續王聞v之感傷和歌
24 うつせ身の命を惜み浪に濕《ヌレ》伊良呉の嶋の玉藻刈|食《ヲス》
此こたへはいよゝ悲し。罪重ければ歸るべくもあらずおぼされけん、さて今は命惜ともおぼさゞらめとむなしく月日を過すべき也、罪は定めて近江の朝に心をのこされけん、史に罪の由見えぬをもて思ふ也。
刊本惜美を情※[草冠/夷]に誤る。
天皇幸2于吉野宮1時御製歌 小序は如此有しなるべし、次なるは反歌と思ゆ。
25 三吉野の 耳我《ミヽガ》の嶺に 時無ぞ 雪は落《フリ》ける 間《ヒマ》無ぞ 雨はふりける 其雪の 時なきが如 其雨の 間《ヒマ》なきが如 隈も落ず 思ひつゝぞ來る 其山道を
(63) 反歌
27 淑《ヨキ》人のよしとよく見てよしといひし芳野よく見よ良人よ君
天皇御代しろしめさゞりしさきも、近江の朝を云逃れてこゝに隱れたまふ時に、山河の世に珠なるを愛し給しかば、御代しらす清見原の都より遠からねば、あまた度御幸有てあかぬ御心に打出てうたはせし也。山深ければ雨も雪も時無きにならひて、こゝまで度々來るぞと、たとへを取せ給ふ詞の宜しさを恐あれど感奉る。反歌は陪從の中に良臣によみかけさせ給へる也。是には應制の有しを脱しけん、昔の良《ヨキ》人の撰びし吉野と云名は寔にかなへる所のさまなるを、今の良人と云臣こそおぼししるらめと詔らせ給へる也。良人とは藤原の鎌公父子のうちなるべし、長短共に勝れてうけ給はる。
藤原宮御宇天皇代とは持統の御時也、初めは高天原廣野姫天皇と尊稱し奉る。
天皇御製歌 とのみあれど、是も故《モト》のまゝにはあらじ。
(64)28 春過て夏來たるらし白妙の衣さらせり天の香山
おほんのみ心ばへは、春暮て夏來たるけふ御階に立出て、先東の方の香山を見給へば、皇子達臣達の殿造り立並べるに、春の着ならし衣を干しさらせるを、夏立つ空のけはひよりしてめづらかにやおぼし給ふらん、いとおほらかにいにしへのよき歌のさま也。
刊本に衣さらせりとよめるはよし、衣ほしたるとよむもよし、中頃に衣ほすてふと改めしは詞もかなはず、且おそれしらぬしわざ也。
柿本朝臣人麻呂過2近江荒都1時作歌
と有は、人丸は近江の生れの人にて、衣暇田暇と云事にて本郷に歸る便りに、こゝを過しやと云り。
29 玉だすき 畝火の山の かし原の 聖《ヒジリ》の御世|從《ユ》 あれましゝ 神の盡《コト/”\》 つがの木の いや繼々に 天の下 しろしめしゝを 天《ソラ》に見つ 大和をおきて 青丹(65)吉 平《ナラ》山を越 いかさまに おもほしけめか 天さかる 鄙にはあれど 石走 淡海の國の さゝ浪の 大津の宮に 天の下 しろしめしけん すめろぎの 神の尊の 大宮は こゝと聞けども 大殿は こゝといへども 春草の 茂く生たる 霞たつ 春日の霧《キレ》る 百しきの 大宮所 見れば悲しも 一本、見ればさぶしも
反歌
30 さゝ浪の志賀の唐崎|幸《サキ》かれど大宮人の船待かねつ
31 さゝ波のしがの大和太よどむとも昔の人に又もあはめやも
此大津の宮のみ荒て悲しき事をいふ人々の見ゆるは、天智の御徳を竊にしたふ心ぞと思ゆる也。皇都は神武のかし原の宮を初めに、此天智の御代に到るまで大方に大和の國内に在て、其間難波河内の畿内《ウチツクニ》に遷給しもあれど、僅の御事迹なるをいかなれば(66)外《トツ》國の近江の海濱に宮居し給ひけん、皇祖神のおぼしにはかなはずや、たゞ一世にて見るめいぶせき荒野と成果ぬるを、此御蔭しのぶ人々は清見原藤原の朝に身は有ながら、竊に此御事を思し忘れぬあまりにこゝをさへ過て、すゞろに昔をしのぶ歎きする、人丸も其人ゝの中なりけり。さてこゝとは聞けど其跡ともおぼえぬばかり草おひ霞こめて、いとも見るめ悲しき所ぞと云て、反歌はこの唐崎の濱はそのかみ御遊び有し處なれば、國|靈《タマ》の神の御舟待※[白/ハ]にましますが如見なさるゝは、昔を慕《シノ》ぶ心ぅつゝなきにや、故《カレ》此歌はいひ得ぬものに聞ゆ。さて終には人丸の親おほ父達は、天智の御宮づかへして此都にてむなしくや成にけん、又壬申の亂にや亡びけん、こゝに來てはすゞろにしのばれて悲しきあまりに、志賀の入江の水はよどむとも、昔の過にし人はゆきて返らぬと打泣てよめる也。寔には此歌をよまんとて、先都の荒しを云出る朝臣の手ぶり下にも見ゆ。
高市連黒人感2傷近江舊堵1作歌
(67)32 古の人に我|有《アレ》哉《ヤ》樂浪の故《フル》き京《ミヤコ》を見ればかなしき
33 さゝ波の國津み神のうらさびて荒たる都見れば悲しも
此黒人が親祖父も近江の朝の御爲に亡びしかば、かくかなしげなる詞は打出らん、いにしへの人に我あれやとは、見ぬ御代ながら今たゞ見るか如にと云也。さゞ波の國つみ神とは此|地《クニ》の靈神を申也、其神の御心も共にうらさびまして、見る/\いと悲しきはとはおのが心からなれど、見る物毎に悉く涙もよほさるゝからいへる也、いと切《せ》めたる心ばへは人丸にまさりたり。
抑此都の跡のみをかく悲しき物に云は、天智の御徳見つる人々の情也。これより前に都を遷されし事御代毎にもありしかど、其跡を見て悲しく云し人はあらず、此都は徳ある帝の跡のみならず、思ひかけず亡びたりし事を、身は藤原の朝に仕へながら竊に昔を慕ふ人の下歎きする也。此後祭良三日の原の都のうつりにしをも、悲しき事によむ(68)は、この人々の詞章に擬ひて、さておのが引く方にかなしむ也。古歌は由なき事はよまず、實情を見るにあらずは古歌を知るにあらず。
樂浪と書てさゝ波とよむ事、下には神樂聲浪神樂波とも見ゆる中にも、神樂聲と書きしぞいはれあるは、いにしへの神あそびの歌の章の終には必佐々とうたひし事とおぼゆ、多くは見えねど神功紀に太后の御製又武内の臣が應制の章の末にも飽ず食《ヲ》せ佐々、歌樂しさゝなど見えて、はやし詞なるを以て神樂聲と書てさゝとよみ、それを略して神樂波とも、いよゝ省きて樂波とも書《かき》しを、其かみの人はやすくこゝろ得けん、今はよみうまじき書樣也き。
幸2于紀伊國1時川島皇子御作歌 或云、山上臣憶良作
34 白浪の濱松之枝の手向草幾代までにか年の經ぬらむ 一云年は經にけむ
歌の意は明らかにて且いにしへのよき歌也。或云、白浪のよする濱と云を白波の濱と云は、古言にあらず、是は紀の國に白神の濱又白良の濱など云があれば、其《ソレ》の誤かと(69)いへど、正しく第九の卷に白那彌の濱と書て、此歌を再び載たればいはれぬ事也、かつさるさかしくはぶきて云し事、そのかみにも猶例あり、ぬば玉の黒きより轉じてぬば玉の夜といひ、千早ふる神よりうつして、千はやふる金の御碕とは云ずや、猶有べし、空には思ひも出ず。
越2勢能山1時阿閇皇女御作歌
天智之皇女日並斯皇太子之妃、文武之御母尊にてましませるが、文武崩御に禅りを受給ひて帝位に登らせたまひ、元明天皇と尊稱し奉りし也、女帝の中には賢主にましませる事國史に見ゆ。
35 此《コレ》や是《コノ》大和にしては我戀る紀路にありとふ名におふ夫《セ》の山
朕常に戀る夫の名おひし山は大和にこそあらめ、今越ゆる紀路に在と云よとのらせ給しは、をみなしく直き御心ばへとこそうけたまはり奉れ。
(70)妹山夫山、紀の川の南北の岸近く立り、河は即吉野川の末也、仍ていもせの山の中に落るとはよめり。
幸2于吉野宮1之時、柿木朝臣人麻呂作歌
人丸出身は舍人なれば、行幸の陪從の列にあり、令に行幸には舍人八百人と見ゆ。
36 安みしゝ 吾大君の 所聞食《キコシヲス》 天の下に 國はしも 多《サハ》にあれども 山川の 清《キヨキ》河内《カフチ》と 御心も 吉野の國の 花|散《チラ》ふ 秋津の野邊に 宮柱|太《フト》しきませば 百しきの 大宮人は 船なめて 旦《アサ》川渡り 舟競《フナギホ》ひ 夕河わたり 此河の 絶る事なく 此山の いや高からし 珠水激 瀧の宮こは 見れどあかぬかも
反歌
37 見れどあかぬよしのゝ河のとこなへのたゆる事なく又かへり見む
國うらやすくしらせます吾大君と先言ほさぎして、さてきこしをす天の下に國は多か(71)れども、山川の清き吉野の國は、小草の花散りかふ其秋津野に離《トツ》宮を作らしませれば、大宮人の御供に從ひたまふかぎりは、殊に御舟の遊びを珍らしみて朝夕に舟ぎほひして、歌樂しをもしたまへる此御遊びの代ゝに絶る事なきは、河上しられぬ瀧つ流のたゆる事なきにたとふべく、御代しらす御徳の高きは此秀たる嶺にたぐふべし。さて此瀧の都はあまたゝびの御幸にも見れど、あかずなん思侍ると言ほぎ奉りし也。反歌は如是《シカ》見れど飽ぬには此河のとこしなへに絶る事なきにあえて、いく度もかへり見まく思侍ると云。かへしてうたふとは是等也。
人住ふりて榮ゆる所は國と云、吉野の國、泊瀬の國、難波の國等|最《いと》例多きが中に、此よしのゝ國は殊に憶ふ旨あれど、下の象山の呼子鳥の歌の下に云ん。
花散ふ秋津ののべとかけて、時は秋なるをしらせる也。
百しきの大宮と云事、皇宮を營造するに石ずゑを高く百かさねに築立ると云文言也とぞ。
(72)珠水激、さま/”\よめど、吾は玉ちらふ瀧とよまばやと思ふ。
38 やすみしゝ 吾大君の 神ながら 神さび爲《セ》すと 芳野川 瀧津河内に 高殿を 高しりまして のぼり立 國見をすれば たゝなはる 青垣山の 山づみの 奉《マタ》す御|調《ツギ》と 春べには 花かざし持 秋立ば 黄菓《モミヂ》かざせり 遊副《ユフ》川の 神も大御食《オホミケ》に つかへまつると 上つ瀬に 鵜川を立 下つ瀬に 小網《サデ》さしわたし 山川も よりてつかふる 神の御代かも
反歌
39 山川もよりてつかふる神ながら瀧つかふちに舟出せすかも
同じ度なるべきが、再びよみて奉れる也。先上に同じき言ほぎして其うつゝ神ながら神遊びすと、かねて宮居は作らしまして高殿に登り此國を見わたし給へば、山々四方に立繞りてみづ垣の青垣なしたるに、春は花秋は紅葉の色々をさかせたるは、即この(73)山|祇《ヅミ》のさしかざして見せ奉る也、又河瀬に鵜を放ち小網もて※[魚+條]をとらせる御遊びは、是も河伯《カハガミ》の貢物に奉る也と云巧みいとめでたし。さては山祇河伯もかくつかふまつるにうつし神も船出して遊ばせたまふと云人丸の高調、萬世に神と仰ぐべき神妙の作者也。
畳なはる青垣山、山の幾重もたゝみかさなれるをみづ垣の青垣に見なして云、遊副《ユフ》川とはこの邊の地名かと云人もあれど、上の歌に朝川わたり夕川わたりと云しを受けて、是には夕方のみを云へるなるべし、夕かけてこそ鵜を放つに山陰をぐらければ、篝火さしたらん御目をなぐさませ給はんものぞ。
幸2于伊勢國1時留v京柿本朝臣人麻呂作歌
40 嗚呼見《アミ》の浦に船乘すらんおとめらが珠《タマ》裳のすそに汐滿らむか
41 釧著《クジロツク》手節《タフシ》の崎に今もかも大宮人の玉藻刈らむ
42 潮さゐにいらこの島べ漕舟に妹乘らんか荒き島|回《ワ》を
(74)是は都にとゞまりて想像《オモヒヤリ》奉るに、御身近くつかへまつる女官達の大御舟に乘こぼれて、礒廻漕せつゝ遊びすらんに、赤裳のすそは波にぬれつゝあらんと先云て、次には司々の人々は陸邊に守奉るなべに、汀の玉藻や刈てあそぶらんと云。さて終の歌にこそ實情を述べたるは、此行幸に朝臣の思ひ人の御供つかふまつりて出しに、荒磯の波高からむには、いともあやうく心もとなしとおもふを心やりに云に、先上の二首は序によめる也、朝臣の巧妙、上の近江の舊都の歌にも昔の人に又もあはめやといはんとて、上は云述ると同じ。
嗚呼見の浦は見は兒の誤にて、阿ごの浦かと云り、網の浦讃岐にも在、伊勢にも在し也、今は名も呼びかはりてたしかならぬにや。
釼著は釧の誤かと云はよし、釧鐶は手臂に纏ふ具なれば、手ふしと云よせて答志《タフシ》の崎にかけたると云り、釧を劔に書たがへしなるべし、答志《タシ》崎は三河の國なれば、杳に隔たりたらんをしらずよみによみし者歟、伊勢志摩の間にも同名ありし歟。
(75)潮さゐは潮音也、荒汐の打よする音はさや/\しきに云なるべし、玉の相觸る音を、さゐ/\、さや/\など云に同じ。
當麻(ノ)眞人麻呂妻作歌
同じ度にて夫の從駕に出しを、家にとゞまる妻の歌也。
43 吾|夫子《セコ》はいづこ行らむ己津《オキツ》物|隱《ナバリ》の山をけふか越らむ
名張の山をや今日はこゆらんとおもひやりて歎く也。
己津物よめがたし、己は起の省字にて、沖津藻のに假言して書くかと云り、己の字をたゞに起の義にも用ふる歟、鄭玄の孔夫子を夢に見しに告げたまはく、起々今季歳在辰明季歳在己と云は、起の字義に己と通ふべく思ゆ。
隱の山、かくれの山とよみしかど、是は吉隱《ヨナハリ》をよなばりとよみし例にて、隱を名張とよめと云はよし、吉名張の猪養《ヰカ》の岡とも書くが見ゆ、されどいかなれば隱をなばりとよむや、義知られず。さて沖つ藻の繩菜とかけし文言を略《はぶ》きて名張と云なるべし。
(76) 石上大臣從v駕作歌
大臣は麻呂公か、持統の御時はしからざれど、慶雲三年に右大臣と見ゆれば後よりしか書くべき事也。
44 吾妹子を去來見《イサミ》の山を高みかも大和の見えぬ國遠みかも
家なる妹をいざ見まくと云を山の名にかけたれど、大和の方はそこと指《さし》て見ゆべからぬを歎く也。國は隣るを遠きかと云があはれ也。去來見の山、伊勢に在べきを今しられず、是は若磯邊の山と云にはあらぬか、いさみといそべと同音にて通ふべし、磯邊は志摩の國に屬《ツキ》たれど、山ひとへのみ隔りたれば、此度の道行ぶりに過る所なるべし、山高みとあるにつきていはゞ、今の磯邊と朝熊《アサマ》山との間に今は山伏嶺と呼高峰在、是やそれか、心あてして云のみ。
輕皇子宿2于安騎野1時柿本朝臣人麻呂作歌
とあるは、とゝのひたるやうなれど、橘伴の君達の後よりかくは書せ給ふべからず、天武之御孫草壁太子之御子位を嗣て文武天皇(77)と尊稱し奉りし君也、後より撰びし物にいかでかゝりけん。
45 八隅しゝ 吾大君 高|照《テラ》す 日のみ子の 神ながら 神さびせすと 太しきし 京をおきて こもりくの 泊瀬の山は 眞木立る 荒山道を 石《イハ》が根の 楚樹《シモト》押なみ 坂鳥の 朝越まして 玉限《カギロヒ》の 夕さりくれば 三雪降 阿騎の大野に 旗ずゝき 篠をおしなみ 草枕 旅やどりせす 古昔《イニシヘ》おもひて
短歌
46 あきの野にやどる旅人打靡きいもねらめやもいにしへおもふに
47 眞草苅荒野にはあれど紅葉の過にし君がかたみとぞこし
48 東の野に炎《カギロフ》の立見えてかへり見すれば月かたふきぬ
49 日雙斯《ヒナメシ》の皇子《ミコ》の命《ミコト》の馬な|へ《メ》て御獵たゝしゝ時は來むかふ
初めの二句は既に云君を言ほさぎ奉る古言也、さてうつゝ神ながら神遊びすと宮柱ふ(78)としき大殿をおきて、初瀬路を朝越まして阿騎の野に夕やどりますに、冬の御狩なれば打ちる雪に枯わたる薄篠などを押なびけて、草枕むすばすは、父の日なめしの太子のこゝに御狩あそばしゝいにしへを思し出たまひて也と、先事を擧てさて此野にやどる旅人とは人丸の御供に昔も出し事を思し出て、いもねられぬに猶思ふ、かくすさまじき荒野にはあれど、過にし太子の形見とてぞ出ませしに、我も從ひこしと云、さてもいの寢られぬほどに、やゝ明ゆく空を見れば、東の野末に陽炎の立けぶるを見て、月はいづこにと見れば西にはや落かたぶきぬるに、御狩する時には成ぬと、君をはじめ從へる舍人等あまた馬立なめて出たつを見れば、まさしく父|皇子《ミコ》の昔の御出立の有さまをかへり見奉るがかなしくしのばしくと也、人丸は日なめしの太子の御かへり見や厚かりけん、かく仰ぎて戀しのび奉るにしらる。舍人は天皇に八百人皇太子に六百人と令に見ゆれど、其人は行幸御出駕毎にこなたかなたに參りかよひて、天皇の外にはかたらはれ參らす方各有べし、人丸は行幸の餘《ホカ》にも此しのび奉る皇太子をはじめ、輕(79)の太子、高市の皇太子、新田部、忍壁の親王、但馬、飛鳥部の皇女、こなたかなたに參りかよひて仕ふまつるなるべし、今の世の御|令《サダ》めにも大臣達の出駕に兵仗宣旨と申事の有て、朝廷の武衛を賜へる事あり、いにしへよりの例なるべし。
ふとしきし宮所をおきての句は、詞の足ぬやう也、二句ばかり脱やしけん。
隱口の泊瀬は隱國と書きしが有を本語とす、初瀬の國は山ごもりなる所を云。
楚樹刊本禁樹に作るは誤也と云はよし、楚の字は樹※[木+少]なれば、しもと原に借て書る也、正字ならねど遠からず、しもとゝは茂き本にて若木原也、延喜式に※[木+若]几《シモトヅクヱ》と云器見ゆ、楚※[木+少]もて造れる案几也。
坂鳥の朝こゆとは、鳥のあしたに塒を立て坂を飛こゆるを云、古語にはかくふつゝかに聞ゆるが有、今用ひがたき語也。
玉限と書てかぎろひとよめと云はよし、刊本玉限に作るは誤也、玉の炎氣を日影のかぎろふによせて書し也。〔頭注、玉限と書て−玉蜻と書きての語なるべし〕
(80)反歌の阿騎の野に野の字を脱す。
同黄葉のか紅葉かいづれぞ脱字也。
日雙斯皇太子は天武之嫡君嗣位に在て薨御あらせし也、一に草壁の皇子とも申せし也、文武帝の御父君にてまします、賢君にてやまし/\けん、舍人連あまた薨御を慕ひなげく歌二の卷に見ゆ。
藤原宮之役民歌 と題したれど、この詞章勝れたるよみ口也、人丸などの靈囿靈臺の格もて役民に代りてよめるなるべし。藤原は藤井が原の略也、香山の西畝火山の東に在、こゝに都をうつさせしは朱鳥八年の十二月也、宮造らしめたまふは、その前七年の八月、八年の正月の御幸に、其地は見立て造らしめたまふなるべし。
50 安見しゝ 我大君 高照す 日のみ子 あら妙の 藤原が上に 食國を めし給はんと 都宮は 高知さむと 神ながら 思ほすなべに 天地も 寄てあれこ(81)そ 磐走《イハハシル》 淡海の國の 衣手の 田上《タナカミ》山の 眞木さく 檜のつま手を 物の部の 八十氏河に 玉藻なす うかべ流せれ 其《ソ》を取ると さわぐ御民も 家忘れ 身もたな知らず 鴨じもの 水に浮居て 吾作る 日の御門に 不知《イサノ》國より 巨勢道より 我國は 常世にならむ 圖《フミ》負《オヘ》る 神《クシキ》龜《カメ》も 新代《アラタヨ》と 泉の河に 持こせる 眞木のつま手を 百不足《モヽタラズ》 桴に作り 泝《ノボ》すらむ 伊蘇はく見れば 神ながらならし
此歌初め二章は例の言ほぎし奉りて、さて現《ウツ》し神の思ほすまゝに、こゝに皇居を作らしめ給ふなへに、天地のかぎりの神も寄りあつまりて仕ふまつるにこそ、近江の田上山の木を伐出して、宇治川に流し泉河に持こせるが、桴に造りてさて泝せしが、陸路になれば不知國巨勢道のこなたかなたより、此度の役立《えだち》の民等が此時にあへるをよろこびつゝ、河に浮び道に立走り、我作る宮の御門は常世に榮えまさん祥瑞にこそ、圖負(82)るくしき龜もあらはれ出しぞと、云つらねたりとは見ゆれど、いかなりけん詞章さま/”\に亂れ、且所々句の落たるさまに思ゆ。猶古本にもとめあひて考へ正すべきにこそ。磐走近江の國と云文言は、岩橋の間と云義といへど、石はしる瀧つ流と云語も見ゆるには、走の字書たるは石はしるとも岩はしるともよみて、さてあふみの國間々におひぬる※[白/ハ]花とつゞくも、其石はしるまゝとも、あひだとも聞なすべきか。
衣手の田上山は衣手の手とつゞけし文言也。
身もたなしらず、身はたゞ知ず也、たゞのたはなと通音○勤務【イソシ、イソハクトヨメリ、急務ニハアラズ】
檜のつま手は宮材の木屑也。
鴨じもの、犬じもの、男じもの、しもは助辭、たゞ鴨の犬のと云也、自の字濁音なるは連聲に濁るがよしとにや。
不知《イサノ》國、いさの國とは奈良山の南にいきて率《イサ》河と云地名在し、其かみは人多く住みつきし郷にて、國とも呼びしにや、いさ河の社、さい草祭など聞えし處也。
(83)巨勢路は吉野川の末の北岸に在、今は五瀬と郷の名に呼也、宇野峠と云が巨勢山なるべし、宇治泉川を泝《ノボ》せし宮木のこゝには持かよふべからず、西の海より紀の川を泝してこゝを持こせるも有しか、又國中に今は御所と云郷在、是は北より藤原へ行く順路なれば、これいにしへの巨勢かと思へど、平遠の地にてこせ山と呼ぶべきはあらず、この歌とかくに前後且脱句有て、句ゝ續かねば云がたし。
圖《フミ》負《オヘ》る龜、脊に文ある龜出し事天智の御時に見えて、此御代には史に記さゞれど有しにこそよみたれ、歌は和漢共其世を傳ふるかたみ也、日本紀のみならず、村上の天徳四年の回禄に古書を盡して滅びしかば、今傳ふるは其後の補闕且脱語の多き事おほろかにも見ゆるには、是等のみの事ならず、こゝには是ばかりも長語なればいはず。
從2明日香宮1遷2居藤原1之後志貴皇子御作歌
皇子は天智の皇子光仁之御父、謚春日宮御宇田原天皇。
51 ※[女+朱]女《タヲヤメ》乃袖吹|反《カヘ》す明日香風都を遠みいたづらに吹
(84)女の服《コロモ》は長袖なれば風に翻るさまを云、岡本清み原等の都と藤原は、今道纔に一里計なるをかくよませ給ふは、事の便にこゝを過させたまひて、物さびしくおぼしたるなるべし。
※[女+朱]は※[白/ハ])よきと云字也、刊本※[女+采]と有は寫誤なるべし、一本婬に作りしもあれど。
藤原宮御井歌
詞章に藤井が原とあれば、本名はよき井水の有より呼べにて、藤原は略語なるべし。
52 安見知し 和期大君 高照す 日の皇子 荒妙の 藤井が原に 大御門 始めたまひて 埴安の 堤の上に 在立し 見したまへば 大和の 青香具山は 日の經《タテ》の 大御門に 春山と しみさび立り 畝火の 此みづ山は 日の緯《ヨコ》の 大御門に みづ山と 山さびいます 耳無《ミヽナシ》之 青菅《アヲスガ》山は 背面《ソトモ》の 大御門に 宜な|べ《メ》 神さび立り 名細《ナクハシ》 吉野の山は 影面《カゲトモ》の 大御門|從《ユ》 雲居にぞ 遠く有ける 高(85)知るや 天の御影 天しるや 日の御影の 水こそは 常《トコ》しへならめ 御井の清水は
此歌三井をほむるとて地景を云、千歳の今に見るが如く帝都をうつし出たり、是も上手の作と思ゆ。埴安の池は香山の西邊に在、青香ぐ山はたゞ春山の茂盛なるを云也。日の經緯を竪横とよむ、竪は東西、横は南北を云、畝火は皇居より西北にや當れる、耳無は直に北に立ば背面とは云、刊本耳高と見ゆ、高は無の誤なるべし、畝火山喬木にかんさび、耳無は草山にて青菅山と云、みづ山とみづ垣と云に同じく、みづ/\しく茂れる也。さて吉野山は南の御門より杳に雲井に見ゆると云、今をもて見れば鷹取山の南の一片は吉野郡に屬すべければ其嶺などを云べし、河の南なる今云吉野山は見ゆべからず。さて三井は天の御影日の御影に清くすめる清水はとほめし也。刊本者の語を脱して、ましみづとよむは後のさかしら也。さて此歌も人丸などの名を脱せしに(86)や、巧めるさま凡ならず。次の短歌は此かへし歌にはあるべからずといへり、いかさまにも小序の漏たるなるべし。
53 藤原の大宮づかへあれつげやをとめが徒はしきめさんかも
長くつかふまつらん事を願ふ女官達の歌なるを、いかで三井の反歌ならむ。
大寶元年辛丑秋九月太上天皇幸2于紀伊國1時歌
藤原の宮にて文武の御時也、太上は持統の御事也。
54 巨勢山の列々椿つら/\に見つゝおもふなこせの春野を
巨勢山は上にも云吉野川の北岸に在て、今は五瀬と云所也、宇野峠と云が即巨勢山なるべし。
つら/\椿、別に有にあらず、此花つらなりて咲物なれば云、此歌よむ時は秋なるが春はつば木の花の盛なるを思ひ出たる也、椿の字は當らず山茶の類也と、それの學(87)士の云へり。刀劔の鐔に似たればつばの木とは云歟、又奥山のやつをの椿とよめるは椿の字の事をよむ也。
右一首坂門人足と書すは例違へれば後人注也といへり、注也とも其世遠からねば作者の名はしるき也、下皆是に傚へ。
55 朝もよし木人乏しも赤土山ゆきくと見らむ紀人ともしも
右一首調首淡海
紀の國に入て其國人のめづらしきと也。赤打は赤土の寫誤なるべし、土は赤きを上品とする故眞土とは云、山は紀の國に在、次に河上のつら/\椿つら/\に見れどもあかず巨勢の春野はと有ば、此上の歌の本歌なるを引出たる也、作者春日藏首老と見ゆ。
二年壬寅、太上天皇幸2于參河國1時歌
(88)57 引馬野ににほふ榛《ハリ》原入みだり衣にほはせ旅のしるしに
ひくま野は遠江の今の濱松の驛ある所也、三河の國の御幸にこのわたりまで見ありきけん、榛の木は衣をそむる料に所々に植る也、其所を後にはい原と云|在名《ざいめい》あまた見ゆるは其かたみ也、秦摺衣など式にも見ゆ、そのはり原分つゝ行らんさま見るが如し。右は長忌寸奥麻呂の歌也。
58 いつこにか船泊すらんあれの崎|※[手偏+旁]《コギ》たみゆきし棚なし小舟 ※[手偏+旁]タミハコギモトホル也(原註)
小舟の礒づたひしてこぎ行に波もなく長閑なるべし、夕つけてとは云ねど夕げしき見るが如し。高市連黒人は上手の作者也。
譽謝女王作歌 女王は慶雲三年六月に卒すと續日本紀に見ゆ。
59 流《ナガラ》ふる雪吹《フヾキ》の風の寒き夜に吾夫の君は獨かぬらむ
刊本に妻吹風とあれど、一本に雪吹の風と有を取る、天の時雨の流らふ見ればと有に(89)似たる詞也。この歌夫の旅にあるを思ひ寢の夜寒いと感ありてめでたき歌也。
長皇子御歌 天武之皇子、靈龜元年六月薨。
60 暮《ヨヒ》にあひて朝《アシタ》面《オモ》なみ隱《コモリ》にか氣《ケ》長く妹が廬《イホリ》せりけむ
此歌小序を缺たればいかなる時よみ給しをしらねど、意ばへをもて見れば逢見ての後のあしたに、面ぶせなるまゝに日比廬にこもりをらむをさへ思ひやれる也、若次の小序の如く是も從駕の時の歌ならば、立出の別れの後のあしたを思ひ出るなるべし。
氣長くと云語いとも意得がたし、月に日に氣にとも云、是を或説に月日の來經《キベ》行と云、其|來經《キベ》を約めて氣と云義と云へり、又常ある事を氣と云は、褻衣を氣の衣と云例也、又珠勝異等の字をも氣とよむは義異に聞ゆ、又食を氣と云、彼是同じからぬは其|原《モト》一義ならぬ事有べからぬを、かくさま/”\に用ひ違へるこそいぶかしけれ、思ひ得ねばおきぬ、是をも安く解なす人のさかしさよ。
(90) 舍人娘子從駕作歌
61 丈夫《マスラヲ》の得物矢《サツヤ》手《タ》ばさみ立むかひ射る圓方《マトカタ》は見るにさやけし
此歌伊勢風土記には圓方の濱と有て、句も少し違ひて見ゆ、浦濱の清きと云のみにて、上十九言は文言のみ。
三野連岡麻呂入v唐時春日藏首老作歌 刊本闕名、一本の傍注に大寶元年正月遣唐使民部卿栗田眞人朝臣以下六十人乘2船五双1小商監從七位下中宮少進美奴連岡麻呂見ゆ、續紀には此名無し。
62 在根良《アラネヨシ》對馬の渡々中に幣取むけて早還りこね
遣唐使は先對馬に渡りし事見ゆ、御使といへども專ら交易を旨とすれば、大小の商監も見ゆ、唐の元※[禾+眞]が書跡を得て珍とする事日本紀略に見えたり。此歌送別の意明らか也、山には岑、海には海上からき所にて、神に幣物を捧げ祭る事族客の情也。
(91)在根良は彼島に有明山と云高山在と云、それをあり峰と昔は云し歟、第十一の卷に百船の泊る對馬の淺茅山とよみしも見ゆ、それは異峰なるべし、又在は荒の假言にて荒峰《アラネ》よしと云事歟、彼島は一箇の巖石に土木を載たる國也とぞ、さらば荒嶺とも云べきものぞ。
山上臣憶良在2大唐1時憶2本郷1歌
上の歌の遣唐使の度に无位山於憶良爲2少録1と見ゆ。
63 いざ子|等《ドモ》はやく日本へ大伴の御津の濱松待戀ぬらむ
歸國の船出のよろこびによめる也。
去來率をいざとよむ義、事の可否を問はずしてすゞろに出立也、いさむと云も同じ義にて體用の別有るのみ也、いざやと進む也、子等は人々と云に同じ、日本の本郷へはやく還らむ、船びらきせし難波の濱松の松と云から戀ひぬらんと也。
(92)大伴の御津はいにしへ大伴の宰相たりし世々に攝河を領したるにや、さて大伴の三津とも大津とも又高師の濱とも呼びし也、津の國の風土記に雄《ヲ》伴郡と云が有しを、淳和の御諱大伴と申せしより矢田部と改めたまひ、氏の大伴は伴と略して呼る事と成ぬ。欽明記に大伴金村が住の江の庄見え、日本靈異記に推古の朝に大伴野栖子と云人、難波の家に卒すと云事見えたり。
慶雲三年丙午幸2于難波宮1時志貴皇子御作歌
この行幸は今上の文武帝なるべし、月を漏せどと歌に見れば時は秋冬の間歟。
64 葦邊ゆく鴨の羽がひに霜ふりて寒きゆふべは大和しおもほゆ
難波の旅寢の夜寒の情、いとあはれにまことあれば誰も感ずべし。
長皇子御歌
65 霰打あられ松原住吉の弟日《オトヒ》をとめと見れどあかぬかも
(93)すみの江の濱邊のあられ松原と墨の江の娘子とくらべて、いづれも見るに飽ぬと云也。をとめは此旅寢に得たまへる妾《オモヒモノ》なるべし。霰うつ音のあら/\と聞ゆるに、濱松のむら立のさまにかけし文言也。
弟日をとめは仁賢記に弟日僕等《オトヒヤツコラ》と云語見ゆるに同じく、弟むすめなど云も寵愛の弟の子に有意なるべし、應神紀に弟は血の末なれば鍾愛まさると詔らせ給ふ事見ゆ。
太上天皇幸2于難波宮1時歌 此太上は文武帝也と云り。
66 大伴の高師の濱の松が根を枕に宿《ヌ》れど家ししのばゆ
高師の濱の旅寢面白けれど、家路はたゞ慕はるゝと也。
高師は今は和泉の日根郡に在れど、本は河内國にて大伴氏の封食の地なれば、大伴の高師とは云、今高石村在、其北に濱寺と云白砂青松の濱邊に在、今道十八丁と云り。作者は右置始《オイソメノ》東人と見ゆ。
(94)67 旅にして物戀ふしぎの鳴く事も聞えざりせば戀て死なまし
都戀しき時に鴫の鳴を聞けばこひしきとさへ聞なされて、それかよすがに思ひなぐさむ方も有て聞ゆと也、こゝろいと悲し、高安大島の歌也。
68 大伴の美津の濱なる忘貝家なる妹を忘れておもへや
忘貝を拾へば肖《アヤ》かりて物忘るゝやうなれど、又思出らるゝは中々に忘るゝもつらしとにや。忘れて思へやと云詞、其世の人は安く意得べし、今はむつかしくてよむまじき詞也、歌は身人部《ムトベ》王の作也。忘貝と云物分明ならず、後に名を呼び改めけん。
69 草枕旅ゆく君としらませば岸の埴生《ハニフ》ににほはさましを
上に弟日をとめとよみし女の、長の皇子の今は都にかへらせらるゝ時に望みて、旅やどりばかりの君にいとよく化粧して見せしが、取かへさまほしとなげく也、心はいと切めてよろしき歌也。
(95)埴生は土の赤きを云、そのかみは紅顔に色そふるばかりのよき丹土《ニツチ》や有けん。歌主は清江《スミノエノ》娘子也。住吉墨江も假言にて、清江をすみの江とよむが本語なるべし、清き江と云義と思ゆ。長皇子の別れに奉る也。
太上天皇幸2于吉野宮1時高市連黒人作歌
70 大和には鳴てか來らむ呼兒鳥|象《キサ》の中山|呼《ヨビ》ぞ越《コユ》なる
此|離《トツ》宮に日ごろおはすほど、宿衛《トノイ》人なる黒人が大和なる家のしのばるゝに、呼子鳥のをりしも人呼び聲に鳴て象山を越なるは、我しのぶ大和の方へゆくらむか、いとなつかしと也。象山は下れば秋津の野邊の離宮所也、とのいの舍人等こゝの野山に滿て在べし。さて吉野も大和の國なるを、かく云ひ分つは已にも云いにしへ大和と云は、飛鳥の故郷より北那羅山に到るまでの平遠曠野の間を云て、竹取山多武南淵山をかぎりて南は吉野國と云し事、此歌にて知らるゝ也、吉野郡の今も廣き事、南は紀の熊野の(96)那智山に到る、是を惣郡の十四郡に競べて相當るべし、因て此歌を合せかくは憶ふ也けり。
太上天皇幸2于難波宮1時歌 刊本に太行天皇とあるは誤也、太行天皇とは崩御の後殯宮に在せます間の尊號也、難波宮は高津の舊堵にはあらで長柄の豐碕宮の遺址なるべし。
71 大和戀ひいの寢られぬに心なく此|渚《ス》の崎にたづ鳴べしや
忍坂部乙麿の歌也、此從駕に侍りて都戀しく寢ざめがちなるに、洲崎の鶴の音いとあはれに物思ふ我に涙をそへんとにはあらねど、心づからに悲しきと也。
72 玉藻苅る沖邊はこがじ敷たへの枕のあたり忘れかねつも
式部卿藤原|宇合《ウマカヒ》の作歌也。波風なごくとも沖邊へは漕せじ、大和なる家の妹と我寢し枕のあたり忘られねば、礒近くてはそなたも近かるをと也、情思詞に溢る。
長皇子御歌
(97)73 吾妹子《ワギモコ》を早見濱風大和なる吾を松椿吹ざれな勤《ユメ》
早見の濱の名に掛て、はや見ん吾をはた待らんと云に、松つば木はそこに立るを見てや詞にはなしけん。
太上天皇幸2于吉野宮1時歌
74 みよし野の山下凰の寒けくにはたや今夜も我獨寢ん
かくれたる所なく、實情寫すに筆に十鈞を掛るが如し。
右は天皇の御製歌と注するは、太上の二字脱せしか、今上は元明にてましませば、獨寢の御かこち言有べからず、帝は天智の皇女、草壁の皇妃、文武の皇母也。【始は阿倍皇女と申奉る】山下風を山のあらしとよむべし。
75 宇治間山朝風寒し旅にして衣かすべき妹もあらなくに
長屋王の歌と注す、高市太子之御子也、宇治間山は吉野に在べし。衣かすとは相寢の(98)状《サマ》也。
奈良宮御宇天皇代と云標こゝにあるべしと云り。
和鋼元年戊申天皇御製歌 戊申の下に月を脱す。
76 丈夫の鞆《トモ》の音すなり物の部の大まへつ君楯立らしも
此御製は押はかりに、此御時東奥の叛人を征伐せらるべき軍役の調練を見せ奉るによませしと云へり、大臣を大まへつ君とよむのみならず、公卿皆大まへに出てつかふまつるには云べし、鞆の音は弓弦の中弭の音也、引|發《ハナ》てば高鞆にあたりて響く也。
御名部皇女奉v和御歌
帝の御姉皇子、しかも同母の姉妹にてまします。
77 吾大君物なおぼしそすめ神の嗣てたまへる吾なけなくに
この軍役を不徳の事におぼしそ、皇孫の嗣々正しくましませる吾もかくて仕ふまつるはとなぐさめ奉る也と云へり。御製應製ともに事明らかならねばことわりがたし。
(99) 和鋼三年庚戌春二月從2藤原宮1遷2于寧樂宮1時停2御輿於長屋原1※[しんによう+向]望2古郷1御作歌 と有て、誰がよむとも名無し。さて一書に太上天皇の御製とあり、歌の詞章にはかなはず、上の御名部皇女の御作かと云も、推はかり言にて從ひがたし。
78 飛鳥の明日香の里をおきていなば君があたりは見えずかもあらむ
長屋の原は山邊郡に在れば那羅は猶北に杳なれど、南のあすかの故郷も亦杳になりぬる也。
君と指すは誰ならん、君より臣をものらせ給へば分明には知べからず、歌の情いとも感慨すべし。飛鳥の朝たつをあすかとかけし文言也。
從2藤原京1遷2于寧樂宮1時歌 刊本或本の二字上に有、暫く削りて見る。
79 天皇の 御命《ミコト》畏み 賑《ニギ》びにし 家を釋《オキ》て 隱國の 泊瀬の川に ※[舟+共]《フネ》浮て 吾行河の 川隈の 八七隈|不落《オチズ》 よろづ度 顧みしつゝ 玉鉾の 道行暮し 青丹吉 楢の京師《ミヤコ》の 佐保川に 伊ゆき到りて 我|宿有《ヤドル》 衣の上從 朝月夜 清《サヤ》かに見れ(100)ば 栲《タヘ》の穗に 夜の霜ふり 磐床と 川の氷《ヒ》こほり さむき夜を 息《ヤス》む事なく 通ひ乍《ツヽ》 作れる家に 千代までも いませ大君よ 吾もかよはん
反歌
80 青丹吉ならの家には萬代に吾もかよはん忘るとおもふな
右作者未詳と云へり、藤原の都より奈良に通ひて家居造らす人の、いまだ作りはてねば旅宿りして在ほどに、故郷の人にかくて在ふる事をいひおくるに、更に家をも人をも忘れぬぞといふにも、君につかふる身をも云て言ほさきする實士のこゝろ也。
河舟にてそのかみは奈良にも到りけん、今の國かたにては泊瀬川の末河|合《セ》と云所にて、西に大和川に落て北へは通ふべからず、詞章に佐保川に到るとあれば正しく舟のいきかひし也。さて家は作りはてねば宿れる庵のかり初なるに、衣のうへに朝月夜さやかに照すも見えて、夜のゝこりの霜ふり、河瀬を見れば氷は岩床と凝りて冷《サム》き夜の明ゆ(101)くさまを寫し出たり。
栲の穗に夜の霜降ると云句は聞得ず、詞章のつらねに見れば、栲の衾に霜のふりおくけしき也。反歌に見れば都のさま我宅もいまだならねば、故郷より絶えず通ひて仕へんと云也。
和鋼五年壬子夏四月遣2長田王于伊勢齋宮1時見2山邊御井1作歌 見の字例によりて補ふ、すへて御井と云は、神又君の眞名井なるべし。
81 山邊の御井を見がてり神風の伊勢の處女《ヲトメ》と相見つるかも
此眞那井を見むと出立て、うれしくをとめを得て見つるはとよろこびせし也。古歌はあらはに心見えて聞くに苦しからず。
82 浦さぷるこゝろさま彌《ミ》し久堅の天のしぐれの流らふ見れば
此歌は上のにつゞくべくば相見し妹が心ざまを見あらはせしぞ、別れをしみてうらさ(102)びつゝ、涙のしき/\に時雨めきてあないとほしく、我も悲しきぞとなるべし。
83 海底《ワタノソコ》奥《オキ》津白浪立田山いつか越なむ妹があたり見む
此歌は難波へこゆる人、又西に使する人の今こゆる立田山を、いつか又越てかへらんと云なれば、歌の小序はまたくに脱せし也。
潅の底とはいかに、波の立は底よりとも云がたし、わたの原などの誤歟、立田山と云んに上の十二言は文の花さかせし也。
長皇子與2志賀皇子1於2佐紀宮1供宴時歌 佐紀宮は西の京に在べし。
志貴皇子二人おはせり、天武の皇子にも宍人《シヽウト》大麻呂のむすめの生たるが有、いづれならん、磯城旋基志貴書樣さま/”\也。
84 秋|去者《ザレバ》今も見る如妻戀に鹿なかん山ぞ高野原の上
山のたゝずまひに秋にぞなれば、鹿の妻乞あはれに聞べきぞとうたひて、宴に興をそ(103)ふる也。注には長のみ子の歌と見ゆ、此皇子まらうどぶりによませけん、佐紀宮高野原共に西の山近き所なるべし。
○高照す日之皇子 天照す日の神と云に同じ。高照、高光、高輝と書を共に高ひかるとよめと云、古事記の雄略の御製にしかよむを證としていへど、彼書は信用すべからぬ事の間々にあれば是も其一條也、照すは徳を云し光るは其用也、高てらすは天てらすと云に同じ。
○乍をつゝとよむ事意得がたし、是は※[仝のエを二]の字を※[仝のエをヒ]にや混じけん、※[仝のエを二]は同の字にて語を重ぬるに、行※[仝のエを二]、又略して行二とも書、國語に雪は降つゝは降つ/\と云義にて重語也、よりて降※[仝のエを二]と書てふりつゝとよむべし。
(105) 楢の杣 卷二
相聞とは男女の愛情のみならず、君臣父子兄弟朋友の交りにも相思ひて相聞ゆるを云。
難波高津宮御宇天皇代とは仁徳帝の御時也、大鷦鷯天皇と尊號奉りし也。
磐姫皇后思2天皇1御作歌
皇后は葛城襲津彦のむすめ也、天性才智の餘りには妬心深くおはして、帝異腹の御妹八田の皇女を宮内に納れ給はまく、皇后に問せたまはせしかど、かたく聽させず、皇后紀の熊野に渡給ふ間に、皇妹を宮内に召れしと聞て、宮には還らず、堀江川を泝りて山城の綴喜に逃れ給ひ、再び帝に相見え奉らず、かしこに終らせたまひし。是は其間もさすがに戀しくおぼせば、獨ごち歎かせ給ふ歌也、事は詳に國史に見ゆ。此帝は聖主ながら弱性にましませれば、却りて宮内の事は皇后に制せられ給し也。
(106)86 かくばかり戀ひつゝあらずば高山の岩根しまきて死なましものを
こはその綴喜の宮にこもりておはすほど、帝を戀ひ/\奉るあまりに、彼三熊野の高山の岩根を枕にして死なましものを、中々に生れてうき月日を過す事と歎き給ふ也。岩根を枕にするとは、棺槨にをさめらるゝをこゝには云也。枕は體言にて、まく、まきてと云は用語にて、枕をもとめ寢ると云にはたらきて云語也。戀ひつゝあらずはとは、戀ひつゝあるにあられずはと云也、今はよむまじき古語也。
87 在つゝも君をばまたん打なびく吾黒髪に霜のおくまでに
獨夜居して歎き明し給はんに、御ぐしにも霜のおくまでと云也。在つゝもとは、かくて在々てと云語也。是も今は用ひがたし。
88 秋の田の穗の上《ヘ》に霧相《キラフ》朝霞いづべの方に我戀やまむ
いかにすれどもおもひの晴る時なきと云を、秋田のうへに朝霞の立さへぎりあへるに(107)たとへたり、次に或本の歌とて、89 居あかして君をばまたんぬば玉の吾黒髪に霜はふるともと有を載せしは、一の傳へなるべし。
90 君が行氣長く成ぬ山たつの迎へ乎ゆかん待にはまたじ
此歌卷首に出せれど皇后の御歌の小序の間に入れたれば、刪去てこゝに有を正とす、されど小序は脱たれば試みに補ふ。衣通王不堪戀慕輕皇太子御歌と有しなるべし。此歌はこゝの註に、輕太子同腹の妹君の輕大郎女と相|奸《たは》けたまへりしが、允恭帝の御膳《オモノ》の羮の氷りしをうらへて見あらはし給ひて、太子を伊豫に流させたまふを、衣通王の慕ひて、追往んとおぼしてよめる歌と有は聞ゆるを、日本紀には皇妹を伊豫に流し遣はすと見ゆればこゝの歌にかなはず。さて歌は君が行ては月日の來經長く成ぬ、今は迎へにゆかんか、待てのみはえあらじと云也。迎へ乎ゆかんの乎は爾の誤か、迎へゆかんをと云歟。山たつは是今造木者也とみゆ。和名抄に※[金+番]の字を用ひたり、今云斧の(108)類歟。
近江大津宮御宇天皇代
天皇賜2鏡女王1御製歌
鏡女王は天武の十二年七月天皇幸2于鏡姫王之家1訊v病と見え、庚寅鏡姫王薨ずと見ゆ。
91 妹が家も繼《ツギ》て見ましを大和なる大島の嶺《ネ》に家もあらましを
都を近江にうつしたまひて、女王は猶大和にとゞまらせるを、御心ゆかぬものにおぼして、今の都のながめいと面白けれど、妹が家につゞきてあらぬをうらみにおぼすと也。大和なる大島嶺とは大和島嶺と云を延して詞章はなす也。
鏡女王奉v和歌
92 秋山の樹《コ》の下がくり逝水の吾こそまさめ御《ミ》おもひよりは
とは君が御おもひにまさりて我こそしのびに遠く在をば、いといたう悲しくおぼし奉(109)るとみ答へ奉る也。秋山は時秋也けん。内大臣藤原卿娉2鏡女王1時女王作歌と有べきを、史に因れば鎌公は内臣と有べしと云り、女王を公の妻どひ給に見れば、上の帝の御贈答は相枕の妹にはあらず、女王の御むすめの額田姫こそ思ひ妻にてませば、其母の家を問せ給ふ也。女王も帝を思ひ奉るは御むすめの由也とおぼゆ。
93 玉くしげおほふを安み明てゆかば君が名はあれど我名し惜も
いで事はつゝしむに難からず、あらはならんはいと恥有事也、君が名は君が御心のまゝにこそ、我名の末遂ざらんは惜とよめる、用意深く臈たき御人柄也、後の人はかくはよまじ。
内大臣報歌
94 玉くしげ將見圓《ミムロ》の山のさな葛さねずはつひに有がてましを
用意深きは猶心|熬《イラ》れて、とまれかうまれ寢ずはやまじと也。さねかづらさねずはかけ(110)んをさな葛と有は、うたふ時に歌腔のよろしきにや、今計りがたし、さ寢ずはのさは虚詞也。
内大臣藤原卿娶2釆女安見兒1時作歌
95 吾はもや安見兒得たり皆人の得がてにすとふ安見兒得たり
おもふにかなへるよろこびの歌樂し也。
采女はそのかみ諸國より容色よき女を撰びて召るゝを始にて、次ての世に國造郡司よりも女兄弟姪子を貢奉る事と成ぬ、又京官の家よりも氏の女とて貢ぐ事有、氏々より奉る故に氏の女をうねめとは云といへり、采の字はえらびとるの義。
久米禅師娉2石川郎女1時歌
禅師は名也、景行紀に郎女を異羅菟比※[口+羊]とよめるは、家つめと云語、羅は虚辭のみ。
96 水薦苅信濃の眞弓吾ひかば宇眞人さびていなといはんかも
(111)我をいやしみて引いざなふとも、うけぬさまのにくしと也。薦は水草なれば水こもと云、さてしなへなよやかなれば、信濃國にかけたる文言也。昔は甲斐信濃より良弓を貢奉りし也。此歌上十二言は引といはん文言のみ。うま人はよき人と云に同じ。
石川郎女和歌 と有べし。
97 みこもかる信濃の眞弓引ずして弦《ヲ》作《ハグ》るわざを知るといはなくに
引見ずしていなと云んや、心も知らでと云、いはなくにのには虚辭ながら文を助くる樣也。刊本強作る行事をと書て、しひさるわざとよむは、何ともなき詞也、強は弦の誤にて、弦《ヲ》はぐるとよめと教ふるは宜し。
禅師|重《マタ》贈歌 かく補へる人あり。
99 梓弓つら弦《ヲ》取はげ引人は後の心を知る人ぞひく
弓に弦《ヲ》はげんには弓の心をしらでやはと云贈る也。弦一本に緒《ヲ》に作る、つら弦《ヲ》は弦緒《ツルヲ》(112)也。
石川郎女又和歌
98 梓弓ひかばまに/\よらめども後の心を知がてぬかも
まに/\随意と云は義字也、さてつよく引んにはあらそひかねてよるべけれど、後遂ん人とも思えずと也。
禅師又贈歌
100 東《アヅマ》人の荷向《ノザキ》の篋《ハコ》の荷の緒にも妹を情《コヽロ》に乘《ノリ》にけるかも
妹にいよゝ心をのすると云に、上は文言のみ。昔は東の國々より年々に絹綿麻布山海の物をまで、朝廷に御調《ミツギ》奉るを荷前《ノザキ》の使と云、東國人は必|陸道《クガヂ》より來れば、箱に納め馬に負すに緒を固く縛《クヽ》りとぢめて運ぶ也、祈年《トシゴヒ》祭の祝詞《ヨゴト》に陸自往道者荷緒縛堅※[氏/一]《クガユユクミチハニノヲユヒカタメテ》と云章見ゆ、是御國は西より開けて東の蝦夷等の從はざりしも遂に服せる御よろこび(113)に、東國の貢物は神宮陵墓に奉り給へると也。荷前《ノザキ》とは初荷と云が如く、年の新調初|生《ナリ》の物を云、荷をのとゝなふるは通音のみ。心に乘るとは興に乘る、勝に乘ると云に同じく、すゞろぎてなす業也。
大伴宿禰 名闕 娉2巨勢郎女1時歌
古本に安麻呂卿也と注せり、大津宮の時なれば望多卿か御行卿かと云り。
101 玉葛實ならぬ樹には千はやふる神ぞつくとふならぬきごとに
女のさるべき時に男せねば、神のかゝりまして遂に夫を得ぬぞと、世の諺に木の實なるべきにならぬは、神の領じて手觸させじと忌まけり姶ふ祥《サカ》ぞと云事の有に打まかせて云也。神のつくと云、神託と書て神かゝりとよむは古語なる歟、つくと云も托の義なれば義同じくこゝに云へば古語也。
巨勢郎女報歌 贈の宇衍也。
(114)102 玉葛花のみ咲てならざるは誰が戀な|戀な《(ママ)》らめ我こひもふを
君が言よく云てもたのみなきは、誰が戀とやおぼす、我戀に思ふをとさかしらしてこたへし也。
刊本葛を萬に作るは誤也。
明日香清御原御宇天皇代
天皇賜2藤原夫人1御製歌
内大臣鎌公之女氷上娘子五百重娘子姉妹共に夫人と見ゆ、此夫人はいづれにや。
103 吾里に大雪ふれり大原のふりにし里にふらまくは後
朕里は清原の都也、大原は東南に當りて飛鳥の社の岡に隣りて、今は藤原寺と云梵宇ある地也、寺内に鎌公の誕生所とて茂林あり、史に紀に行幸の路次を記せしに、泊瀬小治田の間に大原を出せるは、いにしへの官途知らざればかなへりや否や。さておほ(115)んはこゝに大雪のめづらかにふれり、妹があたりにも降べけれど後にて、先こゝにこそと御たはれ言を云贈りたまへる也。今の藤原寺は藤氏の家を後に梵宇に捨られしなるべし。
藤原夫人奉v和歌
104 吾岡のおがみに言てふらせたる雪のくだけしそこに散けむ
皇宮に大雪ふれりと告たまへれど、吾すむ岡の大神にいひあつらへてふらせし餘りの、そこにくだけ散けんと、さかしく御こたへ奉りしは、君も興有ておぼすらんかし。
高※[雨/龍]を多可於箇美と神代紀に見ゆ、西土は文字をそれ/\に當て分ちたれど、こゝには只言語は詞章のつらねにてわかつのみ、大《オ》神とこゝにいへるか、吾住む丘の大神と云にて聞ゆ、※[雨/龍]は雨雪を從へる神と云も、こゝには其丘の神にて別に雨雪のみをつか(116)さどると云神有にあらず。
藤原宮御宇天皇代
この宮は持統文武元明三代の皇居なれど、此歌は持統の御時也。
大津皇子窺下2於伊勢神宮1而上來時大伯皇女御作歌
大津皇子の傳、懷風藻に擧しは史に記さゞる事見ゆ、清み原の長子也、状※[白/ハ]凡ならず、幼年より學文を好みて能く字句を屬す、又多力にて能く劔を撃、天性放蕩にして法度に拘はらず、節を過て士に降る、由て人多く附るあまりに、新羅の僧行心が※[言+圭]誤に惑ひ、遂に不軌をはかりて自身滅ぶ、時に歳廿四と見ゆ。此いせの大神に下りて詣つるは、我皇統を嗣べきこたへを申て、時の齋宮におはす姉皇女に心をあかしかたらはせて上り給ふを、姉君のいとおぼつかなくおぼして、別れかなしくよませ給ふ也。
105 吾せ子を大和へやるとき夜更てあかつき露に吾立ぬれし
(117)夜ごめに皇子の出立たまへるを見送りの有さま見るが如し。
106 二人ゆけどゆき過がたき秋山をいかでか君がひとりこゆらん
此歌もをみなしき御心に我都より下りたまふ時に、山路の心ぼそかりしに思ひくらべて、かくはよませ給ふ也、遂に事あらはれて罪なはれたまへば、こは別れの御かた見言とぞ成にき。朱鳥元年八月の比、帝不豫の間なるべしと云り。
大津皇子贈2石川郎女1御歌
107 足日木の山の滴に妹符と吾《ア》は立ぬるゝ山のしづくに
山蔭なる所に家つくりてやおはせし、歌の調尤高妙也。
石川郎女奉v和歌
108 吾《ア》を待と君がぬれけんあし引の山のしづくにならましものを
此をとめは歌の上手也、此歌殊にをみなしく宮び也。
(118) 大津皇子竊婚2石川郎女1時、津守連通占2露其事1、皇子御作歌
小序に竊にと有は、次に草壁の太子の御歌賜へる事を見るに、此皇子はみそか言通はせ給なるべし。此をとめは容色に才をかねて、人の情にかなふ所有て云よる人多し。この歌は太子の御目をしのびて逢たまへるを、いと心もとながりて太子の通に命じて占なはせたまふなるべし。されどおほやけならぬ共に私事なるべし。
109 大船の津守が占にのらんとは正しに知りて我二人寢し
しのぶとこそすれ、終にはあらはるべき事と、正しに知つゝかたらひしぞと云也。大船のよる津守と云、白浪の濱松が枝と同格也、かくさかしき省語は皇子の文才ある性なり、然ども詩賦の祖と云は大友也、懷風藻に見ゆ。
日並知皇子尊賜2石川郎女1御歌
此をとめを戀よる人あまた也、誰によるべをや定めけむ。
(119)110 大名兒をゝち方野邊に苅|草《カヤ》の束《ツカ》のあひだも吾忘らめや
かほよ人の大名ある子ぞと云也、大名持と申神名に同じ。さて我得んとすればしばしもえ忘れぬ也。草を刈も稻に同じく、一束を手に量とす、丈の短ければ少間《ワツカ》なる事にたとふる也。刊本日並知の知を脱す。
幸2于吉野宮1時弓削皇子贈2額田女王1御歌 天武之皇子也。
111 いにしへに戀る鳥かも弓絃葉の三井の上より鳴わたりゆく
いにしへよりと云詞に聞ゆ、從をゆとよむべきを、にとよみしも多し、廻らせては通ふ歟、此いにしへと云に思へば、弓絃葉の井は秋津野あたりにや在し、子規のそこを鳴てゆくと云を、鳥の名をいはぬが此歌の巧み歟。
額田女王奉v和歌
(120)古寫本の註に從倭京進入と見ゆるは傳へ有て云歟。
112 いにしへに戀らむ鳥は霍公鳥|蓋《ケダシ》や鳴し吾こふる如
其鳥は子規なるべしとおしはかりてこたへしが此贈答の風流也。蓋をけだしとよむ事意得がたけれど古き例也、字義は物の蓋をとらで何ならんとおしはかり云事と思ゆ。從2吉野1折2取蘿生松柯1遣時額田女王奉入歌とあるは、上に名有べきを脱したり、奉入とあれば至尊に遠からぬ高貴の君なるべし。
113 三芳野の玉松が枝ははしきかも君が御言を持てかよはく
此松が枝のよろしくも君が命をさゝげ持て通ふよと云は、言よくゐやまひある詞章也。古語にくはしと云は精細々妙の字に當て、事のとゝのほりてよろしき事也、このはしきはくはしきの略也、又延言してはしきやしと云。かよはくはかよふの延言也。
但馬皇女在2高市皇子宮1時思2穗積皇子1御歌
(121)共に天武の御子達也、皇女は藤原氷上娘子の御腹、高市は※[匈/月]形尼子の御腹、穗積は蘇我赤兄の女大|※[草冠/(豕+生)]《ヱミノ》娘子の腹、皆異母なれば高市に迎へられ給へど、情を穗積に通はせ給ふ也。
114 秋の田の穗むきのよれる片縁《カタヨリ》に君によりなゝこちたかるとも
人は言痛くいひさやめくとも、君に片よりによらんと云、稻穗の風に片方に靡くをよると云也。
勅2穗續皇子1遣2近江志賀山寺1時但馬皇女御歌
崇福寺は天智の御創立也、代ゝ此寺に御使を立らるゝ事往々見ゆ、皇女の情杳なる所とのみ聞て此歌は贈らるゝ也。
115 おくれ居て戀つゝあらずば追及《オヒユカ》ん道の阿囘《クマワ》に標《シメ》ゆへ我|夫《セ》
我こゝに待居らんよりは追ゆかむ、道のまがひ路に標《シメ》引ゆひて迷はし給ふなと、をみ(122)なしくよませし也。追しかんとよめといへど、字義を助けて意を疎かにする也、追ゆかんの方宜し。
但馬皇女在2高市皇子宮1時竊接2穗積皇子1事既形而御作歌
116 人言を繁みこちたみ己母世《オノモヨ》にいまだ渡らぬ朝川わたる
人言に繁く云立らるゝが言痛《コチタ》きに、女のならはぬ朝川をかちわたりするよと云、朝さむに川をわたるは、いと苦しきものと聞つたへやし給し、いともめゝしくてあはれ也。こちたみは誹謗の言を感傷する也。
舍人皇子贈2舍人娘子1御歌
117 丈夫や片戀せなと嘆けども鬼《シコ》のますらを尚こひにけり
我はますら男ならずや、相思はぬに戀はせなと、自ら打歎けども、醜《シコ》めきたる丈夫哉、猶も戀やまぬ也。鬼は醜面なればしこと云、しこは醜惡と云罵語也。
(123) 舍人娘子奉v和歌
118 歎きつゝますら男の戀れこそ吾|髪結《アゲカミ》の漬《ヒヂ》てぬれけむ
人に戀らるれば吾髪の解やすくぬれ/\すると云諺や有けん、舍人親王は天武之皇子也、娘子は親王の乳母方の人なるべし。上古皇誕あれば乳母の姓を名に奉る事令法也。
弓削皇子思2紀皇女1御歌 皇女も天武の御女なり、異母なるべし。
119 芳野河ゆく瀬の早みしばらくも不通《タユル》事なく有こせぬかも
絶る事なく有むを乞と也、上は例の文言のみ。
120 わぎも子に戀つゝあらずば秋|芽《ハギ》の咲て散ぬる花にあらましを
花の如一たひ相見る盛あらば、散如に死ぬとも心殘らじと也。
(124)121 夕ざれは汐みち來なむすみの江の淺香の浦に玉藻かりてな
人のさそはぬほどに妹を得ばやとたとへし也。
122 大舟のはつるとまりのたゆたひに物もひ痩ぬ人の子|故《カラ》に
得ん/\とたゆたひ綱びかるゝほどに痩おとろへぬと也。泊の字、はつるとよむは汐のかなはぬまゝに、船の行果と云、とまるとよむはそこに止まる也。
三方沙彌娶2園臣|生羽《イクハ》之女1末v經2幾時1臥v病作歌
123 多氣婆奴禮多香根者長き妹か髪此比見ぬにかきれつらむか
病に臥て逢見ぬほどにいかゞぞ髪やあげつらむと也、又あだし人の爲に髪あげやしつらむと云歟、君ならずして誰かあぐべきの心ばへを思へば、かきれつらんは櫛をかき入つらん也。
生羽之女和歌 とありしなるべし。
(125)124 人皆は今は長しとたげといへど君が見し髪みだれたれども
たげはたがねを約めて言、束髪の義也、上に云君ならずして誰かあぐべきと云は、初めの髪あげを男のすなるを云なれど、逢ての後の今の心にかはらず。
三方沙彌又贈歌 と有べし。
125 橘の蔭ふむ路の八衢《ヤチマタ》に物をぞおもふ妹にあはずて
心のちまたにゆき亂るゝは逢ぬ日來《ヒゴロ》の歎き也。垂仁の朝に橘子を海外より求めたまひしを、こゝに子植して生《おほ》し立けん、雄略紀に餌香(ノ)市邊(ノ)橘(ノ)本と見えし、今は大路に並植ても有けん、此歌に思ゆ、聖武の詔に橘子は菓子之長上也と見ゆ。
石川郎女贈2大伴宿禰田主1歌
田主は佐保大納言安丸之第二子也、郎女がひく手あまたなるを、田主はこなたより思(126)ひかけしはかたち人也けん。
126 遊士《タハレヲ》と吾は聞けるを宿借ず吾をかへせりおその風流士《タハレヲ》
聞し如の戯人な、こは我情をさとり知るべきを、一夜ともいはて歸せしは魯鈍《オゾ》の戯人よといよゝたはれて贈りし也、容色のみならず、才も勝れたるをとめ也。
田主報歌
127 遊士《タハレヲ》に吾は有けり宿かさずかへせる吾ぞ風流士《タハレヲ》にはある
心づきなくて歸せしは心ある事也、かく用意あるは名に聞ゆる風流士にあらずやと云かへせし也。色うつろふ菊を白菊とのみ云て試むるに、こなたよりは又紅に艶ふとよみて、歌の心ばへを聞知ぬものにこたへし風流の物がたりは、此贈答を取てや書《かき》けん。こゝに古注有て東隣之貧女將取火來矣云々の事を出せれど有まじき物がたり也、(127)因て省きつ。中比の世に物語を盛に書事の出こしそのかみの寓言をこゝに注せし歟。
石川郎女贈2大伴宿禰田主1歌
中郎と注せしは安丸卿の仲子と云し傳へを書入しなるべし。
128 吾聞し耳に好似《ヨキゴト》葦若末《アシガヒ》の足痛吾夫勤たぷべし
我耳に聞しと云べきを打かへして云歟、傳へて聞はよろしきと人の云如くおはすか、さはうれしき事、然ど猶よくつとめて自愛したまへと云やる也。足病して蹇《ナヘ》たるが葦の若芽のなよやかにたとへて云文言也。
大津皇子宮侍石川郎女贈2大伴宿禰宿奈麻呂1歌
129 古之《フルサレシ》嫗《オヨナ》にしてやかくばかり戀に沈まん如手童兒《タワラハノゴト》
一云、戀をだに忍かねてん手《タ》わらはの如と有。今はふるされ人の老女《オヨナ》なれば、心もひがみてや、如是ばかり戀病に沈みをる其有|状《サマ》を童兒の泣しづみをる如きぞと云也。を(128)とめ大津の皇子に思はれて參りかしづきながら、宿奈丸に相思はれしを忘れかねてや、かくは云やりけん、さてしも才色ある人は亦婬奔の情有事のうたてき也。田主宿奈丸の二人は女の方より思ひし事見ゆる中に、田主はあまりに情あまたなるを惡みて疎《サケ》しと見ゆる。
長皇子與2皇弟1御歌 弟は同腹の弓削皇子なるべしと云り。
130 丹生《ニブ》の河瀬をば渡らでゆくゆくとこひたむ吾夫|乞《コソ》通ひこね
往《ユク》々と戀|傷《イタム》と云かとの語《コチ》かなはず思ゆ、乞の字はこぞと願ふ歟、又字音にこちとよみて彼方《コチ》に假りし歟、河瀬はわたらで陸路《カチ》を行々と云にかけし故《カラ》は、往々前々《ユク/\サキ/\》と云に同じ、吉野宇陀宇智の三郡に丹生河在、こゝはうち郡のをよむかといへど論なき事也。
柿本朝臣人麻呂從2石見國1別v妻上來時作歌
(129)朝臣石見の任官にて下向在しに、朝集使税帳使などにや上られけんと云り。朝臣の事委しく吾か歌聖傳にいひたり、こゝには長言として擧ず、妻と云は石見に在ほどのおもひ妻なるべし、嫡妻は都に在事、臨終の歌に見ゆ。
131 石見の海 角の浦|回《ワ》を 浦無しと 人|社《コソ》見らめ 潟《カタ》なしと 人こそ見らめ よしゑやし 浦は無とも よしゑやし 滷《カタ》は無くとも いさな取 海邊を指て 和多豆みの 荒礒《アリソ》の上に 香青《カアヲ》なる 玉藻おきつ藻 朝羽ぶる 風こそよらめ 夕羽振 波こそ來よれ 波の共《ムタ》 かよりかくより 玉藻なす より寢し妹を 露霜の おきてし來れば 此道の 八十隈毎に よろづ度 かへり見すれど いや遠に 里はさかりぬ 益《イヤ》高に 山も越來ぬ 夏草の おもひしなえて しぬぶらむ 妹が門見ん 靡け此山
(130) 反歌
132 石見のや高|角《ツヌ》山の木際《コノマ》より我振袖を妹見つらむか 一に見けんかも
133 小竹《サヽ》の葉は三山もさやに亂《ミダル》とも吾《ア》は妹おもふ別れしくれば
一首の意朝夕に靡きあひて寢し妹を宿におきてくるに、此道々家の見ゆるかぎりは顧みれど、行々途を隔て山をも越ぬれば、今は見えず成ぬるぞ、かの山の嶺よ、横をれ靡けかし、家のあたりの見ゆらんと、稚き歎きはする也。上廿二三句は文言のみなるを、詞章高妙にて聞にあかぬは此朝臣の千古に獨歩と云所也、反歌には此こえ來る高津の山の木がくれ、木の間毎に振立て見ゆやとする袖は、妹か門出して見ずやと云て、扨この山の篠原のさや/\と風に亂るゝもうけくもあらで、たゞ我は別れのみを思ひみだるゝと歎く也。
北海の此あたりは船の輻湊すべき浦回も干潟も無くて、波の打よせ荒き處なるを、よ(131)しや其浦回も干滷も無とも、おきつ玉藻は朝風夕波によせくる、其玉藻のなびきあふ如くより寢しとかゝれる章也。いさな取とは大魚をいさましき魚《ナ》と云なるべし。しか云て海に冠らせしは海利を云文言也。和多豆をにぎたづとよめれど、これは美の字を脱せしにや、伊豫に熟田津あれば同名の津ぞと皆思ひ過すならめ、浦回も潟も無しに津は有べからず、船津ならばこゝまでの詞章は虚文也。ことに荒磯とつゞくるに和多づみのありその上にとは云べし。香青なるかは虚辭、おきつ藻の青々とせし也、玉藻とは繩のりなどの圓き實あるを云。朝羽ふる夕羽振は鳥の羽ぶきして立音を、波風の音にたとふ也。波の共、是をむたとよむは古語とのみにて止べき、義は字を以て見せたれば言わるべくもあらず、いとも心を得ぬ事也。いにしへの人は別るゝ時に丘に登りて、長袖又|領巾《ヒレ》などをも打振て互に情のかぎり見せし也。
135 綱《ツヌ》さはふ 石見の海の 言さへぐ 辛《カラ》の崎なる 伊|黒《グリ》にて 深海松《フカミル》おふる 荒(131)礒《アリソ》にぞ 玉藻は生る 玉藻なす 靡き寢し兒を 深みるの 深めて思《モ》へど さぬる夜は 幾許《イクバク》もあらず はふ蔦の 別れしくれば 肝向ふ 心を傷み 思ひつゝ 顧《カヘリミ》爲《ス》れど 大舟の 渡の山の もみぢ葉の 散の亂に 妹が袖 さやにも見えず 妻こむる 屋上の山の 雲間より わたらふ月の 惜けども かくろひくれば 天傳ふ 入日さしぬれ 丈夫《マスラヲ》と 思へる吾も 敷たへの 衣の袖は 通りて濡ぬ
反歌
136 青駒の足掻《アガキ》をはやみ雲居にぞ妹があたりを過て來にける 一ニあたりはかくれ來にける
137 秋山にちれるもみぢ葉しばらくも散な亂そ妹があたり見む
(133)上の長短歌に尚あかずして又此言あげしてうたふ也、是も亦玉藻の如くに打靡きあひて寢しから、互に深く情をなぐさめしも、おもへは勤務《イソギ》の間《イトマ》わづかにて幾夜も寢ず、今は別れとさへ成ぬれば心|傷《イタ》く思ひつゝ、かへり見のみすれば渡の山には秋の葉の散みだれ、やかみ山の雲間より月出て夕ぐれのくらきに、入日のかゝやぎて光るにさやかに物も見えず成ぬるにぞ、男魂とのみおもひたのみし我も、袖は涙に濡とほりぬると、打泣てよめる也。反歌には我乘駒の足の疾《ハヤ》きまゝに、思はずも遠く來て妹か家のあたりに暫くも駒の足をとゞめざりしとなげき、又今こゆる渡山の木の葉の散みだるゝに、妹がりもかくるゝばかりなれば、須臾も散なみたれそと、をさな言はす也、高津山越ては渡山をこゆる其路程を行々の歎き也。
綱《ツヌ》さはふは石づぬとも云て、絡石のかづらの延蔓《ハヒワタル》也、次にはふ蔦のと云も是也、さはふのさは虚辭のみ。言さへぐとは唐人の物いひの鳥の囀の如くさや/\しきを、からの碕に掛し文言也。伊|黒《クリ》の伊は虚辭、黒色の石を今もくり石と云、いぐりと云て石と(134)までいはぬは、石見の方言なるべし、海底の石は大凡黒みつく物也、彼國人の云、今も伊ぐりと云て、岸近き海底に大石のいとも黒きが群て有と云。深海松は緑色のふかきを云歟。刊本幾の字の下に許の字有しを脱す歟。渡山に大船と云は文言也。屋かみ山に妻をこむるは、いづも八重垣妻ごめの例にて、屋舍に妻をすゑおく也、妻屋と云も見ゆ。わたり山は打こえにてやかみ山は見やりつゝ行也、天傳ふ日はあふぎ見て云文言也。
青駒は※[馬+總の旁]馬也、年歴れば白毛に變ずるを人の齡高く白首なるに見なして、立春七日に是を御覽ずると也、連錢あし毛とも云有は、あし毛の白色に變ずる中に錢文をとゞむる也、さて白色をあをしと云は古語なるを、いかで云やしられぬ事也、駒の駿足なるを足がきはやしと云。此歌秋冬の間のけしきをいへば、税帳使に上るなるべし、上の歌に夏草の思ひしなへてと云は、時を云に非ず、なへ臥に云文言のみ。次に上の長短歌を再び出す、句々相替、因此重載とことわりしに明らか也、句々たがへれどこゝには擧(135)ず、擧るに無味の事とぞおもふ。
柿本朝臣人麻呂妻|依羅《ヨサミノ》娘子與2人麻呂1相別作歌
此妻は都の正妻なるべし。
140 おもふなと君はいへどもあはん時いつと知てか吾戀ざらむ
心も詞も明らか也、石見の任に在て病にある音づれなどの都に聞えつらむ、いと悲し。是を人丸の歌として拾遺集に入しは、小序の無りし本にてや撰びけん。
挽歌 是は葬式に親族等棺車の綱を挽と云義以て悲傷の歌を挽歌と書事、迂遠ながら古人の意也。
後岡本宮御宇天皇代とは既に云皇極重祚の御時也。
有間皇子自傷結2松枝1御歌
皇子は孝徳之御子、朝に怨有て帝紀の温泉に出幸の御|間《ヒマ》を窺ひ、隱謀有しがあらはさ(136)れて、彼地へ召れ糺問有し其參りの時、こゝの濱邊に午飯などをめされしに此二首の歎きは有し也、松をむすぶと云事いかにするや知らず。
141 磐白の濱松が枝を引むすび其幸《マサキク》あらば又かへり見む
142 家ならば笥に盛飯を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る
暫く輿を停められて此岩白の濱松が枝をむすぶとか云事して、我心のまゝを奏してんに君聞し召、あはれみ給はらば再び都に放たれて還らむ事、身幸ひあるなり、其時に又こゝを歴てむすびを解てんと誓ひせしかど、穢き心を咎められて死を賜し也。死は御使ありて藤白坂にて賜しとぞ。生てます時の歌なれば、此二首は相聞歌の部なるべきをみだりては入にけむ。次の歌三首は、皇子を追慕の聲なれば挽歌に入べし。さて次の歌は飯は笥に盛べきを、あはれそこなる椎の葉摘敷てすゝめし事、囚人の有さま見るが如し。飯笥は木竹又藺を苞にしても旅には造りしと云、古器の質素いかなりけ(137)ん知らず。
長忌寸奥麻呂見2結松1哀咽歌
143 磐代の岸の松が枝むすびけむ人はかへりて又見けんかも
144 いは白の野中に立るむすび松心も解ずいにしへおもほゆ
おき丸は有馬に近く參りかよへる舍人ならめ、こゝを過て皇子の結びおかれしまゝにや有を見ては、すゞろにかなしかりけん、さて心もとけぬとはよむ也、又反り見けんかもとは、魂の反りてと云を詞の除がれたる也、七々日が間は魂のかよふと云事を思ひし歟、思ふに同じ度にて、帝の還御に從ひてこゝを過しなるべし、文武の時迄有し人なれど。
山上臣憶良追和歌 此歌は後に追てよめるをこたへたる者に題する歟。
(138)145 鳥翔《ツバサ》なす有がよひつゝ見らめとも人こそしらね松は知らむ
七々日がほどは魂の反り來ると云佛説に因る歟。有がよふの有は、打振る、かきかぞふ等の格にて、かろく見過すべき語也。
146 後見むと君が結べる岩代の小松がうれを又見けむかも
此歌は上の歌どもに同じ意なるやうなれど、いさゝか詞章のたがへれば又こと人のよめるなるべし。此前に大寶元年辛丑幸于紀伊國時見結松作歌と有は、上の意吉丸の歌の小序の亂れてこゝにと云人有。さらば文武の御時にて皇子の罪なはれしには世杳なる後なれば、歌の意も人丸黒人の大津の舊都をしのびかなしめる類に解べし。
近江大津宮御宇天皇代
天皇聖躬不豫之時皇后奉御歌
147 天の原振さけ見れば大君の御壽《ミトシ》は長く天足有《アマタラシヌル》
(139)刊本太后と有は誤たるべし。この歌はいまだ世におはしませし時に、言ほぎて御心をなぐさめ給へる也。
天皇崩御後太后御作歌 次に有は亂たる也。
148 青旗の小旗が上をかよふとは目には見れどもたゞにあはぬかも
149 人はよしおもひやむとも玉※[草冠/縵]影に見えつゝわすられぬかも
なき御魂の反り來て殯宮の庭の大幡小幡の上に天かけり給ふと幻には見奉れど、正目にはあふ事無きぞ、又さばかり幻に見えつゝして忘られぬは、まめ人とて心二つなく仕へし人々もおのづからおもひ怠るべし、我はと歎かせ給ふ也。
よしと云語は、よしや、よしゑやしとも云。人はよしやよし我はと言交へず、おのれのみ打歎く語也。縱の字、人はよしやおもひのまゝに憂も喜びもする也。
(140) 天皇崩時婦人作歌 此小序いかにとも補ひがたし。
150 うつせみし 神に不勝は 離居而 朝嘆君 放居而 吾戀る君 玉ならば 手にまき持て 衣ならば 脱時も無み 吾戀る 君ぞきその夜 夢に見えつる
此歌小序を始めこゝろ得がたければ、ことわらず、ことわるともかひも有ぬにはおきぬべし。
去年をこぞといひ、昨日をき賊《ゾ》と云、この語前詞章のつゞきにのみ便ずべし、通音の用もこれらには口閉ぬべく。
天皇大殯之時歌 此小序も故にあらず。
151 かゝらむとかねて知りせば大御舟はてし泊りに標《シメ》ゆはましを
(141)152 やすみしゝわご大君の大御船待か戀らん志賀のから崎
歌の次序前後したり。殯宮は在所しらねど辛崎の邊に在べし。上にも和期大君と書る見ゆ。是はうたふにわごおほ君とゝなふるをしらせたり。歌の意かくれたる所なし。
太后御作歌 此小序亦古ならず。
153 いさな取 淡海の海を 奥放《オキサケ》て 榜《コギ》來る船 邊に附て こぎくる舟 おきつかい いたくなはねそ 邊つかい いたくなはねそ 若草の 夫《ツマ》の命《ミコト》の おもふ鳥たつ
天皇此海邊の競ふる處なくすぐれたるを愛して、都をこゝに遷させしなればかくよませ給ふ也。君常に惠みおほせし鳥は何ならむ。此詞章も二句ばかり落て、鳥の名も漏しけむ、後世に鳰の海と呼は何の郡にか、にほの郷と云に呼初しと云り、志賀の海と(142)云例に同じければしかるべき事也。
刊本嬬之の下に命の字脱せし歟。
石川夫人歌 此小序も。
154 神樂浪《サヽナミ》の大山守は誰が爲か山に標《シメ》ゆふ君もあらなくに
此大宮近き山邊には守部をすゑ置しめたまふが、今も守らへ居るは誰が爲とか咎めたる、いと悲しくよめる實言也。
從2山科御陵1退散之時額田女王作歌
諸陵式に山城宇治郡に在、今も里人の御廟野と云、其北の山下に在、崩御より一周の間は近臣舍人等陵墓に侍宿する也、今は事果て退散す。女王は愛妾にておはしかば、さる期まで仕へて在し也。
155 やすみしゝ わご大君の かしこしや 御陵《ミハカ》つかふる 山科の 鏡の山に 夜《ヨ》(143)はも 夜之盡《ヨノアクルマデ》 晝はも 日之盡《ヒノクルヽキハミ》 哭のみを 泣つゝ在てや 百磯城の 大宮人は ゆき別れなん
歌の意かくれたる所無し。盡の字第四の舒明のおほんに、晝は日のくるゝまで夜は夜の明るきはみと有をもてよむと云はよろし。此集のみならず、延喜式にも陵を至尊の御墓とし、墓は皇太子皇后大臣等に用ふ、陵は丘陵にて築なす状、墓は上下をいはず用ふべきを、いかでかゝる例には用ひけん。
明日香清御原宮御宇天皇代
十市皇女薨時高市皇子尊御作歌
天武の皇女始は大友の妃、葛野王の母と云事懷風藻に見えて、國史に出さゞるは忌事有てなるべし、後に異母兄高市皇太子におもはれ給ふ事、此集にて見ゆ。
156 三諸乃神能神杉己具耳矣自得見監乍共不寢夜叙多
(144)此歌よみ得ず、このまゝにおくべし。
157 神山の山邊眞蘇木綿短木綿如此耳故爾長等思伎《ヤマベマソユフミジカユフカクノミカラニナガクトモヒキ》
穀布《ユフ》の糸の長短もて人命にたとふ、玉の緒の比譬に同じ、かゝるものから長かれと思ひしと歎かせ給ふ也。神山は三諸山なるべし。
158 山|振《ブキ》の立儀足《タチサカエタル》山清水|酌《クミ》にゆかめど道のしらなく
妹に似るなど山吹の花を愛せし格にてあるべけれど、いづれも歌の調とゝのはず、解に益なし。
天皇崩御之時太后御作歌 朱鳥元季九月九日崩、太后は持統帝也。
159 やすみしゝ 我《ワゴ》大君の 夕ざれば 召|賜《タマフ》らし 明來ば 問賜らし 神丘《カミヲカ》の 山の(145)黄葉を 今日もかも 問給はまし 明日もかも 召賜はまし 其山を 振さけ見つゝ 夕されば あやにかなしも 明くれば うらさび暮し 荒たへの 衣の袖は ひる時もなみ
此おほんは明れば暮れば見る物につけておぼし出るかなしみを、さりとてはあやにおぼしみだるゝを打出させし也。神丘は清み原より南に近く望まるゝ所也。めし賜らし、問たまはまし、共に想像《オモヒヤリ》の語也。あやとは云ときがたき事に云、絹の文《アヤ》の糸目の巧みにたとへて云也。
160 燃火《モユルヒ》も取てつゝみて袋には入といはずやも智男雲
161 向南山陣雲之青雲之星離去月毛離而
此二首は反歌歟、意もゆかぬにはことわりて益なし、たゞ此まゝにおく。
天皇崩之後八年九月九日奉2爲御齋會1之夜夢裏習御歌
(146)162 明日香能 清御原乃宮爾 天下 所知食之 八隅知之 吾大王 高照 日之皇子 何方爾 所念食可 神風乃 伊勢能國者 奥津藻毛 靡足波爾 鹽氣能味 香乎禮留國爾 味凝 文爾乏寸 高照 日之御子
九月九日は御忌日なれども、夢は心の煩ふなれば詞章云足ず意徹らず、且作者詳かならねば解くに益無し、強て扶けて云とも感に到らぬには。
藤原宮御宇天皇代
大津皇子薨後大來皇女從2伊勢齋宮1上v京之時御作歌
皇子叛心あらはされて罪問れたまふに、齋宮も連累せられ都へ召かへさせたまふ時也。
163 神風の伊勢の國にもあらましをなにゝか來けん君もあらなくに
164 見まくほり吾|爲《スル》君もあらなくに何にか來けん馬疲らしに
吾逢見まくおもふ弟皇子の世におはさぬには、都に還りて何せんになにゝ此馬つから(147)して上りはくると、打泣てよませ給ふ實情筆にうつすに重くおほゆ。我見まくほりすると云をば見まくほり吾するとは、其かみの調べ也。
移2葬大津皇子屍於葛城二上山1之時大來皇女哀傷御作歌
大來大伯とも書て、共におほくとよむ。
165 うつそみの人なる吾や翌よりは二上《フタカミ》山を弟世《イモト》とわが見ん
166 石《イソ》のうへにおふる馬醉木《ツヽジ》を手をらめど見すべき君が在といはなくに
意かくれたる所無し。石上《イソノヘ》は二かみ山のたゝずまひ見るが如し、二上と書ど二神の義なるべし。二峯各山神のつかさどらす也、筑波山に男の峯女の峯を云に同じ。つゝじを馬醉木と書は、羊躑躅をこゝろ得たがへたる、そのかみの手ぶり也。
こゝの古注に今按不v似2移葬之歌1、蓋疑從2伊勢神宮1還v京之時、路上見v花盛1、傷哀咽(148)作2此歌1乎といへど、さは見ずともよか也。
日並知皇子等殯宮之時柿本人麻呂作歌
太子は天武の皇子持統の嗣君、朱鳥三年に薨去したまふ、人麻呂舍人の時常に親しく參りつかへ奉りしなるべし。阿騎野の御狩、此挽歌等に其由見ゆ。
167 天地之 初乃時之 久堅之 天河原爾 八百萬 千萬神之 神集 々座而 神分 々之時爾 天照 日女之命【一云さしのぼるひるめのみこと】 天をば しろしめさむと 葦原の みづ穗の國を 天地之 よりあひの極《キハ》みしろしめす 神の命《ミコト》と 天雲の 八|重《ヘ》かき分て【天雲の八重雲わきて】 神降《カンクダリ》 降《クダリ》まつりし 高照す 日の皇子《ミコ》は 飛鳥の 淨《キヨミ》の宮に 神ながら 太敷《フトシキ》まして 天皇之《スメロギノ》 しきます國と 天の原 石門《イハト》を開き 神あがり あがりいましぬ 吾大君 み子之命の 天下 しろしめしせば 春花の 貴在《ウツシカラン》と 望月の 滿《ミタ》はしけむと 天(ノ)下【食國を】 四方の人の 大船之 思憑みて 天水《アマツミヅ》 仰て(149)待に いかさまに おもほしめせか 由縁《ユヱ》もなき 眞弓の岡に 宮柱 ふとしきまして 御あらかを 高知まして 朝言に 御言問さず 日月《ツキヒ》之 數多《ヒサ》に成ぬる 其故に 皇子の宮人 行方《ユクヘ》しらずも
大意は天の神の御はかりに定給ふて、降誕あらしめし御位を、いかにおぼしてか又神あがりましぬ。さてしも日比過ぬれば喪がりの宮の侍宿《トノイ》さへ退散《マカル》べく成ぬるにぞ、舍人等は皆いづこにか歸らむとなげきまどふ也。
天地開闢の始に諸神天の安河の上に集りて萬機をはかりあはせ給し時に、日靈《ヒルメ》の神は天をしろしめし、皇孫《スメミマ》の火和《ホニギ》の命《ミコト》は此葦原國をしろしめさせんとて天より降したまふ、其嗣々を皆皇孫と尊稱し奉る、此皇子(ノ)尊の御位あらん事を一天下の人の願ふをと云。かく事を遠く博く云が、人丸の巧妙千古に及ぶ人なし、此詞章あまりに言を除《ソ》ぎて云足ぬが如し。春花の貴在等うつしからんととよむべき歟、賞の字としてめでた(150)からんとよむも宜しかるべけれど。天水仰て待、旱天に雨を待事とするを、台記の壽詞《ヨゴト》にて見れば本語は皇孫の御爲に御食津《ミケツ》水を天より降したまふ天の眞名井と云を轉じて、時雨を降したまふに云事也、この章旱雨を待とすべし。眞弓岡は檜隈佐太につゞく處也、殯宮をこゝに作りたまふ也。
反歌
168 久堅の天見る如くあふぎ見し皇子の御門のあれまくをしも
橘の島の宮の今より荒るを惜む也。
169 あかねさす日は照せれどぬば玉の夜わたる月のかくらくをしも
たとへの意明らか也。
或本歌 と云も共に反歌歟。
170 島の宮|勾《マガリ》の池のはなち鳥人目に戀て池にかづかず
(151)まがりの池は庭池の灣曲を云べし。この歌人丸にあらずと云説あれど、分明ならねば從ひがたし。
島宮は蘇我の馬子蝦夷の大臣等の家在し所也、島の大臣といひしが其家亡びて後太子の宮居作らせ給ひし也。橘の島は飛鳥川の邊にあり、河遠みと云しには少片邊によりて山にそひしか、今の橘寺あるあたりにや、河原寺もそこに並びたれば河遠みと云詞章、今を見て考べからず、飛鳥川の流田野に開けて、いにしへを留めずと云とも推はかり言にてあたらじかし。
此池にはなちかふ鳥は常は物おどろきざまに見ゆるを、君を戀てや水をかづかずして浮居るさまも心からあはれ也と。
皇子等舍人等慟傷作歌 令に皇太子には舍人六百人と見ゆ。
171 高てらす我日の皇子の萬代に國しらさまし島の宮はも
(152)嗣位の君なれば日の御子といひ、國をしらしまさすべき其御子はもと云て、言の絶たるがあはれ也。
172 島の宮池のうへなる放ち鳥あらびなゆきそ君まさずとも
君はまさずとも疎《アラ》びて他《ホカ》にないきそ、切《セ》めて御かたみに見んと也。
173 高|光《テラ》す吾日のみ子のいましせば島の御門はあれずあらましを
意明らか也、刊本益を蓋に誤る。
174 よそに見し檀《マユミ》の岡も君ませば當都《タキツ》御門ととのいするかも
檀の岡はこの度の殯宮の處也、瀧つ御門は即島の宮也、瀧おもしろく流落て勾の池にやかゝりけん。刊本常都御門とあれど一本に當都とあるを采る。次に東の多藝の御門又東の太寸の御門とあるをよん所にて。
(153)175 夢《イメ》にだに見ざりしものをおぼつかな宮出もするか佐日の隈回《クマワ》を
此檜の隈のあたりは便もなくて、夢にも見ざりし所なりしを、檀の岡につゞきたるには、殯宮の出入毎に行ふるゝはと云也。かくのみ云が悲しき聲には聞ゆる也。檜隈をさひの隈と云、佐は虚辭のみ。
176 天地とゝもに終《ヲヘ》んとおもひつゝつかへまつりし心たがひぬ
違ふは己が心也。
177 朝日照る佐太の岡邊に群居つゝ吾《ア》がなく涙やむ時もなし
佐太の岡も岡つゞきたる處なるべし。
178 御立爲《ミタヽシヽ》之島を見る時|庭多泉《ニハタヅミ》流るゝ涙|止《トヾメ》ぞかねつる
島好みたまふて常に出で立もとほり給し御有さまを見るが如きには、涙とゞめかねつ(154)ると也。
庭潦《ニハタヅミ》は流るゝと云ん文言也。
179 橘の島の宮には飽ぬかも佐田の岡邊にとのいしにゆく
意明らか也。
180 御立しゝ島をも家と住鳥もあらびなゆきそ年かはるまで
薨去は四月なれば冬にあらねど、此池には鳥の住つきたるを思ふに、さすがに夏來ては住かふるに、池のさびしくや成つらんを見て疎《アラ》びなとは云よ。
181 御たゝしゝ島のありそを今見れはおひざりし草おひにけるかも
池頭の春草必生べきを、殿守等の懈りざまに見ゆべし。
182 鳥垣《トグラ》立《タテ》かひしかるの子巣立なばまゆみの岡に飛かへり來《コ》ね
(155)島の宮にかひし鳥の巣立なば殯宮の岡に飛來たれと云也。鴈の字を書れど鴈は此國に夏はあらず、かる鴨と云一種也、鳧はこゝにて子をもうむ也、應神紀に鴈の子うむを聞ずと、あやしみたまへるは、かるとかりの音同じきにおぼしわかざりし、高き御あたりには有べき事也。
和名抄に、穿垣栖鷄をとぐらとよめり、刊本※[土+(一/血)]は一本に垣に作る、※[土+(一/回/一)]の字歟。
183 吾御門千代|常《トコ》とはに榮えむとおもひてありし吾し悲しも
184 ひんがしの多藝の御門にさもらへど昨日も今日も召す事も無し【是は島の宮の宿直人也】
185 水《ミナ》傳ふ礒の浦囘の岩つゝじ木丘開道を又も見んかも
木丘開道よみがたし。上にもありぞといひ、こゝに礒の浦回と云は、池の心廣くて、島のかたちおもしろく築廻らせしに、岩のたゝずまひさま/”\なるを云也、海濱をうつ(156)して作らば、大小の異なるのみにありさまは同じからむものぞ。
186 一日には千度參りし東の太寸《タキ》の御門を入がてぬかも
刊本、太寸乃の乃を脱す。意明らか也。
187 所由《ヨシ》も無き佐太の岡邊にかへり居ば島の御《ミ》はしは誰か住《スマ》はん
反居は若|參居《マヰリヰ》ばの誤にや、御橋は階梯《ミハシ》也。
188 朝くもり日の入|去《ヌレ》ば御たゝしゝ島に下居《オリヰ》てなげきつるかも
悲しむ心には朝曇りながら日の入ぬるにたとふ歟。そのかみの上手ならぬ口ぶりにはかゝるも有べし。
189 旦日《アサヒ》てる島の御門におぼつかな人音《ヒトト》もせねば眞うらがなしも
眞うらは眞心と云に同じ、うら悲しとは常にも云。
(157)190 眞木柱ふとき心は有しかど此吾心しづめかねつも
靜《シヅ》心なく悲しと也。
191 毛衣《ケゴロモ》を春冬《トキ》片設《カタマケ》て幸《イデマシ》し宇陀の大野はおもほえむかも
御狩野に毛衣を取粧ひて出ましゝを、おもひ出てさへ悲しむ也。狩は春冬の間を專らとすれば時とはよむ。片設ては其時に打かたむけと云也。此人は御狩野には必もれず從ひ奉りし武人なるべし。人丸の輕の太子の阿騎野の狩に此御父皇子をおぼし出て、馬なべて御狩たゝしゝ時は來まけりとよみしにも思ゆ、狩を專ら好ませし君也。
192 朝日照佐太の岡邊に鳴鳥の夜鳴かはらふ此|年來《トシゴロ》を
此丘に鳴鳥の音の夜鳴かはるとは、舍人等が悲歎の音を云也。
193 八多籠良我《ヤタコラガ》夜晝といはず行路を吾は皆悉《サナガラ》宮道とぞする
(158)八多籠等我は奴僕等《ヤツコラ》が云にて、いやしき者のゆきかひ路をそれながらに宮道に今はゆきゝすると也。是ははたご等《ラ》がにて旅人の夜晝わかず行道かと云説あれど、さらば官道にて即宮道なるべし。且はたごとは旅葛籠の名にて、蜻蛉日記にはたご馬と云るは言熟せり。そのかみの歌詞にはたご等と云て、旅人|等《ラ》とこゝろうべき事は有べからず。
柿本朝臣人麻呂葬2河島皇子于越智野1之時献2泊瀬部皇女1歌
此小序は次に或本曰と云を採る。河島は天智の皇子、大友に附ずして、天武に朝參す。和銅七年に、帝の命を戴きて國史を撰奏す、故有て後用ひられず、世に傳はらずと云り。泊瀬部皇女は河島の妃なり、人丸是にも常に參りて、出駕の御供には從ひ奉れば、此葬式にも送りの人數に有べし。河島の傳懷風藻に見ゆ。
194 とぶ鳥の 明日香の河之 上つ瀬に おふる玉藻は 下つ瀬に 流觸經《ナカガレフラヘ》て 玉(159)藻|成《ナス》 彼《カ》よりかくより 靡《ナビ》かひし 妻の命《ミコト》の たゝなつく 柔膚《ヤハハダ》すらを 劍太刀 身にそへ寐ねば 烏《ヌバ》玉の 夜牀も荒《アル》らむ そこ故に なぐさめてける 敷毳《シキモ》あふ 屋《イヘ》とおもひて【一に、公もあふやと】 玉簾の 越《ヲチ》の大野之 旦《アサ》霞に 玉藻は※[泥/土]士《ヒヅチ》 夕霧に 衣は沾《ヌレ》て 草枕 旅やどりする あはぬ君故
反哥
195 敷たへの袖かへし君玉簾のをち野に過ぬ又もあはんやも
御二かた常に玉藻の如くより添臥てあらせしを、今は此宇智野の殯宮にひとり侍宿してましますを、いとあはれとうたふ也。たとへを取事、此朝臣の巧妙寔に千古の獨歩と云べし。鳥は朝とく飛立故にとぶ鳥の朝《アサ》と云べきを、音に通はしてあすかと云より、飛鳥と書てあすかとさへよむ也、然云は文言のみ。たゝなづくはたゝなはる青垣山とも云て、疊みなすが如と云。柔肌《ヤハハタ》は皇女の御肌を身にそへ寢たまはぬには、夜床(160)も荒らむ也。烏《ヌバ》玉の黒きと云より夜とさへ云は、文の流るゝ云ざま也、射干と云草の子《ミ》の黒ければと云り、射干玉とも書たれば疑ふまじきを、此|子《ミ》は光澤《ヒカリ》はあれど殊に小さくて玉と褒べき物にあらねば、是も物と字と當違へしそのかみの弊にや有む。漢の馬援と云人交趾の役に在ほど、※[草冠/意]以《ヨクイ》の子《ミ》を餌食して、歸る時車に積運びしを譖《シコ》つ者の有て、明珠を多く賄賂に納めて來たりしと云事有、此|子《ミ》は黒白淺緑の種々有て各光澤有、玉とも賞すべき形なれば野の眞玉とも云べしと思へるはいかに。
玉簾の越の大野は玉廉の緒とかくる文言也。越野は字智野とも云、をと宇通音、依て玉だれの小簾もをすとよめと云り。※[泥/土]打は打は土の誤にや。
明日香皇女木※[瓦+缶]殯宮之時柿本朝臣人麻呂献2忍坂部皇子1歌
此小序は上と混じたるを改し人に從ふは皇女の夫君の皇子なれば也。
196 飛鳥の あすかの河之 上つ瀬に 石橋わたし【一云石並わたし】 下つせに 打橋わたし (161)石橋に おひなびける 玉藻もぞ 絶ればおふる 打橋に 生乎烏礼流《オヒヲヽレル》 川藻もぞ 干《カル》ればはゆる 何しかも 吾大君の 立せれば 玉藻の如く ころ臥《ブセ》ば 川藻の如く 靡《ナビ》かひし 宜しき君が 朝宮を 忘れたまふや 夕宮を 背きたまふや うつそみと おもひし時の 春べには 花折かざし 秋立ば 黄葉《モミヂバ》かざし 敷たへの 袖|携《タヅサ》はり 鏡なす 見れどもあかず 三五《モチ》月の いやめづらしみ おもほえし 君と時々《ヲリ/\》 幸而《イデマシテ》 遊びたまひし 御食《ミケ》むかふ 木のべの宮を 常《トコ》宮と 定めたまひて 味《アヂ》さはふ 目ごとも絶ぬ 然《シカ》れかも【一云、そこをしも】 あやに憐《カナシ》み ぬえ鳥の 片戀妻【一に片こひしつゝ】 朝鳥の ゆきかひし君が 夏草の おもひしなえて 夕|星《つゞ》の かゆきかくゆき 大船の 猶豫不定《タユタフ》見れば おもひやる 情《コヽロ》もあらず そこ故に すべしらましや 音のみも 名のみも絶ず 天地の いや(162)遠長く 思《シヌビ》ゆかん 御名に懸《カヽ》せる あすか河 萬代までに はしきやし 吾大君の かた見かこゝを
短歌
197 明日香川しがらみわたしせかませば流るゝ水もよどにかあらまし
198 あすか川あすだに見むとおもへかも吾大君の御名忘れせぬ
此歌の巧みも御中むつまじく常によりあはせしを、川瀬に石なみわたし、打橋の柱に玉藻の生靡くさまもてたとへなせる也。朝宮夕宮と云わかてど只朝夕の宮づかへと云也、さるをいかで忘れたまふやとは、すゞろに住給ふ宮を立出て、春秋の遊びにこそは出たまへる木のべの丘を、長き宮居と定めたまふを、君はいかにおぼしみだるらんと、其しのばせ給はんあり樣をつばらにして、さて御名は此あすか川の絶ぬ流にかけて忘られずぞ我輩も侍ると云也。反歌の意ばへをつらねて、いとも巧妙なるは朝臣の(163)天才也。
石橋一に石並と云にて、渡りに石を並てふみこすを岩橋と云をしらる。打橋は板或は丸木にても渡りにかけたるを云。玉藻もぞは只もとその重りたるのみ、後の歌にもぞと云は用違へり。御食向《ミケムカフ》木※[瓦+缶]とは御食《ミケ》には必|御酒《ミキ》を加へて奉るをむかふと云、案凡のむかふにくはふる也。
片戀妻をとそへてよむ歟、鵺鳥の夜鳴明すを片戀するにたとふ文言也。
朝鳥のいきかひ、夏草のおもひしなえ、大舟のたゆたひ、共に文言のみ。心もあらず、戀つゝあらずに同じく、あられずと云也。
高市皇子尊城上殯宮之時柿本朝臣人麻呂作歌
天武の皇子、持統の朝日並皇太子薨去の後に、此皇子を儲位に定給ひしかど、就《やが》て薨去ありし也、國史に後皇太子と記す、持統十年七月に薨去す、此皇子は壬申の闘諍に大勲を立給し其事蹟を、此歌には擧てよめる也、人丸此宮にも參り仕へし事しるし。(164)陵墓式に廣瀬郡三立岡と見ゆれば、上の皇女の木のべの殯宮に同じくて、御墓は三立岡なる事しるし。
199 掛まくも 忌《ユヽ》しきかも【一にゆゝしけれども】 言まくも あやにかしこき 明日香の 真神が原に 久堅の 天津御門を かしこくも 定たまひて 神さぶと 岩がくります やすみしゝ 吾大君の きこし目爲《メス》 背面の國之 眞木立る 不破山越て 狛劔 わさみが原の 行宮に あもりいまして 天の下 治めたまひて 食國《ヲスグニ》を 定め賜ふと 鳥が鳴 吾妻の國の 御軍を 喚《メシ》たまはせて 千はやぶる 人を和《ナゴ》すと 不奉仕《マツロハヌ》 國を治むと 皇子ながら 任《マケ》たまへれは 大御身《オホンミ》に 太刀取|帶《オバ》し 大御手に 弓取持し 御軍士《ミイクサ》を あともひたまひ とゝのふる 皷の音は 雷の 聲と聞まで 吹響《フキナセ》る 小角《ヲブヱ》の音も 敵《アタ》見たる 虎か吼ると 諸(165)人の 慴《オビユ》るまでに 指あぐる 幡の靡きは 冬木成《ふユゴモリ》 春野燒火の【此句一本を取】 風之|共《ムタ》 靡くが如く 取もてる 弓弭《ユハズ》の驟《サワギ》 み雪ふる 冬の林に 飄《ツムジ》かも いまき渡ると おもふまで 聞のかしこく【一に諸人の見まどふまでに】 引放つ 箭のしげゝくも 大雪の 亂て來たれ まつろはず 立むかひしも 露霜の けなばけぬべく ゆく鳥の あらそふはしに 度會の 齋《イツキ》の宮|從《ユ》 神風に 伊吹|惑《マドハ》し 天雲を 日の目も見せず とこ闇に 覆《オホヒ》たまひて 定にし 瑞穗の國を 神ながら 太敷まして 安みしゝ 吾大君の 天の下 申賜へば 萬代に しかしもあらむと 木綿花の 榮ゆる時に 吾大君 皇子の御門を 神宮に かざりまつりて 遣使《ツカハセル》 御門の人も 白妙の 麻衣著て 埴安の 御門の原に 赤根さす 日の盡《クルヽマデ》 鹿《シヽ》じもの 伊はひ伏つゝ ぬば玉の ゆふべになれば 大殿を 振さけ見つゝ 鶉な(166)す 伊はひもとほり さもらへど さもらひ得ねば 春鳥の さまよひぬれば 嘆をも いまだ過ぬに 思ひも いまだ盡ねば 言さへぐ 百濟の原ゆ 神|葬《ハブ》り はふり伊まして 朝もよし 木のへの宮を 常宮と 高くまつりて 神ながら 安定《シヅモリ》ましぬ 然れども 吾大君の 萬代と おもほしめして 作らしゝ 香山の宮 よろづ代に 過むともへや 天の如 振放見つゝ 玉手すき かけてしのばん かしこけれども
短歌
200 久堅の天しらしぬる君故に月日も不知戀わたるかも
201 埴安の池の※[こざと+是]の隱沼のゆくへもしらに舍人は惑ふ
或書反歌
(167)202 哭澤の神社に三輪すゑ祷れども我大君は高日しられぬ
此長歌の體全く西土の長篇と云を擬ひたりと思へるは、此太子の壬申の亂に軍師と成給ひて、竊に大和路より美濃に立踰て和さみが原に屯《タムロ》し、東國の士を催し旗をこゝに揚たまひしに、近江の朝廷の軍人もこゝまで責來たる、其戰ひの場のあり樣を先うつし出たるが、誠にすさまじくもかしこくも(原本二三字文空白)るゝ也。さて此御|勲《イサヲ》によりて天の下は治まりし後、御代しらせますべく儲の君にさへ立せしを、おもひかけず世を去せ給し事を、常に參りつかふまつれる身には仰ぎて慕ひ奉れる也。
あすかの眞神の原は即清み原の宮造在し所也。こゝを眞神の原と云は、欽明紀の初めに秦の大津父と云人、商《アキ》物しに伊勢へ踰るとてこゝを過しに、二つの狼の囓爭ひて共に死ぬべかりしを、あつかひて引放ちやりしかば、狼等辱なしとや思ひけん、帝の御夢に入て此人を大藏寮になしのぼせしと云事の由にて、こゝの名におふ事と成ぬ。今の飛(168)鳥の里より北に在て藤原の都在し以南《ミナミ》の原野也、こゝに父帝の宮居造らしゝは、またく神さぶと岩|門《卜》かくれましゝ我つかふまつる君の御いさをぞと先云擧る也。帝畿内の外なるは背面《ソトモ》の國と云、墻外の義也、美濃の國をこゝには指て云、其不破山と云を越て、和射見の原に行宮を作り、父帝の吉野よりこゝに遷らせし也。狛《コマノ》劔には柄頭《タカミ》に輪を穿《ツチ》緒を貫通す製有、故にわさみの原に云かけし文言也。鳥が鳴吾妻と云は、鴉の音の亞《ア》々と鳴くにかけし文言也。千はやぶる人とはいちはやぶる人也、殘賊兇暴神と書て、ちはやぶるあしき神とよむ、神にも人にも惡き行ひあるを云より、いちばやきと云てよからぬ事を先すゝみてするに云。あともふとは跡より催すにて、さて引率するにも云。大角小角は笛也、儀式軍陣等に用ゆ。飄《ツムジ》は今は辻風と俗に云て暴風也。渡會の齋の宮より神風の吹起りて、日の光を翳ひしに乘て、皇子の軍を進め勝を取給ふ事有しなるべし、國史にては見ざる事也。木綿花の榮ゆるは此花の屯《ムラ》がりて咲く物に云歟、。穀《カヂ》の木の花也、或は神に奉るゆふの花々しきを云歟。遣便の便は使の誤也。皇子(169)の宮殿は香山の麓に在ば、埴安の原は御門にあるべし。鹿じもの犬じものは鹿の犬のと云に、しもと云語を助《クハヘ》て意を重くする也。春鳥のさまよひは鳥の吟行して遊ぶを、舍人等の立走て歎くにたとふ也。朝も吉木(ノ)上と云にて、木と云一言にかゝるとす、此文言さま/”\に解けど從ひがたし。哭澤の神社は香山の畝尾に在と云事古事記に見ゆ、今は香山の辨天と云て祠在、是なるべし。此一首は類聚歌林に檜隈女王怨泣澤神社之歌也と古注に見ゆれど、信じがたき書なればおきぬべし。甕穿居《ミワホリスヱ》ていのるは御病の篤しきに此祠にいのりしかど驗無りしと也。酒を神に奉るは大前に甕を土に穿居て釀《カモ》しおき、熟する時蓋を取て進る也。哭澤の神は伊邪那伎の御涙に化《ナレ》る也、女《ヒメ》神と云り。皇太子の薨は持統の十年七月と史に見ゆ。
但馬皇女薨後、穗積皇子冬日雪落遙望2御墓1、悲傷流v涕御作歌
皇女は和銅元年六月に薨去有しを、雪ふる比猶慕はせ給ふ也。
203 ふる雪は安幡《アハ》になふりそ吉隱《ヨナバリ》の猪養の岡の塞《セキ》ならまくに
(170)淡になふりそとは淡雪はこまかに降て積安からず、つめばはた崩れやすくて人馬を斃す故に、人のいきかひを妨ぐる也、寒極りて水氣盡淡々しく降也、凝つみやすきはいまだ水氣盡ざる也、冬より春にかけては寒極りてこの降をあは雪と云、沫泡の假名はあわと書、淡味にはあはと書、わかつとするは私法の教にて自然の言語に非ず、見よ是に安幡と書しは法則に免れたるをいかに云や、佐幡の誤と云は似もつかぬ者ぞ。
弓削皇子薨時置始東人作歌
文武の朝三年七月に薨ず、天武の御子也。
204 安見しゝ 吾大君 高光《タカテラス》 日の皇子 久堅の 天宮《アマツミヤ》に 神ながら 神といませば 其をしも あやにかしこみ 晝はも 日の暮るまで 夜《ヨル》はも 夜の明るまで 臥居歎けど あきたらぬかも
反歌
(171)205 大君は神にしませば天雲の五百重《イホヘ》の上に隱たまひぬ
上を下に誤りぬべし。
又短歌
206 神樂浪《サヾナミ》の志賀さゝれ波しく/\に常にと君がおもほへりける
長歌はたゞ人の口をまねたるばかりにて感なし、短歌も雲がくれを言わりたるが巧にや、さゝ浪の歌は近江の地名を擧たれば、飛鳥の宮人を傷めるによしなければ、是は小序を脱したること人の傷みかと云も聞えたれど、重浪のしく/\にといはん上は、文言のみに見過すべし、歌のよからねば春鳥のまねて囀るばかりなるに、地名も荷ひもてや出づらむ。
柿本朝臣人麻呂妻死之後泣血哀慟作歌
此歌は正妻ならず、しのびかよひし女の死けるをかなしめるなるべしと云はよろし、(172)詞章にもしか見え、又人まろの死に臨みて都に妹が待つゝあらむと云次に、妻の依羅の娘子が歌と云もあれば、正妻はよさみの娘子と云なるべし。さて石見に在ほど、かしこにてもおもひ妻有しは、上に別れの歌に見ゆ、其石見なる妻に子などやとゞまりて、語會《カタラヒ》氏と云子孫の綿々と有より、彼國の産の人と云僞妄の言も云出けん、いにしへ學ばねばかゝる言にも誘なはるゝぞかし。
207 天飛や 輕の路は 吾妹兒の 里にしあれば ねもごろに 見まくほしけど 不止《ツネニ》行《ユカ》ば 人目を多み まねく往ば 人知ぬべみ さねかづら 後もあはんと 大船の 思ひたのみて 玉蜻《カゲロフ》の 磐垣淵の 隱《コモリ》のみ 戀つゝ在に わたる日の 暮行が如 照月の 雲がくるごと 奥津藻の 靡きし妹は もみぢ葉の 過ていにしと 玉梓の 使のいへば 梓弓 聲《オト》のみ聞て【一云をとる】 いはんすべ せんすべしらに 音|耳《ノミ》を 聞て有得ねば 吾戀る 千重の一隔《ヒトヘ》も 悶《オモヒ》やる 情《コヽロ》もあ(173)れやと 吾妹子が 不止《ツネ》に出て見し 輕の市に 吾立聞ば 玉手すき 畝火の山に 鳴鳥の 音《コヱ》も聞えず 玉鉾の 通|行《ユキ》人も 獨だに 似てしあらねば すべをなみ 妹が名よびて 袖ぞ振つる
短歌
208 秋山のもみぢを茂みまどはせる妹をもとめん山路しらずも 一に道しらずして
209 もみぢ葉のちりにしなべに玉づさの使を見ればあひし日思ほゆ
此しのびてかよへるは畝火山の邊、輕の郷なり、親のまだゆるさぬにや、常に人目をいとひて間無くはゆかず、されど後までも逢んとおもひたのみて、心に深くこもりかに戀つゝありしに、にはかに病して牀に靡き伏たりしが、終にむなしと使して聞えしかば、其音づれのすべなく、かくとだに聞ては有にあり得ねば、千ゝのひとつにも(174)悶《オモヒ》を遣《ヤ》る事のあらばと、輕の市路に出て聞ば、あなさぶし、それと云ん聲も聞えず、道ゆき人の中には似たるもあらねば、いよゝ爲《ス》べなきまゝに、空にむかひて妹が名をよび、袖打ふりて魂をば招きかへさんとのみすると也。いと若きふるまひは戀の奴と云べきものぞ。天飛やかる鴨のうへを地の名にかけし也。葛のはひわかれては又あふを云なれば、さねかづらのみにあらぬから、輕く葛とのみ意得べし、後も逢んとは後までも逢んと云に、聞得がたけれどさることわり也。
大船はたのみあるこゝちすべし。石火電光の例にかぎろふの石《イハ》とかけたり、岩垣めぐれる淵はこもりかにぞある。おきつ藻のなびきもたゞ藻の靡きに心得べし、死て牀に臥たる状《サマ》也。いはんすべせんすべしらに、古語にはいと切めて悲しきに云、せん方無しと後には云。もみぢ葉の散るを人の世にとゞまらぬにたとふ。玉づさの使と云事、さま/”\云へど聞べきは無し、若は玉は魂《タマ》のかよひて具《ツブサ》に告ると云にや、文にも使にも言のつばらにかよへば、喧《ナク》鳥のとはなき人の聲のといはん文言也。玉鉾の道さま(175)/”\いへど聞べきはなし、神武紀に細矛千足の國と書て、ほそぼこちたるとよむは、後の人の古言をしらぬ也、細の字精細々妙の義にてくはしといにしへはよみし也、名細《ナグハシ》吉野|花細《ハナグハシ》馬《マ》くはし妻《メ》の例にて、細矛もくはし矛とよむべし、千足《チヾタル》は軍器の備とゝのへる也。さて矛には玉をかざり着し也、瓊矛《ヌボコ》と云は即玉鉾也、玉の滑《ナメ》らかなるをつゞめて滑《ヌ》と云て、即玉の稱とせし也。さて大和は細矛足國《タマホコノミチタレルクニ》ともよむべき歟、滿足の滿《ミチ》を道にかへて云歟と試に云のみ。反歌の使を見れば來よとの便に思ひなさるよと也。
次の歌は子ある妻の別れ也、是は正妻にて在しを、此妻|亡《ナク》成て後、依羅の女をや又|後妻《ウハナリ》に迎へけん。この朝臣はいとも戯男にて、京田舍に妻あまたもたりけんと思ふは、下の卷々に見ゆ。されば此歌の端詞は、別に柿本朝臣人麻呂妻死之時悲傷作歌とや有し。
210 うつせみと 思ひし時に 携手《テタヅサヘ》 吾二人見し 走出の 堤に立る 槻の木の こ(176)ちごちの枝の 春の葉の 茂きが如く 思へりし 妹にはあれど 憑めりし 兒等《コラ》にはあれど 世間《ヨノナカ》を 背《ソムキ》し得ねば かげろふの もゆる荒野に 白妙の 天領巾隱《アマヒレガクリ》 鳥じもの 朝立いまして 入日なす かくれにしかば わぎも子が 形見における 若兒《ミドリコ》の 乞泣毎に 取あたふ 物しなければ をとこじもの 腋《ワキ》ばさみ持て わぎも子と 二人吾寢し 枕づく 妻屋の内に 晝はも うらさび暮し 夜はも 氣《イキ》つぎ明し 歎けども せんすべしらに 戀れども あふよしをなみ 大鳥の 羽易《ハガヘ》の山に 汝《ナ》が戀る 妹はいますと 人のいへば 岩根さくみて なづみ來《コ》し 吉雲《ヨクモ》ぞ無き うつせみと おもひし妹が かげろふの ほのかにだにも 見えぬしおもへば
短歌
(177)211 去年見てし秋の月夜は照せれどあひ見し妹はいや年|疎《サカ》る
212 衾道《フスマヂ》を引手《ヒキダ》の山に妹をおきて山路をゆけば生《イケ》りとも無し
家に來て妻屋を見れば玉床の外に向來《ソムケリ》妹が木《コ》枕
長歌は或本にと有と彼是を合せてしるしぬ、たがへりしはそこにいふ。まさしく物思知し時に妹と見し門邊の堤の槻の木の枝あまたに茂きが如く、思ひしみし妹にはあれどいかにおもひてか、去し後は次ても世を背き得ねば、火葬りして荒野の煙に雲がくれし跡にかたみのみどり子の乞泣ごとに、取あたふべき物も常に羽ぐゝみならはねば、只男のあら/\しく腋に夾みて、此|忌《イ》こもる妻屋の内に夜晝なげきのみしてあれど、せんすべもなし、さらば戀れどもあふよしなきに、羽がひの山にこそ妹をゝさめしならずや、いきて魂よばひせよと云人におどろかされて、山路の岩根ふみ分こしかど、よく告しにもあらず、我を嘲《あざむ》くおよづれ言にいざなはれし也。されどこゝに灰にだもと(178)ゞめしから、俤をかり初にも見せよと也。いとあはれを切《せ》めたるは此をさな子の羽ぐゝみがたきに、しのぶ情《コヽロ》もいとみだりにみだれたるべし。さて反歌の次序亂れたる歟、且長歌には羽易の山と云て、是には引手の山と云、同じ處のやう也、衾田の疋田と云地名か、陵墓式によりて思ゆ。さひのくま檜の隈の例にはあらず、吉野なる菜つみの川と云に同じ。さて其山にむなしき灰をや埋けん、又|荼火《たび》なして體《カラ》をや葬りけん、其跡|尋《トメ》て來れど、見るよしもなければ、生てありともおもはず、家に歸來てこの妻のこもりをりし所を見れば、あなはかな、此木枕の牀より外にはぶれこぼれたるぞといふ、句々實情紙に溢れたりな。走出とは堤のくだりなる形也、古事記に初瀬山の立出、はしり出と云詞見ゆ、立出は山の湧出する形、はしり出は陵遲の状也、不二のはしり出とよみたり。こちごちは彼方此方《カナタコナタ》に同じ、是はたゞおもふ情の繁きにたとふ也。妹にはあれど、兒等にはあれど、同じ人の上をねもごろに云也。荒野に雲がくれしといへば、火はぶりかとおもふはあやまちにや。天領巾《アマヒレ》がくりは雲隱りと云文言也、(179)白雲のたゞよひなびくを領巾《ヒレ》に見たてゝ、さて天と云語を冠らせたれば雲と聞べく、鳥の朝立ゆく如く日の入ぬる如く跡なく成しと也。一本に男じものと有もて、鳥穗自物は烏徳《ヲトコ》の誤かと云り。昔の家は棟をわかちて、客殿寢所厨屋と作りけん、妻屋は妻ごめの所也、高貴の家も今は作りつゞけたれど、其間毎はわかちたり。
大鳥のみならず羽がへはすれど。さね葛後もあはんの例に意得べし。
去年の秋見し月は今も夜わたれど、獨のみ見つゝいや/\に年も遠ざかりなんと也。家に來て吾屋とはいかに、吾は妻の寫たがへなるべし。
吉備津采女死時柿本朝臣人麻呂作歌
此采女は人丸の親族かと云り、或は吉備津は志我津の誤か。歌に志我津の子、又大津の子ともいへばと云り。
217 秋山の したぶる妹 なよ竹の とをよる子|等《ラ》は いか樣に おもひをりて(180)か 栲紲《タクツナ》の 長き命を 露こそは あしたにおきて 夕には きえぬといへ 霧こそは ゆふべに立て 朝には 失ぬといへ 梓弓 音聞吾も ほのに見し 事悔しきを 敷たへの 手枕まきて 劔刀 身にそへ寐けん 若草の 其夫の子は さぶしみみか 思ひてぬらむ《一に戀おもふらむ》 時ならず 過にし兒等が 朝露の如や 夕霧の如や
短歌
218 さゝ浪の志我津の子等が|まかり《罷》道の川瀬の道を見ればさぶしも
219 天《ソラ》數ふ凡《オホ》津の子があひし日におほに見しかば今ぞくやしき
此うねめは定てかほよ人也けん、先其姿を言て、さる人の此世にあらでいかさまにおもひて常にをりけむ、露にたぐへ霧に身をなして、はかなくや成にけん、一度ほのかに(180)見て物らいはざりし事ぞ悔しきを、其そひふせし夫なる人は、いかにさぶしからむ、いまだ若き人の時にもあらで、朝つゆ夕霧の如に消失ぬるはといふ也。反歌にまかり道の川瀬の道のさぶしとよむは、近江の人にて里に行|退《マカ》り路の宇治川の邊の道をや云。次に又ほのにのみ見て悔しきとかへして歎くは、一たびほのに見るよし有しを、鈍《オゾ》き心にえ物云よせざりしと云にて、親族氏族の中なるかとは云。
讃岐|狹岑《サミノ》島視2石中死人1柿本朝臣人麿作歌
狹岑《サミノ》島彼國に今は名聞えず、呼かはりしならむ。朝臣石見より上る路次にこゝに船がゝりして、此あはれなる者を見て、取をさめてや過られけむ、かゝる事集中に所々見ゆ。いにしへは船陸ともに便宜あしくて、横死する人ありしと見ゆ、今は海路には例有事也。
220 玉藻吉 讃岐の國は 國がらか 見れどもあかず 神がらか 幾許《コヽダ》貴《タフト》き 天地(182)の 月日とゝもに 滿《タリ》ゆかん 神の御面《ミオモ》と 次來《ツギテコシ》 中の水門《ミナト》從《ユ》 舟浮て 吾|※[手偏+旁]《コギ》來れば 時津風 雲居に吹に 奥《オキ》見れば 跡位《シキ》浪立 邊《ヘタ》見れば 白浪|散動《サワグ》 鯨魚取 海をかしこみ 行船の 梶引折て 彼此《ヲチコチ》の 島は多けど 名細き 狹岑の島の 荒礒囘《アリソワ》に 廬作《イホリシ》て見れば 波の音の 繁き濱邊を 敷たへの 枕になして 荒床《アラドコ》に 自伏《コロブス》君が 家しらば 往ても告ん 妻知らば 來てもとはましを 玉鉾の 道だにしらず 鬱悒《イブカシ》く 待か戀らん 愛《ハシ》き妻等は
反歌
221 妻もあらば採《ツミ》て多宜《タゲ》まし佐美の山野のへの宇波疑|過去《スギニ》けらずや
222 おきつ波來よる荒礒を敷たへの枕とまきてなせる君かも
此むなしき屍はいやしき状ならねば、妻もあらば出立て尋《トメ》來んと云り、家はもとより(183)よろしく住つべき人とこそ見たまへれ。
玉藻吉は讃岐の國と云べき由あるべし、ぬの一言にかけしと云は迂遠也、青丹吉奈良、朝もよし紀の國、又城のべ、いづれも解得しを聞ず。月日と共に滿《タリ》ゆかん神の御面《ミオモ》とは、面足《オモタリ》の神の由にて、此國は古事記に伊與の二名島を生たまふ、此島は身一つにして面四つ有、面毎に名有と云て、讃岐を飯依比古《イヒヨリヒコ》と申すと云、面足《オモタリノ》神とは國の形やゝ連屬したるを申す也。
中の水門は那何郡の湊なるべし。跡位浪をしき波とよめと云、よむべきやう也。梶引折ては楫を引直してよき方へ向る舟長が手練也。さみの島に來て風のあしければ、廬して日を暮しけんに、此はかなき者を見つけてすゞろに悲しくおぼえしかば、言には打出られけん。宇波疑は和名抄に薺蒿と云物の由に見ゆるを、今は喰ふまじきから鷄兒腸《ヨメガハギ》の古名也といへど、いにしへはくひし物の今くふまじきが延喜の大内正膳等の式に見ゆ、しひて定めては云まじき也。さて妻の從ひてあらば、此よき物を煮てすゝ(184)むべきをと云は、飢人とこそ見たまへれ。過にけらずやは盛ならずやと云に同じ。枕とまきてなせるとは今はよむまじき詞章也。
柿本朝臣人麻呂在2石見國1臨v死時自傷作歌
在石見國と書しに、生國ならぬを知べし、死とあれば五位以下の人也。
223 鴨山の磐根しまける吾をかもしらずと妹が待つゝあらむ
任果ぬほどに彼土にて死なれし也、今はにおぼす都なる妻のいつ/\と指を屈《ヲリ》て待らん事よと、こゝの山邊に葬らるべきを岩がね枕すとはよませし也。鴨山高津の山と云、一つ處なるべし、こゝは洪水に崩れて今は一里計の南に、さる山の名をあらたにおふせて呼と云り。岩根しまきのしは助語也、枕を用語にはまくと云、まくは求むると云古言也。
柿本朝臣人麻呂死時妻依羅娘子作歌 是は都なる後妻なるべし。
(185)224 けふ/\と吾待君は石水《イシカハ》の貝に交りて有といはずやも
225 たゞにあはゞあひがてましを石川に雲立わたれ見つゝしのばむ
いはずやもはいはであれかしと云詞也、さ云は今は亡《ナク》なりしと告來たるを聞て、待かひなく成にしかば、かゝりとは告こずもあれかしと、切なる余りに云也。石川も鴨山のあたりに在歟、石水と有は石川の誤成べし。雲たちわたれとは此比專ら荼火せしかば其煙のこゝまでも見えよかしと云。物思ふにはさま/”\心稚く成て、あらぬ事のみ云つゝ狂ふさまなるは、いにしへ今の通情也。
丹比眞人 名闕 擬2柿本朝臣人麿之意1報歌
此人は親族などにて、此歎きをなぐさめかねつゝ、朝臣の意に擬してよむにや。
226 荒浪によせくる玉を枕におき吾こゝに有と誰か告《ノラ》なん
玉とは貝の美なるを云、貝錦なども見え、又寶貝とも云。我こゝに死るとは誰か告な(186)んと云、臨死《イマハ》の時を思ひはかりて云のみ。枕におくは海邊に臥たる状也。
或本歌曰
227 天ざかる夷《ヒナ》の荒野に君をおきて思ひつゝあれば生りともなし
此歌も共に擬作かといへど是は妻のよめるなるべし、注に作者未詳、但古本に載すとあるには、漏せしを一本に載せしかど、次序をよくもせざりしかば、後に見分つまじく成し也。
寧樂宮
和銅四年 こゝに時月を脱す 歳次辛亥河邊宮人姫島松原見2孃子屍1悲歎作歌
姫島と云地は安閑紀に難波の大隅と媛島の松原とに牛を放ち飼しむ事見え、又元正紀にも攝津國大隅媛島の二牧を罷て百姓に佃食せしむ事見ゆ、今は西成郡の西限に稗島佃などの里名在をこゝかといへど、其わたりは昔は海中にこそあらめ、されど地名は移りて呼つたふる者なれば名の由は聞べし。
(187)228 妹が名は千代に流れん姫島の小松が末《ウレ》に蘿《コケ》むすまでに
229 難波方汐干なありそね沈みにし妹が姿を見まく苦しも
所の名の姫島と云を、をとめが上にかけて千代に流れんとは云、されど汐な干そ此屍を見るが苦しきと也。
靈龜元年歳次乙卯秋九月志貴親王薨時作歌
國史に考れば二年丙辰八月也、親王は天智の皇子也、光仁天皇の父君なりしかば、即位の後贈名して田原天皇と尊稱し奉りし也。
230 梓弓 手に取持《タヅサヘ》て 丈夫《マスラヲ》の 得物矢《サツヤ》手挿《タバサミ》 立むかふ 高圓山に 春野燒 野火と見るまで もゆる火を いかにと問へば 玉鉾の 道|來《ユキ》人の 泣涙 霈霖《ヒサメ》にふれば 白妙の 衣ひづちて 立とまり 吾にかたらく 何《イツ》しかも 本名《モトナ》言にし 聞つれば 泣のみし所哭《ナカユ》 かたらへば 心ぞいたき 天皇《スメロギ》の 神の御子の (188)御駕《イデマシ》の 手火《タビ》の光ぞ こゝだ照たる
短歌
231 高圓の野邊の秋|芳子《ハギ》いたづらに咲か散なん見る人なしに
232 御笠山野邊ゆく道はこきだくも繁くあれたる久《ヒサ》にあらなくに
親王の葬式の供奉の手火の光《カヽヤ》きを見さけてよみたる也。反歌の二首は後によみしと聞ゆ。
梓弓と云より六句は高圓といはん文言のみ。高圓は遠的と云に同じ。霈霖を氷雨《ヒサメ》とよめと云、字は當らねど、泣涙の氷《ヒ》にこりて降と云には言かなへり。本名はむなしきと云古言也、物の基《モト》なくは頼まれぬ也。しきは助語也。刊本徒にを從にあやまる、いたづらとはよみがたし。此歌笠朝臣金村が歌集に出と注に見ゆ、彼人のよめるにもあるべし。
(189)楢の杣 卷三
此卷は大伴卿の家に書集られしなるべしと云り。父の旅人卿の歌の小序に、大納言大伴卿とも又太宰帥大伴卿とも、崇めて名を書《しる》されぬに、他人の所爲ならぬはしるし。是を猶詳らかに云て卷の順序を立《たて》たる説もあれど、強言めきたれば置ぬべし。此始にも雜歌と有は、第一の卷の例也。
天皇御2遊雷丘1之時、柿本朝臣人麻呂作歌
天皇は持統帝也、八百人の舍人の中に人丸も有て、供奉につかふまつれる也。雷丘は飛鳥の郷の内に今もいかづち村と云名在、名の由は雄略紀に見ゆ、又日本靈異記と云釋氏の書に、此事をつばらかに載せたれど、物がたりめきたるには信じて書出しがたし。雄略紀に見ゆるとても怪しくおぼゆる事ながら、さる事の有しとのみにやむべ(190)し。事長ければ空にはたがひもすと書出ず、史に見るべし。
235 皇《オホキミ》は神にしませば天雲のいかづちの上《ヘ》に廬《イホリ》するかも
清み原藤原いづれの都よりも程近きにおほん遊び常《ナホ》ならねば、行在所《カリミヤ》造り儲けて御旅寢はありしなるべし、其處《ソコ》は雷丘《イカヅチノヲカ》と呼べば雲ゐにかけ走る神の住ところならんは、君はたゞに明津神にてましませば、そのかしこき神のしむる所に、宮をばかり初ながら作らせて遊ばせたまふと云也。一本には獻2忍壁皇子1也と有て、歌の詞いさゝかたがへる也、宮敷ませるはよろしけれど、雲がくれとはいむべき言なれば採べからず。此御遊びは秋のもみぢ見に出ませしか。歌の巧み寔に朝臣の妙處也。
天皇賜2志斐嫗《シビノオヨナニ》1御製歌
志斐氏は姓氏録に見ゆ。此嫗は君のきびはなりし昔より仕へて、親しく今も參らるゝなるべし。
(191)236 不聽《イナ》といへど強《シヒ》る志斐《シビ》ながしひ語《ゴト》を比者《コノゴロ》聞かで朕《アレ》戀にけり
老女《オヨナ》の長語《ムダコト》してはてなきをいとをかしとおぼせど、時々は倦《ウン》じさせしものから、凡《オホ》にしもあへしらひ給へど、又なつかしまるゝ人なれば戀しくおぼせば、御使しておほんを賜へる也。此御戯れ言にて御ざえのさかしきを推知り奉る。うべも天智の御子にて、天武の皇后にましませば、いづれに馴れむつばせてもさかしくますべき者ぞ。刊本志斐能は志斐那《シビナ》の寫したがへにて、志斐女と云なるべし。此者は比者の誤歟、此曾にても有べし。
志斐嫗奉v和《コタヘ》歌 名未詳と注に見ゆ。
237 いなといへど話れ/\と詔《ノレ》ばこそ志斐伊は奏《マヲ》せ強《シヒ》ごとゝ言《ノル》
こたへ奉れる詞のさかしきにて、物よくいひ通《トホ》れる老女なるをしらる。されど老ぬれば同じ事をや奏すらむ、いと老ぬれば物よくいふ/\とするが飽《アキ》たくぞある。志斐伊(192)は言を延《ヒキ》てうたふ歌腔《フシハカセ》にや、君伊しなくはと云もあり、又日本紀の歌にも志比《シヒ》々久比比など云も見ゆる、又麻呂伊と云も宣命に見ゆ。ひの音を延《ヒ》けば伊は生《ウマ》るゝを、呂には生れぬ音も例によりては、しかもうたふ歟、君伊しはみに伊は生るゝ也。
長忌寸意吉麻呂應v詔歌
とは次序を以ては持統の應制にや、御製を漏したれば知るべからず。
238 大宮之内|二手《マデ》聞ゆ網引すと網子とゝのふる海人《アマ》の呼《ヨビ》聲
是は難波の宮に行幸の時なるべし、こゝは孝徳の長柄の豐崎の宮の舊郷なる歟、持統文武の代々にこゝに出ませし事史に見えざれど、脱し事も多かればしられず、浦濱近き行在所なれば、宮中までも網引する聲の聞ゆるが、大和の都人のいともめづらかにおぼゆべし。
網子とゝのふるは大網を引くには人多く網手綱《アタヅナ》に取つきて引よするを、漁翁《ムラギミ》の呼たて聲して調練するを云。難波宮の事、造宮司藤原の宇合卿の昔こその歌、又長柄宮の歌(193)の下に云べし。
長皇子遊2獵路池1之時柿本朝臣人麻呂作歌
奈賀親王は天武の皇子也、獵路池は畝傍山の邊輕の里に有べし、古事記に垂仁の御時、市師(ノ)池、輕(ノ)池を堀す事見えたり。親王のこゝに遊びたまふに舍人の列に陪從して出てよめる也。
239 八隅知之 吾大王《ワゴオホキミ》 高光《タカテラス》 吾《アガ》日の皇子の 馬|並而《ナメテ》 御獵立流《ミカリニタヽル》 弱薦《ワカゴモ》を かる路の小野に 十六《シヽ》社《コソ》は 伊波比|拜目《フスラメ》鶉こそ 伊はひ回《モトホ》れ 鹿《シヽ》じもの 伊はひふせりて 鶉|如《ナス》 いはひもとほり かしこしと 仕へまつりて 久堅の 天見る如く 眞十鏡 仰ぎて見れど 春草の いやめづらしき 吾大君かも
初の句々は例の壽詞《ヨゴト》也、御狩の出立の儀粧《ヨソホヒ》の嚴《イカ》めしきに從ひ奉る人も、鹿の膝折て伏《フセ》るが如く鶉の歩《アユ》みのもとほるがごとくして、恭《イヤ》々しく仕ふると云也。皇子の御獵に出(194)たゝす中に、此皇子の行粧の殊に花やぎ給ふを、いやめづらしきとはほめたゝふる也。弱蒋《ワカコモ》を刈と云て、輕路の小野にかけし文言のみ。眞十《マソ》鏡をあふぎて見るとは、己が容儀を見るかゞみにはあらで、神に奉る幣《ヌサ》の鏡なれば仰ぎて見ると云歟、彼賢木の枝に掛てフ出たる状也。春草はいや生《オヒ》出る者なればいやめづらしきと云。三月をやよひ月と云は彌生《イヤオヒ》月也と云義也、おひよひと音通ぜざれど古言也。
反歌
240 久堅の天《アメ・ソラ》歸《ユク》月を綱《ツナ》にさし我大君は蓋《キヌガサ》に爲《セ》り
刊本網は綱の誤といへり、御狩は夜に入て望の夜比の月のすみ昇りたるを、とりあへず君の蓋に綱さしぬきてさゝけ奉らんと云也、蓋は儀制令に皇太子には紫の表蘇芳裏の絹もて張、頂及四角の覆には錦に總を垂ると見え、親王には紫の大纈《オホユハタ》と有は絹の色にや、蓋は必|圓形《マロキ》を四角と有は四方のみに垂着るなるべし。かくいへど其制まさ目(195)に見ねばしらず、又或本反歌と有も同じく朝臣の調也。
241 すめろぎは神にしませば眞木の立荒山中に海をなすかも
輕の池の心ひろきを直《タヾ》に海と見なして、昔の垂仁のほらせたまひし事を思し出て、かゝる山中にも海水を湛へしめたまふ事と、古しへを懷ひてよめる也。皇の字こゝにてはすめろぎとよむは、皇子の御うへならず、昔の天皇の國つ寶をはかりなしおきたまへるを賞《ホム》る也。天の字を脱せしにも有べし。長歌は朝臣といへども秀歌ともおぼえず、二首の短歌の巧める樣、寔にこの高妙をおぼゆ。
弓削皇子遊2吉野1時御歌
242 瀧の上《ヘ》の三船の山に居る雲の常にあらむと我|思《モ》はなくに
皇子は天武の御子にて、文武の三年に薨ぜられたれば、若うより常に病悩《ナヤミ》がちにおはせしかば、此歌の意のはかなげにおぼゆ。
(196)三船山は吉野川の上《ホトリ》に在、或人菜摘の里の上方に船屋形の状せし山也と云。
春日王奉v和《コタヘ》歌 此遊びに從ひたる人也。
243 大君は千歳にまさん白雲も三船の山に絶るあらめや
など心弱くおはすや、此峯に雲の立居ぬ日は神代よりあらぬ事はあらめ、猶行末もしからんには是にたぐへて、世は常世にはおはしまさんと言ほぎせし也。皇子の御歌上をみよしのゝとかへて又出せるは、後のうら書にて一の傳へ也。是は人麻呂の集と云に出づと注す、上古の家記には他人の歌も感ありてはしるしおきしと也。
長田王使2筑紫1而渡2水島1之時作歌 と有べき序詞也。
245 聞之如|眞《マコト》貴《タフト》く奇《アヤシク》も神さび居《ヲ》るか是の水島
和名抄肥後の菊地郡に水島見ゆ、風土記には球摩《クマノ》乾(ノ)海中に在、七里を渡ると云、(197)此島まことに奇《クシ》き状《カタチ》して海中立るが神さびたりと云。神さびとは神代ながらの状《アリサマ》なるを云、上久とかきてしかよむも、上代《カミヨ》より久しきと云義字也。このさびと云も、すゝみの約言にて、神代にすゞろにいたるこゝちすと云義也。
246 葦北の野坂の浦|從《ユ》船出して水島にゆかん浪たつな勤《ユメ》
此歌は上に在べし、いまだ島にわたらで船出する時によみし也。此野坂の浦より七里のわたり歟。波立なゆめとは海上の恐しさに呪詞《マジコト》を云也。勤とは忌《イミ》つゝしめと云を約して云也。
石川大夫|和《コタヘ》歌
名を闕《モラ》せしには古注に從四位下石川宮麻呂朝臣慶雲年中任2大貳1、又正五位下石川朝臣|吉美侯《キミコ》神龜年中任2少貳1、不v知3兩人誰作2此歌1と見ゆるを、四の卷に神龜五年太宰少貳石川足人朝臣遷任と有ぞ其人ならん。此集の例に四位には氏名の下に姓を書、五位は大夫とのみ書けり。今少貳の時にて五位なれば大夫と書くかと云説有。
(198)247 おきつ浪邊波たつとも我|夫子《セコ》が三船の泊り波たゝめやも
都人はかゝる海上の恐しさに、此|壽詞《ヨゴト》をするにこたへて、沖に邊に浪たつとも水島の泊りには安くわたらせて、波もなく安眠《ヤスイ》したまはんと也。けふ風波のいさゝか吹たつなるべし。
長田王又作歌 と有し歟。
248 隼人《ハヤビト》の薩摩の迫門《セト》を雲居|如《ナス》遠くも吾は今日見つるかも
水島の渡の間に薩摩方の見ゆるが雲のなびきの如也と云。さて遠くも來にけるよと心ぼそくてよめる也。隼人の薩摩とは火《ホ》の折《サキ》の命《ミコト》の御心のいちはやびしを略してはや人と云、又狩を好みて山の幸《サチ》海の幸獲たまふ故に幸《サツ》人とも云り。其神の住《トヾ》まりたまふ國にてさつまの國と云事神代紀に委し。
柿本朝臣人麻呂※[覊の馬が奇]旅歌
249 三津(ノ)崎浪|矣《ゾ》恐《カシコシ》隱江《コモリエ》乃|舟公宣如島爾《フネコグキミガノラクヌジマニ》
石見の任に向《オモム》くに、先難波の三津に船發《フナビラキ》する時、波のかしこくおぼえしかば、舟こぐ公《ヲサ》にこゝよりいづこへと問へば、舟公|告《ノ》る、淡路の野島を差して渡りさむらふと告る也。隱江《コモリヱ》乃は隱江|乎《ヲ》にて、けふ風波のたてば沖邊へは出さず、入たる江づたひにや漕つらん、入江にそひて行は恐しからぬ故に、遠くとも漕めぐりつらんか、されどこもり江の章朝臣の歌にはおとりざまに聞ゆ。
250 珠藻かる敏馬《ミヌメ》を過て夏草の野島が崎に舟近づきぬ
舟公が告《ノ》る、敏馬を今や漕過て野島の泊り近くさむらふと云、都人の波路をおそるゝにかく和《ナグ》さむるがよろこばしさによめる也。藻刈するにはぬら/\とすると云也とや、たゞ敏馬わたりの海人の所業《シワザ》を云ともおぼゆ。夏草の、是も野と云一言にかけて草の萎《ヌエ》ふすと云也とぞ、たゞ野と云て夏草の野とのみ歟。夏野は草の茂ければ一本に處(200)女《ヲトメ》と有、をとめ冢あるあたりを過てと云歟。野島が崎に廬《イホリ》する吾等《アラ》はとあるは、はやく此泊に來て荒磯上《アリソベ》に行廬《カリホ》つくり安眠《ヤスイ》せんがうれしとなるべし。さらばよろこびの心は此方まされり。さて舟公と書て舟こぐ公《キミ》とよみ、舟長の事と云説もあしからず、漁父をむら君と云例も有れば也、又顯宗紀に家長を家ぎみとよみたるも見ゆ。又土佐日記には船中の主たる人を舟君と云り、是によりて舟なる公《キミ》とよみて、石見守がはやく野島へ漕|着《ツケ》よと告《ノ》るとも云べし、宣の字を助けて云也。とかくに此歌はよからねばよみ得ぬ部に入れてやみぬべき歟。
251 粟路《アハヂ》の野島がさきの濱風に妹が結びし紐吹かへす
淡路と四言にいひて聲には延《ヒキ》てうたふ格有や、野島に泊りて夕風吹たつに、妹が別れにかたく結し紐の末を吹靡かすを見て、すゞろに戀しのばるゝと也、いとあはれにて感あり。さて此野嶋の泊とて今在は、三津より南海道にゆく海路に、和泉國を過て紀の名|草《ギサ》の沖にあたり、淡路の方に屬せし島に通船の泊りするを云。さは西海道の便に(201)あらぬを、いかでこゝに舟はよすらん、いとも便あしくて有まじき事也。次に明石の大門《オド》に入日にや※[手偏+旁]《コギ》別れなん家のあたり見でとよめるは、明石を西に見ゆる泊りの夕暮悲しき意也。野島よりは淡路島隔たりて、赤石は究て見えず、さらば此いにしへに野島と云しは今有にはあらで、淡路の北畔にさる泊りの在しや、國人に問へば島には此わたりに浦も潟も無く、况て舟よすべき灣曲の處なしと云り。いといぶかしき事也。誰も疑はずして歌をこゝろ得顔に云は淺はかなる事也。
252 荒たへの藤江の浦に鱸釣る泉郎《アマ》とか見らむ旅ゆく吾《アレ》を
一本に白たへのと有はわろし、いさりするは難なし。旅にはまた疲《ヤツ》るゝ日數經ねど、こゝに徘徊《タチトヾマリ》てあれば蜑とか見なされんとや。例の巧妙也。藤江は明石の西に今も在。
253 稻日野もゆき過がてにおもへるは心《ウラ》に戀しきかこの島見ゆ
播磨の加古郡の印南野也、こゝを行過|難《ガテ》に思へるは、心にしばしも忘れぬ妹の子が事(202)に似たる言のかこの島の見ゆるから也と云。かは虚辭にて子《コ》とのみ云なるべし。島とは海島の國なればすべて云也。一に潮見ゆと有は湖の誤にて、説文に湖は大陂也とあれば、陂門《ハト》にて舟の湊《アツマ》る設の水門《ミナト》の義也、加古の水門《ミナト》とよむと云、此湊は魚住《ナキスミ》の泊の事、三善清行卿の異見封事第十二条に見ゆ、名寸隅《ナキズミ》の歌の下に云べし。
254 留火之《トモルヒノ》明石の大門に入日にや※[手偏+旁]《コギ》別れなん家のあたり不見《ミデ》
この歌は上の野島の泊に夕悲しきすゞろ情に、西に入日を見さけて此暗くなるほどに、吾家《ワギヘ》の方の大和路なる山は見えでと打泣たる也、藤江の浦の上に在べし。
255 天《アマ》ざかる夷《ヒナ》の長道《ナガヂ》從《ユ》戀くれば明石の門《ト》より大和島見ゆ 一に、家門《イヘ》のあたり見ゆと有は劣れり。
是は此西に下る歌の次《ツイ》でにあらず、西より京に上られし時、はる/”\の鄙の長路の西より戀々て、日を經て明石の大門《オド》に來たればあなうれし、こゝより大和島の見ゆと云(203)て、立躍るばかりのよろこびの聲也、かゝるが古歌の一格なるを今の人はよまず。留火と書きしをともし火のとはよみ得がたければ、ともる火のとよめと云に從ひたれど、同じくはともし火のとよみたき者也、いかさまの寫誤にや計りがたし。
256 武庫の海の庭《ニハ》好《ヨク》あらし苅薦《カリゴモ》の亂|出《ヅ》る見ゆ蜑の釣舟
飼飯《ケヒノ》海とあれど其所《ソコ》は北越なれば此路次に違ひ、且人丸のさる國に下向の事他に見えねば、一本を採る。武庫は本國の難波津より西に見ゆる高嶺を牟古山と云、海に沿《ソヒ》て郡の名に呼也。この歌はけふの庭よしといへば、風波いさゝかも立ず、釣舟どものあまた亂てうかびをるをめでゝよむ也。西に舟びらきの時は浪をかしこしといひしかば、此三津に近きむこの海面の庭よしと云にふさはず、さらば是は西より上り來て大和島見ゆる次にて、けふことに風波なくうれしき入津《ツイリ》に、かく見わたしの面しろきを云よ、いとよろこばし。庭よしとは海上の平らかなるをば、庭地に見立し也、今も舟人は日和よしと云。
(205) 鴨(ノ)君|足人《タリント》香具山歌
この歌次に或本の歌と云方よしと云り、取交へて書あらはすは其説に從ふ也。
257 天降《アモリ》つく 天《アメ》之香山 打靡く 春|去來者《サリクレバ》 櫻花 木晩茂み 松風に 池浪|※[風+炎]《タチテ》 邊つべには あぢむらさわぎ 奥べには 鴎妻よぶ 百しきの 大宮人の 去出《マカリデ》に ※[手偏+旁]來《コギコ》し船は 竿※[楫+戈]《サヲカヂ》も なくてさぶしも こがんと思《モ》へど 〔天くだりつくと云を約めてあもりつくと云、天下りますをばあもりますとも云也(原注)〕
反歌
258 人|不※[手偏+旁]《コガデ》あらくもしるし潜《カヅキ》する鴦と高|部《ベ》と舟の上《ヘ》に住む
259 何時間《イツノマ》も神さびけるか香山の鉾椙《ホコスギ》が本に薛《コケ》生《ムス》左右手《マデ》に
古註に今按遷都寧樂之後怜舊作此歌と見ゆる、藤原を奈良に遷されし後、舊都の寂寥たるを云よ。香山に春くれば櫻花咲、夏近ければ木の晩《クレ》茂く成て、松吹風に埴安の池に波立さわぎぬれば、あぢ鳧のむれて邊によると見るに、奥《オキ》の方には鴎の妻|喚《ヨビ》かぬる立(205)居も見えたり。こゝに大宮人のいとまあれば、舟漕めぐらせ遊びし時は、鳥どものうかびがたかりしを、今人絶えて遊ばねば舟は繋ぎ捨て、竿※[楫+戈]もなし、あなさぶしえ、人の漕ねば水にかづき入りて、人さくる鴛|※[爾+鳥]等《タカベラ》も船にあがりて遊ぶを見るがあはれ也と云。〔和名抄−※[爾+鳥]タカベ一名沈鳧、似v鴨小背有v文(原注)〕さて山にはさばかりならざりし杉の酋矛《ナガホコ》と生《オヒ》立榮えて、薛苔むし神さびぬと也。足人の都よりこゝに來て、いとまある遊びしてよめる也。うつし繪を見るが如く、いとよく賦《ツラ》ねたる者也。
柿本朝臣人麻呂献2新田部皇子1歌
天武の皇子一品親王、天平七年まで世におはせし也、人丸又此皇子にも常に參りつかへしなるべし。
261 安みしゝ 吾大君 高|輝《テラス》 日の皇子の 茂坐《シキマセル》 大殿《オホトノ》の於に 久方の 天傳ひ來自《コシ》 雪じもの ゆきゝつゝませ 及萬世《ヨロヅヨマデニ》
(206)刊本常世今強て萬世に改む、作例によりて也、茂坐《シキマセル》茂《シゲキ》を茂《シキ》とも云を數に借歟。
反歌
262 矢釣山木立も見えず落亂《フリミダル》雪は驪《ハダラ》の朝《アシタ》樂《タノシ》毛《モ》
初の句々例の祝言《ヨゴト》して今曉《ケサ》の朝《ミカド》參りしたまへるを、ゆきゝ絶させ給はず宮づかへませと云也。人丸御供にて參られけん。さて矢釣山は木立も見えず降かゝるは、はだらに面白しと云也。朝たのしも、此朝げしきのえもいはれず見るに樂しと也。朝臣といへども是等はさしたるふしもなく思ゆ。驪は斑文《マダラ》の馬歟、はだらと通ず、雪の山も木も降うづむとすれど、さすがにはだらに所々見ゆる也。矢釣山は飛鳥の東方に在、顯宗の宮都|近《チカツ》飛鳥(ノ)八釣宮と申せし所也。皇子のこゝに住たまひて、藤原へ朝《ミカド》參りしたまふ也。
刑部(ノ)垂麻呂從2近江國1上來時作歌
(207)263 馬莫疾《ウマナイタク》打莫行氣並而見爾毛我こん志賀にあらなくに
是も大津の宮を竊に慕ふ人にや、馬をいたく鞭打てなゆ行そ、氣並《イコナベ》てとは馬に氣《イキ》あひして疾《トク》來て見むと思ふ故郷にはあらず、見れば必《ハタ》哀《カナ》しきぞと云にや、詞の足はぬやうにてあれば聞人毎にたがふべし。
柿本朝臣人麻呂從2近江國1上來時、至2宇治河邊1作歌
昔は大和より近江に行には奈良より宇治川の邊を泝りつゝ、石山に越てかよひし歟、今の岩間越喜撰が嵩踰など云坂路をばいづれよりか踰けん。人丸或説に近江を本土にて、衣暇田暇などに度々かよひしかと云へり。集中の歌をあつめて一度の事と見は如何。
264 物の部の八十氏河の網代木にいざよふ浪のゆくへしらずも
網代木に堰るゝも漏てゆくには、さりげなく流るゝを面白く見て、さて行邊しらずもと(208)は感ずる也。孔子の川上に立て悠哉々々、逝者如v斯夫、不v舍《トヾマラズ》2晝夜1と云に似たり。
長(ノ)忌寸奥麻呂歌
とのみにはあらざりしなるべし、天皇幸2于紀國1之時と上に有てさてあるべし。天皇は持統文武いづれ。
265 苦しくもふりくる雨か神の碕狹野の渡りに家もあらなくに
暴雨《ムラサメ》のふりこんに舍人等は雨衣《アマギヌ》もとりあへず從駕《ミトモ》してゆかん状《アリサマ》、見るが如くあはれ也。海邊づたひの見だし廣からぬもて狹《サ》野とは云歟。或説に神武紀に遂越2狹野1到2熊野(ノ)神邑《カミノサトニ》1と云事見ゆれば、神之《カミノ》崎にて三輪の碕とよむまじく云り、熊野は伊邪|諾冊《ナギナミ》の二神の垂跡をいへば、神《カミ》の碕と云事聞べし、第七にも神前《カミノサキ》荒石《アリソ》も見えず浪たちぬいづこよりゆかん曲道《ヨギヂ》は無しにと、是も神《カミ》の碕とよむべく、大神《ミワ》と云氏は國造りませし大物主の神を三和山に祭りしより、三和の郷より出し氏人を大神と書て三輪とはよむ。さて狹野とはわたりせばき野なる事、邊波あらく立くれば回路《ヨギヂ》はなしと云にしら(209)る。
柿本朝臣人麻呂歌
とのみは古にあらず、上に從2近江國1上來時と云度かと思へど、是は第一の卷の近江の舊都を悲傷すと云にそひたる反歌のかしこには傳はらで、別に聞たるまゝを家持卿の記しとゞめられしなるべし。
266 淡海の海夕波千鳥|汝《ナ》が嶋《ナケ》ば心もしのにいにしへ思ほゆ
昔の人に又もあはめやもとよみし次に有べき歌也、心も忍びにとは今の朝庭をはゞかりたる也。調高く意旨《コヽロバヘ》は真情《マコヽロ》に此朝臣の妙處擬ひて學ぶべき風體也。
志貴皇子御歌 此小序もかくてはあらじ。
267 ※[鼠+吾]鼠《ムサヽビ》は木末《コズヱ》もとむと足引の山のさつ雄にあひにけるかも
木末もとむとては今少し巣つくると云に言足ず、木未《コノミ》もとむなるべしと云り、梢抄に巣つくるにても事は聞ゆべし。此歌は有馬皇子の謀坂あらはされて、罪なはれしを諷せしぞと云り。大津皇子も此皇子の在世の間に、密謀あらはれしかばいづれぞ定が(210)たし。さてしか見んには感ある歌也、朗詠に飢※[鼠+吾]性躁と見ゆ、比喩いとかなへり。
長屋王詠2故郷1歌 とあるべし。
268 我せ子が古家《フルヘ》の郷の飛鳥には千鳥なくなり嶋待かねて
飛鳥は六代の都なれば又も帝都となれかしと願ふを、千鳥の河洲失へるにたとへてや云、我せ子とは誰その君に贈りまへるなるべし。さらば小序は詠2故郷1とのみにはあらず、其人に贈るとありしを脱せし也、たゞ結句の島待かねてと云詞聞得がたし、君待の誤か、といへど、たゞ此まゝにおく。
阿倍郎女屋部坂歌
269 人不見者我袖用手將隱乎所燒乍可將有不服而來來
此歌小序よりしてよみ得がたければおきぬ。
高市連黒人※[覊の馬が奇]旅歌 此小序も後に書|加《クハ》へし也。
(211)270 客《タビ》にして物こひしきに山|下《モト》の赤《アケ》の曾保舟|奥《オキ》へ※[手偏+旁]《コグ》見ゆ
次の歌にて見れば尾張の國にての歌なるべし、旅にては物のすゞろに戀しき時しも、山もとなりし朱《アケ》のそほ舟の奥《オキ》へ漕出ると見る/\、都方へ舳さし向て行なるべし、今少言足ねば助けて聞のみ。朱《アケ》ぬりの船は官船なるべし、丹土をそほ土《ニ》と云にて塗たるならむ。
271 桜田へ鶴《タヅ》なきわたる愛智方《アユチガタ》汐干にけらしたづ鳴わたる
尾張の愛智郡に櫻田と云浦里在べし、澳に汐干れば浦邊を指て鶴むらの鳴つれわたるけしき面白し、何言もなくて打聞くに感有が古歌のさま也。鶴はたづとのみ呼しが、後にはよみがたければ田鶴と書けど、いにしへはしか書く事なし。
272 四極《シハツ》山打越見れば笠縫の島※[手偏+旁]かくる棚なし小舟
こは津國に在といへどさだかならず、雄略紀に呉《クレ》漢《アヤ》の機織《ハトリ》等住(ノ)吉《エ》の津に船|泊《トメ》て、こゝ(212)より陸路を磯齒津《シハツ》路より踰て、大和の都に參りし事見ゆ。今を以て考ふによるべき所無し。第六に血渟曲《チヌワ》より雨ぞ降くるしはつの蜑と云歌に見れば、浦郷にて背《ウシロ》は山も有所也、今の住吉の神祠のあたりは大和へこゆべき順路の地なれど、浦邊に山と云べきが昔は在しとも見えず、依て憶ふに住の江は西の兎菟原の郷なるにて、そこは背《ウシロ》に山も有が、こゝに船上りして國中《クヌチ》見巡りつゝして都には來けん、背の山は即武庫山なるが、こゝを打踰ては、有馬山に到るが嶮峻なれば今だにこゆる人稀也、少《スコシ》く東へゆきて今は西の宮と云郷の背より、北へこゆる坂路あり。こゝのわたりをやしはつ山とは云けん、血沼《チヌ》は今の和泉と本國との界の津を云べし。さらば南の暴風《ハヤチ》の吹きくれば、しはつの蜑等干たる網を取入れんとするさまの目を閉て見ゆる也、礒齒津はこゝをもて今の西の宮のわたりなるべし、彼坂路をや呉《クレ》人の踰しとて、呉《クレ》坂と呼初めし事も紀に出たり。こゝをこえては大和の都に行べくもあらねば、是も強ひては云がたけれど、越はてゝ北に今は池田と云郷あり、そこに呉機《クレハ》漢織《アヤハ》の祠あるは何の由《ヨシ》かしらねど、里人(213)自ら呉羽の郷と呼ならへり。されど大和なる初瀬の朝倉の都に參るとて、かく迷ひありかん事いぶかしければ、たゞ驚かしおくのみ。笠縫島も彼西宮あたりの浦里なる歟。昔は大甞會の御笠を本國の笠縫等が奉りし事延喜式に見ゆ、大君の御笠にぬへる有馬菅ともよめれば、このわたり有馬の山菅をも笠には縫し也。歌の意明らかにて見るが如くなるは、櫻田へたづ鳴わたると一體《ヒトツサマ》なる此人の手ぶり也。
273 磯の前《サキ》こぎたみゆけばあふみの海八十の湊にたづさはに鳴
近江の海|泊《トマリ》八十ありともよめば、八十の湊は一所の名にあらぬやう也。されど此歌にては一浦のけしき也。例の見るまゝなるよみ口也、感あると無きは一首のしらべのとゝのひによるもの也。
274 吾船は枚《ヒラ》の湖《ミナト》に※[手偏+旁]はてんおきへ莫《な》逆《サカリ》さ夜|深《フケ》にけり
今は平の浦に泊りせん、沖へなさかりそ、夜は更たるにと云也。第五に奈佐かりとよ(214)める格にこゝろうべし。
275 何處《イヅコ》にか吾やどらなん高島の勝野の原に此日|暮去者《クレナバ》
高島郡は西近江也。そこを行暮てとは陸路をや來《コ》し。さて舟をもとめて八十の湊を漕|回《タミ》つゝ、礒づたひして夜舟こぐがわびしさに、比良の湊に今はとまらんとよめる次手なるを漫《みだ》りてしるせし也。
276 妹も我も一つなるかも三河なる二見《フタミ》の道ゆ別れかねつる
是は三河の國に任官をはたして都にかへる度に、妻は先二見と云所より都にかへして、おのれは所々を見めぐりつゝ後に帰り參れるかと云り。三河を立出て尾近攝城の四國を經つる道ゆきぶり也。さらばこの小序は黒人自2三河國1上來時|與《アタフル》v妻《メニ》歌と有しなるべし。
黒人之妻(ノ)和《コタヘ》歌 と有べし。一本とあるは他に見出てこゝにくはへし也。
(215) 三河|有《ナル》二見の道ゆ別るれば我|夫《セ》も吾もひとりかもゆかん 三河乃は−三河有の誤か(原注)
ひとつなるかも獨かも二見三河とかぞへあけげる俳諧也、いともその世にては口さかしくなん。
277 速《トク》來ても見てましものを山背《ヤマシロ》の高槻の樹《キ》は散にけるかも
高槻樹を刊本村にあやまる。山城の國内《クヌチ》にいづこならむ、槻の喬木の秋は面しろく染と聞に、尋《トメ》こしかひなくて散しと也。第十三五十槻が枝にみづ枝さし秋の紅葉ばとも見ゆ。
石川少郎歌 とあれど石川郎女なるべし、女歌也、小序はいかゞありけん、此をとめ誰にかいざなはれて筑紫には下りし。
278 志迦の海人《アマ》は軍布《メ》苅《カリ》鹽燒いとまなみ櫛笥の小櫛取も見なくに
都女郎のかゝる國のはてに來て、淺ましげなる手業する女のあり樣を見て、いとかなし(216)がりてよめる也、上衆なるに事もあはれなれば感慨いとふかし。
髪梳と書て黄楊の小櫛とよみし事いともさかしらなれば、櫛笥とよみ改めしに從ひつ。櫛は笥《ハコ》に入れおきて髪を梳る時に取出、事終りては又納めおく器なる事、今も高貴の御家には仕ふる婢女《ハシタメ》まで爾《シカ》する也、常にかざり櫛にさす事は遠からぬ世よりのならはせなるべけれど、いやしきものゝせし事ぞとおもふは、伊勢物語に葦の屋の灘の鹽やきいとまなみ黄楊の小櫛もさゝで來にけりと有は、此古歌を引直して作者の用意ある事と思ゆ。其由は櫛は必匣に納置べき物を、田草とり礒菜つむ女どもの、ひたとうつぶし/\するには、ひたい髪の面に垂かゝりて目を翳ひ、汗もつたひなどして苦しきから、小櫛を髪に挿《サシ》おきて時々かき揚げなどやしけんから、是をば必する事に一枚はさして出けん、それだにけふはいとまなくいそしければ、さゝで來にけり、巧みなして世のうつれるさまを、古歌に對《ムカ》へてしるせしとぞ思ゆ。さてかざり櫛なる事は又はるかに下りての世の弊《ツイエ》なるべし。髪梳と書けば髪あげとよむべきを、しかはよみ得べか(217)らぬ調《シラ》べなれば髪梳《クシゲ》とよまん事、義はかなひて字には当らずぞある。
志迦は筑前の那賀郡、又宗像郡にも和名抄に見ゆ、仲哀紀に礒鹿《シカ》の里人を召て、海外の國を見せしめたまふ事見ゆ。注に今按少郎とは石川朝臣君子を少郎子と號すれば是かといへど、正しく女歌なれば用ひず。軍布は昆布と音かよひて書きし歟。
高市連黒人歌 是も上に書きし※[羈の馬が奇]旅の歌の度なる事しるし、小序も載たる位置もすべて漫也。
279 吾妹子に猪名野はみせつ名次《ナツギ》山角《ツノ》の松原いつか示《シメ》さん いつかしめさんはみせんと云べきを、古歌にはかくも云さして教へしめさんの義か。(原注)
名次山つのゝ松原共に今の西宮村のあたりなるべし、津門《ツト》村と云は津野の音のかよひてとなへたがひし歟、今も濱べにつのゝ松原と云は、地《トコロ》を見るに昔は海中なるべき也、名次の祠と云が本國の島下郡にもあれど、所をおもへば違へる也。さて此歌にては同國なる河邊郡の猪名野には、妻をも率て出けるが、ほどなき所の名次山角の松原は見せざる事いぶかし。つのゝ松原の津野とは上の芝津山の津野の略かとおもへど、(218)強言に過たるべし。
280 去來《イザ》兒等《コドモ》大和へはやく白菅《シラスガ》の眞野の榛《ハリ》原手折てゆかん
今は早く都へ歸らなんに、まのゝ榛《ハリ》原を手折てかざしゆかむと也。白砂《シラスガ》なる眞野のはり原也と云、菅はさらしてこそ白くなれ、たゞに青草なれば、白菅とのみ云ん事もいかにと云り。さて遠江に白須賀と云驛あり、そこは三河に在し時に、いきて見しかといへるは由も聞ゆれど、眞野と云は所々に多し、眞野の入江は近江也、眞野の池、まのゝ繼橋は本國の八部《ヤタベ》郡須磨の里の東也と云り。此歌津の國の次序にあれば、こゝは津の國の眞野とすべきか、白砂《シラスガ》と云事ならばそこは浦里にて、しらまなごを敷たるべし、眞野とは野をほめたる語なれば、いづこにも云べきを、こゝは矢田の眞野歟、矢田の野と云歌も有には。
黒人妻答歌
(219)281 しらす賀の眞野のはり原ゆくさくさ君こそ見らめまのゝはり原
往《ユキ》かへりに見たまへらんとは、此あたりより引かへして歸路なるに云也。榛の木を折てかざゝん事、今の心には愛無くおぼえて、榛と書ても秋芽《ハギ》也と云、情《コヽロ》強《コハ》く云人あれど、世たがへば心から眼もたがひて、今いかでと思ふ物をくひつみ、折はやしつゝ愛せし事已にも云り。
春日藏(ノ)首老《オホトオユガ》歌 小序|故《モト》はいか也けん。
282 つぬさはふ石村《イハレ》も過ず泊瀬山いつかも越ん夜は深《フケ》につゝ
磐余《イハレ》とも書、畝火山のほとりなるべし、初瀬山を打こえていづちへか歸るぞ、夜は深らんにやゝ岩余《イハレ》の郷をさへ過ぬよと歎く也、葛城の郡の何がしの郷よりや出來たりけん。此人は始は僧にて辨基と云しを、才識のあれば朝庭より命じて還俗せしめたまへる人也、何れの朝なりしや、暗記《ソラオボエ》なれば忘れつ。綱《ツヌ》さはふは絡石の類のかづら草の石を(220)はひまとふ也、さはふのさは虚辭のみ。
高市連黒人歌 同じ旅行の歌也、上に次序をも立てありたき也。
283 墨吉《スミノヱ》の得奈津《ヱナヅ》に立て見わたせば六兒《ムコ》の泊り從《ユ》出る船人
此例の見るまゝをうつし出たる也。和名抄に住吉郡に榎津《ヱナツ》の名見ゆれば、今の津守の住吉の邊と云べけれど、上にも云神功紀に長田活田|住吉《スミノエ》廣田の諸神を祭られしをおもへば、本國の西畔の矢田兎原武庫の郡なる丘《ヲ》つゞきなるをしらる。さらば榎津と云も西に在べし、さてなん武庫のとまり船の朝びらきして出るを見る、今の住吉の浦邊よりは見さけられこそすれ、いづこの泊を出るとも見定めがたかるべし、今は魚碕と云郷の名、兎原の住の江の東に在、魚を奈とよむ事古言也、こゝもし得魚津《ヱナツ》の轉訛せしにや、さるほどに強言なるぞかし。武庫の浦に泊りせし船とは聞ゆれど、こゝに定りし泊はあらざりしかば、泊は浦の誤にやとも思ゆ。
(221) 春日藏首老歌 是も小序を失ひたる也。
284 燒津邊《ヤイツベ》に我ゆきしかば駿河なる阿倍の市道にあひし兒等《コラ》はも
彼國|益頭《ヤイヅ》郡あり、阿倍はいにしへの國府にて市も立たるなるべし。さて市には男女物見に出る事古今同じく、こゝにたはぶれよばひなどして、夫婦《イモセ》のかたらひはする也、此歌も市に見そめし女を忘られねばよめる也。
燒津邊は日本武尊の東征に、此國の賊黨尊を欺きて野に將《ヰ》て奉り、御遊びたけなはなるを窺ひて、向面より火を放ちて燒亡さんとす、尊御|帶《ハカシ》を打振たまへば火は却てかなたへ燃かゝりて、賊等火に入ぬと云、其野を燒《ヤイ》津と云。益頭《ヤイヅ》は當らぬをさへに益頭《マシヅ》とよむ事、和名抄の比の誤也。
丹比眞人笠麻呂往2紀伊國1超2勢能山1時作歌
285 栲領巾《タクヒレ》の懸まくほしき妹が名をこの勢の山にかへばいかゞあらむ 結句、一本をとる
(222)今越る山の名を夫《セ》と云をば身にはなちがたく思ふから、取易へて妹山と呼ばいかゞあらんと、老に戯れて云懸る也。栲領巾は頸《クビ》にかけて常に有故に、かけまくほしきと云によする文言也。
春日藏首老和歌
286 宜しなべ吾|兄《セ》の君のおひ來にし此せの山を妹とはよばじ
吾|兄《セ》と頼みつる故《カラ》はよろしき山の名を、妹とは名がへせじとこたふ、共に俳諧也。幸2志賀1之時、石上卿作歌と有、志賀に幸の有しはいつぞしられず、此卿とは麻呂卿かと云り。卿は文武の慶雲の比に大納言より右大臣に轉任ありしかば、それより往《サキ》の事なるべし。志賀は大津の宮より以往《サキ》に、成務の滋賀の穴穗宮と云も有し也。
287 こゝにして家やもいづこ白雲の棚びく山を越て來にけり
韓退之が雲横2秦岑1家何在と云しに似たり。
(223) 穗積朝臣老作歌
288 吾命の眞幸《マサキク》あらば又も見む志賀の大津によするしら波
初二句は有馬のみ子の岩代の松の詞章をとりつみたれば感無し。此人は舊都を慕ふ心もたゞ地景をのみ云てほむる也。
問人宿禰大浦詠2初月1歌 とありし歟。
289 天原振さけ見れば白眞弓張てかけたる夜道はよけん
290 椋橋の山を高みか夜ごもりに出こし月の光乏き
初月は上の歌のみ、次は夜ごもりに出くとは望より後の月也、題を脱せしなるべし、月しあれば夜ごめに出づとよみしをもおもへ、第九卷に再び載てたゞ月の歌とす。くらはし山は十市郡の東邊に在、今は音羽山と云、音羽倉橋二村共に存り、藤原の都人の歌也。光乏しきとは已に云、闇き夜に又月の出し光は珍らしきこゝちする也。
(224) 小田(ノ)事《ツカヘ》越2勢能山1時作歌 と有べし。
291 眞木の葉のしなぶ勢の山しぬばずて吾こえゆくは木葉知けむ
常磐木の葉だに霜にしなぶるは、我はますら男なれば思ひ堪て遠き使にこゝを越るを、このしなぶる木ゝの葉は吾心をや知てかゝるにやと云。心は巧みなり、詞章はおくるゝ歟。
角麻呂が歌 とのみは亂たり。幸2于難波宮1之時角兄麻呂作歌と有し歟、
兄麻呂は聖武の神龜元年五月に從五位下都能兄麻呂、姓を羽林の連と賜ふと見ゆ、此人なるべし。
292 久方の天《アメ》の探女《サグメ》が石《イハ》船の泊し高津は淺《アセ》にけるかも
風土紀に天若彦の天くだりし時、探女《サクメ》と云も共にこゝにくだりしと云傳へをよめる也、例の荒蕩の物語也。石船は石楠船にて、上古の船の總名也。此神達のこゝに天くだらせしとは物がたりにて、舟をこの岸に乘捨給ふなるべし。されば今は遠淺に成しと(225)云、懷古の歌也。天の探女《サクメ》と書しかど、裂眼《サクメ》と云眼つき恐しき神なるべし、神武紀に久米部の人に眼の恐しきを裂《サク》る眼《メ》とよみし歌にておぼゆ。
293 潮干《シホヒ》の三津の海女《アマメ》の久具都持玉藻苅らむいざゆきて見む
初句は四言也、くゞつとは藁《イナガラ》にて作りたる※[代/巾]、又籠の状《サマ》したるに、藻貝など摘入てかへる具也、蜑をとめ等がありさまをうつし出たり。
294 風をいたみおきつ白浪高からし蜑の釣舟濱にかへりぬ
眷ぬは着ぬの誤なりといへり。
295 清《スミ》の江の岸の松原遠津神我大君の行幸處《イデマシドコロ》
かくよめるにて此浦のけしきよきをことわらで盡せり、古歌はかく大らかにて事は言足《いひたら》ぬ、上の三首はうつし繪也、畫は無聲の詩、詩は有聲の畫。
田口益人大夫任2上野國司1時到2駿河淨見埼1作歌
(226)元明の和銅元年三月に任ずと紀に見ゆ。
296 廬原《イホハラ》の清見の碕の三保の浦の寛《ユタ》に見えつゝ物|思《モヒ》も無し
三保の松原と云わたり也、見わたし遠しろきには心もゆた也。
297 晝見れど飽ぬ田兒の浦大君の命《ミコト》かしこみ夜見つるかも
歌の可否はおきて、心の眞心なる事歎賞すべし。此間の驛舍遠くて夜に成ぬ、月は照せれどからく喘きつゝ行くに、浦の浪|不立《タヽズ》、富士の高岑はあらはに望まれて、えもいはれず面白きから、君命を戴きて來たればこそかゝる勝景を夜過る事よといへるは、いと有がたき人の志也。詩は志也とはかゝるをぞ云。月も不盡の岑もいはねど、詞章の余《ホカ》に見ゆるは言靈の妙用也、今の歌よむ人此ことわりを打聞けよかし、下賤の物いひ多きはさわがしきのみにて無味なるに、ひとつぞとは思さぬか。
辨基歌 とのみは小序漫たる也。
(226)298 赤土《マツチ》山ゆふ越ゆきて廬《イホ》碕の角太河原に獨かも寢ん
刊本亦打は赤土の誤なるべし。獨寢の旅のうさをいへば還俗して春日藏の老の時なるべし。此人の事思出ぬ、文武の大寶元年の三月に僧辨紀を俗に還《カヘラ》しめて姓名をたまへり、追大一位春日倉首老、追冠は正從八位上下の四階あり。角田川所々に在、紀の國又武藏下總の間なる、又古今六帖に出羽《イヅハ》なる、青砥の關の角田川、この歌は紀の待乳山の邊なる歟と云り。
大納言大伴卿歌 とあるも古にあらじ、是は旅人卿也、天平二年太宰帥の任|充《ミチ》て、大納言に轉任せらる。
299 奥山の菅の葉|凌《シノ》ぎ降雪の消なば惜けん雨なふりそね
莫(レ)2零行1と書てふりそねとよめと云り、よろしきか。しのぐは侵すと云に同じと云り、劔を打合すをしのぎをけづると云俗言は是也、葉を風交の雪のそぎゆくやうに降(228)くる也。此歌も與の體にて、物に心をよそへし歟。
長屋王駐2馬寧樂山1作歌
300 佐保過てならの手祭《タムケ》におく幣《ヌサ》は妹を目|離《カレ》ずあひ見しめとぞ
刊本雖は離の誤也。今ゆく旅に事無く喪なくて歸らしめたまへと、山の神に手向して幣《ヌサ》奉るも、家にかへりて相見しめたまへと云も、願言《ネギゴト》する也。
301 岩がねの凝《コリ》しく山を越かねて哭《ネ》には泣ども色に出めやも
大事の御使なれば丈夫《マスラヲ》心は忘れぬから、妹を戀とは色に出さぬと也。奈良山は岩ねこりしくとは云まじき坂路ながら、文言なればかくいひて、道より使走らせて妹に贈しなるべし。
中納言安倍廣庭卿歌 とのみにはあらぬなるべし。卿は右大臣御主人公之男、天平四年二月薨ぜらる。
(229)302 兒等が家道やゝ間遠きをぬば玉の夜わたる月に競《キホ》ひあへむかも
月夜よし夜よしいざ妹が家路ほど有とも出立んかとは、いと若く花やぎたる御心になん。
柿本朝臣人麻呂下2筑紫國1時海路作歌 とはいかに、朝臣筑紫にくだりなば行々又かしこにても歌は多からむを、此餘に一首も載ざる事いぶかし。是は既に※[覊の馬が奇]旅歌とて出せるに同じ度の歌也、石見の任の往來の歌なるべければ、石見國と有しを、私に思惑ひて筑紫と改めしは、次の歌に大君の遠の御門とあるにふと思まどへるは、筑紫路も遠の御門と言歌につきて、遠の朝庭《ミカド》とは筑紫を云事と、なま心なる人のさかしら也。帝畿内《ウチツクニ》の外なる國も朝政《ミカドマツリ》の行はるれば、遠の御門と云事也。此旅行の歌、上には八首を※[覊の馬が奇]旅歌と記し、こゝにはかく書るもて、小序は總て脱《モレ》失ひしを後に一人の手ならず補ひしかば、かくいき合ぬ事の多し、此度の歌すべて下2石見國1時と有しなるべし。
(230)303 名細《ナクハシ》き印南《イナミ》の海のおきつ浪千重にかくれぬ大和島根は
下向の時の歌也、かへり見つゝ來るに、此あたりよりは大和の方のかくれ竟りぬを歎く也。名くはしとはいなみ野の海と云名のよろしと思ふのみ。
304 大君の遠の朝庭と有かよふ島門を見れは神代しおもほゆ
行々島々水門々々のあやしく目とめらるゝを見つゝ、神代の始に二神の生《ウミ》ませしと云物がたりをおもひ出る也。我國は海水の中に生《ナリ》出て根基を固む。是をかしこ根の尊《ミコト》と崇稱し、島山の形状《カタチ》具足す、是を面足《オモダリ》の尊《ミコト》と稱號す。言靈《コトタマ》の幸はひするさかし國也けり。
高市連黒人近江舊都歌 とは已に一の卷に出しと同度の歌なるを、脱してこゝにはしるせし也。
305 如是《カク》故に不見《ミジ》と云ものをさゝ波の古き都を令見《ミセ》つゝ本無《モトナ》
(231)已に云天智大友の御徳蒙りし人の子孫にて、身は天武の御裔につかへながら、古きを懷ひて下歎きつゝ存《アリ》しかば、見ばいかに御跡のしのばしからむ、中々に見じと云し物を、事の便に同じ歎きする人と、こゝに來てさればこそかゝりけれと、荒廢の状《サマ》を見てすゞろに悲しく涙とめがたしと也。詞章は耳《キヽ》なじまねど心よりの眞言の歌也、本名は物事本の無きは亡びやすしと云にて、むなしと云義の本語也。
幸2伊勢國1之時安貴王作歌
行幸は持統の後聖武の出ませし、こゝは聖武の御度なるべし。
306 伊勢の海のおきつ白浪花に欲得《モガ》つゝみて妹が家|※[果/衣]《ヅト》にせん
海の浪都人のめなれぬには、かく咲花も有よと驚きつゝ、誠に花もがな、折かざして妹に見せんとは艶に巧める也。つゝみてとは旅にて珍らしき物を※[果/衣]取もてかへるを家づとゝ云、山には山づと、海邊には濱づとゝよむ。
博通法師往2紀伊國1而見2三穗石室1作歌
(232)三穗は浦山里の名也。石室なれば今も在べし。
307 皮ずゝき久米の若子《ワクコ》がいましけん三穗の岩室《イハヤ》は見れどあかぬかも 一ニ荒にけるかも
308 常磐なすいは屋は今もありけれど住ける人ぞ常なかりける
309 いは屋|戸《ド》に立る松の木汝を見れば昔の人をあひ見るごとし
扶桑略記に昔龍門山に三人の仙《ヤマビト》あり、大伴|安曇《アヅミ》久米と云、安曇久米の二仙は石室あり、大伴の仙は跡を留《トヾ》めずと云り、此久米の仙の跡のこゝにも有しなるべし、龍門山は大和の吉野郡に在。さて歌は久米と云仙の住し跡と云を見れば、あかぬばかりにあやしく作りし石室ぞと云也、一本の荒にけるかもを取と云人あれど、石室にはふさはぬ言也。次は仙人《ヤマビト》といへば壽《ヨハヒ》の期しられぬといへど、終《ツヒ》の世のあればこそ跡のみを見れと云、法師の意也。
(233)次はこゝに立る松樹は其人かとおもふと云るは歌の巧み也。皮すゝき、しの薄と古點にはよめど、皮《ハタ》こもりの薄穗を云かけしかば、皮ははだとよむ、檜皮《ヒハダ》木皮《キハダ》の格也、こもりを約めてくめとは云。若子《ワクコ》は少年の稱也、此仙童形にてや有し。
門部王詠2東市之樹1歌
天平十七年に、大藏卿從四位上大原眞人門部王卒と記さる、氏姓を賜へる也。都には東西の市場を立て交易を赦さる、其東西に日を采《エラ》む、市(ノ)正《カミ》是を※[手偏+僉]《ケミ》して朝庭にめさるゝ物をえらびとり、其餘は民の利を得さしむる令制《サダメ》也。さて市にはよき人に仕ふる郎女《ヲトメ》等も立出て、物を買《カヘ》事|爲《ス》といひて、男にも逢見ゆる事今も邊國には其遺風をとゞむ。
310 ひんがしの市の殖木の木垂るまてあはで久しみ宇倍吾戀にけり
卅二言なり、初句は東のと四言なるを、うたふに延てひんがしと云。市立して逢見る契の度々にあはねば、市に林して殖つく木の※[木+少]《スエ》垂《タル》るまであひ見じとや、諾《ウベ》も吾は戀にけるはことわりぞといひて、怨みやりし也。さらば小序は是も古にあらず、何某の孃(234)子に贈ると云歌也、樹をよむと補ひし人の淺量《アサハカ》也。
鞍作(ノ)村主《スグリ》益人從2豐前國1上v京時作歌
刊本※[木+安]作は鞍の誤也、※[木+安]はつくえとよむべし、鞍牀同訓、くら人の安座の具也。
311 梓弓引豐國の鏡山|不見《ミデ》久《ヒサ》ならば戀|敷《シカ》んかも
上の三句は國の名所を文言に云のみ、見ずて久しくあらば戀のしきりにあらんかも、さらば此別れの悲しと也。梓弓をひく音とかけて、その音を豐國のとに略言してかけしか、又|引響《ヒキトヨ》もすと云か、鏡山見ずてと再びかけし也。
式部卿藤原|宇合《ウマカヒ》卿被v使v改2難波舊堵1功成之時作歌 と有しなるべし。
聖武の神龜三年十月に宇合卿に命ありて、九年を歴て落成ある、天平四年三月也。卿は淡海公第三子、參議式部卿兼太宰帥正三位にて薨じ給へり、馬養とも史に見ゆ、宇合のうまは付讀也。
(235)312 昔者《ムカシ》社《コソ》難波|居中《ヰナカ》といはれけめ今は京《ミヤコ》と都《ミヤコ》びにけり
高津宮はいとも上(ミ)久《サビ》たる代の事也、豐碕の都といへども九代の往前《イニサキ》なれば、今は壞《コボ》れて跡のみならんを、此度改造有て九年が間《ホド》に功成ぬ。さてはさらぬ昔こそ井田中の見るめなかりしを、今は京《ミヤコ》とも都とみやびかに成にきと云也。京引と云書樣よみ得ず、引は共《ト》か、與《ト》か、いづれぞの誤字なるべし、跡《ト》にても有べし。ゐ中と云語は井田中と云を、田を省きて井中と書くか、田井中と云にもあるべし、田居中と云を田を省しと云は心ゆかず、田こそ眼目なれ、赤駒のはらばふ田井も都と成ぬと云に知らる、田居こゝにも居中と書しに繋りて云は淺はか也、居中とは家の中と云事也。難波宮今度造られしは豐碕の宮跡か、あらぬか、此宮造られて遷都あるべかりしを、左大臣橘の公の強ひて奏せらるゝに從ひまして、山城の甕《ミカ》の原に遷らせたまひ、こゝは時々出ましの離宮とさだめたまひき、猶長柄の宮の事につきて、第六の卷に云べし。
土理宣令歌 とのみはあらじ。
此人元正紀懷風藻等に見えたり、土理又刀利に作る。
(236)313 みよしのゝ瀧の白浪しらねどもかたりし繼《ツゲ》ば古しへおもほゆ
こゝは上古應神仁徳の御代々々よりの事を傳へたればかくよむ、しらずと云に巧みあり。
波多朝臣|少足《スクナタリ》歌 とのみにはあらじ。
314 少浪《サヽラナミ》磯|越路《コセヂ》なる能登湍《ノトセ》川音のさやけさ瀧津瀬毎に
越路《コシヂ》とよみて三越路か、能登瀬川も能登の國かといへど、古訓のまゝに越路《コセヂ》とよみて巨勢山の下《モト》を吉野川の過る、こゝの間《ホド》を能登瀬川と云なるべし、所のさま見しかばしか云也。小浪はさゝら浪とよむか。
暮春之月幸2芳野離宮1時中納言大伴卿奉v勅作歌 未v至2奏上1歌とは父の歌なれば、奉らで止ぬる事をも記されし也、卿のよみ得ずとや自らおぼしけん。
(237)315 みよし野の 吉のゝ宮は 山がらし 貴《タカク》有らし 水《カハ》がらし 清《サヤケ》かるらし 天地と 長くひさしく 萬代に 不改將有《アラタマザラメ》 行幸《イデマシ》の宮
反歌
316 昔見し象《キサ》の小河を今見ればいよゝ清《サヤケ》く成にけるかも
長歌はさしたる巧みもなければ、奏上なくてやみぬる歟。
刊本永は水《カハ》の誤也。山がらし川がらしは神がら人がらと云に同じく、故の字の義也、しは助語、象の小川は象山を下りて、山中より落くる瀧の末也、即吉野川に落入、其原は今は高瀧と云|瀑泉《タキ》あり。此歌もて離宮は此山下の吉野川の岸に臨みて造られたるをしらる。河の北の岸に宮瀧村在、宮と呼ぶが離宮の名のとゞまれる也、南岸に御園の森と教ふるも在、小川の末に櫻木の宮祠と云に、天武を相殿して祭れる、こゝや宮址ならむか。
(238) 山部宿禰赤人望2不盡山1作歌
赤人東のいづれの國の任にや出たゝれけん、定て屬官なるべければ史には記されず。
317 天地之 分《ワカレ》し時|從《ユ》 神左びて 高《タカク》貴寸《タフトキ》 駿河|有《ナル》 布士能高嶺乎 天の原 振放《フリサケ》見れば 度《ワタル》日之 影も隱《カク》ろひ 照月の 光も不見《ミエズ》 白雲も 伊|去《ユキ》はゞかり 時じくぞ 雪は落《フリ》ける 語繼《カタリツギ》 言繼ゆかん 不尽の高岑者
反歌
318 田兒之浦從打出て見れば眞白にぞ不盡の高嶺に雪は降ける
傳聞此嶺は高く大けく望むにはかりしられぬ神靈なりとぞ、さらば月日|光影《ヒカリ》も是に觸ては暗く成、立昇る雲も昇りいたらぬなるべし。さて雪は今も時なくしき/\に降つもりて、冬夏の分《ワキ》なし、是を望見ては誰しもかたり繼言嗣つゝして都人に渇望あらしむべしと云り。反歌は田子の浦に打出て見たればとありのまゝに云が、此宿禰の手(239)ぶり也。□の道は薩多山を登らずして裾《スソ》廻を行ば、荒磯の波に身も失はるべく、かしこき所なる故に、後に今の山路を開かれしとぞ。此歌は其荒磯づたひして、山の下《スソ》めぐり果たれば、こゝを田子浦と云に打出たり、今は物にも隱れずして高嶺は眞白にてぞあらはれ見えたる、心肝も消ぬる眺望《ナガメ》なるべし。田子の浦從と書たれば從《ユ》とよむべきを、古點に從《ニ》とよみしが、言は叶へり、目を閉めぐらしておもひはかれば、從をにとよみてかなへる詞章あり、さてなん古人もしかおぼして大かたににとよまれたれど、ゆとよまでは叶はざるも有、よく/\思給へ。
詠2不盡山1歌
季吟の本には笠朝臣金村と歌ぬしを記されたり、古注には高橋連蟲麻呂之歌中出焉と見ゆ、たしかなる所證《ヨンドコロ》はあらねど、歌の巧妙人丸の餘《ホカ》には誰かはと思ゆるばかり也。
319 奈麻餘美の 甲斐の國 打|縁《ヨス》る 駿河の國と こちごちの 國のみ中|從《ユ》 出|立(240)有《タテル》 不盡の高嶺は 天雲も 伊去はゞかり 飛鳥も 翔《トビ》ものぼらず 燎《モユル》火《ヒ》を 雪もて滅《ケチ》 落《フル》雪を 火もて消《ケチ》つゝ 言《イヒ》も不得《エズ》 名づけもしらに 靈《クスシク》も います神かも 石花《セノ》海と 名づけてあるも 彼《ソノ》山の 包める海ぞ 不二河と 人の渡るも 其山の 水の當《タ》ぎり烏《ヲ》 日本《ヤマト》の 大和の國の 鎭《シヅ》めとも います神かも 寶《タカラ》とも 化《ナレ》る山かも 駿河なる 不盡の高峰は 見れどあかぬかも
反歌
320 不尽の嶺にふりおける雪はみな月の十五日《モチ》に消《ケ》ぬれば其夜降けり
321 布士の嶺乎高みかしこみ天雲も伊ゆきはゞかり田菜《タナ》引ものを
長歌の巧妙、赤人の上に立ん事|難《カタ》からず思ゆ。甲斐駿河兩國の中に出立て高ければ、天に棚びきのぼる雲もえ昇らず、飛鳥もはた飛いたらず、高嶺は常に燃るを其火は雪(241)もて消《ケ》ち、雪は又火もて相けちつゝする事、いかにとも言ひも得ず名づけも爲べからず、奇靈《クスシキ》かも此山の神とも神なる事、石花《セ》の海といへども山のすそ回《ワ》に包まれ、不二川とて瀧つせなし流るゝ山の滴ぞよ、是や我御國の鎭めに化《ナリ》出し神かも、比《タグヒ》なきには無上の寶とも化《ナリ》出しかと云は句々巧妙也かし。反歌は雪の盛夏《ミナヅキ》の望日《モチ》に消かと見れば、即其夜ふりつむと云、巧みまことに秀逸也。生木《ナマキ》の弓は反《カヘ》りやすしとて甲斐國にかけ、打よする/\と重ぬる語を駿河にかけしは、朝な/\を朝なさなの格也。さて何か打よするとも無く言足はぬ文言也。こち/”\は此方/\《コチコチ》也、甲斐人は此方《コチ》駿河人は此方《コチ》と云によるか。伊去波伐加利、刊本伐を代に誤るは、赤人の長歌にもしか有。石花《セノ》海の餘に、河口|木栖《コス》の海と云も有事、三代實録に不二の變火を奏する所に見ゆ。當の字をたぎりとよみがたし、當藝《タギ》の宮と云語、第二の日雙斯の太子のかなしび歌に見ゆ。こゝも當伎理とか二字脱たるべし、水のあたりとは今の俗言にこそいへ。烏をそと云に借事いぶかし、烏《ヲ》とよみてよと云義には假るべきか。日本《ヤマト》の大和の國とはみよしの(242)ゝ吉野の格にて、しらべは下れり。國の鎭めとは西土の泰山に山まつりすと云類もて云か、封禅と云事もかしこにはするよ、こゝにも土公《ツチギミ》を祭る事有、座摩は大宮地の神也と云事、古語拾遺に見ゆ、かしこには巨嶽を國の鎭めに祭れど、こゝには大山をしか祭る事無し。外國にも雙無き山なれば無上の寶とは云歟。さてかくことわりゆくまゝに、こゝかしこ瑾ある物になりぬれば、是は利劔にいさゝかの瑕見つけ出たるに似たり、赤人のは無瑕の美玉也とやいはん。伊|去《ユキ》はゞかる、伊は虚辭、行はゞかるは伸《ノビ》ざる状《カタチ》也。
山部宿禰赤人到2伊豫温泉1作歌
此温泉の事彼國の風土記に景行仲哀聖徳舒明齊明五度の行幸を名譽とす、其後天武の十三年十月の地震《ナヰブリ》して一度は埋れ失ぬるが又涌出て、六朝を經て赤人のこゝに來られしに、昔聞えし於美の木も生《オヒ》繼たるを見しと也。
322 皇神祖《スメロキ》之 神乃尊の しきませる 國之|盡《コト/”\》 温泉《ユ》はしも 多《サハ》にあれ共 島山(243)之 宜しき國と 極此疑 伊豫能高嶺乃〔九字右○〕 射狹《イサ》庭の 崗爾|立《タヽ》して 歌《ウタ》思《シノビ》 辭《コト》思《シノビ》せし 三湯之|上《ヘ》の 樹村《コムラ》を見れば 臣《オミ》の木も 生《オヒ》繼にけり 鳴鳥之 音も不更《カハラズ》 遐《トホキ》代《ヨ》爾 神左備|將行《ユカン》 々幸處《イデマシドコロ》
反歌
323 百式の大宮人之飽田津に船乘しけん年のしらなく
臣の木の事第一の讃岐の行幸の歌の注に、一書に是時宮前在2二樹1、此之二樹斑鳩此米二鳥大集、時勅多掛2稻穗1而養v之と云事見ゆ、此一書とは風土記也、此事舒明の御度なるか、其後皇后重祚の七年正月西征の便にか、又こゝに到らせしに昔日の物猶存るに、感愛の情頻なれば、御製作有しと云事も次て見ゆ。さらば歌しのび辭《コト》しのびとは是を又慕ひて歟云、御湯のほとりの木むらとは臣《オミ》の木を見るに、昔にかはらずいかるがしめの鳥どもの音に囀ると云也。さて此湯の處は船津も近く、伊與の高嶺と云べき(244)地とも聞えず、宜國跡《ヨロシキクニト》は讀得て極此疑をこゝしかもとはよめがたし、由てこゝの二句存疑してさしおきぬべし。反歌はいにしへぬかた姫の熟田津に船乘せんと月待ばとよみしを思出て、舟乘しけん年の知《シラ》るゝとは云、已に三吉野の瀧の白波しらねどもと云し格にて、昔をおぼろげにいへるが巧み也、赤人の長歌は巧み無くて調《シラ》べ宜しきを、此歌はよめざる所あれば、爪づきて解得がたし。
山部宿禰赤人登2神丘1作歌
神丘は雷丘と同處にて、秋の葉《モミヂ》面白き所なりしとぞ、神並山昔はこゝなりし。
324 三諸の 神なび山に 五百枝さし 繁《シヾ》に生《オヒ》たる 都賀の樹の いや繼々に 玉かづら 絶る事なく 在つゝも 不止《ツネニ》かよはん あす香の 舊き都は 山高み 河遠白し 春日には 山し見がほし 秋の夜は 河しさやけし 旦雲《アサグモ》に 鶴《タヅ》は亂れて 夕霧に 蝦《カハヅ》はさわぐ 見る毎に 哭《ネ》のみし所泣《ナカル》 いにしへ思へば
(245) 反歌
325 あすか川々よどさらず立霧の思ひ過べき戀にあらなくに
この時秋也、故郷に來て見ればいと昔しのばるゝ所にこそあれ、三面に山高く、北は平野に廣く見わたさるゝ中に、あすか河の流こなたかなたに遠くめぐりて、ゆたけく見わたさるゝには、春日には又出たちて見がほしくぞおもふ、山には花のくさ/”\咲ぬらんかし、今朝の晴わたる空になびく雲に見なさるゝばかり鶴のあまた亂て飛たつは面しろ。文選の雲賦に春雲似v鶴(原註)さて、夕べになれば霧の川づらを立こめて、蝦の音にさわぐ彼や是見る物毎にいにしへの都のありさまこそしのばるれ、かゝる戀はなほざりに思ひ過べからずとよめる、戀てふたとへのいとも幽艶におもしろし、此人の手ぶり也。
門部王在2難波1見2漁父燭光1作歌 漁火を燭光とはいかに。
(246)326 見わたせば明石の浦に燒《タケ》る火《ホ》のほにぞ出ぬる妹に戀らく
明石方までは見ゆまじきを西に海づらにあまた見ゆる漁火を、人の明石方ぞと示せしまゝに都人はよむ也。難波に事有て日數在ほどに、家の妹をおもふ心の穗に出るは、此見わたしのめづらしきを見せばやの思ひにさわぐ也。
或娘子等贈2※[果/衣]乾鰒1戯請2通觀僧之呪願1時通觀作歌
327 海若《ワタツミ》の奥《オキ》に持いきて放つとも宇禮牟曾〔四字右○〕此之將死還生《コレガヨミガヘランヤ》
宇禮牟曾よめず、宇部毛曾の誤か、此歌はよくもあらぬを事の珍らしさに記されしか。通觀法師は有驗の名有に、戯れてかゝる事するはいとされたるをとめ等也。海若の字は海神なるを、こゝは海のみに用ひたり。
太宰少貳小野朝臣老歌 とのみにはあらで、都の榮えをいはふ詞あるべし。老は大貳に轉任して天平九年六月に卒す。
(247)328 青丹吉寧樂の京師《ミヤコ》は咲花の薫《カヲ》るが如く今盛也
若は任に下りて帥の旅人卿の都はいかにと問せしにこたへしか。
防人司祐《サキモツカサノスケ》大伴|四繩《ヨツナ》歌
防人は遠江より陸奥までの軍團の兵士を撰びて、筑紫の浦々碕々を守らしめて外蕃に備ふを防人《サキモリ》と云。其司は太宰帥の麾下に有。委しくは軍防令に見ゆ。
329 安みしゝ吾大君の敷ませる國の中には京師《ミヤコ》所思《オモホユ》
此人はさきに下りて、この便りを聞なるべし。
330 藤浪の花は盛に成にけり平城《ナラノミヤコ》をおもほすや君
君とは旅人卿を指て、都の便りを聞なべに、かくよむなるべし。藤浪は藤の末葉《ウラハ》の靡きを靡《ナミ》と云。
帥大伴卿歌 は、老四繩等にこたへて、都がたの事をおぼしなぐさむなるべし。
(248)331 吾盛復かへらめやも殆《ホト/\》に寧樂の京を見ずか成なん
殆ほと/\とははて/\と云に同じく危殆に思す也。
332 吾命も常《トコ》にあらぬか昔見し象の小川をいきて見む爲
已に昔見し象の小川はいよゝ清《サヤ》けきとよみたまへるは、此離宮在わたりに殊にこゝをおもしろと見たまふ也、度々いき給ふ事もしるゝ。
333 淺茅原つばら/\に物思へば故《フリ》にし郷のおもほゆるかも
故にし郷は藤原歟、次の歌に思ゆ。淺|茅《チ》は茅《ツ》花とも云から、つばら/\とかけし文言也。
334 萱草我紐につく香山のふりにし郷を不忘が爲
不忘の不の字は衍歟、又將忘と有しにや。萱草は憂を忘ると云、是を衣の紐に着て思ふ事共を忘れんとする也。※[草冠/(言+爰)]草忘v菱、合歡※[益+蜀]v怒とは、※[(禾+尤)/山]康閑居して離慮閑思の間《ヒマ》無き時(249)垣ね軒端に殖おきし花の咲《ヱメ》るを見てしばし忿憂を忘るゝか其花々の必驗有にはあらじ。
335 吾行は久にはあらじ夢《イメ》のわだ湍《セ》とはならずて淵に成が如
夢の灣いづこにや、飛鳥あたりなるべし、大伴氏の家は香山の下に在し事、天武紀に見ゆ。神武紀に築坂の邑《サト》を賜りしは、天武紀の百濟の地と同じかるべし。抑神武帝大伴の祖道(ノ)臣(ノ)命《ミコト》の大功を思して、皇居近く地を賜りしを、世移りては封禄古しへにおとりて、此築紫の遠役にさへ差れ、六十の齡近きまでかくておかるゝ事を悲しくおぼす事、故郷の便につきて奈良の京の盛は今也我は香山の百濟野のいにしへを慕ふぞと、はて/\は歎かるゝ也。大伴家は上古代々の宰職なりしが世うつりて權貴に襲はれつゝ衰へたると也。家は今は奈良の佐保山に在を、香山を思《シヌ》びたまへる心いと深し。
沙弥滿誓詠v綿歌 とは古にはあらじ。
336 しらぬ火の築紫の綿は身につけていまだは着ねどあたゝかに見ゆ
(250)草種の綿は神護景雲三年始て毎年太宰府に貢ぐ事を令《オホ》すと也、由て是を筑紫綿とは呼ぶ、おもふに滿誓此席に在て帥卿の心ふかく物のたまふを感じて、身に着てんにはあたゝかにかたじけなかるべき君ぞと、たとへてほむるなるべし。
山上臣憶良罷v宴歌
337 憶良等は今はまからん子|哭《ナク》らん其《ソノ》彼《ソノ》母も吾を待んぞ
とは人ゝ都を思ひ、先祖をしのびて聞に感有は身にしみて思ゆる故、座をまかりて吾は憂を忘れんとて、かく戯言して帥卿の醉泣をなぐさむとこそ思ゆれ。其彼母もと云詞章巧妙也。此人はかく戯れたる性にあらず、遣唐使にも附てわたり、物よく學びし人にて、且介直の性なる事第五の卷に見ゆ、歌もさかしくよむ人也。
太宰帥大伴卿讃v酒歌
是は劉伯倫の酒徳頌に擬ひたるやうなれど、彼は常に室無くて天を幕にし地を席にして、酩酊いとまなくてのみ在しとや、是は朝に參りては命令をかしこみ、外藩に在て(251)は西夷の心を和し、且海外の賊に威を示して、忠信の志大いなり、唯酒を嗜む性に托して、推古の朝以來儒仏の議論を貴み、國風を輕んずる事の惡きを疎んじて此歌は打出たる、氣概ばかりは人を螺羸螟蛤に見侮るに似たり、人業を勤めずして言論のみ高きは何者とかいはん、列子は我卿の爲に沓を取れとぞ思ふ。
338 驗《シルシ》なき物を思はずは一|杯《ツキ》の濁れる酒を飲べかるらし
陶潜が濁酒聊自適すと云を採て、佛願の冥福頼みなきには、たゞ濁酒に醉んと也。
339 酒の名を聖《ヒジリ》とおひしいにしへの大きひじりの言の宜しさ
魏人の酒|清《スメル》者聖人、濁者爲2賢人1と云し、徐※[しんにょう+貌]こそ大聖なるはと云、酒何ぞ聖ならん、只是豁達の言。
340 いにしへの七の賢き人すらも欲《ホリ》する者は酒にし有らし
晋子誰かれ皆醉て氣韻高し。
(252)341 賢しと物いふよりは酒飲て醉泣するし増りて有らし
儒子の義論の聞つべきを、其|所爲《シワザ》を見れば情慾の爲に道を稱《トナ》へ言を文《カザ》るのみ也、さる僞妄の説をいはんより醉泣して遊べ。
342 いはんすべせむすべしらに極たる貴き物は酒にし有らし
うはべばかりの道理は云ともしらぬに似たり、それより酒の貴きを知れ。
343 中々に人とならずは酒壺に成にてしかも酒にしみなん
國俗を忘れて異教をのみ説は却て人と云べからず、無情は一箇の酒壺に劣る、酒壺は此貴き酒にしむぞかし。
344 痛《アナ》醜《ミニク》賢《サカシラ》をすと酒のまぬ人を熟《ヨク》見ば猿にかも似る
我此酒を飲ぬとは國忠の美香を云也、西教を云人等は、我眼には猿樂《サルガウ》に見ゆると也。
345 價無き寶といふとも一|坏《ツキ》の濁れる酒に豈まさらめや
(253)無價寶珠は法華經并大般若經にある語也とか、又續博物志に魏の田父、野に耕して玉をしらず、隣人|陰《ヒソカ》に得まくするに、欺きて是怪石也と云、田父うたがひて是を暗室におくに、其光燭を挑ぐるが如し、恐れて棄れば隣人是をとりて魏王に献ず、玉工一たび望みて云、是無價之寶と云事有、己々が學ぶ道を價しられぬ寶と云も、實學ならぬは一杯の酒にも劣ると云也。
346 夜光る玉といふとも酒のみて情《コヽロ》を遣《ヤ》るに豈しかめやも
上に同じ。
347 世の中の遊びの道にさぶしくば醉|哭《ナキ》するに有べかるらし
國風《クニブリ》の歌にも文にも遊ばず、學びがたき字の義を取あやまりて、生々《ナマ/\》なる言を打出んは醉泣とたゞに云べし。
348 今の世に樂しくあらば來生《コンヨ》には蟲に鳥にも吾は成なん
(254)惡報福果を説て人の性を蕩かすよ、來生は鳥にも蟲にもなれ、現世に心|丹《アカ》くて宮づかへせん樂しさには何かは迷ひ惑はんと也。蘇我の馬子がなす所、聖徳の御こゝろのあしくまさぬも、後無きに見れば、陰徳陽報過惡善報皆何のかひかある、たゞ吾此すゝむる酒をのめかし。
349 生《イケ》りとも遂にも死るものなれば今生《コノヨ》なる間は樂しくをあれな
二世無きを刺る。
350 黙然《ムタニ》居《ヰ》て賢《サカシ》らするは酒のみて醉なきするに尚しかずけり
朝參の人いとまには西學を力入てさかしだつは、御國の有がたき事を忘れたるむだ人也、それ酒に醉泣するにもおとりたるぞと也。天平廿一年二月の詔に見ゆる如く、大伴佐伯の氏人は、遠祖より忠信の人多く、此卿最其人也、孝徳の佛法を信じ儒教に制を立給ひ、神祇を輕んじたまふなど云世の中に、推うつりゆくを私に惡みて、此|比喩《タトヘ》(255)をもて是を※[言+山]る也、詞章|麁《アラ》びて見る處無くとも、其忠誠の言賞に堪たり。
沙弥滿誓歌
351 世の中を何物《ナニ》に譬へん朝びらき漕にし船の跡無きか如《ゴト》
いかなる時かよみ出けん、釋氏の心也、人世亦如v是。
船は朝和に必出る故に朝|發《ビラ》きと云。
釋通觀歌
353 みよしのゝ高城の山に白雲は行はゞかりて棚びける見ゆ
この山をまさ目に見しには難無し、たゞ不盡の歌の口まねの樣也。
日置少老《ヒキノスクナオユ》歌
354 繩《ナハ》の浦に鹽燒|火氣《ケブリ》ゆふされは行過かねて山にたなびく
此浦いづこぞ、津野の浦かといへどさだかならず。
(256) 生石《オホイシ・オイソ》村主眞人見2志豆乃石室1作歌 と有べし。
此石屋の事天明年間石見國濱田乃世子左京亮康定殿藩臣小篠道冲に命有て、邑智郡岩屋村の靜の窟を※[手偏+僉]せしめて其圖をとゞめしむ、山下に靜明神の祠あり、祠の背の丘に鏡岩と云大石あり、竪横二丈五尺|可《バカリ》、こゝより下の窟へ登る事凡三丁餘、下の岩屋の形、上方は圓形、下一方茅檐に似て、窟下凡二十人を居《オク》べし、外より望めば僧人の帽に似たり、高二丈可と、こゝより上の窟にいたるも凡三丁餘と云、上の窟三石相抱きて窟を成す、高五尺可と云、此上方に相續きて、口の靜の窟奥の靜の窟立てり、各窟中二十人を容《イル》べし、元禄十三年東君の巡察使廣野勝貞と云人こゝに到る時、靜神祠に靈異の事有、是を社棟に簿書を擧てとゞむ、其文云、夫以當社志都窟申者、蓋往昔大己貴命之鎭坐之地也矣、而後奉v崇2七社大權現1、即此靈山、蜂高松柏生、谷深流水清、苺苔滑行路巉嶮、乃自疊v石如v屋、故以2此地1號2岩屋郷1、雖v爲2往古繁榮之社地1、異端之教日々盛、郷人不v知3尊2崇神祇1、嗚呼痛哉悲哉、唯徒大社成2小社1、亦及2大破1、(257)剰寛文頃於2鐵穴之絡溝1、堀2出唐金之佛像1、安2置社内1畢、當2此時1玄哉妙哉、化蟲出現、其形如2蛩虫之大1、彼喰2佛像1、既文自2頭項1及2身中1、衆人爲2奇異1、往視甚多也、然愚適遊2此郷1、得v見v之、疑是大己貴之神使歟、夫我朝者神國也、神者依2人之敬1増v威、人者依2神之徳1添v運、不v可2敢疎1、因茲使2佛像除退1、仰2神道之妙1、新奉v建2立社殿1、※[山/なべぶた/日]彼化蟲忽然失、實知d神之不uv受2非礼1、如v此奇太古今之珍事也、粤愚雖v知2才不肖後笑1、筆2簡篇1、願後世視v之、以2此旨趣1可v尊2敬當社1也、※[山/なべぶた/日]元禄十三龍集庚辰初冬誌v之云爾、出羽組支配廣野園右衛門勝貞、此事明實故に書おきぬ。
355 大汝持少名彦名乃|將座《イマシケン》志都乃石室者幾代|將經《ヘニケン》
風土記此事を脱しつ。太古此二神謀合せて國造らせますと云、山野を分け道を通じ給べけれど、御身は穴居なる事著し、神道を稱《トナ》へ門を張輩の※[言+爲]妄邪説、辯を待ずして解べし、言蛇に足を添と、其蛇奔走十歩に堪ずして拂ひ去べし。
上村主古麻呂歌
(258)356 けふもかも明日香の河の夕|不離《カレズ》川津鳴瀬の清有《サヤケカル》らむ
奈良人の故郷をしのびてよめる歟。
山部宿禰赤人歌
357 繩浦|從《ユ》背向《ソガヒ》に見ゆる奥《オキノ》島|※[手偏+旁]回《コギタム》舟者釣か爲《ス》らしも
歌の次序にては津國の角の松原のあたりかと云べけれど、其わたりには奥に島あらぬ所也、すべて我難波の海には杳なる淡路の餘《ホカ》には島と云べき者なし、繩はつのなはいづれにても他國なるべし。
358 武庫の浦を漕たむ小舟粟島を背《ソ》がひに見つゝ乏しき小舟
こも粟島と云べきはあらぬを、背がひと云に強ていはゞ、淡路を粟島ともそのかみまでは云し歟。
359 阿倍の島鵜のすむ石《イソ》によする浪間なく比來《コノゴロ》日本しおもほゆ
此よめるに見れば聖武の難波宮に日來《ヒゴロ》とゞまらせしに從ひ奉れるなるべし、阿倍島今は阿倍野と云處、住吉の北天王寺の南に在。
360 潮干なば玉藻|苅藏《カラサメ》家の妹が濱※[果/衣]乞はゞ何を示《シメ》さん
是と示さんと也。
中庸に掌如v示と云へば是ぞ見せしむる也。さて此次の二首は赤人の歌にもあれ、この難波の御旅にはあらぬ也、刊本に六首と有を、一本には四首と有にて事分れたり。
361 秋風の寒き朝開《アサケ》を佐農の岡こゆらむ君に衣《キヌ》かさましを
紀の神の碕の佐野歟、是は女歌にてしかも正妻《ムカヒメ》などにはあらず、旅に逢し女にて岸の埴土《ハニフ》ににほはさましをと云し屬《たぐひ》の歌とおぼゆ、よき歌也。
362 美沙《ミサゴ》居《ヰル》石轉《イソワ》に生《オフ》る名告藻《ナノリソ》の名は告《ノラ》し弖余《テヨ》親は知るとも
刊本弖を五に誤る、是は贈答にて次なるは男の名をあかせと云からは、また見れど逢(260)ぬほどの中なるべし、女も心ませて衣かさんと云しは、憎からず思ふなるべし、親は知て咎むともと云に事分れたり。名のりそ藻の名義、允恭の衣通姫にしのびに逢給へる時、姫の御歌に浦の濱藻のよる時々にと聞えませしを、いとあはれにおぼして、莫告《ナノリソ》とて奸《タハ》れ給しより濱藻を莫告藻《ナノリソモ》と呼初し也、物は今の人の神馬藻と云、いづこの浦濱にも多き者也。或本に告《ノリ》なは告《ノラ》せおやは知ともと云、我心に從ひたまはゞと云也。
笠朝臣金村塩津山歌
近江淺井郡に在、神名式に鹽津社見ゆ。
364 丈夫《マスラヲ》乃|弓末振起《ユズヱフリオコシ》射つる矢を後見ん人はかたり繼《ツグ》がね
365 塩津山打越ゆけば我|乘有《ノレル》馬ぞ爪づく家|に〔左○〕戀らしも
刊本爾を脱すか、次序前後也、馬の爪づくは家なる人の戀らむ驗かと云り。上の歌何事ぞや、誰も解惑へり。強て云はゞ金村は精兵にて有しかば、ゆくての山路の喬木(261)に一矢を射こゝろみて、後の世がたりにせよとや戯れけん、長道に倦疲れて英氣を養ふわざなるべし。
角鹿津《ツヌガノツヨリ》乘v船時作歌
同旅なり、こゝに船出していづこにか渡りけん、越前の國今は敦賀《ツルガ》と呼處也。
366 越の海の つぬがの濱|從《ユ》 大船に 真※[楫+戈]貰|下《オロ》し いさな取 海路《ウナヂ》に出て 喘《アヘ》ぎつゝ 我※[手偏+旁]ゆけば 丈夫の 手結が浦に 蜑をとめ 鹽やく炎《ケブリ》 草枕 客《タビ》にしあれば 獨して 見るしるしなみ わたづみの 手にまかしたる 玉手次《タスキ》 懸てしのびつ 大和島根を
反歌
367 越の海の手ゆひが浦を旅にして見れば乏み大和しのびつ
此浦のいと面白きはわきて鹽やく煙に心とゞまりし也、是を我ひとり見るはさふ/”\し(262)とおもふにつきても、大和の戀しきと云心のま言也、舟漕を喘ぎつゝと云は、舟子等の北海の渡安からぬ形也。手ゆひが浦、角鹿にならびて在か。わたつみの手にまかしたる玉襷とは、かけてと云文言也、海神の手に玉をフてとは、玉だすきの玉にかけしのみ。
石上大夫歌 とのみにはあらじ。
注に乙麻呂任2越前守1歟といへど、史に見えず、この人土左に配流の事有、其時の歌歟。
368 大船に眞かぢ繁貫《シヾヌキ》大君の御言かしこみいさりするかも
小野篁の隱岐に配流の時、思ひきや鄙の長路におとろへて蜑の繩たぎいさりせんとはとよめるに似たり、後の歌はかく文《アヤ》に巧めり、是は上衆の聞えなき人なればたゞ君の命をかしこみて、蜑に立交らん事よと也。
和《コタヘ》歌 とのみはいかに。
注に笠金村の歌の中よりと云へば、彼朝臣のよみし歟。
369 物の部の臣の壯士《タケヲ》は大君の言《ミコト》の隨意《マヽニ》聞とふものぞ 言のまゝは、一本による
(263)遇不遇は我に有、是をかしこみて隨ふは壯士也と云。
安倍広庭卿は中納言なる事上に見ゆ、小序の亂たる事しるし。
370 雨ふらで殿雲《トノグモ》る夜|之《シ》潤濕《ヌレヒ》て戀つゝをりき君待がてら
跡は題《テ》などの誤にや、涅《テ》にも有べし、との曇るは棚ぐもる也、たなびく雲の雨催して曇るを云、男子の交りに待わぶる歟、雨もふらぬを疾く出たゝせと使して贈る歟。
出雲守門部王思v京作歌
371 飫宇《オウ》の海の河原の千鳥|汝《ナ》がなけば吾左保河をおもほゆらくに
出雲國飫宇郡也、海の河原とは飫宇河と云が海に入るを云なるべし、言足ず聞ゆ。吾佐保川をおもふと云を延ておもほゆらくと云、下のには助語にて意無し、後には必意有者によむ。
山部宿禰赤人登2春日山1解v悶《オモヒヲヤル》歌 と有べし。
山の景地をのみよみしにあらず。
(264)372 春日乎 春日の山の 高座《タカクラ》の 御笠の山に 朝|不離《カレズ》 雲居たな引 容《カホ》鳥の 間なく數鳴《シバナク》 雲ゐなす 心いさよひ 其鳥の かた戀のみに 晝はも 日の暮るまで 夜はも 夜の明るまで 立て居て 思ひぞ吾する あはぬ子故に
反歌
373 高鞍のみ笠の山に鳴鳥の止《ヤメ》ば繼《ツガ》るる戀|喪《モ》するかも
此山に登りて遊ぶに、かほ鳥のしば/\鳴を聞て心かなしく、此鳥の鳴は妻呼かぬる片戀ならめ、我も同じうさに夜晝立居につきても忘られぬは、思ふ子にあはぬ歎き故にと也。春日を霞むとかけ、大君の高座に立せまして御蓋さしかくる状をもて、高座の御笠山とかくる、其山に常に朝毎に立さらぬ雲のたなびきてかはう鳥の數鳴と云、鳥は郭公也、かほう/\と鳴をつゞめてかほ鳥と云、さてよぶ子鳥ともいへば思ふ子を呼よと也、日の盡夜の盡義もて、明るまで暮るまでとよむ、さて鳥のやむかとすれば(265)又こひ鳴、吾も其如物に事に紛るとすれば、又おもひ音に泣ぞと也。
石上乙麻呂朝臣歌 とのみにはあらじ。
名の下に姓を書は四位の例なれば、土佐より召かへされて後かと云り。
374 雨ふらばさらむとおもへる笠の山人にさゝすな濡は漬《ヒヅ》とも
思ふ妹に贈るなるべし、また親のゆるさぬにこそ。
笠の山は山邊郡の布留山と初瀬山との間に、笠の荒神の社ある山なるべし。
湯原王芳野作歌 此王史に無v所v見。
375 吉野なる夏箕の河の川淀に鴨ぞ鳴なる山陰にして
夏箕の里宮瀧の上に在、其前を流るゝ間を云、川の北は御舟山、南は樫《カシ》の丘《ヲ》山立てり、依て山陰とは云。此歌繪を見るこゝろしてめでたし。
湯原王宴席歌
376 秋津羽の袖ふる妹を珠匣《タマテバコ》奥《オク》に思ふを見たまへ吾君《アギミ》
(266)377 青山の嶺の白雲朝に食《ケ》に常に見れども目づらし吾君《アギミ》
宴は三日の夜にや、妹を心ふかく末かけて思ふを、心長く見たまへと舅君にさゝげて盃をすゝむる歌歟、次は常にも今まで參り馴たれど飽ぬ君ぞと云歟。
山部宿禰赤人詠2太政大臣藤原家之山池1作
太政大臣は淡海公也、山地は園の造池也。
378 昔者《イニシヘ》之《ノ》舊き堤は年深き池の瀲《ナギサ》に水《ミ》草生にけり
謝靈運が登2池上樓1詩に、池塘生2春草1、園柳戀2鳴禽1と云に似たり、昔者《イニシヘ》の舊堤とは昔誰その造りし山池の有し歟。
楢の杣 卷三下
大伴坂上郎女、祭v神歌
佐保大納言安麻呂卿女、旅人卿妹也、初穗横皇子に嫁す、皇子薨後大伴宿奈丸に再嫁して、坂上田村の二女を生む、宿奈丸|疎々《カレ/\》に成て後、神龜元年二年の間に兄卿の太宰帥にて下向の時從ひて天平二年の冬歸京す。此神祭の歌は注にても事分れず、君にあはぬを歎きて神にいのるは、かれ/\の夫の心をとりかねてなるべし。
379 久堅之 天の原より 生來《アレキタル》 神の命を 奥山の 堅木《サカキ》の枝に 白髪づく 木綿《ユフ》取つけて 齋瓮《イハヒベ》を 忌穿居《イハヒホリスヱ》 竹玉《タカダマ》を 繁《シヾ》に貫垂《ヌキタレ》 鹿《シヽ》じもの 膝折ふせて 手弱女《タヲヤメ》の 押帶《オスビ》取懸 かくだにも 吾は祈《コヒ》なむ 君にあはぬかも
反歌
(268)380 ゆふだゝみ手に取持てかくだにも吾は乞なむ君にあはぬかも
天平五年は筑紫に在|間《ホド》也、夫の心を見直したまへと、大伴の氏祖の道臣(ノ)命《ミコト》を祈る、宿奈丸も同姓の氏族なれば也と注に由て云べし。一首の大意は第四句の氏祖神を吾は祈なむ、君にあはぬかもと云にて、其間十四句は神祭する儀式を云也。奥山の堅木の枝に白髪つく木綿とりつくとは、太古器財とゝのはず、木の枝に物を着て後世の案几《ツクヱ》に代《カヘ》し也、木は何をえらばず冬青《トキハ》の枝を折てそれに付し歟。さてさか木とは榮木《サカエキ》歟、又|堅木《サカキ》歟、いづれにても霜雪に堪る堅實の樹をいはひて用ひしなるべし、龍眼肉の木といへど肯られず、又莽草と云て、こゝにはしきみと云木也と云は、今は伊勢の神家に正月の門松に加《ソ》へて此木を立るを見て、是ぞ上古の榮木と云説有、共に附會の説也。殊に莽草は葉は枯死《カレ》ても香有種にてあれば佛家に香煙に薫らせて、穢體を清淨にする具とすれど其|子《ミ》は毒有て、是が落る流には魚住ず、鳥も啄ずと云り。いかでさる毒種の枝をえらびて、物を着て神に奉るや、怪しき例也。是は伊勢の神宮といへ(269)ども亂世には禰宜神奴等、國司に逐れて逃竄《ニゲカクレ》し時にあたりて、僧尼の神仕へ奉りし事も有し、其時などにや此種を門の飾りに取加へけん、門に松を立ると云事、上古には爲ざりしなれば典故有識の學者の云まじき僞妄の説也。今又さか木とて神家に取えらむ冬青木《トキハギ》は、漢名何とか云知らずと聞り。ともあれかくまれ、木に物を取掛て神に君に奉るは、案机無りし代の事にて一種を采みて爲しにはあらじ、中古に物を※[食+鬼]るに其種に宜しき木草の枝に取着る例有て、伊勢物語に安祥寺の御法事の段に、木の枝にとりかけて千さゝけばかり堂の前にフ出《さゝげいで》たれば、山も動くやうなりしと云詞章見ゆ。太古に百取《モヽトリ》の机代《ツクヱシロ》と云其机代とは冬青の枝をいふ事にて、机案を用ひ初し世より泝らせて云語也と思ゆ。延喜式に※[木+若]臺《シモトツクヱ》とて黒木の小《サ》枝を藤に縛《から》みて足をも結そへ、物を奉る具とする事見ゆ。是ぞ木の枝に物を掛てフげ奉りし遺風なる。此製猶大甞祭に木工寮の造りて奉る由を聞、悠紀主基の黒木の大殿にふさはしき製造也。此|若木《シモト》机は春日の社にも神具と云、おろしの製を見しに是は※[木+諸]《カシ》の若枝にて作りたり。されば天(270)の香山に采《トリ》て神寶を取着しを始にて、樹の枝に物を掛る事机代《ツクヱシロ》の例にて、其木は冬青の種何を撰ばずして用ひたる事と意得べし。白髪づく穀皮《ユフ》の丈《タケ》長ければ、枝に取かけて供ふ事也。いはひ瓮《ベ》は忌《イミ》つゝしみて造れる酒|瓮《カメ》也、べとはかめの略語、穿居《ホリスヱ》の事は已に云ひつ。竹玉《タカダマ》は竹の枝を圓々《ツブ/\》と切て緒に貫きつなぎ、玉にかへて奉る石貝の美なるがあらぬ時の供具也。神に額《ヌカ》を下《クダ》して拜みするに、膝折ふす形《サマ》の鹿の野に息《イコ》ふ状に似たり、此|形状《カタチ》御國の禮状也。押帶《オスヒ》はいかさまなる物なりや、製を見ざれど女の装束の上に結ひ垂たる物と云、日本武尊の宮簀姫にあひ給ふ夜、押帶《オスビ》の垂《スソ》に月立にけりとよめるは、月の穢れの垂たる末に觸《ツキ》たると云也、典故家の云襷《タスキ》は前にて結垂れ、押帶《オスヒ》は背にて結垂ると云、見ぬ上古の製は云べからず。刊本祈を折に誤る、祈《コヒ》奈牟は祈祷《コヒフミ》也、のむと云は祈願の義に云し古語也。ゆふ疊は木に取掛し餘にも白穀皮《シラユフ》の長きを疊なして手にフて奉る也。
筑紫娘子贈2行旅1歌 とは誰に贈しぞ。小序は漫れたり。
381 家思ふと情《コヽロ》進莫《スサブナ》風|俟《マチテ》好爲《ヨクシ》ていませあらき其路
刊本俟一本|候《マモリ》に作る、風待して船を出すを風まもりとよみしも有。いませは往《イキ》ませの略也。荒き路は海路の暴なるを云。さて歌はまことに筑石《ツクシ》の西戎の詞章也、心はよけれど。
丹比眞人國人登2筑波岳1作歌
382 鶏が鳴 東《アヅマノ》國に 高山は 左波にあれ共 朋神《フタカミ》の 貴き山の 儕《ナミ》立の 見がほし山と 神代より 人の言つぎ 國見する 筑波の山を 冬木もり 時じく時と 見ずていなば まして戀しみ 雪消する 山道を尚矣《スラヲ》 なづみぞ 吾《ワガ》來並二《コシ》
反歌
383 筑羽根をよそに見つゝも有かねて雪消の道を泥《ナヅ》みくるかも
(272)此人この國の任果て、やがて京へ帰る期《トキ》に成ぬれば、こゝに年を經て在しに見ざりし事を京に往て後に思ひ出ん事を思ひて出立也。此山時じくに雪ふりつもる處なれば、今までもえ登らざりし。さればこそ雪消して行なづめる也。反歌は同じ意を又かへしてうたへる、かへし歌と云名の由也。左波にと云て多數の義とする事、神代紀に如五月蠅《サバヘナス》あしき神と云語の由にて、蠅の群がりて多きを體言として左はと云、用語にてはさはぐと云也、又※[言+山]謗をさばめくと云もあり、然るに騷動にはさわぐと書くと云、私法の有に從《ツキ》て別言のやうに云は、字法無きいにしへの口碑《クチヅタヘ》をしらぬ心の迷ひ也。刊本明神と有にてあきつ神とよめど、それは今上の御上を云なればあたらず、朋の誤にて朋神《フタカミ》とよめと云は宜しきなり、二神とは此山二峰有て、男の峰に雲たつと云歌あり、峰の高低によりて男神女神の鎭もりますと云也、即|儕《ナミ》立の見がほし山とはほむるにしるし。見|果《ガホ》しと書く事いぶかし、そのかみ字に暗き是も誤るなるべし、其由て誤る所をしらざれば辯なし、こゝは見|之欲《ガホ》しの假言のみ。神代よりとはこゝにてはいに(273)しへよりと云に轉じて用ひたり。時じく時と云詞章いぶかし、時じく山と云を上に時と有に、ふとあやまれる歟、猶思ふには時じくとのみに雪の絶ず降ことゝも聞えず、さは二句ばかり落たるにや。試に云はゞ冬ごもり蜂白たへにふる雪の時じく山など有て聞ゆべし。尚矣をすらをとよむ事むつかしけれど、廻らせては聞ゆる也。すらはそれながらの約言也、なづみは躊躇徘徊の状也、立もとほるは立とゞまるに似て、なづみはそこになやみつくとも云べし。
山部宿禰赤人歌 とのみはあらじ。見2園之韓藍花1遣悶(スル)歌と有し歟。
384 吾やどに韓藍《カラアヰ》種生《ウヱオフ》し干《カレ》たれど不懲《コリズ》て又も蒔《マカ》んとぞ思ふ
得し妻の亡《ナク》なりての世にまたも得んとおもふと云は、猶|※[魚+鐶の旁]夫《ヤムヲ》にて有まじきほどの齡なれば也。韓藍《カラアヰ》は呉藍《クレアヰ》と同種にて、呉韓の種にいさゝかたがひ有し歟、染草なれば園に種《ウヱ》おきしを見て、其染めぬふわざする人の無きを傷めるとぞ聞ゆ。
(274)刊本韓を幹に誤る。
此次にある歌は小序を脱して、又其次の歌の序をこゝに擧たり。由て改めつべきを其亦思ひ得がたし、作者をだに脱せるには論なう歌のみを解べし。
385 霰零《アラレフル》吉志美《キシミ》が高嶺《ダケ》をさがしみと草とる可奈也妹が手を取る
可奈也を和にたがへし歟。吉志美が嵩いづこにや、肥前の杵島山を云かといへどさだかならず。歌は古事記の隼別《ハヤブサワケノ》皇子雌《メトリノ》皇女を將《ヰ》て、倉梯山を越給ふ時に、はし立のくらはし山をさかしみと妹は來かねて我手とらすもと有に大方同じ。次に仙柘枝と有はいとも漫たり、後人の吉野人味稻与柘枝仙媛が事を物がたりに見てよみたる也。それは吉野河に遊びて此事思出て、戯れによみしならめ、さは遊2吉野川1歌とありし歟とおぼゆ。
386 此ゆふべ柘《ツミ》の小枝の流|來《コ》ば簗は打ずてとらずかもあらむ
387 いにしへに築うつ人の無かりせば此間《コヽ》にもあらまし(柘の枝はも)
(275)こゝにものには付て讀べし、さて此歌ぬしは此川上に遊びて、柘の枝の仙女が物語を思出て、今も流れ來《コ》ば簗打はせで、是をとらで有んかもと云、又いにしへに簗打人のあらずば彼小枝はこゝのほどにもあるべきを云也。物話の大意は昔吉野川の邊に味稻と云人、川瀬に簗打て魚を捕んとせるに、川上より柘の小枝の流來しを拾ひとりて、家にもて帰りしに、此枝忽に容《カホ》よき女と化す、味稻いとこひて契をこめしと云。浦島子のたぐひの物がたりにて、正實の事にあらずといへども、歌にはかく浮たる言もよむ也。柘とは桑の事と云説有、桑は指ば又芽を出して、蠶飼《コカヒ》の天賜なる種なれば摘《ツミ》とも云し歟。柘の字叶はず。右一首若宮年魚麿作と注す。二首とこそありしならめ。
※[羈の馬が奇]旅歌 とのみにはあらじ。
西より上る人の敏馬の碕に來てよめるなるべし、是も年魚丸が誦んじて作者しらずと注せり。
388 海若《ワタツミ》は 靈《クス》しき物か 淡路島 中に立おきて 白浪を 伊與に回《メグ》らし 座《ヰ》待月 (276)あかしの門|從《ユ》は 夕されば 汐を滿《ミタ》しめ 明去者《アケヌレバ》 潮を令干《ホサシメ》 汐さゐの 波をかしこみ 淡路島 礒隱《イソガクリ》居て いつしかも 此夜の明んと 待從《マツマヽ》に 寢の寐られねば 瀧の上の 朝野の雉子 明ぬとし 立|動《サワ》ぐらし いざ子等《ドモ》 あへて※[手偏+旁]出ん にはもしづけし
反歌
389 島づたふ敏馬の埼をこぎ廻《タメ》ば大和戀しく鶴《タヅ》さはに鳴
海若は靈しきものかもと云おこして、今見る所の淡路島の立ずまひを云也、白波を彌《イヤ》立廻らして明石の門《ト》より夕汐を滿しめ、朝見れば干《ホ》さしめする其汐の落あひの音を恐しみつゝ、此島陰にかくれていつしかも夜はあけなんと待には、寐られぬほどに島山より流下る瀧川の上に、朝たつ雉子の鳴てさわぐはいざ舟子等よ、朝發《あさびら》きせよ、に(277)はよくこそ見ゆれと、よろこびする也。さて漕出て島づたひして來れば、敏馬の渚碕に鶴の群居つゝ鳴此ながめ《眺望》、えもいはず面白しとよむは都近き心すさび也。
居待月は明石といはん文言也。淺野と書たれど朝明《アサケ》の野也。いよに廻らしは彌重《イヤヘ》に波の立繞れる也。此歌海泊のありさまをよく云つらねたり。
譬喩歌 詩の比興の二體を兼たり。
紀皇女御歌 とのみあらじ。
皇女は天武の御むすめ、穗續皇子と同腹、御母は蘇我赤兄の女也。
390 輕の池の納回《イリヱ》往轉《メグレ》る鴨すらも玉藻のうへに獨ねなくに
納回は※[さんずい+内]曲かと云り、此まゝにてもよむべし。是は獨寢の御歎きにて、たとへの意明らか也。
造筑紫觀世音寺別當沙彌滿誓歌
(278)391 鳥總《トブサ》立《タテ》足柄山に船木|伐《キリ》樹《キ》に伐歸《キリヨセ》つあたら船材乎
此比喩の意はかりがたし。船材といへば寺造る良材に非ず、強て云はゞ吾は渡海の船材也、世人を濟渡すべし、此寺造る職には当らずと悶《オモヒ》を遣《ヤ》る歟。鳥總は假言、遠尖《トホサキ》にて、喬木の最末《ホサキ》也、大殿祭の祝詞《ヨゴト》に皇御孫之命《スメミマノミコト》乃|御殿《ミアラカ》乎今奥山の大峽《オホカヒ》小峽《ヲカヒ》に立《タテ》る木を、齋部《インベ》の齋斧《イミヲノ》を以て伐|采《トリ》て、本末《モトスヱ》を山神《ヤマツミ》に祭※[氏/一]、中間《ナカホド》乎持釆※[氏/一]云云、是良材を伐る杣人の所爲《シワザ》也。しかせざれば山祇の稜威にあたるとぞ。
太宰大監大伴宿禰百代梅歌 とあれど、比喩の事を云る序有しならめ。
392 烏珠《ヌバタマ》の其夜の梅を手忘《タワスレ》而折らで來にけり思ひしものを
今遠任に來て都に思初し人を物いはで來て悔しと云也。此人天平十六年に鎭西府をおかるゝ時、副將軍と見ゆ、それより以往の事なるべし。
沙弥滿誓詠v月歌 たとへの事有べし。
(279)393 見えずとも誰戀ざらめ山の末にいざよふ月を余所に見てしか
此人は笠朝臣麻呂と云しが、後に僧に成ても、才識有て擧用ひられし人也。此たとへは世にあらはれずとも、誰か戀ざらめ、山のはにまだいざよふ月なるを、山陰こそあれ、遠き方には見さけてあらめと云也。自他いづれを云しにや。
金明軍歌 とのみにはあらじ。
此人、旅人卿の資人也、外蕃の人歸化して氏を賜らぬは、かしこの姓名を用ひたり、聖武の時に金宅良、金元吉等に姓氏を賜ふは此人の後裔歟。
394 印《シメ》結《ユヒ》て我|定羲之《サダメテシ》住吉《スミノヱ》の濱の小松は後も吾松
こは童《ワラハ》女なるを見初て未遂んと云也。羲之大王手師など書は、晋の羲之を大王、献之を小王と云しに戯て、てしと云詞にかく書きしとぞ人のいへり。
笠郎女贈2大伴宿禰家持1歌
(280)395 託馬《ツクマ》野に生《オフ》る紫|衣《キヌ》に染|未服而《イマダキズシテ》色に出にけり
物らいひてまだ逢ぬほどに、人の云あらはすなるを歎きてやる也。つくま野は近江の筑摩とも書ける所なるべし。紫草は野に繁く生る種也。
396 陸奥の真野の草《カヤ》原遠けれど面影にして見ゆとふものを
たとへの巧み調《シラ》べのよろしき秀歌と云べし。
397 奥山の磐下菅《イハモトスゲ》を根ふかめて結びし情《コヽロ》忘れかねつも
是は度かさねたるものにも聞ゆれど、同じ戀なるべし。三首共にいにしへのよき歌也。山菅は根ふかく生る物とぞ。
藤原朝臣八束梅歌
此卿改名して眞楯と申せし也。大納言正三位に除せらる、贈太政大臣房前公之第三子也、傳云、度量弘深有2公輔之才1。
(281)398 妹が家に咲たる梅のいつも/\成なん時に事は定めん
いつも/\はかけ合ぬ詞章也、いつしかもと云べきを。
399 妹が家に開たる花の梅花|實《ミ》にし成なば左右《トモカク》もせん
二首共意は明らか也。
公輔之才、詞章に抱はらぬ量識なるべし。
大伴宿禰駿河麻呂梅歌
光仁の寶龜七年七月參議正四位陸奥按察使兼鎭守府將軍勲三等大伴駿河丸卒、贈2從三位1、賻※[糸+施の旁]三十疋、布百端と見ゆ。此人橋の奈良丸が事に係りて、久しく配流せられしが、光仁の明主にあひて、陸奥の按察使に遣はさるゝ時、朕唯稱v心と恩詔を蒙りし事見ゆ。
400 梅花|開《サキ》て落《チリ》ぬと人はいへど吾しめゆひし枝にあらめやも
(282)今はよ所にと聞くを、そは人のさがな言にこそ、我にかたく云し言の有をと云歟。
大伴坂上郎女宴2親族1之日詠吟歌
401 山守の有けるしらに其山に標《シメ》ゆひ立てゆひの辱《ハヂ》爲《シ》つ
人の聟がねなるをしらで、我|女《ムスメ》を婚《アハ》せんとせしは、いみじき辱見つと云也。
大伴宿禰駿河麻呂即和歌
402 山守は蓋《ケダシ》有とも吾妹子がゆひてん標《シメ》を人とかめやも
刊本山主、一本は山守を用ふ。族の中に定められんには、他姓の婿を結ぶとも、其は厭はせ給ふなと云歟。山守は山守部と云て、山野の事を司どる官也。
大伴宿禰家持贈2坂上家之大孃子1歌
大孃子は坂上郎女の姉むすめ、田村は弟むすめ也。
403 朝に食《ケ》に見まく欲《ホリ》する其玉をいかに爲《シ》てかも從手|不離有牟《カレザラン》
(283)從手よめず、因てさしおきぬ。
こゝに佐伯宿禰赤麻呂贈2何某娘子1歌一首有て、さて娘子の報歌と有べし。又憶ふに此歌即赤丸がかけし歌にてあるべき詞章也。
404 千はやぶる神の社しなかりせば春日の野邊に粟|種《ウヱ》ましを
是も人のいひよると聞て歟。
試に云、何某娘子報歌
405 春日野に粟|種有《ウヱク》せば待鹿に繼てゆかましを社しる留鳥《トムヲ》 一本、烏作v焉
粟うゑば吾鹿と化《ナリ》て待んと云意か、野とならば鶉と成てに劣るは、上古の人の口さかしからぬ也。
娘子復報歌 と有も漫たるならむ。
406 吾祭る神にはあらず丈夫にとめたる神ぞよく祀るべき
ことわるとも無味のわろ歌也。
(284) 大伴宿禰駿河麻呂娉2坂上家之二孃1歌 田村のをとめ也。
407 春霞かすがの里に殖子水葱《ウヱシナギ》苗なりといひし枝は指にけむ
一本里之と有には殖子水葱《ウヱココギ》とよむ歟
いまだ苗也と云しも、今は枝のさし生《オヒ》けんといふは、上に親族の宴席にて母の坂上の郎女が、此人に二娘子《オトムスメ》を心|托《ツケ》しに、山守のおはすと云し時は、まだ深窓に養ひ立るほどなりしなるべし。
大伴家持贈2坂上(ノ)大孃子《アネオトメ》1歌
408 石竹《ナデシコ》の其花にもが朝旦《アサナサナ》手に取持て戀ぬ日もなけん
我園の花にもがなあれかし、朝毎手につみ持てんを、かくて戀ぬ日もなけんと也。結句少し云足ぬ歟。
大伴駿河麻呂贈2坂上之二娘子1歌 と有し歟。
(285)409 一日には千重波しきておもへどもなぞ其玉の手にまきがたき
波と云より海底の玉の得がたきにたとふ。
大伴坂上郎女橘歌
410 橘を屋前《ソノ》に植|生《オフ》し立《タテ》て居て後|侮《クユ》るとも驗あらめやも
此小序は家持駿河丸いづれにぞ、女子の事をたとへて、橘花にゆひそへてややりけん、我殖おふし立て居ても、人のむかへねば後侮るとも其驗なからんと也。第三句ふつゝかにて言の通らぬ也、屋前は園也。
和歌は二子の中誰ぞ、家持卿の日記なればかくのみも有し歟。
411 わきも子の屋前《ソノ》の橘いと近く殖てし故《カラ》に不成《ナラズ》は止《ヤマ》じ
親族なれば近くとは云。正に從兄妹《イトコ》也。
市原王歌 とのみにはあらじ。
王は安貴王之男、正五位下攝津大夫に任ず。
(286)412 いなたきにきすめる玉は二つ無しこなたかなたも君が隨意《マニ/\》
頂上《イタヾキ》に縛締《キスメ》る玉とは、いにしへの束髻《カミアゲ》には必玉を糸に貫てかざれるか、縛りすめる所には大きなる玉を一箇《ヒトツ》かざりし也。さてたとふるは二人となき君なれば、うれしくもつらくも君が御心のまゝにと云からは女歌なるべし。市原王に人の女子の贈りし歟。縛《クヽ》り締《シム》るをきすめるとは約言也。
大網(ノ)公《キミ》人主宴吟歌
大綱とあれど網の誤にて、大依網《オホヨサミ》氏歟と云り、姓氏録には見えず。
413 須磨の海人の鹽燒衣《シホヤキギヌ》の藤服《フヂゴロモ》間遠にしあればいまだ着穢《キナレ》ず
あふ事の間々《マレ/\》なるにはと云也。
大伴宿禰家持歌
414 あし引の岩根こゞしみ菅の根をひけばかたみと標《シメ》のみぞ結《ユフ》焉
(287)烏一本焉に作る。岩本菅の根ふかくて引得がたきには、おのがぞと標《シメ》のみ結て居《ヲ》ると也。
挽歌
上宮聖徳皇子出2遊竹原井1之時見2龍田山死人1悲傷御作歌
聖徳と申贈號史に見えず、太子薨御の事を高麗の僧惠慈が傳へ聞て、齋會の文に於2日本國1有2聖人1と云語あり、又次に以2玄聖之徳1生2日本之國1と云り。是等に由て聖徳とは稱すべけれど、勅號は所見無し、こゝも上宮皇太子と有し歟。
415 家にあらば妹が手まかん草枕旅に臥有《コヤセル》此|旅人《タビト》あはれ
史に級てる片岡山に飯に飢《ヱ》て臥《コヤ》せる其|旅人《タビト》あはれ、親なしに汝《ナレ》成けめや、さす竹の君はや無き、飯に飢《ヱ》て臥《コヤ》せる旅人あはれと見えしには、格調似て異也、時代たがへりと云人有、かゝる事は傳聞にあやまる事多し、いか樣にも調は飛鳥藤原の風也とも聞ゆ。いにしへは驛舍の間にはやどるべき所も無く、人行|疲《ツカ》れて死せるが多かりしと見ゆ。王守仁が※[病垂/夾/土]旅文なども思ひ出て悲し。しなてるとは階級の斜に立るは片下りなる(288)を片丘なる地には云べし。
大津皇子於2磐余池陂1賜v死之時流v涕御作歌 と有べし。
皇子の滅亡の事第二の卷に既に云、父帝崩御の後幾日もあらず叛心を發はし給ふは、不孝の罪實に自滅ぶべし、朱鳥元年十月譯語《ヲサ》田の家に賜v死と史に見ゆるは、家に御使有てこゝに引出、經死を賜しなるべし。
416 百傳ふ磐余の池に鳴鳧を今日のみ見てや雲隱れなむ
文才の君死に及べば鼻を酸《カラ》からしむ、巧妙惜むべし。
磐余舊名片立と云は、畝傍山の片丘なる地にや。注に藤原宮朱鳥元年冬十月と云はわろし、元年はいまだ飛鳥宮也。
河内王葬2豐前國鏡山1之時、手持女王作歌
持統八年四月淨大肆贈筑紫太宰帥河内王卒。
(289)417 大君の親魂相哉《ミタマアヘルヤ》豐國の鏡の山を宮とさだむる
魄は魂の誤。
418 豐國の鏡の山の石戸立|隱《コモリ》にけらし待《マテ》ど來まさぬ
419 石戸座破《イハトワル》手力もがも手弱寸女《タヨワキメ》にしあれは爲方《スベ》のしらなく
都には薨《カクレ》給はで遠き西國の果に終らせ給ふは、親魂《ミタマ》にあひし處にやと、都に待わび給ふ御歎き也。石戸|隱《コモリ》の故事によりて、それを破手力もがなと手弱女《タヲヤメ》の詞章あはれ也。石槨を岩戸ごもりにたとふ。
石田王卒之時丹生女王作歌 と有しか、女王史に天平十二年見ゆ。
420 なゆ竹の とをよる皇子 さ丹《ニ》つらふ 吾大君は 隱國《コモリク》の 始瀬の山に 神さびて【にはてのあやまりか】 いつき坐《イマ》すと 玉梓の 人ぞ云つる およづれか 吾聞つる(290)は 枉言《マガゴト》か 我聞つるも 天つちに 悔しき事の 世の中の 悔しき言は 天雲の 曾久敝の極み 天つちに 至れるまでに 杖策《ツクツヱ》も つかずも去《ユキ》て 夕去ば 衢に占どひ 石卜《イシウラ》以《モ》て 【こゝに一句バカリ脱句カ】 吾|屋戸《ヤド》に 御諸《ミモロ》を立て 枕邊に 齋瓮《イハヒベ》を居《スヱ》 竹玉《タカダマ》を 無間《シヾニ》貫《ヌキ》垂 木綿手助《ユフダスキ》 腕《カヒナ》に懸て 天《アメ》にある 佐々羅の小野之 七相菅 《ナヽフスゲ》 手に取持て 久方の 天の河原に 出立て 潔身《ミソギ》てましを 高山の 岩穗の上に いましつるかも
反歌
421 逆言の枉ごとゝかも高山の岩ほの上に君が臥《コヤ》せる
422 石上《イソノカミ》ふるの山なる杉村の思ひ過べき君にあらなくに
女王の歌にしてふさはしからず、思ふは代りてよみし人の有か、又名を脱せしかば男(291)歌にて翁さびたる人にも有べし。なゆ竹のとをよる丹面《ニヅラ》とは王の男色を云、女にて見奉るべくおはせしなるべし。王の柔弱にて早世ましませしと使して聞え來るに、妖言《オヨヅレゴト》か枉言《マガゴト》か天地にも世にも悔しき事の限ぞと思へば、天地の極までも尋まどひうかれ出ては、夕つけの道ゆく人の言に占問ひ、歩《アユ》むに石卜を問つゝ、家にかへりては神の御室を立て物を奉り、身潔ていのらましを過言《マガゴト》ならずも、高山の岩ほの上に御座を設つるかも。されどよしやとて思ひ過まじく、あたら君ぞと云也。なゆ竹、なよ竹、とをよる、たわみよる通言也。玉梓の人とは使人也、既に云、言かよはすは魂のかよひて詳《ツブサ》に云述ると云かと思ゆ、文の通へるは是も使の人に異ならずつぶさに述るなれば歟。およづれと云事、妖言と云字を當たれば義はそれにて聞ゆれど、語を解んには老《オヨ》づれ言《ゴト》にて、老人の忙心して言語のたしかならぬ事かと思ゆ。枉言は枉曲にはあらで過言《マガゴト》なるべし。天地のそぐへは底方《ソコベ》と云て、天地の極《ハテ》を云。杖策《ツクツヱ》もつき得ずと云は翁さびたる歟、嫗《オヨナ》しくも有べし。
(292)夕衝占問、夕の下に去者《サレバ》の語を脱すか、石卜以ての下に問へど由なみなど云詞の脱たるかと思ゆ、枕邊とは薦枕と云て、神靈にも牀を設て編薦《アミゴモ》の席《ムシロ》を長|延《ハ》へて敷其|上《カミ》つ方を卷て枕とする也、大嘗祭のこも枕と云は是也、今も其人の形代に設て、枕上の方|種々《クサ/\》の物を供ふるは、神靈を降《クダ》し祭る禮也。天に在さゝらの小野は篠原《サヽラ》の野にて、神代物がたりに荒遠の野ありしを云、七相菅は七節菅《ナヽフスゲ》にて菅の尺《タケ》長きを云、七節《ナヽフ》の數に限らず、七八など云も百千萬を云、多數の義也、是を手に持て身禊の祓《ハラヘ》の具とする後世に茅《チ》の輪をくゞらすの類也。逆言とは早世の君を云。臥有《コヤセル》は轉《コロ》びふせると云約言也、展轉反側をこいまろぶとよむもころびまろぶ也、まろぶは身の形の圓くなるを云、丸寢|圓《ツブ》寐の例也。
石田王卒之時山前王哀傷作歌
山前王は忍壁皇子之子從四位下。
423 つぬさはふ 石村の道を 朝|不離《カレズ》 將歸《ユキケン》人の 思ひつゝ 通けましは 霍公鳥 (293)鳴五月には 菖蒲草 花橘を 玉に貫【一に貫まじへ】 ※[草冠/縵]にせんと 九月の 時及雨《シグレ》の時は 黄葉《モミヂバ》を 折てかざすと 延葛《ハフクズ》の いや遠長く 万世に 絶じと思《モ》ひて【一に大船の思ひたのみて】 かよひけん 君を明日《アス》從《ユ》 外にかも見ん 【一にあすゆか】
王とは魂あへる友なれば、春秋時々の遊びせしと云事をよめる也。綱《ツヌ》さはふは已に云、絡石の文言也。※[草冠/縵]にせん、天平十九年五月、太上天皇詔に、昔者五日之節、常用2菖蒲1爲v※[草冠/縵]、比來已停2此事1、從v今而後非2昌蒲※[草冠/縵]1者、勿v入2宮中1、あやめ※[草冠/縵]に橘の子を玉に貫交ふる也。延葛も蔓の長はへて、そこらはひめぐれるを云。注に或云柿本人丸の作と、口ぶり似たれば山前王に代りてよめりしにや。
或本反歌
424 こもりくの泊瀬をとめが手に纏《マケ》る玉は亂てありといはずやも
玉は靈魂を云に、上三句は文言のみ、魂去しを玉の貫緒の亂にたとふ、こゝに在とは(294)いはずよ魂は天翔《アマガケ》ると聞にと也。
425 河風の寒き長谷《ハツセ》を歎きつゝ君があるくに似る人もあへや
右二首は紀皇女薨後、山前王代2石田王1作v之といへどいかがあらん。さらば反歌には非じ。朝かれずゆきけん人といひ、又宮中に※[草冠/縵]をかけて出入するは男子の朝《ミカド》參りする状《サマ》也、然ば長歌とは別歟。
柿本朝臣人麻呂見2香具山屍1悲慟作歌
426 草枕|※[羈の馬が奇]宿《タビノヤドリ》に誰嬬《タガツマ》か國|忘有《ワスレタル》家|爾〔左○〕《ニ》待眞國《マタマクニ》
眞國を莫國に誤歟、家爾の爾は付讀か、脱字にも有べし、行々疲れて斃るゝ人そのかみ多かりしは、人居少く且人に乞人を憐む風俗なかりしにや。
田口廣麻呂死之時|刑部《ヲサカベノ》垂麻呂作歌
427 百足ず八十隅坂に手向せば過にし人に蓋あはんかも
(295)炭坂は大和の宇太郡に在、こゝには八十といへば、隅は隈の誤にてもあるかと云へり、神代紀に百不v足八十隈、古事記にも於2百不v足八十|※[土+向]手《クマデ》」と見ゆ。さらば伊邪奈岐奈美二神の故事にて、黄泉道《ヨミヂ》の八十隈かと云、歌にはふさはしけれど、さらば八十(ノ)隈路《クマヂ》と有しにや。
土形《ヒヂカタ》娘子火2葬泊瀬山1時柿本朝臣人麻呂作歌
428 隱口の泊瀬山之山(ノ)際《ハ》にいざよふ雲は妹かもあらむ
荼火の烟薫をたゞに其人と見て。
溺死出雲娘子火2葬吉野山1之時柿本朝臣人麻呂作歌
429 山(ノ)際《ハ》從《ユ》出雲の兒等は霧なれやよしのゝ山の嶺にたなびく
430 八雲|刺《サシ》出雲の子等が黒髪はよしのゝ川の澳《オキ》になづさふ
前後位置違へり、歌は解を不v待して聞ゆ。八雲さし出ると云文言也、又八雲たち出(296)ると云に同じ、八雲たつ出雲とはつゞかず。
山部宿禰赤人過2勝鹿其間娘子墓1時作歌
431 古昔《イニシヘ》に 有けん人の 倭文機《シヅハタ》の 帶解かへて 伏屋立《フセヤタテ》 妻問しけん 勝壯鹿《カツシカ》の 眞聞の 手児名《テゴナ》の 奥槨を こゝとは聞《キケ》ど 眞木の葉哉《カ》 茂くあるらん 松が根や 遠く久しき 言のみも 名のみも吾は 忘られなくに 【倭文、父は誤。牡鹿、壯に誤る】
反歌
432 吾は見つ人にも告んかつ鹿のまゝの手子名のおきつき處
吾毛は吾はなるべし。人の帶解かへて衣帶を改めてとなるべし。然衣帶を改めて、我こそと妻どひしけむ眞聞の手兒名と聞えし童女《ヲトメ》の夭死《ワカシニ》して、人惜める墓の名につたふるを吾は見つ、人にも告げ尋ねゆけと云んと也、墓には眞木松などの茂く榮えた(297)るを見て、其人の容貌《カタチ》してうるはしくおぼゆ也。伏屋建つまとかゝる文言也、屋には妻屋と云事のあれば。手子名は果《ハテ》の子にて弟子也、弟日をとめと云に同じくて東俗の方言也、弟子は血の余りにて寵愛すぐるゝ稱なるを、是はたゞ兄弟ありてはての子にや、下の名は助辞にて、少名彦那の那に同じ。奥槨は貴人の墓の造りざまなるをうつして石槨の設無き墓にも云。
433 勝牡鹿の眞ゝの入江に打なびく玉藻刈けん手兒名しおもほゆ
眞間の入江の蜑をとめ也、國色の名を後世に傳ふ。
和銅四年辛亥、河邊宮人見2姫島松原美人屍1、哀働作歌
第二にも同じ序にて歌二首、こゝは次の四首、此序の歌にあらず、同じ歌の傳へを家持卿のかいとゞめられしにて、二の卷とは別の書目なるを知る。さて次の歌は博通法師の三穗の石屋の又異なるを傳へて記す歟、又は他人のにや知べからず。
(298)434 加座※[白+番]夜の美ほの浦廻之白つゝじ見れども不怜《サブシ》なき人おもへば
座を麻に誤る、風早の濱とは三保の浦は、風の常につよく吹當る所歟、久米の若子を昔の人ともなきよみ口也。
435 みづ/\し久米の若子《ワクゴ》が伊|觸《フレ》けん礒の草根の枯まく惜も
惜、情に誤る。みづ/\しは神武紀に久米部の臣に云し文言也、みづは瑞光玉の潤沢を云、木草の潤色をも云べし、久米は含芽《メゴモリ》の事を云と云り、二首共に意明らか也。
此次の歌二首、小序無れば知べからず、注に右案年記并所處乃娘子屍作歌人名已見v上也、但歌辭相違、是非難v別、囚以累2載於茲次1焉とあるも、ことわり通ぜず。
436 人言の繁き比日《コノゴロ》玉ならば手に覓《マキ》持|不戀《コヒズ》あらましを
親の宥さぬには人言を恐れつゝ、玉ならば掌《タナゴヽロ》に居《スヱ》てとさへ歎くか。
437 妹も吾《ワ》も清《ミソギ》し河の河岸の妹が悔《クユ》べき心はもたじ
(299)身禊し河の川岸のとは、岸よりくゆると云ん文言也。鎌倉のみこしが碕の岩くえの君が悔べき心はもたじ、大方に似たり。悔《クヒ》を崩《クユ》るにとりなすのみ。
神龜五年戊辰太宰帥大伴卿思2戀古人1歌
438 愛《ウツクシキ》人の纏てし敷たへの吾手枕をまく人あらんは
別去而經2數旬1作歌と云、卿の正妻の死別の事なるべけれど、事分りがたし。歌は老て妻に別るゝ事、誠に涙とゞめられず、今は老たれば後妻をも求めずありとも、古人に似るべくもあらず、
439 還るべき時には成ぬ都にてたが袂をか我枕せん
任充て還るは皆うれしくすれど、吾は歸りてもさぶしと也。
440 京《ミヤコ》なる荒たる家にひとり宿《ネ》ば旅にまさりて苦しかるべし
歌はすべて聞えたり。
神龜六年己巳左大臣長屋王賜v死之後倉橋部女王作歌
(300)元年二月左京人|漆部《ヌリベノ》君足中臣東人等、密に左大臣長屋王の叛心を告奏す、其翌諸臣六衛の兵士を率て、王の家を圍み罪を問て死を腸ふ、室女二品吉備内親王、男|膳夫《カシハデ》王、桑田王、葛木王、鉤取王等自縊死す、後に王夫婦の體を生駒山に葬る、王は天武之皇孫、高市太子之子也、佐保大臣と申す。
441 天皇《スメロギ》の命《ミコト》恐《カシコ》み大荒城《オホアラキ》の時にはあらねど雲がくれます
大あらきとは正葬の前に假に納る所に、急《ニハカ》に麁垣《アラカキ》をして置奉る也、其地一度觸穢するを忌て、荒廢の地に棄おかる、君には喪假《モガリ》の宮と申す、古今集に大あら木の森の下草|生《オヒ》ぬれど駒もすさめず刈人も無しと云は、一度穢に觸たる故也。さるを拾遺集に屏風の歌に茂くも夏のとよまれしは有まじき事也、大荒木の神社と申は直《タヾ》に其靈を祭て、そこに祠廟を建し歟しらず。歌は天命ならず穢心より王命をかしこみて薨ぜらるゝを云也。
(301) 悲2傷膳部王1歌 王之長子也。
442 世間は空しき物と有んとぞ此てる月は滿闕《ミチカケ》しける
左大臣にまで昇らせて、政事は此御意に有しも、又かく悲しき世にあひ給ふと傷ませしは、いまだ死を賜はぬ前に、人のよみて御子に奉りしなるべし。
天平元年己巳攝津國班田史生|使部《ハセツカヒベ》龍麻呂自經死之時、判官大伴宿禰三中作歌
丈部、使の誤、使の草走使部也。
443 天雲之 向伏《ムカフス》國の 武士と 云れし人は 皇祖神《スメロギ》之 神之御門に 外重《トノヘ》に 立候《タチサモラヒ》 内重《ナカノヘ》に 仕奉りて 玉葛 いや遠長く 祖《オヤ》の名も 繼ゆく者と 母《オモ》父に 妻《ツマ》に子等《コドモ》に 語らひて 立にし日より 足乳根《タラチネ》の 母の命《ミコト》は 齋忌瓶《イハヒベ》を 前に坐置て 一手には 木綿取持 一手に 和細布《ニギタヘ》奉 平《タヒラケ》く 真幸《マサケク》ませと 天地の 神祇《カミ》に(302)乞祷《コヒノミ》 何在《イカナラン》 歳の月日か つゝじ花 香《ニホヘル》君が 率留鳥《ヒクアミ》の なづさひこんと 立て居て 待けん人は 大君の 命《ミコト》恐《カシコ》み 押光《オシテル》 難波の國に あら玉の 年經るまでに 白妙の 衣|不干《ホサズモ》 朝よひに 在つる君は いかさまに おもほしめすか うつせみの 惜き此世を 露霜の おきてゆきけん 時にあらずして
この歌長くうたひたれどこゝと云節無し、惟人の詞章に擬するのみ。天雲の向伏國とは天ざかる鄙《ヒナ》と云に同じく、是は望まるる形状を云。侯は候の誤、大内には内中外の三門を居て、衛門府は外方《トノヘ》を守り、兵衛は中の衛《マモリ》、近衛府は内を守る也。外重は宮城門、中重は閤門也。武士等此三官に從ひて仕ふる也、是祖先より名を繼て忠誠を盡し奉ると也、是は使部なれば父母妻子にも告つゝ立てゆきしは、難波に事有て久しく在し歟。母のわきて寵子《イトシゴ》也けん、神にいのりて平らけく幸くといのりしに、待かひなくて(303)何の罪にか、わなゝき死せしを傷《イタ》み悲しみて贈る也。足乳根と云語、子を人と成しむるは母の養ひなれば、日を足すと云義にて、母の親のみに云事と云るをよしと聞しが、又思ふに此語は垂乳《タラチ》根と書しを正義として、乳を垂し居《ヲ》る母の有樣か、又|足《タラ》乳根にて、嬰児は乳足ざれば、生長爲がたし、此事もて母の稱を云なるべし、日足すと云は養育を日足《ヒタス》と云語にて聞ゆるを、足すとのみは語をなさず、且足すを足《タラ》ちと云べくもあらず思ゆ。和細布《ニギタヘ》は糸の細きは和らかなる也、即よき絹と云に同じ。※[草冠/因]花にほへるは人の紅顔なるは壯年の状也。率をを牛に作る、牛は車を引く利を以て書く歟、誤と云方正しき也。平を乎に誤る。
反歌
444 昨日こそ君は在しかおもはずに濱松の上に雲とたなびく
(304)難波に濱松の枝にかゝりて經死《ワナヽキ》たるを云。雲とは魂の雲に乘て天翔るを云。
445 いつしかと待らん妹に玉づさの言だに告ずいにし君はも
しか/”\の事にあたりて死るとせめて妻にも告こさずしてと云也、告げぬは男子の魂と云べく、又は事|切《セマ》りて慌忙なりし歟。
天平二年庚午冬十二月太宰帥大伴卿向v京上v道之時作歌
446 吾妹子が見し鞆《トモ》の浦の天木香樹《ムロノキ》は常世にあれど見し人ぞなき
447 鞆の浦の礒の室の木見ん毎に相見し妹は忘られめやも
相共に見し也。
448 礒の上に根はふむろの木見し人をいづらとゝはゞかたり告んか
卿筑紫におはす間に、妻のむなしく成《ナラ》れしをいたく悲しみて、此任充て京へ參るに、此浦にいとふりたるむろの木の立るを、往《ユク》さには共に望見て、此下に遊びし事を思し(305)出て、頻に悲しく成たれば、くり言のやうに三首までよまれし也。むろの木天木香と云、漢には無き歟、香木なれど香は淺し、和名妙に※[木+聖]をむろの木とも、川柳ともよめるは、いかに、河柳と云むろの木といひて誰かは聞ん、※[木+聖]楊と云は今俗の御柳と呼物といへどいかゞにやしらず、杜松と云物也と云り、喬木は少なしと云り。人はいづらの詞章感あり。
449 妹と來《コ》し敏馬の碕を還るさに獨|し《四》見れば涕ぐましも
四を而に誤る。
450 ゆくさには二人吾見し此碕を獨過れば情《コヽロ》悲しも
哀《モ》は喪の誤、一本裳に作る、こゝにても濱に上りて遊びせられし事の有し歟。二人の人の字脱。
還2入故郷家1即作歌
(306)451 人もなきむなしき家は草枕旅にまさりて苦しかりけり
452 妹として二人作りし吾|山齋《イヘ・ソノ》は木高く茂く成にけるかも
453 吾妹子と植し梅の木見るごとに情《コヽロ》咽《ムセ》つゝ涕し流るゝ
情咽、こゝろむせつゝと云語聞えず。
天平三年辛未秋七月大納言大伴卿薨之時作歌
と有て、次に仕資人金明軍不v勝2犬馬之慕1心中感緒作歌と見ゆ。
454 愛《ハシキヤ》し榮し君のいましせばきのふも今日も吾を召《メサ》ましを
455 如是《カク》しのみ有けるものを芽子《ハギノ》花咲てありやと問し君はも
456 君にこひいともすべなみあしたづの哭のみぞ泣ゆ朝よひにして
457 遠長くつかへんものと思へりし君しまさねば心神《タマシヒ》もなし
458 若子《ミドリゴ》の匍匐《ハヒ》たもとはり朝よひに哭《ネ》のみぞ吾《アガ》泣《ナク》君無にして
(307)いづれも意詞明らか也。
459 見れどあかぬいませし君がもみぢ葉のうつり伊|去者《ユケバ》悲しく有か
右一首勅2内膳正縣犬養宿禰人上1使v※[手偏+僉]2護卿病1、而医藥無v驗、逝水不v留、因v斯悲働即作2此歌1、
二注とも家持卿なるべし。内膳正、内禮正は誤字なるべし。
七年乙亥大伴坂上郎女悲2嘆尼理願死去1作歌
460 栲綱《タクヅヌ》の 新羅《シラギ》の國|從《ユ》 人言を よしと聞《キコ》して 問放《トヒサク》る 親族《ヤカラ》兄弟《ハラカラ》 無《ナキ》國に 渡來まして 天皇《スメロギ》の 敷ます國に 内日さす 京《ミヤコ》しみゝに 里家は さはにあれども いかさまに 思ひけめかも つれもなき 佐保の山邊に 哭《ナク》子なす 慕ひ來まして 敷たへの 家をも造り 荒玉の 年の緒長く 住ひつゝ いませし(308)ものを 生《イケ》る者《ヒト》 死と云(フ)事 免《マヌカ》れぬ 物にしあれば 憑《タノメ》りし 人の盡《コト/”\》 草枕 客《タビ》なる間《ハシ》に 佐保河を 朝川わたり 春日野を 背向《ソガヒ》に見つゝ あしび木の 山べを指て 晩闇《ユフヤミ》と かくれましぬれ いはんすべ 爲《セ》んすべしらに 徘徊《タモトホリ》 直《タヾ》獨して 白たへの 衣袖《コロモデ》ほさず 嘆きつゝ 吾泣涙 有馬山 雲居棚びく 雨にふりきや
反歌
461 とゞめ得ぬ壽《イノチ》にしあれば敷たへの家|從者《ユハ》出て雲がくれます
家|從《ユ》毛なるべし。
右新羅國尼名【一本有2名字1】曰2理願1也、遠感2王徳1、帰2化聖朝1、於v時寄2住大納言大將軍大伴卿家1、既※[しんにょう+至]2【一作v經】數紀1焉、惟以2天平七年乙亥1忽沈2運病1既趣2泉界1於v是大家石川命婦(309)依2餌藥事1往2有間温泉1、而不v會2此哀1、喪歟、但郎女獨留葬2送屍柩1既訖、仍作2此歌1贈2入温泉1。
事は詳也、坂上郎女は石川命婦の生《ウミ》し子にて、父は安麻呂卿也。尼此卿の家に在て年經て死し時は、母命婦のこゝにあらで、坂上の刀自ひとりの心配りに、葬式はせし事をいひやるに、いと言の通りてあはれ也。我なく涙雨とふりきやの詞章感有。栲鋼の白きと云かけて新羅國に懸たり、仲哀紀に栲衾新羅國と見ゆ。問放る、親族兄弟|放《サク》るの語通らず、問語《トヒカタ》ると有しか、問は天の誤歟、國とは語を隔てかけし也、又問はよく聞ゆる問|縁《ヨス》るかとも云べし。内日さす大宮、都などゝも云は、内は假言にてうつ《現》しく日のさすは、皇宮の高き也。佐保山に大伴の家を香山よりこゝに移したり。哭子|如《ナス》は慕ひ來るを、乳兒の母を追ふにたとふ。敷たへの家とは転じたる語也、衣を敷寢の事なれば牀と云が本語也。此尼和銅七年の比こゝに來たりしと也。
十一年己卯夏六月、大伴宿禰家持悲2傷亡妾1作歌
462 從今は秋風寒く吹なんをいかでか獨長き夜を寢ん
(310) 弟大伴宿禰|書持《フンモチ》即和歌
463 長き夜を獨|哉《カ》寢んと君がいへば過にし人のおもほゆらくに
思ふを延て云、おもほゆる、又おもほゆらく。
家持見2砌上瞿麥花1作歌
464 秋ざれば見つゝしぬべと妹が殖し屋前《ソノ》のなでしこ咲にけるかも
移v朔而後悲2歎秋風1作歌
465 うつせみの世は常かくと知ものを秋風さむみしぬびつるかも
常住なき事は皆知れゝど、わきて此秋の風は。
又作歌
466 吾|屋前《ソノ》に 花ぞ咲たる 其を見れど 情《コヽロ》もゆかず はしきやし 妹が在せば (311) 水鴨《ミガモ》なす 二人|雙居《ナラビヰ》 手折ても 見せましものを うつせ身の 借有《カレル》身なれば 露霜の 消《ケ》ぬるが如く あしびきの 山道を指て 入日なす かくれにしかば そこ念《モフ》に 胸こそいため 言も得ず 名づけもしらに 跡無《アトモナキ》 世間《ヨノナカ》なれば 爲んすべもなし
一本うつせみの惜有《ヲシメル》と有をよしといへど、一本|霜※[雨/沼]《シモトケ》の消《ケ》ぬるとは重語也。跡無をたづきなきとよめと云、第十一卷に跡状不知、同十二に態不知と云を、しかよめばといへど、跡なきの字のまゝにても聞ゆ。屋前は上に云園也。水鴨|如《ナス》は鳥の雌雄離れねにたとふ。入日の山にかくるゝたとへ明らか也。かゝるすべなき事は言もことわられず、かゝる事と名目《ナヅケ》も爲がたしと也。
反歌
(312)467 時はしもいつもあらむを情哀《コヽロイタク》伊去吾妹哉《イニシワキモガ》若子《ミドリゴ》をおきて
468 出てゆく道しらませば豫《カネ》てより妹を留《トゞ》めん塞《セキ》もおかましを
道は黄泉路《ヨミヂ》也。
469 妹が見し屋前《ソノ》に花さく時は經ぬ吾なく涙いまだ干《ヒ》なくに
花は何ぞ、古歌はたゞ見るまゝに云のみ、人に聞すべくもあらぬば。
悲緒末v息更仲歌
470 かくのみに有けるものを妹も吾《ワ》も千歳の如く憑《タノミ》たりけり
如千歳、云おほせず。
471 家さかりいますわぎもをとゞめ不得《カネ》山がくれつれ情神《タマシヒ》も無し
山がくれ、耳たゝしき語也。
(313)472 世の中の常かくのみとかつ知れど痛《イタ》き情《コヽロ》は不得忍《シノビカネ》つも
得の字落歟。且は知つゝも惑ふは愛慾の惑ひ也。
473 佐保山にたな引霞見るごとに妹を思ひ出て泣ぬ日も無し
面影にや荼火の雲烟にや、次の歌にては面影なるべし。
474 昔こそよそにも見しか吾妹子が奥槨《オキツキ》ともへばはしき佐保山
はしきはくはしきの略にて、よろしき佐保山と云也、くはしきははしきやしとも云は、くはしきよしやと云也、よろしは取よろひて物のとゝのへる也、此愛妾名を知らず、かくまでしたはるゝは、かたちも心もよくかなひたる也。ことに子も生《ウミ》たりしかば。
十六年甲申春二月、安積皇子薨之時、内舍人大伴宿禰家持作歌
(314)聖武の皇子、紀云、十六年春正月、天皇行2幸難波宮1、是日安積親王縁2脚病1從2櫻井頓宮1、丁丑薨、時年十七、月のたがへるはこの歌よみしが二月なりと覺ゆ。内舍人は令に九十人掌2帶刀宿衛供奉雜使1、駕行分2衛前後1、是は職員令に云、又軍防令に三位以上子不v在2簡限1、以外式部隨v状充2大舍人及東宮舍人1と云り。
475 掛まくも 綾にかしこし 言まくも 齋忌《ユヽ》しきかも 吾大君 皇子の命の 萬代に めし賜はまし 大日本 久邇の京は 打なびき 春去ぬれば 山邊には 花さき乎烏里《ヲヽリ》 河湍には 手魚子《アユコ》さばしり 彌日異《イヤヒケ》に 榮る時に 逆言の 枉言とかも 白たへに 舍人|装束《ヨソヒ》て 和豆香山 御輿立して 久かたの 天しらしぬれ 展轉《コイマロビ》 ひづちなけれど 爲《セ》んすべもなし
反歌
(315)476 吾大君天しらさむと思はねばおほにぞ見ける和豆香杣山
477 足檜木の山さへ照し咲花の散にし如き吾大君かも
此御輿を停めてとあるは、津の國より還らせて和束山に到り、俄に薨去有しと見ゆ。都は山城の甕《ミカ》の原也、天平十二年右大臣橘公を遣して、こゝと定め給ふ也、其後公奏す、此郡の名何とか萬世に傳へん、勅曰|大養徳恭仁《オホヤマトクニノ》大宮。歌は山河のたゝずまひを先擧げて、こゝにはかなくませるを云、和束山にいたりて薨去あれば、今までは大よそに見し山を、御かたみの所に見ると云、此歌の旨は此詞章に有、是は二月三日に見ゆ、次の歌は三月廿四日と見えたり。
478 掛まくも 文にかしこし 吾大君 皇子の命の 物の部の 八十伴の男を 召|集《ツドヘ》 聚率《イザナ》ひたまひ 朝獵に 鹿猪《シシ》ふみ起し 暮《ユフ》狩に 鶉雉《トリ》ふみ立て 大御馬の 口|抑駐《オシトゞ》め 御心を 見しあきらめし 活道山 木立の繁《シゞ》に 咲花も 移ろひに(316)けり 世の中は かくのみならし 丈夫の 心|振起《フリタチ》 劔刀《ツルギタチ》 腰にとり佩《ハキ》 梓弓 靱《ユキ》取負て 天地と いや遠長き 萬代に かくしもがもと 憑めりし 皇子の御門 の五月蠅なす さわぐ舍人は 白たへに 衣とり着て 常なりし 咲《ヱマ》ひ振まひ 彌《イヤ》日|異《ケ》に かはらふ見れば 悲しきろかも
反歌
479 はしきかも皇子の命のありがよひ見し活道の路は荒にけり
480 大伴の名におふ靱《ユキ》背《オヒ》て萬代にたのめし心いづこにかよらん
此歌は活道山と云に御狩ありし事を思出てよめり、歌の意明らか也。山の名よめがたし、古點いくめぢ山とよむ、活はいくとよめど、目の無くてはいくめとはよむべからず、第六卷に天平十六年正月十一日登2活道岡1と有て、家持の歌有は、此京近(317)き所なるべし。神代紀に活津彦と申し、又活目津彦とも書けるが見ゆれば、かく書きてもくめぢとよむか、いにしへの讀法知りがたし。久米は葛城郡にさる郷の名、和名抄に見ゆるは、こゝによむ所とは違ふべし、路程遠く且狩の場なる地とも思えずと云り、いづれ。神代紀の活津彦は目の字を脱せしを、こゝはそれに擬ひて書きし歟、活の字、伊久とはよまずして久とのみよみしか。※[竹冠/占]をととよみ、沼をぬとのみ、穴を那とのみよむと同じき歟、然ども反歌の活道は見しいくめ路とよむ歟、さらば上の伊は例の虚詞のみ。大伴の名におふ靱負、姓氏録に天孫降臨の御前《ミサキ》を天押日命と大久目部とつとめたまふに、大久米部は靱負て出たちし事を始也、天押日は即久目部の祖神也、雄略の御時に天の靱負《ユケヒ》に大連(ノ)公の姓を賜ふに、衛門開闔は重職也、一人に堪ずとて、其子佐伯宿禰を加へんと奏す、是大伴佐伯開闔の職の由也、今は開闔の事をつとむるを、闔侍とて女子の出て事を爲《ナ》す、大聖寺宮甘露寺殿此職掌と聞く、いつの世よりの例にや、さは天孫降臨このかた大伴の職なる事を、家の面目として、廿卷の陸奥(318)山の歌にもよまれたり。
高橋朝臣 蟲麻呂歟 悲2傷亡妻1作歌 と有べし。
481 白細布〔左○〕【布の字脱】《シロタヘ》の 袖指かへて 靡き寢し 吾黒かみの 眞白髪に 成極《ナリハツ》るまで 新世《アタラヨ》に 共に有んと 玉の緒の 絶じやと〔左○〕【とは脱歟】妹と 結ひ|《て・に》し 言ははたさず 思へりし 心は不遂《トゲズ》 白たへの 袂を別れ にぎび【賑(ニキヒ)】にし 家|從《ユ》も出て 緑子の 哭《ナク》をも置て 朝霧の 彷彿爲《オホニナリ》つゝ 山城の 相樂《サガラカ》山の 山(ノ)際《ハ》に 往過ぬれば いはんすべ せんすべしらに 吾妹子と さねし妻屋に あしたには 出立しぬび 夕べには 入居|歎合【舎は合の誤也】《ナゲカヒ》 腋ばさむ 子の泣毎 に雄《ヲトコ》じもの 負《オヒ》み抱《イタ》きみ 朝鳥の 啼《ネ》のみ 哭《ナキ》つゝ 戀れども 効《シルシ》を無みと 言問ぬ 物にはあれど わきも子が 入に(319)し山を寄所《ヨスガ》とぞ思ふ
反歌
482 空蝉の世の事なればよそに見し山をや今はよすがと思はん
483 朝鳥の啼《ネ》のみや鳴ん吾妹子に今又さらにあふよしを無み
子あるにはいとゞしのばるゝ事こそ多からめ、其子を腋はさみつゝ、朝には妻屋に出たちゆき見、夕べは入居て歎くさまいとかなしきに、其納めし山をせめてよすがと見るは、いとせめて悲し、入りにし山をよすがとぞ思ふと、云てかへして思はんと今はと云、たのみなきに頼あるもいよゝはかなし、心より出て言に溢れ、人をさへ泣しむるは愛燐の實情也。久邇の都も新都なればあたら代と云、是をあらた世とよめといふは俗解也、新調をあたらしと云、あたら其子をと云も、惜むは即新しきを愛する惰より轉じて云語也。にぎびは賑贍の義なるを和《ニギ》と云か、和合のよき事より人の喜びてあ(320)つまる事をにぎはしきとは云也。相樂山さがらかとよむ、古事記に垂仁の時|圓《マト》野ひめの木に懸《サガ》りて死なんとするを由にて、さがり木と云地を今はさがらかといふ也と見ゆ、和名抄相樂郡佐賀良か。よすがは寄住所《ヨスガ》也、住所《スミカ》在處《アリカ》、ところを約めてかと云。注に七月廿日と見ゆ、名字未v審但云奉膳之男子とはいかに、高橋は膳夫《かしはで》なればなま心して云歟。
(321) 楢の杣 卷四上
此卷は大伴卿の家記の第一の卷歟、天平十二三年の比よりこなたの歌とおぼしきが有、古歌もあるはよしとおぼしたるをこそと云へり。
相聞と云事既に云。
難波天皇之皇妹奉d上在2大和1皇兄u御歌
と有し歟と思へど、御兄弟共に御名を脱したり、且皇兄即天皇の御事とも云がたし、大原※[さんずい+勞]田の二姫の御兄には、額田、大山守、率眞稚の三君有、菟道の太子の弟姫に八田雌鳥の二姫有、猶同腹ならぬに皇兄と指奉るべければ、あまたおはせるをいづれと指がたし、大和に在すと云は誰ならむ。
484 一日社人も待つげ長き氣をかく待るれば有がてなくも
長き氣と云事、さてもことわり不v得、常と云事を氣と云には長き氣と云ふか、月日(322)長く經るとは聞ゆれど異、勝、殊等の字に義を借事、本語は是よりと云べき辯説を聞ず、ことわる人々己が私をかまへては、己は聞ゆれど他には及べからず、社と書てこそとよむは、神社に願ふ事を祈る故もて也、こそは乞の字正義也。さて有が中に取出て長《ヲサ》をこそと云に轉じ、又人の長だちしを呼にも云、うつぼ物語に田子こそと云名あり、今の本にたゞこそと有は誤也、卷中に田子の浦と云歌の有に由《よ》る名也、源氏の夕顔にも右近を指て、こそ見たまへと云語も有。さて歌は一日こそ待つかるれ、かく月を重ねてはえあらぬと云也。
丘本天皇御製 とのみにはあらじ。
丘をすへて岳に作る、そのかみの誤也。天皇舒明齊明いづれぞと古注に云り。此歌男女の情定がたし、次に論ず。
485 神代より 生繼《アレツギ》來れば 人|多《サハ》に 國には滿て あぢ群《ムラ》の 去來者行跡 吾戀る 君にしあらねば 晝はも 日のくるゝまで 夜はも 夜の明るきはみ 思つ(323)ゝ いねがてに登 あかしつらくも 長きこの夜を
反歌
486 山のはに味むらさわぎゆくなれど吾はさぶしゑ君にしあらねば
487 あふみ路の烏籠の山なるいさや川氣のころ/”\は戀つゝもあらむ
初め四五章世に人は國に滿るばかりあれど、吾こふる君にしあらねばと云詞章、且君と云語につきて女らしきものに聞ゆ、齊明の御かたなるべし。
去來者行跡、あぢ鳧のむれていざとは行とは聞ゆれば、とは付よみ歟、脱字か。いねがてに登の語聞えがたし、登は死弖《シテ》の二字を一字に誤し歟と云り。近江の犬上郡のとこの山なるいさや川といひて、氣のころ/\はいかでつゞくらんしらず、氣の比々と云語、委しくことわり得ねば、續くべき用も有歟、此まゝにたゞ。
額田女王思2近江天皇1作歌
初めは此帝にめしつかはれて、後に天武の妃人となり給(324)ふ事、史に出たり。天智の御事は史に見えぬもて、こゝも清原の誤かと云は暗し、春秋の判の歌にちかく召れ、山科の殯宮の退出の時の歌にも、初めは近江にめしつかはれし事明らか也。
488 君まつと吾戀をれば我宿の簾うごかし秋の風ふく
君待、女ごゝろのさま見るがごとし。
鏡王女作歌 は誤にて、鏡女王の和歌と有しかと云り。さらば母の御こたへにて、さることわりと聞ゆ。
489 風をだに戀るはともし風をだにこんとしまたば何かなげかん
風の音づれをだに戀るはめづらし、風をだにとかへせしは、戀るはともしの七言を略したれど、かへして云古歌の一格也、其音づれしあらば何かはなげくぞと、こたへがてらになぐさむる親の心也かし。
(325) 吹黄刀自歌 とのみはあらじ。
490 眞のゝ浦の淀の繼橋こゝろゆも思ふや妹が夢にし見ゆる
かくいへば男の心也。此吹黄の刀自は第一の卷に、十市の皇女に從ひて伊勢の大神にまうづる時の歌有には、女なるべき事疑ひ無し、はしの亂て其事わり分がたし、只女の吾を思ふや我夢に見ると云也。
眞野浦、近江津國定めがたし、この詞章よどの繼橋心ゆもおもふや、妹が繼て夢に見ゆると云には詞足ず思ゆ。
刀自は戸主の義、いへあるじと云事也、老若をいはず、人妻と成て家の内の事をつかさどるに云、物がたり共に家とうじ後の俗言也。
491 河づらのいつ藻の花のいつも/\來ませ我せ子時|自《ジ》けめやも
是が刀自の歌にて、上なるは誰ぞ男のよめる也。
(326) 田部(ノ)忌寸《イミキ》櫟子《イチビコ》任2太宰1之時、留v京妻作歌 と有し歟。
492 衣手に取とゞこほり泣子にもまされる吾をおきていかにせん
袖にとりすがりて、親を慕ふ子にもかはらぬ別れの歎きを棄おきてとうらむる、めゝしさの涙也。
493 おきてゆかば妹こひんかも敷たへの黒髪しきて長きこの夜を
是は櫟子が歌なるべし。さらば小序にこたふると云しを脱せし也。歌の意明らか也、長き此宵を泣あかすよと也。
494 わきもこを相知らしぬる人をこそ戀のまさればうらめしみおもふ
是は又異にて小序の有し歟、上の別れのにはあらじ、我思ふさまにある人有と聞て、恨めしく思ふ也。
495 朝日影にほへる山にてる月のあかざる君を山越におきて
(327)女の歌なるべし、山のあなたなる人を思ひかはす也。朝は日影にほへる山に、夕べは月の照して出ると云を、言省きて云也。さてそれは世の常なればあかぬにたとふ也。
柿本朝臣人麻呂歌 とのみはあらで、四首贈答の小序有しなるべし。
496 三熊のゝ浦の濱ゆふ百重なす心は雖思《モヘド》たゞにあはぬかも
しのびて逢ふ女に贈るなるべし。三熊の浦の濱ゆふは、波の立かさなりよせくるをゆふ花の百重にと云文言也。古歌に相坂を吾こえくればあふみの海しらゆふ花に波のたつ見ゆと云をとりて、それに打まかせて浦の濱ゆふとは云ふよ。後世是を解煩らふより、近き人のくま野の浦邊に生る濱ゆふと云物ぞとて、一種の蕃菜を殖てもてはやす有、是を見るに南蛮の野菜の類にて、いつよりかこゝに持わたりけんを、南浦にうゑてほこえ廣ごりしと思ゆ。すべて南蕃の種はこゝにても南邊に培養すればよくはびこる、今の蘭と云香花の類もしか也。さてこの歌のこたへとおもふは、四首めに有な(328)るべし。
499 百重にも來しけもがもとおもへかも君が使の見れどあかざれや
使しき/\に問くるは、百重にもおもふかもと云也、又おくる歌は、
497 いにしへに有けん人も吾|如《ゴト》歟妹に戀つゝいねがてにけん
おもひ寢の寐ざめがちなるを、かゝりそと云やる也。
こたへは、
498 今のみのわざにはあらじいにしへの人ぞまさりてねにさへ泣し
ときゝ傳へしぞとこたへし也。
碁檀越往2伊勢國1時、留v京妻作歌
500 神風の伊勢の濱荻折ふせて旅寐やすらん荒き濱邊に
女の歌のすぐれたる者也、心も詞章もかゝるはいにしへ今のけぢめもなくぞめでら(329)る。
柿本朝臣人麻呂歌 とのみにはあらざりしなるべし。
501 未通女等か袖ふる山のみづ垣の久しき時ゆおもひき吾は
今ならずはやくより思ひ懸しと也。布留山は大和の山邊郡にあり。みづ籬の宮は崇神の皇居の磯城《シギ》の瑞籬の宮也、石築立て樹叢を墻にうゑめぐらせし太古の質見つべし。この帝觀はかくして久しき例なる作りざまなりし故に、久しきと云事に懸て云也、たゞ皇都のこゝに代々久しかりしものに云は違へり、次の垂仁景行仲哀御代々々ごとに遷居有し也。さてをとめらが袖ふるとかけ、又みづ垣の宮のこゝなりしかば、布留山の瑞籬の宮とまでいひて、本の句十七言すべて文言のみ。
502 夏野ゆくをしかの角の束《ツカ》の間も妹が心を忘れて思へや
一束のわづかの間《ヒマ》も忘れぬと云に、忘れて思へやとはいともことわりを云ときがたき詞章也、かゝるが古歌には有を、よみうつしがたく且意も得がたし。
(330)503 殊衣《タマギヌ・アリギヌ》のさゐ/\しづみ家の妹に物いはず來て思ひかねつも
別れて旅に立らむ時に、妹が聲さやくしく泣沈みしをあつかひかねて、物らもよくいはで出こしかば、今はおもひかぬると也。此歌も古語のことわり、今よみうつしがたし。玉を衣につけし事いにしへの文装也、唐樣の服製の後は停られたりといへども、猶歌にはよみし也。さゐ/\は玉の相觸れて鳴る音也。この歌十四に又出てあり、きぬのさゑ/\と見ゆ、玉ぎぬをあり衣とよめと云は、是に因て云也、あらみ玉と云をあら玉といひ、又そのあらをありと通音に云と教へしかど意を得ず、ありはあらの義にて新調の衣と聞ゆ。さて衣に玉を著くるは常の事なれば、玉ぎぬといはでも玉ある樣に云し歟、猶しらざる事也。此歌詞章すべて言を加へざればことわり得ず。三者同じ度にはあらで有しを、小序あらざればつばらかならず。
柿本朝臣人麻呂妻作歌
(331)504 吾が家に吾住坂の家道をも吾は忘れじ命死なずは
炭坂は宇陀郡也、人丸の家そこにとも思得ず、たゞ君が家に吾すむと云のみの文に、地の名を言ひしのみの事と思ゆ、生てだにあるほどは君が家路を忘れぬと云也、上の物いはず來てと云おくりし女にや。
安倍郎女歌 とのみはあらじ。
505 今更に何をか思はん打靡き心は君によりにしものを
506 吾せ子は物なおもひそ事しあらば火にも水にも吾なけなくに
二首共に貞操の言也、たゞ言にも心だにかゝれば感はあるものぞ。
駿河|※[女+朱]女《ヲトメ》歌 誰におくりしぞ。
507 敷妙の枕|從《ユ》くゞる涙にぞうきねをしける戀のしげきに
(332)波と云より烏の浮寢とあやなせる、古歌もかく上手には有けり。
三方沙彌歌
508 衣手の別るこよひ從《ユ》妹も吾《ワ》もいたくこひんなあふよしをなみ
いとあふ事かたきしのび妻歟、又遠き國に命《ミコト》有て、出たつあしたの別れ歟。
丹比眞人笠麻呂下2筑紫國1時作歌
509 臣女《オミノメ》の 匣《ハコ》に乘有《ノセタル》 鏡|如《ナス》 見つの濱邊に さにづらふ 紐解きけず わきも子に 戀つゝ居《ヲレ》ば 明晩《アケグレ》の 朝霧|隱《ガクリ》 鳴たづの 音のみし所泣《ナカユ》 吾戀る 千重のひとへも なぐさもる 心もあれやと 家のあたり 我立見れば 青楊の 葛木山に たなびける 白雲がくり あまざかる ひなの國邊に たゞむかふ 淡路を過て 粟島を 背《ソ》がひに見つゝ 朝なぎに 水手《カコ》の音|喚《ヨビ》 夕なぎに 梶の(333)としつゝ 海の上を 五十《イ》行さくみ 岩間を いゆきもとほり 稻日妻 浦見を過て 鳥じもの なづさひゆけば 家の島 ありそのうへに 打なびき しゞにおひたる 名のりそか などかも妹に のらで來にけん
反歌
510 白妙の袖ときかへて還りこん月日をよみてゆきて來ましを
難波を舟發きしてゆく/\播磨の浦々島々を漕過るほど、家の人を忘れぬ歎き也。臣女、おみのめとよむ事、おみのをとめの略歟。匣をくしげとはよみがたし、鏡匣にと云にて聞ゆ。さて三津の濱に三句は文、さにづらふ紐は赤紐と云なるべし、狩衣の肩に着てくゝり袖をする料の紐也、其紐をとく間もなき旅のよそひして、妹をば戀つゝをれば音にのみなかるゝと云に、明ぐれの朝霧がくり鳴たづのとは文言也。さてか(334)く戀わぶる心をなぐさむるやと家の方を見れば、かつらき山に雲棚びきて峯はかくろふよ、いと心ぼそしや。さて舟びらきしてひな路にたゞむかへば、淡路島を過て粟島を背むきつゝゆくに、水手の音よびとは、水手の聲あはして呼|音《コヱ》なると云歟。さらば水手の音喚《ヨビゴヱ》とよみたし。いゆきさくみゆきもとほり、伊は共に虚辭のみ、波を乘さけ、岩間をもとほりつゝゆく也。稻日妻朝妻と云に同じく、印南野に在る名なるべし、浦箕は浦邊と云に同じ、うらびとも云より、又みにも音の通ふ也。鳥のなづさひゆくとは翅あれど眞直路にゆかぬを、舟の漕めぐるさまにたとふ。家の島は播磨の揖保郡に屬して海中にある島也、今も船どまりとす。さて粟島とは阿波の國の事と云へど、西に下るには淡路讃岐の南に隔られて見えぬよし也、いかでかくはよみけん、後の歌のしらずよみにとは異にて、是は正しくむかへ望めるさまに聞ゆ、又紀の粟島も南海道にゆかでは見えず。結句はなどかはかく遠き道にうきめ見るとは、云しらさで來しぞと云。反歌のしろたへの袖は、紐ときかへてかと思へど衣の旅にやつるゝを脱(335)ときかへて、月日をよみかぞへつゝ、ゆきかひ路を事なくかへり來んと云なるべし。
幸2伊勢國1時當麻ゝ呂大夫妻作歌
は第一の卷に出て、こゝに又載たるは、この卷と別なる集のよん處也。
草嬢子歌 とは草香のをとめの誤歟。
512 秋の田の穗田の刈場か香よりあはゝそこもか人の吾《ア》を言《コト》なさむ
田かる所にはよりあふをかけて、そこにもがもよりあはばやと、吾を言に云より給ふはたのもしき心見せたまはずはとこたへしにや。かよりのかは虚辭。
志貴皇子御歌 とのみはあらし。
513 大原のこのいち柴のいつしかと吾思ふ妹にこよひあへるかも
上の二句はいつしかと云べくのみ。大原は飛鳥の東に在。いち柴はいちびの木柴なるべし。この歌は初めて逢たるに、こゝには久しき思ひしたるはとうれしき心を述たま(336)ふ也。
阿倍郎女歌
514 吾世子が着せる衣の針目おちず入にけらしも我心さへ
古今にあかさりし袖の中にや入にけん我玉しひのなきこゝちすると云歌に似たる意也、衣の針目を落さずぬふさまに心に入にけらしもと云也。
中臣朝臣東人贈2阿倍郎女1歌 和鋼天平の比の人也、從四位下。
515 ひとり寢て絶にし紐をゆゝしみとせんすべしらに音のみしぞ泣
紐の緒のたゆるは中絶べき祥と云事が有に、とりあへず欺きてやる也、衣の紐也。
阿倍郎女こたへ歌
516 吾もたる三つひによれる糸もちてつけてましもの今ぞくやしき
三つあひにあはせし糸もて付て參らせぬが口をし、心のよりのあはせがたき人よと云(337)歟。
大納言兼大將軍大伴卿歌
517 神樹にも手はふるとふをうつたへに人妻とへばふれぬものかも
机代のさか木にはけがしき手は觸まじきだに手をふるゝを、絶て人妻には言ふるまじき歟と云、人の物云しと云を聞てかく云也。神樹とかきたれば齋杉いはひ槻なとの格に、社樹とも云べければ、それこそしりくめ繩、忌垣めぐらしたれば手は觸がたかるべし。うつたへ、打はうちはへなどの例に虚辭、たへは今の俗にも絶て物いはぬ、打絶て見ぬなど云に同じく、絶斷の義也。假名の法さらばたえなるをと云に絆されて、皆とき煩ふ也、法則と云事人作ならぬやある、よく思はでは古言は聞知らるまじき也、うち絶てと云をうつたえにと云のみ。
石川郎女歌
(338)518 春日野の山邊の道をよそりなくかよひし君が見えぬ比かも
よそり妻吾によそりけめと云は、よすると云に同じきを、このよそりなくは道によるかたもなくかよひし君がと云也。
大伴郎女歌 とのみはあらじ。
519 雨障《アマサハリ》常する君は久堅のよんぺの雨に懲《コリ》にけんかも
常に雨いとふ君なれば、よべのいたく降しには懲やし給らんと云て、誰におくりしぞ。
後人追同歌
一本に追和と有、さらば後の人の追てならひしと云事なれど、しか追和すべき事にもあらず、是は上の郎女の同じくよみて贈りし歌と聞ゆ。
520 久方の雨もふらぬか雨づゝみ君によそりて此日くらさん
雨いとふ君には猶ふれかし、雨づゝみして出がてにし給はんに、けふの日ねもす副ひ(339)て暮さんと云也。雨づゝみは雨をいとひて、物忌の人のさまにつゝしみ居る也、雨さはりは朝參すべかりしにさはりて參らぬを本と、すべて雨にさはり有を云。
藤原宇合大夫遷任上v京時、常陸娘子贈歌
521 庭にたち麻手刈干ししきしのぶあづまをとめを忘れたまふな
いやしきあづま女の庭に立馴て、麻楮《アサヲ》などを刈干すには、其庭に敷ならぶらんを、しき/\に思ふにかけし文言也。
麻手の手は楮の約言にてあさでと云歟、麻乎の誤かとも云り、ゐなか人の詞ながら、乎と云は調べ聞ぐるし。
京職大夫藤原麻呂贈2大伴郎女1歌
名は目六に見ゆ、不比等公之第四子、養老五年從四位上左右京大夫、天平九年六月薨、參議兵部卿從三位、贈を賜に誤る、京職大夫史にミサトツカサとよむ、廓外なら(340)でも中衛の外庶民の住めばみさとゝ云、舊京をふるさとゝ云も、民家のみとゞまりたる状也。
522 をとめらが玉篋なる玉櫛の神家むも妹にあはざれば
王篋、玉のはこなる玉櫛とよむべき歟、玉くしげとはよめず。神家むもめづらしけんもとよみしはいぶかし、又神さびけんもとよめと云、是は源氏の若菜に、さしながら昔を今に傳ふれば玉の小櫛もかみさびにけりと云を思ひて歟。さらば神の下に落字あるべし。
源氏の歌はかくて聞ゆれど、只玉櫛の神さぶると云事意を得ず。
523 よく渡る人は年爾母有とふをいつのまゝぞも吾戀にける
年爾母、爾を付てよむか、脱字にも有べし、よくわたる人は年にもとは、二星の事か、いとも聞得がたし、月ごろならんを年ごろのやぅに思ぼすなるべし。
(341)524 蒸被なごやが下にふせれども妹とし寢ねば肌の寒しも
古事記に牟斯夫須麻爾古夜賀斯多と云詞章の有にて、こゝもむしぶすまとよめといへり、こゝの蒸被の字を見て、記には後の人の補ひしかと思ふは、多加比かるの格也、記は補闕の書なれば、悉信じがたし、被は薄し厚しとは云べし、むすと云事は有まじき也。さて歌、かくさむき夜もいとあたゝかに臥れど、ひとりは寒くのみ思ゆと也。
大伴郎女和歌 坂上の家に住郎女歟。
525 狹穗河のさゝれふみわたりぬば玉の黒馬《クロマ》のくる夜は年にもあらぬか
年に一度の星のあひをうらやみ聞えたまへど、君が駒に乘てこし夜は、年へだつるばかりにあらぬをと云也。黒馬をこまとよめと云、約言にはしかり、こゝはぬば玉のと(342)いへば、黒馬即こまとよむも難なし、雄略紀の甲斐の黒駒は、黒うまとよまでは叶はず、馬なべてと云しを、こまなべてとはいはざる、いと聞にくしと云よ、馬の色皆黒きかは、後の歌にすべてこまと云はうつりての語、是のみならず、うまと云は古言也、其かみに生れたらんには誰もうまと云べし、今をたふとむ人の、心さへくらくなる事よ。
526 千鳥啼さほの河瀬のさゝら波やむ時もなく我こふらくに
本の句は文言のみながら、住家のあたりをもてよめり。この歌はいとめでたし。
527 こんとふも來ぬ時有をこじとふをこんとはまたじこじとふものを
よくかさねて云なしたり、上衆ならずは。
528 千どり鳴佐保の河門《カハド》の瀬を廣み打橋わたす汝《ナ》が來《ク》とおもへば
(343)橋はかねてわたしてあらんを、そこの爲にと云は歌のあや也。注に佐保大納言安丸卿の女、初め穗積皇子に寵せられて、薨去の後麻呂卿にと云へど、それはしのび逢の有し也、宿奈丸に再嫁して、又うとく成し事見ゆれば、違ふべし、又とあり、是も故《モト》にはあらじ。
529 佐保河の涯のつかさの小歴木《クヌギ》莫《ナ》刈焉《カリソ》ありつゝも春しきたらば立かくるがね
旋頭歌と云卅八言の歌也、必しも末を頭《カシラ》へめぐらせてのみよむにあらず。
涯のつかさ、野のつかさ、山のつかさ、少し高き所を云也、刈《カラ》であれ、春にならば茂りあひて、立かくるゝ陰とならんと云は、中絶ずは又と云ならむ。小歴木こぬぎとよむ事あたらず。
天皇賜2海上《ウナカミノ》女王1御製
聖武帝也、女王は志貴親王の御女といへどたしかならず。
(344)530 赤駒のこゆる馬柵《マヲリ》のしめゆひし妹がこゝろはうたがひもなし
こまと云が黒うまの約言ならば、こゝは赤うまとよむべき歟、後の心にてはあしく思ふべけれど。馬柵うまをりをつゞめてまをりとよむ、馬を繋きおく厩《トコロ》を云歟。
しめゆふは云契し言を云、上の十二言は文言のみ。こゝの注に擬古の作かと云は何事ぞや。
海上女王奉v和歌
531 梓弓つまひく夜音《ヨト》の遠音《トホト》にも君|之《ガ》御事《ミコト》を聞はしよしも
御幸は御事の誤にて、事も假訓御言と云也。遠き音とは至尊の御言なれば也、遠津神と申奉るに同じ。弓の端《ツマ》引とは宿直人の弦のつま引て、夜の守り怠らぬ也。
大伴宿奈麻呂歌
(345)532 打日さす宮にゆく子を眞がなしみとむれは苦しやればすべなし
これは養老三年に備後守に在しほどに、かの國より奉る采女に契りしが、今都へ召るゝ別れかと云り。とゞむる私わざをはからば苦し、宮づかへに出たゝすればすべもなく悲しと也。眞悲しみは眞は助語、眞心眞言の例也、かなしとは身にしむと云義と云り、面白きをも浦こぐ舟の綱手悲しもと云は、身に入て面白き也。
533 難波方汐干のなごり飽までに二人見し子を吾しともしも
なごり飽までも相見し子をと云、上の九言は文言也、ともしはこゝには乏の字義に、心のまづしくなるはと云也。
安貴王歌 下注に見れば八上采女が罪ありて本土に追かへさるゝを.、の契りおきし言のかひなき別をいたむと云り、小序にしか有しが漏たるを、傳へにてかく注せし歟。
(346)534 遠つ妻 こゝにあらねば 玉鉾の 道をたとほみ 思ふ空 安からなくに 嘆く空 安からぬものを み空ゆく 雲にもがもな 高くとぶ 鳥にもがもな きのふゆきて 妹に言どひ 吾爲に 妹も事無く 妹が爲 吾も事無く 今も見る如 たぐひてもがも
誤脱有べしと言り、試に人の云妹に言とひ吾爲に妹も事どひ妹が爲吾も事無くと有しかと云りしが、補ひて見ば次に吾も事無く昔方《ムカシベ》を今も見る如と云べきもの歟、遠津妻は國隔たりて住を云。多遠みの多は虚辭のみ。思空嘆く空とは心空に安からぬ也、今は耳たゝしく學ぶべからぬ詞章也。雲と成鳥と化《ナリ》てもいきかひて言問かはし、道には事のさはりなくて、いにしへを今にして、夜ごとにたぐひをらばやと云也、比目鴛央のねぎ言に同じ。
(347) 反歌
535 しきたへの手枕まかずへだておきて年ぞ經にけるあはぬおもへば
門郡王戀歌 戀の歌後の人の補ひか、注に王出雲守にてありし時、部内の娘子をめとり、幾ほどなくてかよひ絶しかば、月ごろへて更にしのびがたくよみて贈りしと云。さらば小序に其事を云たるが脱たるを、傳へのまゝにしるせし也。
536 飫宇の海の汐千の滷の片思《カタモヒ》に|しの《思》びて|や《哉》ゆかん道の永手を
風土記に於雨、和名抄に意宇と見ゆ、後の歌におくの海とよむは違へり。片思《カタモヒ》にと云んに、上の十三言は文のみ、思哉將去、しのびてやゆかんとよまばやと思ふはいかに、さて疎々《カレ/\》の中にはふさはしき歟。
高田女王贈2今城王1歌 第八の注に高安王のむすめと見ゆ。
(348)537 事清甚毛莫言一日太爾君伊之哭者痛寸取物
この歌脱字誤寫有べし、よみ得がたし。事と言と通して書ける例あまた也、こゝも言の義也。
君伊之の伊は處辭也、君しと云のみ。
538 他辭《ヒトゴト》を繁み言痛《コチタミ》あはざりき心ある如思ふな吾|夫《セ》
人の口のさがなさに、暫音づれせじとするのみ。
539 吾せ子し遂んといはゞ人言は繁く有とも出てあはましを
未遂る君が心ならば也。
540 わがせこにまたもあはじかと思墓《オモヘバカ》今朝の別のすべなかりつる
基は墓の誤にて、この歌に見れば、一たびに云贈りしにあらず。
(349)541 現世《コノヨ》には人言繁み來世《コンヨ》にもあはん我せこ今ならずとも
思死もせんとか。
542 常不止《トコトハニ》通ひし君が使來ず今はあはじとたゆたひぬらし
常不止、とことはによむもよろしかる歟。常不止の三字にて、常にしもとよむべく思ゆ、とことはとは言過ぎたるやう也。今城王はあた/”\しき人にや有けん。
神龜元年甲子冬十月、幸2紀伊國1之時、爲v贈2從駕人1所v誂2娘子1、笠朝臣金村作歌
神龜、聖武即位元年也。
543 天皇《スメロギ》の 行幸《イデマシ》の隨意《マヽニ》 物部の 八十伴の雄と 出立し 愛夫《ウツクシツマ》は 天翔《アマトブ》や 輕の路より 玉だすき 畝火を見つゝ 朝も吉 木道に入立 眞土山 越らん君は 黄葉の 散飛見つゝ 親《ムツマ》じき 吾《ア》をば思はず 草枕 旅を便宜《ヨスガ》と 思つゝ 君は(350)あらんと 安蘇々には 且は知れども しかすがに 黙然《モダ》も得あらねば 吾夫子が ゆきのまに/\ 追んとは 千遍《チタビ》おもへど 手弱女の 吾身にしあれば 道守の 間んこたへを 言やらむ すべをしらにと 立てつまづく
女に代りてよめれど、此人のあらびたる詞章に意はよく聞ゆる也。安蘇々と云は淺々しき女心と云歟。さて追したひてと思へど、道しらねば道守のいづちへと問んに、答ふべき言もしらずとて、え出も立ぬと也、女は異に男も過書を見ずては關守の通さぬ也、道守は即關守也、紀の關なる事反歌に見ゆ。
反歌
544 をくれ居て戀つゝあらず紀の國のいもせの山にあらましものを
こゝにとゞまらせて追ゆかんに、紀の國に在と云山の名のなつかしきには、直に其山(351)に化《なり》てんとねがふ也、女々しとて巧みたれど男の巧み也。
545 吾せ子が跡ふみもとめ追ゆかば木の關守伊とゞめなんかも
二年乙丑春三月、幸2三香原離宮1之時、笠朝臣金村贈2娘子1歌 かく有しならめ。此幸史に載す、をとめ氏姓を脱す。
546 三香之原 客のやどりに 珠鉾の 道のゆきあひに 天雲の 餘所にみつゝも ことゝはん よしのなければ 心のみ むせつゝあらんに 天地の 神言よせて 敷拷の 衣手易て 自妻《オノガメ》と たのめるこよひ 秋のよの 百夜の長さ 有|乞《コセ》ぬかも
與の草與乞を誤、此人の口ぶりあからさまによく聞ゆ。神祇辭因ては神に言を誓ふを云、自妻おのがめとよむ歟。
(352) 反歌
547 天雲のよそに見しより吾妹子に心も身さへよりにしもの〔二字左○〕を
鬼オニトヨムコトハ後也、和名抄邪鬼ヲアシキモノ。
よそに見し時よりと云也。
548 今夜のはやく明なばすべをなみ秋の百夜を願ひつるかも
未の句巧み也、伊物に是をとりて、八千夜し寢ばや飽時のあらんとせしは、後の上衆のわざ也。
五年戊辰、太宰少式石川足人朝臣遷任、餞2于筑前國蘆城驛家1歌 聖武紀元年授2從五位上1。
549 天地の神も助よ草枕旅ゆく君が家に到まで
550 大船の念《オモヒ》だのみし君がゆかば我は戀んなたゞにあふまでに
(353)551 大和道の嶋の浦過によする波あひだも無けん吾こはまくは
本の句は文言のみ。大和路の嶋の浦廻とは、飛鳥、初瀬、三輪川の落あひの末の龍田川までの間を云歟。大和嶋と云は今も云事に思ゆるを、大和路の嶋の浦々、大和なる大島嶺、そのかみの人ならずは言かよひがたかるべし。三首共に作者未詳と注せり。
大伴宿禰三依歌 とのみにはあらじ。
552 吾君は和氣をば死ねとおもふかも逢夜あはぬ夜ふたゆきぬらむ
卷八に戯奴と書て注に和氣とよめと有は、遜讓の誤歟。つらくのみもあらで心の二方にゆくさまを怨む也。されば外心にはあらで心見んとする歟。
丹生女王贈2太宰帥大伴卿1歌
553 天雲の遠隔《ソグヘ》の極み遠けども心しゆけば戀るものかも
そぐへは天地の底邊《ソコベ》と云に同じと云と意得たれど、又思ふに其虚邊《ソコベ》にて、天地の其《ソコ》に(354)到らん邊《へ》までと云語にや、地の下邊《シタヘ》を底邊は聞ゆ、天の方にはふさはしからぬ也、下邊《シタベ》國より混じて皆云なるべし。
554 古人乃令食有吉備能酒痛者爲便無貫簀賜牟
黍にて釀せし酒の味よからぬ歟。貫簀、湯盤の上に横たへ置て、手巾をおく料の具也、うつぼ物がたりに、しろ金のはにさう沈の貫簀と云、常には竹を編たる物也。此歌いかなる意にや解なすべき、いへばいはるれどよき歌とも見えねば只さしおきぬべし。
太宰帥大伴卿贈d大貳丹比縣守卿遷2任民部卿1之畔u歌 とありし歟、又民部省と有し歟。
555 爲v君(ガ)釀《カミ》し待酒《マチザケ》安野《ヤスノノ》爾獨|哉《ヤ》將飲《ノマン》友無にして
待酒とはそのかみは其客に對して、かねて釀しおきたるを開くと云事也と云り、今は知るべからぬ儲也。安野は筑前に夜須郡在、そこにあるべし。
(355) 賀茂女王贈2大伴宿禰三依1謌
556 筑紫船いまだもこねばかねてより疎《アラ》ぶる君を見るが悲しさ
筑紫の任定まりて下るまでのほどの心いたみ也。疎くなるを荒ぶるとは云。
土師宿禰水通從2筑紫1上v京海路歌 水通の訓いかによむや。
557 大船を※[手偏+旁]《コギ》の進みに磐《イハ》に觸《フリ》覆者覆《カヘラバカヘレ》妹に因《ヨリ》て者《バ》
風波にあひけん、今かへらば覆れ、妹と共にならばと云を、依《ヨリ》てばと云歟、妹はこゝにあらねば云。
558 千はやぶる神の社に我かけし幣《ヌサ》は賜《タバ》らむ妹にあはなくに
筑紫を出たつ時、事無くて京へと幣奉りて頼をかけしは、かひなくは其幣物かへしたばらんと云、辛きに臨ては人情の稚くて、かゝる歎きをするぞ誠心なるを、こしらへ(356)て云は後の人の※[言+爲]言也、遂にゆく道とはと歎きしを、死期の實言にこそ聞知たれ。此の言を擬ひてあらぬさかしらするは※[言+爲]妄也。此歌よしとにはあらず、よしとてかく艱難の詞を褒むべき事かは。
太宰大監大伴宿禰百代戀歌 と有は後のしわざなるべし。
559 事もなく生來しものを老なみにかゝる戀にも吾はあへるかも
老ゆくなべにと云を約めたり、なべてと云語は、それか並《ナメ》にと云義にて、今はそれにつきてと云、かく事も無くて在し身の此事にあへると、戀をつらき物に女に云やるなるべし。
560 戀死なん後は何せん生《イケ》る日の爲こそ妹を見まくほりすれ
聞えたり。
561 思はぬを思ふといはゞ大野なる三笠の杜の神し知らさん
(357)第十二にも、思はぬをおもふといはゝ眞鳥住うなでの杜の神し知るらんと見ゆるは、またくひとつ意也、後に云し人はしらずよみにやよみつらむ、誠心なる事はおのづからよみあはすべし。三笠杜の神は筑前の御笠郡にあるべし、神功紀に皇后熊襲をうたんとて、橿日《カシヒ》の宮より松峽《マツヲ》にうつりたまふ時、飄《ツムジ》ふき立て御笠を墜す、こゝを三笠と名づくと見ゆ。
562 いとまなく人の眉根をいたづらにかゝしめつゝもあはぬ妹かも
いにしへの諺に、眉の痒きは人に逢|祥《サガ》ぞといへる、たはれて面しろし。
大伴坂上郎女歌 とのみにはあらじ。
563 黒髪に白髪交りて老《オユ》るまでかゝる戀にはいまだあはなくに
564 山菅の實《ミ》ならぬ事を我によりいはれし君は孰《タレ》とか宿《ヌ》らむ
穗積親王の薨後に大伴の宿奈丸に再婚して、此人に疎々《カレ/”\》なりし歎きなるべし。老さり(358)たるものに云は文言也。次は山菅の實とまでかけし文言也。菅は子のなりやすき種なれば、ならぬとまでは無味也、今は誰にか寢物語し給覽と云て、實《ミ》ならぬ言を又あだし人にもと意は含めたらん、上衆の巧み也。
賀茂女王歌 とのみならし。
565 大伴のみつとはいはじあかねさし照《テレ》る月夜にたゞにあへりとも
いと忍《タヘ》てあふ人に誓言《チカコト》立るなるべし。古今に君が名も我名もたてじ難波なる三津ともいふなあひきとも云はじ、是を侵したる也。
太宰大監大伴宿禰百代贈2驛使1歌
驛便、波由麻豆加比とよむ、早馬使の約言也、此使を遣さるゝ事下注に見ゆ。
566 草枕旅ゆく君を愛しみ副而曾來之四鹿の濱邊を
(359)たぐふとは相離れぬ状也。四鹿は筑前の那珂郡に在海島也。こゝに又百代の歌と云注は衍語也。
567 周防なる磐國山をこえん日は手向よくせよ荒き其道
周防の玖珂郡にあり、昔は峻唆しき坂道なれば、山の神に手向よくしてゆけと云は、此行程の難に思へしが、今はさる道とも聞えず。
右は少典山口忌寸若麻呂の歌と注す。
さてこゝに古注あり。以前天平二年庚午夏六月、帥大伴卿忽生2瘡脚1、疾苦2枕席1、因v此馳v驛上奏、望3請庶弟稻公姪胡麻呂欲v語2遺言1者、勅2兵庫助大伴宿禰稻公治部少亟大伴宿禰胡麻呂両人1、給v驛發遣、令v看2卿病1、而※[(しんによう+至]2數旬1幸得2平復1、于v時稻公等以2病既療1、發v府上v京、於v是大監大伴宿禰百代少典山口忌寸若麻呂及卿男家持等相2送驛使1、共到2夷守驛家1、聊飲悲v別乃作2此歌1と云に事明らか也、酒量堪へがたくてや瘡(360)毒を患ひ給けん、さは醉泣もしひては無味の事なるべし。夷狩《ヒナモリ・アガタモリ》、景行紀延喜式等にみゆ。
太宰帥大伴卿被v任2大納言1、臨2人v京之時1、府官人等餞2卿于筑前國蘆城驛家1歌
568 三埼廻《ミサキワ》の荒磯《アリソ》によする五百重《イホヘ》浪立ても居ても我|思《モヘ》る君
立居にも忘れがたきと、人の慕ふは卿の徳ありし也。さて本の句はまたく文言也。右一首筑前掾門部連石足。
569 辛人之《カラヒトノ》衣|染《ソム》と云《フ》紫の心に染《ソ》みておもほゆるかも
紫色は韓《カラ》人の官服なるを、こゝにも貴みて着用せしにや。或人は辛は幸の誤にて幸人《ウマヒト》かと云り、是も心に染みて恩顧を思ふと云上は文言也。
570 大和べに君が立日の近付ば野にたつ鹿もとよみてぞ鳴
(361)獣類だに慕ふと也。右二首は大典麻田連陽春。
571 月夜よし河音《カハト》さやけし率《イザ》こゝに行もとまるも遊びてゆかん
右一首防人佑大伴四鋼。此歌は氏族の餞別に、宴酒をすゝむる例の帥の卿の好むところ也、歌はいと面白し。
太宰帥大伴卿上v京之後、沙彌滿警贈v卿歌 觀音寺の別當の歌也。
572 眞十《マソ》鏡見あかぬ君におくれてやあした夕べにさびつゝをらむ
不樂をさびしとよむ、さびは心すさびの約語也、わびと云も同じ、古語は事に臨みて喜哀のふたつに心ずゝみするを云を、後にさびしとははかなくつれ/”\なるにのみに云、物がたりの語にさう/\”しと云は、さぶしきを重ねたる語なるを、さらばさぶ/\”しと書んを、さう/\”しと云書く、語のつらねだに心得れば、其義は分ると云は是等也。
(362)573 ぬば玉の黒髪かはり白髪《シラゲ》てもいたき戀にはあふ時有けり
戀に物思ひくづをるゝは、猶あふ時あらむをと也。上に坂上郎女が黒髪に白髪交りおゆるまでとよみしに、大かた似たれどしらずよみなるべし。
大納言大伴卿|和《コタヘ》歌
574 こゝにありて筑紫やいづこ白雲の棚引山の方にし有らし
こゝにとは都也、第三に志賀の行幸に石上卿の、こゝにして家やもいづこ白雲の棚びく山を越て來にけり、似たる歌也。
575 草香江の入江にあさる蘆たづのあなたづ/\し友無しにして
むら鶴の友にはぐれたる意をこめりし歟。二首ともに感ある歌也。草香江とは河内の河内讃良二郡の間、津の國の東成に接へさかひて、昔はかぎりもなく廣き江沼也と(363)ぞ、今は田に大かたひらきなして、江と見るべき所なけれど、凡三萬石餘の水田となれり、日下《クサカ》の郷は河内郡生駒山の山下に在、古事記に草香江の入江の蓮花はちすとよめるあり。
太宰帥大伴卿上v京之後、筑後守葛井連大成悲歎作歌
聖武紀に外從五位を授かりし人也。
576 今よりは城《キ》の山道は不樂《サブシ》けん吾通はんとおもひしものを
國府にかよふ山路なるべし、我かよはずならばさぶしからんと云、古歌はかく巧めり。和名抄に筑前の城邊《キノベ》、第六に城《キ》の山、又|大城《オホギ》の山ともよめり。
大納言大伴卿新袍贈2攝津大夫高安王1歌
攝津はそのかみ職を置れたりしが、桓武の御時に到て停《ヤメ》られたり。
577 吾衣人にな着せそ網引する難波男の手には觸とも
(364)此奉るはいとあやし氣ながら、そこには見たまへ、さて浦の蜑等に後はあたへ給ふとも、よ所人には必よと、意詞いと面白。
大伴宿禰三依悲v別歌 送別なるべし。
578 天つちと共に久しく住はんと思ひてありし家の庭はも
氏族の人にはあれど、かくまで別をしく思ふは、帥卿の人がらゆかしくこそ思ゆれ。家の庭はもと云へど家はもと云に同じ。
金明軍與2大伴宿禰家持1歌 金明軍は歸化の人、帥の資人也。
579 見まつりていまだ時だにかはらねば年月の如おもほゆる君
資人と成て久しくは仕へまつらねば別れもさるべきに、かく年月の長き如思ふ君ぞと、父子の事をかねて云也。此格にあらねばと云詞章、古歌に見ゆ、あらねどゝいへばよく意得らるゝを、あらねばと云に詞を加へて聞べきが格也、詞をくはふるには意(365)深く聞ゆる也。
580 足引の山におひたる菅の根のねもごろ見まくほしき君かも
本句またく文言也。ねもごろと云語は、木草の取の凝《コリ》たるを人の心の根ざし深きにたとふ也。
大伴坂上家之大娘報2贈大伴宿禰家持1歌
581 生てあらば見まくもしらず何しかも死なんよ妹と夢に見えつる
暫へだてゝ住し比の夢に、かくて隔たれば生ての世には寄あはじ、死ての後こそ長く添めと聞えたまふと見て、目さめぬるはと、女|情《ゴヽロ》の弱きにあだ夢は見しを云やる也。
582 丈夫《マスラヲ》もかく戀けるをたをやめの戀るこゝろにたぐひあらめやも
夢のはかな言ながら、男魂も無く聞え給ふにも、まして女はと云也。
(366)583 月草のうつろひやすく思へかも我|思《モ》ふ人の言も告こぬ
夢にははかなき言を聞えて、うつゝには言も聞こぬ、いとかくたのみなくうつろひやすき心かと云よ。月草は染著と云にて、月は假言也、鴨頭草と此集には見ゆれど、鴨跖草と云物の由に云り、野藍搨、野搨など云は是也。
584 春日山朝たつ雲の居ぬ日なく見まくのほしき君にも有かも
とかく云つゝ山に雲の立ゐぬいとまなく思ふと也。
大伴坂上郎女歌 とのみにはあらじ。
585 出てゆかん時しはあらぬをことさらに妻戀しつゝ立てゆくべしや
是は定めて旅人卿に從ひて筑紫に下る時に、宿奈丸に云贈るなるべし。かれ/”\ならずはいかでかく女の遠き國に出立のあらんやはと怨める也。
大伴宿禰稻公贈2田村大嬢1歌 旅人卿の弟從四位下大和守。
586 相見ずは戀ざらましを妹を見て本名かくのみ|こひば《こはゞ》いかにせん
かいまみして目をくはせけん。注に姉坂上郎女の作とあれど、妹を見てと云詞章は男の歌也。
笠郎女贈2大伴宿禰家持一歌
587 吾かた見ゝつゝしぬばせあら玉の年の緒長く吾もしのばん
かた見にとて何をか贈けん。
588 白鳥の鳥羽山松の待つゝぞ吾戀わたる此月ごろを
白鳥とは羽毛の色につきて云、仲哀紀に鵠をも云、鶴鷺等をも云べし。さて飛《トブ》とかけし歟。鳥の羽の白きに云か、鳥羽山は大和の内に在歟、上の十二言は冠のみ。
(368)589 衣手を打廻の里に在る吾をしらずぞ人はまてどこざりける
男の絶て間ぬを怨みて、吾郷をも忘れてしらぬものに過し給はゞ、待とも來ざりけるはと云。
衣手を擣《ウツ》とかけたり、里は龍田川の邊にと聞ゆ。
590 あら玉の年のへぬれば今しばと勤《ユメ》乞《コソ》吾せ|子〔左○〕吾名のらすな
かく年月の經ぬれば暫と勤々《ユメ/\》吾名を人に告《ノラ》したまふな、君が疎々ならば名のみかひなくあらんにはと云。勤與は與の草、乞を誤る事所々多し、ゆめ/\乞《コソ》と願ふ也。
591 吾|念《モヒ》を人にしらず|や《哉《ヤ》》玉匣ひらき明つと夢《イメ》にし見ゆる
玉匣は玉手ばことよみしなるべし、玉櫛笥とはよみ得じ。絶るのみならでかゝる人に今はなど古物がたりにし給ふな、夢に手箱明つと見しがはかなき祥《サガ》になげかると也。
(369)592 闇夜《ヤミノヨ》に鳴なる鶴《タヅ》のよそにのみ聞つゝかあらむあふとはなしに
よそ人に御事を聞と也。
593 君にこひいともすべなみなら山の小松が下に立なげきつる
立なげく鴨、一本に鴨は鶴と有を取る。木がくれてのみ歎くと云に同じ。
594 吾宿の夕陰草の白露の消《ケ》ぬかに本無おもはゆる鴨
夕陰草、水陰草、露多きあたりなるべし。今は命もけぬかとさへ本無おもふと也。
595 吾命の將全幸《マタケン》かぎり忘れめやいや日に異《ケ》には思ひますとも 景行御製いのちのまたけんひとは
生ての世にはいやましにのみ思ふと也。
596 八百日ゆく濱の眞抄も吾戀に豈まさらめやおきつ島守
豈不益歟は豈可益歟の誤なるべし。島守とは島の主《ツカサ》の人を指て問ふ也、土佐日記に(370)※[楫+戈]とりいへと云かけしは詞足ぬ、此歌よしとて人よくおぼえたり、女|情《ゴヽロ》に海路の遠きを云て、それにもまさる情ぞと島守は知るかと也。
597 うつせみの人目を繁み石走《イハハシ》の間近き君に戀わたるかも
住家の遠からぬにこそ。
598 戀にもぞ人は死する水瀬|下《シタ》從《ユ》吾《ア》は渡《ヤ》す月に日に異に
人は保つべき命も戀にぞ死る、痩に羸《ヤセ》つゝしてと云也。下よりは心にふかく思ひ悩める也、水瀬川は山城の乙訓、津國の島上兩郡の境川也、水上の飛泉流れくだる間に、水脉一たび地中をくゞりて、又末にてあらはるゝ也、仍て下ゆとも下にかよひて有て、行水無くてこそともよむ、所々に多きを只こゝのみによむ。
599 朝霧のおほにあひ見し人故に命死ぬべく戀わたるかも
(371)おほに見し人とは男の心指す也。
600 伊勢の海の磯もとゞろによする浪かしこき人に戀渡るかも
よりがたきさかし人と云也。
601 心ゆも吾は思《モハ》ざり山河も隔たらなぐにかく戀んとは
上に間ぢかき君と云に同じ。
602 夕ざれは物もひまさる見し人の言《問》とはす形《サマ》面影にして
逢毎の夕とゞろを思ひ出て。
603 思ふにし死する物にあらませば千度ぞ吾は死かへらまし
おもふに死るものならばと云也、後に人丸の歌として撰ばれしは違へれど、よき歌なれば也。
(372)604 劔太刀身にとりそふといめに見つ何《ナニ》の性《サガ》ぞも君にあはん爲
性を怪に誤る、性質をさがと云也、轉じて祥《シルシ》あるにも云、こゝは祥の義也、劔は身にそへて帶ぶる物故に、よりそふべく思ふ心の煩ひ、かかる夢見はする也。
605 天地の神もことわりなくはこそ我|思《モ》ふ君にあはで死せめ
神にいのるかひなくて、神もことわりしらぬぞと也。
606 吾《ワ》も思ふ人も忘るな多奈和丹浦吹風のやむ時なかれ
多奈和讀得ず、後撰にありそ海のうら吹風のやむ時はなくとして載せらる。
607 皆人をねよとの鐘は打なれど君をし思《モ》へばいねがてぬかも
陰陽寮式に撃鼓子牛各九下、丑未八下、寅申七下、卯酉六下、辰戌五下、巳亥四下、并平聲、鐘依2刻數1と見ゆ、又撞2漏刻鐘1料松木一枝、本周三尺、長六尺と見ゆ、寐(373)よとの鐘は亥の時也。
608 相思はぬ人をおもへば大寺の餓鬼の後《シリヘ》に額《ヌカ》づくが如
餓鬼は罪深きによりて杳の後邊《シリヘ》にて佛を拜するを云也、大寺の諸堂の内には惡報をなさん爲に、餓鬼を作りておくをたとへてよめり、拜するに額を地に着るは此國の禮也、歌にはこゝの事もて云は例也、西竺の禮合掌なり。
610 近かれば見ねどもあるをいや遠に君がいませば有がてまし目《も》
自は誤也。
見ねども近かれば頼みあるをと云也、又下に在がてましをと云、古歌はかく後にうつすまじき詞章多し。未の二首は相別後更來贈と云注は何人のそへしぞ、いとことわりがたく思ゆれば取らず。
大伴宿禰家持和歌
(374)611 今更に妹にあはめやとおもへかもこゝだ吾※[匈/月]鬱悒將有《オホシカルラン》
うとく成にての後の心しからんものぞ。
612 中々煮|木《モダ》もあらましを何すとか相見始けん不遂爾《トゲザラナクニ》
等、一本の爾を取、者も亦煮を取、思へばこそ相見しを、かく絶る由の有には、中々に又云よるがつらしとや、女のあだし情《コヽロ》などのふし有けん。
山口女王贈2大伴宿禰家持1歌
613 物もふと人に見えじとなま強《ジヒ》に常に思へり在ぞかねつる
物や思ふと人の問ふまでと云しには劣りたり。なまじひ※[(來+攵)/心]の字の義、意倦而勉彊之、亦心不v欲、自強之辭。
614 相思はぬ人をや本無白妙の袖ひづまでに吾のみし泣も
(375)615 吾せこは相もはずとも敷たへの君が枕は夢に見えこそ
616 劔太刀名の情けくも吾は無し君に逢ずて年の經ぬれば
太刀に名をつくる事そのかみより古き例也、こゝは名とまでに。
617 蘆邊より滿くる汐のいやましに思へか君が忘かねつる
思へとか君をと有べきを、此女王の歌心はもとより眞情なれど、詞章はあらびてなつかしからず。
大神《ミワノ》郎女贈2大伴宿禰家持1歌
618 さよ中に友呼千鳥物もふとわびをる時に鳴つゝ本無
物おもひ人のいねがてなるさよ中に、なぐさむとはなしに鳴過る、いとおぼつかなくあはれならめ、子規を專らあはれに聞と云も此類にて、しばし心なぐさむるとてな(376)るべし。彼※[草冠/(言+爰)]草に憂をわすれ、合歡に忿を※[益+蜀]らるゝの類の事、時にあたりてのなぐさめ草を、必是が益に云事實に吠る垣守が輩のみ。さて家持卿はかくあまたに心をかよはせつゝ、いとも戯男なりけり、源氏伊勢の作文は實事ならねば論無き事也。されど世の姿もて書きしかば、令にかしこく立られし法も、竊には用ひざる事、歌に見えてしるかりけり、法律は國々にも守りがたきを守らすに、立るにははた守らず也けり、人情は戀慕のみ神代より今にかはらねば、法有といへども見過し給へば、勅撰に戀の部を立られたるに、良媒無きわたくし言も、詞章にめでゝは捨ず撰ばれたり、源氏の繪合に業平が名をやくたすらむと書きしにて、在五の君の婬首ならぬはしるし、此卿の物がたりとて筆とる人の無りしは、卿のみだりざまなる罪を、私にも免れたまへるいみじき幸ひ人にこそおはしけれ。
大伴坂上郎女怨恨歌 是も後の夫の宿奈丸をうらめるなるべし。
619 押照 難波の菅の 根も凝《ゴロ》に 君が聞《キコ》しを 年深く 長くしいへば 眞十鏡 磨《トギ》(377)し心を ゆるしてし 其日の極《キハ》み 浪の共《ムタ》 靡く玉藻の 云云 意はもたず 大舶の 憑める時に 千早振 神や將離《サケヽン》 空蝉の 人か禁《イム》らん 通《カヨ》はせし 君も來まさず 玉梓の 使も見えず 成ぬれば いともすべなみ ぬば玉の 夜はすがらに あから引 日もくるゝまで 嘆けども しるしをなみに おもへども たづきをしらに たをやめと いはくもしるく たわらはの 哭《ネ》のみ泣つゝ 立《タ》もとほり 君が使を 待やかねてん
反歌
620 はじめより長くいひつゝたのまずはかゝるおもひにあはましものか
反歌に云意長歌に同じく長はへたり、はじめより長くとたのめりしを、磨し心のかひ(378)なく成しは神やあしき、神の中さけけん人や忌にくみけん、通ひ絶使も來ず成ぬれば、いたく悲しめどすべなくて、夜晝歎けどしるしもたづきもしられぬに、女ばかりかひなき者はあらぬ、たゞわらはべの如泣つゝのみして、使や來たると待かねぬるよしを云は、やう/\かれ/”\の比なるべし。難波におしてると言を冠らする事説々あれど、よしと聞べきもあらず、集中に臨照と義字めかしく書るにつきてもいへど、按ずるに上古の尊號に天(ノ)押足國(ノ)押足倭足少《ワカ》足排《オス》國排開別《オシヒラクワキ》等の代々にましまするは、押は押領の義にあらず、食の假言にて、海内を食《ヲシ》國と云事往々見ゆ。さらば食足《ヲシタル》の義にて音の通へば、おしてると云習はしけん。さて食足《ヲシタル》魚菜《ナナ》等の詞より難波とは云歟、家持の櫻花今さかり也難波の海押てる宮にきこしをすなべとよめりしは、聞し食《ヲス》と云詞章にも故有て、既に難波を押照宮と云ならはす世と成んての歌也、假字の法の局中に在人は、押はおし、食はをしのたがひに惑はされて、一わたりには肯まじきものよ、しか惑ふ人も己が口にとなへ見よ、於をのたがひ別ある事なし、若押の字義と(379)強ていはゞ、何を押足、何を排國とは云や、天の八重雲をおしひらき、薄|押靡《オシナミ》など云にこそ、物をおす義は聞ゆれ、押足の足は滿足の義也、されど上古の文言には是のみならず、強ひては言まじき事多ければ、これも試に云のみ。難波菅笠とも云て、津國の笠縫等が笠を調じて奉りし事式にも見ゆ、大君の御笠にぬへる有馬菅、山菅をもても作りし也。さてこゝも菅の根の深く凝たるを、心根のかたきにたとへし也。浪の共《ムタ》と云事已にもいふ、意得がたし、玉藻の浪につれて靡きあふを、かよりかくよりと上によめりしは聞ゆ。云云と書てかにかくとよむべくもあらず、是も疑ひ存《オク》べき也。大船は乘て心にたのみ有に云文言也。この歌例には劣りたり。されど怨恨の詞章の可否を云は無情也、歌は作り物にあらぬ世なれば。
西海道節度使判官佐伯宿禰東人妻贈2夫君1歌
此使は諸國の政令を守等の怠りあるを糺す重職也、判官は此佐官の人也。
621 ひまもなく戀るにかあらむ草枕旅なる君が夢にし見ゆる
(380)と云贈りしかば、
佐伯宿禰東人和歌
622 草枕旅に久しく成ぬれば汝をこそおもへな戀ひそ吾妹《ワギモ》
とこたへし也。
池邊王宴誦歌
從五位下内匠頭大友皇太子之孫、葛野王之子、淡海三船之父、宴は誰を君と指たる。
623 松の藥に月はゆづりぬもみぢ葉の過しや君があはぬ夜|多焉《オホミ》
鳥は焉の誤歟。庭松は西に立る歟、ゆづりぬといへどうつりぬ也、もみぢ葉は過ると云文言也、夜は更過しやと云也、君がは君にの誤歟、親族にも疎きはあふ事稀なるから。そのかみは君より賜はる宴の外には、親族ならではなすべからぬ令法也、第八の卷に此事注に見ゆ。
(381) 天皇思2酒人女王1御製
光仁之皇女、天皇即位の寶龜元年十一月に叙2内親王三品1、御製は聖武なるべし。
624 道にあひて咲《ヱミ》せしからにふる雪のけなばけぬがに戀とへ吾妹《ワギモ》
わぎもにと有しを脱すか、略せし例も亦有、魂も消るばかりに、戀といへ吾妹に、親王はさだめてかたち人におはせしならめ、御父天皇は天智之御孫施基皇子之第六子、始無位より從四位下に叙せられ給て、漸々に轉任有て、神護元年勲二等、二年に大納言に任ぜられ給しが、景雲四年八月稱徳崩御嗣君なきによりて、諸臣議りて皇太子に進め奉る時に、御齡六十二にてましませり。此聖武の御製を賜ふ時も、定て女王のみさかりにこそおはすらめ。
高安王※[果/衣]v鮒贈2娘子1歌 をとめは誰がしぞ。
625 奥邊《オキベ》ゆく邊にいき今や妹が爲我すなどれる藻臥束鮒《モブシツカブナ》
(382)君が爲春の野に出て若菜つむとよみませしに意は同じき、詞章劣れる者に聞は、次々の世の宮びに馴たる耳の忝き也。藻ぶし束《ツカ》鮒と云は、そのかみに大きなる魚を賞せし名なるとは聞ゆれど。河にも池にも沖と云は古語也。
八代女王献2天皇1歌 紀には矢代とも見ゆ。
626 君により言の繁きに古郷のあすかの河に身潔しにゆく
無位にておはせしが、頻に位記を授られたまふを、人の嫉みあまたなるに、身潔して横風を拂ひ除かんとなるべし。一に龍田越三津の濱邊に潔身しにゆくともあり、いづれにてもよき歌とこそ承れ。
娘子報2贈佐伯宿禰赤麻呂1歌 誰がしの娘子ぞ。
627 吾袂まかんと思《モハ》ん丈夫《マスラヲ》は戀水《ナミタ》に定《シヅ》み白髪|生《オヒ》にたり
聞えぬ事也、強てことわりなすともよき歌にはあらじ。
(383) 佐伯宿禰赤麻呂和歌
628 白髪おふる事は思はず戀水をばかにもかくにも求てゆかむ
上を聞得ねば是もさしおきぬ。
大伴四繩宴席歌
629 何せんか使の來つる君をこそかにもかくにも待がてにすれ
宴に氏族の誰をか待つる、使の來て遅くても參らんなど云來たりしに云やる歟。
佐伯宿禰赤麻呂歌 とのみにはあらじ。
630 初花の散べき物を人言の繁きによりて止息比者鴨《トマルコロカモ》
初花の如にとく散べきものを、在て人言の爲に通ひとまるを歎く歟。此初花のと云例古歌に多し、此比初花とのみ云しは何ならん、梅にや。
さて此次に湯原王娘子の贈答十二首は一度の事にはあらで、聞きしまゝにかい付おか(384)れしにて、こたへ歌などは彼是漏脱せしとも見え、又歌の次序も混雜有て思ゆ。試に今次手を立れど必しかりと云べきにもあらず、娘子とのみに姓氏なきも亂れたる者也。
吾妹子に戀而|亂在《ミダレタル》久流部寸二《クルベキニ》懸《カケ》而|縁與《ヨラント》吾戀|始《ソメシ》
戀の亂を糸にたとへて、轉車《クルベキ》に懸て縒《ヨラ》むと云戀そめの歌也。
目には見て手にはとられぬ月の中の楓《カツラ》の如き妹をいかにせん
是もいまだ得ぬ人を戀る也、楓を和名抄に乎加豆良、桂をめか豆良と見ゆれど、其比の物に委しからさる也、西土にては月中の桂樹をこそ專ら云へ。
631 うはべなき物かも人は然《シカ》ばかり遠き家路をかへすと思へば
うはべなきと云語、誰も解煩へり、うはべの情だに無きと云事かと思へど、猶意得ず。此三首はいまだ得ぬほどの意也、こたへ歌も有し成べし。
(385)633 幾許《イクソバク》思ひけめかも敷たへの枕片さらず夢に見えこし
此歌娘子のこたへ歌とあれど、王の歌なるべく思ゆ、片不去と有しを、不の字脱なるべし。幾ばくの思ひかも己が量得ぬは、枕によれば片不v去夢見すると也。
娘子和歌 此贈和は得て後歟。
639 吾せこがかく戀れこそぬば玉の夢に見えつゝいねられずけれ
湯原王贈歌
636 吾衣形見に奉《マタ》す敷たへの枕|離《カラ》さずまきてさねませ
寢てのあしたの別に、衣一重脱ぎおきつる也。
娘子和歌
(386)637 余《ワガ》せ子がかた見の衣妻どひに吾身は不離《カレジ》言とはずとも
吾身にはと云べきを、古歌にはとかくにかくことわり足ぬがあり。
湯原王贈歌
638 たゞ一夜隔しからにあら玉の月かへぬると心さまよふ
得てほどなき比の情しき心也。
又
640 はしきやし間近き郷を雲井にや戀つゝをらむ月も經なくに
同じ心して。
娘子報歌
641 絶ゆといはゞわびしみせんと燒太刀の隔付經《ヘヅカフ》言は幸《ヨケク》や吾《ア》君
しばし絶るやうにてあれば怨みてやりしに、隔つべき事の有と云おこせしは、絶ると(387)はえいはで、へだてのさはりを云よと也。燒太刀とは劔は燒刃と云事して鍛ふ故に云歟。又隔づかふとはいかで云、身と?《サヤ》の隔と云は心も得ず。
湯原王歌
635 草枕たびには妹は率《ヰ》たれども匣《テバコ》の内の玉とこそおぼゆ
受領などにて妻をも將て出立しなるべし、旅路にては匣中の玉とフ《さゝげ》もてゆくと也。
娘子和歌
634 家にして見れどもあかぬを草枕旅にも妻とあるが乏《トモ》しき
旅にもたぐひくるが珍しく嬉しと也。かく思ふまゝに位置次序を改るはよからぬ事也、よしや教へとて、人の心を撓るばかりのさかしわざならねば、とてもかくてもあれ、本のまゝにて聞えずとても。
紀郎女怨恨歌
(388)643 世の中のをみなにし有者《アラバ》吾わたる痛背《アナセ》の河を渡かねめや
うき瀬をわたる怨みを云也、夫《セ》の心つらしとて、あなせの川にかけたり、穴師川とも云、卷向のあなし川といへば、泊瀬わたりなるべし。
644 今は吾《ア》はわびぞしにける氣《イキ》の緒におもひし君を縱《ユル》さく思へば
氣《イキ》の緒とは命と云事也、命にかけて思ひし君を、旅にや立すらんを縱《ユルシ》やると云也、ゆるさくはゆるすの延言、刊本久を脱す。
645 白妙の袖別るべき日を近み心に咽飲《ムセビ》哭《ネ》のみし所泣《ナカユ》
刊本所流は誤也、一本を用ふ。
此次々の歌十四首、験河丸坂上郎女の贈答として、然下注に因る則《トキ》は戀慕の情に非ずと云ん、然ども三の卷に丸が坂上の弟娘に心よせし歌有を以て、其贈答と云説有、又(389)一人は兄弟二女ともに家持卿ぞすぐれたると云にて、この下の歌の玉主と云は、家持へ二女の中いづれにも授べく、母郎女のよみて贈しと云。按に集中に坂上郎女とのみ有は母の事なれば、強て云はゞ是は坂上の二娘子にて、駿河丸との契有てよみかはせしにや。さらば坂上二娘と有べき也、かく云はこの歌どもの意詞の心切なるは、氏族相聞の歌ともあらず思ゆ。然どもこゝの古注も採棄べきにあらず、たゞ詞章を解て意趣は人のおもふてよるべき歟。
大伴駿河麻呂歌 とのみにはあらじ。
646 丈夫の思びわびつゝあまた度歎くなげきを負ぬ物かも
いと思ひあまりてうらむ心の切也、伊物に人のうらむる事は負物にやあらむ、おはぬ物にやあらん、今こそ見めとは、此歌を思ひて書ける歟、詞花集にあしかれと思はぬ山の峰にだにおふなるものを人のなげきは。
(390) 坂上郎女歌 もしは上のこたへ歌歟。
647 心には忘るゝ日なくおもへども人の言こそ繁き君にあれ
君にあればよそに過すぞと云歟、古歌は此格多し。
験河麻呂歌
648 不相見而|氣《ケ》長く成ぬ比日者《コノゴロハ》奈何好去哉《イカニヨケキヤ》言借《イブカシ》吾妹
今の世俗の消息文に同じ、そのかみの文苑にはかゝるも有けり。
坂上郎女歌 和歌かと云り。
649 夏葛之《ナツクズノ》不絶《タエヌ》使之|不通者《カヨハネバ》事下《コトシモ》有如念鶴鴨
こゝに注有、右坂上郎女者佐保大納言卿女也、安丸卿也駿河麻呂者脱乎此高市大卿之孫也、未考両卿兄弟之家女孫姑姪之族、是以題歌贈答相2問起居1云々、起居を相問する(391)はこゝの二首のみ歟、上の二首又次々の歌は戀情專ら也。
大伴三依離復 後ハ誤字 相歡歌 歎ハ誤字
650 吾妹兒は常世國に住けらし昔見しより變若《ワカヘ》ましにけり
吾妹子は誰そ、小序に脱せり、さて是も起居の訪問のみ。
坂上郎女歌
651 久堅の天の露霜置にけり家なる人も待戀ぬらむ
小序に云ざれば知べからずといへども、旅に在てよみしに聞ゆ。
652 玉|主《ヌシ》に珠は授けてかつ/\も枕と吾は率《イザ》二人寢ん
玉主とは我しら玉と寵《ウツクシ》める女《ムスメ》とも男に授けしと云歟。されど猶いかにぞやおぼつかなさにかつ/\寢《イ》ねがてにすと也。宿那丸に離《カレ》てひとり臥のさまあはれ也、玉を授け(392)られしは家持也。
験河麻呂歌
653 情《コヽロ》には忘れぬものを儻《タマ/\》も見ぬ日を數多《ヒサ》に月ぞ經にける
儻、たま/\とよめど今少心ゆかず。
654 相見ては月も經なくに戀《コフ》といはゞ乎曾呂と吾をおもほさんかも
乎曾呂は魯鈍也、おその假字なるをこゝに乎と書、法則を待ずして鈍《オソ》き人とおぼさんと聞ゆる也。
655 おもはぬを思ふといはゞ天地の神も知るかに邑《サト》れ左變〔二字右○〕
末二字讀得ず。
坂上郎女歌
(393)656 吾のみぞ君には戀る吾せ子が戀とふ事は言のなぐさぞ
吾こそは實に戀れ、君は言のなぐさばかりぞと也。
657 思はじといひてしものを翼酢《ハネズ》色之うつろひやすき吾心かも
今は忘ればやと思ふたゞちに又戀しき、さてもうつり安き心ぞと也。はねず色は天武紀に初て、明位已下進位以上の朝服色を定む、淨位以上は並に朱華を着《キ》よと有て、波泥孺とよめり、朱《アカ》きとは知るゝのみ、八の卷に唐棣花と書くは物あたらず、彼は花の色白し。
658 おもへども知僧《・シルベ》【倍の誤歟】裳なしと知る物を奈何《ナゾモ》幾許《コヽダク》我戀わたる
659 かねてより人言繁しかくしあらばしゑや吾せこ奥もいかゞあら海藻《モ》
(394)しゑやはよしやゑしと云、打捨たる詞也、人言のかねてよりかく繁しとしらば、いかになれ君が心の奥に定むべく云也、古歌の意を旨と詞章は麁《アラ》びたる、今の歌には反對表裏也。
660 汝乎與吾乎人そ離《サク》なる乞《コソ》吾君《アギミ》人の中言|聞超名《キコスナ》ゆめ
起は超の誤、聞こすなはきこすなと也、莫聞《キコスナ》、上の汝《ナ》乎の乎は汝よと云に同じ、與は共の義。
661 戀々而あへる時だにうつくしき言《コト》盡してよ長くと思はゞ
駿河丸三首郎女六首、詞章は戀情切也、因て是は坂上の二娘《オトムスメ》歟と思へり、二女共に家持の遂には得られしかもしらず、この歌にては弟孃は駿河と相思ひしと云べし。
楢の杣 卷四下
市原王歌 とのみにはあらじ、伊勢行幸の陪從にてよめる歟。
662 網児《アゴ》の山|五百重隱有《イホヘカクセル》佐堤《サデ》の埼|左手蠅師《サデハヘシ》子之夢にし所見《ミユル》
左手のさは虚辭、手さしはへて寐し子也、五百重波にかくせると云事に聞ゆ、いかに。八雲御抄に伊勢を擧させしは由有て承る、旅にはかゝる夢見ぞする。
安部宿禰年足歌 目六に安都と見ゆ、部は誤れり、文武の御代に阿刀連人足と云人見ゆ、光仁に安都宿禰眞足見ゆ、氏族親兄の人歟。
663 佐穗のわたり吾家《ワギヘ》の上に鳴鳥の音なつかしえ愛妻之兒
夏可思吉の吉はこゝにえとよむべし、嘆辭也。阿都は河内歟、用明紀に物部守屋大連(396)の阿都に退《マカ》ると云注に、大連之別業之地名と云り、阿刀川波|足代《アテ》過て糸鹿《イトカ》の山、共に同處なるべし。
大伴宿禰像見歌
廢帝紀より光仁紀までに見ゆる人也、稱徳紀に左大舍人助、光仁紀に從五位上、拾遺集には方見とあり。
664 いその上《カミ》ふるとも雨にさはらめや妹にあはんといひてしものを
雨にもさはらで來て、よみかけしなるべし。
安倍朝臣蟲麻呂歌
孝謙の四年三月に從四位下中務大輔蟲麻呂卒と見えたる人也。
665 むかひ居て見れどもあかぬ吾妹子に立|離往六《ワカレナン》田付不知《タヅキシラズ》も
手着《タづキ》をこの詞章には少轉じてよめり。
坂上郎女歌
(397)666 相見では幾久しくもあらなくに幾許《コヽダク》吾は戀つゝもあるか
拾遺に少詞をたがへて人丸の歌として載らる。
667 戀々て相たるものを月しあれば夜はこもるらむしばしは有まて
古歌に此格の有と云詞かろく用ひたり。注に此郎女之母石川内命婦與2安倍朝臣蟲滿之母安曇外命婦1同居姉妹同氣之親焉、縁v此郎女蟲滿相見不v疎、相談既密、聊作2戯歌1以爲2問答1也と見ゆ。古人の戯の意はからねば注につきて止べし。
厚見王歌
668 朝に日に色つく山の白雲の思ひ過べき君にあらなくに
雲の來去の心無く過る類にあらずと云。
春日王歌
第三に弓削皇子と吉野にて贈答有し王は文武三年に卒去也、此王は元正紀(398)養老七年に無位より授2從四位下1と見ゆるなるべしと云り、一本に志貴親王之子、母曰2多紀皇女1也と見ゆ。
669 足引の山橘の色に出てかたらひ繼てあふ事も將有《アラナ》
後又あふ由もがなと云也。
古今に友則、我戀をしのびかねては足引の山橘の色に出ぬべし、今は侵せると云べし。山橘は藪柑子の一種に百兩金と云物也。
湯原王歌
670 月讀の光に來ませ足疾の山を隔てゝ遠からなくに
友に贈るなるべし。
月は月よみの尊を申す、神代物がたりのまゝに。
安倍蟲麻呂歌
(399)672 倭文手纏《シヅタマキ》數にもあらぬ壽《イノチ》持《モテ》なぞもこゝだく吾戀わたる
壽特を命|以《モ》てとよむ事、詞章なしがたくいへり。命は身のほどなればめぐらせては聞ゆる也。文を刊本に父に誤る、手卷は卷子《ヘソ》と今は呼物にて、織具に數多く用ふる故に、數とまでかゝれる也、倭文は此國に織ならはせし布也。釋日本紀に大藏寮の古布に今世のしま織の類なる物有しを、是上古のしづ織と云り。按ずるに今は浮《ウケ》織と云て、文理を浮沈に分てる布有、浮は沈《シヅ》の對、若上古は沈織《シヅリ》と呼しを、今は浮織と呼歟。
坂上郎女歌
673 眞十鏡|磨《トギ》し心をゆるしては後に云ともしるしあらめやも
674 眞玉つくをちこちかねて言齒五十戸常《イヒハイヘド》相て後社悔には有と五十戸《イヘ》
(400)彼《カ》や此《カク》と云に同じく云はいへど、逢て後こそ心たのみなき君と悔はいへと云也。玉を着る緒とまでかゝれる也。五十と書は伊とよむ例いともいぶかしき事也、五百と書ては伊保とよむに違へるはいかに、手はつくまじき事の疑ひおくべき一條也。さてこの歌なども親族の戯言と見べき、意詞は尤戀情なるを。
中臣郎女贈2大伴宿禰家持1歌
675 娘子部四《ヲミナヘシ》咲澤におふる花がつみ都毛《カツテモ》しらぬ戀もするかも
かつてかゝらんとも思知ざる戀に迷ふと也。都の字をかつてとよむ事、皇極紀に見ゆれど、意ゆかぬと云人有、紀の訓点は代々に讀加へしにて正訓ならぬも多し、此かつと云語も且奏且令すと云事、二つにかゝるをのみ云には違へど、小端をはつ/\又かつ/\と云にも通へると云へば、かつはそとかり初ばかりの義より、さま/”\に轉じて用ふと思ゆ。このかつてもしらぬも小《スコシ》もしらざりしと云也。
(401)花かつみは蒋の一種に黄なる花咲その根を※[坐+立刀]《キザ》みて水にさらし、干て粉に磨《スケ》なすをかつみの粉と呼て、東國人の團子《ダンス》に作り食料とす、蕎麥《クロムギ》の味に似て麺にも作るべし、三河の人の餽れるにこたふ、我はもよかつみ粉得たり世の人の得がてにいへるかつみ粉得たり。をみなへしの咲澤とは水草のやう也、澤邊に咲なるべし、詞ゆかず聞ゆ。
676 海底《ワタノソコ》奥《オキ》をふかめて我もへる君にはあはん年は經るとも
奥は遠近高低に云、こゝは底也。
677 春日山朝居る雲のおほゝしくしらぬ人にも戀るものかも
鬱情をおほゝしく、おぼつかなともよむ、大凡《オホホ》の義にて定がたき也。家持は男色の卿にてやおはしけん、見ぬ人もかく戀る也。
678 たゞにあひて見てはのみこそ靈剋《タマキハル》命に向ひ吾戀やまめ
(402)是も見ざるにはいかでと云意を含みたり。玉刻《タマキハル》命とは命禄共に天の神の定めて賜へると云より、命數の間にかけて靈きはる内ともつゞけたり、きはるは極の義也。
679 不欲《イナ》といはゞ強《シヒ》んよ我夫菅の根の思ひ亂て戀つゝもあらん
我亦|不欲《イナ》と云ば君亦戀らんと云歟、古歌はかくも云よ、後のさかし人いはんやは。不欲と書たれば否の字にかよひて意明らか也、又古語にいざいな通ず、不知、率等をいさとよむ義は事の是非を論ぜず進むを云、勇をいさむと云も是也、いなと云へば意違へるやうなれど、めぐらせては同意也。
大伴家持與2交遊1別歌
一本《水戸本也》に別の下に久字諸本に有之と云、然ば久在而後作と有べし、四字脱歟。
680 蓋《ケダシク》も人の中言聞るかも幾許《コヽダク》雖待《マテド》君が來まさぬ
(403)蓋の字をけだしくとよむ事意をえがたし、蓋ははかりて試に云定むる義字也、こゝも意は大かたにかよへど、けだしと云語義をしらず、この語にはあらねど、新井君美の國語には韓語の交りたるべしと云り、此事一説に信ずべし、古言を解人この事を思はず、ひたすらにことわり得んとするよ、いとも愚なりと云べし。
681 中々に絶《タユ》としいはゞかくばかり氣《イキ》の緒にして吾こひめやも
かく忘れざまなる人ならば、命にかけて思ひし事のはかなく愚か也と云。
682 おもはなん人ならなくに懃《ネモゴロ》に心つくして戀る吾かも
△水戸本、相將念 あひおもはん人ならなくに
毳は鴨の毛にて織たる寢席《イナムシロ》也、たゞに毛織の席をすべてかもとよぶを、哉《カモ》の語に借也。
(404) 坂上郎女歌
683 いふ言《コト》のかしこき國ぞ紅の色にな出そおもひ死ぬとも
言靈の幸はよき事のみならず、幸《サキ》はへなせばたゞ人の口の恐こき國ぞ勤《ユメ》色にな出そと戒しめやる也。紅は呉《クレノ》國より渡せしを名付をしらぬには、こゝの山藍、野藍の葉をもみ出しふり出しつゝして、色の出るにたぐへ、是は呉の藍也とや云初けん、花の末ばかりを摘て染る故に、末つむ花と云は後に名付し也。
684 今はもよ死んよ我せ生《イケ》りとも吾によるべしと云といはなくに
生てかひなしとうらめる也。
685 人言を繋みや君を二鞘《フタサヤ》の家を隔て戀つゝをらむ
たゞ家を隔てある也、二さやの家とは母《モ》屋に廂《ヒサシ》を二たびまでに作りなしたる家也、(405)孫廂など後世には云也。此歌彼造りざまなる家をのみ云にあらず、文言のみ。
686 比者千歳やゆきも過ぬると吾《ワ》やしかおもふ見まくほしかも
687 愛《ウツクシ》と吾もふ心早河のせきとせくとも猶や崩れん
思ひの下崩れを云。
688 青山を横※[殺の異體字]《ヨコギル》雲のいちじろく我と咲《ヱミ》して人にしらるな
いちじろくはいちばやくしるの意也、目に是はまさめなる也。
689 海山も隔たらなくになにしかも目《メ》ごとをだにも幾許《コヽダク》ともしき
目ごとは見る事也、今は人云ぬ語也。こゝだの用ひざま少異也。
大伴三依悲v別歌 誰に妹なるべし。
690 照日をも闇に見なしてなく涙衣ぬらしつ干す人なしに
(406)衣は染ぬひとき洗ひ干す、いにしへは其妻の必せし勤《イソシ》わざ也。
家持贈2娘子1歌 誰がしのをとめぞ。
691 百しきの大宮人は多かれど心に乘て思ほへる妹
宮づかへ人は皆色よくもあらめど。
692 うはべなき妹にも有かもかくばかり人の心を令盡《ツクス》をおもへば
盡さしむを思へば也。うはべなきは、上べばかりにもあらぬと云也、古語はかく聞まどふが有、言をそへて聞べし。
大伴千室歌
693 かくしのみ戀やわたらん秋津野にたなびく雲の過とはなしに
かくしのしは助語、いたづらに雲の過るさまにてあらじと、戀わたらん事の久しきを(407)なげく也。秋津野は吉野の離宮在所也、雄略の御名づけに呼そむる也、虻の御臂を噛しを、蜻蛉の飛來て虻をくひし時に、御製有し事史に見ゆ。
廣河女王歌 官本に穗積親王之孫女、上道王之女と云り。
694 戀草を力車に七車積て戀らく我心から
力車は米薪などを積運ぶに人力を以て押すに云、七車は多數の義、七箇のかぎりにあらず。戀らくは戀るの延言、からは故也、語の上に故(カレ)下には故(カラ)と云例也。戀の重荷と云は此歌によりてなるべし。
695 戀は今はあらじと我はおもひしをいづこの戀ぞつかみかゝれる
今は思ひやみぬべきを又も思ふ也。この女王はある人廃帝紀に廣河王と云見ゆ、それのよめる也、二首共女の口ぶりにあらずと云り。いづこの戀ぞはいづこゆ戀のと有たき章也。
(408) 石川朝臣廣成歌 孝謙紀に從五位下。
696 家の人に戀過めやも川津鳴泉の里に年の歴ぬれば
戀過めやも、えおもひ過さぬと云也、今はまねびがたき詞也、家の人は妹と云に同じきか、泉の里、山城の相樂郡いづみ河の邊の里也、崇神紀に武埴安が謀叛せし時、河を隔て官軍を射挑《イドミ》しより河の名となりて、いどみ川を泉河と轉じて云ならはせり。蝦鳴は里の名を呼おこす文言也、井出の玉川神南河等に同じ。
大伴像見歌
697 吾聞に繋《カケ》てないひそ苅薦のみだれて思ふ君が直香《タヾカ》か
今はよみうつすまじき詞章也、いひ解がたきにあらず、解得て無味のみ。直かは正かに同じく正《マサ》にと云也。
(408)698 春日野に朝居る雲のしく/\に吾は戀ます月に日に異《ケ》に
しく/\はしき/\にて、ものゝ重なる語也。
699 一瀬には千たびさはらひ逝水の後もあはなん今ならずとも
われても末にあはんとぞ思ふ。今をよく琢磨ありし也。
家持到2娘子之門1作歌 心あまたなる卿のをとめは誰ならむ。
700 かくしてや猶や將退《マカラン》近からぬ道の間をなづみまゐ來て
いたづらに行ては歸りやしけん、戀する人の心空なるを見よ。
河内百枝娘子贈2家持1歌
701 はつ/\に人をあひ見ていかならんいづれの日にか又よそに見む
小端、はつ/\と第七によむ。少づゝと云に似たり、廻らせてははつかに見しと云(410)か、見定むまじきばかりにと云也、一たび逢見て後、うときまゝに過すには、又昔のよそ人にて見んと也。
家持贈2巫部麻蘇娘子1歌 と有しを脱せしか、次の歌と贈和の詞章也。
702 ぬば玉の其夜の月夜けふまでに吾は忘れず間なくし思へば
巫部麻蘇娘子の歌 はこたへなるべし。
703 吾せ子をあひ見し其日けふまでにわが衣手はひる時もなし
704 拷繩の永き命をほしけくは絶ずて人を見まくほりこそ
一日不v見如2三秋1と云るに似たり。
家持贈2童女1歌
705 葉取※[草冠/縵]今する妹を夢に見て心のうちに戀わたるかも
(411)はねかづら、いかなるかたちにや、花かづらと音の通ふか、又はねもとゆひと今云物と云も、しひ言ながら、いづれ女の髪あげそむるを今すると夢に見たるは、心にくき事と戀わたる也。童女と書たればいまだ男せぬなるべし、されどこたへ歌の口ぶりわらはならず。
童女|來報《コタヘ》歌
706 はねかづら今する妹はなかりしをいかなる妹ぞ幾許《コヽダ》戀たる
さる人こゝになし、誰やの妹を夢にも見、現にも戀ふかと云。
粟田娘子贈2家持1歌
707 おもひやるすべのしらねば片※[土+完]の底にぞ吾は戀成にける
片椀《カタモヒ》は蓋なき碗也、※[土+完]院を※[土+宛]※[こざと+宛]に書りし事、そのかみは例有、かた碗のみ底有にあらねば、たゞ底にぞと云んのみに云也、心の底は下にうらにと云に同じ。
(412)708 又もあはんよしもあらぬか白たへの我ころも手にいはんとゞめむ
今一度あふよしもがな、其時に神に齋《イハヒ》とゞめんとは、神とも神とかしづかんと云也。
豐前國娘子大宅女歌
第六に豐前國娘子月歌一首【娘子字大宅姓氏未詳】と見えたり。
709 ゆふ闇は道たづ/\し月待てゆかせ吾せ子其間にも見む
行の上に令の有て、ゆかせとよむべし、歌はいとよし。
安都扉娘子歌 安曇の假音《カナ》書也。
710 三空ゆく月の光にたゞ一目あひ見し人の夢にし見ゆる
丹波大娘子歌 大娘子姉姫なるべし。
711 鴨どりの遊ぶこの池に木葉落てうかべるこゝろ我もはなくに
本の句は文言のみ。
(413)712 味酒を三輪のはふりがいはふ杉手觸し罪か君にあひがたき
榊にも手はふるとふをとよめるにゝて、人のしめはへし君なればと云歟。
713 垣穗なす人言聞て我せこが心たゆたひあはぬこの比
垣穗|如《ナス》は隔なす也、此女には前に通ふ人有と告たるやある、このをとめは一ふし思ひてよむ人也。
家持贈2娘子1歌
とは誰やのをとめぞ、心多き卿なればはかりがたし。
714 心には思ひわたれどよしをなみよそにのみして嘆き我する
我する、我は來にけり、我と云事をいはでも今はあらめと云べし、今の歌の悲しきさむき、といはでも聞ゆるを、古歌にはいはでやみぬるといづれ。
715 千鳥啼佐保の河門の清き瀬に馬打わたしいつかかよはむ
(414)佐保山の邊に大伴の家在による。
716 夜晝といふ別《ワキ》しらず吾こふる心は蓋《ケダシ》夢に見えきや
717 つれもなくあるらむ人を獨念《カタモヒ》に吾しおもへば惑《ワビシク》もある
第九十二に惑者と書てわび人とよめば、一説に※[戚/心]の字にてわびしくとよむべしと云り。
718 おもはずに妹がゑまひをいめに見て心のうちに燎《モエ》つゝぞをる
思ひともいはでもえつゝと云あらびたり。
719 丈夫とおもへる吾をかくばかりみつれにみつれ片もひを責《セム》
責は將爲の假言也、日本紀に贏の字みつれとよむ、今人の痩るをやつれと云に同じ。
720 むら肝の心碎けてかくばかり我戀らくをしらずか有む
七首皆片戀にて意明らか也。
(415) 献2天皇1歌 下にも亦二首見ゆ。
此歌官本と云に注して、大伴坂郎女在2佐保宅1作也と有とぞ、いぶかしく意を得ず。
721 足引の山にし居《ヲ》れば風流無み吾するわざをとがめ給ふな
山へは佐保の山里人なればゐなかびたりとて咎めたまふなと云也、風流をよしを無みとはよみがたし、一説に宮び無みとよめと云、こゝには叶へど第二に遊士、風流士をたはれとよまで、こゝの例に我を歸せりおその宮人、又かへせる吾ぞ宮人にあるとよめと云は過たるべし。さて何事をぞ物して献りて、ひなびたりとて咎め給ふなと云なるべし、其わざせし事しられねば只さしおくべし。
722 かくばかり戀つゝあらずは石《イハ》木にもならましものを物もはずして
是は上の献りしにはあらで、小序の脱たるなるべし、只戀する人の歎き也。
坂上郎女從2跡見《トミノ》庄1、贈2留v宅女子大嬢1歌
(416)添上郡に登彌神社見ゆ、鳥見、跡見とも書、神武天皇こゝにて天神地祇を祭らせ給ふ地也。坂上は此鳥見山の坂上か、大嬢は田村娘子也。
723 常呼《とこよ》にと 吾|行《ゆか》なくに 小金門《コカナト》に 物悲しらに 念へりし 吾子の刀自を ぬば玉の 夜晝といはず 思ふにし 我身は痩ぬ なげくにし 袖さへ沾《ヌレ》ぬ かくばかり 本名戀れば 故郷に 此月比も 有がてましを
反歌
724 朝髪の思ひ亂てかくばかり名姉之《ナネガ》戀とぞいめに見えける
とそのと落字なるべし。こゝ注有て報2賜大嬢1歌也と有は無用也、常呼《トコヨ》は呼の訓よぶとよむをよの一言に假る歟、苫をと穴をな鳥をと跡をもとに假る例也、又呼乎を古昔にはをに唱へしかば、とこをと云て常世に音を通はせしをしらず。
(417)小金門は小家の門と云也、金門とは金具を門の扇《ト》にかざりし故に云、又詞章のつゞけにて腋門とも云べし、こゝは小家の門と云て、我門をいやしげに云也。
吾子の刀自、已に云允恭紀に戸母を覩主と云と注に見ゆ、戸主の義にて人妻と成し人を云、老女の事と云はこゝにあたらぬにて知べし。歌は常世と云ばかり遠き國には我はゆかぬに、家なるむすめの夜晝となく戀ると聞には、身も痩るばかりに思へば、かく遠き筑紫に兄卿に從《ツキ》て來ずとも、故郷に此月|來《ゴロ》在ましをと歎きてやる也。反歌は名姉《ナネ》が戀とぞ夢に見ゆるから、此音づれをせし也。
なね、奈妹《ナニモ》とも神代紀に見ゆ、奈とは夫《セ》な、又少名彦那の例は、下に附て云稱言なるを、是は上に冠りて云事一格也。奈姉、奈妹、奈|兄《セ》と見ゆ。
献2天皇1歌
上に云官本の注に、坂上郎女が歌と有事いぶかし、この詞章にては郎女が天皇に思はれ奉りし事のありて、よみて奉りし也。この歌の餘《ホカ》にはさる事ありしを見ず、已に云穗積親王薨去の後、藤原の麻呂卿に思はれ、後に宿名丸に嫁して二女(418)を産し事こそ見えたれ、上の歌も二首めは只戀する人の心にて、こゝの二首に同じければとかくにいぶかし、仍て歌の詞章は解して、事は小序のたがへるとしてやみぬべし。
725 にほ鳥のかづく池水心あらば君に吾こふ情《コヽロ》示さん
これは池水の心とかけたるを、のを讀もらしてむつかしく意得まどふ也。にほ鳥は和名抄※[辟+鳥]※[遞の中+鳥]と名を云て、にほとよめり、鴛と高部と舟の舳にすむとよみしたかべも同鳥と云り、物の名今古に呼かはりて今定がたし、今の俗にはかいつぶりと云物と云り。池水の心と云詞、かく古代より云とはしられねど、先云也、猶考べし。
726 よそににて鯉つゝあらずは君が家の池に住と云鴨にあらましを
天皇に奉るにはかくはよむまじき也。
家持贈2坂上家大孃1歌
とありて、注に雖v絶2數年1後會相聞往來と有は無味の事也、
(419)何人の注ぞ、歌に由て私意を加ふるなるべし、是につきて翁が常に思ふは、古人書を著して人に教へ又世を論じ、又歌をよみ詩を賦して心をやるは、其世の人にむかひよく通達して、此意此詞章を聞得ぬものには書よみ爲べきにあらず、世隔たりて法令たがひ言語都鄙交り入て、条理亂り意旨通じがたき事ども有るは、注解と云ものもやむ事得ぬ態《ワザ》なるを、又それに己が私意を加へて、あらぬ方にいざなひゆくから、學道と云も末は多岐《チマタ》にわかれて爭ひとさへ云事と成ぬ、儒士釋徒の今云ところ聖佛再び出ばいかに眉|戚《ヒソ》むらんかし、詩歌さへそれの煩ひありて、後にはさま/”\に解なすいと聞にくし、古歌よりして次々の世なるも、先其かみの世のさま人の情、おそれある法令をも一わたり見あきらめつくして、さて其時世の心となりて見ば、おろ/\ながら意をも得らるべし、今を知りて古しへをいやしむ人の心狹きをもて、道をも詞をもよくことわりよくなさんやは、是は長談《ムダコト》ながら思ふにまかする翁が僻こゝろ也、見ゆるさせたまへ。
(420)727 萱草吾下紐に著たれど鬼《シコ》のしこ草|言《コト》にし有けり
わすれ草を下紐に着しとは歌のあや也、已にいふ※[(禾+尤)/山]康が憂を忘れ念を※[益+蜀]めしとは、ふと物を見てそれに悶《オモヒ》を解《ヤ》るばかりの假初言也、さるを後の意に草根木皮の能毒になして云事をしらで云は愚也。下紐は装束の下の服の帶也。鬼の志許草は醜態をしこと云古言也、神代に醜女《シコメ》見ゆ、大名特の神を葦原の醜男《シクヲ》と嘲みし事も有、第十六に四許のしき屋又しき手など云、皆醜態にていやしき小屋を云、穢しき手を云、こゝは憂を忘るゝと聞て、もしやと身に著しに、驗なくていよゝ物思はするは、醜《シコ》の醜《シコ》草ぞと罵言したる也、鬼をおにとよみて、おにのしこ草とよむは古言をしらぬ世のしわざ也、鬼の字、此集又彼是の古書にものとよめり、妖鬼《バケモノ》、鬼氣《モノヽケ》、鬼忌《モノイミ》等の例也、和名抄に鬼をおにとは隱《オン》の字音より來たると見ゆ。さらば中世の俗語也。事にしとあれど言にしと云也、假言《カゴト》にしも有ぞと戯れしたり。
(421)728 人も無き國もあらぬかわぎも子と携ひゆきて副《タグヒ》てをらむ
二首共に意詞巧み得たり、今の耳にはふつゝかにや聞らん、有粳は有糠と官本、中院本等に有と云、西行が遙なる岩のはざまに獨居て人目思はで物おもはゞやと云しは、後の歌に似たり、西行は世の人といさゝかあらそひざまに、歌を古き世の人情に擬ひてよめれど、古語を得ざればかくはよむ也。是は奥山の岩のはざまにとよむべき歌也、はるかなるにては語も通らず、しらべもわろしと云は、高低遠近の分をいはぬを惡む也。
坂上大孃贈2家持1歌
729 玉ならば手にもまかんをうつせみの世の人なれば手にまきがたし
手に纏《マク》と書なさばこゝは聞ゆべし、まくとは覓の字義にて、物を得まく、聞まくなど云て、求め貪ぼる義也、枕を枕にまきてなど云、即まくらと云が安眠の獲物なれば云(422)也。鬱瞻《ウツセミ》【下は字音】
730 あはん夜は|いつ《何時》もあらむを何すとか彼夕《ソノヨ》にあひて言の繁しも
彼夕《ソノヨ》いかなる夜なればと歎く也。
731 吾名はも千名《ナナ》の五百《イホ》名に立りとも君|之《ガ》名たゝば惜みこそ泣け
千名の五百名おもしろき詞章也、今もよみうつさまく思ゆ。
家持和歌
732 今時者《イマハ》しも名の惜けくも吾は無し妹によりては千遍に立とも
今時有、有は者の字の誤也。
733 うつせみの世やも二《フタ》ゆく何すとか妹にあはずて吾ひとり寐ん
734 吾おもひかくてしあらば玉にもがまことに妹が手にまかれなん
(423)玉ならばと云にこたへし也。
坂上大孃贈2家持1歌 同の字は無りしなるべし。
735 春日山霞たなびく心ぐゝてれる月夜にひとりかも寐ん
霞にくゞもりて山の見ゆるを云を、心にこもりてのみ思ふと云にかけたり、月さやかなる夜のひとりねを、あたらしとながめ出せる也。
家持和2坂上大孃1歌 又の字も。
736 月夜には門に出たち夕占《ユフラ》とひ足卜《アウラ》をぞするゆかまくを欲《ホ》り
夕占《ユフウラ》をゆふげとよむは、卦の字音より來たるか、夕占《ユフラ》とよむが古言なるべし、即|足占《アウラ》とも云、夕占は夕かたに人のいきかひのかたり言、又行人の數にも占問べし、足卜は石卜とも云て、石をふみかぞへて吉凶を問ふ也。後に定頼卿の足《アシ》うらの山とよみたまへるは、ことわりは聞ゆれど古言にたがへり。
(424) 大孃贈2家持1歌
737 云云《カニカク》に人はいふとも若狹路の後瀬の山の後も將合《アハン》君
念は會の誤歟、上に合の字を書るが見えたり。かにかく、かやかく、とにかく同用也、此云々の二字は意をめぐらせずはよみがたし。
738 世の中のくるしき物にありけらく戀に不勝而《タヘズテ》死ぬべく思へば
上の歌は後の勅撰に入て人よく知たるぞ。
家持和歌
739 後湍山後もあはんとおもへ社《コソ》死べき物をけふまでも生有《イケル》
新拾遺、又古今六帖におもへばぞ、おもふにぞとあり、社の字生有の詞に對してこそとよみしが本歌也。
740 言のみを後もあはんとねもごろに吾をたのめてあはざらめかも
(425)令憑をたのめてとよむ、人だのめなる秋の夜の月と云も是也。空だのめも同じ。
家持贈2大孃1歌
741 夢のあひは苦しかりけりおどろきてかきさぐれども手にもふれねば
是は遊仙窟、少時坐睡則夢見2十娘1驚攪v之、忽然空v手と有を、またく采てよめる歟。
742 一重のみ妹が結ばん帶をすら三重むすぶべく吾身は成ぬ
いにしへは別れに下の帶をかたみにむすびあひて、逢まで解なと云契しとぞ、思ひにやつれて、一重の帶も三重にやむすぶべく成ぬと云、巧みいと面白し。
743 吾こひは千引の石を七《ナヽ》ばかり首にかけんも神の諸伏《モロフシ》
神代紀に千人引磐石と書て千びきの石とよむ、神の諸伏、この餘には見わたらず、一(426)説に諸は室也、伏は籬也、神の御室ふし垣の内にいはひこめたる如き妹を得んとするよと云也と云り、一説には神のつきて諸臥し給へれば逢がたきよと怨ず、神とは人のうへをたとへに云例多しと云り。いづれにてもあれ、よく云おほせたる詞章とも思えず、此等のむつかしき語を解得んとするは、物知のわろき僻也。
744 夕されば宿|開設《アケマケ》て吾待ん夢にあひ見にこんと云《フ》人を
745 朝|夕《ヨヒ》に見ん時さへや吾妹兒が見れど見ぬ如尚戀しけん
尚を由に誤る。古今に心をぞわりなきものと思ひぬる見る時さへやしづ心なきと有は、是を侵せし歟。
746 生る世に吾はまだ見ず言妙てかくも※[立心偏+可]怜《アハレ》に縫《ヌヘ》る嚢は
嚢は魚袋をはじめに種々大小用有て多きが、是は家持任國に下らるゝ時、旅の具の物(427)なるを縫て贈られしなるべし。卿は心あまたなる戯男にて、此田村の娘子は從姪《イトコ》ながら嫡妻ならねば、具しては下向せられぬ故に、此十五首の切なる歎きはするにこそ。
747 吾妹子が形見の衣下に着て直《タヾ》にあふまでは吾ぬがめやも
748 戀死なんそれも同じぞ何|爲《セ》んに人目|他言《ヒトコト》辭痛《コチタク》吾せん
我せんやと云也。
749 夢にだに見えば社あらめかくばかり見えずてあるは戀て死ねとか
さて夢に見えよと也。風雅集に大伴郎女へつかはしけると有は、委しからず。
750 おもひ絶わびにしものを中々になにかくるしくあひ見そめけん
續古今には、おもひわび絶にしものをと改作して入たり。
(428)751 相見ては幾日も經ぬを幾許《コヽダク》も狂ひにくるひおもほゆるかも
幾日も經ぬといへば、國に下りて間《ホド》なく贈られし也。
752 かくばかり面影にのみおもほへばいかにかもせん人目繁くて
753 相見てはしばしも戀はなぎんかと思へどいよゝ戀まさりけり
是は出たちの時に臨みてあひの別れの歌也。
754 夜のほどろ吾出て來ればわきも子が思へりしくし面影に見ゆ
上の歌のあひの別れのあしたの歌なり、次も。
755 夜のほどろ出つゝくらくあまたゝびなれば我胸|切燒《キリヤク》が如
此二首はかの鵺ふくろうの聲して、都の名高き君の口ぶりとも今は思えず。
大伴田村家之大嬢贈2妹坂上娘子1歌
とある田村は山邊郡、坂上は添上郡也、かく遠か(429)らねど、隔て在をかたみに思ふは同腹《ハラカラ》の情也。
756 よそに居て戀れば苦しわきも子を次てあひ見む事ばかりせよ
相住たらむ事をはかれと云也、はかり事と體には云を、用《ハタラ》きて事はかりせよと云はいにしへ也。
757 遠くあればわびてもあるを郷ちかく在と聞つゝ見ぬがすべなさ
一日の行程にもあらぬ隔也。
758 白雲のたな引山の高々に吾もふ妹を見んよしもがも
高々は古言に遠々と云に同じ、遠きながらにも見ん由もがと歎くは、相住がたき故こそ有けめ。
759 何《イツナラン》時《トキ》にか妹をむぐら生《フ》の穢《ケガ》しき宿に入れ座《マサ》しめむ
(430)第十九に葎生《ムグラフ》のいやしき屋戸とよみしが有には、こゝもしかよめと云、穢の字はたゞけがしきとよみておくべし。
坂上郎女從2竹田庄1贈2賜女子大嬢1歌
竹田は十市郡にある郷なり、母郎女のそこに往てあるほどの事なるべし、何の由ありてかいきて逗《とゞ》まれる。
760 打わたす竹田の原に鳴|鶴《タヅ》の間なく時なく吾戀らくは
本句はまたく文言なれど、住ところの名、さて鳴鶴の聲は聞より興ぜし歌也、玉葉に戀の部に入られたり。此集の相聞は親子兄弟交友の相思ふをも戀情とすれば難なきを、古今以來の勅撰には男女の相思のみを戀とすれば違へり。
打わたす竹田は、竹もて一丈幾丈と尋とるを、打わたすと云文言也。
761 早河の湍に居る鳥のよしをなみおもひてありし吾兒《アゴ》はも※[立心偏+可]怜《アハレ》
(431)はもと云入て感慨の餘り又あはれと深切に云也、河の湍はやくは鳥のおり居る由の無きをたとへて、こゝこ長く在べからぬを、かくとゞまれる日來《ヒゴロ》にいぶかしく、且うらみてあらんと云。
紀郎女贈2大伴家持1歌 名は小鹿と云とぞ。
762 神さぶと不欲《イナ》とはあらず八也多八《ヤヤオホヤ》かくして後にさぶしけんかも
此歌聞えがたし、強て云も無味也。第七にやゝ大《オホ》にたてと云は聞ゆ。
763 玉緒を沫緒に※[手偏+差]《ヨリ》て結べればありて後にもあはざらめやも
沫緒むすび又|水沫《ミナワ》結びとも云、玉を貫く紐の緒のみならず、なべての物に封《トヂ》め、又結とゞめし末を此結び状になすを打見れば、解やすからず見ゆれど、其末の一ところを意得て引には、ときやすきを名の義とす、こゝはよくむすびおきたればとまでに意得(432)て、解やすきと云までは掛ぬ也。さて沫緒と云よりあはざらめやもとかけたり、沫の假名あわにて、しかはかゝらじと思ふは、法則の局中にこめられたる也、作意の巧みをおろかにも聞なすものか。
家持和歌
764 百とせに老舌《オヨジタ》出てよゝむとも吾はいとはじ戀はますとも
落齒《ヌカバ》の我如き老は、喜怒に哀樂に舌を出して落涙をもし聲はよゝと云を、よよ/\と重ねて云也、物がたりにも泣人の聲をよゝ/\と書たり、よゝむはよゝめ也、老舌出て、漢文にも舌を吐聲を呑むなどと云り。老てはいとひざまに見給ふらんなど云にこたべし也と見れば、上の歌の神さぶと、又さぶしけんかもと有は、老にて見はなち給ふらんと云にや、猶詞章は意得がたし、紀氏は卿より年《ネ》びたる人にてや有けん。
在2久邇京1思2寧樂宅坂上大嬢1、家持作歌
聖武紀天平十三年十一月、右大臣橘宿禰諸(433)兄奏、此朝廷以2何名號1傳2於萬世1勅曰、號爲2大養徳恭仁大宮1云々。都は天平二三年の間にうつされし也。
765 一重山|重成《ヘナレル》物を月夜よみ門に出立妹か待らむ
重成《ヘナレル》は隔つと云に同じ、なはだに通ふ例也、奈良と三日の原は山ひとへ隔つと云也、大和山城國たがひ、山はわづかにひとへのみにや、いきて見ねばしらず。さて月夜よし遠からねばと妹や門立して待と云、夕とゞろきの情也。久邇の都|大養徳《オホヤマト》と勅號有は、山城に在ても呼べき都の稱也、養徳にやまとゝまの一言を付讀にすべき事、馬養卿を宇合と書例也、此よみつくべき例は音のかよふにもあらず、音の生《ウマ》るべきにもあらぬが多し、いと意得られねど正に書しるして明らか也。
藤原郎女即聞v之和歌
久邇の京に同じく在て、代りてよめる戯事《タハワザ》也。
766 路遠みこじとはしれるものからにしかぞ待らん君が目をほり
(434)こじとは思定めつゝ下には待らんと、女ゝしき心はひとつものから。
家持贈2大娘1歌
767 都路を遠みや妹か此來《コノゴロ》はうけひてぬれどいめに見えこぬ
夢にだに見むと祈《ウケ》ひて寢れど、道を遠みとや思ひよはるらんかし。
768 今|所知《シラス》久邇の京《ミヤコ》に妹にあはで久しく成ぬ行てはや見な
今しろしめすと云に同じ。早見にゆかんをゆかなと云は同じ。此歌|平言《タヾコト》にて聲に擧しにかひなくぞ聞ゆ。
家持報2贈紀郎女1歌
769 久かたの雨のふる日をたゞ獨山邊にをればいぶせかりけり
鬱の字義にて心曇りするを云。
(435) 家持從2久邇京1贈2坂上大娘1歌
770 人目多みあはざるのみぞ心さへ妹を忘れて吾もはなくに
忘れて思へやと云に同じく、此詞今はことわりをさへいひときがたし、ましてよみうつすまじきものぞ。俗語に忘れてあらふものかと云に似たり。
771 僞も似つきてぞする打布《ウツシク》もまこと吾妹子我に戀めや
似つかぬ僞はせなと云也、うつしくはうつくしむとも云て、寵愛の意也。
772 夢にだに見えむと吾は保杼毛〔三字右○〕友|不相志思《アハヌシモヘバ》諾《ウベ》見えざらむ
保杼毛三字よめず。
773 言問ぬ木すら味狹藍《アヂサヰ》諸茅等之《モロチラガ》練《ネリ》の村戸《ムラト》に所詐來《アザムカレケリ》
774 百千遍《モヽチタビ》戀と云とも諸茅等之練の言はし吾は不信
(436)この二首難義也。しひてよむ人有、我はよみえたりといへど、他《ヨソ》人の聞て肯ざれば、いたづらなる力わざ也、今の訓は仙覺かはしらず、定めて前にかしこまり聞には、うべ/\しと思ふ人も有けん。今あぢさゐと云は紫陽花とて草種也、神代紀に木草は言さやめくと云は文言のみ、たゞ此まゝに聞なすべからず。
家持贈2紀郎女1歌
775 鶉なくふりにし郷ゆおもへども何ぞも妹にあふよしもなき
奈良のふる郷より今の京に贈し歟、都は久邇也、鶉は草深き所に住故に、ふりにし郷と云に冠らする也、西土に聖人鶉居と云は草居と云に非ず、渠は無2常居1と云て、住家定ぬは聖人の地の利をはかりて安く轉居する義也。
紀郎女報2贈家持1歌
776 言に出しはたが事なるか小山田の苗代水の中淀にして
(437)人言に云は誰が事ぞ、君と吾が中に澱瀬となるべき由ぞと也、第十一に言とくは中はよどまじみなせ川。
家持贈2紀郎女1歌
777 わきもこが宿の※[竹冠/巴]を見にゆかば蓋門よりかへしてんかも
けだしは定めて、はたなど云に似たり。
778 打妙《ウツタヘ》に前垣の姿見まくほりゆかんと云哉君を見にこそ
打絶てと云を延《ユル》べてうつたへにと云にて聞ゆ、上にも云り、打絶て見ぬに云也、絶の假字たえに係りて、局中の人はえこゝろ得ず。前垣と書は假言のみ、聞垣也、蘆垣の間とほきなど云、あら/\と間《ヒマ》あれば云也、疎籬の字あたれり、されば間あれば垣間見とは云。
(438)779 板蓋の黒木の屋娘は山近し明日《アス》しも取てもてまゐりこん
門といひ、※[竹冠/巴]といひ、又星根をも云、山里の家の造りざまをもて云つらねたり。この比郎女が家を修理やしつる、我もいきて板など山より取になひ參らせんとか。
780 黒樹とりかやも刈つゝつかへめど勤《イソ》しき和氣《ワケ》と譽んともあらじ
上に云修理の爲に勤《イソ》しくすともほめたまはじと云。知氣は和氣の誤也、和氣をば死ねと思へかと既に見ゆ、戯ぬと云事也とぞ。一に仕《ツカフ》ともと有。
781 ぬば玉の夜べは令還《カヘセリ》今夜さへ吾をかへすな路の長手を
條理する比にて人多く立さうどけばあはでのみ歸る也。
紀郎女裹v物贈v友歌【女郎名曰2子鹿1】
(439)782 風高み邊にはふけども妹がため袖さへぬれて刈れる玉藻|烏《ゾ》
烏は音にて玉藻を云べし、作例かゝるは玉藻ぞと云也、烏は焉の誤か、つゝめる物は海藻のくふべきを贈し也。
妹が爲とは女友どちの交り也。
古歌の巧み、今も物※[食+鬼]るには是に擬《ナラ》へり、君が爲春のゝに出て若菜つむも是の例也。
家持贈2娘子1歌 誰のをとめぞ。
783 前年《ヲトヽシ》の先年《サキツトシ》より今年まで戀れどなぞも妹にあひがたき
遠年《ヲチツトシ》と云事と云り、以往をゝちつ方と云、俳譜體など云べし。
784 うつゝには更にもいはじ夢にだに妹が袂をまきぬとし見ば
袂はこゝに手本と書くが語義也。
(440)785 吾宿の草の上《ヘ》白くおく露の壽母惜からず妹にあはざれば
壽をいのちとよむべけれど、さよみてはしらべいとわろし、いかによむべき。惜を情に誤る。
家持報2贈藤原朝臣久須麻呂1歌 報は衍字かと云り。
惠美押勝第二子、參議兼丹波守、左右京兆尹訓儒麻呂とも史に見ゆ、寶字八年八月父が逆謀の時射殺さる。報贈ならば久須丸が歌をもらせし也。
786 春の雨はいやしきふるに梅花いまださかなくいと若みかも
年の若きと云なるべし、久須丸より、梅はこの春雨に咲しやと使して問やりし歟。
787 夢の如おもほゆるかも愛八師《ハシキヤシ》君が使のまねく通へば
間無く通音也。くはしきを延て、はしきやしと云事已に云、使間無く問こす歟、夢とはいかで云。
(441)788 うら若み花さきがたき梅を植て人の言|重《シキ》みおもひぞ吾する
重みとはしき/\の故に歟、言繁みの方ならばしげみとよむべし。
一説に久須丸美少年なるを思ひ掛て贈る歌かと云はむつかし、男色の事この比已に有しにや。
更贈2久須麻呂1歌
789 心ぐゝおもほゆるかも春霞たなびく時に言のかよへば
心曇りにて心にこめて思ふ也、八十一《クヽ》は戯訓也、霞のくゞもれるによそへたり。
790 春風の聲《オト・コヱ》にし出なば有ゆきて今ならずとも君がまに/\
有ゆきて有通ひの例にて、有をかろく意得べし。
久須麻呂來報歌
(442)791 奥山の岩陰におふる菅の根のねもごろ吾も相もはざらめや
792 春雨を待とにしあらし吾宿の若木の梅もいまだふゝめり
此贈答ねもごろに交る友なるべし。この梅の歌はいと安くよまれて聞によろし、歌はすべてとなふるもきくも安きぞ、心をかよはす媒氏なるを、いで歌はあやにくまでに巧まんとする人あり、うまれ得て巧みにさかしき人は、こちたくいひても聞ゆれど、心|鈍《オソ》き人のそれに擬はゞえいひおほせずして、心は言に欺かれんものぞ、思ひてよむべき事也。
(443)楢の杣 卷五
此卷は山上臣憶良の自記と見えて尤全部にあらざる歟、此餘に類聚歌林と云書は此人の撰といへど、上世の體にあらずとて學者皆※[言+爲]作とす。然此卷季吟の校正善本のやうに思へば是に由て校正す、然ども年表を事の上に出せるは異體也、かゝれば萬葉集中の物に非ざる事しるし。此人いまだ無位なりし時、大寶の元の遣唐使に少録に命ぜられて渡海あるを思へば、はやく才學の名有し也、歌も思情を專らに美醜をえらばぬ所に器量見ゆ。
雜歌
太宰帥大伴卿報2凶問1歌
卿の正妻筑紫に在て逝去の事、第三に見ゆ。凶問の使所々より到る中に、此小序に兩(444)君と指すは、前に勅ありて卿の病を問るゝ使の稻胡丸の人々歟。
禍故重疊、凶問累集。永懷2崩心之悲1、獨流2斷腸之泣1。但依2兩君大助1、傾命纔繼耳、筆不v盡v言、古今所v歎。
此卷は如v是の文辭多く、誤字熟語前々の學士の考有、盲叟貧窮一冊の藏書無く、只暗記に隨《マカ》せて云、忘却未見の謬妄云べからず、依て知ざるを知るの確言にはあらで、おろ/\にも知りたるは云べく、寸言過ち多からん事はた。
刊本禍故を福故に誤る、司馬相如諫獵の書に、禍故多藏2於隱微1と云詞章有。易云、書不v盡v言。
793 余能奈可波牟奈之伎母乃等志流等伎子伊与余麻須萬須加奈之加利家理
世は常住無き事しるくも、此死別は彌益《イヤマシ》に悲しきと也。知る時しと云詞章は、此時に(445)臨みて知たるやうなるはいかゞぞや。此卿さる常倫には非ず、神龜五年六月廿三日と云年表、季吟が本には上に先出せり、例有事にや見知ず。此凶事は春の末などに有しか、第八に石上|堅魚《カツヲ》を使して賻物を賜ふ時、堅魚が歌、時鳥來鳴とよもす卯花の共にやこしと問はましものを、卿のこたへに、橘の花散里の時鳥片戀しつゝ泣日しぞ多きと見ゆるには、六月廿三日は交友の報問なれば、月日の遲き事論無し。
筑前守山上臣憶良挽歌【一首并短歌】と云小序一本こゝに有。下に論ずべし。
蓋聞四生起滅、方v夢皆空、三界漂流、喩2環不1v息、所以維摩大士在2乎方丈1、有v懷2染疾之患1、釋迦能仁坐2於雙林1、無v免2泥※[さんずい+亘]之苦1、故知二聖至極、不v能v拂2力負之尋至1、三千世界、誰能逃2黒闇之捜來1、二鼠競走、而度v目之鳥旦飛、四蛇爭侵、而過v隙之駒夕走、嗟乎痛哉、紅顔共2三從1長逝、素質與2四徳1永滅、何圖d偕老違2於要期1、獨飛生2於半路1、蘭室屏風徒張、斷腸之哀彌痛、枕頭之明鏡空懸、染※[竹冠/均]之涙逾落、泉門一掩、(446)無v由2再見1、嗚呼哀哉。
愛河波浪已先滅、苦海煩悩亦無v結、從來厭2離此穢土1、本願託2生彼淨刹1。
釋氏の學未一紙をだに披見ず。摘來る所の語すべて知ざれば云べき事無し、但耳を過たる事一二を擧のみ。起減は生死也、方夢は莊子齊物論云、方2玄夢1也不v知2其夢1。三界漂流は欲色無色、譬生死如v海、漂蕩流波。喩2環不1v息、越絶書云、終而復始、如2環無1v端。泥※[さんずい+亘]は涅槃也。二聖は釋迦維摩。力負は死の使、莊子太宗師篇に見ゆ。三千世界は東西南北、楞嚴經に見ゆとぞ。黒闇は天の夜色、涅槃經にと聞。二鼠は日月の迅速の譬、同經にと云。度v目之鳥、張景陽詩云、忽如2鳥過1v目。四蛇の爭侵は最勝王經。過v隙之駒は史記李斯傳、又莊子盗跖篇。三從、禮記之義。四徳は婦徳、同書に有しと覺ゆ。偕老は毛詩君子偕老。獨飛、漢書、雙鳧倶北飛、獨南翔、蘇(447)武が事也。蘭室、家語、入2善人之室1如v入2芝蘭之室1、久而不v知2其香1。染※[竹冠/均]、博物志に出。泉門、遊仙窟、九泉下人一錢不v直。左傳注云、天玄地黄、泉在2地中1、故云2黄泉1。愛河は順正理※[輪の旁]云、愛者三界貪欲所隨2樂境1、轉能泪2没有情1、喩2之河1。本願は無量壽經。序并詩の意は我知ず、たゞ愛河に溺れ苦海に迷ふ心の結《トヾ》めがたくするは、此穢土の習ひ也と云、本願を彼淨刹に託せんの語、我欲せねば解せず。
日本挽歌
上に漢土の詩《ウタ》を云に對して、我國風を日本歌と云を、唐詩の盛にこゝにも學ぶ世となりにて、云くらべぬをやまと歌と云事と成ぬ、實には歌とのみにて足ぬべし。
794 大王《オホキミ》の 遠の朝廷《ミカド》と 斯良農比の 筑紫の國に 泣子なす したひ來まして 息だにも いまだやすめず 年月も いまだあらねば 心ゆも 思はぬあひだに 打なびき 許夜斯ぬれ いはんすべ せむすべしらに 石《イハ》木をも とひ(448)さけしらず 家ならば かたちはあらむを うらめしき 妹のみことの あれをばも いかにせよとか にほ鳥の ふたりならび居 かたらひし こゝろそむきて 家さかりいます
先此歌の意をいはん、筑紫に下着て幾ほどもなく妻は病に臥て、やう/\頼なきをいかにぞやとさへ歎きつるを、今は此世をさけてしあれば、せんすべもなき旅の獨寢をかなしむ、いとせめてあはれ也。
反歌
795 家にゆきていかにか吾《アガ》爲《セ》ん枕づく妻屋さぶしくおもほゆべしも
旅人卿の情惑《こゝろまどひ》見るが如くに摸し出たり。
796 はしきよしかくのみからにしたひこしいもが心のすべもすべなさ
(449)都を出しより病したりけん、如是已故《カクノミカラ》にと云ざれど、家にとゞまるべからぬ事なれば。
797 悔しかもかくしらませば青丹吉くぬちこと/”\見せましものを
家に在ても病に時々悩みたる妻なれば、近きあたりもいざとて見せざりしをと歎く也。青によし國中《クヌチ》は奈良の東西の京なり、大和の國内にはあらず。
798 妹が見しあふちの花は散ぬべし我なく涙いまだ干なくに
佐保山の家に楝樹《アフチ》のいと古たりしが、今は散ぬべしといへば、六七月の間なるべし。苦楝は花の淺紫に咲て、おぼつかなくあはれなる花也。
799 大野山霧立わたる我なげく於伎蘇の風に霧立わたる
山は御笠郡にありと云。神代紀に吹棄氣噴之狹霧《フキヤルイブキノサギリ》と云を本として、神のみならず人の吹息も霧に立わたると云也。第十五にも我がゆける海《ウミ》べの宿に霧たゝば吾立なげく息(450)と知ませと見ゆ。伊伎を延て於伎蘇と云也。
こゝに神龜五年七月二十一日、筑前國守山上憶良上と有を、季吟本には始に出せり、是は憶良が帥卿に奉りし歌にあらず、旅人卿の自傷の詠也、詞章に紛るゝ事なきを、いかでかくあるといぶかしきにつきておもへば、別に憶良が奉りし歌のありしを脱せしにや、又上の唐ざまのみ憶良が上《タテマツ》りしにやともおぼゆ。さらば日本挽歌の字も後の人の補ひわざと云べし、とかくにあきらかならず。
令v反2惑情1歌并序 季本こゝに山上臣憶良とあり。
或有v人知v敬2父母1、忘2於侍養1、不v顧2妻子1、輕2於脱履1、自稱2畏俗先生1、意氣雖v揚2青雲之上1、身體猶在2塵俗之中1、未v驗2修行得道之聖1、盍是亡2命山澤1之民、所以指2示三綱1、更開2五教1、遺v之以v歌、令v反2其惑1、歌曰
歌と云事漢には詩と云て歌は詩賦の一體也、儒士は國詩と云て意得べくす尤宜しき也
季本には人或知v有2父母1忘2於孝養1に作る、宜しく思ゆ。又妻子を人倫に作るいづれにても聞ゆ。脱履一作2脱※[尸/徙]1、准南子に堯年衰志憫、擧2天下1而傳2之舜1、猶2郤行而脱(451)1v蹤也と見え、又史記の孝武紀に天子嗟呼吾誠得v如2黄帝1、吾視v去2妻子1如2脱※[尸/徙]1と見ゆ。先生、韓詩外傳云、古之謂2知v道者1曰2先生1何、猶2先醒1也。史記范雎傳に君能自致2於青雲之上1。身體、季本心志に作る。塵俗、季本水戸本塵泥。畏俗、水戸本離俗、若異俗か、莊子に天下大器也、而不2以易1v生、此有道者所3以2乎俗1也とあれば。季本に亡命の下山澤の二字無し。輿地志云、諸亡命聚藏2緑林山中1。三綱は君父夫。五教は父子有v親、君臣有v義、夫婦有v別、長幼有v序、朋友有v信、大禹謨云、汝作v士明2于五刑1、以弼2五教1。元正紀靈龜二年四月、詔曰、置v職任v能、所3以教2遵愚民1、設v法立v制由3其禁2斷姦非1、頃者百姓乖違、恣任2其情1、剪v髪※[髪の友が兀]v鬢、輙著2道服1、貌似2桑門1、情狹2姦賊1、詐※[言+爲]所2以生1、姦先自v斯起、其弊一也。下略。
800 父母を 見れば貴とし 妻子見れば 慈《メグ》し愛《ウツク》し 世の中は 如是矣《カクゾ》ことわり 黐《モチ》鳥の 如此有《カヽラハ》しもよ 行邊知らねば【季本此一句無し】 穿履《ウケグツ》を 脱《ヌギ》つる如く 踏脱《フミヌキ》て 行(452)云《ユクチフ》人は 石木《イハキ》より 生《ナリ》出し人乎 汝之|名《ナ》告《ノラ》さね【季本此句無】 天《アメ》へ去《ユカ》ば 汝《ナ》が隨意《マニマニ》 地《ツチ》ならば 大君|坐《イマ》す 此照す 月日の下は 天《アマ》雲の 向《ムカ》ふす極《キハ》み 谷蝦《タニグヽ》の さ度《ワタ》る際《キハ》み 聞食《キコシヲス》 國の眞原矣《マホラゾ》 于彼于此《カニカクニ》 欲《ホシ》き隨意《マニマニ》 爾《シカ》には不有哉《アラジカ》
反歌
801 久方の天道《アマヂ》は遠し尚々《ナホ/\》に家に歸りて業を作《シマ》さに
この歌本書假字書にて却て吶然、故に今義訓して書なす、讀得て再び假字の法則に復《カヘ》りて見つべし。さて是は名を指ねば知べからねど、憶良の親族氏族なるべし、無爲自然など云教へに淫《ナヅ》みて、情慾の私もて人倫を忘却するから、國法を犯すに到る者也、己は口才に克《よく》云逃るゝと思ふを、憶良一人宥さずして教示忠誠也。かゝるをこそ朝廷にも忠誠に親族にも孝慈ある儒士と稱すべけれ。今此言を説くにつきて翁が放蕩を(453)切《セマ》らるゝ事痛感最甚し、翁本は商賈の出身、不幸にして父に早く離れ、業を繼ぐほどなく類火に係りて家産共に滅ぶ、母を負妻を從へて郷土に漂流する事二十年、終に病魔に逐れ明を失ひて後に母姑等逝去す、時に齡六旬に近く、妻亦老て落髪し、一身を輕舟となして都下に來れども、産業無く嚢中盡て尼は頓に死す、亦此患に値《あひ》て兩明漸に盲となる、偶然《タマ/\》名醫に逢て左明開くといへども、尚翳雲常にかゝりて、讀書寫字の業の志を遂ざるに到る、然ども命禄盡ざるにや、傍人扶けて飢饉に到らしめず、嗟呼々々、一人責問、汝何ぞ産業を脩めざる、答、古人云、郷土を去六親を離れ業を脩めざる是を狂蕩と云、又才能に誇り名を世に衒賣して己を顧見ぬを人は智謀の士といふ、此二つの者は道にかなはぬいたづら者と云り、さらば不學不才を以て心を熬りなんより翁は狂蕩と云れて息《ヤマ》んと云、齡已に七十に近く病に侵されて、眼は物を探り口吻腫て鉗せらるに同じ、薄命を惜みて尚名利の途に迷ひゆくべきにあらずとぞ思ふは、即窮鬼の身を離れぬなるべし、人の翁を惜むは何事そや、纔に文苑の籬下に遊(454)ぶ、是亦時に偶《あは》ざる古雅を玩びて、世の人の爲に哂はる、古人の損益を云に、作有v利2於時1、制有v便2於物1者可v爲也、事有v乖2於數1、法有v翫2於時1者可v改也、故行2於古1有2其迹1、用2於今1無2其功1者不v可v不v變、變而不v如v前、易而多v所v敗者、亦不v可v不v復也と聞には、遊玩といへども、亦不幸薄命に煩はさるゝ也。
此異俗先生と一般にはあらねど、俗を出業を治めぬ罪は同じ、※[髪の友が几]鉗の屬のみ、斯言實に長談、高貴の御眼を射奉る、罪過最大なり。
黐鳥のかゝらはしもとは、鳥の黐にかゝりて煩ふ状を親族の愛憐に絆さるゝにたとへたり。穿沓の字、漢に見ゆれば、こゝにも沓に足さし入るを穿《ウガ》つと状以て云しにや、穿《ウガ》つを約めて宇計と云也。人石木の無情に生ぜねば、三綱五教を忘るべからずと云也、この人登天の道術あらばよし、さもあれ地は王土也、王法に背くは國罪《クニツヽミ》免るべからねば、海内の際と云を天雲の向ふすと、山谷に蝦の水《ミナ》ぐゝるあたりまでと云は文言也、天雲の向伏《ムカフス》と書る義にて、強てことわりなせど、遠望を伏と云事いかにぞや思(455)ゆ、遠望の極《イタリ》碧霄のくだり落ては見ゆれど、臥てとは語をなすべからず、されど向へば臥といはば云もすべし。谷ぐゝは山谷の流に住て、音は小鈴を振たつるが如に鳴く一種の蝦蟇《カハヅ》也、漢に是を錦襖子とか云、紫黒青の斑文をもて呼ぶか、物を見るには過當の名也、谷水をくゞりて遊ぶを名の由として、古事記の神代より此名あり、今は俗に河鹿と呼ぶを、魚に一種音ある杜夫魚と云物に混じて云は誤也、彼魚は泥鰌にひとしき音有て、チゝと囁《サヽメ》くのみ、聞くに愛感の物にあらず、古歌にかはづとよむは是のみ、田野の蛙鳴、何のあはれとか聽べき、澤水に蛙なく也とは拾遺集に見えて後、皆實に吼る題詠家の弊也。さわたるのさは虚辭、たゞ谷水を渡る也。反歌は黄帝の華胥に遊びて登天有しばかりの道術無くは、家産を力《ツト》めよと示す也、親族に非ずは無味の識と云べし。
思2子等1歌
季本例のこゝに山上臣憶良の名あり、悉くしかるか、正本ならば憶良の自記ならし、(456)子弟の後に記録せし者と云べし。思子《オモヒゴ》は後に古日《フルヒ》と云子の亡《ナク》なりしを傷める見ゆれど、子等とあればあまたの子を云也。
釋迦如來金口正説、等思2衆生1如2羅※[目+候]羅1、又説愛無v過v子、至極大聖尚有2愛v子之心1、況乎世間蒼生誰不v愛v子乎。
最勝王經に普觀2衆生1愛無2偏黨1、如2羅※[目+候]羅1、愛無v過v子と云ば、寔に聖語也、至極の大聖は人倫を道とすれば、慈愛の情暫くも息べからず、是を煩脳と云くたせるは、こゝの詞章に反對す、しらぬ方の旨は耳目を過しぬべし。
802 瓜《ウリ》喰《ハメ》ば 子ども所思《オモホユ》 栗|喫《ハメ》ば 況《マシ》て所偲《シノバユ》 何處《イヅチ》より 來たりし者矣《モノゾ》 眼《マナカヒ》に 本無《モトナ》掛《カヽ》りて 安眠不爲《ヤスイシナサヌ》
上に云義を以て書とするは、はやく解うべき老の心|熬《イラ》るゝ也。瓜は甜瓜《マクハウリ》なるべし。眼子を遊仙窟にまなかひとよむ、まなこを延たる言のみ、出雲風土記に楯縫郡に麻奈迦比の池と云見ゆ、両眼の如に道をや夾みて有けん。いづくより來りしものぞとは、(457)慈愛の情の起る處をいぶかしむ也。
反歌
803 銀《シロガネ》も金《コガネ》も玉も何せむに勝《マサ》れる寶《タカラ》子にしかめやも
昔のよき人はかく心くまなく物は云し也、されど今の世に子を愚なる者に養ひ立る事はあらざるべし。
哀2世間離1v住歌 季本年月姓名、例の此上に出せり。
易v集難v排八大辛苦、難v遂易v盡百年賞樂、古人所v歎、今亦及v之、哀2世間難1v住〔五字右○〕所以因作2一章之歌1、以撥2二毛之歎1、其歌曰
季本哀世間難住の五字有を宜とせんか。八大辛苦は生、老、病、死、愛別離、怨憎會、求不得、五陰盛。賞樂、賞心樂事、四美中擧v二兼v餘。二毛之歎、左傳宋公秋興賦云、餘春秋三十有二、始見2二毛1と言は、黒白の毛髪也、憶良は天平五年に七十四にて死去あれば、こゝは六十九の齡なれば二毛(458)の歎は當らざるべけれど、文苑には是等の事|間《マヽ》あり。さて此世比には歌の小序は必漢文に書なす事と見ゆ、其につきては國文の體をなせるは、延喜の比よりの事と意得る人有、疎《オロ》そけなる事也、宣命《ミコトノリコト》祝詞《ヨゴト》は國文の古體也。
804 世間《ヨノナカ》の 爲《ス》べなき者は 年月は 流るゝ如し 取續き 追來る者は 百種《モヽクサ》に 責|寄《ヨセ》來たる【コゝニテ一段ナリ】 少女等《ヲトメラ》が 少女|風流爲《サビス》と 韓《カラ》玉を 袂に令纏《マカシ》 季本には此句四句にて 白妙の 袖振かはし 紅の 赤裳裾ひき と有 餘知古良等《ヨチコラト》 手|携《タヅサハ》りて 遊びけん 時の盛を とゞみかね 過しやりつれ 蜷《ミナ》の腸《ワタ》 か黒き髪に 何時間《イツノマ》か 霜の降けん 紅の【季本官本丹の穗なす】 面の上に 何處從乎《イヅクユカ》 皺かきたりし 季本 常なりし 笑《ヱマ》ひ眉引《マヨビキ》 咲花の うつろひにけり 世の中は かくのみならし 丈夫《マスラヲ》の 男さびすと 劔太(459)刀 腰に取|佩《ハキ》 幸《サツ》弓を 手握《タニギリ》持て 赤駒に 下鞍《シヅクラ》居《オキ》て はひ乘て 逍遥行《アソビアルキ》し 世の中の 常に有ける【一段】 處女《ヲトメ》等が 佐那す板戸を 推ひらき 伊|徐歩寄《タドリヨリ》て 眞玉手の 玉腕差易《タマデサシカヘ》 佐寢し夜の 幾許《イクダ》もあらねば【一段】 手束杖《タツカヅヱ》 腰に綰《タガ》ねて 彼往《カクユケ》ば 人に所厭《イトハエ》 此去《カクユケ》ば 人に所憎《ニクマエ》 意餘斯遠波《オヨシラハ》 かくのみならし 玉極る 命惜けど 爲《せ》んすべもなし
反歌
805 常磐|如《ナス》々此《カク》しもとがも〔二字左○〕【官本阿母刊本脱す】 おもへども世の事なればとゞみかねつも
弱冠《ワカキ》時は壯《サカ》りにまかせてよろづ花々しかりし、それ幾許《コヽダ》の世をも經ねばいかでいつの間に人に厭はれ憎まるゝ體《サマ》には老朽ぬらん、いとも悲しきを、されどいかにせんと(460)也。老てわかき人に立交り、かへりて憎まるゝ人この歌に意得べく、こなたより避べき事也。反歌は常世人にてあらばやと思へどかひなきぞ、さらば老ては老に安んぜんの用意なるべし。餘知古良は僕と云卑遜の語にて、やつこの通音也、顯宗紀に天皇播磨の國に逃竄《ノガレカク》れて、赤石の小楯が家に奴僕と成ています時、王孫を見《アラ》はし給ふ室壽《ムロホギ》の辭に、やつこ等《ラ》まと云語に同じ。とゞみかね、留かね也。蜷《ミナ》の腸《ワタ》は黒髪にかけし文言也。かくろきのかは虚辭、此貝の腸は黒き物とぞ、みな一にになとも云。虹の面は紅顔也、一の丹《ニ》の穗とは稻の穗の赤らみたるを云。皺は今古共にしはの假字也。斯和とは己が口づからの聲音也、こゝにおきて法則の私法なる者から、そのかみの識者は守らずして書し也。をとこさびとは即丈夫心也。幸弓《サツユミ》は獲物に幸《サイ》ある弓也、神代紀に幸釣《サチヂ》貧《マチ》釣の語より來る。しづくらは雄略紀に鞍瓦後橋をくらほねしづくらとよむ、和名抄に※[革+薦]をしたぐらとよむ、馬術家に問べし。佐那周伊多斗は閇爲板戸也。伊多度利、伊は虚辭、徐歩也。幾許もあらねばと云て、さていかでいつの間にかく老ぬるぞと云語を(461)入て聞べき事既にも云、いと意有て面白き詞章なるを、中古よりはふつに用ひぬ事と成ぬ。手東杖腰に綰《タガ》ねてと云字を以てことわるは、神武紀にこの字をしかよみしに習へり。飴は養の義、今も重荷を杖に助くるをやしなふと俗には云。たがぬるは束の字を云、束髪をたがぬると云に似ず、いぶかしけれど。
神龜五年七月廿一日、於2嘉摩郡1撰定、筑前國守山上憶良【季本コノ語上ニアリ】
伏辱2來書1、具承2芳旨1、忽成2隔v漢之戀1、復傷1抱v梁之意1、唯羨去留無v恙、遂待2披雲1耳。
こゝに相聞歌詞両首と云語、季本伏辱來書の上に出す、按に是は大伴卿の都に還りて後に音書を賜ふに、憶良の答書なるべし。
無v恙、北方大荒中有v獣、食v人則病、羅v人則疾、名日v※[獣偏+恙]、常近2人村1、落2入屋宇1、人皆患v之、黄帝殺v之、由v是北方人方得v无2憂疾1、謂v無v恙、説文云、虫名、入v腹食2人心1、古人草居、故被2此害1、故相問無v恙、一には獣、一には虫、古傳といへども蒙朧の事、只(462)毒虫とのみ思ひてやむべきのみ。隔漢は牛女の河を隔つを以て離別に比す。披雲は將上京を云。
806 龍の馬も今も獲てしが青土よし奈良の京に行て來んため
周禮凡馬八尺以上爲v龍。歌は明らか也。
807 現《ウツヽ》には逢よしも無しぬば玉の夜るの夢《イメ》に乎《ヲ》繼て見えこそ
是亦明らか也。筑紫の任に在間《アルホド》の情也。次に答歌二首と有、季本には大伴淡の三字有、等の字脱たり、淡等は旅人の訓、たむととよむべき書樣也、史を不比等と書例也。
808 龍の馬《マ》を吾《アレ》は求めん青丹吉奈良の都に將來《コン》人の爲
809 直《タヾ》に不逢《アハズ》あらくも多く敷たへの枕|去《サラ》ずて夢にし見えむ
(463)こたへの意明らか也。
大伴淡等謹状 とは即答の詞也。上につく。
梧桐日本琴一面 注に對馬の結石山の孫枝と有は傳聞なるべし。
和琴やまとこと、又あづま琴、鵄尾琴《トビノヲゴト》、六弦《ムツノヲ》。長明の無名抄に、弓六張をならべて琴と爲《セ》しと云傳説見ゆ、何にて見られたりけん。
此琴夢化2娘子1曰、餘託2根遥島之崇巒1、※[日+希]2幹九陽之休光1、長帶2煙霞1 、逍2遥山川之阿1、遠望2風波1 、出2入鴈木之間1、唯恐百年之後空朽2溝壑1、偶遭2良匠1、敢爲2小琴1、不v顧2質麁音少1、希2君子左琴1、即歌曰、
此詞章大凡琴賦を摘來る、旦※[日+希]2幹於九陽1、又云、椅梧之所v生兮、託2峻嶽之崇岡1、披2重壌1以誕載兮、參2辰極1而高※[馬+襄]、含2天地之醇和1兮、吸2日月之休光1、云々。鴈木は莊子に弟子問、昨日山中之木以2不材1得v終2天年1、今主人鴈以2不材1、先生將2何處1、子咲曰、周將v處d彼有v材與2不材1之間uと云を摘て、鴈木之間と云歟。溝壑之語、孟子に見ゆ。左v琴右v書。
(464)810 いかにあらむ人の時にかも音《コヱ》知らむ人の膝(ノ)上《ヘ》吾枕|覓《カ》ん
琴精の云、吾音を知る人に逢て、其君の膝を常に枕に覓《マカ》んと申すれば、靈の告るまゝに奉ると云也、いとをかしき作意也、琴は必膝に乘せてかきなせばかく云。
僕報2詩詠1曰
僕とは房前公の自謙の語也、詩と云は歌の本語也。
811 言《コト》問ぬ木には有ともうるはしき君が手馴《タナレ》の琴にし有べし
吾知音の人に當らねば、精靈の言は夢言也、只君が手馴の賜《タマ》物と押戴くべしと云。琴の名おはすれば良材を得て造らせて餽る、憶良も琴の好者《スキビト》にてや有し。
琴娘子答曰
とは、此謙遜の報《こた》へに、こたびは即琴の靈が云とする俳諸也。
敬奉2徳音1、幸々甚々、片時覺即感2於夢言1、不v得2黙止1、故附2公使1、聊以進御耳、謹状不具
天平元年十月七日附v使進上
(465) 謹通2 中衛高明閤下1 謹空
是は憶良の房前君へ返簡の戯れにて、即時に使に附て云也、識量無き人かゝる戯言を即時には巧出べからず。徳音無v違と云語、毛詩に見え、幸甚は史記の蒙恬の傳に甚幸と云り。琴賦に進2御君子1、斯聲※[立心偏+樛の旁]亮と出。季本には中衛大將藤原卿と有、謹空とは全紙の末の白紙にてあるを云事なれば、此二字は此本紙の状を如是《シカ》ことわりしにて詞章に非ず、詞章短文の時も全紙のまゝにおく事禮也、切は凶事也、不敬也、西土にて明の代より猥りたるを、こゝには足利の亂世の人の習ひて利用とせし也、此事長談なれば略す、又云熟紙は禮也、生紙は非禮也。
跪坐2芳音1、嘉懽交深、乃知龍門之恩、復厚2蓬身之上1、戀望殊念、常心百倍、謹和2白雲之什1、以奏2野鄙之歌1、房前謹状
登龍門は後漢の李膺傳、白雲之什は司馬相如大人賦、蓬身は荀子に蓬生2麻中1、不v扶自直と云より來る。
812 言問ぬ木にもありとも我|せ《兄》子か手馴の御琴|地《ツチ》におかめやも
(466)移母《ヤモ》の移の字は伊の音なれば、や伊の通音にて、やもと云べきを、いもと云と云り、通音ながら調べあしく、いかでしか云けん、移と云字はやの音有と云、是が誤りしかと云人有。
十一月八日附2還使大監1
謹通2尊門記室1
使の太監は大伴の百代也。記室の語、漢書百官志に王公將軍幕府皆有2記室1と見ゆ。
歌は琴精の戯言を我技藝の卑讓にとりあへぬ者から、君が手馴の琴を常に膝におきて牀下にはおくまじく云也。かく云にて琴の珍重なれば絶ずかきならして遊ばんと也。
季本に 詠2鎭懷石1歌一首并短歌并序【那珂郡伊知郷蓑嶋人建部牛麻呂傳v之】山上臣憶良とこゝに有。
筑前國怡土郡深江村子負原臨v海丘上有2二石1、大者長一尺二寸六分、圍一尺八寸六分、重十八斤五兩、小者長一尺一寸圍一尺八寸、重十六斤十兩、並皆墮圓状如2鷄子1、其美好者勝不v可v論、所謂徑尺璧是也、去2深江驛1二十許里、近在2路頭1、公私往來、莫v不2(467)下v馬跪拜1、古老相傳曰、往者息長足日女命征2討新羅國1之時、用2茲兩石1挿2著御袖之中1以爲2鎭懷1、【實是御裳中矣】所以行人敬2拜此石1乃作v歌曰
徑尺璧、淮南子の語也。こゝの注に、或云、此石者肥前國彼杵郡平敷之石、當v占而取v之と云り、紀には于v時適當2皇后之開胎1則取v石祈v之曰、事竟還日産2於茲土1、其石今在2于伊覩縣道邊1と見ゆれば、こゝと同説也。實には御裳中と云注は肯がたし、袖と云も衣の誤にや、これを懷にせさせし状、後より思ひはかるべからず。
813 掛まくは 靈怪《アヤ》に恐《カシコ》し 足比賣《タラシヒメ》 神の尊《ミコト》 韓《カラ》國を 征平《ムケタヒ》らげて 御心を 鎭《シヅメ》給ふと 伊|取《トラ》して 齋《イハヒ》給し 眞玉|如《ナス》 二ケ《フタツ》の石を 世の人に 示し給ひて 萬代に 言繼《イヒツグ》がねと 海底《ワタノソコ》 澳津《オキツ》深江の 海上《ウミカミ》の 子負《コフ》の原に 御手自《ミテヅカラ》 置《オカ》し給ひて 神《カン》ながら 神《カン》さびいます 靈玉《クシミタマ》 今の現《ヲツヽ》に 貴《タフト》きろかも
(468)814 天地の倶に久しく云|繼《ツゲ》と此|靈玉《クシミタマ》爾爲《シカシ》けらしも
掛まくもと云が例也、かけまくは見馴ずといへども、聞えざるに非ず。天地の倶にののゝ語も天地とゝ云例也、是はむつかし。征平をむけたひらげと云は、向去《イキムカヒ》て平伏《タヒラグ》と云也、又|言《コト》むけといへば宣命《ミコト》を向《ムカ》はしめたまふと云也、此征平は本海外の國にて、二神開造の傳へもあらねば、仲哀神功の卷々に記する處を以て、何がしの神の告に隨ひて、他國に往て侵す也、さるから宣命向《ミコトムケ》にとは云べからず、向《ムカ》ひて伏平せしむると云義也。くし御玉は靈奇の玉也。うつゝをゝつゝと云は通音也。伊とらしての伊は虚辭、取てを延てとらしと云。貴きろかものろは虚辭、且助音にてうたふに叶へる也。あめつちの倶にのゝは卷八に卯の花の倶にと云同格にて、天地の長きと共に卯の花の咲散と與《トモ》にと云也、かく語を省きて章をなす事、上古よりも有し也、古今集に秋霧の共にと云は、古に擬へる也。こゝに注に右事傳言と云は、季本には上に小注として出(469)す、建部牛麻呂是也の是の字衍歟。
梅花歌三十二首并序 と云上に、季本水戸本宴2太宰帥大伴卿宅1の八字有。
天平二年正月十三日、萃2于帥老之宅1、申2宴會1也、于v時初春令月、氣淑風和、梅披2鏡前之粉1、蘭薫2珮後之香1、加以曙嶺移v雲、松樹掛v蘿而傾v蓋、夕岫結v霞、鳥封v※[穀の禾が鳥]而迷v林、庭舞2新蝶1、空歸2故雁1、於v是蓋v天坐v地、促v膝飛v觴、忘2言一室之裏1、開2衿煙霞之外1、淡然自放、快然自足、若非2翰宛1何以※[手偏+慮]v情、請紀2落梅之篇1、古今夫何異矣、
宜d賦2園梅1聊成c短詠u。
帰田賦、仲春令月、時和氣清。宋武帝女壽陽公主日臥2含章簷下1、梅花落2公主額上1、成2五出之花1、拂v之不v去、自v是後有2梅花粧1、此公主を銀公と云し事物に見ゆ。説文に、蘭香草、花常在2春初1と見ゆるは、今の春蘭と云種にも氣候早し、後漢の比に春初に咲て蘭と云物は何ならん、此種論あれど長語なれば略す。松の下樹の字脱す歟、隋煬帝老松詩に、千歳松樹望、見之如2偃蓋1。結霧、古本に結霞に作るは宜し。穀、官本、季本、※[穀の禾が糸]に作る。※[穀の禾が鳥]の訛字。蘭亭記、悟2言一室之内1。宋玉の風賦(470)に、王乃披v襟而當v之曰、快哉此風。翰苑を誤て輸苑に作るは非也。請を詩に季本に作るは非歟。落梅篇、古樂府に念爾零落逐v風※[(火三つ)+風]、徒有2霜華1無2霜實1と見ゆ。
815 正月《ムツキ》立春の來たらば如是《カク》しこそ梅を折つゝ樂しき終《ヲヘ》め
たのしく終《ヲヘ》めと有べきを。大貳紀卿、官本には郷と有、サトとよむ名歟。
816 梅花今咲る如散過ず吾家の園に有|乞《コセ》ぬかも
須義受の義を蒙にあやまる。有|乞《コセ》ぬかは有《アラ》ぬかと云に、乞《コソ》と願ふ語を助く、園中に此樹無き人の作也。少貳小野大夫は老と云人也。
817 梅の花咲たる園の青柳は※[草冠/縵]《カツラ》にすべく成にけらずや
少貳粟田大夫、この歌風雅集によみ人しらずと見ゆ。
818 春さればまつ咲宿の梅の花獨見つゝや春日くらさむ
(471)筑前守山上大夫。
819 世の中は戀し|け《宜》しゑやかくしあらば梅の花にもならましものを
上二句むつかし、よしやをしゑやと云、又よしゑやしと云、よしやよしのやはゑに通ふ假字に非ず、法則は頼がたき者の證也。かくしあらばとはかく人々の戀てもてはやすには、我ぞたゞ梅の花に化《ナラ》ましと云。しゑやの語もかけあはず、此歌はわろし。豐後守。大伴大夫は三依也。
820 梅花今さかりなりおもふどちかざしにしてな今盛也
筑後守葛井大夫は大成と云人也。
821 青柳梅との花を折かざし飲ての後は散ぬともよし
阿乎夜奈義を約めて青やぎと大方は云へば、青やなぎと云をふつゝかに聞るゝ也、心は世と人にいざなはれつゝ頼みがたき者ぞと、是につきて思はるゝ也。飲てとのみ云(472)て酒飲とする事、詞章とゝのはず。笠沙彌は滿誓の俗の名也。散ぬともよしは、よしや散ともと云也。
822 我園に梅の花ちる久方の天《アメ》より雪の流れ來る如《ゴト》
主人は旅人卿也、玉葉新拾遺等に入てよき歌也、雪の横風に降さまを流るゝと云。
823 梅花ちらくはいづくしかすがにこの城《キ》の山に雪はふりつゝ
散るを延てちらくと云、いづくに散ぞと云也。大監大伴百代。
824 梅の花ちらまく惜み我園の竹の林に鶯|啼《ナク》も
もはかもの略かと云べけれど、さらば鳴かと有べし、只助語のみ。少監阿氏奥島、阿刀阿部いづれ。
825 梅花咲たる園の青柳を※[草冠/縵]にしつゝ遊びくらさな
(473)さなはさんと云に同じ。少監土師百村、百古と云人續紀に見ゆ。
826 打靡く春の柳と我宿の梅の花とをいかにか分ん
いづれまされりとわかんと云おほせぬ也。大典|史《フンヤ》氏大原。
827 春されば木末《コヌレ》がくりて鶯の鳴て去《イヌ》なる梅の下枝《シヅヱ》に
少典山口若麻呂。
828 人毎に折かざしつゝ遊べども彌《イヤ》愛《メヅ》らしき梅の花かも
米豆良之波は伎の誤也、一本には伎と有。大判事舟麻呂。
829 梅花咲て散なば櫻花次て咲べく成にてあらずや
藥師張氏福子。
830 萬世に春は來經《キフ》とも梅花絶る事無く咲わたるべし
(474)筑前介佐氏子首は佐伯氏歟、子首は子大人《コオホト》とよむ歟。
831 春なれば宜《ウベ》も咲たる梅の花君を思ふと夜寐《ヨイ》も寢なくに
壹岐守板氏安麻呂。梅の暗香を夜も寐ぬと云よ、君は帥卿を指す也。春さればをなればと誤るといへど、春になればの略言、春さればゝ春にぞあればの約言也。
832 梅花折てかざせる諸人はけふの間は樂しく有べし
神司荒氏稻布、一本稻木に作る。けふの客達に對して云。
833 毎年《トシノハ》に春の來たらはかくしこそ梅をかざして樂しく飲《ノマ》め
大令史野氏宿奈麻呂。是も飲《ノマ》めとのみに詞章とゝのはず。
834 梅花今盛なり百烏の聲の戀《コホ》しき春來たるらし
少令史田氏|肥人《コマント》。
(475)835 春さらば逢んと思《モヒ》し梅花けふの遊びにあひ見つるかも
藥師高氏義通。是は巧によめり。
836 梅花手折かざして遊べども飽足ぬ日は今日にし有けり
陰陽師礒氏|法《ノリ》麻呂。此歌よろしきに置べし。
837 春の野《ヌ》に鳴やうぐひすなつけんと吾家《ワガヘ》の園に梅の花さく
※[竹冠/卞]師志氏|大道《オホチ》。野鳥もこゝに來ると也。
838 梅花散まがひたる丘邊《ヲカビ》には鴬啼も春|片向《カタムケ》て
大隅目榎氏鉢麻呂。こなたへのみ向たる意也、傾をかたむけてとよむは轉語也。
839 春の野に霧立渡り降雪と人の見るまで梅の花ちる
筑前目田氏眞人、一本には眞上とあり、霧は水烟、霞は地氣にて本同物也、名義もき(476)りはさへぎるの畧、かすみは物を侵し掠むるの意、靄霧と分ちて別なる物に云は後也、躬恒の歌に秋田にかすみをよみし、其比までの歌は天地にたがはぬ物なりけり。
840 春柳かづらに折し梅花誰か浮べし盃の上《へ》に
有可倍志、可脱字。壹岐目村氏|彼方《ヲチカタ》。
841 鶯の音《オト》聞なべに梅花|我家《ワギヘ》の園に咲て散見ゆ
對馬目高氏老。
842 我宿の梅の下枝に遊びつゝ鶯鳴もちらまく惜み
薩摩目高氏海人。
843 梅花折かざしつゝ諸人の遊ぶを見れば都しぞ思ふ
土師氏御通。
(477)是は都にも梅の遊びあるを云に非ぬ歟、梅は西土より渡せし種と云説あり、寔にしかるにや、聖武紀いづれの年歟、五月に梅樹を見そなはし給ひて、朕此花の遊びをせまく思ひしに、事多くて時過ぬとて、文人を召て詩歌舞樂の御遊び、西の池の宮にて有しと云事見ゆるには、都方に此木今の如く多からず、筑紫には盛に植生《うゑおふ》したるなるべし。さらば諸人の遊びは梅の宴にかぎらぬを云よと思ゆ。神代より有しと云は眼の博からぬ也、此比よりいにしへに梅樹の事史に見えず。
844 妹が家《ヘ》に雪かも降と見るまでに許多《コヽダ》もまがふ梅の花かも
小野氏國望。
845 鶯の待難《マチガテ》にせし梅が花ちらずありこそ思ふ子が爲
筑前掾門氏石足。あれこその誤なるべし。
846 霞たつ長き春日をかざせれどいやなつかしき梅の花かも
(478)小野氏淡理。
員外思2故郷1歌
員外と云唐名は憶良の事かといへど、筑前守には當るべからず、三十首の員外と云説の方宜しき歟、梅花の歌にあらねど、宴席に在て都を戀たる憶良の情願の作なるべし。
847 我さかりいたくくだちぬ雲にとぶ藥はむとも又落めやも
848 雲に飛ぶ藥はむとも都見ばいやしき我身《アガミ》又落ぬべし
藥波牟用波と有は聞えず、一本用波を等母と有を採る。淮南の劉安が仙藥の臼に遺りたるを。犬鷄の嘗《ナメ》て共に雲中に吠しと云故事を取たるにて、憶良既に七旬の齡を經て、西邊の任にある事を常に悲しむあまり、此宴にあひ諸人の遊ぶを見れば、都しぞ思ふと云歌を聞なべに、情願のまゝをよみ出し也、今は老|朽《クタ》ちぬれば仙藥を嘗ると(479)も、又地上にかひなく落べしと云、いやしき我身と又くり言するにも、あはれは催さるゝ也。此人才識有といへども、老の果まで邊役に在事、王充が云不遇の人也。
後追和2梅歌1 宴の後によみたる也。
849 殘りたる雪に交れる梅花はやくな散そ雪は消《ケ》ぬとも
850 雪の色を奪ひて咲る梅花今さかりなり見む人もがも
風雅集に家持の歌として入れらる、よん所あるにや。牟梅《ムメ》の波奈と書るを、牟は宇の誤と云り、例の法局を出る事あたはぬには。
852 烏梅能花伊米にかたらく宮びたる花と吾《アレ》思《モ》ふ酒にうかべこそ
一にはいたづらにあれをちらすな酒にうかべこそと有、此方歌宜し。酒盞にうかべこそを酒にとのみ云、飲てとのみには勝れり。
遊2松浦河1序
(480)仙女の歌に春さればと見ゆ、春の比小※[魚+絛]のゝぼる時なるべし。
餘以d暫往2松浦之縣1逍遥u、聊臨2玉島之潭1遊覽、忽値2釣v魚女子等1也、花容無v雙、光儀無v匹、開2柳藥於眉中1、發2桃花於頬上1、意氣凌v雲、風流絶v世、僕問曰、誰郷誰家兒等、若疑神仙者乎、娘子等皆咲答曰、兒等者漁夫之令兒、草庵之微者、無v郷無v家、何足2稱云1、唯性便v水、復心樂v山、或臨2洛浦1而徒羨2王魚1、乍臥2巫峡1以空望2烟霞1、今以邂逅相2遇貴客1、不v勝2感應1、輙陳2※[疑の左+欠]曲1、而今而後、豈可v非2偕老1哉、下官對曰、唯々、敬奉2芳命1、于v時日落2山西1、驪馬將v去、遂申2懷抱1、因贈2詠歌1曰、
松浦河の※[魚+絛]魚の事、神功皇后西征の時、北到2火前松浦縣1而進2食於玉島里小河之側1、於v是皇后針爲v釣取v粒、抽2取裳糸1爲v綸、登2河中石上1而投v之、祈曰、朕西欲v求2財國1、若有2成事1者河魚飲v釣、因以擧v竿、乃獲2細麟魚1、皇后曰、希見物也、故時人號2其處1曰2梅豆羅國1、今謂2松浦縣1訛焉、是以其國女人毎v當2四月上旬1、以v釣投2河中1捕2年魚1、於v今不v絶、唯男夫雖v釣不v能v獲v魚。意氣凌雲の章、大人之賦に見ゆ、(481)こゝには過當の語歟。令兒なるべし、舍兒は訛歟。羨王魚の王の字衍、臨v河而羨v魚の語を摘也。歎曲は訛、古本款に作る。徒恨宴樂始酣白日傾v夕、驪駒就v駕の章、文選の何にか有し。
853 あさりする蜑の子等《コドモ》と人はいへど見るにしらえぬうま人の子等
顯宗紀に君子をうまびとゝよみ、仁徳紀には良家子と書てもよむ。
答詩曰
854 玉島の此河かみに家はあれど君をやさしみあらはさずありき
やさしと云語、此歌にては後世に優美の人をやさしと云に同じきを、古今集に何をして身のいたづらに老にけん年の思ん事ぞやさしきと有に皆傾きて、恥しきと云義とするは轉語を本義にする也、年のおもはんを我はやさし人のやうに爪くはるゝと、丈夫の心くだけしを云とぞ思ゆ。
(482) 蓬客等更贈歌 とは轉蓬客と云謙遜の語也。
855 松浦川ゝの瀬光※[魚+條]釣るとたゝせる妹の裳の裾濡ぬ
856 松浦なる玉島川に年魚つるとたゝせる妹が子|等《ら》が家路知らずも
857 遠津人松浦の川に若※[魚+條]《ワカユ》つる妹が袂を我こそまかめ
枕にまくと云に同じく、手さしかへて寢んと也。
娘子等更報歌
858 わかゆ釣る松浦の河の川浪の倫《ナミ》にし思《モハ》ば我戀めやも
常倫《ナミ/\》に思はゞと云也、なみ/\に思さぬにや、我如き賤しき者にかく言問ひたまへると云は、寔に田舍邊土の人の性の質直に云べき章也、都人は恥らひてかくはいはじものを。
(483)859 春されば我宅《ワギヘ》の里の川戸には※[魚+絛]子さばしる君待がてに
今は心にゆるして物らいひつゝ、さて春にならば又來まさん君ぞと、我を魚に比《タト》へて云也。川戸とは水門《ミナト》と云に同じく、川舟の湊《ヨ》る處なり。さばしる、さは虚辭のみ。
860 松浦川七瀬の淀はよどむとも我はよどまず君をしまたん
絶す待んの意也、上の若※[魚+絛]つる松浦の川の歌を犯して、古今にみよしのゝ大河のへの藤波のなみに思はゞ我こひめやもと云歌見ゆ。なゝ瀬は幾瀬と云に同じく多數の語也、八十瀬と云も末遠く流るゝ間に云。
後人追和之詩 官本には歌とあり、刊本こゝに都帥老とあり、季本には無し、有が宜しきかと思ふは、憶良の此贈答を戯作して、帥の大伴卿に見せしを、帥も後人追和と題してよみて贈られし者歟、是を憶良の家記には、實は都帥老也と注しておかれしなるべし。
(484)861 松浦川ゝの瀬はやみ紅の裳の裾ぬれて※[魚+絛]か釣らん
それは定て賎しきをとめならじ、兄かかたらひ給ふにはやと也。
862 人皆の見らむ松浦の玉島を見ずてや我は戀つゝをらん
いと羨むべしと也、皆人と後には云を、此集の比には人皆のと云り。
863 まつら河玉島の浦《ラ》に若※[魚+絛]《ワカユ》つる妹|等《ラ》を見らむ人のともしさ
此歌によりてともしとは羨しと云義ぞと云人もあり、それは諺解と云者也、乏の字義にては少《スクナ》きと云より少間《マレ》也と轉じて、さて珍らしきとも轉語はすると云はよし。
こゝに季本答2和人歌1書井歌四首と有、吉田連宜と云人の億良への報書也。
宜啓、伏奉2四月六日賜書1、跪開2封函1、拝讀2芳藻1、心神開朗、似v懷2泰初之月1、鄙懷除拂、若v披2樂廣之天1、至v若下羈2旅邊域1、懷2古舊1而傷v志、年矢不v停、憶2平生1而落上v涙、(485)但達人安v排、君子無v悶、伏冀朝宣2懷v※[糴の旁]之化1、暮存2放v龜之術1、架2張趙於百代1、追2松喬於千齡1耳、兼奉2垂示1、梅花芳席、群英擒v藻、松浦玉潭、仙媛贈答、類2杏檀各言之作1、擬2※[草冠/衛の中が魚)皐税駕之扁1、耽讀吟諷、感謝歓怡、宜戀v主之誠、々逾2犬馬1、仰v徳之心、々同2葵※[草冠/霍]1、而碧毎分v地、白雲隔2天地1、徒積2傾延1、何慰2労緒1、孟秋膺v節、伏願萬祐日新、今困2相撲部領使1謹付2片紙1、宜謹啓不次
芳藻は文藻。泰初は魏の夏侯玄の字、世説に泰初曹白と共に坐す、時人云、蒹葭倚2玉樹1、又云、朗々如2日月之入1v懷と云を摘歟。晋の樂廣、晋書云、衛※[王+灌の旁]與2何晏※[登+おおざと]※[風+易]1數共談講、見2樂廣1奇v之曰、毎v見2此人1則※[螢の虫が玉]然猶d廓2雲霧1而覩c青天uと云を摘來たる歟。安排は莊子大宗師に安v排而去化、入2於寥天1と見ゆ。懷※[糴の旁]は後漢書、魯恭が故事、※[糴の旁]は山雉也。放龜は晋の孔※[喩の旁]が籠龜を買て放つ、龜渓水に浮て左顧數回、是より侯印に紐を鑄る、龜は必左顧。松喬は王喬赤松子。杏檀は大學寮を云、莊子に孔子坐2于杏檀之上1、弟子讀v書、夫子鼓v琴。衛皐税駕は洛神賦に爾廼税2駕乎※[草冠/衛の中が魚)皐1、秣2駟乎芝(486)田1と云を採る。曹子建求2通親1表に、犬馬之誠不v能v勤、若2葵※[草冠/霍]之傾1v葉、大陽雖v不2爲v之廻1v光、終向v之者誠也、臣竊自比2葵※[草冠/霍]1。碧海分v地、白雲隔v天は宜は京官の人也。相撲部は垂仁紀を始也、相撲部領使の訓、すまひのことりづかひとよむ、すまひは相對して物と物と爭ふを云、秋風におくれじとすまふ女郎花いく度野べに起伏にけん、
奉v和2諸人梅花歌1
とは帥の家にてこの雅會有しを、都へ便に憶良の云贈しかば、仰望て答書に副へて此歌をよみて贈る也、憶良と交友なるべし。
864 おくれ居て汝《ナ》が戀せずは御園生の梅花にもならましものを
戀せずは戀すると云也、令爲《セス》の語、後にはよまねど今も尾張人の方言に何をせずと云。
此宴會に立交らぬを後居《オクレヰ》てと云にはあらず、後に傳傳てと云也、詞章いづれとゝのはぬか。
(487) 和2松浦仙媛1歌
865 君を待つまつらの浦のをとめ等《ラ》は常世の國の蜑乙女かも
此事憶良が戯作文と知て、さる蜑は仙女なりと云やる也。
思v君末v盡2重願1 憶良を思ふ也。
866 はろ/”\におもほゆるかも白雲の千重にへだてる筑紫の國は
867 君が行《ユキ》氣長く成ぬ奈良路なる島の木立もかんさびにけり
此氣長くと云は月日のみならず、年にかけても云が如し、とかくに定めがたし。
天平二年七月十日
憶良誠惶頓首謹啓
とは、次の文にかゝるにかくも書べからず、これは後人の目録などより移し來たる歟、又吉田宜に再報書などの有しが脱たる歟。
憶良聞方岳諸侯、都督刺史、並依2典法1巡2行部下1、察2其風俗1、意内多端、口外難v出、謹以2三首之鄙歌1、欲v寫2五臓之鬱結1其歌曰
(488)是は方岳無2鈞石之鎭1、關門無2結v草之固1と云語によりて、方岳諸侯と云歟。此序詞は歌にむかへ見れば、憶良西邊の役に老朽る歎きを含みてよみたる歟、部下を巡察するに人情の野なるは改むべからず、是につきて都にむきてこの歎詠はなす也と見ゆ。
868 松浦方佐用姫の子がか領巾《ヒレ》振し山の名のみや聞つゝ居《ヲ》らむ
西邊に年をへて在る歎き也。宣化紀に二年十二月、大伴金村大連、其子磐與2狹手彦1以助2任那1と見ゆる時の事也、狹手が妻佐用姫こゝまで慕來て遂に行べからぬ路なれば、哀別をなせし時に、此山に立登りて招きしのひつる事をかたりつぎて云、山の所に來て我は都をしのぶ情を述るなるべし。
869 足比賣《タラシヒメ》神の尊の魚《ナ》釣《ツ》らすと御立《ミタヽ》し爲《セ》りし石を誰見き
我こそ見きと歎く也。一に※[魚+條]釣ると。
870 百日《モヽカ》しもゆかぬ松浦道今日ゆきてあすは來なんを何かさやれる
(489)この西の限なる地に我任ずる國より、今日と立行てたゞに翌は來なんを、何の障りもなきを思へば、都にいたる事の杳けきが悲しき也。
かくよみて次に佐用姫が事を記して贈る也、文人の筆に親しき今古同じ。
天平二年七月十一日、筑前國司山上憶良謹上
大伴佐提比古郎子特被2朝命1、幸2使藩國1、艤棹言歸、稍赴2蒼波1、妾也松浦佐用姫面嗟2此別易1、歎2彼會難1、即登2高山之岑1、遙望2離去之船1、憤然斷v腸、黯然銷v魂、遂脱2領巾1麾v之、傍者莫v不v流v涕、因號2此山1曰2領巾麾之嶺1也、乃作v歌曰、
江賦、舟子於v是搦v棹渉v人、於v是艤※[手偏+旁]と云をとるか。斷膽は斷腸の誤也。黙は黯の訛、別賦に黯然銷v魂者唯別而已と見ゆ。
871 遠つ人松浦佐用姫|夫乞《ツマコヒ》に領巾《ヒレ》振しよりおくる山の名
遠つ人とは昔の人、又國隔たるにも云、鴈をさへよみしは隔界の情也。
(490) 後人追和作歌 と有べし、其人誰ぞ。
872 山の名といひ繼《ツゲ》とかも佐用媛が此山の上に領巾を振けむ
最後人追和作歌
873 萬代にかたりつげとし此|岳《タケ》にひれふりけらし松浦さよ姫
最々後追和歌
874 海原の沖ゆく舟を還れとかひれ振《フラ》しけん松浦さよ姫
875 行船を振とゞみかねいかばかりこほしく有けん松浦さよ姫
振は虚辭、戀しくこほしくとよむは通音。さて此歌ども作者はしられねど憶良の匿名にや。
書殿餞酒倭歌 書殿は書齋か、倭歌はこゝに始て漢詩に對せずして書り、一本作者未(491)詳と有は後人の意なるべし、是も憶良にこそ、誰を送るぞ。
876 天飛や鳥にもがもや都まで送りまをして飛還るもの
此ものと留るも一格也。
877 人も音のうらぶれをるに龍田山|御馬《ミマ》近づかば忘らしなんか
人皆の通音かとも云り。龍田山こえば都なれば、西國の事もやゝ忘るべしと云也。
878 いひつゝも後こそしらめとのしくもさぶしけめやも君いまさずして
とのしくはともしくもの通音かと云り、樂しくとはいかにも云まじき章也。
879 萬代にいましたまひて天の下まをしたまはね朝廷《ミカド》去《サラ》ずて
かくまで申ことほげるは帥卿にこそ、大納言も即大臣に昇進したまふべしと也。
(492) 聊布2私懷1歌
880 あまざかる鄙に五年《イツトセ》住ひつゝ都の手ぶり忘らえにけり
寔に情紙に溢れて感慨せらる。
881 かくのみや息づきをらむあら玉の來經ゆく年の限しらずて
任限來て猶召上さるべくもあらぬ歟。
882 我ぬしのみたま給ひて春さらば奈良のみやこに※[口+羊]佐宣たまはね
ぬしと云は何の大人《ウシ》と云を約めて、何ぬしと云義と云説に先よるべけれど、この吾《ア》がぬしと云は大人《ウシ》ぬし通音に云か、後ながら古今集に、ぬしや誰、ぬししらぬなど云格もあれば。※[口+羊]佐宜の宜は宣の誤なるべし、令喚《メサセ》たまへと昇階を打たのむ也、さらば書殿にて帥卿を餞別の酒をすゝめて皆悉よめる也。
三島王後追2和松浦佐用|嬪面《ヒメ》1歌 (493)光仁紀に從四位下と見ゆ。
883 音にきゝ目にはいまだ見ず佐用姫が領巾振きとふ《云》君まつら山
思2大伴君熊凝1歌 と有しか、
大典麻田陽春作と云注は所因有べし、陽春の名、懷風藻にも見ゆ。
884 國遠き路の長手をおぼゝしく許布《戀》や過なん言問《コトヾヒ》も無く
おぼしくを重ねておぼゝしくと云に意重くなるべし。
熊凝が傳は次に見ゆ。
大伴君熊凝作歌 とこゝに有し歟。
885 朝露のけやすき我身|他國《ヒトグニ》に過かてぬかも親の目を欲《ホ》り
親を見まほしと云古語也、うつすべからぬ語となりし也。王命なれば故郷の親を拜み(494)たく思へどかひなし、多病の人にてや有けん。
筑前國司山上憶良敬和d爲2熊凝1述2其志1歌u
已にも云、憶良の自記に親族の扶て後に册をなせし歟、かく書る事いぶかし。
大伴君熊凝者、肥前國益城郡人也、年十八歳、以2天平三年六月十七日1爲2相撲使【某國司官位姓名從人1、】參2向京都1、爲v天不幸、在v路獲v疾、即於2安藝國佐伯郡高庭驛家1身故也、臨終之時、長歎息曰、傳聞假令之身易v滅、泡沫之命難v駐、所以千聖已去、百賢不v留、況乎凡愚微者、何能逃避、但我老親、並在2菴室1、待v我過v日、自有2傷v心之恨1、望v我達v時、必致2喪v明之泣1、哀哉我父、痛哉我母、不v患2一身向v死之途1、唯悲2二親在生之苦1、今日長別、何世得v覲、乃作2歌六首1而死、其歌曰
身物故也、物字脱かと云り。假令一に假合に作る。詩に萬歳更相送、聖賢莫2能度1。望v我違v時の親心は、王孫賈之母曰、汝朝出晩來、則倚v門望v汝と云をおもへるか。子夏が子をうしなふて喪明すと云にならへり。
(495)二説は一本二親に作る。歌は熊凝がよみたるを以て憶良の序を加へし也。
886 内日さす 宮へ上《ノボ》ると 垂乳根や 母が手離れ 常知ぬ 國の奥処《オクカ》を 百重山 越て過ゆき いつしかも 都を見むと 思ひつゝ かたらひ居《ヲ》れど 己《オノ》が身し 傷《イタハ》しければ 玉鉾の 道の隈邊《クマビ》に 草手折 芝取敷て 解霜《トケジモ》の 打|轉臥《コイフシ》て 思ひつゝ 歎き臥《フセ》らく 國に在《アラ》ば 父取見まし 家にあらば 母|執《トリ》見まし 世の中は 如此《カク》のみならし 犬じもの 道に臥てや 命過なん
一に我世過なん。宮へのぼるは都へ上る也。多羅知斯夜、斯は寔にねの訛なるべし。國のおくかは、しらぬ國の奥あるやうに行なづむ也。傷はしければゝ身に傷《イタ》みを感じたる也。
一本久麻尾爾を脱す。歌の意かくるゝ所なし。
(496)887 多良知遲の母が目見ずておぼゝしくいづちむきてか我《アガ》別るらむ
上には多羅知斯、こゝにたら知遲、共に禰の訛といはんはことわりながら、按には垂乳と云か、足乳と云か、乳兒の養ひ足ると乳房の垂たる状といづれぞと思へば、たら乳《チ》と云は聞えて、たらちしと云は誤と云ん歟、いづれ定がたし。別るらんは死別也。
888 常しらぬ道の長手を來れ/\どいかにかゆかん借代《カリテ》は無しに
糧代《カリテ》かと云り。
889 家に在て母が取見ばなぐさむる心はあらまし死なばしぬとも
家にて死ぬならば母がとりあつかひ給はんと也。
一に後は死ぬともと見ゆ。
890 出て行し日をかぞへつゝけふ/\と吾《ア》を待《マタ》すらん父母|等《ラ》者も (497)一に母が悲しさ。
891 一世《ヒトヨ》には二度《フタヽビ》見えぬ父母をおきてや長く我《アガ》別れなん 一に相別なん、いづれも意あきらか也。
貧窮問答歌
才識の士一度潔を快しとおもひ初て生涯貧乏に繋がる例和漢に多し、憶良もその人なるべし、七十の齡猶邊役に在て謫せらるに似たり、官道の用意容易ならぬ者か。卓茂と云人の吾は清濁の間に在んと云しは味有言也、然ども命禄は遇と不遇とに有て不遇の人は不遇に安んずる事、學道の大事也。此歌の問答は薄命を歎きてあまりに貧人の境界をおもひわたす也、不遇に安んずると云にはあらぬ歟。
892 風まじり 雨の降夜の 雨まじり 雪の降夜は すべもなく 寒くしあれば 堅鹽を 取|啜《ツヾシ》ろひ 糟湯酒 打|〓《スヽ》ろひ ※[劾の力が欠]《シハブ》かひ 鼻ひし/”\に しかとあらぬ (498)髭かき撫て 吾《アレ》を措《オキ》て 人はあらじと 誇《ホコ》ろへど 寒くしあれば 麻被《アサブスマ》 引|被《カヽブ》り 布肩衣《ヌノカタギヌ》 有の悉《コト/”\》 襲《キソ》へども 寒《サムキ》夜すらを 我よりも 貧しき人の 父母は 飢《ウヱ》寒からむ 妻子等《メコドモ》は 乞乞《コヒツヽ》泣らん 此時は いかにしつゝか 汝《ナ》が世は渉る
天地は 広しといへど 我《アガ》爲は 狹くや成ぬる 日月《ツキヒ》は 明《アカ》しといへど 吾《アガ》爲は 照や給はぬ 人皆か 吾のみやしかる わくらばに 人とは有を 人並に 吾も住《ナレ》るを 綿も無き 布肩ぎぬの 海松《ミル》の如《ゴト》 わゝけ|さか《裂》れる かゝ布のみ 肩に打かけ 伏菴《フセイホ》の 曲庵《マゲイホ》の内に 直土《タヾツチ》に 藁うち敷て 父母は枕の方に 妻子《メコ》どもは 足《アト》の方に 圍居《カコミヰ》て 憂ひによぼひ 吟《ニヨボヒ》 竈には 烟吹たでず 甑《コシキ》には 蜘の巣かきて 飯|炊《カシ》ぐ 事も忘れて ぬえ鳥の 咽《ノド》よびをるに いと退《ノキ》て 短き物を 端切ると いへるが如く 楚《シモト》取《トリ》 五十戸郎《イヘヲサ》が聲は 寢門《ネヤド》まで 來立|喚《ヨバ》(499)ひぬ かくばかり すべなきものか 世の中の道
893 世間をうしとやさしとおもへども飛たちかねつ鳥にしあらねば
一首意通りて詞章よくとゝのへり、學者才をかねずはいかでかく云つらぬべき、謝肇制と云人の言、貧文は富に勝り、賤文は貴にまさると云はまこと也けり。富貴の言はおのづから心驕りて實情に疎く、貧士の言は意通りて志誠也。源氏物語の二條六條の院々の奢靡、光彩眼を射てむかひがたきも、夕顔のやどり蓬生の荒たる古宮のあはればかりの感慨なきたぐひ也。堅鹽は燒かたまれる鹽也、延喜式に約めて堅鹽《キタシ》何顆と見ゆ、それを湯のむとて少づゝ喰つめる也、つゞしろひはつゞりを延たる也、糟湯酒は酒の濁りを湯に温めて飲也、酒とはいへど氣薄くこそありけめ、いにしへの白酒《シロキ》と云は濁酒にて、清酒《スミサケ》はくさ木の灰もて清《スマ》せしとぞ、黒酒《クロキ》と云は清酒といへどいかゝあらむ、武烈紀の影姫が哥に、水を笥に盛て手向草とする事見ゆ、玄酒と云名、西土の(500)人の云に擬ひて、こゝにも水を黒酒《クロキ》と云歟、神に供御するは穿居《ホルスヱ》に醸《カモ》せしまゝの白酒《シロキ》也、今一甕|清酒《スミザケ》をも供べしと云傳聞無し。しかぶかひは咳嗽《シハブキ》を延て云、鼻ひし/\は嚔《ハナヒ》る也、糟酒を〓るに咽《ムセ》び※[劾の力が欠]《シハブ》く状をうつし出たり、貧士の短鬚|蒙茸《、ウサ/\》と生《オヒ》てあさまし、されどかゝれば常に高貴《ヨキヒト》に交はらず、よき事をも見知ねば自己《オノレ》は誇りかに物は云へど、さすがに三冬の寒きに堪ずして、暖ならぬ麻の衾、布肩衣のかぎりを着加《キソ》へたれど、今は心奢りもせられずと、憶良の貧窮の動靜《アリサマ》をうつし出たり。然《サテ》我より貧しからん人のあたりをおもへば、父母妻子をも飢寒に苦しますあまりには、親族交友に道を斷れて、世界も狹く成ぬべし、月日の光も吾には照させたまはぬか如くて在歟、人は皆しからじと也。布肩衣は麻布の直袍《ナホシ》なるべし。わくら婆と濁りてよめと云、これは夏蔭の青葉が中に紅葉《モミヂ》したるが間々《マレ/\》あるは、はやく枯渇する葉也、よて病葉と注するも聞ゆ、それはたまさかの物なれば、邂逅の字にあてゝたまさかの義とする也、古語にもかくまでたとへくるしき事を、はやくより云し也。されどわくら葉と云語は、若(501)葉を延たる者に聞えて病葉の名とも思えず。さて適間《タマ/\》に人と同じき者に生れたるをいかにぞやと也。綿も無き布肩衣とは、直衣にはあらぬやうに聞ゆれど、綿衣なければ麻布の直衣の海松の状にわゝけ裂《サケ》たるとや、わゝけたると云は、今俗のほゝけたりと云に似たり、裂るを延てさかれると云。かゝ布のみとは綴《ツヾレ》の名と云は何の由をしらず。まげ庵とは枉曲よろぼひたる庵のふせおしまげたる状を云。直土、ひた土とよむをたゞ土とよめと云、土牀に藁《イナガラ》を敷たる下民の住處也。うれひ吟《サマヨ》ひ、吟の字をのみさまよふとはよみがたし、吟行と漁父辭にあるは、江畔吟行とあるにつけたる訓也、是に猶かなへりともおぼえず、吟はによぼふとよむ事古言也。いとのきては思ひのほかなる義か、かく貧苦の人はあはれむとこそおぼえしに、家長とはこの伏屋の家ぬしが物もてこぬとて木杖打ふりて、責はたる聲の、いとも聞にくゝあはれに悲しき也。さても世のありさまは爲《ス》べなき者ぞと也。こゝに憂しとやさしとゝ云は恥かしき義とも云べけれど、猶いかにぞや、やさしと云は已に云君を優美《やさし》みと云より來て、こゝ(502)は世は憂きものゝさてもやさしとも頼まるゝものとおもへども、老朽ては都にいかでなりのぼらばやと思ふも、鳥にしあらねば飛たちて行べきやうもなきぞと、帥の許又誰にもあれ、昇階を打たのむ人に見すべく、此問答歌はよみし歟、さらばやさしとは今も心のやさしき人ぞと頼まるゝ人を指て云也。
山上憶良頓首謹上とは上につく歟。
好去好來歌
とは、羈旅の來去事なくてあれとことほげる也、此語何の書に有や見しらず、是は天平五年に多治比廣成を遺唐使に立しめ給ふ時に、憶良の送別の作也。
894 神代より 云|傳《ツギ》けらく 虚に見つ 大和の國は 皇神の 嚴《イツク》しき國 言靈の 幸はふ國と かたり繼 云つがひけり 今の世の 人も悉 目の前に 見まし知まし 人|多《サハ》に 滿てはあれども 高てらす 日の御朝庭《ミカド》に 神ながら 愛《メデ》の盛に 天の下 奏《マヲ》し給ひし 家の子|等《ラ》 撰びたまひて 勅旨《ミコトノリ》一に大命《オホミコト》 戴持て 唐(503)土の 遠き境に 遣はされ 退《マカ》り往《イキ》ませ 海原の 邊にも奥《オキ》にも 神集《カンツマ》り 主張坐《ウシハキイマ》す 諸《モロ/\》の 大御神|等《タチ》 船舳《フネノヘ》に 道|引《ヒカ》ましを 天つちの 大御神|等《タチ》 大和なる 大國靈は 久方の 天《アマ》の御虚|從《ユ》 天翔《アマカケ》り 見渡したまひ 事|竟《ヲヘ》て 還らむ日には 又更に大御神等 船の舳に 御手打掛て 墨繩を 延たる如く 與《アテ》がをし 千迦の岬《サキ》より 大伴の 御津の濱|邊《ビ》に 直泊《タヾハテ》に 御舟は泊《ハテ》ん 恙《ツヽミ》なく 幸《サキ》く坐《イマ》して 早歸りませ
反歌
895 大伴の御津の松原かき掃《ハキ》て吾立またんはや歸りませ
896 難波津に御舟泊ぬと聞え來《コ》ば紐|解離《トキサケ》て立走りせむ
(504) 天平五年三月一日憶良宅〔三字右○〕對面三首謹上
大唐大使卿記室
皇神の嚴忌《イツクシク》ます國也、天照神の正統の神を稱《マヲ》す、其神代より今の眼前に人の知れる也と云は、言靈の妙用にかたりつぎて違はぬぞと云、文字無き國なれば言語を以て口碑とする事明らか也、この國にも字の有しと云は、古歌讀見ぬ人の私也。遣唐使は百官の中に、才學の人を君の撰び出たまふを、神ながらえらび給てとは云、此使物博く識たるをのみえらびたまふにあらず、交易を利とする任なれば、才智足ずしては益なき者也。さて來去共に神々の守護したまふ状を云。神集《カンヅマリ》は諸神の集りたまふ也。うしはきは主張の字義と云り、天神地祇又大和の三輪山にいはひ祭る大名持の神靈《ミタマ》の天翔《アマカケ》り遠く海上を見わたして、風波の道|恙《ツヽミ》なく歸らん日も、又神々の舟の舳に御手打かけて、番匠等か墨繩引|延《ハフ》る如く一條《ヒトスヂ》にこれゆけと與《アテ》かほし給ふと也。さて肥前の千鹿の岬《サキ》より難波の御津までも、恙無く幸くましつゝはや歸りませと、賀詞《ヨゴト》して別を(505)送る也。憶良此五年の比は都にかへりてや有けん、舟來たると聞んには、難波津まで紐解はなちて走迎へんと云也。智可の岬、岫に誤る。
憶良が宅にて餞別の宴を設しにや、そのかみは官家に故なくては、私の酒宴は親族のほかには國禁なりしかば、廣成も縁族にや有けん。恙虫を古名はつゝみと云し歟、つゝがとは見えず、この虫の障りなき事を、いにしへの旅行にはよろこほしくせし故、海路にはあらずとも例にまかせて云也。
沈痾自哀文 山上憶良作
竊以朝夕佃2食山野1者、猶無2災害1而得v度v世、【謂常執2弓矢1不避2六齋1、所v屠禽獣不v論2大小1、孕及2不1v孕、並殺食、以v此爲v業者也】晝夜釣2漁河海1者、尚有2慶福1而全2經俗1、【謂漁夫潜女各有v所v勤、男手把2竹竿1、能釣2波浪之上1、女者腰帶2鑿籠1、潜采2深潭之底1者也】况我從2胎生1迄2于今日1、自有2修善之志1、曾無2作惡之心1、【謂聞2諸悪莫作修善奉行之教1也】所以禮2拜三寶1、無2日不1v勤、【謂毎日誦經發露懺悔也】敬2重百神1、鮮2夜有1v闕、【謂2敬拜天地諸神等1也】嗟乎※[女+鬼]哉、我犯2(506)何罪1、遭2此重疾1、【謂未v知2過去所v造之罪1、若是現前所v犯之過、無v犯v罪、何獲2此病、1乎】初沈v痾以來、年月稍多、【謂1v經2十餘年1也】是時年七十有四、鬚髪斑白、筋力※[兀+王]羸。不2但年老1、復加2斯病1、諺曰痛瘡潅v鹽、短材截v端、此之謂也、四支不v動、百節皆疼、身體太重、猶v負2鈞釣石1、【二十四銖爲2一兩1、十六兩爲2一斤1、三十斤爲2一鈞1、四十鈞爲2一石1、合一百二十斤】懸v布欲v立、如2折v翼之鳥1、倚v杖且v歩、比2跛足之驢1、吾以2身己穿v俗、心思累塵、欲v知2禍之所v伏、崇之所1v隱、龜卜之門、巫祝之室、無v不2往問1、若實、若妄、隨2其所1v教奉2幣帛1、無v不2祈祷1、而彌有v増v苦、曾無2減差1、吾聞前代多有2良医1、救2療蒼生病患1、※[諭の旁]※[木+付]扁鵲華佗秦和緩葛雅川陶隱居張仲景等、皆是在v世良医、無v不2除愈1也、【扁昔姓秦、字越人、勃海郡人也、割v※[匈/月]、釆2心易1而置v之投以2神藥1、即寤如v平華佗字元化、沛國※[言+焦]人也、若有2病結積沈重者1在v内者刳v腸取v病縫v腹磨v膏、四五日差之】追2望件医1、非2敢所1v及、若逢2聖医之神藥1者、仰願割2刳五藏1、抄2探百病1、尋2達膏肓之※[こざと+奥]處1、【肓※[隔の旁]也、心下爲v膏、攻v之不v可v達、鍼不v及藥不v至焉】欲v顯2二豎之逃匿1、【謂晋景公疾、秦醫綬視而還者可v謂v爲2鬼所1v殺也】命根既盡、終2其天年1、尚爲v哀、【聖人賢者一切含靈、誰免2此道1乎】何况生録未v半、爲2鬼枉殺1、顔色壮年、爲2病横困1者(507)乎、在v世大患、孰甚2于此1、【志恠記云、廣平前太守北海徐玄方之女、十八歳而死、其靈謂2憑馬子1曰、案2我生録1、當2壽八十餘歳1、今爲2妖鬼1所2枉殺1、已經四年1、此遇2憑子1、乃得2更活1是也、内教云、贍浮州人壽百二十歳、謹按2此數1、非2必不1v得v過v此、故壽延經云、有2比丘1、名曰2難達1、臨2命終時1、詣v佛請v壽、即延2十八年1、但爲v善者天地相畢、其壽妖者、業報所v招、隨2其修短1、而爲v半也、未v盈2斯算1、而※[しんにょう+端の旁]死去、故曰v未v半也、任徴君曰、病從v口入、故君子節2其飲食1、由2斯言1也、人遇2疾病1、不2必妖鬼1、夫醫方諸家之廣説、飲食禁忌之厚訓、知易行難之純情、三者盈v目滿v耳、由來久矣、抱朴曰、人但不v知2其當v死之日1、故不v憂耳、若誠知2之羽※[隔の旁+羽]可1v得v延、必將v爲v之、以v此觀乃知我病盖斯飲食所v招、而不v能2自活1者乎、】帛公略説曰、伏思自※[蠣の旁]以2斯長生1、ゝ可v貪也、死可v畏也、天地之大徳曰v生、故死人不v及2生鼠1、雖v爲2王侯1、一日絶v氣、積v金如v山、誰爲v富哉、威勢如v海、誰爲v貴哉、遊仙窟曰、九泉下人、1錢不v直、孔子曰、受2之於天1、不v可2變易1者形也、受2之於命1、不v可2請益1者壽也、【見2鬼谷先生相人書1】故知2生之極貴、命之至重1、欲v言々窮、何以言v之、欲v慮々絶、何由慮v之、惟以人無2賢愚1、世無2古今1、, 咸悉嗟歎、歳月競流、晝夜不v息、【曾子曰、生而不v反者年也、宜尼臨v川之歎亦是矣也】老疾相催、朝夕侵動、一代歡樂、未v盡2席前1、【魏文惜2時賢1詩云、未v盡2西苑夜1、遽作2北※[亡+おおざと]塵1】千年愁苦、更繼2坐後1、【古詩云、生年不v滿v百、常懷2千年憂1】若2夫群生品類1、莫v不d皆以2有v盡(508)之身1、並求c無窮之命u、所以道人方士自負2丹經1入2於名山1、而合v藥之者、養v性怡v神、以求2長生1、抱朴子曰、神農曰、百病不v愈、安得2長生1、帛公又曰、生好物死惡物也、若不幸而不v得2長生1者、猶以d生涯無2病患1者u爲2福大1哉、今吾爲v病見1v悩、不v得2臥坐1、向v東向v西、莫v知v所v爲、無福至甚、※[手偏+聰の旁]集2于我1、人願天從、如有v實者、仰願頓除2此病1、頼得v如v平、以v鼠爲v喩、豈不v愧乎、已見v上
この詞章中に是時年七十有四と有は、四十五十いづれぞの誤なるべし、言は鬚髪斑白、筋力※[兀+王]羸、不2但年世1、復加2斯病1といひ、又下文に何况生録未v半、爲2鬼枉殺1、顔色壮年、爲v病横困者乎と云に叶はず、憶良は天平五年に没すといへ共、下の歌の注に神龜二年作之と云に因れば、其間纔に九年なり。さらば此注の傳聞も證と爲しがたし、又天平五年六月三日作とあるによれば、七十有四を正文とすべし、人命百歳生録未v半と云詞、いかにとも云枉がたければ七十は四十五十の齡にて、篤き疾に係りたりと見て、大凡かなふべし、猶考ふべし。
(509) 悲2歎俗道假合即離易v去難1v留詩一首並序
是は上の歎辭を猶倦ぬ者に云れしは、病牀に在ほどの※[足+堯]蹊也。
竊以釋慈之示教【謂2釋氏慈氏1】先開2三歸【謂v歸2依佛法僧1】五戒1 、而變2化法界1、【謂一不殺生、二不偸盗、三不邪婬、四不妄語、五不飲酒】周孔之垂訓、前張2三綱【謂2君臣父子夫婦1】五教1、以濟2邦國1、【謂2父義母慈兄友弟順子孝1】故知、引導雖v二、得v悟惟1也、但以世无2恒質1、所以陵谷更變、人无2定期1、所以壽夭不v同、撃目之間、百齡已盡、申臂之頃、千代亦空、旦作2席上之主1、夕爲2泉下之客1、白馬走來、黄泉何及、隴上青松空懸2信劔1、野中白楊但吹2悲風1、是知世俗本無2隱遁之室1、原野唯有2長夜之台1、先聖已去、後賢不v留、如有2贖而可v免者1、古人誰無2価金1乎、未v聞d獨存遂見2世終1者u、所以維摩大士疾2玉體于方丈1、釋迦能仁掩2金容于雙樹1、内教曰、不v欲2黒闇之後來1、莫v入2徳天之先至1、【徳天者生、黒闇者死也】故知、生必有v死、死若不v欲、不v知v不v生、况乎縱覺2始終之恒數1、何慮2存亡之大期1者也
俗道變化猶2目撃1、人事經紀如2申臂1、空與2浮雲1行2大虚1、心身共盡無v所v寄
二章の序辭の注は憶良を信ぜし人の所業なるべし、二序上なるは病苦の歎、世人一般、次なるは覺悟の言、異あるといへども沈痾に繋がるゝ人の情、大凡是也、但悟道を云者は却て本心ならずとこそ思ゆれ、憶良も愛兒の爲に好物の生を求む人情の至也。抑先聖の道理を假て云とも、假面の菩薩、口に出るは無果の花葩に似て、尤無味の言談のみ。
老身重病經v年辛苦及思2兒等1歌
897 靈刻《タマキハル》 内の極《カギリ》は【謂、瞻浮洲人壽一百二十年】 平けく 安くも有んを 事も無く 喪なくも有んを 世の中の 憂けくつらけく 甚《イト》退《ノキ》て 痛《イタキ》瘡《キズ》には 鹹鹽《カラシホ》を 灌ぐちふが如く 益も 重《オモキ》馬荷《ウマニ》に 上荷《ウハニ》うつと 云ことの如《ゴト》 老にてある 我身の上に 病を等《ラ》 加へてあれば 晝はも 歎かひ暮し 夜はも 息づき明し 年長く 病《ヤミ》しわたれば 月累ね 憂によぼひ 悉《コト/”\》は 死《シナ》なともへど 五月蠅《サバヘ》如《ナス》 さわぐ子|等《ドモ》を (511)うつてゝは 死んはしらず 見つゝあれば 心は燃ぬ かにかくに おもひ煩ひ 音のみしなかゆ
反歌
898 なぐさむる心はなしに雲|隱《ガク》り鳴ゆく鳥の音のみし所泣《ナカユ》
899 すべもなく苦しくあれば出ではしり將去《イナヽ》と思《モ》へど子|等《ラ》に障《サヤ》りぬ
900 富人の家の子|等《ドモ》の着る身なみくだしすつらむ絹綿|等《ラ》はも
901 あらたへの布衣をだに着せがてにかくやなげかむせんすべをなみ
902 水沫《ミナワ》なす微《モロ》き命も栲繩の千尋にもがと慕《シヌビ》くらしつ
903 倭文手纏數にもあらぬ身にはあれど千歳にもがと思ほゆるかも
(512)事もなく喪無くと云喪は唐言、かつ唐事なるをこゝにも喪《モ》と云事は、凶き例なりとするを憶ふに、是は唐事をこゝに取て云歟、神代物語の喪山喪假の宮と云も、後の人の筆にとゞめたる者なればしられぬ事也。されど自然に符合してもと云音が凶事と云て止ぬるも宜し、國語に一音なるは義釋のつとめも皆私意のみにて憑むべからず、さるを一音を本としてことわりし人も有、誰も從はざれば無益のつとめ也、日《ヒ》火《ホ》木《キ》香《カ》田《タ》等の語何とか云べき、云ともむな車を推立て何にかはする。うけくつらけき貧士の身さへに痛《イト》思ひの外にと歎くを、いとのきてとは云。痛瘡をいたきゝずとよむ、めぐらせてはしかも云べき歟、瘡は字の誤にはあらぬか、瘡《カサ》に辛鹽を灌ぐと云事意を得ず、疵にはさる業して切《サハ》なむ事有べし。憂吟は已に云、憂によぼひとよむべし、によぼふと云は苦吟の聲也。子どもの多きを五月蠅《ナツノハヒ》の騷ぐに迷ひて、是を打捨てと云歟、それを打《ウツ》てゝと云べくもあらず、是はうつすてゝはと有し歟。心は燃ぬも詞の足ぬ也。後にはかゝるをおもひに燃ぬとよむはよし。
(513)いなゝは將去《イナン》と後には云也、去ぬとは此土を去ると云也。子等にさやりぬ、さはりと有べきをさやりと云も一格歟。
富人の子の今は着ぬばかりの物をと云に着る身なみと云、身の言衍也、※[糸+包]は※[糸+施の旁]の誤歟、一本には絹と有。あらたへの布衣《ヌノゴロモ》とよむべし、言のあまりてとなへあしくとも、布衣《ヌノギヌ》とはいかに。憶良薄命の士にて、あまさへに子の多きに沈痾を患ふ事いといたはし、さるに千とせにもがと願ふは、子ほど絆※[羈の馬が奇]《ホダシ》なる者あらぬよ、聖賢すらこの迷路には立なづさふを、常倫《ナホヒト》はさる事なり、されど才學の士、義に臨みてはしからず頑愚の者はこゝに到て猶迷ふを、※[女+鬼]ともしらぬ也けり。
戀2男子名古日1歌 と有。名の字衍歟。
904 世の人の 貴《タト》み慕《シノ》べる 七種《ナヽクサ》の 寶も我は 何に爲《セ》ん 我中の 産れ出たる 白玉の 吾子古日は 明《アカ》星の あくる朝《アシタ》は 敷たへの 牀の邊|去《サラ》ず 立《タテ》れども 居《ヲ》(514)れども 共に戯れ 夕星《ユフツヾ》の 夕べになれば いざ寐よと 手を携《タヅサ》はり 父母も 表《ウヘ》はなさかり 三枝《サキクサ》の 中にを寐んと 愛《ウツクシ》く 爾《シカ》語《カタ》らへば いつしかも 人と成出て 惡《アシ》けくも 善《ヨケ》くも見んと 大船の 思ひたのむに 思はぬに 横風の 爾母布敷可爾 布敷可爾 覆來れば〔爾母〜右○〕 せんすべの 手着《タドキ》をしらに 白たへの襷《タスキ》を掛《カケ》 眞十鏡《マソカヾミ》 手に取持て 天神《アマツカミ》 あふぎ戀のみ 地祇《クニツカミ》 伏て額拜《ヌカヅキ》 かゝらずも かかりも神の まに/\と 立あ射《サ》り 我例乞のめど 須臾《シバラク》も 吉《ヨケ》くは無しに 漸々に 形《カタチ》久|都《ヅ》ほり 朝な/\ いふ語《コト》止み 魂きはる 命絶ぬれ 立躍り 足ずり叫び 伏あふぎ 胸打歎き 手に持る 我子とばしつ 世の中の道
反歌
(515)905 弱《ワカ》ければ道ゆきしらじ賄《マヒ》は爲《セ》ん下邊の使|負《オヒ》て通らせ
906 臥|おき《起》て我は乞祈《コヒノム》あざむかず直《タヾ》に率去《ヰユキ》て天路知らしめ
我中の、我中にと有しを誤し歟。
居れども共に戯れの句、脱語あるべし。
夕星《ユフヅヽ》は長|康星、明《アカ》星は太白星也。表《ウヘ》はなさかり、なさかりといへば莫疎《ナサカリ》と云かと聞ゆれど、さは詞章にかなはず、表《ウハベ》は疎《サカ》り居る状《サマ》にて、夫婦の中に寢さすると云なるべし。横風の下の章、必衍語有べし、せんすべのと云迄よめず。白ゆふのたすきと有べきを、白たへのと云詞いぶかし。立あさりと云語、意得がたし、漁人のいさりとも云を、あさりとも云は、こゝに叶はず、後の物語にあざれと云を、洒落の字音にあの發語を加へたる也と説なすも意得がたし、猶思得て申さん。形久都ほりは都久ぼりと有しを、倒置せしなるべし、つくぼりは今の俗にも脆坐する状を云。手に持《モタ》るといへ(516)ばとはしつは飛《トバ》しつかと云へど、鳥虫ともいはでは聞えず、是も脱語ある歟。世の中の道は世の常なきをならひとして道と云歟、是も意得がたし。賄賂《マヒ》、今はまひなひと云、黄泉の使よ、我子のよもつひら坂をこえまどはん時、脊に負てよと云。魂は天路にしばし有ものといへば、必よ嘲かずしてつれゆけとあつらふ也、強てかく解なせど、此歌詞章亂て明らかならず。憶良は既に云薄命の學士、遣悶發憤の言のみ多く後の人の歌詞風姿を作りみがくには似ぬ者也、詩歌ともに志を述て、喜怒哀樂をうたひ擧るといへども、學士の言大かたは遣悶發憤多くて、春秋の詠物を玩ぶ事少し、詩歌ともに今は無味の玩物としも成にては、こゝに意を用ひざるこそいたづらなれ、細河幽齋の書る物に歌は綾錦を織るが如くせよと云しは、人情を蔽へる教訓也、錦繍金玉目をのみよろこばしめて、日々の利益無し。或人云、金銀は劔鏡に作りて鈍物、玉貝は礎墻の用に當らず、鋼鉄沙石の國用なる事今古の變易無く、人是に扶らるゝ事大也、錦繍多くの年月を累ねて織なすに、其着用は誰かはする、億萬の人是を見(517)てあなとほむれど、己が分にあらねば押戴きて置のみ。藝術の人やゝもすればかゝる無味の教訓を云、その人はた文武の大器にはあらず、大かた女子の情慾ある者也、おもふて教道は撰びとるべき者ぞとはおぼさぬ歟。
(1)古葉剰言
萬葉集廿卷の文辭、近世語義を釋する者、必ず假字《かな》の法則を所因とし、或は五十連韻の相通反切を以て説を爲す。此二法共に漢土の制字東度以降に行はれたらんには、太古より自然にある國語を、是に因て義を得んこと至當の理あるべからず。假字の法いつの世誰某の制作といふ事傳説なきには知るべからず、唯此例を以て記すべきに止むべき者歟。是に今古の二法あり、但この集又日本書紀古事記等に載せたる咏歌は書法同樣也。是に因て古言の精粗覘ふべきを、是も精微を盡さゞる法則とも思ふ所あれば、たゞ例として止めんとはいふ也。然るに古に依る人、その盡さず叶はざるに當りては、寫誤或は上代漫草の字樣に轉訛せし者と、容易に是を書改めて、私意を用ひて後生の惑ひを惹く。五十の連韻と云ふも其制漢土西竺いづれに出たりとも知るべからぬが、正しく梵文の用にて、彼の麻多體文の羅列には違ひしかど、音韻學術の旨要とこそ見ゆれば、皇邦の言語には悉くは相叶はざるも自然の理也。これら文につきて、反切の妙用のこゝにも叶ふ事のあるは、彼土の音と間々相通ずるを用ひて借りたれど、又相叶はざるもありと云ひて止むべし。寔に梵文は二字三字をも合せて一字とする妙用あるには、反切の音を尋むる理のある由を、漢字にも普を反切に問ふ事上古は無かりしと也。國語にも(2)延約二用の妙はあれど、必ず五十の韵の反切には叶はざるあり、此事能く古言を識る人は惑はず。言語は各國に妙用ある中に、國語は音聲輕清にして單へに出で韵を引くことなし。假令へば阿といひ女といふ一言を合せて阿女と唱へ天を指すを、漢土には韻を延べてテエン〔三字傍線〕ととなへ、梵には又これをデエバア〔四字傍線〕と唱ふとぞ。異國の音聲は舌重く、こゝの如く輕清の單音にいふこと能はず、故に漢字には全清、次清、清濁、全濁の別あり。又平上去入の四聲を分ちて法則を精しくするなり。國語も輕清なる中に半濁ると全濁なるはあれど、總べては清音にて其音を合せて言語をなすにつきて、半らは全くも濁る也、但語の上に於て濁るはなきが本來輕清の證なり。且又漢字の如く字毎に音義の別なく、唯言語詞章につきて濁音を生ずるのみ。是につきては平上去の三聲も生ずれど、入聲といへる吃吶短促の音ある事なし。山の櫻をのの一音を省きて也麻座久良〔五字傍点〕と云はれ、春の日を省きては波留備〔三字傍点〕と唱ふるに、濁音且平上去の聲を生ず。是詠歌の歌腔のみにあらず、平話にも此音聲はなすが自然なり、此例を以て千萬言をも推して知るべし。
五十の音韻の反切相通も梵と叶ふあり、叶はぬあり。我をわれ〔二字傍線〕といひ、あれ〔二字傍線〕といひ、騷動をさわぐ〔三字傍線〕ともさやぐ〔三字傍線〕ともいふ類は、阿行也行和行の三音相通す。五味子の蔓を佐禰加豆良〔五字傍線〕と常にはいふを佐奈加(3)豆羅〔五字傍線〕といひ、又約めて佐奴我多〔四字傍線〕といふは、通音反切の妙用に叶へる也。又天降坐を阿麻久太理萬須〔七字傍線〕といふを約めて阿毛理萬須〔五字傍線〕といふは、反切の用叶はず、唯こゝの約語といふ例なり。古事記に吉野を美惠志乃、惠之能〔七字傍線〕といふ咏歌あり、與〔傍線〕と惠〔傍線〕は和行と也行の違ひにて通はず、同音の用にいはゞ也行の衣〔傍線〕の假字を書くべし、枚擧せば尚多かれば一二を以て示すのみ。
古言といふ此集の文辭にも當時に於て新古あり。假令へば久方の阿女とは天を仰ぎて指し云ふは本語なるを、日といひ月とも云ふは轉注の語なり。又蒼天を阿女、雨水をも阿女と云ひては言語の分ちなし。雨は此集又台記の壽詞に阿萬津美豆〔五字傍線〕と見ゆるぞ古言なるべきを、詞章の義につきて雨ふるといへば雨水のくだるとするは、省文なれば後なり。奴婆玉〔三字傍線〕とは野におふる射干といふ草の實の黒色なるを、崑崙第三河の黒玉の事をや傳へけん、野なる眞玉ぞと稱美して射干玉又黒玉とも書きてしか讀むなり、奴、乃、麻、婆〔四字傍線〕は國音相通ずる例にて、相かへて唱ふる事最多し。其黒色にいふを轉じて闇夜の事にかけて夜とのみ云ふは省文の後なるを知らる。總べて此ぬば玉のといふ乃〔傍線〕の一語が如くと云ふ義なりとするは、古書に新古のある例知るべし。中世の歌に墨染の鞍馬の山と云ひしは、ぬば玉の夜といふより義はことわりやすく思ゆ。尚あら玉の月日、あしびきのやまひ、さゞなみの國は地名なら(4)ば難波の國吉野の國の例にてとゝなへる語なるを、近江の國中一郷の名ならばさゞ波の近江とは例なき語なり。わたつみは海神の名なるを海にのみ云ふ類も、そのかみにして轉注の新語かと思ゆ。假字の法古則は白河堀川の御頃までも用ひし人の有りしを、物に見たりしが、其後廢れて人皆口に叶へてや書かれけんを、京極中納言卿の法則を立て給ひし後は、上下一統是に從ふ事となりしを、刊本第二十卷の奥書に、權少僧都成俊のいへる、和字京極黄門撰定の後は、是に依ること世法の如くなるを、唯萬葉古今等の字法に背く故に、是を解する者は古に依るも止む事を得ざる也と云々。然るに獨り北村季吟の抄に、今法を以て書かれしは、本書に對して私意の咎あるべき事也。朝家今法を用ひさせ給へば、國文を玩ぶには必ず是に從ふべきを、唯古歌を憇《(マヽ)》し古言を覘ふには、私に古に依るも便宜止む事を得ぬ者也、竊に是を同好の人と云ふ、今古の二法といふも、國文を玩ぶ書樣にて藝技の威儀に制せし者と思ゆれば、上下雅俗日々に出づる言語に叶はぬも、文辭通用のみの法と意得て、いづれの字樣にも書くべきなり。法の口に叶はぬといふは祝賀を口には伊和爲〔三字傍線〕といはれて法には伊和比〔三字傍線〕と書き、曾伊乃波里和良〔七字傍線〕、法には曾比乃波里波良〔七字傍線〕と書く。灰、蠅〔二字傍線〕、法には波比、波へ〔四字傍線〕と書けども、口には波以と共にいはるゝ、椎、杙、法には志比、久比〔四字傍線〕と書けども、歌腔には志比伊、久比伊〔六字傍線〕と書く事を見(5)れば、伊の韻を生むには志伊々、久伊々〔六字傍線〕とこそいはるれ。字法に依て眼は千歳のいにしへに陟れども、耳は是に從はねば、今の口に出づる言語の古に違ふや否をしらざれど、悉く轉訛にはあらじかし。波比不へ保〔五字傍線〕を半ら濁りては和 以 宇 爲 於〔五字傍線〕と唱へらをゝにつきて、大方は字法も是を用ふれど、今の口に違ふには、法を憑みて言語を撓めん事痴の學業とも云ふべし。踊躍〔二字傍線〕ををどる、治術收納〔七字傍線〕ををさむ〔三字傍線〕と書き、押 置 重〔三字傍線〕をおし おく おもし〔七字傍線〕と書く、何の義もて分つにや。訓釋を云ふ人も例にさし置かるゝはいかに。さらば悉皆例と云ひて止まんぞよかめる。すべて萬技ともに法なきほ見聞に耐へずといへども、自然に私して威儀に備ふよと.退きて思はるゝ也。春の鶯の秋の未までも鳴くを、清少納言の草紙に蟲くひとてよからぬ名を付けられてといひ、此集には卯の花くたす雨を春さればとよむも、年なみの遲速につきて見るまゝを云ひしもの歟。後撰集更科の記には夏花とするなでし子の冬の初めつかたまで咲き殘るとも見えたりき。然ば法は威儀にして自然にたがふ、その違ふをも法として守るべきも、又世につれたる自然とも意得て止むべき者歟。或説に國語にも異邦の人歸化朝參の後に口に叶へるはいつしかこゝの語の如く云ひなれしも有るべしとぞ。日太書紀に山を牟禮〔二字傍線〕といふは異國の語と注せられたり、尚ありしならん。如の字をもころ〔三字傍線〕と唱へ、浪之共風之共、是を浪のむた風のむたとよ(6)み來れる類、是を釋せしを聞かず。
古言世移り時去りて轉訛せしが多かるべし。延喜の日本紀の講讀に八田部公望の訓點といひ傳へしに、輕清をかるくすめる〔六字傍線〕、重濁をおもくにごれる〔七字傍線〕とよまれしは、はやくの轉訛なり、是は輕清の二字にてすめる〔三字傍線〕とよみ、重獨の二字をにごる〔三字傍線〕とよみて語はとゝのへる也。總べて字を分柝して點を施るは熟語にうときと云ふ事、前學のいはれたり。是や古言の學業に私意臆斷の加はりゆくも、かゝるよりこそと思ゆ。正訓、義訓、假訓、音訓、戯訓の法ありて、字義に隨へば反て意を得ず。國語を學ぶは言語を君とし、文字を臣として解すべしと云ふは聽きつべし。儒士は一向《ひたぶる》に字義によりて意を得んとする故に、古言をあやまるなり。漢字にも象形、諧聲、指事、會意、假借、轉注の分解あるなり、唯戯訓といふは當時の文人の才に出で、一時の戯謔なるが、いまだ字を玩ぶ事のひらけざるにや、迂遠の書樣後學の眼を盲翳ならしむとも云ふべし。是は漢土に隱語と唱ふるに類すべし、絶妙好辭とほむるとて、黄絹幼婦外孫※[草冠/齊の下半が韮の下半]臼と書きなし、人には必よとて、莫令視四眼、勿傳六耳などいふ例ながら、彼は文國にてはやくに才のひらきたれば、工みなれども迂遠ならず、此戯訓よう思ひて言語を解すべし。山上復有山と書きて出の字をしらしめ、喚鷄と書きてつゝ〔二字傍線〕、大王と書きてはてし〔二字傍線〕とよめと云ふ類(7)なり。其意を得ては又頤を解く者も稀々あり。
古言のみならず、集中の風體亦新古ある事勿論の事也。是につきても此集の撰者且時代の分明ならぬゆ往々の説あり。※[代/巾]册子、古來風體抄には聖武の勅旨を賜はりて左大臣橘公の撰奏とみえしかど、勅撰ならば國史に載せらるべきを、見えぬは漏脱せしにや。又世嗣物語には高野の御時と云ひて撰者をあらはさず。季吟が抄には集中唯一處の證によりて、橘公と中納言大伴卿二君の評議に成りしかと云ふ、尚分明ならず。沙門契沖云ふ、橘公薨御の後の歌多し、廿卷すべて家持卿の家記かと云々。賀茂眞淵云ふ、本集は六卷にて橘公の撰なるべし、其餘十四卷諸家の編集なるを、いつの世にか書樣の相似たるを以て廿卷と爲したるは、意を用ひざる者の所業也。試にいはん、先づ第一二の卷々は上御製より下役民の咏に至るまで、作者分明なるは姓名を記し、年表を次序せしには精選なるを知らる。次に第十三の時代しられぬ長歌をのみ輯め、次には第十一十二の卷々の短歌當今におきて古歌なるを集め、次には第十四の東俗の國風を録して以上六卷、これや萬菓集と云ひしならめ。其餘第五は山上憶良の家記、第七第十は撰の體同じければ、是は一人の手に成りたるべし。第十五新羅使の咏及び中臣の宅守與茅上娘子の贈和、是亦一編歟。第十六美醜相混ぜしは地卷に似ず、一編とすべき歟。或は大(8)伴の家記中の者歟。其餘九卷家持卿の手記なりと云々。此説最盡せしに似て、尚從ひがたし。按に源氏物語梅枝の卷に、さま/”\の繼紙の本えり出させ給へるついでに、御子の侍從して宮にさむらふ本ども取りにつかはす、嵯峨の帝の古萬葉集をえらぴて書かせ給へる四卷、延喜のみかどの古今和歌集二十卷を、唐の淺花田の紙を繼ぎて同じ色の綺の表子、おなじき玉の軸、檀の唐組の紐なまめかしうて、卷毎に御手の筋をかへさせ、いみじう書きつくさせ給へると見ゆるを證として、四卷ぞ古萬菓集なると云ふべかめれど、さらば其卷々いづれと人問はんに、しらずと答へて止むべかりける。一條院の御比まで古萬葉集四卷と云ひ分ちてや傳はりけん、あらずとも名の名の聞えたればこそ文には作りたれ。さて廿卷の中に大伴卿の家記多しといふも、尚全編にはあらで半許や世に留まりて在りしかと思ゆるは、第廿卷の末に、天平寶字三年正月の歌に筆は止まりしか。卿は桓武の延暦四年に薨去と史に記されしかば.尚廿七年が間の詠歌數卷ならんもの歟。中世の三十六人の歌集の中にも卿の家記とてあるには、此集に載せざる歌をわづかに書きあつめられしにも思ひ合さるゝ也。又古今和歌集に貞觀の御時に、萬菓集いつばかりになれるぞと問はせ給ひければ、よみて奉りける、ふん屋のあり末、
神な月時雨降りおけるならの葉の名におふ宮の古言ぞこれ
(9)と云ひしは、近き世にさへたしかならざりしよん所しるかりけり。古書はすべて漢土にてさへ代々の亂に失ひて、はつ/\散り殘れるを以て、後の人の私に補ひわざすとや、さる例こゝにもあり。或人往年日本紀の古卷と云ふを一看せしとて纔に拔粹せしを見せし、其奥書にや、云、日本紀三十卷、崇道盡敬皇帝所撰也、近者文臣請詔、數増補之、深合叡旨、永欽秘府、嗟呼欲取一時之寵、輙紊千古之實、可不痛哉、愚竊寫原書、藏之凾底、若是證于來世、則幸矣、承和甲寅夫衛門佐藤原長良記と有りて、今の書紀には字句所々不v同、應神仁徳の二紀、殊に異説有りと云ふ、其書何人の手に落ちしや、後に捜し索むれども跡なしとぞ。其虚實をしらねども、岐に羊を亡ひしと云ふはかゝるをこそと、長き息をつぎて止みぬ。
題號の事便につきてかたらん。萬は十千の謂に非ず、字義※[逢/虫]の一名、蟲屬或は※[萬/虫]に作る、夥散而無v統、借爲千萬、又莊子則陽篇云、號物之數、謂之萬、此集の歌數、※[代/巾]册子云、四千三百十三首、八雲御抄云、四千三百十五首、拾芥抄同之、今本四千五百卅五首、共に萬に足らざるを萬といふ、多數の義明かなり。葉は後漢の劉※[にすい+煕]の釋名に云、人聲曰歌、々柯也、以聲吟咏有上下、如艸木有柯葉也、楊氏方言云、歌聲如v柯也。是等によりて葉を歌也として此歌には用ひられたり。按ずるに人聲は喜怒(10)哀樂につきて長短緩急あれば、ひとへに歌といはん事とも思えず、柯葉も風をむかへざれば聲あらず、凰聲亦緩和暴卒ありて聽に和樂憂戚あればすべて感あるべからず。劉楊二氏の言自己の心に注を加へていよ/\迂論なり。書經舜典に歌は永言也とあるに因りて、許慎の説文に歌者詠也と注す。又樂記に歌者直己而陳徳也、動己而天地應焉、女歌之爲言也、長言之也、言之不足、故長言之と云ふ、實に事あれば言に出で志を述ぶる也、言尚意を盡さず、故に永言す、是歌なり、釋名の説迂遠なり。此書はやくの世にこゝに渡せしかば、是に依て題をえらびしは時世のひらけざるをいかにせん。是を所因として延喜の勅撰を始は續萬葉集と題せられ、篇も擬ひて二十卷とせられしは以往の世に混じて此卷數と成りしも知らるゝなり。後に撰奏ありし時古今和歌集と改めさせし歟。日本紀略には見えしかど、眼博からぬにはいかなりけん、序詞にやまと歌はひとつ心を種として、萬の言の葉とぞなれるとは、萬葉の題字の義を詞章にことわられし也。此序詞を始に言語詞辭すべてことの葉といひ、省文にはこと葉とも訓讀せる事と成りし也。是より以往の古言にこととのみいひて、しかいひしを見ず、勅語詔令宣命をみことのりと申し、祝詞壽辭を古言には保坐幾五登〔五字傍線〕と申し、省きてはことほぎ〔四字傍線〕、又ほぎこと〔四字傍線〕とも申し、中世にはよごと〔三字傍線〕と申す、今は點訛してことほぎ、ことぶき〔八字傍線〕とも云ふよ。祝詞をのつ(11)と〔三字傍線〕とよむはいつの頃よりにや。のりとごと〔五字傍線〕は即勅旨詔令の義にて、ふとのりとごと〔七字傍線〕とある字は太祝詞とか有りしと思ゆ。此集にも中臣のふとのりとごと〔七字傍線〕とよみたるは、宣命を中臣氏の神に奏し奉る故にしかは云ふを、詔旨ならでも神に奏すをのつと〔三字傍線〕と唱ふるは轉訛なるべし。此餘にも言語をこと〔二字傍線〕とのみいひし事、古言古歌皆しかり、此集の東人の留別によみしに、
父母がかしらかき撫でさきくあれといひし言はぞ忘れかねつる
とあるに、言婆曾と書きたるを、生こゝろ得して、こと葉といふも古言なりと思ふ人あり、婆〔傍線〕は半濁によみて和〔傍線〕の如くとなへ、語義は言者矣ととがめたる嗟歎の辭なり、集中に例多し。阿倍の市路に遇ひし子等者も、書紀に武尊の吾妻者也と咏歎ありし、漢文にも道者也須叟不可離の格なり。集中今一首、
百千たび戀ふと云ふとも諸茅等が練の言羽志吾は不信
といふは、難歌にて解くべからずとも、言羽志〔三字傍線〕といふは言者之にて、是も和の如く讀みて之は助語即言とのみを打歎きたるなり。羽〔傍線〕の訓は多く清みてよむを、こゝには半濁にもよむ、婆も亦濁半濁のみならず、雄略紀には榛之枝を婆利我曳〔四字傍線〕と清音にさへ書きたるも見ゆ。字法の則古言に精しからざるを(12)是等に知るべし。さらば國文を玩ぶに古今和歌集この方は、ことの葉こと葉と云ふに習ひて云ふべし、以往の古文には必ず有るべからぬ例とせん歟、但菅家萬葉集にも言葉といふ歌一首ありしかと思ゆれど、同朝の事なれば古歌の所證には擧ぐべからず、尚暗記の言は書き出づべからず。許慎、劉※[にすい+煕]同じく後漢の世の人の言におきて同じからぬを思へば、代々《よゝ》の學士の戸々に説異なる者は大方憑まれがたくぞ思ゆ。さるは書典は本文に意をとゞめて得べからぬ事は是を置きて、注解に趨るべからぬ者歟、是を知れる也とも承りぬ。宜哉君子約言、小人先言とも聞く、匹夫言多し、唯々慎むべきは上を語るまじきと云ふ事を、忘れては長物がたりす、此悔も亦千度の一度になんある。
いともかしこし内日さす大宮とのへの水鳥の加茂の堤の下陰に、かりそめなる草引き結びて、あら玉の月月も知らずありふるにも、何のたづきなく老いはふるゝまゝに、たまきはる世やいつならんなど、人なみならぬねぎことせらるゝには、をりにつけたるはかな言打出づるにも、うつゝ人に聽かれじとなんするにだに、怪しうことえりはせまく思ひ侍るも、いときら/\しき玉拾ふ浦廻のかひ有るたどりはちかへしの神や立ちへなたりませる。さは誰しるべなき奈良の林の習ひなき方に迷(13)ひ入りしかば、落葉くち葉そことなく散り埋れし隈々は、見分つべき眼《まなこ》さへ春の霞秋の狹霧はるゝ時なくいとおぼつかなき我にさへ、わりなく求むる人の爲にかいしるせしを、いつのいとまにかまめ業して寫しとゞめ給へりし。この頃何とか聽きしらせ給へるかしこ言は、あな見にくのかたゐ者が絹著て道に立ちよろぼふさまなるを、いきかふ人の怪むべくかつはためしさへ有るまじきには、いとも麗《うるは》しきこの御筆の林のたけきに、何業してすゞろ言かい加へつかうまつるべくも侍らず。さるはさきにまめ業つとめ給へりしおろそげ言のまゝをしも、フげたいまつり給はらばや、野路の棚橋ひとわたりだも御目賜はらば、さき草おひ榮ゆべきを、もしや狩塲の小野の秋鹿いとゞめでしもあらせんには、群雀立ち踊りつゝ、何事か是にこえ侍らん。又この亥中月はつかばかりの言ども、是につきてかい付けしはそこに見給へとてなん。今一とぢ櫻木にさかせしまが言の今は取りかへさまほしき事も、かゝるたより得てこそ蘆原田のいなつき蟹のかひな上げしてさゝげ賜はらばや、よしやあし木川のあしとも見給はゞ、あまはせ便のたぶ手にも投げ返し給へ、もし罪ある事にしもあらば天稚彦のかしこきためしに、高胸坂、いたく射とゞめられ奉らんものぞ。あなかしこしともかしこし。
(14) 上田 秋翁(花押)
荷田信美君
昭和三年二月十七日印 歌謠俳書選集 八
昭和三年二月二十日發 萬葉集楢の杣
定價 貳圓四拾錢
著作者 藤井 乙男
京都市下長者町油小路西入
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代表者 武藤 欽
印刷所 京都市下長者町堀川東入
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2009年1月30日(金)午後1時5分、入力終了