風土の万葉
赤人926~927番歌の秋津の小野
米田進(こめだすすむ)
926やすみしし 我ご大君は み吉野の 秋津の小野の 野の上には 跡見据ゑ置きて み山には 射目立て渡し 朝狩に 獣蹈み起し 夕狩に 鳥蹈み立て 馬並めて 御狩そ立たす 春の茂野に
927 反歌一首
あしひきの山にも野にも御狩人さつ矢手挾み騒きてあり見ゆ
右不審先後 但以便故載於此次
この歌の「秋津の小野」の「秋津」については、人麻呂に「吉野の宮」を「秋津の野辺」に建てた(36番)とあったり、金村に蜻蛉の宮と別名で呼んだ(907番)ところがあったりして、吉野の宮があったとされる今の宮滝一帯を秋津と呼んだのだろうというのは、ほぼ定説と見なされている。そしてその宮滝一帯というのは具体的には、宮滝とその西半分の対岸の御園から象山あたりまでを含む一帯とを合わせたものとされるようだ。これは有力な説で支持者も多いが、まだ説得力に欠けるところがあるように思える。私も結局は,秋津というのは、宮滝と御園を合わせた一帯の地名で、赤人の歌の「秋津の小野」というのは、現在の御園だという説に同意するのだが、それを具体的にイメージしてみたいというのが本稿の狙いである。
と今言ったのだが、初めはなかなかそうは思えなかった。宮滝と言えばあのかつての中荘小学校があったところで、川原に出ると大きな岩があり、対岸には急峻でよく茂った山があるという印象が強い。今は橋で簡単に対岸に渡れるが、古代は対岸は別の土地で秋津とは呼ばれなかったであろう、三船山などはすぐ上流の菜摘の一部で,喜佐谷はそこだけで一区域であろうとも思った。
しかし、赤人のこの歌では秋津の小野で狩猟をしたとある。それを宮滝一帯の吉野川北岸だけとしたら(南岸の喜佐谷あたりを含めても変わりはないが)、どうも狭すぎるように思う(東西約500m、南北約250m)。それに離宮の建物から、日常的にも歩き回っているところを、朝狩り、夕狩りに馬に乗って出立されるとあっても、門前の、野とも言えない所で、わざわざ馬に乗って朝晩出掛けるほどのところかと思える。離宮があり付属した施設も人員も多いところで獲物になるような鳥獣はどれほども居ないだろうし、国樔、川上、熊野方面に行く幹線道路が通っているだろうから野はよけい人臭くなる。
だとすると、秋津の小野というのは、宮滝以外のどこかかと思ったのだが、適地は吉野川の上流下流にあるとしても、秋津という地名を思わせるものは下市の秋野川流域ぐらいしかなく、近道を取って吉野山越えで才谷にでるとしても、宮滝からは遠く離れていてかなりの強行である。やはり、宮滝の別名である秋津を秋津の小野とするのが一番適しているということになる。だがそこは猟場にはなりにくい。
そこで、やはりこの秋津というのは、定説の言う、南岸の御園のも含む吉野川両岸一帯の地名で、赤人の歌の「秋津の小野」というのは、南岸の御園だと、澤瀉①、大井の言うのが正しいと思うようになった。旧中荘小学校のあたりしかしらないと、御園などは考えに入らないが、宮滝はそのあたりから西の方へもかなり広がっており、そちらの方だと対岸は御園の東半分になって全く別の村だとは言えないのである。ここで、一番詳しい大井の説を紹介しよう。
御園は宮瀧の西方の對岸である。御園の大體の地勢は、段々坂の如き形をなし.神社の邊りはやゝ小高くなつてゐるがその他も大體に小高い地形で、後方の山が欝然と茂り合つてゐるに係はらずこの一帶に大樹を見ず桑畑となり、高所より吉野川に臨んでゐる。「跡見居ゑ置き射目立て渡し」狩獵には好適の地勢である。この御園の麓一帶を土俗下津野と呼び、川を距てゝ相對する長崎に面してその下方河原を秋戸河原と呼ぶ。下津野は下の野の意であり、秋戸が秋津の轉であるとすれば御園の方面に亘つて此方の河原をも同名で呼ばれたものでなければならない。(中略)上方高く御船山が聳えてゐる。その間地物の遮るものなく、瀧つ瀬の上に聳える御船山より前出(一七一八)「三船の山ゆ秋津邊に」も情景が手に取る如く見渡し得る所である。秋津野の下方が秋戸河原であるがこの歌の證するが如く御園の相當高地まで秋津野と呼ばれてゐたものである。(中略)元來御園と宮瀧は吉野川を距てた對岸に面し共に小平野をなして川に臨んでゐるのであつて恰も宇智野を吉野川を挾んだ兩岸を汎稱したのと同じであつて、従來の説の如く、別箇のものと考へて苦しい解釋を下す説はとらない。(大井重二郎『萬葉集大和歌枕考』曼陀羅社、1933年)
大井の言うように今の御園、宮滝を見ていると両岸を含めて一つの地名で呼ぶのはちょっと考えにくいが、もっと未開発な状態を考えれば、集落も無いだろうから、地形がよくわかり、宮滝、御園ともに上下流が川に接した山で区切られ、少しずれているが、宮滝は大体平地で、向かいの御園は、緩傾斜の斜面で一応開けているのである。それに、宮滝、御園という地名は後世のものであって②、万葉の時代は秋津と呼ばれていたのだろう。なお、両岸を同一の地名で呼ぶところは吉野川流域に数カ所ある。上流から、国栖と南国栖(吉野川と高見川の合流点にある)、北菜摘と南菜摘、北楢井と南楢井、六田と北六田、東阿田、西阿田と南阿田、である。これらは本来、国栖、菜摘、楢井、六田、阿田と呼ばれたもので、両岸合わせて一つの地名であった。宮滝の直ぐ上流に菜摘、すぐ下流に楢井があるから、宮滝、御園が秋津と呼ばれた可能性は高いであろう。
以上のように見てくると、赤人が秋津の小野(今の御園)の狩猟の場面を詠んだ方法も少し見えてくるようだ。この長歌は923~925番の次にあるもので、題詞に「山部宿祢赤人作歌二首」とあるように、長歌二首の連作とも言えるものである。924番で象山を歌い、925番で吉野川の川原を詠んだあと、926~927番で、更に下流の秋津の小野を舞台にした狩猟を詠んだわけで、赤人一流の地名の移動である③。普通は反歌で、長歌の地名から少し離れた場所を具体的に詠むのだが、ここではそれに加えて次の長歌、反歌の組でもそれをやったわけである。初めの長歌で宮滝の吉野宮の環境をほめ、反歌で対岸の土地を出し、さらに次の長歌、反歌で、場所を少し下流に移動させて狩猟という吉野宮讃歌では珍しい題材を詠んで見せたわけである。
注
①『萬葉集注釋』卷第六、926~927番歌の考。
②『袋草紙』に「寛平法皇宮瀧遊覽時」とあり、菅原道真に「宮滝御幸記」があるように、平安時代に宮滝という地名があったことは確かだが、奈良時代にはなかったであろう。宮滝というのは大滝と同じで、滝に注目した地名である。万葉の時代なら滝ではなく離宮が注目されるはずだから、宮滝ではなく滝宮となるだろう。平安時代、かつて吉野宮があったことは記憶に新しいだろうから、宮滝と呼ばれたのであろう。御園は『大和志料』に「吉野志ニ南帝ノ御花園ハ御園村ニアリ、傳説ニ云フ御園ハ南帝ノ御花畑ノ跡ナリト見ユ」とある。花畑云々は伝説に過ぎないだろうが、なにか南朝関係の菜園でもあったのだろうか。吉野山に近いのでありうることだ。聖武天皇の頃の吉野離宮の場合、秋津の小野で狩猟の場になったようだから、御園というような菜園ではなかったのだろう。
③連作ということについては、高松寿夫氏が『セミナー万葉の歌人と作品第七巻山辺赤人高橋虫麻呂』和泉書院、2001年所収の「赤人の吉野讃歌」で新見を出しておられる。
「『金子評釈』に「上の作(九二四)には昼の小禽を歌ひ、この作(九二五)には夜の千鳥を歌つた。必ず心あつての趣向であらう」とする。大筋で支持できるが、時間の対比とするよりも、時間の流れなのではないか。続く第二歌群は「宇智野遊猟の歌」(1・三、四)や「安騎野の歌」などに見られる大王の朝狩への出立を歌う伝統的発想によると考えられ、九二四-九二六歌の間には、昼(九二四)-夜更け(九二五)-払暁(ふつぎよう)(九二六)という時間の流れが読みとれる。
「第一歌群は、一重に持統朝への懐旧を駆り立たせる方向に表現が成されていた。九二五歌の「夜更け」はいわば(懐旧の時間)として設定される。その(懐旧の時間)の続く内にやがて夜が明け、朝狩の出立を迎えるのが第一歌群から第二歌群への流れである。」
吉野宮から象山の昼、川原の久木を詠む夜更け、秋津の小野での払暁の狩猟、という時間の流れを読み取るべきだというわけだが、それと同時に場所の移動ということも読み取れる。となると象山の歌の次ぎ(九二五)の歌の場合、川原は、象山の前から菜摘あたりにかけてとされることが普通だが、象山から秋津の小野に向かうときには逆方向になる。これは下流の秋津の吉野川の川原とすれば、滑らかな移動になる。昼、象山に分け入り鳥の声を聞いたあと、下流に向かい、秋津の清い川原で、夜の久木を見、千鳥の鳴き声を聞き、そして翌朝、山に向かって狩猟に出掛けるというわけである。
同氏『上代和歌史の研究l』新典社, 2007年、の「第四部 第三期(2)――聖武即位と行幸従駕歌」の「第二章 山部赤人「吉野讃歌」」にもほぼ同様の記述があるが、その最後に、
「また、第一歌群の二首の反歌から第二歌群にかけて見られた、<実景>へのまなざしは、赤人を形容するタームとして使い古されて来た<自然歌人>の実質を探る一つの視点になり得るものである。」
とある。ここの「<実景>へのまなざし」は場所の移動(現地に足を運ぶ)によっても読み取れよう。
2024年10月7日(月)午後7時43分、成稿。