未完國文古註釋大系 第一册 非賣品 吉澤義則編纂、帝國教育會出版部、1936年2月18日發行、404頁
  〔入力者注、明瞭な誤植は直しましたが、曖昧なものはそのままにしました。入力者による誤植もありますので、どうしても気になるときは底本を御覧下さい。巻二以降、万葉仮名をそのまま漢字で表記した部分が目立ちますので(乎、爾、母、婆、邪など)その部分はひらがなにしました。〕
 
萬葉集新考 一五册  安藤野雁 著
 
(2)   萬葉集新考開題
 
 本書は、安藤野雁畢世の著作である。
 本書は二十六册で、萬葉集卷一から卷十三までの歌の註釋である。別に總論として首卷が添うてゐて、契冲の代匠記の所説を多く拔書してゐる。
 佐佐木信綱博士の説の痛り、歌人らしい直覺的な卓見が見えてゐるが註釋としては甚だ粗雜なものである。伊能頴則も、野雁は詠歌にすぐれてをるから、萬葉の歌の解釋が生きてをると評した由であるが、當然な評語である。又歌人の註釋書中香川景樹の萬葉※[手偏+君]解や、熊谷直好の萬葉集抄釋とは違つて、全部の歌の註釋である點に價値が認められる。
 本書は佐佐木博士の所藏せられる一本の序に安政四年に清書した由が見えるので、同年に成立したものであらう。併し野雁は窮乏の間にもこの新考の筆を絶たず、紙代にも事缺く時は麻積一の家で書物を讀んでいさゝかの金子を得たり、猿源氏の許を訪うて借金をしたりして完成につとめた。而して晩年に身を寄せた武藏國大里郡冑山村根岸武香の家に第二十六册迄をとゞめてゐることから見ると、萬葉集全卷の註釋を志して卷十三にして未完に終つたのかと思ふと同情に堪へない。
 本書は佐佐木博士は、第一册から第十二册迄と、第二十四册から第二十六册迄の十五册を所藏してゐられる。これは清書本で、所々改訂されてゐる。又別に板下本三册を藏してゐられる。これには慶應元年十一月根岸信輔、志邨綽の兩序文がある。志邨の序文に「萬葉新考恐一生之苦心徒充蠹食乃與同志相謀壽〔右○〕梓〔右◎〕傳世〔二字右○〕》」とあり、第三册の終には野雁が「いてやこの新考の書こそいかで世にあらはれなむことをとは水垣の久しき時より根ざしゝ思草なりしを人々の相はかりごちてさくらのいたにうつされぬるよろこびいふばかりありなむや」と認めてゐる。併しこの上梓の業もならず、板下本作製に止つたらしい。其の他草稿本ともいふべきものは佐佐木博士の手許にもあり、無窮會神習文庫にも、卷第一、一ノ上の二自筆本があり、帝國國書館にある冑山文庫には二の卷が保管されてゐる。佐佐木博士所藏本も、もと冑山根岸家より讓り受けられたものの由である。岡山の正宗敦夫氏はこの副本を藏してゐられる。併し何れも第十三册より第二十三册迄の十一を闕いてゐることは殘念である。本大系は佐佐木博士所藏清書本を底本とし、他本を出來得る限り參照したものである。
 安藤野雁は奧州半田銀山の小吏の子で、文化七年に生れ、通稱を謙次後、刀禰と稱した。江戸に出で、塙忠寶の塾に在り、八丁堀町同心某の養子となつたが、やがて離縁となり、又塙の塾に復つた。後、諸國を放浪したが、晩年寄寓した武藏冑山の根岸武香の家で、慶應三年三月二十四日、享年五十八を以て歿した。熊谷町熊谷寺に葬つてある。其の性不羈質直、常に弊衣を纏ひ繩を帶とし、雨中も草履をはいて江戸市中を雨に濡れつゝ行くといふ如き、奇行・逸事は少くない。平素最も酒を嗜んだ。萬葉集新考以外の著書には、歌集の野雁集一卷、刀禰記一卷、文集一卷等がある。
 
 
(3)萬葉集新考一之卷
 
                     安藤野雁
 
萬葉集は歌集と云ものゝ始なり歌は天地《アメツチ》の初發《ハシメ》に伊邪那岐伊邪那美|妹背二柱《イモセフタハシラ》の神の大地《オホツチ》を成し給ふ時に天御柱《アメノミハシラ》を廻《メク》りて嘉言《ヨコト》を唱《ノタマ》ひ和《カハ》しゝそ始なりける然有《シカリ》しより神世に盛にして遠く今時《イマノヨ》に傳はれりその間《アヒタ》千五百萬秋《チイホヨロツヨ》に流れて趣|異《カハ》ること無し然れとも世の盛衰《サカリオトロヘ》の隨々《マニ/\》歌のさまはた常に同しからす故《カレ》古事記日本書紀なとの古歌《フルウタ》は高く秀《ヒテ》たるさま雲|懸《カヽ》る嶺《ミネ》を振放瞻《フリサケミ》るか如く可畏《カシコ》く氣遠《ケトホ》き勢《イキホヒ》ありて凡《オホ》ろかには望《ノソ》み明らむへきに非す其《ツレ》に次て此集なるをいはゝ自然《オノツカラ》なる荒山の状《サマ》して踏分みむこと猶難きに過たりさて古今集より以來《コナタ》の歌等《ウタトモ》は漸々《ヤヽ》に平道《ナコチ》に出たるか如く其|隈々《クマ/\》もよく明《アカ》りてなむ見えける又|其《ソレ》よりも彌末《イヤスヱ》になりては造れる嶋山の如く巧《タクミ》に※[立心偏+可]怜《オモシロ》くは見えつゝ中々に際限《カキ》れるほとも顯《ア》らはなりさて今(ノ)京になりても桓武平城の御代にはいまた古風《イニシヘフリ》の失果《ウセハテ》すして尚《ナホ》丈《タケ》高く雄々《ヲヽ》しかりしを嵯峨天皇の御代に甚《イタ》く漢學《カラマナヒ》を好まして世間《ヨノナカ》うつりにけらし淳和の御代よりは萬車《ヨロツノコト》古《イニシヘ》に變《カハ》りて歌の體《サマ》も一向《ヒタフル》に柔和《ヤハ》らき美麗《ウルハ》しく化《ナリ》もて行つゝ仁明天皇御四十賀の壽歌《ホギウタ》を奈良法師の作《ヨミ》て獻《タテマツ》れる少《スコ》しく古風《イニシヘフリ》なるをすら朝廷《ミカト》にて大《イタ》く賞歎《メテ》られけるよし續後紀に記されたりき如是《カヽ》れば古今集の頃なと惣て今樣に化《ナリ》はてゝ古に疎《ウト》かりけむこと知られたり然るに今(ノ)世に至りて己等《オノレラ》負《オフ》けなくも古を窺ふことを得たるは契冲阿闍梨よりこなた有功《イソ》しき人等《ヒトタチ》世に出られつゝ勤勞《イタツ》かれたる恩頼《カケ》に依《ヨラ》さること無しされば次々に明りゆくといへともなほ隈々には及はぬ光もあなるを今此時に楚原《シモトハラ》かり放《ソ》けすは彼主等《カノヌシタチ》の荒山《アラヤマ》踏通《フミトホ》られし道《ミチ》は明著《シル》からしと思へは醜《シコ》の燒鎌《ヤキカマ》振《フル》ひ起《オコ》して尚《ナホ》其《ソノ》跡《アト》を尋《トム》るになむありける
  此集の成れるよし
此集は中納言大伴(ノ)家持卿の家に躬《ミ》つから集め置れたるものと見ゆ然るに昔より是を勅撰なりと云て其《ソノ》時代《トキヨナ》並《ラ》ひに撰者《ツクリヒト》のさた彼是《カレコレ》と論《イヒ》つゝ定まること旡りしを契冲阿闍梨の代匠記になむ明亮《アキラカ》には辨《ワキタ》められたりける其《ソノ》説《コトニ》云《イハク》此集ハ古來勅撰トハ定メテ何レノ帝ノ勅誰人ノ撰ト云ニ付テ異義マチ/\ナ(4)リ爰ニ拾芥抄(ニ)云京極中納言入道(ノ)抄(ニ)云【押紙】萬葉集時代(ノ)事近代(ノ)歌仙等多雖v有2喧嘩相論(ノ)事等1粗伺2集之所1v載自2第十七卷1似v注2付當時出來歌1事(ノ)體見v集第十七自2天平二年1至2于廿年1第十八自2天平廿年三月廿三日1至2于同勝賓二年正月二日1【今云考(フルニ)v集(ヲ)二日(ノ)後自2同五日1至2二月十一日1載v之】第十九自2同年三月一日1至2同五年正月廿五日1【今云考(フルニ)集二月廿五日也疑(シ)傳寫(ノ)誤】凡和漢(ノ)書籍多(ク)以v所2注載1爲2其時代(ノ)書1何抛2本集之所見1徒(ニ)勘2他集之序詞1哉頗似v無2其謂1撰者又無2慥説1世繼物語(ニ)云萬葉集高野(ノ)御時諸兄(ノ)大臣|奉《ウケタマハル》之云々但件(ノ)集橘(ノ)大臣薨之後多(ク)書之似2家持卿之所1v注尤以不審以上定家卿ノ義ナリ大臣ハ勝寶九載正月六日ニ薨シ給ヒケレハ第二十卷ニ同三月四日ニ大原(ノ)眞人|今城《イマキ》ノ宅《イヘ》ニテ家持ノヨマレタル足引ノ八尾《ヤツヲ》ノ椿《ツハキ》ト云歌ヨリ卷ノ終ニ至ルマテノ哥ノ事ナリ今此(ノ)定家卿ノ抄ヲ見テ是ニ心著テ普ク集中ヲ考ヘ見ルニ勅撰ニモアラス撰者ハ諸兄公ニモアラスシテ家持卿私ノ家ニ若年ヨリ見聞ニ隨テ記シオカレタルヲ十六卷マテハ天平十六年十七年ノ比マテニ廿七八歳ノ内ニテ撰ヒ定メ十七卷ノ天平十六年四月五日ノ哥マテハ遺タルヲ拾ヒ十八年正月ノ哥ヨリ第二十ノ終マテハ日記ノ如ク部ヲタテス次第ニ集メテ寶字三年ニ一部ト成サレタルナリ今見及フ所ヲ出シテ其由ヲ證《アカ》スヘシ第二(ニ)云大伴(ノ)宿禰娉2巨勢郎女《コセノイラツメヲ》1時(ノ)歌一首此(ノ)大伴(ノ)宿禰ハ官本ニ依ニ大納言安麻呂卿ナリ凡ソ集中ノ例大納言以上ニハ名ヲカヽサレハ第四ニ同シ人ヲ大納言兼大將軍大伴卿ト書テ名ヲカヽヌハ理ナリ今ハ微官ノ時ノ哥ナルヲ名ヲカヽヌハ私ノ家ニ祖父ヲ貴ヒテナリ勅撰ナラハ假令《タトヒ》家持此ヲ奉《ウケタマ》ハルトモ名ヲ記サヽル事ヲ得シ第三(ニ)云暮春之月幸2芳野離宮1之時中納言大伴卿奉v勅作歌一首并短歌是ハ大納言旅人卿イマタ中納言ノ時モ名ヲカヽサルハ父ヲ尊ヒテナリ同卷ニ中納言安倍(ノ)廣庭卿(ノ)歌トカケルニ合セテ意得ヘシ石上《イソノカミノ》大夫(ノ)歌一首哥(ノ)後注(ニ)云古今案石上(ノ)朝臣乙麻呂任2越前(ノ)國(ノ)守1蓋《ケタシ》此大夫歟弟麻呂ハ勝寶二年マテ存命ナリケレハ勅撰ナラハカクノ如ク不審アルヘカラス同卷(ニ)云天平十一年巳卯夏六月大伴(ノ)宿禰家持悲2傷亡妾1作歌此ツヽキ弟書持(ノ)和《コタヘ》等十三首他人(ノ)筆ニアラス十六年甲申春二月安積(ノ)皇子薨之時|内舍人《ウトネリ》大伴(ノ)宿禰家持作歌六首此哥ヲヨマレタル日ノ注モ他人ノ筆ニアラス家持ノ内舍人ト成ラレタルハ天平十二年ヨリナリ第六ニ見エタリ令ニ内舍人ハ廿(5)一歳以上ニテ任スト見エタレハ十六年ニハ家持廿六七歳ナルヘシ十七年ノ哥ハ集中ニ一首モ見エサレハ第十六マテハ十七年ニ撰セラレタルカトオホシキナリ同卷(ニ)云悲2傷死妻1高橋朝臣作歌哥(ノ)後注(ニ)云右三首七月廿日高橋(ノ)朝臣作歌也名字未v審但云2奉膳之男子1焉是ハ上ヲ承《ウケ》テ天平十六年七月廿日ナリ若《モシ》聖武天皇ノ勅撰ナラバ當時ノ臣下名字未v審ト云コトアラムヤ第四(ニ)云右|郎女《イラツメ》着佐保大納言卿之女也云々是ハ當時現存ノ人ナレトモ家持ノ姑《ヲハ》ナル故ニ坂(ノ)上(ノ)郎女ト云コトヲカク委注スルナリ假令家持ノ奉《ウケタマ》ハラレタリトモ私ナラスハカクハ注スルコトヲ得ラレシ同卷(ニ)云天皇賜2海上女王《ウナカミノヒメミコニ》1御歌一首哥(ノ)後注(ニ)云右今案此擬v古之作也但|以往《イニサキ》當v便賜2斯(ノ)歌1歟是ハ聖武ノ勅撰ニアラス私ニ集ムル證ナリ同卷(ニ)云天皇思2酒人《サカヒトノ》女王1御製歌一首又云|八代《ヤシロノ》女王獻2天皇1歌一首獻2天皇1歌一首献2天皇1歌二首|此等《コレラ》孝謙天皇ノ勅撰ナラス當時ヲ私ニ記スル證ナリ夏葛之不絶使乃不通有者《ナツクツノタエヌツカイホノヨトメレハ》云々此哥(ノ)左注(ニ)云右坂上郎女者云々|戀々而相有物乎月四有者《コヒ/\テアヒタルモノヲツキシアレハ》云々此注(ニ)云右大伴坂上郎女之母云々 委《クハシク》彼(ノ)卷ニ至テ見ルヘシ比等《コレラ》ノ注勅撰ニアラス家持ノ親族ノ故ニ私ニ委注セラルヽナリ更ニ他人ノ筆トハ見エス大伴(ノ)坂(ノ)上(ノ)郎女從2跡見(ノ)庄1贈2賜留v宅女子大孃1歌一首并短歌哥(ノ)後注(ニ)云右歌報2ー賜大孃1歌也又云大伴(ノ)坂(ノ)上(ノ)郎女從2竹田(ノ)庄1贈2賜女子大孃1歌二首賜ノ字ハ説文ニ徐(カ)曰上予v下曰v賜下獻v上曰v貢サレハ此字ハ私ノ家ニハ尊フ人ニ用ヰレトモ勅撰ナラハ君ノ臣下ニ物テ給ハルニアラスハ用マシキ字ナルヲ今カク書タルニテ私撰ナルコトヲ知ヘシ下ニモ此字ヲ用タルヲハ此ニ唯ヘテ知ヘシ第五モ哥ノ意ヲ顯ハス序詞書ナトノホカ詩文ヲ交ヘ載タルハ勅撰ノ體ニ非ス第六(ニ)云天皇賜2酒(ヲ)節度使(ノ)卿等1御歌一首并短歌|是《コレ》聖武帝ノ御代ニ撰テ孝謙帝ノ勅ニアラヌ證ナリ哥(ノ)後注云右御歌者或云太上天皇(ノ)御製也此(ノ)太上天皇ハ元正天皇ナリ此(ノ)注私撰ノ證ナリ天平六年甲戍春三二月幸2于難波(ノ)宮1之時(ノ)歌六首第一(ノ)哥(ノ)後注(ニ)云右一首作者未v詳此(ノ)注聖武天皇ノ勅撰ニアラヌ證ナリ若《モシ》後ニ至テ作者ヲ失ヒタラハ其由ヲ注ストモ未v詳トハ云ヘカラス天平八年冬十一月左大辨葛城(ノ)王等(ニ)賜2姓橘氏1之時(ノ)御製歌一首哥(ノ)後注(ノ)中(ニ)云或云此歌一首太上天皇(ノ)御歌但天皇皇后御歌各有2一首1者《テヘリ》其歌遺落未v得2探求1焉此(ノ)注兩帝ノ勅撰ニアラス諸兄公|奉《ウケタマ》ハリテ撰ヒ給ハヌ堅キ證(6)ナリ天平十年秋八月二十日宴2右大臣橘家1歌四首此(ノ)端作右大臣ヲ敬《ウヤマ》ヘル詞ナレハ勅撰ニ非ス諸兄公撰者ナラヌ證ナリ第三首ノ注(ニ)云右一首右大臣傳(ヘテ)云故豐島(ノ)采女(ノ)歌(ナリ)此注諸兄公撰者ニアラスシテ家持ノ撰セラレタル證ナリ又諸兄ハ天平十年正月ニ右大臣トナリ十五年五月ニ左大臣ト成《ナリ》タマヒタルニ今右大臣ト云ヒ故豐島(ノ)采女ト云ハ此宴ニ在シ豐島(ノ)采女死シテ後天平十五年マテニ諸兄公ノ家特ニ語リ給ヘルヲ記サレタルナリ諸兄公ノ家持ニウルハシカリケル事ハ此《コレ》ヨリ後|徃《トコロ》々ニ見エタリ第四首(ノ)注(ニ)云右一首右大辨高橋(ノ)安麻呂卿(ノ)語(テ)云豐島(ノ)采女之作也云々是モ安麻呂其ノ宴ノ衆ニシテ有ツル事ヲ後ニ家持ニ語ラレケル故初ニ四首ト云ヒテ一處ニオカルヽナリ十一年己卯天皇遊2※[獣偏+葛]高圓野1之時云々是亦當時ヲ記シテ孝謙天皇ノ勅撰ニアラヌ證ナリ十二年庚辰天皇御製歌一首上ニ准《ナス》ラヘテ知ルベシ丹比屋主《タチヒノヤヌシノ》眞人(ノ)歌一首後注(ニ)云右案此歌者不d有2此行宮1之作u乎所2以然言1v之勅2大夫1從2河口(ノ)行宮1還v京勿v令v從v駕焉何有d詠2思泥(ノ)埼1作歌哉家持此度御供ニテ前後ノ哥日記ノ如クナルニ其時|承《ウケタマ》ハラレタル口勅ヲカク記サレタレバ誰カ此集ヲ家持ノ撰ニアラスト云事ヲ得ムヤ悲2寧樂(ノ)京(ノ)故郷1作歌一首并短歌次(ニ)云々卷(ノ)終(ニ)云右二十一首田邊(ノ)福磨之歌集中(ニ)出也福麿ハ第十八ニ家持越中守タリシ時左大臣橘家ノ使トシテ天平廿一年三月ニ越中ヘ下リシ人ナリ然ルヲ今カクく記サレタルハ集中ニ見聞見聞スル所ヲ委記シテ後ノ疑ナカラム事ヲ兼テ思ヒ計ラハレタレハ福麻呂ノ集メラレタル當時ノ集ナレトモ引テ證トスルナリ第七(ニ)云|大海爾荒莫吹《オホウミニアラシナフキソ》云々是ヨリ下七首ノ後ニ注シテ云右七首者藤原卿作未v審2年月1是ハ藤原(ノ)北卿ナルヲ北ノ字ヲ落セルカ彼處《ソコ》ニ委注スルカ如シ北卿ハ房前《フサヽキ》ニテ天平九年マテ現存ナリケレハ勅撰ナラハ年月モ知ラルヘキニヤ第八卷(ニ)云天皇御製歌二首又云遠江守櫻井(ノ)王奉2天皇1歌一首天皇賜報和御歌一首|此等《コレラ》上ニ云如ク當時記セル詞ニテ孝謙天皇ノ勅撰ニアラサル證ナリ秋(ノ)雜歌右大臣橘家(ノ)宴(ノ)歌七首次(ニ)同奈良麻呂結2集宴1歌後注(ニ)云以前冬十月十七日集2於右大臣橘卿之舊宅1宴飲也|此等《コレラ》勅撰ニアラス諸兄公撰者ナラヌ證ナリ冬(ノ)雜歌太上天皇御製歌一首天皇御製歌一首哥(ノ)後注(ニ)云右聞之御2在左大臣長屋(ノ)王(ノ)佐保(ノ)宅1肆宴(ノ)御製是私撰ニシテ勅ヲ奉《ウケタマ》ハラヌ詞ナリ御2在西(ノ)池(ノ)邊1肆宴(ノ)歌一首注(ニ)云右一首作者未v詳但(7)竪子阿部(ノ)朝臣蟲麻呂傳誦之是又私撰(ノ)詞ナリ藤原皇后奉2天皇御歌一首上ニ云如ク孝謙天皇(ノ)勅撰ニ非ル證ナリ第九(ニ)云思2娘子1作歌一首并短歌後注(ニ)云右三首田邊(ノ)福麻呂之歌集(ニ)出又云過2足柄(ノ)坂1見2死人1作歌一首是ヨリ七首ニテ注シテ云右七首田邊(ノ)福麻呂之歌集(ニ)出是第六ノ福麻呂之歌集中(ニ)出也ト云チ注セルカ如シ第十二|於能禮故所罵而居者《オノレユヱノラエテヲレハ》云々注(ニ)云右一首平群(ノ)文屋(ノ)朝臣益人傳云昔聞云々是勅撰ノ詞ニ非ス第十四卷(ノ)終(ニ)云以前(ノ)歌詞未v得v勘2知國在山川之名1也今按勅撰ナラハ其時ハ此中ニ猶勘ヘ知ル處アルヘキニヤ第十五(ニ)云天平八年丙子夏六月云々次(ニ)云中臣(ノ)朝臣|宅守《ヤカモリ》云々聖武紀ヲ考ルニ天平十二年六月ニ大赦アリテ穗積(ノ)朝臣|老等《オユラ》は召返サレケレレトモ石上(ノ)乙麻呂中臣(ノ)宅守等ハ不v在2赦限1ト見エタリ宅守ノ配處ハ越前ニテ近流ナルニ大赦ニ漏ラレケルハ天平十一年ナトニ流サレテ餘リ程モ無ケレハ赦シ給ハサリケルニヤ右ノ天平八年丙子ト云ニ次テ其《ソノ》年|某《ソノ》月日トモ云ハテ載タルモ當事ノ事ナレハナルヘシ然ラハ孝謙天皇ノ勅ニアラサル證ナルヘシ第十六(ニ)云|安積香山影副所見山井之《アサカヤマカケサヘミユルヤマノヰノ》云々注(ニ)云右(ノ)歌傳(テ)云葛城(ノ)王(ヲ)遣2于陸奧(ノ)國1之時國司祗承綬怠異甚云々葛城(ノ)王ハ橘諸兄公ノ初ノ名ナリ彼大臣此集ノ撰者ニアラサル證據ナリ第十七ハ初《ハシメ》天平二年十一月ノ哥ヨリ十六年四月五日マテノ哥ハ第十六卷マテヲ撰テ後遺タルヲ拾ヘル歟其故ハ第三ニ天平十六年ノ挽哥ヲ載セ第四ニモ往々《トコロ/\》ニ年月ヲ注セル相聞アリ第六ニ養老七年ヨリ天平十六年マテ專《モハラ》年ニ繋《カク》ヘキ雜哥ヲ戴セ第八ニモ天平十五年マテ往々ニ四季ニ繋ヘキ哥ヲ戴セタリサテ十七年ノ哥ハナクテ十八年正月ヨリノ哥ハ第二十ノ終寶字三年正月一日ノ哥マテ次第ニ日記ノ如クナレハナリ遺レルヲ拾フ中ニ十年七月七日之夜云々哥(ノ)後注(ニ)云右一首大伴(ノ)宿禰家持勅撰ナラハ夜ノ題ノ字ノ下ニ注ノ姓名ヲハ書ヘキナリ追2和太宰之時(ノ)梅花1新歌六首後注(ニ)云右天平十二年十一月九日大伴(ノ)宿禰家持作此ハ第五卷ニ帥大伴卿(ノ)宅《イヘ》ニテ各《オノ/\》梅花ヲヨメルヲ和セラルヽナレハ勅撰ナラハ題ノヤウ今少シ替ルヘキニヤ山部(ノ)宿禰赤人詠2春※[(貝+貝)/鳥]1歌一首後注(ニ)云右年月所處未v得2詳審1但隨2聞之時1記2載於茲1是レ家持ノ私撰ノ詞ナリ天平十八年正月云々藤原(ノ)豐成朝臣云々右件(ノ)王卿等應v詔作家依v之奏之|登時《ソノトキ》不v記其歌漏失云々是家持ノ私撰ノ證ナリ勅撰ナラハ諸王卿ノ哥|御許《オモト》ニハ失《ウセ》サルヘキ故(8)ニ出《イタ》サセ給フヘシ又|各《オノ/\》私《ワタクシ》ニモ記シオカルヘシ朝元カ事家持ノマノアタリ知ラレタル事ナル故ニ記サレタリ大伴(ノ)宿禰家持以天平十八年閏七月云々更贈2越中(ノ)國1歌二首云々|此《コレ》ヨリ第十九|玉梓之道爾出立往吾者《タマホコノミチニイテタチユクワレハ》云々|此《コヽ》ニ至ルマテハ皆越中ニテノ作或ハ見聞ノ哥ナリ是皆家持私撰ノ證ナリ【野雁云集中に旅人卿の哥は帥なりし時のも又其外も數《カソ》ふるに遑《イトマ》あらすこは撰者の父にて親く見聞るゝまゝに集め採られたるなり又其(ノ)外にも家持卿の親族《チカキウカラ》なる大伴氏の人々の哥いと/\多くして内々《ウチ/\》の小事《イサヽケコト》にいたるまで無漏《クマナク》とられしも准《ナスラ》へて察《オモ》ふへくまして家持|自《ミツカラ》の哥はさらなりさて旅人卿(ノ)帥なりし時の哥と家持卿(ノ)越中守なりし時の哥ともの殊に多かるは任國の間《ホト》の情《コヽロ》やりに多くよみ出《イテ》られしなるへし】集中|此《コレ》ニ依テ委《クハシク》ハ出サス見ル人味テ知ヘシ其中ニ第十七ニ大伴(ノ)池主カ家持ノ哥ヲ和スル詞書ニ敬ノ字ヲオキ第十九(ニ)云爲3家婦(ノ)贈2在京(ノ)尊母1所v誂作歌大伴氏坂(ノ)上(ノ)郎女從2京師1來2賜女子大孃1歌|此等《コレラ》私ノ家ノ詞ニテ勅撰ニ非ル證ナリ又云右一首(ノ)歌者幸2於吉野宮1之時藤原(ノ)皇后御作但年月未v審詳十月五日河邊(ノ)朝臣|東人《アツマト》傳誦(テ)云v爾春日祭神之日藤原(ノ)太后御作歌一首等云々後注(ニ)云右件(ノ)歌者傳誦之人越中(ノ)大目高安(ノ)倉人《クラヒト》種《タネ》麻呂是也但年月(ノ)次者隨2聞之時1戴2於茲1焉此右(ノ)件(ノ)歌云々八首アル中ニ前(ノ)五首ハ藤原(ノ)朝臣清河ヲ遣唐使トセラルヽ時ノ哥ニテ當時ノ事ナルヲカク注セラレタルハ兩帝勅撰ニアラスシテ家持ノ私撰ナル證ナリ又家持ト池主トノ贈答ノ書或ハ序ヲ具シタル詩ナトモ交ヘ戴ラレタルハ勅撰ノ體ニアラス又第十七ノ末勝寶元年十一月十二月ニ大伴(ノ)池主ヨリ家持ヘ贈ラルヽ書并戯歌ヨリ第二十ノ終ニ至ルマテノ哥アル事ハ聖武天皇ノ勅撰ニ非ル證ナリ第十九(ニ)云十月二十二日於2左大辨紀飯麻呂(ノ)朝臣(ノ)家1宴歌三首初(ノ)二首(ノ)注(ニ)云右一首治部(ノ)卿|船《フネノ》王傳誦之|久邇《クニ》京(ノ)都(ノ)時(ノ)歌未v詳2作主1也右(ノ)一首左中辨中臣(ノ)朝臣清麻呂傳誦古京(ノ)時(ノ)歌也是ヲ初トシテ家持歸京ノ後ノ哥モ皆家持ノ注ニテ悉《ミナ》私撰ノ證ナレハ更ニ煩ラハシク出スヘカラスト云ヘトモ初心ノ童蒙ノタメニ略シテ要ナルヲ擧クヘシ壬申(ノ)年之亂平定以後(ノ)歌二首注(ニ)云右件(ノ)二首天平勝寶四年二月二日聞之即載2於茲1他閏三月於衛門督云乍注(ニ)云右件(ノ)歌傳誦云々|是《コレ》家持ノ詞ナリ勅2從四位(ノ)上高麗(ノ)朝臣福信2云々後注(ニ)云發2遣勅使1并賜v酒樂宴之日月未v得2詳審1也當帝ノ御歌ヲカク注セルハ私撰ニアラスハ如何《イカニ》トカ云ハム十一月八日在2於左大臣橘(ノ)朝臣(ノ)宅1肆宴(ノ)歌四首此中ニ左大臣ノ哥ニ注シテ云右一首左大臣橘卿是左大臣ヲ貴ヒテ書タレハ勅撰ナラス左大臣撰者ニアラヌ證ナリ左(9)大臣|換《カヘテ》v尾(ヲ)云|伊伎能乎爾須流《イキノヲニスル》然《シカレトモ》猶喩(シテ)曰如v覇誦之也是ハ林(ノ)王(ノ)宅《イヘ》ニテ奈良麻呂朝臣ノ但馬(ノ)案察使ニ赴《オモ》ムカルヽニ餞セラレケル時家持ノ哥ノ落句|息《イキ》ノ緒《ヲ》ニ思フトアルヲイキノヲニスルト改ラレハ然ルヘキカト左大臣ノ宜《ノタマ》ヘルナリ是《コレ》家持ノ私撰ノ詞ナリ然ルヲ仙覺是ヲ以テ左大臣當集ノ撰者ニテ家持モ相加ハラレタル證トス是ハ別時ノ宴席ノ事ニテ此集ニ預ル事ニハアラスサレト左大臣ノ撰者ナラヌ證トハナルナリ十一日大雪落積尺有二寸因述2拙懷1歌三首終(ニ)云但此卷(ノ)中(ニ)不v※[人偏+稱の旁]2作者(ノ)名字1徒(ニ)録2年月所處縁起1者皆大伴(ノ)宿禰家持裁作歌詞也是家持ノ私ニ集メラレタル證ナリ此卷ヲ以テ他卷皆|效《ナラヒ》テ知ヘシ第二十ニモ今ト同シク家持ノ哥ニ拙懷ト書ル事兩處アリ家持ノ哥ニノミ此諌退ノ詞アリ知ルヘシ他人ノ撰ニアラスト云コトヲ第二十(ニ)云右天平勝寶五年五月在2於大納言藤原(ノ)朝臣之家1時依v奏v事而請問之間少主鈴山田(ノ)史《フヒト》在《ハニ》麻呂語2少納言大伴(ノ)宿禰家持1曰昔聞2此言1即誦2此歌1他是家持ノ詞ナリ同月二十五日左大臣橘卿云々哥(ノ)後注(ニ)云右一首少納言大伴宿禰家持云々初ノ端作ハ諸兄公ノ撰ニ非ル證ナリ注ハ家持ノ撰セラレタル證ナリ天平勝寶七歳乙未|相替《アヒカヘテ》遣2筑紫1諸國(ノ)防人等《サキモリラノ》歌防人ハ兵部(ノ)省《ツカサ》モ此事ニ預ル官ナルニ家持此時兵部(ノ)少輔ニテ雜波ヘ下リテ沙汰セラレケル故ニ此度ノ防人ノ哥ヲ悉得テ拙劣ナルヲ捨テ撰ヒ取テ戴ラレタルモ家持ノ撰ハレタル證ナリ右八首昔年(ノ)防人(ノ)歌(ナリ)矣主典刑部少録正七位(ノ)上|磐余伊美吉諸君《イハレノイミキモロキミ》抄寫贈2兵部(ノ)少輔大伴(ノ)宿禰家持1是《コレ》自注ノ詞ニテ勅撰ニ非ル證ナリ右件(ノ)四首上總國(ノ)大掾正六位(ノ)上大原(ノ)眞人今城傳誦(テ)云v爾|是《コレ》家持ノ私ノ詞ナリ同月十一日左大臣橘卿云々是左大臣撰者ニ非ル詞ナリ天平元年班田之時使葛城(ノ)王云々後注(ニ)云右二首左大臣讀(テ)v之v云爾【左大臣是(ハ)葛城(ノ)王後(ニ)賜2橘姓1也】是左大臣撰者ニアラスシテ家持ノ私撰ノ詞ナル證ナリ勝寶八歳三月七日云々後注(ニ)云右一首式部(ノ)少丞大伴(ノ)宿禰池主續之即云々|是《コレ》家持ノ詞ナリ保利江己具伊豆手乃船乃《ホリエコクイツテノフネノ》等云々右三首江邊作之第十九ノ終注ニ准ラフルニ家持ノ私撰ナル故ニカクミツカラノ哥ハ名ヲモカヽテオカルヽ事アリ喩v放歌一首并短歌左注(ニ)云右縁2淡海(ノ)眞人三船(カ)讒言1云々勅撰ナラハカヤウニハ書《カヽ》ルヘカラス右一首兵部(ノ)少輔大伴(ノ)宿禰家持後日追2和出雲守山背(ノ)王歌1作之又云右件(ノ)四首傳讀兵部(ノ)大丞大原(ノ)今城又云右一首云々主人大原(ノ)今城傳讀云v爾(10)此等《コレラ》皆家持ノ詞ナリ又此(ノ)大原(ノ)今城(ノ)宴ハ勝寶九載三月四日ナリ今年八月改元アリテ寶宇元年卜成レリ橘左大臣ハ今年正月六日ニ薨シ給ヒタレハ此(ノ)三月四日(ノ)哥ヨリ卷ノ終ニ至ルマテノ哥アル事ハ左大臣撰者ナラヌ證ナリ二年春正月三日召2侍從豎子王臣等1云々細注(ニ)云未v得2諸人之賦詩并作歌1也是家持ノ私撰ノ詞ナリ勅撰ナラハ何ソ此詞アラムヤ右一首爲2七日侍2v宴右中弁大伴(ノ)宿禰家持|豫《カネテ》作2此歌1但云々|是《コレ》家持ノ私ノ詞ナリ勅撰ノ詞ニアラス此外|能《ヨク》心ヲ著《ツケ》ハ猶イクラモアルヘシ然レハ何トナキ注マテモ皆家持ノ詞ナリ凡家持ノ哥ハ年月所處等ヲ記サレタルコト集中ニ亙テ他人ヨリモ委シ哥數モマタ他人ノ類ニ非ス能々首尾ヲ見合セハ迷ヘル心風|度《ワタリ》テ雲消エ疑ヘル思春到テ凍解ヘシ云々【以上代匠記】と説《イハ》れたるなむ古にも今にも又|比類《タクヒ》なき考證《カムカヘアカシ》には有ける|如斯《カヽ》れは是《コレ》にて論《コト》盡《ツキ》たるか如し然るに賀茂(ノ)大人《ウシ》の萬菓考(ニ)云此集は高野の御時【孝謙天皇の天平勝寶の時をいふへし】橘(ノ)諸兄(ノ)大臣|撰《ツクリ》給へりと世繼物語に見ゆされと其《ソレ》よりも以前《サキ》聖武天皇の御代ならむと思はるゝ事ありたゝ諸兄公の撰とは古より言傳《イヒツタ》へしにて賓《マコト》にさりけらしさて古今集(ノ)序に萬葉集に入らぬ古哥《フルウタ》を採《ト》られたるよし見ゆれと既に萬葉の哥惣ては十二首あり其《ソ》か中に大御所の三首はうたひものゝうへより取られたるへけれは然《サ》ても有へし墨滅《スミケシ》二首を除《ノソキ》てもなほ七首あるはいかにと云に【野雁云|當時《ソノカミ》古今集の撰者|等《タチ》萬葉を勅撰と見らるはかり古をはたとられさりしかは四千五百余首の中より七首はかりを誤り載《ノセ》られけむこと何かは異《アヤ》しむに足らむそは此(ノ)集より採《ト》られしにはあらて外《ホカ》よりそ物せられけむ】今(ノ)世に傳はれる萬葉集は當時隨《ソノヨナカラ》の物にはあらし正《タヽ》しくは一(ノ)卷二(ノ)卷十三(ノ)卷十一(ノ)卷十二(ノ)卷十四(ノ)卷と次第《ツイテ》を改めて是《コノ》六卷こそ萬葉集なるへき然云《シカイフ》よしは此(ノ)一二(ノ)卷は古き大宮風《オホミヤフリ》にして時代《トキヨ》も哥主《ヨミヒト》も著《シル》きをあけ十三には同し宮風なから時代作者しられぬ長哥をあけ十一、十二には同し宮風にして代《ヨ》も主《ヒト》も知られぬ短歌を擧け十四には古き東歌《アツマウタ》を擧《アケ》て卷を結《ムスヒ》たるなるへし漢國《カラクニ》の古哥《フルウタ》は國風《クニフリ》を始と爲《シ》たり此方《コヽ》には宮風を前《サキ》にて國風を末とせしものと見ゆ【上代《カミツヨ》の事にからことを對《ムカ》へ云は宜《ヨ》からねと藤原奈良(ノ)宮に至て是を集められし頃にはかゝることを好める世なれは云なり】かくて今の五卷は山(ノ)上(ノ)憶良《オクラノ》大夫の哥集ならむ七と十の卷は歌もいさゝか古く集め體《フリ》も他《ホカ》と異《コト》にて此《コノ》二卷《フタマキ》は姿《スカタ》等《ヒト》しけれは誰《タレ》そ一人の集めなり十五(ノ)卷は新羅《シラキ》へ遣はされし御使《ツカヒ》の哥等《ウタトモ》と中臣(ノ)朝臣宅守の茅上娘子《チカミノヲトメ》と贈和《ヨミカハ》(11)せるとを以て一卷とせしにて又|誰《タ》か集めしとも知られす十六(ノ)卷は前後には古くよしある歌も有《アル》を中間《ナカラ》には哥とも聞えぬまて戯《サ》れくつかへるを載《ノセ》て樣《サマ》異《コト》なり中に河村(ノ)王【此ノ人は續紀を考ふるに寶龜の頃より延暦九年まて見ゆその前《サキ》のほと知るへし】大伴(ノ)家持の哥もあれは古き集《アツメ》にあらすこは家持卿の集のうちにやあらむ三(ノ)卷より四、六、八、九、十七、十八、十九、二十の卷々は家持の家集なること慥《タシカ》なり如是《カヽ》れは古《イニシヘ》に萬葉集と云るは右(ノ)六卷にして自余《ソノホカ》は家々の集|等《トモ》なりしを後世ひとつに雜りて二十卷とは成しにこそ然れは一二の卷の外は何れをそれとも知るへからぬをさる意も得ぬ後人の私に次第《ツキテ》をしるせしものなり故《カレ》三より十六の卷まては事の樣も時代年月も前後には成《ナリ》てけるなり今是を重く考て次第を改めこゝろみるにまつ一二は今の如し次は今の十三を三とし今の十一、十二、十四を四、五、六とするよし上に云るか如し今の十を七とす【凡《スヘ》て古哥なるか中に藤原の古《フリ》にし里とよめる詞あれは奈良の始の人の集ならむ】今の七を八とす【是も古哥にて集の体《サマ》右とひとし】今の五を九とす【末に天平五年六年の哥あり】今の九を十とす【天平五年の秋に遣唐使の發船《フナテ》する時の哥あれはなり】今の十五を十一とす【中臣(ノ)宅守は石上(ノ)乙麻呂と同し年頃に流されしと見ゆれは天率十一年の頃の哥ともなり】今の八を十二とす【天平十三年と注せる哥あり又久邇《クニノ》京より奈良の故郷へ贈れる哥もあり】今の四を十三とす【是にも久邇(ノ)京より奈良へ贈れる哥あれは右と同し年頃なり】今の三を十四とす【末に天平十六年七月とあり】今の六を十五とす【久邇(ノ)京の荒《アレ》たるを悲む哥ありこは天平十八年九月より後のことなり】十六は今の如し【時代は上に云るか如し】十七今の如し【末に天平廿年正月と有】十八今の如し【末に天平勝寶二年二月と有】十九今の如し【末に天平勝寶五年二月と有】二十今のことし【天平寶字三年正月の哥まてにして卷を終《ヲヘ》たり】かく年月の次《ツキテ》とも慥《タシカ》に記《シル》して有《アル》なれは後に錯亂《ミタレ》て前後に成れりしこと知へし云々【今こゝには文《コトハ》を約《ツヾめて引るなり】と説《イハ》れたり野雁云是は勅撰ならさる證《アカシ》を思ひ得られさるから右の六卷を正集とし【但し萬葉考の文《コトハ》に勅撰とはさして云れされと上に引る如く高野の御時云々と見え又古今集を以て論《イ》はれたるなとも勅撰とは思はれけるよしなり】自餘《ソノホカ》は、諸《モロ/\》の家集と著《シル》く見ゆるもあるを後に加《ソハ》れるものと決《サタ》められたる趣なれと精《クハ》しからさる説なりさらは阿闍梨《アサリ》の考につきて巳|亦《モ》思ふよしを云へしそも/\集中の哥員《ウタカス》四千五百餘首【此余《コノホカ》に詩文序状|等《ナト》あり】ありて秀絶《スク》れたるは多かれとも又|拙劣《オト》れるも絶《タエ》て尠《スクナ》きに非す又一部の體裁も何《ナニ》と定まらすしていと/\紀律《シトケ》なきさまなり是《コレ》いかにと云に私記なるか故なりされと然《シカ》あつめられたるは一集を撰《ツク》られむ料《タメ》にて萬(12)葉集とは豫《カネ》て號《ナツ》けられけむ【萬葉とは萬《ヨロツ》の詞《コトハ》と云|義《コト》なり後の葉葉には非す】其故はもし一家の集なりせば他《ホカ》の家集なとをは故《コトサラ》に集められさるへくたゝに此(ノ)家の父祖《オヤ》より當人《ソノミ》に止《トヽ》まるへきことを遠《トホ》つ代の皇《スメラキ》を始めて名も知られぬ異《アヤ》しき哥等《ウタトモ》まてを汎《ヒロ》く採《ト》られたるよしは惣具《スヘテ》の中より刪定《エラハ》れむとの設《マウケ》にそ有けむ【もし勅ありての事なりけるか・傳《ツタヘ》なけれは知かたし】さて代匠記に拾《ヒロ》はれたる遺《ホカ》にも其《ソノ》かたの證《アカシ》となるへき據《コト》は猶卷毎に多かれと今はたゝ萬葉考に正集と決《サタ》められたる六卷の中にも然有《シカラ》さる證《アカシ》を云へし一(ノ)卷に天皇御製歌|三芳野之耳我嶺爾《ミヨシヌノミヽカノミネニ》云々とある左に一字を降《クタ》して哥を載せ右句々相換因v此重載焉と注《シル》せるは勅撰の體《サマ》に非すまた中大兄《ナカノオホエ》近江宮御宇天皇三山(ノ)歌一首と題せるは其時《ソノカミ》古記《フルキフミ》の在《アリ》しを然《シカ》るへき御處《ミモト》なとより索《モト》め出《イテ》られたるまゝなるへし然《シカ》らすは天智天皇の御事をしか無敬《ナメケ》にはいかてか書《シル》さるへき此(ノ)一事《ヒトコト》を以て一部の論を決《サタム》むるに足れり次に此一二(ノ)卷は御代々々を標《シル》し別《ワケ》られたるに大寶元年辛丑秋九月太上天皇幸2于紀伊國1時(ノ)歌とあるは正《マサ》しく文武天皇の御代なれは必《カナ》らす後(ノ)藤原宮御宇天皇代と標さるへく【同卷に齊明天皇をは後(ノ)崗本宮云々とあり】また和銅元年戊申天皇御製歌とあるは元明天皇なれはこれも寧樂宮《ナラノミヤ》とあるへきことを其處《ソコ》には無くて卷終《マキノハテ》なる一首の處にのみあるはいかにまた大行天皇云々とあるは崩《カムサリ》まして未《イマタ》御謚《ノチノミナ》たてまつらぬ間《ホト》の大御號《オホミナ》なれは其時《ソノヲリ》の物に書《シル》せるまゝを取れるなりまた和銅三年庚戍春三月從2藤原(ノ)宮1遷2于寧樂(ノ)宮1時御與停2長屋(ノ)原1※[しんにょう+向]2望古郷1御作歌と題して其哥は飛鳥明日香能里乎置而伊奈婆君之當者不所見香聞安良武
《トフトリノアスカノサトヲオキテイナハキミカアタリハミエスカモアラム》とあるは明日香より藤原に遷《ウツ》らす時《ヲリ》の御製《オホミウタ》なること著《シル》しこれかはかりの誤をも正《タヽ》さすて公《オホヤケ》には貢進《タテマツ》られむやは次に或本從2藤原(ノ)宮1遷2于寧樂(ノ)宮1時(ノ)歌こは本文なるに或本と云こといかにそや二(ノ)卷の哥の左注に大伴(ノ)田主字(ヲ)曰2仲郎1云々此人は安麻呂卿の二子にて撰者家持の仲父《ヲチ》なるから哥には由なき内々《ウチ/\》の字《アサナ》をさへ注《シル》されたるにて次の端詞《ハシカキ》にも大伴田主仲郎と書《カケ》るもうちとけたる筆のすさみと見えたりまた但馬(ノ)皇女薨後穗積(ノ)皇子冬日雪落遙2望御墓1悲傷流涕御作歌一首とある但馬(ノ)皇女は續紀に和銅元年六月薨と見えて元明天皇の御代の事なるを藤原(ノ)宮の部《ムレ》に擧たり是《コレ》いまた藤原に御座《イマ》しゝ時なれとも【寧樂に遷りませるは和銅三年なり】例に從《ヨ》らは寧樂宮として擧へきな(13)り又其次に弓削(ノ)皇子薨(ノ)時|置始東人《オキソメノアツマトノ》歌一首并短歌云々弓削(ノ)皇子は文武紀に三年七月薨と見えて右の但馬(ノ)皇女薨よりは九年前の事なれは次第《ツキテ》たかへり十一(ノ)卷に以前《コレヨリサキ》一百四十九首柿(ノ)本(ノ)朝臣人麻呂歌集(ニ)出こは人麻呂集なる哥の一群《ヒトムレ》をさなから擧たるにて殊に撰定《エラヒ》は旡りしと見ゆ十二(ノ)卷は契沖|論《イハ》れし外に又ことも見えす十三(ノ)卷哥の左注に右三首但或書此短歌一首無v有v載之也これ勅撰の體ならむや又此卷の本文の哥に少《イサヽカ》異なるか他本にあるをは悉く左に擧たるも後の校定《カムカヘ》の料《タメ》にして是も草案なる徴《シルシ》なり又右二首但或云此短歌者|防人妻《サキモリノメノ》所作也然則應v知長歌|亦《モ》此同作焉これも上なるに同し十四(ノ)卷|アリキヌノサヱサヱシツミ
云々の左注に柿(ノ)本(ノ)朝臣人麻呂(ノ)歌集中(ニ)出見v上已(ニ)詮《アキラカ》也これも躬《ミ》つからうち思ふことを一わたりしるせる文《コトハ》にて此哥は既《ハヤ》く四(ノ)卷にも出たり凡《スヘ》てこれらの余《ホカ》にもしとけなき事等《コトトモ》なほ寡《スクナ》からぬを正集と決《サタ》められたる萬葉考の説は※[うがんむり/取]《イト》精《クハ》しからすなむ如是《カヽ》れは一部二十卷みなから勅撰にはあらすして家持卿私撰の草案なること何かは疑ふへき
  新考の事
おのれ此《コノ》書《フミ》を撰《ツク》りて新考として題《ナツ》けたるよしは此集の注書は昔より甚々《イト/\》多かるをみな古辭《フルコト》の曉《サト》り難きに拘泥《ナツミ》て意《コヽロ》の底《ソコ》しらへの味《アチハヒ》には解至《トキイタ》れるものいまた旡りき哥は情《コヽロ》に切なることを諷《カス》め顯《アラ》はすものなれば調《シラヘ》によらては其《ソ》の功用《ハタラキ》をなさす氣調《シラヘ》を尋《ト》めて其意をは知るへし然《サ》れは古書を解くとは趣同しからす又此集は端詞《ハシカキ》疎《アラ》くして哥の意を包《カネ》されは【古今集なとの端詞は哥の意を含めたり此集のはしからす】時勢《トキノサマ》事情《コトノコヽロ》を考へて解へし今この書《フミ》はこれらのよしを要《ツト》めてものしたればおのつから舊釋とは新《アラタ》まりてもあるによりなむ新考とは号《ナツ》けたるなり
  此集につきていはまはしき事等《コトトモ》
此集は歌集とはいへとも古事記書記と並《ナラ》ひてかきかそふ三《ミツ》の皇國《ミクニ》の底寶《ソコタカラ》うましたからの眞書《ミフミ》なりさるは古辭《フルコト》に言靈《コトタマ》の幸《サキ》はふ國|辭魂《コトタマ》の輔佐《タスク》る國と言傳《イヒツタ》へ來たる言辭《コトハ》の本《モト》つ眞書《ミフミ》にて神世の傳説《ツタヘコト》をも皇《スメラキ》の御事をも稽《カムカ》へ明《アカ》すとしてはまつ此集を熟《ウマ》らによみうかへて上古《イニシヘ》に練習《ナラ》へる進《スヽ》みにこそ古事記書紀なとをは窺ふへきわさなれ然らずはゆゝしきたかひめありなむ又紀に遺漏《オチ》たる差誤《アヤマ》りたる事をも此集に照して證(14)明《アキ》らむる功用《ハタラキ》すくなからす又上に論《イヘ》る如く四千五百餘首をいまた刪定《エラハ》れすしてさなからある故に事《コト》汎《ヒロ》けれは方々《カタ/\》に通《カヨ》はし取て不足《アカヌ》ことなき珠津寶《タマツタカラ》の古言を多《サハ》に潜出《カツキイテ》て世に幸《サキ》せさらむや
此集しとけなく漫《ソヽロ》かはしくてあるは未《イマタ》撰《エリ》とゝのへぬまゝなれはなり然《サ》るを皆人あかす慨《ウレタ》しと思には然《サ》ることなれと今世《イマ》にして上古《イニシヘ》を考へ明らめむ爲《タメ》には古書の多かるに不如《シカヌ》を此集の哥は一首《ヒトツ》として考證《カムカヘ》に係《カヽ》らぬは旡《ナケ》れは是を思ひ競《クラ》ふるに當世《ソノヨ》なからの面影も添《ソハ》れる此(ノ)集そ猶こよなかりけるそも/\古書は多く傳はらぬ世に此集はしもいさゝか缺《カケ》たる卷もなく全有《マタカル》を思ふにこれ靈幸《タマチ》はふ神の助《タスケ》にこそ有けめ如是《カカ》れは頂《イナタキ》に戴《サヽ》け持《モチ》て恩頼《ミタマ》かゝふるよしを祷《ネク》へし
集中誤りもし脱《オチ》もしたりと思はるゝ事等《コトトモ》の著《シル》かるは其《ソノ》よしものして圏《マル》の内に補《クハ》へつ又决《ウツナ》く※[衍/心》《アマ》れりと見ゆるは方《ケタ》の内に書《シル》せり惣て私《ワタクシ》に字《モシ》を改めたるは一《ヒトツ》もなし又|後人《ノチヒト》の所業《シワサ》と著《シル》きをも其よし物して削《ノソ》けること無し此《コノ》事《コト》は古書を重《オモ》みするによりて己《オノ》か既《ハヤ》くより思ひ執《ト》れる操《コヽロハヘ》なり然るは一字《ヒトモシ》を易《カヘ》されは即《ヤカテ》永《ナカキ》世《ヨ》に復《カヘ》らぬわさなるか甚《イト》も深《イト》も悲悼《カナ》しさになむ
土地鳥獣草木方言の類《タクヒ》は心の限《カキリ》ものしたれともなほ詳《サタカ》ならさるあり土地のことは其(ノ)國々にて熟々《ヨク/\》考《カムカ》へたらませは知られぬことよにあらし方言もかた/\に遣《ノコ》れるもあめり鳥獣草木なとは彼處《カシコ》に有て此處《コヽ》に旡き類もあれはなりさて此注釋ものすとならは普《アマネ》く國々をも問ひ明らめてそ説《イフ》へきをそは早速《スム》やけくは得《エ》あらぬわさにて次の卷々よみ解く妨《サハリ》もこよなく又|躬《ミ》つから得《エ》せぬことは猶おほつかなくもありてかくなむ
歌は眞情《マコヽロ》をあらはすものにして顯露《アラハ》には言難《イヒカタ》き旨《ムネ》をも諷《カス》め出《イツ》れは事の難《サハリ》旡《ナ》く中々に情《コヽロ》の通《キコ》ゆるわさなる故に歌を假《カリ》て事に用《モチ》ふるも※[うがんむり/取]《イト》義《ヨシ》ある旨《ムネ》あれは神武天皇(ノ)紀《ミフミ》に諷歌倒語と云ことも見えたり但し上古人《イニシヘヒト》は無用《イタツラ》なる華飾《カサリ》をものせて意氣《コヽロサシ》の通達《トホル》るをなむ要《ムネ》とはしたりける故に然《シカ》物事《モノコト》に當りて用《ハタラキ》を爲《ナセ》りけり譬へは心さす方に側視《アカラメ》もせす行進《ユキスヽ》む官人《オホヤケヒト》の如く威《イキホヒ》あわて事を遂《ナ》すこと速《ハヤ》し又|後世人《ノチノヨヒト》のおもしろく巧める哥はうちとけたる凡人《タヽヒト》の各《オノ》かしゝ情《コヽロ》をやりつゝ戯《タハフ》れゆくか如く心さす方そこと定まらすあされてなむ有ける是《コレ》をな(15)ほたとへていはゝ落たきつ水の源《ミナカミ》と流れたる末の淀《ヨトミ》とは清濁《スミニコリ》さへ同しからさるか如しされは潔白《イサキヨ》き上古《イニシヘ》の哥に其世を偲《シノ》ひ虚飾《カサ》れる後(ノ)世の、詞にもその情《コヽロ》を察《オモ》ふへしさてしか古を知るものは此(ノ)哥なる故にこれに熟《ナ》らひてまつ古辭《フルコト》を明らめなは意《コヽロ》も隨ひて曉《サト》り得《ウ》へく意を知らはそのかみの情状《アリサマ》を知りなむ然《サ》らすは熟《ウマ》く古書は解得《トキエ》し故《カレ》此(ノ)集なむ古學《イニシヘマナヒ》の本根《モト》にはありける
 
(16)萬葉集新考 二
 
萬葉集卷第一
 雑歌
泊瀬朝倉宮御宇天皇代
 天皇御製歌
高市崗本宮御宇天皇代
 天皇登香具山望國之時御製歌
 天皇遊獵内野之時中皇命使間人連者獻歌并短歌
 幸讃岐國安益郡之時軍王見山作歌并短歌
明日香川原宮御宇天皇代
 額田王歌
後崗本宮御宇天皇代
 額田王歌
 幸紀伊温泉之時額田王作歌
 中皇命徃于紀伊温泉之時御歌三首
 中大兄三山御歌一首并短歌二首
近江國大津宮御宇天皇代【本文には國ノ字なきそよき其義《ソノヨシ》はそこに云】
 天皇詔内大臣藤原朝臣競憐春山萬花之艶秋山千葉之彩時額田王以歌判之歌
 額田王下近江國時作歌井戸王和歌
 天皇遊獵蒲生野時額田王作歌 皇太子答御歌
明日香清御原宮御宇天皇代
 十市皇女参赴於伊勢太神宮時見波多横山巖吹黄刀自作歌
 麻續王流於伊勢國伊良虞島之時時人哀痛作歌 麻續王聞之感傷和歌
 天皇御製歌 或本歌
 天皇幸吉野宮時御製歌
藤原宮御宇天皇代
 天皇御製歌
 過近江荒都時柿本朝臣人麻呂作歌一首并短歌
 高市連古人感傷近江舊堵作歌 或書高市黒人幸紀伊國時川島皇子御作歌
 阿閇皇女越勢能山時御作歌
 幸吉野宮之時柿本朝臣人麻呂作歌二首并短歌二首
 幸伊勢國之時留京柿本朝臣人麻呂作歌三首 當麻眞人麻(17)呂妻作歌 石上大臣從駕作歌
 輕皇子宿于安騎野時柿本朝臣人麻呂作歌一首并短歌四首
 藤原宮之役民作歌
 從明日香宮遷居藤原宮之後志貴皇子御歌
 藤原宮御井歌一首并短歌
 大寶元年辛立秋九月太上天皇幸紀伊國時歌二首 或本歌
 二年壬寅太上天皇幸參河國時歌 長忌寸奧麻呂一首 高市連黒人一首 擧謝女王作歌 長皇子御歌 舎人娘子從駕作歌
 三野連 名闕 入唐時春日蔵首老作歌
 山上臣憶良在大唐憶本郷作歌
 慶雲三年丙午幸難波宮時歌二首 志貴皇子御歌 長皇子御歌
 太上天皇幸難波宮時歌四首 置始東人作歌 高安大島 身人部王作歌 清江娘子進長皇子歌
 太上天皇幸吉野宮時高市連黒人作歌
 大行天皇幸難波宮時歌三首 忍坂部乙麻呂作歌 式部卿藤原字合 長皇子御歌
 大行天皇幸吉野宮時歌 或云天皇御製歌 長屋王歌
 和銅元年戊申天皇御製歌 御名部皇女奉和御歌
 三年庚戌春二月從藤原宮遷于寧樂宮時御輿停長屋原※[しんにょう+向]望古郷御作歌 一書歌
 五年壬子夏四月遣長田主伊勢齋宮時山邊御井作歌三首
寧樂宮【此標《コノシルシ》は上なる和銅元年云々の處に在へきなり又|此《コヽ》に御宇天皇代と云ことの旡きよしなとは本文にいへり】
 長皇子與志貴皇子宴於佐紀宮歌 長皇子御歌
 
此目録の事代匠記云第二十卷ノ仙覺ノ奧書ヲ見ルニ古本ニ三(ツ)ノ異アリ一(ツ)ニハ總テアル本二(ツ)ニハ總テナキ本三(ツ)ニハ第十五マテアリテ十六以下ナキ本ナリ目録ハ大キニ誤レル事アリテ後人ノシワサナレハナキヲ以正本トス
 
雜歌
 
是は類を分たす擧たるよしの目《ナ》なり
 
泊瀬《ハツセ》朝倉宮御宇天皇代 大泊瀬稚武天皇
                                
雄略天皇の御代なるよしの標《シルシ》なり古は前代《サキヅヨ》の天皇に某宮御宇天皇《ナニノミヤニアメノシタシロシメシヽスメラミコト》と申す例なり
 
(18)天皇御製歌
 
是は正《タヽ》しく須賣良美許登乃於保美宇多《スメラミコトノオホミウタ》と訓へきことなれども此集の端詞《ハシカキ》は大かた漢文《カラサマ》にものして強《シヒ》て訓《ヨミ》難き語《コトハ》とも雜れゝは總て訓を記さす左《カ》に右《カク》にうるはしくはよみ得《ウ》ましけれはなり
 
1 籠毛與美籠母乳布久思毛與美夫君志持此岳爾菜採須兒家吉閑名告沙根虚見津山跡乃國者押奈戸手吾己曾居師告名倍手吾己曾座我許者背爾告目家乎毛名雄毛《コモヨミコモチフクシモヨミフクシモチコノヲカニナツマスコイヘノラヘナノラサネソラミツヤマトノクニハオシナヘテワレコソヲレシキナヘテワレコソマセワヲコソセトシノラメイヘヲモナヲモ》
 
籠毛與《コモヨ》は三言の句なり【ここの四句は三言四言五言六言とついてて調《シラベ》をなせるものなり】籠は古なり加多麻とは訓べからず【舊くも古と訓るを代匠記に神代紀の無目堅間《マナシカタマ》によりて加多麻とよまれたるをなむ世(ノ)中ゆすりて賞美歎《ホメ》うへなへれとよく思ふに然らず其故は神代紀の無目堅間小船《マナシカタマノヲフネ》は籠の編《アメ》る竹と竹との間《アヒダ》の堅く密《シマ》りて目の無を云りそは船ながら尋常とは異りて海底に没《イラ》む料《タメ》なれは水の入らさるへく渾てを籠に作れる物にていとよく目のしまりてあるを云る名なり然るをここなるはさしも堅間の用なく徒なるのみかは然訓ては語《コト》の調《シラベ》にも叶はさるものそよく語勢《コトハツヽキ》を思へし】十四(ノ)卷に岐波都久乃乎知能久君美良和禮都賣杼故爾毛乃多奈布西奈等都麻佐禰【賀茂大人云四ノ句籠にも滿無《ミタナフ》なり乃《ノ》字誤なるへし】この下爾射等籠荷四間また四(ノ)卷十一(ノ)卷に鳥籠之山【かく書るは籠を古といふ證なり】和名抄に籠竹路也和名古【仁徳紀に運《ヒキ》v材(ヲ)負(ヒ)v《コヲ》とも見ゆ】とありて古と云そ本よりうけはりたる名なる【又同書に※[竹冠/令]※[竹冠/青]小籠也漢語抄云加太美とも見えたりこは古今集の哥なとより多く加太美とよめり加太美は加多麻の轉れる名にて此なると同し物なれはここを加多麻とよまむこと當れるに似たれと上に云る如く加多麻は堅間なれはここに由なきを思へしさて加太美を小籠也と注せるも當らず加太美は加多麻の轉れる名にて堅間乃船とも云るものをや】毛は助辭《ヤスメコトハ》にて古《イニシヘ》に例多し【この下に吾戀目八方また見者悲毛なと云る毛は歎息の音にて異なり混ふることなかれ】與は呼出る辭なり【籠を呼出るは次なる美龍を重て云出む料《タメ》なり】古事記【上卷】須勢理毘賣命の御哥爾|吾者母與《アハモヨ》書紀清寧卷大御哥に置目【人名】慕與なとあり又これを毛也とも云り【也と與とかよへり】二卷に吾者毛也とよめり○美籠母乳は四言の句なり美は何にまれ美め稱へて冠《カヽフ》らしむる語《コト》なり【眞と云に通ふ】然れは美籠とは佳き籠と云か如し母乳は持なり○布久思毛與 布久思は和名抄造作具に ※[金+讒の旁]唐韻云※[金+讒の旁]犂鐵又土具也漢語抄云加奈布久之とある器《モノ》は後に※[金+截]《カネ》して製れると聞ゆ古は必しも定まれる製《ツクリサマ》にはあらて木にまれ竹にまれ草なと堀取ものを云けむ【萬葉考に今も田舍人の野菜なと堀とる串をフグセともホグシとも云竹また※[金+截]《カネ》しても製《ツクル》とあり己もきゝたりしを其處《ソコ》は忘れたり】名義《ナノコヽロ》は略解に保留久之の約《ツツマリ》なるへしと云り毛與は上に云るか如し○美夫君志持 夫君志の三字上と異なるは同字をは書替たる此集の例なり次々も皆然(19)りさて此句も美籠母乳に説《イヘ》るに准《ナスラ》へて知へし○此岳爾 此《コノ》とは其處《ソコ》をさせり岳は丘處《ヲカ》なり【丘《ヲ》は高き地《トコロ》を云又山の裔《スソ》を尾と云は此《コヽ》と異なり處《カ》はすみかありかなとの加にて此處《ココ》彼處《カシコ》の古にかよふ言なり】○莱採須兒 菜は惣て飯と酒との配《アハセ》に食《ク》ふ物の稱《ナ》にて魚鳥獣草菜何にも汎く云然るを魚と草菜に專《ムネ》と云ことになれるは專とある物なれはにて鳥獣なとを常さはかりは食《ク》はねはおのづから魚と草菜の名の如くなりてさる中にも草菜を云かたの汎きは魚よりも專《ムネ》と食《ク》ふ物なれはなり【俗に菁をうちまかせて奈《ナ》と云も專《ムネ》とあるより云るなり】採須は都牟の延語にておのつから尊語の如くもきこゆめれと必さしもあらす調によりて云ること多し十七卷に乎等賣良我春菜都麻須等七卷に小田苅爲子九卷に伊渡爲子者十卷に山田守酢兒なとあり又書紀【神代卷】哥に阿磨佐箇屡避奈菟謎廼以和多邏素西渡なと鄙《ヒナ》つ女にもいひ古事記【下卷此天皇段】三重采女か哥に阿理岐奴能美幣能古賀佐々世流美豆多麻宇岐爾○なと自《ミヅカラ》の事に
頭註 ○書紀【欽明御卷】大葉子歌に於譜磨故幡比例甫※[口+羅]須母も云を以て必しも尊語ならさるを知へし兒《コ》は男女若きを云|稱《ナ》なるを轉りては親しむ方にも云りそも若きは愛親《ウツク》しまるゝものなればなるへし又專《ムネ》とは女に云か多きも女は殊に若きを愛親《ウツク》しむ故《カラ》なり【女(ノ)名を某子《ナニコ》と號《ツク》るも若き方の稱《ナ》なるへし】男に云るは此《コノ》下《シモ》に去來子等早日本邊《イサコトモハヤクヤマトヘ》なと多かり○家吉閑 吉閑は萬葉考に告閇の誤とある宜し【吉閑ならは將v聞の意なれとかなはさるよしは末ノ句背とし告らめ家をも名をもとあるにて思へしさるは家を告れ名を告れと云ことを末ノ句にて結へる御哥なるをや】能例を延へて然云は調《シラベ》に從《ヨ》れり【古事紀傳四ノ卷五ノ葉《ヒラ》云能流とは人に物を云(ヒ)聞(カ)することなり己《オノ》か名を人に云聞するを名告《ナノル》と云にて知へし又法を能理と云も上より云々せよと定《サダ》めて云聞せ賜ふより出たり告又謂なとの字をも能流とよめること記中又萬葉なとに數多《アマタ》あり云々】菜採女《ナツムヲミナ》の家を告《ノリ》聞せよなり○名告沙根《ナノラサネ》はまつ名告禮《ナノレ》を延《ノ》へて名告良世《ナノラセ》と云三(ノ)卷に不聽雖謂話禮話禮常詔許曾《イナトイヘトカタレカタレトノラセコソ》十一(ノ)卷に君名謂《キミカナノラセ》仁徳紀(ノ)大御哥に儺餓伊弊剤虚曾《ナカイヘセコソ》【こは伊波世とあるへき格と思ふに古言には通はし云ることあり古事記上卷須勢理毘賣命御哥に和加久佐能都麻母多勢良米とあるも持《モタ》すらめの意なり又廣瀬(ノ)大忌(ノ)祭(ノ)祝詞に御膳持《ミケモタ》須留若宇加能賣能命とあるは御食|持《モタ》せると常には云|格《サタマリ》の語《コト》なり】なとありて世《セ》は菜(20)採須の須に通ふ延語なるを又延へて沙根《サネ》と云り此(ノ)下に草乎苅核《クサヲカラサネ》五(ノ)卷に奈何名能良佐禰《ナカナノラサネ》なといと多しこれも女の名を告聞《ノリキカ》せよなり○虚見津は大和の枕詞なり神武紀に及至|饒速日命《ニキハヤヒノミコト》乘(テ)2天(ノ)磐船1而|翔行太虚《ミソラカケリユクトキニ》也|睨《ミテ》2是郷《コノクニヲ》1而降《アマクタリキ》之|故因目之曰虚空見日本國《カレソラミツヤマヨノクニトハイフナリ》矣【日本は大和の借字なり】と見ゆ○山跡乃國者は大和國乎婆の意なりそも/\天皇はしも天下を知しめすなるを此《コヽ》に大和國を限りて詔へるは當國《ソノクニ》にてのことなればなり【古事記此天皇段一言主神の處に爾天皇望令問曰於茲倭國除吾亦】
無王《コヽニスメラミコトミヤラシテトハシメタマハクコノヤマトノクニヽアレヲオキテマタキミハナキヲ》云々とあるも葛城山にてのことなり】○押奈戸手は大並而《オフシナヘテ》にて俗《ヨ》に一體又惣體なと云か如し古事記傳【廿一卷廿五葉】云|押《オシ》は意布志《オフシ》にて大《オホ》の意なり其證は凡河内《オフシカフチ》を大河内とも書き凡海《オフシアマ》姓を大海《オフシアマ》とも書き熊野忍隅命《クマヌオシスミノミコト》を熊野大隅命ともあるを以て思定へし凡て稱名《タヽヘナ》の押《オシ》忍《オシ》みな同し押並而なとの押も同く大《オホ》の意なりとあり物に押《オス》と云|語《コト》のあるも彼處《カシコ》を押《オス》は此處《コヽ》を大《オホ》するより云り並は縱にも横にも並續《ナラヒツキ》ゆくを云【縱と云は古事記倭建命(ノ)段の哥に日々並而《カカナヘテ》また集中に氣並而《ケナラヘテ》と多くよめる氣は來經の約にて年月日時の來經《キフル》をいへは縱なり又馬並而|楯並而《タヽナメテ》の類八(ノ)卷に今朝のあさけ雁かね寒く聞し並野邊の淺茅そ色付にけるなとは横なり】押並は縱横を兼て大《オフ》し並たる義《コヽロ》そ【並(ノ)字も字書に皆也相扶傍也併也なと見ゆ又|並《ナヘ》は延《ノヘ》にも通ひてきこゆ押並は即押延の意なり】宜並と云語も縱横に足りとゝのへるを云に併せて意得へし○吾許曾居 吾は阿禮とも和禮とも訓へし古事記【中卷】明宮段大御哥一首の中に阿賀とも和賀ともありて通はし用ひ給へり○師告名倍手 告(ノ)字玉乃小琴に吉の誤とあり師吉は及《シキ》布《シキ》また知《シリ》とも通ひて本《モト》一言《ヒトツコト》なり其故はまつ志久とは萬《ヨロツ》に不足《アカヌ》こと無く至り及ふをいふ言なり【俗に行屆と云におなし】宮造壽辭に於底津石根宮柱太斯埋於高天原冰木高斯理と云は高き方に不足《アカヌ》ことなきを於高天原云々といひ又堅固き方に至り足らへるを於底津石根云々と云る稱辭なるをその太斯理高斯理を太敷高敷とも云て古書ともに多かりこれ斯理と斯伎と通へり又祝詞に瓶上高知《ミカノヘタカシリ》と云も瓶《ミカ》は借字《カリモジ》にて美加とは酒にまれ飯にまれ盛《モリ》て饗《アヘ》する器《モノ》の名なれは上《ウヘ》といひ高知《タカシリ》と云て※[肆の左+瓦]腹滿雙【酒なり】に對へたるは飯を高く盛あけたる状《サマ》を稱《タタ》へたれは事こそ異《カハ》れ冰木高敷と同し意なり又|物識人《モノシリヒト》と云なとも物事○に及至れる知慮《サトリ》ある
頭註 ○の陬々《クマ/\》まて
(21)をいひ雪霜なとの零敷《フリシク》【此志久と云言に縱横の異《カハリ》ありそは雪なとも千重にふり志久なと云は上《カミ》より降積《フリツム》を云て縱なり又庭も迫《セ》にふり志久なと云はふり廣こるを云て横なりこれら言の原《モト》各《オノ/\》別《コト》なるに非す精くいあはゝ重《シク》にて○一(ツ)あることに又一(ツ)のかさなり及ふを云か本《モト》なりされは於
頭註 ○縱にまれ横にまれ
高天原また於底津石根なと○云り瓶上高知は食《ケ》なれは於高天原なとはいはされとおのつからかくて宣き詞なり又|席《ムシロ》なとを布《シク》と云も其《ソノ》地《トコロ》に廣け滿《ミテ》るより云り敷坐國
頭註 ○さして向ふ物あるに
とは國の果《ハタテ》々まて知坐《シリマス》をいひ物識人《モノシリヒト》も其物事の極《キハミ》に○至り屆《トツ》を云り常にたゝ物事を知と云もたしかに其物事に思ひ至りり屆《トツ》くを云て輕き語《コト》には非るなりこは漢籍
頭註 ○思慮の
乃知の説ともやゝ似よれることなるを彼によれりと思ふことなかれ】
また席なとを布と云も到らぬ陬《クマ》なく廣これるを云れは皆通はして曉るへし然れは太敷座また敷座國なと云も隈々まて知しめすを云て即《スナハチ》此《コヽ》の師吉も同し名倍手のことは上に云る如く敷並は知並なり【此《コヽ》に説《イヘ》ることゝもは皆由ある古言ななるを古事記傳祝詞考萬葉考なとにも未《イマタ》明らめられさりき】○吾己曾座 座は麻世と訓へし伊麻世とも訓へけれと上に居《ヲレ》とある調《シラベ》に從《ヨ》れはなりさて天皇はしも神《カム》なから尊く坐す故にかく御躬《ミミ》すから尊み詔へり書紀此天皇乃大御哥に野磨等能嗚武羅能陀該※[人偏+爾]之々符須乎※[手偏+施の旁]例柯擧能居登飫褒麿陛※[人偏+爾]麻嗚須飫〓枳瀰斯賊據嗚枳※[舟+可]斯題※[手偏+施の旁]磨々枳能阿娯羅※[人偏+爾]陀々伺勢都魔枳能阿呉羅※[人偏+爾]陀々伺云々古事記同大御歌にも阿具良韋能加微能美※[氏/一]母知比久許等爾云々此集六ノ卷聖武天皇大御歌に食國遠乃御朝庭爾汝等之如是退去者平久吾者將遊手抱而我者將御座天皇朕宇頭乃御手以掻撫曾禰宜賜打撫曾禰宜賜《ヲスクニノトホノミカトニイマシラカカクマカリナハタヒラケクワレハアソハムタムタキテワレハイマサムスメラワカウツノミテモチカキナテソネキタマフウチナテソネキタマフ》云々なと例《ツネ》の事なりさて押奈戸手より四句《ヨツカヒ》はたゝ同しほとの事を文《アヤ》に詔へり○我許者 者(ノ)字玉乃小琴に曾の誤なり和乎許曾【和乎社《ワヲコソ》なり】と訓へしとあり三に吾祭神者不有《ワハマツルカミニハアラス》四に親吾者不念《シタシクモワラハオモハス》なとあれは爰も乎と云辭を訓付へし○背齒告目 齒の之は助辭にて夫《セ》と思ひて告《ノル》べしなり【夫《セ》と爲《シ》にはあらす】○家乎毛名雄毛 古《イニシヘ》女より男に名告《ナノリ》をすることは夫《セ》とする時のわさなりけりと見ゆ三に美沙居石轉爾生名乘藻乃名者告志弖余親者知友《ミサコヰルイソマニオフルナノリソノナハノラシテヨオヤハシルトモ》九に難波方鹽干爾出而玉藻苅海未通女等汝名告左禰《ナニハカタシホヒニイテテタマモカルアマヲトメトモナカナノラサネ》和歌《コタヘウタ》朝入爲流人跡乎見座草枕客去人爾妻者不敷《アサリスルアマトヲミマセクサマクラタヒユクヒトニツマトハノラシ》【流の下に海(ノ)字脱たるかはた流は海の誤か阿麻とあるへき哥なり敷は教乃誤しるし】十一に早人名負夜聲灼然吾名謂嬬恃《ハヤヒトノナニオフヨコヱイチシロクキミカナノラセツマトタノマム》【吾は君の誤なるへし】葛木之其津彦眞弓荒木爾毛憑也君之吾之名告兼《カツラキノソツヒコマユミアラキニモヨレハヤキミカワカナノリケム》【吾之は君とさす方の吾之なり】味鎌之鹽津乎射而水手船之名(22)者謂手師乎不相將有八方《アチカマノシホツヲサシテコクフネノナハノリテシヲアハサラメヤモ》十二に住吉之敷津之浦乃名告藻之名者告而之乎不相毛恠《スミノエノシキツノウラノナノリソノナハノリテシヲアハナクモアヤシ》 足千根乃母之召名乎雖白路行人乎誰跡知而可《タラチネノハヽカヨフナヲマヲサメトミチユキヒトヲタレトシリテカ》 然海部之礒爾苅干名告藻之名者告手師乎如何相難寸《シカノアマノイソニカリホスナノリソノナハノリテシヲイカニアヒカタキ》なと皆名を告《ノル》は逢むと許諾《ユル》すことに云り此《コヽ》もさる意の御歌なり○一首《ヒトウタ》の意は籠と布久思を持《モチ》此《コヽ》なる岡に菜採む兒よ我に名《ナ》告《ノリ》きかせよ此國をは押なへて我《ワカ》領《シ》るなれは即《ヤカテ》我をこそ夫《セ》と思ひて名《ナ》告顯《ノリアラ》はせとなりさて言外に此女の姿容《カホ》美《ヨ》きを見愛《ミメテ》たまふよし見ゆ
 
高市崗本宮御宇天皇代息長足日廣額天皇
 
舒明天皇なり
 
天皇登2香具山1望v國之時御製歌
 
香具山は大和(ノ)國十市(ノ)郡にあり伊豫(ノ)國(ノ)風土記(ニ)云伊豫(ノ)郡(ノ)
自《ヨリ》2郡家1以東北|在《ナル》天山所名天山由者倭在天加具山自天天降時二分而以片端者天降於倭國以片端者天降於此土因謂天山本也《アメヤマヲアメヤマトナツクルユヱハヤマトナルアメノカクヤヤマアメヨリクタリシトキニフタツニワケテカタハシヲハヤマトノクニニアマクタシカタハシヲハコノクニヽアマクタシキカレアメノヤマトイフコトノモトナリ》【此山の事よく國人に問へし】と見ゆ名義《ナノコヽロ》加具は蔭なるべし然云よしは天上《アメ》にも加具山と云ありて古書ともに數多見えたるを考へ亘すに一(ツ)山とは聞えす何處《イツク》にも云《イフ》名と聞えたり其一をいはは古事記【上卷】石屋戸段に是以八百萬神於天安之河原神集集而高御産巣日神之子思金神令思而集常世長鳴鳥令鳴而取天安河之河上之天堅石取天金山《ココヲモテヤホヨロツノカミアメノヤスノカハラニカムツトヒツトヒテタカミムスヒノカミノミコオモヒカネノカミニオモハシメテトコヨノナカナキトリヲツトヘテナカシメテアメノヤスノカハノカハラノアメノカタシハヲトリアメノカナヤマノ》【書紀には天(ノ)香山とあり】之※[金+截]而求鍛人天津麻羅而科伊斯許理度賣命令作鏡《カネヲトリテカヌチアマツマラヲマキテイシコリトメノミコトニオホセテカヽミヲツクラシメ》云々|内拔天香山之眞男鹿之肩拔而取天香山之天波々迦而令占合麻迦那波而天香山之五百津眞賢木矣根許士爾許士而《アメノカクヤマノマヲシカノカタヲウツヌキニヌキテアメノカクヤマノアメノハヽカヲトリテウラヘマカナハシメテアメノカクヤマノイホツマサカキヲネコシニコシテ》云々|天字受賣命手次繋天香山之日影而爲鬘天之眞拆而手草結天香山之小竹葉而《アメノウスメノミコトアメノカクヤマノアメノヒカケヲタスキニカケテアメノマサキヲカツラトシテアメノカクヤマノサヽハラタクサニユヒテ》云々と見えたる香山は一處の名とは聞えす加具は蔭と通ふ言にて何處にも山を稱へたる號なるへし蔭とは枝葉の茂く隱りかなるを云り同記【中卷】玉垣官段に縵八縵とあるは橘の枝葉なからにあるをいひ此集七卷に片岡之此向峯椎蒔者今年夏之陰爾將比疑とよめるは夏になりて茂く大小ならむかと云るなり然れは蔭山とは茂く蔭ある山と云意の稱號《タヽヘナ》なるへし下なる藤原(ノ)宮(ノ)御井歌に日本乃青香具山者日經乃大御門爾春山跡之美佐備立有畝火乃此美豆山者日緯能大御門(23)爾彌豆山跡山佐備伊座耳高之【高は爲の誤なるへし】青菅山者背友乃大御門爾宜名倍神佐備立有とよめる青香具山も※[木+若]山青菅山と對へれは青蔭山の意につつけたるか然見れは味深しこは御井の哥なるに四方の山々を云るはいかにと云に水はすへて木のある地より出れはにて末を常に有米御井之清水と結《トメ》たり如是れは※[木+若]山青菅山なと云るは專と井にかゝる詞にて蔭と云こといと由ありて聞ゆ又加具山と云は天上なるも此國なるも同し稱號《タヽヘナ》にて彼迦具士神に由ある事には非るへし【上に引る古事記石屋戸段傳八(ノ)卷卅(ノ)葉伊邪那美神の神避坐處に金山毘古金山毘賣波邇夜須毘古波邇夜須毘賣ありて次にかの大和の香山の事見ゆ然るに彼香山に埴安てふ地名あり此《コヽ》に金山の名あり彼此を合せて思ふに本この山の名は彼迦具士神に由あるにや猶熟考へしとありこは實に云れたるが如しされと天上なる香山は一處ならさるへけれは迦具土神に由ありて聞ゆるはおのつからたま/\合へるなるべし】さて古書ともに天上《アメ》の故事の見えたる山をいへは天香山《アメノカクヤマ》河をいへは天安之河《アメノヤスノカハ》【書紀に天(ノ)八十(ノ)河古語拾遺に天(ノ)八|湍《セノ》河なとも見ゆ皆同しかるへし】とのみありて一(ツ)も他名《アタシナ》の見えぬも一處ならさる證なり【天高雲《アメノタケチノ》眞名井なとも然なるへし書紀に堀2天(ノ)眞名井三處1ともあれはなり】然れは香山は蔭山また安之河は彌瀬之河なるへし【此國の香山は一處なるから天上のをも然りとそ思ひそめけむ】さらは此國にても加具山一處に限るましきことなれと天降りし山故に彼天上なる名を負せ傳へしにて伊豫のは國も異なるからたゝ天山と云傳へしなるへし二に天降付天之芳來山云々七に昔者之事波不知乎我見而毛久成奴天之香具山その外も多かり又此下なる天智天皇の大御哥に香山畝火耳梨三山妻爭乃故事をもよみまし三に天隆就神乃香山ともありて神と座す山なるを【後紀に延暦廿四年十二月丁巳勅大和國畝火香山耳梨等山百姓任意伐損國吏寛容不加禁斷自今以後莫令更然また三代實録に貞觀八年七月二日發遣高山祭使從四位下行大學頭潔世王外從五位下行音博士清内宿禰雄行等なと見ゆさて古くも香山寺と云ありて官《オホヤケ》に重《オモミ》せられしこと續紀天平勝寶元年閏五月より見え初て中昔にも時めきたる寺なり是も美しき山なるから例の僧《ホウシ》の我山にはしたりけむかし】今はことの外に淺《アセ》たまひにたりとか歎かはしきことになむ
 
2 山常庭村山有等取與呂布天乃香具山騰立國見乎爲者國原波烟立籠海原波加萬目立多都※[立心偏+可]怜國曾蜻島八間跡能國者《ヤマトニハムラヤマアレトトリヨロフアメノカクヤマノホリタチクニミヲスレハクニハラハケフリタチコメウナハラハカマメタチタツウマシクニソアキツシマヤマトノクニハ》
 
山常庭は大和爾者なり常を登の假名に用ふるは此字の訓を假れるなり此字を常に登許とのみよめとも精しくいはゝその登許は止處《トコ》なり止は惣て定まりて不遷《ウツラヌ》を云り止《トマル》留《トマル》なとの麻流は辭にて體《モト》は登の一言なり。。辭《テニヲハ》
(24)頭註。。書紀釋に引たる弘化私記序にも古語謂居住爲v止《トト》とあり
に用ふる登も此もしあれは詞の結《ムスヒ》その下に及はて止まるも即しかり又|家處《ヤト》【宿なり】釜處《カマト》【竈なり】なとも其ところと定まりて不遷《ウツラヌ》を云り又|門《ト》も家の固《カタメ》なれは濫に入來ものを止むる構なり【古事記に千引磐を稱へて塞坐黄泉門大神と云る事見ゆ】十三に月日攝友《ツキモヒモカハリユケトモ》久經流三諸之山礪津宮地又仁徳紀孝徳紀に車駕《スメラミコト》還v宮《トツミヤニ》清寧紀に天皇崩2于|宮《トツミヤ》1なと訓りこれら外《トツ》宮の義に非ることおのつから明らけし然れは常《トコ》は止處《トコ》なるに又彼床も通ひて一言なり【所も常呂又床呂にて呂は家《イヘ》呂|嶺呂《ネロ》なとにおなし】神牀船床筏之床の類も其物の處と定まり在を云(ヒ)夜床も通霄《ヒトヨ》とゝまる處なり然れは登の一言に常なる義《コヽロ》ある故に此字を登と訓て【六(ノ)卷神龜元年幸于紀伊國時哥に和期大王之|常《トツ》宮等仕|奉流《マツレル》左日鹿野由云々二十に東常宮《ヒムカシノトツミヤ》なとあるは外《トツ》宮なるを常(ノ)字は借りてつかへるなり】假名には用へるなり○村山有等は群山雖v有なり等(ノ)字を濁音に用へる例《コト》集中に多し○取與呂布 取は輕く添る言の如《コト》聞ゆめれと精くいはゝ義《コヽロ》ありてたゝ與呂布と云とは異なりまつ取とは手に取を本にて萬に手してものする業《ワサ》を取《トリ》云々と云り取装取締なとの如し取與呂布も手して取よろふか如き形容《アリサマ》を云詞なり万葉考(ニ)云|宜《ヨロシ》てふ言は物の足り備はれるを云與呂豆與呂比なとも此《コレ》より別れたる言なり取與呂布天乃香具山とあるも此山のよろつとゝのひ足たるを云るなり又宜奈倍吾背乃君なと云るも同しとあり鎧と云物も體《ミ》の限とゝのへたるよしの號【俗に具足とも云り】齊明紀に弓矢二具《ユミヤフタヨロヒ》源氏(ノ)物語なとに御厨子一よろひとあるも一具を云るにて意得へし○天乃香具山 天は阿米と訓へし古事記【中卷】倭建命の御哥に阿米能迦具夜麻とあり【阿麻と云ることは古に聞えす】○騰立 能煩留は長《ノフル》とも通ふ言にて高《タカキ》に進《スヽム》を云り【阿賀留とは少し別なり】立《タチ》は既に騰り竟《ハテ》て立《タチ》なり【出立なとの立には非す】繼體紀哥に美母盧我紆賣※[人偏+爾]能朋梨陀致倭我彌細磨云々○國見乎爲者 國見とは高き地に登て國内を望放《ミサクル》を云り神武紀に皇輿巡幸因《スメラミコトメグリイテマスナチミニ》登《ノホラシテ》2腋上※[口+兼]間丘《ワキノカミノホヽマノヲカニ》1而|廻2望《ミサケマシテ》國状《クニカタヲ》1曰《ノリタマハク》妍哉乎國之獲矣《アナニヤクニヲエツ》云々と見えたるを始にて御世々々に見えたり又|國守《クニノカミ》なとも其《ソノ》部内《クヌチ》にて國見せしこと三また九の卷なとに見ゆ諸國《クニ/\》に國見山國見(ノ)丘《ヲカ》なと云地のあなるは其跡なるへし○國原波 (25)原は遙《ハロ》○廣く平《タヒラ》なる地を云り天原海原河原野原
頭註 ○と一言にて【平《ヒラ》廣《ヒロ》ともかよへり】
葦原なとの如し【人の腹も同し又祝詞に※[瓦+長]腹滿雙※[氏/一]とあるは此《コノ》器《モノ》のふくらみたる形《サマ》の腹に似たれはなり】國原とは山なとも無くて純《モハラ》國と云へき地なり○煙立籠 籠(ノ)字を龍とある本《マキ》は誤なり國内《クヌチ》の家群《イヘムラ》けふり立籠て富饒《ニキヒ》たるさまなりさるを籠《コメ》と云|一語《ヒトコト》にて思はしむる御詞用《ミコトハツカヒ》かしこけれといとめてたし古事記高津宮段に於是天皇登高山見四方之國詔之於國中烟不發國皆貧窮《ココニスメラミコトタカヤマニノホリマシテヨモノクニヲミシタマヒテノリタマヒツラククヌチケフリタタスクニミナマヅシ》云々|後見國中於國滿烟故爲人民富《ノチニクヌチヲミシタマヘハクニヽケフリミチタリキカレオホミタカラトメリトオモホシテ》云《》々五(ノ)卷貧窮問答(ノ)歌に可麻度柔播火氣布伎多弖受許之伎爾波久母能須可伎弖飯炊事毛和須禮提云々源氏(ノ)物語蓬生(ノ)卷に【常陸(ノ)宮の荒たるさまを】けふり絶て哀にいみしき事多かりなと見ゆ○海原波 海原は香具山の麓なる埴安池《ハニヤスノイケ》なり此池古はいと廣かりしよし万葉考に見ゆさてこは池の廣かるを海に見なして詔へるに非す宇美は大水《オフミ》と云ことにて【大を於保とは云はで於布としも云よしは凡て廣きを云ときは於布と云て於保とは云ることなしこれおのつから別《ワキ》あることと知られて河内國を大《オフシ》河内國と云る大《オフシ》は河につゝける言に非す國にかゝる大《オフシ》にて淀河の内なる國原を云れは於布志と云り河の大《オホキ》なるよしならはたゝに於保加布知と云へし集中に三吉野の大川《オホカハ》とよめる哥は多かれと於布志とは一(ツ)も云ることなし又|凡《オフシ》河内國とも書たる凡(ノ)字も常にオホヨソ又スヘテなと汎き義《コト》に用たり又押並而の押も於布志なるよし上の十一葉に云り又魚と云名も大尾《オフヲ》の約にて尾の廣より號けたること鰭之廣物鰭之狹物と云にても知へし○されはこれらを思ひわたして廣き方には於布と云ことを知へきなり】海は更なり池沼にもあれ廣く湛へたる
頭註 ○又仁徳紀に全※[袴の旁+包]《オフシヒサコ》とあるも大の意には非す
水を云|号《ナ》なり湖水を淡宇美又水宇美と云も同し海は其中に殊れて大水《オフミ》なるからおのつから名となれるものなりたゝ河のみは流るゝ水にて類異なる故に宇美とは云ることなし三に獵路池にて皇者神爾之座者眞木之立荒山中爾海成可聞○
頭註 ○詠不盡山歌に石花海跡名付而有毛彼山之堤有海曾なとよめるも爰と同しく宇美は大水《オフミ》の意にて海に關る哥には非す海と書るは皆借字なりさて宇奈波良は宇美乃波良を省ける語《コト》なり【宇の一言に之原の添へるには非す但し海潮《ウシホ》ともいへは宇の一言を海の本義《モトツコヽロ》かとも思へとなほ宇美志保の省にそあらむ】崇神紀に開《ホル》2池溝《ウナテヲ》1【なほ彼紀におほし】とあるは言《コト》も義《コヽロ》もこゝの海原に同しこれらを以て思ひ明らむへきことそ然るを昔よりの注|等《トモ》みな海と云ことに惑ひて詳《サタカ》に説《トケ》る物(26)なく果は難波(ノ)海を云そなと甚《イミ》しき強説さへ出來にたるは皆其本に暗けれはなりけり○加萬目立多都 加萬目は鴨群《カモムレ》の約にて鴨の多く群《ムレ》たるを云り三に天降付天之芳來山霞立春爾至婆松風爾池浪立而櫻花木晩茂爾奧邊波鴨妻喚邊津方爾味村左和伎云々かく鴨妻と味村と對へ云るにて知へし鴨妻ハ鴨群《カモムレ》味村は味群《アチムラ》なれはなり【味は此鳥の名なり】然るを諸注に加萬目を鴎そと云るは甚しき非《ヒカコト》なり右の三(ノ)卷なるは全く此哥とひとつ埴安池をよめるに鴨妻と味村を對はせ反歌に人不榜有雲知之潜爲鴦與高部共船上住とよめるも味鴦高部みな鴨と同し類なれは鴨を除《オキ》て鴎を云へきに非す況《マシ》て鴨こそ池には相應《フサハシ》く聞ゆれ立多都は鴨群の多く飛立なり凡て同言を重ぬるは事を甚《イミ》しく云ときのわさなり言々而戀々而なとの如し然《サ》るにても鴨群なることを思定へしさて此一句なにの殊なるとは無けれと地勢《トコロ》の盛れる状を限なく詔ひ顯したる御詞用《ミコトハツカヒ》いはゝ中々なるへしさてこは上の煙立籠に對はせ給へる一句にて此《コノ》一首《ヒトウタ》の兩眼《フタツノマナコ》なれは上に説《イヘ》ることを考合《カムカヘアハセ》見て熟らに味はふへし上代の哥のめてたきはかく言少に得もいはぬ味を含めり後世まさにかゝらむやは○※[立心偏+可]怜國曾 宇麻斯とは凡て情《コヽロ》に好美《ヨミ》することの言語《コトハ》にも云難き味なるを云り○食物《ヲシモノ》を旨《ウマシ》と云(ヒ)熟睡《ヨクイヌル》を宇麻伊と云なとも是なり味織之稜と續くる語《コト》も巧に
頭註 ○そはまつ夫婦※[しんにょう+構の旁]合《ミトノマクハヒ》と云麻具波比は甘美咋合《ウマクヒアヒ》なり又
織なせる文の詞も及はぬを云(ヒ)古事記海神宮段に味御路《ウマシミチ》可怜小汀《ウマシヲハマ》と云るは水中なる御路小汀にて奇異《クス》しけれは詞も及はぬ義《ヨシ》の號《ナ》なり又神名人名にも宇麻志と云(ヒ)又|貴人《ウマヒト》とも云は大《イタ》く稱へたる號《ナ》なり※[立心偏+可]怜《ウマシノ》字も然《サ》る意して書り【此字を阿波禮又於毛志呂にも用《ツカ》へるそも言(ヒ)取かたき情《コヽロ》を云|語《コト》なれはかよへり】此《コヽ》は大御心に國を大《イタ》く美《メテ》たまへる詞なり○蜻島は國號考(ニ)云古事記に大倭帶日子國押人命|坐《マシ/\テ》2葛城(ノ)室《ムロノ》之秋津島(ノ)宮(ニ)1治《シロシメキ》2天下1也と見え書紀にも此御卷に二年冬十月遷2都(ヲ)於|室《ムロノ》地1是(ヲ)謂2秋津島(ノ)宮1と有てもと此孝安天皇の都の地名なり彼神武天皇の猶2如《コトシ》蜻蛉之臀哈《アキツノトナメセル》1と詔へりしは即(チ)此地のことにて彼|大詔《オホミコト》より起れる名なり腋上も※[口+兼]間丘も室も皆相(27)近き處にて大和國葛上郡なりさて孝安天皇の百餘年《モヽトセアマリ》久しく敷座りし京師《ミヤコ》の名なるから秋津島倭とつゝけて云ならひその倭に引れて遂に天下の大名にもなれることは師木島と全《モハラ》同し例なりとあり此《コ》は大和につゝく枕詞の如し【此例つね多し】○八間跡能國者 大和國は※[立心偏+可]怜國そとうち返して意得へし○一首の意は大和國は山多かれと取宣へる香具山に登《ノホ》り幸《イテマ》して國見したまへは陸處《クヌカ》ハ煙り籠めて富饒《ニキヒ》たり水處《ウミカ》は鳥等《トリトモ》おほく飛立て地勢《トコロ》も盛《ミサカリ》に見ゆ大和は可美き國なるそとなり
 
天皇遊獵内野之時|中皇《ナカノキミノ》命使間人連老獻御歌
 
内野は大和國有智郡にあり【冠辭考たまきはるの條(ニ)云和名抄同郡阿陀郷ありて中昔(ニ)あたの大野と云るも此野なり上古は郡(ノ)名のまゝに字智野と云しにて近江國蒲生郡の野を蒲生野と云類なるへし野雁云阿太○】神名帳有智神
頭註、○乃大野此集十卷に見えたり
社諸陵式(ニ)有智陵【皇后井上内親王】なとも同郡なり又味師内宿禰建内宿禰兄弟の居住る地も同郡にて名の内も地名を負けむよし古事記傳【廿二卷十五葉】に見ゆ文武紀即位二年二月丙申車駕幸字智野慶雲三年二月丁酉車駕幸内野なと見えたり中皇命は當代の皇女なり舒明紀に立寶皇女爲皇后后生二男一女一曰葛城皇子【近江大津宮御宇天皇】二曰間人皇女三曰大海皇子【淨御原宮御宇天皇】と見えて三柱坐す中の皇女なる故に中皇と申せりさて後に孝徳天皇の皇后《オホキサキ》になりましたる故に此《コヽ》に命とあり【皇后皇太子に命と申す此集の例なり】間人連老は孝徳紀【白雉五年二月の條】に見えて詳《サタカ》なる傳《コト》はなけれと此皇女の又の御名間人皇女とも稱《マヲ》すによらは御乳母方の人なるへし乳母の姓を御名につくるは古《イニシヘノ》例なり
 
3 八隅知之我大王乃朝庭取撫賜夕庭伊縁立之御執乃梓弓之奈加弭乃音爲奈利朝獵爾今立須良思暮獵爾今他田渚良之御執梓能弓之奈加弭乃音爲奈里《ヤスミシシワカオホキミノアシタニハトリナテタマヒユフヘニハイヨセタテヽシミトラシノアヅサノユミノナリハスノオトスナリアサカリニイマタヽスラシユフカリニイマタヽスラシミトラシノアツサノユミノナリハスノオトスナリ》
 
八隅知之我大王乃 此語ハ冠辭考古事記傳【廿八卷十一葉】に詳《アキラ》かに見ゆ二書を考合て知へし今此に約めていはゝ安見爲《ヤスミシシ》我大皇にて安|見《ミシ》は天下を安く知しめすなり見《ミシ》は食《メシ》と通ふ古言にて聞食知食の食に同し然れば安見《ヤスミシ》は安食《ヤスメシ》なり。。
頭註。。續紀十五歌に夜須美斯留和己於保支美とあるは安見(28)知にて知は知食の知に同し八隅知の義には非す誤ること勿れ
我大王の我は親みて云|語《コト》にて我兄我子なとの如し意富伎美とは天皇より皇子諸王に至るまて總て皇胤《ミスチ》を申す語《コト》なりさて安見は天下を知しめすことなるを凡《タヽ》の皇子等にも申すは【集中に見ゆ】當らさるに似たれと共《ミナ》日神の御末にて同し大家《オホヤケ》に座せは然申すに何事かあらむ○朝庭は朝爾者なり朝は明時《アシタ》なりと本居大平云り又荒木田神主久老云世に往《ユキ》しな來《キ》しな寐《ネ》しななと云|語《コト》を土佐國なとにては往《ユキ》しだ來しだ寐しだと云といへり雅言にゆくさくさなと云さも此したの約言なるへしあしたと云も明《ア》したなり是を約めてあさとも云りしたしな通ふ例ははたすゝきはなすゝきなとの如ししたは古言にて万葉十四にとほしとふこなのしらねにあほしたもあはのへしたもなにこそよされ同卷に猶あり廿にひなくもりうすひのさかをこえしたにとあるも越しなになり【已上信濃漫録】と云るにて此語《コノコト》いよゝ明らけし又肥前風土記の哥にも志努波羅能意登比賣能古袁佐比登由母爲禰弖牟志太夜伊幣爾久太佐牟【篠原之弟娘之子乎眞一夜母率寢而牟時哉家爾將下なり】なと見えたり○枚撫賜 撫は等閑ならす持愛《モチウツクシミ》たまふなり○夕庭 由布辨は夕方《ユフヘ》【俗言にゆふかたと云り】にてひろくゆふくれを云り○伊縁立之 伊は凡て上に冠らしむるも下に添るも事を強むる語なり然るをたたに發語助辭とのみ見るは精しからす必|主《ムネ》とあることにのみ云こと集中古事記書紀なとの※[うがんむり/取]《イト》古き哥等にて知へし【又如黒き髪加青なる玉藻なとの加眞|備《ツフサ》眞中なとの麻|左宿《サヌル》左迷《サマヨフ》なとの左多|助《スク》多|回《モトホル》なとの多も同し】爰のは縁《ヨセ》と云ことを強むる伊なりさるは上の取撫に對ひて大御身の側さらす寄立たまふよしなり立之は立而之なるを而|字《モシ》を省るは二卷に定之水穗之國乎なとの如し○而はしはらく落居る辭また之は過去(ニ)し辭なり
頭註、 ○二に去年見而之三に殖而師故ニなとありて
○御執乃 弓を御執と云は劍を御佩衣を御服と云に同し古は武事《タケキワサ》を重《ムネ》とせられしかは天皇も弓矢を離たせ賜はす日夜《ヨルヒル》大御身に近つけて手馴《タナラ》し賜ひしこと上の四句にて知へし○梓弓之 梓は和名抄に孫※[立心偏+面]切韻云梓木名楸之屬也和名阿豆佐とあり其木桐に似て葉も似たり(29)と云り梓弓は此木を以て作れる弓なりかくて古は弓には多く此木を用ひたりし故に何の木となくたゝ弓のことをも常に梓弓と云なれて集中弓と云へきを梓弓とよめるも多かれと此《コヽ》は下旬に梓能弓之とあれは梓なること明らけし兵庫寮式にも御梓(ノ)弓一張と見えたり○奈加弭乃 加は利(ノ)字の草體を誤れるにや然らは嶋弭なり二に取持流弓波受乃驟三雪落冬乃林爾飄可母伊卷渡等念麻低聞之恐久ともあり○音爲奈利 此奈利は祭《オシハカ》る辭なりこは弭軒《ユハス》の響《オト》にて天皇よと察り奉《マツ》らすなりさるは天皇の御料は弓矢も殊に勝れてそ有けむ○朝獵爾は下に云へし○今立須良思 立は獵に立給ふなり【出立たまふにはあらす】良思は祭《オシハカ》り決《サタム》る辭にて良牟とは同しからす【良思は今言《イマコト》に云々ラシイと云りラシイは良思伎の音便なり良思伎は古言にて二の十四葉に出ツ又良牟はたゝに察るりみの辭にて今言に云々デアラウと云りアラウは阿良牟の音便なり】今そ立たまふなるへきの意なり○暮獵爾 朝獵暮猟は詞の文《アヤ》のみにて別意《コトコヽロ》はあらさるへし朝宮夕宮朝座夕庭の類ほかにも多けれはなり○御執 此《コヽ》に乃|字《モシ》を省るは上に照して訓法《ヨミサマ》を知らしむる意しらひなりさて此より末句まては全く上と同し言を折返して一首の意を深めたるものにして古哥に多かり○梓能弓之 此《コヽ》に能|字《モシ》を加《ソヘ》たるも上の如し○一首の意は御父天皇の日夜御側にて手馴しましゝ御執乃嶋弭の響《オト》とそ聞|奉《マツ》るは今そ御獵に立賜らしと察《オシハカ》り奉《マツ》るとなり
 
反歌
 
こは長哥に云る意を二度反してよめるよしの名にて漢樣に設たるなれは加敝斯宇多と訓はわろし
 
4 玉刻春内乃大野爾馬數而朝布麻須等六其草深野《タマキハルウチノホヌニウマナメテアサフマスラムソノクサフカヌ》
 
玉刻春は久老神主の説に玉は借字にて程の義なり十八(ノ)卷散逸鷹歌に知加久安良婆伊麻布都可太末【未と書るは誤なり】等保久安良婆奈奴可乃宇知波須疑米也母とある太末は程と云ことなり然れは玉刻春は程來經麁玉は新程玉坂は程避【源氏物語末摘花卷にたまさかれたまふと見ゆ】邂逅《タマ/\》は程經て稀なるを云言玉由良も程經ることゝ聞ゆれと由良は未思ひ得す【野雁云由良は緩《ユラ》なり古事記甕栗宮段大御哥に意富枝美能許々呂袁田良美とありさて程緩《タマユラ》は程經ることにて間《アヒダ》の緩《ユル》なるよしなり】野干玉ハ東語に寐るを奴麻流といへは奴婆は奴麻なり玉は程にて寐る程の夜とも夢とも月ともつゝく枕詞なり又夜は闇き意より黒と(30)もつゝけ妹とつゝくるは寢《イ》の一言にかかれり又|黒馬《コマ》の來る夜とつゝけるは黒馬にかゝれるに非す夜に係れるなり【已上槻落葉別記】とあり此説に從《ヨル》へし大神宮儀式帳に玉岐波流礒宮とあるも年月日時の來經急にかゝれるなりさて宇知とつゝく意は顯現《ウツ》なりそハ現身現世なと云て人の此世に生てある程を云り故《カレ》命とも世ともつゝけ内限なと云は現世の限とつゝく意なり
○内乃大野爾 大野はたゝ大なる野と云○二に宇陀乃大野又越乃大野七に春乃大野ともあり
頭注、 ○ことなから意ありて用ひたまへり其由は末に見ゆ
○馬數而 數(ノ)字は義《コヽロ》を得て書り集中馬副而馬並而馬雙而馬屯而なとありて並らへてなり○朝布麻須等六は此時朝なりけれは鳥の多からむことを含めり二に鳥自物朝立伊麻之※[氏/一]九に朝鳥之朝立爲管十三に群鳥之朝立往者なとありて鳥は朝立ものなれはなり踏《フマス》は六に朝獵爾十六履起之夕狩爾十里※[足+搨の旁]立とある如く獵に關る語なり然れは朝と云(ヒ)踏と宣へ此《コノ》一首《ミウタ》の眼かりるな等閑に勿見過しそ○其草深野 其とは二(ノ)句の内の大野をさす詞なり草深野ハ此も鳥の多からむことを合めり草深き處に鳥は籠れはなり六に御獵曾爲立春之茂野爾この茂野も同し○一首の意は天皇《オホキミ》は御馬《ミマ》を並へて宇智の大野の草深野に朝獵したまふらむよ鳥等いかに多く獲たまふらむ己は女《メ》にしあれは御供につかへまつらぬことよとなりさて此御哥に大野と云(ヒ)馬數而と云(ヒ)朝踏と云(ヒ)草深野と宣へるは悉《ミナ》御獲物の多からむことを察りまをし給へる巧なるを顯露《アラハ》ならすかすめて宣へるほとめてたさ申さむ方そなきかくて御身《ミミ》つからの羨しさをもいはて含ませ給へりけむ御情《ミコヽロ》ふかさを思ふへし此御歌得給へる天皇の大御心には然《サ》こそ愛《メテ》たく思ほしたりけめと千年の今に偲ひ奉るなり凡て此皇女命の御哥は悉《ミナ》かくさまの底巧なむ有けるいま次々に説《イフ》へし
 
幸2讃岐(ノ)國|安益《アヤノ》郡(ニ)1之時軍王見山作歌
 
舒明紀に十一年冬十二月己巳朔壬午幸于伊豫温湯宮十二年夏四月丁卯朔壬午天皇至自伊豫と見えて別《コト》に(31)讃岐へ行幸《イテマシ》は無れは伊豫の路並《チナミ》に讃岐へも幸《イテマ》しゝにや然《サ》る例《コト》も多かりさて軍王見山の四字は決《ウツナ》く誤と見ゆさるは此歌に見山と云意の詞なく【山風に催されて家を偲《シヌ》ふとこそあれ】軍王もおほつかなきさまの名なれはなり【或人軍王は田邑王と訓へきかと云りそは神功紀に三軍《ミタムラ》なとも見えて屯聚《タムロ》の義《コヽロ》なれは愛らかなる考なれと然《サ》る人も見出す】こは熟く考へきことそ
 
5 霞立長春日乃晩家流和豆肝之良受村肝乃心乎痛奴要子鳥卜歎居者珠手次縣乃宜久遠神吾大王乃行幸能山越風乃獨座吾衣手爾朝夕爾還此奴禮婆丈夫登念有我母草枕客爾之有者思遣鶴寸乎白土綱能浦之海處女等之燒鹽乃念曾所燒吾下情《カスミタツナカキハルヒノクレニケルワツキモシラスムラキモノコヽロヲイタミヌエコトリウラナケヲレハタマタスキカケノヨロシクトホツカミワカオホキミノイテマシノヤマコスカセノヒトリヲルワカコロモテニアサユフニカヘラヒヌレハマスラヲトオモヘルワレモクサマクラタヒニシアレハオモヒヤルタツキヲシラニツヌノウラノアマヲトメラカヤクシホノオモヒソヤクルワカシタコヽロ》
 
霞立 霞は和名抄に唐韻云霞赤氣雲也和名加須美とあり古事記傳【卅四卷卅四葉】云加須美と云名は赤染《アカソミ》の義《コヽロ》なり霞みたる天《ソラ》は朝夕日のかゝよひて赤きものなる故に云なるへし【なへては赤くはあらぬ物なれとも朝夕の日(ノ)光に映《カヽヨ》ふところを以て云名なるへし霞|字《モシ》を當たるも其意なり字書に東方赤也とも注せり】とありさて此句何となく春日のさまを見せたり後なれと拾遺集【戀一】に戀つゝも今日は暮しつ霞たつ明日の春日をいかてくらさむとよめるに同し又六に露霜乃秋去來者とある趣も似たり【露霜のと云るはかりに寒き情《コヽロ》具《ソナハ》れり】○長春日乃は異なることなし○晩家流 晩《クレ》は闇《クラ》黒《クロ》なとと通ひて本一言なり又齊明紀の大御哥うしろもくれに【闇《ヤミ》と云に同し闇《ヤミ》は止なり】なとあるも同く意かよへり○和豆肝之良受 和豆伎は分着《ワツキ》なるへし手着の着に同し長日の晩ぬると云|分別《ワキタメ》も不知なり十一に月之有者明覽別裳不知而十二に出日之入別不知云々なとありさて此和豆伎と云|語《コトハ》他《ホカ》には見あたらぬを猶よく考へし○村肝乃は心の枕詞なり此《コノ》説《コト》古事記傳【卅六卷卅四葉】に詳《ツハラカ》なるを此《コヽ》には約めて云へし村肝ハ群肝にて腹内《ハラヌチ》のいはゆる五臓六腑と云物は群りたるよしの言なり然れとも人の腹内《ハラヌチ》なとを屠《ホフリ》て見るものにあらぬを古事記高津宮段大御歌に意富韋古賀波良邇阿流岐毛牟加布許々呂袁陀邇迦云々とありて猪《ヰノコ》なとをは屠て見ることのあるより云初《イヒソメ》たる語《コト》なりさて心につゝくるは凝々《コり/\》なり心と云名も凝々の約なるよしは海菜の心太《コヽロフト》を式和名抄なとに凝海菜《コルモハ》とありて凝たる物の名又神代紀に田心《タコリ》姫なとあ(32)るを以知へし【野雁云伎毛は久牟と通ひて群りたるよしの名なり】とあり○心乎痛 痛の美は其《ソノ》形容《サマ》を云言なり故《カレ》○伊多ハ善事にも惡事にも惣て有へきに過て甚《ハナハタ》しきを云り【物語書なとに物の爲《シ》さまなとをほめていたしと云ることあり又めてたしも愛痛なり
頭注、 ○痛さにと意得て聞ゆ惣て山高み月清み風を痛み浪を畏みの類乎もしは有も無も同しさて
さる中に喜はしき事樂しき事なとの過たるはさしも思はれすして慨《ウレ》はしき事悲しき事なとは深く切なる故に主《ムネ》と愁の方に云つつ心乎痛と云て愁とは聞ゆるなり○奴要子鳥は裏歎の枕語なり奴要は和名抄に唐韻云※[空+鳥]恠鳥也漢語抄云沼江とあり其烏は未詳《イマタサタカ》ならす二に綾爾憐宿兄鳥之片戀嬬五に奴延鳥乃能杼與此居爾十に久方之天漢原丹奴延鳥之裏歎|座《ヲリ》津乏諸手丹 吉哉雖不直奴延鳥浦嘆居告子鴨十七に奴要鳥能宇良奈氣之都追思多戀爾於毛比宇良夫禮古事記八千矛神御哥に阿遠夜麻邇奴延波那伎佐怒都登理岐藝斯波登與牟爾波都登理迦祁婆那久なとある喉呼《ノトヨヒ》裏歎《ウラナケ》は彼か聲の高くさやかならす隱嶋《シタナキ》するを云て同記遠飛鳥宮段の哥に波佐能夜麻能波斗能斯多那岐爾那久とあるに同しさまなれは聲はいかにもあれ鳩なとの如く隱鳴する鳥なるへし名義《ナノコヽロ》も同記沼河日賣哥に怒延久佐能賣邇志阿禮婆と見えて那由流那夜牟志那延宇良夫禮なともいへは嶋聲より負るにて奴要子鳥は奴要聲鳥なるへし【喚子鳥も喚聲鳥にて同例にそあらむ世に呼子笛と云物も人を呼集ふる料《モノ》なれはなり子の義《コヽロ》にはあらし】又右に引る古事記の御歌によれは山鳥《ヤマツトリ》にてやゝ曉に鳴ものと聞ゆよく人に問定へし【冠辭考に云れたるものは當らし其故は高く鳴と云(ヒ)猿樂の笛のひしぎと云音に似たりとあるなとの古歌に喉呼裏歎ともあるにかなはねはなり】○卜歎居者 卜は裏の借宇なり歎《ナゲ》は字の如しさてこは從駕《ミトモ》のたひなる故に家を偲《シヌ》ふ情《コヽロ》を顯し難《カネ》てなり○珠手次【次は借字なり天武紀に次此云須岐とありて次《ツキ》を云古言なり中昔のり物にもすき/\なとおほく見ゆ】は懸の枕詞なり珠とは古は何物《ナニ》にもあれ珠を装飾れること多くて【見る目をかされるのみならす音のさやけきをもとれり】珠|衣《キヌ》珠|裳《モ》珠|簾《タレ》の類多かれは【これらの珠をたゝ美言《ホメコト》とのみ思ふはたかへり】此物も然有《シカリ》しなるへし手須伎は手須久比にて衣手《ソテ》を掻上《カヽク》る義《ヨシ》の名なり○懸乃宜久 懸とは言にかくるなり【掛卷毛畏伎なと云りなほ此言義は反歌に云り】玉乃小琴云宜しきとはいはすして久と云るに心をつくへしこは六句を隔て下の朝夕爾還比奴禮婆と云處へかゝ(33)る詞にて一首の眼なりそはいかなる意そと云に旅にては早く本國《クニ》へ歸むことを願ふ物なる故に還と云ことを悦ふなり然るに今行幸能山越風の吾袖に朝夕かへる/\吹來るを懸乃宜久とはよめるなり。。
頭注、。。野雁云俗にエンギガヨイと云こゝろなり
彼業平朝臣のうらやましくもかへる浪かなと云哥をも思ひ合すへし此詞を遠神云々へかけて見るはひかことなりとあり十に子等名丹關之宜朝妻之云々○遠神 天皇は凡《タヽ》人とは遙に遠く尊く可畏く坐すよしの御稱《ミナ》なり○吾大王乃は上【廿九葉】に云り○行幸能 行幸《イテマシ》は出座なり○山越風乃はことなることなし○獨座 これも○吾衣手爾 衣手は即(チ)衣手《ソテ》なり○朝夕爾 聞えたるまゝなり○還比奴禮婆 還比は還りの延語なり○丈夫登 丈夫は眞襲荒男《マスラヲ》なるへし眞は何にまれ美め稱へて冠らしむる語なり襲《ス》は熊襲また葛城襲津彦なとの襲に通ひて健く稜威速き意の言良袁は荒男なるへし十七に安良志乎須良爾奈氣伎布勢良武二十に阿良志乎母多志夜波婆可流不破乃世伎 阿良之乎乃伊乎佐太波佐美なとの荒し男に同く聞ゆ男子《ヲノコ》の雄々《ヲヲ》しき美稱《タヽヘナ》にて手弱女《タワヤメ》と反對《ウラウヘ》なり○念有我母 聞ゆるか如し○草枕は旅の枕詞なり冠辭考云萬葉一に草枕客爾之有者【即(チ)此《コ》の哥なり】こは五に道乃久麻尾爾久佐太袁到志婆刀利志伎提とある如く草を結て枕とするよしにて。。旅には冠らしむるなり此哥は崗本(ノ)宮の御時なるに言馴しつゝけさまなるはいと上代より云る詞なりけり
頭注、。。野雁云草を採《トリ》て枕の如く結《ムス》ひ造りて物するなり
○客爾之有者 之《シ》は數多の中より一(ツ)を取出る辭なり然るをたゝ助辭とのみ見るは精しからす心を着へし爰は丈夫と思へる我も客にてはの意にて客と云ものを一(ツ)取出たる辭なり○思遣は思を遣り放るなり【想像《オモヒヤル》とはことなり】○鶴寸乎白土 鶴寸は手着の借字にて手寄《タヨリ》と云ほとのことなり白土も借字にて知らぬと通ふ言なりされと其意は知らすと云に似て其《ソレ》よりは用《ツカ》ひさま輕し○綱能浦之 臨時祭式に讃岐國綱(ノ)丁《ヨホロ》和名抄同國鵜足郡津野(ノ)郷なと見ゆ○海處女等之 處女は名義小利女なり【小利子に對《ムカ》へる稱《ナ》なり】小は大に對ひて若き方の美稱利は利心なとと聰《サト》き意に云ること多しこは女の若きを云|稱《ナ》なれは集中處女童女未通女なと書るはたゝ若きを主《ムネ》としてなり字にすからはこゝのも男せぬを云そと意得あやまりもすへし海人にさる別《ワキ》はなきことなり六に漁童女とあるも同し○燒鹽乃は下に如と云言も加へて見へし此格常に多かり○念曾所燒 念は用言なり【念のやくると云意には非す】曾は此事を強むる辭なり所燒はやかるゝなり【俗言にはヤケルと云り】互に心爾波母延農なといと多し○吾下情は 【しつこゝろと訓は非なり拾遺集に春はをしほとゝきすはたきかまほし思ひわつらふしつ心かなとよめるは靜心にて異なり】從駕にて家を偲ふことは憚ある故に下情と云り上の裏歎と相證すへし○一首の意はうら/\と【霞立に當れり】長き春日の晩ぬる分別《ワキタメ》も知らすひたすら家を戀ひ隱歎《シタナケキ》をれは行宮なる山ふきこす風の旅の【獨座に當れり】袖に朝夕ふきかること哉さるからにいとゝ催されて其かへると云言すら好《ヨミ》せられつゝ丈夫と念へる我も旅にては懷《オモヒ》を遣り放《サク》る手寄を知らねば此あたりの綱《ツヌ》の海《アマメ》か海女か燒く鹽の如く裏心《シタコヽロ》に家を思ひこかるゝとなり
 
反歌
 
6 山越乃風乎時自見寐夜不落家在妹乎懸而小竹櫃《ヤマコシノカセヲトキシミヌルヨオチスイヘナルイモヲカケテシヌヒツ》
 
時自見は時ならすと云ことの形容《サマ》を【俗に云樣子なり】云り此《コノ》見《ミ》と云辭のこと長哥の心乎痛の處にいへり考合へし古事記傳【廿五卷五十三葉】登岐士玖能迦玖能木實の解《トキコトニ》云(ク)書紀に云々令v求2非時香菓《トキシクノカクノコノミヲ》1云々登岐士玖とは書紀の字の如く其時ならぬを何物《ナニ》にても云萬葉一に山越乃風乎時自見【風の時ならす寒きを云】又三芳野之耳我嶺爾時自久曾雪者落等言三に時自久曾雪者落家流【不盡山の哥なり】又冬木成時敷時跡不見往者【筑波山の哥なり此《コ》は登て見へき時に非すとてと云意なり】四に何時何時來益我背子時自異目八方【何時《イツ》とても時ならすと云ことあらめやはなり】八に非時藤之目頬敷【六月の哥なり】十三に小治田之年魚道之水乎云々時自久曾人者飲云【暑く水飲へき時に非るを云】十八に等枳自家米也母【四(ノ)卷なるにおなし】なとあるにて意得へし【然るを時分す常に變らぬ意に見るはいささか違へり其《ソ》も時ならすと云かおのつから然《サ》も聞ゆるにこそあれ】さて橘子《タチハナ》を然云故は云々時ならぬころにも何時《イツ》もある物なれはなりとあり爰も長哥に長春日とありて四月に還宮《カヘリツキ》ましゝよし紀に見ゆれは其間《ソノホト》の事なりけむを山風の時ならす寒かりしなり山越と云に心をつくへし○寐夜不落 不落は不v漏なり祝詞に嶋之八十嶋墜事無續紀【十(ノ)卷】宣命に漏落《モラシオトス》事母(35)在牟加止云々【俗書におちの無《ナイ》又おちと爲《シ》おちなと云りおちとは漏處なり越度の義にはあらす】一夜も不闕《カヽス》と云意なり○家在妹乎 那流は爾在の約なり妹のことは古事記傳に精し披き見へし○懸而小竹櫃 此懸は此方彼方《コナタカナタ》に亘《ワタ》るを云言なり【言に兼《カク》心に兼《カク》なととは異なり其よしは次に云り】伊勢(ノ)物語にむかし武藏なる男《ヲノコ》京なる女の許に云々京より女武藏鐙さすかにかけて頼むにはとはぬもつらしとふもうるさし此かけても京より武藏を懸てなり又|兼官《カケツカサ》妾《カケメ》なとも二方に亘るを云り【俗《ヨ》にもかけ合かけ持かけ向なと云り】爰も家なる妹を旅より慕《シヌ》ふなれはなり【又長哥の懸乃宜久は言に兼《カクル》にて言《イヒ》かくる問かくる十三に末枝爾毛知引懸仲枝爾伊加流我懸下枝爾此米乎懸古事記に於中枝取懸|八尺《ヤサカノ》鏡なとの如く物に物を兼《カクル》を云て異なりよくせすは混ふへし】小竹櫃は慕焉《シヌヒツ》なり志奴布は志那布と通ひて【○十一に吾妹兒乎聞都賀野邊能|靡合歡木《シナヒネム》吾者|隱不得《シヌヒエス》間無念者】小竹《シヌ》なとの靡《シナ》ひふす如く【小竹《シヌ》も靡ふ義《ヨシ》の名なり】心のしほるゝを云り人を慕《シヌ》ふには然《シカ》あるものなれはなり又|隱忍《カクレシヌフ》も人に知られしとしなひふして顯れぬより云(ヒ)堪忍《テヘシヌフ》も己《オノレ》をしなはしむるにて皆本は一ツ言なり
頭注、 ○三に眞木(ノ)葉乃之奈布勢能山之努波受而
○一首の意は山風の春ともなく寒きに旅の獨宿をしかねて一夜も闕さす家なる妹を遙に慕《シヌ》ひつとなり
 
右檢日本書紀無幸於讃岐國亦軍王未詳也但山上憶良大夫類聚歌林曰紀曰天皇十一年己亥冬十二月己巳朔壬牛幸于伊豫温湯宮云々一書云是時宮前在二樹木此之二樹斑鳩此米二鳥大集時勅多掛稻穗而養之乃作歌云々若疑從此便幸之歟
 
此注は無下に後(ノ)人の所爲《シワサ》なり又類聚歌林と云物も憶良の名を假《カリ》たる僞書《イツワリフミ》なるへきよし萬葉考に論《イハ》れたるか如し一書云云々は伊豫國風土記に見えたる趣なり
 
明日香川原宮御宇天皇代 天豐財重日足姫天皇
 
此天皇後の漢樣乃御謚を皇極天皇とも齊明天皇とも申すそは飛鳥《アスカノ》小墾田宮に天下治しし御代のを皇極と申し孝徳天皇を間て再ひ飛鳥板盖宮また飛鳥川原宮また飛鳥崗本宮に天下治しし御代のを齊明と申すなりかく此天皇にしも二ツの漢樣の御謚あるはいかなるにかあらむ物にも見えたることなきを神皇正統記に云らく我朝(36)に皇極の重祚を齊明と號し孝謙の重祚を稱徳と號す異朝に異れり是天日嗣を重くする故か先賢の義定めてよしあるにやとあれとそは大《イタ》く誤れる説なり其故はまつ孝謙天皇の御事は續紀を考ふるに天平寶字二年八月に寶字稱徳考謙皇帝と申す尊號《オホミナ》は現御代に奉れるにて御謚《ノチノミナ》には非す又孝謙と稱徳と離《ハナ》ちて兩度《フタタヒ》の御名にも非るを【後世の物には孝謙廢帝稱徳とついてゝ見ゆれと其據を知らす】皇極齊明の例に引るは違へり又天日嗣を重《オモミ》せらるゝ故《カラ》に御代|別《コト》に御謚を立られたりとせは正しき皇國ふりの御謚をこそ今一(ツ)立奉《タテマツ》らるへきをや【轉豐財重日足姫天皇と申そ此天皇の正しき大御謚なる】凡て天皇等の御謚は崩りましゝ時に號奉《ツケマツ》る例《コト》にてそは皇國ふりの正しき御謚なり漢樣のは後世にわさと撰られたるものにて素よりの御謚にはあらす【此事は古事記傳十八ノ卷三葉に見ゆ】こはたゝ書もし言もするに便宜からむと漢樣の簡《コトスクナ》きをは撰られけむ當世《ソノヨ》には然《サ》る類の事多し桓武紀に延暦十年三月癸未太政官秦言謹案禮記曰天子七廟三昭三穆與太祖之廟而七又曰舍故而諱新注曰舍親盡之祖而諱新死者今國忌稍多親世亦盡一日萬機行事多滯請親盡之忌一從省除奏可之とあるなとをも思へし一日萬機行事多滯とあるを以も皇國風《ミクニフリ》のいと長やかなる御稱《ミナ》なとを便宜《タヨリヨ》からすと思はれけむ當世ソノヨ》の面影しられたり又書紀(ノ)私記に師説神武等謚名者淡海御船奉勅撰也とあるに時代も合《カナ》へり【古事記傳にも桓武の御時なるへしとあり】これによりて按ふに此天皇に二(ツ)の御謚あるは御代の次第《ツキテ》を別《ワカ》むためにもそあるへきさて此哥は川原宮に御宇《アメノシタシロシメシ》しし間《ホト》の作《ウタ》なり
 辭別《コトワキ》て云む右に引る延暦十年三月癸未の太政官の奏こそ心得かたくはありけれ其故は漢國の格《サタメ》に七廟の余《ホカ》は毀《コホツ》と云(ヒ)舍2親盡之祖1とも云へる起原《コトノモト》は彼《カノ》國習《クニフリ》として萬をきはやかに理めくをたけきことに思へるから國忌なとの細《コマカ》なる禮《ワサ》を定めてこと/\しくもてなせと母そは當時《ソノトキ》の人の意慮《オモヒハカリ》にて世々經るまゝに其事多くなれは甚《イト》煩らしく堪かたかるにより中間《ナカラ》をすてゝ本末をものする禮《ワサ》なり然《サ》るをなほ舍2親盡之祖1とは例の言巧《コトヨ》く云るにこそあれ實には九等《コヽノシナ》の余《ホカ》も皆同し親なるものを其《ソ》をみな舍《スヅ》とは甚々《イト/\》あるましく刻薄《イタ》きわさの極《キハミ》なり然るを皇國にて親子《オヤコ》と云は幾繼に(37)も亘て皆同く親なり【父母は意夜の中に※[うがんむり/取]も親《チカ》き意夜なり父《テヽ》意夜母意夜と云り又|直子《タヽノコ》はみつから産る故に産子《ムスコ》産女《ムスメ》と云りこは子の中に※[うがんむり/取]《モト》も親《チカ》き子なり】故《カレ》皇祖を御意夜皇胤を日之御子と申して萬ことなることなく又國忌なと云ことも元來あることなく大らかにしありけれは萬機に礙《サハ》らふことかつてもあらさる故に萬代に及へと祭祀《マツリ》を絶るゝか如き究迫《セメ》たる禮《ワサ》は旡りけるを彼漢國の虚禮《ソラワサ》をしも信《マコト》にうけられて祀らるる陸墓《ミハカ》の員《カス》を定めて其余《ソノホカ》のをは皆舍られたるから上代の御名高き天皇等のも慥《サタカ》なるいと/\稀なりそも/\今世のはかなき庶人《タヽヒト》すら祖先《オヤ》の知らるゝ限は祀を絶《タツ》ことなけれはかりそめなる墓所《オクツキ》たに常し經に變《カハ》らす在わたるをさしもいみしく造られて永世の山陵《ミササキ》と標《シメ》られたる地《トコロ》をしも荒田の面《オモ》にすきかへしてなこりもなくなりぬるは全《モハラ》この延暦の格《ミサタメ》によることにて甚も甚も可畏きことの眼になむありける
 
額田王歌 未詳 後人の所爲《シワサ》なり
 
天武紀云天皇初娶鏡王女【此王の世系《スチ》は知られす玉勝間櫻落葉卷云鏡王は近江國野洲郡鏡郷に住れてそ然《サ》は號《ナツキ》ましけむ】額田姫王生十市皇女と見ゆさて又天智天皇の東宮《ミコノミヤ》にましけるほとより娶《メシ》たりしことは此集中に往々《トコロ/\》見えたるを天智紀の后妃宮人の列《ツラ》に見えぬは皇子まさゝれはなるへし御名の田も近江の地名と聞ゆるをそは下【二の三十二葉】に云り又鏡女王と申しゝはこの御姉《ミアネ》なり【本集二卷考に云り】
 
7 金野乃美草苅葺屋杼禮里之菟道乃宮子能借五百磯祈念《アキノヌノヲハナカリフキヤトレリシウチノミヤコノカリイホシオモホユ》
 
金野乃 金(ノ)字は秋は五行の金に當ると云漢説《カラコト》より出たり○美草苅葺 美草○と書よしは彼七草と算ふる中に此草はしも花のむね/\しきにはあらすて草のさまのいとめてたけれはなるへし
頭注、 ○は尾花なり名義は穗の状の物の尾に似たるよしなるへし【穗花には非す】美草
又集中に草花《ヲハナ》と書るも草なから花と見ゆれはなり然らすはむねとの草花を除《オキ》て是をしもさは書ましきわさなるを思へしさて此美草を尾花と決《サタ》むるよしは八に御在左大臣長屋王佐保宅肆宴御製 波太須珠寸尾花逆葺黒木用造有室者迄萬代 青丹吉奈良乃山有黒木用造有室戸者雖居座不飽可聞とあるに同く黒木もて造れる宮(38)に【皮のまゝなるを云】尾花を逆葺せられしなり【穗の見ゆへく逆《サカ》に葺るなり】そは行宮の御情やりにわさとの御すさひにそ有ける【玉乃小琴に引て證《アカ》されたる大嘗祭儀式の美草は尾花一種には局らさること美木また雜美草木なとも有を以知へしされは尾花なる證には立さるをや】○屋杼禮里之は宿有しなり【やとりしとはいさゝかことなり】○菟道乃宮子能 菟道は山城の宇治なるへしさて此天皇重祚元年冬より二年冬の頃まて川原宮に御座しゝと見ゆるに其間《ソノホト》何處《イツク》へも行幸の事しるされす是によりて按ふに彼紀は誤られたるにて五年三月戊寅朔幸吉野宮而肆宴焉庚辰天皇幸近江之平浦とある近江へ幸の事なるへし然れとも此《コ》は秋(ノ)哥なれは紀に三月とあるに合ねとそれはた紀の誤と見えたり萬葉考にも此を論《アケツラ》ひて云紀は誤なるへし其故は凡て遠幸には百官御供に仕へまつり經たまふ國々ゆすりていみしき御事なるを一日《ツイタチ》に吉野へ幸して三日に近江へ幸すべきにあらねば紀に五年三月近江へ幸《イテマス》とあるは誤にて二年の秋の幸なりしこと此哥を證とすべしとあるはいとよしある考なり然《サ》らば其時《ソノヲリ》の路次《チナミ》に山城の宇治の行宮にての事をよみませる御哥なるへし。。宮子は宮處にてかりそめにも皇居なる處を云り
頭注、。。新勅撰集羈旅部にあすかかはらの御時あふみにみゆき侍けるによみ侍ける額田王秋の野にをはなかりふきやとれりしうちのみやこのかりいほし思ふと載られたるはよく考へて物せられけり
○借五百磯所念 借五百は假廬なり廬とは假そめなる小家を云(フ)名義まつ伊保は伊保里の省にして伊保里は家居の約なり十に戀乍裳稻藥掻別家居者六爾河口之野邊爾廬而夜乃歴者なとにて意得へくそは實の家ならす假に其状して居よしの名なり居と云に眼を着へしされば旅宿のことに多く旅の廬と云(ヒ)又秋田苅假廬とも云(ヒ)五に布勢伊保能麻宜伊保乃内爾なと云るも淺はかなる小家なり○磯は數多の中より一(ツ)を取出る辭なるよし上【四十四葉】に云り所念は思はると云に同じ
頭注、 ○書紀に軍陣の營を伊保理と訓るもおなし
○一首の意は女王の御身にて彼尾花かりふき宿れりし行宮のあかず今に思ほゆとなりさはあれこゝに一(ツ)疑ひ思ふことありつるは一首《ヒトウタ》の表《ウヘ》は今|説《イヘ》るか如くにて裏《シタ》にこゝろのありけにそ聞ゆるもしくは此王この度は未《イマタ》(39)東宮《ミコノミヤ》に娶れさりし時にて行幸の御供なりけるを此《コヽ》に逢始たまひしには非るか一首《ヒトウタ》の氣調《シラヘ》ふたつの志もしの餘韻《ヒヽキ》も何となく其方《ソノカタ》に通ゆるはあらしか凡て此女王は當時《ソノヨ》の風流人《ミヤヒト》にまして哥は殊に勝れ巧におはしけりさらても古の譬論《タトヘ》哥は皆から隱せりしかはおほろかには得知れぬそ多かりける【神代紀天さかる鄙つ女の云々古事記白檮原宮段畝火山云々なとの類を思へし此集の頃まては然りき】
 
右檢山上憶良大夫類聚歌林曰一書曰戊申年幸比良宮大御歌但紀曰五年春正月己卯朔辛巳天皇至自紀温湯三月戊寅朔天皇幸吉野宮而肆宴焉庚辰天皇幸近江之平浦
 
此《コ》も後人の所爲《シワサ》なり萬葉考【別記】云川原宮に御座《マシ/\》しは重祚元年乙卯の冬より二年丙辰の冬まてなれは戊申の年は無を右の一書はおほつかなしとありさて大御歌と云るも誤なるへしさるは上に云る如く此哥にはことなる意ありと聞ゆるに大御哥としては事のさま違もすれはかにかくに此一書は取用かたくなむ
 
幸于紀温泉之時額田王作歌
 
斉明紀云四年冬十月庚戌朔甲子幸紀温湯五年春正月己卯朔辛己天皇至自紀温湯
 
8 莫囂國隣之大相七兄爪湯氣吾瀬子之射立爲兼五可新何本
 
玉勝間藤靡卷云莫囂は加麻と訓へし加麻を如此書るよしは古に人の物云《モノイフ》を制して阿那加麻と云るを其阿那を省て加麻とのみも云つらむそは今世の俗言にも囂しきを制してやかましと云に同しやかましは囂しと云ことなれはかまと云て莫v囂と云意なりさてかま山と云は神名帳に紀伊國名草郡竈山神社諸陵式に同郡竈山墓と見えたる是なり此御墓は神武天皇の御兄五瀬命の御墓にて古事記書紀にも見えたり神社も御墓も古の熊野路近き處にて今もあり國隣は夜麻と訓へし山は隣の國の堺なる物なれば如此も書へし國字は本には圓とあるを一本に國とあるなり大相は霜の草書を大相の二字と見て誤れるなりそも/\此幸は齊明紀に四年冬十月庚戌朔甲子幸紀温湯とありて霜の深くおく頃なり七兄爪の七は木の誤爪は※[氏/一]の誤なり湯字をも謁に誤れるを一本に湯とあり吾瀬子とは天智天皇の此時皇太子にてまし/\すをさしてよまれたり太子も此幸に供奉《ミトモ》し賜へる趣書紀に見えたりさて額田王は天智天皇乃娶たりし事(40)櫻の落葉卷に云るか如しさるによりて吾瀬子とはよみ賜へるなり爲兼は須賀禰と訓へし此句は此度いつかしか本に立たまふへきことをよみ給へるなり然るをせりけむと訓ては往時の事なれは物とほし五可新何本は竈山神社の嚴橿之本なりかくて此哥は此女王も太子に從奉りて行たまへるにて太子の竈山社に詣たまはむとする日の朝など霜の深くおけるにつきてよみ給へるさまにて一首の意はかくては竈山に霜深くて嚴橿か本に立給ひ難かるへけれは吾兄子か煩なく立給ふへきためにしはし霜の消むを待てゆけかしとなり【以上玉勝間】とありそも/\此哥は故《コトサラ》に異しき字等をすくりて書るからにややゝ古くより訓誤れるさまにて舊訓は得もわかぬことにて有けるを荷田大人の考訂されたるこそ少しよろしけには有しか猶まことにはいとあかぬものにて過ぬるを右の玉勝間の説にて始て明らかになりぬるは彼王も天かけりてうれしと思ほさむかしされと猶思ふに此説にては霜消てゆけと云こと供奉人なとに命する詞になるなりそは吾瀬子之とあるによりてなるへけれと必然にはあらしこは即皇太子に對ひて申し賜ひしなるへさても吾瀬子之と云て宜しき哥なり【吾瀬子與なとはいふましきなり】然るを供奉人なとに係て見るときは行けと云こと少し穩ならす一首の哥からも劣れりよく味はひ見へし
 
後崗本宮御宇天皇代【天豐財重日足姫天皇位後即位後崗本宮】
 
齊明紀云二年云々是歳於飛鳥岡本更定宮地云々遂起宮室天皇乃遷號曰後飛鳥岡本宮と見ゆこは川原宮より遷りまししなり
 
額田王歌
 
9 熟田津爾船乘世武登月待者潮毛可奈比沼今者許藝乞菜《ニキタツニフナノリセムトツキマテハシホモカナヒヌイマハコキイテナ》
 
熟田津は伊豫國にありて古は※[うがんむり/取]《イト》名高き船津なりき【今はいかにあらむ】さて此哥は齊明紀に六年冬十二月丁卯朔庚寅天皇幸2于難波(ノ)宮1天皇方(ニ)隨2福信(カ)所乞之意1思《オモホシテ》2幸2筑紫1將(ムト)3v遣2救軍1而|初《マツ》幸v斯(ニ)備2諸軍器1是歳欲4爲2百濟(ノ)1將《ムト》3v伐2新羅1云々七年春正月丁酉朔壬寅御船西征始(メテ)就2于海路1甲辰御船到2于大伯《オホクノ》海1時大田姫皇女《オホタノヒメミコ》産v女焉仍名2是女1曰2大伯皇女《オホクノヒメミコ》1庚戌御船泊2于伊豫(ノ)熟田津(ノ)石津(ノ)行《カリ》宮1【熟田津此云※[人偏+爾]枳陀豆】云々とある度の事にて天智天皇此時皇太(41)子にて同く奉りし供奉に此王は妃なるからつかへまつられてよまれたるなり○船乘世武登 船乘とは船に乘うつるときを云りそは船の到着ときのことを船泊と云に對へる唱《ナ》なり此下に嗚呼兒乃浦爾船乘爲良武※[女頁感]嬬等之珠裳乃須十二四寶三都良武香【船に乘うつらむとする間に潮來なは裳裾を濡すへしとよめるなり既に乘てあらは裳裾に潮は近つかさるへし】三に百式紀乃大宮人之飽田津爾船乘將爲年之不知久十二に柔田津爾舟乘將爲跡聞之苗如何毛君之所見不來將有【。。これら柔田津爾船乘三津爾舶能利と云り船津なれはなり】七に何處可舟乘爲家牟高嶋之香取乃浦從己藝出來船【何處より乘つる舟そとなり】これらにて知へし又船泊のことは下【五の卅葉】に出
頭注、。。十九に住吉乃三津爾舶能利云々
○月待者 此句潮待者と云へきを月と云替て月を表にせる巧なり潮と共に月は出れはなり○潮毛可奈比沼 此句|裏《シタ》には月も出ぬと云意なるを潮もと云て月を表にせり可奈比沼は船出すへき潮合になりたるを云りこは曉潮《アケシホ》にそありけむ○今者許藝乞菜 今は漕將v出なり乞は出の借字なり允恭紀に闘※[奚+隹]國造《ツケノクニノミヤツコ》從《ヨリ》2傍徑《カタヘノミチ》1行之《ユクトキニ》乘《ノリナカラ》v馬(ニ)而莅v籬(ニ)謂2皇后1嘲之《アサケリテ》曰云々|且《マタ》曰壓乞戸母《イテトシ》其《ソノ》
蘭一莖《アラヽキヒトモト》焉【厭乞此云2異提1戸母此曰2覩自1】皇后則採2一根蘭《ヒトモトヲ》1興2於乘馬者1とありて異提は乞求る語なれはなり菜は今然らむとする辭なりそはまつ奈爾奴禰と活用く言の中に爾と奴とは音の座《スワ》る方なれは【俗《ヨ》に云(フ)落着《オチツク》なり】畢竟《ハテ》の辭にも云(ヒ)【花さき爾けり日出にけり花さき奴月かたふきぬの類なり】過去《スキニ》し辭にも云を【往《イ》爾けりうせ爾けり往《イ》奴うせ奴の類なり】奈と禰と座《スワ》らはぬ音なれは未然らさる辭に云り【春き奈は年のくれ奈は花のさか禰は月のいて禰はの類なり。又|命《オホ》する辭に往《イ》禰|立《タチ》禰なと云も未然らさる詞なり】
故《カレ》奈と云辭は二に君爾因奈名 玉藻苅手名四に行而早見奈五に加射之爾斯弖奈なとみつから然せむとするにも云(ヒ)十七に美知乃奈加久爾都美可未波多妣由伎母之思良奴伎美乎米具美多麻波奈△【奈母と云も云り】○これは他《ヒト》の然せ
頭注、 △佛足石歌に和多志多麻波奈須久比多麻波奈【これらの奈を】○應神紀大御哥に阿伽例蘆塢等※[口+羊]伊弉佐伽麼曳那【髪長比賣を皇太子に賜へる御哥なり佐伽麼曳那は榮輝那にて御若き共《トチ》むつひねとなるへし
むこと云(ヒ)雄略紀歌に阿毎※[人偏+爾]擧曾枳擧曳儒阿羅毎矩※[人偏+爾]※[人偏+爾]播枳擧曳底那こはおのつから然《シカ》有(ラ)むことを云るなり(42)古事記傳卅一ノ卷廿二葉詞乃玉緒七ノ卷廿五葉なとの説に牟を那と云る例《コト》書紀萬葉の哥に多し但し牟は己かうへにも人のうへにも物のうへにも廣く用る辭なるを那はみつから然せむとすることにのみ云て他のうへにはいはぬ辭なりこれ牟と那との姜別《ケチメ》なりとあるを義門法師なとも宜なへれと右に擧たる歌等は我うへのみにあらす他のうへにも自《オノツカラ》然なる事にも云るをや】然《サ》れは此《コノ》菜《ナ》は將《ム》と意得て違ふことなし○一首の意は熟田津を船出せむとしてよき潮を待《マツ》間《ホト》に月さし出て潮もよきほとにかなひぬさらは今は漕出なむ月もおもしろけれはとなり
 
右檢山上憶良大夫類聚歌林曰飛鳥岡本宮御宇天皇元年己丑九年丁酉十二月己巳朔壬午天皇大后幸于伊豫湯宮後岡本宮御宇天皇七年辛酉春正月丁酉朔壬寅御船西征始就于海路庚戌御船泊于伊豫※[孰/火]田津石湯行宮天皇御覽昔日猶存之物當時忽起感愛之情所以因製歌詠爲之哀傷也即此歌者天皇御製焉但額田王歌者別有四首
 
此《コ》も後人の所爲《シワサ》にて論《イフ》にもたらねと此《コヽ》にまつ元年と云こと無用《イタツラ》なり次に飛鳥岡本(ノ)御宇天皇とは舒明天皇を申なるを伊豫の湯に幸しゝは紀に十一年とありて戊戌なれは違へり然《サ》らは異傳《コトナルツタヘ》かと思ふに又月日は合へりさて七年云々より石湯行宮と云まては齊明紀の文《コトハ》のまゝなれは論《コト》もなし天皇御覽より下は全く注者の意もて臆説を云るなりその中に即此歌者天皇御製焉とは仙覺か註釋に引たる伊豫風土記に後岡本天皇御歌曰美枳多頭爾波弖丁美禮婆云々【全哥《ヒトウタ》は知られす】なとを意得ひかめるにて御覽昔日猶存之物云々も其《ソレ》なるへし但し大后とは當時の皇后を申にて【後世に先代の皇后をおほきさきと申とはことなり】此《コノ》稱《ナ》の古きを思へは古記より物せりとは見ゆ但額田王歌者別有四首と云ことも何書いかなる哥ともいはねは甚《イト》おほつかなし凡て此類聚歌林は人まとはしなる事そ多かる
 
(43)萬葉集新考 三
 
中皇《ナカノキミノ》命往于紀伊温泉之時御歌
 
此《コ》は御《ミ》みつから往《イテ》ませるにて御父舒明天皇御母齊明天皇兩度行幸の度にはあらしさるは御供の度《タヒ》ならは某天皇幸之時とある例なれはなり又哥に吾勢子とよみませるを按へは男君に伴なはれてそいてましけむそは御兄中大兄命か【天智天皇】はた輕皇子【孝徳天皇】なとにもや【後に此天皇の皇后になりませり】紀伊國は温泉《ユ》もあり海山のけしきも殊勝《スクレ》たれは皆しは/\往《イテ》ましき
 
10 君之齒母吾代毛所知哉磐代乃岡之草根乎去來結手名《キミカヨモワカヨモシラムイハシロノヲカノクサネヲイサムスヒンナ》
 
君之齒母 君とは伴なはれたる男君をさせり齒は字の如し○吾代毛所知哉 哉|字《モシ》本居大人説に武の誤なるへしとあり所知武磐と下へつゝく詞なり○磐代乃 磐代は紀伊國日高郡にて名高き地なりさて上よりつゝく意は君か齡の末をも吾か齡の末をも知へき常し經の磐と云意のつゝきなり○岡之草根乎 岡は上【二(ノ)卷八葉】に出草根は石根《イハネ》木根《キネ》なとに同し美稱《タヽヘナ》なりこはめつらしき旅宿《タヒネ》に御心ゆきて尊き御身なからことさらに草枕を爲たまはむのこころに草をめてたるひゝきの根なり等閑にな看過しそ○去來結手名 去來《イサ》は他《ヒト》を誘《イサナ》ひ起す語なり手は上を抑へ下を起す辭なり。。
頭注、。。 見而云々聞而云々の類なり
故而の下に云へきことを含めたり【此格常に多し】そは草根をいさ結而枕として寢なむよと云意まてを而に令持《モタセ》たる詞なり名は上【二ノ卷六十三葉】に云る如く將《ム》と云に同し○一首の意は君か齡の末をも我が齡の末をも知へき常し經の磐代と名に負る此岡の草根をいさ諸共に結飛て旅宿をせむとなり結句にめつらしき旅宿に御情《ミコヽロ》ゆき給ふよし見ゆ然るを諸注に草を結て齡を契ることに解るは非《ヒカコト》なりそは彼有間皇子の事より意得たかへるなり【此事は四の廿葉に委く云り】彼は故ありて松枝を結はれたるなり此はたゝ草を結とこそあるを同し磐代ならむからに彼と此とをいかてか一には云む松と草とも大《イタ》く異なるをや
 
11 吾勢子波借廬作良須草無者小松下乃草乎苅核《ワカセコハカリホツクラスカヤナクハコマツカモトノカヤヲカラサネ》
 
吾勢子とは男君をさせり○借廬作良須 借廬は上【二ノ卷五十六葉】(44)に云る如く旅宿《タヒネ》の料《タメ》の假舍《カリヤ》なり作良須は作の延語なるを【此事二ノ卷九葉にいへり】尊語とも聞ゆるは自然《オノツカラ》のことなりさて此《コ》も上(ノ)哥に同しくめつらしき旅寢に御情《ミコヽロ》ゆきて男君の御躬つからも旅廬《カリホ》を構《ツク》るわさを爲《シ》すさみ給なり【諸注は意得|難《カネ》たり】○草無者 草は葺草《カヤ》なりさてこは草の無りしには非すもし草なくはの意なり○小松下乃 小松とは必しも小木《ワカキ》ならすたゝ松と云ことなり【小菅駒なとに同しされと言の本は小き義なり凡て美稱には大とも小とも云り】さて草は何處もあるを小松下としも宣へるは其處《ソコ》なりけるを見ましてのことなから常し經なるに言《コト》よせ給へるにて上(ノ)哥の磐代に對へり○草乎苅核 苅核はまつ苅禮を延て苅良世と云を又其を延たるなり此語の事猶上【二ノ卷九葉】に云り○一首の意は吾勢子は假廬を構り給ふなるもしそこに草なくはこゝなる小松か本の草とこしへの松の下草にしあれはこれを苅たまへとなりさて吾勢子波小松下なとの詞にて男君とこゝかしこあるきすさひかにかくに御情《ミコヽロ》やらるゝ状見るか如しさるを詞の表《ウヘ》のみを見て説《イヘ》る注|等《トモ》はかゝる隈々思ひ至らさりけり
 
12 吾欲之野島波見世追底深伎阿胡根能浦乃珠曾不拾《ワカホリシヌシマハミセツソコフカキアコネノウラノタマソヒロハヌ》
 
或頭云吾欲子島羽|見違《ミシヲ》
 
吾欲之は吾見まく欲せしの意なるを下に見せ追とあれはかくて聞ゆる古語《フルコト》を思へし○野島波見世追 野島は玉勝間【花の雪ノ卷】に野島阿胡根浦は日高郡鹽屋浦の南に野島里ありその海邊をあこねの浦と云て貝の多く寄て集まる所なりとあり見世追は誘はるゝ男君にあてゝ吾見まく欲せし野島をは見せ給つなり三に吾妹兒二猪名野者令見都名次山角松原何時可將示とあり對《ムカ》へ見へし然るを諸注意得かねて此詞を誤とし一本子島羽見遠を取れゝとそは却て非なり其よしは末に云リ○底深伎は結句の珠に係る詞なり○阿胡根能浦乃 上に出○珠曾不拾 珠は鰒の眞珠《シラタマ》なり又曾と云辭一首の眼なり其故は野島は見つ阿胡根の濱貝をも拾つ【此事は詞には旡《ナケ》れと結句の曾にてきかせたり】今はたた底なる鰒眞珠を拾はぬのみ曾の意をきかする辭なれはなり○一首の意は吾見まく欲せし野島をは君か誘ひて見せ給つ阿胡根の濱貝をも家苞に拾ひ取つ今はたゝ底なる鰒眞珠を拾はぬのみそ猶《ナホ》不足《アカヌ》こゝちはするとなりさて然宣には此《コノ》邊《アタリ》のあかぬからあるましき海底《ワタノソコ》まて(45)を思ひかけ給なりかく細《コマカ》なる意をこめて最《イト》もめてたき御哥なるをよくしもたとらて二(ノ)句を誤とし却て一本のとゝのはぬを用て一首の意明らけしなと云る注|等《トモ》は凡て云にも足らすなむさて一本のとゝのはぬと云は見遠《ミシヲ》の遠《ヲ》もし結局に相應《カナハ》されはなり熟々《ヨク/\》味はひ知ね
 
右檢山上憶良大夫類聚歌林曰天皇御製歌云々
 
例の後人のしわさなり御製とは更に聞えぬうへに中皇命の御口つきとはしるきをや
 
中大兄【近江宮御宇天皇】三山歌一首
 
天智天皇なりこは中大兄命三山御歌と有へきを無禮《ナメケ》に書せるは誤に非す本より然《シカ》書せるものゝ有けるを其まゝにとられしなるへしさるは此集あつめられし時何くれの記より拾はれたりと見ゆれは文體區なる中に此哥なとは然るへき御許より索出られたるにやさらはいと古く本よりのまゝなるへし此《コノ》書法《カキサマ》いまた凡《タヾ》の皇子に座《イマシ》し時とおほしけれはなり如是《カヽ》れは猥に改へきに非す當時《ソノカミ》しのはるゝわさなり凡て此集しとけなく見ゆるに却てはゆかしき事も多くなむ
 
13 高山波雲根火雄男志等耳梨與相諍競伎神代從如此爾有良之古昔母然爾有許曾虚蝉毛嬬乎相挌良思吉《タカヤマハウネヒヲヽシトミヽナシトアヒアラソヒキカミヨヨリカクナルラシイニシヘモシカナレコソウツセミモツマヲアラソフラシキ》
 
高山波【高を加具に用《ツカ》ふよしは古人は高の字音《モシコヱ》を加。宇。と正しく云て具と宇と同韻《オナシヒビキ》なるかおのつから通へるにて古事記に天(ノ)香《カク》山垂仁紀に香菓《カクノミ》なとある香《カク》も同し又崇神紀に伊香色謎命《イカヽシコメノミコト》此集に伊香《イカコ》山なとあるはカクより又うつせるにて尺《サク》をサカ樂《ラク》をラカと云に同し然るを古事記傳廿五(ノ)卷五十四葉義門法師か奈萬之奈なとには解得られさりき】浪は乎者の意なりさて此御哥によみませる故事は播磨國風土記云出雲國阿菩大神聞大和國畝火香山耳梨三山相闘此欲諫止上來之時到於此處乃聞闘止覆其所乘之船而|坐之故《マシマスユヱニ》號神隼隼形似覆船【隼ハ阜の誤なり】と見ゆ仙覺か註釋云ムカシハ山川モ夫婦ノ契ヲムスヒケリシカルニカク山ハ女山也畝火山ト耳梨山トハ男山也シカルニミヽナシヤマハシメニカクヤマヲケシヤウスルニナニトナクウケヒクケシキナリケリソノノチニウネヒノ山又カク山ヲケシヤウスルニウネヒノ山ハスカタモタヽシクヨカリケレハコレニコヽロウツリニケリヲヽシトイフハケタカクヨキ也サテミヽナシヤマサキノヤクソクニマカセテアハムトスルニカクヤマウケヒカスウネヒノ山コレヲキヽテトモニタヽカフコレヲミツヤ(46)マノタヽカヒト云也とあり然《サ》れは其項まても此故事を云傳へしことコレヲミツヤマノタヽカヒト云也とあるにて知へし又畝火耳梨を男山香山を女山と云ことも古傳説と聞えたりそも/\山は自然のものなるにさる事あるへくもあらす男山女山と云ことも畝火耳梨は高く嶮しく雄々しき形《サマ》したれは雄山と云へく香山は高からす穩《ナダ》らかなれは雌山と云へくして實に男女あるに非れは此故事は信《ウク》るに足らすなとも云(ヒ)或は香山と云は香山に坐す神畝火耳梨も同しく其山々に坐す神こゝの反歌に伊奈見國波良とあるも實は印南國神のことなるを哥なれは山とも國とも云るにて實には然らさること印南國原を風土記には阿菩大神とあるこれ正説《マサコト》にして三山も其山々の神なる證なりなと云は心低き人のいふことにて己か量の小く低しきから高く大なることは腹に入らぬにこそあれ高き眼より見れは千五百萬代の往《イニ》しへもよく見え知られて眞と僞とは黒白《クロキシロキ》を分ち知に異ならねは疑しからぬを疑ふことは無なりそを疑ふは山川國土《ヤマカハクニツチ》なとを活るものとは思はすやあらむもし死たらは人もかくてはまさにあるへからす活くあらは今もいかなる幽冥事《カミコト》のあらむ我も人も得知らしをいはむや遠き神世の事をさる事なしとはいかてか決むへきそを疑ふは外國心にこそありけれ凡て彼國々には古傳説なけれは此天地の始の事なとをも己か推量に決むめりそは當世のあるかたちを以然るへき理に配ものするから目前《マノアタリ》には承らるれとも實事はいかならむ測知へきに非す何なる國も其初發はあれは古傳説も皆有けむを彼は言語《コトトヒ》の拙くして字旡りし世の事は詳《サタカ》に傳はらさるへく又さくしり賢しらなる習俗《ナラハシ》にて古傳を信《ウケ》さりしなるへし物の初は凡てはかなたちたれは甚《イト》巧なることなとは無して淺はかにおほろかなることをなま/\の賢しらは己《オノ》か智《サトリ》に暗《ク》らさるゝものそ皇御國は世に神國と云て※[立心偏+可]怜眞國《ウマシミクニ》にしあれは天地の初發の事より詳《ツハラ》に言靈に傳へて今世に其《ソノ》事實《マコト》の知らるゝはいとも尊き皇神等の幸はへ賜なるを却て他《ヒト》國にならひて古傳説を無《ナミ》するは本末内外の意得たかへるものなり然《サ》れは皇國人は心膽《コヽロキモ》を高く雄々しく明亮《アキラカ》に物して神習《カムナラフ》へし彼外國の青人草ならひ(47)て古傳説を勿思誤そね【かく云はたゝに己《オノ》か説《コト》をたててさらぬ他《ヒト》のことを云誹《イヒソシル》にはあらねと外國の教と云もの渡參來《ワタリマヰコ》しより世々經るまゝに其《ソ》をまねひとり傳へつゝ漸《ヤ》々に人心に染わたらひてそ皇國風は踈になりもて行つゝ神代の古傳説を無用《イタツラ》な如く思ひいふ人心になりはてゝ我も人も然らしと思ひつとむとすれとかにかくに清く離るゝこと難かるに志有て古を知むとするには甚《イミ》しき妨《サハリ》ともなれはきく人ましてよく意せすは腹にいらしと思へはなり他《ヒト》をもとくにはあらす】○雲根火雄男志等 雲根火山は大和國高市郡にありて古より名高し雄男志は此山の高く雄々しきを體言に宣へり古事記遠飛鳥宮段に字流波斯登佐泥斯佐泥※[氏/一]婆とある字流波斯も女の愛《ウルハ》しきを體言に云るにて此《コヽ》と同例《オナシコト》なり。。然《サ》れは雄々斯と云|稱《ナ》宇流波斯と云稱《ナ》の如《コト》意得て見へし畝火は耳梨よりも雄々しさ勝れたる故なり
頭注、。。白檮原宮段大御歌に延袁斯麻加牟とある延も可愛少女《エヲトメ》にて麻加牢は枕《マキ》て將《ム》v寐《ネ》なりこもこゝの例なり
○耳梨與 耳梨山は十市郡にあり萬葉考【別記】云大和國は山々四方にのみ廻立て國中《クニナカ》は平なるに香山耳梨山畝火山の三のみ各|特《ヒトリ》立て其《ソノ》間《アハヒ》今道一里許つゝありて物の三足ある如しさて畝火は高く耳梨は其につき香山は低けれと富士の小き形《サマ》したり古は四方の麓廣く木繁くつゝきまたらひてうるはしかりけれはとり宣ふ天香山とはよみましゝなりとあり後紀に延暦廿四年十二月丁巳勅大和國畝火香山耳梨等山百姓任意伐損國吏寛容不加禁斷自今以後莫令更然なとも見ゆ○相諍競伎は香山に相《アフ》ことを畝火と耳梨と諍競ふなり立爭《タチアラソヒ》行爭《ユキアラソヒ》なとの如し○
頭注、 ○九に過葦崖處女墓時作歌古之益荒丁子各競妻問爲祁牟云々また智奴壯士宇奈比壯士乃廬八瞭燎須酒師競相結婚爲家類時者云々なとあり
然るを諸注に相を輕く添へる言と見たるは甚《イミ》しき非《ヒカコト》なりさては何事を爭とも聞えす俗語の相成相添なとに異ならぬをいかてこはさる類なるへき○神代從 此御詞にて思へは神世人世と云こと※[うがんむり/取]《イト》はやくより云しなりけり凡て神世には種々《クサ/\》靈異《クス》しき故事等多かりけむを古事記書紀なとの御典《ミフミ》は主《ムネ》と皇《スメラキ》に係れる事を記されたるものにして外に許多《コヽタク》靈異しき故事の有けむそは知られも多かるへけれとむねとの大事《オホコト》は語り傳へ後に記されたるも多かりつらむを彼蝦※[虫+夷]か時燒失もし又國々の(48)風土記なとも後世は用ひぬいたつら物になりて果は行方《ユクヘ》なく散ほひ失にたれは故事等の今は傳はらぬそ多かるへきさる中に出雲(ノ)風土記はしも神柄國柄にや全く傳はれるを見るに其文なとの雅ひめてたきはさるものにてまつ其始に二神の國造らすありさまそ見えたる次ては豐後肥前常陸の國々又|其《ソノ》余《ホカ》のも徃々《トコロ/\》逸れるを見れは傍々《カタ/\》に見え來《ク》る故事等皆おほろけの由なしことにあらすゆかしき事の片端つゝは殘れりされは全有《マタカリ》し世を思ひやるにいとゆかしともゆかしやかゝらむには今のさかし人|等《トモ》もまさに疑ひあへさらましを今はさる物多く亡《ウセ》なとしてたま/\此故事なとを見てはめつらしかり異しみ惑なりけり○如此爾有良之 良之は上【二(ノ)卷三十三葉】に出て察《オシハカ》り決《サタム》る辭なり○古昔母 古昔《イニシヘ》は徃《イニ》し方《ヘ》なり【むかし方《ヘ》とも云りむかしは向《ムカ》しにて過去《スキニ》し方は今より向はるゝよしの唱《ナ》なり】○然爾有許曾 爾有《ナレ》許曾はなれはこその意なり古言に多しさて上に如此と云(ヒ)こゝに然とあるは同しことを宣ひ替たるなり○虚蝉毛 虚蝉は現身の借字にて顯現《ウツ》しき身と云ことなり宇都は現心《ウツシコヽロ》夢現《イメウツヽ》なとの現《ウツ》にて目に見えす顯露《アラハ》ならぬ神に對《ムカ》へて顯れて在る世人(ノ)身と云ことなり○嬬乎 三言の句なり都麻とは夫婦《メヲ》互《カタミ》に云|稱《ナ》なり○相挌良思吉 良思吉は上なる許曾の結《ムスビノ》良思爾吉の添へるなり六に諾石社見入毎爾語嗣偲家良思吉とあるも同しこは中昔に云ぬ辭なるを今《イマノ》俗言《ヨノコト》にラシイと云は此良思吉の音便なり○一首の意は香山の女山をは畝火山と耳梨山と二の男山おのもおのもよはひて相むと誂み爭ひしなりそは遠き神世なるを然ありしよしなれはこそは現身の今世人もわりなき嬬爭をすることにてはあるらめとなり
 
反歌
 
14 高山與耳梨山與相之時立見爾來之伊奈美國波良《カクヤマトミヽナシヤマトアヒシトキタチテミニコシイナミクニハラ》
 
上は耳梨山遂に競ひ勝て香山に相ることゝ聞ゆ長哥に旡ことを宣へるなるへしされと上に引る仙覺か注にては香山の心畝火に從《ヨ》れりと聞ゆれは叶はさるか如しされと競ひ勝りと見れば難《サハリ》なし○立見爾來之 立は本國より出立而なり見は看v事看v病なとの看にて藍《カムカヘミル》を云り來之《コシ》は伊奈美の地をさして宣へる辭にて此そ彼云(49)々の時に出雲國より出立て來たりしの意なり【印南まて來之《コシ》の意にはあらすさては何某《ナニカシ》の來つるとも知られす】さるは此御哥等は播磨の印南に往《イテ》ませる時に當處《ソコ》の故事をきかしてよみませるなるへし然《サ》らすは何の縁《ヨシ》も旡に此故事をよみ出たまふましく反歌は必然りとこそ聞ゆれ○伊奈美國波良は播磨國印南の地なりさて此御哥の趣は播磨より發《タチ》て大和まて徃看たりしけに聞ゆれと然には非す播磨(ノ)風土記を考るに【上に引るを合せ見へし】出雲に阿菩と云|地《クニ》あり其《ツ》を稱へて阿菩大神と云【地《クニ》即(チ)神なり】此神大和なる三山の爭を聞て諫め止めむと船より播磨まて來たるか【陸路を船に乘て來ましたるなり然《サ》るは尋常と異りて地即神なれはなり出雲より播磨へ海路の便はいとあしかるへし】爭止ぬと聞てそこに留《トヽマ》りて其《ソノ》地《クニ》になりたるを印南とは後に號たるなり故《カレ》其文に覆其所乘之船而|坐之《マシマス》とあるは船を覆《フセ》たる下に坐と云ことなり【こも地なる故なり船を覆て其上に坐《マ》す義《ヨシ》ならは坐其上とあるへきを座之とある文義を熟《ヨ》く察《オモフ》へしまた坐《マシマス》とは永く其處に坐と云ことなり此神出雲に歸ましたらは大神
と申はかりにて神名帳にも當國風土記にも洩へきに非す地名も必|存《アル》へきことをや然らは播磨に留坐こと論《ウツ》なきをこれ又當國神名に見ゑすさては此神今何處にか坐らむ船を覆たる上にいつまても坐へきにはあらぬをやかかるにても今|説《イフ》ことの虚しからさるを思決へし】また故號神阜阜形似覆船とあるも然らされはうまく通え難し然れは印南は其一處なるを後に郡名にもなれゝは此御哥はそのあたりを廣く印南國原と宣へるなり【國原とは廣きを云よし二ノ卷廿三葉に云りさて其地印南の内なるから押籠て印南國原と宣へるには非す高山耳梨と對《ムカ》へれは正しく其地をさし給へること知へし】かゝれは風土記に阿菩大神とあるをここには印南國原とよみませる異なるに非す印南の地は阿菩大神なれはなり如是《カク》いはゝ例の信《ウケ》さる人あらめと古書の趣いと明らかなるをや【此播磨(ノ)風土記は殊れてよきものと思はる下(ノ)卅四葉にも云り然るを知る人なかりき】○一首の意は古に大和の香山を畝火山耳梨山おの/\妻とひ誂み爭ひし事ありしに出雲の阿菩大神その爭を諫め止めむとて播磨まて來坐たるか耳梨山爭勝て香山にあひ爭止ぬと聞て此《コノ》土地《クニツチ》になり留れりときくは即この印南の地《クニ》よとなり此反哥かゝる由縁《ユヱヨシ》を宣ひこめたれは如是《カク》解され婆意を盡さぬなりさるをくた/\しくいたつらなりと思ふは當時の大御心にかなはぬものそ諸注は解得たるなし
附箋、誂は排ノ義ニテイトムノ義歟
 
15 渡津海乃豐旗雲爾伊理比沙之今夜乃月夜清明己曾《ワタツミノトヨハタクモニイリヒサシコヨヒノツクヨアキラケクコソ》
 
渡津海は借字にて神名《カミノミナ》海津持《ワタツミ》より出たる海の號《ナ》なりさて此《コ》は豐の枕詞にて一首のうへには更に關ることなし(50)昔よりこれを知る人無して海上の豐旗雲のたなひくよしに思へり然らは海《ワタ》乃原また海原之なとこそ云へけれ】豐とはゆたかに大なるを云言なり海は限なくゆたかに大なるものなれは取出て冠らせたるものそ【海のとよみたゆたふ意のつゝけにはあらす】○豐旗雲爾 豐は右に云るか如し旗雲は旗の靡《ナヒキ》に似たる雲なり文徳實録に天安二年六月庚子早旦有白雲自艮亘坤時人謂之旗雲また八月丁未是夜有雲竟天自艮至坤人謂之旗雲これらハ同し旗雲なから【自艮至坤とあるを見へしこれ旗の靡《ナヒキ》に似たるなり】常ならす大に立るを以録されたるなり○十四に由布佐禮婆美夜麻乎左良奴爾努具母能とよめるも布雲にて旗雲を東語に然云るなり又古今集なとより雲のはたてとよめるも是なりさて此雲の夕に立ときは天《ソラ》の晴るゝものなれは【みな然いへり】こゝは月を待かたにてよめるなり
頭注、 ○また三代實録に貞觀十四年七月十日申時白雲氣起東北亘西南形如匹布十七年五月十六日夜有雲氣竟天形如幡頭掛西山尾掛東山
○伊理比沙之は上より雲爾入日とつゝけり入日のさして天《ソラ》の晴なむことを未《マタキ》より乞望ふ詞なり沙之の之を味はふへし【昔よりの注|等《トモ》みな入日のさしたるを見て今夜の月夜清明けくこそたるらめの意とのみ思へり然らは佐須とこそ云へき辭《コト》なれ沙之とは未さゝさる辭なり又結句の己曾もさては稱《カナ》はさるよし末に云を見へし】○今夜乃月夜 月夜はたゝ月と云ことにて夜の意はなし二に去年見而之秋乃月夜者雖照七に野邊副清照月夜可聞 明日之夕將照月夜者 水底之玉障清可見裳照月夜鴨夜之深去者これらも同し○清明己曾 己曾は乞望ふ辭なり【社と書も神社に祈願《イノリネガフ》より出たり】四に君之枕者夢爾見乞六に今夜乃長者五百夜繼許増十三に夢谷相所見欲なといと多し【二に有巨勢濃香毛九に妻依來西尼《ツマヨシコセネ》八に落《チリ》許須莫湯目なと云るも此己曾の用らけるなり又これを後には己世と云り】○一首の意は月の清明からむを暮附《ユフツカ》ぬ間《ホト》より待望なりさてこは三山の反哥には非す端詞の脱失《ウセ》たるにて何時《イツ》誰人《タレヒト》のよめるとも知られぬを渡津海の語によりて前なる印南海邊にてよみませるかなと云る注等はいよいよ遠き空説《ムナシコト》なり
 
右一首歌今案不似反歌也但舊本以此歌載於反歌故今猶載此次亦紀曰天豐財重日足姫天皇先四年乙巳立爲天皇爲皇太子
 
後人の所爲《シワサ》なること舊本なと云るにて著し先四年とは皇極天皇四年なり爲天皇三字は衍《アヤマリ》なり
 
(51)近江大津宮御宇天皇代 天命開別天皇
 
天智天皇なり近江は淡海の義にて泊瀬朝倉宮高市崗本宮なとの例なれは國名を云るには非す故《カレ》天智紀持統紀なとには近江宮とも有を以知へし【續紀に養老元年二月壬午天皇幸難波宮丙戌自難波至和泉宮。】
頭注、 ○これも和名抄に和泉國和泉郡|上《カミツ》泉郷下泉郷とある地なり
 
天皇詔内大臣藤原朝臣競憐春山萬花之艶秋山千葉之彩時額田王以歌判之歌
 
内大臣藤原朝臣は鎌足公なり此卿《コノヒト》大臣に任《ナ》られしも藤原姓を賜へるも薨《シナ》むとせられし時なり又朝臣尸は嗣子《ソノコ》不比等の時に賜へり然れは此時は内臣中臣連なるを此は後より書せれはなり此卿は内臣とありて内官《ウチノツカサ》なりける故に此事|掌《ト》らしめ給へるにて額田王は妃《ミメ》なから當世《ソノヨ》の才人なれは此判者には任《ナ》られしなり是そ春秋の競の物に見えたる始なるさて此次に近江へ遷都の時の哥あれは此は未《イマダ》崗本宮に坐《イマ》せる時の事にやあらむ
 
16 冬木成春去來者不喧有有之鳥毛來鳴奴不開有之花毛佐家禮杼山乎茂入而毛不取草深執手母不見秋山乃木葉乎見而者黄葉乎婆取而曾思奴布青乎者置而曾歎久曾許之恨之秋山吾者《フユコモリハルサリクレハナカサリシトリモキナキヌサカサリシハナモサケレトヤマヲシミイリテモトラスクサフカミトリテモミスアキヤマノコノハヲミテハモミツヲハトリテソシヌフアヲキヲハオキテソナケクソコシシオモシロシアキヤマワレハ》
 
冬木成 木成は隱《コモリ》の義《コヽロ》を得て書り集中冬隱ともありさるは木の繋茂れることをコモリカ【俗にはコンモリと云り即(チ)コモリの音便なり】と云そは既に木に成たるをいへはなり【諸注悉成は盛の誤と定めたるは非なり一ツ二ツは誤もすへきを集中悉く成とのみありて盛とは一ツも旡をや】冬は萬物裏に藏《コモ》りてあるを春になれは發り出るよしの枕詞なり【九に山代久世乃鷺坂自神代春者張乍秋者散來なと見ゆ】
頭注、 ○六に百樹成《モヽキモリ》山者木高之こはモヽキと訓へし
○春去來者 去《サル》とは此方《コナタ》へも彼方《カナタ》へも行わたる状を云言なり古事記明宮段大御歌に許能迦邇夜伊豆久能迦邇毛々豆多布都奴賀能迦爾余許佐良布伊豆久邇伊多流またゐさるなと云言も彼方へ去のみには非す目前《マノアタリ》を過行さまを云り然れは春去|曉《アケ》去朝去夕表の類も其|時節《トキ》の行わたらふ状にて去來《サリクル》は此方《コナタ》さまにうつり來《クル》を云り○不喧有之 邪理斯は不有《スアリ》しなり○鳥毛來嶋奴 毛は今まて鳴さりし鳥もなりさて鳥は何處にも鳴を來嶋としも云るは聞く方より云詞なり【春の方へ來鳴には非す】○不開有之 邪理斯は右の如し○花毛佐家禮杼 毛は鳥毛の毛に同し佐(52)家禮杼は雖《ト》2開在《サケレ》1なり○山乎茂 茂《シミ》は茂《シ》美にて茂《シケ》き状を云り茂〔左△〕さにと意得て通ゆ此辭は上(ノ)心乎痛美の下に云り【二の四十葉】
頭注、 △○草深 深《フカミ》は茂《シミ》に云るか如し
○入手毛不取は聞えたるまゝなり○執手母不見は殊なる意なし【たをりてもみすと訓は違へりこは入手毛云々執手毛云々と一對《ヒトツカヒ》の詞なるをや】さて山乎茂より四句の詞|等《トモ》は甚《イタ》く草木の茂れるよしにて春山には少しいかゝなるに似たれと上代に春と云るは草木の萠出る頃より花ちり葉茂る頃まてを云(ヒ)【下に春山跡之美佐備立有八に水鳥之鴨乃羽色乃春山乃於保束無毛所念可聞○また春之茂山春之茂野なろも云り】夏とはうららかなる氣《ケ》去て暑熱き間《ホト》を云(ヒ)秋とは草木の色變りて遷ろふ間を云(ヒ)冬とは時氣《トキノケ》締《シマ》りて冷《ヒエ》初る頃より專ら寒き間を大よそに云名なれは其意して見《ミル》へし【名にあてゝ本の意をいはは春は發《ハリ》出る時夏は長《ナ》の活らけるにて延らかなる時を云日も長《ノヒ》草木なと母|長《ノフ》る時なり秋は明《アキにて清《スム》ときを云|天《ソラ》も水も風も其《ソノ》餘《ホカ》萬物《ヨロツノモノ》みなすめり冬は時氣根に殖《フユル》よしの名なり古事記傳十二の五十四葉に説《イワ》れたるは稚《ヲサナ》し】さて此《コヽ》まては春山に心よせたる方人の詞を判り難《トカ》めたり
頭注、 ○十に春去者木陰多暮月夜春去者宇乃花具多思吾越之
附箋、 新萬 秋來者天雲左右丹裳不黄葉緒虚佐倍驗久何歟見湯濫
○秋山乃木葉乎見而者【二句なり】秋山は枯て入易けれはなり○黄葉乎婆 もみちしたるをはの意なり【毛美治と體言に訓は違へり下の青乎者と對《ムカ》へれはなり】是を後にはもみつるをはといへとも古は如此格《カクサマ》に云り十に黄變《モミヅ》山可聞 木葉|文末赤者《モイマタモミタネハ》八に如此曾毛美照十四に和可加敝流※[氏/一]能毛美都麻※[氏/一]これらを以知へしさて毛美治は揉出と云ことなり紅は袋に入れ揉出て染る物なれはそれより號《ナツケ》しなり【今も紅絹を毛美と云り】然れは黄葉字は毛美治に當らさるを集中多く此を用《ツカ》へるは漢文よりそ出つらむ○取而曾思奴布 思奴布は上【二の四十八葉】に出て靡《ナフ》と通へは紅葉を愛る情《コヽロ》の彼に靡從《シナヒヨル》なり○青乎者 いまた紅葉《モミタ》ぬなり○置而曾歎は枝なから置て取らぬを不足《アカス》おもひ歎なり○曾許之恨之 曾許は其《ソレ》と云に同く用《ツカ》ひたり十七に可奈之家口許己爾思出伊良奈家久曾許爾念出十九に霍公鳥殖木橘花爾知流時乎麻多之美伎奈加奈久曾許波不怨之可禮杼毛なとの如し【今もソコデコヽデといへり】恨は怜の誤と玉乃小琴に見ゆさてこれまて(53)は秋山に心よせたる方人の詞に與《クミ》せられたる判者の詞なり○秋山吾者 吾は秋山そなり○一首の意は春になり來れは鳴さりし鳥も鳴ぬ咲さりし花も咲れと山の茂さに入立折取ことも得せぬを秋山の木葉はもみちたるをは折取めてゝ情《コヽロ》を盡し未色つかぬをは枝なから置を不足《アカス》こゝろに歎もす其《ソコ》の怜《オモシロ》けれは吾は秋山の方に從《ヨリ》ぬとなりさてこは春山の花と秋山の紅葉との優劣《マサリオトリ》を判る詞なるに花と紅葉のけちめをはいはて春山の茂きを難《トカ》め出て秋山によられたる心しらひのいとめてたき雅を思へしかゝれはこそ判者には任《ナ》られたりけれ
 
額田王下近江國時作歌井戸王即和歌
 
此《コヽ》は甚《イタ》く本《マキ》の錯亂《ミタレ》たりと見ゆ其故はまつ此端詞は左の歌のには非す別《コト》に哥のありしか左哥の端詞こめに脱たるなり又左歌は額田王とは聞えすして天武天皇の御口つきと思に左注にも右二首歌山上憶良大夫類聚歌林曰遷都近江國時御覽三輪山御歌焉とありて御覽御歌なとは額田王を云詞に非す又御製歌大御歌なと云ぬは天皇を申すにもあらねは決《ウツナ》く皇太子【大海人皇子命】を申せる文《コトハ》なるに御名を云ぬは端詞にあれはなり左注は後人の所爲《シワサ》と見ゆるに如此《カク》あるは其頃の本《マキ》は錯亂《ミタレ》さりしと見えたりさて次の綜麻形乃の一首は額田王の口つきにて慥に此王なる證據《ヨリトコロ》あり其處《ソコ》に云り但し此《コレ》も端詞は別《コト》にありしか脱たるへし如斯《カク》見るときは錯亂《ミタレ》のすちいと灼然《アキラカ》なりけりさて左哥も遷都の時のとは著明《シル》し
 
17 味酒三輪乃川青丹吉奈良能山乃山際伊隠萬代道隈伊積流萬代爾委曲毛見管行武雄數數毛見放武八萬雄情無雲乃隱障倍之也《ウマサケミワノヤマアヲニヨシナラノヤマノヤマノマニイカクルマテニミチノクマイツモルマテニツハラニモミツヽユカムヲシハ/\モミサケムヤマヲコヽロナククモノカクサフヘシヤ》
 
味酒は三輪の枕詞なりそは旨酒《ウマサケ》を釀《カミ》とつゝける詞なるを祁と加と音《コヱ》重る故に加の省りたるものなり○三輪乃山 下に袁と云辭を加《ソ》へて意得へしこは飛鳥岡本宮より近江へ遷ります時にて住馴し都は顧すれと見えねはせめては三輪山乎の意なれはなり○青丹吉は奈良の枕詞なり青丹は青|土《ニ》なり此物は主《ムネ》と眉畫《マヨカキ》に用ひてそはいとよく黏《ネエ》たる故に奈良とつゝけり黏は練《ネレ》と通ひて和熟《ナ》るゝ意あれはなり吉は余は其物を呼出る辭斯は助辭な(54)り眞菅よし玉藻よし大魚よし阿佐母よしなとに同しさて此語いつも奈良にのみつゝくるを五に久夜斯可母可久斯艮摩世婆阿乎爾與斯久奴知許等其等美世摩斯母乃乎とあるは旅人卿太宰任にて妻《メ》の亡《ナク》なりし時の哥なれは久奴知許等其等とは筑紫(ノ)部内《クヌチ》を云如く聞ゆれとも然らす奈良なる所々を見せさりし歎なり此頃はいと云なれて阿乎爾余斯といへは奈良とは通えたるなり筑紫なとを青丹余斯國内と云|義《ヨシ》は更にあることなし【冠辭考古事記傳槻落葉なとの説|等《トモ》みなわろし】○奈良能山乃 ことなる事なし○山際 際は字の如く際限《カキリ》の義《コヽロ》にて【間の意にはあらす】きはと云に同く縱にも横にも際限れる處を云(ヒ)轉りては其《ソノ》近側《チカホトリ》をも云り三に山際伊佐夜歴雲者 山際從出雲兒等者【出雲の枕詞なり】 朝霧髣髴爲乍山代乃相樂山乃山際徃過奴禮婆【火葬の煙をいへり】六に吾榜來者云々辛荷乃島之島際從吾宅乎見者青山乃曾許十方不見云々 鹿脊山際爾宮柱太敷奉 鹿脊山際爾開花之七に山際渡秋沙乃 山際爾霞立良武八に山際遠水末乃十に山際爾※[(貝+貝)/鳥]喧而 山際爾雪者零乍 山間照櫻花【間は借字なり】これら皆山きはをも其近側をも云り又七に海人之燈火浪間從所見 掻上栲島波間從所見十に取石池之浪間從鳥音異鳴十一に浪間從所見小島之十二に浪間從雲位爾見流粟島之これらも浪極《ナミキハ》の意なり【間は皆借字なり漁火も島も鳥も浪間に見え聞ゆるものにあらす】みな相證へし【又浦|回《マ》里回なとの回《マ》は周回《マハリ》を云て異なり又山端とも異なり山瑞は三に山之|末《ハ》爾射狹夜歴月乎四に山羽爾昧村騷六に山葉左佐良榎壯士十五に山之波爾月可多夫氣婆なとありて山末の意なり然るに六の鹿脊山際爾宮柱太敷奉なとを山末としては叶さるを思へし】
○伊隱萬代 伊はことを強むる辭なるよし上【この三十一葉】に云り此《コヽ》は三輪山の隱るゝまてかへす/\顧る情《コヽロ》なれは隱と云ことを強めたりさてこれを後にはかくるゝまてといへとも【詞の八衢下二段の活用言なり】古は如此格《カクサマ》に云り【八衢四段の活用なり】古事記朝倉宮段大御歌に袁登賣能伊加久流袁加袁沼河日賣御歌に阿遠夜麻邇比賀迦久良婆なと多かり萬代《マテ》は假名書なるに爾を訓付るは集中の例なり○道隈 隈は隱《コモリ》と云言に通ひて隱れたる處を云(ヒ)轉りては屈曲《ヲリマカ》れる處をも云り道隈河隈なと然り○伊積流萬代爾 伊は上に同し積流は道の屈曲《クマ》の行積にてやゝ遠くなりたるなり【佐加流と訓は違へり道こそは放といへ隅の放と云例も理もなし】爾字は上に旡も此と照して訓へき料《タメ》なり○委曲毛 都婆良は委曲《ツハラ》詳審《ツハラ》具《ツハラ》なと書る意なり○見管(55)行武雄 都々は此事を爲なから彼事をも相交へて爲るを云ときに置く辭なり【されは那賀良と云辭と相通ふ意ある故に後世には那賀良に乍字を書も當らさるには非すされと古は乍字は都々にのみ用ひて那賀良に此字を書ることはなきなり】こゝは見と行と二(ツ)事の中に行を主《ムネ》として云處なる故に管は見の下にあり此辭いつくも然り雄はものをの意なり○數數毛 聞えたり○見放武八萬雄 見放《ミサクル》は遠く望《ミル》を云|向放國振放見《ムカサクルクニフリサケミル》なと云り山は三輪山なり雄はなるものをの意なり○情無《コヽロナク》 聞えたり○雲乃 三言の句なり○隱障倍之也 隱障は隱須の延語なり也は雲をとかめて隱すへきことかはなり
○一首の意は住馴し都は顧すれと見えすせめては三輪山をたに此奈良山に隱るゝまて道の屈曲《クマ》の行積まてよく見て行かむものを情《コヽロ》なく雲乃隱すかなこは隱すへきことかはとなり
 
反歌
 
18 三輪山乎然毛隱賀雲谷裳情有南畝可苦佐布倍思哉《ミワヤマヲシカモカクスカクモタニモコヽロアラナフカクサフヘシヤ》
 
三輪山乎 乎は三輪山に情《コヽロ》ありて用《ヅカ》へる辭なり輕く看過《ミスクス》へからす○然毛隱賀 然《シカ》とは目前《マノアタリ》をさして云り毛は歎息の辭なり賀は哉にてこも歎息の辭なり○雲谷裳 陀爾はなりともの意なり住馴し都を離《カ》るるすへなさにせめては三輪山を見つゝ行むものを雲なりともの意なり裳はこれも歎息の辭なり【俗言にマアと云に同し】
附箋、 八伊奈宇之呂河向立
○情有南畝 畝《フ》は牟《ム》と通ひて有らなむに同し十四に對馬能禰波之多具毛安良南敷可牟能禰爾多奈婢久君毛乎見都追思怒波毛【二ノ句白雪あらなむなり】とあり【昔よりこゝをあらなむと訓こしは據あるかおほつかなし】○可苦佐布倍思哉 長哥に出
附箋、 十七下登美佐多底船木伎流等伊有能登乃島山
○中務集に和泉守源順(ノ)あそふ垣をへたてゝあるに云々【朝臣をアソフト云リ】また三冠睡《サムカヽフリネフリ・サフカヽムリネムリ》 煙《ケフリ・ケムリ》
○一首の意は三輪山を如此《カク》さまにも雲の隱すなるかな住馴し都は見えすせめては此山を見つゝゆかむものを雲なりとも情《コヽロ》あれこは隱すへきことかはとなりさて此哥|等《トモ》は天武天皇の御なるへきよし上に云り此天皇の御世に近江を廢《ヤメ》られて復飛鳥に遷らししを此御哥と併せて察ふに始より大和を※[立心偏+可]怜《オムカシ》み給へるなりけり
 
右二首歌山上憶良大夫類聚歌林曰遷都近江國時御覽三輪山(56)御歌焉日本書紀曰六年丙寅春三月辛酉朔己卯遷都于近江
 
例によるに山の上に檢字脱たるへし又天智天皇六年は丁卯なるを丙寅とあるは據あるにはあらし一年を數へ誤れるなるへし
 
19 綜麻形乃林始乃狹野榛能衣爾著成目爾都久和我勢《サヌカタノハヤシノサキノサヌハリノキヌニツクナスメニツクワカセ》
 
綜麻形乃は槻落葉云紗麻形乃の誤なるへし十に小《サ》額田みえ十一に紗眠《サヌル》の假名みえ六に寐を奴の假名に用ひたり荷田大人の美和山の故事に因てみわやまと訓れしは宜《ウヘ》なひ難しとあるはいとよき考にそ有けるされと精き説の旡を己今|詳《ツハラ》に云へし十三に師名立都久麻左野方息長之遠智能小菅とありて都久麻と息長は近江國坂田郡なれは左野方もそこなるへく左野方の左は左檜隈なとの左に同し美稱《タヽヘナ》なるへし然云よしは此哥は額田王にて端詞の脱たること上に云るか如し此王の姉鏡王は同國野洲郡鏡里に居住れしから鏡を名に負ひ額田王も額田によしありて居住れしから額田を名には負れたるへしこは額田と云義の名かはた野縣《ヌカタ》なるか二(ツ)の内なるへしかくて此哥は淡海都の時皇太子【大海人皇子命】の此額田宅に幸《イテマ》したりし時に此王のよまれたると聞ゆ此處《ココ》は勝れたる地と聞えて十に狹野方波實爾雖不成花耳開而所見社戀之名草爾 狹野方波實爾成西乎今更春雨零而花將條八方 沙額田乃野邊乃秋芽子時有者今盛有折而將挿頭なと見ゆ今も狹野榛をよまれたるは此花の時幸ませるなるへし然るをみわやまと訓ては大和にての事なれはここの次序《ヅキテ》に違へり【前に近江へ遷都の時の歌あれはなり】又狹野榛は萩なれは【此事次に云り】三輪山に縁《ヨシ》も旡く此哥の體製も上はさぬかたさぬはりにつく目につくと同言を重ねたるをも思へし
○林始乃 代匠記の訓に從《ヨル》へし此も荷田大人のしけきかもとゝ訓れたるは三輪山には宜《カナ》へと然らさるよし上に云るか如し林は令《シ》v生《ハヤ》にて人の生《オホ》し立る木群《コムラ》をいへは邑《サト》近き處にありて眞野縣《サヌカタ》にも眞額田《サヌカタ》にもよしあり始は前《サキ》にて山前《ヤマノサキ》岡前なとに同し八に妹目乎始見之埼乃秋芽子者云々○狹野榛能 古事記傳【七の五十一葉】狹霧説云狹は眞と同意の言なり佐牡鹿を眞男鹿とも云るにて知へし又佐夜中は眞夜中佐衣は眞衣と云に同し【此余も佐|某《ナニ》と云こと多し皆同し】又地名に佐檜前なと云は眞熊野なと云と通ひて聞ゆるを(57)その眞熊野を御熊野とも云て眞と御と通へるに大祓詞に朝之御霧夕之御霧とあるを以狹霧は眞霧なることを知へしとあり是にて狹の言を知へし野榛は借字にて野《ヌ》は根《ネ》なり榛《ハリ》は發《ハリ》なり然らは根發《ネハリ》と云へきを狹よりつゝくる音の便に野發《ヌハリ》と云り野發は萩の古名なり此物はいとよく根の發《ハル》よしの名なり播磨國風土記に萩原里土中有井所以名萩原者息長帶日賣命韓國還上之時御船宿於此村一夜之間生萩根高一丈許乃名萩原即闢御井故云針間井と見えたる萩根《ハリネ》これなり十四に伊香保呂能蘇比乃波里波良禰毛己呂爾とよめるも萩根は茂くこもりかなる物なれは根も凝を懇につゝけたり又根發と云言の例は十三に刺楊根張梓矣なと見ゆ又和名抄草類に本草云王孫一名黄孫和名沼波利久佐此間云豆和波利【こは七に吾屋前爾生土針從心毛不想人之衣爾須良由奈とよめる土針とは異なるよし其處に云り】とある物も根の發よしの名にて義《コヽロ》は同し。。こは奴波利と云名の例なり
頭注、 。。集中に芽《ハリ》また芽子《ハリ》とも書るは芽もよく發る物なれはなり又字書に蓁與榛通木叢生也とも見えたり
又波利とのみも云は平《ツネ》なり又波藝とも云るは秋芽子《アキハキ》先《サキ》芽子【八に見ゆ】なと上に伎と云言のあれは語勢《コトハツヽキ》にて然云るゝと見えたり神樂歌【前張】にさいはりに衣はそめむとあるも咲を佐伊と音便に唱るから下を波利と云るにこそこは後の物なれとうたひものにて調を主《ムネ》とする故にかゝる差別《ケチメ》のあるなるへし既に此集天平の頃の哥にはうちまかせて波疑とよめるも少からされはなりさてこれにいと紛らはしきことありて昔より人の惑はぬはなしそは此物より外に又|榛《ハリ》と云木のあるか紛るるなり古事記朝倉宮段に天皇登葛城之山上爾大猪出《スメラミコトカツラキノヤマノウヘニノホリイテマシキコヽニオホヰイテタリキ》云々|故天皇畏其宇多岐登座榛上爾歌曰《カレスメラミコトソノウタキヲカシコミテハリノキノウヘニノホリマシキカレミウタヨミシタマハク》夜須美斯志云々和賀爾宜能煩理斯阿里袁能波理能紀能延陀常陸國風土記に採大谷村之大榛本伐造鼓末伐造琴十九に安氣佐禮婆榛之狹枝爾暮左禮婆藤之繁美爾遙々爾鳴霍公鳥これらの榛はいまハンノ木と云物にてハンは波利の訛《ヨコナマリ》なり此物は古も今も染具《ソメクサ》に用ひて衣服令に見えたり【神武紀に乃立靈畤於鳥見山中其地號曰上小野|棒《カハキ》原下小野榛原とある榛《カハキ》は皮木にてハンノ木は皮を染具《ソメクサ》に用ふるよしの名なるへく又其皮をは剥ものなる故に波藝とも云やしけむなと初に思へりしを猶よく思へは右の神武紀の榛《カハキ》も木萩《コハキ》の轉れる名にてハンノ木には非るへし△
(58)頭注、 △○ハンノ木を波利と云るは黄土《ハニ》の轉れるにて染色よりそ出つらむ
さるからにこれと萩をまかへて顯昭か袖中抄【さいはりの條】爾云ることともはいと稚《ヲサナ》き説なるを契冲これを破りて榛とあるは皆萩に非すハンノ木なりと云れたる非《ヒカコト》を加茂大人|弁《ワキ》ためられたれとも精しからさる故に本居翁また契冲を助て古事記傳【卅六の四十一葉四十二の二葉】に長々と説《イハ》れたりそを久老も同意にて槻落葉【別記】に集中の榛とある哥|等《トモ》を悉く擧てハンノ木なる證そと云りいて今は又其歌等を擧て萩なる證とすへし下に引馬野爾仁保布榛原入亂衣爾保波勢多鼻乃知師爾【入亂衣爾保波勢と云こと萩ならてはきこえす】三に去來兒等倭部早白菅乃眞野榛原手折而將歸【手折と云るは花なれはなり】答歌白菅乃眞野乃榛原徃左來左君社見良目眞野之榛原【見と云るは花なれはなり】七に住吉之遠里小野之眞榛以須禮流衣乃盛過去【盛過去とは色の變ろふを云りハンノ木に揩れらは盛りとは云ましきなり】古爾有監人之※[不/見]乍衣爾摺牟眞野之榛原【三なると同處なり】不時斑衣服針原時二不有鞆【不時とは花時に非るを云斑は花に摺亂せるなり】寄木白菅乃眞野之榛原心從毛不思君之衣爾摺【此も三なると同處なり寄木とあるは木萩なり木萩には甚《イト》大《オホキ》なる有】九に詠榛思子之衣摺牟爾爾保比乞島之榛原秋不立友【秋立て艶ふは萩なり】十四に伊可保呂乃蘇比乃波里波良和我吉奴爾都伎與良之母與多敝登於毛敝婆【衣につくとは花に觸てうつるをいへり】十六に墨江之遠里小野之眞榛持丹保之爲衣爾【令艶《ニホス》と云こと花ならては聞えす】墨之江之岸野之榛丹丹穂所經迹丹穂葉寐我八丹穂氷而將居【右に同し】これら右に云る如なるをいかてかハンノ木なる證には立へき又契冲本居荒木田の主等説に集中に芽又芽子と書るは萩なりされは露鹿雁なとをよみ合せたり又榛は衣を摺る事にのみよみて花をよめることなく哥の體《サマ》よく分れたりと云れたるはいと淺はかなる考なり其故は露鹿雁なとをよみ合せたるは皆花を見るうへの哥なり又衣を摺る方には露鹿雁なとは用《ヨシ》なきをいかてかよみ合する事のあらむ又衣を摺る方に花と云ことの旡は古は蓁摺とのみ云て蓁花摺と云ることは見えす【世々の史《ミフミ》また令式なと皆然り】又おのつから一首の趣によること上に擧たる哥等にて知へし又集中に摺衣をよめるは赤土《ハニ》眞砂《マサコ》山藍《ヤマアヰ》紫草《ムラサキ》鴨頭草《ツキクサ》垣津幡《カキツハタ》菅根《スカノネ》菅實《スカノミ》小水葱《コナキ》土針《ツチハリ》なと見えたるにひとり萩を遺さむやこれ動くましき證なり又八に草枕客行人毛徃觸者爾保比奴倍久毛開流芽子香聞十に事(59)更爾衣者不摺佳人部爲咲野之芽子爾丹穗日而將居。
頭注、 ○吾衣摺有者不在高松之野邊行之者芽之摺類曾
十五に安伎波疑爾爾保敝流和我母なとあると上に擧たる榛摺ともと事實《コトノサマ》全《モハラ》同きを思へし又古の摺衣は時に當りて物する故に何にまれ和《ナコ》やかに染著易《シミツキヤス》きを用ふること右に擧たる種々にて知へしハンノ木は皮も葉も實も荒らかにて染著ものに非す但し天武紀に高市皇子云々賜2蓁摺御衣三具1云々とあるは正月の事とあれは此花の時に非す後紀延暦十八年正月丙午朔辛酉御大極殴宴群臣并渤海客奏樂賜蕃客以上蓁摺衣并列庭踏歌貞觀儀式大嘗會條に榛藍摺綿袍延喜式鎭魂祭に蓁摺袍なとあるは其時に當りて摺れるとは聞えす豫て設たる物と見ゆれは萩なるかハンノ木なるか未其證を得す決《サタ》めては云かたしかくてさぬかたの地は十に沙額田乃野邊乃秋芽子ともよめれはこれの宜しき地なりけむさるからに皇太子の幸《イテマ》しゝなるへし○衣爾著成 著は萩花に觸てうつるなり成《ナス》は似須《ニス》と通ひて知と云に同し【准《ナスラフ》と云言の那須も似須にて似通ふを云り】衣にうつり著くか如なり○日爾都久和我勢 目に着て見ゆる我夫なり○一首の意は吾夫君か目に着て可愛《ウルハ》しく見え給ふと云ことをそこなりける萩花によせてよまれたり然《サ》るは此頃より密《シヌヒ》に御情《ミコヽロ》を交す御中らひなりけらし次に野守者不見哉君之袖布流とよまれしなとをも思へし
 
右一首歌今案不似和歌但舊本載于此次故以猶載焉
 
かくあれはやゝ舊くより端詞脱たりしなりけり
 
天皇遊獵蒲生野時額田王作歌
 
天智紀に七年五月五日天皇縦※[獣偏+葛]於蒲生野于時大皇弟諸王内臣及群臣皆悉從焉と見ゆ蒲生野は近江國蒲生郡にありさて五月五日の御獵は推古紀十九年に見え初て二十年二十二年にもあり其次は此度にて翌《アク》る八年にもあり其後は見えされとも十六に爲鹿述痛歌平群乃山爾四月與五月間爾藥獵仕流時爾云々十七卷天平十六年四月五日歌に加吉都播多衣爾須里都氣麻須良雄乃服曾比獵須流月者伎爾家里なと見ゆれは後々も有すること知へし
こは漢士《モロコシ》のゝ書等《フミトモ》に四五月鹿茸を取る事又五月五日(60)百草を採る事も見ゆれはそを相兼たる幸なるへし然れは必五月五日には局らす四月五月の間に有けるよし右の哥等にて知らる又此獵はいみしき御すさひなりしと見えて推古紀十九年夏五月五日藥獵於菟田野取鷄鳴時集于藤原池上以會明乃徃之粟田細目臣|爲前部領《マヘノコトリ》額田部比羅夫連|爲後部領《シリヘノコトリ》是日諸臣服色皆隨冠色各著|髻《ウス》華則大徳小徳並用金大仁小仁用豹尾大禮以下用鳥尾二十年夏五月五日藥獵之集于羽田以相連參趣於朝其装束如蒐田之獵二十二年夏五月五日藥猟也天智紀七年夏五月五目天皇縱※[獣偏+葛]於蒲生野于時大皇弟諸王内臣群臣皆悉從焉○なと見えたる趣いと花やきたる御すさひと聞ゆ十七の哥も然りそれに服《キ》曾比獵とあることを本居大人の服装獵《キヨツヒ》なりと云れしは宜《ウヘ》しなりけりさるからに額田女王も供奉《ミトモ》につかへまつられしなるへし
頭注、 ○八年夏五月戊寅朔壬午天皇縱※[獣偏+葛]於山科野大皇弟藤原内大臣及羣臣皆悉從焉
 
20 茜草指武良前野逝標野行野守者不見哉君之袖布流《アカネサスムラsキヌユキシメヌユキヌモリハミスヤキミカソテフル》
 
茜草指【茜草は借字なり】は紫の枕詞なり阿加禰は朱《アケ》と云に同し言なり指《サス》は色さしなと光艶《ニホヒ》を云り紫《ムラサキ》は亂朱《ミタシアケ》の約にて朱《アケ》に屬る色なれは冠らせたり【初に思へりしは茜は赤根の生《サ》す草なりさるよしの名なるへし紫草も赤根のさす物なれはさるよしの枕詞よと思へりしはあらさりけり】冠辭考の説は未《イマダ》し○武良前野逝 武良前野は紫草の生る野なり【地名には非す】蒲生野の内なるへし逝は皇太子の行ますなり○標野行 標野は官《オホヤケ》のしめらるゝ禁野なりこは紫草野と別處にはあらす紫草の生る地禁野なるなり紫は禁色《ユルシノイロ》にて凡《ナベテ》世《ヨ》に用ひぬものなれは其生る地禁野なりしなるへし行は上に同しさて裏意には標野とは額田王みつからを譬へたりそは天智天皇の妃《ミメ》なる故に禁野には言寄《コトヨセ》せられたるなり行とは皇太子の此王を想懸寄《オモヒカケヨリ》たまへるを禁野に人の入立ことにたとへたりされは紫草野行禁野行と同しことを重ねたるも皇太子のかへる/\寄立物のたまひ懸ることを含めたる詞なり○野守者不見哉 野守は禁野を守《モ》る者なりさて裏には天智天皇を野守に譬へ奉《マツ》れりそは自を禁野に譬へたれば御《メサ》るる天皇を野守には言寄《コトヨセ》まつれるにて皇太子のかへる/\宜ひ寄ることを天皇は見とかめ(61)給はすやそは可畏きことなりといさめ奉《マツ》る意を禁野に入立て野守に見難めらるゝよしによまれたり○君之袖布流 君とは皇太子をさせり袖布流とは招きよするわさにて左に松浦佐用姫の事をいへる序に遂(ニ)脱2領巾《ヒレヲ》1麾《サシマネク》之云々因號此山曰領巾麾《ヒレフル》之嶺也なとあり然れは皇太子の此王に御情《ミコヽロ》ありて袖振たまへるを天皇に見とかめられ給はむそと危ふまるゝ意なり前句と置替て意得へし○一首の意は皇太子の吾に御情《ミコヽロ》ありてかへる/\【二三(ノ)句にあたれり】袖振ほのめかし給ふなる然るに吾は天皇の妃《ミメ》なれは見とかめられ奉《マツ》らむこと可畏し忍ひたまへとなり然るを昔よりの注ともふつに此|義《コヽロ》を知らねは紫草野行標野行と重ねたるをも野守と云ことをも袖振ともいかなることゝも通《キコ》え別《ワキ》かたくなむ有ける
 
皇太子答御歌 明日香宮御宇天皇
 
21 紫草能爾保敝類妹乎爾苦久有者人妻故爾吾戀目八方《ムラサキノニホヘルイモヲニクヽアラハヒトツマユヱニワレコヒメヤモ》
 
紫草能【草字は旡き意に見へし此《コ》は色のうへをいへるにて草には用《ヨシ》なけれはなり】下に如と云辭を加《ソ》へて意得へし○爾保敝類妹乎 爾保敝類とは紅顔なりさて紫は今のとは異りて朱《アケ》の濃《コキ》を云り董杜若なとを妹に似る花と云にても知へし令義解に※[草冠/補]※[草冠/陶]《エヒ》染を紫色之最淺者也と注せり○爾苦久有者 愛《ハシ》く不思者の意なり奧入抄にある時はありのすさひににてかりきなくてそ人は戀しかりける全《モハラ》此《コレ》と同し【俗言《ヨノコト》にかはゆくなくはと云意なりたた惡しと云とは異なり】○人嬬故爾 人嬬とは天皇の妃《ミメ》なれはなり故にはなるものをの意なり十に朱羅引色妙子數見者人妻故吾可戀奴なとあり○吾戀目八毛 吾《ワレ》將v戀やはなり○一首の意は美麗しき妹を信に中|情《コヽロ》より思はすは他妻《ヒトツマ》なるものをわりなく戀へしやはなり
 
紀曰天皇七年丁卯夏五月五日縱獵於蒲生野于時大皇弟諸王内臣及群臣皆悉從焉
 
七年は戊辰なり一年を算へ誤れるなるへし
 
明日香清御原宮御宇天皇代 天渟中原瀛眞人天皇
 
天武天皇なり
 
十《トヲ》市皇女參赴於伊勢神宮時見波多横山巖吹黄刀自作歌
 
天武紀に天皇初娶鏡王女額田姫王生十市皇女 四年二月乙亥朔丁亥十市皇女阿閇皇女參赴於伊勢神宮と(62)見ゆ此《コヽ》に阿閇皇女を擧ぬは作者十市皇女に奉仕《ツカヘ》て其《ソノ》王《キミ》の御事をよまれたる哥にして阿閇皇女には關る事なけれはなり波多横山は神名帳伊勢國壹志郡波多神社和名抄同郡八太郷あり萬葉考云伊勢松坂より初瀬越して大和へゆく道の伊勢の内に今も八太里ありその一里許|彼方《アナタ》に垣外《カイト》と云村に横山ありそこに大なる巖とも川邊にも多し是なるへし飛鳥藤原なとの頃齋王群行は此道なるへしと國人は云り或人は大和國高市郡の波多なりといへとも路次《チナミ》の便《タヨリ》それには非るへしとあり吹黄刀自は四卷にも出續紀【十二】に富紀朝臣馬主と云人見ゆるは同姓なるにや【又此はホキにて別《コト》なるか】其外は物に見えす刀自は言のもと門主《トシ》にて家主なる女を云|稱《ナ》なり【連《ムラシ》宮主《ミヤシ》主《アルシ》なとの自におなし】それより轉りては壯年《サカリ》なる女をも云りと聞ゆ允恭紀に初皇后隨母在家獨遊苑中時|闘鶏《ツケノ》國造從傍徑行之乘馬而※[草冠/位]籬謂皇后嘲之曰能作園乎汝者也【汝此云那鼻苫也】且曰|壓乞戸母其蘭一莖《イテトシソノアラヽキヒトモト》焉【壓乞此云異提戸母此云覩自】こは皇后の未なり出たまはて御母許に坐《イマ》せる時の事なれは家主にはおはせねともやゝ壯年《サカリ》なる御ほとなれは戸母《トシ》とは云けるなるへし戸母とは本義《モトノコヽロ》もて書れたり四に大伴坂上郎女從跡見庄贈賜留宅女子大孃歌に吾兒乃刀自とありて反歌に名姉之戀曾夢爾所見家留とよめり刀自も名姉《ナネ》も長成《オトナ》になりたるを云ると聞ゆ後世の物に家とうしと云は全く家主なるを云り【されは家と云言を加《ソ》へたり】又書紀に夫人をオホトシと訓り又續紀より以降《コナタ》の女名に何刀自女と云る多かり。。然れは此も吹黄刀自を連ねて名なるにやはた吹黄姓の刀自なるよしか吹黄と云姓正く物に見えす此人も外に考へきよしなし【和名抄に刀自を老女のことゝあるは意の轉れるなれとも漢籍を引るは當らす】
頭注、 。。續後紀承和八年閏九月甲子條に春苑宿禰玉成母曾禰連|家主《トシ》女
 
22 河上乃湯都磐村二草武左受常丹毛冀名常處女※[者/火]手《カハノヘノユツイハムラニクサムサスツネニモカモナトコヲトメニテ》
 
河上乃 上は上下表裏なとの宇閇に非す邊《ホトリ》を云言なり下に藤原我宇閇爾食國乎賣之賜牟登都宮者高所知武等五に父母毛|表者《ウヘハ》奈佐我利三枝之中爾乎禰牟登十九に寺井之|於《ウヘ》乃堅香子之花諸陵式に井上陵道上陵池上陵なとあるにて意得へし○湯都磐村二 湯は五百と通ふ言な(63)り都は一《ヒトツ》二《フタツ》萬《ヨロツ》なとの都|十《トヲ》の登|百《モヽチ》千《チヽ》の知と通ひて數の事に云り【助辭には非す】こは神代紀の五百箇磐村に同く磐石《イハ》の多く群在《ムレタル》を云古語なり【湯津楓湯津爪櫛なとも枝の多く齒の繁きを云て同し】○草武左受 草不生なりさて河上の磐群は水の灑きに草|生《ムサ》ぬ物なれは夫を見てよまれたり然らされは河上と云詞いたつらなるを思へしこれ一首の旨なるを昔より説《イヘ》る物なかりき○常丹毛冀名 常は都禰なり【登許と訓はわろし】廿に伊蘇麻都能都禰爾伊麻佐禰とあり加毛は乞望ひ歎く辭なり精くいはゝ加は乞望《コヒネカフ》なり三に奧津白浪花爾欲得《モカ》 石竹之其花爾毛我【これら花にも欲《カ》なり然るを毛を下につけて毛我を願辭と思ふはあらす】射狹夜歴月乎外爾見而思香なとの如し毛は歎辭にて常多し又名も同く歎辭なり○常處女※[者/火]手 常し經に何時《イヅ》も變らぬをとめにてなり○一首の意は我君【十市皇女】は此河邊の五百筒磐群の如《コト》常世に座《マ》さなむ又此磐群の水の灑きに草むさぬ如《コト》老まさて何時も變らぬをとめにて坐せとなりこは大神宮へ參ります時なれは皇女の御身を祝ひ祈《ネ》く意ありかゝれは波多横山はいよゝ伊勢とこそ思はるれしかるを作者みつからのうへをよめると思ふは誤れり
 
吹黄刀者未詳也但紀曰天皇四年乙亥春二月乙亥朔丁亥十市皇女阿閇皇女參赴於伊勢神宮麻績王流於伊勢國伊良虞島之時時人哀傷作歌
 
續は字書に續麻曰績なと其余も續と通はし用たり天武紀に四年夏四月甲戌朔辛卯三位麻續王有罪流于因幡一子流伊豆嶋一子流血鹿嶋とのみありて此王の系《スチ》も罪の由も知られす萬葉考云左注に是云配于伊勢國伊良虞島者若疑後人縁歌辭而誤記乎とあるか如く伊勢國三字は後に加《ソ》へたるへしそは下なる幸于伊勢國時歌に五十良兒島をよめるにより此《コヽ》も同しと思ひて傍《カタヘ》に書せるを又後人の本文には加《ソ》へたるへし然れとも下なる五十良兒島も三河國内にて伊勢にはあらぬをやさて此《コヽ》なるは因幡なること論《ウツ》なし後の物なから古今著聞集に伊豫國にもいらこと云地見ゆとありこは國人にも問定へし
 
23 打麻乎麻續王白水郎有哉射等籠荷四間乃珠藻苅麻須《ウチソヲヲミノオホキミアマナレヤイラコカシマノタマモカリマス》
 
打麻乎は麻續の枕詞なり打は美《ウツ》なり十六に打十烏麻續兒等蟻衣之寶之子等蚊|訂栲《ウツタヘ》者經而織布とある打栲《ウツタヘ》は令(64)義解に敷和《シキタヘ》者宇都波多也と見えて美服《ウツハタ》なりこは竹取か若かりし時のよろつ美《メテ》たかりし事|等《トモ》を云並たる詞にて美麻《ウチソ》と美服《ウツタヘ》とを對《ムカ》はせたるなれは宇知宇都かよひて美《ウツ》の義《ヨシ》なるを知へし内日刺と云詞も美日《ウチヒ》なりと冠辭考に見えたりかくて麻續につゝくるは美麻を緒に續《ウミ》と云義にて眞鉋もて弓削と云に同し【冠辭考は言《イヒ》足らす】○麻續王 於保伎美とは天皇より皇子諸王まてに亘りて總て皇胤《ミスチ》を申す御稱《ミナ》なり故《カレ》上古に某《ナニノ》於保伎美と申す一人の名《ミナ》は旡りき然るをやゝ後に天皇の直《タヽ》の御子を皇子《ミコ》と申に別《ワキ》て諸王を某《ナニノ》於保伎|美《ミ》と稱《マヲ》せり【古は子《コ》孫の末裔《スヱ》まてを總て子と云りし故に皇子諸王を別す皆御子とまをしき】此《コヽ》の麻續王十三に百小竹之三野王《モヽシヌノミヌノオホキミ》【孝徳紀より元明紀まて見えたれは此頃の人なり】なとよめるは必御名と聞ゆれは此頃は既く此《コノ》定《サタマリ》と見えたり【古事記傳廿二の四十九葉四十の卅一葉に説《イハ》れたることゝもはいとよき考なから諸王を於保伎美と申すことは續紀の頃よりなるへしとあるは違へりこゝの麻續王十三の三野王なとは其御名なること著きをや】
○白水郎有哉 有哉《ナレヤ》はなれはにやなり○討等籠荷四間乃 上に云り○珠藻苅麻須 珠藻とは藻を美《ホメ》て云|稱《ナ》なり古事記傳【卅四の廿二葉】云凡て多麻とは本|何物《ナニ》にまれ貴く美《メテタ》き物を賛《ホメ》云言にして萬の物に多麻|某《ナニ》と云ことの多かるも其物を稱美《ホメ》たる稱《ナ》なり【されは玉と書は借字にして云々】かくて珠玉を云も世に貴く美《メテタ》き物なるか故に分《ワキ》て負る名なり【然るに珠玉の名を本として其《ソ》を萬の物にも附云と心得るは本末違へり又其物の形の圓《マロ》にて玉に似たる由なりと云も謂れす必|圓《マロ》ならぬ物にも多くいふをや】とありかくて藻を美《ホメ》たるよしは二に吾王乃立者玉藻之如許呂臥者川藻之如久靡相之宜君之十三に浪雲乃【靡藻之なり】愛妻跡なとも譬へて美《ウツク》しき物なれは古に此を美《メテ》たること集中に多し十七に之良奈美能與せ久流多麻毛余能安比太母都藝底民仁許武吉欲伎波麻備乎崇神紀に欺《アサムキテ》v弟《オトヲ》曰《イヒケラク》頃者《コノコロ》於《ニ》2止屋淵《ヤムヤノフチ》1多生※[草冠/妾]願共行《モノサハニオヒタルイサモロトモニユキテ》欲《ム》v見《ミ》なとわさと徃ても見たりしなり同紀(ノ)神託《カムカヽリノ》詞に玉菩鎭石出雲人祭《タマモシツシイツモヒトマツレ》【玉※[草冠/妾]沈《タマモシツ》し嚴※[草冠/妾]《イツモ》とつつけり】又阿佐毛余斯紀とつゝくるも淺藻の清らかなるよしなりこれらを以知へし【藻實の圓きを玉と云るには非す】又集中|玉小菅《タマコスケ》ともあり相證へし【菅は清々《スカ/\》しき義《ヨシ》の名なれは玉と美《ホメ》たることも藻と同し】麻須は坐なり【尊みて加《ソ》へたる辭には非す】○一首の意は麻續王の伊良處島に珠藻を苅て坐なるは此王海人にておはすなるやと疑ひ奇しむ意なりさるは王に(65)してさる賤き業したまふを世にあるましきことゝ傷み奉《マツ》れるなり
 
麻續王聞之感傷和歌
 
24 空蝉之命乎惜美浪爾折濕伊良虞能島之王藻苅食《ウツセミノイノチヲヲシミナミニヌレイラコノシマノタマモカリヲス》
 
空蝉之 命の枕詞なり此語のこと上【十四葉】に云る如く現身なり○命乎惜美 命は息之内《イノチ》なり生《イキ》息《イキ》は同し惜美はをしさになり○浪爾折濕 凡て奴禮奴流と云言は物より所《ルヽ》v濕《ヌラサ》をいへりさて此句御身に有ましき所爲《シワサ》を歎たまへるなり味はふへし○伊良虞能島之玉藻苅食 袁須は飲《ノミ》物にまれ食《クヒ》物にまれ身に受|納《イルヽ》を云て用《ツカ》ひさま重し又能牟久布は飲む状《サマ》【甞とかよへり】食《ク》ふ状【咋と同し】を云て輕しさてこゝは命に關《カヽ》る故に袁須なり○一首の意は前歌に和《コタ》へて身に負ぬ賤き海人の業をして存在《ナカラフ》るは命のをしさにこそあれとなり實に王と坐す御身の天さかる鄙ともひなの島に獨坐てさる業してなからへ給ひけむには何こゝちかしたまひたりけむを命のをしさにこそ一日一日を堪わたらふわさなれはかく有のまゝによみ給へるなむ殊にあはれ深かりけるそも/\皇子なとをも島に放《ハフ》ることは早くより有しかと此王は遠き因幡の島にしも放られますのみかは御子等をさへ伊豆島と肥前の血鹿島に方わきて流されたるる必おほろけのよしにはあらさらましを紀にはたゝ有罪とのみ物して事の由を記されぬはいかなるにかあらむもし公《オホヤケ》にかゝりて諱へきよしの有けるにやさることも此頃にはありもし然らは前歌端詞に時人とあるも作者の名は世をつゝめるにて實にはさへき貴人の島に贈けるにや
 
右案日本紀曰天皇四年乙亥夏四月戊戌朔乙卯三品麻續王有罪流于因幡一子流伊豆島一子流血鹿島也是云配于伊勢國伊良虞島者若疑後人縁歌辭而誤記乎
 
書紀を※[手偏+僉]るに四月甲戌朔辛卯三位云々とありこは異本かとも思へと左注の干支は誤多けれはおほつかなきうへに三品とあるは後の例にて書紀は何處も位とあるに違へり後人の妄に書せるなるへしされと伊勢國とあるを疑ひて云ることはよし
 
天皇御製歌
 
25 三芳野之耳我嶺爾時無曾雪者落家留間無曾雨者零計類其雪(66)乃時無如其雨乃間無如隈毛不落思乍叙來其山道乎《ミヨシヌノミミカノミネニトキナクソユキハフリケルヒマナクソアメハフリケルソノユキノトキナキコトソノアメノヒマナキカコトクマモオナスオモヒツヽソクソノヤマミチヲ》
 
或本歌
 
26 三芳野之耳我(ノ)山爾時自久曾雪者|落等言《フルトフ》無間曾雨者落等言其雪(ノ)不時如《トキシクカコト》其雨無間如隈毛不墮思乍叙來其山道乎
 
右句々相換因此重載焉
 
三芳野之 三は【借字】眞に通ふ美語《タヽヘコト》なり【三熊野を眞熊野ともいへり】芳野は余斯怒と訓へしさるは古事記朝倉宮段大御歌に美延斯怒天智紀童話に美曳之弩なと古は芳《ヨシ》を延斯と云りしに次に淑人乃良跡吉見而好當言師芳野吉見與良人四來三とあるは芳野の名につけて同言を疊ねたるに結句四來三とあれは淑良吉好芳なとの字を余伎余斯余久と訓へく延伎延斯延久とは訓ましければなり【こはやゝ後のことなり】十八に美與之努とありさて此地《コヽ》はいと勝れたる地《トコロ》なれは上代より名高く人の遊賞《ユキメテ》あそひたること右に引る哥又九に古之賢人之遊兼吉野川原雖見不飽鴨七に妹之紐結八川内乎古之淑人見等此乎誰知 皆人之戀三吉野今日見者諾母戀來山川清見なと多し然れは地名も其義なるへしそはまつ吉とは愛《オムカシ》みたる言にて神代紀に妍哉可愛少女《アナニヱヤエヲトメ》とある可愛《エ》これなり【今(ノ)俗《ヨノ》言に吉をエイと云はおのつからかよへり】そを活用して延伎延久延斯なるを轉りては余伎余久余斯と云るなり野とは木草の茂く隱《コモ》りかなる地を云り。。
頭注、 。。後には野原をのみいへとも本義に非す
そは出雲と木國の熊野【熊は隱《クマ》にて籠りかなるをいへり】は須佐之男大神なとと八十木種を播殖《マキオホ》し給へる神等の坐す地にて木の多かるよしの名なり又信濃は級坂ある野にて木曾山なと木の多かる國なり美濃は野も山も他《ホカ》と殊なれは何れにてもあるへし下に鹿將鳴山曾高野原之宇倍ほかにも高野と云地は木の多かる山なり須磨の上野なとも同し又野原を云は草茂き名なり十三に百小竹之三野王とよめるは百《モヽ》と多くの草の靡《シナ》ふ眞野《ミヌ》と云意のつゝきなり【小竹○】これらにて曉るへし然れは吉野も木草の茂かる地の山川も可愛《メテタ》きを稱賛《ホメ》たる名なること知へし
頭注、 ○は借字なること同卷に百詩年三野之國とある詩年は靡《シナ》えなるにて證《アキ》らむへし
○耳哉嶺爾 萬葉考云耳我は御岳《ミミカ》にて山形の缶に似たるよしにや後に金峯と云山これなるへしさるは御【眞に同し】(67)を省て缶嶺《ミカネ》とも云けむを後に此山より黄金《クカネ》の出たるなとより誤て神名帳にも金峯神社とは記されつらむ皇國の太古《イニシヘ》に黄金は旡りしと見ゆれは金を以號むよしなし又時無曾雪者落家留云々も秀れたる高嶺と聞ゆるに此《コヽ》より外には見えすして彼金峯の名高きをも思へし又十三に三吉野之御金高爾間無序雨者落云不時曾雪落云其雨無間如彼雪不時如間不落吾者曾戀妹之正香爾この御金も御缶の誤なり【野雁云|御金《ミカネ》を缶嶺《ミカネ》の借字と思ふはあらす嶺《ネ》と高《タケ》と同言を重ぬへきに非す】又近世に此山そと云るは更に頼《ヨリ》かたしとあるは信に然るへし嶺《ミネ》は御峯《ミネ》なり○時無曾 何時《イツ》と定まれる時無なり○雪者落家留間無曾雨者零計類其雪乃時無如其雨乃間無如 聞えたり○隈毛不落 隈は道の屈曲《クマ》なり不落は不脱漏《オチス》なり○思乍叙來 乍は上【廿九葉】に出上よりつゝける意は道すから絶す物思ひ來ませることを多かる隈々を經たまふ程も間無なり○其山道乎 聞えたり○一首の意は一わたりは聞えたりさてこは吉野宮より女許に幸《イテマ》す時《ヲリ》のかと思ふに。。天武紀を※[手偏+僉]るに天渟中原瀛眞人天皇(ハ)天
頭注、 。。十卷七夕歌に天漢渡湍毎思乍來之雲知師逢有久念者これと似たるを思へし
命開別天皇元年立爲東宮四年冬十月庚辰天皇臥病以痛之甚矣於是遺蘇賀臣安麻侶召東宮引入大殿時安麻侶(ハ)素東宮所好密領東宮曰|有意而言矣《ミコヽロシラヒニテマヲシシマヘ》東宮於茲疑有隱誅而慎之天皇東宮授|鴻業《アマツヒツキノコトヲ》乃辭讓之曰医之不幸元多病何能保社稷願陛下擧天下陛皇后仍立大友皇子宜爲儲君臣今日出家爲陛下欲脩功徳天皇聽之即日出家法服因以收私兵器悉納於|司《オホヤケ》壬午入吉野宮時左大臣蘇賀○※[日/木]安
頭注、 ○赤兄臣右大臣中臣金連及大納言蘇賀
臣等送之自菟道返或曰虎著翼放之是夕御嶋宮癸未至吉野而居之是時聚諸舍人謂之曰我今入道修行故隨欲修道者皆之若仕欲成名者還仕於|司《オホヤケ》然無退者更聚舍人而詔如前是以舍人等半留半退十二月天命開別天皇崩と見えて明《クル》年(ノ)五月に大友皇子との御事起りて六月に東國へいてませりしかは吉野に出家《スケ》にて御座《マシ/\》しは十月より明年五月まていと少時《シマラク》のことにてしか女許なとに通ひ幸まさむ時《ヲリ》からにも有ましけれはおほつかなし若《モシク》は吉野に(68)入ます時に京なる御思人の許に遣はしたるにや【此時皇后は吉野に御伴《ミトモ》なりしと見ゆ○萬△】又上に引る十三卷なるは反歌と併せてよく通えたり
頭注、 △葉考には山のおもしろきを思ほしめしつゝ幸ますこそ説《イハ》れたるは甚《イミシ》き非《ヒカコト》なり又大御位の事を思ほすかとも云へけれとさる密旨《シヌヒコト》をかすめてもよみ顯し給はむや
 
天皇幸于吉野宮時御製歌
 
天武紀に八年夏五月庚朔甲申幸于吉野宮丙戌車駕還宮とあり此度皇后皇太子皇子等も御伴《ミトモ》なりき
 
27 淑人乃良跡吉見而好常言師芳野吉見與良人四來三《ヨキヒトノヨシトヨクミテヨシトイヒシヨシヌヨクミヨヨキヒトヨクミツ》
 
淑人乃 字の如し九に古之賢人之遊兼吉野川原雖見不飽鴨とありさるは勝れたる山川の地《トコロ》をも好《ヨシ》と見知は凡庸《ヨノツネ》ならす賢き淑き人なれはにて上代に此處《ココ》を賞初《メテソメ》し人を淑人とは詔へるにて誰とさすにはあらす○良跡吉見而 良跡は心に良跡おもふなり吉見而は地をなり○好常言師 地をなり○芳野吉見與 皇后なとに詔へる御詞なり○良人四來三 折返し懇に詔へり○一首の意は古に淑人の見めてゝ好と言し此吉野を熟《ヨ》く見ませと始て幸《イテマ》せる皇后なとに誘《スヽ》め給へるなりさ○
頭注、 ○て此《コ》は芳野の名につけて吉と云言を疊ねたまへるなり
 
紀曰八年巳卯五月庚辰朔甲申幸于吉野宮
 
(69)萬葉集新考 四
 
藤原宮御宇天皇代 高天原廣野姫天皇
 
持統天皇なり
 
天皇御製歌
 
28 春過而夏來良之白妙能衣乾有天之香來山《ハルスキテナツキタルラシシロタヘノコロモホシタリアメノカクヤマ》
 
春過而は一首に冠る詞なり輕く看過へからす○夏來良之 來は來而有なり○白妙能 妙は借字にて栲《タヘ》なり豐後國風土記云|大分《オホキタノ》郡|柚富《ユフノ》郷此郷之中|栲《タク》樹多生常取栲皮以造木綿因曰柚富郷こは今世に多布と云布ありて精《ヨ》く製れるは色いと白く強き物なり古は貴《タカキ》も賤《ヒキキ》もなへて服たりし故に衣の枕詞にもつゝけたり又|煩栲《シキタヘ》踈栲《アラタヘ》とは織目の精麁《ヨキアシキ》をいふ品《シナ》なり然るを冠辭考なとに穀《カチ》と一ツに説《イハ》れたるは甚《イミシ》き誤なりさて其多布は栲《タク》と通ふ言にて多倍も多布の轉れる稱《ナ》なり【太布下學集に見ゆ】○衣乾有 衣は服《キ》る裳《モ》と云|義《コヽロ》の名なり裳【字は當らされとしはらく借りてうへり】とは總て身に着《ツク》る絹布の類を云りそは下《シモ》に着る裳はさらなり袴《ハカマ》は佩裳《ハクモ》衾《フスマ》は臥裳《フシモ》なり座《ヰ》る具《モノ》の氈《カモ》は和名抄に毛席とありて毛裳なり又|席《ムシロ》は裳代《モシロ》にて下に敷く裳【茵《シトネ》にまれ衾《フスマ》にまれ】の又下に敷物なり【欽明紀三十一年の處に江渟臣裙代《エヌノオミモシロ》と云人名もあり】菰は小裳にて座《ヰ》る具《モノ》なるを其《ソ》を製る草の名にも成たるべし此等《コレラ》にて知ね乾有は乾而有なりさて此句を天之香具山につゝけて心得へからす其《ソ》は次に云り○一首の意は香山あたりに幸《イテマ》せる時に人家に衣の乾たるを見ましてさは春過て夏に成にけるよと思はす並《ナヘ》に香山のけしきもいつしか春色はうせて夏に成にけりとなりされは香山に衣を乾たるにあらす又結局にさる意を含めたるを知人かつて旡りけり
 
過近江荒都時柿本朝臣人麻呂作歌
 
萬葉考に柿本朝臣人麻呂七字古本には過の上にありと見ゆそれ宜きに似たれと未|其《ソノ》本《マキ》を見されはさてあり同書云人麻呂の父祖《オヤ》は知られす此人は崗本宮の頃なとや生れつらむ和銅の始に死《ミウセ》しとは見えたり集中此人の哥を和銅の初の處までに載て其後は見えす齡《トシ》を量るに二卷に朱鳥三年日並知皇子命殯宮時此人東(70)舍人にていたみ奉《マツ》れる哥あり東宮舍人は蔭子孫及位宮子を補《ナス》と云令《ミサタメ》にて廿一歳以上の者の出身《ミヤツカヘ》なり又哥樣もよき齡《トシ》のほとと見ゆれは卅歳には足らぬ許なりけむかくて和銅の初まてを數れは五十に足らてや死《ミウセ》にけむ始は日並知皇子命【天武の皇太子】舍人なりしを皇子命薨りまして高市皇子命【後の皇太子】の舍人になられけるよし二卷挽歌にて知らる【野雁云|此間《ココ》に筑紫へ下り近江よる上るとる考を云れたるは據かたけれは擧すそはいかなりけむ推量へからす又越前へも下られけること三卷に見えたり】石見任國にて死《ミウセ》たりそれに死と書せれは六位より上にはあらす掾目なとにやありけむ【古今集序なとは此《コヽ》に論ふに足す】
 
29 玉手次畝火之山乃橿原乃日知之御世從《タマタスキウネヒノヤマノカシハラノヒシリノミヨユ》【或云自宮】阿禮座師神之盡樛木乃彌繼嗣爾天下所知食之乎《アレマシヽカミノコト/\ツカノキノイヤツキ/\ニアメノシタシロシメシシヲ》【或云食來】天爾滿倭乎置而青丹吉平山乎越《ソラニミツヤマトヲオキテアヲニヨシナラヤマヲコエ》【或云虚見倭乎置青丹吉平山越而】何方御念食可《イカサマニオモホシメセカ》【或云所念計米可】天離夷者雖有石走淡海國乃樂浪乃大津宮爾天下所知食兼天皇之神之御言能大宮者此間等雖聞大殿者此間等雖云春草之茂生有霞立春日之霧流《アマサカルヒナニハアレトイハハシノアフミノクニノサヽナミノオホツノミヤニアメノシタシロシメシケムスメロキノカミノミコトノオホミヤハコヽトキクトモオホトノハコヽトイヘトモハルクサノシケクオヒタルカスミタツハルヒノキレル》【或云霞立春日香露流夏草香繁成奴留】百磯城之大宮處見者悲毛《モヽシキノオホミヤトコロミレハカナシモ》【或云見者左夫思母】
 
玉手次は宇禰の枕詞なり冠辭考に襷を纏《ウナケ》るとつゝけりとあり○畝火之山乃 上【十一葉】に出○橿原乃 神武紀に己未年三月辛酉朔丁卯下令曰云々觀夫畝傍山東南橿原地者蓋國之墺區乎可治之是月即命有司經始帝宅故古語稱之曰於畝傍之橿原也太立宮柱於底磐之根峻峙榑風於高天之原而始馭天下之天皇と見ゆ○日知之御世從【或云自宮】 日知とは聖字に就て設たる訓なるへし言義《コトノコヽロ》日は借字にて靈《ヒ》なり神代紀に天照大御神の御事を二神喜曰《フタハシラヨロコヒテノタマハク》吾息《アカミコ》雖《トモ》v多《サハナレ》未v有《イマタマサス》2若此靈異之兒《カククシヒナルミコハ》1と見え又|産靈《ムスヒノ》神の靈《ヒ》も同じ天照大御神を日と稱《マヲ》すも天地《アメツチ》の放隔《ソコヒ》の底《ウラ》に比類《タクヒ》なく靈異《クシヒ》に座《イマ》す故の大|御稱《ミナ》なり又火も物に殊れて靈異なり人も生とし生るものゝ中に殊れたる義《ヨシ》にて靈聰《ヒト》なり名に號《ヅク》る日子日女も同し美稱《タヽヘナ》なり又蠶を靈蟲《ヒムシ》と云りこれらにて知へしかくて漢國にて聖人と云者は世に殊れてあやしきまてかしこき物知人なれは此方《ココ》にて其|號《ナ》を聖知《ヒシリ》と云て聖字には配《アテ》たるなり【古事記傳卅五の廿六葉に説《イハ》れたるとは少し異なり】さて天皇は神とこそ稱《マヲス》なるを漢籍には神聖と云こともあるから同し樣に稱《マヲ》し初たるなりそか中に此神武(ノ)天皇《スメラミコト》仁徳(ノ)天皇《スメラミコト》なとは凡《タヽ》ならぬよしも座ませとも稱《タヽ》へ奉《マヅ》りては何時《イツ》も聖主《ヒシリノキミ》なと云なれたれは殊なるよし(71)はなかるへし【後世は僧《ホウシ》なとをすら稱へてハ聖と云り】
○阿禮座師 阿禮は現《アレ》なり○神之盡 神とは天皇を申せり盡は悉皆《コ/\》なりさてこは御代々々の天皇悉皆/\と云意なり○樛木乃 繼《ツキ》と言通ふ故につゝけたりさて此木を冠辭考に今の栂《ツカ》【登賀とも云り】に非す黄楊なりと云れたるは中々の誤にて即今の栂なり其故は三に神名備山爾五百枝刺繁生有都賀乃樹乃彌繼嗣爾十七に敷多我美夜麻爾可牟佐備底多底流都我能奇毛等母延毛於夜自得伎波爾十九に安之比奇能八峯能宇倍能都我能木能伊也繼々爾なとありて八峯上また神佐備立ともよめるは山にても高く大にて樅《オミ》なとの類と聞ゆるに今の栂《ツカ》の熟《ヨ》く叶へるを思へし又六に御舟乃山爾水枝指四時爾生有刀我乃樹能彌繼嗣爾萬代とある刀我は外にはいつくも都我とありて刀は都の片の消たるかはた片を省る一體《カキサマ》かとも思へと【起《オキ》を己|石村《イハレ》を石寸|※[虫+呉]蚣《ムカテを》呉公と書く類なり】もし本のまゝならは今も栂を都賀とも登賀とも云に同しかゝれは名も實《モノ》も符《カナ》へり然るに黄楊は和名抄に豆介とありて古も今も都賀とは云ることなく山には生れと神進《カムサフ》はかりはあらぬ木なるをやさて樛字は木下曲曰樛と見ゆるを都賀にはいかて配《アテ》たりけむ冠辭考に黄楊《ツケ》の中に木も枝も曲れる一種ありとさへ云れたるは余《アマリ》の強説《シヒコト》あり○彌繼嗣爾 聞えたり○天下 これも○所知食之乎【或云食來】食來《メシケル》勝れり○天爾滿 爾もしは調に從《ヨリ》て加《ソ》へたるへし○倭乎置而青丹吉平山乎越【或云虚見倭乎置青丹吉平山越而】何方御念食可【或云所念計米可】平《ナラ》はならし平らくる義《コヽロ》より用《ツカ》へり乎もし二(ツ)は故《コトサラ》に重ねて何方御念食可の勢を加《ソヘ》たりさるは神武天皇以來世々遠々|御座《マシマ》しゝ倭乎置而平山乎越而の意なり天智紀に六年三月辛酉朔己卯遷都于近江是時天下百姓不願遷都諷諫者多童謠亦多日々夜々失火處多とあるを思合へし食可《メセカ》は食者哉《メセハカ》なり○天離は夷の枕詞なり冠辭考に都方より鄙《ヒナ》の國方《クニヘ》を望《ミ》れは天と共に遠放りて所見《ミユル》なりとあり○夷者雖有 比那は邊《ヘタ》と通ひて【端《ハタ》も同し又|邊《ホトリ》の保登も】邊裔《カタホトリ》を云り靈異記新撰字鏡なとに鄙は止比止とあるも遠邊《トホヘタ》なり○石走は【借字にて石橋なり】淡海の枕詞なり其説冠辭考に精しかるを約めていはゝ石橋とは川中に石を並へて渡るを云其石の間《アハヒ》を淡海の阿波につ(72)ゝけたるなり○淡海國乃 阿布美は阿波宇美の約なり淡とは凡て本質《モト》のまゝなるを云り湖水は潮の交らぬよしの名なり宇美は大水《オフミ》の約にて【此事二の廿四葉に云り】海は借字なり○樂浪乃【集中神樂聲また神樂浪とも書り古事記傳八の五十四葉に云石屋戸の故事に因て神樂《カミアソヒ》には小竹葉《サヽハ》を用ひ其《ソ》を打振音の佐阿佐阿と鳴に就て人|等《トモ》も同く音《コヱ》を和せて佐阿佐阿と云ける故なるへし】佐々那美は【篠靡のよしか】古にいと廣かりし地名と聞えて志賀比良なとのあたりを云には佐々那美乃と云り但し欽明紀に狹々波山【今昔物語十一の廿九段に志賀ノ郡ノ篠浪山ノ麓ニ至ヌ】神功紀に狹々浪(ノ)栗林《クルス》天武紀に會《ツトフ》2於篠浪1なと見ゆれは其處《ソコ》らを本にてかく廣こりけむ○大津宮爾 大津とは何處にも船津の大なるを云り難波大津博多大津なとの如し然るに淡海のはさる地《トコロ》にも非ぬを此都の時に大津なりし故なるへし【今世に大津とは此《コ》をうけはりて云も都のなこりならむ】○天下所知食兼 聞えたり○天皇之 槻落葉【別記】云須賣呂伎とは皇祖《ミオヤ》を申せり【神呂伎に同し】十八に須賣呂岐乃神能美許登能可之古久母波自米多麻比弖可爾多可知保乃多氣爾阿毛理之須賣呂伎能可未能御代欲利【なほ多し】又|皇祖《スメロキ》と書《カク》にても知へし又於保美は當代天皇より皇子諸王まての御稱《ミナ》にて別《コト》なるを紛らはしかるは須賣呂伎をも於保伎美をも共に天皇と書《カキ》又十五に須賣呂伎能等保能朝廷等十八に須賣呂伎能御代佐可延牟等【なほあり】これらは當代天皇を申とも聞ゆるによりてなれと皇祖より受繼ませる大御位につきては當代をも須賣呂伎能云々とはよめるなり六に八隅知之吾大王乃高敷爲日本國着皇祖乃神之御代自敷座流國爾之有者とあるなとを以慥に辨へしとあり新古今集序にすへらきはおこたる道をまもり星の位は政をたすけなとあれは其頃まても心得たるにこそさて天智天皇は前代の天皇に座《イマ》せはなり○神之御言能 御言とは天照大御神の御言告《ミコトノリ》を負持て此國知し食すよしの御稱《ミナ》なり然るをたゝに尊語とのみ思は其《ソノ》本原《モト》を推明《オシアキ》らめさるなりいて今は詳《ツハラ》に説《イフ》へしそも/\此《コノ》稱《ナ》の初發《ハシメ》を考るに古事記に天地の初發の神|等《タチ》は皆其神とのみありて命と云るは旡を於是天神諸命以詔伊邪那岐命伊邪那美命二柱神修理固成是多陀用幣流之國賜天沼矛而言依賜也《ココニアマツカミモロ/\ノミコトモチテイサナキノミコトイサナミノミコトフタハシラノカミニコノタヽヨヘルクニヲツクリカタメナセトノリコチテアマノヌホコヲタマヒテコトヨサシタマヒキ》とあるを始にて次々に皆伊邪那岐命伊邪那美命とのみ有て此二柱を神と云ること見えすこれ天神の命令《ミコト》を負持給へるより命とは申初たるものなり又天照|日女《ヒルメノ》命月讀命(73)命須佐之男なとは高天原青海原夜食國を各知しめせと伊邪那岐命の命を受給へるより命と稱《マヲ》し古事記八千矛神御歌に夜知富許能迦微能美許登波と御自よみませるは同記に須佐能男命云|遙々望呼謂大穴牟遲神曰其汝所持之生大刀生弓矢以而汝庶兄弟者追伏坂之御尾亦追撥河之瀬而意禮爲大國主神亦爲宇都志國玉神而其我之女須世理昆賣爲嫡妻而於宇迦能山之山本於底津石根宮柱布刀斯理於高天原冰椽多迦斯理而居是奴也《ハロ/\ニミサケテオホナムチノカミヲヨハヒテノリタマハクソノイマシカモタルイクタチイクユミヤヲモチテイマシカアニオトトモラハサカノミヲニオヒフセカハノセニオヒハラヒテオレオホクニヌシノカミトナリマタウヅシクニタマノカミトナリテソノアカムスメスセリヒメヲムカヒメトシテウカノヤマノヤマモトニソコツイハネニミヤハシラフトシリタカマノハラニヒキタカシリテヲレコヤツヨトノリタマヒキ》とある命によれり又天兒屋命布刀玉命天宇受賣命伊斯許理度賣命玉祖命なとは天神の命を受て皇御孫命に副て此國に天降《アモリ》ませれは命と稱せり【思兼神手力男神天石門別神は此時現御身は天降まさて其御靈|實《シロ》を降しませる故に命とは稱《マヲ》さぬときこえたり】又|瀛《オキ》津嶋姫命|湍《タキ》津姫命|田心《タコリ》姫命は書紀に日神云々教之曰|汝三神《イマシミハシラノカミ》宜|降2居《クタリマシテ》道中《ミチノナカニ》1奉(リ)v助2天孫《スメミマノミコトヲ》1而《テ》爲《ニ》2天孫1所《レヨ》v祭《イツカ》也とある命令によりてなり又天之菩果能命も大國主神を言向《コトムケ》よとの命を負て天降ませる故なるへし【此等《コレラ》の余《ホカ》にも天神國神に命と稱《マヲ》すは悉《ミナ》所謂《ユヱヨシ》あるへし】但し建御雷之男神は一時《ヒトタヒ》命を受て此國|平《ムケ》に降らしたれと功《コト》終《ヲヘ》ては還昇らしで命を複しませる故に命とは稱《マヲ》さぬにやあらむ【然らは伊邪那岐命も功終複命《コトヲヘカヘリコトマヲシ》たまへる後に命とは申さゝりしにや定かなることは知られす】さて皇御孫命は古事記に天照大御神之命以豐葦原之千秋長五百秋之水穗國者我御子正勝吾勝勝速日天忍穗耳命之所知國言因賜而天降也《アマテラスオホミカミノミコトモチテトヨアシハラノチアキナカイホアキノミツホノクニハアカミコマサカアカチカチハヤヒアメノオシホミヽノミコトノシラサムクニトコトヨサシタマヒテアマクタシタマヒキ》と見えたるにて明らけし又|臣《ヤツコ》の名にも命と云るは皆|其々《ソレ/\》の職《ワサ》つかへまつるへき命令を負持か故なり宰《ミコトモチ》國司《クニノミコトモチ》とも云(ヒ)二に三芳野之山松之枝者波思吉香聞君之御言乎持而加欲波久九に大王之御命恐美天離夷治爾登また天智天皇の大御名を天命開別《アメミコトヒラカスワケ》と申すは漢籍の天命より出たるに阿釆美許登と訓なとも同しさて是らは美許登の本義《モトツコヽロ》なり轉りては命令は受賜はらさるも尊みては稱《イフ》ことになれりきさるは何事《ナニワサ》にまれ上より命を受賜はりて奉仕《ツカフ》る人は威徳《イキホヒ》ある故におのつから然りしなり又父命母命嬬命妹命なとは甚《イタ》く轉れる唱なから尊める意は同し然るを古事記傳【四の二葉】なとには解得られさりけり○大宮者此間等雖聞大殿者此間等雖云は同しことを文《アヤ》に云かへて情《コヽロ》を深めたり○春草之茂生有は目前《マノアタリ》の景《サマ》なり○霞立春日之霧流【或云霞立春日香露流夏草香繁成奴留】此(74)句何と無く寂しさ限なし【拾遺集雜上にさゝなみやあふみの宮は名のみして霞たなひき宮木守なし】○百磯城之は百《モヽ》と多くの石もて堅めたる垣なり【今の石垣におなし】垣を城と云は垂仁天皇の大宮を古事記には玉垣宮書紀には珠城宮とあり又崇神紀に磯堅城《シキ》神籬《ヒモロキ》とある磯堅城は此《コヽ》と同し神籬は靈室籬《ヒムロキ》なり是等を以知へし【冠辭考は解得られさりき】○大宮處見者悲毛 【或云見者左夫思母】毛は歎息の音に俗言のマアに同し又或云の左夫思は心に不怜《サフ》しむなり○【其《ソノ》景色《ケシキ》の淋《サヒシ》きには非す】一首の意は神武天皇より繼々の天皇みな大和國に天下知しめしゝをいかなる大御|慮《コヽロ》か其大和を除《オキ》て天放る鄙の近江にしも天下知しめしけむ天皇の大宮處を來て見れは荒果て其跡としも知られす悲しき哉なりさて言外に壬申年の亂に近江の軍敗れて荒都《フルキミヤコ》となりたる傷を含めたり
 
反歌
 
30 樂浪之思賀乃辛崎雖幸有大宮人之船麻知兼津《サヽナミノシカノカラサキサキカレトオホミヤヒトノフネマチカネツ》
 
雖幸有 幸とは人身の爲に吉きことを云か本にて害《ソコナヒ》なく易らぬをも云り【書紀に無恙《サキク》平安《サキク》】さて上よりは崎《サキ》幸《サキ》と同言を疊ねて文《アヤ》なせりこは志賀辛崎は昔に易らねとの意を人めきて雖幸有と云るなり○船麻知兼津は辛埼の心に待不得焉《マチカネツ》なり此處《コヽ》は大宮人の遊賞《アソヒメテ》たれはなり六帖【みゆき】さゝなみや志賀の辛埼みゆきして大宮人の舟よそひせり○一首の意は明らけし
 
31 左散難彌乃志我能《サヽナミノシカノ》【一云比良乃】大和太與杼六友昔人二亦母相目八毛《オホワタヨトムトモムカシノヒトニマタモアハメヤモ》【一將會跡母戸八】
 
大和太は大渡なり【吉野なる夢《イメ》の渡《ワタリ》を三また七の卷に夢乃和太とあるにても知へし然るを常に太(ノ)字を濁音の假名に用ふるを以|曲《ワダ》と意得なは非《ヒカコト》なり曲は本より淀める處なるに此(ノ)哥に與杼六友と云(フ)へきにあらす渡《ワタリ》は淀むましき處なるか故にそれはもし淀む時ありともの意なるをや】難波(ノ)大渡淀(ノ)大渡なとに同しこは津を大津と云|例《タクヒ》にて都なりし時の唱なり此こと長歌に出考合へし○與杼六友は世に有ましきことを云て其旨を強めたり○昔人二 此大渡を徃來《カヨヒ》鋸し昔の大宮人爾なり○亦母相目八毛【一將會跡母戸八】 人めきて云り又一云の方は將《メ》v會《アハ》哉《ヤ》にて思《オモヒ》は輕し○一首の意は志賀の大渡は何時《イヅ》も淀むこと旡を其《ソ》はもし淀む時ありとも昔渡し大宮人の復渡る時あらめやなり
 
高市古人感傷近江舊堵作歌 【或書云高市連黒人】
 
萬葉考に古人は黒人の誤なり歌の首《ハシメ》を紛へたるへし(75)とありさて此人は考へき物なし堵は都に同し
 
32 古人爾和禮有哉樂浪乃故京乎見者悲寸《イニシヘノヒトニワレアレヤサヽナミノフルキミヤコヲミレハカナシキ》
 
有哉はあれはにやなり一首の意は淡海故京を見てすゝろに悲くおほゆるわれ古人にして昔を偲ふにやあらむとなり然云るは此京の盛に逢る人ならはこそ如此《カク》荒たるを見て悲くも思へきことなれ我は昔をしれるにもあらて悲しまるゝはいかなることにかと云意なり
 
33 樂浪乃國都美神乃浦佐備而荒有京見者悲毛《サヽナミノクニツミカミノウラサヒテアレタルミヤコミレハカナシモ》
 
國都美神乃 都《ツ》は附《ツ》にて【たゝ助辭と思ふは非す】國に附在《ツキタル》神なり此類皆同し○浦佐備而 心《ウラ》進而なり心《コヽロ》は表《ウヘ》に顯れぬ故に云り進《サヒ》は賀茂大人云進むことを須佐備と云(ヒ)又|其《ソ》を約めて佐備とも云り須佐之男命|誓《ウケヒ》に勝ませる御心の進める勢に荒ひますを勝佐備と云(ヒ)樂浪乃國都美神乃浦佐備而も國御神の心すさひて亂を起し都を荒せりとなり○此歌の意を思へし凡て世中の事|治《ヲサマル》も亂《ミタルヽ》も興《オコル》も亡《ホロフル》も皆神の御心より起れり
 
幸于紀伊國時川嶋皇子御作歌 【或云山上臣憶良作】
 
持統紀云四年九月乙亥朔乙酉詔曰朕將巡行紀伊之故勿收今年京師田租口賦丁亥天皇幸紀伊戊戌天皇至自紀伊さて川島皇子は天武天皇の皇子なるへし然るに天武紀|惣皇子《ミコタチ》の列《ツラ》には見えす八年五月庚辰朔甲申幸于吉野宮乙酉天皇詔皇后及草壁皇子尊大津皇子高市皇子河嶋皇子忍壁皇子芝基皇子曰朕今日與汝等倶盟于庭而千歳之後欲無事奈之何皇子等共對曰理實灼然則草壁皇子尊先進盟曰天神地祇及天皇|證之《アキラメタマヘ》吾兄弟長幼并十餘王各出于異腹然不別同異倶隨天皇勅而相扶無忤云々五皇子以次相盟如先然後天皇曰|朕男等《アカコトモ》各異腹而生然今如一母同産慈之則披襟抱其六皇子因以盟曰云々皇后之盟且如天皇丙戌車駕還宮己丑六皇子共拜天皇於大殿前とある趣|等《トモ》は河嶋皇子の天武の皇子なること疑《ウツ》なきさまなりまた九年七月甲戌朔戊戌舍人王病之|臨《ムトス》v死則遣高市皇子而訊之明日卒天皇大驚乃や高市皇子川嶋皇子因以臨殯哭之十年三月庚午朔丙戌天皇御于大極殿以|詔《ノリコチテ》2川嶋皇子忍壁皇子云々1令記定帝紀及上古諸事十四年正月丁未朔戊申草壁皇子尊授淨廣壹位大津皇子授淨大貳位高市皇子授(76)淨廣貳位川嶋皇子忍壁皇子授淨大參位朱鳥元年八月己巳朔辛巳皇太子【草壁皇子尊なり】大津皇子高市皇子各加封四百戸川嶋皇子忍壁皇子各加百戸癸未芝基皇子磯城皇子【芝基磯城の中一柱は天智天皇の皇子なるへし其よしは五の十二葉に云り考合へし】各二百戸持統紀に五年正月癸酉朔乙酉増封皇太子高市二千戸通前三千戸淨廣貳皇子穗積五百戸淨大參皇子川島百戸通前五百戸九月己巳朔丁丑淨大參皇子川嶋薨と見えたり右に擧たる中に朱鳥元年八月辛巳の加封に芝基皇子磯城皇子の中に一柱は天智の皇子にて其《ソノ》余《ホカ》は悉《ミナ》天武のなれは川嶋皇子も然あるへきものから同《コノ》代《ミヨノ》惣皇子《ミコタチ》の列《ツラ》に見えすさて又天智の皇子に川嶋皇子ますか御名高きにより紛らはしそも/\惣皇子の列に此御名なきはいかなるにかあらむ撰者の御兄弟のうへを誤り給ふへきに非す源友信(カ)説《コト》に舍人皇子の撰《ヅク》らしゝ日本紀は今の書紀にはあらし今のは次々に改修《アラタメツク》られたるなるへしと云り【此事は比古婆衣日本書紀考に見ゆ】實に此《コノ》説《コト》の如ならは此御名も後に脱たるにやあらむ又上に引る天武紀十年三月詔《ノリコチテ》2川島皇子忍壁皇子云云1令記定帝紀及上古諸事とあることも後天智の皇子の文才《モムサヰ》ましけると云に合《カナ》ひ懷風藻に彼河嶋の御事を位終于淨大參時年三十五とあるも上に引たる持統紀五年九月淨大參皇子川嶋薨とあるに合《カナ》へるか如なれと書紀の文を押わたして考るに猶上に擧たるは天武の皇子と見て穩なり然るに世々の注者書紀をは熟《ヨ》くも思ひたとらす天智の皇子の御名高きによりゆくりなく爰のをも其方に定むめれと上に引たる書紀の條々《ヲチ/\》を見れは天武の皇子なるそ持統の御時にも親く奉仕《ツカヘ》ましゝと見ゆれは此《コヽ》の紀伊國の幸にも然《サ》もやと心ひかるゝま上に今は其方に從《ヨリ》つ
 
34 白波乃濱松之枝乃手向草幾代左右二賀年乃經去良武《シラナミノハママツカエノタムケクサイクヨマテニカトシノヘヌラム》
一云年者經爾計武
 
白浪乃濱とつゝける詞を後世めきたりと思ふは精しからす三に鹽干乃三津十に※[(貝+貝)/鳥]之春十一に鹽干能小松十五に毛美知能山古事記八千矛神御歌に邊津浪礒にぬき棄《ウテ》土佐日記哥に風による浪の礒にはなとも見えたるをや○手向草は取向種《トリムケクサ》なり下に幣取向而とある如く手に取(77)持て神の御前に向奉《ムケマツ》る種々《クサ/\》の物を云りさてこは齊明紀に三年九月有間皇子|性黠陽狂《ヒトトナリサトシイツハリタフル》云々徃(テ)|牟婁温湯《ムロノユニ》1僞《マネシテ》v療v病來|讃《ヒメテ》l國(ノ)體勢(ヲ)1曰纔|觀《ミレハ》2彼地《カシコヲ》1病自|※[益+蜀]消《ノソコリヌ》云々天皇|聞悦《キヽヨロコハシテ》思《オモホス》v欲《ムト》2徃(テ)觀1四年冬十月庚戌朔甲子幸紀温湯十一月庚辰朔壬午留主官蘇我赤兄臣語有間皇子曰天皇|所治《シラス》政事有三失矣大起倉庫積聚民財一也|長《トホク》穿渠水損費公糧二也於舟載石運積爲|丘《ヲカ》三也有間皇子乃知赤兄之善己而欣然報答之曰吾年始可用兵時矣甲申有間皇子向赤兄家登|樓《タカトノ》而謀|夾膝《オシマツキ》自|斷《ヲレヌ》即是知相之不祥倶盟而止皇子歸而宿之是夜半赤兄遣物部|朴《エノ》井連鮪率造宮丁|圍《カクム》有間皇子於|市經《イチフノ》家便遣|驛使《ハユマヲ》奏天皇所戊子|捉《トラヘテ》有間皇子與守君大石坂合部連藥鹽屋連|※[魚+制]魚《コノシロ》送紀温湯舍人新田部未麻呂|從《ミトモナリ》焉於是皇太子親問有間皇子曰何故|謀《ミカトカタフケムトスル》答曰天與赤兄|知《シラス》吾《オノレ》全《モハラ》不解《シラス》庚寅遣丹比小澤連國|襲《ソ》絞有間皇子於藤白坂是日斬鹽屋連※[魚+制]魚舍人新田部連未麻呂於藤白坂鹽屋連※[魚+制]魚臨誅言願令右手作國寶器流守君大石於上野國坂合部藥於尾張國五年春正月己卯朔辛巳天皇至自紀温湯と見えたる時《ヲリ》の事をよみませる御歌なり【又此持統天皇大寶元年紀伊國へ幸《イテマ》せる時にも此事をよめる哥|等《トモ》二卷九卷に見えたり】二に有間皇子自傷結松枝歌二首磐白乃濱松之枝乎引結眞幸有者亦還見武 家有者笥爾盛飯乎草枕旅爾之有者椎之葉爾盛この二首《フタウタ》は皇子其時に御身《ミミ》の恙《コト》旡らむことを祈《ネキ》て神を祭り給ふとてよみませるにて一《ハシメ》のは磐代濱なる松枝を結て祈《ネキ》給へる意は此時|捉《ト》らはれの御身を松枝の結はれたるに比《ナス》らへて復|恙《コト》旡くて歸りまさむことを枝の解けて本に還るにことよせて御幣《ミテクラ》も取敢《トリアヘ》たまはねは即其松枝をたむけかてらに祈《ネキ》申し給へりけむそは漢國のならはしなとにも旅立《タヒタツ》人には柳を綰《ワカ》ねて遣《ヤ》る禮《ワサ》のあなるも解けて復かへる意の祝事《ホキワサ》なるに同し【又|然《サ》らでも松枝を結ひて身を祝ふ事古に有しと見ゆるは六に靈刻壽者不知松之枝結情者長等曾念廿に夜知久佐能波奈波宇都呂布等伎波奈流麻都能左要太乎和禮波牟婆奈などあり然れども此《コヽ》は歸と云言|主《ムネ》なれば本文に云る義《コヽロ》なり】二《ツキ》のは神に飯《イヒ》を饗《アヘ》つるにさる時《ヲリ》からにて笥《ケ》の無りしかは椎葉に盛て奉《マツ》るをめつらかなるよしによみ給へるなり【是を御自の食と思ふはあらず旅にまれ捉《トラハレ》にまれ皇子の食に笥の旡りしことはあるべからず旅爾之有者とは此時の有さまを宣へるにて椎葉は神御食《カムミケ》に淨き物を所に取て用ひたまへるなり】然るに終に藤白坂にて失なはれ給ひしかは彼松枝は(78)解る世なくて後々まて在しを見て此《コヽ》に川島皇子の濱松之枝乃手向草とはよみ給へるなり二に長忌寸意吉麻呂見結松哀咽歌二首磐代乃岸之松枝將結人者反而復將見鴨【この反も上に云る意なり】磐代乃野中爾立有給松情毛不解古所念 山上臣憶良追和歌一首鳥翔成有我欲比管見良目杼母人社不知松者知良武 大寶元年辛丑幸于紀伊國時見結松歌一首後將見跡君之結有磐代乃子松之宇禮乎又將見香聞これら其頃も結はれてありしをよめるなり【拾遺集などより已降《コナタ》の哥|等《トモ》に多くよめるは一ツの故事になりたるうへなれば據難し】○幾代左右二賀 左右《マテ》は集中|左右手《》二手《マテ》兩手《マテ》諸手《マテ》なと書りこは物の全く備はれることを眞何《マナニ》と云り眞備《マツフサ》眞中の類なり手も左と右と二ツある物なれは片手ならぬを眞手と云て及《マテ》に借りて書るなりさて有馬皇子の時より此時まて天皇四代三十余年こそ經たるを幾代まてにかと宣へるは合《カナ》はぬに似たれとこは松によせてことさらに年久しく成ぬるよしを宣ひて彼皇子の恙《コト》なくて歸りまさは解へきものゝ今まてもさなからあることよと傷みたまへりなり左右《マテ》を味はふへし○一首の意は是そ彼有間皇子の結はれたる松枝の手向草なるよ今ははや年古くもなりて見ゆる哉彼皇子|恙《コト》なくて歸られたらましかは解へきものを今世まても然《サ》なからあることよと深く悼み給へるなりさて此哥をは昔よりふつに解得さりけれは己《オノ》か説《イフ》とは全く其旨異なるを何くれと論らはむは煩らはしさにおきつそは諸注と合せ見て知りぬ
 
日本紀曰先鳥四年庚寅秋九月天皇幸紀伊國也
 
上に書紀を引たる如く比幸は持統天皇四年にて即朱鳥五年なるを此《コヽ》に四年とあるは違へり
 
越勢能山時阿閇皇女御作歌
 
右の度《タヒ》なるへし勢能山は紀伊國伊都郡【賀勢田庄背山村】にあり孝徳紀【二年】畿内《ウチツクニ》のげ堺を定めらるゝ條《トコロ》に南(ハ)自2紀伊(ノ)兄《セノ》山1以來《コノカタ》【兄此云制】云々さて此を後世に勢山《セヤマ》と云は誤れり古は必らす勢乃山とのを添て云りきそは此集は更なり三代集なとにもよみ人不知とある古歌には皆然のみ見えたり阿閇皇女は天智天皇の皇女日並知皇子命の妃《ミメ》文武天皇の御母にて後に寧樂宮に御字《アメノシタシロシメ》しゝ元明天皇に御座《イマ》せり
 
35 此也是能倭爾四手者我戀流木路爾(79)有云名爾負勢能山《コレヤコノヤマトニシテハワカコフルキチニアリトフナニオフセノヤマ》
 
本居翁云此也是能は此は彼のと云意なり凡て彼のと云へきことを此のと云る例多しさて上の此は今|硯《ウツヽ》に見る物をさして云彼のとは常に聞居ること或は世に云ならへる事なとをさして云りこれやかの云々ならむと云意なり此御歌にては此山や大和にてわか戀まつる夫君のその夫と云ことを名におへる彼の紀路に有と豫て聞居るせの山と云意なりとあり夫とは日並知皇子命を宣へり此命は此時に幸《イテマ》さゝりしなり
 
幸于吉野宮之時柿本朝臣人麻呂作
 
此御代に吉野宮に幸《イテマ》しゝこと年々度々なれは何時《イツ》なりけむ知られす
 
36 八隅知之吾大王之所聞食天下爾國者思毛澤二雖有山川之清河内跡御心乎吉野乃國之花散相秋津乃野邊爾官柱太敷座波百磯城乃大宮人者船並※[氏/一]旦川渡舟競夕河渡此川乃絶事奈久此山乃彌高良之珠水激瀧之宮子波見禮跡不飽可聞《ヤスミシシワカオホキミノキコシヲスアメノシタニクニハシモサハニアレトモヤマカハノキヨキカフチトミコヽロヲヨシヌノクニノハナチラフアキツノヌヘニミヤハシラフトシキマセハモヽシキノオホミヤヒトハフネナメテアサカハワタリフナキホヒユワカハワタルコノカハノタユルコトナクコノヤマノイヤタカヽラシイハハシルタキノミヤコハミレトアカヌカモ》
 
八隅知之吾大王之は上【二の三十葉】に出○所聞食は所知召に同し此|説《コト》古事記傳【七の八葉十七葉】に詳《ツフサ》なり○國者思毛 思は上に云る如く數の中より一(ツ)を取出る辭なり毛は歎息なりさて此思毛は四句を隔て吉野に附く辭なるを如此《カク》置更る一格なり三に皇祖神之神乃御言乃敷座國之盡湯者霜左波爾雖在島山之宜國跡極此疑伊豫能高嶺乃射狹庭乃六に明津神吾皇之天下八島之中爾國者霜澤爾雖有山並之宜國跡川次之立合御跡山代乃鹿背山際爾十七に古思能奈可久奴知許登其等夜麻波之母之自爾安禮登毛加波波之母佐波爾由氣等毛須賣加未能宇之波伎伊麻須爾比可波能曾能多知夜麻爾これら三卷なるは國々に温泉《ユ》は多にあれとも伊豫の温泉はしも島山の宜しき云々六卷なるは天下八島の中に國里は多にあれとも山城の鹿背山の際《マ》はしも山並の宜しき國川|次《ナミ》の立あふ里と云々十七卷なるは越中の國内《クヌチ》こと/\く山川は多にあれとも川は多にゆけとも新川のその立山はしも云々の意なり然《サ》れは此《コヽ》のも天下に國は多にあれとも吉野國はしも山川の清き云々と意得へし○澤二雖有 澤は多《サハ》なり○山川之 山と川となり○清河内跡 河内とは河の周廻《メク》れる地を云りさて此二句を精く分ていはゝ山川之は廣(80)く吉野を云(ヒ)河内は秋津野を云り【大和志と云物に秋津野は川上《カハカミノ》莊|西河《ニジカフ》村に在と云り】跡は四句を隔て宮柱太敷座波にかゝる辭なりそは山川の清き河内なり跡おもほしめして宮しきませはの意なれはなり○御心乎は吉の枕詞なから意は吉野の國まてにかゝれりさるは此地《コヽ》は勝れて山川の清けき國なる故に見まして御心を吉く爲《ス》と云意のつゝけなり故《カレ》この枕詞いつくも地《トコロ》にのみつゝけて自余《ホカ》の言には冠らせたるなし神功紀に天照大神誨之曰我之荒魂不可近皇后當居御心廣田國云々亦事代主尊誨之曰祠吾于御心長田國これらも御心廣く望晴《ミハル》かし給ふ廣田國御心長く【遠くと云におなし】長め放《サケ》たまふ長田國にて專《ムネ》と地形《トコロノサマ》にかゝる御詞なり又十三に吾情清澄之池之十五に安我己許呂安可志能宇良爾これらも三に御心乎見爲明米之活道山十九に許能久禮乃繁思乎見明良米情也良牟等布勢乃海爾小船都良奈米なとよめるに同きを併せて意得へし聖武紀神龜元年十月天皇紀伊國へ幸《イテマ》して玉津嶋行宮に御座《イマ》せる時の詔に登山望海此間最好不勞遠行足以遊覽故改弱濱名爲|明光《アカノ》浦これも明光《アカ》と號け給へるよし右に引たる安我己許呂安可志能宇良に同し皆相證へし【冠辭考は未《イマタ》し】○花散相は花散流の延語なり【散あふにはあらず】比幸は春にそ有けむ○秋津乃野邊爾 此處《コヽ》をよめる歌集中に多かり名義《ナノコヽロ》は古事記朝倉宮段に見ゆ【書紀にも】○宮柱太敷座波は※[うがんむり/取]々《イト/\》上代より宮造に云ならへる稱辭《タヽヘコト》なり太敷座とは天皇の此宮を太知て御座なり【知敷《シリシキ》かよふよしこの十二葉にいへり】下に太敷爲京乎置而二に水穗之國乎神隨太敷座而なとあり然《サ》るを太と云言を柱にもかけて宮をも壽《ホキ》たる辭なりさて此宮の在處は夏箕川の下に宮瀧村と今も云とそ【亭子のみかと宮の瀧見に幸《イテマ》したりしこと後撰集其外にも見ゆ】○百磯城乃 上【十三葉に出】○船並※[氏/一]旦川渡 此時|供奉《ミトモ》の八十伴男は川を隔て彼方《アナタ》に舍《イホ》りたるか旦《アシタ》に皇居に參るとて舟を並へて渡り來るなりさるは朝參のときなる故に列《ツラ》を擾《ミタ》らす整肅《トヽノホ》りて渡る形状《サマ》を並《ナメ》の一言にきかせたり○舟競夕河渡は夕に皇居より退出《マカテ》て各《オノ》かしゝ旅舍《イホリ》に歸る舟なれは此度は競ひ擾れて渡り去《ユ》くさまを競の一言にきかせたりさて此四句にて今も見るか如し如此《カヽ》るそ此主のしわさなりける○此川乃 下に知と云言を添て意得へし○絶事(81)奈久は此川の絶さる如く幸《イテマシ》もなり○此山乃 川に云る如し○彌高良之【高の下に加字脱たるか】此山の何時《イツ》も高くて變らぬ如く彌高に此宮しろしめすへしとなり○珠水激《イハハシル》は聞えたり○瀧之宮子波 波はことを一(ツ)取分て云辭なりこゝは石走る瀧の地なる宮處はとさる地の宮をさま殊なるよしなり○見禮跡不飽可聞 可聞は可も聞も歎息なり【モは俗言のマアなりさればカモは俗言云々カマアなり】○一首の意は天皇のしろしめす天下に國は多かれどもこの吉野國はしも山も川も勝れたる中にも秋津野のあたりは川の周圍れる内にて殊に※[立心偏+可]怜《オモシロ》き地と思ほしめして花さへ散かふ頃しも行宮に大坐ませは供奉《ミトモ》なる八十伴緒の川の彼方《アナタ》に舍《イホ》りたるか朝には舟を並へ整へて參り來《キ》夕には競ひみたれて退《マカ》るなるかさまことにめすらかにおもしろくもあるかな此川の絶さる如《コト》幸《イテマシ》も絶ることなく此山の何時《イツ》も高くて變らぬ如《コト》彌高に此宮しろしめすへし石はしりたきち流るゝ此宮處は雖見《ミレトモ》云々飽足らぬ哉なり
 
反歌
 
37 雖見飽奴吉野乃河之常滑乃絶事無久復還見牟《ミレトアカヌヨシヌノカハノトコナメノタユルコトナクマタカヘリミム》
 
常滑とは川の流るゝを云りそは常し經に滑らかなるよしの稱《ナ》なり【いま長瀞《ナカトロ》と云處々あるも川のとろみて流るゝよしなるをも思ふべし】九に妹門入出見河乃床奈馬爾三雪遺未冬鴨【沫波などを見てよめるなり】十一に隱口乃豐泊瀬道者常滑乃恐道曾|戀由眼《コヽロシテユケ》【戀は爲心なとの誤か泊瀬道とは泊瀬の川道なり】これらも同し【又これらの常滑を川石の滑なることと思ふは非ずそは七に能野川|石迹柏等時齒成《イハトカシハトトキハナス》とよめる石迹柏は磐常磐《イハトコシハ》と云ことなれども常滑は其と異なり又出雲風土記に滑磐石《ナメシハ》とるとも異なり】○一首の意は吉野川の雖見《ミレトモ》々々あかす※[立心偏+可]怜《オモシロ》けれは此川水の常し經なる如《コト》幸《イテマシ》も絶せす復々も來て見むとなり
 
38 安見知之吾大王神長柄神佐備世須登芳野川多藝津河内爾高殿乎高知座而上立國見乎爲波疊有青垣山山神乃奉御調等春部者花挿頭持秋立者黄葉頭刺理《ヤスミシヽワカオホキミカムナカラカムサヒセストヨシヌカハタキツカフチニタカトノヲタカシリマシテノホリタチクニミヲスレハタヽナツクアヲカキヤマヤマツミノマツルミツキトハルヘハハナカサシモチアキタテハモミチカサセリ》【一云|黄葉《モミチハ》加射之】遊副川之神母大御食爾仕奉等上瀬爾鵜川乎立下瀬爾小網刺渡山川母依※[氏/一]奉流神乃御代鴨《ユフカハノカミモオホミケニツカヘマツルトカミツセニウカハヲタテシモツセニサテサシワタシヤマカハモヨリテツカフルカミノミヨカモ》
 
神長柄は集中に神隨と書る如く神にて御座《マシ》ます隨《マヽ》にと云意なり然《サ》れは孝徳紀の詔詞に惟神我子應治故寄《カムナカラモアカミコシラサムトコトヨサシキ》とある惟神もたゝ神なりと云|義《コヽロ》もて書れたれは宜きを注に惟神者謂隨神道亦自有神道也とあるはいかゝ如此《カク》(82)ては神那賀良と云|語《コト》は神道の隨に行ひ給ふを云ことゝも聞えて紛らはしきを凡て此語は然らす遷却崇神祝詞に神奈我良鎭座世止云々なとは神にも云を以て知へし二に千磐破人乎和|爲《セ》跡|不奉仕《マツロハヌ》國乎|治跡《ヲサメ》皇子隨任賜者十三に高山與海社者山隨如此毛現海隨然直有目古事記朝倉宮段に其大縣主懼畏稽首白奴有者隨奴不覺而過作甚畏《ソノオホカタヌシオチカシコミテノミマヲサクヤツコニアレハヤツコナカラサトラステアヤマチツクレリイトカシコシトマヲシキ》これらも皇子なるまゝに奴なるまゝに山なる隨に海なるまゝにの意にて同例《オナシコト》なるを思へし○神佐備世須登 神佐備は神進なり此言上【十三葉】に出神なる御身の【神長柄なり】いよいよ神に進み給ふ御所爲《ミシワサ》と云意のつゝきにてそは次の多藝津河内爾高殿乎高知座而をさして云り世須は爲給《シタマフ》の古言なり十九に國看之勢志弖豐宴見爲今日者○多藝津河内爾高殿乎高知座而 爾もし乎もし而もしを以意をきかする詞巧《コトハタクミ》を味はふへしそは芳野川の沸川河内爾しも高臺《タカトノ》をさへ造らせ其《ソ》を高知いましてと云意にてこれ上句の神進たまふ御所爲なり○上立 天皇のなり○國見乎爲波 國見は上【二の二十三葉】に出○疊有 冠辭考に有は付を誤れりとあるは然るへし二に嬬乃命乃多田名附柔膚尚乎六に芳野離宮者立名附青墻隱十二に田立名付青垣山之古事記倭建命御歌に多々那豆久阿袁加岐夜麻なと見えたるに疊有《タヽナハル》とは云ることなく又有字は思有《オモヘル》立有《タテル》なとの例にて多々那波禮留と訓へく多々那波留には疊在と書へき集中の例なれはなりさて多々那豆久は古事記傳【廿八の四十六葉廿九の四葉】に明詳《アキラカ》なるを約めていはゝ委靡附《タヽナツク》にて四面《ヨモ》に【青垣山なり】委《タヽナハ》り周れる山の中より見れは其處《ソコ》に靡《ナミ》附て所見《ミユル》を云り○青垣山とは青山の國垣《クニノカキ》と成て周廻れるを云り【垣は限《カキ》なりと垣籬のみと思ふは非ず其《ソ》も垣の中の一(ツ)にこそあれ】○山神乃 古事記に生《ウミマス》2山(ノ)神|名《ミナハ》大山津見(ノ)神(ヲ)1○奉御調等 奉《マツル》は獻《マツル》にて言(ノ)本は服從《マツロフ》なり凡て神に幣を奉け公《キミ》に御調物を貢る皆服從ふしるしを表《アラ》はすなれはその奉貢《タテマツ》ることをも麻都流と云り神事《カムワサ》を祭祀《マツリ》と云(ヒ)政事を麻都埋期等と云(ヒ)奉仕《ツカフル》を都加倍麻都流と云も同く服從《マツロフ》より出たり御調は古事記傳【廿三の八十八葉】に精し等は等爲而の意なり○春部者 春光榮《ハルハエ》なり九に櫻花將開春部者 冬木成春部戀而殖木なとは花の咲光榮《サキハユル》を云(ヒ)八に打上佐保能河原之(83)青柳者今者春部登成爾鷄類鴨は柳の青むを云(ヒ)【春|生《ハエ》には非ず】十に今更雪零目八方蜻火之燎留春部常成西物乎は惣て春の盛《サカ》ゆる時なり故《カレ》此言は春にのみ云り【春|方《ヘ》には非ず】○花挿頭持 山に花の咲るを山神のかさし持て獻《マツ》る趣《サマ》に云なせり八に春日野爾鐘禮雰所見明日從者黄葉頭刺牟高圓乃山これも山のかさすよしなり【此歌のを諸注人のかざすよしに解るは非なり然るに續古今集秋下に春日野にしくれふる見ゆ高圓の山あすよりはもみちかさゝむとあるはよく意を得て載られたり】○秋立者 立は刺と通ひて顯れ初たるを云り八雲立を八雲刺とも云(ヒ)立上を刺上とも云(ヒ)刺竹は立竹なり朔《ツキタチ》も月の初めて生《サス》頃《コロ》を云り【若葉さす根さす萠《キサス》などいへり】春秋の立と云も其驗の顯れ初るなりされと轉りては春になれはの意を春たてはとも云り即(チ)此《コヽ》も然り○黄葉頭刺埋【一云黄葉加射之】は聞えたり○遊副川之 大和志に吉野川を注して源自2大臺原山1流云々至2東《ウフ》川1舊名遊副川と云り名の樣《サマ》は然《サ》もと聞ゆ【東《ウフ》と書はいかなるよしにか又六帖河に岩たきにいそさへとよむうふ川の云々是にも言《コト》縁《ヨリ》て聞ゆ考へし又七に妹之袖結八川内乎古之淑人見等此乎誰知とよめるはこゝなりやあらすや】○神母 三言の句なり母は山神に對《ムカ》へて云辭なり○大御食爾仕奉等 等はとてなり○上瀬爾 上瀬下瀬ことなる事なし○鵜川乎立 鵜川とは鵜を使ひて魚取る業を云|號《ナ》なり立とは鵜川人《ウカハヒト》を令立を云御獵立|役立《エタツ》なとに同し十七に夜蘇登毛乃乎波宇加波多知家里十九に和我勢故波宇河波多々佐禰なと猶あり○下瀬爾 上に云り○小網刺渡 和名抄に※[糸+麗]網如箕形狹後廣前名也和名佐天こは今も然云物なり四に網兒之山五百百隱有佐堤乃埼左手蠅師子之夢二四所見九に三河之淵瀬物不落左提刺爾衣手濕干兒波無爾なと見ゆ刺は立なり【此事上に云り】字鏡に柵(ハ)竪(ルヲ)v木(ヲ)曰v柵(ト)佐須【假※[麻垂/支]《サスキ》も此《コノ》義《コヽロ》ならむ城《サシ》も韓語にはあらし角刺《ツヌサシノ》宮も蔓城《ツヌサシ》なるべければなり猶これらの事別に委く云る物あり】これも然り渡《ワタシ》は此方《コナタ》より彼方《アナタ》へかけて物するを云橋を渡す川を渡すなと云りこゝのも岸より岸まての間を立渡なり【但し纏を多く立て瀬截れるには非ず纏は一ツにまれ二ツにまれ此方より立初て彼方まで及ぶを云り】十九に平瀬爾波左泥刺渡早湍爾波水烏乎潜都追○山川母は山神と川神とを約めたり母は人のみならすの意なり○位※[氏/一]奉流 依は歸順《ヨリシタカフ》なり十四に伎美我麻爾末爾吾者餘利爾思乎なと多かり奉流《ツカフル》は被《ルヽ》v使《ツカハ》にて臣《ヤツコ》の君《キミ》に使はるゝ方より云(フ)語《コト》なり二に御陵奉仕流山科乃鏡山爾○神乃御代鴨 神とは直《タヽ》に天皇】(84)を申せり【神の徳《イキホイ》ます天皇と云にはあらず】○−首の意は天皇は神にて坐す隨になほも神進したまふとて芳野川の沸川河内の地にしも高臺をさへ造らせ高知いまして上り立國見したまへは青山垣と周りて此《コヽ》に靡附《ナミツキ》て見ゆ其山神の奉《マツ》る御調として春は花を咲せ秋は紅葉を映はせたり又遊副川の神も大御食に仕奉るとて瀬々に鵜川を立しめ小網たて渡して魚とるも見ゆかゝれは人のみならす山川まても歸順《ヨリシタカヒ》て奉仕《ツカヘマツ》る神の御代なる哉なり
 
反歌
 
39 山川毛因而奉流神長柄多藝津河内爾船出爲加母《ヤマカハモヨリテツカフルカムナカラタキツカフチニフナテセスカモ》
 
一首の意は山川まても歸順《ヨリシタカヒ》て奉仕る天皇は神に御座して沸川河内の奇勝《スク》れたるところにたゝ今舟出したまふを見|奉《マツ》れは尊しとなりさて御歌のたけ高さを思へしめてたしなと云はむはよのつねのことなり
 
右日本紀曰三年己丑正月天皇幸吉野宮八月幸吉野宮四年庚寅二月幸吉野宮五月幸吉野宮五年辛卯正月幸吉野宮四月幸吉野宮者未詳知何月從駕作歌
 
書紀を檢《カムカフ》るに吉野宮に幸《イテマ》せることは猶いと數度《アマタタヒ》なるを此《コヽ》にいさゝか擧たるはいかに
 
幸于伊勢國時留京柿本朝臣人麻呂作歌
 
持統紀云六年二月丁酉朔丁未詔諸官曰當以三月三日將幸伊勢宜知此意備諸衣物是日中納言直大貳三輪朝臣高市麻呂上表敢直言諫爭天皇欲幸伊勢妨於農時三月丙寅朔戊辰以淨廣肆廣瀬王直廣參當麻眞人智徳直廣肆紀朝臣弓張等爲留守宮於是中納言三輪朝臣高市麻呂脱其冠位フ上於朝重諫曰農作之節車駕未可以動辛未天皇不從諫遂幸伊勢壬午賜所過神都及伊賀伊勢志摩國造等冠位并免今年調役復免供奉騎士諸司荷丁造行宮丁今年調役大赦天下但盗賊不在赦例甲申賜所過志摩百姓男女年八十以上稻人五十束乙酉車駕還宮毎到行輒會郡縣吏民務勞賜作樂甲午詔免近江美濃尾張參河遠江等國供奉騎士戸及諸國荷丁造行宮丁今年調役詔令賜天下百姓困乏窮者稻男三束女二束夏四月丙申朔庚子除四畿内百姓爲荷丁者今年調役五月乙丑朔庚午御阿胡行宮時進贄者紀伊國牟婁郡人阿古志海部河瀬麻呂等兄弟三戸|服《ユルス》十年調役雜※[人偏+搖の旁]復免|挾抄《カチトリ》八人今年調役
 
40 鳴呼兒乃浦爾船乘爲良武※[女+感]嬬等之珠裳乃須十二四寶三都良(85)武香《アコノウラニフナノリスラムヲトメラカタマモノスソニシホミツラムカ》
 
嗚呼は阿と歎く音の字なれは【漢籍などには阿々と引音に云り今俗《イマノヨ》にも然なり】借用たり嗚呼兒浦は志摩國|英虞《アコノ》郡の浦なり上に引たる書紀の阿胡行宮は此處《コヽ》なり【槻落葉云英虞郡に御座《ゴザ》島と云所ありて其處に赤人屋敷と云小祠ありこれ行宮の跡なるべし】○船乘爲良武 船乘は上【二の六十二葉】に云る如く船に乘うつるときの唱《ナ》なり【然るを昔より此《コノ》語《コト》を明らめたる説なくこゝのをも船に乘てあることゝ思へり然《サ》ては珠裳の裾に潮滿と云こと通えず船にあらばいかでか裾に潮の近づくことのあらむ】良武とは京より想像《オモヒヤ》る辭なり○※[女+感]嬬等之 供奉《ミトモ》の女房等《ヒメトネタチ》なり○珠裳乃須十二 珠裳とは珠を飾れる裳にて珠|衣《キヌ》珠襷球|簾《タレ》の類なり【これらの珠を美言《ホメコト》とのみ思ふは非ず】○四寶三都良武香は京より想像るなり○一首の意は供奉《ミトモ》の女房《ヒメトネ》等か此頃噫呼兒浦にて船に乘むとする間《ホト》に潮みち來なは珠裳の濡されて騷ぎ惑ふらむ然《サ》らは未見知らぬ度《タヒ》にていかにめつらしかり思ふらむとなり珠裳の裾に潮滿としも云るにいと珍らしき意を持せたる人麻呂主の口つきなりさて此歌十五卷にも出て珠裳を安可毛とあり
 
41 釧著手節乃崎二今毛可母大宮人之玉藻苅良武《クシロツクタフシノサキニイマモカモオホミヤヒトノタマモカルラム》
 
釧著は手節の枕詞なり釧《クシロ》は抉《クシリ》にて手を貫抉《ヌキクシ》るよしの名なり字鏡に釧太万支又久自利と見え和名抄には釧比知萬岐とありて臂に纏《マ》く具《モノ》なり臂は手の節なれは釧著と云り【著ると云ぬは眞珠著緒《マタマツクヲ》の例にて冠辭の一格なり】九に吾妹兒者久志呂爾有奈武左手乃吾奧手爾纏而去麻師乎さてこは例の枕詞なから大宮人の始て往見る珍しき地とはおのつから聞ゆる此主のしわさなり如此樣《カクサマ》の枕詞のことは下にも云り○手節乃埼二 志摩國|答志《タフシノ》郡の埼なり槻落葉云此埼は伊勢國に相並ひて二見浦に接《ツヽキ》たる埼なり○今毛可母は今歟にて毛は二(ツ)なから助辭なり○一首の意は供奉の大宮人等今はかりにや答志埼にて藻苅わさして心をやりすさふらむさはいかにめつらしかりもてさわくらむとなり
 
42 潮左爲二五十良兒乃島邊榜船荷妹乘良六鹿荒島回乎《シホサヰニイラコノシマヘコクフネニイモノルラムカアラキシママヲ》
 
潮左爲は度會神主|正身《マサノフカ》【久老父】説に潮先動《シホサキユリ》の【潮先と云ことは落窪物語一の下卷に見ゆ】約なるへしと云れたるは信《マコト》に然《サ》ることなり【槻落葉下卷十四葉に見ゆ】己《オノレ》今其證を云むそはまつ先《サキ》を左と云ることは三に鳥總立足柄山爾船木伐とよめる登夫左は遠先なり【冠辭考に精く見ゆ】又萬に指《サス》刺《サス》と云言も【月日の影の指《サス》ゆひさす又物して刺《サス》と云こと多き】皆其|先《サキ》の物するを(86)いへは左須は先爲《サキス》なりこれら以|左《サ》は先なること知へし又|動《ユリ》を爲《ヰ》と云は地震《ナヰ》は根動《ネユリ》なるか如しさて猶|正《マサ》しく左爲《サヰ》と左動《サユリ》と通へる例をいはゝ古事記白檮原宮段狹井河の注に山由埋草之本名云佐草也《ヤマユリクサノモトノナサヰトイヒキ》とありこは此草は物より高くありて花の大なるから莖の方負て先の動《ユ》らるゝよしの名にて切《タシカ》なる例なりこれら以潮左爲は潮先動《シホサキユリ》なることを證らむへしさて潮先動《シホサヰ》とは潮の滿來る先に浪の動《ユリ》立を云り三に鹽左爲能浪乎恐美淡路島磯隱居而十一に牛窓之浪乃鹽左猪島響十五に於伎都志保佐爲多可久多知伎奴これらにて意得へし【又萬葉考に潮左爲は潮左和藝の約なりと云れき是も然ることにはあれども左和藝を左爲と云る例《コト》も無く事實《コトノサマ》もやゝ劣れりさて今世に※[魚+候]※[魚+臣]《フグ》の一種にシヨオサヰ※[魚+臣]《フク》と云物は潮先動に集《ヰ》る物りよしにやあらむ海人《アマ》などにも問へし】○五十良兒乃島邊は槻落葉云三河國今の五十等兒埼《イラコサキ》にて志摩の答志崎と相對《アヒムカヒ》て近き崎なり○榜船荷 こは大御船には非すして女房の遊船なるへし其故は四五句に思人を危む意見ゆるに大御船なりせば然《サ》は云ましくさてはいと拙し一首の意末に云を見へし○妹乘良六鹿 妹とは供奉《ミトモ》の中に思人のあるをさせり○荒島回乎 回は麻と訓へし周廻《マハリ》なり九に黄葉之過去子等携遊磯麻見者悲裳 玉津島磯之裏末之眞名子仁文十二に誰里之間宿可借益十四に可豆思加乃麻萬能宇良末乎許具布禰能十七に之麻末爾波許奴禮波奈左吉なと多かりこれを後には浦わ里わなと和に轉して云はやゝ降り行音便にて此集なとには一ツも無きことなり【然るを昔よりして此集のを和と訓るは誤れり又集中に浦|備《ヒ》浦|箕《ミ》島|備《ヒ》道乃久麻|尾《ヒ》など云る備《ヒ》箕《ミ》は方《ヘ》と通ふ言にて此《コヽ》の回《マ》とは異なり又山(ノ)際《マ》浪|間《マ》などは伎波と云意にて異なるよし三の廿七葉に云りこれらよくせずば紛ひなむ乎はなるをなり○一首の意は潮先動の時《ヲリ》しも五十良兒島邊を榜船に妹乘るらむかくこは荒き島回なるをそのさまめつらかなるにひかれてすさひありくらむ危さよとなりこれ思人なる故に想像る趣《サマ》前二首《サキノフタウタ》とは異なり
 
當麻眞人麻呂妻作歌
 
此人は考へき物なし此歌四卷にも出て麻呂大夫とあり此幸に供奉なりしなり
 
43 吾勢枯波何所行良武己津物隱乃山乎今日香越等六《ワカセコハイツクユクラムオキツモノナハリノヤマヲケフカコユラム》
 
何所は伊豆久なり五に伊豆久由可古事記明宮段大御歌に許能迦邇夜伊豆久能迦邇なとあり伊豆古と云は後の(87)ことなり○己津物は沖津藻之にて【玉乃小琴云己は起の偏を省るにて健を建石村を石寸※[虫+呉]蚣を呉公と書く例《タクヒ》なり】隱《ナハリ》の枕詞なり【十一に奧藻隱障浪五百重浪また彼しほひに見えぬ沖の石など思ふべし】○隠乃山乎玉小琴云伊賀國名張郡の山なり大和京の頃伊勢へ下るには伊賀を經ること常なりさて那波荒とは隱るゝを云十六に忍照八難波乃小江爾廬作難麻理弖居葦河爾乎これ隠れて居を難麻理弖居と云り故《カレ》隱とは書り○今日香越等六は路《ミチ》の次日《ツイテ》數の程にて察《オシハカ》るなり○一首の意は吾夫は今いつく許《ハカリ》ゆくらむ路の次《ツイテ》日數のほとを量るに名張の山を今日か越らむとなり一二句はいつくならむと想像て次に漸おしはかりさためたるいと/\あはれ深し
 
石大臣從駕作歌
 
麻呂公なり績紀に慶雲元年正月丁亥朔癸巳詔以大納言從二位石上朝臣麻呂爲右大臣また和銅元年三月丙午右大臣正二位石上朝臣麻呂爲左大臣と見えて此時は未大臣には非れとも後より記せるにて上に鎌足卿を内大臣とあるに同し
 
44 吾妹子乎去來見乃山乎高《ワキモコヲイサミノヤマヲタカ》三香聞日本能不所見國遠見可聞
 
槻落葉云去來見乃山とよまれたるは二見浦なる大夫の松と云大木の生たる山なるへし【伊勢三郎が物見松と云即同人の城址なりとも云り】さるは倭姫命世記に佐見津彦佐見津姫|參相而御鹽濱御鹽山奉支《マヰリアヒアテミシホハマミシホヤマタテマツリキ》とあるは此二見浦なるに今も彼山の麓の小川を佐美川といへは【さめ川ともいへり】こゝそ佐美(ノ)山なるを伊と云言をそへ吾妹子乎と蒙らせて去來見の山とはつゝけしならむ二見浦より阿胡へ幸《イテマ》さむには此山の東より南へ折れて鳥羽に御船|泊《ハツ》へきなれは二見浦を幸《イテマ》す程は大和より越ましゝ山々も西方に遙に見放らるゝに此山を榜轉《コキタミ》て東南に入坐ては大和の方の見えす成ぬるを如比《カク》はよまれたるへしとあり此考おもしろし大夫の松と云なとも麻呂大夫に由ありけなり○高三香裳は高さに歟もなり【歎息の裳なり】○日木能不所見 能は力ありて俗言の我《カ》なり○國遠見可聞 國とは即大和なり本國を國と云ことは古も今も同し可聞は上の如し○一首の意は國の戀しきに此佐美の山の高さにかも國の見えぬ蓋《ケタシ》國の遠けれはかもとなりさてそは妹を戀るからなれは吾妹子乎去來見乃とは云係たり
 
(88)右日本紀先鳥六年壬辰春三月丙寅朔戊辰以淨廣肆廣瀬王等爲留守官於是中納言三輪朝臣高市麻呂脱其冠位フ上於朝重諫曰農作之前車駕未可以動辛未天皇不從諫遂幸伊勢五月乙丑朔庚午御阿胡行宮
 
此幸は持統天皇六年にて朱鳥(ノ)七年に當るを六年と云る誤れり又五月乙丑云々は紀を見ひかめたること前に引たると合せ見て知ね
 
輕皇子宿于安騎野時柿本朝臣人麻呂作歌
 
輕皇子は文武天皇に御座《イマ》せり御父は草壁皇子尊【御謚《ノチノミナ》を日並知皇子と稱《マヲ》す天武天皇の皇太子にて持統天皇三年四月に薨《カムサリ》ませり天平寶字二年に岡宮御宇天皇と稱《タヽ》へまをす】なり安騎野は大和國宇陀郡にあり大神宮儀式帳に宇太乃阿貴宮神名帳に同郡阿紀神社天武紀に到2菟田吾城《ウタノアキニ》1また菟田郡云々到大野なとも此處《コヽ》なりさて輕皇子の此處に宿りませるは何故の幸か知られねと【御獵のよしは見えす】こはたゝ御情《ミコヽロ》やりにこゝら幸《イテマ》したるか父命の屡々《シハ/\》幸《イテマ》せりし地なるにより宿らしけむ其よしは歌に見ゆ人麻呂は草壁皇子命の舍人なりしかは【此事は上三葉に出】此|供奉《ミトモ》せられしなり
 
45 八隅知之吾大王高照日之皇子神長柄神佐備世須登太敷爲京乎置而隱口乃泊瀬山者眞木立荒山道乎石根楚樹押靡坂鳥乃朝越座而玉限夕去來者三雪落阿騎乃大野爾旗須爲寸四能乎押靡草枕多日夜取世須古昔念而《ヤスミシヽワカオホキミタカヒカルヒノミコカムナカラカムサヒセストフトシカスミヤコヲオキテコモリクノハツセノヤマハマキタツアラヤマミチヲイハカネノシモトオシナヘサカトリノアサコエマシテカキロヒノユフサリクレハサキユキフルアキノオホヌニハタスヽキシノヲオシナヘクサマクラタヒヤトリセスイニシヘオモヒテ》
 
高照は日の枕詞なり照は比加流なり【※[氏/一]良須とは云る例《コト》なし】古事記日代宮段歌多加比加流比能美古朝倉宮段歌に多加比加流比能美夜比登集中高光ともありさて此《コノ》高《タカ》は高天原高御座また高行や隼なとの高にて天と云に等《ヒト》しき體言なり【たゝに高きことに云とはことなり】照《ヒカル》は即※[氏/一]良須と云に同し【※[氏/一]良須は見須聞須などの語格《イヒサマ》にて照たまふを云り物を令《ス》v照《テラ》とはことなり】然れは天照《アマテラス》と云(ヒ)高照《タカヒカル》と云|全《モハラ》同語《オナシコト》なり○日之皇子は日神の御子孫《ミスヱ》と申すことなり【皇子と書るを思ふべからず】集中日之御子とも書り履中紀に有d如2風之1聲u呼2於大虚1曰|釼刀太子王《ツルキタチヒツキノミコ》也こは天皇をも日嗣御子と申せるにて知へし○神長柄神佐備世須登は上【三十三葉】に出|此《コヽ》の神進は次の詞|等《トモ》に見ゆ○太敷爲も上【廿七葉】に出○京乎置而は通えたり○隱口乃泊瀬山者 隱口は泊瀬の枕詞なり隱口は冠辭考に隱國なりとあるに從《ヨル》へ(89)し【十三に隱來乃泊瀬|少《ヲ》國などあり】久老云三に吾大王者隱久乃始瀬乃山爾神左備爾伊都伎座等 隱口乃泊瀬越女我手爾纏在玉者亂而有不言八方 河風寒長谷乎歎乍公之阿流久爾似人母逢耶 隱口能泊瀬之山之山乃際爾伊佐夜歴雲者妹鴨有牟七に隱口乃泊瀬山爾霞立棚引雲者妹爾鴨在牟 狂言香逆言哉隱口乃泊瀬爾廬爲云 隱口乃泊瀬之山丹照月者盈※[日/仄]爲|焉《ソ》人之常無これらの挽歌を考るに泊瀬は古の葬地にて今京の鳥部山の類と知られたり【野雁云七の挽歌に蜻蛉野叫人之懸者朝蒔君之所思而嗟幽不病 秋津野爾朝居雲之失去者 前《ムカシ》裳今裳無人所念これら吉野の蜻蛉野も葬地なりしと聞えたり】十六に事之有者小泊瀬山乃右城爾母隱者共爾莫思吾背これも同し大神宮儀式帳に許母理國志多備乃國こも下|方《ヘノ》國なりと云り【信濃漫録に見ゆ但し其説には非《ヒカコト》も交れゝば今は宜き限りを擧つ】○眞木立 眞木とは木を美《ホメ》たる稱《ナ》にて一種の名には非す然るを古事記朝倉宮段歌に麻紀佐久比能美加度繼體紀歌に莽紀佐倶避能伊陀圖此下に眞木佐苦檜乃嬬手なとあるによりて冠辭考に檜のことゝせられたるは一偏《ヒトムキ》なりそも/\檜はしも萬木に勝れたれは眞木なることは云も更なり殊に泊瀬の檜原とは名高く云ならへれは由なきにはあらねと右に擧たる歌|等《トモ》眞木さく檜とは連《ツヽ》きて直《タヽ》に檜を眞木と云ることなく二に眞木立不破山越而三に【獵路池にて】眞木之立荒山中爾六に三芳野之眞木立山湯十四に於久夜麻乃眞木乃伊多度乎これら皆奧山荒山に云るは惣て大なる良材を云るなり又此反歌に眞草苅荒野とよめるは然《モハラ》此眞木立荒山と一對《ヒトツカヒ》なるを眞木を檜とせは眞草は葺草《カヤ》なりとやいはまし然れともさる細《コマカ》なることを定めて云へきには非るをや【又和名抄に玉篇云※[木+皮]木名作柱埋之能不腐者也日本紀私記云末木また神代紀に※[木+皮]《マキ》は可3以爲2顯見蒼生奧津棄戸將臥之具《ウツシキアヲヒトクサノオキツスタヘニモチフサムモノニ》1こは今も然云て信にいと堅剛《カタ》く埋めて朽かたき材なれば麻紀とは美稱《タヽヘナ》か又橘枝直説に此木は皮も理《スチ》も纏《マキ》たるよしならむと云り※[木+皮]の字樣もさるよしにや有む】○荒山道乎 荒は踈《アラ》にて人|氣《ケ》にうときを云り荒海荒木荒草の例《タクヒ》なり乎は例のなるをなり○石根楚樹押靡 泊瀬山は元來《モトヨリ》荒山道なるを石根をも踏さくみ其石根の茂木《シモト》をさへ押靡かしの意にて是即神進なり○坂鳥乃朝越座而 冠辭考云こは谷の木陰《コクレ》なとに宿《トマ》れる鳥|等《トモ》の朝に群て山のたわ坂を飛越るを諸人の山路を進むに譬たり十三に鳥網張坂手乎|過《スクリ》十四に佐可故要※[氏/一]阿倍乃田能毛爾爲流多豆乃○玉限 冠辭考云限は蜻の誤なり夕日のきらめく(90)にさゝけたる枕詞なり云々猶同書に精く見ゆ披見へし【清水濱臣が玉蜻考はわろし】○夕去來者 上【三の二十二葉】に出○三雪落 三は美言にて御空なとに同し時は冬なりけむ反歌に御獵立師斯時者來向とよめるも冬獵《フユカリ》の時節《トキ》に當るを云り○阿騎乃大野爾 端詞に云り○旗須爲寸 旗とは是か葉のはた/\と飜るを云|旌旗《ハク》また魚の鰭《ハタ》織る機《ハタ》も同し衣の波多袖も是なり【然るを古事記傳十一の卅六葉の説にこの鰭波多袖などを端《ハタ》なりとあるは云れず魚(ノ)鰭は左右の端なるに局らす背上にあるをもいへば端には非ず傳に左右なるを本として云なりとあるは強説なり】雷《カミ》の鳴はたたく又|働《ハタラク》なとも其形状を云て一言《ヒトツコト》なり須爲寸は名義《ナノコヽロ》須爲とはそゝけたるを云へし大殿祭祝詞に取葺計魯|草《カヤ》乃噪岐【古語云蘇々岐】無久云々夜女能伊須々伎伊豆都志伎事無久古事記白檮原宮段に其美人驚而立走《ソノヲトメオトロキテタチハシリ》伊須々岐伎なとあり又顯宗紀の御詠言《ミナカメコト》に彼々茅原《ソヽチハラ》とある彼々も此《コレ》か寸《キ》とは長く立物を云り木《キ》牙《キ》なとの如しさて草の中に薄《スヽキ》荻《ヲキ》は然《サ》る物なり【字も通用《カヨハシモチヒ》たり○四能乎押靡 四能は靡《シナヒ》なり此|説《コト》上【二の四十二葉】に出押|靡《ナヘ》は押靡かせなり十七に賣比龍野能須々吉於之奈倍布流由伎爾○草枕は上【二の四十三葉】に出○多日夜取世須 世須も上【三十三葉】に出○古昔念而 古昔《イニシヘ》は往《イニ》し方《ヘ》にて遠からぬ前《サキ》をも云りさてこは反歌に日雙斯皇子命乃馬副而御獵立師斯時者來向二に日並知皇子尊殯宮之時舍人等慟傷作歌毛許呂裳遠春冬片設而幸之宇陀乃大野者所念武鴨なとありて父命の屡々《シハ/\》御獵に幸《イテマ》しゝ地なる故に今輕皇子の旅|宿《ネ》しますは當時を慕《シヌハ》してそとなり○一首の意は吾君は神にて御座すを猶も神進したまふとて京を出まし泊瀬山を越まして國見し遊ひ給へるか日暮て御雪ふる此大野にしも旅宿《タヒネ》しますは父命の此處《コヽ》に屡々御獵に幸《イテマ》しゝ往昔を懷ほしてそとなり
 
短歌
 
短歌と書せる此《コヽ》を始て多かり反歌と異なること無し
 
46 阿騎乃野爾宿旅人打靡毘毛宿良目八方古部念爾《アキノヌニヤトルタヒキトウチナヒキイモヌラメヤモイニシヘオモフニ》
 
打靡毘毛宿艮目八方は身を長《ノハ》し緩《クツ》ろけて睡《イ》も熟《ヨ》く寢《ネ》むやはなり寐《イ》とは睡《ネフル》を云り神武紀に天皇|適寐忽然而寤之曰予何長眠若此乎《ヨクイネマセルカタチマチニサメマシテノリタマハクナカイシツルカモトノリタマヒテ》これ適寐をヨクイネマセル長眠をナカイと訓り五に夜周伊斯奈佐農十九に【霍公鳥】嶋等余米|安寢不令宿《ヤスイシナサス》君乎奈夜麻勢なとは安睡《ヤスイ》なり(91)又字麻伊は熟睡《ウマイ》夢《イメ》は睡所見《イミエ》伊佐登斯は睡速《イサトシ》伊伎多那は睡穢《イキタナシ》なり又宿《ヌル》は那由流と通ひてなよゝかに臥《フス》を云り夏草のぬしま又夏草のあひねの濱ともつゝけ又ぬえ草とも云(ヒ)論語に草加(レハ)2之(レニ)風(ヲ)1必|偃《ヌエフス》これら以知へし然れは伊と禰とは元來《モトヨリ》異なるを重て伊禰伊奴流伊袁奴流なとはたゝ寢臥ことゝ聞ゆれとそは寢臥せは即睡るもの故に云馴たるうへのことなり然るを古事記傳【十一の廿五葉廿九の五葉】なとに伊と禰とは一(ツ)言の如《コト》説《イハ》れたるは後の唱《トナヘ》により本義《モトノコヽロ》を誤られたり徒《タヽ》に重ぬへきには非すさて宿良目八方は將《メ》2寢在《ヌラ》1やはにて凡て如此樣《カクサマ》の寢流《ヌル》は寢在|寤流《サムル》は寤在|見流《ミル》は見在|念流《オモヘル》は念在なり○古部念爾は日並知皇子命の往昔を懷ふになり○一首の意は右に云るか如し
 
47 眞草苅荒野二者雖有黄葉過去君之形見跡曾來師《マクサカルアラヌニハアレトモミチハノスキニシキミカカタミトソコシ》
 
眞草は眞木【長歌に出】と對《ムカ》ひて草を美《ホメ》たる稱《ナ》なりそは凡て物に用《ツカ》ふ草は【葺草《カヤ》も其余《ソノホカ》も】皆眞草にて人|氣《ケ》なき荒野に生るよしのつゝけなり【冠辭考わろし】○黄葉過去君之 もみち葉の散過《チリスクル》を人の死《ミウセ》に譬たり三に黄葉乃移伊去者○形見跡曾來師 形見は字の如く亡《ナキ》ものゝ代《カハリ》を云り○一首の意は明らけし九に鹽氣立荒磯丹者雖有往水之過去妹之方見等曾來
 
48 東野炎立所見而反見爲者月西渡《ヒムカシノヌニカキロヒノタツミエテカヘリミスレハツキカタフキヌ》
 
東《ヒムカシ》は日向筋《ヒムカシ》なるへし成務紀に以《ヲ》2東西1爲2日縱《ヒノタヽシト》1南北(ヲ)爲2日横《ヒノヨコシト》1こは縱筋横筋の義《コヽロ》又釋日本紀に重問云倭文其形體如何先師申云【中略】建久諸祭興行之時大藏省年預申状有青筋文之布|云々《トイヘリ》と云れは倭文《シツ》は筋出《シツ》なるへし【出とは文《モム》の現はるゝを云今も錦出天人出など云り又錦などを赤ち青ちと云も地の字音にはあらで出の轉れるなりこは文《モム》には非れども今も藍出など云におなじ】又今世にしま織と云|服《ハタ》も筋《スヂ》に織たれは筋目《シマ》か【島より織て出す故ぞと云は信《ウケ》られず彼八丈絹などこそあれ凡ては然らぬをや】又西は日の往筋《ニシ》なるへし【古事記傳卅五の四十四葉説はわろし】○炎立所見而 明初る光なり○一首の意は阿騎野に宿《ネ》たる明方に東を望めは遙の末に赤ね刺《サス》見えて西を顧れは落たる月の白みて殘れりとなりめてたさはいふも更なり
 
49 日雙斯皇子命乃馬副而御獵立師斯時者來向《ヒナメシノミコノミコトノウマナメテミカリタヽシヽトキハキムカフ》
 
日雙斯皇子命は御謚《ノチノミナ》なるへし御名義《ミナノコヽロ》日とは天皇を譬へ申して皇太子は天皇と相雙はして天下知召すよしにや皇子命とは皇太子を申す御通稱《ミナ》なり○御獵立師斯は上(92)【二の三十三葉】に出○時者來向 者《ハ》に心を着へし時節者《トキハ》來向へとも其君は不《ス》v在《マサ》なり○一首は明らかな、りさて此歌|等《トモ》の秀れたることは更なり
 
(93)萬葉集新考 五
 
藤原宮之役民作歌
 
持統紀に四年十月甲辰朔壬申高市皇子|觀《ミソナハス》藤原宮地公卿百寮從焉十二月癸卯朔辛酉天皇幸藤原觀宮地公卿百寮皆從焉五年十月戊戌朔甲子遣使者鎭祭新益京六年正月丁卯朔戊寅天皇觀新益京|路《オホチヲ》五月乙丑朔丁亥遣淨廣肆難波王等鎭祭藤原宮地庚寅遣使者奉幣于四所伊勢|大倭《オホヤマト》住吉紀伊大神告以新京六月甲子朔癸巳天皇觀藤原宮地七年八月戊午朔幸藤原宮地八年正月乙酉朔乙巳幸藤原宮即日還宮十二月庚戌朔乙卯遷居藤原宮と見えたりこは天武紀十二年十二月の詔に凡都城宮室非一處必造兩參とありて藤原にも造営せられたるなりさて飛鳥清見原宮よりは遷りませりき此歌は其宮造の時役はるゝ民の作《ヨメ》るよしなれとも歌の樣を思ふに然らしこは彼七夕の歌を彦星棚機つ女《メ》になりて作《ヨム》例《タクヒ》に彼民に擬《ナリ》てよき歌人の作るなり按ふに巧めるさまなと人麻呂主の口つきと聞ゆ此|説《コト》は既く玉勝間【思草の卷】に云れてそこに一首の解もあれとも甚《イト》ことそきて詳審《ツハラカ》にはあらす
 
50 八隅知之吾大王高照日之皇子荒妙乃藤原我宇倍爾食國乎賣之賜牟登都宮者高所知武等神長柄所念奈戸二天地毛縁而有許曾磐走淡海乃國之衣手能田上山之眞木佐苦檜乃嬬手乎物乃布能八十氏河爾玉藻成浮倍流禮其乎取登散和久御民毛家忘身毛多奈不知鴨自物水爾浮居而吾作日之御門爾不知國依巨勢道從我國者常世爾成牟圖負留神龜毛新代登泉乃河爾持越流眞木乃都麻手乎百不足五十日太爾作泝須良牟伊蘇波久見者神隨爾有之《ヤスミシヽワカオホキミタカヒカルヒノミコアラタヘノフチハラカウヘニヲスクニヲメシタマハムトオホミヤハタカシラサムトカムナカラオモホスナヘニアメツチモヨリテアレコソイハハシノアフミノクニノコロモテノタナカミヤマノマキサクヒノツマテヲモノヽフノヤソウチカハニタマモナスウカヘナカセレソヲトルトサワクミタミモイヘワスレミモタナシラスカモシモノミツニウキヰテワカツクルヒノミカトニシラヌクニヨリコセチヨリワカクニハトコヨニナラムフミオヘルアヤシキカメモアラタヨトイヅミノカハニモチコセルマキノツマテヲモヽタラスイカタニツクリノホスラムイソハクミレハカムナカラナラシ》
 
荒妙乃は藤の枕詞なり荒妙の事は上【四の一葉】に云る如く妙は借字にて栲《タヘ》なりいと上古《イニシヘ》は栲服《タクハタ》を着たりし故に云馴ては衣に製る絹布《モノ》をは何にまれ惣て多倍と云り【多倍は栲《クフ》の轉れるなり】さて藤布は麁かるよしの續《ツヽケ》なり○藤原我字倍爾 古事記傳【卅四の五十三葉】云藤原は香山の西耳或山の南なり持統紀釋に遷居藤原宮私記曰師説此地未詳愚按氏族略記云藤原宮在高市郡鷺柄坂北地と云り香山は十市郡なれとも此宮は其西にて高市(ノ)郡(ノ)内なりけむ然るに彼大原と【野雁云大原は二に天武天皇賜藤原|夫人《オホトシ》御歌吾里爾大雪落有大原乃古爾之郷爾落卷者後とある地にて夫人は鎌足の御女八に字曰大原大刀自とあり大原|其《ソノ》本郷《サト》にて藤原ともいへば(94)藤原姓も其處《ソコ》の名なり又允恭紀藤原之琴節郎女も此處《ココ》なり】一(ツ)に心得たるは地理をも考へさる妄説《ミタリコト》なり大原は香山の南にて飛鳥に近き地《トコロ》なれは【高市郡大原村これなるべし】彼萬葉の長歌に合《カナ》はす【野雁云長歌は次の御井歌にてそれに青香具山者日經乃大御門爾云々とありて此宮は香具山より西に當ればなり】云々又萬葉考云宮地は十市郡にて香川耳成畝火三山の眞中に大宮殿《オホミヤトノ》と云ていさゝか畑にすき殘して松立りと見ゆ高市十市|隣郡《チカキ》なれは一處か非ぬか猶|熟《ヨク》考へし宇倍は上【三の四十八葉】に云る如く邊《アタリ》と云か如し五に父母毛|表者《ウヘハ》奈佐我利三枝之中爾乎禰牟登十九に寺井之|於《ウヘ》乃堅香子之花○食國乎 食《ヲス》は上【三の五十四葉】に云る如く飲《ノミモノ》食《クヒモノ》を身に受納《ウケイルヽ》を云り國を治《ヲサム》と云治も袁斯波牟の約にて身に受納持《ウケイレタモツ》よしなり○賣之賜牟登 御《メシ》なり○都宮者二に御在香乎高知座而とあれとこゝは穩なるに依《ヨレ》り○所念奈戸二 奈戸は並なり俗《ヨ》にナラヒニと云に同し八に今朝乃且開雁之鳴寒聞之奈倍野邊能淺茅曾色付爾來なとの如しさて此《コヽ》はさし並《ナラヒ》直並《スクナラヒ》なとの如しさるは此宮造營らむと思はせは直《タヽチ》に云々の意なり○天地毛漢言なり毛は人民《ヒト》のみならすなり○縁而有許曾 縁《ヨリ》は寄助《ヨリタスル》なり有《アレ》許曾は有《アレ》はこそなり○磐走淡海乃國之 上【四の七葉】に出○衣手能 多那加の枕詞なり祝詞に手長能大御世また手長乃御壽なとあると二に御壽者長久天足有とあるを對《ムカ》へ見れは手長は足長なり【理を省くは常なり】故《カレ》此《コヽ》も田上の多那加にはつゝけたり【冠辭考すこし差へり】さるは古の衣手《ソテ》は長けれはなり田上山は近江國|栗本《クルモトノ》郡にあり○眞木佐苦檜乃嬬手乎 檜を美《ホメ》て眞木と云よしは上【四の五十葉】に云り又|其《ソ》を拆《サキ》て物に用ふれは眞木拆檜とつゝけたり嬬手は※[木+爪]立《ツマタチ》にて材《キ》とりたるを云り○物乃布能 こは物の倍《ヘ》と一(ツ)言なり集中物乃布を物部と書るにて知へし倍を布と云は上よりつゝくる語勢《コトハノイキホヒ》にて古事記明宮段歌|白檮《カシ》の上《フ》に横臼《ヨクス》を作りの例《タクヒ》なりさて常には物の倍を濁れと正しくは清りけむ【物乃倍と乃を加《ソヘ》ていへばなり野の邊山の邊川の邊などみな清り】物部《モノヽフ》とは朝廷《ミカト》に奉仕る人を男も女も惣ていふ稱《ナ》なり故《カレ》集中に物部乃と云て八十氏人八十氏川八十伴緒また壯男《ヲトコ》壯女《ヲミナ》なとつゝけたるは朝廷に奉仕る八十の氏人八十|部《トモ》の長《ヲ》【八十はたゞ多きを云り】百官の男女と云ことなり十三に物部之氏川渡も氏々の意なり【これらの氏を冠辭考古事記傳に稜威《イツ》と通ふ言の續《ツヽケ》そとあれどもそは彼千早ヒト宇治の渡などこそあれ物部よりつゞくるは氏なり】十九に物(95)部乃八十乃※[女+感]嬬等之十三に物部乃八十乃心呼なとは八十まてにかゝりて朝廷に奉仕る人の多かるよしのつゝけなり八に物部乃石瀬之杜乃は滿聚《イハム》と云意よりつゝけりさて名義《ナノコヽロ》物とは人をさして此者彼者なと云者なり神代紀に高皇産靈尊勅大物主神|汝《イマシ》宜2領《ヒキヰテ》八十萬神1氷|爲《ヲ》2皇孫《ミマノミコト》1奉護と見えて八十萬神を領《シリ》ます故に大物主と稱《マヲ》せは物とは率領《ヒキヰ》ます衆《オホクノ》神を云り朝廷の諸人を云も其と同しさて百官各職(シ)掌るところ別《コト》なれとも皆天皇を守護のためなれは物とは主《ムネ》と守護《マモリ》に屬《ツキ》て云り右に引たる大物主の由緒《ユヱヨシ》も永爲皇孫奉護とあるを思へししか守護につきては武事《タケキワサ》の要《ムネ》なる故に上古《イニシヘ》は大臣《オホオミ》を始て武事を主《ムネ》と奉仕《ツカヘマツ》られきさるからに物と云言おのつから武夫の事に轉りて遂に物部とは武夫の稱《ナ》の如《コト》なりこしなり後世に武具を物の具と云(ヒ)今世武家にて武率|一部《ヒトトモ》の首領《オヒト》を物頭と云も是なり又物部姓は古語拾遺に逮于神武天皇東征之年云々物部氏遠組饒速日命殺v虜《アタヲ》帥v衆|歸2順《マツロフ》官軍《ミイクサニ》1忠誠之|效《マコト》殊蒙褒寵【此氏人の刑罰の事を掌《シ》る縁故《コトノモト》なり】また饒速日命帥内物部造備矛盾云々然後物部乃立矛盾【即位大甞の節《トキ》に此氏人の矛盾を建る縁故なり】なと武事もて奉仕る氏なりこれらにて證らむへし部《ヘ》は群《ムレ》の約れる米の通へるなり○八十氏河爾 山城の宇治河○玉藻成 成《ナス》は如《ナス》なり上【三の三十九葉】に出○浮倍流禮 下に婆を加《ソヘ》て意得へし古言の格なりこは田上山に伐れる材をなり○其乎取登 それを取とてなり○散和久御民毛 久を清へし二に言佐敝久百濟之原從六に散和口七に赤石門浪未佐和|來《ケリ》八に浪音佐和久九に波驟祁留十四に布奈妣等佐和久十五に佐和伎十七に佐和吉佐和伎廿に佐也久なとありて濁音は見えす十に荻之葉左夜藝これも清へし民とは天下の諸人を云そは尊卑《タカキヒキヽ》おし並て皆|天皇《オヽキミ》の御民なり六に海犬養宿禰岡麻呂應詔歌御民|吾《ワレ》とあり毛は材を伐川を下せる民に對《ムカ》へてこゝの毛なり○家忘は通えたり○身毛多奈不知 多奈は多禰良布の多禰なり多は事を強むる發語にて多|助《スク》多|回《モトホル》の例に同し奈は禰理の約轉《ツヽマリウツレル》にて禰流とはかへす/\熟《ヨ》く物するを云り拾遺集にしろかねの目貫の刀をさけ佩て奈良の都をねるや誰子そ萬事にも練《ネル》と云は是なり十に山邊庭薩雄乃禰良比これも同し九に身乎田名知而十三に人丹勿告事(96)者棚知これら事情《コトノコヽロ》を熟《ヨ》く練り知るを云(ヒ)多奈不知は其《ソノ》反《ウラ》にて身を忘るゝを云り【俗《ヨ》に事の至り深きをタンネンなると云はたねらひかはた鍛錬の字音か】○鴨自物は鴨|如《シク》物なり集中犬自物馬自物鹿自物鳥自物鵜自物男自物なとある皆同し○水爾浮居而は材を河より取上るなりさて此處《コヽ》よりは陸《クヌカ》を持越し泉河にて筏に作るなれは九句を隔て泉乃河爾持越流につゝけりされは吾作より新代登まては泉乃河を云む序なり○吾作は作者の吾なり○日之御門爾 日之御子之朝廷を省り【日之宮ともいへり】こは下十二句を隔て泝須良牟につゝく意なり○不知國依巨勢道從は異國まても歸來《ヨリク》と云|賀言《ホキコト》を巨勢道に云係たりさて材を河より取上て巨勢道を宮處まて持運ふ故に巨勢道從と云り○我國者常世爾成牟は彼蓬莱なとを思寄《オモヒヨセ》たる賀言なり○圖負留神龜毛 漢國の禹王か代に龜負圖出洛水と云故事を泉乃河に云係たり○新代登 槻落葉云新は阿良多なり廿に年月波安良多安良多爾安比美禮騰と古本にあり今本に安多良安多良とあるは誤れり【野雁云六帖にもあらた/\とあり】同卷に新年乃波自米とあるをも古葉類聚抄にはアラタシキと訓り然るを催馬樂に阿多良之支年のはしめとうたひ誤れるより後世誤を傳へて唱紛《トナヘマカヘ》たるへし後撰集に春雨の世にふりにける心にも猶あたらしく花をこそ思へとあるは惜と新とを兼《カネ》たるにて其頃は既く誤りけむ新は阿良多惜は阿多良にて言も意も異なり凡て古書には新を阿多良斯と訓る例なしとあり仙覺註釋にもアラタヨと訓りさて新世とは新京に御世しろしめすことなるをめてたく新まる世の意にも係たり登はとてなり○泉乃河爾持越流は上の水爾浮居而よりつゝく意なり玉勝間云今(ノ)世(ノ)意をもて思へは宇治川より直《タヽ》に下すへきを泉川へ持越て下せるはいかなるよしにか古は然《サ》る故こそ有けめ○眞木乃都麻手乎 上の檜の嬬手なり○百不足は五十の枕詞なり○五十日太爾作泝須良牟は玉勝間云泉川にて筏に作りて難波海に出し紀の川を泝するなり其《ソ》は詞には無れと巨勢道從と云(ヒ)【大和より紀國へ往還《ユキカ》ふ道なり】筏爾作泝須と云るにて紀の川をさかのほらせたること著し古は如此《カク》する事にそ有けむ泝須とは巨勢道より宮處まて持運ふをも包《カネ》たる詞なり良牟とは此作者宮造の處に在て材を伐出云々の事をは見さる故(97)なり○伊蘇波久見音 波久とは萬に其形状を云ときの辭にて主《ウシ》波久は主《ウシ》にりたるを云(ヒ)勤《イソ》波久も勤《イソ》ふる形状なり【萬葉考に主張《ウシハク》古事傳に主佩《ウシハク》なりと云れたる共《ミナ》あたらず】見者は巨勢道より宮處に運ひ來たるをなり ○神隨爾有之 爾有之《ナラシ》はにあるらしなり○一首の意は吾天皇《ワカオオキミ》この藤原(ノ)地《トコロ》に大宮|造營《ツク》らむと思ほせは直《タヽチ》に天地も寄助ますれはこそ遠き近江の田上山に宮材を伐出て山城の宇治川を下して其《ソ》を|又陸《クヌカ》より泉川に持越て筏に作りて難波海に出して紀の川に泝《ノホ》せて巨勢道より此宮處に持運ひ勤《イソ》しむを見れは神隨の大御徳《オホミイキホヒ》なるへしとなり
 
右日本紀曰朱鳥七年癸巳秋八月幸藤原宮地八年甲午春正月幸藤原宮冬十二月庚戌朔乙卯遷居藤原宮
 
此《コヽ》に朱鳥七年と云るは即位七年にて朱鳥八年なり又八年と云るは即位八年にてこれも朱鳥九年なり共《ミナ》一年の差へるは即位元年を先島元年と思ひ誤れるなり朱鳥元年は天武天皇の末年にて持統天皇元年は朱鳥二年なるをや
 
從明日香宮遷居藤原宮之後志貴皇子御作歌
 
遷居とは天皇のなり【志貴皇子には非す】持統紀に遷居藤原宮と書されたり志貴皇子は天武天皇の皇子なるへし天武紀に宍人臣大麻呂女|※[木+穀]《カチ》媛娘生二男二女其一曰忍壁皇子其二曰磯城皇子其三曰泊瀬部皇女其四曰|託基《タキノ》皇女また八年五月庚辰朔甲申幸于吉野宮乙酉天皇詔皇后及草壁皇子尊大津皇子高市皇子河島皇子忍壁皇子芝基皇子曰云々なと見えて磯城とも芝基とも書りさて又天智天皇の皇子にも同御名の御座て天智紀に有越道君伊羅都賣生施基皇子と見えたり天武紀に朱鳥元年八月癸未芝基皇子磯城皇子各加封二百戸とあるは右の二柱にて字《モシ》には拘らす書されたり續紀に靈龜二年八月甲寅二品志貴親王薨云々親王天智天皇第七之皇子世寶龜元年追尊稱御春日宮天皇【光仁天皇の大御父に御坐《イマ》せばなり】と見ゆなほ大寶三年より靈龜二年まての紀に志紀親王志貴親王|往々《トコロ/\》見えたる何れかいつれならむ別《ワキ》難きさまなり又天武の皇子なるは紀に薨を記し漏《オト》されたれとも績紀慶雲四年六月の下《トコロ》に以三品志紀親王云々等供(98)奉殯宮事【文武天皇崩御の時なり】と見えたるに翌《アク》る和詞元年正月に四品志貴親王授三品【これは志紀と志貴と字を書|異《カヘ》て見ゆれど餘《ホカ》には混《ヒトツ》にも見ゆ】とあれは其頃二柱|御座《イマシ》けるにて二の挽歌に靈龜元年歳次乙卯秋九月志貴親王薨時作歌とあるそ天武のにはあるへき如是《カヽ》れは紀に漏《オチ》たる薨の年月は此集に明らかなりけりされとなほ此集中に志貴皇子とある御歌|等《トモ》いつれか何れならむ決め難けれと下に慶雲三年丙午幸于難波宮時の歌等を志貴皇子長皇子と列ね卷末に長皇子與志貴皇子於佐紀宮倶宴歌とあけ八に霍公鳥歌三首を藤原夫人歌【明日香清御原宮御宇天皇之婦人也字曰大原大刀自即新田部皇子之母也】志貴皇子御歌一首弓削皇子御歌一首と列ねたりこれら長皇子弓削皇子藤原夫人みな天武の皇子また夫人に座せは志貴皇子も天武のなりとはおのつから著かりされは爰をもしまらく其方に決めつ然るを昔よりうけはりて天智の皇子そと云るは田原天皇の大御名高きによりゆくり無く空《ソラ》に定めしにて上【四の十九葉】に論《イ》へる川島皇子の例《タグヒ》なるへし
 
51 ※[女+采]女乃袖吹反明日香風京都乎遠見無用爾布久《タワヤメノソテフキカヘスアスカカセミヤコヲトホミイタツラニフク》
 
※[女+采]女は【※[女+采]は采と通はし用たり字書に采は色也與彩同】十五に多和也女とあり此《コレ》に依て訓へし名義《ナノコヽロ》は集中古事記に手弱女とかき三に石戸破手力毛欲得手弱寸女有者爲便乃不知苦とよめるか如し然らは多余和なるを多和也と云は自然の音便なり【撓やかなる義《ヨシ》には非ず】○明日香風 集中佐保風泊瀬風伊香保風なとあり○京都乎遠見 藤原なり○一首の意は譬喩にて歌の表は明日香都の時※[女+采]女の袖に吹ならしゝ風の今は都の遷ろひ遠さかりぬれはいたつらに獨さひしく吹かなとなりさて裏には御思人の藤原にうつりて今は遠さかり逢見こと無く徒に獨|不怜《サフ》しく慕《シヌヒ》居かなとなり皇子は當時《ソノカミ》飛鳥に殘りましけむ明日香風とは御自を譬へ給へるなり諸注譬喩なることを知らす風のうへと思へりかはかりめてたき御歌をや
 
藤原宮御井歌
 
井は居《ヰ》にて水の渟居《タマリヰル》ところの名なり堰《ヰ》も同じ此御井は歌に藤井我原とあれは元來《モトヨリ》美《ヨキ》井のありて地名にも負たるへしさて此歌も作者知られねとも人麻呂主の(99)口つきに似たり
 
52 八隅知之和期大王高照日之皇子麁妙乃藤井我原爾大御門始賜而埴安乃堤上爾在立之見之賜者日本乃青香具山者日經乃大御門爾春山跡之美佐備立有畝火乃此美豆山者日緯能大御門爾彌豆山跡山佐備伊座耳高之青菅山者背友乃大御門爾宜名倍神佐備立有名細吉野乃山者影友乃大御門從雲居爾曾遠久有家留高知也天之御蔭天知也日御影乃水許曾波常爾有米御井之清水《ヤスミシヽワコオホキミタカヒカルヒノミコアラタヘノフチヰカハラニオホミカトハシメタマヒテテハニヤスノツヽミノウヘニアリタヽシミシタマヘハヤマトノアヲカクヤマハヒノタテノオホミカトニハルヤマトシミサヒタテリウネヒノコノミツヤマハヒノヨコノオホミカトニミツヤマトヤマサヒイマスミヽナシノアヲスカヤマハソトモノオホミカトニヨロシナヘカムサヒタテリナクハシヨシヌノヤマハカケトモノオホミカトヨリクモヰニソトホクアリケルタカシルヤアメノミカケアメシルヤヒノミカケノミツコソハトコシヘナラメミヰノマシミツ》
 
和期大王 古事記傳【廿八の十三葉】云|此《コ》は下の意へつゝく故に賀意《カオ》つゝまりて期《コ》となるを長く詠《ウタ》へはおのつから期意《コオ》となるなりさる故に是はたゝ吾大君とつゝく時のみのことなるを惣て吾を和期とも云ことゝ心得るは非《ヒカコト》なり○麁妙乃 上【二葉】に出○藤井我原爾 端詞に云り○大御門始賜而 通えたり○埴安乃堤上爾 堤は水を包みて外へ漏し溢らさぬ由の名なり十市郡天香山に近し○在立之 在は常に如此而有《カクテアル》然而有《サテアル》なと云在とは異りて絶せす常に在わたることを云り四に玉緒乎沫緒二※[手偏+差]而結有者在手後二毛不相在目八方【ながらへて後にも云々なり】また須臾羽蟻待【ながらへまてなり】六に自神代芳野宮爾蟻通【神代より絶せす通なり】十一に浦觸而物者不念水無瀬川有而毛水者逝云物乎【水無瀬川は表《ウヘ》に流れては見えざれども裏《シタ》には常に絶せぬよしの譬なり】十二に在有而後毛將相登【ながらへてなり】これらにて知ね古事記八千矛神御歌に佐用婆比爾阿里多々斯用婆比邇阿理加用婆勢も絶せす婚《ヨハヒ》に通ひますなり【傳十一の六葉の説誤れり】然れは爰の在立之も絶せす時々《ヲリ/\》に立賜なり○見之賜者 見之は見《ミ》の古言なり六に我大王之|見給《ミシタマフ》芳野宮者十九に見賜《ミシタマヒフ》明米多麻比 見之明良牟流なとあり○日本乃 【大和なり】國號考云こは同し大和の内なからも殊に京師《ミヤコ》のあたりを云り今世に大神宮のあたりを殊に伊勢と云に同し香山は藤原都の東に並ひていと近し下に幸吉野宮時歌に倭爾者鳴而歟來良武呼兒鳥も同し○青香具山者 此山は上【二の十七葉】に委く云る如く名義《ナノコヽロ》蔭山にて木の茂かるよしなるへし然《サ》れは爰もたゝに青き香具山とにはあらて青蔭とつゝけしならむさるは此歌は御井歌なるに四面《ヨモ》の山をしも云るは此宮の青垣山こもれる稱辭《タヽヘコト》のみならす水は凡て木《コ》もれる地より出れは青蔭山|※[木+若]《ミツ》山青|清《スカ》山なと(100)云るなり○日經乃大御門爾 成務紀の制《ミノリ》に以(テ)2東西1爲2日(ノ)縱1云々香山は東御門に方れり○春山跡は何時《イツ》も春山の如なり上句在立之見之賜者より係りていつとなく見たまふ毎に春山の如なり【春山の事は三の廿二葉にいへり】○之美佐備立有 之美は上【三の廿二葉】に云る如く之は茂《シ》にて美は其形状を云り佐美は進《スサヒ》にて【四の十五葉に出】茂きに進めるなり立有《タテリ》は山のあるさまを云り木の立有《タテル》には非す○畝火乃此美豆山者 此《コノ》とは富士谷御杖説に宮に目《マ》近き故かとあり【地理考へし】美豆は若く美《ウルハ》しきを云水|枝《エ》水莖水穩水蓼|※[木+若]《ミツ》垣なとの如しまた瑞《ミツノ》八坂瓊瑞之|御殿《ミアラカ》美豆玉|盃《ウキ》なとも同し○日緯能大御門爾 成務紀に南北(ヲ)爲2日(ノ)横1云々畝火山は南御門に方れり○彌豆山跡 何時《イヅ》もなり○山佐備伊座は山を直《タヽ》に神として云り三に不盡能高嶺者云々靈母座神香聞九【筑波山】に男神爾雲立登なと多し○耳高之 高は爲の草體を誤れるか○青菅山 菅は清《スカ》なり○背友乃大御門爾 成務紀に山(ノ)陰《キタヲ》曰2背面《ソトモ》1云々日に背ける面《オモ》なり耳爲山は北御門に方れり○宜名倍は上【二の廿二葉】に云る如く足調《タリトヽノヒ》たる美語《ホメコト》にて爰は山形を云り○神佐備立有 是も神として云り【たゞに物さびたるを云とはことなり】立有は上の如し○名細吉野乃山者 細《クハシ》は咋合《クハ》しにて【即組しなり】物と物と可美《ウマ》く【俗《ヨ》にシツクリと云意なり】合ことより出たり古事記に細《クハシ》妙《クハシ》書紀に微妙《クハシ》なとあり【古事記傳廿八の五十二葉に久波斯は奇愛《クスハシ》なりちて續紀宣命に久須波斯伎とあるを引れたれど彼はたゞ奇《クスシ》にて忌《イマ》しきを忌波斯伎と云に同じ奇愛《クスハシ》と云|語《コト》はいかゝ】委《クハシ》精《クハシ》なとも細にあるを云(ヒ)麗《クハシ》妹また花|細《クハシ》櫻|香細《カクハシ》橘|勇細《イスクハシ》鯨なとも透間なく愛《メテタ》たきよしの語なりかくて吉野は上【三の五十七葉】に云る如く吉と賛《ホメ》たる名なる故に名|細《クハシ》と云り二に名細之|狹岑《サミネ》之島三に名細寸稻見乃海なとも眞御嶺《サミネ》稻を云り倭姫命世記に奈具波志忍山とあるも忍《オシ》は大《オホ》と通ふ美稱よりつゝけたり○影友乃大御門從 成務紀に山(ノ)陽《ミナミヲ》曰2影面《カケトモ》1云々日影に向へる面《オモ》なりさて吉野畝火共に南御門に方るを畝火は近き故に御門爾と云(ヒ)吉野は遠き故に從《ヨリ》と云り又上の三山には木《コ》茂きよしを云(ヒ)爰に云ぬも然《サ》る意なり心を着へし○雲居爾曾遠久有家留 雲居は字の如く遠方《ヲチカタ》には雲の立躁かす同處に止居《トヽマリヰル》を云り○高知也天之御蔭天知也日御影乃 古の文辭《アヤコトハ》なり高と云(ヒ)天と云は一なるよし上【四の四十八葉】に云り影は蔭なり【同字は書替たる例なり】祝詞(101)に皇御孫命乃瑞能御舍乎仕奉※[氏/一]天御蔭日御蔭登隱座※[氏/一]とありて御舍《ミヤ》なり高知天知は天皇の御舍を知ますにて其《ソ》を高天原しろしめす日に係たる此歌の趣向なり○水許曾波 許曾おもし○常爾有米御井之清水 通えたり○一首の意は我|天皇《オホキミ》藤井か原に朝廷を創たまひて埴安堤に幸《イテマシ》の時々《ヲリ/\》に見たまへは香山は東御門に畝火山は南御門に耳爲山は北御門に各《オノ/\》茂り立榮たり吉野山は南御門より遠く雲居にあり然《サ》れは神とます殊なる山々の固《カタメ》に據れる此大宮の御井は茂り榮ゆる青山の中にて此水こそは盡ること無らめとなり此歌解得たる注無し
 
短歌
 
こは後人の補《クハヘ》たると見ゆそは左歌の端詞は別《コト》に有しかはやく脱たるを察《サト》らて此歌を反歌と思ひてなるへし左歌は反歌に非ること著し又右歌の脱たるにもあらし然《サ》れは左歌よめる所由《ヨシ》なと知られす一首の意も定ならすなむ
 
53 藤原之大宮都加倍安禮衝哉處女之友者之吉召賀聞《フチハラノオホミヤツカヘアレツカムヲトメノトモハトモシキロカモ》
 
安禮衝哉 玉勝間【さねかつらの卷】に哉は武の誤とあり安禮は令《シメ》v在《アラ》の約なり在は在《アリ》わたる在經《アリフル》なとの在にて存在《ナカラフ》るを云此言上【十六葉】に出考合へし令在《アレ》は他《ヒト》を令《シムル》v在《アラ》を云て自を云言には非す然れとも此言はいとはやくより一(ツ)の言に成て阿禮としいへは他《ヒト》より令v在らるゝことにてありしなり六に八千年爾安禮衝之乍天下所知食跡類聚國史に天長八年十二月替2賀茂齋内親王1其辭曰云々皇大神乃阿禮乎止賣爾内親王|齡《ヨハヒ》毛云々|代爾時子《カハリニトキコノ》女王乎|卜食定《ウラヘサタメ》弖|進状《タテマツルサマ》乎云々三代實録に貞觀十九年二月廿四日賀茂神社齋内親王を定めらるゝ告文に敦子《アツキコノ》内親王乎|卜定《ウラヘサタメ》弖阿禮乎度女爾|進状《タテマツルサマ》乎云々これらも同し衝《ツク》は附《ツク》にて離れす在を云|事《ツカフ》と云言も此附より出て主《キミ》の邊《ヘ》去らぬを云か本なり【俗《ヨ》に附人《ツキヒト》など云り】然れは阿禮都久とは其許を常に不離《ハナレヌ》を云り【玉勝間の説は未し】○處女之友者 處女は上【二の四十五葉】に云る如く女の若をいへは處女の字を思ふへからす友は部《トモ》なり○之吉召賀聞は田中道麻呂説に乏吉呂賀聞の誤とある宜し乏《トモシ》は足欲《タリホシ》の約にて心に欲する事の不足《アカヌ》を云(ヒ)轉りては乏少《スケナ》きこと珍らかなる事羨しきこと戀慕《コヒシヌ》ふことにも云り【古事記傳廿一の十一葉には本末を差《アヤマ》られたり】爰のは賞る意なり【玉勝間誤れり】呂は等《ラ》と一(ツ)言(102)にて物をさしつめす緩やかに云ときにおく言なり○一首の意|大概《オホムネ》は通ゆ
 
右歌作者未詳
 
後人の注なり
 
大寶元年辛丑秋九月太上天皇幸于紀伊國時歌
 
太上天皇は持統天皇なり然れは此より次々は文武天皇の御代なれは例に依るに後藤原宮御宇天皇代と標《シル》すへきを【上に齊明天皇を後崗本宮とあり】如此るは上【一の二十二葉】に論《イヘ》る如く精撰に非れはなりさて此幸の事續紀には九月丁亥天皇幸紀伊國冬十月丁未車駕至武漏温泉戊午車駕自紀伊至とありて太上天皇の御事は見えす又|此《コヽ》には當代天皇を載せさる互《トモ》に漏《オト》せるものかさて九卷には大寶元年辛丑冬十月太上天皇大行天皇幸紀伊國時歌とあり【大行とは文武天皇|崩御《カムサリ》の項に書せるなり】參へ考て御二所なることを知へし
 
54 巨勢山乃列列椿都良都良爾見乍思奈許湍乃春野乎《コセヤマノツラ/\ツハキツラツラニミツヽオモフナコセノハルヌヲ》
 
巨勢山乃 和名抄に大和國高市郡巨勢郷神名帳に同郡巨勢山(ニ)座|石椋孫《イハクラヒコノ》神社又建内宿禰子許勢(ノ)小柄《ヲカラノ》宿禰も此地《コヽ》に居住《スマ》れし故の名なりさて集中に此地をよめる歌多きは大和より紀伊へ往還《ユキカ》ふ大道《オホチ》にて古は得去ぬ地なる故なり○列列椿 椿は名義|積葉木《ツハキ》にて是か葉の彌重《ヤヘ》列れるよしなり彼|積葉《ツハ》八重事代主神の御名思合へし列々も同し【古事記傳卅六の十八葉の説は當らず】○都良都艮爾は熟々爾なりさて此三句へわたりは何|氣《ケ》なきをよく見れは椿の山も迫に列り茂れるさまを見せたり此時九十月なれは葉のかきりそ有けむ○見乍思奈 奈は歎辭にて俗言のナアなり○許湍乃春野乎 野とは木草の隱《コモ》れる處を云よし上【三の五十八葉】に云り春野乎とは此時九十月なれは許多《ソコラ》の木|等《トモ》葉のみ茂れるを見てこれ皆花に咲滿む春を思ふにて野は即巨勢山の椿の茂れる處なり○一首の意は巨勢山を越《コユ》とて其處《ソコ》なる椿の此頃花もなくて葉のみ所迫く列り茂れるを見れは春に成てこれみな花に咲滿む時いかはかりそと熟々思はるゝ哉なり諸注は更に解得す
 
右一首坂門人足
 
此人は考へき物なし
 
55 朝毛吉木人乏母亦打山行來跡見良武樹人友師母《アサモヨシキヒトトモシモマツチヤマユキクトミラムキヒトトモシモ》
 
朝毛吉は伎《キ》の枕詞なり二に朝毛吉木上宮乎四に麻裳吉(103)木道爾入立眞土山七に麻毛吉木川邊之妹與背之山九に朝裳吉木方往君我なとありこは淺藻余斯にて余斯は青丹余斯八百丹余斯大魚余斯眞菅余斯玉藻余斯なとに同く余は其物を呼出る辭斯は助辭なりさて淺藻とは川藻の淺らかなるを云淺|篠《シヌ》原淺茅なとの淺なり又深海松なともいへは淺藻とも云へきなりかくて伎につゝくるは生《キ》なり生《キ》とは活々《イキ/\》しく清く涼しけなることゝ聞ゆそは清《キヨシ》も活吉《キヨシ》なるへく【本居翁答問録に明吉《アキヨシ》ぞとあるはいかゞ】布の佳《ヨキ》を絹《キヌ》と云も生布《キヌノ》の約にそあらむ今世にも佳品《ヨキモノ》を生何《キナニ》と云類多し生酒生紙生絹生蝋なとの如し然《サ》れは神代の生刀生弓矢なとも同し美稱《タヽヘナ》と聞ゆ又今の東語に魚なとの新鮮《アサラケキ》をイキノヨイと云も息にはあらて活なるへし江戸語に人|樣《サマ》のこちたからす目安きなとをイキジヤと云も此《コレ》なるへし又|生《スヽシノ》絹|生《スヽシノ》絲なと生をスヽシに用ふるをも思へこれらみな生《イキ》を淨《キヨシ》とするは死《シニ》を穢《キタナシ》とする反《ウラ》なり通《カヨハ》して知へしさて集中に川藻の歌多きは古人の是を見愛たるにて崇神紀に出雲振根云々欺(キテ)v弟(ヲ)曰(ヒケラク)頃者《コノコロ》於《ニ》2止屋《ヤムヤノ》淵(ニ)1多《サハニ》モノイカテモロトモニユキテムミ
生(ヒタルヲ)v※[草冠/妾]《モノ》願共行《イカテモロトモニユキテ》將《ム》v見《ミ》なとわさとも往て見たりしよしなり四に河上乃伊都藻之花乃崇神紀神託辭に玉※[草冠/妾]鎭石出雲人祭《タマモシツシイツモヒトマツレ》これらも嚴藻にて淨らかなるを云り如此《カヽ》れは淺藻余斯伎とつゝくるも淺らかなる藻の生《キ》よきよしなるを知へし【冠辭考は未《イマタ》し】○木人乏母 木人は紀伊人なり乏は羨しなり【此事上廿二葉にいへり】母は例の歎辭なり○亦打山 眞土山なり【麻多宇知は麻都知と約まる】此山は今も眞土|峠《タウケ》と云て大和國字智郡より紀伊國伊都郡へ越る大道にて古は此《コノ》往還《ユキカヒ》しけかりける故に此處《コヽ》の歌多し○行來跡見良武 行來跡《ユククト》は行跡來跡《ユクトクト》を約めたり行《ユク》とては見《ミ》來《ク》とては見るらむなり見良武は五に伊毛良遠美良牟なとあり古言なり○樹人友師母 二度いふは情《コヽロ》を深むるなり○一首の意は眞土山を始めて來て見たるにおもしろくあかぬ所のさまなるを此國人はゆくさかへるさに常に見るらむ羨しとなり
 
右一首調首淡海
 
此人は天武紀に見えて壬申年の亂《ミタレ》に功《イサヲ》ありし臣《ヒト》なり續紀に和銅二年正月丙寅正六位上調連淡海授從五位下【連にはいつなられけむ】六年四月乙卯從五位上養老七年正月丙子(104)正五位上【超叙】また神龜四年十一月の下《トコロ》にも此人の事見えたり
 
或本歌
 
56 河上乃列列椿都良都良爾雖見安可受巨勢能春野者
 
是は春歌にて此時のには非す
 
右一首春日|藏首《クラヒト》老
 
此人の事は下卅六葉に云り
 
二年壬寅太上天皇幸于參河國時歌
 
文武紀に冬十月乙未朔丁酉鎭祭諸神爲將幸參河國也甲辰太上天皇幸參河國行所經過尾張美濃伊勢伊賀等國郡司及百姓叙位腸禄各有差戊子車駕至自參河と見ゆ然るに此歌の引馬野は遠江國にて此國にも幸《イテマ》せること見えねと上の幸讃岐國安益郡之時のを紀には幸伊與温湯宮とある如く指《サシ》て奉《イテマ》せる地《トコロ》の余《ホカ》に因《チナミ》に立寄らせ給ふ地まては紀に載らるへきに非す此《コノ》例《タクヒ》なほ餘《ホカ》にもあれは異しむには足らすなむ
 
57 引馬路爾仁保布榛原入亂衣爾保波勢多鼻能知師爾《ヒクマヌニニホフハリハライリミタリコロモニホハセタヒノシルシニ》
 
引馬路は萬葉考云遠江國敷智郡濱松驛を古は引馬の宿《スク》と云(ヒ)【阿佛尼の記に見ゆ】此城を近世まて引馬城と云(ヒ)坂を引馬坂と云(ヒ)野を古は引馬野と云きと地《トコロ》に云傳たり今は三方か原と云り○榛原は萩原なり此事上【三の三十四葉】に委く云り今も萩多しとそ但し此時十月なれとも後れて艶ふ年もあるへし【十三に九月之四具禮之秋者大殿之砌志美彌爾露負而靡芽子乎】○入亂《イリミタリ》は入令《シ》v亂《ミタラ》にて入立て萩原を令v亂なり○衣爾保波勢は令《シメ》v艶《ニホハ》よなり三に佐保過而寧樂乃手祭爾置幣者妹乎目不離相見染跡衣五に布施於吉弖吾波許比能武阿射無加受多太爾率去弖阿麻治思良之米七に垣越犬召越鳥獵爲公青山葉茂山邊馬安君十に吾屋戸之麻花押靡置露爾手觸吾妹兒落卷毛將見十七に波奈乃佐可里爾阿比見之米等曾十八に大伴能等保追可牟於夜能於久都奇波之流久之米多底比等能之流倍久これらにて心得へしさて衣を令《ス》v艶《ニホハ》とは萩花に觸てうつるを云こと上【三の三十七葉】に云り又こは人に衣令v艶よと云て即我も燃せむと誘《サソ》ひ起す詞なり○多鼻能知師爾 下に草枕客去君跡知麻勢婆岸之埴生爾仁寶播散麻思乎ともありて古は旅ゆく人道すからの名所《ナトコロ》にては何物《ナニ》にまれ其處の名産《ヨキモノ》もて衣を摺る事《ワサ》にてありしなりさるは其《ソノ》(105)時《ヲリ》の風流《ミヤヒ》のみならす歸りても人に視《シメ》して往見ぬ情《コヽロ》をやらする事《ワサ》なり○一首の意は名にし負ふ引馬野の萩原に入交りて人も我もいさや衣をにほはしてむさるはこゝに來つる驗《シルシ》に服て歸り人にも視《シメ》すへくとなり
 
右一首長忌寸奧麻呂
 
此人も知られす
 
58 何所爾可船泊爲良武安禮乃埼榜多味行之棚無小舟《イツクニカフナハテスラムアレノサキコキタミユキシタナナシヲフネ》
 
船泊は上【二の五十八葉】に云りさて此詞に夕なること知らる意を着へし○安禮乃崎 詳《サタカ》ならす○榜多味行之 多味は正しからす横折るゝを云り【撓《タワミ》とは異なり】集中|回《タミ》轉《タミ》運《タミ》なとあり【周廻《メグ》る事には非ず】拾遺集【物名したゝみ】にあつまにてやしなはれたる人の子はしたゝみてこそ物はいひけれとあるも東語の眞正《マホ》ならす横なまれるを云り三に敏馬乃埼乎許藝廻者十六に也良乃埼多未弖榜來跡八に逝回岳之十一に崗前多未足道乎なとあり【六に許伎多武流浦乃盡こはたみしむるにて自他は異なれども一(ツ)なり物を矯《タム》と云も此《コレ》なり】さて此《コ》は直路《タヽチ》を來つる船のふと安禮の崎に横折れ隱れたるさまを行之の之にてきかせたり意を着へし○棚無小舟 和名抄に※[木+世]大船旁板也不奈多那とありて今|歩行《アユミ》と云棚なり小舟には其《ソレ》無《ナキ》よしの稱《ナ》なり○一首の意は安禮の崎を夕くれにふと横をれ隱れたる小舟の今夜いつくに泊むとすらむおほつかなきさまにもある哉となり
 
右一首高市連黒人
 
此人は上【四の十五葉】に出
 
譽謝《ヨサノ》女王作歌
 
續紀に慶雲三年六月癸酉朔丙申從四位下與射女王卒と見ゆ余《ホカ》に考へき物なし
 
59 流經妻吹風之寒夜爾吾勢能君者獨香宿良武《ナカラフルツマフクカセノサムキヨニワカセノキミハヒトリカヌラム》
 
流經は長らはしむるの約なり大中臣本系帳に皇神之御中皇御孫之御中執持伊賀志桙不傾本末中良布留人とあるに同し語格《イヒサマ》なり妻は衣の端《ツマ》にて家にありては夜の衣を長らはして寢る其|端《ツマ》に吹當る風なり之《ノ》もし後世なりせは毛と云へきを之《ノ》と大らかに云るなむ古のめてたさなりける○寒夜爾 爾はなるになり○吾勢能君者 此人は知られす○一首の意は家にありて長らはする衣の端《ツマ》に吹當る風たに獨宿るには寒き夜なるに吾《ワカ》夫君《セノキミ》は供奉《ミトモ》の旅枕にしも獨か寢たまふらむさらはましていかに(106)寒からむかしとなりこは御自ひとり寢の寒くわひしきより旅なる夫君を戀もし隣かりもするにて其意|二《フタ》し重《へ》なり始よりたゝに夫君を憐れむには非す
 
長皇子御歌
 
天武天皇の御子なり
 
60 暮相而朝面無美隱爾加氣長妹之廬利爲里計武《ヨヒニアヒテアシタオモナミナハリニカケナカキイモカイホリセリケム》
 
暮《ヨヒ》は夜《ヨヒ》なり【暮字は朝に對へたるのみそ】凡てよひとはたゝ夜のことなるを集中に初夜《ヨヒ》と書る處もあるはそこの義《コヽロ》を得てなり【後世は誤れり】さて一二句は隱《ナハリ》を云む序なり【隱《ナハリ》はかくるゝを云よし四の四十五葉にいへり】そは新枕せし朝《アシタ》に耻て隱るゝ意のつゝけなり面無美は俗言の面目ナサニなり隱《ナハリ》は伊賀の名張なりさて一二句は序なからも一首の旨に關《アツカ》る詞なり其《ソノ》義《ヨシ》は次に云り○氣長妹之 氣《ケ》は來經《キヘ》の約にて年月日時の來經《キフル》を云り日を數へて幾|日《カ》と云も幾來經にて言通へり爰は來經長き日數の間《ホト》を待戀る妹と云を約めたり妹とは皇子の御思人の供奉《ミトモ》にあるをのたまへり○廬利爲里計武 廬は上【二の五十六葉】に出て旅の假舍《カリヤ》なり○一首の意は朝《アシタ》に思ほしやれるにて我《ワカ》日を重て待戀る妹の昨夜《キノフ》はかりは伊賀の名張に宿りけむかしと行程《ミチノホト》日數なと以思ほしやれるなりさて一二句は名張の序なから含める意は我は來經長く待戀るをもしくは妹か別《コト》人にも逢初たる朝《アシク》なとにはあらしかとさるましき事をも思ほし回らすにて甚甚《イトイト》巧深くめてたくあはれなる御歌なり又八に暮相而朝面羞隱野乃芽子者散去寸黄葉早續也こは同しさまの序なから彼釧著手節崎の例《タクヒ》にて【此事四の四十一葉にいへり】珍らしき地を思はする詞なり
 
舍人娘《トネノヲトメ》從駕作歌
 
此人|詳《サタカ》ならす二に舍人皇子とよみ交し給へる歌あれは縁《ヨシ》あるか
 
61 丈夫之得物失手挿立向射流圓方波見爾清潔之《マスラヲノサツヤタハサミタチムカヒイルマトカタハミルニサヤケシ》
 
丈夫は上【二の四十三葉】に出○得物矢は字の如し此事古事記傳【十七の二葉】に委し披見へしさて射流まては圓方の序なから此《コ》も珍しき地と聞する詞なり圓は的の意につゝけたり伊勢國風土記云的方浦者此浦地形似的因以爲名也【今已跡化成江湖也】天皇【景行天皇也と仙覺いへる】行幸浦邊歌曰麻須良遠能佐都夜多波佐美牟加比多知伊流夜麻度加多波摩乃佐夜氣佐とあるは此《コヽノ》歌を傳へ誤れるなるへし神名帳に多氣郡服部麻刀方神(107)社七に圓方之湊之渚鳥云々〇一首の意は珍しき的方浦を來て見れは甚《イト》も甚《イト》もけしきよき地なりけりとなりさて如此樣《カクサマ》に多く序を置るは珍しき地の状を數へていかさまにも云はまほしかるを然《サ》は云難きに更たるものなりされは見爾清潔之と云捨て此歌宜きを思へし
 
三野連名闕入唐時春日藏首老作歌
 
萬葉考云古本傍注に大寶元年正月遣唐使民部卿粟田眞人朝臣以下六十人乗船五隻小商監從七位下中宮少進美奴連岡麻呂云々とありと云れたり【紀にはなし】春日藏首老は續紀大寶元年三月壬辰令僧辨紀還俗代度一人賜姓春日倉首名老授追大壹とありて遣唐使は五月に發船《フナテ》すと見ゆれは此《コ》は其間《ソノホト》によめる歌なるを爰に十月の次に擧たるは例のしとけなさなり
 
62 在根良對馬乃渡渡中爾幣取向而早還許年《フネハツルツシマノワタリワタナカニヌサトリムケテハヤカヘリコネ》
 
在根良は玉小琴に布根竟の誤とありさてこは津の枕詞なり十五に毛母布禰乃波都流對馬とあるも百船の泊る津とつゝけたり爰も然にて對馬に係れるに非すさて對馬と云名も韓國へ往還《ユキカ》ふ船の津島にて殊なる大津には非ねは百船之また船泊流なと打任せて云へき地《トコロ》のさまには非るをや【古事記傳五の十九葉あやまれり】對馬乃渡とは對馬より唐國への渡なり○海中爾幣取向而は對馬より唐國へ渡る海中の神に幣取向【取向は手向と同じ此事四の二十葉に云り】祈て恙《ツヽミ》無く彼國に渡り着御使の旨を果してといふ多事を而に籠《コメ》たり【然らざれば結句に義《コヽロ》續かず】此而の格上【三の二葉】に云り○一首の意は右に云るか如し
 
山上臣憶良在大唐時憶本郷歌
 
右の度《タヒ》なり紀に無位山於億良爲少録【遣唐使のなり】
 
63 去來子等早日本邊大伴乃御津力濱松待戀奴良武《イサコトモハヤクヤマトヘオホトモノミツノハママツマチコヒヌラム》
 
去來は上【三の二葉】に出て人を誘ひ起す辭なり子等は親み打解たる語にて此《コ》は隨從へる人等《ヒトトモ》を指り○早日本邊 日本は字の如しさて邊の下に出|發《タヽ》むと云詞を省り○大伴乃御津乃濱松待戀奴良武 大伴は大泊なり【備後の鞆もこれか】靈異記【中卷三段】に吉志火麻呂者武藏國多麻郡鴨里人也云々聖武天皇御世火麻呂大伴筑紫(ノ)前守所點《ノサキモリニサヽレ》應經三年これ博多津をも大伴と云るにて相證へし御津は難波津の美稱《タヽヘナ》にて大津と云に同し【此津の精説は本集十九卷に云り】松待云かけたり○一首の意はいさや我徒《ワカトモ》とく船出して歸らむ難波津を出て既く三(108)年にも成にけり然《サ》れは國のいと戀しきに彼方《カナタ》にても待戀ぬらむとなり續紀を考るに大寶元年五月に船出して慶雲元年七月に歸着しかは唐國を出發ころは三年許なるへし
 
慶雲三年丙午幸于難波宮時
 
文武紀に慶雲三年九月丙寅行幸難波十月壬午遷宮
 
志貴皇子御作歌
 
此皇子は上【十二葉】に出
 
64 葦邊行鴨之羽我比爾霜零而寒暮夕和之所念《アシヘユクカモノハカヒニシモフリテサムキユフヘハヤマトシオモホユ》
 
羽我比は羽交なり霜零而は羽交に零渟れるなり四五句夕和二字は者倭の誤か倭を和に改られたるは天平勝寶の頃なるを【國號考に見ゆ】さる意もせて後に書替たるへし七に若浦爾白浪立而奧風寒暮者山跡之所念ともあり一首の意は難波江の葦邊ゆきかふ鴨の羽《ハネ》白く霜のふれる夕は旅宿《タヒネ》の寒さにわひて倭の戀らるゝとなりさて葦邊行を暮に係て見へし十五に由布佐禮婆安之敝爾佐和伎安氣久禮婆於伎爾奈都佐布可母須良母なとありて鴨は夕に葦邊に集《ヰ》るものなり皇子の御歌はいつも宜きか中に此《コ》は殊にめてたし十四に【防人作歌】安之能葉爾由布宜利多知※[氏/一]可母我鳴乃左牟伎由布敝思奈乎波思奴波牟これも似たり
 
長皇子御歌
 
此皇子も上【三十三葉】に出
 
65 霰打安良禮松原住吉之弟日娘與見禮常不飽香聞《アラレウツアラレマツハラスミノエノオトヒヲトメトミレトアカヌカモ》
 
霰打は安良禮を云む序なから此處《コヽ》を賞《メテ》たる詞なり【此格上に往々《トコロ/\》云り】○安良禮松原 安良禮は疎々《アラアラ》にて稠密《シケ》からさるを云り○住吉之弟日娘與 遊女なり弟日とは其《ソ》を美《ヒメ》たる言にて弟は季子《スヱノコ》を於登子と云|其《ソノ》於登なり【己が陸奧なとにては今もツネニ云言なり】神武紀に小女《オトムスメ》【猶|餘《ホカ》にもあり】靈異記【中卷三段】に時(ニ)母云々遺言而言爲(メニ)v我(カ)詠※[果/衣のなべぶたなし](ヲ)以2一衣1着《ハ》我(カ)兄(ノ)男汝得(ヨ)v之(ヲ)也一衣者贈2我(カ)中(ノ)男(ニ)1※[貝+兄]《タマヘ》也一衣者贈2我(カ)弟(ノ)男(ニ)1※[貝+兄]《タマヘ》也催馬樂|我家《ワイヘン》におとむすめ今昔物語【十六の十五段】に子|數《アマタ》アル中ニ弟子《オトコ》ナル女童《メノワラハ》ノなとありさてその弟子《オトコ》は別《ワキ》て親の愛《ウツク》しむより轉りて必しも弟子ならぬをも若く愛たきを云り古事記【上卷】歌に阿米那流夜淤登多那婆多催馬樂葦垣におとよめなとあり日は日子日女なとゝ同し美稱《タヽヘナ》なり【此事四の五葉にいへり】顯宗紀の御誥《ミコトアケ》(109)に弟日僕《オトヒヤツコ》肥前國風土記【松浦郡鏡渡】に娉《ツマトヒテ》2篠《シヌ》原村(ノ)弟《オト》日|姫子《ヒメノコヲ》1v婚《マクハヒヲ》【持統八年紀に弟國部弟日と云人名もあり】これらの弟日も此《コヽ》のと同し美稱《タヽヘナ》なりかくて集中遊女の見えたること多し殊に住吉あたりは名高き津にしあれは古より此者ありけむこと著くかしこき御前にも相馴まつるものなれはめされし時の御歌なるへし與《卜》は松原と娘となり○一首の意は名高き【霰打と置る枕詞にあたれり】松原のけしきと若く愛たき遊女の状《サマ》とは差等《ケチメ》なく二(ツ)なから雖見《ミレト》あかぬ哉なり【七に佐保河之清河原爾鳴知鳥河津跡二忘金都毛】さるは凡人《タヽヒト》とはこよなく粧ひ花やくものなれは愛《メツ》らしみ給つるにて永久百首に繪にかくと筆も及はしをとめ子か花の姿を誰に見せまし 明ほのにかすみこめたる花よりもあかぬは妹かにほひなりけりなとよめるをも思へしさて此下に清江娘子進長皇子歌あり猶《ナホ》彼處《ソコ》に云へし
 
太上天皇幸于難波宮時歌
 
此幸の事紀には漏《オチ》たりさて太上天皇は大寶二年に崩坐しかは其前の事なるを爰に慶雲二年の次に載たるは例のわろし
 
66 大伴乃高師能濱乃松之根乎枕宿杼家之所偲由《オホトモノタカシノハマノマツカネヲマクラニヌレトイヘシシヌハユ》
 
大伴は 上【三十七葉】に出て大泊なり高師は和泉國大鳥郡にありさて古は此あたり惣て難波津に屬《ツキ》てことなる大泊なりしかはつゝけたり【本集十九卷に委く云り】○枕宿杼は爲《ニ》v枕雖v宿なり十に梅花四垂柳爾折雜花爾供養者【爲《ニ》v花なり】十三に※[さんずい+内]潭矣枕丹卷而【爲《ニ》v枕】十六に狛紐丹縫著【爲《ニ》v紐】これらに同し【諸注の訓誤れり】○家之所偲由 しぬはるなり○一首の意は名にし負ふ高師の濱に來て情《コヽロ》をやり松(カ)根枕たひねをさへしたれは又思ふことあるましきわさなるをさても猶家こそ偲はるれとなり
 
右一首|置始東人《オキソメノアヅマト》
 
此人の傳《コト》しられす
 
67 旅爾之而物戀之伎乃鳴事毛不所聞有世者孤悲而死萬思《タヒニシテモノコホシキノナクコトモキコエサリセハコヒテシナマシ》
 
物戀之伎乃 物は廣く云言なり物思物悲物へ往物すなとの如しさてこは戀之伎を※[(今/酉)+隹]《シキ》に兼《カケ》たり如此樣《カクサマ》の例《タクヒ》下に吾妹子乎早見濱風倭有吾松椿二に毛許呂裳遠於春冬片設而幸之 丹生乃河瀬者不渡而由久遊久登四に君家爾吾住坂乃六に君松樹爾九に嬬待木者十に吾《ワカ》松乃木曾十二に妹目乎見卷欲江之なとあり○鳴事毛不所聞有世者(110)此歌は京より旅へよみて贈れる答なるへし京の歌に※[(今/酉)+隹]と云ことの有けるに對《コタ》へて物戀之伎乃鳴事毛とは云るにて不所聞有世者とは然云おこせ給ふことも無りせはと云意を※[(今/酉)+隹]の鳴聲も聞えさりせはと云ことに兼《カケ》たりそは鳴事毛の事にて知らる若《モシ》徒《タヽ》に※[(今/酉)+隹]の鳴を聞のみならは必鳴聲毛と云へきを事と云るは彼方《カナタ》より※[(今/酉)+隹]の事を云おこせたるを承たるなり孤悲而死萬思は云々云おこせ給ふ事も無りせは戀て死ましなり然るを端詞に其由見えさるから舊來《ムカシヨリ》さる事とも知らて過ぬるはいとも疎なりけり凡て此集の端詞は意して物せねはよく情實《コトノコヽロ》を探《タツネ》て知へく大外《オホヨソ》の表方《ウハヘ》を頼ては解得し〇一首の意は旅にして其方《ソナタ》の戀しきに其方よりも戀しと云おこせ給ふ事たに無りせは戀て死ましを同意に云おこせ給ふにかゝりてこそ生ては在なれとなり故《カレ》※[(今/酉)+隹]は詞の寄《ヨセ》のみにて歌意には關らさるなり
 
右一首高安大島
 
此人も知られす
 
68 大伴乃美津能濱爾有忘貝家爾有妹乎忘而念哉《オホトモノミツノハマナルワスレカヒイヘナルイモヲワスレテオモヘヤ》
 
忘而念哉は忘れむやはにて念は輕し例多し此歌は此處《コヽ》の忘貝を家苞に拾ひてよめるにて一首の意は此を忘貝とはいへとも妹を忘れむや此を拾ふも妹かためにこそとなり
 
右一首身入部《ムトヘノ》王
 
續紀に和銅三年正月王子朔甲子無位六人部王授從四位下養老五年正月壬子從四位上七年正月丙子正四位下神龜元年二月壬子正四位上天平元年正月壬辰朔壬寅卒と見ゆ其《ソノ》流《スチ》は知られす
 
69 草枕客去君跡知麻世婆岸之埴布爾仁寶播散麻思乎《クサマクラタヒユクキミトシラマセハキシノハニフニニホハサマシヲ》
 
客去君跡 君とは長皇子をさし奉《マツ》れりさて此時は旅に坐すを又客去《タヒユク》としも云る意は作者の娘子《ヲトメ》の情《コヽロ》に我方さまを主《ムネ》として京に歸ります方を却て客《タヒ》にしたるなり○知麻世婆は知らましせはの約なり○岸之埴布に 住吉の岸なり和名抄に涯※[こざと+肖]《ミキハケハシク》而高(キヲ)曰v岸(ト)とあり此岸は名高き地なり埴は同書に釋名云土黄而細密曰埴和名波爾また字鏡に埴黏土也波爾集中に赤土《ハニ》黄土《ハニ》神代紀に赭《ソホニ》ともあり名義《ナノコヽロ》は古事記傳【四十一の三十六葉】に光映土《ハエニ》かとあり古は此《コレ》も(111)て衣を摺れるなり布《フ》は生《フ》にて産出《ナリイツ》る地なり神代紀に粟田《アハフ》豆田《マメフ》安閑紀に竹村《タカフ》また茅生蓬生《麻生薄生》なとの如し○仁寶播散麻思乎 艶はすとはうつらしむるなり乎はものをなり○一首の意は旅立ます君と豫て知たらは住吉の岸の埴生に令艶てやらむものをいつもかくて坐とのみ思ひてさる事もせて立せやる悔しきとなり旅にては名所《ナトコロ》の物もて衣を摺る事上【卅葉】に云りかくて裏《シタ》には自の別を惜めるにて今かく別れ奉《マツ》ると豫て知たらはよくむつひおきまつるへかりしをいつもかくてますのみ思ひて等閑なりしかくやしきとなり然《サ》るは此娘子は遊女にて【集中遊女を對馬娘子蒲生娘子などあり】此時しまらく相馴まつわりけむ然《サ》れは上【卅八葉】に此皇子の弟日娘とよみませるも同人かはた彼は慶雲三年なれは非ぬか
 
右一首清江娘子進長皇子 姓氏未詳 後人のしわさなるへし
 
太上天皇幸于吉野宮時高市連黒人作歌
 
續紀に大寶元年六月壬寅朔庚午太上天皇幸吉野離宮七月辛巳車駕至自吉野離宮こも爰に載たるは次第《ツイテ》たかへり
 
70 倭爾者鳴而歟來良武呼兒鳥象乃中山呼曾越奈流《ヤマトニハナキテカクラムヨフコトリキサノナカヤマヨヒソコユナル》
 
倭とは都のあたりを云り【此事十七葉に云り】○鳴而歟來良武 來良武は往らむなり十に山跡庭啼而香將來霍公鳥これも同し古言なり○呼兒鳥は呼聲鳥なるへし【奴兄子鳥もぬえ聲鳥また俗に呼子笛と云物も呼聲なるべきよし二の四十一葉にいへり考合へし】萬葉考【別記】云此鳥は春夏を主《ムネ》とよめり八に尋常聞者苦寸喚子鳥音奈都炊時庭成奴右一首三月一日佐保宅作となり鳴聲は物を呼に似てカホウ/\とも聞ゆる故に容《カホ》鳥とも云り今世祖舎人はカツホウ鳥又カンコ鳥とも云り【野雁云カンコはカホコヱか】すべては鳩に似て頭より尾へかけて薄黒し腹は白きに少し赤みてすゝみ鷹の腹の如き文《カタ》あり觜は鳩の如く少し長く薄黒し足は薄赤みて鳩よりは高し○象乃中山は大和志に喜佐谷《キサタニ》村上方と云り○呼曾越奈流 奈流は察《オシハカ》る辭にて俗言のサウナなり爰は越るサウナと暗《ソラ》に察るなり○一首の意は呼兒鳥の嶋つゝ象中山を越なるは倭にか往らむ羨しとなり
 
大行天皇幸于難波宮時歌
 
大行天皇は【崩《カムサリ》まして未御謚奉《イマタノチノミナタテマツ》らぬ間《ホト》を申す御稱《ミナ》なり】文武天皇なり此天皇
 
(112)難波の幸は即位三年と慶雲三年と兩度《フタタヒ》の中《ウチ》此《コ》は何れの度《タヒ》なりけむ大行天皇とは崩《カムサリ》の時に書せりけむ
 
71 倭戀寐之不所宿爾情無此渚崎爾多津鳴倍思哉《ヤマトコヒイノネラエヌニコヽロナクコノスノサキニタツナクヘシヤ》
 
寐之不所宿爾は睡《イ》の寢《ネ》られぬにて睡《ネフリ》を得せぬなり【此事四の五十四葉にいへり】○此渚崎爾 此《コノ》とは作者の舍れる所なり渚は和名抄に爾雅云水中可居者曰洲李巡曰四方皆有水也音洲和名須とあるは當らす須は沙《ス》にて水に分れたる土なれは【※[泥/土]土煮《ウヒチニノ》神|沙土煮《スヒチニノ》神の御名思合べし】水中なるをも岸邊なるをも云り洲は志麻なり須に非す崎は何處にも物の鉾《サキ》の如く突出たる處なり○多津鳴倍思哉 鶴《タツ》は主《ムネ》と曉に鳴よしをよめり六に兒等之有者二人將聞乎奧渚爾鳴成鶴乃曉之聲七に求長爲跡磯二住鶴曉去者濱風寒彌自妻喚毛八に織女之袖續三更之五更者河瀬之鶴者不鳴友吉十に今夜乃曉降鳴鶴之念不過戀許増益也十五に奴波多麻能欲波安氣奴良之多麻能宇良爾安佐里須流多豆奈伎和多流奈里 安香等吉能之保美知久禮婆安之弁爾波多豆奈伎和多流なとあり然《サ》れは爰のも睡寢《イネ》かての曉なるへし○一首の意は通えたり
 
右一首忍坂部乙麻呂
 
此人考へき物なし
 
72 玉藻苅奧敝波不榜敷妙之枕之邊忘可禰津藻《タマモカルオキヘハコカシシキタヘノマクラノアタリワスレカネツモ》
 
玉藻は上【三の五十二葉】に出○奧敝は沖|方《ヘ》なり○敷妙之 冠辭考云|繁服《シキタヘ》にて夜具《ヨルノモノ》は和《ナコ》やかなるを用るなり○此歌は船より沖に出たる時藻を苅てよめるに一首の意は藻の靡けるを見れば妹か枕邊の黒髪おもひ出られて珍しき海邊のけしきにしまし忘れし戀の復止かたくおほゆれは玉藻かる沖方はこかしとなり然るを舊來《ムカシヨリ》枕之邊と云ことを解得さりき
 
右一首式部卿藤原(ノ)宇合《ウマカヒ》
 
長皇子御歌
 
73 吾妹子乎早見濱風倭有吾松椿不吹有勿勤《ワキモコヲハヤミハマカセヤマトナルワレマツツハキフカサルナユメ》
 
早見濱風 玉小琴云見濱は御濱にてたゝ濱のことなるへし御津御浦なといへは卸濱とも云へきなり夫《ソレ》を妹を早見《ハヤミ》むと云かけたり○倭有吾松椿 吾を待に兼《カケ》たり松椿は倭なる皇子宮なるを宣へり○不吹者勿勤は必吹へしと風に命《オホ》するなり由米は言の本令《メ》v齋《イ》にて嚴《オコソカ》に齋淨(113)まはらしむるより轉りては勤《ツト》めて物するに云り【集中|齋《ユメ》謹《ユメ》努力《ユメ》などあり】爰も勤めて吹へしの意なり○一首の意は吾妹子をはやみ濱風よ倭の家なる吾をまつつはきに必吹通へとなりさるは此方《コナタ》にて妹を戀る情《コヽロ》を彼方《カナタ》にも我を待らむに通はせと風に誂《アト》らへ給へるにてはかなたちたるこそあはれにめてたくはありけれ
 
大行天皇幸于吉野宮時歌
 
此天皇吉野の幸は大寶元年二月と同二年七月と兩度の中《ウチ》に此《コ》は元年二月のなるへし歌に風寒きよし見えたりこも爰に載たるは次第たかへり
 
74 見吉野乃山下風之寒久爾爲當也今夜毛我獨宿牟《ミヨシヌノヤマノアラシノサムケクニハタヤコヨヒモワカヒトリネム》
 
下風は和名抄に嵐孫※[立心偏+面]云山下(ヨリ)出(ル)風也和名阿艮之とあり集中山下山阿下風阿下冬風なとは略ける書さまなり然れとも此字|等《トモ》は阿良之に叶はす十三に荒風《アラシ》とあるそ的當《アタ》れる【風《シ》は風神志那都比古の志なり】○寒久爾は寒けくあるにの省《ハフキ》なり【けくは其形状をいふ辭なり】古事記白檮原宮段大御歌に多知曾婆能微能那祁久袁【長《ナ》けくあるをなり】伊知佐加紀微能意富祁久袁【大《オホ》けくあるをなり】古今集に世中のうけくにあきぬこれもうけくあるになり○爲當也今夜毛 波多は若《モシ》又《マタ》の輕きと意得へし神代紀に天鈿女復問曰|汝《イマシ》將先(タチテ)v我(ニ)行(ムヤ)乎|將《ハタ》抑我先v汝行乎皇孫曰雖2復天神之子1如何一夜使人娘乎|抑《ハタ》非吾之兒歟欽明紀に【十六年】許勢臣問王子惠曰|爲當《モシ》欲《トヤオモフ》v留《トヽマラム》2此間《コヽニ》1爲當《ハタ》欲《ムトヤ》v向《イナ》2本郷《クニヽ》1四に神左夫跡不欲者不有八多也八多如是爲而後二佐夫之家牟可聞六に竿牡鹿之鳴奈流山乎越將去日谷八君當不相將有十五に伊能知安良婆安布許登母安良牟和我由惠爾波太奈於毛比曾伊能知多爾敝波十六に痩々母生有者將在乎波多也波多武奈伎乎漁取跡河爾流勿十八に多胡乃佐伎許能久禮之氣爾保登等藝須伎奈伎等余米婆波太古非米夜母これらに意得へし爲當と書は漢文にマサニ云々セムトスの意を以大よそに當たるなり○一首の意は右に云るか如し
 
右一首或云天皇御製歌
 
此説非る人しさるは此幸は御心やりの爲なるに如此《カク》わひたる御歌あるましければなり
 
75 宇治間山朝風寒之旅爾師手衣應借妹毛有勿久爾《ウチマヤマアサカセサムシタヒニシテコロモカスヘキイモヽアラナクニ》
 
(114)宇治間山は詳《サタカ》ならす又|他《ホカ》にも見えす【大和志に在池田莊|千俣《チマタ》村と云るはおほつかなし凡て此類いさゝかも名の似よれるをは猥に牽付《ヒキツケ》て其處《ソコ》と定むること多かれは慥に證據《ヨシ》あるか古き語傳も無くて容易くは信《ウク》まじきわさなり】○衣應倍 古は男女|互《カタミ》に痛はし服たりしかは借《カス》ことも常なり○妹毛有勿久爾は妹も不在《アラヌ》になり○一首の意は宇治間山より下《オロ》す朝風の寒きかな京にて妹許《イモカリ》ゆきて宿《ネ》たりし朝《アシタ》に風のさむかりしには衣を借《カシ》て服せたりしを旅にては爲む方なきにとなり
 
右一首長屋王
 
高市皇子尊の御子にて左大臣に任《ナ》られししを天平元年二月に所由《ユヱ》ありて自《ミツカラ》盡《ウセ》られき猶三卷考に云へし
 
和銅元年戊申天皇御製歌
 
此よりは元明天皇の御代なれば例に依に寧樂宮御宇天皇代と標《シル》すへきをこはいまた藤原に御座《イマ》せる時なる故に【寧樂に遷ませるは和銅三年なり】持統文武と一(ツ)藤原に籠《コメ》たるかさて此大御歌は續紀に和銅二年三月壬戌陸奧越後二國蝦夷野心難馴屡害良民於是遣使|徴發《メシオコシ》遠江駿河甲斐信濃上野越前越中等國以左大辨正四位下巨勢朝臣麻呂爲陸奧鎭東將軍民部大輔正五位下佐伯宿禰石湯爲征越後蝦夷將軍内藏頭從五位下紀朝臣諸人爲副將軍出自兩道征伐因授節刀并軍令と見ゆれは其前年に軍事の調練ありし時の御製なるべし二年三月に師《イクサ》を發《タヽ》せられしは陸奧越後雪の消るを待てか
 
76 丈夫之鞆乃音爲奈利物部乃大臣楯立良思母《マスラヲノトモノトスナリモノヽフノオホマヘツキミタテタツラシモ》
 
鞆は射《ユミイ》るに左臂に著る物なり名義《ナノコヽロ》古事記傳【七の三十九葉】に音物《オトモノ》の約にて此を著るは弓絃の觸て音を高からしめむ料《タメ》なり音を以威すこと鳴鏑も同し【絃を除《サク》る器《モノ》にはあらす】とあり神代紀に稜威之高鞆見ゆ音爲奈利は上【二の三十三葉】に云る如く音もて推量《オシハカリ》たまふなり奈利を味はふへし○物部乃大臣 物部は上【五葉】に出大臣は大前つ君にて御前に祇候《サモラ》ふ由の稱《ナ》なりさてこは將軍等《イクサノキミタチ》を詔へり【上に引たる紀文に二年三月爲將軍云々因授節刀并軍令とあるは發向《タチムカ》ふ時に節刀軍令を給へる事にて將軍に任《ナサ》れしは前年の事なりあしく見は此歌を疑ふへし】○楯立良思母 良思は祭《オシハカ》る辭母は歎辭なり○一首の意は丈夫の鞆音と聞ゆるは今度《コノタヒ》の討手《ウテ》の將軍等《イクサノキミタチ》軍事の調練《コヽロミ》にこそとなりさるは女帝に御座《マシマ》せは殊に大御心くるしく思ほしけむ次歌に其よしは見えたり
 
(115)御名部皇女奉和御歌
 
天皇の姉命に坐り
 
77 吾大王物勿御念須賣神乃嗣而賜流吾莫勿久爾《ワカオホキミモノナオモホシスメカミノツキテタマヘルワレナケナクニ》
 
四句にて切へし皇祖神《スメカミ》の御心もて吾《ワカ》天皇《オホキミ》に嗣しめて賜へる御位そとなり○吾莫勿久爾は吾なからなくににて我しあれは御心安かれなり四に吾背子波物莫念事之有者火爾毛水爾毛吾莫七國十五に須敝奈氣奈久爾○一首の意は吾天皇今度の軍事ありとも然《サ》な物を念ほしそ皇祖《スメ》神の嗣しめて賜へる御位なり又吾もかくて在なれは御心易かれとなり
 
和銅三年庚戌春二月從藤原宮遷于寧樂宮時御輿停長屋原※[しんにょう+向]2望古郷1御作歌
  一書云太上天皇御製
 
二月は紀に依に三月の誤なるへし長屋原は和名抄に山邊郡長屋郷ありさて御作歌とは集中皇后皇太子皇子の例なるに此《コ》は天皇のよしなるへし然れとも此御歌|正《マサ》しく飛鳥より藤原へ遷らす時のなれは一書を用へき事|論《ウツ》なし
 
78 飛鳥明日香能里乎置而伊奈婆君之當者不所見香聞安良武《トフトリノアスカノサトヲオキテイナハキミカアタリハミエスカモアラム》【一云君之當乎不見而香毛安良牟】
 
飛鳥は明日香の枕詞なり事は古事記傳【卅八の廿九葉】に詳審《ツハラカ》なるを約めていはゝ天武天皇の十五年の朱鳥の祥瑞《シルシ》に依て年號を朱鳥《アカミトリ》と建られ大宮の號《ナ》を飛鳥《トフトリノ》淨御原宮と號けられたるにより地名にも冠らせて飛鳥の明日香とは云なり○君之當者 當は字の如く當りて在る處のことなるを轉りては汎《ヒロ》く其邊《ソノホトリ》まてをかけて云りさてこは御夫尊《ミセノミコト》天武天皇の御陵高市郡檜隈大内陵を詔へるなり○一首の意は藤原に座す時は御夫尊の御陵と近處《チカキトコロ》なりけれは其あたりも見えしを今度藤原に遷りまさは見えすやあらむとなり
 
或本從藤原京遷于寧樂宮時歌
 
此《コ》は本文なるに或本とはいかゝなれと是(レ)即(チ)草案なる徴《シルシ》なり
 
79 天皇乃命畏美柔備爾之家乎擇隱國乃泊瀬乃川爾※[舟+共]浮而吾行河乃川隈之八十阿不落萬段顧爲乍玉梓乃遺行晩青丹吉楢乃京師乃佐保川爾伊去至而我宿有衣乃上從朝月夜清爾見(116)者栲乃穗爾夜之霜落磐床等川之氷凝冷夜乎息言無久通乍作家爾千代二手來座牟公與吾毛通武《オホキミノミコトカシコミニキヒニシイヘヲサカリコモリクノハツセノカハニフネウケテワカユクカハノカハクマノヤソクマオチスヨロツタヒカヘリミシツヽタマホコノミチユキクラシアヲニヨシナラノミヤコノサホカハニイユキイタリテワカネタルコロモノウヘユアサツクヨサヤカニミレハタヘノホニヨルノシモフリイハトコトカハノヒコヽリサユルヨヲイコフコトナクカヨヒツヽツクレルイヘニチヨマテニイマサムキミトワレモカヨハム》
 
柔備爾之 備《ヒ》は宮|備《ヒ》鄙備《ヒナヒ》武備《タケヒ》進備《スサヒ》なとの備にて萬に其形状を云辭なり柔備は荒備と對《ムカ》ひて住着《スミツキ》富賑《ニキフ》を云り爾之は過去の辭なり○家乎擇 擇は放の草體を択と見て又擇には誤けむ放《サカリ》は去離《サリカレ》なるへし【今昔物語廿四の廿段に年來棲ける妻を去離《サリカレ》にけり】○八十阿不落 不漏なり○玉桙乃 玉|着《ヅケ》たる桙なり道に續くる義《ヨシ》は國號考云|美《ミ》は御にて添たる言なれは枕詞は必らす知《チ》へ係れりさるは古《イニシヘ》戈《ホコ》の柄《ホコ》に知《チ》と云處の有しなるへし凡て手に取て引擧へき料に付たる物を知《チ》と云|例《コト》多し今も幕なとに乳と云物これなり細《クハシ》戈千足國と云も同し○遺行晩 道は川道なり海川を道と云|例《コト》は三に思家登情進莫風候好爲而伊麻世荒其路十一に隱口乃豐泊瀬道者常滑乃恐道曾|戀由眼《コヽロシテユケ》○伊去至而 伊は上【二の三十三葉】に出○我宿有衣乃上從朝月夜清爾見者 從《ユ》は爾《ニ》と通ふ一格の辭にて例多し四に水瀬河下從吾痩【下爾なり】從情毛吾者不念寸【心爾毛なり】十に取石池之|浪間從《ナミノマユ》鳥音異嶋【浪|際《キハ》爾なり】十一に埋木之下從其戀【下爾曾なり】十四に多都登利能目由可汝乎見牟【目爾可なり】なとあり又從の意を爾と云るも三に朝霧髣髴爲乍山代乃相樂山乃|山際《ヤマノマニ》徃過奴禮婆【山際從なり】これらにて知ね朝月夜は明時《アシタ》の月なり月夜とはたゝ月なるよし上【三の十九葉】に云りさて此段は作者人の爲に家を造るときの假宿《カリネ》のさまにて丸寢せる衣の上に朝月の影うつりて清《サヤカ》なることを次句へつゝけたり○栲乃穗爾夜之霜落 栲《タヘ》は栲服《タクハタ》にて即(チ)白服《シロタヘ》なり穗は表《ホ》にて表《ウヘ》に現はるゝを云り浪秀《ナミノホ》火之穗《ホノホ》稻穗《イナホ》顔【赤表《アカホ》ナリ】祝詞に赤丹乃穩爾聞食なと見え姓氏録に天(ノ)表《ホ》日命ともあり此《コヽ》のは白栲の光榮《ヒカリ》を霜と和《アハ》せてつゝけたり十一に敷|白《タヘ》之袖【十三に雪穗麻衣服者《タヘノホノアサキヌキルハ》】夜とは朝月夜の朝に對《ムカ》へたるなり○磐床等川之永凝 床は止處《トコ》にて定りて動かぬ處を云こと上【二の二十一葉】にいへり猶いはゝ古事記水垣宮段に神牀《カムトコ》【今世人家に床之間と云は神牀なるべし】和名抄に槨於保土古十三に石床之根延門爾【墓なり】なとも見ゆ此《コヽ》のは川の氷《ヒ》凝《コヽ》りて不動《ウコカヌ》を云り氷《ヒ》は冷《ヒヤカ》なる義《ヨシ》の名なり【古保理は凝《コホリ》にて指《サス》處《トコロ》ことなり】凝《コヽリ》は古理々々なり○冷夜乎 冷《サエ》は清《サヤ》とも通ひて寒く清《スミ》たるを云乎は(117)なるをなり○息言無久 息《イコフ》は休らひに息衝を云○通乍作家爾 作者の家は別處《ホカ》なれはなり○千代二手來 來は爾の誤か○座牟公與 座は伊座にて伊は例の事を強むる發語なり與《ト》は與爲而なりさて此二句は新室を壽たり○一首の意は遷都の命を畏まり住着て在し藤原の家を放り泊瀬川を舟より奈良の新京地に到り着て君か家を造るとて假宿せる衣の上に霜ふる頃より川の氷《ヒ》凝凝《ココ》しき頃まて緩怠《タユム》こと無く通ひ來つゝ造れる家に千代まて座《イマサ》む君なれは吾も絶せす來通へしとなりさて此歌の樣を按ふに作者は早く奈良に遷れると聞ゆれは若くは造宮使なとの班《ツラ》にて此家は皇子等《ミコタチ》なとのにやあらむ
 
反歌
 
80 青丹吉寧樂乃家爾者萬代爾吾母將通忘跡念勿《アヲニヨシナラノイヘニハ∃ロツヨニワレモカヨハムワスルトオモフナ》
 
萬代といへとも通ひ來む久しきほとに忘れて來じと念勿なり
 
右歌作主未詳
 
和銅五年壬子夏四月遣長田王于伊勢齋宮時山邊御井作歌
 
續紀に和銅四年四月壬午從五位上長田王授五五位下靈龜元年四月丙子正五位上二年正月壬午從四位十月壬戌近江守神龜元年二月壬子從四位上天平元年三月甲午正四位下九月乙卯衛門督四年十月丁亥攝津大夫九年六月辛酋散位正四位下長田王卒と見えて其《ソノ》流《スチ》は知られす【又天平七年四月十二年十一月十三年八月なとに同名の人あれと別《コト》なり三代實録三卷廣井女王傳に見えたるも其《ソレ》なり此《コヽ》と混ふへからす】山邊御井は玉勝間【たちはなの卷】に精く見えて鈴鹿郡|山邊《ヤマヘ》村に有と云り當時此御井の名高かりしにより此王もわさと物せられけむ御は例の美稱《タヽヘナ》なり
 
81 山邊乃御井乎見我※[氏/一]利神風乃伊勢處女等相見鶴鴨《ヤマノヘノミヰヲミカテリカムカセノイセヲトメトモアヒミツルカモ》
 
見我※[氏/一]利 我※[氏/一]利は合《カテ》の用らけるにて合《カツ》とは交和《マシヘアハ》するを云|交《カテ》雜《カテ》糅《カテ》なとも所り此我※[氏/一]利を後世は我※[氏/一]良と云りさて此《コ》は御井に處女《ヲトメ》の合《カテ》たるなり○神風乃 伊勢の枕詞なり其由は神代紀に伊弉諾尊曰|我所生之國唯有朝霧而薫滿之哉乃吹撥之氣化爲神號曰教長戸邊命亦曰級長津彦命是風神也《ワカウメリシクニハタヽサキリノミカヲリミテルカモトノリタマヒテフキハラハセルイフキカミトナルミナハシナトヘノミコトマタノミナハシナツヒヒコノミコトコハカセノカミナリ》とある級長《シナ》は息長なり【志長鳥は息長鳥なるが如し是らの事は冠辭考に委し披見べし】又風の加は息《イキ》と通ふ言なり【伊を省くは常なり】世《セ》は即|級長《シナ》の志《シ》なや又五に於伎蘇乃可是も於伎は息《オキ》蘇《ソ》(118)は右の志《シ》なり嘯《ウソ》の字も息《イ》にて曾は右に同しさて伊勢も伊は息《イ》勢《セ》は右の志《シ》の意もてつゝくるなり【冠辭考古事記傳みなあらし】○伊勢處女等 伊勢は今世に云如く大神宮の邊《アタリ》を云り【倭の内にて都の邊《アタリ》を別《ワキ》て倭と云におなじ】處女《ヲトメ》はは遊女なり○相見鶴鴨 こはたゝゆくりなく來會《キアヒ》たるとは聞えす此時山邊に宿りてかたらはれたるなり○一首の意は名高き山邊御井をこそ見に物したるに愛らしき處女《ヲトメ》にも逢たる哉となりさて此歌の解《トキコト》を異《アヤ》しむ人あらめと山邊御井と對《ムカ》へて神風乃伊勢と云るはたゝ伊勢國を云には非す又神風乃伊勢處女等とよめる語勢《コトハツヽキ》を味はふるに凡《タヽ》ならす愛らしき意とは自然《オノツカラ》通《キコ》ゆるなり【遊女の状の凡人《タヽヒト》と殊なるは今も古も同じ此事上の四十葉にも云り考合へし】上に霰打安良禮松原住吉之弟日娘與見禮常不飽香聞とあるは松原と娘とを競《タクラ》へ此《コヽ》のは御井と處女とを對へて共に賞《メテ》たる趣《サマ》同きを思へ然らされは何の趣《オモムキ》も無き徒言歌《タヽコトウタ》なるをや
 
82 浦佐夫流情佐麻禰之久堅乃天之四具禮能流相見者《ウラサフルコヽロサマネシヒサカタノアメノシクレノナカラフミレハ》
 
浦佐夫流は上【四の十五葉】に云る心進《ウラサヒ》より轉りて不怜《サヒ》しく和《ナク》さまぬ意なり○情佐麻禰之 玉乃小琴云佐は發語にて【野雁云佐は事を強むる發語なり二の卅二葉に出】麻禰之は多き事繁き事なり爰はうらさひしき心の繁きなり二に眞根久往者人應知見四に君之使乃麻禰久通者これらは繁き意なり十七に見奴日佐麻禰美孤悲思家武可母 美之麻野爾可良奴日麻禰久都奇曾倍爾家流十八に月可佐禰美奴日佐末禰美故敷流曾良夜須久之安良禰波十九に朝暮爾不聞日麻禰久安麻射可流夷爾之居者 不相日麻禰美念曾吾爲流これらは日數の多きを云り二卷の數多成塗もマネクナリヌルにて此餘《コノホカ》數多と書るに麻禰久と訓へき處多し續紀【卅六】宣命に氏門乎毛|滅《ホロホス》人等麻禰久在龍田風神祭祝詞に五穀天下公民作物片葉末天不成一年二年不在歳眞尼久傷故なと見ゆ○久堅乃 槻落葉に日指方《ヒサスカタ》なりと云り○天之四具禮能 天は頭所見《アミエ》の義《ヨシ》か頭《ア》は天窓《アタマ》【頭撓《アタワ》にて※[息+頁]會をいへり】仰《アフク》【頭向《アフク》なり】又鷄之鳴東とつゝくるも鳥は【諸鳥の中に別て鷄としも書るは此鳥の鳴く状は殊に著ければなり】鳴くときに頭に力《チカラ》いりて振動かす物なれはなり【明《ア》の意につゝけらは鳥かなきと云へきを廿に登利我奈久とあれば下を體言に受るが格《サタマリ》なり】四具禮は重闇《シキクレ》にてしは/\闇《ク》れて降る雨の名なり【時雨《シグレ》と書くも時々の義なり】○流相見者 流相は長らふにて雨の降る形状なり流も同言(119)なり二に妹之名者千代爾將流【長れむに同し】五に阿米欲里由吉能那何例久流加母十に櫻花散流歴また川なとはさらなり○一首の意はしくるゝ空を見れは心不怜《ウラサフ》る情《コヽロ》最《イト》しけしとなり四五(ノ)句天の重闇《シクレ》の流らふとよめる詞雅ひたりさてこはいかなる時《ヲリ》の歌にか前の御井とはいと異なり端詞の失たるか次なるも然り目録に山邊御井作歌三首とあるは後に記せる物なれはなり
 
83 海底奧津白浪立田山何時鹿越奈武妹之當見武《ワタノソコオキツシラナミタツタヤマイツカコエナムイモカアタリミム》
 
海底 底は放處《ソキコ》にて海原の放《サカ》れる處は沖【即(チ)奧《オク》なり】なれはつゝけたり○奧津白浪 津は附《ツク》なり此事上にも出【四の十五葉】こは立の序なり○立田山は大和國平群郡にて河内に界ひたれは伊勢の路次《チナミ》に非す此《コ》も御井とはいと別《コト》なる歌にて西(ノ)國より倭へ歸る人の道にてよめると聞ゆるを【立田は大和への口なり】端詞の失たるか錯《マキ》れて入しにもあるへし一首の意は明らけし
 
右二首今案不似御井所作若疑當時誦之古歌歟
 
後人の所爲《シワサ》なり
 
寧樂宮
 
此一首は元明天皇寧樂宮に遷りましての歌か御宇天皇代と無きは此集つくらるゝ時即寧樂宮御宇なれは憚りてなり
 
長皇子與志貴皇子於佐紀宮倶宴歌
 
此二柱は各《オノ/\》上に出て【十二葉卅二葉】御兄弟に坐り佐紀宮は長皇子の宮なり和名抄に大和國添下郡佐紀郷これなり神名帳に同郡佐紀神社諸陵式に狹城(ノ)楯列池後《タヽナミノノシリノ》陵狹城(ノ)眉列(ノ)池(ノ)上《ウヘノ》陵靈異記【下卷十五段】に諾樂京活目陵北之佐岐村なと見ゆ
 
84 秋去者今毛見如妻戀爾鹿將嶋山曾高野原之字倍《アキサラバイマモミルコトツマコヒニカナカムヤマソタカヌハラノウヘ》
 
秋去者は上【三の二十一は】に出此時は春夏のほとなりけむ○今毛見如 此句にて切へし見如は目前《マノアタリ》を宣へるにて秋さらは今目前の如く諸共に遊はむなり○高野原之字借 高野は此處《コヽ》の名にて孝謙天皇の高野山陵も此處なりさて高野原は即(チ)鹿將鳴山曾の山にて原は其|平坦《タヒラ》なる地《トコロ》を云り【山を高野と云|義《ヨシ》は三の五十四葉にいへり考合へし】宇倍は例の邊《アタリ》なり○一首の意は秋さらは又來ませ如此《カク》し遊はむ其時《ソノヲリ》は妻戀爾鹿なかむ山そ此高野原のあたりはとなり
 
(120)右一首長皇子
 
萬葉集巻第一終
 
(121)萬葉集新考 六
 
貼紙、
 
三竹玉 木綿付る小竹《シナ》の原 【神樂さいばらのうち】
 三の巻  赤人歌 いよのたかねの云々
  橘南谿の東遊記後編の名山論の處に云々山の高きもの云々伊豫の高峯《タカミネ》云々
  今此を見れば今も彼國に然いふ高峯あるなるへし
 右のこと三(ノ)巻新考(ニ)書入へし
佐野氏云かの峯を又の名|いしつち《・石槌》山と云よしいとかしこくさかしくけはしき高山なるよしなれは神武紀なるいしつゝいくふつゝいと似たるより負る山(ノ)名にや
 
           2009年7月9日(木)午前10時40分、巻一入力終了。
 
〔巻二の目次省略〕
 
(124)相聞
 
此《コレ》は相思《アヒオモ》ふ情《コヽロ》を互《タカヒ》に告聞《ツケキコ》ゆる由《ヨシ》の目《ナ》にて。男女の中間《ナカラヒ》は調《イフ》も更《サラ》なり。親子兄弟さらぬ他人共《ヒトトチ》にも云《イヘ》り
 
難波高津宮御宇天皇代大鷦鷯天皇《ナニハノタカツノミヤニアメノシタシロシメシヽスメラミコトノミヨオホサヽキノスメラミコト》
 
仁徳天皇なり。抑《ソモソ》も一ノ卷の終《ヲハリ》に寧樂宮《ナラノミヤ》を掲《アケ》たるに復《マタ》立還《タチカヘ》り古《フル》きを標《アケ》たる物《モノ》は例|云《イフ》如《コト》くいまた草稿の隨《マヽ》にて撰《エラヒ》を遂《トケ》す然《サ》なから傳《ツタハ》れればなり
 
磐姫皇后《イハノヒメノオホキサキ》思2天皇(ヲ)1作御歌《ミウタ》四首《ヨツ》
 
當代の嫡后《オホキサキ》に御座《マシマ》す。葛城之襲津彦《カツラキノシツヒコ》の女《ムスメ》なり。さて此《コノ》四首《ヨウタ》を此《コノ》皇后《オホキサキ》の作《ミウタ》とは傳《ツタヘ》の誤《アヤマリ》なり。其《ソノ》所以《ユヱ》は下に説《イフ》
 
85 君之行《キミカユキ》。氣長成奴《ケナカクナリヌ》。山多都禰《ヤマタツネ》。迎加將行《ムカヘカユカム》。待爾可將待《マチニカマタム》。
 
右一首歌山上憶良臣類聚歌林載焉
 
此歌の事は下【 葉】に説《イヘ》り。左註は後人《ノチノヒト》の所爲《シワサ》なり
 
86 如此許《カクハカリ》。戀乍不有者《コヒツヽアラスハ》。高山之《タカヤマノ》。磐根四卷手《イハネシマキテ》。死奈麻思物乎《シナマシモノヲ》
 
戀乍不有者《コヒツヽアラスハ》 此《コ》の有《アル》は存《ナカ》らへ在《アル》を云り【常に云(フ)輕《カロキ》辭《コトハ》に非す】戀つゝ(125)耳《ノミ》存《ナカ》ら經《ヘ》在《ア》らむ其《ソレ》よりはなり○高山之磐根四卷手《タカヤヤノイハネシマキテ》 高山とは世着《ヨツカ》す氣踈《ケウト》き地《トコロ》の由《ヨシ》なり磐根《イハネ》とは木根《キネ》草根《クサネ》なとの如く根は稱《タヽ》へて添《ソヒ》たる言《コト》なり四《シ》は例の如く事を取出《トリイテ》たる辭にて一筋《ヒトスチ》を立《タテ》たる意《コヽロ》をも包《カネ》たり卷手《マキテ》は枕而《マキテ》なり
 然《サ》て此《コレ》は墓《ハカ》の磐構《イハカマヘ》を云(フ)下《シモ》【新考 の】に柿(ノ)本(ノ)朝臣人麻呂在2石見(ノ)國1臨v死時自傷作歌|鴨山之磐根之巻有吾乎鴨不知等妹之待乍將有《カモヤマノイハネシマケルワレヲカモシラニトイモカマチツヽアラム》また三に石田(ノ)王卒之時丹生(ノ)王作歌|逆言之狂言等可聞高山之石穗之上爾君之臥有《オヨツレノタハコトトカモタカヤマノイハホノウヘニキミカコヤセル》これらを以《モテ》意得《コヽロウ》へし○死奈麻思物乎 乎《ヲ》は與《ヨ》と云(フ)に同し意《コヽロ》の辭
 
87 在管裳君乎者將待打靡吾黒髪爾霜乃置萬代日《アリツヽモキミヲハマタムウチナヒクワカクロカミニシモノオクマテニ》
 
十一に待不得而内有不入白細布之吾袖爾露者置奴鞆《マチカネテウチニハイラシシロタヘノワカコロモテニツユハオキヌトモ》十二に待君當庭耳居者打靡吾黒髪爾霜曾置爾家類《キミマツトニハニノミヲレハウチナヒクワカクロカミニシモソオキニケル》これらと通《カヨ》はして意得《コヽロウ》へし然《サ》て前(ノ)歌には思《オキ》ひ不堪《カネ》死《シナ》はやと云(ヘ)るを此(ノ)歌は寝《ヤヽ》思ひ靜めて老去《オイサル》及《マテ》にも必らす待(チ)得すはあらしと責《セメ》て強《ツヨ》れる心を髣髴《ホノメ》めかしたり
 
88 秋之田穗上爾霧相朝霞何時邊乃方爾我戀將息《アキノタノホノヘニキラフアサカスミイツヘノカタニアカコヒヤマム》
 
何時邊《イツヘ》はいつ處方《クヘ》なり然《サ》て朝霞まては序(ノ)辭《コトバ》なれとも其《ソノ》由《ヨシ》無《ナ》きに儲《マウケ》て云へるには非《アラ》す通夜《ヨモスカラ》夫《ヲトコ》を待(チ)明して旦《ツト》めて眺《ミ》たる眼前《メノマヘ》の景《サマ》にて此《コノ》霞《カスミ》の如《コト》晴《ハレ》せぬ吾《ワカ》悶《オモヒ》を何方《イツカタ》に遣《ヤ》り失《ウシナ》はむそとなり
    
或飜歌曰《アルマキノウタ》
 
89 居明而君乎者將待奴婆珠乃吾黒髪爾霜者零騰文《ヰアカシテキミヲハマタムヌハタマノワカクロカミニシモハフルトモ》
 
居明《ヰアカス》とは不寢《ネス》に居隨《ヰナカラ》に明《アカ》すを云(フ)七に烏玉之夜渡月乎※[立心偏+可]怜吾居袖爾露曾置爾鷄類《ヌハタマノヨワタルツキヲオモシロミワカヲルソテニツユソオキニケル》十一に眞袖持床打拂君待跡居之閉爾月傾《マソテモチトコウチハラヒキミマツトヲリシアヒタニツキカタフキヌ》十八に乎里安加之許余比波能麻牟保登等藝須安氣牟安之多波奈伎和多良牟曾《ヲリアカシコヨヒハノマムホトトキスアケムアシタハナキワタラムソ》廿に伊弊敬毛負等伊乎禰受乎禮婆《イヘオモフトイヲネスヲレハ》云々これら皆《ミナ》其《ソノ》意《コヽロ》なり相證《アヒアカ》して知《シル》へし
 
右一首古歌集中(ニ)出
 
古事記(ニ)曰(ク)輕太子《カルノヒツキノミコ》奸《タハケツ》2輕大郎女《カルノオホイラツメニ》1故《カレ》其《ソノ》太子(ヲハ)流(シニキ)2於伊豫(ノ)湯《ユニ》1也|此《コノ》時《トキニ》衣通壬《ソトホシノミコ》不堪戀慕而追往《オモヒカネテオヒイテマシキ》時歌曰《ソノトキノミウタ》90 君之行氣長成奴山多豆乃迎乎將往待爾者不待《キミカユキケナカクナリヌヤマタツノムカヘヲユカムマツニハマタシ》此(ニ)云(ヘルハ)2山多豆(ト)1者是|今《イマノ》造v木(ヲ)者(ナリ)也
 
右一首(ノ)歌古事記(ト)與2類聚歌林1所(ロ)v説《イフ》不v同歌主(モ)亦異(ナリ)焉|因《カレ》檢(フルニ)2日本紀(ヲ)1曰難波(ノ)高津(ノ)宮(ニ)御宇(メシヽ)大鷦鷯天皇《オホサヽキノスメラミコトノ》廿二年春正月天皇語2皇后(ニ)1納《メシテ》2八田皇女《ヤタノヒメミコヲ》1將v爲(マト)v妃(ト)時(ニ)皇后|不v聽《ウナツルシタマハス》爰(ニ)(126)天皇|歌以《ミウタモテ》乞(ヒタマフ)2於皇后(ニ)1之三十年秋九月乙卯(ノ)朔乙丑(ノヒ)皇后|遊2行《イテマシ》紀伊(ノ)國(ニ)1到(リマシ)2熊軌(ノ)岬《ミサキニ》1取(リテ)2其處之御綱葉《ソコノミツナカシハヲ》1而還(ヘリマシヌ)於v是天皇伺(テ)2皇后(ノ)不《サルトキヲ》v在《マシマサ》而|娶《メシ》2八田(ノ)皇女(ヲ)1納2於|宮中《オホミヤニ》1時(ニ)皇后到(リマシ)2難波(ノ)濟《ワタリニ》1聞《キカシテ》3天皇(ノ)合《メシツルト》2八田(ノ)皇女(ヲ)1大恨之《イタクウラメシカリタマヒキ》云々|亦《マタ》曰|遠飛鳥《トホツアスカノ》宮(ニ)御宇(メシヽ)雄朝嬬稚子宿禰天皇《ヲアサツマワクコノスクネノスメラミコトノ》廿三年春正月甲午(ノ)朔庚子(ノヒ)木梨輕皇子《キナシノカルノミコヲ》爲2太子(ト)1容姿佳麗《ミカホキラ/\シ》見(ル)者《ヒト》自《オノツカラ》
感《カマケヌ》同|母妹《イロモ》輕大娘皇女《カルノオホイラツヒメノミコモ》亦|艶妙《イトミカホヨカリキ》也云云 遂(ニ)竊(ニ)通乃悒    
懷少息《タハケテミイキトホリスコシクヤスミタマヒキ》廿四年夏六月御羮汁凝以作氷《オホミケノアツモノコホレリ》天皇|異之卜《アヤシトオモホシテウラナハセタマヒキ》2其(ノ)所由《ユヱヲ》1卜者《ウラヒトノ》曰(ヘラク)有2内亂《ウチツヽミ》1盖《モシ》親親相姦乎《ハラカラノタハケタルニカ》云々|仍《カレ》移(シタマヒキ)2大娘皇女(ヲ)於伊與(ニ)1者《テヘリ》今(マ)案(フルニ)二代二時|不《サルナリ》見《ミエ》2此(ノ)歌(ハ)1也
 
此(ノ)註|等《トモ》は後の書加《カキクハヘ》にて初《ハシメ》の一首《ウタ》の左(リ)に在(ル)へきなり抑《ソモ/\》
 
此《コ》の君之行氣長成奴《キミカユキケナカケナリヌ》云々の歌は輕太郎女《カルノオホイラツメ》の御歌《ミウタ》なること云(フ)も更(ラ)なり然《サ》て又《マタ》四(ノ)句の山多都禰《ヤマタヅネ》は彼《カノ》本歌の山多豆能を傳へ訛《アヤマ》りたる物にて山多豆は迎《ムカヘ》と云(フ)ことの序辭《マクラコトハ》はなり古事記傳(ニ)【卅九の六十葉】云(ク)山釿《ヤマタツ》は材《キ》を伐《キ》る刃物《ハモノ》の名にて工《タクミ》の用《ツカ》ふ手斧《テヲノ》と云(フ)物の事《コト》なり此(ノ)物は刃《ハ》を吾(カ)方へ令向《ムケ》て用《ツカ》ふか故《ユヱ》に迎《ムカヘ》と云(フ)語《コト》の序なり云云と有(ル)か如し如是《カク》て次々《ツキ/\》の三首も皆(ナ)同しく磐姫《イハノヒメノ》皇后のには非《アラ》す漸《ヤヽ》下《クタ》れる世の歌|等《トモ》にそ有(リ)ける其《ソノ》故《ユヱ》は此(ノ)皇后の御歌は仁徳紀に多く所見《ミエ》て其《ソ》は皆|大《イタ》く上《アカ》れる代《ヨ》の體《サマ》なるを此《コヽ》のは否《シカ》らす分《ワカ》りて所見《ミユ》れはなり彼《カシコ》と競《クラ》へて其《ソノ》差別《ケチメ》を識《シル》へし
 
近江(ノ)大津(ノ)宮(ニ)御宇(メシシ)天皇(ノ)代 天命開別天皇《アメミコトヒラカスワケノスメラミコト》
 
天皇賜2鏡《カヽミノ》王女(ニ)1御歌一首
 
王女は女王の誤(リ)なるへき由《ヨシ》又《マタ》此《コノ》人の事も既《サキ》に云(ヘ)り新考の
 
91 妹之家毛繼而見麻思乎山跡有大島嶺爾家母有猿尾《イモカイヘモツキテミマシヲヤマトナルオホシマミネニイヘモアラマシヲ》
   一云|妹之當繼而毛見武爾《イモカアタリツキテモミムニ》 一云|家居麻之乎《イヘヲラマシヲ》
 
妹之家毛《イモカイヘモ》 毛《モ》はなりともの意《コヽロ》○山跡有《ヤマトナル》 此(ノ)大御歌は近江へ遷都《ウツロヒ》の後《ノチ》に鏡(ノ)女王は未《イマタ》倭《ヤマト》に殘《ノコ》り居《ヰ》られける其《ソレ》か處《モト》に遣《ツカハ》したるなるへし○大島嶺爾《オホシマミネニ》 此《コノ》處《トコロ》いまた不詳《サタカナラス》○一首《ヒトウタ》の意《コヽロ》は遷都の後《ノチ》は妹《イモ》を相見《アヒミ》る事難きに倭《ヤマト》の大島嶺上《オホシマミネノウヘ》に吾家《ワキヘ》もかな然《サ》らは直《タヽ》目下《メノシタ》に彼家《ソノイヘ》なりとも繼《ツキ》て望《ミ》るへきにとなり
 
鏡(ノ)王女|奉《マツレル》v和《コタヘ》御歌一首 鏡王女又曰2額田(ノ)姫王(ト)1也
 
(127)萬葉考(ニ)云(ク)王女は女王の誤《アヤマリ》又《マタ》註は後(ノ)人の所爲《シワサ》なり此《コレ》は天武紀に天皇|初《ハシメ》娶《メシテ》2鏡(ノ)王(ノ)女《ムスメ》額田(ノ)姫王(ヲ)1云々この文をふと見誤(マ)りて鏡(ノ)女王を鏡(ノ)王(ノ)女《ムスメ》そと思《オモ》ひて其《ソノ》名をは額田《ヌカタノ》姫王とこゝろ得《エ》鏡(ノ)女王は別《コト》人なるを知らす女王を王女とし又《マタ》註をさへ加《クハ》へたる物なり又集中に某《ナニカシノ》女《ムスメ》と有(ル)は名の知られぬ故《ユヱ》なり既《ステ》に其《ソノ》名の隱旡《カクレナ》き額田(ノ)王を某女《ナニカシノムスメ》とは云(フ)へきに非す
 
92 秋山之樹下隱往水乃吾許曾益目御念從者《アキヤマノコノシタカクリユクミツノアレコソマサメイミオヒヨリハ》
 
秋山之《アキヤマノ》 此(ノ)時は秋にそ有(リ)けむ。○樹下隱往水乃《コノシタカクリユクミツノ》は顯露《アラハ》れす裏《シタ》に懷《オモ》ふを云(フ)往水《ユクミツ》の如くの意《コヽロ》なり○吾許曾益目《アレコソマサメ》 秋は山水《ヤマミツ》の落(チ)増(サ)れはなり○一首《ヒトウタ》の意《コヽロ》は大御歌に和《コタ》へて己《オノレ》は女《メ》にしあれは顯《アラハ》しこそ爲《セ》ね御念《ミオモヒ》よりは益《マサ》りたらめとなり
 
内大臣《ウチノオホオミ》藤原(ノ)卿《マヘツキミ》娉2鏡(ノ)王女(ヲ)1時(ニ)鏡(ノ)王女贈2内大臣(ニ)1歌一首
 
贈(ノ)字は贈報《ヨミコタヘ》の意《コヽロ》なり歌を彼《カシコ》へ贈り遣《ヤリ》たるに非す
附箋、 三 石上大夫歌一首 大船二眞梶繁貫大王之御命恐礒廻爲鴨 右今案石上朝臣乙麿任越前國守盖此大夫歟 和歌一首物部乃臣之壯士者大王任乃隨意聞跡云物曾 右作者未審但笠朝臣金村之歌中出也
 
93 玉匣覆乎安美開而行者君名者雖有吾名之惜毛《タマクシケオホヒヲヤスミアケテユカハワカナハアレトキミカナシヲシモ》
 
玉匣《タマクシケ》は玉を装※[金+芳]《カサ》れる櫛笥《クシケ》なり此《コノ》器《モノ》は平常《ツネ》に手《テ》を離《ハナ》たす持《モチ》あつかふ物なれは鎖等《ザウナト》も無《ナ》くて蓋《オホ》ふに手易《タヤス》く開《アク》るも速《スミヤカ》なるより其《ソ》を夜《ヨ》の忽《ハヤ》く明《アク》る序に爲《セ》り○四五(ノ)句は吾名者雖有君名之惜毛《ワカナハアレトキミカナシヲシモ》と有(リ)つらむを君と吾を上下に誤れるなるへし四に吾名者毛千名之五百名爾雖立君之名立者惜社泣《ワカナハモチナノイホナニタヽメトモキミカナタヽハヲシミコソナケ》○此(ノ)歌は鎌足の娉《ヨハヒ》に來《キタ》られしとき夜《ヨ》も深《フケ》ぬ今《イマ》は速《ト》く歸《カヘ》りね宿過《ネスク》さは人知(リ)ぬへし曾毛々々《ソモ/\》吾名《ワカナ》は如何《イカ》にもあれ君(カ)名の立(ツ)を惜めはなりあしくは勿《ナ》思ひ賜ひそとなり後撰集【戀ノ四】に君か名の立(ツ)に咎《トカ》なき身なりせは大よそ人になして見ましや是(レ)と意《コヽロ》はへ似《ニ》たり
 
内大臣藤原卿|報2贈《コタヘタル》鏡(ノ)王女(ニ)1歌一首
 
報贈はたゝ答《コタヘ》なり彼《カシコ》へ贈れるに非(ス)
 
94 玉匣將見圓山乃狹名葛佐不寢者遂爾有勝麻之目《タマクシケミムロトヤマノサナカツラサネスハツヒニアリカテマシモ》
 或(ル)本《マキノ》歌(ニ)云(ク)玉匣三室戸山乃《タマクシケミムロトヤマノ》
 
玉匣《タマクシケ》は身《ミ》の枕詞なり蓋《フタ》とも身《ミ》とも常《ツネ》に云(フ)か如し○將見(128)圓山乃《ミムロトヤマノ》 圓は麻呂《マロ》と訓《ヨ》む字《モシ》なり故《カレ》將見《ミム》の將《ム》と圓《マロ》の麻《マ》と續《ツヽ》くに因《ヨリ》て自然《オノツカ》ら美武呂《ミムロ》と訓《ヨマ》る然《サ》れは美武呂能《ミムロノ》と訓(ム)へきに似《ニ》たれと調《シラヘ》に從《ヨ》りて美武呂登《ミムロト》とは訓《ヨム》なり抑《ソモソ》も詞《コトハ》の活用《ハタラキ》而爾乎者《テニヲハ》なと云(フ)格《サタマリ》の事をは世(ノ)人|種々《クサ/\》言痛《コチタ》く論《サタ》すめれとも未《イマタ》曾《カツ》て定まる説ある事を聞す如何《イカニ》と云(フ)に古語《フルコト》に闇《クラ》けれはなり己《オノレ》是《コレ》か料《タメ》に既《ハヤ》く詞之隨意《コトハノマニ/\》と云書《フミ》を撰《ツク》りて精《クハ》しく説《イヘ》れば今|此《コヽ》には省《ハフキ》つ或(ル)人|問(ヒ)けらくは將見圓山ミムロトヤママコトシカ
を美武呂登山《》と訓(ム)へく信《》に然《》らは左註に或(ル)本(ノ)歌(ニ)云(ク)三室戸山のと有(ル)は疑《ウタカ》はし此(ノ)註は本文とは詞の異《コト》なる所以《ユヱ》を以《モテ》社《コソ》あるらめ若《モシ》たゝ文字《モシ》の異《カハリ》耳《ノミ》なりせは故《コトサ》らに註《シル》さすても有(リ)なむ答(ヘテ)曰(ク)此(ノ)難|然《サ》る事なれとも凡《スヘ》て集中の例|文字《モシ》異《コト》なるをは皆《ミナ》悉《コト/\》く註して一(ニ)云(ク)或(ヒハ)云(ク)なとあり是《コレ》は實《マコト》に無益《イタツラ》なるに似たれと思慮《オモ》ふに此《コレ》は此(ノ)集あつめらるゝに數種《クサ/\》の本等《マキトモ》多《オホ》く有(リ)私けるか中《ナカ》より假《カリ》に校異を記《シル》し置《オカ》れしなるへし然《サ》れは將見圓山三室戸山たゝ同地《オナシトコロ》にて即《スナハチ》三輪の御室山《ミムロノヤマ》の事なり又七に珠匣見諸戸山矣行之鹿齒面白四手古昔所念《タマクシケミモロトヤマヲユキシカハオモシロクシテイニシヘオモホユ》これも此《コヽ》なるに同《オナ》し○狹名葛《サナカツラ》は五味《サネカツラ》なり此《コレ》は次(ノ)句の序なり○佐不寐者遂爾《サネスハツヒニ》 古事記傳(ニ)【廿八の九の葉《ヒラ》】云(ク)眞寐《サネ》なり此《コレ》は男女|相寢《アヒヌ》るに云(フ)云云○有勝麻之母《アリカテマシモ》 有《アリ》は例の存在《ナカラヘアル》の在《アリ》なり勝《カテ》は難《カテ》なり如是《カク》て一首《ヒトウタ》の意《コヽロ》は女王の歌に和《コタ》へて然《サ》はあれ今夜《》寢《コヨヒネ》て歸《カヘ》らすは在長《アリナカ》ら經《ヘ》むこゝちも爲《セ》す然《サ》れは名をも更(ラ)に不厭《イトハス》となり四五(ノ)句|遂爾佐不寐者《ツヒニサネスハ》と置更《オキカヘ》て意《ココロ》得へし大和(ノ)物語に死《シ》ねとてやとりもあへすはやらはるゝいといき難きこゝち社《コソ》すれ是(レ)と似たる意(ロ)はへなり如是《カク》て鎌足此(ノ)夜は止宿《トマ》られけむかし右の大和(ノ)物語なるも然有《シカリ》き
 
内(ノ)大臣藤原(ノ)卿娶2釆女安見兒《ウネヘヤスミコヲ》1時作歌《トキノウタ》一首
 
安見兒《ヤスミコ》は考(フ)へき物|旡《ナ》し
 
95 吾者毛地安見兒得有皆人乃得難爾爲云安見兒衣多利《アレハモヤヤスミコエタリミナヒトノエカテニストフヤスミコエタリ》
 
吾者毛也《アレハモヤ》 毛也《モヤ》は嗟難《ナケキノ》辭○安見兒得有《ヤスミコエタリ》は冠辭考(ニ)【やすみしゝ】云(ク)安見《ヤスミ》とは見《ミ》る目《メ》の安《ヤス》く美好貌《カホヨ》きを云(フ)十二に小竹之上爾來居而鳴鳥目乎安美人妻※[女+后]爾吾戀二來《サヽノウレニキヰテナクトリメヲヤスミヒトツマユヱニワレコヒニケリ》……なとも作《ヨメ》るにて知《レ》へし故《カレ》其《ソノ》義《ヨシ》以《モテ》つけたる稱《ナ》なるへしと有(リ)然《サ》れは此(ノ)歌の意(ロ)も安見兒と呼《イ》ふ名に其(ノ)意(ロ)を令持《モタセ》て然《シカ》名に負(ヘ)る好女《カホヨメ》を吾(レ)は得たり皆(ナ)人の得難《エカテ》に爲《ス》と云(フ)然《サ》る美女《カホヨメ》を我(レ)は得たりとなり
 
(129)久米禅師《クメノセシ》娉2石川郎女《イシカハノイラツメヲ》1時(ノ)歌五首
 
久米《クメ》は姓《ウチ》禅師《セシ》は名《ナ》なり然《サ》て此《コノ》人等《ヒトトモ》の傳《コト》は知られす
 
96 水篶苅信濃乃眞弓吾引者宇眞人佐備而不言常將言可聞《ミスヽカルシナヌノマユミワカヒカハウマヒトサヒテイナトイハムカモ》    禅師
 
水篶《ミスヽ》は眞篶《マスヽ》なり此(レ)を苅《カ》る小竹野《シヌヌ》と云(フ)意(ロ)に信濃《シナヌ》には續《ツヽ》くるにや○信濃乃眞弓《シナヌノマユミ》 眞弓《マユミ》とは弓を美《ホメ》たる稱《ナ》なり【檀《マユミ》の木を以て作れるには非ず】文武紀に大寶二年三月甲午信濃(ノ)國|獻《タテマツレル》2梓弓一千二十張(ヲ)1以|充《アツ》2太宰府(ニ)1慶雲元年夏四月庚午以2信濃國(ヨリ)獻《タテマツレル》弓一千四百張1充(ツ)2太宰府(ニ)1また神祇式に凡甲斐信濃兩國(ヨリ)所進《タテマツレル》祈年祭(ノ)料(ノ)雜《クサ/\ノ》弓百八十張甲斐(ノ)國(ハ)槻弓《ツキユミ》八十張《ヤソハリ》信濃(ノ)國(ハ)梓弓|百張《モヽハリ》なと見ゆ然《サ》て此(ノ)二句の序は初《ハシ》めて娉問《モノイ》ふ女の心の知り難き譬《タトヘ》に諷《カス》めたり是(レ)即(ハチ)序歌の體《サマ》なる物なり○吾引者《ワカヒカハ》は心を引き試《ミ》るなり○宇眞人佐備而《ウマヒトサヒテ》は貴人進而《ウマヒトスサヒテ》なり此(レ)は石川(ノ)郎女は貴人なるを彌《イヨ/\》驕《オコ》り高《タカ》まりてと云(フ)事にて戯《タハフ》れたる詞なり○不言《イナ》は否(ノ)字も不口なると同し書體《カキサマ》なる物そ
 
97 三篶苅信濃乃眞弓不引爲而強作留行事乎知跡言莫君二《ミスヽカルシナヌノマユミヒカスシテヲハクルワサヲシルトイハナクニ》    郎女
 
強作留行事乎《ヲハクルワサヲ》 強は弦の誤(マリ)作《ハク》は矢作等《ヤハキナト》の訓《ヨミ》を借《カ》る然《サ》て弦作《ヲハクル》とは弓末《ユミノハス》を弦《ツル》に令《ル》v食《ハム》を云(フ)食《ハム》括《ハク》は本(ト)一(ツ)言《コト》なり下に梓弓都良絃取波氣引人者《アツサユミツラヲトリハケヒクヒトハ》七に陸奧之吾田多良眞弓著絲而引者香人之《ミチノクノアタヽラマユミツラハケテヒカハカヒトノ》云々十四【東歌】に美知乃久能安太多良末由美《ミチノクノアタヽラマユミ》云々|都良波可馬可毛《ツラハカメカモ》なと有(リ)【又弓(ノ)弦(ル)を矢筈《ヤハス》に令《ル》v食《ハム》をも波久《ヘク》云(ヘ)り平家(ノ)物語(ノ)九卷廿三葉に矢を番《ハケ》徒然草八十六段に大刀ぬき矢はけ云々將門記に掛《カケ》v箭《ガケヲ》から書《フミ》左氏傳(ノ)昭公廿一年に將《ス》v注《ヤハケムト》その註に注(ハ)傳《ツクルソ》v矢(ヲ)とあり淮南子(ノ)人間訓に括《ハク》v矢(ヲ)など見ゆ又牛馬|等《ナト》にも十六に牛爾己曾
鼻繩波久例《ウシニコソハナナハハクレ》云々平家(ノ)物語九の二葉に白轡《シロクツハ》ハケ云々これらも口に令《ル》v食《ハム》を云(ヘ)り】○一首《ウタ》の意は吾(レ)を引(キ)も不試《ミス》して爭《イカテ》かは心を將知《シラム》そとなり
 
98 梓弓引者隨意依目友後心乎知勝奴鴨《(アツサユミヒカハマニ/\ヨラメトモノチノコヽロヲシリカテヌカモ》    郎女
 
弓は牽《ヒ》く隨《マヽ》に靡《ナヒ》き倚《ヨ》り來《ク》る物なれは譬《タト》へたり知勝奴《シリカテヌ》は知難《シリカテ》ぬなり意(ロ)は明(ラカ)なり
 
99 梓弓都良絃取波氣引人者後心乎知人曾引《アツサユミツラヲトリハケヒクヒトハノチノコヽロヲシルヒトソヒク》    禅師
 
都良絃《ツラヲ》は弦緒《ツルヲ》なり右の和《コタヘ》にて意(ロ)は明らけし
 
100 東人之荷向篋乃荷之緒爾毛妹情爾乘爾家留香聞《アツマトノノサキノハコノニノヲニモイモカコヽロニノリニケルカモ》  禅師
 
荷向《ノサキ》【向《サキ》は前《サキ》の借字《カリモシ》】とは年の初貢《ハツミツキ》を諸國《クニ/\》より奉《タテマツ》るを云(フ)此《コヽ》に東(130)人之《アツマトノ》と謂(ヘ)るは國《クニ》遠《トホ》く道《ミチ》※[しんにょう+貌]《ハルカ》なれは荷緒《ニノヲ》をしたゝかに搦《カラ》むる其《ソ》か如く妹を想《オモ》ふ情《コヽロ》の八重纏《ヤヘマツ》はれて堅固《カタ》めて動搖《ユル》かぬを云(フ)なり祈年祭(ノ)祝詞に荷前者《ノサキハ》云々|自陸往道者荷緒縛堅弖《クカヨリユクミチハニノヲユヒカタメテ》云々○妹情爾乘爾家留香聞《イモカコヽロニノリニケルカモ》は妹《イモカ》にて截《キル》へし情《コヽロ》は此方《コナタ》の心なり心に乘《ノル》とは心(ノ)上《ウヘ》に在(ル)を云(フ)十四【東歌】に思良久毛能多要爾之伊毛乎阿是西呂等許己呂爾能里※[氏/一]許己婆可那之家《シラクモノタエニシイモヲアセセロトコヽロニノリテコヽハカナシケ》四に百磯城之大宮人者雖多有情爾乘而所念妹《モヽシキノオホミヤヒトハオホカレトコヽロニノリテオモホユルイモ》七に神樂聲浪乃四賀津之浦能船乘爾乘西意常不所忘《サヽナミノシカツノウラノフナノリニノリニシコヽロツネワスラエス》百傳八十之島廻乎※[手偏+旁]船爾乘西情忘不得裳《モヽツタフヤソノシママヲコクフネニノリニシコヽロワスラエヌカモ》十に春去爲垂柳十緒妹心乘在鴨《ハルサレハシタリヤナキノトヲヽニモイモカコヽロニノリニケルカモ》十一に是川瀬瀬敷浪布々妹心爾乘在鴨《コノカハノセセニシクナミシク/\ニイモカコヽロニノリニケルカモ》大舟爾葦荷刈積四美見似裳妹心爾乘來鴨《オホフネニアシニカリツミシミヽニモイモカコヽロニノリニケルカモ》驛路爾引舟渡直乘爾妹情爾乘來鴨《ハユマチニヒキフネワタシヒタノリニイモカコヽロニノリニケルカモ》十二に射去爲海部之※[楫+戈]音湯鞍干妹心乘來鴨《イサリスルアマノカチノトユクラカニイモカコヽロニノリニケルカモ》十三に思妻心乘而《オモヒツマコヽロニノリテ》十四【東歌】に麻可奈思美奴禮婆許登爾豆佐禰奈敞波己許呂乃緒呂爾能里※[氏/一]可奈思母《マカナシミヌレハコトニツサネナヘハコヽロノヲロニノリテカナシモ》古今六帖に【駒引】秋霧の立(チ)野の駒を引(ク)ときは心にのりて人そ戀しき又【面影】心にや乘りて戀しきあふみてふ名はいたつらに水影もせて伊勢集に面かけは水に浮《ウキ》ても見むすやは心に乘《ノリ》てなかれし物を後《オク》れすそ心に乘(リ)てこかるへき浪に求《モト》めよ舟はなくとも此(レ)等《ラ》も同し並《アハ》せて意(ロ)得《ウ》へし○一首《ヒトウタ》は右に説《イヘ》るか如し
 
大伴(ノ)宿禰娉2二巨勢郎女《コセノイラツメヲ》1時(ノ)歌《ウタ》一首  大伴(ノ)宿禰(ハ)諱《ナヲ》曰(ヘリ)2安麻呂(ト)1也難波(ノ)朝《ミカトノ》右大臣《ミキリノオホオミ》大紫大伴(ノ)長徳卿之《ナカトコノマヘツキミノ》第六子|平城《ナラノ》朝(ニ)任2大納言兼大將軍1薨也
 
101 玉葛實不成樹爾波千磐破神曾著常云不成樹別爾《タマカツラミナラヌキニハチハヤフルカミソツクトフナラヌキコトニ》
 
萬葉考(ニ)云(ク)玉葛《タマカツラ》とは實《ミ》の生《ナ》る蔓草《ツラクサ》を云(フ)玉とは實の事なり然《サ》れは此《コ》は實の枕詞なり○實不成樹爾波《ミナラヌキニハ》とは娉《ツマトヒ》の事|不成就《ナラヌ》に比《タト》へたり○千磐破《チハヤフル》は稜威速振《イチハヤフル》にて健《タケク》速《ハヤ》く暴《アラ》く畏《カシコ》きを云(フ)○神曾著常云《カミソツクトフ》は神の依着居《ヨリツキヰ》賜へる樹《キ》には其(ノ)實|不生《ナラス》と云(フ)諺《コトワサ》そ有(リ)けむ其《ソレ》を表《ウヘ》にて然《サ》て裏《シタ》には我《ワカ》娉問《ツマトヒ》の事成らさるは【實不成樹爾波《ミナラヌキニハ》と云(フ)に當る】豫《カネ》て其處《ソコ》には止事旡《ヤムコトナ》き人の著《ツキ》て領居《シメヲ》る【千磐破神曾著常云《チハヤフルカミソツクトフ》これなり】故《カラ》なるへしとなり○不成樹別爾《ナラヌキコトニ》は實生《ミナ》らぬ樹毎《キト》に必らす然有《シカリ》となり
 
巨勢(ノ)郎女(ノ)報贈歌《コタヘウタ》一首 即(ハチ)近江(ノ)朝(ノ)大納言巨勢人(ノ)卿之|女《ムスメ》也
 
102 玉葛花有開而不成者誰戀有目吾孤悲念乎《タマカツラハナノミサキテナラザルハタカコヒナラメワカコヒモフヲ》
 
花有開而不成者誰戀有目《ハナノミサキテナラサルハタカコヒナラメ》は花々しくて實《マコト》ならさるは誰《タ》(131)か戀ならむと大伴(ノ)卿に當《アテ》て云(ヘ)るなり花とは化々《アタ/\》しく眞實《マメ》ならぬを云(フ)七に氣緒爾念有吾乎山治左能花爾香君之移奴良武《イキノヲニオモヘルワレヲヤマチサノハナニカキミカウツロヒヌラム》八に霞立春日里之梅花波奈爾將問常吾念奈久爾《カスミタツカスカノサトノウメノハナハナニトハムトアカモハナクニ》 吾宅之梅乎花爾會落莫《ワキヘノウメヲハナニチラスナ》 吾妹子之形見乃合歡木者花見爾咲而盖實爾不成鴨《ワキモコカカタミノネム
ハハナノミニサキテケタシクミニナラシカモ》十に秋芽子者於雁不相常言有者香音乎聞而者花爾散去流《アキハキハカリニアハシトイヘレハカオトヲキヽテハハナニチリヌル》 石走間々生有貌花乃花西有來在筒見者《イハハシノマヽニオヒタルカホハナノハナニシアリケリアリツヽミレハ》廿に奈弖之故我波奈乃未等波無伎美奈良奈久爾《ナテシコカハナノミトハムキミナラナクニ》十二に白香付木綿者花物事社者何時之眞坂毛常不所忘《シラカツクユフハハナモノコトコソハイツノマサカモツネワスラエネ》なと有(リ)○吾孤悲念乎《ワカコヒモフヲ》吾(レ)は眞實《マメ》に戀(ヒ)念ふ物をとなり
 
明日香(ノ)清御原(ノ)宮(ニ)御宇(メシ)天皇(ノ)代 天渟名原瀛眞人《アメヌナハラオキノマヒトノ》天皇
 
天皇賜(ヘル)2藤原(ノ)夫人《オホトシニ》1御歌《オホミウタ》一首
 
天武紀に夫人藤原(ノ)大臣女水上《オホオミノムスメヒカミノイラツメ》生2但馬(ノ)皇女《ヒメミコヲ》次(ノ)夫人氷上(ノ)娘(ノ)弟《オト》五百重娘《イホヘノイラツメ》生2新田部(ノ)皇子(ヲ)1と有(リ)然《サ》れは此《コ》は誰《イヅレ》の夫人なるか分別《ワキ》難きに似たれと八に藤原(ノ)夫人(ノ)歌として註に字《アサナヲ》曰(フ)2大原(ノ)大刀自《オホトシト》1即(ハチ)新田部(ノ)皇子之母也と有(リ)是(レ)に依れは五百重(ノ)娘なりけり
 
103 吾里爾大雪落有大原乃古爾之郷爾落卷者後《ワカサトニオホユキフレリオホハラノフリニシサトニフラマクハノチ》
 
吾(カ)里とは京師《ミサト》なり大原乃古爾之郷《オホハラノフリニシサト》とは戯《タハフ》れに夫人の郷《サト》を貶《オト》しめ賜へるなり意(ロ)は吾《》京《サト》には初大眞雪《ハツオホミユキ》ふりたり其地《ソコ》は古《フル》ひたる片邊《カタホトリ》なれは後《オク》れて落《フル》なり羨《ウラヤマ》しからすやとなり然《サ》て裏《シタ》には夫人の里居《サトヰ》を待難《マチカネ》賜へる故《カラ》に催促《ウナカ》し賜へる物なり
 
藤原(ノ)夫人《オホトシ》奉《マツレル》v和《コタヘ》歌一首
 
104 吾崗之於可美爾言而令落雪之摧之彼所爾塵家武《ワカヲカノオカミニイヒテフラセタルユキノクタケシソコニチリケム》
 
於可美は龍神《タツカミ》また雷神《ナルカミ》の事なり古事記【迦具土神《カクツチ》の段(リ)】に集(マル)2御刀之手上《ミハカシノタカミニ》1血《チ》自(リ)2手俣《タナマタ》1漏出所成神名闇淤加美《クキテヽナリマセルカミノミナハクラオカミノ》神次(ニ)闇御津羽《クラミツハノ》神云々また神代紀【一書】に伊弉諾《イサナキノ》尊拔v劍《タチヲ》斬(リテ)2軻遇突智《カクツチヲ》1爲2三段《ミキタニ》1其(ノ)一段《ヒトキタハ》是|爲《ナル》2雷神(ト)2一段(ハ)是爲2大山祇《オホヤマツミノ》神(ト)1一段(ハ)是|爲《ナル》2高※[靈の巫が龍]《タカオカミト》1【※[靈の巫が龍]は字書に龍也又靈なりとも有り】また豊後國風土記に玖珠《クスノ》郡|球※[譚の旁]《クタミノ》郷(ハ)此(ノ)村(ニ)有v泉昔(シ)景行天皇|行幸《イテマシノ》之時(ニ)奉膳之《カシハテ》人擬於御飯《オホミケノマカナヒニ》令(ルニ)v汲(マ)2泉水《イツミヲ》1即《ソコニ》有(キ)2蛇※[靈の巫が龍]1謂2於箇美《オカミト》1於v是天皇|勅2云《ノタマヒキ》必(ラス)將有※[自/死]莫令汲用《クサカラムナクマセソト》1因《カレ》斯(レ)名2曰《イフヲ》※[自/死]泉《クサイツミト》1△今(マ)謂(フハ)2球
頭注、 △因《ヤカテ》爲《シキ》v名《ナト》
※[譚の旁]《クタミノ》郷(ト)1者|訛也《ヨコナマレルナリ》また常陸(ノ)國(ノ)風土記に新治《ニヒハリノ》郡(ニ)驛家《ウマヤアリ》名2曰《イフ》大神《オホカミト》1所2以《ユヱハ》然稱《シカナツクル》1者|大蛇多在《ヲロチサハニアリ》因《カレ》名《ナツケツ》2驛家《ウマヤニ》1これらに(132)見所《ミエ》たる事體《コトノサマ》を按《オモ》ふに※[靈の巫が龍]《オカミ》は龍蛇の類《タクヒ》の神にて於可美《オカミ》は大神《オカミ》なるへし狼《ヤマイヌ》を大神《オホカミ》と云(フ)是(レ)なり然《サ》て又(タ)是(レ)か雷《ナルカミ》なる證據《アカシ》は雄略記に七年秋七月甲戌(ノ)朔丙子天皇|詔《ノリタマハク》2少子部螺羸《チヒサコヘノスカルニ》1曰|朕《アレ》欲v見2三諸岳《ミモロノヲカノ》神(ノ)之形(ヲ)1汝|膂力《チカラ》過(キタリ)v人(ニ)自《ミツカラ》行(キテ)捉來《トラヘヰテマヰコ》螺羸答(ヘ)曰(サク)試(ロミニ)往(テ)捉(ラヘマヰコム)之乃(ハチ)登(リ)2三諸(ノ)岳(ニ)1捉2取《トラヘテ》大(ナル)蛇《ヲロチヲ》1奉(リキ)v示《ミセ》2天皇(ニ)1天皇不2齋戒1其(ノ)雷《カミ》〓〓《ヒカリヒロメキ》目精《マナコ》赫赫《カヽヤク》天皇|畏《チタマヒ》蔽v目(ヲ)不《ス》v見(タマハ)却2入《カクリマシ》殿中《オホトノヌチ》1使v放(タ)v於《ニ》v岳|仍《カレ》賜名爲雷《イカツチトイフナヲタマヒキ》これは雷《ナルカミ》即《ヤカテ》大蛇《ヲロチ》なる證《アカシ》なり又本朝文粹【十二】道場法師(ノ)傳(ニ)【都良香撰】云(ク)法師者尾張(ノ)國|阿育《アユチノ》郡(ノ)人也不v得2姓名(ヲ)1相(ヒ)傳(ヘテ)云(ク)敏達天皇之|世《ミヨニ》尾張(ノ)國(ニ)有(リ)2一(ノ)農夫1夏日|漑《ミツマクニ》v田于v時天|※[日+壹]《クモリテ》雷雨(ス)父避2雨(ヲ)樹下(ニ)1支《サヽヘテ》v耒《スキヲ》而立(テリ)俄而雷墜2父(ノ)前(ニ)1形如2小兒(ノ)1父擧(テ)v耒(ヲ)將v撃(ムト)雷語(テ)v父(ニ)云汝莫v害v我(ヲ)我(レ)必(ラス)報(イセム)v汝(ニ)父問(ヒテ)v雷(ニ)云(ク)汝何(ニヲ)以(テカ)報(イムトスル)v恩(ニ)雷答(ヘテ)云(ク)我(レ)今(マ)令(メ)3汝(ニ)生2異兒(ヲ)1以(テ)v此(レヲ)報(イム)v汝(ニ)今(マ)所《ラクハ》v望(ム)爲(ニ)v我(レ)造(リ)2一(ツノ)楠本舟《クスフネヲ》1其(ノ)中(ニ)盛(リ)v水(ヲ)泛(クルニ)以2竹葉(ヲ)1忽(マチニ)與(ヘヨ)v我(ニ)父如(クシテ)2雷(ノ)言(フカ)1以v舟與v之(レニ)雷得(テ)v舟(ヲ)作《ナシ》v便(リト)須臾《スナハチ》臭登(リキ)v天(ニ)居(ルコト)數月(アリテ)父(カ)妻《メ》有身《ハラメリ》及v期(ニ)生v男(ヲ)其體可v驚靈蛇|纏2繞《マツヒメクルコト》凡《スヘテ》二匹首尾相(ヒ)至(リテ)2併垂《アハセタレタリ》於後(ロニ)1父甚異v之童子年十有餘(ニシテ)甚有2膂力《チカラ》1能(ク)擧2方八尺(ノ)石(ヲ)1投(ルコト)v之(ヲ)數丈及(ヒテ)2其投(ルニ)1v石(ヲ)足跡《アト》入(ル)v地《ツチニ》三四許寸云々【此事靈異記にも見ゆ】これに靈蛇|纏2繞《マツヒメクルコト》兒(ノ)頸《クヒヲ》11凡(ヘテ)二匹首尾相至(リテ)併(ハセ)2垂(レタリ)於後(ロニ)1と云(フ)事即(ハチ)雷の令《シメ》v産《ウマ》たる徴《シルシ》なるへけれは是(レ)も亦《マタ》一(ツノ)證《アカシ》なり又日本後紀に弘仁六年夏六月癸亥山城(ノ)國|乙訓《オトクニノ》郡|物集《モツメ》國背《クセノ》兩郷雷風壞2百姓(ノ)廬舍(ヲ)1人或(ヒハ)被2震死1先(キニ)v是(ヨリ)有(リテ)2大蛇1入2人(ノ)屋(ニ)1即(ハチ)※[殺の異体字]《コロセリ》v之(ヲ)未《ナラス》v幾《イクハク》其(ノ)人被v震これも雷は大蛇なる由なり竹取(ノ)物語【大伴(ノ)御行《ミユキノ》大納言|龍首《タツノクヒノ》玉取らむとする處】に過《ハヤ》き風ふき世界《セカイ》くらかりて船を吹(キ)もてありく何《イツ》れの方とも知らす船を海中にまかり入りぬへく吹(キ)まはして浪は船に打(チ)かけつゝ卷(キ)入れ雷《カミ》は落(チ)かゝるやうに閃《ヒラメ》きかゝるに云々揖取《カチトリ》答へて白《マウ》す云々風ふき波|烈《ハケ》しけれとも雷《カミ》さへいたゝきに落(チ)かゝるやうなるは龍《タツ》を殺(ロ)さむと求め給ひさふらへは有(ル)なり疾風《ハヤテ》も龍《リウ》の令吹《ワカス》るなり云々大納言|起《オ》き出てのたまはく云々|龍《タツ》は鳴(ル)神の類にてこそ有(リ)けれ云々是(レ)も切《タシカ》に龍《タツ》は雷《ナルカミ》と所見《ミエ》たり又漢ふみ山海經【海内東篇】に雷澤(ノ)中(ニ)有2雷神1龍神(ニシテ)而人頭(ナリ)鼓(ツ)2其(ノ)腹(ヲ)1在2呉(ノ)西(ニ)1【淮南子にも見ゆ】是(レ)も相(ヒ)類《ニ》たる事なり如斯《カヽ》れは※[靈の巫が龍]《オカミ》は龍蛇の類(ヒ)の神にて雷神《ナルカミ》とも亦《マタ》別《コト》ならぬなるへし故(レ)此(ノ)神は雨水《アメ》を令落《フラス》る事を領《シ》(133)りて水分《ミクマリノ》神と申《マヲス》も此(レ)なり上に引(ケ)る雄略記七年の文に天皇詔2少子部連螺羸《チヒサコベノムラシスカルニ》1曰朕欲v見2三諸岳《ミモロノヲカ》神之形(ヲ)1云々或(ヒハ)云(ク)菟田墨坂《ウタノスミサカノ》神也この墨坂《スミサカノ》神と申すは神名帳(ニ)大和(ノ)國宇陀(ノ)郡宇太(ノ)水分《ミクマリノ》神社これなり【此(ノ)事は古事記(ノ)傳廿三(ノ)卷卅八(ノ)葉《ヒラ》已下に詳明《ツハラカ》なり】然《サ》れは水分《《ミクマリノ》》神の蛇神《ヲロチカミ》に坐《マ》し又(タ)雷《ナルカミ》は蛇《ヲロチ》にいませる事もいよゝ明著《アキラカ》なる物そ他所《ホカ》の諸々の水分《ミクマリノ》神も准《ナスラ》へて知(ル)へし偖《サテ》水分《ミクマリ》とは水《ミツ》を配《クマ》り分《ワケ》て雨をも雪をも順時《トキ》に令落《フラス》る事を掌《シ》る由《ヨシ》の神(ノ)名《ミナ》なり故(レ)此《コヽ》に作《ヨミ》賜へる意(ロ)も※[靈の巫が龍]神《オカミ》に誂《アト》らへて吾《ワ》か令落《フラセ》たる雪と云事なり【そも/\龍神《タツカミ》をばいと希々《マレ/\》には人の見る事もあれど雷は曾《カツ》て眼《メ》に觸れぬ故に人皆疑ひ臆度《オシアテ》をも云めり其《ソノ》中《ナカ》に漢《カラ》人の儒者《ズサ》の陰陽の論《サタメ》は鳴(ル)聲《オト》をきゝ※[火+玄]《カヽヤ》く光(リ)を見て憶《オシハカ》れるなり又(タ)西(ノ)蕃《クニ》の究理の説もいと稚《オサナ》し】如斯《カク》て一首《ヒトウタ》の意(ロ)は詔《ノタマ》ひ遣《オコ》せしその大眞雪《オホミユキ》は即《スナハチ》吾《ワ》か此地《コヽ》の※[靈の巫が龍]《オカミ》に誂《イヒ》て令落《フラセ》たる雪の摧裂《クタケ》のいさゝか其處《ソコ》に散りけるに社《コソ》と復《マタ》戯《タハフ》れて所聞奉《キコエマツ》られしなり
 
藤原(ノ)宮(ニ)御宇(メシ)天皇(ノ)代 高天原廣野姫《タカマノハラヒロヌヒメノ》天皇
 
大津(ノ)皇子竊(ニ)下(リマシ)2於伊勢(ノ)神(ノ)宮(ニ)1上(リ)來(マセル)時(ニ)大伯皇女御歌《オホクノヒメミコノミウタ》
 
天武紀に二年春二月丁巳(ノ)朔癸未(ノヒ)立(テ)2正妃(ヲ)1爲(ス)2皇后《オホキサキト》1【※[盧+鳥]野娑羅々皇女《ウヌノサラヽヒメミコ》即(ハチ持統天皇にまし/\き】后生2草壁(ノ)皇子(ノ)尊(ヲ)1先(ニ)納《メシテ》2皇后(ノ)姉《ミアネ》大田(ノ)皇女(ヲ)1爲v妃(ト)生3大來《オホクノ》皇女(ト)與《トヲ》2大津(ノ)皇子1次(ノ)妃大江(ノ)皇女生3長《ナカノ》皇子(ト)與《トヲ》2弓削《ユケノ》皇子1次(ノ)妃|新田部《ニヒタヘノ》皇女生2舍人《トネノ》皇子1又(タ)夫人藤原(ノ)大臣女氷上娘《オホオミノムスメヒカミノイラツメ》生2但馬(ノ)皇女1次(ノ)夫人氷上(ノ)娘(ノ)弟《オト》五百重娘《イホヘノイラツメ》生2新田部(ノ)皇子1次(ノ)夫人|蘇我赤兄《ソカノアカエノ》大臣(ノ)女|大〓娘《オホヌノイラツメ》生2一男二女1其(ノ)一(ハ)曰穗積《ホツミノ》皇子其二(ハ)曰|紀《キノ》皇女其(ノ)三(ハ)曰|田形《タカタノ》皇女(ナリ)天皇初(メ)娶《メシテ》2鏡(ノ)王(ノ)女《ムスメ》額田(ノ)姫王(ヲ)1生2十市(ノ)皇女1次(ニ)納《メシテ》2※[匈/月]形君徳善《ムナカタノキミトコセノ》女|尼子娘《アマコノイラツメヲ》1生2高市《タケチノ》皇子1次(ニ)宍人臣大麻呂《シヽヒトノオミオホマロノ》女|擬媛娘《kチヒメノイラツメ》生2二男二女1其(ノ)一(ハ)曰|忍壁《オサカヘノ》皇子其(ノ)二(ハ)曰|磯城《シキノ》皇子其(ノ)三(ハ)曰|泊瀬部《ハツセヘノ》皇女其(ノ)四(ハ)曰|託基《タキノ》皇女(ナリ)こは當代《コノミヨ》の御子《ミコ》の盡《コト/\》を擧(ケ)たり二年夏四月丙辰(ノ)朔己巳欲(シテ)v遣《シメムト》v侍《サモラハ》2大來《オホクノ》皇女(ヲ)于天(マ)照(ス)大神(ノ)宮(ニ)1而令(ム)v居《マサ》2泊瀬齋《ハツセノイツキノ》宮(ニ)1是(レハ)先(ツ)潔《サヤメテ》v身《ミヲ》稍近2神(ノ)之|所《ミモトニ》1億三年冬十月丁丑(ノ)朔乙酉(ノヒ)大來《オホクノ》皇女自(リ)2泊瀬齋《ハツセノイツキノ》宮1向2伊勢(ノ)神(ノ)宮(ニ)1八年夏五月庚辰(ノ)朔甲申(ノヒ)幸《イテマス》2于吉野(ノ)宮(ニ)1乙酉(ノヒ)皇|詔《ノリタマハク》2皇后及草壁(ノ)皇子(ノ)尊大津(ノ)皇子高市(ノ)皇子河島(ノ)皇子【此(ノ)河島は舍人(ノ)皇子なるべし其(ノ)由(シ)は新考の(空白)葉に云(ヘ)り考(ヘ)合(ス)べし】忍壁(ノ)皇子(134)芝基(ノ)皇子(ニ)1曰朕今日|與《ト》2汝等《ミマシミコタチ》1倶(ニ)盟《ウケヒテ》2于庭(ニ)1而千歳之後欲2無事1奈之(レヲ)皇子等共對曰《ミコタチミナコタヘマヲシタマハク》理實《コトハリ》灼然(ナリ)草壁(ノ)皇子先(ツ)進(ミ)盟曰《ウケヒタマハク》天神地祇《アマツカミクニツカミ》及(ヒ)天皇|證也《アキラメタマヘ》吾兄弟《アカアニオト》長幼|併《アハセテ》十餘王|各出于異腹《オノ/\コトハラカラナリ》然(レトモ)不別同異《ヒトツハラカラノゴト》倶(ニ)隨《マニマニ》2天皇勅《オホキミノミコトノ》1而相(ヒ)扶(ケテ)無(ラム)v忤《タカフコト》若(シ)自(リシテ)v今|以後《ノチ》不《サラハ》v如(クナラ)2此(ノ)盟《ウケヒノ》1者身命亡(ヒム)之子孫絶(エム)之|非《シ》v忘(レ)非《シ》v失《アヤマタ》矣五皇子以v次(テヲ)相(ヒ)盟《ウケフコト》如(シ)v先(ノ)然(シテ)後(ニ)天量|曰《ノタマハク》|朕男等《アカコトモ》各異腹(ニシテ)而生(ル)然(レトモ)今如(ク)2一母産《ヒトツハラカラノ》1慈《メクマム》之則(ハチ)披《トキ》v襟《ミコロモヲ》抱《タムタキ》2其(ノ)六皇子(ヲ)1以|盟曰《ウケヒクマハク》若(シ)違(ハヽ)2茲(ノ)盟(ニ)1忽(マチ)亡(ホサム)2朕(カ)身(ヲ)1皇后之盟(モ)且如(シ)2天皇(ノ)1丙戌車駕還v宮己丑六皇子共(ニ)拜2天皇(ヲ)於大殿(ノ)前(ニ)1【此段《コヽノクタリ》を熟々《ツラ/\》案《カムカフ》るに此(ノ)御盟は最《モト》も故《ユヱ》有(ル)事なり然《サ》るは先(ツ)此(ノ)天武の皇子等《ミコタチ》はしも皆(ナ)凡《タヽ》ならず秀《スク》れて御座《マシマ》せる中に大津(ノ)皇子は御長子《ミコノカミ》と所見《ミエ》たりそのうへ忌々《ユヽ》しく大《イタ》く賢《カシコ》くさへまし/\しければ即位なるべき皇子《ミコ》にぞましましける懷風藻に大津(ノ)皇子(ハ)者淨御原(ノ)帝(ノ)長子也状貌魁悟器宇峻遠幼年好v學博覽而能屬v文及v壯愛v武多力而能(ク)撃v劍性頗(ル)放蕩不v拘2法度(ニ)1降《クタシ》v節禮v士|由(リテ)v是(レニ)人多(ク)附記(ス)時(ニ)有2新羅(ノ)僧行心(ト云モノ)1解《モノサトレリ》2天文卜筮(ノコトヲ)1詔《ツケテ》2皇子(ニ)1曰(ク)太子(ノ)骨法|不《アラス》2是(レ)人臣之相(ニ)1以v是(レヲ)久(ク)在2下位(ニ)1恐(ラクハ)不v全v身(ヲ)因進2逆謀1迷2此(ノ)※[言+圭]誤1遂(ニ)圖(ル)2不軌(ヲ)1嗚呼惜哉|※[糸+温の旁]《タクハヘ》2彼(ノ)良才(ヲ)1不d以2忠孝(ヲ)1保(タ)uv身近(ツケ)2此(ノ)※[(女/女)+干]豎(ヲ)1卒(ヒニ)以2戮辱(ヲ)1自(ラ)終(レリ)古人慎2交遊(ヲ)1之意|固《マコトニ》以深哉時(ニ)季廿四と所見《ミエ》たるにても思(フ)べし然《シカ》るに又(タ)持統天皇の御腹《ミハラ》に草壁(ノ)皇子ましまし此(ノ)皇后は殊なる所以《ユヱ》のいませば御弟《ミオト》なれど去(リ)賜ふ事|克《アタ》はず高市(ノ)皇子は壬申(ノ)年(ノ)亂(レ)に大功まして天武の御世定(マ)り舍人《トネ》忍壁《オサカヘ》芝基《シキ》その歟《ホカ》の皇子も各《オノ/\》秀《スク》れてましませる事は物にも見え人も知(リ)たるが如し然《サ》て又(タ)此(ノ)六皇子の餘《ホカ》にも弓削皇子も即位の御志《ミコヽロサシ》の端は懷風藻の葛野《カツヌノ》王(ノ)傳にかず/\所見《ミエ》たる事(ノ)趣(ムキニ)に著《シル》し然《サ》れば持統の御代に至りて御庶子等《ミマコタチ》をば多く棄《キラ》ひ賜(ヒ)て其(ノ)事も此(ノ)集(ノ)二三(ノ)卷にほの/”\所見《ミエ》たる往々《トコロ/\》に云(ヘ)り故(レ)父尊《チヽミコト》未然《マタキニ》思ほし慮《ハカ》りて此(ノ)御盟《オミウケヒ》は有(リ)つる事なるべし】十年春二月庚子(ノ)朔甲子(ノヒ)立2草壁(ノ)皇子(ノ)尊(ヲ)1爲2皇太子1因以令v攝《フサネヲサメ》萬機(ヲ)1十二年春二月己未朔大津(ノ)皇子始(メテ)聽2朝政(ヲ)1十五年夏五月庚子(ノ)朔癸亥天皇體不v安云々朱鳥元年秋九月戊戌朔丙午天皇(ノ)病遂(ニ)不《スシテ》v差《エマサ》崩2于正宮(ニ)1云々當(リテ)2是(ノ)時(ニ)1大津(ノ)皇子|謀2反《ソムキマツリタマヒキ》於皇太子(ヲ)1持統紀【卷首】に朱鳥元年秋九月戊戌(ノ)朔丙午|天渟中原瀛眞人《アメヌナハラオキノマヒトノ》天皇崩(リマシヌ)皇后|臨朝稱制《マツリコトキコシメス》冬十月戊辰(ノ)朔己巳皇子大津謀反發覺逮(ヒテ)v捕(フルニ)2皇子大津(ヲ)1併3捕《アハセトラフ》爲2皇子大津1所《レタル》2※[言+圭]語《アサムカ》1直廣肆|八口《ヤクチノ》朝臣|音橿《オトカシ》小山下|壹伎連博徳《ユキノムラジハカトコ》與《ト》2大舍人《オホトネリ》中臣(ノ)朝臣|臣《オミ》麻呂巨勢(ノ)朝臣|多益須《タヤス》新羅(ノ)沙門行心及(ヒ)帳内礪杵道作等《トネリトキノミチツクリラ》三十餘人(ヲ)1庚午(ノヒ)賜2死(ヲ)皇子大津(ニ)於|譯語田舍《ヲサタノミヤニ》1時(ニ)年二十四妃皇女山邊披v(ヲ)髪徒跣奔赴殉《カチハタシニテハシリユキアヒトモニミウセヌ》焉見(ル)者《ヒト》皆《ミナ》歔欷《ナケク》皇子大津(ハ)天渟中原瀛(ノ)眞人(ノ)天皇(ノ)第三(ノ)子《ミコナリ》也【第三子とは御姉《ミアネ》十市《トヲチノ》皇女|大伯《オホクノ》皇女ましませばなり男王《ヒコミコ》には此(ノ)大津なむ御子長《ミコノカミ》には坐《マシマ》しける】容止墻岸(135)音辭俊朗《ミカホカクサカシクミコトハスクレアキラカナリ》爲(ニ)2天命開別《アメミコトヒラカスワケノ》天皇1所《マレマツリタマヒキ》v愛《メク》【御孫《ミヒコ》なり】及v長|辨《ワキ/\シク》有2才學1尤(モ)愛《コノミタマヒキ》2文筆(ヲ)1詩賦之興(レルコト)自2大津1始(マル)也丙申(ノヒニ)詔曰皇子大津(ノ)謀反(ニ)※[言+圭]誤《アサムカレタル》吏民帳内|不《スシテ》v得v已(ムコトヲ)從(ヘル)v謀(ニ)者(ノ)今皇子大津已(ニ)滅(ヒ)從者(ノ)當(ヘキ)v坐2皇子大津(ニ)1者(ハ)皆(ナ)赦(シタマフ)之但(シ)礪杵《トキノ》道作(ヲ)流2伊豆(ニ)1又|詔《ミコトノリニ》曰(ク)|新羅沙門《シラキノホウシ》行心〔二字傍線〕與《クミセレトモ》2皇子大津(ノ)謀反(ニ)1朕不v忍(ヒ)2加法《ツミスルニ》1徙2飛騨(ノ)國(ノ)伽藍《テラニ》1十一月丁酉(ノ)朔壬子(ノヒ)奉《サモラヒマセル》2伊勢(ノ)神祠《オホミカミノミヤニ》1皇女|大來《オホク》還2至京師(ニ)1と所見《ミエ》たり懷風藻に大津(ノ)皇子五言臨終一絶金烏臨(ミ)2西舍(ニ)1鼓聲|催《ウナカス》2短命(ヲ)1泉路(ニ)無(シ)2嬪主1此(ノ)夕(ヘ)誰(カ)家(ニカ)向(ハム)また三に大津(ノ)皇子|被《サレタマフコロ》v死之時(ニ)|磐余《イハレノ》池(ノ)般《ホトリニテ》流涕御作歌一首百|傳磐余池爾嶋鴨乎今日耳見哉雲隱去牟《ツタフイハレノイケニナクカモヲケフノミミテヤクモカクリナム》また此(ノ)下にも大津(ノ)皇子(ノ)薨之《カムサリタマヘル》後(ニ)大來(ノ)皇女從(リ)2伊勢(ノ)齋《イツキノ》宮1上京之時(ノ)御作歌《ミウタ》二首 神風之伊勢能國爾母有益乎奈何可來計武君毛不有國《カムカセノイセノクニニモアラマシヲナニシカキケムキミモマサナクニ》欲見吾爲君毛不有國奈何可來計武馬疲爾《ミマクホリアカスルキミモアラナクニナニシカキケムウマツカルヽニ》また移(シ)2葬(レル)大津(ノ)皇子屍(ヲ)於|葛城二上山《カツラキノフタカミヤマニ》1之時(ニ)大來《オホクノ》皇女哀傷御作歌二首|宇都曾見乃人爾有吾哉從明日者二上山乎弟世登吾將見《ウツソミノヒトナルワレヤアスヨリハフタカミヤマヲオトセトワカミム》礒之於爾生流馬醉木乎手折目杼令視倍吉君之在常不言爾《イソノウヘニオフルアシヒヲタヲラメトミスヘキキミカアリトイハナクニ》また古今集《(ノ)序に 紀(ノ)淑望《ヨシモチ》 自(リ)3大津(ノ)皇子(ノ)之初(メテ)作(レリシ)2詩賦(ヲ)1詞人才子慕(ヒ)v風(ヲ)繼(キ)v塵(ヲ)移(シテ)2彼(ノ)漢家(ノ)之字(ヲ)1爲2我(カ)日域之俗(ト)1民業一(タヒ)改(マリ)和歌漸衰(フ)云々然《サ》て此《こヽ》に竊(ニ)下2於伊勢(ノ)神(ノ)宮(ニ)1とは然《サ》る大事《オホコト》の祷乞《コヒネキマヲシ》の爲(メ)又(タ)姉皇子《アネミコ》に宜《ノタマヒ》ひ語《カタ》らふとなるへし然《サ》る度《タヒ》なれは此《コノ》御決別《ミワカレ》の歌の尋常非《ヨノツネナ》らす悲《カナ》しく所聞《キコユル》なるへし【又此(ノ)下(ノ)三十二葉にも云(ヘ)る事あり考(ヘ)合(ス)べし】
 
105 吾勢枯乎倭邊遣登佐夜深而鷄嶋露爾吾立所霑之《アカセコヲヤマトヘヤルトサヨフケテアカトキツユニアカタチヌレシ》
 
106 二人行杼去過難寸秋山乎如何君之獨越武《フタリユケトユキスキカタキアキヤマヲイカテカキミカヒトリコエナム》
 
大津(ノ)皇子|贈《タマヘル》2石川郎女《イシカハノイラツメニ》1御歌《ミウタ》一首
 
107 足日木乃山之四付二妹待跡吾立所沾山之四附二《アシヒキノヤマノシツクニイモマツトアレタチヌレヌヤマノシツクニ》
 
頭注、 郎女は上【十七葉】に出
足日木乃《アシヒキノ》は冠辭考(ニ)云(ク)生繁木《アシヒキ》なり十四に生繁本《オフシモト》このもと山のましはにも云々と有(ル)歌の意(ロ)なり云々○山之四付二《ヤマノシツクニ》は山《ヤマ》とは木草等《キクサナト》の繁茂《シケ》れる地《トコロ》を云(フ)名義《ナノコヽロ》は彌回《ヤマ》なり彌《ヤ》とは彌《イヤ》か上《ウへ》にいよ/\蕃蕪《シケ》り蔓延《ホヒコ》るを云(フ)常陸(ノ)國(ノ)風土記 行方《ナメカタノ》郡 に點《シメテ》2自(リ)v郡西(ノ)谷《ヤノ》之葦原(ヲ)1墾2闢《ヒラケリ》新治《ニヒハリノ》田(ヲ)1此(ノ)時(ニ)夜刀《ヤトノ》神相群(レ)引率《ヒキヰ》悉盡《コト/\ニ》到來《キタリテ》左右防障《カニカクニサハリテ》令(ム)v勿(ラ)2耕佃《タツクルコト》1 俗(ニ)曰謂(テ)v蛇(ヲ)(136)爲2夜刀《ヤトノ》神(ト)1云々凡(ヘテ)此(ノ)郡(ノ)側郊原《ホトリノヌハラニ》甚《イト》多(ク)所住之《スメリ》】この夜刀《ヤトノ》神も薮處《ヤト》なる事註にて知らる【谷《ヤ》と書(ケ)るも同じ】十四【東歌】に安里蘇安爾於布流多麻母乃《アリソヤニオフルタマモノ》云々十六【能登(ノ)國(ノ)歌】に※[土+皆]楯熊木乃夜良爾新羅斧墮入《ハシタテノクマキノヤラニシラキヲノオトシイレ》云々……是(レ)等も荒礒薮《アリソヤ》また藪等《ヤラ》なり今も東《アツマ》の國々にて然《サ》る水に着《ツケ》る地《トコロ》を夜《ヤ》とゝ云(ヘ)り藪《ヤフ》は禰生《ヤフ》なり又(タ)谷《タヤツ》も藪處《ヤト》なり【吝嗇をヤブサカともヤツ/\シともセハシとも訓(ム)なども是(レ)より及べる意(ロ)なり又(タ)卑賤《イヤ》しも彌《イヤ》しなり】是(レ)等《ラ》を以(テ)夜《ヤ》の意(ロ)を知(ル)へし麻《マ》は浦回《ウラマ》磯回《イソマ》里回《サトマ》なとの如し如是《カヽ》れは夜麻《ヤマ》とは草木の彌《イヤ》か上《ウヘ》に繁蕪《シケ》れる地《トコロ》の稱《ナ》なる事知(ル)へし△故(レ)古(ル)く夜麻と云(ヘ)
頭注、 △陸奧國語《ミチノクノコトハ》に蕪穢《キタナ》き事をヤバシイと云(ハ)もヤバは夜麻《ヤマ》なり
る言《コト》には常《ツネ》に云(フ)山《ヤマ》とは異《コト》なる有(リ)十に能登河之水底辨爾光及爾三笠之山者咲來鴨《ノトカハノミナソコサヘニテルマテニミカサノヤマハサキニケルカモ》【花(ノ)木の多かる處(ロ)を山と云(ヘ)りお○又三に速代而母見手益物乎山背高槻村散る去奚留鴨《トクキテモミテマシモノヲヤマシロノタカツキノムラチリニケルカモ》この村《ムラ》も樹群《コムラ》を令持《モタセ》たるなり】八に思具禮能雨無間莫零紅爾丹保敵流山之落卷惜毛《シクレノアメマナクナフリソクレナヰニニホヘルヤマノチラマクヲシモ》【紅葉樹《モミチノキ》多かる處(ロ)を山と云り】△
頭注、 △七に佐保山乎於凡爾見之鹿跡今見者山夏香思母風吹莫勤【花にまれ黄葉にまれ上《カミ》に准《ナツラ》へて山と云ことを知へし】九に春山者散過去鞆三和山者未含君待勝爾【花なること准へて知へし】十に春去者紀之許能暮之夕月夜欝束無裳山陰爾指天《ハルサレハキノコノクレノユフツクヨオホツカナシモヤマカケニシテ》【紀之許能暮《キノコノクレ》は木《キ》の木《コ》の陰《クレ》なり然《サ》れば此(ノ)山陰《ヤマカケ》は木陰《コクレ》を云(ヘ)るなり山陰の字《モシ》の意(ロ)にては聞えす】十八に山乎之毛佐波爾於保美等百鳥能來居弖奈久許惠《ヤマヲシモサハニオホミトモヽトリノキヰテナクコヱ》【樹群《コムラ》を多《サハ》に多《オホ》みと百鳥の木に來(リ)居《ヰ》て鳴《ナク》となり然らされは山を多《サハ》に多みと云(フ)こと歌に合《カナ》はす來居弖《キヰテ》と云(フ)事も聞え難し】十四に安思我良能波姑禰乃夜麻爾安波麻吉※[氏/一]《アシカラノハコネノヤマニアハマキテ》云々【此(ノ)歌を以(テ)夜麻《ヤマ》と禰《ネ》との差別《ケチメ》を知(ル)へし禰《ネ》は峯《ネ》にて高きを云(フ)箱根相摸根|甲《カ》斐根武藏根筑波根白(ラ)根富士(ノ)根などの類(ヒ)を打(チ)任(カ)せて山と云(ヘ)る例《コト》は古(ル)くは長々《ヲサ/\見當らず然《サ》れば此《コヽ》に筥根《ハコネ》の山と云(ヘ)るは例に違(ヒ)又(タ)嶺《ネ》の山と重なれるも如何《イカヽ》なり然るに夜麻を藪回《ヤマ》の意(ロ)と爲《ス》れば粟蒔而と云(フ)に意(ロ)いとよくつつきて聞ゆこれを以(テ)山と嶺《ネ》との異《カハリ》を知(ル)へし】又山(ノ)口(ノ)祭(リ)と云(フ)名も材《キ》を採《トリ》に林《シゲキ》に入(リ)初《ソム》る禮《シワサ》また十一に開木代《ヤマキシロ》【國(ノ)名の山城なり】と書(ケ)る等《ナト》も其《ソレ》にて今(ノ)世の言《コト》にも木を生《オフ》すを山を立(ツ)と云(ヒ)木伐《キコリ》に往(ク)を山に往(ク)と云(ヒ)樵夫《キコリオノコ》を山かつと云(フ)なとも皆(ナ)山とは木の立(ツ)所《トコロ》を云(フ)名なれはなり……是以《コヽヲモテ》生繁木《アシヒキ》の山《ヤマ》と續《ツヽ》くる由《ヨシ》をも又《マタ》始《ハシ》めて(137)併《アハ》せて通《サト》りぬへし然《サ》れは此《コヽ》に足日木乃山之四付二妹待跡吾立所沾《アシヒキノヤマノシヅクニイモマツトワレタチヌレヌ》と宜《ノタマ》へる意(ロ)は然《サ》る樹下《コノモト》に女《ヲミナ》を待(チ)賜ひ眞夜深《サヨフケ》て林《シケキ》の滴瀝《シツク》に所沾《ヌレ》つゝ無益《イタヅラ》に立(チ)待(チ)明(カ)しつるそやとその翌旦《ツトメテ》に所聞遣《キコエツカ》はせるなり四附《シヅク》と云(フ)に夜深き由(シ)は聞え又(タ)山之四付二と云(フ)言《コト》を打(チ)返して宜(マ)へるも恨(ミ)を暢《ノヘ》給へる物なり然《サ》るは此(ノ)石川(ノ)郎女は皇太子日並知(ノ)皇子(ノ)命の娶《メシ》賜へりしを又(タ)最《イト》竊《ヒソカ》に會《アヒ》給へると所見《ミユ》れは【次々《スキ/\》の歌|等《トモ》に見ゆ】わりなく契約《チキ》りて待(チ)賜へるなるへし
 
石川(ノ)郎女奉(レル)v和(ヘ)歌一首
 
108 吾乎待跡君之沾計武足日木能山之四附二成名物乎《アヲマヅトキミカヌレケムアシヒキノヤマノシツクニナラマシモノヲ》
 
若《モ》し其《ソノ》時《ヲリ》の山の滴《シツク》に有(リ)せは君に濡(レ)添ふへかりける物をやなり
 
大津(ノ)皇子|竊《ヒソカニ》婚《アヒマセル》2石川(ノ)郎女(ニ)1時(ニ)津守連通《ツモリノムラシトホル》占2露《ウラナヒアラハセルニ》其(ノ)事(ヲ)1皇子(ノ)御作歌《ミウタ》一首
 
女郎は郎女を漢文《カラサマ》に爲《セ》るなり津守連通《ツモリノムラシトホル》は續紀(ニ)和銅(ノ)七年正月甲子正七位(ノ)上津守(ノ)連通(ニ)授2從五位(ノ)下(ヲ)1十月丁卯任2美作(ノ)守(ニ)1養老(ノ)五年正月甲戊(ノ)詔(ニ)曰(ク)文人武士(ヘ)國家(ノ)所v重醫卜方術(ハ)古今斯(レヲ)崇宜(ロシク)d擢2於百僚之内(ヨリ)1優2遊學業(ニ)1堪(ヘタル)v爲(ルニ)2師範1者(ニハ)特《コトニ》加2賞賜(ヲ)1勸c勵《スヽメハケマス》後生(ヲ)u因(テ)賜2陰陽從五位(ノ)下津守連通(ニ)※[糸+施の旁]十匹絲十※[糸+句]布廿端鍬廿口(ヲ)1七年正月内子授2從五位(ノ)上(ヲ)1と有(リ)………………………………………………………………………………………………………………………………竊婚《ヒソカニヨハフ》占露《ウラナヒアラハス》なと有(ル)は次(キ)に日並(ノ)皇子(ノ)尊贈(リ)2賜(ヘル)石川女郎(ニ)1御歌一首【女郎(ノ)字《アザナヲ》曰(ヘリ)2大名兒《オホナコト》1】大名兒彼方野邊爾苅草乃束間毛吾忘目八《オホナコヲヲチカタヌヘニカルクサノツカノアヒタモアレワスレメヤ》と有(リ)て日並(ノ)皇太子に御《メサ》るゝ人なりしを大津(ノ)皇子は竊《ヒソカ》に婚《アヒ》賜(ヘ)る其(レ)をこの津守(ノ)連の占(ラナ)ひ露はせるなり然《サ》るは既《サキ》にも云(ヘ)るか如く此《コ》の皇太子は持統天皇の御腹《ミハラ》の皇子《ミコ》なるを其(ノ)御世に此(ノ)事有(リ)けるか故《ユヱ》に然《サ》る大事には處置《オキテ》賜へると所思《オホ》ゆ又(タ)此(ノ)上(ミ)の歌|等《トモ》の處(ロ)に説(ヘ)る事をも考へ合すへし
 
109 大船之津守之占爾將告登波益爲爾知而我二人宿之《オホフネノツモリノウラニノラムトハマサシニシリテワカワタリネシ》
 
大船之《オホフネノ》は津守《ツモリ》の枕(ラ)語(ハ)なり然有《サル》由《ヨシ》は海《ウミ》の大船の行(ク)には津を守《マモ》り乍《ツヽ》【守《マモ》るとは舟の泊《ハツ》べき津を覓《ト》め失《ウシナ》はず熟《ヨ》く守《マモ》りて行(ク)を云(フ)】渡る物なれはなり○津守(138)之浦爾《ツモリノウラニ》は津守(ノ)連《ムラシ》か占《ウラ》に又《マタ》攝津(ノ)國の津守の浦を兼《カケ》たり○將告登波《ノラムトハ》は占兆《ウラカタ》を告《ノ》る事と船を乘《ノ》るとに兼《カケ》たる詞の工(ミ)なり○益爲爾知而《マサシニシリテ》は正《マサシ》になり
 
日並皇子尊《ヒナメシノミコノミコト》贈(リ)2賜(ヘル)石川(ノ)女郎(ニ)1御歌一首 女郎(ノ)字《アサナヲ》曰(ヘリ)2大名兒《オホナコト》1也
 
110 大名兒彼方野邊爾苅草乃束間毛吾忘目八《オホナコヲヲチカタヌヘニカルクサノツカノアヒタモアレワスレメヤ》
 
大名兒《オホナコ》とは註に云(ヘ)る如く此(ノ)人の字《アサナ》なるを即《ヤカテ》此(ノ)御歌に取(リ)ては名の高く大(キ)く所聞《キコユ》る好(キ)女(ナ)として宜《ノタマ》へる物にて二(ノ)句は其(レ)を遠方《ヲチカタ》に置(キ)てと云(フ)意(ロ)以(テ)續け賜へるなり三四(ノ)句は草を苅るには左(リノ)手に握《ツカミ》て右(リノ)手に鎌をは持(チ)て刈るなる其(ノ)一(ト)握(ミ)の間《ホト》無き事の由なり
 
幸(マセル)2于吉野(ノ)宮(ニ)1時(ニ)弓削皇子《ユケノミコ》贈(リ)2與《タマヘル》額田(ノ)王(ニ)1歌一首
 
此(ノ)天皇《スメラミコト》【持統】吉野の夏の行幸《ミユキ》は紀を檢《カムカ》るに大方《オホカタ》毎年《トシコト》に有(リ)弓削(ノ)皇子も其(ノ)奉供《ミトモ》にて此(ノ)御歌は彼處《ソコ》より京に贈り賜へるなり
 
111 古爾戀流鳥鴨弓弦葉乃三井能上從鳴渡遊久《イニシヘニコフルトリカモユツルハノミヰノウヘヨリナキワタリユク》
 
古爾戀流鳥鴨とは霍公鳥《ホトヽキス》と云(フ)事を裏《シタ》に持(チ)て其《ソ》を額田(ノ)王の解《サト》りぬへく宜《ノタマ》ひ遣《ツカ》はせるなり其《ソノ》所以《ユヱ》は此(ノ)鳥は必らす去年《コソ》の其(ノ)時を知(リ)て彼方《ヲチカヘ》皈り翔《カケ》り來鳴《キナ》く聲の舊(ル)きを慕《シタ》ふ如くなれはなり然《サ》れは集中の歌に本霍公鳥《モトホトヽキス》また本津人霍公鳥《モトツヒトホトトキス》とも舊(ル)きを慕ふ意(ロ)に作《ヨメ》るも多有《オホカリ》また後(ノ)世に時鳥と書くも時を知(リ)て來《ク》る鳥の由《ヨシ》なり○弓弦葉乃三井能上從《ユツルハノミヰノウヘヨリ》此(ノ)地《トコロ》未詳《イマタサタカナラス》○御歌の意(ロ)は父天皇【天武】の吉野(ノ)宮に御座《イマ》しゝ時《ヲリ》の事を懷《オモ》ほし出(ツ)る其(ノ)時《トキ》しもあれ此(ノ)鳥の憐《アハ》れに啼(キ)度《ワタ》るを聞(カ)して額田(ノ)王は情知《コヽロシリ》の舊(ル)人なれは時《ヲリ》過(ク)さす事《ワサ》と京まて贈り賜へるなり
 
額田(ノ)王奉(レル)v(ヘ)和歌一首從(リ)2倭《ヤマトノ》京1進入《タテマツレリ》
 
112 古爾戀良武鳥者霍公鳥蓋哉鳴之吾戀流其騰《イニシヘニコフラムトリハホトヽキスケタシヤナキシワカコフルコト》
 
從2吉野1折(リ)2取(リテ)蘿生《コケムセル》松(ノ)柯《エタヲ》1遣《ツカハセル》時(ニ)額田(ノ)王(ノ)奉入《タテマツレル》歌一首
       
天皇《スメラミコト》の贈り賜へるなり
 
113 三芳野乃王松之枝者波思吉香聞君署之御言乎持而加欲波久《ミヨシヌノヤママツカエハハシキカモキミカミコトヲモトテカヨハク》
 
玉の小琴(ニ)云(ク)玉は山の誤(リ)なり集中誤(マ)れる例多し【云々】波思吉《ハシキ》は愛《ハシ》きなり
 
但馬(ノ)皇女|在《イマセル》2高市(ノ)皇子(ノ)宮(ニ)1時(ニ)思2穗積(ノ)皇子(ヲ)1御歌一首
 
此(ノ)三柱《ミハシラ》は各《オノ/\》異母《コトミハラ》からなり【上(ノ)廿八九葉に擧(ケ)たるにて知(ル)へし】然《サ》て皇女は高市の妃《ミメ》に成(リ)て其(ノ)宮に御坐《マシマ》しつる間《ホト》に穗積と竊《ヒソカ》に語(139)相《カタラヒ》給へるなるへし
 
114 秋田之穂向之所縁異所縁君爾因奈名事痛有登母《アキノタノホムキノヨレルカタヨリニキミニヨリナナコチタカリトモ》
 
因奈名《ヨリナヽ》は因(リ)なむなり事痛《コチタ》は言痛《コトイタ》にて人に宜囂《カマヒス》しく言騷《イヒサワ》かるゝを云(フ)
 
勅2穗積(ノ)皇子(ニ)1遣(ハセル)2近江(ノ)志賀(ノ)山寺(ニ)1時但馬(ノ)皇女(ノ)御作歌《ミウタ》
 
代匠記(ニ)云(ク)志賀(ノ)山寺は天智天皇ノ御願ノ崇福寺ナリ文武紀(ニ)云(ク)大寶元年八月甲辰(ノヒ)太政官處分(スラク)近江(ノ)國(ノ)志賀(ノ)山寺(ノ)封(ハ)起(レリ)2庚子(ノ)年(ヨリ)1【文武(ノ)四年】計《カソフルニ》滿《ミテリ》2三十歳(ニ)1云々停2止《トヽメ》之(レヲ)1准《ナスラヘテ》v封(ニ)施《ホトコス》v物(ヲ)聖武紀(ニ)云(ク)天平十二年十二月癸丑(ノ)朔乙丑(ノヒ)幸《イテマシテ》2志賀(ノ)山寺(ニ)1禮v佛(ヲ)菅家文草(ノ)第七(ニ)崇福寺(ノ)綵錦(ノ)寶幢(ノ)記(ニ)云(ク)勅近江崇福寺者天智天皇之創建也逢(フハ)v師(ニ)感應(ナリ)得(ルハ)v地(ヲ)因縁(ナリ)誓念|至《イタシ》v心(ニ)稱2成細目(ヲ)1辛未之年(ノ)勅旨詳(ナリ)矣云々元享釋書(ニ)云々天智天皇ノ御國忌《ミコキ》は此(ノ)寺ニテ行《オコナ》ハルヽ由《ヨシ》延喜(ノ)式三|載《ノセ》ラル志賀ノ山越《ヤマコエ》ト云(フ)事シテ歌ヲモ作《ヨメ》ル事古今集以來|所見《ミエ》タルハ此(ノ)寺ニ詣《マヰ》ルヲ云(フ)ナリ云々さて此(ノ)寺に皇子を遣《ツカ》はせるは前《サキ》に所見《ミエ》たる事の辜《ツミ》ニ依(リ)て行は《オコナ》はるゝ旨《ムネ》有(リ)しなるへし
 
115 遺居而戀管不有者追及武道之阿回爾標結吾勢《オクレヰテコヒツヽアラスハオヒシカムミチノクママニシメユヘアカセ》
 
不有者《アラヌハ》は將在《アラム》よりはなり標《シメ》結《ユフ》とは標示《シルシ》を爲《スル》を云(フ)其《ソ》を尋《ト》めて追《シタ》ひ將行《ユカム》となり
 
但馬(ノ)皇女|在《マシマセル》二2市(ノ)皇子(ノ)宮(ニ)1時(ニ)竊《ヒソカニ》接2穗積(ノ)皇子(ニ)1事|既《ステニ》形《アラハレテ》而後《ノチノ》御作歌《ミウタ》一首
 
116 人事乎繁美許知痛美《ヒトコトヲシケミコチタミ》己母世爾未渡 朝川渡《アサカハワタル》
 
一二(ノ)句は人言《ヒトコト》を繁《シケ》み言痛《コチタ》みなり三四(ノ)句は誤字有(ル)へし未(タ)考(ヘ)得す
 
舍人《トネノ》皇子(ノ)御歌一首
 
117 丈夫哉片戀將爲跡嘆友鬼乃益卜雄尚戀二家里《マスラヲヤカタコヒセムトナケヽトモシコノマスラヲナホコヒニケリ》
 
鬼乃益卜雄《シコノマスラヲ》鬼《シコ》は醜《シコ》の偏〔傍線〕を省《ハフケ》る字《モシ》なり醜《シコ》とは惡《ニク》み罵《ノ》りて云(フ)言《コト》にて八に慨《ウレタ》きや醜霍公鳥《シコホトトキス》曉《アカトキ》の心悲《ウラカナ》しきに雖追《オヘト》云々|猶《ナホ》し來嶋《キナキ》て云々十七【放逸鷹歌】に狂《タフ》れたる醜《シコ》つ老犬《オキナ》の云々………………………………………………………………………………………………………………………………等《ナト》あり故(レ)此《コヽ》も御身《ミヽ》つからを罵《ノリ》賜へる詞なり
 
舍人娘《トネノヲトメ》子奉(レル)v和(ヘ)歌一首
 
皇子の御名と同しきを以(テ)思ふに御乳母子《ミメノトコ》か詳《サタカ》ならす(140)皇子には多く乳母《メノト》の姓《ウチ》を以(テ)名奉《ナツケマツ》る例なり
 
118 歎管丈夫之戀亂許曾吾髪結乃漬而奴禮計禮《ナケキツヽマスラヲノコヒミタレコソワカモトユヒノヒチテヌレケレ》
 
漬而奴禮計禮《ヒチテヌレケレ》は奴流《ヌル》とは延舒《ノヒ》て奴良々々《ヌラ/\》と有(ル)を云(フ)此(ノ)下【四十一葉】に
多氣婆奴禮多香根者長寸妹之髪《タケハヌレタカネハナカキイモカカミ》云々十一に夜干玉之吾黒髪乎引奴良思亂而反戀度鴨《ヌハタマノワカクロカミヲヒキヌラシミタレテカヘリコヒワタルカモ》凡者誰將見鴨黒玉乃我玄髪乎靡而將居《オホナラハタレミムトカモヌハタマノワカクロカミヲヌラシテヲラム》夜千玉之妹之黒髪今夜毛加吾無床爾靡而宿良武《ヌハタマノイモカクロカミコヨヒモカワカナキトコニヌラシテヌラム》なと有また髪《カミ》ならても云(ヘ)るは十四【東歌】に可美都氣努可保夜我奴麻能伊波爲都良此可波紋禮都追安乎奈多要曾禰《カミツケヌカホヤカヌマノイハヰツラヒカハヌレツツアヲナタエソネ》伊利麻治能於保屋我波良能伊波爲都良比可婆奴流々々和爾奈多要曾禰《イリマチノオホヤカハラノイハヰツラヒカハヌル/\ワニナタエソネ》安波乎呂能乎呂田爾於波流多波美豆良比可婆奴流奴皆安乎許等奈多延《アハヲロノヲロタニオハルタハミツラヒカハヌルヌルアヲコトナタエ》安里蘇夜爾於布流多麻母乃宇知奈婢伎比登里夜宿良牟安乎麻知可禰※[氏/一]《アリソヤニオフルタマモノウチナヒキヒトリヤヌラムアヲマチカネテ》【この宿《ヌル》にも靡《ヌル》を兼(ぬ)】これらも奴流々々《ヌル/\》と延(イ)舒(ヒ)らかなるを云(ヘ)れは同言《オナシコト》なり然《サ》て此《コ》は古諺《イニシヘノコトワサ》に髻《モトヽリ》の解《トク》るは人に想《オモ》はるゝ兆《シルシ》と云(フ)事の有(リ)つる成(ル)へし
 
弓削(ノ)皇子思2紀(ノ)皇女1御歌四首
 
此(ノ)二(タ)柱(ラ)も御別腹兄弟《コトミハラカラ》なり
 
119 芳野河逝瀬之早見須臾毛不通事無有巨勢濃香毛《ヨシヌカハユクセノハヤミシマラクモヨトムコトナクアリコセヌカモ》
 
有巨勢濃《アリコセヌ》は有乞《アリコソ》と願(フ)辭の活用《ハタ》らけるなり例多し
 
120 吾妹兒爾戀乍不有者秋芽之咲而散去流花爾有猿尾《ワキモコニコヒツアラスハアキハキノサキテチリヌルハナヽラマシヲ》
 
戀《コ》ひ長《ナカ》らへ乍《ツヽ》相《ア》ふ事無(カ)らむよりは一度《ヒトタヒ》開《サキ》て散(リ)去《ヌ》る花ならましとなり咲而散去流《サキテチリヌル》は逢(ヒ)て死《ウセ》ぬるの譬(ヘ)なり
 
121 碁去者鹽滿來奈武住吉乃淺香乃浦爾玉藻苅手名《ユフサラハシホミチキナムスミノエノアサカノウラニタマモカリテナ》
 
難旡《コトナ》き間《ヒマ》に速《ハヤ》く相將《アハマシ》の意(ロ)○淺香乃浦の淺(サ)と云(ヘ)る言《コト》に潮《シホ》滿《ミタ》ぬ間《マ》の淺き意(ロ)を籠(メ)たり然《サ》て此處《ココ》はいまた詳《サタカ》ならす
 
122 大船之泊流登麻里能絶多日二物念痩奴人能兒故爾《オホフネノハツルトマリノタユタヒニモノオモヒヤセヌヒトノコユエニ》
 
古今集【戀一】にいく我(レ)を人な咎《トカ》めそ大船のゆたのたゆたに物思ふ比《コロ》そ
 
三方沙禰《ミカタノサミ》娶《アヒ》2園臣生羽之女《ソノヽオミイクハノムスメニ》1未經幾時臥病作歌《イクタモアラネハヤミコヤセリテヨメルウタ》三首
 
三方は姓《ウチ》沙彌は名《ナ》なり園(ノ)臣生羽之女も此(ノ)人|等《トモ》惣《スヘ》て考(ヘ)得す
 
123 多氣婆奴禮多香根者長寸妹之髪比來不見爾掻入津良武香《タケハヌレタカネハナカキイモカカミコノコロミヌニカキレツラムカ》 三方(ノ)沙彌
 
多氣婆奴禮は手擧《タケ》は靡《ヌ》れなり手擧《タク》と云(フ)語《コトハ》は皇極紀【二年】の童謠《ワサウタ》に石上《イハノヘ》に兒猿米燒《コサルコメヤ》く米《コメ》たにも手擧《クケ》て過去《トホ》らせ山羊《ヤマシヽ》(141)の爺老《ヲチ》また此(ノ)卷の下に妻《ツマ》もあらは採《ツミ》て手擧《タケ》まし佐美《サミ》のやま野上《ヌノヘ》の薺蒿《ウハキ》すきにけらすや七に處女等《オトメラ》か織《オル》機《ハタ》の上《ウヘ》を眞櫛以掻上《マクシモテカヽケ》たく島《シマ》【櫛齒以絲《クシノハモテイト》を掻《カ》き手擧《タク》なり】波際《ナミマ》より所見《ミユ》十四に駒《コマ》はとも十九に馬手擧行而《ウマタキユキテ》【手繩以頭《タツナモテカシラ》を手擧《タク》なり】古事記【上卷】に烏玉《ヌハタマ》の黒《クロ》き御衣《ミケシ》を眞備《マツブサ》に取装《トリヨソ》ひ澳津鳥胸見時鰭手擧《オキツトリムナミルトキハタタキ》も此《コレ》は不
相應《フサハス》【沖津鳥の胸見《ムナミル》時の如く左右の手して鰭袖《ハタソテ》を卷《マク》り手擧《タケ》て見るを云(フ)】十に手寸十名相殖之毛《タキソナヘウヱシモ》
シルクイテミレハヤトノワサハキサキニケルカモ
 
【萩(カ)根を堀(リ)上(ケ)よく調《トヽノ》ふるを手擧備《タキソナフ》と云(ヘ)り】カチコキタノ)
七に大舟乎荒海爾榜出八船多藝《オホネヲアルミニコキテヤフネタケ》云々【楫《カチ》を以(テ)榜手擧《コキタク》なり】土左(ノ)日記にゆくりなく風吹(キ)て多擧《タケ》ともたけとも後《シリ》へ退《シソ》きにしそきて云々 此(レ)しも同し 古今集【雜下】に海士《アマ》の繩《ナハ》たき漁《イサリ》せむとは【繩手擧《ナハタキ》なり】景行紀【二十八年】に頭髻《タキフサ》崇峻紀【卷首】に頂髪《タキフサ》【これらは字《モシ》は異なれども同(シ)事にて………手擧總《タキフサ》ねて結《ユ》ふ髪(ミ)なり今(ノ)世にたふさと云(フ)もこれぞ】神武紀に飴《タカネ》【手擧《タカ》ねて食《ク》ふ味物《モノ》の名にて今の世に甘飴《アメ》と云(フ)物の類(ヒ)なり】又(タ)今(ノ)世に桶《ヲケ》の輪《ヲ》を多賀《タカ》と稱《イ》ふも綰《ワカヌ》る時《ヲリ》に竹の端《サキ》を手擧《タケ》つゝ作《ツク》る物なれはなり十一に振別之髪乎短彌青草髪爾多久覽妹乎師曾於母布《フリワケノカミヲミシカミアヲクサヲカミニタクラムイモヲシソオモフ》九に八年兒之片生乃時從小於爾髪多久麻庭爾《ヤトセコノカタナリノトキユヲハナリニカミタクマテニ》云々なと有(リ)然《サ》れは此《コヽ》も髪を手擧《タケ》は靡《ヌ》れにて滑々《ヌル/\》と有《ア》る形状《サマ》を云(ヘ)る物なり○多香根者長寸《タカネハナカキ》は不手
 
擧《タカネ》はなり○掻入津良武香《カキレツラムカ》掻入《カキイル》とは髪を揚(ケ)て其《ソノ》端《サキ》を一(ツ)に攝《フサ》ねて前《マヘ》方に綰《ワカ》ねて本《ネ》に掻入納《カキイレヲサ》むるなるへし
 
124 人皆者今波長跡多計登雖言君之見師髪亂有等母《ヒトミナハイマハナカシトタケトイヘトキミカミシカミミタレタリトモ》 娘子
 
125 橘之陰履路乃八衢爾物乎曾念妹爾不相而《タチハナノカケフムミチノヤチマタニモノヲソオモフイモニアハステ》 三方(ノ)沙彌
 
雄略記【十三年】に天皇使d2齒由根命1資財露《タカラモノヲアラハニ》置(カ)c於|餌香市邊橘本之土《ヱカノイチノヘノタチハナノモトノトコロニ》u云々天武紀【十年】に輕《カルノ》市の樹下《コノモト》見え此集【三に】詠《ヨメル》2東《ヒムカシノ》市之之樹(ヲ)1作歌《ウタ》みむ六に橘本爾道履八衛爾《タチハナノモトニミチフミヤチマタニ》云々また海石榴市《ツハイチ》と云(フ)地《トコロノ》名も諸國《クニ/\》に多く古(キ)事(ミ)等《トモ》に出(テ)たり【十二(ノ)卷に二(タ)處(ロ)神武紀清寧記武烈紀その余《ホカ》の書《フミ》にも】是《コノ》樹を栽《ウヱ》たる由《ヨシ》の名と聞ゆ○八衢爾《ヤチマタニ》は物(ノ)思(ヒ)の一經《ヒトミチ》ならさるに比《タト》ふ一首《ウタ》の意(ロ)は右の如し然《サ》て又(タ)大和(ノ)物語(ニ)云(ク)平仲〔二字傍線〕か色好《イロコノミ》ける盛《サカリ》に市に往《イキ》けり中頃《ナカコロ》はよき人々市に往《イキ》てなむ色好むわさはしけるそれに故〔傍線〕后《キサイノ》宮の御〔傍線〕等《タチ》市に出たる日なむ有(リ)ける平中〔二字傍線〕色好みかゝり(142)てになうけさうしけり云々武烈紀に影孃《カケヒメ》か太子に曰《マヲ》す詞に奉《マツラム》v待《マチ》2海柘榴市巷《ツハイチノチマタニ》1と見え十二に海石榴市之八十衢爾立平之結紐乎解卷惜毛《ツハイチノヤソノチマタニタチナラシムスヒシヒモヲトカマクヲシモ》紫者灰指物曾海石榴市之八十街爾相兒哉誰《ムラサキハハヒサスモノソツハイチノヤソノチマタニアヘルコヤタレ》和歌《コタヘウタ》足千根之母之召名乎雖白路行人乎孰跡知而可《タラチネノハヽノヨフナヲマヲサメトミチユキヒトヲタレトシリテカ》拾遺集【雜(ノ)戀】に雙六《スクロク》の市場《イチハ》に立(テ)る人妻のあはて止(ミ)なむ物にやはあらぬ此(レ)等《ラ》を思ふに此(ノ)歌も然《サ》る巷《チマタ》にて相(ヒ)見初《ミソメ》し由《ヨシ》にや
 
石山(ノ)女郎贈(レル)2大伴(ノ)宿禰|田主《タヌシニ》1歌一首(ハ)即(チ)佐保《サホノ》大納言大伴(ノ)卿之第二子(ナリ)母(ヲ)曰(ヘリ)2巨勢朝臣《コセノアソミト》1
 
女郎は既《サキニ》出(ツ)佐保(ノ)大納言は安麻呂(ノ)卿なり
 
126 遊士跡吾者聞流乎屋戸不借吾乎還利於曾能風流士《ミヤヒヲトワレハキケルヲヤトカサスワレヲカヘセリオソノミヤヒヲ》
 
於曾《オソ》は痴鈍《オソ》なり
 
大伴(ノ)田主|字《アサナヲ》2曰(ヘリ)仲郎(ト)〔二字傍線〕》客姿佳艶風流秀絶見人聞者靡v不2
 
歎息1也時(ニ)有(リ)2石山(ノ)女郎(トイフヒト)1成(シ)2自《ミツカラ》雙栖之感(ヲ)1恒《ツネニ》悲2獨守
スレトモセムトヲ之難(キヲ)1意(ロニ)欲(リスレトモ)v寄(セムト)v書(ヲ)未(タ)v逢2良信1爰(ニ)作(ニナシテ)2方便《タハカリヲ》1而似2賤嫗(ニ)1イヘラクムトシテ
己《オノレ》提《トリテ》2鍋子(ヲ)1而到(リ)2寢側《ネヤノカタハラニ》1※[口+更]音跼足叩(キテ)v戸(ヲ)諮曰《イヘラク》東隣(ノ)貧女|將《ムトシテ》v取(ラ)v火(ヲ)來(レリ)矣於v是仲郎〔二字傍線〕暗裏(ニ)非v識2昌隱之形(ヲ)1慮外(ニ)不v堪2拘接之計(ニ)1任(セ)v念《コヽロニ》取(セ)v火(ヲ)就(キテ)v跡(ニ)歸(ヘリ)去(ラシム)也明後女郎既(ニ)耻(チ)2自媒之可(キヲ)1v愧(ツ)復(タ)恨2心契之弗(ルヲ)1v果(サ)因《カレ》作《ヨミテ》2斯(ノ)歌(ヲ)1以贈(リ)謔戯《タハフル》焉
 
鍋子は火取《ヒトリ》の器《ウツハモノ》なり
 
大伴(ノ)宿禰田主|報贈《コタフル》歌一首
 
127 遊士爾吾者有家里屋戸不借令還吾曾風流者有《ミヤヒヲニアレハアリケリヤトカサスカヘセルアレソミヤヒヲニハアル》
 
同(シ)石川(ノ)女郎|更《マタ》贈(レル)2大伴(ノ)田主(ノ)中郎〔二字傍線〕(ニ)1歌一首
 
128 吾聞之耳爾好似葦末乃足痛吾勢勤多扶倍思《アカキヽシミヽニヨクニハアシノウレノアシナヘアカセツトメタフヘシ》
 
右依(リ)2中郎(ノ)足疾(ニ)1贈(リテ)2此(ノ)歌(ヲ)1問訊也《トフラヘルナリ》
 
一二(ノ)句は吾(カ)聞し如(ク)ならはの意(ロ)を戯《タハフ》れて云(ヘ)るにて耳《ミヽ》は四(ノ)句の足《アシ》と令v對《ムカヘ》たる言なり○葦若末乃《アシノウレノ》は葦苗《アシナヘ》の枕(ラ)詞(ハ)○足痛吾勢《アシナヘアカセ》も戯(レ)詞(ハ)○勤多扶倍思《ツトメタフヘシ》は自愛賜可《ツトメタフヘシ》なり
 
大津(ノ)皇子(ノ)宮(ノ)侍《サフラヒ》石川(ノ)女郎贈(レル)2大伴(ノ)宿禰|宿奈《スクナ》麻呂(ニ)1歌一首女郎(ハ)字《アサナヲ》曰(ヘリ)山田(ノ)郎女《イラツメト》也宿奈麻呂(ノ)宿禰者大納言兼大將軍卿之第三子也
 
大納言は安麻呂(ノ)卿なり
 
129 古之嫗爾爲而也如此許戀爾將沈如手童兒《イニシヘノオムナニシテヤカクハカリコヒニシヅマムタワラハノコト》
 一云|戀乎太爾忍金手武多和良波乃如《コヒヲタニシヌヒカネテムタワラハノコト》
 
長《ナカノ》皇子|與《オクリタマヘル》2皇弟《ミオトニ》1御歌一首
 
皇弟は弓削(ノ)皇子なり
 
(143)130 丹生乃河瀬者不渡而由久遊久登戀痛吾弟乞通來禰《ニフノカハセハワタラステユクユクトコヒタキアカセコチカヨヒコネ》
 
丹生乃河《ニフノカハ》は大和(ノ)國宇智(ノ)郡に有(リ)○由久遊久登《ユクユクト》は十三に大舟乃往良行羅二思乍《オホフネノユクラユクラニオモヒツツ》云々………………………………………………………………………………………………………………………………等《ナト》の如《コト》く物思《モノオモ》ふ心の定鎭《シツマ》らぬを云(フ)然《サ》て上《カミ》よりは瀬《セ》は不渡《ワタラス》て御心《ミコヽロ》のみ往(キ)通ふ由(シ)の續《ツヽケ》なり
 
柿(ノ)本(ノ)朝臣人麻呂從2石見(ノ)國(ニ)1別(レ)v妻《メニ》上來《ノホリクル》時(ノ)歌二首並短歌
 
此(ノ)人の石見(ノ)國司なりし由は上に云(ヘ)り此《コノ》度《タヒ》は税帳使か或《モシ》くは朝集使なとの公事《オホヤケコト》に京に上《ノホ》らるゝ時《トキ》にて九十月(ノ)頃|發途《イテタヽ》れしと所思《オホ》ゆ妻《メ》は彼(ノ)國にて相(ヒ)語(タ)らへる人なり
 
131 石見乃海角乃浦回乎浦無等人社見良目滷無等《イハミノミツヌノウラマヲウラナシトヒトコソミラメカタナシト》【一云|礒無登《イソナシト》】人社見良目能嘆八師浦者無友縱畫屋師滷者《ヒトコソミラメヨシヱヤシウラハナクトモヨシヱヤシカタハ》【一云|磯者《イソハ》】無鞆鯨魚取海邊乎指而和多豆乃荒磯乃上爾香青生玉藻息津藻朝羽振風社依米夕羽振流浪社來縁浪之共彼縁此依玉藻成依宿之妹乎《ナクトモイサナトリウナヒヲサシテワタツノアリソノウヘニカアヲナルタマモオキツモアサハフルカセコソヨセメユフハフルナミコソキヨレナミノムタカヨリカクヨリタマモナスヨリネシイモヲ》【一云|波之伎余思妹之手本乎《ハシキヨシイモカタモトヲ》】露霜乃置而之來者此道乃八十隈毎萬段顧爲騰彌遠爾里者放奴益高爾山毛越來奴夏草之念之奈要而志怒布良武妹之門將見靡此山《ツユシモノオキテシクレハコノミチノヤソクマコトニヨロツタヒカヘリミスレトイヤトホニサトハサカリヌイヤタカニヤマモコエキヌナツクサノオモヒシナエテシヌフラムイモカカトミムナヒケコノヤマ》
 
角乃浦回乎《ツヌノウラマヲ》 和名抄(ニ)石見(ノ)國那賀(ノ)郡|都農《ツヌ》○浦無等《ウラナシト》は浦は※[さんずい+内]《ウラ》にて船の榜入《コキイ》る處(ロ)を云(フ)十三に浦無蚊船之依不來《ウラナミカフネノヨリコヌ》云々○滷無等《カタナシト》【一云|礒無登《イソナシト》】は滷《カタ》は枯干《カラ》なり又《マタ》堅田《カタ》とも通ひて水の乾《カワ》ける地(ロ)を云(フ)○能嘆八師《ヨシヱヤシ》は能《ヨシ》は心(ロ)に信《マコト》に滿足《ミタ》されとも苟且《イサヽカ》許容《ユル》して假(リ)に縱《ヨシ》と云(フ)言《コト》嘆《ヱ》は慨嘆《ナケキ》の甚切《ネモコロ》なる聲《コヱ》にて神代紀に研哉此(レヲ)云2阿那而惠夜《アナニエヤト》1この惠《ヱ》又(タ)十一に足千根乃母爾不所知吾持心留者吉惠君之隨意《タラチネノハヽニシラエスアカモタルコヽロハヨシヱキミカマニ/\》この吉惠《ヨシヱ》は全《モハ》ら此《コヽ》と同し八《ヤ》も歎息《ナケキ》の音《コヱ》師《シ》は助辭《ヤスメコトハ》なり○鯨魚取《イサナトリ》は冠辭考云(ク)勇魚取《イサナトリ》にて海《ウミ》の枕(ラ)詞(ハ)なり勇魚《イサナ》は鯨《クチラ》なり古事記【中(ツ)卷|白檮原《カシハラノ》宮段】の歌に勇細《イスクハ》し鯨《クチラ》と有(ル)にて知(ル)へし○海邊乎指而和多豆乃《ウナヒヲサシテワタツノ》は海邊《ウナヒ》とは大海《オホウミ》の方《カタ》を云(フ)和多豆《ワタツ》は渡《ワタ》る鶴《タツ》を渡津《ワタツ》の地名《トコロノナ》に兼《カケ》たり玉乃小琴に石見(ノ)國那賀(ノ)郡の海邊に今も渡津村あり云々|然《サ》て此《コ》は其處《ソコ》を過去《トホ》らるゝ時《ヲリ》しも鶴《タツ》その浦より澳《オキ》へ飛(ヒ)渡るを眺望《ナカメ》て云(ヘ)る物なり○香青生《カアヲナル》は加《カ》は事(144)を強《ツヨ》むる發語にて加青《カアヲ》は眞青《マサヲ》加黒《カクロ》は眞黒《マクロ》なり○玉藻息津藻朝羽振風社依米夕羽振浪社來縁《タマモオキツモアサハフルカセコソヨセメユフハフルナミコソキヨレ》は息津藻《オキツモ》は沖津藻《オキツモ》なり羽振《ハフル》は放溢《ハフル》なり然《サ》て此(ノ)五句は朝夕潮《アサユフシホ》の滿來《ミチク》る時津風風《トキツカセ》に浪の放溢《ハフ》れて藻草《モクサ》を寄來《ヨセク》るを云(フ)○浪之共《ナミノムタ》は共《ムタ》は睦《ムツ》と通ひて一(ツ)に睦《ムツ》るゝを云(フ)十二に浪之共靡玉藻乃《ナミノムタナヒクタマモノ》十五に可是能牟多興世久流奈美爾《カセノムタヨセクルナミニ》十二に風之共雲之行如《カセノムクタモノユクコト》九に峯上爾零置雪師風之共此間散良思《ヲノウヘニフリオケルユキシカセノムタコヽニチルラシ》云々此(ノ)卷(ノ)下に野毎著而有火之風之共靡如久《ヌコトニニツキテアルヒノカセノムタナヒケルコトク》云々△なとの如し
頭注、 △十五に君我牟多由可麻之毛能乎《キミカムタユカマシモノヲ》云々
又《マタ》少《イサヽ》か語格《イヒサマ》の轉《ウツ》れるは六に海原之鹽干乃如※[さんずい+内]渚爾波千鳥妻呼《ウナハラノシホヒノムタウラスニハチトリツマヨヒ》云々十六に角島乃迫門乃稚海藻者人之共荒有之可杼吾共者和海藻《ツヌシマノセトノワカメハヒトノムタアラカリシカトワカムタハニキメ》九に朝露乃銷易杵壽神之共荒競不得而《アサツユノケヤスキイノチカミノムタアラソヒカネテ》これらの類(ヒ)なり○露霜乃《ツユシモノ》は秋|寢《ヤヽ》闌《タケ》て冷《サム》き此及《コロホヒ》に至《ナ》り
ヤヽコリナリスキハウスシロサエフル
て露|漸《》凝《》て霜に化《》なむと爲《》る際《》に薄《》く白《》く冷《》て落《》を云(フ)俗《ヨ》に水霜《ミツシモ》と云(フ)此(レ)なり和名抄に三禮義宗(ニ)云(ク)白露(ハ)八月(ノ)節寒露(ハ)九月(ノ)節この白露は都由《ツユ》寒露は都由志毛《ツユシモ》なり十に秋芽子之枝毛十尾丹露霜置寒毛時者成爾家類可聞《アキハキノエタモトヲヽニツユシモオキサムクモトキハナリニケルカモ》秋去者妹令視跡殖之芽子露霜負而散來毳《アキサラハイモニミセムトウヱシハキツユシモオヒテチリニケルカモ》露霜爾衣袖所沾而今谷毛妹許行名夜者雖深《ツユシモニコロモテヌレテイマタニモイモカリユカナヨハフケヌトモ》色付相秋之露霜莫零根妹之手本矣不纏今夜者《イロツカフアキノツユシモナフリソネイモカタモトヲマカスコヨヒハ》審隱矢野神山露霜爾爾寶比始散卷惜《ツマコモルヤヌノカミヤマツユシモニニホヒソメタリチラマクヲシモ》露霜聞寒夕之秋風爾黄葉爾來毛妻梨之木者《ツユシモモサムキユフヘノアキカセニモミチニケリモツマナシノキハ》十一に行行不相妹故久方天露霜沾在哉《ユケトユケトアハヌイモユヱヒサカタノアメノツユシモヌレニケルカモ》十四【東歌】に宇麻具多能禰呂能佐左葉能都由思能奴禮※[氏/一]和伎奈婆汝者故布婆曾母《ウマクタノネロノサヽハノツユシノヌレテワキナハナハコフハソモ》十五に都由之毛能佐武伎山邊爾《ツユシモノサムキヤマヘニ》六に龍田山乃露霜爾色附時丹《タツタノヤマノツユシモニイロツクトキニ》十九に秋都氣婆露霜負而風交毛美知落家利《アキツケハツユシモオヒテカセマシリモミチチリケリ》古今集【秋上】に萩か花散るらむ小野の露霜に云々|等《ナト》の如し○置而之來者《オキテシクレハ》は露霜の置(キ)と續《ツヽ》けたる裏《シタ》に然《サ》る曉旦《アシタ》にしも妹か肌膚《ハタヘ》を起(キ)別れしを含《フク》めたるなり此(ノ)時は九十月(ノ)頃《コロ》なれはなり題の處(ロ)に云(ヘ)るを對《ムカ》へ見(ル)るへし○妹之門將見《イモカカトミム》は妹か見送るとて門に立(テ)らむ其《ソ》を將見《ミム》となり門と云(フ)に眼を着《ツク》へし此(ノ)一首《ヒトウタ》の意(ロ)の歸《ヨル》所(ロ)そ○靡此山《ナヒケコノヤマ》十三に靡得人雖跡如此依等人雖衝無意山之奧磯山三野之山《ナヒケトヒトハフメトモカクヨレトヒトハツケトモコヽロナキヤマノオキソヤマミヌノヤマ》
 
反歌
 
132 石見乃也高角山之木際從我振袖乎味見津良武香《イハミノヤタカツヌヤマノコノマヨリワカフルソテヲイモミツラムカ》
 
高角山之《タカツヌヤマノ》 高は作者の新《アラタ》に加《クハヘ》たる言《コト》なり此《コノ》地名《トコロノナ》は角《ツヌ》なり高角《タカツヌ》には非《アラサ》る事《コト》上《カミ》【葉】に云《イヘ》り然《シカ》るに高《タカ》を新《アラタ》に加《クハ》へ(145)たる意(ロ)は此(ノ)歌は四一二三五と叙《ツイツ》る意(ロ)にて我(カ)振(ル)袖を漸《ヤヽ》遠放《トホサカ》る隨《マヽ》に見送る妹か其處《ソコ》の角山《ツヌヤマ》に登《ノホ》りて尚《ナホ》隱《カク》るゝまて遙《ハルカ》に見遣《ミオコ》すらむとなれは高《タカ》に要《ムネ》有《アリ》てなりさて又《マタ》我振袖乎《ワカフルソテヲ》云々と云《イヘ》るは彼方《アナタ》に振る袖の此方《コナタ》には所見《ミエ》す成(リ)去《ヌ》るを以《モ》て此方《コナタ》に振《フ》るも彼方《アナタ》に見津良武香《ミツラムカ》いかゝと憐《アハ》れむ意(ロ)なれは我《ワカ》と云(ヘ)るに深く心を著《ツク》へし然《サ》て袖《ソテ》振《フル》は人と離別《ワカ》るゝ時《ヲリ》の上古《イニシヘ》の一(ツ)の禮《シワサ》なり五に由久布倭遠布利等騰尾加禰伊加婆加利故保斯苦阿利家武麻都良佐欲比賣《ユクフネヲフリトヽミカネイカハカリコホシクアリケムマツラサヨヒメ》十二に八十梶懸島隱去者吾妹兒之留登將振袖不所見可聞《ヤソカケシマカクリナハワキモコカトマレトフラムソテミエシカモ》六に太宰(ノ)師大伴(ノ)卿上京(ノ)時娘子(ノ)作歌二首|凡者左毛右毛將爲乎恐跡振痛袖乎忍而有香聞《オホナラハカモカクモセムヲカシコミトフリタキソテヲシヌヒタルカモ》倭道者雲隱有雖然余振袖乎無禮登母布奈《ヤマトチハクモカクリタリシカレトモアカフルソテヲナメシトモフナ》また或(ル)歌(ノ)左註に於vレ是娘子傷(ミ)2此(ノ)易(キヲ)1v別(レ)嘆2彼(ノ)難1v會(ヒ)拭v涕自吟振v袖之歌(ナリ)なとの如し又(タ)此(ノ)卷(ノ)下(ノ)挽歌の詞に妹之名喚而袖曾振鶴《イモカナヨヒテソテソフリツル》こは死人《シニヒト》の離別《ワカレ》に爲《ス》る禮《ワサ》にて皆《ミナ》還《カヘ》り來《コ》と招《マネ》く意(ロ)より爲《スル》なり
 
133 小竹之葉者三山毛清爾亂友吾者妹思別來禮婆《サヽノハハミヤマモサヤニサワケトモワレハイモオモフワカレキヌレハ》
 
吾(レ)は打(チ)しめりて妹を思ふそとなり四にヤマノハニアチムラサワキユクナレトワレハサフシヱキミニシアラネハ
 
九に高島之阿渡河波者驟鞆吾者家思宿加奈之彌《タカシマノアトカハナミハサワケトモワレハイヘオモフヤトリカナシミ》これ等《ラ》と同《オナ》し然《サ》て此(ノ)哥はさる山中に宿りて寐られぬ隨《マヽ》に所咏《ヨマレ》たると所聞《キコエ》て深《》く閑《フカシツカ》に寂《サヒ》しく沈《シツ》める情状《サマ》なり
 
或(ル)本(ノ)反歌
 
134 石見爾有高角山乃木間從文吾袂振乎妹見監鴨《イハミナルタカツヌヤマノコノマユモワカソテフルヲイモミケムカモ》
 
135 角※[章+おおざと]經石見之海乃言佐敝久辛乃埼有伊久里爾曾深海松生流荒磯爾曾玉藻者生流玉藻成靡寐之兒乎深海松乃深目手思騰左宿夜者幾毛不有延都多乃別之來者肝向心乎痛念乍顧爲騰大舟之渡乃山之黄葉乃散之亂爾妹袖清爾毛不見※[女+霍]隱有
屋上乃《ツヌサハフイハミノウミノコトサヘクカラノサキナルイクリニソフカミルオフルアリソニソタマモハオフルタマモナスナヒキネシコヲフカミルノフカメテモヘトサヌルヨハイクタモアラスハフツタノワカレシクレハキモムカフコヽロヲイタミオモヒツヽカヘリミスレトオホフネノワタリノヤマノモミチハノチリノマカヒニイモカソテサヤニモミエスツマコモルヤカミノ》【一云|室上山《ヤカミノヤマ》】山乃自雲間渡相月乃雖惜隱比來者天傳入日刺奴禮大夫跡念有吾毛敷妙乃衣袖者通而沾奴《ヤマノクモマヨリワタラフツキノヲシケトモカクロヒクレハアマツタフイリヒサシヌレマスラヲトオモヘルワレモシキタヘノコロモノソテハトホリテヌレヌ》
 
角※[章+おおざと]經《ツヌサハフ》は石《イハ》の枕(ラ)詞(ハ)なり冠辭考(ニ)云(ク)蘿蔓石《ツタハフイハ》と懸《カヽ》れるなり○言佐敝久《コトサヘク》は漢《カラ》の枕(ラ)詞(ハ)なり冠辭考(ニ)云(ク)異國人《カラヒト》の言語《コトハ》の聞分《キヽワカ》らす喧嘩《サヘキ》て耳《ノミ》有(ル)を謂(フ)○辛乃埼有《カラノサキナル》 此《コノ》地《トコロ》未《イマタ》詳《サタカナラス》○伊久里爾曾《イクリニソ》 伊久里は海中《ワタナカ》なる石《イハ》にて△名義《ナノコヽロ》はまつ伊《イ》は活《イ》なり
頭注、 △水に沈有《シツメル》を云(フ)
(146)久里《クリ》は隱《カクリ》なり然《サ》るは此《コレ》名《カナ》を伊斯《イシ》とも伊波《イハ》とも稱《イフ》伊斯《イシ》は活沈《イシ》なり伊波《イハ》は活張《イハ》なり沈《シ》とは此(ノ)物の性《サカ》の重《オモ》りかに鎭《シツ》まり不動《ウゴカヌ》より稱《イフ》張《ハ》とは此(レ)か初始《ハシメ》は砂礫《サヽレ》なるを漸々《ヤヽ》に張廣《ハリヒロ》こるより稱《イフ》なり然《サ》て如是《カク》伊斯《イシ》と伊波《イハ》と伊久里《イクリ》と名《ナ》は各別《コト》なれとも伊《イ》は皆《ミナ》活《イ》にて意(ロ)は一(ツ)なり然《サ》るは所謂《イハユル》る無情の草木等《クサキナト》の類(ヒ)に石|耳《ノミ》は活有《イケル》如《コト》くにもあらぬに慮外《オモヒノホカ》に甚《イタ》く大《オホキ》にも成(リ)なと爲《スル》を見《ミ》ては此《コ》は奇《アヤ》し活(キ)て有(リ)けりなとふと打(チ)思ひ言《イ》ふ類(ヒ)の事世にある故《ユヱ》に名は成(リ)たるへし六に淡路乃野島之海子乃海底奧津伊久利二鰒珠左盤爾潜出《アハチノヌシマノアマノワタノソコオキツイクリニアハヒタマサハニカツキテ》云々古事記【下(ツ)卷《マ》(キ)】高津(ノ)宮(ノ)段(ノ)歌に由良能斗能斗那加能伊久理《ユラノトノトナカノイクリ》なと見《ミ》ゆ後(ノ)哥(ニ)潮干《シホヒ》に見《ミ》えぬ沖《オキ》の石《イシ》と作《ヨメ》るは活隠《イクリ》と云(フ)名の義《コヽロ》を解(キ)たるか如し○左宿夜者《サヌルヨハ》 眞宿《サヌル》とは男女相(ヒ)寐るを謂(フ)【此(ノ)事委《クハシ》く上(ノ)十七葉に説《イヘ》り】○延都多乃別之來者《ハフツタノワカレシクレハ》は冠辭考(ニ)云(ク)蘿草《ツタカツラ》の方々《カタ/\》へ這別《ハヒワカ》るゝを以(テ)續《ツヽク》るなり○肝向心乎痛《キモムカフコヽロヲイタミ》は既《サキ》に群肝《ムラキモ》の亂讃妃酌に云《へ》る如《コト》く肝《キモ》とは所謂《イハユ》る五臓六腑の事にて其《ソ》は相對《アヒムカ》ひ凝聚《コリアツマ》りて在(レ)は凝々《コリ/\》の由《ヨシ》に心《コヽロ》に續《ツヽ》くるにて心《コヽロ》は凝々《コリ/\》の約言《ツヽマリコト》なれはなり猶《ナホ》此《コノ》説《コト》は古事記(ノ)傳【卅六の卅五葉】に精《クハ》しく見ゆ披見《ヒラキミル》へし………………………………………………………………………………………………………………………………○大舟之《オホフネノ》は渡《ワタリ》の枕(ラ)詞(ハ)○渡乃山之《ワタリノヤマノ》 此(ノ)地《トコロノ》事《コト》下《シモ》【屋上山《ヤカミノヤマノ》處(ロ)】に云(フ)○妹袖《イモカソテ》は妹か見送り乍《ツヽ》此方《コナタ》を招《マネキ》て振る袖なり○嬬隱有《ツマコモル》は冠辭考に手端籠《ツマコモ》る箭《ヤ》の意(ロ)の由(シ)なりとあり然《サ》て此《コ》は其(レ)を夫婦隱《ツマコモ》る屋《ヤ》の意(ロ)に兼《カケ》たる物なり○屋上乃《ヤカミノ》【一云|室上山《ヤカミノヤマ》】山乃《ヤマノ》は万葉考(ニ)【別記】云(ク)石見(ノ)國人(ノ)云(ク)濱田の北に上府《カミフ》村|下府《シモフ》村あり是《コ》れ古(ヘ)の國府の地《トコロ》なり其處《ソコ》より安藝(ノ)國へ出(ル)と備後(ノ)國へ出(ル)と出雲伯耆の方へ出(ル)と三《ミツノ》大道《オホミチ》ありこの備後と出雲伯耆とへ出る方上府村より今(ノ)道八里|行《ユキ》て屋上《ヤカミノ》村あり其(ノ)北(ノ)方近(キ)處(ロ)渡《ワタリノ》村も有(リ)と云(ヘ)り此(ノ)説にて此《こヽ》の渡《ワタリノ》山|屋上《ヤカミノ》山も地理《トコロノサマ》推量《オシハカ》らるめり○自雲間渡相月乃雖惜隱比來者《クモマヨリワタラフツキノヲシケトモカクロヒクレハ》は玉の小琴(ニ)云(ク)隱比來者《カクロヒクレハ》は屋上《ヤカミノ》山の隱るゝを云(フ)自雲間渡相月乃《クモマヨリワタラフツキノ》は隱《カクルヽ》の序にて此(ノ)時の實景には非(ス)○天傳《アマツタフ》は入(リ)日の枕(ラ)辭(ハ)なり天傳《アマツタ》ひ來《キ》て日は没《イル》なれはなり
 
反歌
 
(147)136 青駒之足掻乎速雲居曾妹之當乎過而來計類《アヲコマノアカキヲハヤミクモヰニソイモカアタリヲスキテキニケル》【一云|當者隱來計留《アタリハカクリキニケル》】
 
137 秋山爾落黄葉須臾者勿散亂曾妹之當將見《アキヤマニオツルモミチハシハラクハナチリミタレソイモカアタリミム》【一云|知里勿亂曾《チリナミタレソ》】
 
或(ル)本(ノ)歌一首井短歌
 
138 石見之海津乃浦乎無美浦無跡人社見良目滷無跡人社見良目吉咲八師浦者雖無縱惠夜思滷者雖無勇魚取海邊乎指而柔田津乃荒磯之上爾蚊青生玉藻息都藻明來者浪己曾來依夕去者風己曾來依浪之共彼依此依玉藻成靡吾宿之敷妙之妹之手本乎露霜乃置而之來者此道之八十隈毎萬段顧雖爲彌遠爾里放來奴益高爾山毛越來奴早敷屋師吾嬬乃兒我夏草乃思志萎而將嘆角里將見靡此山《イハミノミツノウラヲナミウラナシトヒトコソミラメカタナシトヒトコソミラメヨシヱヤシウラハナケトモヨシヱヤシカタハナケトモイサナトリウナヒヲサシテニキタツノアリソノウヘニカアヲナルタマモオキツモアケクレハナミコソキヨレユフサレハカセコソキヨレナミノムタカヨリカクヨリタマモナスナヒキワカネシシキタヘノイモカタモトヲツユシモノオキテシクレハコノミチノヤソクマコトニヨロツタヒカヘリミモレトイヤトホニサトサカリキヌイヤタカニヤマモコユキヌハシキヤシワカツマノコカナツクサノオモヒシナエテナケクラムツヌノサトミムナヒケコノヤマ》
 
反歌
 
139 石見之海打歌角山乃木際從吾振袖乎妹將見香《イハミノミタカツヌヤマノコノマヨリワカワルソテヲイモミツラムカ》
 
右歌體雖v同句句相(ヒ)替(レリ)因(リテ)v此(レニ)重(ネテ)載(セタリ)
 
柿(ノ)本(ノ)朝臣人麻呂(ノ)妻《メ》|依羅娘子《ヨサミノヲトメ》與2人麻呂1相《アヒテ》別(ルヽ)歌一首
 
依羅(ノ)娘子は他《ホカ》に考(フ)へき物|旡《ナ》し此(ノ)人は嫡妻《ムカヒメ》にて石見に下らす京に留まれるなり相(ヒテ)別(ルヽ)とは人麻呂右(ノ)公使《オホヤケコト》に上《ノホ》られ復《マタ》下らるゝ時《ヲリ》の作《ウタ》なれはなり
 
140 勿念跡君者雖言相時何時跡如而加吾不戀有牟《オモフナトキミハイヘトモアハムトキイツトシリテカワカコヒサラム》
 
信《マコト》に此(ノ)哥の如く再《マタ》相(ヒ)見すて人麻呂彼(ノ)國に死《ウセ》にき其(ノ)歌|等《トモ》も末の挽歌に有(リ)○乎は牟の誤(リ)なるへし
 
(148)萬葉集新考 七
 
挽歌
 
此《コレ》は總《スヘ》て哀傷《カナシヒノ》歌なり
 
後(ノ)崗本(ノ)宮(ニ)御宇天皇代《アメノシタシロシメシヽスメラミコトノミヨ》 天豐財重日足姫天皇《アメトヨタカライカシヒタラシヒメノスメラミコト》
 
齊明天皇なり
 
有間(ノ)皇子|自《ミツカラ》傷《イタミテ》結(ヒヒタマヘルトキ)2松(ノ)枝《エタヲ》1歌《ミウタ》二首
 
孝徳天皇の皇子《ミコ》なり然《サ》て此《コノ》端詞《ハシカキ》并《アハ》せて二首《フタウタ》の解《トキコト》皆《ミナ》新考四の   葉に説《イヘ》り故《カレ》此《コヽ》には削《ノソ》けり其《ソノ》次《ツキノ》六首《ムウタ》も又《マタ》皆《ミナ》然《シカ》なり
 
141 磐白乃濱松之枝乎引結眞幸有者亦還見武《イハシロノハママツカエヲヒキムスヒマサキクアラハマタカヘリミム》
 
142 家有者笥爾盛飯乎草枕旅爾之有者椎之葉爾盛《イヘニアレハケニモルイヒヲクサマクラタヒニシアレハシヒノハニモル》
 
長忌寸意吉麻呂《ナカノイミキオキマロ》見(テ)2結松《ムスヒマツヲ》1哀咽歌二首
 
此(ノ)人は本集一(ノ)卷に出《イテ》て文武天皇の御時《ミヨ》と見ゆ然《サ》れば此(ノ)歌|等《トモ》は大寶元年辛丑秋九月持統(ノ)太上(ノ)天皇《スメラミコト》と天皇《スメラミコト》と大御二所《オホミフタトコロ》ながらに紀伊(ノ)國(ノ)武漏《ムロ》の湯浴《ユアミ》に行幸《イテマ》したりし時《ヲリ》に意吉麻呂も供奉《ミトモ》にて彼《カノ》松を見て作《ヨミ》て手向《タムケ》られしなり然有《サル》は上古《イニシヘ》の世《ヨ》の習禮《ナラヒ》として非常《ツネナラ》す死《シニ》たる人の屍體《シカハネ》あるひは葬墓《オクツキ》また當地《ソノトコロ》等《ナト》を過去《トホ》る時には貴賤をいはず必らず歌を作《ヨミ》て奠《タム》けて能《ヨ》くその靈《タマ》を弔《トフ》らひ和《ナク》さめて過《スク》る禮《ワサ》にて有(リ)けれ婆なり然《シカ》爲《ス》るはかの山海《ウミヤマ》を過《ク》るに祭奠《マツリタムケ》を爲《ス》る意(ロ)はへにて上世《カミツヨ》は物の靈《クス》しく人靈《ヒトタマ》等《ナト》も必らず驗《シルシ》有(リ)て祟《タヽ》り害《ソコナ》ふ類(ヒ)少《スクナ》からねば公事《オホヤケコト》に奉仕《ツカヘ》て行《ユ》く人と言《イヘ》と母|此《コノ》事《コト》を怠慢《オコタ》る者《モノ》無《ナカ》りき漢國《モロコシ》等《ナト》も古(ル)くは然有《シカリ》しと所思《オホ》ゆ此《コノ》説《コト》はいまだ言《イヘ》る物無(ケ)れ婆|耳《ミヽ》新《アラタ》しく人の信《ウク》ましき故《ユヱ》に今《イマ》此(ノ)集中より明徴《アカシ》を引出《ヒキテ》て詳審《ツハラカ》に云(フ)へし下《シモ》に讃岐(ノ)狹岑《サミネノ》島(ニ)視(テ)2石中死人《イソノナカナルシニヒトヲ》1柿(ノ)本(ノ)朝臣人麻呂作歌一首并短歌この句の中《ナカ》に浪音乃茂殯邊乎敷妙乃枕爾爲而荒床自伏君之家知者往而毛將告妻知者來毛問益乎玉桙之道太爾不知欝悒久待加戀良武愛伎妻等者《ナミノトノシケキハマヘヲシキタヘノマクラニナシテアラトコニコロフスキミカイヘシラハユキテモツケムツマシラハキモトハマシヲタマホコノミチタニシラスオホヽシクマチカコフラムハシキツマラハ》こは家も名も絶(エ)て知られぬ計《ハカリ》の然《サ》る暴床《アラトコ》に臥《コヤ》せる死人《シニヒト》をしも官使《オホヤケヒト》の如是《カク》慇懃《ネモコロ》に勞《ネキ》らひ君《キミ》とも稱《イヒ》て其《ソレ》が所念《オモホユ》べき心(ノ)中《ウチ》乎|察量《オシハカ》り弔《トフラ》ひ慰《ナク》さめたる物《モノ》にして其《ソノ》詞《コトハ》の故《ユエ》有(ル)を思(フ)へし反歌に妻毛有者採而多宜麻之佐美乃山野上乃宇波疑過去計良受也《ツマモアラハチミテタケママシサミノヤマヌノヘノウハキスキニケラスヤ》こは屍《シカハネ》の穢汚《キタナ》く醜《ミニク》きを避《サケ》て齊蒿《ウハキ》に比して情《コヽロ》を述《ノヘ》たるにて然《サ》る(149)は彼(レ)を令耻《ハチシメ》さらむとなりまた和銅(ノ)四年歳次辛亥河邊(ノ)宮人姫島(ノ)松原(ニ)見(テ)2孃子屍《ヲトメノシカハネヲ》1悲歌作歌二首 妹之名者千代爾將流姫島之子松之末爾蘿生萬代爾《イモカナハチヨニナカレムヒメシマノコマツカウレニコケムスマテニ》こは然《サ》る忌々《ユユ》しき屍《シカハネ》を差《サシ》て妹とは親《シタ》しみ愛《ウツク》しめるにて何《ナニ》の故《ユエ》なく不意《ユクリカ》なる處(ロ)に妹之名者千代爾將流《イモカナハチヨニナカレム》云々など美譽《ホメ》て云(ヘ)るも然《サ》る心(ロ)はへなり難波方鹽干勿有曾禰沈之妹之光儀乎見卷苦流思母《ナニハカタシホヒナアリソネシヅミニシイモカスカタヲミマククルシモ》この苦流思母《クルシモ》は俗《ヨ》に謂《イ》ふ氣〔傍線〕ノ毒〔傍線〕にてその屍骸《シカハネ》の情《コヽロ》を念《オモ》へるなり三に柿(ノ)本(ノ)朝臣人麻呂見(テ)2香具山(ノ)屍(ヲ)1悲慟作歌一首 草枕覊宿爾誰嬬可國忌有家待英國《クサマクラタヒノヤトリニタカツマカクニワスレタルイヘマタマクニ》こも死人《シニヒト》の心(ノ)衷《ウチ》を云(ヘ)り九に過2足柄(ノ)坂《ミサカヲ》1見2死人1作歌一首 小垣内之麻矣引干妹名根之作服異七白細乃紐緒毛不解一重結帶矣三重結苦侍伎爾仕奉而今谷裳國爾退而父妣毛妻矣毛將見跡思乍往祁牟君者鳥鳴東國能恐耶神之三坂爾和靈乃服寒等丹烏玉乃髪者亂而郡問跡國矣毛不告家問跡家矣毛不云益荒夫乃去能進爾此間偃有《ヲカキツノアサヲヒキホシイモナネカツクリキセケムシロタヘノヒモヲモトカスヒトヘユフオヒヲミヘユヒクルシキニツカヘマツリテイマタニモクニニマカリテチヽハヽモツマヲモミムトオモヒツヽユキケムキミハトリカナクアツマノクニノカシコキヤカミノミサカニニキタマノコロモサムラニヌハタマノカミハミタレテクニトヘトクニヲモノラスイヘトヘトイヘヲモイハスマスラヲノユキノスヽミニコヽニコヤセル》こは詞《コトハ》の樣《サマ》を以(テ)思ふに東《アツマノ》國より上《ノホ》りて奉仕《ツカヘマツ》る仕丁|如《コト》きの卑賤《イヤ》しき者《モノ》と社《コソ》所見《ミユ》るに如是《カク》云(ヘ)るも上《カミ》に云(ヘ)る由《ヨシ》なり十三に備後(ノ)國|神島濱調使首《カミシマノハマニツキノツカヒオヒト》見(テ)v屍(ヲ)作歌一首并短歌云々|高山矣部立丹置而※[さんずい+内]潭矣枕丹卷而占裳無偃爲公者母父之愛子丹裳在將稚草之妻裳將有等家問跡家道裳不云名矣問跡名谷裳不告誰之言矣勞鴨腫浪能恐海矣直渉異將《タカヤマヲヘタテニオキテウラフチヲマクラニマキテウラモナクコヤセルキミハオモチヽノマナコニモアラムワカクサノツマモアラムトイヘトヘトイヘヲモハスナヲトヘとナタニモノラスタカコトヲイトホシミカモシキナミノカシコキウミヲタヽワタリケム》これも全《モハ》ら同《オナ》し心(ロ)婆へなり反歌 母父裳妻裳子等裳高々爾來將跡待人乃悲《オモチヽモツマモコトモモタカ/\ニコムトマツラムヒトノカナシサ》家人乃將待物矣津煎裳無荒磯卷而偃有公鴨《イヘヒトノマツラムモノヲシレモナクアリソヲマキテナセルキミカモ》これらは尋常《ヨノツネ》と變《カハ》りて禍《マカ》れる死《シニ》を皆《ミナ》弔《トフ》らへるなり然《サ》て又三に過(ル)2勝鹿眞間娘子《カツシカノマヽノヲトメカ》墓(ヲ)1時(ニ)山部(ノ)宿禰赤人作歌一首并短歌云々|勝牡鹿乃眞間之手兒名之奧槨乎此間登波聞杼眞木葉哉茂有良武松之根也遠久寸言耳毛名耳母吾者不所忘《カツシカノマヽノテコナカオクツキヲコヽトハキケトマキノハヤシケリタルラムマツカネヤトホクヒサシキコトノミモナノミモアレハワスラエナクニ》こは一首《ヒトウタ》の樣《サマ》を推察《オシハカ》るに此(ノ)娘子の基|既《ハヤ》く毀損《ソコナ》はれて當時《ソノカミ》徒《タヽ》其《ソ》の名《ナ》耳《ノミ》存《ノコ》れるなるへし然《サ》る故《カラ》に其《ソレ》をいとほしみて眞木の葉の茂りて所見《ミエ》さるにや又(タ)松(カ)根の久しく成(リ)たれはにやと詞を避(ケ)て弔らへる物なり故《カレ》その反歌に吾毛見都人爾毛將告勝壯鹿之間間能手兒名之奧津城處《ワレモミツヒトニモツケムカツシカノママノテコナカオクツキトコロ》と作《ヨメ》るも其《ソノ》墓所《オクツキ》を吾(レ)も慥《タシカ》に見置(キ)つ人にも告(ケ)て失《ウシナ》はざらしめむとなり勝牡鹿乃間間乃入江爾打靡玉藻苅兼手兒名志(150)所念《カツシカノマヽノイリエニウチナヒキタマモカリケムテコナシオモホユ》こは此(ノ)娘子は身を投(ケ)たるにて玉藻苅兼《タマモカリケム》とは其《ソレ》を|悼《ハヽカ》りてなり九に詠2勝鹿(ノ)眞間(ノ)娘子1歌一首并短歌云々|勝牡鹿乃眞間乃手兒奈我麻衣雨青衿著直佐麻乎裳者織服而髪谷母掻者不梳履乎谷不著雖行錦綾之中丹※[果/衣の一画目なし]有齋兒毛妹爾將及哉望月之滿有面輪二如花咲而立有者夏蟲乃入火之如水門入爾船己具如久歸香具禮人乃言時幾時毛不生物乎何爲跡歟身乎田名知而浪音乃驟湊之奧津城爾妹之臥勢流遠代爾有家類事乎昨日霜將見我其登毛所念可聞《カツシカノマヽノテコナカアサキヌニアヲオヒツケヒタサヲヽモニハオリキテカミタニモカキハケツラスクツヲタニハカスユケトモニシキアヤノナカニツヽメルイハヒコモイモニシカメヤモチツキノタレルオモハニハナノコトヱミテタテレハナツムシノヒイルカコトミナトイリニフネコクコトクヨリカクレヒトノイフトキイクハクモイケラシモノヲナニストカミヲタナシリテナミノトノサワクミナトノオクツキニイモカコヤセルトホキヨニアリケルコトヲキノフシモミケムカコトモオモホユルカモ》これは娘子か在(リ)つる世《トキ》の樣《サマ》を讃揚《ホメ》て和《ナク》さめ弔らへる物なり反歌 勝牡鹿乃眞間之井見者立平之水※[手偏+邑]家牟手兒名之所念《カツシカノマヽノヰミレハタチナラシミツクマシケムテコナシオモホユ》 身を投(ケ)たるを忌《イミ》て水※[手偏+邑]家牟《ミツクマシケム》と云(ヘ)りまた過(ル)2葦(ノ)屋(ノ)處女《ヲトメノ》墓(ヲ)1時(ノ)作歌《ウタ》一首并短歌云々|葦屋乃菟名日處女乃奧城矣吾立見者永世乃語爾爲乍後人偲爾世武等玉梓乃道邊近磐構作塚矣天雲乃退部乃限此道矣去人毎行因射立嘆日惑人者啼爾母哭乍語嗣偲繼來處女等我奧城所吾并見者悲裳古思者《アシノヤノウナヒヲトメノオクツキヲワカタチミレハナカキヨノカタリニシツヽノチヒトノシヌヒニセムトタマホコノミチノヘチカクイハカマヘツクレルツカヲアマクモノソキヘノカキリコノミチヲユクヒトゴニイユキヨリイタチナケカヒサトヒトハネニモナキツヽカタリツキシヌヒツキクルヲメラカオクツキトコロワレサヘニミレハカナシモイニシヘオモヘハ》 永世及《ナカキヨマテ》に此(ノ)墓《ハカ》失《ウス》る事|無《ナ》く人|毎《コト》に嘆《ナケ》き語《カタ》り傳《ツタ》へむとなり反歌 語繼可良仁文幾許戀布矣直目爾見兼古丁子《カタリツクカラニモコヽタコヒシキヲタヽメニミケムイニシヘヲトコ》 當時《ソノヨ》の心(ロ)を然社《サコソ》と推度《オシハカ》れるなりまた見2蒐名日處女《ウナヒヲトメノ》墓(ヲ)1歌一首并短歌 葦屋之菟名負處女之八年兒之片生乃時從小放爾髪多久麻庭爾並居家爾毛不所見虚木綿乃穿而座在者見而師香跡悒憤時之垣廬成人之誂時智奴壯士宇奈比壯士乃廬八燎須酒師競相結婚爲家流時者燒大刀乃手頴押禰利白檀弓靱取負而入水火爾母將入跡立向競時爾吾妹子之母爾語久倭文手纏賤吾之故丈夫之荒爭見者雖生應合有哉宍串呂黄泉爾將待跡隱沼乃下延置而打嘆妹之去者血沼壯士其夜夢見取次寸追去祁禮婆後有菟原壯士伊仰天叫於良妣※[足+昆]地牙喫建怒而如己男爾負而者不有跡懸佩之小釼取佩刀※[草冠/叙]蕷都良尋去祁禮婆親族共射歸集永代爾標將爲跡遐代爾語將繼常處女墓中爾造置壯士墓此方彼方二造置有故縁聞而雖不知新裳之如毛哭泣鶴鴨《アシヤノウナヒヲトメノヤトセコノカタナリノトキユヲハナリニカミタクマテニナラヒヲルイヘニモミエスウツユフノコモリテヲレハミテシカトイフセムトキノカキホナスヒトノイフトキチヌヲトコウナヒヲトコノフセヤタキスヽシキソヒアヒヨハヒシケルトキハヤキタチノタカヒオシネリシラマユミユキトリオヒテミツニイリヒニモイラムトタチムカヒアラソフトキニワキモコカハヽニカタラクシツタマキイヤシキワカユヱマスラヲノアラソフミレハイケリトモアフヘクアレヤシヽクシロヨミニマタムトコモリヌノシタハヘオキテウチナケキイモカイヌレハチヌヲトコソノヨイメニミトリツヽキオヒユキケレハオクレタルウナヒヲトコイアメアフキサケヒオラヒアシスリシキカミタケヒテモコロヲニマケテハアラシトカキハキノヲタチトリハキトコロツラトメユキケレハウカラトモイヨリツトヒナカキヨニシルシニセムトトホキヨニカタリツカムトヲトメツカナカニツクリオキヲトコツカコナタカナタニツクリオケルユヱヨシキヽテシラネトモニヒモノノコトモネナキツルカモ》こは此(ノ)處女の最《イト》弱《ワカ》かりし時《トキ》より世に似す惣《スヘ》て心(ロ)も貴《アテ》なりしかは人にも不所見《ミエス》て※[穴/牛]《コモ》らひ居《ヲリ》たりしを美《ホ》め又|吾妹子《ワキモコ》とは處女《ヲトメ》を愛親《ウツク》しめるにて母爾語久《ハヽニカタラク》云々は親《オヤ》に孝《マメ》なる志《コヽロサシ》の有《アル》由《ヨシ》又(タ)夫《ヲトコ》にも心(ロ)と許(151)容《ユル》さむと爲《ス》れは又(タ)今(マ)一人《ヒトリ》の情《コヽロ》を破《ヤフル》へけれは念《オモ》ひ困《ワヒ》たる若《ワカ》き心(ロ)の可憐《アハレ》さ然《サ》て竟《ツヒ》に三人《ミタリ》か身を投(ケ)しをも最《イト》假初《カリソメ》に物《モノ》へ往《イキ》たりし事氣《コトケ》に然《サ》る怖《オソ》ましき死《シニ》を言消《イヒケチ》たるにて永代《ナカキヨ》傳は《ツタ》る墓《ハカ》の故縁《ユエヨシ》を稱《タヽ》へ今《イマ》目前《マノアタリ》の哀傷《カナシヒ》を暢《ノ》へ皆盡《コト/\》く往時《ムカシ》を訪問《トフ》らへる禮《ワサ》なり反歌 葦屋之宇奈比處女之奧槨乎往來跡見者哭耳之所泣《アシヤノウナヒヲトメノオクツキヲユクヽトミレハネノミシナカユ》 墓上之木枝靡有如聞陣努壯丁爾之依倍家良信母《ツカノヘノコノエナヒケリキクカコトチヌヲトコニシヨルヘケラシモ》 此等《コレラ》の類(ヒ)は墳墓《ハカ》を祭《マツ》れるなり然《サ》て又(タ)此《コヽ》の磐代《イハシロ》の如《コト》きは其《ソノ》靈《タマ》の物《モノ》に宿《トヽ》まれるを勞《ネキ》らひ助《タス》けん爲《タメ》に慰《ナクサ》むる禮《ワサ》なり
 
143 磐代乃岸之松枝將結人者反而復將見鴨《イハシロノキシノマツカエムスヒケムヒトハカヘリテマタミケムカモ》
 
144 磐代乃野中爾立有給松情毛不解古所念《イハシロノヌナカニタテルムスヒマツコヽロモトケスイニシヘオモホユ》
 
未詳 後(ノ)人の所爲《シワサ》歟《カ》
 
山上臣憶良《ヤマノウヘノオミオクラ》追和(ノ)歌一首
 
追和とは右(キ)の人者反而復將見鴨《ヒトハカヘリテマタミケムカモ》に和《コタ》へて後時《ノチ》に作《ヨメ》ると云(フ)事《コト》なり
 
145 鳥翔成有我欲比管見良目杼母人社不知松者知良武《ツハサナスアリカヨヒツヽミラメトモヒトコソシラネマツハシルラム》
 
右(ノ)件《クタリノ》歌|等《トモハ》雖《トモ》v不《アラサレ》2挽《ヒク》v柩《ヒツキヲ》之|時《トキノ》所作《ウタニハ》1唯《タヽ》擬《ナスラヘ》2敵(ノ)意(ロニ)1故以載《ノセタリ》2于挽歌(ノ)類(ニ)1焉
 
大寶元年辛丑幸《イテマセル》2于紀伊(ノ)國(ニ)1時(ニ)見2結(ヒ)松(ヲ)1歌一首
 
柿(ノ)本(ノ)朝臣人麻呂(ノ)歌集(ノ)中(ニ)出(タリ)也
 
146 後將見跡君之結有磐代乃子松之宇禮乎又將見香聞《ノチミムトミキカムスヘルイハシロノコマツカウレヲマタミケムカモ》
 
宇禮《ウレ》は木末《ウレ》なり
 
近江(ノ)大津(ノ)宮(ニ)御宇(シシ)天皇(ノ)代《ミヨ》 天命開別《アメミコトヒラカスワケノ》天皇
 
天智天皇なり
 
天皇聖躬不豫之時大后奉御歌《スメラミコトオホミヤマヒノトキニオホキサキノタテマツリタマヘルミウタ》一首
 
天智紀に十年秋九月天皇|寢疾不豫《オホミヤマヒシタマフ》【或本《アルマキニハ》八月天皇疾病】冬十月甲子(ノ)朔辛未(ノヒ)於2内裏(ニ)1開2百佛(ノ)眼(ヲ)1是(ノ)月(ニ)天皇遣v使奉2袈裟|金鉢《クカネノハチ》象牙《キサノキ》沈水香栴檀香|及《マタ》諸《モロ/\ノ》珍財於《ウツタカラモノヲ》法興寺佛(ニ)1庚辰(ノヒ)天皇(ノ)疾病《オホミヤマヒ》彌留《オモシ》云々十二月癸亥(ノ)朔乙丑(ノヒ)天皇崩2于近江(ノ)宮(ニ)1とあり大后《オホキサキ》は古人大兄《フルヒトノオホエノ》皇子(ノ)【舒明天皇(ノ)皇子】女《ミムスメ》倭姫王《ヤマトヒメノミコ》なり
 
147 天原振放見者大王乃御壽者長久天足有《アマノハラフリサケミレハオホキミノミイノチハナカクアマタラシタリ》
 
此(ノ)御歌ハ大御病《オホミヤマヒ》の祈願《イノリ》に佛法《ホトケサマ》の續命(ノ)法と云(フ)事を修行《オコナ》はせ賜ふ時《ヲリ》に續命(ノ)幡《ハタ》と云(フ)物を懸《カケ》らるゝ事《コト》有(リ)其(レ)を看行《ミソナハ》して作《ヨミ》て獻《タテマツ》り賜《タマ》へるにて振放見者《フリサケミレハ》とは彼(ノ)幡《ハタ》の高く懸(ケ)られ(152)たるを云(フ)一首《ミウタ》の意(ロ)は尊《タフト》き御修行《ミワサ》の驗《シルシ》に天皇《オホキミ》の御壽《ミイノチ》は彌《イヨ/\》長く天足《アマタ》らして大御座《オホマシマ》すこと此(ノ)御幡の天《アメ》に高く懸有《カヽリ》て地《ツチ》及《マテ》長く垂《タ》れて引(キ)延《ハヘ》たる如《コト》くに目《メ》に顯著《イチシル》く所見《ミエ》させ賜へるとなり是《コヽヲ》以《モテ》此(ノ)一首《ミウタ》の姿體《スカタ》は飽(ク)まで長く連續《ツヽ》け給(ヘ)有《ル》物なり續紀に天平勝寶三年冬十月壬申詔曰|頃者《コノコロ》太上天皇枕席不v穩由v是七々日(ノ)間屈2請四十九(ノ)賢僧(ヲ)1於2新藥師寺1依2續命之法1設v齋行v之仰(キ)願(ハクハ)聖體平傷寶寿長久(ナラムコトヲ)【太上天皇は【聖武孝謙】天皇なり】また六年冬十一月戊辰勅朕以2至※[疑の旁が欠]1奉d爲(メニ)2二尊(ノ)御體平安寶壽増長(ナラマウカ)1一七之間屈2四十九僧(ヲ)1歸2依藥師琉璃光佛(ニ)1恭敬供養u其(ノ)經(ニ)曰懸2續命(ノ)幡1燃2四十九(ノ)燈1應(ヘシ)v放2雜類(ノ)衆生(ヲ)1云々《テヘリ》。。續後紀に嘉祥三年春二月甲寅天皇【仁明】の大御病に依(リ)て延命(ノ)法を修《オコナ》はるゝ處(ロ)に以2絹十二匹1爲2續命(ノ)幡1懸2十二大寺(ノ)刹(ニ)1と所見《ミエ》また丙子以2續命(ノ)幡四十流1各懸2刹(ノ)柱(ニ)1三筒日|修《オコナフ》2延命(ノ)之法(ヲ)1なども所見《ミエ》たり是(レ)等《ラ》
皆《ミナ》その明徴《アカシ》なり
頭注、。。 この經は藥師瑠璃光如來本願功徳經なりその文は爾(ノ)時(ニ)阿難問2救脱菩薩(ニ)1言(ク)善男子|應《ヘキ》4云2何《イカニ》恭敬(シ)供養(ス)3彼(ノ)世尊藥師瑠璃光如來(ヲ)1續命旛燈(ラハ)復(タ)云何(ニ)造(ラム)救脱菩薩(ノ)言(ク)大徳|若《モシ》有(リテ)2病人1欲《オモハヽ》v脱(レムト)2病苦(ヲ)1當《ヘシ》3爲(メニ)2其(ノ)人(ノ)1七日七夜受2持八分齋戒(ヲ)1應(シ)d以2飲食及(ヒ)餘(ノ)資具(ヲ)1隨(ヒ)2力(ノ)所1v辨供2養(シ)※[草冠/必]芻僧(ヲ)1晝夜六時(ニ)禮拜行道(シテ)供c養(ス)彼(ノ)世尊藥師瑠璃光如來(ヲ)u讀2誦(シ)此(ノ)經(ヲ)四十九偏1然《トモシ》2四十九(ノ)燈(ヲ)1造(リ)2彼(ノ)如來(ノ)形像七躯(ヲ)1一一像(ノ)前(ニ)各置(ケ)2七燈(ヲ)1一一(ノ)燈(ノ)量(リ)大(キサ)如(クニセヨ)2車輪(ノ)1乃至四十九日光明不v絶造(レ)2五色(ノ)繼旛長(サ)四十九※[石+桀]手(ヲ)應(シ)d放《ユルシ》2雜類(ノ)衆生(ヲ)1至《ル》c四十九(ニ)u可(シ)v得d過2度(シ)危※[戸/乙]之難(ヲ)1不(ルコトヲ)c爲2諸横惡鬼1所《ラレ》uv持(セ)とあり
 
一書《アルフミニ》曰(ク)近江(ノ)天皇聖體不豫御病急時大后奉御歌《スメラミコトノミヤマヒニハカナルトキニオホキサキノタテマツリタマヘルミウタ》一首
 
萬葉考(ニ)云(ク)此(ノ)一書は右の天原《アマノハラ》云々の哥に附(キ)たるなり然《サ》て左(リ)の青旗乃《アヲハタノ》云々の哥には別《コト》に題の有(リ)しか脱(チ)たるへし此(レ)は天皇の崩後《カムサリノノチ》に大后の御作歌《ミウタ》なり、
 
148 青旗乃木旗能上乎賀欲布跡羽目爾者雖視直爾不相香裳《アヲハタノコハタノウヘヲカヨフトハメニハミレトモタヽニアハヌカモ》
 
青旗乃《アヲハタノ》 此《コ》は天皇の大御|葬《ハフリ》の時其(ノ)行幸《イテマシ》の御行装《ミヨソヒ》の旌旗《ハタ》なり又此(ノ)下(ノ)天武天皇の御《トキ》にも向南山陣雲之青雲之《キタヤマニタナヒククモノアヲクモノ》この青雲も鹵簿《ミユキ》の行列《ツラ》なる彩《イロ/\ノ》旗を云(ヘ)るにて此《コヽ》の青旗の(153)事なり又十三【挽歌】に青幡之忍坂山《アヲハタノオサカノヤマ》と作《ヨメ》るは彼(ノ)旗を押(シ)とつづけたるにて後(ノ)世の軍記|等《ナト》に旗押《ハタオシ》と云(フ)如コト《》くに數多《アマタ》差(シ)列(ラネ)て押(シ)行(ク)より云(フ)なり然《サ》て天皇の御喪時《ミモノヲリ》の儀式《ミワサ》は忌諱《イマ》れてにや令式|等《ナト》の然有《サル》へき典《ミフミ》にも載《ノ》らす何等《ナニラ》の物にも克《ヨ》く記有《シルセル》あらねば上古《イニシヘ》の儀禮《サマ》ハ知|可有不《ヘカラサレ》ども喪葬令を按《カムカフ》るに凡親王一品(ニハ)方相轜車【義解(ニ)謂(フココロハ)方相(トハ)者蒙2熊皮1黄金(ノ)四目(アリ)玄衣朱裳執v戈揚v楯所3以導2轜車1者也轜車(トハ)葬車也】各一異|皷《ツヽミ》一百面|大角《ハラノフエ》五十口|小角《クタノフエ》一百口|幡《ハタ》四百竿|金鉦《ウチカネ》※[金+堯]鼓《カナツヽミ》【義解(ニ)謂(フココロハ)鉦(トハ)者似v鈴柄(ノ)中上下通也※[金+堯](トハ)者如v鈴無v舌有v柄執鳴而止2撃鼓1也】各二面|楯《タテ》【義解(ニ)謂(フココロハ)所2以自※[手偏+干]1v葬者也】七枚發v哀三日【義解(ニ)謂(フココロハ)發v哀猶v擧v哀也先v葬二日始(メテ)擧v哀乃至2葬日1以終是(レ)惣(ヘテ)發v喪三日也下文(ニ)云(ク)發v喪五日|亦《マタ》以2發日1乃終也即鼓角幡盾等(ノ)凶儀哀容|皆悉《ミナ》周(ネク)擧然後與2所司1發v喪也】二品(ニハ)云々三品四品(ニハ)云々諸臣(ノ)一位及(ヒ)左右(ノ)大臣(ハ)皆准2二品1二位及(ヒ)大納言(ハ)准2三品1唯除2楯車1三位(ニハ)云々太政大臣(ニハ)云々五位以上及(ヒ)親王【義解(ニ)謂(フココロハ)無位(ノ)皇親(ナリ)】並(ニ)借《カス》2轜車及帷帳(ヲ)1若(シ)欲2私(ニ)備(ヘムト)1者|聽《ユルセ》女(モ)亦准v此(レニ)と所見《ミエ》たり如是《カク》委細《クハ》しく親王以下を説《イハ》れて天皇皇后皇太子の儀式を載(セ)られさるは奈何有《イカナル》に歟《カ》と思ふに令は凡(ヘ)て下を制《オキツ》るか料《タメ》に建(テ)られたる法度《ミノリ》にしあれは皇太子已上の儀典《ミワサ》をば除かれたる物にや又一(ツ)には君上《キミ》たる大御上《オホミウヘ》の凶儀を豫《アラカ》しめ立(テ)置(カ)れむも可畏《カシコ》く忌々《ユヽ》しけれハ議者の意(ロ)して事《ワサ》と洩《ノコ》せるにも有(ル)へし雖然有《シカレトモ》上文の趣《サマ》を以(テ)大凡《オホヨソ》にも推(シ)量(カ)るに自然《オノツカ》ら天皇のも知られぬへき事(ノ)體《サマ》になむ有(ル)めるそかし如是有《カヽレ》は其(ノ)儀旌等《ミハタトモ》の員數《カス》も甚《イミ》しく大《イタ》く嚴《イカ》く多有《オホカリ》けむ事|亦《マタ》自《オノツカ》ら然乞《サコソ》と暗察《オシハカ》らるへかめり然《シカ》れとも其(ノ)御旗の彩色《イロ》如何《イカ》なりけるにか絶(エ)て物に所見《ミエ》ねは此《コ》は再《》更(ラ)に得《エ》しも推(シ)案《ハカ》るへからす於爰《コヽニ》孝徳紀を按《カムカフ》るに大化二年春正月甲子(ノ)朔|賀正禮畢《ミカトヲロカミコトヲハリテ》即(ハチ)宣2改新之詔1曰云々二月甲午(ノ)朔戊申天皇幸2宮(ノ)東門1使2蘇我(ノ)右大臣1詔曰云々三月癸亥(ノ)朔甲子詔2東《ヒムカシ》國國(ノ)司等《ミコトモチトモニ》1曰云々辛巳詔2東(ノ)國(ノ)朝集使等(ニ)1曰云々甲申詔曰朕聞(ク)西土之君戒2其民1曰古之葬(ハ)者因(リテ)v高(キニ)爲v墓(ト)不v封不v樹棺槨(ハ)足2以|朽《クタスニ》1v骨(ヲ)衣衿(ハ)足2以|朽《クタスニ》1v宍《シヽヲ》而已云々無v施《オクコト》2珠(ノ)襦《コシコロモ》玉(ノ)押《ヨロヒヲ》1諸(ノ)愚俗(ノ)所v爲也又曰葬(ハ)者藏|也《ナリ》欲2人之不1v得v見也(トイヘリ)廼《コノコロ》(154)者我(カ)民(ノ)貧《マツシキコト》絶|專《モハラ》由(レリ)v營《ツクルニ》v墓(ヲ)爰(ニ)陣(テ)2其(ノ)制(ヲ)1專卑使(ムコトナラ)v別夫五以上之墓(ハ)者云々其(ノ)葬(ラム)時(ノ)》惟帳等(ハ)用(ヒヨ)2白布(ヲ)云々なと所見《ミエ》たり此《コ》は此(ノ)時(ニ)|皇《スメラ》大御國の神代|隨《ナカラ》の古(ヘ)の風儀《テフリ》を悉皆《ミナ》漢樣《カラサマ》に改新《アラタメ》賜へりし度《タヒ》の制度《ミノリ》にて此(レ)に葬具の旌旗《ハタ》の事は所視《ミエ》ねと如是《カク》まて萬《ヨロツ》を省除《ソキステ》賜へるを念へば旗|等《ナト》も惣(ヘ)て彩帛《イロモノ》を用ひす素白《シロ》きを社《コソ》は亡者《シニヒト》相應《フサハ》しくと定められたる當時《ソノヨ》の情状《コヽロハヘ》所見《ミユ》めり右の甲申の詔《ミコトノリ》は王以上の格《サタメ》と有に依れは一品親王までの令《コト》にて皇太子以上の儀法《ミサタメ》には非《アラサ》る事上に説《イヘ》る喪葬令に君上《キミ》の御上《ミウヘ》を關(キ)たる心操《コヽロハエ》と同し如斯《カヽ》れは天皇皇后皇太子の御物《ミモノ》は素布《シロヌノ》の装束《ミヨソヒ》ならす色を用ひらるゝ事と所知《シラレ》たり是以《コヽヲテ》思ふに彼《カ》の方相の忌々《ユヽ》しき状貌《カタチ》の者《モノ》皷《ツヽミ》大角《ハラ》小角《クタ》金鉦《ウチカネ》饒鼓《カナツヽミ》の類(ヒ)楯等《タテトモ》も鬼魅《モノ》を威《オト》す備(ヘ)の具《モノ》と所見《ミユ》れば旗も其(レ)にて色(ロ)々《/\》に夥多《オホ》く指(シ)列ねて眼《メ》を令驚《》装飾《オトロカスカサリ》なるへし然《サ》れは此《コ》は彼《カ》の帷帳|等《ナト》よりも事實《モノ》に取(リ)て色を棄除《ステ》られ難く古(ルキ)に因(リ)て色旌《イロハタ》なりしなるへし又常陸(ノ)國(ノ)風土記(ニ)信太(ノ)郡(ノ)説(ニ)曰(ク)黒坂(ノ)命《ミコト》之|輸轜車《キクルマ》發《タチテ》2黒前(ノ)之山(ヨリ)1到2日高見(ノ)之國(ニ)1葬具儀《ハフリノヨソヒ》赤旗青幡|交雜飄※[風+※[場の旁]]《マシハリヒルカヘリ》雲(ノコトク)飛(ヒ)虹(ノコトク)張(リ)瑩《テラシ》v野(ヲ)耀《カヽヤカシキ》v路(ヲ)時(ノ)人謂(ヘリシヲ)2之(レヲ)幡垂《ハタシテノ》國(ト)1後(ノ)世言(ノ)便(リニ)稱(フナリ)2信太(ノ)國(ト)1とも有(リ)上世《イニシヘ》の風《サマ》なるへし如此《カヽ》れは色は種々《クサ/\》なりへらめ抒歌には何處《イツク》も皆(ナ)青旗と耳《ノミ》有(リ)【引(ケ)るが如し】如何《イカニ》と謂《イフ》に赤《アカ》とも黒《クロ》とも黄《キ》とも白《シロ》とも詠《ヨム》可《ヘ》き哥の調《シラヘ》に非ればなるへし故(レ)青旗と云(ヘ)るに餘《ホカノ》色は籠(メ)たるにそ有(リ)ける○木旗能上乎 《コハタノウヘヲ》 神名帳に山城(ノ)國字知(ノ)郡許波多(ノ)神社諸陵式に巨幡(ノ)墓(ハ)云々在2山城(ノ)國宇治(ノ)郡(ニ)1古事記【中(ツ)卷明(ノ)宮(ノ)段(リ)】に木幡(ノ)村此(ノ)集【十一】に山科強田山《ヤマシナノコハタノヤマ》なと有(リ)て此(レ)即《》此(ノ)天皇の山階《ヤマシナ》の鏡山の御陵《ミハカ》の邊《アタリ》にて其地《ソコ》の邊《ウヘ》を御駕《ミユキ》の通ふとは遙(ルカ)に京より望送《ミオク》り賜へれども【大津(ノ)宮とも遠からざればなり】直目《タヽメ》に天皇《キミ》を相(ヒ)見賜はぬ事よと例に異《カハ》れる行幸《ミユキ》の度《タヒ》なるを哀傷《カナシヒ》給へる御作歌《ミウタ》なり然《サ》て青旗《アヲハタ》の木旗《コハタ》とつゝけ給へるなむ此(ノ)御哥の語《コトハ》の文《アヤ》なりける
 
天皇崩御之時倭大后御作歌《スメラミコトカムサリマシヽトキニヤマトノオホキサキノミウタ》一首
 
149 人者縱念息登母玉※[草冠/縵]影爾所見乍不所忘鴨《ヒトハヨシオモヒヤムトモヤマカツラカケニミエツヽワスラエヌカモ》
 
玉※[草冠/縵]《ヤマカヅラ》は玉の小琴(ニ)云(ク)玉(ノ)字は山の誤なる事上(ノ)玉松《タママツ》の處(ロ)【新考の】に云(ヘ)るか如し然《サ》て十四に安之比奇能夜麻可都良加氣麻(155)之波爾母衣可多伎可氣乍於吉夜可良佐武《アシヒキノヤマカツラカケマシハニモエカタキカケヲオキヤカラサム》と作《ヨメ》る加氣《カケ》は蘿《ヒカケ》なり蘿《ヒカケ》を山蔓《ヤマカツラ》と稱《イ》ふ故に山かつらかけとも續《ツヽ》け作《ヨメ》るなり此(ノ)御哥の山※[草冠/縵]《ヤマカツラ》は影の枕(ラ)詞(ハ)にて續くる義《ヨシ》は此(レ)も山かつら蘿《ヒカケ》と云(フ)意(ロ)なり然《サ》て影爾所見乍《カケニミエツヽ》は面影に所見乍《ミエツヽ》なり
 
天皇崩(リ)時《マシヽニ》婦人(ノ)作歌一首 姓氏未詳《ナハサタカナラス》
 
150 空蝉師神爾不勝者離居而朝嘆君放居而吾戀君玉有者手爾卷持而衣有者脱時毛無吾戀君曾伎賊乃夜夢所見鶴《ウツセミシカミニタヘネハハナリヰテアサナケクキミサカリヰテアカコフルキミタマナラハテニマキモチテキヌナラハヌクトキモナクアカコフルキミソキソノヨイメニミエツル》
 
空蝉師神爾不勝者《ウツセミシカミニタヘネハ》とは現身《ウツセミ》の世《ヨ》の凡人《タヽヒト》はしも神には堪《アヘ》ぬ者《モノ》なりければなり○朝嘆君《アサナケクキミ》は末(ノ)句(ノ)君曾伎賊乃夜夢所見鶴《キミソキソノヨイメニミエツル》の張本《タメ》にて夢を想《オモ》ひて朝に嘆くとなり○位賊《キソ》は昨日なり昨日を伎賊《キソ》とも伎須《キス》とも去※[缶+尊]《コソ》とも云(ヘ)る例《コト》十四(ノ)卷にも又崇神紀仁徳紀履中紀允恭紀其《ソノ》余《ホカ》の物にも是(レ)彼(レ)あり然《サ》て此(ノ)婦人は御《メサ》れし人なるへし歌の樣《サマ》に其(ノ)意(ロ)はへ見ゆ
 
天皇(ノ)大殯《オホアラキノ》之時(ノ)歌二首
 
151 如是有刀豫知勢婆大御船泊之登萬里人標結麻思乎《カヽラムトカネテシリセハオホミフネハテシトマリニシメユハマシヲ》 額田(ノ)王
 
大御船は湖《ミツウミ》に遊ひ賜ひし時のなり標結《シメユフ》とは標示《シルシ》を爲《スル》を云(フ)一首《ウタ》の意(ロ)は天皇《オホキミ》の御迹《ミアト》をたに遺《ノコ》し留《トヽ》めす神去《カムサ》らせ奉《マツ》りし事よとなり
 
152 八隅知之吾期大王乃大御船待可將戀四賀乃辛崎《ヤスミシシワコオホキミノオホミフネマチカコフラムシカノカラサキ》 舍人吉年《トネリヨシノトシ》 舍人《トネリ》は命婦《ヒメトネ》吉《ヨシ》は姓|年《トシ》は名此人四(ノ)卷に出て女《ヲンナ》なること著明《イチシル》し吉姓《ヨシウチ》も姓氏録【左京皇別吉田連條】に有(リ)
 
大后(ノ)御歌一首
 
153 鯨魚取淡海乃海乎奧放而榜來船邊附而榜來船奧津加伊痛勿波禰曾邊津加伊痛莫波禰曾若草乃嬬之念鳥立《イサナトリアフミノノウミヲオキサケテコキクルフネヘツキテコキクルフネオキツカイイタクナハネソヘツカイイタクナハネソワカクサノツマノオモフトリタツ》
 
鯨魚取《イサナトリ》は海《ウミ》の枕詞○奧津加伊《オキツカイ》 加伊は和名抄【舟(ノ)具】に樟(ハ)釋名(ニ)云(ク)在(リテ)v旁(ラニ)撥《ハヌルヲ》v水(ヲ)曰(フ)v櫂(ト)【直教(ノ)反、字亦作v棹漢語抄(ニ)云(ク)加伊】櫂2於水中1且《マタ》進(ミ)櫂也とあり八に佐丹塗之小船毛賀茂玉纏之眞可伊毛我母朝奈藝爾伊可伎渡夕鹽爾伊許藝渡《サニヌリノヲフネモカモタマヽキノマカイモカモアサナキニイカキワタリユフシホニイコキワタリ》云々十七に阿麻夫禰爾麻可治加伊奴吉《アマフネニマカチカイヌキ》云々十九に小船都良奈米眞可伊可氣伊許藝米具禮婆《ヲフネツラナメマカイカケイコキメクレハ》云々また|等母爾倍爾眞可伊繁貫《トモニヘニマカイシヽヌキ》廿に大船爾末加伊之自奴伎《オホフネニマカイシシヌキ》云々なとも見ゆ名義《ナノコヽロ》は掻《カイ》にて榜《コキ》とも本(ト)は一(ツ)言《コト》なるへし榜(ノ)字も旁木《カタハラニキ》なれは彼《カ》の釋名の説に合《カナ》へり然《サ》て此《コ》は今(マ)も加伊と云(フ)具《モノ》なり○痛勿波禰曾《イタクナハネソ》 古(156)事記【下(ノ)卷】朝倉(ノ)宮(ノ)段(ノ)大御歌に處女《ヲトメ》の伊隱《イカク》る崗《ヲカ》を金※[金+且]《カナスキ》も五百箇《イホチ》も欲得《カモ》すき撥《ハヌ》る物《モノ》○若草乃《ワカクサノ》は冠辭考に美愛《ウルハ》しみ爲《ス》る夫婦《ツマ》の枕(ラ)詞(ハ)と有(リ)○嬬之《ツマ》は三言(ノ)句○念鳥立《オモフトリタツ》は故|天皇《スメラミコト》の常《ツネ》に看行《ミソナハ》して※[立心偏+可]怜《オモシロ》み念ほし見《メ》しゝ鳥なり
 
石川夫人《イシカハノオホトシ》歌一首
 
天智紀に嬪《ミメ》蘇我(ノ)山田(ノ)石川の麻呂(ノ)大臣女曰遠智娘《オホオミノムスメナハヲチノイラツメ》【或(ル)本《マキニ》云(ク)美濃津子《ミヌツコノ》娘】次(ニ)有(リ)2遠智(ノ)娘(ノ)弟《オト》1曰姪《ナハメヒノ》娘【或(ル)本(ニ)云(ク)名姪娘曰《メヒノイラツメノマタノナハ》櫻井(ノ)娘】とあり何《イツ》れならむ詳《サタカ》ならす
 
154 神樂浪乃大山守者爲誰可山爾標結君毛不有國《ササナミノオホヤマモリハタカタメカヤマニシメユフキミモマサナクニ》
 
從《ヨリ》2山科御陵《ヤマシナノミハカ》1退散《アラクル》之|時《トキニ》額田(ノ)王(ノ)作歌《ウタ》一首
 
此(レ)は御陵《ミハカ》に葬奉《ヲサメマツ》りて後《ノチ》一周《ヒトヽセ》の間《ホト》男女の侍御者《ミモトコヒト》かはる
 
/\御陵邊《ミハカノヘ》に廬《イホ》り居《ヰ》日夜旦碁《ヨルヒルアケクレ》に絶(エ)す哭泣《ミネナキ》つゝ奉仕《ツカヘマツ》
り一回《ヒトメクリ》の御終焉《ミハテ》に追散《アラク》る時《トキ》の歌なり下に日並皇子尊殯《ヒナメシノミコノミコトノアラキノ》宮(ノ)之|時《トキ》に眞弓乃崗爾宮柱太布坐御在香乎高知坐而朝言爾御言不御問日月之數多成塗其故皇子之宮人行方不知毛《マユミノヲカニミヤハシラフトシキマシミアラカヲタカシリマシテアサコトニミコトトハサスヒツキノマネクナリヌルソコユヱニミコノミヤヒトユクヘシラスモ》また外爾見之檀乃岡毛君座者常都御門跡侍宿爲鴨《ヨソニミシマユミノヲカモキミマセハトコツミカトヽトノヰスルカモ》 朝日照佐太乃岡邊爾鳴鳥之夜鳴變布此月己呂乎《アサヒテルサタノヲカヒニナクトリノヨナキカハラフコノトシコロヲ》なと有(リ)是(レ)らにても知(ル)へし
 
155 八隅知之和期大王之恐也御陵奉仕流山科乃鏡山爾夜者毛夜之盡晝者母日之盡哭耳呼泣乍在而哉百磯城乃大宮人者去別南《ヤスミシヽワコオホキミノカシコキヤミハカツカフルヤマシナノカヽミノヤマニヨルハモヨノコト/\ヒルハモヒノコト/\ネノミヲナキツヽアリテヤモヽシキノオホミヤユキワカレナム》
 
御陵奉仕流《ミハカツカフル》とは鏡山の奉仕《ツカフル》るを云(フ)【人の御料を營《ツク》り奉仕《ツカフル》るに非(ラ)ず】○哭耳呼泣乍在而哉《ネノミヲナキツヽアリテヤ》は日夜旦碁《ヨルヒルアケクレ》の御哭事《ミネツカヘ》を云(フ)
 
明日香(ノ)清御原(ノ)宮(ノ)御宇(メしヽ)天皇(ノ)代《ミヨ》 天渟中原瀛眞人《アメヌナハラオキノマヒトノ》天皇
 
 
十市皇女薨時高市皇子尊御作《トヲチノヒメミコカムサリマシヽトキニタケチノミコノミコトノミウタ》歌三首
 
天武紀に天皇|初《ハシメ》娶《メシテ》2鏡(ノ)王(ノ)女《ムスメ》額田(ノ)姫王(ヲ)1生2十市(ノ)皇女(ヲ)1
ニムナカタノトコセカムスメアマコノイラツメミコノミコトヲ
次(ニ)納(テ)2※[匈/月]形《》君|徳善女尼子娘《》1生2高市(ノ)皇子命《》1と有(リ)て十市と高市とは異母兄弟《コトミハラカラ》なり然《サ》て皇女《ヒメミコ》は大友(ノ)皇子の妃《ミメ》に成り賜へる由(シ)懷風藻【葛野《カツヌノ》王(ノ)傳】に所見《ミエ》たり故(レ)思ふに大友(ノ)皇子|薨《カムサリマシテ》後(チ)に再《マタ》高市(ノ)皇子(ノ)命には嫁坐《ミアヒマ》しゝなるへし故(レ)この哀傷《カナシヒ》の御歌は作《ヨミ》賜へると思《オホ》ゆ天武紀に七年夏四月丁亥(ノ)朔十市(ノ)皇女|薨《カムサリマス》と有(リ)
 
156 三諸之神之神須疑《ミモロノカミノカミスキ》己具耳矣自得監乍共|不寢夜叙多《イネヌヨソオホキ》
 
(157)三四(ノ)句は誤字なりいまた考(ヘ)得す
 
157 神山之山邊眞蘇木綿短木綿如此耳故爾長等思伎《カミヤマノヤマヘマソユフミシカユフカクノミカラニナカクトオモヒキ》
 
神山は倭(ノ)京の時《トキ》に大三輪を云(フ)例なり【今(ノ)京に賀茂を云(フ)と同じ】 ○山邊眞蘇木綿《ヤマヘマソユフ》 眞麻《》なり○短木綿《ミシカユフ》は栲皮《タクノカハ》の木綿なり此(レ)は麻《アサ》よりも剥《ハキ》たる皮の差《ヤヽ》短かければなり然《サ》て此(ノ)二物《フタツ》は所謂《イハユル》青和幣《アヲニキテ》白和幣《シラニキテ》なり○一首《ミウタ》の意(ロ)は此(ノ)大神に青和幣白和幣を獻《マツ》りて乞躊《コヒノミ》つるは吾妹子《ワキモコ》か壽《イノチ》をばこの眞麻木綿《マソユフ》の如く長くと乞《コソ》願《ネキ》て奉《タテマツ》りしなれ然《シカ》るに反《カヘ》りて此《コ》の短木綿の短き命に有(リ)けるもの故《ユヱ》に長くと念ひて貢《タテマツ》りしそやとなり四に千磐破神之社爾我掛師幣者將賜妹爾不相國《チハヤフルカミノヤシロニワカカケシヌサハタハラムイモニアハナクニ》また後(チ)なれと千載集【戀二】に憂《ウ》かりける人をはつ瀬の山下《ヤマオロシ》よ烈《ハケ》しかれとは祈らぬ物を此(レ)等《ラ》の意(ロ)を兼(ネ)たる物なり
 
158 山振之立儀足山清水酌爾雖行道之白鳴《ヤマシミツクミニユカメトミチノシラナク》
 
山振之立儀足《ヤマフキノタチシナヒタル》【儀(ノ)字《モシ》は容儀の意(ロ)を得て書(ケ)るなり志那布《シナフ》は女《ヲミナ》の容儀なればなり】は此(ノ)花を女に比《タト》へたる例多し然《サ》るは花の細《サヽ》やかに可愛《ウルハ》しき耳《ノミ》ならす枝《エタ》の婀娜《タワ》やき姿《スカタ》も宜《ヨロ》しければなり十一に山振之爾保敝流妹之翅酢色乃赤裳之爲形夢所見管《ヤマフキノニホヘルイモカハネスイロノアカモノスカタイメニミエツヽ》十九に山吹乃花執持而都禮毛奈久可禮爾之妹乎之努比都流可毛《ヤマフキノハナトリモチテツレモナクカレニシイモヲシヌヒツルカモ》 山吹乎屋戸爾植※[氏/一]波見其等爾念者不息戀己曾益禮《ヤマフキヲヤトニウヱテハミルコトニオモヒハヤマスコヒコソマサレ》 妹爾似草等見之欲里吾標之野邊之山吹誰可手乎里之《イモニニルクサトミシヨリワカシメシヌヘノヤマブキタレカタヲリシ》なと有(リ)さて此(レ)は此(ノ)御墓に行坐《イテマ》し其《ソノ》處に此(ノ)花の有(ル)を採《ト》り手向《タムケ》て詠《ヨミ》賜へるなり○山清水《ヤマシミツ》は酌《クミ》て奠《タム》け賜はむと爲《ス》る時《ヲリ》に彼《カ》の黄泉の事を念出して宜《ノタマ》へるなり然《サ》るは山振の花の下《シタ》泉《イヅミ》なれは黄泉《キナルイヅミ》と云(フ)事の巧《タクミ》なり此(ノ)頃《コロ》は儒佛の學《マナヒ》盛《ミサカリ》なりけれは如是《カヽ》る工《タクミ》を好み賜へるにそ有(リ)ける○遺之白鳴《ミチノシラナク》とは道知らば黄泉まても尋ね行(カ)まし物をの意なり
 
天皇崩(リ)之時大后御作歌《マシヽトキニオホキサキノミウタ》一首
 
天武紀に朱鳥(ノ)》元年秋九月戊戌(ノ)朔丙午(ノヒ)天皇(ノ)病《ミヤマヒ》遂(ニ)不《マサス》v差《イエ》崩2于正宮(ニ)1云々大后は持統天皇なり
 
159 八隅如之我大王之暮去者召賜良之明來者問賜良之神岳乃山之黄葉乎今日毛鴨問給麻思明日毛鴨召賜萬旨其山乎振放見乍暮去者綾哀明來者裏佐備晩荒妙乃衣之袖者乾時文無《ヤスミシヽワカオホキミノユフサレハメシタマヘラシアケクレハトヒタマヘラシカミヲカノヤマノモミチヲケフモカモトヒタマハマシアスモカモメシタマハマシソノヤマヲフリサケミツヽユフサレハアヤニカナシモアケクレハウラサヒクラシアラタヘノコロモノソテハヒルトキモナシ》
 
召賜良之《メシタマヘラシ》 この良之は常《ツネ》云(フ)とは異《カハ》りて召(シ)賜へりしの意(ロ)なるを調《シラヘ》にて里《リ》の良《ラ》に變《カハ》れる物なり例は廿に【孝謙天皇の高圓《タカマト》の(158)故(ル)き離宮を偲《シヌ》びて詠《ヨメル》歌】於保吉美乃都藝弖賣須良之多加麻刀能野敝美流其等爾禰能未之奈加由《オホキミノツキテメスラシタカマトノヌヘミルコトニネノミシナカユ》なと有(リ)さて此《コヽ》の召《メシ》は見《ミシ》と云(フ)事なり【此(ノ)事は新考 の 葉に云(ヘ)り】○神岳乃《カミヲカノ》 大和(ノ)國高市(ノ)郡にいま雷土《イカツチ》村あり其處《ソコ》即《ヤカテ》この神岳の地《トコロ》なり又|此處《コヽ》を飛鳥《アスカ》の神奈備山《カムナヒヤマ》ともまた神名火《カムナヒ》の三諸岳《ミモロノヲカ》とも云(ヒ)て古(キ)書(ミ)に多く最《モト》も名高き地《》なり式に高市(ノ)郡飛鳥(ニ)坐(ス)神(ノ)社四座【並(ニ)名神大月次相甞新甞】これに事代主《コトシロヌシノ》神を主《ムネ》と齋奉《イツキマツ》れり出雲(ノ)國(ノ)造(ノ)神(ノ)壽辭《ヨコト》に事代主(ノ)命能御魂乎飛鳥乃神奈備爾坐《ミコトノミタマヲアスカノカムナヒニマサセ》云々………………………………………………………………………………………………………………………………と有(ル)も此《コヽ》なり故(レ)神之邊《カムナヒ》ともまた御室《ミムロ》とも此社地《コノミヤシロノトコロ》を云(ヘ)り又|神岳《カミヲカ》と名《ナツケ》し縁故《コトノモト》は雄略紀に七年秋七月甲戊(ノ)朔丙子(ノヒ)天皇|詔《ノリタマハク》2少子部連螺羸《チヒサコヘノムラシスカルニ》1曰朕|欲《オモフ》v見(ムト)2三諸(ノ)岳(ノ)神(ノ)之形(ヲ)1汝《イマシ》膂力《チカラ》過(キタリ)v人(ニ)自《ミツカラ》行(キテ)提來《トラヘヰテマヰコ》螺羸答(ヘ)曰《マヲサク》試(ロミニ)往(キテ)捉《トラヘコム》之乃(ハチ)登(リ)2三諸(ノ)岳に1捉2取《トラヘテ》大(ナル)蛇《ヲロチヲ》1奉(リキ)v示《ミセ》2天皇(ニ)1天皇不2齋戒1其(ノ)雷《カミ》※[兀+虫]※[兀+虫]《ヒカリヒロメキ》目精《マナコ》赫赫《カヽヤク》天皇|畏《カシコミマシ》蔽v目不v見《ミタマハ》劫2入《カクリマシキ》殿中《オホトノヌチニ》1使v放(タ)2於岳(ニ)1仍《カレ》改《コトニ》賜(ハリテ)v名(ヲ)爲《イフ》v雷《イカツチト》これより山をも雷丘《カミヲカ》と呼《イヒ》また伊加土山《イカツチヤマ》とも稱《イフ》なり【三に見ゆ】○山之黄葉乎《ヤマノモミチヲ》は天皇九月に崩り坐(セ)れはなり
 
一書《アルフミニ》曰(ク)天皇崩(リマシヽ)之時(ニ)太上天皇(ノ)御製歌《オホミウタ》二首
 
太上は持統天皇なり
 
160 燃火物取而裹而福路庭入澄不言八面智男雲《モユルヒモトリテツヽミテフクロニハハイルトイハスヤモシルトイハナクモ》
 
萬葉考(ニ)云(ク)智は知曰二字の誤(リ)にや一首《ミウタ》の意(ロ)は燃火《モユルヒ》をも袋《フクロ》に取(リ)入(レ)なと爲《ス》る如《コト》き幻術《マホロシノワサ》も有(リ)と不言《イハス》や然《シカ》るに天皇《オホキミ》の御影《ミカケ》をたに見(ル)へき方《スヘ》を知(ル)と言《イ》は旡《ナク》くとなり
 
161 向南山陣雲之青雲之星離去月牟離而《キタヤマニタナヒククモノアヲクモノホシハナリユキツキムハナリテ》
 
向南山《キタヤマ》とは天武天皇の御陵《ミハカ》高市(ノ)郡|檜隈大内《ヒノクマノオホウチ》の方《カタ》を云(フ)清見原(ノ)京《ミヤコ》より北に當れはなり○陣雲之青雲之《タナヒククモノアヲクモノ》は大御葬《オホミハフリ》の行幸《イテマシ》の装束《ヨソヒ》に甚《イト》多く指(セ)る彩旗《イロハタ》の形状《サマ》を望《ミ》送りて宜《ノタマ》へり其(レ)を青旗と云(フ)由(シ)上(ミ)に説(ヘ)り【十五(ノ)葉《ヒラ》】考(ヘ)合(ス)へし○星離去月牟離而《ホシハナリユキツキムハナリテ》 牟《ム》は母《モ》を調《シラヘ》に從《ヨリ》て變《カヘ》たるにて歌ふ物の例《ツネ》なり委《クハ》しくは詞之隨意《コトハノマニ/\》に云(ヘリ)然《サ》て此(ノ)二句は月とは皇后の御自《ミミツカラ》の上《ウヘ》皇とは皇子等《ミコタチ》の事なり○一首《ミウタ》の意(ロ)は大御葬《オホミハフリ》を遠く見賜ひ送りて吾(レ)をも御子をも離《ハナ》り果去《ハテヌ》るよとなり然《サ》て(159)御葬行《ミハフリ》は夜陰《ヨル》なりし故《ユヱ》に其(ノ)時《トキ》の景物《サマ》もて作(ミ)賜へる成(ル)へし【然《サ》れば此《コヽ》の青雲は青天《アヲソラ》を謂(フ)に非(ラ)ず青天に月星有(ル)べからざればなり玉乃小琴の説《トキコトハ》大《イタ》く惡(ロ)し
 
天皇崩(リマシシ)之後(ニ)八年九月九日奉v爲2御齋會(ヲ)1之夜夢(ノ)裏(ニ)習(ヒ)賜(ヘル)御歌一首
 
持統紀に七年秋九月丁亥(ノ)朔丙申(ノヒ)爲《ミタメニ》2清御原(ノ)天皇(ノ)1設2無遮大倉(ヲ)於|内裏《オホウチニ》1繋囚悉(/\ク)原遣《ユルサル》とあり此(レ)なり夢(ノ)裡(ニ)習(ヒ)賜(ヘル)とは持統の大御夢に自然《オノツカ》ら讀習《ヨミナラヒ》うかへ賜(マ)へるなり十六に云々夢(ノ)裡(ニ)作(ミテ)2此(ノ)歌(ヲ)1贈(レリ)v友(ニ)覺《サメテ》而令(ルニ)2誦習1如(シ)v前(ノ)とも有(リ)
 
162 明日香能清御原乃宮爾天下所知食之八隅知之吾大王高照日之皇子何方爾所念食可神風乃伊勢能國者奧津藻毛靡足波爾鹽氣能味香乎禮流國爾味凝文爾乏寸高照日之御子《アスカノキヨミハラノミヤニアメノシタシラシメシヽヤスミシシワカオホキミタカヒカルヒノミコイカサマニオモホシメセカカムカセノイセノクニハオキツモヽナヒキシナミニシホケノミカヲレルクニヽウマコリノアヤニトモシキタカヒカルヒノミコ》
 
香乎禮流《カヲレル》は薫有《カヲレル》なり神代記【一書】に伊弉諾(ノ)尊曰(ク)我所生之《アカウメリシ》國(ハ)唯有朝霧薫滿之哉《タヽサキリノミカヲリミテルカモ》云々○味凝《ウマコリノ》は可美織《ウマクオリ》の文《アヤ》と續《ツヽ》くる枕(ラ)詞(ハ)○文爾乏寸《アヤニトモシキ》は阿也《アヤ》は嗟軟音《ナケキノコヱ》なり乏寸《トモシキ》は美譽《ホメ》たる語《コト》なり○此(ノ)歌は御夢に習(ラ)ひ讀(ミ)浮(カ)へ賜へるなるか故《ユヱ》に一首《ヒトウタ》の意(ロ)はいと克《ヨ》く貫通《トホ》りても所聞キコエ》す
 
藤原(ノ)宮(ニ)御宇(メシヽ)天皇(ノ)代《ミヨ》 高天原廣野姫《タカマノハラヒロヌヒメノ》天皇
 
大津(ノ)皇子薨(リマシヽ)之後(ニ)大來皇女《オホクノヒメミコ》從(リ)2伊勢(ノ)齋《イツキノ》宮1上京之時御作歌《ノホリキマセルトキノミウタ》二首
 
持統紀に朱鳥(ノ)元年冬十月戊辰(ノ)朔己巳(ノヒ)皇子大津謀反發覺云々庚午(ノヒ)賜2死(ヲ)皇子大津(ニ)於|譯語田《ヲサタノ》舍(ニ)1云々十一月丁酉(ノ)朔壬子奉2伊勢(ノ)神祠(ニ)1皇女大來《ヒメミコオホク》還2至《カヘリツキマシヌ》京師(ニ)1と有(リ)猶《ナホ》此(ノ)一件《ヒトクタリノ》事は上(ミ)に細《クハ》しく説《イヘ》り【新考 の 】考(ヘ)合(ス)へし
 
163 神風之伊勢能國爾母有益乎奈何可來計武君毛不有國《カムカセノイセノクニニモアラマシヲナニシカキケムキミモアラナクニ》
 
神風之《カムカセノ》は伊勢の冠辭《マクラコトハ》なからに然《サ》る憂(キ)事の所聞《キコエ》ぬ國の由(シ)をも仄《ホノカ》に含令《フクメ》賜へる物にて是《コ》れ枕詞の用格《ツカヒサマ》なり味《アチ》はふへし
 
164 欲見吾爲君毛不有爾奈何可來計武馬疲爾《ミマクホリアカスルキミモアラナクニナニシカキケムウマツカルヽニ》
 
馬疲爾《ウマツカルヽニ》は御馬《ミマ》を速《ハヤ》めて來《キ》給へる代《カヒ》も不有《アラス》の意(ロ)なり
 
移(シ)2葬大津(ノ)皇子(ノ)屍(ヲ)於|葛城二上山《カツラキノフタカミヤマニ》1之時(ニ)大來(ノ)皇女哀傷御作歌二首
 
大和志(ニ)云(ク)葛下《カツラキノシモノ》郡二上山(ノ)墓(ハ)大津(ノ)皇子(ナリ)在(リ)2二上山(ノ)二上(ノ)神社(ノ)東(ニ)1
 
(160)165 字都曾見乃人爾有吾哉從明日者二上山乎弟世登吾將見《ウツソミノヒトナルアレヤアスヨリハフタカミヤマヲオトセトアカミム》
 
弟世《オトセ》とは弟《オト》とは親《シタ》しみ愛《ウツク》しめる言《コト》にて弟兒《オトコ》弟姫《オトヒメ》弟女《オトムスメ》弟娵《オトヨメ》なとの例《タクヒ》なり【此(ノ)事(ハ)委しく新考 の 云】世《セ》は女《ヲミナ》より男《ヲノコ》を呼《イ》ふ稱《ナ》なり三【挽歌】に
ムカシコソヨソニモミシカワキモコカオクツキトモヘハハシキ
 
寶山《サホヤマ》 打背見乃世之事爾在者外爾見之山矣耶今者因香跡思波牟《ウツセミノヨノコトナレハヨソニミシヤマヲヤイマハヨスカトオモハム》これらも此《コヽ》と同し意(ロ)なり
 
166 礒之於爾生流馬醉木乎手折目杼令視倍吉君之在常不言爾《イソノウヘニオフルアシヒヲタヲラメトミスヘキキミカアリトイハナクニ》
 
馬醉木《アシヒ》は今は木瓜《ボケ》と云(フ)物なり其(ノ)説は冠辭考【あしびなす】に見ゆ然《サ》て此(ノ)歌は其(ノ)花を採(リ)て御墓に手向(ケ)給はむとてなり
 
右(ノ)一首《ウタ》今案(フルニ)不v似2移葬時之歌(ニ)1蓋《ケタシ》疑(フ)從2伊勢(ノ)神宮1還京之時|路上《ミチニ》見v花盛傷哀咽|作《ヨミタマヘルカ》2此(ノ)歌(ヲ)1乎
頭注、 盛は感の草より誤れるか
  此(ノ)註は哥の意(ロ)を得ぬ後(ノ)人の所爲《シワサ》なり
  
日並皇子尊殯《ヒナメシノミコノミコトノアラキノ》宮之時(ニ)柿(ノ)本(ノ)朝臣人麻呂作歌一首并短歌
 
日並は此那米之《ヒナメシ》と訓(ム)へし皇子(ノ)尊の御謚《ノチノミナ》なり續紀【一の初葉四の初葉廿一の十一葉】には日並知《ヒナメシ》と有(リ)即(ハチ)此(ノ)字《モシ》の義《コヽロ》にて日は天皇を比《ナス》らへ申《マヲ》す例なれば日並知《ヒナメシ》は天皇に並(ラ)ひて天(ノ)下知(ロ)食《シメ》す由(シ)なり大和(ノ)國………………………………………………………………………………………………………………………………粟原寺(ノ)鑪盤(ノ)銘には日並御宇《ヒナメシ》ともあり本朝月令に引たる右官史記には日並所知《ヒナメシ》とも有(ル)を以(テ)知《シ》は御宇《アメノシタシロシメ》す由(シ)なる事彌々明(ラカ)なり日並と書有《カケル》も其(ノ)意(ロ)以(テ)訓(ム)へし然《サ》て然《シカ》稱《ミナツ》け奉《マツ》られし由(シ)は此(ノ)皇太子は天武の十年に立(チ)賜ひて因以令v攝2萬機(ヲ)1と紀に見え朱鳥(ノ)元年天皇崩り座《マ》し持統天皇|臨朝稱制《マツリコトキコシメ》しゝかとも其(レ)は攝政し賜へるにて御喪事終《ミモコトヲハ》れは皇太子即位有(ル)へかりし間《ホト》に攝政二年十一月天武を葬《ヲサ》め奉《マヅ》りいまた諒闇《ミモ》なる三年四月乙未皇太子草壁(ノ)皇子(ノ)尊薨と紀に所見《ミエ》たり然《サ》れはいまた即位の禮《ワサ》は行(ナ)はれさりしかとも實《マコト》には既《ステ》に天皇にましますなり如是《カク》て四年に春正月戊寅(ノ)朔云々皇后即2天皇(ノ)位1と有り然《サ》れば天武に繼(キ)賜ふへくして持統の御腹《ミハラ》一(ト)柱(ラ)の御子《ミコ》なれとも大御母の皇太子にはましまさす持統の即位は止(ム)事を得賜はさりし事なり持統と申《マヲ》すも其(ノ)意(ロ)の御名《ミナ》なり然《サ》て又高市(ノ)皇子(ノ)尊は持統の御繼子《ミマヽコ》なれとも其(ノ)天皇の皇太子にましまし其(ノ)天皇より早く薨り坐(セ)れば常の皇太(161)子の例にて此(ノ)日並とは元來《モトヨリ》等《ヒト》しからす故(レ)此(ノ)歌と下の高市(ノ)皇子(ノ)尊の挽歌とは作意《ヨメルコヽロ》異《コト》なり意得分《コヽロエワク》へし日並《ヒナメシ》とは上《カミ》に説(ヘ)る如く天皇に准《ナス》らへ奉《マヅ》られて謚《オク》り稱《マヲ》し賜へる御名なり
 
167 天地之初時之久堅之天河原爾八百萬千萬神之神集集座而神分分之時爾天照日女之命《アメツチノハシメノトキノヒサカタノアマノカハラニヤホヨロツチヨロツカミノカムツトヒツトヒイマシテカムハカリハカリシトキニアマテラスヒルメノミコト》【一云|指上日女之命《サシノホルヒルメノミコト》】天乎波所知食登葦原乃水穗之國乎天地之依相之極所知行神之命等天雲之八重掻別而《アメヲハシラシメストアシハラノミツホノクニヲアメツチノヨリアヒノキハミシラシメスカミノミコトヽアマクモノヤヘカキワケテ》【一(ニ)云(ク)天雲、八重雲別而《アマクモノヤヘクモワケテ》】神下座奉之《カムクタリイマセマツリシ》
 
此(ノ)一(ト)段(リ)は邇々岐命御天降《ニニキノミコトミアモリ》の事を次序《ツイテ》て本《モト》を興《オコ》せるなり
 
高照日之皇子波飛鳥之淨之宮爾神隨太布座而天皇之敷座國等天原石門乎開神上上座奴《タカヒカルヒノミコハアスカノキヨミノミヤニカムナカラフトシキマシテオホキミノシキマスクニトアマノハライハトヲヒラキカムアカリアカリイマシヌ【一(ニ)云(ク)神登坐爾之可婆《カムノホリイマシニシカハ》】
 
此(ノ)一段は天武天皇の事なり
 
吾王皇子之命乃天下所知食世者春花之貴在等望月乃滿波之計武跡天下《ワカオホキミミコノミコトノアメノシタシラシメシセハハルハナノタフトカラムトモチツキノタヽハシケムトアメノシタ》【一云、食國《ヲスクニ》】四方之人乃大船之思憑而天水仰而待尓《ヨモノヒトノオホフネノオモヒタノミテアマツミツアフキテマツニ》
 
此の一段は題に説《イヘ》る如く天武崩り皇太子即位有(ル)へかりし間《ホト》に薨り座(セ)るを悲傷奉《イタミマヅ》れるなり然《サ》るは持統の即位は止(ム)事を得賜はさる故にて皇太子の薨り坐(セ)》るは大御母の大《イミ》しき御愁嘆《ミナケキ》なる其《ソコ》を思ひて誄《シヌ》ひ奉《マツ》られたるなり又高市(ノ)皇子(ノ)尊は持統の皇太子に座《マ》しまし其(ノ)天皇のいまた御世なりし間《ホト》に薨(リ)坐(セ)るなれは此《コヽ》の如く太子の即位を待(チ)望むよしには忌諱《ハヽカリ》有(ル)か故に下の挽哥に云々|天下申賜者萬代然之毛將有登木綿花乃榮時爾《アメノシタマヲシタマヘハヨロツヨニシカシモアラムトユフハナノサカユルトキニ》云々と作(メ)るは大政大臣の政《マツリコト》を攝《フサ》ね治《ヲサ》め白《マヲ》し行《オコナ》ひ賜へる事を以て誄《シヌ》ひ奉《マツ》れる作者の意(ロ)しらひにて人麻呂は此《コ》の兩太子の大舍人として次第《ツキ/\》に奉仕《ヅカヘマツ》られたれとも當代《トキノ》天皇の大御心を推(シ)量りて作(マ)れたる趣《サマ》各《オノ/\》別《コト》なる物なり然耳《シカノミ》ならず實《マコト》の御子と御繼子《ミマヽコ》との差別《ケチメ》………………………………………………………………………………………………………………………………をさへに自然《オノツカ》ら髣髴《ホノカ》に諷《カス》めて所聞《キコエ》しめ然有《サリ》とても當代《トキ》に難《サハ》りも無く本來《モトヨリ》然《サ》るへき事の趣《サマ》に云(ヒ)爲《ナ》し最《イト》も感《アハ》れと天皇の聞(コ)し召(ス)へく其(ノ)度々《タヒ/\》に誄《シヌ》ひ奉《マツ》られたるにて如此《カク》細《コマ》やかに事の意(ロ)を盡して咎《トカ》旡《ナ》き物は此(ノ)朝臣の力(ラ)なり熱々《ヨク/\》味《アチ》はひ試《コヽロミ》て作者の用意《コヽロモチヒ》をは知(ル)へし踈《オホ》ろかに看過《ミスク》さば當時《ソノヨ》の情状《コヽロ》を知(ル)へからす妙處《タヘナルトコロ》を認(ト)め失ふへしかし
 
何方尓御念食可由縁母無眞弓乃崗爾宮柱太布座御在香乎高(162)知座而明言尓御言不御問日月之數多成塗其故皇子之宮人行方不知毛《イカサマニオモホシメセカツレモナキマユミノヲカニミヤハシラフトシキマシミアラカヲタカシリマシテアサコトニミコトトハサスヒツキノマネクナリヌルソコユヱニミコノミヤヒトユクヘシラスモ》【一云、刺竹之皇子宮人歸邊不知爾爲《サスタケノミコノミヤヒトヨルヘシラニシテ》】
 
何方尓御念食可《イカサマニオモホシメセカ》は天日嗣《アマツヒツキ》の知(ロ)し食《メス》へきを治《シラ》さす天(ノ)下の諸人《ヒト》の意(ロ)にも反《ソムキ》て如何《イカ》なる御心《ミコヽロ》そやとなり○由縁母無《ツレモナキ》は世間《ヨノナカ》の人の意(ロ)に連旡《ツレナ》き事と又眞弓(ノ)崗の人氣《ヒトケ》疎《ウト》く由縁《ツレ》なき地《トコロ》の由(シ)をも兼《カケ》たり其母々々《ソモ/\》都禮奈之《ツレナシ》とは相類《アヒタクヒ》せぬ事の意(ロ)を云(ヘ)り人のつれなきまた松竹|等《ナト》の色のつれなしと云(フ)も皆《ミナ》相離《アヒハナ》れて此(レ)と遷《ウツ》らぬを云(フ)三に京思美禰爾里家者左波爾雖在何方爾念鷄目鴨都禮毛奈吉佐保乃山邊爾哭兒成慕來坐而《ミヤコシミミニサトイヘハサハニアレトモイカサマニオモヒケメカモツレモナキサホノヤマヘニナクコナスシタヒキマシテ》云々四に都禮毛無將有人乎獨念爾吾念者惑毛安流香《ツレモナクアルラムヒトヲカタモヒニワカオモヘルハマトヒテモアルカ》十に片縁吾者物念都禮無物乎《カタヨリニワレハモノオモフツレナキモノヲ》十三に家人乃將待物矣津烈裳無荒磯矣卷而偃有公鴨《イヘヒトノマツラムモノヲツレモナクアリソヲマキテナセルキミカモ》都禮毛無城上宮爾大殿乎都可倍奉而《ツレモナキキノヘノミヤニオホトノヲツカヘマツリテ》云々なとの如し○眞弓乃崗爾《マユミノヲカニ》………………………………………………………………………………………………………………………………諸陵式に眞弓丘《マユミノヲカノ》陵(ハ)岡(ノ)宮(ニ)御宇(メシヽ)天皇(ナリ)在(リ)2大和國高市(ノ)郡(ニ)1兆域東西二町南北二町陵戸六烟とあり大和志に高市(ノ)郡眞弓(ノ)丘(ハ)在(リ)2眞弓(ノ)村(ニ)1また皇極天皇の御母《ミオヤ》吉備嶋皇祖母尊《キヒノシマノミオヤノミコト》の眞弓(ノ)丘(ノ)陵(ハ)在(リ)2越《コシノ》村(ニ)1なと云るに此(ノ)御陵《ミハカ》は知られぬにや憤《イフカ》し○一云|刺竹之皇子宮人《サスタケノミコノミヤヒト》は冠辭考云(ク)刺《サス》は立《タツ》なりやつめ指《サス》は八雲立《ヤクモタツ》差上《サシノホル》は立登《タチノホル》なるか如し然《サ》て立所の隱《クミ》の意(ロ)を以(テ)君《キミ》に續くる枕詞なり推古紀(ノ)歌に佐須陀氣能枳彌波夜那祗《サスタケノキミハヤナキ》なとあり又|轉《ウツ》りては其《ソ》の君の御座《マ》す宮にも續けて六に刺竹之大宮人乃《サスタケノオホミヤヒトノ》なとあり故(レ)此《コヽ》も皇子之宮人《ミコノミヤヒト》に續けたり又十六に刺竹之舍人壯裳《サスタケノトネリヲトコモ》云々こは其(ノ)宮に侍《サモラ》ふ舍人にも續けて再《マタ》なほ彌《イヨ/\》縛《ウツ》れる物なり
 
反歌二首
 
168 久堅乃天見如久仰見之皇子乃御門之荒卷惜毛《ヒサカタノアメミルコトクアフキミシミコノミカトノアレマクヲシモ》
 
天《アメ》は天日《アマツヒ》の事なり否《シカラサ》れは此(ノ)哥|聞《キコ》えす其(ノ)故は皇子《ミコ》の朝廷《ミカト》を天に比《ナソ》へたるはたゝ虚空《オホソラ》を見る如《コト》くとにはあらす天(ツ)日の如《コト》可畏《カシコ》く嚴《イツク》しきを令荒《アラサ》まく惜《ヲ》しきと云(ヘ)る意(ロ)なれはなりそも/\天《アメ》は即(ハチ)日《ヒ》なる證《アカシ》は此(ノ)下の高市(ノ)皇子(ノ)尊(ノ)城上殯《キノヘノアラキノ》宮の時《トキ》に吾大王之萬代跡所念食而作良志之香來山之宮萬代爾過牟登所念哉天之如振放見乍玉手次懸而將偲恐有騰文《ワカオホキミノヨロツヨトオモホシメシテツクラシシカクヤマノミヤヨロツヨニスキムトオモヘヤアメノコトフリサケミツヽタマタスキカケテシヌハムカシコカレトモ》この天《アメ》も上(ミ)に云る如《コト》く慥(カ)に眼《メ》に見る物ならては通《キコ》えす又|哭澤之神社爾三輪須意雖禮祈吾王者高日所知奴《ナキサハノモリニミワスヱイノレトモワカオホキミハタカヒシラシヌ》この高日《タカヒ》は即(ハチ)高天《タカマ》と云(フ)に同し然《シカ》ら(163)ざれは日を所知《シラス》と云(フ)事|聞《キコ》えす天所知《アメシラス》とこそ他《ホカ》には皆《ミナ》云(ヒ)たれ三に久方乃天見如久眞十鏡仰而雖見春草之益目頼四寸吾於富吉美可聞《ヒサカタノアメミルコトクマソカヽミアフキテミレトハルクサノイヤメツラシキワカオホキミカモ》この天《アメ》も日《ヒ》と爲《セ》さる時《トキ》は大王《オホキミ》に比《タト》へ奉《マツ》れる由(シ)通《キコ》えす又集中に日之宮《ヒノミヤ》日之御門《ヒノミカト》なと多く云(ヘ)るは天宮《アマツミヤ》天御門《アマツミカト》と云《フ》に同しかるへく神代紀の日之少宮《ヒノワカミヤ》も天之若宮《アメノワカミヤ》なるへく瓊々杵尊《ニヽキノミコト》を天孫と所書《カヽレ》たるは少《スコ》し思《オホ》つかなき漢字《カラモシ》なれとも此(レ)も或《モシ》くは日(ノ)神の孫《ミヒコ》の意(ロ)にも有(ル)へし然《サ》れば是(レ)等《ラ》を以《モ》て天《アメ》は即(ハチ)日《ヒ》なる事を知(ル)へし然《サ》て此(レ)に朝廷《ミカト》を主《ムネ》と云(ヘ)るは人麻呂は東宮舍人《ミコノミヤノトネリ》にて職《シ》る處(ロ)を以(テ)誄《シヌ》ひ奉《マツ》られたるなり天武紀に朱鳥(ノ)元年九月戊戌(ノ)朔丙午天皇(ノ)病《ミヤマヒ》遂(ニ)不《マサス》v差《イエ》崩2于正宮(ニ)1戊申始(メテ)發哭《ミネタテマツル》則起2殯宮《アラキノミヤヲ》於南庭(ニ)1辛酉殯2于南庭(ニ)1即|發哀《ミネタテマツル》云々甲子(ノ)平旦(ニ)諸(ノ)僧尼|發2哭《ミネタテマツリ》於殯庭(ニ)1乃|退《マカリヌ》之是(ノ)日|肇進奠《ハシメテミケタテマツリ》即|誄之《シヌヒコトタテマツル》第一《ハシメニ》大海《オフシアマノ》宿禰|蒭蒲《アラカマ》誄《シヌヒコトタテマツル》2壬生事《ミフノコトヲ》1次(ニ)淨大肆伊勢(ノ)王誄(ツル)2諸王(ノ)事(ヲ)1次(ニ)直大參|縣犬養《アカタノイヌカヒノ》宿禰|大伴《オホトモ》惣《スヘテ》誄(ツル)2宮内《オホウチノ》事(ヲ)1次(ニ)淨廣肆河内(ノ)王誄(ツル)2左右大舍人(ノ)事(ヲ)1次(ニ)直大參|當摩眞人國見《タキマノマヒトクニミ》誄(ツル)2左右兵衞(ノ)事(ヲ)1次(ニ)直大肆|釆女朝臣筑羅《ウネヘノアソミツクラ》誄(ツル)2内命婦《ウチノヒメトネノ》事(ヲ)1次(ニ)直廣肆紀(ノ)朝臣|眞人《マヒト》誄(ツル)2膳職《カシハテノツカサノ》事(ヲ)1乙丑諸(ノ)僧尼|亦《マタ》哭《ミネタテマツル》2於殯庭(ニ)1是(ノ)日直大參|布勢《フセノ》朝臣|御主人《ミウシ》誄(ツル)2太政大臣(ノ)官《ツカサノ》事(ヲ)1次(ニ)直廣參|石上《イソノカミノ》朝臣|麻呂《マロ》誄(ツル)2法官《ノリノツカサノ》事(ヲ)1次(ニ)直大肆大三輪(ノ)朝臣高市麻呂誄(ツル)2理官《ヲサムルツカサノ》事(ヲ)1次(ハ)直廣參大伴(ノ)宿禰安麻呂誄(ツル)2大藏《オホクラノ》事(ヲ)1次(ニ)直大肆|藤《フチ》原(ノ)朝臣大嶋誄(ツル)2兵政官《ツハモノヽツカサノ》事(ヲ)1丙寅僧尼|亦《マタ》發哀《ミネタテマツル》是(ノ)日直廣肆|阿倍久努《アヘノクヌノ》朝臣|麻呂《マロ》誄(ツル)2刑官《ウタヘノツカサノ》事(ヲ)1次(ニ)直廣肆紀(ノ)朝臣|弓張《ユミハリ》誄(ツル)2民官《タミノツカサノ》事(ヲ)1次(ニ)直廣肆|穗積《ホツミノ》朝臣虫麻呂誄(ツル)2諸國司《クニ/\ノミコト》事(ヲ)1云々また持統紀【二年十一月】にも此(ノ)御喪《ミモ》の處(ロ)に諸臣各擧(ケテ)2己(レカ)先祖等所仕状《オヤトモノツカヘマツレルカタチヲ》1遞《タカヒニ》進(ミテ)誄(ツル)焉云々直廣肆|當麻《タキマノ》眞人|智徳《チトコ》奉《タテマツル》v誄《シヌヒコト》2皇祖等之騰極次第《スメロキタチノヒツキノツキテヲ》1禮(ナリ)也なと所見《ミエ》たり然れは此(ノ)誄《シヌヒコト》禮は有司々々《ツカサ/\》の奉仕《ツカヘマツ》れる職《わさ》を以(テ)唱誄奉《トナヘシヌヒマツ》れるにそ有ける故(レ)人麻呂は東宮《ミコノミヤノ》大舍人にて舍人《トネリ》は殿居《トノヲリ》と云(フ)義《コヽロ》の名にて殿に侍候《サモラ》ふ職《ツカサ》なるか故《ユヱ》に朝庭《ミカト》を以(テ)誄奉《シヌヒマツ》れる歌なり
 
169 茜刺日者雖照有烏玉之夜渡月之隱良久惜毛《アカネサスヒハテラセレトヌハタマノヨワタルツキノカクラクヲシモ》
 
茜刺《アカネサス》は冠辭考(ニ)云(ク)阿加禰《アカネ》は朱《アケ》と云(フ)に同し刺《サス》は色《イロ》さしのさしなり○日者雖照有《ヒハテラセレト》は持統天皇|大坐《オホマシ》ますを云(フ)
 
或(ル)本《マキニ》云(ク)2以件(ノ)歌(ヲ)1爲2後(ノ)皇子(ノ)尊(ノ)殯(ノ)宮(ノ)之時(ノ)反歌(ト)1也
 
(164)後(ノ)皇子(ノ)尊は高市(ノ)皇太子《ヒツキノミコ》なり
 
或(ル)本《マキノ》歌一首
 
170 島宮勾乃池之放鳥人目爾戀而池爾不潜《シマノミヤマカリノイケノハナチトリヒトメニコヒテイケニカツカス》
 
島(ノ)宮は大和(ノ)國高市(ノ》郡嶋(ノ)莊村|今《イマ》在《ア》り此地《コヽ》は飛鳥《アスカ》川の邊《ホトリ》にて本《モト》より嶋なる地《トコロ》なり然有故《サルカラ》に此地《コヽ》を面白《オモシロ》みて古來《イニシヘヨリ》人の占宅《シメヲ》りける地《トコロ》なり推古紀【三十四年】蘇我(ノ)馬子(ノ)宿禰(ノ)傳(ニ)云(ク)云々|家《イヘアリ2》於飛鳥河之傍(ニ)1乃庭中(ニ)開《ホレリ》2小池(ヲ)1仍興2小嶋(ヲ)於池中(ニ)1故(レ)時(ノ)人曰2嶋(ノ)大臣《オホオミト》1また天武紀に五年春正月庚子(ノ)朔乙卯天皇|御《イテマシテ》2嶋(ノ)宮(ニ)1宴之《トヨノアカリキコシメス》十年秋九月辛丑周芳(ノ)國貢2赤龜(ヲ)1乃放2嶋(ノ)宮(ノ)池(ニ)1これら以《》其《》景《モテソノサマ》は知らる又持統紀に四年春三月丁丑(ノ)朔丙申賜2京|與《オヨヒ》畿内(ノ)人(ノ)年八十以上(ナルニ)者嶋(ノ)宮(ノ)稻人(コトニ)二十束(ヲ)1こは此(ノ)宮に田乎も佃《ツク》り置(カ)れて大御|遊興《アソヒ》に爲《ナ》し賜有《タマヘル》なるへし嶋は所謂《イハユル》泉水の事にて【源氏(ノ)物語上(ノ)卷に例の四季の繪なれどめづらしき泉水|瀧《タキ》など目なれず面白し云々】今(ノ)俗《ヨニ》云(フ)庭《ニハ》筑《ツキ》山これなり次の皇子(ノ)尊(ノ)宮(ノ)舍人|等《トモノ》慟傷作歌《カナシヒウタ》に御立爲之島乎見時庭多泉流涙止曾金鶴《ミタヽシヽシマヲミルトキニハタツミナカルヽナミタトメソカネツル》 御立爲之島乎母家跡住鳥毛荒備勿行年替左右《ミタヽシヽシマヲモイヘトスムトリモアラヒナユキソトシカハルマテ》 御立爲之島之荒礒乎今見者不生之草生爾來鴨《ミタヽシヽシマノアリソヲイマミレハオヒサリシクサオヒニケルカモ》旦覆日之入去者御立之島爾下座而嘆鶴鴨《アサクモリヒノイリヌレハミタヽシヽシマニオリヰテナケキツルカモ》六に春去者乎呼里爾乎呼里※[(貝+貝)/鳥]乎之嶋吾島曾不息通爲《ハルサレハヲヽリニヲヽリウクヒスノナクワカシマソヤマスカヨハセ》廿に屬(テ)2目(ヲ)山齋(ニ)1作歌 乎之能須牟伎美我許乃之麻《ヲシノスムキミカコノシマ》云々伊勢(ノ)物語【七十七段】に嶋好み給ふ君なり此(ノ)石《イシ》を献《タテマツ》らむ云々なとの如し又續紀に神護景雲元年九月己酉幸2西大寺(ノ)嶋(ノ)院(ニ)1寶龜八年三月乙卯宴2次侍從已上於2内(ノ)嶋(ノ)院(ニ)1令3文人(ニ)賦2曲水1賜v禄有v差【長岡(ノ)京なり】延暦四年三月戊戌御2嶋(ノ)院(ニ)1宴2五位已上(ヲ)1召2文人(ヲ)1令v賦2曲水(ヲ)1賜v禄各有v差【右に同じ】後紀に大同三年九月戊戌幸2神泉苑(ニ)1ときの哥に伊賀爾布久賀是爾阿禮婆可於保志萬乃乎波奈能須惠乎布岐牟須悲太留《イカニフクカセニアレハカオホシマノヲハナノスヱヲフキムスヒタル》これは神泉苑を大嶋と云(ヘ)り然《サ》れはこの島(ノ)宮も飛鳥河に傍《ソヒ》たる嶋なる處(ロ)を以(テ)其(レ)を尚《ナホ》いと面白く嶋作《シマツク》られたる離《イテマシノ》宮にて舊來《モトヨリ》有(リ)しを【天武紀(ノ)卷首《ハシメ》より所見《ミエ》ればなり】日並知(ノ)皇太子は其(レ)に御座《マシマ》したる成(ル)へし【靈異記下卷卅八段に長岡(ノ)宮(ノ)島町日本紀略天暦三年十一月廿五月の處(ロ)に朱雀(ノ)院(ノ)島町など見ゆ…】○勾乃池《マカリノイケ》は勾《マカリ》は(165)地名《トコロノナ》なるへし然《サ》て此(ノ)池を宮の大庭にしめて泉水に爲《セ》られしなり○池爾不潜《イケニカツカス》 潜《カツク》は頭衝《カツク》にて頭《カシラ》を水に衝入《ツキイルヽ》を云(フ)
 
皇子尊宮舍人等慟傷作歌《ミコノミコトノミヤノトネリトモノカナシヒウタ》二十三首
 
東宮(ノ)職員令(ニ)云(ク)舍人(ノ)監《ツカサハ》正《カミ》一人【掌《シル》2舍人(ノ)名帳禮儀分番(ノ)事(ヲ)1】佑一人令史一人舍人六百人使部十人直丁一人 然《サ》て此《コノ》歌等《ウタトモ》は舍人の誄哥《シタヒコトウタ》なり故《カレ》島の東宮《ミコノミヤ》の朝廷《ミカト》また各々《オノ/\》其《ソノ》掌《ツカサ》となろ處(ロ)々《/\》を作《ヨミ》て誄奉《シタヒマツ》り又|御陵《ミハカ》にて誄奉《シヌヒマツ》れるも有(ル)なり誄禮《シタヒコト》は上(ミ)【卅七八葉】に説《イヘ》り考(ヘ)合(ス)へし
 
171 高光我日皇子乃萬代爾國析知麻之島宮婆毛《タカヒカルワカヒノミコノヨロツヨニクニシラサマシシマノミヤハモ》
 
172 島宮池上有放鳥荒備勿行君不座十方《シマノミヤイケノウヘナルハナチトリアラヒナユキソキミマサストモ》
 
荒備《アラヒ》は疎《アラ》ひにて離散《アラク》るを謂(フ)
 
173 高光吾日皇子乃伊座世者島御門者不荒有益乎《タカヒカルワカヒノミコノイマシセハシマノミカトハアレサラマシヲ》
 
御門《ミカト》は朝廷《ミカト》なり
 
174 外爾見之檀乃岡毛君産者常都御門跡侍宿爲鴨《ヨソニミシマユミノヲカモキミマセハトコツミカトトトノヰスルカモ》
 
檀岡《マユミノヲカ》の御陵事《ミハカノコト》上(ミ)に云(ヘ)り
 
175 夢爾谷不見在之物乎欝悒宮出毛爲鹿作日能隈回乎《イメニタニミサリシモノヲオホヽシクミヤテモスルカサヒノクママヲ》
 
欝悒《オホヽシク》は大々《オホ/\》しく又|朧々《オホ/\》しく又|覆々《オホ/\》しくにて大《オホ》よそ大《オホ》かた大《オホ》むねおほつかなしおほろおほふ等《ナト》も皆《ミナ》一(ツ)言《コト》なり四に春日山朝居雲乃欝不知人爾毛戀物香聞《カスカヤマアサヰルクモノオホヽシクシラヌヒトニモコフルモノカモ》 六に烏玉乃夜霧立而不清照有月夜乃見者悲沙《ヌハタマノヨキリノタチテオホヽシクテレルツクヨノミレハカナシサ》十に春霞山棚引欝妹乎相見後戀毳《ハルカスミヤマニタナヒキオホヽシクイモヲアヒミテノチコヒムカモ》 不明公乎相見而菅根乃長春日乎孤悲渡鴨《オホヽシクキミヲアヒミテスカノネノナカキハルヒヲコヒワタルカモ》十一に香山爾雲位桁曳於保思久相見子等乎後戀牟鴨《カクヤマニクモヰタナヒキオホヽシクアヒミシコラヲノチコヒムカモ》 雲間從狹渡月乃於保々思久相見子等乎見因鴨《クモマヨリサワタルツキノオホヽシクアヒミシコラヲミムヨシモカモ》 十二に夕月夜五更闇之不明見之人故戀渡鴨《ユフツクヨアカトキヤミノオホヽシクミシヒトユヱニコヒワタルカモ》これらの如し○宮出《ミヤテ》とは宮の出入《イテイリ》を兼《カネ》たる語《コトハ》なり作日之隅回乎《サヒノクママヲ》 大和志に高市(ノ)郡|檜隈《ヒノクマ》は檀丘《マユミノヲカ》の邊《アタリ》と有(リ)
 
176 天地與共將終登念乍奉仕之情違奴《アメツチトトモニヲヘムトオモヒツヽツカヘマツリシコヽロタカヒヌ》
 
177 朝日※[氏/一]流佐田乃岡邊爾群居乍吾等哭涙息時毛無《アサヒテルサタノヲカヒニムレヰツヽワカナクナミタヤムトキモナシ》
 
 大和志に高市(ノ)郡|佐田丘《サタノヲカハ》在(リ)2佐田(ノ)村(ニ)1こも檀(ノ)丘(ノ)邊《アタリ》と有(リ)
 
178 御立爲之島乎見時庭多泉流涙止曾金鶴《ミタヽシヽシマヲミルトキニハタツミナカルヽナミタトメソカネツル》
 
嶋《シマ》は東宮の島なり○和名抄に唐韻(ニ)云(ク)潦(ハ)雨水 也《ナリ》和名(ニ)爾八太豆美《ニハタツミ》とありて雨《アメ》零《フリ》て地上《ツチ》に渟《タマ》りて流るゝ水を云(フ)名義《ナノコヽロ》は冠辭考に俄泉《ニハカイヅミ》の切《ツヽマ》れるなりとあり七に甚多毛不零雨故庭立水大莫逝人之應知《ハナハタモフラヌアメユヱニハタツミイタクナユキソヒトノシルヘク》
 
(166)179 橘之島宮爾者不飽鴨佐田乃岡邊爾侍宿爲爾往《タチハナノシマノミヤニハアカネカモサタノヲカヒニトノヰシニユク》
 
高市(ノ)郡(リ)に今橋村あり飛鳥河の邊《ホトリ》なり七に橘之島爾之居者河遠不曝縫之吾下衣《タチハナノシマニシヲレハカハトホミサラサスヌヒシアカシタコロモ》と作《ヨメ》るは河遠《カハトホミ》と云(ヘ)る事|符合《カナ》はぬに似たれと此(ノ)河邊は古來《イニシヘヨリ》大《イタ》く變《カハ》れる地《トコロ》なれは今《イマ》詳《サタカ》には知(ル)へからす又此(ノ)宮は甚《イミシ》く大《イタ》く標《シメ》られて其處《ソコ》ら包《カケ》たる離宮《イテマシノミヤ》にて今(ノ)京の神泉苑の如く又|漢《モロコシ》の上林園なとをも學《マネ》ひ移《ウツ》されたる地《トコロ》なれは嶋《シマ》橘《タチハナ》勾《マカリ》の處(ロ)々《/\》を廣く點《シメ》られ甚《イト》も壯麗《ヨソホ》しく造營《ツク》り作《ナサ》れたる趣《サマ》なり故(レ)其(ノ)意(ロ)して思(フ)へきなり橘寺《タチハナテラ》も此地《ココ》なるへし佐田(ノ)岡は佐田村に在(リ)て檀(ノ)丘の御|陵《ハカ》と相(ヒ)離れぬ地なり然《サ》てかく此《コヽ》の廿三首の歌|等《トモ》に檀(ノ)丘とも檜(ノ)※[土+回]とも佐田とも云(ヘ)るは許多《コヽハク》の人|等《トモ》の廬舍《イホリ》り居ける其處《ソコ》ら邊《アタリ》の地(ロ)にて各《オノ》かしこの廬舍々々《イホリイホリ》にて作《ヨミ》て即《ヤカテ》此《コノ》詠哥等《ウタトモ》を歌《ウタ》ひて御哭泣《ミネナキ》つる挽哥なりけれはなり今に東宮(ノ)大舍人は職員六百人と所見《ミユ》るを其(レ)か盡《コト/”\》一年《ヒトヽセ》更番々《カハルカハル》に日夜《ヨルヒル》旦暮《アケクレ》この哥等《ウタトモ》を以(テ)誄奉《シヌヒマツ》れる一部《ヒトムレ》の物なり
 
180 御立爲之島乎母家跡住鳥毛荒備勿行年替左右《ミタヽシシシマヲモイヘトスムトリモアラヒナユキソトシカハルマテ》
 
御周※[門/祭]《ミハテ》まては鳥《トリ》も吾等《ワレトモ》と共に猶《ナホ》如此《カク》て此處《ココ》に侍《サモ》らへとなり
 
181 御立爲之島之荒磯乎今見者不生之草生爾來鴨《ミタヽシヽシマノアリソヲイマミレハオヒサリシクサオヒニケルカモ》
 
嗚乎《アナ》いと憐《カナシ》し愛痛《メテタシ》とは世《ヨ》の常《ツネ》
 
182 鳥〓立飼之雁乃兒栖立去者檀崗爾飛反來年《トクラタテカヒシカリノコスタチナハマユミノヲカニトビカヘリコネ》
 
183 吾御門千代常登婆爾將榮等念而有之吾志悲毛《アカミカトナヨトコトハニサカエムトオモヒテアリシアレシカナシモ》
 
184 東乃多藝能御門爾雖伺侍咋日毛今日召言毛無《ヒムカシノタキノミカトニサモラヘトキノフモケフモメスコトモナシ》
 
瀧口《タキクチ》に侯伺《サモラ》ふ人なるへし
 
185 水傳礒乃浦回乃石乍自木丘開道乎又將見鴨《ミツツタフイソノウラマノイハツヽシモクサクミチヲマタミナムカモ》
 
木丘《モク》は茂《モ》くなり神代紀に杖葉扶疏《エタハシキモシ》應神紀に芳草|薈蔚史《モクシケシ》記(ノ)舜(ノ)本紀に棄|主《ツカサトリテ》v稷(ヲ)百穀|時《コレ》茂《》前漢書宣帝紀に厥《ソノ》功|茂焉《モシ》後漢書安帝紀に今年秋稼|茂《モシ》好《モクヨシ》これらの如く茂盛《ムクサカ》に克《ヨ》く隱《コモ》りかに有(ル)容《カタチ》を云(フ)【俗《ヨ》にムク/\しまたムツクリムク毛《ケ》など云(フ)容《サマ》の言なり】然《さ》れは繁《シケキ》とは少《イサヽ》か異《コト》なり然《シカ》れとも漸《ヤヽ》言傚《イヒナ》らひて同し樣《サマ》に云(ヘ)へるもあり顯宗紀に厥《ソノ》功|茂焉《モシ》將門記に蘭花欲(スレハ)v茂《モカラムト》秋風敗(ル)v之(レヲ)文粹|等《ナト》にも是(レ)彼(レ)あり又人(ノ)名に茂《モチ》と訓(ム)もモシなり
 
186 一日者千遍參入之東乃大寸御門乎入不勝鴨《ヒトヒニハチタヒマヰリシヒムカシノオホキミカトヲイリカテヌカモ》
 
187 所由無佐太乃岡邊爾反居者島御橋爾誰加住舞無《ツレモナキサタノヲカヒニカヘリヰハシマノミハシニタレカスマハム》
 
(167)所由無《ツレナキ》は上(ミ)に云(ヘ)り【三十三葉】反居者《カヘリヰハ》はかへる/\御陵《ミハカ》に耳《ノミ》在《ア》らはなり此(レ)は橋殿《ハシトノ》に伺侯《サモラ》ふ人なるへし
 
188 旦覆日之入去者御立之島爾下座而嘆鶴鴨《アサクモリヒノイリヌレハミタヽシヽシマニオリヰテナケキツルカモ》
 
189 旦日照島乃御門爾欝悒人音毛不爲者眞浦悲毛《アサヒテルシマノミカトニオホヽシクヒトオトモセネハマウラカナシモ》
 
欝悒《オホヽシク》は不明《オホヽ》しくなり上(ミ)に説《イヘ》り【四十二葉】浦《ウラ》は心《ウラ》なり
 
190 眞木柱太心者有之香杼此吾心鎭目金津毛《マキハシラフトキコヽロハアリシカトコノアカコヽロシツメカネツモ》
 
顯宗紀(ノ)室壽辭《ムロホキノコトハ》に築立柱者此家長御心之鎭也《ツキタツルハシラハコノイヘキミノミコヽロノシツマリナリ》云々
 
191 毛許呂裳遠春冬片設而幸之宇陀乃大野者所念武鴫《ケコロモヲハルフユカタマケテイテマシヽウタノオホヌハオモホエムカモ》
 
毛服《ケコロモ》は裘《カハキヌ》なり此《コレ》は物に張(リ)付(ケ)て製《ツク》れは春に續けたり○春冬片設而《ハルフユカタマケテ》 片《カタ》は方《カタ》設《マケ》は向《ムケ》なり凡《スヘ》て設儲《マウクル》とは其《ソノ》事《コト》物《モノ》に令向《ムケ》て爲《スル》なれは一(ツ)言なり然《サ》れは春冬片設而《ハルフユカタマケテ》とは春の方に向(ケ)て冬の方に向(ケ)てなり此《コ》は其《ソノ》時々《トキ/\》御獵《ミカリ》に幸《イテマ》せるを云(フ)惣《すへ》て集中に春設而《ハルマケテ》夏儲※[氏/一]《ナツマケテ》秋方麻氣弖《アキカタマケテ》冬方萬祁而《フユカタマケテ》なと多有《オホカル》皆(ナ)同(ナ)し○宇陀乃大野者所念武鴨《ウタノオホヌハオモホエムカモ》 此(ノ)野(ノ)事は上(ミ)【新考 の 】に云(ヘ)る如く大和(ノ)國宇陀(ノ)郡(リ)安騎野《アキヌ》なり此處《コヽ》は常《ツネ》に御獵《ミカリ》に幸坐《イテマセ》る野なれは野の心(ロ)に幸《イテマシ》絶去《タエヌ》る事を不樂《サフ》しく所念《オモフ》らむかとなり此是《カク》云(フ)は即《ヤカテ》作者の意(ロ)にて供奉《ミトモ》に常に奉仕《ウカヘマツ》りしを念ふなり
 
192 朝日照佐太乃岡邊爾鳴鳥之夜鳴更布此年己呂乎《アサヒテルサタノヲカヒニナクトリノヨナキカハラフコノトシコロヲ》
 
番代々々《カハル/\》哭事爲《ネツカヘスル》を云(ヘ)り乎《ヲ》は與《ヨ》と同し
 
193 八多籠良家夜晝登不云行路乎吾者皆悉宮道叙爲《ハタコラカヨルヒルトイハスユクミチヲワレハコト/\ミヤチニソスル》
 
八多籠良家《ハタコラカ》は畠子等之《ハタコラカ》なり田子《タコ》と云(フ)に同し
 
右日本紀(ニ)曰(ク)三年己丑夏四月癸未(ノ)朔乙未薨
 
柿(ノ)本(ノ)朝臣人麻呂|獻《タテマツレル》2泊瀬部皇女《ハツセヘノヒメミコニ》1忍坂部皇子〔五字□で囲む〕歌一首并短歌
 
萬葉考(ニ)云(ク)此(ノ)題は錯差《アヤマリ》なり左註に右或(ル)本《マキニ》曰(ク)葬2河島(ノ)皇
ヲチヌニトキニチ子(ヲ)越智野(ク)1之|時(ク)獻(レル)2泊瀬部(ノ)皇女(ニ)1歌(ナリ)也と有(ル)を用(フ)へし【野雁云(ク)河島は天智天皇の皇子なり】皇女は河島の妃《ミメ》なり歌にて知らる又忍坂部皇子の五字は次(ノ)哥の題より錯亂《マキ》れて此《コヽ》に入(リ)たる成(ル)へし
 
194 飛鳥明日香乃河之上瀬爾生玉藻者下瀬爾流觸經玉藻成彼依此依靡相之嬬乃命乃多田名附柔膚尚乎劔刀於身副不寐者烏玉乃夜床母荒良無《トフトリノアスカノカハノカミツセニオフルタマモハシモツセニナカレフラハヘタマモナスカヨリカクヨリナヒカヒシツマノミコトノタヽナツクニコハタスラヲツルキタチミニソヒネヽハヌハタマノヨトコモアルラム》【一云|阿禮奈牟《アレナム》】所虚故名具鮫魚天氣留敷藻相屋常(168)而念《ソコユヱニナクサメカネテケタシクモアフヤトオモヒテ》【一云|公毛相哉登《キミモアフヤト》】玉垂乃越乃大野之且露爾玉藻者※[泥/土]打夕霧爾衣者沾而草枕旅宿鴨爲留不相君故《タマタレノヲチノオホヌノアサツユニタマモハヒツチユフキリニコロモハヌレテクサマクラタヒネカモスルアハヌキミユヱ》
 
飛鳥《トフトリノ》は枕(ラ)詞(ハ)既《サキニ》出(ツ)【新考 の 】○流觸經《ナカレフラハヘ》は古事記【下(ツ)卷朝倉宮(ノ)段(ノ)哥】に本都延能宇良婆波那加都延爾淤知分良婆閇那加都延能延能宇良婆波斯毛都延爾淤知分布良婆閇斯豆延能宇良婆波《ホツエノウラバハナカツエニオチフラバヘナカツエノエノウラバハシモツエニオチフラバヘシヅエノエノウラバハ》云々○多田名附《タヽナツク》は委《タヽナハ》り靡《ナ》み附《ツ》くなり既(ニ)出(ツ)【新考 の 】○柔膚尚乎《ニコハタスラヲ》 尚《スラ》は其《ソレ》なり上言《カミノコト》を捕《トラ》へて云(フ)辭○釼刀《ツルキタチ》は身《ミ》に副《ソフ》の枕(ラ)詞(ハ)○烏玉乃《ヌハタマノ》も既(ニ)出(ツ)【新考 の 】○夜床母荒良無《ヨトコモアルラム》【一云|阿禮奈牟《アレナム》】は古《イニシヘ》は人《ヒト》死《ウセ》て一周間《ヒトトセホト》床《トコ》を拂《ハラ》はす其隨《ソノマヽ》置(キ)たれば塵《チリ》も積《ツモ》り荒有《アレタル》を云(フ)然《シカ》爲《スル》は旅行人等《タヒヒトナト》を待(ツ)に同しく歸(ヘ)り來《キタ》れと爲《ス》る意(ロ)は一にて觸犯《フレオカ》せは當人《ソノヒト》の身《ミ》に傷害《ソコナヒ》有(リ)て歸(ヘ)り來《キタ》らぬ由《ヨシ》なり古(キ)書(ミ)に多く見ゆ○名具鮫魚天氣留敷藻《ナクサメカネテケタシクモ》 久老云(ク)魚は兼の誤(リ)留は田の誤(リ)にてナクサメカネテケタシクモなり云々或(ル)人は【美濃(ノ)國人|馬島穀生《マシマノヨシナリ》】留は多の誤(リ)にやと云(ヘ)。○玉垂乃《タマタレ》 冠辭考(ニ)云(ク)玉を貫垂《ヌキタ》るゝ緒《ヲ》と云(フ)意(ロ)の續けなり眞珠著《マタマツク》緒《ヲ》と云(フ)と同し○越乃大野之《ヲチノオホヌノ》 大和志に高市(ノ)郡|越《ヲチ》野(ハ)在(リ)2越《ヲチノ》村(ニ)1云々この御墓《ミハカ》も詳《サタカ》ならさるにや○且露爾玉藻者※[泥/土]打《アサツユニタマモハヒツチ》 露は下に置《オ》けば裳《モ》に云○夕霧爾衣者沾而《フキリニコロモハヌレテ》 霧は上より零《フ》れは衣《コロモ》に云
 
反歌
 
195 敷妙乃袖易之君玉垂之越野過去亦毛將相八毛《シキタヘノソテカヘシキミタマタレノヲチヌニスキヌマタモアハメヤモ》
  一云|乎知野爾過奴《ヲチヌニスキヌ》
   
敷妙乃袖易之君《シキタヘノソテカヘシキミ》は相互《アヒタカヒ》に袖を遣交《ヤリカハ》して寐賜《ネタマ》へりつる君と云(フ)事なり○越野過去《ヲチヌニスキヌ》は遠《ヲチ》野をも兼《カネ》たり過《スクル》とは人の亡《ミウス》るを云
 
右或(ル)本《マキニ》曰(ク)葬2河島(ノ)皇子(ヲ)越智野《ヲチヌニ》1之時(ニ)獻(レル)2泊瀬部(ノ)皇女(ニ)1歌(ナリ)也日本紀(ニ)曰(ク)朱鳥(ノ)五年辛卯九月己巳(ノ)朔丁丑淨大參皇子川島薨
 
或《レ》本然るへし首《ハシメ》に云(ヘ)るか如し朱鳥(ノ)五年は六年の差《アヤマリ》
 
明日香皇女城※[瓦+缶]殯宮之時《アスカノヒメミコキノヘノアラキノミヤノトキニ》柿(ノ)本(ノ)朝臣人麻呂獻(レル)2忍坂部皇子《ヲサカヘノミコニ》1作歌《ウタ》一首并短歌
 
天智紀に阿倍倉梯麻呂大臣女曰橘娘《アヘノクラハシノマロノオホオミノムスメナハタチハナノイラツメ》生2飛鳥皇女《アスカノヒメミコヲ》1と見え文武紀に四年夏四月癸未淨廣肆明日香(ノ)皇女薨と有(リ)萬葉考(ニ)云(ク)此(ノ)上《カミノ》歌(ノ)題に忍坂部(ノ)皇子の五字|衍《アマ》りた(169)るは此《コヽ》なるか錯亂《マキ》れて彼《カシコ》に入(リ)たるなるへし其《ソノ》故《ユヱ》は飛鳥(ノ)皇女は忍坂部(ノ)皇子の妃《ミメ》にて皇女蒙(リノ)時(キ)に夫命《ツマノミコト》に作《ヨミ》て獻《タテマツ》れる此(ノ)歌の樣《サマ》なれはなり云々|城※[瓦+缶]《キノヘ》は和名抄に
 
大和(ノ)國廣瀬(ノ)郡|城戸《キノヘ》とあり此(ノ)御墓も今は未詳《サタカナラス》
 
196 飛鳥明日香乃河之上瀬石橋渡《トフトリノアスカノカハノカミツセニイハハシワタシ》【一云|石浪《イシナミ》】下瀬打橋渡石橋《シモツセニウチハシワタシイハハシニ》【一云|石浪【イシナミ】生靡留玉藻毛叙絶者生流打橋生乎爲禮流川藻毛叙干者波由流《オヒナヒケルタマモモソタユレハオフルウチハシニオヒヲヽレルカハモモソカルレハハユル》
 
石橋渡《イハハシワタシ》【一云|石浪《イシナミ》】石橋《イハハシ》とは石《イシ》を河中《カハナカ》に飛々《トヒ/\》に並(ラ)へ置(キ)て渡るを云(フ)【此(ノ)事新考の に云(ヘ)りき】然《サ》れは石浪《イシナミ》も其《ソノ》意(ロ)にて石並《イシナミ》なり○打橋渡《ウチハシワタシ》 打橋とは假橋《カリハシ》の事なり名義《ナノコヽロ》は打(チ)とは打(チ)附(ク)る迄《マテ》にて又|取外《トリハツシ》も爲《ス》る由《ヨシ》を以《モテ》云(フ)十に【七夕(ノ)歌】機※[足+搨の旁]木持往而天河打橋度公之來爲《ハタモノヽフミキモチユキテアマノカハウチハシハシワタスキミカコムタメ》これを以《モ》て知(ル)へし○絶者生流《タユレハオフル》 根《ネ》の絶《タユ》れは復《マタ》新《アラタ》に生《オフル》なり○生乎爲禮流《オヒヲヽレル》 爲は烏の誤(リ)なり乎爲流《ヲヽル》は和々流《ワヽル》と通《カヨ》ひて亂《ミタ》れ懸《サカ》れる容《カタチ》を云(フ)言《コト》なり五に【貧窮問答(ノ)哥】布可多衣乃美留乃其等和和氣佐我禮流《ヌノカタキヌノミルノコトワワケサカレル》云々と有(ル)か如く又|萩《ハキ》櫻等《サクラナト》花の咲(キ)亂(タ)れてわら/\と有(ル)なとにも云(ヘ)り八に秋芽子乃字禮和和良葉爾置有白露 六に春部者花咲乎遠里《ハルヘハハナサキヲヽリ》 九に開乎烏流櫻花者 十に芽子之花開之乎烏入緒《ハキカハナサキノヲヽリヲ》云々なと有(リ)〇干者波由流《カルレハハユル》は莖《クキ》葉《ハ》の枯《カル》れは再《マタ》其《ソノ》根《ネ》より榮《ハユ》るなり
 
何然毛吾王乃立者玉藻之如許呂臥者川藻之如久靡相之宜君之朝宮乎忘賜哉夕宮乎背賜哉《ナニシカモワカオホキミノタヽセハタマモノコトクコロフセハカハモノコトクナヒカヒシヨロシキキミカアサミヤヲワスレタマフヤユフミヤヲソムキタマフヤ》
    
許呂臥者《コロフセハ》は反轉臥《コロヒフス》なり
 
宇都曾臣跡念之時春部者花折挿頭秋立者黄葉挿頭敷妙之袖携鏡成雖見不※[厭の雁だれなし]三五月之益目頬染所念之君與時々幸而遊賜之御食向木※[瓦+缶]之宮乎常宮跡定賜味澤相目辭毛絶奴《ウツソミトオモヒシトキニハルヘハハナヲリカサシアキタテハモミテハカサシシキタヘノソテタツサハリカヽミナスミレトモアカスモチツキノイヤメツラシミオモホシヽキミトヲリ/\イテマシテアソヒタマヒシミケムカフキノヘノミヤヲトコミヤトサタメタマヒテアチサハフメコトモタエヌ》
 
御食向《ミケムカフ》は酒《キ》の枕(ラ)詞(ハ)○味澤相《アチサハフ》は冠辭考(ニ)云(ク)味《アチ》は鳥名《トリノナ》澤相《サハフ》は多經《サハフ》にて衆《オホ》く群經《ムレワタル》を云(フ)群《ムレ》の切言《ツヽマリコト》目《メ》の枕(ラ)詞(ハ)なり○日辭毛絶奴《メコトモタエヌ》目辭は所見事《ミエコト》
 
然有鴨《シカレカモ》【一云|所己乎之毛《ソコヲシモ》】綾爾憐宿兄鳥之片戀嬬《アヤニカナシミヌエトリノカカタコヒツマ》【一云|爲乍《シツツ》】朝鳥《アサトリノ》【一云|朝露《アサツユニ》】往來爲君之夏草乃念之萎而夕星之彼往此去大船猶預不定見者遣悶流情毛不在其故爲便知之也音耳母名耳毛不絶天地之彌遠(170)長久思將往御名爾懸世流明日香河及萬代早布屋師吾王乃形見何此焉《カヨハスキミカナツクサノオモヒシナエテユフツヽノカユキカクユキオホフネノタユタフミレハナクサモルコヽロモアラスソコユヱニスヘシラマシヤオトノミモナノミモタヽスアメツチノイヤトホナカクシヌヒユカムミナニカヽセルアスカカハヨロツヨマテニハシキヤシワカオホキミノカタミニコヽヲ》
 
宿兄鳥之《ヌエトリノ》此(ノ)鳥は既(ニ)出(ツ)【新考の 】片戀に續くるは聲のうらふれ痛嶋爲《イタナキスル》を以《モテ》なり三に容鳥之無間數鳴《カホトリノマナクシハナキ》云々其鳥乃|片戀耳爾《カタコヒノミニ》云々とも有(リ)○片戀嬬《カタコヒツマ》は忍坂部(ノ)皇子なり○朝鳥《アサトリ》は往來《カヨフ》の枕(ラ)詞(ハ)なり冠辭考(ニ)云(ク)寐坐《ネクラ》を出《イテ》て遠くかよへばなり○往來爲君之《カヨハスキミカ》は御墓《ミハカ》にとてなり○夏草乃念之萎而《ナツクサノオモヒシナエテ》  此(ノ)時は夏なりけれはなり【首《ハシメ》に云(ヘ)り】○夕星之《ユフツヽノ》 冠辭考(ニ)云(ク)和名抄(ニ)云(ク)兼名苑(ニ)云(ク)大白星一名(ハ)長庚|暮《ユフヘニ》見(ユルヲ)2於西方(ニ)1爲2長庚(ト)1此間《コヽニ》云(フ)由不豆豆《ユフツヽ》また歳星一名(ハ)明星此間(ニ)云(フ)阿加保之《アカホシ》これ一星《ヒトツホシ》にて西より東に遷(ツ)り處(ロ)を定めざるを以《モ》て彼往此去《カユキカクユキ》に續けたり○及萬代早布屋師《ヨロツヨマテニハシキヤシ》 早布《ハシキ》は愛《ハシキ》なり屋《ヤ》は嘆《ナケキノ》聲《コヱ》師《シ》は助辭《ヤスメコトハ》こは吾王《ワカオホキミ》にかゝる語《コトハ》にて又一(ツ)には走《ハシ》と云(フ)事を持《モテ》り萬代及《ヨロツヨマテ》に河の走り流れて絶《タエ》さる如き御名《ミナ》の意(ロ)にて十二に石走垂水之水能早敷八師君爾戀良久吾心柄《イハヽシルタルミノミツノハシキヤシキミニコフラクワカコヽロカラ》これと同し云樣《イヒサマ》なり
 
短歌二首
 
197 明日香川四我良美渡之塞益者進留水母能杼爾賀有萬思《アスカカハシカラミワタシセカマセハナカルヽミツモノトニカアラマシ》【一云|水乃與杼爾加有益《ミヅノヨトニカアラマシ》】
 
198 明日香川明日谷《アスカカハアスタニ》【一云|左倍《サヘ》】將見等念八方《ミムトオモヘヤモ》【一云|念香毛《オモヘカモ》】吾王御名忘世奴《アカオホキミノミナワスレセヌ》【一云|御名不所忘《ワスラエヌ》】
 
高市皇子尊城上殯宮之時《タケチノミコノミコトノキノヘノアラキノミヤノトキニ》柿(ノ)本(ノ)朝臣人麻呂(ノ)作歌《ウタ》一首并短歌
 
持統紀(ニ)十年秋七月辛丑(ノ)朔庚戌後(ノ)皇子(ノ)尊薨 諸陵式(ニ)三立岡墓《ミタチノヲカノミハカハ》高市(ノ)皇子(ナリ)在(リ)2大和(ノ)國廣瀬(ノ)郡(ニ)1兆域東西六町南北四町無2守戸1大和志(ニ)大垣内村(ノ)三立(ノ)山(ノ)墓《ミハカ》畔《ホトリニ》小冢《チヒサキツカ》三(ツアリ)
 
199 挂文忌之伎鴨《カケマクモユヽシキカモ》【一云|由遊志計禮杼母《ユヽシキケレトモ》】言久母綾爾畏伎明日香乃眞神之原爾久堅能天津御門乎懼母定賜而神佐扶跡磐隱座八隅知之吾大王乃所聞見爲背友乃國之眞木立不破山越而狛釼和射見我原乃行宮爾安母理座而天下治賜《イハマクモアヤニカシコキアスカノマカミノハラニヒサカタノアマツミカトヲカシコクモサタメタマヒテカムサフトイハカクリマスヤスミシヽワカオホキミノキコシミアスソトモノクニノマキタツフハヤマノコエテコマツルキワサミカハラノカリミヤニアモリイマシテアメノシタヲサメタマヒ》】一云|拂賜而《ハラヒタマヒテ》】食國乎定賜等《ヲスクニヲサタメタマフト》
 
眞神之原《マカミノハラ》はいま五條野村野口村なと云《イ》ふ邊《アタリ》なるへし崇峻紀【元年】に。壞《コホチ》2飛鳥衣縫造祖樹葉之家《アスカノキヌヌヒノミヤツコノオヤコノハカヲ》1始(メテ)作2法興(171)寺(ヲ)1 此地(ノ)名(ハ)飛鳥(ノ)眞神(ノ)原亦(ノ)名(ハ)苫田《トマタ》と有(リ)○所聞見爲《キコシミス》 見爲《ミス》は食《メス》にて所聞食《キコシメス》は知食《シロシメス》に同し○背反乃國之《ソトモノクニノ》 成務紀の制《ミノリ》に山陰《ヤマノキタヲ》曰(フ)2背面《ソトモト》1○不破山越而《フハヤマコエテ》 美濃(ノ)國不破(ノ)郡に在(リ)○狛釼《コマツルキ》は和《ワ》の枕(ラ)詞(ハ)なり冠辭考(ニ)云(ク)高麗《コマ》の釼《ツルキ》の握《ツカ》には環《ワ》あれはなり云々彼(ノ)書(ミ)に精《クハ》し○和射見我原乃《ワサミカハラノ》 不破(ノ)郡○安《ア》母理座而《アモリイマシテ》は壬申(ノ)年(ノ)五月に天皇吉野(ノ)宮より此地《コヽ》に下《クタ》り幸《イテマ》せる時の御威勢《ミイキホヒ》の状《サマ》は天降《アモリ》と云(ヘ)り彼(ノ)紀を見て知(ル)へし
 
鳥之嶋吾妻乃国之御軍士乎喚賜而千磐破人乎和爲跡不奉仕國乎治跡《トリカナクアツマノクニノミイクサヲメシタマヒテチハヤフルヒトヲヤハセトマツロハヌクニヲヲサメト》【一云|拂部等《ハラヘト》】皇子隨任賜者大御身爾大刀取帶之大御手爾弓取持之御軍士乎安騰毛比賜齊流鼓之音者雷之聲登聞麻低吹響《ミコナカラマケタマヘハオホミヽニタチトリハカシオホモミテニユミトリモタシミイクサヲアトモヒタマヒトヽノフルツヽミノオトハイカツチノコヱトキクマテフキナセ》流小角乃音母【一云|笛之音波《フエノオトハ》】敵見有虎可叫吼登諸人之協流麻低爾《アタミタルトラカホユルトモロヒトノオヒユルマテニ》【一云|聞惑麻低《キヽマトフマテ》】
 
千磐破《チハヤフル》は稜威速《イチハヤ》ふろにて健《タケ》く暴《ア》らきを云(フ)○不奉仕《マツロハヌ》は不服従《マツロハヌ》なり○國乎治登《クニヲヲサメト》は治めよとなり○皇子隨任賜者《ミコナカラマケタマヘハ》は彼(ノ)紀に云々天皇|謂《ノリタマハク》2高市(ノ)皇子(ニ)1曰|其《カノ》近江(ノ)朝(ニハ)左右(ノ)大臣及|智謀《カシコキ》群臣共(ニ)定v議《ハカリコトヲ》今朕無2與(ニ)計(ラフ)v事(ヲ)1者|唯《タヽ》有2幼小孺子1耳|奈之何《イカニカモセム》皇子攘v臂按v釼|奏言《マヲシタマハク》近江(ノ)群臣雖(トモ)v多(ナリ)何《ナンソ》敢(テ)逆(ム)2天皇《オホキミ》之靈(ニ)1哉天皇(ハ)雖(ヘトモ)v獨(ナリト)則|臣《オノレ》高市|頼《タノミ》2神祇《アマツカミクニツカミ》之靈(ヲ)1請《コヒマヲシテ》天皇之命(ヲ)1引2率《ヒキヰテ》諸將(ヲ)1而|征討《ウタムニ》豈《アニ》有(リナムヤ)v距《ホセクモノ》乎爰(ニ)天皇譽(テ)之|携《トリ》v手|撫《カキナテヽ》v背(ヲ)曰《ノリタマハク》慎不可怠《ユメ/\オコタリソ》因《カレ》賜(ハリ)2鞍馬(ヲ)1悉《コト/\ニ》授《サツケタマヒキ》2軍(ノ)事(ヲ)1と有る事なり○安騰毛比賜《アトモヒタマヒ》は安騰毛比《アトモヒ》は令聚《アツメ》の延語《ノヒコト》なり然《サ》て令聚《アツメ》は帥《ヒキウ》る意(ロ)も有(リ)○吹響流《フキナセル》 響《ナス》は令鳴《ナス》なり○齊流《トヽノフル》は軍《イクサ》を一(ツ)に纏《マト》ひ齊《トヽノ》ふるなり○鼓之音者《ツヽミノオトハ》 鼓《ツヽミ》は今《イマ》の大鼓〔二字傍線〕と云(フ)物なり名義《ナノコヽロ》は包《ツヽミ》にて革《カハ》を以(テ)て包み張(リ)たる故なるへし【然《シカ》るを古事記(ノ)傳卅一の四十八葉の説に或(ル)人云(ク)都豆美《ツツミ》は都〓の字音なり唐書(ノ)禮樂志に天竺(ノ)伎(ニ)都〓鼓あり云々《トイヘリ》都〓は音《オト》に依(リ)て名《ナツケ》たる物なるへしとあれとも既《ステ》に古事記(ノ)神功皇后(ノ)段(リ)に建内(ノ)宿禰の歌に鼓《ツヽミ》を詠(メ)れば此國《コヽ》の古(ル)くよりの樂器《モノ》なる事|決《ウツナ》し物遠き天竺(ノ)國の樂器の字音を以《モ》て此(ノ)國の樂器に名(ケ)む事いかゝ………………】○小角乃音母《クタノオトモ》【一云(フ)笛之音波《フエノオトハ》】和名抄(ニ)征戦(ノ)具に楊氏(カ)漢語鈔(ニ)云(ク)大角(ハ)波艮乃布江《ハラノフエ》小角(ハ)久太能布江《クタノフエ》と有(リ)て大角《ハラ》は名義《ナノコヽロ》腹《ハラ》なり然《サ》るは此器《コノモノ》の形《カタチ》はふくらみ腹有《ハラメル》より名《ナツケ》て即(ハチ)今の保良貝《ホラノカヒ》の事なり保良《ホラ》は波良《ハラ》の轉《ウツ》れる言《コト》にて風衣を保呂《ホロ》と云(フ)に同しくふくらめ腹《ハラ》める容《カタチ》より稱《イ》ふなり【佛具の寶※[貝+累]の字音にはあらず然《サ》れと物は一(ツ)なるが故《ユヱ》に紛れたりそも/\此(レ)は皇國の古(ヘ)の軍器なるを中(カ)頃(ロ)より此(レ)を用(フ)る事絶(エ)て自(172)然《オノツカ》ら佛具に傳《ツタハ》れゝば然《サ》る誤(リ)も出來《イテキ》にたる物なり然るに喪葬令の物(ノ)具に大角小角備(ハ)れる故に魑魅魍魎を威《オト》す料《タメ》の物にて此(レ)即(ハチ)軍器の意(ロ)はへなり然《サ》て又|役《エノ》小角か深山《ミヤマ》に入(リ)て修行《オコナ》へる時より大角《ハラ》を吹(ケ)るを始(メ)として今の山伏の徒《トモカラ》かならず吹(キ)て峯入《ミネイリ》と云(フ)言を爲《ス》なるも其(ノ)本(ト)は始(メ)て山人(リ)の時に此(レ)を吹(キ)て鬼魅を退《シリソ》けつゝ修行《オコナヒ》けるより始(マ)りたるにて此(レ)も軍器の敵《カタキ》を却《シリソク》ると同じ意(ロ)ばへなれは併《アハ》せて解《サトル》へきなり因《チナミニ》云(ク)役(ノ)小角か名は即(ハチ)久太《クタ》と訓(ム)へし其(ノ)故は文武紀四年六月の處(ロ)に鍛造大角《カヌチノミヤツコハラ》と云(フ)人(ノ)名あるに對《ムカ》つる名なれはなり…………………】小角《クタ》は名義《ナノコヽロ》管《クタ》にて此(レ)は竹を切(リ)て管《クタ》に爲《ツク》りて吹(キ)鳴(ラ)す物なればなり一云|笛之音波《フエノオトハ》 笛《フエ》は名義《ナノコヽロ》吼《ホエ》なり然《サ》れは即(ハチ)小角《クタ》と一(ツ)物にて今(ノ)世の小《チヒサ》き樂器の笛《フエ》とは異《カハ》りて甚《イト》夥《オヒタヾ》しく響《ヒヽ》き聞《キコ》ゆる物なり然《サ》て此《コ》の大角《ハラ》小角《クタ》は軍《イクサ》を齊《トヽノ》ふると敵《カタキ》を威《オト》すと我(レ)に勢(ヒ)を附(ル)と三方《ミカタ》に度《ワタ》りて用《ツカ》へる物なるへし然《サ》るは鼓《ツヽミ》も同(ナ)し事なり○※[立心偏+協の旁]麻低爾《オヒユルマテニ》※[立心偏+協の旁]《オヒユ》は怕寒《オチヒエ》
 
指擧有幡之靡者冬木成春去來者野毎著而有火之《サヽケタルハタノナヒキハフユコモリハルサリクレハヌコトニツキテアルヒノ》【一云|冬木成春野燒火乃《フユコモリハルヌヤクヒノ》】風之共靡如久取持流弓波受乃驟三雪落冬乃林爾《カセノムタナヒケルコトクトリモタルユハスノサワキミユキフルフユノハヤシニ》【一云由|布乃林《フノハヤシニ》】飄可母伊卷渡等念麻低聞之恐久《ツムシカモイマキワタルトオモフマテキヽノカシコク》【一云|諸人見惑麻低爾《モロヒトノミマトフマテニ》】引放箭繁計久大雪乃亂而來禮《ヒキハナツヤノシケクオホユキノミタレテキタレ》【一云|霰成曾知余里久禮婆《アラレナスソチヨリクレハ》】
 
野毎《ヌコトニ》は大《イト》夥《オヒタヾ》しき光景《アリサマ》を云(フ)○著而有火之《ツキテアルヒノ》は赤旗《アカハタ》の状《サマ》なり○風之共《カセノムタ》は既出《サキニツ》【新考の……】○弓波受乃聚《ユハスノサワキ》は衆《オホ》くの弓括《ユハス》ともの等《ヒト》しく放《ハナ》つに驟鳴動《サワキトヨ》むを云(フ)○飄可母《ツムシカモ》 和名抄に※[火三つ+風](ハ)文選(ノ)詩(ニ)云(ク)回※[火三つ+風]卷2高樹(ヲ)1兼名苑(ニ)云(ク)※[火三つ+風](ハ)暴風從(リ)v下而上(ルナリ)也音(ハ)※[犬三つ]和名|豆無之加世《ツムシカセ》と有(リ)○大雪乃亂而來禮《オホユキノミタレテキタレ》【一云|霰成曾知余里久禮婆《アラレナスソチヨリクレハ》】は箭羽《ヤハネ》の白《シロ》きか多く來《クル》を云(フ)古事記【下(ツ)卷穴穗(ノ)宮(ノ)段】に興(シテ)v軍(サヲ)待(チ)戰(フ)射出之《イイツル》矢《ヤ》如(シ)2葦來散《アシノチリクル》1これも蘆花《アシハナ》の白(ロ)きに比《タト》へたるなり一云|曾知余里《ソチヨリ》は彼方自《ソチヨリ》なり然《サ》て此(ノ)段(リ)は天武紀に旗織蔽v野(ヲ)埃塵連v天(ニ)鉦鼓之聲聞2數十里(ニ)1烈弩亂發矢(ノ)下(ルコト)如(シ)v雨(ノ)と有(ル)事を云(ヘ)るなり
 
不奉仕立向之毛露霜之消者消倍久去鳥乃相競端爾《マツロハスタチムカヒシモツユシモノケナハケヌヘクユクトリノアラソフハシニ》【一云|朝霜之消者消言爾打蝉等安良蘇布波之爾《アサシモノケナハケトフニウツセミトアラソフハシニ》】渡會乃齋宮從神風爾伊吹惑之天雲乎日之目毛不令見常闇爾覆賜而定之《ワタラヒノイツキノミヤユカムカセニイイフキマトハシアマクモヲヒノメモミセストコヤミニオホヒタマヒテサタメテシ》
 
渡合乃齋宮從《ワタラヒノイツキノミヤニ》云々の事は紀に所見《ミエ》す傳《ツタヘ》の脱漏《オチ》たるなるへし外《ホカ》に種々《クサ/\》神の助《タス》け奉《マツ》り賜へる事は紀に所見《ミエ》たり齋《イツキ》(173)宮は大神《オホカミノ》宮なり【齋王《イツキノミコ》の宮には非(ラ)ず】
 
水穗之國乎神髓太敷座而八隅知之吾大王之天下申賜者萬代然之毛將有登《ミツホノクニヲカムナカラフトシキマシテヤスミシヽワカオホキミノアメノシタマヲシタマヘハヨロツヨニシカシモアラムト》【一云|如是毛安良無等《カクモアラムト》】木綿花乃榮時爾《ユフハナノサカユルトキニ》
 
吾大王之《ワカオホキミノ》は天武天皇持統天皇を白《マヲセリ》○申賜者《マヲシタマヘハ》は持統紀に四年秋七月丙子(ノ)朔庚辰|以《ヲ》2皇子高市1爲2太政大臣(ト)1と有(リ)て政《マツリコト》を執り奏《マヲ》し行《オコナ》ひ賜《タマ》へる事を云(フ)○木綿花乃《ユフハナノ》 木綿《ユフ》は栲《タク》穀《カチ》麻《アサ》なとを剥《ハキ》て神に奉《マツ》り又|齋《イハ》ひにも此(レ)を懸垂《カケタレ》て忌清《イミキヨ》まはる標《シルシ》と爲《ス》る物にて古(ルキ)書(ニ)に所見《ミユ》るか如し木綿花《ユフハナ》は其《ソレ》を花に製《ツク》りて白(ロ)く大(キ)く鮮《アサヤカ》に牡盛《サカリ》に美麗《ウルハ》しくして風流《ミヤヒ》の装飾《カサリ》と淨《キヨ》まはりの料《タメ》と二(ツ)を兼(ネ)て爲《ツク》れる物なるへし然《サ》て其《ソ》を初瀬の山里より主《ムネ》と造りて出しけるにや六に泊瀬女造木綿花三吉野瀧力水沫開來受屋《ハツセメノツクルユハナミヨシヌノタキノミナハニサキニケラスヤ》 山高三白木綿花落多藝都瀧之河内者雖見不飽香聞《ヤマタカミシラユフハナニヲチタキツタキノカフチハミレトアカヌカモ》七に泊瀬川白木綿花爾墮多藝都瀬清跡見爾來之吾乎《ハツセカハシラユフハナニオチタキツセヲサヤケミトミニコシワレヲ》十に山高三白木綿花爾落多藝都夏身之河門雖見不飽香聞《ヤマタカミシラユフハナニオチタキツナツミノカハトミレトアカヌカモ》十三に相坂乎打出而見者淡海之海白木綿花爾浪立渡《アフサカヲウチイテヽミレハアフミノミシラユフハナニナミタチワタル》これらを以(テ)其(ノ)形状《サマ》を知(ル)へし又今(ノ)世に正月《ムツキ》の家《イヘ》の装飾《カサリ》に柳を花に白(ロ)く削《ケヅ》り作《ナシ》て懸(ク)るは木綿花の遺風《ナコリ》なるへし正月《ムツキ》は名義《ナノコヽロ》齋月《イムツキ》にて忌《イハ》へる禮事《ワサコト》種々《クサ/\》多《オホ》かり然《サ》て此(レ)は右に云(ヘ)る如く甚《イミ》しく盛華《サカ》に作《ツク》れる物なれは榮《サカユル》の冠辭《マクラコトハ》には置(ケ)るなり
 
吾大王皇子之御門乎《ワカオホキミミコノミカトヲ》【一云|刺竹皇子御門乎《サスタケノミコノミカトヲ》】神宮爾装束奉而遣便御門之人毛白妙乃麻衣著埴《カムミヤニヨソヒマツリテツカハシヽミカトノヒトモ》安乃御門之原爾赤根刺日之盡鹿自物伊波比伏管烏玉能暮爾至者大殿乎振放見乍鶉成伊波比※[しんにょう+向]雖侍候佐母良比不得者春鳥之佐麻欲比奴禮者《シロタヘノアサコロモキハニヤスノミカトノハラニアカネサスヒノコト/\シヽシモノイハヒフシツヽヌハタマノユフヘニナレハオホトノヲフリサケミツヽウツラナスイハヒモトホリサモラヘトサモラヒカネテハルトリノサマヨヒヌレハ》
 
遣便《ツカハシヽ》 便は使の誤字《アヤマリモシ》○御門之原爾《ミカトノハラニ》は殯宮《アラキノミヤ》を造營《ツク》られたる宮庭《オホニハ》の廣《ヒロ》らかなる地《トコロ》を云書紀に多く殯(ス)2于宮庭(ニ)1と有(ル)此(レ)なり○赤根刺《アカネサス》は冠辭考(ニ)云(ク)阿加禰《アカネ》は朱《アケ》と云(フ)に同し佐須《サス》は色《イロ》さしの指《サシ》なり○鹿自物《シヽシモノ》は鹿如物《シヽシクモノ》にて鹿は膝《ヒサ》を折(リ)て居《ヲ》る者《モノ》なるか故《ユヱ》に三に十六自物膝折伏《シヽシモノヒサヲリフセ》と作《ヨメ》り此《コヽ》も匍匐伏《ハヒフス》につゝくる枕(ラ)語(ハ)なり○鶉域《ウツラナス》は冠辭考に此(ノ)鳥の草根《クサネ》を匍匐《ハヒ》めくる由《ヨシ》を以《モテ》つゝくるなりと有(リ)○伊波比廻《イハヒモトホリ》廻《モトホリ》は纏《マツハリ》と一言《ヒトツコト》にて其《ソノ》邊《ホトリ》を周《メク》りて去《サ》らざるを謂(フ)〇佐母良比不得者《サモラヒカネテ》 者は弖の草書を者に誤れるか○春鳥之佐麻欲比奴禮者《ハルトリノサマヨヒヌレハ》 佐麻欲比《サマヨヒ》は眞舞呼《サマヒヨヒ》にて啼周《ナキメク》るを云(フ)春(174)鳥之《ハルトリノ》は其(ノ)意(ロ)の序《マクラコトハ》なり故《カレ》此《コノ》語《コトハ》は號泣《ナ》き憂《ウレ》ひ徘徊《サス》らひ周回《モトホ》るに云(ヘ)り五に【貧究問答(ノ)歌】父母波枕乃可多爾妻子等母波足方爾圍居而憂吟《チヽハヽハマクラノカタニメコトモハアトノカタニカクミヰテウレヒサマヨヒ》云々廿に都麻母古騰母毛乎知己知爾左波爾可久美爲春鳥乃己惠乃佐麻欲比之路多倍乃蘇※[泥/土]奈伎奴良之《ツマモコトモヽヲチコチニサハニカクミヰハルトリノコヱノサマヨヒシロタヘノソテナキヌラシ》云々神代紀【彦火々出見命《ヒコホホテミノミコト》うれひ歩行《アリ》き賜(マ)ふ處(ロ)………】に行《ユク/\》吟《サマヨフ》2海畔《ウミヘタニ》1から書《フミノ》屈平漁父(ノ)辭に屈原|既放《ステニハナタレテ》游2於江潭(ニ)1行(ク/\)吟《サマヨフ》2澤畔(ニ)1允恭紀【元年】に苦(シミテ)2群臣之憂(レヒ)吟《サマヨフニ》1而云々皇極紀【四年】に聽《キコユ》2猿吟《サルノサマヨフオト》1なと有(リ)
 
嘆毛未過爾憶毛未盡者言左敝久百濟之原從神葬葬伊座而朝毛吉木上宮乎常宮等高之奉而神隨安定座奴雖然吾大王之萬代跡所念食而作良志之香來山之宮萬代爾過牟登念哉天之如振放見乍玉手次懸而將偲恐有騰文《ナケキモイマタスキヌニオモヒモイマタツキネハコトサヘククタラノハラユカムハフリハフリイマシテアサモヨシキノヘノミヤヲトコミヤトサラメマツリリテカムナカラシツマリマシヌシカレトモワカオホキミノヨロツヨトオモホシメシテツクラシヽカクヤマノミヤヨロツヨニスキムトオモヘヤアメノコトフリサケミツヽタマタスキカケテシヌハムカシコカレトモ》
 
憶毛未盡者《オモヒモイマタツキネハ》は 盡(キ)ぬになりたゝ上(ミ)と語(ハ)を更《カヘ》たるなり○言左敝久《コトサヘク》は怕濟《クタラ》の枕(ラ)詞(ハ)既に出(ツ)【新考 の 】○百濟之原《クタラノハラ》は大和志(ニ)廣瀬(ノ)郡在(リ)2百濟《クタラノ》原(ニ)1○朝毛吉《アサモヨシ》は城《キ》の枕(ラ)詞(ハ)既(ニ)出(ツ)【新考五の二十五葉】○高之奉而《サタメマツリテ》 高之の二字は定の誤(リ)○香來山之宮《カクヤマノミヤ》は東宮《ミコノミヤ》なり然《サ》て此以下《コレヨリシモ》結句まて此(ノ)宮の事を云(ヒ)とちめたるは上(ミ)【三十二葉】に説《イヘ》る如く人麻呂(ハ)東宮(ノ)大舍人なれば職《シ》る處(ロ)を以《モ》て誄《シヌ》ひ奉《マツ》れるなり○過牟登念哉《スキムトオモヘヤ》 過《スクル》は亡《ナル》く成(ル)を云(フ)言《コト》人の死(ヌル)を過(クル)と云(フ)に同(シ)○天之如《アメノコト》 天《アメ》とは天日《アマツヒ》を云(フ)事上(ミ)【三十六葉】に精《クハ》しく説《イへ》るか如し考(ヘ)合(ハ)せて此《コヽ》の意(ロ)を知(ル)ヘし○懸而將偲カケテシヌハム》は心(ロ)になり
 
短歌二首
 
200 久堅之天所知流君故爾日月毛不知戀渡鴨《ヒサカタノアメシラシヌルキミユヱニヒツキモシラニコヒワタルカモ》
 
一首《ウタ》の表《ウヘ》は聞《キコ》ゆるか如し然《サ》ては天《アメ》を知(リ)賜ふ君なるに日月と知らすと云(ヘ)る詞の文《アヤ》なり日月は天の物なれはなり
 
201 埴安乃池之堤之隱沼之去方乎不知舍人者迷惑《ハニヤスノイケノツヽミノコモリヌノユクヘヲシラニトネリハマトフ》
  
或書《アルフミノ》反歌一首
 
202 哭澤之神社爾三輪須惠雖祷祈我王者高日所知奴《ナキサハノモリニミワスヱイノレトモワカオホキミハタカヒシラシヌ》
 
此(ノ)神社いまた不詳《サタカナラス》古事記に於御涙所成神《ミナミタニナリマセルカミハ》座《マス》2香山之畝尾木本《カクヤマノウネヲノコノモトニ》1名泣澤女神《ミナハナキサハメノカミナリ》これにや傳【五の六十六葉】にも此(ノ)哥を引(キ)て云(ク)伊邪那美(ノ)神の崩《カムサリ》を哀《カナシヒ》賜へる御涙《ミナミタ》より成(リ)坐(セ)る神(175)なるか故《ユヱ》に當時《ソノカミ》人(ノ)命(チ)を此(ノ)神に祈《イノ》りしにや帳に十市(ノ)郡畝尾(ノ)都多本《ツタモトノ》神社あり此(レ)か尚《ナホ》よく考へしと有(リ)○三輪須惠《ミワスヱ》 三輪《ミワ》は※[瓦+缶]和《ミカワ》の約言《ツヽマリコト》にて出雲(ノ)國(ノ)造(ノ)神壽辭《カミノヨコト》に天能※[瓦+肆の左]和爾齋許母利※[氏/一]《アメノミカワニイミコモリテ》氏云々とある※[瓦+缶]和《ミカワ》なり此(レ)は酒を《カ》む土《ハニ》の器物《ウツハモ/》にて今(ノ)世に瓶《カメ》と云(フ)此(レ)なり【加米《カメ》は釀※[瓦+缶]《カミヘ》なり】和《ワ》は垂仁紀に【三十二年】號《ヲ》2是土物《コノハニモノ》1謂《イフ》2埴輪《はにわと》1と有(リ)りて土物《ハニモノ》に屬《ツキ》たる言《コト》なり【輪は借字】然《サ》て酒を此(レ)に釀《カメ》て隨《ナカラ》に神に献《タテマツ》るを御和座《ミワスウ》と云(フ)十三に五十串立神酒坐奉神主部之《イクシタテミワスヱマツルカムトモノ》云々【神酒《ミワ》は意(ロ)を得て書(ケ)るなり神酒を美和《ミワ》と云(フ)に非(ス)後(ノ)世は誤(マ)れり】○高日所知奴《タカヒシラシヌ》 高日《タカヒ》は高天《タカマ》なり此(ノ)事は上(ミ) に説《イヘ》り考(ヘ)合(ス)へし
 
右一首類聚歌林(ニ)曰(ク)檜隈《ヒノクマノ》女王怨2泣澤(ノ)神社1之歌(ナリ)他案2日本紀(ヲ)1曰持統天皇十年丙申秋七月辛丑(ノ)朔庚戌後(ノ)皇子(ノ)尊薨
 
檜隈(ノ)女王きたかならす
 
 
但馬皇女薨《タチマノヒメミコカムサリノ》後(ニ)穗積(ノ)皇子冬日雪落遙(ニ)聖2御墓(ヲ)1悲傷流涕御作歌一首
 
續紀(ニ)和銅(ノ)元年六月丙戌三品但馬(ノ)内親王《ヒメミコ》薨と有(リ)穗積との御中《ミナカ》らひは既《サキ》に云(ヘリ)【新考の三十四葉】
 
203 零雪者安幡爾勿落吉隱之猪養乃岡之塞爲卷爾《フルユキハアハニナフリソヨナハリノヰカヒノヲカノセキナラマクニ》
 
安幡《アハ》は溢《アフ》なり又|大《オホ》なり淡雪《アハユキ》淡雲《アハクモ》なとも此にて溢《アフ》るゝまて大《オホ》く有(ル)を云(フ)【淡は借字】播磨國風土記に賀古郡|鴨波《アハハノ》里ツチ(ハ)中(ノ)中昔大部造等遠祖古理賣耕此之野多種粟故曰粟に里こも多粟《オホアハ》のよしなるにて知へし○吉隱之猪養乃岡之《ヨナハリノヰカヒノヲカノ》 大和志(ニ)城上《シキノカミノ》郡猪飼(ノ)山(ハ)在(リ)2吉隱(ノ)村(ノ)上方(ニ)1云々《テヘリ》此地《コヽ》皇女御基《ヒメミコノミハカ》なり
 
弓削皇子薨時置始東人《ユケノミコカムサリマシヽトキニオキソメノアツマトノ》歌一首并短歌
 
文武紀(ニ)三年秋七月癸酉淨廣貳弓削(ノ)皇子薨|東人《アツマト》は既(キニ)出(ツ)【新考の四十一葉】
 
204 安見知之吾王高光日之皇子久堅乃天宮爾神隨神等座者其乎霜文爾恐美晝波毛日之盡夜羽毛夜之盡臥居雖嘆飽不足香裳《ヤスミシヽワカオホキミタカヒカルヒノミコヒサカタノアマツミヤニカムナカラカミトイマセハソコヲシモアヤニカシコミヒルハモヒノコト/\ヨルハモヨノコト/\フシヰナケヽトアキタラヌカモ》
 
反歌一首
 
205 王者神西座者天雲之五百重之下爾隱賜奴《オホキミハカミニシマセハアマクモノイホヘカシタニカクリタマヒヌ》
 
玉乃小琴(ニ)云(ク)下《シタ》は裏《シタ》にて内《ウチ》の意(ロ)なり上下《ウヘシタ》の義《ヨシ》には非(ラ)す
 
(176)又短歌一首
 
206 神樂波之志賀左射禮浪敷布爾常丹跡君之所念有計類《サヽナミノシカサレナミシク/\ニツネニトキミカオモホヘリケル》
 
一首《ウタ》の意(ロ)は此《コ》の志賀(ノ)湖《ウミ》の細波《ササレナミ》の重々《シク/\》寄(セ)て常《ツネ》に不斷《タエサル》か如く何時《イツ》も不變《カハラ》す御座《マシマ》す君そと吾(カ)念ひて有(リ)けるそやとなり志賀は皇子に由緒《ヨシ》ある地《》か或《トコロモシ》くは此(レ)は天智(ノ)崩(リ)時の哥|歟《カ》
 
柿(ノ)本(ノ)朝臣人麻呂妻死之後泣血哀慟作歌二首并短歌
 
此《コ》の哥|等《トモ》首《ハシメ》は隱妻《シタヒタルメ》次(キ)は嫡妻《ムカヒメ》なり然《サ》れば一度《ヒトタヒ》の作《ウタ》ならす
 
207 天飛也輕路者吾妹兒之里爾思有者懃欲見騰不止行者人目乎多見眞根久往者人應知見狭根葛後毛將相等大船之思憑而玉蜻磐垣淵之隱耳戀管在爾度日乃晩去之如照月乃雲隱如奧津藻之名延之妹者黄葉乃過伊去等玉梓之使乃言者梓弓聲爾聞而《アマトフヤカルノミチハワキモコカサトニシアレハネモコロニミマクホシケトヤマスユカハヒトメヲオホミマネクユカハヒトシリヌヘミサネカツラノチモアハムトオホフネノオモヒタノミテカキロヒノイハカキフチノコモリノミコヒツヽアルニワタルヒノクレヌルカコトテルツキノクモカクルコトオキツモノナヒキシイモハモミチハノスキテイニシトタマツサノツカヒノイヘハアツサユミオトニキヽテ》【一云|聲耳聞而《オトノミキヽテ》】將言爲便世武爲便不知爾聲耳乎聞而有不得者《イハムスヘセムスヘシラニオトノミヲキヽテアリエネハ》
 
或本《アルマキニ》有2謂之|名耳聞而不得者《ナノミキヽテアリエネハノ》句1
天飛也《アマトフヤ》は雁《カリ》の意(ロ)に輕《カル》に言(ヒ)》續くる枕(ラ)詞(ハ)なり○輕路者《カルノミチハ》 大和(ノ)國高市(ノ)郡(ノ)輕(ノ)村今(マ)在(リ)其(レ)なり○眞根久往者《マネクユカハ》は繁《シケ》くなり○狭根葛《サネカツラ》は冠辭考に葛《カツラ》の長く延《ハ》ひ別れては末の復《マタ》延相《ハヒアヘ》るを以(テ)後毛將相《ノチモアハム》の序に云るなりと有(リ)………○玉蜻《カキロヒノ》は磐垣《イハカキ》の序《マクラコトハ》なり石を闕《カ》けは火の※[火+玄]《カキロ》へはなり○玉梓乃《タマツサノ》程繋《タマツサ》なり程《タマ》は程來經《タマキハル》新程《アラタマ》程避《タマサカ》程緩《タマユラ》程々《タマ/\》なとの程《タマ》にて保杼《ホト》と云(フ)に同し【此(ノ)事は新考 の に云(ヘ)り考(ヘ)合(ス)べし】繋《ツサ》はつなく連《ツラヌ》傳《ツタフ》なとゝ一(ツ)言《コト》にて引延《ヒキハヘ》たるを云(フ)蔓草《ツルクサ》を都多《ツタ》とも都良《ツラ》とも都那《ツナ》とも云(フ)か如《コト》し都佐《ツサ》も此(レ)にて蘿延《ツタハフ》を都奴佐波布《ツヌサハフ》とも云(ヘ)り然《サ》て程繁《タマツサ》とは知(ル)人|共《トチ》の中《ナカ》の程《タマ》を繋《ツナ》きて絶(エ)さら令《シム》る禮《ワサ》にて問(ヒ)音信《オトツ》るゝを云(フ)事にて集中に間使《マツカヒ》と有(ル)も同しく今(ノ)世にもある事なり三に玉梓乃人《タマツサノヒト》と有(ル)も此(レ)なり又【同卷】何然跡待牟妹爾玉梓乃事太爾不告往公鴨《イツシカトマツラムイモニタマツサノコトタニツケスイニシキミカモ》と有(ル)は使(ヒ)ならす自《ミツカ》ら訪《ト》ふを云(ヘ)り然《サ》れと轉《ウツ》りてはたゝ使(ヒ)の枕(ラ)詞(ハ)にも成(リ)て即(ハチ)此《コヽ》も然《シカ》り【又七に玉梓能妹者珠氈足氷木乃清山邊蒔散漆《タマツサノイモハタマカモアシヒキノキヨキヤマヘニマケハチリヌル》 玉梓之妹者花可毛足日木乃此山影爾麻氣者失留《タマツサノイモハハナカモアシヒキノコノヤマカケニマケハウセヌル》うつほの物(ノ)語(リ)たつのむら鳥(ノ)巻(キ)に玉つさの露にとまらぬものならは空《ムナ》しきみとも成(リ)ぬへきかな此(レ)等《ラ》の玉梓《タマツサ》は木(ノ)名にて今も玉梓《タマツサ》と云(フ)地《トコロ》も有(リ)またヨツヽミとも云(ヒ)て木の體《サマ》は梓《アツサ》に似《ニ》て玉の如《コト》き赤(キ)實《ミ》四(ツ)づゝ生《ナリ》て花は白(ロ)し
 
吾戀千重乃一隔毛遣悶流情毛有八等吾妹子之不止出見之輕市爾吾立聞者玉手次畝火乃山爾喧鳥之音母不所聞玉桙道行(177)人毛獨谷似之不去者爲便乎無見妹之名喚而袖曾振鶴《ワカコフルチヘノヒトヘモナクサモルコヽロモアレヤトワキモコカヤマスイテミシカルノイチニワカタチキケハタマタスキウネヒノヤヤニナクトリノオトモキコエスタマホコノミチユクヒトモヒトリタニニテシユカネハスヘヲナミイモカナヨヒテソテソフリツル》
 
袖振《ソテフル》は歸《カヘ》り來《キタ》れと招《マネ》く禮《シワサ》なり此(ノ)事|既《サキ》に委(ハ)しく説(ヘ)り考(ヘ)合(ス)へし
 
短歌二首
 
208 秋山乃黄葉乎茂迷流妹乎將求山道不知母《アキヤマノモミチヲシケミマトハセルイモヲモトメムヤマチシラスモ》【一云|路不知而《ミチシラニシテ》】
 
山の墓を云(ヘ)り七に秋山黄葉※[言+可]怜海觸而入西妹者待不來《アキヤマノモミチアハレミウラフレテイリニシイモハマテトキマサス》
 
209 黄葉之落去奈倍爾玉梓之使乎見者相日所念《モミチハノチリヌルナヘニタマツサノツカヒヲミレハアヘルヒオモホユ》
 
有(リ)し日の事を念(ヒ)出(テ)たるなり
 
210 打蝉等念之時爾《》【一云|宇都曾臣等念之《ウツソミトオモヒシトキニ》】取持而吾二人見之※[走+多]出之堤爾立有槻木之己知碁智乃枝之春葉之茂之如久念有之妹者雖有憑有之兒等爾者雖有世間乎背之不得者蜻火之燎流荒野爾白妙之天領巾隱鳥自物朝立伊麻之※[氏/一]入日成隱去之鹿齒《トリモチテワカフタリミシワシリテノツヽミニタテルツキノキノコチコチノエノハルノハノシケキカコトクオモヘリシイモニハアレトタノメリシコラニハアレトヨノナカヲソムキシエネハカキロヒノモユルアラヌニシロタヘノアマヒレカクリトリシモノアサタチイマシテイリヒナスカクリニシカハ》
 
取持而《トリモチテ》は手《テ》に手《テ》をなり○※[走+多]出之《ワシリテノ》は山岡《ヤマヲカ》なとの裾《スソ》の横走《ヨコハシ》り出《イテ》たる處(ロ)を云(フ)雄略紀【六年】に擧暮利矩能播都制能野磨播伊底施智能與慮斯企野磨和斯里底能與慮斯企夜磨能《コモリクノハツセノヤマハイテタチノヨロシキヤマワシリテノヨロシキヤマノ》云云なと有(リ)○己知碁智乃枝之《コチコチノエノ》 此方此方《コチコチ》にてこなたよりも此方《コチ》あなたよりも此方《コチ》なり○茂之如久《シケキカコトク》は細密《コマカ》に透目《スキマ》も無《ナ》くなり○蜻火之燎流荒野爾《カキロヒノモユルアラヌニ》は春《ハル》日影《ヒカケ》のきらめく事と火葬の事とを兼(ヌ)○白妙之天領巾隱《シロタヘノアマヒレカクリ》 妙《タヘ》は借字にて服《タヘ》なり領巾《ヒレ》は女《ヲミナ》の肩に掛(ク)る物にて古(キ)書(ミ)に多く見ゆ名(ノ)義《コヽロ》は比良々々《ヒラ/\》と飄《ヒルカヘ》るより云(フ)にて魚の鰭《ヒレ》と同し然《サ》て此《コヽ》は葬具の幟《ハタ》にて同しからねと空《ソラ》より懸《サカ》りひらめくを以(テ)天領巾《アマヒレ》とは云なるへし○鳥自物《トリシモノ》は例の鳥如物《トリシクモノ》
 
吾妹子之形見爾置若兒乃乞泣毎取與物之無者鳥穗自物腋挾持吾妹子與二人吾宿之枕付嬬屋之内爾晝羽裳浦不樂晩之夜者裳氣衝明之嘆友世武爲便不知爾戀友相因乎無見大鳥羽易乃山爾吾戀流妹者伊座等人之云者石根左久見手名積來之吉雲曾無寸打蝉跡念之妹之珠蜻髣髴谷裳不見思者《ワキモコカカタミニオケルミトリコノコヒナクコトニトリアタフモノシナケレハヲトコシモノワキハサミモチワキモコトフタリワカネシマクラツクツマヤノウチニヒルハモウラサヒクラシヨルハモイキツキアカシナケヽトモセムスヘシラニコフレトモアフヨシヲナミオホトリノハカヒノヤマニワカコフルイモハイマストヒトノイヘハイハネサクミテナツミコシヨケクモソナキウツセミトオモヒシイモカカキロヒノホノカニタニモミエヌオモヘハ》
 
鳥穗自物は萬葉考(ニ)云(ク)烏徳《ヲトコ》の誤(リ)なり下《シモ》の或(ル)本に男自物《ヲトコシモノ》と有(リ)云々さて集中に何自物《ナニシモノ》と有(ル)は皆《ミナ》某如物《ナニシクモノ》にて如《コトク》なる物の意(ロ)なるを此《コレ》耳《ノミ》は否《シカ》らす男《ヲトコ》なる物にてやと然《サ》るましき事の由《ヨシ》に云(ヘ)り三に腋挾兒乃泣毎雄自毛能負見抱見朝鳥之啼耳哭管《ワキハサムコノナクコトニヲトコシモノオヒミイタキミアサトリノネノミナキツヽ》云々十一に男士物屋戀乍將居《ヲトコシモノヤコヒツヽヲラム》……………………………是(レ)等《ラ》の如《コト》し【又五に道《ミチ》のくまみに草たをり芝取(リ)敷(キ)て床自物うちこひ臥《フシ》て云々こも此《コヽ》と同じ】○(178)腋挾持《ワキハサミモチ》は男《ヲトコ》にて母親《ハヽオヤ》ならねはよく得爲《エセ》ぬ状《サマ》なり○嬬屋《ツマヤ》は夫婦《ツマ》こもる屋《ヤ》○羽易乃《ハカヒノ》山は春日《カスカ》に今(マ)有(リ)○石根左久見手《イハネサクミテ》《》は令《シメ》v裂《サクマ》の切《ツヽマリ》にて平坦《タヒラカ》ならす行(キ)惡(ク)き處(ロ)を強《シヒ》て艱難《ナツミ》て踏《フミ》ゆくを云(フ)廿に山河乎伊波禰左久美弖布美等保利《ヤマカハヲイハネサクミテフミトホリ》六に五百重山伊去割見《イホヘヤマイユキサクヽミ》廿に奈美乃間乎伊由伎佐具久美《ナミノマヲイユキサクミ》四に浪上乎五十行左具久美《ナミノウヘヲイユキサクヽミ》また祝詞《ノリト》に磐根木根履佐久彌※[氏/一]《イハネキネフミサクミテ》なと有(リ)
 
短歌二首
 
211 去年見而之秋乃月夜者雖照相見之妹者彌年放《コソミテシアキノツクヨハテラセレトアヒミシイモハイヤトシサカル》
 
212 衾道乎引手乃山爾妹乎置而山徑往者生跡毛無《フスマチヲヒキテノヤマニイモヲオキテヤマチヲユケハイケルトモナシ》
 
衾《フスマ》とは夜衣《ヨルノコロモ》を謂《イヘ》とも此(レ)は寢屋《ネヤ》の帷帳《カタヒラ》なるへし其之例はいまた見當《ミアタ》らざれども寢《ヌル》に温暖《アタタカ》に儲《マウク》る具《モノ》なれは臥裳《フスマ》と云(ヘ)るにや然《サ》て其(レ)には乳《チ》を附(ケ)て引(キ)開(ク)れば引手に續くるなるへし引手と云(フ)名は大神宮(ノ)式に戸(ノ)引手二勾【鐶(ノ)徑(リ)各三寸六分】こは今(ノ)世の衾《フスマ》障子《サウシ》の引手と同し○引手乃山《ヒキテノヤマ》は前の羽易《ハカヒノ》山と一(ツ)處(ロ)なるへし○生跡毛無《イケルトモナシ》は玉勝間【思(ヒ)草(ノ)卷(ニ)】云(ク)十九に伊家流等毛奈之《イケルトモナシ》と有(リ)て生(ケ)る利心《トコヽロ》も無(キ)なり然《サ》れは等《ト》は辭《テニヲハ》ならす
 
或(ル)本歌《マキノウタ》曰
 
213 宇都曾臣等念之時携手吾二見之出立百兄槻木虚知期知爾枝刺有如春葉茂如念有之妹庭雖在恃有之妹庭雖有世中背不得者香切火之燎流荒野爾白栲天領巾隱鳥自物朝立伊行而入日成隱西加婆吾妹子之形見爾置有緑兒之乞哭別取委物之無者男自物脇挿持吾妹子與二吾宿之枕附嬬屋内爾且者浦不怜晩之夜者息衝明之雖嘆爲便不知雖戀相縁無大鳥羽易山爾汝戀妹座等人云者石根割見而奈積來之好雲叙無宇都曾臣念之妹我《ウツソミトオモヒシトキニタツサハリワカフタリミシイテタチノモヽエツキノキコチコチニエタサセルコトハルノハノシケキカコトクオモヘリシイモニハアレトタノメリシイモニハアレトヨノナカヲソムキシエネハカキロヒノモユルアラヌニシロタヘノアマヒレカクリトリシモノアサタチイユキテイリヒナスカクリニシカハワキモコカカタミニオケルミトリコノコヒナクコトニトリマカスモノシナケレハヲトコシモノワキハサミモチワキモコトフタリワカネシマクラツクツマヤノウチニヒルハウラサヒクラシヨルハイキツキアカシナケヽトモセムスヘシラニコフレトモアフヨシヲナミオホトリノハカヒノヤマニナカコフルイモハイマストヒトノイヘハイハネサクミテナツミコシヨケクモソナキウツソミトオモヒシイモカ》灰而座者
 
出立《イテタチ》とは山岡《ヤマヲカ》なとの裾《スソ》に差《サ》し出《イテ》て立(テ)る處(ロ)を云(フ)上 に引(ケ)る雄略紀(ニ)出立《イテタチ》の宜《ヨロ》しき山此(レ)なり○取委《トリマカス》は兒《チコ》に取《ト》らせ任《マカ》せて慰《ナクサ》むる具《モノ》○灰而座者は萬葉考(ニ)云(ク)灰は仄の誤(リ)にて脱字有(ル)へし試《コヽロミ》に補《オキナ》はゝ珠蜻仄谷毛見而不座者《カキロヒノホノカニタニモミエテマサネハ》なとにや云々|實《》に然《マコトシカ》らされは通《キコ》えす本文(ノ)哥と合(ハ)せ見て知(ル)へし
 
短歌三首
 
214 去年見而之秋月夜雖度相見之妹者益年離《コソミテシアキノツクヨハワタレトモアヒミシイモハイヤトシサカル》
 
(179)215 衾路引出山妹置山路念邇生刀毛無《フスマチヲヒキテノヤマニイモヲオキテヤマチオモフニイケルトモナシ》
 
216 家來而吾屋乎見者玉床之外向來妹木枕《イヘニキテワカヤヲミレハタマトコノホカニムキケリイモカコマクラ》
 
玉床《タマトコ》は靈床《タマトコ》にて死者《シニヒト》の床をは然隨《サナカラ》一周《ヒトヽセ》ほと置(ク)を云(フ)【此(ノ)事は 出(ツ)】
 
吉備津采女死時《キヒツノウネヘノミウセタルトキニ》柿(ノ)本(ノ)朝臣人麻呂(ノ)作歌《ウタ》一首並短歌
 
玉の小琴(ニ)云(ク)吉備津《キヒツ》は志我津《シカツ》の誤(リ)なるへし采女は出(テ)たる地(ロ)を以《モ》て名に呼《ヨフ》例にて反歌に志我津(ノ)子とも凡《オホ》津(ノ)子とも有れは近江の志我津より出(テ)たる采女なるへし然《シカ》るに吉備津と云(フ)地(ロノ)名も所聞《キコエ》す又|姓《ウチ》を以(テ)采女の名に呼ふ例も無(ケ)れはなり云々|然《サ》て此(レ)は其(ノ)《ヲトコ》に贈れる哥なり。
 
217 秋山下部留妹奈用竹乃騰遠依子等者何方爾念居可拷紲之長命乎露己曾婆朝雨置而夕者消等言霧己曾婆夕立而明者失業言梓弓音聞吾母髣髴見之事悔敷乎布拷乃手枕纏而劍刀身二副寐價牟若草其嬬子者不怜彌可念而寐良武悔彌可念戀良武時不在過去子等我朝露乃如也夕霧乃如也《アキヤマノシタフルイモナヨタケノトヲヨルコラハイカサマニオモヒヲレカタクツヌノナカキイノチヲツユコソハアシタニオキテユフヘニハケヌトイヘキリコソハユフヘニタチテアシタニハウストイヘアツサユミオトキクワレモオホニミシコトクヤシキヲシキタヘノタマクラマキテツルキタチミニソヒネケムワカクサノソノツマノコハサフシミカオモヒテヌラムクヤシミカオモヒコフラムトキナラススキニシコラガアサツユノコトヤユフキリノコトヤ》
 
秋山下部留妹《アキヤマノシタフルイモ》は古事記傳【卅四の卅三葉】秋山(ノ)下氷壯夫《シタヒヲトコ》の註(ニ)云(ク)下氷《シタヒ》は朝備《アシタヒ》にて朝天《アシタノソラ》の紅《アカ》く丹穗《ニホ》へるか如(ク)なるを云(フ)【萬葉十一に朱引朝《アカラヒクアサ》とよめり】然《サ》て秋山の下備《シタヒ》とは紅葉を云(フ)【萬集十に金山舌日下《アキヤマノシタヒガシタ》十五に山下比河流毛美知葉能《ヤマシタヒカルモミチハノ》六に山下耀錦成花咲乎呼里《ヤマシタヒカリニシキナスハナサキヲヽリ》また三に山下赤乃曾保船《ヤマシタノアケノソホフネ》また境(ヒ)原(ノ)宮(ノ)段に山下影日賣これらも皆(ナ)山|朝備《アシタヒ》の意(ロ)なり】又其(レ)を紅顔に比《タト》へたるなり○騰遠依子等者《トヲヨルコラハ》 騰遠《トヲ》は撓《タワ》なり○布栲乃《シキタヘノ》は冠辭考(ニ)云(ク)夜具《ヨルノモノ》は和《ニコヤカ》なる繁服《シキタヘ》を【織(リ)目の密《シケキ》を云(フ)】用(フ)れは床にも枕(ラ)にも續(ク)るなり○時不在《トキナラス》は壯年《サカリ》の齡《ヨハヒ》と又此(ノ)時は秋と聞(コ)ゆれは【一首《ウタ》の樣《サマ》に知らる】存《ノコ》れる夫《ヲトコ》の寒き獨宿《ヒトリネ》とを云(フ)【是(レ)も歌の上《ウヘ》にて知らる】古今集に時《トキ》しもあれ秋やは人の別(カ)るへき云々
 
短歌二首
 
218 樂浪之志我津子等何《サヽナミノシカツノコラカ》【一云志我津之子我】罷道之川瀬道見者不怜毛《マカリチノカハセノミチヲミレハサフシモ》
 
罷道之《マカリチノ》は葬《ハフ》り徃《ユキ》し道なり○川瀬道《カハセノミチ》とは舟より葬《ハフ》り去《ユキ》し遺なり【海川にもたゞ道と云(フ)例|既《サキ》に往々《ヲリヲリ》いへりき】○見者不怜毛《ミレハサフシモ》は此(ノ)河水を觀《ミ》て念へるにて逝《ユク》水の如《コト》はかなき人の上《ウヘ》やとなり三に物部能八十氏河乃阿白木爾不知代經浪乃邊白不母《モヽノフノヤソウチカハノアシロキニイサヨフナミノユクヘシラスモ》 世間乎(180)何物爾將譬旦開榜去師舶之跡無如《ヨノナカヲナニヽタトヘムアサヒラキコキニシフネノアトナキカコト》七に往川之過去人之《ユクカハノスキニシヒトノ》九に徃水之過去妹之《ユクミヅノスキニシイモカ》十五に由久美都能可敝良奴其等久云々安刀毛奈吉與能比登爾之立云々十九に逝水能登麻良奴其等久常毛奈久宇都呂布見者云々これらをも思(フ)へし
 
219 天數凡津子之相日於保爾見敷者今叙悔《ソラカソフオホツノコカアヘルヒニオホニミシカハイマソクヤシキ》
 
冠辭考(ニ)云(ク)天數《ソラカソフ》凡《オホ》と續(ク)る意(ロ)は暗算《ソラカソヘ》の大凡《オホヨソ》なる由《ヨシ》なり○於保爾《オホニ》は髣髴《オホ》になり
 
讃岐狹岑島《サヌキノサミネノシマニ》視《ミテ》2石中死人《イソノナカノシニヒトヲ》1柿(ノ)本(ノ)朝臣人麿(ノ)作歌一首并短歌
 
代近記(ニ)云(ク)狹岑《サミネノ》島は那珂《ナカノ》郡に在(リ)(リ)云々|然《サ》て此(ノ)題の類《タクヒ》は死者《シニヒト》に手向(ク)る哥にて彼《ソノ》心(ロ)を吊《トフ》らひ和《ナク》さめて過去《スキヌ》る古《イニシヘ》の一《ヒトツ》の禮《ワサ》なる由《ヨシ》上【新考 の 葉】に精《クハ》しく語《イヘ》り考(ヘ)合すへし
 
220 玉藻吉讃岐國者國柄加雖見不飽神柄加幾許貴寸天地日月與共滿將行神乃御面跡次來中乃水門從船浮而吾榜來者時風雲居爾吹爾奧見者跡位浪立邊見者白浪散動鯨魚取海乎恐行船乃梶引折而彼此之島者雖多名細之狹岑之島乃荒磯回爾廬作而見者波音乃茂濱邊乎敷妙乃枕爾爲而荒床自伏君之家知者往而毛將告妻知者來毛問益乎玉桙之道太爾不知欝悒久待加戀良武愛伎妻等者《タマモヨシサヌキノクニハクニカラカミレトモアカヌカミカラカコヽタタフトキアメツチヒツキトトモニタリユカムカミノミオモトツキテクルナカノミナトユフネウケテワカコキクレハトキツカセクモヰニフクニオキミレハシキナミタチヘタミレハシラナミサワクイサナトリウミヲカシコミユクフネノカチヒキヲリテヲチコチノシマハオホケトナクハシサミネノシマノアリソマニイホリテミレハナミノトノシケキハマヒヲシキタヘノマクラニナシテアラトコニコロフスキミカイヘシラハユキテモツケムツマシラハキモトハマシヲタマホコノミチタニシラスオホヽシクマチカコフラムハシキツマラハ》
 
玉藻吉《タマモヨシ》の餘《ヨ》は其《ソノ》物《モノ》を呼出《ヨヒイツ》る辭《コトハ》斯《シ》は助辭《ヤスメコトハ》なり此(ノ)事は委《クハ》しく既《サキ》に云(ヘ)り【新考 の 淺藻吉《アサモヨシ》の處(ロ)】讃岐《サヌキ》に續《ツヽ》くるは奴《ヌ》の一言《ヒトコト》に繋《カヽ》りて夏草《ナツクサ》の奴島《ヌシマ》と續《ツヽ》くるか如《コト》くぬえふす由《ヨシ》なり○讃岐國者《サヌキノクニハ》
 
己《ヨリ》下《シモノ》九句の意(ロ)は古事記に生《ウミマス》2伊豫之二名島《イヨノフタナノシマヲ》1此島者身一而有1面四1毎面有v名故伊豫國謂2愛上比賣1讃岐國謂2飯依比古1粟國謂2大宜都比賣1土左國謂2建依別1《コノシマハミヒトツニシテオモヨツアリオモコトニナアリカレイヨノクニヲエヒメトイヒサヌキノクニヲイヒヨリヒコトイヒアハノクニヲオホケツヒメトイヒトサノクニヲタケヨリワケトイフ》と見え又|面足《オモタル》と云(フ)神(ノ)名《ミナ》もあれば相通《アヒカヨ》はし言《コト》の依來《ヨリクル》隨《マヽ》に稱賛《タタ》へたる詞《コトハ》なり○中乃水門從《ナカノミナトユ》 那珂《ナカノ》郡(ノ)内《ウチ》に在《アル》へし○時風《トキツカセ》は冠辭考(ニ)云(ク)潮滿時《シホミツトキ》に吹(ク)を云(フ)六に時風應吹成奴香椎滷潮千滷爾玉藻苅而名《トキツカセフクヘクナリヌカシヒカタシホヒノカタニタマモカリテナ》七に時風吹麻久不知阿胡乃海之朝明之鹽爾玉藻苅奈《トキツカセフカマクシラニアコノウミノアサケノシホニタマモカリテナ》これら以《モテ》心得《コヽロウ》へし○雲居爾吹爾奧見者跡位浪立邊見者白浪散動《クモヰニフクニオキミレハシキナミシキタチヘタミレハシラナミサワク》は今も見《ミル》か如《コト》し跡位《シキ》は跡《フム》v位《クラヰヲ》にて天皇《オホキミ》の跡位座《シキマス》より借《カリ》たる字《モシ》○梶引折而《カチヒキヲリテ》 梶《カチ》は今《イマ》の艫《ロ》なり引折《ヒキヲル》とは榜働《コキハタ》らく形容《サマ》さて彼此之《ヲチコチノ》につゝける語勢《コトハノイキホヒ》を見(ル)へし此《コノ》一首《ウタ》の眼《マナコ》は上《カミノ》時風《トキツカセ》より此《コノ》段《クタリ》まてを一物《ヒトツノモノ》とす○名細之《ナクハシ》は細《クハシ》は美《ホメ》たる言《コト》にて直御(181)根《サミネ》の枕詞《マクラコトハ》なり猶《ナホ》此(ノ)事は既《サキ》に委《クハ》しく説《イヘ》り私(ヘ)合(ハス)へし【新考の 】
 
○荒床《アラトコニ》 此以下《コヽヨリシモ》も亦《マタ》一眼《ヒトツノマナコ》なり心(ロ)を着(ケ)て語勢《コトハ》の運《ハコ》ひを見《ミ》よ○自伏君之《コロフスキミカ》は上《カミ》 に出(ツ)○一首《ウタ》の意(ロ)は上(ミ)に云(ヘ)る如《コト》く亡者《シニヒト》の心《コヽロ》を推量《オシハカリ》て吊《トフ》らへるに就《ツキ》て其及《ソコマテ》の次第《ツイテ》に及《オヨ》へる句々なり
 
反歌
 
221 妻毛有者採而多宜麻之佐美乃山野上乃字波疑過去計良受也《ツマモアラハツミテタケマシサミノヤマヌノヘノウハキスキニケラスヤ》
 
多宜《タケ》は手擧《タケ》なり此(ノ)事は既《サキ》に精《クハ》しく説《イヘ》り考(ヘ)合(ス)へし【新考 の 】○佐美乃山《サミノヤマ》は狹岑乃山《サミネノヤマ》と云《イフ》を禰《ネ》と乃《ノ》と同音《オナシコヱ》の重《カサ》なれる故《カラ》に自然《オノツカ》ら佐美乃《サミノ》と云《イハ》るゝなり【然《シカ》るに前の狹岑島をも此(レ)に依(リ)てサミノ島と古(ル)く訓(メ)るは非《ヒカコト》なり又今(ノ)世にサミ島と呼《イ》ふは訛《ヨコナハリ》にて取(ル)に不足《タラス》】○野上乃宇波疑《ヌノヘノウハキ》 薺蒿《ウハキ》は物《モノ》に多《オホ》く所見《ミエ》て今(ノ)世にはよめ菜萩《ナハキ》またよめか芽子《ハキ》またたゝよめ菜《ナ》とも呼《イヒ》て摘《ツミ》てよく人《ヒト》の食《ク》ふ草《クサ》なり和名抄には莪蒿(ハ)於八木《オハキ》と有(リ)【因《チナミニ》云(ク)今(ノ)世にオハキと云(フ)名《ナ》の餅《モチヒ》あり是《コレ》本《モト》は莪蒿《オハキ》をしたるにて今《イマ》は其名《ソノナ》と實《モノ》と異《コト》なり俗説は取(ル)に足(ラ)す】然《サ》て此《コヽ》は其《ソレ》に屍《シカハネ》を比《タト》へて妻《ツマ》も有《アラ》は採《ツミ》て手擧《タケ》ましを時《トキ》過《スクル》まて採手擧《ツミタク》人《ヒト》も無き歟《カ》と其《ソノ》傍側《カタハラ》に生《オヒ》たる草《クサ》に託《ヨセ》たり然《サ》るは醜《ミニク》き死骸《シニカラタ》なれば彼《ソ》か心(ロ)に恥《ハツ》へきを察《オモ》ひて詞《コトハ》を避《サケ》たる手向《タムケ》の意《コヽロ》しらひにて是《コレ》吊《トフラヒ》の哥《ウタ》の體裁《サマ》なるそかし尚《ナホ》此(ノ)事は既《サキ》に委《クハ》しく説《イヘ》るを考合《カムカヘアハ》せて其《ソノ》旨趣《ムネ》を識シル《》へし
 
222 奧波來依荒磯乎色妙乃枕等卷而奈世流君可聞《オキツナミキヨルアリソヲシキタヘノマクラトマキテナセルキミカモ》
 
色妙乃《シキタヘノ》は上《カミ》 に出《イツ》○奈世流《ナセル》は寢有《ナセル》なり
 
柿(ノ)本(ノ)朝臣人麿在(リテ)2石見(ノ)國(ニ)1臨《》v死《スルシナムト》時自傷作歌一首
 
223 鴨山之磐根之卷有吾乎鴨不知等妹之待乍將有《カモヤマノイハネシマケルワレヲカモシラニトイモカマチツヽアラム》
 
鴨山《カモヤマ》は如何《イカヽ》あらむ熟《ヨ》く國人に問(フ)へし蓋《モ》し此(ノ)墓の知らるゝ由《ヨシ》もかな
 
柿(ノ)本(ノ)朝臣人麿|死時妻依羅娘子作歌《ミウセタルトキニソノメヨサミノヲトメノウタ》二首
 
娘子《ヲトメ》は既出《サキニイツ》【新考 の  】
 
224 且今日且今日吾待君者石水貝爾《ケフケフトワカマツキミハイシカハノカヒニ》【一云|谷爾《タニニ》】交而有登不言八毛《マシリテアリトイハスヤモ》
 
石水《イシカハ》は此《コノ》墓地名《ハカトコロノナ》にて即《スナハチ》鴨山《カモヤマ》と一(ツ)なり貝《カヒ》は峽《カヒ》の借字《カリモシ》にて山の谷《ハサマ》を云(フ)故《カレ》其處《ソコ》に葬《ハフ》れるを交而有《マシリテアリ》と云(ヘ)り然《サ》れと此處《コヽ》は海邊《ウミヘタ》にて【下に荒浪《アラナミ》に縁來玉乎《ヨリクルタマヲ》云々と作《ヨメ》る地《トコロ》なればなり】貝《カヒ》は骨《カハネ》の交《マシ》れるをも(182)兼(ヌ)然《サ》るは火葬の骨《ホネ》をば散《チ》らせはなり
 
225 直相者相不勝石川爾雲立渡禮見乍將偲
タヽノアヒハアヒモカテマシイシカハニクモタチワタレミツヽシタハム
 
雲《クモ》とは火葬の煙《ケムリ》を云(フ)
丹比眞人名闕《タチヒノマヒトナヲモラセリ》擬《ナスラヘ》2柿(ノ)本(ノ)朝臣人麿之意(ロニ)1報歌《コタヘタルウタ》一首
 
依羅娘子《ヨサミノヲトメ》か哥の報《コタヘ》なり
 
226 荒浪爾縁來玉乎枕爾置吾此間有跡誰將告《アラナミニヨリクルタマヲマクラニオキワレコヽナリトタレカツケマシ》
 
京《ミヤコ》に歸《カヘ》らむ時《トキ》の家裹《イヘツト》にと玉を拾《ヒロ》ひて吾(カ)枕(ラ)邊(カ)に置乍《オキツヽ》如此《カク》此處《コヽ》に命終焉《イノチヲハリヌ》とも誰(レ)かは妹に告(ケ)知らせむそとなり此(ノ)墓|地《トコロ》は海邊《ウミヘタ》なれはなり玉とは鮑玉《アハヒタマ》貝《カヒ》石《イシ》なとをも云(フ)なり
 
或本歌《アルマキノウタ》曰
 
227 天離夷之荒野爾君乎置而念乍有者生刀毛無《アマサカルヒナノアラヌニキミヲオキテモヒツヽアレハイケルトモナシ》
 
生刀毛無《イケルトモナシ》は上(ミ) に云(ヘ)る如《コト》く利心《トコヽロ》の失《ウセ》たるなり
 
右(ノ)一首歌作者未詳但古本以此歌載於次也《ウタヨミヒトサタカナラスタヽシフルキマキニコノウタヲコノツキテニノセタリ》
 
寧樂《ナラノ》宮
 
和銅(ノ)四年歳次辛亥|河邊宮人姫島松原《カハヘノミヤヒトヒメシマノマツハラニ》見(テ)2孃子屍《オトメノシニカハネヲ》1悲嘆作歌二首
 
河邊宮人《カハヘノミヤヒト》は詳《サタカ》ならす蓋《モシ》くは河邊東人《カハヘノアツマト》には非《アラ》ぬ歟《カ》此(ノ)人は八(ノ)卷天平(ノ)十一年十月皇后宮(ノ)維摩講(ノ)音樂の時《ヲリ》に歌子《ウタヒト》と有(リ)【和銅(ノ)四年より二十九年】又九(ノ)卷にも天平勝寶二年十月五日の處(ロ)にも此(ノ)
人|所見《ミエ》たり然《サ》れと決難《サタメカタ》し此《コ》はたゝ試《コヽロミ》に云(フ)なり姫島(ノ)松原は攝津(ノ)國|西成《ニシナリノ》郡に在(リ)
 
228 妹之名者千代爾將流姫島之子松之末爾蘿生萬代爾《イモカナハチヨニナカレムヒメシマノコマツカウレニコケムスマテニ》
 
上古《イニシヘ》は名の高く遠く所聞《キコユ》るを榮《サカエ》と爲《セ》る故《ユヱ》に如是《カク讃美《ホメ》て靈《タマ》を慰《ナクサ》め吊《トフ》らへる物なり此(ノ)事は既《サキ》に徃々《ヲリ/\》説《イヘ》りき
 
229 難波方鹽干勿有曾禰沈之妹之光儀乎見卷苦流思母《ナニハカタシホヒナアリソネシツミニシイモカスカタヲミマククルシモ》
 
難波方は干滷《ヒカタ》を云(フ)○鹽干勿有曾禰《シホヒナアリソネ》 禰《ネ》は語《コトハ》の押《オサヘ》然《サ》て有曾禰《アリソネ》に荒磯根《アリソネ》をも籠《コメ》たり然《サ》るは潮干《シホヒ》の滷《カタ》の荒磯根《アリソネ》に此《コノ》屍《シカハネ》の在(ル)を見たればなり○沈之《シツミニシ》は心《コヽロ》と自《ミツカ》ら其(ノ)身を沈めたるなり○見卷苦流思母《ミマククルシモ》は俗《ヨニ》云(フ)氣の毒さにて死者《シニヒト》の孃子《ヲトメ》か情《コヽロ》には醜《》き體《ミニクサマ》を人に恥(ツ)へけれは其(ノ)心を推察《オシハカ》りてなり
 
靈龜元年歳次乙卯秋九月|志貴親王薨時作歌《シキノミコカムサリマシヽトキノウタ》一首併短歌
 
志貴(ノ)親王は天武天皇の皇子なり然《サ》て此(ノ)の皇子の薨の年月は紀に漏《モレ》たるを此《コヽ》に記有《シルセル》最《イト》喜《ウレ》しき事なり然《シカ》るを(183)古來|何等《ナニラ》の考(ヘ)も無く此(レ)を彼《カ》の天智天皇の皇子の志貴(ノ)親王そと人皆(ナ)思(モ)有《ヘル》故《カラ》に續紀に靈龜(ノ)二年八月甲寅二品志貴(ノ)親王薨云々天智天皇第七之皇子也と有(ル)に年月|符合《カナ》はぬを以(テ)妾《ミタリ》に此(ノ)集を誤(リ)と定(ム)むるは如何《イカ》なる事そや
 
230 梓弓手取持而丈夫之得物矢手挿立向高圓山春野燒野火登見左右燎火乎何如問者玉桙之遺來人乃泣涙※[雨/沛]霖爾落者白妙之衣※[泥/土]漬而立留吾爾語久何鴨本名言聞者泣耳師所哭語者心曾痛天皇之神之御子之御駕之手火之光曾幾許照而有《アツサユミテニトリモチテマスラヲノサツヤタハサミタチムカフタカマトヤマニハルヌヤクヌヒトミルマテモユルヒヲイカニトトヘハタマホコノミチクルヒトノナクナミタヒサメニフレハシロタヘノコロモヒツチテタチトマリワレニカタラクナニシカモモトナイヘルキケハネノミシナカユカタレハコヽロソイタキオホキミノカミノミコノイテマシノタヒノヒカリソコヽタテリタル》
アヅサユミヨリマトタカマトカスカノヒサメ
梓弓以《》下五句は的《》の序○高圓《》は春日《》内(チニ)在(リ)○※[雨/沛]霖《ヒサメ》は古事記傳(ニ)【廿八の廿五葉】云(ク)氷雨《ヒサメ》にて氷《ヒ》の零《フル》を謂(フ)を後には大雨を云(フ)事にも成(リ)り云々|猶《ナホ》彼《ソコ》に委《クハ》し披閲《ヒラキミ》て知(ル)へし○白妙之《シロタヘノ》は御喪《ミモ》の素布なり○本名《モトナ》は黙止也《モタナリ》にて今(ノ)俗言《ヨノコト》にムダナ事と云(フ)是(レ)なり然《サ》れは無益と云(フ)意(ロ)にも通《カヨ》へり三に如是故爾不見跡云物乎樂波乃舊都乎令見乍本名《カクユヱニミシトイフモノヲサヽナミノフルキミヤコヲミセツヽモトナ》四に不相見者不戀有益乎妹乎見而本名如此耳戀者奈河將爲《アヒミスハコヒサラマシヲイモヲミテモトナカクノミコヒハイカニセム》四に不相念人乎也本名白細之袖漬左右二哭耳四泣裳《アヒオモハヌヒトヲヤモトナシロタヘノソテヒツマテニネノミシナクモ》 狹夜中爾友喚千鳥物念跡和備居時二鳴乍本名《サヨナカニトモヨフチトリモノモフトワヒヲルトキニナキツヽモトナ》 如是許本名四戀者古郷爾此同期呂毛有勝益士《カクハカリモトナシコヒハフルサトニコノツキコロモアリカテマシヲ》八に玉蜻※[虫+廷]髣髴所見而別去者毛葉奈也戀牟相時麻而波《カキロヒノホノカニミエテワカレナハモトナヤコヒムアフトキマテハ》十に相不念妹哉本名菅根之長春日乎念晩牟《アヒオモハヌイモヲヤモトナスカノネノナカキハルヒヲオモヒクラサム》 黙然毛將有時母鳴奈武目晩乃物念時爾鳴管本名《モタモアラムトキモナカナムヒクラシノモノオモフトキニナキツヽモトナ》………………………………………………………………無心秋月夜之物念跡寢不所宿照乍本名《コヽロナキアキノツクヨノモノモフトイノネラエヌニテリツヽモトナ》 咲友不知師有者黙然將有此秋芽子乎令視管本無《サキヌトモシラスシアラハモタモアラムコノアキハキヲミセツヽモトナ》 蟋蟀之吾床隔爾鳴乍本名起居管君爾戀爾宿不勝爾《コホロキノワカトコノヘニナキツヽモトナオキヰツヽキミニコフルニイネカテナクニ》十一に何爲命本名永欲爲雖生吾念妹安不相《ナニセムニイノチヲモトナナカクホリセムイケリトモワカオモフイモニヤスクアハナクニ》 今更君之手枕卷宿米也吾紐緒乃解都追本名《イマサラニキミカタマクラマキネメヤワカヒモノヲノトケツヽモトナ》十二に吾妹子之咲眉引面影二懸而本名所念可毛《ワキモコカヱメルマヨヒキオモカケニカヽリテモトナオモホユルカモ》 紫帶之結毛解毛不見本名也妹爾戀度南《ムラサキノオヒノムスヒモトキモミスモトナヤイモニコヒワタリナム》葦邊往鴨之羽音之音耳聞管本名戀渡鴨《アシヘユクカモノハオトノオトノミニキヽツヽモトナコヒワタルカモ》 浦毛無去之君故朝旦本名烏戀相跡者無杼《ウラモナクイニシキミユヱアサナサナモトナソコフルアフトハナケト》 十三に吾戀流千重乃一重母人不令知本名也戀牟氣之緒爾爲而《ワカコフルチヘノヒトヘモヒトシレスモトナヤコヒムイキノヲニシテ》十七に佐刀知加久伎美我奈里那婆古非米也等母登奈於毛比此安連曾久夜思伎《サトチカクキミカナリナハコヒメヤトモトナオモヒシアレソクヤシキ》 麻都能波奈花可愛爾之毛和我勢故我於母敝良奈久爾母登奈佐吉都追《マツノハナハナカスニシモワカセコカオモヘラナクニモトナサキツヽ》 佐家理等母之良受之安良婆母太毛安良牟己能夜萬夫吉乎美勢追都母等奈《サケリトモシラスシアラハモタモアラムコノヤマフキヲミセツヽモトナ》 奴婆多麻乃(184)伊米爾波母等奈安比見禮騰多太爾安良禰婆孤悲夜麻受家里《ヌハタマノイメニハモトナアヒミレトタヽニアラネハコヒヤマスケリ》これら以《モテ》知(ル)へし
 
短歌二首
 
231 高圓之野邊乃秋芽子徒開香將散見人無爾《タカマトノヌヘノアキハキイタツラニサキカチルラムミルヒトナシニ》
 
此地《コヽ》に宮《ミヤ》在《ア》れはなり
 
232 御笠山野邊往道己伎太雲繁荒有可久爾有勿國《ミカサヤマヌヘユクミチハコキタクモシヽニアレタルカ》
 
己伎太雲《コキタクモ》は許多《コヽタク》もなり
 
右(ノ)歌笠(ノ)朝臣金村(ノ)歌集(ニ)出
 
或(ル)本(ノ)歌曰《ウタ》
 
233 高圓之野邊乃秋芽子勿散禰君之形見爾見管思奴幡武《タカマトノヌヘノアキハキナチリソネキミカカタミニミツヽシヌハム》
 
234 三笠山野邊從遊久道己伎太久母荒爾計類鴨久爾有名國《ミカサヤマヌヘユユクミチコキタクモアレニケルカモヒサナラナクニ》
 
萬葉集卷第二終
 
(185)萬葉集新考 八
 
萬葉集卷第三
 雜歌
天皇御遊雷岳之時柿本朝臣人麻呂作歌一首
天皇賜志斐嫗御歌一首
志斐嫗奉和歌一首
長忌寸意吉麻呂應詔歌一首
長皇子遊獵路池之時柿本朝臣人麻呂作歌一首并短歌
或本反歌一首
弓削皇子遊吉野之時御歌一首
春日王奉和歌一首
或本歌一首
長田王被遣筑紫渡水島之時歌二首
石川大夫和歌一首 名闕
又長田王作歌一首
柿本朝臣人麻呂※[覊の馬が奇]旅歌八首
鴨君足人香具山歌一首并短歌
或本歌一首
柿本朝臣人麻呂獻新田部皇子歌一首并短歌
刑部垂麻呂從近江國上來時作歌一首
柿本朝臣人麻呂從近江國上來時至宇治河邊作歌一首
長忌寸奧麻呂歌一首
柿本朝臣人麻呂歌一首
志貴皇子御歌一首
長屋王故郷歌一首
阿倍女郎屋部坂歌一首
高市連黒人羈旅歌八首
石川少郎歌一首 名(ヲ)曰2君子(ト)1
高市連黒人歌二首
黒人妻答歌一首
春日藏首老歌一首
高市連黒人歌一首
春日藏首老歌一首
丹比眞人笠麻呂往紀伊國超勢能山時作歌一首
春日藏首老即和歌一首
(186)幸志賀之時石上卿作歌一首
穂積朝臣老歌一首
間人宿禰大浦初月歌二首
小由事主勢能山歌一首
角兄麻呂歌四首【角は〓の誤】
田口益人朝臣任上野國司時至駿河國清見埼作歌二首
弁基歌一首 春日藏首老之法師名也
大納言大伴卿歌一首 未詳
長屋王駐馬寧樂山作歌二百
中納言安倍廣庭卿歌一首
柿本朝臣人麻呂下筑紫國時海路作歌一首
高市連黒人近江舊都歌一首
幸伊勢國之時安貴王作歌一首
博通法師牲紀伊國見三穗石室作歌三首
門部王詠東市中木作歌一首 後賜姓大原眞人氏也
※[木+安]作村主益人從豊前國上京之時作歌一首
式部卿藤原宇合卿被遣改造難波堵之時作歌一首
土理宜令歌一首
波多朝臣少足歌一首
暮春之月幸芳野離宮之時中納言大伴卿奉勅作歌二首并短歌
山部宿禰赤人望不盡山歌一首并短歌
詠不盡山歌一首并短歌 笠朝臣金村歌中之出【本文には高橋連蟲麻呂之歌中出焉云々とあり此目録は誤なるべし又之字も村之下に有て金村之歌中出と有けむを差誤《アヤマリ》たるにこそ】
山部宿禰赤人至伊豫温泉作首一首并短歌
登神岳山部宿禰赤人作歌一首并短歌
門部王在難波見漁父燭光作歌一首 後賜2姓大原眞人氏1也
或娘子等以※[果/衣]乾鰒贈通觀僧戯請咒願之時通觀作歌一首
大宰少貳小野老朝臣歌一首
防人司佑大伴四綱歌
帥大伴卿歌五首
沙彌滿誓詠綿歌一首 造筑紫觀世音寺別當焉俗姓笠朝臣麻呂也
山上憶良臣罷宴歌一首
大宰帥大伴卿讃酒歌十三首
(187)滿誓沙彌歌一首
若湯座王歌一首
釋通觀歌一首
日置少老歌一首
生石村主眞人歌一首
上古麻呂歌一首
山部宿禰赤人歌六首
或本歌一首
笠朝臣金村鹽津山作歌二首
角鹿津乘船之時笠朝臣金村作歌一首并短歌
石上大夫歌一首
和歌一首
安倍廣庭卿歌一首
出雲守門部王思京師歌一首 後賜2姓大原眞人氏1也
山部宿禰赤人登春日野作歌一首并短歌
石上乙麻呂朝臣歌一首
湯原王芳野作歌一首
湯原王宴席歌二首
山部宿禰赤人詠故大政大臣藤原家之山池作歌一首
大伴坂上郎女祭神歌一首并短歌
筑紫娘子贈行旅歌一首 娘子字曰兒島
登筑波岳丹比眞人國人作歌一首并短歌
山部宿禰赤人歌一首
仙柘枝歌三首
羈旅歌一首并短歌
 譬喩歌
紀皇女御歌一首
造筑紫觀世音寺別當沙彌滿誓歌一首
大宰大監大伴宿禰百代梅歌一首
滿誓沙彌月歌一首
金明軍歌一首
笠女郎贈大伴宿禰家持歌三首
藤原朝臣八束梅歌二首
大伴宿禰駿河麻呂梅歌一首
大伴坂上郎女宴親族之日吟歌一首
大伴宿禰駿河麻呂即和歌一首
(188)大伴宿禰家持贈同坂上家之大孃歌一首
娘子報佐伯宿禰赤麻呂贈歌一首
佐伯宿禰赤麻呂更贈歌一首
娘子復報歌一首
大伴宿禰駿河麻呂娉同坂上家之二孃歌一首
大伴宿禰家持贈同坂上家之大孃歌一首
大伴宿禰駿河麻呂歌一首
大伴坂上郎女橘歌一首
和歌一首
市原王歌一首
大綱公人主宴吟歌一首
大伴宿禰家持歌一首
 挽歌
上宮聖徳皇子出題竹原井之時見龍田山死人悲傷御作歌一首【
小墾田《ヲハリタノ》宮御宇天皇代】
大津皇子被死之時磐余池陂流涕御作歌一首
河内王葬豐前國鏡山之時手持女王作歌三首
石田王卒之時丹生王作歌一首并短歌
同石田王卒之時山前王哀傷作歌一首
或本反歌二首
柿本朝臣人麻呂見香具山屍悲慟作歌一首
田口廣麻呂死之時刑部垂麻呂作歌一首
土形娘子火葬泊瀬山時柿本朝臣人麻呂作歌一首
溺死出雲娘子火葬吉野時柿本朝臣人麻呂作歌二首
過勝鹿眞間娘子墓時山部宿禰赤人作歌一首并短歌
和銅四年辛亥河邊宮人見姫島松原美人屍哀慟作歌四首
神龜五年戊辰大宰帥大伴卿思戀故人歌三首
神龜六年己巳左大臣長屋王賜死之後倉橋部女王作歌一首
悲傷膳部王歌一首
天平元年己巳攝津國班田史生大部龍麻呂自經死之時判官大伴宿禰三中作歌一首并短歌
天平二年庚午冬十二月大宰帥大伴卿向京上道之時作歌五首
還入故卿家即作歌三首
天平三年辛未秋七月大納言大伴卿薨之時作歌六首
天平七年乙亥大伴坂上郎女悲嘆尼理願死去作歌一首并短歌
(189)天平十一年己卯夏六月大伴宿禰家持悲傷亡妾作歌一首
弟大伴宿禰書持即和歌一首
又家持見砌上瞿麥花作歌一首
移朔而後悲嘆秋風家持作歌一首
又家持作家一首并短歌
悲緒未息更作歌五首
天平十六年甲申春二月安積皇子薨之時内舍人大伴宿禰家持作歌六首
悲傷死妻高橋朝臣作歌一首并短歌
 
雜歌
 
天皇|御2遊《イテマセル》雷岳《カミヲカニ》1之時(ニ)柿(ノ)本(ノ)朝臣人麻呂作歌一首
 
持統天皇なり雷岳《カミヲカ》は二(ノ)卷(ノ)歌に神岳《カミヲカ》と有(ル)と一(ツ)處にて飛鳥《アスカ》の神名備《カムナヒ》を云(ヘ)り大和國高市(ノ)郡にいま雷士《イカツチ》村と云(フ)處(ロ)これなり猶|此地《コヽ》の事は上《カミ》【新考七の二十四葉】に委《クハシ》く云(ヘ)りき
 
235 皇者神二四座着天雲之雷之上爾廬爲流鴨《オホキミハカミニシマセハアマクモノイカツチノウヘニイホリセルカモ》
 
右或(ル)本(ニ)云(ク)獻2忍壁《オサカヘノ》皇子(ニ)1也其(ノ)歌(ニ)曰(ク)王神座着雲隱伊加土山爾宮敷座《オホキミハカミニシマセハクモカクルイカツチヤマニミヤシキイマス》
 
廬《イホリ》は家居《イヘヲリ》の切《ツヽマ》れる言《コト》なりさるはむね/\しき眞《マコト》の家ならねと假《カリ》にたゝ家の状《サマ》して居(ル)を云りされは旅の廬《イホリ》とも又|秋田守廬《アキタモルイホリ》とも云(ヒ)て皆いと淺はかなることのさまにのみ云り是《コ》は猶|既《サキ》に委《クハシ》く云り【新考二の五十六のひら】披見《ヒラキミル》へし故《カレ》此《コヽ》も行宮《カリミヤ》を仕へ奉《マツ》りましまさせて下方《シモヘ》を望《ミ》はるかし賜へることを云々と云るなり
 
天皇賜(ヘル)2志斐嫗《シヒノオムナニ》1御歌一首
 
同(シ)天皇なり志斐(ノ)嫗は志斐は此(ノ)人の姓《ウチ》にや志斐姓は物に見ゆ嫗は和名抄に説文(ニ)云(ク)嫗(ハ)老女(ノ)之稱(ナリ)也和名|於無奈《オムナ》とあり續紀に故左大臣正二位多治比眞人島之妻家原(ノ)音那《オムナ》贈右大臣從二位大伴宿禰御行之妻紀朝臣|音那《オムナ》これらも嫗《オムナ》なりさて此(ノ)人の傳《コト》は詳《サタカ》ならす
 
236 不聽跡雖云強流志斐能我強語比者不聞而朕戀爾家里《イナトイヘトシヒルシヒノカシヒカタリコノコロキカステアレコヒニケリ》
 
不聽《イナ》とはうなつき許諾《ユル》さゝる辭《コトハ》なり俗言《サトヒコト》には此(レ)をイヤと云り【イヤジヤまたイヤ/\などいへり】二に水篶苅信濃乃眞弓吾引者宇眞人佐備而不言常將言可聞《ミスヽカルシナヌノマユミワカヒカハウマヒトサヒテイナトイハムカモ》四に不欲常云者將強哉吾背《イナトイハヽシヒメヤワカセ》云々また神左夫跡不欲者不有《カムサブトイナニハアラス》云々十六に否藻諾藻隨欲可赦《イナモウモホリスルマヽニユルスヘキ》云々六帖に【ひとつま】あしの屋のこやのしの屋のしのひ(190)にもいな/\まろは人のつまなりなとあり皆うけひかぬことにのみ云り故《カレ》こゝも嫗《オムナ》の物語《モノカタリ》を聞厭《キヽイト》ひ賜ひていな/\朕《アレ》はきかしと否《イナ》み賜へるにそありける○強流志斐能我《シヒルシヒノカ》 強流《シヒル》は志比流《シヒル》と訓《ヨム》へし【志布流《シフル》と訓(ム)はわろし】志斐能我《シヒノカ》は志斐根之《シヒネカ》なり根《ネ》は男女に亙《ワタ》れる美稱《タヽヘナ》にて例多し集中に人を尊《タフト》み親《シタシ》みて名根《ナネ》また妹名根《イモナネ》とも云るその根《ネ》を調《シラヘ》に依(リ)て能《ノ》と云るものなり十四【上野國(ノ)歌】に此能具禮爾宇須比乃夜麻乎古由流日波勢奈能我素低母佐夜爾布良思都《ヒノクレニウスヒノヤマヲコユルヒハセナノカソテモサヤニフラシツ》こは兄名根之袖《セナネカソテ》も云々なり十八に之奈射可流故之能吉美能等可久之許曾楊奈疑可豆良枳多努之久安蘇婆米《シナサカルコシノキミノトカクシコソヤナキカツラキタヌシクアソハメ》こは君根《キミネ》と云々なりこれらの例を以知(リ)ぬへし又十四に安須可河泊之多爾其禮留乎之良受思天勢奈那登布多理左宿而久也思母《アスカカハシタニコレルヲシラスシテセナヽトフタリサネテクヤシモ》これも兄名根《セナネ》と二人《フタリ》云々なり又|妹能等《イモノラ》とも妹奈呂《イモナロ》とも云る言《コト》あるも同く妹根等《イモネラ》なるにても知(リ)ねかし○一首《ヒトウタ》の意《コヽロ》は此(ノ)嫗の日ころ大御側《オホミカタハラ》に侍《サモ》らはて語り聞え慰《ナクサ》め奉《マツ》らさるを不樂《サフ》しく思《オモ》ほされて疾《ト》くはや參來《マヰコ》と詔《ノタマ》ふ意(ロ)なるを志斐《シヒ》と云る名によせて強《シヒ》といふ言《コト》を疊《カサ》ねて戯《タハフ》れて詔《ノタマ》ひ遣《ヤリ》たるなり志斐《シヒノ》嫗いかなりける人にか
 
志斐(ノ)嫗|奉《マツレル》v和《コタヘ》歌一首 嫗(ノ)名(ハ)未詳《サタカナラス》
 
237 不聽雖謂話禮話禮常詔許曾志斐伊波奏強話登言《イナトイヘトカタレカタレトノラセコソシヒイハマヲセシヒカタリトイフ》
 
不聽雖謂《イナトイヘト》は大御歌に不聽跡雖云《イナトイヘト》云々と詔《ノタマ》へるに和《コタ》へ奉《マツ》りて勅詔《ミコトノリ》の如《コト》くにはあらす己《オノレ》こそ不聽《イナミ》み奏《マヲ》しつるを話《カタ》れ/\と強《シヒ》させ賜へるにこそあれさるを反《カヘ》さまに己(レ)か強話《シヒカタリ》と詔《ノタマ》へるこそはあやしけれとなり○詔許曾《ノラセコソ》は詔賜《ノリタマ》へれはこそなり十一に早人名負夜音灼然君名謂嬬恃《ハヤヒトノナニオフヨコヱイチシロクキミカナノラセツマトタノマム》なとあり古言《フルコト》の格《サマ》なり○志斐伊波奏《シヒイハマヲセ》 伊《イ》は凡《スヘ》て言《コト》の勢《イキホヒ》を助《タスク》る處(ロ)にのみ云り【たゞ何となき助辭には非ず】さるからに事を強《ツヨ》むるにも又意(ロ)を強むるにも又|切《タシカ》に紛《マキ》るゝこと無らしむるにも又|誰人《タレヒト》はと局《カキ》りたるにも通《カヨ》ひて聞ゆる辭なり但し言《コトハ》の上《カミ》に置(ケ)るは伊去《イユク》伊立《イタツ》伊隱《イカクル》伊取《イトル》伊卷《イマク》なとの如く去《ユ》く立《タ》つ隱《カク》る取《ト》る卷《マ》くなと云る言の主《ムネ》と大事なる處(ロ)なり又|言《コトハ》の下に置(ケ)るは此(ノ)卷の下に玉緒乃不絶射妹跡結而石《タマノヲノタエシイイモトムスヒテシ》云々七に向岳乃若楓木下枝取花待伊間爾嘆鶴鴨《ムカツヲノワカカツラノキシヅエトリハナマツイマニナケキツルカモ》十に青柳之絲乃細紗春風爾不亂伊間爾令視子裳欲得《アヲヤキノイトノホソサヲハルカセニミタレヌイマニミセムコモカモ》又續紀十七の詔辭に云々|是以王多知大臣乃子等治賜伊自天皇朝爾仕奉利娑婆爾仕奉爾波可在《コヽヲモテオホキミタチオホオオミノコトモヲサメタマフイシスメラカミカトニツカヘマツリサバニツカヘマツルニハアルヘシ》また是以子(191)波祖乃心成伊自子爾波可在《コヽヲモテコハオヤノコヽロナスイシコニハアルヘシ》また三十の詔辭に此乎持伊波※[禾+爾]乎致之捨伊方謗乎招都《コレヲタモツイハホマレヲイタシスツルイハソシリヲマネキツ》なとありてこれらの伊は主《ムネ》と其(ノ)事を重《オモ》みする處なりまた廿八の詔辭に朕(カ)徳|伊《イ》云々これも同し又人(ノ)名の下に屬《ツク》るは繼體紀の歌に毛野《ケナ》の稚子伊《ワクコイ》續紀十の詔辭に藤原(ノ)朝臣麻呂|等《ラ》伊十七の詔辭に百濟王敬福伊《クタラノコキシキヤウフクイ》二十の詔辭に古《コ》麻呂|等《ラ》伊廿五の詔辭に仲麻呂伊また國王伊廿六の詔辭に和氣《ワケ》伊道鏡伊廿七の詔辭に此(ノ)二禅師|等《ラ》伊三十の詔辭に法均伊四十の詔辭に紀(ノ)朝臣|古佐美等《コサミラ》伊續後紀十二の詔辭に伴健岑《トモノコハミネ》伊なとあり此(ノ)集四に紀(ノ)關守伊九に兎原壯士《ウナヒヲトコ》伊十二に家有《イヘナル》妹伊などもありこれらの伊は誰(レ)はと功《タシカ》に其(ノ)人を名さして云る處なりされは此《コヽ》のも志斐|己者《オノレハ》と言《コトハ》に勢(ヒ)を加《ソヘ》たるなり外の例と同しことなり○強話登言《シヒカタリトイフ》は然《シカ》あるものを強話《シヒカタリ》と詔《ノタマ》へるよと心得難く異《アヤ》しみ不審《イフカ》るよしなり○一首の意は右に云るか如し
 
長(ノ)忌寸意吉麻呂應v詔(ニ)歌一首
 
此(ノ)人は既《ハヤ》く出たり文武紀に即位三年正月幸(ス)2難波(ノ)宮(ニ)1また慶雲三年九月行2幸(ス)2難波(ニ)1とある此(ノ)兩度《フタタヒ》のうち供奉《ミトモ》にて難波(ノ)宮にて作《ヨミ》て獻《タテマツ》れるにや
 
238 大宮之内二手所聞網引爲跡網子調流海人之呼聲《オホミヤノウチマテキコユアヒキストアコトヽノフルアマノヨヒコヱ》
 
右一首
 
二手《マテ》と書るよしは上に見ゆ【新考四の二十三葉】○網子《アコ》は田を佃《ツク》る者《モノ》を田子と云か如く網《アミ》を引(ク)者を云る稱《ナ》なり○海人《アマ》は名義《ナノコヽロ》網部《アミヘ》か(《(貼紙)》飯田武郷云古事記明宮或高津官段大山守命なとの邊に定海人山部伊勢部といへる處あり山部伊勢部とある中に海人部とあらぬは海人《アマ》の名義網部なる故《カラ》なるへし)○一首の意(ロ)は倭《ヤマト》にて聞ならはぬ海人《アマ》の聲をしも内裡《オホウチ》にて聞くことの珍《メツ》らしさよとなり二手《マテ》を味《アチ》はふへし
 
長(ノ)皇子|遊《イテマシヽ》2獵路《カリチノ》池(ニ)1之時(ニ)柿(ノ)本(ノ)朝臣人麻呂作歌一首并短歌
 
冠辭考に獵路《カリチノ》池は大和國高市(ノ)郡|輕《カルノ》池のことなるへし此處《コヽ》は輕《カルノ》里へ通《カヨ》ふ路《ミチ》なれは輕路《カリチ》とも云(フ)なるへしとあり
 
239 八隅知之吾大王高光吾日乃皇子乃馬並而三獵立流弱薦乎獵路乃小野爾十六社者伊波比拜目鶉己曾伊波比回禮四時自物伊波比拜鶉成伊波比毛等保理恐等仕奉而久堅乃天見如久眞十鏡仰而雖見春草之益目頬四寸吾於富吉美可聞《ヤスミシヽワコオホキミタカヒカルワカヒノミコノウマナメテミカリタヽセルワカコモヲカリチノヲヌニシヽコソハイハヒヲロカメウツラコソイハヒモトホレシヽシモノイハヒヲロカミウツラナスイハヒモトホリカシコシトツカヘマツリテヒサカタノアメミルゴトクマソカヽミアフキテミレトハルクサノイヤメツラシキワコオホキミカモ》
 
(192)弱薦乎《ワカコモヲ》は苅《カリ》とつゝく枕詞なりさて此《コヽ》に弱薦《ワカコモ》と云(ヒ)末は春草《ハルクサ》と云るを以思ふに此(ノ)時は春なりけらし○獵路乃小野爾《カリチノヲヌニ》 小《ヲ》は美稱《タヽヘナ》にて小山《ヲヤマ》小河《ヲカハ》小國《ヲクニ》小里《ヲサト》なとの例《タクヒ》なり是等《コレラ》皆《ミナ》ちひさきよしにあらす大泊瀬《オホハツセ》を小泊瀬《ヲハツセ》とも云(ヒ)大日枝《オホヒエ》を小日枝《ヲヒエ》とも云か如く物は凡《スヘ》て大(キ)なるを以も稱《タヽ》へ又|小《チヒサ》きをも愛《メテ》て美《ホ》むへければ其(ノ)意(ロ)より出たる美稱《タヽヘナ》なり○十六社者伊波比拜目《シシコソハイハヒヲロカメ》 伊《イ》は發語なり波比《ハヒ》は匍匐《ハヒ》なり拜《ヲロカム》は折屈《ヲレカヽム》の約《ツヽマリ》にて畏《カシコマ》りて侍《サモラ》ふ者《モノ》の有状《アリサマ》なるを鹿自物《シヽシモノ》膝折伏《ヒサヲリフセ》とも云(ヒ)て此(ノ)物は然《シカ》して居(レ)はかく云り○鶉己曾伊波比回禮《ウツラコソイハヒモトホレ》 伊波比《イハヒ》は右の如し回《モトホル》は纏《マツハル》と一(ツ)言なり此(ノ)鳥は草中《クサナカ》を腹《ハラ》はひつゝまつはりありくものなればかく云り〇四時自物《シヽシモノ》は鹿如物《シヽシクモノ》にて鹿《シヽ》の如《コトク》なる物なり○鶉成《ウツラナス》如《ナス》なり○眞十鏡《マソカヽミ》は眞澄鏡《マスミカヽミ》にて明(ラカ)なる鏡を云(フ)こは見(ル)の枕詞なり
 
反歌一首
 
240 久堅乃天歸月乎網爾刺我大王者盖爾爲有《ヒサカタノアメユクツキヲツヌニサシワコオホキミハキヌカサニセリ》
 
網は綱の誤(リ)にて華盖《キヌカサ》の裏《ウラ》に引延《ヒキハヘ》たる綱《ツナ》を云り十九【天平勝寶四年十一月二十五日新甞會(ノ)肆宴(ニ)應v詔(ニ)歌】に天爾波母五百都綱波布萬代爾國所知牟等五百都都奈波布《アメニハモイホツツナハフヨロツヨニクニシラサムトイホツツナハフ》とある是(レ)も高御座《タカミクラ》の上《ウヘ》の華盖《キヌカサ》を云るにて此《コヽ》と同しさて盖《キヌカサ》を月の形《カタチ》に見て皇子を頌《コトアケ》したる歌なり
 
或(ル)本(ノ)反歌一首
 
241 皇者神爾之坐者眞木之立荒山中爾海成可聞《オホキミハカミニシマセハマキノタツアラヤマナカニウミヲナスカモ》
 
獵路《カリチノ》池のことを云り但し此(ノ)池の大(キ)なるを海に見なして
ウミナノコヽロオフミツヽマタヽ
云るにはあらす宇美《》は名義《》大水《》の約《》れる言にて廣く湛《》へたる水を云(フ)名なれは海はさらなり池沼なとにも云(フ)例なり【河は長《ナカ》るゝ水にして廣く湛《タヽ》へねば宇美と云(ハ)す】然《サ》れは此《コヽ》なる海は借宇《カリモシ》なり猶此(ノ)事は上【新考二の二十四葉】に委く云るを考合すへし
 
弓削(ノ)皇子|遊《イテマシヽ》2吉野(ニ)1時(ノ)御歌一首
 
242 瀧上之三船乃山爾居雲乃常將有等和我不念久爾《タキノウヘノミフネノヤマニヰルクモノツネニアラムトワカオモハナクニ》
 
大和志に吉野(ノ)郡御船(ノ)山(ハ)在(リ)2菜摘《ナツミ》村(ノ)東南(ニ)1望v之如v船(ノ)云々とあり一首《ミウタ》の意は雲の浮(キ)たるを看行《ミソナハ》して現身《ウツセミ》の世もかくこそはとなかめさせ給へるなりされとこの吉野の御遊《イテマシ》はしも御心やりの度《タヒ》なるへきにかくまて深くなかめさせ給へるは故《ユエ》ある御事にや有けむ仍《カレ》思ふに持統天(193)皇(ノ)御代に御繼子等《ミマヽコタチ》をは棄《キ》らひ賜へることの有しを【新考六の二十二のひらより考合すへし】また懷風藻なる葛野《カヅヌノ》王(ノ)傳に高市(ノ)皇子薨後皇大后引2王公卿士(ヲ)於禁中(ニ)1謀v立(ムコトヲ)2日嗣(ニ)1時(ニ)群臣各々挾(ミ)2私好(ヲ)1衆議紛紜(タリ)王子進(ミ)奏(シテ)曰我國家(ノ)爲v法也神代以來子孫相(ヒ)承以襲2天位(ヲ)1若(シ)兄弟相及(ホサハ)則亂從(リシテ)v此(レ)與(ラム)仰(キテ)論(セハ)2天心(ヲ)1誰(レカ)能(ク)敢(ヘテ)測(ラム)然(シテ)以2人事(ヲ)1推(ストキハ)v之聖嗣自然(ニ)定(リヌ)矣此(ノ)外(ニ)誰(カ)敢(テ)間然(セム)乎弓削(ノ)皇子在v座(ニ)欲v有(ムト)v言王子叱v之乃|止(ミタマヒヌ)皇大后|嘉《ヨミシタマフ》2其(ノ)一言定(ムルコトヲ)1v國(ヲ)云々と見えたり葛野《カツヌ》王の奏《マヲ》し給ふ意は故|日並知皇太子《ヒナメシノミコノミコト》の御子|輕《カルノ》皇子【文武】をなし奉《マツ》られむとしての論《アケツ》らひにて皇大后【持統】の御腹にたゝ一(ト)柱(ラ)の日並知(ノ)皇大子は早く薨《カムサリ》賜ひにしかは此度《コノタヒ》はいかて其(ノ)御子輕(ノ)皇子をこそはと思ほし召れけむをかく此(ノ)王の奏し給ひけれは喜《ウレ》しと思ほし又弓削(ノ)皇子は敢《アヘ》なく言消《イヒケタ》れて止(ミ)給へるなり是(レ)等《ラ》を以思ふにも當時《ソノカミ》持統天皇との大御中らひはしもそは/\しくや坐《マシ》ましけむさるからに御身《ミヽ》つからにも危《アヤフ》み給ひて此(ノ)御歌なとは有しことなるへし
 
春日(ノ)王奉v和《コタヘ》歌一首
 
文武紀に即位三年六月庚戌淨大肆春日王卒とありその御流は詳《サタカ》ならす【又四ノ卷にも同名の王あり混《マカ》ふること勿れ】
 
243 王者千歳爾麻佐武白雲毛三船乃山爾絶日安良米也《オホキミハチトセニマサムシラクモヽミフネノヤマニタユルヒアラメヤ》
 
浮(キ)たる雲すら一日《ヒトヒ》も絶ることなし況《マシ》て王《オホキミ》は千歳の御齡《ミヨハヒ》に坐《イマサ》むそやとなり
 
或本(ノ)歌一首
 
244 三吉野之三船乃山爾立雲之常將在跡我思莫苦二《ミヨシヌノミフネノヤマニタツクモノツネニアラムトアカオモハナクニ》
 
右一首柿(ノ)本(ノ)朝臣人麻呂之歌集(ニ)出(タリ)
 
人麻呂の歌集とは朝臣の作《ヨマ》れたる歌集と云にはあらす此(ノ)主の集めて記(ル)されたる古今の歌ともの集なり集中に笠(ノ)朝臣金村(ノ)歌集田邊(ノ)福《サキ》麻呂(ノ)歌集高橋(ノ)連蟲麻呂(ノ)歌集なとあるも皆然なりさる中にて此(ノ)朝臣の歌集の歌卷々にいと多かる一首《ヒトツ》も此(ノ)朝臣の作歌《ウタ》にあらす古今の歌ともなるか故《ユヱ》に大《イタ》く上《アカ》れる世の風《フリ》なるも多く又あまり古(ル)からすと見ゆるも必(ラス)此(ノ)朝臣の調《シラヘ》にはあらすよく分りて見ゆるそかし然るに萬葉を見る人いかなれはにか絶《タエ》て心つかす昔より今に至るまて人麻呂歌集を朝臣の作歌《ウタ》なりとのみ思ひて可畏《カシコ》かれと代々《ヨヽ》の勅撰集にすら人麻呂の作歌《ウタ》として載《ノセ》られたるはかりなれは況《マシ》て今(ノ)世の人(194)はしもいかにとも思ひためらはてひたふる然《シカ》のみ心得《コヽロウ》らむかしそも此(ノ)人麻呂歌集はしも古今の秀歌のかきりを集められたる物と思《オホ》えて皆いと愛痛《メテタ》く一際《ヒトキハ》秀《ヒイテ》たるものなり歌の善《ヨ》く作者の名の傳はらさるを以風調《シラヘ》の異なるをも擇《エラ》はす時代《トキヨ》の差別《ケチメ》をもたとらす此(ノ)集なる秀歌のかきりは皆人麻呂の作《ヨマ》れたる如く思へるからにいとゝしく此(ノ)主の上手の名は廣こりにたらめと凡《スヘ》て古歌には作者の知られぬも多く又其(ノ)歌は愛痛《メテタキ》を以傳はり其(ノ)人は微《イヤシ》きを以名の傳はらさる類《タクヒ》も有へく八(ノ)卷の注に右一首依2作者微(ナルニ)1不v顯(ハサ)2名字(ヲ)1とも有て漢國《モロコシ》の詩《ウタ》なとにもさる類(ヒ)多かめりさて然《シカ》歌を多く集められたるも猶身つからの學《マナヒ》の料《タメ》なるへく又|中《ナカ》にはたまたまその古歌の詞を借(リ)て用《ツカ》はれたるも見ゆるを反《カヘ》りて此(ノ)朝臣の作歌《ウタ》より採(リ)たるものゝ如くにも意得《コヽロウ》めるこそ異《アヤ》しけれ
 
長田(ノ)王被v遣2筑紫(ニ)1渡2水島(ヲ)1之時(ノ)歌二首
 
此(ノ)人は上に出【新考五の六十葉、】水島は次に云りさて筑紫に被(サレ)v遣(ハ)たることは物に見えすいかなりける度《タヒ》にか
 
245 如聞眞貴久奇母神左備居賀許禮能水島《キクカコトマコトタフトククスシクモカムサヒヲルカコレノミツシマ》
 
景行紀に十八年春三月天皇|將2向《イテマサムトシテ》京(ニ)1以|巡2狩《メクリミソナハス》筑紫(ノ)國(ヲ)1云々夏四月壬戌朔壬申日(リ)2海路《ウミツチ》1泊《ハテヽ》2於葦北(ノ)小島(ニ)1而|進食《ミシセス》時(ニ)召2山部(ノ)阿弭古之祖小左《アヒコノオヤヲヒタリヲ》1令v進《タテマツラ》2冷水《サムキミモヒヲ》1適《アヒテ》2是(ノ)時(ニ)1島中(ニ)無v水不v知2所爲《セムスヘヲ》1則仰(キテ)之|祈《ノミマヲシキ》2于|天神地祇《アマツカミクニツカミヲ》1忽(ニ)寒泉《シミツ》從(リ)2崖(ノ)傍1涌出乃酌以(テ)獻《タテマツレリ》焉|故《カレ》號其島《ソノシマヲ》曰(フナリ)2水島(トハ)1也其(ノ)泉猶今(ニ)在(リ)2水島(ノ)崖(ニ)1也五月壬辰朔從(リ)2葦北1發船《フナノリテ》到2火國(ニ)1云々と見え仙覺(カ)注に肥後(ノ)國風土記を引て云(ク)球磨《クマノ》乾《イヌヰ》七里海中(ニ)有v島稍|可《ハカリ》2七十里1名(ヲ)曰2水島(ト)1島(ニ)出2寒泉1逐(テ)v潮(ヲ)高下(ス)云々和名抄に肥後國|菊地《クヽチノ》郡水島ありさて此(ノ)歌は右の景行紀の古事を思ひて如聞《キクカコト》云々とは作《ヨマ》れたるなり
 
246 葦北乃野坂乃浦從船出爲而水島爾將去浪立莫勤《アシキタノヌサカノウラユフナテシテミツシマニユカムナミタツナユメ》
 
葦北も右の景行紀に見ゆ和名抄に肥後國葦北(ノ)郡葦北あり野坂(ノ)浦も其處《ソコ》なるへし
 
石川(ノ)大夫|和《コタフル》歌一首 名(ヲ)闕《モラセリ》
 
247 奧浪邊波雖立和我世故我三船乃登麻里瀾立目八方《オキツナミヘナミタツトモワカセコカミフネノトマリナミタヽメヤモ》
 
右今案從四位(ノ)下石川(ノ)宮麻呂(ノ)朝臣慶雲年中任2大貳(ニ)1又正五位(ノ)下石川(ノ)朝臣|吉美候《キミコ》神龜年中任2少貳1不v知3兩人誰(レカ)作2此(ノ)歌(ヲ)1焉
 
(195)續紀に慶雲二年十一月甲辰從四位(ノ)下石川(ノ)朝臣宮麻呂(ヲ)爲2大宰(ノ)大貳(ト)1とあり石川(ノ)朝臣|君子《キミコ》の神龜年中少貳に任《ナリ》しことは紀に見えすまた養老五年六月辛丑の紀に以2從四位(ノ)上石川(ノ)朝臣|石足《イソタリヲ》2爲2大宰(ノ)大貳(ト)1とも見えまた此(ノ)集四(ノ)卷六(ノ)卷に神龜五年戊辰大宰(ノ)少貳石川(ノ)足人《タリヒトノ》朝臣ともありて何《イツ》れならむ分(キ)難し
 
又長田(ノ)王作歌一首
 
248 隼人乃薩摩乃迫門乎雲居奈須遠毛吾者今日見鶴鴨《ハヤヒトノサツマノセトヲクモヰナストホクモワレハケフミツルカモ》
 
古事記傳【十六の四十一葉】云(ク)隼人《ハヤヒト》と云(フ)者《モノ》は今の大隅薩摩|二國《フタクニ》の人にて其(ノ)國人は絶《スク》れて敏捷《ハヤ》く猛勇《タケ》きか故に此(ノ)名あるなり【古言《フルコト》に猛勇《タケ》きを波夜志とも登志とも云れば波夜と云に猛勇《タケ》き意(ロ)も有(ル)なり隼(ノ)字を書(ク)ことは迅速《ハヤ》きこと此(ノ)鳥の如く又波夜夫佐てふ名も合へればなり】
景行仲哀の御世の頃《コロ》熊曾《クマソ》と云(ヒ)し者《モノ》も是(レ)にて即(チ)其(ノ)國を熊曾《クマソノ》国と云き又|其《ソ》を隼人《ハタヒトノ》國と云るは續紀二に大寶二年先(キ)v是(レヨリ)征(セシ)2薩摩(ノ)隼人(ヲ)1時云々|唱更《ハヤヒトノ》國司等【今(ノ)薩摩(ノ)國也】言(ス)云々とある唱更これ隼人《ハヤヒト》なり【拾芥抄(ノ)改名所所(ノ)部に薩摩(ノ)國元(トハ)唱更とあり職員令(ノ)隼人司(ノ)義解に隼人(ハ)者分番上下一年(ヲ)爲v限(ト)云々とある意(ロ)を以其(ノ)ころ唱更とは書たりしなり今(ノ)薩摩(ノ)國也とは續紀撰ばれし時の注なり今云(ク)史記呉王※[さんずい+鼻]傳(ノ)正義に唱更の事見ゆ】萬葉三に隼人乃薩摩乃迫門《ハヤヒトノサツマノセト》六に隼人乃瑞門《ハヤヒトノセト》なと云るも國(ノ)名なり【書紀孝徳(ノ)卷に薩摩(ノ)之|曲《クマ》右に引る續紀に薩摩(ノ)隼人萬葉に薩摩乃|迫門《セト》などある薩摩は國(ノ)名には非ず隼人(ノ)國の中の地名なり後まで薩摩(ノ)郡あれば其(ノ)あたりの名にぞ有けむ】其《ソ》を薩摩(ノ)國とは後に改められたるなり【さて隼人とは今の大隅薩摩二國の人を云る中にも隼人(ノ)國と云しは今の薩摩(ノ)國の域《トコロ》なるべし大隅は和銅六年に日向より分れたる國なればなり但し上古には薩摩までかけて日向(ノ)國とも云しかば其(ノ)中に薩摩より大隅かけてを殊に隼人(ノ)國と云しにも有べしさて國(ノ)名の薩摩と改まりしは大寶より靈龜までの間《アヒタ》なるべし其故は右に引る大寶二年の紀には唱更《ハヤヒトノ》國と有て養老元年の紀に始めて大隅薩摩二國(ノ)隼人とある此(ノ)薩摩は既に國(ノ)の名なればなり云々已上古事記田】とあるが如し○薩摩乃追門乎《サツマノセトヲ》 孝徳紀に【四年七月】被《レタル》v遣(ハサ)2大唐(ニ)1使人高田(ノ)根麻呂等於2薩摩之曲竹島之門《サツマノクマタカシマノトニ》1合v船没死《コソリテオチリヌ》云々と見え和名抄に薩摩(ノ)國出水《イツミノ》郡|勢度《セトノ》郷あり又近(キ)世の西遊記また薩摩名勝考なと云(フ)物にもいと可畏《カシコ》き潮迫《シホセ》の門《ト》なりとあり故《カレ》思ふに隼人(ノ)國の内に薩摩《サツマ》と云(フ)地《トコロ》は此《コノ》迫門《セト》あるか故に狹津回《サツマ》と云(フ)意(ロ)の名なるへし【佐渡(ノ)國も狹門《サト》にや】されは隼人(ノ)國の内の薩摩なりさて此《コノ》迫門《セト》の可是《カシコ》かることは六に隼人乃湍門乃盤母年魚走吉野之瀧爾尚不及家里《ハヤヒトノセトノイハホモアユハシルヨシヌノタキニナホシカスケリ》と有(ル)を以思へは迫門《セト》にせかれて潮《シホ》は瀧なとの如く急《ハヤ》くて浪なともいみしく高く立(チ)て遙(カ)に(196)遠くよりもいちしろくよく見え別《ワカ》る處(ロ)なるへし其(レ)を遙(カ)に望《ミ》て作《ヨマ》れたるなるへし【此處《コヽ》のこと猶よく知れる人に問(ヒ)てむ】○雲居奈須《クモヰナス》 雲居《クモヰ》とは遠方《トホキカタ》を望《ミ》れは雲の立躁《タチサワ》かす一(ツ)處(ロ)に止《トヽマ》り居《ヰ》るを云り奈須《ナス》は如《ナス》なり○遠毛吾者今日見鶴鴨《トホクモワレハケフミツルカモ》は聲《オト》にきく名所《ナトコロ》を雲居なす遙(カ)に遠くはあれとも今日こそ見つれかゝる便(リ)のついてならさりせは得《エ》見《ミ》さらましものをとなりこは水島に渡らるゝ時《ヲリ》に船より望《ミ》てやよまれけむ地理《クニカタ》を知らねは定めかたし
 
柿(ノ)本(ノ)朝臣人麻呂※[羈の馬が奇]旅(ノ)歌八首
 
249 三津埼浪矣恐隱江乃《ミツノサキナミヲカシコミコモリエノ》舟公宣|奴島爾《ヌシマニ》
 
三津は難波の御津なり上に出【新考五の三十七葉】埼《サキ》は何處《イツク》にても物の鋒《サキ》の如く突出《ツキイテ》たる處(ロ)なり○浪矣恐隱江乃《ナミヲカシコミコモリエノ》は高浪を恐み船を行《ヤリ》難くて風波《ナミカセ》の和《ナギ》ぬるまて入江に隱《コモ》り居(ル)よしを隱江《コモリエ》に云かけたるなり隱江《コモリエ》とは入(リ)隱《コモ》りたる江にて即(チ)入江のことを云○四五(ノ)句舟公は誤字なるへしいまた考(ヘ)得す○奴島爾《ヌシマニ》 淡路の野島《ヌシマ》なり下【二十一葉】に見ゆ○此(ノ)歌は西國へ下らるゝとて難波(ノ)御津より乘船《フナノリ》せられし時《ヲリ》のなるへし次々の歌にある道次《チナミ》を以|然《シカ》知らる
 
250 珠藻苅敏馬乎過夏草之野島之埼爾舟近着奴《タマモカルミヌメヲスキナツクサノヌシマノサキニフネチカツキヌ》
 
一本(ニ)云(ク)處女乎過而夏草乃野島我埼爾伊保里爲吾等者《ヲトメヲスキテナツクサノヌシマカサキニイホリスワレハ》
 
珠藻苅《タマモカル》は眼前《マノアタリ》うち見るまゝを云るなり○敏馬乎過《ミヌメヲスキ》 神名帳に攝津國|八部《ヤタヘノ》郡|※[さんずい+文]賣《ミヌメノ》神社あり【今は菟原《ウハラノ》郡に屬《ツケ》り】此處《コヽ》も名高く隱(レ)なき地《トコロ》なり○夏草之《ナツクサノ》 冠辭考に夏草のなゆると云(フ)意(ロ)に野島《ヌシマ》の努《ヌ》につゝけたるなり努《ヌ》と奈延《ナエ》とは一(ツ)言なれはなりとあり【草のなよ/\とあるを奴延草《ヌエクサ》とも云(ヒ)論語に草加(レハ)2之(レニ)風(ヲ)1必(ラス)偃《ヌエフス》などあるをも集めて思ふべしこれらみな同じ言ぞ】○野島之埼爾《ヌシマノサキニ》 次(ノ)歌に云へし○一本(ニ)云(ク)處女乎過而《ヲトメヲスキテ》九に見2菟原處女墓《ウナヒヲトメノオクツキヲ》1歌 云々《シカ/\》處女墓中爾造置壯士墓此方彼方爾造置有故縁聞而《ヲトメツカナカニツクリオキヲトコツカコナタカナタニツクリオケルユヱヨシキヽテ》云々また大和物語にも此(ノ)古事《フルコト》の段《クタリ》にが云々かのつかの名をはをとめつかとそ云ける云々とありて名高き墓のある地《トコロ》なれは處女《ヲトメ》とも此邊《コノアタリ》をはいひならひて遂(ヒ)に地《トコロノ》名の如く成(リ)來《コ》しものなるへし【今は訛《ヨコナマ》りて求馬《モトメ》と云となむ】○伊保里爲吾等者《イホリスワレハ》 伊保里《イホリ》は家居《イヘヲリ》の約《ツヽマ》りたる言にてむね/\しき眞實《マコト》の家ならて假(リ)そめなる構《カマヘ》のことなれは(197)旅宿《タヒネ》のことに云ること多かり六に河口之野邊爾廬而夜乃歴者妹之手本師所念鴨《カハクチノヌヘニイホリテヨノフレハイモカタモトシオモホユルカモ》 吾等《ワレ》と書るは凡て和禮は吾等《ワラ》於乃禮は各等《オノラ》許禮は此等《コラ》加禮は彼等《カラ》なれはなり
 
251 粟路之野島之前乃濱風爾妹之結紐吹返《アハチノヌシマノサキノハマカセニイモカムスヒシヒモフキカヘス》
 
履中紀に淡路(ノ)野島之海人《ヌシマノアマ》見え六に淡路乃野島之|海士《アマ》乃云々また攝津國風土記にも見えまた土佐日記にもぬしまといふ所を過てたなかはといふ所(ロ)を渡るなとあり○此(ノ)一首《ウタ》の語勢を見よ人麻呂の人麻呂たる處(ロ)にして他人にあらさる處なり眼を着(ク)へし
 
252 荒栲藤江之浦爾鈴寸釣白水郎跡香將見旅去吾乎《アラタヘノフチエノウラニスヽキツルアマトカミラムタヒユクワレヲ》
 
一本(ニ)云(ク)白栲乃藤江能浦爾伊射利爲流《シロタヘノフチエノウラニイサリスル》
 
荒栲《アラタヘ》は藤《フチ》の枕詞上に出【新考五の二葉】○藤江之浦《フチエノウラ》は和名抄に播磨國明石郡葛江(ハ)布知衣《フチエ》とある地なり六に【幸2於播磨國|印南《イナミ》野(ニ)1時の歌】稻見野能大海乃原笑荒妙藤井乃浦爾《イナミヌノオホミノハラノアラタヘノフチヰノウラニ》云々反歌 云々《シカ/\》藤江乃浦爾船曾動流《フチエノウラニフネソトヨメル》とあれは藤江《フチエ》藤井《フチヰ》一(ツ)處(ロ)にて印南野の邊《アタリ》なるへく印南野は賀古《カコノ》郡藤江は明石(ノ)郡なれとも相(ヒ)離れぬ地(ロ)なるへし鈴木は鱸《スヽキ》なり○一本(ニ)云(ク)白栲乃《シロタヘノ) 是(レ)も藤も枕詞なり藤布《フチヌノ》は白服《シロタヘ》なればなり。伊射利《イサリ》は冠辭考に勇魚取《イサナトリ》の約《ツヽマ》りたる言なり勇魚《イサナ》は鯨《クチラ》を云(フ)鯨は大魚なれは此(レ)を捕(ル)を主《モト》にて自餘《ホカ》の諸魚を捕をも伊射利《イサリ》と云り又|須那杼利《スナトリ》も伊《イ》の省《ハフカ》れたるにて同(シ)言なりと有(リ)
 
253 稻日野毛去過勝爾思有者心戀敷可古能島所見《イナヒヌモユキスキカテニオモヘレハコヽロコホシキカコノシマミユ》
 
一云|湖見《ミナトミユ》
 
稻日野は稻見野また印南野と同し播磨國賀古(ノ)郡にあり○去過勝爾《ユキスキカテニ》 勝《カテ》は難《カテ》なり○可古能島《カコノシマ》とは即(チ)賀古(ノ)郡を船より望《ミ》て島とは云るものなるへし【此(ノ)下に倭島《ヤマトシマ》と云るも倭(ノ)國を船よりうち見て云るなり】さて此地を可古と號《ナツ》けたるよしは應神紀【十三年細書】に見えたり○一首の意は稻日野を船よりうち見たるけしきの去過難《ユキスキカタ》く思はるゝに船の行(ク)こと速《ハヤ》くして忽《タチマチ》又《マタ》あなたさまに豫《カネ》てより見まく欲《ホ》しかりつる可古(ノ)島の見え來《ク》ることよとなり
 
254 留火之明大門入日哉榜將別家當不見《トモシヒノアカシノオトニイラムヒヤコキワカレナムイヘノアタリミス》
 
燈は夜(ル)ともして明すものなれはつゝくる枕詞なり○明大門爾《アカシノオトニ》 門《ト》は水門《ミナト》なり潮の出入る處(ロ)を云○此(ノ)歌まては西國へゆくさの船路にて作《ヨマ》れたるなり
 
(198)255 天離夷之長道從戀來者自明門倭島所見《アマサカルヒナノナカチユコヒクレハアカシノトヨリヤマトシマミユ》
 
一本(ニ)云(ク)家門當見由《ヤトノアタリミユ》
 
天離《アマサカル》は夷《ヒナ》の枕詞また夷《ヒナ》のことも既《ハヤ》く云り【新考四の七葉】長道《ナカチ》は遠道《トホミチ》なり船道《フナミチ》の遠きを云|倭島《ヤマトシマ》は倭《ヤマト》を船より望《ミ》て島と云るなり海上より見ゆる國なれは島と云むらことさもありぬへし十五に宇奈波良能於伎敝爾等毛之伊射流火波安可之弖登母世夜麻登思麻見無《ウナハラノオキヘニトモシイサルヒハアカシテトモセヤマトシマミム》此(ノ)下に名細寸稻見乃海之奧津浪千重爾隱奴山跡島根者《ナクハシキイナミノウミノオキツナミチヘニカクリヌヤマトシマネハ》なとあり○此(ノ)一首《ウタ》は歸り上《ノホ》らるゝ時《ヲリ》なり
 
256 飼飯海乃庭好有之苅薦乃亂出所見海人釣船《ケヒノウミノニハヨカルラシカリコモノミタレツルミユアマノツリフネ》
 
一本(ニ)云(ク)武庫乃海舶爾波有之伊射里爲流海部乃釣船浪上從所見《ムコノウミフナニハナラシイサリスルアマノツリフネナミノヘユミユ》
 
飼飯《ケヒ》は越前國|敦賀《ツルカノ》郡にある地《トコロノ》名にて隱(レ)なしされは此(ノ)一首は前(ノ)七首とは別度《コトタヒ》なるへし但し一本の武庫乃海《ムコノウミ》とある方に依(ル)ときは前(ノ)七首の部《トモ》なり武庫は攝津國武庫(ノ)郡なれはなり○庭《ニハ》とは海面《ウミツラ》のよく和《ナキ》て平《タヒラカ》なる時を云【家の庭|獵場《カリニハ》戰場《タヽカヒノニハ》そのほかも凡《スヘ》て庭とは平坦《タヒラ》なる地につきて云なるべし】○苅薦乃《カリコモノ》は亂るゝよしの枕詞なり ○伊射里《イサリ》は漁《スナドリ》上【二十二葉】に見ゆ
 
鴨君足人香具山《カモノキミタリヒトノカクヤマノ》歌一首并短歌
 
此(ノ)人の傳《コト》は考(フ)へき物なし
 
257 天降付天之芳來山霞立春爾至婆松風爾池浪立而櫻花木晩茂爾奧邊波鴨妻喚邊津方爾味村左和伎百礒城之大宮人乃退出而遊船爾波梶棹毛無而不樂毛己具人奈四二《アモリツクアメノカクヤマカスミタツハルニイタレハマツカセニイケナミタチテサクラハナコノクレシケニオキヘハカモメヨヒヘツヘニアチムラサワキモヽシキノオホミヤヒトノマカリイテ
テアソフフネニハカチサヲモナクテサフシモコクヒトナシニ》
 
天降付《アモリヅク》 伊豫(ノ)國(ノ)風土記に伊豫(ノ)郡自(リ)2郡家1以東北在《ナル》天山《アメヤマヲ》所2名《ナツクル》天山《アメヤマト》1由者《ユヱハ》倭在天加具山《ヤマトナルアメノカクヤマ》自(リ)v天《アメ》天降時《アマクタリシトキニ》二分而以《フタツニワケテ》片端者《カタハシヲハ》天2降《アマクタシ》於|倭國《》1片端者《カタハシヲハ》天2降《アマクタシ》於|此國《コノクニヽ》1因《カレ》謂(フ)2天山《アメヤマト》1本也《コトノモトナリ》とあり天降付《アモリツク》とは此《コノ》古事《フルコト》を以云る天之芳來山《アメノカクヤマ》の枕詞なり○池浪立而《イケナミタチテ》 埴安《ハニヤスノ》池なり○木晩茂爾《コノクレシケニ》は木の茂《シケ》りて闇《クラ》きを云|木《コ》のくれ闇《ヤミ》とも云り皆(ナ)春夏の際《アヒタ》にいふ言なり八に霍公鳥不念有寸木晩乃如此成左右爾奈何不來喧《ホトヽキスオモハスアリキコノクレノカクナルマテニナトカキナカヌ》十に春去者紀之許能暮之夕月夜《ハルサレハキノコノクレノユフツクヨ》【一云|春去者木隱暮月夜《ハルサレハコカクレオホキユフツクヨ》】欝束無裳山陰爾指天《オホツカナシモヤマカケニシテ》 木晩之暮闇有者霍公鳥何處乎家登鳴渡良武《コノクレノユフヤミナレハホトヽキスイツクヲイヘトナキワタルラム》十八に許能久禮罷四月之立者欲其母理爾嶋霍公鳥《コノクレヤミウツキノタテハヨコモリニナクホトトキス》云々十九に【四月六日云々作歌】許能久禮能繁思乎見明良米情(199)夜良牟等《コノクレノシケキオモヒヲミアキラメコヽロヤラムト》云々二十に許乃久禮能之氣伎乎乃倍乎保等登藝須奈伎弖故由奈里伊麻之久良之母《コノクレノシケキヲノヘヲホトヽキスナキテコユナリイマシクラシモ》【右一首四月作】なと有(ル)か如《コト》し○一首の意(ロ)は藤原より寧樂に都を遷されし後に故京《フルキミヤコ》の蹟《アト》を悲しめるなり
 
反歌二首
 
258 人不榜有雲知之潜爲鴦與高部共船上住《ヒトコカスアラクモシルシカツキスルヲシトタカヘトフナノヘニスム》
 
有雲知之《アラクモシルシ》はあるも著《シル》しなり潜《カヅク》は頭突《カツク》なり頭を水に突没《ツキイ》るゝを云○鴦與高部共《ヲシトタカヘト》 玉勝間【思(ヒ)草(ノ)卷】に田中(ノ)道麻呂か語りけるは鴨に大かた四種《ヨクサ》あり第一大(キ)なるを眞鴨《マカモ》と云(ヒ)次(キ)に大(キ)なるをひどりと云(ヒ)次(キ)にあぢと云(ヒ)※[うがんむり/取]小《モトモチヒサキ》をたかべと云(フ)皆(ナ)同じ鴨にてたゝ形(チ)の大(キ)小(キ)によりて名の異《カハ》るなりあぢたかべなと萬葉の歌によめり又あいさといふ一種《ヒトクサ》ありこは鴨の類《タクヒ》なからいさゝか異《コト》なり萬葉七の歌にあきさとある此(ノ)物なりと云りとあり和名抄に爾雅集注(ニ)云(ク)※[爾+鳥]漢語抄(ニ)云(ク)多加閇《タカヘ》一名沈鳧貌(チ)似(テ)v鴨(ニ)而|小《チヒサシ》背上(ニ)有v文と見ゆ十一に高山爾高部左渡高々爾《タカヤマニタカヘサワタリタカ/\ニ》云々ともあり
 
259 何時間毛神左備祁留鹿香山之鉾椙之本爾薛坐左右二《イツノマモカムサヒケルカカクヤヤノホコスキノモトニコケムスマテニ》
 
何時間毛《イツノマモ》は俗言のイツノマニマアなり【何時《イツノ》の間爾《マニ》の爾《ニ》を省《ハフケ》り毛《モ》は嘆音《ナケキノコエ》】○鉾椙之本爾《ホコスキノモトニ》 鉾《ホコ》に似たるを云(フ)本《モト》は幹《カラ》なり【根に非(ラ)す】
 
或本歌云
 
260 天降就神乃香山打靡春去來者櫻花木晩茂松風丹池浪|※[風+火三つ]邊津返者阿遲村動奧邊者鴨妻喚百式乃大宮人乃去出榜來舟者竿梶母無而佐夫之毛榜與雖思《アモリツクカミノカクヤマウチナヒクハルサリクレハサクラハナコノクレシケミマツカセニイケナミサワキヘツヘハアチムラトヨミオキヘハカモメヨヒモヽシキノオホミヤヒトノマカリイテヽコキケルフネハサヲカチモナクテサフシモコカムトオモヘト》
 
神乃香山《カミノカクヤマ》 此(ノ)山を神と云よしは上に見ゆ【新考二の十七葉】○打靡《ウチナヒク》は冠辭考に春は草木の弱《ワカ》くなよゝかに靡く時なれは春の枕詞なり○春去來者《ハルサリクレハ》 上に出【新考三の二十一葉】○榜來舟者《コキケルフネハ》 古言に來而有《キタリ》を氣利《ケリ》といへは辭の氣利《ケリ》に借(リ)用(ヒ)たり○無而佐夫之毛《ナクテサフシモ》 不樂《サフ》しもなり
 
右今案遷2都(ヲ)寧樂(ニ)1之後(ニ)怜《アハレミテ》v舊(ヲ)作2此(ノ)歌(ヲ)1歟
 
柿(ノ)本(ノ)朝臣人麻呂獻(レル)2新田部(ノ)皇子(ニ)1歌一首並短歌
 
天武天皇の皇子なり
 
261 八隅知之吾大王高輝日之皇子茂座大殿於久方天傳來白雪仕物往來乍益及常世《ヤスミシヽワコオホキミタカヒカルヒノミコシキマスオホトノヽウヘニヒサカタノアマツタヒクルユキシモノユキキタリツヽイヤシケトコヨ》
 
茂座《シキマス》は敷座《シキイマス》にて數《シク》は天(ノ)下を知(ル)といふ知(ル)と言《コト》通《カヨ》へり【此(ノ)事は新考二の十二葉に云り考へし】此《コヽ》は大殿を知座《シリイマス》にて一(ノ)卷に高殿乎高知座而《タカトノヲタカシリマシテ》と有(ル)と同し○白雪仕物《ユキシモノ》は例の雪|如《シク》物なり○益及常世《イヤシケトコヨ》は雪(200)の零重《フリシク》か如く此(ノ)宮を彌敷《イヤシキ》て常世《トコヨ》にましませとなり○此(ノ)歌は反歌と併《アハ》せ考るに明日香《アスカ》の失釣《ヤツリ》の邊《アタリ》に皇子の別宮ありて雪(ノ)朝《アシタ》に遊行《イテマ》したる供奉《ミトモ》に仕へまつりて作《ヨマ》れけるなるへし
 
反歌一首
 
262 矢釣山木立見落亂雪驪朝樂毛《ヤツリヤマコタチモミエスフリミタルユキハタラナルアシタタヌシモ》
 
矢釣山《ヤツリヤマ》 古事記傳【廿二の六十四葉】云(ク)大和(ノ)國高市(ノ)郡に上八釣《カミヤツリ》村十市(ノ)郡に下八釣《シモヤツリ》村ある【二村近し今はヤトリと唱ふるなり】是(レ)なるへし顯宗紀に近飛鳥《チカツアスカノ》八釣(ノ)宮萬葉三に矢釣山十二に八釣河なとある此(ノ)地なり○雪驪は舊(ルキ)訓《ヨミ》に由伎毛波太良爾《ユキモハタラニ》とあり是(レ)に依(リ)て思ふに驪は波太良《ハタラ》と訓《ヨマ》むことおほつかなけれは若《モシ》くは駁※[馬+交]※[馬+總の旁]なとの誤字にやもし然らは是(レ)等《ラ》の字義を大よそに取て配《アテ》たるなりかくて波太良《ハタラ》といふ言の意(ロ)は物のむら/\とありて堅牢《カタ》らかならす解易《トケヤス》く消易《キエヤス》く脆《モロ》く髣髴《ホノカ》なる形容《アリサマ》をいふ言なりされは波羅々《ハラヽ》本呂々《ホロヽ》本杼呂《ホトロ》波太禮《ハタレ》本多流《ホタル》【虫の螢なり】本能煩能《ホノホノ》波那流々《ハナルヽ》なととも一(ツ)言になむ有ける波羅々《ハラヽ》は古事記【須佐(ノ)雄(ノ)命(ノ)御段】に如淡雪蹶散《アハユキナスクヱハラヽカシ》と見え又廿に安麻乎夫禰波良々爾宇伎弖《アマヲフネハラヽニウキテ》なとあるは一處《トコロ》に凝聚《カタマ》らす離れ/\散り/\なる状《サマ》を云(ヒ)【鮭《サケ》の波羅羅子《ハララコ》と云物の有状《アリサマ》をも思ふべし】本呂々《ホロヽ》は十九に天雲乎富呂爾布美安多之鳴神毛《アマクモヲホロニフミアタシナルカミモ》と云る類(ヒ)を云(ヒ)本杼呂《ホトロ》は八に沫雪保杼呂保杼呂爾零敷者《アワユキノホトロホトロニフリシケハ》十に沫雪零有庭毛保杼呂爾《アハユキフレリニハモホトロニ》これらは春の沫雪《アハユキ》の解易《トケヤス》く消易《キエヤス》く脆《モロ》くむら/\なるを云(ヒ)波太禮《ハタレ》は八に沫雪香薄太禮爾零登見左右二流倍散波何物花其毛《アワユキカハタレニフルトミルマテニナカラヘチルハナニノハナソモ》九に御食向南淵山之巖者落波太列可消遺有《ミケムカフミナフチヤマノイハホニハフレルハタレカキエノコリタル》【こはいひなれて春の沫雪をたゝに波太禮と云り】十に天雲之外鴈鳴從聞之薄垂霜零寒此夜者《アマクモノヨソニカリカネキヽシヨリハタレシモフリサムシコノヨハ》 小竹葉爾薄太禮零覆消名羽鴫將忘云者益所念《サヽノハニハタレフリオホヒケナハカモワスレムトイヘハマシテオモホユ》十九に吾園之李花可庭爾落波太禮能未遺有可母《ワカソノヽスモヽノハナカニハニチルハタレノイマタノコリタルカモ》これらも本杼呂《ホトロ》と全《モハ》ら同し又八に秋田乃穗田乎鴈之音闇二爾夜之穗杼呂爾毛鳴渡可聞《アキノタノホタヲカリカネクラケキニヨノホトロニモナキワタルカモ》これは夜の明(ケ)離る際《キハ》の髣髴《ホノ》くらきを云(ヒ)又|富能煩能《ホノホノ》明煩能《アケホノ》なとの富能《ホノ》も是(レ)なり又|螢《ホタル》といふ虫(ノ)名もほのほの光りて消るか如くなる有状《アリサマ》より負(ヘ)る名なり又|離《ハナルヽ》もむら/\らゝになるを云(フ)皆(ナ)一(ツ)言なるを知へしさあれは此《コヽ》の波太良《ハタラ》も雪のむら/\はらゝかに零《フル》を云るなり十に庭毛薄太良(201)爾三雪落有《ニハモハタラニミユキフリタリ》とあるも同しさらは班駁《マタラ》も一言かと思ふに然らす是(レ)は亂《ミタラ》と通ふ言にて鈍色《ヒトイロ》ならさるを云りされとむら/\またらなるは波太良と似たる意より波太良を駁なとも書けむ
 
從(リ)2近江(ノ)國1上(リ)來(ル)時(ニ)刑部垂《オサカヘノタリ》麻呂作歌一首
 
此(ノ)人の傳《コト》も詳《サタカ》ならす
 
263 馬莫疾打莫行氣並而見※[氏/一]毛和我歸志賀爾安良七國《ウマナイタクウチテナユキソケナラヘテミテモワカユクシカニアラナクニ》
 
馬莫疾打莫行《ウマナイタクウチテナユキソ》は馬いたく云々の意なり上の莫《ナ》には意(ロ)無したゝ詞《シラヘ》に加《ソヘ》たるのみなりさてこは人と馬を相(ヒ)並(ラ)へてゆく時《ヲリ》に其(ノ)人に言(ヒ)懸(ケ)たる歌なり○氣並而《ケナラヘテ》 氣《ケ》は來經《キヘ》の約《ツヽマ》りたる言にて年月日時の來り經るを云(フ)日を數へて幾日《イクカ》と云も幾來經《イクキヘ》なり然《サ》れは此《コヽ》なる氣並而《ケナラヘテ》も日を並(ラ)へて幾日《イクカ》もと云(フ)意(ロ)なるを知へしかくて又一(ツ)の兼《カケ》たる意(ロ)は馬を駐《トヽ》め立(テ)並(ラ)へてと云ことをも令持《モタシメ》たる物なるへし其(ノ)故は馬を云(フ)言《コトハ》に氣《ケ》と云ることあり雄略紀に【十三年三月】狹穗彦玄孫齒田根命《サホヒコノヤシハコハタネノミコト》竊2※[(女/女)+干]《オカセリ》采女山(ノ)邊(ノ)小島子(ヲ)1天皇聞(シメシテ)以2齒田根(ノ)命(ヲ)1收2付《サヅケテ》於物(ノ)部(ノ)目《メノ》大連(ニ)1而使2責譲《コロハ》1齒田根(ノ)命以2馬|八匹《ヤツ》大刀八口《タチヤツヲ》1祓2除《ハラヘキ》罪過《ツミヲ》1既《カクテ》而歌(ヒテ)曰(ク)耶靡能謎能故思麼古喩衛爾比登涅羅賦宇麼能耶都擬播鳴思稽矩謀那斯《ヤマノヘノコシマコユヱニヒチテラフウマノヤツケハヲシケクモナシ》とある馬の八《ヤ》つ氣《ケ》是(レ)なり氣《ケ》とは立(チ)てある處(ロ)を以云(フ)名なり凡《スヘ》て畜《ケモノ》なとを云(フ)には立(テ)る處(ロ)を以云なるへし【俗言《サトヒコト》にも馬を飼《カフ》を馬を立(テ)るといへり】又人なとにも氣《ケ》と云ること有て畜《ケモノ》なとゝも言(ヒ)さまの異ならぬよしは凡(ヘ)て人なとも立(チ)たるを以|正《タヽ》しき體《ミ》の姿《スカタ》とは爲《スル》なるへしさるは古事記【火之《ヒノ》迦具土(ノ)神(ノ)段】に云々故《カレ》爾《コヽニ》伊邪那岐(ノ)命(ノ)詔(リタマハク)之|愛我那邇妹命乎謂易子之一木乎乃匍匐御枕方匍匐御足方而哭時《ウツクシキアカナニモノミコトヤコノヒトツケニカヘツルカモトノリタマヒテミマクラヘニハラハヒテナキタマフトキニ》云々とある子之一木《コノヒトツケ》は立(チ)賜へる御體《ミヽ》を申《マヲ》す稱《ナ》にて即(チ)子《コ》の一柱《ヒトハシラ》と申すに同きなり人を數ふるに幾(ク)柱(ラ)と云は常なれは幾木《イクケ》とも云へきなり又龍田(ノ)風(ノ)神(ノ)祭(ノ)祝詞に云々|是以皇御孫命大御夢爾悟奉久《コヽヲモテスメミマノミコトノオホミイメニサトシマツラク》云々|我御名者天乃御柱乃命國乃御柱乃命止御名者悟奉※[氏/一]《アカミナハアメノミハシラノミコトクニノミハシラノミコトトミナハサトシマツリテ》云々|吾宮者朝日乃日向處夕日乃日隱處乃龍田能立野爾小野爾小野爾吾宮定奉※[氏/一]《アカミヤハアサヒノヒムカフトコロユフヒノヒカクルトコロノタツタノタチヌニヲヌニアカミヤハサタメマツリテ》云々とあるを思ふに此(ノ)神は殊に又立(テ)りてまします故《ユヱ》よしなとのまして御柱《ミハシラ》と御名を稱《タヽ》へ又その鎭《シツマ》りいませる地(ロノ)名をも立田の立(チ)野と(202)云にもやあらむ御名のさまも必|徒《タヽ》ならさる由縁《ユヱヨシ》ありと こそは聞ゆれ又|樹《キ》も立てある物なるか故に紀《キ》とも又|氣《ケ》とも呼《イヘ》る稱《ナ》にして紀《キ》と氣《ケ》とは音《コヱ》の相(ヒ)通ひて共に立(テ)りたるを云(フ)言なるへしさるは人の牙《キハ》なともたゝなる齒よりは秀《スク》れてたけ長く柱(ラ)の如くなる状《サマ》あり草の中にも芽子《ハキ》荻《ヲキ》薄《スヽキ》なと紀《キ》と云(フ)言の添《ソハ》れる名の物は皆|秀《スク》れてたけ高く又竹は長《タケ》のいとよく條《ノフ》る物なれは即《ヤカテ》多氣《タケ》と云(フ)名なるをその長《タケ》はまた足木《タリケ》の切《ツヽマ》れる言にして條《ノ》ひ足(ラ)へる木《ケ》と云《フ》意(ロ)になむあめりける然《サ》れは此《コヽ》なる氣並兩《ケナラヘテ》も日《ヒ》をならへて見てもゆく志賀ならぬにさはかりに急き給はすともいかて猶しはし馬を立(テ)ならへて見ておはさすやといひかけたるものなりされは氣並而《ケナラヘテ》に工《タクミ》ありて此(ノ)句なむ一首の眼には有ける心を着(ク)へし
 
柿(ノ)本(ノ)朝臣人麻呂從(リ)2近江(ノ)國1上(リ)來(ル)時爾至(リテ)2宇治河(ノ)邊(リニ)1作歌一首
 
264 物乃部能八十氏河乃阿白木爾不知代經浪乃去邊白不母《モノノフノヤソウチカハノアシロキニイサヨフナミノユクヘシラスモ》
 
物乃部能《モノノフ/》は八十氏《ヤソウチ》の枕詞なり其(ノ)よしは上に委く云り【新考五の五葉】○不知代經《イサヨフ》とは左《ト》あらむ右《カク》あらむとすることの然《シカ》速《スミヤカ》には得《エ》あらて暫《シハ》し猶豫《タメ》らひ留滯《トヽコホ》るを云(フ)言なり故《カレ》月の山(ノ)末《ハ》より出難《イテカテ》にするをいさよふ月とも云(ヒ)船の出なむとして暫しゆすらひたゆたへるなとをもいさよふと云りされは此《コヽ》に不知代經浪《イサヨフナミ》と云るも去《ユク》へき水の暫し網代木に塞《セカ》れて立(チ)躁《サワ》くを浪と云り【いさよふ水と云すして浪と云るを思へし此(ノ)主にはかゝるこまやかなる工(ミ)往々《ヲリ/\》あり心を着(ク)べし】其(ノ)浪の暫らく猶豫《タメ》らひつゝ網代を越(シ)て遂(ヒ)には去方《ユクヘ》知(ラ)す成(リ)ぬるを觀《ミ》て人(ノ)世を嗟嘆《ナケカ》れたるものにて總《スヘ》ての意(ロ)は去《イニ》し壬申の亂(レ)に近江の御軍《ミイクサ》敗れて物部《モノヽフ》の八十氏々《ヤソウチ/\》の人|等《トモ》此(ノ)宇治河にて戰(ヒ)死《ウセ》ぬる地(ロ)なれは彼《ソノ》亡靈《ナキタマ》を弔《トフ》らひて過(キ)られたる手向の歌にて古(ヘ)の禮《シワサ》なり【是(レ)らの事は上にも新考七の初(メ)のひらよりくはしく云り考(ヘ)合(ス)べし】一(ノ)卷に過(ル)2近江(ノ)荒郡(ヲ)1時(ニ)として人麻呂黒人の作歌《ウタ》あるは荒都を弔らはむは公家《オホヤケ》に可畏《カシコ》かれは辭(ハ)を遁れて作《ヨメ》るにて又此(ノ)下なる淡海乃海夕浪千鳥《アフミノミユフナミチトリ》云々の歌も其(レ)と同し猶そこにも【三十六葉】云へし【然るをたゞ 世間《ヨノナカ》の無常《ツネナキ》を悼《イタミ》たる歌とのみ思ふは疎《アラ》し物乃部能八十氏河《モノノフノヤソウチカハ》とつゝけたる詞も必らず今云如くならされば盡さす】
 
長(ノ)忌寸|奧《オキ》麻呂歌一首
 
265 苦毛零來雨可神之埼狹野乃渡爾家裳不有國《クルシクモフリクルアメカミワノサキサヌノワタリニイヘモアラナク》
 
(203)神之埼《ミワノサキ》 神(ノ)字を美和《ミワ》に充《アテ》たるよしは倭《ヤマトノ》京の時に大三輪を殊に崇《》賜《イツキ》ひける故に神といへは三輪なるか如くに有し故《カラ》のことなるへし【神山《カミヤマ》と云るも三輪山のことなり又古書ともに神酒をミワと訓(メ)るは三輪(ノ)大神は主《ムネ》と酒に殊なるゆゑよしのませばなるべし又|味酒《ウマサケ》三輪と續《ツヽク》るは別(ト)意(ロ)なり】玉勝間【花の雪(ノ)卷】に三輪(ノ)埼は紀伊(ノ)國日高郡熊野新宮より那智へゆく道の海邊なり新宮より一里半はかり有てけしきよき所(ロ)なり佐野は佐野村と云有て三輪(ノ)埼のつゝきなり佐野(ノ)岡は村より七八町北に有とあり【佐野(ノ)岡は此(ノ)下に歌あり】七に神前荒石毛不所見浪立奴從何處將行與寄道者無荷《ミワノサキアリソモミエスナミタチヌイツクユユカムヨキチハナシニ》
 
柿(ノ)本(ノ)朝臣人麻呂(ノ)歌
 
266 淡海乃海夕浪千鳥汝鳴者情毛思努爾古所念《アフミノミユフナミチトリナカナケハコヽロモシヌニイニシヘオモホユ》
 
夕浪千鳥とは浪(ノ)上にゆられて浮へるを云り○情毛思努爾《コヽロモシヌニ》は情《コヽロ》の靡《シナ》ゆるなり○一首の意(ロ)は日《ヒ》の夕(ヘ)には愁《ウレヒ》の催《モヨホ》さるゝ物なるに千鳥の波(ノ)上にゆられたわみてなく聲をきけは吾(カ)情《コヽロ》も倶《トモ》に撓《タワ》み靡《シナ》えていとゝ古(ヘ)への念はるゝとなり味鳧《アチカモ》の撓依海《トヲヨルウミ》と云るも浪にゆられて撓《タワ》みて靡依《ナミヨ》るを云れは此《コヽ》なると同しさまなりさて此(ノ)歌も故(ルキ)京《ミヤコ》の蹟《アト》を弔らへるものなり【故京の跡と云(フ)中にも近江は云々《シカ/\》の故《ユヱ》ありて荒廢《アレハテ》たる京なれば此處《コヽ》を悼《イタ》める歌の多かるなるべし】
 
志貴(ノ)皇子(ノ)御歌一首
 
267 牟佐佐婢波木末求跡足日木乃山能佐都雄爾相爾來鴨《ムササヒハコヌレモトムトアシヒキノヤマノサツヲニアヒニケルカモ》
 
和名抄に本草(ニ)云(ク)※[鼠+田三つ]鼠一名(ハ)※[鼠+吾]鼠兼名苑(ノ)注(ニ)云(ク)状(チ)如《クニシテ》v※[獣偏+爰](ノ)而※[門/文]翼似(タリ)2蝙蝠(ニ)1能(ク)從(リシテ)v高(キ)而下(リ)不v能2從(リシテ)v下(キ)而上(ルコト)1常(ニ)食(フ)2火烟(ヲ)1聲如(クナル)2小兒(ノ)1者(ナリ)也和名毛美俗(ニ)云無佐々比とあり六に天皇遊2※[獣偏+葛]|高圓野《タカマトヌニ》1之時小獣泄2走堵里之中(ニ)1於v是|適《タマ/\》値《アヒテ》2勇士(ニ)1生(ケナカラ)而|見《ラル》v獲即(チ)以2此(ノ)獣1獻2上御在所(ニ)1副歌一首【獣(ノ)名(ヲ)俗(ニ)曰(ヘリ)2牟射佐妣(ト)1】丈夫之高圓山爾迫有者里爾下來流牟射佐妣曾此《マスラヲノタカマトヤマニセメタレハサトニオリクルムサヽヒソコレ》また七に三國山木末爾住歴武佐左妣乃待鳥如我俟將痩《ミクニヤマコヌレニスマフムサヽヒノトリマツカコトアヲマチヤセム》なとも見ゆ○一首の意(ロ)は負(フ)氣《ケ》なき事を企《クハタテ》て滅亡《ホロヒ》たる者《モノ》のことなるへし
 
長屋(ノ)王(ノ)故郷歌一首
 
此(ノ)王は一(ノ)卷(ニ)出(ツ)【新考五の五十二葉】なほ此(ノ)下【新考の葉】に委しく云へし
 
268 吾背子我古家乃里之明日香庭乳鳥鳴成島待不得而《ワカセコカフルヘノサトノアスカニハチトリナクナリシママチカネテ》
 
此(レ)は明日香より藤原に遷都の後にまた故京に還り住む(204)人の有て其(レ)に贈られたる歌なるへし一首の意(ロ)は己《オノレ》頃者《コノコロ》明日香へ物したりしに公《キミ》か舊宅《モトノイヘ》には島も【泉水筑山なり】いまた成(リ)あへぬに千鳥はしも待遠《マチトホ》に思らむ明日香河より通ひ來て豫《マタ》きに鳴(キ)けるうつろひ給はゝ※[立心偏+可]怜《アハレ》いかに面白き家所《ヤト》にかあらむすらめとなるへし
 
右今案從(リ)2明日香1遷2藤原(ノ)宮(ニ)1之後作2此(ノ)歌1歟
 
阿倍(ノ)女郎|屋部坂《ヤヘサカノ》歌一首
 
此(ノ)人も詳《サタカ》ならす【但し契沖が萬葉集作主履歴に云へらく四に此(ノ)女郎と中臣(ノ)朝臣東人と贈答の歌あり東人は和銅四年より天平五年までの紀に見ゆれば女郎も其(ノ)頃《コロ》の人なり又八に同名異人あり】屋部《ヤヘ》坂は三代實録元慶四年十月二十日の下《トコロ》…】に大和(ノ)國高市(ノ)郡|夜倍《ヤヘ》村見ゆそこなるへし
 
269 人不見者我袖用手將隱乎所燒乍可將有不服而來來《ヒトミスハワカソテモチテカクサムヲヤケツヽカアラムキステキニケリ》
 
一首の意(ロ)いまた思ひ得す
 
高市(ノ)連黒人※[羈の馬が奇]旅(ノ)歌八首
 
270 客爲而物母敷爾山下赤乃曾保船奧栲所見《タヒニシテモノコホシキニヤマシタノアケノソホフネオキニコクミユ》
 
山下《ヤマシタ》は赤《アケ》の枕詞上に見ゆ【新考七の七十四葉】○赤乃曾保船《アケノソホフネ》とは赭土《ソホニ》を以|赤《アケ》に塗(リ)たる船を云りそは官事《オホヤケコト》に屬《ツキ》て用ふる料《タメ》の船にして若《モ》し海中《ウミナカ》にて難《コト》あらむ時《ヲリ》にも其(レ)と見知(リ)て速《ハヤ》く何處《イツク》にまれ援《タス》くへきための目《マ》しるしに物せるなるへし十五に遣(ハセル)2新羅(ニ)1使人等對馬島|竹敷浦舶泊之時《タカシキノウラニフナハテセルトキニ》對馬(ノ)娘子《ヲトメ》名(ハ)高槻《タカツキ》か作歌《ヨメル》に毛美知婆能知良布山邊由許具布禰能爾保比爾米※[人偏+弖]弖伊※[人偏+弖]弖伎爾家里《モミチハノチラフヤマヘユコクフネノニホヒニメテヽイテヽキニケリ》とあるは遣新羅使の乘れる官船|丹塗《ニヌリ》なるか故に布禰能爾保比《フネノニホヒ》と云(ヒ)句(ノ)頭《カミ》に毛美知婆能《モミチハノ》と置るも丹《アカ》きをほのめかしたるものなり十六に奧去哉赤羅小船爾《オキユクヤアカラヲフネニ》云々これは官粮を積(ミ)たる船のよし左注にありて著明《イチシル》し又八(ノ)卷九(ノ)卷十三(ノ)卷なとにも丹塗之船《ニヌリノフネ》赤曾朋舟《アケノソホフネ》なと有(リ)て何《イカ》なる船とも詳《サタカ》ならされとも右なる二首を以推(シ)はかるに必(ラス)官船なるへきにこそ又集中に丹塗橋《ニヌリノハシ》とあるも官《オホヤケ》より造らるゝ橋にやいかゝあらむ又十六に 怕物《オソロシキモノヽ》歌 奧國領君之染屋形黄染乃屋形神之門渡《オキノクニシラセルキミカソメヤカタキソメノヤカタカミノトワタル》とあるは嶋に流さるゝ罪人をさして奧國領君《オキノクニシラセルキミ》と云(ヒ)又その乘れる船を黄染《キソメ》の屋形《ヤカタ》としも云るは是(レ)も同しく官船なれともよろしからさる事に用ふるなれは例の如くの赤《アケ》の土塗《ニヌリ》ならす色を變《カヘ》て黄染《キソメ》にせる屋の形(チ)なる船なるへし罪人を乘(セ)送る船は屋形に造りて鎖閇《サシカタ》めて有(ル)なり神之門渡《カミノトワタル》とは迫門《セト》鳴門《ナルト》なとの如くいとも可畏《カシコ》き海の水門《ミナト》を云り此(レ)を以思ふにも官船は丹塗《ニヌリ》なることを(205)知ぬへし【十(ノ)巻七夕(ノ)歌に其穗船乃艫丹裳舳丹裳船装眞梶繁拔《ソホフネノトモニモヘニモフナヨソヒマカチシヽヌキ》とあるは官事《オホヤケコト》に准《ナス》らへて故《コトサ》らに壯麗《ヨソホ》しくよめるなり】凡《スヘ》て赤《アケ》は眼《メ》に著明《シル》き色なれはにや天皇《オホキミ》の御旗《ミハタ》なとも赤《アケ》なるよし二(ノ)卷【高市(ノ)皇子(ノ)命の御殯《ミアラキ》に人麻呂の作《ヨメ》る】挽歌に見え又おほきみと神との大御食《オホミケ》御調度なと種々《クサ/\》の表《シルシ》に赤幟《アカハタ》を挿《サヽ》るゝことも延喜式また大神宮儀式帳なとにも見え又今(ノ)世にも官事《オホヤケコト》に役《ツカ》はるゝ船には赤き幟《シルシ》を挿《サヽ》るゝなれは古(ヘ)をも思へし○一首の意は旅にして京の戀しき時《ヲリ》しも京より下《クタ》る丹塗《ニヌリ》船を見ていとゝ戀しく思はるゝとなり
 
271 櫻田部鶴鳴渡年魚市方鹽干二家良進鶴鳴渡《サクラタヘタツナキワタルアユチカタシホヒケラシタツナキワタル》
 
櫻田《サクラタ》は和名抄に尾張(ノ)國|愛智《アユチノ》郡|作良《サクラ》とある地(ロ)の田なり當國《コノクニ》は田の殊《コト》なる中《ナカ》にも此地《コヽ》はなほ勝《スク》れて良田《ヨキタ》なれは別《ワキ》て作良田《サクラタ》とそ稱《イヒ》けむ催馬樂【櫻人】の歌ひ物にも左久良比止《サクラヒト》
 
辭ル蒜好ど窓あよが軒岬が冨絹が軒好叩野際監
 
佃《ツク》れるなり】見天加戸利己牟也《ミテカヘリコムヤ》とあるもこゝの田のことなり○年魚市方《アユチカタ》は愛智《アユチノ》郡なる滷《カタ》なり七に年魚市方鹽干家良思知多乃浦爾朝榜舟毛奧爾依所見《アユチカタシホヒニケラシチタノウラニアサコクフネモオキニヨルミユ》
 
272 四極山打越見者笠縫之島榜隱棚無小舟《シハツヤマウチコエミレハカサヌヒノシマコキカクルタナナシヲフネ》
 
玉勝間【韓藍《カラアヰノ》卷】云古今集大歌所(ロ)の歌 しはつ山ふり しはつ山うち出て見れは笠ゆひの嶋こき隱るたなゝし小舟これは万葉三(ノ)卷に四越山打越見者笠縫之嶋榜隱棚無小舟《シハツヤマウチコエミレハカサヌヒノシマコキカクルタナヽシヲフネ》とある歌なるを笠ゆひとはうたひひかめたるなりさてしはつ山笠縫(ノ)嶋は或(ル)人(ノ)云(ク)共《トモ》に攝津(ノ)國なりしはつ山は今(ノ)世住吉より東(ノ)方|喜連《キレ》と云(フ)所(ロ)へゆく道の間《アヒタ》に岡山のひきゝ坂あり是(レ)なり雄畧記に十四年正月呉《クレノ》國人の參れる處(ロ)に云々|泊《ハツ》2於|住吉《スミノエノ》津(ニ)1是(ノ)月爲(テ)2呉(ノ)客(ノ)道(ト)1通(ス)2磯齒津路《シハツチヲ》1名(ク)2呉坂《クレサカト》1とあり今いふ喜連《キレ》は久禮《クレ》を訛《ヨコナハ》れるなり此(ノ)處(ロ)住吉(ノ)郡の東のはて河内の堺(ヒ)にて古(ヘ)は河内(ノ)國澁河(ノ)郡に屬《ツキ》て伎人《クレヒトノ》郷と云(ヒ)し所(ロ)なり今も此(ノ)道西は住吉の東の門より東は河内の柏原まて通りて古(ヘ)に呉(ノ)國人の通りし道なりと語(リ)傳へたり難波の古圖《フルキカタ》を見るに住吉(ノ)社の南(ノ)方に細江とて沼江ありてそこにしはつと記(ル)したり万葉六(ノ)卷に從千沼廻雨曾零來四八津之白水郎網手綱乾有沾將堪香聞《チヌマヨリアメソフリクルシハツノアマアミテナハホセリヌレハアヘムカモ》 右一首遊2覽住吉(ノ)濱(ヲ)1還v宮之時(ニ)道上(ニシテ)守部(ノ)王應v詔作歌と有にかなへりさて笠縫(ノ)嶋は今《イマ》東生(ノ)郡(206)の深江村と云(フ)所(ロ)是(レ)なるへし此(ノ)所(ロ)菅田多く有て其(ノ)菅|他所《ホカ》より勝《スク》れたり里人昔より笠を縫(フ)ことを業《ワサ》として名高く童謡にもうたへり今も里(ノ)長《ヲサ》幸田《カウタ》喜右衛門と云(フ)者の家より御即位の時《ヲリ》は内裏へ菅を獻《タテマツ》る又讃岐の殿へも圓座の料の菅を參らすとそ延喜(ノ)内匠寮式に伊勢齋王(ノ)野(ノ)宮装束の中に御輿中子《ミコシノナカコノ》管(ノ)蓋一具【菅并(ニ)骨(ノ)料(ノ)材(ハ)從(リ)2攝津(ノ)國1笠縫氏參(リ)來(テ)作(ル)】とあり笠縫氏は此(ノ)所(ロ)の人にそ有けむさて此(ノ)深江村は大坂(ノ)城より東にあたりて河内の堺(ヒ)に近し此(ノ)地古(ヘ)は嶋なりしよし里人云(ヒ)傳へたり實(ト)に此(ノ)わたり古(ヘ)は北(ノ)方は難波堀江につゝき東は大和川南西は百濟《クタラ》川その外も小川とも多く流れ合(ヒ)て廣き沼江にて有しとおほしくて難波の古(ルキ)圖のさまも然《シカ》見えたり又今此(ノ)里人の語るをきくに此(ノ)村のみ地高くてほとりは何方《イツカタ》も何方も地低し井なと堀れは葦の根貝のからなと出(ツ)と云りかくて此(ノ)所(ロ)かのしはつ山の坂路より北にあたりてよきほとの見渡しなれは嶋こき隱る棚無小舟《タナナシヲフネ》とはよめるなりけり
 
273 礒前榜手回行者近江海八十之湊爾鶴佐波二鳴《イソノサキコキタミユケハアフミノミヤソノミナトニタツサハニナク》
 
未詳
 
礒前《イソノサキ》は礒なる處(ロ)の埼にて地名《トコロノナ》にはあらさるへし○榜手回行者《コキタミユケハ》 回《タム》とは曲《マカル》るを云(フ)上に云り【新考五の三十一葉】披(ラキ)見(ル)へし○八十之湊爾《ヤソノミナトニ》 八十《ヤソ》は益須《ヤス》にて益須《ヤスノ》郡の湊なるを八十《ヤソ》と云るは調(ヘ)に依(リ)てなり○未詳二字は後(ノ)人の礒前八十之湊《イソノサキヤソノミナト》なとを心得|難《カネ》てや物せりけむ
 
274 吾船者枚乃湖爾榜將泊奧部莫避左夜深去來《ワカフネハヒラノミナトニコキハテムオキヘナサカリサヨフケニケリ》
 
枚《》は近江の志賀(ノ)郡にあり○奧部莫避《オキヘナサカリ》は澳《オキ》へ榜放《コキサカ》ること莫《ナカ》れなり
 
275 何處吾將宿高島乃勝野原爾此日暮去者《イツクニカアレハヤトラムタカシマノカチヌノハラニコノヒクレナハ》
 
和名抄に近江(ノ)國高島(ノ)郡勝野と見え又淡路天皇紀【天平寶字八年九月壬子の下《トコロ》】にもあり七に高島之三尾勝野《タカシマノミヲノカチヌ》ともみたり
 
276 妹母我母一有加母三河有二見自道別不勝鶴《イモモワレモヒトツナレカモミカハナルフタミノミチユワカレカネツル》
 
一本(ニ)云(ク)水河乃二見之自道別者吾勢毛吾毛獨可毛將去《ミカハノフタミノミチユワカレナハワカセモワレモヒトリカモユカム》
 
一二(ノ)句の意(ロ)は妹も我(レ)も相(ヒ)離れぬ一(ツ)身にてあれはかなり三河(ノ)國二見と云(フ)所(ロ)まて將《ヰ》て來《コ》し妻《メ》と道を更《カヘ》て別るゝ時《ヲリ》の歌なるへしさて一二三《ヒトフタミ》と云(フ)ことを詞の文《アヤ》にしたるなり二見《フタミ》と云(フ)地(ロ)はまた詳《サタカ》ならす○一本の歌は妻《メ》の和《コタヘ》な(207)るへし
 
277 速來而母見手益物乎山背高槻村散去奚留鴨《ハヤキテモミテマシモノヲヤマタカツキノムラチリニケルカモ》
 
山城志に高槻村は相樂《サカラカノ》郡に在(リ)と云りさて又こゝの山背《ヤマシロ》と云るに木を生《オフ》す處(ロ)のよしを兼《カケ》たり其《ソノ》故《ユヱ》は山とは木草の多く繋茂《シケ》れる地(ロ)を云(フ)名なるよし上【新考六の二十八葉】に委く云るか如し披(ラキ)見て知(ル)へし又|背《シロ》も代《シロ》の意(ロ)を令持《モタシメ》たるものなり代《シロ》とは稻《イネ》の苗《ナヘ》を生《オフ》する處(ロ)を苗代《ナハシロ》と云か如く木の苗を生(フ)する所を山代《ヤマシロ》と云ることあり十一(ノ)卷に開木代《ヤマシロ》と書るも其(ノ)意(ロ)なり又|次嶺經《ツキネフ》山代《ヤマシロ》と云る枕詞も次嶺經《ツキネフ》は【借字】繼苗生《ツキナヘフ》にて山代《ヤマシロ》は右に云る意(ロ)につゝけたるなりと古事記傳【卅六の十四葉】に説《イハ》れたり山しろは右の如く國(ノ)名に兼《カケ》たる功《タクミ》なり又高槻(ノ)村と云る村《ムラ》にも樹群《コムラ》と云ことを令持《モタシメ》たるものなり雄略紀【四年】の歌に野麿等能嗚武羅能陀該※[人偏+爾]之々符須等《ヤマトノヲムラノタケニシシフスト》云々 又齊明紀【四年】の歌に伊磨紀那屡乎武例我禹杯爾倶謨娜尼母旨屡倶之多々婆那爾柯那皚柯武《イマキナルヲムレカウヘニクモタニモシルクシタヽハナニカナケカム》なとあるこれらの嗚武羅《ヲムラ》また乎武例《ヲムレ》と云るも小群《ヲムレ》にて木群《コムラ》なる所(ロ)を云るなり書紀に山を武例《ムレ》と訓(メ)る處(ロ)もあるは古言《フルコト》なるへし然《サ》れは此《コヽ》のも高槻(ノ)村に木群《コムラ》を持(タ)しめて木《コ》むらの花の散(ル)と云ことを高槻村散去奚留鴨《タカツキノムラチリニケルカモ》と云るはかの十(ノ)卷に三笠之山者咲來鴨《ミカサノヤマハサキニケルカモ》とよめる山にも開木《ヤマ》を令持《モタシメ》たると同し否《シカラサ》れはたゝに山の咲《サ》く村の散《チル》と云ことになりて通《キコ》え難きを思へしさて此(ノ)歌に花とも黄葉《モミチ》とも無《ナケ》れと三(ノ)句|山白《ヤマシロ》ともにほひて聞ゆ櫻《サクラ》なるへし
 
石川(ノ)少郎(ノ)歌一首
 
278 然之海人者軍布苅鹽燒無暇髪梳乃小櫛取毛不見久爾《シカノアマハメカリシホヤキイトマナミケシケノヲクシトリモミナクニ》
 
然《シカ》は筑前(ノ)國糟屋(ノ)郡にあり【今は那珂(ノ)郡に屬《ツキ》たり】同國風土記に糟屋(ノ)郡|資珂《シカノ》嶋(ハ)昔時氣長足姫尊《ムカシオキナカタラシヒメノミコト》幸《イテマシヽ》2新羅(ニ)1之時(ニ)御船|夜時《ヨル》來2泊《ハテタリキ》此(ノ)嶋(ニ)1有(キ)d陪從(ニ)名(ハ)云(ヘル)2大濱小濱(ト)1者u便《カレ》勅2小濱(ニ)1遣2此(ノ)嶋(ニ)1颯《モトメシム》v火(ヲ)得(テ)早(ク)來(ツ)大濱問云近(ク)有(ツヤ)v家耶小濱答云此(ノ)嶋(ハ)與2打昇濱1近(ク)相(ヒ)連接《ツヽケリ》殆《ホト/\》可《ハカリナリ》v謂(フ)2同(シ)地(ロト)1因《カレ》曰2近《チカノ》嶋(ト)1今訛(リテ)謂2之|資珂《シカノ》嶋(ト)1とあり神名帳に同郡志加(ノ)海《ワタツミノ》神社あり和名抄にも此(ノ)地名見え集中にも此(ノ)地の歌多く古(ヘ)より※[うがんむり/取]《イト》名高き地(ロ)にて又此處《コヽ》の海人《アマ》をは特《コト》に名高く云(ヒ)習(ラ)はしたり○軍布《メ》と書(ク)よしはいまた詳《サタカ》ならす考へし○髪梳乃小櫛《クシケノヲクシ》はくしけつりの少櫛《ヲクシ》にてゆみけつりを弓削《ユケ》と云か如き(208)いひさまなり櫛笥《クシケ》のことと思ふはあらす又|少《ヲ》は例の美稱なり○取毛不見久爾《トリモミナクニ》は下に※[立心偏+可]怜《アハレ》美《カホヨ》き者《モノ》かなと賞《ホメ》たる意(ロ)を含めたり此(ノ)作者は少貳にて筑紫に在し人なれは【上の十五葉に云り】其(ノ)頃(ロ)の作歌《ウタ》なるへし
 
右今案石川(ノ)朝臣|君子《キミコ》號(ヲ)曰(リ)2少郎子(ト)1也
 
此(ノ)人の事は上【十五葉】に出
 
高市(ノ)連黒人(ノ)歌二首
 
279 吾妹兒二猪名野者令見都名次山角松原何時可將示《ワキモコニヰナヌハミセツナスキヤマツヌノマツハライツカシメサム》
 
猪名野は和名抄に攝津(ノ)國河邊(ノ)郡|爲奈《ヰナ》とある地なり【又猪名山もこゝぞ】名次《ナスキ》山は神名帳に同國武庫(ノ)郡|名次《ナスキノ》神社ありそこなるへく角《ツヌノ》松原も其(ノ)あたりなるへし十七に海未通女伊射里多久火能於煩保之久都努乃松原於母保由流可聞《アマヲトメイサリタクヒノオホヽシクツヌノマツハラオモホユルカモ》とよめるも武庫(ノ)渡(リ)をよめる次(キ)にあれは必らす此(ノ)郡(ノ)内なるか相(ヒ)離れぬ處(ロ)なるへし○何時可將示《イツカシメサム》 示《シメス》とは人に此(レ)は云々そと云て示し令視《ミス》るを云(フ)此(ノ)下に濱※[果/衣]乞者何矣示《ハマツトコハヽナニヲシメサム》四に二寶鳥乃潜池水情有者君爾吾戀情示左禰《ニホトリノカツクイケミツコヽロアラハキミニアカコフルコヽロシメサネ》五に麻多麻奈須布多都能伊斯乎世人爾斯※[口+羊]斯多麻比弖《マタマナスフタツノイシヲヨノヒトニシメシタマヒテ》云々九に國之眞保良乎委曲示示賜者《クニノマホラヲツハラカニシメシタマヘハ》云々また細比禮乃鷺坂山白管自吾爾尼保波尼妹爾示《タクヒレノサキサカヤマノシラツツヽシワレニニホハニイモニシメサム》なとの如し
 
280 去來兒等倭部早白管乃眞野乃榛原手折而將歸《イサコトモヤマトヘハヤクシラスケノマヌノハリハラタヲリテユカム》
 
白管乃眞野乃榛原《シラスケノマヌノハリハラ》 管は菅の誤(リ)なり攝津志に矢田部(ノ)郡なり眞野(ノ)浦眞野(ノ)池なとも此(ノ)地なりと云へ榛《ハリ》は芽子《ハリ》なり七に古爾有監人之覓乍衣爾摺牟眞野之榛原《イニシヘニアリケムヒトノモトメツヽキヌニスリケムマヌノハリハラ》 白菅之眞野乃榛原心從毛不念君之衣爾摺《シラスケノマヌノハリハラコヽロユモオモハヌキミカコロモニスリヌ》なと有(リ)
 
黒人(ノ)妻《メノ》答(フル)歌一首
 
281 白管乃眞野之榛原往左來左君社見良目眞野之榛原《シラスケノマヌノハリハラユクサクサキミコソミラメマヌノハリハラ》
 
己《オノレ》は女《メ》にしあれは復《マタ》見むこと有(リ)難し然《サ》れは今度《コノタヒ》のついてに熱《ヨ》く見て往(キ)なむさのみは勿《ナ》急き給ひそよとなり黒人の倭部早《ヤマトヘハヤク》云云の答(ヘ)なり
 
春日(ノ)藏(ノ)首老(ノ)歌一首
 
282 角障經石村毛不過泊瀬山何時毛將超夜者深去通都《ツヌサハフイハレモスキスハツセヤマイツカモコエムヨハフケニツヽ》
 
角障經《ツヌサハフ》は石《イハ》の枕詞上に出【新考六の五十一葉】○石村《イハレ》は神名帳に大和(ノ)國十市(ノ)郡|石寸《イハレノ》山(ノ)口(ノ)神社あり其(ノ)地なり【と書(ク)よしは古(ル)く村を阿禮と云り神武紀に村《アレニ》有(リ)v長などの如しされば石村《イハレ》と書るにて又寸は村の偏を省る字なり】
 
高市(ノ)連黒人(ノ)歌一首
 
(209)283 墨吉乃得名津爾立而見渡者六兒乃泊從出流船人《スミノエノエナツニタチテミワタセハムコノトマリユイツルフナヒト》
 
和名抄に攝津(ノ)國住吉(ノ)郡|榎津《エナツノ》郷あり六兒《ムコ》は同國武庫(ノ)郡なり
 
春日(ノ)藏(ノ)首老(ノ)一首
 
284 燒津邊吾去鹿齒駿河奈流阿倍乃市道爾相之兒等羽裳《ヤキツヘニワカユキシカハスルカナルアヘノイチヽニアヒシコラハモ》
 
和名抄に駿河(ノ)國益頭(ノ)郡益頭(ハ)萬之都《マシツ》と有(ル)は燒《ヤク》と云ことを忌(ミ)て後に改めたる名にて即(チ)燒津《ヤキツ》の地なれは益頭と書るも古(ル)くは夜吉頭《ヤキツ》と訓(メ)りしこと知へし【國人は今もヤイツと云なり】燒津と號《ナツ》けたるよしは倭建命《ヤマトタケノミコト》の御古事によれり古事記日本紀に見ゆ○駿河奈流阿倍乃市道爾《スルカナルアヘノイチヽニ》 阿倍は阿部(ノ)郡にて今も著《イチシ》るき地《トコロ》なり又同(シ)國(ノ)内を分(キ)て駿河奈流としも云るは阿部(ノ)市は國府なれはなり是《コ》はかの大和(ノ)國《ノ)内にて京の方を別(キ)て倭《ヤヤト》と云(ヒ)伊勢(ノ)國(ノ)内にて大神宮のあたりを別(キ)て伊勢とも云るに同し
 
丹比《タチヒノ》眞人笠麻呂徃2紀伊(ノ)國(ニ)1超(ル)2勢能山(ヲ)1時作歌一首
 
此(ノ)人|詳《サタカ》ならす勢能山は上に出【新考四の二十四葉】
 
285 栲領巾乃懸卷欲寸妹名乎此勢能山爾懸者奈何將有《タクヒレノカケマクホシキイモカナヲコノセノヤマニカケハイカニアラム》【一云可倍波伊香爾安良牟】
 
栲領巾《タクヒレ》は栲《タクノ》木の皮を以織(リ)たる布の領巾《ヒレ》なり領巾は女の肩に懸る物なれば懸の枕詞なり○懸卷欲寸《カケマクホシキ》は言に懸ていはまく欲《ホ》しきなり○妹名乎《イモカナヲ》は妹と云ことをなり其(ノ)人(ノ)名と云にはあらす○懸者奈何將有《カケハイカニアラム》【一云可倍波伊香爾安良牟】は夫《セノ》山と云名を更《カヘ》て妹(ノ)山と言《コト》に懸ていはゝ可《ヨカ》りぬへくやいかゝあらむとなり○一首の意は旅に在て妹の戀しきに此《コヽ》を夫《セノ》山とそ云なるあはれ同くは妹(ノ)山と名を更《カヘ》たらは慰《ナクサ》みなむやいかにと問《へ》るなり
 
春日(ノ)藏(ノ)首老即(チ)和(ル)歌一首
 
286 宜奈倍吾背乃君之負來爾之此勢能山乎妹者不喚《ヨロシナヘワカセノキミカオヒキニシコノセノヤマヲイモトハヨハシ》
 
宜奈倍《ヨロシナヘ》は宜《ヨロシ》とは不足《タラ》はぬ事なく整《トヽノ》ひて美《ヨ》きを云一(ノ)卷に取與呂布天乃香具山《トリヨロフアメノカクヤマ》とある與呂布も山(ノ)形の美《ヨ》く整へるを云(ヒ)又|鎧《ヨロヒ》も人(ノ)身の限り具足《ソナハリタ》らへるよしの名又|萬《ヨロツ》も數《カス》の滿足《ミチタ》らへるより云てこれら皆|宜《ヨロシ》と一(ツ)言なり並《ナヘ》は縦横《タテヨコ》に押並《オシナヘ》て廣きを云り然《サ》れば宜並《ヨロシナヘ》は縱横にゆきたらひて不足《アカヌ》ことなく廣く宜きにて大《イタ》く賞美《ホメ》たる言なり○一首の意は右の笠麻呂に和《コタ》へて否《イナ》己《オノレ》はさにあらす愛《ウルハシ》き君か稱《ナ》を吾(カ)兄《セ》と云(ヒ)習ひ來ぬれは妹とは更《カヘ》し猶|舊《モト》のまゝに兄《セノ》山と云へてこそとなり
 
(210)萬葉集新考 九
 
幸《イテマセル》2志賀(ニ)1時(ニ)石上《イソノカミノ》卿作歌一首 名闕
 
幸(セル)2志賀(ニ)1時は詳《サタカ》ならす石(ノ)上(ノ)卿は麻呂(ノ)大臣にや
 
287 此間爲而家八方何處白雲乃棚引山乎超而來二家里《コヽニシテイヘヤモイツクシラクモノタナビクヤマヲコエテキニケリ》
 
穗積《ホツミノ》朝臣|老オユノ《》歌一首
 
續紀に養老六年正月壬戌正五位(ノ)上穗積(ノ)朝臣|老《オユ》坐(シテ)v指2斥(ストイフニ)乘輿(ヲ)1處2斬刑(ニ)1而依(テ)2皇大子(ノ)奏(ニ)1降2死一等(ヲ)1配2流於佐渡(ノ)嶋(ニ)1 天平十二年六月庚午勅曰云々宜v大2赦天下1云々其(ノ)流人穗積朝臣老云々等五人召(テ)令(メヨ)2入京(セ)1とありて即(チ)此(ノ)歌も配流《ナカサレ》の時《ヲリ》のと聞ゆるを幸2志賀(ニ)1時の歌とあるはおほつかなし
 
288 吾命之眞幸有者亦毛將見志賀乃大津爾縁流白浪《ワカイノチシマサキクアラハマタモミムシカノオホツニヨスルシラナミ》
 
右今案不v審2幸行年月1
 
間人《ハシヒトノ》宿禰大浦初月(ノ)歌二首 大浦紀氏見2六帖(ニ)1
此(ノ)人も詳《サタカ》ならす○大浦紀氏見六帖の七字は後人の所爲《シワサ》なり此(ノ)歌古今六帖に載《ノリ》たるよしの注なれは見(ユ)2紀氏六帖(ニ)1と有へきを字の置(キ)處(ロ)たかへり
 
289 天原振離見者白眞弓張而懸有夜路者將吉《アマノハラフリサケミレハシラマユミハリテカケタルヨミチハヨケム》
 
弦月《ユミハリ》をよめるなり
 
290 椋橋乃山乎高可夜隱爾出來月乃光乏寸《クラハシノヤマヲタカミカヨコモリニイテクルツキノヒカリトモシキ》
 
椋橋《クラハシ》は大和(ノ)國十市(ノ)郡にある地名にて古き物に多く見え今も聞ゆる地《トコロ》なり椋橋山は倉橋村(ノ)東にありと云り○夜隱爾出來月乃《ヨコモリニイテクルツキノ》 夜隱《ヨコモリ》とは夜の末の殘(リ)あるを云りされはこは遲く出て明るまてある月を云るなり四に戀々而相有物乎月四有者夜波隱良武須臾羽蟻待《コヒ/\テアヒタルモノヲツキシアレハヨハコモルラムシマシハアリマテ》とあるも月あれはいまた夜の殘るらむにさのみは勿《ナ》歸りを急き給ひそしはしは在(リ)待たまへとなり又源氏物語【椎(カ)本(ノ)卷】に宇治の八(ノ)宮の薫《カヲル》中納言と姫君たちにのたまへる詞に おのつからかはかりならしそめつるのこりはよこもれるとちにゆつりきこえてむとあるも宮の老《オイ》給へる齡《ヨハヒ》とくらふれは此(ノ)人々の若く齒《ヨハヒ》の末の殘りあることを世こもれると宣へるにて同し意はへなり
 
小田(ノ)事主勢能山(ノ)歌一首
 
此(ノ)人|詳《サタカ》ならす古今六帖【山に】此(ノ)歌|載《ノリ》てをたのことぬしと(211)あれはこゝは主(ノ)字|脱《オチ》たるなり
291 真木葉乃之奈布勢能山之奴波受而吾超去者木葉知家武《マキノハノシナフセノヤマシヌハステアカコエユケハコノハシリケム》
 
眞木は一種《ヒトクサ》の名にあらす美稱なり之奈布は靡《シナ》ふなり之奴波受而は家を戀る情《コヽロ》の忍ひあへぬなり木(ノ)葉知(リ)家武とは木(ノ)葉も吾(カ)心(ノ)中(チ)》を知て弱り靡《シナ》ゆるにやとなり
 
角兄《ロクノエ》麻呂(ノ)歌四首
 
續紀に大寶元年八月壬寅勅2僧惠耀(ニ)1還俗(セシム)復2本姓1代度一人惠耀姓(ハ)録名(ハ)兄麻呂 養老三年正月壬寅正六位(ノ)上〓(ノ)兄麻呂授2從五位下1五年正月甲戊詔曰文人武士(ハ)國家(ノ)所v重(スル)醫卜方術(ハ)古今斯(レ)崇《ヲム》宜(乙)擢《アケテ》d於百僚之内優2遊學業(ニ)1堪(ヘタル)v爲(ルニ)2師範1者(ヲ)u特(トニ)加(ヘ)2賞賜(ヲ)1勸(甲2)勵後世(ヲ)1因賜2陰陽從五位(ノ)下〓(ノ)兄麻呂(ニ)※[糸+施の旁]十疋絲十※[糸+句]布二十端鍬二十口(ヲ)1 神龜元年五月辛未從五位(ノ)下〓(ノ)兄麻呂(ニ)賜2姓羽林(ノ)連(ヲ)1 四年十二月……丁亥先(キ)v是(レヨリ)遣2使(ヲ)七(ニ)1巡2儉國司之状迹(ヲ)1使等至v是復命詔依2使(ノ)奏状(ニ)1上等(ニハ)者進位二階中等(ニハ)者一階下等(ニハ)者被(ル)v選(ヲ)其(ノ)犯v法尤甚(キ)者丹後守從五位下羽林(ノ)連兄麻呂處v流(ニ)とあり
 
292 久方乃天乃探女之石船乃泊師高津者淺爾家留香裳《ヒサカタノアマノサクメノイハフネノハテシタカツハアセニケルカモ》
 
代匠記(ニ)云(ク)或(ル)物に攝津國風土記を引て云(ク)難波(ノ)高津は天稚彦《アメワカヒコ》に屬《ツキ》て天降《アマクタ》れる神|天探女《アマノサクメ》石船《イハフネ》に乘(リ)て此《コヽ》に到り着ぬ天磐船《アマノイハフネ》の泊《ハテ》し津なれは高津と號くとあり云々古事記傳に此地のこと見えたり
 
293 鹽干乃三津之海女乃久具都持玉藻将苅率行見《シホヒノミツノアマノクヽツモチタマモカルラムイサユキテミム》
 
難波の御津なり久具都は海人《アマ》のあさりに持《モ》つ籠《コ》にて繩《ナハ》また藁《ワラ》なとして組《クミ》たる物にて名義《ナノコヽロ》は組籠《クミカツマ》の切《ツヽマ》りたるにて尋常《ヨノツネ》の竹にて編《アミ》たる籠《》と別《カツマワケ》たる名なるべしさるよしは袖中抄にくゝつとは藁《ワラ》にて袋《フクロ》のやうに編《アミ》たる物なりそれに藻《モ》貝《カヒ》なとをいるゝなりと云(ヒ)童蒙抄にくゝつとはかたみを云(フ)とも云(フ)うつほの物語【嵯峨(ノ)院(ノ)卷】にきぬあやを糸のくゝつにいれて云々とも有て糸のくゝつと云るにても糸なと以造らぬ物なるを時の風流に然《シカ》せることゝ聞え又玉勝間【藤なみのまき】に豐後(ノ)國人の語りけるはくゝつと云(フ)物今も彼(ノ)國にありてくゞと云り繩して組て物を入るゝなりと云りともあり又江戸なとにて三月する鄒祭《ヒナマツリ》に貝を入るゝ藁してむすべる※[日/衣]《ツト》の有(ル)も此(レ)なるへし
 
(212)294 風乎疾奧津白波高有之海人釣船濱眷奴《カセヲイタミオキツシラナミタカカラシアマノツリフネハマニカヘリヌ》
 
295 清江乃木志松原遠神我王之幸行處《スミノエノキシノマツハラトホツカミワコオホキミノイテマシトコロ》
 
田口(ノ)益人《マスヒトノ》大夫任2上野(ノ)國司(ニ)1時(ニ)至2二駿河(ノ)淨見崎《キヨミノサキニ》1作歌二首
 
續紀に和銅元年三月丙午從五位(ノ)上田口(ノ)朝臣益人爲2上野守(ト)1とあり
 
296 廬原乃浄見乃崎乃見穂乃浦乃寛見乍物念毛奈信《イホハラノキヨミノサキノミホノウラノユタケキミツヽモノオモヒモナシ》
 
此《コノ》名所《ナトコロ》は今も古(ヘ)に變らすして物念《モノオモヒ》も忘るゝ見渡しの宜き地《トコロ》になむ有ける
 
297 晝見騰可飽田兒浦大王之命恐夜見鶴鴨《ヒルミレトアカヌタコノウラオホキミノミコトカシコミヨルミツルカモ》
 
弁基〔二字傍線〕(ノ)歌一首
 
此(ノ)人還俗して春日藏首老《カスカノクラノオヒトオユ》と云り其(ノ)よしは上に見ゆ【新考五の卅五六葉】
 
298 亦打山暮越行而廬前乃角太河原爾獨可毛將宿《マツチヤマユフコエユキテイホサキノスミタカハラニヒトリカモネム》
 
玉勝間【花乃雪(ノ)卷】に待乳《マツチ》山は紀伊(ノ)國|伊都《イトノ》郡なり角田《スミタ》川は待乳川のことなるへし云々と有て地理《トコロサマ》をも云れたり廬前《イホサキ》たつぬへし
 
右或云弁基者春日(ノ)藏(ノ)首老之法師(ノ)名也
 
大納言大伴卿(ノ)歌一首 未詳
 
安麻呂卿にや
 
299 奧山之菅葉凌零雪乃消者將惜雨莫零行年《オクヤマノスカノハシヌキフルユキノケナハヲシケムアメナフリソネ》
 
行は所《ソ》の誤なり年《ネ》は抑《オサヘ》の辭
 
長屋(ノ)王|駐《トトメテ》2馬(ヲ)寧樂山(ニ)1作歌二首
 
300 佐保過而寧樂乃手祭爾置幣者妹乎目不離相見染跡衣《サホスキテナラノタムケニオクヌサハイモヲメカレスアヒミシメトゾ》
 
佐保は大和(ノ)國添(ノ)上(ノ)郡にある地名にて多く見ゆ○寧樂乃手祭爾《ナラノタムケニ》 古事記傳【廿五の廿三葉】云(ク)手祭《タムケ》とは越(エ)ゆく山の坂路の登り極《ハテ》たる處を云(フ)其所《ソコ》にては神に手向を爲る故に云なり今(ノ)俗《ヨ》に此(レ)を峠《タウケ》と云は手向を訛れるなり寧樂の手向は手向山と云(フ)是(レ)なり
 
301 磐金之凝敷山乎超不勝而哭者泣友色爾將出八方《イハカネノコヽシキヤマヲコエカニテネニハナクトモイロニイテメヤモ》
 
磐か根の凝々《コリ/\》しきにて踏《フミ》なやむ山道を云(フ)一首の意は逢(ヒ)難き人を想《オモ》ひ懸(ケ)て泣(キ)ぬはかりの苛《カラ》きことはありとも豈《アニ》表《ウヘ》に顯《アラハ》さむやうはなく相思ひ給ひぬとなり此(ノ)前後二首は寧樂山より女の許《モト》に贈られたるものなるへし
 
中納言安倍(ノ)廣庭(ノ)卿(ノ)歌一首 未詳 後(ノ)人のしはさなり
 
續紀に天平四年二月乙未中納言從三位兼催造宮(ノ)長官
(213)知河内和泉等國事阿倍(ノ)朝臣廣庭薨右大臣從二位|御主人《ミウシ》之子也とあり
 
302 兒等之家道差間遠烏野干玉乃夜渡月爾競敢六鴨《コラカイヘチヤヽマトホキヲヌハタマノヨワタルツキニキソヒアヘムカモ》
 
月の行(ク)に歩《アユ》み不勝《カタ》て間遠き妹か家まて到りつかて夜の明なむかいかゝとあやふめるなり
 
柿(ノ)本(ノ)朝臣人麻呂下(レル)2筑紫(ノ)國爾1時海路作歌二首
 
303 名細寸稻見乃海之奧津浪千重爾隱奴山跡島根者《ナクハシキイナミノウミノオキツナミチヘニカクリヌヤマトシマネハ》
 
名細寸《ナクハシキ》は稻と云る名を妙《クハ》しと美《ホ》めたる枕詞にて名妙《ナクハ》し吉野名くはし眞御根《サミネ》なとの例《タクヒ》なり稻見《イナミ》は播磨の印南《イナミ》なり山跡《ヤマト》島根は大和(ノ)國を海《ウミ》こしに望《ミ》て島と云るにて根は例の美稱なり
 
304 大王之遠乃朝庭跡蟻通島門乎見者神代之所念《オホキミノトホノミカトトアリカヨフシマトヲミレハカミヨシオモホユ》
 
遠之朝庭《トホノミカト》とは國々の官府を云(フ)名なり五に大王能等保能朝庭等斯良農比筑紫國爾泣子那須斯多比枳摩斯提《オホキミノトホノミカトトシラヌヒツクシノクニニナクコナスシタヒキマシテ》云々十七に大王乃等保能美可度曾美雪落越登名爾於弊流安麻射可流比奈爾之安禮婆《オホキミノトホノミカトソミユキフルコシトナニオヘルアマサカルヒナニシアレハ》云々十五に須賣呂伎能等保能朝庭等可良國爾和多流和我世波《スメロキノトホノミカトトカラクニニワタルワカセハ》云々なとあり○蟻通《アリカヨフ》はあり/\て常に往來《カヨ》ふなり○島門乎見者《シマトヲミレハ》
 
神代之所念《カミヨシオモホユ》 何處《イツク》にまれ島と海門《ウナト》との古(ヘ)おほゆる名所《ナトコロ》なるへし
 
高市(ノ)連黒人近江(ノ)舊都(ノ)歌一首
 
305 如是故爾不見跡云物乎樂浪乃舊都乎令見爾本名《カクユエニミシトイフモノヲサヽナミノフルキミヤコヲミセツヽモトナ》
 
本名《モトナ》は黙也《モタナリ》の約(リ)にて俗《ヨ》に云(フ)ムダナ事【ムダナはモトナなり俗言にたま/\遺《ノコ》れるなり】また益《ヤク》ニモ無イなとの意(ロ)なり意(ロ)は舊都を見て情《コヽロ》を痛ましむれは令見《ミセ》し人を悔《クユ》るなり
 
右(ノ)謌或(ル)本(ニ)曰(ク)小辨(ノ)作也未v審2此(ノ)小弁《トイフヒト》者1也
 
幸《イテマセル》2伊勢(ノ)國(ニ)1之時(ニ)安貴《アキノ》王作歌一首
 
聖武紀に天平十二年十月大宰(ノ)少貳藤原(ノ)廣嗣か兵《イクサ》を起して反《ゾムケ》る時に伊勢に幸《イテマ》せる事あり其《ソノ》度《タヒ》なり安貴《アキノ》玉は田原天皇の御孫《ミヒコ》なり其(ノ)よし後紀延暦二十五年五月己卯【五百枝(ノ)王(ノ)傳】の下《トコロ》に見ゆ
 
306 伊勢海之奧津白浪花爾欲得※[果/衣]而妹之家※[果/衣]爲《イセノウミノオキツシラナミハナニモカツツミテイモカイヘツトニセム》
 
博通法師往(テ)2紀伊(ノ)國(ニ)1見2三穗(ノ)石室《イハヤヲ》1作歌三首
 
此人|詳《サタカ》ならす
 
307 皮爲酢寸久米能若子我伊座家留《ハタススキクメノワクコカイマシケル》【一云家牟】三穂乃石室者雖見不飽鴨《ミホノイハヤハミレトアカヌカモ》【一云安禮爾家留可毛】
 
(214)皮爲酢寸《ハタススキ》 冠辭考(ニ)云(ク)薄《スヽキ》は穗を皮《ハタ》に隱《コメ》て有(ル)ものなれは隱《クメ》の枕詞なり○久米能若子我《クメノワクコカ》 いかなる人にか詳《サタカ》ならす
【顯宗天皇の大御名を來目稚子《クメノワケコ》とも申しつるに依て難を避(ケ)て播磨にましませる時《ヲリ》に隱れ賜つる石室にやなど思ふは紀伊と播磨と國も違ひ何の據《ヨルトコロ》もなきことなるをや】○三穗乃石室《ミホノイハヤ》 玉勝間【花の雲(ノ)卷】云日高《ノ》郡三尾村の廿五町はかり東南の海邊にあり石室の中に石の觀音の像あり熊野路のうち日高川鹽屋(ノ)浦のあたりより西の海邊に一里はかりの長き松原ありて和田(ノ)松原と云(フ)此((ノ)石室は其(ノ)西の際《キハ》なりとあり七に風早之三穗乃浦廻乎榜舟之船人動浪立良下《カサハヤノミホノウラマヲコクフネノフナヒトトヨムナミタツラシモ》これも木(ノ)國の歌|等《トモ》の中にあり又此(ノ)卷の下の挽歌に加座※[白+番]夜能美保乃浦廻之白管仕見十方不怜無人念者《カサハヤノミホノウラマノシラツヽシミレトモサフシナキヒトオモヘハ》見津見津四久米能若子我伊觸家武礒之草根乃干卷惜裳《ミツミツシクメノワクコカイフレケムイソノクサネノカレマクオシモ》とあるも此(ノ)地にて即(チ)此(レ)も久米能君子《メノワクコ》をよみたり
 
308 常磐成石室者今毛安里家禮騰住家新人曾常無里家留《トキハナスイハヤハイマモアリケレトスミケルヒトソツネナカリケル》
 
309 石室戸爾立在松樹汝乎見者昔人乎相見如之《イハヤトニタテルマツノキナヲミレハムカシノヒトヲアヒミルコトシ》
 
門部(ノ)王詠2東市之樹(ヲ)1作歌一首 後賜2大原(ノ)眞人氏(ヲ)1也
 
此(ノ)王乃事續紀に和銅三年正月戊年の下《トコロ》より天平十七年四月庚述戌の所《トコロ》まてに初叙位より次第に官位の進まれしこと見えたり然れとも位階の前後かなはす又同(ナシ)事の二(タ)處(ロ)に出て官位の此《コヽ》と彼《カシコ》と違ひて出たるもありなとして混《マキ》れ誤りたるにや今よくついて難し思ふに同時に同名二人あるか又此(ノ)集にも二人かとおほゆることあり共に此《コヽ》に擧へし和銅三年正月戊午旡位門部(ノ)王(ニ)授2從五位(ノ)位(ヲ)1養老元年正月乙巳從五位上 三年七月庚子始(メテ)置(ク)2按察使(ヲ)1令3伊勢(ノ)國(ノ)守從五位(ノ)上門部(ノ)王(ニ)管2伊賀志摩二國(ヲ)1 五年正月王子正五位下 神龜元年二月壬子正五位上 五年五月丙辰從四位下 天平三年正月丙子從四位上 十二月乙未の下《トコロ》に治部(ノ)卿從四位(ノ)上門部(ノ)王とあり此集六(ノ)卷に天平九年正月彈正(ノ)尹門部(ノ)王(ノ)家(ノ)宴歌あり官位令に彈正(ノ)尹は從四位上の官なれは同人なるへし以上これまて一人なり又紀に和銅六年正月丁亥旡位門部王授2從四位下1 養老五年六月辛丑以2從四位下門部王1爲2大判事(ト)1 天平六年二(215)月癸巳朔の下《トコロ》に從四位(ノ)下門部(ノ)王とあり九年十二月壬戌以2從四位(ノ)下門部(ノ)王1爲2右京(ノ)大夫(ト)1 十四年四月戊戌從四位上 十七年四月庚戌大藏卿從四位上大原(ノ)眞人門部卒とあり此(ノ)卷(ノ)下に出雲守門部王云ふ後(ニ)賜2姓大原(ノ)眞人氏(ヲ)1也 以上これまて又一人にて即(チ)歌の作者なり又其(ノ)御流は倶に詳《サタカ》ならす
 
310 東市之殖木乃木足左右不相久美宇倍吾戀爾家利《ヒムカシノイチノウヱキノコタルマテアハスヒサシミウヘコヒニケリ》
 
東市之殖木乃《ヒムカシイチノウヱキノ》 京に東西の市ありて木を殖られたるを云(フ)雄略紀に餌香市邊橘本《ヱカノイチノヘノタチハナノモト》また天武紀に輕《カルノ》市の樹下《コノモト》なと見え二に橘之陰履路之八衢爾《タチハナノカケフムミチノヤチマタニ》また後なれと朝野群載十三【紀傳(ノ)部】なる明(ラカニスル)2城市(ヲ)1の文に翠柳閑(ニシテ)馬放(レ)2胡塞之月(ヲ)1青槐陰飛(テ)人學2魯國之風(ヲ)1と作れるも京大路《ミヤコオホチ》のさまを云るなり○木足左右《コタルマテ》は木に成り滿(チ)足らひて大(キ)なるを云(フ)十四【相模(ノ)國(ノ)歌】に多伎木許流可麻久良夜能許太流木乎《タキヽコルカマクラヤマノコタルキヲ》云々○宇倍《ウヘ》吾戀爾家利《コヒニケリ》 略解に吾の字古本に旡《ナ》しと云り○此(レ)は相聞なり市に出て妻《ツマ》とひつることも古(ヘ)の習(ヒ)なれはさるよし有てや作《ヨマ》れけむかし
 
※[木+安]作村主益人《クラツクリノスクリマスヒト》從(リ)2豐前(ノ)國1上(ル)v京(ニ)咋作歌一首
 
此(ノ)人も詳《サタカ》ならす六に内匠寮(ノ)大屬※[木+安]作(ノ)村主益人聊設2飲饌(ヲ)1以饗2長官|佐爲《サヰノ》王(ヲ)1と云る注あり
 
311 梓弓引豐國之鏡山不見久有者戀敷牟鴨《アツサユミヒキトヨクニノカガミヤマミスヒサナラハコホシケムカモ》
 
一二(ノ)句は弓を引(キ)響《トヨ》むるとかゝれりさて其處《ソコ》なる女を鏡山に譬へたり見(ル)》も鏡の縁なり豐前(ノ)國(ノ)風土記に田河(ノ)郡鏡山(ハ)【在2郡(ノ)東(ニ)1】昔者氣長足姫尊《ムカシオキナカタラシヒメノミコト》在《マシマシテ》2此(ノ)山(ニ)1遙(カニ)覽《ミソナハシ》2國形(ヲ)1勅祈云《ウケヒテノタマハク》天神地祇爲(メニ)v我(カ)助(ケタマヘ)v福(ヲ)便《カレ》用2御鏡1安2置此處(ニ)1其(ノ)鏡即|化2爲《ナレリ》石(ト)1見(ニ)在(リ)2山中(ニ)1因《カレ》名(ケテ)曰2鏡山(ト)1とあり
 
式部卿藤原(ノ)宇合《ウマカヒノ》卿被(レシ)v使(メ)v改2造《ツクリアラタメ》難波(ノ)堵《ミヤコヲ》1之時作歌一首
 
續紀に神龜三年十月庚午以2式部卿從三位藤原(ノ)朝臣宇合1爲2知造難波宮津(ト)1と有(リ)
 
312 昔者社難波居中跡所言奚米今昔京引都備仁※[奚+隹]里《ムカシコソナニハヰナカトイハレケメイマハミヤコヒキミヤコヒニケリ》
 
居中《ヰナカ》は井中《ヰナカ》なり邊鄙《ヒナ》の住《スマ》ひは田井の中に在(ル)を云(フ)京引《ミヤコヒキ》は六に名良乃京矣新世乃事爾之有者皇之引之眞爾眞荷春花乃遷日易村鳥乃旦立往者《ナラノミヤコヲアラタヨノコトニシアレハオホキミノヒキノマニマニハルハナノウツロヒカハリムラトリノアサタチユケハ》云々又今(ノ)俗《ヨ》の言《コトハ》に引(キ)遷(ル)引(キ)越(ス)すと云(フ)引(ク)に同し都備《ミヤコヒ》は宮備《ミヤヒ》里備《サトヒ》田舍備《ヰナカヒ》の例(216)にて都《ミヤコ》めくなり
 
土理宣令《トリノセニリヤウノ》歌一首
 
續紀に養老五年正月庚午詔2從七位(ノ)下|刀利《トリノ》宣令云々等(ニ)1退朝之後令v侍2束宮(ニ)1とありて文才の人なり懷風藻
にも詩《カラウタ》あり
 
313 見吉野之瀧乃白浪雖不知語之告者古所念《ミヨシヌノタキノシラナミシラネトモカクリシツケハイニシヘオモホユ》
 
一首の意(ロ)は此(ノ)瀧を見賞《ミメテ》て吉《ヨシ》と云し古(ヘノ)人は知らねと云たる詞の【歌にまれ詩にまれ】今に語り繼(ケ)れは其(ノ)世の人とも遠からぬこゝちすとなり告《ツケ》は繼《ツケ》の借宇なり吉野(ノ)瀧にて作(メ)るなるへし
 
波多《ハタノ》朝臣|少足《ヲタリノ》歌一首
 
此(ノ)人も物に見えす
 
314 小浪礒越道有能登湍河音之清左多藝通瀬毎爾《サヽレナミイソコセチナルノトセカハオトノサヤケサタキツセコトニ》
 
礒越《イソコス》を臣勢《コセ》に云かけたるなり巨勢は大和(ノ)國高市(ノ)郡にある地名なり十二に高湍爾有能登瀬乃河之《コセナルノトセノカハノ》云々
 
暮春之月幸(セル)2芳野(ノ)離宮(ニ)1時中納言大伴(ノ)卿|奉《ウケタマハリテ》v勅(ヲ)作歌一首并短歌 未(ル)v逕《ヘ》2奏上(ヲ)1歌
 
旅人卿なり聖武紀に神龜元年三月庚申朔天皇幸2芳野(ノ)宮(ニ)1甲子車駕還v宮と見ゆ此(ノ)度(ヒ)なるへし然《シカ》云(フ)よしは元正妃に養老二年三月乙巳以2從四位上大伴宿禰旅人1爲2中納言(ト)1とありて大納言に任《ナ》られし事は【史には漏(レ)て】此集【十七】に天平二年十一月大宰(ノ)帥大伴卿被v任2大納言1上京と見えたり【公卿補任に天平二年十月一日に任2大納言1とありされば十月一日に任《ナリ》て十一月に大宰府を發《タゝ》れしにそ有ける】然れは中納言なりしは養老二年三月乙巳より天平二年十月一日まての間《アヒタ》なるに三月に吉野に行幸《イテマセ》るは右に云る度《タヒ》のみにて外に混《マキ》るゝことあらされはなり
 
315 見吉野之芳野乃宮者山可良志貴有師水可良思清有師天地與長久萬代爾不改將有行幸之宮《ミヨシヌノヨシヌノミヤハヤマカラシタフトカルラシカハカラシサヤケカルラシアメツチトナカクヒサシクヨロツヨニカハラスアラムイテマシノミヤ》
 
返歌
 
316 昔見之象乃小河乎今見者彌清成爾來鴨《ムカシミシキサノヲカハヲイマミレハイヨヽサヤケクナリニケルカモ》
 
大和志に象《キサ》川(ハ)源出2青根(カ)嶽(ヨリ)1經2喜佐《キサ》谷(ヲ)1過2外象《トキサノ》橋(ヲ)1入2吉野川(ニ)1とあり又|象《キサ》山も此處《コヽ》なりか【一(ノ)卷六(ノ)卷に見ゆ】
 
山部(ノ)宿禰赤人望2不盡(ノ)山(ヲ)1歌一首并短歌
 
此人も考へき物なし
 
317 天地之分時從神左備手高貴寸駿河有布士能高嶺乎天原振放見者度日之陰毛隱比照月乃光毛不見白雲母伊去波伐加利時自久曾雪者落家留語告言繼將往不盡能高嶺者
アメツチノワカレシトキユカムサヒテタカクタフトキスルカナルフシノタカネヲアマノハラフリサケミレハワタルヒノカケモカウロヒテルツキノヒカリモミエスシラクモヽイユキハヽカリ(217)トキシクソユキハフリケルカタリツキイヒツキユカムフシノタカネハ
 
語告《カタリツキ》 告《ツキ》は繼《ツキ》の借字
 
返歌
 
318 田兒之浦從打出而見者眞白衣不盡能高嶺爾雪波零家留《タコノウラユウチイテヽミレハマシロニソフシノタカネニユキハフリケル》
 
詠2不盡(ノ)山(ヲ)1歌一首并短歌
 
319 奈麻余美乃甲斐乃國打縁流駿河能國與己知其智乃國之三中從出立有不盡能高嶺者天雲毛伊去波伐加利飛鳥母翔毛不上燎火乎雪以滅落雪乎火用消通都言不得名不知靈母座神香聞石花海跡名付而有毛彼山之堤有海曾不盡河跡人乃渡毛其山之水乃當焉日本之山跡國乃鎭十方座祇可聞寳十方成有山可聞駿河有不盡能高峯者雖見不飽香聞《ナマヨミノカヒノクニウチヨスルスルカノクニコチコチノクニノミナカユイテタテルフシノタカネハアマクモヽイユキハヽカリトフトリモトヒモノホラスモユルヒヲユキモテケチフルユキヲヒモテケチツヽイヒモエスナヅケモシラニクスシクモイマスカミカモセノウミトナツケテアルモソノヤマノツヽメルウミソフシカハトヒトノワタルモソノヤマノミツノタキチソヒノモトノヤマトノクニノシツメトモイマスカミカモタカラトモナレルヤマカモスルカナルフシノタカネハミレトアカヌカモ》
 
奈麻余美乃甲斐乃國《ナマヨミノカヒノクニ》 冠辭考に生《ナマ》なる弓のそり反《カヘ》ると云ことを甲斐《カヒ》に云(ヒ)懸(ケ)たるなるへしとあり【可閇《カヘ》と甲斐《カヒ》と閇《ヘ》斐《ヒ》の差《タカヒ》あるは十二に玉勝間安倍島山之《タマカツマアヘシマヤマノ》とよめるも玉籠《タマカタマ》の網目《アミメ》の合締《アヒシマル》と云(ヒ)懸(ケ)たるなれば阿比《アヒ》と有へきを安倍《アヘ》と云る類(ヒ)なり】○打縁流駿河能國《ウチヨスルスルカノクニ》 同書にうち※[さんずい+甘]《ユス》る※[さんずい+甘]《ス》る髪《カ》の意(ロ)なるへし髪梳《クシケツリ》に用る水を※[さんずい+甘]《ユスル》といへはなり○己知其智乃《コチコチノ》 此方此方《コチコチ》のにてあなたよりも此方《コチ》こなたよりも此方《コチ》なり○國之三中從《クニノミナカユ》 眞中《マナカ》なり○石花海跡《セノウミト》 和名抄【龜貝(ノ)類】に尨蹄子(ハ)崔禹錫(カ)食經(ニ)云(ク)貌(チ)似2犬蹄(ニ)1而附v石生者也兼名苑(ノ)注(ニ)云(ク)石花二三月皆舒2紫花1附v石而生故以名v之和名|勢《セ》と有(リ)これを※[賤の旁+立刀]《セノ》海に借(リ)たる字なり※[賤の旁+立刀]《セノ》海は三代實録【貞觀七年十二月九日の下《トコロ》】に見ゆ此《コノ》湖《ウミ》は富士(ノ)山の背《セ》にあれは背湖《セノウミ》と云なるへし
 
返歌
 
320 不盡嶺爾零置雪者六月十五日消者其夜布里家利《フシノネニフリオケルユキハミナツキノモチニケヌレハソノヨフリケリ》
 
321 布士能嶺乎高見恐見天雲毛伊去羽計田菜引物緒《フシノネヲタカミカシコミアマクモヽイユキハハカリタナヒクモノヲ》
 
右一首高橋(ノ)連蟲麻呂之歌集中(ニ)出(タリ)焉以v類載v此《コヽニ》
 
此(ノ)人の事は本集六(ノ)卷の新考に云へし
 
山部(ノ)宿禰赤人至2伊豫(ノ)温泉(ニ)1作歌一首并短歌
 
322 皇神祖之神之御言乃敷坐國之盡湯者霜左波爾雖在島山之宜國跡極此疑伊豫能高嶺乃射狹庭乃崗爾立之而歌思辭思爲師三湯之上乃樹村乎見者臣木毛生繼爾家里鳴鳥之音毛不更遐代爾神左備將往行幸處《スメロキノカミノミコトノシキマスクニノコト/\ユハシモサハニアレトモシマヤマノヨロシキクニトコヽシカモイヨノタカネノイサニハノヲカニタヽシテウタオモヒコトオモハシシミユノウヘノコムラヲミレハオミノキモオヒツキニケリナクトリノオトモカハラストホキヨニカムサヒユカムイテマシトコロ》
 
極此疑《コヽシカモ》 凝々《コヽ》しかもなり石根《イハカネ》の凝々《コヽ》しき山と云に同し○射狹庭乃崗爾立之而歌思辭思爲師《イサニハノヲカニタタシテウタオモヒコトオモハシヽ》 仙覺か釋(218)に引る伊豫國風土記(ニ)云(ク)湯之郡|天皇等於湯奉行《スメラミコトタチユニイテマシニ》降(リ)坐《シヽコト》五度也以2大帶日子《オホタラシヒコノ》天皇【景行】與《ト》大后八坂入姫命二
躯《オホキサキヤサカノイリヒメノミコトヽフタハシラヲ》1爲2一度(ト)1也以2帶中日子《タラシナカツヒコノ》天皇【仲哀】】與《ト》大后|息長帶姫命《オキナカタラシヒメノ》二躯(ヲ)1爲2一度(ト)1也以2上《ウヘノ》宮(ノ)聖徳皇子(ヲ)1爲2一度(ト)1及(ヒ)侍《サモラヒ》【侍(ヒ)は陪従を云古今集に御さむらひ御笠《ミカセ》と申《モウ》せ宮木野の木《コ》の下露は雨にまされりとよめる御侍《ミサムラヒ》もこれなり】高麗《コマノ》惠慈|僧《ホウシ》【釋日本紀に引るには高麗(ノ)惠總とあり】葛城(ノ)臣等也于v時立2湯(ノ)※[岡の異体字](ノ)側(ニ)碑文(ヲ)1記(シテ)云(ク)々其(ノ)立2碑文(ヲ)1處(ロヲ)謂2伊社邇波《イサニハ》之※[岡の異体字]1也|所2名《ナツクル》伊社邇波《イサニハト》1由《ユヱ》者當土(ノ)諸人等其(ノ)碑文(ヲ)欲(シテ)v見(ムト)、而|伊社那比來《イサナヒキタル》因《カレ》謂(フ)2伊社爾波(ト)1本也《コトノモトナリ》云々以2※[岡の異体字]本天皇【舒明】并皇后二躯(ヲ)1爲2一度(ト)1于v時於2大殿戸1有2椹與臣《クハトオミノ》木1於《ニ》2其木1集2止|鵤與鳥《イカルカトヒメトリ》1【此米《シメ》鳥と同じ】天皇爲(メニ)2此(ノ)鳥(ノ)1枝(ニ)繋《カケテ》2稻穗等(ヲ)1養《カヒ》賜(ヘリ)也2以2後(ノ)※[岡の異体字]本(ノ)天皇【齊明】近江(ノ)大津(ノ)宮御宇天皇【天智】淨御原(ノ)宮御宇天皇【天武】三躯(ヲ)1爲2一度(ト)1此(レヲ)謂2幸行五度(ト)1也とあり然《サ》れは此(ノ)歌に歌思辭思爲師《ウタオモヒコトオモハシヽ》と云るは其《ソノ》行幸《イテマシ》の度々《タヒ/\》の御歌又此(ノ)碑文なとを作り賜へることを云り○臣木毛生繼爾家里鳴鳥之音毛不更《オミノキモオヒツキニケリナクトリノオトモカハラス》 和名抄に樅(ハ)爾雅(ニ)云(ク)松葉柏身和名|毛美《モミ》とあるは於美《オミ》の轉れる名なりさて此(ノ)四句の意(ロ)は右に引る風土記の※[岡の異体字]本(ノ)天皇【舒明】の行幸の時《ヲリ》に有2椹|與《ト》臣(ノ)木1於《ニ》2其(ノ)木1集2止|鵤與鳥《イカルカトヒメトリ》11云々の古事をよめるなり
 
返歌
 
323 百式紀乃大宮人之飽田津爾船乘將爲年之不知久《モヽシキノオホミヤヒトノニキタツニフナノリシケムトシノシラナク》
 
飽田津《ニキタツ》は上に出【新考二の六十一葉】飽(ノ)字は飽《アキ》足る意(ロ)を以書るにて饒《ニキ》と書るに同し
 
登(リテ)2神岳《カミオカニ》1山部(ノ)宿禰赤人作歌一首并短歌
 
神岳《カミヲカ》は飛鳥《アスカ》の神名備《カムナヒ》山なり上に見ゆ【新考七の二十四葉】
 
324 三諸乃神名備山爾五百枝刺繁生有都賀乃樹乃彌繼嗣爾玉葛絶事無在管裳不止將通明日香能舊京師者山高三河登保志呂之春之者山四見容之秋夜者河四清之旦雲二多頭羽亂夕霧丹河津者驟毎見哭耳所泣古思者《ミモロノカムナヒヤマニイホエサシシヽニオヒタルツカノキノイヤツキ/\ニタマカツラタユルコトナクアリツヽモヤマスカヨハムアスカノフルキミヤコハヤマタカミカハトホシロシハルノヒハヤマシミカホシアキノヨハカハシサヤケシアサクモニタツハミタレユフキリニカハツハサワクミルコトニネノミシナカユイニシヘオモヘハ》
 
登保志呂之は遠著明《卜ホシロ》しにて遠く望《ミ》るにもいちしろく鮮明《アサヤカ》なるを云り
 
見容之《ミカホシ》は見之欲《ミカホ》しにて見ることの欲《ホシ》きなり
 
返歌
 
325 明日香河川餘藤不去立霧乃念應過孤悲爾不有國《アスカカハカハヨトサラスタツキリノオモヒスクヘキコヒニアラナクニ》
 
(219)河霧《カハキリ》の晴(レ)せぬ如く古(ヘ)を慕《シノ》ふ戀の過(キ)去らぬなり
 
門部(ノ)王在(テ)2難波(ニ)1見2漁父燭光《アマノイサリヒヲ》1作歌一首 後(ニ)賜2大原(ノ)眞人氏(ヲ)1也
 
此王は上【十三葉】に出
 
326 見渡者明石之浦爾燒火乃保爾曾出流妹爾戀久《ミワタセハアカシノウラニモユルヒノホニソイテヌルイモニコフラク》
 
或(ル)娘子等《ヲトメトモ》賜2※[果/衣]乾鰒《ツヽミタルホシアハヒヲ》1戯(レニ)請(ヘル)2通觀〔二字傍線〕僧之《ホウシノ》咒願(ヲ)1時(ニ)通觀〔二字傍線〕作歌一首
 
通觀|詳《サタカ》ならす咒願は乾鰒《ホシアハヒ》を蘇生《ヨミカヘ》らしめむとにはあらす此れを海に放(タ)むとす咒願して給へとて遣(リ)たるなり生類《イケルモノ》を放つには咒願することなれはなり靈異記【中卷八段】に蟹《カニ》を咒願して放つ事あり又【同卷十六段に】※[虫+康]《カキ》をも然する事見えたり
 
327 海若之奧爾持行而雖放宇禮牟曾此之將死還生《ワタツミノオキニモチユキテハナツトモウレムソコレカヨミカヘラマシ》
 
宇禮牟曾《ウレムソ》は得《エ》られむその約(リ)なり上に奈何《イカニ》してと云(フ)言を加《ソヘ》て心得へし奈何《イカ》にして此れか蘇生《ヨミカヘ》ることを得《エ》られむその意(ロ)なり十一に平山子松末有廉叙波我思妹不相止嘗《ナラヤマノコマツカウレノウレムソハアカオモフイモニアハスヤミナム》とあるも二(ノ)句まては序にて奈何《イカニ》して我(カ)思ふ妹に不相《アハス》して止(ム)ことを得《エ》られむその意(ロ)なり
 
大宰(ノ)少貳小野(ノ)老《オユノ》朝臣歌一首
 
續紀に養老三年正月壬寅正六位(ノ)下小野(ノ)朝臣老援2從五位下1四年十月戊子任2右少辨1天平元年三月申午叙2從五位上1三年正月丙子正五位下。五年三月辛亥正五位上。六年正月己卯從四位下。九年六月甲寅大宰(ノ)大貳從四位(ノ)下小野(ノ)朝臣老卒とありて少貳に任《ナリ》しことは見えす
 
328 青丹吉寧樂乃京師者咲花乃薫如今盛有《アヲニヨシナラノミヤコハサクハナノニホフカコトクイマサカリナリ》
 
大宰府に在(リ)て京を戀るなり此(レ)より次々の歌|等《トモ》も皆|然《シカ》なり
 
防人司佑《サキモリノツカサノセウ》大伴(ノ)四繩《ヨツツナノ》歌二首
 
此(ノ)人物に牙《ナ》し
 
329 安見知之吾王乃敷座在國中者京師所念《ヤスミシシワコオホキミノシキマセルクニノナカニハミヤコオモホユ》
 
330 藤浪之花者盛爾成來平城京乎御念八君《フチナミノハナハサカリニナリニケリナラノミヤコヲオモホスヤキミ》
 
上に云る如く此(ノ)人々|相共《アヒトモ》に大宰に在(リ)て京を慕《シノ》ふ歌|等《トモ》なれは君とせるは師少貳なとなり誰(レ)と一|人《リ》には局《カキ》らす
 
帥大伴卿(ノ)歌五首
 
(220)旅人郷なり
 
331 吾盛復將變八方殆寧樂京師乎不見歟將成《ワカサカリマタヲチメヤモホト/\ナラノミヤコヲミスカナリナム》
 
復將變八方《マタヲチメヤモ》 乎知《ヲチ》とは舊《モト》に復《カヘ》ること若《ワカ》かへることなとに云り五に和我佐可理伊多久久多知奴久毛爾得夫久須利波武等母麻多遠知米也母《ワカサカリイタククタチヌクモニトフクスリハムトモマタヲチメヤモ》 久毛爾得夫久須利波牟用波美也古彌婆伊夜之吉阿何微麻多越知奴倍之《クモニトフクスリハムヨハミヤコミハイヤシキアカミマタヲチヌヘシ》十三に天橋文長雲鴨高山文高雲鴨月夜見乃持有越水伊取來而公奉而越得之牟物《アマハシモナカクモカモタカヤマモタカクモカモツクヨミノモタルヲチミツイトリキテキミニマツリテヲチエシムモノ》これらは若かへることを云(ヒ)又十七なる鷹(ノ)歌に手放毛乎知母可夜須伎《タハナレモヲチモカヤスキ》云々とある乎知は放《ハナ》てる鷹の手に歸るを云(ヒ)二十に和我夜弩爾爾佐家佐家流奈弖之故麻比波勢牟由米波奈知流奈伊也乎知爾佐家《《ワカヤトニサケルナテシコマヒハセムユメハナチルナイヤヲチニサケニサケ》これも散(ル)ことなくて故《モト》に歸りさけなりされは此《コヽ》のももとの壯盛《ワカサカリ》にまた復《カヘ》らめやなり
○殆《ホト/\》 語意《コトノコヽロ》邊々《ホトリ/\》にて其(ノ)近き邊(リ)まて至る意(ロ)なり此《コヽ》のは京を不見《ミス》して死ぬへき邊(リ)まて至れるにて齡《ヨハヒ》の老《オイ》たるを云り
 
332 吾命毛常有奴可昔見之象小河手行見爲《ワカイノチモツネニアラヌカムカシミシキサノヲカハヲユキテミムタメ》
 
象《キサノ》小河は吉野にあり上【十八葉】に見ゆ
 
333 淺茅原曲曲二物念者故郷之所念可聞《アサチハラツハラ/\ニモノオモヘハフリニシサトノオモホユルカモ》
 
淺茅原《アサチハラ》は曲《ツハラ》を云む序なり智波良《チハラ》都婆良《ツハラ》音《コヱ》通《カヨ》へはなり曲《ツハラ》は粒《ツフ》ら又|圓《ツフラ》にて粒々《ツフ/\》と一箇一箇《ヒトツ》《ヒトツ》なるを云(フ)故《カレ》委曲詳審具備なとの字を都婆良加《ツハラカ》また都夫佐《ツフサ》なとに配《アテ》たるも粒々《ツフ/\》と一箇《ヒトツ》一箇《ヒトツ》に晩漏《オツ》ることなき意(ロ)なり又|楫音《カチノオト》の都婆良都婆良と云(フ)なとも是(レ)なり然《サ》れは此《コヽ》の曲曲二物念者《ツハラ/\ニモノオモヘハ》とは粒々《ツフ/\》と一箇《ヒトツ》一箇《ヒトツ》に晩漏《オツ》ることなく念ふにて委曲《ツハラカ》なる意(ロ)なりさてこと淺茅原も故郷《フルサト》と云(フ)に縁《ヨ》せたる詞にて淺茅原と故郷の荒(レ)なむことを思はしめたり
 
334 萱草吾紐二付香具山乃故去之里乎不忘之爲《ワスレクサワカヒモニツクカクヤマノフリニシサトヲワスレヌカタメ》
 
335 吾行者久者不有夢和太湍者可成而淵有毛《ワカユキハヒサニハアラシイメノワタセニハナラステフチニアレヤモ》
 
大和志に吉野(ノ)郡夢(ノ)回《ワタノ》淵(ハ)在2御料(ノ)荘新住村(ニ)1俗呼2梅(ノ)回《ワタト》1淵中奇石多(シ)とあり七に【芳野(ノ)作】夢乃和太事西在來寤毛見而來物乎念四念者《イメノワタコトニシアリケリウツヽニモミテコシモノヲオモヒシオモヘハ》 懷風藻に【從2駕(ニ)吉野(ノ)宮(ニ)1吉田(ノ)連|宜《ヨロシ》】神宮深亦靜勝地寂復幽雲(ハ)卷(ク)三舟(ノ)谿霞(ハ)開(ク)八石(ノ)洲葉黄(ニ)初(メテ)送(リ)v夏(ヲ)桂白(クシテ)早(ク)迎(フ)v秋(ヲ) 今日夢淵々 遺響千年流(ル)また河海抄に世(ノ)(221)中は夢《ユメ》の渡(リ)の浮橋か打渡しつゝ物をこそ思へとあるも此處《コヽ》なるへし
 
沙彌滿誓詠v緜(ヲ)歌一首
 
續紀に養老五年五月己酉太上天皇【元明】不豫大2赦天下(ニ)1云々戊午右大辨從四位(ノ)上笠(ノ)朝臣麻呂請d奉2爲《ミタメニ》太上天皇(ノ)1出家人道(セムト)u勅(シテ)許(ルサル)之七年二月丁酉遣(ハシテ)2僧滿誓(ヲ)【俗名從四位上笠朝臣麻呂】於筑紫(ニ)1令v造2觀世音寺(ヲ)1とあり此歌も筑紫(ノ)綿をよめれは彼處《カシコ》にてのことなるへし又|僧《ホウシ》に綿を被《カツク》ることもあり
 
336 白縫筑紫乃綿者身著而未者伎禰杼暖所見《シラヌヒノツクシノワタハミニツケテイマタハキネトアタヽカニミユ》
 
白縫《シラヌヒ》は不知火《シラヌヒ》の借字にて不知火《シラヌヒ》は筑紫の枕詞なり其(ノ)よしは日本紀(ノ)釋に引る公望私記(ニ)曰(ク)案2肥後(ノ)國(ノ)風土記(ヲ)1云肥後(ノ)國(ハ)者本(ト)與2肥前(ノ)國1合|爲《タリ》2一國1昔(シ)崇神天皇之|世《ミヨニ》益城(ノ)郡|朝來名《アサキナノ》峯(ニ)有(キ)2土蜘昧《ツチクモ》1》名(ヲ)曰(ヘリ)2打猿《ウチサル》頸猿《ウナサルト》1二人|率《ヒキヰテ》2徒衆百八餘人《トモカラモヽヤソマリノヲ》1蔭《カクレ》2於峯頂(ニ)1常(ニ)逆(ヒ)2皇命(ニ)1不(リキ)2肯降服《アヘテマツロハ》1天皇勅2肥(ノ)君等(ノ)祖《オヤ》健緒組《タケヲクミニ》1遣(ハシキ)v誄《トリニ》2彼(ノ)財衆《トモカラ》1健緒組奉v勅(ヲ)到(リ)來(テ)皆悉《コト/\クニ》誅夷《ウチタヒラケキ》便《カレ》巡(リ)2國裏《クヌチヲ》1兼(テ)察《ミキ》2消息《アルカタチヲ》1乃到(リ)2八代《ヤツシロノ》郡白髪山(ニ)1日晩(レテ)止宿《ヤトリヌ》其(ノ)夜|虚空《オホソラニ》有(テ)v火|自然《オノツカラ》而|燎《モエツヽ》稍稍《ヤヽヤヽニ》降下《クタリツキテ》者燒(キタリ)2此(ノ)山(ヲ)1健緒組見(テ)之|大《イタク》懷《オモヒ》2驚恠《アヤシト》1行事《マツルコト》既(ニ)畢(リテ)参2上《マヰノホリキ》朝庭《ミカトニ》1陳2行状奏言1《アリシカタチヲマヲシキ》云々天皇下v詔曰剪2拂賊徒(ヲ)1頗(ル)無2西(ノ)眷《カヘリミ》1海上之勲誰(レ)人(カ)比《ナソラヘム》之又火(ノ)從(リ)v空下(リ)燒(キシコトモ)v山(ヲ)亦|怪《アヤシノ》火下(リシ)之國(ナレハ)可v名2火(ノ)國(ト)1又景行天皇誅2球磨贈唹《クマソヲ》1兼(テ)巡2狩諸國(ヲ)1云々幸(シ)2於火(ノ)國(ニ)1渡海之間(タニ)日|歿《クレヌ》夜暗(クシテ)不v知v所(ヲ)v著(ム)忽有2火光1遙(ニ)視2行前《ユクサキニ》1天皇勅2棹人《カチトリニ》1曰行前火曰|行前《ユクサキノ》火(ヲ)見(テ)直《タヽニ》指(シテ)而往(ケ)隨v勅往(キシカハ)之果(シテ)得(タリ)v著(クコトヲ)v崖《キシニ》即勅曰火(ノ)燎《モエシ》之處(ロ)此(ヲ)號(ヘル)2何(ノ)界《クニト》1所燎《モエシ》之火(マ)亦爲2何(ノ)火1土人奏言《クニヒトマヲシケラクコハ》此是《》火(ノ)國八代(ノ)郡火(ノ)邑(ナリ)但(シ)末v審2火(ノ)由1于v時詔2群臣1曰燎(シ)之火非2俗火1也火(ノ)國(ノ)之由(シ)知(ヌ)2所以《ユヱヲ》1然回(ルトキハ)2此(レ)等(ノ)文(ニ)1可v謂v有(ト)2二義1歟とある○筑紫乃綿者《ツクシノワタハ》 つくしの綿は名高き國産《クニツモノ》なり物に多く見ゆ○一首の意(ロ)は譬喩《タトヘ》にていまた寢《ネ》も見ぬ女なれとも好美《ウマ》かりぬへき人さまかなとなり僧《ホウシ》にては相應《フサハ》しからぬ如くなれと然らす三代實録に貞觀八年三月四日大宰府(ノ)解(ニ)稱(ク)觀音寺(ノ)講師傳燈大法師位性忠(カ)申牒(ニ)稱(ク)寺家(ノ)人清貞宗主等二人(ハ)從五位(ノ)下【從四位(ノ)上と有べきことなり】笠(ノ)朝臣麻呂五代之孫也麻呂天平年中爲2造寺使(ト)1【天平は養老と有べきを此(レ)も誤(リ)なりさて此(ノ)牒文の趣(キ)は僧の女を犯せること(222)を隱せるものなりさる故《カラ》に滿誓と云べきを麻呂と云(ヒ)爲2造寺別當1と云べきをも爲2造寺使1と云るも俗に在る官人のさまにいひなせるものなり】麻呂通2寺家(ノ)女|赤須《アカスニ》1生2清貞等(ヲ)1即隨v母爲(リヌ)2家人(ト)1【隨v母爲2家人1とは僧の子なればあらはして良に從へかたく賤に從へ寺家におきたるなり牒文の如く實に從五位(ノ)下笠(ノ)朝臣麻呂と云る官人にて産(マ)しめたる子なりせば豈《アニ》寺家の賤奴《ヤツコ》にてあらめやは僞(リ)のほころびぬるこそをかしけれ】清貞(ノ)祖父夏麻呂向2大政官并大宰府(ニ)1頻(リニ)經(タリ)2披訴(ヲ)1而(レトモ)未(タ)v蒙1勅裁(ヲ)1夏麻呂死去(シヌ)清貞等(ノ)愁猶未(タ)v有v止(ムコト)寺家覆察(スルニ)事非2虚妄(ニ)1望(ミ)請准2據(ル)格旨(ニ)1從(ヘ)v良(ニ)貫2附(セシメム)筑後(ノ)國竹野(ノ)郡(ニ)1大政官處分(スラク)依v請(ニ)とも有を思へし
 
山(ノ)上(ノ)臣憶良|罷《マカル》v宴(ヨリ)歌一首
 
337 憶良等者今者將罷子將哭其彼母毛吾乎將待曾《オクラヽハイマハマカラムコナクムラソノカノハヽモアヲマツラムソ》
 
大宰(ノ)帥大伴(ノ)卿讃v酒歌十三首
 
338 驗無物乎不念者一杯乃濁酒乎可飲有良師《シルシナキモノヲオモハスハヒトツキノニゴレルサケヲノムヘカルラシ》
 
不念者《オモハスハ》は將念《オモハム》よりはなり
 
339 酒名乎聖跡負師古者大聖之言乃宜左《サケノナヲヒシリトオホセシイニシヘノオホキヒシリノコトノヨロシサ》
 
魏略に太祖禁v酒而人|竊(カニ)飲(ム)故(ニ)難v言v酒(ト)以2獨酒1爲2賢者(ト)1清酒(ヲ)爲2聖人(ト)1また蒙求に魏(ノ)徐※[しんにょう+貌]字(ハ)景山爲(リシ)2尚書郎1時(ニ)禁v酒而※[しんにょう+貌]私(カニ)飲(ミ)沈醉(ス)趙達問(フニ)以2曹事1※[しんにょう+貌](カ)曰(ク)中《アテラル》2聖人(ニ)1達白(ス)大祖怒(ル)鮮于輔進(テ)曰醉客謂2酒(ノ)清(メル)者(ヲ)1爲2聖人(ト)1濁(ル)者(ヲ)爲2賢人(ト)1※[しんにょう+貌]偶《タマ/\》醉言耳なとあり
 
340 古之七賢人等毛欲爲物者酒西有良師《イニシヘノナヽノサカシキヒトトモヽホリスルモノハサケニシアルラシ》
 
七賢は※[稽の旨が山]康阮籍山濤劉伶阮咸向秀王戎なり
 
341 賢跡物言從者酒飲而醉哭爲師益有良之《カシコシトモノイフヨリハサケノミテヱヒナキスルシマサリタルラシ》
 
342 將言爲便將爲爲便不知極貴物者酒西有良之《イハムスヘセムスヘシラニキハマリテタフトキモノハサケニシアルラシ》
 
343 中中二人跡不有者酒壺二成而師鴨酒二染嘗《ナカナカニヒトヽアラスハサカツホニナリニテシカモサケニシミナム》
 
中中《ナカ/\ニ》二は何《イツ》れにも着(カ)す中《ナカ》らなるを云|此《コヽ》は欲《ホシ》き隨《マヽ》に酒のむはかりの人ならはこそあらめ若《モ》しさも得せぬはかりの人ならむは人に有(リ)なから人にあらさるか如く何《イツ》れにも着《ツカ》す中《ナカ》らなるなりさあらむよりはなほいかて酒壺《サカツホ》に成にてしかな酒に染《シミ》てありなむほとにとなり中中《ナカ/\》は皆かくの如くになむ有ける十二に中々二人跡不有桑子爾毛成益物乎玉之緒計《ナカ/\ニヒト》ヽアラスハクハコニモナラマシモノヲタマノヲハカリ》【人と有ながら思ふ人と相(ヒ)住(ム)ことを得せざらむよりは夫婦《メヲ》二《フタ》こもりの蠶にならましをとなり】十七に奈加奈加爾之奈婆夜須家牟伎美我目乎美受比佐奈良婆須瞥奈加流倍思《ナカナカニシナハヤスケムキミカメヲミスヒサナラハスヘナカルヘシ》【生《イケ》りとも君乎相(ヒ)かたくて物思はむよりは死(ナ)はやすからむとなり】これらも同し○呉志に鄭泉臨2卒時1語2(223)同輩1曰必葬(ン)2我(ヲ)陶家之側(ニ)1庶《コヒネカハク》百歳後(ニ)化(シテ)而成(リテ)v土(ト)幸(ニ)見(レテ)v取爲(ラハ)2酒壺(ト)1實(ニ)獲(ム)2我心(ヲ)1矣
 
344 痛醜賢良乎爲跡酒不飲人乎熟見者猿二鴨似《アナミニクサカシラヲストサケノマヌヒトヲヨクミレハサルニカモニル》
 
345 價無寶跡言十方一杯乃濁酒爾豈益目八《アタヒナキタカラトイフトモヒトツキノニコレルサケニアニマサラメヤ》
 
無價寶珠は法華經に見えたり
 
346 夜光玉跡言十方酒飲而情乎遣爾豈若目八目《ヨルヒカルタマトイフトモサケノミテコヽロヲヤルニアニシカメヤモ》【一云|八方《ヤモ》】
 
夜光(ノ)玉は漢國《モロコシ》に古く名高き寶物にて物に多く見ゆ
 
347 世間之遊道爾怜者醉哭爲爾可有良師《ヨノナカノアソヒノミチニタヌシキハエヒナキスルニアルヘカルラシ》
 
348 今代爾之樂有者來生者蟲爾鳥爾毛吾羽成奈武《コノヨニシタヌシキシアラハコムヨニハムシニトリニモワレハナリナム》
 
莊子【内篇大宗師】に子祀子輿子|犂《レイ》子來四人相(ヒ)與(モニ)語(テ)曰|執《タレカク》能以v無(ヲ)爲(シ)v首(ト)以v生(ヲ)爲v脊(ト)以v死爲(ム)v尻(ト)孰《タレカ》知2死生存亡之一體(ナルコト)1者吾與v之友(タラム)矣四人相視而笑(フ)莫v逆(フコト)2於心(ニ)1遂(ヒニ)相(ヒ)與(モニ)爲友俄而子輿有v病子祀往(テ)問之云々曰|嗟乎《アヽ》夫《カノ》造物者又將(ニ)3以v予爲2此(ノ)拘拘(タルコトヲ)1也子祀曰汝惡(ム)v之(カ)乎曰亡《ナシ》予何惡(マム)浸假而《ヤウヤクセシメラレテ》化(シテ)2予(カ)之左臂(ヲ)1以|爲《ナサハ》v鷄(ニ)予因(テ)以求(メム)2時夜(ヲ)2浸(ク)假而《セシメラレテ》化(シテ)2予之右臂(ヲ)1以|爲《ナサハ》v彈《ハシキユミニ》1予因以求(メム)2【ゲタ+鳥】(ノ)炙《アフリモノヲ》1浸(ク)假而《セシメラレテ》化(シテ)2予之尻(ヲ)1以爲v輪(ト)以v神《タマシヒヲ》爲(サハ)v馬(ト)予因(テ)乘(ラム)v之(ニ)豈更(ラニ)駕(セムヤ)哉|且《マタ》夫《カノ》得(ルハ)者時也失(フハ)者順也安(シテ)v時(ヲ)而處(レハ)v順(ニ)哀樂(モ)不v能v入(ルコト)也云々俄而子來有v病喘喘然(トシテ)將v死其嬬子|環《メクリテ》而泣(カ)之|犂《レイ》往問之曰|叱《シツ》避《サレ》無(レ)v怛《オトロカスコト》v化(ヲ)倚(テ)2其(ノ)戸(ニ)1與v之語(テ)曰偉(ナルカナ)哉造化又|將《ハタ》奚《イカニ》以v汝(ヲ)爲(ム)將(タ)奚《イカニ》以v汝|適《ユカシメムトスル》以v汝爲(ムカ)2鼠(ノ)肝(ト)1乎以v汝爲(ムカ)2蟲(ノ)臂(ト)1乎云々なとありこれらの趣《サマ》なり
 
349 生者逐毛死物爾有者今生在間者樂乎有名《ウマルレハツヒニモシヌルモノニアレハコノヨナルマハタヌシクヲアラナ》
 
有名《アラナ》は將有《アラム》なり
 
350 黙然居而賢良爲者飲酒而醉泣爲爾尚不如來《モタヲリテサカシラスルハサケノミテヱヒナキスルニナホシカスケリ》
 
沙彌滿誓(ノ)歌一首
 
此人は上【二十六葉】に有(リ)
 
351 世間乎何物爾將譬旦開榜去師船之跡無如《ヨノナカヲナニヽタトヘムアサヒラキコキニシフネノアトナキカコト》
 
旦開《アサヒラキ》は且《アシタ》に船出するなり集中に多くあり又神祇式に遣唐使開(ク)2船居《フナスヱヲ》1祭(リ)とあるも發船《フナテ》の祭なり凡て開《ヒラク》は船に附(キ)て云(フ)詞なり
 
若湯座《ワカユヱノ》王(ノ)歌一首
 
此(ノ)王物に見えす
 
(224)352 葦邊波鶴之哭鳴而湖風寒吹良武津乎能埼羽毛《アシヘニハタツカネナキテミナトカセサムクフクラムツヲノサキハモ》
 
津乎能埼《ツヲノサキ》詳《サタカ》ならす和名抄に近江國淺井(ノ)郡|都宇《ツウ》と云(フ)郷《トコロ》はあり猶よく考へし此(ノ)歌は後時《ノチ》に彼(ノ)地を想像《オモヒヤリ》たるなり
 
釋通觀(ノ)歌一首
 
 此(ノ)人上【二十四葉】に出
 
353 見吉野之高城乃山爾白雲者行憚棚引所見《ミヨシヌノタカキノヤマニシラクモハユキハヽカリテタナヒケリミユ》
 
高城乃山《タカキノヤマ》詳ならす
 
日置少老《ヒオキノコユノ》歌一首
 
詳《サタカ》ならす
 
354 繩乃浦爾鹽燒火氣夕去者行過不得而山爾棚引《ナハノウラニシホヤクケフリユフサレハユキスキカネテヤマニタナヒク》
 
風俗(ノ)亂【繩振】に奈波乃川不良衣乃波留奈禮波可須見天見由留奈波乃川不良衣《ナハノツフラエノハルナレハカスミテミユルナハノツフラエ》 名寄に【顯昭】雪ふれは葦のうら葉も波こえてなにはもわかぬなはのつふら江とよめれは攝津國にや
     
生石村主《オヒシノスクリ》眞人(ノ)歌一首
 
續紀に天平勝寶二年正月乙巳正六位上大石村主眞人授2外從五位下1と見ゆ外に考へき物旡し
 
355 大汝小彦名乃將座志都乃石室者幾代將經《オホナムチスクナヒコナノイマシケムシツノイハヤハイクヨヘヌラム》
 
玉勝間【花の雪(ノ)卷】に石見國|邑知《オホチノ》郡岩屋村と云にいと大(キ)なる岩屋あり里人しづ岩屋と云出雲備後の界(ヒ)に近き處にて濱田より廿里餘り東の方いと山深き所にて濱田の主《ウシ》の領《シラ》す地(ロ)なり此岩屋高さ三十五六間もある大岩屋なり又其近(キ)邊(リ)にも大なる小き岩屋あまたありいにしへ大穴牟遲《オホナムチ》少彦名《スクナヒコナ》二神の隱れ賜ひし岩屋なりと昔より里人語(リ)傳へたりさて古(ヘ)はやかて此(ノ)岩屋を祭(リ)しに中頃《ナカコロ》より其(ノ)外に《ト》別に社を建て祭る志津權現と申すとそ此(ノ)事彼(ノ)國の小篠御野《ヲサヽノミヌ》かもとよりたゝに彼(ノ)里人に逢て委く問(ヒ)聞つるなりとていひおこせたるなり萬菓集三(ノ)卷なる歌の志都の石屋《イハヤ》は此(レ)ならむかとも思へと猶思ふに萬葉なるはいかゝあらむ彼(ノ)歌の作主《ヨミヌシ》生石(ノ)村主眞人と云(フ)人若し石見國の官人なとにて彼國に在て往てよめらむは知すさもあらさらむには彼國は他《コト》國人の往こと希《マレ》なるに殊にさはかり山深き奧區《オクトコロ》ならむには世人の知てよむへきものともおほえすされと後(ノ)世(ノ)人の作りて云へき所ともおほえねは必古きよし有て(225)たゝならぬ所とは聞えたりと有(リ)
 
上《ウヘノ》古《コ》麻呂(ノ)歌
 
こもさたかならす
 
356 今日可聞明日香河乃夕不離川津鳴瀬之清有良武《ケフモカモアスカノカハノユフサラスカハツナクセノキヨクアルラム》【或本(ノ)歌(ノ)發句(ニ)云(ク)明日香川今毛可毛等奈】
 
或本の今毛可毛等奈《イマモカモトナ》 毛等奈は黙也《モタナリ》にて徒《イタツ》らに無益の意なり故(レ)此《コヽ》も明日香川の清(キ)瀬に蝦《カハツ》の鳴らむと想像《オモヒヤ》るのみにして經ても兒ねは思《ヒ》の徒らに無益なるを云り俗言のムダナと云は即(チ)此《コ》の毛等奈なり
 
山部(ノ)宿禰赤人(ノ)歌六首
 
357 繩浦從背向爾所見奧島榜回舟者釣爲良下《ナハノウラユソカヒニミユルオキツシマコキタムフネハツリセスラシモ》
 
繩(ノ)浦は上【三十六葉】なると一(ツ)所にて攝津國か奧《オキツ》島は地名にあらし回《クム》は曲《マカ》るなり
 
358 武庫浦乎榜轉小舟粟島矣背爾見乍乏小舟《ムコノウラヲコキタムヲフネアハシマヲソカヒニミヽツトモシキヲブネ》
 
武庫は攝津國武庫(ノ)郡なり粟島は古事記傳【四の三十六葉】云高津(ノ)宮(ノ)段(ノ)大御歌に淤志弖流夜那爾波能佐伎用伊傳多知弖和我久邇美禮婆阿婆志摩淤能碁呂志摩阿遲摩佐能志摩母美由佐氣都志摩美由《オシテルヤナニハノサキヨイテタチテワカクニミレハアハシマオノコロシマアチマサノシマモミユサケツシマミユ》萬葉三に武庫浦乎榜轉小舟粟島乎背爾見乍乏小舟《ムコノウラヲコキタムヲフネアハシマヲソカヒニミツヽトモシキヲフネ》四に淡路乎過粟島乎背爾見乍《アハチヲスキアハシマヲソカヒニツヽ》云々七に粟島爾許枳將渡等思鞆赤石門浪未佐和來《アハシマニコキワタラムトオモヘトモアカシノトナミイマタサワケリ》【十二にもあり】これらに依(ル)に淡路の西北なるへし仙覺釋に讃岐國屋島(ノ)北去(ルコト)百歩許(リ)有v島名(ヲ)曰2阿波島(ト)1とありなほよく尋へし九(ノ)卷に粟小島《アハノコシマ》とよめるも此(レ)なるへし【十五(ノ)卷にもあれとも周防國ときこゆ又書紀に少名毘古那(ノ)神の淡島に至て粟莖《アハカラ》に彈《ハシカ》れて常世郷《トコヨノクニ》にいてませると有(ル)は風土記に依(ル)に伯耆國なり又出雲にも粟島あり風土記に見ゆ】云々【以上古事記傳】背《ソカヒ》は背之方《ソカヘ》なり乏《トモシキ》はうらやましきなり
 
359 阿倍乃島字乃住石爾依浪間無比來日本師所念《アヘノシマウノスムイソニヨスルナミマナクコノコロヤマトシオモホユ》
 
阿倍之島《アヘノシマ》いつくならむ古く見ゆるは筑前國にて【糟屋郡なりと云り】仲哀紀【八年】に阿閇《アヘノ》島神功紀【卷首】に我瓮海人《アヘノアマ》なとあり夫木集【廿五】に香椎《カシヒ》かた夕霧かくれこきくれはあへの島津に千鳥しはなく又十二に玉勝間安倍島山之暮露爾旅宿得爲也長此夜乎《タマカツマアヘシマヤマノユフツユニタヒネハエスヤナカキコノヨヲ》とよめるも此《コヽ》なると同(シ)處にやあらしか
 
360 鹽干去者玉藻苅藏家妹之濱※[果/衣]乞者何矣示《シホヒナハタマモカリヲサメイヘノイモカハマツトコハヽナニヲシメサム》
 
361 秋風乃寒朝開乎佐農能崗將超公爾衣借益矣《アキカセノサムキアサケヲサヌノヲカコユラムキミニキヌカサマシヲ》
 
佐農能《サヌノ》崗は木(ノ)國日高(ノ)郡にあり【新考八の三十六葉に云(リ)】
 
(226)362 美沙居石轉爾生名乘藻乃名者告志五余親者知友《ミサコヰルイソマニオフルナノリソノナハノラシテヨオヤハシルトモ》
 
四(ノ)句の五は弖《テ》の誤なり古(ヘ)女より男に名|告《ノリ》をすることは婚《アハ》むと許諾《ユル》す時のことなれはかくよめり
 
或本(ノ)歌日
 
363 美沙居荒礒爾生名乘藻乃告名者告世父母者知友《ミサコヰルアリソニオフルナノリソノヨシナハノラセオヤハシルトモ》
 
四句の告は吉《ヨシ》の誤
 
笠(ノ)朝臣金村鹽津山作歌二首
 
此(ノ)人も物に旡し和名抄に近江國淺井(ノ)郡鹽津之保津式に同郡鹽津神社あり九に高島之足利湖乎榜過而鹽津菅浦今者將榜《タカシマノアトノミナトヲコキスキテシホツスカウライマハコクラム》十一に味鎌之鹽津乎射而水手船之《アチカマノシホツヲサシテコクフネノ》云々なとよめるも此地なるへし伴(ノ)蒿蹊(カ)云(ク)近江國高島(ノ)郡を經て越前國|敦賀《ツルカ》に出る順路《ミチ》に鹽津|海津《カイツ》なとつゝけり菅浦《スカウラ》もあり今は菅《スカ》の浦と云(フ)と云(ヘ)り此(ノ)歌に次《ツキ》て角鹿《ツヌカノ》津(ヨリ)乘v船時として同人の作歌《ウタ》あれは蒿蹊の説《イフ》と地理よく合へり角鹿《ツヌカ》即《ヤカテ》敦賀《ツルカ》のことなれはなり
 
364 大夫之弓上振起射都流矢乎後將見人者語繼金《マスラヲノユスヱフリオコシイツルヤヲノチミムヒトハカタリツクカネ》
 
鹽津山に存在《ノコ》れる古事《フルコト》にや又此(ノ)作者の然《シカ》して過られたるにや
 
365 鹽津山打越去者我乘有馬曾爪突家戀良霜《シホツヤマウチコエユケハワカノレルウマソツマツクイヘコフラシモ》
 
家にて戀らしなりかゝる諺《コトワサ》有しにこそ七に妹門入出見河之瀬速見吾馬爪衝家思良下《イモカカトイリイヅミカハノセヲハヤミアカウマウマツクイヘモフラシモ》 白栲爾丹保布信土之山川爾吾馬難家戀良下《シロタヘニニホフマツチノヤマカハニワカウマナツムイヘコフラシモ》なとあり
 
角鹿《ツヌカノ》津(ヨリ)乘船《》フナノレル時(ニ)笠(ノ)朝臣金村作謌一首并短歌
 
角鹿《ツヌカ》は越前國に隱れなく人の知れる今の敦賀《ツルカノ》津なり
 
366 越海之角鹿之濱從大舟爾眞梶貫下勇魚取海路爾出而阿倍寸管我榜行者大夫之手結我浦爾海未通女鹽燒炎草枕客之有者獨爲而見知師無美綿津海乃手二卷四而有珠手次懸而之努櫃日本島根乎《コシノウミノツヌカノハマユオホフネニマカチヌキオロシイサナトリウミチニイテヽアヘキツヽワカコキユケハマスラヲノタユヒカウラニアマヲトメシホヤクケフリクサマクラタヒシニシアレハヒトリシテミルシルシナミワタツミノテニマカシタルタマタスキカケテシヌヒツヤマトシマネヲ》
 
阿倍寸《アヘキ》は喘《アヘキ》にて梶を取(ル)者《モノ》の努力《ツト》めて物するを云り又此下【六十一葉】に安倍而榜出牟《アヘテコキテム》云々と有も一(ツ)言にて言の原《モト》は敢《アヘ》の活用《ハタ》らけるなり敢而《アヘテ》堪而《アヘテ》勝而《タヘテ》これら皆同くして膂力《チカラ》を出し勉強《ツト》めて爲ることに云又|然《シカ》すれは息《イキ》のは喘《アヘ》くものなれはなりされは喘《アヘ》くは敢《アヘ》くにて牛なとの重荷《オモニ》を負ひ苦《クルシ》み喘くとも亦同し○丈夫乃手結我浦爾《マスラヲノタユヒカウラニ》 手結《タユヒ》は手纏《タマキ》と同し物なり故《カレ》丈夫乃《マスラヲノ》よりつゝけたり帳に敦賀(ノ)郡|田結《タユヒノ》神社いませり其(ノ)地なり
 
(227)返歌
 
367 越海乃手結之浦矣客爲而見者乏見日本思櫃《コシノウミノタユヒノウラヲタヒニシテミレハトモシミヤマトシヌヒツ》
 
乏《トモシ》は賞美《ヨミ》せる言《コトハ》例多し
 
石上《イソノカミノ》大夫(ノ)歌一首
 
續紀に天平十一年三月庚申石(ノ)上(ノ)朝臣乙麻呂【此(ノ)時に從四位(ノ)下左大弁なりき】坐《ツミセラレテ》v※[(女/女)+干]《オカセリトイフニ》2久米(ノ)連|若賣《ワカメヲ》1配2流土佐國(ニ)1若賣配2総國1焉十二年六月庚牛勅曰云々宜v大2赦天下(ニ)1云々其(ノ)流人久米(ノ)連|若賣《ワカメ》云々等五人(ハ)召(テ)令(メヨ)2入京(セ)1石(ノ)上(ノ)乙麻呂云云不v在2赦(スル)限(ニ)1かくて十三年九月乙卯遷京の大赦に【流日とも咸《ミナ》原免《ユル》とあれは】此(ノ)人も赦(ル)されたるなるへし次第《ツキ/\》になり昇られたるよし紀に見えて天平勝賓二年九月丙述(ノ)朔中納言從三位兼中務(ノ)卿石(ノ)上(ノ)朝臣乙麻呂薨左大臣贈從一位麻呂之子也とあり此集六(ノ)卷に天平十年戊寅石(ノ)上(ノ)乙麻呂卿配2土左國1之時歌三首并短歌 石上振乃尊者弱女乃惑爾縁而馬自物繩取附閔自物弓笑圍而王命恐天離夷部爾退古衣又打山從還來奴香聞《イソノカミフルノミコトハタハヤメノマトヒニヨリテウマシモノナハトリツケツツシモノユミヤカクミテオホキミノミコトカシコミアマサカリヒナヘニマカルフルコロモマツチノヤマユカヘリコヌカモ》 王命恐見刺並之國爾出座耶吾背乃公矣繋卷裳湯々石恐石住吉乃荒人神船舳爾牛吐賜付賜將島之埼前依賜將礒乃埼前荒浪風爾不令遇草管見身疾不有急令變賜根本國部爾《オホキミノミコトカシコミサシナミノクニヽイテマスヤワカセノキミヲカケマクモユヽシカシコシスミノエノアラヒトカミフナノヘニウシハキタマヒツキタマハムシマノサキ/\ヨリタマハムイソノサキ/\アラキナミカセニアハセスクサツヽミミヤマヒアラススムヤケクカヘシタマハネモトノクニヘニ》 此《コノ》二首《フタウタ》は若賣連《ワカメノムラシ》なるへし父公爾吾者眞名子叙妣刀自爾吾者愛兒叙參昇八十氏人乃手向爲等恐乃坂爾幣奉吾者叙追遠杵上左道矣《チヽキミニワレハマナコソハヽトシニワレハメツコソマヰノホルヤソウチヒトノタムケストカシコノサカニヌサマツリワレハソオヘルトホキトサチヲ》此《コノ》一首《ヒトウタ》は乙麻呂(ノ)朝臣なるへし又懷風藻に石(ノ)上(ノ)中納言者左大臣第三(ノ)子也地望清華人才頴秀雍容閑雅甚善2風儀1雖v※[日/助]2志典墳(ニ)1亦頗(ル)愛2篇翰1嘗(テ)有2朝譴1飄2寅南荒1臨v淵(ニ)吟v澤(ニ)寫2心(ヲ)文藻(ニ)1遂(ニ)有2銜悲藻兩卷1今傳(レリ)2於世(ニ)1天平年中詔(シテ)簡《エラハル》2入唐使(ヲ)1元來此(ノ)擧難v得2其人1時(ニ)選2朝堂1無v出2公(ノ)右(ニ)1遂(ニ)拜2大使1衆|僉《ミナ》悦服(ス)爲v時所v推皆此類也然(シテ)遂(ニ)不v往其(ノ)後授2從三位中納言1自(リ)v登(リシ)2台位(ニ)1風采自(ラ)新(ナリ)芳猷雖v遠遺列蕩然云々とありて京《ミヤコ》の友に贈られたる詩《カラウタ》三また五言※[火+禾]夜(ノ)閨情と題して他郷頻(リニ)夜(ル)夢(ミル)談與2麗人1同(シ)寢裏歡(フコト)如v實驚前恨泣寒空思向2桂影1獨坐聽2※[火+禾]風1山川嶮易(ノ)路1展轉憶(フ)2閨中(ヲ)1なとあり然《サ》れは此(ノ)歌も流さるる時《ヲリ》のなるへし
 
368 大船二眞梶繁貫大王之御命恐礒廻爲鴨《オホフネニマカチシヽヌキオホキミノミコトカシコミアサリスルカモ》
 
(228)礒廻《アサリ》は足探《アサクリ》の切《ツツマリ》にて鳥の食《クヒモノ》を索《モトム》るに足を以(テ)掻(キ)探るをいふさてそれより轉りては海人《アマ》の所業《シワサ》の魚《ウヲ》貝《カヒ》藻草《モクサ》なとをあなくり求るなとにも云(フ)言《コト》なるを又それよりも轉りてはたゝに海人《アマ人の所業《シワサ》に似たるをも云り此《コヽ》のもそれなり
 
右今案石上(ノ)朝臣乙麻呂任2越前(ノ)國(ノ)守(ニ)1盖(シ)此(ノ)大夫歟
 
此(ノ)注は歌の意(ロ)を得ぬ後(ノ)人の所業《シワサ》なり越前(ノ)國(ノ)守に任《ナ》られし事も物に見えす
  
和歌《コタフルウタ》一首
 
369 物部乃臣之壯士者大王任之隨意聞跡云物曾《モノヽフノオミノヲトコハオホキミノマケノマニ/\キクトイフモノソ》
 
任《マケ》は令罷《マカラセ》の約(リ)にて罷《マカル》は退《マカル》なり故《カレ》他國の司《ツカサヒト》に任《ナ》りて京より退《マカ》り往(ク)を云(フ)を此《コヽ》のは配流人《ナカサレヒト》なれともそもなほ官《オホヤケ》より令罷《マケ》らるゝなれはかく云り
 
右作者未v審但笠(ノ)朝臣金村之歌集(ノ)中(ニ)出(タリ)也
 
歌集は此(ノ)人の作《ヨミ》たる歌の集に非す此(ノ)人の集め置れたる歌集と云ことなり集中に多かり皆|然《シカ》なり
 
安倍(ノ)廣庭(ノ)卿(ノ)歌一首
 
此(ノ)人は上【六葉】に出
 
370 雨不零殿雲流夜之《アメフラストノクモルヨノ》潤濕跡|戀乍居寸君待香光《コヒツヽヲリキキミマチカテリ》
 
殿雲流《トノクモル》は棚曇《タナケモル》と同し棚(ナ)引(キ)曇(ル)を云○潤濕跡はいかに訓へきにかおぼつかなし試《コヽロミ》にいはゝ蟾蜍影《ツキノカケ》の誤字にや尚《ナホ》よく考へし
 
出雲(ノ)守門部(ノ)王思v京歌一首 後(ニ)賜2姓大原眞人氏1也
 
371 ※[飫の異体字]宇海乃河原之乳鳥汝鳴者吾佐保河乃所念國《オウノウミノカハラノチトリナカナケハワカサホカハノオモホユラクニ》
 
字書に※[飫の異体字]與v飫同(シ)とあり出雲(ノ)國|意宇《オウノ》郡の海なり
 
山部(ノ)宿禰赤人登2春日野(ニ)1作歌一首并短歌
 
372 春日乎春日山乃高座之御笠乃山爾朝不離雲居多奈引容鳥能間無數鳴雲居須奈心射左欲此其鳥乃片戀耳爾晝者毛日之盡夜者毛夜之盡立而居而念曾吾爲流不相兒故荷《ハルヒヲカスカノヤマノタカクラノミカサノヤマニアササラスクモヰタナヒキカホトリノマナクシハナククモヰナスコヽロイサヨヒソノトリノカタコヒノミニヒルハモヒノコト/\ヨルハモヨノコト/\タチテヰテオモヒソアカスルアハヌコユヱニ》
 
春日乎《ハルヒヲ》 冠辭考(ニ)云(ク)武烈紀(ノ)歌に播屡比能筒須我嗚須擬《ハルヒノカスカヲスキ》繼體紀(ノ)歌に播屡比能哥須我能倶※[人偏+爾]※[人偏+爾]《ハルヒノカスカノクニニ》これらは春日の霞むとの云(ヒ)懸(ケ)また萬葉三に春日乎春日山乃《ハルヒヲカスカノヤマノ》これは乎《ヲ》は余《ヨ》に通ふ辭にて春日よ霞むとつゝけたるなりと有(リ)【加須賀を春日と書(ク)も枕詞より轉れろものにて彼(ノ)明日香の飛鳥《トフトリノ》宮より飛ふ鳥の明日香と云ならひ又遂(ヒ)に明日香を飛鳥と書(ク)例《ナラヒ》になむありける】
○高座之御笠乃山爾《タカクラノミカサノヤマニ》 冠辭考(ニ)云(ク)十八に高御座安麻能(229)日繼登須賣呂伎能《タカミクラアマノヒツキトスメロキノ》云々と有て即位朝賀蕃客拜朝|等《ナト》の時《ヲリ》に大極殿に高御座《タカミクラ》を錺《カサリ》て天皇の大ましますその高御座《タカミクラ》には蓋《ミカサ》のあれは御笠山につゝくる枕詞なり内匠寮式に凡毎年元正|前《サキタツコト一日(ニ)官人率(テ)2木工(ノ)長上雜工等(ヲ)1装2飾《カサレ》大極殿高御座(ヲ)1【蓋《ミカサハ》作2八角(ニ)1角別(トニ)上(ニ)立2小鳳(ノ)像(ヲ)1下(ニ)懸(ルニ)以2玉幡1毎(ニ)v面懸2一鏡(ヲ)1三面(ハ)當(テ)v頂(ニ)著(ク)2大鏡一面(ヲ)1蓋《ミカサノ》上(ニ)立2大鳳(ノ)像(ヲ)1※[手偏+總の旁](テ)鳳像九隻鏡二十五面云云】と見ゆ○雲居多奈引《クモヰタナヒキ》 雲居《クモヰ》はたゝ雲なり古事記【日|代《シロノ》宮(ノ)段(ノ)歌】に愛《ハシ》けやし吾家《ワキヘ》の方從雲居立來《カタヨクモヰタチク》もなとあり○容鳥《カホトリ》は上に見ゆ【新考五の四十六葉】○雲居須奈《クモヰナス》 如《ナス》なり○心射左欲比《コヽロイサヨヒ》 猶豫不定《タユタフ》なり○其鳥乃片戀耳爾《ソノトリノカタコヒノミニ》 容鳥《カホトリ》は喚兒鳥《ヨフコトリ》のことにて鳴(ク聲の物を喚(フ)か如く悲しけなるを片戀して然《シカ》ある物のさまに云なし其《ソ》を吾(カ)眞實《マコト》の片戀に比《タト》へたるなり二に宿兄鳥《ヌエトリ》の片戀嬬《カタコヒツマ》と有(ル)も然なり
 
返歌
 
373 高按之三笠之山爾鳴鳥之止者繼流戀喪爲鴨《タカクラノミカサノヤマニナクトリノヤメハツカルヽコヒモスルカモ》
 
多くの鳥|等《トモ》の鳴遏《ナキヤ》めは復《マタ》鳴(キ)繼(ク)か如く少時《シマシ》も戀の間斷《タエマ》なきを云り十一に君之服三笠之山爾居雲乃立者繼流戀爲鴨《キミカキルミカサノヤマニヰルクモノタテハツカルヽコヒモスルカモ》
 
石上《イソノカミノ》乙麻呂(ノ)朝臣(ノ)歌一首
 
上の四十葉に出
 
374 雨零者將盖跡念有笠乃山人爾莫令蓋霑者漬跡裳《アメフラハキムトオモヘルカサノヤマヒトニナキセソヌレハヒツトモ》
 
笠乃山《カサノヤマ》 いまた不詳《サタカナラス》一首の意(ロ)は雨零者《アメフラハ》は男《ヲトコ》すへきはかりの齒《ヨハヒ》に至らはなり將盖跡念有《キムトオモヘル》は吾(カ)婚《アハ》むと念ひて有(ル)なり笠乃山《カサノヤマ》は幼女を比《タト》へたり人爾莫令盖《ヒトニナキセソ》は他人《ヒト》に許容《ユル》すこと莫《ナカ》れなり霑者漬跡裳《ヌレハヒツトモ》はいかはかり他人《ヒト》は娉《イ》ひわつらふともなり
 
湯(ノ)原(ノ)王芳野作歌一首
 
田原天皇の御子なり後紀に延暦廿四年十一月丁丑大納言正三位兼彈正(ノ)尹|萱志濃《イチシノノ》王薨詔賜2從二位1田原天皇之孫湯(ノ)原(ノ)親王之第三子也とあり
 
375 吉野爾有夏實之河乃川余杼爾鴨曾鳴成山影爾之※[氏/一]《ヨシヌナルナツミノカハノカハヨトニカモソナクナルヤマカケニシテ》
 
大和志(ニ)云(ク)吉野川至(テ)2菜摘《ナツミ》村(ニ)1曰2菜摘川(ト)1
 
湯(ノ)原(ノ)王宴席(ノ)歌二首
 
376 秋津羽之袖振妹乎珠匣奧爾念乎見賜吾君《アキツハノソテフルイモヲタマクシケオクニオモフヲミタマヘアキミ》
 
(230)秋津羽之袖振妹《アキツハノソテフルイモ》とは蜻蛉羽《アキツハネ》の如き羅袖《ウスモノヽソテ》を振(リ)て舞(ヒ)する美人《ヲトメ》を云○珠匣《タマクシケ》は底あるを以|奧《オク》につゝくる枕詞なり○奧爾念《オクニオモフ》とは大事に念(フ)なり九に吾妹兒者久志呂爾有奈武左手乃吾奧手爾纏而去麻師乎《ワキモコハクシロニアラナムヒタリテノアカオクノテニマキテイナマシヲ》六に長門有奧津借島奧眞經而吾思君者千歳爾母我毛《ナカトナルオキツカリシマオクマヘテアカオモフキミハチトセニモカモ》十一に淡海奧島山奧儲吾念妹事繁《アフミノミオキツシマヤマオクマケテアカオモフイモカコトノシケヽク》なとあり○見賜吾君《ミタマヘアキミ》は其《ソノ》客《マラヒト》をさせり
 
377 青山之嶺乃白雲朝爾食爾恒見杼毛目頬四吾君《アヲヤマノミネノシラクモアサニケニツネニミレトモメツラシアキミ》
 
一二(ノ)句は朝爾異《アサニケ》に云々の序なり愛《メツ》らし吾君《アキミ》は其《ソノ》客《マラヒト》をさせり
 
山部(ノ)宿禰赤人詠2故大政大臣藤原(ノ)家之山池(ヲ)1歌一首
 
淡海公の別(ト)に造られたる宅《イヘ》の山池なり
 
378 昔者之舊堤者年深池之瀲爾水草生家里《イニシヘノフルキツヽミハトシフカミイケノナキサニミクサオヒニケリ》
 
大伴(ノ)坂(ノ)上(ノ)郎女《イラツメ》祭v神歌一首并短歌
 
四(ノ)卷(ノ)注に大伴(ノ)郎女者佐保大納言卿之女也初(メ)嫁2一品穗積(ノ)皇子(ニ)1被v寵無v儔《タクヒ》而皇子薨之後(ニ)時(ニ)藤原(ノ)麻呂(ノ)大夫娉2之(ノ)郎女(ヲ)1焉郎女|家《イヘヲリ》2於坂(ノ)上(ノ)里(ニ)1仍《カレ》族氏(ノ)號《ナヲ》曰2坂(ノ)上(ノ)郎女(ト)1也と見え又六(ノ)卷に大伴(ノ)坂(ノ)上(ノ)郎女與2姪《ヲヒ》家持1從(リ)2佐保1還2歸西宅(ニ)1歌なと有て郎女は安麻呂卿の女《ムスメ》なり家持卿は旅人卿の男にて安麻呂卿の孫なれは郎女とは姑《ヲハ》姪《ヲヒ》なり
 
379 久堅之天原從生來神之命奧山乃賢木之枝爾白香付木緜取付而齋戸乎忌穿居竹玉乎繋爾貫垂十六自物膝折伏手弱女之押日取懸如此谷裳吾者祈奈牟君爾不相可聞《ヒサカタノアマノハラヨリアレキタルカミノミコトオクヤマノサカキカエタニシラカツクユフトリツケテイハヒヘヲイハヒホリスヱタカタマヲシヽニヌキタレシヽシモノヒサオリフセタワヤメノオスヒトリカケカクタニモアレハコヒナムキミニアハシカモ》
 
久堅之天原從生來神之命《ヒサカタノアマノハラヨリアレキタルカミノミコト》とは左注に依(ル)に大伴(ノ)氏|遠祖《トホツオヤ》天忍日命《アメノオシヒノミコト》より嗣々《ツキ/\》生繼來《アレツキキ》たる代々《ヨヽ》の祖神《オヤカミ》と云ことなり○白香付《シラカツク》は冠辭考に白髪《シラカ》に似付《ニツク》なり十二に白髪付木綿者花物《シラカツクユフハハナモノ》これも同し十九に四舶早還來等白香著朕裳裾爾鎭而將待《ヨツノフネハヤカヘリコトシラカツケワカモノスソニイハヒテマタム》これは木綿を天皇の大御髪に著《ツケ》て大御裳裾《オホミモスソ》まて垂れたるにて別《コト》なりとあり○齋戸乎忌穿居《イハヒヘヲイハヒホリスヱ》 齋瓮《イハヒヘ》とは神を祭る時《ヲリ》に御饌《ミケ》を盛る器《モノ》の名にて齋《イハ》ひ淨むる瓮ヘ》と云(フ)意(ロ)の名なりさて其《ソノ》器《モノ》は底は圓《マロ》らにてたゝに置(ケ)は傾き轉《マロ》ふ故に地を穿《ホリ》て居《スウ》るをかく云て集中にいと多き語《コトハ》なり
○竹玉乎繁簡貫垂《タカタマヲシヽニヌキタレ》とは玉を緒に貫《ヌ》き竹に繁く懸垂《カケシテ》て神に献るを云神代紀【一書】石屋戸(ノ)段に使3山雷《ヤマツチニハ》者採(ラ)2五(231)百眞坂樹八十玉籤《イホツマサカキノヤソタマクシヲ》1こは幣《ミテクラ》の鏡劔なとを著《ツク》る賢樹《サカキ》を云(ヒ)使3野槌《ヌツチニハ》者採(ラ)2五百箇野薦八十玉籤《イホツヌスヽノヤソタマクシヲ》1こは玉を著る篶《スヽ》の小竹《シノ》を云り竹玉乎繋爾貫垂《タカタマヲシヽニヌキタレ》と云は是(レ)なり
○手弱女之押日取懸《タワヤメノオスヒトリカケ》 押日《オスヒ》は襲《オソヒ》と云(フ)意(ロ)の名にて頭上《カシラ》より被《カヅ》き襲《オソ》ふ帛《キヌ》にて今(ノ)世の被衣《カツキ》と云(フ)物の類(ヒ)なり此《コ》は上古に男女共に人に貌《カタチ》を隱す料の服と見えて古事記上卷|八千矛《ヤチホコノ》神(ノ)御歌に淤須比遠母伊麻陀登加泥婆《オスヒヲモイマタトカネハ》云々中卷|美夜受比賣《ミヤスヒメノ》御歌に和賀祁勢流意須比能須蘇爾《ワカケセルオスヒノスソニ》云々下卷|女鳥王《メトリノミコノ》御歌に波夜夫佐和氣能美淤須比賀泥《ハヤフサワケノミオスヒカネ》云々これらは皆(ナ)各|妻問《ツマトヒ》の時《ヲリ》に容貌《カタチ》を隱せる服と聞えて正《タヽ》しき禮服の趣《サマ》にあらす然るを寢《ヤヽ》下《クタ》れる世の物には男の服《キ》ることなとはなくしてたゝ女の禮服に局《カキ》りて服《キ》る物のよしに見えたるは容貌《カタチ》を隱す料なるより轉りて女は人に見ゆるを耻るものなれはおのつから女服の如くになりさて後には常に服ることもなくなりて古代の禮服の如くに傳りつゝたゝ神事《カムワサ》の時《ヲリ》なとにのみ服《キ》たりし物と思はるゝなり豐受《トユケノ》宮(ノ)延暦(ノ)儀式帳に大物忌《オホモノイミ》旡位神主|岡成女《ヲカナリメ》云々着(キ)2明衣(ヲ)1木綿手次前垂懸※[氏/一]天押日蒙※[氏/一]洗手不干之※[氏/一]二所《ユフタスキマエカケタレテアメノオスヒカヽフリテテアラヒホサスシテフタトコロノ》大神の朝大御饌夕大御饌乎日別齋敬《アシタオホミケユフヘノオホミケヲヒコトニイハヒ》仕(ヘ)奉(ル)とあるは此《コヽ》なる祭氏神《ウシカミマツリ》に大伴(ノ)郎女の十六自物膝折伏手弱女之押日取懸《シヽシモノヒサオリフセタワヤメノオスヒトリカケ》云々と云るに同き女の禮服と聞ゆ又大神宮式の御装束の中に帛(ノ)意須比《オスヒ》八條【長(サ)二丈五尺廣(サ)二幅】なと見ゆるも女神《ヒメカミ》の御装束なり又十四【東哥】に多久夫須麻之良夜麻可是能宿奈敝杼母古呂賀於曾伎能安路許曾要志母《タクフスマシラヤマカセセノネナヘトモコロカオソキノアロコソエシモ》とよめるも兒等《コラ》か襲服《オソヒキ》にて女の被《カツ》く上襲《ウハオソヒ》の服《キヌ》なり
○吾者祈奈牟《アレハコヒナム》 奈牟《ナム》は能牟《ノム》と一(ツ)言にて願ふを云(フ)言なり五に天神阿布藝許比乃美《アマツカミアフキコヒノミ》云々 布施於吉弖吾波許比能武《ヌサオキテアレハコヒノム》云々十一に神社乎不祈日者無《カミヤシロヲノマヌヒハナシ》十三に天地之神祇乎曾吾祈《アメツチノカミヲソアカノム》また神呼曾吾乞《カミヲソアカノム》とも書(キ)たり十七に力奈美夜麻多牟氣能可味爾奴佐麻都里安我許比能麻久《トナミヤマタムケノカミニヌサマツリアカコヒノマク》云々|知波夜夫流神社爾※[氏/一]流鏡之都爾等里蘇倍己比能美底《チハヤブルカミノヤシロニテルカヽミシツニトリソヘコヒノミテ》云々崇神紀に叩頭|此《コヽニ》云2廼務《ノムト》1古事記朝倉(ノ)宮(ノ)段に志幾之大縣主懼畏※[稽の旨が言]首白《シキノオホアカタヌシカシコミテノミマヲサク》云々故《カレ》献(ル)2能美之御幣物《ノミノヰヤシリヲ》1(232)なともあり○君爾不相可聞 大伴宿奈麻呂のことなるへし共に安麻呂(ノ)子にして宿奈麻呂は郎女の異母弟なり兩人《フタリ》の間《アハヒ》に田村坂上(ノ)兩大孃《フタヲトメ》も所生《ウマ》れて殊なる中なれは夫婦《イモセ》のむすひを祖神に祈りしなるへし四に郎女怨恨歌あり此《コノ》夫婦《イモセ》のことと通《キコ》ゆ相(ヒ)照(ラ)して證《アキ》らむへし
 
返歌
 
380 木綿疊手取持而如此谷母吾波乞嘗君爾不相鴨《ユフタヽミテニトリモチテカクタニモワレハコヒナムキミニアハシカモ》
 
右歌者以2天平五年冬十一月1供2終大伴(ノ)氏神(ヲ)1之時(ニ)聊作2此謌1故曰2祭神歌(ト)1
 
筑紫(ノ)娘子《ヲトメ贈2行旅(ニ)1歌一首 娘子|字《ナヲ》曰(リ)2兒島《コシマト》1
 
六に天平二年十月大宰(ノ)帥大伴卿上京之時(ニ)云々于v時送《ル》v卿(ヲ)府吏之中(ニ)有2遊行女婦1其(ノ)字(ヲ)曰2兒島(ト)1也とあり彼處《カシコ》に名ある遊女《アソヒ》なりけむ
 
381 思家登情進莫風候好爲而伊麻世荒其路《イヘオモフトサカシラナセソカセマモリヨクシテイマセアラキソノミチ》
 
登2筑波岳《ツクハヤマニ》1丹比《タチヒノ》眞人國人作歌一首并短歌
 
續紀に天平八年正月幸丑正六位(ノ)上多治比(ノ)眞人國人授2從五位下1 十年閏七月癸卯任2民部少輔1 天平勝寶六年七月癸丑の下《トコロ》に從四位下とあれとも加階せられし年月は見えす此集二十(ノ)卷に勝寶七歳三月十一日左大臣橘卿【諸兄】宴2右大辨丹比國人眞人之宅(ニ)1歌ありて右大辨なりしこと紀には漏たり寶字元年六月壬辰任2攝津大夫1 七月橘朝臣奈良麻呂か黨《トモカラ》と紫微内相藤原(ノ)朝臣仲麻呂を謀りて事ならす伊豆(ノ)國に流さる寶龜四年四月壬述の大赦に赦(ル)されたるよし紀に見えたり
 
382 ※[奚+隹]之鳴東國爾高山者左波爾雖有明神之貴山乃儕立乃見※[日/木]石山跡神代從人之言嗣國見爲筑羽乃山矣冬木成時敷時跡不見而往者益而戀石見雪消爲山道尚矣名積叙吾來並二《トリカナクアツマノクニニタカヤマハサハニアレトモフタカミノタフトキヤマノナミタチノミカホシヤマトカミヨヨリヒトノイヒツキクニミスルツクハノヤマヲフユコモリトキシクトキトミステイナハマシテコヒシミユキケスルヤマミチスラヲナツミソワカコシ》
 
明神之貴山乃儕立乃見※[日/木]石山跡《フタカミノタフトキヤマノナミタチノミカホシヤマト》 此(ノ)山は男神《ヲノカミ》女神《メノカミ》と兩峯《フタミネ》相(ヒ)並ひ立てましますを云り見※[日/木]石《ミカホシ》は見之欲《ミカホ》しにて見《ル》ことの欲《ホシ》きなり※[日/木]《カホ》は字音を借(リ)て書り○時敷時跡《トキシクトキト》 非時《トキシク》にて登(リ)て見へき時に非るを云
 
返歌
 
383 筑波根矣四十耳見乍有金手雪消乃道矣名積來有鴨《ツクハネヲヨソノミミツヽアリカネテユキケノミチヲナツミケルカモ》
 
來有《ケル》は字の如く來《キ》たるの古言にて其(ノ)例多し【辭にはあらす】
 
(233)山部(ノ)宿禰赤人(ノ)歌一首
 
384 吾屋戸爾幹藍種生之雖干不懲而亦毛將蒔登曾念《ワカヤトニカラアヰマキオフシカレヌレトコリステマタモマカムトソオモフ》
 
韓藍《カラアヰ》は紅花《クレナヰ》なり和名抄に辨色立成(ニ)云(ク)紅藍和名久禮乃阿井《クレノアヰ》呉藍同v上本朝式(ニ)云(ク)紅花俗用v之とありて呉《クレノ》國より渡り來《コ》し物なれば呉藍《クレナヰ》と云(リ)又|漢藍《カラアヰ》とも云るになむ有ける一首の意は離別《カレ》たる女を復《マタ》慕《シノ》ふになむありける
 
仙|柘枝《ツミノエノ》歌三首
 
和名抄に柘(ハ)毛詩(ノ)注(ニ)云(ク)桑柘(ハ)蠶(ノ)所v食也漢語抄(ニ)云(ク)豆美《ツミ》とあり名義《ナノコヽロ》は葉を摘《ツミ》て蠶《コ》に食《カ》ふ物なれは豆美《ツミ》と云なるへし三代寶録に【元慶二年五月九日】下2符(ヲ)備中國1令3採進2柘《ツミノ》弓百枝(ヲ)1備後國百枝ともあり
 
385 霰零吉志美我高嶺乎險跡草取可奈和妹手乎取《アラレフリキシミカタケヲサカシミトクサトリカナワイモカテヲトル》
 
右一首或云吉野(ノ)人味稻《ウマシネ》與(ル)2柘枝《ツミノエノ》仙媛(ニ)1歌也但見2柘枝傳(ヲ)1無v有2此歌1
 
此《コノ》古事《フルコト》は傳はらされは今は詳《ツハラカ》ならす續後紀【十九】に仁明天皇御四十(ノ)賀に壽《ミコトホキ》を献れる興福寺僧|等《トモノ》歌に云々|柘之枝乃由求禮波《ツミノエノヨシモトムレハ》云々|三吉野爾有志熊志禰天女來通天其後波蒙譴天※[田+比]禮衣著弖飛爾支度《ミヨシヌニアリシクマシネアマヲトメキタリカヨヒテソノノチハセメカヽフリテヒレコロモキテトヒニキト》云(フ)云々とあり又此(ノ)次(キ)に此暮柘之左枝乃流來者梁者不打而不取香聞將有《コノユフヘツミノサエタノナカレコハヤナハウタステトラスカモアラム》) 古爾梁打人乃無有世伐此間毛有益柘之枝羽裳《イニシヘニヤナウツヒトノナカリセハコヽモアラマシツミノエタハモ》なとあるを以|祭《オシハカ》るに吉野に味稻《ウマシネ》と云人ありて梁《ヤナ》を打て在しに柘樹《ツミキ》の枝の流(レ)來て其(ノ)梁《ヤナ》に懸りしを拾《ヒロ》ひ取(リ)て置たりし間《ホト》に美《ウルハ》しき娘子《ヲトメ》に化《ナリ》て味稻《ウマシネ》と夫婦《メヲ》のかたらひをしつゝ老《オイ》す死《シナ》すて相(ヒ)住(ミ)けるなるへし然有間《サルホト》に天よりひたふるにせめて強(ヒ)て迎へらるゝに脱(キ)置たる領巾衣《ヒレコロモ》を服《キ》て飛(ヒ)去(リ)にしと云る傳なるへし味稻《ウマシネ》と熊志禰《クマシネ》とは一(ツ)言にて和名抄に※[米+揖の旁](ハ)精米所2以享1v神(ニ)也和名|久萬志禰《クマシネ》とあるも甘美稻《ウマシネ》の意(ロ)なり又懷風藻にも此(ノ)古事を作れる詩《カラウタ》ともあるも同し趣《サマ》にて皆(ナ)美稻とあるなりかくて此《コヽ》の霞零《アラレフリ》云々の一首は此(ノ)古事には關《アツカ》らすして肥前風土記に杵島《キシマノ》郡有2一孤山1名(ヲ)曰2杵島《キシマト》1郷閭(ノ)士女提v酒抱v琴毎歳春秋携v手登望樂飲歌舞曲盡(テ)而歸(ル)歌詞(ニ)曰(ク)阿羅禮符縷耆資麼加多※[土+豈]塢嵯峨紫彌苫區縒刀理我泥底伊謀哉提塢刀縷《アラレフルキシマカタケヲサカシミトクサトリカネテイモカテヲトル》是(ハ)杵島|曲《フリナリ》とありされは此《コヽ》に仙柘(ノ)枝(ノ)歌として載れるは傳(ヘ)の誤(リ)なり(234)○霰零《アラレフリ》は冠辭考(ニ)云(ク)七に霰零鹿島之埼乎《アラレフリカシマノサキヲ》二十に阿良禮布理可志麻能可美乎《アラレフリカシマノカミヲ》これらは霰《アラレ》零《フリ》て音《オト》のかしましとの云(ヒ)かけ又三に霰零吉志美我高嶺乎《アラレフリキシミカタケヲ》これも可志麻と吉志美と音《コヱ》通へれは同(シ)意(ロ)の云(ヒ)かけなりとあり○草取可奈和《クサトリカナワ》は草取(リ)不得吾《カネワレ》なり古事記【高津(ノ)宮(ノ)段】歌に梯立《ハシタテ》の倉《クラ》はし山をさかしみと石《イハ》掻《カキ》かねて吾手《ワカテ》とらすも
 
386 此暮柘之左枝乃流來者梁者不打而不取香聞將有《コノユフヘツミノサエタノナカレコハヤナハウタステトラスカモアラム》
 
右一首 此(ノ)下無v詞諸本同 此(ノ)七字は後(ノ)人のしわさなり
 
左枝《サエタ》は眞枝
 
387 古爾梁打人乃無有世伐此間毛有益柘之枝羽裳《イニシヘニヤナウツヒトノナカリセハコヽモアラマシツミノエタハモ》
 
右一首若宮(ノ)年魚《アユ》麻呂作
 
此間毛《コヽモ》はこゝにもなり
 
年魚麻呂はきたかならす
 
羈旅(ノ)歌一首并短歌
 
388 海若者靈寸物香淡路島中爾立置而白浪乎伊與爾回之座待月開乃門從者暮去者鹽乎令滿明去者鹽乎令干鹽左爲能浪乎恐美淡路島礒隱居而何時鴨此夜乃將明跡待從爾寢乃不勝宿者瀧上乃淺野之雉開去歳立動良之率兒等安倍而榜出牟爾波母之頭氣師《ワタツミハアヤシキモノカアハチシマナカニタテオキテシラナミヲイヨニメクヲシヰマチツキアカシノトユハユフサレハシホヲミタシメアケサレハシホヲヒシムシホサヰノナミヲカシカシコミアハチシマイソカクリヰテイツシカモコノヨノアケムトサモラフニイノネカテネハタキノウヘノアサヌノキヽシアケヌトシタチトヨムラシイサコトモアヘテコキテムニハモシツケシ》
 
海若《ワタツミ》は海神《ワタツカミ》なり○伊與爾回之《イヨニメクラシ》 伊與とは伊豫讃岐阿波土左四國の總名にて古事記に生(ミマス)2伊豫之|二名《フタナノ》島(ヲ)1此(ノ)島(ハ)者身一(ツニシテ)而有2面四(ツ)1毎(トニ)v面有v名故(レ)伊豫(ノ)國(ヲ)謂(ヒ)2愛比賣(ト)1讃岐(ノ)國(ヲ)謂(ヒ)2飯依《イヒヨリ》比古(ト)1粟(ノ)國(ヲ)謂(ヒ)2大宜都《オホケツ》比賣(ト)1土左(ノ)國(ヲ)謂2建依別《タケヨリワケト》1有(ル)か如し故(レ)此《コヽ》の伊與爾回之《イヨニメクラシ》も四國に回(ラ)しの意なり○座待月《ヰマチヅキ》は十八夜なるへし○開乃門從者《アカシノトユハ》 播磨の赤石《アカシ》の海門《ウナト》なり○鹽左爲《シホサヰ》は潮先動《シホサキユリ》の約りたる言にて滿潮《ミチシホ》に先(キ)立て勤《ユ》り來《ク》る浪を云るよし上【新考四の四十二葉】に云るか如し披(ラキ)見(ル)へし○待從爾《サモラフニ》 待は侍の誤(リ)にて侍從《サモラフ》なり此《コ》は君(ノ)前《ミマヘ》なとに侍從《サモラ》ふより書るにて言《コト》の意《コヽロ》は佐《サ》は眞《マ》に通ふ發語にて母良布《モラフ》は守《モル》を延《ノヘ》たる言にて心を着(ケ)て目守《マモ》り伺《ウカヽ》ひつゝ在(ル)を云り船人《フナヒト》の風波《ナミカセ》をさもらふと云も此(レ)にて集中にも又日本紀これかれの物にも眼(リ)もなくいと多き詞なれは擧てはいはす○瀧上乃淺野之雉《タキノウヘノアサヌノキヽシ》 地名か考へし○安倍而榜出牟《アヘテコキテム》は敢《アヘ》て努力《ツト》めてなり上【四十葉】に云り○爾波母之頭氣師《ニハモシヅケシ》 庭と(235)は海面《ウミヅラ》のよく和《ナキ》て平《タヒラ》なる時を云り
 
返歌
 
389 島傳敏馬乃埼乎許藝廻者日本戀久鶴左波爾鳴《シマツタヒミヌメノサキヲコキタメハヤマトコホシクタツサハニナク》
 
敏馬《ミヌメ》は攝津(ノ)國|八部《ヤタヘノ》郡にあり許藝廻《コキタム》は榜曲《コキマカ》るなり敏馬《ミヌメ》に不見眼《ミヌメ》を持(タ)しむ此(ノ)埼を曲れは即《ヤカテ》倭《ヤマト》の見えす成(リ)ぬれはなりさるを以|日本戀敷《ヤマトコホシク》云々と云る工《タクミ》なり
 
右歌若宮(ノ)年魚《アユ》麻呂誦v之但未v審2作者1
 
此(ノ)人上【五十七葉】に出
 
(236)萬葉集新考 十
 
譬喩謌
 
紀(ノ)皇女(ノ)御歌一首
 
天武天皇の皇女なり二(ノ)卷【新考六の 】に出
 
390 輕池之※[さんずい+内]回往轉留鴨尚爾玉藻乃於丹獨宿名久二《カルノイケノウラマユキメクルカモスラニタマモノウヘニヒトリネナクニ》
 
輕(ノ)池は大和國高市(ノ)郡輕(ノ)地にあり納は※[さんずい+内]の誤なり此(ノ)字の誤(リ)なほ外にも有(リ)
 
造筑紫觀世音寺(ノ)別當沙彌滿誓(ノ)歌一首
 
續紀に養老七年二月丁酉遣2僧滿誓【俗名從四位上笠朝臣麻呂】於筑紫(ニ)1令v造2觀世音寺1とあり此(ノ)人の事は上【新考九の二十九葉】に見えたり又此(ノ)寺のことは同紀に大寶元年八月甲辰大政官處分(スラク)云々觀世音寺筑紫(ノ)尼寺(ノ)封(ハ)起2大寶元年1計滿(テラハ)2五歳(ニ)1並停止(セヨ)之皆准v封(ニ)施(セ)v物(ヲ)と見え又和銅二年二月戊子朔詔曰筑紫觀世音寺(ハ)淡海大津宮御宇天皇|奉2爲《ミタメニ》後(ノ)岡本(ノ)宮御宇天皇1誓願(シテ)所v基也雖v累2年代1迄(ルマテ)v今(ニ)未(タ)v了(ラ)宜d大宰商量(シテ)充2駈使丁五千許人(ヲ)1力|逐《シタカヒ》2閑月(ニ)1差(シ)2發(シ)人夫(ヲ)1專(ラ)加2檢校(ヲ)1早(ク)令c營作uとも見え扶桑略記に【後冷泉天皇の】康平七年五月十三日大宰府觀世音寺燒亡とあり外記局(ノ)日記に康平二年七月十九日云々今日左大臣召2外記1下2給大宰府(ノ)解(ヲ)1可v勘v例(ヲ)云云《テヘリ》其状(ニ)云(ク)去《イニシ》六月廿一日(ノ)夜觀世音寺堂塔廻廊燒亡件(ノ)寺(ハ)是都府之大厦天智天皇以後元明天皇以往五代之聖主相續(テ)草創之御願也五百餘年之間奉v祈2國家1不退靈驗之砌也但(シ)於v塔者康平七年五月三日【右に引ける扶桑略記には十三日とあり】燒亡中尊丈六金銅(ノ)阿彌陀如來(ノ)像在(テ)2猛火之中(ニ)1尊容無v變昔(シ)目2百濟國1奉v渡之【云云《テヘリ》】ともあり
 
391 鳥總立足柄山爾船木伐樹爾伐歸都安多良船材乎《トフサタテアシカラヤマニフナキキリキニキリユキツアタラフナキヲ》
 
鳥總立《トフサタテ》 冠辭考(ニ)云(ク)三(ノ)卷に鳥總立《トフサタテ》云々十七に登夫佐多底船木伎流等伊有《トフサタテフナキキルトイウ》【野雁云|有《ウ》は布《フ》の誤(リ)にあらす調《シラヘ》に依るなり】能登乃島山云々これらは官材《ミヤキ》船《フナ》材|等《ナト》を山に入て採(ル)時に其(ノ)伐(リ)たる木の末を折て其|株《キリクヒ》の邊《モト》に立(テ)て山神に奉《マツ》るを登夫佐立と云なるへし大殿祭(ノ)祝詞に皇御孫之命乃御殿乎今奧山乃大峽(237)小峽爾立留木乎齋部能齋斧乎以伐採※[氏/一]本末乎波山神爾祭※[氏/一]中間乎持出來※[氏/一]《スメミマノミコトノミアラカヲイマオクヤマノオホカヒヲカヒニタテルキヲイミノイミヲノヲモテキリトリテモトスヱヲハヤマノカミニマツリテナカラヲモテイテキテ》云ふとあり今も遠江(ノ)國|等《ナト》に此(ノ)しわさ遺有《ノコ》れり又同(シ)國越前土左|等《ナト》の方言《コトハ》に木の※[うがんむり/取]末《スヱ》をとほさきと云り然《サ》れは登夫佐はこの遠先《トホサキ》にて八に山際遠木末乃《ヤマノマノトホキコヌレノ》云々十に山際最木末之《ヤマノマノトホキコヌレノ》云々又後拾遺集【戀三】に我思ふ都の花のとふさゆゑ君もしつ枝《エ》のしつ心あらしなとこれらの如く木の※[うがんむり/取]末《トホサキ》を約めて登夫佐と云(ヒ)後拾遺なるは道の遠《トホ》さに兼《カケ》たるにて夫《フ》と保《ホ》と通はし用ひたり【野雁云此(ノ)説に非《ヒカコト》もあるをは除《ヨキ》よきかきりをとり又|己《オノ》か意を以くさ/\直して引るなり】○足柄山は相模國足柄(ノ)郡にあり○樹爾伐歸都安多良船材乎《キニキリユキツアタラフナキヲ》は吾(カ)船材に伐(リ)たるを他人《ヒト》の船材に材《キ》とりて持去《モテイヌ》るにて譬喩《タトヘ》の意はあたら心を盡せる女なるを他人《ヒト》に護《エ》られて徒爲《イタツラ》に成しとなり
 
大宰(ノ)大監大伴(ノ)宿禰百代梅(ノ)歌一首
 
續紀に天平十年閏七月癸卯以2外從五位下大伴宿禰百世1爲2兵部少輔1 十三年八月丁亥爲2美作守1 十五年十二月辛卯始(テ)置2筑紫(ニ)鎭西府(ヲ)1云々以2大伴宿禰百世1爲2副將軍1 十八年四月癸卯授2從五位下1 九月己巳爲2豐前守1 十九年正月丙申授2從五位上1なと見ゆ
 
392 烏珠之其夜乃梅乎手忘而不折來家里思之物乎《ヌハタマノソノヨノウメヲタワスレテヲラスキニケリオモヒシモノヲ》
 
女を梅に譬ふ
 
滿誓沙彌月(ノ)歌一首
 
393 不所見十方孰不戀有米山之末爾射狹夜歴月乎外爾見而思香《ミエストモタレコヒサラメヤマノハニイサヨフツキヲヨソニミテシカ》
 
本居(ノ)翁(ノ)云(ク)此(ノ)歌は三四二一五と句を置(キ)更(ヘ)て見(ル)へし野雁云山の末《ハ》にいさよふ月とは眞正《マホ》ならす小端《ハツ/\》なるよしの謂(ヒ)にて眞《マコト》に清明《サヤカ》にはあらすとも外《ヨソ》なからにも見てし欲《カ》にて女を月に喩へたるなり
 
金明軍《コムミヤウクムノ》歌一首
 
此下【五十九葉】挽歌の左注に此(ノ)人は旅人卿の資人とあり金氏は新羅王の子孫《スヱ》なり【又|余《ヨ》氏は百濟王の後なり金と余と字形まきらはし】
 
394 印結而我定義之住吉乃濱乃小松者後毛吾松《シメユヒテワカサタメテシスミノエノハマノコマツハノチモワカマツ》
 
玉勝間|韓藍《カラアヰノ》卷に義之《テシ》の義は羲の誤にてかの漢土《モロコシ》の王羲之と云しは名高き書手《テカキ》にて有しかは手師《テシ》と云に借(リ)(238)て書るにと又此(ノ)人の子王獻之と云るも書手《テカキ》にて有しかは羲之をは大王と云(ヒ)獻之を小王と云たるか故に集中に大王を|てし《□》の假字《カナ》にも用ひたりとあり但し手師《テシ》の意にて借(リ)たりとあるはいはれす此《コ》は手爲《テシ》の意にて名高き書手《テカキ》なるが故に打任《ウチマカ》せて手爲《テシ》と書苦るにこそあれ集中稀(レ)に手師と書る處もあるはおのつから偶然《タマ/\》るなりいかてか手の師と云ことを手師《テシ》と書く如きの鄙俗《イヤ》しく急迫《ツマ》れる言《コトハ》古(ヘ)にあらむや【土師《ハニシ》畫師《ヱシ》塗師《ヌシ》經師《キヤウシ》蒔繪師《マキヱシ》の類(ヒ)も師は借字にて爲《シ》の意なり其中に佛師は鳥《トリ》佛師なと古書にある名なるをもし師の意ならは佛法僧|三段《ミキタ》の等階《シナ》にとりて法師よりも一段《ヒトキサミ》上《マサ》れる者の名目《ナ》になれは手伎《テヒト》り名には相應《カナ》はすされはコハホトケシと訓て佛爲《ホトケツクリ》の意なり字音のまゝに訓(ム)は俗の誤(リ)りなるをも思ふへきなり】○一首の意は幼稚《ワカ》き娘子《ヲトメ》を小松に比《タト》へて今ならすとも後時《ノチ》にも婚《アハ》むとなり
 
笠女郎贈(レル)2大伴(ノ)宿禰家持(ニ)1歌三首
 
女郎|詳《サタカ》ならす
 
395 託馬野爾生流紫衣染未服而色爾出來《ツクマヌニオフルムラサキキヌニソメイマタキスシテイロニイテニケリ》
 
託馬《ツクマ》は近江國坂田(ノ)郡なり意は人を想(ヒ)懸(ケ)つゝいまた逢ねは顯れぬとなり
 
396 陸奧之眞野乃草原雖遠面影爾爲而所見云物乎《ミチノクノマヌノカヤハラトホケトモオモカケニシテミユトフモノヲ》
 
和名抄に陸奧國|行方《ナメカタノ》郡眞野とある地なるへし一二(ノ)句は遠きの序|乎《ヲ》は余《ヨ》と同し辭なり
 
397 奧山之磐本管乎根深目手結之情忘不得裳《オクヤマノイハモトスケヲネフカメテムスヒシコヽロワスレカネツモ》
 
藤原(ノ)朝臣|八束《ヤツカノ》歌二首 八束後(ニ)》眞楯房前第三子
 續紀に天平神護二年三月丁卯大納言正三位藤原朝臣眞楯薨平城(ノ)朝(ノ)贈正一位大政大臣房前之第三子也眞楯度量弘深有2公輔之才1起(テ)v家(ヨリ)春宮(ノ)大進(タリ)稍遷(テ)至2正五位下式部大輔兼左衛士督1在v官公官廉慮不v及v私感神聖武皇帝寵遇特(ニ)渥(シ)詔(シテ)特(ニ)令v參《マシハラ》2奏宜吐納(ニ)1明敏有v譽2於時1從兄|仲滿《ナカマロ》心(ニ)害2其能1眞楯知之稱v病家居頗(ル)翫2書籍1天平(ノ)末(ニ)出(テ)爲2大和守1勝寶(ノ)初(メ)授2從四位下1拜2參議1累遷(シテ)信部卿兼大宰(ノ)師(タリ)于v時渤海(ノ)使揚承慶朝禮|云《コヽニ》畢(リ)欲v歸2本蕃1眞楯設2宴餞1焉承慶甚稱歎(セリ)之寶字四年授2從三位1更《アラタメテ》賜(ヘリ)2名(ヲ)眞楯(ト)1本(ノ)名(ハ)八束(ナリ)八年至2正三位勲二等兼授刀(ノ)大將(ニ)1神護二年拜2大納言兼式部卿1薨時(ニ)年五十二賜(フニ)以2大臣之葬1使2民部卿(239)正四位下兼勅旨(ノ)大輔侍從勲三等藤原朝臣繩麻呂右少辨從五位上大伴宿禰伯麻呂1吊(ラハシム)之とあり
 
398 妹家爾開有梅之何時毛何時毛將成時爾事者將定《イモカイヘニサキタルウメノイツモイツモナリナムトキニコトハサタメム》
 
梅子《ウメ》の生《ナル》に戀の成就《ナル》を遇《ヨセ》て其《ソノ》時《ヲリ》に左右《トカク》は定めてむとなり
 
399 妹家爾開有花之梅花實之成名者左右將爲《イモカイヘニサキタルハナノウメノハナミニシナリナハカモカクモセム》
 
右と回し
 
大伴(ノ)宿禰駿河麻呂梅(ノ)歌一首
 
四(ノ)卷の註に云々右坂上郎女者任保大納言卿【安麻呂】女也駿河麻呂者高市大卿【此人考へし】之孫也兩卿兄弟之家女孫姑姪之族(ナリ)是(ヲ)以(テ)題v歌送答相2間起居1とあり紀に天平十五年五月癸卯正六位上大伴宿禰駿河麻呂授2從五位下1十八年九月癸亥任2越前守1寶字元年七月橘朝臣奈良麻呂の黨《トモカラ》と紫微内相藤原朝臣仲麻呂を謀(リ)て事成(ラ)す遠流《ナカ》されたりさて赦免《ユル》されて本位に復り從上のことはなくて寶龜元年五月庚午の紀に以2從五位上大伴宿禰駿河麻呂1爲2出雲守1とあり 十月巳丑朔正五位下 甲寅肥後守正五位下大伴宿禰駿河麻呂授2正五位上1 ここれは白龜の神瑞を獲《エ》て貢獻《タテマツ》れる國司なれは不次の加階を賜りしなり此(レ)にて思へは前《サキ》に爲2出雲守1とあるは肥後の誤にやいかゝあらむ 二年十一月丁未從四位下 三年九月丙午爲(ル)2陸奧(ノ)按察使(ト)1仍勅(スラク)今聞(ク)汝駿河麻呂宿禰辭(スラク)年老(イ)身衰(テ)不(ト)v堪2仕(ヘ)奉(ルニ)1然(レトモ)此國者元來擇v人以授2其任1汝駿河麻呂宿禰|唯《タヽ》稱《カナヘリ》2朕(カ)心(ニ)1是(ヲ)以(テ)任(シテ)爲2按察使1宜v知之即日授2正四位下1 四年七月甲午爲(ル)2陸奧國朕守將軍(ト)1 按察及(ヒ)守如v故 五年十月庚午陸奧國遠山村者地之(レ)險阻夷俘(ノ)所v憑歴代諸將未2嘗進1v計而按察使大伴宿禰駿河麻呂等直(ニ)進(テ)撃v之|覆《コホチ》2其巣穴(ヲ)1遂(ヒ)使2窮冠奔亡降(ル)者相望1 於v是遣v使宜慰賜(ニ)以2御服綵帛1 六年九月戊午拜2參議1 十一月乙巳遣2使(ヲ)於陸奧國1宣v詔夷俘等忽發2逆心1侵2桃生城1鎭守將軍大伴宿禰駿河麻呂等奉2承朝委1不v顧2身命1討2治叛賊1懷柔歸服(セシム)勤勞之重(キ)實(ニ)合(ヘシ)2嘉尚1駿河麻呂已下一千七百九十餘人從2其功勲1加2賜位階1大伴宿禰駿河麻呂授2正四位上勲三等1 七年七月壬辰參議正四位上陸奧按察便兼鎭守將軍勲三(240)等大伴宿禰駿河麻呂卒贈2從三位1 賻2※[糸+施の旁]三十匹布一百端1とあり
 
400 梅花開而落去登人者雖云吾標結之枝將有八方《ウメノハナサキテチリヌトヒトハイヘトアカシメユヒシエタナラメヤモ》
 
開《サク》とはよきほとの齒(ヒ)の女子《ヲメ》に成たるを云(ヒ)落《チル》とは他人《ヒト》に娶《メト》られたるにて然《サ》は云(ヘ)とも猶しからし別人《コトヒト》ならむとなれり
 
大伴(ノ)坂(ノ)上(ノ)郎女宴2親族1之日吟歌一首
 
郎女上(ニ)見(ユ)【新考九の五十一葉】
 
401 山守之有家留不知爾其山爾標結立而結之辱爲都《ヤマモリノアリケルシラニソノヤマニシメユヒタテヽユヒノハチシツ》
 
君には妻《メ》のいましけるを知らすして女《ムスメ》をまゐらせむとしつるか悔しく辱(チ)かましとなり此人の二孃を駿河麻呂の娉せられし歌此下【十五葉】にあり其(ノ)ことなり
 
大伴宿禰駿河麻呂即(チ)和《コタフル》歌一首
 
402 山主者葢雖有吾妹子之將結標乎人將解八方《ヤマヌシハケタシアリトモワキモコカユヒケムシメヲヒトトカメヤモ》
 
大伴(ノ)宿禰家持贈2同坂上家之大孃1歌一首
 
四(ノ)卷の注に云々右田村(ノ)大孃坂上(ノ)大孃並是右辨大伴宿奈麻呂卿之女他郷(ト)居(リ)2田村(ノ)里(ニ)1號曰2田村(ノ)大孃(ト)1但妹坂上(ノ)大孃者母(ト)居(リ)2坂(ノ)上(ノ)里(ニ)1仍曰2坂(ノ)上(ノ)大孃(ト)1于v時姉妹諮問以v歌贈答とありて宿奈麻呂は二(ノ)卷の注に安麻呂の第三子とあり又大伴(ノ)坂(ノ)上(ノ)郎女も安麻呂卿の女《ムスメ》なること上【新考九の五十一葉】に云るか如くにて四(ノ)卷の注に云々初(メ)嫁2一品穗積(ノ)皇子(ニ)1云々皇子薨之後藤原(ノ)麻呂(ノ)大夫娉2之(ノ)郎女(ヲ)1焉郎女家2於坂(ノ)上(ノ)里(ニ)1仍號2坂(ノ)上(ノ)郎女1也とあれは麻呂|卒《ナクナ》られて又異母兄弟なる宿奈麻呂に孃《アヒ》て田村(ノ)大孃坂(ノ)上(ノ)大孃を産生れたるなるへし大孃は美稱にて長女の謂(ヒ)にはあらさるへし妹をも坂(ノ)上(ノ)大孃とも云(ヒ)又二孃ともあるを以知へしかくて駿河麻呂この坂(ノ)上(ノ)二孃を婚《ヨハ》ひけれとも事|遂《ナ》らす家持卿に娶《メト》られたること四(ノ)卷の歌|等《トモ》にも見え又十八に家持越中守にて彼國に居《ヲ》られし時に爲(メニ)3家婦贈(ルカ)2在v京尊母(ニ)1所《ラレテ》v誂《アトラヘ》作《ヨメル》歌あり十九に越中國に從2京師1來贈歌云々右二首大伴氏坂(ノ)上(ノ)郎女賜2女子大孃1一也ともあるを以|詳明《アキラカ》なりかゝれは坂(ノ)上(ノ)大孃また坂上二孃とあるも同人にて初(メ)は駿河麻呂に婚《アハ》せむと母《ハヽ》郎女もせられし趣《サマ》なれとも事|遂《ナ》らすして家持の妻《メ》となりぬ思ふに相挑《アヒイト》みて家持の得ら(241)れしにや此《コヽ》の前後に兩人《フタリ》の宿禰の作歌等《ウタトモ》の趣《サマ》さもやと聞ゆいかゝあらむ如此《カク》て駿河麻呂は遂に姉田村大孃を得られたりそは四(ノ)卷に母坂上郎女と駿河麻呂との贈答にても知られたりそも/\此一段の事はいとも/\混らはしきを此前後の歌|等《トモ》は皆此筋を相離れされは腹に入置へきことなりかし
 
403 朝爾食爾欲見其玉乎如何爲鴨從手不離有牟《アサニケニミマクホリスルソノタマヲイカニスレカモテユカレサラム》
 
娘子《ヲトメ》報2佐伯《サヘキノ》宿禰|赤《キヨ》麻呂(ニ)1贈歌一首
 
赤麻呂は淨麻呂と書ると同人なるへし古言に明《アカ》きと云(ヒ)清きと云も同意にて明らかにくもりなく清淨き心なとを赤(キ)心とも云て通はし言ること多かれは其意を以|號《ツケ》たる名なるへけれは字をも赤とも淨とも清ともいろ/\に相通はして書るなるへし即(チ)此人(ノ)名を續紀には淨麻呂とも清麻呂とも書たれは此《コヽ》の赤麻呂をも然《シカ》訓へきなるへし明き淨きは一(ツ)言なれはなり紀に天平八年正月辛丑正六位上佐伯宿禰淨麻呂授2外從五位下1 九年二月戊午從五位下 十年四月庚申左兵衛士督、十二年正月庚子從五位上 十一月甲辰正五位下 十五年五月癸卯正五位上 十七年七月庚子從四位下 十八年九月己巳皇后宮大夫 二十年二月己未從四位上 勝寶元年四月甲午朔正四位下 二年十一月己丑左兵衛士督正四位下佐伯宿禰淨麻呂卒とありさて娘子は何人にや又此(ノ)前に娘子に賜《オクレル》歌ありけむ
 
404 千磐破神之社四無有世伐春日之野邊粟種益乎《チハヤフルカミノヤシロシナカリセハカスカノヌヘニアハマカマシヲ》
 
いとも可恐《カシコ》きそこの妻《メノ》君のいまさすは言(ヒ)依らましものをとなり
 
佐伯(ノ)宿禰赤麻呂更贈歌一首
 
405 春日野爾粟種有世伐《カスカヌニアハマケリセハ》待鹿爾|繼而行益乎社師留烏《ツキテユカマシヲヤシロシルトモ》
 
三(ノ)句誤字なるへし落句の烏は本居(ノ)翁(ノ)云(ク)戸母《トモ》二字の誤なるへしと
 
娘子復報歌一首
 
406 吾祭神者不有丈夫爾認有神曾好應祀《アカマツルカミハアラスマスラヲニトメタルカミソヨクマツルヘキ》
 
吾《ワレ》には可畏《カシコ》まりて持齋《モチイツク》へき夫《ヲトコ》なし君は妻《メ》によく仕へ給へとなり
 
大伴宿禰駿河麻呂娉2同坂上家之二孃1歌一首
 
407 春霞春日里爾殖子水葱苗有跡云師柄者指爾家牟《ハルカスミカスカノサトニウヱコナキナヘナリトイヒシエハサシニケム》
 
(242)幼少《ワカヽ》りしかとも今はよきほとの人に成長《ナリ》たるへしとなり柄《エ》は枝《エ》なり
 
大伴宿禰家持贈2同坂上家之大孃1歌一首
 
408 石竹之其花爾毛我朝旦手取持而不戀日將無《ナテシコノソノハナニモカアサナサナテニトリモチテコヒヌヒナケム》
 
落向の戀《コヒ》は愛《メテ》の意なり十に櫻花時者雖不過見人之戀盛常今之將落《サクラハナトキハスキネトミルヒトノコヒノ》サカリトイマシチルラム》これと同し
 
大伴宿禰駿河麻呂歌一首
 
409 一日爾波千重浪敷爾雖念奈何其玉之手二卷難寸《ヒトヒニハチヘナミシキニオモヘトモナトソノタマノテニマキカタキ》
 
坂上大孃を云るに社《コソ》
 
大伴坂上郎女橘歌一首
 
410 橘乎屋前爾殖生立而居而後雖悔驗將有八方《タチハナヲヤトニウヱオフセタチテヰテノチニクユトモシルシアラメヤモ》
 
坂上大孃を速《ハヤ》く其方《ソナタ》の物にせよなり
 
和歌一首
 
駿河麻呂にや名を書《シル》さぬは家持なれはにや
 
411 吾妹兒之屋前之橘甚近殖而師故二不成者不止《ワキモコカヤトノタチハナイトチカクウヱテシカラニナラスハヤマシ》
 
甚《イト》近《チカク》は疎《ウト》からさるなり○殖而師故二《ウヱテシカラニ》 樹の幹《カラ》を持《モタ》しむ○不成者不止《ナラスハヤマシ》 子《ミ》の生《ナル》に戀の成就《ナル》をかぬ
 
市原(ノ)王(ノ)歌一首
 
安貴王の子にて田原天皇の曾孫なる由《ヨシ》後紀延暦廿五年五月己卯五百枝(ノ)王(ノ)傳にあり
 
412 伊奈太吉爾伎須賣流玉者無二此方彼方毛君之隨意《イナタキニキスメルタマハフタツナシカニモカクニモキミカマニ/\》
 
頂《イタヽキ》に着統《キスメ》る玉にて首《カシラ》に飾《カサ》る玉の中の大玉を以小玉を一(ツ)に銃《スフ》る其(ノ)玉はたゝ一(ツ)なるか故にかく云り
 
大綱公人主《オホツナノキミヒトヌシ》宴(ニ)吟歌一首
 
此人考へき物なし
 
413 須麻乃海人之鹽燒衣之藤服間遠之有者未着穢《スマノアマノシホヤキキヌノフチコロモマトホニシアレハイマタキナレス》
 
三句まては間遠《マトホ》の序なり藤服《フチコロモ》は織目《オリメ》の疎《アラ》きを以|間遠《マトホ》と云ことにつゝけたりさて此歌は古き相聞なるを今|此《コヽ》には其(ノ)意(ロ)はへを更(ヘ)て客《マラヒト》の家の此處《コヽ》より間遠なれはいまた來馴《キナレ》すの意(ロ)に取(リ)成(シ)て歌へるものにて穢《ナル》るるも衣《コロモ》の縁《ヨセ》なり
 
大伴宿禰家持歌一首
 
414 足日木能石根許其思美菅根乎引者難三等標耳曾結烏《アシヒキノイハネココシミスカノネヲヒカハカタミトシメノミソユフ》
 
障(リ)多き女の譬喩《タトヘ》なり
 
挽歌
 
上《ウヘノ》宮(ノ)聖徳(ノ)皇子|出2遊《イテマシシ》竹原井《タカハラヰニ》1之時(ニ)見《ミソナハシテ》2龍田山(ノ)死人1悲傷(243)御作歌一首
 
河内志に大縣(ノ)郡高井田村に竹原井と云(フ)地《トコロ》ありと云り此地元正紀【養老元年2月庚寅の下《トコロ》】聖武紀【天平六年三月戊寅の下《トコロ》十六年十月庚子の下《トコロ》】 光仁紀【寶龜二年二月戊申の下《トコロ》】に見去り龍田は其(ノ)近邊《チカキホトリ》にて大和國|平群《ヘクリノ》郡にて河内と界《サカ》ひたる地《トコロ》なり
 
415 家有者妹之手將纏草枕客爾臥有此旅人※[立心偏+可]怜《イヘナラハイモカテマカムクサマクラタヒビニコヤセルコノタヒトアハレ》
 
推古紀【廿一年十二月庚午朔】に皇太子|遊2行《イテマセル》於片岡(ニ)1時(ニ)飢者臥2道(ノ)垂《ホトリニ》1仍|問(ヒタマヘトモ)2姓名(ヲ)1而不v言皇太子視v之與(ヘ)2飲食(ヲ)1即《マタ》脱2衣裳1覆2飢者(ニ)1而|言《ノタマハク》安(ク)臥(セレ)也則|歌之曰《ミウタヨミシタマハク》斯那提流箇多烏箇夜摩爾伊比爾惠弖許夜勢屡諸能多比等阿波禮於夜那斯爾那禮奈理鷄迷夜佐須陀氣能枳彌波夜那祇伊比爾惠弖許夜勢留諸能多比等阿波禮《シナテルカタヲカヤマニイヒニヱテコヤセルソノタヒトアハレオヤナシニナレナリケメヤサスタケノキミハヤナキイヒニヱテコヤセルソノタヒトアハレ》とあり此(ノ)御歌の誤なり
 
大津(ノ)皇子被v死之時(ニ)磐余池般《イハレノイケホトリニテ》流涕御作歌一首
 
此皇子の被《ラレ》v死《シセ》たまへる事の一段《ヒトクタリ》の上【新考六の 】に委細《クハ》しく云り披(ラキ)見(ル)へし磐余《イハレ》は大和國十市(ノ)郡にある地名なり
 
416 百傳磐余池爾鳴鴨乎今日耳見哉雲隱去牟《モヽツタフイハレノイケニナクカモヲケフノミミテヤクモカクリナム》
 
百《モヽ》つたふは五十《イ》の枕詞
 
右藤原宮朱鳥元年冬十月
 
河内《カフチノ》王(ヲ)葬2豐前國鏡山1之時(ニ)手持《タモチノ》女王作歌三首
 
持統紀に三年閏八月丁丑以2淨廣肆河内(ノ)王1爲2筑紫大宰(ノ)師《カミト》1授2兵仗1及(ヒ)賜v物 八年四月戊午以2淨大肆1贈2筑紫大宰(ノ)※[巒の山が十]《カミ》河内王1并賜2賻物《ハフリツモノヲ》1とは卒《ナクナ》られたる時《ヲリ》の事なるをかく簡易《コトスクナ》に記(ル)されたるは彼《カノ》御史《ミフミ》の文法《フリ》なり○手持(ノ)女王いまた詳ならす
 
417 王之親魄相哉豐國乃鏡山乎宮登定流《オホキミノムツタマアヘヤトヨクニノカヽミノヤマヲミヤトサタムル》
 
418 豐國乃鏡山之石戸立隱爾計良思雖待不來座《トヨクニノカヽミノヤマノイハトタテカクリニケラシマテトキマサス》
 
419 石戸破手力毛欲得手弱寸女有者爲便乃不知苦《イハトワルタチカラモカモタヨワキメニシアレハスヘノシラナク》
 
此二首は天(ノ)石屋戸の古事に依て作《ヨマ》れたり
 
石田《イハタノ》王卒之時(ニ)丹生《ニフノ》王作歌一首并短歌
 
石田(ノ)王物に見えす續紀に天平十一年正月丙午從四位下丹生(ノ)女王授2從四位上1 勝寶二年八月庚申授2正四位上1と見えたり
 
(244)420 名湯竹乃十縁皇子狭丹頬相吾大王者隱久乃始瀬乃山爾神左備爾伊都伎坐等玉梓乃人曾言鶴於余頭禮可吾聞都流枉言加我聞都流母天地爾悔事乃世間乃悔言者天雲乃曾久敝能極天地乃至流左右二杖策毛不衝毛去而夕衢占問石卜以而吾屋戸爾御諸乎立而枕邊爾齋戸乎居竹玉乎無間貫垂木綿手次可此奈爾懸而天有左佐羅能小野之七相菅手取持而久堅乃天川原爾出立而潔身而麻之乎高山乃石穗乃上爾伊座都流香物《ナユタケノトヲヨルミコサニツラフワコオホキミハコモリクノハツセノヤヤニカムサヒニイツキイマストタマヅサノヒトソイヒツルオヨツレカワカキヽツルタハコトカアカキヽツルモアメツチニクヤシキコトノヨノナカノクヤシキコトハアマクモノソクヘノキハミアメツチノイタレルマテニツエツキモツカスモユキテユフケトヒイシウラモチテワカヤトニミモロヲタテヽマクラヘニイハヒヘヲスヱタカタマヲシヽニヌキタレユフタスキカヒナニカケテアメナルサヽラノヲヌノナヽスケテニトリモチテヒサカタノアマノカハラニイテタチテミソキテマシヲタカヤマノイハホノウヘニイマセツルカモ》
 
名湯竹乃十縁皇子《ナユタケノトホヨルミコ》とはなよ竹の撓《タワ》み依《ヨ》り靡《シナ》ふにて其《ソノ》御容體《ミスカタ》の形状《サマ》を云るなり○狭丹頬相《サニツラフ》は冠辭考に狹《サ》は眞《マ》にて發語なり丹頬相《ニツラフ》は附《ツカ》ふにて丹《アカ》み附《ツケ》る艶色《ニホヒ》を云り七に山跡之宇陀乃眞赤丹左丹著者《ヤマトノウタノマハニノサニツカハ》十六に羅丹津蚊經色丹名著來紫之《サニツカフイロニナツカシキムラサキノ》云々これらの丹著《ニツク》と言《コト》通へり十に左丹頬經妹乎念登《サニツラフイモヲオモフト》十三に散釣相君名曰者《サニツラフキミカナイハヽ》これらも此《コヽ》と同しく紅顔を云(ヒ)又人ならても六に狹丹頬歴黄葉散乍《サニツラフモミチチリツヽ》十二に左丹頬合紐開不離《サニツラフヒモトキサケス》なともあり○吾大王者隱久乃殆瀬乃山爾神左備爾伊都伎坐等《ワコオホキミハコモリクノハツセノヤマニカムサヒニイツキイマスト》は葬《ヲサ》め奉れる事なり○玉梓乃《タマツサノ》は使者《ツカヒ》の枕詞の如し言《コト》の原《モト》は上に見ゆ【新考7の 】○於余頭禮《オヨツレ》は妄言なり此言集中に多く擧るにたへす天智紀【九年】に妖僞《オヨツレ》天武紀【四年】に妖言《オヨツレ》なとあり光仁紀【寶龜二年二月己酉】左大臣藤原(ノ)永手(ノ)朝臣|薨《ナクナ》りし時の宣命に大臣明日者參出來仕牟止待比賜問爾休息安【麻利】利弖參出未須事波無之帝天皇朝乎置而罷退止開看而於母富佐久於與豆禮加母多波許止乎加母云信爾之有者仕奉之大政官之政乎波誰任之加母罷伊麻須孰授加母罷伊麻須《オホオミアスハマヰテキツカヘムトマタヒタマフアヒタニヤスマリテマスコトハナクシテスメラカミカトヲオキテマカリマストキコシメシテオモホサクオヨツレカモタハコトヲカモイフマコトニシアラハツカヘマツリシオホキマツリコトノツカサノマツリコトヲハタレニヨサシカモマカリイマスタレニサツケカモマカリイマス》云々なと有か如し言《コト》の原《モト》を考るに老者《オイヒト》の齒《ハ》の脱落《オチ》て舌のみにて語《モノイ》へは音聲《コヱ》の漏《モリ》て聞え分明《ワカ》らねは非言《ヒカコト》に誤るを老《オイ》づり言《イヒ》と云るか切《ツヽマ》れるなるへし四に百年爾老舌出而與余牟友《モヽトセニオイシタイテヽヨヽムトモ》と云(ヒ)又靈異記【中卷五段】に地獄か牛鬼か人を唾《クラ》はむとする處に云々七牛聞v之|甞《ナメツリ》v舌(ヲ)飲(ム)v甜《ツヲ》ともある甞《ナメ》つるも牛は上齒《ウハヽ》の無(キ)ものにて舌を以|甜《ネフ》るを甞《ナメ》つると云るにて老者《オイヒト》の右に引る老舌出而と云と同しかるへしかゝれは言《コト》の誤(ル)を本にて妄語のことにも成たるものなるへし○枉言《タハコト》 枉は狂の誤なり右に引る續紀の文《コトハ》また十七に於餘豆禮能(245)多婆許登等可無なと書るを以知へし狂言《タフレコト》なり○天雲乃曾久敝能極《アマクモノソクヘノキハミ》は退《ソ》く方《ヘ》にて遠退《トホサカ》る天《ソラ》の極《キハミ》なり○天地乃至流左右二《アメツチノイタレルマテニ》は至り極(マ)る處のはてまてなり○枚策毛不衝毛去而《ツヱツキモツカヌモユキテ》は※[うがんむり/最]々《イト/\》遠《トホ》き道路《ミチ》の勞《イタツキ》の事にて十三(ノ)巻(ノ)女歌にも木國之濱因云鰒珠將拾跡云而妹乃山勢能山越而行之君何時來座跡玉桙之道爾出立夕卜乎吾問之可婆夕卜之吾爾告良久吾妹兄哉汝待君者奧浪來因白珠邊浪之縁流白珠求跡曾君之不來益拾登曾公者不來益久有今七日許早有者今二日許將有等曾君者聞之二二勿戀吾妹《キノクニノハマニヨルトフアハヒタマヒロハムトイヒテイモノヤマセノヤマコエテユキシキミイツキマサムトタマホコノミチニイテタチユフウラヲワカトヒシカハユフウラノワレニノラクワキモコヤナカマツキミハオキツナミキヨルシラタマヘツナミノヨスルシラタマモトムトソキミカキマサヌヒロフトソキミハキマサヌヒサナラハイマナヌカハカリハヤカラハイマフツカハカリアラムトソキミハキコシシナコヒソワキモ》 返歌に杖衝毛不衝毛吾者行目友公之將來道之不知苦《ツヱツキモツカスモワレハユカメトモキミカキマサムミチノシラナク》 直不往比從巨勢道柄石瀬蹈求曾吾來戀而爲便奈見《タヽニユカスコユコセチカライハセフミモトメソワカクコヒテスヘナミ》とある長歌に玉桙之道爾出立夕卜乎吾問之可婆夕卜之吾爾告良久《タマホコノミチニイテタチユフウラヲワカトヒシカハユフウラノワレニノラク》云々は卜者の語《コトハ》をさなからによみたり反歌の杖衝毛《ツヱツキモ》云々は道遠く女(ノ)身にはあれとも杖衝《ツヱツキ》つかすも行て迎へむとすれとも君か來まさむ方の道路《ミチ》を知らすとなり直不往《タヽニユカス》云々の意は卜者に夫《ヲトコ》の來《ク》へき道路《ミチ》を問るに巨勢道《コセチ》より來《ク》へく告《ツケ》たれは直道《タヽチ》にはあらす横曲路《ヨコチ》の石《イハ》の迫《セマ》れる凝々《コヽ》しき遺なれとも蹈難《フミナヤ》みつゝ求め來りしとなりそれを此從巨勢道柄《コユコセチカラ》と云るは此從來《コレヨリコ》と云かけたるなり巨勢は大和と紀伊との界(ヒ)なるを巨勢道から求め來しと云るにて女(ノ)身にて遠路を迎へ來し勞《イタツキ》なること知らるれば即(チ)此《コヽノ》歌に天雲の退《ソ》く方《ヘ》の極み天地の至極《イタ》れる及《マテ》に杖策毛不衝毛去而《ツエツキモツカ》云々と云るも女(ノ)身にて遠路の勞なること思へし○夕衢占《ユフケ》|問《トヒ》は夕暮《ユフヘ》に人を待つ占《ウラ》なり夕暮には歸り來《ク》へきものなれは門にたち又は衢《チマタ》に出たち或(ヒ)は夜(ル)まても家門《ヤト》より出て立て侍かてらに衢《チマタ》にある卜者に占《ウラ》なはせて聞(ク)くなり卜者は衢に在て人の誂《アツラヘ》を待こと今時《イマ》よりも古代《イニシヘ》は人(ノ)心直くして私意《サカシラ》ならす占《ウラ》に問て次定《サタ》むることなりしかは何處《イヅク》によらす人の立集《タチツト》ふ衢《チマタ》に在し者《モノ》と見えて集中にも多く見え又靈異記【中卷二十四段】に率《イサ》川(ノ)社(ノ)許《モトノ》相八卦〔三字傍線〕讀とあるも相〔傍線〕は相者にて八卦讀は易者なり社頭に在て人の誂《アツラヘ》を待し者なることを知ぬへし四に月夜爾波門爾出立夕占問《ツクヨニハカトニイテタチユワケトヒ》云々十一に夕卜爾毛占爾毛告有今夜谷不來君乎何時將待《ユフケニモウラニモノレルコヨヒタニキマサヌキミヲイツトカマタム》十七に可度爾多知由布氣刀比都追吾乎麻都等奈須良牟妹(246)乎《カトニタチユフケトヒツヽアヲマツトナスラムイモヲ》云々なとありて其(ノ)しさまは飯《イヒ》を笥《ケ》に盛り手に捧持《サヽケモチ》て奠《タムケ》て神の心《ウラ》を問(フ)にて占《ウラ》は表《オモテ》に顯れす裏《ウラ》なることを問(フ)よしの名にて集中に心《コヽロ》を字良と云ことの多かるも目に見えぬ物にて隱裏《ウラ》なるか故なりさて其(ノ)神の告《ツケ》を言靈《コトタマ》と云り言《コト》に靈《タマ》ある故の名にして即(チ)集中に日本國者言靈《ヤマトノクニハコトタマ》の幸《サチ》はふ國|辭靈《コトタマ》の佐助《タスク》る國言靈の眞幸國《マサキクニ》なとあるも是(レ)にて人々己(レ)か私意を用ひす何事に依す神意を伺ひて決定《サタ》むれは人言《ヒトコト》を以諭し賜はりて幸《サキ》はひ佐助《タスケ》たまふ國と云ことにて仲哀紀に天皇の天照大御神|及《マタ》云々の神の御告諭《ミサトシ》を疑ひ思ほしめして神(ノ)怒に依り忽《ニハカ》に崩りましゝ時《ヲリ》の神の御名告《ミナノリ》に於天事代於虚事代玉籤入彦嚴之事代神《アメニコトシロソラニコトシロタマクシリヒコイツノコトシロノカミ》とある事代も言知《コトシリ》にてその言靈を領知《シリ》たまふよしの御名にして又その御言《ミコト》を問(ヒ)奉るには琴を彈(キ)て御靈《ミタマ》を琴頭《コトカミ》に下し奉ることなれは武列紀の歌に琴頭《コトカミ》に來居《キヰ》る影媛《カケヒメ》云々とよみて影と云ことの枕詞にも云るも即《スナハチ》神影《カミノミカケ》のことなり又|其《ソノ》器《モノ》を琴《コト》と云る名もその言靈《コトタマ》を下す器《モノ》なれはなり是(レ)等《ラ》の事|委細《クハシ》くは彼《カノ》御段《ミクタリ》の古事記日本紀を見て知へし又|飛鳥《アスカ》に座す車代主(ノ)神も皇孫命《スメミマノミコト》の近き御守護神《ミマモリ》とありて幽冥事《カミコト》を掌《シリ》賜へは此(ノ)事代も言知《コトシリ》のよしにや或《マタ》は幽冥事《カミコト》を攝《フサ》ね持《モチ》て掌《シ》り賜ふよしにもあるへし十一に事靈八十衢夕占問占正謂妹相依《コトタマノヤソノチマタニユフケトフウラマサニノレイモニアハムヨシ》とよめるも言靈の八十とつゝけたるは目に見えぬ彌《ヤ》十と多くの言靈の有て萬事を告教ることなるを衢《チマタ》の彌十《ヤソ》と多き所にある卜者に占相《ウラナ》ふ夕卜《ユフケ》の事に兼《カネ》たるなりかくて前に説《イフ》へきことを忘れたりさるは夕占《ユフケ》と云(フ)名の意は夕食《ユフケ》にて上に云る如く門にたち或(ヒ)は衢に出なとして立待かてら卜相《ウラナハ》するにも又來る人を待ならて餘事を問にも其告教る言靈に食《ケ》を手向るより出たる卜《ウラ》の名にて又此(ノ)ことを飯占《イヒウラ》とも云り十六に荒雄良乎《アラヲラヲ》【荒雄(ハ)人(ノ)名】將來可不來可等飯盛而門爾出立雖待不來座《コムカコシカトイヒモリテカトニイテタチマテトキマサス》また靈異記【下卷三十九段】に延暦十七年之|比頃《コロ》禅師善珠臨2命終(ノ)時(ニ)1依2世間(ノ)法(ニ)1問2飯占(ヲ)1時(ニ)神靈託2卜者(ニ)1曰我必宿(リテ)2於日本國王之夫人|丹治比孃女《タチヒノヲトメ》之|胎《ハラニ》1將v生(レムト)2王(247)子(ニ)1云々命終之後延暦十八年之|比頃《コロ》丹治比(ノ)夫人誕2生一王子1云々經2三年|許《ハカリヲ》1存v世而薨向(テ)問2飯占(ヲ)1時親王之靈託2占者(ニ)1言我是善珠法師也云々これらは生死《イキシニ》のことをも占《ウラナ》ひ又|死口《シニクチ》をも問ることゝ聞えて向(テ)問2飯占1とは今世にする梓巫女《アツサミコ》に問ふ時《ヲリ》に水を手向るを水向《ミツムケ》と云ことのさまなるへし又|漢《カラ》なとにも此(ノ)飯占の事あり毛詩【小雅】小宛(ノ)篇に握(リテ)v粟(ヲ)出(テ)卜(フ)また離騷に懷《イタキテ》2椒※[米+(疋/日)](ヲ)1而要《モトム》v之王逸(カ)曰※[米+(疋/日)](ハ)精米所2以享1v神(ニ)また説文に※[米+(疋/日)](ハ)齎v財問v卜也また史記【日者傳】に夫卜(テ)而有(レトモ)2不審1不v見(レ)v奪v※[米+(疋/日)]《ヲ》索隱に※[米+(疋/日)](ハ)者卜(ヲ)求v神(ニ)之米也なとありて此間《コヽ》のさまに異ならす聞ゆ○石卜以而《イシウラモチテ》景行紀【十二年】に天皇初(メ)將v討v賊|次《ヤトリタマフ》2柏峽《カシハヲノ》大野(ニ)1其野(ニ)有v石長六尺廣三尺厚一尺五寸天皇|祈之曰《ウケヒテノタマハク》朕得(ムトナラハ)v滅(シ)2土蜘蛛(ヲ)1者|將v蹶《フマムニ》2茲(ノ)石(ヲ)1如2柏(ノ)葉(ノ)而擧(レ)焉|因蹶《カレフミタマヘハ》之則如v柏(ノ)上(リヌ)2於|大虚《オホソラニ》1 故(レ)號2其石1曰2蹈石《ホミシト》1也是(ノ)時(ニ)祷(シ)神(ハ)則|志我《シカノ》神|直入《ナホリノ》物(ノ)部(ノ)神直入(ノ)中臣(ノ)神三神(ナリ)矣このたくひの卜なるへしそも/\占《ウラ》には種々《クサ/\》の名目ありて其(ノ)名目《ナ》の如く占《ウラ》も種《クサ》々なるへきを集中には夕占《ユフケ》石卜《イシウラ》水卜《ミナウラ》足占《アウラ》なとあるを水古《ミナウラ》足卜《アウラ》は其(ノ)處(ロ)に説《イフ》へしさて此一段に夕占《ユフケ》占|問《トヒ》石卜以而吾屋戸爾御諸乎立而《イシウラモチテワカヤトニミモロヲタテヽ》云々と云るは何《イカ》なる神の祟《タヽリ》と云ことを占相《ウラヘ》て其神を探索《モト》めて御堂を建立《タテ》て病の癒《イユ》なむことを祈祷るなり○枚邊爾齋戸乎居《マクラヘニイハヒヘヲスヱ》云々は枕邊とは上座《カミクラ》のことにて五(ノ)卷【貧窮問答(ノ)歌】に父母波枕乃可多爾妻子等母波足乃方爾圍居而《チヽハヽハマクラノカタニトモハアトノカタニカクミヰテ》云々とあるか如し病者の枕邊にはあらす齋戸乎居云々は神祭の時のしわさにて既《ハヤ》く上【新考九の五十二葉】に出たる處に説《イヘ》るを考へし○天有《アメナル》左佐羅能小野之 天上《アメ》にある地名《トコロノナ》なり十六に天爾有哉神樂良能小野爾茅草苅《アメナルヤサヽラノヲヌニチカヤカリ》云々又七に天在日賣菅原《アメナルヒメスカハラ》云々なともあり古(キ)傳(ヘ)の有しなるへし○七相菅手取持而久堅乃天川原爾出立而潔身兩麻之乎《ナヽフスケテニトリモチテヒサカタノアマノカラハラニイテタチテミソキテマシヲ》 七相《ナヽフ》は七は大凡の數にて相《フ》は生《フ》なり【茅原《チフ》蓬生《ヨモキフ》なとの生《フ》のことし】其(ノ)莖立《モトタチ》の多くあるを云て祓除《ハラヒ》に用る菅の美《ヨキ》を云り然《サ》るを菅薦《スカコモ》の編目《アミメ》の節《フ》のことゝ思ふは可《ヨカ》らすそは十四に眞小薦《マヲコモノ》の節《フ》のみ近《チカ》くて(248)云々又夫木【廿八】に陸奧《ミチノク》のとふの菅薦《スカコモ》ならふには君を寢させて三郎《ミフ》に我(レ)ねむなとの如く薦《コモ》に編《アメ》る結目《ユヒメ》の節《フ》のことにこそあれ祓除《ハラヒ》に用る菅麻《スカソ》は祝詞にも八針《ヤハリ》に取辟《トリサキ》とあらすやいかてか節《フ》のあらむ又管は節の《フシ》の有て生る草にもあらさるものをやこはいはても有ぬへけれと古(ヘ)より人のかくのみ思ひ居るめれはなり神樂《カムアソヒ》に天の原ふりさけ見れは八重雲のくものなかとの中臣《ナカトミ》のあまの小菅《コスケ》をさきはらひ祈りしことは今日《ケフ》の日のため云々ともありさてかく天上《アメ》に昇り云々すへきをと云るは石田(ノ)王の爲(メ)に力を盡して祭祓《マツリハラヘ》をもして命を購《アカナ》ひ得つへかりしものを云々と云て上句の天地爾悔事乃世間乃悔言者《アメツチニクヤシキコトノヨノナカノクヤシキコトハ》と云に復る意なり
 
返歌
 
421 逆言之枉言等可聞高山之石穗乃上爾君之臥有《オヨヅレノタハコトトカモタカヤマノイハホノウヘニキミカコヤセル》
 
逆言《オヨツレ》は右に引る【天智紀の】妖僞《オヨツレ》【天武紀の】妖言《オヨツレ》なとの類(ヒ)に書たる字にて集中に多くあり又枉は狂の誤なるよしも上に云るか如くにて狂言等可聞《タハコトヽカモ》の等《ト》は餘れるに似たれと調(ヘ)に依て云るものにて無(キ)も同しことなり此下【六十六葉】に逆言之狂言登可聞《オヨツレノタハコトトカモ》とも書たり
 
422 石上振乃山有杉村乃思過倍吉君爾有名國《イソノカミフルノヤマナルスキムラノオモヒスクヘキキミニアラナクニ》
 
大和(ノ)國山(ノ)邊(ノ)郡|石上《イソノカミ》の内に布留《フル》の地ありて名高く布留の神杉と云て此神社の杉も聞え高く又此社に石田(ノ)王の病を祈祷り給へる由縁《ヨシ》もあるか故に故《コトサ》らに取(リ)出て思過倍吉《オモヒスクヘキ》の過《スキ》に杉《スキ》を以序とせるにて思ひの遣り過し難くいつまても戀しき君と云意なり
 
同石田王卒之時山|前《サキノ》王哀傷作歌一首
 
山前(ノ)王は忍壁(ノ)皇子の子《ミコ》なり其よし續紀天平寶宇五年三月己酉|※[草冠/弟の一二画なし]原(ノ)王【第(ノ)字茅とも葦ともある本あり】の故ありて遠流《ナカ》さるゝ處の文《コトハ》に見ゆ文武紀に慶雲二年十二月癸酉旡位山前王授2從四位下1元正紀に養老七年十二月辛亥年とあり懷風藻に刑部卿と有
 
423 角障經石村之道乎朝不離將歸人乃念乍通計萬四波霍公鳥鳴五月者菖蒲花橘乎玉爾貫《ツヌサハフイハレノミチヲアササラスユキケムヒトノオモヒツヽカヨヒケマシハホトヽキスナクサツキニハアヤメクサハナタチハナヲタマニヌキ》【一云|貫交《ヌキマシヘ》】※[草冠/縵]爾將爲登九月能四具禮能時者黄葉乎折挿頭跡延葛乃彌遠永《カツラニセムトナカツキノシクレノトキハモミチハヲヲリカサヽムトハフクスノイヤトホナカク》【一云|田葛《クスノ》根乃彌遠長爾】萬世爾不絶等(249)念而《ヨロツヨニタエシトオモヒテ》【一云大船之念憑而】將通君乎婆明日從《カヨヒケムキミヲハアスユ》【一云君乎從明日香】外爾可聞見牟《ヨソニカモミム》
 
右一首或云柿本朝臣人麻呂作
 
角障經《ヅヌサハフ》は蔓《ツタハ》延ふ石《イハ》とつゝくる枕詞なり○石村《イハレ》は大和國十市(ノ)郡なる地名なり○通計萬四波《カヨヒケマシハ》 通ひけむはなり
 
或本返歌二首
 
424 隱口乃泊瀬越女我手二纏在王者亂而有不言八方《コモリクノハツセヲトメカテニマケルタマハミタレテアリトイハスヤモ》
 
泊瀬に火葬して其骨を粉に細枠《クタ》きてまきちらせる事を云て悲哀しめるにて七に鏡成吾見之君乎阿婆乃野之花橘之珠爾拾都《カヽミナスアカミシキミヲアハノヌノハナタチハナノタマニヒロヒツ》 蜻蛉野叫人之懸者朝蒔君之所思而嗟齒不病《アキツヌヲヒトノカクレハアサマキシキミカオモホエテナケキハヤマヌ》 玉梓能妹者珠氈足氷木乃清山邊蒔散漆《タマツサノイモハタマカモアシヒキノキヨキヤマヘニマケハチリヌル》なとよめると同し此事は佛の火葬の作法《ワサ》にして此間《コヽ》には道昭|僧《ホウシ》より始りし事文武天皇四年三月己未の紀に見えたり其《ソコ》に道昭和尚物化(ス)云々弟子等|奉《ウケテ》2遺教(ヲ)1火2葬於粟原爾1天下火葬從v此而始也世傳云火葬畢(リテ)親族與2弟子1相爭飲d取2和上(ノ)骨(ヲ)1斂(メムト)u之|飄風《ツムシカセ》忽《ニハカニ》起欲2※[風+場の旁]《アケヌ》灰骨(ヲ)1終(ニ)不v知2其處1時人異焉とあるそ此事の原始《ハメ》にて次第《ツキ/\》に廣こり噫哉可畏《アナカシコ》持統天皇を始め奉りて御歴代《ミヨ/\》の御例《ミアト》の如く成(リ)來になるこそめつらかにいともいとも奇異《アヤ》しく火の汗穢《ケカレ》の世間《ヨノナカ》に交雜《マシコ》ることの本にして其(レ)よりして萬の禍《マカ》事も興起り又世間の人情まても厚敦らかなりしこゝの御國|風《フリ》は亡(ク)なり薄らき行ぬる端を開闢らき初《ソメ》たりそも人は厚(シ)v終(リヲ)追v遠(キヲ)を孝とし又|亡《ナケレトモ》如v在《イマスカ》くにするを以子臣の道を西戎《カラ》なとにも古く云て實に然らさるときには彼か平常《ツネ》にいふ戎狄蠻夷あるひは禽獣とも多く殊ならぬに至りて人たるものの心情《コヽロ》の本根《モト》にて産靈《ムスヒ》の靈《ミタマ》の相(ヒ)繼嗣《ツキ》て盡せず天益人《アメノマスヒト》のつゝきて生成《ナリ》出つゝ千萬世《チヨロツヨ》までも祖先《オヤ》を失はず忘《ワス》れず人々各々その基本《モト》を認《トメ》つゝ天皇《オホキミ》を永長く頂《イタヽキ》に仰ぎ服《マツロ》へ仕へ奉りつゝ各々も又其家名を嗣負ひ竟《ツヒ》におのづから産《ウミ》つきつゝ子孫の盡ることなきに至るときは千萬世の祖先の遺體を又吾よりも干世萬世のうみの子孫《コトモ》に傳ふるものなるか故にいはゝ亡者の朽へき骨骸《カハネ》なれとも心を盡して葬(リ)を厚くし墓墳を堅固くして千代八千代に崩頽るゝことなく※[丘+頁]覆《カタムキクツカヘ》ることなく千引の磐石《イハ》を磐石構(ヘ)にして今(ノ)世まて(250)も稀有《マレ》にも遺存《ノコ》れるかあるは凡て皆この火葬已前の物にて今もその墳墓の構作《ツク》りさま葬殿の敦厚きを見て其世の人情の忠孝《マメ》なりしほどを察《オモ》ひやるに堪たりそも/\後世の人情を以思へば天皇《オホキミ》の山陵は云もさらなり臣下に賜《タマハ》る墓地の兆域なともはなはた廣く大にして國土を計算《ハカ》らす後昆《ノチ》の世のことをも思ひはからさるものにも似たれとも世は然《サ》る小く狹隘《セハ》き理(リ)を以思ふへき限際《カキリ》のものにあらすいともいとも奇妙《クス》しき理(リ)のあるものにして天地も何もとこし經《ヘ》にありゆきわたらふものにしありぬへけれは何《イ》くそはくの費《ヅヒエ》のありても何《ナニ》ならぬを反りて人情の毀廢《ソコナハ》れゆくつひえのおとろへこそは眞實《マコト》に歸らぬ水の流るゝとひとしく痛切《イタ》むへきことのかきりにてあなかしこ遠つ現《アキツ》神吾(カ)天神《オホキミ》の皇祖神等《スメロキタチ》の山陵をしも荒田の面にすきかへして其なこりとも分明《ワカ》りかたきまて成なとしたるその根深《モト》をおせは皆是(レ)外國の夷蠻の流風《フリ》の交雜《マシコ》りたる故にして外國は國土あしきが故にこの吾御國のよきを聞くもののことく各《オノ/\》皆《ミナ》御國に商《アキ》なはむと要《モト》め衒《テ》らひて何事も東流し來ぬるなり後昆《ノチ》の世々に至らむ及《マテ》にも其害の一度《ヒトタヒ》染初《シメソメ》ては長永《ナカ》く二度《フタヽヒ》かへり清淨《キヨ》まらぬる思てこは深くこゝろしつへきことのさまになむあるめる又漢土の拙劣《ツタナ》き計議《》を信受《コトハカリウケ》たまひて遠祖天皇《トホスメラキ》の山陵を廢絶《トヽ》めたまへることのよしをも既《ハヤ》く上【新考二の五十二葉】に論らひつ其《ソノ》慨言《ウレタミ》をも考合せよかし思ふ事を云むとしてくた/\しくなりにけりされとなほ今すこし云へし績後紀に承和七年五月辛巳の日に後(ノ)太上天皇【淳和】の崩らせ賜はむとする時に嚴命して詔く予聞(ク)人歿(シテ)精魂歸v天而空(ク)存(スルトキハ)2冢墓(ヲ)1鬼物|憑《ヨリテ》v焉《コレニ》終(ニ)乃爲v祟(リヲ)長(ク)貽《ノコセリ》2後(ノ)累(ヲ)1今宜3碎(キ)v骨(ヲ)爲v粉(ニ)散2之山中(ニ)1於v是中納言藤原朝臣吉野奏言云々我國自2上古1不(ルコトハ)v起2山陵(ヲ)1所v未v聞也山陵(ハ)猶2宗廟(ノ)1也|縱《モシ》無(クハ)2宗廟1者臣子何(レノ)處(ヲカ)仰(カム)云々と論らひ奏《マヲ》されたる時《ヲリ》の報《ミコタヘ》の詔に予氣力綿※[立心偏+綴の旁](シテ)不v能2論決1卿等奏2聞嵯峨聖皇1以蒙(ラム)v裁耳云々とあるは大御病既に忽《ニハカ》に成てこの新《アラタ》なる粉骨して山陵を起すへからす云々との神代|以來《コノカタ》なき詔命《ミコトノリ》有けるを吉野朝臣は時世に邊《ヘ》つらひ媚《コヒ》を求むる當(251)世の徒輩にあらねは納言の官職を守て云々とは論奏《アケツラヒマヲ》されたりけれとも時(ノ)勢にて遂に用ひられす癸未(ノ)日に崩らせ賜ひて即《ヤカ》て戊子(ノ)日に山城國|乙訓《オトクニノ》郡|物集《モツメノ》村にて燒奉《ヤキタテマツ》り即(チ)御骨(ヲ)碎(キテ)v粉(ニ)奉v散2大原野(ノ)西山(ノ)嶺上(ニ)1と見えたる如く中《ナカ》四日を隔てたるはかりにて葬り出し燒失ひ奉るのみならす大御骨をも少しもとゝめまつらて粉にして山よりまきちらして棄奉り賜ひけるかくのみ事新《コトアラタ》なる上古よりいまたあらさることの即(チ)今時に流れて傳りぬることの初發《ハシメ》の忌々《ユヽ》しき大事なれは大御病いと急迫《ニハカ》にて詔命《ミコトノリ》の如く氣力綿※[立心偏+綴の旁]し賜ひて不v能2論決(シタマフコト)1して卿等奏2聞嵯峨聖皇1以蒙v裁耳と詔ふ如き今は限(リ)に成らせ賜へる際《キハ》の事にてはありなからも納言の職にて言を納れたてまつらさる能《アタ》はされは論らひ奏されたるにて嗟峨(ノ)太上天皇は大御兄にましまし儒佛の才學にてもましましけれはその裁斷をきゝたてまつれとなり然るに嵯峨(ノ)太上皇はしもいといみしく儒佛の華《ハナ》やかさを好み行はせ賜へりけれはにか此(ノ)論奏用ひられすして此(ノ)時始めて散骨の大御葬法《オウミハフリサマ》になりて此(レ)より永く古風の山陵は廢れて庶《タヽ》人ともはなはた異《カハ》ることなきはかりの大御|葬法《ハフリサマ》になりにたれはおのつから後には其地とも知られぬさまには成たるにてかしこかれと奈何《イカニ》とも今は爲方《スヘ》なき御事に似たれともなほいかにもして神代御三代の現《ウツヽ》に存《ノコ》れる山陵よりはしめて探《サク》り索《モト》めて桓武天皇延暦十年三月癸末(ノ)日に定め賜へる制《ミノリ》を古舊《モト》に復《カヘ》して遠祖天皇《トホスメラキ》をも祭奠《マツ》り賜ふへくならはおのつから世人も祖先《モト》を念ひて皇國心に立復りつゝ彼(ノ)外國より羨《ウラヤ》み慕《ネカ》ふめる扶桑蓬莱神州君子國なと唱稱《イフ》らむ古風も起りて彌益々《イヤマス/\》に御國は昌榮えなむかも又思ふ事をはるけいはむとして上に云へき事の遺《ノコ》りを虧《カキ》ぬ火葬散骨の流習《ナラヒ》は大かた云るか如しそれより出て又|生身《イケル》をも自《ミツカ》ら手つから燒亡ふ法ありて古き物に名ある僧《ホウシ》なとは其(ノ)道ありて行ふ業状《シワサ》ならめとたま/\ならす是(レ)彼(レ)見ゆるをたに異《アヤ》しと思ひて爪彈《ツマハシ》きをしつゝ凶々《マカ/\》しあなきたないとも/\有(ル)ましきことかなと忌《イマ》ひて讀過《ヨミスク》せばそもなほ僧徒は奇異《アヤ》しむに足らす公卿補任に天長三年六月戊戌參議從四位下兼彈正大弼下(252)野守橘朝臣常主卒云々常主積v薪居2其上1燒死有2勅使1被v問卒時年四十これらはいともめつらかにあさましくおほゆるわさなるを當世《ソノヨ》には僧等《ホウシラ》より習ひて美事《ヨキコト》にしたるめりし故《カラ》に公家よりも勅使を以問給へるなるへし此《コノ》類《タクヒ》も早く有しかは僧尼令に凡僧尼不(レ)v得2焚(キ)v身(ヲ)捨(ルコトヲ)1v身(ヲ)若違(ヘラム)及所由(ノ)者《ヒトハ》並依v律科(セヨ)v罪ともありて早くより制《オキテ》たまへることなるを又此(ノ)常主參議のころにはゆるひて反りて美事《ヨキコト》に成(リ)たりけるにこそあめれそも/\僧徒は異《ケ》しき行《オコナヒ》をたてゝするものにて僧ならぬ者の身を文《モトロク》る今(ノ)世の賤《イヤシ》く異《アヤ》しき一(ツ)の俗習《ナラヒ》なるも蝦夷なとの風俗《フリ》よりならへるかは知らすここの古(ヘ)にはかつてなきことなるを物に見ゆるは續紀【養老六年七月己卯大政官奏】に僧|等《ラ》の事を内|※[黒+賣]《ケカシ》2聖教1外|虧《カケリ》2皇猷1遂(ニ)令2人之妻子剃髪刻膚1 朝野群載【書寫山上人傳】に沙彌性空者東京(ノ)人也父從四位下橘朝臣善根母(ハ)源氏云々身素(ヨリ)無2※[虫+幾]風1胸間(ノ)肌膚(ニ)彫(リ)2顯(ハス)阿彌陀佛像(ヲ)1なとありこれなむ今(ノ)世に官《オホヤケ》より禁《イサ》めたまふなるあやしき者の身體《ミ》に刻《キサ》み入るゝ人黒《イレスミ》の彫物《ホリモノ》と云ふものゝ物に見えたるには有ける種々に怪異しき行業《オコナヒ》ともをして世人を面向《オモムケ》さするも彼(ノ)法にはあることなれとも凡人《タヽヒト》にもうつりて俗習《ヨノナラヒ》になるこそ慨《ウレタ》けれ火葬散骨捨身もそれなりなほいはゝ家を出て君《キミ》父母《オヤ》をすて妻子《メコ》をすて身を捨《ステ》て僧《ホウシ》になるもあやしく佛《ホトケ》になると云ふこともあやし
 
425 河風寒長谷乎歎乍右之阿流久爾似人母逢耶《カハカセノサムキハツセヲナケキツヽキミカアルクニニルヒトモアヘヤ》
 
似(ル)とは亡者《ナキヒト》に似るにて彼《ソノ》人にはあらすとも似たらむ人たに逢て歎き慕ふ公《キミ》をいさゝかにも慰めよとなり
 
右二首者或云紀皇女薨後山前王代2石田王1作之也
 
柿本朝臣人麻呂見2香具山(ノ)屍1悲慟作歌一首
 
426 草枕※[覊の馬が奇]宿爾誰嬬可國忘有家待莫國《クサマクラタヒノヤトリニタカツマカクニワスレタルイヘマタマクニ》
 
家待莫國《イヘマタマクニ》は家にて待むになり
 
田口廣麻呂死之時|刑部垂《オサカヘノタリ》麻呂作歌一首
 
廣麻呂詳ならす垂麻呂は上に見ゆ【新考八の三十葉】
 
427 百不足八十隅坂爾手向爲者過去人爾蓋相牟鴨《モヽタラスヤソクマサカニタムケセハスキニシヒトニケタシアハムカモ》
 
百不足は八十の枕詞|隅《クマ》は十六に川隅《カハクマ》とも書たり誤字ならす八十隅坂《ヤソクマサカ》は古事記に大國主(ノ)神の幽冥に没《イリ》隱れ給ふ時に於百不足八十※[土+囘]手隱而侍《モヽタラスヤソクマテニカクリテサモラヒナム》と宜へるに同(253)く幽冥に往來《カヨ》ふ道路《ミチ》なる八十《ヤソ》の隅坂《クマサカ》にて其(ノ)坂毎(ト)に手向をしつゝ往(キ)なは退去《スキニ》し人に行逢むかとなり旅にては坂にて手向をして過るならひなれはなり
 
土形《ヒチカタノ》娘子火2葬泊瀬山(ニ)1時柿本朝臣人麻呂作歌一首
 
此娘子もさたかならす
 
428 隱口能泊瀬山之山際爾伊佐夜歴雲者妹鴨有牟《コモリクノハツセノヤマノヤマノマニイサヨフクモハイモニカモアラム》
 
火葬の烟を見て云るなり泊瀬は古の葬地なりき
 
溺死出雲(ノ)娘子火2葬吉野1時柿本朝臣人麻呂作歌二首
 
此娘子も詳ならす溺死とは故有て身を投たるなるへし
 
429 山際縱出雲兒等者霧有哉吉野山嶺霏※[雨/微]《ヤマノマユイツモノコラハキリナレヤヨシヌノヤマノミネニタナヒク》
 
山|際《キハ》より出る雲といひ懸たるにて火葬の烟なり
 
430 八雲刺出雲子等黒髪者吉野川奧名豆颯《ヤクモサスイツモノコラカクロカミハヨシヌノカハノオキニナツサフ》
 
刺《サス》は立《タツ》なりさしのほるは立(チ)昇(ル)刺(ス)竹は立(ツ)竹なるか如し名豆颯《ナツサフ》は馴著添《ナツサフ》にて物の上に和らかに馴染《ナシミ》つく形状《サマ》をいへは水(ノ)上に着《キ》て物の浮(キ)漂ふことに多くあり
 
過2勝鹿眞間《カツシカノママノ》娘子(ノ)墓(ヲ)1時(ニ)山部(ノ)宿禰赤人作歌一首并短歌
 
下總國|葛飾《カツシカノ》郡に眞間と云|地《トコロ》有て今も此娘子の古事を言傳へたる趣《サマ》此集の歌|等《トモ》と異ならす九に鷄鳴吾妻乃國爾古昔爾有家留事登至今不絶言來勝牡鹿乃眞間乃手兒奈我麻衣爾青衿着直佐麻乎裳者織服而髪谷母掻者不梳履乎谷不著雖行錦綾之中爾※[果/衣]有齋兒毛妹爾將乃哉望月之滿面輪二如花咲而立有者夏蟲乃入火之如水門入爾船己具如久歸香具禮人乃言時幾時毛不生物乎何爲跡歟身乎田名知而浪音乃驟湊之奧津城爾妹之臥勢流遠代爾有家類事乎昨日霜將見我其登竜所念可聞《トリカナクアツマノクニヽイニシヘニアリケルコトトイママテニタエスイヒクルカツシカノマヽノテコナカアサキヌニアヲオヒツケヒタサヲヽモニハオリキテカミタニモカキハケツラスクツヲタニハカスユケトモニシキアヤノナカニツヽメルイハヒコモイモニシカメヤモチツキノタレルオモワニハナノコトエミテタテレハナツムシノヒニイルカコトミナトイリニフネコクコトクヨリカクレヒトノイフトキイクハクモイケラシモノヲナニストカミヲタナシリテナミノトノサハクミナトノオクツキニイモカコヤセルトホキヨニアリケルコトヲキノフシモミケムカコトモオモホユルカモ》また十四の古き下總國歌に可都思可能麻末能手兒奈乎麻許登可聞和禮爾余須等布麻末乃弖胡奈乎《カツシカノマヽノテコナヲナコトカモワレニヨストフマヽノテコナヲ》可豆思賀能麻萬能手兒奈我安里之可婆麻末乃於須比爾奈美毛等杼呂爾《カツシカノマヽノテコナカアリシカハマヽノオスヒニナミモトトロニ》 安能於登世受由可牟古馬母我可都思加乃麻末乃都藝波思夜麻受可欲波牟《アノオトセスユカムコマモカカツシカノマヽノウキハシヤマスカヨハム》なとありこれらの歌の樣《サマ》を以思ふにいと貌美《カタチヨ》き娘子《ヲトメ》にて多くの人の婚《ツマト》ひ爭ふに因《ワヒ》て自《ミツカ》ら眞間(ノ)江に没《イリ》て亡《ウセ》にし人にて彼(ノ)兎原《ウナヒ》娘子の類になむ有ける
 
431 古昔有家武人之倭文幡乃帶解替而廬屋立妻問爲家武勝牡鹿乃眞間之手兄名之奧槨乎此間登波聞杼眞木葉哉茂有良武松(254)之根也遠久寸言耳毛名耳母吾者不所忘《イニシヘニアリケムヒトノシツハタノオヒトキカヘテフセヤタテツマトヒシケムカツシカノマヽノテコナノオクツキヲコヽトハキケトマキノハヤシケクアルラムマツカネヤトホクヒサシキコトノミモナノミモワレハワスラエナクニ》
 
倭文《シツ》はいと上世《カミツヨ》の文服《アヤハタ》なりしを後に呉《クレ》漢《アヤ》の織(リ)物渡(リ)來《コ》しよりいつしか廢れて早く絶たるものと聞えて十一に去家之倭文旗帶乎結垂《イニシヘノシツハタオヒヲムスヒタレ》云々こはやゝ古き歌なるに古(ヘ)の倭文服帶《シツハタオヒ》と云(ヒ)又|此《コヽ》にも古昔有家武人之倭文幡乃帶解替而《イニシヘニアリケムヒトノシツハタノオヒトキカヘテ》云々とも云(ヒ)又|倭文《シツ》と書(ク)なとも呉《クレ》漢《アヤ》の文服《アヤハタ》と對《ムカ》へて此方《コナタ》の物を外々《ヨソ/\》しくしたる字樣《モシサマ》なるものなり此(ノ)服の事は上【新考四の五十五葉】にも云たり考へし倭文幡乃帶解替而《シツハタノオヒトキカヘテ》云々は娉《ツマトヒ》の禮代《ヰヤシリ》に男女の帶を互《タカヒ》に解替《トキカハ》して贈(リ)納るゝ古(ヘ)の習にや有けむ○廬屋立《フセヤタテ》妻問爲家武は古(ヘ)は妻を娶《トル》には必らず新《ニヒ》屋を建て夫婦《ツマ》こもるならひなるを鄙《ヒナ》なれは廬屋《フセヤ》とは云るなり○眞間之手兒名とは古(ヘ)東語《アツマコト》に父母《オヤ》の手をいまた離れぬ稚子《ワクコ》を云(ヒ)又|愛《ウツク》しみて手を離たぬをも云(ヒ)名は例の美稱なり十四【東歌】に都流伎多知身爾素布伊毛乎等里見我禰哭乎曾奈伎都留手兒爾安良奈久爾《ツルギタチミニソフイモヲトリミカネネヲソナキツルテコニアラナクニ》これは父母《オヤ》の手を離れぬ童兒《ワラハ》にもあらぬに其《ソ》か如く聲《ネ》を泣くことよとなり又左和多里能手兒爾伊由伎安比安可故麻我安我伎乎波夜美許等登波受伎奴また比等未奈乃許等波多由登毛波爾志奈能伊思井乃手兒我許登奈多延曾禰これらは左和多里また埴科《ハニシナ》の石井なと云地の名ある娘子《ヲトメ》のこゝ聞ゆ○奧槨乎此間登波聞杼眞木葉哉茂有良武松之根也遠久寸《オクツキヲコヽトハキケトマキノハヤシケクアルラムマツカネヤトホクヒサシキ》は當時《ソノカミ》既《ハヤ》く此墓は亡《ウセ》て其《ソノ》蹟《アト》といふ名のみ傳はりしを娘子の爲(メ)に言忌《コトイミ》して眞木の葉の茂りて見えぬにや松(カ)根の久しき世の事なれはにやとおほめかしく云なせるにて例の吊歌の體《サマ》なるものなり又此娘子の世の古きこと知へし
 
返歌
 
432 吾毛見都人爾毛將告勝牡鹿之眞間能手兒名之奧津城處《ワレモミツヒトニモツケムカツシカノマヽノテコナノオクツキトコロ》
 
433 勝牡鹿之眞々乃入江爾打靡玉藻苅兼手兒名志所念《カツシカノマヽノイリエニウチナヒクタマモカリケムテコナシオモホユ》
 
身を投《ナケ》たるを言忌《コトイミ》してかく云るも吊歌の風《フリ》にて手向の意(ロ)しらひになむ有ける
 
和銅四年辛亥河邊(ノ)宮人見2姫島(ノ)松原美人(ノ)屍(ヲ)1哀慟作歌四首
 
此題は二(ノ)卷(ノ)挽歌に出て其處《ソコ》の歌|等《トモ》は此《コヽ》のとは大《イタ》く異《カハ》りてよく聞えたるを此《コヽ》なるは四首ともに更(ラ)に此題に相應《カナ》はす離れて別《コト》なる物なるを古く傳(ヘ)の錯亂《マキレ》たるなるへし
 
(255)434 加座※[白+番]夜能美保乃浦廻之白管仕見十方不怜無人念者《カサハヤノミホノウラマノシラツヽシミレトモサフシナキヒトオモヘハ》【或云|見者悲霜無人思丹《ミレハカナシモナキヒトオモフニ》】
 
加座※[白+番]夜《カサハヤ》は紀伊國の地名なるへし七に風早之三穗乃捕廻乎榜舟之船人動浪立良下《カサハヤノミホノウラマヲコクフネノフナヒトトヨムナミタツラシモ》この前よりつゝきて木國の名所をよめる歌ともの中にあり又此上【新考九の十葉】に博通法師往2紀伊國1見2三穗(ノ)石室(ヲ)1作歌三首 皮爲酢寸久米能若子我伊座家留三穗乃石室者雖見不飽鴨《ハタスヽキクメノワクコカイマシケルミホノイハヤハミレトアカヌカモ》 常磐成石室者今毛安里家禮騰住家類人曾當無里家留《トキハナスイハヤハイマモアリケレトスミケルヒトソツネナカリケル》石室戸爾立在松樹汝乎見者昔人乎相見如之《イハヤトニタテルマツノキナヲミレハムカシノヒトヲアヒミルコトシ》とありて三穗は同國日高(ノ)郡にあること其處《ソコ》に云るか如くにて此歌と次のと二首は久米(ノ)若子をよめること右の博通法師のと同し意のさまにして古(ヘ)を偲《シノ》へる歌なれは風早《カサハヤ》と云地も同し日高(ノ)郡の内なるへし無人《ナキヒト》とは久米(ノ)若子を云又此人の詳《サタカ》ならさるよしをも右の博通の歌の處に云るか如し
 
435 見津見津四久米能若子我伊觸家武礒之草根乃干卷惜裳《ミツミツシクメノワクコカイフレケムイソノクサネノカレマクオシモ》
 
古事記【白檮原《カシハラノ》宮(ノ)段】歌に美都美都斯久米能古賀云々とあるを傳【十九の卅五葉】に滿々《ミツ/\》しにて眼《メ》の圓《マロ》く大(キ)なるを云|大久米命《オホクメノミコト》の眼《メ》のさまなり此(ノ)命《ミコト》の名も久流々々《クル/\》と眼《メ》の圓《マロ》く大(キ)なるより負るにて久米は久流目《クルメ》なり云々とありてそは實《マコト》の貌《カタチ》を云るなるを彼(ノ)歌よりならひて此《コヽ》の滿々《ミツ/\》しはたゝ久米の枕詞なりさて此歌も右の加座※[白+番]夜《カサハヤ》と同く久米(ノ)若子の昔を侭《シノ》へるなり
 
436 人言之繁比日玉有者手爾卷以而不戀有益雄《ヒトコトノシケキコノコロタマナラハテニマキモチテコヒサラマシヲ》
 
437 妹毛吾毛清之河乃河岸之妹我可悔心者不持《イモモアレモキヨミノカハノカハキシノイモカクユヘキコヽロハモタシ》
 
此(ノ)二首は相聞にて上二首の類《タクヒ》にあらす別《コト》なるを古く混《マキ》れて一(ツ)に成しにや清みの河は明日香の淨見なるへし河岸の崩《クユ》るを悔《クユ》るにいひかけて互《クカヒ》に心の清く二心あらねは云々を清みの河にいひかけたり
 
右案年紀并所處及娘子(ノ)屍作歌人名已(ニ)見v上也但(シ)歌辭相違是非難v別因以累2載於茲(ノ)次(ニ)1焉
 
こは二(ノ)卷に出たることのよしなり
 
神龜五年戊辰大宰(ノ)帥大伴(ノ)卿思2戀故人1歌三首
 
旅人卿の妻《メ》筑紫にて亡《ナク》なりし時《ヲリ》の事とも五八(ノ)卷に見えたり此人は家持卿の母にあらす其故は續紀に天應(256)元年八月甲午正四位上大伴宿禰家持爲2左大辨并兼東宮大夫1先v是(レヨリ)遭(テ)2母(ノ)憂(ニ)1解任至v是復焉とありて此卿の母の亡成《ナクナリ》しはいたく後のことなれはなり
 
438 愛人之纏而師敷細之吾手枕乎纏人將有哉《ウツクシキヒトノマキテシシキタヘノワカタマクラヲマクヒトアラメヤ》
 
右一首別去而經2數旬1作歌
 
439 應還時者成來京師爾而誰手本乎可吾將枕《カヘルヘキトキニハナリクミヤコニテタカタモトヲカワカマクラカム》
 
440 在京師荒有家爾一宿者益旅而可辛苦《ミヤコナルアレタルイヘニヒトリネハタヒニマサリテクルシカルヘシ》
 
右二首臨v近2向v京之時1作歌
 
神龜六年己巳左大臣長屋(ノ)王賜v死之後(ニ)倉橋部《クラハシヘノ》女王作歌一首
 
此一段の事は聖武紀に見ゆ倉橋部(ノ)女王|詳《サタカ》ならされとも八(ノ)卷に賀茂(ノ)女王(ノ)歌一首【長屋(ノ)王之女云々】云々 右歌或云|椋《クラ》橋部女王作とあり是に依て思へは長屋王の女《ムスメ》にやあらむ
 
441 太皇之命恐大荒城乃時爾波不有跡雲隱座《オホキミノミコトカシコミオホアラキノトキニハアラネトクモカクリマス》
 
荒城《アラキ》は殯《アラキ》なり
 
悲2傷|膳部《カシハテノ》王(ヲ)1歌一首
 
長屋王の男にて父王と倶に誅さる聖武紀に見ゆ
 
442 世間者空物跡將有登曾此照月者滿闕爲家流《ヨノナカハムナシキモノトアラムトソコノテルツキハミチカケシケル》
 
右一首作者未詳
 
天平元年己巳攝津國班田史生|丈部《ハセツカヘノ》龍麻呂自經死之時判官大伴宿禰三中作歌一首并短歌
 
續紀に天平元年十一月癸巳任2京及畿内(ノ)班田使1とあり龍麻呂詳ならす【寶龜元年7月戊寅の紀に同名あれとも別人なり】三中は紀に天平十二年正月庚子正六位上大伴宿禰三中授2外從五位下1 十三年八月丁亥爲2刑部少輔兼大判事1 十五年六月丁酉爲2兵部少輔1 十六年九月甲戌爲2山陽道巡察使1 十七年六月辛卯爲2大宰少貳1 十八年四月壬辰爲2長門守1 己卯授2從五位下1 十九年正月乙酉爲2刑部大判事1なと見え又是(レ)より前《サキ》天平八年從六位下にて遣新羅副使にて彼(ノ)國に往れし事も紀に見へたり
 
443 天雲之向伏國武士登所云人者皇祖神之御門爾外重衝立候内重爾仕奉玉葛彌遠長祖名文繼往物與母父爾妻爾子等爾語而立西日從帶乳根乃母命者齋忌戸乎前坐置而一手者(257)木綿取持一手者和細布奉平間幸座與天地乃神祇乞祷何在歳月日香茵花香君之牽留鳥名津匝來與立居而待監人者王之命恐押光難波國爾荒玉之年經左右二白栲衣手不干朝夕在鶴公者何方爾念座可欝蝉乃惜此世乎露霜置而往監時爾不在之天《アマクモノムカフスクニノモノヽフトイハレシヒトハスメロキノカミノミカトニトノヘニタチサモラヒウチノヘニツカヘマツリタマカツライヤトホナカクオヤノナモツキユクモノトオモチヽニツマニコトモニカタラヒテタチニシヒヨリタラチネノハヽノミコトハイハヒヘヲマヘニスヱオキテヒトテニハユフトリモタシヒトテニハニキタヘマツリタヒラケクマサキクマセトアメツチノカミニコヒノミイカ》ナラムトシツキヒニカツヽシハナニホヘルキミカヒクアミノナツサヒコムトタチテヰテマチケムヒトハオホキミノミコトカシコミオシテルナニハノクニヽアラタマノトシフルマテニシロタヘノコロモテホサスアサユフニアリツルキミハイカサマニオモヒイセカウツセミノオシキコノヨヲツユシモノオキテイニケムトキナラスシテ》
 
天雲之向伏國武士登所云人者《アマクモノムカフスクニノモノヽフトイハレシヒトハ》 祈年祭(ノ)祝詞に四方國者天能壁立極國乃限立限青雲能靄極白雲能墜坐向伏限《ヨモノクニハアメノカヘタツキハミクニノツキタツカキリアヲクモノタナヒクキハミシラクモノオリヰムカフスカキリ》云々と有て天下《アメノシタ》の極《キハマ》る處を云古言なるを今此(ノ)龍
 
麻呂と云ふ人は次(ノ)句に皇祖神之御門爾外重爾立候内重爾仕奉《スメロキノカミノミカトニトノヘタチサモラヒウチノヘニツカヘマツリ》云々とあれは衛府の司《ツカサ》の人にして名ある武士《モノヽフ》なりけるを今度班田使に差《サヽ》れては此《コレ》よりいよ/\身も戚出なむ初端《ハシメ》と父母《オヤ》妻子《メコ》にまて語らひて出たるか故に其(ノ)日よりして母は云々して待けむ人は任を畏り仕へ奉りつゝ衣手ほさす班田に仕へ奉りつゝ朝夕に在つる公《キミ》は何《イカ》なるにか有けむかくのさまにて亡《ナク》なりけるはとにてゆくりなく自《ミヅカ》ら身を殺して最初《ハシメ》よりの志をも果さす又班田にも清明《キヨ》く仕へ奉りて有なから心得難しと云るにて此《コ》は實《マコト》に何《イカ》なる故ありて自ら經《ウナ》き死《シニ》たるかも知らねとも龍麻呂のために忠孝を失はさらしめむとの詞用《コトハツカ》ひになむ有ける帶乳根《タラチネ》は足らし根にて親の兒を養育ふを日足《ヒタラ》と云如く日を足らしめて養育つゝ生長《ヒトヽナ》すものなるか故に父母《オヤ》と云言に冠らせ又|母《ハヽ》は特に親しけれは多く母に著きて云なり又根は美稱なり
 
○茵花香君之《ツヽシハナニホヘルキミカ》は紅顔を云り○牽留鳥名津匝來與《ヒクアミノナツサヒコムト》は上【四十二葉】に云る如くなつさふとは物のうへに和らかに馴染著《ナシミツク》にて馴著添《ナツサフ》といふ言の意なれは多く水に著《ツキ》て浮漂《ウキタヽヨ》ふ状《サマ》のことに云なりされは此《コヽ》のも引網《ヒクアミ》の云々とは云るなり○押光《オシテル》は襲立《オソヒタテル》にて浪の高く立を云|難波《ナニハ》は神武紀に浪速《ナミハヤノ》國と有て浪の急峻《ハヤ》きより負る地名なれは襲立《オソヒタテ》る浪速《ナミハヤ》とつゝくるにて難波《ナニハ》は浪速《ナミハヤ》の約なり
 
○白栲衣手不干朝夕在鶴公《シロタヘノコロモテホサスアサユフニアリツルキミ》とは朝《アシタ》より夕《ユフヘ》に至るまてに田に下《オリ》立て衣手の干く間なく勤勞《イソ》しみて仕へ奉れる人と云ことなり二十に天平元年班田之時(ニ)使葛城(ノ)(258)王從2山背國1贈2薩妙觀命婦等(ノ)所1歌一首副2芹子※[果/衣]《セリツヽミニ》1赤根さすひるは田|給《タヒ》てぬは玉のよるのいとまにつめる芹子《セリ》これ是も班田の餘暇とは云なからも夜《ヨル》まても田に下《オリ》立て摘《ツメ》る芹子《セリ》そと云て贈られたるなれは今|此《コヽ》なる衣手不千《コロモテホサス》云々とあるも晝夜の勤勞なることを知ぬへし
 
返歌
 
444 昨日社公者在然不思爾濱松之上於雲棚引《キノフコソキミハアリシカオモハヌニハママツノウヘニクモニタナヒク》
 
445 何時然跡待牟妹爾玉梓乃事太爾不告往公鴨《イツシカトマツラムイモニタマツサノコトタニツケスイニシキミカモ》
 
程繁《タマツサ》の言《コト》とは問音信《トヒオトツレ》の事なるよし上【新考七の 葉】に委く云り考(ヘ)見(ル)へし
 
天平二年庚午冬十二月大宰(ノ)帥大伴(ノ)卿向v京上道之時作歌五首
 
十七に天平二年十一月大宰(ノ)帥大伴(ノ)卿被v任2大納言1【兼v帥如v舊】上京之時云々とあり此《コヽ》に十二月とあるはその道上《ミチ》すからの作歌《ウタ》にて十二月に成てのことなれはなり
 
446 吾妹子之見師鞆浦之天木香樹者常世有跡見之人曾奈吉《ワキモコカミシトモノウラノムロノキハトコヨニアレトミシヒトソナキ》
 
鞆《トモ》は備後國|沼隈《ヌノクマ》郡にて名高く著顯《イチシル》き地なり天木香掛《ムロノキ》は和名抄に爾雅(ノ)注(ニ)云(ク)※[木+聖]一名(ハ)河柳和名無呂と見え集中にも是彼《コレカレ》あり玉勝間【たち花(ノ)卷】云田中(ノ)道麻呂か云りしは室樹《ムロノキ》何處《イツク》にも多くあり美濃國(ノ)不破(ノ)郡多藝(ノ)郡なとにては、ひむろとも又ひもろ杉とも云(ヒ)伊勢國|員辨《イムヘノ》郡桑名(ノ)郡のあたりにてたちむろはひむろと云(リ)尾張(ノ)國羽栗(ノ)郡にてねずむろともべぼの木ともむろとも云り凡て山に多き木にて地に這《ハフ》と高く立(ツ)と二種《フタクサ》有て這ふ方には大木はなく立るには大なるも多し柏子《ビヤクシン》と云木に似て又杉にも似たり二種共に子《ミ》多くなるなりと云りきとあり此《コヽ》より下の歌|等《トモ》皆大宰にて亡《ナク》なられし妻《メ》慕《シノ》はれたるなり
 
447 鞆浦之礒之室木將見毎相見之妹者將所忘八方《トモノウラノイソノムロノキミムコトニアヒミシイモハワスラエメヤモ》
 
將見毎《ミムコトニ》とは大納言に任《ナ》られてなほ帥を兼《カケ》たれは筑紫に下り上る度《タヒ》に見む毎《コト》にとなりさて此(ノ)浦の礒の※[木+聖]《ムロノ》木は殊異《コト》なる古き大木にて名高く人の見るものなりしにや此《コヽ》なる三首も然聞え又十五に離れ礒《ソ》に立る牟漏の木うたかたも久しき時を過にける香《カ》も 暫《シマ》しくも獨あり得るものにあれや島の室の木はなれてあるら(259)む此(ノ)二首備後(ノ)國|神島《カミシマ》の礒より船出する時《ヲリ》の作歌《ウタ》につゝきたれは是(レ)も同く鞆(ノ)浦の礒の室(ノ)木をよめるなるへく又十一に礒のうへに立るむろの木心いたくなにゝ深めて念ひ始《ソメ》けむとあるなとも同く此(ノ)木をよめるかともおほゆ
 
448 礒上丹根蔓室木見之人乎何在登問者語將告可《イソノウヘニネハフムロノキミシヒトヲイカナリトトハヽカタリツケムカ》
 
右三首過2鞆(ノ)浦1日作歌
 
449 與妹來之敏馬能埼乎還在爾獨而見者涕具末之毛《イモトコシミヌメノサキヲカヘルサニヒトリシテミレハナミタクマシモ》
 
敏馬《ミヌメ》は攝津(ノ)國|八田《ヤタヘノ》郡にあり
 
450 去左爾波二吾見之此埼乎獨過者惰悲喪《ユクサニハフタリワカミシコノサキヲヒトリスクレハコヽロカナシモ》【一云見毛左可受伎濃】
 
一云見毛左可受伎濃 見も不放《サケス》來《キ》ぬにて見晴《ミハル》さすなり
 
右二首過2敏馬(ノ)埼1日作歌
 
還入《カヘル》2故郷(ノ)家1即(チ)作歌三首
 
451 人毛奈吉空家者草枕旅爾益而辛苦有家里《ヒトモナキムナシキイヘハクサマクラタヒニマサリテクルシカリケリ》
 
任國の間《アヒタ》に人も無(ク)て荒廢《アレハテ》たることゝ又|妻《メ》の亡(ク)て獨《ヒトリ》に成たることをも兼《カケ》たり上に在京師荒有家爾一宿者益旅而可辛苦《ミヤコナルアレタルイヘニヒトリネハタヒニマサリテクルシカルヘシ》とよまれたるを此《コヽ》に至て又思はれたるなり
 
452 與妹爲而二作之吾山齋者木高繁成家留鴨《イモトシテフタリツクリシワカヤマハコタカクシケクナリニケルカモ》
 
453 吾妹子之殖之梅樹毎見情咽都追涕之流《ワキモコカウヱシウメノキミルコトニコヽロムセツヽナミタシナカル》
 
天平三年辛未秋七月大納言大伴(ノ)卿薨之時(ノ)謌六首
 
續紀に同し年月辛未(ノ)日に大納言從二位大伴宿禰旅人薨難波(ノ)朝(ノ)右大臣大紫|長徳《ナカトコ》之孫大納言贈從二位安麻呂之第一子也とあり
 
454 愛八師榮之君之伊座勢波昨日毛今日毛吾乎召麻之乎《ハシキヤシサカエシキミノイマシセハキノフモケフモアヲメサマシヲ》
 
榮《サカユル》とは咲《ヱ》み榮ゆる意なり今俗言《イマノヨノコト》に御繁昌〔三字傍線〕ニテ御座ナサレシと云が如き心はへなり
 
455 如是耳有家類物乎芽子花咲而有哉跡問之君波母《カクノミニアリケルモノヲハリカハナサキテアリヤトトヒシキミハモ》
 
456 君爾戀痛毛爲便奈美蘆鶴之哭耳所泣朝夕四天《キミニコヒイタモスヘナミアシタツノネノミシナカユアサヨヒニシテ》
 
457 遠長將仕物常念有之君師不座者心神毛奈思《トホナカクツカヘムモノトオモヘリシキミシマサネハコヽロトモナシ》
 
心神《コヽロト》は利心《トコヽロ》の如し
 
458 若子乃匍匐多毛登保里朝夕哭耳曾吾泣君無二四天《ミトリコノハヒタモトホリアサヨヒニネノミソワカナクキミナシニシテ》
 
徘徊《タモトホリ》なり
 
右五首資人|金明軍《コムノミヤウクム》不v勝2犬馬之|慕(ニ)1述〔○で囲む〕(テ)2心中(ノ)感緒(ヲ)1作歌
 
續紀に養老五年三月辛未勅給2中納言從三位大伴宿(260)禰旅人(ニ)帶刀資人《タチハキツカサヒト》四人(ヲ)1其(ノ)考選(ハ)一《モハラ》准2職分(ノ)資人(ニ)1とあり軍防令に資人(ハ)一位(ニ)一百人二位(ニ)八十人三位(ニ)六十人正四位(ニ)四十人從四位(ニ)卅五人正五位(ニ)廿五人從五位(ニ)廿人云々これは位分(ノ)資人なり太政大臣(ニ)三百人左右(ノ)大臣(ニ)二百人大納言(ニ)一百人云々これは職分(ノ)資人なり資人は王臣に給《タマハ》る者《モノ》にて親王に給《タマハ》る帳内の如し帶刀資人は定額《サタマ》れる員《カス》なく事に從ひて給はる者《モノ》にて殊異《コト》なる賞賜《タマハリ》なり金(ノ)明軍は位分の資なるか職分か帶刀なるかは詳《サ々カ》ならす此(ノ)人上【五葉】に出たり○不v勝2犬馬之慕(ニ)1文選【曹植が上2責v躬應v詔詩1表】に不v勝2犬馬|戀《シタフ》v(ヲ)之情(ニ)1とある意なり
 
459 見禮杼不飽伊座之君我黄葉乃移伊去者悲喪有香《ミレトアカスイマシヽキミカモミチハノウツリイヌレハカナシクモアルカ》
 
右一首勅2内禮(ノ)正|縣犬養《アカタノイヌカヒノ》宿禰|人上《ヒトカミ》1使v檢2護卿(ノ)病(ヲ)1而醫藥無v驗逝水不v留因v斯悲慟即作2此歌1
 
人上《ヒトカミ》詳ならす
 
七年乙亥大伴(ノ)坂(ノ)上(ノ)郎女悲2嘆厄理願〔二字傍線〕(ノ)死去1作歌一首并短歌
 
尼理願の事左註にあり
 
460 栲角乃新羅國從人事乎吉跡所聞而問放流親族兄弟無國爾渡來座而太皇之敷座國爾内日指京思美彌爾里家者左波爾雖在何方爾念※[奚+隹]目鴨都禮毛奈吉佐保乃山邊爾哭兒成慕來座而布細乃宅乎毛造荒玉乃年緒長久住乍座之物乎生者死云事爾不免物爾之有者憑有之人之盡草枕客有間爾佐保河乎朝川渡春日野乎背向爾見乍足氷木乃山邊乎指而晩闇跡隱益去禮將言爲便將爲須敝不知爾徘徊直獨而白細之衣袖不干嘆乍吾泣涙有間山雲居輕引雨爾零寸八《タクツヌノシラキノクニユヒトコトヲヨシトキコシテトヒサクルウカラハラカラナキクニヽワタリキマシテオホキミノシキマスクニニウチヒサスミヤコシミヽニサトイヘハサハニアレトモイカサマニオモヒケメカモツレモナキサホノヤマヘニナクコナスシタヒキマシテシキタヘノイヘヲモツクリアラタマノトシノヲナカクスマヒツヽイマシヽモノヲウマルレハシヌトフコトニノカロヘヌモノニシアレハタノメリシヒトノコト/\クサマクラタヒナルハシニサホカハヲアサカハワタリカスカヌヲソカヒニミツヽアシヒキノヤマヘヲサシテクレ/\トカクリマシヌレイハムスヘセムスヘシラニタモトホリタヽヒトリシテシロタヘノコロモテホサスナケキツヽワカナクナミタアリマヤマクモヰタナヒキアメニフリキヤ》
 
栲角乃《タクツヌノ》 冠辭考に角《ツヌ》は借字にて栲綱《タクツヌ》なり栲木《タクノキ》の皮を以|縒《ヨリ》たる綱は白きものなれは新羅《シラキ》につゝくる枕詞なりとあり人事乎吉跡所聞而《ヒトコトヲヨシトキコシテ》は左注に遠(ク)感2王徳1歸2化聖朝1とある如く皇國を善國なりと云る人言を聞たまひてなり○問放流《トヒサクル》 言語《コトトヒ》して思(ヒ)を遣(リ)さけ慰むるなり○内日刺《ウチヒサス》は冠辭考に美日《ウツクシヒ》のさす宮とつゝけたるなりとて其《ソノ》證《アカシ》を多く擧《アケ》られたりひらき見(ル)へし○京思美彌爾《ミヤコシミヽニ》は繁《シミヽ》になり○都禮毛奈吉は相連《アヒツレ》せぬにて所縁《ユカリ》のなきなり○佐保乃山邊爾 大和國添(ノ)上(ノ)郡にあり左注に寄2住大納言大將軍大伴卿(ノ)家1とある其地にて安麻呂は此地に居住《スマ》はれけれは佐保大納言と稱《イヘ》るな(261)り○哭兒成《ナクコナス》 如《ナス》にて慕《シタフ》の枕詞なり泣兒《ナクコ》の母を慕ふより云なり○布細乃《シキタヘノ》 冠辭考に繁服《シキタヘ》は織目《オリメ》の精密《クハシ》き服《ハタ》なり夜衣《ヨルノコロモ》床《トコ》枕《マクラ》などに繁服《シキタヘ》のと置るは總て夜具《ヨルノモノ》は和らかに身に親きを用るものなれはなりさてそれより轉(リ)て四に置而行者妹將戀可聞敷妙乃黒髪布而長此夜乎《オキテイナハイモコヒムカモシキタヘノクロカミシキテナカキコノヨヲヲ》なとあるは敷細《シキクヘ》を惣ての夜《ヨル》のことに云なし又三に布細乃宅《シキタヘノイヘ》ともあるは常に親く宿《ヌ》る宅《イヘ》のよしにてこはなほいよ/\轉れるものなりとあり○有馬山 攝津國有馬(ノ)郡
 
返歌
 
461 留不得壽爾之在者敷細乃家從者出而雲隱去寸《トヽメエヌイノチニシアレハシキタヘノイヘユハイテヽクモカクリニキ》
 
右|新羅《シラキノ》國(ノ)尼名(ヲ)曰(ヘリ)2理願〔二字傍線〕(ト)1也遠(ク)感2王徳1歸2化聖朝1於v時寄2住大納言大將軍大伴卿(ノ)家1既(ニ)※[しんにょう+至](ヘタリ)2數紀(ヲ)1焉|惟《コヽニ》以2天平七年乙亥1忽《ニハカニ》沈2運病(ニ)1既(ニ)趣2泉界1於v是|大家《ダイコ》石川(ノ)命婦依2餌藥(ノ)事(ニ)1往2有間(ノ)温泉1而不v會2此(ノ)喪(ニ)1但《タヽ》郎女獨留葬2送屍柩(ヲ)1既(ニ)訖(リ)仍作2此歌1贈2入《オクレルナリ》温泉1
 
大納言大將軍大伴(ノ)卿は安麻呂(ノ)卿なり○既(ニ)※[しんにょう+至]2數紀1焉 十二年を紀と云○大家《ダイコ》 家(ハ)與v姑通大家(ハ)女之尊稱(ナリ)とあり○石川(ノ)命婦は安麻呂卿(ノ)妻《メ》にて此(ノ)歌の作者|郎女《イラツメノ》母なり其(ノ)よしは四(ノ)卷(ノ)注に見ゆ○依2餌藥(ノ)事(ニ)1は中古の物に疾病《ヤマヒ》のことを藥事《クスリノコト》と云あるそれと同し
 
十一年己卯夏六月大伴宿禰家持悲2傷亡妾(ヲ)1作歌一首
 
462 從今者秋風寒將吹烏如何獨長夜乎將宿《イマヨリハアキカセサムクフキナムヲイカテカヒトリナカキヨヲネム》
 
六月(ノ)下間《スヱ》なりけらし
 
弟大伴(ノ)宿禰|書持《フミモチ》即(チ)和(フル)歌一首
 
此(ノ)人の事は本集十七(ノ)卷にあり
 
463 長夜乎獨哉將宿跡君之云者過去人之所念久爾《ナカキヨヲヒトリヤネムトキミカイヘハスキニシヒトノオモホユラクニ》
 
君かかくのたまへは過去《スキニ》し人も同く獨宿《ヒトリネ》をわふらむと思はるゝよとなり
 
又家持見2砌上(ノ)瞿麥花1作歌一首
 
464 秋去者見乍思跡妹之殖之屋前之石竹開家流香聞《アキサラハミツヽシヌヘトイモカウヱシヤトノナテシコサキニケルカモ》
 
移v朔而後悲2嘆秋風1家持作歌一首
 
移v朔は月の更《カハ》りたるにて七月に成たるなり
 
465 虚蝉之代者無常跡知物乎秋風寒思努妣都流可聞《ウツセミノヨハツネナシトシルモノヲアキカセサムミシヌヒツルカモ》
 
獨宿《ヒトリネ》の寒きを困《ワヒ》たるなり
 
又家持作歌二首并短歌
 
(262)466 吾屋前爾花曾咲有其乎見杼情毛不行愛八師妹之有世婆水鴨成二人雙居手折而毛令見麻思物乎打蝉乃借有身在者露霜乃消去之如久足日木乃山道乎指而入日成隱去可婆曾許念爾※[匈/月]己所痛言毛不得名付毛不知跡無世間爾有者將爲須辨毛奈思《ワカヤトニハナソサキタルソヲミレトコヽロモユカスハシキヤシイモカアリセハミカモナスフタリナラヒヰタヲリテモミセマシモノヲウツセミノカレルミナレハツユシモノケヌルカコトクアシヒキノヤマチヲサシテイリヒナスカクリニシカハソコモフニムネコソイタメイヒモエスナツケモシラニアトモナキヨノナカニアレハセムスヘモナシ》
 
返歌
 
467 時者霜何時毛將有乎情哀伊去吾妹可若子乎置而《トキハシモイツモアラムヲコヽロイタクイニシワキモカワクゴヲオキテ》
 
468 出行道知末世波豫妹乎將留塞毛置末思乎《イテヽユクミチシラマセハアラカシメイモヲトヽメムセキモオカマシヲ》
 
469 妹之見師屋前爾花咲時者經去吾泣涙未千爾《イモカミシヤトニハナサクトキハヘヌワカナクナミタイマタヒナクニ》
 
悲緒未v息更作歌五首
 
470 如是耳有家留物乎妹毛吾毛如千歳憑有來《カクノミニアリケルモノヲイモヽワレモチトセノコトクタノミタリケル》
 
471 離家伊麻須吾妹乎停不得山隱都禮情神毛奈思《イヘサカリイマスワキモヲトヽミカネヤマカクリツレコヽロトモナシ》
 
472 世間之常如此耳跡可都知跡痛情者不忍都毛《ヨノナカシツネカクノミトカツシレトイタキコヽロハシヌヒカネツモ》
 
473 佐保山爾多奈引霞毎見妹乎思出不泣日者無《サホヤマニタナヒクカスミミルコトニイモヲオモヒテナカヌヒハナシ》
 
火葬の烟を思ひ出るなり
 
474 昔許曾外爾毛見之加吾妹子之奧槨常念者波之吉佐寶山《ムカシコソヨソニモミシカワキモコカオクツキトオモヘハハシキサホヤマ》
 
愛《ハシ》きなり
 
十六年甲申春二月|安積《アサカノ》皇子薨之時(ニ))内舍人《ウトネリ》大伴宿禰家持作歌六首
 
安積(ノ)皇子は聖武天皇の皇子なり續紀に天平十六年閏正月丁丑薨時(ニ)年十七云々とあり
 
475 掛卷母綾爾恐之言卷毛齋忌志伎可物吾王御子乃命萬代爾食賜麻思大日本久邇乃京者打靡春去奴禮婆山邊爾波花咲乎烏里河湍爾波年魚小狹走彌日異榮時爾逆言之狂言登加聞白細爾舍人装束而和豆香山御輿立之而久堅乃天所知奴禮展轉泥士打雖泣將爲須便毛奈思《カケマクモアヤニカシコシイハマクモユヽシキカモワコオホキミミコノミコトヨロツヨニメシタマハマシオホヤマトクニノミヤコハウチナヒクハルサリヌレハヤマヘニハハナサキヲヲリカハセニハアユコサハシリイヤヒケニサカユルトキニオヨツレノタハコトトカモシロタヘニトネリヨソヒテワツカヤマミコシタヽシテヒサカタノアメシラシヌレコイマロヒヒツチナケトモセムスヘモナシ》
 
御子乃命《ミコノミコト》は皇大子《ヒツキノミコ》に申す例なるを今此(ノ)皇子は大子には坐されとも聖武天皇の一(ト)柱(ラ)の彦皇子《ヒコミコ》に生せは大子に准《ナスラ》へて申せるにて萬代爾食賜麻思大日木久邇乃京者《ヨロツヨニメシタマハマシオホヤマトクニノミヤコハ》云々と云るも皇大子|儲《カネ》の意(ロ)はへなるものなり
 
○和豆香《ワツカ》山は返歌の處に云へし
 
返歌
 
476 吾王天所知牟登不思者於保爾曾見谿流和豆香蘇麻山《ワコオホキミアメシラサムトオモハネハオホニソミケルワツカソマヤマ》
 
於保は大凡《オホ》なり山城志に相樂(ノ)郡|杣《ソマ》山(ハ)和束《ワツカノ》郷杣山村(ノ)上方(ニアリ)山出(ス)2大嘗會(ノ)良材(ヲ)1見2太平記(ニ)1といへり此(ノ)山に葬《ヲサ》め奉れるを云るなれとも此(ノ)御墓いまは詳《サタカ》ならす
 
(263)477 足檜木乃山佐倍光咲花乃散去如寸吾王香聞《アシヒキノヤマサヘヒカリサクハナノチリヌルコトキワコオホキミカモ》
 
右三首二月三日作歌
 
478 掛卷母文爾恐之吾王皇子之命物乃負能八十伴男乎召集聚率比賜比朝獵爾鹿猪踐起暮獵爾鶉雉履立大御馬之口押駐御心乎見爲明米之活道山木立之繁爾咲花毛移爾家里世間者如此耳奈良之大夫之心振起劍刀腰爾取佩梓弓靱取負而天地與彌遠長爾萬代爾如此毛欲得跡憑有之皇子之御門乃五月蠅成驟騷舍人者白栲爾服取着而常有之咲比振麻比彌日異更經見者悲呂可毛《カケマクモアヤニカシコシワコオホキミミコノミコトモノノフノヤソトモノヲヽメシツトヘアトモヒタマヒアサカリニシヽフミオコシユフカリニトリフミタテオホミマノクチオサヘトヽメミコヽロヲミシアキラメシイクチヤマコタチノシヽニサクハナモウツロヒニケリヨノナカハカクノミナラシマスラヲノコヽロフリオコシツルキタチコシニトリハキアツサユミユキトリオヒテアメツチトイヤトホナカニヨロツヨニカクシモカモトタノメリシミコノミカトノサハヘナスサワクトネリハシロタヘニコロモトリキテツネナリシヱマヒフルマヒイヤヒケニカハラフミレハカナシキロカモ》
 
活道《イクチ》山は久邇京《クニノミヤコ》の近き處と聞ゆれは相樂《サカラカノ》郡(ノ)内にあるなるへし六(ノ)卷に登2活道(ノ)岡(ニ)1集2一株(ノ)松下(ニ)1飲歌《サケノミスルウタ》ありて此(レ)も同し京の時と聞ゆ同し處なるへし
 
返歌
 
479 波之吉可聞皇子之命乃安里我欲比見之活道乃路波荒爾鷄里《ハシキカモミコノミコトノアリカヨヒミシヽイクチノミチハアレニケリ》
 
480 大伴之名負靫負而萬代爾憑之心何所可將寄《オホトモノナニオフユキオヒテヨロツヨニタノミシコヽロイツクカヨセム》
 
神代紀【一書】に天孫御天降《スメミマノミコトミアモリ》の時に大伴(ノ)連の遠祖天忍日命《トホツオヤアメノオシヒノミコト》帥《ヒキヰテ》2來目部遠祖天※[木+患]津大來目《クメヘノトホツオヤアメノクシツオホクメヲ》1背《ソヒラニハ》負(ヒ)2天磐靫《アメノイハユキヲ》1臂《タヽムキニ》著(ク)2稜威高鞆《イツノタカトモヲ》1手(ニ)捉《トリ》2天梔弓天羽羽矢《アメノハシユミアメノハヽヤヲ》1及《マタ》副2持《トリソヘ》八目鳴鏑《ヤツメノナリカフラヲ》1又|帶《ハキテ》2頭槌劍《カフツチノタチヲ》1而立2天孫之前《アメノスメミマノミマヘニ》1云々又景行紀【二十八年】日本武(ノ)尊甲斐の酒折(ノ)宮にましまして以2靱部1賜2大伴(ノ)連之|遠祖建日《トホツオヤタケヒニ》1とも見え姓氏録に【左京神別】大伴(ノ)宿禰(ハ)高皇産靈尊五世(ノ)孫天(ノ)押日(ノ)命之後也初(メ)天孫彦火瓊瓊杵(ノ)尊神駕之降也天(ノ)押日(ノ)命大來目部立(テ)2御前(ニ)1降(リキ)2于日向(ノ)高千穗(ノ)峯(ニ)1然後以2大來目部1爲2靱負部1天靱負之號起2於此(ニ)1也雄略天皇(ノ)御世以2天(ノ)靱負1賜2室屋(ノ)大連公(ニ)1云々ともあり大伴名負靱《オホトモノナニオフユキ》とはこれらの古事なり
 
右三首三月二十四日作歌
 
悲2傷死妻1高橋(ノ)朝臣作歌一首並短歌
 
481 白細之袖指可倍※[氏/一]靡寢吾黒髪乃眞白髪爾成極新世爾共將有跡玉緒乃不絶射妹跡結而石事者不果思有之心者不遂白妙之手本矣別丹杵火爾之家從裳出而緑兒乃哭乎毛置而朝霧髣髴爲乍山代乃相樂山乃山際往過奴禮婆將云爲便將爲便不知吾妹子跡左宿之妻屋爾朝庭出立偲夕爾波入居嘆合腋挾兒乃泣毎雄自毛能負見抱見朝鳥之啼耳哭管雖戀效矣無跡辭不問物爾波在跡吾妹子之入爾之山乎因鹿跡叙念《シロタヘノソテサシカヘテナヒキネシワカクロカミノマシラカニナリナムキハミアラタヨニトモニアラムトタマノヲノタエシイイモトムスヒテシコトハハタサスオモヘリシコヽロハトケスシロタヘノタモトヲワカレニキヒニシイヘユモイテヽミトリコノナクオモオキテアサキリノホノカニシツヽヤマシロノサカラカヤマノヤマノマニユキスキヌレハイハムスヘセムスヘシラニワキモコトサネシツマヤニアシタニハイテタチシヌヒユフヘニハイリヰナケカヒワキハサムコノナクコトニヲトコシモノオヒミイタキミアサトリノネノミナキツツコフレトモシルシヲナミトコトトハヌモノニハアレトワキモコカイリニシヤマヲヨスカトソオモフ》
 
(264)新世爾《アラタヨニ》 年月日時の新《アラタマ》りゆく世と云ことにて二十(ノ)卷に年月波安良多安良多爾安比美禮騰とあり又|新間《アラタマ》の年と云なとも是(レ)なり○不絶射妹跡《タエシイイモト》 射《イ》は事を強《ツヨ》からしむる處に置く辭なり上【新考八の四葉】に委く見ゆ此《コヽ》にては不絶《タエシ》と云ことを強からしむる料《タメ》に置たり○事者不果《コトハハタサス》 言《コト》なり○丹杵火爾之《ニキヒニシ》 和《ニキ》ひなり又|賑《ニキ》ひなり○朝霧髣髴爲乍《アサキリノホノカニシツヽ》は火葬の烟を云○山代乃相樂山《ヤマシロノサカラカヤマ》は山城志に相樂(ノ)郡相樂村(ノ)西(ニアリ)と云り○山際往過奴禮婆《ヤマノマニユキスキヌレハ》 火葬の烟となりて然《サ》はかりに言(ヒ)ちきりて絶しと思ひし妹なれともはかなく眼前《メノマヘ》より霧の如くに過去《スキサ》りいにしとなり上の句々を此《コヽ》にてをさめたるにて勝《スク》れて妙《タヘ》にあはれなるものなれは情《コヽロ》をとゝめよく味はへ見て古人の情の深きを知り歌よむ人の學《マナヒ》にも爲《シ》ねかし此(ノ)句にて段を截《キ》り此以下《コレヨリシモ》は後の悲哀《カナシミ》をのへさて終《ツヒ》に思慕《オモヒ》の盡ることあらねはその葬《ハフリ》し山をたに永き形見と念はむとにて初《ハシメ》には世に在《アリ》しほとの夫婦《メヲ》の契約《チキリ》は云々ありしと云つゝけ中には死《ウセ》ぬるほとのとかくの悲哀《カナシミ》をたゝへつらねもていきなから終《ヲハリ》に動くましき一事《ヒトコト》を以|結止《ムスヒト》めたるものにしてこれ長歌の定格なりされとも上手の詞用《コトハツカヒ》はしもなたらかにありて際《キハ》やかならねは此《コヽ》はと捕(ラ)へて論《サト》し教《ヲシフ》へき處のなきものなれは此(ノ)歌なとよりさなりと云ことを辨へ置て凡て古(ヘ)の長歌と云ものゝつらねさまのふりは又此(ノ)格のみにもあらす種々《クサ/\》に分別《ワカ》れて一格ならされとも皆おのつから各々《オノオノ》然有《シカル》へき理《コトハリ》ありて變化《カハ》りゆく格のあることなるを奈良(ノ)京の末つかたより長歌おとろへ今(ノ)京に成ては一首も長歌にうたはるへき調《シラヘ》に合《カナ》へる物なきを近(キ)世に古風の學《マナヒ》興り古風をよむ人々あれとも短歌といへとも古(ヘ)に似るへきものあらねは況《マシ》て長きは長きまゝに長句短句のつらねさまよりして平上去聲を以(テ)變りゆき或《アル》は音韻《コヱ》の便勢《イキホヒ》に依り音韻《コヱ》の輕重緩急《カロキオモキユルキハヤキ》にしたかひつゝ而爾乎者《テニヲハ》も活動《ウコ》きて今(ノ)京に成(リ)ての歌文章の如くにはあらす古文辭《フルコト》は靈妙《アヤ》しく定まる形《カタチ》のなきものなるは奈何《イカニ》と云に皆《ミナ》聲音《コエ》に揚《アケ》て歌へる物|詠《ナカ》むる物なれは音曲《ネフリ》に變《カハリ》ありて然るなるをその曲折をたねらひはかるに至らて徒《タヽ》に長く平《ヒラ》にのみよみては歌ひ難(265)く詠《ナカ》めかたく傍《カタハ》ら痛く聞(ク)に厭はるゝものなるをや己《オノレ》此(ノ)事を八木(ノ)美穗《ヨシホ》と常にいひうれたみたりけれは同《コノ》人も同(シ)意にて諸《モロ》共に相議《アヒハカ》りて古風をいかて興起《オコ》してしかといひ/\て彼(ノ)人も何やかや教(ヘ)めく物|選作《ツク》り出て見せたることの有しものをことし嘉永七年の夏に亡《ナク》なりしときく實《マコト》にや長歌のことはなほいひてむさて山際《ヤマノマ》より往過《ユキスキ》ぬれはと云へきを山際《ヤマノマ》にと云るは凡てかくさまの從《ヨリ》と爾《ニ》とは相通はし云る例あることにて彼(ノ)赤人の富士の歌に田兒之浦從打出而見者眞白衣不盡能高嶺爾雪波零家留《タコノウラユウテイテヽミレハマシロニソフシノタカネニユキハフリケル》とあるも田兒の浦に打出て見れはの意なる如く其(ノ)例多く既《ハヤ》く上【新考五の五十八葉】にも擧《アケ》つらへるか如し考(ヘ)合すへきなり○吾妹子跡左宿之妻屋爾《ワキモコトサネシツマヤニ》 眞宿《サヌル》とは夫婦相(ヒ)寐るに局《カキ》りて云言なり古歌の例皆然り妻屋《ヅマヤ》は須佐(ノ)雄(ノ)神の御歌につま籠《コミ》に八重牆《ヤヘカキ》つくるとよみ賜へるつま籠《コミ》は夫婦こもりと云意にて都麻《ツマ》は登母《トモ》と本(ト)一(ツ)言にて單獨《ヒトリ》ならす相與《アヒトモ》なふを云をそれより轉りて一對《ヒトツカヒ》なるものゝ片方《カタヘ》をも云ことには成(リ)たるにて夫婦一對を取離ちて男女|相互《アヒタカヒ》に都麻と唱更《イヒカハ》すも本(ト)は夫婦《イモセ》を合せて都麻と云より轉れる唱(ヘ)なるを古事記(ノ)傳にも須佐(ノ)雄(ノ)神(ノ)歌のつま隱《コミ》を櫛名田《クシナタ》姫をこむることにして説解《イヒトカ》れしは誤なり夫婦こもりの料《タメ》に八重垣つくるとよみ賜へるにて即(チ)此(ノ)歌なる吾妹子跡左宿《ワキモコトサネ》し夫婦《ツマ》屋とあると同し然れとも古(ヘ)より解誤り來つること舊《ヒサ》しけれはなほその明《アカ》しを云むには十三に隱口乃長各小國夜延爲吾夫君與奧床仁母者睡有外床丹父者寢有起立者母可知出行者父可知野干玉之夜者旭去奴幾許雲不念如隱嬬香聞《コモリクノハツセヲクニヽヨハヒサスワカセノキミヨオクトコニハヽハネタリトトコニチヽハネタリオキタヽハハヽシリヌヘミイテユカハチヽシリヌヘミヌハタマノヨハアケユキヌコヽタクモオモフコトナラスコモリツマカモ》とあるなとも隱《シノ》ひたるかくれ夫婦《ツマ》なれは何事も心に隨はすとなりかかれは妻屋《ツマヤ》隱嬬《コモリツマ》なと書る字にかゝはらす意を尋《トメ》て夫婦なることを知へし○雄自毛能《ヲトコシモノ》は常云《ツネトイフ》何自物《ナニシモノ》【鳥自物《トリシモノ》鹿自物《シヽシモノ》の類(ヒ)】の例とは異りて男子《ヲノコ》の爲《ス》ましきこと有(ル)ましき事をするなとに云り○辭不問《コトトハヌ》は不言語《モノイハヌ》そ○因鹿《ヨスカ》は縁處《ヨスカ》にて所縁《ヨシ》ある處なり
 
返歌
 
482 打背見乃世元事爾在者外爾見之山矣耶今者因香跡思波牟《ウツセミノヨノコトナレハヨソニミシヤマヲヤイマハヨスカトオモハム》
 
(266)483 朝鳥之啼耳鳴六吾妹子爾今亦更逢因乎無《アサトリノナキノミナカムワキモコニイママタサラニアフヨシヲナミ》
 
右三首七月廿日高橋朝臣作歌也名字未v審但(シ)云2奉膳之男子1焉
 
高橋氏|安曇《アツミ》氏は世々《ヨヽ》相(ヒ)かはる/\に内膳司奉膳《ウチノカシハテノツカサノカミ》なりされはこの天平十六年の頃《コロ》奉膳なりしは誰なりけむ考かたし
 
(267)萬葉集新考 十一
 
萬葉集卷第四
 
相聞
 
難波天皇妹奉上在山跡皇兄御歌一首
崗本天皇御製一首并短歌
額田王思近江天皇作歌一首
鏡王女作歌一首
吹黄刀自歌二首
田部忌寸櫟子任太宰時歌四首
柿本朝臣人麻呂歌四首
碁檀越徃伊勢國時留妻作歌一首
柿本朝臣人麻呂歌三首
柿本朝臣人麻呂妻歌一首
阿部女郎歌二首
駿河※[女+采]女歌一首
三方沙彌歌一首
丹比眞人笠麻呂下筑紫國時作歌一首并短歌
幸伊勢國時當麻麻呂大夫妻作歌一首
草孃歌一首
志貴皇子御歌一首
阿部女郎一首
中臣朝臣東人贈阿部女郎歌一首
阿部女郎報贈歌一首
大納言兼大将軍大伴卿歌一首
石川郎女歌一首
大伴女郎歌一首
後人追和歌一首
藤原宇合大夫遷任上京時常陸娘子贈歌一首
京職大夫藤原麻呂大夫贈大伴郎女歌三首
大伴郎女和歌四首
大伴坂上郎女歌一首
天皇賜海上女王御歌一首
海上女王奉和歌一首
大伴宿奈麻呂宿禰二首
安貴王戀歌一首并短歌
(268)門部王戀歌
高田女王贈今城王歌六首
神龜元年甲子冬十月幸紀伊國之時爲贈從駕人所誂娘子笠朝臣金村作歌一首并短歌
二年乙丑春三月三香原離宮之時得娘子笠朝臣金村歌一首并短歌
五年戊辰大宰少貳石川朝臣足人遷任餞于筑前國蘆城驛家歌三首
大伴宿禰三依歌一首
丹生女王贈大宰帥大伴卿歌二首
大宰帥大伴卿贈大貳丹比縣守卿遷任民部卿歌
賀茂女王贈大伴宿禰三依歌一首
土師宿禰水通從筑紫上京海路作歌二首
大宰大監大伴宿禰百代戀歌四首
大伴坂上郎女歌二首
賀茂女王歌一首
大宰大監大伴宿禰百代等贈驛使歌二首
大宰帥大伴卿被任大納言臨入克之時府官人等餞卿于筑前國蘆城驛家歌四首
大宰帥大伴卿上京之後滿誓沙彌贈卿歌二首
大納言大伴卿和歌二首
大宰帥大伴卿上京之後筑後守葛井大成連悲嘆作歌一首
大納言大伴卿新袍贈攝津大夫高安王歌一首
大伴宿禰三依悲別歌一首
余明軍與大伴宿禰家持歌二首
大伴坂上家之大孃報贈大伴宿禰家持歌四首
大伴坂上郎女歌一首
大作宿禰稻公贈田村大孃歌一首
笠女郎贈大伴宿禰家持歌廿四首
大伴宿禰家持和歌二首
山口女王贈大伴宿禰家持歌五首
大神女郎贈大伴宿禰家持歌一首
大伴坂上郎女怨恨歌一首并短歌
西海道節度使判官佐伯宿禰東人妻贈夫君歌一首
佐伯宿禰東人和歌一首
池邊王宴誦歌一首
(269)天皇思酒人女王御製一首
高安王※[果/衣]鮒贈娘子歌一首
八代女王獻 天皇歌一首
娘子報贈佐伯宿禰赤麻呂歌一首
佐伯宿禰赤麻呂和歌一首
大伴四綱宴席歌一首
佐伯宿禰赤麻呂歌一首
湯原王贈娘子歌二首
娘子報贈歌二首
湯原王亦贈歌二首
娘子復報贈歌一首
湯原王亦贈歌一首
娘子復報贈歌一首
湯原王亦贈歌一首
娘子復報贈歌一首
湯原王歌一首
紀女郎怨恨歌三首
大伴宿禰駿河麻呂歌一首
大伴坂上郎女歌一首
大伴宿禰駿河麻呂歌一首
大伴坂上郎女歌一首
大伴宿禰三位離復相歡歌一首
大伴坂上郎女歌二首
大伴宿禰駿河麻呂歌三首
大伴坂上郎女歌六首
市原王歌一首
安都宿禰年足一首
大伴宿禰像見歌
安倍朝臣蟲麻呂歌一首
大伴坂上郎女歌二首
厚見王歌一首
春日王歌一首
湯原王歌一首
和歌一首 不審作者
安倍朝臣蟲麻呂歌一首
大伴坂上郎女歌二首
(270)中臣女郎贈大伴宿禰家持歌五首
大伴宿禰家持與交遊別久歌三首
大伴坂上郎女歌七首
大伴宿禰三依悲別歌一首
大件宿禰家持贈娘子歌二首
大伴宿禰千室歌一首 未詳
廣河女王歌二首
石川朝臣廣成歌一首
大伴宿禰像見歌三首
大伴宿禰家持到娘子之門作歌一首
河内百枝娘子贈大伴宿禰家持歌二首
巫部麻蘇娘子歌二首
大伴宿禰家持贈童女歌一首
童女和贈大伴宿禰家持來報歌一首
粟田娘子贈大伴宿禰家持歌二首
 粟本文に栗とあり
豊前國娘子大宅女歌一首
安都扉娘子歌一首
丹波大女娘子歌三首
大伴宿禰家持贈娘子歌七首
獻 天皇歌一首
大伴宿禰家持歌一首
大伴坂上郎女從跡見庄贈賜留宅女子大孃歌一首并短歌
獻 天皇歌二首
大伴宿禰家持贈坂上家大孃歌二首
大伴坂上大孃贈大伴宿禰家持歌三首
又大伴宿禰家持和歌三首
同坂上大孃贈家持款二首
又家持和坂上大孃歌一首
同大孃贈家持歌二首
又家持和坂上大孃歌二首
更大伴宿禰家持贈坂上大孃歌十五首
大伴田村家之大孃贈妹坂上大孃歌四首
大伴坂上郎女從竹田庄贈賜女子大孃歌二首
紀女郎贈大伴宿禰家持歌二首
大伴宿禰家持和歌一首
(271)在久邇京思留寧樂宅舊京坂上大孃大伴宿禰家持作歌一首
藤原郎女聞之即和歌一首
大伴宿禰家指更贈大孃歌二首
大伴宿禰家持報贈紀女郎歌一首
大作宿禰家持從久邇京贈坂上大孃歌五首
大伴宿禰家持贈紀女郎歌一首
紀女郎報贈家持歌一首
大伴宿禰家持贈紀女郎歌五首
紀女郎※[果/衣]物贈友歌一首
大伴宿禰家持贈娘子歌三首
大伴宿禰家持報贈藤原朝臣久須麻呂歌三首
又家持贈藤原朝臣久須麻呂歌二首
藤原朝臣久須麻呂來報歌二首
 
相聞
 
難波(ノ)天皇(ノ)妹《ミイモ》奉d上|在《イマス》山跡(ニ)1皇兄u御謌一首
 
難波(ノ)天皇は孝徳天皇なり妹は兄弟姉妹の妹に非《アラ》す夫《ヲトコ》に對《ムカ》へて妻を妹《イモ》と云(フ)その妹にて古き書體《カキサマ》なり然《サ》れは此《コ》は孝徳天皇の皇后|間人《ハシヒトノ》皇女にて在2山跡1皇兄とは御同母兄《ミハラカラ》の中(ノ)大兄(ノ)命【天智】なり【然るを古(ヘ)より妹と有を兄弟姉妹の妹とのみ思ひて難波(ノ)天皇をも仁徳天皇とし仁徳の御女弟等《ミオトタチ》にあてゝ某皇女と定めむとすなるはよくも考へす歌風《ウタノフリ》の新古をも得辨へ知らぬなりけり】孝徳紀【大化元年】に立2息長足目廣額天皇【舒明】女間人皇女1爲2皇后1 白雉四年是歳太子【中大兄命】奏請曰欲異遷2于倭京1【難波京よりなり】天皇不v許焉皇太子乃|奉《ヰテマツリ》2皇祖母尊【皇極】間人皇后1并率2皇弟等1往居2于倭(ノ)飛鳥(ノ)河邊(ノ)行宮(ニ)1于時公卿大夫百宮人等皆隨而遷由v是天皇恨欲v捨2於國位1令v造2宮於山碕1乃送2歌於間人皇后1曰|舸娜紀都該阿我柯賦古麻播比枳涅世儒阿我柯賦古麻乎比騰瀰都羅武箇《カナキツケアカカフコマハヒキテセスアカカフコマヲヒトミテムカモ》【此(ノ)御製の意いまた解得たる説なけれは因《チナミ》に云へし舸娜紀都該《カナキツケ》は舸娜紀《カナキ》は小笛木《コナヘキ》の約言にて小木《ワカキ》を云(フ)大祓(ノ)詞に天津金木乎木打切末打斷※[氏/一]云々とある是なりさて此《コヽ》の小苗木《カナキ》つけは厩口《ウマヤノクチ》に小苗木《カナキ》を横に亘して馬を塞《セ》くを云り下に赤駒(ノ)之越(ル)馬柵乃緘結《ウマセノシメユヒ》師妹(カ)情者《コヽロハ》疑(ヒ)毛奈思とある馬《ウマ》柵も是なりこは今(ノ)世にマセ棒《ボウ》なと云て古(ヘ)に同し阿我柯賦古麻は皇后を譬喩へたまへり比枳涅世儒は馬《コマ》を牽出すことをせすにて皇后を堅固く守護りたまふよしの譬喩なりさて此(ノ)句より次(ノ)句につゝけて心得へし上(ノ)句阿我柯賦古麻播よりつゝけて心得へからすよくせすは誤なるへしさるは小苗木《カナキ》つけ吾飼馬《アカカフコマ》とつゝきまた牽出すことをせすして吾(カ)飼(フ)馬とつゝきて一對《ヒトウカヒ》の章《アヤ》なれはなり比騰瀰都羅武箇は男女の婚《ア》ふことを見《ミル》と云り見し人見そめけるはしめなと中古の物に多かるは古言なるへし此《コヽ》も天皇の堅固く守護りたまへる皇后の率《ウィ》て往《イナ》れて別人にも婚《アヒ》たまはむかとあやふみませるこゝろの大御歌そかし】五年冬十月癸卯朔皇(272)太子聞2天皇疾病1乃奉2皇祖母尊間人皇后1并率2皇弟公卿等1赴2難波宮1壬子天皇崩2于正寢1云々十二月壬寅朔己酉葬2于大坂|磯長《シナカノ》陵1是日皇太子奉2皇祖母尊1遷2居倭(ノ)河邊(ノ)行宮1と所見《ミエ》たり如是《カヽ》れは當時《ソノカミ》この間人皇后は皇弟公卿と共に離波(ノ)宮に殘り座《マ》すよし
 
ありて皇兄の中(ノ)大兄(ノ)太子《ミコノミコト》に後《オク》れたまへる故《カラ》に此(ノ)御歌をは倭に奉上《タテマツ》り給へるなるへし
 
484 一日社人母待告長氣乎如此所待者有不得勝《ヒトヒコソヒトモマチツケナカキケヲカクマタユレハアリカテマシモ》
 
告《ヅケ》は繼《ツケ》の借字|長氣《ナカキケ》は長き來經《キヘ》にて年月日時の來り經るを云(フ)例多し有可得勝《アリカテマシモ》は在難《アリカテ》まし母《モ》【助辭】なり一首《ミウタ》の意は一日|許《ハカリ》は今か今かと持繼つゝもあらめと日月《ツキヒ》長く如此《カク》のみまては今は待て在(リ)難からむとす疾《ト》く相見るへし慮《ハカ》り賜へとなる
 
岳本天皇御製一首并短歌
 
舒明天皇なるへし但し左註の如く舒明天皇をは高市岳本宮御宇天皇と申しまた皇極天皇をも後岡本宮御宇天皇と申せは疑なきにあらねと岳本と有て後岳本と旡く一首のうへも男調《ヲノシラヘ》の體裁《サマ》なり且《ソノウヘ》皇極は舒明の皇后なれば歌《ミウタ》に吾戀流君と有は即(チ)舒明天皇よと思ふに人多《ヒトサハニ》國爾波滿而味村乃|去來者行跡《イサトハユケト》云々の詞は凡人中《タヽヒトノナカ》より一人を擢出《ヌキイテ》たるにて王《オホキミ》の御うへに不相應《フサ》はねはなり
 
485 神代從生繼來者人多國爾波滿而味村乃去來者行跡吾戀流君爾之不有者晝波日乃久流留麻弖夜者夜之明流寸食念乍寐宿難爾登阿可思通良久茂長此夜乎《カミヨヨリアレツキクレハヒトサハニクニニハミチテアチムラノイサトハユケトアカコフルキミニシアラネハヒルハヒノクルヽマテヨルハヨノアクルキハミオモヒツヽイネカテニトアカシツラクモナカキコノヨヲ》
 
味村乃 冠辭考(ニ)云(ク)此(ノ)鳥の相率《アヒイサ》なひて群(レ)行(ク)を以去來者行跡に冠らせたり廿に安治牟良能佐和伎伎保比弖とも有【以上】此鳥上出【新考八の 】○去來者行跡 いさと言て伴なひ行なり○寐宿難爾登 登は叙に同し調《シラヘ》に依て聲の變れるなり【死弖二字の登に誤れるとするときは字形も似て理(リ)も通《キコゆめれと然らす》廿【防人歌】に伊※[泥/土]弖登阿我久流これも出て叙なり此《コヽ》と同し○阿可思通良久茂 通良久は通流の延言茂は助辭
 
返歌
 
486 山羽爾味村騷去奈禮騰吾者左夫思惠君二四不在者《ヤマノハニアチムラサハキユクナレトアレハサフシヱキミニシアラネハ》
 
吾者左夫思惠 不樂《サフ》しなり意は歎《ナケキ》きの切(ナル)聲なり五に世間《ヨノナカ》は戀繁し惠やなと多かりさて此御製いと妙なれ(273)は凡《オホ》ろけには窺ひ得難しさるは一わたりの意は味群《アチムラ》は騷けとも吾情《アカコヽロ》は沈《シメ》りて勢(ヒ)なきなり二に小竹之葉者三山毛|清爾亂友吾者妹思別來禮婆《サヤニサワケトモアレハイモオモフワカレキヌレハ》七に竹島乃阿戸白波者動友吾家思五百入※[金+施の旁]染《タカシマノアトシラナミハサハケトモアレハイヘオモフイホリカナシミ》これらの意なり二(ツ)には味群の如く人は衆くゆけとも君ならねは不樂《サフ》しとなり熟《ウマ》らに味はふへし
 
487 淡海路乃鳥籠之山有不知哉川氣乃己呂其侶波戀乍裳將有《アフミチノトコノヤマナルイサヤカハケノコロコロハコヒツヽモアラム》
 
淡海路乃 淡海(ノ)國なる地をしも淡海路の某地《ソコ》と所謂《イヘ》るよしは倭路奈良路なとの如く某地に往來《カヨ》ふ中途《ナカミチ》のよしにはあらすして別に古(ヘ)は國と云へきをも道と云ること有てなりそは往來につきて云るものなるへく下に若狹道乃後瀬山また十二に丹波道之大江之山なとある各《ミナ》その國内の地を云ること此《コヽ》と同し古事記【水垣宮段】に東方十二道と有も十二國なりまた越(ノ)國を越路《コシチ》東《アツマノ》國を東路《アツマチ》と云なとも然り【倭路奈良路の例とは異なり】○烏籠之山有不知哉川 十一に狗上之鳥籠(ノ)山爾有《ヤマナル》不知也河とあり犬上郡なりそのありところは國人にも問へし○氣乃己呂其侶波 氣《ケ》は例の來經《キヘ》の約言にて年月日時の來り經るを云(フ)己呂其侶《コロコロ》は頃來《コノコロ》なり調に依て聲の變れるなり○戀乍裳將有 當《ソノ》人の情《コヽロ》を推察りたまへるにて朕《了レ》を戀つヽ彼處《カシコ》に在(ル)らむやなり○一首の意は此人は近江(ノ)采女にやあらましよしさらすとも不知《イサ》の料《タメ》のみにもあるへしさて四五三と句を次第《ツイ》て心得へし日《ケ》の頃《コノコロ》は朕《アレ》を戀つゝもやあるらむいかならむ不知《イサ》しらすとなり可長《カシコ》けれと※[うがんむり/取]《イト》めてたし
 
右今案高市岳本宮後岡本宮二代二帝各有v異焉但稱2岡本天皇1未v審2其指1
 
上に云るかことし
 
額田王思2近江天皇1作歌一首
 
488 君待登吾戀居者我屋戸之簾動之秋風吹《キミマツトアカコヒヲレハワカヤトノスタレウコカシアキノカセフク》
 
鏡王女作歌一首
 
女(ノ)字は父鏡王と別《ワカ》むとて誌《シル》せるを本文には混《マキ》れしにや
 
489 風乎太爾戀流波乏之風小谷將來登時待者何香將嘆《カセヲタニコフルハトモシカセヲタニコムトシマタハナニカナケカム》
 
乏之《トモシ》は羨《ウラヤマ》しなり一首の意は、まつ二王は兄弟にて姉は鑑王妹は額田王二王なから天智天皇に幸《メサ》れしこと上(274)【新考三の六の】に見ゆかくて此歌もて思へは當時《ソノカミ》妹よりも優《マサ》りて額田王を愛《メテ》賜へるなるへし故《カレ》此歌は額田王に和《コタ》へて同王(ノ)歌に簾の動くは天皇の幸《イテマ》しつるよと思へるにさはなくて風なりけりとあるを承《ウケ》て風乎太爾戀流波乏之は天皇の大御心を定まらぬ風に比《タト》へて不斷《ツネ》ならねとも時々《ヲリ/\》の幸《イテマシ》あれはこそ其《ツコ》には簾の動くにも天皇かと待戀たまへるなれうらやまし此《コヽ》には忘《ワス》られ奉りて希《マレ》の幸《イテマシ》もあらねはさることも絶て思ひもよらぬなりとなり風小谷將來登時待者何香將嘆は取止《トリトメ》かたき風の如くなりとも邂逅《ワクラハ》にも幸《イテマ》さむと待つ身には何か嘆む己《オノ》か身こそ嘆かはしけれとなり
 
吹黄刀自歌二首、
 
此人は上【新考三の】に出
 
490 眞野之浦乃與騰乃繼橋情由毛思哉妹之伊目爾之所見《マヌノウラノヨトノツキハシコヽロユモオモヘヤイモカイメニシミユル》
 
眞野浦 攝津國矢田部郡○與騰乃繼橋 略解(ニ)云(ク)繼橋は今の近江の瀬田(ノ)橋の如く中に島の如き處有てまた懸渡せる橋を云○情《コヽロ》由毛 由は從《ユ》なり爾《ニ》に通ふ例《コト》一に我宿有衣乃上從朝月夜清爾見者栲乃穗爾夜之霜落《アカネタルコロモノウヘユアサツクヨサヤカニミレハタヘノホニヨルノシモフリ》云々三に田兒之浦從打出而見者眞白衣不盡能高嶺爾雪波零家留なとあり情《コヽロ》由毛はこゝろにもなり
○思哉妹之伊目爾之所見 思哉《オモヘヤ》は思へはにやなりさてこは男より刀自に贈れる歌なるを錯亂《マキ》れたるものなるへし○一首の意は與騰乃繼橋は淀と云るに逢《アヒ》の不通《ヨト》めるよしを持《モタ》しめて逢《アヒ》は不通《ヨト》めと妹か思へはにや繼橋の繼て夜々夢に所見《ミユ》らむとなり彼方《アナタ》に思へは此方《コナタ》の夢に所見《ミユ》ること集中にも後の物にも最《イト》多かり
 
491 河上乃伊都藻之花乃何時何時來益我背子時自異目八方《カハノヘノイツモノハナノイツモイツモキマセアカセコトキシケメヤモ》
 
伊都藻は美《ウツ》藻にて藻を賞《ホメ》たる言なりさて何時何時《イツモイツモ》の序なり○時自異目八方 非時《トキシク》の意なり此(ノ)言上(ニ)出(ツ)【新考二の】○一首の意は何時《イツ》も何時《イツ》も來たまへ何時とても來たまふ時に非すと云ことやはあるとなり美藻《イツモ》は序なからに美《ウツク》しき我《アカ》夫子《セコ》のよしをほのめかしたる工《タクミ》なりさて此(ノ)一首《ヒトツ》は刀自の作《ウタ》にて眞野之浦乃の和《コタヘ》なるへし
 
田部忌寸櫟子《タヘノイミキイチヒコ》在2大宰1時歌四首
 
此人は考へ得す
 
(275)492 衣手爾取等騰己保里哭兒爾毛益有吾乎置而如何將爲《コロモヲニトリトトコホリナクコニモマサレルアレヲオキテイカニセム》
 
舍人吉年《トネリヨシノトシ》 此人は二(ノ)卷【新考七の】に出て天智天皇(ノ)宮女《ヒメトネ》なるよし其處《ソコ》に云り
 
493 置而行者妹將戀可聞敷細乃黒髪布而長此夜乎《オキテイナハイモコヒムカモシキタヘノクロカミシキテナカキコノヨヲ》
 
田部忌寸櫟子
 
敷細乃 冠辭考(ニ)云(ク)繁服《シキタヘ》は織(リ)目の細《クハ》しきなり【※[鹿三つ]復《アラタヘ》の反《ウラ》なり】夜具《ヨルノモノ》は柔《ヤハ》らかに身に親しきを用れは繁服《シキタヘ》の夜衣《ヨルノコロモ》と云るより床《トコ》枕にもつゝけたり此《コヽ》は四五(ノ)句|夜床《ヨトコ》の状《サマ》なれはなり【以上】此《コヽ》より三首《ミツ》は櫟子の作《ウタ》なり
 
494 吾妹兒矣相令知人乎許曾戀之益者恨三念《ワキモコヲアヒシラシメシヒトヲコソコヒノマサレハウラメシミモヘ》
 
495 朝日影爾保敞流山爾照月乃不厭君乎山越爾置手《アサヒカケニホヘルヤマニテルツキノイトハヌキミヲヤマコシニオキテ》
 
三(ノ)句まては此時《コノヲリ》の實景《サマ》にて照月《テルツキ》は殘影《ノコリノカケ》なりさてそを即不厭《ヤカテイトハヌ》の序にせり十五に牟可比爲弖一日毛於知受見之可杼毛伊等波奴伊毛乎都奇和多流麻弖十に和射美能嶺往過而零雪乃|厭毛無跡白其兒爾《イトヒモナシトマヲセソノコニ》なとあり
 
柿本朝臣人麻呂歌四首
 
496 三熊野之浦之濱木綿百重成心者雖念直不相鴨《ミクマヌノウラノハマユフモヽヘナスコヽロハモヘトタヽニアハヌカモ》
 
三熊野 紀伊國にて尤著《イチシル》し三は眞に同し三吉野なとのことし又|眞熊野《マクマヌ》とも云り濱木綿は略解に今濱オモトと云(フ)草なりその莖皮《クキノカハ》いく重《ヘ》も疊《カサナ》りて七月に花は開《サ》くなり花(ノ)形(チ)木綿《ユフ》の如く白く垂《シタ》るゝ故の名なるへし今も熊野(ノ)濱に多かりと云りその莖皮《クキノカハ》いく重《ヘ》も疊《カサナ》れるを以百重につゝけたるなりとあり威《ナス》は如《ナス》なり
 
497 古爾有兼人毛如吾歟妹爾戀乍宿不勝家牟《イニシヘニアリケムヒトモアカコトカイモニコヒツヽイネカテニケム》
 
自問《ミヅカラトヘル》なり
 
498 今耳之行事庭不有古人曾益而哭差倍鳴四《イマノミノワサニハアラスイニシヘノヒトソマサリテネニサヘナキシ》
 
自(ラ)答(ル)なり
 
499 百重二物來及毳常念鴨公之使乃雖見不鴨有武《モヽヘニモキタリシケカモトオモヘカモキミカツカヒノミレトアカサラム》
 
終《ハテノ》句鴨は飽の誤なるへし此歌女の體《サマ》なり然《サ》らは今耳之《イマノミノ》も女にて古爾《イニシヘニ》の和《コタヘ》なるへし
 
碁檀越《ゴノタニヲチ》徃2伊勢國1時留妻作歌一首
 
碁は姓檀越は名なり此人は物に所見《ミエ》す
 
500 神風之伊勢乃濱荻折伏客宿也將爲荒濱邊爾《カムカセノイセノハマヲキヲリフセテタヒネヤスラムアラキハマヘニ》
 
神風之 伊勢の枕詞上(ニ)出(ツ)【新考五の】
 
柿本朝臣人麻呂歌三首
 
(276)此三首人麻呂の作《ウタ》ならすして古歌なるへし其故は未通女等之《ヲトメラカ》の一首は十一(ノ)卷の註に以前一百四十九首柿本朝臣人麻呂之歌集(ニ)出(タリ)とあるその中の一首にてこの一百四十九首は上世《カミツヨ》の作者不知《ヨミヒトシラス》の名歌ともにて時代《トキヨ》も調《シラヘ》も古く雅《ミヤヒカ》なるものにて人麻呂朝臣の作ならさること歌よく知れらむ人はうたかはし人麻呂歌集とある物は元來《モトヨリ》このうしのみつからの歌集にはあらすして古き名歌を集められたるものなりこの外にも集中に笠朝臣金村歌集高橋連蟲麻呂歌集田邊福麻呂歌集なとある皆然り即《ヤカテ》この萬葉集も古今《イニシヘイマ》を集めたる家持卿(ノ)歌集なるものなり後世の家集とは異なり然るを古(ヘ)より此《コヽ》に眼《メ》の着《ツキ》たる人旡くして人麻呂歌集を全《モハ》らこのうしの作《ウタ》とのみ見て撰集にも載《ノセ》られたるものなりけりさてその歌集は歌學《ウタマナヒ》の料《タメ》にや人麻呂朝臣の作歌《ウタ》それに依られたりと思はるゝ多く詞を採り用ひられたりと思はるゝはた多かるを反りて人麻呂より後なる人の所爲《シワサ》のごとかの歌集より以外《ホカ》なる十一十二十三(ノ)卷なとの古歌を評判《サタ》むる人しもこそ有けれこは既《ハヤ》く【新考八の 】にも云ることをくた/\しけれとなほいはるゝなりまた珠衣乃《アリキヌノ》の一首は十四(ノ)卷|東歌《アツマウタ》に載《ノリ》たりこれはた古歌の※[うがんむり/取]《イト》も妙《タヘ》なるにて東歌とも聞えぬはかりなるものから再ひ思へはなほ東歌の古く妙なるしらへと聞えて防人《サキモリ》なとの所作《ヨメ》るものなるへくなむまた夏野去《ナツヌユク》の一首も十一十二(ノ)卷なとの部《トモ》にて作者不知の古名歌とこそきこゆれ
 
501 未通女等之袖振山乃水垣之久時從憶寸吾者《ヲトメラカソテフルヤマノミツカキノヒサシキトキユオモヒキアレハ》
 
未通女等之袖振山乃 石上《イソノカミ》の布留山なり冠辭考(ニ)云(ク)娘子《ヲトメ》の袖振(リ)て吾(レ)を招くよしのいひかけなり十一(ノ)卷には|處女等乎《ヲトメラヲ》とありそは男より招く意なり○水垣之久時從 崇神天皇の磯城瑞籬《シキノミヅカキノ》宮はいと名高くて時代《トキヨ》の舊《ヒサ》しけれはなり十三に※[木+若]垣久時從戀爲者吾帶緩朝夕毎《ミツカキノヒサシキトキユコヒスレハアカオヒユルフアサヨヒコトニ》ともありさて上よりは布留(ノ)社の瑞籬《ミツカキ》の意につゝけたり○一首の意は舊《ヒサ》しき時より人を想懸《オモヒカケ》たりきとのみの意を如此《カク》しもいへるは特《タヽ》に詞の文章《アヤ》のみならす久しきよしを通えしむる料《タメ》にて序歌の體《サマ》なりまた袖振《ソテフル》の振《フル》に古《フル》きことを持(タ)せて稚垣《ミツカキ》の稚《ワカ》きに對《ムカ》へたる工《タクミ》な(277)り
 
502 夏野去小牡鹿之角之束間毛妹之心乎忘而念哉《ナツヌユクヲシカノツヌノツカノマモイモカコヽロヲワスレテオモヘヤ》
 
503 珠衣乃狹藍左謂沈家妹爾物不語來而思金津裳《アリキヌノサヰサヰシツミイヘノイモニモノイハスキテオモヒカネツモ》
 
珠衣《アリキヌ》は明《ア》り衣《キヌ》なり玉勝間【韓藍(ノ)卷】云(ク)万葉十四に安利伎奴乃佐意佐惠之豆美十五に安里伎奴能安里弖能知爾毛寸六に蟻衣之寶之子|等《ラ》なとあるありきぬは鮮《アサヤカ》なる衣《キヌ》なり阿里とはあさやかなるを云(フ)あさやかといふ言も即(チ)ありさやかなり又|俗言《ヨノコトハ》に物のあさやかに見ゆるをあり/\と見ゆと云も是なり又月に有明と云も空に月の有て夜の明る意にはあらす夜の明方には月の影の殊にあさやかに見ゆるものなれはあさやかにて明るよしにてありあけの月とは云なり書紀欽明(ノ)御卷に※[搨の旁+毛]※[登+毛]をアリカモと訓(メ)るも鮮《アサヤカ》なるよしなりこは後漢書に天竺(ノ)國(ニ)有2細布(ノ)※[搨の旁+毛]※[登+毛]1と見へたり云々又右の万葉十六(ノ)卷なる寶の枕詞に云るば鮮《アサヤカ》なるよき衣を寶とする意につゝけたるなり【以上】珠衣《アリキヌ》と書るは美服《アリキヌ》には珠《タマ》を装飾《カサ》れはなり○狹藍左謂沈 狹藍左謂《サヰサヰ》は佐夜佐夜に同し美服《アリキヌ》に装飾《カサ》れる珠の相(ヒ)觸(レ)て鳴(リ)さやめく響《オト》なひなりさてそを相(ヒ)別るゝ時《ヲリ》に妻《メ》の悲しみて泣さやめくに譬へたるなり沈《シツミ》は令靜《シツメ》にて慰《ナクサ》め靜《シツ》むるなり廿【防人歌】に阿良之乎乃伊乎佐太波佐美牟可比多知可奈流麻之都美伊※[泥/土]弖登阿我久流こは荒《アラ》し男《ヲ》の射小箭手挿《イヲサタハサ》み向ひたち加《カ》【助辭】投《ナ》る間《マ》靜めの意にて矢を投矢《ナクヤ》とも投《ナク》る箭《サ》ともいひて投《ナク》とは射發《イハナ》つことを云りさて射發《イハナ》つには覘《ネ》らひを慎み靜むるものなれは之都美の序にて此《コ》も防人《サキモリ》の別(レ)に家人の悲しみ泣噪《ナキサワ》くを靜めて出來るよしにて即(チ)此《コヽ》の狹藍左謂沈《サヰサヰシツミ》に同し又十四【相模國歌】に安思我良能乎※[氏/一]毛許乃母爾佐須和奈乃可奈流麻之豆美許呂安禮比毛等久こは足柄《アシカラ》の彼面此面《ヲテモコノモ》に刺す罫《ワナ》の加《カ》【助辭】投《ナ》る間《マ》靜めの意にて罫《ワナ》もその機《オシ》を投發《ナケハナ》つことを慎しみ靜むるものなれは靜まり潜《ヒソ》みて會ふことの序なれは此《コヽ》の沈《シツミ》に相(ヒ)同し○家妹爾物不語來而思金津裳《イヘノイモニモノイハスキニテオモヒカネツモ》 十四【東歌】には於毛比具流之母とあり妻《メ》の泣噪《ナキサワ》くを慰め靜むるために物いはす來にて思ひを遣り不得《カネ》つとなり十四【東歌】に水都等利乃多多武與曾比爾伊母能良爾毛乃伊波受伎爾※[氏/一]於毛比可禰都毛
 
柿本朝臣人麻呂妻歌一首
 
(278)504 君家爾吾住坂乃家道乎毛吾者不忘命不死者《キミカイヘニアレスミサカノイヘチヲモアレハワスレシイノチシナスハ》
 
本居翁云(ク)この住坂さたかならす宇陀(ノ)墨坂は大和の東に僻《カタヨ》りて京《ミヤコノ》人の常《ツネ》通ふましき地《トコロ》なり【以上】こは人麻呂の家住坂に在て相(ヒ)住(メ)るを離別《ワカ》れて去《イヌ》る時《ヲリ》の作《ウタ》なるへくあかぬ中の離別《ワカレ》にて憐れに聞ゆる調《シラヘ》なるへし
 
安倍女郎歌二首
 
此人は上出【新考の】
 
505 今更何乎可將念打靡情者君爾緑爾之物乎《イマサラニナニヲカオモハムウチナヒクコヽロハキミニヨリニシモノヲ》
 
二心なしとなり
 
506 吾背子波物莫念事之有者火爾毛水爾毛吾莫七國《アカセコハモノナオモホシコトシアラハヒニモミツニモアレナケナクニ》
 
火爾毛水爾毛 此句にて截《キル》へし火水にも入なむ君か爲には身を厭はしなり○吾莫七國 七は亡の誤にも有へし莫亡國《ナケナクニ》はナカラナクニにて吾(レ)しあれはそはいかにもせむ物念ほさて打(チ)解(ケ)たまへとなり一に吾大王物勿御念須賣神乃嗣而賜流《ワコオホキミモノナオモホシスメカミノツキテタマヘル》【こも此句にてきるへし】吾莫勿久爾《アレナケナクニ》
 
駿河(ノ)※[女+采]女《ウネヘノ》歌一首
 
名は漏(レ)たり八(ノ)卷にも見ゆ同人なるへし
 
507 敷細乃枕從久久流涙二曾浮宿乎思家類戀乃繁爾《シキタヘノマクラユククルナミタニソウキネヲシケルコヒノシケキニ》
 
三方沙彌歌一首
 
此人上出【新考六の】
 
508 衣手乃別今夜從妹毛吾毛甚戀名相因乎奈美《コロモテノワカルコヨヒユイモモアレモイタクコヒムナアフヨシヲナミ》
 
丹比《タチヒノ》眞人笠麻呂下2筑紫國1時作歌一首并短歌
 
此人も上出【新考八の】
 
509 臣女乃匣爾乘有鏡成見津乃濱邊爾狹丹頬相紐解不離吾味兒爾戀乍居者明晩乃旦霧隱鳴多頭乃哭耳之所哭吾戀流千重乃一隔母名草漏情毛有哉跡家當吾立見者青※[弓+其]乃葛木山爾多奈引流白雲隱天佐我留夷乃國邊爾直向淡路乎過粟島乎背爾見管朝名寸二水手之音喚暮名寸二梶之聲爲乍浪上乎吾十行左具久美磐間乎射往廻稻日都麻浦箕乎過而鳥自物魚津左比去者家乃島荒礒之字倍爾打靡四時二生有莫告我奈騰可聞妹爾不告來二計謀《タワヤメノクシケニノレルカヽミナスミツノハマヘニサニツラフヒモトキサケスワキモコニコヒツヽヲレハアケクレノアサキリカクリナクタツノネノミシナカユアカコフルチヘノヒトヘモナクサモルコヽロモアレヤトイヘノアタリアカタチミレハアヲヤキノカツラキヤマニタナヒケルシラクモカクリアマサカルヒナノクニヘニタヽムカフアハチヲスキアハシマヲソカヒニミツヽアサナキニカコノコヱヨヒユフナキニカチノトシツヽナミノヘヲイユキサククミイハノマヲイユキモトホリイナヒツマウラミヲスキテトリシモノナツサヒユケハイヘノシマアリソノウヘニウチナビキシシニオヒタルナノリソカナトカモイモニノラスキニケム》
 
臣女乃 臣は姫の片を省る字○鏡成 見《ミ》の枕詞なから庭よくて鏡の如くなるをよせたりこの船出の時《ヲリ》朝和《アサナキ》なりしよしなりさるは鏡は朝見る物なれはなり○見津乃濱邊爾 難波(ノ)御津○狹丹頬相 狹は眞に同しき美言なり【狹霧は眞《ミ》佐|夜《ヨ》は眞《マ》夜なるかことし】丹頬相《ニツラフ》は丹著《ニツカ》ふに同しく色(279)|著《ツ》くなり七に山跡之宇陀乃|眞赤土左丹著者《マハニノサニサカハ》十六に丹津蚊經色丹《ニツカフイロニ》なとあり○紐解不離 女の丹紐《アカヒモ》を解(キ)て倶に寢《ヌ》ることなきなり○戀乍居者 居《ヲル》は居《ヲリ》明して不寢《イネサ》るを云此言上出【新考六の】考合すへし○明晩乃 曙《アケ》むとする際《キハ》に少時《シハラク》暗くなる時をいふ名なり○青※[弓+其]乃葛木山爾多奈引流白雲隱 冠辭考(ニ)云(ク)舊く青※[弓+其]をアヲハタと訓るは※[弓+其]を旗の誤としてなり然《サ》れと葛木山に由なく楊鬘ヤナキノカツラ《》は十一に春楊葛山《ハルヤナキカツラキヤマ》なと多かれは楊の誤なるにこそ【以上】こは枕詞なからに葛木山の青きを青楊にもたせその青山に雲の白く懸るは倭の遠くなりぬる景色《アリサマ》なり○粟島上出【新考九の】三に武庫浦乎|※[手偏+旁]轉《コキタム》小舟粟島|矣背《ヲソカヒ》爾見乍乏小舟○吾十行左具久美 吾は五の誤(リ)左具久美は左久美の延言にて浪を裂《サク》みて船の通るを云○稻日都麻 播磨國風土記【印南郡】に郡南海中有2小嶋1名曰2南毘都麻1志賀高穴穗宮御宇天皇【景行】御世遣2丸《ワニ》部臣等始祖比古汝弟1令v定2國界1爾《ソノ》時吉備比古吉備比賣二人奉迎於是比古汝弟娶2吉備比賣1生(メル)兒|印南別孃《イナミノワキイラツメ》【皇后稻日(ノ)大郎《イラツ》姫(ノ)命なり】此女端正秀2於當1爾《ソノ》時大帶日古天皇【景行】欲v娶2此女1下幸行之別孃聞之即遁2度件嶋1隱居之故曰2南毘都麻1と見えまた【賀古郡】比禮墓の處にもこの故事を記して爾《ソノ》時印南別孃聞而驚畏之即遁2度於南毘都麻嶋1於是天皇乃到2賀古(ノ)松原1而覓訪之云々勅云此嶋隱2妻愛1仍號2南毘都麻1とありこは隱妻《ナヒツマ》の意の地名なり南毘は隱るゝの古言にて南婆理南婆流と活用《ハタ》らく詞なり伊賀の名張を隱《ナハリ》とも書き大和の地名に吉隱《ヨナバリ》もあり十六に忍照八難波乃小江爾|廬作難麻理弖居葦河爾乎《イホツクリナマテヲルアシカニヲ》なとも所見《ミエ》たりさらは伊南毘の伊は發語なり又思ふに當時《ソノカミ》この孃《ヲトメ》の天皇を辭《イナ》ひて遁れしよしにやさらは辭《イナ》ひ妻《ツマ》なりされと風土記に依るになほ隱妻《ナヒツマ》にて伊は發語なりけり○滴|箕《ミ》乎過而 浦|回《マ》なり十一に住吉之城師乃浦箕爾|布《シク》浪之云々○鳥自物 鳥|如《シク》物にて水鳥の如くなる物なり○魚津左比|去《ユケ》者 水(ノ)上に馴著添《ナツサ》ふなり ○家乃島 播磨國風土記【揖保《イヒホノ》郡】に家嶋人民作v家而居之故號2家嶋1式に家嶋神社○四時生有 繁《シヽ》なり○莫告我《ナノリソモ》 神馬藻《ナノリソモ》なり○一首の意は通《キコ》へたるかことしさて稻日都麻浦箕としも云る(280)に吾(レ)を辭《イナ》ふる妻《ツマ》を恨みたるよしの詞の文章《アヤ》あり家島にも倭の家をよせたり十五に和伎母故我可多美爾見牟乎印南都麻之良奈美多加彌與曾爾可母美牟これも妻《ツマ》によそへたり伊敝之麻波奈爾許曾安里家禮宇奈波良乎安我古非伎都流伊毛母安良奈久爾なともあり
 
返歌
 
510 白妙乃袖解更而還來武月日乎數而往而來猿尾《シロタヘノソテトキカヘテカヘリコムツキヒヲヨミテユキテコマシヲ》
 
袖解更而は縫(ヒ)目より解(キ)て相(ヒ)共(モ)に形見に取(リ)更《カハ》すなり還 來武月日乎數而は下に妹爾告而のある意なり
 
幸2伊勢國1時|當麻《タキマノ》麻呂大夫妻作歌一首
 
此歌一巻【新考四の四十一葉】にあり
 
511 吾背子者何處將行己津物隱之山乎今日歟超良武《アカセコハイツクユクラムオキツモノナハリノヤマヲケフカコユラム》
 
草孃歌一首
 
日下部姓孃《クサカヘウチノヲトメ》にや
 
512 秋田之穗田乃刈婆加香縁相者彼所毛加人之吾乎事將成《アキノタノホタノカリハカカヨリアハハソコモカヒトノアヲコトナサム》
 
穗田乃刈婆加 刈婆加は刈量《カリハカリ》にて刈へき量(リ)の地を謂ふ言と聞ゆ十六に草《カヤ》刈婆可ともあれは田にまれ草にまれ刈る時《ヲリ》には人々の刈へき頃《シロ》を定めて刈るなるへし又|墓《ハカ》も兆域《カキリ》を量りて占《シメ》たる地をいひ又波加なしといひ跡《アト》波加なしといひ又|何處《イヅク》を波加と云々|其處《ソコ》波加なくなといふ言も占涯《シメカキ》りなく取止《トリトメ》ぬなれは同(シ)言なり
 
又|俗言《ヨノコトハ》にハカノユクユカヌと云もその量(リ)より遲速《オソキハヤキ》
 
を云なり十に秋(ノ)田(ヲ)吾刈《アカカリ》婆可能過|去《ヌレ》者鴈|之喧所聞冬方設而《カネキコユフユカタマケテ》と有(レ)は刈婆可の時の意なり○香縁相者 香は發語|縁相《ヨリアフ》とは稻穗の重《オモ》りて靡き寄り合ふを以男女の寄り合ふ序につゝけたり○彼所毛加人之吾乎事將成 わつかに近つきなは其《ソコ》を以すら君と事ありけに人にもてさわかれなむとなり事將成《コトナサム》は言《コト》にいひなさむなり
 
志貴皇子御歌一首
 
天武の皇子にや天智の皇子にも同(シ)名《ミナ》あれとも御庶兄《ミマヽアニ》新田部皇子の御母藤原夫人の本郷《サト》の大原に因縁《ヨシ》ありてきこゆる御歌なり八に霍公鳥歌三首を藤原夫人歌【明日香清御原宮御宇天皇之夫人也字曰2大原大刀自1即新田部皇子之母也】志貴皇子御歌弓削皇子御歌と列らねたるなとを以も思ふへし
 
513 大原之此市柴乃何時庶跡吾念妹爾今夜相有香裳《オホハラノコノイチシバノイツシカトアカモヘルイモニコヨヒアヘルカモ》
 
(281)大原 大和國高市郡にあり藤原とも云り即(チ)藤原姓の産土《ウフスナ》の地なり市柴は櫟柴《イチヒシハ》なり十一に道邊乃五柴原能何時毛何時毛ともあるに同しくして何時鹿《イツシカ》の序なり庶は鹿の誤
 
阿倍女郎歌一首
 
514 吾背子之盖世流衣之針目不落入爾家良之母我情副《アカセコカケセルコロモノハリメオチスイリニケラシモアカコヽロサヘ》
 
盖《ケ》世流は衣《キ》たまへるなり御衣《ミケシ》のことし不落は不漏《オチス》なり上【新考三の】に見ゆ
 
中臣朝拉|東人《アツマト》贈2阿倍女郎1歌一首
 
元明紀に和銅四年四月壬午正七位上中臣朝臣東人授2從五位下1元正紀に養老二年九月庚戌任2式部少輔1四年正月甲子叙2從五位上1十月戊子右中弁聖武紀に神龜元年二月壬子正五位下三年正月庚子正五位上天平四年十月丁亥兵部大輔五年三月辛亥從四位下とありまた三代實録【貞觀六年八月十日條】に故刑部卿東人とあり
 
515 獨宿而絶西紐緒忌見跡世武爲便不知哭耳之曾泣《ヒトリネテタエニシヒモヲユヽシミトセムスヘシラニネノミシソナク》
 
阿倍女郎と絶たることなるへし二三四一五と回を次第《ツイテ》て心得へし
 
阿倍女郎答歌一首
 
516 吾以在三相二※[手偏+差]流絲用而附手益物今曾悔下《アカモタルミツアヒニヨレルイトモチテツケテマシモノイマソクヤシキ》
 
右之意の和《コタヘ》なり
 
大納言兼大將軍大伴卿歌一首
 
元明紀に和銅七年五月丁亥朔大納言兼大將軍正三位大伴宿禰安麻呂薨帝深悼之詔贈2從二位1安麻呂(ハ)難波朝右大臣大紫|長徳《ナカトコ》之第六子也とあり即(チ)旅人卿(ノ)父家持卿(ノ)祖父なり
 
517 神樹爾毛手者觸云乎打細丹人妻跡云者不觸物可聞《カミキニモテハフルトフヲウツタヘニヒトツマトイヘハフレシモノカモ》
 
打細丹《ウツタヘニ》 ※[うがんむり/取]偏爾《イトヒトヘニ》なり一向《ヒトムキ》の意にて通《キコ》ゆ下【新考五の】に打妙爾前垣乃酢堅欲見將行當云哉《ウツタヘニマカキノスカタミマクホリユカムトイヘヤ》君乎見爾許曾十に打細爾鳥者|雖不喫繩延守卷欲寸梅花鴨ハマネトナハハヘテモラマクホシキウメノハナカモ《》源氏物語【藤袴卷】うつたへに思ひもよらて云々
 
石川(ノ)郎女《イラツメノ》歌一首 即佐保大伴|大家《オホトシ》也
 
安麻呂卿(ノ)妻にして旅人卿坂上郎女(ノ)母なり
 
518 春日野之山邊道乎與曾理無通之君我不所見許呂香裳《カスカヌノヤマヘノミチヲヨソリナクカヨヒシキミカミエヌコロカモ》
 
與曾理無 寄《ヨソ》り無《ナク》にて寄處《ヨスカ》の無(キ)を謂り
 
(282)大伴女郎歌一首 今城王之母也今城王後賜2大原眞人氏1也
 
此人|詳《サタカ》ならす旅人卿(ノ)妻をも大伴郎女と稱《イヘ》り【八(ノ)卷に見ゆ】になほ熟《ヨ》く考へし
 
519 雨障常爲公者久堅乃咋夜雨爾將懲鴨《アマサハリツネスルキミハヒサカタノキノフノアメニコリニケムカモ》
 
後人追和歌一首
 
520 久竪乃雨毛落糠雨乍見於君副而此日令晩《ヒサカタノアメモフラヌカアマツヽミキミニタクヒテコノヒクラサム》
 
雨乍見《アマツヽミ》 都々《ツヽ》と云ふ言の活用《ハタ》らけるなり都々《ツヽ》は止々《トヽ》と通ひて萬事《ヨロツノコト》の止々《トヽ》まり息《ヤ》む意の言なり包《ツヽム》は隱《コム》るを云(ヒ)疾病《ヤマヒ》を都々微《ツツミ》と云も身の活動《ハタ》らき息《ヤ》み止々《トヽ》まる故にヤムともヤマフとも齋宮の忌詞にはヤスミと云も同意なり又|慎《ツヽシム》と云ふ言も進ます止《トヽ》まる意なり辭の而爾乎者《テニヲハ》の都々《ツ》も言ひ遺《ノコ》して意を含むるなれはこれも同言なりされは雨乍見《アマツヽミ》も雨に包《ツヽ》まれ隱《コモ》りて出行《イテユク》ことの止々《トト》まり息《ヤ》むを謂り十八に夜夫奈美能佐刀爾夜度可里波流佐米爾許母理都追牟等伊母爾都宜都夜
 
藤原(ノ)宇合《ウマカヒノ》大夫遷v任上v京時常陸娘子贈歌一首
 
元正紀に養老三年七月庚子始置2按察使1令d常陸國守正五位上藤原朝臣字合管c安房上總下總三國uと有て守に在《ナ》られし年月は所見《ミエ》す
 
521 庭立麻乎刈干布慕東女乎忘賜名《ニハニタチアサヲカリホシシキシヌフアツマヲミナヲワスレタマフナ》
 
冠辭考(ニ)云(ク)麻《アサ》をは刈て庭に敷き並へて干すものなれは重《シキ》にいひかけたり九に小垣内之麻矣引干妹名根之作服典六白細乃紐緒毛不解《ヲカキツノアサヲヒキホシイモナネカツクリキセケムシロタヘノヒモヲモトカス》ともあれは手《テ》は乎《ヲ》の誤(リ)なり十四【東歌】に爾波爾多都安佐提古夫狗麻とあるとは異なれは庭爾多知と訓へし【以上考のいひさま心ゆかねは文をは引直せり】野鴈云右の九(ノ)卷(ノ)歌も過2足柄(ノ)坂1見2死人1作歌として麻《アサ》は專《モハラ》ら東《アツマ》の産業《ナリハヒ》なりけり十四【東歌】に宇知日佐須美夜能和我世波夜麻登女乃比|射《サ》麻久|其《コ》登爾安乎和須良須奈これともこゝろはへ相似たりそも/\東《アツマ》は甚《イタ》く鄙《ヒナ》なるものから歌のこよなく雅《ミヤ》ひにたるものかな上世《カミツヨ》の風《フリ》の存《ノコ》りて流れて下《クタ》らぬなるへし京方《ミヤコカタ》は變りて中々にぬけいてたる高き古き風雅《ミヤヒ》ののこりたらぬなむ多かるめるはや
 
京職大夫《ミサトノツカサノカミ》藤原大夫贈2大件郎女1歌三首【卿諱曰2麻呂1】
 
(283)元正妃に養老元年十一月癸丑美濃介正六位下藤原朝臣麻呂授2從五位下1五年正月王子叙2從四位上1【超叙】六月辛丑任2左右京大夫1聖武紀に神龜三年正月庚子正四位上【超叙】天平元年三月甲午從三位三年八月丁亥兵部卿より拜2參議1とあり兵部卿に任《ナリ》しは紀に所見《ミエ》す十一月丁卯始置2諸道鎭撫使1以2從三位藤原朝臣麻呂1爲2山陰道鎭撫使1九年正月丙申詔2持節大使兵部卿從三位藤原朝臣麻呂等1發2遣陸奧國1七月乙酉參議兵部卿從三位藤原朝臣麻呂薨贈大政大臣不比等之第四子也とありて年は懷風藻に四十三とあり大伴郎女の傳《コト》は和歌の左註にあり
 
522 ※[女+感]嬬等之珠篋有玉櫛乃神家武毛妹爾阿波受有者《ヲトメラカタマクシケナルタマクシノカムサヒケムモイモニアハスアレハ》
 
珠篋《タマクシケ》玉櫛《タマクシ》みな珠玉《タマ》を装飾《カサ》れるなり神家武毛《カムサヒケムモ》はかの神進《カムサヒ》の大《イタ》く轉れるにてものふり氣踈《ケウト》くなるなり篋《ケ》に納《オサ》めて用《ツカ》はぬ櫛《クシ》の如く妹に逢ねは吾(カ)身は舊りぬらむなり
 
523 好渡人者年母有云乎何時間曾毛吾戀爾來《ヨクワタルヒトハトシニモアリトフヲイツノマニソモアカコヒニケル》
 
好渡人《ヨクワタルヒト》とは棚機彦星なりよく不逢《アハス》して堪《タヘ》わたるとなり年母有云乎《トシニモアリトフヲ》は年に一夜の逢(ヒ)もありといふをなり
 
524 蒸被奈胡也我下丹雖臥與妹不宿者肌之寒霜《ムシフスマナコヤカシタニフシタレトイモトシネネハハタシサムシモ》
 
古事記【上卷】に牟斯夫須麻爾古夜賀斯多爾こは蒸被柔之下《ムシフスマニコヤカシタニ》にて暖《アタヽカ》に柔《ニコヤカ》なる被《フスマ》なりさて此歌も古の神代の古語《フルコト》もて作《ヨメ》り上の棚機彦星もて作《ヨメ》るこゝろはへなり
 
大伴郎女和歌四首
 
525 狹保河乃小石踐渡夜干玉之黒馬之來夜者年爾母有※[禾+康]《サホカハノサヽレフミワタリヌハタマノコマノクルヨハトシニモアラヌカ》
 
一首の意は上の好渡人者年母有云乎《ヨクワタルヒトハトシニモアリトフヲ》に和《コタヘ》へてその彦星は天河《アマノカハ》の小石踐渡《サヽレフミワタ》り黒馬《コマ》の來る夜は年に一度もあるを君はこの狹保河の小石践渡《サヽレフミワタ》り黒馬《コマ》の來る夜は年に一夜もあらぬ哉《カ》なり狹保に作者の家あれはなりさて夜干玉《ヌハタマ》は黒馬《コマ》にはあつからす夜《ヨ》と云にかゝれり黒馬《コマ》は字音のみなり黒に意なし烏梅《ウメ》とも書く例なり
 
526 千鳥鳴佐保乃河瀬之小浪止時毛無吾戀者《チトリナクサホノカハセノサヽレナミヤムトキモナシワカコフラクハ》
 
小浪《サヽレナミ》は重々《シク/\》止《ヤマ》ぬ如《コト》なり
 
527 將來云毛不來時有乎不來云乎將來常者不待不來云物乎《コムトイフモコヌトキアルヲコシトイフヲコムトハマタシコシトイフモノヲ》
 
528 千鳥鳴佐保乃河門乃瀬乎廣彌打橋度須奈我來跡念者《チトリナクサホノカハトノセヲヒロミウチハシワタスナカクトオモヘハ》
 
(284)打橋は上(ニ)出(ツ)【新考七の】一首の意は瀬の廣くて渡り煩らひたまふへけれは打橋渡す汝《ナ》か來《ク》と思へはなり此歌も天河《アマノカハ》をよせたり十には機※[足+搨の旁]木持往而天河打橋度公之來爲《ハタモノヽフミキモテユキテアマノカハウチハシワタスキミカコムタメ》
 
右郎女者佐保大納言卿之女也初嫁2一品穗積皇子1被v寵無v儔而皇子薨之後時藤原麻呂大夫婚2之郎女1焉郎女家2於坂(ノ)上(ノ)里1仍族号曰2坂上郎女1也
 
佐保大納言は安麻呂卿なり坂(ノ)上(ノ)里は奈良坂(ノ)上にや
 
又大伴坂上郎女歌一首
 
529 佐保河乃涯之官能小歴木莫刈烏在乍毛張之來者立隱金《サホカハノキシノツカサノワカクヌキナカリアリツヽモハルカキタラハタチカクルカネ》
 
官《ツカサ》は衝層《ツキカサ》にて衝立《ツキタチ》て層高《カサタカ》なる地《トコロ》を云人の官《ツカサ》も官長《カミ》をいへは同し野司《ヌツカサ》山之司《ヤマノツカサ》なとも云り又|稻穀《タナツモノ》を貢調《ミツキ》の司《ツカサ》とも十八の歌に作《ヨメ》り○小歴木莫刈《ワカクヌキナカリ》烏 烏は焉の誤にて助字《ヤスメモシ》なり○在乍毛《アリツヽモ》 存在《ナカラヘアル》なり○張之來者《ハルカキタラハ》 春《ハル》の來て繁茂《シケ》らはなり其《ソ》を枝葉の發《》るに兼《カケ》たり○立隱金《タチカクルカネ》 金《カネ》は豫《カネ》にて後を豫《カネ》て未然《マタキ》にいふ言なり君【麻呂】と立隱れて逢むとなり
 
天皇賜2海上《ウナカミノ》女王1御歌一首
 
聖武天皇なり元正紀に養老七年正月内子無位海上女王授2從四位下1聖武紀に神龜元年二月丙申叙2從三位1とあり次(ノ)歌題註に志貴皇子之女也とあり此志貴皇子は天智の皇子なり紹運録の海上女王の御系統に見ゆ
 
530 赤駒之越馬柵乃緘結師妹情者疑毛奈思《アカコマノコユルウマセノシメユヒシイモカコヽロハウタカヒモナシ》
 
馬柵《ウマセ》は馬塞《ウマセ》にて馬を塞《セ》く柵《カキ》なり十二に※[木+巨]※[木+若]越爾麥咋駒乃雖詈猶戀久思不勝焉《クヘコシニムキクフコマノノラユレトナホシコフラクオモヒカネツモ》十四【東歌】に久敝胡之爾武藝波武古宇馬能波都波都爾安比見之兒良之安夜爾可奈思母或本歌曰宇麻勢胡之牟伎波武古麻能波都波都爾仁必波太布禮思古呂之可奈思母六帖【うま】にませこしにむきはむこまのはつ/\におよはぬ戀も我はするかななとあり後世にマセ垣と謂(ハ)も馬柵《マセ》の如く結たる垣なりさて赤駒|之越馬柵《ノコユルウマセ》とは越るを令止《トヽム》る馬柵《ウマセ》の意なり駒の爲柵を越るにはあらすこは緘結《シメユフ》の序なり
 
右今案此歌|擬《ウタカフラクハ》古之作也但以2往當時便1賜2斯歌1歟
 
源道別云擬は疑の誤
 
海上女王奉v和歌一首 志貴皇子之女也
 
(285)531 梓弓爪引夜音之遠音爾毛君之御幸乎聞之好毛《アツサユミツマヒクヨトノトホトニモキミカミコトヲキカクシヨシモ》
 
爪引《ツマヒク》は鳴弦《ツルウチ》なり夜音《ヨルノオト》は遠く響《キコ》ゆるを云幸は事の誤にて御言なり
 
大伴宿奈麻呂宿禰歌二首 佐保大納言第三子也
 
安麻呂卿(ノ)子旅人卿(ノ)庶弟なり坂上郎女は旅人と同母《ハラカラ》の妹【家持叔母】なり宿奈麻呂は郎女と異母《コトハラ》の弟なれは配遇《アヒ》て田村大孃坂上大孃を生《ウメ》り【田村大孃は駿河麻呂(ノ)妻坂上大孃は家持(ノ)妻なり】元明紀に和銅元年正月乙巳從六位下大伴宿禰宿奈麻呂授2從五位下1五年正月戊子叙2從五位上1元正紀に靈龜元年五月壬寅任2左衛士督1養老元年五月乙巳正五位下三年七月庚子始置2按祭使1命d備後國守正五位下大伴宿禰宿奈麻呂管c安藝周防二國u四年正月甲子正五位上聖武紀に神龜元年二月壬子從四位下とあり又此下に右大辨と所見《ミエ》たり
 
532 打日指宮爾行兒乎眞悲見留者苦聽去者爲便無《ウチヒサスミヤニユクコヲマカナシミトムレハクルシヤレハスヘナシ》
 
533 難波方鹽干之名凝飽左右二人之見兒乎吾四乏毛《ナニハカタシホヒノナコリアクマテニヒトノミルコヲアレシトモシモ》
 
方《カタ》は滷《カタ》にて潮干滷《シホヒノカタ》なり名凝《ナコリ》は浪殘《ナノコリ》にやはた浪凝《ナコリ》にやいつれにまれ浪の去りぬる跡に殘れる水沫《ミナワ》藻屑《モクス》の類(ヒ)を云りそは跡まても殘るものなれは飽左右《アクマテ》の序なり見兒《ミルコ》の見《ミル》に海松《ミル》を兼《カケ》たり
 
安貴王歌一首并短歌
 
此王上(ニ)出(ツ)【新考九の】
 
534 遠嬬此間不在者玉桙之道乎多遠見思空安莫國嘆虚不安物乎水空往雲爾毛欲成高飛鳥爾毛欲成明日去而於妹言問爲吾妹毛事無爲妹吾毛事無久今裳見如副而毛欲得《トホツマノココニアラネハタマホコノミチヲタトホミオモフソラヤスカラナクニナケクソラヤスカラヌモノヲミソラユククモニモカモタカトフトリニモカモアスユキテイモニコトトヒワカタメニイモヽコトナクイモカタメワレモコトナクイマモミシコトタクヒテモカモ》
 
多遠見 多は助辭思(フ)空(ラ)嘆(ク)虚(ラ)は遠けれは天《ソラ》を望てなり水空《ミソラ》は眞空《ミソラ》高飛《タカトフ》の高《タカ》は體言《ヰコトハ》天飛《アマトフ》に同し高く飛(フ)にはあらす見如《ミシコト》は有し時の如《コト》なり
 
返歌
 
535 敷細乃手枕不纏間置而年曾經來不相念者《シキタヘノタマクラマカスアヒタオキテトシソヘニケルアハヌオモヘハ》
 
不相《アハ》ぬ間《アヒタ》を念へは年經ぬとなり
 
右安貴王娶2因幡(ノ)八上《ヤカミノ》釆女1係念極其愛情尤盛於v時勅斷2不敬之罪1退2却本郷1焉于v是王意悼怛聊作2此歌1也
 
門部玉戀歌一首
 
此王上(ニ)出(ツ)【新考五の】
 
(286)536 飫宇能海之鹽干乃滷之片念爾思哉將去道之永手呼《オウノウミノシホヒノカタノカタオモヒニオモヒヤユカムミチノナカテヲ》
 
出雲國|意宇《オウノ》郡○思哉將去《オモヒヤユカム》 娘子(ノ)許《モト》になり○永手は長道《ナカチ》
右門部王任2出雲守1時娶2部内娘子1也未v有2幾時1既絶2徃來1累月之後更起2愛心1仍作2此歌1贈2致娘子1
 
高田女王贈今城王歌六首
 
高田女王は高安王(ノ)女と八(ノ)卷にあり高安王は下に見ゆ今城王は上の大伴女郎の註に今城王之母也今城王後賜2大原眞人氏1也とあり孝謙紀に天平寶字元年五月丁卯正六位上大原眞人今木授2從五位下1六月壬辰任2治部少輔1七年正月壬子任2左少辨1四月丁亥爲2上野守1八年正月乙巳叙2從五位上1光仁紀に賓龜二年潤三月乙卯無位大原眞人今城復2本位從五位上1この無位なりし事のよしは知られす七月丁未爲2兵部少輔1三年九月庚子爲2駿河守1また早く上總國大椽兵部大丞なとを歴られしことも此集廿(ノ)卷に所見《ミエ》たり
 
537 事清甚毛莫言一日太爾君伊之哭者《コトキヨクイタクモナイヒヒトヒタニキミイシナケハ》痛寸取物
 
一二(ノ)句は君を相知らぬさまに言《コト》清く甚《イタ》くも言(フ)こと莫れと身つから誡しむるなるへし○君伊之哭者《キミイシナケハ》 伊は君に局《カキ》れる意の助辭|哭者《ナケハ》は無《ナケ》れはなり○痛寸取物 取物は誤(リ)にや
 
538 他辭乎繁言痛不相有寸心在如莫思吾背《ヒトコトヲシケミコチタミアハサリキコヽロフルコトナオモヒアカセ》
 
539 吾背子師遂常云者人事者繋有登毛出而相麻志呼《アカセコシトケムトイハハヒトコトハシケクアリトモイテテアハマシヲ》
 
540 吾背子爾復者不相香常思墓今朝別之爲便無有都流《アカセコニマタハアハシカトオモヘハカケサノワカレノスヘナカリツル》
 
爲便《スヘ》は爲方《スヘ》
 
541 現世爾波人事繁來生爾毛將相吾背子今爾不有十方《コノヨニハヒトコトシケシコムヨニモアハムアカセコイマナラストモ》
 
事《コト》は言《コト》なり
 
542 常不止通之君我使不來今者不相跡絶多比奴良思《ツネヤマスカヨヒシキミカツカヒコスイマハアハシトタユタヒヌラシ》
 
神龜元年甲子冬十月幸2紀伊國1之時爲v贈2從駕人1所v誂2娘子1笠朝臣金村作歌一首并短歌
 
聖武紀に神龜元年十月辛卯天皇幸2紀伊國1己酉車駕至v自2紀伊國1
 
543 天皇之行幸乃隨意物部乃八十件雄與出去之愛夫者天翔哉(287)輕路從玉田次畝火乎見管麻裳吉木道爾入立眞土山越良武公者黄葉乃散飛見乍親吾者不念草枕客乎便宜常思乍公將有跡安蘇蘇二破且者雖知之加須我二黙然得不在者吾背子之徃之萬萬將追跡者千遍雖念手嫋女吾身之有者道守之將問答乎言將遣爲便乎不知跡立而爪衝《オホキミノイテマシノマニモノヽフノヤソトモノヲトイテユキシウツクシツマハアマトフヤカルノミチヨリタマタスキウネヒヲミツヽアサモヨシキチニイリタツマツチヤマコユラムキミハモミチハノチリトフミツヽシタシクモアヲハオモハスクサマクラタヒヲヨロシトオモヒツヽキミハアラムトアソソニハカツハシレレトシカスカニモタエアラネハアカセコカユキノマニマニオハムトハチタヒオモヘトタワヤメノワカミニシアレハミチモリノトハムコタヘヲイヒヤラムスヘヲシラニトタチテツマツク》
 
天翔哉《アマトフヤ》 鴈《カリ》の意に輕《カル》の枕詞|輕《カル》は大和國高市郡○玉田
次《タマタスキ》 畝《ウネ》の枕詞上【新考四の】に見ゆ畝火も高市郡○麻裳吉《アサモヨシ》 紀《キ》の枕詞上【新考五】に見ゆ○眞土山《マツチヤマ》 紀伊國|伊那《イトノ》郡○安蘇蘇《アソソ》は淺々《アソヽ》
 
反歌
 
544 後居而戀乍不有者木國乃妹背乃山爾有益物乎《オクレヰテコヒツヽアラスハキノクニノイモセノヤマニアラマシモノヲ》
 
不有者《アラスハ》 將在《アラム》よりはなり妹背の山は玉勝間に【花の雪】云(ク)背《セノ》山は孝徳紀に見え伊都《イトノ》那賀勢田(ノ)庄背山村(ノ)西北に在り妹山と稱《イヘ》る山は無し背《セノ》山有(ル)につきて設《マウケ》て所作《ヨメ》る名なり云々【以上また山吹(ノ)卷にもあり】
 
545 吾背子之跡履求追去者木乃關守伊將留鴨《アカセコカアトフミモトメオヒユカハキノセキモリイトヽメナムカモ》
 
玉勝間(ニ)【花のゆき】云(ク)紀(ノ)關は和泉國より紀伊國名草郡に越る雄山に在て南麓《ミナミノフモト》なる山口村に近し袖中抄に雄山の關守とあり白鳥《シラトリノ》關と稱《イヘ》るも此なるへし
 
二年乙丑春三月幸2三香原《ミカノハラノ》離宮1之時得2娘子1作歌一首并短歌
 
このいてまし紀に所見《ミエ》す
 
笠朝臣金村
 
546 三香之原客之屋取爾珠桙乃道能去相爾天雲之外耳見管言將問縁乃無者情耳咽乍有爾天地神祇辭因而敷細乃衣手易而自妻跡憑有今夜秋夜之百夜乃長有與宿鴨《ミカノハラタヒノヤトリニタマホコノミチノユキアヒニアマクモノヨソノミミツヽコトトハムヨシノナケレハコヽロノミムセツヽアルニアメツチノカミコトヨセテシキタヘノコロモテカヘテオノツマトタノメルコヨヒアキノヨノモヽヨノナカサアリコセヌカモ》
 
本居翁のいへらく辭因《コトヨセ》は事依《コトヨサシ》なり○有與宿鴨《アリヨセヌカモ》 與は乞の誤(リ)よの草體似たりさて此詞は有乞《アリコソ》【願辭】の活用《ハタ》らけるなり
 
反歌
 
547 天雲之外從見吾妹兒爾心毛身副縁西鬼尾《アマクモノヨソニミシヨリワキモコニコヽロモミサヘヨリニシモノヲ》
 
尾《ヲ》は余《ヨ》に同し
 
548 今夜之早開者爲使乎無三秋百夜乎願鶴鴨《コノヨラノハヤアケヌレハスヘヲナミアキノモヽヨヲネカヒツルカモ》
 
五年戊辰大宰小貳石川(ノ)足《タリ》人朝臣遷任餞2于筑前國|蘆城驛家《アシキノウマヤニ》1歌三首
 
元明紀に和銅四年四月壬午正六位下石川朝臣足人(288)授2從五位下1聖武紀に神龜元年二月壬子叙2從五位上1玉乃小琴(ニ)云(ク)芦城は三笠郡にて宰府の南に今もある村なり昔宰府より京へ上る道の驛《ウマヤ》にて此處より米《コメ》山と云を越て徃しなりと當《ソノ》國人の記なり【以上】芦城山芦城野芦城河なと集中に見ゆ
 
549 天地之神毛助與草枕※[羈の馬が奇]行者之至家左右《アメツチノカミモタスケヨクサマクラタヒユクキミカイヘニイタルマ テ》
 
550 大船之念憑師君之去者吾者將戀名直相左右二《オホフネノオモヒタノミシキミカイナハアレハコヒムナタヽニアフマテニ》
 
大船之 憑《タノム》の枕詞上出【新考7の】○將戀名《コヒムナ》 名は歎《ナケキノ》聲○
 
直《タヽニ》相左右二 直面《タヽメ》になり
 
551 山迹道之島乃浦廻爾縁浪間無牟吾戀卷者《ヤマトチノシマノウラマニヨスルナミアヒタモナケムアカコヒマクハ》
 
島《シマ》 筑前國志摩郡志摩
 
右三首作者未詳
 
大伴宿禰三依歌一首
 
聖武紀に天平二十年二月己未正六位上大伴宿爾三依授2從五位下1孝謙紀に天平勝寶六年七月丙午任2主税頭1天平寶字元年六月壬辰任2參川守1淡路天皇紀に寶字三年五月壬午爲2仁部少輔1六月庚戌叙2從五位上1十一月丁卯任2違江守1六年四月庚戌義部大輔高野天皇紀に天平神護元年正月己亥正五位上二年十月庚寅出雲守光仁紀に寶龜元年八月癸巳從四位下五年五月癸亥散位從四位下大伴宿禰御依卒
 
552 吾君者和氣乎波死常念可毛相夜不相夜二走良武《アカキミハワケヲハシネトオモヘカモアフヨアハヌヨフタユキヌラム》
 
和氣は賤(キ)者《モノ》の稱《イヒ》にて奴《ヤツコ》と云か如し此《コヽ》は身つから賤しめたるなるか故に彼(レ)を崇《アカ》めて吾妹子と云へきを吾君とは云るなり下【新考十三の】に黒樹取草毛刈乍仕目利勤和氣登將譽十方不在《クロキトリカヤモカリツヽツカヘメトイソシキワケトホメムトモアラス》八に紀女郎贈2家持1歌二首 戯奴《ワケ》【變云2和氣1】之爲吾手母須麻爾春野爾拔流茅花曾御食而肥座《カタメアカテモスマニハルノヌニヌケルツハナソメシテコエマセ》 晝者咲 夜者戀宿合歡木花君耳將見哉和氣佐倍爾見代《ヒルハサキヨルハコヒヌルネムノハナキミノミミムヤワケサヘサヘニミヨ》 右折2攀合歡花并茅花1贈也 家持贈和歌二首 吾君爾戯奴者戀良思給有茅花乎雖喫彌痩爾夜須《アカキミニワケハコフラシタマヒタルツハナヲクヘトイヤヤセニヤス》 吾妹子之云々○念《オモヘ》可毛 念へは歟もなり
 
丹生女王贈2大宰帥大伴卿1歌二首
 
聖武紀に天平十一年正月丙午從四位下丹生女王授2從四位上1孝謙紀に天平勝寶二年八月庚申叙2正四位上1この二首は宰府に贈られたるなり
 
553 天雲乃遠隔乃極遠鷄跡裳情志行者戀流物可聞《アマクモノソクヘノキハミトホケトモコヽロシユケハコフルモノカモ》
 
(289)宰府の旅人卿より贈られたる歌有て其詞に遠放り戀しきよしあるその和《コタヘ》なるへし
 
554 古人乃令食有吉備能酒痛者爲便無貫簀賜牟《イニシヘヒトノヲサセルキヒノサケヤメハスヘナシヌキスタハラム》
 
古(ヘノ)人とは旅人卿をさす故《フル》く知る人のよしなり令食有《ヲサセル》は所《ル》v令《セ》v飲《ヲサ》なり吉備能酒は備《キヒノ》國の酒なり當時《ソノカミ》備《キヒ》より名《ヨキ》酒もや出たりけむ貫簀《ヌキス》は盥《タラヒノ》上に置て水を貫《ヌ》く簀なりそは水を散らさぬ料《タメ》の物なり此《コヽ》は酒に醉病《ヱヒヤミ》て嘔吐《タクリ》せむ時《ヲリ》の料なりさて此《コ》は宰府の旅人卿より備《キヒノ》國の酒を贈られたるその報《コタヘ》にして二首なから戯(レ)なり八に丹生女王贈2大宰帥大伴卿1歌一首|高圓之秋野上乃瞿麦之花丁壯香見人之挿頭帥瞿麦之花《タカマトノアキヌノウヘノナテシコノハナウラワカミヒトノカサシシナテシコノハナ》この歌に依(ル)に當初《ソノカミ》わかゝりし時《ヲリ》に徒《タヽ》ならぬ中なりしにこそ
 
太宰帥大伴卿贈3大貳丹比縣守卿遷2任民部卿1歌一首
 
文武紀に慶雲二年十二月癸酉從六位上多治比眞人縣守授2從五位下1元明紀に和銅四年四月壬午叙2從五位上1元正紀に靈龜元年正月癸巳從四位下【超叙】五月壬寅任2造宮卿1二年八月癸亥爲2遣唐押使1養老元年三月巳酉遺唐押使多治比眞人縣守賜2節刀1二年十月庚辰大宰府言遣唐使多治比眞人縣守來歸十二月壬申多治比眞人縣守等自2唐已1至甲戊進2節刀1三年正月壬寅正四位下【超叙】七月庚子始置2按察使1令d武藏國守正四位下多治比眞人縣守管c相模上野下野三國u四年九月丁丑陸奧國奏言蝦夷反亂殺2按察使正五位上上毛野朝臣廣人1戊寅以2播磨按察使正四位下多治比眞人縣守1爲2持節征夷將軍1即日授2節刀1五年正月壬子正四位上四月乙酉征夷將軍多治比眞人縣守等還歸六月辛丑任2中務卿1聖武紀に天平元年二月壬申以2大宰大貳多治比眞人縣守1權《カリニ》爲2參議1大貳に任《ナリ》しは紀に所見《ミエ》す三月甲午叙2從三位1三年八月丁亥拜2參議1十一月丁卯始置2諸道鎭撫使1以2從三位多治比眞人縣守1爲2山陽道鎭撫使1四年正月甲子拜2中納言1八月丁亥爲2山陰道節度使1六年正月己卯叙2正三位1九年六月丙寅中納言正三位多治比眞人縣守薨左大臣正二位島之子也本文大貳より民部卿に遷りしことは紀には旡し公卿補任に年七十と有
 
555 爲君釀之待酒安野爾獨哉將飲友無二思手《キミカタメカモシマチサケヤスノヌニヒトリヤノマムトモナシニシテ》
 
(290)待酒《マチサケ》は來《ク》へき人の料《タメ》に釀《ツク》りて待《マツ》を云る名なり十六にもあり古事記【中卷※[言+可]志比宮段】にも見ゆ玉の小琴(ニ)云(ク)安野《ヤスノ》は宰府(ノ)東南に田四三《タシサウ》村島村鷹場村三村の間に方一里の野あり是なり今は七板原と云と國人(ノ)説なり【以上】紀に縣守の大貳に任《ナリ》し年月は見えねと天平元年に長屋王謀反といへることいてきて其事にて二月壬甲以2大宰大貳正四位上多治比眞人縣守1權《カリニ》爲2參議1と有て三月甲午叙2從三位1とありかゝれは大貳に任《ナ》りいまた筑紫に下らぬ間《アヒタ》に民部卿に遷りて筑紫に下らすなりしなるべし故(レ)此歌にかくよまれしなるへし
 
賀茂女王贈2大伴宿禰三依1歌一首故左大臣長尾王女也
 
556 筑紫船未毛不來者豫荒振公乎見之悲左《ツクシフネイマタモコネハアラカシメアラフルキミヲミルカカナシサ》
 
不來者《コネハ》 不來《コヌ》になり三依筑紫船を待得て下らむとする間《ホト》の作《ウタ》なるへし彼《ソノ》船もいまた來らぬに豫《マタ》きに吾(レ)に遠放《トホサカ》る公《キミ》を見るか悲しさとなり疎《アラ》ふるは離れ去《イヌ》るなり二に島宮池上有放鳥荒備勿行君不座十方
 
土師《ハシノ》宿禰|水通《ミチ》從2筑紫1上京海路作歌二首
 
此人は紀に見えす作歌《ウタ》は五卷十六卷にも有
 
557 大船乎榜乃進爾磐爾觸覆者覆妹爾因而者《オホフネヲコキノスヽミニイハニフリカヘラハカヘレイモニヨリテハ》
 
一二句は戀のとゝまらぬ譬(ヘ)三四五句は身を戀に顧みさる譬(ヘ)
 
558 千磐破神之社爾我掛師幣者將賜妹爾不相國《チハヤフルカミノヤシロニワカカケシヌサハタハラムイモニアハナクニ》
 
返し賜はらむなりさて此二首|全《モハ》ら戀のみの歌なり
 
從2筑紫1上京海路作歌とは大船乎の歌詞よりふと取(リ)はつし誤り傳へたるにや
 
大宰大監大伴宿禰百代戀歌四首
 
此人上出【新考の】此四首は坂上郎女|同母兄《イロセ》旅人卿の許《モト》に宰府に在(ル)に贈れるなり宰府に在しことは六八(ノ)卷に見ゆ郎女(ノ)和歌は次にあり
 
559 事毛無生來之物乎老奈美爾如此戀乎毛吾者遇流香聞《コトモナクアリコシモノヲオイナミニカヽルコヒニモアレハアヘルカモ》
 
生來之《アリコシ》は生《ウマ》れ來《コ》しなり阿理は阿禮に同し老奈美は老次《オイナミ》にて老(イ)もてゆく年次《トシナミ》になり
 
560 孤悲死牟後者何爲牟生日之爲社妹乎欲見爲禮《コヒシナムノチハナニセムイケルヒノタメコソイモヲミマクホリスレ》
 
十一に戀死後何爲吾命生自社見幕欲爲禮
 
561 不念乎思當云者大野有三笠杜之神思知三《オモハヌヲオモフトイハヽオホヌナルミカサノモリノカミシシラサム》
 
和名抄に筑前國三笠郡大野郷あり玉の小琴(ニ)云(ク)大野は(291)三笠森の邊より東南の方四王子山の麓まてを凡て大野と云り大野山はその東の方にあり三笠(ノ)杜《モリ》は三笠郡にて博多より宰府へゆく道に雜餉隅《ザツシヨウノクマ》と稱《イヘ》る地《トコロ》あるそこより二町東北にあり今は昔の森の楠二株のこれりと國人の説なり○神思知三《カミシシラサム》 知《リ》り賜ふらむなり十二に不想乎想當云者眞鳥住卯名手乃杜之神思|將御知《シラサム》
 
562 無暇人之眉根乎徒令掻乍不相妹可聞《イトマナクヒトノマヨネヲイタツラニカヽシメナカラアハヌイモカモ》
 
人に戀(ヒ)らるれは眉の痒《カユ》きと云る諺有てなり十二に五十殿寸弖薄寸眉根乎徒令掻管不相人可聞《イトノキテウスキマヨネヲイタツラニカヽシメナカラアハヌヒトカモ》
 
大伴坂上郎女歌二首
 
右の和《コタヘ》なり
 
563 黒髪二白髪交至耆如是有戀庭未相爾《クロカミニシロカミマシリオイマテニカヽルコヒニハイマタフハナクニ》
 
上の事毛無生來之物乎老奈美爾如此戀于毛吾者遇流香聞《コトモナクアリコシモノヲオイナミニカヽルコヒニモアレハアヘルカモ》に和《コタ》へて黒髪二白髪交《クロカミニシロカミマシリ》はわか若からぬを甚《イミ》しく云る戯(レ)如是有戀庭未相爾《カヽルコヒニハイマタハナクニ》は宜《ウヘ》のたまへることくかゝる虚言《ソラコト》の戀には己(レ)もいまた不|逢《アハ》ぬなりとなり
 
564 山菅乃實不成事乎吾爾所依音禮師君者與孰可宿艮牟《ヤマスケノミナラヌコトヲワレニヨセイハレシキミハタレトカヌラム》
 
和名抄に麦問冬夜末須介とあり子《ミ》の生《ナ》るものなれは成《ナル》まてにかゝれり【不《ヌ》にはあつからす】己(レ)と虚名《ナキナ》をたてられし君|實《マコト》には誰にか逢たまふらむなり
 
加茂女王歌一首
 
565 大伴乃見津跡者不云赤根指照有月夜爾直相在登聞《オホトモノミツトハイハシアカネサシテレルツクヨニタヽニアヘリトモ》
 
大伴乃 御津の意の枕詞
 
大宰大監大伴宿禰百代等贈2驛使《ハユマツカヒ》1歌二首
 
566 草枕覊行君乎愛見副而曾來四鹿乃濱邊乎《クサマクラタヒユクキミヲウルハシミタクヒテソコシシカノハマヘヲ》
 
鹿は筑前國糟屋郡【今は那珂郡に屬《ツキ》たり】
 
右一首大監大伴宿禰百代
 
567 周防在磐國山乎將超日者手向好爲與荒其道《スハウナルイハクニヤヤヲコエムヒハタムケヨクセヨアラキソノミチ》
 
磐國は玖珂郡
 
右一首少典山口忌寸若麻呂
 
此人考へき物莫し
 
以2肯天平二年庚午夏六月1帥大伴卿忽生2瘡(ヲ)脚(ニ)1疾苦2枕席1因v此馳v驛上奏望2請庶弟|稻公《イナキ》姪|胡《コ》麻呂1歡v語2遺言1者《テヘリ》勅2右兵庫助大伴宿禰稱公治部少丞大伴宿禰胡麻呂兩人1給v驛發遣令v看2卿病1而※[しんにょう+至]2敷旬1幸得2平復1于v時稻公等以2病既療1發v府上京於v是大監大伴宿禰百代少典山(292)口忌寸若麻呂及卿男家持等相2送驛使1共到2夷守驛家《ヒナモリウマヤニ》1聊飲悲v別乃作2此歌1
 
稻公 伊奈伎と訓へきにや聖武紀に天平十三年十二月癸亥從五位下大伴宿禰稱君任2因幡守1孝謙紀に天平十五年五月癸卯叙2從五位上1天辛勝寶元年四月甲午正五位下八月辛未兵部大輔六年四月庚午上總守天平寶字元年五月丁卯正五位上八月庚辰從四位下二年二月己巳(ノ)條に大和國守とあり又早く衛門大尉なりしよし此集八(ノ)卷に所見《ミエ》たり○胡《コ》麻呂 胡《コノ》國人は武きよしを取れる名にて蝦夷《エミシ》なとの名の例なり聖武紀に天平十七年正月乙丑正六位上大伴宿禰古麻呂授2從五位下1天平勝寶元年八月辛未任2左少辨1二年九月己酉爲2遣唐副使1三年正月己酉從五位上四年閏三月丙辰給2節刀1仍叙2從四位上1六年正月壬子來歸唐僧鑒眞法進寺八人隨而來朝四月庚午任2左大辨1壬申正四位下天平寶字元年六月壬辰兼2任陸奧鎭守將單並陸奧按察使1七月庚戌橘奈良麻呂の事に連坐《カヽ》りて※[木+孝]椋窮問杖下死
 ○夷守《ヒナモリ》 景行紀【十八年三月】に見ゆ國人に問へし
 
大宰帥大伴卿被v任2大納言1臨2入京之時1府(ノ)官人等餞2卿《ヲ》筑前國|蘆城驛家《アシキノウマヤニ》1歌四首
 
仙覺抄三(ノ)卷奧書に天平二年十月一日任2大納言1とあり紀に見えす芦城は上 に見ゆ、
 
568 三崎廻之荒磯爾縁五百重浪立毛居毛我念流吉美《ミサキマノアリソニヨスルイホヘナミタチテモヰテモアカモヘルキミ》
 
三埼 地名にはあらす
 
右一首筑前掾門部連|右《イソ》足
 
此人|詳《サタカ》ならす五(ノ)卷にも作歌《ウタ》あり
 
569 辛人之衣染云紫之情爾染而所念鴨《カラヒトノコロモソムトイフムラサキノコヽロニシミテオモホユルカモ》
 
辛《カラ》人は文《アヤ》人なり文《アヤ》と辛《カラ》とは音《コエ》近く通へり故《カレ》漢を加羅
 
とも阿夜とも云り應神紀に漢衣縫《アヤノキヌヌヒ》を蚊屋衣縫《カヤノキヌヌヒ》とも漢織《アヤハトリ》を穴織《アナハトリ》ともあり是(レ)等《ラ》も音通へり故(レ)辛人《カラヒト》は文人《アヤヒト》にて文人《アヤヒト》は文服織《アヤハトリ》なりさて色は紫も何も染て文服《アヤハタ》にも織 るなれはかく云るにて十六に紫之大綾之|衣《コロモ》ともあるなり
 
570 山跡邊君之立目乃近付者野立鹿毛動而曾鳴《ヤマトヘニキミカタツヒノチカツケハヌニタツシカモトヨミテソナク》
 
鹿毛《シカモ》は人のみならすなり泣(ク)は別(レ)を悲しみてなり一首(293)の工《タクミ》は山と野と兩方《フタカタ》に立(ツ)と云るところなり
 
右二首大典|麻田《アサタノ》連|陽春《ヤス》
 
聖武紀に神龜元年五月辛未正八位上|答本《タホノ》陽春賜2姓麻田連1天平十一年正月丙午正六位上麻田連陽春授外從五位下五位以下の加階は記(ル)されぬ史(ノ)例なり懷風藻に外從五位下石見守年五十六とあり石見守紀に所見《ミエ》す五(ノ)卷にも作歌《ウタ》あり
 
571 月夜吉河音清之率此間行毛不去毛遊而將歸《ツクヨヨシカハノトキヨシイサコヽニユクモユカヌモアソヒテユカナ》
 
右一首防人佐大伴四綱
 
此人上出【新考 の】
 
大宰帥大伴卿上京之後沙彌滿誓贈v卿歌二首
 
滿誓は造筑紫觀世音寺別當
 
572 眞十鏡見不飽君爾所贈哉旦夕爾左備乍將居《マソカヽミミアカヌキミニオクレテヤアシタユウヘニサヒツヽヲラム》
 
眞十《マソ》は眞澄《マスミ》なり見《ミ》の枕詞左備は不樂《サヒ》なり鏡の闇《サヒ》を兼《カケ》たり
 
573 野干玉之黒髪變白髪手裳痛戀庭相時有來《ヌハタマノクロカミカハリシラケテモイタキコヒニハアフトキアリケリ》
 
白髪手裳《シラケテモ》 白髪《シラカ》してもなり
 
大納言大伴卿和歌二首
 
574 此間在而筑紫也何處白雲乃棚引山之方西有良思《ココニアリテツクシヤイツクシラクモノタナヒクヤマノカタニシアルラシ》
 
575 草香江之入江二求食蘆鶴乃痛多豆多頭思友無二指天《クサカエノイリエニアサルアシタツノアナタツタツシトモナシニシテ》
 
草香 河内國河内郡|求食《アサル》は足探《アサクル》多豆多豆之は手取手取《タトタト》しにて便(リ)無きなり鶴の友無(キ)に比《タト》へたり
 
大宰帥大伴卿上京之後筑後守|葛《フチ》井連大成悲嘆作歌二首
 
聖武紀に神龜五年五月丙辰正六位上葛井連大成授2外從五位下1とあり五六九卷にも作歌《ウタ》あり
 
576 從今者城山道者不樂牟吾將通常念之物乎《イマヨリハキノヤマミチハサフシケムアカカヨハムトオモヒシモノヲ》
 
玉の小琴(ニ)云(ク)城(ノ)山は三笠郡なり宰村の坤方に山口村と云ありその南なる高山なり宰府より筑紫に通ふ道なりと國人の説なり【以上】八(ノ)卷の註に登2記夷《キノ》城1十(ノ)》卷歌に大城(ノ)山と有て註に謂《イハユル》大城者在2筑前國御笠郡大野山頂1號曰2大城1者也とあり此(レ)等《ラ》に依(ル)に當時《ソノカミ》城《キ》を構《ツク》りて防《モ》りけるなるへし城《キ》は柵《カキ》なとしめくらして防《モ》る處を稱《イヘ》る名なり
 
大納言大伴卿新袍贈2攝津大夫高安王1歌一首
 
元明紀に和銅六年正月丁亥旡位高安王授2從五位下1 (294)元正紀に養老元年正月乙巳叙2從五位上1三年七月庚子始置2按察使1命d伊豫國守從五位上高安王管c阿波讃岐土佐三國u伊與に任《ナリ》しは紀に莫くて此集十二卷の註に右一首云々首聞紀皇女【天武皇女】竊嫁2高安王1被v責之時御2作此歌1但高安王左降任2之伊與國守1也とあり五年正月壬子正五位下聖武紀に神龜元年二月王子正五位上四年正月庚子從四位下天平四年十月丁亥任2衛門督1九年九月己亥從四位上十一年夏四月甲子賜2大原眞人姓1十二年十一月甲辰正四位下十四年十月庚寅正四位下大原眞人高安卒とあり攝津大夫紀に見えす
 
577 吾衣人莫著曾網引爲難波壯士乃手爾者雖觸《アカコロモヒトニナキセソアヒキスルナニハヲトコノテニハフルトモ》
 
難波壯士《ナニハオトコ》 攝津大夫を戯れてなり
 
(295)萬葉集新考 十二
 
大伴宿禰三依悲v別歌一首
 
578 天地與共久住波牟等念而有師家之庭羽裳《アメツチトトモニヒサシクスマハムトオモヒテアリシイヘノニハハモ》
 
大宰の任竟りて發《イテタ》つ時《ヲリ》の作《ウタ》なるへし實《マコト》の屋所《ヤト》ならねとも久しく住(ミ)馴(レ)たれはなり
 
余明軍《ヨノミヤユウクム》與2大伴宿禰家持1歌二首
 
明軍者大納言卿之資人也
 
579 奉見而未時太爾不更者如年月所念君《ミマツリテイマタトキタニカハラネハトシツキノコトオモホユルキミ》
 
580 足引乃山爾生有菅根乃懃心見卷欲君可聞《アシヒキノヤマニオヒケルスカノネノネムコロミマクホシキキミカモ》
 
菅根《スカノネ》の根《ネ》も凝《コロ》とつゝけたり
 
大伴坂上家之大娘報2贈大伴宿禰家持1歌四首
 
581 生而有者見卷毛不知何如毛將死與妹常夢所見鶴《イキテアラハマミクモシラニナニシカモシナムヨイモトイメニミエツル》
 
582 丈夫毛如此戀家流乎幼婦之戀情爾比有目八方《マスラヲモカクコヒケルヲタワヤメノコヒノコヽロニタクヘラメヤモ》
 
583 月草之徙安久念可母我念人之事毛告不來《ツキクサノウツロヒヤスクオモヘカモアカオモフヒトノコトモツケコヌ》
 
冠辭考(ニ)云(ク)和名抄に鴨頭草都岐久佐衣を摺《スル》に色の附易《ツキヤス》けれは附草《ツキクサ》の意なるへし今|露草《ツユクサ》と稱《イヒ》て濃《コキ》縹色《ハナタイロ》の花なり都岐を都伊と音便にいひ【朔《ツキタチ》を都伊多智乃例】さて都由と訛《ヨコナマ》れるなるへし○念《オモヘ》可毛 念へは歟もなり○事毛|告不來《ツケコヌ》 言傳《コトツテ》も無(キ)なり
 
584 春日山朝立雲之不居日無見卷之欲寸君毛有鴨《カスカヤヤアサタツクモノヰヌヒナクミマクノホシキキミニモアルカモ》
 
雲は毎日《ヒコト》に立(チ)居《ヰ》るものなれは一日《ヒトヒ》も間《ヒマ》無きにたとへたり
 
大伴坂上郎女歌一首
 
585 出而將去時之波將有乎故妻戀爲乍立而可去哉《イテテイナムトキシハアラムヲコトサラニツマコヒシツヽタチテイヌヘシヤ》
 
大伴宿禰稻公贈2田村大孃1歌一首 大伴宿奈麻呂卿女也
 
稻公は旅人卿坂上郎女(ノ)庶弟
 
586 不相見者不戀有益乎妹乎見而本名如此耳戀者奈何將爲《アヒミスハコヒサラマシヲイモヲミテモトナカクノミコヒハイカニセム》
 
右一首姉坂上郎女作
 
一首は1云乃誤(リ)郎女は稻公の異母姉《マヽアネ》
 
笠女郎贈2大件宿禰家持1歌廿四首
 
女郎上出【新考五の】
 
587 吾形見見管之努渡世荒珠年之緒長吾毛將思《アカカタミミツヽシヌハセアラタマノトシノヲナカクアレモオモハム》
 
588 白鳥能飛羽山松之待乍曾吾戀度此月比乎《シラトリノトハヤママツノマチツヽソアカコヒワタルコノツキコロヲ》
 
冠辭考(ニ)云(ク)白鳥の飛《トハ》とつゝけたるなり羽には關《アツカ》らす飛羽《トハ》は大和地名なるへし
 
(296)589 衣手乎打廻乃里爾有吾乎不知爾人者待跡不來家留《コロモテヲヲリタムサトニアルワレヲシラニソヒトハマテトコスケル》
 
玉乃小琴(ニ)云(ク)打は折の誤(リ)にて折廻里《ヲリタムサト》なりしを誤字の隨《マヽ》にウチワノサトと訓(メ)る故《カラ》に又乃(ノ)字をも後に加《ソヘ》たるなるへし十一に神名火(ノ)打廻前と有(ル)も同しく折廻前《ヲリタムサキ》にて折り曲れる處を稱《イ》ふなるへしさて衣手を折廻里《ヲリタムサト》とは※[月+尤]《ヒチ》折り曲れは即《ヤカテ》到る近き里のよしなり【以上】八に明日香河逝|回《タム》岳之十一に崗前多未足道乎《ヲカノサキタミタルミチヲ》○不來《コス》家留 來《コ》ざりけるなり
 
590 荒玉年之經去者今師波登勤與吾背子吾名告爲莫《アラタマノトシノヘヌレハイマシハトユメヨアセコアカナノラスナ》
 
今師波登 師は助辭年經たる中なれは今はよしとおこたりてなり
 
591 吾念乎人爾令知哉玉匣開阿氣津跡夢西所見《アカオモヒヲヒトニシラスレヤタマクシケヒラキアケツトイメニシミユル》
 
592 闇夜爾嶋奈流鶴之外耳聞乍可將有相跡羽奈之爾《ヤミノヨニナクナルタツノヨソノミニキヽツヽカアラムアフトハナシニ》
 
闇《ヤミ》なれば形(チ)を見す外《ヨソ》耳《ノミ》に聞くなり
 
593 君爾戀痛毛爲便無見楢山之小松下爾立嘆鶴《キミニコヒイタモスヘナミナラヤマノコマツカモトニタチナケキツル》
 
小松(カ)下《モト》に待(チ)不得《カネ》てなり
 
594 吾屋戸之暮陰草乃白露之消蟹本名所念鴨《アカヤトノユフカケクサノシラツユノケヌカニモトナオモホユルカモ》
 
屋戸《ヤト》は屋所《ヤト》暮陰草《ユフカケクサ》は蔭草《カケクサ》を日の碁影《ユフカケ》に兼《カケ》たるなり蔭草は繋茂《シケ》り蔭ろふを云|消蟹《ケヌカニ》は消《ケ》ぬる豫《カネ》にて未然《ユクサキ》を云
 
595 吾命之將全牟限忘目八彌日異者念益十方《アカイノチノマタケムカキリワスレメヤイヤヒニケニハオモヒマストモ》
 
596 八百日往濱之沙毛吾戀二豈不益歟奧島守《ヤホカユクハマノマサコモアカコヒニアニマサラシカオキツシマモリ》
 
597 宇都蝉之人目乎繁見石走間近君爾戀度可聞《ウツセミノヒトメヲシケミイハハシノマチカキキミニコヒワタルカモ》
 
石走《イハハシ》は石橋《イハハシ》石《イハ》を河中に並(ラ)へて飛(ヒ)々《/\》に渡るを云|石《イハ》と石《イハ》との間近きよしの枕詞
 
598 戀爾毛曾人者死爲水瀬河下從吾痩月日異《コヒニモソヒトハシニスルミナセカハシタユワレヤスツキニヒニケニ》
 
玉勝間(ニ)【櫻の落葉】云(ク)古(ヘ)にみなせ川と云しは一(ツ)の川(ノ)名にはあらすいつれにまれ水のなき川といふことにてあるは砂の下を水は通りてうはへに水なき川をも云り万葉四に戀にもそ人はしにする水無瀬川|下《シタ》ゆわれ痩《ヤス》月に日にけに十一にこちたくは中はよとませ水無《ミナシ》河たゆといふことをありこすなゆめ又うらふれてものはおもはし水無瀬川有ても水はゆくとふものを古今集戀二にことにいてゝいはぬはかりそみなせ川|下《シタ》にかよひて戀しきものを戀五にあひみねはこひこそまされ水無瀬川なにゝふかめて思ひそめけむ又みなせ川有てゆく水なくはこそつひに我身をたえぬと思はめなとある皆其意なり又万葉十に久方の天《アメ》のしるしと水無《ミナシ》河へたてゝおきし神代し(297)うらめしこれは天(ノ)河を云るにてまさしく水のなきよしなり然るに右の歌ともを皆かの山崎のあなたなる水無瀬川と心得たるはひかことなり山崎のあなたなるは古(ヘ)は山崎川とも立田川ともいへりしこと上(ノ)件(リ)【今こゝには省(ケ)り】にはへるかことくにてみなせ川といふは古今集なとのころよりは後の名なりそは類聚國史に延暦弘仁のころ天皇水成《ミナシ》野に遊獵有しことたひ/\みえて水成《ミナシ》村ともありすなはち今の水無瀬なり然れは此地(ノ)名によりて後にかの川の名にもなりぬるなりけりさて水成と書るはみなしとよむへきなり万葉に水無河と書るも然よむへし成無なとはなせとはよみかたけれはなりされとかの地(ノ)名も又川にいへるもともに古(ヘ)よりみなしともみなせとも通はしいへりと聞えたり
 
599 朝霧之欝相見之人故爾命可死戀渡鴨《アサキリノオホニアヒミシヒトユヱニイノチシヌヘクコヒワタルカモ》
 
600 伊勢海之礒毛動爾因流浪恐人爾戀渡鴨《イセノウミノイソモトヽロニヨスルナミカシコキヒトニコヒワタルカモ》
 
嫉妬《ネタ》まれて恐《カシコ》きなり
 
601 從情毛吾者不念寸山河毛隔莫國如是戀常羽《コヽロユモアハモハサリキヤマカハニヘタヽラナクニカクコヒムトハ》
 
602 暮去者物念益見之人乃言問爲形面景爲而《ユフサレハモノオモヒマサルミシヒトノコトトフスカタオモカケニシテ》
 
603 念西死爲物爾有麻世波千遍曾吾者死變益《オモフニシシニスルモノニアラマセハチタヒソアレハシニカヘラマシ》
 
604 劍太刀身爾取副常夢見津何如之怪曾毛君爾相爲《ツルキタチミニトリソフトイメニミツナニノシルシソモキミニアハムタメ》
 
605 天地之神理無者社吾念君爾不相死爲目《アメツチノカミシコトハリナクハコソアカオモフキミニアハスシニセメ》
 
606 吾毛念人毛莫忘《ワレモオモフヒトモナワスレ》多奈和丹|浦吹風之止時無有《ウラフクカセノヤムトキナカレ》
 
多奈和丹 誤字あるへしいまた思ひ得す
 
607 皆人乎宿與殿金者打奈禮杼君乎之念者寐不勝鴨《ミナヒトヲネヨトノカネハウツナレトキミヲシオモヘハイネカテヌカモ》
 
宿與殿金《ネヨトノカネ》 天武紀【十二年】に人定《ヰノトキ》○不勝《カテヌ》は難矣《カテヌ》
 
608 不相念人乎思者大寺之餓鬼之後爾額衝如《アヒオモハヌヒトヲオモフハオホテラノカキノシリヘニヌカツクカコト》
 
佛に向ひて禮拜《ヌカツ》きなは利益もあらまし餓鬼の且《ソノウヘ》後《シリヘ》に拜《ヌカツ》きなむは益《シルシ》無きなり契冲云いにしへ慳貪の惡報を視《シメ》さむ爲に伽藍に餓鬼を造り置るなるへし十六に寺寺之|女《メ》餓鬼|申久《マウサク》云々とも有【以上】餓鬼に垣《カキ》を兼(ヌ)
 
609 從情毛我者不念寸又更吾故郷爾將還來者《コヽロユモアハモハサリキマタサラニアカフルサトニカヘリコムトハ》
 
610 近有者雖不見在乎彌遠君之伊座者有不勝自《チカクアレハミネトモアルヲイヤトホニキミカイマサハアリカツマシモ》
 
遠江國人栗田高伴云自は目の誤(リ)ならてノの畫の加《ソハ》れる體《カキサマ》なるへし※[鬼の一画目なし]鬼※[卑の一画目なし]卑なとの例なり集中に多し
 
右二首相別後更來贈
 
(298)大伴宿禰家持和歌二首
 
右二首(ノ)和(ヘ)なり
 
611 今更妹爾將相八跡念可聞幾許吾胸欝悒將有《イマサラニイモニアハメヤトオモヘカモコヽタアカムネイフカシカラム》
 
612 中々爾黙毛有益呼何爲跡香相見始兼不遂爾《ナカ/\ニモタモアラマシヲナニストカアヒミソメケムトケサラナクニ》
 
不遂爾《トケサラナクニ》 とけさるになり奈久に意旡し
 
山口女王贈2大伴宿禰家持1歌五首
 
此王|詳《サタカ》ならす八(ノ)卷にも作歌《ウタ》あり
 
613 物念跡人爾不見常奈麻強常念弊利在曾金津流《モノオモフトヒトニミエシトナマシヒニツネニオモヘリアリソカネツル》
 
614 不相念人乎也本名白細之袖漬左右二哭耳四泣裳《アヒオモハヌヒトヲヤモトナシロタヘノソテヒツマテニネノミシナクモ》
 
615 吾背子者不相念跡裳敷細乃君之枕者夢爾見乞《ワカセコハアヒオモハストモシキタヘノキミカマクラハイメニミエコソ》
 
乞《コソ》は願(ヒノ)辭
 
616 劍太刀名惜雲吾者無君爾不相而年之經去禮者《ツルキタチナノヲシケクモアレハナシキミニアハステトシノヘヌレハ》
 
冠辭考(ニ)云(ク)聚雲《ムラクモ》草薙《クサナキ》なと命《ナツク》る物なれはなり十二に本は同しくて比來之間戀之繁爾《コノコロノマノコヒノシケキニ》
 
617 從蘆邊滿來鹽乃彌益荷念歟君之忘金鶴《アシヘヨリミチクルシホノイヤマシニオモヘカキミカワスレカネツル》
 
四(ノ)句吾(カ)念へはか君をの意なり
 
大神《オホミワノ》女郎贈2大伴宿禰家持1歌一首
 
女郎|詳《サタカ》ならす
 
618 狹夜中爾友喚千鳥物念跡和備居時二鳴乍本名《サヨナカニトモヨフチトリモノオモフトワヒヲルトキニナキツヽモトナ》
 
大伴坂上郎女怨恨歌一首并短歌
 
大伴宿奈麻呂卿に怨恨《ウラミ》の作《ウタ》なるへし此卿との間《アハヒ》に田村坂上|二娘子《フタヲトメ》も所生《ウマ》るゝ中なりし故に事に所觸《フレ》て怨恨《ウラミ》も有しなるへしさる情《コヽロ》はへの歌ときこゆ三に坂上郎女祭神歌あり夫婦《イモセ》のことを祈れるときこゆ相(ヒ)照(ラ)して證《アキ》らむへし
 
619 押照難波乃管之根毛許呂爾君之聞四乎年深長四云者眞十鏡磨師情乎縱手師其日之極浪之共靡珠藻乃云云意者不持大船乃憑有時丹千磐破神哉將離空蝉乃人歟禁良武通爲君毛不來座玉梓之使母不所見成奴禮婆痛毛爲便無三夜干玉乃夜者須我良爾赤羅引日母至闇嘆知師乎無三雖念田付乎白二幼婦當言雲知久手小童之哭耳泣管俳※[人偏+回]君之使乎待八兼手六《オシテルナニハノスケノネモコロニキミカキコシテトシフカクナカクシイヘハマソカヽミトキシコヽロヲユルシテシソノヒノキハミナミノムタナヒクタマモノカニカクニコヽロハモタスオホフネノタノメルトキニチハヤフルカミヤサクラムウツセミノヒトカサフラムカヨハシヽキミモキマサスタマツサノツカヒモミエスナリヌレハイタモスヘナミヌハタマノヨルハスカラニアカラヒクヒモクルヽマテナケヽトモシルシヲナミオモヘトモタツキヲシラニタワヤメトイハクモシルクタワラハノネノミナキツヽタモトホリキミカツカヒヲマチヤカネテム》
 
君之聞四乎《カキコシテ》 乎は手の誤(リ)聞四手《キコシテ》はのたまひてなり十二に淺茅原小野爾|標結空言毛將相跡令聞戀之名種爾《シメユフソラコトモアハムトキコセコヒノナクサニ》令聞《キコセ》はのたまへなり十三に母寸巨勢友《ハヽキコセトモ》のたまへともなり○年深長四云者 年深(ク)は年來《トシコロ》なり長四云者《ナカクシイヘハ》は行末長くな(299)り○手小童《タワラハ》 父母《オヤ》の手を離れぬなり手兒《テコ》とも有(リ)○俳※[人偏+回]個《タモトホリ》 多《タ》は發語
 
反歌
 
620 從元長謂管不令恃者如是念二相益物歟《ハシメヨリナカクイヒツヽタノメスハカヽルオモヒニアハマシモノカ》
 
長《ナカク》は行末長くなり
 
西海道節度使判官|佐伯《サヘキノ》宿禰|東人《アツマトノ》妻贈2夫君1歌一首
 
聖武紀に天平四年八月丁酉西海遺節度使判官佐伯宿禰東人授2外從五位下1
 
621 無間戀爾可有牟草枕客有公之夢爾之所見《アヒタナクコフレニカアラムクサマクラタヒナルキミカイメニシミユル》
 
戀れはにかなり
 
佐伯宿禰東人和歌一首
 
622 草枕客爾久成宿者汝乎社念莫戀吾妹《クサマラタヒニヒサシクナリヌレハナヲコソオモヘナコヒソワキモ》
 
池邊王宴誦歌一首
 
葛野王(ノ)子にて大友皇子(ノ)孫なり淡海眞人三船には父なり聖武紀に神龜四年正月庚子旡位池邊王授2從五位下1天平九年十二月壬戌任2内匠頭1
 
623 松之葉爾月者由移去黄葉乃過哉君之不相夜多焉《マツノハニツキハユツリヌモミチハノスキヌヤキミカアハヌヨオホミ》
 
由移去《ユツリヌ》 移去《ウツリヌ》なり十一に烏玉乃夜渡月之|湯移去者《ユツリナハ》十四に等伎由都利奈波○黄葉乃 過《スクル》の枕詞上(ニ)出(ツ)【新考四の】○過哉《スキヌヤ》 過ぬにて截(ル)へし哉は歎《ナケキノ》聲○一首の意は往者《サキ》には彼處《カシコ》にさしたる月の今者《イマ》松(ノ)葉に移りてさすを見れは不逢《アハ》ぬ夜の多く過(キ)去る哉《カナ》なり盖《モシ》くは往者《サキ》には黄葉にさしたるなるにや
 
天皇思2酒人女王1 御製歌一首 女皇者穗積 皇子之孫女也
 
聖武天皇なり
 
624 道相而咲之柄爾零雪乃消者消香二戀云吾妹《ミチニアヒテヱマシヽカラニフルユキノケナハケヌカニコヒオモフワキモ》
 
消香二《ケヌカニ》 香二は豫《カネ》なり未然《ユクサキ》を云○云は念の誤(リ)
 
高安王|※[果/衣]鮒《ツトノフナヲ》贈2娘子1歌一首 高安王後賜2姓大原眞人氏1也
 
此王上(ニ)出(ツ)
 
625 奧幣往邊去伊麻夜爲妹吾漁有藻臥束鮒《オキヘユキヘニユキイマヤイモカタメアカスナドレルモフシツカフナ》
 
八代《ヤシロノ》女王獻2天皇1歌一首
 
聖武天皇なり聖武紀に天平九年二月戊午旡位矢代王授2正五位下1淡路天皇紀に天平寶字二年十二月丙午毀2從四位下矢代女王位記1以d被v幸2先帝1而改uv志(300)也
 
626 君爾因言之繁乎古郷之明日香乃河爾潔身爲爾去《キミニヨリコトノシケキヲフルサトノアスカノカハニミソキシニユク》
 
一尾云龍田超三津之濱邊爾潔身四二由久
 
娘子報2贈佐伯宿禰赤麻呂1歌一首
 
此(ノ)贈和《ヨミカハシ》三(ノ)卷にも有(リ)【新考の】
 
627 吾手本將卷跡念牟丈夫者戀水定白髪生二有《ワカタモトマカムトオモハムマスラヲハナミタニシツミシラカオヒニタリ》
 
三一二と句をついでて心得へし
 
佐伯宿禰赤麻呂和謌一首
 
628 白髪生流事者不念戀水者鹿※[者/火]藻闕二毛求而將行《シラカオフルコトハオモハスナミタヲハカニモカクニモモトメテユカム》
 
大伴四綱宴席歌一首
 
629 奈何鹿使之來流君乎社左右裳得難爲禮《ナニストカツカヒノキツルキミヲコソカニモカクニモマチカテニスレ》
 
待(チ)かねなり
 
佐伯宿禰赤麻呂歌一首
 
630 初花之可散物乎人事乃繋爾因而止息比者鴨《ハツハナノチルヘキモノヲヒトコトノシケキニヨリテヨトムコロカモ》
 
事《コト》は言《コト》花やかに身を捨ても逢へきものを云々なり
 
湯原王贈2娘子1歌三首 志貴皇子之子也
 
志貴皇子は天智天皇(ノ)皇子なり
 
631 宇波弊無物可聞人者然許遠家路乎令還念者《ウハヘナキモノカモヒトハシカハカリトホキイヘチヲカヘスオモヘハ》
宇波弊無 比詞いまた思ひ得す下に得羽重無《ウハヘナキ》妹二毛有鴨如此許人(ノ)情乎令盡念者《コヽロヲツクスオモヘハ》
 
632 目二破見而手二破不所取月内之楓如妹乎奈何責《メニハミテテニハトラレヌツキノウチノカツラノコトキイモヲイカニセム》
 
河海抄【十一】蘭《フチハカマノ》卷に引たる兼名苑に月中有v河河水上有2桂樹1五百丈下有2一人1姓(ハ)呉名(ハ)剛父
 
「娘子報贈歌」
 
目録歌(ノ)下に二首と有(リ)
 
633 幾許思異目鴨敷細之枕片去夢所見來之《イカハカリオモヒケメカモシキタヘノマクラカタサルイメニミエコシ》
 
古事記傳【廿八の十八葉】に熱田縁起なる歌を解(キ)て云(ク)阿由知何多比加彌阿禰古波和例許牟止止許佐留良牟也阿波禮阿禰古乎いにしへ夫《ヲトコ》もたる婦人《ヲミナ》は獨(リ)宿《ヌ》るには夜床を半《ナカハ》避《サリ》て片寄りて寢《ヌ》るこれ夫《ヲトコ》の寢《ヌ》へき處を明(ケ)置(ク)なり萬葉十八に夜床加多左里とある是なり又四に枕片去夢所見來之と有も然り【以上】人の念へは此方《コナタ》の夢に見るなり
 
634 家二四手雖見不飽乎草枕客毛妻與有之乏左《イヘニシテミレトアカヌヲクサマクラタヒニモツマトアルカトモシサ》
 
二(ノ)句見ることの少《マレ》にして飽《キ》足らぬ乎《ヲ》なり四五(ノ)句世には客旅《タヒ》なれとも夫《ヅマ》と率《ヰ》てある人をうらやむなり
 
湯原王亦贈歌二首
(301)
 
635 草枕客者嬬者雖率有匣内之珠社所念《クサマクラタヒニハツマハヰタラメトクシケノウチノタマトコソオモヘ》
 
旅客《タヒヒト》の持《モタ》る匣《クシケノ》内の珠の如《コト》やむこと旡く妹をは念ふとなり匣《クシケ》は旅の調度珠も幣物《マヒモノ》に【今の金錢のことく】旅《タヒ》の必らす持《モタ》る物なれはなり
 
636 余衣形見爾奉布細之枕不離卷而左宿座《アカコロモカタミニマタスシキタヘノマクラカラサスマキテサネマセ》
 
此歌は娘子の枕片去(ル)の和(ヘ)にて然《サ》もあらはこの衣を余《ワレ》と思ひて枕《マキ》て寢たまへなり
 
娘子復報贈歌一首
 
637 吾背子之形見之衣嬬問爾余身者不離事不問友《アカセコカカタミノコロモツマトヒニアカミハカレシコトトハストモ》
 
嬬問《ツマトヒ》は夫婦《イモセ》のむすひを云衣の端《ツマ》に兼たり不離《カレシ》は不令離《カラサシ》なり○事不問友 言語《コトトフ》そ
 
湯原王亦贈歌一首
 
638 直一夜隔之可良爾荒玉乃月歟經去跡心遮《タヽヒトヨヘタテシカラニアラタマノツキカヘヌルトオモホユルカモ》
 
心遮はおほつかなし舊訓《モトノヨミ》の隨《マヽ》なり
 
娘子復報贈歌一首
 
639 吾背子我如是戀禮許曾夜干玉能夢所見管寢不所宿家禮《アカセコカカクコフレコソヌハタマノイメニミエツヽイネラエスケレ》
 
人の戀れは此方《コナタ》の夢に見るなり
 
湯原王亦贈歌一首
 
640 波之家也思不遠里乎雲居爾也戀管將居月毛不經國《ハシケヤシマチカキサトヲクモヰニヤコヒツヽヲラムツキモヘナクニ》
 
初句は一首の上に蒙れり結句は逢初てより月も更らぬになり
 
娘子後報贈和歌一首
 
641 絶常云者和備染責跡燒太刀乃隔付經事者幸也吾君《タユトイハヽワヒシミセムトヤキタチノヘツカフコトハヨケクヤワキミ》
 
燒太刀は劔《タチ》は刃《ヤキハ》とも稱《イヒ》て燒て製る物なれはなり隔付經《ヘツカフ》は鞘《サヤ》をへたてゝ身に付《ツケ》て佩《ハ》く物なるを以近(カ)付(キ)なから不逢《アハ》ぬはよきことかはの譬なり
 
湯原王歌一首
 
642 吾妹兒爾戀而亂在久流部寸二懸而縁與余戀始《ワキモコニコヒテミタレハクルヘキニカケテヨラムトワカコヒソメシ》
 
在は者の誤(リ)在者草體相(ヒ)似たり○久流部寸和名抄【蠶絲具】に反轉久流閇枳こは反轉《クルヘカ》して絲を調《トヽノ》ふる木なり【うつほの物語(ノ)俊蔭卷に阿修羅】羅眼《アスラマナコ》を車の輪の如くに見くるへかしてとあり】○懸而縁與《カケテヨラムト》 絲を※[手偏+差]《ヨル》に妹に寄《ヨル》を兼(ヌ)
 
紀女郎怨恨歌三首 鹿人大夫女名曰2小鹿《ヲカト》1也安貴王妻也
 
聖武紀に天平九年九月己亥正六位上紀朝臣鹿人授2外從五位下1十二月壬成任2主殿頭1十二年十一月甲辰叙2外從五位上1十三年八月丁亥任2大炊頭1又|典鑄(302)正《イモシノカミ》なりしことも此集八(ノ)卷に見え六八(ノ)卷にも作歌《ウタ》あり
 
643 世間之女爾思有者《ヨノナカノヲミナニシアラハ》吾渡痛背乃河乎|渡金目八《ワタリカネメヤ》
 
四(ノ)句いまた思ひ得す
 
644 今者吾羽和備曾四二結類氣乃緒爾念師君乎縱左久思者《イマハアハワヒソシニケルイキノヲニオモヒシキミヲユルサクオモヘハ》
 
氣乃緒《イキノヲ》 命《イノチ》なり○縱左久《ユルサク》 放免《ユル》し遣《ヤ》るなり
 
645 白妙乃袖可別日乎近見心爾咽飯哭耳四所泣《シロタヘノソテワカルヘキヒヲチカミコヽロニムセヒネノミシナカユ》
 
大伴宿禰駿河麻呂歌一首
 
646 丈夫之思都備乍遍多數嘆久嘆乎不負物可聞《マスラヲノオモヒワヒツヽタヒマネクナケクナケキヲオハシモノカモ》
 
嘆《ナケキ》を負(ヒ)て罰《ツミ》有へしなり
 
大伴坂上郎女歌一首
 
647 心者忘日無久雖念人之事社繁君爾阿禮《コヽロニハワスルヽヒナクオモヘトモヒトノコトコソシケキキミニアレ》
 
四五(ノ)句思ふ人|許多《アマタ》持《モタ》る君なれは其(ノ)人々に言(ヒ)噪《サワ》かるゝ故に念へとも得《エ》心に隨《マカ》せすとなり事《コト》は言《コト》なりさて右の駿河麻呂(ノ)歌は戀なること明らけく此(ノ)一段《ヒトクタリ》の歌|等《トモ》は郎女と駿河麻呂との所謂《イハユ》る相聞贈答なることは左註を見ても明らかなり然るに兩人《フタリ》は姑《ヲハ》姪《ヲヒ》の族《ウカラ》なるに歌は夫妻《イモセ》の相聞贈答の如く所聞《キコ》えて相應《フサ》はしからぬ所以《ユヱ》いかなるとならは駿河麻呂(ノ)歌は郎女に贈れるにはあらす郎女(ノ)息女《ムスメ》【田村坂上】兩人のうちいつれにか贈れる歌なるを母の代りて作《ヨミ》て和《コタ》へたるなるへしそは中古《ナカムカシ》の歌物語|等《ナト》にも常あることにて息女《ムスメ》は耻て返(リ)辭《コト》えせねは母《オヤ》の代りて和ふるなる故に歌も即《ヤカテ》息女《ムスメ》の情《コヽロ》になりてよめるものなりさるを此《コヽ》に郎女(ノ)歌とは實に依て記(ル)せるなりもし然らさるときは事情《コトノサマ》の不相應《カナハ》ぬなり次(ノ)歌も然なり
 
大伴宿禰駿河麻呂歌一首
 
648 不相見而氣長久成奴比日者奈何好去哉言借吾妹《アヒミステケナカクナリヌコノコロハイカニヨケクヤイフカシワキモ》
 
奈何《イカニ》にて切て心得へし好去哉《ヨケクヤ》は恙無《ツヽミナ》しやなり吾妹《ワキモ》は右に云る如く息女《ムスメ》をさして稱《イヘ》るなり然らされは姑《ヲハ》を吾妹《ワキモ》と稱《イフ》へき理(リ)無く一首のうへも不敬《ナメ》しきにあらすや十二に妹登曰者無禮恐然爲蟹懸卷欲言爾有鴨《イモトイヘハナメシカシコシシカスカニカケマクホシキコトニアルカモ》ともあるをや
 
大伴坂上郎女歌一首
 
649 夏葛之不絶使乃不通有者言下有如念鶴鴨《ハフツタノタエヌツカヒノヨトメレハコトシモアルコトオモヒツルカモ》
 
夏は蔓の誤(リ)なるへし言《コト》は事《コト》なり
 
右坂上郎女者佐保大納言卿女也駿河麻呂此高市大卿之孫也兩卿兄弟之家女孫姑姪之族是以題v歌送答相2問起居1
 
(303)高市大卿 いまた考(ヘ)得す○相2問起居1のみの送答にはあらす夫妻《イモセ》の戀の相聞なること上(ノ)件(リ)に辨へたるかことしこは不相見而《アヒミステ》の一首《ウタ》と夏葛之《ハフツタノ》の一首《ウタ》とす戀情《コヒノコヽロ》なきか如く相2問起居1のみの歌にも所通《キコユ》れはかく註せるならめと上なる嘆久嘆乎不負物可聞《ナケクナケキヲオハシモノカモ》また人之事社繁君爾阿禮《ヒトノコトコソシケキキミニアレ》の二首は戀(ノ)惰《コヽロ》あらはにて相2問起居1のみの歌にはあらぬをや如此《カヽ》るは上なる土師(ノ)宿禰水通從2筑紫1上京海路作歌二首と題せるその歌海路の意旡きを大船乎|※[手偏+旁]乃進爾《コキノスヽミニ》云々とあるより取(リ)外《ハツ》して誤り傳へたる同し例なるへし
 
大伴宿禰三依|離復相歡《ワカレテマタアヒテヨロコヘル》歌一首
 
650 吾妹兒者常世國爾住家良思昔見從變若益爾家利《ワキモコハトコヨノクニニスミケラシムカシミシヨリワカエマシニケリ》
 
坂上郎女を云るなるへし三依筑紫の任に下り【上に見ゆ】郎女筑紫より京に上りなとして族《ウカラ》離《ハナ》れて復逢るなるへし
 
大伴坂上郎女歌二首
 
651 久堅乃天露霜置二家里宅有人毛待戀奴濫《ヒサカタノアメノツユシモオキニケリイヘナルヒトモマチコヒヌラム》
 
宅有人《イヘナルヒト》とは坂上大孃なるへし此(ノ)下の註に妹坂上大孃者母(ト)2居(リ)坂(ノ)上(ノ)里(ニ)1仍曰2坂上大孃1とあり
 
652 玉主爾珠者授而勝且毛枕與吾者率二將宿《タマヌシニタマハサツケテカツカツモマクラトアレハイサフタリネム》
 
三一二と句を次第《ツイ》てゝ心得へし○勝且毛《カツカツモ》 加都《カツ》は合《カツ》糅《カツ》雜《カツ》なとの意にて合加《カテクハ》はれる處に置く辭なり故(レ)此(ノ)事を爲《シ》なから又彼(ノ)事をも合加《カテクハ》へ交《マシ》へて物するときに旦《カツ》云々と云(フ)常の言《コト》なりさて加都加都は其《ソ》を重疊《カサ》ねたる言なり然るに此(ノ)言は端津端津《ハツハツ》と云(フ)言《コト》の如《コト》通《キコ》えて事の未《イマタ》慥《タシカ》ならす端津端津《ハツハツ》なる處にのみ云り譬へは加津加津見ゆるとは定かには見えす端津端津に見え初《ソム》るを云りそは所見《ミユ》ると不所見《ミエサル》ると互《クカヒ》に合加《カテクハ》はれる故に見ゆる方にも加都と云(ヒ)見えさる方にも加都と云(フ)兩箇《フタツ》の加都を重疊《カサ》ねて加都加都とは云なるへしさて此《コヽ》の玉主爾珠者授而とは珠とは作者郎女(ノ)息女《ムスメ》を云(ヒ)玉主とは婿《ムコ》なる人を云り婿《ムコ》なる人を息女《ムスメ》に通はせ初《ソム》ることを玉主爾珠者授而と云るにてそは猶いまた慥《タシカ》にうけはりては授け畢らされともまつ端津端津に授(ケ)初《(メ)たるにて已《ステ》に授けたるにもあらすさりとて又いまた不授《サツケサ》るにもあらす授(ケ)たると不授《サツケサ》ると更《タカ》ひに合加《カテクハ》はれる故に授(ケ)たる方にも加都と云(ヒ)不授《サツケサ》る方にも加都と云(フ)兩箇《フタツ》の加都を重疊《カサ》ねて加都加都とは云る(304)なりさて此《コ》は二女の中(チ)いつれの大孃なるにや姉田村ならは夫《ヲトコ》は駿河麻呂妹坂上ならは夫《ヲトコ》は家持なるへし歌に枕與吾者率二將宿《マクラトワレハイサフタリネム》と有によらは坂(ノ)上の方なるへし然《サ》るは此(ノ)下の註に右田村大孃坂上大孃并是右大辨大伴宿奈麻呂卿之女也卿(ト)居(リ)2田村(ノ)里(ニ)1號曰2田村(ノ)大孃1但妹坂(ノ)上(ノ)大孃者母(ト)居(リ)2坂(ノ)上(ノ)里(ニ)1仍曰2坂(ノ)上(ノ)大孃1と有て姉は父につき妹は母に屬《ツキ》て各々|別處《コトトコロ》に住(メ)るに此(ノ)歌の趣《サマ》は母子一(ト)處(ロ)に在しことゝ通ゆる以思へはなり凡《スヘ》て此(ノ)邊《アタリ》いと/\紛らはし尚|熟《ヨ》く考(フ)へきことなり
 
大伴宿禰駿河麻呂歌三首
 
653 情者不忘物乎儻不見日數多月曾經去來《コヽロニハワスレヌモノヲタマ/\モミサルヒマネクツキソヘニケル》
 
654 相見者月毛不經爾戀云者乎曾呂登吾乎於毛保寒毳《アヒミテハツキモヘナクニコフトイハハヲソロトワレヲオモホサムカモ》
 
乎曾呂《ヲソロ》は虚言呂《ヲソロ》なり呂は助辭十四に烏云大虚言鳥《カラストフオホヲソトリ》の正直《マサテ》にも來座さぬ君を此處《コ》ろ來《ク》とそ鳴《ナク》今(ノ)世|宇曾《ウソ》と云り
 
655 不念乎思常云者天地之神祇毛知寒《オモハヌヲオモフトイハハアメツチノカミモシラサム》邑禮左變
 
結局|悒慍爲奈《イフカシミスナ》なともやありけむ
 
大伴坂上郎女歌六首
 
656 吾耳曾君爾者戀流吾背子之戀云事波言乃名具左曾《アレノミソキミニハコフルアカセコカコフトイフコトハコトノナクサソ》
 
名具左《ナクサ》は慰《ナクサ》めなり
 
657 不念常曰手師物乎翼酢色之變安寸吾意可聞《オモハシトイヒテシモノヲハネスイロノウツロヒヤスキアカコヽロカモ》
 
天武紀【十四年】に朝服色淨位已上並|着《キヨ》2朱華(ヲ)1註に朱華此云2波泥孺1八に詠2唐棣花1歌 夏儲而開有波禰受久方乃雨打零者將移香《ナツマケテサキタルハネスヒサカタノアメウチフラハウツロヒナムカ》十一に山振之爾保敝流妹之翼酢色乃赤裳之爲形夢所見管《ヤマフキノニホヘルイモカハネスイロノアカモノスカタイメニミツヽ》略解(ニ)云(ク)或(ル)人(ノ)云|俗《ヨ》に庭梅《ニハウメ》と云(フ)物是(レ)なり春夏の間《アヒタ》に赤き花の開《サク》ものなり
 
658 雖念知僧裳無跡知物乎奈何幾許吾戀渡《オモヘトモシルシモナシトシルモノヲナニソモコヽタアカコヒワタル》
 
僧《シ》は師《シ》の借宇
 
659 豫人事繁如是有者四惠也吾背子奧裳何如荒海藻《アラカシメヒトコトシケシカクシアラハシヱヤワカセコオクモイカニアラメ》
 
豫《アラカシメ》は有之始《アルカハシメ》なり人事《ヒトコト》は人事《ヒトコト》なり四惠也《シヱヤ》は嘆《ナゲキ》の切なる聲なり十に春山之馬醉花之不惡君爾波思惠也所因友好《ハルヤマノアシヒノハナノアシカラヌキミニハシヱヤヨセヌトモヨシ》秋芽子戀不盡跡雖念思惠也安多良思又將相八方《アキハキノコヒツクサシトオモヘトモシヱヤアタラシマタアハメヤモ》十一に奧山之眞木乃板戸乎押開思惠也出來根後者何將爲《オクヤマノマキノイタトヲオシヒラキシヱヤイテコネノチハナニセム》 靈治波布神毛吾者打棄乞四惠也壽之〓無《タマチハフカミモアレヲハウツテコソシヱヤイノチノヲシケクモナシ》十二に我背子之將來跡語之夜者過去思咲八更更思許理來目八面《アカコカコムトカタリシヨハスキヌシヱヤサラサラシコリコメヤモ》○奧《オク》は以往《ユクサキ》
 
660 汝乎與吾乎人曾離奈流乞吾君人之中言聞越名湯目《ナヲトアヲヒトソサクナルイテアカキミヒトノナカコトキヽコスナユメ》
 
(305)汝乎與吾乎《ナヲトアヲ》 上の乎《ヲ》は助辭○乞吾君《イテアカキミ》 乞《イテ》は願(ヒノ)辭○聞越名湯目《キヽコスナユメ》 越《コス》は乞《コソ》なり勿聞努力《キクナユメ》に乞《コソ》の願(ヒノ)辭の加《ソ》へるなり                 
661 戀戀而相有時谷愛寸事盡手四長常念者《コヒコヒテアヘルトキタニウルハシキコトツクシテヨナカクトオモハヽ》
 
四(ノ)句 事《コト》は言《コト》なりなつかしく相談《カタラ》ひたまへよなり
 
市原王歌一首
 
此王上(ニ)出(ツ)【新考の】
 
662 網兒之山五百重隱有佐堤乃埼左手蠅師子之夢二四所見《アコノヤマイホヘカクレルサテノサキサテハヘシコカイメニシミユル》
 
網兒《アコ》 志摩國|英虞《アコノ》郡○佐堤乃埼 いまた詳《サタカ》ならす○左手 和名抄【魚釣具】に※[糸+麗]佐天網如2箕形1狹v後廣v前名也一に下瀬爾小網刺渡《シモツセニサテサシワタシ》云々○此歌左手まて悉《ミナ》序にて延《ハヘ》しを云む料《タメ》なり※[糸+麗]《サテ》は引(キ)延《ハヘ》て魚を漁《ト》る具《モノ》また繩師子は打(チ)延《ハヘ》思へる女なりさておのつから網《アコ》子も※[糸+麗]《サテ》の縁《ヨセ》なり
 
安部宿禰年足歌一首
 
部目録に都と有(ル)宜し此人|詳《サタカ》ならす
 
663 佐穗度吾家之上二鳴鳥之音夏可思吉愛妻之兒《サホワタリワキヘノウヘニナクトリノオトナツカシキハシキツマノコ》
 
此《コ》も音《オト》まては序
 
大伴宿禰|像見《カタミノ》歌一首
 
淡路天皇紀に天平寶字八年十月庚牛正六位上大伴宿禰形見授2從五位下1高野天皇紀に神護景雲三年三月戊寅任2左大舍人助1光仁天皇紀に寶龜三年正月甲申叙2從五位上1
 
664 石上零十方雨二將關哉妹似相武登言義之鬼尾《イソノカミフルトモアメニサハラメヤイモニアハムトイヒテシモノヲ》
 
義は羲の誤(リ)|羲之《テシ》は上に云り【新考 の】
 
安倍朝臣蟲麻呂歌一首
 
聖武紀に天平九年九月己亥正七位上阿倍朝臣蟲麻呂授2外從五位下1十二月壬成任2皇后皇亮1丙寅叙2從五位下1十年閏七月癸卯任2中務少輔1十二年十月壬戊の紀【藤原廣嗣と問答(ノ)詞】に式部少輔安倍大夫と有も此人なるを式部少輔に任《ナリ》しは紀に見えす十一月甲辰從五位上十三年閏三月乙卯正五位下八月丁亥播磨守十五年五月癸卯正五位上天平勝寶元年八月辛未任2紫微大忠1孝謙紀に勝寶三年正月己酉從四位下四年三月甲午中務大輔【此任見えす】從四位下安部朝臣蟲麻呂卒
 
665 向座而雖見不飽吾妹子二立離往六田付不知毛《ムカヒヰテミレトモアカヌワキモコニタチワカレイナムタツキシラスモ》
 
(306)大伴坂上郎女歌二首
 
666 不相見者幾久毛不有國幾許吾者戀乍裳荒鹿《アヒミヌハイクヒサヽニモアラナクニコヽタクワレハコヒツヽモアルカ》
 
667 戀戀而相有物乎月四有者夜波隱良武須臾羽蟻待《コヒコヒテアヒタルモノヲツキシアレハヨハコモルラムシマシハアリマテ》
 
夜波隱良武《ヨハコモルラム》 夜はいまた深からむなり此詞の意上【新考九の 葉】に委く云り
 
右大伴坂上郎女之母石川内命夫與2安倍朝臣蟲滿之母|安曇《アヅミノ》外命婦1同居姉妹同氣之親焉縁v此郎女蟲滿相見不v疎相談既密聊作2戯歌1以爲2問答1也
 
命婦《ヒメトネ》は爵《クラヰ》を授《タマ》はりし婦人《ヲミナ》の稱《ナ》なり内命婦《ウチノヒメトネ》は内裡《オホウチ》に奉仕《ツカヘマツ》るを稱《イヒ》外命婦《トノヒメトネ》は不奉仕《ツカヘマツ》らすして家に在を稱《イヘ》り
 
厚見王歌一首
 
聖武紀に天平勝寶元年四月丁末旡位厚見王授2從五位下1孝謙紀に勝寶七年十一月丁巳の條に此人を少納言とあり寶字元年五月丁卯叙2從五位上1
 
668 朝爾日爾色付山乃白雲之可思過君爾不有國《アサニケニイロツクヤマノシラクモノオモヒスクヘキキミニアラナクニ》
 
春日王歌一首 志貴皇子之子母曰2多紀皇女1也
 
志貴皇子は天智(ノ)皇子多紀皇女は天武(ノ)皇女なり春日王は安貴王(ノ)父にて市原王(ノ)祖父なり又光仁天皇には御弟なり元正紀に養老七年正月丙子旡位春日王授2從四位下1聖武紀に天平三年正月丙子叙2從四位下1聖武紀に天平三年正月丙子叙2從四位上1十五年五月癸卯正四位下十七年四月乙卯散位正四位下春日王卒【契冲云春日王同名四人也持統紀所v載一人文武紀并本集三之卷所v載共一人四之卷所v載一人高野天皇紀所v載一人是也】
 
669 足引之山橘乃色丹出而語言繼而相事毛將有《アシヒキノヤヤタチハナノイロニイテテカタラヒツキテアフコトモアラム》
 
造酒司式【踐祚大嘗祭供神料】に山橘子《ヤマタチハナ》あり俗《ヨ》に薮柑子《ヤフカウシ》と云赤(キ)實《ミ》の生《ナ》る物なり色丹出てはその實《ミ》なりまた色丹出ては表《ホ》に顯れての意を譬へたり四(ノ)句繼は借字にて付《ツキ》なり
 
湯原王歌一首
 
670 月讀之光二來益足疾乃山乎隔而不遠國《ツクヨミノヒカリニキマセアシヒキノヤマヲヘナリテトホカラナクニ》
 
和歌一首 不v審2作者1
 
671 月讀之光者清雖照有惑情不堪念《ツクヨミノヒカリハキヨクテラセレトマトヘルコヽロタヘスオモホユ》
 
安倍朝臣蟲麻呂歌一首
 
此人上(ニ)出(ツ)
 
672 倭父手纏數二毛不有壽持奈何幾許吾戀渡《シツタマキカスニモアラヌイノチモチナニソモコヽタアカコヒワタル》
 
(307)父は文の誤(リ)冠辭考(ニ)云(ク)倭文《シツ》は上古の文布《アヤヌノ》にて其《ソ》を織る麻環《ヲタマキ》は數《カス》あるよしの枕詞なり【以上】二三(ノ)句幾らも無き命を持なからなり十七に世間波加受奈吉物能可《ヨノナカハカスナキモノカ》廿に宇都世美波加受奈吉身奈利云々
 
大伴坂上郎女歌二首
 
673 眞十鏡磨師心乎縱者後爾雖云驗將在八方《マソカヽミトキシコヽロヲユルシテハノチニイフトモシルシアラメヤモ》
 
674 眞玉付彼此兼手言齒五十戸常相而後社悔二破有跡五十戸《マタマツクヲチコチカネテイヒハイヘトアヒテノチコソクイニハアリトイヘ》
 
一二(ノ)句冠辭考(ニ)云(ク)玉付る緒の意の枕詞【以上】二(ノ)|彼《ヲチ》は後なり此《コチ》は今なり今より後を兼てなり
 
中臣女郎贈2大伴宿禰家持1歌五首
 
女郎|詳《サタカ》ならす
 
675 娘子部四咲澤二生流花勝見都毛不知戀裳摺可聞《ヲミナヘシサキサハニオフルハナカツミカツテモシラヌコヒモスルカモ》
 
娘子部四《ヲミナヘシ》は咲《サキ》の枕詞咲澤は地名なるへし春日に佐紀山佐紀野あわ其處《ソコ》にや十二に垣津旗|開澤生菅根之《サキサハニオフルスカノネノ》○花勝見 契冲|菰《コモ》なりと云り然るへし故(レ)思ふに勝見は名義《ナノコヽロ》堅編《カタアミ》にて薦《コモ》は目を堅く編む故の名なるへし花勝見は花さく時《ヲリ》の名にて花橘の名の例《タグヒ》なるへし○都毛不知《カツテモシラヌ》 加都《カツ》は上 勝且《カツカツ》の處に云る如く合《カツ》糅《カツ》雜《カツ》なとの如く交《マシ》り加《クハ》はる意の言なり交《マシ》り加《クハ》はる許《ハカリ》のことは少《スコシ》なる故に加都弖は少《スコシ》のことに用ひたり七に常者曾不念物乎此月之過匿卷惜夕香裳《ツネハカツテオモハヌモノヲコノツキノスキカクレマクヲシキヨヒカモ》十三に天地之神尾母|吾者《アレハ》禮而寸戀云物者都不止來《コヒトフモノハカツテヤマスケリ》十六に味飯乎水爾釀成吾待之代者曾無直爾之不有者《ウマイヒヲミツニカミナシアカマチシカヒハカツテナシタヽニシアラネハ》これらの曾《カツテ》は少《スコシ》もの意なりまた十二に海若之奧爾生有繩乘乃名者曾不告戀者雖死《ワタツミノオキニオヒタルナハノリノナハカツテノラシコヒハシヌトモ》十に木高者曾木不殖霍公鳥來鳴令響而戀令益《コタカクハカツテキウヱシホトヽキスキナキトヨメテコヒマサラシム》これらの曾《カツテ》は少《スコシ》もより轉りて堅くの意なり又漢文に嘗《ムカシ》曾《サキニ》なと云處を加都※[氏/一]と訓(ム)は理(リ)旡き非《ヒカコト》なりそは未2嘗《ムカシヨリ》有1焉と云か加都※[氏/一]阿良受と云に近きより同し言の如《コト》思へるものなりさて此《コヽ》に都《カツテ》と書(ケ)る字《モシ》は都毛不知《カツテモシラヌ》は少《スコシ》も不知《シラヌ》堅く不知《シラヌ》にて都《スヘ》て不知《シラヌ》と云に等《ヒト》しけれはなり
 
676 海底奧乎深目手吾念有君二波將相年者經十方《ワタノソコオキヲフカメテアカオモヘルキミニハアハムトシハヘヌトモ》
 
海底《ワタノソコ》 底《ソコ》は放處《ソキコ》にて奧《オキ》を云|水底《ミナソコ》とは別《コト》なりさて奧乎《オキヲ》まては序なり
 
677 春日山朝居雲乃欝不知人爾毛戀物香聞《カスカヤマアサヰルクモノオホヽシクシラヌヒトニモコフルモノカモ》
 
678 直相而見而見而者耳社靈剋春命向吾戀止眼《タヽニアヒテミテハノミコソタマキハルイノチニムカフアカコヒヤマメ》
 
(308)679 不欲常云者將強哉吾背菅根之念亂而戀管母將有《イナトイハヽシヒメヤアカセスカノネノオモヒミタレテコヒツヽモアラム》
 
大伴宿禰家持與2交遊1別久歌三首
 
680 蓋毛人之中言聞可毛幾許雖待君之不來益《ケタシクモヒトノナカコトキケルカモコヽタクマテトキミカキマサヌ》
 
681 中々爾絶年云者如此許氣緒爾四而吾將戀八方《ナカナカニタユトシイハハカクハカリイキノヲニシテアカコヒメヤモ》
 
682 將念人爾有莫國懃情盡而戀流吾毳《オモフラムヒトニアラナクニネモコロニコヽロツクシテコフルアレカモ》
 
大伴坂上郎女歌七首
 
683 謂言之恐國曾紅之色莫出曾念死友《イフコトノカシコキクニソクレナヰノイロニナイテソオモヒシヌトモ》
 
人言《ヒトコト》を恐《カシコ》めるなり
 
684 今者吾波將死與吾背生十方吾二可縁跡言跡云莫苦荷《イマハアハシナムヨアカセイケリトモアニヨルヘシトイフトイハナクニ》
 
言跡云莫苦荷《イフトイハナクニ》 上の言《イフ》は夫《ヲトコ》のなり下の云《イフ》は告《ツク》る者《モノ》のなり
 
685 人事繁哉君乎二鞘之家乎隔而戀乍將座《ヒトコトヲシケミヤキミヲフタサヤノイヘヲヘナリテコヒツヽヲラム》
 
事《コト》は言《コト》なり二鞘《フタサヤ》は二重刀室《フタヘノサヤ》なるへし其《ソ》は太刀《タチ》の鞘にはあらすして刀子《カタナ》の鞘にて即(チ)刀子《カタナ》も一箇一箇《ヒトツヒトツ》納《イ》りたる物なるへし其《ソ》は異國等《カラナト》より渡り來て最《イト》愛《メツ》らかなる珍寶《タカラ》の翫物《モテアソヒモノ》の類(ヒ)なるへし六帖【かたな】にあふことのかたなさしたるなゝつこのさやかに人のこひらるゝかな又【さや】なゝつこのさやのくち/\つとひつつ我をかたなにさしてゆくなり此《コ》は七子《ナヽツコ》とあれは七重刀室《ナヽヘノサヤ》にて刃《ハ》も七箇《ナヽツ》さしたりと通《キコ》ゆれは此《コヽ》の二刀室《フタサヤ》も二刃《フタハ》をさしたること知へし又神功紀【五十二年】に【百濟人】久※[氏/一]等《クテラ》從2千熊長彦1詣《マヰケリ》之則獻2七枝刀《ナヽツサヤノカタナ》一口《ヒトツ》七子《ナヽツコノ》鏡一面及種々重寶ともあり七枝は七叉《ナヽマタ》なるへし六帖なるは鞘の口々|會《ヅト》ふとあるを思ふに七枝《ナヽマタ》に別れたるとは製《ツクリサマ》異《カハ》りて七重《ナヽヘ》なる物と通《キコ》ゆ詳《ツハ》らには辨へかたしさて刀室《サヤ》は刀子《カタナ》の納《イ》る物なるを二重刀室《フタヘノサヤ》にて相(ヒ)別れたれは家乎|隔《ヘナリ》而の枕詞なり
 
686 此者千歳八往裳過與吾哉然念欲見鴨《コノコロニチトセヤユキモスキヌルトワレヤシカオモフミマクホレカモ》
 
687 愛常吾念情速河之雖塞々友猶哉將崩《ウツクシトアカオモフコヽロハヤカハノセクトセクトモナホヤクエナム》
 
四(ノ)句 せくともせくともなり
 
688 青山乎横〓雲之灼然吾共咲爲而人二所知名《アヲヤマヲヨコキルクモノイチシロクワレトヱマシテヒトニシラユナ》
 
或(ル)人(ノ)云(ク)〓は〓の誤(リ)〓は殺の俗字
 
689 海山毛隔莫國奈何鴨目言乎谷裳幾許乏寸《ウミヤマモヘタヽラナクニナニシカモメコトヲタニモコヽタトモシキ》
 
目言《メコト》は所見事《ミエコト》
 
大伴宿禰三依悲v別歌一首
 
690 照日乎闇爾見成而哭涙衣沾津干人無二《テルヒヲヤミニミナシテナクナミタコロモヌラシツホスヒトナシニ》
 
妻《メ》の亡《ナ》くなりし時《ヲリ》のなるへし
 
(309)大伴宿禰家持贈2娘子1歌二首
 
691 百礒城之大宮人者雖多有情爾乘而所念妹《モヽシキノオホミヤヒトハオホカレトコヽロニノリテオモホユルイモ》
 
四五(ノ)句 吾(カ)心(ノ)上に上《ノリ》て在る妹なり
 
692 得羽重無妹二毛有鴨如此許人情乎令盡念者《ウハヘナキイモニモアルカモカクハカリヒトノコヽロヲツクスオモヘハ》
 
初句の意いまた考(ヘ)得す上に宇波弊無(キ)物可聞人者|然許《シカハカリ》遠家路乎|令還念者《カヘスオモヘハ》
 
大伴宿禰千室歌一首 未詳
 
此人|詳《サタカ》ならす未詳二字は後(ノ)人の所爲《シワサ》か
 
693 如此耳戀哉將度秋津野爾多奈引雲能過跡者無二《カクシノミコヒヤワタラムアキツヌニタナヒククモノスクトハナシニ》
 
吉野の秋津野は葬地なりしなるへし七【挽歌】に蜻野※[口+立刀]人之懸有朝蒔君之所思而嗟齒不病《アキツヌヲヒトノカクレハアサマキシキミカオモホエテナケキハヤマス》朝時君《アサマキシキミ》とは火葬せる骨をまきちらせるなり秋津野爾朝居雲之失|去《ヌレ》者|前裳《ムカシ》今裳無人|所念《オモホユ》前裳今裳《ムカシモイマモ》は前《ムカシ》亡くなりしも今亡くなりしもなり此《コヽ》の雲も火葬の煙なるへし
 
廣河女王歌二首 穗積皇子之孫|上道《カミツミチノ》王之女也
 
淡路天皇紀に天平寶宇七年正月壬子無位廣河王授2從五位下1
 
694 戀草呼力車二七車積而戀良苦吾心柄《コヒクサヲチカラクルマニナヽクルマツミテコフラクワカコヽロカラ》
 
草《クサ》は種《クサ》なり力車《チカラクルマ》は人(ノ)力(ラ)に代る荷車《ニクルマ》を云七車は多きの謂(ヒ)
 
695 戀者今葉不有常吾羽念乎何處戀其附見繋有《コヒハイマハアラシトアレハオモヘルヲイツクノコヒソツカミカヽレル》
 
石川朝臣廣成歌一首
 
淡路天皇紀に天平寶宇二年八月庚子從六位上石川朝臣廣成授2從五位下1四年二月壬寅賜2姓高圓朝臣1辛亥任2文部少輔1また早く内舍人《ウトネり》なりしことも此集八(ノ)卷に所見《ミエ》たり
 
696 家人爾戀過目八方川津鳴泉之里爾年之歴去者《イヘヒトニコヒスキメヤモカハツナクイツミノサトニトシノヘヌレハ》
 
山城國|相樂《サカラカノ》郡泉河の地なるへし久邇《クニノ》新京に年|改《カハ》りて奈良を思へるなり
 
大伴宿禰像見謌三首
 
此人上出
 
697 吾聞爾繋莫言刈薦之亂而念君之直香曾《アカキクニカケテナイヒソカリコモノミタレテオモフキミカタヽカソ》
 
直香《タヽカ》 當人《ソノヒト》の事實《コト》を直有《タヽアリ》に正《マサ》しく傳へ聞(ク)を云(フ)香《カ》は正《マサ》を正加《マサカ》定《サタ》を定加《サタカ》と云(フ)類(ヒ)の助辭なり
 
698 春日野爾朝居雲之敷布二吾者戀益月二日二異二《カスカヌニアサヰルクモノシクシクニアレハコヒマスツキニヒニケニ》
 
699 一瀬二波千遍障良比逝水之後毛將相今爾不有十方《ヒトセニハチタヒサハラヒユクミツノノチニモアハムイマナラストモ》
 
(310)大伴宿禰家持到2娘子之門1作歌一首
 
700 如此爲而哉猶八將退不近道之間乎煩參來而《カクシテヤナホヤマカラムチカヽラヌミチノアヒタヲナツミマヰキテ》
 
猶八將退《ナホヤマカラム》 奈保は徒《タヽ》の意なり中古の物語(リ)書《フミ》に 庶人《タヽヒト》を
頭注、○なほ得あらすとは徒《》に黙《タヽモク》しては得《エ》あらぬを云(ヒ)
なほ/\しきはなとも云(ヒ)伊勢物語【十段】に父はなほひとにて母なむ藤原なりけるとあるなと是なり五【令v反2惑情1歌】に比佐迦多能阿麻遲波等保斯奈保奈保爾伊弊爾可弊利提奈利乎斯麻佐爾この歌の序に或有v人知v敬2父母1忘2於侍養1不v顧2妻子1輕2於《ヨリモ》脱履1自稱2異俗先生1意氣雖v揚2青雲之上1身體猶在2塵俗之中1云々|遺《オクルニ》v之以v歌令v反2其惑1とある意の歌にて四五(ノ)句たゝ家に歸りて業《ナリ》を爲《シ》まさねなり十一に如是爲哉猶八成牛鳴《カクシテヤナホヤナラムモ》大荒木之浮田之|杜《モリ》之|標《シメ》爾|不有爾二《アラナクニ》二(ノ)句|徒《タヽ》に空くやならむなり十四に安思我良能波姑禰乃夜麻爾波布久受能比可利與利己禰思多奈保那保爾|不許《イナ》むことなくたゝに依り來《コ》ねな廿に富等登藝須奈保毛奈賀那牟母等都比等可氣都都母等奈安乎禰之奈久母|徒《タヽ》にもなかなむなり此等《コレラ》悉《ミナ》奈保は徒《タヽ》の意なり
 
河内《カフチノ》百枝娘子贈2大伴宿禰家持1歌二首
 
河内は國(ノ)名百枝は此人(ノ)名なるへし
 
701 波都波都爾人乎相見而何將有何日二箇又外二將見《ハツハツニヒトヲアヒミテイカナラムイツレノヒニカマタヨソニミム》
 
端《ハ》つ端《ハ》つ又初々の意なり七に是山黄葉下花矣我小端見反戀《コノヤマノモミチノモトノハナヲアカハツ/\ニミテカヘルコヒシモ》十一に山葉進出月端端妹見鶴及戀《ヤマノハニサシイツルツキノハツ/\ニイモヲソミツルコヒシキマテニ》十四に久敝胡之爾武藝波武古宇馬能波都波都爾安比見之兒良之安夜爾可奈思母六帖【うま】ませこしにむきはむこまのはつ/\におよはぬ戀もわれはするかな
 
702 夜干玉之其夜乃月夜至于今日吾者不忘無間思念者《ヌハタマノソノヨノツクヨケフマテニアレハワスレスマナクシオモヘハ》
 
巫部麻蘇娘子《カムコヘノマソヲトメノ》歌二首
 
巫部は姓《ウチ》麻蘇は名なるへし八(ノ)卷にも出たり
 
703 吾背子乎相見之其日至于今日吾衣手者乾時毛奈志《アカセコヲアヒミシソノヒケフマテニアカコロモテハヒルトキモナシ》
 
704 栲繩之永命乎欲苦波不絶而人乎見欲見社《タクナハノナカキイノチヲホシケクハタエステヒトヲミマクホレコソ》
 
大伴宿禰家持贈2童女1歌
 
705 葉根※[草冠/縵]今爲妹乎夢見而情内二戀度鴨《ハネカツライマスルイモヲイメニミテコヽロノウチニコヒワタルカモ》
 
葉根※[草冠/縵]《ハネカツラ》 花※[草冠/縵]《ハナカツラ》なり語調《コトノシラヘ》によりてなり七に波禰※[草冠/縵]今爲妹乎浦若三|去來率去河之音之清左《イサイサカハノオトノサヤケサ》十一に波禰※[草冠/縵]今爲妹|之浦若見咲見慍見著四紐解《カヱミミイカリミツケシヒモトク》みないと幼《ワカ》き情態《アリサマ》の歌なり
(311)童女來報歌一首
 
來報は歌をおこせたるなり
 
706 葉根※[草冠/縵]今爲妹者無四乎何妹其幾許戀多類《ハネカツライマスルイモハナカリシヲイカナルイモソコヽタコヒタル》
 
栗田《クルタノ》娘子贈2大伴宿禰家持1歌二首
 
栗目録には粟とあり批《コ》も姓《ウチ》なるへし
 
707 思遣爲便乃不知者片※[土+完]之底曾吾者戀成爾家類《オモヒヤルスヘノシラネハカタモヒノソコニソアレハコヒナリニケル》
 
思遣《オモヒヤル》は思(ヒ)を遣り失ふなりその爲方《スヘ》を知らねはの意○片※[土+完]《カタモヒ》 ※[土+完]は※[土+宛]の誤(リ)神祇式【供2神今食1料】に片椀《カタモヒ》見ゆさてこは底の枕詞にて底とは至り極(マ)るを云れは戀の至り極れるよしなり又|片※[土+宛]《カタモヒ》に片思を兼《カネ》たり
 
708 復毛將相因毛有奴可白細之我衣手二齋留目六《マタモアハムヨシモアラヌカシロタヘノワカコロモテニイハヒトヽメム》
 
豐前國娘子|大宅《オホヤケ》女歌一首 未v審2姓氏1
 
六(ノ)卷に豐前國娘子月歌 娘子字曰2大宅1姓氏未v詳也と在(リ)
 
709 夕闇者路多豆多頭四待月而行吾背子其間爾母將見《ユフヤミハミチタツタツシツキマチテイマセアカセコソノマニモミム》
 
手取手取《タトタト》しにて闇《ヤミ》をゆくには物を手取《タト》りつゝゆく意の言なり又多豆奴流の多豆も是なり
 
安都扉《アツミノ》娘子歌一首
 
安曇姓《アツミウチ》にや
 
710 三空去月之光二直一目相三師人之夢西所見《ミソラユクツキノヒカリニタヽヒトメアヒミシヒトノイメニシミユル》
 
丹波大娘子歌三首
 
丹波は國(ノ)名なるへし
 
711 鴨鳥之遊此池爾木葉落而浮心吾不念國《カモトリノアソフコノイケニコノハオチテウカヘルコヽロアカオモハナクニ》
 
712 味酒呼三輪之祝我忌杉手觸之罪歟君二遇難寸《ウマサケヲミワノハフリカイハフスキテフレシツミキミニアヒカタキ》
 
冠辭考(ニ)云(ク)十三に味酒乎|神《カム》名火山之酒を釀《カム》とかゝれり三輪につゝくるも然にて加の省《ハフキ》なり
 
713 垣穗成人辭聞而吾背子之情多由多比不合頃者《カキホナスヒトコトキヽテアカセコカコヽロタユタヒアハヌコノコロ》
 
葦垣の末穗の如く繁きなり
 
大伴宿禰家持贈2娘子1歌七首
 
714 情爾者思渡跡縁乎無三外耳爲而嘆曾吾爲《コヽロニハオモヒワタレトヨシヲナミヨソノミニシテナケキソアカスル》
 
思渡跡《オモヒワタレト》 日月《ツキヒ》をわたれとなり○縁乎無三《ヨシヲナミ》 逢む縁《ヨシ》の無(キ)なり○外耳爲而《ヨソノミニシテ》 よそに見るのみなり
 
715 千鳥鳴佐保乃河門之清瀬乎馬打和多思何時將通《チトリナクサホノカハトノキヨキセヲウマウチワタシイツカカヨハム》
 
716 夜晝云別不知吾戀情盖夢所見寸八《ヨルヒルトイフワキシラニアカコフルコヽロケタシクイメニミエキヤ》
 
717 都禮毛無將有人乎獨念爾吾念者惑毛安流香《ツレモナクアルラムヒトヲカタモヒニアカオモヘルハマトヒテモアルカ》
 
718 不念爾妹之咲※[人偏+舞]乎夢見而心中二燒管曾呼留《オモハヌニイモカヱマヒヲイメニミテコヽロノウチニモエツヽソヲル》
 
(312)719 丈夫跡念流吾乎如此許三禮二見津禮片思男責《マスラヲトオモヘルアレヲカクハカリミツレニミツレカタモヒヲセム》
 
四(ノ)句|身羸《ミヤツレ》に身羸《ミヤツレ》なり十に香細寸花橘乎玉貫將送妹者三禮而毛有香《カクハシキハナタチハナヲタマニヌキオクラムイモハミツレテモアルカ》此(ノ)歌|妹者《イモハ》より末を讀(ミ)竟りて旨《ハシメ》に還り讀て心得へし妹は身|羸《ヤツ》れてもあるかな藥玉《クスタマ》を送らむとなり
 
720 村肝之於摧而如此許余戀良苦乎不知香安類良武《ムラキモノコヽロクタケテカクハカリアカコフラクヲシラスカアルラム》
 
於は情《コヽロ》の誤(リ)
 
獻2 天皇1歌一首 大伴坂上郎女在2佐保宅1作也
 
孝謙天皇にや
 
721 足引乃山二四居者風流無三吾爲類和射乎害目賜名《アシヒキノヤマニシヲレハミヤヒナミアカスルワサヲトカメタマフナ》
 
土地《トコロ》につけたる獻物《タテマツリモノ》なとしたるに添(ヘ)たる歌にや
 
大伴宿禰家持歌一首
 
722 如是許戀乍不有者石木二毛成益物乎物不思四手《カクハカリコヒツヽアラスハイハキニモナラマシモノヲモノオモハスシテ》
 
戀つゝあらむよりはなり
 
大伴坂上郎女從2跡見庄《トミノナリトコロ》1贈2賜留v宅女子大孃1歌一首并短歌
跡見 大和國|城上《シキノカミノ》郡大孃は坂上大孃
 
723 常呼二跡吾行莫國小金門爾物悲良爾念有之吾兒乃刀自緒野干玉之夜晝跡不言念二思吾身者痩奴嘆丹師袖左倍沾奴如是許本名四戀者古郷爾此月期呂毛有勝益士《トコヨニトアカユカナクニヲカナトニモノカナシラニオモヘリシアカコノトシヲヌハタマノヨルヒルトイハスオモフニシアカミハヤセヌナケクニシソテサヘヌレヌカクハカリモトナシコヒハフルサトニコノツキコロモアリカテマシヲ》
 
當呼《トコヨ》 古事記傳(ニ)【十二の九葉】云(ク)常世《トコヨノ》國は名義《ナノコヽロ》底依《ソコヨリノ》國なり底とは凡て縦《タテ》にも横《ヨコ》にも至り極れる處を云る名なり故(レ)古(ヘ)に常世(ノ)國と稱《イヘ》るは海を絶《ワタ》りて遼遠《ハル》けき外國《トツクニ》を云り
 
反歌
 
724 朝髪之念亂而如是許名姉之戀曾夢爾所見家留
 
右歌報2賜大孃進歌1也
 
獻2 天皇1歌二首 大伴坂上郎女在2春日里1作也
 
孝謙天皇にや
 
725 二寶鳥乃潜池水情有者君爾吾戀情示左禰《ニホトリノカツクイケミツコヽロアラハキミニアカコフルコヽロシメサネ》
 
726 外居而戀乍不有者君之家乃池爾住云鴨二有益雄《ヨソニヰテコヒツヽアラスハキミカイヘノイケニスムトフカモニアラマシヲ》
 
戀つゝあらむよりはなり
 
大伴宿禰家持贈2坂上家大孃1歌二首【離v絶2數年1後會相聞往來】
 
727 萱草吾下紐爾著有跡鬼乃志許草事二思安利家理《ワスレクサワカシタヒモニツケタレトシコノシコクサコトニシアリケリ》
 
鬼《シコ》は醜《シコ》の略字|醜《シコ》は憎《ニク》み罵《ノ》る言結句|事《コト》は言《コト》なり言のみにて實《シルシ》無しとなり
 
728 人毛無國母有粳吾妹兒與携行而副而將座《ヒトモナキクニモアラヌカワキモコトタツサヒユキテタクヒテヲラム》
 
大伴坂上大孃贈2大伴宿禰家持1歌三首
 
(313)729 玉有者手二母將卷乎欝瞻乃世人有者手二卷難石《タマナラハテニモマカムヲウツセミノヨノヒトナレハテニマキカタシ》
 
730 將相夜者何時將有乎何如爲常香彼夕相而事之繁裳《アハムヨハイツモアラムヲナニストカソノヨヒアヒテコトノシケキモ》
 
731 吾名者毛千名之五百名爾雖立君之名立者惜社泣《アカナハモチナノイホナニタチヌトモキミカナタヽハヲシミコソナケ》
 
又大伴宿禰家持和歌三首
 
732 今時有四名之借雲吾者無妹丹因者千遍立十方《イマシハシナノヲシケクモアレハナシイモニヨリテハチタヒタツトモ》
 
有は者の誤(リ)時《シ》四《シ》は助辭にて今者《イマハ》なり
 
733 空蝉乃代也毛二行何爲跡鹿妹爾不相而吾獨將宿《ウツセミノヨヤモフタユクナニストカイモニアハステアカヒトリネム》
 
二行《フタユク》 再行《フタヽヒユク》なり七に世間者信二代者不往有之過妹爾不相念者《ヨノナカハマコトフタヨハユカサラシスキニシイモニアハヌオモヘハ》十に
ヒトヽセニフタヽヒユカヌアキヤマヲコヽロニアカススクシツルカモ
 
734 吾念如此而不有者玉二毛我眞毛妹之手二所纏牟《アカオモヒカクテアラスハタマニモカマコトモイモカテニマカレナム》
 
不有者《アラスハ》者 あらむよりはなり三(ノ)句玉にも欲成《カ》なり
 
同坂上大孃贈2家持1歌一首
 
735 春日山霞多奈引情具久照月夜爾獨鴨念《カスカヤヤカスミタナヒキコヽロククテレルツクヨニヒトリカモネム》
 
情具久《コヽロクク》 具《ク》は體言《ヰコトハ》久《ク》は用言《ハタラクコト》具《ク》は籠《コ》に通ひて籠《コモ》る意の言一首の意は朧月夜の可憐《アハレ》なるに思ふ人とも相(ヒ)語らはて惜《アタ》ら夜をひとりあかさむとなり
 
又家持和2坂上大孃1歌一首
 
736 月夜爾波門爾出立夕占問足卜乎曾爲之行乎欲焉《ツクヨニハカトニイテタチユフケトヒアウラヲソセシユカマクヲホリ》
 
夕占《ユフケ》 上(ニ)出(ツ)【新考十の】足卜《アウラ》は履《フ》み歩行《アユ》みて足(ノ)數もて卜《ウラ》ふなるへし譬へは足數《アシノカス》の※[藕の草冠なし]《ハタチ》なるときは思ふ人に逢へく奇《トヲ》なるときは逢へからすと豫《カネ》て誓《ウケ》ひて物するなるへし
 
同大孃贈2家持1歌二首
 
737 云々人者雖云若狹道乃後瀬山之後毛將念君《カニカクニヒトハイフトモワカサチノノチセノヤマノノチモアハムキミ》
 
後瀬(ノ)山 國人に聞へし念は會の誤(リ)
 
738 世間之苦物爾有家良久戀二不勝而可死念者《ヨノナカノクルシキモノニアリケラクコヒニタヘステシヌヘキオモヘハ》
 
又家持和2坂上大孃1歌二首
 
739 後湍山後毛將相當念社可死物乎至今日毛生有《ノチセヤマノチモアハムトオモヘコソシヌヘキモノヲケフマテモイケレ》
 
740 事耳乎後手相跡懃吾乎令憑而不相可聞《コトノミヲノチモアハムトネモコロニアレヲタノメテアハサラメカモ》
 
事《コト》は言《コト》手は毛《モ》の誤(リ)
 
更大伴宿禰家持贈2坂上大孃1歌十五首
 
741 夢之相者苦有家里覺而掻探友手二毛不所觸者《イメノアヒハクルシカリケリオトロキテカキサクレトモテニモフレネハ》
 
遊仙窟に少時睡則夢見2十娘1驚(キ)覺(メテ)攪《カキサクレハ》之忽然空v手
 
742 一重耳妹之將結帶乎尚三重可結吾身者成《ヒトヘノミイモカユヒナムオヒヲスラミヘニユフヘクアカミハナリヌ》
 
同し物に日々衣|寛《ユルヒ》朝々帶|緩《ユルフ》
 
743 吾戀者千引乃石乎七許頸二將繋母《アカコヒハチヒキノイハヲナヽハカリクヒニカケムモ》神之諸伏
 
結句|詳《サタカ》ならす
 
(314)744 暮去者屋戸開設而吾將待夢爾相見二將來云比登乎《ユフサラハヤトアケマケテアレマタムイメニアヒミニコムトイフヒトヲ》
 
遊仙窟に今宵莫(レ)閇(サスルコト)v戸(ヲ)夢裏向(ハム)2渠《キミ・カレ》邊《カアタリニ》1
 
745 朝夕二將見時左倍也吾妹子之雖見如不見由戀四家武《アサヨヒニミムトキサヘヤワキモコカミトモミヌコトナホコヒシケム》
 
746 生有代爾吾者未見事絶而如是※[立心偏+可]怜縫流嚢者《イケルヨニアハイマタミスコトタエテカクオモシロクヌヘルフクロハ》
 
事《コト》は言《コト》
 
747 吾妹兒之形見乃服下着而直相左右者吾將脱八方《ワキモコカカタミノコロモシタニキテタヽニアフマテハアレヌカメヤモ》
 
748 戀死六其毛同曾奈何爲二人目他言辭痛吾將爲《コヒシナムソレモオナシソナニセムニヒトメヒトコトコチタミアカセム》
 
749 夢二谷所見者社有如此許不所見有者戀而死跡香《イメニタニミエハコソアラメカクハカリミエステアルハコヒテシネトカ》
 
750 念絶和備西物尾中々爾奈何辛苦相見始兼《オモヒタエワヒニシモノヲナカナカニナニカクルシクアヒミソメケム》
 
和備は泣々《ナク/\》思ひ絶《タユ》る意なり下に遠《トホ》有《ナ・カ》者和備而毛有乎里近有常聞乍不見之爲便奈沙《ハワヒテモアラムヲサトチカクアリトキヽツヽミヌカスヘナサ》古今集【戀五】に今しはとわひにしものをさゝかにの衣にかゝり我をたのむる
 
751 相見而者幾日毛不經乎幾許久毛久流比爾久流必所念鴨《アヒミテハイクカモヘヌヲコヽタクモクルヒニクルヒオモホユルカモ》
 
752 如是許面影耳所念者何如將爲人目繁而《カク|ハカ《0−》リオモカケノミニオモホヘハイカニカモセムヒトメシケクテ》
 
753 相見者須臾戀者奈木六香登雖念彌戀益來《アヒミテハシマシモコヒハナキムカトオモヘトイヨヽコヒマサリケリ》
 
754 夜之穗杼呂吾出而來者吾妹子之念有四九四面影二三湯《ヨノホトロワカイテテクレハワキモコカオモヘリシクシオモカケニミユ》
頭注、 ○四(ノ)句狂ひに狂ひに來日《クルヒ》に來日《クルヒ》を兼(ヌ)
初句 明離《アケハナ》るゝ際《キハ》を云上(ニ)出(ツ)【新考八の】 四(ノ)句久四は助辭
 
755 夜之穂杼呂出都追來良久遍多數成者吾※[匈/月]截燒如《ヨノホトロイテツツクラクタヒマネクナレハアカムネキリヤクカコト》
 
遊仙窟に未2曾飲1v炭1腹熱如v燒不v憶v呑v刃腸穿似v割
 
大伴田村家之大孃贈2妹坂上大孃1歌四首
 
756 外居而戀者苦吾妹子乎次相見六事計爲與《ヨソニヰテコフルハクルシワキモコヲツキテアヒミムコトハカリセヨ》
 
許《ハカリ》は計《ハカリ》
 
757 遠有者和備而毛有乎里近有常聞乍不見之爲便奈沙《トホナラハワヒテモアラムヲサトチカクアリトキヽツヽミヌカスヘナサ》
 
和備 泣々《ナク/\》思ひ絶《タユ》るなり
 
758 白雲之多奈引山之高々二吾念妹乎將見因毛我母《シラクモノタナヒクヤマノタカ/\ニアカオモフイモヲミムヨシモカモ》
 
本居翁(ノ)云(ク)高々二は仰き望む意よりいふ言なり仰き乞祈《コヒノミ》なとの仰《アフキ》の意にて乞(ヒ)願ふ意あり常に物を願ふことを望むと云も高きを望むより出たり十二に十五日出之《モチノヒニイテニシ》月乃高高爾君乎|座而何物《イマセナニ》乎加將念と所作《ヨメ》るも望み願へる如く君を待得たりとの意なり
 
759 何時爾加妹乎牟具良布能穢屋戸爾入將座《イカナラムトキニカイモヲムクラフノイヤシキヤトニイリマサセナム》
 
右田〔右○〕村(ノ)大孃《ヲトメ》坂(ノ)上(ノ)大孃《ヲトメ》并是右大辨大伴宿奈麻呂卿之女也卿(ト)2居(リ)田村(ノ)里(ニ)1号2曰田村大孃1但妹坂上大孃者母(ト)2居(リ)坂(ノ)上(ノ)里(ニ)1仍曰2坂上大孃1于v時姉妹諮問以v歌贈答
(315)頭注 ○十九に牟具良波布伊也之伎屋戸母
田村 姓氏録【吉田連條】に奈良京田村里續紀十八に藤原仲麻呂(ノ)田村(ノ)第廿に田村(ノ)宮卅七に田村(ノ)後宮なと有(リ)○坂上 上(ニ)出(ツ)【新考十一の】
 
大伴坂上郎女從2竹田(ノ)庄《ナリトコロ》1贈2賜女子大孃1歌二首
 
帳に十市郡竹田神社大孃は坂上大孃
 
760 打渡竹田之原爾鳴鶴之間無時無吾戀良久波《ウチワタスタケタノハラニナクタツノマナクトキナシアカコフラクハ》
 
打渡 遠く打見渡すなり古今集に打渡す遠方人に
 
761 早河之湍爾居鳥之縁乎奈彌念而有師吾兒羽裳※[立心偏+可]怜《ハヤカハノセニヰルトリノヨシヲナミオモヒテアリシアカコハモアハレ》
 
早河の瀬に集《ヰ》る鳥は草木|等《ナト》の憑《タノ》む縁處《ヨスカ》も無(キ)なり
 
紀女郎贈2大伴宿禰家持1歌二首【女郎名曰2小鹿1也】
 
此人上(ニ)出(ツ)【新考十二の】
 
762 神左夫跡不欲者不有八多也八多如是爲而後二佐夫之家牟可聞《カムサフトイナニハアラスハタヤハタカクシテノチニサブシケムカモ》
 
神左夫跡 神進《カムサヒ》より意|大《イタ》く轉りて物舊り氣疎《ケウト》くなるに云り上に※[女+感]嬬等之珠篋有玉櫛乃神家武毛妹爾阿波受有者《ヲトメラカタマクシケナルタマクシノカミサヒケムモイモニアハスアレハ》に神佐夫等|不許者不有《イナニハアラス》秋草乃結之紐乎|解《トカ》者悲|哭《モ》十に石上振乃神杉○神|成戀我更爲鴨《》サヒテコヒヲモアレハサラニスルカモこゝも齡《トシ》老ぬとての意なり四(ノ)句|許容《ユル》して後になり五(ノ)句將忘られむかなり十六に痩々母生者將在乎《ヤス/\モイケラハアラムヲ》波多也波多武奈伎乎|漁取跡河爾流勿《トルトカハニナカユナ》
頭注、 ○神佐備而|吾八《アレヤ》質吏戀爾相爾家留十一に石上振神杉
 
763 玉緒乎沫緒二搓而結有者在手後二毛不相在目八方《タマノヲヲアワヲニヨリテムスヘレハアリテノチニモアハサラメヤモ》
 
玉緒乎※[手偏+差]而沫緒二結有者《タマノヲヲヨリテアワヲニムスヘレハ》の意なり沫《アハ》は結《ムスヒ》の名なれはなり略解(ニ)云(ク)此《コ》を訛《ヨコナマ》りて今はあはひむすひ又あはちむすひなと云なり此歌を伊勢物語【三十五段】には絶《タエ》てののちもとあり拾遺集【雜春】に春くれは瀧の白糸いかなれやむすへともなほあわに見ゆらむ枕冊子にうすこほりあわにむすへるひもなれはかさすひかけにゆるふはかりをと有も是なり【以上】こは上下兩處にてむすふなるへし上《カミ》のむすひとけても下《シモ》にてあひ緒の中(カ)絶(エ)ても下《シモ》にて會へは在手後二毛不相在目八方《アリテノチニモアハサラメヤモ》とも伊勢物語には絶(エ)て後にもとも云るなるへし
 
大伴宿禰家持和歌一首
 
764 百年爾老舌出而與余牟友吾者不厭戀者益友《モヽトセニオイシタイテヽヨヨムトモアレハイトハシコヒハマストモ》
 
(316)在2久邇《クニノ》京1思d留2寧樂宅1坂上大孃u大伴宿禰家持作歌一首
 
聖武紀に天平十二年寧樂(ノ)京を停《トヽ》めて山城國|相樂《サカラカノ》郡|久邇《クニ》京に遷さるゝ事見ゆ寧樂(ノ)宅は家持(ノ)家なり
 
765 一隅山重成物乎月夜好見門爾出立妹可將待《ヒトヘヤマヘナレルモノヲツクヨヨミカトニイテタチイモカマツラム》
 
重爾在《ヘナル》の用言
 
藤原郎女聞之即和歌一首
 
此人|詳《サタカ》ならす
 
766 路遠不來常波知有物可良爾然曾將待君之目乎保利《ミチトホニコシトハシレルモノカラニシカソマツラムキミカメヲホリ》
 
所見《ミエ》を欲《ホ》りなり
 
大伴宿禰家持更贈2大孃1歌二首
 
767 都路乎遠哉妹之比來者得飼飯而雖宿夢爾不所見來《ミヤコチヲトホミヤイモカコノコロハウケヒテヌレトイメニミエコヌ》
 
都路は久邇(ノ)新京と寧樂(ノ)故京との通路|得飼飯《ウケヒ》は誓《ウケヒ》誓《ウケヒ》は盞結《ウキユヒ》の約言なり古事記【八千矛神段】に爾《コヽニ》其后取2大御酒坏1立依(リ)指擧而歌曰《サヽケテウタヒタマハク》云々|如此歌《カクウタヒテ》即(チ)爲(シテ)2宇伎由比1而宇那賀氣理弖至(ルマテ)v今(ニ)鎭坐也《シツマリマス》とある宇伎由比は盞結《ウキユヒ》にて大名持(ノ)神と須勢理毘賣(ノ)神と夫婦《イモセ》の固めに飲(ミ)更《カハ》したまへる大御酒を云り結《ユヒ》は固むるなり是(レ)即《ヤカテ》今(ノ)世にいたるまて夫婦《イモセ》の始(メ)にものする縁故《コトノモト》なり又|盟《》は血飼《チカヒチカヒ》にて古言にあらす漢籍より出たるなりそは彼《カシコ》にて盟と云ことをすなるは牲を殺しその血を歃《スヽ》りあふなるか忌々《イマ/\》しけれは貶《オト》しめて牛馬|等《ナト》の秣飼《クサカフ》水飼《ミツカフ》の類(ヒ)に血飼《チカフ》とは云るにて漢籍に限れる訓《ヨミ》なりしを後にはいひならへるまゝにうけひをもちかひと云ことになりて六帖にちかふと云る題さへ有てその分別《ワカチ》なくなりにたるになむ
 
768 今所知久邇乃京爾妹二不相久成行而早見奈《イマシラスクニノミヤコニイモニアハスヒサシクナリヌユキテハヤミナ》
 
見奈《ミナ》は將見《ミム》なり
 
大伴宿禰家持報2贈紀女郎1歌一首
 
769 久堅之雨之落日乎直獨山邊爾居者欝有來《ヒサカタノアメノフルヒヲタヽヒトリヤマヘニヲレハイフセカリケリ》
 
大伴宿禰家持從2久邇京1贈2坂上大孃1歌五首
 
770 人眼多見不相耳曾情左倍妹乎忘而吾念莫國《ヒトメオホミアハサルノミソコヽロサヘイモヲワスレテアカオモハナクニ》
 
771 僞毛似付而曾爲流打布裳眞吾妹兒吾爾戀目八《イツハリモニツキテソスルウツシクモマコトワキモコアレニコヒメヤ》
 
似付《ニツカ》はしき僞(リ)こそあらめ現《ウツ》しくも眞《マコト》に言の如く吾(レ)を戀(ヒ)めやはなり
 
772 夢尓谷將所見常吾者保杼毛友不相志思 諾不所見有武《イメニタニミエムトアレハホトケトモアヒシモハネハウヘミエサラム》
 
(317)其方《ソナタ》の夢にたに所見《ミエ》むと吾(レ)は施《ホトコ》せともなり
 
773 事不問木尚味狹監諸茅等之練乃村戸二所詐來《コトトハヌキスラアチサヰモロチラカネリノムラトニアサムカレケリ》
 
監は藍の誤
 
774 百千遍戀跡云友諸茅等之練乃言羽志吾波不信《モヽチタヒコフトイフトモモロチラカネリノコトハシアレハタノマス》
 
略解(ニ)云(ク)此(ノ)二首當時の諺か或《マタ》は古事|等《ナト》なるへし今解(ク)へからす【以上】強て云むに練《ネリ》は丁寧反復《ネモコロ》なること村戸《ムラト》は虚言《ムナコト》にて巧(ミ)に僞るをいふにや
 
大伴宿禰家持贈2紀女郎1歌一首
 
775 鶉鳴故郷從念友何如裳妹爾相縁毛無寸《ウツラナクフリニシサトユオモヘトモナニソモイモニアフヨシモナキ》
 
冠辭考(ニ)云(ク)鶉《ウツラ》は荒野のものなり郷《サト》の荒(レ)て野になりぬるよしなり【以上】寧樂(ノ)故郷に在し時より念へともなり
 
紀女郎報2贈家持1歌一首
 
776 事出之者誰言爾有鹿小山田之苗代水乃中與杼爾四手《コトテシハタカコトナルカヲヤマタノナハシロミツノナカヨトニシテ》
 
事《コト》は言《コト》
 
大伴宿禰家持更贈2紀女郎1歌五首
 
777 吾妹子之屋戸乃※[竹/巴]乎見爾往者蓋從門將返却可門《ワキモコカヤトノマカキヲミニユカハケタシカトヨリカヘシナムカモ》
 
778 打妙爾前垣乃酢堅欲見將行常云哉君乎見爾許曾《ウツタヘニマカキノスカタミマクホリユカムトイヘヤキミヲミニコソ》
 
頭注、 ○新京の新(ヒ)室(ロ)に籬《マカキ》解を風流《ミヤヒ》に結(ヒ)たるなるへし次(ノ)歌に板盖《イタフキ》黒木のよし見ゆ風流《ミヤヒ》のほと推(シ)量るへし
 
打妙爾《ウツタヘニ》 最偏爾《イトヒトヘニ》なり
 
779 板蓋之黒木乃屋根者山近之明日取而持將參來《イタフキノクロキノヤネハヤマチカシアケムヒトリテモテマヰリコム》
 
黒木は皮なからなるにて柱(ラ)の料なり黒木(ノ)柱(ラ)板蓋《イタフキノ》屋根をかくてきこゆるさはいへとなほ古語《フルコト》の文章《アヤ》なり新京にて女郎の新(ヒ)室(ロ)屋なるへし山近|之《シ》は家持の處よりなり持將參來《モテマヰリコム》は往(カ)むを來《コ》むと云る古言
 
780 黒樹取草毛刈乍仕目利勤知氣登將譽十方不在《クロキトリカヤモカリツヽツカヘメトイソシキワケトホメムトモアラス》【一云仕(フ)登毛】
 
知は和の誤(リ)和氣《ワケ》は賤(キ)者の稱《ナ》上(ニ)出(ツ)【新考五十二の】
 
781 野干玉能昨日者令還今夜左倍吾乎還莫路之長手呼《ヌハタマノキノフハカヘスコヨヒサヘアレヲカヘスナミチノナカテヲ》
 
路之長路《ミチノナカチ》なり
 
紀女郎|※[果/衣]物《ツトノモノヲ》贈v友歌一首【女郎名曰2小鹿1也】
 
782 風高邊者雖吹爲妹袖左倍所沾而刈流玉藻烏《カセタカクヘニハフケレトイモカタメソテサヘヌレテカレルタマモソ》
 
烏は焉の誤(リ)
 
大伴宿禰家持贈2娘子1歌三首
 
783 前年之先年從至今年戀跡奈何毛妹爾相難《ヲトヽシノサキツトシヨリコトシマテコフレトナソモイモニアヒカタキ》
 
784 打乍二波更毛不得言夢谷妹之手本乎纏宿常思見者《ウツヽニハサラニモイハスイメニタニイモカタモトヲマキヌトシミハ》
 
(318)785 吾屋戸之草上白久置露乃壽母不有惜妹爾不相有者《アカヤトノクサノヘシロクオクツユノイノチモヲシカラスイモニアハサレハ》
 
大伴宿禰家持報2贈藤原朝臣久須麻呂1歌三首
 
淡路天皇紀に天平寶字二年八月庚子正六位下藤原朝臣久須麻呂授2從五位下1三年五月壬午任2美濃守1六月庚戌叙2從四位下1【超叙】五年正月壬寅大和守六年八月丁巳の紀に左右京尹とあり十二月乙巳拜2參議1七年四月丁亥兼丹波守左右京尹如v故八年九月乙巳太師藤原惠美朝臣押勝逆謀頗泄高野天皇遣2少納言山村王1收2中宮院鈴印1押勝聞之令2其男訓儒麻呂等(ニ)※[しんにょう+激の旁]《サヘキリテ》而奪1之天皇遣2授刀少尉坂上苅田麻呂將曹牡鹿嶋足等1射而殺之とあり久須麻呂とも訓儒麻呂とも書たり押勝(ノ)二男なり
 
786 春之雨者彌布落爾梅花未咲久伊等若見可聞《ハルノアメハイヤシキフルニウメノハナイマタサカナクイトワカミカモ》
 
布《シキ》は繁《シキ》なり久須麻呂(ノ)妹|等《ナト》のいまた幼《ワカ》きを懸想《オモヒカケ》たるなるへし
 
787 如夢所念鴨愛八師君之使乃麻禰久通者《イメノコトオモホユルカモハシキヤシキミカツカヒノマネクカヨヘハ》
 
夢かと思ふはかり喜《ウレ》しくめつらしきなり
 
788 浦若見花咲難寸梅乎殖而人之事重三念曽吾為類《ウラワカミハナサキカタキウメヲウヱテヒトノコトシケミオモヒソアカスル》
 
事《コト》は言《コト》
 
又家持贈2藤原朝臣久須麻呂1歌二首
 
789 情八十一所念可聞春霞輕引時二事之通者《コヽロククオモホユルカモハルカスミタナヒクトキニコトノカヨヘハ》
 
八十一《クク》は籠りて明らかならぬ意の言なり上(ニ)出(ツ) 娘子《ヲトメ》の幼《ワカ》くていまたしき故に待かねて情《コヽロ》の欝悒《オホホ》しきなり
 
790 春風之聲爾四出名者有去而不有今友君之隨意《ハルカセノオトニシイテナハアリサリテイマナラストモキミカマニ/\》
 
藤原朝臣久須麻呂來報歌二首
 
791 奧山之磐影爾生流菅根乃懃吾毛不相念有哉《オクヤマノイハカケニオフルスカノネノネムコロアレモアヒオモハサレヤ》
 
792 春雨乎待常二師有四吾屋戸之若木乃梅毛未含有《ハルサメヲマツトニシアラシアカヤトノワカキノウメモイマタフヽメリ》
 
萬葉集卷第四終
 
(319)萬葉集新考 二十四
 
萬菓集卷第十一
 
古今相聞往來歌類之上
 
旋頭歌十七首
正述心緒歌百四十九首
寄物陳思歌三百二首【二百八十二首あり二十首足らす】
問答歌二十九首
譬喩歌十三首
 
旋頭歌
 
2351 新堂壁草刈邇御座給根草如依逢未通女者公隨《ニヒムロノカヘクサカリニイマシタマハネクサノコトヨリアフヲトメハキミカマニ/\》
 
壁草《カヘクサ》は土に雜へて壁に塗《ヌ》る草なり今(ノ)世にも然(カ)すさてそは苅(リ)にゆくものなれば苅(リ)に御座給根《イマシタマハネ》とつゝけて實(ト)ハ吾(カ)新(ヒ)室(ロ)に御座給根《イマシタマハネ》の意(ロ)なるを壁草苅邇《カヘクサカリニ》と云(ヘ)る序を置たるなりこは女子《ムスメ》もたる人の婿《ムコ》取らまく欲(リ)する郎子《ヲトコ》に念ふ慮《コヽロ》を髣髴《ホノ》めかし謂(ヒ)贈れる歌にして四五六句の意は草はよく靡き寄り合ふ物なれは吾(カ)娘子《ヲトメ》の公《キミカ》隨《マニ/\》靡き寄り合(ハ)むその意なり
 
2352 新室蹈靜子之手玉鳴裳玉如所照公乎内等白世《ニヒムロヲフミシツノコカタタマナラスモタマノコトテリタルキミヲウチヘトマヲセ》
 
新室地《ニヒムロトコロ》を蹈(ミ)鎭(ツ)むるを倭文子《シツノコ》にいひかけたるなり倭文《シツ》は上古の美《メテタ》き文服《アヤハタ》なれは愛《メテタ》くする子に譬へたるにて十三にしきたへの子十六にあり衣《キヌ》の寶(ラ)の子なと有(ル)に同し手玉鳴裳《タタマナラスモ》はこの鳴る響《オト》は彼(ノ)子の手玉なるそと外《ト》なる郎子《ヲトコ》に令知《シラス》る詞なりこは既に郎子の來りて亦彼(ノ)父の作《ヨミ》て唱《ウタ》へるなるへし四五六(ノ)句|郎君《マラヒト》を内に入(リ)給へと白《マヲ》せよと侍《サモラ》ふ者に命《オフ》する詞にて即《ヤカテ》唱《ウタ》ひて客《マラヒト》に令聞《キコユ》るなるへし此(ノ)二首もて上古の婿取《ムコトリ》の状《サマ》大方知らるめり新室もその夫婦屋料《ツマヤカネ》なるへし
 
2353 長谷弓槻下吾隱在妻赤根刺所光月夜邇人見點鴨 《ハツセノユツキカモトニアカカクセルツマアカネサシテレルツクヨニヒトミテムカモ》 一云人見豆良牟可
 
弓槻《ユツキ》は五百箇槻《ユツツキ》にて枝の多きを云り五百津楓《ユツカツラ》五百津眞坂樹《ユツマサカキ》の例《タクヒ》なり長谷《ハツセ》にさる木《コ》深き槻のあれは深く隱せる妻を云む料《タメ》の一二(ノ)句は序なり【さる處に實《マコト》に隱せるには非】赤根刺所光月夜邇《アカネサシテレルツクヨニ》も顯《アラハ》に隱れ旡く人見點鴨《ヒトミテムカモ》を云(ハ)む料(メ)にて亦(タ)序なり木隱《コカクレ》も月に隈旡く見ゆるものなれはなり
 
(320)2354 健男之念亂而隱在其妻天地通雖光所顯目八方《マスラヲノオモヒミタレテカクセルソノツマアメツチニトホリテルトモアラハエメヤモ》
一云|丈夫《マスラヲ》乃思(ヒ)多鷄備※[氏/一]
 
右の和《コタヘ》にて其(ノ)妻とは右(ノ)歌を承(ケ)て他人《ヒト》より云る詞なれはなり天地通雖光《アメツチニトホリテルトモ》は右の赤根刺(シ)所光《テレル》月夜|邇《ニ》とは意(ロ)を易(ヘ)て其(ノ)妻の美貌《カホヨ》くて天地(ニ)通(リ)雖光《テルトモ》ますら男《ヲ》の念(ヒ)亂(レ)て隱せるなれは所顯日八方《アラハエメヤモ》よに顯るゝことあらしと慰《ナクサ》め助けたるなり上世《カミツヨ》の朋友《トモ》の交《アハヒ》は如此《カク》しもこそ有けれ古人の歌は僞らねは其(ノ)時代の人の情《コヽロ》はへも知らるゝをこの十一十二十三(ノ)卷は殊(ト)なる古(ル)歌(タ)等《トモ》なるか故に歌の秀《ヨ》きのみならす眞情《マコヽロ》はへに知られていとたふとし
 
2355 惠得吾念妹者早裳死耶雖生吾邇應依人云名國《ウツクシトアカオモフイモハハヤモスキネヤイケリトモアレニヨルヘシトヒトノイハナクニ》
 
2356 狛錦紐片叙床落邇祁留明夜志將來待云者取置待《コマニシキヒモノカタヘソトコニオチニケルアスノヨシコムトイヘレハトリオキテマタム》
 
2357 朝戸出公足結乎閏露原早起出乍吾毛裳下閏奈《アサトイテノキミカアユヒヲヌラスツユハラハヤオキテイテツヽアレモモスソヌラサナ》
夫《ヲトコ》の閏《ヌ》るゝか情苦《コヽロクル》しさになり足結《アユヒ》は男|裳《モ》は女の服《モノ》
 
2358 何爲命本名永欲爲雖生吾念妹安可相《ナニセムニイノチヲモトナナカクホリセムイケリトモアカオモフイモニヤスクアハナクニ》
 
2359 息緒吾雖念人目多社吹風有數數應相物《》イキノヲニアレハオモヘトヒトメオホミフクカセニアラハシハシハアフヘキモノヲ
 
息緒《イキノヲ》は命(チ)なり命に縣(ケ)てなり
 
2360 人祖未通女兒居守山邊柄朝朝通公可來哀《ヒトノオヤノヲトメコスエテモルヤマヘカラアサナサナカヨヒシキミカコネハカナシモ》
 
祖《オヤ》は母《ハヽ》なり祖《オヤ》とは專《ムネ》と母を云る例なりさて一二(ノ)句は守(ル)の序にして守(ル)山は明日香の神奈備なるへし十三に
 
三諸者人之守山本邊者馬醉木花開末邊方椿花開浦妙山曾泣く兒守山《ミモロハヒトノモルヤマモトヘハアシヒハナサキスヱヘハツハキハナサクウラクハシヤマソナクコモルヤマ》これ明日香の神奈備の三諸を守(ル)山と云るなり且《マタ》人之守(ル)山とも泣(ク)兒守(ル)山とも云るも此《コヽ》に人祖未通女兒居守山《ヒトノオヤノヲトメコスヱテモルヤマ》といひかけたるも皆此山を齋《ハ》ひ守ることにて泣兒を守《モ》る如く處女を守る如く慈愛《ウツク》しみ育《ナセ》る山の意にて云る趣《サマ》同しけれは此《コヽ》の守山も同し地《トコロ》なるへし神山の清淨《キヨ》く美麗《ウルハ》しかりしこと思へし
 
2361 天在一棚橋何將行穉草妻所云足莊嚴《アメナルヒトツタナハシイカテカユカムワカクサノツマカリトイヘハアユヒナタスモ》
 
棚橋は棚の如く板を渡せるなり天在《アメナル》とは十に機※[足+搨の旁]木持往而天河打橋度公之來爲《ハタモノヽフミキモテユキテアマノカハウナハシワタスキミカコムタメ》とある意にて星逢のことを思へるなりさて一(ツ)棚橋は板《イタ》一枚《ヒトヒラ》にて狹《セマ》く危(フ)けれは渡り難き橋なるを妻所《ツマカリ》といへは可恐きをも忘れて足結《アユヒ》して出(テ)立(タ)るゝとなり多多須を奈太須と云るは調《シラヘ》に依(リ)てなり又多多須は多都なり
 
2362 開木代來背若子欲云余相狹丸吾欲云開木代來背《ヤマシロノクセノワクコカホシトイフアヲアフサワニアヲホシトイフヤマシロノクセ》
 
(321)開木代《ヤマシロ》と書(ク)よしは上【新考八の】に云り來背《クセ》は久世《クセノ》郡○欲云余《ホシトイフアヲ》 余《ア》を妻に欲しと云なり○相狹丸《アフサワニ》 溢騷爾《アフサワニ》なり娉《ツマトヒ》は密《シノ》ひやかなるへきを誇《ホコ》りかに騷《サハ》めくを云り八に棹四香能芽二貫置有露之白珠相佐和仁誰人可毛手爾將卷知布《サヲシカノハリニヌキオケルツユノシラタマアフサワニタレノヒトカモテニマカムチフ》これも凡《オ》ろかならす鹿の爲置《シオケ》る露の玉なるものを吾(レ)は面《カホ》に手に卷(カ)むと云は誰《タ》そと難《トカ》めたるにて意通へり○吾欲云開木代來背《アヲホシトイフヤマシロノクセ》 再ひ云るはいよいよ疎《ウト》めるなり※[うがんむり/取]《イト》品旡《シナナ》き田舍《ヰナカ》の富豪者《トミヒト》めきて主《ウケ》張(リ)たる面特《オモモチ》の状《サマ》久世(ノ)郡司の子|等《トモ》なとなるへし來背といへは其(ノ)人に掲焉《イチシル》なるへし源氏(ノ)物語玉蔓(ノ)卷なる筑紫の監《ケム》かありさまに似て田舍に在て累代《ヨヽ》の酋長《ヒトコノカミ》なるものを嘲《アサケ》り嫌《キラ》へる京の良き婦人《ヲミナ》の歌と聞ゆ
 
右十二首柿本朝臣人麻呂之歌集出
 
人麻呂のもたる古歌集なること例のことし
 
2363 崗前多未足道乎人莫通在乍毛公之來曲道爲《ヲカノサキタミタルミチヲヒトナカヨヒソアリツヽモキミカキマサムヨキミチニセム》
 
多未足《タミタル》は回《タミ》たるにて折(リ)曲(カ)れるなり在乍毛《アリツヽモ》は在(リ)在(リ)つゝもなり曲道《ヨキミチ》は除道《ヨキミチ》にて他人《ヒト》を行(カ)しめす除《ヨ》きて置く間道《チカミチ》なり
 
2364 玉垂小簾之寸鷄吉仁入通來根足乳根之母我問者風跡將申《タマタレノヲスノスケキニイリカヨヒコネタラチネノハヽカトハサハカセトマヲサム》
 
玉垂《タマタレノ》 緒の意につゝくる枕詞寸鷄吉は透《スキ》なり仁《ニ》は從《ヨリ》の意|問者《トハサハ》は問たまはゝなり如此《カク》はかなくこそ歌のよきはあるなれ
 
2365 内日左須宮道爾相之人妻※[女+后]玉緒之念亂而宿夜四曾多寸《ウチヒサスミヤチニアヒシヒトツマユヱニタマノヲノオモヒミタレテ ヌルヨシソオホキ》
 
他妻《ヒトツマ》なるものをなり※[女+后](ノ)字考へし
 
2366 眞十鏡見之賀登念妹相可聞玉緒之絶有戀之繁比者《》マソカヽミミテシカトオモフイモニアハムカモタマノヲノタエタルコヒノシケキコノコロ
 
見之賀《ミテシカ》は見てし欲《カ》なり○絶有戀之《タエタルコヒノ》 中(カ)頃(ロ)止(ミ)たりしなり
 
2367 海原乃路爾乘哉吾戀居大舟之由多爾將有人兒由惠爾《ウナハラノミチニノリテヤアカコヒヲラムオホフネノユタニアルラムヒトノコユヱニ》
 
海原乃路爾乘哉吾戀居 危き譬(ヘ)なり○大舟之由多爾將有 大舟は動搖《ユタ》の意なるを言《コト》通はして寛緩《ユタ》の意に用ひたるなり○人兒由惠爾 由惠爾はなるものをの意なり○一首の意は物思はす寛緩《ユタ》にあるらむ人なるものを吾は切《ワリナ》く危き目を見なから戀居るかなとなり
 
右五首古歌集中出
 
正《タヽニ》述2心緒1
 
2368 垂乳根之母之手放如是許無爲便事者未爲國《タラチネノハヽノテハナレカクハカリスヘナキコトハイマタセナクニ》
 
(322)2369 人所寐味宿可不早敷八四公目尚欲嘆《ヒトノヌルウマネハネスニハシキヤシキミカメスラヲホリテナケクモ》
 
公目尚《キミカメスラヲ》 目《メ》は所見《ミエ》にて逢(ヒ)見(ル)を云(フ)尚《スラ》は其《ソレ》なり【此言の意新考七の】
 
或本歌云公(ヲ)矣思(フ)爾|曉來《アケニケル》鴨
 
2370 戀死戀死耶玉鉾路行人事告旡《コヒシナハコヒモシネトヤタマホコノミチユキヒトニコトモツケナキ》
 
事《コト》は言《コト》
 
2371 心千遍雖念人不云吾戀※[女+麗]見依鴨《コヽロニハチタヒオモヘトヒトニイハヌアカコヒツマヲミムヨシモカモ》
 
2372 是量戀物知者遠可見有物《カクハカリコヒムモノソトシラマセハトホクミルヘクアリケルモノヲ》
 
2373 何時不戀時雖不有夕方※[手偏+王]戀無乏《イツハトハコヒヌトキトハアラネトモユフカタマケテコヒハスヘナシ》
 
※[手偏+王]《マケテ》は向《ムケ》てなり無乏は爲方無《スヘナシ》の熟字
 
2374 是耳戀度玉切不知命歳經管《カクノミニコヒヤワタラムタマキハルイノチモシラストシハヘニツヽ》
 
2375 吾以後所生人如我戀爲道相與勿湯目《アレユノチウマレムヒトモワカコトクコヒスルミチニアヒコスナユメ》
 
與は乞の誤(リ)與乞草書似たり
 
2376 健男現心吾無夜晝不云戀度《マスラヲノウツシコヽロモアレハナシヨルヒルイハスコヒシワタレハ》
 
2377 何爲命繼吾妹不戀前死物《ナニストカイノチツキケムワキモコニコヒセヌサキニシナマシモノヲ》
 
2378 吉惠哉不來座公何爲不厭吾戀乍居《ヨシヱヤシキマサヌキミヲナニセムニイトハスアレハコヒツヽヲラム》
 
初句|縱《ヨシ》今は戀(ヒ)じなり
 
2379 見度近渡乎回今哉來座戀乍居《ミワタシノチカキワタリヲタモトホリイマヤキマストコヒツツソヲル》
 
見渡しの近き當りを待(チ)可得《カヌ》るは蓋《モ》し人目を避け直道《タヽチ》を除《ヨ》き回《モトホ》りて今や來坐(ス)と戀|乍《ツヽ》居(リ)となり
 
2380 早敷哉誰障鴨玉桙路見遺公可來座《ハシキヤシタカサフレカモタマホコノミチミワスレテキミカキマサヌ》
 
愛《ハシ》きやしは公《キミ》に懸る詞
 
2381 公目見欲是二夜千歳如吾戀哉《キミカメヲミマクホリシテコノフタヨチトセノコトクアカコフルカモ》
 
2382 打日刺宮道人雖滿行吾念公正一人《ウチヒサスミヤチヲヒトハミチユケトアカオモフキミハタヽヒトリノミ》
 
2383 世中常如雖念半手不忘猶戀在《ヨノナカハツネカクノミトオモヘトモハタワスラエスナホコヒニケリ》
 
此以下《コヽヨリシモ》三首挽歌なり同人の作歌《ウタ》なるへし
 
2384 吾勢古波幸座遍來我告來人來鴨《アカセコハサキクイマストカヘリキテアレニツケコムヒトモコヌカモ》
 
葬(リ)を送(リ)し人の遍來《カヘリキテ》なり
 
2385 鹿玉五年雖經吾戀跡無戀不止恠《アラタマノイツトセフレトアカコフルシルシナキコヒヤマナクモアヤシ》
 
死《ナクナリ》しょり五年なり跡無《シルシナキ》戀も亡人《ナキヒト》なれはなり
 
2386 石尚行應通建男戀云事後悔在《イハヲスラユキトホルヘキマスラヲモコヒトフコトハノチクイニケリ》
 
2387 日位人可知今日如千歳有與鴨《ヒクレナハヒトシリヌヘミケフノヒノチトセノコトクアリコセヌカモ》
 
故《ユエ》有(リ)しなるへし與は例の乞の誤
 
2388 立座態不知雖念妹不告間使不來《タチテヰルタツキモシラニオモヘトモイモニツケネハマツカヒモコス》
 
2389 烏玉是夜莫明朱引朝行公待苦《ヌハタマノコノヨナアケソアカラヒクアサユクキミヲマタハクルシモ》
 
朱引《アカラヒク》 赤き光映《ニホヒ》のたなひくなり
 
2390 戀爲死爲物有者我身千遍死反《コヒスルニシニスルモノニアラマセハアカミハチタヒシニカヘラマシ》
 
(323)2391 玉響昨夕見物今朝可戀物《タマユラニキノフノユフヘミシモノヲケフノアシタニコフヘキモノカ》
 
玉響《タマユラ》は程緩《タマユラ》にて間(タ)の遠くたまさかなるを云り【此(ノ)言の意新考二の】此(ノ)歌よひに逢てあしたに別るゝことをめてたく云るものかな
 
2392 中中不見有從相見戀心益念《ナカナカニミサリシヨリモアヒミレハコヒシキコヽロマシテオモホユ》
 
直々《ナホ/\》にてめてたし
 
2393 玉桙道不行爲有者惻隱此有戀不相《タマホコノミチユカスシテアラマセハネモコロカヽルコヒニハアハシ》
 
道にて見|始《ソメ》しなるへし
 
2394 朝影吾身成玉垣入風所見去子故《アサカケニアカミハナリヌカキロヒノホノカニミエテイニシコユヱニ》
 
朝影は朝日に移る人影なりそは薄く細くあるものなれは痩《ヤセ》たる身を譬へたるなり玉垣入は玉蜻乃《カキロヒノ》の誤(リ)さて朝はかきろひのたては詞の緑《ヨセ》なり此(ノ)歌もめてたしや
 
2395 行行不相妹故久方天露霜沾在哉《ユケトユケトアハヌイモユヱヒサカタノアメノツユシモニヌレニケルカモ》
 
此《コヽ》より次々《ツキ/\》都《スヘ》て悉《ミナ》めてたし
 
2396 玉坂吾見人何有依以亦一目見《タマサカニアカミシヒトヲイカナラムヨシヲモチテカマタヒトメミム》
 
依《ヨシ》は因《ヨシ》
 
2397 暫不見戀吾妹日々來事繁《シマシクモミネハコヒシキワキモコヲヒニヒニクレハコトノシケヽク》
 
事《コト》は言《コト》にて他人事《》ヒトコトなり
 
2398 年切乃世定恃公依事繁《タマキハルヨマテサタメテタノメタルキミニヨリテシコトノシケヽク》
 
齡《ヨ》の極《キハミ》令恃《タノメ》たるなり定《サタメテ》は契約《チキリ》しを云(フ)事《コト》は上(ミ)の如し
 
2399 朱引秦不經雖寐心異我不念《アカラヒクハタモフレステネタレトモコヽロヲケニハアカオモハナクニ》
 
朱引《アカラヒク》は赤き光映《ニホヒ》のたなひくにて朝の枕詞なるを此《コヽ》は引(ク)に意旡く丹穗《ニホ》へる膚《ハタ》なり故《ユヱ》有て膚《ハタ》ふれさりし故に夫《ヲトコ》を慰めたる歌なり
 
2400 伊田何極太甚利心及失念戀故《イテイカニネモコロ/\ニトコヽロノウスルマテオモフコフラクノユヱ》
 
2401 戀死戀死哉我妹吾家門過行《コヒシナハコヒモシネトヤワキモコカワキヘノカトヲスキテユクラム》
 
2402 妹當遠見者恠吾戀相依無《イモカアタリトホクミユレハアヤシクモアレハコフルカアフヨシヲナミ》
 
遠く見ゆれは戀しくなる心をみつから恠しみさてそは遠かれは逢よし無き故そと又みつから解(ク)なり
 
2403 玉久世清河原身祓爲齋命妹爲《タマクセノキヨキカハラニミソキシテイハフイノチモイモカタメナリ》
 
玉久世の地|詳《サタカ》ならす本居翁云玉は山の誤にて代を脱《オト》し又清も能の誤にて山|代《シロノ》久世能河原にやあらまし
 
2404 思依見依物有一日間忘念《オモフヨリミルヨリモノハアルモノヲヒトヒノカラニワスルトオモフナ》
 
一二三(ノ)句|大方《オホカタ》世間《ヨノナカ》の事|他《ヒト》より思ふよりも他《ヒト》より見るよりも益りてあるものなり吾か妹を思ふ情《コヽロ》も妹か推(324)量《オシハカリ》よりも益りてあることその如し四五(ノ)句されは一日《ヒトヒ》逢(ヒ)見ること無くとも忘ると思ふことなかれとなり間《カラ》は字の如し古言に依て訓り
 
2405 垣廬鳴人雖云狛錦紐解開公無《カキホナスヒトハイヘトモコマニシキヒモトキアケムキミナラナクニ》
 
一二句葦垣の穗の如く繁く人は吾を挑《イト》めともなり三四五句君ならすして自餘《ホカ》の婚《ア》ふ男はなしとなり
 
2406 狛錦紐解開夕方不知有命戀有《コマニシキヒモトキアケテユフヘヲモシラサルイノチコヒツツヤアラム》
 
三四句朝には在《アリ》て夕には在亡《アリナシ》の不知《シラサ》る命なりそを紐解(キ)てまた結《ユフ》と夕《ユフ》に云(ヒ)かけたるなり一首の意は今かく君に逢始てまた逢ことの有難からむには徒《イタツラ》に戀つつやあらむさるはたのみかたき命にしあれは得《エ》逢(ヒ)見すしてはかなく戀(ヒ)死(ナ)むにやとなり詞の樣《サマ》右の同し人なるへし
 
2407 百積船潜納八占刺母雖問其名不謂《モヽツモリフネコクウラノヤウラサシハヽハトフトモソノナハノラシ》
 
百積《モヽツモリ》 百津守(リ)にて船の枕詞船は津々を目《マ》もりて泊《ハツ》るものなればなり大船之津守とつゝくる枕詞に同し○
 
船潜納《フネカクレイル・(コクウラノ)》 吾徒《ワカトモ》堀越の如此《カク》訓《ヨメ》る宜し潜約《カクレイル》は風波を避《サケ》てなりさて此句まては次の八占刺《ヤウラサシ》の序○八占刺《ヤウラサシ》 上(ミ)よりのつゝきは彌浦《イヤウラ》なり承(ケ)たる意は彌占指《イヤウラサシ》にて親の許(ル)さぬ夫《ヲトコ》せしを知られてその人を占《ウラ》なひさゝするなり○其名不謂《ソノナハノラシ》 能流《ノル》も船に縁《ヨシ》ある言
 
2408 眉根削鼻鳴紐解待哉何時見念吾君《マユネカキハナヒヒモトクマテリリヤモイツシカミムトオモヘルワキミ》
 
眉の痒《カユ》き嚔《ハナヒ》る下紐の解る皆人に思はるゝ兆《シルシ》なり
2409 君戀浦經居悔我裏紐結手徒《キミニコヒウラフレヲレハアヤシクモアカシタヒモノユフテタユシモ》
 
萬葉考(ニ)云(ク)悔は恠の誤徒は倦の誤なるへし十二に京師邊君者去之乎孰解可言紐緒乃結手懈毛《ミヤコヘニキミハイニシヲタレトケカアカヒモノヲノユフテタユシモ》
 
2410 璞之年者竟杼敷白之袖易子少忘而念哉《アラタマノトシハハツレトシキタヘノソテカヘシコヲワスレテオモヘヤ》
 
結句忘れめやの意なり
 
2411 白細布袖小端見柄如是有戀吾爲鴨《シロタヘノソテヲハツ/\ミテシカラカヽルコヒヲモアレハスルカモ》
 
物の間《ヒマ》よりなり
 
2412 我妹戀無乏夢見吾雖念不所寐《ワキモコニコヒテスヘナミイメミムトアレハオモヘトイネラエナクニ》
 
2413 故無吾裏紐令解人莫知及正逢《ユヱモナクアカシタヒモソトケシムルヒトニシラユナタヽニアフマテニ》
 
故無《ユヱモナク》 おのつから解るを云り四五(ノ)句紐の解るは彼人の吾を戀るなれは彼人にあてゝ思ふとも他人《ヒト》に知らるゝこと勿れとなり
 
2414 戀事意追不得出行者山川不知來《コフルコトナクサメカネテイテユケハヤマモカハヲモシラスキニケリ》
 
(325)追は遺の誤なるへし
 
寄v物陳v思
 
2415 處女等乎袖振山水垣久寸時由念來吾等者《ヲトメラヲソテフルヤマノミツカキノヒサシキトキユオモヒキアレハ》
 
處女等乎《ヲトメラヲ》 乎《ヲ》は餘《ヨ》に同し處女等《ヲトメラ》よそが袖振(ル)の意なり此歌四(ノ)卷には未通女等之《ヲトメラカ》とあり一首の解も其《ソコ》に委し
 
2416 千早振神持在命誰爲長欲爲《チハヤフルカミノタモテルイノチヲモタレカタメニカナカクホリスル》
 
此下に靈治波布神毛|吾者打棄乞《アレヲハウツテコソ》四惠也壽之|※[立心偏+沈の旁]無《ヲシケクモナシ》これら皆(ナ)産靈《ムスヒノ》神を云り現身《ウツセミ》は云(フ)も更(ラ)なり天地《アメツチ》日月《ヒツキ》も悉《ミナ》此(ノ)神の産靈《ムスヒ》によりて生《ナリ》ぬ
 
2417 石上振神杉神成戀我更爲鴨《イソノカミフルノカミスキカミサヒテコヒヲモアレハサラニスルカモ》
 
齡《トシ》舊《フリ》てまたさらになり
 
2418 何名負神幣嚮奉者吾念妹夢谷見《イカナラムナニオフカミニタムケセハアカオモフイモヲイメニタニミム》
 
集中に願(ヒ)は神にのみ申て佛に祈れるは無く漢意なるもをさ/\無しこは後世の今に至るまても然るは歌は神代のままのものなれはなり
 
2419 天地言名絶有汝吾相事止《アメツチトイフナノタエテアラハコソイマシトアレトアフコトヤマメ》
 
2420 月見國同山隔愛妹隔有鴨《ツキミレハクニハオナシモヤマヘナリウルハシイモニヘナリタルカモ》
 
2421 ※[糸+參]路者石蹈山無鴨吾待公馬爪盡《クルミチハイハフムヤマモナクモカモアカマツキミカウマツマツクニ》
 
眞情《マコヽロ》の有(リ)のまゝなるあはれなり
 
2422 石根蹈重成山雖有不相日數戀度鴨《イハネフミヘナレルヤマハアラネトモアハヌヒマネミコヒワタルカモ》
 
2423 路後深津島山暫君目不見苦有《ミチノシリフカツシマヤマシマシクモキミカメニミネハクルシカリケリ》
 
吉備道後《キヒノミチノシリ》なり元正紀【養老五年四月丙申】に分2備後國安那郡1置2深津郡1こは暫《シマシ》の序
 
2424 紐鏡能登香山誰故君來座在紐不開寐《ヒモカヽミノトカノヤマハタレユヱカキミキマセルニヒモトカスネム》
 
冠辭考(ニ)云(ク)紐鏡《ヒモカヽミ》は裏(ラ)に紐あるなりそは懸(ク)る料《タメ》なれは勿解《ナトキ》の意(ロ)なるを言(ト)通《カヨ》へは能登香につゝけたり【以上】能登香山|詳《サタカ》ならす
 
2425 山科強田山馬雖在歩吾來汝念不得《ヤマシナノコハタノヤマヲウマハアレトカチヨリアカクナヲオモヒカネ》
 
三一二四五と句を次第《ヅイテ》て心得へし不得《カネ》は不堪《カネ》
 
2426 遠山霞被益遐妹目不見吾戀《トホヤマニカスミタナヒキイヤトホニイモカメミステアレコヒニケリ》
 
2427 是川瀬瀬敷浪布布妹心乘在鴨《コノカハノセセニシクナミシクシクニイモカコヽロニノリニケルカモ》
 
心(ロニ)乘(ル)は心(ノ)上(ヘ)に在(ル)にて吾(カ)心上に妹か在(ル)を云り
 
2428 千早人宇治度速瀬不相有後我※[女+麗]《チハヤヒトウチノワタリノハヤキセニアハスアリトモノチモアカツマ》
 
千早人は稜威速人《イチハヤヒト》なり稜威速《イチハヤ》ふるをうちはやふるとも云て音通へは宇治の枕詞○速瀬《ハヤキセニ》 瀬は時《トキ》と云ことゝ通ゆ後瀬うきせうれしきせなと云り
 
(326)2429 早敷哉不相子故徒是川瀬裳襴潤《ハシキヤシアハヌコユヱニイタツラニコノカハノセニモスソヌラシヌ》
ユヱニ
早敷哉《ハシキヤシ》は子にのみかゝれり故《ユヱニ》はなるものをなり不逢《アハス》して歸る時《ヲリ》の歌なり
 
2430 是川水阿和逆纏行水事不反思始爲《コノカハノミナワサカマキユクミヅノコトハカヘサシオモヒソメタレハ》
 
行(ク)水は反らぬものなれは不反《カヘサシ》の序|水阿和逆纏《ミナワサカマキ》も戀のいち急《ハヤ》き譬(ヘ)
 
2431 鴨川後瀬靜後相妹者我雖不今《カモカハノノチセシツケクノチモアハムイモニハアレハイマナラストモ》
 
後瀬 瀬は時なり鴨川の下(モツ)瀬は靜(カ)にて水の合ふ處(ロ)あるを以(テ)譬へなせるなり
 
2432 言出云忌山川之當都心塞耐在《コトトニイテヽイハヽユユシミヤマカハノタキツコヽロヲセカヘタルカモ》
 
2433 水上如數書吾命妹相受日鶴鴨《ミツノウヘニカスカクコトキアカイノチイモニアハムトウケヒツルカモ》
 
逢(フ)まての命必らす有(ル)へく所誓《ウケヒ》たるなり
 
2434 荒磯越外往波乃外心吾者不思戀而死鞆《アリソコエホカユクナミノホカコヽロアレハオモハスコヒテシストモ》
 
2435 淡海海奧白浪雖不知妹所云七日越來《アフミノミオキツシラナミシラネトモイモカリトイヘハナヌカコエケリ》
 
淡海海《アフミノミ》 逢《アフ》と云ことをほのめかしたり此(ノ)例《コト》下【十八葉】にも云り考(ヘ)合(ハ)すへし○奧白浪雖不知《オキツシラナミシラネトモ》 奧《オキ》は後なり後は知らねとなり湖《ウミ》を渡りて遠く往來《カヨ》ふなれは澳の涯《カキリ》を知らぬを表(テ)にせり○妹所云《》イモカリトイヘハ さる畏《カシコ》き道路《ミチ》なれともなり○七日越來《ナヌカコエケリ》 來《ケリ》は來而有《キタリ》
 
2436 大舟香取海慍下何有人物不念有《オホフネノカトリノウミニイカリオロシイカナルヒトカモノオモハサラム》
 
大船の楫取《カトリ》の意の枕詞|慍《イカリ》は碇《イカリ》なりこは何有《イカナル》を云む料にて三(ノ)句まては總て序なるものゝ意有て云る詞ともなりさるは碇《イカリ》を下《オロ》せる如く何《イカ》なる人か鎭まりて物念はすはあるらむ吾(レ)は大船の動搖《タユタ》ふ如く物念ふにの意にてこれ序歌の格《サマ》なるものなり下に大船之絶多經海爾重石下何如爲鴨吾戀將止《オホフネノタユタフウミニイカリオロシイカニスレカモアカコヒヤマム》
 
2437 奧藻隱障浪五百重浪千重敷敷戀度鴨《オキツモヲカクサフナミノイホヘナミチヘシクシクニコヒワタルカモ》
 
2438 人事暫吾妹繩手引從海益深念《ヒトコトハシマシソワキモツナテヒクウミヨリマシテフカクシオモホユ》
 
事(ト)は言(ト)繩《ツナ》手は釣(リ)繩《ナハ》
 
2439 淡海奧島山奧儲吾念妹事繁《アフミノミオキツシマヤマオクマケテアカオモフイモニコトノシケヽク》
 
式に蒲生《カマフノ》郡奧津島(ノ)神社○奧儲《オクマケテ》 奧《オク》は後なり後を兼て思ひ儲るを云りさて此歌下にも出たるには奧間經而《オクマヘテ》とありそは奧《オク》めてにて等閑《ナホサリ》ならす奧《オク》深く念ふを云り此《コヽ》とは異《コト》なり○事繁《コトノシケク》 言《コト》なり
 
2440 近江海奧滂船重下蔵公之事待吾序《アフミノミオキコクフネニイカリオロシヲサメテキミカコトマツアレソ》
 
猶豫不定《タユタ》ふ心旡く鎭(マ)り藏(サ)めて君か逢(ハ)むといふ言《コト》まつ(327)吾(レ)そなり
 
2441 隱沼從裏戀者無爲妹名告忌物矣《コモリヌノシタユコフレハスヘヲナミイモカナノリツイムヘキモノヲ》
 
從裏《シタユ》は於裏《シタニ》なり相(ヒ)通ふ例上に往々《トコロ/\》云り一首の意は内心《シタ》にのみ戀れは思ひを遣る爲方《スヘ》なさに妹か名云てうち歎息《ナケ》きつ他人《ヒト》の聞《キ》かくに忌(ム)へきものをなり
 
2442 大土採雖蓋世中盡不得物戀在《オホツチモトレハツクレトヨノナカニツキセヌモノハコヒニシアリケリ》
 
2443 隱處澤泉在石根通念吾戀者《コモリツノサハイツミナルイハネユモトホシテオモフアカコフラクハ》
 
隱處《コモリツ》は隱水《コモリミツ》澤泉《サハイツミ》に多出水《サハイツミ》を兼(ヌ)
 
2444 白檀石邊山常石有命哉戀乍居《シラマユミイソヘノヤマノトキハナルイノチナレヤモコヒツヽヲラム》
 
白眞弓《シラマユミ》 射《イ》の枕詞○石邊《イソヘノ》山 近江國蒲生郡|石部《イソヘノ》神社式に有 ○一首の意は常石《トキハ》の命(チ)かはたのまれぬ命(チ)にて逢ことも無く徒《イタツラ》に戀つゝのみあらむことかなとなり
 
2445 淡海海沈白玉不知從戀者今益《アフミノミシツクシラタマシラスシテコヒセシヨリハイマコソマサレ》
 
沈白玉《シツクシラタマ》 母《オヤ》の秘藏《ヒメ》たる齋《イハ》ひ處女《ヲトメ》○不知《シラスシテ》 名のみをきき見知らすしてなり○今益《イマコソマサレ》 逢て戀の益るなり初句に淡海《アフミ》と云るも逢身《アフミ》を持(タ)しめたるなり此(ノ)例《コト》上【十六葉】にも云り考(ヘ)合(ハ)すへし
 
2446 白玉纒持從令吾玉爲知時谷《シラタマヲマキテソモタルイマヨリハアカタマニセムシレルトキタニ》
 
一二句は女に逢初たる譬(ヘ)纏《マク》も相(ヒ)枕(ラ)まく妻《ツマ》まくなとの纏《マク》を含ましめたり○從令《イマヨリハ》 令は今の誤○吾玉爲《アカタマニセム》 吾妻にせむなり
 
2447 白玉從手纏不忘何畢《シラタマヲテニマキシヨリワスレシトオモヒシコトハイツカヤムヘキ》
 
2448 烏玉間開乍貫緒縛依後相物《シラタマノアヒタアケツヽヌケルヲモクヽリヨスレハノチモアフモノ》
 
烏は白の誤譬(ヘ)の意は明らけし
 
2449 香山爾雲位桁曳於保保思久相見子等乎後戀牟鴨《カクヤヤニクモヰタナヒキオホホシクアヒミシコラヲノチコヒムカモ》
 
一二(ノ)句は髣髴《オホヽ》しくの序四(ノ)句は率寢《ヰネ》たるなり【たゝ打見たるのみには非す】
 
2450 雲間從狹徑月乃於保保思久相見子等乎見因鴨《クモマヨリサワタルツキノオホホシクアヒミシコラヲミムヨシモカモ》
 
この見(ル)も右に同し
 
2451 天雲依相遠雖不相異乎枕吾纏哉《アマクモノヨリアヒトホミアハネトモコトタマクラヲアレマカメヤモ》
 
2452 雲谷灼發意遣見乍爲及直相《クモタニモシルクシタヽハナクサメニミツヽヲヲラムタヽニアフマテニ》
 
爲は居の誤思ふ人の居る方の雲なり
 
2453 春揚葛山發雲立座妹念《ハルヤナキカツラキヤマニタツクモノタチテモヰテモイモヲシソオモフ》
 
2454 春日山雲座隱雖遠家不念公念《カスカヤマクモヰカクリテトホケトモイヘハオモハスキミヲコソオモヘ》
 
女(ノ)許(ト)にて所作《ヨメ》るなるへし
 
2455 我故所云妹高山之峯朝霧過兼鴨《アカユヱニイハレシイモハタカヤマノミネノアサキリスキニケムカモ》
 
(328)朝霧の晴(レ)る如し所云《イハレ》し名も消ぬる歟となり
 
2456 烏玉黒髪山山草小雨零敷益益所念《ヌハタマノクロカミヤマノヤマスケニコサメフリシキシクシクオモホユ》
 
此山詳ならす
 
2457 大野小雨被敷木本時依來我念人《オホヌラニコサメフリシキコノモトニトキ/\ヨリコアカオモフヒト》
 
小雨はむらさめ三(ノ)句まては序
 
2458 朝霜消消念乍何此夜明鴨《アサシモノケナハケヌヘクオモヒツヽイカニコノヨヲアカシナムカモ》
 
2459 吾管見哉濱行風潮急急事益不相有《アカセコカハマユクカセノイヤハヤニハヤコトナサハイヤアハサラム》
 
2460 遠妹振仰見偲是月面雲勿棚引《トホツマノフリサケミツヽシヌフラムコノツキノオモニクモナタナヒキ》
 
2461 山葉追出月端端妹見鶴及戀《ヤマノハニサシイツルツキノハツ/\ニイモヲソミツルコヒシキマテニ》
 
追は進の誤
 
2462 我妹吾矣念者眞鏡照出月影所見來《ワキモコシアレヲオモハヽマソカヽミテリイツルツキノカケミニエコネ》
 
2463 久方天光月隱去何名副妹偲《ヒサカタノアマテルツキノカクリナハナニヽナソヘテイモヲシヌハム》
 
准而《ナソヘテ》なり
 
2464 若月清不見雲隱見欲宇多手比日《ミカツキノサヤカニミエスクモカクレミマクソホシキウタテコノコロ》
 
字多手《ウタテ》は轉而《ウツリテ》なり此(レ)より彼(レ)に轉り益《マス/\》甚(タ)しくなりゆく意の言にて此《コヽ》は見欲《ミマクホシサ》の轉《ウタヽ》益(サ)るを云り三(ノ)まては序
 
2465 我背兒爾吾戀居者吾屋戸之草佐倍思浦乾來《アカセコニアカコヒヲレハアカヤトノクササヘオモヒウラカレニケリ》
 
2466 朝茅原小野印空事何在云公待《アサチハラヲヌニシメユフソラコトモイカナリトイヒテキミヲシマタム》
 
此下に大野跡状不知印結有不得吾眷《オホヌラニタツキモシラヌシメユヒテアリカテマシモアカカヘリミハ 》また淺茅原刈《アサチハラカリ》【假《カリ》の借字】標刺而空事《シメサシテソラコト》【言《コト》の借字】文所縁之君之辭鴛鴦將待《モヨセテシキミカコトヲシマタム》十二に淺茅原小野爾標結空言毛將相跡令聞戀之名種爾《アサチハラヲヌニシメユフソラコトモアハムトキコセコヒノナクサニ》これらの意淺茅原小野大野皆(ナ)取(リ)止《トメ》ぬ曠野《ヒロノ》を謂(ヒ)跡状不知《タツキモシラヌ》は手取《タトリ》無(キ)を云(ヒ)假標刺而《カリシメサシテ》また印結《シメユフ》とも云るは最(ト)假(リ)初(メ)に杙《クヒ》串《クシ》等《ナト》さし繩《ナハ》延《ハヘ》等《ナト》して處(ロ)を標《シム》るを云(ヒ)其《ソ》は最《イト》はかなく頼《タノミ》難き故に有不得吾眷《アリカテマシモアカカヘリミハ》また虚言《ソラコト》の序に續けたるにて此《コヽ》は虚言《ソラコト》も何《イカ》に云(ヒ)ての意なり十三に足日木能山|從出月《ヨリイツル》待跡人(ニ)者云而君待吾乎
 
2467 路邊草深百合之後云妹命我知《ミチノヘノクサフカユリノユリニトフイモカイノチヲアレハシラメヤ》
 
八に吾妹兒|之《カ》家乃垣内乃左由理花由利等|云者不欲云二似《イヘレハイナチフニニル》十八に等毛之火能比可里爾見由流佐由理婆奈由利毛安波牟等於母比曾米弖伎 左由理波奈由利毛安波牟等於毛倍許曾伊未能麻左可母宇流波之美須禮 左由理花由利母安波無等奈具佐無流許己呂之奈久波安麻射可流比奈爾一日毛安流部久母安禮也なとあり 由理は用理に同しく後《ノチ》を云り其《ソ》は從今《イマヨリ》とは今の後(チ)を(329)云(ヒ)從古《イニシヘヨリ》とは古(ヘ)の後を云(ヒ)凡て用理は皆同し意の辭なり故(レ)後を由理と云り一首の意は今ならて後に逢むと妹はいへとも人(ノ)命は頼み難きをとなり
 
2468 潮葦交在草知草人皆知吾裏念《ミナトアシニマシレルクサノシリクサノヒトミナシリヌアカシタオモヒ》
 
萬葉考(ニ)云(ク)和名抄に藺(ハ)爲《ヰ》辨色立成(ニ)云(ク)鷺尻刺《サキノシリサシ》と有(リ)今も田舎《ヰナカ》にて藺《ヰ》に似て小《チヒサ》き草の田溝|等《ナト》に在(ル)を驚尻刺《サキノシリサシ》と云と云り是にや【以上】此説|※[立心偏+可]怜《オモシロ》し鷺(ノ)尻(リ)刺(シ)を尻(リ)とのみ云は鹿耳《カノミヽ》に百舌鳥《モス》の入(リ)食(ラ)へる原を百舌鳥耳原《モスノミヽハラ》と云【仁徳紀】か如く淺はかなる名の古(ル)けれはなり潮は湖の誤
 
2469 山彼萵苣白露重浦經心深吾戀不止《ヤマチサノシラツユオモミウラフルヽコヽロヲフカミアカコヒヤマス》
 
山萵苣《ヤマチサ》 萬葉考(ニ)云(ク)和名抄【園菜類】に苣(ハ)知散《チサ》こは今も然《シカ》云り山萵苣《ヤマチサ》は木にて其(ノ)葉の苣《チサ》に似たるより山萵苣《ヤマチサ》とは云なるへし豐後國なる吾友か植(ヱ)置(キ)たりとて記(ル)して視《ミ》せたるに木(ノ)皮は梨に似て身は桐の如く葉の大さも形も枇杷に似て薄く春葉を採(ミ)て食(ラ)ひ冬は葉落ぬ花は秋梨に似て群《ムラカ》り開《サ》く葩《ハナヒラ》梅の如くにて大(キ)く色少しうるみあり蘂《シヘ》は房楊枝《フサヤウシ》と云(フ)物の形の如しと云り【以上】知散乃花集中に作《ヨメ》り○浦經《ウラフルヽ》 白露重み若末勤搖《ウラフル》るを心のうらふれに續けたり
 
2470 潮核延子菅不竊隱公戀乍有不勝鴨《ミナトニサネハフコスケカクロヘスキミニコヒツヽアリカテヌカモ》
 
潮は湖の誤(リ)核延《サネハフ》は眞根延《サネハフ》なり【眞《サ》は根延(フ)にかゝれり眞《サ》根の意ならす】根の隱るゝ以(テ)竊隱《カクロヘ》まての序なり【不には關らす】一首の意は戀の隱(レ)無くて如是《カク》ては在(リ)難しとなり
 
2471 山代泉小菅凡浪妹心吾不念《ヤマシロノイツミノコスケオシナミニイモカコヽロヲアレハオモハス》
 
相樂《サカラカノ》郡水泉【以豆美】郷【和名抄】押靡《オシナミ》を凡並《オシナミ》に兼(ヌ)
 
2472 見渡三室山石穗菅惻隱吾片念爲《ミワタシノミムロノヤマノイハホスケネモコロアレソカタモヒヲスル》
 
一云|三諸《ミモロノ》山之|石《イハ》小菅
 
2473 菅根惻隱君結爲我紐緒解人不有《スカノネノネモコロキミカムスヒタルアカヒモノヲヽトクヒトハアラシ》
 
2474 山菅戀耳令爲乍不相妹鴨年經乍《ヤマスケノミタレコヒノミセシメツヽアハヌイモカモトシハヘニツヽ》
 
2475 我屋戸甍子太草雖生戀忘草見未生《アカヤトノノキノシタクサオヒタレトコヒワスレクサミルニイマタオヒス》
 
子太草《シタクサ》は垂《シタ》草にて垂《シタ》り懸《サカ》る垣衣《シノフ》の類(ヒ)なるへし和名抄に垣衣【之乃布久佐】屋遊【夜乃倍乃古介】屋瓦上青苔衣也
 
2476 打田稗數多雖有擇爲我夜一人宿《ウツタニモヒエハアマネクアラメトモエラレシアレソヨルヒトリヌル》
 
田は※[秋/金]《クハ》もて打(チ)反(ヘ)して佃《ツク》れは打(ツ)田と云り稗《ヒエ》は棄《キ》らへは劣《オトリ》人に比《タト》ふ然《サ》て劣(リ)人世には數多《アマタ》なるを擇棄《エリキ》らはねは(330)稗《ヒエ》の稻《イネ》交る如《コト》佳妻《ヨキツマ》をも持在《モタル》を擇棄《エリキ》らはれし我(レ)は一人宿《ヒトリネ》すとなり
 
2477 足引名負山菅押伏公結不相有哉《アシヒキノナニオフヤマスケオシフセテキミシムスハヽアハサラメヤモ》
 
足引(ノ)名(ニ)負(フ)は山の序【菅には係らす】押伏《オシフセ》は結《ムスフ》の序草を結ふに押(シ)伏(ス)れはなり
 
2478 秋柏潤和川邊細竹目人不顔面公無勝《アキカシハウルワカハヘノシヌノメノヒトニシヌヘハキミニタヘナク》
 
冠辭考(ニ)云(ク)商※[木+斛]《アキカシハ》を賣《ウル》と懸れり延喜式に公《オホヤケ》の神供御|等《ナト》の干※[木+斛]《ヒカシハ》青※[木+斛]《アヲカシハ》は畿内|等《ナト》より月毎(ト)に進《タテマツ》ると有(リ)諸社諸家|等《ナト》のは買《カフ》なるへし古(ヘ)饗《アヘ》に※[木+斛]《カシハ》を用れは【飲食《ヲシモノ》を盛《モル》なる】なり○潤和川《ウルワカハ》詳《サタカ》ならす【建保百首にたつの市うるまの清水云々歌枕名寄に大和と有(リ)もし相(ヒ)似たれは同處にや】○細竹目《シヌノメ》 目《メ》は群《ムレ》
 
2479 核葛後相夢耳受日度年經乍《サネカツラノチモアハムトイメノミヲウケヒワタルニトシハヘニツヽ》
 
葛《カツラ》の蔓反《ハヒカヘ》りて本(ト)に會へは後(チ)相(フ)の枕詞夢に逢むことのみを祈《ウケ》ひて年を經《ヘ》度るとなり
 
2480 路邊壹師花灼然人皆知我戀※[女+麗]《ミチノヘノイチシノハナノイチシロクヒトミナシリヌアカコヒツマハ》
 
壹師(ノ)花詳ならす萬葉考(ニ)云(ク)伊勢(ノ)郡(ノ)名|等《ナト》にもあれは草には非《アラ》し木なるへし
 
或本歌云灼熱人知爾家里繼而之念者
 
2481 大野跡状不知印結有不得吾眷《オホヌラニタツキモシラヌシメユヒテアリカテマシモアカカヘリミハ》
 
跡状《タツキ》は手着《タツキ》なり手取《タトリ》を云に同し一首の表《ウヘ》は曠野《ヒロノ》に慥《タシカ》ならぬ印《シメ》結《ユヒ》て歸り見は有(リ)難(タ)からむと危ふめるなり然《サ》て裏《シタ》には思ふ人を吾(カ)物と心に領《シム》るは取(リ)止《トメ》ぬ印《シメ》にて後(チ)空しくやなりなむとなり
 
2482 水底生玉藻打靡心依戀此日《ミナソコニオフルタマモノウチナヒキコヽロヲヨセテコフルコノコロ》
 
此は比
 
2483 敷栲之衣手離而玉藻成靡可宿濫和乎待難爾《シキタヘノコロモテカレテタマモナスナヒキカヌラムワヲマチカテニ》
 
2484 君不來者形見爲等我二人植松本君乎待出牟《キミコスハカタミニセムトワレフタリウヱシマツノキキミヲマチイテム》
 
我二人《アレフタリ》は君と吾(レ)なり本は木なるへし、
 
2485 袖振可見限吾雖有其松枝隱在《ソテフルカミユヘキカキリアレハアレトソノマツカエニカクレタリケリ》
 
2486 珍海濱邊小松根深吾戀度人子※[女+后]《チヌノウミハマヘノコマツネフカメテアカコヒワタルヒトノコユヱニ》
 
和泉(ノ)茅渟《チヌ》
 
或本歌云血沼之海之鹽干能小松根母己呂爾戀屋度(ラム)人兒故爾
 
2487 平山子松末有廉叙波我思妹不相止者《ナラヤマノコマツカウレノウレムソハアカオモフイモニアハスヤミナム》
 
有廉叙《ウレムソ》は得《エ》られむその約なり上(ミ)に奈何《イカニ》してと云(フ)言を(331)加《ソヘ》て心得へし【此詞のこと新考の 葉に云り】奈何《イカニ》して我(カ)思(フ)妹(ニ)不相止嘗《アハスヤミナム》ことを得《エ》られむその意なり者は嘗の誤
 
2488 礒上立回香瀧心哀何深目念始《イソノウヘニタテルムロノキコヽロユモナニヽフカメテオモヒソメケム》
 
回香瀧《ムロノキ》 瀧は樹の誤三に天木香樹《ムロノキ》を作《カケ》り然《サ》て此《コ》は備後(ノ)鞆《トモノ》浦の離磯《ハナレソ》なる木を云るなるへし其(ノ)故は三に旅人卿筑紫より上京時作歌に吾妹子之見師鞆(ノ)浦之|天木香樹《ムロノキ》者常世(ニ)有(レ)跡見之人曾奈吉 鞆(ノ)浦之磯之室木|將見毎《ミムコトニ》云々礒上丹根|蔓《ハフ》室木云々十五に波奈禮蘇爾多※[氏/一]流牟漏能木字多我多毛比左之伎時乎須疑爾家流香母 之麻思久母比等利安里宇流毛能爾安禮也之麻能牟漏能木波奈禮弖安流良武此十五なる二首も備後神嶋(ノ)磯より出船《フナテノ》歌に次(キ)たれは同木と通《キコ》へたり此木は殊異《コト》なる古木にて名高かりし故なるへし然《サ》てこの礒上立回香樹《イソノウヘニタテルムロノキ》は何深目《ナニヽフカメテ》を云む料(メ)の序にて上なる珍海《チヌノ》濱邊小松根|深《フカメテ》吾戀度云々に同く根深きを謂るなり○心哀《コヽロユモ》 哀は喪の義に書る字十二に豐州聞濱松心(ユ)喪《モ》何《ナニシカ》妹(ヲ)相(ヒ)之始《シソメケム》
 
2489 橘本我立下枝取成哉君問子等《タチハナノモトニアレタチシツエトリナリヌヤキミトトヒシコラハモ》
 
三(ノ)句まては成哉《ナリヌヤ》の序なり下枝《シツエ》を執(リ)て實《ミ》の生《ナリ》ぬるやと見るを夫婦《イモセ》の結婚《ムスヒ》成就《ナリ》ぬるやと女の問(ヘ)ることに續けて然《サ》て事成らすなりにしをうち歎きたる結句なり
 
2490 天雲爾翼打附而飛鶴乃多頭多頭思鴨君不座者《アマクモニハネウチツケテトフタツノタウタツシカモキミシマサネハ》
 
手取手取《タトタト》しにて手寄無《タヨリナキ》を云り
 
2491 妹戀不來朝明思爲鳥從是此度妹使《イモニコヒイネヌアサケニオシトリノコユトヒワタルイモカツカヒカ》
 
此一本に死とも有(リ)各《ミナ》飛の誤
 
2492 念餘者丹穗鳥足沾來人見鴨《オモフニシアマリニシカハニホトリノアヌラシコシヲヒトミケムカモ》
 
徒歩渡《カチワタリ》を云
 
2493 高山峯行宍友衆袖不振來忘念勿《タカヤマノミネユクシヽノトモヲオホミソテフラスキヌワスルトオモフナ》
 
2494 大船眞※[楫+戈]繁拔※[手偏+旁]間趣太戀年在如何《オホフネニマカチシヽヌキコクマニモネモコロコヒシトシニアラハイカニ》
 
2495 足常母養子眉隱隱在妹見依鴨《タラチネノハヽカカフコノマユコモリコモレルイモヲミムヨシモカモ》
蠶《コ》なり
 
2496 肥人額髪結在染木綿染心我忘哉《ホテヒトノヒタヒカミユヘルソメユフノソメニシコヽロアレワスレメヤ》
 
肥人《ホテヒト》は相撲《スマヒ》の※[うがんむり/取]手《ホテ》なり髻《モト》を不結《ユハ》ねは額《ヒタヒ》に懸《サカル》る髪を紫帛《ムラサキ》もて結《ユフ》なり髪は紫以(テ)結へはなるへし
 
一云所忘目八方
 
2497 早人名負夜音灼然君名謂※[女+麗]恃《ハヤヒトノナニオフヨコヱイチシロクキミカナノラセツマトタノマム》
 
(332)隼人(ノ)夜聲は名高く夜音《ヨルノオト》は灼然《イチシロ》し吾は君の誤名を謂《ノル》は逢(ハ)むと肯《ウケヒ》く例多し
 
2498 劍刀諸刀利足蹈死死公依《ツルキタチモロハノトキニアシフミテシニカモシナムキミニヨリテハ》
 
2499 我妹戀度劍刃名惜念不得《ワキモコニコヒシワタレハツルキタチナノヲシケクモオモヒカネツモ》
 
2500 朝月日向黄楊櫛雖舊何然公見不飽《アサツクヒムカフツケクシフリタレトナニシカキミカミルニアカサラム》
 
朝附日は向(フ)の枕詞又櫛は朝々向ひ執(リ)て用《ツカ》へは如是《カク》云(ヒ)舊(ル)ひ易(ス)き物なれは又|如是《カク》も云り
 
2501 里遠眷浦經眞鏡床重不去夢所見與《サトトホミウラフレニケリマソカヽミトコノヘサラスイメニミエコソ》
 
眞鏡《マソカヽミ》は床上不去《トコノヘサラス》の枕詞与は乞の誤
 
2502 眞鏡手取以朝朝雖見君飽事無《マソカヽミテニトリモチテアサナサナミレトモキミニアクコトモナシ》
 
2503 夕去床重不去黄楊枕射然汝主待固《ユフサレハトコノヘサラヌツケマクライツシカナレカヌシマチカタキ》
 
床重《トコノヘ》は床上《トコノヘ》射然《イツシカ》は何時《》イツより然《シカ》なり【常に云とは異なり】何時《イツ》より然《サ》やうに汝主《ナカヌシ》を(チ)得《エ》難くはなりしそと夫《セナノ》枕に問(ヒ)を設けたるなり
 
2504 解衣戀亂乍浮沙生吾戀度鴨《トキキヌノコヒミタレツヽウキマナコイキテモアレハコヒワタルカモ》
 
三四五句は下に鹽滿(テ)者水沫爾浮|細砂《マナコニ》裳|吾《アレ》者|生《イケル》鹿戀者不死而この歌の意なり
 
 
2505 梓弓引不許有者此有戀不相《アツサユミヒキテユルサスアラマセハカヽルコヒニハアハサラマシヲ》
 
許《ユルス》は射發《イハナツ》なり夫《ヲトコ》を放(チ)遣(リ)し悔《クイ》を譬ふ
 
2506 事靈八十衢夕占問占正謂妹相依《コトタマノヤソノチマタニユフケトフウラマサニノレイモニアハムヨシ》
 
一首の意上【新考の】夕衢占《ユフケ》の處に委く云り
 
2507 玉桙路往占占相妹逢我謂《タマホコノミチユキウラニウラナヘハイモニアハムトアレニノリツル》
 
行路《ミチユク》人の云(フ)ことを我(カ)事に取(リ)成し等《ナト》して判斷《サタム》るなるへし
 
問答
 
2508 皇祖乃神御門乎懼見等侍從時爾相流公鴨《スメロキノカミノミカトヲカシコミトサモラフトキニアヘルキミカモ》
 
天皇朝廷《オホキミノミカト》なり女の歌にて今は時《ヲリ》あしと夫《ヲトコ》に不諾《イナ》めるなり
 
2509 眞祖鏡雖見言哉玉限石垣淵乃隱而在※[女+麗]《マソカヽミミトモイハメヤカキロヒノイハカキフチノコモリタルツマ》
 
雖見言哉《ミトモイハメヤ》 逢(ヒ)ぬとも他人《ヒト》に泄《モラ》さめやにて否《イナ》むこと勿《ナカ》れの意なり
 
右二首
 
2510 赤駒之足我枳速者雲居爾毛隱往序袖卷吾妹《アカコマノアカキハヤケハクモヰニモカクロヒナムソソテマケワキモ》
 
速者《ハヤケハ》は速けれはなり袖|巻《マケ》は相(ヒ)枕寝《マキネヨ》なり
 
2511 隱口乃豊泊瀬道者常滑乃怖道曾戀由眼《コモリクノトヨハツセチハトコナメノカシコキミチソコヽロシテユケ》
 
道は河道舟(ヨリ)行(ク)なり常滑《トコナメ》は水の滑《ナメラカ》なるなり【是(レ)等《ラ》の事新のに云り】戀は爲心二字の誤にて爲心由眼はココロセヨユメは(333)たココロシテユケなとにや
 
2512 味酒之三毛侶乃山爾立月之見我欲君我馬之足音曾爲《ウマサケノミモロノヤマユタツツキノミカホルキミカウマノアトソスル》
 
立(ツ)月|之《ノ》 立(ツ)は刺(ス)に同しさし昇る月の見か欲《ホ》ると續けたり
 
右三首
 
此《コ》は問答とは所聞《キコエ》す
 
2513 雷神小動刺雲間耶碧將留《ナルカミノシハシトヨミテサシクモリアメフラヌカキミヲトヽメム》
 
2514 雷神小動雖不零吾將留妹留者《ナルカミノシハシトヨミテフラストモアレハトマラムイモシトトメハ》
 
右二首
 
2515 布細布枕動夜可寐思人後相物《シキタヘノマクラウコキテヨイモネスオモフヒトニハノチモアハムカモ》
 
2516 敷細布枕人事問哉其枕苔生負爲《シキタヘノマクラニヒトハコトトヘヤソノマクラニハコケオヒニタリ》
 
一二三(ノ)句右(ノ)歌を承(ケ)て枕のことを君はのたまふかの意にて枕(ニ)人(ハ)事問(ヘ)哉《ヤ》は枕のことに君は言語《コトト》ふ哉《ヤ》なり【枕に對ひ言語《コトトフ》には非す】四五(ノ)句|此方《コナタ》の君か枕には久しく來給はて床うち掃《ハラ》ふ時《ヲリ》も無(ケ)れは苔生たりとの意なり負は荷の意の借字
 
右二首
 
以前一百四十九首柿本朝臣人麻呂之歌集(ニ)出(テタリ)
 
正述2心緒1
 
2517 足千根乃母爾障良婆無用伊麻思毛吾毛事應成《タラチネノハヽニサハラハイタツラニイマシモアレモフトナルヘシヤ》
 
2518 吾妹子之吾呼送跡白細布乃袂漬左右二哭四所念《ワキモコカアレヲオクルトシロタヘノソテヒツマテニナキシオモホユ》
 
2519 奧山之眞木乃板戸乎押開思惠他出來根後者何將爲《オクヤマノマキノイタトヲオシヒラキシヱヤイテコネノチハナニセム》
 
思惠也《シヱヤ》は痛切《イタクセチナル》聲一首の意出難き身なりとも思惠也【俗《ヨ》に思(ヒ)切てと云其ほとの意なり】其(ノ)板戸を押(シ)開(ラキ)てとなり此《コ》は父母《オヤ》の守護《モリ》なとする秘藏兒《イハヒコ》かり來て夫《ヲトコ》の所作《ヨメ》りしにて一二(ノ)句に奧深く隱牢《コモ》り居るよし知られぬめり
 
2520 苅薦能一重※[口+立刀]敷而紗眠友君共宿者冷雲梨《カリコモノヒトヘヲシキテサヌレトモキミトシヌレハサムケクモナシ》
 
眞寢《サヌル》は多く相(ヒ)寝(ル)に云り
 
2521 垣幡丹頬經君※[口+立刀]率爾思出乍嘆鶴鴨《カキツハタニツラフキミヲイサヽメニオモヒイテツヽナケキツルカモ》
 
2522 恨登思狭名盤在之者外耳見之心音雖念《ウラメシトオモヒテセナハアリシカハヨソノミソミシコヽロハモヘト》
 
2523 散頬相色者不出少文心中吾念君《サニツラフイロニハイテススクナクモコヽロノウチニアカオモハナクニ》
 
2524 吾背子爾直相者社名者立米事之通爾何其故《アカセコニタヽニアハハコソナハタヽメコトノカヨフニナニカソノユヱ》
 
2525 懃片念爲歟比者之吾情利乃生戸裳名寸《ネモコロニカタモヒスルカコノコロノアカコヽロトノイケルトモナキ》
 
2526 將待爾到者妹之懽跡咲儀乎徃而早見《マツラムニイタラハイモカウレシミトヱマムスカタヲユキテハヤミム》
 
2527 誰此乃吾屋戸來喚足千根乃母爾所嘖物思吾呼《タレソコノアカヤトキヨフタラチネノハヽニコロハエモノオモフアレヲ》
 
一二(ノ)句は夫《ヲトコ》を難《トカ》めたるなり神代紀に發2稜威之嘖讓《イツノコロヒヲ》1【嘖讓此云2擧廬※[田+比]《コロヒト》1】十四に奈我波伴爾己良例安波由久云々己良例(334)は被嘖讓《コロハレ》なり
 
2528 左不宿夜者千夜毛有十方我背子之思可悔心者不持《サネヌヨハチヨモアリトモアカセコカオモヒタユヘキコヽロハモタス》
 
左不宿夜者《サネヌヨハ》 不相宿夜者《アヒネヌヨハ》なり
 
2529 家人者路毛四美三荷雖徃來吾待妹之使不來鴨《イヘヒトハミチモシミミニカヨヘトモアカマツイモカツカヒコヌカモ》
 
2530 璞之寸戸我竹垣編目從毛妹志所見者吾戀目八方《アラタマノキヘカタカカキアミメユモイモシミエナハアカコヒメヤモ》
 
十四【遠江國歌】に阿良多麻能伎倍乃波也之爾云々 伎倍比等乃萬太良夫須麻爾云々和名抄に遠江國|麁玉《アラタマノ》郡【阿良多末今稱2有玉1】萬葉考(ニ)云(ク)今|貴平《キヘ》村あり此《コヽ》なるへし
2531 吾背子我其名不謂跡玉切命者棄忘賜名《アカセコカソノナノラシトタマキハルイノチハステツワスレタマフナ》
 
いかに嘖讓《セメ》ても不謂有《イハサリ》しなり
 
2532 凡者誰將見鴨黒玉乃我玄髪乎靡而將居《オホナラハタレミムトモヌハタマノアカクロカミヲヌラシテヲラム》
 
凡者《オホナラハ》は大凡《オホヨソ》に思はゝなり二に人皆者今波長(シ)跡多計登雖言君(カ)之見師髪|亂有《ミタレタリ》等母この歌の意にてまた擧《カミ》髪《アケ》ぬ若き女なるへし
 
2533 面忘何有人之爲物焉言者爲金律繼手志念者《オモワスレイカナルヒトノスルモノソアレハシカネツツキテシオモヘハ》
 
言は吾に通はし用る宇
 
2534 不相思人之故可璞之年緒長言戀將居《アヒオモハヌヒトノユヱニカアラタマノトシノヲナカクアカコヒヲラム》
 
2535 凡乃行者不念言故人爾事痛所云物乎《オホヨソノワサトハモハスアカユヱニヒトニコチタクイハレシモノヲ》
 
2536 氣緒爾妹乎思念者年月之往覽別毛不所念鳧《イキノヲニイモヲシモヘハトシツキノユクラムワキモオモホエヌカモ》
 
 
2537 足千根乃母爾不所知吾持留心者吉惠君之隨意《タラチネノハヽニシラレスアカモタルコヽロハヨシヱキミカマニ/\》
 
吉《ヨシ》は縱《ユル》す意の辭|惠《ヱ》は嘆《ナケキノ》聲
 
2538 獨寢等※[草冠/交]目八方綾席緒爾成乃君乎之將待《ヒトリヌトコモクチメヤモアヤムシロヲニナルマテニキミヲシマタム》
 
萬葉考(ニ)云(ク)初句獨(リ)寢等毛《ヌトモ》の意|※[草冠/交]《コモ》は蒋《コモ》にて中重席《ナカヘムシロ》は莚《ムシロ》にて上重綾《ウハヘアヤ》は綾檜笠《アヤヒカサ》綾檜垣《アヤヒカキ》等《ナト》の如く藺《ヰ》を綾《アヤ》に織(リ)たる莚(ロ)なり然《サ》て其(ノ)上重《ウハヘ》の綾莚《アヤムシロ》は破《ヤレ》て緒のみになるとも中重《ナカヘ》の蒋《コモ》は痛ましけれは夫名《セナ》と寢しまゝ然《サ》なからに置て何時《イツ》まても待むとなり【以上文意のみを取つ】
 
2539 相見者千歳八去流否乎鴨我哉然念待公難爾《アヒミテハチトセヤイヌルイナヲカモアレヤシカオモフキミマチカテニ》
 
否歟毛《イナカモ》なり乎《ヲ》は余《ヨ》に同し助辭十四【常陸國歌】に筑波禰爾由伎可母布良留伊奈乎可母加奈思吉兒呂我爾努保佐流【布《ヌノ》干《ホ》せるなり】可母
 
2540 振別之髪乎短彌青草乎髪爾多久濫妹乎師曾於母布《フリワケノカミヲミシカミアヲクサヲカミニタクラムイモヲシソオモフ》
 
今髪擧(ク)る娘子《ヲトメ》を戀る歌なり青草乎髪爾多久とは若くていまた髪の長からぬは青草を鬘《カツラ》に編《ア》み髪に足《タ》して擧(ケ)たるなるへし多久は手擧《タク》にて擧《アク》るを云り九に八年兒之片|生《ナリ》乃時從|小放《ヲハナリ》爾髪多久麻庭爾云々なと有(リ)この(335)多久と云(フ)言の意は二(ノ)卷なる多氣婆奴禮多香根者長寸妹|之《カ》髪云々の歌の處【新考の】に重く説《イヘ》り披(ラキ)見(ル)へし然《サ》て振別之髪と云るは即《ヤカテ》小放《ヲハナリ》のことにて髻《モト》を結《ユ》はす放《ハナ》りてあれは小《ヲ》【發語】放《ハナリ》と云(ヒ)其《ソ》を振(リ)別(ク)れは振(リ)別(ケ)とも稱《イフ》なり幼稚《ヲサナキ》なり長成《ヒトヽナル》まての名を目刺《メサシ》頸衝《ウナツキ》頸居放《ウナヰハナリ》和良波|等《ナト》云(フ)皆(ナ)髪生《カミオヒ》以(テ)名つけたるにて目刺《メサシ》は額髪《ヒタヒカミ》の懸《サカ》りて目を刺(ス)はかりの齡《ヨハヒ》のほとの名|惠衝《ウナツキ》はやゝ年|長《マサ》りて髪の頸《ウナシ》を衝《ツク》ほとを云(ヒ)頸居《ウナヰ》は頸《ウナシ》にたまり居《ヰ》るほと放《ハナリ》和良波はいまた髻《モト》を結《ユ》はて放《ハナ》り和々良波なるほとを云て男女に通ひて稱《イ》ふ名なり【美豆羅|總角《アケマキ》※[瓠の瓜が包]花《ヒサコハナ》等《ナト》は男兒《ヲノコ》に局《カキ》れる髪の名なるへし七に青角髪依網原《アヲミツラヨサミノハラ》云々こは青草を寄《ヨ》せ編《ア》みて角髪《ミツラ》に製《ツク》れば依編《ヨセアミ》を約《ツヽ》め依網《ヨサミ》につゝくる枕詞なり本文(ノ)歌に思ひ合すべし】
 
2541 徘徊往箕之里爾妹乎置而心空在土者蹈鞆《タモトホリユキミノサトニイモヲオキテコヽロソラナリツチハフメトモ》
 
此里詳ならす
 
2542 若草乃新手枕乎卷始而夜哉將間二八十一不在國《ワカクサノニヒタマクラヲマキソメテヨヲヤヘタテムニククアラナクニ》
 
2543 吾戀之事毛語名草目六君之使乎待八金手六《アカコヒノコトモカタラヒナクサメムキミカツカヒヲマチヤカネテム》
 
2544 寤者相縁毛無夢谷間無見君戀爾可死《ウツヽニハアフヨシモナシイメニタニマナクミエキミコヒニシヌヘシ》
 
見《ミエ》は見えよ
 
2545 誰彼登問者將答爲便乎無君之使乎還鶴鴨《タレカレトトハヽコタヘムスヘヲナミキミカツカヒヲカヘシツルカモ》
 
一二(ノ)句|誰《タ》使(ヒ)そと傍《カタヘ》より問はゝ云々なり
 
2546 不念丹到者妹之歡三跡咲牟眉曳所思鴨《オモハスニイタラハイモカウレシミトヱマムマヨヒキオモホユルカモ》
 
2547 如是許將戀物衣常不念者妹之手本乎不纏夜裳有寸《カクハカリコヒムモノソトオモハネハイモカタモトヲマカヌヨモアリキ》
 
2548 如是谷裳吾者戀南玉梓之君之使乎待也金手武《カクタニモアレハコヒナムタマツサノキミカツカヒヲマチヤカネテム》
 
戀南《コヒナム》は乞祈《コヒノム》にて神に祷るを云三(ノ)卷【祭神歌】に如此谷裳吾者|祈《コヒ》奈牟 如此谷母吾波乞|甞《ナム》なと有(リ)
 
2549 妹戀吾哭涕敷妙木枕通而袖副所沾《イモニコヒアカナクナミタシキタヘノマクラトホリテソテサヘヌレヌ》
 
或本歌云枕通(リ)而卷(ケ)者寒(シ)母
 
2550 立念居毛曾念紅之赤裳下引去之儀乎《タチテオモヒヰテモソオモフクレナヰノアカモスソヒキイニシスカタヲ》
 
2551 念之餘者爲便無三出曾行之其門乎見爾《オモフニシアマリニシカハスヘヲナミイテヽソユキシソノカトヲミニ》
 
2552 情者千遍敷及雖念使乎將遣爲便之不知久《コヽロニハチヘシクシクニオモヘトモツカヒヲヤラムスヘノシラナク》
 
2553 夢耳見尚幾許戀吾者寤見者益而如何有《イメノミニミテスラコヽタコフルアハウツヽニミテハマシテイカナラム》
 
2554 對而者面隱流物柄爾繼而見卷能欲君毳《ムカヘレハオモカクレスルモノカラニツキテミマクノホシキキミカモ》
 
2555 旦戸遣乎速莫開味澤相目之乏流君今夜來座有《アサトヤリヲハヤクナアケソアサチハフメカホルキミカコヨヒキマセリ》
 
2556 玉垂之小簀之垂簀乎往褐寐者不眠友君者通速爲《タマタレノヲスノタレスヲモチカヽケイハナサストモキミハカヨハセ》
 
徃褐 萬葉考(ニ)云(ク)持掲《モチカヽケ》の誤にて簾を特(チ)掲けいねす待(ツ)とも其《ソノ》勞《イタツキ》は思はしたゝ君通ひ來給へとなり
 
(336)2557 垂乳根乃母白者公毛余毛相鳥羽梨丹年可經《タラチネノハヽニマヲサハキミモアレモアフトハナシニトシノヘヌヘキ》
 
2558 愛等思篇來師莫忘登結之紐之解樂念者《ウルハシトオモヘリケラシワスルナトムスヒシヒモノトクラクオモヘハ》
 
2559 昨日見而今日社間吾妹兒之幾許繼手見卷欲毛《キノフミテケフコソアヒタワキモコカコヽタクツキテミマクホシキモ》
 
2560 人毛無古郷爾有人乎愍久也君之戀爾令死《ヒトモナクフリニシサトニアルヒトヲメククヤキミカコヒニシナセム》
 
愍《メクヽ》 神代紀に憐愛《メクシトオモホス》また惠《メクミ》も是(レ)なり今も云り又今(ノ)俗《ヨノ》言にムゴイと云も是なり
 
2561 人言之繁間守而相十方八反吾上爾事之將繁《ヒトコトノシケキマモリテアヘリトモヤヘワカウヘニコトノシケヽム》
 
事《コト》は言《コト》守《モル》は人目人言の繁き間《マ》を目《モ》り伺《ウカヽ》ひてなり
 
2562 里人之言縁妻乎荒垣之外也吾將見惡有名國《サトヒトノコトヨセツマヲアラカキノヨソニヤアカミムニクカラナクニ》
 
言縁妻《コトヨセツマ》 吾(レ)に言(ヒ)縁《ヨス》るなり荒垣之は枕詞
 
2563 他眼守君之隨爾余共爾夙興乍裳裾所沾《ヒトメモルキミカマニマニアレサヘニハヤクオキツヽモノスソヌレヌ》
 
庭に下立《オリタチ》て見送れはなり
 
2564 夜半玉之妹之黒髪今夜毛加吾無床爾靡而宿良武《ヌハタマノイモカクロカミコヨヒモカアカナキトコニヌラシテヌラム》
 
2565 花細葦垣越爾直一目相視之兒放千遍嘆津《ハナクハシアシカキコシニタヽヒトメアヒミシコユヱチタヒナケキツ》
 
萬葉考(ニ)云(ク)人家(ノ)花を垣越に望《ミ》てうるはしむに譬へて物こしに一目|望《ミ》たるを云るなり允恭紀に波那具波辭佐久羅能梅涅と衣通姫を譬賜へるより出たる歌なるへし
 
2566 色田而戀者人見而應知情中之隱妻波母《イロニイテテコヒハヒトミテシリヌヘミコヽロノウチノコモリツマハモ》
 
2567 相見而者戀名草六跡人者雖云見後爾曾毛戀益家類《アヒミテハコヒナクサムトヒトハイヘトミテノチニソモコヒマサリケル》
 
拾遺集【戀二】に逢(ヒ)見ての後の心にくらふれは昔は物を思はさりけり
 
2568 凡吾之念者如是許難御門乎退出米也母《オホヨソニアレシオモハハカクハカリカタキミカトヲマカリテメヤモ》
 
金葉集【戀下】に三日月のおほろけならぬ戀しさにわれてそ出し雲の上より
 
2569 將念其人有哉烏玉之毎夜君之夢西所見《オモフラムソノヒトナレヤヌハタマノヨコトニキミカイメニシミユル》
 
念ふらむ人にもあらぬになり
 
或本歌云夜畫不云吾戀渡
 
2570 如是耳戀者可死足乳根之母毛告都不止通爲《カクノミニコヒハシヌヘミタラチネノハヽニモツケツヤマスカヨハセ》
 
2571 丈夫波友之騷爾名草溢心毛將有我衣苦寸《マスラヲハトモノサハキニナクサモルコヽロモアラムアレソクルシキ》
 
2572 僞毛似付曾爲何時從鹿不見人戀爾人之死爲《イツハリモニツキテソスルイツヨリカミヌヒトコヒニヒトノシニスル》
 
2573 情左倍奉有君爾何物乎鴨不去言此跡吾將竊食《コヽロサヘマタセルキミニナニヲカモイハヌイヒシトアカヌスマハム》
 
奉《マタス》は奉出《マツリタス》の約にてたてまつるを立奉《タテマタス》とも奉出《マツリタス》とも云
 
かことし○不云言此跡《イハスイヒシト》 萬葉考(ニ)云(ク)女の親母《オヤ》に夫《ヲトコ》の上(ヘ)をよく言て出會むと契しまゝに言しかと許《コリ》ねは困《ワヒ》て隱《コモ》り居るを夫《ヲトコ》恨て親母《オヤ》にはいはて虚言《ソラコト》に云るに答(337)へしにや
 
2574 面忘太爾毛得爲也登手握而雖打不寒戀之奴《オモワスレタニモエスヤトタニキリテウテトモコリスコヒノヤツコハ》
 
2575 希將見君乎見常衣左手之執弓方之眉根掻禮《メツラシキキミヲミムトソヒタリテノユミトルカタノマヨネカキツレ》
 
左は上《カミ》なれは如此《カク》云り左手之奧(ノ)手とも有
 
2576 人間守蘆垣越爾吾妹子乎相見之柄二事曾左太多寸《ヒトマモリアシカキコシニワキモコヲアヒミシカラニコトソサタオホキ》
 
人間《ヒトマ》を目《モ》りなり左太《サタ》は議定《サタ》にて人の上(ヘ)を傍《カタヘ》より評論《イヒサタ》むるを云り物語|等《ナト》に人(ノ)齡(ヒ)の盛り過たるをさた過(ク)と云るも他人《ヒト》の議論《サタ》無き年齒《トシ》なれはなり事《コト》は言《コト》
 
2577 今谷毛目莫令乏不相見而將戀年月久家眞國《イマタニモメナトモシメソアヒミステコヒムトシツキヒサシケマクニ》
       
久家眞國《ヒサシケマクニ》 久しけむになり
 
2578 朝宿髪吾者不梳愛君之手枕觸義之鬼尾《アサネカミアレハケツラシウツクシキキミカタマクラフレテシモノヲ》
 
義は羲
 
2579 早去而何時君乎相見等念之情今曾水葱少熟《ハヤユキテイツシカキミヲアヒミムトオモヒシコヽロイマソナキヌル》
 
2580 面形之忘戸在者小豆鳴男士物屋戀乍將居《オモカタノワスルトナラハアチキナクヲノコシモノヤコヒツヽヲラム》
 
2581 言云者三三二田八酢四少九毛心中二我念羽奈九二《コトニイハヽミミニタヤスシスクナクモコヽロノウチニアカオモハナクニ》
 
2582 小豆奈九何※[手偏+王]言今更小童言爲流老人二四手《アチキナクナニノタハコトイマサラニワラハコトスルオイヒトニシテ》
 
※[手偏+王]は狂戀|故《ユヱ》にわらはけたるを自らもとけるなり
 
2583 相見而幾久毛不有爾如年月所思可聞《アヒミテハイクヒサヽニモアラナクニトシツキノコトオモホユルカモ》
 
2584 丈夫登念有吾乎如是許令戀波小可者在來《マスラヲトオモヘルアレヲカクハカリコヒシムラクハカラクハアリケリ》
 
萬葉考(ニ)云(ク)小可二字は苛の誤
 
2585 如是爲乍吾待印有鴨世人皆乃常不在國《カクシツヽアカマツシルシアラムカモヨノヒトミナノツネナラナクニ》
 
2586 人事茂君玉梓之使不遣忘跡思名《ヒトコトノシケケキキミニタマツサノツカヒモヤラスワスルトオオモフナ》
 
事《コト》は言《コト》
 
2587 大原古郷妹置吾稻金津夢所見乞《オホハラノフリニシサトニイモヲオキテアレイネカネツイメニミエコソ》
 
大原上(ニ)出(ツ)【新考】
 
2588 夕去者公來座跡待夜之名凝衣今宿不勝爲《ユフサラハキミキマサムトマチシヨノナコリソイマモイネカテニスル》
 
2589 不相思公者在良思黒玉夢不見受旱宿跡《アヒオモハスキミハアルラシヌハタマノイメニモミエスウケヒテヌレト》
 
2590 石根蹈夜道不行念跡妹依者忍金津毛《イハネフミヨミチハユカシトオモヘレトイモニヨリテハシヌヒカネツモ》
 
2591 人事茂間守跡不相在終八子等面忘南《ヒトコトノシケキマモルトアハサラハツヒニヤコラカオモワスレナム》
 
言(ト)茂き間を目《モ》るとてなり
 
2592 戀死後何爲吾命生日社見幕欲爲禮《コヒシナムノチハナニセムアカイノチイケルヒニコソミマクホリスレ》
 
2593 敷細枕動而宿不所寢物念此夕急明鴨《シキタヘノマクラウコキテイネラエスモノオモフコヨヒハヤモアケヌカモ》
 
2594 不往吾來跡可夜門不閇※[立心偏+可]怜吾妹子待筒在《ユカヌアヲコムトカヨルモカトサヽスアハレワキモコマチツヽアラム》
 
2595 夢谷何鴨不所見雖所見吾鴨迷戀茂爾《イメニタニナニカモミエヌミユレトモアレカモマトフコヒノシケキニ》
 
2596 名草漏心莫二如是耳戀世度月日殊《ナクサモルコヽロハナシニカクノミニコヒヤワタラムツキニヒニケニ》
 
或本歌云奧津浪敷而耳八|方《モ》戀度奈牟
 
(338)2597 何爲而忘物吾妹子丹戀益跡所忘莫苦二《イカニシテワスレムモノソワキモコニコヒハマサレトワスラエナクニ》
 
2598 遠有跡公衣戀流玉桙乃里人皆爾吾戀八方《トホカレトキミニソコフルタマホコノサトヒトミナニアレコヒメヤモ》
 
玉桙を直《タヽ》に道にしてなり道行く凡《タヽ》の里人|皆《ミナ》爾《ニ》の意にて漢文の尋常行路人の如し
 
2599 驗無戀毛爲鹿暮去者人之手枕而將寐兒故《シルシナキコヒヲモスルカユフサレハヒトノテマキテネナムコユヱニ》
 
2600 百世下千代下生有目八方吾念妹乎置嘆《モヽヨシモチヨシモイキテアラメヤモアカオモフイモヲオキテナケカム》
 
置嘆《オキテナケカ》ム 逢こと無く徒《タヽ》に置てなり
 
2601 現毛夢毛吾者不思寸振有公爾此間將會十羽《ウツヽニモイメニモアレハモハサリキフリタルキミニコヽニアハムトハ》
 
舊(リ)たるは比年《トシコロ》不逢《アハサ》りしなり
 
2602 黒髪白髪左右跡結大王心一乎今解目八方《クロカミノシロカミマテトムスヒテシコヽロヒヒトツヲイマトカメヤモ》
 
2603 心乎之君爾奉跡念有者縱比來者戀乍乎將有《コヽロヲシキミニマタストオモヘレハヨシコノコロハコヒツヽヲアラム》
 
2604 念出而哭者雖泣灼然人之可知嘆爲勿謹《オモヒイテテネニハナクトモイチシロクヒトノシルヘクナケキスナユメ》
 
隱聲《シノヒネ》には泣(ク)ともなり
 
2605 玉桙之道去夫利爾不思妹乎相見而戀比鴨《タマホコノミチユキフリニオモホエスイモヲアヒミテコフルコロカモ》
 
道(チ)行(キ)觸(リ)なり
 
2606 人目多常如是耳志候者何時吾不戀將有《ヒトメオホミツネカクノミシサモラハヽイカナルトキカアカコヒサラム》
 
候者《サモラハヽ》 眞目《サモ》らはゝにて伺《ウカヽ》ひ待(ツ)なり
 
2607 敷細之衣手可禮天吾乎待登在濫子等者面影爾見《シキタヘノコロモテカレテアヲマツトアルラムコラハオモカケニミユ》
 
2608 妹之袖別之日從白細乃衣片敷戀管曾寐留《イモカソテワカレシヒヨリシロタヘノコロモカタシキコヒツツソヌル》
 
2609 白細之袖者間結奴我妹子我家當乎不止振四二《シロタヘノソテマオヨヒヌワキモコカイヘノアタリヲヤマスフリシニ》
 
亂《マヨヒ》ぬなり
 
2610 夜半玉之吾黒髪乎引奴良思亂而反戀度鴨《ヌハタマノアカクロカミヲヒキヌラシミタレテカヘリコヒワタルカモ》
 
四(ノ)句心の亂るゝに承《ウケ》たり
 
2611 今更君之手枕卷宿米也吾紐緒乃解都追本名《イマサラニキミカタマクラマキネメヤアカヒモノヲノトケツヽモトナ》
 
2612 白細布乃袖觸而夜吾背子爾吾戀落波止時裳無《シロタヘノソテフレテヨリアカセコニアカコフラクハヤムトキモナシ》
 
2613 夕卜爾毛占爾毛告有今夜谷不來君乎何時將待《ユフケニモウラニモノレルコヨヒタニキマサヌキミヲイツトカマタム》
 
2614 眉根掻下言借見思有爾去家人乎相見鶴鴨《マユネカキシタイフカシミオモヘルニイニシヘヒトヲアヒミツルカモ》
 
或本歌曰眉根掻誰乎香將見跡思乍氣長(ク)戀|之《シ》妹爾|相《アヘル》鴨
 
一書歌曰眉根掻下伊布可之美|念有之《オモヘリシ》妹(カ)容儀《スカタ》乎今日見都流香裳
 
2615 敷栲乃手枕卷而妹與吾寐夜者無而年曾經來《シキタヘノタマクラマキテイモトアカヌルヨハナクテトシソヘニケル》
 
2616 奧山之眞木之板戸乎音速見妹之當之霜上爾宿奴《オクヤマノマキノイタトヲオトハヤミイモカアタリノシモノウヘニネヌ》
 
音速見《オトハヤミ》 叩《タヽ》けは響動《トヽロ》くを云り密《シノ》ひて叩《タヽ》けは音高きには非(ラ)す故(レ)速《ハヤミ》と云るなり○妹之當乃霜上爾宿奴 逢(ハ)れむ便宜《ヨスカ》を待(ツ)間《アヒタ》なり
 
2617 足日木能山櫻戸乎開置而吾待君乎誰留流《アシヒキノヤマサクラトヲヒラキオキテアカマツキミヲタレカトトムル》
 
(339)櫻戸は割《サク》ら戸なり眞木割檜板戸《マキサクヒノイタト》と云る如く板に割《サキ》て戸に造るを云り山も彼《カ》の開木《ヤヤ》と書る如く木を取る處を云(ヒ)初句も生繁木《アシヒキ》の意なり其《ソ》を花|開《サ》く櫻の如《コト》云(ヒ)なせ
 
るなむ愛痛《メテタ》く雅《ミヤヒカ》なる歌なる又|櫻麻乃苧原之下草《サクラヲノヲフノシタクサ》と云るも祝詞【大祓】に八針爾取辟《ヤハリニトリサキ》とも有(リ)て麻は割(キ)て用《ツカ》ふ物なるが故に是《コ》も割《サク》ら麻《ヲ》にて同(シ)言(ト)の例なり割《サク》を割《サク》らと云は枕《マクラ》は纏《マ》く器《モノ》にて纏《マク》らと云に同し例なり【纏坐《マキクラ》の約には非《アラ》し】
 
2618 月夜好三妹二相跡直路柄吾者雖來夜其深去來《ツクヨヨミイモニアハムトタヽチカラアレハクレトモヨソフケニケル》
 
直路《タヽチ》は間道《チカミチ》
 
寄v物陳v思
 
2619 朝影爾吾身者成辛衣襴之不相而久成者《アサカケニアカミハナリヌカラコロモスソノアハステヒサシクナレハ》
 
十四に可良許呂毛須蘇乃宇知可倍安波禰杼毛云々|當時《ソノカミ》韓人《カラヒト》の衣裔《コロモノスソ》はうち合(ハ)さりしなるへし其《ソ》を譬へたるなり
 
2620 解衣之思亂而雖戀何如汝之故跡問人毛無《トキキヌノオモヒミタレテコフレトモナソナカユヱトトフヒトモナシ》
 
何如汝之故跡《ナソナカユヱト》 何如《ナニ》そ汝之《ナカ》物思ふ故跡《ユヱハト》なり
 
2621 摺衣著有跡夢見津寤者孰人之言可將繁《スリコロモケリトイメミツウツヽニハイツレノヒトノコトカシケヽム》
 
繁く摺(リ)亂(タ)せる衣なれは他人言《ヒトコト》繁くいひ亂《ミタ》る兆《シルシ》なり
 
2622 志賀乃白水郎之鹽燒衣雖穢戀云物者忘金津毛《シカノアマノシホヤキコロモナレヌレトコヒトフモノハワスレカネツモ》
 
筑前の資珂《シカ》そ
 
2623 呉藍之八鹽乃衣朝旦穢者雖爲益希將見裳《クレナヰノヤシホノコロモアサナサナナレハスレトモイヤメツラシモ》
 
2624 紅之深染衣色深染西鹿齒蚊遺不得鶴《クレナヰノコソメノコロモイロブカクソメニシカハカワスレカネツル》
 
2625 不相爾夕卜乎問常幣爾置爾吾衣手者又曾可續《アハナクニユフケヲトフトヌサニオクニアカコロモテハマタソツクヘキ》
 
夕卜《ユフケ》の幣《ヌサ》に衣手《ソテ》を解(キ)離ちて奠《タムク》るを云り十三に衣社薄其破者縫乍物又母相登言玉社者緒之絶薄八十一里喚鷄又物相登曰又毛不相物者※[女+麗]爾志有來《キヌコソハソレヤフレヌレハヌヒツヽモマタモアフトイヘタマコソハヲノタエヌレハククリツツマタモアフトイヘマタモアハヌモノハツマニシアリケリ》この意にて衣手《ソテ》の離(レ)は復も縫(ヒ)續(キ)て合へし書中は不相爾《アハナクニ》と初句に還りて歎く意の歌なり
 
2626 古衣打棄人者秋風之立來時爾物念物其《フルコロモウチステヒトハアキカセノタチケルトキニモノオモフモノソ》
 
2627 波禰※[草冠/縵]今爲妹之浦若見咲見慍見著四紐解《ハネカツライマスルイモカウラワカミヱミミイカリミツケシヒモトク》
 
一二(ノ)句上【新考の】に出たる處に云り披(ラキ)見て知(リ)ね○浦若見《ウラワカミ》 萬葉考(ニ)云(フ)浦《ウラ》は弱《ヨワ》らなり又やをら【物語|等《ナト》にやをら出《イテ》やをら入《イル》なとある皆やはらかに身をふるまふを慍ち】なり宇良宇良と照れる春日と云宇良宇良も是なり○咲見慍見《ヱミミイカリミ》 俗言《ヨノコト》に威《オト》しつ誘《スカ》しつと云り○著四紐解《ツケシヒモトク》 著紐《ツケヒモ》花鬘《ハネカツラ》齡《トシ》の程想ふへし
 
(340)2628 去家之倭文旗帶乎結垂孰云人毛君者不益《イニシヘノシツハタオヒヲムスヒタレタレチフヒトモキミニハマサシ》
  倭文《シツ》の古(ル)さ思へし
 
一書歌云古之|狭織《サナタ》之帶乎括垂誰|之《シ》能人毛君爾波不益
 
狭織《サナタ》は狭之織《サノハタ》の約
 
2629 不相友吾波不怨此枕吾等念而枕手左宿座《アハストモアレハウラミシコノマクラアレトオモヒテマキテサネマセ》
 
2630 結紐解日遠敷細吾木枕蘿生來《ユヘルヒモトクヒヲトホミシキタヘノアカコマクラニコケオヒニケリ》
 
2631 夜干玉之黒髪色天長夜※[口+立刀]手枕之上爾妹待覽蚊《ヌハタマノクロカミシキテナカキヨヲタマクラノウヘニイモマツラムカ》
 
手枕之上爾黒髪敷而の意なり
 
2632 眞素鏡直二四妹乎不相見者我戀不止年者雖經《マソカヽミタヽニシイモヲアヒミネハアカコヒヤマシトシハヘヌトモ》
 
2633 眞十鏡手取持手朝旦將見時禁屋戀之將繁《マソカヽミテニトリモチテアサナサナミムトキサヘヤコヒノシケヽム》
 
2634 里遠戀和備爾家里眞十鏡面影不去夢所見社《サトトホミコヒワヒニケリマソカヽミオモカケサラスイメニミエコソ》
 
右一首上見2柿本朝臣人麻呂之歌中1也但以2句句相換1故載2於茲1
 
2635 劍刀身爾佩副流丈夫也戀云物乎忍金手武《ツルキタチミニハキソフルマスラヲヤコヒトフモノヲシヌヒカネテム》
 
2636 劍刀諸刃之於荷去觸両所殺鴨將死戀乍不有者《ツルキタチモロハノウヘニユキフレテシセカモシナムコヒツヽアラス ハ》
 
弑《シセ》なり結句戀つゝ在(ラ)むよりはの意
2637 ※[口+酉]鼻乎曾嚏鶴劍刀身副妹之思來下《ウレシクモハナソヒツルツルキタチミニソフイモカオモヒケラシモ》
 
※[口+酉]は※[口+西]の誤にや
 
2638 梓弓末乃腹野爾鷹田爲君之弓食之將絶跡念甕屋《アヅサユミスヱノハラヌニトカリスルキミカユツルノタエムトオモヘ ヤ》
 
地《トコロ》は詳《サタカ》ならす弦《ツル》は所食《ハム》る物なれは如此《カク》作《カケ》り
 
2639 葛木之其津彦眞弓荒木爾毛憑也者之吾之名告兼《カツラキノソツヒコマユミアラキニモヨレハヤキミカアカナノリケム》
 
葛城(ノ)襲《ソ》津彦(ノ)宿禰は建内(ノ)宿禰(ノ)命(ノ)子にて磐之姫《イハノヒメノ》皇后(ノ)【仁徳皇后】御父なり襲《ソ》津彦の名の如く大《イミ》しき丈夫《マスラヲ》なりしかは其(ノ)弓力《ユチカラ》も世に特《コト》なりし故に世に傳へて強弓《ツヨユミ》を襲津彦眞弓と唱へけむ子孫《スヱノ》的盾人《イクハノタテヒトノ》宿禰も鐵的《マカネノマト》を射貫《イヌキ》たりき新木《アラキ》は殊に彎《ヒキ》難きを以(テ)心|強《コハ》き女に比《タト》へ然《サ》れと名告るは吾(レ)に依るにやとなり憑《ヨル》も弓の縁語|吾之名《アカナ》とは君とさす女の吾《アカ》なり
 
2640 梓弓引見弦見不來者不來來者其其乎奈何不來者來者其乎《アツサユミヒキミユルヘミコスハコスコハソヽヲナトコスハコハソヲ》
 
不來者不來《コスハコス》 不來《コヌ》は不來《コヌ》にて有へしとなり○來者其《コハソ》 來らは其(レ)にて有へしとなり○其乎奈何《ソヲナト》 其(レ)を何《ナニ》そなり○不來者來者其乎《コスハコハソヲ》 來らすは其(レ)を何《ナニ》そや來らは其(レ)を何《ナニ》そやにて引(キ)み弛《ユルヘ》み弓を爲る如くに來《コ》すもあらす來《キ》もせぬ人は奈何《ナニ》そやと咎めたる女歌なり
 
2641 時守之打鳴鼓數見者辰爾波成不相毛恠《トキモリノウチナスツヽミヨミミレハトキニハナリヌアハナクモアヤシ》
 
2642 燈之陰爾蚊蛾欲布虚蝉之妹蛾咲状思面影爾所見《トモシヒノカケニカカヨフウツセミノイモカヱマヒシオモカケニミユ》
 
(241)燈の影に耀《カヽヨ》ふは逢し夜の景状《サマ》
 
2643 玉戈之道行疲伊奈武思侶敷而毛君乎將見因母鴨《タマホコノミチユキツカレイナムシロシキテモキミヲミムヨシモカモ》
 
寝席《イナムシロ》まては重《シキ》の枕詞
 
2644 小墾田之板田乃橋之壞者從桁將去莫戀吾妹《ヲハリタノイタタノハシノコホレナハケタヨリユカムナコヒソワキモ》
 
小墾田《ヲハリタ》 大和國高市郡|治田《ハリタノ》神社式に在(リ)其處《ソコ》なり○板田乃橋《イタタノハシ》 板棚橋《イタタナハシ》なり上に天在一棚橋《アメナルヒトツタナハシ》と有て棚の如く板を渡せるなり即(チ)今のたゝの板橋を云り簀橋《スハシ》榑橋《クレハシ》石橋《イハハシ》なと種々《クサ/\》の中に是を棚橋と云るなり從桁將去《ケタヨリユカム》も板橋なる故なり
 
2645 宮材引泉之追馬喚犬二立民乃息時無戀渡可聞《ミヤキヒクイツミノソマニタツタミノヤムトキモナクコヒワタルカモ》
 
山城國相楽部
 
2646 住吉乃津守網引之浮笑緒乃得干蚊將離去戀管不有者《スミノエノツモリアヒキノウケノヲノウカレカユカムコヒツヽアラスハ》
 
何處《イツコ》人も流離失《サスラヘウセ》なむなり結句戀つゝ在(ラ)むよりはなり
 
2647 東細布從空延越遠見社目言疎良米絶跡間也《ヨコクモノソラユヒキコシトホミコソメコトカルラメタユトヘタツヤ》
 
結句絶(エ)むとして吾(カ)間《ヘタ》つるに非(ラ)すとなり
 
2648 云云物者不念斐太人乃打墨繩之直一道二《カニカクニモノハオモハスヒタヒトノウツスミナハノタヽヒトミチニ》
 
左《カ》に右《カク》に漂《タヽヨ》はしき心は無(シ)となり四に浪之共靡珠藻乃云云意者不持《ムタナヒクタマモノカニカクニコヽロハモタス》これに同し
 
2649 足日木之山田守翁置蚊火之下粉枯耳余戀居久《アシヒキノヤマタモルオチカオクカヒノシタコカレノミアカコヒヲラク》
 
2650 十寸板持盖流板目乃不合相者如何爲跡可吾宿始兼《ソキイタモテフケルイタメノアハサラハイカニセムトカアカネソメケム》
 
削板《ソキイタ》目《メ》の合《アフ》と續けたり【不令にはかゝらす】
 
2651 難波人葦火燎屋之酢四手雖有己妻許曾常目頬次吉《ナニハヒアシヒタクヤノスシタレトオノカツマコソトコメツラシキ》
 
凝烟《スヽ》したれとなり結句|吉《キ》は家禮《ケレ》なり
 
2652 妹之髪上小竹葉野之放駒蕩去家良思不合思者《イモカカミアケサヽハヌノハナシコマアラヒニケラシアハヌオモヘハ》
 
地は詳ならす蕩《アラヒ》は離放《アラヒ》
 
2653 馬音之跡杼登毛爲者松陰爾出曾見鶴若君香跡《ウマノオトノトトトモスレハマツカケニイテヽソミツルモシモキミカト》
 
2654 君戀寝不宿朝明誰乘流馬足音吾開爲《キミニコヒイネヌアサマニタカノレルウマノアノトソアレニキカスル》
 
2655 紅之襴引道乎中置而妾哉將通公哉將來座《クレナヰノスソヒクミチヲナカニオキテアレヤカヨハムキミヤキマサム》
 
一云|須蘇衝《スソツク》河乎又曰|待香將待《マチニカマタム》  
 
衝《ツク》は着《ツク》
 
2656 天飛也輕乃社之齋槻幾世及將有隱嬬其毛《アマトフヤカルノヤシロノイハヒツキイクヨマテアラムコモリツマソモ》
 
顯れて夫婦《ツマ》と成(ル)まて待(チ)遠きの謂《イヒ》
 
2657 神名火爾紐呂寸立而雖忌人心者間守不敢物《カムナヒニヒモロキタテテイハヘトモヒトノコヽロハマモリアヘヌカモ》
 
飛鳥《アスカ》の神之邊《カムナヒ》なるへし神籬《ヒモロキ》は靈室垣《ヒモロキ》【垣《カキ》を城《キ》と云(フ)は百之城《モヽシキ》は百石垣また纏向(ノ)珠城(ノ)宮を玉垣(ノ)宮とも云か如し】にて神(ノ)靈《ミタマ》の坐《マ》す御室垣《ミモロノカキ》の名なり然《サ》て其《ソ》は宮(342)を守衛《マモリ》の料《タメ》なれは下の間守《マモリサ》を云むとてなり○雖忌《イハヘトモ》 人【思ふ人】の心を慎しみ護るの喩《タトヘ》
 
2658 天雲之八重雲隱鳴神之音耳爾八方聞度南《アマクモノヤヘクモカクリナルカミノオトニノミヤモキヽワタリナム》
 
2659 爭者神毛惡爲縱咲八師世副流君之惡有莫君爾《アラソヘハカミモニクマスヨシエヤシヨソブルキミカニクカラナクニ》
 
世副流《ヨソフル》 吾(レ)に故《コト》有(リ)と言(ヒ)依《ヨソフ》るなり一首の意物に逆《サカ》ふは神も憎み賜へり縱《ヨ》し無き名そとも爭はし吾(レ)に言(ヒ)依する彼(ノ)君もにくからぬにとの意なり
 
2660 夜並而君乎來座跡千石破神社乎不祈日者無《ヨナラヘテキミヲキマセトチハヤフルカミノヤシロヲノマヌヒハナシ》
 
2661 靈治波布神毛吾者打棄乞四惠也壽之〓無《タマチハフカミモアレヲハウツテコソシヱヤイノチノオシケクモナシ》
 
上に千早振神持在命《チハヤフルカミノタモテルイノチヲモ》……云々|靈幸《タマチハ》ふ神は産靈《ムスヒノ》神を云り
 
2662 吾妹兒又毛相等千羽八振神社乎不祷日者無《ワキモコニマタモアハムトチハヤフルカミノヤシロヲノマヌヒハナシ》
 
2663 千葉破神之伊垣毛可越今者吾名之惜無《チハヤフルカミノイカキモコエヌヘシイマハアカナノヲシケクモナシ》
 
齋垣《イカキ》なり名も惜からす身を捨てて逢てむとなり
 
2664 暮月夜曉闇夜乃朝影爾吾身者成奴汝乎念金丹《ユフツクヨアカトキヤミノアサカケニアカミハナリヌナヲオモヒカネニ》
一二(ノ)句は朝を云む料
 
2665 月之有者明覽別裳不知而寐吾來乎人見兼鴨《ツキシアレハアケラムワキモシラスシテネテアカコシヲヒトミケムカモ》
 
2666 妹目之見卷欲家口夕闇之木葉隱有月待如《イモカメヲミマクホシケクユフヤミノコノハカクレルツキマツカコト》
 
目《メ》は所見《ミエ》
 
2667 眞袖持床打拂君待跡居之間爾月※[丘+頁]《マソテモチトコウチハラヒキミマツトヲリシアヒタニツキカタフキヌ》
 
居《ヲル》は不寢《ネヌ》
 
2668 二上爾隱經月之雖惜妹之手本乎加流類比來《フタカミニカクロフツキノヲシケトモイモカタモトヲカルルコノコロ》
 
万葉考(ニ)云(ク)葛下《カツラキノシモノ》郡葛城山に尖《トカ》りたる峯二(ツ)有(リ)二上山と云(リ)
 
2669 吾背子之振放見乍將嘆清月夜爾雲莫田名引《アカセコカフリサケミツヽナケクラムキヨキツクヨニクモナタナヒキ》
 
2670 眞素鏡清月夜之湯從去者念者不戀社益《マソカヽミキヨキツクヨノユツリナハオモヒハヤマスコヒコソマサメ》
 
湯徒《ユツル》は移《ウツル》なり上出【新考】此《コヽ》は思ふ人の他處《ホカ》に移り去《イナ》はなり
 
2671 今夜之在開月夜在乍文公乎置者待人無《コノヨラノアリアケノツクヨアリツヽモキミヲオキテハマツヒトモナシ》
 
2672 此山之嶺爾近跡吾見鶴月之空有戀毛爲鴨《コノヤマノミネニチカシトアカミツルツキノソラナルコヒモスルカモ》
ラナル
※[丘+頁]く月の嶺に近よりても猶空(ラ)有《ナル》を序に續け成せり空有《ソラナル》戀とは思ふ人にも知られぬ等《ナト》を云へし
 
2673 烏玉乃夜渡月之湯移去者更哉妹爾吾戀將居《ヌハタマノヨワタルツキノユツリナハサラニヤイモニアカコヒヲラム》
 
吾を置て他處《ホカ》に移り去《イナ》はなり
 
2674 朽網山夕居雲薄往者余者將戀名公之目乎欲《クタミヤマユフヰルクモノウスラカハアレハコヒムナキミカメヲホリ》
 
綱は網の誤なるへし豐後國風土記に直入《ナホリノ》郡|球覃《クタミノ》郷ま(343)た朽網之峯《クタミノタケ》景行紀【十二年】に來田見邑《クタミノムラ》あり
 
2675 君之服三笠之山爾居雲乃立者繼流戀爲鴨《キミカキルミカサノヤマニヰルクモノタテハツカルルコヒモスルカモ》
 
2676 久堅之天飛雲爾在而然君相見落日莫死《ヒサカタノアマトフクモニアリテシカキミヲアヒミムオツルヒナシニ》
 
有而《アリテ》し欲《カ》なり落《オツル》は漏《オツル》
2677 佐保乃内從下風之吹禮波還者胡粉歎夜衣大寸《サホノウチユアラシノフケレハカヘルサハセムスヘシラニナケクヨソオホキ》
 
夫《ヲトコ》の歸路を念へるなり
 
2678 級寸八師不吹風故玉匣開而左宿之吾其悔寸《ハシキヤシフカヌカセユヱタマクシケヒラキテサネシアレソクルシキ》
 
風は待(ツ)人の喩《タトヘ》夏なる故に愛《ハ》しきやし風の意
 
2679 窓超爾月臨照而足檜乃下風吹夜者公乎之其念《マトコシニツキオシテリテアシヒキノアラシフクヨハキミヲシソオモフ》
 
秋(ノ)夜(ノ)情《コヽロ》
 
2680 河千鳥住澤上爾立霧之市白兼名相言始而者《カハチトリスムサハノウヘニタツキリノイチシロケムナアヒイヒソメテハ》
 
而者《テハ》は而有者《タレハ》
 
2681 吾背子之使乎待跡笠毛不着出乍其見之雨落久爾《アカセコカツカヒヲマツトカサモキスイテツヽソミシアメノフラクニ》
 
2682 辛衣君爾内著欲見戀其晩師之雨零日乎《カラコロモキミウチキセミマクホリコヒソクラシシアメノフルヒヲ》
 
辛《カラ》は文《アヤ》なり【音《コヱ》近く通ふ】漢を加羅とも阿夜とも云り漢衣の意には非す雨には來《ク》ましきをも一(ト)日待晩しつとなり女情《ヲミナコヽロ》あはれなり
 
2683 彼方之赤土少屋爾※[雨/脉]※[雨/沐]零床共所沾於身副我妹《ヲチカラノハニフノヲヤニコサメフリトコサヘヌレヌミニソヘワキモ》
 
万葉考(ニ)云(ク)大祓(ノ)詞に彼方乃繁木我本乎《ヲチカタノシケキカモトヲ》云々てふ如く京《ミサト》離れし田舍のよしにて赤土少屋《ハニフノヲヤ》も赤土《ハニ》には意無くたゝ賤しき少屋《ヲヤ》の形状《アリサマ》を云り下に人事《ヒトコト》【言《コト》そ】乎繋跡君乎鶉鳴人之古家爾相語而遣都《ヲシケミトキミヲウツラナクヒトノフルイヘニカタラヒテヤリツ》てふ如く他人《ヒト》知れす然《サ》る處に率《ヰ》て往《イキ》て宿《ネ》たるに雨さへ零て床に漏り沾《ヌラ》されたるは爲方《スヘ》無く困《ワヒ》しきにつけても親しみ依る意はへをよく言(ヒ)取(リ)し【以上文意】此註信(ト)に説《イハ》れたり
 
2684 笠無登人爾者言手雨乍見留之君我容儀志所念《カサナシトヒトニハイヒテアマツヽミトマリシキミカスカタシオモホユ》
 
万葉考(ニ)云(ク)作者(ノ)家に故《ユヱ》有る男子《ヲトコ》の來て女子《ムスメ》なと相思ふ故《カラ》に笠無(キ)を詞にて歸らて宿りし時《ヲリ》有しを思ひ出て彼(ノ)男子を戀るなるへし
 
2685 妹門去過不勝都久方乃雨毛零奴可其乎因將爲《イモカカトユキスキカネツヒサカタノアメモフラヌカソヲヨシニセム》
 
其(レ)に託《コトヨ》せて留《トトマ》らむなり
 
2686 夜占問吾袖爾置白露乎方公令視跡取者消管《ユフケトフアカソテニオクシラツユヲキミニミセムトトレハケニツヽ》
 
2687 櫻麻乃苧原之下草露有者令明而射云母音雖知《サクラヲノヲフノシタクサツユシアレハアカシテイユケハヽハシルトモ》
 
裂《サク》ら麻なり上【四十一葉】山櫻戸の處に云り考(ヘ)合(ハス)へし令明《アカス》は夜を令明《アカス》に道路《ミチ》を令明《アカス》を兼(ヌ)古事記【遠飛鳥宮段】に那都久佐能阿比泥能波麻能加岐賀比爾阿斯布麻須那阿加斯弖杼(344)冨禮是(レ)は道路《ミチ》を明すを本(ト)にて夜を明すを兼(ネ)今|此《コヽ》は夜を明すを主にて道路を明すを兼たり
 
2688 待不得而内者不入白細布之吾袖爾露者置奴鞆《マチカネテウチヘハイラシシロタヘノアカコロモテニツユハオキヌトモ》
 
待(チ)不得《エス》して徒《タヽ》に空しく内には反り入らしとなり不得《カネ》は何處も皆|如是《カヽ》り待(ツ)に不堪《タヘ》ぬを云は不可《ヨカ》らす四五(ノ)句|深更《ヨフク》るを謂り
 
2689 朝露之消安吾身雖老又若反君乎思將待《アサツユノケヤスキアカミオイヌトモマタワカカヘリキミヲシマタム》
 
2690 白細布乃吾袖爾露者置妹者不相猶豫四手《シロタヘノアカコロモテニツユハオクイモニハアハスタユタヒニシテ》
 
深更《ヨフクル》まて思ふ邊《アタリ》に彷徑《タヽス》めとも逢ふ因《ヨシ》無くて得も入らす得も去り不得《カネ》て猶豫《タユタ》ふなり
2691 云云物者不念朝露之吾身一者君之隨意《カニカクニモノハオモハスアサツユノアカミヒトツハキミカマニ/\》
 
左《カ》に右《カク》に漂《タヽヨ》はしき心は無(シ)となり
 
2692 夕凝霜置來朝戸出爾甚踐而人爾所知名《ユフコリノシモオキニケリアサトイテニイトアトツケテヒトニシラユナ》
 
2693 如是許戀乍不有者朝爾日爾妹之將履地爾有申尾《カクハカリコヒツヽアラスハアサニケニイモカフムラムツチニアラマシヲ》
 
2694 足日木之山鳥尾乃一峰越一目見之兒爾應戀鬼香《アシヒキノヤマトリノヲノヒトヲコエヒトメミシコニコフヘキモノカ》
 
八に足日木能山鳥許曾婆|峯向《ヲムカヒ》爾嬬問|爲云《ストイヘ》云々|雌雄《メヲ》相(ヒ)離れ峰を隔てゝ棲《スム》なり一重山隔《ヒトヘヤマヘナ》れる女を戀るなるへし
 
2695 吾妹子爾相縁乎無駿河有不盡乃高嶺之燒管香將有《ワキモコニアフヨシヲナミスルカナルフシノタカネノモエツヽカアラム》
 
2696 荒熊之住云山之師齒迫山責而雖問汝名者不告《アラクマノスムトフヤマノシハセヤマセメテトフトモナカナハノラシ》
 
地《トコロ》は詳《サタカ》ならす三(ノ)句まては世《セ》を疊《カサネ》む序にして且《マタ》師齒迫《シハセ》に迫《セマ》る意あれはなりそは十二月を師波須と稱《イへ》る名も
 
月の極(マ)り迫《セマ》るよしにて世麻師波《セマシハ》通ひて本(ト)一(ツ)言(ト)なり然《サ》て荒熊之云々も恐怖《オソロ》しく人責(メ)問(ハ)るゝを令思《オモハセ》たる工(ミ)なり
 
2697 妹之名毛吾名毛立者惜社布仕能高嶺之燒乍渡《イモカナモアカナモタヽハヲシミコソフシノタカネノモエツヽワタレ》
 
或歌曰君名毛|妾《アカ》名毛|立者惜《タヽハヲシミ》己曾不盡乃高|山《ネ》之燒《モエ》乍毛居
 
2698 往而見而來戀敷朝香方山越置代宿不勝鴨《ユキテミテクレハコヒシキアサカカタヤマコシニオキテイネカテヌカモ》
 
伊勢の阿射加《アサカ》か【壹志《イチシノ》郡也】十四【東歌】にも安|齊《セ》可我多あり考へし
 
2699 安太人乃八名打度瀬速意者雖念直不相鴨《アタヒトノヤナウチワタスセヲハヤミコヽロハモヘトタタニアハヌカモ》
 
和名抄に大和國宇智郡阿※[こざと+施の旁](ノ)郷【※[こざと+施の旁](ノ)音可2濁(リテ)讀(ム)1】○瀬速意者雖念《セヲハヤミコヽロハモヘト》 意(ロ)は速《ハヤ》れとなり
 
2700 玉蜻石垣淵之隱庭伏以死汝名羽不謂《カキロヒノイハカキフチノコモリニハフシテシヌトモナカナハノラシ》
 
在(リ)※[穴/君]《ワヒ》て身を投《ナケ》ぬともなり
 
(345)2701 明日香川明日文將渡石走遠心者不思鴨《アスカカハアスモワタラムイハハシノトホキコヽロハオモホエヌカモ》
 
石椅《イハハシ》は間《アハヒ》の近き謂《イヒ》にて間遠にて得《エ》あらぬを云り
 
2702 飛鳥川水往増彌日異戀乃増者在勝申目《アスカカハミナユキマサリイヤヒケニコヒノマサラハアリカテマシモ》
 
2703 眞薦刈大野川原之水隱戀來之妹之紐解吾者《マコモカルオホヌカハラノミコモリニコヒコシイモカヒモトクワレハ》
 
地《トコロ》詳《サタカ》ならす
 
2704 惡氷木之山下勤逝水之時友無雲戀度鴨《アシヒキノヤマシタトヨミユクミツノトキトモナクモコヒワタルカモ》
 
2705 愛八師不相君故徒爾此川瀬爾玉裳沾津《ハシキヤシアハヌキミユヱイタツラニコノカハノセニタマモヌラシツ》
 
2706 泊瀬川速見早湍乎結上而不飽八妹登問師公羽裳《ハツセカハハヤミハヤセヲムスヒアケテアカスヤイモトトヒシキミハモ》
 
三(ノ)句まては不飽《アカス》の序|疾瀬《ハヤセ》を掬《ムス》ひて飲めとも不足《アカ》ねはなり四五(ノ)句不飽八の八は歎聲にて逢(ヒ)見ることの不足《アカ》ぬ哉《カナ》汝《ナ》は奈何《イカニ》と問しの意なり古今集【離別】にむすふ手のしつくに濁る山の井のあかても云々相(ヒ)類《ニ》たり
 
2707 青山之石垣沼間乃水隱爾戀哉將度相縁乎無《アヲヤマノイハカキヌマノミコモリニコヒヤワタラムアフヨシヲナミ》
 
青山も深く隱《コモ》る意の工(ミ)なり
 
2708 四長鳥居名山響爾行水乃名耳所縁之内妻波母 《シナカトリヰナヤマトヨニユクミツノナノミニヨセシコモリツマハモ》
三(ノ)句まては音高き譬(ヘ)四(ノ)句無き名のみ稱依《イヒヨ》せられしなり内妻《コモリツマ》は父母《オヤ》の守護り令牢《コメ》て逢(ヒ)難きを稱《イフ》なるへし
一云名耳之所縁而戀管哉將在
 
2709 吾妹子吾戀樂者水有者之賀良三超而應逝衣思《ワキモコニアカコフラクハミツナラハシカラミコエテユクヘクソオモフ》
 
念(ヒ)のいち疾《ハヤ》きなり
 
或本歌發句云|相不思人乎念《アヒオモハヌヒトヲオモハク》
 
2710 狗上之鳥籠山爾有不知也河不知二五寸許瀬余名告奈《イヌカミノトコノヤマナルイサヤカハイサトヲキコセアカナノラスナ》
 
此地上出【新考】
 
2711 奧山之木葉隱而行水乃音聞從常不所忘《オクヤマノコノハカクリテユクミツノオトキヽシヨリツネワスラエス》
 
音まては序なから意有て深く齋《イハ》はるゝ處女《ヲトメ》の譬(ヘ)なり
 
2712 言急者中波余騰益水無瀬河絶跡云事乎有越名湯目《コトトクハナカハヨトマセミナセカハタユトイフコトヲアリコスナユメ》
 
2713 明日香河逝湍乎早見將速見登待良武妹乎此日晩津《アスカカハユクセヲハヤミハヤミムトマツラムイモヲコノヒクラシツ》
 
2714 物部乃八十氏川之急瀬立不得戀毛吾爲鴨《モノノフノヤソウシカハノハヤキセニタチセヌコヒモアレハスルカモ》
 
命に向ふ辛苦《クル》しき戀の譬
 
一云立而毛君者忘金津藻
 
辛苦《クル》しき時に當(リ)てもなり
 
2715 神名火打廻前乃石淵隱而耳八吾戀居《カムナヒノヲレタムサキノイハフチノコモリテノミヤアカコヒヲラム》
 
四に衣手乎打廻乃里爾云々玉(ノ)小琴(ニ)云(ク)打は皆(ナ)折の誤にて四(ノ)卷は乃字|衍《アマ》りて折廻《ヲリタム》里十一は折廻前《ヲリタムサキ》なり屈曲《ヲレマカ》りたる處を云るなり前は崎なり
 
2716 自高山出來水石觸破衣念妹不相夕者《タカヤマユイテクルミツノイハニフリワレテソオモフイモニアハヌヨハ》
 
(346)万葉考(ニ)云(ク)集中に吾胸乃破而摧而《ワカムネノワレテクタケテ》なと有(ル)に同し後の物語歌|等《ナト》にわりなくてを略きわれてと云とは異なり【以上】因《チナミニ》云(フ)わりなくは理無《コトワリナク》の又|省《ハフキ》なり
 
2717 朝東風爾井提越浪之世蝶似藻不相鬼故瀬毛響動二《アサコチニヰテコスナミノセテフニモアハヌモノユヱタキモトトロニ》
 
井提《ヰテ》は居止《ヰトメ》なり堤《ヰ》は登米の約流(レ)を止《トメ》て水の居《ヰ》るを云り然《サ》てその井提《ヰテ》は石搦《シカラミ》等《ナト》を設《マウケ》て塞《セ》く其《ソ》を越るを井提越浪《ヰテコスナミ》と云り朝は東風《コチ》吹《フク》ものなれは其(ノ)勢(ヒ)に乘(リ)て越る時は浪立(ツ)故に水と云はて浪と云るなり三に物乃部能八十氏河乃阿白木爾|不知代經《イサヨフ》浪乃|去邊白不母《ユクヘシラスモ》これも網代《アシロ》を越る時に浪立(ツ)故に水といはて浪と云る意相(ヒ)同し彼《カシコ》は人麻呂(ノ)作《ウタ》にて如是《カカ》る際《キハ》に至り深く心を用ひられたることも又彼(ノ)主の短歌の學(ヒ)は即(チ)此《コノ》十一十二又長歌は十三の古名歌に便《タヨ》られたるへきことのよしをも往々《トコロ/\》に云るか如し古歌は實(ト)を言(ヒ)得るを宗《ムネ》とし後世は虚詞《ソラコト》を文《カサ》りて工むを旨とすれと如是《カカ》る差別《ケシメ》に精しからねは一わたり打(チ)見の愛痛《メテタ》きも味(ヒ)鮮(ナ)し然《サ》て塞止《セキトメ》て下(モ)に水無き處へ井提越すはかりの水は淺瀬なれは世《セ》と云(フ)言(ト)に續けなせる序なり○世蝶似裳《セテフニモ》 夫云《セテフ》にもなり○不相鬼故《アハヌモノユヱ》 不逢《アハ》ぬもの故《カラ》なり○瀬毛響動二《タキモトヽロニ》 他人言《ヒトコト》の喧《カシカマ》しきなり其《ソ》を上の井提越浪の音の噪《サワ》くに比《ヨセ》たり
 
2718 高山之石本瀧千逝水之音爾者不立戀而雖死《タカヤマノイハモトタキチユクミツノオトニハタテシコヒテシヌトモ》
 
名にはたてしとなり
 
2719 隱沼乃下爾戀者飽不足人爾語都可忌物乎《コモリヌノシタニコフレハアキタラスヒトニカタリツイムヘキモノヲ》
 
2720 水鳥乃鴨之住池之下樋無欝悒君今日見鶴鴨《ミツトリノカモノスムイケノシタヒナミイフカルキミヲケフミツルカモ》
 
下樋無(ケ)れは水の泄《モ》るゝこと不能《アタハ》す欝悒《イフ》せきを以續け
 
たり欝悒《イフカル》は所《ル》2息吹《イフカ》1にて息滯《イキトホル》に同し息滯《イキトホ》れは息吹《イフカ》るものなれはなり又|不審《イフカシ》も息吹欲《イフカシ》なり思《オホ》つか無きことは欝悒《イフセ》きものなれはなり皆(ナ)相(ヒ)通はして通曉《サト》るへし
 
2721 玉藻刈井提乃四賀良美薄可毛戀乃余杼女留吾情可聞《タマモカルヰテノシカラミウスミカモコヒノヨトメルアカコヽロカモ》
 
此《コ》は心得難き歌なるを強く試に云はゝまつ初句は枕詞にて意有(ル)に非す二三(ノ)句は思ふ人の疎《ウト》かるは吾(カ)石搦《シカラミ》の薄きにやなり四(ノ)句吾(カ)戀(ヒ)中(カ)の逢(ヒ)の不通《ヨト》めるなり結句但《タヽ》し然《シカ》思ふも吾(カ)切《ワリナ》き情《コヽロ》故《カラ》にやなり
 
2722 吾妹子之笠乃借手乃和射見野爾吾者入跡妹爾告乞《ワキモコカカサノカリテノワサミヌニアレハイリヌトイモニツケコソ》
 
借(リ)手は笠(ノ)輸紐なり和の序和射見野上出【新考】
 
2723 數多不有名乎霜惜三埋木之下從其戀去方不知而《アマタアラヌナヲシモヲシミウモレキノシタユソコフルユクヘシラステ》
 
(347)初句數ならぬの意結句戀の去方《ユクカタ》無(キ)なり
 
2724 冷風之千江之浦回乃木積成心者依後者雖不知《アキカセノチエノウラマノコツミナスコヽロハヨリヌノチハシラネト》
 
一二(ノ)句詳ならす或《モシ》くは江は沼の誤にて和泉の茅沼《チヌ》にや考へし三(ノ)句|木積如《コツミナス》なり
 
2725 白細砂三津之黄土色出而不云耳衣我戀樂者《シラマナコミツノハニフノイロニイテテイハナクノミソアカコフラクハ》
 
黄土《ハニ》は色に出れと白細砂《シラマナコ》は色に不出《イテ》す我(カ)戀も白細砂《シラマナコ》の如しとなり三津は住吉(ノ)御津
 
2726 風不吹浦爾浪立無名乎吾者負香逢者無二《カセフカスウラニナミタツナキナヲモアレハオヘルカアフトハナシニ》
 
一二(ノ)句|無《ナキ》の序
 
一云女跡念而 心得難し
 
2727 酢蛾島之夏身乃浦爾依浪間文置吾不念君《スカシマノナツミノウラニヨスルナミアヒタモオキテアカオモハナクニ》
 
地《トコロ》詳《サタカ》ならす
 
2728 淡海之海奧津島山奧間經而我念妹之言繁《アフミノミオキツシマヤマオクマヘテアカオモフイモカコトノシケヽク》
 
式に近江國蒲生郡奧津嶋神社|奧間經而《オクマヘテ》は奧めてにて奧に深めて念(フ)なり
 
2729 霰零遠津大浦爾縁浪縱毛依十方憎不有君《アラレフリトホツオホウラニヨスルナミヨシモヨストモニクカラナクニ》
 
霰零《アラレフリ》は遠津《トホツ》の枕詞|霰響《アラレノオト》の登保都と所聞《キコユ》れはなり七に山越而遠津之濱之云々此地註にも未詳と有
 
2730 木海之名高之浦爾依浪音高鳧不相子故爾《キノウミノナタカノウラニヨスルナミオトタカキカモアハヌコユヱニ》
 
此地上出【新考】
 
2731 牛窓之浪之鹽左猪島響所依之君爾不相鴨將有《ウシマトノナミノシホサヰシマトヨミヨセテシキミニアハスカモアラム》
 
備前に今在(リ)萬葉考(ニ)云(ク)鵜嶋門《ウシマト》にや鹽差猪《シホサヰ》上出【新考の】
 
2732 奧波邊浪之來縁左太能浦之此左太過而後將戀可聞《オキツナミヘナミノキヨルサタノウラノコノサタスキテノチコヒムカモ》
 
萬葉考(ニ)云(ク)貞《サタノ》浦和泉出雲に今在(リ)○此左太過而《コノサタスキテ》 我(カ)上(ヘ)を他人《ヒト》の評《サタ》するなり上出【卅八葉】一二(ノ)句序ながら他人言《ヒトコト》繁き意有(リ)○後將戀可聞《ノチコヒムカモ》 人言繁き間(タ)は不通《ヨト》みて後(チ)復(タ)元(ト)の中(カ)に成へしとなり將戀《コヒム》は然《サ》る意そ
 
2733 白浪之來縁島乃荒磯爾毛有申物尾戀乍不有者《シラナミノキヨスルシマノアリソニモアラマシモノヲコヒツヽアラスハ》
 
不有者《アラスハ》の意上に多く云り無心を羨《ウラヤ》めり
 
2734 鹽滿者水沫爾浮細砂裳吾者生鹿戀者不死而《シホミテハミナハニウカフマナコニモアレハイケルカコヒハシナステ》
 
浮(キ)漂《々ヽヨヒ》つゝ生(ケ)る哉《カナ》なり上に解衣戀亂乍浮砂生吾戀度鴨《トキキヌノコヒミタレツヽウキマナコイキテモアレハコヒワタルカモ》
 
2735 住吉之城師之浦箕爾布浪之數妹乎見因欲得《スミノエノキシノウラミニシクナミノシク/\イモヲミムヨシモカモ》
 
浦箕《ウラミ》は浦邊《ウラヒ》
 
2736 風緒痛甚振浪能間無吾念君者相念濫香《カセヲイタミイタフルナミノアヒタナクアカオモフキミハアヒオモフラムカ》
 
2737 大伴之三津乃白浪間無我戀良苦乎人之不知久《オホトモノミツノシラナミアヒタナクアカコフラクヲヒトノシラナク》
 
(348)2738 大船乃絶多經海爾重石下何如爲鴨吾戀將止《オホフネノタユタフウミニイカリオロシイカニスレカアモアカコヒヤマム》
 
三(ノ)句まては何如《イカニ》の序ながら意有(リ)て絶多經《タユタフ》に情《コヽロ》の動搖《タユタ》ふを持(タ)せ重石下《イカリオロシ》に思(ヒ)を令鎭《シツム》るを兼(ネ)たり上【十六葉】に大船香取海慍下何有人物不念有《オホフネノカトリノウミニイカリオロシイカナルヒトカモノオモハサラム》
 
2739 水沙兒居奧麁礒爾縁浪往方毛不知吾戀久波《ミサコヰルオキツアリソニヨスルナミユクヘモシラスアカコフラクハ》
 
2740 大船之舳毛艫毛依浪依友吾者君之任意《オホフネノヘニモトモニモヨスルナミヨストモアレハキミカマニマニ》
 
萬葉考(ニ)云(ク)舳毛艫毛依浪依《ヘニモトモニモヨスルナミ》とは彼(ノ)人此(ノ)人に言(ヒ)依するの譬下は他人《ヒト》はいかに言(ヒ)依すとも吾(レ)は只君に任《マカ》する身そとなり【以上文意】
 
2741 大海二立良武浪者間將有公二戀等九止時毛梨《オホウミニタツラムナミハアヒタアラムキミニコフラクヤムトキモナシ》
 
2742 壯鹿海部乃火氣燒立而燎鹽乃辛戀毛吾爲鴨《シカノアマノケフリヤキタテテヤクシホノカラキコヒヲモアレハスルカモ
 
右一首或云石川(ノ)君子《キミコノ》朝臣作之
 
此人上出【新考】
 
2743 中中二君二不戀者枚浦乃白水郎有申尾玉藻刈管《ナカナカニキミニコヒスハヒラノウラノアマナラマシヲタマモカリツヽ》
 
近江(ノ)比良にや
 
或本歌曰中中爾君爾不戀波|留鳥《アミノ》浦之海部|爾有益男《ナラマシヲ》珠藻刈(ル)刈(ル)
 
留鳥《アミノ》浦詳ならす
 
2744 鈴寸取海部之燭火外谷不見人故戀比日《スヽキトルアマノトモシヒヨソニタニミヌヒトユヱニコフルコノコロ》
 
2745 湊入之葦別小舟障多見吾念公爾不相頃者鴨《ミナトイリノアシワケヲフネサハリオホミアカオモフキミニアハヌコロカモ》
 
2746 庭淨奧方※[手偏+旁]出海舟乃執梶間無戀爲鴨《ニハキヨミオキヘコキイツルアマフネノカチトルマナキコヒモスルカモ》
 
梶を取(ル)間《ヒマ》無(キ)を以譬へたり
 
2747 味鎌之鹽津乎射而水手船之名者謂手師乎不相將有八方《アチカマノシホツヲサシテコクフネノナハノリテシヲアハサラメヤモ》
 
地詳ならす船には名あれは【古今同し】名の序なり
 
2748 大船爾葦荷刈積四美見似裳妹心爾乘來鴨《オホフネニアシニカリツミシミミニモイモカコヽロニノリニケルカモ》
 
繁々《シミ/\》なり
 
2749 驛路爾引船渡直乘爾妹情爾乘來鴨《ハユマチニヒキフネワタシヒタノリニイモカコヽロニノリニケルカモ》
ハユマハヤウマオホヤケホカ
驛《》は早馬《》なり官家《》の早馬使(ヒ)なれは舟人の餘《》に引(ク)者も有て滯らねは直乘《ヒタノリ》と云り下に承ては直一向《タヽヒタフル》爾の意なり
 
2750 吾妹子不相久馬下乃阿倍橘乃蘿生左右《ワキモコニアハスヒサシモウマシモノアヘタチハナノコケムスマテニ》
美味物甘橘《ウマシモノアヘタチハナ》の意なり然《サ》て橘(ノ)實《ミ》は舊《ヒサ》しく置けは皮の腐《カヒ》生《ムス》ものなるそを苔《コケ》生《ムス》と云る※[うがんむり/取](ト)面白し
 
2751 味乃住渚沙乃入江之荒磯松我乎待兒等波但一耳《アチノスムスサノイリエノアリソマツアヲマツコラハタヽヒトリノミ》
 
味《アチ》は味鳧《アチカモ》式に紀伊國在(リ)田郡須佐神社
 
2752 吾妹兒乎聞都賀野邊能靡合歡木吾者隱不得間無念者《ワキモコヲキヽツカヌヘノシナヒネムアハシヌヒカネツマナクオモヘハ》
 
(349)聞繼《キヽツク》を云(ヒ)懸(ケ)たり都賀野詳ならす合歡木《ネム》上出【新考】
 
2753 浪間從所見小嶋濱久木久成奴君爾不相四手《ナミマヨリミユルコシマノハマヒサキヒサシクナリヌキミニアハスシテ》
 
小島《コシマ》は地名か否《アラヌ》か
 
2754 朝柏閏八河邊之小竹之眼※[竹/矢]思而宿者夢所見來《アサカシハウルヤカハヘノシヌノメノシヌヒテヌレハイメニミエケリ》
 
朝《アキ》は明《アキ》の意に書る字三句まては上 に出
 
2755 淺茅原苅標刺而空事文所縁之君之辭鴛鴦將待《アサチハラカリシメサシテソラコトモヨセテシキミカコトヲシマタム》
 
一二(ノ)句|頼《タノミ》難き意にて虚言《ソラコト》の序四(ノ)句|他人《ヒト》の言(ヒ)依(セ)てしなり結句君が辭(ハ)を聞て肯《ウケヒカ》むなり
 
2756 月草之借有命在人乎何知而鹿後毛將相云《ツキクサノカリナルイノチナルヒトヲイカニシリテカノチモアハムチフ》
 
今不逢して後を令憑《タノムル》を云り
 
2757 王之御笠爾縫有在間菅有管雖看事無吾妹《オホキミノミカサニヌヘルアリマスケアリツヽミレトコトナキウキモ》
 
有管《アリツヽ》は常《ツネ》なり事(ト)無(キ)は無難《コトナキ》にてよろつ無瑕《キスナキ》を云り
 
2758 菅根之懃妹爾戀西益卜思而不所念鳧《スカノネノネモコロイモニコフルニシマスラヲコヽロオモホエヌカモ》
 
思而は男の誤誕
 
2759 吾屋戸之穗蓼古幹採生之實成左右二君乎志將待《ワカヤトノホタテフルカラツミハヤシミニナルマテニキミヲシマタム》
 
2760 足檜之山澤回具乎採將去日谷毛相將母者責十方《アシヒキノヤマサハヱクヲツミニユカムヒタニモアハムハヽハセムトモ》
 
回具《ヱク》上出【新考】
 
2761 奧山之石本菅乃根深毛所思鴨吾念妻者《オクヤマノイハモトスケノネフカクモオモホユルカモアカオモヒツマハ》
 
奧山に奧に念(フ)【等閑《ナヲサリ》ならぬなり】を比《ヨ》せ石本に堅固《カタ》く不動《ウコカ》ぬを比《ヨ》せたり
 
 
2762 蘆垣之中之似兒草爾故余漢我共咲爲而人爾所知名《アシカキノナカノニコクサニコヨカニアレトエマシテヒトニシラユナ》
 
似兒草《ニコクサ》考へし十四【相模國謌】に安思我里乃波故禰能禰呂乃爾古具佐能波奈都豆麻奈禮也比母登可受禰牟
 
2763 紅之淺葉乃野良爾苅草乃束之間毛吾忘渚菜《クレナヰノアサハノヌラニカルクサノツカノアヒタモアヲワスラスナ》
 
紅色の淺の意の枕詞十二に紅の薄《アラ》染衣淺らかに 退紅《アラソメ》の淺らの衣淺らかに此上に紅之|深染《コソメノ》衣又十六に紫の濃《コ》かたの海とも續けたり地は詳ならす和名抄に武藏國入間郡麻羽【安佐波】郷又今遠江國佐野郡にも淺葉(ノ)庄有といへれと東歌とは所聞す
 
2764 爲妹壽遺在苅薦之念亂而應死物乎《イモカタメイノチノコセリカリコモノオモヒミタレテシヌヘキモノヲ》
 
2765 吾妹子爾戀乍不有者苅薦之思亂而可死鬼乎《ワキモコニコヒツヽアラスハカリコモノオモヒミタレテシヌヘキモノヲ》
 
2766 三島江之入江之薦乎苅爾社吾乎婆公者念有來《ミシマエノイリエノコモヲカリニコソアレヲハキミハオモホセリケレ》
 
2767 足引乃山橘之色出而吾戀南雄八目難爲名《アシヒキノヤマタチハナノイロニイテテアカコヒナムヲヒトノメマスナ》
 
八は人の誤
 
2768 葦多頭乃颯入江乃白菅乃知爲等乞痛鴨《アシタツノサワクイリエノシラスケノシラレムタメトコチタカルカモ》
 
遍《アマネ》く知られむ爲《タメ》と他人《ヒト》の言痛《コチタ》く云にやなり
 
(350)2769 吾背子蘭爾吾戀良久者夏草之苅除十方生及如《アカセコニアカコフラクハナツクサノカリソクレトモオヒシクカコト》
 
2770 道邊乃五柴原能何時毛何時毛人之將縱言乎思將待《ミチノヘノイツシハハラノイツモイツモヒトノユルサムコトヲシマタム》
 
五柴《イツシハ》は櫟柴《イチヒシハ》四に市柴と有(リ)人は思ふ人
 
2771 吾妹子之袖乎憑而眞野浦之小菅乃笠乎不著而來二來有《ワキモコカソテヲタノミテマヌノウラノコスケノカサヲキステキニケリ》
 
攝津國矢田部郡
 
2772 眞野池之小菅乎笠爾不縫爲而人之遠名乎可立物可《マヌノイケノコスケヲカサニヌハスシテヒトノトホナヲタツヘキモノカ》
 
此二首問答に似たり二三(ノ)句|眞實夫妻《マコトノツマ》にもならすしてなり○人之遠名乎 人とは吾(カ)自身《ミツカラ》を云り敵《カタキ》を主《サネ》として云(フ)處なれはなり遠名は遠く所聞《キコユ》る名
 
2773 刺竹齒隱有吾背子之吾許不來者吾將戀八方《サスタケノハコモリニタルアカセコカアカリシコスハアレコヒメヤモ》
 
一二(ノ)句|隱《シノ》へるを云り尊人《タカキヒト》なとにや刺(ス)竹に然《サ》もやと聞ゆ
 
2774 神南備能淺小竹原乃美妾思公之聲之知家口《カムナヒノアサシヌハラノヲミナヘシシヌヘルキミカオトノシルケク》
 
小竹《シノ》に交れる女郎花を隱れしのふる形容《サマ》に比《タト》へて思ふ人の隱《シノ》ひ來ぬる身擧動《ミシロキ》は猶|灼然《シル》しとの意なり然《サ》てその隱《シノフ》を吾(カ)思慕《シノフ》にも兼《カケ》たり工(ミ)に※[うがんむり/取](ト)めてたし
 
2775 山高谷邊蔓在玉葛絶時無見因毛欲得《ヤマタカミタニヘハヘタルタマカツラタユルトキナクミムヨシモカモ》
 
2776 道邊草冬野丹履干吾立待跡妹告乞《ミチノヘノクサヲフユヌニフミカラシアレタチマツトイモニツケコソ》
 
2777 疊薦隔編數通者道之柴草不生有申尾《タヽミコモヘタテアムカスカヨヒナハミチノシハクサオヒサラマシヲ》
 
2778 水底爾生玉藻之生不出縱比者如是而將通《ミナソコニオフルタマモノオヒモイテスヨシコノコロハカクテカヨハム》
 
2779 海原之奧津繩乘打靡心裳四怒爾所念鴨《ウナハラノオキツナハノリウチナヒクコヽロモシヌニオモホユルカモ》
 
2780 紫之名高乃浦之靡藻之情者妹爾因西鬼乎《ムラサキノナタカノウラノナヒクモノコヽロハイモニヨリニシモノヲ》
 
一二(ノ)句上出【新考】
 
2781 海底奧乎深目手生藻之最今社戀者爲便無寸《ワタノソコオキヲフカメテオフルモノモトモイマコソコヒハスヘナキ》
 
無寸《ナキ》は那家禮《ナケレ》
 
2782 左寐蟹齒孰共毛宿常奧藻之名延之君之言待吾乎《サヌカニハタレトモネメトオキツモノナヒキシキミカコトマツアレヲ》
 
乎《ヲ》は余《ヨ》
 
2783 吾妹子之奈何跡裳吾不思者含花之穗應咲《ワキモコカナニトモアレヲオモハネハフヽメルハナノホハサキヌヘシ》
 
表《ホ》に顯れて今は戀ひぬへしなり
 
2784 隱庭戀而死鞆三苑原之鷄冠草花乃色二色二出目八方《コモリニハコヒテシヌトモミソノフノカラアヰノハナノイロニイテメヤモ》【類聚古集(ニ)云(ク)鴨頭草又作2鷄冠草1云云《テヘリ》依2此義1者可v和2月草1歟】
 
鷄冠草《カラアヰ》は紅藍《クレナヰ》註は可《ヨカ》らす
 
2785 開花者雖過時有我戀流心中者止時毛梨《サクハナハスクルトキアレトアカコフルコヽロノウチハヤムトキモナシ》
 
2786 山振之爾保敝流妹之翼酢色乃赤裳之爲形夢所見管《ヤマフキノニホヘルイモカハネスイロノアカモノスカタイメニミエツヽ》
 
巽酢《ハネス》 上出【新考】
 
2787 天地之位相極玉緒之不絶常念妹之當見津《アメツチノヨリアヒノキハミタマノヲノタエシトオモフイモカアタリミツ》
 
(351)2788 生緒爾念者苦玉緒乃絶天亂名知者知友《イキノヲニオモヘハクルシタマノヲノタエテミタレテシラハシルトモ》
 
初句命に懸てなり四(ノ)句今は得憚《エハヽカ》らしなり
 
2789 玉緒之絶而有戀之亂者死卷耳其又毛不相爲而《タマノヲノタエタルコヒノミタレナハシナマクノミソマタモアハスシテ》
 
二三(ノ)句逢ことの絶て念ひ亂れむにはなり緒の絶(エ)て復(タ)繼不相《ツキアハ》ぬに譬へたり
 
2790 玉緒之久栗縁乍末終去者不別同緒將有《タマノヲノククリヨセツヽスヱツヒニユキハワカレスオナシヲニアラム》
 
2791 片絲用貫有玉之緒乎弱亂哉爲南人之可知《カタイトモテヌキタルタマノヲヲヨワミミタレヤシナムヒトノシルヘク》
 
得《エ》も憚《ハヽカ》り敢《アヘ》しなり
 
2792 玉緒之島意哉年月乃行易乃妹爾不逢將有《タマノヲノウツシコヽロヤトシツキノユキカハルマテイモニアハサラム》
 
島は寫の誤にて現《ウツシ》心なり玉(ノ)緒は絶れは易《カヘ》て貫《ヌキ》寫すよしの枕詞なり現《ウツヽノ》心にてや云々なり
 
2793 玉緒之間毛不置欲見吾思妹者家遠在而《タマノヲノアヒタモオカスミマクホリアカオモフイモハイヘトホクアリテ》
 
2794 隱津之澤出見爾有石根從毛遠而念君爾相卷者《コモリツノサハイツミナルイハネユモトホシテオモフキミニアハマクハ》
 
隱水之澤泉《コモリツノサハイツミ》に多出水《サハイツミ》を兼(ヌ)
 
2795 木國之飽等濱之忘貝我者不忘年者雖歴《キノクニノアクラノハマノワスレカヒアレハワスレストシハフレトモ》
 
此地上出【新考】
 
2796 水泳玉爾接有礒貝之獨戀耳年者經管《ミナクヽルタマニマシレルイソカヒノカタコヒノミニトシハヘニツヽ》
 
鰒《アハヒ》なり
 
2797 住吉之濱爾縁云打背貝實無言以余將戀八方《スミノエノハマニヨルトフウツセカヒミナキコトモテアレコヒメヤモ》
 
空石花貝《ウツセカヒ》にて殻《カラ》を云り
 
2798 伊勢乃白水郎之朝魚夕菜爾潜云鰒貝之獨念荷指天《イセノアマノアサナユフナニカツクトフアハヒノカヒノカタオモヒニシテ》
 
爲(ニ)2朝魚夕菜1なり
 
2799 人事乎繋跡君乎鶉鳴人之古家爾相語而遣都《ヒトコトヲシケミトキミヲウツラナクヒトノフルイヘニカタラヒテヤリツ》
 
古來有《イニシヘヨリアル》ことなるを如是只只有《カクタヽアリ》に言(フ)こと社《コソ》難けれ君|乎《ヲ》の乎《ヲ》と遣(リ)都《ツ》の都《ツ》との辭に思ふ人を然《サ》るむつかしき處に遣(リ)つる心苦(ル)しき情《コヽロ》はへ有(リ)又鶉(ラ)鳴(ク)と云るはかりにしも彼(ノ)夕顔(ノ)卷|在《ナリ》し何かしの院にての竹の中《ナカ》の山鳩《ヤマハト》梟《フクロフ》
の聲|所思《オモホユ》めり
 
2800 旭時等繼鳴成縱惠也思獨宿夜者開者雖明《アカトキトカケハナクナリヨシヱヤシヒトリヌルヨハアケハアクトモ》
 
2801 大海之荒磯之渚鳥朝名且名見卷欲乎可所見公可聞《オホウミノアリソノストリアサナサナミマクホシキヲミエヌキミカモ》
 
2802 念友念毛金津足檜之山鳥尾之永此夜乎《オモヘトモオモヒモカネツアシヒキノヤマトリノヲノナカキコノヨヲ》
 
不堪矣《カネツ》なり
ヌキミカモシ
或本歌曰足日木乃山鳥之尾乃四垂尾乃長永(シ)夜乎一(リ)鴨將宿
 
2803 里中爾鳴奈流鷄之喚立而甚者不鳴隱妻羽毛《サトナカニナクナルカケノヨヒタテヽイタクハナカヌコモリツマハモ》
 
甚者不鳴《イタクハナカヌ》 隱《シノヒ》に泣(ク)なり
 
(353)一云|里動《サトトヨメ》鳴成鷄之
 
2804 高山爾高部左渡高々爾余待公乎待將出可聞《タカヤマニタカヘサワタリタカタカニアカマツキミヲマチイテムカモ》
 
高部《タカヘ》 上出【新考の】左渡《サワタリ》は眞渡《サワタリ》高高は仰(キ)望(ミ)て待(ツ)状《サマ》
 
2805 伊勢能海從鳴來鶴乃音杼侶毛君之所聞者吾將戀八方《イセノウミユナキクルタツノオトトロモキミシキコユハアレコヒメヤモ》
 
音杼侶毛《オトトロモ》 音陀爾毛《オトタニモ》なり調《シラヘ》に依(リ)て聲の變《カハ》れるなり陀爾《タニ》にては詠《ウタ》はれす
 
2806 吾妹兒爾戀爾可有牟奧爾住鴨之浮宿之安雲無《ワキモコニコフレニカアラムオキニスムカモノウキネノヤスケクモナシ》
 
2807 可旭千鳥數鳴白細乃君之手枕未厭君《アケヌヘクチトリシハナクシロタヘノキミカタマクライマタアカナクニ》
 
白細乃君乃手枕 袖|纏《マク》を云り
 
問答
 
2808 眉根掻鼻火紐解待八方何時毛將見跡戀來吾乎《マユネカキハナヒヒモトクマテリヤモイツカモミムトコヒコシアレヲ》
 
右上見1柿本朝臣人麻呂之歌中1但以2問答故1累載2於茲1也
 
2809 今日有者鼻之鼻之火眉可由見思之言者君西在來《ケフナレハハナシハナシヒマユカユミオモヒシコトハキミニシアリケリ》
 
今日有者君西在來《ケフナレハキミニシアリケリ》なり鼻之鼻之火《ハナシハナシヒ》は鼻之嚔鼻之嚔《ハナシヒハナシヒ》にて之《シ》は助辭|屡《シハ/\》嚔《ハナヒ》るなり五【貧窮問答】に之可不可比【咳《シハフカ》ひなり】鼻毘之毘之爾これも鼻嚔爾鼻嚔《ハナヒニハナヒ》爾にて屡《シハ/\》嚔《ハナヒ》るな之《シ》は助辭
 
右二首
 
2810 音耳乎聞而哉戀犬馬鏡目直相而戀卷裳大口《オトノミヲキヽテヤコヒムマソカヽミメニタヽニアヒテコヒマクモオホク》
 
犬馬《マソ》は喚犬追馬《マソ》の意
 
2811 此言乎聞跡乎眞十鏡照月夜裳闇耳見《コノコトヲキヽナムトカモマソカヽミテレルツクヨモヤミニノミミシ》
 
右(ノ)目直相而《メニタヽニアヒテ》すら戀の多しと有を承て君も然《サ》思ひ給へるよな此言を聞むとにや有けむ明《アカ》き月夜も闇に見て物思ひしは吾のみならさりけりなり
 
右二首
 
2812 吾味兒爾戀而爲便無三白細布之袖反之者夢所見也《ワキモコニコヒテスヘナミシロタヘノソテカヘシシハイメニミエツヤ》
 
2813 我背子之袖反夜之夢有之眞毛君爾如相有《アカセコカソテカヘスヨノイメナラシマコトモキミニアヘリシカコト》
 
右二首
 
2814 吾戀者名草目金津眞氣長夢不所見而年之經去禮者《アカコヒハナクサメカネツマケナカクイメニモミエステトシノヘヌレハ》
 
2815 眞氣永夢毛不所見雖經吾乏片戀者止時毛不有《マケナカクイメニモミエスタエヌレトアカカタコヒハヤムトキモアラス》
 
右二首
 
2816 浦觸而物魚念天雲之絶多不心吾念魚國《ウラフレテモノナオモホシアマクモノタユタフコヽロアカオモハナクニ》
 
2817 浦觸而物者不念水無瀬川有而毛水者逝云物乎《ウラフレテモノハオモハシミナセカハアリテモミツハユクトフモノヲ》
 
表《ウヘ》には絶(ユ)れと裏《シタ》には通ふの譬
 
右二首
 
(353)2818 垣津旗開沼之菅乎笠爾縫將著日乎待爾年曾經去來《カキツハタサキヌノスケヲカサニヌヒキムヒヲマツニトシソヘニケル》
 
垣津旗《カキツハタ》は開《サキ》の枕詞|開沼《サキヌ》は春日《カスカ》の佐紀なるへし譬は明らけし
 
2819 臨照難波菅笠置古之後者誰將著笠有魚國《オシテルナニハスカカサオキフルシノチハタカキムカサナラナクニ》
 
右(ノ)年曾經去來《トシソヘニケル》を承て後(チ)遂(ヒ)に誰(レ)に依(ル)へきならぬを置(キ)古(ル)してと怨《ウラ》める情《コヽロ》はへなり
 
右二首
 
2820 如是谷裳妹乎待南左夜深而出來月之傾二手荷《カクタニモイモヲマチナムサヨフケテイテクルツキノカタフクマテニ》
 
2821 木間從移歴月之影惜徘徊爾左夜深去家里《コノマヨリウツロフツキノカケヲシミタモトホレルニサヨフケニケリ》
 
つくろはすかさらす眞《マコト》のまゝに答へて風流《ミヤヒ》なり
 
右二首
 
2822 栲領布乃白濱浪乃不肯縁荒振妹爾戀乍曾居《タクヒレノシラハマナミノヨリモアヘスアラフルイモニコヒツヽソヲル》
 
栲領巾《タクヒレ》は白栲領巾《シロタヘノヒレ》白濱は白細砂《シラマナコノ》殯荒(ラ)振(ル)は浪の荒るゝを妹か吾を疎《アラ》ふるに續けたり
 
一云戀流己呂可母
 
2823 加敝良末爾君社吾爾栲領巾之白濱浪乃縁時毛無《カヘラマニキミコソアレタクヒレノシラハマナミノヨルトキモナキ》
 
反《カヘ》さまになり無《ナキ》は那家禮《ナケレ》の意
 
右二首
 
2824 念人將來跡知者八重六倉覆庭爾珠布益乎《オモフヒトコムトシリセハヤヘムクラオホヘルニハニタマシカマシヲ》
 
2825 玉敷有家毛何將爲八重六倉覆小屋毛妹與居者《タマシケルイヘモナニセムヤヘムクラオホヘルヲヤモイモトヲリテハ》
 
右二首
 
2826 如是爲乍有名草目手玉緒絶而別者爲便可無《カクシツヽアリナクサメテタマノヲノタエテワカレハスヘナカルヘシ》
 
有《アり》は在々《アリ/\》て常に何時《イツ》とてもなり
 
2827 紅花西有者衣袖爾染著持而可行所念《クレナヰノハナニシアラハコロモテニソメツケモチテイヌヘクオモホユ》
 
右二首
 
譬喩
 
2828 紅之深染乃衣爾下著者人之見久爾仁寶比將出鴨《クレナヰノコソメノキヌヲシタニキハヒトノミラクニニホヒヒイテムカモ》
 
2829 衣霜多在南取易而著者也君之面忘而有《コロモシモオホクアラナムトリカヘテキナハヤキミカオモワスレタラム》
 
衣多く吾(カ)持(タ)らは取(リ)易《カ》へ君に著せたらはの意
 
右二首寄v衣喩v思
 
2830 梓弓弓束卷易中見判更雖引君之隨意《アツサユミユツカマキカヘナカミテバサラニヒクトモキミカマニ/\》
 
弓握《ユヅカ》は弓を握《ツカ》む處にて其(ノ)革を卷(キ)易(フ)るには中《ナカ》の所見《ミユ》る譬にて君か中心《ナカコ》を見て疑ふ處無(ケ)れは以後《ユクサキ》も君が隨意《マニマ》に靡き依らむとなり中見判《ナカミテハ》は中見たれはなり握《ツカ》卷(キ)易(ヘ)て又更(ラ)に引(ク)と云ふ詞の續きなり
 
右一首寄v弓喩v思
 
(354)2831 水沙兒居渚座船之夕鹽乎將待從者吾社益《ミサコヰルスニヰルフネノユフシホヲマツラムヨリハアレコソマサメ》
 
右一首寄v船喩v思
 
2832 山河爾筌乎伏而不肯盛年之八歳乎吾竊舞師《ヤマカハニウヘヲフセテモリアヘストシノヤトセヲワカヌスマヒシ》
 
和名抄【漁釣具】に筌(ハ)宇倍《ウヘ》捕v魚竹筍也筍取v魚竹器也一首の意|筌《ウヘ》は守《モ》れとも魚の竊盗《ヌス》まるゝに譬へて父母《オヤ》の守護《モ》る兒を竊《ヌス》み逢を云り
 
右一首寄v魚喩v思
2833 葦鴨之多集池水雖溢儲溝方爾吾將越八方《アシカモノスタクイケミツハフルトモマケミソノヘニアレコエメヤモ》
 
右一首寄v水喩v思
 
2834 日本之室原乃毛桃本繁言大王物乎不成不止《ヤマトノムロフノケモヽモトシケクイヒテシモノヲナラスハヤマシ》
 
和名抄に大和國|城下《シキノシモノ》郡|室原《ムロフ》【又式に宇陀郡室生|龍穴《リウケチノ》神社あれと其《ソコ》にはあらし
 
右一首寄v菓喩v思
 
2835 眞葛延小野之淺茅乎自心毛人引目八面吾莫名國《マクスハフヲヌノアサチヲコヽロユモヒトヒカメヤモアレナケナクニ》
 
萬業考(ニ)云(ク)茅《チ》に大小あり小《チヒサ》なるを淺茅と云り淺茅は秋深く紅葉して美《ウルハ》けしれは多く女に比《タト》へたり○自心毛《コヽロユモ》 他人《ヒト》の心の隨《マヽ》になり○吾莫名國《アレナケナクニ》 吾(レ)なからなくににて吾(レ)しあれはの意
 
2836 三嶋菅未苗在時待者不著也將成三嶋菅笠《ミシマスケイマタナヘナリトキマタハキスヤナリナムミシマスカカサ》
 
2837 三吉野之水具麻我菅乎不編爾苅耳苅而將亂跡也《ミヨシヌノミクマカスケヲアマナクニカリノミカリテミタリナムトヤ》
 
水隈之《ミクマカ》なり
 
2838 河上爾洗若菜之流來而妹之當乃瀬社因目《カハカミニアラフワカナノナカレキテイモカアタリノセニコソヨラメ》
 
右四首寄v草喩v思
 
2839 如是爲哉猶八成牛鳴大荒木之浮田之社之標爾不有爾《カクシテヤナホヤナラムモオホアラキノウキタノモリノシメニアラナクニ》
 
猶《ナホ》やならむも 徒《タヽ》に空しくやならむなり式に大和國宇智郡荒木神社萬葉考(ニ)云(ク)大荒木を荒木とのみも云は小治田《ヲハリタ》をも式には治田《ハリタノ》神社と有に同じ【以上】標繩《シメナハ》の空しく腐朽《クチ》ぬるに比ふ
 
右一首寄v標喩v思
 
2840 幾多毛不零雨故吾背子之三名乃幾許瀧毛動響二《イクハクモフラヌアメユヱアカセコカミナノコヽタクタキモトトロニ》
 
右一首寄v瀧喩v思
 
萬葉集卷第十一終
 
(355)萬葉集新考 二十五
 
萬葉集卷第十二
 
古今相聞往來歌類之下
正述心緒歌一百十首
寄物陳思歌一百五十首
問答歌三十六首
覊旅發思歌五十三首
悲別歌三十一首
 
正述2心緒1
 
2841 我背子之朝明形吉不見今日間戀暮鴨《アカセコカアサケノスカタヨクミステケフノアヒタヲコヒクラスカモ》
 
2842 我心等望使美念新夜一夜不落夢見《アカコヽロトモシミモヘハアラタヨノヒトヨモオチスイメニミエケリ》
 
美(ノ)字略解に依(リ)て補《クハ》へす○新夜《アラタヨ》 夜《ヨ》は世《ヨ》なり世《ヨ》は新《アラタ》まりゆくものなれはなり例多し○一夜不落《ヒトヨモオチス》 不漏《オチス》なり
 
2843 與愛我念妹人皆如去見耶手不纒爲《ウツクシトアカオモフイモヲヒトミナノユクコトミメヤテニマカスシテ》
 
與愛は顛倒かと思へと元暦本を見れは與(ノ)字|此《コヽ》に旡くて上(ノ)歌結句の尾《ヲハリ》にあり此《コヽ》なるへきか彼《カシコ》に混入《マキレ》たるにて顛倒ならぬことしらる○心人皆如去見耶《ヒトミナノユクコトミメ》 人|庶《ミナ》の去《ユク》を見ては何とも莫し妹は豈然らむやなり○手不纏爲《テニマカスシテ》 手枕《タマクラ》纏《マ》き率寢《ヰネ》すして徒《タヽ》に空《ムナ》しく縱放《ユル》し遣《ヤル》へしやなり珠玉《タマ》に比《タト》へて謂るにはあらす
 
2844 比日寢之不寢敷細布手枕纏寢欲《コノコロノイノネラエヌハシキタヘノタマクラマキテネマクホレコソ》
 
2845 忘哉語意遣雖過不過猶戀《ワスルヤトコトモカタラヒナクサメテスクセトスキスナホコヒニケリ》
 
雖過《スクセト》は念(ヒ)を遣《ヤ》り過(ク)さむとすれともなり
 
2846 夜不寢安不有白細布衣不脱及直相《ヨイモネシヤスクモアラシシロタヘノコロモヽヌカシタヽニアフマテ》
 
衣を脱《ヌ》き寢《イネ》ても安寢《ヤスイ》せねは縱《ヨ》し逢(フ)まては如是《カク》てもあらむとなり
 
2847 後相吾莫戀妹雖云戀間年經乍《ノチモアハムナコヒソトイモハイヘトコヒノアヒタニトシハヘニツヽ》
 
2848 直不相有者諾夢谷何人事繁《タヽニアハスアルハウヘナリイメニタニナニシカヒトノコトノシケヽム》
 
四五(ノ)句何かかく我(カ)中を他人言繁《ヒトコトシケ》くあるらむとなり一首の意は夢にたに他人言繁くて逢難し況《マシ》て寢覺《ウツヽ》に不逢《アハ》ぬは諾《ウヘ》なりとなり
 
或本歌曰|寤者諾毛不相夢左倍《ウツヽニハウヘモアハナクイメニサヘ》
 
2849 烏玉彼夢見繼哉袖乾日無吾戀矣《ヌハタマノソノイメニタニミエツケヤソテホスヒナクアカコフラクヲ》
 
2850 現直不相夢谷相見與吾戀國《ウツヽニハタヽニハアハスイメニタニアフトミエコソアカコフラクニ》
 
(356)相見與《アフトミエコソ》 與は乞の誤乞與草體相(ヒ)似たり乞《コソ》は願(ヒノ)辭○我戀國《アカコフラクニ》 戀るになり
 
寄v物陳v思
 
2851 人所見表結人不見裏紐開戀日太《ヒトミレハウヘヲムスヒテヒトミネハシタヒモアケテコフルヒソオホキ》
 
裏紐開《シタヒモアケテ》 あらかしめ紐解き開《》けて待(ツ)なり○戀日太《コフルヒソオホキ》 符(ツ)に來《コ》ぬ日の多きなり
 
2852 人言繁時吾妹衣有裏服矣《ヒトコトノシケヽキトキニワキモコカコロモナリセハシタニキマシヲ》
 
2853 眞珠眼遠近兼念一重衣一人服寢《マタマツクヲチコチカネテオモヘレハヒトヘコロモヲヒトリキテネヌ》
 
眞珠眼 眼は服の誤にや眞珠|服《ツ》く緒の意の枕詞○遠近兼《ヲチコチカネテ》 遠《ヲチ》は後《ノチ》なり近《コチ》は今《イマ》なり今より後を兼てなり○一重衣一人服寢 二人寢れは二重を服《キ》るなり○一首の意は今こそあらめ後まてを兼て餘りに思慮《オモヒハカ》る故に逢難しとなり
 
2854 白細布我紐緒不絶間戀結爲及相日《シロタヘノアカヒモノヲノタエヌマニコヒムスヒセムアハムヒマテニ》
 
久しく逢(ハ)すは若《モ》し中(カ)絶(エ)もしなむに其(ノ)間(タ)の繋《ツナ》きに一目見むとの意なるへしはた思ふ中(カ)の解け離れぬ齊《イハ》ひに紐を結《ムス》ふ所爲《シワサ》の有しにや然《サ》てもなほ主《ムネ》とは上に云る意なり
 
2855 新治今作路清聞鴨妹於事矣《ニヒハリノイマツクルミチノサヤカキコエヌルカモイモカウヘノコト》
 
2856 山代石田杜心鈍手向爲在妹相難《ヤマシロノイハタノモリニコヽロオソクタムケシタレヤイモニアヒカタキ》
 
式に久世郡石田神社此(ノ)神に祈りて驗《シルシ》旡(ケ)れば悔るなり癡《オロカ》なるこそ戀なれ爲在《シタレヤ》はしたれはにやなり
 
2857 菅根之惻隱惻隱照日乾哉吾袖於妹不相爲《スカノネノネモコロ/\ニテルヒニモヒメヤアカソテイモニアハスシテ》
 
惻隱《ネモコロ》と書くよしは親切《ネモコロ》に字義近けれはなり
 
2858 妹戀不寢朝吹風妹經者吾共經《イモニコヒイネヌアシタニフクカセノイモニフレナハアレサヘフレナ》
 
結句|經《フレナ》は將觸《フレム》なり
 
2859 飛鳥川高川避紫越來信今夜不明行哉《アスカカハタカカハヨカシコエテキヌマコトコヨヒハアケスユカメヤ》
 
高河は水嵩《ミカサ》の高きなり避紫《ヨカシ》は避《ヨ》きの延語
 
2860 八釣河水底不絶行水續戀是比歳《ヤツリカハミナソコタエスユクミツノツキテコフラクコノトシコロヲ》
 
八釣河上出【新考八の二十八葉】
 
或本歌曰水尾母|不絶《タエセス》
 
2861 磯上生小松名惜人不知戀渡鴨《イソノウヘニオフルコマツノナヲヲシミヒトニシラエスコヒワタルカモ》
 
磯《イソ》は石《イソ》なり【海の礒にかきらす】石上生《イソノウヘニオフル》小松とは貴《タカ》く可畏《カシコ》き人の子の動搖《ウコカ》し得《エ》難き女の譬(ヘ)にて然《サ》る人を相知れと彼《ソノ》名を惜めは他人《ヒト》にはいはて戀渡るとなり
 
或本歌曰|巖《イハノ》上爾立小松名惜人爾者不云戀渡鴨
 
(357)2862 山河水陰生山草不止妹所念鴨《ヤマカハノミツカケニオフルヤマスケノヤマスモイモカオモホユルカモ》
 
水陰生《ミツカケニオフル》 水《ミツ》は稚《ミツ》にて物の稚《ワカ》きを云り美圖美圖《ミツミツ》しなとの如し稚陰《ミツカケ》は草木の稚々《ミツ/\》しき陰《カケ》なり其《ソ》を山河の水といひかけたるなり一二三(ノ)句は山河の涯畔《ホトリ》なる草木の下《モト》の麥門冬《ヤマスケ》の意なるを稚陰生《ミツカケニオフル》とは詞の愛痛《メテタ》く雅《ミヤヒカ》なるものなり
 
2863 淺葉野立神古菅根惻隱誰故吾不戀《アサハヌニタチシナヒタルスカノネノネモコロタカユヱアカコヒナクニ》
 
淺葉野詳ならす十一にも紅之淺葉乃野良爾云々と有神古は伸足《シナヒタル》なと有(ル)へくや
 
或本歌云|誰《タカ》葉野爾立志奈比|垂《タル》
 
誰葉野詳ならす
 
右二十三首柿本朝臣人麻呂之歌集出
 
正述2心緒1
 
2864 吾背子乎且今且今跡待居爾夜更深去者嘆鶴鴨《アカセコヲイマカイマカトマチヲルニヨノフケヌレハナケキツルカモ》
 
女歌の妙なるなり居《ヲル》は寢《ネ》すして在(ル)を云り
 
2865 玉劔卷宿妹母有者許増夜之長毛歡有倍吉《タマクシロマキネムイモモアラハコソヨノナカケクモウレシカルヘキ》
 
劔は釧なるへし
 
2866 人妻爾言者誰事酢衣乃此紐解跡言者孰言《ヒトツマニイフハタカコトサコロモノコノヒモトケトイフハタカコト》
 
酢衣《サコロモ》は眞衣《サコロモ》
 
2867 如是許將戀物其跡知者其夜者由多爾有益物乎《カクハカリコヒムモノソトシラマセハソノヨハユタニアラマシモノヲ》
 
2868 戀乍毛後將相跡思許増己命乎長欲爲禮《コヒツヽモノチモアハムトオモヘコソオノカイノチヲナカクホリスレ》
 
2869 今者吾者將死與吾妹不相而念渡者安毛無《イマハアハシナムヨワキモアハスシテオモヒワタレハヤスケクモナシ》
 
2870 我背子之將來跡語之夜者過去思咲八更更思許理來目八面《アカセコカコムトカタリシヨハスキヌシヱヤサラ/\シコリコメヤモ》
 
思咲八《シヱヤ》は難《ナケキ》の切(ナル)聲|思許理《シコリ》は連理《シキリ》
 
2871 人言之讒乎聞而玉桙之道毛不直當云吾妹《ヒトコトノヨコスヲキヽテタマホコノミチニモアハシトイヘルワキモ》
 
2872 不直毛懈常念者彌益二人言繁所聞來可聞《アハナクモウシトオモヘハイヤマシニヒトコトシケクキコエクルカモ》
 
2873 里人毛謂告我禰縱咲也思戀而毛將死誰名將有哉《サトヒトモカタリツクカネヨシヱヤシコヒテモシナムタカナナラムヤ》
 
古今集【戀二】にこひしなはたか名はたゝし世の中の常なきものにいひはなすとも
 
2874 慥使乎無跡情乎曾使爾遣之夢所見哉《タシカナルツカヒヲナミトコヽロヲソツカヒニヤリシイメニミエツヤ》
 
2875 天地爾小不至大夫跡思之吾耶雄心毛無寸《アメツチニスコシイタラヌマスラヲトオモヒシアレヤヲコヽロモナキ》
 
2876 里近家哉應居此吾目之人目乎爲乍戀繁口《サトチカクイヘヤヲルヘキコノアカメノヒトメヲシツヽコヒノシケヽク》
 
人目乎爲乍 人を見ることをしつゝなり
 
2877 何時奈毛不戀有登者雖不有得田直比來戀之繁母《イツハナモコヒサラムトハアラネトモウタテコノコロコヒノシケキモ》
 
直《テ》は糧代《カリテ》【乾飯《カレヒ》の價《テ》なり五にあり】沓代《クツテ》【物に多し】なとの直《テ》を借(リ)て書(ケ)り                  
 
(358)2878 黒王之宿而之晩乃物念爾割西※[匈/月]者息時裳無《ヌハタマノネテノユフヘノモノオモヒニサケニシムネハヤムトキモナシ》
 
2879 三空去名之惜毛吾者無不相日數多年之經者《ミソラユクナノヲシケクモアレハナシアハヌヒマネクトシノヘヌレハ》
 
三空去《ミソラユク》 遠く所聞《キコユ》るなり
 
2880 得管二毛今見牡鹿夢耳手本纏宿登見者辛苦毛《ウツヽニモイマモミテシカイメノミニタモトマキヌトミレハクルシモ》
 
或本歌發句云吾妹兒乎
 
2881 立而居爲便乃田時毛今者無妹爾不相而月之經去者《タチテヰルスヘノタトキモイマハナシイモニアハステツキノヘヌレハ》
或本歌云君之目不見而月之經|去《ヌレ》者
 
2882 不相而戀度等母忘哉彌日異者思益等母《アハスシテコヒワタルトモワスレメヤイヤヒニケニハオモヒマストモ》
 
2883 外目毛君之光儀乎見而者社吾戀山目命不死者《ヨソメニモキミカスカタヲミテハコソアカコヒヤマメイノチシナスハ》
 
山にてもあらめと山の草の誤にもあらまし
 
一云|壽《イノチニ》向吾戀止目
 
2884 戀管母今日者在目杼玉匣將開明日如何將暮《コヒツヽモケフハアラメトタマクシケアケムアスヲハイカニクラサム》
 
2885 左夜深而妹乎念出布妙之枕毛衣世二嘆鶴鴨《サヨフケテイモヲオモヒテシキタヘノマクラモソヨニナケキツルカモ》
 
衣世《ソヨ》は喧擾《サヤ》
 
2886 他言者眞言痛成友彼所將障吾爾不有國《ヒトコトハマコトコチタクナリヌトモソコニサハラムアレナラナクニ》
 
其《ソコ》に被妨《サハ》らむなり
 
2887 立居田時毛不知吾意天津空有土者踐鞆《タチテヰルタトキモシラニアカコヽロアマツソラナリツチハフメトモ》
 
2888 世間之人辭常所念莫眞曾戀之不相日乎多美《ヨノナカノヒトノコトハトオモホスナマコトソコヒシアハヌヒヲオホミ》
 
2889 乞如何吾幾許戀流吾妹子之不相跡言流事毛有莫國《イテイカニアカコヽタコフルワキモコカアハシトイヘルコトモアラナクニ》
 
乞《イテ》は發語
 
2890 夜干玉之夜乎長鴨吾背子之夢爾夢西所見遷良武《ヌハタマノヨヲナカミカモアカセコカイメニイメニシミエカヘルラム》
 
反復《カヘ》るかへる夢に見るなり
 
2891 荒玉之年緒長如此戀者信吾命全有目八目《アラタマノトシノヲナカクカクコヒハマコトアカイノチマタカラメヤモ》
 
2892 思遣爲便乃田時毛吾者無不相數多月之經去者《オモヒヤルスヘノタトキモアレハナシアハステマネクツキノヘヌレハ》
 
2893 朝去而暮者來座君故爾忌忌久毛吾者歎鶴鴨《アサユキテユフヘハキマスキミユヱニユユシクモアハナケキツルカモ》
 
2894 從聞物乎念者我胸者破而摧而鋒心無《キヽシヨリモノヲオモヘハアカムネハワレテクタケテトコヽロモナシ》
 
最初《ハシ》めて彼《ソノ》人のことを聞たるにやはた中間《ナカ》らに彼《ソノ》人のうへを聞たるにや
 
2895 人言乎繁三言痛三我妹子二去月從未相可母《ヒトコトヲシケミコチタミワキモコニイニシツキヨリイマタアハヌカモ》
 
2896 歌方毛曰管毛有鹿吾有者地庭不落空消生《ウタカタモイヒツヽモアルカアレシアレハツチニハオチシソラニケナマシ》
 
歌方毛《ウタカタモ》 疑而毛《ウタカヒテモ》の約言なり十七に※[(貝+貝)/鳥]の來鳴く山ふき宇多賀多母君か手ふれす花ちらめやも遊仙窟に未必《ウタカタモ》由(テ)v詩(ニ)得(ムトニハアラス)これら相同し又十七に天放《アマサカ》る鄙《ヒナ》にあるわれを宇多我多毛|紐《ヒモ》も解《トキ》さけておもほすらめやこは用《ツカ》ひさま少し意轉りて若疑《モシウタカフラクハ》の意なり【他女子《コトヲミナ》に紐も解くらむこと思ほ(359)すらむやなり】又轉りては危殆《アヤフ》き意にも云り十五に離れ礒《ソ》にたてる牟漏《ムロ》の木字多我多毛ひさしき時を過にけるかもこは波の根を洗ふ荒磯《アリソ》にたてれは危殆《アヤフ》くもの意なり又轉りてはたゝにうたかたとも云りそもなほ危くたのみかたき意なるに云り十五に大船の上《ウヘ》にしをれは天雲のたときもしらす歌方わか兄《セ》後撰集【戀一伊勢】に思(ヒ)川たえす流るゝ水の沫のうたかた人にあはてきえめや四(ノ)句うたかたにて切りさて人に云々と讀へしはかなく人に云々の意なり此歌に水の沫のうたかたとあるよりして後(ノ)世(ノ)人|泡沫《アワ》のことにこゝろむ體言にのみ云(ヒ)虚象《ウタカタ》の義《コヽロ》に説《イフ》なと甚《イミ》しき非《ヒカコト》なるをや○地庭不落《ツチニハオチシ》 徒爲《イタツラ》にてはやむましきなり○空消生《ソラニケナマシ》 難《コト》あらはかきけちていつちのそらにも率《ヰ》ていなましなり生は坐《マシ》の誤にや
 
 
2897 何日之時可毛吾妹子之裳引之容儀朝爾食爾將見《イカナラムヒノトキニカモワキモコカモヒキノスカタアサニケニミム》
 
2898 獨居而戀者辛苦玉手次不懸將忘言量欲《ヒトリヰテコフレハクルシタマタスキカケスワスレムコトハカリモカ》
 
心に不懸《カケス》なり
 
2899 中々二黙然毛有申尾小豆無相見始而毛吾者戀香《ナカナカニモタモアラマシヲアチキナクアヒミソメテモアレハコフルカ》
 
2900 吾妹子之咲眉引面影懸而本名所念可毛《ワキモコカヱミノマヨヒキオモカケニカヽリテモトナオモホユルカモ》
 
本名《モトナ》は點他《ムタナリ》の的《ツヽマリ》俗《ヨ》にムダナ事と云に同し面影にのみ見えて戀しきは無益《イタツラ》なりとの意なり
 
2901 赤根指日之暮去者爲便乎無三千遍嘆而戀乍曾居《アカネサスヒノクレヌレハスヘヲナミチタヒナケキテコヒツヽソヲル》
 
爲便乎無三 戀のせむすへなさになり
 
2902 吾戀者夜畫不別百重成情之念者甚爲便無《アカコヒハヨルヒルワカスモヽヘナスコヽロシオモヘハイタモスヘナシ》
 
2903 五十殿寸太薄寸眉根乎徒令掻管不相人可母《イトノキテウスキマヨネヲイタツラニカヽシメツヽモアハヌヒトカモ》
 
五十殿寸太《イトノキテ》 太は天弖なとの誤なるへし五十殿寸天《イトノキテ》は最々來而《イトヽキテ》にて有(ル)かうへに事の來《キタ》るを云り五【貧窮問答歌】に伊等乃伎堤|短物乎端《ミシカキモノヲハシ》伎流等|云之如《イヘルカコトク》また【老身重病歌】伊等能伎提|痛《イタ》伎|瘡《キス》爾波|鹹《カラ》鹽遠|灌《ソヽク》知布何共等久なとあり此《コヽ》も元來《モトヨり》の薄眉《ウスマユ》を掻き薄らくる意なれはなり眉の痒《カユ》きは人に戀らるゝ瑞《シルシ》なるを然《サ》てしも逢はねはなほ徒爲《イタツラ》なるなり
 
2904 戀戀而後裳將相當名草漏心四無者五十寸手有目八面《コヒコヒテノチモアハムトナクサモルコヽロシナクハイキテアラメヤモ》
 
2905 幾不生有命乎戀管曾吾者氣衝人爾不所知《イクハクモイケラシイノチヲコヒツヽソアレハイキツクヒトニシラエス》
 
2906 他國爾結婚爾行而太刀之緒毛未解者左夜曾明家流《ヒトクニニヨハヒニユキテタチカヲモイマタトカネハサヨソアケケル》
 
2907 大夫之聡神毛今者無戀之奴爾吾者可死《マスラヲノサトキコヽロモイマハナシコヒノヤツコニアレハシヌヘシ》
 
(360)2908 常如是戀者辛苦暫毛心安目六事許爲與《ツネカクシコフレハクルシシマシクモコヽロヤスメムコトハカリセヨ》
 
許《ハカリ》は計《ハカリ》
 
2909 凡爾吾之念者人妻爾有云妹爾戀管有米也《オホヨソニアレシオモハハヒトツマニアリトフイモニコヒツヽアラメヤ》
人妻爾有云妹爾 他《ホカ》に夫《ヲトコ》もたりと聞く妹にとの意にてなまにくゝねためる情《コヽロ》はへを如此《カク》云るなむ妙《タヘ》に雅《ミヤ》ひたりける定まりて他人事《ヒトツマ》なるに見ては猶今少し味(ヒ)淺かりぬへくや
 
2910 心者千重百重思有杼人目乎多見妹爾不相可母《コヽロニハチヘニモヽヘニオモヘレトヒトメヲオホミイモニアハヌカモ》
 
2911 人目多見眼社忍禮小毛心中爾吾念莫國《ヒトメオホミメコソシノフレスクナクモコヽロノウチニアカオモハナクニ》
 
眼社忍禮《メコソシノフレ》 忍ひて見ぬなり
 
2912 人見而事害目不爲夢爾吾今夜將至屋戸閇勿勤《ヒトノミテコトトカメセヌイメニワレコヨヒイタラムヤトサスナユメ》
 
遊仙窟に今宵莫(レ)閇(サスコト)v戸(ヲ)夢裏向(ハム)2渠《カレカ》邊(リニ)1四に幕去者屋戸開設而吾將待夢爾相見二將來云比登乎《ユフサラハヤトアケマケテアレマタムイメニアヒミニコムトイフヒトヲ》
 
2913 何時左右二將生命曾凡者戀乍不有者死上有《イツマテニイカムイノチソオホカタハコヒツヽアラスハシヌルマサレリ》
 
徒爲《イタツラ》に戀つゝのみ在らむよりはなり
 
2914 愛等念吾妹乎夢見而起而探爾無之不怜《ウツクシトオモフワキモヲイメニミテオキテサクルニナキカサフシサ》
 
遊仙窟に少時《シハシ》睡(レハ)則夢(ニ)見2十娘1驚(ロキ)覺攪《サメテカキサクレハ》之|忽然《タチマチニ》空(ナシ)v手(ニ)四に夢之相者苦有家里覺而掻探友手二毛不所觸者《イメノアヒハクルシカリケリオトロキテカキサクレトモテニモフレネハ》
 
2915 妹登曰者無禮恐然爲蟹懸卷欲言爾有鴨《イモトイハヽナメシカシコシシカスカニカケマクホシキコトニアルカモ》
 
2916 玉勝間相登云者誰有香相有時左倍面隱爲《タマカツマハムトイフハタレナルカアヘルトキサヘオモカクシスル》
 
玉勝間 勝間《カツマ》は堅間《カタマ》にて編目《アミメ》の堅く精《クハ》しき籠《コ》の名なり【後には加多美と云りこは堅間《カタマ》の轉れる名にやはた堅編《カタアミ》にや】玉は美稱にや玉を装飾《カサ》れるにも有へし目の合《ア》ふ故に相《アフ》の枕詞なり
 
2917 寤香妹之來座有夢可毛吾香惑流戀之繁爾《ウツヽニカイモカキマセルイメニカモアレカマトヘルコヒノシケキニ》
 
寤《ウツヽ》か夢か惑へるかとなり
 
2918 大方者何鴨將戀言擧不爲妹爾依宿牟年者近侵《オホカタハナニカモコヒムコトアケセスイモニヨリネムトシハチカツク》
 
戀しなと云(フ)稱言《コトアケ》も旡くなり
 
2919 二爲而結之紐乎一爲而吾者解不見直相及者《フタリシテムスヒシヒモヲヒトリシテアレハトキミシタヽニアフマテハ》
 
夫婦《イモセ》相《アヒ》別るゝ時《ヲリ》互《カタミ》に裏紐《シタヒモ》を結ひ交《カハ》すことなり七に吾(カ)紐乎妹(カ)手|以《》而結八《モチユフハ》川十に妹之紐解(ク)登結而立田山なと是なりこは相|互《トモ》に他人《ヒト》に勿解《トクナ》と齋ひて爲るわさなり
 
2920 終命此者不念唯毛妹爾不相言乎之曾念《シナムイノチコヽハオモハスタヽニシモイモニアハサルコトヲシソオモフ》
 
此《コヽ》は其《ソコ》唯《タヽ》は直《タヽ》
 
2921 幼婦者同情須臾止時毛無久將見等曾念《タワヤメハオナシコヽロニシマシクモヤムトキモナクミナムトソオモフ》
 
(361)右の報和《コタヘ》に女の所作《ヨメ》るにて幼婦《タワヤメ》とは己(レ)か自《ミツカラ》を稱《イヘ》り
 
2922 夕去者於君將相跡念許曾日之晩毛※[立心偏+呉]有家禮《ユフサラハキミニアハムトオモヘコソヒノクルラクモウレシカリケレ》
 
念へは社《コソ》なり
 
2923 直今日毛君爾波相目跡人言乎繁不相而戀度鴨《タヽケフモキミニハアハメトヒトコトヲシケミアハステコヒワタルカモ》
 
2924 世間爾戀將繁跡不念者君之手本乎不枕夜毛有寸《ヨノナカニコヒシケヽムトオモハネハキミカタモトヲマカヌヨモアリキ》
 
世間爾《ヨノナカニ》 事の至極《キハミ》を云る言なり世間《ヨノナカ》に有(リ)の限(リ)の戀のよしなり
 
2925 緑兒之爲社乳母者求云乳飲哉君之於毛求覽《ミトリコノタメコソオモハモトムトイヘチノメヤキミカオモモトムラム》
 
飲哉《ノメヤ》は飲めはにやなり
 
2926 悔毛老爾來鴨我背子之求流乳母爾行益物乎《クヤシクモオイニケルカモアカセコカモトムルオモニユカマシモノヲ》
 
此二首同人の所作《ウタ》なり此作者の夫《ヲトコ》乳母と稱《トナ》へて異女《コトヲミナ》を召《ヨ》ひ迎へしを詰《ナシ》れるなるへし
 
2927 浦觸而可例西袖※[口+立刀]又卷者過西戀也亂今可聞《ウラフレテカレニシソテヲマタマカハスキニシコヒヤミタレコムカモ》
 
浦觸《ウラフレ》は心放溢《ウラハフレ》なり憂愁《ウレヘ》には心の放溢《ハフ》るゝを云り憂き事有て相(ヒ)背きぬる中(カ)を復(タ)逢はは昔の戀の亂(レ)に成らむかとなり
 
2928 各寺師人死爲良思妹爾戀日異羸沼人丹不所知《オノカシシヒトシニスラシイモニコヒヒニケニヤセヌヒトニシラエス》
 
各寺師《オノカシシ》 己《オノ》か其々《シシ》なり己《シ》か身|己《シ》か心己之父《シカチヽ》己之母《シカハヽ》なと各《ミナ》其《ソ》かの意なり各寺師人死爲良思は己《オノ》か其其《ソレ/\》もて人は死《シヌ》らしにて我(レ)から死《シヌ》るに及ふを云り
 
2929 夕夕吾立待爾若雲君不來益者應辛苦《ユフヘユフヘアカタチマツニケタシクモキミキマサスハクルシカルヘシ》
 
2930 生代爾戀云物乎相不見者戀中爾毛吾曾苦寸《イケルヨニコヒトフモノヲアヒミネハコヒノナカニモアレソクルシキ》
 
2931 念管座者苦毛夜干玉之夜爾至者吾社湯龜《オモヒツヽヲレハクルシモヌハタマノヨルニナリナハアレコソユカメ》
 
2932 情庭燎而念杼虚蝉之人目乎繁妹爾不相鴨《コヽロニハモエテオモヘトウツセミノヒトメヲシケミイモニアハヌカモ》
 
2933 不相念公者雖座肩戀丹吾者衣戀君之光儀《アヒオモハスキミハマサメトカタコヒニアレハソコフルキミカスカタヲ》
 
2634 味澤相目者非不飽携不問事毛苦勞有來《アチサハフノニハアケトモタツサハリコトトハナクモクルシカリケリ》
 
不問事毛《コトトハナクモ》 不言語《コトトハナク》なり
2935 璞之年緒永何時左右鹿我戀將居壽不知而《アラタマノトシノヲナカクイツマテカアカコヒヲラムイノチシラステ》
 
戀は長く壽《イノチ》は短し
 
2936 今者吾者指南與我兄戀爲者一夜一日毛安宅無《イマハアハシナムヨアカセコヒスレハヒトヨヒトヒモヤスケクモナシ》
 
愛痛《メテタ》き女歌よ
 
2937 白細布之袖折反戀者香妹之容儀乃夢二四三湯流《シロタヘノソテヲリカヘシコフレハカイモカスカタノイメニシミユル》
 
2938 人言乎繁三毛人髪三我兄子乎目者雖見相因毛無《ヒトコトヲシケミコチタミアカセコヲメニハミレトモアフヨシモナシ》
 
2939 戀云者薄事有雖然我者不忘戀者死十方《コヒトイヘハウスキコトナリシカレトモアレハワスレシコヒハシヌトモ》
 
2940 中中二死者安六出日之入別不知吾四久流四毛《ナカ/\ニシナハヤスケムイツルヒノイルワキシラヌアレシクルシモ》
 
2941 念八流跡状毛我者今者無妹二不相而年之經行者《オモヒヤルタトキモイマハアレハナシイモニアハステトシノヘユケハ》
 
(362)念八流《オモヒヤル》は念(ヒ)を遣り去《サ》るを云(フ)跡状《タトキ》は手着《タツキ》なり手寄《タヨリ》に同し
 
2942 吾兄子爾戀跡二四有四小兒之夜哭乎爲乍宿不勝苦者《アカセコニコフトニシアラシヲサナコノヨナキヲシツヽイネカテナクハ》
 
難寐矣《イネカテヌ》はなり
2943 我命之長欲家口偽乎好爲人乎執許乎《アカイノチヲナカクホシケクイツハリヲヨクスルヒトヲトラフハカリヲ》
 
2944 人言繁跡妹不相情裏戀比日《ヒトコトヲシケミトイモニアハスシテコヽロノウチニコフルコノコロ》
 
2945 玉梓之君之使乎待之夜乃名凝其今毛不宿夜乃大寸《タマツサノキミカツカヒヲマチシヨノナコリソイマモイネヌヨノオホキ》
 
2946 玉桙之道爾行相而外目耳毛見者吉子乎何時鹿將待《タマホコノミチニユキアヒテヨソメニモミルハヨキコヲイツトカマタム》
 
何時將逢《イツアハム》かと其《ソノ》時《トキ》を待(ツ)なり【來(ル)を待(ツ)に非す】
 
2947 念西餘西鹿齒爲便乎無美吾者五十日手寸應忌鬼尾《オモフニシアマリニシカハスヘヲナミアレハイヒテキイムヘキモノヲ》
 
或本歌曰|門出而吾反側乎人見監可毛《カトニイテテアカコイフスヲヒトミケムカモ》一云|無乏出行家當見《スヘヲナミイテヽソユキシイヘノアタリミニ》
 
柿本朝臣人麻呂歌集云|爾保鳥之奈津柴比來乎人見鴨《ニホトリノナツサヒコシヲヒトミケムカモ》
 
2948 明日者其門將去出而見與戀有容儀數知兼《アスハソノカトヨリユカムイテテミヨコヒタルスカタアマタシルケム》
 
得田價異心欝悒事計吉爲吾兄子粕有時谷《ウタカヘルコヽロイフカシコトハカリヨクセアカセコアヘルトキタニ》
 
異は累なるへし吉爲《ヨクセ》はよくせよ
 
2949 吾妹子之夜戸出乃光儀見而之從情空成地者雖踐《ワキモコカヨトテノスカタミテシヨリコヽロソラナリツチハフメトモ》
 
2951 海石榴市之八十衢爾立平之結紐乎解卷惜毛《ツハイチノヤソノチマタニタチナラシムスヒシヒモヲトカマクヲシモ》
タチナラシタチナラシツヽキフミナラシ
一二(ノ)句は立平之《》の序○立平之《》 上(ミ)よりの續《》は踏平《》の意(ロ)下(モ)への續(キ)は十に妹|之《カ》紐|解《トク》登結而立田山七に吾紐乎
 
妹手|以《モチ》而|結八《ユフハ》川また此(ノ)上(ミ)【十一葉】に二爲而結之紐乎一爲而吾者解不見直相及者《フタリシテムスヒシヒモヲヒトリシテアレハトキミシタヽニアフマテハ》なとの意なり右なる解登《トクト》結而は解(ク)とて結《ムスフ》とての意なり然《サ》るは夫婦《イモセ》相(ヒ)別るゝ時《ヲリ》互《カタミ》に裏紐《シタヒモ》を結《ユ》ひ交《カハ》す事ありしは相(ヒ)共(モ)に他人《ヒト》に勿解《トクナ》と齋ひての所爲《ワサ》にて解(ク)にも結(フ)にも立(ツ)なれは立平之《タチナラシ》と云るなり平之《ナラシ》は軽く看《ミル》へし
 
2952 吾齡之衰去者白細布之袖乃狎爾思君乎母准其念《アカヨハヒノオトロヘヌレハシロタヘノソテノナレニシキミヲモソオモフ》
 
2953 戀君吾哭涕白妙袖兼所漬爲便母奈之《キミニコヒアカナクナミタシロタヘノソテサヘヒチテセムスヘモナシ》
 
2954 從今者不相跡爲也白妙之我衣袖之干時毛奈吉《イマヨリハアハシトスレヤシロタヘノアカコロモテノヒルトキモナキ》
 
爲也《スレヤ》は爲《ス》れはにやなり
 
2955 夢可登情班月數多二干西君之事之通者《イメカトコヽロワカメヤツキサハニカレニシキミカコトノカヨヘハ》
 
事《コト》は言《コト》
 
2956 未玉之年月兼而烏玉乃夢爾曾所見君之容儀者《アラタマノトシツキカネテヌハタマノイメニソミユルキミカスカタハ》
 
年月を兼(ネ)久しきを云り
 
2957 從今者雖戀妹爾將相哉母床邊不離夢所見乞《イマヨリハコフトモイモニアハメヤモトコノヘサラスイメニミエコソ》
 
(363)2958 人見而言害目不爲夢谷不止見乞我戀將息《ヒトノミテコトカメセヌイメニタニヤマスミエコソアカコヒヤマム》
 
或本歌頭云人目多(ミ)直《タヽニ》者不相
 
2959 現者言絶有夢谷嗣而所見與直相左右二《ウツヽニハコトタエニタリイメニタニツキテミエコソタヽニアフマテニ》
 
言《コト》は事《コト》與は例の乞の誤
 
2960 虚蝉之宇都思情毛吾者無妹乎不相見而年之經去者《ウツセミノウツシコヽロモアレハナシイモヲアヒミステトシノヘヌレハ》
 
2961 虚蝉之常辭常雖念繼而之聞者心遮焉《ウツセミノツネノコトハトオモヘトモツキテシキケハコヽロハナキヌ》
 
遮は物念(ヒ)をさへきり和《ナコ》むる意の字
 
2962 白細之袖不數而宿鳥玉之今夜者早毛明者將開《シロタヘノソテカレテヌルヌハタマノコヨヒハハヤモアケハアケナム》
 
不數而《カレテ》獨(リ)寝の袖は重《カサ》ならす一重なれは如此《カク》書(ケ)り
 
2963 白細之手本寛久人之宿味宿者不寢哉戀將渡《シロタヘノタモトユタケクヒトノヌルウマイハネスヤコヒワタリナム》
 
寄v物陳v思
 
2964 如是耳在家流君乎衣爾有者下毛將著跡吾念有家留《カクノミニアリケルキミヲキヌナラハシタニモキムトアカモヘリケル》
 
2965 橡之袷衣裏爾爲著書將強八方君之不來座《ツルハミノアハセノコロモウラニセハアレシヒメヤモキミカキマサヌ》
 
橡《ツルハミ》は賤《イヤシキ》服《キヌ》の色にて人に厭はるゝ物なり故(レ)夫《ヲトコ》に厭はるゝに譬へ裏爾爲者《ウラニセハ》は吾(レ)を軽蔑《ナイカシロ》にせはなり吾將強八方《アレシヒメヤモ》は豈(ニ)強(ヒ)て君を戀(ヒ)むやはなり然《サ》るを己《オノレ》のみ人を厭ひ貌《カホ》に何かは君|之不來座《カキマサヌ》となり然《サ》てなほ裏《シタ》に思ひ離れぬ情《コヽロ》あり味はふへし
 
2966 紅薄染衣淺爾相見之人爾戀比日可聞《クレナヰノアラソメコロモアサラカニアヒミシヒトニコフルコロカモ》
 
退紅《アラソメ》なり
 
2967 年之經者見管偲登妹之言思衣乃縫目見者哀裳《トシノヘハミツヽシヌヘトイモカイヒシコロモノヌヒメミレハカナシモ》
 
2968 橡之一重衣裏毛無將有兒故戀渡可聞《ツルハミノヒトヘノコロモウラモナクアルラムコユヱコヒワタルカモ》
 
一二(ノ)句は心《ウラ》も無(ク)の序吾か如是《カク》戀(ヒ)渡るをしも知らねは何心《ナニコヽロ》も無くあるらむ兒なるものをなり
 
2969 解衣之念亂而戀雖何之故其跡問人毛無《トキキヌノオモヒミタレテコフレトモナニノユヱソトトフヒトモナシ》
 
2970 桃花褐淺等乃衣淺爾念而妹爾將相物香裳《アラソメノアサラノコロモアサラカニオモヒテイモニアハムモノカモ》
 
2971 大王之鹽燒海部乃藤衣穢者雖爲彌希將見毛《オホキミノシホヤクアマノフチコロモナレハスレトモイヤメツラシモ》
 
官家《オホヤケ》の御鹽濱《ミシホハマ》なり
 
2972 赤帛之純裏衣長欲我念君之不所見比者鴨《アカキヌノヒタウラコロモナカクホリアカオモフキミカミエヌコロカモ》
 
一二(ノ)句は長欲《ナカクホリ》の序|長欲《ナカホリ》は夫婦中《イモセナカ》をなり
 
2973 眞玉就越乞兼而結鶴言下紐之所解日有米也《マタマツクヲチコチカネテムスヒツルアカシタヒモノトクルヒアラメヤ》
 
越《ヲチ》は後《ノチ》乞《コチ》は今《イマ》なり今のみならす將來《ユクサキ》まてを兼(ネ)て他人《ヒト》にとかしと契約《チキ》りて結ひつる云々なり
 
2974 紫帶之結毛解毛不見本名也妹爾戀度南《ムラサキノオヒノムスヒモトキモミスモトナヤイモニコヒワタリナム》
 
2975 高麗綿紐之結毛解不放齋而待杼驗無可聞《コマニシキヒモノムスヒモトキサケスイハヒテマテトシルシナキカモ》
 
2976 紫我下紐乃色爾不出戀可毛將痩相因乎無見《ムラサキノアカシタヒモノイロニイテスコヒカモヤセムアフヨシヲナミ》
 
(364)2977 何故可不思將有紐緒之心爾入而戀布物乎《ナニユヱカオモハスアラムヒモノヲノコヽロニイリテコヒシキモノヲ》
 
入紐《イレヒモ》なり長紐を輪紐に刺て結ふるを云
 
2978 眞十鏡見座吾背子吾形見將持辰爾將不相哉《マソカヽミミマセアカセコアカカタミモタラムトキニアハサラメヤモ》
 
2979 眞十鏡直目爾君乎見者許増命對吾戀止目《マソカヽミタヽメニキミヲミテハコソイノチニムカフアカコヒヤマメ》
 
2980 犬馬鏡見不飽妹爾不相而月之經去者生友名師《マソカヽミアカヌイモニアハスシテツキノヘヌレハイケルトモナシ》
 
生(ケ)る利《ト》も無(シ)なり
 
2981 祝部等之齋三諸乃犬馬鏡懸而偲相人毎《ハフリラカイハフミモロノマソカヽミカケテシヌヒツアフヒトコトニ》
 
大方《オホカタノ》人に逢ふ毎(ト)に我(カ)思ふ人|如何《イカニ》と偲《シノ》はるゝなり
 
2982 針者有杼妹之無者將著哉跡吾乎令煩絶紐之緒《ハリハアレトイモシナケレハツケメヤトアレヲナヤマシタユルヒモノヲ》
 
2983 高麗劍己之景迹故外耳見乍哉君乎戀渡奈牟《コマツルキワカコヽロカラヨソノミニミツヽヤキミヲコヒワタリナム》
 
2984 劍太刀名之惜毛吾者無比來之間戀之繁爾《ツルキタチナノヲシケクモアレハナシコノコロノマノコヒノシケキニ》
 
2985 梓弓末者師不知雖然眞坂者君爾縁西物乎《アツサユミスヱハシシラスシカレトモマサカハキミニヨリニシモノヲ》
 
眞坂《マサカ》正加《マサカ》【加は助辭】さし當る方今《イマ》なり
 
一本歌云梓弓末乃多頭吉波|雖不知《シラネトモ》心者君|爾因之《ニヨリニシ》物乎
 
此《コヽ》の多頭吉《タツキ》は後に多杼里《タトリ》と云(フ)ほとの意
 
 
2986 梓弓引見縱見思見而既心齒因爾思物乎《アツサユミヒキミユル|シ《ヘ》ミオモヒミテステニコヽロハヨリニシモノヲ》
 
左《カ》に右《カク》に心見はてゝ既《コト/\》く君に靡き依(リ)にし吾(レ)なるよとなり
 
2987 梓弓引而不緩大夫哉戀云物乎忍不得牟《アツサユミヒキテユルサヌマスラヲヤコヒチフモノヲシヌヒカネテム》
 
不縱《ユルサヌ》は敵《カタキ》をなり弦《ツル》を弛《ユル》さぬなり
 
2988 梓弓末中一伏三起不通有之居君者會奴嘆羽將息《アツサユミスヱノナカコロヨトメリシキミニハアヒヌナケキハヤメム》
 
弓には本末の有て本にも末にも各《ミナ》上中下あれは末まては中と云む料なり一伏三起《コロ》は萬葉考(ニ)云(ク)或(ル)物にころふし采《サエ》と云(フ)物は一度打(チ)伏(ス)れは三度起(キ)擧《アカ》る故に書(ク)なりと有(リ)
 
2989 今更何牡鹿將念梓弓引見縱見縁西鬼乎《イマサラニナニヲカオモハムアツサユミヒキミユル|シ《ヘ》ミヨリニシモノヲ》
 
心見はてゝ君に依(リ)にし身なれは今(マ)更(ラ)に何をか念はむとなり
 
2990 ※[女+感]嬬等之續麻之多田有打麻懸續時無二戀渡鴨《ヲトメラカウミヲノタタリウチソカケウムトキナシニコヒワタルカモ》
 
和名抄【蠶絲具】に絡※[恐の心が木](ハ)他々理《タタリ》神祇令義解に線柱《タヽリ》大神宮儀式帳【寶物殿】に金銅(ノ)※[木偏+端の旁]《タヽリ》二基銀銅(ノ)※[木偏+端の旁]《タヽリ》一基立田風神祭祝詞に金能※[木偏+端の旁]《コカネノタヽリ《タラチネ》》なとあり【大神宮立田|各《ミナ》女神《ヒメカミ》にましませは此(ノ)具《モノ》あるなり】今在る具《モノ》も同し凸の形《サマ》なれは立在《タヽリ》の意なるへし三(ノ)句まては倦《ウム》と云む料
 
2991 垂乳根之母我養蠶乃眉隱馬聲蜂音石花蜘※[虫+厨]荒鹿異母二不相而《タラチネノハヽカカフコノマユコモリイフセクモアルカイモニアハステ》
 
(365)2992 玉手次不懸者辛苦懸垂者續手見卷之欲寸君可毛《タマタスキカケネハクルシカケタレハツキテミマクノホシキキミカモ》
 
襷《タスキ》懸《カク》るを逢(フ)に譬(フ)
 
2993 紫綵色之※[草冠/縵]花八香爾今日見人爾後將戀鴨《ムラサキノマタラノカツラハナヤカニケフミルヒトニノチコヒムカモ》
 
紫綵色之※[草冠/縵]《ムラサキマタラノカツラ》は其(ノ)女の装飾《サマ》なるへし花八香爾《ハナヤカニ》は※[草冠/縵]《カツラ》も人も花やかなる於《ウヘ》に逢(ヒ)初(メ)たるをも兼(ネ)云(ヘ)るなるへし始初《ハシメ》を波奈《ハナ》と云ること今も古(ヘ)も相(ヒ)同し花八香爾今日見人《ハナヤカニケフミルヒト》と云るも逢(ヒ)初(メ)たるにて熟《ヨ》く所聞《キコ》ゆ
 
2994 玉蘰不懸時無戀友何如妹爾相時毛名寸《タマカツラケヌトキナクコフレトモナニソモイモニアフトキモナキ》
 
心に不懸時無《カケヌトキナク》なり
 
2995 相因之出來左右者疊薦重編數夢西將見《アフヨシノイテコムマテハタヽミコモカサネアムカスイメニシミエム》
 
2996 白香付木綿者花物事社者何時之眞枝毛常不所忘《シラカツクユフハハナモノコトコソハイツノマサカモツネワスラエヌ》
 
○白香付《シラカヅク》 冠辭考(ニ)云(ク)木綿《ユフ》は白髪《シラカ》に似《ニ》る物なれはなり付《ツク》は似付《ニツク》なり○木綿者花物《ユフハハナモノ》 木綿花《ユフハナ》を云りさて木綿者《ユフハ》まては花物《ハナモノ》の序なり花物《ハナモノ》とは花々《ハナハナ》しきのみにて眞實《マメ》ならぬを云り十三に人者花物曾こははかなきを云るなれと頼み難き意は同し如此《カヽ》る類(ヒ)を花と云ち例《コト》多しさて此《コヽ》は夫《ヲトコ》の巧言《コトヨ》くてのみ眞實《マメ》ならぬを云るなり○事社者《コトコソハ》 言なり○何時之眞枝毛《イツノマサカモ》 枝は坂の誤 正加《マサカ》【加は助辭】はさし當る方今《イマ》なり○常不所忘《ツネワスラエヌ》 夫《ヲトコ》の言《コトハ》に常に汝《ミマシ》を忘られぬと云となり
 
2997 石上振之高橋高高爾妹之將待夜曾深去家留《イソノカミフルノタカハシタカタカニイモカマツラムヨソフケニケル》
 
垂仁記【三十九年】に命2五十瓊敷《イニシキノ》命1俾v主《シラ》2石上神宮之神寶1また【八十七年】五十瓊敷命謂2妹《イモ》大中(ツ)姫1曰我老(イタリ)也不v能
 
v掌2神寶1自今以後《イマヨリハ》必(ラス)汝《ミマシ》主《シラセ》焉大中姫命辭曰吾手弱女人也《アハタワヤメニテ》何能登2天神庫《アメノホクラ》1耶【神庫此云保玖羅】五十瓊敷命曰神庫雖v高我能爲(ニ)2神庫1造(リテハ)v梯豈煩v登v庫乎故(レ)諺曰|天之神
庫隨樹梯之此其縁也《アメノホクラモハシタテノマヽニトイフコレソノコトノモトナリ》とあり此《コヽ》に石上振之高橋高高爾と云(ヒ)又|梯立之庫橋《ハシタテノクラハシ》山と續くるも此(ノ)古(ル)事なり今神庫を保古良と稱《イヒ》て小祠のことに心得るは此(ノ)古言のみ遣れるにて保古良は秀庫《ホクラ》の意にて庫《クラ》の高きを云る名なり高高爾《タカタカニ》は仰き望《ミ》て待(ツ)さま
 
2998 湊入之葦別小船障多今求吾乎不通跡念莫《ミナトイリノアシワケヲフネサハリオホミイマコムアレヲヨトムトオモフナ》
 
來《コム》は將往《ユカム》
 
或本謌曰湊入爾蘆別小船障多君爾不相而年曾經來
 
2999 水乎多上爾種蒔比要乎多擇擢之業曾吾獨宿《ミツヲオホミアケニタネマキヒエヲオホミエラレシナリソアカヒトリヌル》
 
(366)上《アケ》は上田《アケタ》にて高く上《アカ》りたる田|業《ナリ》は業《ナリ》はひ三(ノ)句まては擇擢《エ》らるゝの序にてなり棄《キ》らはれて獨(リ)宿《ヌ》るを云り
 
3000 靈合者相宿物乎小山田之鹿猪田禁如母之守爲裳《タマアヘハアヒヌルモノヲヲヤマタノシシタモルコトハヽカモラスモ》
 
一云母(カ)守之師《モラシシ》
 
3001 春日野爾照有暮日之外耳君乎相見而今曾悔寸《カスカヌニテレルユフヒノヨソノミニキミヲアヒミテイマソクヤシキ》
 
碁日《ユフヒ》の斜《ナヽメ》なれはさゝぬ處よりさす處を望《ミ》れは外《ヨソ》なるよしの序
 
3002 足日木乃從山出流月待登人爾波言而妹待吾乎《アシヒキノヤマヨリイツルツキマツトヒトニハイヒテイモマツアレヲ》
 
3003 夕月夜五更闇之不明見之人故戀渡鴨《ユフツクヨアカトキヤミノオホヽシクミシヒトユヱニコヒワタルカモ》
 
3004 久堅之天水虚爾照月之將失日社吾戀止目《ヒサカタノアマツミソラニテルツキノウセナムヒコソアカコヒヤマメ》
 
3005 十五日出之月之高高爾君乎座而何物乎加將念《モチノヒニイテニシツキノタカタカニキミヲイマセテナニヲカオモハ