南方熊楠全集別巻第一(書簡補遺・論考補遺)、655頁(ただし英文は入力せず)、平凡社、1974.03.12(91.11.25.11p)
 
 
(5)大正三年−十五年
 
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 大正三年十二月九日午下
   上松蓊君机下
                      南方熊楠再拝
 
 拝啓。前日は華翰拝受千万|難有《ありがた》く鳴謝し奉り候。小生当時『日本及日本人』と引き続き『太陽』へ新年号の初刊に出すべきものを認めおり、ために大いに後れ申し候ところ、ようやく咋朝仕舞い申し候を、昨日午後一時より今朝九時まで熟睡、只今起きたるところに御座候。右『太陽』へ出し候は、来たる卯の年に因み、去年の「虎の話」のごとく同一体裁に「兎の話」を出し候。しかるに材料すこぶるおびただしく集まりおり、到底『太陽』の十頁では尽きず。よつて『太陽』へは「兎に関する民俗と伝説」のみ記して寄せ、他の半分「兎に関する童話と縁起譚《えんぎものがたり》」は全く手前に材料残りおり候。『日本及日本人』へ寄すれば必ず歓迎さるべきも、同誌へはすでに「石蒜と浜田弥兵衛の話」という長篇、元日号と十五日号と事によると二月一日分にも連載のはずで、すなわち小生の分筆頭となり、予告出でおれば、急いで出しくれても右の「兎に関する童話と縁起譚」は二月一日号より早くは出でず。然るときは多分の読者は小生が来年正月号に諸家が出した兎の話をうけ売りやきなおしたか、または新年号の『太陽』へ出した滓《かす》を集めたものと思わるべく、大いに面白からず。よって貴下何とか交渉して新年号のいずれの新聞へなり御出し下(6)さらずや。
 小生は『読売新聞』に高木敏雄氏が毎々民俗古話のことをかきたるをおくりくれるゆえ、同新聞へ出すなら手心をよく存知おり、他の東京の新聞は一向見るに由なきゆえ、その手心を知らず。故に『読売』ならばもっとも恰好なるが、しかしその辺はどうでも宜しく、すなわちなるべく手荒きことをかかず、また下部《げび》たことをさしひかえればどこでも通ることとは存じ候。
 右寄稿料および何月何日までに最晩のしめきりということ御聞き合わせの上御一報下され候わば、小生原稿浄写の上貴下まで差し上ぐべく候。新年には必ず諸新聞に兎のこと出すもの多かるべく、晩くなるとさしあい衝突も生ずべきに付き、なるべく早く御かけあい下されたく候。
 かかること申し上ぐるは如何なれど、小生は本邦の民俗学古話学者としてもっとも海外に知られたるものに有之《これあり》、また明治十八年来もっとも早くこの学に着手し海外にては斯学の大権威と仰がれおり候。このことは柳田・高木二氏が出しおる『郷土研究』、石橋臥波氏の『民俗』を読むもののみな知るところにて、近く芳賀博士より『今昔物語集』の攷証本を出せしにも小生の援助を求められ、また日本民俗学会の評議員は二条公と高木氏(学士)の外はみな博士連なるに、小生のみは無位にて撰まれ候も辞したるに候。
 小生は故福沢諭吉氏の天爵説に心酔し、今に学位とか学会員と申すは一切辞退致しおり候。ロンドン大学の前総長ジキンス至って別懇にて、一年間表向き同校の聴講者と署名だけしたら博士の学位をとれると毎々すすめられしも、小生そんなことは無用と申し、ことわり申し候(明治二十七年ごろのこと)。
 右は他人にいうべきことならねど、もし小生のことを聞き合わされ候わば御答え下されたく候。 早々以上
 
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(7) 大正五年九月二十八日午後五時前
   上松蓊様
                      南方熊楠再拝
 
 拝呈。二十五日御状まさに拝見。小生只今多用何ともいえぬほどにて、かつ足悪きゆえ起居まことに不自由なり。それゆえ御受け後れ申し候。
 先日の『大国民』とか申す雑誌の耶蘇教退治号つづきすでに出たる由、雲州の人より申し来たり候。もし今も得らるべくば御送り下されたく候。菌の画はなかなか小生方へ留め置くべき分ちょっと写し得ず。しかし冬中にはきっと写し、原本差し上ぐべく候。
 前日御送り下され候褐色の墨はまことに宜しく候。ただ一つこまることは、この墨の汁まことに乾き易く、むつかしき画をかき、かれこれ考えおるうちに右の汁が一度乾くともはや水を入れても決してもとへもどらず、※[図有り]かくのごとき細粒を生じ申し候。故にかの貴下へ差し上ぐる菌の絵など写すには、リスリンかなにかと混じたる水の中ですることにも致すべきやと勘考中に御座候。褐色の彩色が一番むつかしく、また右の菌の絵は主たる彩色が褐色にあるなり。とにかく少し暇が出来たら二日ばかりかけていろいろとやって見るべく候。
 上田万年氏の『イソップ物語』は何分宜しく願い上げ候。新本でも旧本でも宜しく候。上田氏の訳にあらざれば入らず候。(小生はイソップの本はいろいろとりそろえ持ちおり候。)
 博文館編輯課に鈴木徳太郎という人あり。この人小生の寄書の係なり。貴下何とかして書状または電話いずれにしても早く事の分かるように、小生に『太陽』来年新年号の「蛇に関する迷信と俗伝」を書かせくれぬか聞き合わし、返事下されたく候。原稿は十一月末までに出すなり。これは前方も例年の例で承知と存じ候。しかして別に「戦争に用立てた禽獣』これは昨年英国リヴァープール大学のポストゲイト博士より問を募り候に小生答えたるも
     (8)のにて、昨年十二月と今年四月、ロンドンで公けにせり。他にも答文多くありしが、小生がまず一番東西古今に博く渉りおったらしい。(欧米の諸方でちょっと持て囃され記載され候。)それを一層日本向きに改正増補したるもので、牛、馬、駱駝等の家に飼う動物でなく、虎、獅子、野猪等の野生の動物を実際戦争に使うこと(小生右の答文に蜂を戦争に使うことを書き、いろいろと評判ありしが、その後アフリカにて英軍が独領に攻め入りしとき独軍果たして蜂を使い防ぎ大捷せり)、それから実際はともかく昔からある、鴻が川を渡るを見てその川浅きを知り夜討して勝ったとか、蜘蛛が巣を張って敗軍の将を助けたとかいうような珍説まであつめたものなり。これは特に『太陽』へ出すべく書いたものだが、小生手が痛み清書今日まで延引しおりたり。清書すませて挿図下画ともに十月十日までに必ず博文館へ直送するが、何とぞあまり後れて新年号の「蛇の話」とつき合わぬよう、なるべく十一月(また止むを得ずんば十二月)号へ出しくれぬか、御聞き合わせ下されたく候。
 さて、「蛇の話」(新年号)と「戦争に用立てた禽獣」(十一月号)二つながら先方承諾なら、「二」または「フ」(二つのフ)、蛇の話のみ承諾なら蛇の「ヘ」、二つながら不用なら「イラヌ」と、ちょっと電報下されたく候。
  キシウ タナベチョウ ミナカタクマグス
で分かり申し候。別に生命に関するほどの一大事にあらざるも、すこぶる多忙の男ゆえ、電報願い上げ奉り候。
 右は鈴木氏へ小生より直接言うたらよいのだが、氏は従前毎度秋冬の際社へ出ぬこと多いらしい。故に貴下へひとまず願い上げ候。鈴木氏は小生寄書の係ゆえ貴下より鈴木氏あるか否確かめた上、鈴木氏へ聞き合わせ、もし鈴木氏不在なら然るべく『太陽』編輯係の他の人に御聞き合わせ下されたく候。
 右何分宜しく願い上げ奉り置き候。        早々敬具
 
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(9) 大正六年一月十八日午後二時
   上松蓊様
                      南方熊楠再拝
 
 拝啓。封入の小為替一円三十銭、これは前般来御求め贈り下され候『下学集』、『大国民』、『日本及日本人』、みみかき二本、その他の郵税入れ込め見料《みはか》らいて差し上げ候。定めて多少不足あるべけれども拙方一々覚え書きも無之《これなく》、貴状をことごとくしらべることも成らず、悪しからず御承知を乞う。
 菌の画はかねて出来おるもの紙質悪く、また当時用いし彩色調合悪くして永久に保存の段受け合われず。小生用事の絶えぬ男なれど比較的ひま有之《これあり》、よって小生みずから発見せしと思うものおよそ十品少しも手を盗まずに図記致し(画を美術としては見るに堪えぬものなれど、学術上要点を示す画としては申し分なし。あるいは洋人学者の画より上かも知れず。記載文また然り)、と申しても十品みなそろうはよほど間がかかるから、まず五品か六品出来れば差し上ぐべく候。
 しかしてここに条件ありて、この画はあまりに人に見せぬよう願い上げ候。もっとも小生死んだら如何なさるとも宜しく、小生画などかきて人に与うることは、一昨春スウィングル氏来訪されしとき小生当地にて発見の「山の神草紙」と申す画六枚ばかり(狼が山神にて一日春興に乗じ海辺に出て見わたすうち海上のオコゼという魚(これは今も諸地方で山神をまつるに用うる魚なり)琴を弾ずるを見てほれこみ獺《かわうそ》を使いとして文をおくり、これと婚するを章魚《たこ》の入道大いに怒り烏賊《いか》、鰕《えび》の一族を催し横より嫁入の輿を奪わんとするを、山の神うまく逃げて狼と婚し、狐、熊、鹿、猿、兎、狸また諸種の魚介類等集まり大饗宴を開き、めでたくオコゼ姫と狼神と婚する図なり。足利氏末より徳川氏初世のものと見え、当地の一旅舎の屏風に貼りありしを見出だせり。かつて『人類学雑誌』に載せしことあり)、知れる当地の画工(只今大阪にあり、稲垣富二と号す)にかきもらい、小生みずから詞書を写し、右の山の神オコゼと(10)いう魚の図のみ小生みずから写生してス氏に贈り、ス氏これを金銀ずくめの巻物にし(装具のみに三十円ばかりかけたりと聞く)、宝物として米国国立博物館か国会議院図書館へ蔵しあり。その前後、小生書はまずく拙きゆえむろん画も人に与えしこと一切なし。故に貴下へ上ぐる画はまずは無類のものに有之候。小生妙なたちにて、自分のものと思うと一生懸命になるが、人にやるものと思うとどこかに手を省きまた力がぬけるゆえに、よほど気の向いた日を撰まねば八分にも画き得ず。しかし貴下に呈すべき分はまず大抵には出来べしと存じ候。(かきつぶし、すこぶる多く、その紙裏へまた自分用の画をかくと、これはよく出来る。)とにかく、この月中に二、三枚でも差し上ぐべく候。しかして今年またスウィングル氏来朝の報あり。小生はこれらの画を二通こしらえ、一通を貴下に呈し、一通を標本と共にス氏に托し、帰国の上ワシントンにて詮議の上、その十種ばかりの内一種に貴下の名を付するよう頼み申すべく候。
  小生は従来植物に名を付くる等のことを仏家にいわゆる煩悩の一とし、発見せるものすこぶる多きも、そはそんなことを好む人に後日一任することと致し、一切命名などせず。一昨年特別に奇妙な粘菌一種に自分が名を命ぜし上ロンドンで出せしも、のちこれを取り消し申し候。(ハクスレー氏など有名な生物学者なりしが、構造、解剖、発生等の研究に尽力せしのみ、一つも命名などされざりし。かかるものに命名などして日をつぶすを、小生は学者がかった児戯、いわば香、茶の湯の遊興くらいに心得おり申し候。)故に自分名を付くるを好まず、また本邦ごとき参考書、参考品少なき国にて何と名を付くるとも、その名は必ず十の八、九は数年を出でずして取り消さるべく候。
十種こしらえ托しおかば一種くらいは正確なる新種あることと存じてのことに候。ちょっと日本などで思うと違い、新種のいよいよ新種たるを確かむるは容易のことにあらず。土地のかわるに随い同じものでも必ず多少は相違す。故にこれを新種といわばみな新種なれど、特別に新種名を付くるほどの新種は、歴《れつき》としたる新種すなわちちょっと見て(11)新種と分かるほどのものならざるべからず。これを見分くるは参考品乏しき日本ではなかなか出来ず、出来たところで危殆千万なるまぐれあたりなり。
 茶色の彩色は小生自分乳鉢にて作りなおし、まず大抵なものになり申し候ゆえ、この上送り下さるに及ばず。ただ入用なるは貴下前年送り下され候ごく細き毛筆(洋風のもの一本と日本風のもの数本ありし)、この洋風のもの一本はよほど大事につかいしが、もはや大分くたびれおり、今も用に立つが、右に申す貴下に呈する画を五、六も認め了らば、もはや用に立つまじと思う。したがってはなはだ用うることを惜しむゆえ画がうまく出来ぬこと多し。貴下何とぞ代価はいくらでも宜しきゆえ、今二本ほど買い送り下さらずや。然るときは一、二本まるで潰れても一本だけは残るから、心を安んじ、むやみに多く画を試み得るなり。右の節送り下されしやや粗なる毛のやつは一向何の役にも立たず。また至って細き毛の日本筆数本は小生一切これを用うること能わず。
 菌の画には何の苦もなく画き得るものあり。また見たところちょっとしたようで実はすこぶるこみ入ったものあり。同じ貴下に呈するなら、何の苦もなく画き得るようなものは差し上げ難く候。
 岡崎氏への状御届け下され、難有《ありがた》く御礼申し上げ候。前日同県人岡崎氏を訪問候とき、同氏より左様伝言有之候。まずは右早々以上。
 貴下の御名蓊は何とよみ候や。このことたしかに御知らせ下されたく候。このこと命名に必要あり。上松という人にてウエマツソウという草に命名ある人すでにあり。
 
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 大正六年二月二日夜十一時
 拝啓。画くべき菌昨日寒風を犯しとりに行き、多少とり返りたるに、今朝越後国より酒が古き杉の切り株より涌く(12)を送り来たり、その鏡検にかからざるべからず、まことに大多忙なり。(小生方にも昨年七月竹の切り株より三鞭酒が涌きし大珍事あり。双方比較して研究するなり。)故にまたまた画は少々後れるが、画もずいぶんむつかしき記文を添うることゆえ、ちょっとした鳥羽絵のようには事行き申さず。今しばらくのところ御気長く御まち下されたく懇願奉り置き候なり。           早々頓首
  小生は今朝早くより只今夜の十二時近くまで右様のことで寸暇なく働きおり候。
 
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 大正六年三月十五日午後三時
   上松蓊様             南方熊楠再拝
 
 貴書恭なく拝見。かの『広益俗説弁』の代価および郵税は(二円八十余銭と記憶す)、和歌山なる舎弟より送り申し上ぐるよう、三月十二日幸便に付し頼み置き候。たぷんこの状に先だち御入手下されたることと存じ申し候。
 また井沢著『本朝俚諺』十巻および『新俗説弁』五巻(これは右『俗説弁』五十一冊の外の由に候)も見当たらば願い上げ候。丸善目録に、
  Baring Gould‘Strange Survivals’ 一円三十五銭
  Czaplicka‘Aboriginal Siberia’ 七円七十銭
 この二書、小生欧州へずいぶん久しき前注文せしも今に金子の受取書も参らず。例の撃沈または何か途中紛失にあらずやと存じおり候。しかるにたまたま丸善目録に見当たり申し候を幸い頼み上げ候は、(失礼ながら)貴下懐中都合よく候わば小生著書に味を添うるために入用に付き(実は何たる必用なきものなれど、著書は御馳走と同じくちょ(13)っとちよっと味を添うる必用がある)、御購求の上御送り下されたく候。小生は相変わらず書籍を欧州より買いおり候も、郵便為替がまず先方へ達して三ヵ月も後に、小生の注文状が前方へようやく着する等の怪事有之、はなはだしきは小生が恤兵部ごときものへ寄進せし金が届いて何の趣意かその趣意が分からずになりしも有之、ために当分購書打ち切りとするの止むを得ざるに及び申し候。右二書幸いに貴下購収送り下さるるとするも、小生当今著述および植物の方にずいぶん資と暇を投じおり、右わずかに十円足らずの代金はちょっとちょっと出来ず。故に三ヵ月ほどに月賦として貴下までおさめたく候。
 柳田氏はもと小生知らぬ人に有之、六年ばかり前小生東京人類学会へ出し候オコゼ魚をもって山神を祭ることの説をはなはだ感心し毎度文通、例の合祀反対のころは大いに力を副えられし義理あるをもって、小生は過ぐる四年間ずいぶんえらく苦辛して『郷土研究』へ不断論文を出し候。これは一文に付き二十円ほどの酬金ある約束なりし。
 しかるに、同氏は狭量(というよりも官人だけに官僚万能の人)にて、とかく自分の説のみなるべく多く出したく、すなわち十以上の変名をもって多人数が投書するごとく見せ掛け、いろいろ自分の論説を出す。それが「巫女考」とか何とかあまり一汎に面白からぬことのみに有之、最初に石橋臥波と喧嘩して、臥波は別に民俗学を建てしが、戦争のため二年ほどして支うる能わず立ち消えとなる(『民俗』という雑誌を出せるなり)。程なく高木敏雄と喧嘩して、高木氏は前契を投棄し『読売新聞』でもっぱら伝説学のことを書く。次に、小生は柳田よりは外国のこと多く知りおり、林子平が申せしごとく江戸の水がすなわち英仏海峡の水と通ずることにて、今日日本のことを日本の風でのみ書くは迂廻はなはだしければ、なるべく読者一汎に、日本にこんなことがある、外国にも似たことで理由が知れおるのがある、それと比較せねば日本のも御多分に洩れず外国同様の理由なるべしという風にかかば、一汎に大いに面白がり、また世界の大勢にも通ずるに及び、大いに学識を助くべしとの趣意で、いろいろ多大の書冊を飜し毎度議論を出し候も、氏はこれをもって小生が海外のことをやたらに引き出して博聞に誇り、柳田氏の狭聞を公衆の前に露わすご(14)とく解せしにや、すこぶる小生の文を喜ばず。ややもすれば小生の出したものは延引または没書となる。(柳田が『郷土研究』末篇に自白せしごとく、小生の外数百人の投書もいろいろ理屈を付けて自分に面白くないという一途より毎々没書または延引して出せしゆえ、誰も自分の投書を出さぬものは読むを願わず、ついに読者の数がふえるということなく、始終四、五百人のきわめてこんなことを好きな輩のみに限《きま》りてしまいしなり。)
 しかれども小生は、石橋・高木諸氏が一度賛同をいい入れながら、いかなる私情あればとてたちまち喧嘩して絶交に及びしを人間らしく思わず、これもなにかの廻り合わせ因縁と思い、終始ロハで出来るだけの力を尽し申し候ことは、毎号小生の文多少出でおるにて御承知と存じ候。小生はかかる成行きを見て、一文にもならぬことに然諾を重んじて他人に肩入れするは実に徒労に等しき上、うまい汁を他人に吸わるることと大いにさとり申し候。あんな雑誌へロハで四年も加勢するほどなら、何とかつまらぬながらも自分の名で時々書籍を出したら、もうけにならぬまでも小遣銭くらいにはなることと存じ候。しかして東京には博文館、政教社また哲学館の連中に多少小生の著書を引き受ける気味も申し出もあり。ただ困難なるはこのいなかにおり、東京にある人々と出板準備、金銭配当の相談にて、小生はこのことを誰か仲に立ちてくるる人をほしきなり。故にこのことを岡崎氏に頼み置かんと思うなるが、貴下また事により時々御世話下されたく候。このことは追日また詳載して別に頼み申し上ぐべく候。
 絹つや付けの一件は、小生はどうも重みを加うると光潤を加うるとを二件別々に考え、さてその上二者を湊合してやって見るが一番と存じ候。すなわちまずタラゴンごときになにか加えたもので重みを付けて試み、十分重みを加うることが出来ると見極めた上、
  御存知ごとくタラゴンの妙処は、乾きさえすれば何を塗ったか塗らぬも同様というほど分からぬにあり。
ちょっといわば、オマンコガイや猪《いのしし》の牙でそれをすって見て、すこぶる光沢が出ても重みが減ぜぬか否を見定め、さて然るべき器械で、すり光らするとか、また、さらにきわめてよく絹に粘着し、はなれぬ液また半液体に、重みを(15)加うる料を加え、塗って最初から光りもすれば重くもあるようにするという風に考うるにありと存じ候。
 四月発展号の小生の論文はちょっと長きゆえ両部に分けて出すゆえに、四月発展号のには小生の画は出で申さず。四月十五日のに出ることと相成り申し候。かく申すものの社の方で小生の論文を出すか否は分かり申さず候。これは小生は世間および箇人に一向斟酌なく種々雑多のことをかきちらすゆえ、社の方で憚りて出さぬこととなるも知れ申さず候。
 まずは右ちょっと申し上げ候なり。       早々以上
 
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 大正六年七月二十一日午後四時
   上松蓊様
                    南方熊楠再拝
 
 拝呈。本月十五日小生書留便をもって変形菌の写生図一枚差し上げ、同時に葉書をもって案内申し上げ置き候。今朝十八日湯ケ原出芳翰拝誦、御近状を知るを得たるも右の画の御受けなし。あるいはいまだ画が着かぬうちに貴状御出しに相成りたることかと存じ申し候。右変形菌の画は学術上の講釈ちょっとむつかしきも、そは後便に申し上ぐることと致し、小生夜の九時ごろより暁六時過ぎまでかかりて書きたるものに有之、学問上の図記としては十分力を入れたるものに有之、斯学の大家(今日にては粘菌の学で世界一といわるる)リスター女史へ議論を申し込むため作成せるものなれば少しも手を抜きしところなし。しかるに画出来上がりて後考うるところあり、右の図は送らぬことと致したるものにて、番号にも見るごとく全く小生一代の品彙中に永存すべく作成せしものなれども、真実学問上の力をこめて作りしものは、またちょっとちょっとは出来上がらぬゆえ貴下へ差し上げ申し候。
(16) かねて作り置きし写生図の原物を複写しては、どうしても人に上ぐるものという念があると熱誠なものが出来ず、何も知らぬものに見せるは外観さえよければ十分という気になり、どこかに学術に合わぬもののみ出来申し候。ただ綺麗な画を作るなら紙を撰べばよきばかりのことに候。今度送り申し上げ候ところは小生自分一代の大品彙中におくべきものゆえ、大きさ等が他と揃うを要し、ために水彩画にもっとも不合格の紙へ、しかも夜中かきたるものゆえ非常の困難ながら、変化限りなき活物を眼前大忙ぎで写したるものゆえ、精力は十分入りおり申し候。学術上の講釈はまた別に申し上ぐべく候。
 なお実物よりの写生出来候わば、また差し上ぐべく候。既成の画を複写候ては生気が抜けて死物となり申し候。
 神明の生薑市《しようがいち》の大津絵、只今貴地に知ったものなき由、実に遺憾のことなり。この大津絵、作りようがすぐれて宜しく、三味線もはなはだ面白かりし。大津絵は上方に始まりしものながら、軽きところがとても江戸前にかなわぬと存じ候いし儀に候。しかるにその唄すでに伝わらぬとは遺憾の限りなり。小生前日林若樹氏(故林董伯の兄の子)へ問い合わせたるも今に返事なし。あらばたぶん『風俗』に出ることと存じ候。右の九月の生薑市も今はなきことと存じ候。
 左の大津絵も江戸のものに候が、これとても今は知る人なきにや。芸人どもに御試問下されたく候。
  きりぎりす、時節とて、虫売《むしうり》女衒《ぜげん》の手に渡り、江戸の町々かごにのり、売られて買はるる身のつらさ、ほんに思へば今さらに、きうりきられてかごの鳥、親は草葉の陰に泣く、思ひきりぎりきりぎりす、座敷ではお客によばれてなきあかす、チチチンチン、ままに成るならこのかごぬけて、飛んで往きたや主のそば。
 これは維新の十年ばかり前江戸に遊んだ当地の侍、そんなことばかり注意し、奉還後馬子とまで落魄しても元気よくかようの唄ばかりうたいおりし人、十年ばかり前物故せし人より聞き申し候。
 絹に引く料物のこと、どうもフノリまたは蕨粉の外のものは表へ通る、すなわち表の光を失う。右二物は少しも光を損せず、さてまた西洋の古法でコロシント(西瓜と同属の瓜粒の果で毒物瀉下剤なり)の煮汁を多く絹にぬりし。(17)これは主として絹が虫に食われぬようにせしなり。なにかこんなことのついでに貴説のごときもの発見せしことと存ぜられ候。なお追い追い一考仕るべく候。
 まずは右ちょっと申し上げ候。熊野も新宮川は出水候由なれども、田辺は小川のみの処ゆえ水害などは当分無之候。      早々以上
  芝区保勝会ある由。小生明治十六年ごろ在京の折は増上寺境内にいろいろの草ありし。増上寺|白?《びやくし》と申す草どもありたり。只今はそんなものは夢にもなきこととなり候と察し申され候。
 
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 大正六年七月三十一日午下
   上松蓊様
                    南方熊楠再拝
 
 拝啓。過日 (四月二十三日)御立て替え下され候書籍代九円〇五銭、この内五円は六月一日に小為替にて送り申し上げ置き候。のこり四円五銭、しかして郵税は例のごとく小生記憶致さず。よって取り敢えず四円五十銭封入小為替にて御送り申し上げ候間、御査収願い上げ奉り候。菌の写生画十枚ほど(例の貴下の名を付くべき奴)かかりおり候えども、何様一度写したものを複写しては本当のものは出来ず、幾分虚偽になり申し候。故になるべく恰好の活きた標品を求め得次第写し、一、二枚にてもその時に差し上ぐべく候。
 丸善の‘Catalogue of Books’vol. IX(九巻)の27頁に、
  Lane、Ed.Wm.,‘Manners and Customs of the Modern Egyptians’Everyman's Library No.315,'60
この本を六十銭で買えるとは存外の安値にて、定めて大分抜き事した麁本と存じ候が、試みに御送り下されたく候。(18)また同目録やはり同巻(vol.IX)の二十二頁に
  Hooker, Sir J.D.,‘Himalayan Journals’(Postage 18sen) 1.95
あり。この定価は誤刊にあらざるか。郵税十八銭する本をその郵税のわずか十倍で売るとは安値すぎると思うが、一向知らぬ顔でそんな入らぬ注意をせずに右の定価で買い得ることなら買い御送り下されたく候。(これはもしこの定価が誤刊と知れ候わば、実際いくらと正価をきき御知らせ下されたく候。)
 胡椒というものは何でもなきものながら物の重量を増すに応用され申し候。このこと今の人はあまり知らず。知らぬ奴はそれよりもまし〔二字傍点〕なもの多きゆえなり。しかるに孔子も故《ふる》きを温《たず》ねて新しきを知ると申すごとく、新しきまね〔二字傍点〕ばかりすると反ってあまりに斬新なことは出来ず、ふるきやつよりまたまたきわめて斬新なことが出で申し候。スウィングルなど小生よりの状を一々写真にとりみずから刷りて持ち来たれり。これは彼の方の勧業局にて小生の状を写真にとり、それぞれの研究員に配付しおることと見え申し候。前日何か‘Popular Science Monthly〉か何かへ海亀をとる法をかき、南方だけはこのことを知りおるならんと筆末に書いた人もありしときく(友人の通信による。小生は未見)。右様のことにて小生ごときものの言も用うる人は常に注意し、御足下の本邦では、陰茎の膨脹力を研究して、爆裂薬ごとき危険なものに代用すべき緩和なる破穿器を考案ということをちょっと書いてたちまち百円の罰金に処せられ申し候。
 むかし蜀の玄徳皇帝が町を通って、ある家に酒を作る器を具えあるを見付け、罰金を課すべしというた。(玄徳そのとき凶年かなんかで酒を無益有害のものとなし、造酒を厳禁しありしなり。)簡雍という名士(諸葛孔明の前でも毎度横臥して話せしというほどの大人物なり)、この家には造酒の器を置くばかり、造酒をした証跡なきに罰金とはちと〔二字傍点〕えらすぎるというと、そんなものを置くからして心得の悪い奴だ、酒を造る心底なればこそ造酒器械を棄て去らぬのだという。簡雍、然らば陛下をここで姦淫罪と認め処刑せにゃならぬという。玄徳大いに呆れ、そりゃまたなぜに。(19)薙いわく、陛下の股間にはずいぶん人なみならぬ一大道具を備えあるは姦淫の心底十分に見えすきおる、と言うた由。日本の俗吏など陰茎といえば必ず猥褻なものと思うような根性で、小児のマラを蚯蚓が腫らしても公言出兼ねような世界では、到底大発明もなにも出来るものに御座なく候。
 貴下の兄君、絹のことに熱心なら、その染料研究に実に好材料がある。近く『日本及日本人』へ概略出すから、御一覧の上御望みなら、とくと申し上ぐべく候。
 右のHookerの書は原本二冊でまず十五、六円から二十円ほどするなり。もし一円九十五銭で売るなら実に掘り出しなり。ただし例の東洋渡りの麁整本(諸処抜き去りたる不具《かたわ》物)と存じ候。それにしても郵税十八銭のものを一円九十五銭はいかにも安いから、ひと通り参考には間に合うこと十分と存じ候。何とぞこんなこと一向いわずに、知らぬ顔で御買い試み下されたく候。どんな麁本だったところが損に成らず候。
 丸善の目録、vol.IX とばかりで何年何月出したという日付なし。曖味なものながら、地理学者の目録にはいつ出たのにもあることと存じおり候。
 まずは右申し上げ候。前日の粘菌の図は素人が見たら実に何でもなきものなれど、実際よほど精力のかかったものに候。     早々以上
 
     8
 
 大正六年九月六日午後二時
   上松蓊様
                    南方熊楠再拝
 
 拝呈。貴状一通および『原始民族の秘密講』一冊まさに拝受、難有《ありがた》く千万御礼申し上げ候。あと三部の書も御購い(20)送り下さるることと存じ、五、六円取りのけ置きしところ、過日の大風雨にて拙所持の借屋の損害多少有之、その他に下女大阪行きのため一時仕払い金等のため、右の金過半食らい込みおり候。故に何とぞこれは十月一日ごろに御延ばし下されたく候。
 二に、昨日返事差し上げ候某氏(広島在)植物検査のことは、昨日承諾の旨申し上げ置き候ところ、再度考うるに、小生は主として顕微鏡的の微少植物の発生性質等を考うるものにて、世にいわゆる植物学者すなわちこれは何という草で何という類というようなことは三十年ばかりも廃止しおり、ために到底満足な答は出来ぬべく、またすでに永々御約束の菌の画さえなかなかちょっとちょっと出来ぬほど多用にて、只今の家宅小生の分に過ぎて大きく、小生夫妻と下女十六歳のもの(今日来たる。これは何も知らぬものゆえ教え込むに六ヵ月はかかり申し候)、十一と七つになる男女児合して五人では庭の掃除から圃《はたけ》の世話、なかなかちょっと出来ず、かつ昨今眼も足もますます悪く、この状を書くにさえすこぶる手間をとることに有之、右様の次第ゆえなるべく拙家の事を少減し、いささかたりとも自分の時間を自分に応用したき一点より、右植物検知のことは一旦承諾申し上げたる上取り消すはいかにも不本意ながら、何とぞ前方様へ御断わり置き下されたく候。
 小生以前は身心共きわめて壮健にて、歯が早く腐ってしまい候外に病痾ということを知らざりしも、四十三、四より眼が弱く相成り、九年前大和の北山の高山に野宿致してより足年々悪く、それがため万事思うように働き得ず、毎々小事に付きて妻子を叱りちらすなど致し後悔致すことに有之、妻は本来病身のものにて、小生米国へでも傭われ行かば相応の仕事も有之候ものなれども、妻をつれ行かずば経済むつかしく、すなわち百ドル入らば百ドル、二百ドル入らば二百ドル費やし了るゆえ、元の黙阿弥で帰らざるべからず。しかるに、この妻虚弱にして西洋の飲食に慣れず。故に何とか妻が壮健になるをまちて共に航行せんと存じおり候も、とかく身体すぐれず。小生はずいぶん事多く、いささか思う通りに事運ばずんは叱りちらしなどするゆえ、ますます心身衰え行く様子。右の次第に付き、小生は若い(21)時よりの気質としてずいぶん?凧の男なりしも、自分のみか妻子までも苦しめ迷惑せしめて見ず知らずの人を裨《たす》くるというようなことも出来難く、ために文通する人も人数を制限し来訪の人は一切謝絶しおり候様のことに付き、まことに遺憾ながら右の御人へは何とぞ宜しく御断わり置き下され候様願い上げ奉り候。
 来月一日より十日間当地付近の高山寺と申す寺にて聖徳太子の年忌法会あり。仁和寺門跡土宜法竜師きたるはずにて、この費用六千円と申す。師は小生在英のときの知人にて、たぶん拙宅へ来らるることと存じ候。小生そのころとかわり全くの大貧乏なれば何の馳走もなくただ雑談くらいのことに候。小生は有名なる金銭無頓着者にて、従来ずいぶん多く金をつかい、只今その罰が中《あた》りてはなはだ貧乏なり。
 大隈内閣の当時|蘇武《そぶ》某という文学士(ドイツ文名人の由。貴下の知人にこの冊を持った人あらば借り入れて時を期して写し取りたく候)、人情本刊行会とかいい秘密出板のようなものを出せるを小生二冊見たり。一は『甲子夜話』と題し、一は『春雨日記』とか『小夜時雨』とか題し、内容は尋常の人情本や史伝体小説ごときもあり。また右の『小夜時雨』とか題せるは西鶴の作物や以前坊間に行なわれし春本の文句のみのもありし。その広告を人が持ち来たり見せしを見しに題号数百ありし。題号のみにては尋常の小説のようにて小生は尋常の小説と思いおりたるなり。しかるに二冊手に入れし人のを見たるに、かくのごとき本質内容なりしなり。この広告の中に『逸著聞集』というがありし。この『逸著聞集』は小生写本を持ちおり、山岡明阿の作にて和文としてはなかなかの名文なり。また、おどけたりとはいうべきも猥褻というほどのものにあらず。小生持ちたるは写本にて完本にあらず。貴下もしこの刊行物御心当りならば、そのうち右の『逸著聞集』を包有せる一冊を買い取り御送り下さらずや。小生今は忘れたれど、この『逸著聞集』を包有せる一冊にはこの外に『逸著聞集』同様の和文の名作が二、三種をも包有しありしにて、その書どもは小生多年名を聞きしのみにて見しことなきものに候て、『逸著聞』のみならず、その他の書どもをも見たきに候。
 小生いろいろ申し上げたきことあるも只今足と眼ときわめて不安心に有之、例のごとく時間が迫りおるゆえ、これ(22)にて擱筆致し候。貴下は御承知にや、漢方薬に滑石と申すものあり。(小生古く渡りしものにて多少和歌山に持ちおり。また、二、三年前にも信州辺より鑑定を求め来たりしはなはだ良質の滑石を見たり。)只今の礦物標本ごとく滑石そのままでは如何なれど、これを調製する法あり。また古い生薬店《きぐすりや》には今も古方に用いし滑石のこりあるべし。白雪?《はくせつこう》など申す干菓子様の胡粉またはおしろい〔四字傍点〕をかため、薄板とせしようなものなり。(滑石は?石様のものにて人の爪でもちょっと傷つくほど柔《やわ》き石なり。後四条帝なりしか、この石を椽《えん》にぬりちらし(すりちらし)、その上を女官が通りてすべり転び一物を出しかけるところを見て笑い興じたまうあまり、みずからその上を歩み、すべり?《たお》れて病となり崩じたまいしと申す。)これは天然品をV《や》きて水分を去り多少の変性せしめたるものにて、小生等幼時衣類|段物《たんもの》のしみぬき〔四字傍点〕を業とするもの、絹や布に油しみたるをぬくにこの滑石の粉をふりかけ、上よりひのし〔三字傍点〕をあてたるなり。小生は絹に光を出すは、なにかこの滑石ようのものを土台としたるにあらずやと思う。(天然のままの滑石は絹の弱き光のごとく光るなり。また、むろん重量を加うるなり。)このこと参考まで申し上げ候。滑石は稀なるものにあらず。また今も多量を出す所があるなり。当地付近にも時々出ると見え、持ち来ること多し。
 まずは右申し上げ候。
  かようのことは御心得になり置かば、たとい絹の用に立たずとも、必ず折にふれ何かの用に立つことに御座候。しかして小生はむやみに多人数に知らしむるを欲せず。故になるべく人に語らず潜心ゆっくりと御試験を乞う。えらい奴があったら一言きいてたちまち気が付き、われら貴殿にこれを言うたものは何にもならず、空しく犬骨折《いぬぼねお》りと笑わるることに候。
 
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 大正六年十月十六日早朝
(23)   上松蓊様
                     南方熊楠再拝
 
 拝啓。貴書拝見、御地災害は貴家にはさまでにあらせざりし由、安心致し候。当方本月十日夜またまた大風雨、雨はさほど烈しからざりしも、風強暴面を向くることも成らず。拙宅の屋根瓦など四散破損し、何とも今に少しも片付かず、呆れおり申し候。しかして今に雨天打ち続きかつ冷気|益《ま》し候付き、例の菌類などもなくなり、困り却ったことに御座候。板垣氏よりはその後植物とてはいまだ一品も来着せず候。
 蘇武緑郎氏とか又七とかいう人の出せしものは、人情本出板舎とか申し、小生大隈内閣のころその広告を見しに、無慮二百種ばかりの書目を列しありし。その内に、かの『逸著聞集』と共に同巻に収めたものの内小生はなはだ考証上見たきもの一、二種ありしなり。しかるにその目録は只今持ち合わせた人なく、またその一、二種の名も全く手がかりなきまで忘れ了りたれば、何とも致し方なく候。この蘇武氏の出せしもの当地にただ二巻もちおる人あり。その一の巻の背に『甲子夜話』と題しあり、この人は例の松浦侯の随筆なる『甲子夜話』と思うて注文せしなり。しかるにその内容はいろいろの武道物語(俗に軍書という)様の小説を集めたるなり。これには出板人や発行所の名を巻尾に著しあり。今一冊は巻の背に『小夜時雨』と題しあり。この人なにか為永派の人情本と思い買いたるらしく候。しかるに、その内容は『好色四季咄』、『色里三所世帯』(西鶴作)、『真実伊勢物語』、これらは言語や装飾か民俗の考証にはなはだ有益なること多し。淫猥といえば淫猥だが、吾輩の眼より見れば民俗学等の材料はなはだ多く、よき参考になることのみ多し。しかるにその次『弓削道鏡物語』、『春色仮寐の遊女』(吉原の新造女、里を忍び出で姉分を尋ぬる道中で、仲間《ちゆうげん》どもに輪姦さるること等の話)、『壇の浦合戦記』(義経が建礼門院(皇太后)を舟中で犯すところ)、『長枕褥合戦』(これは猥褻ながら有名な文なり)、『との井袋』(これも同上)、『新選古今枕大全』(これはつまらぬもの)、『釈迦八粧矢的文庫』(『釈迦八相大倭文庫』を婬書に作りたるなり)という順で、『道鏡物語』以下は別段学事上(24)の参考などにも考証の資拠ともなるなどのことなく、本当の春画の詞書を集めたるなり。
 かようのものの出板を許すはいかがのことと思いいたりしが、その後聞くところによれば、ついに板行継続を禁止されし上、蘇武氏の行方知れずとか。ただし禁止前に出したものは、大隈内閣のとき許しおりし様子ゆえ、何とも今になりて没収とか何とかいうことはなきように存じ申し候。この蘇武氏の出せし人情本刊行会とかいうものの内の上述『好色四季咄』、『色里三所世帯』、『真実伊勢物語』等の文章が主で、考古民俗の参考となるべきものを、小生通覧致したきも、当地には右二冊の外持ちたる人なく、また只今何とも手がかりなきことと存じ申し候。貴下もし見当たらば(右の会にて既刊の分)御知らせ下されたく候。すでに出たる分は政府で許しおりたるものゆえ購うもかまわぬことと存じ申し候。
 例せば、『色里三所世帯』および『真実伊勢物語』に杓子果報という語あり。杓子をまつること今も当地の遊廓の輩などする。この杓子果報という語、小生この二書で始めて見る。食う方の僥倖あるをいうことと見え申し候。また『色里三所世帯』に日本堤の道鉄《どうてつ》の鉦《かね》ということあり。京伝の『近世奇跡考』に道鉄のことを集めたれどこの書を引かざりし。また同書にシュロの木、八つ手の木植えて腎精減らすということあり。当地方には寺院にソテツを栽うるは、これを見れば陰精減ずるゆえという。昔より似たことをいうたと見え申し候。この書に掘りぬき井戸のこともあり。また旅人用の竹杖に墨と筆を仕込むことあり。かように小生に取り民俗学上の参考となることはなはだ多し。蘇武氏が出した分をことごとく買い得ば(また借りて写し得ば)、はなはだ有益なることならんと思う。ただし見る人の見様によりてははなはだ有害なることともなりなんか。
 先日御立て替え下され候書籍代は、そのうちとくと精算の上不足分差し上ぐべく、まずは右御返事まで、かくのごとく申し上げ置き候。
 『太陽』への原稿数日中に送り申し上ぐべく候間、宜しく御頼み申し上げ候。小生方右述の大風雨のため損処多(25)く人足来たり修繕せず、大いにこまりおり申し候。
 
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 大正六年十月二十七日朝十時
   上松蓊様
                      南方熊楠拝
 
 拝呈。小生去年御厚配に与《あずか》りし『太陽』への投書二稿、「蛇の民俗伝説」と「戦争に使われたる動物」の中、乙者はすでに出しまい、甲者は六月号に第三篇を出し候きり、小生事多く、また当時旅順の艦隊司令官黒井中将や谷本富博士よりの注意を受けたる件有之、ためにかれこれ改刪中、例の眼わるくなり荏苒《じんぜん》延引、しかるに秋冷と共に眼快方ゆえ続稿(終結分)直し只今浄書中に有之、これを十二月分へ出しくるるか、博文館編輯部へ聞き合わせ候も返事無之候。小生の事の責任に当たりし鈴木徳太郎氏は退社せりという人あり。ただし高等中学くらいの学生のいうことゆえ定かならず。今夏同社に大改革を行ないしだけは事実らしく候。しかして大改革前後より小生方へ(従来に例なきこと)毎月また臨時増刊分までも『太陽』を寄贈さるることとなりおり候。故に改革はありたりとするも小生の気受けは反って前より宜しきことと存じ候。『太陽』は東京よりは田舎の中学小学教員等読むもの多しと見え、小生方へ思いもよらぬ県々の教員等より続稿の催促来ることしばしばなり。これは博覧を好む輩が受け売りの宝庫として珍重することと存じ候。
 とにかく実物なきにかれこれ申してもつまらぬゆえ、徒労かは知らぬが小生右の終結分の原稿を三、四日中に拵え貴下へ送り、貴下にそれを持って前方へ御かけ合いを乞わんと存じ候が、貴下久しく御来書なきゆえ、あるいは現下冷気増進の際御持病再発御就蓐中のことかとも推し上げ奉り候。果たして然らば、とてもちょっとちょっと間に合う(26)まじき間、小生より直ちに博文館へ送るべきも、前述ごとく誰が小生の分担当やら分からず、ちょっとちょっと事済むまじく、なるべくは貴下に御頼み申し上げたき儀に有之、よってこの状貴方へ着くに中二日かかるとして、今月末日まで心待ち致しおり申すべき間、貴下御快諾、原稿さえ着せば直ちに持参の上御かけ合い下され得ることなら、ちょっと電信「ヨシ」と二字下されたく候。もし三十一日夕まで待っても電信なくば、貴下にはなにか細障りあることと断定の上、また何とか工夫致し、小生より直《じか》に懸け合い申すべく候。
 『太陽』の投稿は一向小生に経済上何の利益無之も、時々これを出すと出さぬとで一汎の知人の受けが違い申し候。すなわちこれが出るときは小生は相変わらず生きておるということだけは分かり、旧知の人に取り小生の心身の健在の標識と相成り申し候。
 次に前来御立てかえ下され候書籍代返上せんと存じ、算勘にかかり候ところ、リヴィンゲストン氏の『ミショナリー・トラヴェルス』のみは、そのことを記したる貴状紛失、代価も郵税も分からず。何とぞ御ついでの節ちょつと御注記し御示し下されたく候。
 小生貴下の名を付けたる菌の絵二本ずつ作り、一は米へおくり、一は貴下へ呈せんと時々かかりおり候も(米へおくる方は記載と対照して分かりさえすればよきなり)、貴下へ留むべき分は一たび写生した写生画をうつすとどうも活気を失い申し候。しかして前日差し上げ候ようの単簡なるものは、後日まで御手許に留めらるるにしてはいかにも不似合に有之、よって生きたる菌をとり来たり時々写生しおれども心に満ちたるもの無之候。ないよりはましゆえ近日機嫌の向いたとき、一、二種だけ作り上げ少々不出来なりとも差し上ぐべく候。
 ラオーンは売れ行き如何に候や。薬剤にして奇効あるもの小生も心当り少なからぬが、ただ心当りのみでみずからこれを製出するひまなきには困り入り候。貴下は御年まだ小生より若ければ、何とか時間あらば薬剤化学一通り修められては如何にや。かかることはむやみに人に話したところが、ハハァソウカくらいのことで三、四年は忘れ了られ、(27)さでその後その人よりかの人と伝え伝えてとうとう物に成った時には、小生の創想に出るということは影も留めねこととなり了り、すなわち犬骨折りて鷹の功となるものに御座候。実に創思と自験と利益と一身で兼ぬることのならぬには浩嘆罷り在り候。
 前便申し上げ候蘇武という文学士の出板物は、出板の事後発売禁止となりたるものらしく候。故にこの出板物は当分御懸念下さるに及ばず候。法網に触れなど致し候わば御名前をも傷つけ自他迷惑に及ぶべく候。ただし小生にはかかるものを政府が黙過し置き、さて事久しき後にこれを禁止などは、はなはだ不手際なやり方にて、実は反ってその物の広告役をつとめやり、その出板物の声価を高むることとなることと存じ候。           頓首
  右電信の件宜しく御頼み申し上げ候。もし些少たりともこれは面倒なことと思し召し候わば貴方の御邪魔にもなり、また小生の方も手筈違い出す基となるべく候間、御遠慮なく御放置下されたく候。すなわち三十一日夕までに電信なくば小生は貴下には何か障りあることとあきらめ、また別に何とかかけ合い申すべく候。小生はよくさいさいいろいろの事件急に生じ万事予定通りに行かぬ男なれば、なるべく原稿の実物をまず貴下へ届け申し上げ、それを実際握った上御かけ合い下されたきなり。
 
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 大正六年十一月二日夜九時
   上松蓊様
                      南方拝
 
 三十一日出芳翰まさに拝見。『太陽』の儀御掛け合い下され難有《ありがた》く万謝し奉り候。小生こと三十一日よりまたまた医療を要することありて医家に通い、今日ようやく処方定まり申し候。(小生自分医学のことかじりかきおるゆえ、(28)ちょっと相談むつかしく、一通りでは医師の言を用いぬなり。)
 かの原稿は昼間のみ清書を重ぬるゆえ、もってのほか時間かかり候えども、きっと締切前一週すなわち七、八日ごろに着するよう博文館へ直送申すべく候。「馬の話」も今月末までにおくり申すべく候。浅田氏はかつて当国新宮町におりし人にて、青木梅太郎と申す小生知人(新宮一、二の素封家主人)存知の人の由、青木氏|話《はなし》なり。何とぞ右の儀ちょっと浅田氏へハガキにて御通じ置き下されたく候。
 次に今朝ようやく、かの本の名を聞き知り得申し候。すなわち酒落本刊行会、右代表者、本郷区駒込神明町八十九番地、蘇武利七、発行所番地同じ。この会で出せし本をなるべくみな揃え、または一部一部でもほしきなり。これは小生本邦の cant slang すなわち正式の字書に載すべからざる語の系統出所をしらべたく思い立ち、多年苦辛致しおるも、わが国の尋常の書にはかかることを載すこときわめて少なく、載せてよき語まで載せず。たとえばチョロマカス、イタス(盗むこと)、ムスメシ(一種の盗)、シュウトメ(犬)、ムシカエシ(二度犯罪すること)等なり。さてこの調査を怠りつつあるうちに、その本来の意味またかわりゆき申し候。たとえばイノメという人体の部分の名あり、イノメは新井白石等いろいろの説あるも、まずは山伏などのもつ斧にかくのごとき目あるをいうというがほんとうらし。しかるに今の斧にこんな目なし。さて小生なんとかいう春本の詞書を見しに、女がきをやりておびただしくぬらす形容を述べて、「六年ぶりの溜り水、亥の目のあたりもひたぬれに」ということあり。よって思うに俗語に不吉のことをきくときにインノメインノメなど呼ぶは、なにか陰部にインノメという所ありて、悪鬼邪魅を禳うに女陰を出して見すること(万国にその例多し。今年二月の『太陽』に出せり)の遺風かと存じ候て、右の斧にある猪の目に似たるもののことと存じ候。しかるに果たして女陰の何の部を亥の目というか小生に分からず、また友人どもも知らず。林若吉氏へ聞き合わせたるも分からぬと見え返事なし。かかることは書籍に明示なきを常とするゆえ、多くその例を見出だして判断するより外なし。
(29) necessaey truth《ネセツサリー・トルース》(止むを得ざる真実)と申すこと論理学にあり。わけは解し得ざれど真実として立てねばならぬことなり。御承知のごとくx1はすなわちXで、11、21は2に候。しかるにx0は何かというと、Xを0回乗じて試むることならず。0回という回数なければなり。しかるに代数の理でx3をx2で除すればx3-2すなわちx1すなわちxなり。x2をx1で除すればx2-1すなわちxとなる。x2をx2がで除するもx2-2すなわちx0なり。さて一方、xをxで除しx2をx2で除すれば1なり。故にx0は1に等し。実際xを0回乗ぜんとするも0回という回数なきゆえ何とも詮方なし。しかれどもxをxで除するときは1ともx0とも二様の答を得るゆえに、0回のわけは分からぬながらx0は1に等しと分かる。
 これと同じく『和名抄』に吉舌ヒナサキと訓じあり。この吉舌というは思うに古き漢土の俗語で、今は支那の書に一切見えぬものなり。しかるに、これをヒナ(小)サキ(尖り)と訓みあるを見れば、また吉(快き)舌(シタ)と書くを見れば、なにか尖り出でたる舌の尖《さき》のようなものが陰部にあるを指す名と分かる。故にこれは必ず俗にいうサネのことと存じ候。古き春画にサネを吉舌と書きたるあり。また西川祐信の春画にサネをヒナサキと書きたるあるも同様の考えよりせしことなるべし。しかして小生有職家が烏帽子の名所を書きたるを見るに、烏帽子の前に小突起あり、これを古くヒナサキというが古実の由なり。これにて小生考えの中《あた》りしを知れり。(ただし小生の前にもかく考えた人あればこそ、西川などがすでにこの語をサネにあて用いしなれども、小生は全く日本外の英国にありて二十五、六年前独りでかく考えたるなり。)
 この類のことはなはだ多く、かかる古今の俗語で正道な書籍に載らぬものの意義を知らんとせば、もっとも多くかかるへんな書物、out of the……way books を見ざるべからず。右刊行会で出た本の内、近い享和・天明・文政以降のものは何たる益なきも、天和・貞亨・宝暦間のものにはさすがに古風なこと多く、右様のしらべになることはなはだ多し。その他今日知るべからざる民俗上の参考となることはなはだ多し。かかることは小生ずいぶんしらべおり、またその要用もありと見え、貴下等が名を聞けば驚くほどの正人君子で通りおる、いわゆる碩学鴻儒輩よりも毎々内(30)密に聞き合わさるること多し。小生従来潜心かかるものを借りなどし要用な点を写し集めたるも、いわゆる九牛の一毛にて、今日といえども一本を見るごとに未聞を聞くこと多し。追い追い年|高《つも》りかかるものを一々抄出しては腕がたまらず。もし右の刊行物手に入るならば入れたきに候。ただし小生がかかるものをかれこれしたということ知れてはすこぶる面白からぬゆえ、貴下この上本屋のせとり〔三字傍点〕より貴下の入用として求めらるるはよし、この上、あまり学者記者輩(この輩は後日になりていろいろのことを付会して、大それたことを作り出し吹聴し人を陥れることに候)に小生の名を出して御尋ねはなきよう願い上げ奉り候。小生在英のころおびただしくかかるもの持ちありしも、帰朝せばいくらも手に入り易きことと思い、かの地の日本学者に与え了り、帰朝して見れば反って英仏よりも日本のかかる書物が日本で少なきには驚き入りもし、また後悔も致し申し候。
 ……デスと今もっぱらいうデスという語は近いことと思いおりしに、このごろ古い「千本桜」の浄瑠璃を春本にせしものを人より貰いし内に、……デスとあり。英語の is(デアル)すなわち今日本で通用するデスと同意ながら、今のよりは意味が強いようにて、certainly it is くらいの意味と察し知りたるは、かかる俗本を読んだ効と大いに独りよがりを致しおり候。(独りよがり、グリグリをされるなど、今日新聞雑誌政治上のことにまで平気で公用にする語なれど、いずれも小生幼少のころまでは親の前で言い得ざる春本の詞に過ぎざりしに候。)新井白蛾説に、四の五のいわずと、ロクなものはない、七八おいても、などいずれも博奕打が賽子《さい》の目を数うるより出でし詞の由。西洋の語源にもかかることはなはだ多いように有之候。
 貴下ラオンの功能書あらば三通ほど送られたく候。小生知人に見せて然るべき折、見せ申すべく候。もっともいそぐことにあらず。           早々以上
 
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(31) 大正七年三月六日午後四時
 
 拝啓。小生前日(二月二十六日)葉書にて申し上げ候通り、新旧『バイブル』〆《しめて》二冊十二日まさに拝受。そのころより感冒にて悪く臥蓐致し、右葉書差し上げ候日は、医師全快の由申され候も、それよりまた風引き半日くらいは臥蓐。ようやく快方に向かい候ところ、三月三日本山彦一氏突然来訪され、一段《いつたん》は面会を謝絶せんと存ぜしも小生旧知故中井芳楠氏の親友にも有之、押して一時間ばかり面談致し、同氏は新宮へ趣かれ候。そのときまた風引きしと相見え、また二、三日臥蓐。ようやく今午後起き上がり申し候。小生は従来歯が悪き外に何とて病気一切なき人間なりしに、一昨年只今の住宅買い入れ談判のため、和歌山へ上る船中にてインフルエンザを伝染し、それより二ヵ月ばかり臥し、全快後も毎年春初右様不快に相成り申し候。しかして一昨春より酒はあまり飲まず、ことに昨年六月よりまるで酒は飲まず、飲みたくもなくなり候が、実際酒をやめると身体は無事ながら寒気などにははなはだ弱くなり申し候。ただし小生はこの上酒をのむと脳の方に宜しからぬことと存じ、一切禁酒でおし通すつもりに候。物価上がり候も禁酒の一事にて大いに活計は助かり申し候。
 右の次第にてようやく昨日人を頼み(小生方の下女はその母まんびきとかをなしたりとの新聞出でしにより宿下りさせ、小生方至って無人なり)、封入小為替六十銭差し上げ候間、『バイブル』および郵税として御受納下されたく候。ただし『バイブル』一つの方は貴蔵の由ゆえ、これは当分借覧申すことと致し、小生ついでありて自分和歌山へ上るかまた店の手代など当地へ下る節探させ、自分所有のものを持ち来たらせ、その上御返し申し上ぐべく候。郵税は妻の記憶は十二銭とか申す。しかるに小生見たるところは十銭印紙貼用しありし書留に有之、よって十銭のつもりにて差し上げ申し候。まことに毎度御手数の段万謝し上げ奉り候なり。
 次に小生貴下を歴て貴下の御書翰に時々散見する昆田(7)先生へ頼み上げたき儀有之、それには他人の名も若干出ることにて縷々申し述べざるを得ず。貴下はその拙状を御一覧の上小生の事情は一切かまわずとして、他人の名前(32)だけはなるべく秘密に保ち下さるべきや。このことちょっと伺い申し上げ置き候。もっとも貴下拙状御一覧の上とても咄《はなし》にならぬと思し召しならば、貴下きりにてその状御返し下されて少しも苦しからざる儀に御座候。
 三月一日の『日本及日本人』に大庭柯公が「三都是非」の一篇、「風来山人」と題せる一章中、谷本富、宮武外骨と小生の三人を引当てに論じあるは面白し。小生も多少東京の人には風来ごとく見え候やらん。それに付けて昨今戦争の噂に付き、小生実に妙計(兵糧としてあるすたれもの〔五字傍点〕を大利用し大もうけする)があるが、これをしゃべりて何の報酬なく、ただただ他人にもうけらるるゆえ黙しおるの外なく、貴下などに洩らしたところが、かかることは実際慾一偏ではりつめたような義理人情世評一切かまわぬようの人間でなければまずは物にならぬことに候。この種のこと多く毎々小生がもっとも早く気づき、さて実行する気は少しもなく候は、小生などなかなか風来に及ばぬところに御座候。(ただし風来のたくみは無用虚飾のこと多く、小生のはずいぶん大必要のこと多きも、実行し遂げずどころか実行にかかる気もなきところは小生大いに劣れり。)
 神社合祀反対も小生は九年早過ぎしと相見え、ようやく四、五日前貴族院で江木千之、高木兼寛、石黒男等より絶対に合祀廃止の議出で申し候。その主旨は小生が九年前に言ったところの内のようやく一部分に有之候。何ごとも時に逢わねば利かぬものと存じ候。しかしながらそのいわゆる時に逢うという時は、すでに手後れたる跡にて御座候。
                      南方熊楠再拝
   上松蓊様
 
  新聞で御覧通り、上方の郵便局で為替の盗人ほとんど日常事と相成りおり、小生なども毎度逢う。故に本状書留にせんと存ずれど家内無勢にて止むを得ずそのまま為替封入差し上げ申し候間、ちょっと御落手の上ハガキ下されたく候。小生近日当地郵便局について吟味すべき事件有之候付き、その参考に相成り申すべく候。
 
(33)     13
 
 大正七年三月二十七日夜十一時書き始め十二時書き了る、それより出しに之《ゆ》く
   上松蓊様 玉座下           南方熊楠再拝
 
 拝復。本月二十四日付御状および二十五日付葉書まさに拝受。当地二十五日より風はなはだしく波高く、今に大阪の新聞紙三日分とも着せず、困りおり候。高木兼寛男および小野英二郎氏住所御教示、千万謝し上げ奉り候。この小野氏は非常に篤実温厚の君子に有之、米国にてほとんど奴隷の働きをなし、かたわら博士になりし人に候。小生当時気鋭にしてさんざん悪口致せしも介意せず、熊楠の三十年一日のごとく苦学して身を終わるは実に希有の男と、前日英国より帰朝子息(信一と申し動物学者なり)敦賀まで迎えに出でられ共に東京へ帰る汽車の中、小生の話のみされたる由、信一氏より申し来たられ候(信一氏また小生未面識の人)。
 仁和寺門跡土宜法竜師も、小生ロンドン故中井芳楠氏邸と大英博物館にてわずか三度面識あるのみに候。しかるに年来訪問の書絶えず。数日前大病危篤(もはや円寂されたるも知れず)中より叮嚀に書状を寄せられ、何とぞ養生してこの上長命にありたき由を小生に望まれ申し候。不徳千万の小生、この末世軽薄の時節にかかる知人あるを得たるは幸いもまたはなはだし。しかして貴下また小生と一面の識もなきに毎度種々の面倒を見下され候こと、これまたもっとも謝するに辞なし。前書昆田先生に頼み上げたく申し入れ置き候件は、多分は先生を煩わすまでもなくてすむ見込み有之、只今懸合い中に付き、それはしばらく中止と致し、毎度御面倒の段謝するに辞なしといえども、他にその人なきをもって、何とぞ左の件御頼み申し上げ候。
(一)東京の然るべき顕微鏡発売店の顕微鏡目録を二、三所の分貰い、または購い、御送り下されたく候。(京阪のは、(34)和製のものの外売品品切れの様子。故に貴下右目録申し受けに御出で下され候日時に、舶来の顕微鏡(和製ならぬもの)今も多少その店にありやを糺した上、目録貰い、または購求、送り下されたく候。しからざれば目録のみありても役に立たず。)代価は印刷の目録より高騰しあることは小生も承知の上のこと。
(二)顕微鏡の図を写すアッベー式描写器またカメラ・ルシダ、これまた現に売品ありや御聞き正しの上、御一報下されたく候。(これまた代価高騰は十分承知仕りおり候。)
(三)ニコライ派の信者に正し、露語の『聖書』御購い御送り下さらずや。
(四)小生多く持ちおり候顕微鏡いずれも二十七、八年使い通し、かつ諸国を旅行し山川を跋渉に持ちありきしゆえ破損して用をなさぬもの多し。しかしながら中には今も破損少なくてどうやらこうやら役に立つものもあるなり。その一つ、光線を反射して円板の中心の孔に光線を送り物を見する反射鏡の水銀が、はなはだしくくもりおる。それもそのはず、永らく熱地をもちあるき、またこの熊野ごとき暖気の地で使いしゆえ、水銀がすでに一部分蒸発し去れるなり。先年柳田国男氏に話せしに、その実兄にて眼科医たる井上通泰博士へ右の鏡をおくらば水銀を付け直さすべしとのことなりしも、その後柳田氏と音信を絶ち候ゆえ何とも便宜なし。貴下何とか然るべき職人にこの水銀を直させ下さらずや。これは眼科医の専門家などにきかば必ず手蔓を得ることと存じ申し候。もっとも小生の顕微鏡は他に類例なき(只今は)絶無のものゆえ、その鏡もかけがえなし。故に麁略ならぬ職人に特に貴下面会して懇ろに頼まれたきなり。
 柳田氏と音信絶に及びしは、同氏は日本で人もゆるせし民俗学の大家に有之、しかし小生は明治二十年ごろより民俗学に志し、外国文にてその方の著述はなはだ多く候。柳田氏、辞を低うして著作の批評を頼まるるゆえ、小生毎度外国の例を引き、そのことそのことは日本ばかりでは柳氏の説のごとくならんにも、外国には左様に行かぬ事例もありなど申せし(『郷土研究』にその例多し)。それを柳氏が気に食わず、熊楠の文散漫にして一向取り留めたところな(35)しと言わる。
 小生答えには、小生は一向日本人を相手に物を書かぬものなり。若き時柴四朗君の『佳人之奇遇』という書に、一尺の我威を日本内に奮うよりは一寸の国権を外国人に向けて振るえとありしを見て感激し、非常に苦辛して外国文を練るに、一字を下すとて血を吐くことあり。素《もと》より不敏の性質ゆえ決して誇るに足らざる文ながら、英国で毎度その方の雑誌の巻頭へ拙文を出し、また予告をも公けにして、読者に出板を待たしおることもしばしばあり。自分若き時の志をいささかも達したるつもりなり。日本文にては何も出さぬつもりなりしを、貴君(柳田氏)が勧めらるるゆえ出せしのみなり。物両全なければ、日本文に拙くとも英文少しもましならばそれで自分の志は届きしものなり。(小畔氏などの読む『ロイド登録』一昨年の分に、英国海軍大将(小生知らぬ人)が小生の日本船号を丸〔傍点〕と付くる件に付いての文をきわめて名文とし、ヒル氏をして撮要登載せしめしごとき、小生ごときつまらぬものに取りては非常の名誉と独りみずから悦ぶところなり。)日本文に拙きはその方に志なかりしゆえにて別に遺憾とも思わず、と答えしに、熊楠のするほどのことは横浜辺のごろつき通弁にも多くこれをなし能うものありとか、日本人の文としては間違った英語が面白うて出してくれるので、アイヌの江戸っ子を芝居で見聞するつもりで持て囃すのだなどと申され候。
 そもそも事の起りは、小生柳田氏の書きしものを批評せよと乞われて批評せしを、柳田氏が面白からず思いしに出ずることにて、氏などは、批評とは在来の漢学者などが天馬空を奔るとか敬服敬服とか座なりな言を述べてほめ倒すことと思いおるもののごとくなれど、今日批評と申すは、おのずから一つの学問にて、マッキントッシュの『英国』は誰も読まねど、マコーレーがこれを批評せしによってすこぶる名高きごとく、批評さるるものより、するものの方が博学多才と認めて、著者が批評を頼めば、頼まれしものまた頼むものの足らざるところを補うつもりで畢生の力を入れて批評することに有之、要は批評を乞いしもの、その批評に感じて一層奮発研究を重ぬべきに候。もしまた事理において不足を覚ゆれば侃然《かんぜん》としてその批評に答え、これを駁論して慚色あらしむべきに候。しかるに何の議論をも(36)反《かえ》し得ず、ただただ小児の悪口ごとき文句を吐く(しかも公けにし得ず、私信にて)は、実に批評を求めし人体に似合わしからず。氏は貴族院書記官長という顕(?)職にあれば、給仕童子や属吏守衛などに対してかかる言は通るべきも、天地の広居におり四海衆生を友とする小生ごとき浪人に向かって、右様の無理は少しも通らず。怨恨は怒瞋より起こり怒瞋は羞恥より生ず。いささかも人を恥かしむるは穏やかならず。所詮かかる人と口をきくは無益のひまつぶしと存じ、絶信に及びおり候。
 右の四ヵ条、はなはだ御面倒の段毎々恐れ入り候えども、他にこれと申す知人東京に無之、小野英二郎氏などへ頼み上げんにも、決して自分でしてくれず必ず人頼みを重ねてのことにて、それにては急の間に合わぬべく候付き何とぞ宜しく御頼み申し上げ置き候。
 小生多年(十八年かかり候)出精致せし菌類の標本は大略完成致しおるものの、淡水藻類の標本(ガラスに装置せる顕微鏡プレパラート)六千枚有之、一人にてかく多数のプレパラート作りしはあまりに世に例多きことと覚えず候。しかるに不幸にしてわが邦(ことにこの田舎)には完全なるガラスなく、かつ万事不行届き不自由勝ちのこととて、六千枚のプレパラートが絶えず破損し行く。たとえ帝大等へ寄付したところが、この上保存の見込みなきなり。故に差し急ぎ多少補存しおる分の全く破損し了らぬうちに、一々顕微鏡に照らして写生図を引き、別に蓄え置ける乾燥標品(これはプレパラートに比しては何の学問上の益なきものなり。たとえば芸者の陰毛を集めたるごとく、概言すれば、どこか一々|差《ちが》いおるまでは分かれど、果たしてその芸者の陰毛やら何やら一向分からぬなり)と共に製本し、とても小生生存中に出板の見込みはないから、内外の大学また国立博物館へ寄付また売り込み置かんと欲するなり。この辺の苦心御洞察の上、何分宜しく御頼み申し上げ候。露語の『聖書』は小生前年学び得たる露語大方忘れおるを練習し置き、何かの節間に合わせたきに御座候。          匆々頓首
                      南方熊楠再拝
(37)  小生知人に小生注意にて人造石を作り好果を得たるものあり。多少売れ行きおり申し候。
 
     14
 
 大正七年五月六日午後四時出
   上松蓊様
                      南方熊楠再拝
 
 拝啓。五月四日出芳翰只今拝承。今朝小児ども休みにて遊びに出で閑暇あり候付き、拙妻歯科医へ?め歯にゆくついでに、取り敢えず金十三円『琅?代酔編』代として送金せしめんとかかりおるところへ貴状着、拝読にひまかかるゆえ、まず妻をして歯医へ之《ゆ》かしめ拝読のところ、御状の趣きにては何とぞ左様願い上げたく、すなわち右の書は御立替にて代金御支払い買い入れ置き下されたく候。しかして『日本風俗図絵』の方は、御状の趣きならば、無色で帙欠けしかも十八円とは大坂の方いかにも高価に付き、十七円にても、またそれが二、三日中に売れ候わは十八円にても宜しく東京にて買いたく、すなわち二、三日中に送金申し上ぐべく候間、何とぞ御購収御送り下されたく候。(小生方下女なく小児二人は学校へ之き不用心にて、門をはるか離れたる座敷別建築に始終夢中になりて書きおるゆえ、ちょっとちょっと妻が外出すること成らず。)
 小生自分局へ之き送金為替くらいは出来るはずなれど、一昨日博文館より状あり、五月分の『太陽』に婦女不毛のことを書きたる拙文その筋には面白からず見做され、警視庁より編輯方喚起の上説諭あり。故に次稿は何分細心にて書いてくれとのこと、小生不謹慎のつもりにあらざるも、右様の頼みに付きせっかく成稿に近づきし次稿をことごとく書き直し最中に有之、実に馬鹿げたることに有之候。右五月分に書いたほどのことはいつも高位顕官の人よりわざわざ聞きに来たり、その都度返書を出し厚礼を述べられ、また海軍の中将とか何とか立派な人が官舎用(38)の状袋で、「『太陽』を読んで有益貴重なる智識を得たる段特に感謝す」など毎々申し来たられ候。またいろいろの質問もあるゆえ、世人一同の聞かんと欲するところと心得、五月号にその答のつもりで出したるに候。当地なども近年雑誌類大流行なるが、店人に聞くに、何のわけとも知れず月に二、三ずつ発行停止とか何とかがある由、まずは気まぐれ半分、半解の官吏が読んで見てまぐれ中《あた》りに停止とかなんとかをあてることと存じ申され候。しかして実際停止の命令来たるころはすでに売れ切っておるゆえ、反ってその号の声価を高くするようなことかとも存じ申し候。
 この原稿の書き直しは良くとも四、五日して畢るべく、然る上さっそく顕微鏡の代金調達仕るべく候。送り料また描写器代等の儀はいかようにても宜しく、素《もと》より小生の学問さえつづけ得ば些細のことは一向かまわず候。
 まずは右御答まで、かくのごとく申し上げ候。『日本風俗図絵』代は二、三日中に送り申し上ぐべく候。この代金はとりのけあり(その内より取り敢えず十三円今朝送り申し上げんとかかりしなり)。『琅?代酔』の儀は、何とぞ四ヵ月ほどの払いに願い上げ候。(もっともなるべく早く全済仕るべく候。)            早々頓首
  政府は国民が学識を進めることに少しも力を入れず、ただただ品行をよくするというようなことを力められ候。小生スペインなど衰えた国を見しに、日本政府の望む通り品行よき人のみなり。同時に何もせずに食うて寝て生きおるというばかりに候。それではつまらず。亡父は厳格なる人なりしが、その言に人間の家内は一日に三、四度大声上げて大笑いするほどならずば衰え始むと申し候。活気なく面白くもなき国家は亡び申し候。
 
     15
 
 大正七年五月七日午前十一時認
   上松蓊様
                      南方熊楠
 
(39) 拝啓.五日付芳翰拝読千万忝なく謝し上げ奉り候。今計午後妻閑暇あり(小兒ども不在番するというに付き)、この状認め置き申し候。しかし都合上どうなるか分からず、とにかくこの状は早晩差し上ぐる節、十七円郵便為替取り組み為替証同封書留にて差し上げさせ申し候間、『日本風俗図絵』衛買い入れの上御送り下されたく、郵税は到着の上御返し申し上ぐべく候。『琅?代酔』の一件は前書申し上げ候通り御願い申し上げ候。(『図絵』は貴書に十七円のものみな白描とあり。これは色描か白描か、色の字ちょっと分かりにくく候えども、いずれにても宜しく候。)
 御書中の御意御同感、小生は幸いに父母の余沢により今も餓死に瀕するようなことなく、ずいぶん広い風景絶佳な家に住し、昨今四顧橙橘の花をもって庭園を満たし香気鼻を撲ち、笑に身が不遇にしてこの田舎におればこそ、この王侯にもまさる安楽を享け得ることと喜びおり人も羨み申し候。しかし富貴を極めた人すら明日のことも知れぬは小生知人にその例多し。いわんや小生など無一文のものはほんのその日暮しというものと存じ申し候。季吟の歌に、「楽しまん昨日は過ぎつあす知らず今日の一日《ひとひ》を心のどかに」。この外にまず手は無之候。古川虎之助氏は故陸奥伯の※[?の木が子]子にて、小生サンフランシスコにあるとき顔は知りおり、洋行したくて発狂中と申すことにて精神病者の異症徴を具えたる人にて、全く無言なりしゆえ詞をかわしたることなし。和田豊治氏(福沢翁の甥ときき候。只今大紳士)、今泉秀太郎(画家にて柔道の名人。かつて井上角五郎氏と朝鮮にゆき遭難の節目ざましく働きし人)二氏とつれあるきおるうち、小生青森県人吾孫子寛之助、気賀賀子治(遠州浜松で、大米屋、花屋と申す二大青楼の金主の長男で、そのころ拙家が和歌山で風を切りしと等しく浜松第一の大家たりし。小生と同じく商業学校へゆけり。この人はどうなったか知らず。身代は大いに衰えし由。この人の従弟が気賀勘重とて慶応大学の教授なり)二氏とつれ、同じく支那料理店で引き合わせしに、和田氏、吾孫子をよび出し荐《しき》りに何か話し、小生の顔を見る。後に吾孫子に承るに小生の顔容あまりに洋人に似おるゆえ、あれは一体何種何業の何国生れの洋人かと聞き、吾孫子あれは和歌山生れの日本人と答えしも、一向承知せざりしという珍談ありし。
(40) 小生が古川氏等より出資してもらおうと思うならいくらもその手あり。現に弟の紹介で大隈侯へ幇間に出るが一番近道に候(木村駿吉博士、毎々南方を好遇好使する人は大隈侯か大谷光瑞師の外になしという由)。しかして小生は至って軽快なことを能くし、幇間や人の相手次第気に入りまた為になるような面白い談話をする名人に候。(今は出来ず。)仏国のヘルヴェウスは談話家として名高かりし。小生もちょっとそんな芸当を能くし、あるいは真面目あるいは滑稽に男女老少を笑わせて諸処に立ち入った男に候。しかれども、かかることは罷りまちがえば種が尽きると人に飽かれる。また、むかし古賀精里だったか、太田蜀山人はまことに軽薄らしい滑稽だらけの男で実用はないが、諂諛《てんゆ》の気質一点もなきは潔《いさぎよ》い男と賞せし由。このことを読んでより小生は自分の欠陥に気付き、身は町人の子ながら何とぞ古武士の風を持ち諂諛だけはしたくなきものと考え、ずいぶん談話を聞きたさに貴顕等より毎度招かれしことあるも一度も参ったことなく、只今とても人目にはまことに気むつかしき男にて、毎度わざわざ面会のため来る人々にもことわりおり申し候。究してはその為さざるところを見、困してはその取らざるところを見ると古人も申し候。小生は天から餅が落ちたような恩賜的の恵与を少しも望まぬが、何とぞ力と働き相応のものを得て小児どもの成立を謀りたくと存じおり候。このことに付いてはなにか著書でも出したく、その節はいろいろ御世話願い上げ奉り候。
 右送金御案内|旁々《かたがた》早々申し上げ候。      拝具
 
 むかしカンボジアの王子が父を討たれ身を措くに処なく所々逃げまわるを誰一人顧みず。しかるに旧臣一人気の毒に思い従いありきて百難を経たる後、義兵を集め起こし王子をして前王の位をつがしめ候。しかるにこの大功臣を殺した。その子細は、右の難儀で君臣ただ二人逃亡中、一日王子眠くてたまらず樹下に一睡せんとするを、右の忠臣が、ここは危殆なり他へ之《ゆ》くべしとすすむ。王子は数日来の困苦につかれはて、わが只今の一睡は命よりも貴し、死んでもかまわぬから眠らせてくれというを、大事を抱く身が命を失うまでも眠たしとはいかにも卑しき根性と、さんざん(41)罵り恥しめて眠らさず拉して走った。その時の恨みを忘るる能わず、即位の後その旧功は懐《おも》わず旧怨を修して何の罪もなきにかかる大忠臣を誅したるに候。世にこの類のこと少なからず。小生なども人と大飲を始めるとき、妻が迎えに下女をよこす等のことあるとき、はなはだしくその心底(意地の悪さ)をにくみ、執念《しゆうね》く罵り苦しめしことなどあり。故に兼好法師は、世をうまく過ごさんと思わば機嫌を察すべしといえり。小生今にこの田舎におる事の起りはいろいろあるも、そのうちもっとも子孫の戒めとして身にしみ思うは、どど一に、「かけてよいもの衣桁《ゆかう》に浴衣《ゆかた》、かけてわるいは薄なさけ」。
 小生大英博物館で大勢力ありしとき、同館の東洋部長(四十年勤職で名高かりしダグラス男)と人類学部長(リード男)、また動物部、地質部、植物部の諸長にとり入り(かようの外交的のことは小生すこぶるうまく、林権助男なども南方君は世間渡りの名人と申され候)、日本より来る篤志の輩は小生の保証さえあらば(とてもそのころの滞在費がたまらぬから)、館則に背くが届出の即日図書標品閲覧の特許をくれるように致し(英国人はいかな貴族でも三日または七日前の届出を要するなり)、実に小生の働きが格別で、そのころは貧乏ながら公使館その他で小生の声価は大いに上がりおりたることに御座候。それをききて米国より紀州のものが多く欧州見物のついでに、きわめて薄弱の学識と金子をもって小生を頼り来る。
 御承知の通り当時(今でも)欧州留学生は十の九は富貴の人の子弟にて、米国留学生は働力半分の貧賤のもの多く、かつ大統領が外国公使大使と謁見するに背広服で得意がり、はなはだしきは白館《ホワイトハウス》でシャーツ裸で来客と談笑するを自慢の国風なれば、それをよきことと心得たる在米の日本学生は、欧州へ来るとすこぶる卑しまれ、また実に卑しまるべき理由が多々ありたるなり。すなわち米人が金さえあらば何でもよいじゃないかという気象の悪きところばかり学びて、金がなき上に行儀作法が悪きなり。その中にモンタナ(米国の中でも熊野また飛驛ごとき頑地)州の大学にありし坂上某という小生一向知らぬもの、酒呑童子ごとく髪をはやし灰猫のごとき古服着、英国などでは蟹を取る賤民(42)ガッピンなど申す、わが国の山家《さんか》民ごときもののはくような深履をはき、大理石をしきたる貴重の牀板をふみならし(ならすのみならず、大きな釘で傷つけながら)入り来たり、紀州のものゆえ世話せよとのことゆえ、例の通り図書館へ入れやりしに、少しも図書室へ通わず。いろいろ聞き合わすと、米国同様労力を主とし学僕《スクールボーイ》になる口をさがしおる様子(英国には左様のものなし)、かかるやり方のものを堂々たる大英博物館へ入れては博物館の名にも威にも、また他の日本学生の名にもかかわることと存じおるうち、この人は米国へ去り、その跡へその従兄とてまた一人来る。
 これが同志社出の児玉亮太郎とて、その後原敬氏大臣たりしとき秘書官かなにかになりし人にて、その父は自由党の名士(もっとも紀州だけの)、小生もちょっと知りおるゆえ、また例のごとく尋ね来たりし口上は、領事館へ行き大英博物館への紹介を頼みしも、領事いうには学問上のことは南方に頼むが第一なりとのことで、幸い同国人また従弟の坂上もかつて世話になりしゆえ頼むとのことなり。しかるに、小生はこの類の米国より来る人々に手ごりせし上のこと、また大英博物館も小生ばかりにかく規則を蹂躙してばかり永続せしむべき理由なければ、小生はその旨答えて謝絶し、日本領事は知人ゆえ小生よりも宜しく頼みやるから、何分職務上領事の証印ではいるべしとのことを申し切れり。児玉も大いに力を落とし、しおしおと出てゆく、その体を見て小生、同じ紀州に生まれ、これまで他府県の人までもみな世話したるに、今この人を世話せぬは人情の忍びざるところと思い返し、またこれを呼び返し即日入れてやり申し候。
 また当時敷島艦進水式あり。新式の大艦にて英人なども参看を望むもの学士会員なども多く、小生いずれも桜孝太郎氏(大主計)および公使館へたのみ見せやり、小生は当日チベット帽で異風の装して学士会員バサー夫妻の中に立ちて見に行き、一同の眼光小生等三人に集まり、なんとかいう主計(その後官金を着服しブラジルへ脱走)、小生を中心とし艦を背景として大写真とり候。これは前帝の御覧に供えたものと承り候。加藤高明というはまことに冷淡ばかりならよいが、好んで人を卑蔑挑怒せしむる人にて、このとき児玉へは招待状を出さず。小生、公使加藤氏へかけあ(43)い、衆議院は日本では紳士なり、その子が当市へ来たり領事館へ届出しておるに、かかる盛事に招待状を出さぬは穏やかならずと言いしに、加藤が山座円次郎(小生旧友)に命じ打ちかえして、公使は知人なるゆえ貴下(熊楠)を招待せり、日本人なればとて知らぬ人を招待せず、との返事なりし。それを小生いろいろ海軍の方へ手をまわして当日招待せしめしなり。故に同県人として出来るだけのことはなしおり、また出立の節もわざわざ停車場までおくりに行きしも、時間間に合わざりし。これらも自分の根性より推して、小生が虚言いうと思いおるなるべし。
 その後児玉と会食していろいろ話すうち、児玉は米国の経済学卒業生とて、いろいろ経済学のことを話す。そのついでに自由貿易と保護貿易を甲乙難論す。小生は一向その方は知らぬが、当時英国が自由輸入を行ないおりたるはその通りながら、さて自由に物を輸入した外人からどっさり税をとる。水税から開業税、それから営業税また女皇への冥加税(クィーンス・タクスという、まことにわけ分からぬ名目、わが国の幕政ごろの風のものなり)、それから耶蘇教を奉じようが奉ずまいが寺領税《パリシユタクス》(いわば芝区にすむ外人に芝神明社の維持税を課し、麹町にすむ外商に平河天神の税を課するようなもの)、何じゃかじゃと言って税ばかりとられ、差し引くときは、こんなことならいっそ税関で保護税か禁輸税を一時にむっしりとってくれたらと三勝《さんかつ》流になきたくなるほど税繁くとらるるゆえ、その自由貿易というは税関の手続きだけの自由貿易で、実はこれほど保護貿易極まる国はなし。いわんや酒類その他特別に関税をとるものもあれば、英国は決して自由貿易にあらず。保護貿易またこれと同例で、反って自由貿易と通称するものよりも自由寛大なること多し。すべて経済の方針処置は年と月と日と場合により適宜に変更し、また知って変更せずとも必要次第知らず知らず変更し行くものなり。昨年真に自由貿易なりし国が今年行って見れば名前は旧にかわらずして実際は保護になった国多し。これ予が諸邦を胯にかけて東西奔走して毎々見たところなり。それに書籍を見たばかりで、十年二十年前のことを引いて、保護がどうの自由はどうのというは学問を死物にする道理、と言い放つと、貴下(熊楠)は生物学者なれば生物のことは詳しかるべし、経済のことに言を吐く権利なしという。
(44) 小生、それは奇なことを承るものかな、熊楠は十五、六で和歌山の中学を卒業せしきり学校に入ったことなく、貴下(児玉)ほどの学士の位号さえ持たず、ようやく近ごろまでジャガ芋に塩をふり胡瓜のみ食うて郵便切手を貼る役をつとめおったものだが、誰に学び何を専攻するとなしにこの天下第一の大庠序《しようじよ》で学士博士を引きまわし、英国の学士会員と談笑|?汝《じじよ》の交りをなすは御覧の通り、それなればこそ貴下(児玉)からも御引き立てに預かり一旦は辞退せしが同郷の好《よし》み棄つるに忍びず御世話申せしわけ。また学校を出たものでなくば学問に啄を容るることならずというがほんとうなら、第一学位ある貴下が学位も何もなきごろつき〔四字傍点〕同前の小生を頼みに来たり、今もその保証の下に勉学しおるが大犯則ならずやと言い、それで言葉もとぎれ座もしらけて止み申し候。
 それが非常にかの人の気にさわりしと見え、児玉帰国して小生の弟に申せしは、貴兄(熊楠)は実に働きある人なり、しかるに毎々国元へ金を送れと催促の様子、かかる人に金を送るはその志を弱め、いたずらに惰弱遊蕩せしむるのみ、何の益なし。送金せずばせぬで奮発してみずから金をこしらえること必せりと言いしとのことにて、舎弟また同様の根性のものゆえ、児玉の言その理ありとて小生の金を小生に送らざりしことにて、小生は学問を廃するに及び、それよりいろいろ事起こり、止むを得ず帰朝致し候。ここがいわゆる「かけてよいもの衣桁にゆかた、かけてわるいは薄なさけ」で、当時小生児玉をことわり切ったきり、またこれをよび返し、一旦せぬと言った世話をまたするに及んだが災難の始りに候いき。
 貴下なども至って毎人に親切にさるる御様子なるが、「昔日以来、金は完からず、苦《ねんごろ》に黄白を散じて交親を結ぶ。如今《じよこん》路を失いて知己を求め、関山を行き尽《つく》すも一人もなし」。こっちが全盛の時はいくらでも悦んで世話を受けくれるが、こっちが危なくなると見かえるものもなく、いわゆる友道は市道に御座候。このところ小生一代のあやまり、前車の覆るは後車の鑑《かんが》むべきところと存じ候。少々長過ぎるが貴下は素《もと》より御家内子孫までの永々の御心得と申し上げ置き候。小生若きときは、いわゆる人を斬るに眼ために?《またたき》せずで至って手荒く、また睚眦《がいさい》の恨みをも必ず報じて(45)快しと致し申し候。しかし年老いて考うるに、かかる十のものを十で返すような返報のしかたは、此方が骨折れるだけ損に御座候。それよりはこれは前世の業果とか自然のまわり合わせとか、天が謙すれば益を受くる理を実地教授してくれるのとかあきらめて、一向忍んで忘れ了るが一番に御座候。
 貴書に見えしごとく、悪事をしたものはいかに外面を粧うも内心の苛責は止まず、善悪の別は内心の苛責にあることに御座候。熊が人を殺し鹿が熊に殺さるるごとき、善悪の差別なく、ほんの当然と心得たことゆえ、熊に何の咎もなし。人は内に顧みて疚しき限りは、此方より返報せずとも、その人はみずから相応の罰を受けおるものと存じ候。『瑜伽論』に、返報の念なきを忍辱といい、一切において輪廻の見《けん》なきを柔和というとありしよう覚え候。われら人間を脱せぬゆえか、あれはあんなことをしてすませておるが、どこかでまた同じような眼に自分が遭うはずという輪廻の見は脱し得ず候。しかしながら才は学んで到るべからず、量は到るべしと申し、若いときは硫酸でも打ち付けやらんかと怒りしことも、考え廻らして忍べばつまらぬ考えだったくらいの域には至り得申し候。右児玉一人のみ、小生帰国してその旨報ぜしにハガキの一本も寄こさぬに候。こんなものが大臣の秘書官とあっては実に百事知るべしに御座候。             再白
 
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 大正七年六月十四日午下
   上松蓊様
                      南方再拝
 
 拝啓。御状二通まさに拝見。顕微鏡番くるわせと相成り候付き、小生大いに狼狽、しかし幸いに弟より送り越せしものまず六百倍までは間に合い螺旋のはずれたるも少々のことにて軽微の差《ちが》いを生ぜしのみゆえ、どうやらこうやら(46)間に合い申し候。その上喜多幅氏(杉村楚人冠の子を養嗣子とせる人にて、小生幼年よりの友、愚妻の媒人なり)および町役場に戦前五百円で買いしもの、おのおの一台ずつあり。止むを得ぬときはそれを借ることに致し、間に合わせ申し候。そのうちまたよきもの見当たり候わば御注進願い上げ奉り候。しかして小生の描写器はすこぶる不器用なものゆえ、これは特に頼み上げ置き候。古物にても願い上げ候。
 顕微鏡代として整え置き候金少々あまり申し候。『漢魏叢書』は少々高くても宜しく、ぜひ御見出だし代価御知らせ下されたく候。さっそく送金申し上ぐべく候。『博物志』も、『抱朴子』、それから今一つ願い上げ候書も、この叢書の内に有之、故にまずこの叢書を御見出だし下されたく候。別段緊要とにはあらざれども例の著作等に引用の飾り(また確実に引用し得るため)に必用に御座候。『淵鑑類函』等手元にある類書には引用の文が本文通りならず、大いにへまをやらかすことしばしば有之候。よってこの叢書は何とぞ宜しくさっそく御捜し出ださせ下されたく候。
 一昨日スウィングルより状有之、マニラへ柑橘調べに行き十月に小生方へ来たるとのことに有之候。それまでに目に物見すべき仕事多く有之、また小畔氏より、蘚苔の見本頼まれ申し候。他の人ならむろん謝絶するところなれど、旧好の人ゆえそうも成らず。御推察あるべき通り標本を正確に調え素人に分かるようにそろえるはすこぶる時間をとり候ものにて、多忙中困難なれども小畔氏の頼みゆえ止むを得ずひまさえあらばかかりおり申し候。
 『博物志』およびネジマワシは未着、たぷん只今入港(ホイットル鳴りおる)の船にて来着のことと存じ申し候。
 小生は十四のときに柔術やり人の膝関節に自分の前歯を打ち付けひびわれたまま帰宅、寒天に曝された歯にて熱き餅をかじり、その場で歯折れ了り、それより左右へ弘まり二十前後で上の前歯四枚を金で入れ申し候。故に大学予備門に当時ありし人で小生を見覚えぬはなし。(これは学問は最劣なりしが金の歯が目立ちたるなり。林と申し丸善の悴(姉は黒田清隆伯の妻で、伯酒酔を諫めて蹴り殺されたり)と小生の外に、そのころ金の入れ歯はなかりし。)それより二十四、五歳のときは歯はあまり満足なは一本もなく、三十一、二のときは満足な歯は二本、六、七年前より一本も満(47)足なはなく候。入れ歯をすすめられたれども何となく後れ、至って男を下げげ申し候が、同時にこのお陰で女にほれられず、その方一生無事で大いに学問の助けとなり申し候。只今は左の犬牙一本に金をきせ、それにて物をかみおり候が人よりは健壮に御座候。歯を多数抜き去るははなはだ身体弱ることと存じ候。貴下のごときは歯が悪いでなく、齦肉が異状を呈したることと存じ候。それにはなるべく生菜葉(葉緑素を含んだ)すなわち緑色の菜葉を多く食したきことに御座候。小生など壮時船にのり長旅中、毎度齦肉が腐り血出で歯肉が切れ去る等のことありし。実にこまったことなりし。脂肪分のもの、ことに腐敗に傾ける脂肪分のものが悪く候。今日は専門専門というて、歯医は歯や歯肉の療治さえすれば自分のことがすむという様子、反って右様の一汎にわたった摂生など口授せぬこと多き様子ゆえ、右申し上げ置き候。
 右船来たりし様子ゆえ、大急ぎでこの状局へ送り申し候。『漢魏叢書』は少々高くても宜しく、何とぞなるべく早く手に入るよう願い上げ候。『抱朴子』はその内にあるゆえ、注解ある本は別に買い下されたく、注解なき本ならばなるべく右の叢書に収めたる本ですませたきゆえ、別段御求め下さるに及ばず候。         早々頓首
  『東京時事新報』に、小生伊勢になにか果木の原種ありと申せしを、欧米人が来たり求め、果たして見出だし悦び帰りしとありし由申すものあり。貴下は聞き及び、また躬《みずか》ら読まれたりや、伺い申し上げ候。
 
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 大正七年八月十二日夜八時過
   上松蓊様
                      南方熊楠再拝
 
 拝呈。本月四日芳翰一拝受。五日に拙状差し上げ置き候ところ今に御返事なく、たぶん六、七日出発のはずの御旅(48)行延引、只今は御羇旅中のことかと察し上げ奉り候。当地へ御来下下され候わば、いろいろ申し上ぐべきこともまた○印になった御話も有之候えどもその儀を得ず、遺憾千万に候。しかしそのうち小生標本等少々片付け候わば一度上京その節万縷申し上ぐべく候。
 『漢魏叢書』の代価および見越し郵税しめおよそ三十七円は、今に取りのけ有之、本月七日とにかく送金(郵便為替)致さんと出かけ候ところ、小生郵便局との交渉連年こむつかしき因果により先方もむつかしく、上松蓊夫人様宛にてはちょっと事成りかね候様の次第に有之、また該書掛合い中の御友人へ送らんにもその姓名一向分からず、小畔氏へ送らんにも同氏は軍事運漕の方ことに急がしき様子にて、富士へ出立前一状ありしのみ、その後来信なし。何とも致し方なく送金は見合わせ帰宅、その夕名古屋市より当町へ毎度まわり来る医療機械商桔梗屋なる内より、描写器アッベー式一つ着、代金当方に入用を見込み四十三円という図はずれの高価に有之、しかしこれも必要ゆえ知己の医士(杉村楚人冠氏の子を養嗣にせる人)立会の上検査すべき間、三、四日まちくれることを申し込み、十一日夜右医士喜多幅氏来会件の器械を検し候ところ、世には無法の詐偽などもあるものにて全く描写の用をなさず。小生入用を宛て込み外形のみアッベー式に彷彿たる翫具ごときものを偽造せしにて、低度の顕微鏡は知らず、やや高度の測微計を破るところなりし。(これは桔梗屋の手代はむつかしきことを知らず、それへつけ込み田辺ごとき田舎の医者などは何も知らぬものと見込み、その辺の詐騙師が早卒《そうそつ》かかるものを作り上げたると存じ候。)よって昨朝返送致し、四十三円はのがれ申し候。
 右の次第にて、『漢魏叢書』の代金は今にとりのけ有之候間、貴下御帰京の上はその旨ちょっと御電信下されたく、小生はさっそく郵便為替にて送金申し上ぐべく候。当地方米高く(五十二銭くらい)、十津川辺は七十銭とか承り候。小生は例の朝鮮米を食いおり候に別段異状なし。有田郡湯浅町にては暴動起こり大騒ぎ、当地も漁師等少々不穏の模様なりしが、二銭ほど下げたるゆえ、まずは当分無事に御座候。小生は米を塩同様官売にすることを望み申し候。拙(49)宅は何とて収入なきゆえ、藜《あかざ》、?《ひゆ》など申すものを食いおり、ちょっと荒飢の歳のごとくに候。
 右当用のみ。                  早々不宣
  御旅行はかくのごとき不始末の時節あまり面白からざりしことと推察し上げ奉り候。
 
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 大正七年八月十九日夜十時
   上松蓊様
                      南方再拝
 
 拝啓。十六日付芳翰今日午後三時前拝受。『漢魏叢書』御手に入れ下され、千万忝なく鳴謝し奉り候。明日有り金捜索の上、全くあらば明日送り申し上ぐべく、もし多少不足ならば今月末に御送り申し上げたく候。全く三十七円備え置きたるなれど、次の事情ありて大分不足に相成りたることと存じ申し候。
 本月十五日『大阪毎日』の号外来着。小生は夜来の研究に疲れ、ことにその前夜妻不在中小生一人おりしに鶏の部屋大騒ぎして止まず。提灯と棒をもち檻内に入りしに、大いなる蛇、牝鶏がぬくめおる卵をぬすみに来たりあり。小生追えどもちょっと去らず。打たば鶏に怪我せしむるゆえ詮方なく追い退け帰ればまた鶏を襲う。よって二時間ばかり立って守りおり、ようやく隣人をよび来たり鶏を移し候。このことにて大いに疲れ候(後に妻子帰り来たり翌日夕小生不在中番し視しに、拙宅に年来棲む白蛇が卵をとりに来たりしと知れ候由)。かくて顕微鏡の側に仮寝するところへ、妻右の号外持ち来たり、和歌山へぜひ行けという。小生は事後れたれば行くも益なしといいしも、何分町内の評判高きゆえ行けという。よって同日午後二時乗船、七時過ぎ和歌浦着。電車不通兵士警備光景すこぶる不穏ゆえ、止むを得ず徒歩して市に入り哨兵の長官に咄せしに、この人小生の名を聞きおり直ちに敬礼して通行をゆるされ候。(50)(いかなることあるも通行は許さぬ定めなりし。)それより弟宅に帰りしに、前夜十二人ばかり押しかけ来たり一万円寄付強請、応諾せしゆえ何のことなく引き取り、ただその節弥次連の飛礫のためガラス障子八枚破られたるまでなり。
 十四日夜暴徒連公園に集まり、一番に二千五百人ばかり宇治田という最高多額納税者(造酒業)を襲い、主人負傷、二万五千円寄付の証文書かさるる。妻は大水道(泥だらけ)より脱出せし由。それより南方へ行けと口々に呼びしも、主立ちたるもの、南方は跡まわしにせよ、早川へ行けとて、宮本吉右衛門(四十三銀行頭取)を襲いしに、主人不在と称し、手代が汝等は法律に重く問わるべしと言いしより大いに激昂し、大八車を座敷へ抛げ付け、抜刀して天井を切り払い、主人を捜し柱のみ残りことごとく荒らされたるに候。拙父は和歌山の商人の亀鑑とまでいわれ、一代に少しの瑕瑾もなかりしゆえ、余沢にて舎弟はのがれたることとうれしく存じ候。次の夜舎弟方へ来たりしときも、舎弟自分出て応対せしゆえ事なかりしなり。この十四、十五両夜の乱暴に大抵富家は大いに荒らされ、死人も一、二人出で申し候由。
 右の次第に付き和歌山の方は安心、定めて田辺へも伝染すべきことと存じ、十六日夜帰宅、舎弟方にありしブフォ・フォルモサ(芝罘《チーフー》より発見されたる背緑色に黒斑あり腹真紅にてすこぶる美なるゆえ、フォルモサ(ラテン語で美麗の義)と命名されたるなり)五疋持ち帰りしゆえ、船中動揺のため大いに弱りあり、それを飼い付くるに全夜不眠。しかるに十七日朝すでに二日二夜も眠らぬことゆえ疲れて休まんとする時、田辺の不平徒十二人ばかり、張本人前頭に立ち入り来たり、小生に米価の調節を談判するよう頼まる。小生は一向無関係のことゆえ謝絶致し候に、その張本人は小生年来の知人ゆえ事なくすみ引き去り候。その夜百五十人ばかり町内の酒屋を襲い酒価を下げよと強求し、また平生|悪《にく》まれおる呉服店等に乱暴す。それより今に諸所へ脅迫状絶えず。小生は一向安全なれど、直《じき》隣家(百万長者なり)に対し不穏の言動をなすこと絶えぬゆえ荷物片付け避難の準備中らしく、小生方へ万一火事の飛汁でもかかりはせずやと毎夜顕微鏡片手に不寝番致しおり、下女は盂蘭盆(今夜旧暦の初夜)ゆえひまを遣わし、妻と十二歳、八歳(51)の児女とのみゆえ、ずいぶん不安心といわば不安心に有之候も、平素貧乏人のために尽せるだけ尽しおるゆえ、直接に拙方へ害を蒙るは決して無之《これなか》るべく候。
 米価はすでに三十八銭あたりまで下がりおり、この上酒価等のことで不穏は不当なることと存じ候えども、愚昧なる人多き世の中何とも致し方無之候。しかし昨夜よりは町内消防組惣出にて朝五時まで巡廻しおれば、窃盗、火事等はまずは無之るべしと存じ申し候。これよりこの状出しに局にゆき様子を視てかえるに候。
 右多事中麁筆もてちょっと申し上げ候。
  大阪の乗客や帰航の船事務長等話に、大阪辺には暴徒中の婦女みな匕首を持ち、小児十二歳なるも氷豆腐に石油を浸《し》ませ懐中し、父は火繩をもち火を付けたる氷豆腐を抛げ付くる由。実に言語に絶せることに御座候。東京も同事と存じ候が、自働車に対する反感はおびただしきことにて、和歌山ごとき小市でも日々拙弟宅前を七、八輌通りしが、騒動以来全く止み候由。和歌山は米おびただしく出で、貧民等安価に米を買い、すし〔二字傍点〕を作り、すこぶる楽しみおる由。
 
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 大正八年五月二十八日夜一時ごろ認め、二十九日早朝出す
   上松蓊様
                      南方熊楠再拝
 
 拝呈。五月一日一書差し上げ候きり、その後大いに御無沙汰に打ち過ぎ申し候段、多忙千万のためとは申しながら、多罪このことに御座候。
 四月二十六日、昨年秋米国より帰朝の田中長三郎博士来たり、五月一日まで拙方に宿り、その間近処勝景地ども案内、(52)いろいろ拙蔵書籍標本等見せ、五月二日小生神戸の成金《なりき》長井氏と和歌山に趣き、三日西宮に趣き拙弟の支店に泊り、四日長井氏別荘一覧(田中博士も須磨より来たる。この人の父太七郎氏は、小生知人なる福島行信氏の父故良輔氏と共に須磨町を開きし人にて、中橋氏の前に商船会社の副社長たりしゆえに、紀州航路の諸船は多くこの人の母の進水にかかる。この人の母今年正月自働車にて負傷、ために氏当地へ来るのが大いに後れ申し候)、五日和歌山へ帰り拙弟方に止宿、八日田中博士拙弟方へ来泊、拙蔵書籍標本等示し、九日田中氏は高野山へ小生は田辺へ夜分帰り申し候。
  田中氏、拙蔵の書籍標本一通り目を通し、なかなか今日内外共かくまで揃うたものなしと驚嘆致され申し候。
 右長井氏は新聞にはいろいろ書き立てたれど、なかなか小生等の力になるような人には無之、やはり時流の虚名を馳せて成金の上に成金を積み上げんとする人かと存じ申され候。この上は一度東京へ上り何とか後盾になる人を探し申すべく候。
 田中氏申すには、小生所蔵の書籍標本を基礎とせば立派に有用なる研究的博物館が立つは必定とのことに候。同氏はこれがため住友、藤田、中橋等へずいぶん説きくれ候様なるも、ちょうど折悪しく中村照子と申す女性の成金を某々博士等説きすすめ、植物研究所を建てにかかりしは至極宜しけれど、しかとしたる計画施設なかりしより茶々無茶になり、誰が払うやら分からぬ負債丸善のみに一万円ばかりも出来たる由(ただしこの内にはあるいは貴下御存知の人々があるかも知れず。故に一切御口外は止め下されたく候)、その跡釜ゆえ田中氏の設計をおいそれと呑み込んでくれる人なき様子、田中氏は最新米国式の計画をなし十分見込みあることなれども年がまだ三十四ゆえ、そこへ持ってきて田中氏が推挙する小生が一生浪人ときているから、ちょっとちょっと物に成らず。大隈侯およびその一連にはあるいは小生に傾聴してくれる人もあるべしと申す人あり。故に何とぞ少々基礎を作りたる上一度侯に面謁せんかとも存じおり申し候。
 明日ごろ平瀬作五郎氏拙宅へ来られ申し候。(この人は先帝御在世にイチョウの受精のことに付き大発見をなし、(53)世界に高名を馳せたる人にて、六十二、三歳に候。小生よりは十一、二も上ならん。)例の松葉蘭のことに付き会合するに、大阪医科大学生を率い本日湯崎温泉へ著したるはずに候。電車がかかり侯後は熊野の風景は大いにかわり申すべく候。それゆえ日光山同様かわらぬうちに来遊の人士追い追い多く、今年になり当田辺の旧藩主および今月に及び和歌山旧藩主の世子も来遊され申し候。貴下もし今夏中に大阪まで来られ候わば、御宿は拙方にて致し諸処御案内(小生また小生の知人にて)申し上ぐべく候間、何とぞ当地まで御成り下さらずや。小生も追い追い子供も大きくなり、到底今のごとき風流極まるくらしはこの上長くつづき申さずべければ、後日の語り草に只今散佚せぬうちに拙蔵の品々も御目にかけ、また多年心をこめて保存せし諸勝景名蹟も御覧に入れ置きたく候。はなはだ申すもいかがなれど、御不自由さえ御忍び下さるるなら、小生は出来るだけの自力を出し面白く御覧に入れ申すべく候。このことは今年を過ぎ候てはあるいは小生の力に及ばぬことと相成り申すべく候。
  大阪より和歌山までは約一時間ばかり、大阪より当地までは急航船四時間にて達し申し候。もし御来臨下さるるなら、御案内は和歌山の拙弟方にて扱わせても宜しく御座候。
 前状御教示の小生の『太陽』の「羊」の話は、あのまま尻切れとんぼにては失望の極と諸地の中学教師など(奥羽、長崎、沖繩等)より申し越し候付き、これだけは完結に出し見んかと存じおり候。
 しかるところ塚本靖博士の「羊」と申す一篇本年出でし『建築雑誌』三十三号に出でおり候由、小生は人のすでに書いたことを蒸し返す譏りを受くるははなはだ好まず候付き、毎々御面倒ながら右雑誌一部御求めの上御送り下さらずや。もっとも御手に入らずば止むを得ず、それを見ずに続稿にかかりたく候付き、御入手むつかしき様子ならば、その段ちょっと御知らせ下されたく候。
  右三十三号のみで読切りなるや、また三十四号等以下にも出で候や詳らかならず。何とぞ三十三号に出でたる分御覧の上、続出ならば続出の分をも御購い送り下され候様御頼み申し上げ候。
(54) 小生今月上旬大阪等にて自動車、電車等にのりつづけ候ため、兼ねて金で埋めたる上歯ゆるぎ出し言語も叶わぬように立ち至り、ついに上の歯四本ぬき去り、上の歯ただ二個をのこすのみ、惣入れ歯と致すことに相成り申し候。人間年をとるといろいろの災難に出くわすものに御座候。小畔兄も今夏もし閑あらば当地へ来遊ありたく候旨御伝声願い上げ奉り候。                     敬具
 
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 大正八年八月二十七日夜十二時書き始め
   上松蓊様
                      南方熊楠再拝
 
 拝啓。八月二十五日出芳翰本日午後三時ごろ着、拝見。小生小畔氏の厚意により再度まで出資を煩わし、御蔭にて淡水藻標本整理の見込みはあらかた相立ち、多日の骨折りゆえ一休みに昨夜熟睡致し、本日貴下および小畔氏宛にてなにか面白きこと雑りに長文の状を認め差し上げんと存ずるうち、九年前熊野三難所の一たる安堵が蜂へ罷り越し候際、四十余日世話になり候旧友尋ね来たり、今度は日高郡と大和の境なる鎗尖岳《はこさいたけ》へ同行すべしとのことにて、いろいろ長話致し、十二時に相成り申し候。よってこの上の長文も認め得ず、短簡もって御受け書差し上げ申し候。
 甜瓜の種子一件は、詳細に田中氏へ発状依頼致し置き候えば、旅行中ならずば四、五日内に返事来ることと察し申され候。しかるに甜瓜ほど異様変態の多きものはちょっと少なく、暖地と熱地とは大いに種類もかわり、特にその辺の智識経験なくしてわずかに一種や二、三種を暖地より取り寄せて熱地に播殖させる(ただ播殖させるにあらずして好果を生ぜしめんとする)ことはすこぶる茫洋たる話と存じ申され候。小生は甜瓜のことは一向経験無之、貴問により始めて二、三書冊に就き渉猟せしに過ぎず。故に何とも一辞を賛し添うるの力は無之候も、せっかくの御思召しゆ(55)え田中氏と相談の上、何とかして出来るだけ多数の種子を取り寄せ差し上ぐるよう致すべく候も、田中氏も農産物の遺伝学と柑橘類専門と申すまでにて、瓜のことはあんまりのことと察せられ候ゆえ、いかようなる返事来たるべきやちょっと知れ申さず候。ただし小生近年大戦争始めてのち自分および友人が奥羽、信濃、越中等にて採集せる粘菌類の標本をおよそ五十四点、リスター女史に送るべく箱もすっかり出来おり、ただ四点不足のところ、二、三日近郊山野を走りまわらば必ず四点は充補し得べく、然る上は直ちに発送致すべし。それをきっかけに何とか頼み、かの女史の世話にて出来べくば英仏およびセイロン種をなるべく多様に送りもらうことと致すべく候が、貴下等の御推了とかわり、植物学農学と一口に申すものの多岐多端にて、瓜のことに詳しき人が果たしてかの女史の知人中にありや、すこぶる知れ難く候。ただ瓜の種を取り寄せ増殖するばかりならば出来ぬことにあらざるも、有利の見込みたしかなるものを取り寄せることはすこぶるむつかしく、かつ前状申し述べ候通り、今日種子を輸入するには病毒疫害を防ぐ同様のむつかしき規則有之、たとい田中および小生より申し遣りて残すところなくともその効果は予言出来申さず候。
 小生はずいぶん諸国をあるきまわりし男なれど、気に留めぬことは一向何の甲斐なきものにて、今回瓜のことに付き貴問に預かり大いにまごつき申し候。付いて申し上ぐるは、貴下ももし熱国にていささかも産物を増殖する御心懸けあらば、ちょっと一通りその方の御心得だけはありたきことなり。書籍と実地とはまるで大いに違うものながら、書籍は実地の分かり切った(すなわち心得置かねば是非なんにも手を付けることならぬ)ことを一通り書いたものゆえまるで空文には無之、実地実地というて飛び入りで直ちに実地へ当たり得申さず候。小生以前は年々少なくも五、六百円の書は購いしゆえ、今もケンブリッジ、ロンドン、パリは申すに及ばず、他の小市よりも書籍売り出し、目録毎便一、二冊は着き申し候。本年一月のロンドンの Dulan 会社古本書目七四号に Simmonds の“Tropical Agriculture”(一八八九年、明治二十二年板)十二シリング六ペンス、および Periamの“The American Encyclopaedia of Agriculture”(一八八一年シカゴ板)十シリングあり。後者は図多く入りし米国農業の百科全書で、前者は熱帯国の植物興産(56)および貿易のことを述べたる好書に御座候。これらはもし貴下がいささかも熱地で植物の興産営利を志さるるなら、必ず一本は参考書として買い置かるべきものにて、たとい何たる儲けにならぬまでも、万一にも小生ごとき輩にうそを言い懸けらるるを予防するほどの功は有之候。(ついでに申す。欧州の古本は安いが、ことにロンドンのは然り。これを買うに郵税等が分からぬから余分に金を送りなどし、はなはだしく面倒かつ損分になることあり。故にわが国の諸大学等ではひたすらその煩を省き、また小言、後難のなきように、たとい安本が売りに出ても丸善等の指定書店へ頼み取り次がしむるゆえ、二重三重の高価で買うわけとなるなり。実は古本のこと知ったものがその書肆にもなきなり。小生などは永年二十余年少々ながら取引き絶えざるゆえ郵税などは書籍を受け取った上の勘定(すなわち荷物に貼っただけ見定めて送ればよきなり)ゆえ毎度思うように安き本を買い得申し候。)
 屋久島行き御勧め下され、難有《ありがた》く千万御礼申し上げ候。かの辺でいろいろと珍しきものすこぶる多かるべくと存じ申し候。しかるに小生こと近来足悪く、今夜来たりし友人、わずかこの地より十七里ばかりの山へ行くをすすめられ候も、すこぶる難事に存ぜられ候ほどなれば、到底近い内にかの島へ参ることは叶い申さずと存ぜられ候。ことに小生久しく植物学を修むれど、何の仕上げたること無之、何とぞ今度まで二回小畔君より出され候金の尽きぬうちに淡水藻を仕上げ、粘菌のみはすでにことごとく仕上げ発表も十の九まですみたれば、菌類を今一千点ほど集め、さて植物学は止め申したく候。
  菌類は小生壮時、北米のカーチスと申す人六千点まで採り、有名なるバークレー(英人)におくり調査させ候。小生これを聞きし時、十六、七なりしが、何とぞ七千点日本のものを集めたしと思い立ち候。その後欧米に十五年おるうち、日本の菌学の準備にいろいろとかの地旅行、実際を視候て、帰国後只今六千点まで集めおり、今一千点集めたら止めたくと存じおり申し候えども、年もより足悪きゆえ、この最後の一千がすこぶる難事に御座候。
 「あはれなりたとへば思ふあらましを叶へたりとも幾程の世ぞ」。まことに短きこの世に望むべきことにあらねど、(57)小生はこの標本整理さえすまば何とかして四、五千円調達し、一意化学を応用して本邦興産のことに取り掛からんと存じおり申し候。只今のごとき研究と教授とを混同一視するような国風にては、到底そんなことは望むべからざるに候。貴下何とかそれまで大金持になり置き、またまた出資下されたく候。小生は今よりその準備に少閑をも捨てず取り掛かり申すべく候。たとえば今日、本邦歯科医の用うるセメントほどのことすらみな外国より良品を仰ぎおり申し候は、いかにも遺憾の至りなり。化学の研究には秤量の最良のものを得んこともっとも必要に御座候。
 小生近日英国にて蝦蟆《がま》の油に付きちょっとした文を出し申し候。小生明治十九年米国へ渡り候ころまでは、浅草に永井兵助と申すヤシの親方有之、蝦蟆を店前におき、その油なりとてちょうどわれわれの齦《はぐき》様に赤き脂を貝に盛り、売るとてみずから腕を小刀できりまわし、血を出し、それへ右の脂をぬりこみ、たちまち血止まる体を見せ申し候。その他、永井兵助と名乗り、和歌山、堺、その他諸市の辻に立ち、居合いを遣い、また棒の打ち合いを弟子と演じた後、群集聚まるを待って蝦蟆の脂を売り、また歯の薬を売りもすれば、歯を抜きも致し候。只今は一向かかるもの和歌山辺へ来たらず。右様のものは今も東京に見え候や、然らずんば大体明治何年ごろまで見えたるに候や、おついでにお聞かせ下されたく候。
 蝦蟆の脂は毒物なり。しかるにいろいろの病にきくことも事実らしく候。ことに奇とすべきは『色つばな』と申し(たぶん享保ごろかその以前元禄以後のもので、横帳製の小冊)、これは種彦の『好色本目録』にも見えざるを、小生不完全ながら一冊所持す。きわめて希有の物と見え、この種のものの活字彙と申すべき宮武外骨氏も見しことなき由語られ申し候。それに長命丸の法、種々言い伝うれども、実は蝦蟆の油ほど女を悦ばすものなし、と記し有之候。支那の書より出でたることかと存じ、いろいろ調べしも、その儀少しも見えず、日本で特に見出だしたることらしく候。もっとも毒物ゆえよほど注意を要することと存じ候。
 染谷成章という人、かつて領事など勤めしことあり。只今拙弟と南洋産業会社の重役たり。このほどちょうど貴下(58)と小畔氏ごとき小生との間柄なる中井秀弥と申す和歌山人(第一高商出で、同校の教師たりしことあり。その後別府に築地を起こし、風波のために失敗。芦屋の閑生活を止め、只今また拙弟の棒組となり、東京におる)より申し越し候は、この人中村不折氏と同時にロンドンにあり、小生と毎度公使館にて出あいたりと申しおられ候由。しかるに小生はこの人の名も中村不折氏の名も、ロンドンにありて聞いたことなく、また公使館でも面会したることなし。世間には間違いといえば間違いですむような虚言のごときものと呆れ申し候。それが尋常の人でなく、いわばわが国の高官たりし、また現に紳士たる人にして、この類の言あるは怪しからぬ。眼前すらかくのごとくなれば、人間死後の伝記などは十の七、八は嘘と相考えられ申し候。故に今日西郷がどうだったの、前原はこうだったのと申しはやすは、多くは虚伝に有之べく候。夜も更け候ゆえ、これにて擱筆仕り候。                敬具
 
     21
 
 大正八年九月三日午後二時
   上松蓊様
                      南方再拝
 
 拝呈。三十日付御手書昨日拝見。例のごとく多事中只今顕微鏡室のガラス障子風のため震動せしと相見え、打ち倒れ破損候付き、これより修理を頼みに行くところにて、ちょっと走り書きに御受書差し上げ申し候。瓜の種子のことは田中氏へ発状して大分長くなるも、一向在宅否の返事も無之、たぶん新婚旅行等にて不在のことと存じ候も、六月中より通信絶えおれば、まず田中氏はあまり気乗りせざることと存じ候。また貴状の御意のごとくならば、この米国の甜瓜をマレー半島へ種《う》ゆるという何たる深意あるにあらず、全く小生想像通りまことに茫漠たる考えと存じ申し候。熱地にはまた熱地向きの瓜多態にあることなれば、北米辺の温帯のものよりは熱地の種をうえ、いろいろ変化せしむ(59)るが最上と存じ申し候。しかしとにかく小生瓜のことは少々その書籍を有するゆえ、とくと取り調べ候上、リスター女史へ頼み、パリ(仏国は欧州一の瓜の名産地)およびセイロンのペッチ氏(王立植物園の技師なり)に頼み、セイロン島の熱帯種を日本でうえると言ってとりよせ見るべく候。それにはまたそれでちょっと面倒なことありて、只今なかなか日本へ渡してくれぬことと存じ候。(このペッチは粘菌学者ゆえ日本の粘菌の稀品を望むべく候。)とにかく来年でなければ種子は来たらぬべく、今年の間に合わぬと思召し下されたく候。(粘菌種を、かの人の望むところは何々ということを確かめた上、小生みずからその望むところの粘菌を新たに取り揃えておくるに時日を要し申し候。)マレー半島へ栽培する瓜の種を米国より取り寄せよなど教ゆるなど、実に不親切なる当該職員の致し方、わが邦の官吏職員はみなこの通りに御座候。たとえばこの南紀でちょっと面白き女を下女に抱えたしとの相談に、新潟から後家を取り寄せよと教ゆるような空漠たることに御座候。
 蝦蟆の油のこと御教示で大いに相分かり申し候。昨夜東京より帰りし友人にあい承りしに、今も東京では、松井、永井等盛んに売りおると申しおり候も、貴説のごとくこれは三十年ばかり前に止めたることと存じ候。板垣氏このことをしらべありし趣き、実に惜しきことを致し候。生存中ならば聞きたきこと多く有之、二十余年前英国学士会員ブーランゼーに会いしとき、このもののことを話し、有毒なることだけは至って確かなりと申され候。長命丸に用うる云々もほんとうらしく、近く支那の乾隆ごろ出来候『万宝全書』を見るに、やはり媚薬にこの物を入るることを二ヵ条まで出しおり申し候。「主陰丹。胡椒の羔一分半、苔椒の羔三分半、丁香一分半、官桂〇分半、麝香二分、紫稍花四分、蟾酥《せんそ》四分。右を末《まつ》となし津唾《つばき》を用《も》って金茎に調すること一、二時、水を用《も》って洗い去り、炉内に入るれば妙《みよう》言うべからず。解くには水あるいは紅棗をもってするも、ともに可なり」などと有之候。
 平野氏より貴下へ小生のこと問い合わせし由、小生は貴下の御名も少しも出さぬにいかにして知りしか怪しまれ申し候。この平野という人、記者中の末輩と相見え、年齢も三十に足らず、芝居にする小姓の吉三、お染久松ごとき人体(60)にて、まずは記者の末席のものにはかかることを試験同様にやらせ見ることと察し申され候。小生に面晤したしとて、七、八輩の手を経て申し入れ来たり、最後には自分来るなど、小生ちょうど淡水藻を入れしびんをおびただしく並べ小畔氏へ送るべき品彙の種類の順序立てをかれこれ考案の最中にてすこぶるうるさく候ゆえ、その標品を指さし、この通り小畔という一面識の人(郵船会社員)の出資にて物産しらべをなしおるゆえ一分時も惜しまる、よって何なりと勝手に書かれたしと申し断わり切ったるに候。大阪の大新聞などいうはずいぶん人を馬鹿にしたものにて、先年神社合祀一件の時小生『大毎』紙へ一書を投ぜしに、奥村とかいう社員右は日曜倶楽部へ出すべしとか言ったまま一向出しくれず、また原稿を返しもせず(『大朝』もその通り)。しかして昨春社長本山彦一氏小生に面会を求められたるとき、誰かがこのことを言い出したるに、あるいは返報に小生が面会を断わらるるも知れずと言いながら本山氏拙邸へ来たりしと承る。つまり用のあるときは人を食い物にし、用のなきときは捨てて顧みざるに候。最初福本日南が小生の伝を短く出せしときなどは面白かりしが、それも二度三度と出ると、後には土左衛門の検使書き上げのごとくなり、このことは事実なるべしとかこれは法螺なるべしとかいう評も加わり、毎度毎度小生が自分を誇張せんため人に頼み、かかるものを出しもらうようにて、中には虚伝も多く、兄弟などもそんなひまあらば今少し翻訳でもして糊口の方に骨折りそうな物というようなそぶりもしばしば相見え申し候。また小畔氏来状にも見ゆるごとく、小生の事業は一としてこれまで成ったもの無之、いまだ成らぬうちにかれこれ吹聴するは実に不始末のことに有之候。
 先年片岡侍従という老人明治天皇の仰せを畏み千島の極北を巡視され候とき、盛大なる送別会を張りしことあり。小生当時ロンドン大学にありしに、日本に関係深き老人小生に向かい、貴国にはかかる秘密の大事を負担し死を決して敵地近く入る老人あるは感心なるが、その大事いまだ成らぬうちに送別宴とは不似合いなことなりと申され候。小生などはずいぶん国事のために働き、そのことの成らぬうちは却って不臣不愛国の名をとりしことあるも、少しもかれこれいわず、そのことを遂げしことあり。日清戦争のとき、ロバート・ダグラスを加藤高明氏に引き合わせ、ダグ(61)ラスは支那人と交際多きも(ユバーシチー・カレッジの支那学教授なり。この人四十年勤続して辞職のとき授爵されしを、日本始め諸邦の新聞ことごとく口をそろえて称讃せり)、この人の口より『タイムス』へ向かい日本の味方説を出ださしめしは小生の功多少あり、これらのことは小生兄弟にも言いしことなし。往復の文書は現存す。
 陳平は七たび奇を出して漢朝を泰山の安きに置き、土井利勝も家光公薨じた際種々謀計して徳川幕府の基礎を堅めしが、そのことが何じやったやら子孫にも少しも伝わらぬ由。朝に心がけて夕に吹聴するごときは、その人物の軽々しきは勿論、世道のためにも宜しからぬ手本をまくことと存ぜられ候。去年正月に『日本及日本人』に、「君は何ごとを研究しつつありや」との問を発し、応募者(ことごとく博士号付きの人々)いろいろと、われはこの問題を攻究中なりと出したるを新年号として出せしことあり。真にそのことを攻究中ならば、問題からして人に洩らすべきものにあらず、これを喋々するは、その人そのことを攻究しおらぬ証拠とも言うべきにや。小畔氏への藻品ごときも小生は幾分か出来上がるまでその方の沙汰は御無音に致すべく候間、無沙汰なればとてそのことを怠りおると思し召さぬよう頼み上げ申し候。
 故に腹蔵なく申し上ぐれば、貴下が平野氏の問に応じ多小とも答弁されたるは、小生むしろ一切小畔氏流に断わられたらんことを冀望致し候。いかなることも評判が先に立ちては、そのことたとい成功するも成功の一半を失い申し候。故に今後は何とぞかようのことには御一言も下さらぬよう願い上げ奉り候。もし意外のところより小生に累を生ずるようのことありては、その事、その口より出ずと分かっても、拙弟等は、小生口を慎まず、洩らすまじきことを洩らし、交際その人を得ざるように邪察せられ、すこぶる不面白境に入ることも有之べく候。
 カルトンの一書はこれまた昨夕着、千万忝なく厚謝し上げ奉り候。小生書きおる二子〔二字傍点〕のことに付いて、この書手に入りしより幸いに自分の説に大いに誤謬ありしを見出だし申し候て、これより書き改め申すべく候。往年中村一吉氏(珊瑚関と申す表神保町辺の書肆主人、中村正直先生を世話せしことあり。その恩を謝するため先生一女あるに約束(62)通り珊瑚間の悴を婚わせ嗣子とせしなり。この一吉氏神楽坂辺の芸妓にのろけ、せっかく先生の作り上げたる身代を片はしから無用のことに費やし、毎度世話のかけ通しなりし。外遊二回までせしも何たる成績挙がらず。フィラデルフィアで歯科卒業し歯科医となり東京にありしが一向聞こえずなり候)話に、スッポンの料理を食いに之《ゆ》くに、蟾蜍《ひき》をスッポン払底の日は代用して出すことあり。味は素人《しろうと》には分別出来ぬくらいよく似たものなり。そのときは小皿に灰を盛り、前に置く。然るときはその皿をまずその料理にふりかけて平気で食い帰るを通人とするなり。これは毒消しということなり、と。かかること貴下御聞き及びになりしことありや。また故山座円次郎氏(支那の公使在勤中急死されし)話に、ひきは至ってうまし、ただし爪を去らずに煮れば苦くて食うに堪えず、と。熊野にては黴毒のものひきを食い効ある由申し伝え、先年大逆事件で死刑されたる成石という人などは毎度食いしと申し候。
 この状認め中、貴状前にあるゆえちょっと読むに、いまだ平野には何も御伝えなき様子に見受け申し候。もしこの状着までにそのことなくんば、何とぞ小生より伝言ありて小生に関することは一切言わぬようとのことなればとて御断わりの上一切御伝えなきよう願い上げ候。小生従来かようのことにてせっかくの交誼を破るに及びしこと幾人も有之、はなはだ遺憾なるべく候間、右申し添え候。
 前年グラスゴウ府のゴワンス・グレイと申す会社より前ロンドン大学総長ジキンスを通して小生の自伝を五百頁にて出せと申し来たりしことあり。かれこれするうち大戦争となり、そのことは運ばざりし。その稿は今も一部分あり、小生これを清書し死ぬるまでに貴下に差し上げ置くべく候間、死後出し下されたく候。小生などは自伝の人に示すべきものなきが、諸国にて世態人情をいろいろ見たるゆえ、史書の闕を補うべきことや学者の気が付かぬ問題を多く右の自伝に包有致しおり候。とにかくせっかくの交誼を傷つけぬため、なるべくは小生のことを貴下より平野ごとき者に御伝えは中止されたく頼み上げ奉り候。
 小畔氏より近く一状を賜わり感謝の至りなり。返書差し上ぐべきが小生はなるべく完全なる標本を氏に送りたく、(63)それにはフォルマリン漬けの旧品では埒明かぬことあり、悴をして毎日川へゆき藻の生品をとり来たらしめ鏡見中に有之、日もまた足らざるの有様に有之、状一本差し上ぐる間にも一品くらいは図記し得る次第に付き、無用の手紙は差し扣《ひか》えおり候。この段御話し下されたく候。
 瓜のことは右の通りに付き、田中氏の方はまず同氏気乗りせぬことと存じ申され候。すでに気乗りせぬ上は、これを強いてもいわゆる lukewarm なまぬるなことでは反ってその効なく候。それよりも小生何とかして熱地の瓜種を徐々にペッチ氏より取り寄せ差し上ぐべく候。またマレー半島で植えて益あるものは瓜に限らず。小生ひまあるごとに書き上げを作り差し上ぐべく候。
 これは貴下へばかり始めて申し上ぐることながら、明治二十六年(小生二十七のとき)御存知の『ネーチュール』(世界で有名な週刊科学雑誌で、その社長ロッキヤーは小生も会いしことあるが実に倨傲無比の老爺なり)何十年とかの祝い号を出し、当時高名の進化論の先達ハクスレーが序をかき、科学に大功ありし人という意気込みで『ネーチュール』寄書家中高名の輩の名を列し候。すべて三百人か四百人ありしと記憶す。それに日本より名出でしは伊藤篤太郎氏(ケンブリッジ大学卒業、林娜士《リンネウス》学院会員)と小生と二人なりし。二人とも官学に関係なきもの、ことに小生は自学にて当時馬部屋の二階に一週十シリング(二円五十銭)の安値で下宿致しおり、魯国のシカゴ総領事オステン・サッケン男(蠅蚊類の一、二を争う大学者)が小生に感謝すべきことありて、
  『聖書』に、ダヴィッドなりしか獅子を打ち殺せしに、その尸《しかばね》より蜜蜂生ぜしということあり。これは蜜蜂にあらず、蜜蜂に酷似せるブンブンが生ぜしなりという説をオステン・サッケン男が出せしに誰も信ぜず。それを小生実証を挙げて第二板を出さしめたるなり。このことにて大英博物館にもわざわざ蜜蜂とブンブンを並べてその酷似の様子を公示致し候。日本でも今に蜜蜂が蜜を醸すに必ず人の小便を採りに来ると申し候。ブンブンは人の小便の中に生ずるによりかかることを言い出だせしと存ぜられ候。
(64)来訪され、小生茶を出せしに、馬の小便の臭気はなはだしきより一口ものまざりしほどなるに、右様に名を出されしを小生大いにうれしがり、国元にある母に申し通せしに、大いに悦びて死なれ申し候。小生は米国の大学を卒業せば二十四歳にて博士くらいにはなれたるを、日本にては西洋とかわり自学というもの一人もなきを遺憾とし、わざわざ独学を始め今におし通し申し候。この一事にて骨肉親戚小生を人間視せず今日に至り申し候。これらのことは小畔氏への状にいささか述べ置き申し候。小生は今日の日本ごとき教育の仕方、すなわち本人の心底から好まぬ学課を何もかも一様につめ込むは、三味線の嗜好なきものに煎餅をやりて毎夜定式の義太夫を聴きに傭うようなものにて、いわゆる今の学者は人のためにするもので大なる徒費空労と存じ申し候。それよりは英米のごとく教育は高等小学くらいで止め、それより上はポリテクニク・インスチチュートごときものを市立町立にし、勝手に好きなものを聴きにゆき、ことにはドイツごとく理化学の試験くらいは店にひまあるごとに小僧も走り往きて勝手に行ない得るように致し、さて多少の経験ありと認めたものには、幾年間この学を習うたという証明状を与え、それを便りに新紙へ広告して化学ずきの者は薬店へ、手工好きは職場へ、という風に傭わせ、給料を割いてみずから書を購い、または図書館、博物館に通い、みずから好むところを自習し得るよう致すが第一と存じ申し候。
 語学なども、小生は半ヵ月で大抵自分行き宿りし国の語で日用だけは弁じたり。これも日本のやり方とかわり、みずから話すよりは人の話を聞き分ける稽古に酒場《バー》などへ通い、のろけ話、借金のことわり、法螺話、貸金の催促、それから喧嘩口論など一切耳を傾け聞きおれば、猴《さる》が手を打つとか蟻がすねをかじるとか、一年に一度も入用なき語を学ぶよりは手とり早く「もちっと、まけろ」「いやそれは難題だ」「あのしめてれつはすごいほどよい」「手にもおえない代物だ」などを初歩として、一語一言はさしおき、一句一般の成語が分かり易く候。さて物の名や事の名は「汝はこれを何と呼ぶか」という一問さえ話し得れば誰でも教えくれ申し候。前置詞すなわち日本で申さばテニヲハ、これだけは六、七十ぜひおぼえるが必要なれど、他のことは別段書籍に拠らずともじきに分かり申し候。それから読書の(65)一段になると、欧米には対訳本というもの多く有之、一頁が英語一頁が伊語という風に向かい合わせに同一の文を異語で書きあり、それを一冊も通読すれば読書は出来申し候。その上むつかしき字は字書で引くに候。これほどのことも今に気が付かぬかに付けても、左様に早く覚えられては師匠や係員が食えぬようになるという心配から今に実施せぬことと存じ申し候。
 これよりガラス屋へ障子直しに罷り越すゆえ擱筆仕り候。   早々以上
 
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 大正八年九月十六日午後二時
   上松蓊様
                      南方熊楠再拝
 
 拝復。十四日付御状まさに拝見。『奥羽観跡聞老志』も全部二十冊千万忝なく拝受仕り候。これはちょっと見るところすこぶる有益なる書にて、小生大いに手助けに相成り申し候。『増見遊覧記』は白井|真澄《ますみ》という著者、奥州人らしく、諸国遊覧の実記の由に御座候。三十八冊の由。また備中人古河辰の『東遊雑記』、『西遊雑記』合して『東西遊雑記』と申す十三冊、これも御気を付け置き下されたく候。
 『大毎』はずいぶん手をまわし、田中氏へも小生のことを平野自分聞きに之《ゆ》きしより、田中氏小生の学歴を書いておくりし由申し来たり候。今さら何とも致し方なく候。しかし何を書きたりとも小生自分読まずにおればすむことに有之候。ただ遺憾なるは、わが邦にはずいぶん偽りを言うて何とも思わぬ人多きにや、先年杉村楚人冠が小生のことを書きたるをその文集に再板し、小生もちょっと読みしに、小生ロンドンにて親交ありし孫逸仙が陳という横浜の富商を通弁としてわざわざ紀州へ来たり、小生を訪いしことあり。
(66)  小笠原誉至夫と申し、小生と幼少より友にて同じく大学予備門にありし人あり。無双の才子なるが新聞社長となり、いろいろのことして、ずいぶん金も持ちおり候。(かつて末松謙澄子か誰かを覘い、衆議員にて活版職工か何かを嗾《そそのか》し馬糞を投げ付けしめ、そのまま吉原へ遊びに行きしことあり。)この人右の陳と知人にて、孫と陳が和歌山へ下る汽車中に邂逅し、問うて小生方へ来たることと知り、直ちに椿蓁一郎氏(当時県知事)を訪い、密かに告ぐべきことありとて、小生方へ孫が大事をたくみに来たりしよう報告し、さて孫と小生の談話中、陳を自分方へまねき、いろいろと談話し、その委細を探りしように候。しかして小生方へは刑事が乗り込み、いろいろと探索に及び候も、何ごともなくすみ申し候。小生よって小笠原と陳を招き、孫と共に和歌浦第一の芦辺屋へゆき、何とか申し西郷従道などを手鞠につきし尤物の酌でのみ、勘定は小笠原が払うからと言って帰りしことあり。幼年よりの親友たりしものが、その後久闊に暮らせばとてかかる仕様やある。
  先日の御書に見えたる今の浜口吉右衛門氏は小生存ぜず候。前吉右衛門氏の実弟に茂之助という人ありし。その人は小生渡米の前毎度つれありき申せし。後にロンドンへ来たりしとき小生邦人の軽薄にあきれはて(御存知の故小手川豊次郎と申し、豊後辺の生れで経済学の大法螺を吹きし一寸法師あり。この者小生西インドに渡る留守中小生より預かりし書籍を質におきしを、小生フロリダに帰りて聞き知り、いろいろせめはたりて受け出さしめ、自分の手に復したることあり。さて小手川のいうには、われらは海外へ留学にこそ来たれ、人の書籍を預かりに来たらずとのことなりし。小生大いに怒りしがさしたる気色を出さず、程へて若干の借金を申し込み、受け取りたるのち打ちやり置きしに、いろいろ催促状を寄す。小生いわく、われは海外へ留学にこそ来たれ、借金を返しに来たらず、と。そのまま打ち捨て置き申し候。かようの人物多きにこりはて)、小生はロンドンにありて邦人とつき合わざりし。それが後にまた右浜口氏の従弟浜口担(今近藤廉平の聟で猪苗代の水電会社長か何かなり)があまりに頼むゆえ、ある大華族の宿の世話し、それよりせっかく成り上がりし株を打ち破り、ついに帰国遁世(67)致しおるは前日申し上げ候通り。
  余談ながら申し上げ候。古田織部正は茶道の大名人なりしゆえ、武名一向掩われて上がらず。しかしこの人、関が原で大勇を著わし、大名となり、また大坂陣のとき、わずか一、二万石の身分で城に入りて守りたりとて何たる力もあるまじと思い、故太閤の旧恩を懐うのあまり、わずか三、四十人で家康の京入りに乗じ放火して二条の城を取るというまぎわに、人間世界は妙なことより妙なことが生ずるもので(貴状に今度御示しの通り)、この人の聟鈴木某が三井寺辺で父の仇を討つ。それはよかったが、そのことの取調べに鈴木の荷物を役人が見ると右の隠謀の連判状が出たので、それより事発覚し、一味の薩摩人等捕えらる。このとき古田は一言弁解すればそれですんだのだが、かくなる上は弁解は入らずとて弁解せず、大坂落城の後処刑されて自殺せり。備前の新太郎少将光政この行いをはなはだほめ申し候由。また維新前長州に高杉と並んで名を馳せた何とかいう志士あり。急に臨んで高杉は毎度逐電したが、この人は逃れ得るところを逃れずに捕われ殺されたと聞く。小生も仇に報ずるに仇をもってするくらいのことは十分その力あること、上述小手川の金をふみ倒し、小笠原に飲食料(一夕に三十円ばかりなりし。そのころの和歌浦にしてはずいぶんの盛宴なり)をおっかぷせたるにて分かるべし。しかしながらかかる仕方は宜しからず。弁ずべきこともなるべく弁ぜず、言うべきことも言わずに今まで存命しおる。このことは前日差し上げたる右の華族の宿を世話せしより帰朝隠栖に至る事情を述べたる状にても御覧ありしことと存じ候。
そのことを記するに、「これはどうやら事実らしい」というようなことありし。孫文くらいの人間と親交あり、またその礼を修めて、和歌山へ同氏が来訪されたくらいのことを、杉村は小生に取りてよほど非凡の栄誉とでも思いしにや。杉村が幼時より小生のことを知り、果たしてその文に終始書き立てたるほど小生を賞揚するほどの素志あらば、右様の話の実否を疑うて、「事実らしい」などとは釣り合わぬ言い方と存じ申され候。(すなわち小生はかかる小事を(68)無上の栄誉とでも思い、虚構してまでかかることをいいちらすように聞こえる。)さて、前日鎌田栄吉氏支那に渡り、上海で孫文を訪い、帰途『大毎』紙の記者に会談せし筆記を見るに、「孫文とはロンドンで旧識なりしゆえ訪いし、云々」とあり。当時孫落魄してロンドンで親友とてはアイルランドの恢復党員マルカーンと小生のみなりし。(ロンドン出立にも二人のみ見送れり。)徳川頼倫侯、鎌田と大英博物館へ来たりしとき、小生孫と二人長椅子に腰掛けまちおり、孫を侯に紹介せり。そのとき誰かが、かかる亡命徒をかかる華族に引き合わす南方は危険極まる人物と評せり。その後、孫日本へ遁るるに付き故岡本柳之助氏へ引き合わさんとするも、小生はもと岡本の邸に近く表札を掲げたるも氏を知らず、鎌田方へつれゆき紹介状を頼みしに、日本文にて「この状持参の支那人孫逸仙東京へ之《ゆ》くから引き合わす」ときわめて短文にかきたり。実に不作法な書方なり(日本の新紙等に今に支那人に限り氏の字を尊称せず。支那人ははなはだしく不快に思うなり)。鎌田と孫との会見はこの二回に留まる(おそらくは、また多分は、この紹介状など孫氏は一向用いざりしことならん)。しかるに孫がとにかく中華の大統領などと名を揚げるようになると、旧識など唱え、わざわざ訪問するに及ぶのみならず、心ひそかにこれを栄光と心得る様子なり。この通りにて、わが邦の人は何にまれ誠実を欠くように思われ申し候。
 小生貴下と面識もなきに、多年いろいろと御世話下され候ことは感佩に余りあり。何とも御礼の致し方なし。ここに一つよきことは、小生多年いろいろ思い当たれること書き抜きたることなどの中に只今人に見せて何の益なきものはなはだ多し(まずは随筆とか叢考とか申すべきもの)、小生一章一句でもこれを思い出ずるまま書き付け置き、貴下、小畔二氏へ差し上げ置き申すべく候。急には事往かぬべきも塵積もりて山をなすで、一年一年と二十枚、三十枚書き付けても松浦静山侯の『甲子夜話』ほどのものは出来るなり。貴下と小畔氏とこれを小生の生存中は秘翫し、小生死後はいかようにもなされたく候。また小生より聞きたりということさえ言い添えらるるなら、小生生存中その一節一句を援《ひ》いて公けに言わるるとも憾みなし。ただし他人に拙稿を見することは御免なり。
(69)  例せば、小生諸国の情事艶事の書を多く集め比較して書き付けたるものおびただしくあり。中村啓次郎氏(代議士)、これは希有の物なり、西園寺侯に序文書きもらい「淫学大全」と題して珍蔵すべし、と言いしことあり。
 貴下また小生ごときものの伝記などを公けにさるるよりは、宜しく殖産とか興利とかのことに鋭意し、小生の知っていそうなことあらば何なりとも(とてもその功なしと思わるるとも)聞き合わされたく候。小生自分は金銭のことを面倒に思い、一向その方に手を著けぬが、ずいぶん古く心がけおるゆえ、ずいぶんよき思案も付くことに御座候。(もと正金銀行支店長中井芳楠氏は、毎日曜にロンドンのその邸でいろいろの馳走して小生を招き談をきかれし。南方さんの話をきけば何ごとも分かり、益を得ること多しといわれし。今の仁和寺門跡土宜師も小生と一見して、何とぞ貴下とつれて一日旅行して見たきことなり、一言一句心得となることのみなりと言われし。英人などにも小生を conversationist として賞されし人少なからず、これは仏国のヘルベチウスなどを称した語で、さして深い学問ありというにあらざるも、ただただ話をきいて気の付くようなこと多きなり。もっとも只今は小生語学も大いに退歩致し脳も悪ければ、昔日の百分一ほどの能力も出でず。しかし、こんなことがたぶんこれこれの書にあったらしいくらいのことは覚えおれば、手蔓をもって捜せば大抵は分かり申し候。
 即今菌|夥《おお》く生じ、また藻の産地が例の耕地整理とか庭園税とかのため滅却され行くものはなはだ多く、他にも用事|麕至《きんし》し、ちょっとちょっと事行かざるも、長い間にはこんな方のことでなにか御用に立ちたき心懸けに有之候。
 当町も小学教員などの餓を救うため来年の会計四千円足らず。それがため庭園税を課するとて拙邸へも見に来たり申し候。拙方には庭園と申すほどのものなく、畑を作り自食しおるのみなれど、多少は払わねばならぬことかとも存じおり候。何の収入なきもかかり物のみ増し行き、さて実際庭園を持った人は小生などの鈍物と事かわり、百方してこれを畑地とか何とか詐称しごまかし了る。富者はますます富み貧者人はいよいよ乏しくなりゆく世の中にて、静かに学問などは出来ぬことと相成り申しおり候。
(70) 前便申し上げ候小畔氏の二十四ポンドは(かようの為替証など拙方へ長く留め置くは不安心に候)、とにかく一度正金に引きかえ小畔氏に返したく候付き、何分受取方御知らせ下されたく候。かの書は顕微鏡さえ輸入するくらいならあるいは丸善へ注文して買い入るる方、小生より申しやるより(少々高値なりとも)早く手に入ることかと存じ申し候。
 前刻リスター女史より第四板「大英博物館粘菌案内」おくり来たり候。小生日本で発見し英国にてようやくこのごろ発見せしもの一種 Hemitrichia minor G.Lister, var.pardina Minakata 出でおりしはちょっと愉快なり。この受書小生近日出すと共に甜瓜の種子のこと頼みやるべく候。しかしセイロンへまわり、かの島より種子がとどくまでには大分時日がかかることと御あきらめ下されたく候。       早々敬具
 
     23
 
 大正八年十月十二日夜一時(十三日の午前なり)
   上松蓊様
                      南方熊楠
 
 拝啓。十月六日午後二時発芳翰および小包一は九日朝十一時ごろまさに安着、六書拝受、右小包さっそく開封一覧候ところ、(その前回の御状で吉田辰の『東西巡遊記』とありしが)小生所要の古河辰の『東西遊雑記』に相違無之、ずいぶん今日の相場としては至当のものと存じ申し候。よってさっそく代金送り申し上ぐべきのところ、小畔氏よりの出資は別途のものとして銀行に預かり有之、それより融通は本意ならず、十二月末までに必ず自分の嚢中より弁じ申し上ぐべく候間、それまで御まち下されたく候。(『英露字彙』の分は、着本早々御返し申し上ぐべく候。)それより二、三日右書を通読致し大いに未聞を開き得申し候段、千万厚謝し奉り候。さっそく御受書差し上ぐべきのところ、(71)拙妻、これは生来の胃腸病持ちにて、一昨年までは小生の暮し実に気楽なものに有之、当町中の羨むところなりしも、年夏の米騒動以来何分何の収入もなきに邸宅が分外に大なるより、風雨等異変あるごとに高価の修復を要し、それに加うるに地方の女どもはことごとく機工となり、たまたま下女奉公するものも大阪へ上り候より、邸内の始末から小児どもの衣食に妻の草臥《くたび》るることおびただしく、ことに近来に至りては庭園税とか倉庫税とか取り立てらるるもののみ嵩みゆき候より、心配のあまり鬱悒して病気発作|荐《しき》りに至り、小生もほとほと困りおり申し候。それこれのため御受書大いに相後れ申し候段、悪しからず御海恕を惟《これ》祈り申し上げ候。
 只今は菌類が年中もっとも盛んに出で候時節にて、相変わらず続々珍品の発見有之、数日前も拙妻、ミケナストルムと申し、従来はアフリカ辺の熱地にのみありとのみ思いおったるものを日本で始めて見出だし申し候。勧学院の雀は『蒙求』を囀る習い、拙妻年来発見せし菌類はおびただしきものにて、おそらくアジア中で女性の菌発見者としては第一位におることと存じ申し候。しかるにこの女は漢学者の娘にて(父は『平家物語』に名高き田辺権現の社の神官なりし)、とかく小生の自由思想、民本主義と気が合い申さず、これには閉口致しおり申し候。「すれすれの中に花さくとくさかな」とあるごとく、子供は父に従うてよいか母に従ってよいか、ほとんど迷惑することに御座候。ただし今日の過渡世態の日本にありては、かかることは拙家に限らず、都鄙いずれの地にもずいぶん多く例あることと察し申され候。
 小生は近来喫煙をも全廃に及び候。これは至難中の至難事なれども、おびただしく時間をつぶすものに有之、すでに菌類を研究する上に多大の淡水藻を調べ上ぐるには、どうせ喫煙全廃くらいのことを断行せずにはとても前途見込みつかず候。よって淡水藻のしらべ了るまでは、とにかく右様致し申し候。最初四、五日ははなはだしくこまるものに有之候えども、それより程経ては何のこともなきものに御座候。
 御書中に見え候湯川寛吉氏は小生と同時に大学予備門にありしも、小生は一向に存ぜぬ人に候。これは新宮の人に(72)御座候。紀州は和歌山より田辺までは京阪の風俗にて、新宮はこれに反し昔より江戸の風俗に有之候。家康の母の弟に水野藤次郎忠分とて摂津有岡の城攻めに討死せし人あり。その人の子に藤四郎重仲、これより紀州候頼宣卿の付人となり新宮に封ぜられ候。忠分の弟にまた藤十郎忠重というあり。加藤清正の舅なり。この人は関ヶ原軍の際三州池鯉鮒の宿酒宴の席にて三成の従党加賀井弥八郎に殺され、その場にあり合わせし堀尾吉晴が加賀井を討ち留めたるなり。さて頼宣卿は清正の聟に候。これらの点より二重に縁あるゆえ紀州へ付けられたることと存じ候。
 田辺の安藤も紀州候へ付けられたるなれど、これは主として和歌山に詰め、水野は代々江戸に詰め候。したがって幕府の内幕に勢威を振るいしことたびたび有之、新宮にて春画を板行し大奥へ進物とせしことなどもあるやにて、小生その本を見たることあり。桐の箱入りで大層なるものなりし。田辺の侍が武術のみ励み野暮飛切りなりしに反し、新宮の侍どもは遊廓に通うをのみ事とせし由。そんな風ゆえ維新となるとたちまち土崩瓦解し、士族にして満足にのこれるものは指を屈するほどもなし。また学問の方でも湯川寛吉、筒井八百珠(これは今も岡山の医専にあり)二氏の外にこれという人を出せしを聞かず。藩主は才物なりしも商売気多く破産同様にて死なれ、その子は今上の東宮の御時御受け目出たかりしも、奥羽辺で雪中行軍で凍え死なし申し候。先主の?子になる女子実に貞淑なるもの、貧素の中に育ち候由にて、小生の妻にとすすむるものありしも、小生一向妻を娶る気なき時にて、よそ事に聞き流し了り候。今はいかがなりしや知らず。とにかく君臣共かく散りはて候ことゆえ、湯川氏などもあまり新宮へ帰りたく思われぬことと存じ申し候。(もっとも湯川氏は士族なりや否知らず。)
 博文館編輯部の鈴木徳太郎氏より四、五日前来状あり。新年号の申に因み猿の話を書いてくれとのことなり。しかるに小生従来『太陽』へ書き候は、このことの応接にあたりし人物が一向かようのこと不心得のものにて、一頁二円五十銭と極《き》め申し候(これは九年前のことなり)。小説や履歴譚や、また書き流しの翻訳などとかわり、小生ごとく和漢洋のことを一切総覧した上そここことり合わせて、いわゆる「約はすべからく博よりすべし」で、一句を下すに(73)も十も二十も書籍を参考した上で下すような念の入ったものを、一頁いくら一葉いくらというやり方ははなはだ不満足に御座候。したがってこちらの方よりもなるべく長くなるよう書きのばすことなきにあらず。しかして前方は長くなるを好まぬ由毎々申し来たり候。それももっとも千万ながら、多大の書籍を一々原本に就いてしらべた上書くものを、ただ一つの雑誌から抜き書き飜訳すると何の変りもなく、一頁二円五十銭では実に勘定が合い申さず候。今日牛車牽きや荷持ち人足すら一日にこの辺郡でも三、五円の収入はあるに、おしなべて『太陽』などへの寄稿はかくのごとく安値なるものに候や。また、右は小生を田舎におるゆえ東京におる輩よりはずっと暮しも安かるべしと見くびっての上のことに有之べきや。貴慮のほど承りたく候。(博文館との応対は小生みずから致すべきも、大抵貴下御存知のほど御示し下されたく候。)
 酒のみを左ききと申すことは、『世説』に、晋の誰かが左手に蟹螯《かいごう》を持ち右手に觴《さかずき》を持ったらわが望み足れりと言ったというようなことあり、小生は盃は右手で持つに極まったものゆえ左ききということと存じおり、別に鑿に関することとは存ぜざりし。谷川氏の『和訓栞』は名高き書なれど小生は見たことなし。『鋸屑譚』というもののみ持ちおり候。これもこの『鋸屑譚』を何と訓んで然るべきか存ぜず候。谷川氏はよほど人に勝れて独特の考えありし人と存ぜられ候。
 ここに奇なることは、寺島良安の『和漢三才図会』と谷川氏の『和訓栞』(小生見しことなけれど毎度人が引きしを見る)と天野信景の『塩尻』と、この三書いずれも一廉のオーソリチーなるに、いずれも同様の説をおのれの発明のごとく書き立ており、どれがどれから引いたやら分からぬこと多し。三人の意見偶合とせんにも、その偶合がかくまで多くあるべくもなし。故に必ず多くの場合には一人が言い出だせしを他の二人が盗んだものと見ねばならず。この三人いずれも学問に非常に熱心なりしは疑うべき余地なきに、人の功を窃むことかくのごとくなるは怪しむべし。ただしそのころは書籍が広く衆人に読まれず、したがって遠地の人の説を自分の説のごとく言い立てたりとて、ちょ(74)っとちょっとばけが露われず、いわば微罪と心得たるにや。(西洋でも剽窃を罪と知りしは近世のことの由、『大英百科全書』に見えおり候。)また今日ずいぶん有名なる人士にして吾輩の説をぬすみ、平気で書き立てたるなども多きを見れば、世間狭かりし古えの人のそれほどのことは十分恕すべきにや。
 鎌田栄吉氏、労働一件に付き米国へ渡りし由。小生前日申し上げ候ようの漠然たるやり方の人(小生はこれがため一生この田舎に流浪致しおる)が、彼方に渡り何ごとを議し何とかけりを付くべきや、見ものに御座候。武藤山治氏と申すは、もと慶応義塾にありし佐久間山治といいし人にあらざるか。その人ならば小生存知なり。これも……さてこれらの人々に対してかれこれ批難も多く聞くが、進んで自分往ってみようという人のなきようにては、批難も何のあてにならず候。こんな場合に反って小野英太郎ごとき平素口をきかぬ人の方が判然と物を言うものに御座候。騒がしき猫は鼠をとらぬごとく、利口に議論をきく輩はしっかりしただめのつまらぬものに御座候。
 小畔氏一書を下され候。小生より差し上ぐべきなれども、それよりも早く標本図記を差し上ぐることをいそぎおり申し候。只今の描写器が不完全なるため、画が判明にとれず、過半は想像に基づくようなことにて、ずいぶん苦き経験をとりおり申し候。
 周の世に萇弘という人冤をもって殺されしに、その血碧色なりしということあり。その他にも支那で兵乱の節婦女が辱しめ殺されなどせし蹟へ、その冤を夫に訴うるため雨天ごとに碧血が涌き出るということしばしば見え申し候。荒唐無稽のことのよう思いおりしも、去年十月十八日当町の小生方へ出入するさしもの屋(くらかけ、鍋のふた、杓子等作る人)来たり、へんなもの出たりとて差し出すを見れば、酒樽の栓にちょうど天河石《アマゾナイト》(快晴の秋天の色)同様碧色の半流動体が珊瑚状をなして涌きおるなり。小生一見してその粘菌の原形体たるを知りしも、粘菌今日世に知れたる二百六十ばかりの種数の内、その原形体が青色なるもの一つもなければ、奇体なことと思い座右に置き、三、四時間へて見るに青色のやつが処々婦女の月水ごとく暗赤となり実に見苦し。その暗赤となりし原形体を見て、小生は(75)これはフィサルム・ギロスムなる粘菌たるを知り候。(この種は草野俊助氏小石川植物園で少々とりしことあり。それより三年ばかり前に小生和歌山の拙弟方の雪隠の壁に付けるを見出だせし。それは世界第一のこの種の大なる標本なり。)この粘菌の原形体は従来どこで見出だせし分も淡黄白色(小児の大便ごとき)それから淡赭褐色と変わるなるに、奇異のことと存じ、夜分ながら右のさし物屋へゆき実地を見分せしに、草もなにも生えざる雪隠側の地上へあたかも血を瀝《したた》りしごとく碧色の半流動体がそこここに飛び散って涌き出でおる。あたかも碧色の血滴のごとし。さてそれが追い追い赤色となり暗紅となるゆえ碧血といいしももつともなことなり。思うに支那にて冤死の者の血が碧《あお》しといいしはかようのものを見しに基づきしことで、世に根のなき虚言はなきものと悟り申し候。一体粘菌に青色はなきものなりしに、小生十二年ほど前アーシリア・グラウカと申す青色の粘菌を見出だし、さて去年また粘菌の原形体に青きものあるを見出だし申し候は、よくよく生活に困って青い顔になるべき前兆と一笑仕り候。このことは近日『ネーチュール』へ出すつもり。
 近く南米よりマテと申し甘茶の淡きようなものを輸入して自慢しおる人あり。世人もえらいことのように申しおり候由、小生は二十余年前試みしが何の益もなきものに御座候。それよりも南米チリ、ペルー辺でむかしより穀類同様に食用する quinoa と申し藜《あかざ》の実で一廉《ひとかど》食料になるものあり、貴下何とかかの辺へゆく人に托し、その種を輸入し本邦で栽え弘められたきことに御座候。小畔氏などはいかほども方便あるべきなり。近ごろ農商務内務省よりいろいろ無用の傭い人を派し、当地方などへジャガタラ芋を麦と混じ食えなど伝授に来たり候も、ジャガ芋はこの辺にては希有の珍物にて高価に候。それに反しサツマ芋は古来作りおり、芋塊のみかは、その蔓までも食い様を知っており、ちとこの辺より教えに出かけてよきほどのことに御座候。大辺路一帯の地、串本港などはサツマ芋を常食にし、年中儲蓄致しおり候。かかる地へ何を食えとか麦と混食せよとか教えに来るは、実に実に吉原へ夜鷹の買い様を説きにゆくようで、政府のやりかたいつもながらジャガ芋同前まずき限りに御座候。             早々以上
 
(76)     24
 
 大正九年二月十四日朝四時
   上松蓊様
                      南方熊楠再拝
 
 拝啓。小生は十二日夕医師よりもはや全快との診断を受け申し候。医師言うには、実はよほどの重症にて万一膿化せば非常の珍事と心配せしとのこと。小生も最初より医師の顔色より左様察し、十分養生致したるに候。しかし今に左の胸と肩の間が小さき茶碗ほどふくれあり。これは一年や二年では消滅せぬことと他より承り申し候が、別段痛まず、また動作にも差し障りは生ぜず候。小畔君へ先日(二月四日)一書差し上げ置き候が、果たして会社にて届きたりや否知らず。エングレルの書の送金は当分見合わせおり申し候。これはそのうち必ずリスター女史よりの返書あるべしと思いてのことに御座候。淡水藻のこと、かの松葉蘭等に取り紛れ今に延引、しかし近日一切を片付け候上、一気にかかり申すべく候。もし見込みたたずは止め申すべく候。世間は思うままならぬものにて、拙妻昨今また病気の様子、爰許《ここもと》困り入りおり候。
 博文館へ出した猿の話は諸処刪り去って、一、二両月分へ出し候。それは編輯上是非なしとして、小生が特に心をこめ面白く書きたる五不足女の伝(これはパーリ文の仏典にのみ存し、日本や支那の一切経にはなく候。女の妙処は顔貌にあらずして膚《はだ》の細滑なるにありという話)を全然抜き去り、しかして計算を入れずに原稿料を寄せ申し候(例の戦争前に約束の原稿料)。よって小生は右の抜き去りし分を返却されんことを請求の状を出し置き申し候。
  博文館にあらざるも、他のずいぶん有名な処で、小生の原稿を刪り取り、または全然没書として、後にそれが他人の名で顕われ、しかも懸賞金をとりたる例有之、此方よりむやみに投ぜる原稿とかわり、前方より望んだ原稿(77)にして右様のやり方は海外にありしうち小生一度も逢いしことなし。『ネーチュール』などは一旦寄せた原稿は何たる理由あるも返却せずと公告しおる。しかるに小生のは徳義上忍びざることと見え、掲載せぬごとに全那返却され申し候。
 さて一方、地方の中、師範学校の教員また海外や満韓の領事などようの連中、欧米の留学生、はなはだしきは伊犂《イリ》辺にある商人などよりは毎度奨励また冀望を述べらるるより、小生はこの猿の話だけはとにかくしまいまで書き綴り、貴下に手渡し、貴下これを博文館員に見せ、全篇通読の上全部掲載すべしとならば(酬金は従来のままで宜し)出させもし、右述ごとき大刪除の上その部分を返しくれぬ様のことならば(かかる数葉に渉れる大刪除は剪刀一つでちょっと切ってその部分を貴手へ渡せば事すむなり)、従来眷顧の報恩の千分一として、その原稿を貴下なり小畔氏なりへ後日の珍として進上し置き、機会あらば世に出し戴かんと欲す。このこと願い上げ置き候。小生は改造とか平等とか公明とか正義とか一葉としてその語をくりかえさざるなき今日の大雑誌にして、かかる曲事を公行するは実に不埒のことと存じ候。しかして来年よりは十二支の話を盛夏暇多き日に作りまとめ置き申すべく候間、何とか貴下これをどこでも宜しく御振り売り下されたく候。
 釘貫のことは青森などの友人へ尋ねやり候ところ、実際『和漢三才図会』に出で候通りの具にて釘を抜くもの、同地方に維新後まで行なわれ(昨今西洋の円頭釘盛行に及び廃止すと)、すなわち『和三』にいう通りくぎぬきまたは万力《まんりき》と申し候由。これにて黒川氏の説は臆説ということ分明に御座候。
 神戸へ着すべき荷は今にその船入らぬ由に御座候。これは田中博士引き受けられおれば、たぷん石井氏を煩わさずに事すむことと存じ申し候。
 右用事のみ。                      早々謹白
 
(78)     25
 
 大正九年六月八日夜九時前
   上松蓊様
                      南方熊楠再拝
 
 拝啓。石井佶氏方より御出しの状は六月一日朝拝受、妻への状も同人拝読、忝なく御厚志を謝し上げ奉り候。また六月六日付芳翰は今夕六時前拝受、小生多用にてようやく只今拝誦仕り候。今回わざわざ御来臨なりしに、何の御愛憎もなく、酒など飲みちらし多く御散財等かけ、種々見苦しき体御目にかけ、大いに妻に叱られ申し候。しかし小生は十七、八歳より全くこの通りの男と御笑い下されたく、たまたま旧交の人来たりての話に、南方は少しも年が寄らずと申しおり候。
 土宜師の書は六月四日着致し候付き、さつそく同日の午後便に書留にて差し上げ候。また写真はちょうど六月に入りてより、徴兵検査に村人多く出で来たり記念のため早仕上げの写真を夥《おお》く注文され候より、写真師手が廻らず、ようやく昨日出来上がり候付き差し上げ候。一枚は小生頂戴、二枚送り申し上げ候。描写器は子分の内かかることに至って堪能なるものを招きいろいろ協議の末、ライツ二台共に都合宜しくはまるように致し申し候。(ただし最上の台の方には御持参のままにてはまり申し候ゆえ、手細工を要せざりし。)困ることは前日御覧に入れたる小生もっとも多く用うる(かの黒人の頭をはりまわせしやつ)上からも下からも反射鏡を用い得るものには、どうしてもはまり申さず、少々無理をすればはまるも、左様にしてしばしば用いなばついには描写機の下の環が折れる虞れありとのことゆえ、これのみは遺憾ながら従来の不完全なカメラ・ルシダを用い申すべく候。
 右ごとく描写機具わり候上は、大いに勢いを得、すでに淡水藻の整理にかかりおり申し候。ここに一つまた災難な(79)ことは、小生友人と右御持参の描写機を用い試みるうち、一ヵ所機械のもっとも精巧なる螺旋がはずれ申し候。只今さし当たり大障碍はなきも、微細の検査をなすにすこぶる不都合ゆえ、追い追い考えた上自分で直し申すべく候。このことは次便に申し上ぐべく候。ちょうど貴下御帰宅の数日後、すなわち五月三十一日に平瀬氏大阪医科大学生八十名つれ当地方に来たり、湯崎(鉛山)に泊り、六月六日平瀬氏拙宅に来たり、右描写器試験、すこぶる精巧の由ほめられ申し候。右損所はちょっとしたことゆえ、必ず直るべしとのことにて、小生一昨日午後右の子分を招き直しにかかり候も、日暮になり中止、いずれそのうち直すべし。
 六日は大風雨急に起こり大阪へ出発成らず、平瀬氏は当地に生徒ともども一泊、七日午後二時の船にて出発、松葉蘭類小生方に育てしものことごとく鉢のまま引き渡し、もち上られ候。すこぶる荷造りに骨折れ申し候。たぷん無事西京まで引き取られ候ことを望みおり申し候。描写機寄付の件、最初はかかる高価のものと謙退されしが、貴下の御?義をいろいろはなし候ところ、然らば申し受くべしとのことに付き、いつにても御寄付やり下されたく候。(平瀬氏は最初は大阪医科大学へ寄付を望まれ候。しかしこれは一通りの辞譲にて、平瀬氏はいつ免職になるも知れず、免職となるときは大阪医科大学の備え付け品を用うることは出来べからず。それより平瀬氏へ申し受け、身後に同大学へ寄付は勝手次第なるべしと申し置き候。)平瀬氏はこれまで江州の富家の悴がアッベの機械(今回御持参のよりはずつと麁なるもの)一具持てるを借り受け用いおりしが、何とかしたりけん、枠の柄が曲がり出し、麁なる画は描き得るも少しくむつかしき精図は出来ず、只今全くこまりおり、もっとも医科大学には一つあれど大学常備品ゆえ自宅へ持ち還ることならず。事あるごとに標本を自宅よりはるばる大阪へ持ち運び描写するとのことなれば、寄贈しやれば大いに満足と存じ候。故に御都合次第御寄付やり下されたく候。
 貴下御出立の三日後当県海草郡の一友人より強烈なる婚薬《ほれぐすり》になる植物来着、貴下に見せざりしをすこぶる遺憾と致し候。只今図を作りおるゆえ出来上がれば小畔氏に差し上げ申すべく候。実に意外珍奇極まるものに候。
(80) 小生は淡水藻に終日かかり、夜分は菌にかかり、また雑誌へ書くに急を要することあり、すこぶる多忙中なり。取り敢えず御受けまでこの状差し上げ申し候。四、五日後一通り用事済んでまた委細状差し上げ申すべく候。
 『考古学雑誌』五月と六月号御手に入らば御送り下されたく候。これはどうしても考古学会よりはくれぬことに相成り申し候。そのうち沼田氏交渉中ゆえ何とかなるべきも、五・六、二月号に差し当たり見たきこと有之、右御頼み申し上げ候。
 貴下および楠本氏が最初にとりし泡のごとき緑色の藻(谷間の流水にありしもの)が Cylindrocapsa にて、千畳で貴下発見の白緑様の色の小さき藻は Hapalosiphon 属のものにて、たぷん新種に御座候。新種と定まらば貴下の御姓を付け申すべく候。
 拙妻は無筆のものゆえ、別段御礼状差し上げ申さず、悪しからず小生より厚謝申し上げ奉り候。
 
     26
 
 大正十年一月七日午後三時〔葉書〕
 恭賀新年。一月二十九日より小生|齦《はぐき》腫れ痛み食事成らず、昨今ようやく快方。前日願い上げ候英国為替は、当地方郵便局もはやひまになり候様子ゆえ、今に御取り組みなければ請求書御返却下されたく、その節かようの請求書(白紙の)二、三枚もらい御同送下されたく候。
 一月三日リスター女史より病気ようやく全快とのこと、久々にて来状あり。小生の姓に因み粘菌の種属 Monakatelle《ミナカテルラ》設立、三、四月ごろ『ジョーナル・オヴ・ボタニー』にて公広表の由申し来たり候て、承諾書を出し置き候。瓜の種の儀も成効きっと致すべく候。故に今少し巨細の要求書を小生へ下されたく候。右取り敢えず申し上げ候。敬具
  淡水藻用の雲母の件何とぞ宜しく願い上げ奉り候。
 
(81)     27
 
 大正十年三月五日夜十時過
   上松蓊様
                      南方熊楠
 
 拝呈。二月二十八日出御状は三月二日拝受、田中氏に御面会成し下され候由拝承。次に二日出御状は本日拝見、繩巻鮨御受け取り下され候由拝承仕り候。三月二日小生宅と隣宅との間へ(隣宅より境界線を明らかに張れと警察署長を通して要求あるにより)石友外三人傭い刺線金《とげはりがね》の鉄条網を張るところへ、隣宅より人数闖入し来たり、例の高き新建築の壁へ板を張り付けんとし、小生はみずから立ち向かうは不利と人々申すに随い、毛利氏方へ立ち退き、同氏小生に代わり大争論となり双方味方入り乱れ、警官三名および三つの新聞社より社員観戦に出で大混雑。午後相撲頭取沖田川(貴下と鉛山へゆく便船に女をのせくれと頼みに来たりし男)小生味方として自転車でかけつけ、敵味方を叱咤して一同隣宅へ引退せしめ候。朝九時より午後三時までかかり町内大評判の戦なり。拙妻も大いに働き申し候。この鉄条網より隣宅人数拙方の試植園に一歩も入ること能わず閉口の体、しかしなお何ごとをなすも知れず、小生鎗三本長刀一本用意して警戒中なり。小畔氏高野にて知人となりし川島友吉氏(大力の画師)、虎の画にて大阪絵画共進会で金牌一等賞をとり只今和歌山へ画会に赴き近所に居住せず。石友始め他はみなみな遠方住居ゆえ、かつ日間要事多く外出する輩多きゆえ、小生方無人数にて、加うるに女子病臥、妻子と下女のみゆえ、小生少しも外出ならず、田中氏と打ち合わせに和歌山へ上ること成らず困りおる。
 『ケンブリジ博物学』は二十四日早朝大連よりケンブリジ二十三日おくると電報ありしのみ、今に着せず。また小畔氏さえ外より一向音沙汰なきに、これまた心配中に罷り在り候。小生多事中ゆえ貴下より小畔氏へ委細聞き合わせ下(82)されたく候。
 松本長三君への書着せしに付きここに同封す。さっそく同氏に手渡し、受取書小生まで下されたく候。明珠香の三字なり。これは果子屋とは蒸果子屋かまた果実商売か分からずとのことにて、いずれにも通ずるよう、
 「金盤の蓮は明珠の滑なるを剥《む》き、黒井の瓜は紺玉の香を染む」
という古語より採りし由、僧正より申し越し候。このこと松本氏へ御伝え下されたく候。                  早々敬具
 
     28
 
 大正十年四月九日午後五時半
   上松蓊様
                      南方熊楠再拝
 
 拝復。六日付御葉書二まさに拝受、鎌田君および三宅先生発起人たること承諾下され候由|難有《ありがた》く千万御礼申し上げ候。これにて舎弟より差し上げ置きたる趣意書(印刷の)に載せたる発起の外は、徳川頼倫侯、中村啓次郎氏と右御両名を増加したることに相成り申し候。
 四月の『現代』に、幸田露伴氏、紀州田辺に過ぎたるもの二つ、南方熊楠君と日本一美味の鮨とあり。この美味の鮨とは前日差し上げたる繩巻鮨のことと存じ候。露伴氏は小生面識なきも、かつて舎弟が、大隈侯より自家醸造の酒に銘を付けられ候祝いに、芳町芸妓を総揚して大隈、前島氏等八十余人を饗せしことあり。そのときに佐々木信綱氏と露伴博士が席上何か書かれたる由、当時の新紙にて見及び候えば、舎弟は多少知人と存じ候。しかるところ右『現代』に、露伴氏は大倉喜八郎氏と別懇の由記し有之、また本月五日『現代』の記者広瀬照太郎氏よりなにか小生に書いてくれと頼み越し候ついでに、同氏は幸田氏の弟子とも言うべき間柄なるが、幸田氏毎々小生のことを言い出ずる由申し(83)越し候。よって小生より趣意書一枚封じて広瀬氏に送り、幸田氏の賛助を頼み置き候。都合によりて貴下一度幸田氏訪問下されたく候。ただし数日内に広瀬氏より何とか申し来たりての上のことに御座候。その節また申し上ぐぺく候。
 小生思うに、発起人ばかりむやみに殖えたりとて名ばかりではつまらず、寄付金集まらずば万事挙がり申さぬべく候。このこと尊考如何に候や。発起人名多きほど宜しとのことならば、小生諸知人(むろん○なし多し。ただ学界に著名の人)へ発状し、多く多く発起人をふやし申すべく候。
 前日申し上げ候横浜市本町三丁目二十七番地平沼大三郎という人より、三月十八日突然タイプライチングのハガキ着、松葉蘭のことを小生研究と聞き及ぶ、松葉蘭譜一冊所持するを、望みならば寄贈すべしとのことなり。小生その翌日喜んで拝受し永世保存すべき旨答え置き候ところ、裏打ち見事にさせた上、四月二日に贈達致され候。これは貴下御知人に候や。小生は何の因縁にて右の申込みありしやら知らず。とにかく小生に取りては無類の篤志家と存じ候付き、前日の隣宅の高建築のことなど委細申し述べ、他日発起人参上せば相応に助成下されたき旨申し入れ置き候。いつでも宜しく、御一訪下されたく候。
 小畔君は今に帰京されず候や。郵船会社の神戸支店差配人かなんかに、小生ロンドンにて旧知中島滋三郎という人あり。この人の仲立ちで小生は末広一雄氏と知人と相成り候(もっとも文通のみにて)。この中島氏へは小畔氏より一度頼み見下されたく候。小畔氏への土宜僧正の書は今に手前に保全有之、同氏帰京の上御送り申し上ぐべく候。只今拙邸病人絶えず、また人手無之、郵便局へ往くものなく、書留等にこまりおり申し候。カンランという蘭も川島氏見出だし手に入ると申しおり候。これも小畔氏帰京の上送り申し上ぐべく候。川島氏は今に和歌山市に滞在罷り在り候。
 木村駿吉博士現住所小生知らず。今夜一状を呈せんと欲するが、小野氏の分と共に同封して貴下へ送るゆえに、貴下よりそれぞれへ御廻送下されたく候。もっとも郵便にて御送り下されたく、御自身御伝達に及ばず候。二状共開封のまま出し候ゆえ、貴下より御廻送前ちょっと〆をかけ置き下されたく候。小生は少しも金銭に関することにて人に(84)状を出すこと大嫌いに有之、実はこんなことは田中氏がすべき役割なりしも、渡米期迫りすでに出発してよりは小生みずから認めざるを得ず、大いに最初のあてこみとかわり来たり申し候。(最初は小生は黙しいて可なり、田中氏始め発起人どもがもっぱら働くとの申出なりしなり。)
 毛利氏は現閣諸大臣、中原、中橋、山本諸氏の加入を乞うつもりなり。(いずれも毛利氏面識あり。山本氏は小生知人ゆえ状を添え申し候。)四月二日出発、しかるに御状の様子によれば今に貴下と面会せざるよう察せられ候。小野氏のいわゆる政府に関係あるものは発起人たるを得ざるとのことならば、むろん原氏等は不合点のことと存ぜられ候。しかるに一方小原県知事、藤岡、竹井等の諸官吏が進んで発起人となられしことは如何に候や。
 まずは右御礼までかくのごとく申し上げ候。幸いに事ほぼ緒につき候わば今一度当地へなり、また和歌山へなり、御来遊願い上げ奉り候。いよいよ確立したる上は、田中氏帰朝と入れかわりに、小生自分一度標品命名図書買入のため渡欧致すべく、その節は御同伴願い上げ候。最初は毛利、田中諸氏、小生は断じて黙しておって可なりとのことなりしも、田中氏去ってよりやはり小生みずから事を視ざるべからず。往復文書その他事多く、これでは研究所のために懊殺《おうさつ》さるるばかりで研究は少しも出来申さず候。田中氏帰らばさっそく職を譲るつもりに御座候。
 
     29
 
 大正十年十一月九日夜十一時過
   上松蓊様
                      南方熊楠
 
 拝啓。小生こと十月三十一日早朝田辺出発、その夜和歌山常楠方に一泊、十一月一日朝楠本秀男氏同行出発、夕方に当山に上り一乗院に止宿。小生は足悪きゆえ一歩も外出せず。楠本氏早朝より菌類を集め帰り図画し、小生(85)は記載致しおり候。今年は例年より五十日早く一昨日より降雪あり。しかも菌類はおびただしく有之、なかなか記載し悉さず候。
 小生十月二十八日に書留にて広瀬照太郎氏へ『現代』に掲載中の「鳥を食うて王となった話」の続き六十三葉送り、当山への旅費研究費の料として二百円望みしところ、前稿同様(百円)にせよとの電信妻へ達せりとて、本月四日送り来たり候。しかるに右の稿のために登山も大いに後れ候ものゆえ、小生は二百円なくては足らず(外に小畔氏より百二十円送られたり)、よって右原稿は他に望み手あるに付き返却さるるよう広瀬氏へ申し遣りしところ、今に至るまで妻より何とも申し来たらず。小生は当山にて費用に究し、楠本氏を同行せしことゆえ困りおり申し候。右原稿は別段出板の有無に関せず小生の心を込めたるものとして二百円喜捨の方にとりくれる人あるなり。故にすでに妻へ送還されたることとは存ずれども、今に妻より何の通知もなきゆえ、この女またまた病気重きことと察し申し候。悴は十五歳なれどもかようのことに少しも関知せず、七、八歳の小児のごとし。はなはだ迷惑の次第ゆえ何とぞ貴下より短筆にて右原稿妻方へ返しくれたるや否、広瀬氏へ御問い合わせの上、もし返却してなきことなら、何とぞさっそく返しくるるよう御照会願い上げ奉り候。返却さえさるれば小生田辺の知人にて今度の旅費を貸しくれたる人(質屋なり。多屋謙吉と申す)に頼み、さっそく二百円に取りもらうことが出来るなり。しからずんば小生等二人当山過寒中にはなはだしく迷惑致すべく候。
 右何とぞ御かけ合いの上、御一報下されたく候なり。当院へ直接御返事を乞う。原稿は田辺の拙宅へ返されたきなり。小生宛にて宜しく候。書留にしてほしきなり。同町内に南方というもの二人もあるゆえ混じ易きなり。右早々何分願い上げ奉り候。
 
(86)     30
 
 大正十一年二月二十四日午後二時
   上松蓊様
                      南方熊楠再拝
 
 拝復。書留状今朝拝受、朝鮮銀行為替英貨二ポンド十シリングまさに拝受、さつそく発送致し置き申し候。雲母は、小畔氏の藻の標本調製になるべく困難なるものを先と致し候付き洵《まこと》に緊要にて、別に小生も毎々入用なり。故に御見当たり次第相場御通知下されたく候。ちと多量に過ぐるくらい買い込み置きたく候。
 毛利氏は半月ばかり滞京、そのうち小生手書を携え小生旧知内田康哉子を訪問候ところ大いに歓迎され、東京にて募金のこと承知、また郵船会社の楠本武俊氏も募金のこと承知、小生旧面識ある武藤山治、和田豊治二氏を始めそれぞれ勧誘しくるることと相成り申し候。それに付き伺い上げ候は、先日御印刷下され候趣意書と今一つ定款書ごときもの、この定款書ごとき狭い紙の方は趣意書のおよそ数の何分一ほどすりたることに候や。毛利および小生方は趣意書も多くあるも定款書ごときもの乏しく、諸方へ配布に一対ずつ取り揃えること成らず、これには困りおり申し候。(貴方にある分も何とぞ御保存置き下されたく、おいおい使用の必要あるべく候。)
 財界不振のため現金入金はまことに少なく候。なかなか田中氏ごとき米国のカーネギー・インスチチュートなどの規則書を直演したようなものを配布し、米国半可通の法螺を吹いたところで一文も集まらぬことと存じ申し候。
 小生著書刊行のことも、毛利氏高島米峯氏に会し一通りは方付け来たれり。今一口、例の『現代』に書きかけたるやつは小生より書肆へ直接交渉中に有之、いよいよ的束成り候上は、原稿を貴下へまわすに付き、貴下何とぞ現金と御引き換え下さるべきや。
(87)  これは怪しき出板社は現金を渡さず、原稿を引き取りたる上かれこれするうち原稿を盗写し、またえらい奴になると暗記して趣向を替えて出しなどする。さて原稿を返却された上、現金はむろん払わず、盗み置いた写本をいろいろと全く奪胎換骨して別に出し売る。しかるときは此方は何も言い得ず。小生旧知前田太郎という人、せっかく苦心して死するまでも骨折りたるものを、この通りにしてやられ、遺族非常に困りおる由世話人より承り及び候。故に小生は容易なことで原稿は示すことも渡すこともならず。ただただ原稿と引換えに金をほしきなり。
 一旦原稿を渡した上は容易に返さぬものなり。また返したときはすでに盗みおるものもある由聞く。まずは右小生標本整理最中に付き、短筆もてかくのごとく御受け御礼申し上げ候。                                謹言
 
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 大正十一年三月二十二日午後五時出〔葉書〕
 
 拝呈。その後大いに御無音に打ち過ぎ申し候。研究所の集金かたがた、たぷん今月二十六日午後七時大阪より東京に上り申し候。毛利氏も同行のはず、付いては貴地着の上、一報申し上ぐべく候間、何とぞ然るべく御引き廻しのほど願い上げ置き奉り候。          敬具
 
     32
 
 大正十一年八月二十一日午下
   上松蓊様
                      南方熊楠再拝
 
 拝啓。小生こと神谷氏と同伴十四日六時半ごろ東京駅に到り(六鵜、長瀬二氏および高田屋女将同乗)、竹川氏も(88)来たり、高田屋の子女も来たり候。十五日六時に近江国米原駅経過、八時過ぎ梅田へ着、荷物を東京より和歌山へ直送のため、その飛汁《とばしり》で小生等二人天下茶屋まで二、三度電車にのりかえたりなど、実に面倒なことなりし。かつ海水浴へ無茶入りに行く者多きため、手荷物持ってはなかなか乗り得ず。そのうち小生一等室あるを見出だし斜二無二それを開き乗り込み、ようやく和歌山へ十一時ごろ着するを得申し候。和歌山に躊躇せず、その夜風雨を冒し田辺へ直航、十一時半に帰宅仕り候。妻子悦ぶこと限りなし。何分永々の不在ゆえ内外よりの郵便物および標本山積し、かつ日光よりの荷物にカビが入りそうゆえ、当夜より直ちに開封、それぞれ処理中なれど、なかなかおびただしきことゆぇ今に少しも埒明かず、ようやく只今より東京諸友等へ状をかき始め申すを得たる次第に候。神谷氏は例の石友案内にて拙妻および女児と鉛山温泉に遊び、石友と二人留まりて一宿の末、翌日もまた留まり、田辺近郊の勝景を巡覧、十八日午後和歌山へ上り申し候。その節神谷氏に当地名産|古谷石《ふるやせき》一箇を托し貴下へ呈し申し候。
  今はなかなか出で申さず。只今出るものはみな奇絶峡の産にて、真の古谷より出るものにあらず。小生は一向気の付かぬものゆえ石友をして鑑識せしめしに、十五円という大分よきもの一箇あり。これは小生不相応の高価の品かつ貴下の宅にはちと大き過ぎるゆえに、他に恰好の小さき品二個持ち来たれり。その一は真の古谷にあらずと小生は思うゆえに、真の古谷にて古谷特有の性質を現わせしものを(二個のうち価高き方)小生みずから撰定し、神谷に托せり。今一つは神谷に呈せしも、重きものゆえ入らぬというゆえ、先方へ返却せり。
 ちょうど前日日光行きの?め合わせ不足分と相似たるほどの代価のものなれば、右不足分をこれにて消し帳に願い申し上げ候。
 小生菌類しらべに必要の雑誌(『仏国菌学会報』二十巻全部代五十五ポンド)、外に入用の書かれこれ六百円ほど(六十ポンド)、急に英国へ送りたきなり。貴下為替を御世話し下さるべきや、御返事願い上げ奉り候。
 日光よりの諸品はことごとく安着、ただし番外と御朱記ありし一木箱は弱かりしと見え、多少四側が被れおり候。(89)しかし空ビンを盗むものもあるまじく、ただコルクが大分箱のすきまより転げ落ち候ようにて、拙妻は配達の現場にてコルク五、六個、門辺に落ちあるを拾い入れ候由。
 これらおよび郵便物の処理返事等に今月中はかかるべし。いずれ少し落着次第またまた書面差し上ぐるが、右為替のこと伺い申し上げ候。只今英貨一ポンドは大約いかほどの邦貨に相当たり候や、見積り上の都合もあることゆえ、御調査の上御一報下されたく候。    早々敬具
  集金は家弟をして和歌山四十三銀行へあずけしめ申し候。只今とても五円三円の寄付金は来る。
  右古谷石は安藤みかんおよび繩巻鮨と三つ共に古くは御留め物と称し、田辺領外へむやみに出すを禁じたるなり。これは安藤氏が幕府そのほか諸候等への進物とするため、あまりに世にありふれぬものとして永存せしむべき策略に出でしなり。この石は石灰質の土中に埋まりおる。それをうまく掘り出して細き針を束ねて石の理《すじ》に随いみがくと立派なものとなる。山の嶺が実は地底に向かい、山の底が地上に向かいおるなり。近来はこの底のなきもののみ多し(底をクツ(靴)と呼ぶ)。それは真の古谷石にあらざるなり。このクツに恰好して台を作る職工が専門にあり。その台を作るに特別の巧技を要し、はなはだむつかしきものの由。小生貴下のために撰み取りしものは、たぷんクツが十分なりしと思えど、専門の鑑別力なきゆえ、しかと申されず候。多忙中ゆえ走り書き御免下されたく候。
 独楽《こま》はいずれも安着、一同児女大いに悦びおり申し候。
 
     33
 
 大正十二年一月十一日夜十時半
  上松蓊様
(90)                      南方熊楠再拝
 
 拝啓。一昨日小原県知事、郡長、警察署長以下同伴、拙宅へ来られ、一時間ほど話して鉛山へ渡航され申し候。木村平右衛門氏等四十名ほど同航せり。家弟常楠こと何とも吝嗇極まり、今さら金子を出さず五年賦に致し利子を出すとのことにて、十一月来小生へ一切送金せず、小生一家活計立たず。よって知事より説諭の上、聞かざれば小生自分上りて談合するつもりに有之、その談合中に小生は精算を発表致したく候。平沼氏、高橋氏の分は何とぞその際までに御送り下されたく、京橋区南伝馬町、株式会社豊国銀行支店もしくは、日本橋区万町、第百銀行ならば、直ちに四十三銀行田辺支店へ為替出来候由に御座候。受取書はなるべく小生当地にあるうち差し上げたく候。
 前日御厚配下され候英国送りの金は第二切手送らざりしもいずれも無事に届き、十二月中に一方の書肆より送本着、本月六日またおびただしく植物学書の積荷状着、明日あたり書籍来着のはずに御座候。
 土宜管長は、知事小生宅へ来らるる少し前に危篤の電話が知事へ届き、さて昨朝六時に円寂され申し候。このこと千本三冬氏へ申し上げんと存じ候も右は俳号と承り候上、精確なる番地町名を存知せず。何とぞ貴下より御伝達下されたく候。
 只今集金すべて三万五千三百円ほど有之、これに常楠の二万円と小生の田地を売り払い、また二万円ほど加うれば(他にも京都、大阪等にて五千円までは出来る見込みあり)、八万円は優に出来申すべく、然る上は小生立派に研究所を経営し得るなり。しかるに、常楠右様の申し条にて毎日小生はぶらぶら致しおり、実に困ったものに御座候。よって何様今月中に和歌山へ上りたく、いか様とも話しをつけ候上、毛利氏を招き同伴の上諸処集金致すべく候。
 まずは右当用のみ申し上げ候。             頓首
 
     34
 
(91) 大正十二年十二月二十三日午後三時
   上松蓊様
                        南方熊楠再拝
 
 拝復。十二月二十日付御状今朝拝誦中、大阪毎日社長の秘書佐伯大五郎(京都人)氏来たり、十二時半まで懇談の上錦城館へ引き取る。これは来月六日発刊(実は他の欄印刷ことごとく準備出来、小生の分のみまち合わせおるとのこと)の『サンデイ毎日』と申す二十四ページの画半分入り家庭主婦相手の雑誌へ、皇太子御成婚式に関することどもを小生談、佐伯氏筆記として出したしとのことなり。小生にはすこぶる不向きの難題、その上通俗的極まるものゆえ如何とは存じ候えども、社長の特選にて秘書もこの役を果たさねば面目潰るると申す様の特派の様子に付き、止むを得ず執筆、これより明朝十一時までに成稿の上佐伯氏に渡し、佐伯氏明夜和歌山旅宿にてこれを自分の筆記体に直して、明後朝本社へ渡した上京都の自宅へ帰るつもりなり。一向心設けのなきことゆえ成否心もとなからざるにあらざるも、一つはこれは本山氏が小生を試《ため》すことと存じ候(実は本山ごとき老狸がこんな用意のなきはずはなく、すでに他の学者どもより原稿は出来あるも、小生の方が存外うまくば、それを新年号第一に押し出さんとのことと存じ候)故、向う不見《みず》に承諾。昨夜より今暁四時まで菌の極彩色図七個作り、今朝わずかに四時間眠りたるままにて如何と存じ候も、かかるときこそ力をあらわす機会と存じ、むちゃくちゃに取り懸かり申すべく候。この毎日社の小生への仕払いはまことに宜しく候。
 研究所の方は追い追い評判宜しきにや、諸方より寄付今に絶えず、また趣意書を注文さるる向きも多く候。知らぬ人にして小生の書状を転読して感涙を流したりとて送り来るもあり、ただ家弟よりの月々の送金昨年来絶えたるため、また十円、二十円のはした金をその都度定期預けにすることもならざるため、小生自活の費とこれら少々ずつの寄付金との区別十分につかぬこととならざるやの憂いなきにしもあらず。これは何とか別にその座を設くることと致すべ(92)く候。
 家弟の仕方何ともその意を得ず。しかし小生一月に登り、前文申し上げ候ごとく一通り経歴を述べた上、ただすわりこみ、まずは百日おり申すべく、自分生まれた地ゆえ亡父また兄また自分のや知人の子孫季昆も多ければ、新聞雑誌にて小生のことを聞き込みおる人も多かるべく、一々ひまつぶしに懇談しおれば、自然と小生の為人《ひととなり》も分かり申すべく、決して弟等が申し伝うるごとき乱暴にも飲酒びたりにもあらざること分かり候わば、ずいぶん寄付金もあるべしと存じ候。三浦男その他も在市なれば、その輩(いわゆる和歌山の紳士)と往復閑話しおるうちには、家弟はいかがいうとも世間一汎に承知せざるようになることと存じ申し候。万一解散の場合には貴下来たり前書に申し上げたるわずかに三、四口の外はきれいに一々寄付金を返済し、小生のやり方悪しかりしにもあらざれば小生の為人が不埒なるにも毛頭なき旨をなるべくその人々へ知らせ下されたく候。これは小生むろん一々その人々へ自筆にて申し開くべく候。「鼠の話」、今度のはよほどよく作りたるも、博文館の新米編輯人の不埒にて、おそく返し来たり候。しかしその一部分を『大毎』へ出したれば、『太陽』へ出すよりは二倍の報酬はすでにとり申し候。残骸を捨つるも惜しきゆえ、三宅氏と喧嘩分かれをした政教社の『日本及日本人』は新年より出る様子に付き、出しおくるるが一月十五日より、または二月一日より連載せんと存じ候。このことはまた貴下の御尽力を煩わし申すべく候。社の方よりは特に田中逸平氏をもって加勢を頼み来たりおり候。これは一切当分無報酬なり。
 リスターの方は受領書だけにて宜しく、これは標本を贈るついであるに付き、なるべく早く願い上げ候。淡水藻は昇汞、リスリンなどは細胞内のものを砕き了るゆえ御無用なり。一度リスリンを入れたら乾かすことならず。細胞の弱きものゆえフォルマリンの外に致し方なく候。フォルマリンはちと強いくらいに入れ下されたく候。すなわちビンの口に鼻をあておられぬくらいに願い上げ候。この度の贈品はちと弱かりしゆえ微細なる藻は保存されおらず。淡水藻は色ずりに多くの色を要せず、画もかき易きものなれば、何分今年中にその譜を早く一部でも出したく候。今回の(93)備品中にも新物七、八ありし。小生南隣の男は実に惨《むご》き失敗して立ち退き申し候。あとは売りに出たらしきも、小生と喧嘩するほどのむつかしき男なればと恐れて誰もちょっと手を出さぬらしく、只今は安値で貸し家と致し、すなわち借り手が入らずにおり候。(拙妻知人なり。)和歌山舎弟の方もかくのごとく調伏がききたるにあらざるかと存じ候も、昨年十一月限り絶信ゆえ分からず。近来舎弟の名は一向新聞等にも見及ばず。兄弟の間は何とぞ多少の情誼を持ってほしきものなり。舎弟やり方いかにも面白からず。
 むかし仏国の大文豪ジーデロー、年老いて娘を嫁入らす資なく、書物を売りに出せしとき、スウェーデンの女王(この人は男装して、ハリカタの名人、また男妾を幾人ももちし人)これを買いたる上、望み通り以上に仕払うのみならず、その書籍をスウェーデンに移すに及ばず、ジーデローのパリの宅に預かりもらい、その預かり賃として一生年給を出せし。岩崎男などは訳の分かった人ゆえ、やり様によりては年給はどうか、右ほどのことは出来ることと存じ候。故に解散したところが、左までこまることにあらず。ただ悴が明後年より大学に入らざるべからず、その出資にちょっとこまりおり申し候ゆえ、是非弟方にある亡父の遺産をもらわざるべからず。かかることにかれこれ口を出すは必ず女人の力に限ると小生は存じ申し候。しかしながら女人言等のことは一切小生は言わず、ただ研究所の経歴と亡父の遺産のことを述べて、前方が何を申すも談判はせず、ただ此方の要求を一通り述べてその後は黙してすわりこみおることと致すべく候。その上前方より厳談がましきことあらば、それはまたそのときのことに候。
 右申し上げ候。                  早々謹言
 
     35
 
 大正十三年二月十五日夜九時前
   上松蓊様
 
(94)                      南方熊楠再拝
 
 拝啓。一月二十七日付御状二十九日に拝受。ちょうどその翌三十日午後一時に拙妻の母死亡(拙妻は一月二十二日朝和歌山へ参り、二十七日夜帰宅、それより三日めに死亡せしなり)、和歌山で火葬致し、拙妻の妹夫妻その骨を持ち来たり、三月十日に葬埋、十二日に和歌山へ帰り候。これらのことのために拙妻いろいろ取り込み、それがため御返事後れ申し候。
 小生は英国にて緊要の学問上の題目出で、小生にあらざれば答うるものなき様子に付き、ちょっと二週間ばかりかかりて認め、ようやく一昨日(十二日)出し申し候。これはスイス国のチューリッヒ市の中古の伝説にて、シャーレマンがフェリッキスおよびレグラ二尊者殉教の遺跡に鐘楼を立て鐘を懸け、誰でも冤訴あるものはこの鐘をつけば大王みずからその訴えを聞き、判官をして再審せしむる定めとす。しかるところ諫鼓《かんこ》苔蒸して鶏驚かずの例で、誰も冤訴のものなきほど太平なりしにや、この鐘の下に蛇が住み子を生む。ある日天気晴朗に乗じ母子つれて散歩に出る。帰り見れば蟾蜍《ひき》がその巣を押領しおる。(御存知通り欧米では古今蟾蜍を大毒物として悪《にく》むなり。)蛇如何ともする能わず、その鐘を鳴らし大王みずから訴えを判じ、これは蟾蜍がよっぽど悪いということで兵士を召して蟾蜍を誅戮す。その礼として蛇が玉をもち来たり王に献ず。この玉を持つものの一身に王の寵愛集まるはずで、大王この玉をその后に与うると、それからちうものは大王后を愛することはなはだしく、他の諸姫妾はことごとく非職となる。後年、后病んで崩ずるに臨み、もしこの玉が他の女に伝わることあらば大王またその女を后に冊立し自分のことは忘失され了るべしと思いて、その玉を舌の下にかくして崩ず。さて、大王后の尸《しかばね》をマンミーに作り一度は埋めたが、何とも思い切れず、またこれを掘り出し自分の室に十八年の長い間安置して朝夕これを抱懐す。内豎の少年不審に堪えず、いろいろ考えて后の尸を捜すと舌根に件の玉あり。それを盗み持つとそれより大王の寵幸この少年に集まり、后の尸を一向見向かず。不断常住この少年を愛することはなはだしく、少年も追い追い年はとるが元服も許されず、毎夜毎夜(95)後庭を弄ばるるをうるさくなり、ついに温泉のかたわらなる沼沢中に玉を棄てると、それより大王またその沼沢を好むことはなはだしく片時もその辺を去らず、ついにアーヒェン Aachen 市をその沼に建てて永住した、という話で、教授ベンスリー、この話原を十二月十五日の『ノーツ・エンド・キーリス』で論じたが、十分に分からぬらしい。
 この話の前半分は鬻子《いくし》(春秋の楚王の先祖で、夏禹王の姉たりという)の書に見える。すなわち夏禹王は五声を判して天下を治めたというので、王宮の入口に鐘、磬、鐸、鼓、?(フリツヅミ、西洋になきが古ユダヤ人の用いし tympanon《チンパノン》に一番近し)の五楽器を具え、それぞれ用事に随い特別の楽音をたたかしむ。かくて遠慮なく王を見て小言をのべ異見を言わしめたるなり。『管子』には、禹王宮前に鐘をかけ、冤訴あるものにこれをたたかしめた、とあり。『呂覧』には、堯帝が諫鼓を宮前に立て諫言を進めんとする者にこれをたたかしめた、とあり。日本では、孝徳帝大化二年の詔《みことのり》に、宮前に鐘を懸けて諫言を欲するものにたたかしめた、とあり。支那書にはあまり実際用いた由は見えぬが、九世紀(唐末)に支那に遊んだアラビア人紀行や明《みん》のころ支那に遊んだ宣教師の書を見るに、実際かような鐘をそなえあったらしい。(アラビア人の紀行には、その鐘をダラと呼ぶとあり。これはドラにて、日本で銅鑼をドラと呼ぶは唐のころの通用の音という証拠になる。車などもシャと訓《よ》ませある。故に今の北京音ツンロ、シェなどよりは、日本に伝わる漢呉音の方ずっと古く正しき発音と判る。)この支那の諫鼓や鐘のことを西洋へ伝訛せしなり。
 後半の、ある物(玉なり何なり)を蛇が礼にもちくるということは、支那、インド共にその話あり。アラビアにもあると思う。もっとも名高きは、『荘子』に見えたる隋侯の珠で(多く費やし少なくもうけることを、隋侯の珠を千仞の雀に抛つという)、そのわけは晋のころ出来た『捜神記』に出ず。隋侯が斉国へゆく途中、熱沙上に小蛇が頭より血出て苦しむを愍れみ水中に入れやると、二月へて帰途そこを過ぐる際、小児あらわれ球をくれる。小児より物を貰うは大人気ないとて辞し去ると、その夜また夢に見え、われは前々月|援《すく》い下された小蛇なり、ぜひこの球を受けた(96)まえとてのこし去る。眠さむれば床頭にその珠あり、希有の明珠なり。持ち帰り王に奉り、それに対する下賜金で一生安楽に暮らした、とある。
 最後の、ある物(玉等)を持つと人に愛せられ、その玉を他人に伝うると愛もその他人に移るという話は、ずいぶんありそうなことながら今に一つも見出ださず候。ただし、ある物をもつと人にきらわれ、その物を他人に移すとその人がまた嫌わるる話は、『宋書』にあり。休祐という人毎度宋の明帝の前で失言して怒らる。不審に思ううち?道愍という笏の相師が、その笏を見て、この笏は貴人のもつ物ながらこの笏をもつ人は必ず帝王に嫌わるる、というた。休祐感心して、?彦回は非常に謹密な人なれば試みにその笏を換えてもらうと、さしも謹密なる彦回が笏を換えて数日ならぬに帝の前で失言して大いに不快を招きしところへ休祐来たりて、実は試みにこの笏を取り換えたからと解いたので帝の怒りも釈けた、とある。
  この論かくに三十七部の書しらべ、ずいぶん骨折れ申し候。
 ベンジャミン・キッドの語に social efficiency と申すことあり。西洋の人みな東洋の人に優れるにあらず。しかるに今日西洋の人が東洋の人よりえらいように西洋人がもっぱら思うは、たとえば小生ごときものが、そりゃ隣町に事が起こったと聞いても、火事なら消防器、大水なら防水具、訴訟なら弁護士、つかみ合いなら?客を、さっそく遣わし治めるという力なきに反し、三井とか三菱とかいう大家ならば、それぞれ無事を計るべき備えがちゃんとととないおる。そのごとく、文事に武備に工事に商事に済世に衛生に、西洋にはその機関準備しおり、東洋にはどうもそろわぬ。兵事のみは日本の誇りだったが、これも華府会議で腕をぬかれ了り、医術くらいが少しましなれど、それも金がなくて思わしくもならず、学問に至っては彼方の人もっともおのれを空しうして推尊自他を分かたぬところなるが、かなしいかなわが邦にあんまりこの準備のある人を聞かず。不敏ながらその方に永年準備しあるゆえ、時にふれ折に臨みかようのことを論じて示すも止むにまさるの効はあるべしと、右様の頼まれもせぬことに骨折り申し候。『ノー(97)ツ・エンド・キーリス』などは、かの邦には図書館ごとに備えらるる必読のものなれども、日本には名号さえ知った人はなく、わずかに京浜間の洋人が読む由、それも十人はなき由に候。田中長三郎氏に聞きしに、米国などにはクラプごとにこの雑誌をそなえある由。
 小生和歌山へ上ったら、高田屋寓居のとき同前非常にゆるりと長くなるかも知れず。貴書にも示されし通りむやみに事を破壊するは易く、悠々事をとりまとめるは気を良くもたねばならず。小生はそのためにずいぶん修養致し、ギリシアのゼノクラテス同様夢をもって自分の試金石と致し候に、このごろに至りようやく夢中に怒りても多少制抑すると夢みるようになり申し候。されば右様の論文今二つ終えた上、いよいよ上り申すべく候。和歌山辺は当地とちがい、淡水藻の産地はなはだ多ければ、その間に淡水藻の図を生品より製せんと欲す。これは集金まとまらばさっそく出版するためなり。しかるに前年貴下が下されしカメラ・ルシダのワクは、小生もっともしばしば使用するわずかに五十倍−二百倍くらいの簡単なる顕微鏡にどうしても小さ過ぎて合わず、何とぞその簡単なる顕微鏡の筒にあうようにワクを作らせんと思えど日本では出来ず。貴下より下されしカメラの製造元(米国)では寸法さえ書き付けておくれば作りくれる由広告あり。この筒を東京へ送り、万一途中紛失また損害あってはこの簡単なる顕微鏡(フィラデルフィアにて作れり。その会社は今なし。またかかる簡単強固安値なる好顕微鏡は今どこにもなし。かつ小生南米までもち行きその後も今に不断役に立ちおるものゆえ、雄鹿の角の束のまも身《みずか》ら離すに忍びず)は、その用を全くなさぬに至る。小生の眼に多年もっとも馴れたるものにて、菌や藻の外形を通過光線にても反映光線にても、咄嗟の間に用い得る結構にてなかなか便利なるものなり。(只今は弁慶の七つ道具のごとくいろいろと付属器多きほど事がむつかしくなり、咄嗟の間に合わず。)故にこの顕微鏡の筒の直径を小生精細に画きかつ測度し、書き付けてそれに合うワクを注文せんと思うが、カメラをあのワクよりこのワク、このワクよりかのワクと、はずしたり加えたりすることが阿漕が浦のたび重なれば、また必ず珍事|出来《しゆつたい》して棹がゆがんだり、鏡がはね落ちたりするものなれば、いっそこの簡単(98)なる顕微鏡の筒相応のワクを作り、それに前年貴下より下された通りのカメラ・ルシダ一切一揃いを揃えて注文せんと欲す。このこと貴下おついであらば御聞き合わせ、大抵いかほどなりや、またその代金は前納すべきや否をも御聞き合わせ下されたく候。
 小生顕微鏡多くもつが、右の簡単なる顕微鏡は日夜入用にて、例せばこれほど(1)の大きさにカビの全体を図するはこの顕微鏡に限り、他の顕微鏡を用うればいずれも大きすぎてかくのごとく(2)そのカビの一部分しか写し得ず、不用のことに力を尽すこと大にして結局精細に過ぎ大体のことが分かり難きこと多し。自在画法にてやってのけおるが、それでは諸部の大きさを精細に観測すること成らず、大きさの観測にはぜひカメラ・ルシダを用うるを要し申し候。
 筒の大きさを測るは必ずしも筒を東京まで送るを要せず、当方にて精測し、またその確かな図、すなわちかくのごとく紙の上に筒をおき、精細に鉛筆にて輪をえがけばよきことと存じ候。少々実物とちがうともその差《ちが》いはわずかなことで、ワクの一方にこんな口あり、ねじののびちぢめで多少ワクの径が広くなり、狭くなりして筒に合うものと存じ候。
 前日御恩賜のやつのワクは、その直径が小生顕微鏡の大抵のやつに合うが、ただ右に申す簡単なやつの直径より狭くて、どうしても合わぬなり。(イ)なる径が(ロ)なる径より短きなり。いかに(イ′)なる口をひろむるも(ロ)なる径の長さほどに広まらぬなり。右当用のみ申し上げ候。  早々以上
   尚々
(99) 政友会われたに付いて、当県撰挙界も事むつかしくなり、数日前人力車より落ち負傷ときく中村啓次郎氏は、和歌山市より打ち出る久世豊忠とやりあうらしい。また、岡崎邦輔氏従来の独占地よりも今二名候補者出で、岡崎氏をたゝき落としにかかるらしい。こんな騒動にて毛利氏も和歌山市まで還りあれど今に当地へ帰らず。新聞社の職工六名ストライキを起こし、数日前騒動、ようやく二名帰り来たり、昨夜出すべき新報を今夜配達せしようのことなり。故にこの際小生和歌山へ上りても、撰挙のために、小生の集金などに骨折りくれる人はなかるべし。しかしながら小生は要は家弟の方の方を付けるが第一義の専要事なれば、その方さえ方付かばよきにて、その他の分の集金は後日としても宜しく、あまりに家弟の方をすておきて、そのうちに不慮の災難など起こらば、全然とり返しの付かぬこととなるべければ、とにかく和歌山辺の淡水藻や地衣視察かたがた上り申すべく候。
 チョコレートは小畔氏神戸より拙妻の妹方へ多くおくりくれあり。食事等のことは小生幼時よりの好友あればその方にてどうともなるべし。貴下は何とぞ本文申し上ぐるカメラ・ルシダの件御かけあい下されたく候。  二白
 
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 大正十三年五月九日夜八時半書き始む
   上松蓊様
                        南方熊楠再拝
 
 拝復。五月七日夜七時付御状今朝九時ごろ拝受。しかるに小生自宅竹林の下なる竹の枯枝より Cylidrophora と申し、日本はもちろん英仏諸国にもかつて出されざる稀有の複菌を昨日とり(ドイツのウェストファリアのみにあり)、昨日鏡検して右の品と分かり、記図に余念なく、今夕六時ようやく結了、さて御状拝見致し候。イサリアは Pyrenomycetes には無之(イサリアと同送の Hypoxyron 二種どもが Pyrenomycetes に候)、Hyphmycetes 複菌に御座候。
(100) これは次の図のごとく Pyrenomycetes ありてその内に胞嚢幾千ともなくあり、その胞嚢一の内また胞子八つあり(または六または四または十二、種類の異なるに従いまたは無数等)この胞子にて spore 発生するが常なり。たとえば百合が花さき交会して種子を結び、種子にて繁殖するごとし。しかるにこれにては、きっと繁殖し得るか否覚束なきゆえ、別にその胞?より図のごとく菌糸 mycelium を出し、這いあるき、その上より図のごとき芽子体を生じ、芽子 cladospore を結ぶ。その芽子でまた蕃殖するなり。(胞子は雌雄交合の結果として生ずるも、芽子は雌雄交合を要せず、ただ枝より芽を生ずるごとく無性に成殖するなり。)たとえば百合が花さき実《みの》るをまつ間にややもすれば苅り取らるるゆえ、bulbil 芽種と申し、ちょうど百合根の小作りのようなものを葉の腋に生ず。これはほんの枝のように生ずるなり。雌雄蘂義の交合を要せず、その芽珠が地に落ちさえすれば直ちに成長して百合根となり芽を生じ得る。
 そのごとくピレノミケテスも胞子のみでは蕃殖十分に受け合われず。よってさらに余分に芽胞子を生ずる場合あるなり。しかるにジャガイモは花咲きながら実が少しもならず根よりのみ生殖し行くごとく、Pyrenomycetes その他の菌類には、芽胞子で成殖の方が手軽きゆえ胞?胞子を生ずること少なくなり、もっぱら芽胞子ばかりで生殖し行くものあり。また全く胞?胞子は絶滅して、芽胞子のみで毎年毎年生続し行くもあり。故に今となっては何の菌の芽胞子ということ分からず、ただ芽胞子ばかりでその植物が独立し行くものもあるなり。(近い例を引かんに、父子相続は世間法の条件ながら、芸妓とか女将とか坊主とか役者などいうものは家々代々相続するが、少しも父母交会によらずして養子で連綿とつづき行く、と大分ちがうが、父母交会によらぬ相続ということだけは同じ。しかして市川家、杵屋家、聖護院、壮巌院と久しくつづき行くと、後にはその始祖は果たして百姓が生んだか皇族の子だったかが分からなくなる。そのごとく、今となっては果たして何の菌の芽子世代だったやら分からずに、また分かる見込みもなくてただただ芽子でつづきおる菌多し。これをき、Hyphmycetes 複菌と申すなり。複とはもとそれぞれの本統の菌あり、(101)その胞?胞子相続の代りに芽子相続を始めたので、すんわち本菌の胞子世代で相続ならぬときの複位(ヒカエ)のために出来たということなり。餅にはえるカビ等、みなこの類の菌に候。
 小生はこの類を特に注意しおり、右の昨夜発見のシリンドロフォラなる複菌は、何の本菌のヒカエやを従来知ったものなかりしところ昨夜研究して Sordaria《ソルダリア》なる本菌(ピレノミケテス)の複菌と分かり申し候。イサリアまた複菌にして、冬虫夏草(日光でしばしばとりし Cordyceps 属のピレノミケテス)の複菌はみなイサリアなり。しかるに冬虫夏草は主として虫に寄生すれども、イサリアは必ずしも虫に寄生せず、木にも菌にも糞にも生じ候。故に Cordyceps 外のピレノミケテス類にして木や菌や糞に生ずるものの複菌がまたイサリアなるかも知れず、また Cordyceps のみの複菌がイサリアなれども、Cordyceps の胞子世代は必ず虫に付き、それより出す芽子は虫を好まず、木や菌や糞に付き生ずることあるかも知れず、これは一々いろいろとその胞子を種《う》えて試験するの外なし。とにかく今度のイサリア・ウエマツイは歴然虫に生じありたれば、この虫の死体をそのままおけば、今年冬あたりイサリアは去って、あとへ冬虫夏草なるピレノミケテスを生ずるかも知れず。もし余分あらば今年冬か来年正月ごろ一度行って見られたく候。しかるときは、この菌の胞子世態も複菌世態(芽子世態)をも知り得て大いに学問上の方付きがなり申し候。
 このことを申し述べ冬まで少々のこしおくことを頼み上ぐるを忘れしは遺憾に候。
 また右の複菌類はきわめて脆弱なものなれば、ことさらに乾かすは宜しからず。風にあて火にあつると芽子が飛んでしまい申し候。故にこれは紙につつみ箱に入れおき、さて乾きたるのち震動せぬよう綿にて紙のぐるりを軽くつめるより外なし。もし複菌が付きたるもの重くまた硬きときは、マッチ箱の底にゴムにて貼り付くるの外なし。
 高雄山の針菌は、「明日か明後日着の上申し上ぐべく候。また小畔氏のサルノコシカケは、かく生えたやつが日光とか地引力とかいろいろの事情により、かく前へ前へひろがり行かずにかく重層して生えたるまでのことにて、ちと大陣〔二字傍点〕の方ゆえ別段申し上げざりし。種名は閑時にしらべ申し上ぐべく候。(この類の参考書は多くもちあり。)イサリアの(102)蛆は蠅虻類と蚊蚋間の小さき蠅の蛆と存じ候。
 さて、小生今回品川御殿山日本精神医学会(番地なし。電話番号高輪一〇四三番)中村古峡(毛利氏知人にて高田屋へも来たことあり。大本教裁判に出でし人なり。大本教敗北は主としてこの人を敵にとりしにあり)氏望みに付き、年来連載し来たりし『太陽』の十二支獣(内、子丑二つ全く欠く)の話その他一切を五百円に売り候。しかし羊の年など小生一回しか出さず。また猴鶏犬猪の年は未完結なりし。また十二獣を十二支に当てたる総論を始めに付するを要す。これらは出来あり。子の年の分も『大毎』紙へ出しおり、出来あり。
 ただこまるは牛にて、これは全然出来おらず。しかしてこの牛というもの西洋で人民の主食たること東洋稲米のごとく、それにインドではことのほか牛を神視するゆえ、その話すこぶる多く、グベルナチス伯の『動物譚原』などは大著述なるに、その前巻(後巻より三頁多し)は全く四百三十二頁を牛のみに費やし、さて後巻四百二十九頁を豕《ぶた》を始め諸動物に費やしおれり。かく材料多ければグ氏の書を丸取り抜抄したらよいようなものなれども、日本の武士は名を惜しみ小生もまたあまりなことも出来ず。他の諸話と釣り合いをとり、例の和漢印蘭諸方の材料を精選して組み合わさねばならず。なるべく先人未発のことを述べたいから、まずその材料から集めにかからざるべからず。
 かくてこの牛の話を完結し、羊猴等の不足分を修補完結し、序論を清書し、『大毎』紙に出し、またまだ出さぬ鼠の話を清書して、来月中旬までに和歌山にもち上り、同地にて中村氏にまた五百円と引き換える約束なり。しかして清書は存外に骨が折れるから、その酬として別に百円寄付しもらう、つまり千百円に売りしなり。この十二獣論は従前も毎々諸方よりひやかしに来たり、小生もうるさいから中村氏の依頼を好機会として、小生和歌山にあるうち、妻子の活料と教育費のために千百円にて売り、五百円は本月二日の夜電信為替にて受け取りたるなり。
 しかるにここに難件生じたりと申すは、中村君より今日申し来たりしは、震災のため東京中の図書館に『太陽』そろいおらずとのこと。小生はかつてこのことを慮れるをもつて中山太郎氏に紹介状を書き、中村氏の子分に持たせ遣(103)わし、博文館にある『太陽』に就き、小生投書の分を写させんことを請い置きたり。それに本日の中村氏書状には、博文館にゆき中山氏に諮りしところ、同館にも『大洋』はなしとのことなり。さて中村氏は小生の『太陽』(拙文出たる分はことごとく蔵しおる)を貸さんことを求めらる。
 お安い御用といいたいが、小生は『太陽』に拙文出て後も昼夜これに気を配り、諸方よりの難問、忠告、報知、議論、また自分さらに見出だせし正誤、補記、解釈、後註等を巨細に細筆もて書き入れおり、ことに妨げになる一事は、小生は研究所確立の上は植物学の以外のことに没頭せざる心算ゆえ、今年初より昨夜までにロンドンへ二十文を送り、なお続々おくるつもりにて、それには丁付け、巻付けを始め参考書目等一切この『太陽』の書き入れを見れば一目了然で、大いに記臆の足しになり、時間を省くの便となりおれり。それを他へ貸しては、どうも足をもがれた蟹のごとく苦しまねばならぬ。また写字生の活版工のいうものは横着にて、小生もっとも大事にすることなどに一向気を付けず、この『太陽』ごときも最初は一文出るごとに二本ずつ備え置きしが、前年出板してやるという人ありてその宅へもち行き写すうち紛失され、またはなはだしきは墨だらけになり何ともならず、止むを得ず捨てしもあり、ようやく博文館へ申しやり取り寄せて置きたるが今手許にある本なり。すでに東京でさえ希有となりたるものをこののち小生の手で集め得べき様なければ、すでに受け取った五百円返却してまでも貸すことはならぬなり。
 しかるにまた考えるに、『太陽』はずいぶん多く印刷配布されたもので、東京中に蔵した人はいくらもあるべし。山手辺の一向震災に焼けなんだ所の小学校などにはあることと存じ候。また一私人にしても浅田江村氏、坪谷水哉氏ごとき、いずれも火事にあわなんだ人なり。この人々古く『太陽』に関係し主筆たりしことゆえ、『太陽』は保存しあるべしと思う。その他にも愛読者にして保存したる人は多かるべし。小生は四月八日よりずいぶんこのことに苦心したるに、今にしてジャンとなり、五百円はフイ、あとの六百円もフイとならば、カッパに尻を抜かれたるの感なくんばあらず。よって貴下何とか中村氏と協力し、左の諸号は買い入れまたは借り入るることに苦心下さらずや。小生ま(104)た平沼氏を始め大抵の知人は九州の果てまでも奥州のさきまでも発状しおけり。故にそれらの人より何号何号は貸しやるべしといい来たるごとに貴下および中村氏へ報告すべき間、それぞれを抜きにして、その余を集めるということになし下されたく候。しかして力の及ばぬ分は止むを得ず小生みずから写し、画は自分写すか、またこみ入った画は、その『太陽』の稿本の画をかきし人ちょうど当地に来寓しおれば、その人に写生させ送ることにせん。ずいぶん長いものゆえ全稿みな写すは大儀ながら、半分くらいなら小生と悴とで夜をこめて写し得るなり。むろん小生はその酬料をもらわざるべからず。また貴下へも時間代くらいは小生より賠い申し上ぐべく候。
 当地におりてかれこれいうよりは、中村氏は貴宅の近処また電話もあれば、何とぞ小生より委托を受けたると申し立て(小生よりもこの状と同時に中村氏へ申しおくる)、協力して御探し、さて力に及ばぬやつ半分ばかり、またそれより少なくなりたるとき御申し越し下されば、小生は和歌山上り少々おくれてもみずから写し取り、中村氏へ送るべし。このこと今夜この状に引きつづき中村氏へ申し送るが、貴下よりも何とぞ電話をもって御交渉願い上げ奉り候。
 撰挙は、昨日より投票始まる。山口|熊野《ゆや》氏昨日より田辺へ来たり、毛利氏加勢にて大戦争らしい。これが済めばたちまち和歌山へ上るべきところ、右の千百円のことでまた一月ばかりおくれ申し候。しかしなるべくは妻子のために借金などいささかもするよりは、自前でそのあてがいをなしおきたくて、かくのごとくに御座候。ことに小生和歌山へ上りおるところへ中村氏下り来たり、六百円交付されたら大いに威勢も付き申すべく候。毎度御面倒のみ申し上げ恐縮なれども、和歌山一件方付き次第、一度御来遊を願い、姉の一族が開きおる白良館の大臣室にでも泊り、御礼を兼ねて大快談をやらかすべく候間、何とぞ右の件面倒を御見下されたく候。
 右諸方へ聞き合せ状を出すに、ことのほか手筆を要するゆえ、昨日午前十一時に起きしきり、昨夜来顕微鏡写生今夕終了、さてこの『太陽』一件にかかり今夜も眠らずに三、四時までかかることに御座候。労々活を逸し死すと申すが、小生ごとく苦労するに何の身心にさわりもなきは、死んでどんな処へ往ってもやはり苦労は絶えぬはずと、法身(105)如来説を自得したる一徳と悦び申し候。
 まずは用事のみ申し上げ候。                     謹言
    (付)雑誌『太陽』所載南方熊楠文篇目録
 十八巻 一号 明治四十五年一月 猫一疋と致富物語
 二十巻 二 五、九号 大正三年一月、五月、七月 虎に関する史話伝説、信念民俗(一)および(二)
 二十巻 二号 大正三年二月 支那民族南下のこと
 二十一巻 一号 大正四年一月 兎に関する民俗と伝説
 二十二巻 一、二、三号 大正五年一、二、三月 田原藤太竜宮入りの譚
 二十二巻 十四号 大正五年十二月、二十三巻 五号 大正六年五月 戦争に使われた動物
 二十三巻 一、二、六、十四号 大正六年一、二、六、十二月 蛇に関する民俗と伝説
 二十四巻 一、二、四、五、七、十一、十四号 大正七年一、二、四、五、六、九、十二月 馬に関する民俗と伝説
 二十五巻 一号 大正八年一月 羊に関する民俗と伝説(一)
 二十六巻 一、二、五、十三、十四号 大正九年一、二、五、十一、十二月 猴に関する民俗と伝説
 二十七巻 一、二、三、五、十四号 大正十年一、二、三、五、十二月 鶏に関する伝説と民俗
 二十八巻 二、三、四、十四号 大正十一年二、三、四、十二月 犬に関する伝説と民俗
 二十九巻 一、四、七、十一号 大正十二年一、四、六、九月 猪に関する伝説と民俗
 中村氏が小生の書いたものはどれだけあるか、画が入りあるかなきかなどのことをも知らずに、五百円送り来たりしは合点行かず。たぶん誰かがこれを出板したくて中村氏をして仲立ちせしめしにあらざるか。しかして最近十二獣(106)の外に「支那民族南下のこと」と「猫一疋で致富物語」をも合わせて五百円とかけ合い来たれり。しからば『太陽』を持ちおり、小生が書いただけのものをみな知りおる人が奥の間にありて中村氏に指図するように思わるるなり。しかれども小生はそんな無用の穿鑿をするひまなく、ただただ和歌山行きの留守を気遣い、妻子を安心させんために千百円ほしくて契約せしなり。(契約書は出しおらず、書状で承諾せしのみなり。ただし五百円は受け取れり。)もし小生推測のごとく『太陽』一通りは誰か奥にある人がもちおり、今一つ活字するときの手本にほしき(謄写の労をはぶくため)とて小生のを貸せと言い来るようなことならば、われらむやみにさわぐに及ばず、中村氏およびその子分等が買い求めて可なることと思い、とにかくその望みにまかせ今夜調査の末間違いなきところ、小生『太陽』へ出せし一切の目録を、中村氏へこの状と共に明朝出すなり。
 大正十三年五月九日夜十二時
                        南方熊楠再拝
   上松蓊様
  貴下何とか名案なき物にや。
 
     37
 
 大正十三年十二月十日夜十時
   上松蓊様
                        南方熊楠再拝
 
 拝啓。一日付御状は四日に、小包は五日に拝受仕り候。しかるに小生この年五月三十一日に切り候鼻たけ、また三個まで生じ、悪性のものにて呼吸むつかしく、かつ気分はなはだ宜しからざるより四日朝また切断、出血数日止まず。(107)一昨日あたりより快方になり申し候も、その余力のため歯の根悪くなり今日よりまた歯科医へ通いおり候。これらのことのため御返事大いに相後れ申し候。
 貴兄君より御たずねの猫のことは、わが国には自生の猫は対馬および隠岐と韓国の間の猫島と申す(竹島とも申す)小島に野猫一種あり。これは飼うことのならぬものなり。今ある家猫はのちに支那または朝鮮より入りしものと存じ候て、猫をカラネコと訓ませたる例多し(薩摩にては今もカラネコという由)。支那には、『礼記』に猫が田鼠をとりくるるを徳としてこれを崇めしこと見ゆ。『源氏物語』や『枕草紙』には猫を養うたこと見ゆれば、まずは平安朝の前、奈良朝またそのまえの聖徳太子前後より入りしことと存じ候。六畜に猫を入れざるは、六畜は主として支那で食用にするものにて、猫は食用に供せざりしことと見え申し候。欧州にもギリシア・ローマの昔はフェレット(イタチごときもの)、イタチ等をして鼠を捉えしめしが、今の猫は中世紀に入りしものの由。
 大谷のり難有《ありがた》きことに美麗なる品に候。これは故矢田部博士は Prasiola 属のものとせられ候も、小生検するところ Monostroma 属のものと分かり申し候。ちょっと画にかきにくいが前者は細胞の中の葉縁分が中心より放線状に発射しおり、後者は壁にそうてはりつめおり候。ビンの真中より緑色の緒を八方へ放出せると、ビンの中へ緑色の紙を巻いてなげこみ、なるべくビンの内側近く張り出せしとの差いなり。
 三峰御採集のかくのごとき赤き粒多きものは Nectria 属の硬嚢子菌、こんな奴は粘菌 Didymium squamulosum Fr. と申す大大大陣笠。ただし本品は短き茎が橙赤色なり、かかるものは稀有なり(大抵は茎の色白し)。また本品は茎になるべき分があまり、イチゴの蔓のごとく長くはいあるきおる。かかるものは小生初めて見る奇品なり。書物にて見しことなし。
 今一つ Ceratyomyxa 状の白きものは例の Isaria 属のものなり。これはあるいは新種と存じ申し候が、田中氏今にサッカルドの複菌部を贈り来たらざるゆえ、調ぶるに由なし。この人もずいぶんきたなきやり方なり。
(108) Fabre の伝記は小生当分読むべき暇無之候。あるいはすでに小畔氏より御聞き及びならんが、小生多年菌類研究の基点としある当地闘鶏神社の神林を毀損せざるよう、七年前故鹿子木知事に申請して、右神社近き製糸会社の工場は、北風の吹く冬中およびその前後を合して半年は石炭をたくことを禁じありし。しかるにこの会社経営むつかしく廃止しありしを、拙弟の悴の舅吉村という多額納税者が安く買い落とし、代議士隅田豊吉をもって年中間断なく石炭を焼く許可を出願せし由、当町の刑事巡査が前月下旬教えくれ申し候。
 右の吉村より拙弟の悴へ妻が来たりしときの装束は、三越より毎月出す衣裳趣向の雑誌に着色板で出でおり候。その時米高く、小生の持った田地より上がる米はいくらに売れたか知らず、小生一家は?というものを麦に和して餓えをしのぎおり申せし。
 右の隅田という者も多額納税者にて、拙弟の縁者なり。かつて小生の書斎に来たり小生多年学問に余念なきの状を知る。しかるに小生に何の通知も相談もなく、この輩が右様のことを出願し、拙弟また何ら関知せざるもののごとく看過するは、骨肉の関係上より見るも、また研究所設立を慫慂せし事歴より見るも、ほとんど人類の所行にあらず。また去年中に田中長三郎氏より金千円返却ありたるを近ごろ田中より小生へ申し越すまで一向小生に知らせざるなど、最初研究所創立を小生に強いて勧めしに相応せぬやり方なり。よって小生より、かかる上は何とも致し方なきゆえ上県して知事へこのことを抗議し、それがきかれずば上京して加藤首相に告げ、それも無効とならばロイド博物館と大英博物館との関係上より、英米二国大使を頼み、わが政府へ注意しもらい、小生は和歌山界隈の労働者を集め、かかる不埒我利一偏の資本家には、一切労働者において温情を持つに及ばず、手厳しくこまらせやるべし。一体わが邦の労働者というもの何たる本志も本意もなく、ただただ一銭でも高く工賃を貰い即夜つかい畢りまたはたらかんというような根性では、幾代たつとも立身安命の世は来たるべからず。それよりは子孫や後代の安命立身を期せずに即身即仏儀に取りかかり、当身自分只今から面白く人世を翫味しかかるべし。すなわち工賃を上げることばかり欲したとこ(109)ろが、これで足るという時節は来たるべきにあらねば、只今より直ちに自娯自安にとりかかり、なるべく辛抱出来るところを辛抱して衣食を節し悠々自適の精神修養にとりかかり、歌俳諧や茶の湯とまで行かずとも、魚釣り、川柳、生花、どど一、それぞれ銭がかからずに面白きことにかかり、また子供に発明発見の力を発達させ、その結果は労働者のみこれを所有専行して決して資本家に授け頒たぬ方法をとるべし。婦は家にあり織り夫は土作労苦してそれぞれ自活自営し、決して資本家のために働かぬこととすべし。しかるときは資本家は金の外に力なきやからのみなれば、必ず長からぬうちに死に果つべし、と教えまわるべし。また米英二大使よりこんなことでわが政府が注意を食らいしとあっては、それこそ為替下落以上の大不面目なりと宣言書をかきおくりしに、舎弟大いにあわて吉村が横浜よりかえるをまち談せしに、そのまま願書をとり下げ申し候。
 一方毛利へこのことを通知せしに、毛利ちようど県会にて多数紀北のものどもに対し、少数(主として紀南のもの)を結合して大騒ぎを起こし、中に水平社出の議員あり、議長をどやし、また火鉢をなげ付け、毛利自身も組討をやりし等の騒動最中にて、毛利さっそくこのことを県会へ打ち出し、県吏等もってのほかの重大事と心得、決して石炭をたくことを許さずと約束せり。そんなことにて吉村もさっそく願書をとり下げたるなり。
 しかし拙弟およびその縁戚のしかたも、実に小生を親類外のものよりも軽視したるやり方で、小生これを憤るあまり鼻が急に充血し呼吸出来ず、すでに重態となりしを、切断して一昨日あたりより血はとまり申し候。よって毛利が東上せぬうちに小生毛利と同伴もしくは自分単独で和歌山に上り、すでにかくまで小生を骨肉外のものとする以上は、一切手切れを望むとて何もかも持ち帰らんと欲す。県会は明日あたりしまうから、おそくとも二、三日内に和歌山へ上ることに候。とてもちょっと還るわけに行くまじければ、書籍機械標本を多くもち上り、拙弟方に長々すわりこみ、かの宅にて研究を継続し、それぞれ仕上げて発表せんと欲す。またそのひまひまに父兄の旧知やその子弟を尋ね、一円二円ずつでも寄付を乞わんと欲す。寒さ一日一日烈しくなる時節、ずいぶん難事なれども、人間いずれにおりて安(110)しということの一日もなき世界なれば、止むを得ざることに御座候。なお毛利とも話しまた妻にも言い付けおき候間、いよいよ事叶わざるときは貴下御下り後事の処分をなし下されたく候。(すなわち談判して一、二の大口の寄付金をもらうこととし、その代りに小生の物一切を大学へでも寄付し、さて、そのもらいし金の内より四千五百円舎弟へ払えばこの宅をくれる、それはすて売りにしても三万円にはなるなり。それにて妻子は暮らし得るなり。小生は世界に望みのなきものなれば、死ぬまで舎弟方におり、死尸は帝大へ寄付し、どこまでもプレパラートにして全国の学校へ配り分かたんことを望む。そのため知事その他の認可をとり手続きをなしおくなり。)
 急ぐことにあらざるゆえ、ゆるゆるとすわり込み談判致すべく候。
 脳悪しきゆえ綿密なことは書き得ず。いずれ和歌山着の上申し上ぐべく候。御状は当宅へ下され候わば、その都度小生何の地にあるも妻子より転送致すべく候。               早々敬具
  粘菌大王また芝公園にて希有の粘菌を見出だす。図のごとく木魚のごとき形にて、茎赤く胞嚢鉄色にして紺青の虹光あり、橙黄色またウグイス色の斑点あり。きわめて美なるものなり。Physarum Bethelii という種にもっとも近し。それは米国コロラドの外に産せざりしものなり。
 
     38
 
 大正十四年一月二十三日早朝四時
   上松蓊様
                        南方熊楠再拝
 
 拝啓。十七日付御状十九日拝受、御令嬢および尾田氏母堂御遠逝の御儀御悼み申し上げ候。貴下とかく近ごろ御健康すぐれさせられざる趣き、はなはだ痛心の極みに御座候。なお当方ことも前日申し上げ候ごとく去る十日荊妻和歌(111)山に趣き、十一日にその妹および妹夫田村密夫(和歌山裁判所監督書記)と常楠方へ赴き、午後三時より八時まで談判、談判は主として妻妹これに当たり候ところ、常楠の妻子二人側に来たり種々嘲弄暴言ごときことを吐きちらせるも、荊妻の妹またなかなかのえら者にて、おめず臆せずこれに応酬し、当日は方付かず、十三日の夜常楠自身一人にて田村方に来たり申し出でしは、
一、寄付金二万円の代りに海草郡松島の地所(耕地といえど実は宅地なり)二町余を小生に送ること。
二、常楠みずからその縁戚より寄付金を集めること(五千円ほどなり)。
三、過ぐる二年間滞りおる小生への月々の仕送り生活費は弁償せず。
四、この小生の住宅は四千五百円にて売譲することならず。ただし永く無代にて従来ごとく住み研究に使用すべし。
 他日常楠方景気好くなりたる上譲与し、または売り渡すことあるべし。
 右の(一)田地は小生亡父よりの遺産なり。それを過ぐる大正三年十月小生が常楠と末弟楠次郎の喧嘩調停に腐心し、また癰《よう》の病み上がりで日々苦しみおりしに乗じ、小生金銭のことに無頓著にて実印を預けあるに乗じ、小生を欺いて自署記名せしめ譲与証書を作成して自分の物と書き換えたるまま今日に至れること、今度始めて小生は知り申し候。これは酒造家の常事として、納税期に百方苦慮のあまり一族の所有不動産を書き換えて融通するが常なりし。小生もその通りと存じ何の気もなく記名しやりしなり。それをそのまま今日まで自分の物としあるなり。
 (二)大正十年研究所を企て趣意書印刷の当時常楠が毛利宛の状にはその親戚よりの申込み約五千円の見込み、とあり。大正十一年四月小生高田屋におりしうち、常楠よりの来状には申込みすでに約五、六千円ありとあり。故に今さら集むべきにあらず。集まりたるものを押えおきしか、または集むべきものを集めざりしなり。
 (三)研究所成立後は研究所基本金をもって小生一家を養うは勿論のことなり。研究所不成立中の小生の月費を仕払わずというは不当もはなはだし。かつ常楠はこのことの首唱者にして小生承引せざるを万事呑み込めりとてすすめて(112)所長たらしめたるなり。毛利、上松、堂野前諸氏いずれも常楠を首唱者として働きくれたるなり。しかるに研究所の趣意書を配りてより以後の(小生在京中)小生妻子への月送り金また小生在京中の費用一切を(七千円ばかり)寄付金の内より差し引きあり。しからば小生はあたかも楠正成、名和長年などが綸旨を戴きしだけの有難さに一族打ち死を遂げて悔いざるようのこととなる。何を欲し何を頼みとして、一字書けば三銭になる筆耕をすてて物価の高い東京に長滞留したであろうか。実に不埒なことなり。かつ浜口氏等より常楠へ送りし寄付金の内より趣意書の印刷費三十三円を引きあり。首唱者としては実にいかがわしきことにて、首唱の実何処にある。他人すらかかることはせざるなり。
 小生知るところによれば、毛利、堂野前諸氏それぞれ小生のために費やせしもの多きも、まるで小生より償いをとらず、また常楠へも要求せず。貴下また趣意書の印刷費は自腹を切られたることと存じ候。このことちょっと御明示を乞いおくなり。必要の場合に臨まば他人すらかくのごとしと一言したし。必ず常楠のごとき者に憚らず、小生へ御知らせ置き下されたく候。毛利は前日常楠の仕方あまりなるゆえ、このことを言いて面折せり。
 (四)この家は小生みずからこの家が陸軍大佐渡辺和雄氏より売りに出たりと聞き出し、みずから和歌山に往き交渉を始めて常楠に買わせたるなり。五年内に仕払う約束にて四千五百円出しもらいたるなり。小畔氏よりの贈金に自分の筆耕料を合わせ三千円ばかり出来たるところ、第五年目二月に鉄条網のこと起こり、尋《つ》いで研究所のこと起こり、奔走してついに仕払うこと成らざりし。しかしながら最初小生の借宅住居はなはだ狭く、小生夏日など顕微鏡試験をなす間は妻が二児をつれて海浜にゆき遊び、家に帰りても試験のすまぬ間は門辺にむしろをしき、その上に臥してまちおりたり。その心労のため脳病となり、上顎を切開するに及べり。それゆえ今の宅は広くて妻のためにも小生のためにも児どものためにもよかるべしと思い買いたるなり。しかるに只今となりては二万円ばかり、またはそれ以上の価出たるゆえ、常楠の妻がこれを自分の女子に伝えんとてかれこれいうと見えたり。
 右様のことにて、小生は自分の亡父より伝えたる地処が自分に復《かえ》るは尋常のこと、何の難有《ありがた》くもなし。二万円寄付(113)するというてその代りに自分の地所が戻されたりとて何のこともなし、この宅は四千五百円出さば自分の物なり。その他の諸条もそれぞれ主張あって屈すべきにあらず。妻および妻の妹十四日夜帰り来たりいろいろすすむれども、それはただただ事を早くすませんとするのみ。かかることは早くのみすますべきにあらず。所詮この宅を売って二万円の寄付金を調うべしなどいいはらば、小生は妻子を離別し多大の書籍標本を持って常楠宅へ移り込み、そこで研究をつづくる決心に御座候。
 法律法律といえど、いかなる国にも法律の上に道徳と社会の制裁あり、小生前日和歌山へ往き見しに、小生の方舎弟よりは人受け宜しき方なり。故に和歌山へ帰りて同情を多人に訴うれば社会はかかる有財餓鬼を許さぬことと存じおり申し候。
 とにもかくにも妻とその妹、婦女の身として右様まで先方を譲歩せしめしは感ずるに堪えたり。しかるに、右述四条の常楠の申し出を妻と妻の妹より聞き取り小生筆記して(後日に至り知らぬなどいわれてはこまるから)覚書となし、妻と妻の妹の伝えしところ間違いなくば常楠とその子が記名調印すべし、もし妻と妻の妹の覚書に間違いあらば常楠みずから覚書を作り記名調印して送るべし、この二つのいずれも出来ずとならば出来ぬ理由を記して記名調印して送らるべし、いずれにしても、その記名調印せる妻等または常楠自分の覚書を見たる上諾否の返事をせんと申しやりしに、当方よりも記名調印したるものを出せといい来たる。それを見るに小生が右四条の申し出を承諾せし旨を書きたるものなり。それでは前方の覚書を見ずに承諾の契約書を送るわけになるから左様のものを出さざることと致し候。この上は妻の妹やその夫の仲立をたのまず小生みずから自筆文書をもって常楠にかけあい今少し暖かくならば自分弁護士をつれかけ合いに行くつもりなり。
 右の耕地は小生亡父より譲られたる時は九百余円なれど只今は三万円ばかり(あるいは六万円という)、和歌山の郊外、大阪街道ゆえ宅地として有望のものなり。これを何の苦もなく(実はこの耕地を奪われしことを小生前日和歌(114)山にあるうち、もと市会議長たりし人に語り、その人より常楠に交渉を始めたるなり。それがため評判悪くなるをおそれ)二万円の代りに寄付などいい出せしなり。また一つには只今のごとき小作紛議など多き世には小生ごとき世事に迂なるものが遠き地に田地を持つは至って難事なれば、しばらくするうち持ちあぐんでこの宅地と替えんと言い出すべし、しかるときは安値の方の宅地をやりて高値な田地を取り上げんとの計謀と見すかし申し候。兄弟の間にすらかけ引きを用い、退却にも一歩一歩ずつして敵を憊《つか》らす、実に実に気風の悪しき地方と存じ申され候。
 三百円のことは決して心にかけらるべからず。小生大勝利の日には、ぜひ今少し御援兵せめて貴下目立の端を啓かるるよう取り斗らい申し上ぐべく候。右文中に申し述べ候印刷費、貴下自腹きりの件は明白に御示し下されたく候。
 高田屋は大阪堂島裏町二ノ二五(北の新地の辺の由)におり申し候。
まずは右申し上げ候。                敬具
 
     39
 
 大正十四年九月二十一日午前二時過認
   上松蓊様
                        南方熊楠再拝
 
 拝復。十七日付御状咋二十日朝拝見、拙児今月十五日の夜よりまたまた発作、もっとも八月ごろほど悪くなけれども、快方に向かい記臆、思慮、考察等やや出で来たり候ての上の発作は、まるきり無茶苦茶の発作とかわり、事すこぶるむつかしく、ややもすれば僅少の所拠を基として種々異様の間違うたる考えを出し申すには閉口致し候。たとえば人が見舞の辞をのべなどすると、直ちにわれは今も十分違うておればこそかかる詞を受くる、実際自分は何の間違うたるところもなきにかかる事態なる以上は、一切見聞するところ、言語をかわす人々みな幻想なり、これでは到底(115)存世の要なしというような考えを出すらしく候。前日など岡田要之助氏よりハガキにて、御容体如何にや、暑気の折からよくよく看護なされんことを期望すとありし、そのハガキを病人自分が郵便箱よりとり出し小生に持って来たりしには驚き入り、さっそく岡田氏へそのハガキをおくり戒厳を望み上げしことに御座候。
 長々の病気に誰も彼もつかれはて、只今は小生もっぱらその任に当たり、毎朝八時また九時、十時ごろより夜の九時、十時まで書斎に本人と同居し、自分率先して画をかき、本人にもかかせ、標本の手入れ、紙箱や書籍の修理などさせ、容易なことばかりではすぐ飽きがくるゆえ、あかぬように時々難件を出し解釈させなど致しおり申し候。さて本人が寝入ってのち朝三時、四時まで自分の研究致して臥し、夢にいささか心腸を暢ぶると間もなく悴がまた起き出るゆえ、小生も起きざるべからず。実にくたびれおり申し候。医薬とか催眠術とかそんなことでは一時鎮静はすべきも、なかなか平癒するはずなし。ただただ辛抱して漸々に感化するの外なしと存じ申し候。
 御尋問の孫逸仙氏のことは古きことゆえ小生記臆たしかならず。氏が支那公使館に囚《とら》われしときいろいろ骨折り救出せし人は、マッカートニー MacCartney(Macは御存知のごとく之子《のこ》というスコッチ語にて、わが国の二郎太郎等の類なり。故にこの人はスコッチ人と察し申し候)、たしか孫氏の旧師たりし医師か伝道師と記臆致し候。ロンドンにありしときもっとも親交ありしは、小生とマルカーンというアイリシュ人なりし。マルカーンとはどう書きしか只今覚え申さず候。
 例せば小生の研究所のごときも、最初もっとも骨折りくれしは、堂野前、中村、毛利、また貴下等なり。しかるにいろいろと星移るうちには事態がかわるものにて、毛利氏は小生に二千円要求され申し候。(それは、骨折り料として堂野前氏と毛利氏自分の分を千円ずつと見て、二千円くれとのことなりし。もっとも毛利氏東京にて大いにこまりおりし震災後のことなり。)しかるに最初の申し合わせは、堂野前氏自身もいうごとく、小生ごときものの世話をするに決して世話料をとるべからずとのことなりし。故に今日まで堂野前氏はもとより、誰人も一文きなか〔三字傍点〕も世話料など(116)を申し出でられし人なし。しかるにいかに窮すればとて(妾を携えて東京に住むほどの人が)小生ごときものに(小生も実弟より道を切られ大いに究乏しおるは御承知のこと)世話料など、口外し難くまた口外せざるべき約束を破りて、要求されたるは、小生も拙妻も意外とするところなり。その前に下村宏君より百円の寄付金を、毛利氏が小生に納めずに費《つか》い果《おお》せることありし。大朝社の重役たる人が、亡父以来知人なる小生に百円の寄付は少なきに過ぐるとて、立腹のあまり飲んでしまえりとのこと。こんなことで小生なんとなく毛利氏に心をおき申し候。また昨年末小生と同道舎弟方へ談判に行きし夜も、明日また来訪すべしと言いながら、小生まちおるに来たらず、そのまま当地へにげ帰られ候。こんなこと重なりてよりは小生真実の内事を同氏に打ち明くるを躊躇致し申し候。さて後日幸いに研究所事成るの日に及び、われは研究所建設の元勲なりなど毛利氏がいいふらすとせば、ずいぶん小生も、また内幕を知った人々も、へんな気持のするは当然に候。
 乃木(子か伯か忘る)切腹ののち、石黒忠悳子しきりに乃木氏の心腹を知ったようにふれありき候を、よくよく従来のことを知った人が、石黒は別に乃木に別懇の心友にあらざりしとて笑い候由。どちらが実事か知らざれども、人が死んだ後にかれこれ自分もっともその人と懇意なりしよう言いありくは、おかしなものと存ぜられ候。
 ロンドンにありし日もっとも孫氏と懇交せしは小生なれども、小生帰国後和歌山へ同氏横浜の黄《ワン》という商主とつれて尋ねられしのち再会せず。また手紙はハワイにあるうち度々来たり、ハワイの火山で集めおくられし地衣標品も今に存するが、それよりのち全く絶信致し候。これは、舎弟の仕方が面白からず、小生熊野に流浪致しおり、いろいろ不便のためついつい絶信となりしものにて、孫氏は東京へ来るたびに初めのほどは書信して東京へよばれしも、小生は文なしゆえ話が始まらず、ついに返書も怠るようになりしなり。『西廂記』の主人公たる鶯々という女が張生とかと深く思いこんだが、張生事情止むを得ず久しく離れ流浪するうち、いろいろの事情より思わぬ方に身をよせてつまらぬ男の妻となり了りしという。実に本意なき限りながら世にこんなことは多く、何とも致し方なきときはまた(117)致し方のある方にとりかかるものに候。
 とにかく小生の弟の人間が上方流を極めたものにて、孫氏にちょっとあえば、直ちに店の酒を支那へ輸出する世話を頼みくれとか、小生が高野へ上れば、法主に高野寺院の用酒を一切自分方に任せくれるよう頼みくれとか、まじめでいう。
 小生海外にありし日に、米国のいなかにはかようの人物多かりし。小生キイウェスト島へ渡らんとて、タンパというさびしき港に船をまつに鉄道につみし荷物いまだ着せず、やや心配する色を見て、その旅舎にとまり合わせし弁護士小生の前へ来たり(日光|米屋《よねや》にありし写真師の流儀で)貴公五ドル出さば予この件を引き受け直ちに駅長に迫り電信でしらべしむべし、十ドル出さば今夕出船までに必ず至急荷物をとりよせこの旅舎まで持ちくるよう致さしむべしなどと、法律ずくめではなしかける。只今の米国人はいかがなりしか知らず、実に金をつかむことばかりに気を奪われて尋常の挨拶も出来ぬような人ばかり多かりし。舎弟はちょうどそんな人物なり。故に小生孫氏と何か議せんとて東上せんとしても、なにがな収獲が舎弟の身につかねば一文も支出せず。そんなことがうるさくて、小生は何となく麁闊にして過ぎおわりしなり。孫氏得意のとき一度日本へ来たりしことあり。そのとき和歌山の人々小生を囮《おとり》として孫氏を和歌山へ迎えんと申し出でしことありしも、小生は、この前に同氏が来たときの仕打ちを顧みれば和歌山の者がゆかば必ず門前払いならんと申し候ことありし。
 小生の紹介で孫氏にあうた人若干あり。当時小生異様の浪人を紹介せしとてぶつくさいいて顧みもせざりし人々なり。(内には大臣になりし人もあり。)それが孫が得意の世となれば、いかにも自分の親友なりしごとくに尋ねゆき、何ごとを語りしかは知らず、いかにも大議論でもしたごとく吹聴す。世はこんなものと存じ候。
 小生は孫氏に対し何一つ不都合不義理なことありしにあらず。また孫氏の百円を飲んでしまったり、孫氏に世話料を要求してはねつけられし覚えもなし。ただ人の交りにも季節あり、家康ごときも三河にあった日は、酒井、本多など(118)を唯一のたよりとし、関ヶ原がすむとそんな輩を見向きもせず(本多、榊原等、思うたほど封地をくれぬとて引き籠りて死せりときく)、藤堂とか板倉などいう新参の外藩諸候を大いに馳走され申し候。いかにほれ抜いたことある女も夫妻となれば恋愛はここに消滅すと西人がいいし同様なり。されば小生は以前は孫氏と別懇なりしも、自分の身のふり方上、止むを得ず不通となり申し候。(神戸でせし演舌などには、小生孫氏に語りしことより案出せりと思うようなこと多し。それは他日申し上ぐべし。世に伝うべきことにあらず。)さて孫氏身死せるのちかれこれと旧交のときのことをいうは、世話料を要求してはねられし人が、研究所完成ののちその世話をせしことを喋々すると同様にて、はなはだ面白からぬこと、小生は小生でまた大王の粘菌でも世に紹介して、いかようとも多少の名を出す工夫は多々あることと存じ申し候。
 この次第に付き、孫氏のことは今さらかれこれ御伝え申し上ぐるを好まぬに候。ただし孫氏が誰かに小生のことを話されLを聞きし人ありや。これ小生の聞かんと欲するところなり。
 孫氏も日本人にはずいぶんえらい目にあいおれば、一体に申せば日本人をとんと信用せざりしことと存じ候。故に、われは孫氏の腹心たりしなどというものあらば、それはなにかそれぞれ自分の為にせんとてのことと存じ申し候。しからずばよほど聡明を欠きし善人《ボンノム》ならん。
 もはや四時近くなり候付き一睡致したく、これにて擱筆仕り候。                早々敬具
  英国人を東洋より追い出すべしということは、ダグラス男が孫氏を小生に紹介せし当座で小生が申し出でしことにて、ダグラスも孫も大いに驚かれたるなり。
 
     40
 
 大正十四年十二月三日早朝四時認
   上松蓊様
                        南方熊楠再拝
 
 拝復。二十九日出御状一日朝八時着、菌多く手に入り記載のため多忙、かつ拙児全快のため長々のくたびれ一時に発せしにや、夫妻とも大いに弱り込みおり候により、御受書大いに相後れ申し候。今回粘菌総目録第三板を出すにもっとも遺憾なるは Breferldia maxima(最大の義)と申しあんもち〔四字傍点〕または馬糞様にて長さ五、六寸にも及ぶものがぼたりと枯朽幹などの根元につくものにて、それは冬中もっぱら生じ英米等には珍しきものにもなきに日本には今に一度も見たことなきに候。これは小生足悪く年来冬中外出せざる故と存じ候。しかるに近ごろ菜食ばかり致し、またタバコを全廃してより足が全くよくなり候。よって近日五、七日山野を跋渉して試採せんと存じおり申し候。貴下も御心かけ見当たらはたとえいかに砕けありても御送り下されたく願い上げ置き候。
 借金利用の妙諦一読、大抵今日和歌山辺の人々の法律に口を借りてすることどもの底が分かり申し候。よってちと〔二字傍点〕遅蒔きながら『六法全書』を暗誦し、また『大英百科全書』に就いて欧米の法律精神を一通り読みおり申し候。今度の「わしが国さ」に、小生の甥が、小生が二十年も舎弟方へ立ち入らざるゆえ顔を忘れたりなど申せしとあるなど(この甥は小生東上のおり旅費を携え難波停車場まで同行せしなり)、しかして『大毎』ともある新聞へかかること出でたるに正誤文を出さずにすますなど、この父子とも法律上何たる発言の力なきものという明証にて御座候。日本にては知らず欧米にてはかかるものを人格外の白痴と見做すが常に御座候。
 また『日本及日本人』十二月一日分に田中逸平という者が小生植物研究所に付き田中長三郎博士(長三郎氏は今に博士にあらずと思う。九大にて例のきざな米国風を発揮して気に食われず、九大の講師という名で実は日向の高鍋辺の高等農芸学校へおいやられおるなり)と葛藤を生ぜし、その真相をよそごとながら聞かんと尋ねたるも面会を得ざりし、とあり。この田中逸平というは塩谷宕陰の孫とか申す。前年酒二升携え小生を訪い来たり、いろいろ話して去り、(120)老子にあえる心地すなど書き立てたる人にて、その後メッカに参拝し(メッカもバートンが参りしころはむつかしかりしが、今はシンガポールより数十万人の南洋人が年々参るなり、それにもぐりこみてまいりしなり。この回徒というもの志賀重昂氏がいうごとくわけの分からぬもののみにて営養不良の我鬼なり、そんなものの牛耳をとるとか行く末をみてやるとか、日本人がりきみ返るは、真に○○を相手にするようなもので、中江篤介が大いにこまりしような結果を生ずべし。この輩いかなるうれしいことにあうも人に謝するということなくアラ・アクバ(神大なるかな)というて上帝にのみ謝するなり。そんなものゆえ日本の天子を仰ぐとか日本人を恩にきるとか、そんな念は少しもなし。小児が大人をあやかすような存念のもののみなり)、東洋同盟とかなんとかそんなことばかりいいおり、何も研究所に関係なきものに候。田中長三郎氏は、今も小生へ状を寄せ前年のことを謝し、数年内には必ず力を致すと言い来たり候ゆえ、人間はどこでたれに世話にならねばならぬも知れず、只今ある四万円を十年積まばそれだけでも研究所の一つはどうでもなる、そのときは来たりて応分に働き下され、といいやりあるなり。左様のことも知らず、田崎という人よりなにかききこみ、かようなことを申し出でて面会を拒まれたることと察し申し候。田崎という人は小生さらに知らず、また一文きなかの寄付の世話もしてくれてなし、まるで他人なり。
 『日本及日本人』は小生久しく無料で寄書せしが今年より小生の寄書を出さずなりぬ。よって小生も寄書をさしひかえおれり。ただし今度ただ一つ投書して出したり。載するか否を知らず。(三田村鳶魚、幸若舞をみて、幸若という児は一人だったよう心得おるらしいから、鎌倉時代のむかし妙法院に幸若丸という恋歌の名人ありしこと、後醍醐帝が山門行幸の節御前で舞うた幼童も幸若丸、幸寿丸と言ったことを述べ、つまり足利時代よりずっと前から幸若というは、秀八とか小三とかいう芸妓の名と等しく、僧に尻をほらす少年の源氏名のようなものということを知らせやりたるなり。出すか出さぬか知らず。)この政教社も三宅氏と別れていろいろ小言多く、寄付金を募りしも七千円ばかりしか集まらず、何となく面白からぬと見え候。
(121) 田中逸平氏とは引きかえ宮武省三という小生無面識の人、門司の銀行員か何かなり。年来民俗学上の文書を往復す。この人「高松叢誌』とか称し讃州高松の伝説古俗等のことを集め、一冊一円四十銭で四十部ばかり売る、その売上高を小生に寄付するゆえ入用の人あらば小生へ金をおくりくれたら、本は宮武氏より当人へ発送すると申し来たり。小生左様にまでして寄付してほしくもなきが、年来の知己としてこのことを貴下までついでに申し上げ置き候。ちょっと面白くかきあり。門司にて出板なり。貴下世話出来れば一冊送らすべし。この人は前年四十円ばかり寄付されたるなり。高松市は氏の生処なり。この人菌も集めて送らるること毎度にて、今度一新発見ありしゆえロイド氏に頼み氏の名を付けてもらい候。この人の通信に六鵜氏は今も健在し九州の山々を遊びまわり新聞記者に談しなど致しおる由。
 拙児は全快致し候。この者小生と同様のたちにて、行く末は如何と存じ、尋常の人間に仕立つべく中学校にやりしも教師のいうことなど耳に入らず、さて自学観察力勝ちたる様子ゆえ、また小生ようのもの出来ては如何と高中試験を受けにやりしに、発狂して帰り申し候。よって止むを得ず自宅にて自修せしめ、年来貯うるところの淡水藻をことごとく写生せしむることと致し候。出来次第われら父子の連合として公表するつもりなり。平沼氏買うてくれたるペッシェルの『淡水植物編』で大抵は分かるから英米二国を当分出し申すべく候。件の書に出でたる独語とラテン語は数の知れたものにて字引きさえあれば何の苦もなくよみ得申し候。今年はだめなれども小生和歌山へ上らば、いつまでも同地に根をおろし徹底的に集金するつもり(賛助者も多くあるなり)、その前に肉質菌の記載法と淡水藻の記載法を口授し悴に渡しおき、不在中それぞれ五、六種も集めしめ、小生は和歌山と高野で集め、さて当地へ引き上げ父子の分を合わせてすぐちょっとした本にするつもりなり(新種は不断英米で発表する)、その口授筆記を貴下へ進ずべければ貴下も貴地方にて記載下されたく候。中学などいうものはろくなことを教えず、拙児十九歳なるに筆のおそきこと驚くべし、よって只今芭蕉、其角を始め諸人の俳句集をあり来たり写させおれり。はじめはさっぱりなりしが只今は日々六、七枚は写す。字行もやや正しくなれり。この分ならば春までに口授の筆記くらいは出来ることと存じ(122)申し候。
 小生只今英京の書肆に郵便税等の借金、多く見積もりて七、八ポンドあるべし。これは震災ののち小生書を買うて送金せしに大阪の総局で六ペンス多く送りしなり。さて震災のあとかたづけの際このことが分かり当地の郵便局と大阪総局の争議となり、小生方にある為替金受領書をことごとく引き上げらる。小生は左様のものは出さぬといい張りしも(これは毎度当地の局のものが不敬なことばかりする仕返しに)、局員非常に困るというゆえ渡しやれり。それより長々と争議の末いよいよ大阪局で写しとる際六ペンス多く書き入れしと分かり大阪局がまけとなり候。これに長々時をつぶすうち英国より書留にせず発送せし書籍が小生方へ着せぬものあり。いつまでまちても着せず。そのうちに拙児の発病となり、何が何だか分からなくなる。よって荏苒《じんぜん》して今日に至れり。今となりてかれこれ言い立つるも水かけにて、日本人一同の面汚しともなることなれば、さっぱり前方の申し分どおり仕払いやらんと思う。平沼氏よりの申し来たりには大分為替の相場立て直せし由、故に只今が仕払い時と思う。故に貴地にて郵便為替一ポンドがいくらということ聞き合わせちょっと御知らせ下されたく候。当地は二等局になったから為替は当地の局で出来るはずなるも、外国為替ことに英国行きは滅多に例なきことゆえ、参考のため貴地郵便局の相場御知らせ下されたく願い上げ奉り候。
 英国などもわが国と同じくさっぱり風儀落ち了りしと見え、今度小生多年(一八九八年ごろより)投書し来たれる『ノーツ・エンド・キーリス』より小生に予約金請求書が届き申し候。小生でなければ解決の付かぬ問題多く年来小生は雑誌をもらう代りにかきつづけやりしに、この始末なり。かかるもの売れ行き少なくなりタイムス社で引き受けしもつづかず廃刊と決せしを、惜しむものがありていろいろと出来ぬ苦面をして編輯局をロンドンに出板所をずっと田舎におき(東京から申さば浜松ごとき)やっており、編輯の方は薄給ゆえ人が立ちかわり入れかわりおる。したがって小生がどんな履歴関係ありやも出板人の方は知らぬなり。さて拙児の病中右の書籍の方の債促《さいそく》など来てもなかな(123)か引き合わせは出来ぬから(書籍の発送目録と到着せる書籍と合わぬなり)拙児平癒まですておき、『ノーツ』の方は Oso y alcanforada《オソイアルカンフォラダ》(熊および楠というスペイン語)で書きおりたり。小生植物学の方は十分に出板自在ならず。世界的にやっておるのはこの『ノーツ』に毎週かく一事なれば、こればかりは四の五のいわずに予約価を払いやらねばならぬ。まことにくたびれ儲けに御座候。
 日本では一向聞こえぬが今年夏小生一問題を同誌に出し種々と論戦出でにぎわい申し候。それは日光の左甚五郎の眠猫像で、他にもワシントン・アービングの『スケッチ・ブック』に出た十字軍の騎士、またスヴェン・ヘジンがチベットで見た天部諸像などの例あり、どこから見ても見る人の顔を見る画または彫像なり。このごとく鼻と眼のむきが反対になるように作るものの由、しかるときは右の方より見ればむろん眼が奥深く潜みおりながら、やはり鼻の勢につれて左をにらみおるように見ゆるとのこと。果たして然りや小生は知らず。
 それに付いてロンドンの日本大使館に出入するスチュアルトとかいう人の説には、カソリック寺に(ことにローマに)久しくみつめおると眼を開いたりふさいだりするマドンナ等の像が多くあり。それは眼を上下に両分し上半をまつげでおおうなり。しかるときは眼の上半分をみつめおると眠ったごとく見え、下半分を見つめおると開いたように見ゆる。さて一度左様に見え出した上は不断開闔するように見ゆるとのことなり。
 また今年春大英博物館に誰か浮世絵師のかきたる竜王が波を分くる図を掲げたるも、その故事を知るものなしとのことなれば、うたいの「和布刈《めかり》」の神事のことなり。右に申す宮武氏門司におるゆえ絵葉書をもらいおくりやりて事すみ申し候。
 例の国悪を忌むとか申し忠義で切腹したり、親の貧を救うため売られて行く駕籠姿の女などを、自慢らしく説明付きで外国へ出しても、欧米人はそれは気の毒なこと、切腹するより金策をしたらよかろう、職工にでも住み込んだらどうだなどいうて一向感心せず、なにか事あるごとに腹を切ったり淫売したりする国のように思う。それよりも右の(124)一眠猫一社事のことも説明して、ローマの名工などのしたことは日本にも夙《と》くあり、汐時を考えてワカメを刈る神事を作ったは奇才のきいた国民、ということを知らせた方がよほどわが国を外国に理会させ、日本人は馬鹿でないと感ぜしむることにて、この三十年その役を無料でやってきた小生などはいわば総領事を多年つとめたほどの感謝を受けねばならぬことと存じ申し候。
 近ごろラジオがはやるに付いて街頭の小児のふく口笛が混じこむことあり。それに付いては口笛も唄と同様立派な芸術にならぬかという問題を起こしたものあり。小生いわく、なりますとも、なりますとも、支那の古えは歌嘯というて口笛を歌同様の芸術となしたるなり。『嘯旨』という書物さえあり。晋のとき敵に囲まれた将軍が月夜に長嘯すると胡国の兵が故郷を思うの念に堪えず囲みを解いて去った。うそと思うことなかれ、スイスのランズ・デ・ヴァシエも敵の故郷の唄を唄いきかせて囲みを解いて去らしめたことがあるじゃないか。と、こういう風に彼を知り我を引くところが世界的の学者と存じ申し候。
 また輪ほど必要な機械はなきに誰がいつ発明せしという記録なきは不思儀といいしものあり。小生いわく、誰がいつ発明せしか分かるものでないが、記録ならば支那にある。『釈名』や『後漢書』に拠ると、黄帝が沙漠の蓬《よもぎ》が空中にまうを見て輪を作ったとある。さて輪が出来た上は車も絞盤《ろくろ》も出来たので、黄帝が指南車を作り、史佚が轆轤を作ったという。とばかりでは分かるまいが、沙漢に根至って浅い蓬多くはえ、朔風到るごとに抜けて空中に上り、めったむしょうに旋り飛ぶ。蒙古人馬にのり、これを追いまわして娯楽とする。さて落ちた処でたちまち根ざしてまた暫時生きおるなり。それを見て輪を作ったというのじゃ。この伝説を知ったか知らぬが、よそごとのように露人ブレットシュナイデルが右の蓬が沙漠の空をまうことを記しある。まずは夜も明け近ければ、これにて擱筆致し候。
 
 また to-day wiser tran yesterday という語、アレキサンダー・ポープの名句という。こんな名句が外にありやと問(125)うものあり。小生いわく、ポープが五、六歳のときに、芭門十哲の一といわれた許六の語に、昨日のわれにこりるものが俳諧の名人だ、と。(昨日よいと思うた句も今日みれば胸が悪くなるほどのものが名人、と。)
 また a dream within a dream(夢の中なる夢)を、十七世紀の誰が言い出したとか何とかいう議論起こる。小生いわく、『栄華物語』に、西暦十一世紀の初め藤原長家が若いいいなずけの女に死別したときの歌に、ln the shelter of a dream within a dream, only towards the last nロe I yearns utterly unconsciousry my own existence とある。それから取ったものか近松門左の『当流小栗判官』の名高き句に、怨みも恋も……人間万事夢の中なる夢の世、とある。
 また honour among thiever という語十五世紀とかの書にある由。小生いわく、『荘子』に盗跖の徒、跖に、盗も道徳ありやと問うに、何処に行くとしてか道なからん、倉中の物を察するは智なり、入るに先だつは勇なり、出ずるに後るるは正なり、何処に盗むべきやと判ずるは敏なり、分取り物を等しく分かつは仁なり、この五つの徳なくて大盗たりしものは古来一人もなし、と。これより拈《ひね》り出したものか、日本のつまらぬ chap-book(読本《よみほん》)に、十八世紀の名娼瀬川が紀州の徳本上人に十念を乞うと、上人、汝ごとき罪深きものに十念は授けられぬ、ただし汝にも五倫五常の心得ありや、と問うと、父母のために苦界に沈むは孝なり、いやな男でも大名衆には十分に奉公するは忠なり……まぬけにもつとめて気をやらすは仁なり、三文もなき間夫に雪隠や用水桶の蔭であうてやるは義なり、させた跡でふいてやるは礼なり、三深九浅の法を行なうは智なり、煙草まですいつけやるは信なり、と言ったので呆れたとある、とトドのつまりは唯一神道を弘めやり申し候。故に、このごろは学者多いドイツからも汝は唯一の Japanese savant なればとて、いろいろのことを聞き合わせにまいり申し候。かなしいかな文盲ども舎衛の十億の衆は仏在世に生まれ合わせながら仏を知らずで、奇行とか大鉢とか二十年このかた相も替わらぬことを述ぶるは浩嘆また愍笑の至りに候。
 中山太郎氏より、甲陽堂という書肆主人十二支の話を出板したしと申し来たり候。中村氏にかけあえと申しやりしに、中村氏なかなか高いことをいいて出板絶望と申し来たり候。この中村というはどこの人か知らぬが定めて trans(126)(超)上方《かみがた》ものにや、よほどのケチ人なり(もと杉村方で食客たりし由)。正月号になにか書いてくれと言い来たったから、長々煩わしましてと右や左の御旦那に物|言《もう》すごとく枕をのべて、さて虎の年のことゆえ「十二支」の内にかかなんだマレー半島辺に大はやりの虎に変ずる狂人のことをかきやろう、しかるときは『変態心理』に取り吉相であろう、一月分に出しきれなんだら三月までつづくほどかいてやろうから三十円前金でおくれと言いやりしに、まず一月分だけ書いてくれとて十円おくり来たり候。それではこっちが一家五口の一日分しかないからというて小為替をそのまま返上致し候。
 また東京郊外に大岡山町という町あるにや、そこに大岡山書店というがあり。主人新村某という人より柳田氏の『南島説話』、梅原末治氏の『古鏡篇』とか美本をおくり来たり、この通りに麗々しく出板するから何でも出板させくれ、植物学の成績も出板させくれ、またそれがうるさければ気の向いたとき漫筆風のものをハガキで時々おくり下されたら当方で編纂して出板するとのこと。しかるに小生かねて貴下より承りしところをもって考うるに、実は小生の書くようなものに一部で五百円も出しそうなことはプラチナの草履をはいてもなきことゆえ、そのままに致しおき、瞑目してタバコを廃止し菜食しつづけて運を天に任せ、父子で淡水藻譜でも一生懸命にやり、ロイドの気にでも入ってグッと寄付金をせしめる方が一番と存じ申し候。            再白
 
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 大正十五年四月五日夜七時
   上松蓊様
                        南方熊楠再拝
 
 拝啓。四月十五日出平沼君の信書により、貴方にリスター『図譜』第三板新本安着しあり、それを進献品に添えて(127)台覧に供すること御承諾も旨承知、まことに好都合と存じ奉り候。かかる微細にしてこみ入りたる学識を要するものには必ず多少その学識を素養するに足るべき書籍を要し申し候。小畔氏の分を小生借り受け中、平沼氏の分を小畔氏借りありしが、その平沼氏の本を進献品に添えんかと申し越されしも、それは多少汚れあるべく如何と存じおりたるに、貴方より御用達下され候わば幸いこれに過ぎず候。代本は平沼氏より購うて呈しくるるよう頼みおき候も、小畔氏方へ今一本着するはずの注文品ある由なれば、それを御貰い下されたく候。
 拙児は大方平復致し候も今に言語を発せず、これは酒乱のものが醒めてのち人の手前恥じて物言わざるごときことと存じ申し候。小生は進献品の不足分を大王へ送るべく昼夜努力し、ようやく昨今一々小箱に貼装し了り乾くをまちおり、またこのついでに大王と平沼氏へ希有品創見品等をおくるべくしらべおり、そのついでに自分年来採集しながら多忙にて検定せずにおき候ものを悉皆しらべ候に、大王の創見に係ると思いおりしものを実は拙宅内で早く見出だせしもの若干あり、また今まで全然気付かざりし創見品も有之、いわゆるこの縁なくんばこのことありしやで、只今この難渋中に大王のこの挙あるを悦び申し候。このついでに東京『植物学雑誌』へ第三板日本粘菌目録を出すべく候。
 このついでに拙児とにかく平復に向かいしを幸い、ロイド、リスター二氏への贈品もなるべく致し候て、和歌山へ出立申すべく候。和歌山にては淡水藻を主として研究致すべく、そのときは貴下へおびただしく淡水藻の標品を送り上ぐべく候。     早々敬具
 
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 大正十五年十一月九日朝五時前
   上松蓊様
                        南方熊楠再拝
 
(128) 拝復。六日午前九時御認めの御状昨夜拝見、しかるに昨日は平沼母堂よりいろいろ贈品到着、拙児に聞かせ候ところ、このもの浅草海苔大好物にて今春も平沼氏また貴下より贈られ候品を用い惜しみ腐らせたるほどゆえ、大いに悦び浅草のりを取り出し食い、それより三月以来初めて机にかかり画をかきなど致し、すこぶるまじめなりしが、夕刻隣宅新築の屋根の上に工人等上がり唄うたうをきき、また狂い出し六時ごろより夜の九時過ぎまで大声吼?ついに声かるるに至り候を打ちやりおきしに急に平復し本宅に入り来たりしゆえ、拙妻がそれではまことに養生遂げざるべくんば近日三、四里へだてたる田舎に石友の妻の妹の荘屋あり、それへ母と共にゆき鮎をとり鵙《もず》を飼いなどして静かに養生せずやと言いしに承知の旨申せしと承り候。当地も大田辺建設など申し、いろいろと町がにぎわしくやかましくなり候ゆえ、いかに小生夫妻、石友夫妻等が心を用い介抱するも、所をかえざれば昨日のごとく吾輩の力の及ばざる不慮の刺撃許多なれば、到底この家におつては本復は難きことと存じ申し候。こんなこと毎度にて小生は日中はいかに早く起きるも何も出来ず、止むを得ず午後臥し夜中を通して翌日の午前に(拙児の起きる前に)いろいろと仕事を致し候。おいおい寒く相成り小生は書斎に火を入るるを好まぬゆえ、はなはだ難儀致すべく候。
 進献品等は昨夜小畔氏宅に御覧相成りたることと存じ候。幸いにかかる難儀中に根気強くこしらえたるものなれば、本日いよいよ御機嫌にかなわんことを祈り申すの外なし。
 『集古』へ黒井氏のかくことは、いわゆる傍若無人にて、二、三十年前に死んだマクス・ミユラルやモニエル・ウィリヤムスの書などを引いて今さら珍しそうに吹聴するを片腹痛くて小生なにか書き候も、編輯者三村氏が編輯者の器量なき人とてこれで二度小生は入らぬ喧嘩を致し候。一は大橋微笑という人がくさり鎌の柄の元に鎖を付けるの、鎌の先に鎖を付けるの、の論を出し候ゆえ、小生が『北条五代記』の図は上でも下でもなく中の処に鎖を付けあると書きし。これは本取《ほんと》り、茶臼の外に、横入《おうにゆう》すなわちよこどりの画も、ある春画で見たと告げた同前のことで別に腹立つるに及ばず、反ってそんなとりようもあるかと博聞の一助で悦ばるべきはずなり。しかるに小生に向かい鎖を中《ちゆう》の処(129)に付けては鎖鎌は使われずちて議論を吹っかけ来たり、鎖は必ず柄の下端に付くるもののようにい張りしが、小生の知ったことにあらず。小生はただ右様中の処に鎖を付けた画もあると見聞を広げる一助までに書きたるなり。(上羽氏の説には、鎖は流義により上にも下にも付ける由。)
 しかるにかくのごとくむきになりてかかり来たり候。編輯者たる三村氏はかかる見当違いの論文は載せずに返すか、または載せたる後へ、「せっかくの寄書ゆえ載せたり。しかし南方氏は『五代記』に、中の点に鎖を付けたる画が出おると告げられたのみで、鎖を必ず上に付くべしとか下に付けては不都合なりとかいい来たりしにあらざれば、ちょっと弁じおく」とかくが編輯人の心がけに候わずや。理非を問わず寄書はみな載せるというなら編輯人の職は何処にかある。
 次に毘沙門一件も、小生はアイテル博士の書に、むかし毘沙門が釈迦の弟子となりしとき一同大いに驚き、こんな悪人までも沙門になるか(is this 沙門?)と叫びしより毘沙門の名が生ぜりという支那説を出せり。これは何に出たことかと問いしなり。別に黒井氏の説に関せることにあらず。しかるにむきになりて怒り、そんなことは虚説なりなどいい、うち込んでくる。これも大きな見当ちがいにあらずや。虚説なることは小生十分知る。知るゆえにその虚説は一体どの辺から出たことかと大方の教えを乞いたるにて、黒井氏の教を乞いしにあらず。これも三村氏は黒井氏の駁来文を返却するか、またはこれを載せたあとへ会員の来書ゆえのせることはのせたが、南方氏は別にこのことを黒井氏に問うたものにあらず、毘沙門の名義を黒井氏がいろいろとのべらるるゆえ、またこんな異説もあるとアイテルの説を述べ、このこと経文に見えぬから何に見えありやと読者一汎に問いしまでなり、と付記してよきことと思う。小生は先年貴下より『集古』へ時々書いてほしいとの御書面ありしゆえかき来たりしが、いろいろ用事多き中に人の気を悪くしてまでもこんな本業外のことをわざわざ書くに及ばず。よって『集古』への投書は今後見合わせ申し候。
 故デンニング(森有礼子の妻をどうこうしたと評判ありし天主の僧なり。しかしはなはだ学問あり、明断のありし(130)人なり)の説に、日本人の議論は事理ということを少しも弁えぬと毎度申されし由。ジキンスも毎度日本人の議論は土台の事理がないから、ただ文辞を弄するまでなりと申され候。浄瑠璃の道行き文のへたに出来たようなものを議論とか論説とか心得おるに候。八月の『集古』に黒井氏の書いたは、自分がいろいろと時代ちがいの古い英人の英訳などを読み得たる知識を列べ立てたまでにて、その語は狂人が人の知恵から出た言どもをむやみにさえずり尽すがごとし。梵語でクベラなれど漢土日本には一種の式法ありてクビラと読みたるに候。これは音律声明等の上より出でたることにて、かく発音せねば誦声がつづかぬ等の理由あることと存じ候。仏名、菩薩名、神号は、読むために習いしにあらず、誦するために習いしものに御座候。アラビア語なども字でかいた通りと発言は全くちがい候。Shar al aldin とかいて発言のときはただシャッジンとよむ等の場合多し。英国でもアイリッシュとなると三字も四字もぬきてよむ例多し。それに似たることに候。この書いた通り発言してはならぬということを心得ず、何語も何の名もみなわが国のローマ字会員の主張者のごとく一字一字つづりて読んで然るべしと思うと大いに間違い申し候。それでは会話すら出来ぬ語多きものに候。
 平沼君この寒きに日光へ往かれ返りし由、今七種手に入ったら英国と同数になるはずゆえ、何とか遠からぬうちに小生もこの郊外にて一、二種でも見出だしたく存じおり候。それに付けても Brefeldia maxima(大の義)と申し数寸の大きさなる粘菌が今に日本に出ぬは、この物冬中生ずるゆえと存じおり候。何とぞ見出だされたきことに候。
 門司市の銀行員か何かで宮武省三という人はなはだ博学にて民俗学上文通久し。この人は小生の研究所の金十分に出来ぬを十分知りながらかかる金は富人に望まず中等以下の財力の人より少しずつ集むべしとすすめ、毎度十円五円集めおくられ、また時々自分の得分中より五円二円送られ候。九州の粘菌は一向知れおらぬゆえ、小生この人に標品を一通りおくり示し、大いに九州のものを集めもらわんと欲す。(この人至って旅行ずきにて毎度日薩隅へゆき、豊前の彦山、日向の霧島などへ登る。)今度東宮殿下へ献上すべかりしはずの『図譜』一冊献上に及ばざることとなり(131)し由、これは貴殿の物ながら二册も入るまじければ、何とぞこの宮武氏へ送りやり下さらずや。福岡県企救郡村上富野宮武省三にてとどき申し候。
  昨日平沼氏母堂より拙妻へ帯じめ等、拙女子へ衣服地等いろいろ、小生へチーズ、悴へ浅草のり等おびただしく二大箱に入りて送られ申し候。小生は拙児および拙女が去年三月来初めて笑いしを見申し候。妻もまことに悦び入り御礼状を上げんと思えども至って遅筆その上永々の心労にて筆とるすべも覚えざれば何分宜しくとの伝言に有之、何とぞ貴下よりも重々御礼申し述べ置き下されたく候。
  黒井という人は偏狭な人にて女ぎらいの由、そのことを三村氏より申し来たらぬうちに小生神通力にてこれを知り、岩田梅や北条氏輝の妻の咄《はなし》その他、女のことずくめに致し申し候。
 
(132)     43
 
 昭和二年二月三日朝十一時
   上松蓊様
                        南方熊楠再拝
 
 拝啓。昆田氏遠逝につれて貴下ずいぶん御困りの御事と察し申し上げ候。小生何とか工面致し少しくまとまった金を御用立て申し上げんと昨夜算盤をもち巨細に取り調べ候ところ、去年九月までは月々二百円にて平均くらし得来たり候ところ、十月以後は平均(物価の安くなると反対に)月々二百五十五円の暮しとなりおり候。これにては在来の四万余円の金にては(著述投書等にて時々補充するとして)、その利息が研究費どころでなく一家の暮しむきのみに入ってしまい、なお不足あることとなり申し候。幸いに平沼氏よりの三万円の信托利金が入り来るにより、ようやく少しずつ研究費として用い得る次第に有之、拙児がせめて一、二月おきに発作するようになり候わば、小生和歌山にゆき談判して何とか致し得ることなれども、今のところそれも叶わず。久々の介抱につかれて妻も近来朝早く起きず、小生が早起き致しこの薄闇き長屋で万一病人が家出せずやと見張り番致しながら読書するという様子にて、和歌山へ上ることもならず、まことに空しく貴重の時間をつぶし申し候。
 小畔氏といい平沼氏といい多大の寄付をされしは、主として貴殿の御世話によることなれば、只今は何とか千分万(133)分の一の報効も致したきなれども、右の次第にてむやみに基本金をかれこれすることも成らず。しかし小生さえ健康にあらば、また運のむき来ることもあるべく、春暖にもならば一度和歌山に上り何とか致し申すべく候。昨夜拙妻とも相談致し候上、とにかくこの段短筆もって申し上げ置き候。
 拙児は十二月末より先月中句まで、はなはだ宜しからず。寒天に海浜または山腹を疾走し、石友および長屋におる裁縫師の子(十五歳)なるもの付き添い行くにすこぶるこまり申し候。一月下旬よりは左様のことはやみたるも、何様夜分安眠せず、雪中を犯して家、庭、畑等を走りまわり、また高歌放吟することあり、はなはだ迷惑致し候。今より思えば自宅へ引き取り養生せしめずに、和歌浦の病院へ放置して妻が帰り来たりたらばよかったことかとも存じ候。しかしこれも只今となって左様思うのみにて、その当時小生輩一同かかる患者を処分すべき心得少しもなかりしことに御座候。実に実に小生等夫婦はあてもなきものを相手に多く心労致し、この不景気の節に多くの費用がかかり申し候。
 人みな兄弟あるにわれひとりなしと歎じた人の言を『論語』でよみ候が、これが和歌山ならばまた小生の親族旧知も多少あるに、小生はこの地に親族というもなく、また因果なことには、拙妻は当地の生れなるにその骨肉はみなみな他地方へ移住し了り、一人とて来たり助くるものなきには弱り入り申し候。もっとも酒食でもふるまえば無用の人まで馳せ聚まり来たるべきも、そんな人は何の功もなきものに御座候。要するに東京辺とかわり、上方およびこの辺の人はきわめて薄情なるもののみに御座候。まずは数日前申し上げたるハガキの補いにこの状差し上げ候。われらとにかくかかる難渋中にも多少の読書もし、研究をつづけ得るは平沼・小畔二氏の力に有之、かかることをくりかえしくりかえし申し述ぶるは追従軽薄らしくも聞こゆることゆえ、貴下より折をもって御礼申し上げ置き下されたしと拙妻よりの言に有之候。                   早々敬具
(134) 目前もっともこまるは書斎の縁先《えんさき》が午後はなはだ暖かく日があたる、また至って静かなるゆえ、拙児が日なたぼこりに来たり、不断歌をうたうことにて、そこで顕微鏡を使うことならず。粘菌その他にミクロメートルの観測さえ精細になし了らば発表出板し得るものにして、この一事凝滞しおるために発表にかかり得ぬことに有之候。
 近来都鄙とも不規律不整調なる音響昼夜断えず。拙邸の直後にもよほど文明の利器、開化の発揚とでも心得たるにや、まことに狂躁なるがたくりタキシーを営業し出したるものあり。田舎者、小百姓、漁夫など、それに芸妓をのせ、夜間町をはせまわりて面白がりなど致し候。警察少人数にて咎むるということもなく、時として壁一重隔てたるばかりの寝室のかたわらなる道路に、半時間一時間車をとどめて喧囂《けんごう》することなどあり。かくては精神の狂い出すもの精神病の平治せぬものなど、またまた多くなることと存じ候。小生の住む一町内に精神病者四、五人有之候。欧州にも異様の音響市街に盛んにして、それがため精神の狂うもの多く、何とか音響の制禁を出さねばならぬという議も出でおり候様、去年末の英国の雑誌にて見及び申し候。
 今年寒気異常にて当地過ぐる二週間ばかり雪しばしばあり、また四日ばかり積もりおりたることあり。かかることが非常に病人に影響することと存じ申し候。御地なども定めて同様の異調なることと存じ申し候。和歌山には一昨年より今に地震断えず、ほとんど毎日のようになりおり申し候。これは一つはきわめて精細なる観測機をそなえ付けたるあり。従前の機械に感ぜざりしほどの微なる地動も地震のごとくに感ぜられ、それを斟酌なしに地震地震と大層らしく報導したるより、今となってようやくかん付きしも今さら改むることもならず、依然報導し続けおることと承り申し候。           再白
 
     44
 
 昭和二年三月十二日午前四時過認
(135)   上松蓊様
                        南方熊楠再拝
 
 拝復。八日出御状一およびクラウス方の「顕微鏡目録」一冊十日午後三時拝受、千万御礼申し上げ候。顕微鏡はどうも小生の持ちおるような簡単なものは昨今ないらしく候。小生のは四十年ほど前米国で十八ドルで買いしものにて、諸邦もちありき今に用いおり候。固形体を見るときは、反射鏡を載物台より上にまわせば光線斜めにさして物が明らかに見える。さてプレパラートを見んとならば、反射鏡を載物台の下におけば、反射鏡面より光線が穴を通してプレパラートを射るゆえ、透明によく見えるなり。右様のものをほしきなり。
 古河組などで鉱石を見る顕微鏡はまずこんなものと存じ候。すなわち固形不透明の石を載物台より上に反射鏡をまわしてその光線で石を、次にその石を薄くみがきてプレパラートに作り、今度は反射鏡を下にまわして透光をもってプレパラートを見るなり。かかるもの必ず古河組の工場などにあることと存じ候。おついでに御聞き合わせ下されたく候。
 なおここにある顕微鏡いずれも拙児にはちとよきに過ぎて使用困難に候。前日来拙児大分平復しありしに、地震の前後よりはなはだしく悪くなり、一同閉口致し候に、今夜よりやや静まったらしく候。小生もずいぶん辛抱のよき男なれど、この上この地におってもいたずらに年とるばかりなれば、今年暖かくならば必ず和歌山へ自分だけ上り、例の高田屋以上にゆっくりとすわりこみ、淡水藻図譜にかかり申すべく候。
 イタリア・トリデンチのブレサドラ師父、去年八十の祝いに諸国学者、学会等醵金して氏の『菌譜』(五十図版ずつ一冊として二十冊)を出版することとなりしも、大分難産にてようやく一月三十一日に第一冊を出版し、小生へも贈り来たり候。小生は平沼氏の御蔭にて名誉賛助者 patroni honoris causa の内に日本よりただ一人出でおり候(表紙の裏へ印刷しあり)。
 イタリア国はアルド・アルベルチ伯以下三十二名、英国は菌学会長ラムスポットム教授、仏国は Usuells 氏、ドイ(136)ツはレゲンスビュクヒのキラーマン教授、スウェーデンはラールス・ローメル氏、日本は小生 Kumagusu Minakata, ブラジルは農務大臣とトルトレド師父(名高き粘菌家なり)、米国はミシガン大学のカウフマン教授、バルチモールのケルリー博士、およびシンシナチ市のロイド氏に候。イタリア三十二名、外国十一人に候。
 まずは右申し上げ候。             早々敬具
  小生の日本粘菌種の総目録(二月分の『植物学雑誌』に出でたり)は昨夕小畔氏より一本受け取りたり。貴下へも小畔氏より贈らるべく、もし贈られずば同氏へ御求め下されたく候。貴下の創見四種、発見一種に候。平沼氏は発見一種、創見九種に候。
 
     45
 
 昭和二年五月二日朝
   上松蓊様
                        南方熊楠再拝
 
 拝啓。四月二十二日と二十三日出貴状拝受、二十六日に一書差し上げ置き候。もはや越後より御帰京の御事と察し奉り候。当方件は四月下旬末に至りやや快方に相成り、まずは変人の烈しきようなものにて、時々疳積を起こし独りで叫ぶことあるも、夜間譫語を吐くとか物をぶっ付けるとか他人を襲う勢いを示す等のことなし。また外出奔走等のこともやみ申し候。つらつら様子を観察するに、毎日何もせずに家にのみおるより退屈に堪えぬあまり叫喚し、また家内を走りまわることと見受け申し候。よって四、五日前、上松君越後より帰京の上はさっそく汝に手ごろの(しかしながら宅にある麁末なものよりはずっと新式のよき)顕微鏡を送り下さるるはずなり、集光器はすでに当地へ着しあり、然る上は淡水藻譜の図を製することに汝もっぱらかかるべし、かかる学問は必ずしも高等中学や大学を経ねば(137)ならぬものにあらず、自宅には淡水藻学の書はちょっとした大学に劣らぬほどもちあり、ことにその標品は多年自分および六鵜、原摂祐、胡桃沢勘内、上松、平沼、宮武、中道その他諸友がフォルマリンにせし集品五、六百小ビン(少なくとも八、九百種)はあれば、一日も早く写生を了り、新種の図譜と旧来知れながら日本に知れおらぬものの目録を出すべしと申しきけ、顕微鏡着して用いたればとてすぐ分かるものにあらざれば、今より大概の淡水藻の諸書につき、その図をみてよくよくのみこみおき鏡検に臨まば、大抵これはあの本にあり、これはその本に図があると知れるほどに練習しおくべし、また今度上松氏が買って送らるる顕微鏡は全くその方のものなれば、いかに用ゆるとも予より干渉せず、損ずれば損じた部分を取り替えればすむことなり、と申し聞け候ところ、三、四日前よりおりおり淡水藻書を繙覧しおり候て大いに落ちつきたる様子、妻もはなはだ喜悦致しおり候。
 つまり石友夫妻の忍耐よき介抱により平治すべき時期が来たものと察し候廉少なからず。もし小生等夫妻の推察通り、この淡水藻の写生を楽しむようになり候わば、小生に取りては塞翁の馬で禍が転じて福となるものに有之、老眼の小生にさほど骨折らせずに悴がもっぱら写生、小生はもっぱら観察して異同特点を観て記載し、おいおいと悴も記臆力、観察力を恢復してみずから記載するようになることと存じ候。しかるときは知人 West が父子にて英国の『鼓藻図譜』を大成せしごとく、研究所のためにはなはだしき利益になることに御座候て、果たして左様に事行くべきやを夫妻ともはなはだ懸念致しおり候。顕微鏡の代価はいつでも送り得るよう致しおり、また至って急ぐ場合には小畔氏より立て替えくれるよう頼みおき候間、何とぞ宜しく御購買、よき品を受け合わせ手に入れ候上、小生より申し上ぐる人名(和歌山市また和歌浦町の住人)まで通運で送らるるか、郵便小包(代価表記)で送らるるか、その辺はよき方に願いたく候。
 通運で田辺まで送ると和歌浦より田辺までの間が先払いとなり、増し賃は知れたものながら、市駅の荷物扱い所にて二三四五の店の手に転じ渡り(これなるべく事を煩わしくして賃銭を貪るべき悪風なり)、それがため半月または(138)二十日もかかりてようやく当地へ着するなり。かつて中道等氏よりホヤと申す介《かい》のようなものを一箇送られしに、むろん中道氏が賃銭を仕払いあるに、和歌浦よりこの地までの運賃、ハシケ代、水揚代、配達賃、帳付け料、何々と五条ほどのいいがかりにて、当方は(中道氏が払いし賃銭の外に)七十五銭ばかりとられ申し候。さて通運はよほど荷物を堅固にせぬと時々破損あり、実にこまったものに候。
 拙妻は十二月来の拙児の永き発作つづきに脳を煩い、今も医者にかかりおり、一、二町も歩むと眩暈を起こし(これはちょうど月経停止の年齢へ件の難件重なり生ぜるゆえと医師は申す)、まことに衰えおり申し候。しかるにこの顕微鏡一件にて拙児の病患の急所を hit せる様子にて本人大いに落ちつき来たり候ゆえ、あてにならぬこととは思いながら拙妻も大いにそれを頼みおる様子に有之候。同じ費用がかかるにしても、人に難儀をかけて母が謝罪に行ったり、進物を持って行ったりするよりは、何とぞ淡水藻の集蒐でも面白くなりて、時々自働車を傭うてなりとも郊外に出るようになりてほしきことに御座候。
 貴下武州の寺の池等よりとりたる輪藻等には無数の鼓藻まじりあり、これらからちょっと写生せしめ小生みずから観察記載してせめて八、九百種といわず、三、四百種も謄記したなら、今度の粘菌総目録同様本邦産淡水藻目録を出し、一々最初発見の地の名と人名を記し候わば、大いに面白かるべくと存じ候。これも粘菌と等しく大抵は小生の創見もっとも居多なれども、
  Coleochaete irregularis   下野中善寺  平沼
という風に書き得る小生以外の創見者も多くあることに御座候。
 小生は拙児今度永発作つづきのため、およそ五、六十日何ごともせず見張り番を致し、茫然となり来たりしが、五日ばかり前よりやや筆をとることを得るようになり、今夜は雑誌『彗星』へ短き寄書を認め得申し候。
 まずは当用のみ申し上げ、右宜しく御頼み申し上げ候。         謹言
(139) 小生日光参りの途上汽車の中より眺めたところ、中田、幸手、栗橋、古河辺に、川べりに淡水藻おびただしく生ぜる止水(沢と申すべきか)多くありし。何とぞ一度行って広く集めたきものに御座候。この辺には深き池はあるも浅き沢少なく、したがって鼓藻などは多種を得難く候。何とかしてまた淡水藻献上の日あらんことを冀いおり申し候。
  『南方随筆』は一通り売れたが、中山氏の編集宜しきを得ざりしゆえ、その余勢でか『続南方随筆』は三分の二しかうれずと申す。宮武省三氏報に、三月十六日の『読売新聞』に、日比谷書籍館でもっとも多くよまるる書籍の名目を列したる内にこの二書ありし、と。ただし宮武氏説には、図書館で多くよまるる書は高価で買い得ぬにより多く読むなり、故に多くうれぬものなり、とのことに候。これに反し『南方閑話』は手軽きゆえか大いに売れ行き宜しく、もはや三十部のみ版本《はんもと》にのこりおる由。
 
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 昭和二年五月二十五日夜八時前〔葉書〕
 拝啓。拙児また大発作致し、小生は何もせず罷り在り候。集光器は二十二日午後安着せしも到底検査する場所なきに付き、二十四日午後三時過ぎ書留小包に致し返送申し上げ置き候。しかして今一つの方前般御送り下され候ものを当分用うることと決し候間、二、三日中に代価を貴下まで郵便為替にて送り申し上ぐべく候。右申す一件のため、ちょうど集光器到着とほとんど同時に文書種々滅却、到底拾収ならぬもの多少あり。その内に貴下羽後国仙戸石沢等にて御採集粘菌等の目録に、小生種名をかき所々に図を入れ返送申し上げ候分の写し(副本)もこの禍に罹り候付き、何とぞさつそく御送り下されたく、小生その正本を写しとり候上、さつそく正本は返送申し上ぐべく候。それがなくては粘菌図譜の編纂上不確かを生じ申すべく候。このこと宜しく御願い申し上げ置き候。   早々敬具
(140)  当分貴方よりの御通信は封状にて願い上げ候。ハガキにては宜しからざること有之候。
 
     47
 
 昭和二年六月十八日午後一時
   上松蓊様
                     南方熊楠再拝
 
 拝啓。昨日小生午寝しおる間に(二時ごろ?)水ぜん寺のり三びん御送り下され安着、千万厚謝し奉り候。拙児は大分快方にてすでに自邸内にて淡水藻三種検出、しかしまだなかなか写生は出来ず、久しく臥しおり忘失せることと存じ申し候。日々少しずつ教えおり申し候も、この三、四日は休みおれり。小生は和歌山へ上らんと存じおりたるも拙児容体今に不定なるゆえ(書状等を破ることを好み、昨日も小生の蔵せる書目を二つばかり破り候。文字がよく読めなくなり自分のものと誤認してのことらしく候も、何とも見当つかず、まことに困りおる)、上ることならず、止むを得ず暗き長屋にありて日夜「続々南方随筆」の稿を編みおり申し候。今度は雑誌等に出でたるものの外に新たに書きたるもの多く候。小生今年は収入乏しく、?《わず》かに寄付金二十円と政教社より五円と柳田氏より原稿料三円貰えるのみ。これでは食らい込むゆえ右「続々随筆」にて五百円貰うつもりなり。外に末広一雄氏世話にて「船名に丸と付くること」をたのまれおり、郵船会社より多少はくれるはずなるが、何様月々二百六十円また三百円もかかるゆえ、霜が日に消ゆるごとくに御座候。幸いに平沼氏の寄付金の利息九百余円前月はいり候て、それにてどうやらこうやら凌ぎおり申し候。人間もこうなってはおどけも出ぬものに御座候。
 まずは右御受けまで短筆もて申し上げ候。        早々敬具
 
(141)     48
 
 昭和二年八月十九日夜九時半
   上松蓊様
                     南方熊楠再拝
 
 拝啓。本月十二日出御状十四日午後四時到着拝誦。カメラ・ルシダの値三十円きっちりなりし由、然るときは郵便賃だけ貴方の支出となり候。これはなにかのついでに送り申し上ぐべく候。当方病人は一昨年および昨年よりは全体より申さば軽く相成り候も、妙なことには小生一々病状を露語にて筆記しあるものを見るに(英語等にては本人がのぞき見て解することあり)、去年その日におこりしことは必ず多少くり返してその日に今年も起こり申し候。只今は孟蘭盆季節にてちようど昨年そのころ通りの行事がくりかえされ申し候。ただし去年よりは軽く候。
 石友もはや二年半という長看護にくたびれはて、かつ無教育にて、若いときに酒食に佚蕩したものは老いてぼれることがことのほか著しきものにて、小児のごとくに化し来たりおり候。物忘れすることおびただしく、小生が多年潜思して集めこしらえある庭園に粘菌や菌の胞子を植え付けたる枯木落葉等を、埒もなきはきだめごとく心得、小生にかくれてまでもことごとく焼き出し、また小生が日光、高野等よりとり来たり植え置きたる草木をも、仇敵のごとくにとり除くことやまず。それらにはみな試験用に種々の珍菌の胞子を栽え付けあるわけを諄々ととき聞かせても、たちまち忘れ了りてかくのごとし。まことに困ったことにて、小生は病人のために一歩も外出せざるゆえ、せめて邸内に植えあるものに就きていろいろ三験せんと思うに、ちょうどその季節に向かうとその物が焼失さる。まことに疳積の至りなり。しかしまた一方より申さば、かようの人物ならずば二年半もこんな処につめ切って看護はしてくれぬことと存じ候。
(142) 小生は平沼君の厚志により淡水藻の参考書は大抵そろいあり、機械もそろいあるゆえ、何とぞ淡水藻図譜にかかりたく、大抵はすでにしらべ上げあるゆえ、大きさの観測のみすませばよきことなるに、拙児がかくのごとくなるゆえ自宅にておちつきて観測すること能わず。何とぞ和歌山へ上らんと存じおり候も、病人今のごとくにて拙妻も永介抱のためしっかり致さず、石友はさっぱり小児のごとく老化し来たり、こまりおり申し候。
 とにかく不景気の極まる世にかかる病人をかかえて無事におり得るは、全く平沼氏の寄付金の御蔭に候。小生よりかれこれ申すと追従らしく聞こゆることもあるべければ、貴下平沼氏母堂に御面会の節は何とか品よくこのこと御伝声願い上げ奉り置き候。
 かつても申し上げしごとく利根川岸(中田、幸手、古河、栗橋辺) の沼沢は微藻採取せばおびただしくあることと存じ候。小生自分行き得ずとも、しかるべき機械を調え、そのうち貴下行き向かい、その辺のプランクトンを採りいただき、調べたきことに御座候。関西には左様の処なく、紀州には、ことにこの牟婁郡にはさらに無之候。
 過日来当地炎暑烈しく、ことにむせ暑きゆえ汗おびただしく出で、機械を損じ汚すこと多く、ために鏡検は少しも出来ず。小生は当分「続々南方随筆」の稿本整理にかかりおり候。『続南方随筆』はずいぶん小生みずから骨折って増補追加し、図書館で多く読まるる新刊書の一となりおり候も、この図書館で多く読まるるということが世に広く読まれざる反影の由、すなわち価が高きに過ぐるなり。故に今年十月ごろまでに出すべきものは、何とか一汎に分かり易きようなるべく漢文を少なくし、なるべく誰にも判るよう和解するの必要を感じ申し候。さて一切和解すると入らぬ文句も入れざるべからず、随って紙数が増し来たり申し候て、この辺の苦辛一方ならず候。
 大王は仙台にてまた一新種立派なものを見出だされ申し候。その節、江本という人が仙台東北大学構内で Cienkowskia(日本には新属)のすこぶる美なる標本を獲られ候。これは大王の手に当然落つべきものなりしも、大王粘菌の説明に夢中になり奔りまわりおり、その地にゆくことがおくれたるに候。
(143) まずは右さしたる用件なきも、十二日出御状の御受けまでかくのごとく申し上げ候。
  拙児保養のためどこかから蓄音機を貸与され、時々弄びおり候。この辺の蓄音機はみな上方調にて落語までも京都、大阪のものなり。ワタイ(私)、オマン(おまえさん)等の語多く、蜀山人の『半日閑話』に見えた通り、「すめば都と申せども、京に飽き果て申し候」と嘆じ申し候。
 
     49
 
 昭和二年八月二十七日早朝〔葉書〕
 
 拝啓。「続々南方随筆」へ出す諸項中、「徒歩運動で衛生すること」(林若樹君の西洋より教わりしというに対し、わが国むかしより散策して腹工合を調和せしことは、『簾中抄』に出でたる由を述べたるなり)は、あまりに短きゆえ少々足さんと思う。かつて貴殿よりなにかの書を引いてこのことに付き示さるるところありしが、忘れ了りたり。またその御状は捜さば必ずあるも倉に入ること難渋なれば手軽く事ゆかず。何とぞ今一度書いて御示し下されたく候。しかるときは(追記、上松蓊より教示……)と書き加え申すべく候。
 当地昨今むせ暑きことはなはだしく、夜分安眠ならず。実に家内どもこまりおり申し候。二百十日も近く、如何のことにやと案じ申し候。                          早々敬具
  右御書き示しは、相成るべくは速やかに願い上げ奉り候。
 
     50
 
 昭和二年九月九日夜九時過ぎ
   上松蓊様
(144)                    南方熊楠再拝
 
 拝呈。六日出御ハガキ咋八日朝拝受、難有《ありがた》く御礼申し上げ候。御示しの『琅?記』の短文は小生大英博物館にて見しことあるも記臆逸しおり候ところ、今度御示しにて思い出し申し候。韓朋というもの妻美人にて伉儷もっとも厚かりしを、宋の康王がその妻を奪いしより二人別々に自殺し、その墓より木が生じて抱き合い、またその霊が鴛鴦と化し遊べりというようなこと、『捜神記』か何かに出であり、『曽我物語』にも引きおり候。その本文にはなきが、のちにナンバンアズキ(只今台湾アズキと申し、半ば朱赤半ば漆黒なる豆科の小子を何故か相思子と名づけ候より、これは韓朋夫妻の墓木の実なりなど故事付けたことと存じ候。この子を樟脳、竜脳と一所におくと香気減ずること少なしと申し伝え候より、去年大王献上の粘菌標品に入るべき竜脳に添うるため、台北の友人より取り寄せ大王におくり申せし。学名は Abrus precatorius L.《アブルス プレカトリウス》英語で bead see《ビード シード》.
 また海産の相思子はこの辺でイソモノと申し、東京ではキサゴと申す内の一種(大阪でガンガラという)の小螺の?《ふた》で、古来刀の?《つか》の鮫皮の大粒が失せたるとき、その代りにはり付け申し候。紀州その他で酢貝と申し、酢に入るれば動きて相追うもののごとし。打ち重なるときは酢が石灰を分離して生ずる小泡(炭酸ガス)を多くその下に綴るを、たちまち交わりてたちまち子を生ずと心得、支那でも日本でも難産のまじないとし、熊野比丘尼はこれをうりありきしこと、西鶴の『一代女』に見え候。小生かつて見たる湖竜斎画の「風流妻相生図」と申すいと風流なる小さき画に、茶屋と覚しき座敷の椽《えん》に仲居のような女が這い上がるところを、男がおいかけその頸を抱き両顔相対してしかも後ろより侵撃しておる図あり、「追ひかけの客に酢貝の手ぎはかな」と句を書きありし。当地などにも小児の戯れに、この物を酢を盛りたる皿に入れ相追うを見て楽しみしが、今はそんなことをするもの一人もなし。宮武省三氏の通信に、九州には今も誰のすがい、彼のすがいと名を付け、数個酢中に入れて相追い相重なるをもってその縁定めとする所ある由。露国にも同様のことある由なれど、果たして同物か否か一向分からず候。
(145) 拙児数日前、小生年来集めたる熊野の昆虫をことごとく破棄せり。よってまた再集せしめんとす。前年土宜僧正小生に贈りくれたる長さ八寸幅四寸ばかりのコルク板一枚あり。厚さがちと厚すぎる。四、五分あるべきか。これをこのまま使うには損亡なれば、なにとぞ図中虚線にて示すように縦截したきも、当地にこれを切り得る工夫の出る男も機械もなし。鋸でひくと砕け了るなり。はなはだ御面倒ながら貴地に誰かこれをひき切ることを知る人あらば御世話下さらずや。しかるときは小生大いに助かるなり。御一報次第書留小包にして送付申し上ぐべく候。
 当地方銀行も外面は相応なれどいついかなる椿事に及ぶも知れず。当月十二日で利息決算の節元利とも三万円ばかり引き出し御地へおくり、小畔氏取継ぎにて三菱信託へ預けんと欲す。当分取り出す必要なきものながら妻が小生万一の場合を案ずることはなはだしきより、貴下と小畔氏を参考人(referee)になりもらい、事生ずる場合に小生または拙妻みずから東上する代りに、貴下等の一人が出頭して事情を説明すれば引き出し得るよう(その他地震等の場合にかかる必要なきに限らず。三万円を幾口にも預け入れおき、その一部分五千円とか三千円とかをとり出し得るよう)、万一の場合にはこの二人に委任さえすれば、預人者またその後継者の存念通りに取り斗らわるべきことということを認めて預かりくれることと致したく候。このこと御承諾下され候や、伺い上げ候。小畔氏は承知と申し来たり候も、同氏は東京より外へ旅行することしばしばなる人なるより、あるいは早急の間に合わぬこともあるべきという掛念より、貴君へも頼み上げたきなり。平沼氏はことわり来たり候。
 本日大風もようにて、風は東西南北よりむちゃに吹き、物を吹き飛ばすほどなれども、涼しきこと少しもなく、小生は暑くて何もせず、夜に入るをまち、ようやくこの状認むるほどのことに候。                        早々敬具
 
(146)     51
 
 昭和二年十一月十四日午前四時
   上松蓊様
                      南方熊楠再拝
 
 拝啓。小生昨日久しぶりにて近郊の従来知らざりし雑木林密生せる谷を上り、おびただしく菌を獲もち帰り冷蔵庫に入れ今夜早く臥せんとせしが、拙児が小康を得るに及びながら何をせんにも忘れ了りて手がかりなき体を見るに忍びず、何とか自分でゆっくりと顕微鏡を自修し得るようと、高等女学校の教師を訪い自修によき邦語の書籍を尋ね候ところ、三好学博士の『実験植物学』(一冊三円五十銭、冨山房発行。ただし七、八年前の出板にて絶板の由)の外になしとのこと。幸い当地高等女学校に一本あり、誰も用いぬものなれば当分貸与すべしとのことなりしも、病者が不図《ふと》何をするも知れねば、ことわりて帰宅し、白井博士、小畔、平沼氏等へ頼み状を出しおきたるが、貴下ももし右の書御見当たりあらば、大王に告げ三円五十銭のものが十円致しても宜しく、御買い取りの上送り下されたく候。
 只今小康を得おるが千歳の一遇で、何とかいささかなりとも一昨年までのごとくみずから写生観測して一日一、二時間を過ごすように致しやらば、小生和歌山へ上りし留守も事なくすむべく、また小生の代りに菌胞子と淡水藻の測定だけは致して大いに手助けともなるはずにて、どうも小生が多事のかたわら気短く教えるよりは悠々逼らず自修自得させるが第一と存じ申し候。今日のところ自分でその気はありと見え、時々顕微鏡を出せども手がかりがなく、英語の書は多くあるも字引を引いてよむほどの力がなきに候。貴殿いろいろ御事多き中にかかること頼み上ぐるはまことに斟酌を要することなれども、万一にもその書を御見つかりもあらんかと御頼み申し上げ置き候。
 夜明けなばまた写生にかからざるべからず。これより二時間半ばかり臥したく候付き、右のみ申し上げ置き候。
(147) 「逢はにゃ逢はぬでまた苦労」というドド一あり。その通りで拙児が小康を得ればまた向後のことが心配で、妻は頭が半分ひきつるなど申し、小生も頭髪はさもなきも髭はことごとく白くなりおり候。                 早々敬具
  岡書院よりまた随筆を出すはずにて、百ヵ条中十六条ほど今に成らず。拙児のことに累されていかに考えても思う通りに書き得ぬなり。まことに記臆力も鈍るものに御座候。
 
     52
 
 昭和三年一月十日午後二時
   上松蓊様
                      南方熊楠再拝
 
 拝啓。十二月二十五日出御状は二十七日朝、二十六日出御状は二十九日朝、二十九日出御状は三十一日の朝拝受、忝なくそれぞれ拝誦仕り候。しかるに拙児こと十一月末より大分宜しかりしに十二月末にまたまた悪く相成り、日中臥してばかりおり夜分突然外出など致すより、妻はことに心配致し、これもヒステリーを起こし今に困りおり。拙児は寒気増すにつれ臥してばかりおり外出はせざるも、かく臥してばかりおるといろいろの皮膚病などを生じ、それがため精神も時々激昂の様子、何とも致し方なく、心配すれば果てのなきものゆえ、小生は気を配りながら自分の用事をなしおり候も、昼夜安きこととてはなく候。もっともこの四、五日はまずは静謐の方なり。右の次第にて手紙など書くひまなく、荏苒今日まで御受け延引致し候。
 貴下ずいぶん御困却中の由承聞致し候に付いては、当方より多少の援兵を出だすべきのところ、預金は差し当たり拙児の不時の準備に足るほどのものの外はことごとく東京へ預けあり、何とも勘弁付かず。しかしそのうち岡書院より多少原稿料が入り来たるべければ、その節何とか方策を運らし申したく候。
(148) 昨年五月拙児小生の多年の粘菌の写生調査稿を十の八まで引き裂き候。その多分は小畔氏方に複本あることゆえそれを求めたるに、これまた切りさきて巻物とかにせりとのことで、番号を引き合わして産地、時日を知ることならず。写生は最初手を下せしものを模範とすることにて、二度、三度とくりかえしたものは標本が不足するゆえ十分のことは知れ難きものなり。また中には標本乏しくて只今に及んでは何とも致し方のなきものもあり。しかるに拙児の所行は狂人のことゆえ致し方なしとして、小畔氏の分も右様に成りおっては写生図を恢復するは容易の業にあらず。ある物どもは到底その見込みなきなり。せっかく多大の時日を潰してこしらえたものが発表されずに仕舞うは、実に遺憾の極に有之候て、いろいろと骨を折れどもなかなか急に成らず。右の二事にて昨年は全く徒労と失望で過ごし申し候。
 杉山菊は病院に入りありしがもはや出たる由。これも高田屋奉公中はよき人物なりしが、もはやおかしなものになり切ったることと察し申し候。新年来当地風雨等しばしば到り、おまけに田舎物のくせとして、支那人同様ただただやかましきを非常に繁昌のしるしなど心得、入りもせぬ小用に自働車を馳る者など多く、貴下先年御下臨のときは至って静かなりし当町などもやかましきこと限りなく、それが大いに病人にさわり申し候。しかしてやかましければどこかの山地へでも移住すればよきなれども、それをなさずにみずから好んでこの弊宅に頑張りおるところがすなわち病人の病症にて、こまり切ったことに候。また親切めかして自分の腹の痛まぬ忠告を熱心にとき、いい来るもの多く、東京より来たれる奇特の魔術博士とか神秘療法とかあれば、ぜひ見てもらえなど申す。第一この不景気にそんな由来の知れぬものをこの病人ばかりの宅へ入れるは、盗賊を案内して邸内を見するようなものと断われば、かの人は自分の子を見殺し捨て殺すものなどいう。女のことゆえ妻などはそんなことに迷うこともなきにあらず。したがっていろいろの怨言をもきくなり。世間はうるさきものに御座候。
 まずは右申し述べ候。        謹言
 
(149)     53
 
 昭和三年三月二十九日早朝五時前
   上松蓊様
                      南方熊楠再拝
 
 拝復。二十三日出御状は二十五日夕五時過ぎ拝受、二十六日出御状は咋二十八日午後二時ごろ拝受、拙方悴またまた病気宜しからず、加之《しかのみならず》一昨二十七日娘こと和歌山へ上り拙妻の妹方へ当分宿り、近処の女学校へ通学することと致し候。また一昨日ごろより拙妾腹痛く臥しおり、医者が昨夕来診しての言には、あるいは黄疸を起こすかも知れずとのこと、それこれ事多く落ちついて何ごとにもかかり得ざるには弱り入り申し候。平沼氏へ出せし状御覧下され候由、その後また二十二日午前十一時付の一状を同氏へ差し上げ置き、昨日受け書着せり。その状は粘菌学を日用に活用する一斑を説きたるものにて、貴殿等にすこぶる要用のものと存じ候間、何とぞ二十二日午前十一時付の拙状と名ざして御借り受け御熟読願い上げ候。小生は故徳川頼倫侯には時々この様の説明を申し上げしことあるも、その他の人々にこんな説法をするは今度が始めに候。
 御研究材料を献納することはどうも小生には十分解し得ず。もし名の付きたるたしかな品種を御研究ありたしとの御事ならば、命名者の手許または採集者の手許よりたしかに命名せるタイプスを得て御研究あらば、その命名せる品に紛れなきゆえ、正当の記図に迷わざる事実を見出だし得らるる御事と存じ候。しかるにそんな物は本邦にははなはだ少なく、十の九まで外国産に拠って外国人が命名せるものは多かれ少なかれ本邦品に合わず。
 進献品中、中道氏の所集 Badhamia macrocarpa は正品にあらず。var.gracilis と本種との中間品なり。全体この種は日本に少なからず出るも、いずれも欧米産のものに比してすこぶる小さく、形色ともに多少ちがいおり、決して(150)正品にあらず。また Physarum citrinum として差し上げたる上松氏の品も ph.sulphureum とする方が正当に近きものと思う。例の Comatricha nigra と C.laxa,Trichia affinis と T.persimiris と T.favoginea と T.acabra,Stemonitis herbatica と他の数種などときては、判然たる本種とすべきものは少なく、どちら付かずの中間物はなはだ多く、また Stemonitis fusca;St.splendens;St.ferruginea 等の内には本種とすべきか変種とすべきか異態とすべきか去就に迷うものはなはだ多く、変種同志の間にまた無数の中間変種あり。故に多く見れば見るほど、天地間にこれが特に種なりと極印を打ったような品は一つもなく、自然界に属の種のということは全くなき物と悟るが学問の要諦に候。故にいわゆる正品すなわち書物に書いた通りの品を手に入れんと欲せば、その品を命名せし人に乞うてその品を分かちてもらうより外なし。もしまた大要を学びたしとのことならば、吾輩が査定するをまたず、名も何も判らぬなりに、貴集中の諸品を差し上ぐるが一番宜しと存じ候。すなわちこれを査定するためにいろいろと解剖し、図書をしらべ引き合わすのが本当の研究になるなり。故に研究用として差し上ぐるならば、種名などは記し付けずにただ見るばかりの属名を記し付けて差し上ぐるが最良法と存じ候。
 すべて尊貴の方の御幸にはあまり立ち入らぬことに候。小生かつて在英中、日本人と交際せず。これは在米中すでに酷い目にあうたこと数度あったからなり。しかるにある貴人来たり宿所に適当の所なく小生をはなはだ懇遇された人を経由して宿所の世話を頼まれ候。よって小生ある海軍佐官と相談の上、英国のある男爵にて学問上声望ある人を当時盛名ありし本邦の軍艦で饗応し、そのついでに宿所のことを頼み承諾さして、右の貴人および随行者をつれその男爵宅にゆき、一見してこれならば宜しとのことでその宅へ移ることと致し候。しかるに公使館の一員がこれを聞いて、その宅はテームス河の南にあるゆえ交際社会であまりもてぬと評せしを、随行員が洩れ聞き帰り主人に話せしより、主人何となく男爵方に移るを躊躇す。いやならいやと言うて早くことわりやればよきに、ことわりもせずに打ちやりおく。その時は女皇即位の五十年の祝いでロンドンへ外国より数万の見物人が入りこむ期も迫り、右の男爵は右の日(151)本貴人が移り来るというので修復をも加えながら他の知人どもが借りたしというを一切ことわりたるなり。しかるに何の理由ものべず、また、もはや移るを好まずと明言してことわりもやらず打ちやりおきしゆえ、その男爵はもとより小生も大いにこまれり。その前にまた貴人をある他の男爵(只今大英博物館長くらいになりおるはずの人)方で饗し、なにか珍物を日本貴人がもらえり。かかる際は大抵相当の礼物をおくるなり。しかるに随行員等は少しもそんなことに気が付かず。よって小生自分でなにか買いておくり置けり。それがそのままになりおるゆえ、小生その由を随行員に話すに、その代価を問い小生に払い、今後かかることをするなといわれたり。さて右の借宅一条もそのままに打ちやりおき、そのまままた仏国へ渡り去れり。何とも小生の迷惑ははなはだしく、ただ英国の風習に達せざる人なれば悪しからず解を乞うとのみ言うてすませたものの、男爵および一族ははなはだ小生を面白からず思うらしく、最初右の貴人の世話を小生に頼みし人へ一、二度かけ合いしも、それは貴公の念が入らぬからだというようなことで、小生は英人に対する面目をも全く潰し、日本の貴族というものはあんなやりちらしなものかと英人どもに思わるるも恥かしく、怏々としおるうち、また故国より小生の金を送り来たらず、やけ糞になりて博物館内で大喧嘩をなし、立去に及べり。それが今にこの田舎に浪々して空しく老いたるわけであるなり。
 件の日本の貴族は、その人としてははなはだよき人で小生に始終好意を寄せられたが、つまり随行員などいうものは、一文も出すものは主人のために惜しみ、一事も銭を出さずに人をはたらかせるを能事と心得おるなり。(その随行員の一人は後に大臣となりしことあり。この人はどこへ行っても自分の物と間違えて他人の外套、高帽、杖などをもち帰る由。)言わばそんなものが門戸を守ればこそ、貴族などいうものの身代ももてることと存じ候。小生はこれに懲りて必ず孫子の末までも貴族交りはせぬつもりなり。その貴族は小生にあうごとに必ず自分方へ来泊して話をきかせてくれなど毎々望まれしも、小生はついに一度も往かずに過ごせり。それが反って双方の間を円満にすませたる所以と小生は悦びおり候。
(152) 故に貴下などもなにかその筋から書いたもので依頼でもあらば知らぬこと、どんな容貌の温柔な、言語の丁寧な人が頼まるるとも、口先ばかりでは後日何のききめもなく、事さえ済まば茶屋女が出で行く客を見送るごとく、たちまち舌を出してそれきりとなるべしと存じ候。小生は、人のせっかく書きたる表啓文を一字でも改竄するようなものは私曲の至極なるを自証するものにて、乞食や非人とかわり、いやしくも尊貴に侍する人がそんなことを敢行して何とも思わぬようなら、その人はいかなる不人情いかなる無義道なことをもなしかねまじきことと存じ候。かつそれ貴下すでに一年半近くも御研究材料を献納せず、今日まで後らせ置いて、今に及び忽然思い出したようにこれを献納し、さてその品が貴示のごとき不完全のボロ品とすれば、先方様の思し召しははなはだ面白からぬことと察し申し候。それよりは、これはこれでそのままで打ちおき、一日も早く小生と連名で図譜を出し、所載の品種をことごとくそろえて図譜に載せたその正品を、そのままともに大山伯あたりのしっかりした方の世話で再び進献せんこそもっとも望ましきことに候わずや。只今埒もなき不完全な塵埃ごときものを献上せんより、右様の完全にして出所正しく一々の図記と引き合わせて少しも間違いなきものを差し上ぐるが正当のことにて、またその節に取りては大いに事業と図譜の名声をも成すこと、先年の言を忘れずに勉強したとその効果も御目にとまることと存じ候。一合二合の米を小買いして貢ぎにゆくより、多少おくるるとも四斗俵一つかつぎゆき、おそなりましたがと呼ばわって、ドッシと玄関にすえて帰る様に、人々も見て眼がさめることと存ずるなり。
 貴下は服部氏にまだ標品を贈りおらざる由、貴書にて分かり申し候。これがすでに勿怪《もつけ》の幸いなり。小生は何分そんな人に私用さるるような惧れのあるものを、この上差し出さぬことを望み申し候。小生はこのことにて脳がはなはだ悪く、今に何もせずに日々ぶらぶら致しおるなり。
 御申し越しの未査定品はさっそく送り越したく候。みなまで早急に調べ得ずとも特に珍しそうなものから査定し報告致すべく候。           まずは早々敬具
(153)  小生もいろいろ用事多く、こまりおれり。故に粘菌献納のことは当分御打ちきり下されたく候。おかしな者相手に右様のことあらば、ゴマの蠅に付かれたごとく始終不安の念を離し得ず候。
 昭和三年三月二十九日朝六時半追記
 小生は他人が何を発見しようと発表しようと、少しもわれらの関すべきことならずと思えり。ただし何の素養もなき者が小生の査定したる品種を見て誤解したり、また、いわんやそのような人に不正不純もしくは紛らわしきものや間違うた名を付けたものを与え、誤謬に入らしむるようなことあらば、はなはだ相済まざることと思いおり候。
 粘菌の新種というものは、リスター『図譜』序の終りに(p.20)見えた通り、この上世界中にもあんまりなかるべきはずなり。日本で出た新種として世界に誇るべきは、Lamproderma cerifera;Arcyria Hirannuma;rcyria glauca;Minakatella longifla; Cribraria glatiosissima;それから Diderma koazei くらいのものなり。ずいぶん多年集めてすらこれほどのことなり。リスターの第三板に出た数十種の新種中真に新種というべきは十三、四に過ぎざるべし。
 故にこの上新種を見出だすよりは、なるべく多くの異態を見出だして粘菌の形態学を開進せしむることが、もっともわれらの務めに御座候。すなわち Arcyria Koazei ごときあやしき新種を見出だすよりは A.incarnata var. olonifera ごとき異態(または変種)を見出だす方が、粘菌の変化を研究する上にその功大なり。Diderma lepidodermoides を見出だせしよりは D.radiatum var. plasmodiocarpum を見出だせし方、学問を資《たす》くること大なり。
 貴下は人に研究材料を与うるよりは、閑暇に片はしから鏡検して一々写生し、胞壁の条《すじ》とか茎に含める汚物や石灰結晶品の形とかいうことを一々ひかえて比較し、何ごとにまれ、発見、発明されんことを望む。これが本当の粘菌学に候。新種の発見などということはほんの児戯に過ぎざるなり。
 
(154)     54
 
 昭和三年五月三日午前二時過ぎ
   上松蓊様
                      南方熊楠再拝
 
 拝啓。小河内村粘菌目録は一々名を書き入れたる上、咋二日朝発送致し上げ置き候。それに見えたる通りわずかに五種(貴状には四種のようなれどA一号に二種あり)ながら、その一つ AT1,Hemitrichia clavata Rost.の外はみな希品にて、AT2なる Trichia verrucosa Berk. は普通 こんなに茎があまり太からぬに、貴葉品は こんなに茎が太くまた扁たく候。AU、Arcyria stipata List.も従前の品とは色がかわりおり、それは標品が古きゆえといわんも、盃全面にあみめ〔三字傍点〕と細凸起あるは新しき異態に候。AW,Hemitrichia vesparium Macbr.も『図譜』に出せる胞壁は平滑なれど、貴集品は不整の網眼あり。かつ内地にての創見に候。(従前大王が北海道、朝比奈博士が台湾にて採られあるのみ。Arcyria stipata Lister;Hemitrichia vesparium Macbr.共に本土では今度が創見に候。しかしていずれも新異態に候。)さてAVは、Hemitrichia serpula Rost.大陣笠で鏡検を要せずと思うたが念のために鏡検すると、胞子のあみめ〔三字傍点〕が従前見しことなき異態なものに有之、わずか五種の内四種まで、あるいは希品あるいは本土で創見あるいは従前無例の異態なりしには、このほど中不快つづきの小生もまだまだ天幸はあると気をとり直し申し候。この段とくに御礼申し述べ候。右の内 Hemitrichia serpula がことのほかの大手柄と存じ奉り候。
 普通に H.serpula の胞子 は九から十二のあみめ〔三字傍点〕が半球面ににならぶ。そのあみめ〔三字傍点〕はいずれもほとんど等辺多角形なり。しかるに貴集品は図のごとくはなはだしき不等辺のあみめ〔三字傍点〕が六−九あり(ま(155)た あみめ〔三字傍点〕のすじ広くて小孔を点ず)、不等辺の上に大きさも こんなにちがう。故に、これを forma inaequalis Uematsu として本種の定義を修正し(『図譜』第三板二二五頁)spores ……云々の下に or with broadich pitted brands forming on irregular net with from six to nine unequal meshes to the Xhemisphere と書き加うるか、それよりもいっそ var.inaequalis Uematsuと特書するかにせねばならぬ。このことリスター女史と協議すべし。すべて Trichia 群の胞子に不等大のあみめ〔三字傍点〕多少なきにあらず(例せば Oligonema nitens;Calonema aureum)といえども、本品のごとくあみめ〔三字傍点〕がゆがみちらしたるもの先例なし。ことのほかの椿事なり。
 同氏へ小生状を差し上げたる子細は、小生今年二月より学術上のことではなはだ不快を感じ(これは岡氏には用のなきことゆえ申し伝えざりしも、御承知のごとく粘菌御研究材料を小畔氏より進献するという一件なり)、タバコ(きせるにて刻み煙草を吸う)を用うること例外なりし。それ故かこのごろ血圧高上して頭の右辺また左辺が小児の?門《おどり》のごとく踊り上がることはなはだしく、眼瞼紛乱して眼を閉ずれば煙のごときものがまいあるくを見る。また両足しびれて椽より下へ降りるに一旦腰を椽にすえたる上ならではあぶなし。祖父も母も中風にて一年または三年も煩うて死し、姉は三弦をひくうち卒死したる例もあり、到底長生はむつかしと存じ候。只今書きおる「続々随筆」は、もし目録通りに成らずして死するようなことあらば、岡氏へ稿本を送りあるだけ出板して五百円貰うべきところを、先日百円拙妻の妹寡婦となり一人の女児和歌山高等女学校で最優等なるものを明年東京高等女子師範へ入れるため幾分の助けとして岡氏より送りもらいあり、残分四百円を上松氏に送り下されといいやりしなり。しかしてその四百円の使途は上松氏へ小生より申しやりおくべしと申しやりしなり。小生死んだ後のことゆえ、只今わざわざ貴方へ同氏が駆け付けるほどのことに御座なく候。
  以下は五月七日午前二時ごろ書く。
 さて、その後小生医士両人(一人は小生幼時よりの友人にて、明治三十五年より只今まで二十六年不断小生の身体(156)を診察しおる。小生は病気きわめて少なけれど、不断健康を診察しもらいおり、この人もっとも小生の健康状体を知悉しおる。今一人は小生の兄よめ(現在泉州堺)の従姉の聟にて医学博士なり)に熟《とく》と診断を重ねしめしに、一人は小生の血圧二十三、一人は二十八にて、いずれも年齢に比してはるかに低しという。何度試みるも左様なり。故に喫煙過度のため自分のみ右様に感ずるだけのことと思うが、血圧ということ人の素質により一定せず、とにかく近年おびただしく苦労するゆえ間違いながらも自分右様に感ずるだけ衰え出したことと思う。(小生近来しばしば不意に頭の半分右または左に冷たき水銀を注射するごとく感ぜし。ただしこの一両日はそのことなし。血圧は二十八にて常例よりはひくき由。しかしこれは人によることにて低きとて安心はならず。)
 ここまで書きしに拙児只今深更に外出したりと見え、自宅の犬が一声吠える。(拙児出るごとに従いて戸を出で一声吠えて随い行くなり。)よって行き見るに拙妻いわく、今夜十二時よりこれで二回外出し、石友追っかけゆきし、と。しばらくまつうち犬走り還り拙児も帰り石友も帰り候。小生もずいぶん疲れたるゆえ今夜はこれにて筆を中止致し候。娘は流感全治せぬうち従姉が和歌山へ上りしを幸便と同行せしに、七日ばかりのうちに気管支カタルを発したるゆえ人を派して迎い帰り、川辺の空気よき日あたりよき石友の宅で保養させ、もはや快方。今二週間おくれたら肺患になるところなりし由。よって九月まで当地におき自修せしめ、身体かたまりし上また和歌山へ上すはずなり。今に及んで娘を上京せしめざりしことを悦びおり候。
  以下は五月八日午前二時過ぎ書く。
 六日の夜十二時より七日午前三時まで右様の騒ぎで家人一同眠らず。七日を通じては幸いにやや静穏なりしも、妻が疲労はなはだしきより今夜娘のおる石友宅へ泊りにゆき、石友と下女と拙児を番しおるが、拙児より早く熟睡しおり、止むを得ず小生は昨朝八時過ぎより今に眠らず書斎にありて夜を守りおり候。
 これではどうも夫妻の寿命が保ち難きゆえ、かつは何のあてもなきに介抱人と下女とに月々八十円ばかり出す。そ(157)れよりは病院へ入れて月々百円くらいで養生せしむるがましと存じ候。当方より電信着き次第洛北岩倉村の病院より迎い員を派しもらい二日ほど当地にとまり、勧誘し止むを得ずんば強制してつれ上りもらうことと致し候。何がどうなるやら世間のことは知れぬものにて、例の御研究材料のことさえなくば小生は二月来かく不快に暮らさず、したがって何とか拙児の機嫌をもとり得たはずなるも、今となりては致し方なく候。
 さて、小生自分またいつどうなるやら知れず。よって妻の妹(田村広恵)およびその夫(田村密雄)に遺言状を渡しおき候間、小生頓死などせば右の者どもより報知申し上ぐべく、その節は旅費は差し上ぐべく候間、当地へ下り小生の所有物すっかりしらべ、平沼、小畔二氏が従前出資して買い下されたる書籍等は一切二君へ返納し、粘菌標品および文書は小畔氏に渡し、菌の標本は東京帝大に望むなら寄付し、然らざれは平沼氏へひとまず引き取り、然るべく要談の上いずれへなりこれを応用し得る lnstitute(外国でも宜し)へ寄贈下されたく候。藻苔蘚等の標本もどこかへ寄付されたく候。外国産高等植物標本は和歌山におき多年手入れせぬゆえ如何と思うが、なかなか多大のものゆえ京都の帝大へでも受けるなら寄付したく、小生の身体は希有のもの(牛羊ごとく食った物を何度も何度も反芻する)ゆえ京都大学へ寄付し、解剖の上プレパラートなどにし、残分は焼き了り灰をまきちらし肥料にでも用い、墓などは一切建つるに及ばず。このことは京大へ小生みずからかけあい、また予備の応問受験もなしおくつもりなり。しかして貴下は拙妻および妻の妹その夫に申し付けあるゆえ、五千円御受け下されたく候。何につかわるるもかまいなし。岡書院から貴下へ筆耕原稿料を四百円か六百五十円(これは小生死ぬまでに仕上げた稿の多寡によることなり)もち来たるべし。その使途は小生より申し上げぬうちに小生が死んだら、これまた貴下御使い下されたく候。小生より申し上ぐるところあったらその通りに御支払い下されたく候。いずれ詳しきことは別に記して送り申し上ぐべきも、その詳報に接せぬうちに小生死んだら、ここに筆する通りに御処分願い上げ候。
 小生は和歌山にも本県郡部にも泉州堺にも父母につながる親族多し。その多くは小生よりはるかに富有なり。また(158)平生麁闊にて何も聞き及ばず、此方より少々のものを遺しやらんと面会を望んでも返事も寄せぬものもあり。親類というものはよくよく役に立たぬものと存じ候。よって妻と妻の妹のみに多少のものをのこす。男子一人は例の通り、娘は行方知れぬものなり。自分も死んでどうなるかさっぱり分からず。不安心ながら致し方なきゆえ安心すると見え、毎夜はなはだ安眠致し候。
 まずは右申し上げ置き候。                 早々敬具
  拙宅ずいぶん混雑致し郵便物着しても受取人がおらぬ等のこと多かるべければ、なるべく小生より確と請求せぬものを御送りなきよう当分願い上げ置き候。前日のケラチオミクサの図および標品など人手少なきため今に返送し得ず、はなはだ気がかりかつ迷惑致しおり候。何とかそのうち送り返し申すべし。申すまでもなきことながら本状申し上げ候ことは当分無用の人に御話し下さるまじく候。小畔氏辞職のことなど小生はやや久しき前より承聞しおりしも、いよいよ辞職のこと世に表わるまでは貴下にすら洩らさずに罷り在りしことに御座候。遠地にありていろいろのことを聞き騒いだところが益なきことに御座候。
 
     55
 
 昭和三年五月十七日早朝四時
   上松蓊様
                      南方熊楠再拝
 
 拝啓。拙児は十二日に洛北岩倉病院よりの迎い員二名に当地中村正和と申す医学博士(小生の兄よめの従姉の聟)付き添い自働車にて拙宅出発。さすがは事になれたるものにて、最初は中村博士に打ちかからんとせしが、三分ばかりの間に迎い員二人が裸体に衣をきせ、その一人が背に負うて車に乗せ候ところ、たちまち読書を始め出発致し候。(159)妻はかれこれ泣き悲しむこともあるべく、小生は叱り飛ばすこともあるべきを慮り、博士の注意にて近街へ暫時立ち退きおり候。
 こんなことなら二年前にやや狂暴性を露わし候節入院せしめたらよかったなれども、迎え員を地方へ発送の例なかりしゆえ?躇致したり。(今度特に知友の世話にて始めて京洛以外に迎え員を派遣されたるなり。近地の病院にはむろんかくまで事になれたる看護人もなければ派遣の例もなし。)
 昨年秋初まではたびたびこの室へ粘菌など見たしと申し込みに来たりしも、小生は『随筆』売れ行き少なしとの報に大いに心配し、その方にのみ取りかかりしゆえ、そんなものを拙児に見せ示す暇なく、終《つい》には粘菌目録破棄の罪をせめてこの室に来ることを厳禁せしより、小生に見離されたるものと確信して断念せしにや、それより一切小生に言《ものい》わず、また今年初めごろまではなお小生食事のため台所に行くごとに側に佇立し何か言いたき様なりしも、小畔氏例の研究御材料進献の儀を固守し、また科学智識の一条より小生二月一日来久しく意識を絶ち候症にかかりしゆえ、ただただ喫煙して日を送るのみ、拙児と何の言語もなさざりし。それより拙児?のごとくなり飲食を絶ち、近ごろは裸体で臥しおるのみ、浴湯の外は臥してばかりおり候。実にあわれなことにて、小生は拙児へ申しわけのため養嗣など致さず、自分の跡を絶ち、今度洛へ上り候て京大へ死骸寄付解剖後骨骼を保存して学問に資するよう契約致し帰るつもりに御座候。
 その後は一意粘菌を発表出板にかかり、余命あらば和歌山に上り淡水藻を図譜編成出板にかかり申すべく、その間は死ぬまで舎弟方におり申すべく候。随筆も大抵成稿致しおれば今年中に二冊出板し得る見込みに御座候。この随筆は、研究御材料一件のために拙児は到底全快の見込みなきものと判定さるるに至り、小生は後を絶し申し候。
 妻は強度のヒステリーを起こし言動常なく、女子は全快したるも医者は九月まで当地におくべしとのことゆえ、石友宅におらせ候。妻は淋しさのあまりこの女子を自宅へつれ帰らんと致し候も、なるべく当宅をはなれおらしむるが(160)良策と存じ帰らしめず候。
 ずいぶん悲酸といえば悲酸の至りに有之、入院に付き費用と手数おびただしく候。しかしながら人間には必ずかかる災禍も起こるものにて、つまるところ小生の用意薄かりしことと後悔すれども詮なし。とにかく三年二ヵ月めに拙宅の門を開き得、知人のたれかれも出入自在と相成り候。京より帰り候上、一意学事を果たしたく、多少の成績を挙げたく存じおり候。まずは右申し上げ候なり。              早々敬具
 前日小河内村御発見の Hemitrichia serpula は var.inaequalis と致す旨申し上げ置き候ところ、それよりも一層事実を明表するに付き var.irregularis Uematsu と致しおき候。胞子面のあみめ〔三字傍点〕が不等大というよりも不整正ということを示す方が一層宜しかるべきゆえなり。実際は不等大の上に不整形なれども不整形の方がことに目立ちたる特徴に候。
 数年前和歌山の書肆主人にて『紀伊郷土研究』を出す堂場《どうば》という人、小生に看板をかけと望まれ、ことわりしことあり。今度京に行きての帰りに左のごとく小生作として誰か名筆の人を頼み看板にかかすはずなり。
  堂鳩《どうばと》も客よく来《こ》いと願ふなり
 堂鳩は(『和漢三才図会』に堂鴿とかけり。鴿は dove 主として家にかわるるハトなり。その野生というよりは堂ののきばなどに自活するものを堂鳩と申し候)クークーとなくのみなり。八幡鳩《はちまんばと》一名トシヨリコイは pigeon にて家にかい難し。天性山林にすむものなり。これは老人来《としよりこ》いとなく。堂鳩もクークーとなけども、実は心中には八幡鳩が年寄りこいとなくごとく、堂場氏の店へ客人《きやく》が寄《よ》り来《こ》いと願いおるというなり。むろん堂場を堂鴿によせたるなり。只今鴿をハトとよみ得るような人は十人に一人もなきゆえ、分かり易いように堂鳩の字を用いおき候。 早々敬具
 拙児は早発痴呆症にて恢復の見込みなき由。故に永久入院せしめおくか、または一生社会へ自立して面を立て得ぬものに御座候。わが子ながらも気の毒に存じ申し候。平沼氏よりいろいろ恵贈ありしことを記臆するにや、時々口癖(161)に平沼平沼というをききしことあり。また常楠さんトコ(所)は金持かいと人に聞きしこともあり。痴人ながらも報恩とまでゆかずとも感謝、復讐とまでゆかずとも怨恨を懐きしこととは知れ申し候。まことにかかるものの年久しく眷顧庇保を賜わりし段、平沼氏にはことに感謝申し上げ候。
 右岩倉村には狂人などを家族に入れて保養せしむる家多少有之候由(皇太后も幼時この村の農家に養われたまいしと承る)、何とぞ少しく軽方になり候わばそんな家に預かりもらい、拙妻も時々趣き見舞わせやりたしとも存じおり候。悴が病気なればとて研究資金をそれに当つることも成らず。何とかそれだけのものを著述寄書等にてこしらえざるべからず。大いに骨が折れ申し候。            再白
 
     56
 
 昭和三年十二月三日夜十一時過ぎより認め四日午後一時ごろ郵便集配夫に渡すはず(と思うが実は何時やら分からず)
   上松蓊様
                    南方熊楠再拝
 
 拝啓。十一月十九日出御状は二十一日午後一時拝受。しかるに、その翌朝(二十二日七時半)小生起き上がらんとするに、腰の右側より背裏へかけ筋肉緊縮して鰕《えび》のごとく容易に起き上がり得ず。いろいろと捩《もじ》りて起き上がりしも今度は身を曲《かが》むることが少しもならず。ちょっと驚き候も、たぷんこれは和歌山田辺等で寝違いと申し、終夜一方の身側を下にして強く圧えて臥しなどするときはその辺の筋肉凝固して伸縮自在ならざることあり、前夜眠れるうちにおいおい寒気烈しくなりて少しも身を転ぜずにおさえ臥したる余勢と存じおりたるところ、夕に至るも止まず。そののち至って暖かき日もこの患やまず。小生は自分の母の系統に中風や卒中風で死んだもの多く、その防ぎに年中好んで薄衣せしゆえ今も厚著を好まず、また薄着してもさほど寒く思わぬなり。しかし自分思わずとも寒気は久しきうち(162)には身体に大影響を及ぼすものゆえ、一昨々日ごろより厚着に致し、また三度の食を二食に減じ、
  これは、連日動かずに戸板の上に紙をのせ写生しつづくるゆえ、実は三食は多きに過ぐることと存じ候。
田辺より綿入れ、厚き股引き等を送らせ、また小生の身体を十分多年よく識りぬきおる医士喜多幅氏の注意により、懐炉灰も送り来たり候付き今朝より生まれて初めて懐炉灰を用いるに、大いに快方に有之候。「何をいふにも六十の秋」という古人の句も思い出でられ候。
 今夜までに菌類すべて百九十種を画記致し候。種数の多きに誇るが目的ならざるゆえ、新事実を気付くごとにまた追補の画を描くゆえ、むろん画は二百余枚に上りおり候。いろいろとかつて見ざりしもの多く、また書物では見及べど見るは初めての物も多く、ことに寒時生ずる深林の菌は普通に手に入らぬ物にて、多くは水にあえばふくれ出し、風にあい乾けば緊縮して人目につかぬもの多ければ、なるべく多く図記致しおり候。何とぞ今百十種ほど図記して下山したしと存じおり候。苔や蘚も多く有之、地衣はきわめて多く、一昨々日平沼氏より送られたる貴殿のカナヅチとノミは大いに役に立つべく候も、今回は時間乏しくてあるいは地衣は多く集め得ぬかとも存じ候。然るときは西牟婁郡のどこかにて地衣の多き所を撰び集むべく候。
 今日喜多幅氏よりの来状によれば(小生みずから認めおくれる、小生身体動作故障の諸図に基づく)、腸筋肉にリウマチズムを起こしたるものらしく候て、原著と懐炉灰が一番宜しく、なるべく速やかに下山せよとの勧めなり。小生もせっかくこの難所へ来たりしことゆえ、今四、五日経験してこの腰のかたまりが全快せずんば下山と致すべく、また幸いに痛みが全くやみ候わば今しばらく逗留致すべく候。日短きゆえどうしても作業が夜に入る。夜早く臥したりとて早く眠らるるものにあらず。しかるに小畔氏も言われしごとく、この事務所員は大抵八、九時までに就寝す。ふすま〔三字傍点〕一枚隔ったる小生は、他人の眠りを妨ぐるを憚り、それより遅くまで作業する能わず。
  ランプは闇けれども、これは慣るればさまでにこまらぬものにて、つりランプを机上へおろし写生して翌日色彩(163)を実物と対照し校訂すればよきなり。色によりては昼夜同色に見ゆるも多し。
これが第一の難障に御座候。かくてせっかくとり来たりし菌も雨ふれば腐り風吹けば乾きかたまり、まずは二十分の一しか画記し得ず候。貴君一昨春武州の大王山とかいう所でとり来たりし栗の木に付きたる物(よほど以前に米国で一度見出だされしもの)と同属のものも見出だし候えども、右の事由にて失い了り候。
 当地着の翌朝小生が見出だせし大なる火?様の菌は炭質ならざるゆえ、どうも Xylaria にあらず。(Xylaria にあらずしてこのようなものは Pyrenomycetes 中にはなき由、原摂祐氏より注意し来たれり。)故にあるいは火?状の Clavaria(貴下秋田県にてとりし中に、  こんなのがありし属)に Pyrenomycetes 俗にいう帯タケまた鼠の手の属の一属たる Hypomyces が寄生せしかとも思う。しかし実物はどうも寄生物とは見えず。故にあるいは新属にあらずやとも存じ候。新属であってくれたら平沼氏の名を冠せしむるにもっとも好都合と存じおり候。
 平沼、小畔二氏より食料品いろいろ送られ、食事に付いては小生何不自由なく身体も脂肪分に事かかず至って安全なり。また淡水藻学の重要書 K tzing の‘Tabulae Phycologicae’は1845-58という旧書で、学識はもはや老耄せしものなれども、彩色板が斯学上無類の権威にて、火事で多く焼け失せたるゆえ、その書欧米にも多からず、日本などにはとても見られぬものなり。しかるに一より八巻までちょうど淡水藻の図版のところ打ちそろい四百マルクで売りに出たるを長々買いおくれおったるに、先日平沼氏より試みに注文下されしに幸いに売れずありて、今度平沼氏方へ着せし由。小生はかかる希書を自分の家に長く蔵して身後行方知れずなるを好まず。よってまず平沼氏の蔵書印をおし小生より一札を入れてしばらく借用し、一通り用がすまばさっそく返納せんと存じおり候。
 むかし欧陽脩が『五代史』を撰び司馬君実が『資治通鑑』を編みしとき、あんまり久しくかかるはそれを口にして身入りを心がくるものとの蜚語起こり、それがため十分に出来上がらざりし由、『五雑俎』に見え候。小生近くあんま(164)り寄付金(ことにこの県下人士の)を歓迎せざるはこの理由に出ずることにて、寄付金をしたからどれほどのことをなしおるか見せてくれなど申し込み来たる者あるをおそるるに出ず。平沼、小畔二氏にこのことなきはまことに幸いなり。粘菌は図譜稿ほとんど一通り出来あり。何とか遠からぬうちに新種新変種だけの図記をのせたる日本粘菌目録だけでも出し、その節世間の妄誤を去るため、粘菌という名を廃し菌虫とでも改称して範を垂れんと存じ候。ただ一つ遺憾なるは Brefeldia, Prototrichia の二属が欧米に多きに日本より今に見出でざることにて、小生は菌類の図記が成竣の上はぜひ当山林にて一つだけでも捜し出さんと存じ申し候。この二属は冬寒中にもっぱら生ずるものゆえ、今が捜索の好時期と存じ候。
 前日川又へ来る自働車にて通過せし塩屋村に、むかし有名なる医者羽山大学というありし。その人がペルリ来航より明治元年ごろまでの日誌五十七冊小生全写せし原本の残欠を先日拙宅書斎にて御覧に入れたり。その大学に子なく親戚より養子をなし、その人も至って徳望あり、貧家へ人力車で往診すれば前方が車夫への付け届けにこまり、自然治療を望むも力及ばざることとして頼みに来るまじとの掛念より、老後に自転車を習うとて負傷して死亡せり。その人の長男は小生より一歳若く、極めたる美男なりしが、十七歳のとき小生勧めて東上せしめたるに肺患になり、帰りて小生渡米の後一年内に死せり。次男も無類の美男なりしが、小生渡米のとき和歌山まで同行し、園田宗恵(後にサンフランシスコへ一向宗を敷きに行きし人、今は故人となれり)師に頼み、関直彦氏方におき、小生洋行後医科大学に入り、試験ごとに百点|皆取《みなどり》で非凡の才物なりし。かつ、ことのほか気立てもよく美男美声で女どもに思い付かるることもまた百点なりしと、大正十一年築地帝国ホテルで頼倫候が宗秩寮総裁になりし祝宴に小生と対座せし、もとかの人と同級生たりし岸敬次郎氏の談なりし。しかるに、これも明治二十七年ごろ肺疾で帰村し間もなく死亡、その次の男子は小生亡父の兄よめの一族へ養嗣に来たりありしが、これも死亡、五男、六男も全滅、ただ第四男(小生渡米のとき六歳)のみが生き残りしも、兄弟将棊倒しに仆るるを見て、いつかは自分も同様の始末とおそれて強迫観念を(165)生じ精神病者となりて現存し、一種の迷信より家傾き屋根漏るるも少しも修理せず、実に惨傷を極めおる由。
 しかるに六人の内五人まで男子つづき生まれたる後一女生ま。ちょうど小生渡米のわかれにゆきその家に一泊せし夜生まれしなり。(只今四十三歳、兄弟みな美男なりしゆえ、この女も美女ときく。この村に鎮座する氏神を美人王子と称す。)次に第七番めにまた次女生まる。この二女は健在なり。長女が嫁せし家は御坊町より南部町に至るあいだに第一の豪家にて同村にあり。その夫は小生洋行するとき七、八歳なりし。それがはなはだ理財の才あり、また文事を好む。その人より今度当山の調査終わらば何分一度立ち寄りくれとの望みにて、その妻は小生明治十九年渡米の別れに一泊せし夜生まれたものなれば、小生も何とか往って一泊したく思いおり候。その女子生まるる数時前に小生眠られぬままに二階の窓を開きしに、月明らかに星|稀《まれ》に銀波蛇を踊らせ、浜の松ども徐《しず》かに動きて絶景なりし。これを見て小生は知らぬ遠き邦に往き何の日かまた帰りてこの風をきくべきと想像致し候。四十二年の松林が今も旧態を改めざるを見て、『源氏物語』明石入道の妻の歌に
  身をかへてひとり帰りし故里に昔に似たる松風そふく
とあるを臆い出だし候。
 また十一世紀なりしか、ローマ法皇となりて博学の聞え高かりしシルヴェステル○(忘る)世は、魔より方術の秘訣を学び受けしとき、エルサレムに入らば死すべしと約束せし。エルサレムはローマを去ること遠ければ、そんな気遣いはなしと安心しておるうち、法皇になりて三、四年目に、ある堂に入りて教義を説かんとするに、人々がエルサレムエルサレムということしきりなるを怪しみ、何ごとと尋ねしに、この堂をエルサレム堂と通称すときき、さては死所にあえりと観念してそこで死せりと申す。
 小生は平生亡父の祖先の古蹟で死ぬべしと言いおりし。これは小生の亡父はこの川下の入野と申し、今も三、四十戸しかなき寒村の庄屋の次男にて、先祖も何も知れるはずなきゆえなり。(ちょっと旧家と見え、明治十九年小生洋(166)行せし前にその家を捜せしに、『忠義武道播磨石』とて忠臣蔵のことを早く綴りしもの二巻(零本)を見出だせり。数年後に重野博士がどこかでこの書を見出だしなにかへ書けりときく。『帝国文庫』には全篇を収め入れたり。)しかるに、その後亡父生家は川上采女という武士が大和より落ち来たり日高奥城に居せしが後裔とききしことあり。そのことをなにかへ書きしを読んで大和の杉田定一という小学教師より、吉田東伍博士の『地名辞典』とかに、川上采女は日高郡川上村の山中に城を構え山路《さんじ》村(先日トンネルを自働車で下りし小家口は山路村の内)の東《ひがし》という地に出城を構えおりしが、日高川で魚をとり遊ぶところを同郡丸山の城主玉置のために暗殺されて亡んだ、とある由。(玉置は関ヶ原役に石田に与《くみ》して亡び、子孫尾張侯に仕えたときく。)さればこの川上村が采女の旧蹟にて、前日上り来たる道側にある小社は、もと人の往き得ぬ絶壁上に立ちありしを大江氏が相談して今の処に移せりといえば、采女の家の氏神くらいで、この事務所を百人長屋と唱え平家の残党がおりしところなどいうも、川上氏の残徒のことらしく候。(拙妻の姉が嫁しありし東牟婁郡|請川《うけがわ》村の須川氏なども、平家が大和より落ち来たりしなどいい、平家の窟などいう所あり。はなはだしきはイワタバコを平家が用いしタバコなどいう。いろいろ調べしに須川は大和の笠置山下の地にて須川という車駅ある由。柳生宗厳の婿たりしが、柳生が松永久秀方で筒井氏と戦い敗れしとき婿の須川は何方へ落ちしか知れずと柳生子爵家の系譜に出ずる由、右の杉田氏柳生家来で、申し越し候。そのころは外国をすべて南蛮と言いしごとく、落ち人の一群を平家と言いしことと存じ候。『史籍集覧』の何かに南朝の余党を平家と総称しあるを見しことあり。)
 腰痛むままにこんなことを考え集め、自分もウカとした戯言は吐かぬ物なり、果たして亡父の祖先の旧蹟に来たりて死することかも知れずなど思いつづけ候。一つの逸事として申し上げおく。ただし亡父の生家が川上氏の後裔などはよい加減なことで、むかしより川上氏の領内にすみし庄屋の家というべきを、勿体付けて言い出せしことと存じ候。
 あんまり無事で寂しき所におると、人間の智眼がくらみて眼前の実証も実証に立たずして迷妄の基となる。先日平沼(167)氏に申し上げしと思うが、先月初め大江氏雨中に山中より木片をとり来たり示すをみるに、Lycogala epidendrum 二つ三つ木片につきしかたわらに、それと同似のものが速やかにはいありく(第一図)。レンズで見ると Lycogala そのままの形色の毬の下にアワビの足のごとき足が前後に出で(第二図)、それを動かして蛭のごとく速やかにはいありくなり。さて大江氏が小刀の尖もてその毬を二、三にきりはなすと、二、三片がまた合して一となり進み行く。実に奇怪なことなりし。しかるに、大江氏数日へてのちみずから試みて知り得たところを語り、小生の眼前で試験して示されたは、この毬の内に小さき蛆一疋あり。それが粘液トコロテン様の毬に包まれおる(第三図)。小刀で毬を二、三にきりはなすと虫がこのように恐れ入って縮小し、小分の粘液裏に留まりおる(第四図)。さて暫時にしてまた長くのびてはえまわり、前後に切りはなされたる小分の粘液を拾い集めて従前の大きさの粘液毬を身にまとうなり。別に何の不思儀もなきことと分かり申し候。
 この大江氏眼力至って鋭く、かつ平沼氏より送られたるレンズを用い、多く(小生より多く)菌や粘菌を見出だされ候。その一つは上図のごとく胞嚢も網も深紺青色の美なる粘菌にて、形はもっとも Cribraria piriformis に近きも、盃 cup が全胞嚢の三分一にあらず、半ばまたは半分以上を占む。しかして茎は黒褐でなくて赤く候。きわめて美なるものなり。たぷん新種らしく候。初め二、三十個一木片にとり来たりしを見てなお捜索を頼みしに、近日千個またはそれ以上とり来たる。(168)新種もかくおびただしくとり来たりては、アルミヌムのごとくドッと価値を落とした心地せられ候。粘菌はおよそ三十種とりたるが、これは大江氏眼がよいばかりで何たる学識なきによる。小生自分捜したら必ず六、七十種は集むべしと存じ候。どこにもあるという訳に参らず、風と光線の影響によると見え、多種ある処は定まりおり、なき所にはいかに捜すも一種もなきことに候。Trichia contorta は小畔氏が樺太と台湾で見出だせしのみなるが、当山にて見出だし候。また貴殿武州小河内にて創見の Hemitrichia vesparium も見出だし候。低地に到る処多き Didymium 属は見出ださず。Physarum 属はわずかに二種を見出だし候。Stemonitis は至って稀なり。
 この寒きに雨天ごとに姫蟹(柿の核のごとき、漆で塗ったごとき茶色のもので、行くこと遅緩なり。石蟹とも申し、山梨県や飛驛では山民常食とする由)出でて徐かに遊び、二つ逢うとたちまちはさみ戦うところを、たまたま往来の人に踏み殺され甲のみ残るをしばしば見候。
  苔の下にも埋もれず蟹の甲
 これは、『神皇正統記』の末の方に、著者親房公がその長子顕家卿が阿部野で討死せしことを記して、「忠孝の道ここに極まりぬ。苔の下にも埋もれぬものとては」云々と、身は死しても芳名は後代に亀鑑となるという意を述べあり。小生前日雨中にトロ道を歩み菌を捜すうち蘚苔のほとりに蟹の甲が白くされてのこれるを見て、自分こんなことをしてこの山におると誰か知らん、学問上の功が多少後代に伝わったところが、この蟹の甲が苔の下に埋もれなんだって、蟹に取りて何の面白さもなきに同じと、みずから愛憎をつかせしことに候。
 只今十二時になり候付きこれにて擱筆。        早々敬具
  せっかく妻が心尽しの懐炉を入れて臥し試みんと存じ候ところ、夕方に入れた灰の火がまだ消えず。そのままにて臥さば夜半ならぬうちに消え了るべければいっそ消えるまでまち、さらに一つ火を点じ入るべしと只今まで書き続けしところ、十二時と共に消えたらしきに付き、改めて火を点じ、これより臥し試むるべきに候。
(169)  前日拝借の Ceratiomyxa の画は標品と共に御東帰の節返し上ぐべく妻に言いやるを忘れたり。小生帰宅の上送り申し上ぐべく候。
 
     57
 
 昭和四年元日夜九時過認
   上松蓊様
                      南方熊楠再拝
 
 拝呈。十二月三十一日午下りまでに高等菌三百五種を図記し了り候ところ、二十九日夜より雪にて何とも動くことを得ず。小生長逗留のため十一月七日に挙行すべき山祭《やままつり》(樹林の精を慰むる祭)が永延引致しおり、元旦に国有林管内の明神の社(登山の節見及びし道側の小祠)の祭礼なるをもって、同日に挙行することとなり、山中の人夫人足七十名ばかり集まり騒ぐをもって、小生は居間を片付け明け渡し、咋三十一日の夜大雨を冒し妹尾字の西川氏宅の三階へ登山の節見及びしブリキ屋根の大きな家)に移り泊りおり候。しかるに山神の怒りにふれたるものか、本日無類の大風にて、この二階飛ぶばかりの騒ぎに有之、加之《しかのみならず》ブリキ屋根鳴ることおびただしく、寒気烈しくて筆先が氷結し墨を用うることならず、インキを持ち来たりしを幸い、小生に無例のインキの状を差し上げ候。かかるうちにもまた高等菌を三種図記致し、総数三百八種を得申し候。外に原氏に調べもらうべき硬嚢子菌、苔、蘚、地衣、藻、合して二百五十種または三百種あるべし。明二日午後、事務所、祭の跡の片付き次第迎いに来たり、再び同所に帰り候上、荷物を箱詰に致し、雪解け次第大江氏より田辺へ送りもらうことと致し、小生は四日ごろ下山、川又にゆき六日か七日に田辺へ帰着のはずに候。
 当地方寒気烈しき(というよりも防寒の用意不十分)上、小生また防寒の用意手薄き男ゆえいろいろと難渋、ただ(170)し前日拙妻よりおびただしく懐炉灰を送り来たりあり、これははなはだ小生ごとき防寒疎漏な男にききめあるものにて、これありて始めてこんな所で写生など致し得ることと存じ候。これは山の神の功徳と感佩致しおり候。
 川又へ帰るに例のつり橋と小家口よりの自働車には恐れ入りおり候。つり橋渡り得ずば事務所の舟にて川を渡るべく、自働車が怪しければ川口まで歩むの外なし。この二事を無難に済まさば、その他は易々たることに御座候。
 寒気烈しく室内の物件が倒れるほどゆえ、ことにつり〔二字傍点〕ランプが落ちそうゆえ、これより消灯して運を天に任せ夜の明くるまで、高田屋二階に朦朧組集合の場、日光山中で山中鹿之助ごときものの方で果子を偸みにげし態、湯滝下の安達原的の老婆等を夢見申すべく候。小生ごとく一生放浪する人間にはこんなものばかりが二日の初夢に見え候。                        早々頓首
 先日申し上げし事務所の猫は、所がらハエ、鯉等の川魚の外食わず。前日渡辺篤氏より贈来の鰹節を与えしに怪しんで食わず。(只今は大好きになれり。)八文字屋小説に、寺にかえる猫、鰹節を見て尾を縮めて逃ぐる、とありしは事実に候。次に、この猫あんまり寒きときは囲炉裏に前足をさしのべて煖をとり候。
  唐猫が清盛まねる寒さかな
  (厳島で清盛日を招き返せしという)
 風ますます烈しく、ランプを片手にもちてこの状をかくもあぶなければ消灯して臥し候。               頓首
 
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 昭和四年六月十八日早朝五時過ぎ
   上松蓊様
                      南方熊楠,再拝
 
(171) 拝復。十四日夜出御状昨十七日午前七時四十分拝受。外国為替の件確証御写し送り下され難有《ありがた》く謝し上げ奉り候。前日の為替金領収証の写真とこれを併せ送らば前方は一言もし得ざることと存じ候。ドイツには一種の制法あり、為替金を預金などの内へ編入し程へて被送者よりその預金をしらぶる時に至り初めて判るようのことあるにやと察し申し候。この件はまずこれにて方付くべしと存じ申し候。この段厚く謝し上げ奉り候。
 貴下は金華山行きは止め、さきごろ趣かれたる武州の大菩薩峠辺の何とかいう山村へ今一度行かれては如何と存じ候。かの地の貴集品はいずれもはなはだ希品にて、かつ標本が大きくまたはなはだ壮大に御座候。妹尾および川又の貴集は種も少なくかつ珍しきものなし。Colloderma oculatum と Lamploderma columbinum のみ多く候。前者は日光(小畔)、紀伊安堵峰(小生)、後者は安堵峰(小生)、大和笠置山(小生)、北海道二所(小畔)のほか見出ださざりしものにて、川又の前者は従来見出だせしものと大分かわりおり候。よってこの二品を今度進献品に加え入れおくべし。
 前日申し上げ候拙宅隣の百万長者多屋氏(当地に有名な旧家)の娘は身体壮大(というても巨大に過ぐるにあらず)健康万全なる上まことに優しく、鄙事にも堪能に、また文芸音楽にも通じおり(この家は代々才媛賢女の出る家なり)、まことによき娘に候。貴下この夏大三郎氏と同伴し来たり同家に大いに茂りおるワンジュを見にゆきついでに一見されては如何。至って質素快活なる家にて家内和融なること万人の見るところに候。諺《ことわざ》にも妻を娶るはキジリモト(尉下)よりせよと申し、自分家勢の下なる家よりとるに限り候。小生の父この女の祖父と旧知にて、小生当地へ来たりしとき、この家の離れ座敷、次に借屋に久しく世話になりし。その後久しく無沙汰なりしが、過日恩賜の菓子をこの女の叔母(当地高等女学校長の妻)に贈りしに、これを砕きて他の物と雑《まじ》え、さらに果子を作り生徒一汎に班《わか》てり。その礼に豕《ぶた》肉をくれしゆえ、その礼に行きし。そのとき件の娘短冊を出し何か書けと望む。二十歳か二十一歳と見えたり。この程まで五、六歳と覚えしに、はやかく年長じ行儀作法愛敬ありと覚えければ、
(172)   年をへてけふ浮出る海天狗
 この近海に英語でいわゆる sea-dragon ウミテングという魚あり、罕《まれ》に海に浮き上がるをすくい来るに、浮き出でては沈まず、はなはだ遅く游《およ》ぎありく。小生幼きとき日本人に例少なきほど鼻高かりしゆえ、他の小児みな小生を天狗と綽名せり。
 京大の者ども大へこみの体、また土地会社等の輩は、聖上降臨を奇貨として無謀の大道を作りしがその維持にこまりおり、大もめの様子に候。         早々敬具
 
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 昭和四年九月四日早朝
   上松蓊様
                      南方熊楠再拝
 
 拝復。一日出御状昨三日朝八時拝受、難有《ありがた》く御礼申し上げ候。先般来妻ヒステリーを起こし、娘は例の盲腸炎、小生はこまり入り申し候。しかし只今は二人とも平安小康の様子に御座候。小畔氏は先月二十七日ごろ郷国へ老母御機(173)嫌伺いのため帰省、まず東京に帰り、次に宇都宮地方に行きし由、宇都宮の人より申し越し候。
 小生は六月一日進献の不足分を再献のため今に不断鏡検中に有之、小畔氏の献品を多少減少しくるるよう頼みやりたるに、子細かまわず多く同氏知人の手で集めしものを献上されしより、小生手許にのみある平沼、六鵜、宮武、福井、楠本等、ことに貴殿の採集品を進献しては重複多かるべきこととなり、ずいぶん困しみおり候。しかしまた考うれば奇方もあるものにて、この上は種々の異態中、特に学問上興味あるものを撰み出し差し上げんと存じ申し候。貴集中には、幸いにして小生の前進献分にも小畔氏の献品中にもなきもの多く、好都合に候。貴下仙戸石沢にて創見の Lamproderma cribrarioides は日本唯一品ことに見事な品なれば、一層御目留まりしことと察し上げ奉り候。
 サンチの尺は当分御放念下されたく願い上げ奉り候。かかるものは多ければ多いほど大事にせず、したがって失い易きものに御座候。
 この他のこと、平沼氏へ申し上げたれば、折にふれ御伝聞願い上げ奉り候。最近岡茂雄氏去月三十一日に来訪され、妻君病気とかにてその日直ちに出立、ここへ来る途中件の病院を訪れ候由。悴は入院したときよりははるかに平安らしきも、どうも全治ということは覚束なきように御座候。
 まずは右申し上げ候。なお一ヵ条御頼み申し上ぐる用件あれども後状にて申し上ぐべく候。小生今朝はなはだ疲れあるに付き右御状御受けまで、かくのごとくに御座候。             敬具
 
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 昭和四年十二月三十一日午前四時
   上松蓊様
                      南方熊楠再拝
 
(174) 拝啓。二十五日出芳翰二十八日朝八時半拝受、難有《ありがた》く御礼申し述べ候。
 拙女その後経過は良好なるも、なにかよほどこみ入ったる病症なりしと見え、盲腸より胸廓の横側に蜘《くも》の糸ごときものからみ付きありしをことごとく取り除きたるも、これを根治するため向う三ヵ月間強度の電気をかくる必要ありとかにて、拙妻の妹の方に立ち退きたるも、その第二男が中耳炎にて宜しからず、かつ家狭きがため住まうことならず、止むを得ず赤十字病院付近へ借宅し拙妻と娘と住み、夜分は妻の妹の夫の姪が泊りに来たりおり候様子。故に小生は一人にて留守すれど、書斎におつては門辺のことが聞こえぬゆえ本宅に下女を住ましむるに、夜分一人臥すこと能わず。よって去年貴下来たられしときありし下女来援し、二人にて夜分本宅にとまりおり、別段用事なきゆえ勝手次第の用事をなさしめ、小生のみいろいろと配労罷り在り候。
 悴は少し快方らしきも今にしっかり致さず、また今年は上半期は御行幸のことでその方に尽瘁せしゆえ、下半期は娘の病気でいろいろ心配せしゆえ、何も収入とてはなく、ずいぶんこまりおり候ところへ、昨日また平沼氏より拙妻と拙女へ下駄およびえり〔二字傍点〕等いろいろ恵贈あり、さっそく御受け御礼申し上ぐべきのところ年末の仕払い和歌山等への仕送りその他に寸暇なく、ようやく只今この状を貴下へ認め申し候。何とぞ電話にて平沼氏へ右御礼申し上げおき下されたく願い上げ奉り候。小生は飛驛にある大江喜一郎氏より粘菌到着、今日夜あけてその鏡検にかかると、その内の一つが新種らしきゆえ、また二、三日もそれにばかりかかるも知れず、平沼氏へちょっと手紙を差し上ぐることならぬやも知れず。よって特に貴殿へ御頼み申し上げおくなり。
 仙台の方なにか小生へ下さるべき御旨、まことに忝なきも拙宅はすでに書籍と標本だらけにて、近々また旧友中井氏なる人、上海より多くの支那書を送られ、実に貴重品どもを置き所なきにこまりおり、がらくたものは片はしから捨てることと致しおるほどなれば、せっかくの遺贈品を泥土に委する様のことあっても遺憾なれば、止むを得ず御辞退申し上ぐる段御伝声願い上げ置き奉り候。
(175) 小生は久々左の足はなはだ悪かりしが、五、六日前より快方に相成り申し候。
 新年を賀する等のことはなかなか手が届かぬも、応対を要する書翰諸方より殺到しおり候付き、本状はこれにて擱筆仕り候。
 小生北隣にすめる松岡という医士は今年五月東京上落合にて死亡、その子慎一郎と申すは富山県高中の教諭なり。今年夏秋の交八ヵ月支那内地を旅行、揚子江を上り候途次諸処にて小生のことを問う人にあう。また北京大学に往きしに何少斌氏一番に小生の安否を問われ候由、彼方には故孫文氏より小生のことを親しく聞きたる人士多きことと存じ候。支那へ之《ゆ》かばずいぶん便宜あることならんも、松岡氏話に、支那の山というはことごとく禿山らしく候。雲南の奥地などへ行かば深林もあるべきも、これはなかなかの難旅行と存じ候。
 妹尾にありし大江氏は只今飛騨にあり。下佐谷という所にありしが、九月来雪降りとてもおることならず、船津町へ下り住みおり、飛驛の粘菌はなかなか珍しきもの多く候。まずは右申し上げ候。                      匆々頓首
 
     61
 
 昭和五年四月十二日午後三時
   上松蓊様
                      南方熊楠再拝
 
 拝啓。十日午前十時出御状只今拝受。前便御送り下され候朱はどうも宜しからず、朱と紅と合わせたるものに御座候。しかるに昨日川島友吉氏来たり、拙方に旧来ありし朱がごみだらけになりおりたるを、今回貴方より贈られたる膠にて合わせなおしくれ候て、まず立派なものになりたるに付き、当分これで用に立つことと存じ申し候。故に朱の件は当分御心配を仰がず、まことにいろいろ御面倒相かけ恐縮の至りに御座候。
(176) 御寄贈の前田昌徳氏の一著は難有く拝受。しかるに小生只今いろいろのことにかかりおり(去年御臨幸の蹟へ小生の和歌を書きつけ碑を建つることにて、本月八日新庄前村長上洛のついで小畔氏を訪い相談まとまり申し候)、また例の研究報告出板の件に付き、すなわち彩色までもととのえ只今坂下画の稽古中に有之、とてもそれより外の自分不勝手の件には執筆し得ず、悪しからず御容赦願い上げ奉り候。
 杉山菊は前日来状あり。この秋まで下村宏氏の例の方におきもらい、それより郷里かどこか明記せぬが、菊女の姪が一子をのこして死んだそのあとへ嫁ぐはずと申し来たり候。この女は姉は出嫁し、あとに父の跡つぐべきものなく、さりとて細元《ほそもと》ゆえ養子にくる男もなく、まずは一度絶家となし、後年菊が生んだ子に杉山の蹟を立たしむるとのことに御座候。
 京大よりまたこの貧乏極まる田辺町の地処を一万坪、それから町費を上げて一万円を持参金とし寄付せしめ、植物研究所を建つるとのこと、小生は町会議員どもに意を示し抗議中に御座候。瀬戸へ臨海研究所を立てし後九年になるも、ただ夏休み中わずかの人が遊びに来たり、何の土地のためにならぬ京大の別荘のようなものに候。その上またまたかようの多大の要求は、国庫支弁の大学が当地方の民を馬鹿にしたることに御座候。それに付けても、小生もまた早く研究報告を出さねばすまぬ事宜となりおり候。この次第にてこのことの外には一切口をも筆をも出し得ぬことに候。右御返事まで。            早々敬具
 
     62
 
 昭和五年五月十九日午後二時半
   上松蓊様
                      南方熊楠再拝
 
(177) 拝啓。十七日出御状今朝八時二十分拝受、御礼厚く申し述べ候。前日御返し申し上げし水彩画は大抵小生手許にあるものにて、朱は鳩居堂の印付きにかかわらず丹に御座候。今日鳩居堂すら鉛を焼いたものを朱と称するほど(朱は水銀で製するに限る)、世間が朱というものを知らぬ時節になりたるに御座候。朱の目方は丹よりはるかに重く、また色が全くちがい候。小生もおいおい眼が老い、二種三種と彩色を合わせ使うては苦労多く、とても菌ごとき急を要する画はかき得ず。せめては朱のごとき基礎色だけにても合成せずに ready-made のものを使いたく、いろいろ聞き合わせしも、さし当たり鳩居堂の朱の外に知った人は(小生の知人間には)なきように候。幸いに前年友人より買いおきたる朱が今ものこりおり、塵埃多くて用に勝えざりしを川島氏に洗いなおし貰い、御恵送の膠で煮直しもらい、まずこれで三、四年は使い得ることと存じ候。また朱がなくならば、いっそ洋紅を基として何か合わせ候わば、朱に近きものが出来るとのことに候。川島|話《はなし》に、今日は朱どころか洋紅(コチニール)がすでに純粋のものなく、いろいろと土をまじえて売り出しもうける由に候。当地の小生知人の兄、一文なしに三十余年前当町出奔、今は東京で立派に食いおり、その弟当地にある者は五十余歳の今に何ともならぬ大飲家なるが、その弟を厭わず送金し来たり候。この兄は東京に出て夫妻根かぎりに働き、在郷の日多少左官の心得ありしより思い付きて、土を絵具に合わすことを工夫し、右ごとく発達したる由に候。故に今日の坊間の絵の具はみな多少土を雑えあることの由に候。
 碑石はすでに大阪で工事にかかり候由電報来たれり。搨本《とうほん》をとることは一切禁止致しおり、止むを得ずんば新庄村役場にて一度に二、三百とらせ役場より売ることと致させ申すべく候。今から搨本など取り始めたら、番人のなき無人の島のことゆえ、たちまち種々の人がとりに来たり、全く毀損しおわるべく候。川島氏丹誠して取りくれたるかご〔二字傍点〕字写し二本の一本は石工へおくり、一本は小畔氏へ送らせ諸友に示しもらいしに、小畔氏すでにこれを表具させ軸物にせる由。故に平沼氏へ回送は面倒なことと察し、さらに当地の財産家で文人たる佐山千世という人に頼み、只今一本かご字をとりもらいおり、二、三日内に出来申すべく、それを平沼氏へ呈上すべく候間、貴下も御覧下されたく候。(178)小生の原筆を見るはこのかご字がもっとも宜しかるべく、搨本は多少石工のテクが入るゆえ、石工の彫刻の技量を見るに足るべきも、小生の原筆を見るに足らぬものに有之べく候。故にかご字をとらせ平沼氏へ送呈すべく候。搨本というものは埒もなきものにて、ただ石工の彫刻の上手下手をのみ覚るべきものにて、小生の肉筆を見るに何の足しにならぬものに御座候。
 小生いろいろと多用に付き、本日はただ右のみ申し上げ置き候。   早々敬具
 
     63
 
 昭和五年八月二十二日夜十二時
   上松蓊様
                      南方熊楠再拝
 
 拝啓。本月十日午後二時出御状は同十二日午後四時十分拝受。しかるに例の神島へ大阪営林局員と称し侵入し来たりしものあり。その処分に付きて当町営林署と打ち合わせに多くの時日を費やし、また小生妻の妹聟の生家(熊野別当湛増の嫡流)には古建築古文献はなはだ多く、また本県に只一の古き楓《ふう》の木あり。闘鶏神社(県社、むかしならば国幣中社ほどのもの)前なるに関せず、湯浅町の香具師がそこへ活動写真館を立てんと謀り、脅迫して捺印を求めあるを聞きて、警察署に通知してその願書はひとまず却下となりしが、今度は政府与党の代議士二人をつつき、それをして知事を要せしめ必ず常設館を建ててみすべしなど揚言す。よって毛利(県参事会員)氏をして知事に事の本末をのべ、かかる事実ありやと予戒を兼ね質問中に候。
 その他いろいろと学術上の用件多く、また平沼氏より御承聞通り、『大英百科全書』購収着荷に付き(前方出板会社よりの来状には、田辺小生宛にて荷を出し、神戸の船会社より田辺へ荷をまわし届けたる上運賃をとるべしとある
(179)
近く入れ置きたるなり)、事件起こり今も方付かず、かれこれ紛糾してこまりおり候。
 妻と娘はまず健康を復せし方なるを幸い、菌類および粘菌出板稿の整備にかかりおり候。助手なきゆえ(しかして俗事が時々起こるゆえ)、昼間落ちついて検鏡測定にかかるを得ず、菌の一部分は札大の今井三子氏に測定しもらい、小生が命名せしもの若干あり、平沼氏駿州で見出だせしもの一つは小生は平沼氏の創見と信ぜしが、今井氏も阿寒湖畔でとりたる由、ただしどちらが先手だか今日は分からず。おいおい平沼氏や貴君の創見や新発見は多きことと存じ候。
 杉山菊女はまた上京して村井花女(下村氏の第二号)方におりしが、なにか窃かに口をきくものありしとかでまた帰郷しおり、亡姪の夫たりしものにあとずみに嫁せんとせしも、その夫は不治の悪疫あり、故にこの相談は止めにせりとのことで、姉は嫁してしまい、妹ながら老母を養うに便りなく、また入り聟に然るべき者もなく、こまりおると申し来たり候。貴殿もし然るべき口あらば御世話しやり下されたく候。
 平沼氏へ近日行幸記念団扇を贈る(十本ばかり)、その内二、三本貴下へ頒達さるるよう頼みおくべし。何様おびただしく(九百円ほど)かかり、ことに画手、句手、摺工、彫工、みなのんきはなはだしき飲客のみそろい、そこへまた小生多忙にて、多くの人々へ(建碑寄付者)うまく配分の勘定が速成ならず、もはや俳諧道では「捨て団扇」の季節になり申し候。しかし冬でも茶人は炉を扇ぐことあり、また書と画を賞するため、硝子板にはさんで壁にかけおく人もあり、柄をはずしてとりおく人もあれば、かかる念の入ったものは夏中にのみ限るべからずと惟うて差し上ぐる次第に候。色摺りの木板は一つの画に三、四乃至五、六十枚も彫らすものにて、板木は大阪におきあり。また柄に用うる芦も尋常川沢に生ずるものとかわり、支那で淡竹と称し、本邦では古く鵜殿《うどの》のヨシと申し、笙の舌にもっぱら用いしものにて(摂州高槻辺の鵜殿村の堤に生ずるを賞せり)、芦とは別属、海浜の沙防に必用なるものゆえ、部落(180)民が濫採すると村より小言が出る。田辺辺はもはや採ることならず、日高辺にてもっぱらとりおり候も、どれもこれも採り用うること能わず。寒冬中発芽して二尺ばかりになりしとき、切株をその下の方をわずかに用い得るなり。故に決して多く出でるものにあらず。その上色摺りは三百枚を限り(今回は四百枚すれり)、その上摺れば板の木が圧し扁められて画の細線が太くなりゆくなり。実に面倒極まるものに候。来年また改めて彫板させ、東京の萩原等へ頼み売らす由、今年はもはや時に遅れたるゆえまるで損毛なり。しかしかかるものは初板を尊ぶゆえ、数枚差し上げ候。また神島碑の写真も平沼君より御受け取り下されたく候。絵は川島絵、碧梧桐の句も川島縮写なり。実にうまく出来おり候。
 いろいろと夜中も暁まで用事絶えず、右のみ申し上げ候。 早々敬具
 
     64
 
 昭和五年十一月三日夜九時十分
   上松蓊様
                      南方熊楠再拝
 
 拝復。二十九日出御状は三十一日朝八時五分、粘菌また前回の余分書留小包一は咋一日朝九時半拝受、難有《ありがた》く御礼申し上げ候。今夜再度粘菌標品拝見致し候に、重複せるもの少なからねど、要するにこの辺に見ざる品種多く有之。なかんずくオバコの生葉に付きたる H-26 は小生には初めての珍種に有之。Diderma simplex List.(かつて安房清澄山より出でしことあるも、その品は不完全なりし)かと思えど、あるいは新種または新属かも知れず。その他にも珍品少なからず。御申し越しの H-35 は Trichia floriformis G.List これは珍しきものにあらず。O-6 は Leocarpus fragiris Rost.これは標品はなはだ美なり。小生は一度もみずから手に入れたことなきも、四年前はかりに聖上御研(181)究所の連中が那須野かどこかでこれを獲り、小畔氏も日光でとり、他に一、二人、見出したる人有之候。標品はいずれもよく乾燥し、はなはだ良好なり。しかして木片等が乾燥しあるだけ砕け落ち易く、不幸にして粉砕したるも少なからず。今後もやはり紙箱底にはり付くるにあらざれば、こんなによく乾きたる物は苦もなくことごとく破砕し了るべしと存じ候。ただしアラビヤゴムにはリスリンを少しよけいに御加入下されたく候。然らずんば標品が紙箱の底よりはなれ申すべく候。(今度のは五個ほど全くはなれおり、箱中でころびありき、全く粉砕し、全き標品二、三個ずつしかのこらぬさえあるなり。)
 拙方只今は妻も娘も快方なれども、なに様久しく病みたる後ゆえしっかり致さず、小生は夏中(六月初より八月初まで)外戚の隣へ活動常設館を建つる企謀を打ち破るため、はなはだしく心神を疲らし大いに事業手後れ申し候。
 酒井潔というは名護屋辺の人にて、ちょっと有福者の子弟らしく、梅原北明等とともにエロ・グロの大隊長たり。深く聞き糺さざるも、往年小生『太陽』へ十二支のことを書きたるころより、その説を面白く感じ、小生が引用せる書籍どもを欧米より取り寄せ読みたる人にて、近年はもっぱらエロ的書籍を輸入し、それを翻訳して種々の出板物を出し大儲けするが、また大いに費やすらしく候。かようの輩近年しばしば小生を尋ね来たり候も、一々ことわり候。ところがこの人はあまりつまらぬものにあらざる様子ゆえ、夜の七時過ぎより明朝四時前まで小生しゃべりつづけ候。それを筆記せずに記臆のままほぼ書き綴りしは大分えらいものなり。画もやると見えて手|扣《ひか》えなしに記臆のまま小生の室内の様子を写生したるなり。千部印刷せしが大抵売却せし由。
 その筋より覘《ねら》われおる者にて、小生は詳しきことは知らず。四十三、四歳の人と見受け候。
 まずは右申し上げ候。                      早々敬具
  杉山菊は房州に帰りおる由、母一人自分一人にて致し方なくこまりおる由、八月上旬に申し来たれり。
 
(182)     65
 
 昭和六年二月二十三日早朝一時ごろ認め、夜明け出す
   上松蓊様
                      南方熊楠拝
 
 拝啓。十三日出拙妻宛御状は十五日午後四時着、書留小包大鑵入乾海苔二箱は十六日朝十時十五分、十四日出御状は十七日午前八時それぞれ拝受。ことに海苔は絶妙の品にて少しずつ拝受賞味罷り在り、千万御礼申し上げ候。
 前便 H-26 粘菌につき申し上げ候無水アルコールは、純アルコールとか無雑分アルコールと申し上げたら無難なりしにて、水の多少入らぬアルコールはちょっとむつかしきが(強いて要用ならば、その場に臨み硫酸銅などをじゅうのう〔五字傍点〕にでも乗せ熱火にあぶり、碧色全く白変するに至らしめ、さて直ちにそのアルコールに入れば、まず無水のアルコールは出来上がるものの、しばらく放置すればまた水を含むに及ぶ)、小生多用にて走り書きのままそこまで気付かざりしに候。小生申すところは、アルコールにメチールはもとよりいろいろの塩類とかごみ埃などなきものを申せしに候。またタラガントゴムを持ち行くにフォルマリンを少し点下してもちゆけば、ゴムは腐敗を免るるも、粘菌を貼用するときは石灰分破損失耗の患多し。故にメチールにあらざる、まず目で見たところ雑分の少なきものをタラガントゴムに加え、しかと封しおくに限り候。
 小生考えには、H-26 のを春初ゆき捜ったところが、他の珍物は見当たるかも知れねど、H-26 はむつかし。それよりも今年の、ちょうど去年この品を採られし一周年日の前後から当日その場にゆき、出精して五日もさがさば、もしくは見出だすことかと存じ候。故に春初よりは秋期の当日まで延引がなるべく十全と存じ奉り候。
 リスター女史より昨日午後三時十五分に来信あり。小生は順序を追うて事を行なう規則で只今かかりおることをす(183)ませたる上、女史の状を見るつもりなり。故に何をいうてきたかさらに分からねど、本状は必ず早晩来たるべしとまちおりたるもので、近来怪しき連中がややもすれば粘菌粘菌新種新種と、何とも分からぬ落第点に近い記載文を出し、図を出さぬ等のこと多きより、どうせ小生へ聞き合わせねば判断付かず、何とも査定のしかたなきよりの来信と存じ候。これが来たれるは発表を開始すべき絶好の機会なるにより、三、四日内にいよいよ始むるつもりに御座候。まず誰が見ても判然新種として一点の疑いなきもの、すなわち貴下と小生とにない持ちの Cribraria gratiosissima Min & Uem より始むることに候。小生は一度着手しては中止はせず、とことんまでやり通すから、成蹟は陸続不断御目にかくべく候。今夜は、その発表にかかる前に、かかりおる諸事をなるべく早くまとめるべくかからねはならぬから、右のみ申し上げ置き候。
 スピード時代スピード時代と申し、何ごともそんなことばかりいいて、実は少しもスピードがきかず。近日のごときは、東京よりの貴状も小畔氏よりの神戸よりの状も和歌山よりの状も、同日に出して同日同時に当方へ着し候。また自働車で一時間で達し得る御坊町よりの来状が、事によるとわか山よりのよりもおくれて着し候。北斗星あたりから地球へ近づき進みながら北斗星の方を顧みるごとく、新しきことが旧いことよりも早く見えなど致し候。これでは(前後不秩序のスピードで)何の用に立たず。漢の文帝のいわゆる朕独り千里の馬に乗りて何の地に至らんやといえるごとく、自分一人だけ早く報道に接しても諸他の人に接しおらずば一向通用せず、湯がわかぬうちから湯屋へつめかけるごとく何の役に立たず候。
 そんなことはよしとして、こんなことの全盛なる余弊として、学術上のことまでもスピード時代で、書筆上で早く方を付ければよしという風の盛んなるは、貴書に述べられた通りに御座候。去年夏大阪で時間を早めるとか時を惜しむとかの会合を催し、有名な人々列席して議事の次に宴会をやらかせし由、『大毎』紙で仰山にかき立てありし。当時小生同社の下田将美君に書を贈り、世間のこと、ことに考慮を要する学問上のことなどは、時間を惜しみひたすら(184)事を速めて成るものにあらず、時間を速めるはただざっと方付けおくというに均し、学問上のことなどは決してざっと方付くものにあらず、それにいろいろ議論したのち宴会など催すようなことでは何一つ方付かず、反って無用のことに時間をつぶし、自分に利害なきことに、無用のことを辛抱して聞く、これ大いに時間の徒費にあらずやといいやりしに、返事なかりし。とにかく新聞紙がいろいろのことをいい出し、一日か二日の間はやすにて、それを過ぎればけろりと忘れてまた顧みざるなり。(これは日本のみならず、戦後の欧米みなこれにて、何たる大発明大発見は出でず、ただ人おびやかしの予定書や前置き口上のみ輩出し、さて本文が出ぬうちに忘れてしまわるるなり。)
 一昨年冬に拙女和歌山赤十字病院に入りしとき、いよいよ]光線治療を兼ねて患部切開にかかる前に、その用に供する寝牀のどこかが狂いおり、大さわざで職人を呼びしにちょっと来たらず。いろいろといいやり、ことのほか逼迫せる患者なるゆえ何分来たりて修復せよといいやりしに、不承不承で来たり、自分店は多用極まるにこんな一つ二つの牀くらいの仕事には他人をよべと小言たらたらの上、一体その患者は何の症でどこの者かと問いし。病院員、田辺の南方氏の娘なりというと、大いに驚き病院の帳場へゆき患者の名をたしかめたる上、父子二人でさつそく修復す。さてその父なるもの女子一人つれ来たり拙妻にあい、自分は南川泰道というものなり、当市に電気機械の工場をもてり、今日自分ならでは修復ならずとありて強いて招かれしゆえ多用中来たれり、自分の養嗣は熊楠氏の末弟西村楠次郎という人の次男なり、西村は九年前に死亡、三男一女をのこせしに兄たる常楠より少しも世話せず、預かれる亡父の遺産等も押領され、寡婦は何とかけ合うも無証文ゆえ致し方なくこまりおる、そのうち自分の妻病没、遺言して、養嗣の母は後家となりその長男は仲仕《なかし》人足とまでおちぶれおり、なお病児一人と女子八歳のものを抱えこまりおる様子ゆえ、自分のあとへ西村の寡婦を入れ、われら夫妻の間に子は一人もなければ、このあとほかの後家の子どもに分かちくれと遺言して死にしより、西村の後家を後妻にし四子をみな引きとり世話しおるとのことなり。それよりその後妻(すなわち小生末弟の寡婦)も子供をつれ毎度見舞に来たれりということ。その南川の養嗣(すなわち小生末弟の次(185)男)去年より毎度当地の二、三の自動車会社へ貸し金を督促に来たる。
  当地には自働車会社三、四あり、スピードを競う。その自動車損ずればみな和歌山へ引きゆき、件の南川方で修復するなり。近ごろ不況で修復料の不払い多し。
 旧臘その者が拙家の門を通り宿札を見て入り来たり、その母も二度ばかり尋ね来たれり。この今様常盤御前は箕島町という、みかん輸出第一の地の第一の豪家の娘にて、その辺切っての嬢さん育ち、なかなかの美人なり。この人は小生の末弟方へたしか十七、八のとき嫁し来たり、三十七で夫に死なれ今は四十七なり。末弟が亡父よりの遺産の会計簿をもちおる(小生と末弟と同額の遺産を受け、ともに常楠方に預けおきしなり)ゆえに、それを標準として計算せば小生の遺産の出入も分かるはずなり。証拠品の失せぬうちにこの女|件《くだん》の会計簿をもち出すから小生より常楠へ談判せよとのことなり。この末弟終焉に近づきしとき、小生へ贈りて常楠の不正を訴え来たりし封書五つあり。内二つは小生開きみしに、小生と同様のやり方でその預かり分をごまかしおる。(小生ごまかされたる前に末弟はごまかされたるなり。故に末弟の封書を受け直ちに開きたらんには、小生はその通りにごまかさるるに及ばず、事すみしはずなるも、当時小生は神社合祀反対に熱中し、そんな金銭のことは顧みず、封書のままおきしなり。さてごまかされて十年ばかり後に開きしなり。それでもなお何の気がつかざりし。)その封書五通の内三通は今も開かずにもちおれり。これはなにか判官の前にでも出る日、立ち合い人を集めてその前で開くが至当と、封のままおきあるなり。
 この末弟の後家を証として談判ということ、いわゆる天の与えではなはだよき証人が出てきたと悦ぶべきところなれど、只今拙弟は大いに究迫しおり、今日ぐずぐずと往事をせめたところで、何も出来るにあらず。また田地のようなものをとり返したところで、小作人の紛擾とか何とか、事新しく面倒を買うようなものなり。それよりもまず粘菌譜でも出して見事に責任を果たし、また六年以来多大の月日を費やしたる随筆も、同氏が損徳を顧みず出すというから、一日も早く出板しもらい、さてゆるゆると談判にかかり、あまり無法なことはいわずリーゾネーブルな程度にお(186)いて、十年賦二十年賦でも仕払い返すものは仕払い返しもらうこととし、今度は綿密なる証文でもとりおかんと思う。只今そんな金銭の争論事などを仕出かしては、研究が何の研究だったやら分からぬことになり、世間よりの軽悔を招き、反ってやれ自働車道を通すから宅地を削減せよとか、軽鉄を通すから収容して立退きを命ぜんとか、そんなことで弁護士の入費にのみかけてしまい、何も成らず何も残らぬこととなるべしと存じ候が、貴兄如何。
 この状はこれきりと致し、即時に粘菌発表の前提たる机上の原稿どものかたつけにかかり候。その原稿等を写し了り、それぞれ発送の後直ちに粘菌発表にかかる。              早々以上
  大正天皇御即位大典の日、特旨をもって紀州箕島田中某という人に贈位ありし。これはむかし紀州中にハゼの木(?をとる)を栽えひろめたる者なり。よって神にまつりありしが今は合祀されたり。その田中の六代かの人の娘が、この状末に見えたる小生末弟の後家なり。その父まで全盛なりしが、この人拙兄と前後して無類の驕奢で、妾五、六人おき、身死して家亡びたり。
 
     66
 
 昭和六年六月七日朝十時半
   上松蓊様
                      南方熊楠再拝
 
 拝啓。四日朝十時出御状咋六日朝七時五十分拝受、難有《ありがた》く御礼申し上げ候。尊兄君御遠逝の趣き驚き入り申し候。このほど『翁草』という高名な書を初めて読み候に、頓死ほどさっぱりした死に様なし、寺の近処で卒死すれば葬式までもロハでしてくれる、というようなことを書きありし。むかし露国などで、雷に打たれて死するを特別に天恵を得たる者としてまつりし由、相似たる見解なり。とにかく貴書に見えたるごとく、胃癌や肝臓病ごとく永々と人をこ(187)まらせ自分も苦しみて死するより、はるかにましなことと存じ申し候。
 奧利根にて御採集のものは概略でも見たく、四月にリスター女史より特に書面来たり、新種新変種発表を急がれ候が、小生はこの貴下の奥利根の集品と飛騨にある大江氏の集品をもって打ちきりと致したく、まち望みおりたるに候。大江氏の方は大江営林署の依嘱に出ずるものにて、秋ならでは方付かずと存じ候。それではおそくなるからまず貴下の今回の集で一応打ち切りと致したく存じ候。その次第ゆえなるべく速やかに三、四品でも御送来下されたく願い上げ奉り候。Diderma asteroides List.に似たもの貴集中にある由、これは従前日本には似たものは多少ありしも、判然たる本種は未曽有なり。原氏近日出すべき「日本粘菌目録」に出したく候付き、査定のためこれだけでもさっそく御送来願い上げ奉り候。
 昨秋未来当方宅地のみでもおびただしく新奇の菌類生じ、さっそく記図しおかねば今後また幾年めに生ずるや知れざるに付き、小生はほとんど休みなく記図しおり候も、今に裁判官が怠業せる法庭前に原被告がつめかけしごとく、日々少なくとも七、八点の菌が椽先《えんさき》に審査をまちおり、日が当たり風が当たれば乾きおわり、雨ふれば腐り去る。故に大便にゆく時間もなく、その方にかかりおり、ために便秘よりして種々の炎症を起こし、年はよるまいものと残念に存じ候。また支那銀貨大下落を機とし、五百余円を投じ上海にある旧友中井秀弥氏(旧き東京高商出で、かつて別府埋立てを計画し大失敗し、小生口添えにて村井商会へ入らんと申し来たりしも、小生はこの人村井氏などと馬の合わぬ人と知りことわり候。その後窮して通ずで上海に渡り、支那人相手に海上保険を営み、洋人どもの同業より妨害多きに屈せず行ない通し、今は相当に繁昌しおれり。小生と十一、二のときよりの小学同級生にて、十三、四のとき別れたるきり今に面会せず)立替にて、銀相場大下落の日書籍を買い入るることとし、『二十四史』および『古今図書集成』、『格致鏡原』、『百川学海』、『山堂肆考』、『談薈』、『津逮秘書』、『潜確居類書』、『天中記』等を買い入れ、小畔・宮武二氏の顔で上海から当地までロハで輸入、文里《もり》より拙宅までの荷車賃だけで事すみ候。この内『古今図書集(188)成』一千六百二十八巻一昨々日着、大部極まるものゆえ引き合わせことのほか面倒なり。一月もかかるべく候。
 小生旧冬より足の裏神経痛はなはだしく、また今春初より脊髄痛にて体内より蜂の鋒で背の肉を内より外へさし串《つらぬ》くごとく覚え、医者に聞き合わすも何だか判らず、はなはだこまり候。しかし相変わらず齷齪と写生記載など致しおり。よくよく考うるに足の裏が犀象の皮のごとく硬化しおりしを、近年かる石ですりみがき、柔らかく致し候。それへ奔走するごとに砂土粒また植物標品につき来たる木屑などが潜入し、歩くごとにふみつけて足の裏がやすり紙のごとくなりおるなり。それが時により痛み出すことと判り、また足の裏をみがくことを止め候。腰や背の痛みはあまりに帯を緊しくしめて、食事に臨みゆるめることに気付かず、それがため腹が前へふくれるべきところを、背の方や腰の方へふくれてその筋を圧するよりのことと判り、注意して食時には帯をゆるめることと致したるに、三、四日にしてほとんど平治致し候。病気というものいかな名医でも他人の日常の動作、起居を知悉せずば、何とも処分し難く、要は人々みなみずから注意して出来るだけは自分で病源を考察すべきことと存じ候。鼻息が強いということ、しばしば人のいうことだが、小生はイキが至って強く、このごろの帯は腰に巻いて少し強く息をするときれてしまい候。よって亡父や親族の用いし古製の帯(はかた)を用いおるが、これもおいおいきれてしまう。よって二重三重に強くいろいろの帯をしめる。これが脊髄痛同様の症を起こせし源因なり。
(189)  小生方のみのがめ、只今長き藻の上に短き異種の藻をふさ〔二字傍点〕のごとく叢生し、はなはだ見事なり。
 貴君前年埼玉県の山で栗の木に付けるをとりし Dacryovalus《ダクリオホルス》の生品と覚しきものを、一昨々日拙方宅地竹林下にすておきたる桜の枯枝より発見。純白雪のごとき皮がわれると、中に淡灰緑色、次に卵黄色の粘液球あり、その内に胞子あるなり。即座に写生すればよかったに、前日よりまちおる品々を順序により写生中、しおれてしまいたるに付き、昨夕水をそそぎしに細毛が皮の上に直立して密生しおりたるが横に臥して団結し、毛氈のごときものに変じおり、二度と直立せず。しかし記臆のままどうかこうか只今より写生するはずなり。奇品は数が少なきゆえ、一度変化すると快復の見込みなく、残念千万なり。
 まずは右申し上げ候。                  早々敬具
  前日平沼氏方へ差し上げ置き候行幸記念団扇御覧下され候や。この絵をかきし川島氏は、五月四日東京赤坂溜池かどこかで開きたる国産審議院主催勧業博覧会で一等賞金牌を得候。
 
     67
 
 昭和六年十月二十六日午後二時
   上松蓊様
                      南方熊楠再拝
 
 拝啓。二十四日出貴状今朝八時着、小生多用にて今午後一時ようやく拝見。原氏への送金すでに平沼氏より出されたる由貴君より承聞、すなわち只今この状と共に御受けを出しおき候。小生よりの五十円と小畔氏よりの二十五円はすでに出したれば、平沼氏の二十五円と合して百円で第二号に出し得るはずに候(小生五十円に対する原氏の受取書だけすでに着来)。第二号が出れば諸方よりの予約金も原氏に届くはずゆえ、それ以後の分は原氏自分で経営すべし。(190)大王は例の小煩悩盛んに第三号より粘菌のことを少しずつ出すとのこと。小生は粘菌の発表をすませた上で、それまで原氏の雑誌が続かば、原氏の雑誌へ図板を一つなり十なり入れて菌の新種発表にかかる。図板料は全く小生より出し、図板を二百枚も余分にもらいおき、集めて他日和洋両方の詳説を付し、寄付金者等に配るはずなり。その他小生の新種発表が原氏の雑誌で確かになる見込み立たば、それだけ平沼氏より出資を乞い、臨時または毎回原氏の雑誌を頁数多くするも可なり、また出板回数を多くするも可なり。これはその時のことに致すべく候。
 平沼氏の今回の二十五円は誰の名にてせしか、今朝の貴状では十分に分からず。こんなものを出すと出した人へ諸方の思い懸けなき者よりいろいろと寄付または予約等を強請し来たる。すでに当方へも、日本水産会とか、台湾何とか会とか、はなはだしきは浮世絵再板会、それから如意宝珠尊崇会などいうものより、立派な出立《いでたち》で紳士学者らしき者が来たり、一々中風で臥牀というて断わる訳にも行かず、玄関に出てことわるに三十分もかかり、はなはだしきはいろいろの閑談に移り、写生検鏡が大いにおくれること毎度なり。平沼氏などにはそんなこともなかるべきが、とにかく面倒なことと存じ候。原という人、臆面もなく借金などを申し越す人にて、その金が果たして何に費《つか》わるるかを詳らかにせず、もし毎度、これをきっかけに、平沼氏へ右様のことを申し出ずるようなことありては如何と存じ候が、右の二十五円は平沼氏より出金と原氏にいいやりて宜しくは、小生より直《じか》に申しやるべし。このこと如何にや、伺い上げ候。
 当地菌類おびただしく、また一つは菌学のこと諸方へ聞こえ渡りし故にや、諸村より持ち来たり、中には菌と同時にみかんとか野菜とか持ち来たり、これはずいぶん売れる見込みありやとか、滋養分が多いかなどと問わるるには閉口。しかし菌学上はなはだ珍しきものが多く手に入る。只今も少なくも三十種井戸辺につかえあり。写生多忙に泣顔に蜂にて、一昨々日写生して立ち上がるはずみに眼鏡の格《わく》を打ち破り、即座に小畔氏へ送り修繕中なれども、明後日ごろまでは来たらず。一昨日諸方かけまわり医者二人に眼の度を調べもらい(小生は右眼でのみ検鏡するから左右の(191)度大いにちがう)、眼鏡をこしらえさせ(田舎のこととて品物多からず、小生の右の眼程度のレンズただ一つありしが、不幸にもそのレンズ四角なりしゆえ、これをすりみがき切りとりて円形に作らしむるに、ちょっと半日かかれり)しに、しっかり小生の眼の度に合わず、やや久しく写生すると眼が痛み、やにを出す。娘は眼はよく景色の絵くらいは画けど、菌を画くに文人画のようなものが出来るから間に合わず、まことに困った次第なり。しかし世間はみなこうした物と存じ候。
 英国にて出す粘菌発表は、第一著に Arcyria Hiranumae と Discoderma Uematsui を出す。英国はなはだしく動揺し、三遇前に来着以後の『ネーチュール』の広告を見るに、書籍新刊の定価ははなはだしく引き下げたり。これでは書籍を買うに好都合なれど、出板にははなはだ麁末なものが出来ずやと不安に御座候。          早々謹言
 
     68
 
 昭和七年一月二十四日午前二時過ぎみずから出しに之《ゆ》く
   上松蓊様
                      南方熊楠再拝
 
 拝啓。本月五日出御状七日朝八時二十分拝受。さっそく返事申し上ぐべきのところ、例の菌類の写生続々廻り来たり、かつ田中長三郎氏の安藤みかんに対する返事が今に延々致しおるより、一日一比荏苒して只今に至れり。田中氏へは今一度問状を出し、返事来たらずば返事の有無に関せず好時期を見|斗《はか》らい、安藤みかんの枝を二十本ばかり送り上ぐべく候。
 昨年末、総督府中沢亮治博士へ安藤みかんを贈り(八十個ばかり)、田中氏これを実験しての返事に、興津の試験場にある羽衣《はごろも》というみかんが一番これに似おり、何とか台湾で試植したしとのことを、一月七日出の状で申し来たる(192)(十二日に当方着)。詳しきことは二日後に申し上ぐるとのことなりしに今に返書来たらず。この人は柑橘の系統とか分類とかのことにはきわめて熱心ながら、播殖改良の方には何の意もなきことかと存じ候。
 当方の安藤みかんは今三本あり。その内もっとも古きものは近年大いに老朽して幹が中空となりおり、大正六年七月ごろ大暴風にて枝多く折れて落ち、上へのびずにもっぱら横へのび場面をおびただしくとり、近処を塞ぎ空気通らず、ために桜等の木が多く枯れる。よってこのほど大なる横臥せる枝を、三、四本きり除けり。これがため、あるいは一時、あるいは永久に大いに弱り失せるかも知れず。しかしこの他に二本あるから若枝をとりさし上ぐることはさし支えなし。
 十二月初めに小畔氏へ九十ばかり果をおくり、今も五個ほどのこりある由。久しくおけばおくほど味まさり、只今のところはなかなか米国渡来のグレープフルーツなどの及ばぬところなりといい越し候(ただし久しく貯うれば皮に黒瘢を生ず、と)。
 一体福羽・松崎両氏はかかるものをかつて見たることある様子に候や、またその味の評判はいかがなりしや、詳報を乞う。むやみに枝を送ったところが何ともせん方なきことなり。かつて拙方の長屋に住せし岡本もよ女とかいう女が、乃木伯方に奉公せしことあり(希典子生存中)。その縁で当方の枝をもちゆき東京の乃木邸にさしたるが根を下ろし、今も乃木社の前とかにある由なるも、かつて実を結ばずとのこと。しからば東京辺ではとても果物としては生ぜぬことと存じ候。
  むかしはこのみかんの枝を柚《ゆず》のだいにつぎたり。柚は寒地にも生ずるものゆえ生長だけはすべし。しかるに柚につぎしものは天牛《てつぽうむし》に蠹せらるること多きをもって、近来は多く枳《からたち》につぐ。故に拙宅のもの(柚につぎし)の(193)外の実は味わいはなはだしく拙宅のに劣り候。
 宮武氏や小畔氏などははなはだしく安藤みかんを賞美するが、他の諸氏の批判は如何にや。
 只今は木がはなはだ弱りおる最中なり(実を結び実を収めとられた直後ははなはだ弱る)。故に二月中旬ごろに枝を差し上ぐれば間に合うことと思う。一体誰氏へ直送すべきか。また果たしてこれを受け取りさっそくさし試みるは誰人に候や。むやみに永くすておかれてはこまる。
 また和歌山県庁へ申しやり云々とあるが、このことは御免なり。いろいろと役人など来られてははなはだ研学の邪魔になる。当町には五、六十本はあるべきも、いずれも小生方のよりははなはだ劣味のもののみなり。これはつぎ木の台がちがう上に、木が老いねば旨からぬかと存じ候。
 小生は今年は必ず粘菌発表をするつもりでかかりおる。したがってはなはだ多事なり。小生専門ならぬ菌(顕微鏡的の銹菌、嚢子菌、藻歯等)もあまり標品が古びぬうちに札大で発表しもらうため、まとめて送るに着手せり。それがため文字通りに寸暇なし。かつ娘に淡水藻を修業せしむるに多少の教練を要し、いろいろと煩わしき限りなり。
 まずは右用件のみ申し上げ候。               敬具
  六鵜氏は健在にて年頭のハガキを寄せ来たれり。
 
     69
 
 昭和七年四月十一日夜九時
   上松蓊様
                      南方熊楠再拝
 
 拝啓。九日午後十時出御状今夕五時〇五分拝受。平沼氏事の一巻は、拙方の紛議と等しく、例の義理人情ずくめの(194)旧思想のまま、よい加減に打ちやり置きたるものを、今日流行の法律ずくめに穴ぐり穿鑿していろいろとこじつけ、いささかも物になりそうなことはことごとく論拠として、三百的におしかけ来たりたるものと仮想し、つまるところ、義太郎氏方に多少の手落ちありたるものかと推察いたしおりたるところ、貴状によれば全くのごろつき的の向《むこ》う見たの虚喝で、こうもやって見ようかの連発と分かり申し候。何に致せずいぶん面倒、厄介千万なりしことと御察し申し上げ候。
 娘は淡水藻しらべにかかるが、今年は到底深いことは出来まじく候。故に貴下山地へ向かわるるなら、前年日光で見られしごとき輪藻と特異のもの(倒せば日光で平沼氏がとりし Enteromorpha《エンテルモールフア》  等)の外、平凡な緑藻は御見のがし下されたく候。緑藻は到底永存はならず候。輪藻は一つものがさず御採集願い上げ奉り候。
 杉山菊は今年始に貴方へハガキでも参り候や、今回の御状にては明らかならず。この女自分の姪が死したる跡へかたつきたるにて、その姪の夫というは悪き疾持ちなり(黴毒か)。故に行くを好まずということを毎度申し越し候。しかし親族一同がすすむるゆえ行かざるべからず云々とのことなりし。あるいは前方に行きて悪き疾にでもなり、呻吟しおるのかとも存じ候。高田屋は今に堂島上通りで旅宿を営みおり候も、菊女より便りはなきものか、近来そのことは申し越さず候。
 お江戸日本橋の唄は、五十三次の地図を広げたら大抵はつづき出で候も、その間に地名に関係なき句がそこここにあり、それを忘れてしまい申し候。
 また明治十三年ごろ、豊年踊りというものを踊り出し、何でも相場で大損をせし者がこれを思い付きて、身の恥をも恥とせず、旧知の人々より衣裳などをこしらえもらい、豊年|糖《とう》という糖《あめ》を作り、新吉原仲の町をうりありき踊りまわり候。それて大いに儲けて身代を作れりとかで、明治十六年ごろ小生東京へゆきし前年、団菊左三人がこの踊りを(195)新富座か何かで興行し、錦絵も出で大評判にて、十六、七年までもその錦絵をしばしば見たり。そのときこれをまねたるものが大阪へも来たり、余興に東海道五十三次をも踊り候。またその輩が、何というものか知らず、お竹大日のおどりをも踊り候。「花のあづまの伝馬町、その名も高き名主あり、名主の手代の大助は、なんだかこよひは好もしい、心にかけしあのお竹さん、お竹さんの姿のうつくしさ、……腰はほっそり柳腰、歩く姿はゆりの花、……燈火そっと吹きけして、のらんとすればこはいかに、大日如来のおん姿、おまんこに後光がさしてゐる……」という詞なり。ずっと昔よりありしものと見えて、この詞の内にある句が多く『川柳末摘花』にもあり。(そのころは巡査さえ見ずば町の大通りでこんな体を踊って見せたるなり。)貴下はこの大日お竹の唄の文句悉皆御存知なきや。大曲省三なる人、只今『末摘花通解』を出板中にて、毎々小むつかしきことを小生に尋ねに来たるに付き入用に候。
 大阪の鳶田には只今女装の男子二百人ばかりあり。表向き裁縫女暮しと芸妓また仲居体のものと両様あり。いずれも婦女よりも女らしく、遊女よりもこの?童の方に通うもの多く日夜大さわぎ。しかるに日本にかかるものを罰すべき明らかなる法文なきゆえ、ただ叱りおくの方なく、叱られたところが平気で、本職は裁縫工、色事は自分の娯楽、色を売る証拠なく、反って気に入った男を此方より養いおくなどと申し立つるゆえ、あきれおるの外なしと、その辺に奉職せる警官よりしばしば承り候が、これでは今のパリ昔のローマと同じことが生じたるなり。東京もかようのもの只今あることに候や。ただ雑誌等に時々出る評判のみにて、貴下などかつて見しこともなきことに候や。
 右杉山菊より今年始に貴方へ状ありしことか承りたく候。小生子細あって故高島嘉右衛門氏のことを詳しく聞きしこと有之、嘉右衛門氏がちょうどこの菊のごときものに出くわせ、始終心づけしやりしことある由。世間にはいろいろと気の毒な身の上のものもあるものにて、この菊の父は方正なる士族なりしが、零落して遠江より房州へ落ちゆき、かの地で二女か三女を生んで小学校長勤務中に死んだか何かで、菊の母は昔の大名の老女のようなどっしりしたおちついた女で威厳あり、針仕事の外さっぱり何もならず、七十ばかりにして高田屋へ厄介になり針仕事をなしおりし。(196)菊の姉は早く嫁して鴨河町(房州)で代書人たり。菊一人母一人にて相続人ゆえ何ともすることならず、止むを得ず件の亡姪の夫方へ片付き、子が出来たらばその子に杉山の家を嗣がすつもりとのことなりし。この正月貴方へ年始ハガキの一つもきたなら今も生きてあるべく、もし貴方へも当方同様音沙汰なかりしならば、なんかではや死んでしまいしことかと存じおり候。
 小生今日手紙を十四本ほど書く。大いにくたびれたればこれより眠らんと思うゆえ、右だけ申し上げ候。                        早々敬具
 
     70
 
 昭和七年五月六日午前七時
   上松蓊様
                      南方熊楠再拝
 
 拝啓。客月二十七日夜十時出御状は三十日朝八時十分安着、拝見。小生札幌大学へ自分方に調査の準備なき顕微鏡的菌類千点を送るべく、撰択に他事なきため、御受け大いに後れ申し候。
 「お江戸日本橋の唄」全部御写し御送り下され、千万忝なく鳴謝奉り候。これはいまだ拝読せず封じおき候。次第は小生只今この唄をつらつらと記誦し得ざるも、『東海道名所記』等より五十三駅の名を順序に随い眼前に列べ出だし、徐《しず》かに考えて臆い出だし得るだけ書き並べて見たる上、貴贈の分とくらべて記臆はどれほど変わり移りゆくものかを検査せんと存じ候。いずれその上またまた申し上ぐべく候。
 安藤蜜柑の儀、黄状の趣きずいぶん貴地にも熱心な篤志家があるものと感じ、ずいぶん骨折って接穂の枝を択ばせ、また人を奔走せしめて前年つぎたる苗木を求め送り遣りしに、果たして何時つぎ了れるかその詳報もなく、小生は多(197)くあっけにとられおり候。もっとも福羽氏の嫂が急死されたる由新紙にて見及びたるから、いろいろと取り込みのため、十分手が廻らぬことかとも存じ候えども、肝心の接穂を受けたる人が果たしてつぎおおせたることか、またこの人も何か珍事を生じ、つがずにしまいしことか、今に少しも報知に接せず候。わずか一夜で旅し行き得るほどの地と地の間にさえこんな不明なことある以上は、欧米の人が程遠き満州の混雑などを正しく判断し得るはずなしと存じ候。小生はただただせっかくいろいろと苦慮してととのえたる接穂五十八本の内、五本、六本でも成功したらんことを冀いおり候。
 田中長三郎、この人またよい加減な人で、安藤みかんの学名を調査しくれるとの通知に付き、昨年十二月小畔氏世話にて百個ばかりその果をおくり、台湾総督府で一同食い試みながら、この柑は興津試植場にある山吹〔二字傍点〕というものにもっとも近し、二、三日経ば分かると申し越し、小生のために宣伝書を発行し小生の学問上の功労を世間へ周知せしめ、例の金を募集し英国のフッカーの『イコネス・プランタルム』(植物図纂)同様の体裁に小生の菌譜を出板しやるべしと長々とのべ来たり候。これはとにかく、小生は七万円余も金が集まりおり、ことに図書標品もっとも多く聚まりあるから、またまた例の癖を出し、僻地の大学におるよりも(九州大学より日向の農学校、それよりまた台北に左遷されあるなり)、内地に還り小生の名を推尊して自分の志す例の米国の研究所風のものを推し立てんとの望図と存じ候。しかして、みかんの学名は今に何ともいい来たらず。当世大抵こんな人ばかりの世間に御座候。
 小生粘菌図譜や菌譜を世に出すにもっとも困難なる一事は、画図の彩色ずりにて、平沼氏に買いもらいし諸書を見るにも、どうも写生の着色を原図の通りに巨細に出すには、なかなかの巨費を要することと存じ候。どの茶色も同一同様の茶色、美人草の花の赤きも蓮花の赤きも、烏の羽の黒きも熊の毛皮の黒きも同一とあつては、大いに小生の本意に背き候。故に止むを得ずんば、彩色を一通り心得たる男女をやとい、小生の原図通りに手で筆を持ちて着色せしむるの外なきか。実にこれにはいろいろと心配罷り在り候。
(198) 右の札大への千品の菌を送り了らば、直ちにかねて御あずかり申しある粘菌の審査にかかり、了りて報告申し上ぐべく候間、今少し御猶予を願い上げ候。糸状体や胞子を精測すべきミクロメートル、かねて持ち合わせのものはずいぶん麁末に有之、精細のものを渡辺篤氏を頼み買い入れんと思えど、只今銭乏しく六月に入らば多少ははいり来るから、その上右の品を手に入れて、すなわちかかるべく候。
 福地信世氏は小生知らず。しかし池端に住みしころ、桜痴居士方の食客紀州人成瀬正弘というは知人なりし。小生大学予備門に在学の折、証人たりし関直彦先生の甥(あるいは関氏夫人の甥)にて、のちに米国で死にしと承聞致し候。その人の話に福地氏の息はただ一人あり、なかなかの才物なりとのこと。それがすなわちこの信世氏かと存じ候。
 カッポレのことは、三田村玄竜氏などもなにか説かれたるが、小生幼少のとき和歌山にこの唄を知った者は一人もなかりし。明治十六年に東京へ出て初めて唄と踊りを聞き及び見及びたるに候。下谷の佐竹原に毎々その興行あり。その輩、時としては万世橋より歩きながら諸処で踊り候。小生一日万世橋よりその一行に随い霊厳島まで行きしことあり、朝十時ごろより午後三時過ぎまでかかり、なお踊り歩きゆくを見棄てて帰りしことあり。通り筋を唄いありき諸処の空地で踊り、いよいよ決着点に到りて滑稽芝居を催せしなり。梅坊主という男ありし。それは一人にて踊りしと覚え候。芝辺にしばしばありし。下谷の連中の名は忘れしが、寝糞《ねぐそ》の鶴さんという太った男がもっとも面白く演じたり。もっともカッポレばかりでなく深川踊りなどをも致せし。道中は一人、住吉踊り用のごとき大傘をさし、そのぐるりを踊り唄いながらありきしと覚え候。さて明治十八年夏休みに同窓の友人が帰国してまた上京しての話に、和歌山で懇親会ありしに、某町の煙草屋の主人がカッポレを踊ったとのことなりし。それを聞きて始めて和歌山にもこの踊りが入りしと判じ候。小生外叔父に極めたる道楽者あり。同類相聚まりて種々の踊りや唄を催せしも、カッポレを一度も口より出せしことなかりし(この人は明治十三年夏死亡)。和歌山は京阪に近く、流行の舞踊唄歌は通郵して伝命するよりも速く移し入れたるに、このカッポレだけは明治十六年小生東上するまでに一度も聞きしことなかり(199)しより推すに、もっとも早くて明治十三、四年ごろ流行し初めたるにあらずやと存ぜられ候。
 御存知の「リキウと鹿児島が地続きならば、逢ふて盃してみたい」という唄なども、今はその節が各地に固着して、他処より移ったと所の者が思わぬまでに普偏しおり候えども、これも十年西南戦役終わりて兵士帰休せしより、十一年、十二年に大はやりにはやりたるにて、十三年ごろ国会開設運動盛んなころ、「土佐はよい国南を受けてさつま嵐をそよそよと」という唄を自由党の壮士などが盛んに唄いたりし。「リキウとカゴ島」の唄、初め流行りしころは、「逢ふて盃してみたい」の次に、必ず「けんちょねけんちょね、すてがんすてがんすてがん」というような分からぬことを唱え候。もっともそれに合わせてシャギリ太鼓などを囃せしなり。しかるに只今この囃し声を唱うる人全くなく、そんなことありしとも覚えぬ人のみあるように候。
 小生久しく眠らず、昨夜長々しき状を諸友へ出せしに付きてはなはだくたびれおり、まずは右のみ申し上げ候。                      早々敬具
  川上行義という自由党の壮士が父の復讐で名を挙げ、一時は活動写真にまで行なわれしが、この人小生帰朝後、他の壮士と芸妓を争いまた殺人して入獄せしと聞き候。この復讐のこと、小生在外中で一向詳しきことを知らず。あるいは熊本の川上彦斎とて佐久間象山を殺せし人が明治の初年刑死されし、その子がこの行義かとも存じ候が如何。
 
     71
 
 昭和七年十一月十八日早朝三時出
   上松蓊様
                      南方熊楠再拝
 
(200) 拝啓。軍国多事の際とて、一切民間よりの献納品を今回は受けさせられぬ由なるに、小畔よりの粘菌標品を受納とあらば、いろいろのひがみ根性のものが誤解を生ずることもあるべしとて、絶対に秘密にすべしとの内約なりしときくに、十五日の夕、『大毎』の当地通信者拙宅へ来たり、何か貴方より進献するというがいかなることかと問われ、小生は電報にまで「ヒミツヲコウ」とあった小畔がなにか洩らせしにやとはなはだ不審に存じおりたるに、昨十七日〇時半に、十六日午後二時出の状を受け取り、また『大阪時事』の切り抜きを入れあり、いわく、
 『粘菌学の権威、小畔氏来阪す、世界的新発見を天覧に供え奉りたい念願』、と題し、氏の肖像を掲げ、
  粘菌学者として南方熊楠氏と並称せられ、去んぬる昭和四年六月、聖上陛下大観艦式御統監のため神戸行幸の御砌《おんみぎ》り、御召艦長門上の御座所に伺候、約一時間粘菌学に付き御前講演の光栄に浴した近海郵船神戸支店長小畔四郎氏は、このほど上松蓊氏が発見、南方氏が鑑定の結果、世界学界の驚異として注視されるに至った「コッコデルマ新属」の中の小畔氏秘蔵の新種と(この辺はなはだ無認識のものの筆記、また大王の説明|太《いた》く不徹底なり)氏秘蔵の十六種と南方氏秘蔵の十四種を合わせ、天覧の栄を願い奉ることとなり、十四日午後四時十二分三宮駅発列車で右の粘菌を携え来たり、金森旅館に侍従武官を訪い、審《つぶ》さに御執奏方につき打ち合わせを行なった。右について小畔氏は神戸出発に際して語る。「先年御前講演の光栄を荷い、良き御詞を拝し奉って以来、いよいよ微才を省みず将来とも粘菌蒐集に努める念を深めましたが、このほど世界的に驚異とされる新発見物であるコッコデルマ新属が発見されたのは、日本の誇りともいうべきでありまして、畏くも聖上陛下大阪行幸に際して、この世界に稀なる粘菌を天覧に供し奉ることができれば、この上もなき光栄と存じます。」
 さて大王、書を添えていわく、貴下の大発見と上松氏の採集せし功績はこれにて十分紹介出来候と存じ候、と。
 この状は十六日に、十四日の夜、聖上行在所に御留め置きの標品
  旅館で侍従武官に説明する見込みでもち行きし標品を、侍従武官が説明を聞かぬうちに、行在所へもち行き天覧(201)に供し、その内御研究所の品はあまりに貧弱ゆえ少しくれと御望みに付き、Lycogala epidendrum exignum など差し上げ、残余をとりにこいとのことで行在所へ受け取りにゆくなり。
を受領に大阪へ行く出立際に書きたるなり。「御行在所へ参るはずなれども、これまた果たしてその通りになるかは不明に候」とあり、あるいはその節拝謁、御菓子を賜わるとか、また侍従連に一席説明することかと存じ候も、後報は今日夕でなくては来たらぬはずなり。
 秘密ならば絶対に秘を守るべきに、『大阪時事』通信者に途中で執えられ(会社支店員より洩れたるならん)、右様に吹きたる上は、コッコデルマは大いに評判となるべし。
 さて困ったのは小生で、この珍品の記載には一切合切、その胞嚢等の形容を写生し、寸法を綿密に測らざるべからず。小畔氏に預けたのはことごとく円形なりしも、当方にある内には、楕円もあり、やや三角形も長楕円も腎臓形も馬蹄形もある。貴方にもいろいろとあることと存じ候。故にあんまり突急を要せぬが、貴方にはあまり異状なきやつを幾分留め(当分秘蔵は勿論)、なるべく尋常の形となるべく多種多形のものを当方へ送り下されたく、用がすんだら返上申し上ぐべく候。
 当地おいおい寒くなり、年々老いゆく身にはこまり入り候。      早々敬具
 
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 昭和八年二月二十八日午前二時
   上松蓊様
                      南方熊楠再拝
 
 拝呈。小生二月八日に丹毒様のもの全治候も、妻が一月十日に発病のまま今に臥しおり、飲食便所いまだに臥内で(202)すませおり、娘が一人にて看病、それゆえいろいろと俗務が小生に落ちかかり、ことに大王が朝鮮と台湾の中川・中沢二氏の粘菌目録出板を迫られ、その落ちが小生へなだれ来たり、また去年見出だし置ける菌を自宅へ多く持ち来たり栽殖中、おいおい春暖に向かい菌が腐り始め、腐り了らぬうちに記載すべき等いろいろ事多く、やや久しく御無沙汰致し候。
 二月三日朝十時出御葉書は六日朝八時五十分拝受、五日夜十時出御状は七日午後四時二十分拝受。そのころ小畔氏の幕下吉野谷久一氏、『紀伊国名所図会』の件いろいろ斡旋しくれたるもとうとう方付かず。つまり初めは四十五円くらいといいながら、実はその書店手許にその本はなく、四十五円出すといえば五十円といい、さて五十円出すといえば六十円、それより六十五円、ついには八十円とせり上げるようなことにて小生も当惑、中に立ちたる吉野谷氏は一層迷惑と存じ小生よりことわり了り候。この吉野谷氏はあまり書籍のことには通達せぬ人にて、この上は東京の友人へ申しやるべしとの申し越しなりしも、東京には小生の友人があるから貴殿を煩わすに及ばずと申しやり、それにてひとまず打ち切りと致し候。
 右次第で、もし貴方にて四十円から五十円くらいまでで二十三冊全部ととのうことがたしかなる場合には、御一報願い上げ奉り候。もっとも参考にさえならば十分にて、その書物が多少よごれおりても苦しからず候。この書は今まで出板当時のままできれいに保存されあらば百円内外することは、小生も十分承知致しおり候。(先日当地の一知人が買いしは美本にて七十五円ほどと承りぬ。)娘がことのほか内気なものにて、母親の看病のみ致しおるに、顕微鏡など遣わし、かれこれ指令することも当分ならず。右の『名所図会』でも渡しやらばいろいろと心覚えにもなり、また面白く眼を慰めもすることなるべく、その上、小生にはいつまでもいろいろのことにつきて参考となるはずに御座候。
 平沼君方のかの件はその後またまた再燃というような儀には及ばず候や、伺い上げ候。世間のことは分からぬもの(203)小生西隣の多屋といふ家は当町一、二の豪富にて、南朝時代よりの旧家にもあり、代々学問に英才の人が出る内にて、最後の主人の長女は身体壮大容姿清雅また才女にて、小生は大三郎に好逑と思いおりしが、小生がそんなに思い付く前に、海草郡の旧家で和歌山市で二、三といわるる勢家に縁ある家の次男へゆき候ところ、その次男もってのほかの痴漢で、とても居たたまらず、養生のためとかいい立て里へ帰りしが、そのときすでに孕みおり、里にて子を生み、かれこれする間もなく四十三銀行全くつぶれ、右の家も大いに衰え、実に気の毒。さりとて子を生んだ上は致し方なく、またその家へ帰り候。然るところ間もなくその女の父(すなわち小生隣家の主人)病気になり、一月三十日死亡。それより二週間ののち、その女の父の弟、もと小生に随い諸処採集しまわりし人も東京にて(池の端で装飾商たりし)死亡。子は幼稚にて何とも方付かず、女兄弟同行四人手代頭一人つれ片付けに上り、今に帰らず。今の主人はわずかに二十四歳、東大にあり、まだ修学中なり。せっかくの豪家もこうなると怪しいもので、あるいはまたこの書斎の竹垣一つ隔てた橘園を廃して借屋を建てつらねなどするにあらずやと心配すれば涯限なし。
 拙妻の煩いは別として拙児もちょうどこの月で病気の開業満八年、この五月で入院来五年となるに、少しも吉報に接せず。費用のいささかも減ずるはうれしけれど、去年来入院費中に『キング』とかいう雑誌の購読費全然跡を絶ち候は、全く白痴になりきり、読み書きなどはことごとく忘れ切りたるによるかと存じ候。これも今年中に何とかせねばならず、娘ももはや二十三歳にて、これもこのままおくわけに行かず。ところへ一月来の丹毒で、どこもここも人間には満足ということのなきものに御座候。
 台湾の中沢亮次博士の採集品が小畔氏方へおびただしく来たりあり。その内 Physarnm echinosporun List. これは西インド諸島中もっとも小さきアンチガ島にのみ産するもの、また Olwisia bomborada Berk. & Br. はヤマイカ島、セイロン、マレイ地方だけに出たるものなるに、この二品を右の集品中より大王捻出致し候は大いなる功名なり。まだ外に二、三の新品があるはずにて、小生眼が恢復次第みずから検査するはず。何とぞ今年中に簡単でも宜しく日(204)本粘菌図譜を内国だけでも出したく存じおり候。
 貴集の分も、今少し暖気到り水を扱うに寒を感ぜぬほどになり候わば、一気に図説を作成すべければ、今少し御まち願い上げ奉り候。
 御一同に世間不安には弱り入り候。
 杉山菊女は今年も貴方へ年始状を寄せ来たり候や。当方へは一昨年以来何の音沙汰もなし。たぶんその夫が(菊女の姪の夫たりしものにて、姪が死にたる跡へ菊女が片付きしなり。その夫は悪疾(黴毒か)あるものにて、菊女は好まざれども親族がすすめて止まざるゆえゆきし由)病身にて活版業も面白からず、その間へ子など出来、大いに活計に苦しみおるようのことと存じ候。(菊女の姉は早く外へ嫁し了り、菊女が杉山の家を嗣がざるべからず。それでは老母を養うこともならぬから、右の男へゆき、子を生まばその子に杉山の家を嗣がしむる算段なりし由。)
 高田屋は中の島の大毎社と同じ通りにありしが、最近またまた曽根崎新地二丁目に移り、相変わらず旅館を営みおる由。かの郁《いく》という娘より年始を申し越せり。この娘も今は三十三、四なるべし。
 拙宅のま向かいに久しく琴を指南しおりたる森栗房という老婆は、老耄して琴を教えながら居眠るようになり、一人おくも如何とてその妹の子か何かが大阪で歯医者をなしおる方より迎えに来たり、一昨年大阪へ移り候。気象はたしかにて、今年も新正のはがきを当方へ寄せ来たりあり。その娘というてももはや五十六、七あるいはそれ以上の花という女は、老母この地にあるうちより行衛不明となりおりたり。今はどうなったか知らず。花の父は小生懇交ありし人なるが、これも十四、五年のむかし死亡、花の母が素行|如何《いかが》わしきことあって離縁され、花また当地の紙商に十六歳にして緑づき二子までありしが、隣の人と私通して離縁され、その子二人は父(大川氏)店にありしが、一人は死し一人は今分家しあり。この分家しあるものが花の母の門を通るごとに時々安否を尋ね、また大掃除の節ひそかに手伝いに来たりなどしおりたり。」
(205) 当地も昨年十一月八日に鉄道開通せしも、大阪、神戸よりの例の体臭連が酒から餡パン、すしまでも大阪で調え雑踏し来たり、十分に海を見て(この輩海さえ見ればよきなり)、旅館などに留まらず(それもそのはず、旅館はもぎ取りなり)、その夜の九時までに大阪へ帰る。故に地方に何のあぶく銭が落ちず、鉄道局のみが儲けるばかりなり。駅が遠いから自働車などこの辺をあまり走り廻らず、反って大いに静かになりしだけ拙宅の得分なり。
 まずは右申し上げ候。              早々敬具
 
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 昭和八年七月十二日午前四時前
   上松蓊様
                      南方熊楠再拝
 
 拝呈。七日朝十時半出御状書面は八日午後三時四十七分拝受、小為替三円六十八銭確かに拝受、咋十一日午前十一時四十五分荷物配達(仲仕人足賃十五銭)事済み申し候。すなわち開き見るになかなかの美本、大いに満足致し候。一通りならぬ御骨折万謝奉り候。
 荊妻はこの十五日に床払い致し得べしと医博士明言されたるにかかわらず、またまた少々跡戻り。そはその博士の過ちならず、朝鮮の総督府の人参栽培掛の人より上等の人参多く贈られしを呑み試みたしとのことで、八日午後少量を煎じ服したるに、なお多量なりしと見え、夕刻よりまたまた眩曇致し、一時は心動はなはだしく大いに困りしも、右の医博来た。格別のことなしとて薬もくれずそのまま臥さしめたるに、翌朝平安となり候。毎々の発作には弱り入り候。小畔氏は夫人同伴、神島碑を見物のため二十日ごろ来るはず。その節談合をきめいよいよ発表着手、また、下旬に原摂祐氏小生の招聘に応じて来たり、小生の菌譜に編入すべき諸菌を二人で解剖、また小生の専門外の菌を撰抜(206)して岐阜県へ持ち帰り、続々発表さるるはずに御座候。
 ところへ突発せしことは、小生三十年来村の古老に説いて清浄に維持し来たりし瀬戸の御船山権現(斉明帝御行在地)へ、先年進講の際小生の随伴たるべかりしを小生に断わられ大いに不服、その後いろいろと仕返し的のことを企つる坂口と申す男(和歌山師範教諭)が、行幸の際和歌山県へ下されたる金を引き出して、和歌山師範校内に行幸記念博物館を建て、小生を館長に仰ぐといいふらし募金にかかり候。これは小生、脚悪くて田辺より和歌山に通勤し難きをもって、就任後いろいろと苦情を言い立て辞職せしめ、己れその館長となるちうとの魂胆なり。そんなことに気のつかぬ男でなきゆえ、小生毛利をして県会でその奸謀を露わさしめたるに、それを遺恨に思い、いろいろとたくらみ募金せしも応ずるものなし。かくて三年後の今日、白浜土地会社の輩と密計して県知事等を動かし、件の神社境内へ不浄極まる動物を扱う博物館を建てんと致し候。よって小生それに関して請願書を出だせし当町の中学校長と第一小学校長をよび、詰問するところあり。また県知事へ状を発せしに大あわてとなり返答に行きつまる。よってまた当地の新聞紙に連載してその非を詰《なじ》りしより、神社境内へ建つることは止みしも、なおいろいろと対策を講じおる様子。
 今日思想悪化を防ぐ策とていろいろと訓令ある内に、第一に神社崇敬の実を挙ぐるという箇条なきこととてはなし。しかるに県知事も中小学校も、当県におりて斉明天皇が征西前に当湾辺、瀬戸の御船山に九十日も御滞在ありしを知らず、また神社令に神社は清浄を尚ぷべしとあるにも気付かず。こんな輩が思想の悪化をかれこれ言ったところで、何ごとか挙がるべき。よって小生は東京表においてもこのことを切言して公開せんと欲するが、『日本及日本人』という雑誌はずいぶん人が多く読む物なりや。また『大日』と申し、井上亀六君が『日本及日本人』を五百木良三氏に譲りてのち独?《どくそう》せる雑誌もずいぶん読まるる物に候や。このこと御返事願い上げ奉り候。
 右の一件はこれをこの状に筆すれば永く長くなるから、その代りに連載中の『熊野太陽』と申す新聞を数度にまとめて御送り申し上ぐべく、それを御一読願い上げ奉り候。小生は連日こんなことに脳力を費やし、また例の写生記載(207)にも力を致し候より、疲労はなはだしきに付き本状はこれだけにて失礼申すべく候。
 
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 昭和八年七月二十五日早朝四時
   上松蓊様
                      南方熊楠再拝
 
 拝啓。十四日正午出御状十五日午後四時着拝見。いろいろ事多く、ことに菌の写生記載三十ばかり滞りあり、当節腐り易くして、図のみ娘が仕上げ小生が記載最中に腐り去ること多きには閉口致し候。さて、二十三日午後六時半ごろ、『熊野太陽』と申す小新聞十二葉差し上げ置き候。瀬戸村の御船山神社境内へ博物館を立つることは、小生の抗議にて止みになり候も、土地会社などは悪辣極まる物で、今度はまた小生の論文を逆宣伝に用い、この神社は全国船人の崇拝すべき旧社にて斉明天皇の御霊を祀るなどと、依然土地の価を上ぐる計策に用いおり候。
 よって小生またまた奇略を出だし、土地会社長の大淫乱人なることを暴露し、もっぱら詼謔笑語を用いて喝采を博するから、この小新聞大はやりとなり、近村よりも購読申込み多く、一方会社の方では、社員等、社長の顔を見るも何となくおかしく、と言って笑う訳には往かず、いわんや小生に向かい怒るべうもあらず、士気遅緩し大だれ気味となりおり、社長は肺病人のところ、これがため激昂して重態となり、ことにその?《せがれ》の縁談もこれがため破滅するも知れずとのことで、本月十九日の夜小生の甥(社長の姪の夫)をわざわざ和歌山より招致し、なきを入れに来たりしも、小生はいよいよ進んで、東京で県知事、内務部長等がこんな重態の肺病人と毎々往復し御馳走になるは危険至極なり、またかかる荒淫の者を紳士扱いし、この博物館設立を主張する校長などいずれも旧悪あるもの、それを任用するは取りも直さず教員の思想悪化を慫慂するものなり、ということと公言すべしと叱り飛ばしやり候。しかるに、どうやら(208)警官の方より右の小新聞を購読すべからずと説きまわるような説あり、今朝夜明け一応新聞社に就き詳しく聞き正さんと存じおり候。
 毛利は町助役となりおり、今の町長(原と申し、遠州鉱山を古川氏へ譲りし原秀次郎の子なり)は、十ヵ月を限り就職、十ヵ月後は毛利が町長になる内約なり。そんな事情で十分小生に左袒するわけに往かず、大抵で陣を引けと勧告し来たり候。実はこの毛利が件の社長の妾を説き、その手を脱出せしめ、今は自分の妾として女髪結を営ましめ、和歌山におきあるゆえに、事むつかしくなれば、毛利とその妾が引き出さるるの惧れあるなり。また下村宏もこのことにより東京で暴露しやるつもりなり。下村とその妾のことは小生に十分わかりおる。杉山菊が大いに今となって役に立ち候。
 何さま県知事、県吏、この町の豪家ども、瀬戸村民、坂口という法螺吹き教諭と多勢相手、此方はまず小生一人という争議。加うるに妻は今に臥しおり、ずいぶん骨が折れ候。
 右の小新聞は御読了後は誰にでも読ませ御一笑下されたく候。ただし後日例の随筆次篇に加うるとき岡書院へ貸したきに付き、失わずに御切り抜きおき下されたく候。たしか十回の次ぎ十一回と印刷すべきを十二回と誤刊しあり候。しかし先後見合わせ御読み下されば分かり申すべく候。
 前日御購い送り下されたる『広文庫』は、引用書はなはだ不十分にて孫引き多し。著者は老体にてそこまで手が届かざりしことと察し候。しかし小生どもこれを繙きていろいろ忘れおったことを懐い出す場合多く、大いに役に立ち申し候。小生編次中の随筆完成には大いに手数を省き候。
 『僧尼?海《そうにげつかい》』と申す書は、上海より銀下落申送りくるべく頼みおきしが、そのうちに戦乱起こり今に送り来たらず。別段なくてならぬ物にあらざるも、全きを望む心より一覧致したく候。十円までで手に入るなら御捜し御一報願い上げ奉り候。
(209) 小生眼は全く恢復。今度はすぐさま出板の出来るよう写生着色して、先年来渋滞中の貴集粘菌図ことごとく御報申し上ぐべく候。この土用中は手より油汗出で、はなはだしきはせっかくの彩色画上に瀝下することあり、今しばらく御まち下されたく候。
 小畔氏は八月に入りて来らるるはずなり。昨日および本日、当地闘鶏社大祭にて、県下第二の壮観なりと宣伝しおり候。しかし昨日は雨、本日も雨ふりつづくらしく候。菌多く生ずるから小生には得意ながら、一同には失望のことと存じおり候。           早々敬具
 大正八年なりしか、御来遊の節ありし鉛山の七温泉(崎《さき》の湯等)は、近来むやみにボウリングを入るるため全く湧き止み候。その他景勝の破壊おびただしく、このほど小橋一太氏ごとき俗人にすらはなはだしく叱られたる由に御座候。
 井上亀六氏は、『日本及日本人』を五百木良三氏(瓢亭とか号する俳人の由、どんな人物か分からず)に譲りてより、『大日』という『日本及日本人』より薄冊の雑誌を出し、あんまり売れず(一定の予約者へのみ配る。一切の店頭へ出さず)、ずいぶん失意の様子なるも、今に小生へは毎号送りくれ候。井上氏の筆鋒は旧のごとくはなはだ鋭利正確なるも、社員中にはなはだつまらぬ人多し。故に小生は『日本及日本人』にのみ投書して、『大日』には遠ざかりおり候。一文なしに押しかけ来たり、かつ当地の旅宿を食い荒らし、こまったことあり。しかし経営の難きことを承りて気の毒に堪えず(小生進講のときの記事のごとき、小生一代に取りての面目と存ぜし)、よってこの状と同時に平沼君へ一書を呈したれば、何とぞ平沼君より二十円申し受け、貴下何とかして井上君に面会し、毎号の末に載りたる社告をよみ御同情にたえず、自分は只今家内病人多く余裕なけれど、友人より工面して拵えたれば、とにかく過ぐる六十号(一冊定価郵税とも三十銭)十八円のところ、二十円だけ前納でなくて後納する、なお以後も御送り下されたく、その代金は追って差し上げる(この二十円渡す詞は、貴下にて何とでも御拵え下されたく候。決して小生が申し(210)上げる通りを必とせず)、とでも言って二十円だけ御渡し、なお進講のとき県知事、京大等より非常の圧迫を受けたる概略を談《かた》り、いずれそのうち委細を申し上ぐると本人申しおると話しおき下されたく候。
  あとの分はこの十二月初めに小生より送るべし。一年分七円二十銭に候。                     早々敬具
 
     75
 
 昭和八年十二月二十二日夜十一時過ぎ
   上松蓊様
                      南方熊楠再拝
 
 拝呈。十八日午後二時出御状および御封入の横川氏ハガキ二十日午前八時五十分拝読、書籍の儀に付き御奔走万謝奉り候。只今この状と共に田中直相氏へ一状差し出し置き候間、御申し越しの第二版『吾妻鏡』三冊は横川氏より、芝区片門前町二丁目六、文化公論社、田中直相氏へ渡し、受取証をとり下されたく、その上田中氏より貴下へも受取書を出しくるるよう申し込み置き候(貴下を当研究所の小生が東京方面における代表者として)。故に左御取りはからい願い上げ奉り候。
 右書代価は即座に御申し越し下されたく、その御書信着次第、直ちに貴下なりまた横川氏へなり送金仕るべく候。
 一昨日大阪より白浜駅へ汽車開通、初運転に機関車脱線大騒ぎ、地盤の岩石が柔らかなるによるとは珍聞に御座候。白浜の式場は大風のため桟敷代りに設けたるテント三つまで飛び去り、これまた大騒ぎ、式場を移しなど致せし由。
 日本人が支那の淡水産のくらげを揚子江で発見など、前年来もてはやしおりたるが、小生はなはだうさんなことに思い、『古今図書集成』と『説鈴』中に桃花魚というものの記載、三文三つながら異なるを見出だし候。これは晩くとも明《みん》朝すでに、支那の湖北、湖南および江西の小渓や天然池に淡水くらげあるを知ったのみか、これを食饌に上《のぼ》せ(211)しことを知り、十二月一日発行の『本草』(一七号七五頁)に出し候。九州大学の教授大島広博士より一昨日ハガキ着す。
  拝啓。不躾けながら一書を拝呈します。さて『本草』近刊の十七号に御投稿の桃花魚の御説、まことに面白く拝見。これを直ちに淡水|水母《くらげ》なりと御論断になりました慧眼には今さらながら敬服申し上げる次第です。右に付き心づきしままを記し、かつ支那、日本産の淡水水母に関する学名および文献を並べて高覧に供しようと思いましたが、同僚の勧めにより、直ちに雑誌『本草』に送ることに致しました。同誌に登載の上は何とぞ御笑覧を願います、云々。                     敬具
とあり。小生は欧米にありし日は、何か出すと大学総長とか学士会員とか有名な文士とかより感状ごときものを貰いしこと多く(ここまで書いたところ、羽織の左の端が火鉢に入り、中に入れたる真綿(前年平沼家より送られたる)に火付きおる。すなわちこの巻紙の上におしつけ揉み消せり。下のごとく紙にその痕つき候)、中には末代までも高名なるべき人もあり。しかるに日本に帰りてより、右様のものを受けしはこの大島博士のハガキが初物に御座候。この人は十一年前高田屋に泊まりしうち、故渡瀬庄三郎教授尋ね来られ、小生取っておきの当田辺湾で獲たるナマコの図を示せしに、かつて見ざる珍物とのこと、よって誰に査定を頼むべきかと問いしに、大島広氏ならば必ず出来るといいし。そのころからナマコ類の専門家日本第一なり。次の年に小野俊一氏来訪されしときも、同様の答なりし。しかるに当時大島氏は朝鮮にありとかのことで、名宛所確かに知れず、今日まで延引せしが、このハガキを縁に右のナマコを写し大島博士におくり、返事次第現品を同氏へおくるつもりに御座候。
 貴君最終の粘菌中には珍異のもの多し。小生は来年は必ず春陽堂から、小畔氏の名でも宜しく、図版を多く入れ、解説は(どうせ読む人も少なきことゆえ)要点のみを一、二行でかくこととして、日本粘菌説を出すに、その版下をかねて、一度になるべく正確な着色図を作ることにかかりおり。一つ二つと取り出して解剖したあとの標品は、どう(212)しても最初解剖せぬうちに作りし画におとり、これを優等に画成せんには必ず多少の虚構がまじる。故に精査報告は今少しひまがかかるから、左御承引を乞い上げおく。
 (1)ごとく画くべきものを、解剖後は(2)ごとく画く。さて画き了りて、解剖のため胞嚢をとりたる痕跡(ロ)を画くに止むべきところを、暗記を主としてそのかたわらにまた(イ)を画く。実際(ロ)の処に一つの胞嚢ありし。その近道せる所に(イ)ごときものが生えおりたり。(ロ)の茎および胞嚢底はかくまで大きからざるべきはずなり。見る人が見たら、(2)は全く虚構のものと分かる。さてまた画きかえると、またどこか真物とまちがった物が出来る。故に最初少しも解剖せぬうちに画いたものの外は、真正の写生図とはいうべからず。リスター『図譜』などは過半虚構で、右旋と本文に見えたる螺旋条が左旋になったり、二十倍と記付ある図が実は実物の三十倍であったりする例がはなはだ多く、正確なるべき科学が少しも受け取られず。             早々敬具
 
     76
 
 昭和九年二月七日夜十時
   上松蓊様
                      南方熊楠再拝
 
 拝啓。二月四日出貴状同六日朝八時三十五分承見。そのころ小生また脚はなはだ悪かりしを、潜心研究いろいろと試験して、これは従前パッチをはかざりしものが近年パッチを用いる、その節その下端に付きたる紐を結ぶに、指の力強きより毎々緊しくしめるより、昼間行動しばしばなるうちは左までのことはなきも、夜間静まりおるうちおいお(213)い皮肉にくいこみ、ために動脈を圧して中風ごとくしびれ出で、つまり年老いては血脈神経ともに壮時のごとく張りが弱まりしにつけ込まれたることと存じ、なるべくパッチを廃し腰巻きを用い、練炭は眼にわるきゆえ全廃して、なるべく高価なる上等の木炭を室内に用いることと致し候ところ、この考え中《あた》りしと見え、例年冬寒中の脚患は全治致し候。
 それより培養中の菌類は到底見込みなきものと片付け、もっぱら粘菌新種の刊行用意にかかりおり候ところ、不幸にも常用の一番年久しくもっとも自分の眼になれたる顕微鏡のしまりがゆるみ、ややもすれば筒がまっしぐらに落ちて、観るところの標品をつぶすことあり。これには閉口致し(粘菌の刊行の板下くらいを作るにあんまりむつかしき機械は面倒を重ぬるのみにて実際即効なし)、あるいは貴方へ送り、貴地の精工に直しもらわんかと案じ煩いしに、借家に住む金崎裁縫師の考えでちょっとねじを見しに速やかに直り候。これにて只今のところ十分なるも、もしまたまた狂い出すときは止むを得ず貴下へ送り、(イ)(ロ)間に横たわる(ハ)なる心棒を新たに作らせ、仕かえもらうこととせざるべからず。しかし当分は金崎の考え通りにうまく(イ)(ロ)のねじを狂うごとにうまくねじればすむことと存じおり候。とにかく間に合わせにて板下だけはやってのくるつもりなり。
 妻も十二月よりめっきり快方なりしが、この四、五日またわるし。しかし常癖の神経病ゆえ、やがて快方と存じ候。
 悴は五、六日前、和歌山の知友が訪いくれたるに、言語を一切発せざるのみ、他は一切健全の様子に候。小生より去年十月ごろ送りやりし動物書を(Woodという人が大英博物館の陳列品を一千近くそのころ有名の画工に画かせ、一(214)々面白く説明せしものにて、病気にならぬとき毎日見たるなり)送りおきしを毎日見おる由。病院には英和辞書など思いも寄らねば、この前自宅にて読みたるものゆえ、おいおい記臆力を喚起し、そこここ模索しおることと存じ候て、それだけ脳力が恢復せしと見え候。(言語せざるは小生父祖来の風にて、言語というものはむやみに発すべきにあらず、いろいろと間違いを起こすという観念より、むだな口をきかぬ決心と思わる。)母親が病弱なところへ帰り来たり、またまた双方入らぬ心配などして発症さるるよりは、依然今のまま病院におき、修養功積んで、いよいよこんな病院などにおるはつまらぬという気がつき、帰りたしといい出した上出院せしむる方が、費用が高いようで結局安く上がることと考えるゆえ、せめて粘菌譜出し了りての上まで入院せしめ置かんと存じ候。
 付いては右の一冊のみでは事足らず、読繙に飽きが来るも知れぬゆえ(かつ洋書ばかりでは日本名がさっぱり分からぬゆえ)、京橋区元数寄屋町三丁目七番地北隆館出板『日本動物図鑑』、これは定価十五円にて前年平沼君に一冊買い戴きしを小生今も参考に使いおり、不断入用の本にていろいろと自手で書き入れや批判訂正を加えあり。故にこの本は悴へ譲るを得ぬから、貴下例の通り御聞き合わせの上、一本見当たらば故本、用い古しでも宜しく、また第何板でも宜しく(小生現に用いおるは昭和二年再板なり)、代価御聞き合わせの上、ちょっと御申し越し下されたく願い上げ奉る。さっそく小生より貴下へ御送金の上買い入れ、病院の小生より指定の人まで御発送下されたきなり。郵税または重量も分からば御申し越し下されたく願い上げ奉り候。
 この本はあまり売れぬと見え(または新板が出ると旧板はさっぱり売れぬと見え)、毎度毎度大割引き発売の広告を新聞で見しことあり。たしか昨年春ごろ、古本ならぬ出板のまま、八円か何かで大安売ということを当地の書肆より申し来たりし(日限付きゆえ只今は買い得ぬことなるべきも)。故に初板や二板の古本はおそらくは四、五円で(御地の古本屋で)手に入ることと存じ候。
 小生は子細あって(それは後便に申し上ぐべく候)、この本に限り平沼氏に買い戴くを好まず。故に右申すごとく(215)貴下にて御見出しの上、代価郵税御聞き定めの上御申し越し下されたく願い上げ奉り候。
 小畔氏は一月初より感冒、ようやぐ昨今恢復の由、今日申し来たられ候。
 まずは右用事のみ申し上げ候。           早々敬具
 
     77
 
 昭和九年三月二日早朝六時
   上松蓊様
                      南方熊楠再拝
 
 拝啓。二十五日出御状は二十七日午後四時拝受。悴への書籍、書留で御送り下され候由、書留受取証拝受、御手数の段千万鳴謝奉り候。次に二十八日出御状は咋一日午後五時五分拝受、『僧尼?海』第二分は未着、たぶん今日中に到着と察しおり、これまた御手数のほど恐縮奉り候。『痴婆子』は、小生刊本を蔵しおり候間、御送り下さるに及ばず候。
 毛利が他の地方より入り来たれる高給の小学校長ども(この小さき町内に三人あり)を減俸し、不承知ならば勝手に他地方へ立ち退かれたし、当町出身の人々にして安値に奉職しくるる人は十分にありとのことを主張したるに、三十三年の勅令に云々とあれば、自分等一身のことはかまわねど、全国教育界の大問題なり、この勅令を如何せんなど、右の酒飲み校長ども秘密会を開き、去年十月神嘗祭に、ある町内の神社に饌料を供えしとき、毛利が近代文の祝詞をみずから述べしとかが大違犯なりとて(神職はその座にありしことゆえ、違犯とあればさっそく注意を与うべかりしなり。それをその場で黙過しながら事の後に)、当地神職会幹事をして県庁へ密告せしめ、県の学務課長、これ奇貨措くべしとこのことを大層にいい立て、和歌山市付近の神職ども十一人(官幣大社日前宮の国造紀男の弟を始め)お(216)しかけ来るとのことで脅かし来たりしも、毛利平気で来たらば来たれと返事。さて一方、町会員全起立で毛利の削減案を可決(六万円ばかりたすかるなり)。この勢いに辟易し、県庁より地方課長を派し情実を述べて毛利に請托懇願なさしむ(県下の各村みな同様の削減を行ない、小学教員の自給自足を行なうては県庁大いに弱ると)。同時に高野山下、天野神社(官幣大社)宮司八木豊太郎とかいう人、事実調査員として昨日来たり役場にて毛利と面談。毛利この二人を昨日午後一時拙宅へつれ来たり、同時にかねて小生と知り合いになりたしとて懇請中の当地裁判所監督判事松山という人も来たる。
 そこで小生右の宮司を叱り飛ばし、県下神職どもの非行を説き聞かせ、毛利の祝詞が違犯ならばその社の神職側にありて何故これを申し止めざりしか。これ小児が放尿しかけるを戒めやらず、放ち了るをまちて警察へ拘引すると同じやり方なり。また当町には全国に類例少なく前年合祀詩sのとき、吾輩、毛利とこれを申し止め、六、七社まで今におきやり、神職がいろいろの社を兼務して俸給をせしめおる。それにかかることを密告するなどはいかにも神職らしからず。ことに今回密告したる吉田という者は、神職でいながら貝釦工場を営業し、また自転車を馳せて無尽頼母子に奔走しおり、かつ数年前、自分の妻の姉が夫と離縁話を裁判のため再三大阪へ上りし節、その尻押しとしてともに上阪し、宿屋で密通するところを下女に暴露され、夫より(まだ離縁しおらず)告訴され未決監に両名とも永く留められし。いろいろと世話する人ありてようやく願い下げもらいしことあり。かかるものを神職会の幹事とは不屈にも程がある。また県社闘鶏神社の今の神職は、自宅が社に遠しとて一家大胆にも社務所(本社構内、神殿の直面)に住み、きたなき洗濯まで社内で行ない、夜は淫楽するなど神意に背き、老母と二子社内で死し、葬送が社内より出るという珍事を行ないて平気なり。僧袋中の『琉球神道記』に、永正年間能州石動山の神境で夫婦交会して離れず、講堂に三日曝し、ようやく離るるとき抜けたる響きが三里に聞こえたとあり、同様のこと『続群書類従』の『八幡愚童訓』にもある(離れずに二人死す)。三里といえば、一里五十丁と見積もりて、この陶鶏社より東は冨田坂頂に至り、(217)西は日高郡塩屋村辺に至る距離なり。合理化を尚ぶ世の中、この神職に毎朝毎夕一番ずつやらせ、さて三里ずつ東西へ響かせ貰うたら、諸工場でホイットルを鳴らすに及ばず、大いに公益となる、などと四時二十分ごろまて罵りつづけ、然る上は祓除を課せらるべきは、神道のことを一向心得ざる町助役毛利にあらずして、この県の神職はことごとくみずから祓除を受くべきものなり。紀国造の家も、系図にこの国造の母は白拍子(すなわちゲイシャ・ガール)というもの三人を記し、只今の国造の妻も芸妓を落籍せしなり。何百何千人に弄ばれたやら分からぬ穢らわしきものを妻とせることぞ、祓除を受くべき骨頂ならん、と話せしに、笑うもあり感ずるもあり、只今配達の『大毎』紙によれば、一同酔えるがごとく、祝詞問題などはけろりと忘れ大笑いまた大呆れで帰りし由。こんなことゆえ毛利へこの上何もいい来たるまじく、県庁こそ恥の上《うわ》塗りなり。
 今月の『本草』に、学名を付けた日本人の総目録出であり、原摂祐編なり。小畔、平沼、石館、菊地四人の名出でおり候。貴下の名は出でおらず。これは蓊の字が原にはよめかぬる故と察し候。まだまだ申し上げたきことあるも、夜来眠らざるゆえ、また来客の予約あるゆえ、右のみ申し上げ候。                早々敬具
 
     78
 
 昭和九年三月十日夜九時半
   上松蓊様
                      南方熊楠再拝
 
 拝啓。『僧尼?海』第三分は三月六日朝八時四十分着、その前日午下り三日出御状拝受、また五日夕出御状は七日午後三時二十分拝受、『?海』写し取り御手数恐れ入り、また厚く御礼申し上げ候。要するにこの『?海』は、『山中一夕話』(一名『開巻一笑』)同様、たぶん李卓吾あたりの撰にて、それと同じく上の一半分は多少の奇構創意あれども、(218)沽《う》らんかな流の作り物ゆえ、下半分は大急ぎに故人の旧作から斜二無二抄記蒐成したるものと見受け申し候(『夷堅志』、『竜図公案』等より丸どり多し)。何に致せ難有く御礼申し上げ候。いわゆる未見を見、未聞を聞きしものなり。第二分の終りに、和尚の一件を白瓜の大きさと比ぶることあり。天文中の邦書『奇異雑談』に、寡婦の店頭へ小僧が二人来たり、わが師僧の一件はこの胡瓜《きゆうり》ほどあるは云々と話すをきき、にわかに思い立ちその和尚を請じて仏事を営み、和尚に逼り和尚逃ぐるを追うて大蛇となり湖に沈むことあるは、この話より取りしものと存じ候。小生只今岡氏の『ドルメン』に出すために、一世一代の瓢箪の話を書きおる最中、大いに間に合い申し候。
 当地の神職ども、小生に対抗のため、小生の孫弟子程度の某博士(折口信夫博士の弟子くらいのもの)を招請し、神道講義を聞くなど準備最中へ、前日小生宅にてほとんど失神するまで恐縮して逃げ去りし宮司、小生方にて裁判所長立ち会いの上(これは渡辺前法相(千冬子)、白浜旅館にて裁判官どもを集め宴せしとき、小生の噂をなされたるにより、当県の法官ども小生を欽慕しなにか一筆を書いてもらわんと来たるもの多し。いずれもことわりたるも、田辺の裁判所長のみ至って温良な人と聞きしゆえ、面会すべしといいおきしに、毛利例の頓智にて、宮司をつれ拙方へ来たる前に、電話にて所長に通知し、所長は勿外《もつけ》の幸いと何知らず事務を打ちやりて馳せ来たりしを幸い、談判に立ち会わしめ、宮司に向かいて小生、当郡の神職ども不法、破廉恥の所行は法庁に留め書きあるはずなれば、只今すぐに宮司をつれて帰庁しともども記録を調べられたしといいたるなり。毛利のことを密告せし当郡神職会長は、三、四年前、妻の姉を犯し本夫より訴えられ未決に男女とも入れられ、いろいろ人の世話して願い下げ、告訴取り下げ、このことすみしなり)、大いに叱責、かの男腰ぬけ、発狂せんばかりに逃げ去りしを、毛利、五明楼につれゆき、一盃をすすめた上、神社合祀詩sの節、小生と毛利二人、中村啓次郎氏をすすめ衆議院で二度まで反対演説をなさしめ、合祀詩sをくいとめ、さて小生神職どもを集め、今後必ず神職相当に品位を落とさず、また俸給等のことをかれこれいわずに、神社を事なく維持すべきやと問い(神社が合併されては多くの神職は世業にはなるるから)、かの輩、いかにも(219)何ごとをも忍び精進奉仕すべしとてたのまれしゆえ、小生責任者となりて、この小さき町に多くの神社をおきやりしなり、故に今度のような不埒なことを働くと、小生約束を破棄し、こんな神職のみでは訂底維持の見込みなければ、一切の神社を一社に合併すべしと内務省へ申告すべしといいはりおる由、毛利より宮司に告げたり。
 宮司は割合に好々爺にて、小生のいいしことを一切その翌日和歌山の神職会本部にていい出し、結句、毛利何の罪なく、かかる騒動を起こせし神職どもに罪ありとて、一同譴責されたり。そのときの宮司の報告書は、一日の間に編成刊行され、当方へ(宮司立ち去りし翌々日)送着せり。故に毛利の大勝利たり。ただし毛利は三日前和歌山へ上り(他の用件にて)今に帰らず。
 しかるに県庁は、また毎度毎度の敗北に、今度は知事を会長とし十五人を委員とし(神職の尻をつきて毛利を陥れんとしたる学務部長、行幸のときの陰謀を小生にへこまされおる師範校長等)、思想問題研究会を組織し、左傾のみか右傾をも取り締まらんとする由、今日の『大毎』紙に見え、あるいは小生を右傾の骨頂として来るかも知れず。然る上は、小生足も直りたれば、直ちに上京し輦下に伏奏するところあらんとす。まずは右のみ申し上げ候。
 貴下の粘菌は直ちに出板するよう板下を作るにひまをとる。一昨年御送来の群馬県の寄生菌どもは、四十点ばかりみずから下検査の上、北大の今井三子教授へおくりおけり。これはこの人のお手のものなれば、一、二ヵ月中に返事来るから、その節一々申し上ぐべし。  早々敬具
 妻は近来平安なり。『動物図鑑』は今に受取書着せざれども、書留郵便で送られたれば到着疑うべからず。けだし悴は小生と同じく、喜怒ちょっといろいろ彰われず。したがって一ヵ月ばかり(少なくとも)かの書を机上に放置した上ならでは成績が分からず。その間とくと視察してのち様子を告げ釆たることと察し候。
 高田屋は中の島大毎社と同町目にありしが、近ごろまた曽根崎に移れり。杉山菊は去年中何の音沙汰なかりしも、(220)今年正月に年頭ハガキを送り釆たる。滝野川におる様子に候。貴方へも年頭状参り候や。貴方へ寄せるほどならば人情厚きものたり。しからずんは多少軽薄たるを免れずと存じ候。
 『五雑組』支那板はきわめて罕《まれ》なり。清朝にささわることありて禁書の一たり。日本板は多きものにて、合巻八冊なり。いかに汚損した楽書だらけでも宜しく、安値で一本あらはそのうち捜し出し御送来、価を御知らせ下されたく候(二、三円までにて)。
 当地の新聞紙ども、県庁をおそれ今度の宮司の報告書を出板せず。しかるに、もと毛利の子分たりし相賀貞次郎(小生世話また訂正なせるいろいろの著書を出し、近来やや発達、東京の雑誌へもしばしば寄書し酬金をとりおる)働きにて、右の報告書を当町発行の下等新聞(しばしば○○するゆえ大いに中以上の輩に恐れらる)へ出し、神職どもの内情をすっぱぬきたるゆえ大勝を得たり。香餌の下に懸魚あり。書籍ずきの人物ゆえ、前日の傍訓入りの『覚後禅』と共にこの『五雑組』を餽り、ますます裏面に働かさんと存じおり候なり。
 『覚後禅』(『肉蒲団』)傍訓付きのもの一部、例の書店を御捜し見当たらは代価聞き御知らせ下されたく候。これは小生の知人が必要というなり。
 右当用のみ申し上げ候。御写本のこと幾重にも御厚礼申し上げ候。
 平沼君へも一状差し上ぐべきのところ、いろいろ事多く、貴下に由って御伝声を願い上げ候。             早々敬具
 
     79
 
 昭和九年四月二十四日午前九時
  上松蓊様
                      南方熊楠再拝
 
(221) 拝復。二十一日午後三時出御状は昨二十三日午前九時拝受、御礼申し上げ候。
 小生熱疾の方は全治したらしく候も、また足わるし。しかしこれは摂生法を行ないおるゆえ、数日内になおることと存じおり候。さて前日平沼君よりの来信に、今月末ごろに貴下一度当地へ御下りの御様子に承聞せしが、これは何とぞ夏阻みまで御延引願い上げ奉り候。一月より今に小生はおよそ二百部の書籍等を書斎に取り出だし、一世一代の長篇「地突き唄の文句、伊予の瓢箪屋」を認めおり、一つの文ながら見様により三態に窺われるという奇異の長篇に御座候。岡氏の出す『ドルメン』という雑誌五月号に第一−第六章まで掲載、六月号に第七−八章が出で、七月号に全篇中もっとも力を致したる第九章が出で、八月号に第十−十二章が出るはずに御座候。貴下および平沼君はこの雑誌をとりおられ候や。然らずんば小生へ同氏より毎号十八冊ずつくれる約定ゆえ、出板し次第貴方と平沼氏へ直ちに送らせ申すべく候。次に神島の内務指定、それより朝鮮と台湾の博物学会よりそれぞれの地の新粘菌の図説出板、それから庶民を招き娘に写生を伝授しもらい淡水藻図譜にかからしむる等、いろいろと用件がさし逼りおるから、もし御来臨なら夏に願い上げ候。所員に坂泰官林へ御案内致さしむべく候。
 次に平沼氏方へ去年差し上げたる午時花《ごじか》種子は成り行き如何。拙方は三月十七日にまきたるに今月二日ごろよりおいおい発芽、六十九本まで生えたるも、気候時に冷たくなるため、今に二葉のままにて少しも葉を生ぜず、雨のためにおいおい腐れ去り候。日高郡の山田家(先年妹尾よりの帰途、家族一同と写真をとりたる家)へ送りしは、三月中旬まきたるも今に一本も生えず、当地にも二、三家に頒ちたるも生えず、また二、三本生えたるもあり、園芸師の温室にまきたるはもはや二、三寸に延びある由申し来たり候。とにかくインドより直来の種子は紀州ではちょっとむつかしく、平沼家もあるいは今に一本も生えぬかとも察しおり候。如何のことにや。御ついでに御聞き合わせ御一報願い上げ奉り候。
 毛利(『大毎』紙にワンジュの数珠をかけた像を掲げ、毛利|頑爺《ガンジー》と書きあり)は今に県庁と対抗、前の学務課長は(222)どうなったか知らず、新たに他の人が学務課長に任ぜられ候。しかるに頑爺少しも意向を改めず、一昨日いよいよ五分減の計算で八十八人の小学校教員に給料を渡し候に、かの輩申し合わせて一人も受け取りに来たらず、頑爺はそのまま打ち捨てある様子。然る上は教員等生活に苦しむことと存じ候。また高等女学校移転の件は、七大字連衡して毛利を声援し大騒ぎらしく候。和歌山城をつぶし県庁を移すことも岩谷白嶺《いわたにはくれい》(これも毛利同然の坊主落ちにて、かつて当県会議長たりし。当町付近三栖村出の老人、七十二、三歳)主唱にて、和歌山市内の老人連を連署せしめ市役所へ抗議するといいおりしが、果たして抗議せしや否知らず。しかし、この輩の奸策と見え、本日絶えて久しき和歌浦東照宮の祭を、従来と打ってかわり芸妓入りでやらかし、南竜公入国三百五十年祭とて、市中総休みで大大騒ぎをなしおどりまわるとのこと。然る上は、まさかちょっとちょっと城をつぶすこともなるまじく、どうなることかと心配、またその騒ぎの盛んならんことを祈りおり候ところ、不幸にして本日は至って冷たく、また夜来雨なり。(むろん日延べのことと存じ候。)小生は小生で右ごとく多事最中にて籠城罷り在り、毛利は先月下旬東京より帰りし由なるも今に面会せず候。
 京大はとうとう鉛山へ植物園を立つることは止め、大島へ立つるに決したる由。                 早々敬具
 
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 昭和九年五月二十日朝五時
   上松蓊様
                      南方熊楠再拝
 
 拝復。五月十五日夜出貴翰十七日午後三時四十分拝受、アラセイトウおよびノウゼンハレン種子は六日の朝九時半に拝受、その御案内状(五月一日出)は四日の午後三時五十分に難有く拝受。右種子着するや否や娘に蒔かしめしに、(223)もはやおびただしく生えおり候。今回御下問の伽羅《きやら》のことは、Watt の辞彙になきはずはなく、これは Aquilaria《アクイラリア》 Agallocha《アガルロチア》 Roxburgh なる学名、またはその英名 Aloewood《アロー・ウツド》 また Eagle《イーグル》 wood《ウツド》の条を見れば必ずあることと察し候。また最近昭和四年板第一四輯の『エソサイクロペジア・ブリタンニカ』には、この物の条はなく、わずかに Aloe の名に因んで Aloe(薬用にする蘆薈《ろかい》)の条下に出だしあり、Lign Aloes(リナローズまたリグナローズと訓む)の名を用いあり、Lignum Aloe の略なり。これらの語にて引かば必ずその条はあることと存じ候。
 この伽羅(悪いものは沈香)というもの、近年一向欧米では使われぬらしく、産地すらしかと分からぬらしく候。右に甲す最近の『エンサイクロペジア・ブリタンニカ』にはインドの東部と支那の土産とあり、しかるに一八八五年第三板バルフォールの『印度事彙』巻三には、インドのベンガル州の東北 Sylhet(アッサム国の内)の山地に産すとあり、それがギリシア・ローマの古え欧州やユダヤに輸入されて尊ばれたものの由、また別にテナッセリム海岸(ビルマとシャムの間)でもっぱら売らるるものは、メルグイ Mergui 諸島(マレイ半島の西北、ベンゴール湾の東南にあり)より出るが、セルング土蕃族はそれが儲けになるから、何の木より出るということを一向外人に知らしめず、とある。しかして Aquilaria 属の木の名を四種挙げおるが、その異同は分からぬ様子なり。『諸国里人談』かに、伽羅を求むるに、外人がある島に到りナマコ(イリコ)を陸へおくと、土人来たりそれをとり、言を交さずに相当の価の伽羅をおき去る、すなわち無言貿易なり、それをとりて帰るとありしよう覚え候。多少根拠のあることにて、日本へ(224)来たりしはこのメルグイ島産のものと存ぜられ候。伽羅はマラッカ語にてガロ、それを支那訳せしと愚考致し候(他人にもすでに同説あるかも知らず)。エンクラーおよびプラントルの『自然分科篇』の三篇六巻の第二部(一八九四年板)に、この属に三、四種ありと記して、左の六名を記す。
  Aquilaria Agallocha Roxburgh 東ヒマラヤ地方の産。
  A.malaccensis Lamkk.後インドとマレイ地方。
  A. sinensis Gilg. 支那産。これは支那名 Pah-muh また Pah-muh-yang とバルフォールの『印度事彙』に出ず。
   白木また白木楊とでも書くことにや。さらに分からず候。
  A.microcalpa Baill.
  A.Beccariana van Tieghem この三種はボルネオ産。
  A.Berneensis Gilg.
 小生はこの属の詳しきことを書きたるものを一向持たぬゆえ何の心当たりもなきが、どうも日本へ輸入せし伽羅は、後インドやマレイ地方のものらしきゆえ、Aquilaria Agallocha ではなきよう思い候。ただし、むかしの香の本をみるに、マナバンとかヒョンカツとか種々の珍名をかき並べ、その木の様子を記しあれば、南蛮人経由前インド、後インド、マレイ半島、マレイ諸島、インド洋諸島より、いろいろと輸入したるなるべく、右の Aquilaria Agallocha 屬(ジンチョウゲ科の大木)の外に、他科の木をも伽羅と佯《いつわ》りて輸入したらしいから、今日となってはその実物が千に一つも本邦に残存せるを集めて見ても、比較研究の材料なき本邦では到底何のことも別《わか》らぬことと存じ候。
 似た例は、むかし三絃の棹に用いしいろいろの木すら今日となっては別らぬもの多し。例のタガヤサンなども三好学博士が実物を研査してようやく分かりし様子なり。
 ちようど日本におってエジプトのピラミッドのことを調べたり、ジュリアス・シーザールの尸骸のことを攻究する(225)ような物で、痴人が他人の夢を占うようなことと存じ候。
 小生昨夜二時ごろ(確かに申さば今日午前二時ごろ)より調べて、ようやく右だけ書き上げ得る次第に候。Baillon《ベイヨン》の‘History of Plants’(仏語より英訳なり。明治二十二年ごろ出でしと記臆候)は御地図書館にあるべければ、その内 Thymeleaceae 瑞香《じんちようげ》科の部をみれば Aquilaria 属の梗概は分かるべく候。しかしそれはただ植物学上のことだけにて、香道上のことは分からぬべく、香道上の書に伽羅のことを詳記したものは小生存ぜず候。日本の香道の書には名目くらいはならべあるが、何の役にも立たず候。ただ一つ申し上げおくは、支那の『金瓶梅』などを見るも、一件を始める前に必ず女の局部を薫《くゆ》らし候。木村仙秀氏話に、そのころ(大正十一年)まで、新吉原の某楼にむかし娼妓の衣裳を薫らす道具を蔵しありし由。(衣裳というが実はこたつの内に香炉をしかけ、それに一件をあてて薫灼せしなり。)
 『金瓶梅』第五十二回に、「夏提刑もまた(西門慶を)敬重すること、往日に同じからず。門を?《さえぎ》りて酒を勧め、吃《きつ》して三更の天気《ころ》に至り、纔《ようや》く放って家へ回《かえ》す。潘金蓮はまた早くより燈下に向かって冠児《かみかざり》を除《と》り去り、衾《ふすま》と枕を設放《ととの》え、香を薫《くす》べ牝を燥《かわ》かし、西門慶の進門《いりきた》るを等候《まちう》く」。(客と夜飲むをまち、もはや散会とみてとり、直ちに自分の冠を去り、陰を燥し香で薫べしなり。)
 第五十八回、「原来《もともと》、孫雪娥は、一明両暗の三間《みま》の房《へや》にて、一間は床房《ねま》、一間は?房《カンべや》なるに住まえり。西門慶は一年|多《あまり》も他《そ》の房中に進《い》り来たれること没《な》し。今日進《い》り来たるを聴見《き》き、連忙《いそ》ぎ向前《すすみい》でて西門慶の衣服を接《うけと》り、中の間の椅子の上に安頓《おちつか》せて坐らしむ。一面にて涼蓆《ござ》を揩抹《ふききよ》め、床鋪《ねどこ》を収拾《しつら》え、香を薫《くす》べ牝を燥かしてより、走《い》り来たって茶を西門慶に逓《すす》めて吃《の》ましめ了《おわ》り、?扶《かいぞえ》して床に上がり、云々」。(一年も来たらざりし男が来ると、この女、してもらうつもりで、まず一件を薫べ燥《かわ》かし、さて茶を進めしなり。)
 五十九回、「愛月児(芸妓ごとき女)道《いわ》く、慌《せ》いて怎的《なに》かせん、往後《さき》の日子《ひかず》は多きこと樹の葉児《は》のごとし、今日初めて(226)会い、人生《ひとふなれ》にて面熟《かおみし》らず、再び来たってわれ?《なんじ》のために品《ふ》くを等《ま》て、と。説き畢《おわ》れば、西門慶、他《かれ》と交懽せんと欲す。愛月児|道《いわ》く、?《なんじ》、酒を吃せざるか、と。西門慶|道《いわ》く、われは吃せず、?《とも》に睡らん、と。愛月児、すなわち?環《めしつかい》を叫《よ》んで酒卓を一辺《かたすみ》に抬過《かたづけ》させ、西門慶のために靴を脱がしむ。他《かれ》はすなわち後辺《おく》へ往き、衣を更《か》え牝を澡《あら》いに去れり。西門慶は靴を脱ぐ時、また?頭《めしつかい》に一塊の銀子を賞《こころづけ》とし、先に上床《とこにつ》いて睡れと打発《いでゆか》せ、香を※[火+主]《く》べて薫籠《こうろ》の内に放《い》る。良《やや》久しくして、婦人、房に進《い》りて、云々」。(これはまず更衣して牝を澡い、さて薫籠に香を※[火+主]《く》べてふすべしなり。)
 六十九回、(西門慶、大年増の後家貴婦林太太を調するところに)「西門慶は、左右に人なきを見て、漸々《しだい》に席を促《ちか》づけて坐り、言すこぶる邪《よこしま》に渉る。手を把《と》り腕を捏《にぎ》るの際、肩を挨《よ》せ膀《ひじ》を擦《つ》くるの間、初めの時に細やかに粉《しろ》き項《うなじ》を?《いだ》けば、婦人はすなわち笑いて言《ものい》わず。次いで後に款《ねんごろ》に朱唇を啓《ひら》く。西門慶はすなわち舌をその口に吐《い》れ、鳴※[口+匝]《うちなら》して声《おと》あり、笑語密切なり。婦人、ここにおいてみずから房《へや》の門《と》を掩《し》め、衣を解き佩《かざり》を鬆《はず》し、錦の帳《とばり》を微《かす》かに開き、綉《ぬいとり》の衾を軽く展《の》ぶ。鴛《おしどり》の枕は床に横たえられ、鳳《おおとり》の香は被《ふとん》を薫《くす》ぶ。玉体に相挨《あいよ》り、酥胸を抱?《かきいだ》き、云々」。(かかる不意の場にも、牝を薫《くん》する間がなきも、ふとんを薫するを忘れざりしなり。)
 さて本邦にも、八文字屋などにも、遊君の伽羅臭き大腿《ふともも》などいう語あり。交会繁き婬女などは不断陰がぬれおり、帯下《こしけ》など絶えず。したがって伽羅にて薫べ乾かすことが衛生上はなはだ宜しきことでありしと存じ候。ちょうど食事すむごとに歯《は》を刷くと一般、一件の前には必ず香をもって薫ぶるを行儀としたることに候。それと同時に色念を増進、挑発するの功ありしことは言うを俟たず。
 小畔・中川二氏の「朝鮮粘菌目録」(図説入り)は、小畔氏より平沼君と貴方へ一本ずつ差し上ぐるよう頼み置きしが、もはや小畔氏より着き候や。着かずば御一報下されたく、中川氏より直送しもらうべく候。小生は菌に前人の解説に誤過あるを見出だし、いろいろと培養して訂正致しおり、なかなか多忙に候。
 今夜はこれだけと致し候。いずれ平沼氏へ詳報申すべきか。
(227) 毛利は連戦連勝中のところ、十日ばかり前に町長の改選あり、毛利が町長になられては県庁は面目丸潰れとなるゆえ、それぞれ手を入れ、毛利をして戦わしめおりたる町会議員の多くが(町会一決の上、毛利に町費節減を行なわしめながら)、あんまり手ひどく県庁に勝つは気の毒というような、入りもせぬ謙退辞譲(町のために増税を招致する)をなし、その派が勝となり、毛利は面白からず、辞職して一昨日神戸へ去り候。しかるに今朝の『大毎』紙を見るに、黒田大蔵次官拘引の件より内閣も怪しくなれる由。今の内閣がかわらば、県知事は電信一つでどこかへ飛ぶか、非職になるは知れたことなり。毛利が今二、三日当地にふみ止まらざりしをはなはだ遺憾と致し候。今の知事はまた県庁(冗費六百名あり。それらのために和歌山市の財産家が何に使うとも知れぬ金を出すに及ばずとて故《ことさ》らに滞納し、昨年の税未済の分十六万五百円ありとか)を移すため、和歌山城をつぶす由。毛利、小生を大将にし和歌山へ打ち入らんと企てしが、小生は何はとまれ図譜を出だし、また来たるべきリスター『図譜』の第四板は日本に冠をとるべき決心で図譜を第一に、その他のことは第二と決心して、誘引に応ぜざりし。毛利はたぶん神戸へゆくと称し、和歌山城滅却抗議に上りしことと察しおり候。要するに、非常時非常時と唱うるもののまだまだ太平にて、真の非常時が来たらすば人間はしゃーんとせざることと存じ候。     早々敬具
  妻は全快、毎日立ち働きおり候。何様妻の長病のためいろいろと滞積せる件多く、小生はすこぶる多事、その多事中にこの状を認め差し上げ候。
 
     81
 
 昭和九年八月十四日午後十一時
   上松蓊様
                      南方熊楠再拝
 
(228) 拝啓。小生は今年中に粘菌の発表出板、また菌類の幾分の発表および欧州表にて大ダムビングを挙行する決心にて、六月以降万事を謝絶し日夜その方にかかりおり、毎日毎夜同じようなことのみ致しおり、家の外のこと一向知らず、今夜もはなはだ多事ながらちょっと暇に乗じてこの状差し上げ候。
 八月二日出御状は四日朝九時二十分着、書留小包は六日朝十時に拝受。十日の夕六時二十五分に書留小包にて新製の酒盗、これは毎年小生の子分よりもらい食す特製品に付き差し出しおき候。
 今度御送来の粘菌集は年来の内のもっとも貧弱なるものたり。これは今年気候不良にして、主としてこれに由ることと存じ候。しかし委細に鏡検せば、まず五品くらいの奇品はあることと察しおり候。近日大王経由、また立体を検する双眼顕微鏡を買い入るるはず、その上にて詳細図入りで報申し上ぐべく候。只今まで寸暇に乗じちょっと検査したるところ Physarum brunneum Massee らしき物あり、肉眼ではなにか Trichia 属のもののごとく見ゆる。あるいは新種の Physarum かも知れず。もし P. brunneum ならば日本にて貴下の創見にて、はなはだ稀品なり。次に Diderma floriforme Pers.に相違なきが色が全く従前のものと異なる、顕著なる新変種あり。尋常は下図のごとき諸部の色なるに、今回の責集品(上図)は裂片の内面純白にして、基部黒く茎また黒く円柱体は帯オリヴ、淡黄色、先はうぐいす色の淡きものなり。(229) Diderma floriforme Persoon var Pica Uematsu として次回に進献すべし。胞糸、糸状体等にも異状あるかも知れず。しかるときは新種として D. Pica Uematsu と致すべく候。Pica《ピカ》は鵲《かささぎ》にて、黒と白と相|錯《まじ》りてこの鳥特異の観をなす。このこと支那でも欧州でも名高し。また御存知の家持の歌「かささぎの渡せる橋におく霜の白きを見れば(黒き)夜ぞ更けにける」、これも里白を対照せる意と小生は存じ候。これらを参照して、一つ古義《クラツシカル》精通のところを見せるため右の学名をつけおき候。普通ならば picaenum とか picacenum とか形容詞にすべきところなれども、実にうまく名付けたると示すために、Pica 名詞を用いおき候。Pica なる名詞は女性(ラテン語)、Diderma は無性(ギリシア語)、しかし名詞を用いることゆえ、女性のまま名詞を用い候。故に普通の学名とちがい、属名(無性)と種名(女性)が異なりおるなり。
 下女眠たくてならぬらしきゆえ、大忙ぎで右だけ認め局へ出しに往かせ候。
 当方金銭花はつぼみを持ちおり、田辺駅となりの園芸師にまかしめたるは、インドに在来の通り五尺までのび、一昨日美花を開き候由申し来たり候。平沼氏方のは如何にや。
 また、前日貴方よりアラセイトウとして戴きたる種子より生じたものは、花はなるほどアラセイトウの通りなれども、葉は画にかきたるからくさごとき、上図のごときものにて、花あるいは白く、あるいは紫色、図ほどの小さきものなり。小生いろいろ調査せしも名分からず。何というものか御問い合わせおき下されたく候。
 平沼君へも一書差し上ぐべきなれども、目下四十種ほどずつ日々 output あり、内わずかに二種ほどずつ図記し得るという大多忙にて、今夜も三日前に持ち来たれるものをこれより図記するに、もはや八分通り腐れおる。まことに大多忙なり。いずれそのうち少しく静謐の上、書状差し上ぐべく候。                早々敬具
 
(230)     82
 
 昭和九年九月二十五日朝九時半
   上松蓊様
                      南方熊楠再拝
 
 拝復。二十日午後二時半出御状本日午前八時三十五分|難有《ありがた》く拝受。八月十七日に貴状一通拝受、また同二十日に同十七日出御状一通拝受、また九月二日出御状は三日朝九時十分拝受。いずれも御受書差し上ぐべきのところ、拙妻六月ごろよりいよいよ全快、起ち居さっぱり自在になり、畑仕事など致しおるようになり候と引き替えに、小生両脚ますます悪く相成り候。よって取って置きの喩伽の秘法を修めにかかり、それがため書状を差し控えてさし上げず。初めのほどは両脚きわめて悪くなりしも顧慮するところなく専心修法、終《つい》に九月に入る少し前より病気の方が退却、今月二十日に期満ちて修法をやめ候。
 この間、九月六日、例の大王、五日夜半の汽船にて来たり、小生進講の際のままの写真を警視庁の福谷とかいう油画師が写せし肖像、額面一枚等種々持ち来たりくれ候。鏡検には小生従来一眼のみ用い来たりしが、いよいよ新種希品の発表となると、茎とか胞嚢とかの厚さ長さを精密にミクロンで勘定するを要し、四捨五入の眼《まなこ》勘定では通ぜず。よって渡辺篤氏に頼み、双眼顕微鏡を買い貰わんとその旨を小畔氏に通ぜしに、同氏いろいろと聞き合わせくれたるに、氏が常に用いる、前年二百五十円ばかりで求めたる品が只今六百五十円とかする由、到底小生の力には及ばず。しかるに当日小畔氏、自分用のものを持ち来たりくれ候て大いに都合宜しきを得候。氏は別に一層精密な物を買いしに千円に余り、光線の設備等に多くの費用を要する由。右の双眼顕微鏡手に入りし上は、粘菌の発表ははなはだ手数少なく相成り候。
(231) 秘法の霊験灼然と自得しおるうち、二十日より雨期にて、その朝八時半初めて久し振りに外出、毛利氏を訪い昼食せずに午後三時前まで話し、それより多屋氏なる人を訪い夕の六時前まで話してのち帰宅、あまり疲れたるゆえ、一睡して夜中に眼がさめると大風雨なり。いわば長々の病み上がりのことゆえ、自分は静かに臥しおり、妻と娘と下女と三人にて飛ばんとする雨戸をおさえなどするうち小生は眠ってしまう。朝の四時より六時までの間がもっとも劇しかりし由。さて二十一日の朝十一時二十五分、小生|寤《さ》め起きれば曇天ながら風雨は止みあり。拙宅本宅の屋根百余枚飛び、瓦を綴じありしセメントの稜片、これがもっともあぶなし。颱風中外出せばむろん大負傷を免れじと存じ候。
 さて安藤みかんは九分通り落ちあり、しかし他の柑類と異《かわ》り、もはや汁を搾りて飲み得るゆえ不用にならず。一番こまりしは中山(秋津川へ案内せし若者、今は丸通《まるつう》運輸店の支配人)小生方の長屋にすむ。その庭の大なるマサキが根こそぎ抜け倒れしなり。このマサキ年々成長はなはだしく、枝が厠の屋根を摺り損ずることおびただしきゆえ、掘り去らんと企てしが、根深くば厠の壺を破り大騒ぎとなるをおそれ遠慮しおりたるに、今度倒れて見れば根は至って浅き木にて厠に何の影響なかりし。しかして実は根浅きに枝葉大いに張りあるゆえ、風に抜かれしと判る。この木倒れしとき、中山は不在、老母そのもの音に大いに驚き、拙方までも聞こえしに、中山の若妻二十六、七のもの一向知らず熟眠しおりし由。それよりもまだ豪傑は、海浜の御承知の五明楼の奥座敷、すぐ海に面せる座敷に臥しおりし客人、何となく寒さを覚え眼をさませしに、なにか背と寝衣の間を急行する様子。よって暗中に模索せしに、大波座敷に打ち入りふとんの間に入りて自分の体膚と寝衣の間を急流するところと知り、それより大いにあわてて逃げ去りし由。
 小生方のもっとも面倒なる損害は、拙宅地と長屋二軒との間の板塀にて、ちょっと三、四十円はかかる工事なり。小生と同町内のみにて、飛び落ちたる破れ瓦を拾い大八車にのせ郊外へ棄てにゆく、その大八車がすべて五輌を要せしという。中には十五間二十間の長き塀がまるで僵《たお》れしも多く、例の工人が手を抜きし新しき建物はおおむね僵れ、はなはだしきはさざいの殻のように歪み曲りおる由。画手川島氏一昨日来たりての話に、磯間浦という絶景の海浜に(232)構えたる画室の二階がトタン張りなりしゆえ、大濤打ちかかるとひとたまりもなく破れて飛び去り、室内に積みたる多くの粉本や半成の画幅はことごとく泥だらけとなり、惜しい物だが買い直し画き直す方が手速いから、一切海へ棄てたるとのこと、室内にはイトヨリなどの魚の尸が多く抛げ込まれありしとのこと。例の県知事が大いに力瘤を入れおる瀬戸の京大の臨海研究所は車道全滅、あまり木を伐りし罰に岩山が海へ崩れ込み、当分誰も行く方便なし。また諸生物の珍種を滅却せし報いにて、諸埋立地の破壊おびただしく、有名なる七湯の中三、四湯は全滅、旅舎など建築中の物ことごとく壊了、ちょっと復旧とか再興とかいう見込み立たぬ由。和歌山より田辺へもはや汽車開通など新聞に見ゆれど大法螺にて、大阪より和歌山に至るにすら命がけにて、争うて汽車の端にぶらんこ〔四字傍点〕など致し、?み合いはね落とし蹴り落とされなどして、九死に一生の意気込みで当地へ下りし者一人昨日ありし由。新聞に詳報の出る所は比較的に災害少なかりしゆえ詳報を集成する遑《いとま》もあるなり。
 阿波は颱風がその真中を一貫して通りし所だけに今に大混雑とみえ、この田辺と海一つ隔てた隣境ながら何一つ聞こえず。また京都市はずいぶん荒れしと聞くも大阪ほどの報知は少しも入らず。拙児のおる岩倉などはちょうど颱風が北陸越前の方へ進む要路に当たりしよう、その図で昨日見及びたり。今に何一つ報知なきは実は全滅にあらずやと思うも、人々の噪ぎ立つを慮り、何もいわずに小生はおる。
 さて、和歌山にある再従弟より一昨日申し越せしは、親縁の輩みな無事なりしも、舎弟常楠方の倉庫、北の方市駅に面せる分は全部壊了、ただし死傷はなかりしとのこと。まだしも失火なかりしが幸いにて、小生の蔵品はたぶんみな安全に残りしと察し候。
 鉛山の御存知の崎の湯の前の海へ、今度またまた埋立を願い出でしものあり。これを実行さるると、湯崎(すなわち鉛山本部)の死活に関する大問題ゆえ、颱風の前日村会を開き大議論、子分雑賀貞次郎の作文で県知事へ上申し、これ控沮止《そし》せんとする刹那、右の大風にて大騒ぎとなり、埋立を主唱せし者の別荘全く波に掃蕩し去られしは実に天(233)罰ならずや。県知事もどうせ寿命は長からず、この上かれこれ言ったところが、この復旧工事、再興事業の成り上がるまでこの県におらるる身でもなし。故千田貞暁氏が自分借財して宇品の築港を完成したような熱心あらば格別、ロハで飲食し女をただやりにしたいほどの望みで世話するような微弱な根性では、この上何とも奮発する気になり得ぬべしと存じ候。右様に瑜伽密法の霊現大灼然たりしには小生もちと気味悪く感ずるほどにて、一層戒厳謹慎するの外|無之《これなく》候。
 二十九日に、本県の中等学校や小学校の教員や校長より成る博物学会員なる輩、神島へ押しかけ来たる様子。当日またはその前日、小生、毛利以下|魑魅罔両《ちみもうりよう》輩を引きつれ、みずから出向かい叱り却《しりぞ》け、さて、かの先年貴下御来臨の節、当地営林署長たりし岡野氏、永年勤務の上、今度土佐より職をやめて帰り、当地に永住のはず、子女はみな片付き、妻君とただ二人、当地と文里湾の中途みこの浜という処にすみおる。この人を頼みゆきもらい、神島の樹木を算え録しもらい、神島を内務指定にしてもらうつもりに御座候。
 まずは右、夜来眠らず右浮かみ出ずることどもあらまし書き記し御覧に供え候。
 眠たくなり候て、紙面に  ――この通りに筆を落とし紙をよごし候。この上むりに書き続くるとよめなくなるから、これだけでこの状は罷めと致し候。      敬具
 
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 昭和九年十一月五日早朝一時
   上松蓊様
                      南方熊楠再拝
 
 拝啓。粘菌四品入り小包一は十一月二日朝九時十五分拝受、二十九日午後五時出御ハガキは同日午後三時五十五分(234)拝受。さっそく検せしに別紙の通りに候。いずれも多少 type とちがう点あり、後に子細に点検して申し上ぐべく候。
 この内 40-4 は、従前見しことなき美事な品にて、もし子細に鏡検の上、多少とも type とちがう点あり候わば、Arcyria nutans Grev. var.gigantea Uematsu として可なりと存じ候。茎は従前見しことなきほど長く、盃 cup は常品の二倍、すなわち 1mmの径あるもの多し。しかして従来見ざる hypothallus の発生甚だ盛んに 6-7cm に及ぶ。(貴状によれば 8mm に及ぶ。)
 貴方に貴状に見えたごとく この形のものあらばこのごとく類別してそれぞれの長さを記し、また胞嚢および盃の径をも尺《さ》し記して御一報下されたく、成ろうことならその内なるべくもっとも長きものともっとも短きものを軽く日本紙につつみ(紙の中でなるべく動かぬように、ちょっとアラビアゴムにてはりつけて)三、四個御送来下されたく候。
 昭和三年九月十六日、瀬戸の御船山にて小畔氏採りし一群は 2.5×5.5cm の径あり。ずいぶん大なるものなりしも、この貴集品ははるかにそれよりも大に候。
 本月一日、当地国粋会支部結党式に、副会長海軍中将(もと春日艦長)森山慶三郎、陸軍中将古谷清二氏来たり、古谷氏、会長荒木大将の祝詞を読み、千人ばかり集まり、和歌山その他御坊、湯浅、新宮等より、親分連子分をつれ来会、祝宴半ばにして二将軍毛利をつれ拙宅へ来たられ、五十分ばかり小生の談をきかれ候。大雷雨中はなはだ不便なりしが、それより直ちに和歌山等へ還る親分連と共に西上、翌日東京へ帰られたはずに候。車中にて森山中将談として新紙に載りしは、
  南方氏は容姿といい態度といい実に西郷南洲によく似られておる。私はこれまで広く世界各国を廻って、あらゆる大学者にも出逢うたが、南方氏ごとき見識と学識を兼備した学者には、かつてお目にかかったことがない。実に古今東西を通じて稀に見る大学者である。
(235) これは定めて例の策士毛利の法螺に出でし記事ならんが、これが大きに諸処に吹聴され、二、三日内に満州へ知事は転任する、然る上は県庁は大ぐらつき、まずは勝利となることと存じおり候。今三、四時間して小生は同勢十一人ばかりで文里にゆき、そこでまた四、五人加わり、いよいよ神島調査と測量にかかり申すべく(あるいは四、五日かかる)、それまで一眠したきゆえ、これだけ申し上げおく。                       以上
 
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 昭和十年二月十八日午後九時
   上松蓊君
                      南方熊楠再拝
 
 拝啓。昨年十一月十四日午後六時出御状は十一月十六日午後三時五十五分拝受、十二月二十八日午後三時出御状は同三十日午前八時五十分拝受、次に一月三日朝九時十分貴状一本拝受。本月十五日午後四時五分に十四日出御ハガキ一拝受、忝なく御厚礼申し上げ候。当方よりは十一月十六日後、およそ九十日の長御無沙汰に打ち過ぎ申し候訳は、かねてちょっと申し上げしと覚え候が、前任本県知事が、地方官身分保障令を楯にとり、およそ三年余の間県政大やりちらし、もっぱら世界的公園を本県に建立するという口前にて、四万円とか出して自働車を県庁へ買い入れ、周の穆王のごとく、それに乗って所々の山沢に遊び、わけもなく村民や地方の山師をそそのかし、ここも公園にしてやるそこも公園にしてやると遊びちらし、和歌山目ぬきの県有地を安売りし、また時節がら不似合の百五、六十万円の県庁の立て直しをやり、また陸軍省との約束に背き旧城内に市庁舎を建つることとなし(しきりに起こる和歌山市の地震が大いに発する日には市民の避難地なし)、例の鉛山の千丈敷を京大へ寄付せしめんと強説し、また癩病地として有名なる地に行幸記念博物館を立てんと勉むるなど、不埒千万なこと多く、これに倣い学務課長たりし高橋という男(236)も、またなにか土木請負師と結托でもせしにや、由緒古き当地の高等女学校をこの町の郊外の大水ごとに人足総出で警戒する危険な低地へ移し、町より寄付して成りし今の高女地処を売り飛ばさんとするなど、人民の負担を問わずひたすら自分の高名にはやる。しかるに昨年九月二十二日朝の大暴風の節、小生行き見るに、危険極まるほど朽腐せりと称せられたる高女の建築は強固なもので、小生方の風害よりはるかに損害少なく、一木一材すら朽腐せるを見ず。しかるに学務部長よりは、校長より書き上げたる損害高の倍数の修繕料を送り来たれり。これは大阪市外に当時例多かりしごとく、損害の書き上げを多くしてなにかちょろまかすためなり。
 このことを小生連日新聞紙で暴露し、県下右傾の輩デモを行ない、また十二月県会にて議員より大攻撃を加え、第一、右の高女には朝香宮殿下の御記念手栽樹あるに、学務課長も校長も一向気づかず、すでに御記念手植の木ある上は、むやみに学校を移転すべきにあらずとの議論に賛成するもの多く、一議員より一体県庁には県下にあるだけの皇族方の御手栽樹の控え目録ありやと問い出だせしに、答うこと能わず。いろいろ地方へ電話で問い合わせ大忙ぎで作成せしも、不都合なるかな、往年摂政宮様(今上天皇)が旧城内へ御手植えされし木の在所存否も分かりおらず、いわゆる行衛不明なり。しかしてこのこと論湧出の直前に、前の知事も学務課長も他へ転任して飛び去りたり。次に藤岡氏当県知事になって来任。しかるに地方官などはよい加減なもので、この輩の組合にはまたそれぞれの義理堅い申し合わせもあるにや、藤岡氏いうには、このことは宮内省へ伺いを出せしに御手植樹なりとも都合により移転して可なりとの返事が宮内省より達しありとのこと。都合とは官吏輩の都合にて、すなわち学校が朽腐もせざるものを危険極まるほど朽腐せりなど校長をして上申せしめたる行きがかりより、宮内省へも学校朽腐して危険極まるゆえ余儀なく移転せしめたしと宮内省を欺きての伺い書を差し出せしに相違なければ、止むを得ずんは移転せよと答がくるは知れたことなり。すでに九月の大風にすら倒れずに立ちおるほどならば少しも危険のことはなければ、移転の要なきにあらずや。このことを言い出して予に暴露された高橋という学務課長は、他県へ移転して迹をも顧みぬほどなれば、後任(237)の官吏がそんなものの尻を拭うてやらねばならぬはずなく、他人の過失は過失として、過失を再びせざるが適宜ならずやと言い張りしに、すでに県会で可決せしものを消滅せしむること能わずという。県会で可決せしは、まさか学務課長や校長がそんな詐謀をなすと思わず、その言を信じて可決せしまでなり。今その言の全く詐謀と知れたるは幸いなれば、人民の負担を減ずべきために、学校を今のままにすえおき、今年末の県会に県庁より正誤を持ち出し、可決せしものを引き込めしめて可なり、と小生主張し、今にそのままになりおり候。
 ところへまた、京大の例の臨海実研所は、瀬戸村の地面を寄付さして成立せしものなるに、村民の出漁に必要なる瀕海の浜地を、白分の領地なれば漁民等船をつなぐべからずなど言い出し、村民と地所争いを仕出だす。この漁民の組合長は、東京の文展か何かの審査員の美術家山下某の弟にて、法学士なり(東大の)。肺病か何かで養生に来たり、瀬戸の女を妻とし瀬戸に住み込み漁民の首領たり。この者なかなか京大くらいに閉口せず、只今大戦争中なり。和歌山は陸軍省より徳川家へ、徳川家より市民へ旧城を、公園外のことに一切用いざる約束で交付したるときの市会議長にて、親しくそのことに与《あずか》りたる岩谷白嶺という七十四、五歳の老人(毛利と等しく坊主落ち)大将となり、六百余人の連署にて市庁を相手どり、旧城内に一時借地して立っておる市庁を立ち退かしめんと大紛争中なり。これらのことには、軍師智多星呉用の格で例の毛利がかかりおり、落ちつくところは山東及時雨宋公明とあって、小生のところへみなみなかかり来たる。これがため小生、十二月二十四日に、始めて(東京より帰りしとき以来)汽車にのり、夜の八時に出立、新庄村役場にて謄写せしめたる小生の神島の内務指定申請書、松田文相宛に六通を提《たずさ》え、田辺をすぐ通り、当夜十一時半和歌山着、ふとん乏しき毛利妾宅に一泊、風を引き、翌二十五日知事官舎へ趣き渡し、知事藤岡氏夫妻より馳走あり、その夜直ちに引き還せしに、悪性の感冒と見え今にしっかり致さず。かてて加えて?疽《ひようそ》というものにや、指の骨がはなはだしく痛み、ややもすれば字を書くにささわる。それがため一日一日と今日まで延引御無沙汰致し候。
(238) 右以外は平沼氏まで申し上ぐべき間、同君よ。御聴き合わせ下されたく候。小生は去年と一昨年は全く妻の長病と千畳敷地所一件で何の収入もなく、今年は百三十五円の食らい込みなり。尋常のことではならぬから、第二に喫煙を全廃し、岡書院へ渡しある多大の旧稿を浄書再校して出板をいそぎ、娘のよめ入り料などこしらえ、また、急ぎ日本現在粘菌の diagnoses 識別記要を作り、リスターへ廻し、同時に新種の発表を東京で冬月出さんと存じ候。故に最近御採集の物四、五点でも宜しく、さっそく御送来下されたく、識別記要だけでも作成御送り申し上ぐべく候。
 リスターなどの譜を読んで何の益にもならぬこと多きは、Lime-Knots(石灰結)の大きさの測定がなきゆえと気付き、潜心その測定にかかりおり候。小畔氏にも頼み上げたるも、氏は近来大多忙の様子ゆえ、小生と娘がもっぱら当たりおり候。
 いろいろ申し上ぐべきこと多きも、平沼氏へも長々御無沙汰ゆえ、今夜この状につづき一書差し上げたく、この状に泄れたるところは同君より御聞き及び下されたく願い上げ奉り候。
 谷崎潤一郎の『文章読本』第五十版(昨年十二月十日出)一七三−四頁、小生の作文の評がことのほか宜しかりしゆえ、旧臘和歌山へ上りしとき、同地の小生に対する人気もすこぶる上々なりし。
 これもフロイド流に精神解剖をすれば、由来のあることにて、谷崎の高弟に佐藤春夫というものあり、一昨年ごろ師の妻をぬすみ取りしものなり。この佐藤の母の兄、竹田槌五郎という人は、二十余年前中風で死亡。この人小学教師たりしとき、当時七、八歳なりし小生をことのほか愛し、平民の悴ながら後来必ず天下に名を抗《あ》ぐるものと毎々いわれ候。小生は明治八年以後かつて逢いしことなし。三十三年に帰朝して舎弟方におりしも、舎弟夫婦よりの扱い面白からず、三十五年十二月に熊野勝浦港へ落ち行きし宿に、この人その前々日まで小学校長として毎夜浴湯に来たり、店員に新聞紙を読んで聞かせおりたるが、病気にて前々日和歌山へ去れりと承りし。この竹田より佐藤が毎度小生のことを聞き及びおり、それを谷崎に話せしことと存じ候。
(239) 藤岡知事の宅で夫婦が饗応されし、その席の壁に藤原行成卿そのままの見事なる家集の写しようのものを金梨地飾りでかけありし。あれは行成卿の巻物かと聞くと、細君が冗談言っちゃならぬというから、いよいよ分からず。よく聞くと小生の筆書状なりし。自分の年老いぼれたることをみずからさとり候。
 その前日、和歌山連隊の司令官を始め、県議のしゃべる奴、学者と認められたものなど、十二、三人この堂に集まり、談話会を催せしとき、小生の代りにこの手跡を壁へ掲げたる由。薄あばたで呆れるような女で、後ろ姿が上村吉弥が模しても及ばぬ姿のおしゅんといわるる女が京都にあったという。そのごとく、小生ごとき悪筆でも遠眼に見て姿ばかりよきものもあることかと存じ候。故に形体と別にまた姿風というものもあることと存じ候。
 
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 昭和十年四月二十一日早朝四時
   上松蓊様
                      南方熊楠再拝
 
 拝啓。その後しばらく御無音に打ち過ぎ申し候。前年戴き候雲母は今に菌類胞子を採収して、またカビ類を封粧するに用いおり、小生はことのほかこれを薄く剥ぐゆえ、なかなかここ三年や五年で尽くることに無之候。しかるに拙女こともはや二十五歳に相成り、小生よりはずっとせい高く、例の杉山菊以上に腰より膝に至る間が長きゆえ、うち掛け姿が立派、三絃は毎度高座でやらかし、普通の絃妓などの及ぶところにあらず、生花、香、茶の湯は最高点で免状をとりあり、学問の方は母が一向昔人ゆえ、あんまりの方なるも、今もいろいろと自修させおるが、何とぞ小生の娘だけに一つの学歴を拵えおかせたく、いよいよ今春より淡水藻の品彙を二《ふた》通り作らせ、一つは自分持ちおらせ、一つはその筋へ献納させんと存じ候。ついては準備万端ととのえあるが、鼓藻を始め種々の微細なる藻を装置すべき雲(240)母が良品でないと、その筋へ献納などに向かず、はなはだ見劣りせらるるはずなり。そもそも雲母は、小生今より四十五、六年前米国にありし日買い入れたるものを、明治四十年ごろまで用いつづけ候。それはそのころは米国到る所の Iron-mongery 店にあり、主として暖炉に張りしものなるが、今となって見れば実に透明無垢にして弾力性強き最良品なり。もっとも帰国ののちさっそく後詰めを用意することに気付き、帰朝の船へシンガポールより乗り込みたる山中鹿三という人、横浜の電気所に任命せしを頼み、多少送りもらいしが、それもはなはだ良品なりし。次に貴下より送り下されしものも相応の良品なりしが、これらは大抵もはや用い了り、只今は最後に貴下より送られしものを用いおるが、これはその質あまり宜しからず、ややもすれば折れ易く、したがって高度の顕微鏡下に鏡検はむつかしく、また何故か全体に通れる傷多く、それより洩れ込むにや、バクテリアの胞子等多くつきあり。故に微細な藻などを載するときは久しいうちにはバクテリアに犯され了る。また傷多きゆえ、貴人に献上などには不向き勿論なり。(ただし小生が自分の研究に菌の胞子を収むるなどには少しもさし障りなし。)
 右の次第に付き、淡水藻を装置のため、価の高き処はかまわず、御地または横浜で手に入るべき最良の雲母の価格御聞き合わせ、また成ろうことなら見本を御送り下さらずや。もし小生の眼玉の飛び出るような高価だったら平沼君に買うてもらうから、価はいくらでも宜しく、新種の藻などは菌の胞子とちがい、一度装置する上は固く粘着して移すことのならぬ物ゆえ、なるべく最良のものを用いたきなり。このことは他に頼むべき方なきゆえ、特に御願い申し上げ置き候。
 小生は菌と粘菌に忙殺され、藻は娘に鏡検せしむるの外なし。日光所集の藻など今に体を崩さずあり。これを宝の持腐りにしてしまうも惜しきゆえ、何とぞ娘に写生測度させたきなり。(命名は小生みずからする。)
 毛利氏は眼病にて東京へ治療に上りあり。書信を書くことを禁ぜられたるにや、一向書信なし。貴家の近所の何と(241)かいう処に、もと小生と神社合祀反対せし野長瀬という人(米国ウタ州にありし人)の妻が岸敬次郎氏(この人も三、四年前死亡)の従妹とかにて、なかなかの別嬪なり。ただし只今六十一、二ならん。岸氏の世話で綾瀬辺に鉄工所を持ちおり、大井辺のはその別荘なり。その別荘に毛利がおる由なり。書信なきゆえ何のことか分からず、神島の一件、毛利が東上中政府へ催促すべきなれども、眼病重きゆえ外出さいさい出来ぬことかと存じおり候。
 右当用のみ申し上げ候。
 Ecclia と申す粘菌の一属は、胞子が紅色ときまったものなり。しかるに今日鏡検して、小生二十五年前、当町にてみずから獲たるこの属の一重の胞子が鉄のごとく黒きを見定め候。したがって菌の胞子の色に拠って属を立つることは不成立となり候。こんな発見毎度ありて、これを一々論じ立つるに時間なく、こまりおり候。娘をリスター女史ごとき old miss にせんにも妻が不承知にて毎度困りおる。            早々敬具
 
 前日御下問の沈香(伽羅)のこと、どうも只今この沈香が一向用いられざるにや、まとまった文献はなきように候。沈香に限らず、鮓荅などずいぶん旧幕時代に高価なりしものが、今日一向廃物となれるが多く、五、六年前、ロンドンの『ノーツ・エンド・キーリス』に、鮓荅とはどんなものか、どこで手に入れ得べきやと行々《ぎようぎよう》しく問いを出せし人ありし。只今拙宅におる下女は、庄川《しやがわ》と申す当地より三里ばかりの地のものなるが、行燈を見しことなく、また草鞋《わらじ》を知らず(年ははや二十歳)。こんな例多ければ、本家本元の英国で鮓荅や沈香を知らぬももっともなことと存じ候。
 大笑いなことは、去年か一昨年か、皇太后より癩病院へ楓《ふう》の実を下賜されたる由にて、小生は鼻であしらいおりしに、その写真図を『大毎』紙で見及び、そんなこともあったかと信じ候。癩病に大風子《だいふうし》が唯一の薬たるは御承知のこと、この大風子を楓の実と心得違い、朝鮮より楓の実を輸入して売りしに対し、吉宗将軍などはしばしば誤解なきよう薬師《くすし》へ訓示せり。しかるに宮内医官中に半可通ありて、大風子を楓の実と心得違い、あんなことをしたものと存じ候。(242)大風子は仏領カンボジア辺の大木の実で、  つばきの実に似たり。椅《いいぎり》科のものたり。楓は楓科のもので全く別物なり。楓の実には刺あり。拙妻の妹聟の生家(当町闘鶏社の向いにあり)に韓産を伝えたる大木一本あり。
 
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 昭和十年七月四日早朝
   上松蓊様
                     南方熊楠再拝
 
 拝啓。五月三十一日に一書差し上げたるに対し、六月三日出貴状を六月五日午後拝受せしきり、大いに御無音に打ち過ぎ申し候。毛利氏は六月三日に上京、神島のことに付き氏自分の用事を打ちやりいろいろ奔走せしも、申請書が文部大臣はおろか当該局長にも読まれおらず、保存会委員たる三好博士等も一向読んでおらずという空漠極まる次第で、毛利も大いに面喰らい、唐沢警保局長を前後六回訪問、とうとう六月二十八日に内務省で面会、立談の末、当日唐沢氏みずから文部省へ談判にゆきくれ、八月中に三好博士実地視察に来らるることとなり、事ひとまず落着の由、唐沢氏よりその夜着電、翌日書信あり、大いに安心致し候。毛利氏の滞京は十日ばかりの予定のところ、二十六、七日も延引せしため、度支部《たくしぶ》たる小生の苦慮は一方ならず。しかし唐沢君の厚意にて毛利氏の上京もむだにならざりしは結構至極なり。この間定めて貴殿にも御面会申したることと祭するも、今に当地へ帰らざる毛利氏に逢うた上でなければ分からず。とにかくいろいろ御世話になりたることと存ずれば、只今御厚礼を申し述べ置き候。
 ちょうど毛利氏の滞京中、美術院とかの件で文相大弱り、なかなか面会などは望外にて困り入り候由毛利氏より申し越し候。さて文部の役人など申すはいずれを聞いても事務刀筆の吏にて、何が何やら理解なきには因り入り候由、まことに困ったものなり。
(243) 小生は三好博士来らるるをまち、その準備をなし置かざるべからず。神島特産として同博士の覧に供うべきものは十の九・九まで顕微鏡的の物なれば、近いうちに二、三人伴い渡島し材料を集め帰り、プレパラートを作り置くを要し、また一苦労に候。しかし同博士が来らるる上は指定になるは必定ゆえ、その事済みて後は一意粘菌の発表に掛かるべく候。
 これよりまたまた菌の記載にかかるゆえ、右だけを申し上げ置き候。雨しきりに降るゆえ、菌おびただしく生じ、二十年三十年前にただ一本しか手に入らず、図記不完全にして発表するも人が信ぜざる程度の菌が、昨今の雨にて手に入りしもの多く、それぞれ娘に写生させ自分補正を記載に施す。五十歳ごろまでは自分一人にて図も記載も致せし。今は娘が図を引き自分は記載のみする。しかるに一人で図も記もすましたるときよりも只今自分が記載のみをするに要する時間が長くかかる。まことに年はとるまじきものと長歎致し候。        早々敬具
 
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 昭和十年八月二十四日早朝三時
   上松蓊様
                     南方熊楠再拝
 
 拝啓。本月八日出御状十日午前十時拝見、その節小生ことのほか多忙、また肝臓の辺へんな感じを覚え今に全快せず、昼夜間断なく多忙のため御受書も差し出さず、大いに失敬致し候。本月五日三好学博士、胃腸病を推してバナナと特製パン携帯、汽車の寝台を買った上拙宅へ来られ、毛利等と神島に渡り写真をとり、午後二時五十五分田辺駅発汽車にて直ちに帰京の途に著かれ候。いろいろと県庁より繁瑣極まる交渉ありしも、毛利ほどよく応対、小生は病を推して三度まで渡島、写真その他申し分なく拵え上げ、明朝博士へ直送のはずにて、それが着した上、九月早々審議(244)会に上す由なり。たぶん官省指定となることと存じ候。
 しかして明後日朝十時までに神島へ来たるべし。同日は久邇宮多嘉王殿下、県知事を随え同島に御上陸、小生よりいろいろと話を聞き取りしたしとの思召しにて、昨二十三日夜九時前、新庄村長みずから来たり伝えられ候。多嘉王は若き御方にて御見学のため御立ち寄りとの御幸なれば、丹誠を抽んでなにか境と機に応じたる面白き話を御聴きに達し申すべしと存じおり候。こんな騒ぎでとうとう門下輩夏休み中に坂泰へ来ることは成らず、しかし来月中に神島のこと済み次第、一人を随え坂泰へ行きなにか一高名致して帰るべくと存じ候。近来身体強からず、如何と存じ候もこのまま空しく朽ちなんこと残念にて、右様決心仕り候。
この大きさのこの通りの古屋盆石手に入る。小さき橋の左右に渦まきおり、川下の渦より水が懸泉となりて落つるように見ゆ。(a)(b)(c)の三つのみ本当の石にて他はみなクツ(すなわち粘菌学でいわば Hypothallus 台石)なり。これを小木箱へ入れ、そのふた〔二字傍点〕に「下??《かひのつちばし》」と銘し、ふたの裏に碧梧桐の新風の詩というものをまねびて、
  六十九で
   夏の朝はやく
    起きて
     履を取る
          熊楠
   三好博士清鑒
と認め、神島にて食事の際、博士におくり候。
  小生今年六十九歳(慶応三年生れ)、夏の朝早く起きて履を取るは張良、夜半ならぬに下??橋にゆき黄石公より一巻を受けたる故事にて、教えを博士に乞うの意に候。
(245) まずは右申し上げ候。                 早々敬具
  杉山菊は赤羽根にすみ活字職をなし女子を生みある様子に候。長谷川時雨という女、小生の弟子になりたしと申し入れ来たる。これはどんな人に候や。昨今平沼母堂よりの来状によれば、大三郎氏病臥の由。いかなることにや。同氏は至って強健のよう存じ候に。
 
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 昭和十年十月一日午前五時半出〔葉書〕
 
 拝復。九月二十六日午後出御状二十七日午後三時四十分着、水彩具一箱は二十八日安着、これはなかなかの良品と見受け候。只今毛利氏選挙劇甚にて、同氏は主として演説言論を事とすれども、今日のいわゆる大衆はそんなことはきかず。よって小生万事を擲ち日々数百の手書を出だしおり候。それがため代価送金は数日おくるるも知れず(悴の病院への送金も同様)、このこと悪しからず願い上げ候。          早々敬具
 
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 昭和十年十月十一日早朝
   上松蓊様
                     南方熊楠再拝
 
 拝啓。九月二十九日に水彩具一箱書留小包にて到着。当時毛利氏選挙のことにてすこぶる多忙、かつ拙宅に、白浜辺より飛び来たりしか、イエダニと申す大害虫を生じ、一家はなはだ悩み昼夜不寝、下女と小生(ことに小生)は今に創疾|愈《い》えずきわめて困りおり候ため、代金御送り上ぐること延引、まことに相済まぬ次第に御座候。右代金は別に(246)御書き付けなく候が、C36.9.25 * N.11.00 とあり、これは十一円と心得て宜しく候や、念のためハガキにて御申し越しのほどさっそく願い上げ奉り候。かつ郵税の儀、娘が控え置くべきところを失念、これも共に御知らせ願い上げ奉り候。また遺憾なることは、この一箱十八種の彩料中に黄色など少しのちがいあるのみのもの四種まで編入しあるも、菌の画などに欠くべからざる褐色 brown のもの一品も見えず、まことに遺憾に付き、次回に文宝堂店辺へ御出向かいの節は、何とぞ一、二種同じ大きさの小皿に盛れる褐色 vandyke brown 一品でも宜しく、何とぞ後日の備えのため二小皿、御求め代金書き付けと共に御送来を願い上げ奉り候。
 毛利は実に無茶な男にて(只今六十二歳)わずかに二百円しかもたず、エチオピアの合戦にて所有の船株上がれりと唱え、締め切り間際に立候補を致し候も、事務長をつとむる者なく、止むを得ず小生は唇歯輔車の急あるをもって事務長になり候。初めは三、四日小生の名を出し、それより他の人に転換する約束なりし。さて手許薄資ゆえ一切の推薦状の印刷配布等を手控え、ただただいきなりばったりに推行《すいこう》すべしとのことなりしも、それではならぬと一味の輩二人小生と協議し、故原秀五郎氏の息すなわち当代秀次郎氏より五百円借り(右二人にて)、それにて推薦状を印刷、小生は別に手筆にてハガキ一千十八枚と少々の封状を配り候。
 さて約束の小生事務長解任の間際に至り、ぜひ小生に演説場へ出でくれとのこと、小生は堅く断わりしも、川島友吉(小生の菌の画手)来たり泣いて望むゆえうるさく、筒袖の浴衣兼ねまきのまま杖をつき、二人ばかりに扶けられ足を引きずりながら出場、川島謀計にて立て札三十枚ばかりに当夜(九月二十四日)七時半ごろより小生も演説する由書きて、町内諸処へ前日より立てたるにより、白浜、つばき等の温泉場また南部町などより汽車にて公会堂へつめかくる者多く、大正九年ごろ神社合祀反対以後、小生の名のみ聞きおりし者ども(主として漁夫)当日夕刻よりつめかけ、二千余名堂内に溢れ、外に立ちておるものも多く、小生出場せしときは衆人をおし分けてようやく入るを得しほどのことなり。小生はわずかに十五分ばかり壇に坐して、毛利の紹介演説をきき退場して帰る。それより幹事の一(247)人小生の演説を代読、それより毛利演説しても一同退かぬもの多く、二千余の聴衆至って静かに聴きとりおいおい退場致し候。
 候補者は議員定員四名のところへ六名ありしが、この毛利の演説が機先を刺して他の五人よりも先に開催せしゆえ、人気すこぶる宜しかりしと見え、五日に投票七日に開票の節、町内にて毛利に投票せしもの一千六百五名ありし。当日町内総票数三千七百二十六の四割六分強を毛利一人に集めるたるものにて、他五人は平均四百二十四票を得しこととなる。次に毛利が若かりし日住職たりし高山寺のある稲成村総投票数二百十七票の内、毛利は百四十二票、すなわち過半数を獲たるゆえ、他の五名の候補者は平均十五票ずつを得たることとなる。しかるに立候補の遅かりしと薄資にて遠方へ手が届かざりしために、四町三十五村の内おいおい遠方に進むに従い、一地に二票とか一票とか、また皆無の村も三つまであり、せっかく田辺町とその付近にて博せし票数はそれらの欠損のため消失しゆき、もはや四村のみ残りしというとき、不意に佐本という僻村より三十六票、大都《おおつ》河という閑地より十二票、三川というもっとも僻地より七票を得、これにてそれまで競争しありし田中英太郎という人より二十四票多くなり、定員四名の最末ながら当選し得候。
 他の三名は当選したれど、おのおの金力にて当選したるものゆえ、県会に出でて万事毛利の後塵を拝せざるべからず(いずれも?《おし》同然の議員)。毛利は費やすところ四百円ほど、事務長たる小生は十五円二十七銭(ハガキ代なり。千十八枚)にて事がすみ候は天佑とも申すべきか。さて和歌山辺にては、もはや毛利を県会議長とせんとの議盛んなりと新紙に見え候。これは毛利にしゃべらるると、第一に県庁、次に政友・民政の二党員がこまるからにて、小生は議長たることを申し止めおり候。
 田辺町には小生手筆のハガキと引き換えに毛利に投票せんと申し込み来たる者多かりし。しかるに新庄村(神島の在地)および岩田村(前年神社合祀をとどめやりし地)の、前者へは全村民四百六十九名、岩田村へも七、八十名へ、(248)小生手筆にてハガキを出だせしに、前者よりは六十五名(いずれも富者)、後者よりはわずかに二十四名しか毛利に投票せざりし。事後に気が付きしは、投票前に小生自筆にて毛利の推薦書を出すということを予告するか、または異様の彫印を捺すかして、手筆ということを知らせたらはなはだ有功なりしことと気付き候。それをなさざりしゆえ、彼等の多くは他人が小生の名を用いて代書せしものと心得、打ちやり了りしことに候。これらはよくよく向後の注意を要することと存じ候。まずは右当用のみ申し上げ候。     恐々
 拙宅前月大風雨にて屋根漏れ出し、それを修補するとて瓦をはずし土を多く入れしめ候。その瓦をはずし古き土を落とし候と同時に鼠の屍骸一つ落ちる。その日より家内に家ダニと申す微細のダニおびただしくわき出で、かまるるときは痒く、次に痛きことはなはだしく、微紬の物ゆえ補うるに苦しみ、ようやくフマキラとかいう香水ごときものを買い来たり、霧を吹くごとくふきかけて退治、ほとんど功を奏し候。しかるに不幸にしてその一疋が小生の尿道に侵入し、痒痛堪うべからず。よって下女をして件の薬を吹き掛けしめしに、男根が包皮炎を起こし、径一寸五分ほどに膨れまことに困り切り候。よって医師方にゆき尿道を洗いもらいて、二日ばかり何もせずに辛抱してようやく膨脹は静まりたるも、今にそのあと痒くこまりおり候。この家ダニは大阪、神戸などに諸処にある由にて、拙方にも、長屋にすむ中山、金崎という二家に今春現われたることあり。鼠の屍より生ずなど申すが、御地にも時にあることに候や、伺い上げ奉り候。
 
     90
 
 昭和十年十月二十二日午後三時前
   上松蓊様
                      南方熊楠再拝
 
(249) 拝啓。昨日朝十時五分水彩具三小皿、一包小包にて拝受、また午後三時五分に二十日御状拝受。よって只今十二円三十五銭小為替にてここに封入御送り申し上げ候間、御査収願い上げ奉り候。
 木曽源太郎氏のこと詳細御示し下され難有《ありがた》く御礼申し上げ候。徳富氏只今『大毎新聞』へ連載中の「近世日本国民史」に拠ると、沢宣嘉卿が生野地方に乗り込みながら南八郎等をすておき急ににげ去りしは、主としてこの人が勧めたようにて、はなはだ面白からぬやり方となりおり候が、如何の事実にや。元田永孚というははなはだ如何わしきことなることは、前年『国光』とかいう雑誌に、明治天皇が元田自身を正成に比したまえりとか、孔明に比したまえりとか、手前味噌極まることを記しありし。また三条公薨去の際、自分に何様国家の後事を卿に頼むといいしとかいうことも見及び候。
 また、日本で無比の誠忠者は菅公、正成、藤房、藤孝四公というようなこともかきありし。他の諸公は姑《あいばら》く措くことと致し、この熊本侯の祖、細川藤孝というは『太閤記』の末篇にも論ぜしごとく、古今奸詐極まる第一の人に有之。初め足利義昭を助けて四方に流寓せしはよけれど、それより信長に付きて足利氏を捨て(この人の兄三浦某と申せしは義昭のために信長と戦い討死せり)、信長死後また秀吉に阿付して幇間ごときものとなり、秀吉薨後また徳川に付き候。ことに詐謀をもって娘聟丹後の一色氏を殺し、また歌道を重んずるとて三成方のために田辺を開城せしなど、まことに面白からぬ人なり。それゆえか死極《しにぎわ》に痴呆性になり了りし由、『当代記』か何かに見えたりと覚え候。とにかくいわゆる世間游泳術に巧みなりし人と存じ候。決して忠義に鈍《もつぱ》らなりし人と申すべからず。いかに旧藩主を重んずればとて、そんな人を藤房、正成等に比するはけしからぬ口広き業と存ぜられ候。
 それより推して見ると、どうも人の家伝の名刀を盗むほどのことはやりかねぬ人にて、一方木曽氏などはいわゆる無口なるがために、かようの人にいろいろと掩蔽されて世に出でざりしことと察し候。井上頼寿氏が小生のことを伝聞云々は、この人とは時代が合わず、あるいは小源太氏より伝聞とありしか。その状を尋ね出だし取り調べ、また井(250)上氏は現に西京にあれば尋ね見るべく候。頼寿氏の祖父頼国氏は神宮に永く奉職されしことあれば、むろん源太郎氏とは知人なりしことと察し候。頼寿氏は昨年までは時々来信ありしが今年になりて久しく無沙汰に候。先年御話しありし、源太郎氏と婚約ありながら明治皇后に久しく奉仕のためそのまま打ち過ぎし生源寺命婦は、もはやこの世にあらぬ人に候や。小生渡米以前は、明治皇后に随って諸所に出られしこと毎度新聞にて承知致し候。この命婦も今まで在世ならば、八、九十歳ならんと存じ候。木曽の家は信玄と縁者なりしが、武田氏亡ぶる前に信長に内通し、秀吉の世か家康の時、上総か下総に移され、その妾が小姓と密通せしか何かでその小姓を馬裂きか牛裂きにしたことで封を褫《うば》われ、その子が大坂城に入って秀頼の馬術の師範となり、籠城して滅亡せしことと記臆致し候。その裔が旧家の末とあって熊本に客遇されおりしことと存じ候。(足利氏の枝系桃井家なども、秀頼のとき槇島《まきのしま》玄蕃正利とか申し、大坂に籠城せしが、後に熊本に客分たりし由。)
 大王は九州の南の方でおびただしく粘菌を獲帰り、続々珍品の出るは慶賀の至りなり。これに反し小生は毛利の選挙と家ダニのため、娘にせっかく写生せしめし菌品五、六十全く記載が手後れ、標本はかびだらけになり、空しくまた明年を俟って記載せざるべからず。世は思うままにならぬ物に候。              早々敬具
 
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 昭和十一年三月二十九日夜九時
   上松蓊様
                      南方熊楠再拝
 
 拝啓。前日(本月六日午後一時六分)繩巻鮨一つさし上げおき候。御受領書ハガキは十二日午後三時二十分拝受。小生は本月初旬より歯が痛み候て、ついにわずかにのこれる四本の内、下なる三本ことごとくぬき去り、今はただ上(251)の臼歯が一本留まるのみ、父母が生み付けくれたる歯はこの一本のみなり。よって中旬より下の齶に惣入れ歯を作らせ候に、従来とかわりその入れ歯のかかりどころが全くなきゆえ、始終口内にて左右へ移動し、その都度下齦を衝きちらし創痍絶えず、日夜疼痛し、毎度歯科医に趣き、そこここと創痍に照合して惣入れ歯の稜角を削り減らしめおり、なかなかの面倒に有之。夜分臥すごとに首を左右に曲ぐるにつれて惣入れ歯が動徙し、下齦や頬の裏をつき荒らし、その毎に驚きさむることしばしばにて安眠がなり難く、ために昼間もはなはだ疲労を覚え仕事多く手につかぬには困りおり、そのため久しく御無沙汰致し候段、悪しからず御了解願い上げ奉り候。
 『大日本』新聞を発行しおる社長宅野田夫という人、初号以来連送しくれるより、平沼氏に頼み三ヵ月分ばかり去年送金しおき戴き候ところ、その予約金が尽きても送り釆たる。その新聞はいわゆる重臣攻撃にて、『大阪毎日』紙のみ読みおる小生には、この辺で天下はいつも泰平と思いおるに打って変わり、東京にはいろいろと捫択《もんちやく》が不断行なわれおるということは、この『大日本』新聞の御蔭で別《わか》り候ものの、毎号連発の重臣攻撃を読んでも何とて得るところもなく、いっそ発送を見合わせくれたらそれまでのことと思い、右の予約金尽き候後はそのまま打ちやり置き候。
しかるに昨年十一月ごろに至り、小生に宅野氏画きし大黒天の幅物を送り来たる。よってこれを返却するも如何と思い繩巻鮨一本注文し、出来上がったら返礼に宅野氏へ送るべしと思いおりたるに、昨年末より一、二月へかけサゴシの漁獲全く絶えたり。そのまま打ち過ぎおるうち、十二月未ごろまた大日本新聞社より小生へ来牒あり、社の資金として金三十円寄付せよとのことなり。小生は長々の悴の入院に寒素の内より月々百五十円ばかりずつ送るに弱りおり、ことに近来多病にて何の働きもせぬゆえ、入金とては一文もなく、弱り入りおる内から三十円という少なからぬ金はとても出来ず、いろいろと自家を切り詰めて金十円拵え、一月に先だち右のわけを具して宅野氏へ十円だけ送りしに、一月十二日ごろ『大阪毎日』社より宅野氏よりの送金なりとて二十円小生へ転致され候。さて『大日本』新聞紙には小生が十円を送りし振替貯金通信欄の小生素貧の申し訳け書を写真にして掲げ、南方氏ごとき博学の士が子息(252)の入院費に差し閊えるは気の毒の至りと公示しあり。二十円の送金には何の添書もなかりしゆえ子細は分からざるも、『大阪毎日』よりの来状には小生へ寄贈との宅野氏の意を述べたり。思うに宅野氏が二十円を小生に寄贈せば『大阪毎日』よりも多少小生へ寄贈さるるならんくらいの心懸けにて差し越されしものと存じ候。
 小生折から多事多意にてそのまま打ちやりおき、春日やや事少なくならば何とかしてこの二十円を返すべしと決意、まず第一に繩巻鮨を大黒天の画の代りに送るべしと思い、何度も何度も製造元へ催促せしに、ようやく二月の下旬に至り二本出来、持ち来たりしゆえ、一本を葉山住居故平沢哲雄氏未亡人(吉村勢子女史)に 餽《おく》り、次に宅野氏へ今一本を送らんと思い、二、三日過ごすうち二・二六事件が起こり候。別段子細を聞くに及ばざりしも、どうも宅野氏も従来の所筆より推すと(たといそのことはなくとも)多少二・二六事件に関連せるよう想わるるは止むを得ぬことと察せられ候。しかしてこのことにより永逝されたる高橋是清、斎藤実二氏は小生知人に有之、ことに高橋先生は当研究所に大枚を出資され、斎藤子は紀州へ釆たるごとに小生のことを知事などに問われ、最近名刺を中島中将に佩びしめて小生を訪わしめられたり。この二氏が殺されたるを、「来たるべきことが来た」などと評言する宅野氏に、いかなる訳ありとて事件の数日前に(ちょうど事件の当日ごろ前方へ着きしはず)繩巻鮨を送り、さて宅野氏は何の深き気も付かずに例の筆にて(この人は愛国忠誠の士らしきと同時に、誰から酒粕を一箱貰うて旨かったから田中光顕伯に分与したとか、台湾のカラスミを一枚貰うて舌を鼓したとか、口腹のことのみ多く書く。『孟子』に、飲食の人は人これを賤しむとあり。まことに志士とか忠臣とか自認するにそつご〔三字傍点〕せぬことと小生は賤視致し候)、殺されて然るべきものが殺された当日、南方氏より繩巻鮨を送られた、繩で縛られたサゴシの首がないはよくよくの吉相などと書いたかも知れず。出来たての品より二週日も過ぎた上、ちょうど旨味の出る時を待って送る方然るべく、氏の不在中書生などにわけも分からずに味われたら、此方の志が無になる道理と差し控えて即日送らざりしは、虫が未然に知らせしと申すものか仕合わせはなはだしかりし。
(253) かくて二・二六のこと起こりて数日ならず、『大日本』紙に、社長は差し支えあり当分筆を執る能わずと広告あるを見れば、平日の口気より疑われてその筋へ引き上げられおることかと推し候。さてその上、いつ自由の身となるか知れぬ人に餽ったところが此方の志が少しも届かぬゆえ、今年はこの鮨を同氏へおくることを全然見合わせ、さりとて他に餽るべきところもなきゆえ、貴下へ餽り上げたる訳に御座候。その委細を申し上ぐべきのところ、右述病患のためはや一月近くも延引、貴方にてはもはや御開封御用い下されたることと推し候が、もし今に御用いなきことならば、さっそく開きて御用い下されたく候。製造人に聞き合わせ候に、二十余日も立った上は多少容積は減縮し、またおいおい暖かになるに従い、外面に緑色のカビを生じ候由、しかしそのカビはちょうどチーズのカビのごとく、鮨に一種の雅趣を添えるものにて、箆《へら》もてそのカビを刮り去りて賞用する人多かりし由に候。またカビが生じても一切構わず冷処に放置するときは、春すでに仲してのち乾果子のごとき白雪?《はくせつこう》様のものに比す。それを茶人が京都や阿波にて茶うけとして賞用するとのことなれば、いずれにしても然るべく御翫味願い上げ奉り候。
 小畔氏と粘薗発表の件、小生多煩多病のため一月ばかり後れおり候ところ、それが反って幸いと申すは、小畔氏の南洋航路株式会社が三月一日に出来上がるはずのところ、二・二六が祟りしにや、なかなかの難産、ようやく二十四日に社長中川小十郎、専務小畔氏、資金二百万円にて概要書を発表、四月より開業と昨日申し越し候。この発表、図録くらいは小生一人にて出来ることなれども、この際生物分類学に必要なる分類論理 clasificational logic を小畔氏に開眼させおきたき素念より、重ね重ね往復文書もてその方を啓発し来たりたるに候。しかるに会社創造の際中多忙なるべく、ぐずぐず致しては際限も知れぬことになるゆえ、この上は小生単独にてこのことにかかり、ただ発表事務の手続きを同氏に一任し、なるべく早く出板致すべく、図版等のことに付いては自然貴殿を煩わすこともあるべければ、今より宜しく願い上げおき候。
 何処で採られしか忘れたり、Arcyria nutans Greville のことのほか大にして盛んに密生したるもの(これほどの大(254)きさの大群をなす)は、従前のこの品と打ってかわり茎がことのほか長く(3.5mm長に及ぶ)、盃また非常に大きく、直径普通はo. 5mmなるに、これは平均1.5mmあり。こんなものかつて見聞せず、かつ胞子がはなはだ麁大なる葡萄状の粒をなしおり候。久しく見ざりしが昨夜取り出だし見しに、その胞子の間に虫が入り動きおる様子に吃驚し、よくよく見定めしに、これは小生の鼻息が空気を動かすため、胞子粒がかわるがわる動揺して蛆が這うように見えしと分かり候て、大いに安心致し候。
 あるいは新種かと存じ候も当分仮にArcyria nutans Greville var. exberans(勢力溢出の義、盛んなる義)Uematsuと致しおけり。しかるに前年この品を拝受せし当時、何とか別名を付し報知申し上げたるよう記臆候が、その報知書には何と名を書きありしや。御存知ならば御一報願い上げ奉り候。その名の方宜しきかも知れず。外にも貴集中よりいろいろ珍品検出候も、歯痛のため脳力衰え、只今ちょっと申し上げ兼ね候。おいおい申し上ぐべく候。
娘は二十六歳になり身体健康、茶、花、香、三弦(これは五明楼などにて毎度出演)等を修め田舎獲としては優越、かつ胆力すわり、健啖大力なり。昨日より看護婦と産婆の業を見習いのため、喜多幅と申す小生幼少よりの友たる(かつ妻を妄りしときの媒人)医師方へ聴講にやりおり候。従弟に(妻の妹の子)今度岡山医科大学へ優等入門せし男あり、娘より八ヵ月後れて生まれしものなれども、あまり長々縁談を長引かすも妻の心配絶えざれば、その者卒業の後めあわさんと存じ候。只今交渉中なり。この談が成らば、このことにおいては一安心たるべく候。その三年の間に淡水藻譜を作成せしめんと存じ、日々教えおり侯。小生も七十歳となり(来月にて満六十九年)、いろいろとこと煩わしく、諸事思うままに成らず。十三、四年前までは菌の図記を一人にて日々十四、五品も致し候に、只今は娘に(255)日々五、六品画かせ、さてその記載だけに二日また三日もかかり候こと多く「何を言うても七十の春」と浩歎仕り候。
 白浜はいろいろと評判もあるべきが、あんまり調子にのりすぎてむやみに掘りちらし、古来の七湯ことごとくつぶれ了り、さて新たに掘ったやつは一年もすればtufa(蛇骨、珪酸石灰)のために埋もれるから、また新たに掘らざるべからず。宣伝をやりすぎて無制限に宿屋を建設せしゆえ、物価高きことはなはだしく、剥ぎ取り以上の悪声高く、すでに半月ばかり前、旧友の墓銘を小生に頼みに朝鮮より来たりし者を、例の金崎が旅宿へ案内せんとせしに、田辺の旅宿はことのほか高価と朝鮮でもっぱら聞いたとて、旅宿の外の私家へ宿泊させくれと歎願せしという。よってそれは白浜のことを誤聞せしならんと勧解せし由。鉄道局は身投げ、心中死にくる輩までも、切符さえ売らば可なりともうけてばかりおるが、旅宿は一向泊り客なく、大阪等より三百人五百人と団体が来たるも、いずれもアンパンから酒まで彼方で買って持ち来たり、ただ席料を仕払い、また茶を一茶瓶いかほどと前もって談判の上、一時《いつとき》半時《はんとき》畳の上に座るのみ、朝来たりて午後去るゆえ、宿泊料にならず。気のきいた奴は干畳敷を眺めて、青天井で提帯し来たれる飲食を平らげ竹の皮を捨ててそのまま汽車で大阪へ上るゆえ、土地にびた一文落ちず。京大の水族館も、それよりずっと近き海を埋め立て、山師どもが一層立派な水族館を建てたるゆえ、誰も遠路を京大の水族館まで行く者なく、七、八日前来たりし『大毎』通信者の言には、タンク内の魚は十が八まで死に、サプロレグニア等の水生菌を生じおり、ウツボという蛇様の魚のみ他の魚の屍骸を啖い厭き蟠集しおる由。前年行幸のとき法螺吹きし博士どもはどこへ逐電せしやら一人も止まりおらず。前月旅舎の主人みずから縊死致し候て、只今は土地会社の地を買うものもなく、第一旅舎が払うべき税を払わず、八、九日前税務署長が行き向かいしも、ない金は払えぬというごとき口条にて、官民ともこまりおる。
 岡氏よりは本月二十五日、振替貯金にて百二十五円送来、再板『続南方随筆』五百部一割の印税と申し来たり候(一(256)冊二円五十銭に減価して再板)。これは上出来の致し方に有之、よって次出の分も岡氏より出板させ申すべきが、外にも出すべき随筆多々あり、改造社より出板を頼み来たりあり。よって一文にもならぬ雑誌へ長文を出すことは止め、貯えおきたる原稿と新出来の分をまとめて単行本と致し、改造社よりも出さんと存じ候。その節は貴殿その交渉に御あたり下さるよう頼み上げ置き候。
 悴は大抵恢復しあるらしく候。御存知の野口氏が毎度視察し返りての報告による。この男、動物学好きにて今も晴天にはその方の実物を熱心に観察しおる様子。先日御地のどこかの書店より、日本の蟹類の図説、蟹類とありしか介甲類とありしか忘れたり、一冊九円にて出板せり。新本でも古本でも宜しく手に入れて送りやりたし。
 また、本郷区西巣鴨ニノニ五七〇太洋社より、昭和五年ごろ『実隆公記』と『御湯殿上日記』を出板せり。これも古本あらば右の蟹譜とともに横川氏に代価、およびその代価を支払わば速時手に入るべきか、御聞き合わせ願い上げ奉り候。この二書は小生の随筆出板前になるべく材料をとり入れたくて入用に候なり。      早々敬具
 
     92
 
 昭和十一年四月十五日早朝四時
   上松蓊様
                      南方熊楠再拝
 
 拝啓。娘が左記の書籍入用なるに付き、御面倒ながら何とぞ御購入御送来願い上げ奉り候。
  本郷区湯島切通坂町ニー金原商店発売、帝国講学会編『【最新】産婆試験問題解答集』定価二円五十銭、送料十四銭、外に書留料十銭、すなわち二円七十四銭の郵便小為替封入候間、宜しく御願い申し上げ候。しかして必ず書留郵便にて御送り下さるるよう願い上げ奉り候。
(257) 戒厳令等にてどさくさが治まらぬようにて、こんなものを発売元へ申し送りて急に送り来たらざりしこと二、三あり。横川君のところへ頼み上げんと存ぜしも、こんなものを頼み上ぐるは如何にやと斟酌、かつ只今同君の所書番地を覚えず、ただ本郷区東京帝国大学正門前と暗記、これでは通らぬかとも存じ候付き、止むを得ず貴方へ御頼み申し上げ候。小畔氏は今に何の音沙汰もなく、かつ、かの会社のことも一向音沙汰なし。如何のことにやと心配なきにあらず。
 今回政府が預金等の利率を下げたるに付き、小生ごとき信托金の利息にて生活研学致しおるものは、今後渡世すこぶる困難と相成り申すべく、今より心配したところがいよいよその時に及ばねばさらに仕方別らず、とはいうものの、貴下において何か対策のなきものに候や、伺い上げ奉り候。
 今日当和歌山県庁だけに七百人ばかりの官員あり。これに加うるに准官員とも申すべきものなおまた多し。二・二六事件の結果として行なわるる改革というものを見るに、一層官員を増加するもののごとし。官員を減じたらこんなに預金の利率など下げずに事済まぬものにや。利息で食うような卑劣な根性を捨てて何か営業せよといわんが、寡婦とか幼児とか、また小生ごとく七十になった老人は営業ということが出来ぬなり。田淵仙人などは七十以上の者は国家より養うべしと建議する由、先日の立候補宣言にいえり。国家より養料を受くるよりは、そんなものの預金の利率を低減せぬようにしやりては如何にや。預金の利率が低下しては拙児を入院せしめおくことなどは到底出来ず、心配すれば限りのなきものに御座候。
 先年貴方へ小生妹尾より帰る途中、四十三年めに立ち寄りし山田という家の夫妻子ども等一同と一所にとりし写真を、貴下へも差し上げたることと覚えおり候。その家の第三女が小学校へ通う中より蓄膿にてわるきを、御坊、和歌山等にて治療せしもはかばかしからず、近年京都の高等女学校か女子中学校とか申すものに通いおるうちに、京大の医院で治療せしもはかばかしからず、母親付き添い東大医院へゆき院長に切りもらいしに、一時快方なりしも追い追い悪くなり、涙管が膿化する様子に付き院長にかけあいしも、院長責任をもたずつき離され、止むを得ず大阪の赤十字(258)病院にゆきしに、院長これを視てこれは切断十分ならず今一度切らねばならずとのことにて、止むを得ず近日再切断、しかしそれが旨く往かねば片眼になるの外なしとて大いに弱りおり候。大学病院とか何とかいうものがこんなことでは日本の病院も怪しきものなり。拙児なども近来少しも特別薬を用いぬ様子にて、その辺の費用の多少減ぜしは悦ぶに堪えざるようなれども、病院には時々試験的に特別薬を廃することありとかにて、何のことか分からず。ところへ最近来着の勘定書には写真代一円とあり。これは右の試験をいろいろとやるので。拙児がまた悪化して硬直症(身体硬強になりて立ちつづけおり少しも動かぬこと)などを起こし、その様子を写真せしにあらざるやなどと拙妻が心配し出す。小生は、近来特別薬(すなわち催眠剤、鎮熱剤等)を要せざるほど快方なるより(去年野口氏東上の途次病院へ立ち寄りしに平人と少しも変わらず、蟹の画本を渡せしにしばらく見て蟹なりといいし由)、毎日特別看護人と散歩に出でし折、一つ写真を取って見ようでないかということで写せしことならんと申し聞け候。野口氏は五月ごろまた入洛するゆえ、その節様子を見定め帰りもらい、何とか合議せんと欲す。実にこんな子を持った身は心配の断えぬことに御座候。
 まずは右当用のみ御頼み申し上げ候。       早々敬具
 
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 昭和十一年五月二日午後十時半
   上松蓊様
                      南方熊楠再拝
 
 拝啓。過日御送来の標品昨一日夜鏡候候ところ、これは Trichia Lutescens にも Hemitrichia chrysosperma にも無之、大大大陣笠たる Trichia affinis de Bary に御座候。Trichia Lutescens にも Hemitrichia chrysosperma(259)にも糸条体はみな分枝多きものなるに、この貴集品には枝というては一本も見えず。リスター『図譜』第三板一六〇図のd図に見る通りの糸状   体が多く蟠りおり候て、糸状体に下の(a)図ごとく短きものも少々見えるが、多くはこの図のごとく、ほとんど両端を見極むる能わざるほど長くて、蛇がとぐろを巻きたるごとくおのずから曲がりうねり巻きほぐれたるもの多くそんなものが多数むすれおるゆえ何ともわけの分からぬ塊をなしおること多し。かくきわめて長き糸状体のものは、従前稀に見るところと記臆候。胞子はリスターの一六〇図のd図のごとく、多少一六九図c Hemitrichia chrysosperma の胞子に似おるも、なにさま糸状体が単条にて枝を少しも分かたぬから、Hemitrichia 属の物ならず、Trichia affinis たることは一目して明瞭に候。
 大王よりは今に何の便りもなし。会社が大分行き悩みならんと察し候。
 小生は近来入れ歯もどうやらこうやら方付き、脚もやや軽快、家内も健全の方なれば、粘菌の発表は小畔氏のやりかけたるものの外、自分単独でも出来るから、二十品ばかりの稿と図、精書出来たら、貴下御立ち合いにて朝比奈博士に交渉、『植物研究雑誌』へ出されたく候。図板着色で入るるには多少の出費は免れぬべきが、そのことも貴下御交渉願い上げ候。
 また本日ニューヨーク植物園より来書あり。それを幸い菌の方の発表は何様この辺土にありては、莫大なる文献の渉猟は不可望なるをもって、かの園の役員中精力旺盛なる人に頼み、小生の図稿を出板に先だち書籍雑誌の参考をやってもらうことと致すべく存じおり候。近ごろ当地方にも菌学に熱心の人輩出し、小生とその人々の名を連ねて命名発表するに興味を持ち、毎日曜日には必ず二、三、乃至十五、六の新品、希品を持ち来たり、発見はなはだ多く相成り候。しかし多くなればなるほど、在来の似合い諸品に一切目を通さざるべからず。これがため、菌学以外のことに(260)は全然関係を致さずに罷り在り候。
 例の岡氏方に預けある稿本も、あまり久しくなるうちには盗見、はなはだしきは原稿を盗んで売りに出せし者まであり。銀行の利下げで働かずにおることは頃刻もならぬ世となり候付き、何とぞ奮発して今年中に二、三冊は出し、一件の入院費を備え置かんと存じおり候。それに付き全きを望むの心より、例の『実隆公記』だけは近日平沼君に買うてもらうつもりゆえ、その節はいろいろこのごろ多き間違いなきよう、横川君の手にて買い入れもらいたく候。このこと申し上げおき候。
 今夜もこれより二種だけ菌を記載せざるべからず。明日は日曜ゆえ、二人の教員が自転車を馳せゆき近村にて集めたる菌を夕刻にどっと持ち込み来たるはず。然るときはまた二日ばかり夜をこめて不眠で記載を要す。故に今夜の仕事はなるべく速やかに切り上げ、早く睡りおかざるべからず。よって右だけを申し上げ候。       以上
 
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 昭和十一年七月二十二日午後九時半
    上松蓊様
                      南方熊楠再拝
 
 拝啓。本月二日午前十一時出御ハガキは三日午後四時十五分拝受、また十六日午前十一時出御状は十七日午後四時に拝受、御礼申し上げ候。
 金原商店の産科書は人しく何とも音沙汰ながりしが、小生真言の密法を行ない責め立て候ところ、ついに思い出したように六月二十六日に突然送来、到着致し候。
 五月中旬より小畔氏の粘菌発表稿本をまち合わせたるも今に送来せず、また六十日ほど何たる音沙汰なし。詳細は(261)分からざるも、石原某についてはいろいろ訝しき廉あり、小畔氏人のよきままあるいは舁がれたるにあらずや。しかしてその跡片付けのためなかなか粘菌どころの騒ぎにあらざるかとも察せられ候。加うるに小生入れ歯今に時々痛みはなはだしく、困り切ったものなり。またそこへ白浜、鉛山に関する厄介事件生ずるなど、いろいろと面倒なことしきりに到りしより、小生は果報は寢て俟てという気分となり、五月下旬よりおよそ七十日ばかり、貴方との往復二回ばかりの外、一切書信を出さず、昼間は菌学、夜分はもっぱら Psychiatry まずは井上円了師のいわゆる不思議研究に潜心致し候。これは筆にて書き立てることの成らぬものなれども、いと面白き結果を得しこと多ければ、向後時々申し上ぐべく候。
 一方、北島、平田、田上、樫山と申す年来の子分四天王、足遅き親方に付き歩きては時間を失うことおびただしとあって、おのおの間暇ごとに自転車を馳せ、四、五里距たりたる山野に入り、日曜ごとに菌を各自三、四点より時として二、三十点も持ち来たる。これは今年よりこの四人と小生と連名にて学名を付くることを許せしより、大勇みにいきり立ちたるなり。かかることはせっかく人いに気乗りして持ち来たるものを、打ちやらかし置きなどすると、一たびいや気がさしたる上はもはや一向気勢上がらず、一つも持ち来たらぬものゆえ、一々さっそくほぼ図説を認め送りやり説明しやらねばならず。しかるに娘は四月以来産科の聴講に没頭し、日曜のほか写生を手伝うこと成らず。故に小生はまた一人で多くの標品を写生せざるを得ず。そんなことにて大いに御無沙汰致し候。菌は昨各来必死になって旧集の分を校閲し、およそ四千三百点命名し了り候。この内なるべく人の知らぬ、また彩色の多くかからぬものどもを、二百点ばかり第一回に出板したしとその写生図を撰出致しおり候。
 神島が文部省指定になりしは結構ながら、各官省いずれもその日送りの麁漏なことばかりにて、出願人小生、毛利と新庄村現任村長坂本という人ヘー本ずつ報告を送り来たりしはまことに有難いが、和歌山市中屋敷町三六南方、和歌山市上屋敷町毛利などと宛名し来たから大いに延着(報告書の本文にも、また、神島を和歌山県南牟婁郡としある(262)など、杜撰千万なことのみなり)、しかして出願人四人の内、田上次郎吉(行幸当時の村長)へは今に一本も来着せず。県庁経由懸け合うたら早晩送り来たるべきも、それもまた宛名を取り違えて中途紛失また掛り員の着服となるかも知れず。最初この報告編纂に与りし三好、脇水二博士へ告げたら何とかしてくれるは分かったことながら、この人々へは当時小生より別に贈り物など差し出しあり、今となってかかることをいいやるは、かつての贈り物の幾分のさし引きとして要求するごとくにて、はなはだ江戸っ子の所為にあらず。よって小生自腹を切って一本を自分で購い、右田上前村長に贈りてことを済まさんと欲す。よって貴殿例のごとくはなはだ御面倒ながら、
 昭和十一年三月三十日発行、文部省『天然記念物調査報告』植物之部第六輯
  (三秀舎印行)とあるのみで何の店で売り捌くとか、定価幾何とかいうこと一切明示し計らず。しかし非売品ということも明示なし。
 右一冊いかほど高価でも知れたものなれば、一体何店で買い得るか御聞き正し代価を併せて御一報願い上げ奉り候。然る上小生より貴殿へ送金の上、一本購いさっそく御送来願い上げ奉り候。
 万一そんなことが分かり兼ねたる場合には、止むを得ず、
  東京市大森区田園調布四丁目一二九 脇水鉄五郎博士
へ貴殿より一書を出し、熊楠所要ありて右一本手に入れたきに付き、何店へ代価幾許を出して購い得べきや、また非売品たる場合には脇水博士の斡旋にてぜひ一本手に入れ下さるよう御頼みやり下されたく候。
 この人は三好学博士と違い専門学上のさしさわりなきゆえ、かつ去年神島の香合石および鮎川村の亀甲石の最好標品を同氏の手に入るることに付き、小生すこぶる周旋しあるゆえ、好意をもって迎えらるること受け合いなり。しかしまたそれにつけ込んで例の上方根性の打算的のただくれ〔四字傍点〕主義を行なうと気取られてははなはだ面白からず。万一只でもらうてはまた何か贈らざるべからず、反って高価につくから、そこはきっすいの高等打算で、貴下このことを小(263)生に対し引き受けたるつもりで、ぜひ相応の代価を仕払う構えで御かけ合い下されたく候。しかしそんな小むつかしきことをせずとも、たぶんどこかにこの報告書を売り捌く店はあることと察し候。昨今地方も都会と同じく、いずれの辺陬にも必ず党派あり、新庄村にも親方連の反目絶えず、この際こんな小事から前村長が離背するようなことありては一大事に付き、何分宜しく御頼み申し上げ候。
 また近年内外国とも書籍や印行物に落丁などあるをごまかして売り、跡をかまわぬ風大いに行なわるる様子なれば右の一冊御手に入ったところで漫然と当方へ発送せず、必ずその場で落丁なきよう御一閲の後御送り下されたく候。とにかくまず代価を御確かめの上御一報下されたく願い上げ奉り候。                  敬具
  一昨々日、右述四天王の内、三人とつれて神島ヘマンリョウの調査に往き、右の三人必死になり菌四十種ばかり見出だし持ち帰りしが、昨今炎威はなはだしく写生は大困難なり、その三分一も写生出来ればよいがと心配罷り在り候。
 
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 昭和十一年十一月七日夜十一時
   上松蓊様
                      南方熊楠再拝
 
 拝啓。一昨日小畔氏より来状あり。小生今年九月中必死になり、当地の小新聞『牟婁新聞』というに連載せし、当田辺町と近村五つを合併して大田辺市を建てんとする議に反対し、ついにその議をおじゃんとしやりし。例の菌類図記かたわら筆せしものにて、議論がまとまらぬうちにおじゃんとなりしゆえ、小生も中ばにして筆を擱きしが、小畔氏これを読んでことのほか面白しとなし、神戸の『海運』雑誌へ転載致し候。長きものゆえ今月分の右雑誌(264)へはおよそ半分ばかり出だせしなり。四、五日内に出来上がるゆえ、その節別刷本を貴下へ小畔氏より直送すると申し越し候。着の上御読笑下されたく候。
 大王粘菌の図記なかなか上達致し候。先年鹿児島の粘菌ことのほか聖慮に合い候由にて、そのときの鹿児島県知事が今広島県知事たり、八月九月の交、小畔氏を招致しいろいろ指導の末、県下の教員を総動員し採集せしめたるところ、驚くに堪えたり、小生方へ送来せし標品ただ十点ばかりの内に二千七百八十番というのがありし。おそらくは三千点も集まりしことと察し候。大王の妻子三人神戸に踏み止まり、ルペーにてよい加減にこれを淘汰し、さて大王九月中これを精査し図記を作りて小生へ十点ばかり贈り来たる。小生いろいろ助言の上、冊子に印刷し標品に添えて、大演習前広島県江田島に御駐輦中、県知事よりこれを進献せし由。その別刷本はたぶん貴方へも進呈のことと察し候。この内真に奇絶とも申すべき新種はただ一つあり。貴下武甲二州の境にてとられし Arcyria stipata に似たるものにて、胞嚢  この形に曲がりおり、秩序なく蛇がせいくらべをするごとく巻きかたまりあり。薄きリラク色にて、はなはだ優美なり。糸状体は Hemitrichia 属の糸状体のごとく  分岐 し、中に三、五条の旋条あり、A.stipata におけるごとき曖昧なものにあらず、  明らかに螺旋をなす。故に大王はこれは Hemitrichia 属のものとて Hemitrichia lilacea と命名せしが、小生謹んで案ずるに、図ごとく胞壁が糸状体の伸び張るに随って不規則にひびわれ裂くる、底に盃ごときものがのこる。また胞子はほとんど平滑なるも 僅数の疣を散点す。この二事は全くこの品が Arcyri a属のものたるを証す。よって学名を Arcyria hemitrichiaides(ヘミトリキアに似たる)Koaze と改めしめ候。他に新種かと思わるる Cribraria 一品あり(大王は在来の種の変種として印刷)、また Physarum ceraceum Koaze と新種としで進献せるは、どうも新種とするに足らぬものらしく候。他に Physarum lilacinum Sturgis & Bilgram(265)は在来日本になかりしが、今度厳島にて見出だせり。ただし在来の本種とやや差《ちが》うゆえ変種とせり。外に今一つその変種らしきものありしも未詳なり。それから大正十三年以来諸方にて採りしも毎度標品不完全にて手古摺りおりし Diderma の一種、今回初めて完全のものを得、いよいよ新種と確立、Diderma Koazei Minakata と致し候。要するに三千点近く集めたるにようやく右だけの新希品で、およそ不出来なりしことに御座候。
 貴殿の分は、平沼氏の意見には、従前なんでもなき物と思われしものに時としてきわめて珍異なものがあることありしゆえ、今回の貴集中にもたぶん斬新稀覯の品二つや三つはなきを保せじとのことなり。もっともなることと小生も腕によりを掛けてまち構えおり、小畔氏の鹿児島、広島の分発表の直後、貴殿在来の集品図説を朝比奈博士の雑誌かまたはニューヨーク植物園の報告にて、来春中に出すべく候。
 小生は今に樫山、北島、平田、田上と申す四天王がおびただしく菌を持ち込み来たり、フキの葉に包み井戸辺に二十箱ほど堆積しおり、娘は看護婦と産科の聴講を致しおり、毎度(月に二回)試験あるゆえ写生など手伝うは日曜の外は望むべからず。小生一人昼夜兼行して写生記載すれど、以前とかわり眼力も衰え手が痛み万事不如意、加うるになるべくヘマをやらぬようと旧い標品や文献に眼を通すを要するから、なかなか捗り申さず。百中の五、六十は心ならずも腐らせ捨て去ることしきりなるには遺憾この上なし。前年上野、武蔵辺で御集めの寄生菌等ぱ、北海道大学へ調査を頼みやりしに今に返事なし。近日状をおくり取り返し、また他の人に頼み調査し貰うべく候間、今しばらく御まち下されたく候。その人が只今調べおる軟嚢子菌に新種を小生多少集めあり、貴集の品を調べまた調べずとも返し来たらば、その軟嚢子菌を遣ると申しやるはずに御座候。こんなやりちらしの人多きことには閉口致し候。
 前日送り上げたる「婦人の腹中の瘡を治した話」は、小生が入れし伏字三つばかりのままで出板され候。鉄道局の勢力はまた別なものと驚きおり候。これは小生一世一代の傑作に御座候。谷崎潤一郎氏の『文章読本』に、日本には関係代名詞なきゆえ欧人ごとき長いセンテンスは書けぬと歎じあるが、小生ごとくに書けばどんな長いセン(266)テンスでも書き得候。
 粘菌の方はさもあらばあれ、菌や藻は多少の珍異な奴を手に入れられたことと楽しみおり候。しかしあんまり寒さがひどいと、目前に物があっても取る気にならぬものに候。
 中里介山は今春の撰挙に失敗して大いに沮喪のあまり、誰人とも交わらず状を出しても返書を出さぬ由。小生必ず返書を書かせてみすべしとて、神戸の本多季麿(これは京都の人で豪富の子らしきが、大不良と見え、大阪のカバレー・マルタマその他そんな処へは大勢力をもって出入し、また回教に入ったり、尼の美人と往来したり、阿部定に酷似せる女を撰出して、それにかの生命腺切去の場を実演せしめて写真を取ったり、そんな道楽をやり悉しおるようなり)ヘー状を発し、
 「介山の『大菩薩峠』を評して、高漸離が堂上の撃筑者を評せしごとく、かれに好処あり、また不好処あり。田山白雲という絵師が房総の海岸で波濤を観察して画かんとする場などはなかなかよく出来おる。これに反し、この人まだ年若くて世故に通ぜざるより、ありそうで実は決してなきことが世間に多くあるに気づかず。(西洋人は他人が接吻するを見ても日本人ほどいやな感じを起こさず。また日本人は少なくとも小生若かりし日までは、一族の婦女の湯上がり姿、二布《ふたの》一枚の体を見ても何とも思わず、インド人また然り。それらを見て必ずいやな感じやへんな感じを起こすものなら、西洋にも日本にも嫉妬喧嘩と姦通強陵が断えぬはずなり。これ斎忌の制古く脳裏にしみこみて習い性となりしによる。他方、人にありそうに見受けられながら、まずは十の九・九まで決してなきことあり。ただし今のごとき堕落世間にはそうはゆかぬかも知れず。)例せば、足芸興業の親方お角なるしたたか大年増が総州へ興業に渡る海上で難船し、どこかの浜ヘー人打ち上げられおるを、旗本駒井甚三郎(ちょうど故平沢哲雄氏ごとき取り静めた人)が家来と二人で測量か何かに出て見付け、介抱し小屋へつれ帰り全快せしめると、お角、甚三郎の男振りと人品にほれこみ、職業をまるで忘れて煮炊き等の世話をなし、甚三郎の問いに答えて、殿様のお側にさえおれば職業など(267)したくはないというところあり。それがありそうに見えて決してなきことなり。川柳にも『世話になった外科が来る道はづすなり』とかあって、難産を助けてもらいし産科(むかしは外科と謂いし)医にあえぱ走り行きて礼を叙ぶべきに、そのとき宝蔵を詳しく一覧された恥かしさに堪え得ず、必ずこれと逢わぬよう道を外すが事実なり。熊楠幼時、今の舎弟の宅(亡父の隠居所)の前の川の那岸に時々潮の工合で溺死人の尸が上がる。人多く集まりおるを何の心なしに見にゆきしに、女の尸とあればいかな老婆の尸でも男子は多くその隠し処をのぞくが常事なりし。されば英国にて『溺れて死せんとせし女は一生|拯《すく》いくれた男を嫌う』という。日本ではそんな諺ありや、小生は知らず。知らねども、諺の有無に関せず、溺死せるものを助け介抱して蘇らせくれた男子に対して第一の懸念は、定めてこの人はかの処を審査観察しただろう、まじめな顔をしながら、他所では自分の物を種々と品隲評論するならん、という点にあるなり。故にいかな豪気な大年増でも、その男が男らしければけるほど、その人を嫌うにあらねども避くるものなり。もし避くる気分が毛頭なくて、お前は妾の命の親と抱き付くような女なら、それは物をやろうというを聞いて犬のごとく飛び付く同然の阿房大だわけなるべし。こんなことに気の付かぬはまだまだ修行が足らぬところあり。」
と書きやりしその拙状を、本多氏が以心伝心小生の案のごとく中里氏へおくりしに、読み了ってさっそく本多方へ欣喜雀躍の礼状を寄せし由、その状の趣き委細のことは聞かず。
 雲母は前年日光へ持ち行きしもの今ものこりあるを遣いおり、その後当地へ御送来の分は今に少しも遣わず。この日光へ持ち往きしものは、そのときまではまだ弾力性ありしが、昨今はさっぱり硬直にて、針で薄くへぐにたちまち老人の爪のごとく砕け破れ候。雲母というものもあまり久しく空気にふるると変質する物と存じ候。こんなことあるゆえか、近日のドイツ出来の藻の微細なるものの品彙などには、雲母の代りに無色のガラス板を用いおり候。稜があると指を傷つくるゆえ円くみがきあり。ただし雲母ごとく薄くてはもちがわるきゆえ、 これほどの厚さなり。これほど厚からぬと破れる惧れあるなり。したがって高度の顕微鏡下に用いることはならず、不便なものに候。
(268) 中島中将は大演習観艦式済みて直ちに汽車で十月三十日午後拙宅へ来られ候。小便しきりなるより、拙宅の女ども眼ざむるを慮り文里に一泊、翌朝野口利太郎氏案内にて奇絶峡一覧、不思議にも峡側の飛泉にもと中将の乗艦に軍曹か何か勤めおりし男が滝水に打たれ行ないすましおるにあい、事由を聴きしに、この男福岡県人なるが退職後上京して事業に従い失敗の上、妻に死なれ道者となり諸国遍歴、滝などに打たれ悟りあきらめんと むるも今に悟り得ずとのこと。よって東京へ来たらば尋ね来たれ、剣道名人なりしゆえ、それで何とか口を糊し得るよう世話して取らすべし、と語りて別れ還りし由に候。今少し拙宅に止まるよう勧めしが、三日の明治節に参内の期が迫りおるゆえ、三十一日午後二時過ぎ駅まで小生と野口と見おくり出発され候。
 古ギリシア一番の尤物ライス、これはヴィヌス女神の模型に供わりしほどの名人なるが、もとは田舎の漁夫の娘で、ケイパー(caper琉球で申す魚木の《ぎよぼく》の類、この葉が何となくなまぐさく、ちょうど塩魚を巻き蔵するにその味に合う)で?魚を巻くを業とせしものの由。それと等しく中島ごとき巨漢にちょうど匹敵すべき紅顔嬌声の大女でお絹というものあり、もと当町江川浦の漁夫の娘なり。繩巻鮨を再興せし栗本という男の未亡人なり。このことをかねて申し通せしゆえ、中島氏は当地へ着するなり、旅館の主人をして電話でこの未亡人を呼ばんことを求め、一同大閉口。出立の際後日に念の残るも怖ろしく、小生みずから案内して件の未亡人を訪いしに(小生ごとき気の長き男に取って)わずか十五年見ぬうちにはや半白となり、紅顔全く蒼白と変じ歯も一、二抜けたらしく、なかなか昔日の面影なきには驚き候。なんでも二男三女を遺して夫は半身不随意で十六、七年前死亡、長男は前年店へ妨げに来る不良青年と闘って刺殺され、次男のみのこり、三女の内一名は幼年で死亡、長女は絶世の美人なりしが、昨年末野口の娘と同時に病みつき正月に同日に死亡、只今第三女十八歳ばかりのがのこり、当日店にありて中島氏に蒲鉾を売れり。肌細かく、髪密に長く、色白くまことに美女なり。その口が上唇広く、下唇狭く上唇よりはるかにひっこみおる。仏経にいわゆる駝口なり。下の口もこれに応じて駝口なるべく、これを妻《めと》る者の快言うべからず。本人の前でそんなこともいい得(269)ぬからそのまま別れしが、異日御面会の節宜しくこのことを説き置かれたく候。
 まずは右申し上げ候。                    敬具
 
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 昭和十二年一月十五日午後三時半
 
 拝啓。小生十一月来|轢疾風《れきしつぷう》という難症にて久々事を廃しおり、左手の指の関節が不慮に仏教にいわゆる刀風のように劇疼し(手を使わずに温むれば発作することはなはだ稀なり)、おいおい右手の指にもうつる。実際の発作は十度内外に過ぎざれどもいつ起こるか知れず、またその想をなしてもはなはだ実際と近く疼むように感ずるゆえ、手を使わずにおるよりほか致し方なく、はなはだこまりし。ためにはなはだ久しく文通を怠り申せしなり。この外に別段身体に重大の異変なし。薬は昨十四日午前十時四十五分安着せるも、小生の右の病患に取りては何の意味も関係もなき薬なり。また小生は生来金創とか熱病とかの外に薬を用いず、全く無用の物ゆえ只今このハガキと偕《とも》に御返し申し上げ候て、御志に対し厚謝申し上げ候。            敬具
 
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 昭和十二年四月一日夜九時
   上松蓊様
                      南方熊楠再拝
 
 拝呈。その後大いに御無沙汰に打ち過ぎ申し候。二月二十六日に貴状一通拝受(平沼氏母子改名のことを記されありし)。そのころより今に近村の人々菌類を持ち込み来たること絶えず。小生もなるべくあまり老いぼれ了らぬうち(270)に一種でも多く図記したき考えにて、昼夜写生記載し候ため、大いに御無音に打ち過ぎ申し候。小畔氏また会社大いに忙がしき様子にて、従前とかわり夜分帰宅後も、いろいろと会社のために働く由。東京にて発表すべき新種新変種粘菌の図録の稿はほとんどみな出来上がりおるも、老眼のため測定むつかしく、娘はそのことに慣れず、かつ今月いよいよ和歌山に上り看護婦の試験を受けるため、他事に関するを得ず。小畔氏がただ一つ図記しのこれる Cribraria cylindrica なる新種の胞子等の測定をなし書き上げて送り来られたら、程なく出板人の手に廻し得るなれども、右様多忙にて今に送り釆たらず候。
 拙児は近来一切言語せぬ由、昨年初めころより承聞致しおり、如何のことやと思い、御存知の野口利太郎氏毎度陶器の仕入れまた盆石の販売のため上洛するに付き、その都度岩倉へ訪問しもらい来たりしところ、野口氏の言うには、どうも拙児はもはや大抵平癒しあり、この上久しく病院に置きては反って万事窮屈にて鬱気を生じ宜しかるまじ、またなにか心中に斯するところありて言語を発して反っていろいろと批評さるるを嫌うより、一切話しをせぬ定めと決したるにあらずや、と毎度話され候。
 さて今年二月ごろ、またまた病院を訪問しもらいしに、この六、七年来間断なく付き添いおりし山本栄吉と申す特別看護人(五十余歳の人、岩倉病院で第一の熟煉家)が神経痛とかにて引き籠り私宅にあり、そのため新たに三十余歳の若き特別看護人を置きあり。しかるに拙児、山本氏の方気に適いしものと見え、山本宛の書翰を認めかけたるところを、受持医池田茂氏が見付け、一向かまわず認めて先方へ出さんことを勧めしも、たちまち中止してその後は書かずとのこと。久しく言語を発せざるものの書信をかくは不思議とその書信を見しに、断片ながら「その後は御無沙汰云々」と書きあるを、野口が見ると、全く万事忘却せりとも思われず。不思議のことと思いいろいろと謀計を運らし右山本氏の私宅をつきとめ、直ちに訪問せしに、神経痛云々は虚事にあらざるも、もはや老朽とのことで到底近いうちに病院を謝絶さるるに極《き》まったれば、活計先を捜すため私宅に引き籠りいろいろと口を求めおり、就職口さえ見出(271)ださば直ちに辞職して病院を出るつもりとのこと。よって野口、拙児の様子を聞き合わせしに、もはや入院しおる要なし、入院料の内多分は病院の維持費となり、拙児の食料など鰯二疋と飯少々など、それでは身体栄養与度不足するゆえに、時々拙方より特別看護人に贈る諸品や、来訪者が時々恵贈さるる金円の返酬に、山本の妻が時々牛肉などを煮てひそかに拙児に差し入れ釆たれりとのこと。野口、しからば貴下(山本)は当分病院同様の実際収入にて病院外の宅へ南方氏の子を引きとり、私宅看護をして当分を過ごす目算なきやと問いしに、自分は初め月十五円の給料で岩倉病院に入りようやく今の地位に進みたるものなれば、無学ではあり世才はなし、差し当たり病院を出ては何とも活計の仕方なくまことに困りおるところなれば、いかほどでも夫妻と三歳になる幼男児が活命するに足るだけのものを下さらば、私宅養生を看護申すべしとのことなり。
 よって当地へ帰り拙家へそのことを報じ、協議の末、和歌山の南に一昨年ごろ新設せし海南市(黒江町とて漆器を作り出す町と、小さき橋一つ距てて傘を作る日方町と申す町と、外に今二、三の小さき町を合わせたるものにて、例の町村合併不徹底にて今に内訌断えず、市とは名ばかりにて何の改良もなされおらず)へ野口が上り、そこの知人なる片山という医師に相談せしに、その近傍に御存知の熊野第一の王子という名高き藤白嶺あり。小生幼時脾疳を煩いとても育つまじと医師が言いしを、亡父手代に小生を負わせ和歌山より四里余歩みこの王子の境内にある楠神(大なる樟の木なり)に願をかけ、楠の字を申し受け熊梢と命名せり。その時、嶺頂の辻堂に地獄極楽の大なる額面あり、また堂外に大なる地蔵菩薩の石像あるところに息い帰りし。のち二十歳のとき日高郡へ之《ゆ》くとてこの嶺頂を通りこの辻堂にて件の額と像を見て、四歳のときここに憩いしことを眼前に臆出致し候。その石像は只今国宝となりあり、額面はどうなったか知らず。その辺に巨勢金岡の筆捨て松という木あり。金岡そのところにて眺望の上画かんと企てしが、とても力及ばずと歎じて筆を捨てしという、それほどの絶景の地なり。和歌浦や(金岡のころあったはずはなき)和歌山城から二里が浜、松江浦より泉州の海岸を眼下に見下す。その近傍に青木梅岳と申し、伊勢より当田辺町へ流浪(272)し来たり、二十四、五年前まで海浜の陋屋にわびしく暮らせし画工あり。小生別懇ならねど毛利方で毎々出会えり。この人四、五十歳にして発憤し、画ばかりではつまらずと詩を学び画と一緒に詩を書くので、木村平右衛門氏(浜口氏の従弟分の人)の世話でこの嶺側に住み、画は京阪から神戸まで行なわれ、花圃を作りいと風雅に暮らしおる。野口知人にて、この青木氏と右の片山医との受け判で、ある旧家がむかし建てたる別荘を月十八円で借り受け、前月二十八日、右述山本監護人夫妻と幼男児をそれへ移させ、二十九日に監護人とその兄(これも大阪某会社の門番をつとめおる)と野口と三人岩倉病院へゆきしに、入院の節交渉しくれたる野田浦弼というもと京大教授の医博(今は京都で自宅開業)を通じ、かねて病院へ交渉しありたるゆえ、何の故障なく出院を許され、
  精神病院を出すにはいろいろ故障あるものの由。今度も野田博士斡旋にて、藤白嶺へ移居後も和歌浦精神病院へ定期受診に往くという条件にて出されたるなり。和歌浦病院長へは、小生旧友小笠原誉至夫(岡崎邦輔氏縁者にて、むかし衆議院へ馬糞を抛げ下し、また西京で鳥尾得庵を打ちにゆき逆さまにどやされたる者。いろいろのことをやり、とにかく表面和歌山市の勢力家なり)氏を経て了解させあるゆえ、本人が好まずば診察など受けに往かずとも可なり。
午後三時岩倉出発、六時過ぎに自働車通しで藤白峠腹の別荘に着、野口氏は月末大多忙の日なれども詮方なく、翌三十日午後まで右別荘に駐まり全体の様子を視察せしに、何の変異も起こさず自在に談話をなす由。全く拙察通り、病勢快方に趣くに随い病院など馬鹿馬鹿しくなり、かりそめにも一語を発すると、それを証拠にまだまだ十分直りおらずなど面前で医者が話すを聞き捨てならず、喧嘩などを生じてはいよいよつまらずと観念して、一切不言で押し通し来たりしことを判り候。
 右の次第にて当方もこの十年間、月に百五、六十円あるいはそれ以上の送金に弱りおりたるものが、月々まず九十円くらいですまし得ることとなり候ゆえ、六、七十円ずつ毎月助かり申すべく、看護人もさし当たり活計の方便を得、(273)喜悦しおることと存じ候。ただし病院に入れて兵営同様整然たる規則下に置きたればこそ、これほどまでに鎮静を得たるなれば、病院の効験も著大なるものあり、決して軽視すべきにあらず。
 まことに多年昼夜心配の種子なりし拙児が、とにかく出院し得るに至りたるは望外の仕合わせにて、藤白嶺はむかしは南北往還の要路たりしも、只今はその下を通る汽車が出来たるため、わずかに近村の者が私用を足すために往来するのみ、至って閑静な地なれば、此所で今数年静養せばおいおい全快することもあるべくと、あてにならぬことをあてに致しおり候。
 右はあながち貴殿に関せぬことながら、多年御心配をかけたることゆえ、右の 末をちょっと申し上げ置くため、写生の少暇にこの状認め差し上げ候。            匆々敬具
 
     98
 
 昭和十二年八月十一日午後十時
   上松蓊様
                                                              南方熊楠再拝
 
 拝啓。九日出御状昨十日午後三時四十五分拝受。御下問の砂防用として古くネムを植えしを、蘭人が聞き伝え自国にてその通り実行して奏効せしことは、文化・文政ごろのことにて、そのことを書きたる書籍は手前に現在するも、たしかにこの書と記臆致さず、このごろよほど老耄せしと見ゆ。たしかに一昨夜『今昔物語』で読みたりと覚え候ことも、今日再見するに一向見当たらず、念のためいろいろと渉猟するに『古今著聞集』より見出だす等のことしきりに有之、記臆という物ほどあてにならぬはなしと今さら大いに戒心致し候。
  柳田国男氏などは小生よりは十余歳も若き人なるに、かかる遺失はなはだ多く、したがってその議論は根柢から(274)成立せぬこと毎度なり。例せば氏のあまり古からぬ書いた物に、岩魚が坊主に化けるという譚は会津、美濃から紀州に行き亘りあり、云々、とこともなげに述べあり。小生は先年妹尾へ御同行の節、日高奥諸村に就きてこのことをしらべしに、第一イワナという魚は和歌山に産せず(三、四年前ようやく大和との国境の山地にて、大阪辺の商店員のアマチュールが僅数のイワナを見出だせりと新紙にて見たるも、そのこと詳らかならず。一体に紀州人はイワナを知らず)、ちょうどイワナが坊主に化けたという伝説が会津か美濃より書き上げられたるごとく、同じく川魚なるアメノウオが女に化けるということ、熊野と日高の奥に話さると小生が『南方閑話』に書きたるをひと呑み込みにして、イワナとアメノウオを同一のものと見なし、坊主に化けると女に化けるを混同して漠然記臆したるに候。アメノウオもイワナも淡水魚なれば混同しても宜しとならば、諸国に鯉、ナマズ、ウナギ、鱸等淡水魚が化けた話多し。それをみな混同して可なりというべきか。然るときは「タニシは介ならトンボも鳥よ、お山買ふのも商売か」で、天下何ごとか同類ならざらん。
 然る上は右ネムの木で砂防の一項を探し出すに、倉の二階へ上がり、百度ばかりの熱度の内にフォルマリンとアルコールとナフタリンの強烈なる蒸発臭気の裹に、二、三十冊の書物を取り出だし、書斎へ持ち来たり調べたる上、出所をつき止め写して差し上ぐるに、およそ二、三時間またはそれ以上かかるべく候。
 ところが小生今年三月来、今にほとんど休みなく菌類の写生を致しおり、それも五月末までは娘が大いに写生を手伝いくれたるゆえ大事に及ばざりしが、娘がなまじいに県庁で今春の看護婦学試験に第一番殼優等で合格せしより、次に受くべき産婆の試験にもまた同様の成績でなくては面が立たずとの懸念より、六月来二階に楯籠り必死に早朝より夜の十二時まで勉学致しおるゆえ、小生一人で写生も記載もやらねばならず。ために大小使と食事に立つ外は座り通しにつづけおる。それもそのはずにて、多年相手にする樫山嘉一(これは夫妻と娘)、北島脩一郎、田上茂八、平田寿男という四人が休日ごとに少なくも五、六品、多きは三、四十品も菌をとり、即日自転車また汽車にて持ち来たる。(275)いずれも毎度講釈を小生よりきくより、日本文字で相応の記載ノートを作り添え来たるゆえ、小生と連署して命名するから、ことのほか出精する。したがって小生も少しもこの人々の採集品を等閑に付するわけに参らず、なるべく一品をも逸せず図記して、この人々が来たるごとに示すを要する(連署で学名に付するほどの者がその記載を心得ずにおるべきにあらねば)。故に小生は写生と記載をつづくるの久しきため、腰が固まり背の肉が亀の甲のごとく硬化して屈伸ならず、また手足に時々劇烈なる神経痛を起こす。暖気なるうちはまだ宜しきも、寒気到来せばよほど酷《はげ》しくなることと察し候。
 さて昨日、とうとう堪えられぬほどになりしゆえ、整骨術の名人を招き二時間ほど揉ませたるに、本日は大いに快方なり。しかしそんなことをして養生するうちに、五、六十種の肉質菌は形を留めぬまで腐り了る。その内には只今失うたら後来三、四十年まちてもまた見るを得る見込みのなきもの多し。まことに心外の到りなり。こんな次第ゆえ、今夜も休んで然るべきなれども、出来るだけ写生をつづけおれり。こんな次第ゆえ、せっかくの御申し越しながら、右の蘭人砂防一件、出所を探出することは、遺憾ながら前方様へ御断わり願い上げ候。
 坐右にある牧野・根本両君の『訂正増補日本植物総覧』五四八頁を見るに、ネムノキ、本州各部、四国、九州、台湾に産すとあり。然るときは、象潟辺でもネムノキの一本くらいはなしとも限らず。かの象潟は、西行が「花の上こぐ」というたほど、桜花四周に満開したところなるに、徳川氏の世になりて往きてみれば、桜樹など一本も見えざりし由、
全体その象潟という潟が徳川氏の世の何の年にか、大地震にてまるでつぶれたものの由。貴下に戴きし古河辰の『東遊雑記』か『観跡聞老志』か何かで読みしこと有之候。当国那智の絶頂なる妙法山を古来シキミ山と号し、幽霊が弔いの飯を炊ぐ間に必ずこの山に詣で、仏前に供えたシキミの枝を堂後の山に挿す。それがみな根を下ろし、中には倒さまに生えたりも多しなど聞き、小生那智に二年半僑居のうち、毎度そのシキミ林に夕の七時ごろまでおり、さて山下を見るにはや昏くなりたりと見え、毎戸灯を点しあるに驚き走り下るに、「熊野路をさびしきものと思ふなよ、死(276)出の山路で思ひ知らせん」という札を出したる死出の山路というところあり、左右に篠のみ生い茂り悽惨限りなきところなりし。その辺より薄昏くなり下れば下るほどまっ昏となる。左様のこと毎度なりし。これも近年観光客の便利のためと称し、いろいろと除き去られたもの多く、一年ばかり前、毛利氏が往って視て返っての話に、件のシキミ山にシキミは一本も残らぬ由に候。
 明治四十年ごろまで、当地より二里ばかり今は汽車で十分か十五分で達する旦来《あつそ》村に、旦来沼とて大なる沼ありし。そこに真菰生い茂り、東国の潮来《いたこ》出島を覚えず連想せしむる習いなりしに、只今は一本も真菰を見ず、実際真菰はこの辺にては見るを得ざるに至りおり候。されば吹上の浦に白菊の一本も見えず、浪速の芦、伊勢の浜荻を只今尋ねてもちょっと知った人もなく、あるいは紅葉山に紅葉がないかも知れず、橘の小島が崎にはむろんそんな木はなかるべく、吾等小さいときまで和歌浦の名物として薬売りの半纏に染め出しありし独螯蟹《てんぼがに》(『和漢三才図会』に出ず)も、大正十年秋小生楠本秀男氏と往きしとき埋め立てのため全滅最中、今は跡を留めぬことと存じ候。片手のテンボ(手亡と書く)といいしなり。大坂に籠城せし勇士|御宿《みしゆく》勘兵衛、手亡ながら奮戦せし由、家康、大坂には後藤又兵衛、御宿勘兵衛の二兵衛の外に勇士なしといったほどと承る。その手亡という語を今の和歌山人は解するものなし。吾等わずかに七十年の夢幻の一生にすら生滅興亡はかくのごとし。されば一日や半日象潟を見て、ネムの木ごとき普遍性な木がその辺に一本もなしと断ずるも、よし只今一本もネムや桜がなければとて、西行や芭蕉の時に一本もなかったと決するなどは、はなはだ不用意な人と存じ候。砂防一件の調べの代りに、このことをその御方へ御伝え下されたく候。
 今をもって古を測るははなはだ危うきことなり。近ごろ柳田国男氏の書いたものに、むかし君王が禽獣の語を解したが、その訳を人に話せば即座に死ぬる約定にてその術を受けたるなり。あるとき、君王が畜生同士話すを聞きて笑いしに、最愛の妾が何故笑うたかと問うて止まず、終には君その訳を話さずば妾は死すべしという。王大いに困り、妾に死なれでは自分長らうるも面白きことなし、いっそ妾に満足させて自分は死すべしと思い棺を作り了るをまつ。時(277)に雄鶏が犬の大いに心配するを見て何故ぞと問うに、王は棺が出来上がれば妾のために死するを憂うるという。雄鶏笑うて、かかる愚王が死したりとて何ぞ憂うるに足らん、われは雌鶏五十羽を率いて一度もその分を超えしめしことなし、少しもわが命を用いざるものあらば、?《け》り殺して新たに若き妻を採用するまでなり、この王の妾のごとき不柔順な奴はすなわち撃ち殺して、さらに一層美絶なる妾を求めて可なるに気づかざるは阿房きわまる王なり、という。王これを聞きて大いに笑うと、妾またその訳を聞きて止まず。王の一命に関する制戒を破らせてまでもみずから満足せんとするは不貞の至りと罵って、いきなりあり合わせ棒で息も断ゆるばかりどやし続けたるに、妾大いに痛み入り、爾後一切王命に不順ならざりし、と。インドその他に譚《はなし》多し。
 柳田氏いわく、ちょっと笑うたほどのことや、笑うた訳を尋ねたくらいのことに、かかる大事が起こりしとは常識を逸するもはなはだし、全くあり得べがらざる駕空《かくう》の譚なり、というようなことなり。これにてこの柳田氏の家庭はあまり整いおらざりしことを知り候。吾輩など鍋釜を三銭四銭で売りし小店に生まれた者なるが、父母とも、いわゆる一顰一笑を惜しみ、むやみに笑わず、また吾等は父母にくり返して物を尋ねざりし。今とても小生の家庭はその通りなり。また英米の旧風の家庭でも左様なり。子供が好んでひちくどく物を問うことを、inquisitiveness とてはなはだ叱りし。
 また、椀貸し池など申し、村に婚宴などあるとき、入用だけの膳椀等の数を記した紙を池に供えると、その時に至り池中よりそれだけの膳椀が出る。そして用いて返すときはまた池中に収まる。こんなことはドイツから支那、日本諸処にありしなり。柳田氏これを評して、膳椀ごときありふれたものを池の神に仮りしなど信ぜられず、というような説なり。実は膳椀というもの、むかしはなかなか平民の家にそろうて持ったものなく(むろんそんなものを百姓など多く持たば僭上などと見做して咎められたるなり)、この紀州などにも神社の社務所にしか多く膳椀をそろえて持たぬ村ありし。前年、小倉藩の武士小島礼重の著わせる『鵜之真似』という書を宮武省三君より贈られし。文化四年より天保六年ごろまでの記事なり。その内に、
(278)  八、九十年前は(文化四年と天保六年より逆算すれば九十年前は享保二年または延享二年(この年家重公将軍となる)ゆえまずは八代将軍吉宗公の世なり)、御家中に客椀膳という物なかりし由。客の(ある)時前廉案内を仕置き、その先々に膳椀を借りにやることの由、十人の客の時は十軒にて仮ることの由、これによって銘々にて膳椀に定紋を付け置くことにて、さなければ替わることの由。そののち客膳椀という物出来候えば、銘々の膳椀には定紋を付くるに及ばぬことなり、今日は奢につくる様に覚ゆなり、と老人の物語なり。その外、客道具もかぶと
鉢二つあらば済むことにて、少なきものはそのままに少なきままにて出だし、強いて少なきとて小さき物に入るることにてはなし。今は少なき物は小さき物に入れ候ゆえ、大小無之ては客は成らぬこととなりぬ。今手塩皿という物始まりしことは三十年にはならぬことにて(前のごとく逆算すれば安永七年(家治公将軍のとき)または文化二年(家斉公将軍のとき))、何物も手の平に受けたることにて、格別敬い候人か、あまり手の汚れる肴などは、紙を折り載せて楽に取り替わすことありし由。今は組肴《くみざかな》あり、手塩皿に入れて楽に取り替えするゆえ、十人余の客には手塩皿百も無之ては快く客は整わぬこととはなりぬ、と老人の物語なり。
とあり、今より百九十二年から二百二十年前には、小倉ごとき比較的に大藩の士家にすら、一軒ごとから膳椀を仮り集めて饗応したるなり。さればそれより前に村民同士の饗宴に仮るべき膳椀を持ち合わさぬ家多かりしゆえ、最寄りの神祠や寺庵より仮り入れしことは必ず多かったはずなり。大正五年より六年まで拙家に置きし下女は、この町より汽車にて只今五分間で達すべき新庄村の住民の娘なり。それが言いしは、そのころ村の庚申の祭を順番に当たりし家で修むるに用いし箸を、馳走の済みたるのち家の向うの渓流でよく洗い収めて、次にその番に当たりし家に渡しおき、さてその家にて次回の祭を修める節、饗宴に用ゆ。客人一同にまことによく洗うた箸で馳走を戴くと、先回の当番たりし家主、当日来会わせしものに挨拶を述べて食いにかかりし由。わずか二十年後の今日、そんなことを二十歳前後のものに話しても通ぜず。割り箸行なわれて一度用いたらすぐさま棄てて顧みざるゆえなり。その下女は拙家に一年(279)おる間に、手織りの棉衣を黒く染めたるもののみ用い、幾枚着替うるとも同制同作なりし。近年人絹を得らるるより、動物園の鸚哥《インコ》室に入ったごとく百下女百服色で誰が主婦やら下女やら分からず。わずかに二十年にして世態の替わることかくのごとし。そんな世に変われば変わるほど、今の心をもって昔のことを断ずるには、よくよく戒慎すべきことに候。
 ついでにいう。膳椀を池の中より湧き出だして貸せしは、みずから機巧を用いしなり。このことは支那の書で見出だしおき候。
 またついでに申す。小生五、六歳のとき(明治六、七年)寺小屋へ習字にゆきしに、手習草紙の表紙にいろいろの慰み書きをせし。その内に、 と書くことありし。これは深《み》山(山の字三つ)通る(るの字十)稚児(ちの字五)の盃(逆さまに書ける月の字)と読むなり。このこと京坂に古く行なわれしと見え、西沢一鳳の『伝奇作書』か何かにも見えたり。子細を詳らかにせざりしが、近年『狂言記』を読みしに、名題は忘る、寺の稚児がある地を通るその旅舎へ、稚児の盃を又けんとて老人輩と若者連と推参して争う狂言あり。推考するに、男風を尚びし世には、昨今のモダーン女連が選手の署名を求むるごとく、高名な美童が通るごとに、老若争い往きてその盃を貰うこと大流行なりしようなり。こんなことは今日の人には伝わりおらず、またわけが分からぬなり。分からぬを分からぬとするうちは宜し。分からぬことを今の心でかれこれ古きを推し当てんとすれば、鑿するもはなはだし矣。
 ちょっとかくつもりで長々となり申し候。写生が大分後れたから、この状はこれだけに致し候。                    早々敬具
 
     99
 
 昭和十二年十一月二日早朝
(280)   上松蓊様
                      南方熊楠再拝
 
 拝啓。客月三十日正午付御状昨日午前八時十分難有く拝受。拙妻こと毎度御尋ね下され、本人よりも千万御礼申し上げ候。これはもはや快癒の方と相見え、医師も来診せず、数日前より起き上がりおり機嫌も宜しく候間、憚りながら御休神下されたく願い上げ奉り候。ちょうど四十日近く臥したることとて、いまだ入浴も致さぬ様子、当分何ごとも致さず静養ということに御座候。葡萄等御厚意難有く存じ奉り候も、荊妻はもときわめて貧素の家に生まれ、香の物と梅干の外は一切用いず、口慣れぬ物を勧め食わすればたちまち吐き出すようの者にて、葡萄など戴きてもわずかに五、六粒受用し、残余はことごとく近処の小児などに遣わし了るようのことにて、俗に申すまことに愛憎のなき女なり。それでは済まぬでないかと申し聞かすと直ちに口舌《くぜつ》を生ずるゆえ、再々黙過するの外なし。つまり猴に肉をふれまい牛に蒲鉾を与うるような分からぬことに有之候。
 次にキササゲの薬用ごとき、小生いろいろ調べたるも、この物、外科の外に用いしこと知れず。かつ和方漢方にてかかる薬を用いるには、第一、水分量、次にこれを煎ずるに銅器を用いて宜しきか鉄器を用いて宜しきか、はた陶磁器で宜しきか、それも分からず。只今普通なるブリキやアルミの鍋では用いることならず。これらのことが分からぬうちはこれを用いるに信念生ぜず。妻はその亡父の代より用い伝えたる種々の薬鍋を今に蔵しおり、いずれを用ゆべきかを問われては小生答うるを得ず。大抵和方漢方で薬を用いるには、出所正しき生品を用いることにて、キササゲは外国より伝えたる物ということなれど、当郡の海辺の山中には生えたる木少なからず。ちょうど只今結実しあり。地方により無識の者がかようの物の生品を採り用いて特異の病を治するに妙に的中することあるは、小生みずからもしばしば見聞するところなり。しかるにキササゲの自生品ある村の人々に多年聞き合わせしも、その用法を知って語るものなし。故にキササゲが病にきくというは他邦のことにて、この辺には行なわれざりしことと知り候。三十六、(281)七年ばかり前、小生那智にありし日、タウコギという草肺病に神功ありとて捜しに来るもの多かりし。ただ神功ありしと聞くのみにて、何処で神功ありしかを語り得るものなく、人より伝聞せしというのみ。小生知人にて一心不乱にこれを服用せし人ありしが、間もなく死したり。およそ世に伝うる神薬などはみなこんなことと存じ候。
 また気の毒なりしは、今の拙宅より二丁以内に住する盲人が脚気に悩みしに、小生の知人が商陸根(ヤマゴボウの根)を服して水を下せば神功ありと語り、幸い川一つ距てたるところの鍛冶の屋裏に商陸ありしゆえ、その根を用いしに、水多く下りて病人はその夜死したり。小生、方書を案ずるに、この商陸は鬼がその根に寄るなど称え、これを用いるに種々のこみ入りたる法のあるものなり。すでにその根を薬用する以上はその用法をも式通りにせざるべからず。式法を敗《やぶ》って用い、それがために死んだとあっては、まことに不作法の至りなり。キササゲというものは邦俗雷電木など称え、雷神がこの木を好むという。したがってなにか雷神との関係より薬効ありなど言い出だしたることかと存じ候。人命まことに貴重にして、世に懸け替えのなきものは人命なり。妻子の身体をもって薬物の試験の台とすべきにあらず。
 拙家一同は年久しく無病の者も永年往復する医士の診察を受け、その医士毎月これを謄記して毎人の容体を本人よりもよく暗記しおれり。かくまで注意を尽しおるに、その上夭折する等のことあらば、それ天命と人事の尽きたるなり。如何とも致し様なし。拙父は無文文盲の人なりしが、平生至って養生に力を尽して六十四歳まで達者なりしが、その歳に及び脱疽ごとき病いとなる。自分代々の宗旨により高野山の某院へ手代を遣わし土砂加持を修するに、主僧土砂の沸き静まれる跡を見て、この病い大事なりという。手代返ってその言を報ぜしに、もはやわが命は尽きたりとて遺言して死をまつ。親属等協議して、さるにても遺憾のなきようと大阪より緒方惟準氏を迎え診を乞いしに、やはり大事なりといいし。然る上はとて観念して死去せり。その時一人、そのころ流行り出しの天理教の師を迎え祈?せんと乞いしに、われは何ごとも知らねど、天理教徒の所為を見るに、病人の枕頭で扇を披いて踊りあるく、かかる所(282)行は真人間の所為と思われず、高僧も名医もすでに天命尽きたりと告げられたるに、その上余生を貪ればとてかかる不埒なる祈  祷など頼むべきにあらず、とて死せり。プルタルクスの『列伝』に、ギリシア文化の首創人ペリクレス、死に臨み、人の薦めに任せキンマラ(金を鍍せる陽物像)を首にかけたり。人が問うに答えて、われかかる物を佩ぶるのきわめて愚なるを知る、しかしながら万一死ぬに定まった物がこれを佩びたるために、いささかも命を延ばすこともありなんかと思うて、これを佩びおると言いしとありしよう記臆す。生老病死到らばすなわち就くのみと、宋の
誰かが言いし。
 多年懇ろに行き届き診察しくれたる今年七十歳になる老医を謝絶してまでも、素姓のよく分からぬ薬物を用いて万一過ちあらんとき、その老医に対して何と申すべきや。もしその老医の薬をも用いよ、人の勧むる物も用いよ、といわば、両薬並びにその薬効を相殺亡失すべし。故に御親切は辱なきが、小生は小生一家の病気に限り、いろいろの薬などを御勧めなきことを冀う。もしそれ小生より特に忠告を仰いだ節のごときは全くこの例の外なり。小生多年躬《みずか》ら見しところ西人が諺に、「人を怒らさんと欲せば忠告を与えよ」と言ったようなこと多く、好意をもって忠告して反って大いに溝渠を構うるようのことは、はなはだ世間に多きようなり。              早々敬具
  今年はことのほか菌類多く、友人等また必死になり博採しくれしも、家内および自分の病気にてほとんどことごとく廃棄し了れり。これもまた天数なり。小生も七十一歳になり、この上八、九十まで生きたところで、友人おいおい死に失せては、自分一人何に騎して何方に行かんや。大抵で打ち切りもっぱら発表の一事にかからんと存じおり候。小畔氏は一昨日来信あり、よほどの多事にて今年は粘菌の方一向暇なかりし由に候。
 
     100
 
 昭和十三年三月十五日午下
(283)
   上松蓊様                                                       南方熊楠再拝
 
 拝啓。十日午下出御状三月十日に拝受、難有く御礼申し上げ候。小生は近年体がとかく勝れず、六十歳ごろまでの働きは出来申さず。諸医者(いずれも幼少または三、四十歳の時より小生の身体をよく熟知せる人々)に診察しもらうに、むかしのドイツの算学大家 Euler ごとく無類の健康体なれども、むやみに押し通して無理無法なことをやらかすより、壮健なる諸部同士の釣り合いを失することしばしばなるによるとのことにて、すでに先日来、大王に粘菌命名権を譲り、大王の常習のために学名用語彙を精選し、およそ一七四〇ほどのギリシア・ラテン学名用語を五十三頁の大紙に絵入りにて英和両語で記述、なるべく用例をも示し編述、昨夜九時までに三回発送、今一回にて小畔氏へ全篇を引き移し了るはずにて、昨夜九時二十分に郵便局へ往きし下女が返らぬうちに入浴中、湯中で眠り一向出でざるを娘が訝り、局より帰りし下女に十一時に観に来たらしめしに、顔を全く湯に浸して熟睡しおり、また灯火は消えて真の闇黒なるに付き、まず火を点し小生を起こすに、顔を上げ鼻囗より鯨のごとく湯を噴き飛ばし、それより上がりて十五分ばかり牀板上に座しおり、さて裸で湯を出て食事をすますと十二時十分になり、それより書斎を片付け十二時十分に臥し、今朝八時四十分まで安眠致し候。こんなこと毎度あるゆえ、身体諸部不釣り合いなるは当然のことと存じ候。
 右の次第ゆえか本日脱腸の様子少々自覚、よって医者を呼びにやり今夕見てもらうことと致し候。もっとも療法などは少しも望まず。熱病と外傷の外は原坦山同様、自分の心の持ち様で平治せしめ候。平治せぬときはそれきりにて、自分七十を踰えて天命の終わるところと平生覚悟、というよりは死んだも生きた同前、またまた面白い目にあうべしと思いおるばかりなり。若いとき諸国を廻りしに、やや久しく馴染みたる人どもが港まで別れを惜しむを見て、自分も今しばらく淹留《えんりゆう》すべきかと思う。ところが○がないから思い切って出発する。さて次の国、次の港に着すると、語(284)俗不通でまことにいやな心持ちの処で、船中で知り合いたる者に頼み、そことも知れぬ安宿に案内しもらう。さて一両日おるうちに、またその地に居なじむについてはいろいろと面白くなり、喧嘩など仕出だし、半月ほどのうちにその辺の顔役同然になる。毎度毎度かくのごとくして今日に至れり。未来世のことは決して心配に及ばずと確信致しお
り候。これは貴下だけへ申し上げ置くことゆえ、こんなことがいささかも新聞などへ出たら、貴下より聞こえたに定まったはずなり。
 小畔氏は粘菌学なかなかの上出来、近ごろは小生も毎々氏に指導を乞いおり候。今年中に短くても宜しく本邦粘菌の要点を書きさらえ、図譜のようなものを出すべく候。粘菌の希珍なやつは Aglanchiria 初め、どうしても貴君が高名第一なり。よって今から用意しおくから、今年は七、八月からどこへでも出かけ(越中には、林署長が小高栄吉氏、薩摩の辺地(鹿児島にあらず、大隅辺と存じ候)の生れで、当地林署に十五、六年もおり、小生懇意なり。その下に大江喜一郎氏もあり)、従来の所とかわった地で盛夏中のものを集め、それが終わりて例の貴君の望まるる所へ趣き、氷雪中のものを集められたく候。すなわちこれを最後の御採集として、大決心をもって往かれたく候。
 蛇の薬用種のこと御尋ね越しなれど、小生は近く札大の今井博士と日本帚菌譜を出す予定あり、『南方随筆』の続々篇も大なる袋に六盃ほど原稿を岡氏より送り返し来たり、校補をまちおり。右申すごとく脚が不自由、眼も宜しからず、一々の測定を大王に伺いおる次第、とても蛇のことなど調ぶる暇は無之、悪しからず御容赦願い上げ奉り候。
 まずは右申し上げ候。野口氏は本月九日当地を発し御地へ趣きし由。先年展覧会の残り物を貴地の人に預けたるに今に決算済まず、その方付けに上りしように御座候。         早々敬具
  従来貴集の粘菌には絶珍品多し。只今書き上げ致しおり、胞子等の測定は小畔氏に頼みおり、完成の上一度にどっと出し申すべく候。『古事談』の一書今に手に入らず。横川氏に頼み、古本あらば値段付けと共に送り下されたく候。
 
(285)     101
 
 昭和十三年十月十九日午後五時出
 
 拝啓。九月四日正午出御状は九月五日午後四時拝受。しかるに小生七月二十八日の夜、自宅竹林中にて躓き倒れ後腿部を二寸ばかり切り、その節下腹部に内傷致し、久しく不快にて、それより眼悪くなりなど致し、ようやくこのごろ快方、それがため大いに御無音に打ち過ぎ候。雲母は只今残りおる物ことのほか色暗くかつ脆弱にて弾力に乏しく、これを薄く剥ぐことは不可能、ためにはなはだ困りおり候うちに、ようやく小畔氏世話にてやや良品とも申すべきもの、手に入るはずに相成りおり候も、小生の手に入るまでは多少時日がかかる様子。(重量一ポンド以下は売らぬやつを、いろいろと会社の方より手を入れて小売りしもらうようのことと察し候。)故に貴方へもインド御友人より到着の節は何とぞ御一報願い上げ奉り候。                  早々敬具
  小生はおいおい老衰したるゆえ、この上図記などを久しくすることはなるべく切り上げ、幾分なりとも出板に取りかからんとあせりおり候。
 
     102
 
 昭和十三年十一月二十一日午後三時
 
 拝啓。十五日出貴翰十七日午後四時着。尊妹御不例の由にて貴地に御滞在とのこと、このハガキ果たして貴方へ届くか不確かに存じ候えども、止むに優るとの考えにてちょっと差し上げ候。雲母は過日小畔氏五円だけ購
入送致相成り候えども、申さば二十年ばかり前ストーヴに用い過ごしたるものを引き剥ぎ薄片と致したるものにて、価格はそのころに比しては咄《はなし》にならぬほど廉からず(そのころの七十銭ばかりのもの)、かつ疵多く到底完全なる用(286)には立たず。しかし、ないよりぱましゆえ、そう諦めをして用いおり候。妻また病臥致しおり、小生は至って壮健なれども、脚ははなはだ不自由なり。相変わらず写生記載に忙殺されおり、まずは右のみ申し上げ候。愛媛県の粘菌は少しもなきゆえ、一、二でも御採りおき下されたく願い上げ奉り候。                  敬具
 
     103
 
 昭和十四年二月六日夜八時出
 
 拝復。二月二日午後四時半出御状は三日午後三時二十分拝受、御礼申し上げ候。雲母は、前日小畔氏が買いいれ候ものを当分用いおり候。出征中の兵士が漢口辺にて上等の雲母を見出だせし由、『大毎新聞』にて見及び候。貴状に見えたるはその品かと存じ候。御手に入らば少しばかりにても御送り下されたく願い上げ奉り候。また、はなはだ申し上げ兼ぬるが、麹町区有楽町ニノ四日本新聞社で出す『日本』という新聞紙一月十四日の分一部五銭、本社または発売店にて五枚ほど御手に入れ御送来を乞う。小生の小文が載りおるに一枚も寄こさず、無作法なことに候。前日もこんなことあり、厳談せしもあまり売れぬ新聞と見え、小生望み通りの数を送り来たらざりし。
 いろいろ申し上ぐべきことあるも、昨今寒気烈しく手が凍り、硯水また凝《こ》りて水と墨とはなれてしまい、筆先も固まりて字を書くことならず。よってこれだけ申し上げ置き候。小畔氏は当方へ来たる約束なりしも、一月中来たらざりし。                    早々敬具
  毛利氏は旧臘和歌山東駅に出征の子供を見送り中卒死され候。
 
     104
 
 昭和十四年九月十日早朝三時ごろ認め夜明けて後出す
 
(287)   上松蓊様
                      南方熊楠再拝
 
 拝啓。八月二十八日午下出御状二十九日午後三時四十分拝受。水彩画具御買い送り下され大いに役に立ちおり候。久しき旱魃のため、菌は写生最中に乾き了りまたは蛆を満生し、満足なる図記一つも成らず、大いに困りおり候ところ、昨夜大雨有之、大いに清涼を覚え、また仕事も安らけく出来ることと相成り候。菌はずいぶん多く図記致したるも、従来本邦で出来候図譜は、外国の図書を引きあて、この種が日本から出た、その種もようやく邦産を見出だしたというばかりで、肝心の洋人の図書は多くは不完全の乾燥品やアルコール漬よりむやみにこじ付けたものたるをもって、実際何の役に立たず。この点において小生はずいぶん多年苦労を致し候。今しばらく功を積まばたしかに五千種の図記が仕上がる。(図記添わずに集めたものははなはだ多けれども、これらは小生の専修外の菌なり。)小生はこの五千種をもっていよいよ見切りを付け、これぎりで記図を廃し、それより出板にかかりたく候。出板にかかるには図記の複本を作り置かざるべからず。このこと大骨折りにて、雑賀貞次郎氏(もと毛利の子分にて郵便配達夫より独習して俳諧宗匠となり、当町町会議長たり)尽力にておびただしく上等の用紙を買い入れあるも、何様小生と娘との画きつぶしも多く、定数の板下を作り上げるまでにはこの紙が足りぬこととなるも知れず、紙不足しては思うように完全なる製図は成らず。(日光往きのとき、また川又在留中の写生図は、用紙不良のためみな板下とするに堪えず。)時局がらとても当地では叶わぬことなれば、紙の見本を送り上ぐれば、貴殿一つ奮って御買い入れ下されたく候。
 粘菌の方は種数も少なく、ことに小畔氏もっぱらその方に丹誠しくれおるから、これは小生左まで苦労するに及ばず候。ただし変種から異態を洩れなく出すはずゆえ、図の数はずいぶん驚き入ったものになるはずに候。さて図記いよいよ五分一も出来上がったら出板にかかるとして、もっとも困難なるは資金の一件なり。十円五十円ずつの寄付を低頭平身して乞いまわり、たまたま百円もくるれば出入りの者のように思われ、勝太郎とか五郎とか申す連中と平列に、(288)七十歳の賀の祝いの歌とか盆石の箱書きとかを下命さるるようなことは、この上小生そのことに堪えず。何か妙計を
というところだが、毛利を始め近年知友十の七までころころと死んでしまい、この一条だけはどうも思うにまかせず。よって決断するところありというところで、出板の万善を期するために、来たる一月でも三、四月でも、貴殿久しぶりで一応当地へ御来遊下されずや。然る上いろいろ御相談を仰ぎ、東京方面の左右も伺い置きたく候。とにかく雨も一過せし上は、この上図記はおいおい好都合に運ぶべければ、今秋を最終のつもりで奮迅の勇戦にかかるべく候。
 それに付き貴殿今秋中にせめて十日ほど、貴地近き地方(たとえば武甲二州の境地)に貴殿またこれを最終の御つもりで、粘菌だけでも御採集下さらずや。その兵糧の方は小生小畔氏と謀り何とか拵え申すべく候。粘菌の希品の採集は従前貴殿を圧巻とする吉例により、このこと願いたく候。小生は久しく坐して写生のみするゆえ脚がまるで立たず、これを医するため、かつは後年までの思い出のため、娘を偕《ともな》い二川村辺へ出かけんと存じ立ち候。その辺に三十余年前大なる旅宿を営み小生毎々泊りし主人が、村長ごときことを致しおり、その妻は拙妻むかしの裁縫の弟子にて、娘は小生泊りしころ二歳にてようやく這い始めし体なりし。それが有名なる賢女かつ尤物にて三十三、四歳、今に嫁せず家事をとりまわし養蚕を励みおり、近年当町へ時々来たり、小生宅に泊り拙女と友たり。その弟が温川《ぬるみかわ》という僻邑の第一の豪家を嗣ぎおり(この辺三、四十年前までは狼はなはだ多かりし)、毎度小生に来遊をすすめらる。よっ
て久々の気晴らしにその辺へ往きみんと思う。もっとも小生と娘は家居して写生を専らとし、外に門弟四天王の随一樫山氏という頑丈なる五十四歳ばかりの人(もとは小学校長)を偕い行き、坂泰等の林署へも入らしむるはずなり。この樫山は前年牧野博士の講義を聴かんとて、朝岩田村の岡《おか》の自宅を立ち出で竜神より六里が峠を経由してその夜十二時に高野の大門に着到せし勇士なり。六里の峠を歩くうち、老婆二人のみ住む茶店一つに立ち寄りしのみ、他は人より高きすすきのみ茂生し、竜神より点呼に応じて大阪へ上り近道をとりて帰村する壮兵二人の外、誰一人にあわざりし由なり。
(289) 眼がことのほかくたびれたからこれにて擱筆。独ソ連合のことなど、貴状に拠って、事理大いに相分かり申し候。例の社会主義者等の浮いた議論はさしおき、国粋愛国一本槍連の主張も主張としては面白く聞こえるが。何たる定見も腰も据わったことにあらず。田舎辺土におりては十分のことはなかなか分かり申さず。とにかく貴状に拠って大いに迷蒙を啓き候段、厚く御礼申し上げ候。
 『日本』へ『源氏物語』のことを出だし候。第一回分を読んで巌本善治氏より懇篤なる来状ありし。木村駿吉氏の夫人はこの人の妹の由、只今は巌本氏は神道の興隆に鋭意しおるとのこと。先年貴君より承りしことどもにより、小生はただ厚意を謝するの趣きを答うるに止めおき候。また改造社よりは小生の『南方随筆』等の板権を譲らんことを求めに来たり候。また田中長三郎博士よりは氏の斡旋にて小生の菌譜を出板しやろうとの懇書ありたり。先年長門艦にて進講の節、小生古新聞の反古に菌の標品を包みゆき、聖上の御前でテーブルの上に開展せしが、ことのほか御気に召されたる由、小生はこれを一生の面目として面目はこれきりで止め、この上いろいろと世上でもてることを望まず候。まずは眠たいから右だけ申し上げ候。                       敬具
  安藤みかん今年は豊作なり。
 
     105
 
 昭和十四年十二月四日早朝
    上松蓊様
                      南方熊楠再拝
 
 拝啓。当地この六、七日つづけて快晴なれど、時に雪ふり寒気凛冽、小生は書斎に火を入れず懐炉は入れおり、しかし障子の四隅を開け放ちゆえ、今夜手凝り筆固まりて永く書くことならず。用件の委細は別状もて先刻より書きつ(290)らね、この状と共に平沼君へ差し出し候。よって大要同君より御聞き取りの上、成るか成らぬかなるべく速く御返事を願い上げ候。
 ちょっとちょっとかいつまんで申すと、拙妻嫁し来たりしとき、ジキンス氏よりダイヤ一つ真珠三、四粒入りの指環(金と申しても例の赤味がかった合金なり)を送り来たり候。さて先日県庁より金の有無を申告せよと達し来たりしに付き、右指環一つありと答申せし。それに付き昨夕県知事より右はさっそくその筋へ売れとの勧告状来たる。隠し置きても知れぬものを進んで申告するほどなれば、売却に躊躇すべきにあらず。しかるにこの品は多年懇交せし有名な人の記念品にて、金子で払うてすませくるるならその方に願いたきは万々なれど、国家大難の御用に立つことなれば、そんなことを申し出でたくもなし。ここに困ったことは、拙妻の妹(これはすてきな美人で只今五十四歳ばかり、一生に三度寡婦となる。大力でまずは山中鹿之助の生母更科そのままの女なり。久しく和歌山と朝鮮にありしが、廻り廻ってまたこの地へ帰り、拙妻の里の家を守りおる。娘一人学校の極優等で通せしが二十二、三で死亡。すなわち拙妻の妹は孫女今年八歳ばかりなると二人さびしく暮らす)、先日和歌山でその筋の厳達により金の指環を売りしに、弥次郎兵衛北八の旅行記に見えたる歯抜き屋同然、ヤッ卜コバシごときもので石や珠をたたき外せしゆえ、真珠は破砕し了る。他の諸婦女の真珠もみなその通りで、その※[貝+賞]は一文もくれざりしとのこと。
 和歌山市でさえその通りなら当町などは一層烈しいやり方は別《わか》ったことで、南京玉やらセイロンの真珠やら講釈したところが猫に小判はいうだけ管《くだ》なり。小生はそんなことをさるるを好まず。よって県庁への返事は当分打ちやりおき、右の指環を書留、配達証明つき郵便で貴方へ送り、貴下平沼氏と御相談の上、然るべき貴金宝石を扱う店のよき技手に頼み、眼前に右の珠と石を完全に指環よりとりはずさせ、手数料を仕払うたる上、指環(金の部分)を然るべき最寄りの官署なり銀行なりへ定規の価にて御売却、代金を受け取り、何処の何官署(または銀行)に買ってもらったという証明書を手に入れ、小生へ御送り下されたく、小生はその証を県知事へ送り、どうも和歌山市や田辺町には(291)宝石や珠を指環より完全にはずし得る人がないらしいから、面倒をおそれ東京(または横浜)へ送りはずさしめた、ついでに県庁へ御手数をかくるも厄介ゆえ、すなわちその地(東京または横浜)で売却代金は滞りなく支払いを受けたり、と申告したく候。
 さて宝石や珠は紙にひねくりなどして置くといつの間にやらなくなる。小生の外祖父若きとき、二分ぬらし、三分ぬらしなど唱え、箸をただ二分三分しかぬらさずに食事する法を京都で学び、なにかの介(蚶《あかがい》?)とアワビを箸でさばき食ううち、  これほどの桃色の真珠  とこのごとく画にかきたる宝珠形の真珠と二個を獲て珍蔵せしを、小生に譲られしに、小生これを  紙に包みいつも身に佩びおりたるに、いつの間にか失い了り候。それゆえ右の売り上げ高の内から支弁して、鉄でも何でも宜しく、ただし堅固で永持ちのなるような指環を買い、それへ金剛石と真珠をジキンスより貰うた通りに嵌《は》めさせ、これまた手数料を仕払い下されたく候。さて残分は御送り越し、新出来の指環も御送来下されたく候。なお委細のことは平沼氏宛の拙状を御読み下されたく願い上げ奉り候。
 今夜寒気はなはだしきゆえ、右だけ申し上げ候。何分宜しく御願い申し上ぐるなり。
 とにかく貴君の御尽力で、成るか成らぬかのほどを御一報俟ち奉り候。御一報次第指環を送り申し上ぐべく候。
 非常に疲れおり、これより一眠仕りたく、右だけ申し上げ候。      敬具
 
 
     106
 
 昭和十五年三月十二日午後十一時書き始む
   上松蓊様
                      南方熊楠再拝
 
(292) 拝啓。七日午後の消印ある御状は九日○時三十五分著、十日午後六時出御状は本日午前八時に少し前到着、御礼申し上げ候。この間十一日午後三時四十五分小畔氏より電信着。「ウエマツトハナシタ云々、イサイフミ」とありしが、今に文は来たらず。妻は生家(その末妹非常に美人なるが運悪く一度夫に死別し、二度めの夫と生離して娘にも先立たれ、十一歳になる女孫を伴い生家(拙妻とこの女の間に一女あり、それは夫と二子と共に今に和歌山にあり。夫は久しく和歌山裁判所の監督書記なりしが、例のごとく使われるだけ使われた末些細のことで喧嘩を吹き掛けられ免職、今はどこかの弁護士会の書記ごとき役をつとめおる)の留守居を致しおり、古えの勇婦更科にもまさる大力なり)に帰りありしが今朝帰り来たれり。今夜小生ずいぶん疲れたれど、寝る前に貴状二通中御教示の条々に対し、その順序を追うてそれぞれ申し上げ、みずから局へ出してのち臥すことと致し候。
 小生は過日四昼夜不眠につづき、また二昼夜不眠(もっともその間に一度に九時間と五十分眠りしことあり)、まずはちと大層に申せば六昼夜の不眠で、諸方へ状書き候。近年稀な精励なりし。その余勢か今はなかなか草臥れおり候。
 貴下御一来下され候わばまことに仕合わせなり。時日のごときは必ずしもあまり早きを要せず、ただしあまり遅れてもこまる。
 毛利、中村初め続々死に失せ、研究所に尽力しくれし人々で只今生きおるは、紀州人では三浦男(頼倫侯在世にその家政部長)、堂野前氏(清達《せいたつ》の顧問たりしが清たつは去年か去々年死亡)、田島担氏も死亡、外に当時の小原知事、藤岡長和氏(平沼内閣のとき退職、今は大阪の会社に勤む)、それから田中長三郎博士
  この人は台北の図書館長たり。前日小生に書を寄せ、資金を募り小生の図譜を出板しやろうと申し越し候も、前回に懲りて今に返事を出さず。足がよくならば支那に渡り汪精衛を頼む方はるかに都合よく候。ただし田中氏は
常楠が二万円出す約束せしことのたしかなる証人なり。
くらいのものに候。大正十四年、小生常楠方へ催促にゆきしとき、その妻、成らんことなら二万を年賦にしてくれと(293)いえり。それよりはや十六年になれり。この方は悴が地処もいつの間にか書き替えられ、またこの宅も譲りくれずと聞きて、心配のあまり発狂せるにて。和歌浦病院にてもこのことをいい出だし小刀をふりまわし頸を切らんとせしを、小生の従弟小刀をもぎとるとて手に負傷しながら、家と地処は必ず常楠が返すべしといいて静まりしなり。石友の妻その場にありて荊妻と共に現場を目撃せしなり。石友妻は悴の乳母にて現存す。またその前に拙弟が拙妻およびその妹に、熊楠に地処は即刻返し難きも、熊楠の所為穏やかならんには従前のごとく自分方に預かり、上がり高を送るべしといいしという(このことは荊妻の妹の言なり。今一応たしかむべし)。しからば拙弟はその妻の慓悍なるを憚り、その妻(前状申し上げしごとく有名なる狂人筋の女)に内々で荊妻の妹聟宅へ忍び来たり、かく言いしなり。この男は大正八年米一揆が打ち入りしとき、一万円を要求され自分は席を外し、手代頭永武なる者をして代わって承諾の旨を答えしめたり。さて近街の宇治田とて、おのれよりも大なる造酒家主人が、暴徒に一万円か二万円を要求されて応諾し、平素有名なる吝嗇家なるに似ず出金を澄ませたるを、小生に向かい評して、かれは自分応諾せしゆえ出すは当然なり、自分は応諾せざりしも手代が応諾したるなれば出金の義務なしといいおりたり。かかる際にそんな理屈があるべきや、次回に同様の暴動あるときは免れじ、のみならず、その禍難は数倍すべしと小生いいおけり。およそ陰険なる人物は食言を何とも思わず、しかし、それと同時にはなはだ臆病なるものなり。毛利和歌山に寓居して当地へ帰り小生に語りしは、常楠なにかのことで債務を責められしとき、妻がさし出でてなにか無用の語を吐きしを、法官が聴きて心証を害するものとして少しも寛仮せず、一朝三万円の仕払いを課せられしことありと言いおれり。
 過日野口来たりていわく、時効にかかりし訴訟も踏まえ処をよく?めば法廷へ出し裁判を受け得べし、と。その友にして小生知人たりし者の弟に、久しく検事局書記をつとめ、今は代書人をするものあり。小生もその人を知る。小生よく知る人の聟にて平素沈黙の人なり。この人の説に、かくのごとしという。よって今夜その人を招き、野口と同道して来たるよう準備し置きしも、今夜来たり得ず、明晩来たる由断わり来たれり。その人寡慾の聞えあり、また野(294)口とも金崎(前年貴下と同席せり。只今拙宅長屋に住んで洋服裁縫工たり)とも心易く、その亡兄は小生旧知たりしゆえ、よい加減な弁護士よりははるかによき指南者たるべし。
 舎弟は小生の気の進まぬものを勧めて研究所を立つることに名を出さしめ(高田屋へ多く来たりて三百円ばかり差し出されし東京酒造組合の人々は、一人として小生の知人にあらず、みな舎弟を目あてに義捐しくれたるなり。御存知の舎弟の深川支店頭たりし亡神谷文太という人もこのことをいい出で、舎弟の仕方を難ぜし由、毛利の咄《はなし》なりし)、さてみずからいつの間にやら脱げ去らんとするは、米国が聯盟を言い出しながら聯盟に入らざりし同様、非理非道もはなはだし。また熊楠の所為穏便なりと見認めた上は地処を返付せんなど、これは自分が毎々酒を密造したり脱税したり毒を入れたり、姉の金をちょっと貸せとて借り出してそのまま返さざりしを、小生夜中に大声して責め立て弗《ドル》箱より取り出して姉に返しにやりたることあり。そんなことを指すならん。所為穏便と認めたる云々は、兄たる小生より弟にいうべきことに候。金を出さば穏便に済ませやろうなどは、それこそ脅喝というものならん。また舎弟の悴が早稲田で平沢と朋友たりしその縁で、平沢より三土を経て岩崎より一万円寄付を得たり。これは舎弟の悴の力なりといえど、平沢は小生を、パデレウスキと双んだ非凡の人なり、一見してその全身よりエマナチヨン(遊光相)を放射するを見る、毎度常楠父子より聞きしごとき暴人にあらずと、小生を見しことなきその妻(吉村女史)までも死に至るまで小生を崇めおりたり。されば岩崎の寄付は小生自身の力で、また岩崎男の弟光弥(末弘とて九州の警部か何かの娘、どこかの女学校で第一の美人との投票をとり学校を放たれしその女を妻《めと》りし人)と英国で、大英博物館でいろいろ講釈しやりし余情にもあるなり。すべて早稲田連の手で一文も拵えくれしことなし。高田早苗ごときほんの名を仮したるばかりとしらじらしくみずから小生に語れり。
 御旅宿はほんの休息眠臥だけのことなればいかようにも出来申すべく、明日野口来たらば拵えおくべく候。近所に食堂もあれば、仕出し屋もあり。手軽に飲食出来るところを選ばせ申すべく候。
(295) 小川氏は不人気なる由、最近の『大日』誌上にて承知仕り候。民事裁判は、一昨年ごろ日高郡の山田(かつて妹尾よりの帰途四十余年に立ち寄りし多額納税者、小生とこの一族の大板写真をその節差し上げ置き候)とその伯母聟(日高郡第一の山持ち、その次男が常楠の娘の養子聟)と当地にて裁判ありし。山田は至極の聾者なるに何のこともなく裁判はすみ候。また小生の末弟大阪の柳氏の仲買の大店と訴訟あり。小生の末弟は英語を能くし、まるでお坊ちゃん、何の才智もなき者なりし。しかし、真直に事の?末を陳述して(この男日本語の弁才ははなはだ麁漏千万)、幾万円とかかたり取られありしを全額とり返し候。されば飾るところなく素直に申し立てさえすればよきことと存じ候。ただし前に申せし代書人(検事局書記たりしもの)(これは特別に例の盆石の箱書きでもしてやればそれでよきなり)またはそれほどの人を同道しゆき、時々は小生に注意してあまり横道にまわらぬようとか、今少し詳述せよとか、囗をたたきもらえばそれで十分と存じ候。ただしどこへどんな聞き合わせが飛ぶかも知れず、ここが貴下の必ず働きくれねばならぬところで、その辺のことは御面晤の上、御書き留め御持ち帰り下されたく候。
 弁護士というはよい加減なもので、小生の妻の妹聟ともと同じ法廷に久しく勤めたる判事、退職して弁護士となり只今も小生と同町内に住むが、妻の妹聟がすすむるゆえこの件を頼みしに、法廷で事を争うよりは何分双方を仲裁して双方によく思われんとするの色あり。ちょっとすむことも長々しくなり候。折から拙宅北隣の主人の聟が日高郡の大地主で、出入りの者が偽書を作り、それがため大事件を起こし、多数の債主に財産差し押さえを食らい、その妻なかなかの美人なりしが、それより痴人となり今にぶらぶら致しおり。件の弁護士この件は必ず勝つとてかかりしも敗訴となり、幾度も幾度もやりなおしていろいろの物を大層な写真にとりなどし、東京までもち出せしも、こと長くなりて片付かず、ついに全く財産を失い、妻はもはや二十年近く少しも平治せず、全く失敗して家道地に堕ちおり候。
 小生は今に舎弟の余勢庇陰により一家糊囗しおるよう世間に思われては、妻子の末まで鬱懐|舒《の》ぶることなく、常に病悩して一日も家内に笑顔を見ず、また悴がかかる廃人となりし所由も分からずに終わらんことも遺憾千万なれば、何(296)分一身のため一家のための解嘲作用として思い立ちたるに候。
 今夜日記をしらべ候に、大正三年夏秋の際小生毎々頭腫れなどし不快、八月二十日より九月三日までは前後不覚なりしと見え、全く日記をつけおらず(小生には希有のこと)、また七、八月の交、亡末弟と常要と不和にて末弟逃げ来たり、夫妻和歌山を立ち退き日高郡に住まんといいしことあり。小生、田園生活(当時東京辺ではやり出せしこと)と名は立派なれど、村民の間に住むということなかなかその方ごとき夫婦に成ることにあらず、妻が美人なれば浴湯するところを毎夕囲んで眺め立ち、それを叱れば村中集まりわめく、それを静めんとて酒でも買えばいよいよふざけかかりくる、何ともならぬ物なり、それよりは何分忍耐して和歌山を去るなかれとすすめかえせり。愚痴な話を聴いても小生には分からず。封緘葉書を開かずに今に措いたもの二、三通存せり。それを常要の前、また法廷で開き見せんと欲す。
 その未亡人が四、五年前来ての話に、ずいぶんいろいろとごまかされたらしく、まことに兎死して狐悲しむ、その時小生今少々注意して末弟の言を聴き、状を読んだなら自分またごまかされずに済んだことと存じ候。(この末弟の死に様もまた怪し。今度和歌山へゆかば未亡人について聴かんと思いおる。)さて前状申し上げし小生の所有地、二町一二八歩一反別、九五六・五五〇厘(地価)、(とは何のことか今も分らず)
 (1)と毛利が小生代理として田辺税務署で写し帰りしは、大正三年七月二十九日、そして同年十月五日の日付にて常楠名義に変更しある由(従前も納酒税の必要上毎度小生の許しなしに臨時書き替え来たりしが、このときいよいよ永久に書き替えしなり。いよいよ書き替え了れりという通知もなし)。大正十四年(十一年後なり)一月十一日に及び、小生妻と妻の妹およびその夫三人初めて常楠より聞き知りて小生へ通知せしなり。さてそのことに付いて談判中(と申しても小生は流感、妻は事多くかつ病身、妻の妹および妹聟は職務多忙で日曜の外行き得ず。それも舎弟はいろいろ不在とか何とか、妻の妹夫婦も試験とか余課教授とかにて、自然遠ざかり了りし)、その(297)うちに悴が発狂、小生門を閉じ三年間見張り介抱、そのうち研究を続け、また生計のため著述翻訳など多事にて、ことに岩倉病院へ悴を入れしよりさし当たる費用の工面に寸暇なく、三、四年前野口の注意と世話で今の藤白峠に悴を移してやっと一息、加うるに平沼家より年に七百円も保助金あり、これによりようやく昨年より年々六百円ばかりはのばすことを得るに及べり。この事情ありて生活ようやく小康に及び、書き替え了りて二十七年目の今日このことを持ち出すは、全然時効にかかるべきか。
 (2)この家を四千五百円にて買い取りしは(小生が買いしにて舎弟が買いしにあらざる証拠はあるなり)、大正五年のことなり。これを大正十四年に四千五百円で買い戻さんとせしに、一万円ならでは売らぬという。よって一万円出さんというに、また売らぬという(これは弁護士がかけあいしなり)。しかして小生いつまで住むも可なりという(契約書も何も双方とも差し出さず)。しかるに租税等はみな小生が納めおるなり、常楠より出るにあらず。また最初四千五百円立て替えくれと小生が申し出だせしは、舎弟が小生の地処二町余を預かりありと小生が心得ていいしことなり。(実はそのときすでに二年前に地券を書き替えられありしを知らざりしなり。)大正五年は二十五年前のことなり。このことを今いい出だすは時効にかかれりや。
 (3)第三に研究所基本金へ二万円寄付すると言いしは大正十年のことなり(今より二十年前)。これもはや時効にかかれりや。
 (4)小生の所有物(書籍、古物、博物要本、美術品等)多く弟宅に預けあり。小生の生家は兄が継ぎたれど小生在外中に兄滅び跡方なし。ただし舎弟はもと亡父の隠居せし住宅を継ぎしもの。順をもってすれば小生が継ぐべきなれど、留学中にて舎弟がつげり。すなわち小生の所蔵書籍珍物等は、もと亡父の隠居にありしものを、舎弟が継ぐに及び舎弟が預かりしなり。この一切物件の預かり証も何もなし。ただ双方の記臆に存するのみなり。小生死したら誰の物となるか。
(298) 右四条はその心得ある人々に御聞き合わせの上(相応の御礼金を差し上ぐべく候)、御来臨の砌《みぎり》御示し下されたく願い上げ奉り候。小生は(1)(2)(3)ことごとく時効にかかるとは思わず。この三項は根底において相関連せるものゆえ、この内の一項さえ時効にかからねば、ついでに他の二項をも提出し、たとえ物にならずとも世間へ公けにして相手方の不律義不人情を鳴らし得ると思う。         早々敬具
 
     107
 
 昭和十五年三月十八日早朝
   上松蓊様
                      南方熊楠再拝
 
 拝啓。七日午後出御状は九日○時三十五分に、十日午後六時出御状は十二日午前八時前忝なく拝受。この二御状の御受けは十三日朝七時二十五分に差し出し置き候。また十三日午後三時四十八分に例の指環を価格表記物品書留配達証明郵便にて平沼氏へ差し出し置き候が、今に受取書平沼氏より着せず。同夜和歌山および当地にて久しく検事局書記を勤めたる人(今は代書人兼町会議員にて野口利太郎氏と別懇。剛直なる人)野口氏世話にて来たりいろいろ話しくれ、それより引き続き四日間来られいろいろ相談致し候。その間二ヵ所に知人の葬式あり、また妻の従弟の婿戦死、町葬あり。当方よりも参拝、間もなくその未亡人の父すなわち妻の従弟中風を発するなど、当方大取り込みのため、平沼君への郵便物と同時に認めたる御案内状を果たして局へ差し出したるや否分からず。如何のことかと案じおり候。只今この状と共に一書平沼氏へ差し上げ候間、着の上、然るべく御処理を願い上げ候。
 右野口氏世話にて相談に来たりくれ候人申すには、権利義務を主張して弁護士を入れ、また小生単独で弁論すると、十万円につき三百五十円の印紙税を要す。弁護士を入るるときはいろいろとぐずつき長引きいつまでも片付かぬこと(299)多し。(小生はそんな近例を多く知れり。北隣の家の婿は小生心易き知人の弁護士に、四、五年引きずられ、何の功もなかりしことあり。小生もこの件を十六年前その弁護士に頼まんとせしに、怪しきことを発見して中止せるうちに悴このことにて発狂、大騒ぎのため中絶せり。)去年より?《はじ》まりし調停裁判と申すは、金額の多寡に関せず五円の印紙にて事すみ候由にて、これは主として親族間の紛議を調停する新法にて、権利義務よりは人情徳義に基づき、公開せずに相応に有徳の人士を陪審せしむることの由。よってこの人小生にすすむるは、小生とにかく一切の証拠品をととのえ事情を審らかに縷述して提出すべし。然るときは判官それを熟読の上小生を召喚して、陳状中の疑点をいろいろ小生に問い、小生これに答えたる上、前方を召喚してまたいろいろと聞き糺し、さて陪審員数名の意見を問いたる上裁決する。この法によれば時効ということあまり判然せずに、古い古いことも本訴提出の履歴理由として十分に陳述するを得(民事訴訟となると時効にかかることは一切採用せぬこと多しと)、たとい全勝とまでなくとも全敗とはならずとのこと。
 さて、和歌山辺の習慣として、事治まりし上、爾後一切再びこのことにつき紛議をせぬという一札を入れくれと前方よりの要求あるかも知れず。然るときは例の気象としてそんな一札を入れぬと小生が言い張るべきところだが、そは全く野暮飛切りな次第にて、少し時日たちしのち、箸折鏡《はしおりかがみ》(箸を中央より両分すれば、いずれが兄いずれが弟と分かち難く相似たというところより、箸折鏡の兄弟という出所不明の俗語、戯曲などにあり)とでも題せる小説でも出し、人名をよい加減に作りて、表は小説裏は実録のやつを売り出し、続き物語として科学的なところ、宗教的なこと、わ〔傍点〕印のこと、大笑いのこと、感極まること等を面白くとりまぜて雑誌へでも連載せば、板権料で十分の口銭は上がり、
誰も抗議の容れ様もなかるべく、これまことに奔放自在に十分に返報は出来るはず。よって拙弟方へ住み込み訴訟片付くまで、高田屋永滞留のつもりでゆっくりと地衣の鏡検なり随筆の起稿なり採菌なり、県庁の教師等相手に講釈なり、おとなしく澄まし込んで、法廷のみで訴訟の決するをまち、万事に付けおとなしく墓参などに気をはらし、また(300)一首一句に日をくらしなど気長く静まり返らば、ぐるりのものどもの気兼ね気苦労なみ大抵のことでないから、前方へこたれること受け合いとの注告なり。まずはこれに従い、とにかく証拠品をととのえ、提出の案文編成成竣の上、右の代書人に校閲しもらうことと致し候。
 付いては貴兄に特に御頼み申し上ぐるは、その間東京方面の参考人また風聞に関する方の調整をあらかじめ御用意置き下されたく、このことに付いては御面晤の上貴意を得おきたきことに有之候。たとえば小原新三氏(当時の県知事、研究所設立にことのほか骨折りくれたる人、只今錦?間祗候にて赤十字会の幹事かなにか)へ、当時常楠が二万両出すということを聞きたりや否の問い合わせありしときは、聞きたりと答えらるるよう頼む等のことなり。まさか知らずというはずはなけれど、場合により注意を惹きおくが宜しと思うなり。これは小生より直に手書にていいやるはまずいと思う。また当時の事の衝に当たりくれたる堂野前氏のごとき、只今小生その住所を知らず。これは貴下浜口家へ聞き合わせたる上、ほぼ万一の照会のときの応答に備え置くよう御世話を煩わさざるべからず。こんなこといろいろあり、中啓、毛利、久下豊忠(代議士)、平沢哲雄、吉村勢子等、毎度東京にありて世話しくれたる人々は、十の九死亡したれば、東京辺の参考となりくれる人はなはだ少なきに弱りおり候。委細は面晤の上に譲り申し候。 早々敬具
  前日差し上げし長文の手紙は、右の案文を作る材料となるゆえ、今もあらば御返送願い上げ候。用済みての上御返し申し上ぐべく候。
 
     108
 
 昭和十五年十月三十一日夜十一時
   上松蓊様
                      南方熊楠再拝
 
(301) 拝啓。久しく御無音に打ち過ぎ申し候。小生は夏より初秋にかけはなはだ不快なりしも、おいおい泰米《タイまい》になれ来たりしか、または米がやや良質になり候か、仲秋来ようやくに気分も宜しくなり。ひたすら娘および四天王の輩を相手に図記に潜心、小生は多少耄碌し来たりしと引き替えに娘は絵が巧くなり、妻は全く臥処を離れ始終立ち廻りおり候。然る上はまず全快とも申すべく、小生おいおい老病するに随いこれではならぬと奮起せるもので、奮起するには奮起し得るだけの体力気質を整頓し得たるにて、そのかくのごとくなるに到り得たるは、桑上寄生《そうじようきせい》薬用の効験と申しても不可なく、造化全効なくもあり、また全不効もなき道理、高時、尊氏ごとき者も明治維新への到達にはそれぞれ応分の力ありしといい得るようなことと存じ候。何に致せ、一年なりとも十年なりとも、気力を恢復せしは結構至極と存じ候。それに関しては貴殿いろいろ御厚配を忝のうせし段、深く御礼申し述べ候。
 小生は先月末総理大臣より祝賀の盛典に相出ずべく招請(県下にて学芸をもって招請されしは小生のみに御座候)中村、木本、毛利諸氏が生きおらば必ず招請されたはずで、然る上は共に上京し、ついでに先日御厄介をかけたる田中弁護士殿とも親炙し、いろいろ御相談を煩わすべきなれども、今度東上する一連中に知り合いの人は一人もなく、足が不自由なるゆえ、至って懇交ある人三、五人と同行するにあらずんば、危険この上もなければ、ついに遺憾ながら不参の旨を県庁へ通告致し置き候。
 今年秋は松茸等は不作なるも、山野には奇異の菌類おびただしく生じ、村部より毎度異品珍種殺到し、日夜間断なく図録しおり候が、時々不慮の変事生ずるには閉口致し候。六、七月ごろ拙児養生中の借り別荘に付き詐欺にかからんとせしことは、すでに平沼君より御聞き及びと存じ候が、昨今あまり坐し続けて記載するより足の甲が膿化し、癌腫様の瘤を生じ、起居ともはなはだ痛み困じて候より、今朝喜多幅氏を訪い切開しもらい、大いに快方ながら不自由は依然たり。明朝もまた跡を見て貰いに行くゆえに、今夜は早仕舞いにせねばならぬところ、またまた奇異の菌おびただしく到来、不幸にも天気が暖かくなり候ため、続々虫入りカビ生じ候付き、これよりまた図録を三、四拵えるそ(302)の準備中この状を認め、みずから局へ出しにゆき候。
 さし当たり困却した近事と申すは、拙方に九月初め東牟婁郡|七川《しちかわ》と申し、四十年前に小生その近村まで例の一枚岩を見に往き候おりなどは、太古葛天氏の民とも申すべき朴素極まる村々なりしが、近ごろおいおい田辺町へも村人が出で来たる。今年御来遊のおり当方にありし下女は、その七川の首府とも申すべき地の者で、至って良質の女なりし。それが二年つとめて帰り去りしのちこの近村より来たりしもの、一人は狂女と別《わか》り、一人は九州八幡の礦山辺に二、三年おりしものゆえ、諸事都会風にて拙家などに適せず。右二人去って次にまた七川の内にももっとも辺鄙なる地より、その辺のやや長者とも申すべき家の娘十九歳なるを使うことと致せしに、まことにおとなしく言語動作も静穏で、これこそ家の重宝と思いおりしに、どうもおかしと思うことは腹が日を追うてポテッとする様子、しかしてその村よりその女と同歳の青年が手書を寄せ来たり、その女も夜遅くまで書信を調え送ること断えざる様なり。さて三、四夜前に喜多幅医士が閑談に来たりしを幸い、拙妻がこの女の腹ふくれ出したは昔いいし脹満症にあらずやとて診察を乞いしに、明朝病院へ来たれとのことにて立ち去りしを、荊妻跡より追い馳け問うと疑いもなく妊娠なりとのこと。よって明朝下女を喜多幅氏へ遣わし同氏至細に診察、卵巣まで探りしに、七月めの胎児が正々堂々と頭を膣口に向け、指もてその頂に触れ得たり。
 この上は疑うべきにあらざれば、荊妻より電信を発しその父を招き寄せしに、二日へて六十余歳の父耄碌したると、その下女の姉聟忙ぎ当方へ来たる(一昨二十九日朝十一時)。下女は洗濯しおり一向知らず。荊妻より右の二人に事態を話し、それより下女の父と義兄に逢わしめ、父と義兄より詰問するも、さらに明らかに誰に孕まされたりといわず。一向方付かぬゆえ、荊妻より喜多幅氏は熊楠と幼年よりの友にて今回教育功労者として県庁より発表されたほどの人なれば、いささかも不聢かなことはいわず、当方はこんなことに係累さるるを好まぬから、何分一時も早く父兄と伴い帰村し、胎児の父たる青年へ交渉すべし、万一胎児に加害するようのことあらば、その家族一同の面目を?つ(303)くること大なるものゆえ、何様帰村の上審議されよとすすめ、下女の姉婿感泣して下女を促し三人即日午後三時汽車にのりたれぱ、その夜八、九時ごろ帰村したはずなり。その節下女の姉聟言うには、数日前よりかの村にてこのこと大評判となり、この下女は田辺にて服毒自殺したとかの噂しきりなるより、姉聟その妻(下女の姉)と相談して当方へ下女を引き取りに来たらんと謀るうち、当方より電信届きたりとのことなり。
 小生思うに先年赤化運動、近ごろスパイ事件等ありてより、いかな辺土にも郵便局では間断なく書信を開封秘見しおり、父兄は知らずとも村にある情夫と当方の下女の間の書信を面白半分内見すること絶えず、その文意にいろいろの私見臆断を加えてふれちらすより、当たらずといえども遠からぬ噂が立つことと存じ候。さてそれよりまた二日経て、今朝拙方へ豊橋市の科学研究所とて木造洋館様の写真付きの郵便物が届く。一昨日去りし下女の名宛てなり。小生はかねて科学研究所とか霊感研究会とかいうものの怪しきことを承聞しおる上、喜多幅が下女を診察して妊娠と宣言したとき、下女が喜多幅氏に然る上はこの胎児を堕胎しくれと懇請し、喜多幅氏より刑法上それは飛んでもなきことと諭した、十分注意を加えよ、と警告されたから、世間治安の上より家長の威力を揮いその状を内見せしに、果たして「御申し越しの病態はなかなかの大患なり、それは当方の霊薬をもって平安ならしむることは出来るが、その薬は非常の希品ゆえ五十円ならでは送ることならず、入用ならばその額金を前納し来たれ」というようなことなり。よって喜多幅医院へ足の切開手術を受けに往くついでに(同氏も小生も聾、その上同氏はアスマすなわち言語不発症にかかりおる)筆談して、小生はその来書を再封の上自分の手書と同封し、今遣われて七川村より当地に来住せる者に、件の下女の姉聟の姓名と住所を聞き正さしめ、下女の老父は耄碌しあり、姉二人は他へ嫁し了り、老母と下女のみ(拙宅へ奉公に来る前は)住みおるゆえ、日夜若者の来集絶えず、それを姉聟が危ぶんで当方へ奉公に出したと聞きたるゆえ、下女の自宅へ送らずに姉聟の住所へ書留郵便でおくりやり、姉聟へ宛てた拙文には、自分は警察官と多く親交するゆえ毎度聞き及ぶところ、科学研究所などいうものはみな警察で注意しおる怪しきもの多し、良家の娘がそんな(304)ところより文書を受くるなどはもってのほかのことなり、下女の父は老耄して当世のことは知らぬ様子なれば、姉聟が前日当方を去るとき誓うたごとく、必ず後日世間へ外聞のわるく弘まるようなことをさせぬとの志を押し通すため、この研究所よりの来書を熟読の上、以後一切そんなところと文書を往復せぬよう下女を戒められたしといいやれり。これにて小生は人一人、または二人の生命を取り留めやりたるつもりなるも、今ごろどう成り行きおるか誰かは知らん。まことに人間に生きておるといろいろな事件に累わさるるものに御座候。
 四、五日前野口氏来たる。氏の方に只今肺尖カタルとか何とか危急な患者三、四人(氏の娘、男児、妹聟等々)あり、大弱りの様子。その節氏の話に、小畔氏は上京中神経痛にかかり重患とのこと貴方より承知す、と。果たして然らば委細御一報願い上げ奉り候。当方、県庁より吏員来たり、安藤蜜柑に希代の肥料を施しくれたので、咋年豊作の上に今年は一層の豊作なり。実が大きく垂れ下がりて、毎夜小便に行くごとにその実で頭を打たれ大いに驚くことなり。小畔氏へおびただしく送らんと思うも、箱あれども釘なし。詮術《せんすべ》を知らず。よって釘の送来を頼みやらんと考うるうち、野口氏より右様承りしなり。
 最近平沼君より申し越しに、貴殿は採集|事《こと》竟《お》えて帰京とのこと、小生は今秋はやや期に後れたから御中止のことと察しおりたるなり。一通り目を通し希珍の物は点をつけて送り上ぐるから、小畔氏平癒の上、小生点をつけたる品々を第一に検査しもらい、小畔氏より概報あり次第、小生特に研鑽致し小畔氏と交渉の上、各自より意見を貴殿へ申し上ぐべく候。                  まずは早々敬具
 
     109
 
 昭和十五年十二月十七日夜十時
   上松蓊様
(305)                      南方熊楠再拝
 
 拝復.十五日朝十一時出御状今日午前八時二十分忝なく拝受.小畔氏は去る八日の夜ごろ帰神されたる様子。しかしよほど多事と見え今に詳細のこと分からず。ただし今朝拝受の御状により、貴殿西宮行きと全く行きちがいとなり、同氏在京中一度も御面会なかりしことだけは十分に承知致し候。今朝同氏より来状ありしも、安藤みかん安着の報のみで他のことは分からず。ただしたしかに知れる一事は、来たる十二月二十二日神戸出発上京、二十八日まで自邸に滞留するはずとのことなり。故にこの期を外さず去秋来御蒐集の粘菌を同氏に御交付下されたく候。小生は今に菌類の育成とか急変化の観察とか、至難のことどもを多く精査中にて、眠がよほどくたびれ、眼薬を滴下しながら観察すること多く、粘菌の測定は出来ず。たとい出来ても間違いを免れず。故にまず小畔民に測定しもらい、その報告を獲たのち、自分は要点のみを検定するが捷径に有之候。今回の御採集品中には Physarum alpinum など十の八、九それと覚しきもの二、三あるも、拙方にその型品なきゆえ、ちょっと書籍ばかり見て判定し難く、巨細に各部を測定した上ならでは決定し難きものあり。
 近来天気不定はなはだしく、本日は朝来夕暮まで大風の上時々降雨、また、今朝タツマキ襲来あり。電光ほとんど終日|閃《ひらめ》き渡り、また晴天ながら雨ふりつづき、雷鳴おびただしく、写生など行ない始めても中止すること度々にて、とうとう二十時間ばかりむだに費やし候。まことに困ったことなり。加うるに去る十二日の夜、藤白嶺腹なる拙児方の特別看護人山本栄吉、五十四、五歳、例の隣組の会合に出で候に臨み、平常外出前に必ずその妻を戒飭して、家の出入り口を十分取り締まらしめてのち初めて外出する風なりしが、この夜に限り戸締まりの見廻りもせずに出で往きし。その前夜拙児例になき大声を揚げるゆえ、一同走り往きしに、夢におそわれたるなり。前例なきことばかりゆえ、山本の妻はなはだ不安心で留守するうち、十時半ごろになり近隣の人来たり、近処の坂の上り口に俯しおる人あり、当家の主人にあらざるやというゆえ、この妻駆け付け見れば、山本が件の坂の上り口の段石に俯しおる。よく見ると(306)鼻の下を石に打ちつけ少しく出血、もはやこと切れおりたり。担架にて運び入れたるもはや死に了れり。
 それより大騒ぎとなり、後ろのややはなれたる家主(青木梅岳とて伊勢の人で夫婦二十余年前当地へ流れ来たり、画をかきしが誰も顧みる者なく、よほど窮迫しおりしが、木村半右衛門氏世話で藤白嶺に家を構え、只今は西の宮その他関西で画の售《う》れることおびただしく、天晴《あつぱれ》の大家となりおり、前々月川島草堂御坊にて卒死の数日後、弔いに当地へ来たりし由なるも小生は逢わざりし。野口氏この人と懇意にて、この人の引き受けで拙児がその隣家にすみおるなり)に報じ、それよりその夜十一時過ぎ野口氏へ電報あり。野口氏方には当時四人ばかり病臥の人あり(内一人は程なく死亡)、野口氏妻もその前々夜とか便秘のため厠中で気絶、氏自身もその日風邪発熱にて臥しおり、その翌朝不思議にも氏自身軽快となり、始めて拙方へ来たり報告、それより直ちに藤白に赴き、十三日中いろいろ青木氏等と相談、十四日に死人を葬り、死人の兄と死人の舅姑と三人に拙児を護らせ、ひとまず田辺へ帰らんと駅まで赴くと野口氏の娘が来たり会い、自宅にある男児が病勢革まれりとて迎いに来たという。よって娘とつれて帰りしに、これまた不思議にその男児は快方とのこと。よって今日午後野口氏当方へ来たり相談の上、明朝早くまた藤白へ赴き死人の跡を片付け、また拙児の看護人をさらに選定して、明後日ごろ帰り来たるはずなり。
 人間にはいろいろと不慮の災難のあるものにて、何とも予測の及ばざるには歎息の外なし。拙児は一両日少しも飲食せず、野口氏いろいろ手を入れ品をかえ、やや遠方へ果子など求めにゆき、ようやくそれを食わしめ、それより飲食するようになりし由。思わぬところへ僧が来たり誦経し念仏など申すより、何のこととも分からず、気をとり失いしことと察し候。しかし野口氏帰途につくまで騒ぎ出す等のことはなかりしと申す。何とかこの上興奮せぬようあってほしいと存じおり候。ただし世は北叟の馬と申し、近ごろ小生は大分元気をとりなおし、ずいぶん寒気烈しくなりしも相変わらず火を入れず、その代りになるべく衣類を重ね用いる定めに致しおり候。御承知の大江喜一郎氏は、昭和四年来越前の林署に駐在せしが、今月よりまた当地の営林署に奉公となり、六、七日前挨拶に見えられ候。世上は(307)新体制とか何とかやかましく候が、右様のさわぎにて小生は一向何のこととも分からず、その日を送りおり候。
 まずは粘薗標品小畔氏へ御交付のこと御依頼まで、右申し上げ候。  早々謹言
 過ぐるころ某方面より御手に入れ下されたるフウチョウソウ種子は、播種しておびただしく発生候も、明治十六七九年ごろ、かやば町、小川町等の縁日に多く売りしフウチョウソウにあらず、多年拙方に多く生ぜしクレオメ草に候。去年フウチョウソウとて平沼君より入手せし種子をまきしも、やはりクレオメ草を生じ候。近年の書籍にクレオメソウを西洋フウチョウソウと命名しあるより、二者混同してともにフウチョウ草と相成り、かれこれするうち、昔のいわゆるフウチョウソウは失われ了りしことと存じ候。
 右のごとくフウチョウソウには花弁四つ、正中より(イ)長柄を挺んでその頂上に雌蕊(子房)一と雄蕊六を具う。クレオメソウは花弁四つの正中に雌蕊(長柄の頂に子房あり)一あり、そのぐるりに雄蕊六あり、別にフウチョウソウに見る(イ)なる(花弁群と雌雄蕊群の中間にある)長柄なし。またフウチョウソウは五小葉で一葉となり、クレオメソウは通常七小葉で一葉を成す。松崎君に御逢いの節、もし今もフウチョウソウの種子あらば頒与を乞いたく候。(西洋フウチョウソウすなわちクレオメソウは拙方に多く、和歌山市などには竹林下またははきだめ〔四字傍点〕などに多く野生しおり候ゆえ不入用に候。)
 
 
 
(308) 貴殿毎年季節に後れて深山に入るをはなはだしき愚策と笑いおりしに、今年はとうとう希有の収穫ありし。どうかその通りにありたしと念ずる一事と申すは、北インドの山腹に生ずる木立ち亜麻は、当地へ四十年ほど前に来たりてより、俄然花節を変じ、毎年十一月末十二月初めより開花し、さて一朝霜にあうと湯を澆《そそ》ぎしごとく全然爛れて枯る。またニオイスミレは、英国の野生品は四、五月咲き盛るものなるに、当地へ四十年ほど前に来たりてより、毎年十二月初めより二月終りまで咲く定めとなれり。しかるにスイゼンジナは、三十年近く植えみるに、毎年頑固一点張りに十二月上旬まで気力を養い、十二月十日ごろよりつぼみを現わし、十六、七日ごろ以後にいよいよ明朝は咲くべしというほどに用意成ると、その翌日は必ず霜にあいて未開のまま、またはやや半開に垂んとしたまま、ことごとく爛れうせ候。毎年かくのごとし。去年は枝を良く伸ばして植木飾り棚の下にはいまわり、今二、三日して花を開くべしと思う間に、例の霜で枯れ候。しかるに今年は一つの枝を先例なく六尺あるいはそれ以上伸ばして、安藤みかんの枝葉繁れる下に這い行き、昨夕よりつぼみがやや半開しおり、この勢いでは明朝または明後朝、少なくとも五、六花は開くことと察しおり候。ただし柑の蔭にまではいのびたれば、花に霜はかかるまじきは明白なるも、そこまでのびたる長き茎にちょっとでも霜がかからば、その茎もそれより生ぜるつぼみも消滅は明白なれば、何とかその長き茎を蓋《おお》いやらんとむしろ〔三字傍点〕などを捜せど、今夜見当たらず。妻子を起こすこともならず、明朝むしろを捜さんと存じ候が、あるいは今夜中に霜降りて開花はおじゃんとなるかも知れず。むやみに同一のことをおし通すも危険極まることと存じ候。さてこそ小生も近来衣服だけは厚く著ることと致し候。                      敬具
 
     110
 
 昭和十六年三月二十日早朝
 
 拝啓。三月二日朝七時五十分に貴状拝受。その御受け申し上げんと思ううち、小生ことのほか脚悪く困却、その前(309)後に故石友(佐武友吉)の妻七十八歳にて小生と同様の病患にて急死。またそれより十七日めに(本月十日)、小生現存最古の友にて幼時より小生の身体を診察し来たれる喜多幅武三郎(医士)、これまた脳溢血で死亡.(画の名人川島は昨年十一月死亡。)喜多幅より一日前に小生と同歳にて旧友小松省吾という林学士(滝の川立教大学教師)、これまた脳溢血で死亡。小生ほとんど途方にくれおり候。
 しかして田中氏鑑定の件の外に、近来小生の著作権に付き中央公論社、大岡山書店その他より返す返す交渉あり、これを打ちやりおくと飛んでもない阿房な目にあう憂いなきにあらず(何処の誰とも知れず南方全集と銘打ちたる一冊切りの本を出しある様子)、これらの件に付き貴君を煩わしたく心がけおり候も、野口氏より承り候は貴君近ごろ御不快の由、また田中氏の件および著作権の件は委細に順序立てて申し上げねばならぬこと多く、小生も不快では事《こと》果《は》つべくもあらず。今少し快方の上申し上ぐべきが、御取りはからい下さるべきや、伺い上げ奉り候。いずれも先方へ御面会御まとめ下されたきなり。また小畔氏より枯菌客秋来御採集の分査定の名表御入手あらば、ちょっと御見せ下されたく、小生一覧の上直ちに御返し申し上げたる上、そのうち著しきものをみずから査定の上貴方と小畔氏へ意見を申し上げ、粘薗の方はぜひ今年中に略本なりともひと先ず出板致したく候。          以上
 
     111
 
 昭和十六年十月三日午後一時前より認
   上松蓊様
                        南方熊楠再拝
 
 拝啓。九月二十七日出御状二十九日朝八時二十分拝受。医療方法に付き種々御教示、一々日記に控え置き御礼を厚く申し上げ候。その後雨天も止み風も静まり本日ごときは近来稀なる早朝来の快晴にて、昨日までと引きかえ全く四(310)海浪静かなり。そうなるとまたわれわれの人気も多少変わり来る物と相見え、やや平穏に相成り候が、治に居て乱を忘れずとかや、この際いっそ左の件にても提出して貴答を乞う。今春喜多幅医師死してより六十年来の拙?につきての顧問全く途絶え、暗夜に灯を失いしごとく、事に付けてどうしてよきか分からず困りおり候。
 小生目下もっとも困りおるは、前日申し上げたるエロダニは累日の駆除で(また季候の変遷で)もはや迹を絶ちたるようなるも、これがための病患は今に少しも緩和されず、日夜迷惑はなはだし。最初は陰嚢をしばしば咬まれ、また毎夜尿道の入り口を犯され痛痒絶えざりしも、アルボース石鹸で毎夜洗い、また女どもをして腰巻き肌着等を日に幾回となく探索せしめて、今となってはもはや一疋も見付けず。その方は平定と致して、今度は陰嚢全体が痒く尿道の入り口(すなわち春本に鈴口《すずくち》といえるところ)が昼夜痒く、ことに小便を出して直後良久しく痒さつづく、これに触るると一層痒さが弘まる。
 小生往年中辺路の近露の木賃宿ごとき所に一泊せしに、夜中陰嚢に火が付いたごとく熱くなり、翌朝宿を出で栗栖川まで採集しながら走るうち、だんだん弘がり、田辺へ帰りてのち三、四十日止まず。ある人の策を用いヨードチンキを塗抹し、熱さ耐え難き都度大団扇であおぎさましなどして、陰嚢全く焦げ、終《つい》には河豚の皮をわき返る鍋に入れたるごとく、陰嚢の皮が縮み上がり裂け落ちてのち癒えたり。全くの木賃宿のふとんより強烈なるたむし〔三字傍点〕を伝染したるなりと医士は申し候。今度の痒さもそれと同様にて、たぶん初めエロダニに咬まれたる痕へたむしが弘がりたることと存じ候。鈴口も初めはエロダニが進入せしことは事実なるべきに、そうそう久しく住みおるべきにあらねば、これもたむしが犯入しおることと存じ候。よって往年の例に效《なら》いヨードチンキをすりつけやらんと存じ候が、三十六歳のときとはちがい七十五歳となりてはそんな強烈な薬を用い得ず。
 先年拙児陰茎にたむしを生じたる節。喜多幅氏考えて硫酸鉄(緑礬)溶液で浴湯を立てて入らせしことあり。拙児は狂人で少しもこれに入らず。痒きときごとに口笛をふき庭中を狂い走り、また金魚池で患部を洗うて止まず。いよ(311)いよ病患は弘まる。今度は喜多幅氏グワムとか唱うるキハダの粉のようなものをなにかの油で解き、患部に塗らしむるに、久しく乾かぬゆえ病人不快はなはだしく、また一切用いず。医は意なりというに。病人が用いるを嫌うものをすすむるは不用意の至りと小生歎息せり。ところへ近所の薬店に、どう書くか知らず、オイロ(Euro?)と称する水彩色料ごとき金属封筒に入れたる軟膏様のものあり、妙薬なりと聞き及び、それを用いて拙児はさっそく平癒せり。この軟膏はこれを指尖に付けて患部に塗抹すると久しからずして乾き、患部が快く乾きてその皮がフケのような細屑片に化して落ち去り、病菌もそれと共に飛び散りしまうと見え候。
 このオイロはそのころ当地方にずいぶん売れ行きたるものなるが、只今御地になきことにや。ありたりとも流行後れとなり、古いものはきかぬことと存じ候。ただし密封したる物ゆえ全く薬効を失うたと限らず、今も多少きくかも知れず。あらば安価な物ゆえ一つ送ってほしいが、鈴口などにそんなものをぬるはあるいは危険かとも存じ候付き、緑礬溶液で悴を毎夜入浴せしむるが一番安全と存じ候が、大抵どの程度に緑礬を水に溶かしてよきか、聞き合わせて御知らせを乞う。これはオイロごとき強烈なものにあらざれば、鈴口に入るもさらにかまわずと存じ候。この地の医者に聞き合わせても多少分かるべきも、医者というものは年来懇ろにせしにあらざれば一向親切気なく、銭をとることが専務なれば、当座払いの何ごとをぬかすかも知れず、そんな輩に聞き合わすよりはまず貴下に伺い上げ奉り候。
 この病患がすむと、その次に例の田中君に聞き合わせてほしい件々と、今一つは著作権一件なり、これはその節一一具体的に詳記して御助力を乞うべし。著作権も従来ごとく無関心で打ちやりおくと、いつの間にやら全く自分の知らぬ人々の贏利をしてやられ、自分の丸損となるのみならず、その上、思い懸けなき禍害を蒙る次第にて、近来小生も焦慮し出し候。
 まずは右願い上げ候。               敬具
 
(312)     112
 
 昭和十六年十月十一日早朝
 
 拝啓。前日御願い申し上げたる‘Wood, Illustrated Natural History’は、ちょっと売本御見当たりなきことは聞きおり候。さて野口利太郎氏一昨日拙児を訪問、一昨夜二時に帰来、咋朝いろいろ近況を承り候に、至って容体宜しき様子。Wood の書は室内に置きあるも見ること希なる様子。小生今度大阪毎日社員よりペンギン号ココア(粉末)を贈られたるに付き(自分用いると必ず大便閉を起こす)、近日それを拙児方へ持ち行きくれるよう野口氏に頼めり。しかして三省堂より先年出板、この辺にも多く買われたる『日本動物図鑑』、これは近ごろ毎度割引き値で売り出すことあるが、どんな古本でも宜しく、横川氏に頼み、また貴君の手で探し出し値を御申し越しあらば、為替を送り上ぐべく、一冊買い取り御送来下され候わば、ココアと共に野口氏持ち行き、Wood の書は六十年ばかり古いものゆえ今の世に後れたれば、最新の書かつ日本の物を多く列図し名称も覚え易ければ、これと引き換えに来たれりとて、Wood を当方へ回収すること容易なるべしと野口氏いうから、何とぞこのこと宜しく願い上げ候。
 
     113
 
 昭和十六年十二月十日午後四時
 
 小生は過日厠中にて後頭部を打ち、また一夜に五回も闇中に偃《ふ》し倒れ今に大病。それゆえ北地より御帰還の御知らせに接して返事も差し上げ得ず。本日|沍寒《ごかん》中に珍しき菌を入手、先刻より図記せんとすれども事成らず。御送来の香書はさらに一読に湛えたるものにあらず、送還せんと欲すれども人手乏しく、止むを得ずそのまま焼き棄て候間、悪しからず御了解下されたく、手不自由ゆえ十分筆を運び得ず候。         以上
(313) 昨日安藤蜜柑一箱発送せり。当地に箱なく終《つい》に和歌山にて新しく板を拵え当地へ送らせ、当地にてまた人を傭い箱を作らせ候。はなはだしき手数なりし。かかる難行中に知りもせぬ人の著書など送り来たらぬよう願い上げ候。
 
(317)   山田栄太郎宛
 
 昭和二年八月十九日午後八時
   山田栄太郎様
                        南方熊楠再拝
 
 拝啓。その後は大いに御無音に打ち過ぎ申し候。御尊家相変わらず御盛適の御事と察し上げ奉り候。拙方は今に病人平治致さず、もはや二年六ヵ月という長煩いにて、一同疲労を極めおり申し候。何とも致し方も無之きところより、小生は多年勉学の成績を幾分身後に残したく、只今「続々南方随筆」起稿中に有之、たぶん今年十月までに出刊相成り申すべく、その節は一冊差し上げ御一覧に供し申すべく候。
 前日、東京三田村玄竜(鳶魚)氏へ「彗星夢物語」のこと懸け合い候ところ、昨今かようのものの出板は時好にむき候由にて、すでに東京春陽堂(これはずいぶん大きな出板業の由)より三田村が多年集めおきたる『未刊随筆百種』と申すものを一冊三円五十銭ほどにて十冊か十二冊出しおり、相応に売れおり候由。その内へ右の「彗星夢物語」を入れて出したら大いに名も挙がることに候えども、何さま大部の物にて、中には世間にすでに知れ切ったること多く、また注釈を加えねば日本中の人一汎に分かり難きことも有之、これは三田村氏にて出来ることに候えども、左様する(318)ときはまた長々と時間がかかり、そのうちに原本が紛失さるる等のことなきにあらず。かつせっかく羽山氏の祖父君が丹誠して書かれたる物を、ただで板権を譲るということもならず。この交渉は大分骨折れ候に付き、小生の家累少し落ちつき候上、一冊分だけ小生の注釈を入れて小生が抄出せるものを三田村氏へ送り、日を限りて検閲しもらい、その上出板の見込みあらば羽山氏へなり貴方へなり、三田村氏より交渉することと致し申すべく候。なに様右述の病人あるゆえ毎度思い立ちながら早急には事参りかね申し候。三冊ばかり今に写しのこり有之、何とか今秋中に写し了り、ひとまず羽山氏まで返上申すべく候。
 また小生知人にて岩手県人|中道等《なかみちひとし》という人、東京市外中野町へ史籍出板会とか申すものを立て、右様の旧書を然るべく当世に向くように仕立てて出板することを致しおり、只今『南部叢書』とか申し、岩手県旧南部(盛岡)藩領地の旧史書を集め、一部三十円で出しおり、この人は至って実体な人に有之、この人にも一度交渉致し見るべく候。しかし、旧奥州の人は上方の言語事情に通ぜぬところより、やはり小生が多少紀州言葉を解釈して注を入れねば十分に分からぬこと多かるべきかと存じ候。何とかそのうち談じたる上、中道氏にして見込み立たば、同氏より羽山氏へ申し上ぐるよう致すべく候。
 久しく家累多く御無沙汰候がちのところ、只今少康を得おり候に付き、今夜ちょっと右認め申し上げ候。小生も今少し家累治まり候わば、一度親戚のものに(矢田村|入野《にゆうの》)面会のため貴地方へ罷り出でたく、その節御面談申し上ぐべく候。羽山氏へも宜しく御伝声願い上げ奉り候。「彗星夢物語」は樟脳とナフタリンをつめこみ密蔵致しおり候間、御安心願い上げ奉り候。             早々敬具
 
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 昭和四年三月十三日午前○時半書き始む
(319)   山田栄太郎様
                     南方熊楠再拝
 
 拝復。十日出御状は十一日朝拝受、また和海布一袋は十二日午前十時過ぎ安著、ことごとく御厚礼申し述べ候。小畔氏より十二日夕来状に、十日の夜写真安着候由にて、昨夕の来状中小生へ宛てたる粘菌類概報添状の余白に、写真に関する感状を付しあり。前日の小畔の状を御保存の上は、それと共に御まとめ置き下されたく、ここに同封仕り候。この小畔氏は七歳ばかりの時父にはなれ、
 父は越後長岡藩の有名な剣客にて、河井継之助、外山修造氏等に従い戦争し、敗軍の後非常に因りおりたるところ、十年の西南戦役に復讐のため志願出陣し、豊後の竹田辺で薩人六人を斬りたる後討死致し候。三男ありてことごとく貧乏中に勉強し、長兄は東京で大なる銀行の頭取となり、二男は尺八を始めて西洋の音楽通り譜を作りて吹くことを教え、高名の人なりしが、二人とも五、六年前死亡。三男四郎氏は英和学校卒業後船員となりて久しく郵船会社外国船に乗り込みメルボルン、香港等の下宿におびただしく蘭類を植え、今より三十年ほど前に華頂宮《かちようのみや》殿下や大隈侯よりも多種の蘭類を集めありし。明治三十四年末、小生(三十三年十月帰朝)和歌山の舎弟常楠方にありしも、この老夫婦小生が和歌山におると、小生在外中種々の不正を行ないあることを、親族中常楠平生に快からざる者どもや亡父母の知人が、小生に告げ裁判などを起こさしめんと工《たく》む者少なからず。したがって小生が和歌山におるを好まず、小生またかかる不親切のものの家にありては何も出来ざるゆえ勝浦にゆき、それより那智山に趣き、一ヵ月二十円で暮らし、毎日山中に遊び、それより二年半同地に住みたるところ、田辺の監獄署員参詣したるにあい、旧友喜多幅氏そのころ盛んに医業を行ないおると聞き、当地へ来たり、亡父の知人たりし故多屋寿平次氏方に寄居し、次にその借屋におきもらい、三年ばかりして喜多幅の仲人にて妻を娶り候。那智山へ始めて行きし次の年(三十五年)の冬、小生一の滝の下にて浴衣一枚に繩の帯で石に生えたる地衣を集め(320)おるところへ、船員らしきもの一人来たりいろいろ話すと、その人は蘭を集めにこの山へ来たりしという。よって観音堂の前の中川烏石の亭へ同行し、そこに盆栽せる蘭を見せ候。烏石は田淵豊吉が毎度とまりし常磐屋の今小町とか称する娘の祖父なり。早く故人となり候。それより自分の宿処へ同道し牛肉にて饗応し、郵船会社に勤務の旧友のことどもを尋ねて後立ち去り候。その人が小畔氏なり。爾後不断小生と文通し、いろいろと小生を世話しくるるうち、ついに郵船会社重役となり、去る大正十一年小生植物研究所設立の基本金募集に上京せしときも、同社重役中島滋太郎(十六歳のとき故蕃次郎氏とつれて毎日共立学校へ通いし人にて、後にロンドン勤務のときしばしば小生と動物園などへ行けり。数年前郵船会社長伊東米次郎氏に対し、この人が反旗を挙げ、新聞社へ内情を投書せしより大騒ぎとなりたるなり。その時小畔は札幌に勤務にてこのことに関せず難を免れたり)と共に郵船会社内をかけまわり、およそ四千円ばかり寄付金をまとめられ候。
ずいぶん苦労せし人だけあって、悟りも宜しく、むやみに金を積んでも何にもならずとて多忙の余暇に謡曲を稽古し、素人としては東京に一、二の謡曲家(右述の中島氏は高名な素人浄瑠璃家たり)なりしが、蘭の栽培家として有名なりしこと上述のごとし。しかるに蘭を栽培するは生きたもの相手ゆえ職務多忙にては到底永持ちの見込みなしとてこれを止め、さらに顕微鏡にかかり、小生に就いて粘菌学を修め、小生を除いては日本一の粘菌学者たり。それらの縁にて小生のためにおよそこの二十年間に四万円ほど出資しくれあり候。しかるに拙弟常楠は、小生が植物研究の妨碍を防がんとて大正十年春初、隣家の主人と大喧嘩せしを機とし、主として小生に植物研究所設立をすすめながら、小生が東京その他より四万円近き寄付金をもち帰れるを十五と四三銀行に預入せしを不快にて、それより全く小生と絶信し、約定の出金を一文も出さぬのみならず、従前毎月送り来たりし小生の糊口料をも送らず。小生は研究に余念なくて三年を過ごせしも、そのまま打ち捨ておくべきにあらざれば妻を上せ談判せしめしに(みずから行かんも、熱病にかかりにげ帰り、この地にて二ヵ月臥したるなり)、妻は当地の生れにて和歌山のことを知らず、また小生兄弟の(321)履歴等を多く知らず、故に種々翻弄されて嘲笑裡に帰り来たり候。
 かかる紛議を洩れ聞いて拙児は日夜憂悩し、ちょうどそのころ卒業試験、また土佐高中受験の準備中なりしゆえ、はなはだしく脳を痛め、土佐へ渡る船中大風波にあい、高知へ着せし時はすでに発狂しありしなり。この発狂後満三年二ヵ月、小生夫妻と悴を幼時預かりて養育せる老人(当地の?客、今年六十八歳)と三人で間断なく介抱せしもその効なく、終《つい》に昨年五月洛北岩倉病院へ入院せしめ、特別看護人を付するゆえ毎月二百円ずつかかる。悴発病してより小生その方にかかるゆえ著述等で思うように金はとれず。研究資金の中よりその費用および一家の生活費全額をとり出すというは筋道に外れたることゆえ、研究資金を出してくれたる内に拙家の内情をみずから来たりて視察し同情しくれたる人々よりさらに出金しもらい、それにてどうやら今に生活もし、また悴の入院諸費をも払いおれども、いつ平治して出院するやら先途見えず。また三年も悴の介抱にかかりて研究上の成績出板も後れおれば、それが世に顕わるるまではこの上寄付金を募ることもならず、まことに困り入りおるなり。
 小畔氏は悴発病以後二回までも当地へ来られ、実況をよく知り悉《つく》しおり、したがって同父同母の常楠の非道と対照して、一月に貴方で小生を懇待されたることを、和歌山県人にしては希有のことと落涙を止めずに感心候ことと察し候。
 過ぐる明治三十五年夏、小生|鉛山《かなやま》温泉にありしとき、田辺、喜多幅氏より使あり、羽山直記氏病大いに悪しと承り候も、小生帰朝の次第が上述ごとくはなはだ面白からず(これは小生今しばらく英国でふみこたえたら、ケンブリジかオクスフォールド、いずれかの大学におかるべき日本学の助教授になるところを、常楠が小生の学資を送らざりしため、小生は二年ほど日本絵の才取りなどしてぶらつきおり、そのうちロンドン大学総長の世話にて右の日本学教授となるはずのところへ南阿戦争起こり、そのことも中止の様子、かつ英国一同節倹自戒して日本の絵画など売れず。よって止むを得ず帰朝せしなり。駒井某という新聞通信員がその後渡英して件《くだん》の助教授になり候。小生のお蔭でこの(322)人は大きな拾い物をしたるなり)、出立の時に比べてあまりに見すぼらしき帰朝の仕方ゆえ、羽山家の人どもにあわす顔なしと卑下して、もし喜多幅が塩屋へ馳せ付くるなら、宜しく事情をのべおかれよと申しやりしが、喜多幅はその時もその後も塩屋へ立ち寄らぬように察し候。その後十年ばかりして拙妻の懇交ありし西山絹代という女より、羽山氏の母堂は近来老耄しあり、何とぞ生前一度南方氏にあいたしと時々いうと聞きしことあり。その時は小生神社合祀反対にて大議論大多事なりしゆえ、とても行き得ざりしうちに母堂逝去と承り候。小生は日常不断令閨の二兄を夢に見るのみならず、日中にても眼前に見ること多く、全く念頭を離れぬゆえ、いつか参上せんと思いおりしも、和歌山の輩、ことに舎弟の一家が小生十四年も海外にありながら博士にもならずに帰りしは、まことにけしからぬ男というをもって、今に自分父母の墓参さえもせずにあるものが、いかに懇交特別なればとて他家の亡跡を訪うべきにあらずと心得て延引するうちに、今度川上村へ研究に行きしを機会として、墓参は省きて貴宅を訪いしなり。これにて年来の宿望も半ば以上は遂げたれば、その始末を詳述して後代に伝えんと存じ候。古ギリシアには心友ということありてギリシア開化(これは前後に類例なき人類最高の開化と申す)の基本たりし。日本にも支那にも朋友を五倫の一と致し候。しかるに近世そんなことは全く跡を絶ちたるごとく、ギリシアと同等の開化などは愚か、手近き五倫の一つは空言虚辞となり了りおり候。小生はこのことを述べた一文を作り、僅少数の友人に配布せんと存じおり候。それに先立って左の人々へも過日の写真を御発送おき下されたく候。
    東京市外、大井町千百四番地   上松|蓊《しげる》
  これは初期の衆議院副議長たりし故安部井磐根翁の猶子で、かつて古河商会の下関支店長たりし人なり。小生の植物研究所設立に一番奔走され、今も東京方面のことは小生代理として処分しくれ候。
    福岡県小倉市上富野四九〇   宮武省三
  これは小倉の大阪商船会社支店の司配人なり。悴発狂後小生と文通す。故に大抵の人なら手を引くところなれど、(323)この人は然らず。植物研究所ごときは事急になるべからず、宜しく間断なく骨折るべし、然る時は必ず成就の日あらん、自分郷里(高松市)に万貫寺という真言宗の寺あり、囘禄ののちその住職、下級の人々に説き文銭一文ずつ寄進しもらい、ついに一万貫を積み得てこの寺を建てたりということで、今に一円二円ずつ集め、また自分の著書出るごとに売上げ高をことごとく寄付しくれ候。その篤志、小生は三万円一度に寄付しくれたる人と径庭なく感心致し候。
    和歌山市福町十八番地   木村増三
  日高水電の副司配人かなにかなり。小生姉(故蕃次郎氏面識あり、若きとき和歌山市第二といわれし美女なり。大隈侯かつて延見して希有の女中の人傑と称せられし由。大正十三年三絃をひきながら頓死)の長女の夫なり。小生親類中へもせめて一枚留め置きたきなり。
    日高郡矢田村入野   古田幸吉
  これは小生亡父の弟の悴なり。この者、舎弟常楠方に十余年主管たりし。その父八十余歳にて山に入りて柴を刈るところへ、大なる樹枝落ちて頭を傷つけ、破傷風になり死亡。兄弟多かりしも男児みな死し、この者の外に家を継ぐべきものなし。よって暇を請うて村へ帰りしを、不埒なりとて一文銭も与えず。世に自家系統の絶ゆるまでも忍んで奉公するものあるべきや。実に人外の処置と存じ候。先年入野の大山の神社(『紀伊国神名帳』に出ず)を八百円出せば存置すべしと県吏が申せし。小生何とかこれを保存せんと奔走せしも、肝心の村民が合祀を望むと申し張るに付き、常楠に八百円出しやれとすすめしも聞き入れず。この社は亡父の生家代々の産土神《うぶすながみ》にて、いわば小生兄弟の氏神なるにかくのごとし。今ならば小生一人で八百円くらいは工面し得ることなれども、当時小生は金銭乏しく思うままならず。その時、古田を殆め三人のみ小生に同意して存置を主張せり。それより以後、小生は父の生まれた地ながら全く入野の人と絶縁せり。古田と同じく小生に同意せし二人には、少々の金を与え(324)その志を賞せんと、川上村でつかいのこせし金を胴巻に入れて貴宅まで持ち行きしも、古田来たらざりしより贈らずに帰れり。
 右四人へ何とぞ写真おくりやり置かれたく候。この外におくるべきもの一人もなし。もしこの上望み来たるものあらば、子細を聞きたる上、小生より貴方に報じ(貴方に写真権あることと存ずるゆえ)、その上その人より直ちに塩路写真舗に注文して一枚買い取ることと致さしむべく候。
 小生は「日本粘菌譜」と『南方随筆』の続々編を出板の上、和歌山へ上るべく候。かの地方の藻を研究する外に用事なきゆえ、その節和歌山図書館にて対照し、刪補して羽山氏の「彗星夢雑誌」抄を東京で出板致すべく候。板権料はあまり多からぬことと存じ候も、羽山氏へ贈らしむべく候。小生毎月奇書する江戸生活研究『彗星』雑誌の縁により、春陽堂がたぶん出板致すべく候。「彗星夢雑誌」は三八編二冊だけのこりおり、これはそのうち写しとり候上、羽山氏へ還し申し上ぐべし。
 明治十九年春四月ごろ小生羽山氏に宿りしとき、御坊町辺の某家より見せに来たりし「道成寺縁起」一巻ありし。これはそのころ紀州へ流れ来たりし歌川|芳山《よしやま》という浮世絵師、和歌山湊北町通りで芝居の看板などをかき暮らしおりたり。それが安珍清姫を当世風の男女に画きて、芝居の看板に用いる麁末ながら華麗な彩色で画きたるものなり。画としては至って下品なものなりし。それを開くと一番に安珍が宿りし家に女子が生まれたところなりし。誰かがあんな所が一番に出たのは今度(羽山氏母堂当時懐孕の徴見えし時なり)生まるる子は常例に外れて女なるべしと申されし。さて、秋になりて小生蕃次郎氏を迎えにゆき、
  園田宗恵、川滞善太郎博士、寺村光寿(小生末弟の葬所なる一向寺の僧の子にて仙台にて死せり)等最近出立して東京へゆくゆえ、ぐずぐずすると間に合わぬときき、小生和歌山を朝立ち、藤白、蕪坂、糸我、鹿瀬をやみなしに走りて羽山氏宅に着し、いそぎ旅装を調えしめ翌朝すぐ出発せしなり。そのことを蕃次郎民がかきたる紙片、(325)(この初句忘る)死しては何を報ひまし山越えてきし人の誠を
  久しく身に添えて持ちおりたるが(この紙片は写真と共に頼倫侯も覧られたり)、ロンドンでなにかの事変の節大破せしにより焼き亡い候。それより人力車にて塩津辺までゆき、それより船をやとい和歌浦の長汀に上陸、そのとき有田郡のどこかの若き男女、十八歳と十七歳ばかりのものが駈落ちする体で来たり、小生等の傭いし船へ安値でのりこみ候。その成行きは知らず。小生等二人は和歌の松原を歩し、岡公園の横なる川瀬博士を訪い立談し、それより鍛冶橋を渡り、土橋という足袋屋まで蕃次郎氏をおくり届けて小生は自宅へ帰り候。土橋の家にそのころ小生妹と同じく女学校に通う女子、十五、六歳ばかりなるがありし。明治三十五年春、小生和歌山の歯医へ行きしに三十近き婦人小生を懐かしそうにしばしば見る。不思議に思い、翌日また歯医に行きしに、昨日来会せし婦人は土橋の娘なり、あれは南方熊楠氏であろうと小生立ち去った後尋ねしとのことなりし。この娘はどうなったか知らず。
翌日出発する少し前に令閨が生まれたるなり。往時を追懐して感慨無量に候。
 去年死せし志賀重昂氏は、明治二十年ごろ井上、伊藤、陸奥等が日本をむやみに欧米化してその下風に安んぜしめんと企てたる際、屹然国粋主義を唱え出だせし人にて、今日までも日本人がまるで外国の走狗となり了らざりしは、この人の力多きにおる。死亡に臨み、南方はわが先に立って行くべき人なりとて、その全集を出板するに第一の序文を小生に望むよう遺言され候由、その男富士男氏より申し来たり候。この志賀氏は一生官の力を借らずに世界中あるきまわり、いろいろと視察して国民に尽されたる人に候。しかし、この人は大隈内閣の時一度役人となり候。およそ欧米には官の力を借らず学位などを受けず、自分の独力にて発達する人多し。日本にはそれがなく候。小生は二十四、五歳のとき、博士くらいにはなれたものなれども、何とかみずから範を示して斯風を邦人に鼓舞したく、ずいぶん入らぬところまで苦労して今日に至り候。兄弟どもが小生を卑蔑せしも無理からぬことにて、今に邦民一同にかかる弊(326)風多く、実力をすてて虚号を尊び候。幸いに多少の心友小畔氏等の力により、近年少しく実力を認めらるるように相成り候。それに付けても羽山氏二方が蚤《はや》く世に即《つ》かれたるを残り多きことに存じ候。
 本月五日服部博士(宮城内、御研究所長)突然拙邸へ来られしことは、まことに意外にて、神戸辺までもいろいろと噂さ候由、小畔氏より申し越し候。よくよく事情を承りしに、聖上は紀州の海を御召艦が通らるる際、なるべく人民をいささかも迷惑させぬようの御思召しなるより、木下、野口二侍従が御碇泊処下検分も全く世に知れざるようとの御事で、県庁へも一切知らせられず。しかるに新聞社はえらいもので、たぶんは著名な旅館の仲居女中などに平常内意を含め手当をしてあるものと見え、二侍従と服部博士が大阪にて花屋旅館へ一泊せしことを聞き込み、翌朝(五日)の紙面に出し候由、たまたま瀬戸の白浜館主(湯川富三郎)大阪に用件あって滞在中そのことを読み知り、花屋の女中を尋ねて内探し、五日午前中に出立と聞き知り、然る時は必ず自分のホテルに来泊に相違なしと判断して、万事をすてて五日の正午までに急ぎ返り候途中、和歌山市駅を始め由良駅長や御坊の自働車会社にそのことを報じ、また当町自働車会社へも報じて白浜へ帰り候。和歌山市駅長はそれがため六時問とかみずから改札所に立って偵察せしも、それらしきもの見えざりし由ゆえ、よほど姿を隠して来られしものと存じ候。(二侍従は大阪より乗船、博士一人は陸行せしなり。)しかるに由良駅に来たれば、御坊自働車会社より東京生れの角谷某を案内者としてオートバイ(よほど大なるものにて、小生宅の門前一ばいに壁をふたげたり)一台を由良駅へ廻しあり、角谷氏は直ちに博士を見出だし(これは和歌山市駅とはちがい、さすがに田舎にて、由良駅で下りる人数は少なきゆえ服装人品等よりたちまち見露わせしなり)、乗らんことをすすめるゆえ、止むを得ずのりしにて、博士はかくまで秘密にせしことをいかにしてこの辺の者が知りおりしかを今に怪しみおることと存じ候。さて、車中にてこのオートバイを何処へつくべきかと問いしに、田辺の南方邸へ直行せよとのこと、角谷氏は小生の宅の在処を知らぬゆえ、当地自働車会社へ着けて問い合わす。その時すでに自働車会社よりの報知に接して山下、永野(共に県会議員)と市長代理(市長は辞職中)(327)と警察署長が馳せ付けまちおりたるなり。さて、署長は南方は人にあわぬ人ゆゑ、自分は懇交あれば案内すべしとのことで、案内せしなり。ここで町長代理と県会の二人が何とか思慮あるべきところなりし。(県庁より一向通知なきこと、南方邸を訪うは一私人間のことなればなり。しかるに湯川氏の報知により、どうも南方邸の次に瀬戸に向かうことと察し追い来たりしなり。)かく多人が来たり自働車とオートバイで拙宅の前通りを塞ぎまちおるゆえ、博士は小生に面して久しく止まるを得ず。夕刻も逼りくる、小生の両肱の氷創を見たるのみで、何の用件をも述べずに乗車して瀬戸に向かわれ候。
 その後当町の主立《おもだ》ちたる人々および瀬戸、新庄村長等おのおの署名して小生より博士へ、何とぞ御召艦田辺湾に碇泊されんことを取り成しくるるよう頼まれよと望み来たり候も、とても覚束なきことと考え候。しかし東牟婁郡よりはいろいろの団体より那智山とかを御一覧あらんよう請願状を電信にて県知事までさし出しあり(県知事は今にこのことに付き、何たる指図も通知すら受けおらぬなり)、御召艦が通過せざる東牟婁郡民さえかかる上は、西牟婁郡民が丸きり一言も申し出ぬもいかがなれば、小生は服部博士へ、ならぬこととは存じながら、右連署状を封入して宮城宛で一書を出し申し候。今から考うれば、湯川が自分のホテルに来泊さるべき二侍従や博士を自分接待せずんば満足ならずと考えて急下し来たれるはよかりしが、途中到る処で言い触れたるは如何にやと存じ候。博士が案内を知らぬながらにどうかして五日夜までに拙宅へ着し、いろいろ御用件を小生に伝えられなば、小生方にて日は暮るべく、然る時は拙宅に一泊するか、小生が案内して瀬戸に之《ゆ》くか、いずれに致せ、その間に小生より学術上御覧になるべきものは田辺湾が一番多き次第を、自分所蔵の品々をもってすすめ頼まば、博士も一番気乗りして田辺碇泊を主張したることと存じ候。(臨海研究所は資金乏しく、夏中生徒教員を集め講演する外ただ年若き主任が番人たるにすぎず。この人は臨海研究所以外のことを一つも知らず。故に何ともこの人より説きようはなきなり。)しかるにむやみに所々でふれ散らして、さし当たり何の通知にも接せず何の関係もなき人が多く駆け付け来たりしより、博士は倉皇当邸を(328)立ち去られ、瀬戸に行きても臨海研究所主任より臨海研究所のことを聞きたるのみにて、駆け付けたる人々に何の懇話もなく、すぐその夜、上より下り来たれる二侍従と同乗出立して串本に趣かれたり。要するに湯川氏が気がききすぎたるため、たぶんこの辺へは碇泊なきこととなるべく候。
 七日に二侍従と博士と当湾へ帰られ、小生教えおきし通り警察署長が、小生が含めおきたる通りに案内して諸処を説明せしも、時間も短く当日浪荒れ候まま(一侍従は船に酔われたる様子)、湾内の名所へ上陸を得ず、臨海研究所へも寄り得ずして立ち去られ候。隠密に来られしものを、暴露してひちくどく追随せしことゆえ、はなはだ感情を害《そこな》いしことと存じ候。神戸にても博士は一番に小畔氏を訪い、小畔氏に送られて海洋気象台を訪い候由(これは神戸と熊野間の五月末の天候のことを調査せしならん)、その節は小畔に粘菌標品のことを問われたりとのことなれば、さし当たり拙邸へ来られし用件は、聖上特に御研究の粘菌類に関してのことと察し候。小生当日も例のネルの単衣一枚で友人と話しおりしところ、病妻起き来たり注意せしゆえ、綿入を着し走りゆき面話。平生裸体また薄衣と聞きし人が綿入きて面会されしは希有の特典ならんと小畔に語りし由。折にふれ御耳に達し御笑いのことと存じ候。
 三時過ぎほとんど四時前となり候付き、これにて擱筆と致し候。           敬具
 
     3
 
 昭和四年十月九日夜十二時前認、翌朝出す
   山田栄太郎様
                     南方熊楠再拝
 
 拝啓。八日出芳翰今朝八時着。小生朝寝致し十一時に起き出で拝誦仕り候。羽山君はとくに御快癒の御事と存じおり候ところ、今に御全快なき趣き貴方の御心痛察し上げ奉り候。今少し近くば小生出向かい何とか御慰めも申し上ぐ(329)べきのところ、拙方も、娘の盲腸炎ことのほか事長く、すでに三度まで発し、手術を施す施さずに済ますに付いて、医者の見様が一致せず。その間にたびたび娘が試験に遇うようなものにて、これをかれこれ小生が申すと医家がまた愛憎をつかすべく、うちやりおくの外なく候。妻も永々の災難に気を屈することはなはだしく、しばしばヒステリーを起こし、娘がよくなれば妻が臥褥するというようなことにて、人生如意ならざるもの十ごとに八、九に御座候。
 多年懐想致しおり候通り、今年初めに氷雪を犯し貴村に参り、羽山氏旧居を訪い、墓参は致さざるまでも故人を拝したつもりにて罷り帰り候うち、不慮に御召し御進講を仰せ付けられ候は、蔭ながら旧知諸氏の引立てにもよりしこととは申せ、小生は旧友の冥助とも喜びおり候ところ、禍福到底単行せず、かかる慶喜の裡にまた娘が痛み出し、妻が不断よまい言を述べ候より、娘もまた悴同様のものに成りはせぬかと心配絶えず。貴方などとかわり、小生は父よりの遺産は自分が気付かぬ間に全く弟のものに取り込まれ了り、研究費として七万五千円ばかり集まりあるも、これを一文も私用しては蟹の穴より堤防が崩るるごとくなるは必然にて、一人たりとも寄付者がかれこれ言い出してははなはだ本意ならず。故に宝の山をよそに眺めながら、月々拙児の病院へ送る二百円と、自宅で必用の百五十円ばかりを自分でこしらえざるべからず。幸いに今日までは遠方諸友の同情により、いろいろの調査などを致し、いと割宜しく支給され来たれるも、その諸友とていつまでもつづくものにあらず、盛衰一ならねば少しも憑《たよ》りにならず。只今も著述の原稿十の九まで成りて、校訂さえすまばせめて説児一ヵ年の入院料だけは助かるべき件あれども、さし当たり家内に二人までも病者あっては何とも致し方なく、茫然として長大息し、タバコを吸うて長夜を明かすことしばしば有之候。「うき事のなほもわが身に積もれかし」という禅僧の歌もあり、大抵の難苦は忍ぶつもりなるも、独身生活の禅僧とかわり、すでに家内あっては自分一人悟り諦めたりとて妻子にいささかも感染せず、反って怨まるるようなことも少なからぬには閉口致し候。神戸にて御召艦へ召されたる小畔四郎氏ほ十二日夜当方へ来泊、十三日出立、当地営林署員案内にて当国第一の大(330)官林|坂泰《さかたい》に向かい、二日ばかり枯菌を採集、それより拙宅へ泊り、神島一覧の上十七日までに神戸へ帰るはずにて、小生も同行最後の御報効を致したきも、妻子が右の通りにて同行はむつかしかるべしと存じ候。この小畔氏は、申さば一代身上にて、舟の事務員より近海郵船の神戸支店長までなりたる人なるが、長女丙午の生れにて縁談思わしからず、一昨年ごろようやく銀行員へ嫁したるところ、例の銀行取り付け一件起こり、その婿発狂し、小畔氏娘も精神病となり帰宅、ようやく今度再縁調い、今月末にヨメにゆくはずの由。どこを見ても多少災難のなき人はなく、数日前『聊斎志異』という清朝名家の書を見しに、子が親に難儀をかくるは必ずその親が前世にその子の前身の物を借り倒したる報いなり、故に前世に人の物を借り倒したことなき人には子なしと知れ、と書きあり。小生などは今生に借金を少しもせぬゆえ(誰も貸してくれぬなり)、次の世には子なしに生まれ出ずることと存じ候。大抵これほどに諦めおるより致し方なく候。
 知らぬが仏という世諺あり。今夜娘の病気のことに付き喜多幅氏を訪い、同道して浜辺の夜景を眺め、そのまま帰ればよかりしに、小畔氏が採集用の紙箱出来上がりしか否を紙箱屋へ問いに参り候ところ、斗らんや当町のある一部分の人々が小生と隣の多屋秀太郎氏の宅を打ちぬき、自働車路を通すべく交渉が始まるということを紙箱屋主人より聞き候。一昨夜英国より来着の雑誌を読みしに、動物憐愛保護会というもの諸国にあり、その人々の話を聞くに、動物も人間と同じく命は惜しむに相違なければ、なるべく殺伐をやめたしとのことなり。しかしながら人間は死をおそるること強きより死ということが大なる苦となる。動物には目前の慾望もあって後来を慮るということなければ、必竟は死も苦にならぬ。それよりも今日の人間はちょっと町へ出でうかうか話しあるくと、後から不慮に自働車が来たりて即死すること多し。その時うまく逃げ脱れたものは助かり、脱れ得ぬものは何の苦もなく往生する。脱れたもの、これを悼してなげけど、死んだものは何の苦もなきなり。さて、危いからとて町を歩かぬわけにもゆかず、女子供たちまでも、今自働車に殺さるると知らずに平気であるきまわるなり。それでも十人が十人まで殺されず。十羽の鳥が(331)みな銃丸に打たれず、他の鳥のことにかまわずうまく脱れた鳥が平気というに異ならず。されば今日ごとき世になりては用心も何の効なければ、人間みな不用心になりて戸を出るごとに死ぬ覚悟すべきところをせずに平気で歩くなり。人間が死を慮らずに畜生同前にとびまわる世となりたるなり、とありし。まずはその通りにて、物徂徠が言ったごとく、明日死ぬことを今日知ったところが何の益もなく、いつも酔ったような気でおるが大悟徹底とも申すべきか。旧友並木弘氏はこんな気性の人で、心配ということを少しもせぬ心がけなりし。葬礼に出かけて、死んだ人の未亡人にたちまちほれられし等のことありしも、別に面白がらず、死が面前に迫っても平気で流感で死なれし。ただしこの人は妻を三、四度換えたが(継母がことのほか苛酷な人でヨメと心合わぬなり)、終に子というものなかりし。それから推すと子のあるもの御同前ごときは本当の悟りには徹し得ざることと存じ候。
 小生は神仏などを祈るなどいう念少しも起こらず。世間は芝居のごときもので、本当にかなしきはかなしみ、腹立つ時は腹立つのが、うまく自分の役を勤め果《おお》すことと思えり。芝居果てて楽屋に退いた上は感相同じ一大柩、誰がうまくつとめたと笑うほどのことと存じ候。さて多年変態心理学を修めおるに、自分は一向信ぜぬことながら生前死後とも人の一念はずいぶん力強きものという学者多し。一廉《ひとかど》宗教をはなれた科学者にしてなおかかる説をなす者多し。小生妙な生れ付きで、友人のことを一生懸命に思うとその友人遠地にありて何となく小生を訪いたくなり馳せ来たる等のこと多し。また金銭には一向迂闊ながら、人の胸中にあること、ことに数量を口外せぬうちに小生が言うと中《あた》ること多し。
  これもなにか科学者その理由あることかと思う。近いうちに学者どもを集め試験の上記録に留めおき、死後脳を解剖して多少学問に益せんと思う。
 されば今夏初、令閨に専念を頼んで進講にいささかも過失なかりしごとく、一念ということは全く無効でないかも知れず。たとい一念が電信のごとく届くものにあらずとするも、あの人が念じおりくれると思うと多少自分の行為言(332)語を慎むだけの作用はたしかにある。人望を負うた人が過失少なきなどはすなわちその例なり。よって小生はただただ貴方のなるべく災難少ながらんことを毎々念じおると申し上げ置き候。   早々敬具
 余計なことながら御一笑までに申し上ぐるは、当地故原豊吉氏の跡屋敷は、豊吉氏亡後早く処置したらまずは相応の価に売れたるを延引せしゆえ、このごろずっと廉価に小生知れる薬屋に売りし由。むかしの書籍に、身代不の字に向かうた時は一番に注意して家宅を売るべし。金さえ出来ればまた買い得。値段さえよくばさっそく売るべし。近ごろの人は体裁ということをかまうから、いろいろと内証のものからひそかに売る。ひそかに売るゆえ多くは質流れ同然になり了り、何の足しにならず。さて最後に家を売るから、家を売りに出すほどなればよくよく急迫せることと見くびり、最低価で買わるるなり、とありし。これまことに智者の言にて、小生知れる和歌山の人々に家を張りすぎて体面を過重するより動きがとれず、自縛自困して跡方もなく苦しみ亡ぶるもの多し。小生の至親の者にも家が大なるため内実ははなはだ困却しおり、家を保持せんがために不道のことを多く行ない信用大いに失い杲ててこまりおるもの二、三あり。家が大なるために無用のラジオを取り寄せ、長唄の稽古など致しおるなり。御坊町は借屋らしき家のみの町しか見ざりしが、それより此方南部町を通して田辺に入るまでに、一月八日の夜一見しただけでも、右様の家は少なからざりしように覚え候。
 小生六月一日御前に召されたのち、七月中東京辺の刊行物にいろいろと是非の評多かりしが、酒を飲むとか(これは八年前までのこと)、人づきあいが悪いとか、上手気《じようずげ》がないとか、豪傑にあらずとか、世間に通ぜぬとか、孤立なりとか、雑多に評ありし。これらはまことに小生の不徳で、一つは親の生み付けが悪きなり。とにかく小生ごとき阿房なものが御前に召さるるに至りしにはなにか取り所がなくてはならぬことなり。それに論及せぬは批評その正を得ずと存じ候。大抵新聞雑誌に批評の出る人士に、口さきはともかく、下女に子を孕ませたとか芸妓と密会したとか隠行のなきものはなし。ずいぶん小生についても捜したであろうも、そんなことは一つも載らず。次にこれは他人に知れ(333)難いことながら小生は借金をせず。人に借り倒されたこと多きも借り倒せしということなし。誰人もなし得るようで実際ずいぶん至難のことにあるなり。小生裸でおるとか、冬日単衣一枚であるくとか、帽をかぶらぬとかを奇行といえど、実は他人の迷惑にならぬ限り、体面を張らねばこそ借金せずに今日までは過ごし得たるに候。菜根を喫せば百事成るべしと古語にあれど、只今は百姓が骨を折らぬから苦い大根など多く、菜根など食うては胃腸を害し、不経済になること多し。それよりは体裁をかまわぬということが世渡りの秘訣と存じ候。分かり切ったことながら御子たちへの御夜訓の材料にまで申し上げおき候。
 小生今夜少閑あり、岡崎邦輔君に一状を出す前にこの状を認め候。ついでにまかせ東京政教社にて出板、六月十五日の『日本及日本人』に出た小生御進講の批評を写出候。これは余人には必ず御見せ下さる間敷、当時このこと無事に相済むよう令閨が専念下されたる御礼までに、こんなものは三、四年も立たば誰の眼にも触れぬものゆえ差し上げおく。いろいろと過誉隘美なものもありしが、これが一番宜しく書きなされありしよう見受け候。もっとも『日本及日本人』は河東碧梧桐氏の世話で小生二十余年多少の関係あり、故に多少の依怙《えこ》は必ずあるなり。
  本篇は「聖上関西御巡幸」(この内明治元年三月二十三日、明治天皇大阪行在所たる西本願寺の仮御座所にて、大久保利通、木戸孝允、後藤象二郎三人の草莽の士に御親謁を賜いしことを記し)、「荒海孤島の民」、「光栄の一布衣」、「近畿青年御親閲」、「大楠公の霊」と五区に分かち叙せり。
     光栄の一布衣(この稿は事前にあらかじめ書きしものとみえ、多少当日の順序と違えることあり。)
 聖上陛下の学術に御熱心にて在しますは、夙に世間に著聞するところなるが、今回大阪御巡幸の途上、御召艦が遠州灘、紀州灘を超えて、六月二日南紀串本港に入り、親しく御上陸あらせらるるや、潮岬燈台に成らせられ、沖の小島を御巡幸あらせられて、躬ら生物学上の御採集を遊ばされしのみか、隠れたる民間の老学者南方熊楠翁を召されて拝謁を仰せ付け給いしは、いかに聖上陛下の学問を尊ばせ給うかを拝察し奉るに余りあると共に、草沢無名の一布衣(334)をもって親しく天顔に咫尺せるのみか、平生の蘊蓄を傾けて専門の研究を天聴に達するを得たる、翁のためにその無上の光栄を慶せずんばあらず。
 南方翁はわが国内においてこそ広くその名を知られざれ、世界的生物学者としてその名欧米に高く、その学界に貢献せること、挙げて数うるに遑あらず。近時粗製濫造の博士の簇出する中において、南方翁のごときは、真に博士中の博士にして、学界において生ける国宝というも不可なし。翁はその言行の奇なるをもってむしろ奇人として伝わり、学者として敬重する者の少なきは惜しむべし。しかも翁においては、世上に敬重せらるるも、せられざるも、何等の影響さるるところなく、むしろ世間的に持て囃さるるがごときは、迷惑を感ずるところならんが、今次親しくその学の天聴に達し、御前において深遠なる学理を講じ、多年研究の一端を述ぶるの機会を得たるは、真にその努力の酬いられしものというべく、翁においては実に千古の光栄なりと謂うべし。(以上)
  『グロテスク』雑誌に小生の書翰を無断刊行し、小生というよりは小生のことをやたらにほめたる中山太郎をそしりし者あり。それは小生の著『南方閑話』を出板後小生へ送るというて版元より十二冊かたりとりし者なり。
 
     4
 
 昭和五年七月六日早朝
   山田栄太郎様
                     南方熊楠再拝
 
 拝啓。六月十九日出御状、同二十一日午後一時拝受。そのころ小生左の足ことのほか悪く起居不自由、かつ神島建碑のあと勘定済まず、かれこれ人出入り致し、その外例の研究上の用件おびただしく積み累なりおり、一日一日と御返事相後れ今日に至り申し候段、悪しからず御海宥を冀い上げ候。(ここまで書きたるところに用件起こりこの状中(335)止、以下は七日の早朝三時過ぎより認む。
 前日は五十円御寄付成し下され、ために建碑も無事に相済み大いに景観を添え申し候。知事公を始め一同碑前にてとり候写真はことのほかよく出来おり、小板のもの一葉本日あたり中川夫人へ差し上げ申すべく候。しかるに小畔四郎氏東京大学その他の寄付者へ贈るため、これを大板に引きのばさせたる上、神戸より当方へ送り越し、小生署名の上それぞれ重立ちたる方々へ贈ることに致しおり、また拙筆碑銘も鉤勒《こうろく》書き(かご字)当地の画人川島友吉氏がとり候もの二枚、ことのほか見事にて、一枚はすなわち彫刻のため石工へ渡し(大阪の平清《ひらせい》という有名なる石工)、一枚は小畔氏が幅物にしてもちおり、その写真も出来おり候も、只今近海郵船会社にいろいろ俸給等のことにて捫択《もんちやく》あるらしく、ために同氏ことのほか多忙の様子。したがって当方へ到着は多少後れ申すべく、前頃《さきごろ》御家族御一同と撮影の大板を尊方より同氏に贈られたることもあるゆえ、小畔氏より大板の写真を一枚余分に申し受け貴方へ贈り上げたく存じおり候間、今しばらく御まち下されたく候。
 小板は当方に出来たものあるゆえ一枚を取り敢えず本日中川家へ差し上ぐべく候。外に去年御臨幸の節当地知人大森寅之助(有名なる芦柄団扇製造人)より、当地産貝類および熊野風景を川島草堂氏が画きたる団扇も差し上げたく、すでに神戸辺の寄付者へは小畔氏より配りたるも、六月六日ちょうど二十年めに河東碧梧桐氏拙宅へ来られ候。この人は神島保存の最初の拙論を雑誌『日本及日本人』へ出しくれたる旧縁も有之、よって右団扇へ二句をかきもらい候に、行違いありて当方へその句の板下《はんした》延着、大阪の職工に彫刻および印刷を頼みやりしも、いわゆる名人気風の人にて(雑誌『国華』の画図を刷る人なり)、とかく飲酒のみして急ぎ働きくれず今に延引、しかし今月中には必ず
出来上がり申すべく、その上右品々とりそろえ差し上ぐべく候間しばらく御まち下されたく願い上げ置き候。
 和歌山へ博物館を建てるとかにて金銭を集めあるく由。そのことに付き六月二十七日の『紀伊毎日新聞』へ、同新聞社長毛利氏へおくれる拙状を出しあり。念のためここに同封致し候間御覧下されたく候。かのいわゆる委員輩より(336)今に一言も申し来たらず、まことに不埒な輩に御座候。
 令閨白井博士の歌を御望みのところ、すべてこんな歌を家職とせざる人の歌は短冊などに書いては勢いがぬけ候ゆえ、思い付いたまま書き付けたものを重んずることに御座候。小生の神島の碑銘のごときも二度書きは面白からず、最初の鈎勒書きがもっともまじめなるゆえ、もっとも大切に致し候。白井氏の歌は最初の分は小生へ宛てたる手紙中に走り書きしたるものにて、これは只今ちょっと見付からず、それには貴家に御子たち四人あるようによみあり。よって小生より注意して六人なる由を申しおくりしのち、また改めよみてハガキに書き付け来たれり。そのハガキ(今年三月二十八日付)は小生に必用なるものながら、令閨御執心のものゆえ一切写しとり控えおき、ここに封入候間永く御秘蔵下されたく候。その前に四人の御子たちのつもりで詠みたる歌も、その状見当たり次第全文を控えて写したる上、御送り申し上ぐべく候。改めて短冊などへ書く時は当初詠み出でし時ほどの勢いがなく、どこかに偽りがまじるものに御座候。小生なども神島の碑銘をその後何度書いてみても最初一気に書き上げし十分の一のものも出来ず候。よって諸方よりの申し込みを一々ことわりおり候。
 御状により、御坊町の浜口という表具屋、羽山家に出入りせしことを承知、驚き入り候。小生方の北隣、故松岡秀一郎氏(直記氏と同輩の医学生たりし。この人当地付近富田村にて古く開業大いに貨殖せしも、当地に移りてより医業を止め拙宅北隣を買い受け安らかに隠居し得べかりしところを、御坊町徐氏の害を信じ大層に衣粧をこしらえ長女を竜田家に嫁入らせしより事起こり、竜田妻は発狂し、かつ勝太郎氏かの不始末にて何ともならず、子多く産みたるゆえ引き戻すこともならず、竜田妻は痴呆ごときものになり了り、勝太郎氏は当地遊廓に芸妓と共棲して置き屋を営みさっばり無茶なり。秀一郎氏はこれを見るがいやさに四年ばかり前一家東京へ引っ越し、去年死亡。前日来未亡人永々田辺に帰り来たりありしが、長女をつれ上京するわけにも行かず、先月末ごろまた上京致され候)の婿竜田勝次郎氏もこの浜口にかかり大事件を生じ、弁護士の餌食となり今に訴訟は永引きおる様子。芳樹氏も飛んだ者を相手に(337)なされたること驚き入り候。
 「彗星夢雑誌」は、文献としては見る人次第ではなはだ有用なるものと申し上げしを、頼山陽とか梁川星巌とかの書いたもののごとく金銭上はなはだ有価なもののよう芳樹氏が誤信されしか、または今回貴書に見えたるごとく、みずから左様信じはせぬが左様に世人へ執り成せしものか、小生は前年(大正八、九年ごろ)中川夫人がこの喜を京都で売るためにとて拙宅へ取戻しを要求に来られしに驚きまた訝《いぶか》りたることに候。なにか定家郷とか道風朝臣とかの正真の筆蹟ならば格別、頼山陽や淡窓、星巌などとても、生存中あまり高価にその書はうれしものにあらず、死後十年二十年三十五十年と立ちてのちおいおい高価になりたるに候。しかるに当世世人にゆき渡るまで知れおらぬ故大岳氏の書いたものが、金銭上何の高価に売れ申すべき。いわば坊間ホシミセなどに見当たる誰が書いたとも知れぬ日記帳同然のものに御座候。世にこれ一本しかなく、見る人が見たら史料また世態学の本として貴重なるものと申せしを、何か金塊か金剛石のごとき有価なものと思いなされたることはすこぶる遺憾に存じ候。小生はすでに一本写しとりおり、時節が向かば何とかして他の書物に見えざる所のみ抄し出して東京で出板し、多少の板権料を羽山家へ納めしむべく心懸けおり、多少相談にのる人なきにあらざるも、只今ごとき時節にては当分成算立ち申さず。貴息御一人後年羽山家相続成るべき御見込みの由敬承。小生はこのことに付きかねがね申し上げたきことあるも、むやみに申し上げかねる廉もなきにあらず。もしその必要ありと思し召さるるならば、貴殿御一人の外は令閨の御耳にも入れざる御用意あるべく、その上にて腹蔵なく申し上ぐべく候。つまるところ貴息が羽山家を継いで後年またその後胤が断絶の不幸を見るようなことのなきように取り斗らいおかれたき婆心より出でたることに御座候。
 小生咋朝来少しも眠らず、いろいろと研究などにつかれおり、本状あとさき不揃いのこともあるべきが、あまりに御無沙汰に打ち過ぎ候ゆえ、眠たきところを押して認め差し上げ候。               匆々敬具
  白井光太郎博士は東京帝国大学名誉教授、越前の士族なり。明治二十二年ごろ理学士になられ、明治三十四年ご(338)ろ理学博士になられ候。只今七十二歳ばかりと存じ候。
 
     5
 
 昭和六年七月六日早朝四時認、夜明けて出す
   山田栄太郎様
                     南方熊楠再拝
 
 拝啓。小生こと客年十一月ごろより足の裏が神経痛を起こし、はなはだしき発作の砌《みぎり》は電光の閃発するように感じ、すこぶる不安。防己《ぼうき》という漢薬を注射しもらい、電光閃発だけはやみしも、今に毎度多少痛めり。加うるに今春より脊髄が痛み、これまた難症ゆえ大いに不安を覚えおり。妻と娘はまずは健康を復したるも、洛北にもはや三年入院せる悴は今に少しも好報を開かず、月に二百円近き送金には弱りおり、これを調えるために昼夜無理を致し、いろいろ著訳など致しおり候も、わずかに七、八円しかくれぬこと多く、研究の方は研究で一日も怠るべきにあらず、多忙を極め候より大いに御無沙汰に打ち過ぎ申し候。一度貴方へ参上したく存じ候も、なにさま足が不自由ゆえ、外出がはなはだ大儀に有之、当分意に任せざる儀に御座候。
 羽山家蔵書目録は今夜(五日の夜)拝見致し候ところ、『紀州名所図会』は今日二十四、五円|乃至《ないし》望み手により三十円近くも出すべきが、それは本屋が売る相場にて素人《しろうと》より本屋が買う持は十四、五円乃至十七、八円もくるれば頂上と存じ候」この外にこれと申すような物は見当たらぬように候。ただし、二、三件小生が見も聞きもせざる書籍あり。(339)それらを〇印をつけおき候。(小生に取りて珍しき本という印なり。ただし小生に珍しくとも決して高価とは限らず候。)
 さて●印をつけ候は、故繁太郎君毎度はなはだ珍重して日夜愛読したるを目撃したるものどもなり。これは多少の礪物標本と共になろうことなら売らずにおき、後日羽山家再興の方の家蔵とされたら先霊も安心さるる御事と存じ候。 芳樹氏さきごろ直話に、小生若き時(十八、九歳の時)金石学の書(ダナという米人)を幾分翻訳したる小生の手筆本もある由。これは当時和中の教師たりし小杉轍三郎先生(朝鮮かどこかの礪山にて大分もうけ、只今京都に隠退し、もと有名なりしわか山表橋の九橋楼にありしお虎という芸妓を妻とし、気楽に暮らしおられ候。子なきゆえさびしくもあるべし。この人の父は御勘定奉行にてはなはだよき人なりし由)よりダナの本をかりうけ、刻苦して辞書片手にむりに翻訳したるものにて、小生はこの翻訳にて大いに英語が上達致し候。自分のことを申すは如何ながら、後年まで保存されたら、この手筆本は大いに珍しがらるることと存じ候。
 また明治十九年小生故蕃次郎氏にウェブストルの中字書(長さ八寸ばかり幅四寸五分か五寸ばかりと覚え候。厚さも二寸ほどありしかと存じ候)を差し上げたることあり。なんでも三円ばかり出して買いしなり。そのころ拙家全盛にて(和歌山で粉庄《こしよう》が一番、拙家が二番と申せし。もっとも拙父の旧主ゆえ清水平右衛門氏(両平《りようへい》)を第二番に拙家を第三番に番付には出され候。そのころの人は番付を作る者までもそれほどの礼譲を心得いたるなり)、三、四円の書籍を買うて人に贈るなどは至って希なる例に申せしなり。この字書は今度の目録には見えず。また明治十九年羽山氏に泊りし時、毎度小生借覧せし『史記評林』全部三十冊ばかりありたり。これも見えずと覚え候。思うに芳樹氏はいささかもよき本は多少売却されたることと察し候。さて医書もあまり珍しきもの、高価のものは少しも見受けざるも、本邦の医学の旧況を見るにはなかなかよくそろいあり。離して売ればいわゆる二束三文ながら、まとめて集彙として売る日には二束三文とも行くまじと存じ候。
(340) 三、四年ほど前に一度当地へ来たりしついでに、羽山家へ上りし堂場武三郎と申す人あり、東京下谷区根岸に鶯餅とてちょっと名高き名物の餅屋主人の弟なり。きっすいの江戸っ子ではなはだよき人なり。日方町生れの女とちちくりし末、大阪へ来たり、それより和歌山へ下り、いわゆる一派の紳商連が贔屓されて、小松原七つ目かに書店を開き、高商生徒を相手に営業しおりたるが、只今は裏橋筋のなんとかいう町に開店しおり(裏橋の東の通りの町なり。ブラクリ町より東へ進み裏橋を渡りて直《すぐ》、通りの広き町なり)、この人は日方町の産科医か何かで中尾とかいう蔵書家に出入りする。当地でむかし羽山大岳氏と同年輩の石田酔古といいし浪人の儒者ありし。諸方より書籍を借り入れ、むやみに写せしなり。または安値の古書のハホンなどを安くかい入れたり。故に板本としては揃うた物なく、またあんまり名筆ならざりしゆえ、写本もさして見事なものにあらず、表紙すらなきもの多し。小生などにただやろうといわれたところで買うものは五、六部ならん。しかるにそれをその遺族が売りたしとのことで、目録を作り、小生より諸方の本屋に見せしに、書物の名が多きゆえ、これは見事な集彙なりとて大阪等より見にきて、さてびっくりせしは、「群書類従』とか『大日本史』とか、名前はいかめしきもの多きも、右体の麁略な写本で、しかもそろわぬものばかりなれば、何とも呆れてにげ上られしなり。しかるに右の中尾という人は、よくよく書物ずきにて、再三交渉の上、堂場をしてその遺族に四百円で買い取らしめたり。
 今羽山家のものは右石田家の旧蔵ごときハホンでも写本でもなく、十の九・五までは満足なる印本なれば、医事の沿革を見るなどの上においてもまんざら丸でけなしたものにあらず。よって一度堂場氏へ交渉して、少しでも高く売られたら如何と存じ候。もし御望みならば御一報下されたく、小生は近ごろ堂場氏と久しく無沙汰しおるも、今年一月に、も賀状を受け取ったことあり、またこの五月二十四日|和中《わなか》金助氏来訪されたる時承りしに、今も裏橋筋で営業しおるとのことなれば、御一報次第小生よりちょっと一報しやりても宜しく候。(これまで書いてしらべしに、堂場氏の宛所は、和歌山市新堺町二二、堂場武三郎、に御座候。)また貴方より直接御かけ合いの上目録を送りやりても話は(341)分かることに御座候。まずは右の通り御取り斗らいあらば御坊町辺の者に売るよりはましに有之べきと察し申し候。右の内、『紀伊名所図会』は日高郡まで全既刊二十三冊そろいおり候や、または幾分か欠けおり候や。もしそろいおり候わば堂場氏値ぶみの上、小生に御売り下されても宜しく候。小生は第二編まではもちおれども二十三冊そろうてもたず候。堂場の値よりは高く戴くべく候。ただしこれは広隆の画もあり、今日少なきものゆえ貴方へ永く保存さるるが最上と存ずるゆえ〇印を付けたるに候。繁太郎氏や蕃次郎氏の書いたものは拙方に多くありしが、和歌山舎弟方へ預けあるうち不注意にてことごとく失われ申し候。
 右御返事申し上げ候。
  尚々。当地の人にて丸山惣三郎と申し、小生子分にて面白き古道具屋の女たらしありし。元気のよき男にていかに困るも泣き言を吐かぬ人なりしが、二年ほど前に死んでしまい、寡婦が依然古道具屋を営業致しおり候。この寡婦は小生面識なし。惣三郎は日高へ出るごとに貴方へ伺いしような話を致しおりたり。           早々敬具
 
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 昭和十二年十一月二十八日午前四時より認む
   山田栄太郎様
                     南方熊楠再拝
 
 拝啓。二十三日出御状二十五日午前八時忝なく拝受。折からの防火演習灯火管制のため、夜間作業は全く成らず。かつまた例の神経痛の起こる時節に付き手に厚き手袋をはめ候ため、運筆至って遅緩等のことにて、ちょっとちょっと御返書認めること成らず、ようやく只今認め差し上げ申し候段、悪しからず御宥恕成し下されたく願い上げ奉り候。毎日毎日手のつづく限り写生と記載に疲れおり、その他のことは記臆全く取り纏まらず候付き、二十三日出御状を眼(342)前にひろげ、一行ずつ読み下してその順序に随い御挨拶左に申し上げ候。眼も弱くなり手が自在にきかず、その上筆が用い通しに付きはなはだ麁末なもののみ五、六本あり、それを取り替え取り替え使うゆえに、火を少しも入れざる書斎にありてしばしば手がひえわたり、落としては拾い、落としてはまた拾い書き候ゆえ、すこぶる難読の文字をもって認め候段、幾重にも御察読を願い上げ奉り候。
 第一に申し上げ置き候は、貴書冒頭に「近ごろ尊堂皆々様ますます御健勝に遊ばされ大賀奉り候」との仰せなれど、拙方は夫婦とも近年多病にて、決して健勝との影も無之、小生は中風の軽きような容態にて、日夜無念無想の体に有之、記臆というは少しも無之、日々の出来事を妻と娘と下女にそれぞれ帳面へ控えさせ、毎夜それを合わせ読みて自分の日記へ書き入れ、ようやく大体を知るという風にて、心配ということもなく何の用意もなく、虫のように生きておるばかりに有之、専門学術上のことは毎日予定通りに蟻が物を運ぶように履行するだけにて、その他のことは一切夢のごとく、実に困った物に有之候。故にこの状に認め申し上ぐるところも、何と言うて予め計画して書いたものに無之、ただ貴状を読み下して、それに相対して書き下したるものと御了解を願い上げ奉り候。
 貴状に貴殿と雑賀氏の御相談御契約の節、「雑賀は南方先生の意見を聞きかつ御指導に従うこと」なる一条有之、これは小生の力に叶わぬことにて、小生は生来人を指導するの力なく、また指導など致せしことかつて無之《これなし》。仏教に辟支仏《びやくしぶつ》というものあり、緑覚と訳す。俗語で早分かりに申さば、人の世話も出来ねば人の世話にもならぬというような流義のもので、大乗仏教には、菩薩を一乗、縁覚を二乗、羅漢を三乗と立つ。菩薩は馬が人を乗せて川を渡すがごときに反し、縁覚は鹿が川を渡るごとく、自分さえ渡り了れば気がすむなり。小生はちょうど鹿のような根性のものにて、人を指導などする力もなければ手間ももたず。ただし世間には種々の因縁から、かようの縁覚に供養して自分の功徳を積むを面白く思う人も相応にあり、そんな人々より不断供養を受けて今日まで露命をつなぎ来たり候。雑賀氏なども多少そんな気持のある人と見え、小生用事ある時にハガキ等で知らせば来たりていろいろと用を便じくるる(343)なり。小生方には諸方よりいろいろ雑誌書籍など小生の読みもせぬ物を送り来たること多し。ことごとく焼いてしまうこともならず、有志の人に、時に応じ来たりていろいろ用を便じくるるときはそんなものを多少進上して礼謝の意を表するのみなり。左様の次第ゆえ雑賀氏も月に一度来たり、また丸々来たらぬこともあり、小生はいろいろと自分の用に迫られて大抵の人には面会はせぬ定めに御座候。故に雑賀氏がいつも拙方へ来らるる等のことは無之候。さて、大抵雑賀氏ほど文章のことに歳月を費やした人にはそれ相応の見識あるものにて、一々口舌を弄して導かずとも「夢雑誌」の抄纂くらいのことは標準のつくものなれば、抄纂の要諦としてちょっと語れば領得することとして、小生語りしは、この「夢雑誌」は最初何たる定見あって書きにかかったものにあらず、大岳翁きわめて筆の達者な人かつ何もせずにおることを好まなんだ人で、菊池海荘方へ江戸、北海道、京坂諸地より定時に届きし飛脚便の文書を、海荘が読み畢《おわ》りて瀬見善水翁へ廻し、
  この人は和歌ははなはだ名人なりし。小生生まれた時より七、八歳まで、和歌山へ出るごとに拙宅へ来られ、いろいろの用事を拙父に扱わせられし。ちょうど先年死なれし渋沢栄一子そのままの顔容の大男にて至極温厚な人なりし。小生はいつも頭を撫でいろいろの話など聞かされしを覚えおり候。妾と同栖し勇三郎という養子とは仲が宜しからざりしようなり。したがって家は勇三郎氏の一子に譲られしよう承る。勇三郎氏の一子は小生会いしことなし。この人は当地藤の家という家にありし種子という女(和歌山板屋町生れ)を落籍せしが、生計面白からず、やがて種子に別れ(福助と改め和歌山丸の内より二度の勤めに出でおりたり。二十年ばかりの前のことなり)、江川の村民一同を馳走し事由を告げてのち北海道へ移りしが、かの地にて死なれしとか承る。小生四歳の時善水翁の命に応じスキナオシを八つ切りにしたる一片に小さく三味線を画き見せしに、非常にほめられたるを今も覚えおり候。
善水翁これを読み了りて羽山家へ廻されしなり。また日高の何村生れか知らず、由良|守応《もりまさ》(通称弥太次)という人あ(344)り。この人は落ちぶれて部落民となりありしが、海荘翁の庇護にて身の廻りを拵え京摂に出で修行せり。ことのほか脚の速き人にて、伏見より海荘翁の栖原の宅まで日通いに通い、長州人が京都で働き蛤門の戦争など仕出だしたるときの報知を齎したる由、令閨の亡父直記君より毎度承れり。この由良氏はのちに宮内省に奉公し、明治天皇の皇后宮の馬車の馭者たりしが、ある時馬を使い損じ皇后陛下を四谷見附の堀へ落とし入れまいらせ、免職となりてより、浅草にて千里軒というがたくり馬車を開業せしに長くつづかず。木下友三郎氏司法省法学校に入りし時保証人たりしを考うれば、明治十三、四年までは生きおりたるなり。(木下氏は、橋本太次兵衛の弟に久保田某という人おり、また萩原という村に古田佐四郎という、その辺での今で申さばモダーン改進家なりし、その人の子に学者ありし、それらの人と同伴して東京へ上りしなり。佐四郎氏も拙宅へ毎度来られし。佐四郎氏の子は、去る大正十一年小生東上せし時、旅館(下村宏氏の妾宅)へ木下来たり、このほど埼玉県にて古田に面会せり、その地方のある学校の校長たりしがもはや隠退せり、白髪にてかなつんぼになりおる、と話され候。)右の由良氏は、岩倉、木戸の一行に随い欧州へもゆきし人なり。羽山家へも出入りせしように承る。この外に名田村の上野とかいう所の平民の子で、久保秀景という人おり。斎藤弥九郎の門人で当時名高き剣道と鎗の名人なり。蛤門の一戦に長州の一隊の長にてなかなか勇戦せしことは『近世史略』などにも出でおり、もと無二三《むにぞう》と名のりし。明治十八、九年ごろまで存命にて、どこかの裁判所で検事か何かを奉職せり、今少し学問の方に力あらばなかなか立身すべき人なるに、と直記氏の話なりし。羽山家へも帰国墓参の折は必ず来たり、陣羽織を着し鉄扇をもち太刀を佩きたる写真に和歌を認め、羽山氏に留め置かれしを見しことあり。むろん頭髪は結いありし。この人々の直話も多少「夢雑誌」には出であることと存じ候。
 また羽山氏の親族に印南辺より出たる沢井俊卿とかいう医生ありし。この人はちょうどペルリが江戸へ来たりしころ、江戸に学びおり、この人よりの来信は他の書では見られぬものにて、「夢雑誌」中のもっとも肝心の通信なり。故に「夢雑誌」は菊池海荘方へ諸方より屆きし通信のみより成るものにあらず。羽山氏へ沢井氏その他より届きし聞(345)き書きも若干あるなり。何でもなきことなるが田辺領の間所《まどころ》という家に達せし噂書きも収めあり。これは田所氏(すなわち只今の改造社長たる島中雄作氏夫人の父の家にて、有名なる鳥山啓先生の生家)と並んで鮎川村か一ノ瀬村の旧家なり。この間所氏のことを先年調べしに、串本の近所富土橋村に間所氏を名乗る一家あり。よく尋ねしに漁民にて主婦はサンヤレ(売婬を事とする私娼家)の隊長たりしゆえ大いに絶望。しかるにその後喜多幅氏より聞くに、件の間所という旧家の正系は婦人一人残り神奈川県に住み看護婦を営みおる由。こんなことまで調べると限りなきが、こんなことまで調べねば「夢雑誌」の方《かた》が付かず。また「夢雑誌」の内に、和歌山で慶応ごろの評判を羽山氏へ通信し来たりし内に、伊達家養子の一件もつまらぬ成行きというようなことあり、何のこととも分からざりしに、田辺の家中ながら代々和歌山に住みし富江氏なる表具師ありて、小生と懇交ありし田辺藩主に代々勤めし表具師匠川島とて中学校の小使を久しくつとめし老人の悴を養子にせられしが、その子小学校で用うる教科書に、富江某と署名あるを見て、何故和歌山県士族と書かぬと叱るほどの頑丈な老人なりし。その人は津田出が平民を兵卒に募りし時、十八歳にて行列の先頭に立ち太鼓をたたく役をつとめし。そのころ屋形町の伊達という士族の養子が養毋と私通して閉門を命ぜられしことあり。右の太鼓たたき等これを唄うて、「今の伊達はん冷酒すきか、夜の夜中におかんする」と唄いし由。和歌山詞のおかはん(母様)をお酣に寄せたることの由。これにて「夢雑誌」に載せたる伊達家の一件というわけが分かり候。
 また、「夢雑誌」に田辺よりの通信を載せて、長州征伐の節、田辺で勝負の見定めに付きいろいろと評判ある内に、「所詮辻氏の了簡一番優れたり」というようのことあり。これは田辺藩の家老辻一右衛門とかいうものありし。それの長男源蔵というは今も横浜にありと思う、熊楠の兄の妻の従兄なり。もと広島の福島正則の家臣たりしが、福島氏滅んで田辺の家老となり仕えしなり(南部《みなべ》町の山本登氏などの従兄にも当たる)。その源蔵氏の父は変わった了簡ありし人にて、田辺の柏木義矩などが旧式の兵法や剣槍で長州征伐に出かくるを見て、そんな迂遠なことで軍が出来る(346)ものか、自分はこんな戦争には出でずとて行かざりしなり(拙妻父などは兵粮から小使い銭まで持って陣羽織など着て出陣せしが、大敗して乞食の体でにげ帰りしなり。その時当地の原秀次郎氏の祖父も辻氏の説を奉じ戦争の賦役金を出さず、今の脇村市太郎氏の祖父、主として賦役金を周旋するを非難し、勝ち目のなき戦争に金銭が出せるものかと怒り、鉄扇で切り市(市太夫)の頭をどやし付け、堅田浦という所へ三年追放されたる由)。このことを「夢雑誌」に書きたるなれども、ただ「夢雑誌」の文を読んだだけでは何のことか分からず。こんなことをいろいろと聞き出し捜索すると、この「夢雑誌」の注解が三、四百巻にもなるべく、すなわち漢の申公という人が書きたる『水経』、わずか三十枚ばかりのものを、?道元という人が注して支那の地理書第一の雄篇『水経注』を作りしごとく、なかなか有益な書物となる。また、なんでもなきことながら「夢雑誌」に記せる小生等小児のとき子守どもが小児に教えたる「ちんわん猫にゃんちう、金魚に放し亀牛もうもう」という唄あり。これを一つ注釈してその出処来歴を弁明しても厚さ一冊が出来るなり。それから瀬見翁がまのあたり天誅組の囚人にあうて歌を贈りし条など、この「夢雑誌」の外に見られぬ史料あるなり。翁が饗応して見送りし水郡《にごり》氏の子孫は只今河内の誉田林《こんだばやし》に銀行を営みおる由、先年勝浦にて芸妓にはまりこみ数万円の切符横領をなし入獄せし緑川丸の事務長何某より聞きしことあり。普通水郡父子は長州人が京都へ討ち入りしとき平野国臣等と共に獄中で斬られしことになりおる。しかるに北畠治房男の話には、父は刎首されたれど、子(栄太郎とかいう)は明治二、三十年ごろまでどこかで判事とかつとめおるとありし。これらも特別に聞き合わせたきことなり。
 小生は多年諸方へ聞き合わせに丹誠をこらせ、聞き込みしことは一事のこさず書き入れおり、いわばこれも畢生の大事業としてつとめ来たれり。宗旨が異なり道義観念が同じからざるにつれて人の道心多少かわる。しかしよほどの蛮民にあらざる以上は、まず何国何宗にも概して君巨、親子、夫婦、兄弟、朋友を五倫と立つる。この内、朋友の道すなわち友道の一事だけ近ごろ全く跡方もなく滅亡したりと思う。小生等英国にありし時英国の公認詩宗テンニソン(347)という人ありし。それが若き時親友なりしハラムといいしは、有名なる史家ハラムの息で、よほど純正美麗な青年なりしが、壮年にして死なれし。その死を悼みし詩が友道の粋の粋たるものとて、テンニソンはいわゆる月桂冠を受け、一代の詩宗となりしなり。令閨の兄二人と小生と親交ありしことは今も知りおる人多し。これは人の天稟に出ずることにて、今一人の(令閨の)第五兄に当たる周五郎氏の人がら忘れ難きものありとて、当地の富医榎本六三郎氏これを油絵にかかせ、今心その応接問に掲げあり。令閨の御兄弟は実に人うけのよかりし、万人に思わるる天稟の人々にてありしなり。されば生前の約束をたがえず、「夢雑誌」は必ず注釈敷衍を後世に伝えんものと朝な朝な出精し来たれり。
 しかるに十把|一《ひと》からげに、どこで生まれたかも知れず、何の由緒来歴も知らざる、ごもくずしをかき集めたような他府県生れの浮草根性の県吏盲人どもの依怙贔屓を冀い、運動とかまでして表彰されたく御望みの様子。この表彰ということ、初めのうちは多少人民徳化の具ともなりたるかも知れず、今日にてはいわゆる運動などしてようやく手に入る、至って手品の種の知れたことゆえ、誰が県庁より表彰されたと聞いても少しも感化もされねば奮発もせず、彼奴はうまく立ち舞うたりというて、影で悪《にく》み嘲らるるのみに御座候。人の名は言わぬが、和歌山に小生幼年よりの友おり、至って悪才ある者にて、令閨の御両兄などはいつも恐ろしがり近付かず、その人来たると見れば座をぱずしたくらいの人なり。この人東京に出て修業するうち女郎買いを覚え、それより人の物を借り倒す名人となり、果ては新聞縦覧所を開きて予約金を攘《かす》めて逐電などし、のちには虚喝師となり、飯を食えぬ時は国事犯なりと警察へ自首し拘留所に入りて巡査に飯をはずみ貰いなどし、かれこれするうち新聞社を営み諸商店より賄賂をとり、または賄賂を出さぬ輩を密告しなど致し候。もちろん幾度も幾度も同類の輩と喧嘩して半死に打ちのめされなど致し候。到るところ人に恐れられしが何様無類の才物また前世の果報も善きと見え、今は一廉の紳士となりすまし、いろいろのことで間に合うところから、県庁などでは他府県より来たる官吏輩この上もなき君子のように信認し、毎度毎度何々の功労者
として表彰さるること数を知らず、素性を知った旧友等はただただまきぞえを恐れ敬して遠ざかるの一点張りなり。
(348) また、この地にもはや没して十五、六年になる大工あり。その妻は有名なる姪婦にて子女を六、七人もちながら自分より年若き男をそそのかし、浄瑠璃の稽古と称し毎度拙宅の近処にて密会し、亭主は亭主で朝夕飲んで夢のごとく、その妻が件《くだん》の男(故蕃次郎氏知人)と東京へ欠け落ちし、その男肺患になりしを追い出して相手にせず、終《つい》にのたれ死《じに》して墓所のあり処も知れぬようにし、さてまた当地へ舞い戻り来たる。それでもかまわず亭主は飲んでばかりおり、後には芸妓の三絃持ちして芸妓に飲ませ貰うを仕事と致し、飲み死《じに》に死に候。こんな男も、むかしその父中風にて身体叶わぬを妻が嫌うて一向かまわず、叱れば逆さまに罵らるるゆえ詮方なしに父が死ぬまで大小便の世話をせしを、右の淫婦が到る処で官吏にふれまい(かつて有名なる勅任官吏に、夫となれ合いで姦通して大枚の金をゆすりとりしことあり)、わが夫は孝行の至れるものなりとふれちらせしを、その官人どもおのおの一膳ふるまわれた返酬に県庁へとりなし、孝行の至り、世に希《まれ》なる孝心者とて表彰され候。また、小生七、八歳の時素読を習いに行きし漢学塾にて時々先生の代理をせし人あり。立派な米屋の主人なりしが、『論語』の講釈などに商売を捨て、昼夜出であるき身代たちまち潰れて身の置き処なきに、長三洲とか三島中洲とか名高き先生方へむやみに手紙を出し、十度に一度ハガキで挨拶書がくるをためおき、これこれの名士と親交ありなど言いふらし、さっばり活計にこまるところから小学校の小使となり、十八年ばかりむかし小生ども旧師の追善会やりし時も、むかし代理までつとめし先生のことなるに、追善会へも出でず法螺を吹きまわりおりしが、これも一ヵ所(女学校)に懈怠なく四十年小使を永勤せしとて表彰され、かぼちゃの蔕《へた》に善行表彰第三番賞下賜とか彫り付け、むやみに捺しちらした自慢書きを小生へも送り来たり候。
 その他、毎度毎度の表彰何百人あるか何千人あるか知れぬ内には、知りもせぬ女を人力車にのせ、その宅までおくりやり候上、その家の暮しいかにも気の毒なるゆえ持ち合わせた金を悉皆《しつかい》与えて帰る道で空腹でたまらず、他の人力車夫より借金して返りしを、慈善の至りと表彰されしもあり。町内の扶助料を受けながら知りもせぬ人に金を恵みやりて表彰されたもあり、はなはだしきは元日の朝多大の借金をふみ倒して脱走し相場か博奕かで儲けて何かへ寄付金(349)を出したようなことで表彰されたもあり.(多大の借金は終に一文も払わず時効にかかりしとてそのままにして倒し了れり。)こんな表彰が果たして何の仰慕すべきことありや。
 小生などもなにか表彰するから履歴書を出せと、海外よりも内地の当局者よりも言い来られしこと少なからず。これなんか自分が酒でも飲んで多少の法螺を吹きでもしたるを間違うてその筋の耳に入りしことならんと、その都度背に汗して履歴とて申し上ぐることは一つもなしとことわりおるうち、かかる間違いの聞こゆるも自分が言語を慎まぬからのことと反省して、十四年来全く酒を廃止致しおり候。自分にそれ相応の表彰さるべき覚えがあらば宜しけれども、何一つ表彰さるるほどの覚えがなき身には、そんなことが聞こえて用もなき人に来訪され、いろいろとひまをつぶすことがはなはだしき難儀にあるなり。新井白石の書きし『藩翰譜』に、秀吉公の時、三中老の随一にて徳川氏の初めに雲州松江の城主たりし堀尾帯刀吉晴は無双の勇士なりしが、一代自分の働きを一言も口外せず、しかるにその働き至ってたしかなるゆえ、自分が言わねど万人が認めたのがすべて二十二度まであり、初め百五十石の薄俸よりおいおい成り上がりて二十三万五千石の大名となり候。この人の妻も心懸けのよかりし人と見え、小田原征伐の時金助と名づくる子が十八歳で討ち死にせし追善のため、名古屋付近の川に橋を架け、子の冥福のために橋を渡し往来の一助とする母の志を同情さるる方ほ何とぞ一片の回向を頼む、と分かり易く仮名書きにして石碑を立てあり。君子の徳は五世にして斬《ざん》し(絶えること)、小人の徳も五世にして斬す、と孔子もいわれ、仏法にいう通り過ぎ去りし世の因果は免れず、こんな夫婦ですら子はみな早世し、孫にかかりて老年までありしが、その孫もまた若死して堀尾の家は絶えたるなり。今までつづきたらば伯爵には十分になれた家なり。されど三百余年を経たる今日とても、この堀尾夫婦のことを聞くものは小生同様誰一人感動されぬものなく、洵《まこと》にその人は死したるもその行いは今もよき訓えとなり、聞くごとに有難きことと心底に徹することと思う。右に申せし、人を踏み倒して寄付金をしたり、借金してまで女に金をやったりした人の話を聞いて、これは表彰さるべきことか表彰されぬべきことかと真面目な小児までも首を傾け(350)ることと存じ候。
 いずれの国へ行くも、競技同然に誉れを争う者にあんまり満足な者なきは、小生諸国を廻りて十分にこれを知る。積善の家に余慶ありと申し、小生等若年のころは自家の功に誇らず。隠徳は耳鳴るがごとし、人知らずして己れ独り知るという風にありたきことなり。和歌山に伊勢屋という家あり。島佐次兵衛とか申す南竜公入国の時すでにありし家にて、そのころ京都より来たりし那波某という名医が公の脈を候《うかが》いしついでにこの家の主人の脈をも見しというほどなれば、よほどの大家なりしなり。伊勢屋の茶気《ちやき》羽織とてこの家の主人に限り特別の色染の羽織を許されたり。糸川善之助、亀之助氏などはこの家の番頭の悴なり。また岩壺紋左御門という家あり。電燈が和歌山に普遍した時小生帰朝せしに、この家にはなお行燈を用いおりたり。その次男か何かが宮本吉右衛門氏の嗣子たり、春吉という。二、三年前拙宅へ来たれり。その時小生この宮本氏は岩壺氏の子と知らず、側らにありし和中金助氏に向かい、中の島近くに岩壺紋左衛門という家あり、至って質撲な活計を立てて醤油か何か扱いおれり、亡父常に話《はなし》に、この岩壺は伊勢屋に次ぐ旧家にて享保前後より今に身代が上がりもせずまた下がりもせず、和歌山|持丸《もちまる》達の番付の第二段の中ほどにあり、身代を上げんと思わば(石井定七のごとく)いかようにも上手に借金をすればたちまち出来る、維新後名高かりし銭井、津田勝、岩崎、大六などみなそのやり方なり、これはいつでも出来る、岩壺家二百年近く身代を上げも下げもせず同じ二段の中ほどにある、貝原先生が定めたという鴻池家同様のなにか家憲があることと考える、後学のため聞きおきたきも、旧格を守ること厳しく容易につき合うべき手段なきは遺憾なり、とのこと。比べ物にならぬ話ながら、当地検番に鈴木いくという老妓あり、今に健在して六十四歳なり、この女は検番初まりより稼業三十余年の間、線香数がいつも衆妓の中ほどにあり、それより上下せざりしなり、これはよほどむつかしきことにて、尋常芸妓の出来る芸にあらず。この岩壺氏が二百年近く家声を墜とさず永続せしことは、百年これに植うるに徳をもってすというごとく、なかなか祖先が当持の世態に応じて一家の理財を程能く調節せしことにて、つまり人の目に立つようなよき(351)ことをも悪きことをもせず、静かに世過ぎを楽しみしによることと存じ候。その方法について愚考のほどを春吉氏に述べたることあり。春吉氏は自分その家に生まれながら、そんなことどころか二百年の間自分生家が声価を上げも下げもせざりしことすら始めて小生より聞きたる由語られ候。
 前年東京にて岸敬次郎氏に帝国ホテルにて面会せし時、岸君、和中《わちゆう》にて故蕃次郎氏と同級たり、またその兄幹太郎氏は故繁太郎氏と自修舎にて同学せし経験より、令閨の二兄君の為人《ひととなり》に話し及ばれ、二兄君の天稟まことに謙虚無為にして少しも稜角を出さず、いかなる人にも敬愛されしことを称賛致しおられ候。奉天総領事にて死なれし豊後後人加藤基四郎氏、山梨県人にて日本郵船会社の重役たりし中島滋三郎氏、これらは毎日蕃次郎氏と麹町の関直彦氏宅前より神田淡路町の共立学校(高橋是清氏経営)へ徒歩で通われし人々にて、いずれも同音異口に同様に話され、その席に故楠本武俊氏もありて感嘆されたることに御座候。
 御承知の通り英国のシェキスピヤールの戯曲三十七篇は世界空前絶後の名作と申す。それをなまかじりの日本の文学士の批評などを見ると、全然作者の本意を解せず、何の感心するに足らぬ無意味の言句をも、いろいろの意味に曲解してほめちぎり、またせっかく作者が千歳の後を期して肝胆を吐きし名句金言をも、自分に素養下地がなきュり何でもなきように見過ごしおること多く候。本邦でも東京の人は上方のことに通ぜぬゆえ浄瑠璃を開き、肝心ほむべきところをほめず、ただ唄い流すところをあの調子が無類だなどとほめ候。茶を立てても花をいけても余韻ありというようにしむけたのが芸の絶妙にて、この枝はこう、この花はこうと、一つ一つ人にほめられんとてねじまわしたものは芸にならず。「夢雑誌」の自序文を読み味わっても知るるごとく、大岳翁はこの「夢雑誌」を多くの人に見せてほめてもらわんとも、いわんや褒美を貰うの表彰されんのという志向は毛頭なく、月は澄みておのずから明らかに、水は動きておのずから絶えざるような心持で筆を執られしものにて、今日流行の画が一枚成れば必ず文展へ出さねば気がすまず、嫁入り装束の写真は銭を増しても写真屋の門前に並べねば気がすまぬというような心持で書きしものならず。
(352) 拙方には拙父が養子に入り来たりし以前に家付き娘に前夫があり、その間に生まれし小生とは何の肉縁もなき異種かつ異腹の姉一人ありしが、その生母は死に失せ、父は養子に来たりて間もなく家付きの妻に死なれ、跡にのこりし娘を抱きて途方にくれおりしところへ、小生等の生みの母がのちぞいに参り、さて小生等を生みし。しかるにその娘は継母たる小生等の生母との中悪く、いろいろ誘惑する者ありて、十六、七歳の時泉州へ脱走し、そのころちょっと名ありし博徒の妾ごときものとなる。明治五年小生六歳の時、拙父おいおい身上を持ち上げ和歌山目ぬきの寄合町に宅を求めて普請成り引き移り候を聞き込み、その博徒が小生の姉をつれて乱妨《らんぼう》に来たり恐喝取財にかかりしところを、張り込みおりたる捕亡吏(巡査)に捕われ禁獄され、その場にて姉はきびしくその博徒に打ちたたかれ涙に沈むばかり歎きおりし体が、今この状に認むるうちにこの半切り紙の上に現わるるごとく覚え候。小生はちと鈍感な生れにて言語は六歳のころまで発し難かりしゆえ、何のこととも知らず、ただ呆るるばかりなりしが、自然大体の事情は子守り奉公の輩などの話よりほぼ知るに及び候。その姉の成行きは一向知るに由なきも、せっかく小生の姉を囮《おとり》にしてぐずりに来て禁獄されて博徒は大いに僻易し、弱り入りたるを見かねて、小生の生母の伯父が警察に出頭して願い下げ、以後決して難題を持ち込まぬということを誓言せしめた上、手切れ金を遣わし、博徒はまた小生の姉をつれて泉州へ還り、さんざん玩弄された上、娼妓か何かに売り飛ばし、肺病くらいになりてはやくこの世を去ったことと存じ候。(三十年後に帰朝して、もと手前父の番頭たりし者より聞きし。この番頭は入野のバンドメという屋号の家の生れ、南部町の大江氏などの遠縁のものなれば、貴家などとも多少のつづきはあるやに承りし。その悴は小生の従弟にて楠本藤楠と申し、八年ばかり前和歌山の金持番付のふんどしかつぎの欄に列なりありし。)右の姉が博徒になぐられ巡査来たりて博徒をつれ去りし跡で、拙父はその姉をきびしく追い出し候。その時小生の亡母がなにかちょっと亡父になにか言いしを、父は怒りて母のこめかみを烈しく打ち、それより一生こめかみに、梅干のごとき赤き痣をのこしありし。
(353) 小生察するに、父は怒りて、いかに継母が気に入らねばとて知らぬ他国へ走りて、人もあろうに博徒の家に囲わるるということがあるものかと叱り付けしを、母が過ぎたことは詮方なければ、父にわびたる上、この家へおちつき一同仲よく暮らそうじゃないかくらいのことをいいなだめしを、烈火のごとく憤りたる父が、入らぬことを言うな、家に傷つけたる娘をかばうは以ての外と叱り、母はそれでは自分は先立ちしこの娘の生母に合わす顔がなきゆえ、何分堪忍して置いてやってほしいとでも言いしを、一層怒りて母のこめかみをどやしたくらいのことと察し候。その後この姉はどうなったかは一向知らず。垣内博士の母、すなわち小生の同腹の姉は、その時九歳なりしゆえ、その姉に聞いたら子細も分かったはずなれど、終《つい》に聞く暇もなく年をすごすうちに、それも三味線を引きながら六十歳ばかりで頓死。その時博徒を説得して方を付けたる拙母の伯父は遠の昔に死にしが、その人の孫女が大阪にあり、いつか会うて聞かんと思ううち今年その家の者が来たりしに尋ねしに、その女も二、三年前に死せしとのこと。拙弟などはその時ようやく三歳なりしゆえそんなことは一向聞き及ばず、また聞き及んでおっても、金銭にならぬことは知らず存ぜぬで押し通すは知れたこと、今となっては何ともそのことの始末を詳らかにするを得ず。
 人間は誰も死ぬに極まったものながら明日死ぬとは思わず。亡父も亡母も何とかその姉の弔いくらいはしてやるつもりで日を送るうち共に死んでしまいしことと見え、和歌山にゆき過去帳を見るに、その姉のことはちょっとも記しおらず。寺で聞くもわけ分からず。そんな姉があったということは小生の外に知った者なし。しかるに小生も死期が近くなりしにや、去年より毎夜毎夜その姉が小生のかたわらに現わるる。暦を閲するに六十五年の間往生せずに中有にさまよいおるらしい。よって近日著書で金が出来たら和歌山にゆき、その姉を弔うて戒名を付け、どこに埋もれあるとも知れぬ無籍の亡者ゆえ、小生死ぬまで少しもはなれず、小生の身に付いておるよう致し、小生死んだら小生と二人つれて諸処の仏壇を食いまわり、気に入らぬ奴の宅へは昼でも二人つれて出てやることと致し、只今高野第一の学僧水原堯栄師を招き戒号をつけやり貰うつもりなり。この姉の方を付けぬゆえ、十人まで兄弟はあり、その内八人(354)までは一種一腹の兄弟でありながら、満足に生き残りしは小生と常楠のみにて、この二人が異腹の兄弟にも見られぬほど中よからず。これ右の異種異腹の姉の寃魂の所為と考え候。
 この姉の件が済みたる上、小生は明治十九年渡米後初めて亡父母の墓参を致すべく候。さて次は令閨の二兄君の墓所に一夜通夜して久闊を謝し、「夢物語」の一件も報告致すべく候。拙弟常楠なども、大隈候の法螺などを聞きたがえ、世間は五分の物は五分で通せぬなど広言し、財産隠蔽、正税不払いのことのみ謀り、亡父が入り聟に来たりし南方家の支流の老女、子なきものありしに、ろくろく飯も食わさず陋巷に窮死せしめ、その跡を二十余年も立てやらず。川瀬九助氏の次男を娘の聟養子にもらいしに、一向身代を分け遣らず、小生より騙取せし田地(実は宅地)をその方へ分けやる魂胆と聞き及ぶが、どうなったか知らず。(弟の悴がこの川瀬氏の次男に財産を少しも分くることを好まぬなり。)こんなことをして、絶えたる家を打ちやりおくはどうも宜しくないように思う。貴方なども何とか羽山家を速やかに再興しては如何。絶えたる家をそのままに置きて、さて、その家の祖先の書いた日記を出板して、学校小使や人力車夫、検番の三絃持ち同様に表彰されて、それで一石二鳥と喜悦するなどは、はなはだ面白からぬことと存じ候。
 小生前年「夢物語」の要部出板のことを蕃次郎氏に申し通じ、三好子爵に托せし時は、貴殿はいまだ羽山家と縁を結びおらず(明治二十三年のこと)、いわんや中川氏夫人などは未生以前のことと存じ候。しかるに三好方に御家騒動あり、とても出板などの見込みなしと申し越せしゆえ、小生三好子にかけあい一旦「夢雑誌」を返却させ候。その後このことを自分で遂行せんと存じ、茂樹氏に申し通じ、二回に借り出して七年かかりて全部を写し取れり。注釈は今も入れおり、なかなか浩瀚なものなり。これを今まで出来ただけ出板するにはよほどの手数と金銭を要す。故にその出板は全部注釈完成するか、小生死後誰かに出しもらうことと致し、差し当たり困ったことは、「夢雑誌」の用紙がことのほか悪く、とてもこの上二十年はもつまじ。さればこれを写しかえるよりは、貴方に志を興されしを幸い、(355)複写なり印刷なりして実費をもって望みの人にさっそく頒ちやることなり。これは、小生には他の用事多くて出来ず。すなわち日本菌譜が小生専門の部だけでも四千五百図近くあり、いずれも極彩色にて出板にはよほどの手数を要す。今五百図を娘と二人で拵え、それでしめ切りと致し、一生懸命に出板にかかるなり。それがためには年来の随筆物を売り出して金を拵えざるべからず。故に当分「夢雑誌」のことにかかることは自分に出来ず。貴公にて複写、または印刷するために撮要本を拵えるに恰好な人物を求められしゆえ、雑賀氏を推薦申し上げたり。
 貴書には、小生この撮要本編成に付き毎事雑賀氏を指導すべく小生に頼まれ、小生が承諾せしよう御述べあるも、小生は他人を毎事指導するほどの時間閑暇ある身ならば人を指導するまでもなく自分で編成して進ずべきなり。それがならぬゆえ雑賀氏に頼むべく御推薦申し上げしにて、雑賀氏は前日貴方へ参り何か契約し還れりとて、一、二度報告に来られしも、自分も家内も病気にて何も詳らかに聞知するを得ず。要は前年(明治二十三年)三好子爵に出板を委託せし時は(蕃次郎氏東京にあり、毎度三好邸にゆき相談せしなり)、維新前後の史料民間に散在せるのみにて、ようやく渡辺修次郎という人がその一斑を短く集めて出せしくらいのことにて、そのころは薩長連と旧幕派の憎悪まだ熾《さか》んに、奸人とか賊党とか相罵り、維新のことを述ぶるとたちまち罰せられなどせしゆえ、こんな物の出板の見込みなく、よって長州顕官の理解を得て、少しでも後進のために出しおきたしと存じ、三好子にたのみ承諾されたるなり。しかるにもはや五十年も立ちたる今日となりては、「夢雑誌」に載せたる史実は十の九以上、修史局、帝国大学、その他多くの官省局にて編纂して出板されあり。われわれ貧士がこの田舎ではちょっと手に入り難いが、そんなものばかり扱う書肆が京阪、神戸、名古屋、山田、浜松から、ことに東京にはおびただしくあり、毎月小生方へ届く目録が少なくとも二十冊あり。しかるに誤字略文の多き、
  ここまで書きしところへ(十一月二十八日夜八時十分)雑賀氏来たる。よってこの状ここまで書きたるを一読せしむ。その少し前に新庄村前村長の子、菌標品を持ち来たり立ち去りし跡を、その標本を片付けるに骨折れる。(356)雑賀この状を読み畢り、一時十二分に辞し去る。なに様研学のかたわらこれまで長き手紙を書きしゆえ、疲労はなはだしく妻も娘も大いに心配の様子ゆえ十一時五分に一同を臥さしめ、自分は研究器械等を片付け十二時四十五分に臥せしに、この夕、食事の代りに大なる柿二つ食いしが胃に余りしと見え、口より敷蒲団の上に出で来たり、その上へ横に顔をおしつけ臥せしゆえ顔面柿の汁だらけになり、気分わるく安眠成らず、二十九日朝方ようやく安眠していつまでも熟睡するゆえ妻大いに愕き、十時までまちて起こしに来る。ようやく起き出れば十時十分ごろなり。すなわち雑賀氏へ下女を走らせ、せっかく長々手紙を書きおる最中ゆえその手紙を書き終わるまで日高行き見合わすべしと申しやり、すなわち雑賀氏出立を延引しおる間に、朝飯くわずにまたこの状を書く。昨夜新庄前村長の子が持ち来たりし菌は、本日ことのほか暖かなるゆえこの状書き終わるころまでに半分は腐るべく、この状を書き終わる前に娘にその菌を写生せしめたら事すむべきも、状を書くのを急ぐから腐るのは腐るに任せ一意この状を書きつづくる。七十一歳になりし者が、英国のスコット先生のごとく、科学上の実験をなしながら一昨日全く眠らず、つづきて咋朝四時よりこの状を書き、昨夜十二時五分にひとまず筆を斂《おさ》め、今朝十時十分よりまたこの状を書きつづくるなり。これを書き終わりて下女に雑賀方へ持たせやり、さて娘と共に写生にかかり、明朝か明後朝まで眠らぬつもりなり。毎度毎度「身体を大事にして無理をせぬよう」との御忠告は難有《ありがた》いが、亀というものは十五分ごとに起きて鼻の穴を水の外に出し、呼吸し、また水に入りちょっと眠り、また十五分して起き呼吸する。それでずいぶん長生きする。吾等も眠る時は二昼夜もつづけて熟睡し、起きる時は四昼夜くらいおし通す。故に他の人間の十倍もの働きが出来る。これより本文にかかる。
七、八十年前に、飛脚が持ち釆たる間に、どんな取り落しごまかしがあったとも分からぬ江戸、北海道、京摂よりの通信書を、菊池から瀬見、瀬見より塩屋へようやく廻ってくる間に、またいろいろと紛失、欠損等のありたるはずの麁末なる手紙を、大岳翁がほろ酔い機嫌で、ちょうど小生がこの状を走り書きせし内には誤字書き落しも多かるべき、(357)その不十分なる「夢雑誌」の本文に拠って、七、八十年前の史実を調ぶるよりは、今日東京、京阪の無数の古書肆に多く発売する種々の官報や修史官局編輯の史料集篇を見たら、「夢雑誌」に十ヵ条しか載せざることは、百ヵ条完全に載せおり、「夢雑誌」に、これより末半分は闕文となしあることも、全文を容易に見得る。そんなことは全篇を通してはなはだ多きが、それをことごとく既出の諸史料集編に拠って補充完成したところが全くの徒労にて、そんなことは「夢雑誌」に就いて読まずとも、『ペルリ渡航事件文書集成』とか『生野義挙史料集』とか『天誅組全史および文献全集』とか『常野史料大成』とか、金さえ出すか、また然るべき史書図書館に行かば、「夢雑誌」のような不完全なものに比して百倍千倍の完成せる史料はいかほどものぞき得るものなり。故に「夢雑誌」が史学上の大参考になると申せしは、明治二十三、四年この書を三好子爵家の手で出版せんと思い立ちし時の古いことにて、今日となりては「夢雑誌」ごときものは少しも入用なきまでに維新史料や日米開通史料はととのいおる。そこへ「夢雑誌」を維新史料と意気込んで出板などはいわゆる遼東の豕《いのこ》と申すもので、明治二十三年に神道の総裁であらせられたる久邇宮様の御孫宮に、そのころ夢にも思い掛けざりし熊楠が四年前直接御前へ召されて、その場で小生の手よりすぐに物を奉るほどに時節がかわり来たりたるなり。
 史料全集にありふれたる昔の公報、官報の断片や、誤字を多くきれぎれに集めたる「夢雑誌」の冗文を多く再板するなどは、明治二十三、四年または大正の中ばごろまでは多少珍しかったかも知れぬが、今日となってはまるで無用のことになりおり候。小生が今もこの「夢雑誌」が大いに学問に益ありというは、この一書中には今日となりては通常人の容易に行き逢い得ざる昔の世態を観察するに足るべき俗語、方言、世諺、事物の称呼等あり。たとえば維新前に土州藩の大坂邸に俗向きの稲荷祠ありて町人が多く参詣せしこと(賽銭が土州藩の一日の収入となりしなり)、天誅組がえらそうな触れ込みで十津川に入りしが、一月もおる間に食料つづかず民家へ鉄砲を打ち込み鶏を殺して食いしゆえ、十津川士人の反感を買い、千葉氏の一類等に嫌われ裏切りされしゆえ、さっばり十津川に籠るを得ざるに及(358)びしこと、河内大和の豪家が大義名分を解してこの義挙に加わりしとはよい加減な虚評で、実は人の子を人質に捕えなどせしより、子の可愛さに子を追うてこの一行に加わりし等のこと多く、そんな気の毒なことを行ないしものゆえ、初めからこの義挙は成っていなかったこと、和歌山蒲の士族中に本心から勤王とかなんとかの確固たる見解あるものは一人もなかったこと、こんな詰まらぬことを実際に見るごとくよく読み察し得るのがこの「夢雑誌」の特に尊きところにて、中にはちょっとした一句の文ながら、久邇の大宮が、あろうことか、芸妓を弄びたまい、はなはだ不評判なりしことなども窺わるる。これらの文句は史料としてはなはだ貴重なるものなれども、これを出板するにははなはだ手心を要することにて、尋常一様の文筆では容易に出来ぬことと存じ候。されどもこれらこそこの「夢雑誌」の尊重すべき要点なれば、何とかして表面に露出せぬように書き成すのが編纂者の巧技を要することにて、小生はなかなか辛苦したものなり。また今も辛苦しおる。
 しかるに近ごろ毎々の貴書によるに、貴殿御自身があまり長生きの見込みもなく、令閨も百歳までも生き延びる見込みもなきゆえ、一日も早くこの書を出板して、すなわち前述の貧女に自分不相応の金を与え空腹で車を引いて返った(長瀬政吉と申し雑賀氏も知人)車夫、詐欺・恐喝のやり通しで大阪某ビルジングに事務所ある由申し越すから尋ね行きしに、事務女員出で来たり、そんな人は当ビルジングには一向おらぬ、貴方もその悪党の子分ならなるべく早く手を切るが宜しからん、あれあれビルジング常傭いの刑事が来た、早く裏口より逃げなさい、と勧告さるるような、いわば日本左御門、稲葉子僧同様聞こえ渡った大悪徒にして、城堀の埋め立てに功あったとか三年坂の切り通しに成功したとか、せっかく歴代の主侯家が多くの銭を費やしたものを、やたらに潰しただけの功労者にして、その筋へ運動の結果、連年表彰され、吾等の眠から見れば坊間小児の弄ぶメンコのような勲章とかいうものを県庁より貰い、相場を?覆させんため船の底を焼き抜いたり、寺の塔をかたり取ったりした人の顧問と称して、新聞社員を馳走してその仕払いをすっぼかしたり、そんな人々と一列に表彰さるることを心懸けて、この「夢雑誌」を世に推し出さんとす(359)るような専念では、最初小生が羽山家の人々にこの事を三好子の手で出板せよと言い出でたる素志とは全く背馳することと成り候。
 また前般も毎々申し上げしごとく、舅家の跡絶えたるをそのまま看過して、舅家の遺書を出板して自家の誉れを博するということは、従来日本の道義観よりしてはなはだ面白からぬこと、天正のむかし近江半国の主浅井備前守長政というは、織田信長の妹婿なりしが、旧交ありし越前の朝倉家が信長に滅ぼさるる時、旧家の滅亡を見るに忍びず、信長と交りを断ち朝倉家に加勢し信長と戦い敗れて切腹致し、信長は妹をとりもどし、その間に生まれし男子を串刺し、すなわち尻の穴より鼻の穴まで竹の串を刺し込み、磔《はりつけ》にして殺し候。女子三人生まれありしを助命し、信民の妹すなわち浅井氏の後家を信長の功臣柴田勝家に妻《めあわ》せ候。この信長の妹お市の方は非常な美人なりしより、秀吉この女をほしさに柴田に戦争をしかけ、ついに勝家を亡ぼし、お市の方を助命すべしと言いしが、何度も何度も後家になりては面目なしと言うて勝家と共に自殺、その三女を秀吉が引き取り、姉淀君を自分の妾とし、第二女を京極家の妻とし、第三女を秀吉の養子、信長の実子秀勝の妻とせしが、秀勝は朝鮮役に戦死し後家となりしを、家康の子秀忠の妻と致して三代将軍家光を生み候。然る上は徳川氏天下を取り浅井氏の後を立てやるべきに、浅井家を再興せず。朝廷に奏請して長故に贈位贈官しただけで浅井の家を再興せず。この長政は全く義のために妻子を捨て自殺した義人なれども、徳川氏がこれに贈位贈官したるは長政の義人たりしを表彰せしにあらず。全く浅井家を再興せず(再興すれば費用等の点より徳川氏の不利になる)、再興せぬ慰藉料として空位空官を贈り、幽霊をも世間をもごま化せしなり。こんなやり方は人の精神上にはなはだ働きかけるもので、長政の第三女すなわち徳川秀忠の妻は狂人のようなものとなり、それより事起こりて秀忠の長男家光が同腹の弟駿河大納言に切腹させ、その後徳川は四代将軍に子がなくて正統は断え候。
 御幣をかつぐようだが、小生の家などにも親族縁戚の廃絶を中興しやらずそのままに打ちやりあること多く、自分(360)兄弟にもそんなことになりおるものあり。近くは那賀郡名手の花岡という、前年聖上御即位の時贈位されたる花岡随賢という外科医の大先生の跡なども、常楠の妻は随賢の曽孫に中《あた》る。常桶の妻の妹が花岡の嫡曽孫と従兄弟にて花岡家に嫁し男子を生みしが、当主が東和歌山駅の設立をあてこみ家産を傾けて新地の地所を多く買い込みしに、駅が新地に建てられず、その東の方すなわち吉田村という所に立てられしより大敗亡を来たし、やけくそになり新地の今度は芸妓の臍の下の地所を買い込み始め、妻は心配して肺病兼神経痛になり子供を残して死亡、その跡へ芸妓を納れたからいよいよ身代は舞い上がり、本人も肺病を卒業して死亡、のこされた子はおいおい全滅して一男児のみのこる。常楠は妻の甥のことなれば、兄たる熊楠に物をみつがずともせめては妻の甥の養育料くらいは出しやるべきに、一文も出さず。その子はもと出入りの小百姓か何かの手で育ち、犬の子のごとく、いわゆる親はなけれど子は育つで、馬の糞など拾ってどうやら成人し、こやつなかなかえらい奴で、種々と世間を遊泳して、京阪に出で医者の玄関番から仕上げて、独学自研し、四、五年前にまだ三十にならぬに医学博士になりたり。名家の後裔ではあり学業抜群なれば、小生も何とか助力しやりたきも、肝心の舎弟が一文も出さぬものを小生が力瘤を出しては喧嘩の尻押しをするようなものと手控えおる
 絶えたるを起こし廃れたるを立てるということを孔子は王覇の道として推奨しおるに、近ごろは廃絶を中興せぬどころか、その遺《のこ》り物を着服して快とするがはやり物なり。小生はこんなことを毎《つね》に見る。当地に〇〇とて大財産を仕上げたる横着物あり。その妻は元町すなわち田辺の旧田辺本部たりし地の大名主にて、明治六年和歌山県に巡査を創置せし時、和歌山では山崎、清水、南方(拙父)三人より金百円献金して初めて警察署を立て(その時の官報をこのほど当地の玉置氏なる町人方より見出だす)、田辺では多屋、田所、大江、木津、戸田と件の元町大名主等十家ばかりより献金せり。それほどの名家たりしに、その元町大名主の家廃絶せし跡を着服しながら今にその遺跡を立てやらず。そんな報いにや、その横着物はただ一人の男子に死なれ、弱りおるべきところなれど一向弱らず、ますます高利(361)を取り繁栄しおる。貴殿なども舅家を再興することを跡まわしにし、その日記を出板して表彰され、人力車夫や詐欺の親方と同列に表彰されたところで、夢幻を楽しむようなことと存じ候。こんな理由で小生は只今続けおる「夢雑誌」の校注本は出来るだけ続修し、どこかたしかな所へ預けおき、羽山家が再興の上その当主へ出来ただけ全篇を譲り渡すことと致すべく候。すでにこの状を書くだけにも二日ばかりかかり、せっかく集め持ち来たれる菌類はもはや腐り了りたるなるべく、金銭で量られぬことながら小生の損失は少なからねば、「夢雑誌」の一件は貴家ほ貴家で思うままにどうにでもなされたく、当分小生へ御交渉なきよう願い上ぐるなり。
 雑賀氏への指導云々は雑賀氏へ昨夜も委細話しおり、すなわち前述長々と申し上げたる通り、「夢雑誌」の内に今日までに他の書で見ることのならぬ所のみ抜き出し、冗長漫延した混然たる一大塊というような物よりはなるべく堅緻簡要なるものに押しちぢめ、なるべく安価で仕上げ得るものとして撮要本を出し、近い内に有志の人々に無代価または印刷料だけの実費引換えに頒ちやられたきことなり。然る時は悪質の紙に走り書きたる原本が失われても、その精髄は永代世々にのこるべし。これが無上の保存法なり。
  小生考うるに、原本の用紙は、むかし外科または羽山家は蛭をもって療治されしこと多し、その時創口より出る血を吸い取るに用いし廃紙をすきかえさせし紙と思う。湿気を吸うこと多きゆえ保存すこぶる難し。物置に天井より雨が漏れ、物置の下の板敷がいつもぬれありしに気が付かず数年打ちやりおきしより、洪水に浸《ひた》りしように書冊を積んだ下から水がしみ上がりしと見える。これでは保存に力を尽したところがこの上二十年はもたず。
 もしまた今少し紙数を増し、多くのことを漫然増し加えたしというならば、すでに諸官省諸私学舎の刊行物で今日はや整然と出板されおるものを、誤写・衍字多き悪本なる「夢雑誌」を訂正するに、それらの官私諸公刊物と引き合わすは、この地方にて出来ることにあらず。東京の図書舘にでも一年か半年人を派遣してようやく出来ることにて、それが出来上がったところが何にもならぬ手後れの徒労なり。そんな徒労をするよりは、誤字誤写はかまわず原本の(362)ままに「夢雑誌」を、複写器や謄写機を五十円も出して買い入れ、女事務員でも宜しく、篤実精鋭なる人の手で全部を複写して、このほど宇井縫蔵氏が亡父の遺書を複写頒行せるごとく頒行されたきことなり。然る時は、味噌も糞もよきも悪きも全くのこすところなく公衆の面前に展開することが出来候。今日この書を亡びぬうちに写し取り後代にのこすためには、この方法が一番近道と存じ候。
 小生は昨夜来食事せず大いに空腹にもなり、娘は菌を写生せんため、今朝七時より何もせずに手を拱《こまぬ》いて小生の命令をまちおり、小生この状をかくため一家何もせずに立ちおる。雑賀氏も大いに出立の予計が違ったはず。よってこの状はこれで止め、下女に韋駄天走りに雑賀氏方へ持たせやるから、これで筆を止め候。雑賀氏も小生よりこんなことを依嘱され、大いに日時も空費したるべく、気の毒至極なるゆえに、御気に召さずば雑賀氏への代償は心易き中にて小生よりどうなりとも致すべく、断然この訂纂のことは同氏へ御ことわり下されたく願い上げ奉り候。             匆々敬具
 
(363)   山田信恵宛
 
1
 
 昭和四年九月四日午前六時
   山田信恵様
                     南方熊楠再拝
 
 拝啓。その後大いに御無沙汰に打ち過ぎ申し候。六月一日に進献したる枯菌の標本の不足分を差し上ぐるため今に検査をつづけおり、また娘が長々の病気、それに付き妻も心配のあまりヒステリーを起こし、それがためいろいろと煩わしきこと多く、大いに御無沙汰致し候。六月御行幸の前には貴女特に小生のために御専念下され、まことに旧縁の尽きざることを有難《ありがた》く御父兄の先霊に対しても感謝奉り候。世間大不況の上に小生方は下女の外みな病人いずれも永くかかり、健康らしきものは小生一人にて、諺に災いも三年と申すに、当方はもはや四年来|禍《わざわい》の絶ゆることなくあきれおり申し候。前日古き日記をしらぶる要事有之、閲覧候ところ、明治三十五年七月二十六日の条に、小生湯崎の旅舎にあり、田辺より六、七人集まり来たり酒盛りする最中に、喜多幅氏より使者あり、羽山氏の父君咋日死去とか知らせ来たりし由を記しあり。そのころ小生英国より帰りて間もなく、和歌山の兄弟どものしむけを面白からず思い、酒のみ飲みて遊び暮らし候て、世間を夢のように打ちすぎ候。しかれば貴方へも御くやみの書状さえ出さざりし(364)ことと存じ候。そんなことが重なり報うて今日老後にいろいろの苦をみることと存じ候。また貴女の御生家は父君滅後重ね重ねの御不幸も、事窮まれば必ず通ずと申し、今日にては御安泰に渡らせらるるは貴女若い時に苦労されたる報いと浦山しく存じ候。
 まずはあまりに久しく御無沙汰の御挨拶申し上げ候。  早々敬具
 
     2
 
 昭和七年六月二十七日午前九時
   山田信恵様
                     南方熊楠再拝
 
 拝啓仕り候。その後は大いに御無音に打ち過ぎ申し候。小生札幌大学の教授二人に自分によく分からぬ菌類を調べもらうため今年二月八日より六月十三日まで、昼も夜も押しつめてその標本一千点の下調べをなし、発送致し候。百二十日ばかりの間、荒きござの上にすわりてにじりありき候ゆえ、左の足がまるできかず、腰も胸もねじれゆがみて身体起居自由ならず、大いに困り候。よって娘に菌類の写生をさせ、自分は椅子にかかりてばかりおるゆえ、おいおい快方に御座候。
 前年ハガキに歌をかき送り来たりしを尊女に差し上げたる東京帝国大学名誉教授白井光太郎博士は、なかなか壮健な人にて、今年になり五度ほど来状あり。この人有名な漢法医学の達人にて、天雄《てんゆう》という大毒薬に黒大豆《くろまめ》を合わせ煎じつめて服用し、不老不死の薬なりと申し自慢しおりしが、それを用い過ごして五月三十日の夕方卒死され候。その前日(二十九日)も小生へ葉書を寄せ東京の春陽堂と申す大きな出版書屋より『本草』と申す雑誌を出し、漢法薬のことを述べるゆえ小生にもぜひ何か書きくれとの依頼に付き、小生病中ながら五月三十二日の夜通し一文を認め、六(365)月一日の朝、今一、二行かけば出来上がるというところへ下女が『大阪毎日新聞』を持ち来たる.それを何の気も付かずまくると白井博士の像が出でおり、不思議に思い読むと三十一日の夕七十歳で卒死の由載せあり、はなはだ驚き、また人間の無常ということを感じ申し候。
 かねて尊女の御頼みもあり、右の拙文稿と引き替えに短冊へかの歌を認め、貴方へ直送しもらうつもりなりしも、本人がなくなられたからその望みは絶え申し候。
 右の次第に付き、かの歌を認められたるハガキは、永々貴女へ留め御保存有之たく特に御願い申し上げ候。
 新聞にて承知するところ、貴方等永々の小作地所の争議もどうやら片付きたる御様子、まずは慶賀奉り候。当節どこもここも人気至ってわるく、小生方も悴の病気が今に直らず、毎月二百円近き送金には弱り入りおり申し候。
 この三月に県知事拙宅に来訪され候その返礼を兼ね、今年中に一度和歌山へ上ることも有之べく、その節貴方へ御立ち寄り、御機嫌を伺うことも有之べくと存じおり候。
 まずほ右白升博士死去に付き、ちょっと申し上げ候。   早々敬具
 
(366)   羽山芳樹宛
 
     1
 
 大正二年十二月十六日夕
   羽山芳樹様
                        南方熊楠拝
 
 拝呈。貴蔵御祖父の書き集めたるものは、何とか然るべき方法をもって貴家より外へ出さずに写し取り、内閣文庫へ一本を蔵し置くべきよう、只今内閣記録課に久しくつとめ目下は宮内書記官たる柳田国男氏に照会中に有之、これはそのうち何とか申し来たるべきに候。
 近来県庁または郡役所より、郷土史編纂の材料と称し、かかる重要の物を借り入れ、さて、その役人は他県の人ゆえいつ転職やら免官やら分からず、せっかくの珍書失われ、または欠本になり、しからざるも諸処破損する等のこと多く候。
 故に右の書は貴家に現存すること当分御口外なされず、もし聞き伝えて借りに来たらば、小生方へ貸し渡せし由御話し下されたく候。前年小生世話にて、故蕃次郎君より三好子爵の長男に貸し、返却渋滞し、はなはだしく迷惑候こと有之候。当地旧家田所氏の日記なども、浩大のものにて、まことに重要のものなりしを、役人等に借り失われ欠本(367)と相成り、只今は一切蔵の外へ出さぬことに致しおり候。これも小生そのうち自分右の神庫について写し抄し、内閣へ一本呈するつもりに御座侯。
 右当用まで。                 恐々
  当節は少しも油断成らず、盗人ばかりの時節に有之、官人なども大盗人多し。まことに困ったものに候。
  今度郷土史編纂の挙ある由承り候付き、右申し上げ候。
  尊母ならびに貴下また御妹様は健在なりや。小生こと一度参上致したきも、何分帰朝後事多く、今に自分父母の墓参りもせざる次第に有之、少間を得ざるに候。
 
     2
 
 大正五年九月二十八日夜十一時
   羽山芳樹様
                        南方熊楠再拝
 
 前日御書信下され難有《あるがた》く拝謝奉り候。小生は相変わらず多忙にて、只今来年の正月号諸雑誌への寄稿にかかりおり、また菌類の研究好季節ゆえ日夜ほとんど睡らずに図画記載罷り在り候。思うに小生はかく多忙多繁のうちに死ぬることと存じ申し候。今春肺炎を患い候余勢に候や、今に胸部痛むことあり、また時々気絶するように気が遠くなること有之候。しかし身体は至って堅固なるゆえ、それぞれ用心致し、追い追い宜しき方に有之候。かく多忙なるに係わらずやはり時として少閑は有之、何にもせずに時を過ごすはつまらぬのみならず、小生ごとく多事多忙のものは仕事を替えるとはなはだ気分も改まり、心性の養生に宜しく候。付いてはかの「彗星夢雑誌」の後分総目録および七篇下巻までは悉皆恩借写し了り候付き、御都合宜しくば、八篇上巻以下まず十五冊ばかり御貸し下されたく候。急ぎと申す(368)わけに参らざるも、なるべく暇さえあらば写して早く御返し申し上ぐべく候。総目録によるに、小生毎度出す論文などに入用の箇条も甚《いと》多く有之、何様貴方にのみ存して他に類本なく、天下一品のものゆえ、これを一字なりとも蠹蝕に付し終わるは実に惜しきものに有之、何とかして写し了り候上、他の諸書と校合致し、他の諸書にすでに出でおる事項を除き去り(たとえば三篇中巻の伊勢神宮奉幣宣命などは他にも広く伝わりおるも、同巻の熊野三山攘夷祈願の文などは、「夢雑誌」の外に一切伝わらず、これを作りし人の子孫(小生知人)もこれを知らざることと存じ候。また三篇上の夢物語と夢々物語は今日あまねく出板されおるも、夢多可記は出板されおらぬものなり。この外紀州地方の事項には、この書の外に載せられぬこと甚《いと》多く、瀬見善水(日高郡江川の人。小生幼少の時知る人なり)、柏木義矩(当田辺の人)、菊池渓琴、久保無二三(たしか日高郡上野か野島辺の人にて長州に走り、維新前後軍功ありし。剣術は斎藤弥九郎門人にて至って上手なりしが、あまり学問なき人ゆえ重用されず、小生明治十九年貴宅へ上りしころはどこかで裁判所の判事かなにかしておりし。只今はむろん世になき人と存じ候。そのころ久保秀景と申せし。ちょんまげゆい陣羽織きて太刀を杖つき、床几に腰掛けたる写真貴家にありし。これも今日は失われたることと存じ候。この人は維新ごろ名高かりし人にて貴父君も知人なりし。この人の後いかがなり候や、御存知ならば御知らせ下されたく候)、由良守応(これも日高の人にて、かつてどこかの婿になりしことさえあり、後に皇后宮の馭者となり皇后宮を堀へ落としまいらせ退職。それより浅草にて千里軒と申す馬車屋を始めたるが日本最初のがたくり乗合馬車なり。木下友三郎氏大学にありし時の保証人なり)等諸氏の書信は、十の八、九は今日とても手に入らぬ物にて、全くこの「夢雑誌」により世に存留を得たるものに御座候。何とぞこれら他の書物に見えぬものを集め、小生と貴家との関係等を面白くのべて出板し、後世に残したくと存じおり申し候。あらかた概要だけ出すは左までむつかしきことには無之かるべく候。
 しかしてかかるもの出し得るとするも、小生写し得ずして写さざりし部分なきにあらず。たとえば巻首の祖父君の(369)自序の次にある彗星の図、また巻中にある蝦夷地の着色図、それから米国よりハリス使節として来たり将軍へいろいろ献上せし物のの図の板行画、また、そのころの役人の番付など、現品をそのまま雑誌中に貼付しあり。これらは実に希代の珍品にていかに写したりとて原形通りに写し得ぬと思い、写さざりしに候。故に小生が自分写したる部分を基として出板し世に伝うるとするも、貴蔵の原本はそれによりて声価を減ぜず、反ってこの珍本の実物を見んと欲せば貴蔵に就いてするの外なきことゆえ、何分十分注意して、この上保存を厚くされんことを望む。ただし小生手前に一本写し置けば天災亡失等の予防に幾分かはなり申すべく、またそのうち概要でも出板しおかばともかく、貴下御祖先がかかる綿密なる著編を成されしという印相だけ後世永々へのこすことは出来申すべく候。
 決して急ぐことに無之候も、小生多忙にて今後ちょっと書状差し上げずに過ごすことも有之べく、今夜少間あるゆえちょっと申し上げ候。何とぞ微志御洞察の上いつでも御都合のよき時、跡分十五冊また十冊でも宜しく御貸し下されたく候。あまり多冊御貸し下されては、永々小生方へ留め置き、麁相の損傷等の患《うれ》えなきにあらず候。小生は尊兄二方とすこぶる懇意なりしをもって、今に閑室に読書など致すうち、ふと二方の形を目前に見、対話談笑するごとく覚ゆること毎《つね》のことに有之候。
 ある人いわく、塩屋の海では、冬期にテングリ網を引く、それへ山の神と申す刺《はり》だらけのオコゼ魚多くはいるとのことなり。この山の神は日本の諸方でその名のごとく山の神を祭る時に用うるものにて、今も十津川また日向等で猟師が山神をまつり、獲物を乞うにこの魚をあげるからと願をかけ申し候。当田辺町では漁師の妻など何の病でも山の神に祈り、平治の上はこの魚を奉ると祈願することに候。小生当地の民家で、この魚に山の神(狼)がほれ、獺《おそ》をして手紙を通ぜしめ婚姻し盛宴を張るところを、平生このオコゼにほれおりたる章魚《たこ》の入道大いに怒り、烏賊等を集めオコゼ姫を奪いにゆく物語を屏風に画けるを見出だし、東京人類学会で出板し、咋年米人スウィングル氏来訪の節見せたるに大いに感ぜられ、画工に右画を写させ、詞書は小生みずから筆し、かの国の国立博物館常備品として持ち去(370)り候。
 右山の神というオコゼは、小生当地の漁婦にもらい多数もちおるが、貴地にもこの魚をもって山の神をまつるということを申し伝え候や、また只今はそんな話一切なきことに候や、御聞かせ下されたく候。小生東京にて『郷土研究』と申し民俗学の雑誌へ毎月かかることを書きおり候付き、この魚の話をまとめて出したく候間、この魚の話何なりと御聞き込みあらば御知らせ下されたく候。
 右七御頼みかたがた申し上げ候。          早々謹言
 
(373)   雑賀貞次郎宛
 
     1
 
 大正五年八月八日午後
   雑賀貞次郎様
                        南方拝
 
 恩借の『俳諧珍本集』まさに抄し了り候付き、御返納申し上げ候なり。
 当町本性寺に山城様の遺骨塚あり。坊主大山かんで法輪寺に対し一《ひと》もうけせんため先月稲荷祠を迎え立て候とき、右の塚は砕き了り候由。この山城様というは、何時のころか知らず、紀州和歌山徳川侯の長子なりしが、母が正腹にあらざりしゆえ嗣ぎ立つを得ず、その異母弟が嗣ぎ立ちしより世を憤り、家来二人つれ田辺へ落ち来たり、秋津の宝満寺下にすむ。山城田とて三段か五段今も存す。この人田辺は和歌山領にあらずと思いおりしに、一日尋ねてここもまた和歌山の家老安藤の領地ときき、門を閉じ、とうがらし水ばかり飲んで飢死す。その灰を本性寺に葬る。また所持の剣をまつる。瘧《おこり》を守りたまうという(瘧で死んだものか)。この葬式は横須賀与力三十三与力衆、この寺の檀家なりし縁をもって、その輩が営みしなり。右山城殿に付き来たりし家臣二人の内一人は行方知れず、一人は長田《おさだ》という。稲成村にすみしが、後絶えたるを後年再興し他人を嗣がしめ、十二人扶持を与えたりという。童謡に、(374)「よべどたたけど山城様の西の御門があかばこそ」。これはこの人閉門して飢死せしことをいうなり。
  この外にもこの人のこと聞きたれど只今たしかに知らず。右に申す横須賀与力衆とは、瀬戸の御番所番として和歌山より(重倫《しげとも》卿俗にいう坊主殿のとき)当地へ来たり、安藤に臣事するはずなしとて毎度当地の士どもを凌ぎこまらせたる輩、後に安藤に臣たれと強いて命ぜられ、不服にて当地立ち退き伊勢に奔りしなり。
 本性寺の坊主の仕方は今さら詮方なしとして、右の事蹟だけは何とか世に伝え置かれたきものなり。辻源蔵氏その他の話に、本性寺には今も右の山城に関する書き物多くあるとのこと、何とか貴下その伝の散佚せぬうちに、「追い追いこのこと東京の紀州侯へも聞こえたら、当町また本寺の面目にもなり、由緒も大いに挙がること」の由を述べて、右の書き物を写し、『牟婁新報』へ載せ下さらずや。しかるときは、小生もまた何か書き添え申すべく、このまま捨て置き候ては、かの法輪寺の森川兵庫頭のごとく、何とも知れぬつまらぬことになり了り申すべく候。
 御承知ごとく牧野氏はそのころ海内に聞こえたる名士にて一万数千石とりし人なり。しかるに法輪寺の和尚すらその何人たるを知らず、わずかに講談師の話の筆記など新紙で読みかじり、剣法を言い立てて南竜公に用いられし浪人と思い込みおるは、笑うべきのはなはだしきなり。
 右宜しく頼み申し上げ置き候。          早々以上
 
     2
 
 大正十四年九月六日早朝出
   雑賀貞次郎様
                         南方熊楠再拝
 
 『集古』九月号御入手下され候由御知らせのハガキは、一昨四日薄暮拝受、安心仕り候。さて小生折り入って貴殿に御(375)頼み申し上げ候件は、拙子すでに大体において快愈致しおり候えども、なにさま久々世間と距たりおり候こととて一切世態と時事に通ぜず、いろいろ勘ちがいのこと多く、たとえば拙生貸し長屋に住みし井澗悦次郎氏一家が、六月二十二日に湊の共同貸長屋に引き移りしを知らず、このごろに至り、これは石友夫婦がこの貸し長屋に移り入らんがために、井澗氏一家を立ち退かせたるものと確信候様子。これは井澗氏立ち退きしのち、数日井澗氏の家静かなるはどうしたことと母に聞きしところ、母は、汝の病気を気づかい立ち退きしなど申さばたちまち心配はなはだしくなるゆえ、井澗氏の妻子は九州へ帰省せり(これは事実にて七月に里へ一旦帰れり。いまだに来田せざることと存じ候)、その間広い家は入らぬゆえ、便宜につき母を奉じて母子二人で湊へやどをかえたり、と言い置きしなり。それを確信して、しかして石友夫妻が毎日自分を看護するを邪推して、自分快癒せしになおすわりこみおるは、右の長屋を占有せんがためと思うもののごとく、久しい間の事歴を知らぬ身に取っては、蛮民が地球丸しとききてその説者を狂人と思うごとく、尤《もつと》も至極な道理であるなり。
 しかして昨夜もこのことを小生に話し、井澗氏をぜひこの貸長屋によび戻すべしと強請され候も、御存知のごとく、井澗氏は、もと桑原某と申し、岐阜の儒者田辺藩へ招聘された人の子にて、その母は至って気高き人に有之。以前下屋敷町に(只今、岡の中島氏のおる辺)大きな邸ありしを、父歿後売り払い、いろいろ転居の末拙方の長屋におりし人にて、常々借屋住居を好まず、何とぞ自分の一家をもちたしと言いおられしが、共同長屋出来しよりさっそく役場へ申し込み(御存知通り故加藤助役とは親族なり)、イの一番に抽籤に当たり、さっそく移転したるなれば(むろんこの新立家屋はおいおい氏自身のものとなるなり)、なかなか只今小生より頼んだりとて帰りくれるものにあらず。小生もまた同氏が盲目なる老母と妻と幼子をつれて帰り来るを望まざるなり。しかるに右申すごとく悴はひたすら石友を住ませんため井澗氏を追い出せしと信ずる(邪推する)こと堅く、なかなか小生の弁説をきき入れず。
 そこで、右井澗氏は去年より役場へ申し込みあり、よって抽籤の順で一番に新長屋に移りし、ということは、当時(376)(六月二十日前後の)『熊野太陽』か『牟婁新報』に出でありし(『紀伊新報』、『田辺新報』等は小生見ざりし)ことをたしかに覚えおるゆえ、何とぞ拙児の迷妄を解かんがため右の一条の出たる新紙(何でも宜しく)を御探し出しの上、さっそく金崎氏方まで、南方熊楠宛と明記して、御さしよこし下さらずや。大抵貴下または社員中には記臆もあるべく、もし貴方の新紙になかりしことならば、室井君へ電話にて御伝えの上、同氏もまた小生のために力を添えられ、その記事のある新聞紙をさがし出し、さっそく金崎氏方までたしかに寄贈されんことを望み申し上げ候。
 付白。九月の『集古』に出したる「エビ上臈」は、小生一代に類なき古雅なもののつもりにて、東京で好評の由。この雑誌は、かつて内田魯庵も評せしごとく、印刷の即時よりすでに稀本たるものにて、会員の数だけの外は印行せず。故に出板編輯人の手にも、全本は一部ずつしかなしとか。大正十一年小生銀座の旅館にありし日、編輯人林若吉、三村清三郎氏二氏来たり、出来得るだけさがしたりとてくれたるも、なお十冊ばかり完全せず候。この次第で今度も三村氏の厚意をもってやっと十部だけ別刊しもらい、小畔四郎、志賀虎次郎、平沼大三郎、多屋謙吉、貴殿、坂井知雄、杉田定1、宮武粛門、寺石正路、佐山千世、十氏に限り配りたるものにて、平沼、多屋二氏へは本社より配ると申し来たりしが、果たして届きしや否、存ぜず候。故に多屋氏へは当分御話しなきよう願い上げ候。病児のあるところへそんなことをはなしに来られてはこまり申し候。
 右何分宜しく御願い申し上げ候。
  『牟婁』または『熊野太陽』にトジコミの分しかなくんば、何とぞ三、四日拝借したきものに候。           早々敬具
 
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 大正十五年七月九日午下
   雑賀貞次郎様
                         南方熊楠再拝
 
 拝呈。咋日御置き下され候稿本は、小生その後多用にて今に見おらず。本日もことのほか多用に付き、今五、六日して金崎氏方へ御とりに来たり下されたく候(すなわち十四日ごろ)。
 岡村千秋氏へは只今この状と共に一状を出し、貴下と直接交渉するよう申し入れおき候。しかして頁数都合により、小生自分の雑記等の内より多少書き入れをする旨を、申し遣わしおき候。
 山城殿のことは、なるべく完全を期するべきに付き、森彦太郎氏の記載は (小生|懇《ねんご》ろな人に付き申しやるべき間)全文を写し入れ、森彦太郎氏の……(書名)何頁にいわく、と明白に出処を記して貴著へ写し入れおかれたく候(もっとも冗長な文ならば摘要とすべきこと)。その他もこれに準ず。人の書いたものを写し入れ、また抄し入るるは、出処を明らかにする上、その人の著書の広告宣伝をして進ずる訳なれば、決して苦情なきことに候。
 貴下去ってのち聞き知りしは、拙児この三、四日引きつづき門辺に出で、また長屋(旧井谷氏の宅)にゆき、紀伊新報社の屋根のみ望みおる様子。これは、今度おびただしく煙が襲来し池が濁り井戸に煤落ちなどせば、同社へ乱入でもするつもりと女ども察し、おそれおる様子。
 前年南隣宅と喧嘩などは、当警察の部長の仕方はなはだ宜しからず、民法の規定をも知らざる様子。東京にて大審院判事尾佐竹猛氏、また新宮の田村四郎作氏等、その後入来、今日にても訴えて賠償をとる権利あり、また家を改造せしむる権利ありとのこと。その時の紀伊新報社の仕方を拙児今に面白く思わず、ややもすれば手荒きことを企つるには一同閉口致しおり。近所の人に聞き合わすに、いずれも新報社の煙にはこまり入りおる様子。何とぞ法律に規定の程度だけにて宜しく、煙突は高めくれるよう御話しおき下されたく、小生研究所も只今は確定致しおり、日々の鏡検に不意に煙が混雑し来たると、たちまち貴重の標品も捨てざるべからず、ついには研究所の信用にも関することに有之。(東宮殿下へ進献の枯菌成績品は東京にて一切そろいある旨一咋日報知あり。しかるに小生のみは午後の煙を(378)おそれ今に出来上がらず。朝の間は他の用事多く、進献これがために延引致しおり、斡旋しくれおる人々にはなはだすまぬなり。)
 右様の次第で警察また県庁へ届け出ねばならぬようのこととなりては、はなはだ面白からざる旨、北田君に御話しおき下されたく候。
 
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 大正十五年九月十一日夕六時半
   雑賀貞次郎様
                         南方熊楠再拝
 
 拝啓。今日金崎氏方まで御出で下されたる由なれども、小生昨夜眠らず候ため、午睡中にて失礼致し候。新聞代は金崎氏にそのうち渡しおくべく候間、御受け取り下されたく候。
 『牟婁民俗集』は、半分ばかり眼を通したるが、中には小生の随筆と重複し(これは悪くすると小生の随筆より窃盗したるとか、また紙数をふたがんため、すでに世に出あることをまた出したとか思われ、大いに貴著の名を悪く致すべく候)、それも重用なることならよいが、一向同書に何の重きを加うるものにあらざることあり。かくのごときは、むしろ全く削り去った方が眼ざわりにならずに宜しきことと存じ候。〇削ルベシと上にしるしおき候。
 次に、今少しという所に、不完全な所あり。たとえば、熊野別当のことのごとし。これらは小生細筆にて頭書を加えおき候。また書物を引くには、なるべく最古の書を引くが規則に合うなり。故に最古の書名を出しおき候。
 その他、足らぬ句また知れ切ったる理由のあるものなどは、短く書き入れおき候。
  たとえば、「玄猪《いのこ》の晩には宵からお出で、たなごとすんだらぬれ手でおいで」。全文を知った人今なけれども、断片(379)としても、貴下のには第二句がのりおらず.故に補いおけり.何の意やら分からぬとあれど、これは分かり切ったことにて、むかしは大百姓の家の子などは奴隷同様のものにて、奴隷同様のものが蕃殖せぬと、働き仕事をするものなくなり、大百姓は大いに困る。故に代々働き男女を私合せしめ、その子がまた奴隷同様に大百姓に仕えしなり。それもむちゃに私合さしては悪いゆえ、イノコの晩だけを限り私合せしめしなり。故に天下晴れての私合の晩なれば、仕事さえすまば早く来たれ、ぬれた手をふかずに急ぎ楽しみにこいと、女の方より男を招きし意なり。 こんなに書き入れするに、なるべく記臆のままでなく、控え(三十冊ほどあり)より写したく、一切控え書をとり出しあれども、拙児病気はなはだ宜しからず、家内混雑はなはだしく、また夜分は東京よりいろいろ書信などありて、その応接に多用にて、貴下の方ばかり片付けるわけにゆかず。
 岡村という人もよい加減な人なり。一体東京の者は当地などを無下の田舎と見なし、口先ばかりでよいあしらいをなす。十月に出すと言っても決して十月に出るものにあらず。(十月に出る本はすでに多く定まりあるなり。)故に此方よりも、小生より添書して、大阪辺にものぞみ手なきにあらず、(大毎出板部に知人あり、雑賀氏はその地方特別通信員なれば、県下発売をあてこみ、出板の見込みありとかなんとかかき)大抵幾日間に審査し、不成立ならばさっそく稿本を返還しくれ、また、いくらくれるかということを厳重にかけあうべし。
 十月に出るものなら九月二十日ごろまでに発送して十分と存じ候。今一週問内に、小生全稿に書き入れして金崎氏方までおくべきが、それで宜しきや。もし急に送りたしとのことなら、ちょっと金崎方まで御申し越し下され候わば、同氏方よりさっそく小生へ通じ、小生よりさっそく、立って待ちくれおるうちに、貴下へ全稿御返し、何時にても致すべく候。      早々以上
 
(380) 昭和二年一月八日早朝
   雑賀貞次郎様
                         南方熊楠
 
 拝啓。元日から小生|事《こと》大取り込みにて何にも出来ず、昨夜ようやく「続々南方随筆」の稿をひとまず完成し今朝発送致すはず。しかるにその内、『現代』に出したる「桑名徳蔵の話」に入るべき串本港の橋杭岩の写真絵ハガキ、先年までは下片町の西のかど(紺治の向い)の文房具店に多くありしが、今度尋ぬるになしとのこと。貴君どこかで一枚手に入らば、なるべく鮮明なのを金崎氏方まで御持参願い上げ奉り候。
 次に貴下の集の内に、瀬戸の正三《しようざ》、また小浦《こうら》の徳蔵という船のりの名人のこと、その他本郡富田、中村辺は古来千石船の船頭の多く出た所なるが(兵庫や灘の辰馬氏方の船頭はみなこの辺より出でし由)、その輩の古伝および古伝説を聞き集められたく候。ブリ為《ため》という人存命中聞きしは、瀬戸の正三は有名な男で、常に船に乗って洋中を往復し、千石船など往来すると、漕ぎ近づきて種々のいたずらをなし、驚かせまたなぐさめ楽しませたという。その委細を聞かず。
 また野口利吉氏|話《はなし》に、綱不知《つなしらず》より瀬戸や白良《しらら》浜へゆく道傍に小さき石碑あり(小生も見た)、むかしこの辺へ邯鄲《かんたん》の枕というものを持ち来たりし人あり。それをほしさに所の者が殺したのを埋めたという。そのこと一向詳らかならず。(金の鶏と一寸四方にたたみ得る蚊帳を持ち来たりし人を、宿主がほしさに殺せしに、蚊帳のみ手に入り、金の鶏は飛び立ったという咄、『郷土研究』一巻一一七頁にあり。多少似た話と存じ候。)これも捜られたく候。
 隆賀法印の時代をようやく数日前、『続群書類従』より見出だし候。
(381) 右ちょっと申し上げ候。
  絵葉書は中山恒次郎氏にもたのむはずなるが、いまだあわず。しかし貴君は貴君で、もし見当たらば願い上げ候.
  印刷の都合上早く送りたく候なり。
 
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 昭和二年一月九日早朝
   雑賀貞次郎様
                         南方熊楠再拝
 
 拝啓。昨夕御来臨の節は、家内例の取込みゆえ端近にて大いに失敬致し候。その節申し上げ候貴下『口碑集』書入れの件は、今十日ほど稿本拝借の上、目印を一々つけ、貴方へ題目のみひかえおき(かの稿本の紙に余白乏しきゆえ、長き文は書き付くることならず。よって別の紙に書き付け、一々貼付せんと存じ候も、稿本の紙が小さきゆえ、はなはだ不便なり)、ひとまず稿本全部返付申し上げ候上、小生は別に多年の控えを控えの年次に随い写し出し一冊となし、貴下へ差し上ぐべく候。その条々を貴下の勝手次第に貴稿のそれぞれの条へ加え入れるなり。それには、南方氏話に……、また広畑岩吉氏談に……(南方氏記に拠る)、また((南方氏注)………)という風に、所拠を後日まで明白にしおくため、小生の名を必ず付しおかれたく候。
 小生の扣《ひか》えに、中には実は他日精査の上誤伝またはまるで空虚なことなきを保し難きゆえなり。桑名徳蔵が化物との問答を橋杭岩にてせしとの話などは、どうもうそらしく存ぜられ候。
 ある場合に、小生の扣えより気付きて貴下一層聞き合わせ、取りしらべたる上、小生の扣えよりも詳しきことを知り得られたる場合(たとえば山城どの〔四字傍点〕竄死の件のごとき)は、小生の扣えは何の価値もなきものとなる。かかる場合(382)には全く小生の扣え、また小生の注意によりしということを書くに及ばず。何の益もなきことゆえなり。そは序文に、いろいろと注意を得しこと多し、今一々具せず、と書きおけば十分なり。
 また小生今後著書へ出すべき動植物・鉱物等の標本、および人物の写真を複写せねばならぬもの多きも、池田写真の高価なるには辟易しおり。毎度の『大毎』への投書も、これがため、入れたら簡易に読者によく別るべきをも、多くは図を入れずに出し、ために記載がこむつかしくなりて紙をつぶすこと多し。これらは今後何とか貴下計らせて、あまり写真師が困らざる程度において安くとらせ下されたく候。今少し拙方おちつき候わば、取り敢えず「随筆」へ入るべきもの数枚願い上ぐべく候。
 
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 昭和二年三月二十九日午前十一時
   雑賀君
                         南方熊楠再拝
 
 拝啓。二十三日に御来訪後、さっそく一チモリ長者のこと等書きて送り上げんと存じおり候ところ、小生風邪あとへのこりしと見え、今に全快致さず、また、いろいろと家内に事多く、大抵方付き候ときは夜の十二時後にて、小生が物を書くと硯や墨の音致し、側らに臥しおる者ども安眠ならず、それこれのため今日まで延引致し候。小生はなるべく一項なりとも多く書きて送り上げたく存じ、いろいろと関係書類を取り出しあるも、前後不同に写し出しては、何とも分からぬ物になるに付き、なるべく一々条目を立てて写し差し上げんと存じ候も、家内に事多く、到底只今短時間に事終えず、よって差し当たりヌカ塚のことのみ左に申し上げ置き候。
 故千本武吉氏に聞きしは、むかしヌカ塚の弁天祠へ(年越の夜とか除夜とか聞き及びしが忘れ候)、四辺および遠(383)近より陸続と人が詣りし夜あり。そのうち、いつとはなしに社の境内の高き杉の木の枝に扇子がぶらさがる。それを一番に目につきてとりかえりし者が、参詣者中一番の福を得るとのことなり。
 石友の話《はなし》には、ヌカ塚の社の祭りは冬初秋末はなはだ寒き風ふくときなり。当日馬かけあり、大賑わいなりし。鮎川、市ノ瀬等よりおびただしく馬来たる。むかしは日本の馬に鉄の靴を打ち付くることなかりしゆえ、わらの履《くつ》を穿《は》かせし。競馬の節はこれを脱がしむれど、道中の足を重んずるゆえ、往復すべてに五、六足も履を用意し、その鞍に結び付けて、途中少しも履が痛めばはきかえしめたるなり。それが付添い男の不注意にて、途中に新しき履を落とすことあり。(落つるときは必ず一足すなわち二つ一《ひと》まとめにして落とすなり。)それを拾いしものに福ありと言いし。富政の前主はこれをひろいしより大いに勃興せりといい伝う。また金崎氏|話《はなし》に、鴻ノ池の先祖もどこかで新しき馬の履を拾い開運せし由にて、今にその新しき履をいわい蔵めおるとのことなり。
  この馬かけを江川浦等の若者見物にゆき、帰途三栖口等にて種々の悪戯をなし、大捫択を生じ、それより何となく人気悪くなりて、馬かけも廃絶となりし由。いつごろとたしかに分からねど、まずは四、五十年前のことと存じ候。 話は右だけにて、それより深いことは分からず。小生思うに、扇を得たものが福を得るといいし時代もあり、また新しき馬の履を拾えば開運するといいし時代もありしにて、いずれかの一が真説、他の一は偽説というべきにあらず。永い間にはいろいろとかわり行なわれしことと存じ候。
 黒川道祐の『日次記事』(貞享二年成る)正月の条に、この月初寅の日、獅子頭山鞍馬寺詣で。これを初寅参りという。この日鞍馬の土民|福等木《ふくらのき》をもって鑰《かぎ》を作り、もってこれを売り、これを福|掻《か》きという。福徳を掻き取ると謂《い》うなり。
  フクラの木は、当地稲成村や蓬莱山後の谷等にあり、フクラ柴ともいう。トリモチの木の一種なり。
(384)また生きたる蜈蚣《むかで》を売る。これを御福《おふく》という。蜈蚣は多聞天の使わしめるところなり。およそ鞍馬山中鶏を養わず。言う心は鶏好んで蜈蚣を食うゆえなり、とあり。
 これらも最初はフクラの木の枝が自然に鑰《かぎ》の形をなしたものや、正月の寒き日たまたまムカデが山中をはうを見付けて、手に入れた人が大いに福を得しことあり、それを言い伝えて、そんな物を得んとて参詣かたがた捜しまわったところから、鞍馬山の憎が土人に教えてそんなものを準備せしめ、最初は参詣人の多からんように山中に落としおきなどせしが、おいおい多人がこれを求むるより、多くの需要に応ずべく手広く用意して、つまるところは金銭で売り渡すこととなりしことと存じ候。糠塚の扇子や馬のくつは、鞍馬のムカデや福掻きに比べては、ほんの初歩にて、最初偶然扇や馬の履を拾うて福利を得しより、後には扇を杉の枝に掛けおき、また馬の履をおとしおき、今日の福探しごとく、それらを拾いに出かける人の一人も多からんようしくみしまでにて、いまだ鞍馬のように手広く参詣人に売り渡すこととならぬうちに、このこと絶えしものと存ぜられ候。十日えびすの吉慶《きつきよう》(小判や枡《ます》、熨斗《のし》等を竹枝に付けて売るもの)なども、起源は同じことと存じ候。
 さてイチモリ長者と申すこと、正徳五年刊行、其磧作『野傾旅葛籠《やけいたびつづら》』巻の五の第一章は、大和国|木辻《きつじ》の遊廓のことを記す。
(前略)南都木辻にて、局女郎にあうをケントウフムといい習わせて、聖武皇帝の御時代より今に伝えて横切り車を冷食喰《ひやめしくい》といい初めて専らやめず、客をつなぐ一手とせり。されば京も田舎も人の勤める日、その大臣のこぬうち此方の物にして遊ぶなど、一守《いちもり》長者の世の盛りの時さえいやといわれず。客を引き込み、物日《ものび》物前《ものまえ》のかけこみ所《しよ》の心当《こころあて》に、物の入らぬ冷食《ひやめし》くわせてつないで置かるるとは、この里へくるほどの男は知っていながら、その当座のかたじけなさ、わればかりへの情《なさけ》のように思われて、人にいわずに悦ぶ心を、愚かなるように思う人は、まだこの道に深う染まりしとはいわれず。
(385) 局女郎《つぼねじよろう》とは、太夫(松の位という)、天神(梅の位)、鹿恋《かこい》(鹿職《しかしよく》ともいう)、この下を端《はし》女郎また局女b即という.普通《なみ》の女郎なり。横切り車とは、他人の買いある娼をひそかにぬすみ弄ぶをいうことと存ぜられ候。悪きことに相違なきも、娼家にはまたこれをもって客を断やさずつなぎおく方策として大目にゆるし、(甲)が妓(乙)を揚げある中にも、(甲)が来たらぬうちは、ひそかに(丙)なる客を台所などにかくし忍ばせ、ひや飯を与えて妓(乙)と遊ばしむる。この風習むかし一チ守長者の全盛のときすら、厳に禁ずることはならざりしということなり。
  文体をみるに、この木辻の遊廓の近処にむかし一チ守長者というものありて、この遊廓で大いに威を振るいしということ、由緒書などにありしことかと察せられ候。当地図書館に、『大和国名所図会』ありしと記臆致し候。その木辻の所を見れば、あるいは一チ守長者のこと出であるかと存じ申し候。
 兵作堂亀友(明和ごろの人なり)の『大和言葉風俗俳人気質』(たしかな出板年月不分明)、大坂の豪商の手代たりしもの(俳号|契之《けいし》)、主人の妾と通じ、事露われて、その俳諧の師匠より添書をもらい、男女打ちつれて京へ上り、雨楽《うらく》宗匠というものの方に寄食す。京へ上る船中にて、京の豪家の若隠居と自称する直次郎という男と同座し俳談をせしに、直次郎感服して即座に弟子となり、之落《しらく》と号を付けもらう。さて契之が雨楽宗匠に寄食中、何がな世話になる返礼せんと計るに、雨楽宗匠の弟子等、契之を通して之落をもち上げ、金銭を借り出さんとたくらみ、百韻の内会を催し、さて、金千両借りたしと話し出すに、之落、われも遊んだ金ありて、只今預けある方よりも高歩にまわらば貸してもよいとのことに、一同大いに悦ぶ。この内に雨楽宗匠の弟子どもの俳会の席貸しをする祇園町大津屋新六(大新《たいしん》)という男も加わりおる。さて、いよいよ一同よりうまく話しかけて、千両借ることに相談きまり(借るというものの高利で預かるということに)、「五人(雨楽宗匠と、契之と、大新と、松阪屋彦兵衝という道具屋と、万呑《まんとん》というて雨楽の弟子で金銭の口入れをする男と)が思う念願は、順でくるりと大気でまわし、工夫付けさす宗匠の内儀の雪《ゆき》(雨楽の妻の名)で盃は消えて花香《はなか》の茶にかわり、今夜の一森《・いちもり》われなり〔九字傍点〕と、百韻の巻ひっさげて大新が立ち騒げば、一度に一群《ひとむれ》躍り立ちに、い(386)んでねもせず、四条小橋をこえたえ」(越エターエーと唄の終りのごとくいいおさめたる文体なり).
  ここの文を按ずるに、今夜の一森われなり〔九字傍点〕とは、今夜第一の福を手に入れた者はわれなりという意と見え申し候。
 次に『伊賀越道中双六』(天明三年近松半二、同加作二人合作)第七、関所の段、「お袖は一心、志津馬が顔、テモよい男と思いそめ、いいたいことも娘気の、口へでかねる茶の花香《はなか》、顔を眺めてくむ手本《てもと》、脇へ流すも気もそぞろ、茶碗ばかりを手に持って、差し出す心の思わくは、汲んでしれかし目|遣《づか》いも、相手に芸気《げいぎ》があればこそ、『これはきつい御馳走、余り茶に福がある、然らば今一つ、とてものことにほんまの茶を、幾つも幾つも呑みたい』と、思わぬお茶の捨て詞、『お前ゆえなら何度でも入れ花をあげたい』と、何と言い寄る方もなく、顔は上気の初もみじ、男のキッスイ一森〔二字傍点〕に、恋の出花とみえにけり」。
 上に引いた『俳人気質』に、「盃は消えて花香の茶にかわり、今夜の一チモリわれなりと」とあり、また、ここの『道中双六』の文句にも、男のキッスイ一チモリに恋の出花と見えにけり、とあるをみるに、イチモリとは茶に付いての詞で、列坐の内へ茶を献ずるに、第一番に碗に盛って出すをイチモリということかと存じ候。すなわち列坐中もっとも著しき客が一番に茶を受くることゆえ、一番威勢よき(また福のある)ことと存ぜられ候。
 故に、イチモリ長者とは、村の祭りなどに一同列坐せし内で、第一番に馳走を盛って出さるる(只今いう正座《しようざ》の客)をいうことと存じ候。むかしは、かかることをはなはだ重んじたものと見え、小生の母の生家を朝日屋《あさひや》と申せし。海草郡に朝日村という地あり、その村に左座《ひだりざ》右座ということあり、左座が旧家にて、右座よりは上なり。朝日屋はその左座なりしとて、拙母など誇り申せし。その左座すなわち上席に座する輩の中で、第一番に坐するものがすなわちイチモリ長者かと存じ候。
 なお『郷土研究』の索引をもとくと御しらべ下されたく候。小生数日来脳わるく、日々何ごとも手につかず、今朝よりこの状をかきつづけしも、どうも気力続かず、夕食時となり候付き、これにて筆を擱き申し候。今夜今一応書置(387)どもを調べみんと思えど、何様今に風邪気はなれず、万事疲労がちにて、面白くはかばかしく出来ず。あまり延引するは如何ゆえ、右だけ申し上げ置き候。
 次に、隆賀法印入水のこと、類話は『沙石集』にあり。それはすでに貴稿へ書き付けおきたることと記臆致し候。隆賀法印のことを漢文で記せしもの高山寺の旧記にあり。その旧記を毛利氏より借り写しおきしが、只今ちょっと分からず。(分かったところで貴稿と同文意ゆえ別段やくに立たず。)この隆賀という僧の時代のこと、小生には久しく分からずありしが、見出でたるゆえ左に書き付けおき申し候。
 『続群書類従』巻百六十三に収めたる「中岩系図」(中岩氏は、熊野別当湛増の祖父のまた祖父に当たる行範《ぎようはん》の弟智範の子範秀が中岩氏の初めなり。富田庄を領し大家なりしが、今は小学教員とかになりおると聞く)に、「家伝にいわく、一《ある》代《だい》に美貌の女を産む。隣県某氏多くこれに婚を求むれど父母許さず。また安宅の城主某氏、倩盻《せんけい》の粧いと聴き、頻《しき》りに阿語の便を通ずれども頭を掉《ふ》りて肯んぜず。終《つい》に弓箭に及び、両陣鋒を交え開戦して多く死す。女|窃《ひそ》かに謂《いわ》く、妾の容貌により横死する者|衆《おお》し、嗚呼妾の罪なり、と。みずから縊れて死す。幾《いくば》くならず、霊塊ために触忤《しよくご》をなし、累宗に祟《たた》る。鬼の所為と懼れ、郭内大樹の下に祠を創してこれを祭る。毎歳十一月初七に、一族集会してこれを祭る。中岩当家の妻、常にために役懈を課し、毎月亥の日、飯を供う。けだし班白の野狐遅樹叢に栖み、悲嘆の鳴を分かち、吉凶を告ぐ。見聞して奇異と歎ず。寛永の初め、族主依久、しばしば竜賀法印を請じ、密供を樹下祠社に修し、兼ねて法華を誦す。賀誓詞し、鬼を弁財天女と称謚す。自後霊験|?《ようや》く掲焉《けちえん》たり」とあり。中岩依久は、左衛門大夫と号し、観音寺を修繕せし人なり。故に竜賀は寛永年中の人で、あまり古い人にあらずと見え申し候。
 次についでながら申すは、
  三番したかい小松原、おのがさわってこが〇〇〇(この三字忘る)
 これは日露戦争始まりしころ小生那智より中辺路を通り当地へ来る路上でききしところで、そのころまでしばしば(188)口くせのようにいいならわした語なり。『紀伊続風土記』を見るに、栗栖川、三番辺の地の字名に、下皆《したかい》、小松原(下皆谷は小松原村内の小字なり)、小野、沢、小皆《こがい》とあり、おのがさわってこができたとか、こがやどったとかいう意味にて、おのがさわってこがい〇〇(この二字分からず)といいしなり。何でもなきことながら、地名を面白く列ねたるシャレなり、かかることも猥褻とか何とか咎めて、もはや言わぬこととなりしことと存じ候。誰かかの辺の人にきき、御書き留めおき下されたく候。
 小生いろいろと書き御覧に入れんと、今朝九時過ぎよりかかりしも気分宜しからず、また家内にいろいろ紛事ありて、思うほど書き得ず。もはや夜の八時過ぎとなりしに付き、取り敢えず、この一書郵便局へさし出し申し候。
 
     8
 
 昭和五年十二月三十一日夕十時
   雑賀貞次郎様
                         南方熊楠
 
 拝啓。『牟婁口碑集』一三九〜一四〇頁、「巫女」の条は、田辺巫女の本地たる西牟婁郡の口碑集として遺憾なるほど短きものなり。何とか今少し加増し得ずやと苦慮しおり候ところ、今夜偶然、伊達未得の(この人は、未得とも自得とも号せり)『余身帰《よみがえり》』を見るに、田辺巫女のみか全国諸処の巫女に関して大いに知識を与うることあり。御承知ごとく、この事の盂蘭盆の条にいわく、
 (田辺)盂蘭盆はいと賑わしきところなり。(中略)魂迎えは巫がり(許)行きて迎う。盆となりては迎うる者多くて巫の室入りもあえねば、文月となればいち早く迎え置くもありという。しか迎え置くものから、べちに棚など設け霊供など物するにもあらず。ただ巫の暇なきがゆえなりといえり。よりて思うに、過去の精魂地獄などに堕ちたらむはい(389)いと嬉しからむ。若□(この字分からず)対所に生を受けたらむ者は、盆の一日もむくつけかるべきを、まだき(早く)招き寄せられて持仏間の片隅に屈《かが》まりおらんはいかに佗しからむとほほ笑まる。(中略)巫をいみじき者にすなる、古えも今もいと多かる中に、このあたりはことに信ずる者多きさまなり、云々。
 そのころまでは、盂蘭盆前に必ず巫に詣り、巫に聖霊を迎いとりもらい、それより自宅へ聖霊をつれ帰り祭りしなり。おかしきようなれど、正しく手続きを踏んだものなり。さて、巫が多忙で、あまり当日に迫ると、一々聖霊を紹介してくれぬから、七月に入りさえすれば、われ一と巫方にゆき、一日も早く聖霊を迎え来たりしにて、早く迎えとられた聖霊は、盆の当日まで何も供えずに持仏の間でまちわびるようなことさえ少なからざりしなり。
 これで考うるに、われわれの若かりし時以来のごとく、人が死んだのちに一度巫寄せを頼まるるようなことでは、巫女の生活は立たず。近松の浄瑠璃、誰かの心中物に、彼岸か盂蘭盆の日、常例に従い死魄の霊を寄せに巫女方へ立ち寄ることありし。そのごとく、むかしは彼岸にか、またことに盂蘭盆等には(むろん年忌・周忌の仏事にも)、死人の霊を祭るごとに、公事には必ず裁判所の代書人を頼むごとく、巫女方へ走りゆき頼んでその霊を招き寄せもらい、迎えとり帰りしことと察せらる。その死人招引の季節ごとに、なかなか巫女大繁忙で、よほどぼろい儲けをしたものと見え候。
 このこと次に出す貴著中へ、巫のことは再出してもかまわぬから、加えおき下されたく候。
 右は中山太郎氏の『日本巫女史』へ加筆し申しやらんかと思いしが、その再板はいつ出るか分からず。かれこれするうちに、広くいいちらし、誰かに、誰の説とも知れずに、してやらるるかも知れず。また田辺の例から右ごとく気付きたるは、土地に縁の深い事故で、遠きより近きを先とすべきわけゆえ、貴下へ申し上げ置き候。   敬具
  右の近松浄瑠璃の名は、近日しらべて申し上ぐべし。座右にあるなり。
 
(390)     9
 
 昭和十一年八月七日夜十時半
   雑賀貞次郎様
                         南方熊楠再拝
 
 拝啓。過日申し上げ候『昔話研究』は、創刊(昭和十年五月五日発行)より十五号(今年七月二十二日発行)まで十五冊の内、二、三、五の三冊当方に見えず。この雑誌、初めの半年ほどの間は二ヵ所(板元と主なる投書家の一人と)より毎月くれたるゆえ、不要の分を一冊ずつ貴下へ差し上げたりと覚え候が、書斎中にはどう捜しても右の三冊は見えず。たぶん倉に入れたことと存じ候が、倉内只今炎天のためナフタリンの臭気烈しく、そんなものを捜索するうちに上《のぼ》せたり病気になる。故に貴方へ上げたる右の三冊は、最近この近所へ御歩みの節、拙方または金崎氏方へ御投げ込みおき下されたく候。小生よりは萩原氏へ申しやり、また投書家の一人へも通牒して、なるべく右三号を再送し貰うべきも、この炎暑では倉内をさがすこと、ちょっとちょっと成らず。とにかく、出来ることなら貴下時々寄稿することとして、毎号貴方へただ匁で送り貰うこととすべし。しかして端本《はほん》をただ三冊持ったところが貴下に取り何たる効もなかるべければ、右三冊は当分小生へ返したつもりで御持参を乞う。その用事は、貴集の民俗篇中、世間諸方にありふれた俚譚多し(天狗の翅を切り後日温泉でその天狗と出逢うたとか、例の雨漏りを狼がおそるとか、狼が足に立った刺《はり》を抜きくれし老婆へ毎度猪鹿を殺し持ち来たり礼をしたとか、岩の上に松が生え大木となるまで二度と来たらずと川太郎が誓いしとか)。そんなものをただ並べても平凡きわまるから、短くその原譚らしきもので今日まで人の気付かぬものを付注せば大いに読者を益するなり。
 このついでに申し上げおくは、貴著の校補大いに中絶せる一つの源由に、今春初め、貴下、「変り科学」とか題し、(391)『大阪毎日』へ小生のことを書かれし内に、酒に関する小生の行為を述べあり。小生は過する大正十四年、悴病を発せしに先立つ三ヵ月、すなわち大正十三年十二月来、酒は一点滴ものまず。このことは下田将美氏が『大毎』紙へ書いたことあり。また、もはや誰人も熟知するところなり。貴下も小生が酒を久しく止めおるは御承知ならん。しかるに右の貴文は書きようがわるく(また実際これをかく必要は少しもなきなり)、知らぬ者がよめば、小生は久しく酒をのまぬと称しながら、今も多量を時に臨んで飲むことと悪解する嫌い十分にあり。平素厚意をもたざる知人また親戚などは、これを証拠として、毎度交際する雑賀氏さえ明言するからには、実際今も飲酒するものと信じ、また信ずる顔をするものあるべし。このことははなはだしく小生の信用に害あり。小生このことをすこぶる不快に感じ、また歯の痛みの劇しきにもより、かたがた何となく貴著の手入れを中止したるなり。かようのことはなるべく今後御注意ありたきことに候。
 次に、『温泉新聞』は小生一向読まぬから知らぬが、のちのちの参考に相変わらず送り下されたく候。挿図など大いに参考になるなり。さて、それに付き申し上げおくは、神島のことは只今小生必死になり取り調べおること多く、それに付き三好博士等と協議を要する件々もあり。むやみに俗客が来たりては都合の悪きこと多し。故に小生より申し上ぐるまでは、この神島のことは何とぞ一切『温泉新聞』へ書かぬよう願い上げ置き候。新聞紙の報ずるところ、いろいろ観光客の案内書などを出す計画ある由なれば、貴下も多少御関係あることと存じ、特に願い上げ置き候。過日渡りて巡視せしに、ある緊要なる物件を跡ものこらぬよう破壊し去りありたり。こんなことがさいさい起こるごとに、小生より上申とか何とかに多忙きわまる上に、いろいろとひまをとることがかさむなり。ひま少なきゆえ貴著の校補はその都度おくれ申し候。天然記念物として指定以後、神島の林下は小生などすらむやみに入りあたわぬほどの密生林となりあり。案内書にそんなものを書き立てたりとて、来客はムカデにかまれにゆくようなものとなり、すこぶる不評判を来たすべく候。三好博士の『天然記念物』の序文にも見えたる通り、文部指定は決して来客招致のため(392)にせしものに無之《これなく》候。    早々以上
 
     10
 
 昭和十一年九月二十六日午後二時五十分
   雑賀貞次郎君
                         南方熊楠
 
 拝啓。その後久しく御無音に打ち過ぎ候。小生今に入れ歯わるく、また菌の標本おぴただしく送り来たり、娘は看護婦学に潜心して日曜にあらざれば写生を手伝うこと成らず、小生一人にて写生に眼がまいおり候。本日岡氏より来状あり。(氏はどうやら小川町のアパート事務所をも引き上げ、杉並区西高井戸一ノ五四といえば、田辺ではよろず山の後ろの五軒屋とでもいうほど都会の中心を距った所、東京市内というものの実は町にあらず。)貴下の著書出板を古今書院で今にまちおる様子なり。小生もずいぶん例のエビス神考にて労しおり、それほど労した物をわずかの定額で古今書院くらいに手離すも遺憾なれば、いよいよ出来上がった上、貴下と相談し、古今書院でも宜しく、せめて幾百円は現金でもらうこととし、それがむつかしくばいっそ小生より改造社へかけ合い見るべく候。
 今春の「変り科学」に小生幾升の酒を居酒屋で呑むというようなことあり。大いに小生は迷惑致し候。ただし、小生久しく断酒の由は、貴下自身が大阪の何とかいう医土方での民俗座談会で述べられたる由、何かに刊行されありしを小生たしかに見たと覚え候。故に貴下の口より「変り科学」にあるようのことを述べらるるはずなし。小生も七十歳になり、記臆が追い追い衰え綜合しおらぬと見ゆるなり。
 付いて願い上げおくは、今後、何人がいかなる条件で申し込み来たるとも、一切小生のことについては一言一句も出されぬことにて、南方のことに付いては、自分多少知ることあるも、ことのほかむつかしき人にて、一字一句も間(393)違うこというと、不測の事件を生じ自他共大いに迷惑するゆえ、事の煩わしきを避くるため、一切申し上げ得ずと御言いきり下されたく候。
 次に左の件、これまで貴著に出たる豆屋一八とかいう鳥銃の名手のことに閑し、大正四年の日記より見出だせしゆえ、書き添えおくる。これまでの貴著に載りおらぬ所々あらば、書き入れおかれたく候。こんなことはちょっと見失うたら二度と眼にかからぬものにて、捜し出すに、ことのほか骨が折れるなり。
 硲良蔵氏話に、上芳養村辺の伝に、豆屋エン八なる猟師、初め豆屋に奉公するうち、つとめず〔四字傍点〕(奉公足らぬ)ゆえ内牢に入れらる。豆を拾い物に抛つに何物にも中《あた》る。これならば鳥銃を打たんと思い立ち、その店を辞し猟師となる。果無越《はてなしごえ》に天狗出て人を悩まし、行く人迹を絶つ。エン八これを遺憾とし、かの山に上るに天狗来たる。よってその羽を打ち折る。後日、湯崎に遊ぶに天狗入湯しおる。何故来たるかと問いしに、羽を打ち折られたり、日野筒を用いたらば命もたまるまじという。日野筒は常の鳥銃より三寸ばかり長く勢い強き簡なり。それを聞くと直ちに和歌山に上り、かの筒を購い、また果無に登山するに、天狗また来たる。今度は日野筒で打つぞと言いしに降参し、今後人を悩まさず、ただし七ツ時過ぎれば出るを許せと約束す。それより七ツ時までは果無を越え得るという。大正四年八月十七日『牟婁新報』森彦太郎いわく、衣奈浦(もと海部郡、今日高郡)の旧家上山家所蔵の日記(祖先、和田介氏日記)、享保十六亥年、(中略)田村栖原、猪打ち滅ぼし、間宮市八殿御越しに付き参り候様にと六郎太夫より申し参り、同六月二十日に栖原へ参り、市八殿に逢い候、云々、とあるを見るに、この人苗字間宮を豆屋と誤聞し、さて豆屋に奉公し豆を抛って物を打ち、それより鉄砲の名人となりしなど、鹿爪らしく作り出でしなり。豆を竹の虫くい穴に打ちあて、それよりシュリケンの名人となりし一柳一力という人のこと、『長秋夜話』五巻にあり。
 この状、表裏二頁なり。小生ははなはだ多忙なれば、当分御来臨なきよう願い上げ候。
 
(394)     11
 
 昭和十二年十一月十五日早朝
   雑賀君
                         南方熊桶再拝
 
 拝啓。貴下眼の療治は如何に。小生はようやく一昨日ごろより全快致し候。毎日四回の点薬には閉口致し候。妻も腎盂炎で四十日ばかり臥し、ようやく前月末より快方、只今はもはや仕事致しおり候。御同然に病気には閉口なり。
 昨日宮武省三氏(鹿児島大阪商船支店にあり。本月二日京城にある兄君(高等法院検事たりし人)死去の報来たり、葬式を営みに行き、九日に広島へ帰りし由)より来信中、左の返事あり。要を摘んで写し御覧に入れ候。
  カキマゼ鮨を、小生の郷里高松市でも、ゴモクスシとも申し候。ゴ拾い(田辺辺で松の落葉を集めることをゴ掻きという。その掻という字を拾〔傍点〕と氏が誤記せしなり)ということは聞かぬよう覚え候。ただし私ども子供なりし時、家の裏にゴモクバと申して塵捨て場有之。これを田舎の百姓など貰いに来るをゴモクトリと申し候いしが、近年はゴモクなどいう詞を使わず、塵取り箱という箱を戸口へ出して置けば、市より勝手に持ち返ることと相成りおり、自然ゴモクという詞は若い者には忘られつつあるよう見受けられ候。鹿児島にては塵《ごみ》をゴンといい、島戸貞良民著『鹿児島方言辞典』には、「ゴミモクズをゴモッゾ(塵埃屑)という」と見えおり候。しかしゴモクズシという詞はこの地には聞き申さず候。
とあり。松の落葉をゴということの有無は右の状に明らかならざるも、塵埃をゴミモクズという語はありと見え候て、小生の推察は中《あた》りしことと存じ候。また田辺、和歌山等と等しくゴミをゴモクということ、高松市にもありしことも分かり候。この一件、おついでに『紀州文化研究』へ御投寄を乞う(貴下の名で)。
(395) 宮武氏友人より聞きありしが忘れたる由にて、むかし衣類を裁《た》つとき唱する和歌を聞き合わされ候。拙妻知りおりしが今は忘れたる由。(小生ども小児のときは裁ち物するほどの婦女はみな心得おりたり。)小生このごろ近松門左の『本朝振袖始』という浄瑠璃を読んで、その内にこの歌あるを見出だし候。浄瑠璃のことゆえ、この歌の原因をいろいろの虚談により説明したるなり。その歌は、「朝姫の教え始めし唐ころも、たつ度ごとにきそひますかな」というので、古い『三世相大雑書』や百人一首の内に、家事経済宝典ともいうべきいろいろのことをかきたる部分に、この歌を毎度見及びたるも、そんな書籍はおいおい小児等に破られ去り、今はなかなか容易に見及ばぬものゆえ、ちょっと申し上げ置き候。
 五、六日前、岡氏より手紙あり。貴下の風俗記のこと、一旦約束せしものゆえ、何とか増訂成竣の上は、約束の書店へ見せくれとのことなり。小生返事には、いかにも約束はしたれども、雑賀氏はその後も絶えずこれを書き改め、また書き加えおり(ここにエビス神考に小生苦辛中のことを粗々述べ)、小生が増訂の苦労も一方ならず、故に約束せしほどのことでは手渡すことは難儀たるべし。そのときは、改造社につてなかりしが、その後つてが出来たから、島中氏へ一度交渉し見んと考えおる、と申しやり候。また雑賀氏本人の意も聞き合わせて一報すべきが、何様エビス考が、なかなか骨折れるから、今冬中に何とかこしらえ上げた上のこととするの外なしと申しやりおき候。
 前日分け戴きし紙はまだ十分残りあり。しかし戦争が永くならば、小生は写生、したがって出板の原図を引くにはなはだこまる場合が生ずるを惧る。貴下何とかして紙の価がいよいよ昇進する等のことは毛頭いわずに、前日分けもらうたほどの物を手に入れ下さらずや。このこと尊慮を仰ぎ置き候。紙が悪いと彩色が数年ならぬうちに変質致し候。したがって変質すると知れた図を書き改めざるべからず。それがため外の用事は出来なくなるなり。  早々敬具
  次に、前日の本月分『紀州文化研究』に、紀州侯がアシカに馬を孕ませ駿馬を得んとせし話あり。小生方にある材料をもってざっと書き下し貴下へ送るから、貴下これを通覧、よくよく御了解の上、小生の話を貴下が書き取(396)りまとめて常人に分かるよう書き上げたるものとして、『紀州文化研究』へ御投寄下されたく候。小生が書きしものをすぐ出しては、漢文等多く、常人には過半了解は困難と察し候。
 
     12
 
 昭和十四年三月十四日早朝
   雑賀貞次郎様
                         南方熊楠再拝
 
 拝啓。貴著の書き足しは、かの蛭子《えびす》の外は大抵出来おり候が、蛭子も、せっかくおびただしく書籍をもち出したなりで、また片付け了るもはなはだ遺憾と思い、いろいろと練磨中、先日御覧の狸ごとき小犬が、いかなる故にや毛が禿げ治め、初めのうちは左もなかりしが、最近十二、三日のうちに丸禿げになりそうにて、人間で申さばなまず〔三字傍点〕のような皮膚病と分かり、いろいろと処方を施せしもその効なく、終には癩病ごときものになりそうにて、家内へ伝染されては意外の騒ぎとなるべくと懸念し出し、とうとう七、八日前、最初くれたる石友妻に頼み送り還させ候。人間も畜生も病苦にかわりはなく、この犬当方へ来たりしにも、それぞれ因縁のあることと惻隠の情に堪えず。いろいろと腐心しやりしもその甲斐なく、小生は今に夢にみるほど気の毒に存じ、大いに力を落としおり候。貴下もしまたどこかによき犬の子あらば御世話願い上げ奉り候。こればかりならばよいが、小生十数日前、当方七十歳までのこりありし下の歯を三本抜き候に、折ふしの寒気にてその痕疼痛堪え難く、入れ歯をせしところ、その入れ歯がうまくはまらず、たとえば剃刀を五、六本口に含みおるように、少しく動かすごとに口中処々創だらけに相成り、夜分眠るうちに重量《めかた》の上より口外へ迸り出る等の椿事有之、今に何とも方付かず。さればとてせっかく抜き去った歯を三本元へ返せということも成らず。すでに六日間全く何もせず臥しおり、飯など全くかまずに呑み込むゆえ、腹より血下る等のこ(397)とあり。困りおり、今日も歯医へ行き何とか方付けもらうつもりに御座候。
 しかし何とか方付くべく、その上は出来上がった分を続々貴方へ届け申すべく候が、東京に世話しくるる人あれば、岡氏の方あんまりにえきらずば、一つ改造社の方へもちこんで試みては如何とも思いおる(もっともあんまりうまい報酬は入るまじきも)。とにかく、成稿の上、小生一度貴宅へ上がるべく、またその節御留守ならば来て戴くべく候。只今のところは右様の次第で下齶に歯一本もなく、また入れ歯も棚に上げあることゆえ、何を喋舌っても分からず。故に五、七日後のことになり申すべく候。まずはあんまり御無沙汰に打ち過ぎ候ゆえ右のみちょっと申し上げ候。四日前よりまるで歯なしになりおり、この方が慣るれば反って都合宜しく、今朝ようやく十六日めに始めて書状を認め候(書状は七、八本)。その第一着に貴方へこの状差し上げ候。    敬具
  歯がなくなると眼と耳にはなはだしくさわるものにて、書状など満足に考案ならぬものに候。
 
     13
 
 一月十二日朝四時半認、夜明けてのち出す。この状すべて3頁に候
 拝啓。昨日御持来の御手記を岩田準一氏より前日来たれる書面二通と対照して読みしに、横山君の来意は大いに判然致し候。ついては東京の一知友に委細の書面を送り、横山・中村・岡三氏の意向を精しく聞き取らしめたる上、小生は著作権を今までごとくずるずるに流し置かず、何とか方を付けんと欲す。(中村という人は、すでに十五、六年もみずから棄権したる者なれば、今さら小生よりかれこれ交渉する必用なしと思う。)岡氏には何とか比較的好意を施し、「続々南方随筆」の一部分を与え、そのついでに古今書院への交渉を再修せしむべし。
 次に、山田氏の方の要求も来たりあるごときも、小生学事多用にて、昨夜は貴来状を精読し得ず。このことは岡氏、横山氏にも聞き合わせ、また貴下へも相談すべし。
(398) 次に、妻のこまりおるは拙児の介抱人のことなり。小生は耳まるで聾することしばしばなるより、妻が多少貴下に相談せしや否を知らず。あるいは小生今少しく足がきくようになりたらば、一度上市し、和歌山の親戚どもに相談せんと欲す。
 この外に小生多年著編の「日本薗譜」、小畔氏と合著の「日本粘薗譜」出板のことあり。(これは目下北京大学へ交渉しやろうという人あり。小生は広東大学を望みおるなり。)
 右のごとく事件|錯輳《さくそう》しおり、逐日足がきかず走りまわりならぬより、一片紙、一通書状を倉よりとり出すにもなかなか骨が折れ、ことに多年の証拠文書を倉の二階よりとり出しそろえるには、春暖に向かわねば成らぬことなり。何の参考品も証拠品もなしに、自分の得手勝手ばかり述べ立てても、全く取りどころなき雑談謔語としか思われぬはずなれば、井上君を御同道来臨さるることは、春暖の候まで延期下されたく候。その間に小生は前述の件々を逐一片付けてしまい、さて専心一途に最末項の件の証拠文献をとりそろえたる上、井上君の所見を伺うべし。かかることは前ぶれのみでは何の取りとめたこともなきものゆえ、当分井上君へは御予告なきよう願う。
 最末項の件に関する東京のその方の名人の鑑定書が来たりあり。それが果たして地方の法家により了解是認さるべきものなりや、また、ただその東京の名人の意見たるに止まり、地方の法家にずいぶん同意されぬ惧れもあるものにや。この鑑識を地方の一法家たる井上氏に願いたきなり。何の議論でも、その道の人が一見して、これはこの通りなりと分かるほどの議論と、これは多少駁論し得る余地ありと見える議論とあるものなり。その見分けを承りたきなり。
 紙も筆も満足なものなく、かつ手が不自在の上に眼が宜しからぬから、難字御察読を乞う。   早々敬具
  新年釆この状を出すが初めなり。それほど眼も手もわるきなり。
 
     14
 
(399)  これだけの状をかくに午後十一時より午前五時前までかかれり。
 拝啓。八月十二日令嬢を使われ盂蘭盆の御祝儀品御恵贈下され、その前後小生病臥中にて無音に打ち過ぎ候段まことに失礼。
 小生は八月十五日早朝の颱風暴雨中に丸裸になり奔走せしより今に毎日発熱、ぶらぶら致しおり候。
 昨日、中山太郎氏より出板物の儀に付き、一状来たる。近ごろ小生精神ぼんやり致しおり候上、著作権、板権等のこと一向分からず。前日貴殿が書き抜きて御意贈下されたる数紙を見ても、さらに分からず。貴殿の「紀南民俗誌」に関しても、中山への交渉にぜひ貴説を承り置きたく候付き、何日でも御都合宜しき日、午後あるいは夜分、一度御光臨をまち奉る。
 過日、『旅と伝説』に御掲載の金剛院が狐に魅された話は、柳田氏の『日本昔話集』とかいうものにも出であり(出所を出さず)、小生が金剛院の咄を大正二年に『郷土研究』へ出したのは、神子の浜の故糸川恒太夫翁からの聞き書きで、そののち大正十一年十二月二十九日、目良三柳氏の写本を野口利太郎氏か貴殿かより借り写して、始めてこの咄が伊達自得居士の『余身帰《よみがえり》』に載せあるを知れり。それまではただこの辺の口碑に存せることと心得おりたるなり。目良氏写本には、金剛とかいう修験が、山伏どもの寄合いに何某修験の許に趣く途中に狐を驚かせしに、件《くだん》の寄合所の井戸の辺にて狐がその身に苔など塗り付け、金剛に化けるを見おりし山伏どもが、やがて金剛に化けて出で来たらばさいなみやらんと俟ちおるところへ、真正の金剛入り来たるを見て、狐が化けたと心得、大いに打ち苦しめた、とあり。小生が糸川翁に聞き書きせし、闘鶏社畔の池に狐が入って藻を被り、狐に化けるを寄合所へ往く山伏どもが目撃したというと違いおり、また糸川の咄には、庚申山へ山伏ども集まりしとあるが、『余身帰』には、集会所を庚申山と名ざさず。『余身帰』に、金剛とのみ書きしは、山伏に多き金剛院やら金剛坊やらはっきり聞き留めざりしなり。(400)この同異を判然せしむるためには、貴下、『余身帰』の文を挙げたのちに、この文と大同小異のものを、『南方随筆』三六六−三六七頁に載せ、また支那の古類話も『呂覧』から引かれあると、ちょっと付記下されたらはなはだ好都合なりしと思う。『南方随筆』出板後、この類話を集めたものが当方にあり、それをまとめるに眼がわるきゆえ、また脳が良からぬゆえ、四十余日かかり、その文が成りたるも、清書するにこの通り筆がわるいから、今に清書せずあり。只今いろいろ事多く筆わるきゆえ、なかなかはかどらず、「紀南民俗誌」へ書き入れんとせんにもちょっと長きものゆえ、急に書き入れが済まず。前日のエビスのことと等しく、こんなことが毎々あると小生の労苦は断えず。「紀南民俗誌」の著者よりも書き入れをする小生がおびただしくひまをつぶすこととなる。それでは「紀南民俗誌」が天日を見るは何日になるか分からぬ次第になる。
 エビスのことは鳥羽の岩田準一氏がかの辺での古俗伝説等を集めて出板し贈り来たる約束でまちおるが、今に来たらず。かの辺ではフカの外にマンボウのことをもエビスという由。
 余は拝眉の節申し上ぐべく候。           敬具
  筆がわるいので、この状かくに五時間ばかりかかれり。京浜の友人へ頼みやるに、一本一円または以上の鳩居堂の筆などおくり来たり、状をかくには惜しいものゆえ、そのまま保存しあり。貴下自分用いらるるほどの走り書き用のなるべく細き筆を、四、五本御持来を乞う。
 
     15
 
 昭和十六年十月三日午後二時前
   雑賀貞次郎様
                        南方熊楠再拝
 
(401) 拝啓。貴著出板の件、中山太郎氏へ交渉せしも、この人よりは何とか三友社とかへ説諭してなるべく貴意に応ぜしむべしとのみ言い来たり、その後もはや一週間返事なし。次に同君へ言いやりしに、岡君は只今軍事多忙にて(この人は士官学校卒業生で、現役にあらざるも、なにか陸軍省より嘱託されおり)、熊楠の「南方筆叢」出板のことは承知しおるも、「雑賀様の御本のことは何とか考えて見ます……万一私が直接手を着け悪《にく》いようでしたらば、必ず御迷惑のないように取り計らいますから、どうぞ御心配なさらぬよう御願いします、云々」とあって、「先生によく申し上げ置きますが、東京の出板業者のほとんど全部は自店の営利に何ごとも集中させるのでして(またこれは当然と思いますが)、先生の御立場とか将来の御著述刊行上の利便を考慮して御願いするということはまずは少ないと御思いになって間違いはあるまいと存じます、云々」と知れ切った忠言なり。この人はこの人で、最初この人の世話で貴下の著を引き受けられた何とか書肆への仁義を立て通さんとするようなるが、小生は貴著も当初のものとはよほど進んで増大しおるし、その書肆の最初の取り極めでは貴下に取ってずいぶん不利と思うゆえ、今少しく貴君の利潤になるよう談を進めたいと思う。それならば第一にある定限まで貴著を増注して数本を写し拵えおき、いずれなりとも望まるる方へ見せ得るよう、ともかく脱稿しおくのが第一の必要件と思う。小生の増注はずいぶん博く集め深く捜ったもので、日本のありふれた新聞雑誌より掻き集めたものとかわり、今日海外の文書の輸入杜絶しては外に見出だしようのなき希籍珍冊より採ったこと多ければ、単に紀南の風俗編に止まらず、一汎民俗学の宝庫として典拠たるべきものと自信厚し。故にとにかくこれを仕上げ見せたなら、思いの外の珍本、鴻益の淵叢と容を改めて畏敬さるるに及ぶべし。よってそのつもりでとにかく早く仕上げにかかるべし。
 去年末、中央公論社より木村亨氏(新宮生れという)来たり、小生の全集出板のことを申し込まれ候。その日は小生足痛で臥しおり、妻が面会せしが何のことやら分からず、その後今年二月二十八日に至り、木村氏より一書来たり、小生の全集出板のため万端の相談のため、近日伺いたくとの申し込みで、何月何日参上して宜しきかと問うて来たり(402)しなり。小生はそれを返事も出さず今日まで打ちやりあり。東京に小生三十年来の親友で(新潟県人)、故中村啓次郎氏が、これは南方一味の軍師智多星呉用なり、毛利などの及ぶところにあらずと評せり、その人博覧宏才で多弁巧智また辛抱全く強く、何を言われても怒ることなし。小生は貴書を脱稿の上、この人に委細を言い含めたる上、右の木村氏を訪問させ、木村氏不在ならば中央公論社の重立った者に面会せしめ、南方全集の出板を望まるる由だが、南方全集の準備はなしおらず、「南方筆叢」二冊は出来たれど、岡茂雄氏に契約済みなり。現に残った物では雑賀氏の仕事「風俗記」のみなるが、これは前年岡村千秋と齟齬あって成り行きはなはだ面白からざりしを、南方特に奮うて、ゎれ必ず岡村に目に物見せやらんとて自著以上に雑賀の著を腐心増注して立派な物に仕上げたるがこれなり。題号は何とも改むべし。事は紀南の民俗志なれど、その実は民俗学の宝庫なりと広告して人気を集め、いやしくもその方に志篤き輩は必ず叫本を購わんこと受合いなり。されば余命も知れおる南方最後の圧巻として取り敢えずこの一冊を上梓しては如何と説きたらば、十の八、九は物になるべく、岡村はもちろん、岡にも面を向け返すに十分なるべしと惟う。
 それに付き貴下は何とぞすでに「紀南民俗志」に出たること、また『南方随筆』二冊と『南方閑話』に出たることどもに、この上寄り触るようなことなからんことを望む。それも読んだ、それも見たというようになると、書物の内容が空虚となり、面白く読む気にならぬ物なり。貴著中、親《みずか》ら巫女や村夫より聞き書きされたことどもは、小生なども毎度読んで面白く感ずるが、いろいろのありふれた書物や雑誌等よりの抜き書きは一向興味をそそらず、人をうんざりさせることのみなり。まのあたり田夫鄙人よりの聞き書きが事実に近くて、文筆を弄した文士の筆がうそらしきは、小生が糸川恒太夫等に聞きし金剛院の話に、神田《かんでん》の池で狐が藻をかぶりて金剛院に化けるところを、庚申山へ行く山伏どもが目撃して、金剛院へまず往きて、化けたる金剛院の来るをまち、打ちのめしたとあるに引き換え、『余身帰』には、山伏どもが山伏の集会所で、狐が井戸の苔を身に摺り付けて金剛院に化けるを睹《み》、さて金剛院が集会所へ現わるるを打ち苦しめたとあって、話がふら付きおり、順序立たず。このことの穿鑿に小生七、八両月、およそ五、(403)六十日を費やせり。『旅と伝説』へ貴君が『余身帰』を抜き出さず、また、この話の異伝はすでに『南方随筆』……頁に出でおり、併せて支那の類話までも出されおるとちょっと付記しくれたなら、小生その両月間に貴下の著の増注を過半仕舞い片付け得たるはずなり。こんなことを申し上げるは異な物だが、毛利氏在日、小生と小守氏に話されしは、雑賀氏には人に外れた一癖あり、一事に専念するのあまり、時々跡方の付かぬことを仕出かし、われわれまでも迷惑せしむとのことなりし。そのことどもは今これを縷述するに及ばざるも、何とぞ御注意を加えられんことを望む。
 小生|近曽《ちかごろ》身体はなはだ衰え毎夜庭へ下るをまたず椽側に小便を落とす。(故戸田剛三老人、また山田栄太郎妻の亡母、また喜多幅医士、いずれも死する前数年この症を現せり。)貴下のために増注を書き入るるに、注意せねば坐蒲田の上に小便をたるることあり。したがって増注には毎夜なかなか難儀しおれり。「南方筆叢」と抱き合わせて配注せば岡氏は承知しくるること案の定《じよう》だが、貴下もずいぶん苦辛した物を、山東京伝が越後人の旧稿を借り倒して自著に入れたようなこともならず。何とぞ一度なりとも貴下の自著として、炉辺叢書ごとき小冊子ならぬ物を東京の本場で圧巻として出さるるよう腐心致しおるから、御注意までに申し上げおく。さてこの件がまず片付きて、その次に小生のかかることには、今度はまた反って貴下の必死の助力を須《ま》つことがあるなり。今より宜しく頼み上げおく。岡君は最初の申し出での通りになんとか書院で出すこととせば大賛成で、事は直ちになるべきも、そのころと今とは貴君の状態もかわりおり、故に何とか中央公論社あたりで引き受けさすれば、たとい酬料はなんとか書院に著しくは優らぬとも、なんとか書院や岡氏に対しても、面を向け反すことが十分成ると思うなり。       早々敬具
  小生夜は眼至ってわるし。難字御判読を乞う。
 
(404)   須川寛得宛
 
     1
 
 大正五年三月二十九日午下
   須川寛得様
                        南方熊楠再拝
 
 拝啓。小生一本しかなき歯、十三、四年前金にて?めありしが、今朝図のごとく歯のさきの方半分脱けはなれ、金は依然歯の根本に付いて留まりおり候。
 一本しかなき歯右の次第にて、食事、談話ともはなはだ不勝手になり、大弱りに有之《これあり》候。
 よってさっそく貴院へ出頭、診断および手術を乞わんと存じ候も、定めて御存知通り、小生先月中旬和歌山へ上り候船中にてインフルエンザに罹り十九日帰田、二十一日ごろより三十九度また四十度近い大熱となり、十五、六日大患止まず。それより熱は除きしも今に何にも出来ず臥しおり、また読み書きや歩行は一切出来ず、大いに退屈ながら四十日ばかり臥しつづけおり、今とてもややもすれば風を引きもとへ戻りそうなゆえ、外(405)出はとても出来申さず。貴下ちょっと時間あらば何とぞ拙宅へ御来臨御検査の上、とても病気平癒後ならでは手術を受けることは出来ぬから、それまでの暫時防腐およぴ当分の保護法に付き、ちょっと御教示下されたく、然る時は小生大安心で感冒《かぜ》の方静かに療治し了りたる上貴院へ通い申すべし。
 小生は右様の病気ゆえ門を日夜しめきり有之、しかし貴下御来臨ならば正門をたたき下されたく、さっそく下女出で行き開き申すべく候。
 右の次第にて小生も病臥中その用意もあることゆえ、貴下御来検成し下さるるなら、幾日何時ごろ御都合宜しということちょっと紙片に御筆し、この下女に御渡し下されたく候。右勝手ながら何分宜しく願い上げ奉り候なり。
 小生方はなるべく早く御来検あらんことを望む。あまりおそくなれば歯がくさるかと存じ申し候。
 小生方は日中でも夜分でも宜しく候。ただし五時ごろは内科医来診することあり、故に貴下五時ごろ御来臨ならちょっと拙宅にて少時俟ちおりもらわねばならぬ。
 小生右の次第にて筆ちょっととれず、この状認むるにもなかなか永くかかる。渋字御察読仰ぎ奉り候。  敬具
 
     2
 
 拝呈。入れ歯は至極ぐあい宜しく大いに健全なるを得、御礼厚く申し上げ候。小生は本月十日まで大至急に仕上げねばならぬ用事有之、昼夜少しも外出し得ず、たまたま入湯のため外出候ときは多く十時以後にて、とても貴方へ参ること出来ず。しかるに一昨朝よりまたまた例の右の方の下の歯の根に風が当たると痛み、咋夜は入れ歯をはめたままにて風も当たり、またまた痛み申し候。只今は何ごともなきも、また痛み出すも知れず、全く例の歯根神経が露出したるものと察し申し候。
(406) よって御多用中はなはだ恐れ入り候えども、例の塗り薬を二種小瓶に入れ下女に御渡し下されたく候。もっとも今日より十日までぬるだけ御見|斗《はか》らい下されたく候。十日過ぎても直らずば十一日よりまたまた出頭申し上ぐべく候。下女はいつまでまたすも宜しく、少しく御手すきに右薬ととのえ御渡しやり下されたく候。
 大正十一年二月l二日午後二時         熊楠敬白
   須川国手 坐下
 
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 昭和三年十月二十七日朝入時半
   須川寛得様
                日高郡川上村妹尾国有林斫伐事務所にて
                        南方熊楠
 
 拝啓。小生こと去る十七日午後一時半上松蓊氏と御地出立五時ごろ川又着、十八日に岡野署長等案内で山内を見たるも別に何もなく、十九日朝川又を出て、五味という処(下山路村の内)より船で日高川を下り正午串本に着、それより機関車で小さき橇《そり》のような車を牽き、それに乗り九十六町上り(二時間ほどかかる)三時ごろ当地へ着。当地はよほどの深山で異木多く、山頂にはブナも生えあり、只今菌類おびただしくまるで菌類の百貨店のごとく、まず十年もかけねば調査は遂げ難く存じ候。日々所員等いろいろの菌類を持ち来たれども画をかくものは小生一人、その上湿気烈しき地ゆえ昼夜カナアミで焙《あぶ》り乾かすになかなか骨が折れ候。一旦乾いても少しく火を絶やせばたちまちまた湿《しめ》る。故になるべく早く出来上がったものを田辺へ続々発送せんと欲す。よって細かい標品を入れる紙袋(薬店や医院に用ゆ(407)る)大小とりまぜ、標品を包んでしばる麻緒、包む油紙(合羽《かつぱ》紙)等入用なり。また樅《もみ》の木を引かせ、大きな箱を二十作らせあり。それへ標品をつめこみ蓋をしっかり付けて送るため、捻釘《ねじくぎ》、捻釘まわし等必用なり.これらの物を自宅へ二十一日以後三、四度申しやりあれども、今に送り状も送ること承知との通知書も来たらず、如何のことかと心配罷り在り候。十一月十日ごろより御大典でしばらく運送事業もおくれるべく、十四、五日よりは必ず冬風がふき出し、それより菌類はたちまちなくなり候。さて時雨《しぐれ》がふり出すと標品を送ることならず、久しくこの小屋に留めおかざるべからず、そのうちにはカビを生じ過半腐ってしまうはずなり。右の次第に付き貴下何とぞ一度拙宅に趣き妻に面会の上、小生数回妻へ注文し置きたる品々をとりそろえ、さっそく書留小包にして当所へ送りくれるよう御話し下されたく願い上げ奉り候。
 当地には郵便局というものなし。局は同じ川上村の皆瀬《かいぜ》という処にあり、当地より五里あり。故に往復十里を歩み一日に一回集配人が来る。郵便印紙も九十六町下の串本へ買いに行く。三銭切手はなく一銭の切手のみでそれも多くはなく候。一昨日東京住友信託会社へ出すべき証書類を田辺自宅へ書留にて出すよう集配人に頼みしに、今に書留の受取証が来たらず。それは十里も歩むことゆえ、集配人が小生より右の書留状と書留料金を受け取って皆瀬へ帰れば(408)すでに郵便取扱い時間を過ぎおり、さて翌朝早く皆瀬を出で来ることゆえ、そのまた翌朝でなければ書留受領証を持ち来ることならぬなり。まことに不便はなはだしき地に御座候。もっとも、ここばかりへ来るにあらず、五里のあいだそれぞれ集配しながら来ることゆえ時間も多くかかり、早朝に皆瀬を出て午後一時に当地へ着致し候。それよりまた五里のあいだ集めて返るゆえ、夜が十分暮れてのち皆瀬へ帰るなり。故に小生より多くの標本を田辺営林署および自宅へ送るには、小包が三十点もありとして、まず一月は毎日送り通しに致し、また多少集配人に心付けをやらねばならず、なかなか心配なものに御座候。
 蛇の多き所にて、小生この状をかきおる裏の小さき畑地には、毎朝喉が黄色で背が茶色で舌が赤い蛇が多くあつまりおり、あまり心持よからず。また雨天には木の上から蛭が落ち、一昨々日もここの主任が二度まで血を吸われ候。
 まずは当用のみ申し上げ候。            早々敬具
  標品を入れる袋は薬店へ頼まば分けてくるることと存じ候。大小とりまぜ二百ほど入用に候。新聞紙などにつつむと湿気入り候。その新聞紙も当地には少なく候。
 ここは役所小屋一つと炭やきや木伐《きこ》りの小屋四、五あるのみ、妹尾の村までは二十町もあるべし。その村は十四、五家あり。年中|椎蕈《しいたけ》を作るのみの仕事なり、一家ごとに千円ずつの収入ある由。しかしはなはだしき寒村なり。
 
     4
 
 昭和三年十二月五日十二時認
   須川寛得様
                        南方熊楠再拝
 
 拝啓。本月一日朝十時出書留小包は、ことのほか早く二日午後一時に、十一月三十日出貴状と一処に届き侯(懐炉(409)灰、腹巻き、猿又等)。しかるに十一月二十七日出書留小包(綿入れ、ネルねまき、足袋等)は今に届かず、たぶん今日あたり届くことと存じおり候。
 当地今朝三時以後初雪ふり積み、トロの鉄道すべり?覆し只今大騒ぎ、事務所員惣出にて、小生一人朝七時より留守致しおり、ようやく只今一、二人帰り来たり候が、食事してまた出で行き候。
 懐炉はなかなかよくきき候。故に万一の準備に、懐炉を今一つと懐炉灰を今十袋ほど送りくれるよう、松枝へ御咄し下されたく候。至って用心深き男ゆえ品物が少なくなると使うことを惜しむ。それでは働きがならず。今度は最上の木で大いなる箱を二十こしらえさせあり。標本を入れ田辺へ送るに十ばかりは不用になれども、せっかく作らせた物ゆえ空《から》のまま田辺へ送るはずなれば、使いのこった物はみなその箱へ入れ送りかえすべし。故に丸損《まるぞん》にならず。
 菌類は今三、四日で予定通り写生記載し終わる。しかしせっかく来たことゆえ、何とぞ自分二、三度深林に入りコケを集めて帰りたく思う。入用の機械等は一切東京より当所へ送り来たりあり。懐炉と腹巻をうまく用い、また衣類を厚くきたら必ず腰痛は薄らぐことと存じおり候。今度当地植物調査に必要の書籍を六百円ほど出して買ってもらい、すでに東京に着しあり。この書は今より七十年ほど前に出たもので十九冊あり、その内八冊だけを二部ベルリンで売りに出たるなり。十九冊そろったら一万円ばかりするなれども、火事で板《はん》が焼けてしまい、今はそろった本は売り物なし。右の八冊だけがちょうど小生に必要なので、代価六百円では案外安く、日本より注文したところがもはやドイツの人が買ってしまうたこととあきらめおりしに、前日平沼氏田辺より引き上げて東京よりかけあいしにまだ誰も買いおらず、さっそく送り来たりし由。
 こんなわけゆえ小生も何とかして今少し滞在し材料を集めて下山したく思うなり。四十余日すきまなくうつむきて写生したるが、もってのほか腰にこたえたることらしく候。
 また食事を三度ずつして少しも運動せざりしも悪かったと察し候。よって一昨日より二度だけ食うことに致し候。(410)食料は東京と神戸より多くおくり来たりあり不足なし、チ∋コレートだけ今朝にてきれたり。よい加滅なものを田辺でかいおくるよう松枝へいわれたく候。どんなでも宜しく、多い方宜し。          早々以上
 
(411)   宇井縫蔵宛
 
 大正十年十月二十一日夜七時
   宇井縫蔵様
                        南方拝
 
 昨夜は推参、難有《ありがた》く御礼申し上げ候。
 その節御話しのヒメクラマゴケは Selaginerulla integerrima Spring《セラギネルラ インテゲルリマ スプリング》.洋人の調べたるものにて、『改正増補植物名彙』にもこれを用いおり申し候。小生はあまりに事のこさいに亘り少異の点を取っていろいろと種名を立てるよりは、まずはこれほどのくらいな名を宜しきことと存じ申し候。
 クマザサ(ヤキバザサ)とよく似たるものにて、牧野氏説にクマザサと異なるものあり。もっともその差異は少々のことなり。しかし小生の銹菌を集むるにはこの二者を分かち記しおくこともっとも必用なり。
 右の品の名とそのクマザサと異なる点をちょっと御記し付け示し下されたく候。
 妙法山はクマザサのみなれど、高野には二品共にあり。小生にはちょっと分からず。
 右のヒメクラマゴケは、小生、高山寺、川又、那智その他よりとり来たり、七、八年繁殖せしめしことあり。その(412)穂は図のごとく尋常の葉のさきに少し約《くくり》ありて、それよりさきは穂なり。常の葉と異ならず、ただ少し闊《ひろ》し。それを針のさきにてたたけば、熟したる穂ならば、例の胞子が芥子《からし》のごとく円く淡黄にして紙の上に落ち申し候。ちょっと見たるところ葉と穂の別分かり申さず候。早々以上
タガネソウはタカネソウと書きたるもの多きゆえ、ちょっと見当たらざりし。これも牧野氏の閲したる何とかいう本に、春月葉間より穂を出すとかきあり、悪い書き様に御座候。貴説によれば枯葉基間より穂を出すなり。
 
     2
 
 大正十一年六月九日早朝
   宇井縫蔵様
               東京京橋区銀座二ノ十四高田屋旅館にて
                        南方熊楠再拝
 
 拝啓。その後大いに御無音に打ち過ぎ申し候。小生事田辺を出てすでに七十日になり申し候。研究所基金は、何分もっての外の不景気にて、予想ごとく事早く捗り申さず、しかしまず六万余円は出来申し候。今四万円は難事に御座候て、その内二万円はむしろ当分絶望の方に御座候。今日までの寄付金中大株は徳川頼倫侯の一万五千円と三菱の一万円に御座候。床次前内相ことのほか世話下され候。旧友どもおよび博文館等の連中も大いに斡旋しくれ申し候。
 五月十三曰、徳川侯大磯別荘へ御礼に上りし節、貴下の紀州魚類篇のはなし出でしに、侯もこのことは久しき以前より聞きおり、出資のことを諾され申し候。しかしそれには具体的の申告が必要なるより、田中茂穂氏を六月五夜拙宿へ招きいろいろ承り申し候に、日本中にて宇井氏ほどの事業をなしたるもの一人もなしとの証明を得申し候。故に候爵東京へ帰られたる上、小生集金すみ次第一度田中氏と侯を訪い、このことの了解を得置かんかとも存じおり候。(413)田中氏が申すには、何とぞ紀州地方を限り、淡鹹水産の魚類を一々見聞したるままを書き集められたし(先輩及び(413)現今既刊の書籍の引説は一切止めとして)とのことに御座候.これは小生も同様の説を持しおり、自分研究の菌類も同様に有之。前輩の説や古書はややもすればまちがい多く、何のやくに立たず。しかつめらしく書きたる図説も、自分の他の人々のものにはなはだしき虚偽また誤謬多く、ことにこじつけが多きものに御座候。ことに魚類は方言多きものにて、他府県で出来た書などを引用すると、飛んでもなき間違いが侵入し、何とも収拾すること成らぬこととなり申すべく候。
 右は果たして出来る御見込みありや、大抵の見当御知らせ下されたく候。田中氏は、目録だけなら二、三百円、また右に申すごとき紀州魚類記とでも申すべきものならば、二、三千円かかるように申しおり候。
 右大磯別荘で鈴木茂一氏に出あい、荘内いろいろ案内され候。ヤマタバコと申す菊科植物を拝見候。また荘内にコケリンドウもフデリンドウもはえあり、マヤランもあり候。氏の話に去年侯爵に随って和歌浦辺見まわるうち、雑賀崎にて桔梗菊を見出だし候由。
 まずは右ちょっと申し上げ候。喜多幅氏も今月始め当地に上られ、杉村楚人冠氏と同伴、拙宿を訪われ申し候。            敬具
 
     3
 
 拝啓。一昨夜伺い忘れ候件、
 当地拙妻の生家田村(権現通)旧宅、只今福田重作氏住地宅内に、大なる冬青科の木あり。同じもの多屋氏中屋敷町邸前、もと花屋のありし所(只今郵便局)にもあり。冬青科の常緑樹にて、赤き実が冬なり申し候。蓬莱また新庄辺の小山にも所々にあり。これはこの辺の者ミズツバキ、タマミズキなど申し唱うれど一向あてにならず。矢田部良(414)吉氏の『植物通解』におしあてみるとクロガネモチらしきも、同書その他によればクロガネモチはフクラシバのことにて、フクラシバは稲成村およぴ那智山中で多く見るものみな円葉の小木に御座候。これは書物よりは実視した人の説が一番正しく、貴下定めて田村宅および花屋跡のもの御存知なるべければ、右田村宅、花屋跡のものは果たしてクロガネモチ一名フクラシバなりや、ちょっと書き付け、この下女に御渡し下されたく候。 敬具
 大正十二年十一月十三夜
                        南方熊楠再拝
   宇井縫蔵様
 
 牧野氏校正の『植物図鑑』には、フクラシバの葉を、こんな良きものに図し有之《これあり》、小生那智等にて見たるものとはちがい申し候。同書またクロガネモチすなわちフクラシバは成長遅綾なりとあり。田村方のものなどは生長すこぶる早く十余年にして大木になり申し候。
 諸画と引き合わすに、田村方のものは一番タマミズキというものに近きも、タマミズキは何の書にも落葉木とあり、田村方のは落葉木に無之《これなく》候。
 また矢田都氏は、クロガネモチは常緑喬木とあり。牧野氏のには常緑小灌木とあるだけ、小生稲成、那智等で見しものに合うも、葉が円からざるゆえ合わず。田村方のは葉円からず、楕円形なりしと記憶致し候。
 右田村宅および花屋跡の木の名を御知らせ下されたく候。
 この辺の薪商がたきぎの内に混合してもち来るミズキという木あり。はなはだ燃えにくきゆえ下値にして嫌わる。これは右の田村宅のものと同木なりと申す。果たして然りや。このことまた御存知ならば御知らせ下されたく候。蓬莱池辺にこの木あり。毎度行き見るに、盗伐者絶えざるも、この木だけは燃え難き由にて一向伐らず。この二条御返(415)事下されたく候。
 日本の植物学書には、葉が何寸とか、実の色が何から何に変ずるとか、葉柄に毛ありとかなしとか、些細のことを縷述《るじゆつ》し、さて木が燃え易しとか燃えにくしとか実用のことは少しも述べおらず、実に無用の書のみに御座候。それに付けても貴著魚類篇なども、形醜く色美ならざれば味も宜しからざるべしと思うが普通の人情なれば、それに対して特に美味なものはその旨を特記し、また成ろうことなら酢で煮てうましとか、ナマスとして特に賞用するとか、味噌汁にせねば食えぬとかいうことを、必ずそれぞれに付記されたきことに候。然らざれば魚類の多くは無用のものというような観念上より、魚類の書も全く何の実用なきものと思わるべし。
  『史蹟名勝報告書』は、貴篇を再三熟読または全く謄写し置くの要あるをもって、今三、四日御貸し置き下されたく候。
 
(416)   中井秀弥宛
 
1
 
 大正十一年三月九日午前二時記、夜明けて直ちに出す
   中井秀弥様
                        南方熊楠再拝
 
 拝啓。昨日朝八時過ぎ『夜譚随録』二冊安着。顕微鏡を使ういきやすめに只今まで読み申し候ところなかなか面白く、未聞を聞くこと多く、厚く御礼申し上げ候。
 右『随録』と同処発行(上海広益局)の『古今小説精華』と申すもの二十四冊、布套四函定価洋四元と広告あり。これは何とか御手に入らば御送り下されたく、また代価邦価にて(『夜譚随録』のも)いかほどということ御申し越し下されたく候。郵便為替にてさっそく送り上ぐべく候。
 当地(のみならず全国)不景気にて、小生の研究所も集金思わしからず、ことに原首相と大隈侯死なれ候より、小生は声援多くても大将分を失い、はなはだしく齟齬《そご》を来たし申し候。貴下も何とぞ御成功の上応分の御加勢願い上げ奉り候。小生弟はずいぶん金持なるも、小生の方は一向構ってくれ申さず候。小生ごとく長々と学問をすると人々に飽かるるものに御座候。しかるに中にはまた奇人もあって、郵船会社の大連支店長小畔四郎という人は、小生と二十(417)一年ばかり前那智山にて一面識あるのみ、ほんの一時半ばかり話せし人なるが、小生の始末を聞いて落涙し、すでに四千円ばかり入れくれ申し候。ロンドン大学の前総長ジキンス男(ヘンリー・パークス日本に英公使たりしとき、その手先として、ずいぶん後藤、副島などを困らせし人)のすすめで、小生自分の一代記を記しあり。ケンブリッジで出すつもりで五百頁ということなりしが、五百頁出来ずに中止致し候。今も時々書きつづけおり、一本を貴下に遺し申すべく候間、もし小生貴君に先立って死し候わば、何とか御出板下されたく候。小生は気象の高い男で、今も至って清貧なり。故に小生死せば妻子ははなはだ困ることと存じ候。しかしまた、ずいぶん奇策の多き男ゆえ、次回帰国の節はただ談話のみに御来臨下されたく候。決して眼前に貴下の利益になることはなかるべきも、思いがけなき珍策も出ずべきかと存じ申し候。
 小生旧冬十一月中高野山に滞在、寒気厳しく例の通り肉を食わざりしゆえ病気になり、近日ようやく健康に復し候。その節帰途和歌山家弟方に一泊致し候とき、もと吾輩中学生たりしとき区会議員たりし武津周政氏の男真彦という人(五十一歳)にあい申し候。この人は剣術達人にて、中学校その他にて撃剣を指南す。大飲家にて五人まで子あるに妻をたたき出し無妻なり。小人町と片原のかどに住み、借家一、二軒もちおり候。坂井卯三郎氏は只今知雄と申し、ネル屋か何か前年までせしも相場にて大損を致し、相場の鳶のようなものに成り下がりおられ候。この坂井氏方へ武津氏来たり、もと中学校にありし川島という人河内国の師範校長かなにかなり、その川島氏帰省せしを名にして年末に一盃飲もう、知ったやつも知らぬやつも駆り集めたら五十人は中学出のもの集まるべしとのことで、坂井氏、この不景気に酒どころでないとことわりしに、武津大いに怒り、天下の剣客に向かって無礼をぬかすと真っ二つといきまき、坂井氏大いに困却せし由。坂井氏がこまるほどゆえ、なかなかの強酒家と存じ申され候。
 木津文吾氏の継母去年死去、文吾氏田辺へ葬送に帰り申し候。この人は小生より一歳上にて芸妓を妻とし、二十四、五年も他国に流寓し保険遊説員にて大いに年とられ申し候。小生は面会せざりしも喜多幅氏方へ来たり候由。その節(418)話《はなし》に、和歌山で小笠原誉至夫(旧称有地芳太郎)を訪いしに、近来さっばり落魄、誰も相手にせぬ由。以前新聞社長たりしときの致し方あまりに悪辣なりしゆえと承り申し候。
 戸口栄之丞という人は大阪でちょっと紳士株の由、ただし何をしておるか一向小生は知らず。宇治田虎之助は、先年日露戦争に奉天にて一戸中将の副官たりしが、大砲で半身を粉砕され即死、その跡は零落して子が郵便配達とか致しおると承り申し候。長尾駿郎氏も四年ばかり前死去、実子俊雄とかいうは陸軍中佐か少佐に候由。榎本周之助氏は神戸で医術開業、その姉お常というは幼稚園を開きおるとのこと、中村武之丞氏より承り申し候。中村氏(今は大崎と改姓)も神戸の中学教師たり。
 小生高野上りの途次、和歌浦より小松原通りを歩み、それより東長町より西長町を久保町まで上り候。貴下の旧住の町などは今もほぼ当時と同じことに御座候。尊母は今も健在にあらせられ候や、また貴下に時――という舎弟ありし、これは如何なられ候や。和歌浦なども全く悪化致しおり申し候。日本一の公園にするとかで県知事より頼まれ高野上りの途次視察致し候も、到底何ともならぬほど悪化致しおり申し候。万事この通りで是非もなき次第、小生は和歌山にゆくことを好まず。貴下なども何とぞかかる地へ引っこまぬよう願い上げ申し候。むかしより人情の薄き所なりしに、このごろはむかしに千倍して不人情の所となり了り申し候。
 かかる悪地にわれわれの小時同様沈香もたかず屁もへらずにおる人なきにあらず。実に豪傑と存じ申し候。おちぶれぬは奇とするに足らず。頭をもち上げずにおるところがすこぶるえらいと存じ候。池田喜代楠と申し、新留町より毎朝寺島又次郎氏等とつれ中学校へ通いし人あり。この人はそのときと少しもかわらず今もいかけ屋なり。また和歌浦の南竜神社の角に何というか知らず旧式の医者の家ありし。この家も今にそのときのままに医を営みおり申し候。ほしかや町に今井仁平という漢方医ありし。これもその婿か孫か知らず今もあり。その家はむかしのままに御座候。倉田績氏も数年前物故、例のエビス神社の横にはうた松のみありしに、これは咋年の風に倒れ失せ申し候。
(419) 高野よりの帰途県知事官舎に向かう途上、松生院へまいり候。この建築は、むかし讃岐の志度の浦にありしものにて、佐藤継信死にかかりしとき、義経の前へかつぎゆきて死し、その尸《しかばね》を葬りし寺なる由にて、国宝となる建築に御座候。明治十三年春高野の開帳をこの寺で催せしとき、貴下と中学の午休みにまいりしことを思い出し申し候。そのときすでにかけありし古びたる木の額(一つは平家一門仏御前の舞を見るところ、今一つは文覚上人那智の滝の荒行)今もかかりおり申し候。人に比すれば額などは命の長きものと考え申し候。弁財天山もよほど変わりたれど、貴下と毎度かき上りしガケに生えたる木どもは今も現存致し候。その近所に親友並木弘氏(県会議員たりし弘氏の子)の牧牛場ありしが、弘氏も一昨年の流行感冒で死し、美人の妻君、子なくて始と中宜しからず困りおる由。この二代目の弘氏はもと松男とか申し自修会へ通いし人に御座候。
 和歌山の町の通りでも小生などを見知るもの一人もなく候。前年こまやばし筋を通りしに、梁瀬繁楠というもと中学生たりし人、今に八百屋を営みおり候に目つき申し候。古賀直吉先生もずっと前に中風で死去、その子五年ばかり前に拙宅へ来られ候に、直吉先生そのままよく似たる人に御座候。林丑之助氏は泉州で小学教員、その弟は強盗殺人で終身懲役とか、前年須藤丑彦氏来たりて話されおりし。
 まずは右申し述べ候。当地喜多幅氏は、小生に引き替え、よほどしこためおり候。しかるに子なく妻に死なれ、後妻を娶り候。前妻は子なかりしゆえ二人まで養子を取る。後妻を娶るに及び、たちまち実子出生、只今四歳なり。年老いて男子出来たるは気苦労なことと存じ申し候。    早々再拝
  小生はこの年(五十六歳)になり、今に産をなさず。顕微鏡など見ており、昼夜ともそんなことにのみ齷齪致し候は、実によき笑い物なり。しかし目前のところは仙人同前にて安逸なものに御座候。妻子というものなかったら一層安楽なりしことと存じ申し候。
 
(420)     2
 
 昭和四年十月九日早朝
   中井秀弥様
                        南方熊楠再拝
 
 拝復。本月四日出芳翰昨日午後二時拝受、貴下はますます御清昌の趣き賀し奉り候。拙方ほ悴がもはや四年六ヵ月以上精神病にて去年五月に洛北岩倉に入院せしも今に依然たる様子、特別看護人を付しあるゆえ月々二百円を送らざるべからず、当今逼迫の時節に随分の重荷に有之。また娘は四月来盲腸炎にて、すでに三回就蓐、今も打ち臥してほとんど人事を弁えざる有様、妻も永々の看病に手こずりヒステリーとか神経痛とかを発し毎々臥蓐、ようやく二、三日前より起き上がりおるもどうなるか知れず。小生一人はまず頑健の方なれども、小生の亡母の系統が中風もちにて、亡母の父も亡母も兄も姉も中風または卒中風にて、あるいは久しく自体不随意あるいは三絃を引きながら頓死し了り候ゆえに、小生もいつ死するか分からず。今年は六十三にて父も母もこの年で死んだから、たぶんこの上長生は難きこととまちかまえおり。自分は心身共はなはだ常人に異なり、まず胃腑がことのほか強健にて一度食ったものを牛や羊のごとく幾度も幾度も出して食う。また記臆非凡にてちょっと看たものも暗誦致し、若いとき語学などはうまいものなりし(妻子を持ってより大いに衰え候も)。また人に対して毎々その人の思うこと(たとえば物価、人足割りなど)を此方よりまず言うに中《あた》ること多し(実際は金銭などの数量に関しては小生は小児のごとく迂闊なるに)。よって死なぬうちに医家どもの実験を受け記録しおかせ、死後脳を解剖してなにか発見するの材料に供せしめんと、小笠原誉至夫(旧名|有地《ありち》芳太郎氏)を経て交渉中に候。
 もと湊通り町辺に住みし士族で坂部譲三郎といいしは、只今湯川玄洋と名をかえ大阪で医学博士として胃腸病院長(421)たり。この人にでも頼まんかと存じおり候も、脳の方は心理学、変態心理学に精通せし人にあらざれば試験むつかしく、これは上方には適当の人がなきことと存じ候。かつて京都にゆき捜りしも、京阪にはこれらの学問は小生ほども修めた人はなきように察し候。
 六月一日、御前進講の末、小生およぴ同人の集めし日本粘菌二百点を献ずるはずのところ、いろいろと故障あって百十五点しか献じ得ざりしに、同月八日神戸御出航の一時前に、また小畔四郎氏
  もと越後永岡藩士で河井継之助の手下に加わり激戦し、のち復仇のためと称し抜刀隊に入り薩摩に向かい、豊後竹田で敵六人を切り自分も戦死せし人の三男にて、只今近海郵船神戸支店長たり。小生十四年海外にありて明治三十三年帰国せしに、不在中、兄は蕩産して家業滅亡し、弟は相当に造酒を営みおるも(只今も多額納税者)、その妻がことのほかの悍婦にて牝鶏の勢い強く、小生を好遇せず、よって那智山に二年半蟄居致し候。そのとき寒中に単衣一枚で石を集めおるところへ汽船員ごときもの一人来たり、話すとはなはだ面白し。よって宿へつれかえり一盃やらかす。それで別れしが、小生もかかる僻地でたまたま面白き人にあいしと思い、一便止めて快談せんと、また勝浦港までおいかけしも只今乗船せりとのこと。それゆえ小僧をやとい船を捜らせしも、もはや出立後なりし。この船員ごとくなりし人が小畔氏で、外国通いの郵船の事務長たりしなり。そのとき小生にやとわれ船へゆきし小僧は、中野才次郎とて後に満州でピストル強盗となれり(和歌浦生れ)。小畔氏はその後宇品より日露戦役の軍馬を渡し、また青島陥落後、地面割り貸しを司り、おいおい立身して近海郵船の重役たりしが、只今内地と韓地との船のことがこの人ならでは治まらぬゆえ、特に神戸の支店長たり。小生に多く学資を出され、また粘菌学は小生に二十年近く習いおり、小生日本の粘菌を米国に次いで多く見出だせしは、主としてこの人の力にあり候。
を召され、さらに百五十点を嘉納されしも、なお本邦の粘菌の全況を供覧するに足らず。よって六月から今に不断今(422)九十点を差し上げんと毎夜鏡検精選中なるも、いまだ数に満たず。しかるに今年は九月末から十月初めまで例年になく雨量多かりしゆえ、小生最後の御奉公として、来たる十二日、小畔氏に当地へ下りもらい、同行または同氏一人にて当地営林署員に案内しもらい、当国第一の大深森にて熊野第一の難所たる安堵峰辺へ出張、二日ほど粘菌を調査するはずに候。
 安堵峰はずいぶん高い山にて、小生二十年前上りしことあり。東にも西にも海が見え候。よって日が海より出ずるをも入るをも見得るなり。伊豆などにそんな山多少あるべきも紀州には珍し。この山に松若《まつわか》という仙人ごときものあり。緩急事あらば村民一同(と申しても三十軒もなし)この峰を臨んでわれを呼べ、しかるときは出で来たりて加勢しやるべしと言ったきり再び出でずとのことで、明治十三年春、何ごとのためか知らず、村民一同当郡|庄川《しやがわ》という所の僧を先達とし、峰下に至り終日大声はり上げ、「松若や−い」と連呼せしも何ごともなかりしという大騒ぎありし。その僧はそのことの不成効を愧じて絶食して死せりとか。このことをそのころ中学校の控え室にて、下村武一郎、富藤三郎、関本栄三郎、小川米三郎および貴下など評判しおりたることあり。『和歌山新聞』か何かに出でありしを、貴下か有本七之助がよみかじり来たりて話したることと記臆す。しかるにその年夏休みすみて出校せしに、富、小川二氏の外は有本、貴下、下村、立石などはみな退校しおりたり。それよりさびしくなりて、明治十四年にはわれらの級には十六人ばかりしかなく、十五年には十四人ばかりとなり、十六年春卒業せしときは、中村武之丞(この人は優等にて下の級より急進し来たりしなり)、吉村源之助、田中竜?(秀楠)、須藤丑彦、川崎虎之助、喜多島丑三郎、喜多幅と小生七人なりし。細井三郎氏も十五年に退校せり。この人は久しく和歌山で夫婦とも小学教員たりし。今も大阪の方へ汽車で通い教えにゆく由。黒岩先生も同様の由。和田鋭夫氏は七十余歳で退職、六年ばかり前湯崎へ来たり喜多幅氏を訪われ候。鈴木得三、浅井篤という二人、中学校開業して二年めごろに任職された英語と書(習字)の教師ありし。浅井氏の子が小川琢治とて地質学を久しく京大で教えおりたり。田辺生れなり。鈴木氏は(長崎で習学中賊(423)に切り付けられ喉にキズありし)今も健在なれど、そのころ抱きおりし幼児が陸軍少佐か何かで子を多くのこして死去、妻君も死去、老人が多くの孫と大阪の陋巷で英語を教えおれど、はなはだ窮迫しおるとのことで、先年寄付金をつのりしことあり。すべて知人は多く黄泉に帰し、今月和歌山中学開校五十年祝いを挙ぐるとて参加員名を送り来たりし全員の内で、喜多幅氏が知った人は二十二人とかしかなき由申しおりたり。
 角谷源之助氏は今もあり。宇井三八郎という新宮の人は飲み亭を営業致しおり候。奥野清輔氏は当町の町長たりしが死亡、その娘は医博の妻なるが発狂、今は治しあり。田島馬之助氏は公証人となり一時はなはだ上景気なりしが死亡。変則生で寄宿舎監たりし当地生れ吉田英三郎氏は鉄嶺の郵便局長たりしが発狂し、妻君にうつり死亡、自分は久しきのち平癒し只今小野町に住し王陽明学の講義など致しおる由。]《エツキス》こと関本栄三郎は収税吏となりしが近年のことは知らず。梁瀬繁楠は今に駒屋橋の旧居で八百屋主人。坂井卯三郎氏は島駒之丞氏と藍玉を営みしが失敗、二子はみな船乗り、饅頭屋もやめ、日々大阪へ通勤、何か致しおり、久々にて過ぐる大正十五年小生宅へ来たり数日とまり、和歌山へ帰るとき拙児と同船、しかるに和歌山に着して三日めに拙児発病、入院の節大いに坂井氏の世話になり候。清原影甫と申す那賀郡生れの才物ありしが、大学医学部を志し東京にありしに肺病になり、明治二十年ごろ和歌山で死去。木津文吾氏は芸妓を妻とし父より勘当され、廃嫡同然にて保険遊説員となり、名古屋などの流浪久々の後、まずは多少安泰にて只今京都にすみおり候。須藤丑彦氏は久しく学務に勤め昨年年満ちて退職安楽に暮らしおられ、弟も子も医博にてまことに得意なるべし。有地芳太郎氏(小笠原誉至夫)は、新聞記者、壮士の親方などいろいろかわりしが、只今は相場師にて須藤氏宅の近所にまことに立派な洋立ちの家にすみおり、小生今年五月、御臨幸前一度訪問、みずから今も貧乏なるに羞じ入り申し候。その近所に林丑之助という人ありし。泉州堺辺で教員たりしが、十七、八年前発狂、その弟は強盗監禁されその後のことは知らず。中井助右御門というのは(広瀬通り町の紙屋の子)今も商業会議所かなにかの一員たり。三毛亀松、中西唯一郎みな死亡。戸口栄之丞とて出口《でぐち》というあたりの士族の子ありし。(424)ゆうべ俺が近所へ盗人はいり怖ろしかりしなど言いおりたり。この人は何でどうしたか知れず、大阪にて紳士の内なり。経歴は一向知らず。
 十年一昔というに、五十年近くも経たることなれば、貴下田中秀楠の名を御記臆なきももっともなり。これは南田辺町かなにかにすみし人で、貴下をチケンと名付けたる人なり。今年小生御前進講前に『神戸又新日報』に、小生ほど「学校で不出来なりし者が御召艦へ召さるるなどはさらに分からぬことなり。同学のころ誰人か熊楠ごときものがかかることあるべしと思わんや、教育家の一考を要す」というようなことをかきありし。この人の姉ははなはだよき人なりしが、久しく方付かずにありし。喜多幅に承るに、吉村源之助氏の兄に嫁したる由。秀楠の弟に英五郎と申し、満面灰の糞だらけの人ありし。発狂して明治二十年ごろ死に候。富藤三郎氏は明治十九年まで生きおりしはたしかに知るも、その後のことは知らず。その兄楠太郎というは、小生六歳ごろの教師たり。十四、五年前、年満ちて教職をやめしとき、中学生等醵金しておくりしことあり。藤三郎氏のもと姉聟たりし松山亮氏も一昨々年ごろ死なれ候。
 貴息の御病気は如何片付かれ候や。小生も長々外国におり、帰りてみれば家勢全くかわり、同父同母の弟が薄遇極むるより久しく熊野に僻居し、まるで流れ物同然の内に安んじていささか得るところもあり、研究費を募り事成らんとするに臨み突然悴が病人になり、それよりおいおい家内がわるく、今に四年余というものはならぬ辛抱を致しおり候。定めて前世の宿縁にもあるべく、また生来放恣不恭なりし報いにもあるべく、今さら神仏を頼むわけにも行かず、ただし小生に限らず誰人もみなよきことあれば悪きことがあるものとあきらめおり候。坂井卯三郎氏ごときも妻を娶り二男一女を生みしのち早く妻に死なれ、後妻なしに男の手で子供を育て上げしに、予想とかわり、継母もなきにまされりで、父の手ばかりで育てし子は長じて親を何とも思わず、みなみな外出して一向帰り来たらぬ由。喜多幅氏も当地の旧家よりよき妻を娶りしが、久しく立っても子なし。よって子を二人まで他家よりもらい育て上げたるに、十三年前その妻が死亡、後妻を娶りて二男一女あり、この実の長男が今やっと八、九歳なり。この子が物になるときは(425)氏は八十ばかりになる。その弟は五、六歳、女子は三歳ばかりなれば、これらが成長するときまで氏が生きおるや否疑わし。さて前妻在世に育て上げし二人の貰い子は、氏の実子が三人まで出来た上は、おのれらは無用のものという覚悟してかかるから、どうも面白からぬ様子。思うに貴下にはまた貴下に取って不満なことが多少あるべし。前日貴下より送り下された書かと思う(または故押上中将より送られたる書かとも思う)、この世で難物《なんぶつ》な子を生み、それがために父が困苦するは、前世にその子の前世たりし人の物をかり倒せし宿報と思うべし、全体前世に人の物を借り倒さぬようなものが、今生で子を生むということはなきものなり、とありし。小生など今生に借金というものは少しもせぬが(金銀のことまるっきり無茶ゆえ誰も貸し手なし)、定めて前生に人のものを借り倒したるその人々が小生の子と生じて発病病患し、小生のものをむやみに費やさしむることとあきらむべき儀と存じ候。
 右述のごとく小生もいつ死ぬるかも知れず、しかしいつ死すべしという予報も受けおらねば、いよいよ死ぬまでは不安心中の安心なり。もし次回に帰国もさるれば御来訪下されたく候。小生は兄弟多かりしもいずれも縁薄く、貴下とは久しく遇わねど兄弟よりは縁厚なるべし。貴地(?)商務印書館発行『明季稗史』というもの初編分計六冊定価六角、続編分計三冊定価四角、御見当たりあらば買って送り下されたく候。
 貴地に古書肆あらば、明の王圻が作りたる『三才図会』というものはいかほどの価するものか、しらべて御知らせ下されたく候。これは決して小生が買いたきにあらず。小生知人の大分金満家に買い入れもらい、用あるごとに小生が用い得るように致したきなり。これを買うには決して貴下の手を煩わすことにあらず。ただ東京の支那書を売るもの、要求する代価が無法に高いから、支部で領事その他にたのみ買わば、どれほどで手に入るということを知りたきに候。(『品花宝鑑』ごときも二十六円と申すことに候。)
 小生は久しく菌学を修め、只今およそ七千種の日本産を集めあり。内四千種は極彩色にて図画し記載を致しあり。実に東洋第一の菌類の大集彙に候。とても生存中に出板の見込みなし。しかして一番最初の集品として今に保存する(426)は、明治十二年夏ごろ貴下がどこか(たぶん貴宅か)でとり来たり下されたる一個のサルノコシカケに候。(ウマメの木に付きたるに候。)これも一つの縁起なり。
 また、その年の春貴下とただ二人荒浜に遊びしことあり。一の谷坂落しなど称え、やや傾斜の急なる松林下の沙丘を走り下ると、ハマエンドウがおぴただしく紫の花を開きおる処なりし。それより四年前に角谷|保守《やすもり》という小学先生につれられ、天方金三郎などいう小学生徒と行きしときも、そこらを走り下れり。さて明治三十四年夏行きみしに、やはりその坂落しの処は依然としてありし。今はいかがなったか知らず。中学校がありし岡山なども今年ちょっと眺めしに旧日よりははなはだかわり低くなりおり候。須藤氏宅の後にサンギ寺《じ》山というがあり」それに稲荷の社あり。朱《あか》き鳥居多くならぴ、祠前に狐の嫁入りの額面《がく》あり。小生四歳のとき脾疳《ひかん》を煩い、外叔母十六、七歳におわれ毎度まいりし。明治三十三年帰朝してその処に行きあたり、参詣せしに、その額は依然としてありし。また、明治十三年春四月ごろ貴下と中学校の午飯後弁才天山へゆきしに、向いの松生院に高野より出開帳あり。ちょっと門を入りて見しに、堂の椽《えん》に小生四歳のとき見たるままの平家の一門ならびし前に仏御前が舞うところと、文覚が滝に打たるるを二童子が来たりてすくうところの額二つあり。さて過ぐる大正十年十二月一日、小生高野山よりの帰途またゆきみしに、右の額二つ依然として存せり。そのとき貴下とかつて遊びしことを思い出だし候。
 鳥山啓先生も十二、三年前東京で死亡、長男大三郎というもその節に死亡、その妻は大三郎氏の従妹で中松盛雄氏妹なり。秀野《ひでの》といい無双の才女たりしが、夫の死後、夫の異母弟嵯峨吉氏と同棲、嵯峨吉氏は幼時秀才で、のち明治三十年ごろ小生と同時にロンドンにありしが、帰国後三井物産を出て日夜豪飲、終《つい》に品川辺で車夫などの魁首となり、遊?半分飲んでばかりおり(この人ははなはだ賭戯を好みし)、終に窮死されし由。その後、秀野女は看護婦となり神戸辺にありしがコレラで死し、尸骸は当地(もと生まれた故郷)へおくり、拙宅近所の寺へ葬り候。その兄中松盛雄氏は久しく特許局長(喜多島丑三郎氏久しくその下役なりし)たりしが、退職後特許鑑定人たり。ちょっと蓄財を(427)せしが、只今は頼貞侯につき南米に行かれおり候。頼貞侯の父頼倫侯は、小生ロンドンにて大英博物館へ案内したることあり。大正十年拙宅へ来られ、この書斎にて快談、一万円下され候。十一年東上の節も大磯別荘にて半日饗応せられ候。まことに偉大なる長者たりしに急病にてなくなられ候。跡があんまりしっかりせぬ由承り候。
 小生最も古き友山本義太郎という人(モミ倉という所にすみし)貴下御承知にや。倉田先生弟子にて詩を善くせり。この人は発狂して久しくなるも今に生きおる由。今一人の小生の最も古き友長尾駿太郎氏は陸軍少将まで上りしも、七年ほど前に死なれ候。ちょうど死ぬ前に小生夢に見申し候。氏の子息は陸軍少佐か何かに候。十川嘉太郎氏は十年ほど前まで台湾でどこかに勤めおりし。植村熊次郎氏は今もある由なれど、何をしておるか知らず。杉原泰雄氏は香港(か)の正金銀行支店長くらいまでつとめしが、これもはや二十四、五年前に死亡。死んだ人に比べると、われわれ今日まで生きおるが至極の幸せに候。小言などいうべきにあらず。
 貴下は幼時たしか光明院の小学校へ行かれたことと察し候。この寺は只今白蟻のため何ともならぬ荒廃に及びおり候由、むろん小学校としては在存せず、ただ廃寺となりあるなり。カケ作りという処に(本町九丁目の東の方)、上《うえ》の観音とて大いなる寺ありし。小生十一、二歳のとき毎年二月初午の打にこの寺に市あり。みなみな参詣致し候。これも今は全く空地となり荒れはており、五十年前に見しままの二王のみ白蟻の穴だらけになり立ちおり候。実に無残なことに候。まずは右申し上げ候。       早々頓首
  小生幸いに次に出すべき拙著を刊行し得ば、一番に貴下へ呈上致すべく候が、近来おいおい老衰致し、果たしてその日あるか否を保証し能わず。とにかく新聞に広告出で候とも、特に御購買なさらぬよう願い上げ候。刊行後一月中には、必ず板元より差し上げしむべく候。小生故孫文と懇交ありしゆえ(明治三十四年二月同氏小生を和歌山へ来訪せしことあり。その節、共にとりし写真は六月六日ごろの『大毎』紙に出たり)、小生の随筆は、支那では日本よりももてはやさるると見え、時々その内に書いたことに付き意見を述べ来たる人あり。
 
(428)     3
 
 昭和四年十一月六日夜十一時
   中井秀弥様
                        南方熊桶再拝
 
 拝復。十月二十八日出芳翰今日午後四持前拝受、その前に朝十時ごろ書留小包十個安着、さっそく一包を開き候ところ、『棠陰比事』一冊出で候付き、すぐさま拙著近出の原稿へ書き入れを始めおり候て、大いに役に立ち申し候。代金は郵税共にあらまし勘定の上、まずさし当たり二十円ほど神戸の小畔四郎氏より送金しもらわんと存じ候ところ、同氏、娘婚姻に付き多事の様子なれば、いっそ十二月上旬に到り、信托収獲金が入手するを機会に当地より送金申し上ぐべく候。
 小生の家もと貧にあらざりしも、父は無学の人にて兄は至って学問を無用視する人なり。したがってあまり金を出しくれず。九つの時相生町の佐武(正元《しようげん》とか申せし)という産科医(この人は当時すでに死したるか、または毎度外出せしかなり)方に、愛敬多き妻君が美人の娘と共に近所の娘どもを集め裁縫を教えておりし。その宅に何の因縁にや天方《あまかた》金三郎とか金一郎とかいう小児あり。小生よりは二つか一つ上にて当時十歳か十一なるべし。雄《おの》小学にてこの者常々一番、小生は二番なりし。学校の机の上に毛?をしき赤インキにて字をかく。それを至って珍しきことに羨ましくも思いし。時々机を掃除するごとに小生の頭にその毛?を被《かぶ》せ、立たせおきて掃除せり。小生は一言もいわず立っていたり。その賃に学校果てるとその宅へ従いゆき、その宅の座敷の床間に本箱あり、『和漢三才図会』を蔵む。それを一冊、二冊引き出して小生は読み、暗記して帰り、駿河半紙で綴じた帳に書き付けしなり。図も暗記なり。その図は今も多少残れり。
(429)  むかし家康、信長より強いられて、やむを得ずその長男信康が甲斐の信玄に内通せりとてこれを殺せり。実は殺さずに何とか家臣が取り斗《はか》らい、他国へ落とさんことを冀いしも、家老酒井忠次、女色の争いより信康に快からず、これを殺さしめたり。その時天方通綱なるもの信康の首を斬れりという。それゆえ通綱は家康に仕え得ず出奔せしなり。金三郎氏はその後胤と存じ候。
 小生四歳のとき脾疳にて死にかかり、母の妹十五、六なるに負われ毎日諸処巡回す。これは宅にあればいろいろの物を食いたくせめ立てるゆえ商売の邪魔になるゆえなり。外出すればほしき物あっても買うことを知らぬゆえ食うことをさしひかえるゆえなり。そのころ何番町かなりしか、城辺のさびしき町に大なる邸あり。つばき屋敷と号す。この屋敷にすむ人、冬夏障子ばかりで通し戸を立てず。戸を閉ずればツバキにすむ天狗が荒れる由申し伝え候。また、夜分その前を通る人を大いに笑うことありし由。この邸が天方氏の邸なりしなり。金三郎氏は明治八年中に雄小学校を去り、久しく逢わざりしが、われわれ中学校に入りし少し前まで付属小学校に通いおられし。その後の成行きを知らず。この人は佐竹家の親族ゆえ佐竹氏に寄食しおられしらしく候。そのころまた、愛三郎とかいう男子が佐竹氏にありし。それもどうなったか知らず。明治十九年、小生東京より帰りしころは、正元氏はたしかに死亡し、その男に巌《いわお》とて女子にまがう美少年ありし。十七歳ばかりなりしが、東京に出てぶらぶらしおるうち、寄席にひたり女郎買いに沈み、ついに人力車夫と成り下がりて死せし由。その姉にオチカというは無双の美人なりし。これが小生九つのとき出入りせしときの娘と存じ候。富永という医学士の妻となりしが、富永氏和歌山医学校閉ざされてのち千葉に移住自殺、その後いかが成り行きしか知らず。小生、他の児童が佐竹氏の門辺で遊びまわる間に、佐竹母娘が多くの女子を集め裁縫する間をはしりぬけゆき、件の書物をぬき読みに余念なき折ごとに、つっと小生のモズを引くものあり。何ごとかと顧みると、かの母人が、煎餅数枚紙につつみくれたるなり。毎度かくのごとし。その人の顔は覚えねども、まことに愛敬ある人にて、小生読み覚え了りて書を元の所に納め、袂をつかんで走り帰るを見るごとに、あの子のモ(430)ズが可愛らしいと言われ候。
 また明治八、九年ごろ小学の同級生に、久保町の岩井屋といいし津村安兵衝とかいう酒屋の子に、多賀三郎というありし。小生その家にある『和漢三才図会』を借り始め、明治十四年までかかりて百五巻ことごとく写し了れり。この津村氏は当時の成金にて一時は大身代なりしが、たちまち衰えた上肺患か何かで死し、多賀三郎は叔父の家の樽拾いをなし、その母は里へ帰りて鳥追いなどつとめおりたり。明治三十三年小生帰朝せし折は、舎弟方に手代奉公しおり、旧き身分に羞じ入りて小生に物もいわざりし。只今、元博労町にて醤油屋を営みおる。小生一度逢って旧恩を謝せんと思う。その次には、明治十二年より十三年までの間に、貴下よりいろいろの書籍(『三河後風土記』、只今も借覧中の『長秋夜話』、『白縫譚』、『輿地誌略』(欧州の部までは蔵せしが、北米中米南米の分は貴下の蔵を写せり)、『四戦記聞』等)を借覧して大いに見聞を広め候。それが今回またいろいろ書籍上の御世話になること、何かの因縁かと存じ感じ申し候。このことは次回出る拙著の序文に短く書き出すべく候。
 貴息は神托などのことをいわるる上は、これは性に合った人に祈りもらうとか悟《さと》しもらうとかせば、きっと直ることと存じ候。拙児ごときは「小生が一向宗教などを信ぜぬ風を伝え、何たる信仰なき者なり。故に治療に手がかりなく、まことに前途茫漠たることに御座候。娘は前日来またまたはなはだ悪く、今夜九時ごろより少しく快方なるも、いつまた悪くなるか分からず。喜多幅氏は和歌山中学校創立五十年紀念式に趣き、五、六日後ならでは返らず、今一人の医学博士は診察は上手なれど大酒家で、自分が神経病であり、呼びに行ってもちょっと来てくれず、まことに困り入りおり。和歌山赤十字病院で手術すべく、小笠原誉至夫氏の世話を頼み、喜多幅氏も相談に上りくれたるなれども、只今のごとく瘠せ衰えおりては、上市せしむること不可望に有之、まことにこまったものに御座候。
  小生の姉の第二女(医学博士にて前年震災の節バクテリアの方を専担せし垣内善八というものの妹)の聟夫前年発狂、拙児と同時に和歌浦病院に入りありし。いかにするも直らざりしを、病院の監禁室より出し、自宅につれ(431)ゆき、天理教会に妻同道して日参し、ついに平治致し、今も大阪の大なる商会の、何とか課の次席をつとめおり候。
  四国巡拝などして平癒せる例は多くあり。ただし例の汽車であるきまわるのはあまり効なきように候。
 貴家に八十八《やそはち》という人ありし。これは御祖父のことに候や。和歌山藩にてもっとも早く海事に意を注ぎし人の由、故森部好謙氏より承り候。富藤三郎氏の弟藤四郎というは、貴状により始めて伺い候。小生は全く知らず。富氏の姉は小生亡姉と同級生なりし浜山亮氏の妻たるうち死せり。亮氏も昨年か一昨年死なれ候。
 徳川頼倫侯はほとんど聖人とでもいうべき方なりしが、突然大正十五年に薨ぜられ候。令嗣ははなはだ父君に似ぬ人の由、只今中松盛雄氏付添に南米に遊びおれり。かかる偉人にすらこんな令嗣が出来ると思えば、われわれの子がへんなものたるも当然のことと存じ候。只今この状を認むるランプの前に座して、去る大正十年五月二十七日この拙宅へ成らせられたる際久しく笑談致せしより、小生は毎夜ここで鏡検するごとに、先侯がその座にいますがごとく感じ申し候。
 小生は、二十四年前日高郡川又官林にて見出だしおきたるマサキの一変種を今夕|彼所《かしこ》の主任が持ち来たりくれたるに付き、これよりその査定にかかり候。よってこの状は、これまでに致し候。重ね重ね送書のこと御礼申し上げ置き候。         再拝
 
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 昭和六年一月二十一日午後三時
   中井秀弥様
                        南方熊楠再拝
 
(432) 拝復。一月十二日出御状および書留小包二個(『東医宝鑑』等)一月十九日朝十一時半と午後○時四十分に拝受、その前に八日出御状は十五日午後○時三十五分拝受、御多忙中毎々恐縮厚く御礼申し上げ候。
 小生は、今月に入りてより、厳寒酷烈(二度という寒気が三日ばかりつづきし)なるに単衣にて働きしよりか、左の足の裏が、たちまち一小点を蜂に螫されたように感ずると同時に、放射線状にきんしゅく、うずき、眠りをさまし、大いに当惑すること一夜に一、二回あり。最初はあまりに強く、かる石で足の底をすりしによることと思いおりしも、おいおい激しくなるゆえ、本日直ちに喜多幅氏に見てもらいしに、あまり仙人流の苦行生活を続くるゆえ電激性神経痛を起こせしなりということで、それより三回隔日にシノメニン SInomenin なる薬液を片腕に注射しもらいたるに、従来注射などせしことなきゆえか神験を奏し、一回にして痛みは起こらず。しかし少しく起こりそうな感じもあるゆえ三回行ないて全くやみ候が、念のため今日も午下ゆきて注射しもらい、これにて療治を廃止致し候。この薬は漢方の防己《ぼうき》ツヅラフジの類の植物よりとりしもので、毒物にあらず。何故にきくかさっぱり分からぬものの由。漢薬などにはこんなもの多かるべく、今少ししっかり研究精査せば、大いに効が挙がることと察し申し候。
 送金は小畔に頼まんとかまえたところ、本日の『大毎』紙にまたまた船員減俸とかで大ごたごた起こりたる由、ちょっと大繁忙と察するゆえ、明後日あたり小生みずから郵便局にゆき(これは郵便局では只今扱わず。正金銀行の外手段なし)、イタリアへの送金と共に事をすませ申すべく、小生只今ある植物の新属を発見し、後日の議論を予防するため、顕微鏡下に化学反応試験を行ないおり、標本微細かつきわめて少量なるため、長く手を休めることならず。前月二十八日ごろより今に食事と大小便と右述喜多幅氏に注射を受くることの外は、他事を排して間断なく行ないおり。よって今二、三日のうち送金申し上ぐべく候間、左御承引願い上げ奉り候。
 小生は、一子は精神病であてが見えず、女子は身体弱く、自分はいわゆる一代ばての覚悟なるも、妻がはなはだしく失望の体ゆえ、今度去年まで妻の裁縫弟子かたがた当家に下女奉公せしもの(小村にて一、二の百姓の娘)を娘分(433)とし、小生末弟の悴に妻《めあわ》すことと致し候。この末弟も小生同様亡父の遺産ありしを、次弟が自分のものに書き換えおわり、その妻と四子を全くつきはなして顧みず。その妻は有田郡箕島一の豪家(田中と申し、紀州に?燭の原料ハゼの木を植え初め、大正御即位の御大典の節贈位された者の曽孫なり)の女にて、すこぶる付きの美女なるより、いろいろと誘惑多く、止むを得ずむかしの常盤御前のように四子をつれて南川(東長町五丁目にある質屋)家に再嫁し、電気工場をやりおる。その二男が南川のあとつぎなり。小生は、その幼時一度見しのみなるに、昨年末尋ね来たり候。
 貴状今回の分を拝見して、人間はそれぞれ遭際の不定なることを感じ申し候。貴下は日本ごとき国へ帰ることなかれ。実につまらぬなり。小生ごときも妻子なくば、筏に乗り海に浮かみ支那に入り軍師とでもならんに、妻子あるゆえ、そのこともならず、面白からぬうちに月日をおくりおり申し候。              早々敬具
 
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 昭和六年八月十五日早朝二時認め夜明け出す
   中井秀弥様
                        南方熊楠再拝
 
 拝啓。八月九日出御状昨日朝入時十五分|難有《ありがた》く拝受仕り候。御地□誠堂よりの郵便書留物は『説郛』四帙四十冊、小生大英博物館にて用いし旧板よりは至極鮮明また軽便にて、大いに快心に存じ候段、特に御厚礼申し上げ述べ候。次に、『中国植物図譜』二冊は咋十四日午前十一時五十五分にこれまた安着、難有く御受け申し上げ候。これらの本にて、支那の今日の学者は一向自国の古書をよく精査せぬことが分かり申し候が、とにかく大いに益を得申し候。
 右勘定に不足あらば、何とぞさっそく御申し越し願い上げ奉り候。先来御送り下されたる諸書を少しずつ読みおり候も、どうしたことか昨年来今年へかけ雨天がつづきしゆえか菌類の発生おびただしく、中には三十年前、二十余年(434)前にただ一個手に入り、図録不十分なりしもの多く、只今これを精査補修し置かねば、またまた二、三十年を俟ってようやく見当たるような感じがするもので、必死になり昼夜精査図写致しおり、ために身体も大いにくたびれ、また支部書も存分精読は出来ず、遺憾このことに御座候。
 『古今図書集成』は、ただ二部(神異典と禽虫典)を読み候に、神異典に二葉ばかり欠けた本あり。しかしそれは『仏名経』の写しにして、三千仏の名を列ねたものなり。これは当地は一切経を蔵する寺あり。その内より写しとり得るゆえ、まず小むつかしきことは書肆へいわぬことと致し、どうも大部の物ゆえ、一冊や二、三冊に欠葉あるは覚悟の上に御座候間、御安意願い上げ奉り候。
 当地方七月中雨のみ打ちつづき、近日ようやく晴天となりしも、やはり時々驟雨至り、それがためむせ暑きこと限りなく(雨天つづき候ときは秋のごとく涼しく気味悪かりし)、この書斎は風を迎えて作らざりしゆえ、暑さ限りなく、また蠹害の防ぎにナフタリンを多く押し入れに入れあり、大抵の人は座りおると二十分にして頭痛を始め候。小生は丸裸にてその内で拮据齷齪《きつきよあくさく》と致しおり候。
 御地に排日貨とが共産党とかのこと、大阪等の新紙に筆を絶たず。実際いかがのことに候や。はなはだ御案じ申し上げ候。
 和歌山もこのごろは共産党のごときもの多少入り来たり、陰謀絶えざる様子。しかして何をあてということもなく、築港とか埋立とかいうこと大はやりなり。何という必要のなくて、ただただ築港でもすればどこからか船舶来たるべし、というような不定見なことに候。埋立とても同様にて、ただ工事の進む間だけ工賃がとれる。さて、その埋立地は第一用水の出処もなく、何たる用事もなき地なれば、ベースボールやガルフの遊戯場とする外に致し方なきものとなり候。御承知通り備前国児島郡半島埋立地を終了せしが、終了せるころはすでに小作騒ぎ等が蜂起し、田地というものが誰も好み望まぬものとなりしゆえ、藤田家は大いに衰え申し候。和歌浦なども、むかし御同然テンボガニをと(435)り遊びし御遊所《おたびしよ》、すなわち海沙渺茫たりし片男波の浜と玉津島等との間に広き葦沼ありし。それを宅地にせば儲かるとの見込みでことごとく埋め立て候。しかるにそれを埋め立てると海が承知せず、年々波荒く打ち付くる。よって埋立地と沙浜の間に障壁を立てる。立てれば立てるほど波が高くなる。よって障壁も高くせざるべからず。したがってそんな所に家を建てたところが、海の眺望は少しも叶わぬから、好んで監獄に入ったようなものなり。和歌浦に限らず、かの辺埋立地多くなりしゆえ、むかしの雑賀川が海へ快く注ぐを得ず。したがって内川が氾濫する。また市内の堀という堀はみな埋め了りしゆえ、水のはけ所がなくなり、むかし雨ふりにも乾きおりし小松原通りなどは、雨さえふれば泥濘至極で、安んじて歩むことならず。万事この通りで、銭もうけ銭もうけともくろむことが永代の損料の基本となり候。したがって和歌山へ上るごとに、平重衡が「古里は恋しくもなし旅の空」の句を思い出だし候。
 これは先ごろも一度申し上げしかと存じ候が、ついでに申し上ぐる。小生雄小学校に通いしときの小学生同級に、前島兵之丞という人ありし。小生と同歳と存じ候。この人久しく鳴神村の役場に収入役か何か勤めおりしが、五、六年前合併にて役場廃止となり、前途見込みを失い、自分と首をくくり死し申し由。何でも尊宅近所に住みし人と存じ候ゆえ、ちょっと申し上げ候。(あるいは牛町辺なりしか、しかと覚えず。)
 また、御存知にや、武田槌五郎といいし小学先生ありし。小生小学校へ初めて入りしとき、教員たりし。この人は明治八年以来あいしことなし。しかるに前年(明治三十四年冬)小生家弟方のもてなし面白からず、勝浦港にゆきしとき、その数日前まで武田氏そこの小学校教員たりしと承り候。今年聞くところによれば、氏はそれより和歌山へ帰り、牛町に住まいしが、中風にて十余年前死なれ候由。前日谷崎潤一郎の妻(もと芸妓)を譲り受けたとかいう東牟婁郡下里村の出身で当世むきの小説かき佐藤春夫というは、この槌五郎氏の妹の子の由。槌五郎氏はそのころの風として、市内諸小学校を転歴奉職した人ゆえ、あるいは御存知かと察し申し上げ候。
 杉原泰雄氏は二十七、八年前、御地の正金銀行にありしが、その後死なれ候。この人は正金銀行創立者故小泉信吉(436)氏の甥なり。それと同じく信吉氏の甥、那智郡山崎村(もと田井の瀬と申し、大阪上りにはここより紀の川を渡り、山の口峠にかかりしなり)出身、巽孝之丞氏は、久しくロンドン正金支店長たり。帰国して横浜正金の重役たりしが、このほどその実弟の中村啓次郎氏来たりし話に、今春とか心臓病でなくなられし由。小笠原誉至夫氏も実弟有地光太郎というて目から鼻へぬけるようながありしが、今年死亡され候。喜多幅氏は達者におり候。
 いろいろとこの深夜にも用事絶えず、諸友が近村へ自転車を駆り採集し来たりくれる菌類が不断おびただしく椽先にあり、早く鏡検せぬと虫がわくので、これより検査にかかるに候。
 まずは右申し上げ候。今回着の書籍代不足分あらば、さっそく御申し越しを願い上げ候。      恐々
 
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 昭和九年三月二十一日早朝
   中井秀弥様
                        南方熊楠再拝
 
 拝啓。十七日出御葉書十九日朝九時拝受致し候。貴殿は何時御帰朝遊ばされ候や。今日まで一向存ぜず大いに失礼致し候。
 小生は足痛平癒、また妻も昨年一月よりほとんど年末近くまで神経痛にてまことに困り候も、昨今全快の様子に御座候間、御安心願い上げ奉り候。北島七兵衝氏は八十四歳にて死去の由、この人は小生よく知らねど顔は少しは覚えおり、明治十三年ごろ、市会議員にてそのころは三十歳ばかりなりしと存じ候。久保町と西長町の間なる下《げ》の町という所の米屋なりし。しっかりした人にて、去年死去されたる宮本吉右御門氏に見出だされ、四三銀行等の重役になりし人に候。御下問の七之助というは、有本七之助氏のことか。これは下の町の近所に海善寺という浄土宗の大寺あり、(437)その寺の納所の子なり。小生六、七歳のころよりの友にて雄小学にありし才物にて弁才ありし。のち小生(明治九年末)鎧秀学校(雄《おの》小学の隣)今の高等小学のごときものに入りしとき、この人は岡山の付属学校に入りし.それより三年後中学校に入りし時、また同級となりし。明治十三年八月雑賀町に火事ありし。そのときこの人にあいしが、その後東京へ上りしと聞き候。さて、明治十六年上京して共立学校にありしとき、また尋ね来たり、十八年ごろ小笠原誉至夫、富本梅次郎、諸人と同宿せしころ、十川嘉太郎氏などとつれ、毎度遊びに来たりし。軍用電信学校生なりし。小生十九年に渡米のとき、湯島、魚十楼の送別会の席へも、この人と幼年よりの友、宇治田虎之助氏とつれ来たり、新橋出立の節も見送られ候。帰朝後、明治三十八、九年ごろ、広島にありて書信一度あったきり、その後絶信なり。今ははや故人となられしかと存じ候。この七之助氏は、ことのほか小堀勝太郎氏と中悪く、小堀氏は海善寺の檀徒ゆえ、毎度|有七《ありしち》を納所納所と呼ぶ仕返しに、有七は小堀氏をババタレと呼びし。(小堀氏、幼年のころ雄小学の教場へ大便垂れしことをいう。)また、喜多島丑三郎という人ありし。これは橋町の内町小学より、中学に入りし
  橋町より中学に入りしは少数にて、この人の外に、四宮宇田(この人の母は賢き未亡人にて倉田先生の弟子なりし。貧生活中にこの子の教育せり。新聞などに毎度ほめられたり。しかるに宇田氏は明治十九年ごろ士官学校に入り、その後少佐かなんかになり、日本人で殆めてトランスサールを模造せし人なり。それが小松氏に大正十一年逢いしとき聞きしに、なにか不都合のことありて自殺せりとか)、のちに中村武之丞、中尾育弥太等なり。
元博労町の革屋と屋号せる砂糖屋の二男なり。中学にありしうち母死し、次に父も死し、兄君成り行き面白からず、ずいぶん不如意なりしらしく、小生明治十九年帰郷して春より秋まで遊びおりしとき、毎度面会。中学へ通うころはこの人と細井三郎氏と小生と三人大抵の日は同行致し候。小生帰朝せしころは、東京にあり、中松盛雄氏の引きで専売特許局にありしが、一向昇進せず。中松氏退職後、大阪塩町という処で特許鑑定を営まれしが、その後絶信、今どうなったか知らず。ちょっと奇人にて、みずから老公と称しおりたり。碁の名人にて、他所より釆たる碁客を毎度辟(438)易せしめたり。貴下はこの喜多島を北島と混じ、さて、有本七之助という名をも混入されしことと察し奉り候。
 和歌山県庁を改築のため、和歌山城の石壁を砕き、只今公園となりある城内に移す由、県庁は公売に処すとか。近来何の地も御同様なるが、土地に関係なく土地の歴史を心得ざる輩が多く市内に入り込み、例の普選にて代議士や市会議員、県会議員となるもの多く、和歌山市生れの人は外来者同様のあぶれ者の外は議員などにならず。したがって、歴史とか土地の誇りとかに無関係の者どもがかようの破壊事業を率先首唱し、また響応するなり。さるにても由緒久しき城壁を毀つなどは、史蹟名勝保存とか観光外客誘致とかを口癖にする政府としてははなはだ不似合い、また今も市内に士族も多く、将官なども多きに、かかることを平気で看過するは、大層ながらはなはだ人心を不安定にする一事と存じ候。
 武津周政とて(弟は渋谷なんとかいいし)最初の市会議員に兄弟共出でし人あり。この人の長男は河内の枚岡神宮の宮司たり、先年死亡。その次の人の子かなんかがその跡をつぎおり。三男か四男に真応というあり、日本晴れての剣士なり。今月十二日当地へ来たり、拙宅に遊び、また喜多幅方に一泊し、酒一升呑んで去れり。この人などは剣道は強きに志気なく、右の城壁破却のことなどを何とも思わぬ様子に御座候。しかしよきことには、県庁を城内に移すに百万円の金を要す。県庁の建物や地面を売ったところが、百万円を提供する馬鹿者はあるまじきとのことなり。県庁には知事以下諸課長、みな他府県人にて(統計課など不必要の課の長のみ和歌山県人)、官吏の数六百人あり。それを容るべきために廓大するとのことなり。また県会、市会の議事堂も、今の所で何の不足なきに、何さま議員ことごとく他所よりの風来もののみゆえ、土木請負人と結束したり、はなはだしきは朝鮮工夫の世話料を貪ったり、かくの姶末は歎ずべし。              早々啓白
 
(439)   多屋謙吉宛
 
     1
 
 大正十四年九月六日夜七時半記
 
 拝啓。この状と共々持たせ上げ候六月分『変態心理』に小生の「屍愛について」は、警視庁にて審議の末、一月ばかりかかり四十余処を刪り初めて出板許可され候ものに有之、右刪られし処々を小生忘れぬうちに補充致し、知人十五人ばかりに配布候一本なり。後来何として手を廻しても手に入らぬ小生の手沢本ゆえ大事に御保存を乞う。
 次に今明日あたり東京市外大井町上松蓊氏(もと衆議院議長たりし阿部磐根氏猶子)より、『集古』雑誌九月分一冊貴方へ着すべし。これに小生の一世一代の古雅な作「エビ上臈」あり、この雑誌は内田魯庵が評せしごとく出板の即時すでに稀本にて、会員(百五十名ばかり)の数に応じて出板するゆえ、編輯人林若吉、三村竹清二氏もかろうじて全部揃うたもの一部もつのみ、先年小生上京の折、二氏苦辛して小生への土産としてかり集めくれられしも、なお十冊ばかり不足なりし。故に会員外には全く手に入らぬものに候。今回は三村氏特志をもって特に十冊だけ別刊され候ものを、平生研究所の世話やきくるる人と土俗学篤志の友人と十名に分かちしもので、当地では雑賀貞次郎、佐山千世、貴殿三人に御座候。きわめて稀有のものゆえ、丁寧に御保存、もし御不用の節はたれかこんなことをすきな人に御頒ち譲り下されたく候。
(440) 拙児只今恢復期に入りはなはだ気分むつかしく、万事猜疑の念はなはだしく、ちょっと人が来ても自分を監禁する相談にあらずやなど、もっての外の疑いを生ず。故に決して決して小生方に近づかぬよう願い上げ奉り候。右『集古』貴方へ着せばちょっと着したということだけ御受けをハガキにて御出し下されたく候(小生へも上松氏へも)。           早々敬具
  この状および『変態心理』六月号は、石友の妻が新来の下女に貴宅を教えかたがたもちて同行するなり。
                        南方熊楠再拝
   多屋謙吉様
 
     2
 
 昭和二年九月四日午後一時
   多屋謙吉様
                        南方熊楠再拝
 
 拝啓。例年の銀行決算期近づき来たり候(期日は八日と十二日)。今年はいろいろ独決し難きこともあり、過日喜多幅氏の意見は聞きたるも、何様貴下の御意見を承りたく、またその手続きも御世話を煩わしたく候付き、何とぞ手廻ししてあまり迫らぬうちに一度御来談願い上げ奉り候。小生昨夜自分罷り上らんと致し候も果たさず、例の事情あって外出することならず。これは尊貴の方より御委托の調査受け、自分の書斎におきあり、少しでも留守になると、その室へ入り来たり何をするやら知れぬ者あるゆえなり。昨日雑賀氏来たりしゆえ、雑賀氏に頼み事情を具して貴下まで行き談《はな》しもらわんかとも存じたるも、この一件は雑賀氏従来関知せざることゆえ、事むつかしく説明に長時間かかるを憚り、雑賀氏退出後自分貴方へ出でんと衣類まで改めたるも、右事情のため果たさざりしことに候。
(441) 小生は日により朝六時より午前十一時ごろまで眠ることあり、これは夜分通して仕事するゆえなり。故に御来臨はなるべくこの状御覧後早く、あまり後れぬよう願い上げたきながら、朝中は御見合わせ下されたく、午後ならばいつでも在宅罷り在り候。
 小生前年十六円出して買いもらい候パリ製の水彩色具、拙宅ことのほか暑きため乾きつき、この上一年もおかば使用に堪えぬものとなるおそれあり。よって従来いろいろ世話になりし東京の人々五、六人に、絹地(おびただしく送り来たりあり)へ一世一代の絵をかくつもりで出しあり、貴下にも貴下前年発見の菌にて小生の菌譜へ出すべきもの一種画きおくべく候。                     早々敬具
  拙児は前月二十七日和歌山市役所より免役の通知を受け申し候。不名誉千万なことながら、推して出て多くの人々に迷惑をかくるよりはましなり。
 
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 七月二十七日夜八時半
 
 拝啓。東京より、ある筋で御用の葡萄、南支那の茘枝《リリイ》二十個ばかり餽《おく》り越し候付き、おのおの少し(茘枝は二個)差し上げ候。
 御承知ごとく茘枝は支那で果王の称あり、唐の玄宗の妃楊太真特にこれを好みしため、毎歳飛馳もって進む、しかれども暑に方《あた》って熟す、宿を経ればすなわち敗る、と『唐書』に出ず。(鴿《はと》の足にくくり付け飛ばし送りしということもありしと存じ候。)小生等若い時はこれを焙り乾かして輸入せしが、昨今は氷につめて生品が東京まで届く。しかし氷より出し東京より当方へ来る間に外皮にカビを生じ候。ただし内部に変りはなし。もっとも今取ったばかりの物には大いに劣れど、とにかく茘枝はどんな気味ということを見るには十分なり。外皮は堅きよう見ゆれど薄きもの(442)ゆえ、爪にて剥ぎ去れば乳白色の肉が核をまといてあり。その肉を賞翫せるなり。ムクロジ(羽子《はね》のツブ)と同族の大木の実なり。生《なま》な時はイチゴのごとく紅色で美なり。今朝着せし時は二十個のうち九個まで紅色なりしが、もはやみな茶色に化し候。
 葡萄は洋種で本邦の山ブドウにつぎ拵えし名品の由に候。この辺のものと大いに異なり。             早々敬具
                        南方熊楠
 多屋謙吉様
 
(443)   和中金助宛
 
 大正十五年十月二十九日午後六時
   和中金吉様
                        南方熊楠再拝
 
 拝啓。本月二十日の『大阪毎日』紙にて十八日午前尊父御遠逝の趣き一読、取り敢えず御弔詞申し上げ置き候ところ、只今御礼状を拝受し恐れ入り候。ちょうどそのころ吉備慶三郎と申し(小生未面識の人ながらその亡父は小生と寺小屋づれなりし)時々小生と文通する和歌山人より、『紀伊史料』と申す小冊子を送り来たり、それに尊名を載せありしより初めて尊名を知るに及びたる儀に御座候。よって唐突弔詞を申し上げたるばかりでは子細分からぬこともあるべしと存じ、吉備氏へ一書を出し、もし異日御出会の節はお話し申し上げおきくれるよう頼みおき候大要は、
  小生明治十九年より三十三年まで海外におり三十三年十月帰郷、しかるに拙弟常楠夫妻小生が家にあるを好まず、小生父母は小生留外中死に果て兄は破産して家なく、小生はゆき所なきより二月ばかり和歌浦愛宕山寺に僑居候。旧知岩崎茂兵衝氏と一度あいたるのみ、誰一人訪う者もなかりし。その時尊父愛宕山住職貫忠師と心易くしばしば来訪あり。一日羽織を改め着用して来たり、谷井勘蔵氏に聞きしにこの寺に慾なき人おる由、この世間に全く慾のなき人物は希代なれば一度面会したしとのこと、よって小生直ちに延見せしに、貴公は慾なきと承るが然るかとの意外の問に小生大いにめんを食らい、さればなり、慾なき訳ではないが貴下等とは慾の種類がちがうとい(444)うようなことで、「それより物にふれ事によりいろいろと御話し申し上げしに大いに気に入り、こんな面白い人はないということにて茶果子など持ち来たり、たびたび寺へ来るごとに話されし。小生日記に、「和中金助氏来訪、この人無学なれど至って常識に富み、すこぶる筋道の分かった人なり。コムトのいわゆる世間の相談役たるべき人なり」と有之候。これはそのころ愛宕山の住憎が寺の維持のためにいろいろの物を売る。門外に大なる美事なしだれ桜ありし、そんな物まで売る。それを金助氏が一もなく買いやるを見るに、値段をかれこれいわず、よきほどに金子を遣るなり。寺は寄進なくては立ち行かず、寺の物を買うのは寄進の志を専らとすべく、値をかれこれ応対するような根性なら寺の物を買わぬがよし。その辺を自然に会得し得て、金助氏はつまり半日の閑遊一盃の茶の代りに、寄進のつもりで桜などを買いやりしなり。かようの根性の人和歌山には至って少なし、と考えて「この人生まれながらに有福の相あり」と書き有之候。
  その後米一揆のとき道|杜《ふさが》りて和歌山へ上ることむつかしときき、何とか間道あるべしと尋ねんため尊宅へゆく途中、金助氏は中風にて臥しおるところへ群集殺到せしゆえ、担架同前の物にて運び去れるところとか申しおり、何が何やら分からぬゆえ、小生も側杖をおそれてまた高松茶屋の方へかえり、それより先は事なく和歌山へ行き付き申し候。この次第にて金助氏は中風とある上は、その後数年にして遠逝されたることと存じながら、帰朝直後誰一人訪う者もなしに二月ばかり山居のおり時々尋ねられしことを毎度思い出し、夢にも見など致して今日に及びたることに御座候。
 右は吉備氏へ二十七日に出したる状の大意、記臆のまま。
 東京岡書院主岡茂雄より『続南方随筆』一冊不日貴方へ到着致すべく、これは小生帰朝後|話《はなし》らしき話を致したる縁により、尊父霊前に差し上ぐるつもりにて差し上げ申し候間、御笑納下されたく願い上げ奉り候。十一月一日発行のはずなれども、すでに製本は出来おり、当方へも多冊参りおり候を、三浦英太郎男を始め知人どもに配り了り候。小(445)生悴去年三月より精神病にかかり今に平癒せず、只今発作中にて家内混雑はなはだしく迷惑最中に有之折から、摂政宮殿下、小生多年調査研究の粘菌類標品御覧なされたく、前日よりしばしば御待兼の旨伝達有之、今夕もまた侍講服部博士より督促有之、この状を書き了りて直ちに進献表および図解を認めにかかり申し候付き、本状はこれにて擱筆仕り候。あとよりあとより用事の多き小生のことゆえ、御忌中かようの状を差し上ぐるも如何とは存じ候も、只今ちょっとひまあるに乗じ、この状を差し上げ置かずば、到頭忘れてしまうことも有之べく、失礼ながら本書取り忙ぎ相認め差し上げ奉り候。
 小生七、八歳のとき小学校づれにて毎度たたきあいなど致せし谷井達之助君は今も健在され候や。もし御出会いの節は宜しく御願い申し上げ候。ある日(明治八年ごろ)小生方へ(寄合時々ありし)遊びに来られ二階で遊びおりしに、ろくろ首の話が出申し候。それをよほど小生おそろしく思いしものか、今に達之助君とその時の二階に遊びながら天井裏をのぞくと女の首が長くなりて飛ぶところを毎々夢に見申し候。    早々敬具
  『南方随筆』も差し上ぐべきのところ、二千部刷りしものほとんど売り切れ、前月始めにわずか三十部とかのこりありし由なれども、編纂を他人に任せしゆえいろいろと虚構のこと多く、柳田国男氏等より故障出で候付き、只今小生自分の手で校正、追加書きして第二板を来たる一月ごろ出すべく、その上一冊差し上ぐべく候。
 
(446)   喜多幅武三郎宛
 
     1
 
 昭和六年十二月一日午後十時前
   喜多幅様
                        南熊
 
 拝呈。今日拙妻貴方より持ち帰りし菌は、ヒラタケなり。これは食用としてもっとも古く日本で培養されたものにて、シイタケが今のごとくシデの木で培養さるることとならぬうちは、高野山から京都までも、ヒラタケが只今のシイタケのごとくもっばら賞翫されたるに候。木曽義仲がヒラタケを木曽より持ち上り、京都の公家衆に食わせたということあり。
 しかるにシイタケがもっばら乾燥品として行なわるるに及び、大打撃を受けたるはヒラタケにて、小生過ぐる大正九年高野山に上りしときなどは、この蕈の名を知らぬ人多く、わずかに紙屋《かみや》という所の金沢館という家の裏のムクかなんかの老木の空洞中に、毎秋末多少生ずるを、年々の例として少しずつ寺坊へ配るを見たり。小生それを貰い受け、胞子をまきちらせしに、その翌々年の春未、隣の多屋家のビワの木に一個生えおりたり。
 このヒラタケには種々変種多し。しかして桑の木に付くは、今朝妻が持ち来たれるを始めとす。この品は従来小生(447)が見たる諸変種中もっともきれいなものなり。故に食用品として培養せばはなはだ宜しからん。
 培養法は何ともなきことにて、米を洗うた白水《しろみず》をまきちらせばはえるなり。胞子をとりて培養を試みたきも、標品乾燥したるゆえ胞子の有無分からず。少々はあるべきも、まくほどはなかるべし。故に今も切目村にあらばさっそく申しやり、生《なま》の品をなるべく木片木皮を付けてはぎとり、出来るだけ多く送り越さるるよう御申し遣わし下されたく候。
 また、今年もはや生のものなくば、今朝持ち帰りしごとき乾燥品を、今五、六塊なるべく大きなやつを送らるるよう願い上げ候。然るときはなるべく多く水にぬらし原状にもどして図録し、ヒラタケの何という変種に当たるか、または、この桑の木に付くは従前知れざりし新変種なるかを験知せんとす。もし貴方に只今少しでも乾燥品が残りあらぱ、この使女へ御手渡しを乞う。  以上
 
     2
 
 四日朝十時四十分
   喜多幅君
                        南方生
 
 この下女に持たせ上ぐる果実は樟《くすのき》科でタブ(この辺でトウグスと申す)すなわち庄司富人民全盛のときその粉で線香を作るに用いし木と同属のものに生ず。英語でアリゲーター・ペヤー(鰐梨。  こんなに鰐の背のごとき剣あるに由る)、ただし只今はスペイン語でアヴォカドで通用する。外面至って堅いが、○○館の後家同然、内実はなはだ柔らかく、縦にでも横にでも切って歯をあつれば、侯《ま》ち設けたるその後家のかの物と同じく、ずぶずぶずぶとはいるなり。ことのほか滋養分のあるものにて、いろいろと料理法はあれども、一番手軽き法は、塩(448)または醤油を付けて食うにあり。また、そのままパンに塗り、バターに代用し、植物バターと名づけ、植物専食の人々は牛のバターの代りに用い候。小生五十年前、西インド等にありし日はこれを常食とせしこと多く、そのころは果実小さきもののみなりしが、今は冬瓜ほど大きなも出来ある由。先年台湾の南部へ播植したるも、今になかなか売りに出すほど出来ず、ようやく九個送り来たりしに二個は腐りおり、七個残りし内一個貴方へ進じ候。早く食わずば腐るなり。      早々以上
  今年この種木を初めて串本辺へ植えし人ある由、新聞で見及び候。核《たね》も切り開きてその内の仁《にん》を食う人あり。小生は試みざりしが、うまき由、人々申しおりたり。
 
     3
 
 昨夜御話の産門が裂けずに拡大し能う最大程度と、出てくる生児の頭顱の最大の直径との尺度御示し下されたく候。この二者は同一のことと考え申し候。 産門が平生の大きさより出産のとき幾倍大きくなるということは、明言し得ぬことと思う。人々により違いあるゆえなり。しかし陰膣の健全なるものの最大径を知り、さて右のごとく出産時産門が拡がり得る最大径を知り得てこれを除算すれば、大抵幾倍まで大きくなり得ということは分かると存じ候。
 もっともミショーの『医科大事典』を見るに、肛門などもビールの罎《びん》を入れ得る由。ただし、これは男色を売るものの例なれば話に引けず。本状伺い上ぐるところは、まず健全なる常体日本女(また、どこの国の女でも宜し。他国の例ならばその段ちょっと御付記下されたく候)の産門が裂け損ぜぬまでの程度を伺うなり。常体の女でも、かの菱屋の女将のごとく(小生、今福湯《いまふくゆ》で毎度望まぬことながら拝見す)、闘鶏社の大鳥居の中へ竹公の線香を一把突っ込(449)むごとき大きなは例外なり。インドには産門の大きさにより婦女の称を異にし、カミサン、シンゾウ、ムスメなどいうように、象大、馬大、驢大、牛大などと、門の広さで女を呼ぶなり。婚姻等に間違いを生ぜず、試験も入らず、正札付きでまことに便利なれど、動物の売買のように聞こえて、梵語をいろいろに記臆するに手間かかるなり。
 
(450)   田中敬忠宛
 
     1
 
 昭和十五年三月二十一日午後一時過出
   田中敬忠様
                        南方熊楠再拝
 
 拝啓。三月二十日午後三時と同日夕出の書状とハガキ今朝八時四十分拝受。明日慶大教授横山重氏、小生の在外中および帰朝後の未刊稿一切を取り纏め来訪さるるはずのところ、咋二十一日すでに東白浜の白浜ホテルに来たり、今朝十時に拙宅に来らるるとの報なり。由良館の「山神草紙」を写して氏の「室町および徳川初期草紙物語集」に出すはずのところ、肝心の案内を小生より嘱し置きたる雑賀氏の息、父にあいに来たり、本日午後二時大阪に返り、それより東京へ転任のため、それが済まねば雑賀氏拙方へ来たり得ず。また明日は教授拙宅へ来たりいろいろ協議、また雑賀の著書出版のことを小生が頼む。二十九日には東京より来客あり。二、三日滞在の前約あり。それゆえ二十九日に御来田ならば御待ち受け申すが、上市のことはむつかしく候。それに付き二十九日の御来田はなるべくその次回御来田の節御来臨下されたく候。
 それに付き特に御願い申し上ぐるは、御地図書館に就きなるべく貴下御自身、またそれがならずば御信頼十分なる(451)人を頼み、大正九、十両年の『大毎』紙和歌山板(当時は紀和号と申せしと覚え候)を逐一御しらべ、それに載りある徳川侯および小生、およぴ小生研究所に関する条項を一々控えとり、大抵見出し〔三字傍点〕を付けて、例せば三月十一日号何頁、侯和歌浦の別荘に滞留、四月一日号何頁、候|水軒《すいけん》の三浦氏別荘を見る、四月五日号、本山彦一氏より研究所基金五千円寄付、五月一日号、和歌山市内有志より寄付金、五月十八日号何頁、土宜法竜師研究所を奨励す、という風に相応の見出し〔三字傍点〕を付け、要領わかり易く別記して、まとめて御示し下されたく(必ずしも自分御携釆を要せず。一回にても数回でも宜しく御郵送(書留〔二字傍点〕)下されたく候)。当方にも大抵切り抜きは集めあるゆえ、貴方より送来の大見出しと当方所集を比較せば、そのころのことは大抵分かり申すべく候。この一事は、今年(二六〇〇年)中に発表すべき小畔および小生の「日本粘菌図譜」の付録として出すべき研究所事歴書末に掲げ、出資諸君に配布するはずにて、徳川侯伝は横山教授が出す南方未刊諸文全集の初篇に出すはずに御座候。
 この侯は大正十年五月十三日なりしか、五明楼より拙宅を訪われし際、葵の五つ御紋付羽織を召され、帽を旅館にのこしおき、衆人牆を成して羅列せし道中を徒歩して入らせられ、八畳の塵だらけの書斎の荒ござの上に定時以上に長座せられ、(毛利の評に)旧君民和気|藹々《あいあい》として笑談せられ、郡村の有志等五明楼に集まれりとの数回の願いにもかかわらず、五時までの約束のところを時計をしばしば見られて、まだまだまだと七時まで長座せられて、終りに「いかにも高い」(小生の気風を賞美せられしなり)との辞を遺して立ち去られ候。その翌年五月また高麗寺山荘へ延見されしときも、小生山のぐるりを堂之前氏と共に巡覧拝見する間、三時間ばかり少しも足を動かさずに悠然応接間にまちおられしなど、いかにも古聖人がその位におりし感想を小生ごとき愚人にさえ生ぜしめられしほどのことにありたり。したがってその間の御話、また申し上げしことどもの内で、床次内相よりの伝言もあり、いろいろ事機微に属し、これを公けにするを憚るべきこと多く、それをそれとなく世に伝うるには一種の筆法と慎みを要することなり。一句一字も軽忽に下すべきにあらず。すこぶる気がくたびれ申し候。何とか限定出版にでも付せんかと存じおり候て、(452)横山氏を通し小泉慶大総長などとも相談せんかと存じおり候。
 貴市に小生がおきある書籍古什(大森介墟の太古の遺物など小生独り集めたるものも立派な物多し)、宝石、古今木草標品、自分諸国遍歴所集品等随分あり。侯家累代の御画師須藤家(丑彦氏および島田博士の生家)の粉本を借り受け自習せしときの画など純真に画きしもの今も若干はあるべし。また明治七、八−九年ごろまで全盛なりし久保町の岩井屋(津村氏、弥兵衝)家蔵の『本草綱目』、『和漢三才図会』、『万宝全書』、『大和本草』等を、明治九−十三年の間に、蠅頭の細書で全書したるものは、弟の妻の不注意で店の丁稚小僧の習字のために全滅されしも、一、二葉はのこりあるべし。こんなもの自家に置きても保存に途なし。みなまでとはなくとも少しは譲り上げ候。残しおかれたく候。近年は述懐不平の邪念多く雑われば、末広一雄氏に与えしカブト虫と猫(これも返後グチを書き入れ候)、平沢哲雄氏に譲りし高野山本尊諸像の内、降三世明王(氏の内縁の妻吉村勢子女史が、震災に失いし金円証書は惜しからず、この画のみ惜しといわれし由、『海運』に見え候。この女史は往年青鞜社の巨擘、日本婦女権主張の元祖、去年死亡、その前日小生よりの安藤蜜柑届きしも、末期の水に代用されしや、聞き及ばず)、それから和中金助氏方で画きしイセハナビの絵の外、ろくなものはなく候。それほどの物すら、もはや画き得ず候。藤岡長和の居間に藤原行成卿の書かと小生みずから見謬りし字行の見事な書翰ありし。よく聞くに大正中ごろ小生が氏に贈りし書翰なりし。書は例の拙筆ながら、字行はまことに見事なりし。これほどのものも今は不可望。
 まずは右和歌山板の一事、何ごとよりも宜しく御願い申し上げ候。研究所初めに市の住人にて、小生一向知らぬ人が五円三円ずつ寄付されし先頭第一の人三人ありし。名は控えおき候。他日申し上ぐべく候間、その人々今もあらば、別の御礼申し上げたく、小生叶わずば貴殿小生に代わり御礼をなされたく頼み上げ候。
 和歌山の人はいずれも口が軽く、人より聞いたことは洩らさずにはおれぬたちなり。インド人がその通りなり。故に思うておることは一日の間に世間へ知れ渡る。されば深謀遠慮などいうことありそうもなく、人間が多いばかりで(453)いわば蟻群のごとく、一切の智恵機略がまたたく間に世間へ公平に知れ渡りて平均するから、偉功とか大業とかが成功する気遣いなし.夢に生き夢と果つるのみなり。これは和歌山人とは限らず、近く日本人はみなこの通りになりつつあり。御臨幸前、小生腹心とも頼みし二、三人を同伴、湾内諸島を巡視し、ほぼ目ぼしき物について話せしに、翌日その人々学校諸生に向かい小生より聞いたことを逐一語り了る。分からぬなりに聴いたことを吹聴するを能事と心得たるごとく、自分の考えは一つもなく、分からぬなりに聞いたことを誇伝するを十分よきことと心得たるがごとし。これでは支那をどう導くの、どう処理するのと言ったところが、軍談や浮れ節を習ったままに唱い囀《さえず》るに止まるに御座候。貴下などもよくよく御猛省ありたきことなり。来客あるに付き、右だけ申し上げ候。
 
     2
 
 昭和十六年十一月二十日午前十二時より書き始め夜明けて出す
   田中敬忠様
                        南方熊楠再拝
 
 拝復。八日午後十一時出御葉書は十日午前八時半拝受、次に十二日正午横浜出平沼氏のイスノシア弁十四日午後一時着、同じく十一日午後四時半認小石川植物園松崎直枝氏のイスノシア考を、平沼氏経由、十五日朝八時半受け取り候。しかるに前日貴下より丁字茄児の絵を早く描きて送り上ぐべき由御促進ありてより、小生はなはだ気分悪しく、娘に引かせ置きたるどうさ紙等に点々を生じ、ために目下差し逼《せま》りおる菌類写生も全廃、折から烈しき風引き、何もせずに日夜ぶらぶら致しおり候。しかしせっかく人が調べくれたるものを握りつぶしてしまうも遺憾なれば、平沼・松崎二氏より報告の梗概を左に申し上げ候。
 (平沼氏調べ書) イスノシアなる洋名にもっとも近しと思わるるは、故白井光太郎博士の『本草学論攷』(矢野宗幹(454)氏編纂)第三冊八四頁に、ユスノシア・カシネア(カーネアの誤写)、葉形コンロンカに似て、花形夏枯草に似て、末紅大輪見事、穂咲、秋咲、と記すもの(末紅は紅朱の誤写たること、次に引く松崎氏書翰にて明らかなり)、または同書七三頁にある、ユステシア、『本草要正』に出ず、と記すもののいずれかにあらざるかと、臆測仕り候。
 (松崎氏調べ書) 本日頭をひねり考え付き候。イスノシアは『天保度後蛮舶来草木銘書』(安政六年末三月、東山邸群芳軒)なる白井博士所蔵秘本を拝借候て筆写の分に、「ユスノシア・アシネア、葉形コンロンカに似て、花形夏枯草にて、紅朱大輪見事、穂咲、秋咲」と。これに合格すべきよう考えられ申し候。これとすれは当然下記の学名と相成り申し候。
  Justicia《ユスチシア》 coccinea《コクシネア》
  Justicia《ユスチシア》 carnea《カーネア》
   この二つの内
 しからば爵牀《いせはなび》科にて、別名 Jacobinia《ヤコビニア》 coccinea《コクシネア》と申す、南米伯国産の多年生小灌木にて、現在小石川植物園温室にも有之《これある》物に御座候。ただし白井博士はユスノシアの正体は判然せられざりし物と見え、『年表』(『日本博物学年表』)にも御記入無之候も、幸い小生|強《あなが》ちに先生の許可を得て筆写し申し、解決して嬉しく存じ候。ただし果たして南方老先生この判断を是なりと御認め下さるや疑問に存じ候も、只今小生□□はこれと存じ守り申し候ゆえ、左様御伝え下されたく願い上げ奉り候。
  ここに、小生のことを老先生といえるは、松崎氏の外叔父故吉岡範策海軍中将(第一次大戦の時南米海に働きし出雲艦長)は、故佐々友房氏甥にて、故斎藤七五郎、加藤寛治諸将と、毎度大英博物館、キュー皇立植物園等で小生の説法を聴きしゆえ、いずれも小生を先生と立てたるなり。松崎氏の父を堯臣といい、陸軍大尉にて、日清戦争最初の戦死将校なりし。
 平沼氏よりの来状に、故白井侍士の蔵書は上野帝国図書館に納まりおる由伝聞すれど、同館の閲覧設備不完全につ(455)いては世に定評あり。さりとて帝大図書館や大学農学部に納まりては、大学関係者以外はほとんど閲覧を許されず。松崎氏が白井博士の生前|件《くだん》の秘書を写し取り、今度間に合い候は、まことに天幸と存じ候、云々.
  熊楠|謂《いわ》く、本邦博物学中興に大功ありし故田中芳男男の蔵書および標品も、白井博士に保管を托されありしが、今はどうなったか知れず。
 平沼氏十一月十三日横浜出書状に、松崎氏来示の植物(ヤコビニア・コクシネア)は、只今京浜地方の温室業者間には左まで珍しからぬ物にて、七、八年前より鉢栽または高級の切り花と致し、時に市場に出でおり、ジャコビニアの名をもって知られおり。この物は当横浜にては温室ならでは越冬し難く、フレイム(ガラス窓囲い)程度の防寒では、おそらくは枯死を免れずと存じ候。
  これは拙蔵古書より写し出す。一八二七年初めて英国で刊行せるヤコビニア・コクシネアの図なり。英国にて八、九月に咲く、木の高さ六フィートとあり、和歌山にあるもの、これと同じく候や。
 Justicia《ユスチシア》属はおよそ二百五十種あり。多くは東西南半球の熱帯地に産す。ただしキツネノマゴごとき温帯に産するもあり。(和歌山の伝法橋、水天宮の辺にはなはだ多き雑草なりし。今もその辺に多きことと察す。)ヤコビニアも初めはユスチシア属に入れたるが、のちにユスチシア属と別れて独立し、二十種あり、みな熱帯米州の産なり。独立せしは花粉の構造によることらしく、小生にはそのわけちょっと分からず。
 とにかく、いろいろと属位を移され、学名もしばしば変わり、厄介な代物なり。牧野・根本二氏の『日本植物綜覧』で見ると、ヤコビニア・コクシネアは普通サンゴバナと称えられ、今はユスノシアなど言いても通ぜぬらしく候。(ユスノシアはユスチシアより誤写せしより生ぜる名なり。)(ユ(456)ステシアはユスチシアそのままを伝えたる名なり。)平沼・松崎二氏の考えにて小生初めて手蔓を得候。松崎氏ことのほか安藤蜜柑を好む人ゆえ、今年は奮って多く贈り遣らんと存じおり候。
 右二氏よりの来状を見るに、この植物は京浜地方にては温室にあらざれば育たぬらしく、和歌山にて防寒の用意なしに育つというを怪しむもののごとし。小生考には、松崎氏が写し置ける安政六年の書に、すでにこの植物を載せたれば(文久二年に成りし『本草要正』にも出たり)、和歌山へ栽えしもまずこのころなるべく、昨今京浜では必ず温室を要するに、(貴説に拠れば)和歌山では温室でなくとも育つとは、拙方に一昨年より自生せし濃赤花のしきざき秋海棠ごとく、和歌山特有の一異態を生ぜるにあらざるか。このことを検し、果たして然らば、何の点が京浜咋今の物と異なるかを確かめ、図記して小石川植物園へ贈らんと欲す。当宅は害虫など瀰漫してあるいは育たぬと見定めたら、上秋津村長宅の日あたりよき空気清浄なる庭地で育てしめて、検査したいから、次回にその木を一、二本御持来下されたく候。
 萩の川原のみぞ等につき、これまた葉の彩色もっとも難物たり。丁字茄児にこりたれば、彩画して上ぐることはその暇なく、また只今脂防分欠如して、不断神戸より焼豕肉《やきぶたにく》、横浜より純正バターを送らせても、なお欠如して、とても当分彩画などは思いもよらず。知人に強健な者あれば、それに言い含め、採りにやるが速い。今年はどうせもはや間に合わず。
 小生昨今眼わるく、この状も一日一日とのばしおりしが、際限なきゆえ、今夜強行して認め候。御察読を乞うなり。
 糸川書之助氏死したる由、この人の母は小生四、五、六歳の時、自分の子のごとく愛養しくれたり。一度善之助氏に会い、その礼を述べんと思ううち、毎度出ちがい、一度も面会を得ざりし。倉田氏中ノ店に住みしことは、小生初耳に候。そんなことは多紀氏御存知の加納録輔氏に聞けば分かり申すべく候。       早々敬具
 
(457)     3
 
 昭和十六年十二月三日午前一時書き始む。夜明の後出す
   田中敬忠様
                        南方熊楠
 
 拝啓。過日ハガキをもって御尋ねの件、ようやく今夜左のごとく御答え申し上ぐべく候。
 八咫烏に三足ありということ、『古事記』、『日本紀』等の古書に見えず。支那には古くより日中の烏に三足ありという説あり。例せば、『春秋緯』元命苞に、日中三足の烏あり、烏は陽精、とあり。『玉暦通政経』に、三足の烏は王者の慈孝百姓に被《し》き、殺生を好まずばすなわち来たるとあって、日の精は三足の烏という信念より、おいおい三足の烏を瑞鳥と見立てたるなり。したがって、周の明帝三足の烏を獲て天下に大赦し、文武官あまねく三級を進めしことあり。梁の武帝禁中で円壇を築き、恵約法師より具足戒を受けし時、甘露庭に降り、三足の烏と孔雀二疋が階を歴《こ》えて別れ伏せしより、帝大いに悦び、恵約法師に智者という別号を賜いしという。『魏書』に青州等が三足の烏を献ぜし記事三十七条あり。『周書』に三足の烏を献ぜし記事二あり。則天武后の時三足の烏を献ぜしに、皇太子その前の一足は付けたものと言いしに、武后悦ばず、須臾にして前の一足地に墜ちしという。かくのごとく支那では久しく三足の烏を瑞鳥とせしにて本朝またこれに倣い、『延喜式』治部省所載の大瑞五十八種、上瑞三十八種、中瑞三十二種、下瑞十五種、その上瑞三十八種の内に三足烏(日の精なり)あり。されば近世キューピーとかヴィナスとか西洋のものとさえあればもてはやすごとく、支那風全盛の世には三足の烏をもっとも目出度物として、さてこそ何の古記に見えぬまでも、八史烏を三足に仕立てたるに候。御返事はこれだけなり。
 さて、ここに申し上げおくは、吾輩これだけのことを調べ上げるに、一昨日午後より只今までかかり、時間をつぶ(458)すことおよそ三十時余、そのあいだ寒気烈しきために卒倒して、したたか後頭を打ち、また手脚の皮膚に亀裂を生ぜり。右ほどのことを調ぶるに貴地にて然るべき学生を傭い、図書館に就いてありふれた類書、例せば『淵鑑類函』、『広文庫』、『日本百科全書』、『事類統編』などを渉猟せしめなば、右ほどの返事は二、三時間にして出来上がるはずなり。寒夜老体を煩わすに及ばず。若者の内には好んで進んでそんな取調べをなす者多々あらん。老体のことゆえ、深夜小便のために戸の開閉も頻繁にして家人が懸念も少々ならず。したがって朝起きるのが晩くなる等のことなきにあらず。別に勘定書き出しを差し上げるわけにも参らず、ただ昨夜は安眠ならざりしと歎じてすめばすむものの、季節上より申すも只今のごとき不旬の折から、かかること毎度尋ねらるるははなはだ思いやりのなきことと存じ候。今日の世態、何一つ只で勤まるものなし。先日差し上げし鼠の画のごときも、大阪高津社畔に紀州人相手に豆腐で飲ます店を持ちたる何の松とかいう毒婦が、土宜僧正の書と共に大阪に持ち帰り、土宜師書は何とかして売ってしまい、小生の鼠の画は落款ばかしとかの廉でうまく捌けず、何とかして小生の落款を加えしめんと、当地に持ち戻り、その姪とかの方におきありと聞き及び、拙妻がその姪なる女と心易きゆえ、いろいろと説服して、いからとかの金円を与え持ち帰りしを、貴方へ呈せしと後日承聞致し候。その女の祖母、これもしたたか者にて、右の拙妻が出せし金員に不服を唱えしも、わずか一週間ほどの内に頓死し、それでまずは事なしにすみたるなり。小生一昨日より只今までなにか一文を草せば、少なくとも二、三十円は誰かが出してくれるなり。この辺のことは御一考願い上げ候。
 イスノシアのことは、故白井博士も十分に分からずに死なれたらしく、それを小生より平沼氏に特別に頼み調べもらい、平沼氏より松崎氏に交渉せしところ、幸いにイスノシアに関する唯一の文献を白井氏の存日、松崎氏が写し置かれしより、ようやくヤコビニアのことと分かりたるに候。故にイスノシアの何物たるを明らかにせしは、平沼・松崎二氏の力にて、少しも小生の力にあらず。小生は人の功を攘《ぬす》みて、自分の力のごとく世を紿く者、咋今はなはだ多きことを悪《にく》むの余り、このことは明白に貴下へ御頼み申し上げおくから、何とぞかりそめにも小生この発見にいささ(459)かも功ありしようのことを、世に吹聴せぬよう願い上げおき候。平沼氏は御存知の千万長者にて、今日学者間に聖人と評さるる人に有之、この人の図書室は有名なもので、毎日大学生などが群集致しおり、ことに氏自身が園芸学の名人たるゆえ、小生などは不断その助力を得ること多し。この人人類学者としても、ドイツ等に蚤《はや》く令聞あるなり。平沼・松崎二氏のイスノシアに関する答書は、実に叮嚀なものにて(松崎氏は東大植物学教室閉鎖後、わざわざ留まりて調べくれたるなり)、小生は後日の証拠のため、その二書を貴下に差し上げ置かんと存ぜしも、貴下には左ほどの御感動もなき様子に付き、この二書は拙方に留め、諸名家と往復文書の内に加え、永く後世に伝うべく候。イスノシアは本月三十日、樫山氏の次女自転車でとりに来たりしゆえ渡し候。昨日その父よりの来信に、日当りよき地におき、まずは健全なりとのこと、拙宅へ今まで置かば、葉がみな凋落せしことと存じ候。        早々敬具
 
(463)   西面欽一郎宛
 
     1
 
 明治四十三年十月二十九日夜十一時過
   西面欽一郎様
                        南方熊楠拝
 
 拝復。二十八日付芳翰拝誦。小生は四、五日ごろ発足、それまでに荷物整理し紅葉屋へ届け置くべく候。(小生は栗栖川は紅葉屋の今の女主、拙妻の裁縫の弟子に有之候。)毛利氏も三日天長節過ぎればちょっと往き得る由に付き、一誘引致すべく候。故に御出迎え下さるならば三日ごろ栗栖川まで出張下され、備五《びんご》店にて荷物御受け取り、送り置き下され候わば大いに都合宜しく候。荷物の準備にはちょっと三、四日もかかり申すべく候付き、たぶん五日ごろ発足(または六日になるも知れず)と思し召し下されたく候。しかしてこの状着次第、今も山中には図のごとく帽《かさ》きて土に生ずる菌《きのこ》は少々なりとも生えおり候や、御返事さっそく願い上げ奉り候。菌は小生もっとも専門とするところなれども、もし菌すでになしとならば、小生は蘚《こけ》と藻《も》のみを採る準備致すべく、また今に多少とも菌有之候わば、菌をとる準備もせざるべからざるに候。
(464) 前日御送り下されし菌の内、こんな坊主頭のごときものは、小生従来見しことなき珍物に候。万年茸《まんねんたけ》の芽人形に似たるは毛利氏に預け置き候。小生方に男児あり、わるさするを怖れてのことに候。
 郡長め、大いに新聞で弱り込み、富幸主人岡本庄太郎の世話を頼み、岡本より山敷、山敷より毛利を頼み、一昨日郡会議事堂で小生に面会し、一同立ち合いの上小生に閉口謝罪すべしと申し来たり候えども、小生はことわり申し候。これは新紙でいろいろの不埒事をあばかれ、また裁判所で夜這いのことから、那智山の坊主の尻押しして農商務省と裁判に及びし参考書を小生に求め来たりし状を検事に示されなどせしより、一向郡長の威信なく、近時官辺の受けもはなはだ宜しからず、村部では村吏、村民等に侮らるるより、大いに弱り切ったる上のことに候由。内務省よりはまたまた神社をいろわぬようと訓令有之候。 また、ついでに申し上げ置き候は、山間にて採集および研究の時間はなかなか素人に分からぬほど乏しきものに有之、研究には不断雪隠に往く間にも深思熟慮せざるべからず。故に毛利氏(もし同行するとせば)は別のことと致し、小生の側らへは一向なるべく人来たらぬよう願いたきことに有之。画をかく側らへ人来たり、側らにて雑談無用の言などいいかけちれ候ては到底研究は出来ず、せっかく荷物もち行き何の功もなきことと相成り申すべく、従来研究最中に用事なき人来たり候ため小生立腹し騒動に及び候こと、勝浦、湯川、那智、小口その他数を知らず。まことにせっかく好意をもって迎えられながら、その土地の人と喧嘩し暴言を放ち立ちのくなど見苦しき限りに有之。よってこの段あらかじめ御了解の上、人々ことに小児等にも申し聞け置き、小生用事する間はなるべく側らへ人来ぬよう願い上げ置き候。小生はすこぶる急性のものにて、怒る時は狂人のごとく、はなはだ危険の挙動をなすものゆえ、右あらかじめ申し上げ頼み置くなり。            頓首
  未開国などへ学術上出張致し候も思うように研究出来ぬこと多く候。疾病、気候、飲食等によること多けれども、主として無用の人入り来たり話しかけまた騒ぎなど致し、何とも学術上の考察の静かにするを得ぬつかれより生(465)じ候ことはなはだ多く候。小生は山にも海にも住み慣れ候ゆえ、食物などは何でも宜しく候。このことは御安心下し置かれたく候。小生近来眼も足も悪く、また海外へ行くとすれば、今回が日本の山家へ往く終りかとも存じ候。故になるべく多く発見創見致したきに候間、右に申し述べ候一件よくよく御頼み申し上げ置き候。歓迎など申し見世物ごとく人集まり来たりなどすること、毛利氏は別と致し、小生ははなはだ好まず。格別に扱い、すなわち勝手に小生の思うままに放置し下されたく候。再白。
 
     2
 
 明治四十四年一月二十一日
 
 拝啓。本日の『牟婁』紙に拠れば、政府(内務省)はまたまた合祀詩sをやらかす由。しかるにそれと裏はらに、同紙(三面)には所々に神社復旧の挙あるをいえり。しかして丹生川の人々は郡役所より召喚あるに関せず出頭せざる由も同紙にあり。中村氏国会への建議案昨年のは中村氏質問演説にて、しかも会の終りに臨みせしものなり。それすら大分のききめありし。今度もわれわれ一同の請願書にせんかとせしが、それはききめ薄く、議会にて表立ちたる議論とならず、ただただ委員会にて何ごともなく決せらるるのみなり。よって来月十二、三日、中村氏これを建議案として出すと同時に、小生は大新聞にて議論せんとす。
出るはもはや二十日内外に有之、小生の議論も大新聞によりて出ることなれば、その間なるべくずらしまくるか、また已むを得ぬ場合には、郡役所へ之《ゆ》き(右建議案のこと言うも可なり)あちらから物いわぬ間にこちらから合併当時の不始末より復旧を請願する旨を述べて可なり。さて、ごたごた二十日たつうちに、小生の議論世に出で、中村氏の建議出ずれば、またまた延引することと存じ申し候。
(466) とにかくこんなことで禁欲とか罰金とかいう法律なければ、延ばすだけ徳《とく》なり。止むを得ずんば出頭して右様に此方より復旧請願すべし(『牟婁』紙の富田金毘羅権現また和深の神社等のことを引き)。
 右ちょっと申し上げ置き候。
                        南方熊桶拝
  とにかく何度も呼びに来たり候わば出頭して右の復旧請願を出すが可ならんと存じ候。今二十日のことなれば、何とかゆるゆる考え合わされたく候。
 
     3
 
 明治四十四年一月二十七日夜
   西面欽一郎様
                        南方熊楠拝
 
 拝呈。貴書昨日拝見仕り候。貴下『牟婁新報』への御通知ははなはだ拙劣にて、あるいはこれがために郡役所はもってのほかのこととなし、黙過する能わず、いよいよ喚起状を出されたることかとも存じ申し候。よって小生、小守・雑賀二氏に嘱し、たとい貴下より再度三ツ又の方のこと通信あるとも、これをたちまち『新報』へ出してはいよいよ不利益に付き、当分掲載せぬよう頼み置き申し候。
 右の『新報』紙面に、委員八名言を左右に托し郡役所へ出頭せずとあるなど、もし貴下の通信文中にありしならば、自家の弱点をあらわすものにて、はなはだ拙劣なる御仕方と存じ奉り候。『新報』への御投書はよけれど、以後はあまりに何もかも洩らさぬよう願い上げ奉り候。反ってこれがために非常に御自分方の損毛《そんもう》を取ることもあるべくと存じ申し候。
(467) しかして毛利氏と相談致し候ところ、毛利氏は、内務省令はいかなる詳細文あるかを知らず、しかし村役場などとかわり、郡役所の召集に応ぜざるは不埒なことなれば罰金等にも処せらるるも知れず、とにかく八名の中、一、二人(八名の委任状を帯び)に貴下付添人として郡役所へ出頭、事情を開陳すべし、八名ことごとく往かずとも必ずそれで通るなり、とのことにて、その時日を予告し旧歳末多忙農務病気等のわけをいい猶予を乞うて然るべしとのことに候。
 小生また当郡役所より『紀伊続風土記』を借り受け丹生川社のことをしらべしに、東の丹生明神より分社せしものならんと有之候。故に『続風土記』の文を引かず、単に往古より存せしという丹生川大字の口碑と社殿の立派なことと距離のこととを拠りどころとして、御弁解ありたく候。和深の方の神社復旧は、請願にせず届書にせし由にて、これをかれこれ審議するうちに、中村氏の建議案出ずるつもりなり。左に写しを差し上げ候。御参考のために候。
     神社復旧届
 矢倉神社、牛頭神社、村社倭文神社。右三神社は官庁の切なる御高論にて、已むなく明治四十年八月二十日付をもって村社八幡神社へ合祀願提出仕り、その後合祀執行仕り候ところ、何分当大字里川区とはその距離遠く、信徒参詣上の不便はなはだしく、到底朔日十五日の社参りは愚か、出産その他の慶事にも参詣する能わず、大字村民一同日夜痛嘆仕り候結果、幸い右神社はいずれも数千年の由緒を有し、神社の境内には老樹大木鬱蒼と繁茂し、合社跡もそのままに保存有之、将来維持の目的も十分相立ち、敬神の観念も旺盛に候ゆえ、今回郡長楠見節殿へ右神社だけ復旧の陳情仕り、かつ関係者一同熟議の上至極平和に復旧仕り候に付き、この段御届に及び申し上げ候なり。
                            連名――
  和歌山県知事                      ――
   川上――殿
 
(468) 右の届書を当郡役所へ差し出せしなり。(郡役所もし受け取らずば県庁へ出す。)
 まずこんなものを拵え、他の例を引き、郡役所へ持ち往きては如何に候や。なお当地へ御来臨ならば毛利氏とも御相談下されたく候。右の里川区の人々も一切社費出さず、しかし分立さえすれば合祀社の神主の兼務とす。(社費は出さねばならぬが軽くなるなり。兼務の社費ははなはだ安値の定めなり。)すなわち神主と示談にてすむなり。以上早々
                        南方拝
  只今人多く郡役所へおしかけ、いろいろ問わるる時、南方より指嗾《しそう》されたりなど口外せばたちまち事《こと》大事になり、小生はついに建議案出すこと成らざる様の不幸事あるべし。郡役所などいうものは、左までむつかしきものにあらざるは御存知通りなれば、貴下御付添の上、一、二人名代として委任状もち往きて可なりと存じ候。
 
(469)   西面賢輔・松本勝宛
 
     1
 
 明治四十四年八月一日正午
 
 御ハガキ拝見仕り候。社費を納める納めぬが復社請願の要点なり.社費を納むるほどならば復社請願は消失するものに候。今月中に県庁より喚出し等のことはあるまじく、また近々内閣変更準備中なれば、県知事等みなみな自分のことに奔走するのみ。丹生川くらいの神社のことなどに気に付くるようのこと無之《これなか》るべしと存じ候。とにかく県庁すでに請願書を何とも処理せぬうちは、社費を納める理由なし。もし県庁より呼びに来れば、前日ごとく松本勝氏一人出頭し、反って復社請願の理由を知事に弁じ候わば、はなはだ都合宜しかるべしと存じ候。県庁へ出たりとて、これほどのことに殺されも切られもするものにあらず、
  日高郡にても矢田村大字若野の祇園神社は、何のわけもなく今年四月に復社せり。
もしまた松本氏にして県庁へ召喚さるるをおそろしく行くこと出来ずとならば、社費を納めたき人は納むる方都合宜しからんと存じ候。
 とにかく小生は、今年中に丹生川および三又のことを東京の高官連へ報じ、また来年の議会第一番に中村代議士に頼み、演舌しもらうつもりに候。
(470) 遠隔の地にあることとて、万事思うままにならず、また小生は日本中の神社のことを常に心配致しおり、外に用事も多く、妻は妊娠、今月八力月にて出産近きにあり、毎度毎度一々御指南申し上げ兼ぬることに有之候。とにかく松本氏一人県庁へ行く勇気あらは、社費払わぬが宜しく、また松本氏そんな勇気もなく、大字民多く社費払うつもりなら払う方が宜しく候。小生はただただ村吏村長などが右様のことを作り出だせしものと存じ候。
 理窟上よりいえば、県庁より返事なき上は社費払わぬが至当に候。もし社費払うなら請願書の取消しを第一に県庁へ差し出し、その認可を受けざるべからず。県庁より返事なきは、ほっておいたのにはなく、内務省へ伺い中のことと存じ申し候。
 右申す事情ゆえ、理窟よりいわば、県庁へ出したる請願書却下ならぬうちは、社費払うわけなく、今社費払うようのことなら請願書出さぬ方が宜しく、また社費払わば復社の望みは絶えたるもので、おどけのようなものと存じ候。
 小生は貴下が『牟婁新報』の毛利氏に一書を出し、相談あらんことを望む。毛利氏は、かようのことはなはだ細《くわ》しく、また得手《えて》にてあるなり。小生は政府など大きなところを相手にやりあうことは上手なれど、村吏や県庁相手のことは、その手数《てかず》を不案内に御座候。その上、只今いろいろ著述にかかりおり、なかなか毎度状差し上ぐることもむつかしく、毛利氏は新聞記者本業にて、このようのことは得手物に候。小生の意見は上述のごとくに候。また別に毛利氏へ御問い合せありては如何に候や。
 小生より毛利氏へ問い合せ候上、御返事申し上ぐも然るべきなれど、上述ごとく小生はなはだ多忙の上、妻臨月近く、小児の世話等事むつかしく候間、返って貴下より直接に毛利氏へ問わるる方然るべく候。
                        南方拝
 西面賢輔様
小生考えには、復社請願香の返事なきゆえ、その間社費払わず、故に社費払わせんとならば、村長より県庁へ右(471)請願書の吉左右を問い合わせ返事を聞いた上、払うとか払わぬとか決するが、至当の順序と存じ申し候。それほどの手数を取らぬ村長は、無法空職の人というべし.なお毛利氏に問い合わさるれば、その方法は多くあるべきと存ぜられ申し候。
当郡には社費など払わぬ村多し。また復社すみたる所もあり。小生は近日東京で出すべき出板物に丹生川のことおよび三又のことを手きぴしく論ずるつもりなり。同時に今回の処置法を貴下何分毛利氏に相談されんことを望む。かの人必ず小生より上々なる計略あるべしと存じ候。
 
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 拝啓。前日社費の儀、毛利氏と相談の上、左記のごとく決議申し上げ候.
 県知事より請願書却下なきに社費を納むるは、いかにも不埒のことなり。よって貴大字また三ツ又の事情を、俗語にても宜しく、なるべく些細のことまで洩れなく記述し、復社の理由をくわしく、入らぬことまでも記し、さっそく毛利氏へ送り下されたく、
  もっとも三ツ又の方はあとでも宜し。
然るときは毛利氏、復社請願書案文を作り、貴方へまわし、貴方にて調字の上小生へまわし下され候わば、小生、東京の一等高等官二人よりこのこと取り次いでやろうと今朝申し来たり候間、直ちにその高等官へまわし、内務大臣また神社局長へ直ちに差し出すべく候。さて、復社成らぬと返事あらば社費を納め、来年の国会までまたるべく候。
 右の事情を役場へ申し述べば、内務大臣また神社局長より返事あるまで社費は納むるに及ばず。また県知事よりよばるれば、松本氏一人行かばよきことに候。もっとも今日なかなかこんなことで県知事より呼ばるるはずは無之候。(472)故に役場へ之き、小生より取り次ぎ内務大臣へ直ちに歎訴する間、大臣より返事あるまで社費納めずと言わるべく候。県庁へ報告さるるは少しもおそるるに足らず候。
 小生至って多忙ゆえ、復社を願う理由書は直ちに毛利氏へ出さるべく候。
                        南方拝
   西面・松本様
  内務省には一村一社にせよなどいいしことなしと申しおる由、今朝たしかに申し来たり候。村長神官など申し合わせ、かようのこといいておどすと存ぜられ候。
 
(473)   西面導宛
 
 日高郡上山路村大字丹生川
   西南導様
                     田辺中屋敷町五二
                        南方熊楠再拝
 
 大正五年三月二十七日夕五時
 前便申し上げ候通り、小生こと三月十九日ごろより長々熱病にて今に全快に参らず、はなはだ困りおり申し候。しかるに本日かの前日御寄贈下され候ランを委細拝見候に、こんなものはまがいもなく日本蘭類中最も少なきモミラン(図1)。これは前年貴兄君と小生が見出だし小生宅にて栽培し、次年初めて開花致し候。それより前にも後にも花を見た人は世界中になきなり。今回のもつぼみに有之候。こんなのはカヤラン(図3)。これは当地方にも多く、またどこにも少なからぬものに候。こんなのはクモラン(図2)。これは葉がなく、根ばかりで生きおる。今度贈られ候中に二、三本あり。これも秋津川、また富田川辺に多く有之候。
 貴書には右の蘭類本月四日付の封状袋に入れ有之、しかるに荷持ち人が当地へ持ち来たりしは十四日にて、それよりまた十三日も置き候ことゆえ、葉が大分しおれ(474)おり候。しかし、つぼみは今も生きおり、根も生きおり候。よって日本郵船会社の小畔四郎(陸軍大尉、日露戦争および青島戦攻に軍馬の舟上下を司り名を挙げし人。この人は日本第一の蘭培養名人なり)氏へ半分只今おくり、同氏手にて作り試みさせ申し候。小生方へも半分留め培養致し見申し候。このモミランは土佐で一度吉永虎馬という人が見出だしたるも花の容体一向知れず、次に貴兄君と小生見出だしたは、つぼみあり、当地にて開花し、初めて花の様子知れ申し候。その後今度貴下取りし。以上三回の外日本になきものに候。故に貴下の名を添えて東京の『植物学会雑誌』へも出し置きしが、なおもし今後も少々なりとも見出だされ候わば(花なくとも宜し〔七字傍点〕)、なるべく樹皮に付いたままかきとり、御送り越し下されたく候。然るときは今度のごとくに枯れ萎《しぼ》まず候。
 このように樹皮に蘚《こけ》などつきあるときは、はなはだ蘭が永くもち申し候。今度のように樹皮と引き離されては、二度樹皮へ付けることすこぶる困難に候。とにかく希世の珍品御送り下され難有《ありがた》く御礼申し上げ候。なお東京小畔氏方にて栽培の結果は、同氏より承り次第詳細申し上ぐべく。         敬具
 
(475)   楠本秀男宛
 
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 大正九年一月二十三日午下
 恭賀新年
 松葉蘭の実生《みしよう》の芽は三本生え申し候。
 『太陽』正月号へ貴筆の画出でおり候。然るところ今三つばかり猴の図かいてほしきゆえ、なるべくこのハガキ御覧次第御来臨願いたく、もっとも多くひまかからせ申す間敷《まじく》候。また貴方に下等なオモトあらば、なるべく多く根と共に引っくくり御持ち来たり下されたく候。上品なものは拙方に多くあり、松葉蘭の試植に下等なオモト多く入るなり。      敬具
 
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 大正十年十月二十一日早朝
 
 二十二日の早朝五時に出帆の紀川丸にて出で立つべく、すでに船へも申しおき候ところ、今度高野より帰れば、高野植物研究と、外に県庁より持ち帰る海藻の整理報告とで、年末および年始の雑誌を書くひまは到底なかるべく、よ(476)ってそれをあらかた書き発送し置く必要あり。また拙妻風邪一旦快方のところ、一昨日よりまたまた悪くなり候付き、右の原稿一両日手後れ終結せず。よってこれを一切片付け候上、二十四日の早朝に必ず出発致すべく、二十三日中に小生自分かまたは下女に書面を持たせ参上致すべく候間、二十三日夜小生方へ留《とま》り、二十四日朝出帆の紀川丸にて御同伴上船、今度は必ず決行致すべく、何とぞ左様御承知下されたく候。
  出立の用意は出来おり候。         謹言
 
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 大正十年十月二十五日朝十時
  下秋津村左向口
   楠本秀男様
                      田辺町中屋敷町三六
                        南方熊楠再拝
 
 
 浅井氏へは昨夜礼状出し置き候。拙妻快方の上、一度貴宅へまいるべく、その前後に同家へ何か進上御礼申し上ぐるよう申しおき候が、貴方よりもちょっと御挨拶置き下されたく候なり。
 一昨日およぴ昨日は大いに御厄介相懸け恐縮の至りに御座候。小生昨日午後まで打ち臥し、昨夜また気分悪く、仕事出来ず。今日は平復、しきりに仕事をあせりおり候えども、たぶん仕事は今日中に出来上がりかね申し候。よって例のごとく順ぐりにて二十八日朝立つことと致し申し候。毎度かく遷延致し、貴下定めしはなはだ面白からぬ御事と察し申し候も、小生は只今書きおるもの、わずかのところで不完結にして差し送り候ては、読者方に対しはなはだ不愉快の念を与え、また登山してもこのことをのみ残念に思い、十分の働き出来申すまじく、よってかく延引候段、悪(477)しからず御承知願い上げ奉り候。只今書きおる原稿はわずかに十余葉を残しおり候ものゆえ、今明日中には脱稿すべく、然る上は、荷物こしらえ万端遺憾なく致し候上、電話かけ申すべく、その節さっそく御来訪下されたく候。
 小生かねて足に胼裂《ひび》きれおり候ところに、昨夜来そのひびより神経痛を起こし、今朝はなはだ悪く、喜多幅氏に診察を乞い、膏薬をはり、只今は平癒もようなるも、一両日見合わせたる上発足然るべしと同氏の忠言に有之、膏薬多くもらい、また応急手当法も承りおり、旅費その他も今朝銀行より取り出し来たり有之、故にこの足がかたまり次第発足致すべく候。
 前日貴下画をかき下され候紅色の菌(ヒグロフォルスと申す)は、画のみ貴下の画《えが》きしを止め置き、菌は後日記載文を作るべしと心得、画と前日下され候乾燥菌を保存し有之候えど、もし只今多少とも生品有之候わば、時を移さず、足の保養しおる間に、記載残すところなく致したきに付き、もし多少とも御見当たりあらば、何とぞさっそく御送りまたは御持参願い上げ奉り候。止むを得ずんばそれを船に持ち込み、船中にて記載致すべく候。とくと御捜し下されたく候。その菌はわり合いに腐り易ければ、いよいよ拙方へ来らるる足にて御採り下されたく候。
 喜多幅氏甲州へゆき、数日前帰宅、甲州の朝夕は寒けれども、いまだに綿入は着ずにおる由。甲州は海面上二千余尺と申す高地なり。然るも右様なれば、高野上りも今二、三日後れたりとて、さまでのことはあるまじくと存じ候。ことに地衣、蘚の二種は、秋末より寒中がもっとも完全の標品を得る時に有之、また菌も、小生前年十二月上旬に川又官林にゆきしに、平野とかわり林中には、寒ければ寒き時の菌たくさんに有之、その後十一月十四日より十二月二十七日まで、兵生の安堵峰におりしこと有之、その節もおびただしく菌および枯菌を獲申し候。これは寒気にて草木弱るに付け込み、多くの病菌が付生するに候。それゆえ今度も必ず菌三百、地衣と蘚各二百くらいはとり得ることと期待しおり候。
 右申し上げ候。        草々謹言
(478)  小生は紀伊川丸にのるを必とせず。いよいよ出立という四、五時前に電話差し上ぐべく候間、急航船なり何なりとも出立のつもりにて御来訪下されたく候。夜中の出発ならば、拙宅へ御止まり下されたく候なり。
 
(479)   中瀬三児宛
 
     1
 
 昭和八年十二月十五日早朝
   中瀬三児様
                        南方熊楠再拝
 
 拝啓。七月十六夜御来臨の節は、ちょうど妻が病臥中にて万事不行届き、まことに大いに失礼仕り候。一月十日より十月中旬までの病臥には閉口致し候。 その節御持参の書籍は、その後小生いろいろと煩わしきこと多く詳細拝見を得ず、遺憾の極に存じおり候ところ、昨今ようやく妻も起き上がり、小生も静穏に罷り在り候付き、「熊野縁起」の絵詞を三日ほど御貸し下されたく、然るときは小生在来の類似品と比較読み合わせ候上、もし出来ることなら、拙考を付けて御返し申し上ぐべく、また、貴蔵の「縁起」が他に類例なきものならば、その旨を記して東京の誰かに問い合わせ申すべく候。
 次に武内氏の「熊野巡覧記」は世間に類本なきものらしく候付き、これまた七日ほど御貸し下されたく、他の諸書に見えざる所々を写し取りおき、東京の何かへ出したく候。
 右いずれもすみ次第、野口利太郎氏方まで還納しおくべく候。(480)よって御聞き済みの上は、いつでも宜しく、御来町の節当方へなり野口君方へなり御持ち寄り願い上げ奉り置き候。
 小生は午後二時より夜分は必ず在宅に御座候。夜分まるで寝ぬことしばしばなるより、午前中は臥しおること有之候。          謹言
 
     2
 
 昭和十年九月十一日早朝
   中瀬三児様
                        南方熊楠再拝
 
 拝啓。七日の夕御来臨の節は何の御風情も致し得ず、はなはだ失礼仕り候。その節下し置かれ候亀甲石は、貴下よりの献品として久邇宮様へ差し上ぐることに致し候。すなわち野口氏に箱を頼み置き候ところ、昨夜出来上がりもち来たり候付き、今日中に差し出し申すべく候。いずれ御沙汰を蒙り次第申し上ぐべく候。
 「熊野縁起」は、銚子市の銚子醤油株式会社の有島丈二と申す仁より、写本一冊名古屋市にて手に入れたるもの送り来たりあり、只今両方校閲比較中に有之、出来上がり候上、小生東京岡書院より出す「南方筆叢」と申す書の中へ入れ出板致すべく、その節は一冊差し上ぐべく候。昨夜雑賀氏来たり候ゆえ、その由を話し、すでに小生の著作中へ入るることゆえ、雑賀氏の著作中へ入るるに及ばずと話しおき候。故に今後拝借に出るようのことはなかるべく候。
 まずは右当用のみ申し上げ候。          早々敬具
  貴下次回に出町さるる節は、なにとぞカジカを二疋ほど持参願い上げ奉り候。二疋より多くは不用に御座候。再白。
 
(481)     3
 
 昭和十二年十月二十九日早朝
 拝啓。前日申し上げ候有島丈二氏よりの来状、出しおくれて十月五日の東京の『日本読書新聞』二二号来着、東京の大岡山書店より出板されたる横山重・太田武夫共著『室町時代物語集』第一冊に、「熊野本地」すなわち「熊野縁起」が五種の異本ことごとく出でおる由で、絵図も八十九まで出でおる由読み知り、さっそく有島氏へ通知したるに、同氏右の書代価六円五十銭にはちょっと驚きしも、何分一覧したくて、さっそく買い入れ読んで見た由にて、本月二十一日当方へ到着せる状にてそのことを申し来たり候。貴殿も「熊野縁起」のこと詳らかに知られたくば、右の書を御買い入れ御一覧、貴蔵の本と比較相成るが一番好便宜と存じ候付き、右ちょっと御知らせ申し上げ候。 敬具
 
(482)   大江喜一郎宛
 
     1
 
 昭和四年五月十日夜八時過ぎ
   大江喜一郎様
                        南方熊楠再拝
 
 拝呈。過日御来訪の節は何の御風情も設け得ず、病人もあり、大いに失礼仕り候。その節過日勘定余りの二円を家妻に御交付下されたる由、跡で妻より承り申し候。それは毎度の郵便物の御費用に充て下さるるよう願い上げおき候に、右のごとき御扱いまことに恐れ入り申し候。さてその節御将来のモミランは、当地気候はるかに御地より暑きゆえか長持ち致さず、昨今花がおいおい凋みゆき、聖上御臨辛の節まではとても開花しおらざるべく、しかる時は花なしにても御持ち返り宮城内に御栽え付けを願うはずなるも、なろうことなら一、二本でも花開き候まま聖覧に供したく候。よって今より御心がけおきの上、木よりきりとらずに山中におき、二十六日前にまにあうよう、本月二十日ごろ今五、六本または十本ほどきりとり、モミの木に付きたるまま書留にして御郵送下されたく願い上げ奉り候。花はめったにおちぬものゆえ柔らかな紙に包みすきま〔三字傍点〕をかんなくず等にてつめ、ナフタリンなどを入れず〔三字傍点〕に御差し出し下されたく願い上げ奉り候。大江喜一郎献上と明記して差し上ぐべく候。(万一御再送むつかしき場合を慮り、明日来た(483)るべき画工に写生させおくべく候。)もし実《み》のあるものもあらば一所に御送り下されたく候。実は長き莢《さや》なり。只今よりあんまり早く取っても花が凋んでは面白からぬゆえ、なるべく二十日ごろに差し出し下されたく候。また、そのころ花さき候ものなくば、もはや致し方なく、送らるるを要せず。花あるものあらば、なるべくあんまり開きすぎぬ、なるべく花の若きものを御送り下されたく候。花は苞《つぼみ》ならばすこぶるあつらえ向きなり。花開きても若きは赤味なく黄白し、または録色なり。凋む前には赤味をおび来たり候。
 右宜しく御願い申し上げ置き候。昨夜岡野署長来訪され候。 早々敬具
 
     2
 
 昭和四年十月六日夜九時
   大江喜一郎様
                        南方熊桶再拝
 
 拝啓。先日御送付下され候粘菌は、過半はすでに世に知れたるものに有之《これあり》候も、二つぱかり小生かつて見しことなきもの有之、拙方只今病人だらけにて医師の診断一定せず、どさくさ致しおり、何とか決着後十分に取り調べ、報告申し上ぐべく候。貴地ごとき寒地に氷雪中ことのほか希珍の物生ずること有之、この冬中も折にふれ御注意おき下されたく願い上げ置き候。
 小畔氏本月十二日ごろ当地へ来たり、十六日ごろまで坂奉官林にて粘菌を研査のはずに有之、今年は九月下旬より一昨日まで雨しきりにふり候付き、兵生地方には粘菌ことに多き見込みに御座候。よって今午後小生近日宮城内御研究室へ献納すべく装貼候貴下妹尾および飛騨発見の新品等を持ち、営林署へ之《ゆ》き候ところ、署長は鉛山へゆき不在、(484)日曜日のことゆえ署員みな不参のはずのところ、入口の戸を損じたりとて修繕のため松沢万言氏、藤本氏、外一人|〆《しめて》三氏居合わせ候付き、せっかく持ち行きたるものゆえ右の標品を見せたる上、兵生行きのことを談《はな》せしに、緊縮のため坂泰官林伐採は八月末に中止の命令下り、藤本氏小屋まで行き向かい人足を解散せしめたる由。それではせっかく行き候とも止宿所にこまる(もっとも二日ばかりの間のこと)。よって溝口氏のことを聞き合わせしに、同氏は七月に退職、溝口氏の父より営林署へ通牒して、今後営林署員の宿泊を謝絶の由申し越しある由、煙草を売る許可を請い来たりしも、人足も十分に上らぬ内から許可はならぬ旨回答せしを気に入らずしてのこととかいいおられ候。小生にはわけの分からぬことながら、溝口氏へは昨夜一書を出しおき候も、同家に止宿ならずとあっては、小畔氏の来臨をさしとめるの外|無之《これなく》、ちょっと当惑致しおり候。
 小生は足わるきゆえ、この上あまりかけまわることならず。宮城へ献納すべき九十品はちょっと調わず。この辺のものは大抵採集し尽し、この上あまり珍しきものが紀州より多く出ずべしと思われず。よって何とぞこの上貴方にて一つでも多く御見出だしおき下されたく願い上げ置き候。
 拙方今に妻子容体すぐれず。小生のみは今に健在なれども、いつまでも無事におるべしとも思われず。貴殿などは、何とぞ御全家不断摂生に御注意、何分にも御一同御健全ならんことを祈り上げ候。堀君は只今妹尾の主任たる由、また上仲氏も一時は妹尾を退きしも数日前また妹尾へ立ち返り候由、二、三日前吉本君より報告有之候。
 まずは右申し上げ候。       早々敬具
 
     3
 
 昭和四年十月十九日早朝三時半
   大江喜一郎様
(485)                      南方熊楠再拝
 
 拝啓.その後ややしばらく御無音に打ち過ぎ候.拙方娘相変わらず容態悪く困りおり申し候。去る十二日夜十時半小畔氏来田、拙宅に泊り十三日朝より小畔氏岩田村大字岡にゆき採集、雨多かりしため枯菌多くは流失して、珍品とてはただ一つ下三栖村にてペリケーナ・コールチカリス変種アツフィニスというを見出だし候。これは氏がかつて東京芝公園で一度とりしものにて稀品なり。三栖ではただ七、八個とり候。十四日朝七時、近露行き自働車にて、小畔氏と藤本喜市氏と小生と三人福定までゆき下車、その途上大江金兵衝氏も同乗致し候。数日のひまを貰い自分の田を苅りにゆくなり。栗栖川で元もみじ屋の娘田上スミ女(拙妻裁縫の旧弟子)とその夫と村長来たり挨拶し候。しばし話して車を走らせ候。福定より兵生に入り候とき、小学校表で西秀次郎氏にあう。また溝口氏の父も来たり候。秀次郎氏按内にてその宅に着きしは十二時ごろなり。午後小畔、藤本二氏官林の川をのぼり候も、別に得るところなかりし。小生は衣服汗だらけゆえ襦袢裸で夕まで立ちおり何もせず。この間に溝口忠雄氏菌をとり来たりくれ候。十五日には西秀氏按内で、小畔、藤本二氏朝七時過ぎより出立、官林に入り、夕六時ごろ帰る。やはり粘菌は少なく十種ばかりとりかえり候。ただし至って少なきもの二つ、新発見のもの一種ありしゆえ、小畔は大満足なりし。十六日朝六時過ぎ兵生を出で、九時半に福定に至り、十時ごろ自動車に乗り、途中でまた田上夫妻と村長(末西氏とかいう)と津本右市氏にあい、しばらく談《はな》し候。十一時に田辺へ着致し候。この日は雨にてずいぶんこまり候も、自動車の御かげで五時間ばかりで兵生より帰宅を得たり。十七日には朝七時過ぎ小畔氏一人拙宅を出で新庄にゆき、村長田上次郎吉、前村長榎本宇三郎、藤本喜市氏等と神島にゆき採集、やはり粘薗は雨のため少なかりしも、最も新米《しんまい》の榎本氏が新種一つ発見、小生昨夜取り調べていよいよ新種とわかり、神嘗祭の日の発見ゆえアルクリア・カンナメアナと命名致し候。近日図説ともども聖上へ献上のはずに御座候。かくて小畔氏はその十七日の午後二時出立、午後九時に神戸へ帰ったはずなり。
(486) 当地も追い追い寒くなり候。娘が少し快方とならば小生は再度兵生へゆくつもりなれど、昨年の腰痛にこりたからそうそう長くは留まり得ぬことと存じ候。
 貴地はずいぶん厳寒の御事と察し上げ候。雪中にも、ある希品の枯金は生ずるゆえ不断御心かけおき下されたく、入れる箱に事をかくようのことあらば御知らせ下されたく、さっそく小畔氏より送り上ぐべく候。
 まずは右ち上っと申し上げ候。         敬具
 
(487)   前川正司宛
 
     1
 
 昭和七年六月十三日午後五時
 拝復。本月十一日出御状咋朝八時十五分着、拝読致し候。小生は魔のことなど若き時取り調べ候ことあるも、久々この田舎に退居、ことに近年老衰致し候上、家内に重患者絶えず、家計すこぶる不如意なるあり、その日その日の家事に追われ、万事不安のため、今さら何たる記憶も留まらず候。しかし一事申し上げおくは、小生明治二十七−三十二年の間ブリチシュ博物館に読書せしとき、Index Demonologcum と申す書ありし。独か仏か、二国のいずれかで出板されたものなり(一冊本)。それには、そのころまでの魔および妖怪に関する文献をことごとく出しありしと記憶致し候。そののち増補板出でしか否知らず。とにかく貴下この類書籍を集めんとならば、まずこの目録を手に入れて多くの書名を知られたきことに御座候。
 また申すは、西アジアのイラク国のモスル市付近に、エジヂス Yezidis ちう五万ばかりの民あり、その宗旨はヘンなもので、天魔《サタン》を専崇し、もし天魔を悪口するものにあわば、たちまちこれを殺すかまた自殺するなり。小生在欧中多少調べ、彼方の雑誌へ書きたることあり。貴下、天魔のことを調べんとならば、第一にこの宗旨のことを調ぶるを要す。L.Menant,‘les Yezidis’(1892);R.Frank,‘Scheich Adi,det gosse Heilige der JeNidis’(1911);R.H.W. (488)Empson,‘The Cult of the Peacock Angel’(1928)等を見らるべし。
 
   2
 
 昭和九年七月十六日午後六時半
 拝啓。十四日出御状今朝十時半着、小生病臥中にて只今ようやく拝見仕り候。貴下はいろいろと書籍をおびただしく手に入れられ候御様子、しかるに何でもなきことを人に問い合わさるるは、学問の方法を得たるものにあらず、人に物を問いたりとて、その人が必ず真実のことを教えくるるものにあらず、孔子が学んでこれを知るといえるごとく、御自分にていろいろと御手許の書籍によって御取り調べありたきことなり。髑髏を占術、魔法等に用うることは最《いと》古くバビロンにありし。それに付いてはいろいろと著書あり。日本には、古くはそんなことなかりしようなり。これは斎忌《タブー》の制厳にして、奈良朝までは天子御代かわるごとに都を移されたる等のことあり。故に髑髏など弄ぶはさておき、死ということを語るすらはなはだ忌まれたるなり。これだけ申し上げ候。
 次に、小生は近年脊髄および膝骨痛く、多く臥しおり、高位顕官が見えられても面会をことわる。病体など人に見すべきにあらず。このこと昔の婦女さえ心得たり。御来訪は御無用と存じ候。本人が好まぬものを訪問などははなはだ面白からず。
 
(489)   田所四郎宛
 
 昭和五年七月七日朝十時
   田所四郎様
                        南方熊楠再拝
 
 拝啓。六月十九日出御状二十一日午後一時に五分前拝受。しかるに拙宅前年来病人だらけにてまことに困り入りおり候ところ、小生また昨年|季《すえ》より足悪く起居はなはだ不自由、近日に及びいよいよ悪く、その上俗事蝟集し何とも寸暇を得ず、一日一日と御返事延引、今日も昨日より一睡せず研究事項にかかり、ようやく只今そのことを終え、これより一眠に就かんと存じ候が、あまり御返事を永引かすも不躾《ぶしつけ》千万と恐縮のあまり走り書きにてこの状差し上げ候。
 貴地築港につき、小生の意見など申し上げたところで何の役に立たず。ただここに御問に対《こた》え申し上げ置くは、御地稲積島の旧神社蹟は、山頂へ上げず旧来のままに据え置くが、島のために宜しと存じ候。古人のせしことは猥《みだ》りに動かすべきにあらず、これを動かさばその趾は何のわけもなく発掘などされるに極《き》まったものにて、その地の古蹟これがために湮滅し、後日何とするともとりかえしの付かぬこととなり申すべく候。また山頂へ神社を上げ候わば、それよりせっかくの神林はおいおい荒廃しゆくことにて、つまり水産が土地より遠ざかり行く等、いろいろ難事が生じ申すべく候。このことだけ申し上げ置き候。
 前年徳川頼貞氏冬中温をとるべき別荘を和歌浦に建てんとするに、場所なしとて先祖南竜公を祀れる県社南竜神社(490)を山頂の東照宮に合祀し、その跡へ別邸を立て候。この南竜神社は廃藩置県の結果として、おいおい和歌山士人と在京侯爵家との縁故が薄くなるをなげき、士族一同が建立せるものにて、そのとき頼倫侯まだ十歳ばかりにて下県し、故三浦権五郎男の膝に座し人力車で詣りしを、旧士族は固《もと》より市中市外の人々拝して落涙せるを見て、小生も十一歳なりしが、覚えず感激落涙致し候。しかるに、自分|一己《いつこ》の温をとるために、いろいろと運動して万人の帰仰《きぎよう》せる、しかも自分の祖先藩祖の社を邪魔物扱いして山頂へ逐い上げたるは、言語道断のことと存じ候。清少納言の『枕草子』に、
  わたつ海に親をおし入れてこの主《ぬし》が盆まつるみるあはれなりけるこれは自分に厄介なればとて、病父を海へおし落とし溺殺し、さて良心にせめらるるあまり盂蘭盆にまつりしをよめるなり。いかにも似たことと思い、いつか諌言せんと思ううち、そのこと遂行されしを見て(県社を動かすは不容易のことなり。それを県の政治家輩が運動せしという)、徳川家ももはや衰運と私《ひそ》かに申せしに、果たして十年を出でずして、さしも賢人の名ありし頼倫侯が面白からぬ死に就かれ候。
 また和歌山市で有名な金満家あり、この人かつて日高郡あたぎの神林を伐り悉《つく》し、また和歌浦を改良するとかとなえ、さしも勝景の地を埋め立て了り、埒もなきものとなし、それがため和歌川口つまりて市内までも水利上の大害の基となれり。旧弊なことのようなれども、支那で古くいいし地脈を絶つというやつなり。この人は現に年貢の納め時が到来し、昨今四苦八苦に財政に困りおり候。
 外にも例多きが申し上げず。新しきものを見極めて新しく起こすと同時に、古いものは一村一郷の精神の基本なれば、古いものほど尊ばれたきことに御座候。
 と申したところが、小生等の言は差し当たり聴き入れられぬものに候。小生かれこれ申し立つべきにあらず、申し立てたところが何の採用さるべきにあらず。しかしながら、『徒然草』にも、明雲座主は相手にわれに剣難ありやと(491)問いしに、いかにも剣難の相ありと占者が答えし。程なくこの人は横死されたり。その後ある人かの占者に、何をもととして明雲が剣に死すべきを知ったかと問うと、かの人自分に剣難の相がありそうに思えばこそ人にその有無を問うなれ、よってありと答えたり、との返事なりし由見え候。貴下にもなにか不安を感ぜらるればこそ、未知未面識の小生に問わるることなれば、小生は右のごとく御答え申し上げ候。
 ある人いわく、田所四郎氏は当地小守重保君の妹聟なり、と。このこと小生は実否を知らず。もし左様ならば小生は小守氏とは久しく知り合いなり。またその妹君も面識あり。貴下と面識なければとてまるの他人にあらず。よって拙筆もって右御答え申し上げ候。
 筆末ながら、貴殿だけに申し上げおくは、人間はいついかな出世をせぬものに限らず、幸運に向かわば乞食も王となり草賊が天子となるさえあり、貴殿他日幸運に向かいていかな出世をさるるとも、郷里に名を挙げんとて、むやみに郷里の土地や海面をいろうことなからんことを御すすめ申し上げおく。萩(長門)は維新の際、木戸、広沢を始め井上、伊藤、山県諸氏、いずれも王佐の大才ありし人々を出し、今にその余沢|渇《つ》きず、ずいぶん人物多く出た所なり。高知もこれに次ぎ偉人俊材の多く出た所なり。しかるに側聞するところによれば、この人々東京に出で大阪その他に種々偉業を?《はじ》め挙げらるるが、郷里を成り行きのままに任せてあまりいろわず。郷里は郷里だけに、幼きとき知った人や一門中の劣材の人々が、左まで赫《かがや》かずとも安楽に暮らし得ば幸いなりという了簡らしく候。さればとて郷里の世話をやかざるにあらず、自分と意見の合わぬ人々までも相応に手引きして大所《おおどころ》に出し、応分に力を展《の》べさしめおることは、今も郷里外の他府県に、長州、土州の人多く肩を張りおるにて知れ申し候。項羽は、人が出世して故郷の人に誇らざるは、錦をきて夜行くがごとしといわれし由、実に胸が狭き至りにて、そんな根性ゆえ故郷へ帰ることもならず自刎して死なれ候。秀吉公なども、小田原征伐に勝ち故郷へ帰り村民を賑わしやりしに、その成蹟もってのほか悪くなり、大いにこれを悔みし由承る。蟹は甲に応じて穴をほると申すごとく、蟹が神となりて蟹の中へ帰りて、よき(492)つもりで世話をしてやっても、蟹のためには何にもならず、結局は世話やき損となる。それよりは蟹の優れたやつは手引きして天へ登らせ天上の神にしてやり、蟹の凡下なる輩をば自分が蟹より身を起こせし旧縁を思うて、蟹のままで永く楽々《らくらく》面白く暮らしつづけ得るように放下しおくべきなり。
 小生知人に長岡佐介という人ありし。六、七年前八十余で死せり。この人は南部町の町外れの野鍛冶より身を起こし、黄蓮《おうれん》を取り集めて支那へ売り、一代に大身上を作り候。故郷への報恩(また名聞)のために、南部沖の鹿島を公園にせり。神林をきりはつり、ただ刃《もんめ》で渡し船をこしらえ、誰でも渡りて遊び得るようにし、無学の人ゆえ、天狗の銅像などをこしらえ立てなどせり。心あるものより見れば埒もなきことどもなり。樹をきりはつりしゆえ、水族影を潜め、魚蝦大いに減ず。みね屋という人いせえびを飼いおるを一廉《ひとかど》の企業のごとくいう人多し。実はいせえびを七、八十疋集めてかいおき、客の求めに応じて料理するなり。企業にも何にもあらず。小生はかの人だったら長岡が樹をきり尽さぬ前にこれを諌止せしはずなり。さて長岡翁死してその後はどうなったか知らず。鹿島はいつまでも長岡翁在時のごとくつづくべきや不安心の至りなり。つまるところ魚蝦が大いにへっただけが土地の損なり。
 近ごろは土地の発達ということを嘖々す。それは他方より流れ込む人のいうことにて、実は土地が発達すればするほど、数百年来その地に住み来たりし人々の子孫が土地に住み得なくなる。近く昨年十月、友人神戸より来たり同車して二川村へゆきし途中、岩田村を見るに、二十年はかり前とはかわり、人家はなはだふえ、朝鮮人などおびただしく住み、土地ははなはだ発展せり。これではこの村は以前より衰えたることと思い、十日ばかり前かの地より来たりし人に聞くに、果たして拙見のごとく、土地が発達すればするほど村政困難で、多く開けたる田地が、その川上なる鮎川、市ヶ瀬にも劣価なる由。県庁や官吏、新聞記者などいう輩のいわゆる土地の発達は、実は土地の発達にあらず、ただ皮相が賑わしく見ゆるというまでなり。小生外国ではなはだ賑わしき建物を見て、よほど盛んな取引でもあることと感嘆せしに、実は刑事裁判所なりし。さてこの田辺に三十年も引き籠りおり、和歌山へたまたま行きて、煉瓦作(493)りの大廈空にそびえたるを見て、和歌山も大いに発達せりと思いしが、よく聞き合わすとそれは警察署なりし。こんなものがかく発達するは、土地の真の発達にあらず。
 人間にいろいろあり。世才に賢きものは大都会に出でて思うままに事を起こすべし。世才に迂なるものは田舎に引きこみ、小生ごとく自分の蟹の甲に応じて穴をほり、何なりとも人に害を及ぼさずに自適して天の与えたる運命を楽しむべし。どこもここも賑わしく栄えたところで、劣者が住み得ぬようになりては、これ楽土を変じて地獄となすものなり。土地が発達すれば地価が昂るなどいうて発達をすすむる人多し。友人下村宏氏など実に間違うた見識にて、地価が昂ったればとて、売って後にあらざれば金が入り来たらず。□□ごとき下愚の者は地面を売らねばならぬようにならば、その金が少しも手許に留まらず。いわんや土地の発達に随い、種々の威嚇姦計誘惑をもって高い地面を安く買われたり強制で買収されたり、そんなことが頻々として行なわるる日本においてをや。当町ごとき、大田辺を建つるという名目の下に、何の理由なしに町村合併を行ない、了ると間もなく諸村の難渋の輩が蒙古人のごとく徙転し来たり、十家にして教育費を仕払い得るものただ一軒というような町少なからず。町村合併は家々町々の負担を少なくするための合併なりしに、合併して負担はいよいよ益《ま》しゆき、終には今春初、懸賞して納税を督促するに及べり。
 さてかくまでも逼迫せるこの町の地面九千坪を京都大学へ寄付されたり。それもただの寄付でなく、金一万円を嫁入り料とし添えて寄付せよとのことなり。一万円は只今の田辺町ではどこを敲いても出ず(すでにかかり物多きよりこの地を引き上げ京都などへ引っ越さんと謀る勢家多し)、戸数割を引き揚げるの外なし。戸数割を引き揚げてまでも一万金をこしらえ、桑を植えある地面を回収して九千坪を京大へ寄付せば、大学の学者は田辺町は大いに学術発展せりなどいいふらさん。京大ごときものが九千坪の植物園を田辺へ建設したりとて何の実効あるにあらず、要はすでに頬を焼きおる瀬戸の臨海研究所ごとく、京都の学者が夏休みに海遊びする別荘をもつに過ぎず。世間には名が実にしてその実これに副わざるかくのごときもの多し。今日の学者というもの、みな請け負い職人同前なり。何事を頼み(494)ても、それは永遠のためにならずなど諌言しくるるようなものは一人もなし。子をおろせといわばおろし、親を発狂させくれと頼むも礼物多ければしてくれる。つまるところはわが身の上と所の者の行末を思い、常識もてみずから判断するの外なし。
 小生昨日来むつかしき研究をなし一睡せず、そこへいろいろの人が相談をもちこみ来たりなどし疲労はなはだしければ、これより二、三時間眠らんと思う。この状は、書く間にも自分で先後を忘るるようなことなれば、定めて可笑しく思われんが、さりとて全く発狂失神して書いたものにもあらず。御察読あらば幸甚なり。   早々敬具
 
(495)   藤岡長和宛
 
 大正九年七月三十日午後二時
  県庁
   藤岡長和様
                      西牟婁郡田辺町
                        南方熊楠再拝
 
 拝復。七月十九日出芳翰は二十日夕五時過ぎまさに拝受。さっそく御返書差し上ぐべきのところ、小生六月二十六日ごろより淡水藻類および菌類の取調べに掛かりおり、何様品種多数にて助手一人もなきため、止むを得ず二十四時間に平均二時間ずつ研究室に、成り行き次第に臥眠することと致しおり、人間の精力もよく続くものと自分ながら感心罷り在り候次第にて、今に少しも暇|無之《これなく》、只今食後少しく仕事にひま有之候ゆえ(絵図の彩色の乾くを俟つ間)、この短簡を認め差し上げ奉り候。
 前日中谷熊楠氏所蒐の海藻類を一瞥致し候に、従来熱地の海にのみ産すと知られたるもの、また本邦ことに本州の海には従来産せざることと諦めおられたる稀覯の品多く、学問上所益はなはだ多く候。しかるに採集者が今少しく手を尽したらんには、この従来未曽有の機会をもって、なお多く未見を見、未聞を明らめ得ることと存じ候廉多く、よって小生は何とぞ便宜|隼《はやぶさ》丸に乗り込み数日間実地試験致したく存じ立ち、毛利氏をもって御願い(496)申し上げ候ところ、七月二十一朝中谷氏隼丸を当地へ廻しみずから来訪され候。しかるにいろいろ同氏より承聞するところによれば、かの船は当地方今年の仕事はすでに終了し、当時|南部《みなべ》町沿海を調べおり、かつ数日中に北方へ進航する定めとのことなり。左様にては到底この上隼丸を田辺沿海にて利用するは成規既定に外れて面白からず、かつ右述のごとく七月中は自宅を離れ得ぬ境界にあるをもって、中谷氏には重ね重ねその辛労を謝し、今後採集に付き多少拙見を述べたる上、同氏は立ち去られ申し候。この次第に付き今年は到底物になり申さず、来年度の海底踏査実行の節は、何とぞ当地近海に舟が来る前に御一報下されたく、然る上は、一、二日なりとも小生乗り込み親《みずか》ら検査致したく候。実に逸すべからざるの好機会なれば、何とぞ海底植物に限らず動物をも調査して、小生には到底分からぬもののみなるべければ、その品には番号を付し、一半は県庁に保存し、一半は東京帝国大学の五島清太郎、田中茂穂諸氏へ一汎の記載を副えて送付し、大いに学識を押し弘めんことを期しおり申し候。
 小生は今度高野山管長に就職され候土宜大僧正とロンドンにおいて旧交あり、八月中に一度訪問のため登山したく存じおり候て、その節和歌山市にて貴邸訪問申し上げんと存じおりたるも、事務おびただしく閊《つか》えおり候ためあるいは登山を見合わすも知れず。当地へ御来場の節は御旅宿にては他に人多く冗語のみ多くて何の益も無之《これなか》るべければ、はなはだ失礼ながら試みに御来臨下されたく、小生は時々医師へ通う外はいつも在宅に有之候。
 右多忙中前後揃わず候えども、あまりに延引致し候ゆえ、少閑を攘《ぬす》み渋筆にて御受け書差し上げ候なり。 敬具
 
(497)   森口奈良吉宛
 
     1
 
 大正十四年六月二十九日早朝三時半認
   森口奈良吉様 御侍曹
                        南方熊楠再拝
 
 拝啓。御恵贈の絵葉書三輯二十四葉、「参拝之栞」一冊、「小志」一冊は本月二十六日拝受、さっそく御受書を社務所まで差し上げ置き申し候ところ、二十七日に御懇篤なる御親書拝戴、まことに恐れ入り難有く拝誦仕り候。絵葉書は家内にあまねく拝見致させ、また近処の住人等にも相示し候上、当年十五歳に相成り候娘に与え永く保存致させ申し置き候段、重ねて御厚礼申し上げ候。 御社境内にナギの生えたる処ある由は、明治十八年松村任三博士(当時東大助教授)巡視の報告書、『学芸志林』に出で候折、始めて承知仕り候。熊野三山のナギは高名のものなるも、只今はわずかなる小木を見るのみ、とてもナギ林など申すべきものは無之、毎々尋ねまわり候ところ、当地付近、鳥の巣と申す以前わずか十七戸しかなかりし小村の村社(今は合祀してから廃址となる)、これもたしか春日神社の分祠と存じ候、その社の後丘はほとんどナギばかりにて、小生参詣仕り候折は続々生え出し候幼樹も多く有之、しかしそれは二十三年も前のことゆえ、只今如何相(498)成り候や存知申さず候。他へ移し栽えるにはなはだ根付き難きものと見受け申し候。この木は支那で竹拍と申し、支那と日本にしかなきものと言い伝え候も、邦産は果たして日本固有のものなりや、支那より移植せるものが自然生となりしものか、ちょっと分かり難く存ぜられ候。大和国の深山にナギの木あるということ、御伝聞の節は御知らせ下されたく、このこと願い申し上げ置き候。
 小生は明治十九年に米国に赴き、それより十五年間海外に流浪、何のなすこともなくて三十三年帰朝致し候ところ、父母共に下世しおり、親族中に知らざる人多く出来おり、かつ海外にて少々読書は致せしも、学校学位等に一向関係なかりしゆえ、兄弟にも受け宜しからず、熊野に退居し今に至り申し候。したがって紀州以外のことは一向見聞致さず、御地へも立ち入りしことは御座なく候。妻の甥がたしか奈良に住居致すことと記臆罷り在り、そのうち一度罷り出で訪問致すことも有之べく、その節は参詣の上、右ナギ林拝見相願い候こともありなんかと存じおり申し候。只今家内に重病人有之、日夜介抱に疲労はなはだしく、『大阪毎日新聞』への奇書は深更に夜間走り書き致せしものにて、さらにとりとめもなきことばかりに御座候。深く恐悦致しおり候。
 まずは右貴書御答礼まで、かくのごとく申し上げ候。
 御社境内のナギのことは、なにか文書また歌集等に見えたる例有之候や、伺い上げ奉り候。
 この熊野(東西牟婁郡)には春日神社がはなはだ多く有之候。これはいかなる故とも存ぜず候。しかし中世まで藤原家公卿庄園所領が多かりしより、自然春日神社の分祠が多かりしにあらざるかとも存じ候。先年合祠  属行のため湮滅されたる所も多く、文書等四散亡滅し、今となりては何とも古えを稽《かんが》うべき資料はなきことと存じ申し候。このことことに遺憾の至りに御座候。
 まずは右申し上げ候。    早々謹言
 
(499)     2
 
 大正十四年十月二十一日早朝出
 拝啓。御厚志をもって御恵贈に相成り候『春日神社金石銘表』一冊、本月十九日朝八時前忝なく拝受難有く候。御厚礼申し上げ候なり。   敬具
  追啓。貞享三年に出で候黒川道祐の『日次紀事』七月のところに、和州桃尾山竜福寺に藻布あり、当月(七月)諸人来たり浴して諸病を治す、この瀑布の下流は布留川なり、秋冬に至り川|苔《のり》生じ、その味甘脆なり、寺俗、万物となして諸方に贈る、春夏これありといえども遠きに贈るに堪えず、その形状風味、肥後の水前寺川苔に似たり、とあり。この川のりは只今も多少産するものに候や。もしくは名も聞かぬほど滅亡せしことに候や、御序《おちゅいで》候わば御教え下されたく候なり。
 
     3
 
 大正十四年十月三十一日早朝出
 拝啓。二十五日出御葉書二十七日に拝受致し候。川苔の儀御明答下され、大いに裨益するところなり。今日はなかなかその生品は手に入らぬことと相分かり申し候なり。
 先月ごろ『ロンドンタイムス』紙上に、鹿が蛇を好み食うということに付き議論蜂起致し候。これは西洋にてローマの昔より申し伝えたることなれども、東洋には聞かず。ただ鹿は亀を食し、?《き》(これは支那にありて、鹿に似て小さきもの、雄に角あれども、ただ一枝あるのみにて、その代りに口に長き牙が上より下へ出でおり候)は蛇を食うということあり。またこれも鹿に似て角なく牙長き麝《じや》も蛇を食うとなす。小生米国にありしときワピチ(日本の鹿に似(500)たもの)が、蛇を見れば前足をそろえて踏み殺すということを聞き候えども、実否を知らず。貴殿は年来鹿を親しく御覧のことなるが、鹿が蛇また亀にあうときはいかが致すものに候や。全然無関係に候や。またはこれを食うとまでなくとも、殺しにかかることはあるものに候や、伺い上げ奉り候。 敬具
 
(501)   西川瀁宛
 
     1
 
 昭和三年十二月一日夜九時認、二日午後竜田氏を経て差し上ぐるはず
   西川瀁様
                        南方熊楠再拝
 
 拝復。十一月三十日御認めの芳翰今一日午後一時拝受、さっそく御返事を賜わり難有《ありがた》く千万御礼申し上げ候。
 竜田氏への伝言が委細を悉《つく》さざりしゆえ、竜田氏もそれ以上申し述べ得ざりしこと、尤《もつとも》千万のことに有之候。小生、去る十月十八日当所へ来たり、一ヵ月余何ごともなく日々研究に従事致しおるうち、去んぬる二十二日の朝七時半起き上がり候に際し、右の腰の屈伸たしかならず。起《た》ち上がってのち蹲《つくば》う時と、坐って立ち上がるに、ことのほか骨おれ、速く起ったり坐ったりすると、ことのほか痛み、また、ひきつるように感じ、また咳《せ》く時、欠《あくび》する時など、右の腰の裏を内より衝くごとく感じ、もっとも痛み入るは、植物標本を板にはさみ積みかさねたる上にのせたる火鉢を取り上げて、たたみの上へ移すことが容易に成らず。火鉢をとり上げ、その前に積みたる箱の上にのせ、さて、またそれをとりてその前なるたたみの上に置く。一度に火鉢をとりて置かんとすれば腰が折るるごとく大いに痛(502)み(痛むというよりは大きな岩などで押しつぶさるるように感ずる)、火鉢をなげ出す惧れあり。この症起こりてより毎朝竜田氏より申し上げし通りの徴候なり。これは朝になりて小便多くたまるよりのことに相違なきも、小生は久しく(ほとんど十四、五年も)そんなことはなかりし。
 小生は六年前までは無類の大酒にて(ただし毎日酒用いず、用うる時はことのほか大飲なりし)、また数日前までもたばこを用い通せし。酒煙過用のためか、また常々学術上に焦慮し、不断記臆を煉りつづくるゆえか(ことにこの六年来植物研究所のことに気づかい多く、また三年来一人の男児が精神病にて、ことのほか重大になり、洛北岩倉病院に今年の五月より入りおる等の事件重なり)、性慾等のことは一切夢にだに念出せず。故にこの一件はなにか自分はおぼえざるも、夜分寒さに右の腰をおさえて臥したるため、筋肉がかたまりしとか、いずれかの臓腑(肝小腸等)が強《こわ》ばり出したとか、乃至小生には十分|別《わか》らざるも hernia などいう症を起こせしにあらざるかと存じおり候。
 よって今朝より袷《あわせ》を二枚重ね、暖かく着ることに致せしに、大分快方になれり。小生医学のことは一向知らず、またいかな名医も自分で自身を判断することは成らずと承聞すれば、ただ我流で試みたるのみなり。今後のことは別《わか》らず。もし事重くならば戸板に乗りてなりとも貴方へ参上するから、貴方から御坊町まで送り届け得るように御取り斗《はか》らい下されたし。御坊町には知人もあり、田辺まで送り届けくるるはずに候。むろんこの事務所よりも人が付き添いゆきくるるはずに候。
 小生は明治三十三年まで十四年余、欧米諸国にありし。帰朝して一、二年和歌山にありしうち、華岡芳朗という医士あり。拙弟方の者ども病気の節、毎度診察を受けに行き候。それより田辺に住むこととなり、旧友喜多幅武三郎という医士に承聞せしは、右芳朗氏はもと中学校で小生よりは三年ほど後れて入学せし西川万助氏のことなる由。その律和歌山に止まること少なからざるも、今に御出会い申さず、明治十六年限り四十五年余も御眼にかからざれども、今に御顔はよくおぼえおり申し候。華岡君は今に健在にてますます御繁昌の由、御同慶このことに候。小生は永(503)く貧乏にて災難絶えず、身体のみは何国に往くもすこぶる丈夫なりしも、今度この地に来たり、測らず思いの外の症を発し候。華岡君と同級に本郡塩屋の−医者羽山氏の長男繁太郎と申すがありし。小生すすめて東京へ上らせしに、肺患を得て帰国し、小生渡米の翌年死亡。その次弟蕃次郎と申すは、小生渡米の前に塩屋より和歌山まで同道し、後に文学士になりし故園田宗恵師に同道させ上京、それより医科大学に入り、ことのほか成績よかりしも、これも肺患にて明治二十六年ごろ死亡。その次に滋三郎と申せしは、小生渡米の時(明治十九年)十四歳ばかり、これは小生の亡父は当郡矢田村入野生れで、その兄の妻の兄よめの兄(藤井辺より塩路シュウセキといいし老医)の養嗣たりしが、これも死亡。すべて六人の兄弟の内第四番めの芳樹というのが一人のこりおり候。六人の兄弟の次に女子二人あり、長女は小生が渡米のいとまごいにゆき、羽山氏家に一泊せし夜生まれたれば、今年四十二、三なるべし。その長女の夫が山田英太郎氏で、今も盛えおれり。山田氏は小生渡米のおり七、八歳なりしと覚え候。
 今度幸いに予定通りに当山林の菌類調査を終え得ば、四十三年めに帰途同家へ立ち寄るように申し込みあるも、あまりに容体が悪くならばそのことも叶わざるかと存じおり候。他日、貴下もし羽山芳樹氏また山田氏夫妻に御面会の機会もあらば、このことを御伝えおき下されたく候。塩屋という所も、四十年余のうちに大いに昔日とかわり、前日当地へまいる途上自働車内よりそれかこれかとながめたるも、右二氏の宅らしきものは見受けざりしことに候。
 まずはさっそく御返事賜わり候御礼まで右申し上げ候。    恐々
 十二月二日午前十一時追記
 本状一度封じたるも集配人が来るまでにまだ多少の時間あるをもって、さらに追記して差し上げ候。
 小生今朝も早く眼さめしも腰ひきつりて起き上がること叶わず、いろいろと工夫してようやく九時過ぎに起き上がれり。いろいろ考えるに、自分覚えざるも採集中木の株とか岩の角とかで小腹の右の方などをつきたるにあらずやと思う。それが夜寒のため堅くなりしにあらずやと存じ候。また、小生若き時外国にていろいろの事変にあい、一々覚(504)えざるも、いつの間にか右の足が多少ちんばにて、当地へ来たらざるうちにも右の腿が重くなりて急に挙がらぬようなことは時々ありしように覚え、また亡父はずいぶん養生も致し、酒は至って嫌い、喫煙も多くはせざりしが、六十四の時ちょうど小生と同じく右の小腹に肉腫ごときものを生じ、後にはそこへ穴があき、故緒方惟準氏を大阪より和歌山へ招き診察しもらいしも、勝浦の赤島の温泉に入り試みるの外に手なしとの見立てにて、赤島温泉にゆきしも、治療功なくて死亡せり。(実は温泉の外に手段なしとは、そのころこの病気は平癒の見込みなしということなりし。)小生ちょうど只今六十三歳でこんな症にかかりしは、遺伝の上より止むを得ざることかとも存じ候。
 小生今度当山へ来たりしは、従前人の立ち入らざりし箇処多きより、人工の加わらざるうちに当山の菌類を精査したく存じ、この九月上旬にまず小畔四郎(只今近海郵船会社神戸支店長。この人小生の枯菌学の門人ごとき者にて、この人ほど広く日本、朝鮮、台湾、樺太を斯学のために探訪旅行せし人はなきなり)、渡辺篤(有名なる植物生理学者にて、只今東大の大学院にあり)二氏を先陣として来たらしめしに、果たして斬新珍奇の物はなはだし。よって自分は当山の菌類、従来自分の見ざるところを三百ほど写生記載し、ならびに秋末より冬中当山にて見出だし得る見込みある粘菌、従前日本に見出ださざりしもの二、三属を見出だす予定で来たりしなり。助手なく自分一人で万事作業するゆえ、なかなか手がまわらず、昨夜までに菌類百八十七種を写生図録しあり。十二月に入りてのち生ずる菌類は、それまでのものと比して生態きわめて簡単なれば、今百十三種を図記するは、さまで難事にあらず。今半月も出精せば必ず仕課《しおお》すべしというところへこの病気起これり。ずいぶん友僚間の期待もあることゆえ、多少の辛棒をして成ることなら、予定通りに終業して下山したしと存じおるも、自分で自分の身体を視察するほどむつかしきことはなく、いかなる名医も自分で自分の病気は分からず。いわんや小生ごとき医術の方の心得なく、また従来歯痛くらいの外にさしたる病気経験なき者には、今度のような病症はさっぱり分からず。また、この病が昨今不慮に起こりしものにあらずして、父祖よりの遺伝や多年来潜伏しありしものが機会を得て現出したものならんには、只今即席に治療の途な(505)きも知れきったことなれば、さっそく万事中止して田辺へ帰り、徐《しず》かに養生するの外なきも、せっかく多くの準備をなし、諸友の期待を負うて来たりしものが、このまま倉皇下山というわけにも参り難きは、いわゆる止むを得ざる事情と申すものに候。
 歴史、由来の知れぬ国から、政治経済上の助言を頼まれては、いかな賢人も助言の仕様なきごとく、小生の身体の履歴を知らぬ人が、いかほど医術に明るくとも、一朝一夕に小生の病症を判じ、全治せしむることは望まれず。前に述べたる田辺の喜多幅医士は、小生と十二、三歳よりの交友にて、小生は薬を用いざるも、身体に少し異常あるごとにこの人の診断を受け、忠告を容れおり。また、田辺で小生と同町内に住する中村正和博士は、小生亡兄の妻の従姉の女婿で、これまた小生を診察せしこと少なからず。この二人の内いずれかを当山へ招き診察しもらわんと思うも、喜多幅は小生より一歳劣りて今年六十二歳、かつ家に若き後妻と幼児三人あってかかる遠方へ来たるべくもあらず。中村は自身しばしば風引きなどで診察を休む人なれば、これまたとても当地まで来たりくれるはずなし。只今当事務所主任田辺の営林署へ用件あって出頭中ゆえ、何を欲しても行なわるべくもあらず。四、五日内に帰り来たるべければ、主任帰来の上、小生容体依然として今のごとくならば、事により主任と相談の上、貴殿の枉駕を乞うこともあるべし。
 人間第一に心得おくべきは自分の身体の状況なるに、実際人間ほど自分の身体に無頓着《むとんちやく》なものはなく、小生などは只今の病気がいつどうして起こったか、腰が痛むと申してよいのか、ひきつると形容してよいのかすら知らず。故に初対面の貴殿一診して即座に小生を平癒せしむることを望むべきにあらねど、医師にはおのずから医師の心得あることは、小生がかつて来たりしことなきこの山林に来たりて、自分がかつて見聞せしことなき菌を一度見れば、たちまち何の近属くらいのことは間違わずに分かるに等しく、相応の手当さえすれば、予定通りの調査がすむまで、当山に留まるも大なる過失なかるべしとか、この様子では万事を中止して大忙ぎで田辺へ帰るべしくらいの判断はなし下さ(506)るることと存じ候。また何の明白なる理由なしに突然事業を中止し、下山せしとあっては、この調査を期待し、賛助されたる人々に対してまことに申し訳なき次第なれば、診察書をも認め下されたきなり。
  当所はまことに僻地なり。しかし串本よりトロ道が達しおり、当所より出迎え機関車にて昇り降りすれば、徒歩せずに串本まで往復はなり申し候。
 右の次第に付き、主任帰り来たりてのちまでも、小生病状依然とあって貴殿の来駕を願わんに、御来臨下さるべきや。かつ御来駕御診察また診察書作成等の諸費をいかほど差し上げて宜しきや。御示しおき下されたく願い上げ奉り候。
 病勢も病人の気分も時刻によりかわるもので、毎朝起き上がるに骨がおれると見え、起き上がりし当座は何物も打ちすておき、単身田辺へ帰るべしと思う。しかるにしばらく坐して研究にとりかかると、また気がかわり、写生図が一つ成り二つ成るに付けて、作業が面白くなり、せっかくかかったことを中止は遺憾の極なれは、斜二無二仕遂げて後に下山すべしという決心になり申し候。                             再白
 
     2
 
 昭和三年十二月七曰午下
   西川瀁様
                        南方熊楠再拝
 
 拝啓。昨日竜田集配人より五日夕御認めの御状拝受、御厚思万々忝なく厚謝し上げ奉り候。然るところ、田辺喜多幅医師、御大典跡式場拝観のため上洛せんとするちょうど前に拙状相届き、いろいろ勘考の末、これはたぶん腸腰筋と方形腰筋のリウマチズムなるべしとのことにて、手当の必用品いろいろ拙妻に買い調えしめ送り来たり候。それが(507)幸いにことのほか速やかに届き候。(二日の午前十時に出せしものが、三日の午後十二時半に届き候。これより先、十一月二十六日出せしものは十二月六日に届き候に比しては、例なく速やかに届きしに候。)よってさっそく手当を致し候ところ、二昼夜ばかりのうちに腰痛大いに減じ、今に朝起き出ること多少困難なるも、一度起き上がりし上はほとんど何の故障なく罷り在り候。全たい小生平生至って健全なるより、かようの目に逢いしことなく、当地へ来たりてよりも、低地におる同様薄着にて四十余日も間断なく俯して写生しつづけるうち、光線を引かんがため障子をあけはなし、絶えず寒風が腰に当たりしより、漸次腰筋がかたまり来たりありしを一向気付かずにおり、終《つい》にその暴発を見しことと、みずから今さら自分の不用意に驚きおり申し候。
 仕事は菌の写生は終了に近く、その他の物は写生記載などを要せず、ただ集めて持ち帰れば事足り候。向うたぶん本月二十日前に小生は下山致し、川又林務所に一泊の上、御坊町経由田辺へ帰り申すべく候。万一その間に止むを得ざる事変起こり候わば、使人をもって御来診を願い上ぐべく、その節は何分宜しく御願い申し上げ置き候。
 前日来御多用中いろいろ御面倒相かけ候段、万々謝し上げ奉り候。今回は季節年末に近く、このまま帰宅致し候も、次回に参ることもあるべく、その節一度御面会みずから右事情陳謝申すべく候。
 まずは右御受けまで早々筆を走らせ申し候。          敬具
 
(511)   三田村玄竜(鳶魚)宛
 
     1
 
 大正十二年四月十七日早朝
   三田村玄竜様
                      南方熊楠再拝
 
 拝啓。その後大いに御無沙汰に打ち過ぎ申し候。先達て御投寄の浜田弥兵衝の調べ書写しは、慥《たし》かにその節拝受、小生在京中申し上げたる浜田氏の調べ書も現に座中に有之《これあり》候えども、このことを書かんには平田篤胤大人の『伊吹おろし』とか何とかいろいろと引き入れねばならぬものも多く、ことごとく座右に揃わず、そのうちいよいよ小生研究所確立せば和歌山にある拙蔵書籍、手記ことごとく当地へ引き移すはずゆえ、今しばらく御まち下されたく願い上げ奉り候。
 小生研究所も不景気に似ず、また小生の金銭事に一切慣れざるに似合わず、諸友の厚蔭により不似合なほど金は集まり申し候。しかるところ例の上方贅六の粋を抜いたる和歌山の一般どもがとかく金をだししぶり候ため、今に所期の基本金額に達せず、漢の桓・霊の際、金玉路に委しながら民が飢えたと申すごとく、研究所の金は積んで銀行にありながら小生は妻子を安んずることも成らず、相変わらず貧乏に罷り在り、只今東京へ毛利清雅と申す当県会議員道(512)路のことを内相に請願のため上京、この人は三宅先生も知面の士にて小生のまずは腹心に有之、この人に頼み去年の集金のこりを集めもらいおり、この人帰県の上小生は和歌山へ上り、出し渋る奴を約束通り出金致しもらい、初めより十分とはなくとも小生に恰好の研究所を登録し確立して帰らんと存じ候。
 その毛利氏の帰郷を待つ間に別封「善吉お六の話」を井上亀六氏宛にて政教社へ只今この状とともに発送仕り候。昼間は顕微鏡を使うゆえ夜分書きたるものにて、なるべく間違いなきよう多くの書籍また手控えを繰るにはなはだしく骨折れたものに有之、御一覧の上|御差閊《おさしつか》えなくば御掲載願い上げ奉り候。あるいは貴誌に不相応の箇所あるかとも存じ申され候付き、願い上ぐるはもし左様の儀に有之場合には、当分小生これを筐底に秘し置きたく候付き、いささか御遠慮なく本稿御返送願い上げ奉り候。
 ついでに伺うは、この善吉(または伝言かと記臆、いずれとも定かならず)お六の話は松村操氏の『実事譚』に見えず、これは単に名もなき芝居の脚本またはうかれ節くらいに仕組まれたるのみに候や、また浄瑠璃とかたしかな大当りせし芝居の脚本に作られたることも有之候や、貴下ならずば伺うべき人なきに付き御知らせ下されたく候。
 また前日なにかで貴著の広告をみし内に男色の媚薬という一項ありし。これはいかなることを書かれ候や、短いものならその条の全文御示し下されたく候。小生例によりなにか貴下まで申し上ぐべく候。小生は男色には媚薬というものはなきことと存じおり申し候。
 まずは右当用のみ申し上げ候。             敬具
 
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 大正十二年四月二十五日早朝
   三田村玄竜様
(513)                   南方熊楠再拝
 
 拝復。二十三日付芳翰咋朝拝受。小生一昨夜より眠らず顕微鏡の製図にかかり、只今仕舞い候付き、はなはだ眠たきをこらえてこの状差し上げ申し候。まずもって貴下久しく御勤め遊ばされ候政教社御引退はいかなることに候や。先年は森田義郎氏、今度はまた貴下御引退とあらば、すこぶる荒寥を感ぜられ申し候。
 貴書に見ゆる薬ならば媚薬とは申し難からん。通和散は京の宮川町に古くより製造し高野山などへ売りに来たり申し候。これは向日葵(ひまわり)の根にあらず、黄蜀葵(とろろ)と申し、紙をすくとき用ゆる草の根の粉に御座候。それへ麝香等を合わせあるなり。『守貞漫稿』遊女の部の末に見え申し候。それには未通女の破素に用うる由記しおり候。今日はそんなもの入らず、ヴァスリンで沢山なり。また海蘿丸は男色も用うるか知らず、主として婦女同士のお姿|夫婦《みようと》に用いたるに候。外に棒薬《ぼうぐすり》と申すもの有之、これは硫酸鋼(胆礬)を紙にまき棒となしさしこみおくなり。しかるときは肛門の内壁が硬化して痛みを感ぜざるようになるなり。またザクロの皮の煮汁で洗うことあり、シマル力を強くするなり。これは娼妓などにも用いたり。
 媚薬とも申すべきは山椒を用い候。内壁を刺撃して痒くする、それを陽物にて摩擦すれば痒きを掻いて快を覚ゆるなり。西洋にてはローマ帝の中に、鉄衣着け尽して僧衣を着るというごとく、婦女をし飽きて自分の後庭を掘らせしもの多し。その内コムモズス帝などは 蕁麻《いらくさ》の種子を油でねりて陽物に付けさせ、それにてほらせし由。蕁麻の刺撃はちょうど紫梢花(小生去年日光でとりし淡水海綿)と同様の程度のものなれば、ずいぶん快きことと察し申し候。これらをこそ媚薬と申すべけれ、通和散、海蘿丸等はほんの下拵えの後庭構造剤に御座候。
 小姓世話所の看板は、明治十五年に見しきり、その後十九年に上りしとき(514)ありしやなかりしや知らず。小田原と申し御廟橋に近き町家にて数珠、仏像等を売る処あり。昨今は全廃された様子なり。外の部分に町家多くできたる故なり。その小姓の画は田舎芝居の看板くらいの不束《ふつつか》なものなりしが、古いものと見え額などは全く滅しおりたり。記臆も定かならねど眼前わずかに浮かみ出すところは図のごとく、つまりフスマを一枚門口に立てたようなものにて、そのいずれかに御小姓口入所とありしよう記臆仕り候。
 あまり古きものならず、天明前後のものと押し測られ申し候。
 貴下大字で書けという。大字をかくははなはだくたびれるゆえ、これにて擱筆仕り候。   早々敬具
 
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 昭和二年八月四日午後五時
   三田村玄竜様
                     南方熊楠再拝
 
 拝啓。七月二十四日出御ハガキは同二十六日の夕拝受。『膝栗毛輪講』中編は翌二十七日午後到着。これは小生より柴田君経由、『江戸の噂』の内、奴船妓九重の条を写し賜わらんことを七月二十二日出状をもって御願い申し上げ候に対し、『膝栗毛輪講』を贈られたることかと不審に存じおりたるところ、二十五日出御状が二十七日の夕到着、その翌二十八日|午下《ひるさがり》、『江戸の噂』拝受致し候。全く偶然にも拙状差し上げ候とほとんど同時に貴方より『膝栗毛輪講』御送り下され、その後また右の拙状に対し『江戸の噂』を御送り下されたることと相分かり、重ね重ねの御芳志万謝奉り上げ候。
 小生先年植物研究所寄付金を集めまわり候のち、違背の輩あって今に所期の金円十分に充たず。しかしおいおい寄付人も少なからず、今三、四年も辛抱せば所期の額は必ず出来申すべく、それを頼みに仙人暮しをして相変わらず研(515)究をつづけおるうち、定めて三村氏より御聞き及びならんが、家内に重患の精神病者を生じすでに二年半も全治せず、至極の難症にて家内ほとんど看護にあぐみはており候。かかる際金円の出納はもっとも戒慎を要し、植物研究所に使うべき金銭を一厘たりとも自家の用に当て候てはすこぶる面白からず。よって多少家計の助けにもと年来諸方の雑誌等に出したる文稿をまとめて板権をうり来たり候も、地体《じたい》小生が諸雑誌に出したるものは、おもに他人が書きたるものを駁撃しまたは増補したるものなれば十全のものにあらず。かつその編纂方をその方の心得なき人に一任したるをもって成蹟面白からず。しかし小生に取りては少なからざる足しとなるをもって、時おりに出板することと致し、つづけおり候。只今もある書院の頼みに任せ拙稿を出さんとするに、どうも他人の編纂では面白からぬゆえ、多難多事中に暑き室に推し籠りて自分で編纂致しおり候。前日『彗星』へ出せし「末の流れをいつまでかくむ」という歌のこともその内へ入れんと存じ候ところ、偶然『彗星』の広告により貴著『江戸の噂』の内にすでに早くこのことがでおるを心づき、すでに貴殿が書かれたることを小生が盗んで出したように見えては面白からず。また九重のことを小生は一向知らざるに付き、何とぞ『江戸の噂』の内その一条を拝見し、小生が『彗星』へ書いたことが全く貴著中に出でおるならば、この一項は全然刪除したく存じて願い上げたることに御座候。
 小生多年『日本及日本人』へ投ぜる文も板権をすでに売り渡しおり候。しかるに今度御恵送の『膝栗毛輪講』中編を見るに、この輪講に関し小生が『日本及日本人』へ投じたる文はその内に御掲録相成りたるもの多し。しかる上はこれを再出するも面白からず。よって板権を譲り渡したるものにその旨を注進し、『膝栗毛輪講』に収録されたる拙文はことごとく再出せざることに致さしめたく候。これによってはなはだ申し上げ兼ぬる儀ながら一冊ずつ御恵贈願い上げ奉り候。しかる時は一つの同じ物を異なる二つの書に出すことを免れ申すべく候。出板者へはまた他の雑誌に出したるものをそれらの代りに掲載させ申すべければ、別段何のことなしに前方は承諾致すべく候。
 『弘法大師一巻之書』はその書だけはあまり長きものに無之《これなく》、三時間もかからば必ず写しとり得申すべきも、小生は(516)多年しらべおきたることどもを註加して幾久しく貴殿の御用に立てたく、その註加すべき材料があちこちと小生の随筆ごとき手控え中に散在しおるにより、これをまとめて書き入るるには二月ばかりもかかるべく、その上必ず御笑いに供し申し上ぐべく候。
 また『彗星夢物語』はなかなか大部の物にて、ことに多年打ちやりおきしこととて(大水にあい紙と粘着しはなれず、はなすときは全く粉砕する簡処多し)、取扱いはなはだ困難、かつこの書明治二十四、五年のころ小生世話にて三好子爵(重臣中将)の長男太郎と申す人に貸したるところ、久しく返しくれざりしことあり、非常の捫択《もんじやく》の末ようやく返しくれ候。それにこりて著者の子孫が再び遠方へ致すことを好まず。さりとておいおい破損しゆき、また一種の事情あってその家にて保存の見込みも立たず、当分小生が預かりあるものなり。小生は十の九まで写し取りたるも、上述通り近来拙家多事多難にて十の一は今に写し得ず。みな写し取りたる上他の刊行書に見えぬことのみ抄し集めて出板することと致したく、その節はいろいろ御厚配を願うべきも、只今即急に何とも手のつけようなきことに有之候。
 貴殿が西国巡礼のことを書かれたる内に、木板〔二字傍点〕を順礼の胸にかくるようの文句ありしと記臆致し候が、これは木札〔二字傍点〕の誤刊にあらずやと存じ申し候。
 小生多難にて雪隠へゆく間もなきこと多く、ようやく只今小閑を得て右申し上げ候。『膝栗毛輪講』の儀何とぞ宜しく御願い上げ申し上げ置き候。
 山崎楽堂氏は小生知らぬ方なれども、たしか粉庄《こしよう》と申し小生幼時(明治五、六年より二十年ころまで)和歌山第一の富家たりし山崎庄兵衝氏の孫くらいに当たる人と存じ候。庄兵衝氏に子なく、小生明治二十年ごろ養子に望まれたること有之候。           早々敬具
  貴著『上野と浅草』とかいうものを見しに、木魚は徳川氏の世に始めて本邦に入りしものというような御説ありしと記臆、小生それに対しいろいろと書き集めおきしが只今見えず。小生多忙断えぬゆえ、いろいろと紙片に書(517)き付けたるものを多くの書冊の紙間にはさみおく癖あり、その当座は在処を記臆するも、久しくなると混雑し一向見当て得ぬこと多し。見当たったらまた申し上ぐべく候。
 
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 昭和二年九月十四日夜十時前
   三田村玄竜様
                     南方熊楠再拝
 
 拝啓。その後大いに御無沙汰に打ち過ぎ申し候。
 『弘法大師一巻之書』は本文のみならば何でもなきことに候ところ、このついでに宝暦ごろの売若衆の仕立様およびその輩の客を繰縦する心得書(これはたぶん御存知のものと存じ候)二種、手許に有之、それをも一所に写し添え小生の自注をも入れてそろえて差し上げたく、只今一、二枚ずつ拵えおり候間、左御承知願い上げ候。何様病者がさわぎ罵る片手に致すことゆえ、一度にはなり申さず。今夜も夕刻より只今まで二階にて高声になにか罵りおり、いつ何事を仕出だすも知れず、遠くより見張りに余念なく、ようやく静まり候て後この状をかき申し候。
 他は知らず、高野山などにては稚児の前陰にビロウドで三角形の袋を作り綿を?め候、それに紐を付けて稚児の前陰を圧えてしまう。後庭専門のものゆえ、後ろより取りかかるように普通に思えども、本道としては後ろより幹事することはなく、必ず婦女同然に前よりする作法なり。故に女ならば上開というところのごとく、稚児は自然後庭が前に上進して上穴となり申し候。これらはそのころは知れ切ったことゆえ、一切書籍には載せおらず。そのころの書によく流行《はや》りし売若衆が早く佝僂《せむし》ごとく頸と背が前に曲がる症を発し、それがため容姿が落ちたことをしばしば見及ぶは、この上穴になりしための結果に外ならずと存じ候。こんなことは小生の注を入れねば分からず、知れずにしまう(518)なり。
 また長〇丸のことも、彼是《かれこれ》いうものの製法も分量までも知った人なきようなり。これも小生は秘訣を知りおり、そのうち御伝え申し上ぐべく候間、足柄山まで長途を取らずに笙の秘奥を伝授されしと難有《ありがた》く御受けおき、他日大いに試みられたく候。
 さて、小生別して御頼み申し上げたき一件あり。それは小生近日『続々南方随筆』を出す内に、『球陽』巻三に、琉球の尚真王の三十五年(永正八年義澄将軍薨去の年)、その家来|赤頭阿摧?《あくがみのあてきしん》というものを重用、大いに家門を興しやりたることあり。尚真王生まれしとき、その父尚円王が占者をして卜わしむると、この子を抱いて城の南に出で初めて逢うた者を養父として育てしめたら、万寿無疆、千福無窮ならんと申す。よってその言のごとくせしに阿摧?という地方の微者にあい、これを養父とせしに、初めは種々辞退せしも、王命黙し難く、ついに京地に留まり養父となり、これを養育す。尚円王?し尚真王即位するに及び、撫養の恩を思い重くこれを用い、その死するに及びほとんど王同然の礼をもって葬りやったということなり。
 この文を読む数日前に、小生貴著の何かの書か、またはその外の叢書か随筆を見るうち、四代か五代か六代かの徳川将軍が生まれたとき、厄年とか何とかの懸念あり、しかるにすすむる者あって、宮女をして世子を抱かしめ、江戸城を出て第一番めの橋に立って初めて来たり逢う侍をその養父とか守り役とかにし、そのとき所持の扇子を奉らしめ世子にそえおきしに、果たしてよく生長したので、その侍に大いに加増あったというようなことを見たるも、別段その書名を控えおかざりし。いくら捜しても今となりては見当たらず。なお捜す積りなるも今に見当つかず。かかることに時間をつぶすも如何なれば、伺い上ぐるは、もしこのようなこと御存知ならば何とぞ御教示を願い上げ候。その書は小生のこの書斎にあることゆえ別段全文を御示し下さるに及ばず、ただ書目のみ教え下さらば十分に御座候。ここまで書きしところ拙妻走り来たりてまたなにか用事申し来たり候付き、右のみ忙ぎ申し上げ侯。 早々敬具
 
(519)     5
 
 昭和二年九月十五日朝十一時
   三田村玄竜様
                     南方熊楠再拝
 
 拝啓。変態心理学に rapport《ラツポール》(往復とでも訳すべきか)と申すことあり。末広一雄氏は小生大正三、四年ごろより文通すれど面識なかりしが、大正十一年上京してのち小生旅館へしばしば来られ候。小生が旅館にありてひまなる余り末広氏が来ればよいと思うと二時間も立たぬうちに来たりしことしばしばなり。何というて用件あるにあらず、ただ一訪してみようという気になって来るなり。また来てみれば小生熟睡中ゆえそのまま帰宅されしこともあり。こんなことは双生児に至って多きことの由、一向不思議とか霊妙とかいうことを主張せざる科学一点張りの学者が単に統計上より申すことに候。貴下より書信あるとほとんど同時に小生より不図《ふと》思い立って貴下へ郵便物を差し出すことしばしばあるもこのラッポールの一つに御座候。
 件《くだん》の末広氏は加賀の人で、郵船会社に久しく勤め、只今まで続いたら重役にもなるべかりし人なるに、大戦争始まりしとき一書を大隈首相に出し、今度日本がドイツとはなれ英国を助け英国のインド防備空しきその留守番をするに付いては、この大戦争が息《や》んだ後も一定の年期間は日本商船が勝手にインドの沿海を航行貿易することを縦《ゆる》すべしという約束書をとりおくべし、これ英人は従来事あるときは他をおがみ倒し、事済むときは前恩を忘れて何とも思わぬ故なりと申せし。しかるに時の外相加藤高明氏は、そんなことを只今申し出だすは、英人をして日本人は我慾の強きもの、他の難に乗じて自利を張るものと不快の念を催さしむること、火が消えたらかようかようの御馳走をふるまえと請求を先にして、さて後に火を消しにかかるような誠意の足らぬ申し条なりとてはね付くるのみか、かかる者が郵(520)船会社にあるは不都合とて会社へ手をまわして末広氏を追い払わしめ候。
 その時末広氏大いに生計にこまり、蠣殻町の相場の売り子(大阪で火の子という、東京で何というか知らず)にならんとて前垂れまで調えたところを、この人の妻方|次《つぎ》の方というはきわめて賢女で、亭主にそんなことをさせるところにあらずと奮発して、身の廻りの物を一切売り払い、それを支度金として産婦看護婦の業を速成で習い修め、青山看護婦産婆会とかいうものを立て、三十人とかその業に従事する者を養成して一団となし、手広く営業してはなはだ繁盛し、末広氏は相場の売り子とならずに事すみ、妻の力で悠々と暮らし得るに至れり。
 最初大隈、加藤二氏が末広氏の建議をはね付けたるとき、原敬氏このことをききこみ、末広氏の建議は実にその必要あるものとして一夜紅葉館に末広氏を招待してその趣意を聞き取り、みずから一書を添えて大隈氏にこれは国家の大事なれば再考を煩わすと申しやりしも一向顧みざりし由。今となりてみれば大隈、加藤二氏が末広氏の意見を採用せなんだはすこぶる不明の至りと存じ申され候。その時小生この通りの乱筆にて末広氏を慰問せる書翰を、氏はかけものにし床の間にかけて述懐あるごとにそれをながめおりしとみずから語られ申し候。
 前状伺い上げ候某将軍幼きとき橋の上で初めて通り逢う武士を養父とかにせし話は、いろいろ考えて『甲子夜話』に出でおりしかと推し候て、昨夜よりさがしおれど何様家内に病人あるゆえ、その方へ気を配り今に見出だし得ず。何とぞ貴下よりの御通知あらんことをまちおり申し候。
 『一代男輪講』は、第一巻昨夕拝受。病人に気を配るかたわら昨夜一読致したれど、いまだ読み了らず。しかし只今多忙なれば昨夜読み得たる分だけにていささか御耳に達しおき候。何とぞ第二巻の末へ熊楠在京ならば必ず輪講の一味連判に加わりおるべき者と、早野勘平同様の思召しをもって別紙の通り御書き加えおき下されたく候。篇を重ねた後に出すと二の町になるから、なるべく第二巻の末に御加えおき下されたく候。(別紙は別封原稿郵便にて出し申し候。)
 只今十分な引書を挙げ得ぬが、三田村という苗字は近江国より出でしよう心得申し候。和歌山に三田村忠国という(521)医者ありし。内外科を兼ねたるよう記臆す。今あらば八十七、八歳なるべし。和歌山人の気風とかわりたる剛強の人にて海軍の軍医たりしが、大いに著われずに引退し、和歌山市で初めて看護婦を使用し二十余年前まで開業しおりしが近時一向聞かず、死に了りしことと存じ候。いかなる故にや薩摩に行きありしところを私学校連に要せられ、西郷氏より十八人の壮士を付して守らせ、すなわち賊軍の軍医総監ごときものとなりしゆえに、戦争止みしのち裁判に付せられ譴責か何かになり、それがすみてまた海軍軍医になされたることと存じ候。
 明治二十三年ごろ後藤象次郎伯が逓信大臣のとき次官たりし仙台の人で鈴木なんとかいう人ありし。その養嗣に倚象《よりぞう》とて至って温和だが怒るときは烈火のごとくなる人ありし。英米に留学の後帰朝して海軍軍医大監か何かたりしが早く死亡せり。右の西郷氏が十八人の壮士をして三田村氏を守らせた云々のことは、この倚象氏より承りし。軍医中三田村氏は門下に人物も輩出したれど、右の西南軍の一件で一生下位にあって気の毒なことなり、医界に稀に見る豪傑なり、と語られ申し候。
 まずは右申し上げ候。                 敬具
 
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 昭和二年九月二十日午下
   三田村玄竜様
                     南方熊楠再白
 
 拝復。十七日出御状今朝八時過ぎ拝受。御尋ね申し上げ候ことは綱吉公誕生のときのことと承り一《ひと》安心、これより捜しあて申すべく候。しかし貴方においても書名御分かりになり候わばちょっと御知らせ下されたく候。御下命の『一代男輪講』に付いては、例の神通力にて御需要の程を知りおり、貴状と同日すなわち十七日に、「読『一代男輪講』」(522)を差し出しおき候。その内、不破伴作後庭を据膳致せしことは、いやしくも本朝の男道に志すものが『日本紀』の諾冊二尊天の浮橋の故事同然に心得たる著しき故事に御座候。それを輪講諸子が御存知なきときは実に欠陥事と存じ候付き、拙児昨今はなはだ宜しからず、加うるに十七日は前夜より小生の銀行預金の義に付き(小生に取りてはずいぶん大金なり)、折衝を要することあり、拙妻が早朝より行き向かい談判して方を付け候。実に大騒ぎの当日なりしにもかかわらず、十六日の夜眠らずに(実は病人が騒ぐから眠られず、また他のことはできざりしなり)伴作の故事を認め差し上げおき候。今日あたり御玩読、おれも伴作の据膳にあいたいと言わるる最中と存じ申し候。
 しかるに右の稿を認むるうち夜明となり、いよいよ銀行へ妻を差し向くる予備にかからざるべからざることとなり候付き、『新著聞集』の全文を写し了ったところで打ち切り差し上げ候ものの、その後文を差し上げぬも遺憾なれば、本日午後引き続きこしらえて、差し上ぐべく候間、『輪講』第二巻の末へ拙稿全く御出し下されたく候。
 伴作に関する『新著聞集』の全文写し了ったところで拙稿全篇と思し召されては後文がつづかず、切りはなして『輪講』第三巻の末へ出されては読者に何のこととも分からぬべき心配あり。よって取り敢えずこの状差し上げ申し候。稿の後文はおそくとも明朝までに差し出し申すべく候。    早々敬具
 
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 昭和二年九月二十四日午後二時半
   三田村玄竜様
                     南方熊楠再拝
 
 拝復。十九日朝十一時半出御葉書は二十一日午後二時過ぎ拝受。小生も『甲子夜話』を見たれど、かのことは見えず候。宮武粛門氏よりの来書に、このことは綱吉公でなく綱豊卿のことと記臆す、しかし委細は忘れ了りぬ、何の書(523)に出たという記臆なし、なお調ぶべし、と申し越し候。何を致せこのわずかに十畳の書斎内にある書籍に載せたることながら、七、八日も虱捜しにして見出でざること遺憾至極に御座候。もし早晩御見当たりの節は御一報願い上げ奉り候。この書斎になきものながら、『武江年表』、『一話一言』などにもあるかも知れず候。
 また右の件を探すうち、なにかの書に土山節とか申す唄のことを筆して、関の何とか申す男(六蔵?)毎夜坂下の土娼に通う、土娼の名は山吹、重、光とかありし。三人の内の一人に通いしなり。そのことを唄に作り、みな人が唄いはやらせたり。のち一人は根引され、一人は旧里へ帰り、一人は病んで死に、その男もそれを愛して死せりとか、あわれそうに書きありし。小生何気もなく看過せしところ、その後ふと『一代男』を見しに、巻二「旅の出来心」の段に、さてこの(坂の下)宿に……鹿、山吹、みつとてこの三人、そのころ柴人のすさみにも唄うほどの女とて、かれらを集め、云々、とあり。右の小生見たる本にはその唄をも二、三載せありし。定めて『輪講』第二巻には出であることと存じ候が、念のため心当たりの本どもを調べみしにこれも見当たらず。俗に物隠しの神という神あってさし当たり人の要する物を隠して出さずと申し伝え候が、小生近ごろこの物隠しの神に祟られたるにや、見出だしたことを一一見失い候。家に病人あって昼夜わめき立てらるると心がおちつかぬによることと存じ申し候。
 『彗星』九月分|難有《ありがた》く昨日拝受、その内に『鹿の巻筆』二にかげろう〔四字傍点〕ということあり。これは木村氏御説通り、かげま冶郎の略たるべく候。嵐雪の『拾遺集』貞享三年のうち、『初雲雀』の巻二、
  雨もよひ陽炎《かげろふ》きゆるばかりなり 其角
  小姓なきゆく葬礼の中           風雪
 これはそのころかげまを身受けして小姓に採用することありしより、かげろうと小姓と縁近きものと見立てての句と存じ候。
 また江戸に三十三所順礼の札所を立てし年月も何かに記しあるを見出で候。これもたちまちその書目を忘れ了り、(524)いかに捜すも見当たらず候。
 まずは右申し上げ候。          恐々
 
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 昭和二年十一月十七日朝十一時
   三田村玄竜様
                     南方熊楠再拝
 
 拝啓。その後しばらく御無沙汰致し候。小生このほど貴出『西鶴一代男輪講』の本文を閲するに、どうも多少の誤刊あるように存ぜられ候が、これらはなにかの定本に拠ったもので、その定本にかくのごとき誤字がありしを、そのまま出されたことかとも存じ候が、如何。例せば、
 一巻三四頁「人には見せぬ所」の条、三四頁末行より第二行めに、「なほそれよりそこらも糠袋に乱れてかきわたる〔五字傍点〕湯玉油切りてなん」。かきわたる〔五字傍点〕は帝国文庫本のうきわたる〔五字傍点〕の方がどうもよく通ずるように覚え候が如何。じきその上文に、「臍のあたりの垢かき流し」とあるに、一、二句下にまたかきわたる〔五字傍点〕とあらば、かくという語重複してまずい。またかき渡る〔四字傍点〕という語はなきようなり。
 小生三十年ばかり前英国に在りし日、『一代男』、『一代女』等に書き入れをなし置けり。何事も若い日のことで、今それをみるにこんなことまで自分が気付きおったかと驚くようなことあり。これをみな写し出して差し上げんと思えど、十月号のごとく〇〇で伏字せねばならぬようのこと多く結局は小生の徒労となる。故に多分は見合わせ、あまりその筋へ障らぬような処のみ写し出して差し上げ候。十月号の〇〇伏字は、その筋より命ぜられ候ものにや、また貴方にて予防的にこれを付せられたるものにや、伺い上げ候。大抵その加減をして写出せねば、いかな面白いことも〇(525)〇に変ぜられては写出も徒労になり申すべく候。
 次に『輪講』一、二の巻は何とぞ今一部ずつ下されたく、この後も三以下の巻二部ずつ下されたく候。これは小生家に長病人あり、時々へんなことをするので自宅でしらべ物をなし能わざること多く、雑賀貞次郎と申し、自奮自修して当地の俳句史や西牟婁郡風俗口碑集を出板せしものあり、小生近ごろ眼宜しからず、読書むつかしきゆえ、この人に大要を授け、小生の心ざす書籍をしらべ書き出さしめ、読ませてのみこみたる上に、自分は少時より写字ばかりしたるものゆえ、字は分からずとも行《ぎよう》さえ分からばこの状ほどの字は書き得るゆえ、どうやらこうやら書き得るなり。『輪講』への投書なども右の人に小生みずから書いたものを読み調べさせた上、小生に読み聞かさしめたる上、自分覚え込んだ上書きてさし上ぐるなり。そのうち、記臆たしかならぬときは、いろいろと苦辛してその書をみずからさがし出しムシメガネでそこだけ読み覚えるなり。雑賀も多用で小さき新聞を出しおり、社長兼編輯長兼探報者兼職工頭兼配達人であまり好まぬことながら、旧知のことゆえ小生よりハガキが届くと、二、三日のうちには必ず来たり助くるなり。拙方病人あるゆえ茶一つ出すことならず。また何一つ礼をするということもなし。この人はなはだ読書を好めど貧乏で『一代男』などは見たこともなし。よって平常いろいろと厄介なことを頼む礼にこの輪講本をやりたく思うなり。
 小生は山崎楽堂氏などは承知ならん、和歌山で山崎氏が第一、小生の家が第二といわるるほど有福な家に生まれしが、自分在外中に父母共死亡、家兄身代限りして死亡、小生の弟小生の遺産をごまかしてしまいしも、小生金銭のこと疎くて久しく気付かず。過ぐる大正十年隣人と喧嘩したることあり。その節家弟等小生をすすめ単独で研究するより植物研究所を立つべし、しかるときは隣人に宅地を侵害さるるようなことなしとのことで、小生寄付金を募り只今大分できある。しかるにその金を小生が銀行へ預け(今は信托会社へ)たるを弟は気に入らず、自分このことを首唱し小生に勧めながら今に約束の寄付金を出さず。
(526) これは和歌山の人は有名な不正直なものばかりで、小生大臣とか何とかに知人多ければ小生みずからかけまわらば数万の金は集まるべく、それを家弟自分が預かりて日歩にでもまわし自家の営利を助くるつもりで小生に研究所を立てんことをすすめしことと後日に判り候。しかるに家弟め評判あまり面白からず、また、これら寄付者においても金の性質においても、一箇人に預けおくべきものにあらざれば、小生は銀行に(次に三菱と住友との信托会社に)預けたるなり。それを不服らしく候。
 また、この宅を小生に売り渡さず、また小生の亡父より伝えたる田地を、小生  癒痕を患いビールばかり飲んで夢中になりおりし間に、小生に委任状を書かせ(小生は自分の田地を弟に預けある。その田地の所得税の代納を委任するつもりでかきしを、この田地を弟へ譲渡することとして詐用し)、五百円の謄記料を托し自分のものに書き替えあり。そのこと一昨年春初ようやく分かり申し候。よって妻をしてかけ合いに往かしめしも、前方は十分その心構えの上なしたる巧み深きこと、拙妻は小生生家の履歴を知悉せざることゆえ何の苦もなくやりこめられて帰れり。
 小生はチブスにて臥しありしゆえ、みずから往き得ず。妻の不甲斐なさを叱りし。それを洩れ聞きて悴がこれも流感で臥しありしがはなはだ遺憾なことに思ううち、流感ようやく治して三日めに高知へ受験にゆき、途上大風波にあい、上陸すると同時に発狂、もはや二年八、九ヵ月少しも治せず。小生は和歌山へ談判に上らんと欲すれども、小生が不在となると悴がいかなることを仕出だすか測り知れず。止むを得ず二年半以上、門を塞ぎ客を絶して面白からぬ月日をおくる。時々わずかの投書をする原稿料の外に、何たる収入もなく、わずかに篤志の友人より小生自分に寄付されたる金円の利子にて看護人などやとい、自分は畑に菜を作り菜食をもっぱらとしおり。ために腹は立たねど至って痴鈍となりおり候。研究所への寄付金は小生がむやみに取り出し私用すべきものにあらねば、臨時に取り出さぬこととして預け入れあるゆえに、手本はなはだ不如意で一冊五十銭の書を買って人にやることも、たちまちその日の糊口にさし支える。さりとて何か時にのぞんでやらねば人が助手に来てくれず。よって右『輪講』の件願い上ぐるなり。(527)その代りには一層奮発して『輪講』の助けとなるべきことを、なるべく多く捜し出さしめ、自分もわ〔傍点〕印《じるし》のことどもをなるべく多く臆い出して書き列べ差し上ぐべく候なり。
 『弘法大師一巻之書』は本文を写すはわけもなきことながら、それでは分からぬこと多し。たとえば薩摩詞にきゃたつ返しという一法あり。これは脚達《きやたつ》の講釈からして始めねば面白からず。この類のこと多し。少しずつ書き下しおり候間、心|徐《しず》かに御まち下されたく候。
 小生の随筆、これまで他人をして編次せしめ候ところ、とんでもなきもののみ出すゆえ、今度は自分で編次して出すことと致し候。出板の上一冊進呈せしむるから、なるほど面白い書だとか何とか貴殿『日本及日本人』か何かで御書き立て下されたく候。その内には『西鶴輪講』のことも貴方へ差し上げしより一層詳しく書きあるなり。             早々敬具
  小生眼あしきゆえ、この状自分でも読めず。宜しく御察読願い上げ奉り候。
 
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 昭和二年十二月三日早朝三時
   三田村玄竜様
                     南方熊楠再拝
 
 拝復。十一月二十九日出御状十二月一日午後拝受。二十円郵便小為替御送り下され、大旱の雲霓を得たるごとく、また『彗星』木兎網の条に申し上げたる万世橋際の歯力芸人のごとく、オッカア大枚二百だぜと見せると荊妻も大きな尻餅搗いて悦び候。まずは天気もよし、久々でみずから郵便局へさっそく引き替えにゆき、帰途小綺麗な果子《かし》店の前を通ると、四十二、三の大年増が出で来たり、珍しや先生御久し振り、まず御機嫌宜しき体を拝してお嬉しう存じ(528)ます、聞けば永々御家内に御病人がある様子という。その女をみると、むかし当地で左褄をとりし小楽《こらく》本名和田|澄《すみ》という女で、小生三十五歳のときこの地へ来たりしとき、初めてこの女と同席して聞くと自分と同じ和歌山の生れ、小生少壮のとき自宅の近処の橋詰へ毎夕図のごとく小さき丸き烏賊《いか》を、生きたままでもなかろうが、炙って足をいかにもいかめしく捲き上げしめ、両臂を背より後ろへ曲げ延ばさしめ、その腹に飯を付けていかの背に飴《あめ》をぬり、いかにもうまそうにし上げて売りおった老人あり。その老人の娘がこの女と知れて、同じく是れ天涯淪落の人が、嗟歎もすればまたほ〔傍点〕の字でもありけん、近郊の濁り井の底より、イモリを一疋とりて半紙につつみ、その半紙の底に書き付けける、
  黒焼きになるたけ思ひを焦がしてみても 佐渡の土ほどきかぬもの
 ところがこの女無双の虫嫌いで、紙を披《ひら》いてイモリの這い出ずると同時に卒倒し大騒ぎとなり、医者を迎えてようやく落着。それから久しく逢わなんだが、只今当町長の権《ごん》の方となりて数万金をせしめ、昼は件の果子店を開き、夜は例のことで夜を専らにし、全盛限りなき様子。右に申すイモリを包みし紙は、その節誰かが?《さ》き被りしも、この女心がけよくていき吹き返したのち捜し収め今もありとて見せられ申し候。
 右に述べたるごとき烏賊ずしは、東京でも作り候や。なにかの能に、章魚が右のいかのごとくいかめしく足を捲き上げたやつを頭に被りて舞うのがあったが、それも名を忘れ了りぬ。
 紀伊国文左なら、これで表具して大事に取っておけ、おれが死んだら千円が物はあるとでも言うて、只今郵便局で受け取った二十円をなげ出すところだが、落ちぶれば落ちぶるるもので、こんな女を見るほど金が大事に覚えてそのまま逃げ帰り申し候。惟うにむかしの滝川一益などいう奴は、小生同様遭際が変わるに随い根性がもってのほか下劣になりしものと推察致し候。
 その節、以前小生がこの女に伝授しやりし江戸|出来《でき》の大津絵文句を再問され候に、貧は諸道の妨げとか、自分が教(529)えた文句まで忘失しおるにみずから呆れ申し候。その文句は、
  きりぎりす、時節とて、虫売り女衒《ぜげん》の手にかかり(渡り?)、江戸の町々籠にのり、うられて買はるる身のつらさ、ほんに思へば今さらに、久離《きうり》きられてかごの鳥、親は草葉の蔭になく、思ひきりぎりきりぎりす、座敷では(情なや?)、お客に好かれてなき明かす(夜を明かす?)、儘《まま》になるならこのかごぬけて、飛んで往きたやぬしのそば。
 ?を付けたるは、いずれ正しき全く忘れ了りたる句、また全唄中にぬけたる所あるようでもあり、何と考えても忘れたらば出で来たらず、吾妻《あづま》へ文通のついでに然るべき人に聞いてやろうと申してにげ帰り候。
 また小生、旧旗本の旦那がおちぶれて曲馬足芸師日の囃し方となり外国をあるきし牧野とかいう人より、江戸出来の大津絵きわめて面白く唄わるるを聞きしことあり。いつでも聞くゆえ何とも心に留めずおるうち、その人も見えなくなり、とうとう扣《しか》え記さずに了り候。それは芝の神明祭の生姜の曲物《まげもの》入りを買って帰るところを作ったもので、趣きはやや上方の十日えびすの売り物の唄より思い付いたものかと思うも、全文句忘れ了りたるをいかにせん。何に致せすこぶる面白い大津絵なりし。十年前黒井悌次郎中将(海軍)に問い合わせしも知らず。中将より坪谷水哉氏に聞き合わされしも知らずとのことなりし。(黒井氏は攻玉塾にあって神明祭を毎度見た人なり。)もし輪講の御連中に御存知の方あらば御知らせ下され候よう願い上げ奉り候。
 それからも−一つ江戸の橋ばかりを作った大津絵節ありし。「安宅の関が弁慶橋で、ストトンコロリと渡るのが日本橋」とかいうしまいなりし。これも知った方あらば御教え下されたく、しかるときは、これほどの大津絵の返事が来たとか何とか言って件の女を一撃に行き得るなり。ただしこの女もっての外の大女で、そらわれ〔四字傍点〕三寸と古来申せど、おそらく六、七寸は大丈夫あり。故に小生のごときものが立ち合ったってあたかも子の日に買った燈心一本をもって九段の招魂社の鳥居に突っ込まんとするごとく、何の手答えもなきは明白なれば、そんな御心配は入らず候。まずは(530)右御礼まで申し上げ候。          早々敬具
  「かき渡る」とは何のことに候や。「うき」のうをかと間違えたるかと存じ候。うう※[可の草書]かくのごとく間違えば間違うものなり。それは別として『輪講』巻一目録「八歳 はづかしなら文言葉」このはづかしならは何のことに候や。万一初板等のいわゆる正本にかくありとも、本文(『輪講』二二頁)に、「はづかしながら文言葉」と印刷しあれば、はづかしならをはづかしながらと校訂して出す方、一方読者に便宜よからんと存じ候。
 
     10
 
 昭和三年一月三十日夜十時
 
 拝呈。二十六日出書留御状今日午後一時ごろ拝受、御封入の金二十円の郵便小為替忝なく拝領致し、御礼申し上げ候。「西鶴輪講」の分は後分出来おり候えども、その中の「夢違いの獏の札」の一文は、ことのほか長くかつ一世一代の名文に付き、前日御申し越しの御旨趣も有之《これあり》、これは輪講分を離れて別に『彗星』本項として出されたく、一世一代のものゆえ再三書き直しおり、出来次第差し上ぐべく候。         早々敬具
 
     11
 
 昭和三年八月十七日早朝三時頃認め候
   三田村玄竜様
                     南方熊楠再拝
 
 拝復。十三日出御状一昨十五日午後四時過拝受。いろいろ御面倒の儀相かけ恐れ入り並びに厚く御礼申し上げ候。御返事の様子にては、春陽堂の方には『南方閑話』程度の物とばかりでは何やら分からず、要は作り上げた上でなけ(531)れば値踏みはできぬということと察し申し候。そんなことでは何のあてもなく作り上げた上御覧に人れて気に召さずときたら、小生の方は丸で徒労となるから当分このことは見合わせ申すべく候。
 次に小生、わずかの手当てを貰い、五、六日中に当県日高郡の川又官林と申すへ林区署の依頼により自分の亡兄の遺児(札幌農科大学を今春出たる二十四歳の農学士)を伴い、他に東京より学士二人ほか一人来たり、共に出かけ申し候。その人々は数日にして引き上ぐるべきも小生は甥と二人ふみ止まり、三、四十日も植物調査を致し申すべく、不便極まる深林中ゆえ、その間は自然『彗星』へ寄稿も叶うまじければ、只今多忙ながら別紙一、二条だけ清書して差し上げおき候。留守中の御状は家内より転送致すべく、また『彗星』、『輪講』等も到着の都度当地より林区署長および署員が持ち来るべければ、相変わらず御送り下され候よう願い上げ奉り候。
 右申し上げ候。                敬具
  この状認めてのち、いろいろ用事多く、ようやく只今二十七日の朝、原稿すべて四条、十三枚認めおわり、差し上げ申し候。(別封、第四種郵便)
  別紙は夜明けてのち清書して差し上ぐるゆえ、この状は二十七日の夕までに出すことに御座候。ただしできるだけ早く出す。
 
     12
 
 昭和三年十一月八日夜十一時半認、九日午後一時集配人に渡すつもり
 ただし、雨天ゆえ果たして集配人来るか否、分からず
   三田村玄竜様
              和歌山県日高郡川上村妹尾国有林官行斫伐事務所にて
                     南方熊楠再拝
 
(532) 拝啓。その後大いに御無音に打ち過ぎ申し候。十月十一日東京より二友人田辺拙宅へ来たり、その一人は十五日に上京、今一人と同道して小生日高郡川又国有林にゆき、それより十八日に当山へ来たり、二十一日早朝友人は出立上京し、小生のみ今に留まりおり候。山下より九十五町を機関車で橇《そり》のごとき小車をひかせ、それに乗って上り候。五百町歩の大森林にて鳥の声さえ聞かぬさびしき所なり。むかし平の盛衡というもの落ち来たり、その徒百人集まりかくれたる所ゆえ百人長屋と申す。その趾に事務所あり、小生それに留りおり候て、日夜菌類を集め記載図画致しおり候。
 十月の『彗星』は定めて拙宅へ届きあることと存じ候も小生いまだ見及ばず、不日転送し来ることと存じ候。この地は少しの炭焼き小屋にすむ人々の外はほとんど無人の境にて、夏中国有林をきるときは六十人ばかりすみ候由。只今はそのことなきゆえはなはだ淋し。本月二日ごろまでは樹より蛭落ち血を吮うことありし。ことに閉口なるは蛇多く群集しおり、幸いに建築内へは入り来たらず、また、はさみ虫と申すもの多く昼夜舎内をはいありき夜分は臥内に入り、時として一物をはさみ候由、しかし小生ははさまれしことなし。
 大笑いな一条は、林区署の監督、ここより山を隔て二里余の処に五十家ばかり列び旅宿も二軒ある小繁華な地にすむ。三十ばかりの人ゆえ妻も二十四、五なるべし、子はなし。この人毎度この所へ来たりいろいろの珍物を採りくれる礼に、前日東京より到来のスイス製のグルユエー(乾酪)一塊を与え、(以下小生の手製にあらず、十六世紀ごろの仏国で行なわれし説なり。もっとも少々は敷衍増補せりと知らるべし)この品は男にはただ筋力を増すの効あるのみなれど、女に与えて(西洋の豆腐とか何とか唱え)試み食わしむると、その夜かの処|鞠《まり》のごとくふくれ上がり、脈打ち熱さ増し、何ともならず、ついに蚤ひどしと言うてころげかかり来たり、また夢に魘われたふりしてしがみ付きにくる等、逸興無辺なりと説きしに、大いに随喜してこれを十襲し、持ち帰らんとするところへ、大阪より技手来たり、たちまち同行して竜神村の国有林を巡察することとなり、不承無承に打ちつれ行きしが、それがすまぬうちに、また(533)御大典祝宴参列のため田辺営林署へすぐ来たれとの召しに応じ、龍神より帰宅せず、すぐに田辺へ今日趣き候.さて田辺で祝賀つづき十四日ごろようやく帰宅するはずなり。そのあいだこの人はかの妙薬を秘蔵して虎の子のごとく大事にもちあるきおることに御座候。これほど心をこめたる深切だけでも届いて、今ごろは留守宅の細君は面白い夢を見おること疑いなし。夫はチーズを帯びそこここ走り廻り、油だらけになることと存じ候。まずはあんまり御無沙汰ゆえ申し上げ候。              謹言
 
     13
 
 昭和四年六月五日午後五時
 拝啓。本年四月六日原稿一袋第四種郵便にして差し上げ候。その目録左のごとし。
(1)「一字千金」
(2)「読『一代女輪講』」、次の六項より成る
  豊島筵、鼻の先智慧、悋気講、石菖、那智石、黄色なる絹の切れ
 しかるに五月号には載らず、四月二十九日柴田氏へ書きおくれるハガキ三枚つづき分(粽の一連、産女霊、皆思謂《みなおもわく》の五百羅漢)が出でおり候。編輯上の御都合によることと思わるるも、柴田氏よりの来書では右四月六日の分は貴下より今に柴田氏へ廻し来たらざる由、あるいは書留でなかったから途中紛失にあらずやと疑われ申し候。如何のことにや。ずいぶん長々と骨折って書きたるものゆえ、ちょっと御返事下されたく候。以上。
 
     14
 
 昭和五年四月十七日早朝
 
  (534) 拝呈。小生『五人女』の「文珠様は衆道ばかりの御合点」なる語について古今東西網羅大博綜の考証を草しおるうち、三月分の『彗星』今に着せず、途中で失われたることにやと柴田君へ伺い上げしところ、咋朝八時返書着、同誌はどうやら廃刊の由、大いに力を落とし申し候て右考証を中止せり。よって柴田君へも願い上げ置き候が、最近差し上げ置いたる「紙子について」なる拙稿八(七?)枚は、何とぞ書留郵便にて御返却願い上げ奉り候。昨年四月来拙女二十歳なるもの盲腸炎にて十一月末和歌山赤十字病院へ拙妻付き添い入りおり、ようやく三月二十一日に帰宅候も、なお向う一年半の療養を要し、時々和歌山へ上らざるべからず。加之《しかのみならず》拙男五年前より精神病にかかり二年前に洛北へ入院せしめしも今に好報なく、小生は昨年より左足きかず、三月二十一日ちょうど娘が帰りし日より左の手の二指しびれあり大弱り、活計のため随筆ごときものを出したきも手足きかぬゆえはなはだしくひまをとり候。よってその足しに右の「紙子の話」をも編入致したく候付き、分けて右様願い上げ候。もしまた他日何か御発行の節は御一報次第義兵を挙げ子分に代筆させてでもいろいろ差し上ぐべく候。         恐々
 
     15
 
 昭和五年十二月十六日早朝
   三田村玄竜様
                     南方熊楠再拝
 
 拝啓。その後大いに御無音に打ち過ぎ申し候。小生長く家内に病まれ、閉口これを久しうするうち、妻と娘はまず元気恢復、悴のみは今に入院しおり(発病後もはや五年、来年三月で満六年になる)毎月の送金に弱り入りおり候。一昨日『五人女輪講』拝受、難有《ありがた》く御礼申し上げ候。『集古』でちょっと拝見候に、『膝栗毛輪講』第三巻(か、末巻なり)出板相成り候由。一、二の二巻は先年ごろ頂戴致しあり。成るべくはこの末巻も御送本願い上げ奉り候。貴著『大奥(535)女中の研究』は、小生またまたなにか申し上げたく一覧を渇望、しかし大分高価のものらしきゆえ東京の友人に頼み一本を購い送るよう五、六日前申しやりあり。その人は必ず送本しくるべき間、これはさらさら御送り下さるるに及ばず侯。
 『五人女輪講』中の衆道の神仏に見はなさるるということに付き、小生長篇を認めあり、差し上げんと思ううち外戚の家に係累せる事件生じ、それがためどさくさ往来致すうち、終に手後れとなり申し候。今とならば致し方もなきことゆえ、またなにかの節御採録を願うの外なし。
 「日本永代蔵輪講」は、幸いに『日本及日本人』毎号本社より寄贈下されおり、その内、「紙衣」のこと、「芋?《ところ》のこと」と、熊野の「天狗氏」と申す鍛工の名家のこと、と「蛇の鮨」のことを取り調べ、自分に分からぬことは諸友より報告を集めあり。しかるに『日本及日本人』は至って四角稜々たるものなるに、それへ例のおどけまじりやエロがかったことを縦横自在に書き立てて、送ったところが掲載されぬこととおそれ申し候が如何にや。もし左様ならば『白本及日本人』へ送る代りに貴下へ原稿を差し上げ、早野勘平は討入りの夜すでに物故しながら幽霊が義挙に参加した例で、今回の『五人女輪講』同前に御出板発行の節その中へ小生輪講に加わった同前に御編入下さるべきや伺い上げ奉り候。
 また小生去年までは多少『日本及日本人』へ奇書致したり。過ぐる明治四十四年河東碧梧桐氏の紹介で同誌へ寄書し始めてより毎年かかさざりし物を、今年家内の病累のため一度も寄書し得ざりしは遺憾の極みに候。当地などにあって『大朝』や『大毎』紙ばかり見ては帝国の現状が分からず、前日の軍縮会議の一件ごときも、『日本及日本人』を読みてやっと事実真相が分かったことに御座候。このことは別と致し、貴所等の御輪講を読みてその都度拙見を同誌へ寄せ、または貴下まで送りおきて右に申す勘平同然一味に入れもらい、出板発行の篇末に編入しもらわんとならば、是非毎号輪講を閲読せざるべからず。この点より貴下何とか政教社へ御咄し、来年も旧により同誌を恵贈さるるよう(536)御頼み下されずや。もっとも妻と娘は健康を恢復したれば小生は時々輪講外のことに付いても寄書は相つとめ申すべく候。
 まずは右多忙中に少閑あるにまかせ当用のみ申し上げ候。   早々敬具
 ついでに申し上げおき候。昨日ちょっと『五人女輪講』を拝見せしに八百屋のことあり。この八百屋と申す名はいろいろの物を売るという義で、八百万《やおよろず》という字を分かち八百屋万屋と申せしらしく、しかして和歌山市などに八百屋町と万屋町とが大分はなれた所にあり。小生等幼少のときすでに八百屋町には何と定まりたる家業のものばかりすまず、諸職の者雑居せるが、万屋町は野菜の市場なりし、また魚市場もありし、乾物(昆布、ひじき、椎蕈《しいたけ》、  叡、こんにゃく、豆腐等)それから帚、土鍋など、厨具、台所向きの物を売る所が万屋という風に別れおりたることにあらずやと察し候。つまり何を販《ひさ》いだにせよ、八百屋は万屋に対して分別されたもので、八百屋のことを説かんとせば、万屋のことも説かざるを得ぬかと存じ候。そのうちとくと調べて申し上ぐべきも、貴方でも御しらべ下されたく願い上げ奉り候。                再白
 
     16
 
 昭和五年十二月二十一日午前十時半
   三田村玄竜様
                     南方熊楠再拝
 
 拝復。十八日出御葉書今朝八時三十五分拝受。『膝栗毛』下巻は未着、不日着のことと存じ候。また前書申し上げ候貴著『大奥女中の研究』は、小生来年出すべき随筆のごときものに各国|椒房《しようぼう》のことをうんざりするはど集め説くつもりのところ、肝心の日本のことが少しも分からず、友人中山太郎氏の『日本婚姻史』および『売笑三千年史』を同(537)氏よりもらい受けしも、筋が違うので椒房のことはありふれた浅近のことしか見えず。
 よって去年御行幸の節当地の蒲鉾製造店の蒲鉾を天覧に供せしに、あまり古からざる店の主人の妹が和歌山で絃妓たるうち、顔貌はすこぶる二の町なるに関せず、かの所の締め加減きわめて宜しきに、当時県会議長たりし男がのぼせあげ引かしめ囲いおける縁故により、その店主のみが製せし品を天覧に入るることとなり候。しかるに当地に最も由緒正しき店の主人は中風でねこみおり、理屈を述べんとしても何を言ってるか分からず。その妻小生方へ走り来たり歎いたので、小生も気の毒に思い、和歌山にある子分の県参事会員をして県庁へやり込んで行かせ、即座に件《くだん》の中風主人方の製品をも天覧に入るることとなりしが、それでは南方先生中風やみの女房が久曠してかの処が蒲鉾の半製のごとく錬《ね》れておるに涎を垂らせしなどと世評もうるさく、当町内の蒲鉾店という店の製品をことごとく御覧に入るることと致し候に、まことに熊楠をして天下を宰《つかさど》らしめなば、この蒲鉾のごとく公平ならんとほめられ申し候。
 そこで熊楠一計を案じ、与三郎が博奕にまけたようにとぼけた顔をして右の中風やみの店へのりこみ、何と大分よい物ができるようだなどいうと、件の女房走り出で、咋夏は御蔭でこの店の面目も立ちましたと礼を述べ、すなわち此方の壺にはまって新製ほやほやの蒲鉾をくれたから、それを東京の知人へおくり、ついでに貴著『大奥女中の研究』の古本があらば買いおくり下され、来年出す著書に大必要だからと言いやりしに、昨日返事あり、『大奥女中の研究』は出板日浅くて古本はなし、新本を買い送らんにも不景気の上に家内に事件ありとか何とか申し来たり、物に成らず。蒲鉾は平生好まず、しかし田辺の物は名品ゆえ友人どもに頒った、この段御礼申し上げ候なりということ、小生大いにあてが外れし体、弥次さんが草津かどこかの湯で、有りっきりの銭で菓子折をかい昨今相識となりし上方男の方へ持ち行きしに、前方から礼と無心を言い出され先手を打たれしときのごとし。
 右の次第で小生大いにしょげおるところへ貴ハガキを受け取りしを幸い、厚顔ながらいっそ『大奥女中の研究』も一冊御送り下されずや。それを参考引用して雑多のことを書きし本は来年出板の上差し上ぐるから、右宜しく願い上(538)げ候.
 政教社へ投書は素《もと》より望むところ.ただ如何と思うは「文殊菩薩を男色の守護尊とすること」などいう題でも、七、八ページも書きつづけては、どうも『日本及日本人』へは向かぬことと思う。故に「永代蔵輪講」の拙注また諸家の説に対する拙疏は、まとめてその都度書留で貴下へ送ることと致し候。貴下これを鑑別して、差支えなしと認むる分は『日本及日本人』へ出し、もしあんまり拙文の性質また長さが『日本及日本人』と権衡比率を失すると思し召す分は貴下方へ留めおき、その代りに輪講出板の際は必ずなるべく悉皆編入して出板さるることとなされたく候。
 小生は目下はなはだ困りおることあり、しかし自分が仕出だせしことにあらざれば(親族の係累なり)、多分抜けることと思うゆえに小暇あるごとに差し当たり『永代蔵』の拙疏から殆め、一、二|文《ぶん》、また三、四文ずつ貴下まで書留で送り申し上ぐべく候。そのうち『日本及日本人』へ出して同誌の読者が読むべしと思うものだけ同誌へ出し、輪講愛読者に取りては面白がらるべきも、『日本及日本人』一汎の読者に何の興味もなかるべしと思わるるような物は、輪講出板の際までまちてこれを出板するよう願い上げ候。
 また先便申し上げ候『五人女』のどこかに誰かが説き及ぼされたる紀州|花井《けい》の古名物たりし紙子用の紙は、只今は全滅なるが、その古きものを小生手に入れたり。小生手許に置くも何の用もなく、そのうち家内が鼻をかんだり一件を拭いたりするは知れたことゆえ、林若樹、木村仙秀二氏に呈上し永く保存を乞わんと思うが、輪講の会席でこのこと御話し出し、御承諾あらば御本人よりハガキにてちょっと住処番地共に御申し越し下されたく、しかる上由緒書きを写し添えて書留で御本人へ送り上ぐべし。このこと御忘れなく御頼み申し上げ置き候。つまらぬ物ながら後世容易に手に入らぬ物ゆえ流石《さすが》に惜しまれ申し候。             早々敬具
  『日本及日本人』は来年も送らるるよう社へ御話しおき下されたく候。送られずば輪講を拝見すること能わず。
 
(539)     17
 
 昭和六年二月一日夜十時
   三田村玄竜様
                     南方熊楠再拝
 
 拝啓。今年元日の『日本及日本人』は今に当方に着せず。その前後回の分より推測するに、この元日号には『永代蔵』の輪講が平常の分よりは多く、三章まで載りあるはずにて、その内には小生平生考えおける事項多きに、元日号が着せざるゆえ、小生の考説を取捨刪如すべき程度が分からず。むやみに珍説新考らしく思うて貴下へ送り上げたところが、元日号に、小生通りもしくは小生よりは一層よく考えて出されあったら、大いに小生の徒労また恥曝しとなるはずなり。よって元日号を送られんことを社の方へ懇請したるも(一月十八日)、今に送り来たらず。
 小生はちょうど二十年前大正元年まだ改元されぬ夏より、今に毎年『日本及日本人』へ長短の文を投寄し来たり、社よりも毎号洩れなく寄贈され来たれり。しかるに五百木君が井上氏に代わりて社主となってより昨年元日号を送り来たらず。よって履歴を述べて請求せしにさっそく送り来たれり。それに今年また元日号を送り来たらず。はなはだ邪推かは知れねど、震災後東京の人気が上方同然またそれ以上に贅六化し、たとえば小生の生家の造酒ごとき、震災前とかわり一向仕払いのよき年とては一年もなく、債促すれば百方遁辞を構えて仕払わずにおし通すこととなれり。その通りで元日号は他の諸号よりは嵩高にて郵税も嵩み代金も高くつくところから、なるべく恵贈を見合わすという風になりたることかとも察し候。
 とにかく元日号を見ずに拙考を輪講に加うべきにあらねば、貴下元日号を一冊買い求め小生へさっそく贈られたく候。代価は平日号と異なるべければ着の上代価いかほどということをその号の値段付けについて一見し、送金申し上(540)ぐべく候。たとい貴下より口添い下されたところで社の方に小生へ恵贈さるる気分がなくば、到底話にならぬべく、それよりは貴下一部買って贈り越し下されたく候なり。   早々敬具
 
     18
 
 昭和六年三月二日早朝四時半
 拝啓。昨今当地寒気烈しく日来雪ふり、今夜小生眠らずに「永代蔵輪講」の補説を認め、このハガキと共に出しにゆく。実に老体苦労なことなり。しかして『日本及日本人』には輪講を載せた場所と全く疏遠な頁へ輪講に関する投書を出すこと多し。これは紙面の都合止むを得ざることならんも、輪講の編輯を宰らるる貴下は何とぞ毎号各頁に目を透し、小生どもの寄書を一つものこさず輯録して、他日出板のとき編入されんことを願い上げ候。
 宮武省三氏は上方の新旧世態のことに詳しく、輪講の輔翼としてまことに欠くべからざる人なり。しかるに、二月初め来『日本及日本人』は不着の由、政教社の人々は口には水晶のような品々たる正義を唱えながら、毎度かかる怠慢多きははなはだ言うところに合わぬと苦々しく存ぜられ候。
 寒さで手痿えて書くこと十分にならず候。以上。
 
     19
 
 昭和六年八月六日早朝三時
   三田村玄竜様
                     南方熊楠再拝
 
 拝啓。その後大いに御無沙汰に打ち過ぎ申し候。小生去年末より足が神経痛で火で灼くごとく熱し、また今春初め(541)より脊髓辺痛み大いにこまりおり候。これはあまり久しく坐して鏡検写生するより起こり候ことにて何とも致し方なし。雑誌『今昔』毎月御送り下され、難有《ありがた》く御厚礼申し述べ候。「永代蔵輪講」に加うべき一事有之、この状と共に政教社へ送稿致し候。しかしそれが『日本及日本人』へ出るころは、あるいは「永代蔵輪講」が出板さるる間際に迫ることと相成るべくやと存じ候付き、あるいはもはや及ばぬこととは存じながら、左に全文写し御覧に供し候。もし間に合わば御出板の節御収載を冀い上げ候。
 次に『犯罪科学』雑誌の五、六月ごろの号に、貴殿の「釜入りの刑」の一文を拝見致し候。釜入りは「釜煎り」、「釜煎り」などかくが正しきよう存じ候。しかして貴説には、勝頼、家康ころよりこのこと行なわれしょう御記載ありしと記臆候が、小生知るところ、それより先、弘治のころ美濃の斎藤秀竜がすでに釜煎りの刑を行ない、ことに顕著なる惨酷さは、親子兄弟相煮せしめしことにて(かかること清朝にもありて、官兵が回匪を虜してその妻をして夫を煎る薪を添えしめ、さてまたその妻を懐抱して十分慰さんだ末、飽きがくるとこれをも煮てその肉を食いしということをさも快然と記しあり)、この一事は道三の外には本邦に前後聞かざることと存じ候。
 この一件は右雑誌の前編輯人田中直樹氏がしきりに何か筆するよう頼まれしより、書かんとすれど、右述通り足が痛くて長文を認め得ず。よって間塞《ひまふさ》ぎにこのことを短く記して同誌へ寄せたるところ、そのころちょうど何かの子細あって突然田中氏がかの雑誌を引退され候より、右の稿はどうなったやら、今に掲載されずにある様子に御座候。短文のことにて別段惜しむべきものにあらず。また近ごろの同誌に没書の稿は一切返却せずとあれば、小生は返してほしくも何ともなきが、もし御一覧相成るなら、今の編輯人へ御聞き合わせ下されたく候。
 まずは右申し上げ候。    早々敬具
 
(542)     20
 
 昭和八年二月二十一日早朝
   三田村玄竜様
                     南方熊楠再拝
 
 拝復。十五日出芳翰は十七日午前八時四十分、『武家義理物語輪講』の一は一昨十九日朝九時に拝受、御厚礼申し述べ候。右の御状に、「また御指摘の御同役も鉄拵えも言わぬ言葉なき物に有之《これあり》候」とあり。この意味小生に解しかね候。「言わぬことはなきものに有之候」、すなわち全くかかる用語なきにもあらず(いわば言い得る)との御意に候や、あるいは「言わん方《かた》もなきものに有之候」(論にたえたるもの)という義にも有之《これある》べくや、何とぞ今一度御明示を願い上げ奉り候。
 『武家義理物語輪講』これは単行本として初めから出板遊ばされ候ものにや、またなにかの雑誌へ連載されおるものにてその別刊本を賜わり候ものにや、伺い上げ奉り候。小生前年この小説に多少注しおきしものあり、もし右は何かの雑誌へ御連載ならば、拙注を抄して時々その雑誌へ出したく存じおり候。
 例せば、巻一の二「ほくろは昔の面影」は、(過ぐる大正二年の小生の日記に)左のごとく注記しおり候。『古今事類全書』後集巻一三に、申すまでもなく光秀の妻が髪を売って客を饗した云々は『晋書』に見えたる陶侃の母のことを模せしなり。
 外史氏のいわく、世間のことは表と裏とあり。諺に「煩赤陰臭、白広黒堅」と申す。頬赤のことは姑く措く。顔の白い女はややもすれば広くしてしまりわるく、二、三度子でも産んだら、尋常の男の物をもってしては尾張の熱田の大鳥居の下へそうめん一筋つっこんだごとく、何の手答えもなく、すぐ双方に飽きがくるものなり。これに反し孔明(543)の妻のごとく黒色な女は彼処まことにしまりよく、かつ夏は涼しく冬は熱し。その上年を取っても英語で申さばプラムプすなわちホオズキの実のはり切れたるごとく弾力全盛にして何ともいわれぬ面白きものなり。小生若いとき米国の南部から西インド諸島におりしに、白人の女はどうも白人の男にもてず、あんな桃花の顔色ある妻をもちながらと思わるる白人の夫が、ダボハゼのごとき醜顔にして狸のごとき悪臭ある黒奴の女を囲い者にし、毎々嫉妬で警察沙汰、はなはだしきは殺人に及ぶを見しことに候。またローマ帝国の初めごろはギリシアの女が好まれたが、ネロ帝以来婬道大いに興りてよりは、アフリカより輸入する黒奴が大いに尚ばれ候。これは当時の歴代の彫刻を見ても分かる。すなわち古いやつはいずれも鼻高くせい高き白皙種の女を模型にしたが、のちのちは鼻低く腹太りし黒奴女がもてはやされたるなり。
 故にさすがは孔明なり。女は顔より床上手というところに慧眼炬のごとくで、黄氏の女を好んで迎えたことと察し候。進んで盲女を妻《めと》った劉廷式またその通りで、むかしより「座頭まら」とて好婬の女は盲人を好む。これは明代に盲人をして税金催促に遇ってはいかな武士もへこたれたるごとく、眼が見えぬからどんなあわれな顔をして見せても何とも感ぜず。一儀に及んでもなかなか根気よく健闘をつづけ、容易に精を洩らさぬなり。盲妻またその通りで、いつまで草のいつまでもふるまいつづけ、なかなかくたびれるということなし。ここをよく弁えて、廷式はいかにも義?らしく、盲女を娶ったはなかなか見識ありと思われ候。この外まだまだ述ぶべきことあるが、この状はこれだけに致し候。           早々敬具
 
(544)   宮武外骨宛
 
 明治四十五年五月二十七日夜十時
   宮武先生 御坐下
                     南方熊楠拝
 
 拝啓。前月十六日付芳翰を賜わり、また、昨日は拙文「婦女を?童に代用せしこと」御掲載成し下され候『此花』第二一枝、御恵贈|辱《かたじけな》く拝受仕り候。小生事も在外十五年の間常に欧米の諸博物館にて浮世絵を扱い、また大英博物館にて pornograpy(淫画学)および男女に関する裁判医学を専攻致したること有之、『此花』創刊の節より、毎々投書御採録を願わんと存じ立ち候うち、かの神社合祀の暴令出で、極力反対三年その暇を得ず、また、大いに食らい込み申し候。しかし、近来は朝野の名士に拙著『南方二書』を配布してより大いに勢いを盛り返し、合祀令は見事失敗と相成り、小生もようやく旧業(植物学)に復するを得おり申し候。かかるところに七月限り『此花』廃刊の由広告拝見、大いに驚き入り申し候。小生かねて第四枝の表紙うら、失恋供養の長塔(田代という人、千人切りの話)のことに付き、考えたるものあり。また、貴著『猥褻風俗史』中、「伊勢参詣の男女神威を?して二根離れざる伝説」に付き、類話を内外古今、集めたるものあり。いずれも合祀捫択済み次第、浄書して貴覧に供し、もし採るべきところあらば抜要のみでも『此花』へ御掲載の栄を得たく存じ候ところ、右の次第廃刊と聞き、大いに弱り申し候。もっとも近く小生等首唱にて東京に民俗学会を起こし、本月八日発会式挙行、七月より雑誌発行に付き、それへ出さんかとも存じ候(545)えども、右二文は全く『此花』へ投ずべく支度してかかりしものゆえ、風俗学会へ出さんとならば、また、『此花』および『猥褻風俗史』中の関係の文章を全然書き入れざるべからず。その他諸処その心得で改竄せざるべからず(会則に抵触を避けんため)。
 右の次第に付き、伺い上げ候は、もし右二文の中、一文なりとも差し上げ候わば、最終刊の『此花』へ撮要のみでも御掲載下さるべきや。もはや材料あり余りその余白なしとのことならば、御返事下さるに及ばず。もしまた多少ともその紙面あらばせっかく認めたるものゆえ、何とぞ憚りながら何月何日原稿〆切と御知らせ下され候よう願い上げ奉り候。        早々以上
  小生は悪筆御覧のごとし。その上顕微鏡のみ用いつづけおり、ために近来眼はなはだ悪く、したがって他人が読み得るように浄書するには、右二文四、五日はかかり申し候。
  古き浄瑠璃、また西鶴の著書に、独り笑いの人形を小間物屋が売りありきし記、散見致し候。永正のころすでに枕売りなど、かかるもの密売せしことかとも存じ申され候。
  『此花』第二一枝、枕売り、「今一の形《かた》も持て候。ひそかに召し候え」。小生は東形《あずまがた》などいう房中の具を枕売りが持ち売りありきしことと心得おり候。
 
(546)   中山太郎宛
 
 大正十五年一月三十日夜七時
   中山太郎様
                     南方熊楠再拝
 
 拝復。二十七日出御状咋二十九日午後三時ごろ拝受、しかるに拙方ことのほか多忙にて取り紛れ、ようやく本日拝誦仕り候。拙稿出板の件は貴殿の御世話と申し、また岡書院主も余程よく訳の分かった御方と相見え、小生において大体異存|無之《これなく》候が、念のため申し上げたきは、
 (一)稿料売り切り  五百円
 (二)拙稿は、『人類学雑誌』、『郷土研究』、『民俗』、『此花』、『日本及日本人』、『変態心理』、『考古学雑誌』、紀州『牟婁新報』の八種に載せたるもの
と有之。愚考には右八種の内、『牟婁新報』に載せたる分は、今度の文集に入るる価値なきものに候。田辺(また推し広めて紀州、もしくは和歌山県)と申すは、まことはつまらぬ小天地にて、今日といえども東京とか、大阪とかの人と対等して話せる人物は無之、したがって小生沈淪して二十年近く、そんな地に在り、そんな地のものと小ぜり合いを致したる議論などは、後年小生の伝記、履歴でもしらべる際に入用かも知れねど、小さな禿祠《ほこら》一つ移すを難じたり、隣宅に家を構えたるを抗議したり、相手が相手ゆえ、実に話が小さく、かつ話が小さいだけに、いろいろの取るに足(547)らぬ小人どもの姓名、伝記、履歴、家業から町名、村名、山路の名までに地図を入れねば分からぬ等のこと多く、またこの地方限り一切他に通ぜざる方言・郷語(それが非常にキザな響きが多きなり)をもって充たされおり。小生欧州の大都におりし際、例の米人がシカゴはシカゴ、ニューヨークはニューヨーク限りを大天地と心得、事々しく、些々たる地方のことを吹聴する新紙を見るごとに胸わるくなり、こんな反古紙を多く発行するは実にむだなことと存ぜし。それにまた千万倍したる無用の贅事がすなわちこの『牟婁新報』の拙文の再板と存じ、いわば権兵衛、太郎作、埒もなき禽獣どもの名を揚げやるようなことになり申し候。封建の世ならば一市一藩のことをことごとしく筆するも止むを得ざることながら、右様のものを小生の文として出すは今日の世に合わぬことと存じ候。
 かつ、この『牟婁新報』は小生多年ただ書きやりしに、社長毛利と申す人、ややもすれば小生を社員として俸給でも与え使いしよう傲語するらしく、また今度岡書院にて出板せんとしてその旧紙を求むる等のことありても、なかなか毛利よりの要求重大にしてちょっと話にならぬことと存じ申し候。この『新報』に出して多少岡書院で出さして然るべしと思うものは、小生の「神社合祀反対意見」だけなるべく、それは『南方二書』と題し、柳田国男君が私刊して田尻稲次郎、志賀重昂諸氏三十余名に配布され、その後小島烏水氏が『山岳』と申す雑誌(山岳会員の出板)に二号に連載せるものあり、これを出されたらそれで宜しきことと存じ候。柳田君手許にあるべく、また山岳会員の人にかけ合わば貸してくれることと存じ候。掲載の年月日は小生控えあり申し候。とにかく『牟婁新報』に出せる文はあまりに世界が狭く、田辺町外の人に読ますも何の感興なきことと存じ申し候。また、毛利氏は只今和歌山にあれば(和歌山の『紀伊毎日新聞』社長なり)、旧紙がたとい当地牟婁新報社にありとするも、その取りまとめは到底不可能のことたるべし。
 故に右の『牟婁新報』を除き、『南方二書』(または『山岳』に転載の方)。〇石橋臥波、富士川游二氏が出せし『人性』。〇三村竹清、林若樹二氏の出さるる『集古』(この『集古』の昨年分に出せし「海老上臈」は小生一世一代の古(548)雅なものと評せらる)。〇本山桂川の出せし『土の鈴』と『土俗資料』に出せし分(ただし左の六篇を除く)。
  ただし、この内(1)「巨樹の翁」。(2)「大木の話」。(3)「大岡裁判」「伝吉お六の話」。(4)「妖怪が妖怪を滅ぼす法を洩らした話」。(5)「死んだ女が子を産んだ話」。(6)「子安地蔵の話」。外に『変態心理』昨年九月分に載せたる「人柱の話」。以上を本山桂川氏が今回「閑話叢書」とか申すものとして出すに付き、売り切り、今朝三十円送り来たり申され候。小生只今貧乏にて今少しほしかりしも、本山君も土俗学熱心のあまり敗亡して東国に走られ、その折また震災にあい、大いに尾羽打ち枯らしおる由承り、同貧乏怜れむの情に堪えず、三十円で売り切り申し候もの、すなわち金は現なまで今朝受け取り申し候。
〇『大阪毎日』紙に出せし分(これは主として毎月翫賞する植物伝説なり)。〇『現代』に連載の分(一々覚えぬが、桑名徳蔵の話および安井魁介氏の付記、これにより当国東牟婁郡串本の橋杭岩は天然記念物となれり。それから「鳥を食うて王になった譚」と題し、実は「淫学大全」の大要を述べたもの。これは『現代』社の仕方あんまり刻薄なるゆえ、大正十一年新年号に大広告を出させたのち、突然掲載を見合わせ、原稿を返しもらい、今に保存しあり。その分も中山氏におくり貴方にて写しとり、原稿は小生へ返却さるることとしてならば渡し申し上ぐべく候)。〇それから宮武外骨氏の『不二』新聞に出せし分(これは毎度その筋より叱られ、裁判になりしこともあり。外骨氏入獄の一因をなせしものなれば、よほど気を付けずばならず。本紙はみな手許にあり。これも中山氏の御人物に依頼し、おくり上げ写し取りたる上、必ず返されたきこと)。〇今昔物語出所考。これは『郷土研究』に連載せし分を芳賀博士の『参攷今昔物語』に転載、そっくり頂戴されて、全篇に小生が作ったものとも、拝借したとも一辞の言いわけなし。実に博士に似合わぬ卑劣な仕方と存じ候ゆえに、その後分を何も出さずに秘蔵しあり。よって御望みならばその後分をも進上するから、(たとい『郷土研究』より転載さるるにしても)必ずこの一篇は熊楠ことに時日を費やして『郷土研究』に載せたるを何の断わりもなく芳賀の参攷本に転載したるものということを必ず弁じ、明記し置かれたし。然せざれ(549)ば人は小生が芳賀のものを盗みしと思わるべし。ただし、『郷土研究』に小生が連載したることは同誌の読者はみな知るところたり。
〇それから「十二支考」(これも貴方にて写し取った上原稿は返さるべきこと、後分を作る時に入用ゆえなり)の中、鼠の分(これは未成ながら完成しある)、子の日の松考と、大黒天、歓喜天考の分だけは、中村氏にうりし外なり。 以上を追加して六百五十円下さらずや。これは小生目下英国の書肆に書籍の郵税が古二十円ばかり凝《とどこお》りあり。この勘定たる、すこぶる小むつかしく、ちょうど震災の前に小生の注文せし書物が、震災後に着せしが、郵便局多事のためか、小生へ着かざりしもの多少あり。しかして毎度書籍の郵便は書留にする例なるに、そのときの発送分に書留にせし証左なきものあり。故に先方書肆はみずから好んで危険を賭せしものとなる。そのうち小生より英国の一書肆へ送金せし金額を大阪の郵便総局で書換えの際|手過《てあやま》ちで、六ペンス(六銭に当たる)だけ増して書きたることあり。それが地震前後の為替をすっかり調べる必要ありて調べしとき分かり出し、大阪郵便本局は田辺局の書き損じといい、田辺の方は大阪本局の間違いといい、争議となり、その争議の判決のために小生手許にありし外国送金為替金の受取書をすっかり引き上げられ、やや久しくしてのち大阪本局の敗けとなり、受取書は返却されしも、これらのために何が何だか四、五年以来の送金のしらべを小生手前で行なわずば判らぬこととなる。
 かれこれするうち為替相場大いに下落したるため、小生も永年の取引きにはあり、わずか六十円ばかりのことゆえ、為替相場の立ちかえるまでと一日延ばしに延ばしおくうち、拙児発病して去年中は一切右様の書類を倉中に入れ、取り出すことならず、今日にては邦貨に積もりて百二十円または百五十円ばかりの債務となりおるなり。仕払うはわけもなきことながら、いささかも違算ありては決して快く返納しくれるものにあらざるゆえ、今日までのこのこしおり。しかして小生三十年来、特別奇書家としていろいろ書き来たれる『ノーツ・エンド・キーリス』(随筆問答雑誌)も、近来労働とか民本主義とかの騒動に英国にもかかる考古典雅な穿鑿に耳を貸すもの少なくなり、本社落城して『タイム(550)ス新聞』で引き受けおりしも、これも続かず、只今は田舎で出板し編輯だけロンドンで致しおり。蔵敷料に手つかえて、七十五、六年間蓄え来たれる同雑誌の旧本分の置き処なく、ついに昨年入要の分を早刻申し込み来たれ、しからずんばことごとく焼棄すべしとの報知に接し、小生はせめて年来自分が寄書せし分だけ四、五百篇をまとめ、今一本貯え置かんと思いしも、その代価に差閊《さしつか》え、そのまま焼棄されあり候。(小生方には一本ずつはあり。)そんな次第にて、これまで只匁でくれたるこの雑誌も今年分よりは年々三十八円ほどずつ送金を要することとなり申し候。
 右の通りにして六百五十円下さることならば、そんなむつかしきことは止めにして、今回御申し越しの八種の内『牟婁新報』は到底取りまとめ近い内に望むべからず、また出板に足らざるものとしてこれを除き、代りに『南方二書』または『山岳』に転載せる「神社合祀反対意見」(『山岳』には「祖国山林の荒廃」と改題しあり)を載せることとして、御申し越しの五百円の外に五十円を加え、五百五十円下さらずや。英語に Hobson's choice《ホブソンス チヨイス》と申す語あり。これはホブソンという奇人馬を貸すに一度使いし馬は決してその日の内に二度使わず、順番をもって貸し出す。人来たりて順番の馬を好まず高価を出すから一度使われても良き馬を貸せというと、私の馬は二度は使いません、あなたの番に当たった馬が御気に入らずば、今日は御止めなさい、明日顔を洗って早く出て来なさい、とやったから出た語とか。小生毎度毎度自分の文稿出板の件でひまを潰し、無功におわるも如何なれば、右六百五十円、または五百五十円ですばやく御採択を乞い、御決心の上は早く送金下されたく候。
 (三)(四)(五)は御意のままなり。ただし、小生は柳田君が毎々せしごとくに小生の文を編者が自分に分からねばとて、また自分が好まねばとて、手柔らかく書きかえることを好まず。如何《いかが》わしき処は〇〇〇または「この下幾字刪る」ですまさんことを望む。小生のかきしことは一字一句みなその意義あることにて、むやみに世間を憚り、改竄されては大いに小生の性格を損じ申すべく候。故に改竄は一切なしとして、怪しきことや、いかがわしき処は改竄和解などせずに〇〇〇、または、この下幾字刪るですまされたきこと。
(551) (三)の内に編輯等に小生より便宜を与うることの一条あり。これは際限もなきことにて、小生は中村氏へ原稿を売るとき、この便宜を与うることのために中村氏も小生も大いに手後れを生じ、ついに出板望むべからずとなるに及べり。故に便宜を与うることは小生において力の及ぶ限り、時間のゆるす限りはする心得なれども、岡書院にはこれを期待すべからざることと心得られたく候。小生ごとき重患者を宅内にかかえ、自分と同室内におくものは、いつどんなことが生ずるも知れず。すでに本月四日午後、東京より知人来たり(この人は小生におよそ三万円ばかり出しくれたる人なり)、案内せんと羽織をきて立ち出ずる刹那、患者発作して刃物とり出し、大騒ぎとなり、その知人は翌日たちまち東帰されたるほどのことなり。故に小生の便宜を与うるを期待しおられては出板は十年も延引することとなるべし。
 (五)(七)、仕立てとか索引とかは小生の知るべきことにあらず。
 (六)、序文とか凡例とかこれまたとても出来申さず。ただし、序文凡例代りに同氏なり、中山氏なり書いてくれるべきことどもの材料は、手とり早く書いて中山氏へおくり申し上ぐべく候。ここにちょっと申し上げ置くは、中山氏が『同人』とかへ書きし内に、小生と故小川定明と外骨とを大正三奇人兼畸人とかいうことを出されある由、この出所は『日本及日本人』(年月日は小生日記にひかえあり)に、故大庭柯公(景秋氏。小生知らぬ人なり)が、外骨の評を他の朝野の人々の評の内に出せし内に見えおり申し候。故にこの言は中山氏の言とするよりも大庭柯公の評とかかる方が正しく候。何かの節御用もあることかと思い申し上げ置き候。
 小生の気質として百円や五十円のことをかれこれ申すべきにあらず。しかるに只今の拙児病気長々の煩いに夫妻共に困り切りおり候。その拙児の発病に付いても実に誰が聞くも悲瘡腸を切るのことがあるなり。それはそのうち小生が大阪の郵船会社支店副長たりし矢吹義夫氏に贈りし書信を出板の上、出板者より中山氏までおくり申し上ぐべければ御一読を願うなり。
 小生は久しく外国におり、その間英国の科学雑誌『ネーチュール』と文学考古学雑誌『ノーツ・エンド・キーリス』(552)に出せし文に有名なるもの多し。「拇印考」ごときはどの国に出板さるる罪人検証学の書にも必ず冒頭に引かれ、また「漂浪猶太人考」、「神足考」「鷲石考」、等は伝説学者間に高唱され申し候。かかるもの長短およそ五百余篇あるなり。暇あらばみずからこれを訳出して出板せんと思うが、失敬ながら本邦にはこれを味わうほど素養ある読者少なく、味わわしめんと思わば長々しく前提文をかかざるべからず(小生と高名なるそれぞれの専門家との論議応答なれば、問者の所論を長々訳出して添えずば小生の答が一向分からず)、また生物学上専門の著論多きもこれは専門家僅数の人々の外には通ぜず、研究所より高価を費やして出板の外なし(今年中に粘菌図譜だけは一部でも出すつもり)。
 末筆ながらかの高田屋旅館にありし杉山菊という当時十八、只今二十二歳の下女ありし。これは脚の上部(スネ以上)が下部(スネ以下)よりよほど長き女にて、日本の女としては無双のよき姿勢の女なりし。むかしの高雄、夕霧、小紫、越前など申せしごとく、大黒柱にもたれて片脚を立てた折掛け姿はこんな女でなくては叶わぬなり。よって平沼大三郎氏に測定しもらいしに果たして小生の考えし通りにて、平沼哲雄氏これを捉影し、北沢楽天氏これを写生したり。気前もなかなか面白き快活な女なりし。今は如何したか知らず。今度の文集出板して幸い岡氏大いに儲けられたなら、その上小生に餅の一つも配らるるに及ばず、何とぞ、件《くだん》の杉山菊女をさがし出し、金の二百円も与えられ、小生名代として岡氏なり中山氏なり、毎度菊女と往来してうまき物を食わせ、また特異のうまき物をも食わせまた食わせもらい、日夜面白く打ち興ぜられたきことに御座候。故高島嘉右御門氏どこかでなんとかいう遊女にあいしに非常に気に入りしが、当時氏貧乏にてそのことに及ばず、後年栄達してその女に偶然逢うてその零落に驚きしが、一生支給しやりしと承りし。むかしスペインで至極行いの正しかりし人が一日美女の昼寝する所に行き合わせ、ふとかの処を見て一生忘れず、その女の生涯拝観料を寄進せし由。小生も件のお菊など姿勢のよき女を見て、今に心スガスガしく覚え申候。よってスガスガ料として志を得たるの日、なにかやりたかりしも、とてもそんなことは叶わぬから、貴君等に頼み申し上げ置くなり。       早々敬具
 
(553)   岡茂雄宛
 
     1
 
 大正十五年六月十九日早朝五時認
   岡茂雄様
                     南方熊楠再拝
 
 拝啓。九日出御状十一日午後二時ごろ拝受、それより詳細なる御返書認めかかり候うち、拙宅の井戸つぶれ、ことのほか危険なるより、知人等に手助けもらい、改造最中、それよりいろいろと研究上また外国との掛け合い事件など生じ、また、さし迫りたる絵をかかねばならぬことも起こり、いろいろと多事にて御返事は四、五日中止致しおり候えども、あとへあとへと事が生じ、到底ここ二、三日内には詳細の書状は差し上げられず候。しかして貴方は万事敏速を尚ぶ御営業の御事なれば、小生咋朝より眠らずにいろいろのことにかかり、ようやく只今|一《ひと》休み致し、はなはだ眠たきを忍びこの状もってさし当たり御返事申し上げ候。
 『南方随筆』はすでに売り出したる上は今となりて何と申し立てたところが、左までの益もなく、中山君は聞きちがいもあるべしということをみずから断わられあるをもって一々これをかれこれ申し立つるに及ばず。中山君の文はあれなりに致し、第二板にも出し、しかして拙生家内ことに愁うるより、最末頁(四六八頁)の第三行「氏のパトロン(554)であって、しかも氏の高門である小畔君の、云々」より、「切に自重を望んで止まぬ」までの八行の文を全然削ること。その代りには続篇を出す見込みでもかけば十分事がすむと思い申し候。
 続篇も縞纂は中山氏に頼むこと。
 熊楠いわく、中山氏はいろいろと人々の評もあるが、例の従来匿名を用い、小生のことをいろいろ些末のことまでかき立てたる人々に比しては、いかな虚構の言多きにせよ、堂々と中山太郎と本名を出して書きたるだけはよほど立派な根性の人と小生|一己《いつこ》としては感心仕り候。小生かかる根性のものゆえ、匿名を用いて微動的に人を傷つけたり、自分に勝手悪ければとて人のせっかく寄せた寄書を没書にし了り、他日私用の材料とするようなるさもしき人々に自分の文稿編纂を頼むよりは、いっそ間違い多少ありても中山氏に頼みたく存じ申し候。
 もっとも、今度の『随筆』の誤刊脱字多きに驚いたから(これは中山氏においてもちょっと困り切ったことなるべく、既刊の雑誌の字に誤刊多きを沿襲するより外に詮方なき事情多かりしなり)、続篇を編むなら、何の雑誌の何々の文を採り入るということを申し越したら、小生その雑誌どもに付き、あまりにひどき誤刊や脱字を摘正し、正字を書きならべて中山氏に送るべし。
 小畔氏へは小生より宜しく申し入れおきたれば、この上抗議など出ること無之候。柳田君は最初より貴方がこのことのためにむつかしき付義正誤などして揖失を招かれんことをもっとも心配されしようのハガキを小生に贈られしほどのことなれば、みずから小説中の人となられたと思わば、それですむことと存じ候。すなわち小生も中山君の一篇を小生の名を題した小説稗史と見るものに候。
 小生は酒は少しものまず候。小畔氏も平気で日々二升と四本ずつのむなど毛頭言いしことなしと申し来たれり。小生は以前ずいぶん事にふれ、酒のみし男ゆえ、かかることを書かるる段は少しもかまいなし。ただし、のまぬものを只今も日々飲むなどかくと妻子がはなはだ心外と思うことにて、それより病勢重りなど致すも、中山氏の本意にあら(555)じと存じ候.故に右ごとく未頁は削られたきなり.
 四六一頁、二行、「一発にて妊む」ほ、一交而孕む、と直されたく候。これは柳田氏へ呈せる書中にありしと存じ候。一交而孕は鳩摩羅炎の故事にて、日本にも「神代巻」に瓊々杵尊が、大山祇神の娘二人を進められ、その妹の方と一宿而孕みし故事あり。一発して妊むなどいう卑俗なこととちがい、インド、アラビア等では最吉祥のことと致すに候。
 四六七頁、三行。鼻かます次は関白自害の間、とありて駄句とあり。これは「はなたれた次は関白自害の間」にて、秀吉は秀次を殺すつもりはなく、まずこれを高野の青巌寺に放ちしなり。しかして心に山僧が命乞いするならんと思いおりしに達て命乞いもせざりしゆえ、止むを得ず秀次の自害に任せしなり。放たれたと、涕《はな》たれたを寄せたるにて、いわば高野山僧どもの無情をのべたるなり。(そのとき秀吉山僧無情と嘆ぜし由、山陽なども筆せり。)決して駄句にあらず。何も弁えずに駄句など評するが駄評に候。
 その一年前に小畔等と大勢、金剛峰寺(すなわち青巌寺)にて法主に面せしとき、貴賓帳とか申すものに何か書けと望まれしゆえ、
  爪の上の土ほど稀《まれ》な身をもちて法《のち》の主にもあひにけるかな
 これは阿難と魔の問答の故事を思い寄せたるなり。
 また、唐紙を出してなにか書けと望まれたるゆえ、妓が三絃を鼓する体をかき、
  高野山仏法僧の声をこそまつべき空にひびく三味線
 これは金剛峰寺のすぐ向いに上《うえ》の段と申す妓女窟軒をならべ毎夜大騒ぎの声が、この法主の室に徹するを諷せしなり。
 こんなことでも小畔が中山に話せばよいにと存ずるも、小畔氏よりの書信には、いろいろとはなしたが、つまらぬ(556)ことのみ中山氏は出したと申しおり候。人々好むところ異なればあながちかれこれいうべきにあらず。(これは貴殿にのみ申し上げ候。人のことを人に話すはなかなか思うように行かぬものと御分かり下されたく候。)
 小生は自身のことを人に語るを好まず。右の歌どもはそのとき同座せし坂口という人が一切口外せぬ約束でつれ行きしに、たちまちこれを写して『大阪朝日新聞』へ出したるに候。
 とにかく右の通り『随筆』の末頁さえ削り下され候わば、それで宜しく候。毎度申し上ぐる通り小生はこんなことは少しも介意せぬ男なれども、妻子など気が小さくいろいろと心配する、それを全く顧みぬわけにも行かぬものに御座候段、御了解を仰ぎ申し上げ候。まことにかかることにて良《やや》久しく御面倒相かけ候段は相済まず、他日東上の節親しく御面晤御申し開き仕るべく候なり。
 小生認めかけたる長文の状はせっかく書きたるものゆえ、そのうちかき了り差し上ぐべく候。しかし、それをまたずに右様に末頁のみ削り、また、なろうことなら「鼻かます」を「はなたれた」に書きかえ、駄句という字を削り下されたく候。仏徒には仏徒相応の作法も心がけもあるものにて、決して法主の前にて駄句などは吐かぬものに御座候。
 小生はいろいろと多用なり。その用すみて右のかきかけたる状を差し上ぐべし。しかしそれは貴方の出板発売の進行に何らの障りをなすべきものにあらず候。
 吉村勢子、辻清吉二氏へ贈本下されたる段、千万鳴謝し奉り候。  謹言
  また、編者序、三頁に土宜法竜師とはロンドン以来の飲み仲間とあり。これは会心の友とか、知己とか何とか書きかえ下されたく候。土宜師は生来酒をのまぬ人に候いき。かつて同師宿所へ望月小太郎氏と小生とまいり合わせしところ、師より小生に酒を出されしことあるも、師は酒をのみしことなし。小生のみ飲みしなり。
 
     2
 
 昭和三年四月七日朝十時
   岡茂雄様
                     南方熊楠再拝
 
 拝啓。その後大いに御無音に打ち過ぎ申し候。二月八日に筆一包拝受せしころより拙児|?血《かつけつ》し始め、おいおいはなはだしく相成り、あるいは例の肺結核にあらずやと心配致せしも、主治医は京都へゆき一月ばかり帰らず、精神病者のことゆえ、誰でも快く診察を乞うと申す訳にゆかず。かれこれする中三月上旬に小生の亡兄に遠縁ある医学博士が帰国して、同町内に開業せしを幸い来診を乞いしに、病者も縁類の人ときき快く診察を受け候て、右は流行感冒と分かり、その方はおいおい快方にて昨今はやや落ちつきおり候に引きかえ、拙妻長々の看病に疲れ肝臓病をひき起こし、久しく臥蓐、これもようやく四、五日前より快方、女児は当地高等女学校に入り二年めにその兄が発病していろいろのことをなすより、毎々驚愕不安眠のため十分に勉学できず。しかしどうやらこうやらこの三月に卒業致し、東京へ上せどこかの女子専門学校に入れんと存ぜしも、東京にありし姉は三年前に頓死し、他に親族とてもなきより、一人上京せしむることも成らず、止むを得ず和歌山に上せ、拙妻の妹が同地の私立女子高等学校の教諭たるによりその宅に止まらせ、今月九日より通学せしむることと致し候。
 これらのことにて家内動揺はなはだしかりし上に、小生ははなはだ不快なることありて二月初め以来長らくアブーリア(無望症)に罹り、何という意思もなくただただぶらぶらと喫煙ばかりして坐しおり、ようやく十日ばかり前より気をとり直し、またまた学事にかかりおり候。この不快なることと申すは専門の学術上のことにて、学術上以外の人にはちょっと分かりにくきことに御座候。昨年十一月二十九日付の御状に対し御返事申し上ぐべきのところ、ちょう(558)ど十二月初めより間断なく病人が発作致し、二月来は久しく小生自分が病みおりしをもって、御返事も間違いあらんことをおそれ差し控えおり、今日ようやく気分やや恢復せしをもって本状差し上げ候。参考書類は一々とりおきたるも、只今その記号を記臆せざるをもって調査にひまかかるを恐れ、ここには座右にあり合わせのもののみにより答を申し上げ候。ただし過ぎたことをかれこれ申し上ぐるも何の益なければなり。
 去年十一月二十八日午後九時付、小畔四郎氏よりの来状左に写し出し候。
 「謹啓仕り候。本日一書呈上致し候ところ(その一書には、『随筆』の次編を安価にするは宜しからず。止むを得ずんば小畔氏より出板の補助費を出すべしということを書き述べあり)、岡茂雄氏来訪相成り、貴下より御垂示ありしとて小生の意見を聞かれ候。同氏へ御認めの御書面にて始めて貴下が表装およぴ代価引下げの御意見の出処分かり申し候。どうも小生の考えとあまり隔たりがある御考えであることがはなはだ不審にて、何故かかる貴重なる書籍を世間並みの一円本式同様のことをなさるるかが解し得ざりしが、某氏より貴下へ申されしことを容れられたることにて、殆めより貴下の御意見にあらざりしことと諒解仕り候。小生もあまり書籍を売ることに経験少なきことゆえ、幸い岡氏の実情をも聞き大いに参考に相成り候。岡氏より聞きたることと小生の観察とを左に申し上げたく候。
 「一、『随筆』の売れ行きは好成績なること。小生は第一に同氏に問うたところは、今代金を引き下げて果たしてより以上どれほど売れるかを研究したく、他の同種類の本と貴『随筆』とを比戟したるに、『随筆』は売れ行き他に比し多きことに候。随筆とか叢書とか斯種のもっとも多きが三、四千部を越えず、大抵が一千内外、少なきは二、三百くらいに止まるものに有之候が、『南方随筆』は正編二千五百、続編が二千に達し、よほど良成績にて、かつ昨今非常に斯界不況的なるに拘わらず、やはり売れ行きつつある点より見ても他に傑出し、いかに世間に真価が着実に知れ渡り堅実に拡まりつつあるかが分かり、かかることはその例はなはだ少なきことと申され候。それほど多く売れつつあるとは小生も他の書籍に比し考えざりしところにて、はなはだ失敬な申し分なれども、『随筆』のごとき普通の者には(559)難解の書籍なれば、やはり千部内外のものか、しかし相当の評判なるゆえあるいは千五百部にも達したかと思いおりしに、三千部、二千五百部も売れ行きたれば、何も価格を引き下げるには及ぶまじと小生は考え申し候。昨今はいかなる事業界も不況のどん底に陥り、出板界もまた著しくその影響を蒙り、投げ売り大流行にて競争と共に惨状なるに、独り『随筆』のみ依然として売れ行きつつあることは、あたかも当今不景気最中なるに大家の秘蔵品の売立てが意外の好成績を挙げつつあると同一轍に、優良品のみ世間に棄てられず候て不況の風には当らぬことを、証して余りある物に候。
 「この点において『随筆』は価を強いて上げるには及ばぬも、下げることはかえって誤解を招くを憂慮するものに候。いわんや外装の体裁を前編よりも低下せしむることは、なおさら好ましからぬものに御座候。岡氏に表装を普通のものにすると前の通りにすることの差額を聞くに、一部十五銭くらいの差の由、すなわち千部百五十円、二千部三百円の程度に候。前書申し上げ候通り、三編同一の揃いたるものに致したく、この代価は小生負担致すべく候付き、変更は何とぞ御見合わせ下されたく候。
 「岡氏またいわく、定価を引き下げることは自分としては考えおりたることにて、もし先生の御考えもあるならば喜んで引下げを申すべく、その程度は三円くらいのように申され候。また正編も二編も大いに売れ行きよきゆえいかにして南方先生に謝意を表して然るべきか、もし先生において御入用のありたる時は何時にても御用立て申したくと機会をまちおり候由にて、小生はその他種々の点より、同氏は世間普通の出版業者とはその趣きを異にし、決して利慾を考えおらるる人には無之《これなく》、『南方随筆』のごとき世界に誇るべき宝書を自分にて刊行することを自慢とし利益を度外視し、これをもって社会奉仕の一端と心得られおるものと存じ候。なお表装および製本について同氏のいわく、かかる永久に貴重なる書籍のことなれば、製本にはもっとも注意し決して他の追随を許さざるようにしたきとのことに候。(岡書院は最近めきめきと好評を博し、山階宮家にて刊行し各皇族の御覧になる論文の印刷および製本は特に岡書院(560)を指命せられ候由にて、その他人類学会の刊行書も同書院に変更委托せられたる由、東京にてはまず第一の良出板業者と認められつつあるように候。)ただ世間並みの誇大的の宣伝を嫌い、商売上手といわるるような人気をひくような広告をなさず、自然とその真価を認めらるべきやり方にて、これは小生は大いに共鳴を吝《おし》まざるものに御座候。
 「岡氏と昼食を共にし種々の談を致し候が、『南方随筆』の売れ行きの良きことは斯界の異彩として、目下不況の際なるゆえ、ずいぶん羨望の的となりおるらしく、したがって将来先生の出版物を自分の物にしたき出版業者も多かるべく、あるいは種々の運動も行なわるるならんとのことに候が、実は過般某印刷業者が小生に某紹介人を経て来たり、『南方随筆』のその後の出版を望み候が、小生はその際この出版は特種の事業なれば利益を望む者の能くすべきものにあらず、かつ岡氏が誠意をもって早く南方先生の筆を後世に残すの素志にて従事せられ、非常な苦心を意とせず利慾を度外視して従事せらるるこそ出板もできるなれ、常人の能くすべきにあらずと申しおき候が、実際小生は左様に考うるものに御座候。岡氏は自己の功績を決して口にせず語るを避くるようにて、そのため誤解を招くことは同氏の不利なるようにも考え申し候。貴下のため陰に陽に尽力せられおることは感謝するところに御座候。早々敬具。なお申し上げたきこと有之候えども、これにて御免下されたく候。前書と共に御高慮下されたく候。」(以上昨年十一月二十八日夜十時出小畔氏状)
 その翌日十一月二十九日出貴状はほぼ右と同様にて、すなわち昨年春ごろまでの売れ高が、正編は二千五百部、続編は二千部にていずれも超過せりとのことなりし。(小畔氏の状は正編は二千五百部に達し、続編は二千部に達したとのことなり。超過と達するとは少しのちがいなり。)しかるに只今座右にあらざるも、その昨年の春ごろの少し前の御来状には(この来状は、『南方随筆』、『続南方随筆』と名を出せしに、『続南方随筆』は『南方随筆』のつづきで『南方随筆』を購読した者以外には前後通ぜぬやの感あるより、『南方随筆』は六、七百部、『続南方随筆』はたしか四百部ばかりしか売れぬとの御報知なりし。また、そのころ森田義郎氏の出せし何とかいう新聞ごときものに、『南方随(561)筆』は一向売れずと書きありし。
 小生はこれを読んで大いにあわて出し、当地の書籍店などに就いて尋ねしに、その店およぴその店の本店(当地にはこの二つと他に一と合わせて三つしか書籍店はなし)と二所で合わせて三部しか売れずとのことにて、理由はどうも価が高過ぎるとのこと、また雑賀氏毎々和歌山へ通うゆえ、氏に托して同地で捜聞せしめしにやはり同様の答えのみ得しゆえ、大いに貴方に対して御気の毒に思い、それより先に柳田君よりの来状にも、正編に中山氏が如何《いかが》わしきものを加えたるため、結句岡氏のために損失を招くははなはだ気の毒というようなことあり(また今年初めにも後藤粛堂氏よりほぼ同様のことを告げ来たれり。ただしこれは事後のことなり)、それこれを参照して、小生はせっかく資を投じて出板されたる貴方に損亡となるようなことありてははなはだ面目なきことと存じ、雑賀その他と相談して、何とかこの次に出すべきものをきわめて安く多く売ったら如何ということに一決して、代価引下げのために紙質や装釘を麁略にすべきことを申し上げたるなり。
 しかしてこれがためには、小生はずいぶん自分不慣れの商売上のことにまでたち入りて、いろいろとその筋々の人に諮詢せしも、みな雑賀氏同様の返事なりし。この何とか多く売るべき工夫に昨年中小生はすこぶる焦慮し、ためにはなはだしく続々編の編成に障害を生じ、おびただしく時間をつぶせしは御承知の通りなり。しかるに貴下ももと小生がこの値段引下げ等の議は、正続編の売れ行きが六、七百と四百部くらいに止まると承りてより生ぜしことを御承知なるに、徒《いたず》らに安く売ること装釘を麁にすること等に付いて小生と往復問答さるるばかりで、正編は二千五百、続編は二千部以上売れたりということを、春過ぎ秋来たるも一度も小生に報告されず、ようやく小畔氏が十一月末日に御目にかかるに及び話されたるはすこぶる奇怪また残念に存じ奉り候。小生は昨年春のうちにそれほどまで多く売れたと知ったなら、無論事を廃するまでも値下げや装釘を麁下にする等のことを執念《しゆうね》く主張せざりしはずに候。悪く心得ると、なにか売れ行きが宜しかったからというて契約外に増しを求めたりなどするという懸念より、売れ行き高を(562)隠蔽されたことのように察せられも致すなり。
 しかしながら過ぎ去ったことは繰り返したところが全く無益として、これより後のことを申し上げんに、続々の稿は今年になりては御書面でもはや四百余頁ほどあると承り候ゆえに、何とか繰り合わさばまず一冊を出板し得るは分かり切ったことながら、当方にはかねて差し上げ置きたる順序の目録の諸題が大抵調いおり。ただそのまま出しては読者も前後の分からぬこと多く、たとえば『郷土研究』に出たる「白米城」の条のごときは、柳田氏のこれに関する論文を読んだ上でなければ、せっかく書いた小生の拙文が何を論じおるか過半分からず。故に何とか柳田氏の論文を読まざる人にも首尾よく分かるように書き足し書き補わざるべからず。小畔氏の状に見えたる普通の読者に分かりにくいとはこんなところより多く生ずることに御座候。
 よってとにかくかねて差し上げ置きたる目録の順序を差《たが》えず、通じて第百二十条までの稿をさし上ぐべければ、そのうち大抵第百条くらいまでできて送り上げ了ったところで、貴方で見斗らいをもってそのうち相応の一冊になるほどをまとめ、まず題号は何としてでも宜しく、出板下されたく候。しかして小生はそれに余った分と合してさらに一冊分ほどを脱稿して差し上ぐべければ、二篇を通じて千五百円下されたく候。これは一篇できて七百五十円、二篇できてまた七百五十円下されても宜しく、または一篇できて六百円、二篇できて九百円下されても宜しく候。しかして一篇、二篇ともに三十部ばかりずつ下されたく、これは例の通り知人どもに配るなり。もっとも当方へ送らるるに及ばず、小生より指名に随いその時にその人々へ直送下されたく候。決して一時にするを要せず。当方へ送られ当方よりまた転送するとせば二重に郵税がかさみ申し候。
 御約束の五百円にしては小生へ売れ行き高の御通知なかりしためはなはだしく不快を感じ、何とか多く売るべき方法を問い合わすに時日をおびただしく費やし、そのうちいろいろと事を生じ病を発したるため食らい込み多く、多大の時日を浄写に費やしたるに一日一円にも当たらぬこととなり候。それでは小生ただ働き同前となり妻子を養う方便(563)なし.故に右様に願うなり。この千五百円は続々編とその次編の筆料にして、決して正続二編の売れ行きよかりしと聞いて追い足しを望むにあらず。
 右承諾下さるるなら、早速一報下されたく、然る上は小生は差し上げ置きたる目録の順を追って、なるべく早く目録第百条までを浄写して送り上ぐべし。この浄写は只今もっばらできることにして、おいおい暑くなりてはできず。
 また右は相談ならずとのことならば、さっそく御一報下されたく、然るときはこれまでいろいろと物を買うて送りもらいなどしあるゆえ、このままにもならず、板権を売り渡し上げたる諸稿すなわち『人類学雑誌』と『郷土研究』より引き出せる諸稿に限り、手許にのこりある諸稿を一切手抜かりなしになるべく多く十分に増補追記したる上、送り申し上ぐべく、それを『日本及日本人』等の板権を譲り上げたる分と共に何とでも御出板勝手たるべく、しかして去年来差し上げたる諸稿中板権を貴方に譲りおらざる分はことごとくまとめて御返付下されたく、小生はまた徳富氏にでも頼み、何とか別に出板しもらうべし。  同氏は昨年十二月ごろ当地へ来たり小生を尋ねくれしも、例の病人あるので小生は面会を得ざりし。はなはだ遺憾なりと『国民新聞』に出でたるを雑賀氏もち来たり示され候。
 小生は今年下半期はどうしても和歌山へ上らざるべからず。これは久しくこの宅に病人と同居しても双方のために宜しからざるゆえなり。和歌山へ上らば著述や編纂はできず。故に貴方で出すにせよ他で出すにせよ、早く今年七月までに出し了りたきなり。
 正続二篇は雑誌へ出したままの文を編成せしなれども、続々編とその次編は十の七まで全く和解し書き和らげたれば、文字さえ一《ひと》通り読める者には大抵よく分かるようにかきあり。故に正続二編の編纂ものなるに事かわり、はなはだしく骨が折れ申し候。もっとも困るは清写にて、貴方へ渡す分と候稿と今一つ手許に備えて貴方の稿が没収などされたときに再送すべき分と、三部を写しおかざるべからず。これには実に時日をつぶし申し候。
(564) 小生は家内に二人まで病臥人あり、自分も二月来病み、書状さえようやく昨今書き始めたることにて、娘は和歌山へ留学に上せる、何の収入なきゆえはなはだ困りおれり。故に続々稿の第一編だけにても早くこしらえて銭と引きかえたく思うなり。(先に銭をもらえばまた他のことにかかることから、稿が約定通りできなくなるおそれあり。)
 右さっそく御返事俟ち上ぐるなり。      早々敬具
  正編、続編の売れ行きが小畔氏へ御話しの通りならば、続々編等の定価や装釘は御勝手次第たるべく、小生の口を容るべきにあらず。
 
     3
 
 昭和三年四月二十五日午後九時
   岡茂雄棟
                       南方熊楠再拝
 
 拝復。二十三日午後四時十分出御状今日午後一時ごろ拝受、二十日午後差し上げ候拙状、御誤読ありしやに見受け候付き、左に申し上げ置き候。
 続々編は、小生死し了ると御聞き定めた上、そのときまで御手に入りおり候だけの稿をいかようにも御出坂下されたく候。小生は死なぬ限りは少しでも多く稿を綴り、一つでも多く貴方へ差し上ぐべく候。
 さて、小生いよいよ死した上、右御出板と同時に、五百円の内、百円は過日拙妻の妹へ送り下されたから、残金四百円を上松氏に渡されたきなり。この四百円は小生が何の地へ持ち行き得るにもあらず、また、妻子にのこすにもあらず、上松氏の手を経て旧知で金に乏しき人々へ分かちもらうつもりに御座候。
 右の通りに付き、小生は死せざる内は一切御出板なき〔二字傍点〕よう願い上げ候。もっとも小生は少しでも快方なる日は少し(565)でも稿を級り、送り申し上ぐべく候.
 このこと御まちがいなきよう、重ねて申し上げ置き候なり。 早々敬具
 
     4
 
 昭和三年五月十六日早朝三時
   岡茂雄様
                       南方熊楠再拝
 
 拝啓。七日出雑賀氏宛御状は九日午後三時ごろ雑賀氏持ち来たり候。十日出御状二通は十二日午後二時着、十一日出御状は十三日午後二時ごろ拝受致し候。
 拙児は十二日早朝、その前夜京都岩倉病院より迎えに来たりし二人と医学博士中村正和氏と三人付き添い、自働車にて湯浅までゆき、それより電車にて大阪にゆき、大阪より自働車で通し、その夕六時過ぎ岩倉に着、入院。十三日夜十一時中村博士帰り協議の上、小生は十八日当地出発京都に上り、病人の見込み等聞き届け帰るつもりに候。帰りは二十日過ぎのこととなるべし。三年二ヵ月という長煩いにて荊妻も疲労のため発病致し娘も病気、この上は小生一人にていかんともする能わず、費用もおびただしくかかり候えどもとにかく入院致させ候。中村博士が院長等と相談の結果、拙児はもはや全快の見込みなきものと判り申し候て、荊妻は力落しはなはだしく今に枕上がらず。小生も拙児の一生を病院またはどこかでなるべく安養せしむるだけの拵えをなし置かざるべからず。実に骨の折るることに御座候。
 去年秋ごろまではまだまだ正気な日も多く、小生に顕微鏡学を教えくれと夜分申し来たりしこともあり。しかるに去年中は小生例の『随筆』を今少し多く売るべきことに心配し、心配せぬときは成稿や筆写に多忙なりしため、拙児(566)が望む都度一日のばしに致し候ところ、もはや父に見限られたるものと覚悟せしにや、それよりは小生を見てもにげかくれおり、今となりては小生も残り多きことに存じ候。今年になりてもなにか望みありしにや、小生食事する辺に来たり、然して立ちおりしことしばしば有之《これあり》しも、今年二月一日来小生学問上不快のことあり、自身がアブーリア(無欲意症)になり、四月始めまで一向何もする気にならず、喫煙のみ致しおりしため気付かざりし。さて今月になりてより拙児全く意識なきもののごとく相成り、飲食もろくに致さず、毎夕浴湯するのほか何事をもなさず、臥してばかりおるより、ついに入院せしめたることに御座候。たぶん生きては還るまじく、父子の再会とて期もなきことと存じ申し候。
 今さら何と申しても致し方なく、とにかく拙宅の門も三年めに開き、人々も出入するようになり候はいささかの幸いに有之、『随筆』稿も早く写し得べく候。
 まずは右受けまで、かくのごとく申し上げ候。       恐々
 
     5
 
 昭和五年十一月二十五日午後○時半
   岡茂雄様
                       南方熊楠再拝
 
 拝啓。『人類学雑誌』四五巻一一号、今朝七時半忝なく拝受、毎々御厚情謝し上げ奉り候。しかして前日四五巻九号まで拝受、その後四五巻一〇号(本年十月号)はついに今まで到着せず。何とぞ御送付願い上げ奉り候。
 また、神保町(表か裏か忘る)の細川信吉(智淵堂)の今月の書目六十五頁、上欄に『万宝鄙事記』四冊、一円五十銭とあり。今もあらば購うて御送付願い上げ奉り候。
(567) 金拾五円、杉山へ御送付下され候て、同人よりの受取書御封入の貴状(十月二十九日午後四時五十分出)は、十月三十一日朝八時五分拝受、御受け書差し上ぐべきのところ、いろいろと俗務に取り紛れ今日まで延引の段、不悪《あしからず》御海恕願い上げ奉り候。
 「随筆」はいっそ最近まで得たる智識材料を洩れなく編入するためことごとくかき直しおり候。あまり最近の投書多く入るるは如何ながら、近年の雑誌へ出せしもので、半分ばかり加うるとせば、小生はただ別刊紙面へ書き入れをすれば事すむもの多きゆえ、筆写の労が大いに助かる。『民族』および『民俗学』の別刊本は悉皆《しつかい》戴きあるゆえ、大いに力を省き得候。よって急がぬことながら、『民族』と『民俗学』へ小生が出したる本条、質問等洩れなく集めて計算せば、大抵(『南方随筆』と『続南方随筆』程度の字数行数にして)何頁ほどのものに相成り候や。雑賀氏に計算を頼まんと思うも、不景気のため同氏は熊野案内とか編纂発行するとて五日、六日と旅行すること多く、『牟婁報知』という新聞は当分廃刊、故にちょっと困りおると見え、むやみにかようのことを頼むとはなはだ迷惑することと思い、延引致しおり候。貴方に取っても御迷惑のことならんが、あまり急ぐことにあらざるから、少間あるごとに御計算を重ねて、あまり間違いなきところを御一報願い上げ奉り候。
 小生はこの「随筆」を今日までの学識程度にせり上げるために、今年中諸友の出資にておびただしく書籍を買い入れ、それがためこの書斎に座る場処少なくなり、はなはだ困り入りおり、このままでは永くおくと肝心の生物学の研究に支障を来たすから、何とかしてこの冬中に「随筆」の稿本の方は二冊分だけさし当たり片付けたくあせりおり候。
 右諸友が買うてくれたる民俗学の書籍は、悴永病にて継述の見込みほとんど絶えたれば、用すみ次第一切それらの諸友へ返すはずに通知致しおり、貴方より購いくれたる分もことごとく目録を作り値段付けを致しおきたれば、用済み次第返却申し上ぐべく候。また拙方に多き自分で買い集めた書籍雑誌も小生死後は全く倉敷料がかさむのみ、もっぱら妻と娘の迷惑になるべきものなれば、これは小生万一のことあったら、貴下および令弟の御世話でどこかへ買い(568)上げてもらい下されたく候。当地に小生旧友安藤治三郎という蔵書家が書籍を多くのこせるため遺族が家をちぢむることならず、多くの押入れ長持ちにこれを蔵して空しく鼠と虫を養い、はなはだ不経済な暮しをなしおるものあり。小生もかようのことにならんかとすこぶる懸念致しおり候。
 まずは当用のみ御頼み申し上げ候。
  令弟なども長々と留学せずに重要なる書籍を買い集めて早く帰朝が第一と存じ候。
  建碑の資金出し下されたる貴方等へ差し上ぐべきもの調いあるも、荷造り面倒で今に延引致しおり。年末までには必ず差し上ぐべく候。
 
     6
 
 昭和六年九月二十四日早朝三時半認、夜明けて出す
   岡茂雄様
                       南方熊楠再拝
 
 拝啓。その後大いに御無音に打ち過ぎ申し候。『人類学雑誌』九月分(四六巻九号)難有《ありがた》く拝受、御厚礼申し上げ候。(八月分は八月二十四日に拝受。)また杉山送り五円受領書入り御状(七月二十二日朝九時四十分出)は七月二十四日拝受、その前日杉山より同様の書面受領致し候。御手数の段まことに恐れ入り申し候。
 「随筆」稿は、長篇のものは大抵一通り出来上がりあり。しかるに長篇のものは遺漏なく増補せしをもってなかなかの長篇に相成り、中には単行本としても然るべきほど長くなりしもの多く、一冊にわずかに二、三篇または四、五篇を収むるに過ぎざるほどのこととなるべきに付き、それでは読者に向かぬことのみ収めたる冊は、一向一汎に読まれぬこととなる惧れあるゆえ、いずれかできるだけ縮めんと、一品につき五、六回も書きちぢめ、またそれらに雑《まじ》ゆる(569)に、四百八十字詰めの罫紙一枚半より四、五枚で完結すべき短話を多くかきつづると、幾分か重複すること多くなる。しかしそんな斟酌を致しおると際限なきゆえ、『南方随筆』ほどの厚さの冊にして五、六冊分をこしらえ、少々の重複くらいはかまわずにまとめて、とにかく貴方へ引き渡さんと、暇さえあれば浄書をつづけおり、
  近来小生(この五、六年来)いろいろの雑誌、会報へ出せしものはなはだ多く、中には別刊冊子を送りくれぬもの多く、また不断書き入れと正誤をなして、書き入れと正誤の方が本文より長きもの少なからず。これではその雑誌と会報の名を貴方へ通知し、貴方で謄写せしむるにしたところで、さらに小生よりの指示により書き入れと訂正をなすとせば、ことのほかの手間とりとなる。故に訂正と増補なきものの外は一切小生|躬《みずか》ら写して貴方へ渡すつもりでかかりおり、なかなかおびただしき枚数なり。
この冬中かからば、右に申す通り、五、六冊は出来上がる見込みに有之候。
  今日までの長短篇の篇数が七百二十九条あるなり。一条が二百四十字くらいで完結するものより、四百八十字詰の罫紙七十枚くらいに渉るゆえ、なかなかの枚数なり。
 しかるところ本月十八日早朝も右の稿を浄写しおるうち、大雨半日に及び、この書斎より本建物にゆくこと叶わず。午前八時に至りようやく小降りになりしゆえ本宅にゆき朝食し、疲労はなはだしきゆえ終日臥しその夜は何にもせず。その翌十九日はさしいそぐ菌類の写生をなし、午後三時過ぎよりまた原稿浄写にかからんと筆をとりに本宅へゆきしに、『大毎』紙の号外来たりあり、その日の午前○時過ぎに奉天で椿事出来交戦状態となりしとのこと。ここにおいて小生?然としてそれより何事もせず、後報より後報と日々新聞をまちおるうち、どうやら国交断絶となりたる様子に察せられ候。これがいよいよ開戦となりたらんには(いよいよ開戦か否は小生新紙にて見るところではまだはっきり分からず)、「随筆」の出板などは当分望むべからず。また貴下御自身も兵役に就かるることもあるべく、如何のことやと案じ煩いおり候。よって貴下御出征または出征でなくともいずれかの兵営に就かるるようなこととならば、貴(570)宅御家内の宛所を御知らせおき下されたく、しかるときは小生は只今当方に御預かり申しある拙稿だけを早く整理して御家内まで送付申し上げおくべし。しかるときは只今貴方にある諸稿(小生未訂正の分)と右の分と併せて、いつとは知れねど戦役すみ御帰宅の上、御勝手に時節を察して御出板下されたく、ずいぶんこれまで御世話にもなりあれば、決して酬金などは下さるに及ばず候。
  小生昨年来足が神経痛にて、この二十日ほど前まで自在ならず、また脊髄および腰悪しくはなはだしく悩み候。故に戦役永くならば、戦役すまぬうちに小生は死んでしまうかも知れず候。ただし不思議にも本月二十一日の夜より丸で足も腰も全快の様子なり。しかしこれはなにかの工合でほんの一時的のことかとも案じおり候。
 小生は昨日朝八時過ぎ起きたるままいろいろ俗事ありてまだ眠らず。この状を認めおき(夜明けて差出ださせ)、菌の図を二つ略画し、さて就眠のはずに御座候。ちょうど暁の六時ごろになるなり。
 右取り忙ぎ御返事を願い上げおき候。
 雑賀氏も「南紀口碑伝説」とて三百枚ほどの原稿を、九月に出板さるる約束し岡村氏へ渡し(五月ごろ)たるも、今に出板ならず。雑賀氏、活計上紀南熊野の勝景の案内記等を編むつもりで本宮辺へ旅行に出立まだ帰らず、そのうちこの椿事起これるなり。ずいぶん目算のちがいこまりおることと察し候。しかして今夜拙妻が歯医者へゆき聞き帰りしは、もはや召集令出で、兵役期内にある輩は遠く旅行を許されずとのことなりし。貴下もあるいはこの状貴方着の節はもはや召集されたる跡の御事かと案じ申し候。        再白
 
     7
 
 昭和八年二月二十八日
   岡茂雄様
                       南方熊楠再拝
 
 拝啓。小生丹毒は二月八日に全治、しかし拙妻は一月十日午後|十日夷子《とおかえびす》参詣の帰途|眩暈《めまい》を起こし、帰りて臥蓐してより今に起き上がらず、飲食大小便とも娘の介抱にて、臥内にて致しおり、それがため小生いろいろ俗務多く大いに御無沙汰致し、初めのほどは一日に二、三回医師が来診され候えども只今は三日に一度くらいの来診なれば、この上憂うべきことなく、しかしまずは三月の彼岸ごろにあらざれば、十分恢復はすまじとの医師の話に御座候。さて一月二十六日午後一時四十五分出御状は、二十七日午後四時四十分拝受、その翌二十八日午前十時十五分に、去年十二月の『民俗学』別刊二十冊、また一月三十日朝十一時四十五分に同『民俗学』五部安着、これにて友人どもに配分に余りあり、まことに御手数恐縮に存じ候こと厚く御礼申し述べ候。『ドルメン』二月号は二月三日に、『人類学雑誌』四八巻二号は二月二十三日に、『ドルメン』三月号は二月二十五日に、それぞれ難有《ありがた》く拝受仕り候。
 「随筆」稿は只今までに材料まとめたもの千百五十一稿あり、これを書き出すはなかなかの大事業にて、前後を見合わせ左右を程よく合わせて、あちらへ印を付け、こちらへ番号を控えおくなど手数おびただしく、左様にするうちにまたまたいろいろと新材料を見出だす。すでに前般差し上げたる十八稿の内、六種はまたまたおびただしく追記と増補を要することと相成りおり候。しかるにそうそう毎度毎度増補追加を送り上げ、貴方また一々これを書き加えおっては双方非常の手数と時間を要するゆえ、当分これらの追記と増補は当方の帳面へ控えおき、いよいよ出板前に十稿または二十稿ほどずつ一時御返却を願い、追記や増補を参酌して今一度全文を書き整えて差し上ぐることと致すべく候。しかし拙方へあまり多く拙稿文を貯えおくといろいろと他の用事(金類研究、粘金図譜編纂等)に取り紛れ、まずは完成せる稿本と未完成者と混雑して何とも分からぬものとなるから、とにかくひとまずは貴方へ出来上がっただけの稿本を御預け申すことと致すべく候。すなわちこの状に「随筆」稿(一九)「笠着て竜に乗った人」、一葉封入候間、御査収を乞う。その次稿(二〇)「鵜の羽の能の怪」は、半ば以上できあるも引用書に事を欠き、本文をつきとめんため(572)只今友人へ借用を申し込みあり、その本が来着次第、全成して差し上ぐべく候。
 前年御預かり申し上げある旧稿は、その後多数の書籍が手に入り孫引きせずに原書に就いて直ちに引用し得るもの多くなり候付き、追加増補などを止め只今多くの分を書き改め中に有之、これはあまり骨の折れぬことに付き、それよりも骨折れる新稿の方をなるべく多く送り上げたるのち、御預かり中の旧稿を一切書きかえて差し上ぐべく候。
  小生は一月四日より二月十三曰まで、丹毒にて昼夜悩むを好機会とし、椅子にかかり、辛抱しつづけて『古今図書集成』一万巻の内、職方典一千五百四十四巻に眼を通し、「随筆」に要用なる所々をことごとく分類して書き抜き候。職方典とは支那内地の郷土誌にて、民俗から地理歴史一切のことをみな集めたる部分なり。なかなか大部の物にて、こんな病気にあらざれば、とても眼を通す気にはならぬはずなり。これにて材料ははなはだ豊富また堅実になり候。 急いでならぬことながら、不断生物研究と交互に勉めており候間、必ず早晩は出来上がるべく候。小生近時年も老い(六十七歳)おいおい身体も衰え来たり、いつなくなるも知れず。もし左様の場合にはたとい未完成でも多少まとまった稿と先年来御預かり申しある旧稿とは、それぞれ厚き大なる紙袋に入れあり。それを家内より御引き渡し申し上ぐべく候間、それをそのまま御勝手に撰み取られて御出坂下されたく候。
 悴の方も今に何とも快報は来たらず、何とか今年中に処置せんと存じおり候。これには弱りおり候。
 戦争の成り行きもどうなるか。この田舎におっては見当つかず。事態次第でまたまた貴下御入営等のことになるかも知れずと存じ候。しかる場合には何とぞこれまでさし上げたる「随筆」稿を失わぬよう、御留守方に願い上げ候。また当方にはできるだけ多く稿を作り上げおき、静かに御出営待ち上ぐべく候なり。まずはあんまり御無沙汰ゆえ右申し上げ候。『ドルメン』への投書は造作もなきことに候えども、難きを先にし易きを後にすべき心から毎々「随筆」稿に寸暇をついやし、『ドルメン』は後廻しに致しおり候。しかし二週間内には必ず一稿だけは『ドルメン』へ差し上(573)ぐべく候。    謹言
 
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 昭和十年二月二十二日早朝
   岡茂雄様
                       南方熊楠再拝
 
 拝啓。二月十四日に御葉書一通忝なく拝受、難有《ありがた》く御厚礼申し上げ候。小生、一世一代の論文を草しおり、たぶん四月『ドルメン』の間に合い申すべきが、材料引用書が洋書ばかりでも八十種に近く、いかほど本文を縮めても三十頁からあるいは四十頁に上るかも知れず。しかし半截して二号に載せられては前後を見合わすに読者がはなはだ骨折れるべく、また小生にしても引用書を列するに長々しく出板の場所から年月までくりかえさねばならぬ。果たして四月号一冊にかような長き文を載せ下さるべきや(四十頁にて完成とみて)、またこの度はよほどの骨折ゆえ、別刊本を三十冊拵えて戴きたきが、これも宜しく御承諾下さるべきや、伺い上げ奉り候。前日小生の一友が、御地の工業倶楽部で「『摩羅考』について」と「蓮の花開く音を聴くこと」を所々読みしに一同大感服、しかるにその人々の多くは『ドルメン』を知らず、大いに失望せし由申し来たり候。小生は『ドルメン』吹聴のため、別刊本をその人々に送らんと存ずるなり。(前年当宅で御出合いの谷井保氏などは連号『ドルメン』を予約購読致しあり。神戸辺には小生知人にて予約者となりし者若干あり。)
 次に前度申し上げ候雑賀氏の著書は、気賀林一氏(春陽堂)が引き受けくるる見込みあり。雑賀氏はすでに脱稿し、写真図などみな整いあり。小生の多少の補注を加えて全部成るはずなり。気賀氏は小生の著を全集として出したくとの望みなれど、貴方へ約定しあるを、今さら他へふりかえは面白からず。その代りに右の雑賀の著を渡さんと思うが、(574)春陽堂は民俗・俚譚の学の書物をあまり出したことなく、したがって万事不慣れにあらずやとも思う。よって小生の補注は見本を十ばかりこしらえ、雑賀の本文は一部分なり、また全部なり、とにかくひとまず貴下まで書留にて送り上げんに、とくと御覧の上、これなら出板して宜しいという御見込みありやなしや、小生まで御一報下さらずや。貴方でその見込みなしとあったとて引っ込まずに、小生はさらに気賀氏へ送って見るぺく候。とにかく一度雑賀氏のために御見分ありたく、このことを小生より願い上げ候。  早々敬具
  拙児はもはや平治しあるらしく候も、これを自宅へよびもどしてまた往時のことを追想していろいろ興憤などされてはまことにつまらず、当分やはり入院させおき候。小生はある二、三の事件ありて、昨年、一昨年の二年、一文の収入なく、今年|首《はじめ》にわずかながら食い込みたり。故に今少しく健康を回復せば、例の「随筆」のつづきを校正してなるべく多く速やかに送り上げるから、貴方にて御出板下されたく候。なるべく up to date(時世におくれず)最近までの見聞きを編入するために、富有なる友人を頼み、大分多く書籍を買い入れもらえり。それらの書籍はこの編纂成った上、みなその友人どもへ返すなり。
 
(575)   岡田桑三宛
 
 昭和十三年七月三十一日午下
  国際報道写真協会
   岡田桑三様
                       南方熊楠再拝
 
 拝復。二十八日出速達郵便御状は二十九日午後七時二十分拝受.早速御返書差し上ぐべきところ、二十八日午後七時四十分ごろ電燈を持って竹林下に生物研査中、木の枯株にて腰部に負傷、即時医師を迎え手当て致し、二十九、三十の両日は発熱のため筆を執ること能わず、今朝より快方に付き、取り忙ぎ左に御返事申し上げ候。
 今度貴協会にて本邦名士の写真を取り、日本文化の海外への吹聴に資せらるる由、洵《まこと》に結構至極の御企てと存じ候。それに付き、小生の写真をも御採用あるべき旨敬承。しかるに小生は海外に十四年漂浪し、帰朝以来すでに三十八年この辺鄙の地におり、彼方における旧交の人士も過半死に失せ、加之《しかのみならず》十余年来種々の災禍と病気のため何一つ学術上の成績も挙がらず、徒《いたず》らに月日を過ごすのみに有之《これあり》。全く今日の日本文化などとは毛頭関係のなきものに有之。かつ数年間熱帯地方に過度に身心を労せしょり不治の多汗質(Hyperidrosis)となり、毎年四月より十月までは衣服を着ること能わず。したがって写真などは思いも寄らぬところなる上、五十年来昼夜間断なく行ない続けおり候藻類鏡検にはことのほか(小生に取りては)高価の試験剤を用いおり、十分、十五分間、人と対談致してもその損失おび(576)ただしく候。ことに只今のごとき時局多難の際にあっては、小生ごとき一私人がこれを海外より購入して補充することは到底絶望の外なき次第に有之。七十歳を過ぎたる半死の老人の写真よりも、幾十年も続け来たれる藻学上の多少の成績を他日取り纏めて海外で発表する方、小生に取りてもすこぶる都合宜しく、内外学問に取りてもいささかながらききめもあるべきにやと存じ候間、双方の不快を生ぜざるため、貴協会技師君の御来臨は必ず御止めに遊ばされたく願い上げ奉り候。              早々不一
 
(579)     鳥を食うて王になった話
         ――性に関する世界各国の伝説――
 
     一 雉を神とすること
 
 『史記』の封禅書《ほうぜんしよ》にいわく、秦の文公、石のごときものを獲て陳倉の北阪城で祀る、その神あるいは歳に至らず、あるいは歳にしばしば来たる、来たる時は常に夜をもってし、光輝流星のごとし、東南より来たって祠城《しじよう》に集まる、すなわち雄鶏のごとし、その声|殷《いん》という、野鶏夜鳴く、一牢をもって祠る、名づけて陳宝という、と。『評林』に、『三秦記』にいわく、太白山の西に陳倉山あり、山に石鶏あり山鶏と別ならず、趨高山を繞るに山鶏飛び去れど石鶏は去らず、晨《あした》に山頂に鳴く、声三里に聞こゆ、あるいはいう、これ玉鶏なり、と。『括地志』にいわく、宝鶏神祠は、陳倉県の故城中にあり、云々、石鶏は陳倉山上にあり、祠は陳倉上にあり、故にいわく、石のごときを獲て陳倉の北阪城に祠る、と。?いわく、陳倉県に宝夫人の祠あり、あるいは一歳二歳に葉君と合う、葉君来たる時天これがために殷々雷鳴す、雉ために鳴く、と、云々。『列異伝』にいわく、陳倉の人異物を獲てこれを献ず、道に二童子に遇う、いわくこれを?と名づく、地下にありて死人の脳を食う、と。?すなわちいわく、かの童子を陳宝と名づく、その雄を得れば王となり、雌を得れば伯《は》となる、と。すなわち童子を逐うに、化して雉となる、秦の穆公大いに猟してその(580)雌を侍、ために祠を立てて祭る、光ありて雷電の声をなす、雄は南陽に止まる、長《たけ》十余丈の赤光あり、来たって陳倉の祠中に入る、故に代の俗これを宝夫人の祠という、葉は県の名で南陽にあり、葉君はすなわち雄雉の神なるゆえ、時に宝夫人の神と合うなり、と。野鶏とは、漢の呂后は名|雉《ち》ゆえ、雉を忌んで夜鶏と言ったのだ(『本草網目』四八)。
 明治十九年ごろまで、高野山の大名諸家の石碑林立した中に天降鉄の大塊を祠った小祠《ほこら》ありて、弥勒菩薩の祠と称えおった。昨夏詣って見ると、跡も残らず。それと斉《ひと》しく、隕石の鶏の形したのが光り、吼えて降るを得て、秦の文公が宝鶏祠と祀ったが、その時も、その後も、隕石|天《てん》に沖《わた》って落つる時、野鶏が驚いて鳴き噪ぐより、右様の咄《はなし》を生じたと見える。日本でも地震などの変異の節、雉や鶏が噪ぐ。また蒼鷺《あおさぎ》等の鳥が夜光って飛ぶを予も見たことあり。産死の女がウブメ鳥となり人を脅かすというを目撃した者、これ全く蒼鷺だったと言った由、『梅村載筆』に見ゆ。『和漢三才図会』に、ウプメ鳥は形も声も?に似て夜光る、五位鷺も夜光る、という。河内平岡神社の神燈の油を夜ごと盗んだ老婆、死後なったという「姥が火」に逢うた人、俯して潜《ひそ》かに見ると、鶏の大きさの鳥で嘴《くちばし》を叩く音あり、遠く見れば円い火なり、貞享ごろより死んだと見えて出でず、と。『諸国里人談』にこれを五位鷺としたが、嘴を叩く音ありというから鸛《こう》でないかと疑わる。
 予の現住地より一里ばかり、秋津という村から鰻や箒を売りに来る八十ばかりの老爺坂本喜三郎の話に、三十歳ばかりのころ、その村の雑貨店の主婦《かみさん》池に投身《みなげ》して死し、村の大庄屋が村役所より夜帰る時さしおった傘の上にかの女の幽霊が留まったことあり、大いに惧れ傘を捨てて近所の綿屋に駆け込んだ。そのころ、坂本翁、夏の夜一友と海へ網打ちに行かんと小泉堤を歩むに、友は十四、五間後る。万呂村の方より鸛のごとき白い物飛び来たり、五、六間|先《さき》になって消えたと思うところに、三間ばかり前を常人の歩む速力で横ぎり行く女あり、髪を被《かぶ》り、藍縞の衣を着て、腰以下なし。近処の綿畑に水入れた中に入って立つところへ、後れ来たった友人が、今かかる物飛び来たったと噪ぐまぎれに、かの女は見えずなった。かねて幽霊に逢う者落ち着いて訊《と》えば必ず意趣を語るものと聞きおったに、その(581)時尋ねやらなんだは残念なと力んでも、五十年ほど跡の祭りで詰まらない。
 また、むかし田辺の北新町の三栖千《みすせん》ちう菓子屋の娘、礫山の池に身投げて死んだ。予が知る玉置氏の先世、僧となり、俳諧に遊んだ人、その池のほとりを通るを、件《くだん》の女の幽霊が追い来たるを顧みると、金色の翼を生じあったという。これらは胆気に乏しき者が何かの鳥を見て幽公と早合点したに相違ないが、古エジプトの壁画に蚤《はや》く人の魂に鳥の翼生えて飛ぶところあり(英訳デスペロ『開化の暁《ゼ・ドーン・オヴ・シヴイリゼーション》』一九八頁)、鳥を神や祖先の霊と心得た例、諸国に多し(グベルナチス『動物譚原《ゾーロジカル・ミソロジー》』二)。よって推すに、文公隕石を祀った陳宝祠のほとりで時々夜光る雉様の鳥が相逢うより、その鳥を神と心得、雄神が時々雌神に会いに来ると言ったのだ。
 西洋にも、ドイツに夜光る鳥あったと、プリニウスの『博物志《ヒストリア・ナチユラリス》』一〇に記し、イタリア、ギリシアでも鳥が夜光ると信ず(一九一五年ロンドン発行『ノーツ・エンド・キーリス』一一輯一二巻二一三−五頁、拙文「夜光る鳥」を見よ)。蒼鷺燐光を放つ由は、英国でもコープが一九〇六年十二月の『カナリヤおよび小鳥の生活《カナリヤ・エンド・ケージ・バード・ライフ》』に、また同年板ハーチング著『博物学者の娯楽《レクリエーション・オヴ・ア・ナチユラリスト》』の内、「光で惑わす」の一章に述べおる。
 さて、『淵鑑類函』四二五には、陳宝神を雉とせず鶏とし、秦時、陳倉で二宝鶏童子に化するを見る、ある人いわく、雄を得る者は王たり、雌を得る者は覇《は》たり、と。秦の穆公、雌者を猟り得てついに西戎に覇たり、祠を立つ、神光東南方より来たり雄鶏の声のごとし、と見ゆ。日本で雉を神とする例を聞かぬが、山鶏を神使とすることはある。(『奥羽永慶軍記』一二。『土俗と伝説』一巻三号、中山氏の「一つ物」参照)
 
     二 半男女《ふたなり》について
 
 三十年ほど前、辱知ノルマン・ロッキヤー男が、その発行する『ネーチュール』に隕石論を続載された。内に古人(582)隕石に男女ありとし、生殖器崇拝をこれに向かって行なうた由を詳説されたが、予はほとんど全く忘れ了《おわ》ったから、今更自分で調べ出した一斑を述ぶると、遠くはギボンの『羅馬《ローマ》衰滅史』や、近くは一九一一年出板、スチュアート・ヘイ氏の『呆れ返ったヘリオガバルス帝』を見て知れる通り、西暦二一八より二二二年までローマ帝だったヘリオガバルスまたの名エラガバルスは、大槻西磐氏の『遠西紀略』に竜陽を好み嬖幸多しと書かれた通り、まことに驚き入った情深《ふかなさけ》の?童《わかしゆ》で、世に半男女帝《ふたなりてい》と唱えられた。
 半男女については、一七七二年クレーフ板、デ・パウの『亜米利加土人の理学的研究《ルシエルシム・フイロソフイク・シユル・レ・アメリカン》』にあらゆる種類を集めて逐次詳論し、また一八八八年にパリで出たド・シャムプルの『医学百科全書《ジクシヨナール・アンシクロベジク・デ・シヤンス・メジカル》』四輯三巻に細説を図入りで陳べおり、一八七四年パリ板、アムプロアス・タージューの『性を誤認された人の鑑定の法医論』を読めば、半男女の体質や心性の一斑が解《わか》る。
 わが国にも身体の構造上の半男女の記事は時々新聞雑誌や医書で見及ぶが、そのほかにも半男女と通称さるる者が種々あって、実際半男女で少しもないのもある。『南水漫遊』続篇にいわく、女形《おんながた》の初めは、承応元年江戸市村座へ上方《かみがた》より右近源左御門という役者下りて、練絹の浴衣を被《かぶ》り、女形ということを始め、その後万之助という若衆|勝《すぐ》れて女に似たりとて、そのころ堺の半井卜養《なからいぼくよう》の狂歌に、「女かとみれば男の万之助ふたなり平《ひら》のこれも面影」、と。京伝の『近世奇跡考』二に、「『已往物語』に、むかし右近源左衛門という若者京都より下り、三味線引一人、地謡《じうたい》一人にて芸する時、今の鬘などいう物なく、黄色の服紗物に細き糸をつけ額に被りて月代《さかやき》をかくす。面体綺麗の若者なれば女のごとくに見ゆる。さて、芸は海道下り、山崎下りなどいう道行《みちゆき》の歌を地謡に唄わせ、それを小舞《こまい》にして舞う。または業平餅を買い給うところを独狂言《ひとりきようげん》に舞う。諸人面白がりて見物す。この源左衛門黄なる服紗物被りたる体を人形に、木にても作り、紙にて張貫《はりぬき》にも作りておびただしく売る、云々」とありて、当初女形役者を珍しく持囃《もてはや》したのだ。『男色大鑑』六に、「女がたもむかし右近左近が時は、面影の紛らわしく、頭は置手拭にして大方に色作りしに、諸(583)見物もそのなりけりに請け取り、仕組も今に見較べて過ぎにしことおかしかりき」とあれば、実に麁末至極のものだったのだ。その右近源左衛門の業平餅買いの独狂言ことのほか大当りで、後に万之助がこれを勤めた姿貌《すがた》ことに女に似たるを半男女と見立て、餅買いの業平に持ち掛けて、「ふたなり平のこれも面影」と卜養が讃めたのだ。その後女形の養成最も行き届いた時の様子は、西沢一鳳の『伝奇作書』初中にいわく、「たとえば色情の狂言にても、もと男子艶冶郎なれば実情移らぬものゆえ、幼少より女の容《かたち》にて育て、成長後傾城にせよ娘にせよ、出立《でたち》は実の女より情を深くせずんば濡事師《ぬれごとし》と口説痴話の時来賓に情移らず。往古水木辰之助という女形は、旦《たておやま》の名人にて、男子なれども月水《つきやく》を覚えしということ、『菖蒲草《あやめぐさ》』に出でたり(初代芳沢あやめ、女形の心得を書きたる書なり)」と。風来の『根無草《ねなしぐさ》』に、沢村小伝次という女形、藤井寺の開帳詣でに小山いう地に宿り、一日駕籠に乗って揺られて血暈《ちのみち》起こったと言うを、連《つれ》の俳優等笑って、いかに女形なればとて男に血暈とはと捧腹した。その座に西鶴もありて大いに惑じ、稚《おさな》きより形《なり》も詞も女のごとくならんと日ごろ嗜みしより、仮初《かりそめ》の頭痛を血暈と覚えしはさてさてしおらしきことと言った、とある。
 『琅邪代酔編』二〇などに、男子が時として乳房から乳汁を出し孤児を養うあり、と聞いて信ぜぬ人多いが、そんな人が気絶せにゃならぬ椿事ちうのは、シャウタやヴィルヒョウが検査した半男女は、男子の精液と女子の月経を兼ね具えおったという(上に挙げたド・シャムプルの書、六六〇頁)。英国のエリザ・エドワルズと女の名で一生女装した者の尸《しかばね》を検査して、多年非道受犯しおった男と知れたが、その後庭の襞?《ひだ》全く失せて大唇《ラビア》に擬《まが》うた由(英国科学士会員アラフレッド・テイラー『裁判医学の原則および応用《ゼ・プリンシプルス・エンド・プラクチス・オヴ・メジカル・ジユリスプルンデス》』第四板四七〇頁)。
 かつて高野山で小姓だった老人に聞く。以前かの山で外色盛行の時、内泄《ないせつ》外泄ということあり、慣用の久しき雲雨の際腸端が陰膣同様粘液を出すを内泄と言いし、と。これ境と用に応じて設備を新加する、生理上ずいぶんありそうなことだが、ヴィルヒョウ等が見た生れ損《そこな》いの希代の数例を措いて、男子が月水を生じ得べしと思われず。
(584) 仮初《かりそめ》の頭痛を血の道と謂うほど、女の心持ちを固執した女形どもの中に、水木、袖崎、芳沢、荻野を女形の四天王と呼んだ。その随一の芳沢が書き留めたほど名人だった水木は、月経までも身に具えたと覚ゆるまで女の心になり通したというので、実際月水を出したというのでない。水木がことは像と共にほぼ『近世奇跡考』二に出で、そこに見えぬが、市川|栢莚《はくえん》の『老《おい》の楽《たのしみ》』に、寛保二年三月晦昼ごろ大和屋宇右衛門三升が悔みに来たる、老人なり、これはむかしの水木辰之助なり、と出ず。元禄中女形の盛名あった者ゆえ、この歳は七十前後であったろう。高歌一曲明鏡を掩う、昨日少年今日白頭、と悲しんだであろう。そして月水の考えなどは遠くの昔に亡《う》せてしまったに相違ない。小姓の内泄については、一八四五年ハレ板、ローセンバウムの『黴毒史《ゲシヒテ・デル・ルストゾイヒエ》』二〇五頁注に詳論ある。
 ギリシア語で半男女をヘルマフロジトス。こはもと神の名で、その神は、男神ヘルメスが女神アフロジテに生ませた。父母の体質を兼ね備えて美容無双たり。十五歳の時サルマキスの井のほとりに臥す。井の女精これを愛し、思いを述ぶれど聴かれず、その井に浴するところを擁し、必ず離れぬようと諸神に祈る。それより二体連合して、男とも見えまた女とも見える児手柏《このてがしわ》の二面《ふたおもて》的の者となる。ヘルマフロジトスその身の変化を見て、この井に浴する者みな半男女となるよう祈ったのが、世間この人妖の殆まりという(スミス『希臘羅馬伝記神誌字書《ジクシヨナリー・オヴ・グローク・エンド・ローマン・パヨグラフイー・エンド・ミソロジー》』二巻四〇三頁)。ローマでは初めこれを妖怪《ばけもの》として海に投げたが、後には慾事に用いた(ボーンス文庫本、プリニー『博物志』七巻三章)。
 テイラー説に、むかしは人を半男女と呼ぶを軽蔑の語としたが、踊りの師匠が半男女と呼ばれて訴え出た時、審理の末取り上げられなんだ。その訳は、実際男女の体を兼備とはありうべからぬことで、かく呼ばれたとて害にならず、その上舞の師匠が男とも女とも見えるなら、二役|倶《とも》に勤まるから反って名が揚がるでないかと言うたそうだ。
 『嬉遊笑覧』九にいわく、『談往』に馮相銓という少年のことを言うて、『異物志』にいわく、霊狸一体みずから陰陽をなす、故に能く人に媚ぶ、みな天地不正の気、と。霊狸は俗にいう麝香猫で、その陰辺に香を出す腺孔あるを誤認(585)して、体牝牡を兼ねると言うたのだ。誰も知る通り兎の陰辺にも特異の構造あり。したがって古ギリシア・ローマの学者やユダヤの学僧等これを両性併せ具えたものとし、淫穢不浄の標識《しるし》とした(ブラウン『俗説弁惑《プセウドドキシカ・エビデミカ》』三巻一七章)。
 『輟耕録』二八にいわく、『大般若経』に五種の黄門《こうもん》を載す。その第四を博叉半択迦《バクチヤパンダカス》という、半月は能く男で半月は能く女なり、と。黄門、また不男《ふなん》と名づく、子を生む能わざる男だ。『五雑俎』五に、晋の恵帝の時、京洛に人あり、男女体を兼ね、また能く両《ふたつ》ながら人道を用ゆ。近ごろ聞く、毘陵の一縉紳の夫人、子《ね》より午《うま》に至ってはすなわち男、未《ひつじ》より亥《い》に至ってはすなわち女、その夫またために妾?《しようよう》数輩を置き、これに侍せしむ。妓あり、親しく枕席を承《う》く、出でて人に語っていわく、男子とことに異《かわ》りなし、ただ陽道少し弱きのみ、と。
 『輟耕録』またいわく、宋の趙忠恵、維揚に帥《そつ》たりし日、幕僚趙参議、婢あり、彗 監《けいかつ》にしてことごとく儕輩《なかま》の歓を得たり。趙これに昵《ちかづ》けども堅く拒んで従わず。異あるを疑うて強いてこれに即《つ》けば男子なり。有司に聞《ぶん》す。けだし身|二形《ふたなり》、前後の姦状一ならず。ついにこれを極刑に置く。近ごろ李安民、かつて福州において徐氏の処女《むすめ》年十五、六なるを得て、交際一再してようやく且《か》つ男形なり。けだし天真いまだ破れざるとき、かれまたみずから知らず。しかるに小説中、池州の李氏の女《むすめ》および婢の添喜ありて、事まさに相類す。しかれどもこのほか絶えて古今伝記等の書に見えず。あに人の妖のために筆墨を汚すをもってまた載せざるか。晋の「五行志」これを人痾《じんあ》という。これ乱気の生ずるところなり。『玉暦通政経』に、男女両体は国の淫乱を主《つかさど》る、しかして二十八宿の真形図に載せたる心房二星みな両形《ふたなり》で、丈夫婦女とかわるがわる雌雄たり。『?氏遺書』にいわく、非男非女の身、精血散分す、と。またいわく、感ずるに婦人をもってすれば、男脈診に応じ、動するに男子をもってすれば、女脈指に順う、みな天地不正の気なり、と。
 非男非女は英語のニウターまたエピシーン(無性)で、生殖器なき者を指す。いわゆる池州李氏の女と婢添喜の小鋭は、『続開巻一笑』二に見ゆる伴喜|私《ひそ》かに張嬋娘《せんじよう》を犯す一条を作り替えたであろう。富人張寅信その女嬋娘を嫁す(586)るに、一妾を随え之《ゆ》かしめんとて伴喜という女を添うる。娘、年十六、はなはだ伴喜を愛重するうち、伴喜、娘に婚嫁の作法を知るかと問うと、女工のほか知るところなしと答う。伴喜、みずからは女身ながら二形兼ね備わる。女に遇えばすなわち男形、男に遇えばすなわちまた女となるとて、実をもってこれに教え、娘、情竇《じようとう》一たび開いてみずから已《や》む能わず、とある。
 これは真の半男女だが、非行を遂げんための擬《にせ》半男女も支那に少なくない。『聊斎志異』と『五雑俎』を合わせ攷《かんが》うるに、明の成化の間、石州の民|桑?《そうちゆう》、少時より邪術を学び、纏足女装し、女工を習い寡婦《ごけ》の粧《よそおい》を作《な》し、四十五の州県に遊行し、人家好女子あれば、女工を教うるを名とし密処に誘い戯れて姦淫す。女従わざれば迷薬を噴き掛け呪語を念じて動く能わざらしめ事を遂ぐるに、女、名を敗るを畏れ終《つい》にあえて言わず。数夕かくのごとくしてすなわち他処に移るゆえ、久しくするも敗れず。男子の声を聞けばすなわち奔《はし》り避く。かくのごとくすること十余年、河南北直隷山東西に?遊し大家の室女百八十二人を汚す。のち晋州に至り高秀才の家に宿《とま》る。その婿趙文挙なる者|酷《はなは》だ寡婦を好む。聞いてこれを悦び、詐《いつわ》って自分の妻を妹と称し、延《ひ》き入れて共に宿せしむ。中夜に門を啓《ひら》いてこれに就く。?大いに呼んで従わず。趙その吭《のど》を扼《とりしば》りその衣を褫《は》ぐにすなわち一男子なり。擒《とら》えて官に送る。実を吐き、かつ言う、その師大同の谷才、素《もと》よりこの術をなせしが今すでに死す、その同党任茂、張端等十余人あって、途《みち》を分かち姦を行なう、と。急にこれを捕え獄具してみな市に磔《はりつ》けらる。
 そのころ、東昌人馬万宝、妻の田氏と共に放誕にして物に拘《こだ》わらず、至って中よく暮らす。隣の寡媼《ごけばば》方へ、翁姑《しゆうとめ》に虐げられ出で来たれりとて、十八、九歳の艶女来たり留まり、縫?《ぬいしごと》絶巧、兼ねて夜分女子を按摩しその病を治《なお》す。馬生その由を毎度聞いたが一向気に留めず。たまたま一日これを垣間見、心|窃《ひそ》かにこれを好む。私《ひそ》かに妻と謀りその疾に托してこれを招く。媼来たって、渠《かれ》は男子を見るを畏るという。妻いわく、今晩わが夫は他家へ飲みに往くから帰らぬよう嘱《いいつ》くべし、と。その夜かの女来たり、主人今夜帰らぬと聞いて大いに喜び田氏と共に牀《とこ》に上る。田民燭を隠し、厨舎《くりや》の門を閉ずるを忘れた、ちょっと閉めて来るとて、牀を下り門を啓《ひら》き夫と入れ替わったと知らぬ白歯の娘、馬生をその妻と心得|昵《むつ》まじく話し掛くれど黙りおる。その腹を撫ずるうち男らしい様子に驚き逃げんとするを、馬生が止めて検すると、盗人を捉えて見ればわが子なりで、これも立派な男子の証拠あり。大いに驚き火を呼ぶ。田氏、さては替玉が露顕した、調停せんと燈を持ち来ると、女、地に投じ助名を乞う。これを詰《なじ》ると、われ実は谷城の王二喜という男で、兄王大喜は桑?の門人ゆえ、それより術を伝わったが、道を行なうこと久しからず、十六人に施したばかりという。馬生これを悪《にく》み郡に告げんと欲したが、またその美容を憐れみ、ついに反接《ひつくりかえ》してこれを宮するに、血溢れて気絶し頃《しばら》くしてまた甦《よみがえ》る。これを介抱して、われ薬をもって汝を医するから創癒ゆればわれに従って終われ、然らずば事発覚して赦されじ、と言うに、王承諾した。明日隣媼迎えに来たるを馬生|紿《あざむ》き、妙な邂逅《であい》もあるもので、あの女子はわが表姪女《いとこのむすめ》王二姐と申す者、生まれ付いた無性人で、夫の家より逐われたと昨夜始めて聞き知った、たちまち少しく不快ゆえわが家で養生せしめ、荊妻と伴《つれ》と作《な》すと聞き、媼入って王を見るに面色土のごとく隠所|暴《にわ》かに腫る。おそらくは悪疽だろうというと、信じて去った。馬生種々世話して、王、日に平復に就き、朝は早起して煮炊き掃除や針仕事から田の水取りまで下女同然に働き、夜はすなわち引き入れて狎処《なぶ》られた。いくほどもなく桑?誅に伏し、その徒並びに棄市されたが、喜二のみ網に漏れた。探索が厳しいので村人共にこれを疑うたから、村の媼どもを集めこれを検せしむると果たして無性と判り疑いが釈《と》けた。これより王喜二、馬生を徳とし馬に従うて一生を終わり、死して馬氏の墓側に葬られた、とある。
 『志異』の著者評して、馬万宝は善《よ》く人を用ゆる者というべし、児童が喜《この》んで蟹を玩《もてあそ》べどその鉗《はさみ》が長い、よってその鉗を断ちてこれを蓄《やしな》う、ああ、いやしくもこの意を得ば、もって天下を治むるも可なりとは、美人の去勢も妙な引合いに出たものだ。何に致せ馬生はかかる風流な細君を持った上に、右様の珍品を手に入れたは好運千万の人だ。
 わが邦《くに》にも、古い小説『取替ばや物語』に、兄は女、妹は男と誤信された譚あり。西鶴の『大鑑』に、女形の名人(588)上村吉弥、貴女より召されて女粧のまま参り、酒事《ささごと》始まったところへ貴女の兄君来たり、女と思うて占領し御戯れ否はならず、是非に叶わず鬘を取って?童の様を御目に懸けると、一層好しと鍾愛され、思わぬ方の床の曙、最前の妹君のさぞ本意《ほい》なかるべしという一条あり。その他なおあるべきも、本来無性や半男女を重んぜぬ国風ゆえ、支那やアラビア、インドや欧州ほどの眼醒ましい奇誕がない。
 以上ざっと述べた通り、半男女と通称する内にも種々ある。身体の構造全く男とも女とも判らぬ人が稀にありて、選挙や徴兵検査の節少なからず役人を手古摺らせる。男精や月経を最上の識別標と主張する学者もあるが、ヴィルヒョウ等が逢うたごとき一身にこの両物を兼ね具えた例もあって、正真正銘の半男女たり。その他は、あるいは男分《なんぶん》女分より多く、あるいは男分女分より少なきに随って、男性半男女、女性半男女と判つ。こは体質上の談だが、あるいは体質と伴い、あるいは体質と離れて、また精神上の半男女もある。ツールド説に、男性半男女に男を好む者多いが、女性半男女で女を好む者はそれより少ない。喜んで男女どちらをも歓迎する半男女は希有だ、と。仏説に男女根の優劣論ありていわく、この二根中、男根最上女根下たり。何をもってのゆえぞ。男子罪多き者、男根を失えば変じて女根となる。女人もし功徳多ければ変じて男子となる。かくのごとき二根多罪のゆえをもって失い、多功徳のゆえをもって男子となる、と(『根本説一切有部?芻尼毘奈耶』八)。
 これは耶蘇旧教と等しく仏教もとやたらに女人を蔑み、仏教を篤信する外に女が男に転生《うまれか》わる途なきように説いたのだが、姑《しばら》くその説通りに推し行くと、男根やや備わった男性半男女は、男根大いに闕けた女性半男女より優等と言わにゃならぬ。しかるにツールド説通りならば、男性半男女多く男を好むからその精神は女に近く、女性半男女多く女を好むからその精神反って男に近い。『一代女』四、堺の富家の隠居婆が艶婢を玩んだ記事の末に、この内儀《かみさん》の願いに、またの世に男と生まれて云々、とあるを相応にもっともな望みとして、さて胎児も初めの間は男女定まらぬ理窟で、事みな順序あり、女が男になる道中として半男女にしてやろう、男性女性いずれを選むかと謂わんに、男分多(589)く獲れば精神反って女に近く、女分多く得れば男らしき精神を多く持つとすれば、隠居婆はいずれを取るべきや。男の体質を一分でも多く欲しいと言わば再び女に生まるる同然で、しかも世間を憚る不具《かたわ》たる苦労の加わるあり。男同然に振舞いたいと望まば再び女の身分を多く受けて、やはり世間を憚ること今生で非道を行ないおると異《かわ》らぬ上、半男女という不具を苦労にせにゃならぬ。一足飛びのならぬ世界に、詮じ詰むれば何の面白くもあらぬことを熱望するこの老婆様の人が多い。
 それから仏教で女よりも劣るとされた人間がまだある。『大乗造象功徳経』に、仏が弥勒菩薩に告げたは、一切女人、八の因縁ありて恒《つね》に女身を受く。女身を愛好し、女欲に貪著《とんじやく》し、常に女人の容質を讃め、心正直ならず所作を覆蔵《かく》し、自分の夫を厭い薄んじ、他人を念《おも》い重んじ、人の恩に背き、邪偽装飾して他を迷わす。永くこの八事を断ちて仏像を造らば、常に丈夫となり、さらに女身を受けず。諸男子が女人に転生《うまれか》わるに四種の因縁あり。一には女人の声で軽笑し仏菩薩一切聖人を呼ぶ、二には浄持戒人を誹謗す、三には好んで諂《へつら》い媚びて人を誑惑す、四にはおのれに勝る人を妬む。次に四種の因縁ありて諸男子を黄門(無性人)に転生せしむ。一には他人また畜生を残害す、二には持戒僧を笑い謗《そし》る、三には貪欲のために故《ことさ》らに犯戒す、四には親《みずか》ら持戒人を犯しまた他人を勧めて犯さしむ。次に四種の業《ごう》あり、丈夫をして二形身を受けしめ、一切人中最下たり。一には自分より上の女を犯す、二には男色に染著《せんじやく》す、三にはみずから?《けが》す、四には女色を他人に売り与う。また四縁あり、諸男子をしてその心常に女人の愛敬を生じ、他人がおのれに丈夫のことを行なうを楽しましむ。一にはあるいは嫌いあるいは戯れに人を謗る、二には女の衣服装飾を楽しむ、三には親族の女を犯す、四にはおのれ何の徳もなきに妄《みだ》りにその礼を受く、とあれば、今日ありふれた華族や高官はみな好んで後庭を据え膳する男に転生《うまれか》わるはずだ。かく仏典には、無性人と半男女と同性愛の受身に立つを好む者との三様の人を、女より劣ると定めたのじゃ。そして東西ともこの三様の人を半男女と混称することが多い。
 
(590)     三 宦官について
 
 森尚謙か誰か儒者の言に、宦者というもの日本になきは支那に比べてはなはだ結構なこととあった。近年まで隣国だった朝鮮までも人を宮する風あったに日本にこれなかったは珍しい。ただし絶えてその類もないとは言えぬ。肥後の比丘尼舎利菩薩は美女ながら女根なく尿道のみあった(『日本霊異記』下。『本朝法華験記』下)。成尊僧都は仁海僧正の真弟子なり。ある女房かの僧正に密通してこの人を産み、水銀《みずがね》を嚥《の》ませた。水銀を服した嬰児存命してもその陰全からず、よりてこの僧都は男女において一生不犯の人なり(『古事談』三)。真弟子とは僧の子が親の弟子になるので、一休など俗にきわめて無慾だったよう伝うるが、その詩集に森氏の盲美人と至って親?《しんじつ》したり美童を愛したことしばしば見え、『続狂雲集』には、妾あり、余に随う年久し、一日にわかに辞し去る、これを挽《とど》むれども留まらず、と題した二詩とその妾の和詩を載せおり、飯田忠彦の『野史』には、その真弟子の名まで出しおる。悟り切った骨頂のように言わるる一休さえこの通り男女色兼備だから余は類推すべしと、成尊僧都が男女において一生不犯とは見揚げたものゆえ特書した訳だが、生まれ堕つると直ちに水銀を呑まされ一向役に立たぬようされてのことゆえ、醜女の賢人立てでただ気の毒なばかり、別に感嘆を値せぬ。
 バックルは僧と女ほど意地の悪い者なしと言った。その意地の悪い同士が守って産んだ子に惨酷きわまることを仕向くるは当然と見え、西洋にも近世まで僧尼濫行の結果産児を池へ沈めたり堕胎したりはほとんど常事だった。エチアンヌの『アポロジー・プール・エロドト』には、法王アレキサンドル六世は庶子ザンネット伯がスペインのメンドザ和尚の嬖童たるを許し、同じくホノリウス三世は、スコットランドの百姓が重税を払わず宗門を杜絶されたを憤り僧正を焚き殺した罰として、その四百人を絞殺しことごとく幼児多数を去勢せしめた、と載す。それから京の金戒光(591)明寺の西雲院の開基宗叡は、初め捕虜で渡来した朝鮮人で天性無根だった由(『壅州府志』)。僧となる前に秀吉公の未亡人高台寺政所に事《つか》えたが無根ゆえまず気遣いない。
 性慾を除かんため陽茎を切り去った例は本邦でしばしば聞き、以前は羅切と称えた。これは反って性慾を増すも鎮定の手段乏しく、大いに迷惑した者少なからず。これ邦人古く性慾の学識貧弱で去勢は睾丸を除くことと知らず、陽茎を去れば性慾を絶やし得と心得違うたからだ。されば王朝や徳川幕府の盛時、後宮佳人で満たされた世にも、ただ無力の耄爺《ぼれおやじ》どもや老婆《ばばあ》連にこれを監視せしめたのみで、インド、トルコ、支那諸国に普通な宦官の閹人《えんじん》のという者は聞きも及ばなんだ。たまたま無性の人あってもいわゆる天閹《てんえん》で上述舎利尼、成尊僧都また宗叡など生まれ付いて生殖機能を欠きおった者に限った。これに反し外国では古来捕虜や奴隷や罪人を宮し、また支那の豎?《じゆちよう》のごとくみずから好んで去勢したのもある。
 言うまでもなく閹人《えんじん》は主として姫妾の目付け、椒房《しようぼう》の取締りを勤める者ゆえ、醜男《ぶおとこ》なほど多く主人に重んぜられたこと不縹緻《ぶきりよう》なほど下女が主婦に信用さるるごとし。しかし石川五右御門氏の金言通り、浜の真砂は尽きても豆泥棒は絶えず。すでに性慾を覚えてのちなった閹人は懐旧の情を慰めんため、またそんなことを知らぬ幼年中去勢された者も身の不運を歎ちて、復讐半分に宮女と戯れあるいは妻を契るすらあり。近く亡清の西太后は宦者李蓮英と夫婦のごとく睦んだ由で、清少納言の『枕の草紙』の原型と言わるる『義山雑纂』の虚度すなわち宛推量の条に、花時|疾《やまい》多きと閹宮美婦を娶るとを挙げあれば、唐朝すでにこの風行なわれたので、故緒方正清博士が朝鮮の閹人を調べた報告に宦者の翻弄《もちなぶり》はいかな淫婦も厭いて来るほどひちくどいとあった(『人性』八巻四号)。バロンの『東京《トンキン》王国記』に、家も子も持ったのちに斉の豎?のごとく君王に近づいて政権を握らんためみずから宮する者ある由言いおる。閹人女を翫ぶは多くはこの輩であろう。また多くの宦官は親が暮し向きに困って子を去勢して売ったものゆえ、栄達の後も親に仕給すること洵《まこと》に薄し、と記す。橋の上を年礼に廻る人々が往来するを見て下に臥したる乞食の子が父に向かい、か(592)かる無用の奔走をせずに済むわれらの境涯こそ安楽なれと痺我慢を言うと、父がそれも誰のお蔭だと言ったちう笑談があるが、まずそんなことで、東京《トンキン》の宦官はずいぶん顕位に登れど、死んだら最後|年来《としごろ》不正を働いて蓄えた物はことごとく主君の手に帰した、とある。
 バロンまた、宦者の多分は豪慢驕縦まことに悪むべしだが、中には非凡の賢人ある、と記した。東京ごとき暖国で小児が多く裸で歩く処では、不意に犬や豚に睾丸を咬み去られ已むを得ず宦官になるのがあって、これらは諦めがよく根性が僻みおらぬという。閹人は心性婦人に似たところ多く、他《ひと》の子供を養い教育するを能くす。したがってヴォルテールの『哲学辞彙《ジクシヨネール・フイロソフイク》』に、一七七一年ポリカープという天主僧が年少弟子十二人を鶏姦したことを記し、これだからペルシアやトルコでは閹人に子弟の教育を做《な》さしむ、とある。世には閹人をみな智勇乏しき者のみのよう思う人多きも、然らざるは史籍に明らかだ。哲学者ヘルミアスはプラトーンの門に出で小アジアの小王となり、アリストテレスその人と為《な》りに感じその妹を娶ったほどの賢者だが閹人だった。ローマの名将ナルセス、支那の史家司馬遷と劉若愚、これは十五歳で異夢に感じみずから宮した。それから秦の張  蛇は養父の妾に通じみずからその勢を割く、のち苻堅に仕え大将軍に至り侯に封ぜられ驍勇絶倫万人の敵と称す、古今に聞こえた大男の宦者だ、とある(『五雑俎』五)。唐亡びたのち宦官張承業、晋王李存勗のために財を貯え兵を集め、攻戦連年接応乏しからざるはみな承業が力で、その意ひとえに唐の宗社を復するにあり。存勗みずから帝と称せんとするを聞き、力諌すれど止むべからざるを知り慟哭して、諸侯血戦もと唐家のためにす、今王みずからこれを取りて老奴を誤る、といい悠々病をなして死んだ(『十八史略』六)。かかる偉人は例外とするも、宦者がことごとく心立ての悪い者なら諸国で重用さるるはずがない。『五雑俎』一五に、演劇《しばい》で哀れな段を観ると婦人と宦官が大いに哭して声を失う、と言いおる。その他動作静かに物柔らかく、行歩遅緩に音声弱く低く、子供を育つるを好み、美服を嗜み、一汎人に敬愛せらるる等、男に遠くて女に近いらしいは、一八六七年パリ板、ゴダールの『埃及および巴列士丁《エジプト・エ・パレスチン》』等に見ゆ。したがってその思慮細謹、事を操る忠(593)誠で大いに役に立つから、しばしば学者や勇将よりも重用されたと見える。さて寵愛厚きに随い種々の悪政を布いたり国事を過った例は欧亜諸国に多く、支那では定策国老門生天子と呼ばれたのさえある(一七一八年ロンドン板、アンシヨン『閹人顕正論《ユーナキズム・ジスプレイド》』。『五雑俎』一五)。
 それから王公に事えるのと別に神に仕えた宦者もある。アンシヨンいわく、狩の女神ジアナに奉仕する僧をメガブテスと呼び、この女神に事うる素女《きむすめ》を守るゆえみな宦者たり、ジアナの標《しるし》たる鎗を持つゆえ鎗手《やりもち》(ドリフォロン)とも名づく。名工ポワクレツスかつて鎗手美少年の像を作るに明艶冠絶みずから愛して措かず、常にこれをわが情婦と呼んだとあれば、この女神は女恥かしき美少年の宦者を好んだのだ。フリギアの植物の神アッチスはもと羊を牧養する美少年で、その伝一ならず。あるいはいわく、この神生まれ付いた閹人でリジアに住し、大神母クベレのために無遮会を創め、神母大いに喜ぶ。クベレの子ゼウス大神怒って野猪をしてこれを殺さしむ、と。一説に、ゼウス眠って地上に遺精し、それが時を経て陰陽を兼具した怪物アンジスチスとなる。諸神怖れてその陽を断つ。それより巴旦杏が生えて結んだ実をサンガリウス川の娘が採って懐中すると、たちまち消え失せ同時に娘は孕んだ。やがて男児を生んで林下に捨て置くと山羊が来たり教育し、長ずるに随い色貌絶美、アンジスチス深くこれに惚れ込む。この男児すなわちアッチス成人してペシヌスの王の婿に成され、一同婚歌を唄い祝うところへ妬《ねた》さきわまるアンジスチス現われ、婿も婦《よめ》も発狂しておのおのその大事の珍品を切り去った。その時アンジスチス大いにアッチスの無根となりしを哀しみ、せめてアッチスの体は少しも腐ったり亡せたりせぬようとゼウスに願うて聴《ゆる》された、と(パウサニアス『希臘廻覧記《ヘラドス・ペリエゲシス》』七巻一七章)。オヴィジウスの『暦日賦《フアスチ》』巻四には、アッチスは牧羊する美少年で大神母キベレ太《いた》くこれを愛し、決して女犯せぬ約束で自分の神官とした。キベレは兄クロノスと婚してゼウス、ハデス等の六大神を産んだから大神母の名あり。しかるにアッチス誓いを破り河の神サンガリウスの女と通じ、キベレ怒ってその女を殺したので、アッチス狂気してみずから宮してなお進んで自殺せんとする時、キベレこれを松に化した。それより松をキベレの神木、キベ(594)レの神官は必ず宦者たれと定めた、とある。アルノビュス説には、アッチス松樹の下でみずから宮した、キベレとアンジスチスとこの少年の死を悲しむことはなはだしく、ゼウスにその?腐らぬよう願うとゼウスこれを聴し、死後もその髪伸び小指が動くようにした。カイベルいわく、小指とはその陰なり、と。ジオドルス説には、初めキベレその父フリギア王メオンに棄てられ豹に養わる。牧羊婦見付けて育て上げたが、物の情を知るに及び牧羊少年アッチスと密通す。それより父母の許へ迎え取られ大いに好遇されるうち、メオンその密通一件を聞き付けアッチスおよびキベレの伴侶《つれ》だった牧羊女輩を殺す。キベレ哀しみのあまり大声揚げて国中泣き歩く。時にフリギア国飢饉疫癘し大いに閉口して神告を仰ぐと、アッチスの尸を葬りキベレを神と斎《いつ》け、とあった。然るにその尸が腐りおったので像を作って葬ったという。また一説には、フリギア王がキベレの神官アッチスの艶容に著《じやく》し、これを辱しめんとて林下に争ううちアッチスついに王を宮し、王怒りてまたアッチスを宮して死んだ。アッチスも死に掛かりおると、他の神官どもが見付けキベレの社殿に伴れ行き介抱せしもその甲斐なくこれも死んだ。キベレすなわち毎年アッチスのために泣祭《なきまつり》を催さし、爾後自分に事うる神官をことごとく閹人たらしめたそうだ(スミス『希臘羅馬伝記神誌字書』巻一。『大英百科全書《エンサイクロペジア・ブリタニカ》』一一板二巻)。
 アッチスが松の下でみずから宮した時出た血が菫々菜《すみれ》になったとかで、その祭日に松一本伐って菫々菜で館り美少年の像を中央に付けて神に象り、大祠官みずから臂より血を出し献《たてまつ》ると、劣等の神官|噪《さわ》がしき楽声に伴れて狂い舞い夢中になりて身を切り血を流す。これを血の日というて新米の神官この日みずから宮してその陰を献ったらしい。エフェススのアルテミス女神とシリアのアスタルテ女神は上世西アジアでもっとも流行《はや》った神だが、いずれも閹人を神官とした。春の初めにシリアとその近国よりおびただしくヒエラポリスのアスタルテ神社へ詣る。笛と太鼓を奏する最中に神官小刀で自身を創つくるを見て参詣人追い追い夢中になって血塗れ騒ぎをなし、ついには衣を脱ぎ喚き踊り出で備え付けの刀を採って惜気もなく大事極まる物を切り去り、それを手に持って町中を狂い奔りどこかの家へ投(595)げ込むと、それ福が降って来たと大悦びでその家より女の衣裳と装飾《かざり》をその人に捧ぐるを取って一生著用する。祭済み人散じた跡で正気に立ち復《かえ》り続《つ》ぎ合わしょうにも薬がなく、この上生きおっても何かせんと言って悄気《しよげ》たことであろう(一九〇七年板、フレザー『アドニス、アッチス、オシリス』二二二−五頁)。
 古今東西人情は兄弟で、右述の譚のほかにも西洋で松実を陰相とする例多く(グベルナチス『植物譚原《ミトロジー・デー・プラント》』二巻、松の実条)、日本でも松実を松陰嚢《まつふぐり》と称え、『後撰夷曲集』九に、「唐崎の松のふぐりは古への愛護の若の物かあらぬか」正盛、と出ず。愛護の若は継母に讒せられて死んだ美童で、『土俗と伝説』に折口君の委《くわ》しい考説があった。『聖書』に著名なバール神は、大陰相を像としたとも半男女を像としたともいい、その神官は女粧し全く毛を抜いた美男で、みずから参詣人に売淫しまた犬をも同じ道に使い、その揚銭《あげせん》を神に奉った。これは宦者でなかったらしいが、深夜林下に祭礼を行なうとて酒を被って奏楽中に切り合い流血裏に混倒したとあるは、上述キベレの祭式に似ておる(ジュフール『売靨史《イストア・ド・ラ・プロスチチユチオン》』巻一、頁七二)。
 キベレ、アスタルテ等の社に閹人を神官としたは、これら女神は土を表し男精は生産力と見立て、生産力がほかへ散らず純《もつぱ》ら土に加わって作物豊饒なるべきため、神に近づく神官を閹にしてほかへ気の泄れぬようにしたと学者は説く。まことに左様でもあろうが、愚考にはこの一節の初めに引いたアンシヨンの説通り、最初いずれの女神にも素女が奉仕した。その素女の品行を濫《みだ》さぬべく宦者をして監視せしめたが、後には素女が手を引いてしまい、もっばら女装無性の人を奉仕せしめることとなったと解く方が手近からずやと惟う。さて、これとは無関係だが、キリスト教徒にも宦者少なからず。西暦一八五年アレキサンドリアに生まれたオリゲンは、『馬太《マツチウ》伝』に、「それ母の腹より生まれ来たる閹人あり。また人に去勢された閹人あり。また天国のためにみずからなれる閹人あり。これを受け納れ得る者は受け納るべし」とあるを見て、われ毎度弘教のために婦女に近づき雑多の嫌疑を受くるを避くるはみずから閹人となるが一番と覚悟して切って了《しま》った。親友にも隠し置いたが噂たちまち広がり、アレキサンドリアの僧正デメトリウス大(596)いにこれを讃めた。が、それは牡鹿の角の束の間で、オリゲン到る処豪い奴じゃと囃さるるを見て快からず、種々攻難した末これを放逐した。その後ヴァレシウスあり、藍より出でて藍より青く、みずから去勢したのみならず弟子をしてことごとく去勢せしめ、諾《うべな》わぬ者は腰掛に縛り付けて手ずからこれを宮した。無理遣《むりやり》に宮されたのだから、「天国のためにみずからなれる」にあらず。また国法違背の故をもって厳しく咎められた。またアルリアン宗徒がアンチオクの僧正に選立したレスチウスも、疑われずにエストリアという若い婦人と会談したさにみずから宮したゆえに職を奪われた。
 こんな不料簡な宗旨今までも全滅せぬは露国のスコプチ徒で判る。この名はスコペツすなわち閹人に基づき、開祖セリワノフは小農より出で去勢を勧め廻り、みずから神中の神、王中の王と称え囚流幾回なるも屈せず、一八三二年百歳で死んだを偉いこととその徒は讃める。が、支那にはずいぶん気の利いた人があって、杭州の知事傅正方へ九十を踰えて嬰児の色ある術士来た時、正が長年の法を尋ねると、わが術ははなはだ簡単だ、ただ色慾を絶つのみと答えた。正しばらく思案の末、色慾を絶って千年生きたって何が面白いと言った(『続開巻一笑』七)。この見解から言わば痛い目をして我慢を張り通すスコプチは閹人宗にしてまた闇人宗だ。その徒多くは両替を業とし色は白を尚び宮する前に婚姻して一、二子を設くるを構わず。婦人は乳房を切り去るのみだが、偉い女は男に負けぬ気で小唇《ラピア・ミノラ》や吉舌《クリトリス》を割く。男は睾丸ばかりか陽茎をも去る。前者を斑馬、後者を白馬と呼ぶ。「神代巻」に素盞嗚尊天の斑駒あれど、これは同伴でない。スコプチ徒同類十四万四千人に達したら救世主現われ清浄世界を立つべしとて早くその数を満たさんため賄贈や暴力をもって他宗の者を去勢し厳法を懼れず教えを弘むるに力むる由(一八七五年ベルリン発行『人種学時報《ツアイトシユリフト・フユル・エツノロギエ》』七巻、フォン・スタイン「露国の閹人宗」。『大英百科全書』二五巻その条)。
 仏教|固《もと》より去勢を禁じた。仏、舎衛国にあった時、比丘あり。慾心を起こしこれを制せんとてみずからその根を截る。苦悩して死せんとす。仏、なんじらこの痴人を看よ、断つべきものを取り違えおる、断つべきものとは貪欲、瞋(597)恚、愚痴の三つだ、諸比丘今より根を断つべからず、と戒めた(『十誦律』三八)。しかるに後世この訓に背き断根する者が往々あって、唐の僧光儀は則天武后に族誅された瑯?王の幼子で、乳母に抱かれて脱れ困苦して僧となる。唐室また興るに及び朝廷へ召さるる途次、その叔父筋なる李使君方に宿った。使君の女一見してこの人ならではと思い詰め、?粧麗服し従者多く伴れて推し掛け来たり、これに逼るを断わっても聞き入れず。沐浴した上命に従うべしとて女を出だし、剃刀で珍品を切り了ったが、中宗皇帝これを大寺に置き、侍者常に数千百人で卿相よりも勢力あった(『宋高僧伝』二六)。
 わが邦でも追い追いそんな者を尊ぶこととなったと見え、『宇治拾遺』に珍譚あって、前に述べた通り睾丸を去らずに陽茎を切る、いわゆる羅切をみずから施す者がままあったを証する。中納言師時方へ煩悩を切り捨てたという法師来たる。その訳を尋ねると、これ御覧ぜよとて衣の前を掲げるを見れば、「まことにまめやかのはなくて髯ばかりあり、こは不思議のことかなと見給ふほどに、下に下がりたる袋のことのほかに覚えて」二、三の侍して引っ張らしめ、小童をして撫でしむるに、魁偉な物勢い強く出で来たり揚威して、全く「まめやか物を下の袋へ捻り入れて即飯《そくい》にて毛を取り付けて」人を欺くつもりだった、とある。同書に、陽成帝の時、滝口道則、奥州へ下るあいだ、信濃の郡司方に宿り、主人出で往った跡で邸内を見廻り、二十七、八の殊色ある年増女独り臥したるを見付け、寄り近づくに拒まず。身痒きを覚えて探り見るに物なし、女は微笑むのみ。いよいよ怪しくてわが寝所へ帰り捜せど落ちてもなし。あさましくなって郎等を呼び、ここにめでたき女ありと唆かせば、その男悦んで往ったがしばらくして変な顔して帰り来る。これもわれ同様の眼に逢うたと思うて、また他男《ことおとこ》を遣るに同じく心得ぬ気色で出で来る。七、八人まで遣るにみなかくのごとし。道則、ここの主人の懇待は嬉しけれどこんな怪しいことある上は疾く出でようと思い、まだ明け果てぬに主従急ぎ出で立って七、八町行く時馬で追い懸ける者あり、走り著いて白紙包みを与え、こんな物をなぜ棄て行きしか、あまり急がるるゆえこれをさえ落とされた、拾い集めて御渡し申すという。「いで何ぞとて取りて見(598)れば、松茸を包み集めたるようにてある物九つあり。あさましく覚えて八人の郎等とりどり怪しみをなして見るに、まことに九つの物あり、一度にさっと失せぬ。さて使はやがて馬を馳せて帰りぬ。その折、わが身より始めて郎等どもみな、ありありといいけり」。道則奥州の用済んで帰途、件の郡司方へ再び宿り貴重品を種々贈る。郡司なぜかかる物を下さるかと問うに、前頃《さきごろ》一泊の折怪しいことのあったは如何と尋ねると、郡司答えに、某《それがし》若かった時この国の老年の郡司の妻若きに忍び寄ってかように珍品を紛失した、不思議に思うて志を尽してその老人から習い置いたと言う。よって都へ上って復命し、また下って習業の前に胆力を試されたが、道則臆病で落第し珍品雲隠れの晴芸は教えくれなんだが、沓《くつ》を犬の子にしたり藁沓を大鯉に化す等の術を授けられた。陽成帝も道則を召して伝受し給い、御几帳の上より賀茂祭を渡しなどされた、とある。
 「芸者殺すに刃物は入らぬ、甚九留めれば皆殺し」というが、この郡司の術を行なうたら刃物なしに人の珍品を失踪せしめ、自分の留守中も確かに妻妾保険付で安心して外出し得るのだ。
 
     四 姦婦と宦官
 
 家光将軍の時日本を旅行した蘭人カロンの記に、日本では密室に妻女が他人とおるを見付けたら、たとえ過ちなしと明らかに知っても二人を夫が殺し得る。夫不在なら妻の父子兄弟等の親戚が夫に代わって殺し得る。夫の家来すらかかる場合に主婦《かみさん》を殺し得る。したがって姦通はなはだ少なく著者滞留中ただ一度耳に入ったのみだ。その次第を述べよう。一人旅行と偽り出立後早く還って妻が他人と密会するを見付け、現場でその男を殺し妻を梯《はしご》に縛って終夜直立せしめ、次日自分と妻の親類の男女を招待した。この国の風として男女は別時に招く例だが、この人特に請うて同時に招待した。婦人輩男子と別室に請ぜられ主婦の機嫌を問うたびに、夫が、妻は今馳走の拵えに奔走しおりすぐ出(599)で来るべければ何分面白く遊んで待ち下されとばかり言った。それより男女同席に導かれ饗膳に向かい、また主婦の左右を問うた。夫はしばらく座を外し、…………………………………………………………………………、妻の縛めを解き喪服を着せその箱を持たせ、今日の客達にこの珍肴を進め、かの人等がなんじのために救命を取り成さるるか試し見よと言ったので、妻は生きた心地もなく客の前に箱を出してひれ伏した。さて妻その蓋を開けて中の物を見、大いに愕き逃げるところを夫が首を刎ねた。客達も少なからず驚き一同立って自宅へ帰った、とある。わが邦の書籍に一向見ぬことで、欧州には多少似た譚が多くある。倒せば、イタリアのブルゴニアのロベルト伯ミラノ生れの荷運び男を使う。その婢一人これと遊んで…………………………………………………………………………。伯これを知るに及び窃《ひそ》かにその男を殺し、その心臓で饅頭を作り妻と諸婢に食わせ、どうだ旨かったかと問うに、みな旨かったと答う。伯いわく、それはもっともだ、その鰻頭になったバリガンテちう男は、生きてるうちなんじらを楽しませたから死後もまたなんじらの口に合う、と。聞いて吃驚《びつくり》一同大いに羞じ入り、何ともならぬゆえ尼になってリミニの尼寮を立て追い追い高名にも富有《ふゆう》にもなる。立派な甲冑を着た騎士がこの寮を過ぐれば、住持の尼公諸尼とこれを閾《しきみ》に迎え…………………………………………………………………………、翌朝その身を洗うべき水を薦め、洗い了って針一本と絹糸を呈す。騎士据膳労れの手をもってその糸を針に串《つらぬ》くに、三度試して成らずば甲冑も馬具も尼に取らせ裸で裸馬に乗って往く。三度試す内に串き果たせば尼は何も取らず、お負《まけ》に玉飾等の珍品を進上した(一八八四年フィレンツェ板、ビアギ『一百昔話《ツエント・ノヴエレ・アンチク》』第二九語)。妻の情夫の心臓を妻に食わせた譚はインドにもあり、欧州にことに多い(クラウストン『俗語および小説《ポピュラー・テールス・エンド・フイクシヨンス》』二巻一八七頁以下。リー『デカメロンの原話と類話』四日一および九語)。
 タヴェルニエー『奇異談説集《ルコイ・ド・ブルジユール・ルラシオン・エ・トレーテー・サンギユリエー・エ・キュリオー》』一六七九年パリ板一八章に、バタビアの士官長煩いののち保養がてら友人を訪いに出るとて、下女に外套を着せ貰う時下女何心なく微笑んだ。これを覗きおった妻、てっきり怪しいと三千丈も角を出だし、夫出ずるや否その下女を…………………………………………………………………………、それを餅にして夫に食(600)わしょうとしたが、他の諸婢これを夫に告ぐべしと威《おど》したので中止した。またゴアの一ポルトガル婦人も同様の訳で……………………………………………夫これを知ってその妻を突き殺した、と載す。想うに当時諸国にこんな話があったのを日本人が聞き込んで、行儀の正しきに誇るため自国にあったように伝えてカロンの耳にいれたものか。ただし当時戦国の世を去ること遠からず、男女の気象荒々しきを免れず、姦通の私刑きわめて峻酷だったは、天文十年ごろ筆『奇異雑談』上四章で例証ができる。津の国の修業者、中国の山路で日暮れ荒れ果てた古堂に息《やす》む。暗夜に炬《たいまつ》持ちて入り来たり天井に登る者あり。修業者音立てず聞けば、その男まだ死におらぬかと詈って杖で誰かを打郷し、杖を捨てて梯を下り去った。炬の影山麓の里に往いて消ゆるを竢って、薬籠より燧《ひうち》?燭を出し火を点して登り見れば女を磔に懸けあり、子細を聞くに無実を申し掛け姦通したとてその男を殺し、首を取りてそこにありと示す。今日で六日縛られおるという。繩を解き水を与え杖突かせて里に伴れ行きその生家に至るに、大きな構えで六日前に娘殺されたと心得念仏しおる。娘入って次第を語るに、父母悦び修業者を懇待し一生留まれというを辞すると種々贈遺《おくりもの》さるをも取らず。娘は二、三日養生して美容旧に復し眉を作り盛粧して暇乞にとてその室へ招かれ、往き見るに艶姿見替えたり。小さき葛籠《つづら》を緊《きび》しく結《ゆ》えるを与えわが志なれば道で捨つるとも取りたまえと勧めて止まず。よって受け持ちて門送りに出る人々を辞退し、十町ほど行くに葛籠はなはだ重し。捨てんと思うて解き見れば包み物あり。開いて見ると天井にあった男の首腐り臭きこと限りなければすぐさま谷に投げ捨つ。この首を何として持ち来たれる。袖に入れたものか。磔の憂目にも懲りず執心して取り来たったは姦通事実なる証拠だと、慈悲も無になり大いに悪《にく》く覚えたそうだ。
 似た譚が欧州にもあって、十六世紀にナヴァル王后マーゲリトが書いた『ヘプタメロン』三十二語に、十五世紀に仏王シャール八世がベルナーシェをドイツへ使わした時、一夜ある家へ一泊を頼むと事ありとて断わられたが、王の使に往く訳を打ち明くるとようやく宿めくれた。大きな室で夜食を卓上に並べると、斗帳の後ろから無類の美婦黒衣を着、髪切られたが色青ざめ心配そうに出で来たって下位に坐るもすべて無言だった。その女食事済んで水を望むと、(601)一僕髑髏の眼を銀で塞いだのに水を盛って持ち来たる。飲み了って手を洗い主人に一礼し無言で帳裡に躱《かく》れた。主人、ベルナーシュ不快の体を見て語ったは、かの女はわが妻で以前もっとも和楽して暮らしたが、わが旅行の留守中わが家に育った若者と?《した》しくなった。われ帰り来てこれを覚り、一日外出する偽《ふり》して只今かの女が住む室に躱れ伺うて不貞の現場を抑え、かの女の肱より男を引き離して殺し了った、かの女の罪死も軽きをもってかの男と歓会した室に閉じ置き、かの男の骨をことごとく戸棚に保存し、飲食の都度かの男を忘れぬようにその髑髏盃で呑ましめてわれこれを見る、けだし嫌うわれは生きおり好いた男は死におるをもってかの女をもっとも憾ますためだ、髪は姦婦の生やすべきでないから短く剪らせた、と。それよりベルナーシュを導いてかの女の室に至り、帳を?《かか》げて姦夫の骨を示した。ベルナーシュ、主人の許しを得てかの女に、不心得ゆえにかかる詬《はじ》を受くる、なんじはすべての女人中最も無慙な者だと語ると、女も涙を流して、わが君われに加うる多般の呵責もなかなかわれがわが君に?《きず》つけた罪を悔ゆる悲しみに当つるに勝《た》えずと言うて太《いた》く泣いた。翌朝ベルナーシュ出立に臨み主人に向かい、かくまで不意の好遇を辱《かたじけな》うし兼ねて秘事をも明かし示されたからは一言せざるを得ぬことあり、公の妻かくまで深く改過の状ある上は何とか不便《ふびん》に思われたい、見受くるところ子息もない様子、貴殿ほどの勇士の筋目これきりで断絶し、好きもせぬ者に嗣がるるも遺憾なりと談すと、主人久しく沈思ののち、今の通り懺悔して続くならいつかは憐愍を加うべし、と述べた。それよりべルナーシュ使命を果たし帰って王に謁し件の話をすると、王命じて探索せしに果たしてその言のごとく、ことにはその女素敵滅法界の尤物と聞いて何条|躊躇《ためら》うべき、パリの名工ジャンを遣わして生き写しにせしめた。夫も妻の改悛した様子を知悉し、また嗣子の望みも切なれば、再びこれを納れて多くの勇士を生んだということじゃ。
 東西とも人気の荒かった世には男の所為も乱暴なれば女もなかなか執念深く、毒食わば皿で悪いことをやり通したに随って、男も私《わたくし》に女を罰するにその惨を極めた。じゃによって……………………………………………………ほどのことはむかしの日本に多少実際あったことかも知れない。ついでに申す。支那に古来宮刊行なわれたは万人(602)ことごとく知るが、日本に羅切の刑あったと知る人は少ない。その有之《これあつ》た証拠は『古事類苑』法律部一八に、『皇帝記抄』から承元九年二月十八日源空上人土佐国に配流さる、専修念仏のことによってなり、近日件の門弟等世間に充満し、事を念仏に寄せ貴賤ならびに人妻然るべき人の女に密通し制法にかかわらず、日に新たなるの間、上人等を搦め取りあるいは羅切しあるいはその身を禁ぜらる、女人等また沙汰あり、云々、と引きおる。かく雑多の騒ぎが百出し痛みを忍んで珍品を切らるるに至るは外聞を傷つくるのはなはだしきものだ。何とぞ上に述べた信濃の郡司同様の妙術もて何の痛みも覚えず抜き取ってやることに致したい。さて当座預かりとし置きて改過の様子著しい奴には返しやったら最大功徳になること疑いを容れず。
 宦者の用事はもっぱら後宮の監視にあったが、また歌唄いを勤めたのもある。文化に誇るイタリアでは最高調《ソプラノ》で唄う者を年長じても声変せぬよう育て上げんとて児童を宮すること行なわれ、高貴の人々に尚ばれた。芝居にこれを廃せしは古いことだが、法王宮には久しく存し、一八七八年レオ十三世即位の時までその楽部の美誉人道の汚辱だった(『大英百科全書』九巻八九一頁)。アンシヨンの『閹人顕正論』に、十八世紀の初め世界無類の唄の名人といわれたパスクアリニ、パウルッチオ、ジェロニモは三人共に富者だった。なかんずくパスクアリニはいかなる思いも寄らぬ新作曲を唄わせられても何の予習もなくこれを寸瑕なく唄い課《おお》せ、唐突かかる物を持ち出して困らせんと企んだ者を逆さまに恥じ入らしめた。けだし去勢された者は五、六十歳までも美声変わらねど悪い声が美《よ》くなりも悪さが減じもせぬ。かつて二百の嬰児を宮せしに一人とろくな声の者が出来なんだ。そして宦者の声悪いほど蔑しむべき者なし。故にイタリアではこの児は美声著しと見定めた上ならでは宮することなし。名人パウルッチオは双親極貧ゆえ、そのころ有名な唄い方だった叔父に養われた。十歳の時叔父自分の声衰うるを知り甥がきわめて音楽好きで上達の見込み十分なるをもって阿片を嚥ませ昏睡させてこれを宮した。後々までもパウルッチオは、イタリアで声|美《よ》く家貧に生まれるほど不孝な者なし、と嘆じた。この人美声当世に冠たるのみならず、性質至って温良ゆえローマの人におびただしく敬(603)愛された。一日予かれに向かいその富有安楽に暮らして世界に大名を馳せ高貴の方々に尊敬さるるを祝せし時、かれ涙を泣べ大息して、左様、しかし不足な物が一つありますと答えたとあって、当時ブーラン王国(アフリカにあった)で年々少なくも二万の宦者を作る由述べおるから四万の睾丸を抜く勘定だ。これは主としてトルコ等の後宮の女中目付として輸出されたらしい。……………………………………………………。
 最後にまだ一つ宦者の用途を叙べんに、それは外色を翫ぶために人を宮するのだ。宦者は支那で『周礼』の昔より見えるが鈍《もつぱ》ら例の女中目付だった。しかるに『丹鉛総録』二六に、『呂覧』に楚の衰うるや巫音を作為《つく》る、注に女を巫という、『楚辞』九歌に、巫もって神に事《つか》うとはそれ女伎の始めか、漢に総章とも黄門倡ともいう、しかるに斉人魯に帰《おく》って孔子|行《さ》り、秦穆戎に遺って由余去るとあれば、楚に始まらず、漢の「郊祀志」に郊時宗廟を祭るに偽飾女伎を用ゆとは今の装旦《おんながた》なり、その神を褻《けが》すやはなはだし、と言うた。巫と女伎と根本同職だったはわが邦も欧州も同じ。偽飾女伎は女形役者だが黄門は宦者のことで、仏経にはことごとく宦者と書かずにこの字を用いおり、また他の諸国の例から推しても漢朝の偽飾女伎で神に事えたは閹人だったと惟わる。『史記』の佞幸列伝にも、独り女のみ色をもって媚ぶるにあらず、しかして士宦にもまた有之《これあり》。宦は『玉篇』に官と通ずるよう見えるが後にはもっばら宦官すなわち閹人を指す。古エジプトでは閹人ややもすれば大官に登ったから官人をすべて閹人と呼んだ由で、支那と正反対の次第だがその趣きは一だ。さて樊?伝に、高祖が一宦者に枕して臥せるを?が諌めたとあれば、ここに士宦また有之というたは、おもに宦者が美色もて君に寵せられた意味だろう。されば列伝上文のすぐ次に、むかし色をもって幸せらるる者多し、漢興るに至りて高祖至って暴抗なり、しかるに籍孺佞をもって幸せられ、孝恵の時?孺あり、両人材能あるにあらず、いたずらに婉佞をもって貴幸せられ、上と臥起し公卿みなよって関《あずか》り説く、故に孝恵の時に郎侍中みな?※[義+鳥]《しゆんぎ》を冠にし貝の帯して脂粉を傅《つ》く、?・籍が属に化せるなり、とある。籍孺・?孺いずれも閹人で、色(604)をもって寵せられたのだ。孺は幼小なりとあれば本名でなく、本邦稚児の名に牛若、梅若などいう若の意だ。トルコ人他邦と戦って生け捕った美童は去勢してその色を弄び、年長ずれば女中の目付や料理番とし、六、七歳の幼児すら免れずと、一五五二年バール板、ミュンステルの『坤輿全誌《ラ・コスモグラフイー・ユニヴエルセル》』一二〇九頁已下に見ゆ。支那でも幼児を宮して君寵を受くるを尊んで若様というごとく孺と呼んだであろう。
 漢の武帝はかつてみずから能く三日食わざるも一日婦人なき能わずと言ったが、養生を善《よ》くして体常に壮悦(『漢武故事』)で女寵多かったほかに李延年を寵した。『史記』佞幸伝に、この人父母および自分も兄弟とその女みな倡すなわち歌唄いで、延年は法に坐《つみ》せられて宮せられ猟犬に給事した、妹が善く舞うを縁《ゆかり》に召し出だされ、自分も善く歌うから、帝がちょうど天地の祠を興すその新詩を作り、二千石の印を佩び、帝とともに起臥し貴幸さるるうち中人と乱し出入驕恣なり、妹李夫人死後帝の愛弛み昆弟と共に誅された。閹人が女中を乱したとは信《う》けられぬ、誤文だろうなど先輩の評あれど、宦者婦女と通じた例多きはこの章初節に言うた。ローマの貴婦は妊娠の煩いなしとて宦者を幸した(ジュヴェナリス『嘲詩《サチレ》』六)。蜀の黄皓、呉の岑昏ともに色をもって君寵をもっばらにした宦者だ。『五雑俎』に論ぜる通り、仏菩薩は男でも女でもないに女らしく画く者多い。長安の宝応寺の韓幹画くところの釈梵天女ことごとく斉公の妓輩の写真というから(『酉陽雑俎』続五)、唐代から始まったらしい。さて昨夏高野の金堂で見た大師将来の大日如来の幅は実に見事で、その非男非女の美容はけだし唐世もっとも名を馳せた?姿冠絶の黄門の写真に基づいたものと察する。寡婦の粧いして婦女を弄んだ男子が、木乃伊《ミイラ》取り木乃伊になるで、寡婦好きの男に宮せられ一生偕老した話はすでに述べたが、ローマのネロ帝また宦者を娶った。
 初めクラウジウス帝の后メッサリナ、体大きく貌美に荒婬度なく、みずから忍び出て………………………………………………………天何故にかくまで男を弱く女を健やかに造ったと罵った。西暦四八年夫帝の不在に情夫シリウスにその妻を離縁せしめ、公けにこれと婚したゆえ、さすが大野呂の帝も堪まらず、二人およびかつて后と通じた輩を誅し、(605)近臣パラスの言に従い自分の姪アグリッピナを后とし、アこれを徳としてパラスに振れ舞うた。この后多智で前夫との間に設けた子ネロを太子に立てんため、ジュニウス・シラヌスが妹と姦したと誣いて自害せしめ、それに許嫁《いいなずけ》の帝の女オクタヴィアをネロに妻《めあわ》せ、その弟なる太子ブリタンニクスを廃してネロを立てた。帝これを悔ゆるに及び、后毒を進めて弑しネロを帝位に即け、その齢若きに乗じ、おのれ政《まつりごと》を擅《ほしいま》まにせんとしたが、帝の執心する女アクテがおのれより強勢になりそうゆえ、帝を廃してまたブリタンニクスを立てんとしたので、ブはネロに毒殺さる。今度は母后散り残る色香を匂わせ…………………………………賢臣の邪魔入れでこれも成らず。
 時に貴婦ポッペーアあり。史家タキツスこの女は道徳のほか何でも持ち合わせおると言うたほど才色富貴兼備しおった。帝に近づかんため嬖臣オトの情婦となり、また子まで成したる夫と離れてオトの妻となる。オトその美を誇るを聞き、帝これを召し見て恍惚たり。夫ある身はままならぬと歎《かこ》つをもっともと、オトを遠国の知事として追っ払い、ポッペーアを留めて寵愛限りなし。ポッペーアわが威を振るうため計策して帝に勧め、西暦五九年無残にも哺乳擁立の大恩ある母后アグリッピナを弑せしめた。帝母后と和睦すとて海浜に招き、帰りに乗る船を海へ出たら砕けるよう構えあったが全部砕けず。従婢のみ死し、母后は泳いで命を全うし離宮へ遁れた。ところへ帝の命により件《くだん》の船を創作した提督アニケツス来たってこれを寝間に打ち殺し、帝尋いで来たって母后の尸の膚の美《うるわ》しさを讃めたという。一説に、帝先に母后を同輿中に烝《じよう》し、弑後も面貌これに生写しな遊女を妾とし娯しんだという。あるまじきことだが、四角四面の『左伝』にも衛の宣公その庶母夷姜を烝して急子を生み、のち急子の新妻斉姜を奪い二子を生み、夷姜は寵衰えてみずから縊れ死んだ、とあり。劉宋の孝武帝に至っては常に生母路太后の…………………………。「故に人間|咸《みな》醜声あれども、宮掖の事は秘して能く弁ずるなし」と「路太后伝」に出ず。彝倫《いりん》を説き通す支那でさえこんなだから不徳極まるネロ……………………ごとき真《ほん》の悪事の余興ぐらいに思うていただろう。アグリッピナは四十三歳の後家盛りで二十二歳のネロ帝に弑せられた。九年後にネロ自殺しカイセルの筋目が絶えた。
(606) かくて大望の邪魔する母后は殺され、今一人残った眼の上の贅《こぶ》、皇后オクタヴィアを除かんと、ポッペーア讒誣|已《や》まず。母后の死後二年、帝ついに姦通罪を被らせて皇后を放逐した。しかし人望篤くて民が承知せぬゆえまた召し還したが、ポッペーアの訴えいよいよ急なるより、帝計ってまたアニケツスを呼び、汝すでにわが母を殺しくれた忠勤ついでに皇后をも殺してくれ、汝みずから皇后と通じたと偽証せば、汝を罪せぬのみか重く賞すべし、否と吐《ぬか》さば十五分も生かせ置かぬとの厳命に随い、すなわちその由を公言した。よって后は島流し、尋《つ》いで勅によって静脈を割かれたが、あまりに恐れたので血流れ出でず、さらに熱い蒸汽で蒸し殺された。時に年やっと二十歳、聞く人憐れまざるなし。アニケツスは褒美どころかさすがのネロもその無情極まるを悪《にく》みサルジニアに流して死せしめた。これでもポッペーア満足せず、后の首を斬って眼前に将《も》ち来たらしめて初めて安心した。それから望み通り帝の后となったが、かかる毒婦に天道そう安くは卸《おろ》さず、西暦六三年に女《むすめ》を生んで大いに帝を悦ばせ后位に登ったが、その女は四ヵ月で死し神と斎《いつ》かる。六五年にまた孕んだうち夫の気に逆らい、蹴られどころが悪しくて死んだから、ようやく二年ばかり后で威張り得たのだ。帝ロ−マの風に背きその尸を焚かず薬詰めにして神廟に置き神と崇め国葬した。ポッペーア生前奢侈を極め、乗用の騾に純金の履を穿かせ、また美容に苦辛し日々五百驢の乳汁《ちち》に浴したという。
 かくて国民一同この淫虐到らざるなき后の死を慶したが、帝のみは追懐して止まず、奴隷スポルスの面首|酷《ひど》く亡后に似たるが無上に気に入り、これを去勢し女装せしめ亡后の氏名サビナをもって呼び、亡后の死後二年ギリシアに駐駕中如法の大礼もてこれを妻《めと》った。その時ある人この帝の父がこんな后を娶《めと》ってくれたなら人類の最上幸福だったろうと言ったは面白い。閹人をいくら愛したって子を生む気遣いないからだ。翌年帝この閹后を伴れてローマに帰り、内乱に遭うて自殺する現場にあったスポルスは殉難もせず。ネロ帝この時三十一歳、年来の淫行で悪瘡全身にはびこり、臭気はなはだしきを嫌いおったという。これに反しかつて帝の寵をポッペーア后以前に擅まにした妾アクテ乞うてその灰を得、哭してこれを葬ったというから、やはり閹人や美童より女の方の情が厚い。ポッペーアの前夫オト、(607)位に即いてスポルスを愛したが、オトを殺して帝となったヴィテリウスはスポルスを娘に仕立ててきわめて恥辱な役割を戯場《しばい》で演《や》らせようとしたので、堪まらず自殺したとあるが、そんな死恥をかくほどなら一年前にネロ帝に殉死したが善かった。とはいうもののネロ帝がスポルスを后としてきわめて寵愛したは全く淫慾のためで、ことにそれがため男子無上の珍品を切り去られたのだから倅の仇を夫に持ったような物だ。前に述べた通り親が子を宦者にして売ればその子栄達の後も親を恨んで孝養十分ならざること、親に身を売られた芸妓にややもすれば不孝者多いと同然だ。したがってスポルスごとき者は徳義上の人外《にんがい》でどうしてよいのか誰にも分からぬ。もしおのれを去勢させてまでも愛しくれたネロ帝に殉死すべしといわば、おのれの夫を殺してまでもおのれを愛しくれた秀吉に松丸殿はもっとも殉死せにゃならぬ訳となるが、おのれの夫に死に後れたほどの女に不相応な注文だ。邦人の癖として夫にでも……………………………自殺するの一途あるのみというが常だが、左《さ》言う人の百の九十九まで自殺をした覚えもなく、出来そうな人物でもなければ、その評は採るに足らぬ。ガラにない言を吐くようだが世界は広し、宦者が全くなきわが邦と異《かわ》り、宦者一つあってさえわが邦人などに全く解らぬ徳義問題が外国に多い。ましてわが邦になくて彼方に多き物、一の宦者に止まらざるにおいてをやで、このこともっともわが国民の留意を要する。
 古インドでは閹人を人間の中もっとも卑下な者とし、その屍を丈夫屍林、婦女屍林ともに受けず(『根本説一切有部毘奈耶破僧事』一八)。『仏説優婆塞五戒相経』三に、邪婬に、男女三処は口処大便処小便処、黄門二処は口処大便処。『四分律蔵』五五に、比丘強いて黄門を捉え、または黄門強いて比丘を捉え、共に行婬する罪を記すを見れば、婦女が男子を強辱するさえ倒少なきにインドには閹人が男子に婬を強ゆることもあるのだ。西暦紀元ごろ成った『愛天経《カマ・ストラ》』六章に拠れば、インドにそのころ男装と女装の閹人あり。男装の者は按摩、女装の者は仏経にいわゆる口処邪婬を業として活計《くらし》を立てた。ラメーレッス注に、今日インドの閹人は回教徒に外色を鬻ぎ女装せず、回徒は女よりも美童を好むゆえ、閹人のみかは踊り女までも男装して王公の前に出ずること多し、と。『東鏡』一九に、建暦二年十一月十四日(608)|去《さんぬ》る八日の絵合せのこと、云々、また遊女等を召し進らす、これらみな児子《ちご》の形を写し、ひょう文《もん》の水干に、紅葉、菊花などを付けてこれを著る、おのおのさまざまの歌曲を尽す、この上、上手の芸者年若き属《たぐい》は延年に及ぶとなり。こは少女が美童に扮《いでた》ちて男童舞を演《や》ったのだ。『塩尻』四三、これを評して、当時遊女は男児の為《まね》す、今の児童は遊女の形《なり》をなす、時風かくのごときか、と言いおりて、日本とインドと時態の推移が反対だ。
 この章宦者について存外長く書き立てたは、わが邦には古来宦者なく、むろん支那書を読んでその名くらいは知りおるも、実際どんな者やら知らぬ人が多いから、特に詳しく論じて世界には変わった者があるということを示す。それからここに要ないが、古リジア王グゲスは女を常に若く美ならしめんため卵巣を抜き膣を閉じたという。
 
     五 類似半男女の話 男が女に変わった話
 
 第二章すでに半男女を論じたが、これより普通に半男女と称えながら、身体が真の半男女でないのについて説こう。ブラントームの『嬌婦伝《ダム・ガラント》』一章に、ある女宮《おんなみや》、その女中の内一人を他に超えて可愛がる。行儀も縹緻《きりよう》もそれに勝れた女あるにと一同|不審《いぶか》る。その後かの女中は半男女で、不足なくまた悪評立たずに毎《いつ》も宮を慰め得たと判った。双女対食に比してやや勝れりと言うべし。また一大姓の婦人半男女で、打ち見たところまるで美女に相違ないが小さき陽根をも具す。名医どもより聞いたは、かかる半男女を大分見たうち性慾|熾《さか》んなる者もありたり、と記す。これらは真の半男女らしい。真の半男女というても一体に完全な陰陽両具を備え、おのおのその用をなす例はまず絶無らしい。古人はそんな物ありと信じ、前述ヘルマフロジトス神の譚あり、サルマキスの井の水に浴する者みな半男女となったと伝う。ストラボンの『地理書《ゲオーグラフイカ》』一四に、この地方の人きわめて男色を好み男とも女とも知れぬ者多き言訳にこんな話を作ったという。ギリシアでもっとも古き半男女神はキプルスの女神アフロジトスで鬚あり。これに牲を備うる時、(609)男女衣を替えた。ジオニソスとプリアプスまたその像に陰陽を兼ね備え肥饒繁殖の力広大なるを示した。『荘子』や『山海経』に、類みずから牝牡をなす。これは本篇二章に述べた霊狸《じやこうねこ》で、狐も両体を兼ぬるゆえ能く媚惑すという(呉任臣『山海経広注』一)。『山海経』また、??《きと》、象蛇《しようじや》という二種の鳥がみずから牝牡をなすという。また黄帝の玄孫白犬牝牡ありと記す。これは半男女の人の由(同書一七)。しかし今日科学上明らめたところ、無脊髄動物には一身に牝牡を兼ねたもの多きも、有脊髄動物には少許の魚のほかにみずから牝牡をなすものはない(『大英百科全書』二四巻七四七頁。『剣橋博物学《ゼ・ケンブリジ・ナチユラル・ヒストリー》』七巻四二〇頁)。したがって鳥や獣や人間に完全な陰陽両機を具え自由にこれを用い十分にその機能を果たし得るものありとは信ぜられぬから、古人がみずから牝牡をなすなどいうたは想像に止まると言うほかなし。ただし上述ヴィルヒョウなどが実験した一身に男子の精液と女子の月経を兼備した例もあれば、固く断言もできない。
 まず概説すると、真正の半男女の人間はきわめて少ない。普通科学者が人間の半男女というは、真に卵巣と睾丸を一身に具うるでなく、付属諸機の発生異常なるを指す。すべて人間始め哺乳動物の牡には牝の付属諸機の痕跡あり。牝においても同様牡機の痕跡あり。その痕跡が度外れに発生したのを普通に半男女というのだ。ただし物能く心を動かす理窟で、かかる痕跡の異常の発生に伴れて性慾も変態を現ずることあり。乳房などの様子も多少異る。例せば女の吉舌《クリトリス》が挺長したり子宮が露出して男と見えたり、男の陰嚢が腹中に匿れ、陰嚢の間が深く窪み陽根が吉舌ほど小さかったりして女と見えるごとし。世にいわゆる変成男女はこれで、婚姻の夜やはなはだしきは溝を飛び越えたばかりに女が男となることあるは、今まで隠れおった陰嚢が下ったりするにより、女のように見えおった男が男に固まったまででずいぶんしばしばある由。しかるに男が女に変ずる例なしとパレーは言ったが、ジャックーの『実用内外科新辞書《ヌーウヴオー・ジクシヨネール・メドシン・エト・シルルジー・プラクチク》』(一八七三年パリ板)一七巻五〇三頁に二例を出しあり。欧州の古典に、ツレシアス蛇の交わるを見、その雌を殺してたちまち女となり、七年後にまた蛇の交わるを見、その雄を殺して男に復《かえ》った。支那では(610)『蜀志』にいわく、武都の一丈夫、女子に化し美にして?なるを、蜀王納れて妃とせしも、水土に習わず去らんと欲す、すなわち東平の歌を作りてこれを楽《なぐさ》む、いくばくもなく死せるを哀れみ、高さ七丈の冢《つか》を作る、今成都北角の武担これなり、と。インドには、パルヴァチの森に入れば男すなわち女に化す。またソランキ王の子みな幼《いとけな》くて死しただ一女残りしを男装して養う。その子長じてある王女と約婚し、婚期近づくに及び王心配して気まぐらしに狩に往った帰途《かえりみち》で渇きを止めんと池の水を飲む。随行の牝犬その池に入り出で来たれば牡になりおった。王悦んでその女をその池で浴せしむるにたちまち男に化し婚姻を遂げ得た(エントホヴェン『グジャラット民俗記《フオクロール・ノーツ》』一二四頁)。仏書に、阿那律尊者美貌女人に似たり。独り草中を行くを見た悪漢、女と惟うてこれを犯さんとし、その男子たるを知り、みずからその体を見れば女に変わりおる。恥じて深山に入って帰らず。その妻の嘆きを哀れみ、阿那律その者を尋ね出だし悔過自責せしめたら男子に復《かえ》ったという(『旧雑譬喩経』下)。これらことごとく無根とも思われねば、いわゆる男が女になる事実も多少はあったらしい。
 『奇異雑談』上に、むかし江州枝村へ二十歳ばかりの客僧来たって一宿す、美しくて比丘尼に似たり。その夜大雨で翌日も晴れず、故に滞留す。この人夜明けよりその姿軟弱、形音女と変わる、亭主怪しみ尋ぬるに、越後産れで丹波に二、三年ありて今故郷へ下ると答う。その姿怪しきゆえ僧か尼かと問うに尼と答う。亭主面白く思い、その夜これを挑む。辞退されしも終《つい》に従うて婚宿す。亭主急に妻を亡い、幸いのことと夫婦となり髪を長くす。ほどなく懐妊してよき男子を生む。その子十二、三の時、道者十人余みな僧なり、来たり宿す。中に一老僧あり、亭主その僕に問うに丹波大原野|会下《えげ》の長老なりという。内婦聞きて大いに驚き、垣より窺けば丹波にあった時の師匠なり、すなわち夫に乞うて粧いを改め子を先に立て長老に謁し、「妾《わらわ》を御見知りあるまじきが、和尚様をばよく見知り申し候。みずからは越後国より十八の年登りて御寺に三年沙弥を経申し候。名をば何と申して清掃を致し古則法問を糺明し夜話坐禅怠ることなく勤め申し候いしが、故郷に私用ありて請暇《いとまごい》申して罷り出で、京へ上り江州に渡り枝村に着きてこの家に一(611)宿し候。その夜夢に女になると思うて夢覚むれば男根なくなり女根になり候。心|沁々《しみじみ》として不審ながら深く怪しむ心もなくて夜明け候。その夜大雨降りて翌日も晴れざるゆえに、また逗留し心も声も女になり候。亭主抑え留めて夫婦の契約をなすゆえに、今まで十五年この家にあり候。もと僧にてありしことを亭主隠し今に語らず候。そもそもかくのごとき先例もあることに候や、変成男子といい、あるいは転女成男と聞きしに、われわれは男身にわかに変じ女身となり候ことあさましく、進退業障深重に候、と申せば、和尚のいわく、闡提《せんだい》半月二根無根の属になるは世に多きものなり、と宣えば、内婦いや二形《ふたなり》にてはなく候、僧の時は男根常のごとくにて別儀なく候、女になりては女根常のごとくにて別儀なく候、只今和尚に相看申して昔に立ち帰る心地して尊く難有く思い奉り候とて発露涕泣すれば、和尚示しに頌を作って、『天地異法生じ、人|五蘊《ごうん》仮《かり》に合う。鷹は日によりて鳩となり、雀は水に入りて蛤となる』。その時座敷の菓子の残りの薯預《やまのいも》ありしを和尚は指していわく、山芋鰻となるがごときはこれみな先例なり、愁うることなかれ、ただなんじが古え知るところの古則話頭|善《よ》く臆持して忘るることなく、単々に截断せば何の罪障深重かあらん、心安く思うべしと宣えば、内婦愁涙を晴らし喜悦大悟して礼拝をなして去んぬ」。
 この書は中村豊前守の息著わす。著者この談を江州で聞きて信ぜず。のち天文十年ごろ丹波を過《よぎ》り宿の亭主に聞きしは、むかし不思議のことあり、二十ばかりの僧故郷に帰るとて、江州枝村宿で女になったことあり、と。四十年前江州で聞きしに合うはまことなりと悦び語ると亭主も悦んだとあって、次にそのころ東国に名高かったらしい例を、語った人の名を三人まで出して載せおる。下野より僧二人足利に行きて学文《がくもん》数年して帰郷し、十年後に二僧同道して他行する路次、小酒屋に入って濁酒を飲むうち家主婦《かみさん》つらつら二僧を見る。二僧|私《ひそ》かに語る。この内婦は足利の文長に酷《よく》似たと。内婦いわく、二人の御僧は見知り申し候、われわれをば御知りあるまじく候、と。二僧われわれも見知ったようだと言えば、内婦われは文長ぞと言う。二僧驚いて問うに内婦いわく、「近ごろ恥かしきことなれども語り申し候。足利より帰りて三十二の年、裸根はなはだ痒きゆえに熱湯をもって蒸《たで》ることかぎりなし。はなはだ蒸る時裸根(612)嚢とも抜けて落ちたり。取りて見るに用に足たざるものゆえに捨てたり。その跡|開閇《かいひん》になって常のごとし。のちに夫を設けて子を産むこと二人なり」と語り、二僧怪しみ驚きて去ると、云々。この二譚むろん法螺|雑《まじ》りで全くは信ぜられぬが、またまるの啌《うそ》にもあらず。いずれも女子が男子のごとく見えた畸形だったのが、俄然本形に復したものと見ゆ。その時はなはだ痒かりしの、非常に大雨降ったの、女に変わる夢を見たのとあるは大いに参考になることで、その越後生れの憎が美容女のごとくだったと言えるは、確かにこの人本来女でただ彼所《かしこ》が多少男に似おったものたる証《しるし》だ。『和漢三才図会』一〇に、この二譚を略出して支那の例二を引く。魏の襄王三年、女子あり首より化して丈夫となり妻と子を生む。晋の元康年中周世寧という女子八歳にしてようやく化して男となり、十七、八に至って気性成る、女体化して尽さず男体成って徹らず、蓄妾すれど子なし、と。『因果物語』下にも、変成女子二件を載せ、いずれも病によって性を更えたと見ゆ。江戸の学僧実相坊はなはだ高慢なり。江州坂本真清派に入って法談し僧俗に太《いた》く貴ばる。信州に行きて一宿し亭主馳走して宿《とど》むるうち傷寒を煩い、七旬ほどして本復し行水中男根落ちて女根となる。学問文字みな忘れて愚人となり、力なくて酒屋の妻となる。のち旧同学の徒|過《よぎ》って酒呑みに四、五人立ち寄ると、かの妻流涕し悲しむ。故を尋ねるに次第を語った。上州藤岡から秩父へ経帷子を行商する僧、山家の町で酒屋へ入り見ればこの前伴えし僧に似た女房あって、かれを見て匿れる。しばらくして酒売りに出たが面を隠して見せず。其女《そなた》はわが知った僧に似る、その姉か妹であろうと問えば、黙って流涙し奥に入る。近処の人に問うに、この女上州筋より釆たれど親類を知らずと答う。また帰りに立ち寄りかの女を呼び出し問えば、われは御僧旧友某だが何となく煩い付きてより不図《ふと》男根落ちて二子なり、無念の次第と泣く泣く語った。寛永中のことという。何かで僧多く女に化すと読んだが、実はこのようの者は他に仕方がないからもっぱら僧にしたので、変成女子がしばしば酒屋の妻になったも他の家業が勤まらなんだからだ。一六一一年板、ジュヴァルの『僧半男女論《デ・ジセルトフ・ロジト》』にも、パリの若僧孕み何を産むか判るまで牢舎された、と記す。宮女、寄宿女生、女工など対食を行なうはもっばら境遇より生ずる精神変態だが、かかる遭際にあっ(613)てこれを行なう婦女もありて、それには付属諸機の発生異常なが多いらしい。『池北偶談』二五に、山東済寧の四十余歳の寡婦たちまち陽道を生じ、日にその子婦《よめ》と狎れ、久しくしてその子、官に訴う、事怪異に属し律明文なきをもって空室に閉じ置き飲食を給せしむ。トルコ・ソリテン帝の時、一婦人コンスタンチノープルの貧工の独り娘に熱くなり、男装して大官職を買い得たと称し礼を備えて娶ったその夜、偽りと知れ海に投げられた(一六七五年板、タヴェルニエー『大君内宮新語《ヌーヴエル・レヲーシヨン・ド・ランテリユール・デユ・セラール》』二五四頁)。これら精神のみ変性した女らしいが、マルチニが検査した産婆は多くの産婦を弄びあるいは強辱せんとした。審らかに身体を視ると男具が隠れおった女だったという。
 これを要するに極真《ごくしん》の半男女、すなわち卵巣と精嚢を兼ね備えた者はきわめて稀有で、普通に科学者がいわゆる半男女、すなわち交媾や妊娠や育児に関する陰陽諸機や乳房等に男女を混ぜるようなは往々あって、大抵は女の吉舌の発達非凡なるが多いが、また男の陽根小さくて吉舌に似、睾丸釣り上がって腹中に蔵《かく》れ、陰嚢が大唇《ラピア・マヨル》を擬し、尿道が膣に擬《まが》う等のものあり。身分かくのごとく異常ゆえ精神もそれに伴れて異常なること多く、いわゆる女が女を要し男が男に媚ぶるなど、この流の半男女に多い。それから第三に、従来世俗一汎に半男女と名づくるはずいぶん多種多様で、いわゆる女に擬う男とか男らしいところある女とか、ほんの外貌上の形容辞のみの場合も多いが、もちっと精確に言えば両性の第二質すなわち生殖作用に直接の関係なき?の大いさ、形、毛膚、音声、本能、動作、習慣等の上で、女が男らしく男が女らしいのをいうので、ここには類似半男女また擬半男女と名づけ置く。類似半男女は生れ付いて自然にかくのごとき者、擬半男女は人為でかかる者になるので、ちょっと言わば『取替ばや物語』の公子の妹君は類似で、脅迫のための弁天小僧や復仇のための薩摩歌の林殿、『八犬伝』の犬坂毛野や物好きから美童とも艶婦とも別ち難く扮《いでた》ったナヴァールのテーゲリト后は擬半男女だ。
 類似半男女は人間のほかにもあり、蝶蛾の翅が雌雄こもごも混錯せるあり。鳥獣にも牝牡の大いさ、色紋、角、牙、距《けづめ》から習慣まで多少あるいは全く倒錯せるあり。かかる外形上の半男女は多く病衰、災難、腐敗等のために卵巣また(614)精嚢が変化したるに基づくこと多し。例せば、雌雄が雄同様の羽毛を備うるは子なしといい、月事止んだ女が男の相好気質になることあり、牝鶏の卵巣を去れば鶏冠大いに、気荒くなって好んで闘い、閹人は気質婦女に似る等のごとし。しかるに人間となって生まれ付いて生殖機に異状があり、もしくは施術、病患等で異状を来たした者のほかに、全く習慣のみで世俗のいわゆる半男女になる者が多い。露国のスコプチ(宦者宗)の男が去勢後婦女の慾を生じ(ド・シャムブル『医学百科全書』四輯二巻六六三頁)、古シジア人がシリアのヴェヌス女神の廟を荒らした罰で女人病を受けて半男女になった由で(ヘロドトス『史書《ヒストリア》』一巻一〇五章)、近時にもその故地に男病みまた老ゆれば老女の相好になる民族あるという(一七九六年ゴタおよびサンクト・ペテルスビユルグ板、ライネングス『高迦索歴史地理全記《アルゲマイネ・ヒストリツシユ・トポグラフイツシエ・ベシユライブング・デス・カウカスス》』上巻二七〇頁。一八〇二年サン・ペテルズプール板、ポトキ『霹国諸民の原《イストワ・ブリミチウケ・ピオープル・ド・ラ・ルツス》』一七五頁)。これらは病気や局部の変易から起こるのだが、シベリア土人諸族の男がたちまち女に化し他の男と婚する内には、病気から変性したのも習慣や嗜好や言語のみ変わるのもあり、最も多くは衣妝《いそう》のみ易えるのらしい(チャプリカ『原住民の西伯利《アポリジナル・サイベリア》』一九一四年オクスフォード板、一二章)。
 
     六 女めいた?童と男らしい小姓
 
 わが邦の児若衆《ちごわかしゆ》や女形役者の内に真の半男女も稀にはあったろうが、大抵は人為で習慣上多少女性の傾向を備えさせた者と察するが、それすら『続門葉集』等に見ゆる稚児の歌には、アラビアの『千一夜譚』なる?童《わかしゆ》の歌と等しくまるで女と異《かわ》らぬ心持を発揮した者多く、遍照寺の寛朝行方を韜《くらま》して侍児別れを悲しんで水死し(『雍州府志』)、『秋夜長』、『鳥部山』、『松帆浦』、『足曳』等の児物語に出た稚児どもの女らしき振舞い、降って浪華の芸子戸川早之丞念者に心立てし過ぎての自害や、江戸の女形太夫玉村主膳出家の隠れ里へ日来《ひごろ》契りし弟子浅之丞も僧になって同棲せしな(615)ど(西鶴の『大鑑』)、その情緒婦女と異《かわ》らず、はなはだしきは上に述べた水木辰之助が男の身で月事を覚えたと称す。西沢一鳳の『脚色余録』に、浅尾吉次郎比丘尼に扮《いでた》ちて演ずる時、舞台に上って一夜の情思入れこれなりとて指切って投げ出せし男あり。浅尾面目身に余りその者を楽屋へ入れ、舞台済んでのち宿屋へ伴れ帰り深き仲となるうち、その者病死す。浅尾その指を金襴の袋に入れて毎《いつ》も首に懸ける。この子細を尋ねし馴染の客に世の中のありさまを語り、「さてさて浅猿《あさまし》き境界、士農工商の家にも生まれず、琴棊書画を弄ぶとはいえども、男ながらも川竹の流れの身、夜ごとに更《か》わる枕の数、世渡りのため是非もなし。されども心は変わらめや、勤めの中にも心入れあるべきことと存じ、心を心にて料簡致し一分を相守れり。もっとも抱えの子供にも屹《きつ》とこれを申し渡し、かように固めを致して置き候とて、金襴表紙螺鈿の軸の巻物紐解きかけて取り出だせり。これを開き見るに、起請文前書のこと、一、たまたま受け難き人身は受けたれども男ながらも川竹の流れの身に生まれたり、されども同じ人心さもしき心持つまじきこと、一、日ごとに変わる枕の数々、たとい金銀を蒔き散らすとも心に合わぬ客方は振って振り付け申すべきこと、一、仲間のうちにて兄弟の約束致すべからず、人々いかように宣うとも一人のほかに誓詞書き申すべからざること、一、芸能は申すに及ばず、酒の合座付き挨拶等に心を付け、並びに手跡嗜み申すべきこと、右の条々相背き申すまじ、もし破り申し候においては、この世にては後《あと》の病を受け、死しては尺蠖の虫となるべしとぞ書いたりける」とある。これでいかに女形の嗜み深かりしかが解る。すなわち類似半男女の仕立てに苦辛したのだ。
 西洋の類似半男女の情緒や嗜みについては、一八三七年ライプチッヒ板、エルシュおよびグルューベルの『アルゲマイネ・エンシクロペジエ』一四七−一八九頁、一八七八年パリ板、タージューの『風俗犯罪論《アツテンター・オー・ミユアール》』一八八八年パリ板、ボールの『色痴論《ラ・フオリ・エロチク》』(この書中パリの?童が裁判所で発した辞に、わが邦の女形が頭痛を血の道というた同似のことがある)、一八八九年パリ板、カーリエーの『両様売靨編《レー・ドー・プロスチチユシヨン》』、同年同所板、コッツィニヨンの『巴里風俗論《コルプション・ア・パリ》』等を見る。
(616) テーベの聖軍隊は若契に基づく。史家バックルかつて道義学上これもっとも潜心研究を要することながら、一概に非難の声高き社会にあって十分研究を遂ぐる見込みなしと歎じた。『経国美談』を繙く者誰かかの隊士の忠勇義烈に感奮せざらん。しかるにエパミノンダス討死の際死なば共にと契約の詞違えず二人その尸上に殪れたと聞きて、敵王フィリムポス、この人にしてこの病ありと歎じた。スパルタ王アゲシラオスは美童メガバテスを思い出ずる常盤の山の岩躑躅のたびたびその念を抑えて事に及ばず。マキシムス・チリウスこれをレオニダスの武烈に勝る大勇と讃し、ジオゲネス・ラエルチウズは特に哲学者ゼノの外色に染まざりしを称揚した(ボール『色痴編』一四二頁。レッキー『欧州道徳史《ヒストリリー・オヴ・ユーロピアン・モラルス》』五章二節注)。けだしギリシアで肖像を公立された最初の人物がアリストゲイトンとハルモジオスの二若契者だったり、哲学者や詩人でこれを称道すること多かったのを参考すると、初め武道奨励の一途よりこれを善事《よいこと》としたが、もとより天然に背いたことゆえ、これを非とする者も少なくなかったので、わが邦の熊沢先生同様、世間一汎の旧慣でよいところもあれば強いて咎めずに置けくらいの説が多かったと見える。このよいところすなわち節義を研《みが》き志操を高くするほどの若契は特にギリシアとペルシアに限ったようエルシュおよびグルューベルの『百科全書』に書きおるが、そは東洋のことを明らめなんだからで、日本にも支那にもそんな例はたくさんある。『武功雑記』に、小笠原兵部大輔、大坂で打死の刻《とき》、十人の近習九人までもその側らに義を遂げ、一人他所で働き死を共にせざりし島館弥右衛門は、主君父子百日の追善に役義残すところなく勤め済まし見事に書置して追腹を切る。右十人共に小姓達なり。兵部大輔は小姓の容貌を第一と択ばず、ただ一心の正しきを寵愛せられた、とある。これはエパミノンダスの一条に優るとも劣らず。また同書に拠ると、家康の忠臣で大功を立てた榊原、菅沼、井伊、三浦などいずれも当時のいわゆる、その御座《ござ》を直した者だ。『甲陽軍鑑』などに御座を直すという詞しばしば見え、枕席を薦むという意味らしい。小姓達とは男色より出身した士《さむらい》で、赤穂義士の萱野三平は小姓達だったと西村天囚居士が故重野博士の談を筆した物で読んだ。
(617) 付記。八月号二七〇頁に亡清の西太后は宦者李蓮英と夫婦のごとく睦んだ由をいい、『義山雑纂』を引いて唐朝すでに閹官妻を娶る風あったと述べたが、その後『?余叢考』四二を見ると、魏の孝文帝その后馮氏を幽せしに、帝南征する不在に乗じ宦者高菩薩と乱る、北斉の武成帝は先帝文宣の后李氏を強姦して娠《はら》ませた暴人だが、その后胡氏は夫に劣らぬ婬乱で多くの閹人と褻狎《せつこう》した、とある。よってかかることすでに南北朝の宮廷にも行なわれたと知る。   (大正十年七、八、九、十、十二月、大正十一年一月『現代』二巻七、八、九、一〇、一二号、三巻一号)
 
(618)     「孕石」の訳語について
 
 拝啓。『性之研究』二巻二号(孕石のこと、五五頁)に、ドイツ語のアドレル・スタインを孕石としたは記者の杜撰のごとく書き置いたところ、近江国高島郡西庄村の井花伊左御門氏より注意されたは、十二、三年前、東海道日坂峠旧道を歩み無間の鐘で有名な久遠寺の宝物を拝見した中に、安産石とて鶏卵大の黒い石に凹みあり、凹中に小石ありて触るれば搖《うご》けど外へ出ぬがあり、また子孕み石とて同大の黒石で中に小石を包んだらしく、耳辺で動かせば微かに音が聞こえた由。しからば、アドレル・スタインを孕石と訳したは記者の杜撰でも手製でもなく、本邦で従来孕石と名づくるものの内にアドレル・スタインもあったことと正誤して置く。(十一月二十日)
             (大正十年一月『性之研究』二巻四号)
 
(619)     本草会
 
 明治四十一年板、白井光太郎博士の『増訂日本博物学年表』二六頁に、徳川幕府時代に「本草、名物、物産の研究漸次発達するに従い、物産会(一に薬品会また産物会という)なるもの起これり。この会は、宝暦七年田村藍水が江戸湯島に開設せるをもって始とす、云々。爾後諸氏の会合累年絶えず、寛政中、幕府、医学館また薬品会を創む。文政・天保中、尾張伊藤氏しばしば博物会を名護屋に開く。当時尾張浅井氏また年々薬品会を開設し、衆庶の観覧に供せり。天保六年三月、水谷義三郎、石黒正敏、大河内存真、伊藤圭介の諸氏、物産会を名護屋一行院に開き、乙未本学会物品目録を作り上木す、云々」と見え、一五四頁には、「文政十一年、岩崎常正、本草会を創立し、毎月八の日をもって会日と定め、正月十八日第一会を自宅に開く、云々」と記す。本草、物産、薬品、産物、博物と名が異《かわ》れど、実はほぼ同一の標品審査会だったと知る。
 さて享保三年九二軒鱗長作『猿源氏色芝居』は事実小説で、当時なお噂《うわさ》止まなんだ月光院や江島等の事蹟を脚色した物という(『江戸時代文芸資料』二、解題)。その一巻二章に、奥野谷隆閑という繁昌医者の父、堕胎の売薬より身代を起こせしが、「われこそ文盲の身なりとも、こうした身となるから、せめて子供らを人にしたいと、兄息子を師匠どりして、実語教より今川と次第し、いろはより書札へ、精出して習わせしに、これも十人に勝れたる器用者、親仁が思う所違わず、四書五経の箱さいたような文字を、水の流るるようによみ済まし、素問、格致、原病式、本草の会にも、利発なる所ありと、先生もいかい褒美に、云々」とある。本草の会という詞、ここに初めてみえたようだ。しか(620)し、『黄帝素問』二四巻、金の劉完素の『素問元機原病式』一巻、元の朱震亨の『格致余論』一巻、いずれも医書の名だから、ここに言う本草も、歴代の本草書、取りわけ明の李時珍の『本草網目』五二巻で、それらの諸書の会読輪講にも、隆閑は師匠にほめられたと言ったのだ。たまたまこの文を見損ねて、白井博士の書に、本草会が文政十一年岩崎氏の主催に始まったようみえるは誤りだ。それより百十年前の物にはや見えおるという人もあらんが、同じ名称でも、享保三年ごろの本草の会は本草書の講読を専らとし、宝暦中より行なわれた本草諸品の陳列会でなかったと弁じおく。
(昭和七年六月一日午前八時、この稿成ったところへ着いた『大毎』紙に、五月三十日、白井博士遠逝の記事あり。その二日前の来書に、近来不老不死の薬を用いますます強健なりとありて、雑誌『本草』を出すから何か書けと頼まる。よってこの稿を認めたが、博士の一読に供する望みは全く絶え了った。)
〔2020年3月15日(日)午後4時55分、入力終了〕