美人艶婦傳、粹法師編、松雲堂、1912年、近代デジタルライブラリー
 
   序
岩戸神楽の昔より、女ならでは夜の明けぬ東海姫氏國。古今美人艶婦の世に傳ふべきっもの尠からぬも、その悉くは、到底一小册子の能ふ處にあらず。今は只其中に就き、最も色彩燦爛花薫じ月匂ふ底、麗姫艶女を擇びて六十有一、漏れたるは更に續編を待つて。
 但し編中往々、情火熱烈意馬馬奔放、始んど狂的亂婦を併せ載すもの、此は寧ろ他の反省を促す編者の微衷。今も昔も戀は曲物戒むべく。所詮容貌美より品行の美なるこそ、如何に床しく尊かる……………
   大正元晩秋八尾の里の草庵に於て
                 編者識
 
(1)   本書目次
衣通姫
光明皇后
小野の小町
葵の前
業平の妻
二代の后
袈裟御前
祇王祇女及佛御前
常盤御前
熊野
小宰相の局
松殿の姫
巴御前
千壽の前と伊王
靜御前
大磯の虎
遊君阿古屋
勾當の内侍
顔世御前
辨の内侍
悍婦淀君
重成の妻
女太閤奴の小萬
俳優買ひ江島の局
吉野太夫
高雄太夫
(2)髑髏太夫
燈籠の玉菊
松葉屋瀬川
比翼塚の小紫
藝者小三
艶姿茜屋お園
艶色紀の國屋の小春
八百屋お七
構櫛お富
鬼神のお松
毒婦衣屋お熊
毒婦高橋お傳
箱屋殺し花井お梅
勤王花魁瀧本
岩龜樓龜遊
木戸夫人菊松
桂の寵妾お鯉
世話女房ぽんた
蓮葉藝妓照葉
女優かつら
女團洲久女八
女義太夫豊竹呂昇
女魔術師天勝孃
女宰相下田歌子
女詩人與謝野晶子
富田屋八千代
川上貞奴
新女優森律子
淫婦柴田環子
亂婦原信子
新らしき女
 
(1) 美人艶婦傳
                   粹法師編
     衣通姫 〔原文は題名と一部の数字以外総振り仮名だが、適宜省略した、入力者〕
 
我邦上古美人中の美人、殊に和歌の名人として聞へし衣通姫《そとほりひめ》は、稚野毛皇子《ちのげわうじ》の女《むすめ》で實《じつ》に允恭天皇の皇后|忍坂大中姫《おしさかおほなかひめ》の《いもうと》である、光艶《くわうゑん》玉を欺くその御肌《おんははだへ》が衣《ころも》を通しで輝くばかりであつたといふので、世に之れを衣通姫とよびまゐらせたが、眞の御名《おんな》は弟姫《おとひめ》である。時の天皇は其艶容を聞召して母と一緒に近江國に住まれる姫の許へ、(2)幾度も使して召されたが、姫は御姉の后の御心を推して應ぜられなんだ。されど、流石に女《をみな》の心弱く、七度び目の御使鳥賊津使主が糒《ほしゐ》を懷ろにして、七日七夜露しげき夜の庭に座し、よき返り言きかねば立たぬとの覺悟と、かくまで御思《おぼしめ》す天皇の御嘆きを思ひやり、竟に御身も露の涙《なんだ》になきぬれつ、都へこそは上《のぼ》られたが、聰明な姫の先見の通り皇后の不平は一方ならぬものから、帝もかくまで戀ひたまひつゝも、玉敷の宮中に納れかねつ、姫のゐます藤原の宮への御幸《みゆき》もまれ/\であつた。待ちつ待たれつ、此間の眞情端なくも朱唇を洩れて
   我脊子が來べき宵なりさゝかにの
        くものふるまひかねてしるしも
(3)と眺めがちに端居して、御幸をまちたまふさまを、帝はいかに遣る瀬なく思召したであらう。
されど后の御妬みはいよ/\深く、曾ては卿産屋《おんうぶや》に火を放ちて王子諸共|焚死《やけしな》うとされたことがある。そこで姿と共に心あくまでも優しき姫は、御身一つの爲に姉の后を苦しませ、併せて帝の徳をも傷つけんことを心苦しく思ひたまひ、竟に藤原の宮を出で、遠く河内の茅渟といふところに身を秘めたまふた。そして其の若い美しい一生を清い海邊の貝と共に朽ちさせられた。が、帝はいかにしても忘れかね、時折日根野の狩にことよせては、竊かに姫の御許に御幸遊ばされたとのことである。
 
(4)     光明皇后
 
聖武天皇の皇后にて、藤原淡海公の二女、まことの御名《おんな》は安宿媛《やすやどひめ》と申しけるが、御體艶やかに、さながら玉か白金のように煌きたまひたれば、世これを光明皇后と尊稱した。以て御姿のいかに端麗なりしかを察するに餘りある。尚ほ御姿の美はしかりしばかりでなく、慈悲慈善の御情け深く、曾て幾千の難病者に浴を施し御身親ら腐爛目もあてられぬ天刑病者《らいびやうにん》をも介抱し賜へるやに云ひ傳へる。されどあまりに佛教に凝りたまひ、ひどく玄坊など云ふ賣僧を寵したまひしより、あらぬ醜聞を傳へしは眞に玉に疵、なれど是れ畢竟は當時に於ける或反對(5)黨の誣言。其頃作の佛像はこの皇后の御顔をうつしたものと云ひつたへる、如何に氣高く如何に平和に如何に端麗な御樣であつたらうか。
 
     中將姫
 
從一位右大臣藤原豐成卿の女にて、蓮の糸もて織物されたとまで云ひ傳ふ程怜悧の性《さが》のその上に、御姿の麗はしきは、金石千樹の春の花、瑶池玉樓の秋の月、毛?西施も新粧《しんさう》をはぢ、緑樹青琴も紅顔を失ふ御有様なりければ、早くも十三歳にて内裏より藤《とう》の中將の官名をたまはり、内住《うちずみ》の參内を許されたが、繼し母の限りなく妬み憎み、折につけて讒言をかまへ、笑の中《うち》に劔《けん》を磨くのであつた。ある時繼母豊成公に(6)語りけるは、此娘いかにもして生立て女御后にも奉らせんと、世にいつくしみかしづくに、まさなき下郎の行通ひけるぞ憂《うた》てきと、ひそかに人をして朝とく姫の局より忍びて歸るさまを見せた。お心よしの父豊成大に怒り、家臣《けらい》に仰せて姫を遠く紀州の雲雀山に捨てしめた、そこで姫は乳母と只二人、草を結び千茅《ちかや》をしき、露と涙に双の袖ぬらしつゝ三年あまり過させしに、偶ま父大臣が御狩の道にめぐりあひければ、大臣は喜び泣きて、我淺はかにも繼母の讒言を信じて汝《おんみ》を棄て、もはや世になきものと悔ひ悲しみしに、命《めい》ありて爰に逢ひしは幸なりイザ家に伴れ歸らんと云はれたが、姫は人間の浮生思へば夢の如し、富貴《ふうき》は風前の塵、榮華は草上の露、何の爲にか浮世に心を止め苦みを(7)求めん、只一心に菩提を求めて俗塵を離れんと、家に歸りたまはず、十七歳の春更に大和の當麻寺《たへまでら》に入り、蒼鬢をおろし戒をうけて善心比丘尼に尊き名を残したまふた。
 
     小野の小町
 
姿は花よりも美しかつたが、心は雪よりも冷かであつたか、彼の深草の少將は美しき此の小町の姿に迷ふて、心のいたみ解いてほしさに、風の夕も雨の夜《よ》もいとひなく百夜《ももよ》も通ひつめたが、竟に甲斐なく、果ては深雪《みゆき》ふりつむ道邊に、恨と共に身を埋《う》めてあはれ玉の緒を絶つた小町の誇は人にまかせぬ清き體と、美しき顔とであつたが、春は一年《ひとゝせ》(8)とゞまらず、いつしか鏡に對して
   花の色はうつりにけりないたづらに
        我身世にふるながめせしまに
と、かくしきれぬ心の淋しさを歌ふ身となつた。又
   わびぬれば身を浮草《うきぐさ》の根をたへて
        さそふ水あらばいなんとぞ思ふ
と、いたましき落魄のなやみを洩らした。後の世の人其のなれの果を卒塔婆小町と作り物語にした。あまり才色に誇る女のよきみせしめか。
 
     葵の前
 
(9)中宮の女房の上童《うへわらは》なるが、高倉帝《うへ》の思召し深かりしゆゑ、主《しゆ》の女房も召使はず、内々にて葵女御《あほひによご》などゝ囁き合けるを、主上《うへ》はきこしめし、其《その》后《のち》はふツと召したまはぬ、けれど御志の渝りしにあらず、世を憚りてなれば、其后は御詠めがちに、つや/\供御《くご》も聞召さず惱ませたまふを、時の関白松殿には哀れに推《すゐ》し奉りて、葵を猶子にして奉らばやと奏せしに、位をすべりての后ならば知らず、正しう在位の時左樣の事は後代《のち》の謗《そしり》なるべしとうけたまはなんだ。が、御心は兎角亂れがちにて、御手習の折緑の薄樣《うすやう》の匂ひ深きに
   忍ぶれど色に出けり我戀は
        ものやおもふと人のとふまで
(10)と遊ばされた。冷泉少將《れいぜんせうしやう》それを給はり葵の前にあたへしに、女《をんな》はそれを懷にとり入れて引籠り、五六日ばかり只|主上《うへ》を戀ひなげき、こがれ死《じに》にぞ果敢なくなつた。所謂爲2君一日恩1誤2妾百年身1《いはゆるきみがいちじつのおんのためにせうがひやくねんのみをあやまる》ものかまことに哀れの隈である。
 
     小督の局
 
高倉の帝には、葵の前の死後、いよ/\戀慕の御涙に沈ませ給ふを慰めまいらせんとて、中宮の御方より小督殿と申す女房を參らせられた。此は櫻町中納言重教の女《むすめ》で、禁中一の美人、殊に双なき琴の上手であつた。冷泉大納言隆房卿の未《ま》だ少將なりし時これを見初め、初は歌を(11)よみ文をば盡されけれども、玉章の數のみ積りて靡く氣色なかつたが流石に心弱く竟に靡いた。なれど此度君の御召しにせん方なく、飽ぬ別れをした。が、少將は如何にもして、小督殿を今一度見奉りたやと、それとなく參内の折、小督殿の局の邊彼方此方と彳み歩き給ひけれども、君に召されし上は詞をも通はすべきにあらずと、傳《つて》の情をだに懸られず、少將は若やと一首の歌を詠で、小督殿の坐す局の御簾の中へぞ投げ入ける。
   思ひ兼ね心は空に陸奥の
        ちかの鹽釜近きかひなし
小督殿には、軈て返事もせまほしう被思《おぼされ》けれども、君の御爲め後ろめ(12)だしと手にだに取らず、上童《うへわらは》に取せて坪の内へ投出さる。少將情なう恨けれ共、さすが人もこそ見れと、急ぎ取て懷に引入れ立歸けるが
   玉章を今は手にだに取じとや
        さこそ心に思ひ捨つとも
今は此世に相見んことも難ければ、生て戀しと思はんよりは、唯死んとぞ願はれける、平相国清盛此由を傳へ聞きて、中宮は我《わが》女《むすめ》なり、少將も又聟なり、小督に二人の聟取らるゝこと口惜し、如何にもして小督を失んとぞ云ふ。小督の局これを聞きて、我身の上は兎にも角にもかくては君の御爲よろしからじと、或夜竊かに内裏を紛れ出で行方不明となつたので、主上《うへ》の御歎き一方ならず、晝は夜の殿にのみ入せ給(13)ふて御涙に沈ませたまひ、夜は南殿に出御まし/\て、只月の光を御覽じてぞ聊か慰ませたまふ。
折柄頃は八月十五日の望の夜《よ》、さしも隈なき空なれ共主上は只御涙《なんだ》に曇せ給ふて、月の光も朧にぞ御覽ぜられける。良《やや》深更《しんかう》に及んで、人やあると召されけれども、御いらへ申す者なし、たま/\弾正少弼仲國宿直に參て遙に候ひけるが、仲國と御いらへ申した、汝近う參れたづぬる事ありと仰せければ、何事やらんと思ひ御前近うぞ參じたるに、汝若し小督の行方知らずやと仰せければ、爭《いか》でか知り參せ候べきと申す、誠や小督は嵯峨の奥とやらんに庵してありときく、探ねゆきでこれをやれと御文を給はつた。そこで仲國は御寮の駒に鞭うちて、西を(14)指してぞ歩せける。小鹿《をじか》鳴く此山里と詠じけん、嵯峨の邊の秋の比、さこそは哀にも覺へける中を、君が仰せの片折戸をたづねけるも、分りかぬるに今はぜひなく立歸らんと駒とめてやすらふをりしも、鬣を吹く松の嵐につれ、何處ともなく琴の音幽かに響ききこえた。千茅をなびけ露をくだき、此處ぞと思ふ片折戸におとづれしに、それぞ尋ぬる小督の庵であつた。かくて小督は辭しまつりしも、切なる主上《きみ》の御文にうごかされ、仲國に件はれて一旦逃れ出でし内裏へかへりたれば、幽かなる所に忍ばせて、夜《よな》/\召されける中《うち》に姫宮《ひめみや》一方《ひとかた》出來《でき》させ給ふた、坊門女院ときこへしがそれである。人道相國は亦もこれを聞き、小督ありては中宮の御さまたげなりとで、無情にも東山の麓清閑寺へ(15)引具して、たをやかなる黒髪《くろがみ》を剃落され、可惜二十三の妙齡にて尼となられた。さきには冷泉少將とあかぬ別れをなし、今また君と哀れの憂き別れ、佳人薄命とは正に此の小督の謂か。
 
     業平の妻
 
哉邦好男子の標本といへば、背しは在原の業平、近世では唐琴屋の丹次君《たんじくん》。されど丹次は畢竟春水理想の夢の如き浮れ男《を》、業平こそは眞と多恨多情の才子で、詩人で、彼の情事に奔放せるは、實は時事に慨して自ら韜晦せるものであつて、淫蕩決して其《その》本意《ほんい》ではなかつたのである。(16)彼の正妻は、左兵衛紀有常の女《むすめ》で、又夫におとらぬ美人で、そして貞女で、夫業平が常に内を外なる不身持にも、少しも怨まず妬かず、克く冷たい空閨を守りて居た。
   かぜ吹けば奥津しら浪たつた山
        夜半にや君がひとり行くらむ
是れ業平が河内通ひの空閨を守りつ、獨り孤燈に對して妻女《さいぢよ》紀氏の述懷、さすがの業平も感謝の涙を玉霰とそゝいだ。
 
     二代の后
 
故近衛院の后、大皇太后宮《だいくわうたいこうのみや》と申せるは、大放御門右大臣|公能《きんよし》卿の女《むすめ》(17)で、先帝におくれ奉らせて後は、九重の外近衛川原の御所にぞ移り、幽なる御有樣にてわたらせ給ひしが、御年僅に二十三の御盛り、天下一の美き御容《おんすがた》が仇となり、二條の帝は群臣の諫も用ひ給はず、再び后に立てんとの御使はしきりに父なる大臣の許にたつた。太后の宮にはかくと聞召され、あな情けなや先帝におくれ參らせにし久壽の秋の始、ひとつ木の葉の露とも消へ、世をも遁れたりせば、今かゝるうき耳》をばきかぎらましと、ひたすら御歎ありけるも、父なる大臣のさま/\に諭されけるにぜひなくも
   浮節に沈みもはてゞ川竹の
        世にためしなき名をはながしつ
(18)と、涙ながらに再び御入内《ごにふだい》遊ばされしが、參内のをりにも、色深き御衣《みころも》はめされず、白き衣十ばかり重ねて召させられた。かくて尚ほ先帝の昔戀しく思召《おぼ》されけん、近衛の院の幼帝におはしませし頃の御手ずさみ、障子に古勢の描《かき》たる有明の月をかきくもらしたるを御覽《ごらん》じては
   思ひきや憂身ながらにまはりきて
        おなじ雲井の月を見んとは
御心根察するも涙である、そして程なく二條帝にも遲れさせられ、此《この》度こそはと御髪《おくし》をおろし、北山《きたのやま》のふもとに引籠らせたまふた。
 
     袈裟御前
 
(19)袈裟御前まことの名は阿都麿《あとま》といふ、曾て仕へて上西門院の雜仕であつた。其父詳ならず、母年久しく奥州の衣川に住み、家富み榮えてありければ、人々衣川殿とぞよんだ、それに因みてか、阿都麿を袈裟と呼びならはした。袈裟天性の麗質玉を延べたるが如き上に、婦女のたしなみ等閑ならざりければ、長くるにつれて嬌艶益々心にくゝ、青黛の眉、丹華の唇、桃李の容《かたち》、緑の髪長く、膚《はだへ》は雪を欺き、是ぞ傾城傾國の佳人と見る人恍惚たらぬは無かつた。されど袈裟は、口に笑《ゑみ》を喞んで腹に劍を隱すが如き妖婦ではない、その性温良恭謙で婦徳いや高くまことに閨秀の譽高かつた。一門の滿左衛門尉渡《みつるさゑもんのじやうわたる》の妻となり、鴛鴦の契も物かは、天に在つては比翼の鳥、地に在つては連理の枝、(20)蓮の臺の未の世までもと、樂しき月日を送ること三|年《とせ》がほど、然るに昔も今も喬木風多き譬に洩れず、國色却て殃《わざはい》して爰に一場の悲劇が縁ぜられた。
渡部橋の橋供養に、料らずも蠻勇血氣の遠藤武者盛遠に見染められて袈裟は、夫渡との間に絶對絶命の羽目と成《な》つた。
剛情一徹の盛遠の意《こゝろ》に従はねば、人質に取られた母の生命は勿論、夫の身の上も危ない、貞《てい》にして孝《かう》なる袈裟は、流石血の狂ふばかり胸を痛めた末、兎に角一時を言つくらふて盛遠を歸した。斯て深々《しん/\》と香《かう》?《たき》しめた一室《ひとま》の中《うち》、女は長い黒髪をわざと濡して、夫の烏帽子を枕許に置き、醉寢た風をよそつて、只管盛遠の毒刃を待た。(21)忍寄つた盛遠は、これぞ渡と電光一閃…………さて蘭燈の明りに首打ち見れば、雪なす顔に目を瞑《つぶ》つた、コワ戀しい袈裟の細首であつた。二ツの命にかはりし袈裟の貞烈には、氷の刃も光を失し、さすがの遠藤武者もヤヽヽヽ。
昔の人はねび〔二字傍点〕て、時に袈裟年僅に十六、哀れ鳥羽の戀塚はそれ。母も夫も剃髪した、獰惡なる盛遠も發心して雲水の身となつた、文覺上人これである。
 
     祗王祗女及び佛御前
 
平家盛な其比、祗王祗女とて、姉妹相竝んで京中《みやこ》第一の白拍子と呼ば(22)れた。
色好《いろこの》みの入道相國は、噂を聞いて兩人《ふたり》を召し見たが、噂さに違はぬ頗るの美人で、その色鮮かな紅顔に濃く塗り粧つた白粉はいよ/\妖艶の色をまし、殊に白拍子ながら一種奪ふべからざる天禀《てんりん》の品位高く匂ひ深かりければ相國はこれぞ天下無双と感嘆し、兩人に舞へ歌へと命じける。姉妹《ふたり》はサツとばがり面《おもて》に薄い茜の色を染めながら
   蓬兼山には千歳經る萬歳千秋重れり松の枝には鶴巣ひ巖《いは》の上には龜遊ぶ…………
と玉を轉がすが如き嬌音と、花の如き艶姿に、入道は大に悦に入つて
姉の祗王を留めて殿中に入れ、妹《いもと》の祗女も姉の餘光に、其名はいとど(23)高く花の京洛《みやこ》にお輝いた。
されど多情なる入道相國は、復たも人の噂に、佛御前といふ白拍子あり、舞も歌も縹緻《きりやう》も祗王以上なりと聞きて、忽ちそれ召せとの嚴命、佛は容易に應じなかつたが、祗王からもさま/”\に勸めたので、さらばと佛は殿《でん》に參じて、相國の前に得意の舞をかなで、海棠のごとき唇より郎《ほがらか》な聲をいだして唄ふたので、相國は恍惚として横目も振らず跳めつゝありしが、性急な彼は忽ち佛の繊手を取て帳中に入つた。斯て佛に寵を奪はれて、秋の扇と捨てられし祗王は、哀はれ御内《みうち》にも止まるを容《ゆる》されず、泣く/\
   萌えいづるも枯るゝもおなじ野邊の草
(24)        いづれか秋にあはではつべき
と障子に書つけ、笹八條の舘を出で、妹の祗女と共に西山嵯峨の奥に庵をむすび、翠の黒髪を剃りて墨染の衣にかへ、扇もつ手に珠數をつまぐり、悲哀の一生を送つた。
まことに、昨日の東風《とうふう》は今日の降霜《かうさう》、いづれ秋にあはで果べき。彼の佛御前も亦其盛り久しからず、日ならず其寵衰へしか、將た自から花の薄命を悟つたか、二人の後を追ふて、同じく嵯峨の庵に共住《ともずみ》の尼となつた。當時京中第一の白拍子、ひとしく天下無双の舞姫も、末路の如何に哀れなる……。されど殺風景なる清盛の生涯、此の三拍子に依つて一點の色彩を添へた。
 
(25)     常盤御前
 
常盤は左馬頭義朝の妾であつた。平治の亂義朝一敗地に塗れ、常盤は立かくす人の袖もなく、草の末にも身のおきどころなく、風の音にも心を冷す身とはなつた。
   雪壓2笠端1風捲v袂《ゆきはりたんをあつしてかぜたもとをまく》。呱々覓v乳奈何情《こゝちゝをもとむいかなるじやうぞ》。他年鐵拐峯頭嶮《たねんてつかいほうとうのけん》。叱2咤三軍笠1是此聲《さんぐんをしつたすこれこのこゑ》。
星巖の此詩、前半は常磐が稚き三|子《し》をつれて雪中をたどれる苦楚の情をのべ、後半は當時懷中の乳兒《にうじ》牛若が平氏を攻て一の谷を陷れたることをのべたのである。かくて常磐は一旦遁れて大和龍門の里にひそみ(26)しが、清盛その母を捕へて殺さんとすと聞き、心やさしき常盤の、何條《なんでう》これを見殺しにしやうや、彼は三|子《し》をつれて六波羅に至りて陳情すらく、母のかはりに我を殺してよと、あゝ何ぞ其孝心なる。されど當年の?々入道清盛は、もとよりさる心根に同情するが如き人物ではない、たゞ其|姿色《ししよく》の艶麗なるに心を搖かした。男の子を三人まで生みたれど、つゆやつれず、花の顔せ愁を含んで訴ふるさまは、正にこれ雨になやめる海棠一枝。清盛は奇貨措くべしと、我《わが》意《こころ》に從はゞ母も助けん、三子をも許さんと云ふた。あゝ我身一つの命ならばなどか惜まう浮川竹《うきかはたけ》の女にもあるまじき仇《かたき》の枕の塵拂はんよりは、……さりとて質にとられし老母《はゝ》を如何にせん、かたみの撫子も散らしともなし、心ひ(27)とつに思ひは幾筋、竟に操を破つて清盛の意《こゝろ》に從ふた。あゝ朝《あした》には源氏の妾《せふ》、夕には平家の妾、姿色の美却て幸か不幸か。蓋し常盤は義朝の妻にあらず妾である、母と子との命を助けんが爲めに其身を仇敵にけがす、一種の權道として恕《じよ》すべきが、清盛の寵衰へて、出でゝ再び大藏卿藤原|長成《ながなり》に嫁するに至つては、殆んど其《その》意《い》を解するに苦しむ、所謂濡れぬ中こそ露をもいとへの自棄自暴か、清盛の寵衰へたる頃はもはや吹雪の中にさまよひし當時ほどの姿色はなかりしも、色香なほ殘れるうば櫻まだ全く棄てがたきに、長成は迎へしならん。驥尾に附して姓名傳はるとは古來聞く所なれど、二代のふる物をしよひこんだ爲に姓名を歴史の上にとゞむとは、長成といふ方はよく/\能のなか(28)つた人物、かゝる男に嫁しての后の常盤の生涯も亦平凡なりしなるべし、一女を生んだといふの外、何等の事實も傳はらぬ。
 
     熊野
 
東路の池田の里の長《おさ》の娘であつたが、姿色のすぐれたるより内大臣宗盛に召されて、心ならずも都の舘に幾年月《いくとしつき》を重ねた。花見る人の心は移りがちが常なるに、能州《ゆや》は寵おとろへず、束の間も傍《そば》を離さねば、夜毎故郷に病める母を思ひ寢に、夢さめがちの身であつた。頃しも春
のなかば、花の宴《うたげ》を東山に催ふされ、宗盛は熊野と一ツ車にて眺めあかしゆくほどに、みちもせの櫻はそよ吹く風に散りかかつた。熊野は(29)いよゝ懷郷の念とゞめかね
   いかにせん都の春もをしけれど
        馴し東の花や散るらん
と口ずさみしに、さすが魯鈍《のろま》の宗盛も歌のあはれさに、東へかへるを許した。
 
     小宰相の局
 
局は上西門院の女院の女房にて、小宰相と召されし十五のをり、北野へ御行の御供にて車より下し時、供奉せし越前三位通盛これを見初めそれより三|年《とせ》がほども文かきつゞけおくりしも、女院片時も御傍《おんそば》をは(30)なちたまはぬゆへ、返しもなさずに打過して居た。ある時舎人が車になげいれゆきし状を見るひまもなくて袴の腰にはさみて御前にありしに、御遊にまぎれて取落したを心附ずにゐた。女院は御覽になると
   我戀は細谷川の丸木橋
        ふみかへされて濡る袖かな
   ふみかへす谷の浮橋うき世ぞと
        思ひしよりもぬるゝ袖かな
さては通盛のよと哀れに思しめし、硯ひきよせたまふて
   たゞたのめ細谷川の丸木橋
        ふみかへしては落るならひぞ
(31)と女院御みづから御返事《おへんじ》遊ばされ、御なかだちして局を通盛殿に賜ふた。小宰相殿ももと厭ふてつれなくもてなしたのではなく、たゞ仇《あだ》なる契りに浮名を流さんことを厭ひてなれば、かく媒《なかだち》ありし後は中々に妹脊のかたらひ淺からざりしが。さても其後さすがに盛なりし平家の勢も木曾の山より攻上りし旭將軍の白旗《しらはた》に吹きなびかされて、武運はかなく夕陽と傾き、都をば淺茅が原となしつ、妻に分れ子に別れて西海へ落ち行きし中にも、通盛殿には小宰相と離るゝに忍びず、船路《ふなぢ》にも件はれたのであつた。
が、頼みにたのみし福原おち一の谷敗れて、爰に討死せし公達少なからず、夕日の影かすかに殘りたる一門の、心細くも再び八島へ漂ひ行(32)く中《うち》に、小宰相の局も加はられたが、通盛殿の船に見へたまはぬに、局はいとゞおぼつかなく心細げにながめ玉ふに、通盛の侍瀧口某といふが急ぎ御船にまゐりで殿の討死を言上した。聞くより局は胸もつぶれんばかり泣き悲み、七日より十四日八島に押し渡るまで起きも上りたまはなんだ。
此頃局には只ならぬ身におはした、それを殿が最後の前の夜《よ》に告げまゐらせしに、通盛三十に成しもまだ子をもたず、今の身になりて生るゝこと、嬉しくも悲しといはせ給ひしも昨日の夢、あゝ夫は戰場の露と消え失せたまふて此世におはさず、今は誰《た》がために子をも生まん、まして盡きはてし平家の武運、いたづらに後れてうき目に逢はんより(33)は、水底に沈みて三途の川をも諸共に一佛淨土に導かせたまへと、殿が一七|日《にち》にあたる其|夜《よ》、局には月のいるさの山の端を西の方かと伏しおがみ、海に投じて三位殿のあとを追ひゆかれた、時に年十九、まことに哀れいたましい最後であつた。
骨の奥より乘込んできた冠者義仲に見込まれて、心ならずも荒夷机妻【
 
     松殿の姫
 
松殿關白基房公の御娘、芳紀正に花の十七、絶世の美貌が殃して、木曾の奥より乘込んできた冠者《くわんじや》義仲に見込まれて、心ならずも荒夷の妻となられた。女御《によご》后にもとかしづき生立たせ、まことに荒夷には惜しき美人なりしだけ、義仲は屬魂惚れこんで、しばしも傍《かたへ》を離れなんだ(34)が、奢る者久しからず、同じ源氏の頼朝と不和となつて、範頼義經|等《ら》に攻立られ、都落ちの餘義なき場合、而も名殘はなか/\に盡きず、敵ははや間近に攻め來つて矢叫《やさけ》びの聲喧しき中にも、翠帳奥深く離れがたなき樣に、越後の仲太能景は寢殿の前の縁に割腹して之を諫めたが、尚ほ出でざりければ、加賀の住人津波田三郎も御帳《みちやう》の前に腹かき切つた。それで漸く翠帳を出た、あゝ蠻的英雄尚ほ斯くの如し、世に妍媚の魔力ほど怖るべきは無い。粟津ケ原にうたれし木曾殿の首の都に梟《か》けられしとき、かくまで名殘おしまれし松殿の姫君《ひめ》の心はいかにあつたであらう。
 
(35)     巴御前
 
巴は實に白雲《しらくも》深き木曾の山奥に生れ、幼い時から眞白い素足で、山菟のやうに山谷《さんこく》の間を駈け歩いたもので、其後旭將軍義仲の寵妾となつても、普通の婦人の如く奧殿《おくでん》深く紅粉《こうふん》をのみこれ事とせず、義仲の往く所千軍萬馬の間、いつも美にして勇なる此の巴の姿を見ぬことは無かつたのである。
殊に頼朝の關東勢との戰ひ、板東隨一の勇將畠山重忠との一騎打は實に千古の好畫圖《かうぐわと》、巴は信濃第一の名馬春風に跨り、わざと甲を着ず長に餘る黒髪を風に亂して薙刀を揮ふ處、如何に美絶又壯絶であつた(36)らう。互に力あまつて鎧の袖のフツと引切れた刹那の壯快、さすがの重忠も其美と其勇に恍惚として感嘆を禁じ得なかつた。
 
     千壽の前と伊王
 
さすがに優美なりし赤い平氏の末路、往々嬌艶花の如き女性《によせい》の纒綿して、一種の色彩を添ゆる中にも、重衡と千壽及び伊王の闘係り如き、殊に最も詩的である。
壇の浦の没落、三位中將重衡武運拙なく捕はれの身となつて鎌倉へひ
かれ、頼朝と對面ありて後今宵斬らるゝか、明日穀さることかと思したる折しも、宿の主《あるじ》御湯めさせたまへと申した。間もなく死する身も(37)長途の汚れ見苦しと思ひたまひしときとて、情嬉しく湯殿に入らせられしに、二十ばかりなる美女の白結《しらゆひ》の帷に白き裳つけたるが入りきたり、中將が如何なる人ぞと問ひしに、兵衛佐殿より御垢《おあか》にまゐれと仰せるなりと、磨拔いた樣な美しき顔を湯殿洩れる白煙の中に茜に染めて……中將が如何に斷つても去らず、湯とり水とりなどしてまめ/\しく仕へた、これぞ白川の宿の長者の娘千壽の前とて、鎌倉界隈に評判の美人である。心憎きは頼朝で、彼は今夜|後園《ごゑん》にたたずみ、かねて琵琶の名手と世に名高き重衡の手ぶりをぬすみきかうとの心、されど頼朝いかに所望すればとて、目のあたりにてはよも撥《ばち》をとるまじ、千壽こそよきに計へとの嚴命である。
(38)此夜旅舎の一室に於て、千壽は重衡に御盃《さかづき》まゐらせ。燭を剪りて折にあひたる朗詠と今樣を唄ひ、琵琶とりいだし掻鳴らすに、重衡も引よせ撥音氣高く彈じたまふた。榮華なりし當年の貴公子にして今の罪人たる重衡と可憐の美女と相對する這般の光景、悲絶とや云はん、美絶とや云はん。夜《よ》と共に情趣はいよ/\深く、哀はれ亦一段、縁にありしもの共は、せめて優美なる御かたちを見上げんと、障子細目に開きしに、庭の風は燭を吹消した、暗の中に調べをなしつゝ、重衡は斷腸の聲もて
      燈暗數行虞氏涙《ともしびはくらしすかうぐしのなんだ》  夜深四面楚歌聲《よはふかししめんそかのこゑ》
と二度三度くり返しで朗詠せられたには、聽者みな暗涙を催した。
(39)尚ほ此の千壽の外に、伊王とてこれも琵琶、琴の上手なる花の蕾の佳麗な女も居た。そして孰れも只夜もすがら優におかしき物語きかせたまふのみ、深き情交《まじはり》あるにあらぬも、二女共この薄命公子に深く/\同情し、卯月の始より六月の末まで、女一代の濃い情けを籠めて仕へた。かくて重衡が南都にて斬られたまひし後、両女共尼となつて後世の吊ひを朝夕のつとめに一生をはたした。
 
     靜御前
 
一年京都に於て旱打ち續きしかば、後白河法皇は二條なる神泉苑に御幸あつて雨乞のため白拍子百人を召して舞はせられたることがある。(40)其時靜も白拍子の一人として其中にあつたが、其の舞了るに及び雨俄かに降り出《だ》したれば、法皇は其技の堪能を愛でたまひて日本一と宣ひぬ、靜の名これよります/\顯る。此時義經も亦御前にありけるが、其技の堪能は言ふも愚か其|容貌《かたち》も優れて艶麗なりしかば、召して妾とした、斯て數多の妻妾の内にも最も義經の鐘愛する所となつて、片時も傍を離さなかつた。が、然し斯く鐘愛されしものは、只其技の堪能なる容貌の艶麗なるばかりではない、其才も亦尋常ならざりしからである、彼土佐坊昌俊の頼朝の命にて夜る堀川の第《やしき》を襲ふや、勝氣なる義經は敵を侮り寢衣《ねまき》のまゝ直に太刀取つて出でんとせしを、靜は其袖をひかへ小敵とて侮りたまひぞと、強て甲冑を着せ弓矢を進め義經を(41)して過ちならしめた。若し尋常の婦人にして斯る危急の場合に際會したならば、忽ち心も消え胸もつぶれて悲み騷ぐばかりなるを、靜は從容自若毫も周章の跡なし、以て其氣象の普通白拍子の流亞でないことが知られる。
斯くて其後義經の都を落つるや、何處までもと隨ふたが、義經がたつての勸めに、惜しき袂を吉野の山に分ち、雪に踏み迷ふて捕はれの身となり鎌倉に送らるゝや。……鶴ケ岡は八幡宮、社頭に聳ゆる銀杏の梢を眺めて、思羽《おもひは》の翼かはせし郎君《きみ》の上をしのびし靜は、松風千秋楽を奏づる舞樂殿に立つて、あはれ仇と思ふ頼朝の前に舞はねばならぬ身となつた。皷は畠山重忠承はり、笙太皷も名ある大名これを勤む(42)やがて靜は緋の袴をひき、太刀をはき、まばゆき黄金色の烏帽子つけたる樣、この程の嘆きに面こそ瘠たれ、眉細やかに薄化粧したる、實
に天女とまがふばかりなるが、雪深き芳野山にて、あかぬ別れをなしゝ判官《ひと》の上を思ひやりては、泣かじとすれど唇は自から顫ひつ。君の爲にこそ千代はことほげ、いかで仇の前にと思ひけるが、さすがに先づ「君が代」を謠ひ、かくて更に水干の袖をはづし、扇打ちかざして
   よしの山みねの白雪ふみわけて
        入りにし人のあとぞ戀しき
と吟じ、更につゞいて又
   しづやしづ賤の田卷くりかへし
(43)       昔を今になすよしもがな
と高らかに唄ひけるには、心ある人みな暗涙を催ふしたが、頼朝は物をも言はで簾《みす》おろし、八幡宮の神前にて歌舞を奏するに、關東の萬歳を頌《いは》ふこそ理なるに、反逆の義經を慕ひ、剰さへ賤の小田卷くりかへし九郎が昔に還れとや謠ひけるぞ奇怪なりと腹立てけるを、夫人政子これをなだめて稍く無事に其場はすんだが、あくまで殘忍なる頼朝は其頃靜の懷姙せるものから之を還さず、其の出産をまち、無情にも其生兒を由井ケ濱へ棄て、かくて靜を宥して京都に放還した。靜は郎君《きみ》に別れ、亦た兒を失ひ、かゝる憂き世に存《ながら》へて何かせんと、やがて天龍寺の麓に草の庵《いほ》を結び、緑の黒髪をおろして尼となつた、時に年僅(44)に十九。
 
     大磯の虎
 
虎は大磯の遊君《いうくん》であつたが、當時鎌倉で日の出の勢ひの大盡客《だいじんぎやく》和田義盛に招かれながら、義盛がさす盃を意地の上から一杯もうけず、却て瘠浪人の曾我十郎|祐成《すけなり》に深い/\情けをさゝげた。
祐成も亦仇を打たんと思ふ身の、心に油斷はあらねど、雨の夜も風の夜も通ふて、長からぬ契を深くかたらうた。
かくて建久四年五月|雨《あめ》の闇夜、富士の裾野の狩の假屋で、曾我兄弟は首見よく敵工藤祐經を討て本望を遂げた。虎時に年僅に十九であつた(45)が、かねて斯くとは期しつゝも、祐成が捕はれの身となり竟に討たれたと聞き、今更悲しさに胸もつぶれ、遂に尼となり、それより曾我の故郷に行きて兄弟の母にも逢ひ、箱根に登りて佛事を營みての歸るさ兄弟の討たれし處を過ぎりしに、草茫々と生茂りたれば、ます/\悲しみに耐へず
   露とのみ消えにし跡をきて見れば
        尾花が末にあき風ぞ吹く
と詠じ、大磯に歸りて、高麗寺山《かうらいじざん》の奥に庵を結びて一生を終つた。
 
(46)     遊君阿古屋
 
惡七兵衛と云へば、如何にも鬼のやうな蠻的人間のやうに思はれるがさすがに優美なる平家の侍大將だけあつて、凛々しい中にも情《なさけ》のあつた男と見え、遊君《いうくん》阿古屋は屬魂ほれ込んだ。
東山、あの繪のやうな清水寺にスグ近い、小《さゝや》かな家に單調な生活をなす阿古屋。時々目的あつて此の清水寺へ參詣する浪人景清の忍び姿、其の深編笠が如何に阿古屋の心を引つけたか、深編笠の見られぬ時は阿古屋はわざと門口に立出で、東の方《かた》音羽の峯の松に雲かゝり、小鳥の塔の上に群り噪ぐにつけ、唯に想出すのは、姿の、待たれるのは、此(47)の平家の落武者の強/\景清であつた。斯て両者《ふたり》が淡いやうな濃いやうな情交《なからい》は、今も尚ほ戯曲の上に殘つて居る。
 
     勾當の内侍
 
勾當の内侍《ないじ》は頭の大夫《たいふ》行房の女《むすめ》にて、二八の春の比より内侍に召されて君王《くんわう》の傍《かたへ》に侍り、羅綺にだも堪へざる姿は、春の風一|片《ぺん》の花を吹き殘すかと疑はれ、紅粉を事とせる顔は秋の雲半江の月をはき出《いだ》すに似たり。さても建武のはじめ、天下又亂れんとせし時、左中將新田義貞常に召されて内裏の御警固をぞ勤めた。或夜月凉しく風|冷《ひやゝか》なるに、勾當の内侍は半簾《はんれん》を捲きて琴を彈《たん》じたまふた。中將其|怨聲《えんせい》に心引れて(48)覺えず禁庭の月に立ち吟《さまよ》ひ、あやなく心そゞろにあこがれてければ、唐垣の傍《そば》に立ち紛れて伺ひけるを、内侍見る人ありと琴をやめ、折柄さし入る月をながめて、物わびしげにしほれたまふ氣色の、折らば落ちなん萩の露、拾はゞ消ん玉篠《たまざゝ》の、あられよも尚ほあだなれば、中將は行未も知らぬ道にまよひぬる心地して、其|後《ご》日となく夜《よ》となく思ひわづらひ、竟にたえかねて
   我袖のなみだにとまるかけもだに
        しらで雲井の月やすむらん
と詠みてソト遣されたが、君の聞召されんこと憚ありとて、哀けなる氣色に見えながらも手にだに取りたまはねば、中將にはいとゞ思ひしほ
(49)れけるを、何人《なんびと》が奏しけん主上《きみ》等閑《なほざり》ならず聞召し、哀なることよと、御遊の折左中將を召され御酒《ごしゆ》たまはり、勾當内侍を此盃につけてぞと仰出《おほせだ》されける。中將は此|幾年《いくねん》を戀ひ忍びて相逢ふ今の心の中《うち》、優曇花の春まち得たる心地して、珊瑚枕上陽臺の夢長くさめず、去《さん》ぬる建武のすゑ朝敵西海の波に漂ひし時も、中將此の内侍に暫しの別を悲みて追撃を怠たり玉ひぬ。誠に一たび笑みて能く國を傾くと古人の戒も理なり。されど其後中將の北國《ほくこく》へ落ち給ひし時は、さすがに路次の難義を顧みて、堅田《かたゞ》の浦の磯屋に殘しおかれた。
あゝ旅人だにも、一夜《ひとよ》やどりの門《かど》を立出《たちいづ》る時は、笠かたむけて見かへるがならひである。又何事もなくて立出る人をだに、戸口に送れば姿(50)見ゆるまでは立つくすが女の情である。まして武運の末の北國落《ほくこくお》り、いかに別れの惜しまれしかは察するに餘りある。かくて義貞には越前の金崎城《かねさきじやう》に赴き、其處にあること三年がほども、戰にひまなく且は人目もありて迎へもならず、たま/\の消息《せうそく》に月日は經つたが、延元二年秋のはじめ、道のほども稍靜になりたればと迎《むかひ》の者を遣したれば、内侍のよろこびは暗夜《やみよ》より眞晝の光のうちに出《だ》されしようにて、北國の杣山といふ處まで急がれた。折しも義貞は足羽へ向はれしときゝ跡をしたひ、輿にて淺津《あさづ》の橋を渡らせらるゝところへ、落武者百騎ばかり歸り來り、内侍と見るより其中の一人が馬より飛び下りて、さては悼はしや新田殿は昨日の暮に足羽にて討死したまひぬと、泣く/\ま(51)をすに、内侍は胸ふさがり膽消えて泣伏したまふを、みな/\慰めまいらせて一旦は杣山へ歸られたが、其處も騷しくなりしものから、又京へ上り仁和寺のほとりに幽《かすか》なる樣にておはした。一日《あるひ》ふと大路をゆきたまひしに、人の立ち騷ぐに何事ぞと見れば、越路はるかにたづねゆきて、逢はでかへりし中將の御首《おんしるし》が獄門にかけられてあつた。二目とも見ず築地の蔭に泣倒れ、暮るゝも知らずおはせしが、いよ/\會者定離の理に愛別離苦の夢をさまし、其夜のうちに黒髪を剃らせ、嵯峨の奥往生院のあたりなる柴の戸に明暮《あけくれ》行《おこな》ひすまして果てられた。
 
(52)     顔世御前
 
六宮粉黛の名妃《めいき》を以てして、草野武人《さうやぶじん》の妻となるさへ恨事なるに。……紅梅の衣に氷のようなる練貫《ねりぎぬ》の白小袖かいどり、濡髪《ぬれがみ》長くたれし艶《えん》なる湯あみ姿を、?々爺師直《ひゝおやぢもろなほ》に垣間見られ
   返すさへ手や觸れけんと思ふにぞ
        わが文《ふみ》ながらうちもおかれず
など屡々挑む横戀慕、
   さなきだに重きが上の小夜衣
        わがつまならぬつまなかさねぞ
(53)の返歌忽ち殃《わざはひ》して、何咎なき夫|鹽冶判官高貞《えんやはんぐわんたかさだ》が一朝師直の讒に百年の命を失ひつること、晋の石季倫が禄珠《ろくしゆ》の故に亡されて金谷《きんこく》の花と散りしもかくや。かくて顔世《かほよ》も播磨の蔭山にて落行く道をさへぎられ、雪よりも清く花よりも妙なる胸の下を貫ぬきて、あへなく命をおとした。佳人の薄命はもとより、柄になき美色《びしよく》を妻とせし鹽冶も亦殃なる哉
 
     辨の内侍
 
内侍は俊基朝臣の女で、父の朝臣は夙に鎌倉に斬られ、母も世を早うし、まことに頼みなき身であつたが、忠義の心いとあつく。夕雲のゆくゑさだめぬ御さすらひ、芳野の峯に暫の行宮しつらへて御座ませし(54)ころ、峯の花を折り岩間の清水をむすび奉りて、内侍も他の人々と共にかひ/”\しく御宮仕へをして居た。然るに例の武藏守師直の荒淫なる梅が香を櫻の色に移し柳の枝に咲かせたらん如き内侍の容色《ようしよく》を傳へきゝ、人を遣はし内侍を盗み出《だ》さして都へつれ行く途中、幸に見つかりしは楠帶刀正行で、正行は忽ち師直の家來を斬り拂ひ、輿の中にさめ/”\と泣き崩れあつた内侍を助けた。虎口を免《のが》れた内侍の喜ぴいかばかり、帝このよし聞召し、内侍を妻にと正行にたまはつたが、かねて身命を君にさゝげて他念なき正行は
   とても世にながらふべくもあらぬ身の
        假りの契をいかで結ばん
(55)と辭退された。されど内侍はどこまでも夫と思ひ込み、正行が四條繩手に討死ときくや、髪をおろして尼となり、長く其忠魂を弔はれた。
 
     悍婦淀君
 
日本六十餘州を掌《たなごゝろ》にした曠古《くわこ》の大英雄秀吉も、一美人淀君の凄腕《すごうで》には飴の如く飜弄されて、たはいなきこと豈啻だ閨中に於てのみでは無かつた。
淀者の母は右府信長の妹で、小谷《をだに》の方といひ、江州小谷の城主淺井長政の室《しつ》で、國色無双と稱せられた。長政との間に三女あつたが、長政の滅ぶるや、信長は更に柴田勝家に嫁せしめ三女又從ふて勝家の許に(56)養はれた。然るに勝家も亦秀吉と戰ひ敗れて、北の莊の落城するや、小谷の方は夫勝家と共に猛火に包まれて此世を去つたが、遺孤三人は秀吉引取つて養ふた、長女茶々芳紀二八、母に似て頗る凄美妖艶なりければ、色好みなる秀吉乃ち容れて妾とした、淀君これである。
戰國の習ひ、淀君は必ずしも秀吉を不倶戴天の仇敵とは狙はなんだ。けれども驕慢なる彼女《かれ》の胸中では、あくまで右府の姪たるを忘れず、世の變遷に詮方なく關白殿下の側室として、枕の塵は拂へども、心竊かに秀吉こそ元は我家の下郎とさげすんで、あまり敬意を拂つては居《を》らなんだ。そこで秀吉の在時尚且つ微かに醜聞のないではなかつた、まして秀吉のなき其|後《のち》は、いよ/\誰憚らず侫臣《ねいじん》大野治長《おほのはるなが》を常に閨房(57)奥深く引入れて、軍議を紅衾の中《うち》に决するなど、城中幾多忠義の土の切齒するところなりしも、こゝ豐臣の運も、大阪城の白壁へ落日の影を射し、天下の大小名只々關東の鼻息《びそく》を是れ覗ふ中《なか》に、尚ほ内大臣秀頼の母として、あくまで狸爺《たぬきおやぢ》家康の專横に反抗し、紅花《こうくわ》一輪高くとまつて膝を屈せぬ處、さすがは太閤の側室であつた。
有名な世界の女王と等しく、彼女《かれ》は實に驕慢で、肉的で、そして一面非常なヒステリー的であつた。併し此のヒステリー質が彼を煩悶させたと同時に、その絶倫の美を増さしめ、其肉的が恰《あだか》も牡丹花のやうに猛烈な艶味を帶びてゐたかに思はれる。
牡丹花のやうな彼淀君、その最後も亦紅ゐの火?猛々と華やかであつ(58)た。彼は到底尋常平凡の婦人ではなかつた。
吁《あゝ》、大阪城をいろどる墨繪の松ケ枝、現今《いま》も高く取廻《とりめぐ》らした白壁《はくへき》には悍婦淀君が美しき中にも凄味ある――殊に甚だ恨みを帶びた眸《まなざし》が印《いん》し殘るやうに思はれる。
 
     重成の妻
 
木村長門守重成の妻は眞野豐後守|頼包《よりかね》の女《むすめ》で、才子と佳人、鴛鴦《おし》の契淺からなんだが、大阪夏の陣到底傾く運の回すべからざるを知るや、忠勇なる重成は深く心に覺悟する處あり、出陣の前日食を絶つた。眞野氏の聰慧なる亦戰ひの結果は略ぼ之を推察するも、夫の絶食を怪み(59)て之を問ふた、重成笑ふて曰く、五穀胃に入《い》れば二十四|時《じ》を經ねば消化《せいくわ》せずと、吾は汚物をさけ最後の潔《いさぎよ》からんことを期して食を発絶つのみと。眞野氏いよ/\夫の勇ましき覺悟に却て心嬉しく、今は心にかゝる雲もなしと、夫が出陣の前夜けなげにも自害してはてた、時に年僅に十八。
 
      遺書
一樹の蔭一河の流是れ他生の縁と承はり候《そろ》、そもをとでせの頃よりして偕老の枕をなして只影の形に添ふが如く思ひまひらせ候、此頃承り候へば此の世限りの御催《おんもよ》ふしの由蔭ながら嬉しく思ひまゐらせ候、唐の項王とやらむは世に猛き武士《ものゝふ》なれど虞氏の爲に名殘を惜しみ、木曾義仲は松殿に別れをとやら、されば世に望み窮りたる妾《わらは》が身にては、せめて御身御存生の中に最御を致し死出の道とやらむにて待ち上げ奉(60)り候、必々秀頼公多年|海山《かいざん》の鴻恩御忘却なき樣頼み上げまゐらせ候、あら/\めでたくかしこ
                       妻 より
    長門守重成樣
あはれ妙齡の佳人春を待たで無情の風に散ぬる、惜みてもあまりあるが、その貞節義烈は千歳に傳へて朽ちぬ。
 
     女太閤奴の小萬
 
小萬《こまん》は本名三好ゆきとて、大阪長堀の豪商某の一人娘で、頗るの美人であつたが、顔に似氣なき力強《ちからづよ》で、十六のころ、天王寺詣の途すがら名も恐ろしき蛇阪《くちなはざか》といふところで、女とあなどり衣《ころも》をはぎ持物を奪(61)ひ、身を賣らんとたくみし四人組の惡者を取ひしいだことがある。聟を持てとの親の命に白い頸筋を掉《ふ》つて、二十の春京に上り、禁中に仕へ長局《ながつぼね》の祐筆となつて五|年《とせ》ばかり過した。けれども妬みそねみを五ツ衣《ぎぬ》の懷に疊む内氣な女性《によしやう》のみのすまふところ、快活な小萬としては如何《いか》に鬱とうしかつたであらう。竟に辛抱しきれず大阪に立歸つた。
折柄父死し、山の如き遺産のあつたを、小萬は宛ら道傍の塵の如くに撒き、且つ花の香を逐ふ蝶と附まとふ男うるさしと、顔に墨をなすりて痣をつくり、髷こそ島田なれ伊達衆姿の、小萬は死ぬまで男に肌を見せなかつた。かくて家にはお龜お岩とて同じく二人の力強き女を置き、それを引つれて男の惡者共を取ひしいて、奴小萬の?名は大阪の(62)市中に鳴響いた。
然るに小萬は其|后《ご》亦何に感じてか、何事もいやと、忽ち翠の黒髪切はらひ、きりゝとしたる奴風俗を麻の衣にかへ、名も正慶尼と改めて、天王寺《てんわうじ》の片ほとりに住み朝夕念佛と風流三味に耽つた。
されど生れながらの?氣は、尼となつての後も幾多の逸話を殘した。豐臣秀頼の爲に天王寺に大追善を營み、析柄の俄雨に早速|傘《からがさ》五千本を調へて參詣の人々に渡して贅六を驚かせ、又金を京都大佛に喜捨して太閤の冥福を祈つた。
 
     俳優買江島の局
 
(63)將軍家繼公の時代、大奥の年寄に江島《えしま》といふがあつた。元は芝居ものゝ娘なるだけ、萬事華奢贅澤で、常に派手な錦樣樣の着物に光る帶、そして勢をたのみ、放埒にも俳優買をなし、當時山村座の花形|生島新五郎といふに打込み、はじめの程は折々茶屋で會ふて樂しんで居たが終ひには夜《よな》/\大奥へ引入れて巫山戯た。千人の女中取締がこれだから、女中の風儀が次第に亂れ、後遂にに目附の知る所となつた、そこで江島は不都合な大膽者《だいたんもの》とあつて、普通ならば死をも賜はるところ、かねて將軍家|母公《ぼこう》のお氣に入りなりしに依て、特に其取なしで永久蟄居仰せつけられ、相手の新五郎は伊豆《いづの》三宅島へ流された。かくて新五郎は浪の音にあけゆき、浪の音に暮るゝ島根にさすらひ、あゝ局の寵を(64)うけずば、かく情なき遠島にはならざりしものをと怨むが中にも、また其のなさけをも忘れかね『花の江島が彩糸《いろいと》ならば、たぐりよしよもの身が宿へ』へと唄ひくるふてゐた。
 
     吉野太夫
 
吉野は名高き京の遊女で、啻に姿色《しゝよく》のうるはしきのみか、風流の道に深く
   あけやすきうらみはあらじ我袖に
        すゞしさのこせ夏の夜の月
など歌もよめば、茶、香、鞠《まり》いづれにも達してゐた。佐野紹益(灰屋(65)三郎兵衛《はいやさぶろべゑ》)と相思ひ相慕ひて妻となり高き婦徳をたゝへられた。始め紹益の父、遊女風情と馴れむつむを怒りて紹益を勘當しけるが、流石に心に忘れかねてありし時、ふと時雨する日、ある家の軒に立ち、内より洩るゝ蘭麝の薫りを床しみ、思はず呼入れられて抹茶の客となり歸りてより、世には床しき女房もあるものよ、吉野とやらんがあの半ばほどのものならんには、一人の子にかく辛くはあたるまじきをと歎息せしを、あれぞ吉野と教へられて、早速|悴《せがれ》の勘當をゆるし、吉野を表門より呼入れさせたといふ。
 
(66)     高雄太夫
 
京に吉野あり、江戸に高雄ありて、太夫《たいふ》の名を身一つに受けてゐた。仙臺高雄は初代といひ、二代といひ、三代といひ其人は定かならず、死せる月日もまち/\に言傳へてゐる。中洲三股の凉船の中で、伊達の殿さまの刀の雫となつたは、誠なりとも嘘なりともいふ。又死れずして三浦屋に病を養ひしとも、仙臺侯に召されて長く仕へしとも傳へる。三代高雄は吉原三浦屋の抱へで、生れは今も碑に殘る下野《しもづけ》鹽原《しほはら》の在、照る紅葉の精かとも思はるゝ美女の上、琴書《きんしよ》に和歌に萬事女の道に缺けたことは無く、高貴の姫君としても耻かしからぬ佳人であ(67)つたとの事。
 
     髑髏太夫
 
花も人も匂ふ盛《さかり》の元禄時代、吉原茗荷屋に奥州といふがあつた。白小袖の上に薄と髑髏《しやれかうべ》を墨繪に書かせて、太夫の道中《だうちう》に見る者の眼を驚かした、又彼は揚屋入りの時とぼす提灯に、「手《て》れんいつはりなし」と書いて太夫名に代へ、濃厚な紅脂白粉が晝夜流れる、吉原江戸|町《ちやう》の道行に、女ながら堂々と威張つて歩いた。彼は確かに元禄時代にふさはしき、放膽奇拔な女であつた。
 
(68)     燈籠の玉菊
 
なき玉菊《たまぎく》を追善の燈籠は、今も吉原の形容に殘つてゐる。角町中萬字《すみちやうなかまんじ》の玉菊は、姿うるはしきばかりか、情《なさけ》も深く誠ありて、全盛なれど誇らず、愛嬌は藝者若い者はもとより、茶屋船宿までの褒めものになつてゐた。絲竹《いとたけ》の技にすぐれて江戸節河東節、いづれにも堪能であつたが、唯盃が好きなが病ひで、惜しや二十五の盛りの花を、酒ゆへに散らしたも、さすが色里の濃い歡樂、強い刺戟を願つたと思ふと、一層可憐の思ひがする。享保十三年七月の盆の宵、明い吉原が更に赤かつたのは、彼れが三回忌の追善のため、茶屋の軒並に玉菊と書いた艶《ゑん》(69)な箱提灯を釣り下げたからである。其折河東節の名人蘭州が俳諧師岩本乾什に作らして唄ふた水調子に
  二人が結ぶ白露を眼元で拾《ひら》ふ延紙《のべがみ》の二折り三折り年を經ていふた言葉を調ぶれば、泣くより外の琴の音《ね》も二十五絃の曉に碎けて消ゆる玉菊の光りは假の物ながら本來空の明りには實にとぼすべき提灯も燈籠もいらず掻きすてず、ありし夜店をそのまゝに、後世の燈しと明らけく、くもらぬ月の面影は、なぎの枯葉の名ばかりに鏡のうちに殘るらん、梛は鏡に殘るらん。
 
     松葉屋の瀬川
 
世に才藝ある遊女少なからぬも、これは亦多藝も多藝、三味線《さみせん》、浄瑠(70)璃、茶の湯、俳諧、碁、双六より鞠、皷、謠、笛、舞のその上に頗るの能書、畫は大雅堂の弟子となり、亦|易道《えきだう》にもくはしく、常に算木を蒔繪の小函に入れて、傍輩女郎の願事、待人、首尾の善惡《よしあし》など占ふに的中すること老練の卜者も及ばず、曾て丁字屋の雛鶴を相して、御身は福相なり必ず富家《ふか》の婦たるべしと、果して後ち富澤町の豪商山崎斗仙といふに受出されて其妻となつた、又深川に材木商某なる者があつた、一朝|大火事《おほくわじ》のために巨富を博し、妓蝴蝶といふを購ふて妾とし、戯れに瀬川に相せしめた、瀬川一見これ甚だ窮相なりと、蝴蝶怒り且嘲りて妾とした、然るに幾《いくばく》ならず其材木商は罪を得て獄に繋がれ、蝴蝶もまた落魄して死んだ。右雛鶴が請出されて廓《くるは》を出るとき、廣澤流(71)の手績美事に、唐紙《たうし》の信夫摺の半切《はんぎり》に認めやりたる文
   きゝ候ところ、此里の火宅をけふしはなれて、凉しき都へ御根引の、花めづらしき御新枕、御浦山しきことはものかは、誠に殿は木、そもじ樣は土、一陰陽を起し陽は養にして御《ご》一生やしなふといふ字の卦《けい》、萬人《ばんじん》を養育し、萬人にかしづかると、頼母しくもめでたき御中と.ちよつとうらなゐ候、穴賢
                    松 瀬より
       雛さま御もとへ
豪商江戸屋宗輔瀬川の人と爲りを愛してしげ/\通ふて居たが、竟に受出して妾としやうとした、傍輩みな其正妻でないからとて賛せなんだが、瀬川自ら卜し又鏡をとつて自ら照して曰く薄命は天なりと、宗(72)輔に受出された、しかも間もなく病んで死んだ、時に年二十八。
 
     比翼塚の小紫
 
小紫は三浦屋の抱へで、明暦の頃、吉原で全盛ならびなき遊女であつたが、平井權八といふ紅顔の美少年と深く/\契つた。權八は腕も刀も冴えたが、實は慄悍な惡少年で、廓の金につまつては、惡事をもした。小紫も後にはそれと知つたが、一旦誓つた心はあくまで替らず、權八小紫の浮名は廓中に謳はれた。彼の東海道は鈴ケ森に於て幡随院長兵衛との出會は、果《はだ》して事實であつたか無かつたかは知らぬが、其|後《ご》權八は人殺しの罪の發覺して、鈴ケ森の露と消えた。小紫の悲しみ(73)は、よその見る眼もいじらしかつた。其後小紫は或る物持に引かされたが、權八の情《なさけ》忘られず、遂に男の墓所《はかしよ》目黒冷徳寺で自害して其跡をおうた。今も目黒に比翼塚とで殘つて居る。
 
     藝者小三
 
紅おしろいをふかくはせず、ちよつと化粧に櫛笄さし、一本うしろへは銀の細うちばかしさして、いきなつくりのいやみなきは、額俵屋《ぬかだわらや》の藝者|小《こ》三。情人は金谷金五郎とて斯波の家臣《けらい》、幼少からの許嫁だつたが、世の風波に西の京から流れ/\て東《あづま》の空で藝者づとめ、それが偶《ふ》とめぐり逢《あふ》て、積る情《なさけ》の追々重なつて、二人の中にお雪といふ娘ま(74)でも出來たけれど、其時既に金五郎はさる家の養子で女房もあつた。小三は、男の顔を見ると直ぐポツと上せる、少しの苦勞の種にも食事進まず、癪と頭痛の、極やさしい情の深い女で、長い月日を唯々泣くも笑ふも金五郎のために活きて居た。それが男の舅のたのみを容れてよぎなく金五郎と飽かぬ縁を切た、げに義理ほどつらいものは無い。然し好た男に別れて、なに樂しみにながらへよう、春の花の散る夕ぐれ、小三は金五郎に書置をして自害した。露國大使夫人はこの小三金五郎の芝居を觀て、小三の濃かな微細な日本婦女の感情に覺えずハンカチを濡らしたといふ。
 
(75)     艶姿茜屋お園
 
茜屋の半七は、もとより色男であつたらう。けれども嫁のお園も戯曲子に、艶姿女舞衣《あですがたをんなまひぎぬ》と唄はれた程の濃艶な女だ。父親《てゝおや》の宗岸に伴《つ》れられて戻つた、此の花嫁のお園は、夫半七を思へば舅も實父《ちゝ》も世間もない、心は宛ら半七に向ふ日車草の、紅きに燃えて身も世もあられぬ。然に夫半七は、夙に遊女の三|勝《かつ》と深い契の其中にお通といふ子までなして居たのである。優しいお園は二人の情《じやう》を察して、女一代の身を棄てようと覺悟した。色男半七は無情《つれなく》も、愛する三勝と手を取つて駈落し、お園はあはれ跡に殘つて宛がら若後家の、而も露うらまなんだ(76)彼《か》の『今頃は半七さん何處にどうして……』云々の淨瑠璃をきいて、泣かぬ者はあるまい。
 
     艶色紀の國屋小春
 
我邦心中の標本とも唄はれる、治兵衛と小春は濃い情話は、蜆川が理まらうが、大長寺が壞れようが、その哀詩艶曲は長へに才子佳人の胸に響く。
紀の國屋の小春と、名からして濃艶な女に、紙屋|治兵衛《ぢべゑ》はふさはしい色男役で、家の女房お三の切なやさしい情《なさけ》も、子の可愛《かあい》さも、この小春の艶《ゑん》にとろかす魔力には、世の中の何物をも塵芥《あくた》の如く棄て果てた(77)又た小春とても同樣に、眼中治兵衛の外なく、假《よ》し黄金《こがね》を山と積めばとて、その肉肌一寸の暖味をも他人にかさなんだ。併し是程の小春も治兵衛の女房おさんの涙の手紙を見て、まこと義理につまつたが、さておさんに對する女道《みち》として、我身ばかり殺すはさすがに耐へず、思ひなやんだあげく竟に男と死んだ程熱烈な女性《によしやう》であつた。當時大阪曾根崎の河庄、小春の白い顔と、治兵衛の格子に忍ぶ粹な頬冠《ほかむ》りとは、どうしても大阪此の時代の浮世繪で、大正の今日に芝居の上で觀ても全く、此の両人《ふたり》の姿には醉《よ》はされざるを得ない。
女房おさんと、愛妓小春とに思はれた治兵衛はもこと男の果報者で、然も二女《ふたり》とも治兵衛の情熱に解けて失せた。
 
(78)     八百屋を七
 
世にいぢらしい戀は勘くないが、彼の煩惱菩提所の小姓の吉三郎と、熱烈な戀に落ちて、あはれお七は十六の花の娘盛りを、可惜東海道鈴ケ森の露と消えはてた。愛する男の前には、誰しも眼中何物もないが熱烈の極《きよく》眞個火?《しんこくわえん》を吐いて、將に八百八町を燒盡さんとし身もまた炎々たる煙の中に焚死《ほんし》する、實に本郷八百屋の娘お七の如きは稀である江戸時代の小姓の、、その若衆姿は芝居で觀ても、今日と異つて緑の匂ふ若髷で、男の眼にもまこと惚れ/”\する位であつた。扨も此の美少年小姓吉三と艶麗春の花葩《はなびら》が燃えるやうな緋の振袖のお七と、其の若_(79)い青春の男女《ふたり》が、如何に派手な江戸時代の戀愛を代表して、色彩の絢爛たりしかは、今更想像するに餘りあるではないか。
あゝ此の熱烈の少女お七が、只々一念思ふ吉三に逢ひたいばかりに、大膽にも放火の大罪を犯して、物珍らしい群集の間を裸馬に乘せられ日本橋ら引かれて往つた有樣は果して如何《どんな》にあつたらうか。彼の血なまぐさい鈴ケ森の仕置場も、お七が娘盛りの十六の身を燒いた時は恐くは其紅い凄い火と煙は炎々として、遙か向ふに仄見える安房と上總の山々、此の情熱の?に曇もつたであらう。穴恐ろしや、戀の一念!。
 
(80)     横櫛お富
 
元は江戸深川の藝者で富吉といつたが、流れ/\て上總國は木更津の侠客赤間源左衛門の妾となつて居た。が、ふとした縁で、江戸傳馬町伊豆屋の息子與三郎なる好男子と不義をした。當時與三郎は放蕩のため木更津の藍屋に預けられの身であつた。然るに或時|兩人《ふたり》の密會を源左衛門に見付けられ、お富はすばやく逃れ海に飛び込んで危く助かつたが、色男の與三郎は捕はれて、赤間のために滅多斬にされ、受けた刀創が大小三十四ケ所、これ切られの與三の綽名を得た所以で、俚謠所謂これも誰ゆへお富ゆへ……。
(81)さても其後數年、お富は亦も鎌倉に流れ渡りて、同所|源氏店《げんじだな》の質屋の番頭多左衛門の妾となつて居た處、圖らずも切られの與三と邂逅《めぐりあ》つた當時與三郎は既に昔の若旦那でなく、三十四ケ所の刀創に凄味を見せて、一廉の無頼漢《ならずもの》と墮落して居たのである。そこで兩人共謀散々の狂言を行つた、例の蝙蝠安が飛出す幕は此處なのだ。其中與三は復も事を仕出かして、伊豆の島に流されたが、此與三は元は良家《りやうか》の若旦那たりしに似ず、大膽にも島の牢屋を破りザンブと海に投じて脱走した。お富も與三もよく/\波に縁のある男女《もの》で、そして不思議《ふしぎ》にも命冥加があつて、亦もお富が人の女房となつて居る所へ、與三が例のいなせ姿でヒヲツクリと再會し、爰でも凄い一芝居を演《や》る。(82)あの無雜作に束《つか》ねて、しかも濃い厚い髪に、一寸《ちよ》と置いた黄楊の横櫛顔のくつきり白いお富には一層に仇つぽく。殊にそれが彼の三十四ヶ所の刀痕を帶びた情夫のいなせ姿と對照して、層一層の凄味と意氣を現はした。
 
     鬼神のお松
 
鬼神《きじん》のお松といへば、口は耳までも裂けた鬼面の惡女のように思はれるが、どうして/\艶な美人、元は江戸深川|仲町《なかまち》花村屋の抱へで、松吉といつて評判の藝妓《げいしや》であつた。
然るに爰に不思議なるは、或年の八月十五日月の冴えて明るい晩、松
(83)吉は品川にお客を送つての歸り路《ぢ》、ある蘆の繁つた洲の中で偶然男の髑髏を拾《ひら》つて歸り、それを壺に入れて朝夕念佛供養し、雨の夜雪の宵風寒き晩など其壺を抱《いだ》いて寢た。女の柔かな白い温かな肌に、何の物好きぞ、髑髏をヒタとくひつけて大切にしたには、之れには理由《わけ》のあることで、其髑髏は以前人手に掛つて殺された亡父《ちゝ》のそれであると云ふことを、或夜の夢の告けに固く信じて居たからである。斯る譯は知らずも、花の如き美人の身で、髑髏を抱《だ》いて眠ると云ふ噂が評判となり、花村屋の骸骨藝妓とて、同所七場所切つての流行妓《はやりつこ》となつた。
が、松吉の神經は彼髑髏を得てより稍變態を呈して、后には藝妓を廢
めて逐電し、武州川越で觸然親の敵早川|丈《たけ》五郎に出逢ひ之を討《うつ》てから(84)いよ/\性質一變花顔玉腰の身で、驚くべし奥州笠松峠に籠つて、有名な女盗賊となつた、鬼神《きじん》のお松即ち是れである。
 
     毒婦衣屋お熊
 
富家《ふうか》の令孃と枝豆賣の貧少年、さても縁は異なもの乙なもの。當時東京で名高き衣屋《ころもや》の娘お熊は、毎朝例の艶麗な、誰《たれ》も振返つて目を覺すような赤づくめの娘姿で、本郷は湯島天神の社へお詣りをする度に必ず一人の少年を見た。それは瓜生《うりふ》新一といふ可憐の少年で、それが毎朝|些少《わづか》な枝豆の籠を擔いて境内を賣歩くのであつた。お熊は娘心に深くこのいぢらしき美少年に同情し、始めは折々幾らかの金を惠んでや(85)つたが、後にはわざ/\小石川《こいしがは》指ケ谷町の新一の陋居を訪ねた。そして新一の母に會つて、つく/”\愁をきいて同情の餘り、父から預つた光る小判を惠むだ、此れが抑も新一とお熊が、青春の赤い炎《ほのふ》戀に燃える縁《ゑに》しの始めであつた。
衣屋の家《うち》では、お熊が斯る貧少年の家《いへ》を訪ふといふことを知つて、父親《てゝおや》は大にその大膽を怒つたが、元々娘が貧しき二人の母子を憐れと思つたが事の起りときゝて心も釋け、新一の母親を世話して小石川傳通院のお針に入れ、又悴の新一も坊主にするがよからうと、淨童と名づけて同院の小僧となした。所がこの淨童は天性の美貌の上に辨才《べんさい》もあるより、いつしか巧くお熊を誘ふて深い戀中となつた。然るに其|後《のち》淨(86)童の新一は横着にも昔の恩をも今の情けをも忘れ、根津遊廓の娼妓|紫君《しくん》なるものに熱くなり、其娼妓と駈落して、お熊を振捨てゝ深川で淺蜊賣となつて居たが、偶《ふ》と途中でお熊に見付かり、うらみつらみの揚句、燒木杭に二度の火のつき、二人は人目忍びつ又も交情を續けたが實は其時お熊は既に慶三郎といふ養子|持《もち》で有つた。
其|後《のち》お熊は大膽にも亭主を騙《ごまか》し、新一を手代として我家に引入れ、不義の快樂《けらく》を續けて居たが、尚ほも慊たらず終には鯉汁の中へ毒を入れて、世にも恐るべき夫殺しの大罪《だいざい》を犯し、明治十六年|吾身《わがみ》も亦刑場一片の白露《しらつゆ》と消えた、まことに戀は曲物、淫婦即ち毒婦である。
 
(87)     毒婦高橋お傳
 
東京谷中の墓地の小蔭に、年中紅菊や草花などの絶えぬ、小さな自然石《じねんせき》の墓が在る。これは毒婦として名高い高橋お傳の墓だ。毒婦の墓にいつも香華の絶えぬは、果して誰の物ずきか。世には往々一種かはつた同情者のあるものである。
さても世に恐ろしき毒婦、このお傳の正體は果して如何なるものであつたらうか。斯くなりはてた上からは、毒婦は毒婦に相違はなからうが、彼果して生れついての毒婦であつたであらうか、世に生れながらの不具者はあるが、性來の惡人といふ者は無い筈だ。惡漢毒婦といは(88)れた連中《れんぢう》には、却て世間普通の人々よりは多血多涙のものが多い、お傳の如きも、正に其一|人《にん》であると思ふ。
彼は上州在の生れで、澁皮のむけた眼のすゞしい、鄙に稀なる美人であつた。そこで近郷界隈の若い者にちやほやされた、中に浪之助といふ優男があつて、お傳が十六七歳の頃心を寄せた、この事をかぎつけた若い者どもは此は不埒なり承知ならぬと、野蠻にも或|夜《よ》要撃して二人をさん/”\に擲りつけて、命から/”\の目にあわせたので、お傳は面目《めんもく》なく、浪之助としめし合せて信州の方へ駈落した。斯て頼る人もない旅の空で、一文なしの彼等少年少女は有ゆる辛酸を嘗め盡した殊に元來蒲柳の浪之助であるから、一方《ひとかた》ならぬ世話が燒けたのである(89)やれ醫者よ藥よと、何から何までお傳が手|一《ひとつ》で稼いで貞節を盡した。然かも國を出でゝ七八年目に、大事の浪之助があらうことか、世にも忌はしい癩病に罹つた。こういふ場合には夫を棄《すて》て逃げ出す女は世の中に少なくはないが、お傳は一層不憫の情がいやまして、よその見る目も氣の毒な程親切を盡したのである。
其頃の片田舎の娘であるし、勿論教育などのあらう筈はないし、矢を射る如き誘惑に、彼は賣春的|藝妓《げいしや》となつたが、斯る浮いた稼業の中《うち》にも、浪之助を忘れた日とては一日もなかつた。否、斯る稼業も畢竟は浪之助の爲めで、かくて心ならずも客を取つて、愛する夫に食よ藥よと非常な苦勞をしたが、病氣はます/\進んで男の顔は追々に崩れ、(90)後には紫の無花果みたいに、手足までも紫黒色《しこくしよく》になり、惡臭耐へがたき迄に至つた。さすがのお傳も心の疲れに、いつとはなしに大酒をあふる樣になつた。一夜亂酒の餘、吾身を思ひ浪之助を想ふの極、フト變な氣になりて意《こころ》を鬼に浪之助の死を急がせた、即ち可愛い情夫《をとこ》を毒殺した。これは横濱での事で、滿身腐爛の癩患者であるから、醫者も毒殺とは氣づかす、そこ/\に葬つて事はわけなく濟んだのである。假令瀕死の重病者でも、これを毒殺するは容易な事でない。一旦この大罪《だいざい》を犯す、所謂毒食はゞ皿までと自暴自棄、爰にお傳は狂暴の毒婦と一變した。それからと云ふものは、專ら美貌を種に色仕掛けで、幾多の男を惱まし、果ては細き女の手に鋭き匕首を握持つて、幾多の人(91)を殺した、殊に淺草藏前の丸竹といふ宿の二階で、後藤吉藏といふ男を刺殺した時は、淺草中大騷ぎであつた。積惡の報ひ、む傳は竟に捕はれて死刑になつたが、人氣といふものは妙なもので、旋毛曲りのお太皷叩きの江戸子は、この美毒婦に同情して其葬式を盛んにしたと云ふことである。
 
     箱屋殺し花井お梅
 
東京の場末の辻角、落語の貼片《はりびら》に、醉月樓新うきよ節と書れるのは、これぞ當年の箱屋殺し花井お梅の今の藝人生活なんである。
花井お梅の前半生の華やかさ、殊に彼が血の悲愴史を知る者は、此街(92)頭の醉月樓の名に一種の哀趣と、浮世節の紅文字に奇な情懷を湧かすだらう。
元柳橋の藝妓たりし彼女《かれ》は箱屋殺し以來《このかた》頗る世間に凄い名を唄はれた牢から出た時分の彼女は、黒縮緬の意氣な姿の後《あと》に人が跟いて、その窶れた美貌を袖に掩ひ/\歩いた。
其|後《のち》お梅は女優ともなつて諸國を漂浪し、專ら自分の經歴を實地に演じた。
大川端の活劇の一夜は知らぬ。お梅が柳橋藝妓で、意地と情の女で在つたのは慥かだ、彼の實話を聞けば頗る同情に値するものがある。隨て彼の昨今《さくこん》、吾人は一種悲哀の感に耐へぬ。
 
(93)     勤王花魁瀧本
 
彼《かの》萬延元年櫻田門外に井伊大老を要撃して、雪を血の櫻にした水戸の浪士の其中に關鐵之助といふ艶福家があつた。即ち江戸吉原谷本屋抱への遊女瀧本といふに馴染を重ねた末、かねて受出して掌中《てのうち》の珠として居たのであつた。
然も落花紛粉雪紛紛、櫻田義擧の後、關は思ふ所あつて、血染の刀の※[木+覇]先《つかさき》に白き越路の雪を分けて※[しんにょう+官]《のが》れた。そこで家に殘つた女房の瀧本は幕府に召捕へられて、關の在所を嚴重に訊ねられたが、彼女は知らぬ存ぜぬで通すは愚か、やさしい朱唇より勤王攘夷の慷慨熱を吹いたの(94)で、此奴《こいつ》生意氣と重い石の拷問に掛けたから、白い柔かい肌は裂け、血は五月《さつき》の花の如《やう》になるも、凛然として二たび口を開かないので、止なく牢預けと成つた。かくて其後關が捕はれ首を千|住《ぢゆう》に梟せられた時烈女瀧本も殺された、年僅に二十一。
 
     岩龜樓龜遊
 
露をだにいとふ大和の女郎花|龜遊《きいう》は、太田正庵なる町醫の娘であつたが、江戸|皆川町《みなかはちやう》の家はかの安政の大地震《おほぢしん》に潰れて、家道の衰へた結果|彼女《かれ》は未《ま》だいたいけな蕾の十一で、親の爲め吉原江戸|町《ちやう》甲子屋《きのへねや》に身を賣られ、十五の春に源氏名を子の日と呼んで突出されたであつたが、(95)後に横濱の岩龜樓《がんきろう》に買はれた。かくて彼女《かれ》が天性の美貌と技藝の才は客を喚んで、同樓第一の全盛となつた。所が偶々《やま/\》横濱來泊中の米人イルースなる者、龜遊の美貌にあこがれ樓主に掛合つた、樓主は慾に眼がくらんで、龜遊の辭むに拘はらず、二百金で一|夜《や》妻たることを承知した。
されど飽まで氣象の凛々しき龜遊の、いかで當時怨敵同樣の碧眼に肌身をけがそうや、固く樓主の命を拒んで其當日の曉、怨は深し岩龜樓|上|《じやう》花魁の輝やいた金屏の中《うち》は血汐の海となつた、言はずと知れた彼女《かれ》が自害を爲たのである。その殘した書置は死ぬる身の悲哀をしるすよりも、却つて男子をして奮起せしむる底のしつかりした血書であつた(96)先づ世間の苦海に浮沈みする女は幾萬千と數知らぬが、悉く女の第一の寶たる操|肌《はだ》をあだし男に許す、これも両親《ふたおや》や家の爲ならばぜひも無いが、あゝ誠に黄金《こがね》は女の身を切る刃である。此の我なきがらを今宵の客に見せよ、そして賤しき浮れ女《め》でも日本の人は斯くぞと示めせと記し。その末に
   露をだにいとふ大和の女郎花
        ふるあめりかに袖はぬらさじ
の一首を添へて有つた。黄金《わうごん》と魂を引換《ひきが》へにする當世の人々、知らず此の賤《しづ》の女《め》に對して耻づるなきや。
 
(97)     木戸夫人菊松
 
世は苅菰と亂れにし幕末の京都は、花の晨霞の夕《ゆふべ》も中々に物騷であつたと共に、又各地より湊《つど》ひ來る志士浪人に一種の賑ひを添へ、勤王佐幕両黨の面々の差す大小刀《だいせうたう》の光りは、東山の櫻にもまして花やかであつた。殊に此間に祇園|町《まち》の艶な藝子舞子の袖と長い袂が翻つて、柔かい濃い色彩を加へた。
時に長州の志士桂小五郎は、勤王倒幕黨中一の策士たり手腕家たり領袖たるだけ、最も幕府の憎むところとなり、當時幕府の爪牙たりし彼《かの》近藤|勇《いさむ》一派の新撰組に附狙はれ、屡々襲撃又逮捕されんとして幾度《いくたび》(98)か九死に一生を得たのは、かねて情交を結べる藝妓《げいこ》菊松が、桂を情人《じやうじん》としてよりも、寧ろ國家《こくか》の小五郎として身を顧みず彼を隱匿《かくま》ふたからである。
菰を被つて四條の橋下《はしゝた》に、桂が非人姿となつて忍び居た折、そと握り飯を落して誠を運んだ菊松の赤い情熱には、磧の礫《こいし》もさぞや火照しなるべく。鴨川に千鳥啼く春寒《はるさむ》の朝《あした》、風雨《かぜあめ》の夕《ゆふべ》、千々に心を勞して天下の志士を思ふた美妓の情こそ、かの物騷な流血時代を飾つた緋の花だつた。
かくて其|後《のち》明治の世となり、桂は維新三傑の一|人《にん》として聲望隆々、名も木戸孝允と改め、參議の重任を拜して廟堂に立つや、當年の藝妓《げいこ》菊(99)松は木戸夫人として琴瑟《きんひつ》和合、更に最も貞淑の譽れ高かつた。
 
     桂の寵妾お鯉
 
同じ桂は桂でも、前記小五郎桂と今の太郎桂とは、月の桂と役者の鬘《かづら》の差がある。それと同じく小五郎の情婦菊松と太郎の寵妾《おもひもの》お鯉とも、一は清高雪中の松の如く、一は野卑路傍の女郎花に似たり。又一は國家の爲めには白刃の中《うち》にも泰然とし、一は日比谷の燒打に潜上にも憲兵巡査に護衛せられて恬然たり。又一は幕吏の眼を忍んで非人姿の志士に握飯を運び、一は旦那の眼を竊んで川原乞食に据膳をする。されど太郎の眼からは、昔しの句當内侍《かうたうないじ》も靜御前もものかは、宮中入り以(100)來世間一層の攻撃に四面楚歌の中《うち》にビク/\しながらも、虞兮虞兮奈若何せんと、諒闇の暗夜《やみ》にもしるき自働車の響、麻布山元町の高臺なる妾宅通ひ、三日と逢はずは克う過さぬまでに魅せる處、お鯉の魔力は天下一品!。あゝ幾多の元老を手の中《うち》に丸め、幾百の政客《せいかく》を頤で操縱する、さすがの才槌頭否|大正《だいしやう》の大忠臣内府の君も、まこと色は思案の外《ほか》である。
お鯉本名安藤てる、曾て情夫|羽左《うざ》との中を感附《がんづ》かれ、一時は品川の邊《あたり》へさすらゐの身となつたが、其|後《ご》再び歸參叶ふて、前記山元町の高臺杉林に沿へる門内二本の見越しの松亭々たる家に圍はれ、下女五人をつかひ、近比あまり外出せず、觀世流の謠を唯《ゐ》一の娯樂《たのしみ》とし、天晴れ(101)忠臣内府の寵妾たるに耻ぢざるやう謹愼して居るとのことである。
 
     世話女房ぽんた
 
今から十年餘り前、東京の寫眞屋の店頭《みせさき》、誰が眼にも留つた美人の寫眞は、まこと花の如《よう》な藝妓《げいしや》ぽんたで在つた。
蕾の頃の房簪し可憐な半玉《はんぎよく》のも、美人ぽんたの寫眞は、其頃評判のおゑんとの一緒に、東京の殆んど何處にでも見た。瓜核の豐頬の片靨はあの石版摺までが婉麗に光つてゐた。
ぽんたは士族の娘で、紅燈緑酒の間に在ても何となく上品で、そして殊に愛嬌よしであつた。彼女一旦鹿島清兵衛の掌中の珠となる、翌日(102)から實質の華やかで有つた若い花嫁の月日、爾來處世難の寒い影さす今日でも、さすがに世帶《せたい》の苦勞は有つても、愛は少しも渝りはない。否、今日本郷鹿島家の臺所に於ける世話女房|鉞子《えつこ》の、鬢の少し亂れた容姿は、寧ろ東京の隅々にまで輝いた當年の寫眞よりは、一倍床しく藝妓上りに似合はぬ其貞女振りが奇蹟の樣に匂ふて、紅より出でゝ紅より更に赤いぽんたの、誠には、誰《たれ》しも感涙を流さぬはない。
 
     蓮葉藝妓照葉
 
行末が思》ひやられるの、何うのと、大層の凄腕のやうに世間では云はれるけれど、儂《わたし》ぢやとて、若い血の湧く女ぢやもの、戀もあれば、惚(103)れた腫れたの夢もある。畢竟《つまり》儂は一|隨者《ずゐもの》なのネ、一旦斯うと思つたら他《ほか》の人達《ひとだち》のやうにクヨ/\してることは出來ないので、ツイ思ひ切つた事もやる、それを手だとか腕だとか、世間が勝手にエラクするといふものよ。併しマアよく東京へ替た事よ、大阪で居たなら、蓮葉《はすぱ》だの、肌合が可かんのと、彼是云はれる所を、自分の口から云ふと自惚のやうだけれど、老松さんや榮龍《えいりやう》さんを追越して、今では何といふても、儂の時代になつて了つたから妙なものだよ。……とは蓋し彼《かの》照葉《てるは》昨今の胸の中《うち》。
 
(104)     女優かつら
 
今日の女優の西ぶりの?美と異ひ、十年|前《ぜん》の東京の女優には尚ほ舊日本風の、濃い嬌致と艶情があつた。
三崎座が九女《くめ》八を座頭として全盛の頃、若い花形の一女優に桂といふのが居た。いかにも其容姿が若木の桂の匂ひ、其聲の調子が美しく冴えて居た。
あの緞帳の三崎座の小芝居に、此のかつらの出た時は、身背《せい》は小作りだつたが面影の美と、天性の嬌聲とが合致《がふち》して、小暗い舞臺面を眞個《ほんと》に光らせた。
(105)彼女《かれ》は重に若い立役に扮したが、其の小性《こしやう》などを勤めると、濃艶露|滴《した》たらん許り、實に見物の女客《をんなぎやく》までが恍惚と醉はされた。優美な若侍や義經やは最も得意の藝であつて、あの清《すゞ》しい眼の張と聲の冴えた調子とが何とも云へぬ妙があるツて、明治二十八九年|頃《ごろ》の神田の學生は立見場の鐵棒《かなばう》に倚覗いて、皆この女優かつらの美に隨喜したものだ。が、新女優に壓倒せられて三崎町の凋落と共に、今ま彼《かれ》かつらは何處にどうして居るやら、女藝術家の末路は、多く哀れはかなきものである。
 
(106)     女團洲久女八
 
同じ女也、同じく人間也。單に一は若くして、一は寄る年波である。彼は廂髪で此れは櫛卷である、要するに此の相違也。併し此の相違が恐ろしき也。斯くて舊い女役者は漸々に、時代の波に洗ひ去られんとする。その最後を飾りたる女團洲|九女《くめ》八、折柄の秋風《しうふう》を如何に感ずる。されど彼女《かれ》さすがに名優なり。其の曰くに『お芝居と申すものは、型を知つてゐて、そして其の型通りにやらないのに、妙味があるのです』と。實に詩でも、文章でも其の通りである。
彼女《かれ》また曰く『一時の人氣にまかせて、直《すぐ》に絹座蒲團に座つたり、自(107)用車《じようぐるま》で樂屋入りをなさるやうな事では、迚名優にはなれません』と。これ又慥に名言、そんじよそこらに、嘸かし耳の痛い人が多からう。
 
     女義太夫豐竹呂昇
 
名古屋市|上宿町《かみやどちやう》の産で、本名《ほんみやう》永田仲子。明治七年生れと云ふが、果しでどうだか。其《そ》は兎に角、艶麗豐富な獨得の美聲を以て、明晰なる語口をなし、人に徹底的感興を與ふるもの、實に彼《かれ》呂昇《ろしやう》である。
殊に彼《か》の仙臺萩は呂昇の自ら誇りとする大得意ものと云ふ。聽かぬ人は、新口《にのくち》野崎《のざき》、さては朝顔日記など、女淨瑠璃は矢張女性の潤ひが十分行き渡る色物《いろもの》こそと思ふが、さて呂昇の仙臺萩、聽てみれば成程天(108)下一品たるに負かぬ。蓋し彼女《かれ》の聲量は豐かである、別に大きな聲を出さうといふ、わざとらしい處がなくて、自然に流れて出で、其聲に響があつて、其響が普通の女性に有り勝ちの黄色つぽいといふ病的な處が少しもない。
其れで仙臺萩の「こちのちさの木に雀が三匹とまつて……」「七ツの歳から金山《かなやま》に……」などのメロデアスの處になると、其れが既に音樂者《おんがくしや》の聲調になる。即ち呂昇の聲は大きくして強く、それで婦人の優味を《やさしみ》を失はぬ處に妙がある。
女淨瑠璃で天下に雄を稱してゐる者に竹本|小清《こせい》がある、仙臺萩などは實《じつ》小清には持て來いである。が、小清が語ると、男まさりの政岡が餘(109)り女丈夫《ぢよぢやうぶ》に見えすぎて、婦人の情の潤ひが稍缺けてゐるやうに思はれる、併し素生いやしき銀兵衛の女房はいかにも惡々しく見える、之れは小清が男性的な處から生れた特長である。
呂昇のは、政岡が小清の語るやうに意志の強い女丈夫を現出せぬか知れぬが、したゞるやうな愛情を忠義》の衣につゝむのだ、男々しいうちにも流石女のやさしい政岡が現前する、かくて母子《おやこ》の愛情に思はず人を泣かしむる處、やはり呂昇は日本一である。
 
     女魔術師天勝孃
 
天勝孃《てんかつぢやう》、堂々五百圓の賞を懸けて手品の種の發見を求めながら、發見(110)されたる後《あと》に於て、鬼や角と言辭《ことば》を左右にして其支拂を爲さゞる爲め竟に訴訟沙汰になつたとは、女は矢張女だけの智慧しかないものと見ゆ。こゝらが腹の賣場にて、五百圓の金で、何十倍した人氣を?得《かちう》べき呼吸の存《ぞん》するを知らぬが、一文吝みの百損とは是れでがなあらう。
 
     女宰相下田歌于
 
明治才媛の隨一と立てられ、女流教育家の白眉として、久しく上流社會子女教養の任に當り、從三位を辱ふした下田《しもた》歌子女史は美濃岩村藩士平尾|?藏《じうざう》の女《むすめ》で有名なる東條琴臺の孫に當り、系圖は楠家《くすのき》から出たさうな。幼名《えうめい》をせきと稱へ、十歳の頃既に和歌を詠じたほどの才女(111)で且美人であつた。その十五歳の作に左《さ》の如き名吟がある。
   手枕は花の吹雪に埋もれて
        轉寢《うたゝね》寒し春の夜の月
女史が宮内省に召出されたのは、全くこの詠があつたからだと傳へられて居る。宮中に出仕しては深く今の皇太后陛下の御寵遇を辱ふし、遂に有難くも歌子といふ名を賜はつた。二十四歳にして宮内省を辭し下田猛雄といふ人に嫁した、猛雄は劍道に達した豪放濶達の士で、才華爛漫たる女史と性行能く一致し琴瑟《きんひつ》相和したが、不幸明治十五年猛雄は病に罹て簀《さく》を易へた。それより女史は專ら身を女子教育に委ね、彼華族女學校は、實に彼《かれ》が搖籃の裡より護《も》り立てた娘子《ぢようし》であつた。(112)然かも爾來三十有餘年の寡居生活に、秦雲楚雨、女史の周圍を圍繞《ゐぜう》し女史が暮夜曉旦の行止に、屡々世人の疑惑を招き、或は藤公《とうこう》と何うだつたとか、其伯と何うのと、紛々世間批評の的となりしも、曾て辯疏の勞を執つたことが無い。神經質は婦人の常情であるに、彼は世上の毀譽を多く頓着しなかつた。彼に果して秘密ありや否や、女史以外には何人《なんびと》も知るものは無いから、世評或は信ずべく、或は信ずべからずである。
蓋し彼女《かれ》が其行動の往々權略的なると、其の色つぽい容子は、吾人亦甚だ好感を持たぬが、さりとて天下の才女――殊に現代女流教育者中特に一頭地を抽いたエラ者たるは、拒むべからざる事實である。
(113)故伊藤公曾て評すらく、下田歌子にして男子たらば、一國の宰相たるべしと、是れ必ずしも惚れた慾目ではあるまい。元來女史は圓轉|滑脱《こつだつ》の妙性を備へ、女性的感情の表情《びやうじやう》に富み、辭令に長じたる能辯家である。併し女史は公開席上の辯舌よりも、差向ひ的應對に巧みなる者である。
即ち深秘的妖術の施否《しひ》如何は知らず、而も兎に角色つぽい容子で、堂々たる有髯男子をコロリと手の中に丸め込むに妙を得たるは、爭はれぬ事實で從來|彼女《かれ》の、魔力に魅せられ、其手玉に取られた朝野の名士は尠くない。
今爰に憚りなき一例を擧ぐれば、彼の犬養木堂《いぬがひぼくどう》は人も知る通り、未だ(114)曾て人に讃辭を呈した事のない男である。然るに女史が彼實踐|女學校《ぢよがくかう》を設立せんとするに當り、其賛助を得んが爲めに木堂の邸を訪ふた、秋霜秋水の如き天下の名士と、春風春雨の如き天下の妖婦勝敗果して如何、まことに絶好の對照であつた。女子は茲ぞと許りに婉微の言語玲瓏の音調もて、泣くが如く訴ふるが如く、獨得の秘術を傾け盡して説き付けた、之れには流石秋水の如き木堂も遂に降伏したと見え、爾來木堂人に會つて女史を激稱すること甚だしく、實踐女學校の卒業式には、毎年《まいねん》行つて女史の頌徳演説をやるさうである、以て如何に女史の伎倆の非凡なるかを知るべしである。
然し故乃木大將の學習院長となるや、故伊藤公によつて推薦された女(115)子學監の職も、遂に其の化の皮と共に剥れた。流石女史の妖術も、旅順の堅壘を陷いれた將軍の實直堅忍には、何等の用をも爲し得ず、無尾《むび》の妲姫も、竟に將軍の爲めに、妖態を現はして遁竄した。
然し其の去るに臨み、全校女生を一堂に集めて、悲絶痛絶の告別演説をやつて、其の悉くを歔欷流涕せしめたなども、彼が如何に人心を收攬してゐたかゞ分る。尤も堂々たる有髯兒をコロリと參らせる彼女《かれ》としては、世なれぬ令孃連《れいぢやうたち》を取込むなどは朝飯前の事ではあるが。彼女《かれ》が現今主宰する澁谷實踐女學校からは、支那の革命に斷頭臺の露と消えた秋瑾女《しうきんぢよ》が出た。
兎に角女子は傑物である。五十路《いそぢ》の坂を越ゆる六七の老嫗の、普通《あたりまへ》な(116)らば切髪姿で只後世大事といふ所を、尚ほ女子教育の爲に東奔西走日も惟足らざる有樣で、其の色白く膏ぎつたる若々しい容貌は、如何にも精力の絶倫を示して、今に水々と氣も若ければ、元氣もある。
要するに、幾多の疑惑《ぎかく》に圍繞《ゐぜう》されつゝも、女史は確に明治時代を飾るべき一個の花であつた。花には痴蝶來り、虹蜂《はうばう》集まるが、それは决して花の罪でない、其の之あるが爲めに直ちに花の眞價を没却するは酷である。
 
     女詩人與謝野晶子
 
昨夏《さくか》夫鐵幹の後を追ふて渡歐した(但前月歸朝)彼の與謝野晶子が巴里《パリー》(117)滯在中の評判は實に素破らしいものであつた。即ち同地某雜誌上に於ける晶子論の如き、其の額田女王《ぬかたのによわう》、小野小町、紫式部、清少納言などを引合に出して、盛んに其詩才を頌《たゞ》ゆるはまだしも、觀世音の再來と極言するに至つては、面皮《めんぴ》のあまり薄からぬ晶子女史自身も、正に冷汗三|斗《ど》なるべし。二十世紀の觀世音は、三十振袖のお化のやうな風俗とは、聊か恐れ入らざるを得ないが、女權論者の主領を以て目せられ其の短歌の頻りに佛譯せられて持てる處、彼女も亦我邦現代女流中の一名物である。
 
(118)     富田屋八千代
 
先頃中之島の銀水で開かれた、内海《うちみ》輝邦の畫會は、八千代の席上揮毫で、一入の光彩を添へたさうだ。ドコへ廻つても、女といふものは徳なものだが、そのまた呼吸を呑込んで、いかにも巧に立廻つて世人の記臆を新にしてゆく八千代は、何といふ悧怜《りこう》な女だらう。
彼女《かれ》が、あの輪廓のよき容貌《かほ》、又|藝妓《げいぎ》としての氣品、今更|賛《ほ》むるは寧ろ野暮。其の聲名の嘖々たる决して偶然でないが、併し彼の今日あるのは、只單に其の美貌と技藝の優れるが爲めではない、其の才氣と社交術とが、ヨリ以上に與つて力あるのである。
(119)然しこの繪筆問題である。好きで稽古するのに對して、他人が兎や角云ふべき限りではないが、席上揮毫をやるといツたやうな、大膽な振舞をするに至つては、吾人は一|言《げん》を呈せざるを得ない。即ち慧《かしこ》い彼女《かれ》としては、少しく人の煽《おだ》てに乘過ぎてゐはしまいか、ちと調子づき過てはゐまいか、何《なに》にしても生意氣といふ誹は免《のが》れぬと思ふ。尤もこんな理屈の分らない彼女《かれ》ではない、が、なまじ才氣が勝すぎて、そこを巧に逆用して、人氣を新しうしようとする、所謂|凝《こ》つては思案に能はぬ所から來た現象か。
但し輝邦の畫會に於ける、人氣の樣子から見ると、彼女の考へは正しく適中して、愈以て八千代は流石にヱライ女だといふことになつてゐる(120)から、強ち非難するにも及ばんが、神聖な藝術を道樂や商略に使ふといふことは、大に考へものである。
とはいへ、白襟黒紋付に、束髪の髪は綺麗に、ほつれ毛一つ亂れないで、しとやかに素絹《しろぎぬ》に對つて繪筆を甞むる優にして婉なる風姿には、吾人も聊か恍惚たらざるを得なかつた。
                               、
    川上貞奴
 
山芋《やまのいも》化して鰻となり、蛤化して雀となる。オツペケペーの新俳となり、新俳の更に興行師となる、必ずしも不思議はないが、實際渠|川音《かはおと》は俳優としても大根であつたのである、然かも渠をして兎に角アレ迄(121)に成功せしめたのは、半ば以上マダム貞奴の力である。渠貞奴の男勝りなる、殊に其の社交術のうまき、若し彼にして多少の學問あり、地位あらしめたならば、下田《しもだ》歌子たらざるまでも、慥に鳩山春子たり、山脇房子たるべかりしに。
さても其後、川上の川の流れと身の行末を思ひ惱んで結ぼれた、心の
下釦の何うほぐれてか、西王母ならぬ一口桃に頬《ほ》を燒いて、飛んだ浮名に、世間の同情の滅切り薄らぎ、各地追善興行の人氣にも障りしものから、さすが勝氣な彼貞奴も、近頃聊か苦悶の其胸中を察せば斯うもあらうか。
 ホントに女といふものは、蒼蠅《うるさ》いものだよ、それも後家となると、(122)また一層うるさいものネ。人樣が親切に仰やつて下さるのさ、されをウツカリ聞いてゐると、そこに可異しい意味が含まれてゐるのだし、此方が何《なん》とも思はずにお交際《つきあい》をしてゐても、世間が何とか彼とか岡燒をするし、蒼蠅いツてあつたもんぢやないわ。さて桃から生れた災難は何うでもいゝとして、一体これから先、何うやツてゐたらいゝかしら、白粉の含む鉛氣の、早冷たく身に染む年、止したい女優は纒《まつ》はる義理に止しも成らず、これまでに賣つた名前も惜しいからネ……………………。
 
(123)     新女優森律子
 
何が夫れ程珍らしくも豪《えら》くもなき、ホンの詰らぬものながら、何彼《なにか》と噂の種となる帝劇の女優達が待合の四疊半裡、夫れこそ眞個《ほんと》に人生に觸れたる藝術を表し、舌嘗めづりしてしつぽりと、濡手で粟を?み取る御寶の相場が一期生は總て三十圓とは、何れだけ凄い歡樂があるのかは知らねど、吾人は米價の高さよりも、その高きに驚くも、好者《すきしや》は寧ろ尚ほこれを廉として珍重がる。さりとては不見轉は氣の毒なもの尚ほ夫れより更に懲役の苦しみを見る盗賊《どろぼう》は考へれば甚だ割にを合はぬ商賣である、呵々。
(124)さるが中にも、嘘か實か、特《ひと》り律子の君だけは、阿父樣《おとうさん》の體面上貴族でなければ、神秘なる技術の極致は發揮し給はぬとやら…………。流石に當年自由黨中|錚々《せう/\》の志士たり前代議なる森長髪君の令孃と、賞るもあれば、くさすもある、人さま/”\の女優生活、彼女《かれ》は寧ろ正直に其胸中をさらけだして
 ヤレ徳川家の若樣と何《どう》の、某富豪と斯うのと、いろ/\ケチをつける人があるけれど、帝劇の人氣は、一体誰れが背負つてるのか、チツトは考へて貰ひたいものよ。自分の口から斯ういふと自惚のやうだけれど、松山の同郷文藝會で、皆さんから舞の一手を所望されて眞つ赤になつた私《わたくし》が、今日では律子々々《りつこ/\》と喧ましく言はれるやうに(125)なつたんだから、運命といふものは分らないのネ。だが、世間はボンクラなもので、千葉さんの家《うち》で、日出子さんと牛飲馬食して、色消しの大騷ぎをやつた一幕を忘れて了つて、律子は可憐だ、上品だ情があるなんテ、買被つてゐるんだからネ、男ほど馬鹿なものは莫い。所が、今度大阪で募集した女優志願者の中には、大した美くしい、身分も教育もある方があるさうだから、私も油斷はしてをれんといふものよ。
と。紅ゐの舌ペロリ、扨も神々しや。
 
(126)     淫婦柴田環子
 
若柳燕孃《わかやぎえんぢやう》の舐《しやぶ》り涸しを有難く頂戴して、菩薩の眦《まなじり》愈々垂れたりとか。扨て環子《たまきこ》こと柴田招請女史には、又も新嘉坡へ高飛びの離れ業。それでも世間は人が善く、天才は天才、助平は助平、歌で餓《かつ》ゑは治りやせぬ、アヽこりや/\御尤と、女史の藝術を惜む事、遣手婆アが二十錢銀貨落したよりも甚だしく、足を爪立て憧れといふを振廻すを見ては、女優諸孃も氣が強かるべく、藝あへ出來れば、三期生になつて了はうが、舞臺で父無し兒を生まうが、皆是れ社會の罪で、藝術と氏子中《うじこちう》とは無論没交渉である。社會が原告で誣告を訴へた談《はなし》も聞かぬ。さ(127)ればこそ、出るわ/\、囚はれざる本能生活を恣まゝにしようとする新しき女が續々と。
 
     原信子
 
上海へ駈落したの、日本の女が、第一支那で獨唱なんかやつて嬉しがつでゐる氣が知れんなどと、藝術の趣味を解せない人は、言ひたいまゝの惡口を言ふけれど、何うですこの人氣は……  。柴田環の第二世ぢやとか、環以上ぢやとか、皆さんが喧ましく吹聽して下さるぢや莫いか。何《なん》しろ私の伊太利歌《いたりーか》といつたら、本場の西洋人が感心してゐるのだから、エラいものよ。マア見てゝこらん、今《い》んまに日本の音樂(128)家《か》は、私の脚下《きやつか》に伏させて見るんだからネ………………。とは信子近頃の奇?で、さすが新ししき女一方の猛將である。
 
     咄!  新らしき女!
         厄介なる女!
 
女優熱の旺盛は、こゝいよ/\新らしき女の出るわ/\。虚榮に憧がるゝは、婦人の弱點とはいへ、良家《れうか》の女《ぢよ》にして、女優を志願するが如きは、新しさを通り越して、殆んど狂氣の沙汰。さても女の半可ほど厄介なる物はあるまい。
厄介といへば、彼《か》の青鞜社の女《をんな》ゴロ共程厄介な代物はあるまい。一週年紀念會を開き、女だてら吉原通ひの話がハヅみ、わたしが買つてや(129)つたので、其の華魁が非常に人氣が出ましたなどゝ、耻かし氣もなく自慢比べをしたとは、呆れて物が言へぬ。こんな娘をもつた親、知らず、どんな顔をして居る?
それは極端とするも、近時不良少年の多きを加ふる一面、不良少女もまた益々多くなり行《い》くは、まことに歎かはしい現象である。不良少年は、まだしも矯正の見込もあれど、女だてら横道に踏迷つた連中と來ては溝《どぶ》へ捨てるより外に道がない。年頃の娘をもつた親は、須《すべから》く警戒が肝要である。
 
美人艶婦傳 了
 
   大正元年十一月二十日印刷
大正元年十−月廿五日發行
   著者 粹法師
大阪市東區南久寶寺町一丁目十一番地
   發行者 勝永徳太郎
大阪市西區江戸堀上通二丁目百十二番屋敷
   印刷者 矢尾彌一郎
   發行元 松雲堂
大阪市東區南久寶寺町一丁目十一番地
   發賣元 尚文舘
〔2018年5月10(木)午後9時5分、入力終了〕