若山牧水全集第一巻、雄鷄社、490頁、600円、1958.5.1
 
(1)目次
歌集以前 二五〇首……………………………………三
海の聲 四七五首………………………………………三五
獨り歌へる 五五一首…………………………………八五
  上の卷………………………………………………九三
  下の卷……………………………………………一一一
別離 一〇〇四首……………………………………一四七
  上卷………………………………………………一五一
(2)  下卷……………………………………………一八九
路上 四八三首………………………………………二四五
死か藝術か 三八八首………………………………二九五
  手術刀……………………………………………三〇一
  落葉と自殺………………………………………三〇八
  かなしき岬………………………………………三二二
みなかみ 五〇六首…………………………………三三九
  故郷………………………………………………三四九
  黒薔薇……………………………………………三六二
(3)  父の死後………………………………………三七一
  海及び船室………………………………………三七七
  醉樵歌………………………………………………三八九
秋風の歌 三七七首……………………………………三九七
  夏の日の苦惱………………………………………四〇一
  秋日小情……………………………………………四〇八
  秋風の歌……………………………………………四一三
  病院に入りたし……………………………………四一八
  秋風の海及び燈臺…………………………………四二二
  夜の歌………………………………………………四三〇
  さびしき周圍………………………………………四三三
(4)砂丘 二四八首………………………………………四四一
  山の雲………………………………………………四四五
  三浦半島……………………………………………四五三
  曇日…………………………………………………四五九
  ふるさと……………………………………………四七一
 
解説…大悟法利雄…四七七
 
 第一卷 短歌 一
 
 歌集以前
 
(5)延岡中學校友會雜誌より
 
      早春懷梅
 梅の花今や吹くらん我庵の柴の戸あたり鶯の鳴く
      奢美をいましむ
 身に纏ふ綾や錦はちりひぢや蓮の葉の上の露も玉哉
      陰徳家
 かくれたる徳を行ひ顯れぬ人は深山の櫻なりけり
                 ――明治三十四年二月十七日發行
 
(6)『日州獨立新聞』より
 
       青葉若葉
 海にあびて歸る松原末遠く青葉若葉に白雨《ゆふだち》のふる(都農にありける頃)
 行き暮れてむしろを夜具の炭小屋に炭の枕よ啼く時鳥
 雨はれし山のみ堂の丸窓に青葉さゆらぎ時鳥なく
 天しのぎしのぎ聳つ青葉山青葉に白し一すぢの瀧(窓前の景を詠める)
 白鳩の鎭守の森に啼きたちて青葉幾重の明方の雨
 藥かみて旅に杜鵑の音を聞きぬ若葉をぐらき橘の雨
 清水湧く山路なかばの松かげに荷馬車の旗のひるがへる見ゆ
 岩にはうて晝顔花の紅くさきぬ眞清水わける嶺の松かげ
(7) 青葉若葉風にさゆらぎ月は出でぬ松の古きに庭の青きに
                       明治三十五年八月十二日
 
       野の草
 野のあした靄のうすぎぬ露の薫り唄聲さえて夜はあけわたる(草童の歌へる)
 野や十里朝日子いでぬ籠はみちぬ草はみどりに靄むらさきに(同じく)
 新月のしたたり落つる雫かも夜風に青く螢みだるる
 露にさめて朝のまどひのさりげなく野面をちこちの白百合の花
 都より訪ひ來し友と山茶のみて歌とく窓にほととぎすなく(【延岡より江雨秋檐兄の訪はれし折】)
 朝餉たく水汲み居れば野の谷に野ゆりの花のほろほろとちる
 峯にねて雲に下界は見えずなりぬただ親しきは星のまたたき(尾鈴に夜泊して)
 咲きほこる萩の花蔭ござしきて石像きぎむ年若き人
(8) 吾れとわが城をやかむのたゆたひに北斗七星かげうすうなりぬ(青史を讀みける折)
 燭たてて蘭麝たきこむくはがたのかぶとの星に紅葉ちりくる
                       ――同八月十七日
 
       はつ秋
 峰をこえ野こえとわたる雁のみえて山月たかしあかつきの風
 つるぎきて數百の騎兵すぎゆきぬ夕月あはき萩多き野を
 幾むれか花野をよぎる繪日傘に日かげうららの秋まつりかな
 芭煮葉のやればに秋の雨さむう死せしか蛸牛うごかずなりぬ
 門につづく西幾町の楢ばやし落葉ざわ/\秋の日あかし
 露しげき花のこみちわけて行く君がかげあはき朝月夜かな
 かざしみる墨染そでのわかいかな黄菊にそそぐたそがれの雨
(9) 村長のいたつきいよよおもりゆく十戸のむらの秋の雨しづか
 花野三里よひ月いでぬ露も置きぬ家路たのしく錦きる旅
 紫の手綱にあけの直衣つけし若きちごゆく月の花野路
                       ――同九月四日
 
       つゆ草
 蘭燈のほかげうするる小庭さき桔梗にそそぐ雨なやましき
 幾たびか寢ざめあやしき山の宿の固き枕に秋の雨きく(【神門あたりをさまよひける頃】)
 立ちいでし野寺は遠く霧に消えてすすき三里をあかつきの風
 君はいまいづこあたりや片われの月かげあはき峰の朝霧
 鞭うてどあがきすすまぬやせ馬のたてがみなでて暮の雁きく
 かざしみる小手いまさらのわななきや國たち出づる明方の月
(10) 明方の月のうすきに我れたてばわれうつつなの朝顔の花
 枝折戸を右にはるかや秋の水野をよこぎりて森をめぐりて
 絲車たえてつづきてまたやみて萩の小まどに秋の日ながき
 み佛を噛めるねずみの音高く山のあれ寺秋の雨ふる
                       ――同九月十八日
 
       秋かぜ
 送り來し遺骨抱きて淵にたつ底ひに君が笑《ゑみ》うかまずや
 拔きつれて舞ひしはいつの秋なりし君はやあらぬ刀のさびよ
 友君のうせ給ひにし其日より釋迦のみ像のなつかしき哉
 さらばとてさしうつむきてとりし手のきても冷えたり森の下道
 別れ來て土橋に立てば雁がねの頭かすめてなかですぎゆく
(11) 野の未の一つ家守に秋老いぬ家鴨のむれのまだ歸り來ぬ
 紫の豐旗雲のたなぴきに朝の思ひの行へ知らずも
 賣らるべく市にひかるる馬の子の今日の嘶きなどかくひくき
 獨りねの秋の深山の旅やかた木枕さむく秋の雨きく
 白つゆに裾のむらさきうるほひぬ蟲に迷へる月の花野路
                       ――同十月二十四日
 
       白菊(一)
 わがたまのうつりにける曉の夢のゆくへは白菊にとへ
 ふる城の影をひたせる湖に鷓鴣とぶ見えて秋の日うすし
 ゆく雲におもひの添はで今日も暮れぬ病みて雁きく里の秋雨
 紅ときて白菊にぬる若き子よ秋の女神の怒にふれな
(12) 燭けしておばしま近くたちよれば北斗さえざえて天の川遠し
 ふるびにし鈴のよどみの霜にさえて明星さむし驛路の秋
 藥かみてこの秋風にわれ堪へず庭の芭蕉を切りすてよとぞ
 別れ來てわれうつつなき驛はづれ並木三里を松時雨なる
 實をとるとつどひし子等はみないにて夕べ靜かに銀杏葉のちる
 美はしき神のみ像のなかばなりて欄による朝菊の香たかき
                       ――同十月二十五日
 
       白菊(二)
 笠はねてこ手かざしみる朝の虹野や秋草の花にみだれたり
 笛とりてしらぶる曲のひくいかなまばら秋雨夜はふけにけり
 里の子のかける神輿のきらめきて夕日まばゆき秋祭かな
(13) 雨暗き夕べをそぞろ窓によれば村のはづれの鐘ひくう來る
 曉を落葉林の路にいりぬ小笠はぬれば月峰にあり
 見下せば麓の小里目もはるにまだら樺色秋たけにけり
 しをりせし花白菊は枯れにしもうつり香ゆかし源氏物語
 枯蓮にふる夕雨のねも細く七堂伽藍秋さびにけり
 ちさき筆に紅ふくませてなにゑがく秋海棠に雨重き夕べ
 水汲むと曉早う野にたてば霜さえざえて月天にあり
                       ――同十月二十八日
 
       すげ笠(その一)
    おのれこの月の七日より二週間が程日向の境を出でて肥後豐後のあたりを旅にくらしぬ。今その道すがらの腰折を菅笠と名づけて貴き紙上をけがす事となしぬ
(14) 朝時の露おもしろきにひ草鞋山みち野みち秋心地よや
 日向の國高千穂峰の秋や深き宮居をこめて風みだれ吹く
 大やまとやまと島根の八百萬神のはじめはこの峰の神
 天つ風いたくし吹けば大宮の神のみ鈴のさと鳴りわたる(以上三首三田井にて)
 白銀の鞍は朝日に閃きて駒のいななき秋風に高き
 たちこむるつつの白煙野や山や少しのひまに劍の閃き(以上二首大演習地にて)
 名にし負ふ銀杏は秋の日にはえて澄みしみ空に天主閣高し(熊本城を見て) 阿蘇が根に登りて見れば野や遠しやせたる小山こちごちにたつ
 地の神の怒や遂にたばしりて人の世高く煙わきのぼる
 煙くるる阿蘇の曠野に雲ひくし枯かやすすき秋の聲みつ
 葉の落ちし森に凩すさぶ夜を梟きくかな山そばの宿
(15)                     ――同十一月二十九日
 
       すげ笠(その二)
 山の宿の固き枕に夢を呼ぶ秋の女神の衣白かりき
 旅寢せる山の一村霜早し衣のやぶれ縫ふ人もがな
 野の水に秋の雲見る夕月夜かげもまばらに雁かけりゆく
 月落ちて山のやどりの夜や四更聞ゆるものは猿《ましら》ならずや
 なりがたき夢の行衛のあと追ひて一夜きくかな芭蕉葉の雨
 秋二十日旅に小笠の紐古りぬこよひ雨の日野の道ながき
 追分の文字手さぐりにひろひ讀む秋の夕べを雨ふり出でぬ
 里川に故郷《さと》なつかしみそぞろ立てば夕空遠くゆくは雁にや
 岨づたひつたふ蔦みち霧こめて見さくる空を雁金のゆく
(16) さ夜ふけて里には蟲のねもたえぬ蕎麥の山畑月はるかなり
                       ――同十二月二日
 
       すげ笠(その三)
 たくましき栗毛に銀の鞍おきてこの秋の水渡らばやとぞ
 耐へかねて枝折戸出づる旅やかた月のくらきに雁なき渡る
 更たけて風閑かなる山里に十日の月のただすみ渡る
 藪かげのこみちはつれば朽ちし堂あり五百羅漢に全き形あらず
 くちなはのぬけがらかかる野茨の枯枝ならして秋の風ふく
 秋風のあれにあれゆく野の暮を笠結ばむに我手こごえたり
 寂しとはいづこの烏滸《をこ》の言ならむ旅の百里の秋面白や
                       ――同十二月三日
(17)       白李緋桃(天)
 ともすれば讀經くづるる朧夜やおぼろ梅が香竹の戸に漏る
 籠の戸に鶯ちちとささ鳴きて友よぶ宵を春雨のふる
 ふりかへりまたふりかへりふりかへる振袖ながし春の夜の月
 笛おきてみ簾あぐる朧夜を眠るに似たり春の遠山
 うす絹をかづける稚兒の入ると見し柳の門の薄月夜かな
 松のどよみ浪のをたけび今荒れよさらばとばかり磯の夜の別れ
 宵月に櫻うするる里の今を歌あらずやと友が戸たたく
 怨むまじと獨り嵯峨野の庵にいねて歌かきながす春の夕暮
 竹きつてよき音つくりし笹笛に唄合す夜を春の雨ふる
                       ――明治三十六年三月二十九日
 
(18)       白李緋桃(地)
 春雨にぬれて歸りし雛鳩を紅絹《もみ》の小袖にそといだきみし
 朧夜を櫻みだるるさよ嵐駒に笛ふく狩衣のかげ
 磯かげに潮の香たかきさざ波やささやきかすか春の月ふけぬ
 繪の具とき繪はがきゑがく繪だくみの繪の間の窓に繪のままの梅
 たきすてし伽羅のけむりのたなびきてあるじはあらぬ春雨の窓
 月の夜を桃のみ園にあくがれてそぞろに君がみ名よびし笑み
 名殘ぞと又も見かへる村はづれ柳のもとに立つ人や誰れ
 おぼろ夜を鸚鵡ひそかに籠出でて鶯まねる梅が枝の月
 あくがるる奈良や芳野の春の旅笈には繪筆さて歌の筆
                       ――明治三十六年四月一日
 
(19)       白李緋桃(玄)
 山寺に僧はいまさで春の夜を經のみ卷の風にみだるる
 花曇り今日は晝より雨になりて相合傘の裾美しき
 紅きとて罪にはあらじ若人の法衣にくらし海棠の花
 朧夜を緋扇かざす舞姫の舞の衣に花ちりかかる
 初陣の手柄に君のたまひつる櫻かざせば駒かけ出でぬ
 緋桃咲く籬にたちて道とへば京へは右とやさしげの聲
 苔青きこみちに沓のあとちさしとめてゆかむか海棠の園
 み使の文とどきたる春の宵うす紅文字のふみがらながき
 繪師といふとなりぶすまの若人の訛は京よ春雨の宿
                       ――同四月二日
 
(20)       白李緋桃(黄)
 うぶすなの森をよぎりて河を前に桃の盛りはむかし誰が家
 花に病みて閨にこもりの春ながし法師の袖に歌乞ひたしや
 京出でて小笠百里の越の旅見さくるそらに夕霞濃き
 ねたましの双蝶見やる花かげにもの憂や髪をまたなぶる風
 吾れ問はむ君はいづれの花めづる白李海棠桃山櫻(初戀といふ題を得て)
 うす月にさそはれて來し春の野の野末くる唄君にはあらじか
 琵琶おきて緋扇かざす江の月や羅綾の袖に潮の香たかき
 朧夜を黄金づくりの太刀はきて洛陽出づる緋縅の武者
 春雨の夕べ戸によるふり袖や落ちし金釵をとらむともせぬ
                       ――同四月三日
 
(21) きらば君情はつらしなかなかに聞きませ曉のあれ鐘が鳴る
 ほほゑみやなやみかなしみ血の痩せに君入相の鐘きき給へ
 舟よせて山吹手折る菅笠のひな唄わかし加茂の春雨
 山吹の眞盛り見むと湯上りを相合傘よ春さめの里
 山ぶきの庵は今日も雨に暮れて佛刻むにまだ馴れぬ人
                       ――同八月五日
 
       沈鐘
 ゆく春のなごり追へとや憂き文にそへて賜ひし藤濃紫
 琴の人や鼓の人や梅壺の櫻に更くる十六夜月夜
 かくてなほ身を去りがたき春の惑ひ松の風きく朝寒の戸や
(22) 野を歸る鳩は夕べの色に暮れてかすかなるかや霧をゆく鐘
 數ふればはやも七つか入相の雲は憂き色野を流れゆく
 雨今督別れていつかまた遇はむ入日名殘の冷たき鐘や
                       ――同八月六日
 
       つゆ草
 野の風に丈けの朝髪なぷらせて百合に笑む子をねたましと見き
 ふと見れば香もなき袖の墨ごろも一重のこして夢はいづくへ
 とひませるみ堂は森の樹がくれにうす紫の桐見ゆるそれ
 百合白き合歡の樹蔭の小泉にうつり香高き扇ひろひぬ
 人知れず石に刻みし歌古りて雨にはびこる屑白き花
                       ――同八月七日
 
(23)       つゆ草
 ふと見えし衣はみどりか水色か宵月百合にかくれてし人
 紅薔薇に香の煙のまつはりてみともし淡き明方の雨
 いつしかに夕立はれし靄の野を姉妹ふたりが追分小唄
 星の露けがれなき野の草におちて紅き朝顔白き夕顔
 玉のみ手に玉の水棹のまとひけり月のみ舟や紅蓮白蓮
                       ――同八月九日
 
       つゆ草
 
 繪の具といて今朝黙想の興ふかし憎くやしら絹そめてちる百合
 雨はいま島のあたりや江樓の朱廉ふきあぐる夕青嵐
 殿ぬけて磯へ下れば月まどか磯は千本姫小松原
(24) ゆくりなく友と相會ふ野の樹蔭と見れば同じうらぶれの笠
 墨染のみ裳裾長う夜の神のあゆみ靜かに夢ふけてゆく
 一村は若紫の靄に凝りて小雨しと/\青葉に明くる
                       ――同八月十一日
 
       つゆ草
 玉はちす昨日は紅きけふは白きみやこの畫師が里ごもり日記
 月たけて夢なホふかし萬象の鳴りをしづめてゆくホととぎす
 よる波の波の穗匂ふ松が根に乙女化粧か朝髪さらす
 高ゆくや山子規《やまほととぎす》水ちかし竹の枕に夢はなかりき
 百合出でて朝野流るる水色の四つの袂を吹く青嵐
 曙を露の小蟲の清き音や萩の野しむるうるはしき戀
(25)                     ――同八月十三日
 
 『新聲』歌壇より
 
        〇
 おのづから胸に合《あは》する罪の手や沈黙《しじま》の秋の夜は更けにけり
 梢たかき銀杏の寺のかね消えてねむるに似たり秋のひと村
 とても世の秋は寂しく冷たきにふかれて風の國に去《い》なばや
 ほのぽのと花野の朝はあけそめて靄に別るるつばさ白き神
                       ――明治三十七年一月一日號
        〇
 やまざとは雪の小うさぎ紙のつる姉と弟の春うつくしき
(26) ともすれば千鳥にともしかかげけり夜舟になれぬ舟子《かこ》が新妻
 しめやかに手と手冷たき物がたり宵の霙は雪となりにけり
                       ――同二月十五日號
        〇
 山駕籠にゆられごこちの欄干《おばしま》や湖《うみ》うつくしき山中のやど
 あけぼのの紫わかうにほはせてかすみに浮ふあさしほのしま
 まどろみの小草にのこる夢もあらむ吹くな春風野の旅ごろも
 鐘の音のなごりただよふ靄の中にほのぽのしらむしら桃の里
                       ――同四月十五日號
        〇
 若草や桃咲く路は闇ぞよき君が小窓の灯の洩れてくる
(27) 病めば戸による日ぞ多き戸によれば母のみ國の島ほのみゆる
 松の戸に磯の千鳥を聽く夜かな藻の火きえては寒しと添ひて
 相ふるるや緋染花ぞめはなだ染みやこの春は袖の波よる
 振袖の寢すがたかつぐ山駕籠のはだか男を捲く櫻かな
 美しうちさき歌よとほほゑまれ姉にそむけば春の雪ふる
 春の日は孔雀に照りて人に照りて彩羽あや袖鏡に入るも
                       ――明治三十八月三月一日號
        〇
 白駒や小鈴に稚兒のゆめのせてさくら吹雪のあさやま越ゆる
 詩の王のかむりつくると春山に桂たづねて入るかすみかな
 鎭國の伽藍きづくと國擧げ石切りいだす朝ざくらやま
(28) そぞろにもちぎられし袖かづきけり歌留多もどりの春の夜の雪
 春雨や鐘は上野かあさ草かふるき江戸みるゆめごこちかな
 いたづらに鐘は鳴るかな春雨にこのゆめやらじ明けなあさ室
 春の日やさくらがくれにしのびきて山のわが背の木樵唄きく
 山堂のおぽろ月夜をうかるるや古き壁畫の鬼ぬけいづる
                       ――同四月一日號
        〇
 うつらうつら春の海見る夕なぎやひとみおぼろに浮く戀の島
 病むひとの枕きよめてまどあけて鶯呼べばあささくら散る
 白桃や小まど小窓の機うたのもれてもつれて里の日暮るる
 高麗びとののどけき謠やつみ草や亡國の野に春ながれたり
 朝山に染分け手綱ひかへつつ鳥聽くひとに散るさくらかな
                       ――同四月十日號
        〇
 塔たかう大鐘鳴らす菜のはなの大和くにばら日の入りよどむ
 むらさきの靄さめかぬる朝やまのゆめのゆくへと鶯のなく
 山たかみ瀧のしぶきに散る花に笠して見ればとほき海かな
 わか草の小みちはつれば湖《うみ》みえてきみの城あり春の雲浮く
 はるさめやしぶ茶草もち小雪洞《こぼんぼり》ともの戀きく菜のはなの里
                       ――同五月一日號
        〇
 菜の花のなかなる唄のお師匠の門をきらばと五つの灯かな
(30) 牛つれて丘へのぼれば南の海めくくさにあをあらし吹く
 夏草の里にこもりてふたりしてあやめ葺く日を雨しづかなり
 緋芍藥島の女王にみつぎすと朝上ぐる帆に青あらし吹く
                       ――同七月一日號
        〇
 子規啼きぬ今宵のおん夢にわが子|去《い》ぬると入りしやいかに(【郷に歸る日舟より母に】)
 ふるさとや桃薄紅の實をつけてうらぶれ人の我むかへけり
 靄しろう蓮の香まよふあさ月夜あを鷺おほき水の村かな
 ほととぎす啼くなる山の大木に斧をふるへば霧青う降る
 古山や古樹森なす夏の日の青照るかげになくほととぎす
 ふるさとは島なりなつの青潮花藻咲かせてちち母まもれ
(31)                     ――同九月一日號
        〇
 ほととぎす鳴くよと母に起されてすがる小窓の草月夜かな
 父と寢ね母と起きいづるふる郷の山家このごろ鹿のこゑかな
 蔓ひけばゆらぐ紅花まだら花朝顔のびぬきみが窓まで
 草の實に木の實に秋のめぐりては小鳥よく啼く故郷の山
 ふる郷の梨の古樹を撫でて見つをさなきわれと逢ふここちして
                       ――同十月一日號
        〇
 一山の僧都《そうづ》紫衣する秋の日の高野はなるる朝の鐘かな
 ゆく雲を仰ぐになれし草の戸の蔦に影ひく秋の落日《いりひ》や
(32) 河越えて山に入る雁河越えて里に出る鐘朝のもや濃き
 ふるさとの秋を澄む月|翌日《あす》立たむわが衣うつ母に照るかな
 夕霧はしづかにふりくふるさとの別れの酒の冷たき窓に
 秋の日の青澄むそらをわたり鳥大河越えて椋ちる森へ
 古山の巨樹にすがる秋の日の沈みはつれば霧ふり出でぬ
 人の國へ秋の海越え山をこえなみださそはむ風と吹かばや
 森の城に姫や待つらむ潮こえて夕日にかへる白き鳩かな
 秋風は白うめぐりぬ大寺の稚兒の十人が衣するなかを
 秋草の小みち古路ふみなやむ提灯ちさき文づかひかな
 そぞろにも寒しとすだれ垂れにけり蟲のなかゆく戀の小夜駕籠
                       ――同十月二十日號
(33)        〇
 風吹かば秋風吹かばわかるともけふの武藏を思ふ日あらむ(【別るとて野に立ちぬ】)
 長き夜の夢路に露の草わけむきのふの人にあふやあはずや(【以下三首別れてのちに】)
 草の戸にふるや秋雨わすれては人の小傘のそぞろまたるる
 年經なば今日の別のおもひ出に秋美しむ日もまじるべし
 雁きくとともし火とれば山々の霧せまりくる萱びさしかな
 過ぎし世の秋めく日なり夕影のにぶき小窓に人戀ひをれば
 秋追ひてとこしへめぐる鳥やとて雁にかかげしふる簾かな
 山まゆに姉が手織のふる袷とりいでて着る菊びよりかな
 ふるさとの山ほの見ゆるそれのみに古き家去らぬ秋の人かな(夕暮君に)
                       ――同十一月一日號
(34)        〇
 秋さむや萩に照る日をなつかしみ照らされに出し朝の人かな 
 樹に倚りて相むつみゆく笠のかげとほく望みぬ秋照る岡に
 いささかのことばにすねて分れ來し岡の小林秋の鳥啼く
 塔たかみ遠鳴りわたる巨鐘やゆふ日の中のあき風の國
 秋の日は薄の波にしろがねの古き鏡に似てしづみけり
 大海のしづかなる香ぞおもほゆる穗薄月夜岡に立てれば
 小夜時雨かへさをわぶるやさ眉のひそむも見えてよき灯影かな
 岡の上に待てば麓の木がくれの白きすすきに笠みえそめぬ
 秋の日を野越え杜こえ丘こえて雲のやうなる旅もするかな
                       ――同十二月一日號
 
  海の聲
 
(37)序
 
 咋にして歡樂の夢すでにすくなかりし身の今におよぴて哀愁のいたみ更に切なるを覺ゆ。古人の多情練漉すでに低摧すといへるは或はかくの如きを歌へるなるべし。されどなほその人はそれに次ぐに獨寒林に倚つて野梅を嗅ぐの句を以てせり。余や日として走らざるなく時として息ふこと能はず、みづから憂へみづから苦しみてしかもつひにわが安んずべきところを知らず。ああ喜を見ていよくよろこび悲にあひてまたます/\よろこぶわが牧水君の今の時は幸なるかな羨むべきかな。
(38) おもほえず昨日われ射しわかき日のひかりを君がうへに見むとは
 きみがよぶこゑにおどろきながめやる老てふ道のさてもさびしき
 君によりてまたかへりふむわかき道花はきのふの紅にして
                        柴舟生
 
(39)序
 
 われは海の聲を愛す。潮青かるが見ゆるもよし見えざるもまたあしからじ。遠くちかく、斷えみたえずみその無限の聲の不安おほきわが胸にかよふとき、われはげに言ひがたき悲哀と慰藉とを覺えずんばあらず。
 こころせまりて歌うたふ時、また斯のおもひの湧きいでて耐へがたきを覺ゆ。かかる時ぞ、わがこころ最も明らかにまた温かにすべてのものにむかひて馳せゆきこの天地の間に介在せるわが影の甚しく確乎たるを感ず。まこと、われらがうら若の胸の海ほど世にも清らにまた時おかず波うてるはあらざるべし。そのとどめがたきこころのふるへを歌ひいでてわれとわがおもひをほしいままにし、かつそのまま盡くるなき思ひ出の甕にひめおかむこと、げにわれらがほこりにしてまた限りなきよろこびならずとせむ(40)や。
 われ幼きより歌をうたひぬ。されども詩歌としてゆるさるべき秀れしもの殆んどいまだあることなし。ここには比較的ととのひそめし明治三十九年あたりの作より今日に至るまでのもの四百幾十首を自ら選みいでて輯めたり。選むには巧みなると否とを旨とせず、好きすかずを先にしたり、要はただ純みたるわが影を表はさむとしてに外ならず。
 表紙畫は平福百穗氏の厚意に成れり。多忙のうちわがために勞をさかれし氏に對して感謝の意を表す。
   明治四十一年五月
                     若山牧水
 
(41) 海の聲
 
 われ歌をうたへり今日も故わかぬかなしみどもにうち追はれつつ
 眞晝日のひかりのなかに燃えさかる炎か哀しわが若さ燃ゆ
 海哀し山またかなし醉ひ痴れし戀のひとみにあめつちもなし
 風わたる見よ初夏のあを空を青葉がうへをやよ戀人よ
 空の日に浸《し》みかも響く青々と海鳴るあはれ青き海鳴る
 海を見て世にみなし兒のわが性《さが》は涙わりなしほほゑみて泣く
 白鳥はかなしからずや空の青海のあをにも染まずただよふ
 あな寂し縛《いまし》められて黙然と立てる巨人の石彫まばや
 海斷えず嘆くか永久《とは》にさめやらぬ汝《なれ》みづからの夢をいだきて
(42) 闇の夜の浪うちぎはの明るきにうづくまりゐて蒼海《あをうみ》を見る わが胸ゆ海のこころにわが胸に海のこころゆあはれ絲鳴る
 わがまへに海よこたはり日に光るこのかなしみの何にをののく
 戸な引きそ戸の面《も》は今しゆく春のかなしさ滿てり來よ何か泣く
 みな人にそむきてひとりわれゆかむわが悲しみはひとにゆるさじ
 蒼穹《おほぞら》の雲はもながるわだつみのうしほは流るわれ茫と立つ
 夜半の海|汝《な》はよく知るや魂一つここに生きゐて汝が聲を聽く
 われ寂し火を噴く山に一瞬《ひととき》のけむり斷えにし秋の日に似て
 闇冷えぬいやがうへにも砂冷えぬ渚に臥して黒き海聽く
 あなつひに啼くか鴎よ靜けさの權化と青の空にうかびて
 狂ひ鳥はてなき青の大空に狂へるを見よくるへる女
(43) おもひみよ青海なせるさびしさにつつまれゐつつ戀ひ燃ゆる身を
 君來ずばこがれてこよひわれ死なむ明日は明後日《あさて》は誰が知らむ日ぞ
 泣きながら死にて去にけりおん胸に顔うづめつつ怨みゐし子は
 われ憎む君よ眞晝の神のまへ燭《ひ》ともすほどの臈たき人を
 然《さ》なり先づ春消えのこる松が枝の白の深雪《みゆき》の君とたたへむ 玉ひかる純白《ましろ》の小鳥たえだえに胸に羽うつ寂しき眞晝
 黒髪のかをり沈むやわが胸に血ぞ湧く創《きず》ゆしみ出《づ》るごとく
 春や白晝《ひる》日はうららかに額《ぬか》にさす涙ながして海あふぐ子の(以下四十九首安房にて)
 聲あげてわれ泣く海の濃《こ》みどりの底に聲ゆけつれなき耳に
 わだつみの白晝《ひる》のうしほの濃みどりに額うちひたし君戀ひ泣かむ
 忍びかに白鳥啼けりあまりも凪ぎはてし海を怨ずるがごと
(44) わがこころ海に吸はれぬ海すひぬそのたたかひに瞳《め》は燃ゆるかな
 こころまよふ照る日の海に中ぞらにうれひねむれる君が乳の邊に
 眼をとぢつ君樹によりて海を聽くその遠き音になにのひそむや
 ああ接吻海そのままに日は行かず鳥|翔《ま》ひながら死《う》せ果てよいま
 接吻《くちづ》くるわれらがまへにあをあをと海ながれたり神よいづこに
 山を見よ山に日は照る海を見よ海に日は照るいざ唇《くち》を君
 松透きて海見ゆる窓のまひる日にやすらに睡る人の髪吸ふ
 ともすれば君口無しになりたまふ海な眺めそ海にとられむ
 君かりにかのわだつみに思はれて言ひよられなばいかにしたまふ
 ふと袖に見いでし人の落髪を唇《くち》にあてつつ朝の海見る
 ひもすがら斷えなく窓に海ひびく何につかれて君われに倚る
(45) 誰ぞ誰ぞ誰ぞわがこころ鼓《う》つ春の日の更けゆく海の琴にあはせて 夕海に鳥啼く闇のかなしきにわれら手とりぬあはれまた啼く
 鳥行けりしづかに白き羽のしてゆふべ明るき海のあなたへ
 夕やみの磯に火を焚く海にまよふかなしみどもよいざよりて來よ
 海明り天《そら》にえ行かず陸《くが》に來ず闇のそこひに育うふるへり
 うす雲はしづかに流れ日のひかり鈍める白晝《ひる》の海の白さよ
 眞晝時青海死にぬ巖《いは》かげにちさき貝あり妻《め》をあさり行く
 海の聲そらにまよへり春の日のその聲のなかに白鳥の浮く
 海あをし青一しづく日の瞳《まみ》に點じて春のそら匂はせむ
 春のそら白鳥まへり觜《はし》紅《あか》しついばみてみよ海のみどりを
 白き鳥ちからなげにも春の日の海をかけれり君よ何おもふ
(46) 無限また不斷の變化《へんげ》持つ海におどろきしかや可愛ゆをみなよ
 春の海ほのかにふるふ額《ぬか》伏せて泣く夜のさまの誰が髪に似む
 幾千の白羽みだれぬあき風にみどりの海へ日の大ぞらへ
 いづくにか少女泣くらむその眸《まみ》のうれひ湛へて春の海凪ぐ
 海なつかし君等みどりのこのそこにともに來ずやといふに似て凪ぐ
 手をとりてわれらは立てり春の日のみどりの海の無限の岸に
 春の海のみどりうるみぬあめつちに君が髪の香滿ちわたる見ゆ
 御《み》ひとみは海にむかへり相むかふわれは夢かも御ひとみを見る
 わが若き双《さう》のひとみは八百潮のみどり直《ひた》吸ひ何ほ飽かず燃ゆ
 しとしとと潮の匂ひのしたたれり君くろ髪に海の瓊《に》をさす
 君笑めば海はにほへり春の日の八百潮どもはうちひそみつつ
(47) 春の河うす黄に濁り音もなう潮滿つる海の朝凪に入る
 暴風雨《しけ》あとの磯に日は冴ゆなにものに驚かされて犬永う鳴く
 白晝《ひる》の海古びし青き絲のごとたえだえ響く寂しき胸に
 伏目して君は海見る夕闇のうす青の香に髪のぬれずや
 日は海に落ちゆく君よいかなれば斯くは悲しきいざや祷らむ
 白晝さびし木《こ》の間に海の光る見て眞白き君が額《ぬか》のうれひよ
 くちづけは永かりしかなあめつちにかへり來てまた黒髪を見る
 夕ぐれの海の愁ひのしたたりに浸されて瞳《め》は遠き沖見る
 蒼ざめし額《ひたひ》にせまるわだつみのみどりの針に似たる匂ひよ
 柑子やや夏に倦みぬるうすいろに海は濁れり夕疾風《ゆふはやち》凪ぐ
 海荒れて大空の日はすきみたり海女《あま》巖かげに何の貝とる
(48) 春の海さして舟行く山かげの名もなき港晝の鐘鳴る
 朱の色の大鳥あまた浮きいでよいま晩春《ゆくはる》の日は空に饐《す》ゆ
 山を見き君よ添寢の夢のうちに寂しかりけり見も知らぬ山
 春の雲しづかにゆけりわがこころ靜かに泣けり何をおもふや
 悲し悲し何かかなしきそは知らず人よ何笑むわがかたを見て
 わが胸の底の悲しみ誰知らむただ高笑ひ空《くう》なるを聞け
 悲哀《かなしみ》よいでわれを刺せ汝《な》がままにわれ刺しも得ばいで千々に刺せ
 われ敢へて手もうごかさず寂然《じやくねん》とよこたはりゐむ燃えよ悲しみ
 かなしみは濕れる炎聲もなうぢぢと身を燒くやき果てはせで
 雲見れば雲に木見れば木に草にあな悲しみのかげ燃えわたる
 ああ悲哀せまれば胸は地はそらは一色《ひといろ》に透く何等影無し
(49) 泣きはててまた泣きも得ぬ瞳《め》の闇の重さよ切《せち》に火のみだれ喚ぶ
 掟《おき》てられて人てふものの爲すべきをなしつつあるに何のもだえぞ
 馴れ馴れていつはり來にしわが影を美しみつつ今日をつぐかな
 あれ行くよ何の悲しみ何の悔い犬にあるべき尾をふりて行く
 天《そら》の日に向ひて立つにたへがたしいつはりにのみ滿ちみてる胸
 もの見れば燒かむとぞおもふもの見れば消なむとぞ思ふ弱き性《さが》かな
 天あふぎ雲を見ぬ日は胸ひろししかはあれども淋しからずや
 ただ一路風飄としてそらを行くちひきき雲らむらがりてゆく
 地のうへに生けるものみな死にはてよわれただ一人日を仰ぎ見む
 見てあれば一葉先づ落ちまた落ちぬ何おもふとや夕日の大樹《おほき》
 木の蔭や悲しさに吹く笛の音はさやるものなし野にそらに行く
(50) 樹に倚りて頬をよすればほのかにも頬に脈うつ秋木立かな
 山はみな頭《かうべ》を垂れぬ落日のしじまのなかに海簫をふく
 をちこちに亂れて汽笛鳴りかはすああ都會《まち》よ見よ今日もまた暮れぬ 青の海そのひびき斷ち一瞬の沈獣を守れ日の聲聽かむ
 人といふものあり海の眞蒼なる底にくぐりて魚《な》をとりて食む
 海の聲たえむとしてはまた起る地に人は生れまた人を生む
 西の國ひがしの國の帆柱は港に入りぬ黙然として
 海の上の老いし旅びと帆柱はけふも海行く西風《にし》冴えて吹く
 黄に匂ふ悲しきかぎり思ひ倦《う》じ對へる山の秋の日のいろ
 秋の風木立にすさぶ木のなかの家の灯かげにわが脈はうつ
 つとわれら黙《もだ》しぬ灯かげ黒かみのみどりは匂ふ風過ぎて行く
(51) われらややに頭《かうべ》をたれぬ胸二つ何をか思ふ夜風《よかぜ》遠く吹く
 風消えぬ吾《あ》もほほゑみぬ小夜の風聽きゐし君のほほゑむを見て
 つと過ぎぬすぎて聲なし夜の風いまか靜かに木の葉ちるらむ
 風落ちぬつかれて樹々の凪ぎしづむ夜《よ》を見よ少女《をとめ》さびしからずや
 風凪ぎぬ松と落葉の木の叢《むら》のなかなるわが家いざ君よ寢む
 山戀しその山すその秋の樹の樹の間を縫へる青き水はた
 青海の底の寂しさ去にし日の古びし戀の影戀ひわたる
 街の聲うしろに和むわれらいま潮さす河の春の夜を見る
 春の海の靜けさ棲めり君とわがとる掌《て》のなかに灯の街を行く
 はらはらに櫻みだれて散り散れり見ゐつつ何のおもひ湧かぬ日
 蛙鳴く耳をたつればみんなみにいなまた西に雲白き晝
(52) 朝|地震《なゐ》す空はかすかに嵐して一山《いちざん》白き山ざくらばな
 雪暗うわが家つつみぬ赤々と炭燃ゆる夜の君が髪の香
 鳥は籠君は柱にしめやかに夕日を浴びぬなど啼かぬ鳥
 煙たつ野ずゑの空へ野樹《のぎ》いまだ芽ふかぬ春のうるめるそらへ
 春の夜や誰ぞまだ寢ねぬ厨なる甕に水さす音《ね》のしめやかに
 仰ぎ見る瞳しづけし春更くるかの大ぞらの胸さわぐさま
 白晝《まひる》哀し海のみどりのぬれ髪にまつはりゐつつ匂ふ寂靜《しじま》よ
 秋立ちぬわれを泣かせて泣き死なす石とつれなき人戀しけれ
 眞晝日のひかりのなかに蝋の燭《ひ》のゆらげるほどぞなほ戀ひ殘る
 この家は男ばかりの添寢ぞとさやさや風の樹に鳴る夜なり
 春たてば秋さる見ればものごとに驚きやまぬ瞳《め》の若さかな
(53) わが若き胸は白壺《しらつぼ》さみどりの波たちやすき水たたへつつ
 うら若き青八千草の胸の野は日の香さびしみ百鳥を呼ぶ
 若き身は日を見月を見いそいそと明日《あす》に行くなりその足どりよ
 月光の青のうしほのなかに浮きいや遠ざかり白鷺の啼く
 片ぞらに雲はあつまり片空に月冴ゆ野分地にながれたり
 十五夜の月は生絹《きぎぬ》の被衣《かつぎ》して男をみなの寢し國をゆく
 白晝《ひる》のごと戸の面《も》は月の明う照るここは灯《ひ》の國君とぬるなり
 君|睡《ぬ》れば灯の照るかぎりしづやかに夜は匂ふなりたちばなの花
 寢すがたはねたし起すもまたつらしとつおいつして蟲を聽くかな
 ふと蟲の鳴く音《ね》たゆれば驚きて君見る君は美しう睡《ぬ》る
 君ぬるや枕のうへに摘まれ來し秋の花ぞと灯は匂《にほ》やかに
(54) 美しうねむれる人にむかひゐてふと夜ぞかなし戸に月や見む
 月の夜や君つつましうねてさめず戸の面の木立風|眞白《ましろ》なり
 短かりし一夜なりしか長かりし一夜なりしか先づ君よいへ
 靜けさや君が裁縫《しごと》の手をとめて菊見るさまをふと思ふとき
 机のうへ植木の鉢の黒土に萌えいづる芽あり秋の夜の灯よ
 春の樹の紫じめる濃き影を障子《さうじ》にながめ思ふこともなし
 つかれぬる鈍き瞳をひらきては見るともなしに何もとむとや
 君もまた一人かあはれ戀ひ戀ふるかなしきなかに生けるひとりか
 春の森青き幹ひくのこぎりの音と木の香と藪うぐひすと
 ぬれ衣《きぬ》のなき名をひとにうたはれて美しう居るうら寂しさよ
 母戀しかかる夕べのふるさとの櫻咲くらむ山の姿よ
(55) 春は來ぬ老いにし父の御《み》ひとみに白ううつらむ山ざくら花
 父母よ神にも似たるこしかたに思ひ出ありや山ざくら花
 町はづれきたなき溝《どぶ》の匂ひ出《づ》るたそがれ時をみそさざい啼く
 戀さめぬあした日は出でゆふべ月からくりに似て世はめぐるかな
 青き玉さやかに透きて春の夜の灯《ひ》を吸へる見よ涼しき瞳
 火事あとの黒木のみだれ泥水の亂れしうへの赤蜻蛉《あかとんぼ》かな
 帆のうなり濤の音こそ身には湧けああさやなれや十月の雪
 人どよむ春の街ゆきふとおもふふるさとの海の鴎啼く聲
 山ざくら花のつぼみの花となる間《あひ》のいのちの戀もせしかな
 海の聲山の聲みな碧瑠璃の天《そら》に沈みて秋照る日なり
 君は知らじ君の馴寄《なよ》るを忌むごときはかなごころのうらさびしさを
(56) うらこひしさやかに戀とならぬまに別れて遠きさまざまの人
 阿蘇の街道《みち》大津の宿に別れつる役者の髪の山ざくら花
 月光のうす青じめる有明の木の原つづき啼く鶉かな
 秋の海かすかにひびく君もわれも無き世に似たる狹霧白き日
 酒の香の戀しき日なり常磐樹に秋のひかりをうち眺めつつ
 おもひやる番の御寺の寺々に鐘冴えゆかむこのごろの秋
 秋の灯や壁にかかれる古崎子袴のさまも身にしむ夜なり
 野分すぎ勞れし空の静けさに心凪ぎゐぬ別れし日ごろ
 秋の夜こよひは君の薄化粧《うすげはひ》さびしきほどに靜かなるかな
 君去にてものの小本のちらばれるうへにしづけき秋の夜の灯よ
 いと遠き笛を聽くがにうなだれて秋の灯のまへものをこそおもへ
(57) 秋の雲柿と榛《はり》との樹々の間にうかべるを見て君も語らず
 秋晴や空にはたえず遠白き雲の生れて風ある日なり
 月の夜や裸形《らぎやう》の女そらに舞ひ地に影せぬ靜けさおもふ
 秋の雨木々にふりゐぬ身じまひのわろき寢ざめのはづかしきかな
 秋あさし海ゆく雲の夕照りに背戸の竹の葉うす明りする
 君が背戸や暗《やみ》よりいでてほの白み月のなかなる花月見草
 白桔梗君とあゆみし初秋の林の雲の靜けさに似て
 恩ひ出《づ》れば秋咲く木々の花に似てこころ香りぬ別れ來し日や
 秋風は木の間に流る一しきり桔梗色してやがて暮るる雲
 別れ來て船にのぽれば旅人のひとりとなりぬ初秋の海
 啼きもせぬ白羽《しらは》の鳥よ河口は赤う濁りて時雨晴れし日
(58) 日向の國むら立つ山のひと山に住む母戀し秋晴の日や
 うつろなる秋のあめつち白日《はくじつ》のうつろの光ひたあふれつつ
 秋眞晝青きひかりにただよへる木立がくれの家に雲見る
 うすみどりうすき羽根着るささ蟲の身がまへすあはれ鳴きいづるらむ
 日は寂し萬樹《ばんじゆ》の落葉はらはらに空の沈黙《しじま》をうちそそれども
 見よ秋の日のもと木草《きぐさ》ひそまりていま凋落の黄を浴びむとす
 海の上《へ》の空に風吹き陸《くが》の上の山に雲居り日は帆の上に
 むらむらと中ぞら掩ふ阿蘇山のけむりのなかの黄なる秋の日
 虚《うろ》の海暗きみどりの高ぞらのしじまの底に消ゆる雲おもふ
 落日や街の塔の上金色に光れど鐘はなほ鳴りいでず
 日が歩むかの弓形《ゆみなり》の蒼空の青ひとすぢのみちのさぴしさ
(59) 落葉焚くあをきけむりのほそほそと木の間を縫ひて夕空へ行く
 悲しさのあふるるままに秋のそら日のいろに似る笛吹きいでむ
 富士よゆるせ今宵は何の故もなう涙はてなし汝《なれ》を仰ぎて
 凪ぎし日や虚《うろ》の御そらにゆめのごと雲はうまれて富士戀ひて行く
 雲らみな東の海に吹きよせて富士に風冴ゆ夕映のそら
 雲はいま富士の高ねをはなれたり裾野の草に立つ野分かな
 赤々と富士火を上げよ日光の冷えゆく秋の沈黙《しじま》のそらに
 山茶花は咲きぬこぼれぬ逢ふを欲りまたほりもせず日經ぬ月經ぬ
 遠山の峰《を》の上《へ》にきゆるゆく春の落日《らくじつ》のごと戀ひ死にも得ば
 黒かみはややみどりにも見ゆるかな灯にそがひ泣く秋の夜のひと
 立ちもせばやがて地にひく黒髪を白もとゆひに結ひあげもせで
(60) 君さらに笑みてものいふ御頬《みほ》の上にながるる涙そのままにして
 涙もつ瞳つぷらに見はりつつ君かなしきをなほ語るかな
 朝寒や萩に照る日をなつかしみ照らされに出し黒かみのひと
 遠白《とほしろ》うちひさき雲のいざよへり松の山なる櫻のうへを
 水の音に似て啼く鳥よ山ざくら松にまじれる深山《みやま》の晝を
 なにとなきさびしさ覺え山ざくら花ちるかげに日を仰ぎ見る
 怨みあまり切らむと言ひしくろ髪に白躑躅さすゆく春のひと
 忍草《しのぷぐさ》雨しづかなりかかる夜はつれなき人をよく泣かせつる
 山脈や水あきぎなるあけぽのの空をながるる木の香《かをり》かな
 君戀し葵の花の香《か》にいでてほのかに匂ふ夕月のころ
 ※[虫+車]《こほろぎ》や寢ものがたりのをりをりに涙もまじるふるさとの家
(61) さらばとてさと見合せし額髪《ぬかがみ》のかげなる瞳えは忘れめや(二首秀孃との別れに)
 別れてしそのたまゆらよ虚《うつろ》なる双《もろ》のわが眼にうつる秋の日
 鰍をあげまた鰍おろしこつこつと秋の地を掘る農人どもよ
 酒倉の白壁つづく大浪華こひしや秋の風冴えて吹く
 まだ啼かず片羽《かたば》赤らみかつ黒み夕日のそらを行く鳥のあり
 窓ちかき秋の樹の間に遠白き雲の見え來て寂しき日なり
 胸さびし仰げば瑠璃の高ぞらにみどりの雨のまぼろしを見る
 行きつくせば浪青やかにうねりゐぬ山ざくらなど咲きそめし町
 山越えて空わたりゆく遠鳴の風ある日なり山ざくら花
 君泣くか相むかひゐて言もなき春の灯かげのもの靜けさに
 相見ねば見む日をおもひ相見ては見ぬ日を思ふさびしきこころ
(62) 海死せりいづくともなき遠き音《ね》の空にうごきて更けし春の日
 相見ればあらぬかたのみうちまもり涙たたへしひとの瞳よ
 われはいま暮れなむとする雲を見る街は夕べの鐘しきりなり
 船なりき春の夜なりき瀬戸なりき旅の女と酌みし杯
 いつとなうわが肩の上にひとの手のかかれるがあり春の海見ゆ
 ふとしては君を避けつつただ一人泣くがうれしき日もまじるかな
 世のつねのよもやまがたり何にさは涙さしぐむ灯のかげの人
 わだつみのそこひもわかぬわが胸のなやみ知らむと啼くか春の鳥
 笛ふけば世は一いろにわが胸のかなしみに染む死なむともよし
 春來ては今年も咲きぬなにといふ名ぞとも知らぬ背戸の山の樹
 おもひ倦《う》じふと死を念ふ安心《うらやす》になみだ晴れたる虚《うろ》の瞳よ
(63) 雲ふたつ合はむとしてはまた遠く分れて消えぬ春の青ぞら
 ただひとり小野の樹に倚り深みゆく春のゆふべをなつかしむかな
 『木の香にや』『いな海ならむ樹間《こま》がくれかすかに浪の寄る音《ね》きこゆる』
 町はづれ煙突《けむだし》もるる青煙《あをけむ》のにほひ迷へる春木立かな
 椎の樹の暮れゆく蔭の古軒の柱より見ゆ遠山を燒く
 鶯のふと啼きやめばひとしきり風わたるなり青木が原を
 春あさき海のひかりや幹かたき磯の木立のやや青むかな
 つかれぬる胸に照り來てほのかをるゆく春ごろの日のにほひかな
 田のはづれ林のうへのゆく春の雲の靜けさ蛙鳴くなり
 眼とづればこころしづかに音《ね》をたてぬ雲遠見ゆる行く春のまど
 植木屋は無口のをとこ常磐樹の青き葉を刈る春の雨の日
(64) 初夏の照る日のもとの濃みどりのうら悲しさや合歡の花咲く
 淋しくばかなしき歌のおほからむ見まほしさよと文かへし來ぬ
 ゆく春の月のひかりのさみどりの遠《をち》をさまよふ悲しき聲よ
 淋しとや淋しきかぎりはてもなうあゆませたまへ如何にとかせむ(人へかへし)
 いと幽《かす》けく濃青《こあを》の白日《ひる》の高ぞらに鳶啼くきこゆ死にゆくか地《つち》
 一すぢの絲の白雪富士の嶺に殘るがかなし水無月の天《そら》
 月光の青きに燃ゆる身を裂きて蛇苺なす血の湧くを見む
 初夏の月のひかりのしたたりの一滴《ひとたま》戀し戀ひ燃ゆる身に
 皐月たつ空は戀する胸に似む戀する人よいかに仰ぐや
 狂ひつつ泣くと寢ざめのしめやけき涙いづれが君は悲しき
 しとしとと月は滴《したた》る思ひ倦《う》じ亡骸《むくろ》のごともさまよへる身に
(65) かりそめに病めばただちに死をおもふはかなごこちのうれしき夕べ(【四首病床にて】)
 死ぬ死なぬおもひ迫る日われと身にはじめて知りしわが命かな
 日の御神氷のごとく冷えはてて空に朽ちむ日また生れ來む
 夙く窓押し皐月のそらのうす青を見せよ看護婦《みとりめ》胸せまり來ぬ
 人棲まで樹々のみ生ひしかみつ代のみどり照らせし日か天《そら》をゆく
 われ驚くかすかにふるふわだつみの肯きを眺めわが脉搏に
 わくら葉か青きが落ちぬ水無月の死しぬる白晝《ひる》の高樫の樹ゆ
 鷺ぞ啼く皐月の朝の淺みどり搖れもせなくや鷺空に啼く
 水ゆけり水のみぎはの竹なかに白鷺啼けり見そなはせ神
 水無月や日は空に死し干乾びし朱泥のほのほ阿蘇|靜《しづ》に燃ゆ
 聳やげる皐月のそらの樹の梢《うれ》に幾すぢ青の絲ひくか風
(66) 醉ひはてぬわれと若さにわが戀にこころなにぞも然かは悲しむ
 
     旅ゆきてうたへる歌をつぎにまとめたり、思ひ出にたよりよかれとて
 
 山の雨しばしば軒の椎の樹にふりきてながき夜の灯《ともし》かな(百草山にて)
 立川の驛の古茶屋さくら樹の紅葉のかげに見おくりし子よ
 旅人は伏目にすぐる町はづれ白壁ぞひに咲く芙蓉かな(日野にて)
 家につづく有明白き萱原に露さはなれや鶉しば啼く
 あぶら灯やすすき野はしる雨汽革にほううけし顔の十あまりかな
 戸をくれば朝寢《あさい》の人の黒かみに霧ながれよる松なかの家(以下三首御嶽にて)
 霧ふるや細目にあけし障子よりほの白き秋の世の見ゆるかな
 霧白ししとしと落つる竹の葉の露ひねもすや月となりにけり
(67) 野の坂の春の木立の葉がくれに古き宿《しゆく》見ゆ武藏の青梅《あうめ》
 なつかしき春の山かな山すそをわれは旅びと君おもひ行く(以下五首高尾山にて)
 思ひあまり宿の戸押せば和やかに春の山見ゆうち泣かるかな
 地ふめど草鞋聲なし山ざくら咲きなむとする山の靜けさ
 山靜けし峰《を》の上《へ》にのこる春の日の夕かげ淡しあはれ水の聲
 春の夜の匂へる闇のをちこちによこたはるなり木の芽ふく山
 汽車すぎし小野の停車場春の夜を老いし驛夫のたたずめるあり
 日のひかり水のひかりの一いろに濁れるゆふべ大利根わたる
 大河よ無限に走れ秋の日の照る國ばらを海に入るなかれ
 松の實や楓の花や仁和寺の夏なほ若し山ほととぎす(京都にて)
 けふもまたこころの鉦《かね》をうち鳴しうち鳴しつつあくがれて行く(十首中國を巡りて)
(68) 海見ても雲あふぎてもあはれわがおもひはかへる同じ樹蔭に
 幾山河越えさり行かば寂しさのはてなむ國ぞ今日も旅ゆく
 わが胸の奥にか香《かう》のかをるらむこころ靜けし古城《ふるしろ》を見る
 峽縫ひてわが汽車走る梅雨晴の雲さはなれや吉備の山々
 青海はにほひぬ宮の古ばしら丹なるが淡《あは》う影うつすとき(宮島にて)
 はつ夏の山のなかなる古寺の古塔のもとに立てる旅びと(山口の瑠璃光寺にて)
 桃柑子芭蕉の實賣る磯街の露店《よみせ》の油煙《ゆえん》青海にゆく(下の關にて)
 あをあをと月無き夜を滿ちきたりまたひきてゆく大海の潮(日本海を見て)
 旅ゆけげ瞳痩するかゆきずりの女《をんな》みながら美《よ》からぬはなし
 安藝の國越えて長門にまたこえて豊の國ゆき杜鵑聽く(二首耶馬溪にて)
 ただ戀しうらみ怒りは影もなし暮れて旅籠の欄に倚るとき
(69) 白つゆか玉かとも見よわだの原青きうへゆき人戀ふる身を(二十六首南日向を巡りて)
 潮光る南の夏の海走り日を仰げども愁ひ消《け》やらず
 わが涙いま自由《まま》なれや雲は照り潮《うしほ》ひかれる帆柱のかげ
 檳榔樹《びらうじゆ》の古樹《ふるき》を想へその葉蔭海見て石に似る男をも(日向の青島より人へ)
 山上や目路のかぎりのをちこちの河光るなり落日の國(日向大隅の界にて)
 椰子の實を拾ひつ秋の海黒きなぎさに立ちて日にかざし見る(以下三首都井岬にて)
 あはれあれかすかに聲す拾ひつる椰子のうつろの流れ實吹けば
 日向の國都井の岬の青潮に入りゆく端《はな》に獨り海見る
 黄昏の河を渡るや乘合の牛等鳴き出《で》ぬ黄の山の雲
 醉ひ痴れて酒袋|如《な》すわがむくろ砂に落ち散り青海を見る
 勞れはてて眼には血も無き旅びとの今し汝《なれ》見るやよ暮るる海
(70) 船はてて上れる國は滿天の星くづのなかに山匂ひ立つ(日向の油津にて)
 山聳ゆ海よこたはるその間《あひ》に狹しま白し夏の砂原
 遊君《いうくん》の紅き袖ふり手をかざしをとこ待つらむ港早や來よ
 大うねり風にさからひ青うゆくそのいただきの白玉の波
 大隅の海を走るや乘合の少女が髪のよく匂ふかな
 船醉《ふなゑひ》のうら若き母の胸に倚り海をよろこぶやよみどり兒よ
 山も見ぬ青わだつみの帆の蔭に水夫《かこ》は遊女の品さだめかな
 落日や白く光りて飛魚は征矢降るごとし秋風の海
 船の上に飼へる一つの鈴蟲の鳴きしきるかな月青き海
 港口夜の山そびゆわが船のちひさなるかな沖さして行く
 帆柱ぞ寂然としてそらをさす風死せし白晝《ひる》の海の青さよ
(71) かたかたとかたき音して秋更けし沖の青なみ帆のしたにうつ
 風ひたと落ちて眞鐵《まがね》の青空ゆ星ふりそめぬつかれし海に
 山かげの闇に吸はれてわが船はみなとに入りぬ汽笛《ふえ》長う鳴る
 南國の夏の樹木の青浪の山はてもなし一峠越ゆ
 夕さればいつしか雲は降り來て峰に寢るなり日向高千穂(三首日向高千穂にて)
 月明し山脈こえて秋かぜの流るる夜なり雲高う照る
 秋の蝉うちみだれ鳴く夕山の樹蔭に立てば雲のゆく見ゆ
 樹間《こま》がくれ見居れば阿蘇の青煙かすかにきえぬ秋の遠空(以下七首阿蘇にて)
 秋の雲青き白きがむら立ちて山鳴つたへ天馳《あまは》するかな
 山鳩に馴れては月の白き夜をやすらに眠る肥の國人よ
 ひれ伏して地の底とほき火を見ると人の五つが赤かりし面《つら》
(72) 麓野の國にすまへる萬人を軒に立たせて阿蘇荒るるかな
 風さやさや裾野の秋の樹にたちぬ阿蘇の月夜のその大きさや
 秋のそらうらぶれ雲は霧のごと阿蘇につどひて夙ぎぬる日なり
 やや赤む暮雲《ぽうん》を遠き陸《くが》の上《へ》にながめて秋の海馳するかな(八首周防灘にて)
 雲はゆく雲に殘れる秋の日のひかりも動く黒し海原
 落日のひかり海去り帆をも去りぬ死せしか風はまた眉に來ず
 夕雲のひろさいくばくわだつみの黒きを掩ひ曰を包み燃ゆ
 雲は燃え日は落つ船の旅びとの代赭《たいしや》の面《つら》のその沈黙よ
 日は落ちぬつめたき炎わだつみのはてなる雲にくすぽりて燃ゆ
 ぬと聳えさと落ちくだる帆柱に潮けぶりせる血の玉の灯よ
 水に棲み夜光《よひか》る蟲は青やかにひかりぬ秋の海匂ふかな
(73) 津の國は酒の國なり三夜《みよ》二夜《ふたよ》飲みて更なる旅つづけなむ(以下十三首攝津にて)
 杯を口にふくめば千すぢみな髪も匂ふか身はかろらかに
 白雲のかからぬはなし津の國の古塔に望む初秋の山(四天王寺に登りて)
 物々しき街のぞめきや蒼空《おほぞら》を秋照りわたる白雲のもと
 雲照るや出水《でみづ》のあとの濁り水街押しつつむ大阪の秋
 大阪は老女に裾の緋縮緬多きに慘る日の暑さかな
 泣眞似の上手なりける小女のさすがなりけり忘られもせず
 浪華女《なにはめ》に戀すまじいぞ旅人よただ見て通れそのながしめを
 われ車に友は柱に一語二語醉語かはして別れ去りにけり(大阪にて葩水と別る)
 醉うて入り醉うて浪華を出でて行く旅びとに降る初秋の雨
 昨日飲みけふ飲み酒に死にもせで白痴笑《こけわら》ひしつつなほ旅路ゆく
(74) 山行けば青の木草に日は照れり何に悲しむわがこころぞも(箕面山にて)
 住吉は青のはちす葉白の砂秋たちそむる松風の聲
 秋雨の葛城越えて白雲のただよふもとの紀の國を見る
 火事の火の光宿して夜の雲は赤う明りつ空流れゆく(二首和歌山にて)
 町の火事雨雲おほき夜の空にみだれて鷺の啼きかはすかな
 ちんちろり男ばかりの酒の夜をあれちんちろり鳴きいづるかな(紀の國青岸にて)
 紀の川は海に入るとて千本の松のなかゆくその瑠璃の水
 麓には潮ぞさしひく紀三井寺木の間の塔に青し古鐘
 一の札所第二の札所紀の國の番の御寺をいざ巡りてむ
 粉河寺遍路の衆のうち鳴らす鉦々きこゆ秋の樹の間に
 鉦々のなかにたたずみ旅びとのわれもをろがむ秋の大寺
(75) 旅人よ地に臥せ空ゆあふれては秋山河にいま流れ來る(葛城山にて)
 鐘おほき古りし町かな折しもあれ旅籠に着きしその黄昏に(二首奈良にて)
 鐘斷えず麓におこる嫩草の山にわれ立ち白晝《ひる》の雲見る
 雲やゆくわが地やうごく秋眞晝鐘も鳴らざる古寺にして(二首法隆寺にて)
 秋眞晝ふるき御寺にわれ一人立ちぬあゆみぬ何のにほひぞ
 みだれ降る大ぞらの星そのもとの山また山の闇を汽車行く(伊賀を越ゆ)
 峽出でて汽車海に添ふ初秋の月のひかりのやや青き海(駿河を過ぐ)
                       ――旅の歌をはり――
 舌つづみうてばあめつちゆるぎ出づをかしや瞳はや醉ひしかも
 とろとろと琥珀の清水津の國の銘酒|白鶴《はくづる》瓶《へい》あふれ出づ
 灯ともせばむしろみどりに見ゆる水酒と申すを君斷えず酌ぐ
(76) くるくると天地《あめつち》めぐるよき顔も白の瓶子《へいし》も醉ひ舞へる身も
 酌とりの玉のやうなる小むすめをかかへて舞はむ青だたみかな
 女ども手うちはやして泣上戸泣上戸とぞわれをめぐれる
 あな可愛《かは》ゆわれより早く醉ひはてて手枕《たまくら》のまま彼女《かれ》ねむるなり
 睡れるをこのまま盗みわだつみに帆あげてやがて泣く顔を鬼む
 醉ひはててはただ小をんなの帶に咲く緋の大輪の花のみが見ゆ
 ああ醉ひぬ月が嬰子《やや》生む子守唄うたひくれずやこの膝にねむ
 君が唄ふ『十三ななつ』君はいつそれになるかや嬰子《やや》うむかやよ
 あな倦みぬ斯く醉ひ痴れし夢の間にわれ葬らずややよ女ども
 渇きはて咽喉は灰めく醉ざめに前髪の子がむく林檎かな
 酒の毒しびれわたりしはらわたにあなここちよや沁む秋の風
(77) 石ころを蹴り蹴りありく秋の街落日黄なり醉醒《ゑひざめ》の眼に
 山の白晝《ひる》われをめぐれる秋の樹の不斷の風に海の青憶ふ
 琴弾くか春ゆくほどにもの言はぬくせつきそめし夕ぐれの人
 春の夜の月のあはきに厨の戸誰が開けすてし灯《ひ》のながれたる
 かはたれの街のうるほひ何處《いづく》ゆかふと出でよ髪の直《ひた》匂ふ子よ
 春のゆふべ戀にただれしたはれ女《め》の眼のしほ戀し渇けるこころ
 月つひに吸はれぬ曉《あけ》の蒼穹《あおぞら》の青きに海の音とほく鳴る
 窓ひとつ朧ろの空へ灯をながす大河沿の春の夜の街
 鐘鳴り出づ落日《いりひ》のまへの擾亂《ぜうらん》のやや沈みゆく街のかたへに
 仁和寺の松の木《こ》の間をふと思ふうらみつかれし春の夕ぐれ
 朝の室《むろ》夢のちぎれの落ち散れるさまにちり入る山ざくらかな
(78) 君見ませ泣きそぼたれて春の夜の更けゆくさまを眞黒き樹々を
 一葉だに搖れず大樹《おほき》は夕ぐれのわが泣く窓に押しせまり立つ
 われとわが戀を見おくる山々に入日消えゆく峽にたたずみ
 燐寸《まち》すりぬ海のなぎさに倦み光る晝の日のもと青き魚燒く
 秋の海阿蘇の火見ゆと旅人は帆かげにつどふ浪死せる夜を
 油つきぬされども消えず青白き灯のもゆる見よ寢ざめし人よ
 晝の街|葬式《とむらひ》ぞゆく鉦濁るその列形《れつなり》にうごめく塵埃《ほこり》
 直吸《ひたす》ひに日の光《かげ》吸ひてまひる日の海の青燃ゆわれ巖にあり
 大ぞらの神よいましがいとし兒の二人戀して歌うたふ見よ
 君を得ぬいよいよ海の涯《はて》なきに白帆を上げぬ何のなみだぞ
 あな沈む少女の胸にわれ沈むああ聽けいづく悲しめる笛
(79) みじろがでわが手にねむれあめつちになにごともなし何の事なし
 塵浴びて街のちまたにまよふ子等何等ちひさきわれ君を戀ふ
 みだれ射よ雨降る征矢をえやは射るこの靜ごころこの戀ごころ
 吹き鳴らせ白銀の笛春ぐもる空裂けむまで君死なむまで
 君笑むかああやごとなし君がまへに戀ひ狂ふ子の狂ひ死ぬ見て
 山動け海くつがへれ一すぢの君がほつれ毛ゆるがせはせじ
 われら兩人《ふたり》相添うて立つ一點に四方のしじまの吸はるるを聽く
 思ひ倦みぬ毒の赤花さかづきにしぽりてわれに君せまり來よ
 矢繼早火の矢つがへてわれを射よ滿ちて腐らむわが胸を射よ
 思ふまま怨言《かごと》つらねて彼女《かれ》がまへに泣きはえ臥さで何を嘲《あざ》むや
 わが怨言ききつつ君が白き頬《ほ》に微笑《ゑまひ》ぞうかぷ刺せ毒の針
(80) ひたぶるに木枯すさぶ斯る夜を思ひ死なむずわが愚鈍見よ
 生ぬるき戀の文かな筆もろともいざ火に燒かむ爐のむらむら火
 されど悲し斯く戀ひ狂ひやがて徒だ安らに君が胸に死《は》てむ日
 毒の香《かう》君に焚かせてもろともに死なばや春のかなしき夕べ
 胸せまるあな胸せまる君いかにともに死なずや何を驚く
 千代八千代棄てたまふなと言ひすててつとわが手|枕《ま》きはや睡るかな
 針のみみそれよりちさき火の色の毒花咲くは誰が脣《くちびる》ぞ
 疑ひの蛇むらがるに火のちぎれ投ぐるか君がその花の微笑《ゑみ》
 疑ひの野火しめじめと胸を這ふ風死せし夜を消えみ消えずみ
 君かりにその黒髪に火の油そそぎてもなほわれを捨てずや
 戀ひ狂ひからくも獲ぬる君いだき恍《ほう》けし顔の驚愕《おどろき》を見よ
(81) とこしへに逃ぐるか戀よとこしへにわれ若うして追はむ汝《いまし》を
 紅梅のつめたきほどを見たまへとはや馴れて君笑みて脣《くち》よす
 こよひまた死ぬべきわれかぬれ髪のかげなる眸《まみ》の滿干《みちひ》る海に
 いざこの胸千々に刺し貫き穴だらけのそを玩《もてあそ》べ春の夜の女
 『女なればつつましやかに』『それ憎しなどわれ燒かう火の言葉せぬ』
 渇けりやそのくちびるの紅ゐは乾《から》びて黒しそれわが血吸へ
 あめつちに乾びて一つわが脣も死して動かず君見ぬ十日
 『遣るも行かじ死海《しかい》ならではよし行くも沈みて燃えむ』ねたみの炎
 髪を燒けその眸《まみ》つぶせ斯くてこの胸に泣き來よさらば許さむ
 微笑《ゑみ》鋭しわれよりさきにこの胸に棲みしありやと添臥しの人
 毒の木に火をやれ赤きその炎ちぎりて投げむよく睡《ぬ》る人に
(82) 涙さぴし夢も見ぬげにやすらかに寢みだれ姿われに添ふ見て
 春は來ぬ戀のほこりか君を獲てこの月ごろの悲しきなかに
 夕ぐれに音《ね》もなうゆらぐさみどりの柳かさびしよく君は泣く
 君よなどきは愁れたげの瞳して我がひとみ見るわれに死ねとや
 ただ許せふとして君に飽きたらず忌む日もあれどいま斯くてあり
 あらら可笑《をか》し君といだきて思ふこといふことなきにこの涙はや
 ことあらば消《け》なむとやうにわが前にひたすらわれをうかがふ君よ
 君はいまわが思ふままよろこびぬ泣きぬあはれや生くとしもなし
 君よ汝が若き生命は眼をとぢてかなしう睡るわが掌《たなぞこ》に
 悲しきか君泣け泣くをあざわらひあざわらひつつわれも泣かなむ
 燃え燃えて野火いつしかに消え去りぬ黒めるあとの胸の原見よ
(83) さらばよし別るるまでぞなにごとの難きか其處に何のねたまむ
 撒きたまへ灰を小砂利をわが胸にその荒るる見て手を拍ちたまへ
 手枕よ髪のかをりよ添ひぶしにわかれて春の夜を幾つ寢し
 別れ居の三夜は二夜はさこそあれかがなひて見よはや十日經む
 事もなういとしづやかに暮れゆきぬしみじみ人の戀しきゆふべ
 かへれかへれ怨《ゑ》じうたがひに倦みもせばいざこの胸へとく歸り來よ
 あなあはれ君もいつしか眼《まみ》盲《し》ひぬわれも盲人《めしひ》の相いだき泣く
 戀しなばいつかは斯る憂《うき》を見むとおもひし咋《きそ》のはるかなるかな
 わりもなう直《ひた》よろこびてわが胸にすがり泣く子が髪のやつれよ
 心ゆくかぎりをこよひ泣かしめよものな言ひそね君見むも憂し
 さらば君いざや別れむわかれてはまたあひは見じいざさらばさらば
(84) 君いかにかかる靜けき夕ぐれに逝きなば人のいかに幸《さち》あらむ
 夕ぐれの靜寂《しじま》しとしと降る窓にふと合ひぬ脣《くち》のいつまでとなく
 『君よ君よわれ若し死なばいづくにか君は行くらむ』手をとりていふ
 春哀し君に棄てられはるばると行かばや海のあなたの國へ
 知らず知らずわが足鈍る君も鈍る戀の木立の靜寂《しじま》のなかに
 怨むまじや性《さが》は清水《しみづ》のさらさらに淺かる君をなにうらむべき
 戀人よわれらはさびし青ぞらのもとに涯《はて》なう野の燃ゆるさま
 
 獨り歌へる
 
     本書を本書發行當時誕生せし友緑葉が長男佐藤靜樹君に呈す
 
(87)自序
 
 私は常に思つて居る。人生は旅である。我等は忽然として無窮より生れ、忽然として無窮のおくに往つてしまふ。その間の一歩々々の歩みは實にその時のみの一歩々々で、一度往いては再びかへらない。私は私の歌を以て私の旅のその一歩々々のひぴきであると思ひなしてゐる。言ひ換へれば私の歌はその時々の私の生命の碎片である。
 
 多人數のなかに交り都合よく社會に身を立てて行かうがために、私は私の境遇その他からいつ知らず二重或は三重の性格を添へて持つやうになつて來た。その中には眞の我とは全然矛盾し反對した種類のものがある。自身にも能くそれに氣がついて時には全く耐へ難く苦痛に思ふ。而も年の進むと共に四六時中眞の我に歸つて居る時とては愈々少くなつて來た。稀し(88)くも我に歸つてしめやかに打解けて何等憚る所なく我と逢ひ我と語る時は、實に誠心こめて歌を咏んで居る時のみである。その時に於て私は天地の間に僅かに我が影を發見する。
 
 藝術々々とよく人は言ふ。實のところ私はまだその藝術と云ふものを知らない。斷えず自身の周圍に聞いて居る言葉でありながらいまだに了解が出來難い。だから私はそれ等一切の關係のなかに私の歌を置くことが出來なかつた。私は原野にあそぶ百姓の子の様に、山林に棲む鳥獣のやうに、全くの理窟無しに私の歌を咏み出で度い。
 
 私は私の作物を以て、斯うして生れて來た自己の全てをみづから明かに知らむがための努力であると今のところでは思つて居る。それ以上他に思ひ及ぽす餘裕が無い。歌を咏むのも細工師が指輪や簪をこしらへて居るの(89)とは違つて、自己そのものを直ちに我が詩歌なりと信じて私は咏んで居る。歌と言ふもの詩と言ふものといふ風に机の上にぶち轉がして考へらるることを私は痛く嫌ふ。自己即詩歌、私の信念はこれ以外に無い。
 
 一首々々取出して見ると私の歌などは實に夥しく拙い。技巧の不足なもの、嘘をついて居るものなどばかりで自ら滿足し得るものとては殆んど絶無である。それかと云つて全然是等を棄却し去ることは容易に出來ない。一首のうちに何處か自分の影が動いてゐて、なかなか思ひ切つて棄てがたい。いま夫等を拾ひ集めてこの一卷を編んだ。これからも尚ほ私が本當に生きて居る間、私は何處までもこの哀れな歩をとぼ/\と續けて行かねばならぬのであらう。
 
 歌の配列の順序は、出來るだけ歌の出來た時の順序に從ふやうに力めた。(90)前の歌集「海の聲」の編輯を終つたのが昨年の四月の廿日頃で、それからの作はたしか同年廿五日の夜武藏百草山に泊つた時を以て始つて居る。そして本書の編輯を終つたのは本年七月の十日頃偶然にも同じ百草山の頂上の家に滯在して居る時に於てであつた。つづまりこの「獨り歌へる」一卷はその間約一ケ年に亙る私の内的生活の記録である、その時その時に過ぎ去つた私の命の碎片の共同墓地である。
 
 詩歌書類の一向に賣れない現今にあつて、特にわがために本書出版の勞をとられた八少女會同人諸君に對し深く感謝する。
 
 今夜は陰暦九月十三日、後の月の當夜である。風冴えて時雨が時々空を過ぐる。街をば伊藤公暗殺の號外が切りに走つて居たが既にそれも止んだ。本書の校正刷を閲しこの序文を認めて、自身の昨日の歌を見て居ると色々(91)に恩ふことが多い。
    明治四十二年十月二十六日深夜
                    若山牧水
 
(93) 獨り歌へる 上の卷
 
       自明治四十一年四月
       至同    十二月
 
 いざ行かむ行きてまだ見ぬ山を見むこのさびしさに君は耐ふるや
 みんなみの軒端のそらに日輪の日ごとかよふを見て君と住む
 おのづから熟みて木《こ》の實も地に落ちぬ戀のきはみにいつか來にけむ
 女あり石に油をそそぎては石燒かむとす見るがさびしき
 いざ行かむ行方は知らねとどまらばかなしかりなむいざ君よ夙く
 何はおきあはれみを請ふその眸《まみ》の先づこそ見ゆれえはうらむべき
 若ければわれらは哀し泣きぬれてけふもうたふよ戀ひ戀ふる歌
 斯くねたみ斯くうたがふがわが戀のすべてなりせばなど死なざらむ
(94) うらかなしこがれて逢ひに來しものを驚きもせでひとのほほゑむ
 悲しまず泣かずわらはぬ晝夜に馴れしかいまはさびしくもなし
 うちしのび夜汽車の隅にわれ座しぬかたへに添ひてひとのさしぐむ(【以下或る時に】)
 野のおくの夜の停車場を出でしときつとこそ接吻《きす》はかはしけるかな
 摘みてはすて摘みてはすてし野のはなの我等があとにとほく續きぬ
 山はいま遲き櫻のちるころをわれら手とりて木《こ》の間あゆめり
 鬢の毛に散りしさくらのかかるあり木のかげ去らぬゆふぐれのひと
 木《こ》の芽摘みて豆腐の料理君のしぬわびしかりにし山の宿かな
 春の日の滿てる木の間にうち立たすおそろしきまでひとの美し
 小鳥よりさらに身がろくうつくしくかなしく春の木の間ゆく君
 靜かなる木の間にともに入りしときこころしきりに君を憎めり
(95) 君すててわれただひとり木の間より岡にいづれば春の雲見ゆ
 山の家の障子《さうじ》細目にひらきつつ山見るひとをかなしくぞ見し
 ゆく春の山に明るう雨かぜのみだるるを見てさびしむひとよ
 さみどりのうすき衣をうち着せむくちづけはてて夢見るひとに(以上)
 古寺の木立のなかの離れ家に棲みて夜ごとに君を待ちにき
 ものごしに靜けさいたく見えまさるひとと棲みつつはつ夏に入る
 推のはな栗の木《き》の花はつ夏の木《こ》の花めづるひとのほつれ毛
 あな胸のそこひの戀の古海の鳴りいづる日を初夏の雲湧く
 樹々の間に白雲見ゆる梅雨晴の照る日の庭に妻は花植う
 くちづけをいなめる人はややとほくはなれて窓に初夏の雲見る
 わが妻はつひにうるはし夏たてば白き衣きてやや痩せてけり
(96) 香爐ささげ初夏の日のわらはたち御そらあゆめり日の靜かなる
 はつ夏の雲あをそらのをちかたに湧きいづる晝麥の笛吹く
 燐寸《まち》すりぬ赤き毛蟲を燒かむとてただ何となくくるしきゆふべ
 とこしへに解けぬひとつの不可思議の生きてうごくと自らをおもふ
 このごろは逢へばかたみに繪そらごとたくみにいふと馴れそめしかな
 別れてきさなりき何等ことなげに別れきその後幾夜經ぬるや
 あめつちに頼るものなしわがなみだなにいたづらに頬をながれたる
 はたた神遠鳴りひびき雨降らぬ赤きゆふべをひとり酒煮る
 夕されば風吹きいでぬ闇のうちの樹梢《こぬれ》見ゐつつまたおもひつぐ
 われひとり暮れのこりつつ夕やみのあめつちにゐて君をしぞおもふ
 夕やみのややに明るみ大ぞらに月のかかればやや思ひ凪ぐ
(97) ひとりなればこの望月の夏の夜のすずしきよひをいざひとり寢む
 
     八月の初め信州輕井澤に遊びぬ。その頃詠める歌三十五首
 
 火を噴けば淺間の山は樹を生まず茫として立つ青天地《あをあめつち》に
 天地のしじまわが身にひたせまるふもと野に居て山の火を見る
 八月や淺間が嶽の山すそのその荒原にとこなつの咲く
 麓なる叫のひとつのいただきの青深草に寢て淺間見る
 夕空の風をしぞおもふ火の山のけむりは遠くうちながれたり
 夢も見ず旅寢かさねぬ火の山の裾の月夜の白き幾夜を
 火の山の裾の松原月かげの疎《あら》き月夜をほととぎす啼く
 火の山やふもとの國に白雲の居る夜のそらの一すぢの煙《けむ》
 大ぞらに星のふる夜を火の山の裾に旅寢し妻をしぞ思ふ
(98) 夜となればそらを掩ひて高く見ゆ白晝は低しけむり噴く山
 夜の山のけむりにやどりうす赤う地《つち》のそこなる火のかげの見ゆ
 火の山にしばし煙の斷えにけりいのち死ぬべくひとのこひしき
 女ありみやこにわれを待つときく靜かなりけり夜半の山の火
 月見草見ゐつつ居ればわかれ來し子が物思ふすがたしぬばゆ
 黒髪のそのひとすぢのこひしさの胸にながれて盡きむともせず
 わかれ來て幾夜經ぬると指折れば十指《とゆび》に足らず夜のながきかな
 ゆるしたまへ別れて遠くなるままにわりなきままにうたがひもする
 青草のなかにまじりて月見草ひともと咲くをあはれみて摘む
 あめつちにわが跫音《あおと》のみ滿ちわたる夕の野なり月見草摘む
 ものをおもふ四方《よも》の山べの朝ゆふに雲を見れどもなぐさみもせず
(99) 紅《べに》滴る桃の實かみて山すその林ゆきつつ火の山を見る
 蟲に似て高原はしる汽車のありそらに雲見ゆ八月の晝
 白雲のいざよふ秋の峰をあふぐちひさなるかな旅人どもは
 絲のごとくそらを流るる杜鵑《とけん》あり聲にむかひて涙とどまらず
 うつろなる命をいだき眞晝野にわが身うごめき杜鵑《ほととぎす》聽く
 ほととぎす聽きつつ立てば一滴《ひとたま》のつゆよりさびしわれ生くが見ゆ
 あめつちの亡び死になむあかつきのしじまに似たり杜鵑啼く
 わかれては十日ありえずあわただしまた碓氷越え君見むと行く
 胸にただ別れ來しひとしのばせてゆふべの山をひとり越ゆなり
 さらばなり信濃の國のほととぎす碓氷越えなばまた聞かめやも
 瞰下せば霧に沈めるふもと野の國のいづくぞほととぎす啼く
(100) ふと聞ゆ水の音とほし木の蔭に白百合見出でながめいるとき
 身じろがずしばしがほどを見かはせり旅のをとこと山の小蛇と
 秋かぜや碓氷のふもと荒れ寂びし坂本の宿《しゆく》の絲繰の唄(坂本に宿りて)
 まひる日の光のなかに白雲はうづまきてありふもと國原(妙義山にて)
 旅びとはふるきみやこの月の夜の寺の木の間を飽かずさまよふ(三首奈良にて)
 はたご屋へ杜の木の間の月の夜の風のあはれに濡れてかへりぬ
 伏しをがみふしをがみつつ階のゆふべのやみにきえよとぞおもふ
 大いなるうねりに船の載れるとき甲板《かうはん》にゐて君をおもひぬ(播磨灘にて)
 戀人のうまれしといふ安藝の國の山の夕日を見て海を過ぐ(瀬戸にて)
 雲去ればもののかげなくうす赤き夕日の山に秋風ぞ吹く(四首故郷にて)
 峰あまた横ほり伏せる峽間《けふかん》の河越えむとし蜩を聞く
(101) 父の髪母の髪みな白み來ぬ子はまた遠く旅をおもへる
 一人《いちにん》のわがたらちねの母にさへおのがこころの解けずなりぬる
 ときをりに淫唄《ざれうた》うたふ八月の燃ゆる濱ゆき燃ゆる海見て(日向の海邊にて)
 星くづのみだれしなかにおほどかにわが帆柱のうち搖《ゆら》ぐ見ゆ
 蓄音機ふとしも船の一室に起るがきこゆ海かなしけれ
 なにものに欺かれ來しやこの日ごろくやし腹立たし秋風を聽く
 秋立てどよそよそしくもなりにけり風は吹けども葉は落つれども
 忘れ得ずさびしきままにまたしてもさびしかりしを思ひつづくる
 とも思ひかくもおもへどとにかくにおもひさだめて幸祝《さちいはひ》せむ
 いねもせで明かせる朝の秋かぜの聲にまじりてすずめ子の啼く
 うらさびし盡きなく行ける大河のほとりにゆきて泣かむとぞおもふ
(102) 闇うれしこよひ籬根《かきね》のこほろぎの身にしむままに出でて聽くかな
 地のそこに消えゆくとおもひ中ぞらにまよふともきこゆ長夜《ながよ》こほろぎ
 霧ふればけふはいつより暮はやきゆふべなりけりこほろぎのなく
 時として涙をおぽゆ草木《さうもく》の悠々として日を浴ぶる見て
 消えやらぬ大あめつちの生物のひとつのわれに秋かぜぞ吹く
 君がすむ戀の國邊とわが住める國のさかひの一すぢの河
 白粉と髪のにほひをききわけむ靜かなる夜のともしびの色
 いと拙き歌きくごとし秋の夜のしづかなる夜に君|怨言《かごと》いふ
 おきたまへうらみつらみもこのごろのわれらに何の興《きよう》かあるべき
 秋立てばよく逢ふ夜なり灯のかげになみだながれてわりもなきこと
 夕ぐれの街をし行けばそそくさと行きかふ人に眼も鼻も無し
(103) わが胸に旅のをとこの情《じやう》なしのこころやどりてそそのかすらく
 秋おもへばこの茫漠のあめつちにわれただ獨り生くとさびしき
 秋たてば街のはづれの楢の木の木立に行きてよくものをおもふ
 秋はもののひとりひとりぞをかしけれ空ゆく風もまたひとりなり
 わがこころ行くにまかせてゆかしめよ世にこれよりのなぐさめは無し
 蝋燭の灯の穗赤きをつくづくと見つめゐてふと秋風をきく
 めぐりあひしづかに見守《まも》りなみだしぬわれとわれとのこころとこころ
 秋晴のまちに逢ひぬる乞食《こつじき》の爺《ぢい》の眸《まみ》見て旅をおもひぬ
 牛に似てものもおもはず茫然と家を出づれば秋かぜの吹く
 午すぎのつかれごころにとぼとぼとうつり來《く》あはれひとの戀しさ
 野菊ぞときも媚びなよるすがたして野に咲く見れば行きもかねつる
(104) 湯槽《ゆぶね》より窓のガラスにうつりたる秋風のなかの午後の日を見る
 落初《おちぞ》めの桐のひと葉のあをあをとひろきがうへを夕風のゆく
 人の聲車のひびき滿ちわたるゆふべの街に落葉ちるなり
 眼とづればはるかにとほくとぽとぽと日に追はれゆくわがすがた見ゆ
 秋かぜは空をわたれりゆく水はたゆみもあらず葦刈る少女
 足とめて聽けばかよひ來《く》河むかひ枯葦のなかの葦刈の唄
 魚釣るや晩秋河《おそあきかは》のながれ去り流れさる見つつ餌は取られがち
 わだの原生れてやがて消えてゆく浪のあをきに秋かぜぞ吹く
 相むかひ世に消えがたきかなしみの秋のゆふべの海とわれとあり
 ゆふぐれの沖には風の行くあらむ屍《むくろ》のごとく松にもたるる
 音もなうゆふべの海のをちかたの闇のなかゆく白き波見ゆ
(105) 行き行きて飽きなば旅にしづやかにかへりみもなく死なましものを
 ひたすらに君に戀しぬ白菊も紅葉も秋はもののさびしく
 病みぬれば世のはかなさをとりあつめ追はるるがごと歌につづりぬ
 あれ見たまへこのもかのもの物かげをしのびしのぴに秋かぜのゆく
 わかれては昨日も明日もをとつひも見えわかずしてひたに戀しき
 少女子のむねのちひさきかなしみに溺れてわれは死にはててけり
 戀ひに戀ひすさみはてぬるわが胸に植うべき花をなにとさだめむ
 君見れば獣のごとくさいなみぬこのかなしさをやるところなみ
 なほ飽かずいやなほあかず苛みぬ思ふままなるこの女《をんな》ゆゑ
 長椅子にいねて初冬午後の日を浴ぶるに似たる戀づかれかな
 なにものに追はれ引かれて斯く走るおもしろきこと世に一もなし
(106) あららかに梢の枯葉うち落し庭掃く僧のその面がまへ
 とぼとぼとありし若さのわがむねにかへり來るなり君をいだけば
 この林檎つゆしたたらばありし日のなみだに似むとわかき言《こと》いふ
 あはれそのをみなの肌《はだへ》しらずして戀のあはれに泣きぬれし日よ
 あはれ神ただあるがままわれをしてあらしめたまへ他《た》に祈る無し
 かかる時聲はりあげてかなしさを歌ふ癖ありきそれも止みつる
 わが住むは寺の裏部屋庭もせに白菊さけり見に來よ女
 消えもせず戀の國より追はれ來し身にうつり香のあはくかなしく
 見かへるな戀の世界のたふとさは搖れずしづかに遠ざかりゆく
 世に最《もと》もあさはかなればとりわけて女の泣くをあはれとぞおもふ
 黒牛の大いなる面《つら》とむかひあひあるがごとくに生くにつかれぬ
(107) ほこり湧く落日《いりひ》の街をひた走る電車のすみのひとりの少女
 仰ぎみてこころぞながる街の樹の落日のそらにおち葉するあり
 道化者つらの可笑しきあの友が戀にやつれてやや痩せてけり
 われうまれて初めてけふぞ冬を知る落葉のこころなつかしきかな
 落ちし葉のひと葉のつぎにまた落ちむ黄なる一葉の待たるるゆふべ
 あめつちの靜かなる時そよろそよろ落葉をわたるゆふぐれの風
 はつ冬のころのならひの曇り日は落葉のこゑのなつかしきかな
 早やゆくかしみじみ汝《なれ》にうちむかふひまもなかりきさらばさらば秋
 忍び來てしのびて去《い》にぬかの秋は盲目《めしひ》なりけりものいはずけり
 大河のうへをながるる一葉《いちえふ》のおち葉のごとしものもおもはず
 わが妻よわがさびしきは青のいろ君がもてるは黄朽葉《きくちば》ならむ
(108) めぐりあひふと見交して別れけり落葉林のをとこと男(戸山ケ原にて)
 冬木立落葉のうへに晝寢してふと見しゆめのあはれなりしかな
 武藏野は落葉の聲に明け暮れぬ雲を帶びたる日はそらを行く
 ゆふまぐれ落葉のなかに見いでつる松かさの實を手にのせてみぬ
 かすかなる胸さわぎあり燃え燃えぬ黄葉《きば》ふりしきる冬枯の森
 いかにせむ胸に落葉の落ちそめてあるがごときをおもひ消しえず
 ふりはらひふりはらひつつ行くが見ゆ落葉がくれをひとりの男
 木の葉みな落ちつくしたる寒林《かんりん》は斯《こ》のごときことおもふによろし
 いと靜かにものをぞおもふ山白き十二月こそゆかしかりけれ
 梢より葉のちるごとくものおもひありとしもなきにむねのかなしき
 なにとなくさびしうなりぬわが戀は落葉がくれをさまよふごとく
(109) 荒れはてし胸のかたへにのこりぬるむかしのゆめのうす蒼の香よ
 うす赤く木枯すさぶ落日の街のほこりのなかにおもはく
 窓あくればおもはぬそらにしらじらと富士見ゆる家に女すまひき
 日向ぽこ側にねむれる犬の背を撫でつつあればさびしうなりぬ
 近きわたり寺やたづねてめぐらなむ女を棄ててややさびしかり
 別るる日君もかたらずわれ言はず雪ふる午後の停事場にあり
 別るとて停車場あゆむうつむきのひとの片手にヴイオロンの見ゆ
 別れけり殘るひとりは停車場の群集《ぐんじゆ》のなかに口笛をふく
 
                     獨り歌へる 上の卷終り
 
(111) 獨り歌へる 下の卷
 
       自明治四十二年一月
       至同     七月
 
 大鳥の空をゆくごとさやりなき戀するひとも斯くや嘆かむ
 男といふ世に大いなるおごそかのほこりに如かむかなしみありや
 ほのかにもおもひは痛しうす青の一月《むつき》のそらに梅つぼみ來《き》ぬ
 うきことの限りも知らずふりつもるこのわかき日をいぎや歌はむ
 清ければ若くしあればわがこころそらへ去《い》なむとけふもかなしむ
 ゆめのごとくありのすさびの戀もしきよりどころなくさびしかりしゆゑ
 枯れしのち最もあはれ深かるは何花ならむなつかしきかな
 男なれば歳二十五のわかければあるほどのうれひみな來よとおもふ
(112) 斯くばかりこころ弱かりいつの日にわが悲しみの盡きむとすらむ
 けだものの病めるがごとくしづやかに運命《さだめ》のあとに從ひて行く
 
     一月より二月にかけ安房の渚に在りき。その頃の歌七十五首
 
 ふね待ちつつ待合室の雜沓に海をながめて卷たばこ吹く
 思ひ屈《く》し古ぼろ船に魚買の群とまじりて房州へ行く
 武藏野の岡の木の間に見なれつる富士の白きをけふ海に見る
 物ありて追はるるごとく一人の男きたりぬ海のほとりに
 病院の玻璃戸に倚れば海こえておぽろ夜伊豆の山燒くる見ゆ
 まつ風の明るき聲のなかにして女をおもひ青海を見る
 なにほどのことにやあらむ夜もいねで海のほとりに人の嘆くは
 われひとり多く語りてかへり來ぬ月照る松のなかの家より(人を訪ねて)
(113) ともすれば咯《は》くに馴れぬる血なればとこともなげにも言ひたまふかな(おなじ時に)
 海に來ぬ思ひあぐみてよるべなき身はいづくにも捨てどころなく
 とやかくに思ひひがめてわれとわが清きこころを蝕《は》みゆかむとす
 うす青くけふもねがての枕べに這ひまつはれり海のひびきは
 藻草焚く青きけむりを透きて見ゆ裸體《はだか》の海女《あま》と暮れゆく海と
 われよりもいささか高きわか松の木かげに立ちて君をおもへり
 朝起きて煙草しづかにくゆらせるしばしがほどはなにも思はず
 日は日なりわがさびしさはわがのなり白晝《まひる》なぎさの砂山に立つ
 ここよりは海も見えざる砂山のかげの日向にものをこそおもへ
 いづかたに行くべきわれはここに在りこころ落ち居よわれよ不安よ
 風落ちて渚木立に滿ちわたる海のひびきの白晝《ひる》のかなしみ
(114) きさらぎや海にうかびてけむりふく寂しき島のうす霞みせり
 火の山にのぼるけむりにむかひゐてけふもさびしきひねもすなりき
 大島の山のけむりのいつもいつもたえずさびしきわがこころかな
 晴れわたる大ぞらのもと火の山のけむりはけふも白々《しらじら》とたつ
 夕やみに白帆を下す大船の港入りこそややかなしけれ
 けふは早や戀のほかなるかなしみに泣くべき身ともなりそめしかな
 海よわれ思ひあまればいつもいつも汝をしたひて來て泣くものを
 梅はただ一もとがよしとりわけてただ一輪の白きがよろし
 君もまたくるしきときに君おもふ薄情者をとがめたまふや
 少年のゆめのころもはぬがれたりまこと男のかなしみに入る
 あはれこころ荒みぬればか眼も見えず海を見れども日を仰げども
(115) 人見れば忽ちうすき皮を着るわが性《さが》ゆゑの盡きぬさびしさ
 天地に享《う》けしわが性やうやうに露はになり來《く》海に來ぬれば
 つひにわれ藥に飽きぬ酒こひし身も世もあらず飲みて飲み死なむ
 やまひには酒こそ一の毒といふその酒ばかり戀しきは無し
 あさましく酒をたうべて荒濱に泣き狂へども笑ふ人もなし
 愚かなり阿呆烏《あはうがらす》の啼くよりもわがかなしみをひとに語るは
 あめつちにわが殘し行くあしあとのひとつづつぞと歌を寂しむ
 わがこころ濁りて重きゆふぐれは軒のそとにも行くをこのまず
 けふもまた變ることなきあら海の渚を同じわれがあゆめり
 安房の國海にうかぴて冬知らず紅梅白梅《こぞめしらうめ》いまさかりなり
 けふ見ればひとがするゆゑわれもせしをかしくもなき戀なりしかな
(116) おなじくは弱き男がいづくまでよわかるものかわれ試しみむ
 海に行かばなぐさむべしとひた思ひこがれし海に來は來つれども
 耳もなく目なく口なく手足無きあやしきものとなりはてにけり
 眼覺めつるその一瞬にあたらしき寂しきわれぞふと見えにける
 心より歌ふならねばいたづらに聲のみまよふ宵をかなしむ
 海あをくあまたの山等横伏せりわが泣くところいまだ盡くる無し
 やどかりの殻の如くに生くかぎりわれかなしみをえは捨てざらむ
 なつかしく靜かなるかな海の邊の松かげの墓にけふも來りぬ
 このごろは夜半にぞ月のいづるなりいねがての夜もよくつづくかな
 いつ知らず生れし風の月の夜の明けがたちかく吹くあはれなり
 物かげに息をひそめて大風の海に落ちゆく太陽を見る
(117) 蜑が家に旅寢をすれば荒海の落日《いりひ》にむかひ風呂桶を据ゆ
 蜑が家に旅寢かさねてうす赤き榾の火かげに何をおもふか
 白々とかがやける浪ひかる砂|白晝《ひる》のなぎさに卷煙草吸ふ
 いたづらにものを思ふとくせづきてけふもさびしく渚をまよふ
 青海の鳥の啼くよりいや清くいやかなしきはいづれなるらむ
 これもまたあざむきならむ『いざ行かむ清きあなたへ』海のさそへど
 砂山の起き臥ししげきあら濱のひろきに出でて白晝《ひる》の海聽く
 いと清きもののあはれにおもひ入る海のほとりの明るき木立
 砂山のばらばら松の木のもとに冬の日あびてものをおもふは
 わがほどのちひさきもののかなしみの消えむともせず天地《あめつち》にあり
 好かざりし梅の白きをすきそめぬわが二十五歳《にじふご》の春のさびしさ
(118) おぼろおぼろ海の凪げる日海こえてかなしきそらに白富士の見ゆ
 海のあなたおぼろに富士のかすむ日は胸のいたみのつねに増しにき
 安房の國朝のなぎさのさざなみの音《ね》のかなしきや遠き富士見ゆ
 うちよせし浪のかたちの砂の上に殘れるあとをゆふべさまよふ
 思ひ倦めば晝もねむりて夢を見きなつかしかりき海邊の木立
 おぽろ夜や水田のなかの一すぢの道をざわめき我等は海へ
 おぽろ夜のこれは夢かも渚にはちひさき音の斷えずまろべる
 おぼろ夜の多人|數《ず》なりしそがなかのつかね髪なりしひとを忘れず
 日は黄なり灘のうねりの濁れる日敗殘|者《もの》はまた海に浮く
 男なり爲すべきことはなしはてむけふもこの語《ご》に生きすがりぬる
 鳥が啼く濁れるそらに鳥が啼く別れて船の甲板《かうはん》に在り
(119) わかれ來て船の碇のくさり綱錆びしがうへに腰かけて居り(以上)
 このままに無口者《くちなしもの》となりはてむ言ふべきことはみな腹立たし
 おのづからこころはひがみ眼もひがみ暗きかたのみもとめむとする
 角もなく眼なき數《す》十の黒牛にまじりて行かばややなぐさまむ
 鉛なすおもきこころにゆふぐれの闇のふるよりかなしきは無し
 ただ一つ黒きむくろぞ眼には見ゆおもひ盡きては他にものもなし
 思ふも憂しおもはねばなほたへがたし思ふとてまたなにをおもはむ
 戀といふうるはしき名にみづからを欺くことにややつかれ來ぬ
 いふがごと戀に狂へる身なりしがこころたえせずさびしかりしは
 おほぞらのたそがれのかげにさそはれて涙あやふくなりそめしかな
 なにごともこころひとつにをさめおきてひそかに泣くに如くことは無し
(120) あはれまたわれうち棄ててわがこころひとのなさけによりゆかむとす
 戀もしき歌もうたひきよるべなきわが生命《いのち》をば欺かむとて
 かりそめの己がなさけに神かけていのちささぐる見ればあはれなり
 つゆほども醉ふこと知らぬうるはしき女をけふももてあそべども
 月見草咲くよりあはく戀ざめの胸にほのかにあはれみの萌ゆ
 あさましき歌のみおほくなりにけりものの終りのさびしきなかに
 いかにして斯くは戀ひにし狂ひにし不思議なりきとさびしく笑ふ
 狂ひ鳥日を追へるよりあはれなり行衛も知らずひとの迷へる
 わがいのち安かりしかなひとが泣きひとが笑ふにうち混りゐて
 爪延びぬ髪も延び來ぬやすみなく人にまじりてわれも生くなり
 心いよよ濁りをおもふ身にしみていよいよひとのなさけしげきまま
(121) よるべなき生命生命のさびしさの滿てる世界にわれも生くなり
 うちたえて人の跫音《あおと》の無かるべき國のあらじや行きて死なまし
 よそ目には石のくれなどそれよりも物おもひなき身と見えつべし
 斯くつねに胸のさわがばひろめ屋の太鼓うちにもならましものを
 行くところとざまかうざま亂れたるわかきいのちに悔を知らすな
 酒飲まば女いだかば足りぬべきそのさびしさかそのさびしさか
 沈丁花みだれて咲ける森にゆきわが戀人は死になむといふ
 大天地《おほあめつち》みどりさびしくひそまりぬ若き男のしつかに愁へる
 汚れせずわかき男のただひとりこのあめつちをいかに歩まむ
 蒼わだつみ遠くうしほのひぴくより深しするどし男のうれへる
 水いろのうれひに滿てる世界なりいまわがおもひほしいままなる
(122) 降ると見えずしづかに蒼き雨ぞふるかなしみつかれ男ねむれる
 ニコライの大釣鐘の鳴りいでて夕さりくればつねにたづねき
 酒飲まじ煙草吸はじとひとすぢに妻をいだきに友のがれたり
 この器具《うつは》さぴしきひとの朝夕につかへていかにさびしかるらむ(【煙草入を贈られしに】)
 消息《せうそこ》もたえてひさしき落魄の男をいまだ覺えたまふや(つぎ四首さる人のもとへ)
 おもへらく君もひとりのあめつちに迷ひてよるべあらざらむひと
 うす暗きこのあめつちの或るところ君在りとふをつねにわすれず
 君をもへばあたりあまりにかがやかずゆふぐれどきの如《ごと》なつかしき
 あらためてまことの戀をとめ行かむ來しかたあまりさびしかりしか
 戀なりししからざりしか知らねどもうきことしげきゆめなりしかな
 いざ行かむいづれ迷ひは死ぬるまでさめざらましをなにかへりみむ
(123) 歸らずばかへらぬままに行かしめよ旅に死ねよとやりぬこころを
 とこしへにけふのいのちの花やかさかなしさを君忘るるなかれ(哀果の新婚)
 聲あはせて歌をうたへり春の日の四辻にして救世軍は
 眞晝日の小野の落葉の木の間ゆきあるかなきかの春にかなしむ
 春は來ぬ落葉のままにしづかなる木立がくれをそよ風のふく
 安房の國海のなぎさの松かげに病みたまふぞとけふもおもひぬ
 海に沿ふ松の木の間の一すぢのみちを獨りしけふも歩むか
 君が住む海のほとりの松原の松にもたれて歌うたはまし
 山ざくら咲きそめしとや君が病む安房の海邊の松の木の間に
 憫れまれあはれむといふあさましき戀の終りに近づきしかな
 かなしきはつゆ掩ふなくみづからをうちさらしつつなほ戀ひわたる
(124) 飽き足らぬふしのみしげき戀なりきそのままにして早や逝かむとや
 はや夙くもこころ覺めゐし女かとおもひ及ぶ日死もなぐさまず
 女なればあはれなればと甲斐もなくくやしくもげに許し來つるかな
 憫れぞとおもひいたれば何はおき先づたへがたく戀しきものを
 逃れゆく女を追へる大たはけわれぞと知りて眼《め》眩《くら》むごとし
 斯くてなほ女をかばふ反逆のこころが胸にひそむといふは
 なにか泣くみづからもわれを欺きし戀ならぬかは清く別れよ
 唯だ彼女《かれ》が男のむねのかなしみを解《げ》し得で去るをあはれにおもふ
 林なる鳥と鳥とのわかれよりいやはかなくも無事なりしかな
 千度び戀ひ千度びわかれてかの女けだしや泣きしこと無かるらむ
 別れゆきふりもかへらぬそのうしろ見居つつ呼ばず泣かずたたずむ
(125) 鼻のしたながきをほこる汝《なんぢ》とて斯くは清くも棄てられつるか
 別るとて冷えまさりゆく女にはわが泣くつらのいかにうつれる
 山奥にひとり獣の死ぬるよりさびしからずや戀の終りは
 やみがたき憤りより棄てむとす男のまへに泣くな甲斐無く
 かへりみてしのぶよすがにだもならぬ斯る別れをいつか思ひし
 せめてただ戀に終りの無くもがなよりどころなきこのあめつちに
 報いなき戀に甘んじ飽く知らず汝をおもふと誰か言はむや
 あさましく甲斐なく怨み狂へるは命を蛇に吸はるるに似る
 鳥去りてしろき波寄るゆふぐれの沖のいはほか戀にわかれき
 海のごとく男《を》ごころ滿たすかなしさを靜かに見やり歩み去りし子
 別れといふそれよりもいや耐へがたしすさみし我をいかに救はむ
(126) 戀ひに戀ひうつつなかりしそのかみに寧ろわかれてあるべかりしを
 戀といふつゆよりもいやはかなかるわが生《よ》のなかの夢をみしかな
 わがこころ女え知らず彼女《かれ》が持つあさきこころはわれ掬みもせず
 再びは見じとさけびしくちびるの乾かむとする時のさびしさ
 柱のみ殘れる寺の壞《くゑ》あとにまよふよりげにけふはさびしき
 いつまでを待ちなばありし日のごとく胸に泣き伏し詑ぶる子を見む
 詑びて來よ詑びて來よとぞむなしくも待つくるしさに男死ぬべき
 別れてののちの互ひを思ふこと無かるべきなり固く誓はむ
 ふとしては何も思はずいとあさきかりそめごとに別れむとおもふ
 斯くばかりくるしきものをなにゆゑに泣きて詑びしを許さざりけむ
 おもひやるわが生《よ》のはてのいやはてのゆふべまでをか獨りなるらむ
(127) やうやうにこころもしづみ別れての後のあはれを味はむとす
 思ひ倦み斷えみ斷えずみわがいのち夜半にぞ風のながるるを聽く
 灯赤き酒のまどゐもをはりけりさびしき床に寢にかへるべし
 きはみなき青わだなかにきまよへる海のひびきかわれは生くなり
 冷笑すいのち死ぬべくここちよく涙ながしてわれ冷笑す
 死ぬばかりかなしき歌をうたはましよりどころなく身のなりてきぬ
 これはこのわが泣けるにはあらざらむあらめづらしや涙ながるる
 とりとめてなにかかなしき知らねどもとすればなみだ頬をながるる
 わが痛き生命のひびきただ一に冷笑にのみ生き殘るかも
 わがめぐりいづれさびしくよるべなきわかきいのちが數さまよへり
 さびしきはさびしきかたへさまよへりこのあはれさの耐へがたきかな
(128) 花つみに行くがごとくにいでゆきてやがて涙にぬれてかへり來ぬ
 櫛とればこころいささか晴るるとてさびしや人のけふも髪をゆふ
 富士見えき海のあなたに春の日の安房の渚にわれら立てりき
 おぼろなる春の月の夜|落葉《らくえふ》のかげのごとくもわれのあゆめり
 まどかけをひきてねぬれば春の夜の月はかなしく窓にさまよふ
 首たかくあげては春のそらあふぎかなしげに啼く一羽の鵝鳥
 彼はよく妻ののろけをいふ男まことやすこし眼尻さがりたる
 街なかの堀の小橋を過ぎむとしふと春の夜の風に逢ひぬる
 春の晝街をながしの三味がゆく二階の窓の黄なるまどかけ
 春のそらそれとも見えぬ太陽のかげのほとりのうす雲のむれ
 ひややかに梢《うれ》に咲き滿ちしらじらと朝づけるほどの山ざくら花
(129) 咲き滿てる櫻のなかのひとひらの花の落つるをしみじみと見る
 かなしめる櫻の聲のきこゆなり咲き滿てる大樹《おほき》白晝《まひる》風もなし
 寢ざめゐて夜半に櫻の散るをきく枕のうへのさびしきいのち
 海《わだ》なかにうごける青の一點を眼にとこしへに死せしむるなかれ
 よるべなみまた懲りずまに萌えそめぬあはれやさびしこのこひごころ
 よるべなき生命生命が對ひ居のあはれよるべなき戀に落ちむとす
 はかなかりし戀のうちなるおもひでのすくなき數を飽かずかぞふる
 かへるべき時し來ぬるかうらやすしなつかしき地《つち》へいざかへらなむ
 知らざりきわが眼のまへに死《しに》といふなつかしき母のとく待てりしを
 をさな子のごとくひたすら流涕すふと死になむと思ひいたりて
 海の邊に行きて立てどもなぐさまず死をおもへどもなほなぐさまず
(130) まことなり忘れゐたりきいざゆかむ思ふことなしに天《そら》のあなたへ
 根の知れぬかなしさありてなつかしくこころをひくに死にもかねたる
 死をおもへば梢はなれし落葉の地《つち》にゆくよりなつかしきかな
 ゆふ海の帆の上《へ》に消えしそよ風のごとくにこの世|去《い》なむとぞおもふ
 追はるるごと驚くひまもあらなくに別れきつひに見ざるふたりは
 若うして傷のみしげきいのちなり蹌踉としてけふもあゆめる
 然れども時を經ゆかばいつ知らずこのかなしさをまた忘るべし
 ふたたびはかへり來ることあらざらむさなりいかでかまたかへり來む
 ほのかなるさびしさありて身をめぐるかなしみのはてにいまか來にけむ
 思ふまま涙ながせしゆふぐれの室《へや》のひとりは石にかも似む
 死に隣る戀のきはみのかなしみの一すぢみちを歩み來《こ》しかな
(131) 故わかずわれら別れてむきむきにさぴしきかたにまよひ入りぬる
 見るかぎり友の顔みな死にはてしさびしきなかに獨りものをおもふ
 おぼろ夜の停車場内の雜沓に一すぢまじる少女《をとめ》の香あり
 疲れはてて窓をひらけばおぽろ夜の嵐のなかになく蛙《かはづ》あり
 ゆく春の軒端に見ゆるゆふぞらの青のにごりに風のうごけり
 ちやるめらの遠音や室《へや》にちらばれる蜜柑の皮の香を吐くゆふべ
 うしなひし夢をさがしにかへりゆく若きいのちのそのうしろかげ
 わが生命よみがへり來ぬさびしさに若くさのごとくうちふるへつつ
 わが行くは海のなぎさの一すぢの白きみちなり盡くるを知らず
 玻璃戸漏り暮春の月の黄に匂ふ室に疲れてかへり來しかな
 ガラス戸にゆく春の風をききながら獨り床敷きともしびを消す
(132) 四月すゑ風みだれ吹くこよひなりみだれてひとのこひしき夜なり
 あめつちのみどり濃《こまか》き日となりぬ我等きそうてかなしみにゆく
 また見じと思ひさだめてさりげなく靜かにひとを見て別れ來ぬ
 眞晝の曰そらに白みぬ春暮れて夏たちそむる嵐のなかに
 ただ一歩踏みもたがへて西ひがしわが生《よ》のかぎりとほく別れぬ
 うす濁る地平のはての青に見ゆかすかに夏のとどろける雲
 めぐりあひやがてただちに別れけり雨ふる四月すゑの九日《ここのか》
 ゆく春の嵐のみだれ雨のみだれしつかにひとと別るる日なり
 かなしみの歩みゆく音《ね》のかすかなり疲れし胸をとほくめぐりて
 しめやかに嵐みだるるはつ夏の夜のあはれを寢ざめながむる
 夏を迎ふおもひみだれてかきにごりつかれしむねは歌もうたはず
(133) 旅人あり街の辻なる煉瓦屋の根に行き倒れ死にはてにける
 いつしかに春は暮れけりこころまたさびしきままにはつ夏に入る
 空のあなた深きみどりのそこひよりさびしき時にかよふひびきあり
 あをあをと若葉萌えいづる森なかに一もと松の花咲きにけり
 底知らず思ひ沈みて眞晝時|一樹《いちじゆ》の青のたかきにむかふ
 大木《たいぼく》の幹の片へのましろきにこぽれぬる日の夏のかなしみ
 窓ちかき水田のなかの榛《はり》の木の日にけに青み嵐するなり
 大木の青葉のなかに小鳥啼くほかに晝の日をみだしつつ
 とりみだし哀しみさけび讃嘆すあああめつちに夏の来れる
 生くといふ否むべからぬちからよりのがれて戀にすがらむとしき
 ひややかにことは終りき別れてき斯くあるわれをつくづくと見る
(134) 思ひいでてなみだはじめて頬をつたふ極り知らぬわかれなりしかな
 女ひとり棄てしばかりの驚きに眼覺めてわれのさびしきを知る
 甲斐もなくしのびしのびにいや深にひとに戀ひつつ衰へにけり
 忽然と息斷えしごとく夜ふかく寢ざめてひとをおもひいでしかな
 怨むまじやなにかうらみむ胸のうちのかなしきこころ斯くちかひける
 ありし夜のひとの枕に敷きたりしこのかひなかも斯く痩せにける
 わが戀の終りゆくころとりどりに初なつの花の咲きいでにけり
 音もなく人等死にゆく音もなく大あめつちに夏は來にけり
 海山のよこたはるごとくおごそかにわが生くとふを信ぜしめたまへ
 きはみなき生命のなかのしばらくのこのさぴしさを感謝しまつる
 あなさびし白晝《まひる》を酒に醉ひ痴れて皐月大野の麥畑をゆく
(135) 青草によこたはりゐてあめつちにひとりなるものの自由をおもふ
 畑なかにふと見いでつる痩馬の草食みゐたり水無月眞晝
 ひややかにつひに眞白き夏花のわれ等がなかにあり終りけり
 棕梠の樹の黄色の花のかげに立ち初夏の野をとほくながむる
 初夏の野ずゑの川の濁れるにものの屍《むくろ》の浮きしづみ行く
 けだものはその死處とこしへにひとに見せずと聞きつたへけり
 水無月の洪水《おほみづ》なせる日光のなかにうたへり麥刈少女
 遠くゆきまたかへりきて初夏の樹にきこゆなり眞晝日の風
 木蔭よりなぎさに出でぬ渚より木かげに入りぬ海鳴るゆふべ
 みじか夜のころにはじめてそひねしてもののあはれを知りそめしかな
 松咲きぬ楓もさきぬはつ夏のさぴしきはなの吹きそめにけり
(136) 郊外に友のめうとのかくれ住む家をさがして麥畑をゆく
 夜のほどに凋みはてぬる夏草の花あり朝の瓶《かめ》の白さよ
 少女子の夏のころもの襞にゐて風わたるごとにうごくかなしみ
 母となりてやがてつとめの終りたるをみなの顔に眼をとめて見る
 停車場に札を買ふとき白銀の貸《かね》のひびきの涼しき夜なり
 夏深しかの山林のけだもののごとく生きむと雲を見ておもふ
 麥の穗の赤らむころとなりにけりひと棄てしのちのはつ夏に入る
 いつ知らず夏も寂しう更けそめぬほのかに合歡の花咲きにけり
 わがこころ動くともなく青草に寢居つつ空の風にしたがふ
 夏草の延び青みゆく大地《おほつち》を靜かに踏みて我等あゆめり
 深草の青きがなかに立つ馬の肥えたる脚に汗の湧く見ゆ
(137) 夏白晝うすくれなゐの薔薇《さうび》よりかすかに蜂の羽音きこゆる
 わが友の妻とならびて縁に立ち眞晝かへでの花をながむる
 麥畑の夏の白晝のさびしさや讃美歌低くくちびるに出づ
 黄なる麥一穗ぬきとり手にもちて雲なきもとの高原をゆく
 高原や青の一樹《いちじゆ》とはてしなき眞白き道とわがまへに見ゆ
 麥畑のなかにうごける農人《のうにん》を見ゐつつなみだしづかにくだる
 わが顔もあかがねいろに色づきつ高原の麥は垂穗《たりほ》しにけり
 ひややかに涙はひとりながれたりこころうれしく死なむとおもふに
 われみづから死《しに》をしたしくおもふころ誰彼ひとのよく死ぬるかな
 火の山にけむりは斷えて雪つみぬしづかにわれのいつか死ぬらむ
 渚より海見るごとく汪洋とながるる死《しに》のまへにたたずむ
(138) もの思へばおもひのはてにつねに見ゆ死といふもののなつかしきかな
 夏白晝あるかなきかのさびしさのこころのうへに消えがてにする
 松葉散る皐月の暮の或るゆふべをんな棄てむと思ひたちにき
 影のごとくこよひも家を出でにけり戸山が原の夕雲を見に
 皐月ゆふべ梢はなれし木の花の地に落つる間《ま》のあまきかなしみ
 ひとつひとつ足の歩みの重き日の皐月の原に頬白鳥《ほほじろ》の啼く
 日かげ滿てる木の間に青き草をしき梢をわたる晝の風見る
 見てあればかすかに雲のうごくなり青草のなかにわれよこたはる
 わがいのち空にみちゆき傾きぬあなはるかなりほととぎす啼く
 たそがれの沼尻《ぬじり》の水に雲うつる麥刈る鎌の音《ね》もきこえ來る
 なつかしさ皐月の岡のゆふぐれの青の大樹《おほき》の蔭に如かめや
(139) 落日《らくじつ》のひかり梢を去りにけり野ずゑをとほく雲のあゆめる
 けむりありほのかに白し水無月のゆふべうらがなし野羊《やぎ》の鳴くあり
 わが行けばわがさびしさを吸ふに似る夏のゆふべの地《つち》のなつかし
 麥すでに刈られしあとの畑なかの徑《こみち》を行きぬ水無月ゆふべ
 椅子に耐へず室《へや》をさまよひ家をいで野に行きまたも椅子にかへりぬ
 野を行けば麥は黄ばみぬ街ゆけばうすき衣ををんな着にけり
 やうやうに戀ひうみそめしそのころにとりわけ接吻《きす》をよくかはしける
 強ひられて接吻するときよ戸の面《も》には夏の白晝を一樹《いちじゆ》そよがず
 いちいちに女の顔の異るを先づ第一の不思議とぞおもふ
 六月の濁れる海をふとおもひ午後あわただし品川へ行く
 とかくして動きいでたる船蟲の背になまぐさき六月の日よ
(140) 月いまだひかりを知らず水無月のゆふべはながし汐の滿ち來る
 海のうへの月のほとりのうす雲にほのかに見ゆる夏のあはれさ
 少女等《をとめら》のかろき身ぶりを見てあればものぞかなしき夏のゆふべは
 いささかを雨に濡れたる公園の夏の大路を赤き傘ゆく
 桐の花落ちし本の根に赤蟻の巣ありゆふべを雨こぽれ來ぬ
 枝のはし三つほど咲けるうす紅の楓のはなに夕雨の見ゆ
 いたづらに麥は黄ばみぬ水無月のわがさびしさにつゆあづからず
 八月の街を行き交ふ群集《ぐんじゆう》の黙《もだ》せる顔のなつかしきかな
 とこしへに逢ふこと知らぬむきむきのこころこころの寂しき歩み
 あめつちに獨り生きたりあめつちに斷えみたえずみひとり歌へり
 
      六七月の頃を武藏多摩川の畔なる百草山に送りぬ。歌四十三首
 
(141) 涙ぐみみやこはづれの停車場の汽車の一室《ひとま》にわれ入りにけり
 ともすればわが蒼ざめし顔のかげ汽車のガラスの戸にうつるあり
 雨白く木の間にけぶる高原を走れる汽車の窓によりそふ
 水無月の山越え來ればをちこちの木の間に白く栗の咲く見ゆ
 とびとびに落葉せしごとわが胸にさびしさ散りぬ頬白鳥の啼く
 啼きそめしひとつにつれてをちこちの山の月夜に梟の啼く
 たそがれのわが眼のまへになつかしく木の葉そよげり梟のなく
 夕山の木の間にいつか入りも來ぬさだかに物をおもふとなしに
 あをばといふ山の鳥啼くはじめ無く終りを知らぬさびしき音《ね》なり
 わがこころ沈み來ぬれば火の山のけむりの影をつねにやどしぬ
 檜《ひ》の林松のはやしの奥ふかくちひさき路にしたがひて行く
(142) 青海のうねりのごとく起き伏せる岡の國ありほととぎす行く
 わが死にしのちの靜けき斯る日にかく頬白鳥の啼きつづくらむ
 紫陽花のその水いろのかなしみの滴るゆふべ蜩《かなかな》のなく
 煙《けむ》青きたばこを持ちて家を出で林に入りぬ雨後の雫す
 拾ひつるうす赤らみし梅の實に木の間ゆきつつ齒をあてにけり
 かたはらの木に頬白鳥の啼けるありこころ恍《くわう》たり眞晝野を見る
 日を浴びて野ずゑにとほく低く見ゆ涙をさそふ水無月の山
 松林山をうづめて靜まりぬとほくも風の消えゆけるとき
 眞晝野や風のなかなるほのかなる遠き杜鵑《とけん》の聲きこえ來る
 梅雨晴の午後のくもりの天地のつかれしなかにほととぎす啼く
 山に來てほのかにおもふたそがれの街にのこせしわが靴の音
(143) 或るゆふべ思ひがけなくたづね來しさびしき友をつくづくと見る
 幹白く木の葉青かる林間の明るきなかに歩み入りにき
 わが行けば木々の動くがごとく見ゆしづかなる日の青き林よ
 かなしめる獣のごとくさまよひぬ林は深し日はさ青なり
 はてしなくあまたの岡の起き伏せり眼に日光の白く滿つかな
 別るべくなりてわかれし後の日のこのさびしさをいかに追ふべき
 棄て去りしのちのたよりをさまざまに思ひつくりて夜々をなぐさむ
 ゆめみしはいづれも知らぬ人なりき寢ざめさびしく君に涙す
 あるときはありのすさみに憎かりき忘られがたくなりし歌かな
 遠くよりさやさや雨のあゆみ來て過ぎゆく夜半を寢ざめてありけり
 ゆくりなくとあるゆふべに見いでけり合歡のこずゑの一ふさの花
(144) きはみなき旅の途なるひとりぞとふとなつかしく思ひいたりぬ
 六月の山のゆふべに雨はれぬ木の間にかなし日のながれたる
 ゆふぐれの風ながれたる木の間ゆきさやかにひとを思ひいでしかな
 ゆふ雨のなかにほのかに風の見ゆ白夏花のそぼ濡れて咲く
 はるばると一すぢ白き高原のみちを行きつつ夏の日を見る
 放たれし悲哀のごとく野に走り林にはしる七月のかぜ
 かなしきは夜のころもに更ふる時おもひいづるがつねとなりぬる
 鋭くもわかき女を責めたりきかなしかりにしわがいのちかな
 七月の山の間に日光はあをうよどめり飛ぶつばめあり
 暈《かさ》帶びて日は空にあり山々に風青暗しほととぎす啼く
 生くことのものうくなりしみなもとに時におもひのたどりゆくあり
(145) うち斷えて杜鵑を聞かずうす青く松の梢に實の滿ちにけり
 わがこころ靜かなる時につねに見ゆる死《しに》といふもののなつかしきかな
                      獨り歌へる  下の卷終り
 
 別離
 
(149) 自序
 
 廿歳頃より詠んだ歌の中から一千首を拔き、一卷に輯めて『別離』と名づけ、今度出版することにした。昨日までの自己に潔く別れ去らうとするこころに外ならぬ。
 先に著した『獨り歌へる』の序文に私は、私の歌の一首一首は私の命のあゆみの一歩一歩であると書いておいた。また、一歩あゆんでは小さな墓を一つ築いて來てゐる様なものであるとも書いておいた。それらの歌が背後につづいて居ることは現在の私にとつて、可懷しくもまた少なからぬ苦痛であり負債である。如何かしてそれらと絶縁したいといふ念願からそれを一まとめにして留めておかうとするのである。然うして全然過去から脱却して、自由な、解放された身になつて今まで知らなかつた新たな自己に親しんで行き度いとおもふ。
(150) また、昨年あたりで私の或る一期の生活は殆んど名殘なく終りを告げて居る。そして丁度昨年は人生の半ばといふ廿五歳であつた。それやこれや、この春この『別離』を出版しておくのは甚だ適當なことであると私は歡んで居る。
 本書の裝幀一切は石井柏亭氏を煩はした。寫眞は昨年の初夏に撮つたものである。この一卷に收められた歌の時期の中間に位するものなので挿入しておいた。
 歌の掲載の順序は歌の出來た時の順序に従うた。
 左様なら、過ぎ行くものよ。これを期として我等はもう永久に逢ふまい。
 
     明治四十三年四月六日
                         著者
 
(151) 上卷
 
       自明治三十七年四月
       至同 四十一年三月
 
 水の音《ね》に似て啼く鳥よ山ざくら松にまじれる深山の晝を
 なにとなきさぴしさ覺え山ざくら花ちるかげに日を仰ぎ見る
 山越えて空わたりゆく遠鳴の風ある日なりやまざくら花
 朝|地震《なゐ》す空はかすかに嵐して一山《いちざん》白きやまざくらばな
 行きつくせば浪青やかにうねりゐぬ山ざくらなど咲きそめし町
 朝の室《むろ》夢のちぎれの落ち散れるさまにちり入る山ざくらかな
 阿蘇の街道《みち》大津の宿《しゆく》に別れつる役者の髪の山ざくら花
 母戀しかかるゆふペのふるさとの櫻咲くらむ山の姿よ
(152) 父母よ神にも似たるこしかたに思ひ出ありや山ざくら花
 春は來ぬ老いにし父の御《み》ひとみに白ううつらむ山ざくら花
 怨みあまり切らむと云ひしくろ髪に白躑躅さすゆく春のひと
 忍草雨しづかなりかかる夜はつれなき人をよく泣かせつる
 山脈や水あさぎなるあけぼのの空をながるる本の香《かをり》かな
 日向の國むら立つ山のひと山に住む母戀し秋晴の日や
 君が背戸や暗《やみ》よりいでてほの白み月のなかなる花月見|草《ぐさ》
 ※[虫+車]《こほろぎ》や寢ものがたりの折り折りに涙もまじるふるさとの家
 秋あさし海ゆく雲の夕照《ゆふで》りに背戸の竹の葉うす明りする
 朝寒《あささむ》や萩に照る日をなつかしみ照らされに出し黒かみのひと
 別れ來て船にのぽれば旅人のひとりとなりぬはつ秋の海
(153) 秋風は木《こ》の間に流る一しきり桔梗色してやがて暮るる雲
 白桔梗君とあゆみし初秋の林の雲の靜けさに似て
 思ひ出《づ》れば秋咲く木々の花に似てこころ香りぬ別れ來し日や
 秋立ちぬわれを泣かせて泣き死なす石とつれなき人戀しけれ
 この家は男ばかりの添寢ぞとさやさや風の樹に鳴る夜なり
 木の蔭や悲しさに吹く笛の音はさやるものなし野にそらに行く
 吾木香すすきかるかや秋くさのさびしききはみ君におくらむ
 秋晴や空にはたえず遠白《とほじろ》き雲の生れて風ある日なり
 秋の雲柿と榛《はり》との樹々の間にうかべるを見て君も語らず
 幹に倚り頬をよすればほのかにも頬に脈うつ秋木立かな
 机のうへ植木の鉢の黒土に萌えいづる芽あり秋の夜の灯よ
(154) 秋の灯や壁にかかれる古帽子袴のさまも身にしむ夜なり
 富士よゆるせ今宵は何の故もなう涙はてなし汝《なれ》を仰ぎて
 日が歩むかの弓形《ゆみなり》のあを空の青ひとすぢのみちのさびしさ
 悲しさのあふるるままに秋のそら日のいろに似る笛吹きいでむ
 山ざくら花のつぽみの花となる間《あひ》のいのちの戀もせしかな
 淋しとや淋しきかぎりはてもなうあゆませたまへ如何にとかせむ(人へかへし)
 うらこひしさやかに戀とならぬまに別れて遠きさまざまの人
 ぬれ衣のなき名をひとにうたはれて美しう居るうら寂しさよ
 春たてば秋さる見ればものごとに驚きやまぬ瞳《め》の若さかな
 町はづれきたなき溝《どぶ》の匂ひ出《づ》るたそがれ時をみそさざい啼く
 植木屋は無口のをとこ常磐樹の青き葉を刈る春の雨の日
(155) 船なりき春の夜なりき瀬戸なりき旅の女と酌みしさかづき
 春の森青き幹ひくのこぎりの音と木の香と藪うぐひすと
 ただひとり小野の樹に倚り深みゆく春のゆふべをなつかしむかな
 わだつみのそこひもわかぬわが胸のなやみ知らむと啼くか春の鳥
 ゆく春の月のひかりのさみどりの遠《をち》をさまよふ悲しき聲よ
 雲ふたつ合はむとしてはまた遠く分れて消えぬ春の青ぞら
 眼とづればこころしづかに音《ね》をたてぬ雲遠見ゆる行く春のまど
 鶯のふと啼きやめばひとしきり風わたるなり青木が原を
 椎の樹の暮れゆく蔭の古軒《ふるのき》の柱より見ゆ遠山を燒く
 春來ては今年も咲きぬなにといふ名ぞとも知らぬ背戸の山の樹
 町はづれ煙筒《けむだし》もるる青煙《あをけむ》のにほひ迷へる春木立かな
(156) われはいま暮れなむとする雲を見る街は夕の鐘しきりなり
 淋しくばかなしき歌のおほからむ見まほしさよと文かへし來ぬ
 人どよむ春の街ゆきふとおもふふるさとの海の鴎啼く聲
 街の聲うしろに和むわれらいま潮きす河の春の夜を見る
 春の夜や誰ぞまだ寢《いね》ぬ厨なる甕に水さす音《ね》のしめやかに
 春の夜の月のあはきに厨の戸|誰《た》が開けすてし灯のながれたる
 日は寂し萬樹《ばんじゆ》の落葉はらはらに空の沈黙《しじま》をうちそそれども
 見よ秋の日のもと木草《きぐさ》ひそまりていま凋落の黄を浴びむとす
 鰍をあげまた鰍おろしこつこつと秋の地を掘る農人《のうにん》どもよ
 うすみどりうすき羽根着るささ蟲の身がまへすあはれ鳴きいづるらむ
 うつろなる秋のあめつち白日《はくじつ》のうつろの光ひたあふれつつ
(157) 秋眞晝青きひかりにただよへる木立がくれの家に雲見る
 落日や街の塔の上|金色《こんじき》に光れど鐘はなほ鳴りいでず
 啼きもせぬ白羽の鳥よ河口は赤う濁りて時雨晴れし日
 さらばとてさと見合せし額髪のかげなる瞳えは忘れめや(二首秀孃との別れに)
 別れてしそのたまゆらよ虚《うつろ》なる双《もろ》のわが眼にうつる秋の日
 いま瞑ぢむ寂しき瞳明らかに君は何をかうつしたりけむ(途中大阪にかれは逝きぬ)
 短かりし君がいのちのなかに見ゆきはまり知らぬ清きさびしさ
 窓ちかき秋の樹の間に遠白き雲の見え來て寂しき日なり
 洒の香の戀しき日なり常磐樹に秋のひかりをうち眺めつつ
 見てあれば一葉先づ落ちまた落ちぬ何おもふとや夕日の大樹《おほき》
 をちこちに亂れて汽笛鳴りかはすああ都會《まち》よ見よ今日もまた暮れぬ
(158) 海の聲斷えむとしてはまた起る地《ち》に人は生《あ》れまた人を生《う》む
 人といふものあり海の眞蒼《まさを》なる底にくぐりて魚《な》をとりて食《は》む
 山茶花は咲きぬこぼれぬ逢ふを欲《ほ》りまたほりもせず日經ぬ月經ぬ
 遠山の峰の上にきゆるゆく春の落日《らくじつ》のごと懸ひ死にも得ば
 秋の夜やこよひは君の薄化粧《うすげはひ》さびしきほどに靜かなるかな
 世のつねのよもやまがたり何にさは涙さしぐむ灯のかげの人
 君去にてものの小本《こほん》のちらばれるうへにしづけき秋の灯《ともし》よ
 いと遠き笛を聽くがにうなだれて秋の灯《ひ》のまへものをこそおもへ
 相見ればあらぬかたのみうちまもり涙たたへしひとの瞳よ
 君は知らじ君の馴寄《なよ》るを忌むごときはかなごころのうらさびしさを
 落葉焚くあをきけむりはほそほそと木の間を縫ひて夕空へ行く
(159) 靜けさや君が裁縫《しごと》の手をとめて菊見るさまをふと思ふとき
 相見ねば見む日をおもひ相見ては見ぬ日を思ふさびしきこころ
 ふとしては君を避けつつただ一人泣くがうれしき日もまじるかな
 黄に匂ふ悲しきかぎり思ひ倦《う》じ對へる山の秋の日のいろ
 一葉だに搖れず大樹は夕ぐれのわが泣く窓に押しせまり立つ
      旅ゆきてうたへる歌をつぎにまとめたり。思ひ出にたよりよかれとて
 山の雨しばしば軒の椎の樹にふりきてながき夜の灯《ともし》かな(百草山にて)
 立川の驛の古茶屋さくら樹の紅葉のかげに見おくりし子よ
 旅人は伏目にすぐる町はづれ白壁ぞひに咲く芙蓉かな(日野にて)
 家につづく有明白き萱原に露さはなれや鶉しば啼く
 あぶら灯《び》やすすき野はしる雨汽車にほうけし顔の十あまりかな
(160) 戸をくれば朝寢の人の黒かみに霧ながれよる松なかの家(三首御嶽にて)
 霧ふるや細目にあけし障子よりほの白き秋の世の見ゆるかな
 霧白ししとしと落つる竹の葉の露ひねもすや月となりにけり
 野の坂の春の木立の葉がくれに古き宿《しゆく》見ゆ武藏の青梅《あうめ》
 なつかしき春の山かな山すそをわれは旅びと君おもひ行く(五首高尾山にて)
 思ひあまり宿の戸押せば和やかに春の山見ゆうち泣かるかな
 地《つち》ふめど草鞋聲なし山ざくら喚きなむとする山の靜けさ
 山静けし峰《を》の上《へ》にのこる春の日の夕かげ淡しあはれ水の聲
 春の夜の匂へる闇のをちこちによこたはるなり木《こ》の芽ふく山
 汽車過ぎし小野の停車場春の夜を老いし驛夫のたたずめるあり
 日のひかり水のひかりの一いろに濁れるゆふべ大利根わたる
(161) 大河よ無限に走れ秋の日の照る國ばらを海に入るなかれ
 松の實や楓の花や仁和寺の夏なほわかし山ほととぎす(京都にて)
 けふもまたこころの鉦をうち鳴しうち鳴しつつあくがれて行く(九首中國を巡りて)
 海見ても雲あふぎてもあはれわがおもひはかへる同じ樹蔭に
 幾山河越えさり行かば寂しさのはてなむ國ぞ今日も旅ゆく
 峽縫ひてわが汽車走る梅雨晴の雲さはなれや吉備の山々
 青海はにほひぬ宮の古ばしら丹なるが淡《あは》う影うつすとき(宮島にて)
 はつ夏の山のなかなるふる寺の古塔のもとに立てる旅びと(山口の瑠璃光寺にて)
 桃柑子芭蕉の實賣る磯街の露店《よみせ》の油煙《ゆえん》青海にゆく(下の關にて)
 あをあをと月無き夜《よる》を滿ちきたりまたひきてゆく大海の潮(日本海を見て)
 旅ゆけば瞳|痩《や》するかゆきずりの女《をんな》みながら美《よ》からぬはなし
(162) 安藝の國越えて長門にまたこえて豐の國ゆき杜鵑聽く(二首耶馬溪にて)
 ただ戀しうらみ怒りは影もなし暮れて旅籠の欄に倚るとき
 白つゆか玉かとも見よわだの原青きうへゆき人戀ふる身を(二十三頸南日向を巡りて)
 潮光る南の夏の海走り日を仰げども愁ひ消《け》やらず
 わが涙いま自由《まま》なれや雲は照り潮ひかれる帆柱のかげ
 檳榔樹の古樹《ふるき》を想へその葉蔭海見て石に似る男をも(日向の青島より人へ)
 山上《さんじやう》や目路のかぎりのをちこちの河光るなり落日の國(日向大隅の界にて)
 椰子の實を拾ひつ秋の海黒きなぎさに立ちて日にかざし見る(三首都井岬にて)
 あはれあれかすかに聲す拾ひつる椰子のうつろの流れ實吹けば
 日向の國都井の岬の青潮に入りゆく端《はな》に獨り海見る
 黄昏の河を渡るや乘合の牛等鳴き出《で》ぬ黄の山の雲
(163) 醉《ゑ》ひ痴れて酒袋如すわがむくろ砂に落ち散り青海を見る
 船はてて上れる國は滿天の星くづのなかに山匂ひ立つ(日向の油津にて)
 山聳ゆ海よこたはるその間《あひ》に狹しま白し夏の砂原
 遊君《いうくん》の紅《あか》き袖ふり手をかざしをとこ待つらむ港早や來よ
 南國の港のほこり遊君の美なるを見よと帆はさんざめく
 大うねり風にさからひ青うゆくそのいただきの白玉の波
 大隅の海を走るや乘合の少女が髪のよく匂ふかな
 船醉のうら若き母の胸に倚り海をよろこぶやよみどり兒よ
 落日や白く光りて飛魚は征矢降るごとし秋風の海
 港口夜の山そびゆわが船のちひさなるかな沖さして行く
 帆柱ぞ寂然としてそらをさす風死せし白晝《ひる》の海の青さよ
(164) かたかたとかたき音して夜更けし沖の青なみ帆のしたにうつ
 風ひたと落ちて眞鐵《まがね》の青空ゆ星ふりそめぬつかれし海に
 山かげの闇に吸はれてわが船はみなとに入りぬ汽笛《ふえ》長う鳴る
 夕さればいつしか雲は降《くだ》り來て峯に寢《ぬ》るなり日向高千穂
 秋の蝉うちみだれ鳴く夕山の樹蔭に立てば雲のゆく見ゆ
 樹間《こま》がくれ見居れば阿蘇の青烟かすかにきえぬ秋の遠空(以下七首阿蘇にて)
 山鳴に馴れては月の白き夜をやすらに眠る肥の國人よ
 ひれ伏して地の底とほき火を見ると人の五つが赤かりし面《つら》
 麓野《ふもとの》の國にすまへる萬人を軒に立たせて阿蘇荒るるかな
 風さやさや裾野の秋の樹にたちぬ阿蘇の月夜のその大きさや
 むらむらと中ぞら掩ふ阿蘇山のけむりのなかの黄なる秋の日
(165) 秋のそらうらぶれ雲は霧のごと阿蘇につどひて凪ぎぬる日なり
 海の上《へ》の空に風吹き陸《くが》の上の山に雲居り日は帆のうへに(六首周防灘にて)
 やや赤む暮雲を遠き陸《くが》の上《へ》にながめて秋の海馳するかな
 落日のひかり海去り帆をも去りぬ死せしか風はまた眉に來ず
 夕雲のひろさいくばくわだつみの黒きを掩ひ日を包み燃ゆ
 雲は燃え日は落つ船の旅びとの代赭の面《つら》のその沈黙よ
 水に棲み夜《よ》光る蟲は青やかにひかりぬ秋の海匂ふかな
 津の國は酒の國なり三夜二夜飲みて更なる旅つづけなむ
 杯を口にふくめば千すぢみな髪も匂ふか身はかろらかに
 白雲のかからぬはなし津の國の古塔に望む初秋の山(四天王寺に登りて)
 山行けば青の木草に日は照れり何に悲しむわがこころぞも(箕面山にて)
(166) 泣眞似の上手なりける小女のさすがなりけり忘られもせず
 浪華女に戀すまじいぞ旅人よただ見て通れそのながしめを
 われ車に友は柱に一語二語醉語かはして別れ去りにけり(大阪に葩水と別る)
 醉うて入り醉うて浪華を出でて行く旅びとに降る初秋の雨
 昨日飲みけふ飲み酒に死にもせで白痴笑《こけわら》ひしつつなほ旅路ゆく
 住吉は青のはちす葉白の砂秋たちそむる松風の聲
 秋雨の葛城越えて白雲のただよふもとの紀の國を見る
 火事の火の光宿して夜の雲は赤う明りつ空流れゆく(二首和歌山にて)
 町の火事雨雲おほき夜の空にみだれて鷺の啼きかはすかな
 ちんちろり男ばかりの酒の夜をあれちんちろり鳴きいづるかな(紀の國青岸にて)
 紀の川は海に入るとて千本の松のなかゆくその瑠璃の水
(167) 麓には潮ぞさしひく紀三井寺木の間の塔に青し古鐘
 一の札所第二の札所紀の國の番の御寺《みてら》をいざ巡りてむ
 粉河寺遍路の衆のうち鳴らす鉦々きこゆ秋の樹の間に
 鉦々のなかにたたずみ旅びとのわれもをろがむ秋の大寺
 旅人よ地に臥せ空ゆあふれては秋山河にいま流れ來る(葛城山にて)
 鐘おはき古りし町かな折しもあれ旅籠に着きしその黄昏に(二首奈良にて)
 鐘斷えず麓におこる嫩草の山にわれ立ち白晝《ひる》の雲見る
 雲やゆくわが地やうごく秋眞晝鐘も鳴らざる古寺にして(二首法隆寺にて)
 秋眞晝ふるき御寺にわれ一人立ちぬあゆみぬ何のにほひぞ
 みだれ降る大ぞらの星そのもとの山また山の闇を汽車行く(伊賀を越ゆ)
 峽出でて汽車海に添ふ初秋の月のひかりのやや青き海(駿河を過ぐ)
(168) 草ふかき富士の裾野をゆく汽車のその食堂の朝の葡萄酒
 晩夏《おそなつ》の光しづめる東京を先づ停車場に見たる寂しさ
                            ――旅の歌をはり――
 舌つづみうてばあめつちゆるぎ出づをかしや瞳はや醉ひしかも
 とろとろと琥珀の清水津の國の銘酒|白鶴《はくづる》瓶《へい》あふれ出づ
 灯ともせばむしろみどりに見ゆる水酒と申すを君斷えず酌ぐ
 くるくると天地めぐるよき顔も白の瓶子も醉ひ舞へる身も
 酌とりの玉のやうなる小むすめをかかへて舞はむ青だたみかな
 女ども手うちはやして泣上戸泣上戸とぞわれをめぐれる
 こは笑止八重山ざくら幾人《いくにん》の女のなかに醉ひ泣く男
 あな可愛ゆわれより早く醉ひはてて手枕《たまくら》のまま彼女ねむるなり
(169) 睡れるをこのまま盗みわだつみに帆あげてやがて泣く顔を見む
 醉ひはててはただ小をんなの帶に咲く緋の大輪の花のみが見ゆ
 醉ひはてては世に憎きもの一も無しほとほとわれもまたありやなし
 ああ醉ひぬ月が嬰子《やや》生む子守唄うたひくれずやこの膝にねむ
 君が唄ふ『十三ななつ』君はいつそれになるかや嬰子うむかやよ
 渇きはて咽喉は灰めく醉ざめに前髪の子がむく林檎かな
 酒の毒しびれわたりしはらわたにあなここちよや沁む秋の風
 石ころを蹴り蹴りあるく秋の街落日黄なり醉醒《ゑひざめ》の眼に
 もの見れば燒かむとぞおもふもの見れば消《け》なむとぞ思ふ弱き性《さが》かな
 黒かみはややみどりにも見ゆるかな灯にそがひ泣く秋の夜のひと
 立ちもせばやがて地にひく黒髪を白もとゆひに結ひあげもせで
(170) 君泣くか相むかひゐて言もなき春の灯かげのもの靜けさに
 かりそめに病めばただちに死をおもふはかなごこちのうれしき夕(四首病床にて)
 死ぬ死なぬおもひ迫る日われと身にはじめて知りしわが命かな
 日の御神《みかみ》氷のごとく冷えはてて空に朽ちむ日また生れ來む
 夙く窓押し皐月のそらのうす青を見せよ看護婦《みとりめ》胸せまり來ぬ
 
      女ありき、われと共に安房の渚に渡りぬ。われその傍らにありて夜も晝も斷えず歌ふ。明治四十年早春
 
 戀ふる子等かなしき旅に出づる日の船をかこみて海鳥の啼く
 山ねむる山のふもとに海ねむるかなしき春の國を旅ゆく
 春や白晝《ひる》日はうららかに額《ぬか》にさす涙ながして海あふぐ子の
 岡を越え眞白き春の海邊《かいへん》のみちをはしれりふたつの人車《くるま》
(171) 海哀し山またかなし醉ひ痴れし戀のひとみにあめつちもなし
 海死せりいづくともなき遠き音《ね》の空にうごきて更けし春の日
 ああ接吻海そのままに日は行かず鳥|翔《ま》ひながら死《う》せ果てよいま
 接吻《くちづ》くるわれらがまへにあをあをと海ながれたり神よいづこに
 山を見よ山に日は照る海を見よ海に日は照るいざ唇《くち》を君
 いつとなうわが肩の上にひとの手のかかれるがあり春の海見ゆ
 聲あげてわれ泣く海の濃《こ》みどりの底に聲ゆけつれなき耳に
 わだつみの白晝《ひる》のうしほの濃みどりに額うちひたし君戀ひ泣かむ
 忍びかに白鳥啼けりあまりにも凪ぎはてし海を怨ずるがごと
 君笑めば海はにほへり春の日の八百潮どもはうちひそみつつ
 わがこころ海に吸はれぬ海すひぬそのたたかひに瞳《め》は燃ゆるかな
(172) こころまよふ照る日の海に中ぞらにうれひねむれる君が乳《ち》の邊《へ》に
 眼をとぢつ君樹によりて海を聽くその遠き音になにのひそむや
 砂濱の丘をくだりて木の間ゆくひとのうしろを見て涙しぬ
 ともすれば君口無しになりたまふ海な眺めそ海にとられむ
 君かりにかのわだつみに思はれて言ひよられなばいかにしたまふ
 涙もつ瞳つぶらに見はりつつ君かなしきをなほ語るかな
 君さらに笑みてものいふ御頬《みほ》の上にながるる涙そのままにして
 このごろの寂しきひとに強ひむとて葡萄の酒をもとめ來にけり
 松透きて海見ゆる窓のまひる曰にやすらに睡る人の髪吸ふ
 闇冷えぬいやがうへにも砂冷えぬ渚に臥して黒き海聽く
 闇の夜の浪うちぎはの明るきにうづくまりゐて蒼海を見る
(173) 空の曰に浸みかも響く青々と海鳴るあはれ青き海鳴る
 海を見て世にみなし兒のわが性《さが》は涙わりなしほほゑみて泣く
 白鳥は哀しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ
 夜半の海|汝《な》はよく知るや魂《たま》一つここに生きゐて汝が聲を聽く
 かなしげに星は降るなり戀ふる子等こよひはじめて添寢しにける
 ものおほく言はずあちゆきこちらゆきふたりは哀し貝をひろへる
 渚ちかく白鳥《しらとり》群れて啼ける日の君がかほより寂しきはなし
 浪の寄る眞黒き巖にひとり居て春のゆふべの暮れゆくを見る
 夕海《ゆふうみ》に鳥啼く闇のかなしきにわれら手とりぬあはれまた啼く
 鳥行けりしづかに白き羽のしてゆふべ明るき海のあなたへ
 夕やみの磯に火を焚く海にまよふかなしみどもよいざよりて來よ
(174) 春の海ほのかにふるふ額《ぬか》伏せて泣く夜のさまの誰が髪に似む
 ことあらば消なむとやうにわが前にひたすらわれをうかがふ君よ
 君はいまわが思ふままよろこびぬ泣きぬあはれや生くとしもなし
 君よ汝《な》が若き生命《いのち》は眼をとぢてかなしう睡るわが掌《たなぞこ》に
 わがまへに海よこたはり日に光るこのかなしみの何にをののく
 海岸《うみぎし》の松青き村はうらがなし君にすすめむ葡萄酒の無し
 わがうたふかなしき歌やきこえけむゆふべ渚に君も出で來ぬ
 くちづけの終りしあとのよこ顔にうちむかふ晝の寂しかりけり
 いかなれば戀のはじめに斯くばかり寂しきことをおもひたまふぞ
 伏目して君は海見る夕闇のうす青の香に髪のぬれずや
 日は海に落ちゆく君よいかなれば斯くは悲しきいざや祷らむ
(175) 白晝《ひる》さびし木の間に海の光る見て眞白き君が額《ぬか》のうれひよ
 「木の香にや」「いな海ならむ樹間《こま》がくれかすかに浪の寄る音《ね》きこゆる」
 幾千の白羽みだれぬあさ風にみどりの海へ日の大ぞらへ
 いづくにか少女《をとめ》泣くらむその眸《まみ》のうれひ湛へて春の海凪ぐ
 海なつかし君等みどりのこのそこにともに來ずやといふに似て凪ぐ
 直吸ひに日の光《かげ》吸ひてまひる日の海の青燃ゆわれ巖にあり
 海の聲そらにまよへり春の日のその聲のなかに白鳥の浮く
 海あをし青一しづく日の瞳《まみ》に點じて春のそら匂はせむ
 春のそら白鳥まへり嘴《はし》紅《あか》しついばみてみよ海のみどりを
 燐寸《まち》すりぬ海のなぎさに倦み光る晝の日のもと青き魚燒く
 春の河うす黄に濁り音もなう潮滿つる海の朝凪に入る
(176) 暴風雨《しけ》あとの磯に日は冴ゆなにものに驚かされて犬永う鳴く
 白晝《ひる》の海古びし青き糸のごとたえだえ響く寂しき胸に
 月つひに吸はれぬ曉《あけ》の蒼穹《あおぞら》の青きに海の音とほく鳴る
 手をとりてわれらは立てり春の日のみどりの海の無限の岸に
 春の海のみどりうるみぬあめつちに君が髪の香満ちわたる見ゆ
 御《み》ひとみは海にむかへり相むかふわれは夢かも御ひとみを見る
 白き鳥ちからなげにも春の日の海をかけれり君よ何おもふ
 眞晝時青海死にぬ巖かげにちさき貝あり妻《め》をあさり行く
 夕ぐれの海の愁ひのしたたりに浸《ひた》されて瞳《め》は遠き沖見る
 蒼ざめし額《ひたひ》にせまるわだつみのみどりの針に似たる匂ひよ
 海明り天《そら》にえ行かず陸《くが》に來ず闇のそこひに青うふるへり
(177) ふと袖に見いでし人の落髪を脣《くち》にあてつつ朝の海見る
 ひもすがら斷えなく窓に海ひびく何につかれて君われに倚る
 海女の群からすのごときなかにゐて貝を買ふなりわが戀人は
 渚なる木の間ゆきゆき摘みためし君とわが手の四五の菜の花
 くちづけは永かりしかなあめつちにかへり來てまた黒髪を見る
 春の海さして船行く山かげの名もなき港晝の鐘鳴る
                    ――以上――
 窓ひとつ朧ろの空へ灯をながす大河沿の春の夜の街
 鐘鳴り出づ落日《いりひ》のまへの擾亂のやや沈みゆく街のかたへに
 仁和寺の松の木の間をふと思ふうらみつかれし春の夕ぐれ
 琴彈くか春ゆくほどにもの言はぬくせつきそめし夕ぐれの人
(178) 大ぞらの神よいましがいとし兒の二人戀して歌うたふ見よ
 君を得ぬいよいよ海の涯なきに白帆を上げぬ何のなみだぞ
 あな沈む少女の胸にわれ沈むああ聽けいづく悲しめる笛
 みだれ射よ雨降る征矢をえやは射るこの靜ごころこの戀ごころ
 吹き鳴らせ白銀の笛春ぐもる空裂けむまで君死なむまで
 君笑むかああやごとなし君がまへに戀ひ狂ふ子の狂ひ死ぬ見て
 山動け海くつがへれ一すぢの君がほつれ毛ゆるがせはせじ
 みじろがでわが手にねむれあめつちになにごともなし何の事なし
 われら兩人《ふたり》相添うて立つ一點に四方《よも》のしじまの吸はるるを聽く
 思ひ倦みぬ毒の赤花さかづきにしぽりてわれに君せまり來よ
 矢繼早火の矢つがへてわれを射よ滿ちて腐らむわが胸を射よ
(179) 生ぬるき戀の文かな筆もろともいざ火に燒かむ爐のむらむら火
 胸せまるあな胸せまる君いかにともに死なずや何を驚く
 千代八千代棄てたまふなと言ひすててつとわが手枕きはや睡るかな
 針のみみそれよりちさき火の色の毒花咲くは誰が脣ぞ
 ひたぶるに木枯すさぶ斯る夜を思ひ死なむずわが愚鈍見よ
 こよひまた死ぬべきわれかぬれ髪のかげなる眸《まみ》の滿干る海に
 いざこの胸千々に刺し貫き穴《す》だらけのそを玩べ春の夜の女
 「女なればつつましやかに」「それ憎しなどわれ燒かう火の言葉せぬ」
 黒攣に毒あるかをりしとしとにそそぎて侍れ花ちるゆふべ
 悲し悲し火をも啖ふと戀ひくるひ斯くやすらかに抱かれむこと
 戀ひ狂ひからくも獲ぬる君いだき恍《ほう》けし顔の驚愕《おどろき》を見よ
(180) とこしへに逃ぐるか戀よとこしへにわれ若うして追はむ汝《いまし》を
 紅梅のつめたきほどを見たまへとはや馴れて君笑みて脣《くち》よす
 涙さびし夢も見ぬげにやすらかに寢みだれ姿われに添ふ見て
 春は來ぬ戀のほこりか君を獲てこの月ごろの悲しきなかに
 夕ぐれに音《ね》もなうゆらぐさみどりの柳かさびしよく君は泣く
 床に馴れ羽おとろへし白鳥のかなしむごとくけふも添寢す
 疑ひの野火しめじめと胸を這ふ風死せし夜を消えみ消えずみ
 君かりにその黒髪に火の油そそぎてもなほわれを捨てずや
 髪を燒けその眸《まみ》つぶせ斯くてこの胸に泣き來よさらば許さむ
 微笑《ゑみ》鋭しわれよりさきにこの胸に棲みしありやと添臥しの人
 悲しきか君泣け泣くをあざわらひあざわらひつつわれも泣かなむ
(181) 燃え燃えて野火いつしかに消え去りぬ黒めるあとの胸の原見よ
 きらばよし別るるまでぞなにごとの難きか其處に何のねたまむ
 毒の木に火をやれ赤きその炎ちぎりて投げむよく睡《ぬ》る人に
 撒きたまへ灰を小砂利をわが胸にその荒るる見て手を拍ちたまへ
 手枕《たまくら》よ髪のかをりよ添ひぶしにわかれて春の夜を幾つ寢し
 別れ居の三夜《みよ》は二夜《ふたよ》はさこそあれかがなひて見よはや十日經む
 思ふまま怨言《かごと》つらねて彼女《かれ》がまへに泣きはえ臥さで何を嘲《あざ》むや
 君よなどさは愁れたげの瞳して我がひとみ見るわれに死ねとや
 ただ許せふとして君に飽きたらず忌む日もあれどいま斯くてあり
 あらら可笑し君といだきて思ふこといふことなきにこの涙はや
 毒の香《かう》君に焚かせてもろともに死なばや春のかなしき夕
(182) あめつちに乾《から》びて一つわが脣も死して動かず君見ぬ十日
 事もなういとしづやかに暮れゆきぬしみじみ人の戀しきゆふべ
 かへれかへれ怨《ゑ》じうたがひに倦みもせばいざこの胸へとく歸り來よ
 あなあはれ君もいつしか眼《まみ》盲ひぬわれも盲人《めしひ》の相いだき泣く
 この手紙赤き切手をはるにさへこころときめく哀しきゆふべ
 さらば君いざや別れむわかれてはまたあひは見じいざさらばさらば
 君いかにかかる靜けき夕ぐれに逝《ゆ》きなば人のいかに幸あらむ
 夕ぐれの靜寂《しじま》しとしと降る窓にふと合ひぬ脣《くち》のいつまでとなく
 戀しなばいつかは斯る憂《うき》を見むとおもひし咋《きそ》のはるかなるかな
 わりもなう直《ひた》よろこびてわが胸にすがり泣く子が髪のやつれよ
 心ゆくかぎりをこよひ泣かしめよものな言ひそね君見むも憂し
(183) 添臥に馴れしふたりの言《こと》も無うかなしむ家に櫻咲くなり
 「君よ君よわれ若し死なばいづくにか君は行くらむ」手をとりていふ
 春哀し君に棄てられはるばると行かばや海のあなたの國へ
 知らず知らずわが足鈍る君も鈍る戀の木立の靜寂のなかに
 怨むまじや性《さが》は清水のさらさらに淺かる君をなにうらむべき
 戀人よわれらはさびし青ぞらのもとに涯なう野の燃ゆるさま
 われ歌をうたへりけふも故わかぬかなしみどもにうち追はれつつ
 みな人にそむきてひとりわれゆかむわが悲しみはひとにゆるさじ
 君見ませ泣きそぼたれて春の夜の更けゆくさまを眞黒《まくろ》き樹々を
 雪暗うわが家つつみぬ赤々と炭燃ゆる夜の君が髪の香《か》
 然なり先づ春消えのこる松が枝の白の深雪《みゆき》の君とたたへむ
(184) 君來ずばこがれてこよひわれ死なむ明日は明後日《あさて》は誰が知らむ日ぞ
 泣きながら死にて去にけりおん胸に顔うづめつつ怨みゐし子は
 おもひみよ青海なせるさびしさにつつまれゐつつ戀ひ燃ゆる身を
 戸な引きそ戸の面《も》は今しゆく春のかなしさ滿てり來よ何か泣く
 狂ひつつ泣くと寢ざめのしめやけき涙いづれが君は悲しき
 鳥は籠君は柱にしめやかに夕日を浴びぬなど啼かぬ鳥
 煙たつ野ずゑの空へ野樹《のぎ》いまだ芽ふかぬ春のうるめるそらへ
 はらはらに櫻みだれて散り散れり見ゐつつ何のおもひ湧かぬ日
 蛙鳴く耳をたつればみんなみにいなまた西に雲白き晝
 朱の色の大鳥あまた浮きいでよいま晩春《ゆくはる》の日は空に饐《す》ゆ
 あな寂し縛められて黙然と立てる巨人の石|彫《きざ》まばや
(185) つかれぬる胸に照り來てほのかをるゆく春ごろの日のにほひかな
 田のはづれ林のうへのゆく春の雲の靜けさ蛙鳴くなり
 汪洋と濁れる河のひたながれ流るるを見て眼をひらき得ず
 醉ひはてぬわれと若さにわが戀にこころなにぞも然かは悲しむ
 聳やげる皐月のそらの樹の梢《うれ》に幾すぢ青の絲ひくか風
 わくら葉か青きが落ちぬ水無月《みなつき》の死しぬる白晝《ひる》の高樫の樹ゆ
 鷺ぞ啼く皐月の朝の淺みどり搖れもせなくや鷺空に啼く
 水ゆけり水のみぎはの竹なかに白鷺啼けり見そなはせ神
 いと幽《かす》けく濃青《こあを》の白日《ひる》の高ぞらに鳶啼くきこゆ死にゆくか地《つち》
 一すぢの絲の白雪富士の嶺に殘るが哀し水無月の天《そら》
 風わたる見よはつ夏のあを空を青葉がうへをやよ戀人よ
(186) 山を見き君よ添寢の夢のうちに寂しかりけり見も知らぬ山
 人棲まで樹々のみ生ひしかみつ代のみどり照らせし日か天をゆく
 われ驚くかすかにふるふわだつみの青きを眺めわが脉搏に
 掟《おき》てられて人てふものの爲すべきをなしつつあるに何のもだえぞ
 地のうへに生けるものみな死にはてよわれただ一人日を仰ぎ見む
 われ敢て手もうごかさず寂然とよこたはりゐむ燃えよ悲しみ
 われ死なばねがはくはあとに一點のかげもとどめで日にいたりてむ
 雲見れば雲に木見れば木に草にあな悲しみのかげ燃えわたる
 わが胸の底の悲しみ誰知らむただ高笑ひ空《くう》なるを聞け
 むしろわれけものをねがふ思ふまま地の上這ひ得るちからをねがふ
 かなしみは死にゆきただち神にゆきただひとすぢに久遠に走る
(187) あれ行くよ何の悲しみ何の悔い犬にあるべき尾をふりて行く
 天《そら》の日に向ひて立つにたへがたしいつはりにのみ滿ちみてる胸
 山の白晝《ひる》われをめぐれる秋の樹の不斷の風に海の青憶ふ
 月光の青のうしほのなかに浮きいや遠ざかり白鷺の啼く
 月の夜や君つつましうねてさめず戸の面《も》の木立風|眞白《ましろ》なり
 十五夜の月は生絹《きぎぬ》の被衣《かつぎ》して男をみなの寢し國をゆく
 白晝のごと戸の面は月の明う照るここは灯《ひ》の國君とぬるなり
 君|睡《ぬ》れば灯の照るかぎりしづやかに夜は匂ふなりたちばなの花
 寢すがたはねたし起すもまたつらしとつおいつして蟲を聽くかな
 ふと蟲の鳴く音たゆれば驚きて君見る君は美しう睡《ぬ》る
 君ぬるや枕のうへに摘まれ來し秋の花ぞと灯は匂《にほ》やかに
(188) 美しうねむれる人にむかひゐてふと夜ぞかなし戸に月や見む
 眞晝日のひかりのなかに燃えさかる炎か哀しわが著さ燃ゆ
 狂ひ鳥はてなき青の大空に狂へるを見よくるへる女
 玉ひかる純白《ましろ》の小鳥たえだえに胸に羽うつ寂しき眞晝
 秋の風木立にすさぶ木のなかの家の灯かげにわが脈はうつ
 つとわれら黙しぬ灯かげ黒かみのみどりは匂ふ風過ぎて行く
 われらややに頭《かうべ》をたれぬ胸二つ何をか思ふ夜風遠く吹く
 風消えぬ吾《あ》もほほゑみぬ小夜の風聽きゐし君のほほゑむを見て
 つと過ぎぬすぎて聲なし夜の風いまか靜かに木の葉ちるらむ
 風落ちぬつかれて樹樹の凪ぎしづむ夜を見よ少女さびしからずや
 風凪ぎぬ松と落葉の木《こ》の叢《むら》のなかなるわが家いざ君よ寢む
 
(189)下卷
       自明治四十一年四月
       至同 四十三年一月
 
 いざ行かむ行きてまだ見ぬ山を見むこのさびしさに君は耐ふるや
 いづくよりいづくへ行くや大空の白雲《しらくも》のごと逝きし君はも(三首獨歩氏を悼む)
 仰ぎみる御そら庭の樹あめつちの冷《ひた》かなりや君はいまさず
 君ゆけばむらがりたちて靜けさの盡くるを知らず君追ふとおもふ
 みんなみの軒端のそらに日輪の日ごとかよふを見て君と住む
 おのづから熟《う》みて木《こ》の實も地に落ちぬ戀のきはみにいつか來にけむ
 女あり石に油をそそぎては石燒かむとす見るがさびしき
 いざ行かむ行方は知らねとどまらばかなしがりなむいざ君よ夙く
(194) ゆるしたまへ別れて遠くなるままにわりなきままにうたがひもする
 青草のなかにまじりて月見草《つきみぐさ》ひともと咲くをあはれみて摘む
 あめつちにわが跫音《あおと》のみ滿ちわたる夕の野なり月見草摘む
 ものをおもふ四方の山べの朝ゆふに雲を見れどもなぐさみもせず
 紅滴る桃の實かみて山すその林ゆきつつ火の山を見る
 蟲に似て高原《たかはら》はしる汽率のありそらに雲見ゆ八月の晝
 白雲《しらくも》のいざよふ秋の峰をあふぐちひさなるかな旅人どもは
 絲のごとくそらを流るる杜鵑《とけん》あり聲にむかひて涙とどまらず
 うつろなる命をいだき眞晝野にわが身うごめき杜鵑《ほととぎす》聽く
 ほととぎす聽きつつ立てば一滴《ひとたま》のつゆより寂しわれ生くが見ゆ
 わかれては十日ありえずあわただしまた碓氷越え君見むと行く
(195) 胸にただ別れ來しひとしのばせてゆふべの山をひとり越ゆなり
 瞰下せば霧に沈めるふもと野の國のいづくぞほととぎす啼く
 身じろがずしばしがほどを見かはせり旅のをとこと山の小蛇と
 秋かぜや碓氷のふもと荒れ寂びし坂本の宿《しゆく》の絲繰の唄(坂本に宿りて)
 まひる日の光のなかに白雲はうづまきてありふもと國原(妙義山にて)
 旅びとはふるきみやこの月の夜の寺の木の間を飽かずさまよふ(三首奈良にて)
 はたご屋へ杜の木の間の月の夜の風のあはれに濡れてかへりぬ
 伏しをがみふしをがみつつ階《きざはし》のゆふべのやみにきえよとぞおもふ
 大いなるうねりに船の載れるとき甲板にゐて君をおもひぬ(播磨灘にて)
 戀人のうまれしといふ安藝の國の山の夕日を見て海を過ぐ(瀬戸にて)
 とき折りに淫唄《ざれうた》うたふ八月の燃ゆる濱ゆき燃ゆる海見て(五首故郷にて)
(196) 峰あまた横ほり伏せる峽間の河越えむとし蜩を聞く
 父の髪母の髪みな白み來ぬ子はまた遠く旅をおもへる
 雲去ればもののかげなくうす赤き夕日の山に秋風ぞ吹く
 星くづのみだれしなかにおほどかにわが帆柱のうち搖ぐ見ゆ
 蓄音機ふとしも船の一室に起るがきこゆ海かなしけれ
 なにものに欺かれ來しやこの日ごろくやし腹立たし秋風を聽く
 秋立てどよそよそしくもなりにけり風は吹けども葉は落つれども
 とも思ひかくもおもへどとにかくにおもひさだめて幸祝《さちいはひ》せむ
 いねもせで明かせる朝の秋かぜの越えにまじりてすずめ子の啼く
 うらさびし盡きなく行ける大河のほとりにゆきて泣かむとぞおもふ
 闇うれしこよひ籬根のこほろぎの身にしむままに出でて聽くかな
(198) めぐりあひしづかに見守りなみだしぬわれとわれとのこころとこころ
 秋晴のまちに逢ひぬる乞食《こつじき》の爺《じい》の眸《まみ》見て旅をおもひぬ
 牛に似てものもおもはず茫然と家を出づれば秋かぜの吹く
 野菊ぞとさも媚びなよるすがたして野に咲く見れば行きもかねつる
 湯槽より窓のガラスにうつりたる秋風のなかの午後の日を見る
 落初めの桐のひと葉のあをあをとひろきがうへを夕風のゆく
 人の聲車のひびき滿ちわたるゆふべの街に落葉ちるなり
 秋かぜは空をわたれりゆく水はたゆみもあらず葦刈る少女
 足とめて聽けばかよひ來《く》河むかひ枯葦のなかの葦刈の唄
 魚釣るや晩秋河《おそあきかは》のながれ去り流れさる見つつ餌は取られがち
 わだの原生れてやがて消えてゆく浪のあをきに秋かぜぞ吹く
(199) 相むかひ世に消えがたきかなしみの秋のゆふべの海とわれとあり
 ゆふぐれの沖には風の行くあらむ屍《むくろ》のごとく松にもたるる
 音もなうゆふべの海のをちかたの闇のなかゆく白き波見ゆ
 行き行きて飽きなば旅にしづやかにかへりみもなく死なましものを
 ひたすらに君に戀しぬ白菊も紅葉も秋はもののさびしく
 病みぬれば世のはかなさをとりあつめ追はるるがごと歌につづりぬ
 あれ見たまへこのもかのもの物かげをしのびしのびに秋かぜのゆく
 少女子のむねのちひさきかなしみに溺れてわれは死にはててけり
 君見れば獣のごとくさいなみぬこのかなしさをやるところなみ
 なほ飽かずいやなほあかず苛みぬ思ふままなるこの女ゆゑ
 長椅子にいねて初冬午後の日を浴ぶるに似たる戀づかれかな
(200) なにものに追はれ引かれて斯く走るおもしろきこと世に一もなし
 この林檎つゆしたたらばありし日のなみだに似むとわかき言いふ
 あはれそのをみなの肌《はだへ》しらずして戀のあはれに泣きぬれし日よ
 あはれ神ただあるがままわれをしてあらしめたまへ他《た》にいのる無し
 かかる時聲はりあげてかなしさを歌ふ癖ありきそれも止みつる
 わが住むは寺の裏部屋庭もせに白菊さけり見に來よ女《をんな》
 消えもせず戀の國より追はれ来し身にうつり香のあはくかなしく
 見かへるな戀の世界のたふとさは揺れずしづかに遠ざかりゆく
 世に最《もと》もあさはかなればとりわけて女の泣くをあはれとぞおもふ
 黒牛の大いなる面《つら》とむかひあひあるがごとくに生《い》くにつかれぬ
 ほこり湧く落日《いりひ》の街をひた走る電車のすみのひとりの少女
(201) 仰ぎみてこころぞながる街の樹の落日《いりひ》のそらにおち葉するあり
 われうまれて初めてけふぞ冬を知る落葉のこころなつかしきかな
 落ちし葉のひと葉のつぎにまた落ちむ黄なる一葉の待たるるゆふべ
 あめつちの靜かなる時そよろそよろ落葉をわたるゆふぐれの風
 早やゆくかしみじみ汝《なれ》にうちむかふひまもなかりきさらばさらば秋
 忍び來てしのびて去《い》にぬかの秋は盲目《めしひ》なりけりものいはずけり
 大河のうへをながるる一|葉《えふ》のおち葉のごとくものもおもはず
 わが妻よわがさびしさは青のいろ君がもてるは黄朽葉《きくちば》ならむ
 めぐりあひふと見交して別れけり落葉林《おちばばやし》のをとこと男(戸山が原にて)
 冬木立落葉のうへに晝寢《ひるね》してふと見しゆめのあはれなりしかな
 武藏野は落葉の聲に明け暮れぬ雲を帯びたる日はそらを行く
(202) ゆふまぐれ落葉のなかに見いでつる松かさの實を手にのせてみぬ
 かすかなる胸さわぎあり燃え燃えぬ黄葉《きば》ふりしきる冬がれの森
 いかにせむ胸に落葉の落ちそめてあるがごときをおもひ消しえず
 ふりはらひふりはらひつつ行くが見ゆ落葉がくれをひとりの男
 いと靜かにものをぞおもふ山白き十二月こそゆかしかりけれ
 梢より葉のちるごとくものおもひありとしもなきにむねのかなしき
 うす赤く木枯すさぶ落日《らくじつ》の街のほこりのなかにおもはく
 窓あくればおもはぬそらにしらじらと富士見ゆる家に女すまひき
 日向ぼこ側にねむれる犬の背を撫でつつあればさびしうなりぬ
 近きわたり寺やたづねてめぐらなむ女を棄ててややさぴしかり
 別るる日君もかたらずわれ言はず雪ふる午後の停車場にあり
(203) 別るとて停車場あゆむうつむきのひとの片手にヴイオロンの見ゆ
 別れけり殘るひとりは停車場の群集《ぐんじゆ》のなかに口笛をふく
 大鳥の空を行くごとさやりなき戀するひとも斯くや嘆かむ
 男といふ世に大いなるおごそかのほこりに如かむかなしみありや
 ほのかにもおもひは痛しうす青の一月《むつき》のそらに梅つぼみ來ぬ
 うきことの限りも知らずふりつもるこのわかき日をいざや歌はむ
 清ければ若くしあればわがこころそらへ去《い》なむとけふもかなしむ
 ゆめのごとくありのすさぴの戀もしきよりどころなくさびしかりしゆゑ
 枯れしのち最《もつと》もあはれ深かるは何花ならむなつかしきかな
 男なれば歳二十五のわかければあるほどのうれひみな來よとおもふ
 獣《けだもの》の病めるがごとくしづやかに運命《さため》のあとに從ひて行く
(204) 爪延びぬ髪も延び來ぬやすみなく人にまじりてわれも生くなり
 狂ひ鳥《どり》日を追へるよりあはれなり行方も知らずひとの迷へる
 あさましき歌のみおほくなりにけりものの終りのさびしきなかに
      一月より二月にかけ安房の渚に在りき。その頃の歌六十九首
 ふね待ちつつ待合室の雜沓に海をながめて卷たばこ吹く
 おもひ屈《く》し古ぼろ船に魚買の群とまじりて房州へ行く
 物ありて追はるるごとく一|人《にん》の男きたりぬ海のほとりに
 病院の玻璃戸に倚れば海こえておぽろ夜伊豆の山燒くる見ゆ
 まつ風の明るき聲のなかにして女をおもひ青海を見る
 なにほどのことにやあらむ夜もいねで海のはとりに人の嘆くは
 海に來《き》ぬ思ひあぐみてよるべなき身はいづくにも捨てどころなく
(205) われひとり多く語りてかへり來《き》ぬ月照る松のなかの家より
 ともすれば咯《は》くに馴れぬる血なればとこともなげにも言ひたまふかな
 うす青くけふもねがての枕べに這ひまつはれり海のひびきは
 藻草焚く青きけむりを透きて見ゆ裸體《はだか》の海女と暮れゆく海と
 われよりもいささか高きわか松の木かげに立ちて君をおもへり
 朝起きて煙草しづかにくゆらせるしばしがほどはなにも思はず
 日は日なりわがさびしさはわがのなり白晝《まひる》なぎさの砂山に立つ
 ここよりは海も見えざる砂山のかげの日向《ひなた》にものをこそおもへ
 いづかたに行くべきわれはここに在りこころ落ち居よわれよ不安よ
 風落ちて渚木立に滿ちわたる海のひびきの白晝《ひる》のかなしみ
 きさらぎや海にうかびてけむりふく寂しき島のうす霞《がす》みせり
(206) 火の山にのぽるけむりにむかひゐてけふもさびしきひねもすなりき
 大島の山のけむりのいつもいつも斷えずさびしきわがこころかな
 晴れわたる大ぞらのもと火の山のけむりはけふも白々《しらしら》とたつ
 夕やみに白帆を下す大船の港入りこそややかなしけれ
 けふは早や戀のほかなるかなしみに泣くべき身ともなりそめしかな
 少年のゆめのころもはぬがれたりまこと男のかなしみに入る
 あはれこころ荒《すさ》みぬればか眼も見えず海を見れども日を仰《あふ》げども
 人見れば忽ちうすき皮を着るわが性《さが》ゆゑの盡きぬさびしさ
 天地に享けしわが性やうやうに露はになり來《く》海に來ぬれば
 つひにわれ藥に飽きぬ酒こひし身も世もあらず飲みて飲み死なむ
 やまひには酒こそ一の毒といふその酒ばかり戀しきは無し
(207) あさましく酒をたうべて荒濱に泣き狂へども笑ふ人もなし
 愚かなり阿呆烏の啼くよりもわがかなしみをひとに語るは
 あめつちにわが殘し行くあしあとのひとつづつぞと歌を寂しむ
 わがこころ濁りて重きゆふぐれは軒のそとにも行くを好まず
 けふもまた變ることなきあら海の渚を同じわれがあゆめり
 安房の國海にうかびて冬知らず紅梅《こぞめ》白梅《しらうめ》いまさかりなり
 けふ見ればひとがするゆゑわれもせしをかしくもなき戀なりしかな
 海に行かばなぐさむべしとひた思ひこがれし海に來は來つれども
 耳もなく目なく口なく手足無きあやしきものとなりはてにけり
 眼覺めつるその一瞬にあたらしき寂しきわれぞふと見えにける
 心より歌ふならねばいたづらに聲のみまよふ宵をかなしむ
(208) 海あをくあまたの山等|横伏《よこぶ》せりわが泣くところいまだ盡くる無し
 やどかりの殻の如くに生くかぎりわれかなしみをえは捨てざらむ
 なつかしく靜かなるかな海の邊《へ》の松かげの墓にけふも來《きた》りぬ
 このごろは夜半にぞ月のいづるなりいねがての夜もよくつづくかな
 いつ知らず生《うま》れし風の月の夜の明けがたちかく吹くあはれなり
 物かげに息をひそめて大風の海に落ちゆく太陽を見る
 蜑が家に旅寢をすれば荒海の落日《いりひ》にむかひ風呂桶を据ゆ
 蜑が家に旅寢かさねてうす赤き榾《ほた》の火《ほ》かげに何をおもふか
 白々《しらしら》とかがやける浪ひかる砂|白晝《ひる》のなぎさに卷煙草吸ふ
 いたづらにものを思ふとくせづきてけふもさびしく渚をまよふ
 青海の鳥の啼くよりいや清くいやかなしきはいづれなるらむ
(209) これもまたあざむきならむ「いざ行かむ清きあなたへ」海のさそへど
 砂山の起き臥ししげきあら濱のひろきに出でて白晝《ひる》の海聽く
 いと清きもののあはれにおもひ入る海のほとりの明るき木立
 砂山のばらばら松の木のもとに冬の日あびてものをおもふは
 わがほどのちひさきもののかなしみの消えむともせず天地《あめつち》にあり
 好かざりし梅の白きをすきそめぬわが二十五歳《にじふご》の春のさびしさ
 おぽろおぼろ海の凪げる日海こえてかなしきそらに白富士の見ゆ
 海のあなたおぽろに富士のかすむ日は胸のいたみのつねに増しにき
 安房の國朝のなぎさのさざなみの音《ね》のかなしさや遠き富士見ゆ
 うちよせし浪のかたちの砂の上に殘れるあとをゆふべさまよふ
 思ひ倦めば晝もねむりて夢を見きなつかしかりき海邊の木立
(210) おぼろ夜や水田《みづた》のなかの一すぢの道をざわめき我等は海へ
 おぼろ夜のこれは夢かも渚にはちひきき音の斷えずまろべる
 おぼろ夜の多人数《たにんず》なりしそがなかのつかね髪《がみ》なりしひとを忘れず
 日は黄なり灘のうねりの濁れる日敗殘|者《もの》はまた海に浮く
 男なり爲すべきことはなしはてむけふもこの語に生きすがりぬる
 鳥が啼く濁れるそらに鳥が啼く別れて船の甲板に在り
 わかれ來て船の碇のくさり綱錆びしがうへに腰かけて居り(以上)
 このままに無口者となりはてむ言ふべきことはみな腹立たし
 おのづからこころはひがみ眼もひがみ暗きかたのみもとめむとする
 角もなく眼なき数《す》十の黒牛にまじりて行かばややなぐさまむ
 鉛なすおもきこころにゆふぐれの闇のふるよりかなしきは無し
(211) ただ一つ黒きむくろぞ眼には見ゆおもひ盡きては他にものもなし
 戀といふうるはしき名にみづからを欺くことにややつかれ來ぬ
 いふがごと戀に狂へる身なりしがこころたえせずさびしかりしは
 おほぞらのたそがれのかげにさそはれて涙あやふくなりそめしかな
 なにごともこころひとつにをさめおきてひそかに泣くに如くことは無し
 あはれまたわれうち棄ててわがこころひとのなさけによりゆかむとす
 戀もしき歌もうたひきよるべなきわが生命をば欺かむとて
 かりそめの己がなさけに神かけていのちささぐる見ればあはれなり
 つゆほども醉《ゑ》ふこと知らぬうるはしき女をけふももてあそべども
 いかにして斯くは戀ひにし狂ひにし不思議なりきとさびしく笑ふ
 わがいのち安かりしかなひとが泣きひとが笑ふにうち混りゐて
(212) 心いよよ獨りをおもふ身にしみていよいよひとのなさけしげきまま
 よるべなき生命《いのち》生命《いのち》のさびしさの滿てる世界にわれも生くなり
 うちたえて人の跫音《あおと》の無かるべき國のあらじや行きて死なまし
 斯くつねに胸のさわがばひろめ屋の太鼓うちにもならましものを
 行くところとざまかうざま亂れたるわかきいのちに悔を知らすな
 酒飲まば女いだかば足りぬべきそのさびしさかそのさびしさか
 沈丁花みだれて咲ける森にゆきわが戀人は死になむといふ
 大天地《おほあめつち》みどりさびしくひそまりぬ若き男のしづかに愁へる
 汚《けが》れせずわかき男のただひとりこのあめつちをいかに歩まむ
 青わだつみ遠くうしほのひびくより深しするどし男のうれへる
 水いろのうれひに滿てる世界なりいまわがおもひほしいままなる
(213) 降ると見えずしづかに青き雨ぞふるかなしみつかれ男ねむれる
 ニコライの大釣鐘の鳴りいでて夕さりくればつねにたづねき
 洒飲まじ煙草吸はじとひとすぢに妻をいだきに友のがれたり
 消息《せうそこ》もたえてひさしき落魄の男をいまだ覺えたまふや
 あらためてまことの戀をとめ行かむ來しかたあまりさびしかりしか
 戀なりししからざりしか知らねどもうきことしげきゆめなりしかな
 いざ行かむいづれ迷ひは死ぬるまでさめざらましをなにかへりみむ
 歸らずばかへらぬままに行かしめよ旅に死ねよとやりぬこころを
 安房の國海のなぎさの松かげに病みたまふぞとけふもおもひぬ
 海に沿ふ松の木の間の一すぢのみちを獨りしけふも歩むか
 君が住む海のほとりの松原の松にもたれて歌うたはまし
(214) 山ざくら咲きそめしとや君が病む安房の海邊の松の木の間に
 きはみなき青わだなかにさまよへる海のひびきかわれは生くなり
 思ひうみ斷えみ斷えずみわがいのち夜半にぞ風の流るるを聽く
 眞晝日の小野の落葉の木の間ゆきあるかなきかの春にかなしむ
 春は來ぬ落葉のままにしづかなる木立がくれをそよ風のふく
 憫《あは》れまれあはれむといふあさましき戀の終りに近づきしかな
 かなしきはつゆ掩ふなくみづからをうちさらしつつなほ戀ひわたる
 はや夙くもこころ覺めゐし女かとおもひ及ぶ日死もなぐさまず
 女なればあはれなればと甲斐もなくくやしくもげに許し來つるかな
 憫れぞとおもひいたれば何はおき先づたへがたく戀しきものを
 逃《のが》れゆく女を追へる大たはけわれぞと知りて眼眩むごとし
(215) 斯くてなほ女をかばふ反逆のこころが胸にひそむといふは
 なにか泣くみづからもわれを欺きし戀ならぬかは清く別れよ
 唯だ彼女《かれ》が男のむねのかなしみを解《げ》し得で去るをあはれにおもふ
 林なる鳥と鳥とのわかれよりいやはかなくも無事なりしかな
 千度び戀ひ千度びわかれてかの女けだしや泣きしこと無かるらむ
 別れゆきふりもかへらぬそのうしろ見居つつ呼ばず泣かずたたずむ
 鼻のしたながきをほこる汝とて斯くは清くも棄てられつるか
 別るとて冷えまさりゆく女にはわが泣くつらのいかにうつれる
 山奥にひとり獣《けもの》の死ぬるよりさぴしからずや戀の終りは
 やみがたき憤りより棄てむとす男のまへに泣くな甲斐無く
 かへりみてしのぶよすがにだもならぬ斯る別れをいつか思ひし
(216) 報いなき戀に甘んじ飽く知らず汝《なれ》をおもふと誰《たれ》か言はむや
 あさましく甲斐なく怨み狂へるは命を蛇に吸はるるに似る
 鳥去りてしろき波寄るゆふぐれの沖のいはほか戀にわかれき
 海のごとく男《を》ごころ滿たすかなしさを靜かに見やり歩み去りし子
 別れといふそれよりもいや耐へがたしすさみし我をいかに救はむ
 戀ひに戀ひうつつなかりしそのかみに寧ろわかれてあるべかりしを
 わがこころ女え知らず彼女《かれ》が持つあさきこころはわれ掬みもせず
 再びは見じとさけびしくちびるの乾かむとする時のさびしさ
 柱のみ殘れる寺の壞《くゑ》あとにまよふよりげにけふはさびしき
 いつまでを待ちなばありし日のごとく胸に泣き伏し詑ぶる子を見む
 詑びて來よ詑びて來よとぞむなしくも待つくるしさに男死ぬべき
(217) 別れてののちの互ひを思ふこと無かるべきなり固く誓はむ
 ふとしては何も思はずいとあさきかりそめごとに別れむとおもふ
 斯くばかりくるしきものをなにゆゑに泣きて詑びしを許さざりけむ
 おもひやるわが生《よ》のはてのいやはてのゆふべまでをか獨りなるらむ
 やうやうにこころもしづみ別れての後のあはれを味はむとす
 灯赤き酒のまどゐもをはりけりさびしき床《とこ》に寢にかへるべし
 冷笑すいのち死ぬべくここちよく涙ながしてわれ冷笑す
 死ぬばかりかなしき歌をうたはましよりどころなく身のなりてきぬ
 これはこのわが泣けるにはあらざらむあらめづらしや涙ながるる
 とりとめてなにかかなしき知らねどもとすればなみだ頬をながるる
 わがめぐりいづれさびしくよるべなきわかきいのちが數さまよへり
(218) さびしきはさびしきかたへさまよへりこのあはれさの耐へがたきかな
 花つみに行くがごとくにいでゆきてやがて涙にぬれてかへり來ぬ
 櫛とればこころいささか晴るるとてさびしや人のけふも髪をゆふ
 富士見えき海のあなたに春の日の安房の渚にわれら立てりき
 おぽろなる春の月の夜|落葉《らくえふ》のかげのごとくもわれのあゆめり
 まどかけをひきてねぬれば春の夜の月はかなしく窓にさまよふ
 首たかくあげては春のそらあふぎかなしげに啼く一羽の鵝鳥
 街なかの堀の小橋を過ぎむとしふと春の夜の風に逢ひぬる
 春の晝街をながしの三味《しやみ》がゆく二階の窓の黄なるまどかけ
 彼はよく妻ののろけをいふ男まことやすこし眼尻さがりたる
 春のそらそれとも見えぬ太陽のかげのほとりのうす雲のむれ
(219) ひややかに梢《うれ》に咲き滿ちしらじらと朝づけるほどの山ざくら花
 咲き滿てる櫻のなかのひとひらの花の落つるをしみじみと見る
 かなしめる櫻の聲のきこゆなり咲き滿てる大樹《おほき》白晝風もなし
 寢ざめゐて夜半に櫻の散るをきく枕のうへのさびしきいのち
 海《わだ》なかにうごける青の一點を眼にとこしへに死せしむるなかれ
 よるべなみまた懲りずまに萌えそめぬあはれやさびしこのこひごころ
 よるべなき生命生命が對ひ居のあはれよるべなき戀に落ちむとす
 はかなかりし戀のうちなるおもひでのすくなき數を飽かずかぞふる
 かへるべき時し來ぬるかうらやすしなつかしき地《つち》へいざかへらなむ
 知らざりきわが眼のまへに死《しに》といふなつかしき母のとく待てりしを
 をさな子のごとくひたすら流涕すふと死になむと思ひいたりて
(220) 海の邊《へ》に行きて立てどもなぐさまず死をおもへどもなほなぐさまず
 まことなり忘れゐたりきいざゆかむ思ふことなしに天《そら》のあなたへ
 根の知れぬかなしさありてなつかしくこころをひくに死にもかねたる
 死をおもへば梢はなれし落葉《らくえふ》の地《つち》にゆくよりなつかしきかな
 ゆふ海の帆の上《へ》に消えしそよ風のごとくにこの世|去《い》なむとぞおもふ
 追はるるごと驚くひまもあらなくに別れきつひに見ざるふたりは
 若うして傷のみしげきいのちなり蹌踉としてけふもあゆめる
 然れども時を經ゆかばいつ知らずこのかなしさをまた忘るべし
 ふたたびはかへり来ることあらざらむさなりいかでかまたかへり來む
 ほのかなるさびしさありて身をめぐるかなしみのはてにいまか來にけむ
 思ふまま涙ながせしゆふぐれの室《へや》のひとりは石にかも似む
(221) 死に隣る戀のきはみのかなしみの一すぢみちを歩み來《こ》しかな
 故わかずわれら別れてむきむきにさびしきかたにまよひ入りぬる
 見るかぎり友の顔みな死にはてしさびしきなかに獨りものをおもふ
 おぼろ夜の停車|場内《ばない》の雜沓に一すぢまじる少女の香《か》あり
 疲れはてて窓をひらけばおぼろ夜の嵐のなかになく蛙《かはづ》あり
 ゆく春の軒端に見ゆるゆふぞらの青のにごりに風のうごけり
 ちやるめらの遠音《とほね》や室《へや》にちらばれる蜜柑の皮の香を吐くゆふべ
 うしなひし夢をさがしにかへりゆく若きいのちのそのうしろかげ
 わが生命《いのち》よみがへり來ぬさびしさにわかくさのごとくうちふるへつつ
 わが行くは海のなぎさの一すぢの白きみちなり盡くるを知らず
 玻璃戸漏り暮春の月の黄に匂ふ室《へや》に疲れてかへり來しかな
(222) ガラス戸にゆく春の風をききながら獨り床敷きともしびを消す
 四月すゑ風みだれ吹くこよひなりみだれてひとのこひしき夜なり
 あめつちのみどり濃《こまか》き日となりぬ我等きそうてかなしみにゆく
 また見じと思ひさだめてさりげなく靜かにひとを見て別れ來ぬ
 寅晝の日そらに白みぬ春暮れて夏たちそむる嵐のなかに
 ただ一歩踏みもたがへて西ひがしわが生《よ》のかぎりとほく別れぬ
 うす濁る地平のはての蒼に見ゆかすかに夏のとどろける雲
 めぐりあひやがてただちに別れけり雨ふる四月すゑの九日
 ゆく春の嵐のみだれ雨のみだれしづかにひとと別るる日なり
 かなしみの歩みゆく音《ね》のかすかなり疲れし胸をとほくめぐりて
 しめやかに嵐みだるるはつ夏の夜《よる》のあはれを寢ざめながむる
(223) 夏を迎ふおもひみだれてかき濁りつかれしむねは歌もうたはず
 旅人あり街の辻なる煉瓦屋の根に行き倒れ死にはてにける
 いつしかに春は暮れけりこころまたさびしきままにはつ夏に入る
 空のあなた深きみどりのそこひよりさびしき時にかよふひびきあり
 あをあをと若葉萌えいづる森なかに一もと松の花咲きにけり
 底知らず思ひ沈みて眞晝時一|樹《じゆ》の青のたかきにむかふ
 大木《たいぼく》の幹の片へのましろきにこぽれぬる日の夏のかなしみ
 窓ちかき水田《みづた》のなかの榛《はり》の木の日にけに青み嵐するなり
 大木の青葉のなかに小鳥啼く細《こま》かに晝の日をみだしつつ
 とりみだし哀しみさけび讃嘆《さんたん》すあああめつちに夏の來れる
 生くといふ否むべからぬちからよりのがれて戀にすがらむとしき
(224) ひややかにことは終りき別れてき斯くあるわれをつくづくと見る
 恩ひいでてなみだはじめて頬《ほ》をつたふ極り知らぬわかれなりしかな
 女ひとり棄てしばかりの驚きに眼覺めてわれのさびしさを知る
 甲斐もなくしのびしのびにいや深にひとに戀ひつつ衰へにけり
 忽然《こつねん》と息斷えしごと夜ふかく寢ざめてひとをおもひいでしかな
 怨むまじやなにかうらみむ胸のうちのかなしきこころ斯くちかひける
 ありし夜のひとの枕に敷きたりしこのかひなかも斯く痩せにける
 わが戀の終りゆくころとりどりに初なつの花の咲きいでにけり
 音もなく人等死にゆく音もなく大あめつちに夏は來にけり
 海山のよこたはるごとくおごそかにわが生くとふを信ぜしめたまへ
 きはみなき生命のなかのしばらくのこのさびしさを感謝しまつる
(225) あなさびし白晝を酒に醉ひ痴れて皐月大野の麥畑《むぎばた》をゆく
 青草によこたはりゐてあめつちにひとりなるものの自由をおもふ
 畑なかにふと見いでつる痩馬の草食みゐたり水無月眞晝
 ひややかにつひに眞白き夏花のわれ等がなかにあり終りけり
 椋梠の樹の黄色の花のかげに立ち初夏《はつなつ》の野をとほくながむる
 初夏の野ずゑの川の濁れるにものの屍《むくろ》の浮きしづみ行く
 けだものはその死處とこしへにひとに見せずと聞きつたへけり
 水無月の洪水《おほみづ》なせる日光のなかにうたへり麥刈少女
 遠くゆきまたかへりきて初夏の樹にきこゆなり眞晝日《まひるび》の風
 木蔭よりなぎさに出でぬ渚より木かげに入りぬ海鳴るゆふべ
 松咲きぬ楓もさきぬはつ夏のさびしきはなの咲きそめにけり
(226) 郊外に友のめうとのかくれ住む家をさがして麥畑をゆく
 夜のほどに凋みはてぬる夏草《なつぐさ》の花あり朝の瓶《かめ》の白さよ
 少女子《をとめご》の夏のころもの襞にゐて風わたるごとにうごくかなしみ
 母となりてやがてつとめの終りたるをみなの顔に眼をとめて見る
 夏深しかの山林のけだもののごとく生きむと雲を見ておもふ
 麥の穗の赤らむころとなりにけりひと棄てしのちのはつ夏に入る
 いつ知らず夏も寂しう更けそめぬほのかに合歡の花咲きにけり
 わがこころ動くともなく青草に寢居つつ空の風にしたがふ
 夏草の延び青みゆく大地を靜かに踏みて我等あゆめり
 深草の青きがなかに立つ馬の肥えたる脚に汗の湧く見ゆ
 夏白晝うすくれなゐの薔薇《さうび》よりかすかに蜂の羽音きこゆる
(227) わが友の妻とならびて縁に立ち眞晝かへでの花をながむる
 麥畑の夏の白晝のさびしさや讃美歌低くくちびるに出づ
 黄なる麥一穗ぬきとり手にもちて雲なきもとの高原をゆく
 高原や青の一樹《いちじゆ》とはてしなき眞白き道とわがまへに見ゆ
 麥畑のなかにうごける農人を見ゐつつなみだしづかにくだる
 わが顔もあかがねいろに色づきぬ高原の麥は垂穗《たりほ》しにけり
 ひややかに涙はひとりながれたりこころうれしく死なむとおもふに
 われみづから死《しに》をしたしくおもふころ誰彼《たれかれ》ひとのよく死ぬるかな
 火の山にけむりは斷えて雪つみぬしづかにわれのいつか死ぬらむ
 渚より海見るごとく汪洋とながるる死《しに》のまへにたたずむ
 夏白晝あるかなきかのさびしさのこころのうへに消えがてにする
(228) 松葉散る皐月の暮の或るゆふべをんな棄てむと思ひたちにき
 影のごとくこよひも家を出でにけり戸山が原の夕雲を見に
 皐月ゆふべ梢はなれし木《こ》の花の地《ち》に落つる間《ま》のあまきかなしみ
 ひとつひとつ足の歩みの重き日の皐月の原に頬白鳥《ほほじろ》の啼く
 日かげ滿てる木の間に青き草をしき梢をわたる晝の風見る
 見てあればかすかに雲のうごくなり青草のなかにわれよこたはる
 わがいのち空に滿ちゆき傾きぬあなはるかなりほととぎす啼く
 たそがれの沼尻《ぬじり》の水に雲うつる麥刈る鎌の音《ね》もきこえ來る
 なつかしさ皐月の岡のゆふぐれの青の大樹《おほき》の蔭に如かめや
 落日《らくじつ》のひかり梢を去りにけり野ずゑをとほく雲のあゆめる
 けむりありほのかに白し水無|月《つき》のゆふべうらがなし野羊《やぎ》の鳴くあり
(229) わが行けばわがさぴしさを吸ふに似る夏のゆふべの地《つち》のなつかし
 麥すでに刈られしあとの畑なかの徑《こみち》を行きぬ水無月ゆふべ
 椅子に耐へず室《へや》をさまよひ家をいで野に行きまたも椅子にかへりぬ
 野を行けば麥は黄ばみぬ街ゆけばうすき衣ををんな着にけり
 やうやうに戀ひうみそめしそのころにとりわけ接吻《きす》をよくかはしける
 強ひられて接吻するときよ戸の面《も》には夏の白晝を一樹そよがず
 いちいちに女の顔の異るを先づ第一の不思議とぞおもふ
 六月の濁れる海をふとおもひ午後あわただし品川へ行く
 とかくして動きいでたる船蟲の背になまぐさき六月の日よ
 月いまだひかりを知らず水無月のゆふべはながし汐の滿ち來る
 海のうへの月のほとりのうす雲にほのかに見ゆる夏のあはれさ
(230) 少女等のかろき身ぶりを見てあればものぞかなしき夏のゆふべは
 いささかを雨に濡れたる公園の夏の大路を赤き傘ゆく
 いたづらに麥は黄ばみぬ水無月のわがさびしきにつゆあづからず
 八月の街を行き交ふ群集《ぐんじゆう》の黙《もだ》せる顔のなつかしきかな
 とこしへに逢ふこと知らぬむきむきのこころこころの寂しき歩み
 あめつちに獨り生きたりあめつちに斷えみたえずみひとり歌へり
      六七月の頃を武藏國多摩川の畔なる百草山に送りぬ。歌四十六首
 涙ぐみみやこはづれの停車場の汽車の一室《ひとま》にわれ入りにけり
 ともすればわが蒼ざめし顔のかげ汽串のガラスの戸にうつるあり
 雨白く木の間にけぶる高原を走れる汽車の窓によりそふ
 水無月の山越え來ればをちこちの木の間に白く栗の咲く見ゆ
 とびとびに落葉《おちば》せしごとわが胸にさびしさ散りぬ頬白鳥の啼く
 啼きそめしひとつにつれてをちこちの山の月夜に梟の啼く
 たそがれのわが眼のまへになつかしく木の葉そよげり梟の啼く
 夕山の木の間にいつか入りも來ぬさだかに物をおもふとなしに
 あをばといふ山の鳥啼くはじめ無く終りを知らぬさびしき音《ね》なり
 わがこころ沈み來ぬれば火の山のけむりの影をつねにやどしぬ
 檜《ひ》の林松のはやしの奥ふかくちひさき路にしたがひて行く
 青海のうねりのごとく起き伏せる岡の國ありはととぎす行く
 わが死にしのちの靜けき斯る日にかく頬白鳥の啼きつづくらむ
 紫陽花のその水いろのかなしみの滴るゆふべ蜩《かなかな》のなく
 煙《けむ》青きたばこを持ちて家を出で林に入りぬ雨後の雫す
(232) 拾ひつるうす赤らみし梅の實に木の間ゆきつつ齒をあてにけり
 かたはらの木に煩白鳥の啼けるありこころ恍《くわう》たり眞晝野を見る
 日を浴びて野ずゑにとほく低く見ゆ涙をさそふ水無月の山
 松林山をうづめて靜まりぬとほくも風の消えゆけるとき
 眞晝野や風のなかなるほのかなる遠き杜鵑《とけん》の聲きこえ來る
 梅雨晴の午後のくもりの天地のつかれしなかにほととぎす啼く
 山に來てほのかにおもふたそがれの街にのこせしわが靴の音
 或るゆふべ思ひがけなくたづね來《こ》しさびしき友をつくづくと見る
 幹白く木の葉青かる林間の明るきなかに歩み入りにき
 わが行けば木々の動くがごとく見ゆしづかなる日の青き林よ
 かなしめる獣のごとくさまよひぬ林は深し日はさ青なり
(233) はてしなくあまたの岡の起き伏せり眼に日光の白く滿つかな
 別るべくなりてわかれし後の日のこのさびしきをいかに追ふべき
 棄て去りしのちのたよりをさまざまに思ひつくりて夜々をなぐさむ
 ゆめみしはいづれも知らぬ人なりき寢ざめさびしく君に涙す
 遠くよりさやさや雨のあゆみ來て過ぎゆく夜半を寢ざめてありけり
 ゆくりなくとあるゆふべに見いでけり合歡のこずゑの一ふさの花
 きはみなき旅の途《みち》なるひとりぞとふとなつかしく思ひいたりぬ
 六月の山のゆふべに雨晴れぬ木の間にかなし日のながれたる
 ゆふぐれの風ながれたる本の間ゆきさやかにひとを思ひいでしかな
 ゆふ雨《さめ》のなかにほのかに風の見ゆ白夏|花《ばな》のそぼ濡れて咲く
 放たれし悲哀のごとく野に走り林にはしる七月のかぜ
(234) 松林風の斷ゆればわがこころふるへておもふ黒髪の香を
 かなしきは夜のころもに更ふる時おもひいづるがつねとなりぬる
 鋭くもわかき女を責めたりきかなしかりにしわがいのちかな
 七月の山の間《あひだ》に日光は青うよどめり飛ぶつばめあり
 午後晴れぬ煙草のあまさしとしとに胸に浸む日ほととぎす啼く
 暈帶びて日は空にあり山々に風青暗しほととぎす啼く
 生くことのものうくなりしみなもとに時におもひのたどりゆくあり
 うち斷えて杜鵑を聞かずうす青く松の梢に實の滿ちにけり
 わがこころ靜かなる時つねに見ゆる死《しに》といふもののなつかしきかな(以上)
 秋風吹くつかれて獨りたそがれの露臺にのぼり空見てあれば(某新聞社樓上)
 いつ知らず重ねて胸に置きたりし双《もろ》のわが手を見れば涙落つ
(235) このごろの迷ひ亂れにありわびて寂しやわれに歸らむとする
 しづやかに大天地《おほあめつち》に傾きて命かなしき秋は來にけり
 まれまれに言ひし怨言《かごと》のはしばしのあはれなりしを思ひ出づる日
 物をおもふ電車待つとて十月の街の柳のかげに立ちつつ
 公園の木草《きぐさ》かすかに黄に染《そ》みぬ馴れしベンチに今日もいこへる
 松蟲鳴きそよ風わたるたそがれの小野の木の間を過ぎなやむかな
 日は黄なり斑々《はんぱん》として十月の風みだれたる木の間に人に
 粟の樹のこずゑに栗のなるごとき寂しき戀を我等遂げぬる
 たはむれのやうに握りし友の手の離しがたかり友の眼を見る
 髪ながく垂れて額の蒼を掩ふ無言よ君にくちづけてゐむ
 野には來ぬこころすこしもなぐさまず木の間を行きつ草に坐りつ
(236) ふるさとのお秀が墓に草枯れむ海にむかへる彼の岡の上《へ》に
 波白く斷えず起れる新秋《しんしう》のとほき渚に行かむとぞおもふ
 けふ別れまた逢ふこともあるまじきをんなの髪をしみじみと見る
 こころ永く待つといふなりこころ永く待つといふなりかなしき女《をんな》
 冷やかに部屋にながるる秋の夜の風のなかなり我等は黙《もく》す
 こころ斯く荒《すさ》みはてぬるわが顔のその脣《くちび》をおもふに耐へず
 秋の白晝《ひる》風呂にひたりて疲れたる身はおもふなり女のことを
 破れたるたたみのうへに一|脚《きやく》の寢椅子を置きつ秋の夜を寢《ぬ》る
 うまき肉たうべて腹の滿ちぬれば壁にもたれてゐねぶりをする
 醉ふもまたなににかはせむすべからく酒を棄てむとおもひ立ちにき
 二階より更けて階子《はしご》をくだる時深くも秋の夜《よ》を感じぬる
 秋風吹き日かげさやかに流れたる窓にふたりは旅をおもへり
(237) おもはるるなさけに馴れて驕《おご》りたるひとのこころを遠くながむる
 手をとりて心いささかしづまりぬもの言へば彌《いや》寂しさの増す
 秋のあさうなじに薄く白粉の殘れるを見つつ別れかへりぬ
 わがちさき帽のうへより溢《あふ》れ來る秋のひかりに血は安からず
 健やかに身はこころよく饑ゑてあり野菊のなかに日を浴びて臥す
 四階よりのぞめば街の古濠《ふるぼり》にゆふべ濁りて潮のさし來る
 靴屋あり靴をつくろふ鍛冶屋ありくろがねを打つ秋の日の街
 くちもとのいふやうもなく愛らしきこの少年にくちづけをする
 わかくさの山の麓は落葉せむいまか靜かに鹿の歩まむ
 或時はなみだぐみつつありし日の寂しき戀にかへらむとする
(238) はてしなくひろき林に行かしめよしばし落葉の音《ね》を斷たしめよ
 彼のとほき林に棲める獣はかなしめる日の無きかあらじか
 われ死なば林の地《つち》を掘りかへしひとに知らゆな其處に埋めよ
 林には一|鳥《てう》啼かず木のかげにたふれて秋に身を浸し居り
 涙落つまぬかれがたき運命のもとにしづかに眼を瞑ぢむとし
 棄て去りしわが女をばさまざまに人等啄むさまの眼に見ゆ
 かへり來よ櫻紅葉の散るころぞわがたましひよ夙く歸り來よ
 しかれども一度戀に沈み來しこのかなしさをいかに葬らむ
 さまざまの女の群に入りそめぬ戀に追はれし漂泊|人《びと》は
 ことごとく落葉しはてし大木にこよひ初めて風のきこゆる
 晴れわたる空より樹より散りきたるああ落葉《らくえふ》のさまのたのしさ
(239) かきいだけば胸に沈みてよよと泣くそのかみの日の少女のごとく
 妻つれてうまれし國の上野《かみつけ》に友はかへりぬ秋風吹く日
 木々のかげまだらに落ちてわが肩に秋の日重し林に死なむ
 彼の國の清教徒《ぴゆうりたん》よりなほきよく林に入りて棲まむともおもふ
 ありつる日死をおもふことしげかりし身は茫然と落葉《らくえふ》を見る
 山蔭に吸はれしごとく四五の村巣くへる秋の國に來にけり(以下伴二と旅に出でて)
 名も知らぬ河のほとりにめぐり來ぬけむり流るる秋の夕《ゆふべ》に
 白々《しらじら》とゆふべの河の光るありたひらの國の秋の木の間に
 雲うすく空に流れて凪ぎたる日林の奥に落葉斷えせず
 落葉樹まばらに立てる林間の地平にひくし遠山の見ゆ
 身を起しまた忍びかに歩みいでぬ落葉ばやしの奥の木の間を
(240) 手ふるればはららはららと落葉《らくえふ》す林のおくの一もと稚木《わかき》
 林間の落葉を踏みつ樹に倚りつ涙かきたれなにを歌ふぞ
 ながながと地上に身をば横へぬ夕陽の前の落葉林《らくえふりん》に
 かきあつめ白晝落葉に火をやりぬ林の奥へ白き烟す
 ひややかに落葉林をつらぬきて鐵路走れり限りを知らず
 うす甘き煙草の毒に醉ひはてぬ黄なる林の奥の一人は(以上)
 軒下の濠のひびきと硝子戸のゆふ風の音と椅子に痛める
 夕暮のそよ風のなかにいたみ出づ倦みし額《ひたひ》に浮ける蒼さは
 新しき鷲ペンに代へしゆふぐれの机のうへに滿てるかなしみ
 ゆふぐれは蒼みて來りまた去りぬ窓邊の椅子にわれの埋《うも》るる
 ゆふ日さし窓のガラスは赤々と風に鳴るなり長椅子に寢《ぬ》る
(241) 數知れぬ女の肌に溺れたるこのわかき友は酒を好まず
 打ち連れて活動寫眞觀に行きし女のあとに灯《ひ》をともすなり
 果實《くだもの》をあまたたうべし夕まぐれ飯《いひ》の白きを見るは眼痛し
 家々にかこまれはてしわが部屋の暗きにこもりストーヴを焚く
 悲しげに赤き火を見せゆふ闇の椅子に人あり煙草は匂ふ
 黒髪の匂ふより哀しっかれたる身にゆふぐれのいどみ寄るさま
 海に沿ひ山のかげなるみだらなる温泉町《おんせんまち》に冬は來りぬ
 涙たたへ若かる友はかなしみぬ見よわが戀は斯くもまつたし
 容れがたし一度われを離れたる汝《なれ》がこころはまた容れがたし
 白々《しらじら》と鴎まひ出づる山かげの冷たき海をおもひ出でけり
 離れたる愛のかへるを待つごときこの寂しさの咒《のろ》ふべきかな
(242) この河の流れて海に入らむさま蘆の間《あひだ》におもひ悲しむ
 灯《ともしび》をともさむとする横顔の友の疲れは闇に浮き出づ
 命なりそのくちびるを愛せよと消息《せうそこ》に書き涙落しぬ
 衰へしひとの額《ひたひ》をかきいだき接吻《きす》せむとすればあはれ眼を瞑づ
 半島の國の端なる山かげのちさき港に帆を下しけり(以下旅に出でて)
 枝垂れ咲けり暗緑色の浪まろぶ海の岸なる老樹《おいき》の椿
 青き白き濤《なみ》のみだれにうちまじり磯に一羽の小鳥啼くあり
 ひろびろと光れる磯に獨りゐて貝ひろふ手に眺め入りぬる
 越え歩《あり》く海にうかべる半島の冬のうす黄の岡より岡へ
 旅人は海の岸なる山かげのちひさき町をいま過《よ》ぎるなり
 海岸《うみぎし》のちひさき町の生活《なりはひ》の旅人の眼にうつるかなしさ
(243) 男あり渚に船をつくろへり背《せな》にせまりて海のかがやく
 ゆふ日赤き漁師町行きみだれたる言葉のなかに入るをよろこぶ
 凰凪ぎぬ夕陽《せきやう》赤き灣内の片すみにゐて帆をおろす船
 わが船は岬に沿へり海青しこの伊豆の國に雪のつもれる
 夕陽《せきやう》の赤くしたたる光線にうかび出でたり岬の街は
 春白晝ここの港に寄りもせず岬を過ぎて行く船のあり(以上)
 
 路上
 
(247) 自序
 
 昨年の春出版した「別離」以後の作約五百首をあつめてこの一册を編んだ。咋一年間に於けるわが生活の陰影である。透徹せざる著者の生きやうは、その陰影の上に同じく痛ましき動搖と朦朧とを投げて居る。あての無い悔恨は、これら自身の作品に對する時、ことに烈しく著者の心を刺す。我等、眞に生きざる可からざるを、また繰返して思ふ。
   明治四十四年九月
                      若山牧水
 
(249)       自明治四十三年一月
         至同 四十四年五月
 
 海底《うなぞこ》に眼のなき魚の棲むといふ眼の無き魚の戀しかりけり
 わが足のつきたる土もうらさびし彼の蒼空の日もうらさびし
 靜やかにさびしき我の天地《あめつち》に見えきたるとき涙さしぐむ
 死にがたしわれみづからのこの生命《いのち》食《は》み殘し居りまだ死に難し
 光なきいのちのありてあめつちに生くといふことのいかに寂しき
 手を觸れむことも恐ろしわがいのち光うしなひ生《いき》を貪る
 たぽたぽと樽に滿ちたる酒は鳴るさびしき心うちつれて鳴る
 寂しさは屍《むくろ》に似たるわが家にこの酒樽はおくられて來ぬ
 この樽の終《つひ》のしづくの落ちむ時この部屋いかにさびしかるべき
(250) 酒樽をかかへて耳のほとりにて音をさせつつをどるあはれさ
 おとろへしわが神經にうちひびきゆふべしらじら雪ふりいでぬ
 ゆふぐれの雪降るまへのあたたかさ街のはづれの群集《ぐんじゆ》の往來《ゆきき》
 ひとしきりあはく雪ふり月照りぬ水のほとりの落葉の木立
 白粉のこぼれむとする横顔に血の潮《さ》しきたりたそがれにけり
 窓かけのすこしあきたるすきまより夜の雪見ゆねむげなる女
 投げかけし女ひとりのたましひをあはれからだを抱きなやめり
 醉ひはてて小鳥のごとく少女等はかろく林檎を投げかはすなり
 のびのびと酒の匂ひにうちひたり乳に手を置きねむれる少女《をとめ》
 一時の鐘とほくよりひびきいや深に三月《やよひ》風吹く夜のなやむかな
 枕より離れしときのしづかなる女のひとみわれに對《むか》へり
(251) 倦みはてしわれのいのちにまつはりつ斷えなむとして匂ふ黒髪
 みさをなきをんなのむれにうちまじりなみだながしてわがうたふ歌
 かなしげに疲れはてつつわれいだく匂へる腕ゆいかに逃れむ
 あわただしく汝《なむぢ》をおもひゆふぐれの窓かけのかげに涙ぐみぬる
 玉のごときなむぢが住める安房のなぎさ春のゆふべをおもひかなしむ
 うれひつつ歩めば赤き上靴のしづかに鳴れり二階のゆふべ
 數知れぬをんなとちぎり色白のこのわかき友は酒をこのまず
 身も投げつこころもなげつものをおもふゆふべかへさの電車の隅に
 相寄りつ離れつ憎みなつかしみ若きをとこのむれのどよめく
 夕まぐれ酒の匂ふにひしひしとむくろに似たる骨ひびき出づ
 沈丁花青みかをれりすさみゆく若きいのちのなつかしきかな
(252) われ歌をうたひくらして死にゆかむ死にゆかむとぞ涙を流す
 獣あり混沌として黄に濁る世界のはてをしたひ歩める
 なほ耐ふるわれの身體をつらにくみ骨もとけよと酒をむさぼる
 酒すすればわが健かの身のおくにあはれいたましき寂しさの燃ゆ
 あな寂し酒のしづくを火におとせこの夕暮の部屋匂はせむ
 酒のためわれ若うして死にもせば友よいかにかあはれならまし
 歸りくればわが下宿屋のゆふぐれの長き二階に灯のかげもなし
 書き終へしこの消息のあとを追ひさびしき心しきりにおこる
 光線のごとく明るくこまやかにこころ衰へ人を厭へり
 おとろへの極みに來けむ眼に滿てるあらゆる人の憎し醜し
 蹌踉と街をあゆめば大ぞらの闇のそこひに春の月出づ
(253) 深々と赤き灯よどむいろ街を醉うて走れば足音がする
 ひとつ飲めばはやくも紅く染まる頬の友もわが眼にさびしかりけり
 まれまれに相見る友のいづくやらむさびしげなるに心とらるる
 齒を痛み泣けば背負ひてわが母は峽《かひ》の小川に魚を釣りにき
 父おほく家に在らざり夕さればはやく戸を閉し母と寢にける
 ふるさとは山のおくなる山なりきうら若き母の乳にすがりき
 ふるさとの山の五月《ごぐわつ》の杉の木に斧振る友のおもかげの見ゆ
 おもひやるかのうす青き峽のおくにわれのうまれし朝のさびしさ
 親も見じ姉もいとはしふるさとにただ檳榔樹《びらうじゆ》を見にかへりたや
 衰へてひとの来るべき野にあらず少女等群れて摘草をする(五首戸山が原にて)
 めづらかに野に出で来ればいちはやく日光に醉ひつかれはてける
(254) つみ草のそのうしろかげむらさきの匂へる衣《きぬ》のかなしかりけり
 梢《うれ》あをむ木蔭にすわりつみ草のとほき少女を見やるさびしさ
 かの星に人の棲むとはまことにや晴れたる空の寂し暮れゆく
 ふと寄れば昔なじみの或るをんななほ三味ひきて此家《ここ》に住みける
 見詰めゐてふけたまひしと女いふみづからの老はいかに知るらむ
 三味をおくをんなのまへの夜の白さわが古着物わびしかりけり
 はや既に浸《にじ》みをへけむわが五體酒をのめども醉ふことをせず
 ややしばしわれの寂しき眸《まみ》に浮き彗星《はうきぼし》見ゆ青く朝見ゆ
 風光り櫻みだれて顔に散るこころ汗ばみ夏をおもへる
 いちはやく四月の街に青く匂ふ夏帽子をばうちかづきけり
 かのをとめ顔の醜し多摩川にわか草つみに行かむとさそふ
(255) われ二十六歳《にじふろく》歌をつくりて飯《いひ》に代ふ世にもわびしきなりはひをする
 小田卷の花のむらさき散りてありまれにかへれるわが部屋の窓
 頬《ほ》をすりて雌雄《めを》の啼くなりたそがれの花の散りたる櫻にすずめ
 わが歌を見むひとわれのおとろへて酒飲むか掩を見ることなかれ
 徳利取り振ればかすかに酒が鳴るわが醉ざめのつらのみにくさ
 月の夜半醉ひざめの身のとぽとぽとあゆめる街の夏の木の影
 あと月のみそかの夜より亂醉の斷えし日もなし寢ざめにおもふ
 風ひかり桃のはなびら椎の樹の落葉とまじり庭に散りくる
 いねもせず白き夜着きて灯も消さずくちずさむ歌のさびしかりけり
 初夏の木々あをみゆく東京を見にのぽり來よ海も凪ぎつらむ(友へ)
 別れたるをんなが縫ひしものなりき古き羽職を盗まれにけり
(256) 貧しければ心も暗し蟲けらの在り甲斐もなき生きやうをする
 やうやくに待ちえしごとくわがこころあまえてありぬ病みそめし身に
 濁りたるままにこころは凪ぎはてて醫師の寢臺によこたはるかな
 命より摘みいだすべき一すぢのさびしさもなしかなしさも無し
 恩ひいでて寢ぬ夜しもなきあはれさの二年《ふたとせ》を經てなほつづくらむ
 なほもかく飽くことしらずひとを思ふわれのこころのあはれなるかな
 ふらふらと野にまよひ来ればいつのまにさびしや麥のいろづきにけむ
 はらみたる黒き小犬の媚びもつれ歩みもかねつ青き草原
 いつ知らず摘みし蓬《よもぎ》の青き香のゆびにのこれり停車場に入る
 摘草のにほひ殘れるゆびききをあらひて居れば野に月の出づ
 あを草に降《お》りくる露をなつかしみ大野に居ればまろき月出づ
(257) わがいのち盡きなばなむぢまた死なむわが歌よ汝《な》をあはれに思ふ
 花見ればはなのかはゆし摘みてまし摘むともなにのなぐさめにせむ
      六月中旬、甲州の山奥なる某温泉に遊ぶ。當時の歌二十二首
 雲まよふ山の麓のしづけきをしたひて旅に出でぬ水無月《みなつき》
 たひらなる武藏の國のふちにある夏の山邊に汽車の近づく
 絲に似て白く盡きざる路の見ゆむかひの山の夕風のなか
 辻々に山のせまりて甲斐のくに甲府の町は寂し夏の日
 初夏の雲のなかなる山の國甲斐の畑に麥刈る子等よ
 雲おもくかかれる山のふもと邊に水無月松の散り散りに立つ
 遠山のうすむらさきの山の裾雲より出でて麥の穗に消ゆ
 山あひのちさき停車場ややしばし汽車のとまれば雲|降《お》りきたる
(258) 停車場の汽車のまどなる眼にさびし山邊の畑に麥刈れる子等
 山々のせまりしあひに流れたる河といふものの寂しくあるかな
 大河の岸のほとりの砂《いさご》めく身のさびしさに思ひいたりぬ
 山越えて入りし古驛《こえき》の霧のおくに電燈の見ゆ人の聲きこゆ
 わが對《むか》ふあを高山の峯越しにけふもゆたかに白雲の湧く
 おほどかに夕日にむかふ青山のたかき姿を見ればたふとし
 木の葉みな風にそよぎて裏がへる青山を人の行けるさびしさ
 しらじらととほき麓をながれたる小川ながめて夕山を越ゆ
 青巖のかげのしぶきに濡れながら啼ける河鹿を見出でしさびしさ
 わが小枝子《さえこ》思ひいづればふくみたる酒のにほひの寂しくあるかな
 泣きながら桑の實を摘み食うべつつ母を呼ぶ子を夕畑に見つ
(259) 酸くあまき甲斐の村々の酒を飲み富士のふもとの山越えありく
 ゆふぐれの河にむかへばすさみたるわれのいのちのいちじろきかな
 かへるさにこころづきたる掌《て》のうちの河原の石の棄てられぬかな
                    ――旅の歌をはり――
 めづらかに明るき心さしきたりたまゆらにして消えゆきしかな
 このままに衰へゆかばこの酒のにほひもやがて身に耐へぬらむ
 さやりなく青蔦の葉のもつれあふそのよろこびを夜の床にする
 高空に雲のうかべるあめつちのありのすさびも身にさぴしけれ
 枕敷きすひ終りたるひとすぢのけむりにこころなぐさめて寢む
 ふるさとの濱に寄るなる白波の繪葉書をもてかへり來よとふ
 夏の夜やここら少女のひとりだにわがものならぬかなしみをする
(260) 心ぬけし頬をかすかにながれたるこの涙こそわりなかりけれ
 わだつみのそこのごとくにこころ凪ぐ樅の大樹にむかふゆふぐれ
 すさみたるこころのひまに濡れて見ゆ木の根に散れる青石かわれ
 この瞳しばしを酒に離れなばもとの清さに澄みやかへらむ
 あかつきの寢覺の床をひたしたるさびしさのそこに眼をひらくなり
 この鼻のひくきが玉にきずぞかし肌のきよさよよく睡るひと
 あはれまたねむりたまふかたまたまに逢ふ夜はわきて短きものを
 なげやりのあまきつかれにうち浸り生きて甲斐あるけふを讃へむ
 衰ふる夏のあはれとなげやりのこころのすゑと相對ふかな
 涙ややにうかび出づればせきあげしかなしみは早や消えて影なし
 影さへもあるかなきかにうちひそみわがいのちいま秋を迎ふる
(261) いひがひなきわれみづからへつらあてかとすれば死《しに》に親しまむとす
 君住まずなりしみやこの晩夏の市街《まち》の電車にけふも我が乘る
 三味をひく手もとのふりのいかなればこよひはかくも身にししむらむ
 かりそめの一夜《ひとよ》の妻のなさけさへやむごともなし身にしみわたる
 蝉とりの兒等にをりをり行き逢ひぬ秋のはじめの風明き町
 をみなへしをみなへし汝をうちみればさやかに秋に身のひたるかな
 青やかに夜のふけゆけばをちかたに松蟲きこゆ馬迫も啼く
 蟲なけばやめばこころのとりどりにあはれなることしげきよひかな
 洪水《おほみづ》にあまたの人の死にしことかかはりもなしものおもひする
 またさらにこぞの秋まで知らざりしいのちの寂《さび》に行きあへるかな
       九月初めより十一月半ばまで信濃國淺間山の麓に遊べり。歌九十六首。
(262) 名も知らぬ山のふもと邊《べ》過《よ》ぎむとし秋草のはなを摘みめぐるかな
 朴の木に秋の風吹く白樺に秋かぜぞふく山をあゆめば
 城あとの落葉に似たる公園に入る旅人の夏晴子かな(小諸懷古園にて)
 秋風や松の林の出はづれに育アカシヤの實が吹かれ居る
 秋晴のふもとをしろき雲ゆけり風の淺間の寂しくあるかな
 淺間山山鳴きこゆわがあぐる瞳のおもき海にかも似む
 わがこころ寂しき骸《から》を殘しつつ高嶺の雲に行きてあそべる
 酒飲めばこころ和《なご》みてなみだのみかなしく煩をながるるは何《な》ぞ
 秋かぜの吹きしく山邊夕日さし白樺のみき雪のごときかな
 なにごとも思ふべきなし秋風の黄なる山邊に胡桃をあさる
 胡桃とりつかれて草に寢てあれば赤とんぼ等が來てものをいふ
(263) かたはらに秋ぐさの花かたるらくほろびしものはなつかしきかな
 白玉の齒にしみとほる秋の夜の酒はしづかに飲むべかりけり
 あはれ見よまたもこころはくるしみをのがれむとして歌にあまゆる
 殘りなくおのが命を投げかけて來し旅なれば障《さや》りあらすな
 旅人は松の根がたに落葉めき身をよこたへぬ秋風の吹く
 かなしみに驕りおごりてつかれ來ぬ秋草のなかに身を投ぐるかな
 小諸なる醫師《くすし》の家の二階より見たる淺間の姿《なり》のさびしさ
 秋風のそら晴れぬれば千曲川白き河原に出てあそぶかな
 薄暗きこころ火に似て煽《あふ》り立つ野山もうどき秋かぜの吹く
 顔ぢゆうを口となしつつ雙手《もろて》して赤き林檎を噛めば悲しも
 秋くさの花のさびしくみだれたる微風《びふう》のなかのわれの横顔
(264) わがこころ碧玉となり日の下に曇りも帶びず歎く時あり
 秋くさのはなよりもなほおとろへしわれのいのちのなつかしきかな
 われになほこの美しき戀人のあるといふことがかなしかりけり
 松山の秋の峽間に降り來れば水の音《ね》ほそしせきれいの飛ぶ
 うちしのび都を落つる若人に朝の市街《ちまた》は青かりしかな
 身もほそく銀座通りの木の蔭に人目さけつつ旅をおもひき
 絶望のきはみに咲ける一もとの空いろの花に醉ひて死ぬべし
 黄ばみたる廣葉がくれの幹をよぢ朴の實をとる秋かぜのなか
 かへり來て家の背戸口わが袖の落葉松の葉をはらふゆふぐれ
 せきあげてあからさまにも小石めく涙わりなき小夜《さよ》もこそあれ
 濁り江のうすむらさきの水草のここにも咲けば哀しわが生《よ》は
(265) 衰ふる夏の日ざしにしたしみて晝も咲くとや野の月見草《つきみぐさ》
 長月のすゑともなればほろほろと落つる木の葉のなつかしきかな
 沈みゆく暗きこころにさやるなく家をかこみてすさぶ秋風
 汝が弾ける絲のしらべにさそはれてひたおもふなり小枝子がことを
 わが母の涙のうちにうつるらむわれの姿を思ひ出づるも
 おほかたの彼《か》の死顔ぞ眼にうかぶこころうれしく死をおもふ時
 憫れめとなほし強ふるかつゆに似て衰へし子は肺を病むてふ
 戀人よわれらひとしくおとろへて尚ほ生くことを如何におもふぞ
 こころややむかしの秋にかへれるか寢覺うれしき夜もまじりきぬ
 ほろほろと啼くは山鳩さしぐめるひとみに青し木の間松の葉
 黄なる山まれに聞ゆる落葉《らくえふ》はかなしき酒の香に似たるかな
(266) むらさきの暗くよどみて光る玉夢ののちにもさびしくひかる
 秋かぜの信濃に居りてあを海の鴎をおもふ寂しきかなや
 わがいのち闇のそこひに濡れ濡れて螢のごとく匂ふかなしさ
 投げやれ投げやれみな一切を投げ出《いだ》せ旅人の身に前後あらすな
 あざれたるわれの昨日の生活《あさゆふ》の眼にこそうつれ秋草に寢《ぬ》る
 酒嗅げば一縷の青きかなしみへわがたましひのひた走りゆく
 秋かぜの都の灯《ほ》かげ落ちあひて酒や酌むらむかの挽歌等は(友をおもふ)
 こほろぎの入りつる穴にさしよせし野にまろび寢の顔のさびしさ
 さらばいぎさきへいそがむ旅人は裾野の秋の草枯れてきぬ
 山麓の古驛の裏をながれたる薄にごり河の岸はなつかし
 火の山のいただきちかき森林を過《よ》ぎらむとしてこころいためり
(267) 雲去れば雲のあとよりうすうすと煙たちのぼる淺間わが越ゆ
 火の山の老樹の樅のくろがねの幹をたたけば葉の落ち來《きた》る
 火の山の燒石原のけむりのかげ西ひがしさし別るる旅人
 風立てばさとくづれ落ち山を這ふ火山の煙いたましきかな
 見よ旅人秋のすゑなる山々のいただき白く雪つもり來ぬ
 眼をとめて暮れゆく山に對ふ時しみじみと身のあはれなりけり
 あの男死なばおもしろからむぞと旅なるわれを友の待つらむ
 背《せな》のいろ落葉にまがひ蜥蜴の子おち葉のなかを行く吾《ね》寂しも
 尺あまり延びし稚松《こまつ》に松かさの實れり秋の山の明るさ
 風止みぬ伐りのこされし幾もとの松の木の間の黄なる秋の日
 惶しき旅人《りよじん》のこころ去りあへず秋の林に來て坐れども
(268) 秋の森ふと出であひし溪間より見れば淺間に煙斷えて居り
 溪あひの路はかなしく白樺の白き木立にきはまりにけり
 忘却のかげかさびしきいちにんの人あり旅をながれ渡れる
 斯くばかり縮み終れるものなればこの命またいつか延ぶらむ
 眼は濁る腹いつぱいに呼吸《いき》づかむうらやすにさへ逢ふ日知らねば
 蟲けらの這ふよりもなほさびしけれ旅は三月をこえなむとする
 終りなき旅と告げなばわがむねのさびしさなにと泣き濡るるらむ
 はつとしてわれに返れば滿目の冬草山をわが歩み居り
 冬枯の黄なる草山ひとりゆくうしろ姿を見むひともなし
 嶺の草わがよこたはるかたはらに秋の淡雪きえのこり居り
 かかる時ふところ鏡戀しけれ葉の散る木の間わが顔を見む
(269) 蒼空ゆ降り來てやがて去り行きぬ山邊の雲もあはれなるかな
 いただきの秋の深雪に足あとをつけつつ山を越ゆるさびしさ
 冬草山鳥の立つにもあめつちのくづれしごとき驚きをする
 ものおもひ斷ゆれば黄なる落葉《らくえふ》の峽のおくより水のきこゆる
 秋の日の空をながるる火の山のけむりのすゑにいのちかけけれ
 日は暗く浮きあぶらなしわが命ただよふかたに火の山の見ゆ
 わがごとくさびしきこころいつの代に誰《た》がうづめけむ山に煙《けむ》見ゆ
 火の山のけむりのすゑにわがこころほのかに青き花とひらくも
 火の山を越えてふもとの森なかの温泉《いでゆ》に入れば月の照りたる
 火の山のけむりのかげの温泉に一夜ねむりて去りし旅人
 湯あがりをひとりし居ればわが肌に旅をかなしむ匂ひこもれり
(270) なつかしやわがさびしさにさしそひて秋のあは雪ふりそめにけり
 あはれなる女ひとりが住むゆゑにこの東京のさぴしきことかな(以下歸京して)
 人知れず旅よりかへりわが友のめうとの家にねむる秋の夜
 友が子のゆふべさびしき泣顔にならびてものをおもふ家かな
 友のごとく日ごと疲れてかへり來むわが家といふが戀しくなりけり
 終りたる旅を見かへるさびしさにさそはれてまた旅をしぞおもふ
 われを見にくらき都會《みやこ》のそこ此處に住み居る友がみなつどひ來る
 電燈のさびしきことよ旅路よりかへりて友が顔を見る夜
                       ――旅の歌をはり――
 眼のまへのたばこの煙《けむ》の消ゆるときまたかなしみは續かむとする
 鏡より沈めるひとみわれを見る死に對ふごとなつかしきかな
(271) けふもまた獨りこもればゆふまぐれいつかさびしく點る電燈
 賣り棄てし銀の時計をおもひ出づ木がらし赤く照りかへす部屋
 わがままは狂へる馬のすがたしきつかれて今は横はるかな
 思ひうみふところ手してわが行けば街のどよみは死の海に似る
 ゆふぐれの風にしのびて匂ひ來ぬ隣家《となり》の庭の落葉のけむり
 かいかがみ路ばたの石手に取れば涙はつひに煩《ほ》にまろびいづ
 歸るといふ世にいとはしきことのあり夜更けてけふもとぼとぼ歸る
 歩きつつひとり言いふはしたなき癖さへいつか身につきしかな
 街を行きこともなげなる家々のなりはひを見て瞳おびゆる
 ひもすがら火鉢かこみてゆびさきは灰によごれぬ庭に吹く風
 雪ふれり暗きこころの片かはにほのあかりさしものうきゆふべ
(272) 筆とめて地震《なゐ》の終るを待つ時のらんぷの前のわれの秋の夜
 戀人の肺にしのべるやまひよりなつかしいかな盃をとる
 死をおもふかつて登りし火の山の足もとに見し烟をおもふ
 あざわらふ死の横顔にさそはれてわが片煩《かたほ》にものぽる冷笑
 『あれ見給へ落葉木立の日あたりにすまひよげなる小さき貸家』
 ゆふまぐれ袂さぐれば先づこよひ淨瑠璃をきく錢は殘れり
 わが部屋に朝日さす間はなにごとも身になおこりそ日向ぼこする
 日向ぼこねむり入らむとするころのわが背のかたに散りくる落葉
 日向ぼこ酒|禁《と》められて衰へしわれの身體が日に醉へるかな
 日向ぼこ出勤|前《ぜん》の友もまたわが背まくらにうとうととする
 日向ぼこ枕もとなるうすいろの瓶のくすりに日の匂ふかな
(273) たべのこしし飯つぶまけばうちつどふ雀の子らと日向ぼこする
 路ばたの枯葉ばやしの日あたりにくるわがへりのいつ寢入りけむ
 つらかりしもののおもひでなつかしくなりゆくころもうらさびしけれ
 蝙蝠に似むとわらへばわが暗きかほの蝙蝠に見ゆるゆふぐれ
 ただひとり離れて島に居るごときこころ暫くうどかぬゆふべ
 ゆふまぐれ赤いんきもてわが歌をなほしてゐしが酒の飲みたや
 ほんのりと酒の飲みたくなるころのたそがれがたの身のあぢきなさ
 さきまでのいらいらしさのいつ消えてをんなのそばに斯く坐るらむ
 ややすこし遲れて湯より出るひとを待つ身かなしき上草履かな
 槇の葉のあをの葉ずゑにつもる雪きゆるゆきをば見てありしかな
 湯あがりのひとにまぢかく居ることの春はかなしきひとつなるべし
(274) 白粉のあまきかをりも身にのらぬ湯あがりびとをなにとすべけむ
 湯あがりのかほとかほとが鏡のうへいたづらをするかなしき眼をする
 ちりやすきはなのにほひにふとふれてなりぬかなしき空のつばめに
 わがかほにうすきねいきのうつつなや灯《ひ》の三階のしたをゆく三味
 あれを聽けまくらまくらにしとしととしたたりてくるとほき三味線
 かの友もこの友もみな白玉のこころ濁らずさぴしきわれかな
 濁りゐつひとつほしては一つ酌ぐさぴしき酒のわれのいのちか
 見ればげに二十七なるわがつらと驚かむとてわらふ白き齒
 濠ばたの巣より乞食を追ひ立つるわかき巡査のうしろかげかな
 風のごとくあとさきもなき苦笑ひつらにうかびぬ獨り坐るに
 封切れば枯れし野菊とながからぬ手紙と落ちぬわが膝のうへ
(275) 狐にも巣ありといへりさびしきぞ林のおくの眼にうつり來る
 ひとりひとり親しきひとと離れゆくこのはかなさの棄てがたきかな
 松も見ゆしら梅も見ゆ或るころのさびしき安房をおもひ出づれば
 梅やらむとわれをさがして來しひとと松のはやしに行きあひしかな
 梅つぼむころともなればいづくよりこのかなしさは身にかへるらむ
 ただ二日我慢してゐしこの酒のこのうまさはと胸暗うなる
 いづくまでわれをあはれむはて知らぬ汝《なれ》がこころは海かさびしや
 暗く重きこころをまたもたづさへて見知らぬ街に巣をうつすかな
 移り來て窓をひらけば三階のしたの古濠舟ゆきかよふ
 ふうらりとふところ手して住み馴れぬ門を出づるはうらさびしけれ
 移り來て見なれぬ街路《まち》の床屋よりいづるゆふべのくびのつめたさ
(276) 漂泊のかたみに殘すひげなれば斯くやあはれに見えまさるらむ
 星あをくながれて闇にかげひきぬわがふところ手さむし街路《まち》ゆく
 買ひきたりこよひかく着てぬる布團うりはなつ日はまたいつならむ
 日もひさしくわれにかかはりなきごとく思ひしかふと少女等を見る
 さびしさのとけてながれてさかづきの酒となるころふりいでし雪
 雪ふるにさけをおもひつ酒飲みぬひとりねむるはなにのさびしさ
 雪ふれりと筆とりあげし消息につい書きそへぬかなしげのこと
 ふる雪になんのかをりもなきものをこころなにとてしかはさびしむ
 雪ふればちららちららとさびしさがなまあたたかく身をそそるかな
 はつとしてこころ變れば蒼暗くそこひも見えず降るそらの雪
 灯のともる雪のふる夜のひとり寢の枕がみこそなまめかしけれ
(277) 濠のはた獨りをとこがねる家ぞこころして漕げした通ふ舟
 水の上《へ》にふりきてきゆる雪の見ゆ酒のにほひの身に殘りつつ
 知らぬ間に雨とかはりし夜のゆき酒ののちなる指のさびしさ
 草の葉のにほひなるらむいらいらとをんなこひしくなりゆけるとき
 かかる日は子供あつめに飴やの爺うたふ唄にもなみださしぐむ
 ともすればかなしき愛に陷ちむとすただゆきずりに見むとおもふに
 一昔まへにすたれし流行唄《はやりうた》くちにうかびぬ酒のごとくに
 虚無黨の一死刑囚死ぬきはにわれの『別離』を讀みゐしときく
 がらす戸に白くみだれてふれる雪よりそひて見れば寂しきものかな
 わが袖にひとつふたつがきえのこる雪もさびしや酒やにのぼる
 身もおもく酒のかをりはあをあをと部屋に滿ちたり醉《ゑ》はむぞ今夜《こんや》
(278) いざいざと友にさかづきすすめつつ泣かまほしかり醉はむぞ今夜
 たまたまにただひとりして郊外にわが出で來れば日の曇りたる
 多摩川の淺き流れに石なげて遊べば濡るるわが袂かな
 瀬もあさく藍もうすらに多摩川のながれてありぬ憂しや二月は
 多摩川の砂にたんぽぽ吹くころはわれにもおもふひとのあれかし
 曇日の川原の薮の白砂にあしあとつけて啼く千鳥かな
 川千鳥啼く音つづけば川ごしの二月の山の眼に痛み來る
 山のかげ水見てあればさびしさがわれの身となりゆく水となり
 山かげの小川の岸にのがれ來てさびしやひとり石投げあそぶ
 行くなかれかの人情のかなしきになれがいのちのなにと耐へむや
 山の樹よ葉も散りはてて鳥も來ずけふのわれにや似てやすからむ
(279) 石拾ひわがさびしさのことごとく乘りうつれとて空へ投げ上ぐ
 友もうし誰とあそばむ明日もまた多摩の川原に來てあそばなむ
 水むすび石なげちらしただひとり河とあそびて泣きてかへりぬ
 枝葉のみ眞暗くおもく打ち茂り根は枯るる樹かこころさびしき
 西吹かば山のけむりはけふもなほ君住む國のそらへながれむ(答背山君歌四首)
 なかぞらに山のけむりの斷ゆる時けだしや君も寂しかるべし
 淺間山そのいただきゆ眺めたる君が下野《しもつけ》は雲ふかかりき
 夜の牛乳《ちち》飲みつつおもひふらふらと淺間の烟《けむ》に走るさびしさ
 松おほき彼の鎌倉の古山に行かばや風のなかに海見む
 夜となれば瞳のおくのよろこびのさびしいかなや薄く汗帶ぶ
 常陸山負くるなかれとこころのうちいのるゆふべは居る所無し
(280) 常陸山つひに負けたる消息は聞くにしのびずわれ歌咏まむ
 山を拔く君がちからの衰へかなぎさ落ちゆく汐のひびきか
 わだつみの底の濁りか手をつかねものうき空のもとに棲みたる
 さびしさは蝶にかも似むこころにはつゆかかはらず過ぐす朝夕
 をりをりの夜のわが身にしのび入りさびしきことを見する夢あり
 酒飲めば鼻よりうすく血の出づる身のおとろへをいかに嘆かむ
 いまは早や生命《いのち》なるべき酒の香をうらさびしくも戀ひわたるかな いつとなくわれと身體をたのむこと薄らぎそめて在りぬ晝夜
 よぼよぼとわれ慰めに行くわれの姿か徳利あまた並べる
 軒したは濁れる海邊手に持つは晝のくるわの淺きさかづき
 この家の軒のしたには舟も無し寄る波もなし寂しき海かな
(281) 手をうちて踊れるわれのあはれさになほ手をうちてしきりに踊る
 かたはらにならぶ銚子の三つふたつ早やうらさぴしゑひそめしかな
 汐さすやくるわの裏の濁り江に帆を垂れてゆくゆふぐれの船
 岸ちかくゆたかに過ぐる大船に人聲もなしあをき打ともる
 ゆふぐれの水にうかべばこともなうさびしき群ぞ沖の鴎は
 かもめかもめ空に一羽が啼くときは水に入らむと身のかなしけれ
 おそらくは舟人ならむ唄のよさはやひけすぎのひやかしの群
 かたはらの女去りたるこころよさなみだのごとき朝の酒かな
 手《た》まくらのあさきえにしも身にはしめまたの夜逢はむうしやうつり香
 ちひさなる舟にわが乘りふらふらと漕ぎいでてゆく春の濁り江
 街暗くかすめる裏の濁り江にい群れて啼かぬ海の白鳥
(282) 濁り江はかすみて空もかき垂れぬわが居る舟に啼き寄る鴎
 枯草にわが寢て居ればそばちかく過《よ》ぎる子供のなつかしきかな
 かれ草のなかに散りたる楢の葉をひろはむとして手のさびしけれ
 われとべば犬も走りぬ目のかぎり薄日流れてかなしき野邊に
 悲しめるあるじ離れて目もとほく野末を走る愛犬のあり
 銃砲の弾のごとくに野を走るわが愛犬を見るもさびしき
 枯草にわが寢て居ればあそばむと來て顔のぞき眼をのぞく犬
 ゆふまぐれ遊びつかれてあゆみ寄る犬と瞳のひたと合ひたる
 うす曇りなまあたたかき冬の日に犬とあそぶはかなしきことぞ
 ましぐらにわれを馳け拔き立ちどまり振返る犬の眼を打擲す
 かなしきは愛のすがたか口笛にとほく野ずゑを馳せ來る犬
(283) 膝にゐて深き毛を垂れ樫の葉に夕日散るときわが小犬鳴く
 指に觸るるその毛はすべて言葉なりさびしき犬よかなしきゆふべよ
 杉の樹をつと離れたる夕風のなかの烏の大いなるかな
 一本《ひともと》の杉の木の根に起きかへるわがかげ長し野は薄日かな
 若き日をささげ盡して嘆きしはこのありなしの戀なりしかな
 秋に入る空をほたるのゆくごとくさびしやひとの忘られぬかな
 はじめより苦しきことに盡きたりし戀もいつしか終らむとする
 おもかげの移るなかれとひとのうへにいのりしことは全《また》くあれども
 五年《いつとせ》にあまるわれらがかたらひのなかの幾日《いくひ》をよろこびとせむ
 一日だにひとつ家にはえも住まず得忘れもせず心くさりぬ
 わがために光ほろびしあはれなるいのちをおもふ日の來ずもがな
(284) ほそはそと萌えいでて花ももたざりきこのひともとの名も知らぬ草
 わびしさやふとわが立てる足もとの二月の地《つち》を見て歩み出づ
 石油《せきゆう》をつぐ音きこゆ二階より薮ごしに見るちひさき家に
 薮ふかく窓のもとよりうちつづく友が二階の二月の月の夜
 ふつとして多摩の川原のなつかしく金を借り來て一夜《ひとよ》寢に行く
 砂のなかに顔をうづめて身をもだえ泣くごとくして去りぬ川原を
 かへるさは時雨となりぬ多摩川の川邊の宿に一夜寢しまに
 わが顔に觸れて犬あり枯くさの日向にいねてもの思ふとき
 杉の木の間ものおもふわが顔のまへ木漏日のかげに坐りたる犬
 まさむねの一合瓶のかはゆさは珠にかも似む飲まで居るべし
 誰にもあれ人見まほしきこころならむけふもふらふら街出で歩く
(285) わが部屋にわれを待つべく一樽に酒は斷たねどされどさびしき
 其處此處の友はいましも何をしてなに思ふならむわれ早も寢む
 わが部屋にわれの居ること木の枝に魚の棲むよりうらさびしけれ
 三階の玻璃窓つつみ煤烟のにはへるなかにひとり酒※[者/火]る
 芝居見て泣けるなみだをひと知れずぬぐはむとして身をはかなみぬ
 平戸間のほこりにまみれわがなみだ頬をながるるわびしいかなや
 かなしみにこころもたゆく身もたゆく酒もものうし泣きぬれてゐむ
 うち見やる舞臺のほかのさびしさにつまされてこそぬぐへ涙を
 しくしくとまたもなみだの眼ににじむこの劇場のはなれともなや
 そこはかと深山《みやま》の松葉ちることか寢ざめのこころ寄るところなし
 わだつみの底にあを石ゆるるよりさびしからずやわれの寢覺は
(286) 明けがたの床に寢ざめてわれと身の呼吸《いき》することのいかにさびしき
 寢ざむればうすく眼に見ゆわがいのち終らむとするきはの明るさ
 眼のさめてしづかに頭もたげつつまたいねむとす窓に星見ゆ
 夜ふかく濠にながるる落し水聞くことなかれ寢覺むるなかれ
 先づ啼くは濁る濠邊の鶺鴒《いしたたき》ほの青き朝を寢ざめてあれば
 かなしくもいのちの暗さきはまらばみづから死なむ砒素をわが持つ
 遠海のひびくに似たるなつかしさわが眼のまへの砒素に集る
 一つぶの雪にかも似む毒藥の砒素ぞ掌《て》に在りあめつちの隅
 なとがめそ腐るいのちを恐ろしみなつかしくこそ砒素をわが持て
 死にてのちさむく冷ゆれど顔のさま變らずといふ砒素はなつかし
 まなこ閉ぢ口をつぐめるさびしさに得耐へずついと立てど甲斐なし
(287) ふるさとの美々津《みみつ》の川のみなかみにひとりし母の病みたまふとぞ
 さくら早や背戸の山邊に散りゆきしかの納戸《なんど》にや臥したまふらむ
 病む母よかはりはてたる汝《なれ》が兒を枕にちかく見むと思ふな
 病む母のまくらにつどひ泣きぬれて姉もいかにかわれを恨まむ
 病む母を眼とぢおもへばかたはらのゆふべの膳に酒の匂へる
 病む母をなぐさめかねつあけくれの庭や掃くらむふるさとの父
 葉をすべる露のごとくになげやりのこころとなりて行くは何處ぞ
 終に身を酒にそこなひふるさとへ歸るか春のさびしかるらむ(友へ)
 わが暗きこころを海に投げ入れむ沈みて巖となりて苔生ひむ
 あめつちに獨り生きたるゆたかなる心となりて擧ぐるさかづき
 指さきにちさき杯もてるときどよめきゆらぐ暗きこころよ
(288) なにとせむすこし醉ひたる足もとのわが踏む地よりかなしみは湧く
 いまは早やとらへ難かり蒼暗き空に離れてわれの悲しむ
 眼も鈍くこころくもればおのづから眉さへ重し春の街見ゆ
 雪消えてけふもけむりの立つならむ淺間よ春のそらのかたへに
 あは雪のとけてながれむ火の山のかの松原に行きて死にたや
 靜かなりし日にかへらむとこころより思へるごとしわれのよこ顔
 をりをりは見えずなれどもいつかまた巣にかへり居り軒の蜘蛛の子
 わが部屋に生けるはさびし軒の蜘蛛屋根の小ねずみもの言はぬわれ
 誰ぞひとりほほゑめばみないちやうに酒をしぞ思ふ部屋のゆふぐれ
 大君の城の五月の森林にゆふきりくればともる電燈
 河を見にひとり來て立つ木のかげにほのかに晝を啼く蛙《かはづ》あり(【以下十三首下總稻毛にて】)
(289) いつのまに摘みし菜たねぞゆびさきに黄なるひともと持てる物思ひ
 かくばかり清きこころぞあざむくになにの難さと笑みて爲にけむ
 眼とづるはさびしきくせぞおほぞらに雲雀啼く日を草につくばひ
 根のかたにちさく坐れば老松の幹よりおもく風|降《お》り來《きた》る
 海光る松の木の間の白砂をあゆむもさびし坐らむも憂し
 かなしさに閉ぢしまぶたの瞼毛にも來てやどりたる松の風かな
 耐へがたくまなこ閑づればわが暗きこころ梢に松風となる
 波もなき海邊の砂にわが居れば空の黄ばみて春の月出づ
 なぎさ邊の藻草昆布のむらがりのなつかしいかな春の月出づ
 眼も開かず砂につくばひ夕風の松の木の間にわがひとり居る
 しら砂にかほをうづめてわれ祷るかなしさにお身をやぶるまじいぞ
(290) このこころ慰むべくばあめつちにまたなにものの代ふるあらむや
 なにはなく夭死《わかじに》せむとおもひゐし彼はまことにけふ死ににけり
 思ふとなく思はるることさびしけれさもなき友の死にゆきしとぞ
 よべもまた睡られざりき初夏の午前の街に帽かむり出づ
 酒を見てよろこぶわれのよこ顔をながめて居ればさしぐみ來る
 衣ぬげば五月《》の松のこずゑより日あをく流れ肌に匂へる
 松脂の匂ひかわれの寂しめるいのちのはしか一すぢとなる
 森出でてあをき五月の太陽を見上ぐる額《ぬか》のなにぞ重きや
 かたはらの地《つち》を見詰めて松の根にわれの五月をさびしがるかな
 松の葉のしげみにあかく入日さし松かさに似て啼ける山雀《やまがら》
 こまやかに松の落葉の散りばへるつちより蝉の子の這ひ出づる
(291) ゆく春のゆふ日にうかみあかあかとさびしく松の幹ならぶかな
 わが肌の匂ふも肌のうへを這ふ蟻のあゆみもさびしき五月
 松の葉の散りしく森にいぬるとてわが手枕《たまくら》のいたむ晝かな
 松の根の落葉にいねてものを思ふ夏の背広の紺の匂ひよ
 松ばやしわが寢て居ればひらひらと啼いて燕がまひ過ぎしかな
 あなあはれいつかとなりの楢の葉に這ひもうつれる蓑蟲の子よ
 松やにのあをき匂ひの血となりてわが身やめぐる森の午後の日
 草わけて雲雀の巣をばさがすとてわれの素足のいたむ晝かな
 美しく縞のある蚊の肌に來てわが血を吸ふもさびしや五月《ごぐわつ》
 日も青きすすきの原に蟲を啄《は》みつばくらあまた群れあそぶかな
 松の花うすく匂ふにさそはれてわが鬱憂《うついう》の浮き出でむとす
(292) おほいなるむらさきの桐手に持てばわが世むらさきに見ゆる皐月野
 わかやかに立てるすすきにふと觸れし小指の切れて血のしみいづる
 下總の國に入日し榛はらのなかの古橋わが渡るかな(以下下總市川にて)
 はり原やものおもひ行けばわが額のうすく青みて五月けぶれる
 あを草のかげに五月の地のうるみ健かなれとわれに眼を寄す
 ただひとり杉菜のふしをつぐことのあそびをぞする河のほとりに
 藪すずめ群るる田なかの停車場にけふも出で來て汽車を見送る
 しろき花散りつくしたる下總の梨の名所のあさき夏かな
 袖ひろき宿屋の寢衣《ねまき》着つつ見るアカシアの花はかなしかりけり
 あめつちの青くけぶれる河の邊の葭原に巣をまもる葭切鳥《よしきり》
 身を寄せし草のしげみのふかければこころやすくも物やおもはむ
(293) ゆく春の草はらに來てうれひつつ露ともならぬわがいのちかな
 あを草の野邊をかへればわが影のいつしか月となりにけるかな
 町の裏|川蒸汽船《かはじようき》より降り立てば花火をあげて子供あそべり
 榛はらのあをくけぶれる下總に水田うつ身はさぴしからまし
 ありなしの貧しき戀にいかなればわが泣くことの斯くも繁《しじ》なる
 
(295)死か藝術か
 
(297)本書の初めに
 
 本書には昨年の秋に出版した「路上」以後の作を收めた。咋年九月から本年七月まで、即ち我が忘れ難い明治年號の最終一年間に成つた歌である。
 
 明治四十五年七月二十一日に惶しく原稿をまとめて書肆に渡し、翌二十二日に私は東京を去つてこの郷里に歸つて來た。父危篤の急電に接したがためであつた。それで、本書の體裁などもあらましのことを相談しておいたきり、あとは校正まで東雲堂の西村辰五郎君を煩はした。原稿は自身で認めた。配列の順序は例によつて歌の出来た時の順序に從うた。一首々々の上にまだ鮮かな記憶が存してゐる。
 「昨年の春出版した「別離」以後の作約五百首をあつめてこの一册を編んだ。(298)咋一年間に於ける我が生活の陰影である。透徹せざる著者の生きやうは、その陰影の上に同じく痛ましき動搖と朦朧とを投げて居る。あてのない悔恨は、これら自身の作品に對する時、ことに烈しく著者の心を刺す。「我等、眞に生きざる可からざるをまた繰返して思ふ。」と「路上」の初めに書いて居る。その悔恨と苦痛とをばそのまままた本書の上にも推し及ぼさなくてはならぬことを心から悲しく思ふ。
 
 ことに、これから數年間、この零落し果てた山おくの家にこのまま留つて、憐れな老父母を見送らうと決心した今日、いままで我がままを極めてゐた自身の生活を見返る時、更に多少の感慨の動くを禁じ得ないのである。この「死か藝術か」を界にして、私の生活はどう移つて行くであらう。これからの我が背景を成すべきこの郷里は山と山との峽間五六里の間に渉つて戸数僅かに三百に滿たぬ村である。其處から一歩も出ることなしに暮して(299)行くつもりで居る。
 
 一昨夜來の大雨で、我が家のすぐ下の溪は一丈餘も水が増した。溪から直ぐ削つたやうに聳え立つた向ふの山の中腹には矢張りこの雨のために急に三つ四つの眞白な小きな瀧が懸つた。峯には深い雲が白く澱んで居る。
 
 この頃漸くこの二階の部屋まで上つて來られるやうになつた父は、この小さな瀧の一つを指して、あの小市瀧にあの位ゐ水が落るやうになつたから、もうこの雨もあがる、と獨りごとのやうに私の側で言つて居る。
 
 明治大帝御葬儀の話、乃木將軍殉死の噂も何だかよその世界に起つたことのやうに遠く/\耳に響く。實際この村に於てはそれらの事よりこの雨で栗が何升餘計に拾へたこと、積んでおいた材木が何本流れたことの方が(300)遙かに重大な事件であるのだ。
 
    大正元年九月十八日
                日向の國尾鈴山の北麓にて
                     若山牧水
 
(301) 蒼ざめし額つめたく濡れわたり月夜の夏の街を我が行く
 あるかなき思ひにすがりさびしめる深夜《よふけ》のわれと青夏蟲と
 わが家に三いろふたいろ咲きたりし夏くさの花も散り終りけり
 かなしくも痛みそめたるものおもひ守りて一日もの喰べず居り
 野にひとり我が居るゆゑかこのゆふべ木々のさびしく見えわたるかな
 根を絶えて浮草のはなうすいろに咲けるを摘めばなみだ落ちぬれ
 粟刈れるとほき姿のさびしきにむかひて岡にあを草を藉く
 獨り居ればほのかに地のにほふなり衣服《きぬ》ぬぎすてて森に寢《い》ねて居む
 おほいなる青の朴の葉ひと葉持ち林出づればわが身さびしも
(302) いかに悲しく秋の木の葉の散ることぞ髪さへ痛めいのち守らむ
 あが痛めるいのちの端に觸れ觸れて秋の木の葉の散りそめにけり
 なにに然かおびゆるものぞ我がいのち身をかためたるすがた寂しも
 いづくやらむこころのすみのもの思ふかたちは見ゆれ痛むともなし
 かもめかもめ青海を行く一羽の鳥そのすがたおもひ吸ふ煙草かな
 わが手より松の小枝にとびうつる猫のすがたのさびしきたそがれ
 ただひとつ風にうかびてわが庭に秋の蜻蛉《あきつ》のながれ來にけり
 しのびかに遊女が飼へるすず蟲を殺してひとりかへる朝明け
 地にかへる落葉のごとくねむりたるかなしき床に朝の月さす
 鬱々とくるわより歸りひとを見ず朝の林に葉をわけて入る
 わが髪にまみれて蟻の這ふことも林は秋のうらさびしけれ
(303) あたたかき身のうつり香を惡みつつ秋の青草噛めば苦かり
 秋花の莖を噛み切る歯のさきのつめたきよ朝のこのうつり香よ
 秋の市街しづかに赤く日を浴びぬやがてなつかしきわが夜は來む
 高窓の赤き夕日に照らされて夜を待つわれら秋の夜を待つ
 秋の街にゆふべ灯かげのともることいかなれば斯く身にし沁むらむ
 なにやらむ思ひあがりて眼も見えず秋の入日の街をいそぎぬ
 酒無しにけふは暮るるか二階よりあふげば空を行く烏あり
 螢のごとわが感情のふわふわと移るすがたがふつと眼に見ゆ
 我がうしろ影ひくごとし街を過ぎひとり入りゆく秋植物園
 植物園の秋の落葉のわぴしさよめづらしくわが靜かなること
 ふるさとの南の國の植物が見ゆるぞよ秋の温室の戸に
(304) うなだれて歩むまじいぞ櫻落葉うす日にひかりはらはらと散る
 あぢきなく家路のかたへ向きかふる夜霧の街のわがすがたかな
 其處に在り彼處にみえしわがすがたさびしや夜の街に霧降る
 ねがひしはこの靜けさか今朝のわがこころのすがた落葉に似たり
 秋かぜや日本《やまと》の國の稻の穗の酒のあぢはひ日にまさり來れ
 心のうへ狹霧みな散れあきらかに秋の日光《ひかり》に親しましめよ
 眼をあげよもの思ふなかれ秋ぞ立ついざみづからを新しくせよ
 それ見よさびしき膝の濡るるものさかづきを手になにを思ふぞ
 見も知らぬをんなのそばにひと夜來てねむらむとするこころの明るみ
 友を見てかなしきこころ潮《さ》しきたる見まはせど酒に代ふるものもなき
 あはれまこと雨にありけりまたしても降るかさきほど星の見えしに
(305) 動物園のけものの匂ひするなかを歩むわが背の秋の日かげよ
 身も世もなく兒をかはゆがる親猿の眞赤きつらに右投げつけむ
 秋の入日猿がわらへばわれ笑ふとなりの知らぬ人もわらへる
 秋の日の動物園を去らむとしかろき眩暈《めまひ》をおぼえぬるかな
 はつとして歩みをとどめなにやらむ拂ふがごとく癖ぞ袖振る
 停車場に入りゆくときの静かなるこころよ眼にうつる人のなつかし
 好むとなき煙草を手づから買ふことがうれしくもあり停車場の店に
 袂よりたばこ取うでて火をつくるときのこころをなつかしと思ふ
 わびしやなまたも夜つゆの軒したにかへりて雨戸たたかねばならず
 歸りきてまちを手さぐり灯をともすその灯をともすうれしや獨り
 眼の見えぬ夜の蠅ひとつわがそばにつきゐて離れず恐しくなりぬ
(306) ひとり寢の夜のねまきにかふるとてほそき帶をばわが結ぶかな
 ひとりねの枕にひたひ押しあてていのりに似たるよろこびを覺ゆ
 わが寢ざめこころかなしくかきくもりいためる蔭にこほろぎの啼く
 常磐樹の蔭には行かじ秋の地のその樹のかげのなにぞ憎きや
 眼馴れたるこの樹|四時《しいじ》に落葉せず黒き實ぞなる秋風立てば
 かなしくも我を忘れてよろこぶや見よ野分こそ樹に流れたれ
 いつとなく秋のすがたにうつりゆく野の樹々を見よ靜かなれこころ
 飛べば蜻蛉のかげもさやかに地《つち》に落つ秋は生くこと悲しかりける
 秋の地に花咲くことはなにものの虚偽ぞことごとく踏み葬《はふ》るべし
 なに恨むこころぞ夕日血のごとしわが眼すさまじく野の秋を見る
 手を切れ、双脚《もろあし》を切れ、野のつちに投げ棄てておけ、秋と親しまむ
(307) 秋となり萩はな咲けばおどろきてさしぐむこころ見るにしのびず
 われとわが指《おゆび》吸ひつつ身もほそく秋に親しむ野の獨りかな
 草原は夕陽深し帽ぬげば髪にも青きいなご飛びきたる
 歩きながら喰はむと買ひし梨ひとつ手に持ちながら入りぬ林に
 眺め居ればわが眼はつちとなりにけり秋の木の影落ちたる地に
 黒き蟲くろき畑のつちのかげに晝啼いて居々ほそくないて居り
 森よさらば街へいそがむくろ髪のなびける床をおもふに耐へねば
 見てあればこころ痛みてたへがたし深夜《よふけ》あやしき汝がすがたかな
 くれなゐのりぼんをつけて夜の挨拶する子を見れば悲しとぞおもふ
 晝は野の青き日に觸れ夜は燃ゆるひとの身にふれ秋は悲しき
 
(308) 落葉と自殺
 
 手探れど手には取られず眼開けば消えて影無しさびしあな寂し
 自殺といふを夢みてありきかなしくも浮草のごとく生きたりしかな
 わが眼こそ愁ひの巣なれ晴れわたる秋の日かげにさびしく瞑づる
 夜も晝も愁ふればとてなぞは斯く眸も暗く濁りはてけむ
 窓ひらけばぱつと片頬に日があたるなつかしいかな秋もなかばなり
 あきらかに秋は潮《さ》し來ぬにごりたるわれのいのちの血の新たなり
 枯草のわが身にあはれ血のごとく、夜深き市街、雨落ちきたる
 雨、雨、雨、まこと思ひに勞れゐきよくぞ降り來しあはれ闇を打つ
 かなしげに霧に月照り娼婦等の群れたる街のわがうしろ影
(309) 月の夜の街の夜霧に鳥のごとくさぴしき姿行くか何處へ
 秋更けぬ落葉に似たるわが愛のかなしき瞳ぬれてかがやく
 窓ひとつ北にひらきてうす暗きこの部屋の好さよ友が椅子に倚る
 あてもなく見知らぬ街路《まち》に歩み入りとある二階に夕飯を食ふ
 わづかなる窓のあひさにうす曇るゆふべの空を見つつ箸取る
 もの蔭に眠るがごとく郊外の墓地にひと知れずけふも來りぬ
 瞑ぢよとてかなしく瞼撫づるごと墓場の樹々の葉の散りきたる
 わがめぐり墓場のつちに散りしける落葉はなにの言葉なるらむ
 ひろひ來し墓地の落葉の散れる部屋灯かげに獨りねころぴて居る
 停車場の黒き柱に身をもたせ汝が行く國の秋をおもふかな(五首、友を送りて)
 ふり返るなかれといのり人ごみのうしろ委をぢつと見送る
(310) どよめける旅客のなかにただひとり落葉のごとくまじりし汝《なれ》よ
 東京を人目しのびてのがれ出づる汝《な》がうしろ影われも然かせむ
 別れ來て銀座の街に秋の木々かげ濃き午後を行けば靴鳴る
 秋、飛沫《しぶき》、岬の尖りあざやかにわが身刺せかし、旅をしぞ思ふ
 まだ踏まぬ國々戀し白浪の岬に秋の更けてゆくらむ
 秋かぜの紀伊の熊野にわけ入らむ鳥羽の港に碇をあげむ
 法隆寺のまへの梨畑梨の實をぬすみしわかき旅人なりき
 大和の國耳なし山の片かげの彼の寺の扉《と》をたたかばや此の手
    十月、十一月、相模の國をそこここと旅しぬ。歌三十一首
 茶の花を摘めばちひさき黒蟻の蕋にひそめりしみじみ見て棄つ
 わが身は地《つち》、畑のくろつち、冬の日の茶の花のなどしたしいかなや
(311) 秋の相模に畑うつひとよ、汝がそばにわれ草拔かむ、旅のひと日なり
 歩み居れば森もいつしか盡きにけりいざ歸らばやいざ歸らばや
 松ばやし暴雨風《しけ》に仆れし木をさがす相模の友の背丈《たけ》のたかさよ
 相模の秋おち葉する日の友が妻わすられぬ子に似てうつくしき
 縁がはの君が眞紅《しんく》のすりつぱをふところにして去なむとおもふ
 ほどもなく動きいだせる夜の汽車の片すみにわれ靜かに眼をとづ
 膝に組む指にいのちをゆだねおきて眼をこそ瞑づれ秋の夜汽車に
 あをあをと海のかたへにうねる浪、岬の森をわが獨り過ぐ
 浪、浪、浪、沖に居る浪、岸の浪、やよ待てわれも山降りて行かむ
 地よりいま生れしに似る、あを海にむかひて語るふたつ三つの言葉
 またもわれ旅人となりけふ此處のみさきをぞ過ぐ可愛《いと》しきは浪
(312) うねり寄る浪に見入ればゆらゆらと浪のすがたしこころ悲しむ
 見てあれば浪のそこひに小石搖れ青き魚搖れわが巖うごく
 海にひとつ帆を上げしあり浪より低し悲しや夕陽血に似て滴る
 朱のいろの浪かなしけれ落日《らくじつ》に眼瞑づればおつる涙のあつさ
 港の岸ちひさき旗亭、船を見て林檎噛み居れば煤煙《すす》落ちきたる
 港には浪こそうねれ夕陽《せきやう》は浪より椅子のわが顔に映ゆ
 木《こ》の花のごとく匂ひて明けてゆく夜はうらがなしはな札を切る
 横濱の波止場の端に烏居り我居り烏われを逃れず
 冬の日の砂丘の蔭に砂を掘るさびしき記憶あらはるるままに
 浪に醉ひしかほろろほろろに我がこころすすり泣きして海邊を去らず
 深きより悲哀こころにうかび出づ見よ海のうへに鳥啼いて居り
(313) 海は死せでありけり、青き浪ぞ立つ、いたましいかなわが見に来れば
 わがめぐり濡れし砂より這ひ出づる蟹あまたありて海に日沈む
 ただひとり知らぬ市街に降り立ちぬ停車場前に海あり浪寄る
 鳶いろのひとみの兒等のゆきかへる日本の港にわれも旅人
 男いろのあやしき鳥よやよ烏ここの港に數おほき鳥
 行くにあらず歸るにあらぬ旅人の頬に港の浪蒼く映ゆ(以上)
 なにやらむさびしき笑ひ浮きいづる片頬《かたほ》にあてぬつめたき木の實
 うるはしき冬にしあるかな獨りさびしくこもれる部屋にけふも夕陽す
 はらはらと降り來てやみぬ薄暗き窓邊の樫の葉に殘る雪
 はらはらに雪はみだれつうす黒き樫の葉は搖れ我が窓暗し
(314) 絲のごとくけむりのごとく衰へしわれの生命にふるへて雪降る
 雪ぞ降るわれのいのちの瞑ぢし眼のかすかにひらき、痛み、雪降る
 木に倚れどその木のこころと我がこころと合ふこともなしさびしき森かな
 眼のまへに散りし木の葉に惶《あわただ》しくもの言はむとし涙こぽれぬ
 たまたまに朝早く起き湯など浴び獨り坐りてむく林檎かな
 庭の冬樹のはだへにあたる薄日のいろ、朝《あした》林檎をもとむるこころ
 掌《て》のうへの林檎の重み、あるとなき朝のなやみに瞑ぢたる瞳
 見よあれ、うれしげに手にも持つことか今朝の林檎のなどてや斯からむ
 林檎の眞白き肉にいとちさきナイフをあてぬ思ひは淋し
 林檎林檎さびしき人のすむ部屋にやるせなげにも置かれし林檎
 おとろへし生命の酸味《すみ》のひややかに澄む朝《あした》なり手にとる林檎
(315) 冬の陽のあたる片頬《かたほ》にひそやかにさしそへてみぬこの紅き實を
 森のなかにちさき畑あり、夕日さす、麥の青き芽いたましきかな
 地よ感謝す汝とし居れば我がこころしづかに燃えて指も觸れ難し
 地よ汝に對ひてわれの坐りしを記憶せよ今日さびしき日なりき
 海の岸にうづくまるもこの森に來て木の根に居るもわが眼開かず
 わが手足われの生命のそのままに今日こそ動け死なむとぞ思ふ
 あはれ廣き森にしあるかな眼をとほくはなちてはまた瞑ぢて開かず
 落葉せる林に入ればいらいらと皮膚《はだ》こそ痛め何に怖づるや
 死は見ゆれど手には取られずをちかたに浪のごとくに輝きてあり
 この掌《て》の土とわれのいのちの滅ぶこといづれなつかしいづれ悲しき
 木の根に落葉かき藉《し》き手をあつる我が廣き額《ぬか》のなつかしきかな
(316) 出づるな森を、出づるな森を、死せるごときその顔を保て、出づるな森を
 あはれいま煙のごとく燃えいづる朽ちし生命ぞ觸るるなおち葉
 斯く居る間に手足の爪の尺と延びよわが皮膚《はだ》森の朽ちし葉となれ
 冬の陽は煙に似たり森も似たりさびしきわれのうしろ影かな
 むぐらもちわが爪先の落葉のかげの地《つち》掘りわがいのち燃ゆ
 土龍《むぐら》來よ地《つち》にかくれて冬の陽のけぶれるを見ざるべし出で來よ土龍
 その枝折りこの枝を折り一葉無き冬がれの森に獨りあそべり
      信濃より甲斐へ旅せし前後の歌、十六首
 山に入る旅人の背のいかばかりさびしかるべきおもへわが友
 おなじくば行くべきかたもさはならむなにとて山に急ぐこころぞ
 問ふなかれいまはみづからえもわかずひとすぢにただ山の戀しき
(317) 友よいざ袂わかたむあはれ見よ行かでやむべきこのさびしさか
 さびしさを戀ふるこころに埋《うづも》れて身にこともなし山へ急がむ
 山戀ふるさびしきこころなにものにめぐりあひけむ涙ながるる
 ひとすぢにひとを見じとて思ひ立つ旅にしあれば消息もすな
 なにゆゑに旅に出づるやなにゆゑに旅に出づるや何故に旅に
 山に入り雪のなかなる朴の樹に落葉松になにとものを言ふべき
 雪ふかき峽に埋れて木の根なす孤獨に居らむ陽も照るなかれ
 ただひともと伐り殘されし種子松の喬くしげれり春となる山
 ただ一羽山に烏の啼くことも幹にわが影のうつるもさびしや
 枝もたわわにつもりて春の雪晴れぬ一夜《ひとよ》やどりし宿の裏の松に
 雪のこる諏訪山越えて甲斐の國のさびしき旅に見し櫻かな
(318) をちこちに山櫻咲けりわが旅の終らむとする甲斐の山邊に
 見わたせば四方の山邊の雲深み甲斐は曇れり山ざくら咲く
 足袋ぬぎてわか草ふめばあぢきなやなにに媚びむとするこころぞも
 木々はみなそびえて空に芽をぞ吹くかなしみて居れば踏む草もなし
 折しもあれ春のゆふ日の沈むとき樅の木立のなかに居りにき
 歸らむと木かげ出づればとなりの樹かなしや藤の喚きさがりたる
 この額かなしき雨よ濡らせかしものを思ふとなにも知らぬげ
 樅のかげ雨もやみにき立ちいでむおお蓑蟲の濡れてさがれる
 さびしといふ我等がこころむきむきに燃えわたりつつ夏となりにけり
 はつ夏のときは樹の蔭の地にまろび帽ぬげばいや戀しさの燃ゆ
(319) 植物園の松の花さへ咲くものを離れてひとり棲むよみやこに
 あるとなきうすきみどりの木の芽さへわが悲しみとなるも君ゆゑ
 やるせなきおもひの歌となりもせで植物園に暮るる春の日
 地《つち》に寢てふと見まはせば春の木のさびしくも芽をふけるものかな
 葉を茂みしだれて地に影の濃きこの樫の樹に夏の來にけり
 はつ夏の常磐樹のかげのなつかしやこの蔭出でじ日の照るものを
 楠の蔭の暗きを憎み樫のかげのくらきを愛でつかなしみて居る
 身にちかき木の根木の根をながめやりつめたき春の地にまろび居り
 立ち出でつとほく離れて見るときのかの樫の樹の春はさびしき
       四月十三日午前九時、石川啄木君死す.
 初夏の曇りの底に櫻咲き居りおとろへはてて君死ににけり
(320) 午前九時やや晴れそむるはつ夏のくもれる朝に眼を瞑ぢてけり
 君が娘《こ》は庭のかたへの八重櫻散りしを拾ひうつつとも無し
 病みそめて今年も春はさくら咲きながめつつ君の死にゆきにけり
        ○
 酢のごとき入日に浮む麥の穂の穂さきかなしや摘まむと思ふ
 しとしとに入日やどせる青麥のあをき穂ずゑを搖すりてもみる
 わが蒼き片頬《かたほ》にあたる血のごときいろの入日を貪り吸ふも
 背のかたに沈む入日に染められて袂もおもく野を歸るなり
 野は入日いばらのかげにありやなし水もながれて我が歸るなり
 入日あかき野なかの村にひと群れて家つくり居り唄の聲悲し
 夕陽《いりひ》搖り海のうねればうら悲しわが立つ崎も搖れて沈まむ(五首鎌倉にて)
(321) 眠のまへを巨いなる浪あをあをとうねりてゆきぬ春のゆふぐれ
 眼に映る陸《くが》無し岬浪にゆれわがかなしみぞひとりたなびく
 わだつみの浪の一ひら掌《て》にもちて死なむとぞ思ふ夕陽《いりひ》のまへに
 並み立てる岬のあひにゆらゆらと海のゆれ居てゆふぐれとなる
 いたづらに窓に青樹の葉のみ搖れわれらが逢ふ日さびしくもあるかな
 
(322) かなしき岬
 
 うら若き越後生れのおいらんの冷たき肌を愛づる朝かな
 笑《ゑ》みながらぢつと見つむるまなざしに青みて夏の朝は來にけり
 おいらんのなかばねむりて書くふみに青くもさせる朝の太陽
 なにやらむ妹女郎をたしなむる姉の女郎に朝はさびしき
 摘みては投げつみては顔に投げうちぬおいらんの部屋の朝の草花
 お女郎屋《ぢよろや》の物干臺にただひとり夏の朝《あした》を見にのぼるかな
 初夏の朝の廊下のつめたきにまろびて起きぬ若きおいらん
 とられたるままのこの手のうす青さ別れともなきこのあしたかな
 手もとらず夏の朝の階子段うつとりとして降りてこしかな
(323) 桐の花うすく汗ばみ日ものぽりわがきぬぎぬのときとなりゆく
 いつ知らずくるわの戀のあはれさの身にやどれるにしみじみとする
 はつ夏の街の隅なる停車場のほの冷たさを慕ひ入るかな
 われ人もおなじ心のさびしさか朝青みゆく夏の停車場
 しみじみと遠き邊土のたび人のさびしき眼して停車場に入る
 朝な朝な停車場に來て新聞紙買ふ男居りて夏となる街
 水無月《みなつき》の青く明けゆく停車場に少女にも似て動く機關車
 月の夜の青色の花|搖《ゆら》ぐごと人びとの顔浮ける停車場
 停車場のあまき煤煙《けむり》のまひ來《きた》るレストラントの窓の燒肉
 午前九時起きも出づればこの市街《しがい》はやも五月の雲にくもれる
 青じめり五月の雲にしびれたる市街の朝の若人の眼よ
(324) 青いろの酒をしぞ思ふ朝曇る夏の銀座の窓をしぞ思ふ
      五月の末、相模國三浦半島の三崎に遊べり。歌百十一首
 あさなあさな午前は曇るならひとて今日も悲しく海をおもへり
 海戀ふる心頭痛に變りゆき午前は曇る初夏の街
 戀ひこがれし海にゆくとて買ふシヤボンわが蒼き掌《て》に匂ふ朝の街
 あらさびしやわが背のかたに少女居りほほ笑める如し海へのがれむ
 青色の酒賣る店も東京も見すてて海へいそぐ初夏
 明日ゆかむ海思ひをればゆきずりの街の少女もかなしみとなる
 わが渡る曇れる海にうすうすと青海月なしうつれる太陽
 海縁《うなべり》の五月の雲もわが汽船《ふね》の濡れしへききもうらがなしけれ
 曇り日の汽船《ふね》の機関に石炭をつぐ萌黄服海はわびしき
(326) うす青く雨に尖れる彼の岬《さき》へうち寄る浪も悲しかるらむ
 漕ぎよせし小さきはしけのゆらゆらと搖れゐて淋しこの古港
 浪の穗にかすかにやどる赤きいろ夏の夕日のなやましきかな
 かなしげに浪かきわけてわが汽船《ふね》入り入日の港死せるが如し
 皐月の、雲のかげりにうすき藍ひきうすき藍ひき伊豆が崎見ゆ
 入日さす岬のはなの汐ひきて青き瀬となりわが瞳《め》いためり
 ゆふ浪や五月の海の道化者やどかりの子がせつせとはたらく
 死にゆきし人のごとくもなつかしやこの東明の岬の藍色
 あかあかと西日にうかぴ安房が崎相模の海に近く寄るなり
 少女子の青パラソルよりなほひろき麥藁帽を着て海に入る
 太陽の正面《まとも》の岬、きずつきて血のたる指し貝ひろふかな
(327) 潮引きて崎のするどくなりまさり朝あをあをと松の風吹く
 雲のかげ入日の海はむらさきの酒のもたひとなりてゆらげる
 岬より入日にむかひうすうすと青色の灯をあぐる燈臺
 あをやかに双眼鏡にうつり出で五月の沖に魚釣る兒等よ
 沖邊なる五月の潮うら悲し双眼鏡に泡立ちて流る
 なつかしく午後二時ぞうつ、風呂《ゆ》やわかむ、この窓掛にゆるる海の日
 燈臺の青いろの灯もともりきぬ啼く音《ね》をやめよ浪間の千鳥
 ゆふされば沖のかたより晴れかかる五月の雲よ漕ぎゆく舟よ
 うす青き海月を追ひて海ふかく沈まばや、岬、雲に入日す
 朝なあさな白雲湧きて初夏の岬の森に啼く鳥もなし
 落日《ゆふひ》見に浪に死ぬともこの崎のきはまるはなに行かばや、落日《ゆふひ》
(328) 月の出の巖の暗きに時をおき浪白く立ち千鳥啼くなり
 浪に浮き油のしづく燃ゆる如岬の街に入日するなり
 岬越え不思議の邦にくだるごと灣《いりえ》のすみの灯の街に入る
 椎の若葉や崎の港の小學の女教師が彈くハンドオルガン
 岬なる古き港にかつを釣る石油發動船の群るる短夜
 月ひくく空にうかべり、晝なれば浪にうつらず、行くよわが舟
 わが眠る時の港をうす青き油繪具《あぷらゑのぐ》に染めて雨ふる
 みな忘れよ崎のみなとのこのひと夜五月の雨がふりそそぐなり
 旅人のからだもいつか海となり五月の雨が降るよ港に
 ほろびゆくこの初夏のあはれさのしばしはとまれ崎の港に
 ゆく春の海にな浮きそ浪ぞ立つかなしき島よとく流れ去れ
(329) 港はや青むらさきの夏の魚鰹ばかりを賣る街となる
 ゆたゆたに灣《いりえ》のくまに潮の滿ち入日かなしく崎に浮べり
 あを海の岬のはなに立つ浪の消しがたくして夏となりにけり
 汐ひけば白くあらはれやがて消ゆ月夜の家に岩見てあれば
 やよ海はあをき月夜となるものをわが寢る家に引くな木の戸を
 かなしげに潮のなかをかけめぐる青の小魚にさす五月の陽
 金ペンのさきのとがりの鈍りゆくころともなりて旅のわびしき
 みだれたち冷たく肌に散る飛沫《しぶき》詩人は海はなどてさびしき
 うもれたるわが罪惡のかたかげを慕ひて青くよるやこの浪
 いまぞ今日、蕾ながらに枯れゆきしわが若き日を海に沈めむ
 われみづから鉛のあをききりくちの寂しいかなや若き日を切る
(330) あはれその鉛の蒼き切り屑の散りて殘らばいかにとかせむ
 晝の海にうかべる月をかきくだき眞青き鰭となりて沈まむ
 身|搖《ゆす》らば青き岬もゆれやせむ晝の月浮くさびしき海に
 わが立てる岬をつつみうろくづもともに嘆かむさびしき日のため
 雲一片二ひら三ひら浮かずもあれ岬に立ちてわがなげく日に
 初夏の雲はただちにわが眉より海に浮ける如しさびしき岬
 さびしさは雲にかくれてあらはれぬかの太陽も海に似たらむ
 海よ搖れよわれのいのちは汝《いまし》よりつねに鮮かに悲しみて居り
 捉《と》りがたき苦痛に蒼くさびはてし我がこの額《ぬか》をとく碎け浪
 浪をもて衣をつくれけがれなくあえかに今ぞ眼をつぶりてむ
 越えくれば岬かなしくきはまりて海となりまた遠くとほく岬見ゆ
(331) あをあをと雲にかげれる彼の岬このみさきいざとびて渡らむ
 いたましき色情狂とならむより浪をくらひて死なむとぞ思ふ
 聲高く歌ひ終れば眼のまへの世界は蒼し死ぬにかあらむ
 海よ悲しあをき木の實を裂くごとく悔はわが身につねに新らし
 ゆらゆらと地震《なゐ》こそわたれ月の夜の沖邊に青く死にし岬に
 ゆらゆらと地震のわたれば身をくづし戸外《とのも》の山を見やるおいらん
 死んだよに睡る遊女の枕がみ月も蒼みて梟啼くなり
 耳すませばまこと梟にありにけりさびしき鳥をきけるものかな
 この寢顔|開《あ》きし小窓に眞青に迫りて山が明けそむるなり
 海わたる鳥のひとみのさびしさか寢ざめもの讀む若きおいらん
 この遊女かならず夭く死ぬべけむそち向のかほの夏の朝かげ
(332) あたらしきうすむらさきのこの紙幣夏のみなとの朝の遊女屋
 わが廿八歳《にじふはち》のさびしき五月終るころよべもこよひも崎は地震する
 岬なるふるき港のついたちの朝の赤飯《せきはん》宿屋の娘
 水無月《みなつき》の崎のみなとの午前九時赤き切手を買ふよ旅びと
 切りすてて海に投げ入れよ入日さす岬のはなに古き墓地あり
 崎の港の船の問屋のこの少女《をとめ》の眼の大きさよそのすずしさよ
 鰹賣ると月夜の海の魚のごと人こそさわげ崎の月夜に
 さらさらと蒼き月夜の浪ぞ寄る浪うちぎはに積まれし死魚《しぎよ》に
 月の夜の灣《いりえ》のすみの砂原に聲のみの人の群れて死魚賣る
 海より這ひも出で來て聲青く賣るにやあらむ彼等は死魚を
 あんまりに死魚賣る聲のかしましきに月夜のみなとわれも寢られず
(333) 魚釣れる岬のひとのあの唄は魚の言葉ならむ魚の唄ならむ
 ひかり無き楕圓の月の海に出づる午前一時のわれのあをさよ
 月蒼く海のはてより出でむとす死魚賣る聲をしばしとどめよ
 夜をこめて崎の港に入り來《きた》る船は死魚積む船ならぬなし
 月の夜の岬に群れて死魚積める帆前船《ほまへせん》をば待てる商人《あきうど》
 死魚積みてあまたの船の入り來れば月夜ゆるがせ港どよめく
 みどり兒の死にゆく如く月あをき崎の港を出でてゆく船
 月の夜の海のなかばのうろくづを釣り得し如くあをき帆をあぐ
 ただひとり貝拾ひをれば午後の雲うすうす岬過ぎてゆくなり
 ※[奚+隹]啼ける磯邊の午後のひき汐やなまの卵をすすり貝とる
 ひき汐を悲しむ青きやどかりのあしの小きざみ眞蒼き太陽
(334) 洞の暗きに貝とりつかれ見かへれば空にさびしくあがる青浪
.崎に立ち海のかなしきふくらみに岩を碎きて投げつくるかな
 誰となきうらめしき肌刺すどとくうす青き蟹を追ひめぐるかな
 眞裸體《まはだか》に青浪の中にもまれ來て死にしが如し酒を飲みてむ
        〇
 夏となり何一つせぬあけくれのわれに規則のごとく齒の痛む
.黒いろの蟲のやうなる商人《あきうど》がわが部屋に來てきいそくをする
 うす青き夏の木《こ》の果《み》を噛むごとくとしの三十路に入るがうれしき
 まづしくて蚊帳なき家にみつふたつ蚊のなき出でぬ、添ひ臥をする
 かんがへて飲みはじめたる一合の二合の酒の夏のゆふぐれ
 この熱い朝湯よ汗は出てしまへ青の木の葉の如くなりてむ
(335) かへるさや酒の飲みたくなりゆくをぢつとはぐくみ居るよ電車に
 朝さすや買うてかへさにしほれたる夏草の花を一りんぎしへ
 皿煙管ソースお茶などときどきに買ひあつめ來て部屋を作れる
 わがくせのながいかはやも何とやらたのしみとなり爲す事もなし
 忘れ居し一りんざしの夏花にしんみりとする午後のひとりよ
 朝の飯《めし》すごすまじいぞこの心しんみりとゐて筆とりてまし
 わが好きの眼とづるに似し心地今日もふらふら芝居見にゆく
 指先に拭けばなみだにほんのりと汗もまじりて夏はわびしき
 夏の日の芝居の笛のかなしさよはやく夜となれ曇り日となれ
 友はみな兄の如くも思はれて甘えまほしき六月となる
 水無月や木々のみづ葉もくもり日もあをやかにして友の戀しき
(336)      六月末、多摩川の上流なる御嶽山に登りぬ。歌八首
 鐵道の終點騨の溪あひの杉のしげみにたてる旅籠屋
 あをやかに山をうづむる若杉のふもとにほそき水無月の川
 多摩川のながれのかみにそへる路麥藁帽のおもき曇り日
 頬《ほ》につたふ涙ぬぐはぬくせなりし古戀人をおもふ水上
 搖るるとなく青の葉ずゑのゆれて居る溪の杉の樹見つつ山越ゆ
 ふるへ居る眞青の木の葉つみとりて瞼にあつる、山はさびしも
 おく山の木かげの巖にかかりたるちひさき瀧を見つつ悲しき
 山禰宜の峰の上《へ》の家のあさゆふのさびしき飯《いひ》を三日《みか》食《は》みにけり
        〇
 夏の部屋うつとりと檜本かさねたる膝のほとりの朝のなやみよ
(337) なかなかに繪を見ることもこの朝のおちゐぬむねにかなしかりけり
 死にゆきしひとのゑがける海の繪の青き給具に夏のひかれる
 けふも晴るるか暗きを慕ふわがこころけふも燃ゆるか葉月の朝空
 夏はいまさかりなるべしとある日の明けゆくそらのなつかしきかな
 やはらかき白き毛布に寢にもゆく晝のなやみか佛蘭西へ行く(山本君を送る)
 巨いなる蜂わが汗の香をかぎて身をめぐり居り啼聲さびし
 わが薄き呼吸《いき》も負債《おひめ》におもはれて朝は悲しやダーリアの花
 うつとりとダリアの花の咲きて居りひとのなやみを知るや知らずや
 肺もいまあはき勞《つか》れに蒼むめりダリアの圍の夏の朝の日
 とほり雨朝のダリアの園に降り青蛙などなきいでにけり
 とほり雨過ぎてダリアの園に照る葉月の朝の日いろぞ憂き
(338) 夏深き地《つち》のなやみか誘惑か、朝日かなしも、ダーリアの咲く
 夏の園花に見入りてつかれたる瞳のまへを朝の蝶まふ
 夏の樹にひかりのごとく鳥ぞ啼く呼吸《いき》あるものは死ねよとぞ啼く
 
 みなかみ
 
     本書を亡き父に捧ぐ
 
(341) 本書の初めに
 
 本書には大正元年九月ころから詠み始めて、翌二年三月に及ぶ約半年間の作歌五百餘首が輯められてある。即ちわが前歌集「死か藝術か」に続くものである。その半ケ年を中心に前後約一年間、私は郷里日向國尾鈴山の北麓に歸つてゐた。父の病氣、父の死亡、及び久しくうち捨てておいた家事の整理などに烈しく心を痛めながら作つてゐた歌である。
 分たれた五章は歌の出來た時の順序を示したものである。なかで、初めの一章などは從來の我が詠みぶりと大差がないが、次の「黒薔薇」以後に及ぶと、よほど其處に變化が起つて來てゐる。
 この變化に就いて自ら多少の説明を加へたい心地もするが、今はまだそ(342)の時でないと思ふ。そして此等の作の價値はとにかく、斯くの如き傾向の生じたことは、私の歌の歴史にとり強ち無意味のことで無いと私は自ら信じてゐる。尚ほこの事に關しては廣く一般の批評意見を聽きたいものと望んでゐる。私の心中に斯ういふ變化の起りかけてゐたのは決して昨今のことではなかつた。然し昨年偶然父の病氣のために郷里に歸つて、苦痛ではあつたが極めて清純な孤獨の境地に身を置くことを得たために、かねてから芽を出しかけてゐた希望が殆んど何の顧慮障礙なくして自由に外に表れて來たといふかたちであつた。單に歌に對するのみでなく、自他の生活に對する考へなども餘程よく變つて來たと認めらるることを、本書の出版に際して私はわが郷里の山河に感謝したい。尚ほ暫く其處に留るつもりでゐたのであつたが、いろいろの事情から今年の五月また惶しく上京して來て(343)しまつた。折角、彼の深山蒼海の間に養はれた尊い心持をむざむざ亡ぼして了ひはせぬかと心痛して居る。
 思ひ出のために、本書に縁ある寫眞三葉を挿入しておいた。父の寫眞は死ぬる前々年あたりのものである。平常極めて健康な人であつたが、昨年の夏七月急に病くなつて床についた。初め半身不隨のやうな容子で、積年の酒毒であらうと皆言つてゐたが、私が歸つて暫くすると、殆んど全快した。十一月十四日の朝、いつも私は毒りだけ二階の部屋に寢てゐたので、その日も何心なく二階から降りてゆくと、勝手の臺所に丹前を着て父が寢てゐる。朝早くから斯んなところにどうしたのだと訊くと、側にゐた母が、なアに昨夜の飲みすぎだらうと笑ひながらいふので私も何心なく戯談など(344)言ひかけて、やがて毎朝やるやうに裏の山に散歩に出かけた。二十分間も歩いたかと思はるるころ姪が泣き聲を張り上げて呼びに來た。驚いて馳け歸つてみると父は既に人事不省であつた。しがみついて呼びたてても聞える風はなく、一言をも發せず、惶しく口うつしに吹き込む水をも嚥み下さず、醫者が來て二三度試みた注射も效無く、終に不歸の人となつてしまつた。病名は腦溢血、年は六十八歳であつた。祖父若山健海の長男で、立藏と呼んだ。祖父の代から翳者で、酒を過すのと我がままなのとで評判はさまざまであつたが、近郷ひとしく彼の技倆をば重んじてゐた。私と違つて彼は甚だ寡言で、飽くまで善良な性質を持つてゐた。そのくせ、幼い山氣を胸に斷たなかつた人で、山林や鑛山などに幾度も手を出して祖父の殘していつた財産をば忽ちにして空費してしまひ、後には家宅庭園の修繕をな(345)す餘裕すら持たなかつた。それで、また平氣なものであつた。私とは親子といふより寧ろ親しい友達といつた樣な關係を保つてゐた。永い間の私の不孝に對しても露ばかり怒るでもなく恨むでなく、終始他に對して私を辯護愛撫することにのみ力めてゐた。一度、病氣も快くなつてゐたので、今年の春には兩人相携へて上京する約束が出来てゐたのである。いろいろな大きな病院を參觀し、いろいろな好い酒と料理とをあさることを子供のやうな彼がどんなに樂しんでゐたであらう。考へだせば、いつもの微笑を失はずに冷たく眠り去つた彼の顔が眼に浮び、いつでも涙が流れてくる。相見、相笑ふことの出來なくなつた今日彼に對する尊敬と愛慕とは荒れすさんだ私の胸の中に日ましに深く浸んで行きつつある。「今日の佛ほど、さまざまな人に泣かれた佛は御座りませぬ」といつて泣いてゐた葬式の日の人々(346)のことすら、なつかしく思ひ浮ばれて來る。
 第二の寫眞にあるのが即ち父の死んだ家、三十年前に私の生れた家である。石垣も塀も門も庭も何年か前に頽れたままに任せてあつて、頽靡そのものの姿のやうだ。第三は南面の家の庭先からやや東に向つて見た峯と溪とである。溪も私などの生ひ育つたころよりずつと水も少くなり、一切苔の深い岩石のみであつた河床が、山林濫伐から來るといふ毎年の洪水で悉くけばけばしい礫原と變じて、いやな溪になつてしまつた。前面の山は尾鈴山の連山の一つで七曲峠といふ嶮しい山なのだが寫眞の具合でたいへん低くやさしく見える。この溪の下流の海に入るところが私の大好きな美々津といふ古い港で「海及び船室」などに收められた海の歌は大方其處で出來たものである。
(347) まことに郷里坪谷村の一年間は、私にとつて今までにない内省的な、割合に豐かな生活を遂げさせてくれたと思つてゐる。その生活の滴りがこの短いかたちの詩のなかに幾分でも落ちてゐてくれれば幸ひであると思ふ。
 今日は八月二十一日、あと三日すれば私の第二十八回目の誕生日に當る。私の上京後、彼の山の家にうつらうつら病んでゐるといふ老母の上にも、四六時中おちつきのない時間にのみ追はれてゐる私自身の上にも、靜かな祝福のあれかしと祈られてならない。
 
     大正二年八月二十一日
                          若山牧水
 
(349) 故郷
 
 ふるさとの尾鈴の山のかなしさよ秋もかすみのたなびきて居り
 朝づく日うすき紅葉の山に照りつちもぬくみて鵯鳥の啼く
 獨りなれば秋の小山の日だまりの朝の日かげを酒と酌まうよ
 ほと照れりわが吸ふほどの風もなき山の窪地の秋の朝の日
 蝋燭のともるにも似む朝づく日かなしき山をわが歩み居り
 眼や病める涙ながれてはてもなし秋の朝日の裏山行けば
 秋のおち葉栴檀の木にかけあがり來よと兒猫がわれにいどめる
 爪延びぬ爪を剪らむと思ひ立ち幾日すぎけむ日々窓晴るる
 まだら黄に枯れゆく秋の草のかげ啼くこほろぎの眸《め》の黒さかな
(350) 草山に膝をいだきつまんまろに眞赤き秋の夕日をぞ見る
 草山にねてあるほどにあかあかと去にがてにすと夕日さすなり
 樹のかげぞながうなりゆく山の瑞の秋の夕日に染みつつ居れば
 阿蘇|荒《あれ》の日にかもあらめうすうすとかすみのごとく秋の山曇る
 ながめゐてなつかしがりしこの山にいまこそ登れなみだのごとく
 血啜るとだにの兒はだに這ふにや似む夕日の山をわが攀ぢのぽる
 浮みいで松のみ青くひかり居りけはしき山の秋の夕日に
 秋の夕日にうかみ煙れる山々の峰かぞへむとしてこころさびしき
 心より落ち散れる葉にものいはむさびしきわれとなる日ありや、森
 秋の山柴にひそめるだにの兒もいまは夕日のいろに染みゆく
 母が飼ふ秋蠶《あきご》の匂ひたちまよふ家の片すみに置きぬ机を
 (351) ふた親もわが身もあはれあかあかと秋の夕日のかげに立つごとし
 いづくにか父の聲きこゆこの古き大きなる家の秋のゆふべに
 まんまるに袖ひきあはせ足ちぢめ日向《ひなた》にねむる、父よ風邪ひかめ
 父よなど坐るとすればうとうとと薄きねむりに耽りたまふぞ
 とりわけて夕日よくさす古家の西の窓邊は父のよく居るところ
 ほたほたとよろこぶ父のあから顔この世ならぬ尊さに涙おちぬれ
 父よいざ出でたまへたすけまゐらせむこの低き岡越ゆることなにぞ
 わがそばにこころぬけたるすがたしてとすれば父の來て居るてと多し
 さきのこと思ふときならめ善き父の眉ぞくもれる眉ぞ曇れる
 親と兒のなかのかなしき約束の解かれぬままにいま朽ちむとす
 秋の日あし追ひつつうつる群をおひ父ひもすがら蠅うちくらす
(352) 二階の時計したの時計がたがへゆく針の歩みを合はせむと父
 父がのを聞くがつらさにわれもせし咳くせとなりあらためがたし
 老いふけし父の友どちうちつどひ酒酌む冬の窓の夕陽《せきやう》
 どの爺《をぢ》のかほもいづれもみななつかしみな善き父に似たる爺《をぢ》たち
 かくばかり踏まれてもなほうすうすと青き芽をのみふくとすや生命《いのち》
 蜜蜂も赤く染まりて夕日さすかなしき軒をめぐるなりけり
 痛き玉|掌《て》にもてるごとしふるさとの秋の夕日の山をあふげば
 あかあかと秋の入日にそめられて落穂ひろへる、姪かあらじか
 夕日の家かずをたがへて時をうつ古き時計も生きたるごとし
 なにをかもよろこびとせむふるさとに埋《うづも》るる身は梨腐るごとし
 眼いつぱいに悲しき顔の見えてきぬわれの疲労《つかれ》のなかより來にけむ
(353) 壺のなかにねむれるごとしこのふるさとかなしみに壺の透きと揺れかし
 つるむ小鳥うれたる蜜柑おち葉の栴檀家をめぐりて夕陽してあり
 栴檀の葉に秋のきたるは質《たち》わろき玉のひそひそ光れるごとし
 太陽にむかひしがめつくせるわがつらの皮膚のこはばりも朝はうれしき
 園には鷄蜜柑朝の日枇杷のはな父がたちいで摘める柚子の實
 しんしんと頭《かしら》痛めり、悲しき幻影、輝ける市街の停車場の見ゆ
 しんしんと頭痛めり、悲しき幻影、下の關の海峽に高き窓つくる
 憎まれ者のわれに媚びむとするこころにやわが部屋に鏡臺を置くといふ姪
 鰯のみ食ひつつ幾日すぎにけむ栴檀の葉の日々散る家に
 煙草の灰がぽつたりと膝におちしときなつかしき瀬の音聞えくるかな
 おお、夜の瀬の鳴ることよおもひでのはたととだえてさびしき耳に
(354) 一ところ山に夕日のさせるごとく東京の市街をおもひてぞ居る
 寸ばかりちひさき繪にも似て見ゆれおもひつめたる秋の東京
 數寄屋橋より有樂座見るものごしにこころをなしておもふ秋の市街《まち》
 相模の港津の國のみなといづくもみな秋となるらむ旅をしぞおもふ
 一りんの冬の薔薇《さうび》のうすくれなゐなつかしきものに手にもとるかな
 冬の薔薇われを憎める姉の娘が折りてあたへしくれなゐ薔薇
 わが園の山梔子の實の日ごと黄《きいろ》くなりまさりゆき雪も降らず居り
 くちなしのちひさく黄なる實をふたつにさけば悲しき匂ひ冬の陽に出づ
 わが生《よ》は浪、海のなかなるひとつの浪まつさをの浪ゆたゆたの浪
 久しくひかりを見ざる眼のごとくそこひ痛みて友のこひしき
 爲すことみな悔とならざるなき我が日今朝も新しく輝きてあり
(355) 薔薇《ばら》の花びらのごとく鮮かに起きてあり薔薇の花びらのごとく冷たき朝に
 愛すべきは朝の光線なりまことに光線にむかへる我が疲れし瞳なり
 さるにても不思議なるはわが健康かな鐵の碎片《かけら》のいよいよ黒く輝けるごとし
 くだもののごとき港よ横濱の思ひ出は酸く腐り居にけり
 とある旅館の窓の硝子にうつりゐし秋の港の朱の帆黄なる帆
 黒き帽子黒き背廣着て街路《まち》ゆくとありめづらかに來し友のたよりに
 さなりげに都は冬のつめたくて汝が戀人も輝きてあらむ
 健康の完かりせばこのさびしさ消えむかとおもふ、朝、冷えし鏡
 あはれ悲し玉にくもりのなきごとく健かならむ健かならむ
 われを恨み罵りしはてに噤みたる母のくちもとにひとつの齒もなき
 斯る氣質におはする母にねがはくは長き病の來ることなかれ
(356) 母が愛は刃のごときものなりきさなりいまだにそのごとくあらむ
 そそくさと夕陽にうかみ小止みなく働く庭の母を見じとす
 夕されば爐邊に家族つどひあふそのときをわれはもとも恐れき
 母にも姉にも對座をいとふ臆病のわれのこころの澄みたるかなや
 飲むなと叱り叱りながらに母がつぐうす暗き部屋の夜の酒のいろ
 わづかの酒に醉ひては母のつねに似ずくちかろく、夜のかなしかりけり
 猫が踊るに大ぐちあけてみな笑ふ父も母も、われも泣き笑ひする
 あはれ今夜《こよひ》のごとく家族のこころみな一いろにあれ一いろにあれ
 姉はみな母に似たりきわれひとり父に似たるもなにかいたまし
 くちぎたなく父を罵るる今夜《こよひ》の姉もわれゆゑにかとこころ怯ゆる
 あはれみのこころし湧けるときならむしみじみものいふ母の悲しも
(357) 母をおもへばわが家は玉のごとく冷たし父をおもへば山のごとく温かし
 くづ折れてすがらむとすれど母のこころ悲哀に澄みて寄るべくもなし
 こころより母を讃ふるときのありそのときのわれのいかにかなしき
 うちつけにものいふことをも恐れ居るその兒をなほし憎みたまふや
 なま傷にさはらぬやうに朝夕の世間話にも氣をおく納戸
 ひとを憚りてわれを叱れる父の聲きかむとして先づ涙おちぬれ
 父と母くちをつぐみてむかひあへる姿は石のごとくさびしき
 家に出づる羽蟻の話も案のごとくこの不孝者のうへに落ち終りけり
 母、姉、われ、涙ぐみたる話のたえま魚屋入り來ぬ、魚の匂へる
 なぜに斯く蜂多きならむわが家の軒のめぐりは蜂ばかりなり
 斯くおほく蜂に見馴れてはいつしかに友だちのごともおもはるる、冬
(358) 醉ひざめの水の飲みすぎしくしくと腹に痛みて冬の朝來ぬ
 ときどきに部屋より出でて身に浴ぶる冬の日光のうす樺いろよ
 帽子なしに歩くくせつきしふるさとの冬の日光のわびしいかなや
 母の聲姪の泣くこゑとりどりの肉聲さびしわが家《いへ》の冬
 西の窓の障子の紙が血のごとく夕陽にぞ染む父の背後《うしろ》に
 鷄ぬすむ猫殺さむと深夜《よふけ》の家に父と母とが盛れる毒藥
 泥棒猫をころして埋むる山際の金柑の根のつちの荒さよ
 死んだ猫をさげし指さきに金柑をつみてくらへどきたなしとせず
 ほとほと不要となりし父のテーブルを借りきて二階の窓邊にぞ据ゆ
 前の山より照りかへす冬の日光のしづけき明るみ包めり書齋を
 その障子もこの窓もみなしめきりて冬の夕陽に親しみて居り
(359) 椅子ながら山々の間《あひ》の落日を見居れば、二階、父の入り來ぬ
 葉よりさらにみどりに透けるちさき蟲薔薇の葉に居りき、夕陽に透ける薔薇に
 花いちりん葉が三四枚まがりくねれる九寸ほどの薔薇よ、この冬の薔薇よ
 薔薇の葉を喰ふ蟲を見出だしこの部屋のなにやら明るくなりし思ひす
 夕陽のかげちひさき黒き蟲のふん机に散りてあり、薔薇に蟲居り
 鹿の角を十四五本もなげ入れし古びし箱を見いでけり、朝
 父が獵《か》りしものなりと云ふ鹿の角眞黒くすすけ寶石に似る
 低聲《こごゑ》に卑俗なる唄うたひつつ夕陽の椅子を離るるはよき
 褪せてちればつぎなる小枝さして置く薔薇とわれとの冬の幾日
 斯くあきらかに秋の日光がわが肌にさせるは痛き冷笑に似たり
 わが肌に觸るるもの眼にうつるものいづれか痛き冷笑にあらざる
(360) 信ぜむとねがひ信じたりとおもひ思へどもこころの何處《いづく》にか細き風吹く
 わが朝夕の生活をうすき板のごとく思ひて裏より覗かむとする
 はたと踏みつけむわが生の地にも斯《こ》のごとき冬の夕陽が散りてあるべしと思ふ
 わが窓に黒き幕來て垂れてあり汝が生《よ》を靜かにはぐくめよとて
 梟のごとくわれを見守るもあり、杜鵑《とけん》の如くかすめ行くもあり、悔ぞ群れたる
 起き出でて戸を繰れば瀬はひかり居り冬の朝日のけぶれる峽に
 今朝もよく晴れたり、今し朝食後の散歩に趨ゆるちひさき冬の山
 五日がほど讀書に過ぎぬ、つかれたる暗き頭に親しきこの冬
 靜かなれ冬の日、わきてけふ一日、朝よりこころ死せるがごときに
 机のうへの二りんの薔薇にも愛憎の湧く日なり、眼《まなこ》昏《くら》し
 青杉の大枝をさせば北窓の机小暗しわれの讀書に
(361) 山河みな古き陶器のごとくなるこのふるさとの冬を愛せむ
      十一月三日、今年はすでに天長節の日にあらず、悲しみてうたへる歌三首
 曇りなき十一月三日の空の日のかなしいかなや靜やかに照る
 かしこしやこの一もとの菊にさへ大御心ののこれるごとき
 野に生《お》ふる草山にそびゆる樹のごときこのこころもて悲しみまつる
 
(362) 黒薔薇
 
 納戸の隅に折から一挺の大鎌あり、汝《なんぢ》が意志をまぐるなといふが如くに
 飽くなき自己虐待者に續《つ》ぎ來たる、朝、朝のいかに悲しき
 新たにまた生るべし、われとわが身に斯く言ふとき、涙ながれき
 靜かにいま薔薇の花びらに來て息《いこ》へるうすきいのちに夜の光れり
 こころづけば鏡に薔薇がうつりてあり、つとわが顔の動けるそばに
 ふと觸るればしとどに搖れて陰影《かげ》をつくるくれなゐの薔薇よ冬の夜の薔薇よ
 ひらかむとする薔薇、散らむとする薔薇、冬の夜の枝のなやましさよ
 はち切るるごとき精力を身に持ちたしと呼吸《いき》をぞとむる、薔薇のくれなゐ
 わが生存力はいまだ火を知らざる如し、油に黒く濡れて輝けど
(363) 傲慢なる河瀬の音よ、呼吸《いき》はげしき灯のまへのわれよ、血のごとき薔薇よ
 悲しみとともに歩めかし薔薇、悲しみの靴の音《ね》をみだすなかれ薔薇
 吸ふ呼吸《いき》の吐く呼吸のわれの靜けさに薔薇のくれなゐも病めるが如し
 わがかなしさは海にしあればこのごとき河瀬の音は身に染まず、痛し
 やうやくに馬の跫音《あおと》のきこえきぬ悲しき夜も明けむとすらし
 日に蒼みゆく神經質になりゐしにふと心づきぬ、とある冬の朝
 饑ゑたる蟲幹にひそめる樹のごとくわが家の何處《いづこ》にか冷たさのあり
 愛すべきただ一りんの薔薇あり、この日のわれの靜かなるかな
 斯る孤獨に我が居るときに見出でたる一りんの薔薇を愛でも惱める
 薔薇を愛するはげに孤獨を愛するなりきわが悲しみを愛するなりき
 虚《むな》しき命に映りつつ眞黒き玉のごとく冬薔薇の花の輝きてあり
(364) われ素足に青き枝葉の薔薇を踏まむ、かなしきものを減ぼさむため
 薔薇に見入るひとみ、いのちの痛きに觸るるひとみ、冬日の午後の鬱憂
 悲しみの影も滅びつ、見入りたる一りんの薔薇の黒くしぞ見ゆ
 古びし心臓を棄つるがごとくひややかに冬薔薇のくれなゐにひとみ對へり
 聞き馴れては蟲もどこやら鑛物の音するごとし、もはや冬なり
 愛する薔薇を蝕ばむ蟲を眺めてあり貧しきわが感情を刺さるるごとくに
 机の前の夜の山よりまひて來し濃みどりの蛾のとびてやすまず
 日光が行燈のごとく灯のかげがわが心の光明の世界に似たり
 灯を消すとてそと息を吹けば薔薇の散りぬ、悲しき寢醒の漸く眠りを思ふ時に
 わが悲しみは青かりき、水のごとかりき、火となるべきかはた石となるべきか
 わが煙草の煙《けむ》のゆくとき、夕陽の部屋薔薇はかなしき鬱憂となる
(365) しづかなる休息、冷やかなる休息、この木漏日のごとき休息
 この冬の夜に愛すべきもの、薔薇あり、つめたき紅ゐの郵便切手あり
 ひいやりと腰のあたりがなにものにか觸れしがごとくくづるる冥想
 疲れしにや、いないまやうやく痛める眼《め》にかなしき朝を見むとするなり
 わが孤獨に根を置きぬればこの薔薇の褪《あ》する日|永久《とは》にあらじとぞ思ふ
 思ひつめてはみな石のごとく黙《つぐ》み、黒き石のごとく並ぶ、家族の爭論
 ゆふぐれのわが家の厨の喧燥は古沼のごとし、西に高き窓
 家のいづくにか時計ありて痛き時を打つ、陰影《かげ》より出でよ、出でよとて打つ
 窓よ暗かれ、わが悲しき孤獨の日に、机のばらのさむきくれなゐ
 ついと眼《め》を外《そら》して、つとめの如く薔薇を見る、愛する讀書にも尚ほ耽り得ずや
 黒鐵のごとき机に身を凭せて薔薇にひややかに眺め入りたる
(366) わが孤獨の悲しみにひそかに觸るるごとく、冬の夜の薔薇にうちむかひ居り
 懷疑は曇れる日の海のごとし、痛きにほひにいのちもまた曇るなれ
 昨夜《よべ》のわれとこよひの我と肉體のほかいづくに係《かかは》りありて生けるにや
 あるがままを考へなほしてみむとするこころと絶對に新しくせむとする心と
 ひとの眼の哀樂はただよく描《か》かれし布の上のつめたき繪なり
 ともし斯くもするはみな同じ、やめよ、さらばわれの斯くして在るは
 いづれ同じことなり太陽の光線がさつさとわが眼孔を拔け通れかし
 感覚も思索もいちど斷れてはまたつなぐべからずつなぐべくもあらず
 窓に倚れば悲哀は朝のごとく明るく、鳥に似てわが命の影もさすなり
 際は悲しめる女の皮膚のごとし、いないなその如くわれもまた悲し
 わが瞳は涙に濡れてかがやき日に照らされし萬象はみな死にて冷たし
(367) 陽を浴びつつ夜を思ふはこころ痛し、新しき不可思議に觸るるごとくに
 脂肪にや額の皮膚のこはばれる或る冬の日の午後、多き蜂
 青やかに光れる鎌ひとつ地の上に在り、足跡はあれど人は見えず、眞晝
 髪延びし後頭部にも居るごとし、一疋の蜂、赤いろの蜂
 斯くばかり明るき光さす窓になにとて悔をのみ思ふらむ
 この山梔子《くちなし》の實に似ても靜かなれかし、何故にわれの斯くあわただしきや
 やや深きためいきをつけば、机のうへ眞青の薔薇の葉が動く、冬の夜
 高き窓より一すぢの薄明り、さすげなれども冷たしわが眼
 窓は傷のごとし、いためるいのちの上に光射すことを恐るればなり
 窓に向ふとき、わが眼古びし蝋のごとくこはばることあり、瞑ぢて居るべし
 窓より光線を見るも厭はし、わが眼松の皮となるに似たれば
(368) 運命とは言はじ、在るがままのこの一りんの薔薇のごとく悲しきもの
 薔薇は薔薇の悲しみのために花となり青き枝葉のかげに惱める
 なめらかにしてあぶらのごとき夜、窓を包めり、窓邊には薔薇とわれ
 ラムプを手に狹き入口を開けば先づ薔薇の見えぬ、深き闇の部屋に
 あまりに身近に薔薇のあるに驚きぬ、机にしがみつきて讀書してゐしが
 冬をしかと捉へてわが皮膚の血を注さむとするがごとき寂しさ
 言葉に信實あれ、わがいのちの沈黙より滴り落つる短きことばに
 忘れものばかりしてゐるやうなおちつきのない男の机の鮮紅薔薇《ウインターローズ》
 さうだ、あんまり自分のことばかり考へてゐた、四邊《あたり》は洞《ほらあな》のやうに暗い
 自分のこころを、ほんたうに自分のものにするために、たびたび來て机に坐るけれど
 全く自由な絶對境がないものなら、斯うして眺むる薔薇はうつくしい
(369) 晝は晝で、夜は一層薔薇が冷たいやうだ、何しろおちつかぬ自分の心
 と思ふまに薔薇がはらはらと散つた、朝、久しぶりに凭つた暗い机に
 ぢいつと薔薇に見入るこころ、ぢいつと自分に親しまうとする心
 薔薇を貰ひに隣家へ姪をやつた、人知れぬ涙ぐましい心地で
 北向きの暗い机にたびたび來ては坐るがすぐ讀書にも疲れる
 斯うしてぢいつと夜のばらを見てゐるときも心は薔薇のやうに靜かでない
 薔薇が水を吸ひやめたやうだ、玻璃《がらす》の瓶《びん》の冬のばらが
 しかたなさにばらを見てゐるのかも知れぬあかい薔薇、つめたい薔薇
 考へだせばみなからつぽのやうに思へてくる、机のうへの冬薔薇の美しいこと
 散つてみれば案外な花瓣の大きさ、薄さ、紅さ、冬の夜の机の薔薇
 無論さうして働いてうまい物を食ふのもいい、さうしてゐ給へ、君はほんとに健康《じやうぶ》さうだ
(370) さういふこともあらう、さうであらう、何しろ自分は自分で忙しい
 太陽の光線は地球の表皮だけに功能があるのだらうかなどとも考へる
 自分をたづぬるために孔を掘り、孔ばかりが若し殘つたら
 朝など、何だか自分が薄い皮ででもあるやうに思はるるときがある
 焚火、焚火、焚火に限るやうになつた、このごろの自分に最もふさはしい焚火
 叔父さん、今朝氷がはつたと姪が呼ぷ、さうか眼が痛いほどいい気持だ、寢床
 冷たい、冷たいと心からふるへて爐のそばに寄つてゆく、朝のわが身をいとしいと思ふ
 木の切端を投げだしたやうにめいめいの朝の膳が並んだ、爐には焚火
 ランプの灯は石油のやうな憂鬱で、窓の夜と私とにそそぐ
 さうさ、※[鼠+晏]鼠《むぐらもち》のやうに飲んでやる、この冬の夜《よ》の苦い酒
 眞黒な布《きれ》で部屋を張りつめ、椅子も机も、服までも黒くしたい
 
(371) 父の死後
 
 あなかしこし靜けさ御魂に觸るるごとく父よ御墓にけふも詣で來ぬ
 御墓にまうでては水さし花をさす、甲斐なきわざをわがなせるかな
 この墓場のつめたきもなにかなつかしく樒の木かげを去《い》にがてにする
 冷たき、見知らぬ境に入るごとくけふもひそかに墓場にぞ來ぬ
 樒のみ茂れる墓場、くらき墓場、此處にしもつひにねむりたまふか
 御墓ちかづく、墓場小暗き坂みちにこころは黒き玉とかがやき
 あわただしく薔薇を摘みきて挿しぬ、父逝きてのちのわれのいとしさに
 父の死後、いまだ十日を出でず、わがこころ川原の砂の白くすさみたり
 喪の家の爐邊《ろへん》、榾火のかげに赤き母が指姉がゆぴ我が指のさびしさよ
(372) わが厨の狹き深き入口に夕陽さし淵のごとし噤みて母の働ける
 ものいはぬわれを見守る老母の顔、ゆふぐれの爐邊のうす暗きよ
 いろいろに考ふれど心に染むことなし、來む明日さへ、おもへば恐し
 わが幸福の裏には常にわれを見守る冷笑あり、薄き朝のひかりのごとく
 空にひくき冬の朝の太陽、底無しのさびしき夜より出でて來しわれ
 起きいづれば太陽はとく峰にあり、氷れる溪にのぞみたる家
 唖を見て笑はずにゐられぬほどに浮きたちし心は今朝の空よりも碧し
 思ひだしたやうに水仙が匂ふ、水仙が匂ふ、朝の讀書の机に
 朱欒の實、もろ手にあまる朱欒の實、いだきてぞ入る暗き書齋に
 明るき山かな、朝の日のさせり、病める鳥かも、木の根にぞ啼く
 薔薇を手近に寄せぬ、闇夜の雷鳴に氷のごとくふるへ居るこの机よ
(373) 雨のなかの冬の樫の樹、灯《ひ》の窓より樫にむかへる薔薇のくれなゐ
 紺いろの小鳥をたなごころにそつと握り放たじとする、死んだこころ
 なんとやら頭ばかりが重たうて歩きにくかりぐつと踏みしめむ
 飴のやうに粘土のやうに、このこころ成れ、いろいろに細工してみむ
 やす鏡、てらてら鏡、青い鏡に伸びたり縮んだり、我がこころ
 この繪のやうにまつ白な熊の兒となり、藍いろの海、死ぬるまで泳がばや
 きゆうとつまめばぴいとなくひな人形、きゆうとつまみてびいとなかする
 要するにうその話、うたはうたへどわがこころ身にやどらず
 啼け、啼け、まだ啼かぬか、むねのうちの藍いろの、盲目《めしひ》のこの鳥
 安心できるやうな大きな溜息を吐かうとて背延びしたれば、頭痛めり
 冷ゆればすぐに風邪をひく、あはれにもたしかなるわが皮膚かな
(374) 饑ゑて一片の※[麥+面]麭をぬすまむとするごとくわが命の眼《まなこ》ひらけり
 何處より來れるや我がいのちを信ぜむとつとむる心、その心さへとらへがたし
 眼《め》をひらかむとして、またおもふ、わが生《よ》の日光のさびしさよ
 闇か、われか、眼ざめたる夜年の寢床をめぐれるもの、すべて空し
 何にもあれ貪ることに倦みて來ぬ、わびしや友情にも
 地の皮膚《はだ》にさせる日光と、陰翳と、わがいのちの繪具と、正午の新鮮
 死人《しにん》の指の動くごとく、わが貧しきいのちを追求せむとする心よ
 載るかぎり机に林檎をのせ朱欒を載せ、その匂ひのなかに靜まりて居る
 机のうへ林檎とざぼんとのなかに小さき鏡を置き、讀書の疲れを慰めむとす
 三つ四つころがれる朱欒の匂ひに書齋は鬱々として病めり、わが讀書
 酒の後、指忙あぶらの出でてきぬ、こよひひとしほ匂へ朱欒よ
(375) 今朝わが頭は水晶のごとくに澄めり、林檎よ匂へ、朱欒よ匂へ、二月この朝
 ざぼんの實の黄にして大なる、りんごの實のそのそばにして悲しみて匂へる
 みちのくの津輕の林檎、この林檎、手にとりておもふみちのくの津軽
 醉うて居れ、醉うて居れ、ほんとうに醉うて居れ、外目《よそめ》をしながら心が斯う呟く
 靜座に耐へられなくなれば、ついと立つ、立つて歩く、貧しい心そのもののやうに
 人がみなものをいふうとましさよ、わがくちびるのみにくさよ
 盡くるなき怠屈のうちにあれかしと思ふ、死人のゆぴの動く勿れかしと思ふ
 わがたいくつの夜《よ》に蟇《しき》の啼くが聞ゆ、雨もまばらにわが心にふりそそぐ
 疲れたるか頭よ、かすかに耳鳴りのする、耳鳴りのする、いで床へいそがむ
 空洞《うつろ》なるわがからだにも睡眠《ねむり》をおもふ時の來ぬ、したしき夜よ
 何にもあれ、はや塗らむとぞおもふ、甕を溢るるつめたき繪具、悲しき心
(376) 氣に入つた甕でもあらば、甕のかたちに、はやなりなまし、わがこころ
 身ぶるひをする藍いろの小鳥、そのやうにわれの心も、いざ、身ぶるひをせむ
 こころの闇に浸みる瀬の音、心のうつろに響く瀬の音、瀬の音、瀬の音
 溪のおとはいよいよ澄みゆき夜《よる》もふかめどいづくぞやわがこころは
 もとめて得ざるものなしといへる人あり、すべて空しといふ人あり、群れるかな
 死を感ぜよ、まことにひとり生けるごとき命を感ぜよ、まことに感ぜよ
 裂けばとてこの古甕になにものの入りてあるべき入りてあるべき
 
(377)    海及び船室
 
       一月初旬より二月初旬にかけ、九州の沿岸を一周せり。歌四十五首
 
 闇のうちにあまた帆ぞ鳴る、帆ぞ動く、わが汽船の漸く動き出でむとする港に
 船室の窓よりやはらかき朝日きたる、いでわがいとしき麥酒を呼ばむかな
 濤よりの反射か、船室の朝日の搖るることよ、やはらかきことよ
 身體《からだ》は皮膚のみのごとくつかれたり、船室の窓よりかなしき朝日きたる
 酒後の身を朝日が染め、船が搖る、甲板《でつき》あゆめば飛魚がとぶ
 飛ぶ、飛ぶ、とび魚がとぶ、朝日のなかをあはれかなしきひかりとなり
 太陽のこなたに帆が見ゆ、かげりて黒く死せるごとき帆
 すれすれに岬の絶壁を過ぐ、わが船室の時計のおと
(378) 風出でて浪ぞ立つ、朝日いまだ低くして陰翳《かげ》のみ多き海に
 わが顔にまともにさせる濃き朝日、船は搖れに搖れ、濃き朝日
 親船をはなるる艀、ゆらゆらと晝のみなとに浮びいでたれ
 船のかがみにうつる額の蒼さよな、旅なるわれの眼の痛さよな
 朝の甲板《でつき》にぎあざあとして水そそぐ、濃き陽のなかの四五の萌黄服
 防波堤に群れゐて市街《まち》のひとあそぶ、晝のみなとにうかべるわが汽船(別府港三首)
 艀なるわれ等見つめてかき噤み眞晝の波止場ひと群れて居り
 汽船《ふね》おりてしき石踏めばしんしんと腦にぞひびく、晝のみなと市街《まち》
 乘換驛、待ちゐし汽車に乘りうつる、窓にま白き冬の海かな(小倉驛)
 大海の荒の岸邊の浪のかげに人群るる見ゆわが冬の汽車
 汽車の窓べに蜜柑の皮をむきつつも身をかきほそめ昨夜《よべ》のこと悔ゆ
(379) 松の青さよ、とある悔をばおもひいで眼《め》の痛きときわが汽車の窓に
 風たてば有明の海は大いなる白き瀬となるわが小蒸汽船よ
 有明の海のにごりに鴨あまたうかべり、船は島原へ入る
 冬雲のかげりに暗き島、岬、憂き島原へわが船は入る
 船に乗り海を渡る、なんのたのしみぞ、船に乘り縁もなき海を渡る
 眼に膜の破りたらむごとき心地して島原へ行く船にわが在り
 何のために此處には來にけむ、何處《いづく》に居るも心になんの變りあるべき
 島原は海にうかべるかなしみか、宿屋のてすり、倚ればつめたき
 島原の宿屋にこもり晝も出でず、ひとりしわれをはかなみて居り
 あはれ此處にもはかなき記憶を刻まむとしはかなき行ひをわがするなりき
 風も凪ぎゆふべとなれば有明の海はあぶらの如し、憂鬱
(380) うるはしく笑ふものかな、笑ふなかれ、わがさびしきに相觸るるなかれ(【遊女深雪】)
 箱崎の濱のしら砂ふみさくみ海のなかみち見ればかなしも(海の中道は岬の名なり)
 博多なる冬の黒さよ、わが瞳、水の暗さよ、灯《ひ》のつめたさよ
 國ざかひ冬枯山のいただきを搖れまがりつつ行けるわが汽車
 櫻島はけむりを吐かぬ島なりき、あはれ死にたる火の山にありき
 梅寒き宿屋の二階、すみの部屋、夕日の薩摩明らけく見ゆ
 醉ひざめのこころの水のごとかるに痛しや夕日あかあかと浸《し》む
 海の黒さよ、ほそぽそとしてうかぴたる佐多の岬の夕日の濃さよ
 浪高み船のあゆみの遅さよな、みさきの端《はな》の白き燈臺
 入りゆけば港はおもきらくじつに鴎のむれも灰色に見ゆ
 やよ窓に灯をともすなかれ、海はいま薔薇いろに暮る、やよわが黒船
(381) やよ老人、いま船室には君とわれのみ我がさかづきをねがはくは受けよ
 船は搖るれども歩むともなし、窓に黒く月夜の陸《くが》が見ゆれども動かず
 あはれ悲し、いで衣服をぬがばやと思ふ、海は青き魚のごとくうねり光れり
 あまり赤く、あまりあまきこの蜜柑かな、海はをんなに似て青く動く日
 心のみいらだちて身はガラスの玉のごとし海は動く、ななめに動く
 身ぞ染まる、青き笑、人魚の笑、海死にてわが眼《め》石のごとく盲ひたるに
 絶壁を這ひあがる、黒き猫とや見えむ、いまかなしき絶壁を這ひ上る
 とかくして登りつきたる山のごとき巨岩のうへのわれに海青し
 岩角よりのぞくかなしき海の隅にあはれ舟人ちさき帆を上ぐ
 孤獨よ、黒鐵《くろがね》のごときこの岩の上にあざやかに我が陰翳《かげ》を刻め
 さかしくも孤獨のひとみの輝くことよ、黒鐵なせる岩の間に
(382) かなしくも海に濡れたるわがいのち、わが孤獨、あはれ太陽よりかくれまほしき
 悲しみに身もいらち、黒く巨いなる岩のかげに尿《いばり》をぞする、青き浪の中に
 うれし、うれし、海が曇る、これから漸く私のからだにもあぶらが出る
 蜘蛛が海よりも大きく見ゆ、眼のまへに松よりさがりし蜘蛛
 岬なる鬱憂の森、海は病み、ただ一羽かなしき鳥まへり
 身體は一枚の眼となりぬ、青くかがやける海、ひらたき太陽
 岩のあひだを這ひて歩く、はだしで、笑ひて、浪とわれと
 鵜が一羽不意にとびたちぬ、岩かげの藍いろの浪のふくらみより
 下駄をぬいでおいたところへ來た、これからまた市街へ歸るのだ
 岬の森よりしぶしぶ歸らむとすれば、港の市街にかなしき汽笛鳴る
 この帆にも日光の明暗あり、かなしや、あをき海のうへに
(383) 水平線が鋸の刃のごとく見ゆ、太陽の眞下の浪のいたましさよ
 太陽の具合で海がわが額の皺のやうに襞をつくる、呼吸《いき》の苦しいこの窓
 わが窓の冷たさよ、海はけふ實《げ》にいく度か色彩《いろ》を變へけむ
 少女よ、その蜜柑を摘むことなかれ、かなしき葉のかげの
 ひややかに海より廣き帆の來りぬ、港の旅館の窓のまへに
 微雨のなかに鳥まへり、海の蒼さ、冷たさ、やうやく夜《よる》とならむとするこの窓
 光無き海、濃き藍色にたたへたり、雨晴れむとして一羽のしろき鳥
 闇夜の波は戀するをんなの指のごとし、小ラムプとわれとの窓のしたに
 窓から下を見おろす、つめたい夜がうなじにも背にも
 わがこころ、今し鵜のごとくかへり來よ、夜の窓、濤のひびきのみ滿てるに
 精力を浪費するなかれ、はぐくめよと涙しておもふ、夜の濤に濡れし窓邊に
(384) 闇に眼の馴れぬあひだの港の市街《しがい》、戸出づれぼ濤の四方《よも》にくだくる
 かなしき月出づるなりけり、限りなく闇なれとねがふ海のうへの夜《よる》に
 とある雲のかたちに夏をおもひいでぬ、三月の海のさぴしき紫紺
 春の日の眞黒き岩にあふむけにまろがりて居れば睡眠《ねむり》さしきたる
 太陽にあたためられしこの黒きおほいなる岩にいざやねむらむ
 白き猫そらになくがにあをうみの春日のかげに啼き居る鴎
 われ知らずうたひいだせるわが聲のさびしさよ、春日《はるび》紫紺いろの海
 淫慾は冷たかりけり、濃くうすくわが身のうへに照りかげりする
 這ひあがり岩のかどより海を見る、さびしき紫紺、さびしき浪のむれ
 をちこちに岩のとがれる、陰翳《かげ》おほき午後四時の紺の海となりにけり
 岩かどに着物かきさき爪をやぶりきりぎしを攀づ、椿折るとて
(385) 潮引きてつかれはてたる岩かどにせまき海見え浪のうごける
 油なし浪ぞねばれる、曇り日の海に群れたる海女のをとめ等
 高まりたかまりつひに碎けずにきえゆきし曇り日の沖の浪のかげかな
 わが頬のかすかの熱や、小窓より海見てあれば蝙蝠のとぶ
 なみ高し、雨後の春日をはらみたる綿雲のかげにみさご啼くなり
 石のごと首つきいだし二階なる窓に海見つつ疲れはてにけり
 げにながく見ずありけりと海を見にうちいでてきぬこころを運び
 夜の海あぶらのごとく油繪のごとく孤獨をかなしましむる
 春のうみ魚のごとくに舟をやるうらわかき舟子《かこ》は唄もうたはず
 海を見てあり、海に染められわがこころしばしいろづく、海を見てあり
 太陽を拜まむ、海もそらもひとつ色なり、いま太陽ををろがまむ
(386) 太陽をたのしめとふと心に言ひておどろきて涙ながれぬ
 椿の花、椿のはな、わがこころもひと本の樹のごとくなれひとすぢとなれ
 紺いろの干潮《ひしほ》の海はわがこころの淺きにも似てもの憂かりけり
 わぴしき濱かな、貝がらのくづ砂のくづいざやひろはむ、海も晴るるに
 夜の雨しじにふるなり、沖津邊はかすかにひかりかすかに光る
 よるの雨そこともわかぬ海岸にほのじろき泡のつづくなりけり
 わがたましひのはしに悲しく染まり居る海の蒼みよ、夜となりにけり
 潮引きてあらはれし岩に鴎居り空みて啼けば下りくるがあり
 おのづから盲目のごとく岩を踏む、海見れば湧くおもひさぴしも
 夕陽に透き浪のそこひに魚の見ゆ、あるまじきこと思ふべからず
 黙然と岩を見つめておもふこと、ひとに告ぐべききはならなくに
(387) 手に觸るるわびしき記憶苦き悔岩をめぐりて浪ぞむらがる
 古き繪の布《きれ》のやぶれにのこりたるわびしき藍の海となりにけり
 日本語のまづしさか、わがこころの貧しさか海は痩せて青くひかれり
 太陽かがやき引しほの海は羽あをき一羽の蝶となりてうごかず
 をんなの匂ひなりけり、ふと雲がわたれば海のあをくかげれる
 たらたらと砂ぞくづるるわが踏めば砂ぞくづるる、あゐ色のうみの低さよ
 一灣《いちわん》の海の蒼みの深みゆきわが顔に來て苦痛とぞなる
 海もまた倦むらし、わが靈魂は曇らむとす、いづくに動き行かむとするや小蟹よ
 木の葉にも盛れるがどとく海は小さし、わが命燃え燃えて、一すぢの青き煙《けむ》たつ
 椿の木、椿の木、わが憂愁にきらきらとひらたき海のうつりかがやく
 天地創造の日の悲哀と苦痛とけふわが胸に新たなり、海にうかべる鳥だにもなし
(388) 陰翳《いんえい》を知らざるかの太陽のほとりよりうまれて雲のおりてくるなり
 けぶりなし搖れゆるる海の反映、陽は黄ばみわが顛の海の反映
 ふと浪にむかひてうすく笑ひけり、あやふき岩を降りはてしとき
 浪のかげより顔をいだせる海女のあり、眼もあをあをと口笛を吹く
 あら砂のすさめるこころ蒼白み海にむかひてうちうめくかな
 海よかげれ水平線の黝みより雲よ出で來て海わたれかし
 岩かげの浪のひとつのふくらみに彼女のかほをゑがき淋しむ
 わが顔の海の反映、一羽のかもめしらじらとしてまひいでにけり
 日光のかげのごとくにちらちらと海鳥あまたむれとべるかな
 鳥のおほさよちひきき波のたちさわぎ海あさあさとかげりきたりぬ
 
(389) 醉樵歌
 
 われも木を伐る、ひろきふもとの雜木原春日つめたや、われも木を伐る
 春の木立に小斧《よき》振ることのかなしさよ、前後不覺に伐りくづしけり
 さくさくと伐りてありしが、待てしばし、しばしはものをおもはざりける
 栂の木のしげれるかげに小半どきあまり小斧ふり伐りたふしける
 春の木は水氣《すゐき》ゆたかに鉈切れのよしといふなり春の木を伐る
 山柴の樫の冬青木《もちのき》のいろいろあるなかに椿まじれるかなしかりけり
 椿の木は葉のしげければぽつたりとつめたき音してつちにたふるる
 わが伐りし木々のみだれてたふれたる青きすがたを見てあるしばし
 ややありて指にはまめのできてきぬもはややめむと木かげに坐る
(390) 青木伐り、つかれて村のむすめたち夜床のくしきはなしをぞする
 さびしさにむすめの群に入りゆけばひとりのむすめわれにいふことに
 峰高み海見をすれば春がすみをどめるをちに青く見ゆかに
 ながめ居ればかすみのをちに見えきたる海あり海のなかに島あり
 あの山この山粘土細工のごとくにも見えきたるなり淋しみて居れば
 人聲ぞとおもへば鴉にありけり春日けぶれるみねの松山
 見おろせばふもとに山の幾うねりうねれるにみな松の生ひたる
 をのへなる松の山こそ明るけれそのまつ山に入りゆく樵夫《きこり》
 そこかしこ山に老木の松をもとめ大まさかりをふるふ男よ
 そのそばに子どもと犬とがついて居り大まさかりを振るきこりのそばに
 つぎつぎに伐り倒さるる松の木をながめて居れば春日さびしも
(391) どよめかしまつたく松のたふれ終りぬ大まさかりの汗ばめるかな
 わな見にとまだきに行けばおはいなる兎かかり居りわれを見て啼く
 わな張りしは椿のかげにありにけりうさぎかかりて椿散り居り
 霞に濡れて黒くつめたく山がせまる、窪地のしげみに雉子《きぎす》待つわれに
 かすんだ山にをりをり風が來る、樹が鳴る、わが手の銃《つつ》のつめたさよ
 つつの音《ね》がわれとわがこころに響く、深夜の酒のごとくひぴく
 我がかなしみに火をつけるやうに、地團太踏みて鳥を逐ふなり
 見知らぬ窪地の灌木原におりて來た、見廻せば、見まはせば春の鳥啼く
 傷つきて鳥かかりたる喬木に攀ぢむとて走《は》せ寄れば、青き樅の樹
 テーブルの上いつぱいに枝はひろがり咲き群がる躑躅、夜の青い瓶《かめ》
 ペンさきに滲み出づるインキ、ふと顔をあぐれば顔をつつめるつつじ
(392) 赤いつつじの咲きみだれた夜のテーブルに洋燈をつけて、すぐ消した
 夜になれば健康の恢復して來るごときわが身體、ラムプのかげの躑躅
 黄色なつつじもあると思ふ、この血のごときつつじのほかに、夜のテーブル
 不眠症ととざさぬ窓と戸外の闇と、ときどき机に落つる赤い躑躅
 わけとてはなくぢだんだを踏んでよろこんでみた、喜んだとてなににならうぞ
 居るところを失くしたこころがうつとりとかなしい日光を見つめて居る
 遠い麓に杉の木がまばらに立つて居る、人の生《よ》にある悲哀《かなしみ》のやうに
 燒酎に蜂蜜を混《こん》ずればうまい酒となる、酒となる、春の外光
 わがこころは極りなし、底もなし、ふたもなし、その心先づありやなしや
 萬葉集、いにしべびとのかなしみに身も染まりつつ讀む萬葉集
 人麿の歌をしみじみ讀めるとき汗となり春の日は背《せな》をながるる
(393) からくりめけるわれのこころのはたらきのはたと止まれり、雲雀うららうらら
 この國に雪も降らねばわがこころ乾きにかわき春に入るなり
 穴《す》だらけのわが心のその穴《す》にこの穴《す》に小鳥が眼を出しぴいとなき、ぴいと啼く
 藍甕《あゐがめ》に顔をひたしてしたしたにしたたる藍を見ばやとぞ思ふ
 鶺鴒が雲雀の聲によく似るとこころに言ひてあふぐ春の日
 氣がつけばこの春はいまだ椿を見ず、くれなゐの花をさびしくおもへり
 曇日のかすみのなかに鳥啼き鶺鴒啼き谿にのぞみてこの窓の高さよな
 ぢつと忍んで見て居れば、蟇が啼く、大きな咽喉をあけて春の日に啼く
 オヤ、そこにも啼く、なかに椎の樹二三本、けららけららと蟇啼きかはす
 蟇《ひき》の眼《め》のかなしさよ、つまが戀しとひたなきに啼くその蟇の眼
 踏めばくづるる山の赤つち、乾いた土、どこにしのんで蟇の啼くぞえ
(394) ほろほろとつちのくづれて蟇の啼く、きりぎしの春のつちのわれめに
 水甕に烙きつけられしつめたい青い裸體畫のやうなわがこころ
 觸れなばただちにものをばわれのいろに染めむ火のごとき心燃えたたず居り
 なやましき匂ひなりけり、わがさびしさの深きかげより鰭ふりて來る
 をんなが濡れた繪具のごとくそばを通る、つめたいさびしい春の一日
 我がうてるうさぎ雉子の肉つねに厨の釘に絶えざり、春暮れかかる
 夜ふけの厨にうさぎの股をさきとりて火にあぶるとき、きたれる孤獨
 なにはあれ第一の峰にのぼらむとかすめる山の背を歩み居り
 深山《みやま》わけ入り朽木の松のふしを掘るその松の節たいまつとなる
 太陽のかげりてゆけば悲しみつ雲いでて照ればよころぴぬ峰のとがりに
 朝の圍爐裡猫もとりわけあまゆるをあやしてあれば啼けるうぐひす
(395) けふも雨ふる、蛙《かはづ》よろこびしよぼしよぼに濡れて櫻も咲きいでにけり
 ねられぬままに起きて机の椅子に凭る、家をつつめる夜の雨かな
 春雨にみかさまさりて谷ぞこを石のながるるねざめてぞ聞く
 春の日のぬくみかなしも、ひたすらに淺瀬にたちて鮎つり居れば
 瀬の鮎子わが痩脛《やせはぎ》もきよらかに寒みいたみて春はゆくなり
 鳥うちのかへさは夜となりにけり山ざくらさへうちかざしたる
 すずしげに顔の感覺はたらけり、のちのつかれをおもはずもがな
 不眠症のラムプのかげのわが夜明、瓦たたきて雨ふりしきる
 夜《よ》の蝶のこの濃ねずみのなつかしや、このいろなせる帽子かぶらむ
 いだ釣ると春の川瀬につどひたるふるさとびとら黒き衣《きぬ》着る
 わが好きはこの灌木の原なれや、高くそびえてかげる樹もなし
(396) くだらぬものおもひをばやめにせむ、なにか匂ふは屁臭蔓《へくさかづら》か
 海いろにうちかげり居りかづら取るとてわがひとり入る尾鈴の山は
 樅に這ふ青きかづらよそのかづら取らむと樅をのぞみつつ行く
 いとながきかづらにありけり青きかづら引けども引けども盡きむともせず
 春の日や老いしかづらのあをあをと葉をつけて居り青かづら引く
 いとながく青きかづらをわれの引く身うちのちからこめてわが引く
 ぬすみする人のごとくにひそひそと深山にひとりかづら引くなり
 わが身十あまりあはせてなほ足らぬふとき樅なりよきかづら生《お》ふる
 かづら生ふるは山の北かげ春の日のにほひもさむき山の北かげ
 青かづら籠《こ》にみちみちぬいまはとてかへらむとすれば山も暮れにき
 
秋風の歌
 
(399) 私の著してきた歌集に、「海の聲」「獨り歌へる」「別離」(前の二集より避拔し更に新作を加へたるもの)「路上」「死か藝衝か」「みなかみ」があつた。今また昨春以来の作数百首を輯めて本集を編んだのである。さうするたびごとに、私は不知不識のうちに小休みなく移りゆく我が生命のすがたをまのあたりに見る思ひがして、一種言ひ難い感想にとらはるるが常である。さきには、歌は直ちに我そのものであつた。今でも無論我を離れての歌は一首もない.然しその間に、單に生命の表現または陰影であるといふより、われとわが生命を批評して居る如き傾向を生じてきたと思ふ。のみならずそれは單なる批評にとどまらずして、われとわれに對する希望や嘲笑や、要(400)するにその向上發展を促がしてゐるものと思はるる。われとわれを生んでゆくに要する一の力であり、その道程であると謂つてよいと思ふ。
 本書の校正に從事してゐる間、どうしたものか私は今までになくしみじみと時のちからを感じた。刻々に來り、過ぎゆく時といふものが自分の血や肉と終始してゐるのをまざまざ見てゐる如きを感じて、思はず慄然とした。さうして、顧みて自分の歌に對し今までと異つた可懷しみと力とを感じ、同時に自己に對し、歌に對し、悲しい慊厭咀咒の情を覺ゆる事實に從來に見ぬものがあつた。とにかく、私はいままた此處にこの集を殘して、更に新たな歩みを續けて行かねばならぬ。希くば留めしものに光あり、我が行くてに光あれと祈りながら、さびしい校正の筆を擱く。
                        若山牧水
 
(401) 夏の日の苦惱
 
 我が赤兒ひた泣きに泣く地もそらもしら雲となり光るくもり日
 ああつひにあか兒は泣《なき》をやめにけり妻の乳くびに喰ひいりにけむ
 膝に泣けば我が子なりけり離れて聞けば何にかあらむ赤兒ひた泣く
 なに故に泣くかよ吾兒よすやすやと寢入ればあはれ吾兒なるものを
 ことさらに泣かすにや子に倦みしにやかたはらにゐて手もやらぬ妻
 妻はしたにわれは二階にむきむきにちさき窓あけくもり日に居る
 片手のばせばとなりの屋根にとどくなりわれの二階のまどのくもり日
 或時は寢入らむとする乳呑兒の眼ひき鼻ひきたはむれあそぶ
 啼きまよひ鳶こそ一羽そらにまへくもり日もわれも流れ流るる
(402) 一枚の亞鉛《とたん》のいたのうす板のきらめき光るわがこころかな
 太陽のありかもしらずひたぐもり曇りかがやき窓あけかねつ
 風くもり蛇の如くに煙這ひ屋並のたうちわが窓をとづ
 ほろほろと遠く尺八なりいでぬこのくもり日のまどのいづれぞ
 涙さへ出でぬ眼なりけりみちばたの石のごとくもとぢし眼なりけり
 油なすものうさつらさほてほてとからだほてれど空を見てをり
 うつうつと浮かずなげかずかなしまぬこのこころ何にならむとすらむ
 梅雨雲の空に渦まき光る日はこころ石とも冷えてあれかし
 憂鬱は饐えてかたなくなりにけり蜘蛛の兒となり這ひ出でよこころ
 あやふきはこころなりけりゆらゆらに甕《もたひ》にまたく滿ちてうごかず
 大いなる呼吸《いき》一つ吐かむねがひにて曇りにおもき窓はひらけど
(403) 夏深しいよいよ痩せてわが好むつらにしわれの近づけよかし
 雜草に花咲くごとくいまのわが脣《くち》より聲のたえず出づるも
 すたすたと大股にゆき大またにかへり來にけり用ある如く
 わが顔は酒にくづれつ友がかほは神經質にくづれゐにけり
 踏みもせよなげうちもせよしかはあれ折れくづれむちから今はわれになし
 とりあぐる事なかれいまはわがこころ疊のちりにまみれをはりぬ
 ぺつぺつとつばきしにけりわが舌になにかほこりのたまれるごとく
 くまもなく探りまはれど指の先頭のなかに觸るるものなし
 おほいなるぱいぷ買ひたし大いなるぱいぷくはへて睡りてありたし
 折しもあれ借金とりが門をうつくもり日の家の海の如きに
 わが皮膚《はだ》に來て濡るる煤煙そのごとくひとりを悲しむ心燃えをり
(404) しくしくと額に汗湧き手足にわきあぷらの如し腐れる海の如し
 時は來ぬ飯をくらへと鳴りいづる市街の汽笛曇りたるかな
 曇り日の光の中に蚋《ぶよ》なきて汗ひややけきわが身をめぐる
      水明君と淺草にあそぷ。歌三首 
 七月のあさくさの晝いとまばらにひとが歩めりわれがあゆめり
 あさくさの曾我の家五九郎のばかづらに見入りてなみだながすなりけり
 鼻のききにたまれるつゆは何ならむわがものうさが泣けるなりけり
      山蘭君とともに醉ふ。歌二首
 朝まだき夏の市街のかたすみの酒場《バア》に醉ひをれば電車すぎゆく
 夜ふけし夏の銀座のしきいしのつめたきを踏みよろぼひあゆむ
 木綿蚊帳わが兒ひしひし泣きいづるあかつきとはやなりにけるかな
(405) 東京の七つ八つなる小娘の眼の小悧巧さわれとあそばず
 いつしかに頭かたぷけ晝のまどとほき電車を聞いてゐにけり
 兒をあやすとねぢをひねればほつかりと晝の電燈つきにけるかな
 わが窓の四方にからむ電線は蜘蛛のやぶれ巣けふも曇れり
 ものいはぬ我にすすむるうす色の晝のひや酒妻もかたらず
 大木の群れて暗きをおもひいで植物園に行かむとぞ思ふ
 植物園にゆかむと思ひ憂しと思ふ晝の電燈ともりたる部屋に
 わが頸のみじかきことを悲しみぬおほいにわれをののしらむとし
 横濱に行かずやといへば言は無く帽子をとりてさきに立つ友
 停車場の大扇風器|向日葵《ひぐるま》のごとく廻れり黙《もだ》せる群衆《むれ》に
 廢驛にならむといへる新橋の古停車場の夏の群衆
(406) 指もてつまめば汗ぞしみらに光り居りはだへさびしや蝉啼きやまず
 くもり日に啼きやまぬ蝉と我が心語らふ如くおとろへてをり
 わが立つや夏の市街のつちほこり麺麭《パン》の匂ひに似て渦をまく
 追ふことを我慢して見むと思ひ立てば蠅くまもなくわが顔を這ふ
 あはれ身はうしは腐れる海ぞこにむぐれる魚か汗湧きやまず
 燻りけぶれる晝の日ざしにかきつぐみ瓜をたづねて夏の街いそぐ
 瓜屋なる主婦《おかみ》よく肥えみせさきに晝の電燈ともりゐにけり
 手にとればたなごころより熱かりき晝の市街のみせさきの瓜
 かきつぐみうましともなくやめもせず大いなる瓜喰みてわがをり
 あまからず酸くさへあらぬ大いなる瓜をはみつつものを思へり
 しとしとに汗は湧けどもうちつけに暑しともなく萎《しな》え居るなり
(407) 瓜食めばそことしもなく汗滲み晝のやぶ蚊の身をなきめぐる
 ものうしやあまりに瓜をはみたれば身は瓜に似て汗ばみにけり
 
(408) 秋日小情
 
 音に澄みて時計の針のうごくなり窓をつつめる秋のみどり葉
 夕かけて照りもいだせる秋の日にさそはれて家を出でにけるかな
 郊外や見まじきものに行き逢ひぬ秋の欅を伐りたふし居り
 かの欅あはれならずや秋風にい群れて蝉の啼きも入りたる
 秋の葉の日に光るかなひそひそと急ぐははやも散りしきりつつ
 かなしきは日の光なり秋の樹にしとどに再葉散りしきりつつ
 今はとて穴にいそげる秋蟲のつめたきこころ憎みかねつも
 秋の森に蝶こそ一羽まひ出でたれやがて青葉にとまりてうごかず
 すずかけの落葉ひろふとかいかがめば地《つち》の匂ひてまなこ痛めり
(409) すずかけは落葉してあり吹くとしもなき秋風のあさの路傍に
 玉に似てこころふとしも靜まりぬ路傍のおち葉踏むに耐へむや
 わがこころの底ひにものを見むとするさびしさのなかにけふもこもれり
 死にゆきしわが戀ごころを繪の如くながめてゐしがやがてかなしき
 食はむとてしばしおきたるうす青の林檎に蜂のとまりゐにけり
 くだものの皮を離れぬ秋の蜂ちさきをみつつ涙ぐみける
 秋の夜栗の話のなかにしてふとふるさとの母おもふかな
 母ひとり拾ふともなく栗ひろふかの裏山の秋ふかみけむ
 秦樹園をさなき木々のもみぢしてうちつらなりて散りてゐるなり
 大いなる鋏の手とめ園丁はわれに木の名を教へけるかな
 朝ぐもりはれゆく空に風見えてさびしさに酒をわがのめるかな
(410) 靜ごころしづかに居よとさしぐまれまなこうつして見やるさかづき
 梨の果の舌ざはりさへうとましきわが靜ごころわが朝の酒
 いつしかに夏はすぎけりきりぎしの赤土原に蟻の這ひをり
 いつしかに夏はすぎけりただひとり野中の線路われの横ぎる
 きれぎれに市街の上に雲散れりつめたきかなや夏のおとろへ
 おそ夏の草葉のほねのかたきにもこころいらだちあざけりをおぼゆ
 脚ひとりちからをおぽえかぎりなく歩まむとする晩夏《おそなつ》の野や
 たたずみて蟻に見いれるわがすがたごうごうと汽車かたはらをすぐ
 わびしさや何をうらみつなに悔ゆるおそ夏の雲のちれる夕ぞら
 或る時は落葉の如くものわぴしくもの憂く眸《まみ》をとづる小犬よ
 此處はしも窪地にあればひややかに土ぞにほへる來よ来よ小犬
(411) 或る時はあはれを乞へるをとめ子のなみだの如く眼をあぐる犬
 かにかくに靜かに眠れこころより滿ちたらひなば起きておもへよ
 ひややかにうすらにわれに聞ゆるは若き盲目《めしひ》の歩む杖の音
 あめつちにわが身ひとりの凭る机ひややかにしも待ちてあれかし
 夜の雨なれがこころはいづくぞとわが身つつみて降りしきるなり
 しみじみとあふげば夜の雨のつぶいづれか胸にしまざらめやは
 ねがはくはひらたき板にふるごとくわれのこころに降るな夜の雨
 村雨のちとの晴間をはれやかに街に日の照りわが出で歩む
 公圍にわがごときもの入りゆきてにほへる街の兒等みるは憂き
 知る人も無けれ電軍のかたすみにしづかに重き眼をとぢにける
 今はみにくき我がこころかな瞳さへ錆びたる針となりて動かず
(412) 眼ひらけば紙の障子があかあかと夕日に染みて風もきこゆる
 秋風のゆふべのそらにひともとのけやきの梢吹かれて立てり
 夜の雨にぬれゆく秋の街並木ぬれつつわれも歩みてをりき
 絶望といひ終焉といひ秋の日のダリアの如き言葉のかずかな
 おやおやと思ふ心に昨日すぎけふも暮れけりものうき日かな
 老人のましてをんなのせせこましき心をなんと拾うてをられむ
 
(413) 秋風の歌
 
 あはれ悲しここらダリアの花を折り倦める心をとりよそはばや
 くつきりと秋のダリアの咲きたるに倦める心は怯えむとする
 黙然とダリアの花に見入りぬればこころしばらく晴れてゐにけり
 園丁は黒き帽着つ一心にダリアの蟲に取り入りて居り
 たけたかきダリアの園にほそほそと吹く秋風は雨の如しも
 園丁の黒帽子よりなほ高くそびえて風に咲いてゐるなり
 分秒と時間を惜しむこころもち重きまぶたを瞑ぢむとはする
 顔色のややに赤きは健康かこの倦みごこち何の故ぞも
 苦き木の根をひねもす噛みて居りぬべしこの蒸心地《むれごこち》やるよしもなき
(414) わが額《ぬか》の痩せおとろへに似もつかずつめたきあぶらにじみたるかな
 秋の樹の濡れて窓をばつつめるにこころいらだち煙草をぞ吸ふ
 ものおもひ戸ざさずあれば秋の日の風はわが頬の熱吸ひてゆく
 風もなき秋の日一葉また一葉おつる木の葉のうらまるるかな
 紙の障子にせまきガラスのはめられつ冷たき秋の庭園の見ゆ
 雨まてる窓べに雨のふりて來ぬ今は身を投げりやすらかにあらむ
 空のそこひに赤みを宿し夕雨《ゆふさめ》のさと落ちてきぬわが細き窓に
 藍色の風のかたまり樹によどみ郊外の秋ふかみたるかな
 秋木立光りたわみて大風に吹かるる見れば額《ぬか》あれにけり
 日に白みとほき林を吹く風のさびしいかなや四方をとざせり
 群れて散る風の葉を見よわが胸ゆもぎとる如く火のごとく散る
(415) 灰のごと風に光りつ空たかくまひもあがりて群れて散るなり
 なか空にちり立つ木の葉ひそひそと秋の木立をわれは過ぐなり
 骨と肉《み》のすきをぬすみて浸みもいるこの秋の風しじに吹くかな
 いとどしく心あやふく傾きてやぷれむとするに風凪ぎにけり
 おほらかに風無き空に散りてゐる木の葉ながめて窓とざすかな
 夜の讀書は海に青魚《あをな》のあそぶよりかなしいかなや風の聞ゆる
 寢さむれば折しも風の過ぎゆきつむなしきひぴき殘るなりけり
 いたづらに咽喉のあたりに呼吸をする生物の如く寢ざめてありけり
 わが居るは風のゆくへにあるごとく呼吸を引きつつきいてゐたりき
 吸ふいきの吐く呼吸《いき》のすゑにあらはるるさびしさなれば追ふよしもなし
 生きたるもの死にたるもののけぢめさへ見わかずなりて涙こぽるる
(416) きりきりと齒さへ痛めどこのこころとりなほしえでつかれはてにけり
 なまごころややに温《ぬく》みて身にかへりさいはひにして事もなかりき
 こころさへなま温《あたたか》く吸ふいきもおほらかにして睡眠《ねむり》ぞきたる
 ぽとぽとと油の如くわが瞼にねむりひそかに這ひ寄りにけり
 とぢし窓いらだつこころけはしきに耐へつつ風を聞いてゐたりき
 しみじみとおとぎ噺をかたり合ふ兒等ありき街路《まち》の夕やみのなかに
 秋霧の茄子のはたけに人居りきやがて車を曳きて去りにけり
 すがれつつ落ちゆく秋の木の葉よりいたましいかなわれの言葉は
 乏しきを拾ふが如くをりをりに鏡とりいでつらをながむる
 齒にかめど苦きつゆさへ出でて來《こ》ぬ秋の木の葉となりはてにけり
 ひとびとの顔のつめたく見えわたるけふのつどひの家を吹く風
(417) 古時計とまれる針の錆びはててむなしきかたをさしてゐるなり
 健康よとくわれの身にかへれかし見よ秋の樹々の葉のちりかひを
 葉も碎くるばかり一氣に噛みしめむよろこび事にいまだ會はなくに
 ばらばらと夜の障子を打つ雨におびやかされて戸外《そと》に出でゆく
 つめたきは風にありけりわがこころ白布《しろぬの》の如く吹かれたるかな
 いまだかつておもふがままにとぢしことなかりし如く眼を瞑ぢにけり
 
(418) 病院に入りたし
 
 わがちききまどに隣れる病院のガラス障子はいつも閉《しま》れり
 午砲《どん》鳴るやけふは時雨れて病院のえんとつの煙濃くたちのぼる
 病院の二階の廊下をりをりに通ふ看護婦と顔なじみせり
 白き帽子白き衣着しをとめ等の群れて笑へりガラス戸ごしに
 白樫の山茶花のやや茂りたるちひさき庭の病院のまど
 病院の廣きガラスの照りかへし赤き夕日の散れる冬の樹
 わがすめる二階の窓と病院の小高きまどのあひの冬の樹
 午後の日の窓にまはれば今日もまたかの看護婦はカアテンをひく
 カアテンを引く音くるくるくるくると冴えつつ窓に夕日は赤し
(419) いそぎ足廊下を通ふ看護婦をガラス戸ごしにながめてぞ居る
 ガラス戸ごし顔なじみなる看護婦の笑ふにわれも笑ひてゐたり
 はらはらと時雨ふる日の病院の二階のガラスにうつる看護婦
 ものかげに眠る如くにおくふかく病院に入りねてもあらまし
 病院に入りたしと思ひ落葉めくわが身のさまにながめいりたる
 病院のつめたきまどべ藥の香記憶に湧きてそれもなつかし
 病院にそれこれの人を見舞ひたる記憶をあつめたのしみて居る
 そこもわろし此處も痛むとせかせかと身うちのやまひかぞへても見し
 樫の葉の青くつめたき一瓶のくすりもがもな飲みて眠りゐむ
 病院に入りたしとねがふこのごろの身をかへりみるはあはれなりけり
 とりとめて病めりともなく楢の葉のまばらに染まるこころなるらむ
(420) 病院のことのみ思ひ居しがふとわが手のよごれに氣づき洗ひにと立つ
 燒く如き苦きくすりを飲みたしとこころ黄ばみてねがふなりけり
 をりをりに死にゆきし友を指折りてかぞへつつこころ冷えてゐにけり
 四邊《あたり》みなつめたき日なりわが心の疲勞《つかれ》衰弱《おとろへ》をのみ思ひてをれば
 病院の重げの扉ときどきの開閉《あけたて》をみてたのしみてゐき
 物いはぬ笑はぬ人のおほくゐる家とし思ひその窓をみる
 知る人のたえてなかれかし病院の臥床《ベツド》の上のわれとならしめ
 新しき身ともなりなむ古びたるわれの五體を藥もて燒き
 東明《しののめ》のあをきひかりのさすごとくながくねむりて眼ざめ來らむ
 靜けさをこひもとめつつ來にし身に落葉木立は雨とけぶれり
 目も重く落葉のこずゑ見上ぐれば欅の木立雨とけぶれり
(421) あぶらなし空にけぶれる落葉《らくえふ》の欅も冬の太陽もよし
 おち葉焚くけむりの中に動けるはをみなか男かとほき木の間に
 おち葉焚くをちこちの煙わがこころもうつらうつらと煙るなりけり
 
(422) 秋風の海及び燈臺
 
     東京靈岸島より乗船、伊豆下田港へ渡る
 
 ほてり立つ瞳かき瞑ぢ乘合客《のりあひ》の臭きにまじり海に浮べり
 電燈は卵つぶせし臭氣《にほひ》して船室《ケビン》に赤くともりゐにけり
 夜風寒み豚のいばりを※[者/火]るごとき船室《ケビン》にこもり伊豆に渡るなり
 寢たふれつ死人《しびと》めきたる乘合客のはだへはだへにひびく夜の濤
 ことことと機關のひびきつたひくる秋風の海の甲板《デキ》の椅子かな
 蛙なすちひさき汽船あき風の相模の海にうかぴゐにけれ
 伊豆の海や入江入江の浪のいろ濁り黄ばみて秋の風吹く
      伊豆の岬に近づきしころ、風雨烈しく船まさに覆らむとす
(423) どどと越ゆる甲板《デキ》の大なみ船室《ケビン》には五十のひとの生きてゐるなり
 ひたひたと濤はわが頬をなめて過ぐ船室の窓に怒るわが頬を
 走りかね蛙の如く這ひゐつつ汽船《ふね》くだくるも死ぬまじとする
 いつ知らず涙滲み居り今ここに死なむかと思ふ心のうへに
 雲さけて落日《いりひ》は海に漏れにけり赤きにうかぴ濤の立つ見ゆ
 あはれ陸《くが》見ゆ白なみがくれ岩も見ゆ死ぬまじ死ぬまじ汽船《ふね》は裂くとも
 屍《しかばね》に鳥よる如く夕ぐれの伊豆の岬に白き浪立つ
 はたと停り動かざること岩に似るあらしの海のわがゑびす丸.
 ふと時計の振子とまりし如くにもこころ冷えきて暴風雨《しけ》を見るなり
 ゑびす丸、甲板ふみたたき、ゑびす丸つひに下田に入りにけらずや
      下田港より燈臺用便船に乘りて神子元島に渡る。一木なき岩礁なりき
(424) 船は五挺櫓漕ぐにかひなの張りたれど濤黒くして進まざるなり
 大濤の蔭を漕ぐとき手もぬれず船はいはほと動かざりけり
 船子《かこ》よ船子よ疾風《はやち》のなかに帆を張ると死ぬる如くに叫《おら》ぶ船子等よ
 白刃なし岬並みゐる疾風の海にわれの小船は矢の如くなり
 大うねり押しかたむきて落つるときわが舟も魚とななめなりけり
 次のうねりはわれの帆よりも高々とそびえて黒くうねり寄るなり
 鯨なすうねりの群の帆のかげに船子等は金屬《かね》と光りゐにけり
 われとわが筋を噛むごと胸いたみ帆柱ぞひに立ちて浪見る
 ましぐらに浪にとぴ入り鰭あをき魚とならむと心はやるも
 みだれ立つしぶきにぬれて火のごとくわれの白帆は風に光れり
 はたはたと濡帆はためき大つぶのしぶきとび來て向かむすべなし
(425) かくれたるあらはれにたる赤岩に生物の如く浪むらがれり
 伊豆が崎岩礁多き秋風の海はとろとろうづまき流る
 やと叫《おら》ぶ船子等のこゑに驚けば海面《うなづら》くろみ風來るなり
 とびとびに岩のあらはれ渦まける浪にわが帆はかたむき走る
 荒瀬なす岩礁原《がんせうはら》をすぎも來て眞帆はぬれつつ光るなりけり
 やうやくに帆に馴れ浪に馴れきたりこころゆるめば海は悲しき
 泡だてる岬をややに離れくれば沖は凪ぎゐて雲にかげれり
 舳なるちひさき一帆《ひとほ》裂くばかり風をはらみて浪を縫ふなり
 船子たちの若きはねむり老いたるは風のはなしをわれに聞かする
 あはれこは潜水夫《むぐり》の舟にありにけり泡立つ沖の浪に舟居り
 しらしらと浪の穗がしらみだれたる沖邊に機械つかふ潜水夫等
(426) ほうほうと聲を合せつ空氣《かぜ》を迭る舟のうへなる潜水夫等の妻
 空氣《かぜ》送る潜水夫の舟の機械の書疾風の海にたえずひびけり
 海底《うなぞこ》に三時《みとき》四時《よとき》をすごしつつあさらふ貝を買はましものを
 海蟲のやや大きなるかたちして潜水夫は浪にあらはれにけり
 潜水夫いま舟に手を寄せ舟の中の妻等あらそひ抱きあげむとす
 笛の如わが小さき帆のなりはためき沖をはせつつ潜水夫を見たり
 みだれ吹く風にうかべる落葉ともさびしく舟を見てすぎにけり
 ある時はうねりにかくれ或時はうねりの嶺に叫ぶその舟
 風の海むら立つ浪にかくれつつ聲のみぞする潜水夫等の舟
 しばらくも搖れのやまぎる沖にしてをんなの聲をきくは悲しき
 遠ざかる潜水夫の舟をさびしみてわが帆をみればぬれてゐにけり
(427) 飛沫《しぶき》ちりわが帆のなかばぬれたるに雲を漏れつつ日の射しにけり
 いろ赤くあらはれやがて浪に消ゆる沖邊の岩を見てはしるなり
      その島にただ燈臺立てり。看守K−君はわが舊き友なり
 友が守る燈臺はあはれわだ中の蟹めく岩に白く立ち居り
 おほいなる岩のいただき黒蟻と見えつつ友はものを振りをり
 われも突立ち答へをせむとひしめけど舟搖れにゆれ這ひて布《きれ》振る
 やと叫ぷ聲かも姿目には見えいまだまつたくきこえざるなり
 切りたてる赤岩崖のいただきに友は望遠鏡《めがね》を振りてゐにけり
 友がよぶ赤き斷崖《きりぎし》見あげつつ舟をつけむと浪とあらそふ
 岩赤く崖もひとしほ濁血《にごりぢ》の赤かる島の友が燈臺
 岩赤きその島にしも近づけば浪はいよいよ荒れて狂へり
(428) 赤岩の十丈《とたけ》にあまるきりぎしを這ひつつややに友の下《お》り來る
 むらだてる赤き岩々飛びこえて走せ寄る友に先づ胸せまる
 赤き斷崖くづれて入江めきたるに舟子等《かこら》帆おろし舟漕ぎ入るる
 碎け立つ浪のすきまに沙魚《はぜ》のごと眞赤き岩にとぴうつりけり
 顔も蒼み人に餓ゑたる饑心地火の如き手をとり合ひにけり
 あはれ淋しく顔もなりしか先つ日の友にあらぬはもとよりなれども
 別れゐしながき時間《あひだ》も見ゆるごとさびしく友の顔に見入りぬ
 たづさへし我がおくりもの秋の園のダリアの束はまだ枯れずあり
 ダリアの花につぎつつ舟子等《かこら》とりいだす重きは友よ酒ぞこぽすな
 歩みかね我が下駄ぬげばいそいそと友は草履をわれにはかする
 友よまづ吾の言葉のすくなきをとがむな心何かさびしきに
(429) うつつともなく浪にもまれし身をはこぶ赤ききりぎしの岩の階段《きざはし》
 相逢ひて言葉すくなき友どちの二人ならびて登る斷崖
 見かへれば舟子等いづれも面あかめ舟流さじと叫び狂へり
 石づくり角《かく》なる部屋にただひとつ窓あり友と妻とすまへる
 その窓にわがたづさへし花を活け客をよろこぶ若きその妻
 語らむにあまり久しく別れゐし我等なりけり先づ酒酌まむ
 友醉はず我また醉はずいとまなくさかづきかはしこころを温む
 石室《いはむろ》のちひさき窓にあまり濃く晝のあを空うつりたるかな
 過ぎ去りし彼が昨日も眼のまへに石と靜けきそが顔も見ゆ
 石室のしづけかればかもの馴れぬところなればか泪し下《くだ》る
 
(430) 夜の歌
 
 ただひとり淵にのぞめる心地しつ椅子に埋《うも》れて酒をまつなり
 夕かけて風吹きいでぬ食卓の玻璃の冷酒の上のダーリア
 盲目にて目とぢて今宵ひとりにて飲みてあらむと椅子に埋るる
 わが目いま魚の如くに細くなりつめたくなりて夜に入るなり
 厭はしきにたへむとするはあだなりとささやく酒は月いろにして
 われとわが惱める魂《たま》の黒髪を撫づるとごとく酒を飲むなり
 金屬の匂ひしにつつ背の方の燈火《ともしび》いたく更けしづみけり
 我がまなこちりのくもりも帶びぬ夜にもののうつるはあはれなるかな
 見むとする甲斐なきわざを今日もしてひとみこらすが悲しかりけり
(431) テーブルの白布の上にはらはらと夜の白雪ちると思へり
 更けたりな雪しとしとと降るごとく電燈《ともしび》はわれをつつみゐにけり
 酒は火と燃え心の底に埋れ居りあやしき髪の冷えにもあるかな
 村時雨廣葉ぬらして過ぎにけり醉はぬわが身に夜はさびしき
 ひとり去り二人去りつつ夜の部屋われのみひとり飲めるなりけり
 みな去れ冷たき部屋となして去れ夜の椅子にわれのひとり飲めるに
 手に額に酒のあぷらの浸《にじ》みつつ夜はつめたくなりまさるなり
 動かじな動けば心散るものを椅子よダリアよ動かずもあれ
 をりをりにものの葉などのちるごとく灯かげにうかび女動けり
 醉ひしれて見つむる夜の壁の上に怪鳥あまたとべる畫のあり
 熟れ熟れて果實《このみ》あやふく散るごとく醉は身うちに破れむとする
(432) 風わたる戸の面の庭木見やるさへいとはしくして酒を飲むなり
 ただひとり最も隅の椅子に凭りダリアを前に寄せて飲めるも
 灯を強みダリアがつくるあざやけきかげに匂へるわ九の飲料《のみもの》
 肉叉《フォーク》の柄わづか觸れば散りてけり夜の机の黒きダーリア
 はなびらに宿る夜ふけのともしぴにダリアは女の肌の如しも
 眼にも頬にも醉あらはれぬ夜なるかな黒きダリアの陰に飲みつつ
 夜の机われのにほひを嗅ぐごとく黒きダリアを手にとりてみる
 つめたきは湧きし血しほかひいやりと灯《ともしび》のかげに身ぶるひをする
 荒《すさ》みたる心見つめて飲みて居ぬ紅きダリアも眼にうとましく
 或時はわがけがれたる血の色の塗られし如く夜の花を見る
 ダリアよ灯消さば汝が色も濃きあぶらなし闇となるらむ
 
(433) さびしき周圍
 
 わくら葉の青きが庭に散りてあり朝はひとみのわびしいかなや
 くされたる果實《くだもの》に似る悔心地舌にのこるに眼をとぢにけり
 われと身に唾する如くあぢ氣なく悔いつつ冬の朝日にあたれり
 向日葵《ひぐるま》のおほいなる花のそちこちの瓣ぞ朽ちゆく魂《たま》のごとくに
 死せる鳥むれつつ空やわたるらむわが日はけふもさびしう明くる
 思ふままにふるまひてさてなりゆきを見むと思ふに心冷たし
 言葉とわれとはなれ離れにあるごとき冷たき時にいつ逢はるべき
 死を思ひたのしむは早や秋の葉の甲斐なきごとく甲斐なかりけり
 大河の音なく海に入るごとく明日にいそがむこころともがな
(434) 青き幹かの枝を切れかの葉を裂け眞はだかにして冬に入らしめ
 れれならぬ人居りてけふもわがごとくわびしきことをして居たりけり
 わがひとみわれのまなぶたこのゆふべつちにもまして冷えて動かず
 時として市街のいらかもゆく人も黄なる落葉と見ゆることあり
 とりとめて何も思はぬ時多し葉の散る如きわが身なるらむ
 ふかきよりうかびいでつつ心ややあらはになりて悲しみてゐる
 えんとつに煙《けむ》わきならび市街みな磧の如し心のごとし
 こよひまた眠られぬ身に凍みひぴく冬の夜雨《よさめ》は神のごとしも
 夜の市街もわが身もしとど凍みとほり氷れとごとく時雨ふるなり
 髪の毛のひとつひとつがよごれゆく如きさびしさ身を去りかねつ
 靜かなる時來よと思ふひややかにわが目わが身にあれかしと思ふ
(435) 時わかず心冴ゆればわれと身のおきどころなくさびしかりけり
 あはれこは醜くも市街《まち》をゆくものか思ひあまりてせんすべもなく
 電車よりとびおりするな死にやせむこのごろのごとうつつなければ
 さびしさの凍れるかたへ妻も子も老いたる母も動きゐるなり
 わが如きさびしきものに仕へつつ炊ぎ水くみ笑むことを知らず
 妻や子をかなしむ心われと身をかなしむこころ二つながら燃ゆ
 あはれ身は生きものなればこの如く移らふこころとどめかねつも
 照りくもり空のをちこちゆきちがふ冬雲の群を窓にいとへり
 酒飲まむ酒飲まむ今しきはまりてわがさびしさの凍らむとするに
 いまぞわれ氷の上に眞裸體《まはだか》にねてゐむほどに滿ち足りにけり
 けふもまたよしなき人を訪ひてけりよしなきことを語り來にけり
(436) この賤しき友の心をうとんずとあやふくも我の動きけるかな
 いづれもみな心にあらぬことをのみ言ひてつどへり、集へり、雪の夜
 天つ日の匂ひしづかに身にもしみあはれしばしは眠れこころよ
 吹きすぎしかぜのたえまにほつとりと日の匂ひこそ身によどみたれ
 冬なれば散る葉もあらずこの木立稀にし來れば涙おつるも
 涙たれ落葉が上によこたはるわれの醜きつかれざまかな
 ことさらに鳥も啼くがに思はれて落葉木立を立ちいでにけり
 たましひのけぶるといふはあまりにも淋しからずや戀となれかし
 身に燃ゆるは新しき戀あるはまた埋れゐし夢かにかくにもゆ
 こころさへ身さへ落葉のいろもなくさびはてていま燃ゆるこの戀
 冬空のあまり乾けば市人もひそかに雪をまつ忙あらずや
(437) 地を踏めど地にいらへなく心のみくくとひぴきて人の戀しき
 雪積みて今宵はいとどしづけきに夜半にねざめよ人を思はむ
 雪どけの軒のしづくにいざなはれ友見まほしく家を出にけり
 雪照るや思ひぞいづる郊外のかのひとり者ながく訪ひ來ぬ
 片幹にこほれる雪のけぶりつつ入日の中に立てり欅は
 われと身の肌のめくみをなつかしみ梢より散る雪ながめ居り
 枯木立木々より雪の散りやまず行きずりの身に西日赤しも
 身に添ふは雪のにほひかわがはだの匂ひか西日せちに赤けれ
 おのづから悲しき聲にいでてなく雪の日の鳥西日にきこゆ
 雪ふかき落葉の木の間入日さしあまりてここの窓を染むるも
 わがそばに火ありて水を※[者/火]るを得べし玻璃のうつはに水も滿ちたり
(438) 火をたたじ沸湯《にえゆ》たたじとつとめつつさびしさに或夜起きてゐにけり
 なすべきをなさざる故にこの如くさびしきものとなりしやわれは
 消すまじと心あつめて埋火にむかへる夜半を雪凍るらむ
 ペン一つまへにあるさへひしひしと身にくひ入りてさぴしき夜なり
 工場|街《まち》折しも西日眞赤きに煙地に垂れわがひとりゆく
 工場街とほく歩める少女子のながき羽織に夕日ゆらめけり
 ただひとつちさくまじれる教會は扉《と》さしてありき工場街ゆけば
 西日赤き街路《まち》の辻にひと等うち黙《もだ》し血みどろの犬咬み合ひて居り
 春來ぬとこころそぞろにときめくをかなしみて野にいでて来しかな
 この歩み止《や》めなばわれの寂寥《さびしさ》の裂けて眞赤き血や流るらむ
 われと身を噛むが如くにひしひしと春のさびしき土ふみ歩む
(439) 青草の岡にいであひこらへかね泣ける涙のあとのさびしさ
 春の雲照りつつ四方をとざせる日高きに立てばわが世悲しも
 鶯の啼きてゐにけり久しくも忘れゐし烏なきてゐにけり
 ふと見れば路傍の軒にほこりあび籠にし鳥は啼けるなりけり
 さび色のあをき小鳥はあやしげにわれを見つめてやがてまた啼く
 つかれはてすわれる岡のもとをすぎ春あさき日の小川流るる
 おほぞらに垂れつつ春の雲光りここの林に鴉むれ騷ぐ
 
砂丘
 
(443)自序
 
 本集には『秋風の歌』以後、如ち昨年の春から今日までの作を集めた。ただ巻末「ふるさと」の一章のみは一昨々年から一昨年の春にかけ郷里滯在中及び上京の途中に詠んだもので『みなかみ』に編入すべきであつたのを誤つて今まで落してゐたものである。「曇日」は東京小石川寓居中、その他は當地移轉後の作である。
 今までは常に舊く詠んだものを卷首に置いて順次新作に及ぶ編輯法をとつてゐたが、今度はその反對に新作を初めに置いた。
 一歌集を縮むごとに何かしらものを思はせられるのは常であるが、今はそれを筆にするのも煩はしいほど靜かな氣もちになつてゐる。このままで(444)今少し澄み入つた作歌の三昧境に進みたいものである。
       大正四年九月十四日
                      三浦半島海濱にて
             著者
 
(445) 山の雲
 
      下野より信濃へ越え蓼科山麓の春日温泉に遊ぶ。歌四十五首
 朝空に黄雲たなびき蜩のいそぎて鳴けば夏日かなしも
 朝霧は空にのぽりてたなぴきつ眞青き峽間《はざま》ひとりこそ行け
 少女子がねくたれ帶か朝雲のほそほそとして峰にかかれり
 蜩なき杜鵑なき夕山の木がくれ行けばそよぐ葉もなし
 わがこころ青みゆくかも夕山の木の間ひぐらし聲斷たなくに
 岨路のきはまりぬれば赤ら松|峰越《をご》しの風にうちなびきつつ
 空高み月のほとりのしら鷺のうき雲の彫いまだ散らなく
 雨待てる信濃の國の四方《よも》の峰のゆふべゆふべを黄雲たなびく
(446)      山深く鳥多し。燕の歌
 あはれこは風の渦かもつばくらめ峽間の空にまひつどひたる
 有明の月かげ白みゆくなべに數まさりつつとぶ山燕
      尾長
 尾長鳥その尾はながく羽根ちさく眞白く晝をとべるなりけり
 尾長鳥石磨るごとき音《ね》には啼き山風強みとびあへぬかも
      杜鵑
 朝雲ぞけむりには似るこの朝けあわただしくも啼くほととぎす
 ほととぎすしきりに啼きて空青しこころ冷えたる眞晝なるかな
      鷹
 老松の風にまぎれず啼く鷹の聲かなしけれ風白き峰に
(448)      その他
 
 秋の鳥百舌鳥ぞ來啼ける夏山のこの山かぜの眞白きなかに
 ほととぎす樫鳥《かけす》ひよ鳥なきやまぬ峽間《はざま》の晝の郭公《くわくこう》のこゑ
 何鳥か雛をそだつるふくみ聲今朝も老樹の風に聞ゆる
      窓邊達望
 うすものの白きを透きて紅ゐの裳の紐ぞ見ゆこち向くなゆめ
 ふくよかに肥えも肥えつれ人怖ぢず眞向ふ乳のそのつぶら乳
 丈長に濡髪垂らし晝の湯屋出でて眞裸躰《まはだか》つと走りたれ
      秋近し
 峰のうへに卷き立てる雲のくれなゐの褪せゆくなべに秋の風吹く
 みねの風けふは澤邊に落ちて吹く廣者がくれの葛の白花
(449)      獨居
 うららかに獨りし居れどうら寒きこころをりをり起りこそすれ
 向つ峰《を》にけふもしらじら雲い立ち照り輝くに獨り居にけり
 輝けば山もかがやき家も照り夏眞白雲わぴしかりけり
 麓邊の路のひとすぢしらじらと見えて向つ峰雲わきやまず
      相模なる妻が許へ送れる歌
 相模なるその長濱の白濱に出でてか今日も獨り浪見む
 向つ峰に眞晝白雲わくなべに汝《なれ》が黒髪おも佗ゆるかも
 愁ふる時閉ぢゆく癖のその眸《まみ》を思ひ痛みて立ちてゐにけり
 眞白なるふとりじしなる双かひなむなしく床にありかわぶらむ
 われ獨りわが身|清《すず》しみ眼も痩せつ岨路《そばぢ》朝ゆき夕ゆきにつつ
(450) きはまりて戀しき時は三日にしてすへる煙草をひと夜には吸ふ
 夜のほどに雨過ぎけらし五百重山《いほへやま》今朝みづみづし戀しきぞ君 今もかも身か光りなむ眞晝憂し峰にはかかれ天の雲むら
      七月中旬下野なる背山君を訪ねむと思ひ立つ
 のちいつか逢ふべきものとたのみつるその時し終に來りけるかも
 下野の奈須野が原のなつ艸のなかにし君を見む日近づく
      友と相酌む歌
 飽かずしも酌めるものかなみじか夜を眠ることすらなほ惜みつつ
 盃をおかば語らむ言の葉もともにつきなむごとく悲しく
 一しづく啜りては心をどりつつ二つ三つとは重ねけるかも
 幾日《いくひ》かけ幾月かけてねがひつる今宵の酒ぞいざや酌みてな
(451) 死ぬごとくこころかわける時にして君と相見きうとんずなゆめ
 朝は朝晝は晝とて相酌みつ離れがたくもなりにけるかな
 時をおき老樹の雫おつるごと靜けき酒は朝にこそあれ
 那珂川に生けるうろくづ悉くくらへとわれに強ひし君かも
      或夜うち連れて川狩に行く
 うばたまの夜の川瀬のかちわたり足に觸りしは何の魚ぞも
 松明をさしかがやかしわが渡る早瀬の小魚雨降るごとし
      別離
 別れ來しけふの汽車路は夏雲の湧き立つ野邊のなかにしありけり
      別後友が妻へ贈れる
 若竹の伸びゆく夏のしののめのすがすがしさに君はおはしき
(452) 逢ひしとき姉のごとくも思はれき別れて後ぞなほ思はるる
 
(453) 三浦半島
 
      病妻を伴ひ三浦半島の海岸に移住す。三月中旬の事なりき
 海越えて鋸山はかすめども此處の長濱浪立ちやまず
 ひとすぢに白き邊浪ぞ眼には見ゆみ空も沖も霞みたるかな
 春眞晝沈み光れる大わだの邊《へ》に立つ浪は眞白なるかな
 うつうつと霞める空に雲のゐてひとところ白く光りたるかな
      春深し
 田尻なる雜木が原の山ざくらひともと白く散りゐたりけり
      永日
 地あをく光り入りたる眞晝の家菜の花はわれに匂ひ來るかも
(454) 棕梠の葉の菜の花の麥のゆれ光り搖れひかり永きひと日なりけり
      妻の病久し
 晝の井戸髪を洗ふと葉椿のかげのかまどに赤き火を焚く
 かたはらに晝の焚火の燃えしきりあをじろき汝《な》がはだへなるかな
      吾子旅人
 晝深み庭は光りつ吾子《あこ》ひとり眞裸體《まはだか》にして鷄《とり》追ひ遊ぶ
 尺あまり二尺に足らぬ子がたけの悲しくし見ゆ濱の浪の前に
      或朝
 近づけば雨の來るとふ安房が崎今朝藍深く近づきにけり
 この汐風いたくし吹けばふしぶしのゆるみ痛みて沖あをく曇る
(455) 晝の濱思ひほうけしまろび寢にづんと響きて白浪あがる
 走れ走れと身うち波うつ息づかひとどめかねつつ晝の濱走る
      夏立つ
 夏立つや四方の岬のうす青みあはれ入海荒れがちにして
      夏日哀愁
 夏の朝ややに更けゆきわがこころ離ればなれに疲れたるかな
 夏草の花のくれなゐなにとなくうとみながらに挿しにけるかな
 うす藍のいまは褪せなむあぢさゐの花をまたなくおもふ夕暮
 あぢさゐやこよひはなにか淋しきに立ち出でて雨をあふぐ夜の庭
 家のうち机のうへの紫陽花のうすら青みのつのる眞晝日
 わだつみの荒磯の貝をとり來り殻碎きつつさびし晝空
(456) 潮ぐもりこの貝あまり新しく磯くさくして食べがたきかな
      微恙
 縞ほそき紺の素袷身につけて晝の戸繰れば夏がすみせり
      夜の海
 傘さして見れば沖津邊夏の夜の紺の潮騷《しほざゐ》うかびたるかな
 ものうさに幾日か見ずて過ぎにけむこよひ眞闇の海ぞさびしき
      朝
 しみじみと朝空あふぎ立ちつくす夏の眞土の冷たきうへに
 いまはただ土の匂ひもありがたくたたずみてこそありね朝庭
 柿の葉の青きもわれのさぴしきもひたすらにして露もこぽれず
 柿の葉のこもりてしめる庭のつち朝はわが身も伸ぶ心地すれ
(457)      夏深し
 黒がねの鋸山に居る雲の晝深くして立ちあへなくに
      眞晝
 いはけなき涙ぞ流る燕啼きうす青みつつ晝更くるなかに
 しばらくはうつつともなく眞がなしき夏のま晝のわれにしありけり
      朝霧
 入りつ海朝霧ながるをちこちの岬に夏の日はさしながら
 横さまに霧は降りつつ黍青しけふも火のごと晴るるにかあらむ
 わびしさや玉萄黍畑《もろこしばた》の朝霧に立ちつくし居れば吾子呼ぶ聲す
      鴉
 凶鳥《まがどり》の鴉群れ啼きこもりゐの窓の晝空けぶりたるかな
(458) 日のひかり紫じみて見ゆまでに空にとぴかひ啼くむら鴉
 蛇もいま地《つち》にひそめる日なかどき眞黒がらすのやまずしも啼く
 早苗田のうへをめぐりて啼く鴉早苗|萎《な》ゆかに啼くむら鴉
      釣魚
 詮なしや晝の庭木の下くぐり釣りに出でゆくわがこころから
 燕啼く眞晝大野の日の眞下つり竿かたげ行けば遠きかな
 麥畑の熟れし片すみ野いばらのかげの小川にけふも來にけり
 
(459) 曇日
 
      植物園
 
 春あさきみ空けぷりて午前《ひるまへ》の植物園にひと多からず
 朝日さすかの温室のガラス戸のすこしあきたり春淺みかも
 木がくれのあを葉がちなる白椿繪かきがひとり描《か》いてゐるなり
 かのをとこ立ちてゑがけば紺ふかき背廣に春日ゆれてやまずも
 常磐樹の蔭にしあればひそひそと地も匂ひて椿描くなり
 ひややかに朝風ぞ吹く白つばき咲きは匂へど葉がくれにして
 遠つ空ひかりてけぶる春の日の植物園をひとり歩むも
 ひややかに光りつれたる青樫のこずゑのみけぶりたるかな
(460) 鵯鳥のけたたましくも啼くものか樫の木立のあをき春日《はるひ》に
 かたすみの杉の木立のうす赤み枯草原にたんぽぽの萌ゆ
 植物園のかれくさ原に居る鶫をりをり動き遠くとばなく
 ただひともとたんぽぽ咲けるそばに來てかの黒き犬は坐りけるかな
 ウヰスキイひそかに持ちて來べかりし春あさきこの枯草のはら
      樹や病める
 とある幹に玻璃の管さし水をとる黒服のをとこ居りにけるかな
 大いなる樹の根にあれば黒服の若人《わかうど》いとどさびしくぞ見ゆ
      妻の病久し
 病める子がとぢたるこころしばしだにひらくとはせよ淡雪のふる
 ひとすぢに降りも入りたるしら雪のかすけき聲のあはれなるかな
(461)      梅咲く
 年ごとにする驚きよさぴしさよ梅の初花をけふ見出でたり
 梅作けばわが咋《きそ》の日もけふの日もなべてさびしく見えわたるかな
      風を愛する癖あり
 耐へがたき生心《なまごころ》さへ身には燃え夜のくだちゆき風吹きやまず こらへかね寢床いづれば頬《ほ》はあつく染りゐにけり風吹きやまず
 戸出づれば家のめぐりの落葉樹に光りて夜風吹きゐたりけり
      音羽護國寺
 むら立ちの異木《ことき》に行かず山雀は松の梢にひもすがら啼く
 この寺の森に寄る鳥とりわけて山雀のなくはあはれなりけり
      母を憶ふ歌
(462) とある日の朝のさびしきこころより冬の野に出でて君戀ふるかな
 子のこころ或ひは親のむきむきに戀しとはいへどいまは燃えぬかも
 あは雪を手にもてるごときあやふさを老いませば君につねに覺ゆる
 あはれ再び逢ひがたき日の二人の上に今は近しとおもへど甲斐なし
 咒《のろ》ふべきそむきがちなる子のこころ老いたる親のその錆心《さびごころ》
 今は早やあきらめてかもおはすらめ老いたる人のみなするごとく
 落葉樹の根がたのつちにうづくまり君おもひ居れば匂ふ冬の陽
      二月末
 みなかみの山うすがすみ多摩川の淺瀬に鮎子まだのぽり來ず
      花屋
 水仙のたばにかくれてありにけりわが見出でたる白椿花
(463)      打群れて酒酌みたき人かずかずあり
 笑顔《ゑがほ》泣顔さらぬげにただ見合ひつつ夜明けてもなは酌まむとすらむ
      この頃の山蘭君へ
 萩のはな上枝《ほづえ》に見えてそよ風のながめさびしきころにもあるかな      やや寒し
 甲斐が根に雪來にけらしむらさめのいまは晴れてなうち出でて見む
      朝の窓
 秋の朝の酒場《バア》のつめたきひとびとのつかれたる顔|黙《もだ》し動かず
 なかの一人の塞いたる顔にうす赤みさすよと見れば眠るなりけり
 萎《しな》えたるわれのはだへにしみじみと秋の朝日のきして居るなり
 さびしさや酒場《バア》の小窓にこぼれたる秋の朝日を酌みも取らうよ
(464) 秋の朝|酒場《バア》の鏡に見入りたるわれのひとみの靜かなるかな
      秋漸く晩し
 崖のつちほろろ散る日の秋晴に漆紅葉のさびしくも燃ゆ
 浮雲にとりどり影のうまれつつ眞晝の空は傾かむとす
 あまりにもこころ渇くにたへかねてとりし煙草よ風白き畑
      獨り
 いたましくめづらしきものを見るごとくわが腕をそと撫でてみにけり
 秋の夜のほのつめたさにいざなはれ友戀しさは火のごとく燃ゆ
 しのぴかね友をたづねに出でてゆくこのすがた友よあはれとおもへ
      獨居
 ひとを厭《いと》ふとにはあらねどわがこころひそみひそみて歩むとすらし
(465) こころの端《はし》にかたみに觸れじふれじとてあらぬ事をば語りゐしかな
      野分
 消えみ消えずみはるけき空にうす雲のうちもたなびき朝野分する
 秋の風今朝は吹くぞと閨あけてまだ覺めぬひとをかへりみるかな
 わがこころあるにあられず大風のしどろの朝を出でて歩めり
 うす青みをんなの膚《はだ》のかなしくも耐ふるに似たり風のなかの樹
 風を強み幹のあをみのいとどしくその根のつちは搖れてやまなく
      平野
 再びは斯く晴るる日もあるまじと惜みつつ日ごと野に出づるかな
 大空はかすかにうごき動きをりあふむけに草にねれば冷たく
 大野邊の秋の日ざしをやや強み寄れる本かげは白樫にして
 
(466) くろぐろと汽車こそ走れ秋の日のその長き汽革のあとに立つ風
 野ずゑゆく汽車のかげのみはるかにて秋の日いまだ暮れずあるかな
      秋晝
 誰も見じとひとり眞はだかほしいまま秋のま晝を化粧《けはひ》す、をんな      秋立つ
 秋といひわれから聲に驚きて窓邊にとほき市街《まち》見やるかな
      野にひとり
 わが膚に夕日しみ入りしみ入るやさぴしさはただ涙となるに
 夕日さしきりぎりすなきこほろぎなき百舌鳥もいつしか啼きそめにけり
      晩夏郊外
 つら並《な》めつものを覗ひ蛙群れをり夏も終りの沼のくろつち
(467) ひとしきり蛙さわぎて靜まればこほろぎはつちになきいでにけり
 夏ぞらのくゆりさびしみ見つつあれば雲か風かも湧きそめにけり
      若人の群
 身のめぐりいづれさびしき人ならぬなきに怖れて狂ひて遊ぶ
 さわやかに高くも雲のかよふかな窓の木梢《こぬれ》に寄る風もなく
 木犀の匂ふべき日となりにけりをちこち友の住みわぴし世に
 大空に照りつつ渡るうき雲も身にしむとさへさびしきものを
 さびしさはあけはなちたる秋の窓にひしと流れ來《く》とほき常磐樹
 いや冴えに月の冴ゆるにうちしなえさびしきものとなりにけるかな
 かかりせば妻をともなひ來べかりしこよひの野邊の月のいろかな
(468) 窓の邊の木ぬれのあを葉かき垂れてほこりぞ見ゆる夏の夜の月
      瞑目
 曇りはてしはるけき空の底ひより雨はやうやく降りそめしかな
      朝寂し
 眼ざむるやさやかにそれとわきがたきゆめに疲れし夏のしののめ
      あけくれ
 貧しさに妻のこころのおのづから險しくなるを見て居るこころ
 貧しさに怒れる妻を見るに耐へかね出づれば街は春曇せり
 われと身のさびしきときに眺めやる春の銀座の大通りかな
      われと心を勵ませど
 はした女《め》もあはれむごときひとみして或時のわれを見るにあらずや
(469) 思ひ屈《く》しかへり來ぬれば部屋にひとり吾子《あこ》あそびゐき涙ながるる
      夏日哀愁
 土ぽこりにまみれ疲れて風の畑の木かげに入れば居たり青蛇
 魚群るるにほひか青葉風に裂けつつ幹にひえびえ蛇這ひてをり
 そこ此處とつちの燃ゆるにかなしみて蛇はも幹によぢ登りけめ
 つぱくらめ地《つち》に燻《くゆ》りてとびみだれ風に光れる樹に蛇は這ひ しみらしみらにわれの疲勞《つかれ》の匂ひ出で汗もかわくに行かぬ青蛇
 蛇は早やあを葉がくれのわれの目を見いでて細く身を曲げむとす
 ひと噛まぬうすいろの蛇風の日のしなえし幹をはひ上る這ひ上る
      夏冷し
 みづからのいのちともなきあだし身に夏の青き葉きらめき光る
(470) 水無月《みなつき》の朝ぞら晴れてそよ風ふきゆらぐ木の葉に秋かと驚く
      初めて飛行機を見る
 春の雲空かきうづめ光れる日飛行機ひとつかけりゆく見ゆ
 プロペラのひびきにまじり聞え居り春の眞晝の吾子が泣きごゑ
 いとかすけく春の青樹のこずゑ搖れ飛行機は雲に消えゆきにけり
 飛行機を見送りはてて立ちあがる身に寂しさの滿ちてゐにけり
 
(471) ふるさと
 
      春の歌
 菜の花のにほひほのかに身にも浸む二月の日とはなりにけるかな
 しとしとと春の雨こそ地には降れ居るとしもなきわがこころかな
 こころ怒れば血さへ裂しく身にはうつ寂しいかなやわが膚を見よ
 たべもののせゐにや指の荒れやうようす青き枝に山椒を摘む
 山に栖めば煤はつかねどわがこころつちくれのごと乾きくづるる
 峰にのぽり鳥がねきけば春がすみ霞める四方《よも》の悲しく光る
 松の木の伐られしは杉の木の伐られしよりあはれ深かり春の深山《みやま》に
 鶯よ鶯よとて息ひそめ聞いて居りしがとびさりにけり
(472) まつはるはかすみか松の脂の香か峯のとがりの春日かなしも
 汗をさまれば霞つめたく浸みきたる峯《を》の上《へ》の午後にとほく海見ゆ
 ひそひそと山にわけ入りおのづから高きに出でぬ悲しや春日
 春がすみこもれる山に啼く鳥を驚かさじとわがこころ熱し
 峯の上なる老木の松のひともとの枝のしげみにつどふ春風
 わな張りてあたり見かへれば春の山しみらにつちの匂ふなりけり
 乾きたる庭にたまたま出でて立てば黄《きいろ》き蝶のまひて來にけり
 家出て見ればそらには雲雀やまに蟇《ひき》春が悲しとひたなきに啼く
 闇のなかに動く葉のあり音ぞする窓さへ濡るる春の深夜《よふけ》に
      なまけ者
 なまけ者がふと氣まぐれに芹つみに出でて嘆きぬあはれ春よと
(473) あはれこは野蒜なりけりあをいろのほそながき草の野蒜なりけり
      不孝の兒を持てる老人に暫しの安息もなし
 春あさき田じりに出でて野芹つむ母のこころに休《やすら》ひのあれ
 餘念なきさまには見ゆれ頬かむり母が芹つむきさらぎの野や
      瀬戸内海
 瀬戸の海や浪もろともにくろぐろとい群れてくだる春の鰆《さはら》は
 瀬戸はいづれも瀬となりたてるひき汐の午後なり六十五噸の小蒸汽船《こじようき》
      明石人丸神社
 をろがむや御《み》はしに散れるひとすぢの松の落葉もかりそめならず
 ありし日はひとしほ松のしげり葉の繁くやありけむ君をしぞおもふ
 袖かざし君が見にけむ島山にけふ初夏の日ぞけぶりたる(淡路島見ゆ)
(474)      嵯峨濟涼寺
 はつ夏の雲は輝き松風吹く嵯峨の清涼寺にけふ詣で來ぬ
 罌粟の實のまろく青きがそよぎ居り清涼寺よりわが出で來れば
 清涼寺の築地くづれし裏門を出づれば嵯峨は麥うちしきる
      遠江辨天島
 濱つづき夏のおほそらはるかにて立つしら浪のけぶりたるかな
      日向國耳川
 あたたかき冬の朝かなうす板のほそ長き舟に耳川くだる
      美々津の磯
 老人よ樂しからずや海は青しやよ老人よ海は青し青し
 岩をおこし松をこぐとす、老人のそのうしろ影その青き松
(475)      福岡醫科大學
 窓おほき醫科大學の教室に松のかげこそいとさはにさせ
 松原は海にかも似むそのかげの醫科大學の赤き煙突
      おもひで二三首
 はりつめし力をふといま感覺のうへに知る、おもひでのわびしさよ
 キスを否める時そむけし癖の横顔の冷たさのいま身には沁みぬれ
 わが重き帽子をとれ服をぬげ、思ひ出のなかの悲しき女よ
 菜を洗ふ話なれども夕日のなか若きをなごの聲のよろしも
 味氣なき夕なるかな眼の前の膳の酒さへ爐の焚火さへ
 山に風來ぬ山ぞ鳴る、冬の午後の日うす赤きなかに
(476) 膝にねむれる兒猫のこころにも觸れぬやう心かなしき冬の日だまり
 窓の前の林に風の吹きすさびけふも啼き啼きすぎし小鳥よ
 軒瑞なるちひさき山も鹿の子まだら紅葉となりて冬の來にけり
      心あぶなし
 やがてして耳のかゆきに耳をかくわが身をつつむ春の光線
 身體のうち眼の玉ばかり何として斯く重きやらむ蟇なく春日
 指見れば指ばかり眼とづれば眼ばかり春のひなたに蝶が群れとぶ
 さまざまに指を動かし眠とぢ眼をあけあやしきものにわれを思へり
 くちにふくめば疑ひもなきこのうまさやめられぬ酒の悲しかりけり
 どうせ斯うなりア棟木を外《はづ》せえんやらさ柱ひきぬけそれえんやらさ
 藍甕に顔をひたしてしたしたに滴《したた》る藍を見ばやとぞ思ふ
〔2022年8月30日(火)午後7時40分、入力終了〕
 
若山牧水全集第二巻、雄鷄社、520頁、600円、1959.5.30
(1)目次
朝の歌 二七三首
秋より冬へ………………………………… 七
春淺し……………………………………… 二四
殘雪行……………………………………… 三四
白梅集 二二二首
夏の歌……………………………………… 四七
秋の歌……………………………………… 五四
冬晴………………………………………… 五七
春淺し……………………………………… 六五
さびしき樹木 二〇〇首
(2)窓………………………………………… 七七
夏の疲勞…………………………………… 八〇
妙義山……………………………………… 八四
溪をおもふ………………………………… 八八
さびしき樹木……………………………… 九〇
北国行……………………………………… 九七
秋居雜詠………………………………… 一〇三
溪谷集 三〇四首
秋の曇冬の晴…………………………… 一〇九
秩父の秋………………………………… 一一六
上總の海………………………………… 一二五
伊豆の春………………………………… 一三一
(3)くろ土 九九九首
大正七年
或る夜の雨……………………………… 一四九
或る日の杉……………………………… 一四九
晩酌……………………………………… 一五〇
春の暁…………………………………… 一五〇
留守居…………………………………… 一五〇
わかれ…………………………………… 一五一
梟と月と蛙と…………………………… 一五一
さくら…………………………………… 一五二
眼前景情………………………………… 一五三
濱松にて………………………………… 一五三
比叡山にて……………………………… 一五四
大正八年
(4)奈良にて……………………………… 一五七
熊野にて………………………………… 一五七
奈智にて………………………………… 一五九
兒等の病めるに………………………… 一六〇
雜詠……………………………………… 一六一
郊外の秋………………………………… 一六五
或る頃…………………………………… 一六九
雜詠……………………………………… 一七一
みなかみへ……………………………… 一七四
冬の夜…………………………………… 一八九
犬吠崎にて……………………………… 一九二
雜詠……………………………………… 一九四
大雪の後………………………………… 一九五
二月の雨………………………………… 一九七
雜詠……………………………………… 一九八
述懷……………………………………… 一九九
或る事に會ひて………………………… 一九九
植物園…………………………………… 二〇〇
古沼と蟇………………………………… 二〇一
夢………………………………………… 二〇二
述懷二三………………………………… 二〇三
杉の木…………………………………… 二〇三
夜の春雷………………………………… 二〇四
をとめ子………………………………… 二〇四
椿………………………………………… 二〇五
甕の椿…………………………………… 二〇五
駒が嶽の麓……………………………… 二〇六
馬醉木…………………………………… 二〇八
磯部鑛泉にて…………………………… 二〇九
山上湖へ………………………………… 二〇九
初夏の朝………………………………… 二一一
霞が浦…………………………………… 二一二
雜詠……………………………………… 二一二
友へ……………………………………… 二一三
晝の蚊遣香……………………………… 二一四
九十九里濱……………………………… 二一四
落葉松の落葉…………………………… 二一八
選歌……………………………………… 二一九
(5)冬……………………………………… 二一九
冬の夜…………………………………… 二二〇
冬ごもり………………………………… 二二〇
平和來…………………………………… 二二二
上總八幡崎……………………………… 二二三
大正九年
伊豆にて………………………………… 二二六
散歩……………………………………… 二二九
フリジヤの花…………………………… 二三〇
友が家にて……………………………… 二三〇
門さきの梅……………………………… 二三〇
同じ日に………………………………… 二三一
同じ日の夜……………………………… 二三一
友が家にて……………………………… 二三二
桃のつぼみ……………………………… 二三二
秩父の春………………………………… 二三二
宇都宮市にて…………………………… 二三六
上州吾妻の溪にて……………………… 二三七
伊太利飛行機來………………………… 二三七
夏のしののめ…………………………… 二三八
香貫山…………………………………… 二三九
南風……………………………………… 二三九
雜詠……………………………………… 二四〇
庭の隅…………………………………… 二四一
散歩……………………………………… 二四二
友来る…………………………………… 二四二
(6)やき鳥………………………………… 二四三
雜詠……………………………………… 二四三
述懷……………………………………… 二四四
愛鷹登山………………………………… 二四五
山の根の淵……………………………… 二四六
山の窪…………………………………… 二四七
時雨……………………………………… 二四七
雜詠……………………………………… 二四八
貧窮……………………………………… 二四九
千本松原………………………………… 二五〇
山櫻の歌 七四一首
大正十年
野火……………………………………… 二五九
雪解川…………………………………… 二五九
筬の音…………………………………… 二六〇
雲雀……………………………………… 二六一
冬拾遺…………………………………… 二六一
雜詠……………………………………… 二六二
櫻と螻蛄………………………………… 二六三
櫻と鶫…………………………………… 二六四
櫻と雀…………………………………… 二六五
鹽竈櫻…………………………………… 二六五
庭………………………………………… 二六六
小松原…………………………………… 二六六
河鹿……………………………………… 二六七
吾子富士人……………………………… 二六八
(7)病み易くて…………………………… 二六九
梅雨……………………………………… 二七〇
梅雨晴…………………………………… 二七〇
或る朝…………………………………… 二七一
草花……………………………………… 二七一
夏の雨…………………………………… 二七二
こもりゐ………………………………… 二七三
疲勞……………………………………… 二七三
庭の畑…………………………………… 二七四
夏富士…………………………………… 二七五
雜詠……………………………………… 二七六
温泉宿の庭……………………………… 二七七
裾野村…………………………………… 二七八
鶺鴒と河鹿……………………………… 二七九
夜の蝉…………………………………… 二八〇
秋近し…………………………………… 二八〇
大野原の秋……………………………… 二八一
茅萱が原………………………………… 二八二
東京まで………………………………… 二八二
白骨温泉………………………………… 二八三
上高地附近……………………………… 二八四
燒嶽頂上………………………………… 二八五
原始林…………………………………… 二八六
野口の簗………………………………… 二八六
惠那曇…………………………………… 二八七
百舌鳥と鮒……………………………… 二八八
小鳥鶲…………………………………… 二八八
煙草……………………………………… 二八九
(8)夕日と食慾…………………………… 二九〇
雜詠……………………………………… 二九〇
入江の冬………………………………… 二九一
伊豆石山………………………………… 二九三
靜かなれ心……………………………… 二九五
大正十一年
土肥温泉にて…………………………… 二九六
梅の歌…………………………………… 二九九
とある酒場にて………………………… 三〇〇
山ざくら………………………………… 三〇一
富士の歌………………………………… 三〇三
湯ケ島雜詠……………………………… 三〇四
井手の鮎子……………………………… 三〇七
大御姿…………………………………… 三〇八
大野原の初夏…………………………… 三〇九
みじか夜………………………………… 三一二
馬追蟲…………………………………… 三一二
木槿の花………………………………… 三一三
雜詠……………………………………… 三一三
畑毛温泉にて…………………………… 三一四
尾張犬山城……………………………… 三一七
紅葉の歌………………………………… 三一八
啄木鳥と鷹……………………………… 三一九
枯野の落栗……………………………… 三二〇
山の歌谷の歌…………………………… 三二三
落葉と龍膽の花………………………… 三二四
(9)雪の歌………………………………… 三二五
鴨鳥の歌………………………………… 三二六
中禅寺湖にて…………………………… 三二九
鳴蟲山の鹿……………………………… 三三〇
飲食雜詠………………………………… 三三一
命を惜しむ歌…………………………… 三三三
冬凪……………………………………… 三三四
友をおもふ歌…………………………… 三三五
黒松 一〇〇〇首
大正十二年
土肥温泉雜詠…………………………… 三三九
峡のうす雲……………………………… 三三九
トマトの歌……………………………… 三四一
海辺雜詠………………………………… 三四一
余震雜詠………………………………… 三四二
鶲啼くころ……………………………… 三四三
やよ少年たちよ………………………… 三四四
寒夜執筆………………………………… 三四五
冬の歌…………………………………… 三四七
念場が原………………………………… 三四八
松原湖畔雜詠…………………………… 三四九
佐久風物………………………………… 三五一
野辺山が原……………………………… 三五三
千曲川上流……………………………… 三五四
大正十三年
(10)新年雜詠…………………………… 三五八
枯木の枝………………………………… 三五八
旅中即興………………………………… 三五九
朝の散歩………………………………… 三六〇
夏日雜詠………………………………… 三六一
甲州七面山にて………………………… 三六二
雜詠……………………………………… 三六四
轉居雜詠………………………………… 三六六
秋花譜…………………………………… 三六七
富士の初雪……………………………… 三六七
犬と戯るる歌…………………………… 三六八
沼津千本松原…………………………… 三六九
樹木とその葉…………………………… 三七四
身邊雜詠………………………………… 三七五
千鳥……………………………………… 三七六
冬日月…………………………………… 三七七
千本濱の冬浪…………………………… 三七八
冬鶯……………………………………… 三七九
大正十四年
雜詠……………………………………… 三八〇
旅中即興の歌…………………………… 三八〇
訪歐飛行機送迎の歌…………………… 三八四
夢………………………………………… 三八五
手賀沼に遊びて………………………… 三八六
無題……………………………………… 三八七
旅中即興の歌…………………………… 三八八
(11)大正十五年
松風……………………………………… 三九三
二月末の雨……………………………… 三九三
梅その他………………………………… 三九三
椿と浪…………………………………… 三九四
鶯………………………………………… 三九五
酒………………………………………… 三九六
尾長鳥と鹿……………………………… 三九七
孟宗竹…………………………………… 三九八
麥の穗その他…………………………… 三九九
黒松……………………………………… 三九九
夏の歌…………………………………… 四〇〇
竹葉集…………………………………… 四〇一
雜詠……………………………………… 四〇四
旅中即興………………………………… 四〇五
朝………………………………………… 四〇八
庭の冬…………………………………… 四〇九
雜詠……………………………………… 四一〇
椎の実…………………………………… 四一一
みそさざい……………………………… 四一二
竹の影…………………………………… 四一三
炉邊……………………………………… 四一四
藁灰……………………………………… 四一四
奉悼の歌………………………………… 四一五
多摩御陵をおもふ……………………… 四一六
昭和二年
(12)昭和二年元旦……………………… 四一七
七草粥…………………………………… 四一九
鮎つりの思ひ出………………………… 四一九
竹の歌…………………………………… 四二一
小鳥いろいろ…………………………… 四二二
炭火……………………………………… 四二三
浜辺に住みて…………………………… 四二四
椿の花…………………………………… 四二五
述懷……………………………………… 四二六
桃畑……………………………………… 四二六
溪間の春………………………………… 四二六
旅中即興の歌…………………………… 四二九
はつふゆ………………………………… 四三四
枯野……………………………………… 四三五
森のひなた……………………………… 四三六
裾野にて………………………………… 四三七
老松……………………………………… 四三八
昭和三年
池の鮒…………………………………… 四三九
雜詠……………………………………… 四三九
合掌……………………………………… 四四一
麥の秋…………………………………… 四四二
水無月…………………………………… 四四三
曇を憎む………………………………… 四四四
奉祝……………………………………… 四四五
最後の歌………………………………… 四四五
(13)補遺 四九一首
明治三十五年……………………………… 四五五
明治三十六年……………………………… 四五六
明治三十七年……………………………… 四六〇
明治三十八年……………………………… 四六三
明治三十九年……………………………… 四六七
明治四十年………………………………… 四七四
明治四十一年……………………………… 四七八
明治四十二年……………………………… 四八〇
明治四十三年……………………………… 四八二
明治四十四年……………………………… 四八三
明治四十五年……………………………… 四八六
大正二年 ………………………………… 四八九
大正三年 ………………………………… 四九〇
大正四年 ………………………………… 四九一
大正五年 ………………………………… 四九二
大正六年 ………………………………… 四九三
大正七年 ………………………………… 四九五
大正八年 ………………………………… 四九九
大正九年 ………………………………… 五〇一
大正十年…………………………………… 五〇三
大正十一年………………………………… 五〇五
大正十二年………………………………… 五〇七
大正十三年………………………………… 五〇九
大正十四年………………………………… 五一〇
(14)大正十五年…………………………… 五一一
昭和二年 ………………………………… 五一二
昭和三年 ………………………………… 五一三
*解説(大悟法利雄)…………………… 五一五
 
 第二卷 短歌 二
 
 朝の歌
 
(5) 自序
 
 本卷は昨年初秋出版した歌集『砂丘』に次ぐものである。即ち大正四年九月頃より同五年四月までの詠草を輯めた。
 秋の頃より本年二月前後まで、何か今までと異つた新しい昂奮を覺えて詠み耽つてゐたのであつたが、やがて東北地方の旅に出るやうになつて途絶した。その昂奮時代の作は尚ほ粗野たるを免れないが、從來よりやや進んだ氣持で作つてゐた。今後もこの氣持で作り績け度いと思つて居る。
 卷中「殘雪行」の旅の歌はただ行くさきざきでの即興歌のみである。今少し靜かな一人旅をするつもりであつたのが、何處も初めての土地であつたため日夜初對面の人々との應接に心をとられてしまつてゐた。歌の出來なかつたのは一つはそのためである。即興は即興のままその土地々々で詠(6)みすてた通りにしておいて改作しなかつた。
   大正五年五月下旬
                     三浦半島にて
                         著者
 
(7) 秋より冬へ
 
     千駄が崎
 來馴れつる磯岩の蔭にしみじみと今日し坐れば秋の香ぞする
 くれなゐの貝は寄らなく磯の藻の黒きばかりに秋更けにけり
 秋の濱かぎろひこもり浪のまにまに寄り合ふ小石音斷たぬかな
 秋の日かげ濡れし小石に散り渡り寄せ引く浪を見つつ悲しも
 風の音身にこたへつつ砂山の蔭にかがみて秋秋と言ひし
 白砂に穴掘る小蟹ささ走り千鳥も走り秋の風吹く
 いつの間に離《さか》りは行きしあはれ吾子《あこ》砂山の松の根にし手招く
(8) 秋日さすまばら小松の丘越しに磯あらふ浪のひねもす聞ゆ
     沖の岩
 秋の大潮沖の痩岩あらはれて光ればけうとわれも身寒く
 沖の岩に水雷艇のはしり舟眞赤き旗をたてて去りにけり
     夕燒雲
 沖邊より崎にたなびき秋かぜの夕燒雲となりにけるかな
 夕燒の雲たなびける崎の山そのかげの海に魚とびやまず
     濱に出でしに有明の月見えければ
 ふるさとの秋の最中《もなか》をふと思ふおもはぬ空の有明の月
(9) 朝日子の匂ひてさすに落葉焚くけぶりもまじり窓あけて獨り
 わが松に風は見えたれ入りつ海曇り晴れてな今朝はさぴしゑ
     芝山
 芝山に登れば見ゆる秋の相模の霞み煙れるをちの富士が嶺《ね》
 近山は紅葉さやかに遠つ山かすみかぎろひ相模はろばろ
 芝山の榊の蔭に風を避けゐつふと立らたれば見ゆる富士が嶺
 いただきの風をし寒み秋の山卷葉櫟のかげをやや下る
     また或時に
 もみぢ葉の照りは匂はねさやさやに秋浸みわたるここの芝山
 來て見れば松ばかりなる片山に浸み照る秋日麗らなるかも
 夕照るや落葉つもれる峽の田の畔《くろ》のほそみち行けば鴫立つ
(10)    また或時に
 靜心しづまりかねつ酒持ちて秋山さして出でゆくわれは
 靜心ひとめをいとひ秋山の楢葉《ならば》もみぢの根を踏み登る
 妻にさへものいふ惜しみ靜心たもちこらへて秋山に來し
 酒煮ると枯枝《かれえ》ひろふに落葉鳴る落葉鳴りそね山は恐《おそろ》し
 獨りなれば躬ながらわれの尊くて居つたちつ酒を焚きたぎらかす
 楢山の下葉もみぢにときをりに風渡りつつ酒煮え來《きた》る
 額《ぬか》に觸るる楢葉のもみぢ摘み取りつ唇《くち》にふくみていふ言葉無し
 酒飲めばこころは晴れつたらまちにかなしみ來り畏《かしこ》みて飲む
     曼珠沙華
 風に靡く徑《みち》の狹さよ曼珠沙華《まんじゆさげ》踏みわけ行けば海は煙《けぶ》れり
(11) 砂山を吹き越す風を恐しみ眼伏せて行けば燃ゆ曼珠沙華
 砂山のばらばら松の下くさに燃え散らばりしこは曼珠沙華
 眼鏡かけし何か言ひかけ見かへりし曼珠沙華の徑の痩せほけし友
 鰯煮る大釜の火に曼珠沙華あふり搖られつ晝の浪聞ゆ
 一心に釜に焚き入る漁師の兒あたりをちこちに曼珠沙華折れし
     枇杷の花
 貧しさを嘆くこころも年年に移らふものか枇杷咲きにけり
 靜まらぬこころ寂しも枇杷の花咲き籠りたる園の眞晝に
     晩酌
 しとしとに闇はも迫れ戸はささで居るもなかなか可懷《なつか》し飲まむ
(12) 濱街道住むとしもなき仮住の籬根《かきね》の木槿盛り永きかも
 籬越しに街道を行く人馬車《ひとうまくるま》見居つつさびしむらさき木槿
 たまたまに出でて歩けば此處の家彼處の籬根木槿ならぬなき
 魚買ふと寄りし藁屋の軒深く魚の匂ひて木槿窓越しに
 さびしきは紫木槿はなびらに夏日の匂ひ消えがてにして
 この濱の不漁《しけ》の續くや風よけの窓邊の木槿むらさきぞ濃き
 南吹き西吹きて浪の遠音さへ日ごとに變り木槿咲き盛る
 ところがらならぬ玻璃戸に風ぞ吹く木槿に晴れし日の續きつつ
 砂ほこり吹きまきし風の夕凪に玻璃戸は重し木槿照り映え
 降り立ちて砂ぼこりせる花木槿しみじみ見つつわれは疲れたり
(13) 枕もたげ靜かに聞けば落葉積む曉の家に風は落ちたれ
 よべ深く睡りにければ心澄み頭《かしら》かろらかに朝風聞ゆ
 朝床に永く駕籠らじくさぐさの醜《しこ》の物もひ群るは其處
 東明《しののめ》の星のかがやき仰ぎつつけふは樂しと勇みけるかも
 朝井戸に水掬むとふと立ちたれば咋夜《よべ》の落葉の香ぞ罩め居たる
 暫くは齒を磨きつつ立ちつくす井戸邊埋めし曉落葉
 起きて今朝井戸にい行けば井戸圍む眞冬椿に花見ゆあはれ
 顔洗ふと昨夜《よべ》吹き散りし井戸の落葉細くかきわけ水くみ上ぐる
 苔清水浸きつつ溜る細井戸の水濁らせじこの朝靜《あさしづ》に
 朝なれやわが浴ぶる水日に光り狹き井戸邊の冬木を濡らす
 現身《うつしみ》の鋭心《とごころ》萌すしばらくの朝の井戸邊の裸身《はだかみ》あはれ
(14) この朝け先づ第一に相見たる井戸邊の妹《いもと》美《くは》しきかなや
 わが行けば匂ひ煙《けぶ》りて冬日搖れ朝は心のかなしきかなや
 朝は瞳もしみじみとしてものを見れ落葉の蔭の霜どけ眞土
 この朝け煙草のからき煙さへむなしくはせじと深く吸ふかも
 冬の日のあはれ今日こそ安からめ土を染めつつ朝照り來る
 窓開き飯食ひ居ればはつ冬の朝日さし來ぬ樂しかれ今日
     ある時
 着換すと吾子を裸體《はだか》に朝床に立たせてしばし撫で讃《たた》ふるも
     蜜柑畑
 土荒き蜜柑畑の朝時雨鋤きすててひとは在らざりにけり
 山際より蒼み晴れゆく朝しぐれ斜めに海に入る蜜柑山
(15)     おなじく
 蜜柑山|下枝《しづえ》くぐれば思はぬに麓遠々し白き海見ゆ
 人聲を探して行けば蜜柑山ひともとの木に群れて摘み居し
 投ぐるほどに見る見る籠に滿ちし蜜柑眞白き銭と代へて提げ持つ
 蜜柑畑いまは重しと籠を置きあたり見かへれば枝垂《しだ》るる蜜柑
 蜜柑畑盡くれば山は楢山の黄葉照りつつ峰遠きかも
     庭の蜜柑
 わが園の隅に輝くひともと蜜柑朝な朝なに立ち出でて摘む
     冬霞む、十二月八日
 なにごとぞ霞かき垂れ眞冬日の安房が崎見えず海とろみ流る
 砂山に寢《いぬ》るおちゐず冬の日の霞めるなぎさ行けど落ち居ず
(16)     同じく、十二日
 朝凪の冬のなぎさに鶺鴒《いしたたき》啼き集ひゐて薄霞せり
     同じく、十三日
 眞冬空鋸山にかすみ罩め峰《を》の上さびしも晝の月懸る
 ひさかたの冬日眞白く澄み照れり入江細海霞晴れなくに
 白濱や居ればいよいよ海とろみ冬日かぎろひ遠霞立つ
     今朝とりわけていただきの白く見ゆ
 岩が根の峰白みかも冬深み鋸山に雪降れるかも
     夕照
 寒き空より漏れ來し午後の日の光よろこぴ居れば百舌鳥とほく啼く
 沖晴れて今か安房山さやに見えむ夕籠り居れば日ぞさし來る
(17) うす赤み夕日なぎさに流れゐつうらさぴしきに舟着きにけり
 滿潮《みちしほ》のいまか極みに來にけらし千鳥とび去りて浪ただに立つ
 滿潮《みちしほ》の邊波《へなみ》眞白く沖津邊はいよいよ青み足りどよもせり
 夕潮さし沖邊ゆたけくなるままに啼きつつ走るむらなぎさ鳥
     同じく
 望ちかき夜にかもあらめ時雨降り籠りて聞けば浪の豐けさ
     椿咲く
 椿咲くと驚き悲しみ過ぎ經たるわがひと年ぞ顧みらるる
 わが家《や》にまた椿はな咲くくれなゐに散りにしは昨日《きのふ》いま咲き出づる
 くろぐろと黒み靜まれる葉つばきの蔭に燃えたる初花椿
 椿散る時に來りつ椿咲く今日まで住みぬ浪の近きに
(18) つと落ちて百舌鳥は椿のかげに啼く曇れる朝の紅寒椿《べにかんつばき》
 天地《あめつち》の曇りくぐもり寒き時落葉のかげに咲き出づる椿
     囘顧半年
 木槿咲き曼珠沙華《まんじゆさげ》咲きし白浪のこの海人が村に秋を越えにけり
 しかすがに靜けかりけり顧みる曼珠沙華のはな白木槿花
 埃立つ濱街道の往くさ來さこの秋は見し白木槿花
 その時に見し誰彼《たれかれ》の明らけし白木槿花咲きし思へば
 をりをりに立ちどまりたるわが影の寒きも目路に浮び來るなれ
     風
 風吹けば吾子が頬《ほ》ぞ染む茜さしこころ昂《あが》るか吾子が頬ぞ染む 風を忌み深く駕籠れど埃づくあはれ机の椿の花さへ
(19) 夕づけど風吹きやまず木蔭の井戸に顔洗ひ居ればその木どよめく
     同じく
 西風《にし》立つときほひ亂れて相模なる三崎の沖に帆ぞ靡きたる
     椿
 海風に梢なびける砂山のむらだち椿靡きていま咲く
 立ちつくすわがあたり坂の砂もこぼれずくれなゐ椿枝垂れてぞ咲く
 酒飲めと冬日はるばる送られし鴨の羽色のこの深みどり
 いと遠き風もまじりつ戸外《とのも》なる落葉聞えてわが酒ぞ煮ゆ
 下野の言すくななる友を思ひそが贈物鴨をわが煮る
 妻子等を寢靜まらせつ殘りゐて夜のくだちゆくに煮る眞白酒
(20)     海邊の冬
 おほよそに見し海岸の芝山の冬近づくと黄葉しにけり
 濱に續く茅萱が原の冬枯に小松まじらふわが遊ぶところ
 白濱の風を寒《さぶ》しみひそひそと入れば松原かぎろひ居たり
     朝
 朝朝の眼ざめしばしの物おもひ苦しきにわれは衰ふるらむ
 軒近き砂山松の梢《うれ》染めて今朝も晴るるか冬日さし來《きた》る
     浪
 浪見むと急げる行手暫くの朝日の空に塵もまはなく
 朝な朝な浪の前に來てこころ踴る日にけに浪は新しきかな
 下燃えに燃えあがるこころ止《とど》めかね朝の白濱とゆきかく行く
(21)     裏山の溪
 わが心さびしき時しいつはなく出でて見に來るうづみ葉の溪
 わが行けば落葉鳴り立ち細溪を見むと急げるこころ騷ぐも
 溪ぞひに獨り歩きて黄葉見つ薄暗き家にまたも歸るか
     同じく
 冬晴の芝山を越えその蔭に魚釣ると來れば落葉散り堰けり
 芝山のあひの細溪落葉つもりいよよほそまり釣るよしもなき
 釣竿を片寄せて聞けば細溪の落葉をくぐる彼の瀬此處の瀬
 こころ斯く靜まりかねつ何しかも冬溪の魚をよう釣るものぞ
 細溪の魚はえ釣らず這ひあがるこの芝山の黄葉繁きかも
 此處にして聞けば麓のせせらぎのなかなか高し黄葉照り籠《こも》る
(22) 瀬の音のとよめるなべに片山の黄葉いよいよ明らけきかも
     曇り日
 曇り日の夕立ちし風井戸の邊に落葉新しく匂ひ籠めたれ
 曇り日のいよいよ曇り夕かけて風も動きぬ今は戸|閉《さ》さめ
     散歩
 夕ぐれのよりどころなさにわれとなく家出でて來し此處の芝山
 榛の木に楢の木つづく山際の刈田の畔《くろ》ぞわが行くところ
     冬の海
 冬近み入江の海の凪ぎ細り荒磯芝山黄葉しにけり
 眞冬日のひかり乏《とも》しき入海に漕ぎ出づる舟のかぎり知らずも
 大潮の干潮《ひしほ》の冬日したたかに沖の黒岩あらはれにけり
(23) 向つ國安房の山邊の夕影にひとむら黒き釣丹の數
 遠つ海|水際《みぎは》赤らみ夕がすみたなびけるかたに安房浮びたり
 こごしき安房の岬に殘りたる夕日あきらかに冬の浪立つ
 横濱に入り來る船か煙あげ入日の崎を廻《めぐ》り浪見ゆ
 
(24) 春淺し
 
     芹つみ
 芹つみに妹のさそふに誘はれてせんかたもなき野に出でにけり
 汝《なれ》は芹つめわれは野蒜を摘まましとむきむきにしてあさる枯原
 斯くて早や春は立つにかをちかたの峰《を》の上《へ》かすみて芹つむ我は
 春淺きだんだら小田の畔《くろ》の木のゆらぎ光りて芹つむわれは
 芹生ふる畔の枯草にかいかがみ春立つといふを悲しむこころ
     梅咲く
 よもすがら東南風《いなき》吹きしきし朝凪に家出でてみれば梅咲き靡く
 東南風吹き沖もとどろと鳴りし一夜《ひとよ》に咲き傾きし白梅の花
(25) かとばかり咲き傾きし梅の花驚き見つつこころ淋しき
 わが庭に咲きしばかりかこの朝け出でて歩けば梅到るところ
     同じく
 年ごとに覺え來なれしさびしさの梅咲く頃となりにけるかな
 梅の花はつはつ咲けるきさらぎはものぞおちゐぬわれのこころに
     鰯寄る
 海も狹に鰯|來《きた》ると浦あげてとよめる蔭に梅咲き盛る
 青鰯《あをいわし》浦ちかく來てとぴちがふ朝凪の日の梅の花さびし
 海面《うなづら》の黒み騷だち鰯寄る入江の春の晝の月影
 鰯寄る細江のそらのうちけぶり鳶の群れゐて啼けば悲しき
 崎の端《はな》けふはここだく赤錆びて入江は凪ぎぬ鰯寄るとふ
(26)     同じく
 砂乾き船もかわきて待ちこらへし鰯は沖に見ゆといはずや
 はしけやし鰯の網にかかりたる大鯖の腹のこの青鰯
 鯖の奴《やつこ》の白腹さけばいま喰ひし鰯かたまりて飛び出しにけり
     妹
 ひつそりと物に縫ひ入りし妹のかたへに居りて靜心なき
 針とめてよろこび鴉《がらす》いま過ぐと眼をつむりたる美《くは》し妹
     病妻を伴ひ春淺き山に遊ぶ
 麓より風吹き起り椿山椿つらつら輝き照るも
 椿山松もまじらひ朝風の聲のさびしも松葉散り來《きた》る
 風を寒みはやく行かんと椿山いそげるかたに花搖れ光る
(27) 風立ちて木の間明るき散松葉落椿さへをちこちに見ゆ
 疲れしと嘆かふ妻の背に額《ぬか》にくれなゐ椿ゆれ光りつつ
 遠松のこずゑに風は見ゆれども此處は日うらら妻よ息はな
 育樫の蔭の枯草いざ妻よ晝食《ひるげ》のむしろ此處に作らむ
 枯萱のかげに見出でし稚梅《わかうめ》の三つふたつ花をつけてゐしかな
 松風のこゑのさびしさ見はるかす伊豆の遠海時雨行く見ゆ
     銘酒白雪を送らむといふたより來る
 津の國の伊丹の里ゆはるばると白雪來るその酒來る
 眞酒こは御そらに散らふしら雪のかなしき名負ひ白雪來る
 酒の名のあまたはあれど今はこはこの白雪にます酒はなし
 白雪と聞けばかなしも早もかもその白雪を手に取らましを
(28) 手に取らば消《け》なむしら雪はしけやしこの白雪はわがこころ燒く
 白雪は白雪はとて待つ苦しその白雪はいまだにかあらむ
 をりからや梅の花さへ咲き垂れて白雪を待つその白雪を
     春淺し
 わが庭の竹の林の淺けれど降る雨見れば春は來にけり
 鶯はいまだ來啼かずわが背戸邊椿茂りて花咲き籠る
     山やき
 いづかたの山燒くるにかきさらぎの冷たき空に煙なびけり
 衣《きぬ》黒きふるさと人ら群りてかの山邊をもけふは燒くらむ
 朝な朝な立ち出でて見る白梅の老木の花の盛り永きかも
(29) 並み立てる椎の梢に風見えて白梅のはないよよ白きかも
 栴の花濱浪近み砂風の間なくし吹きて咲くがわびしき
 梅の花さかり久しみ下褪せつ雪降り積まばかなしかるらむ
 しかすがに梅の花いまは褪せそめぬ昨日も今日も空は晴れつつ
 梅の花褪する傷みてしら雪の降れよと待つに雨降りにけり
 梅の花褪せつつ咲きてきさらぎはゆめのごとくになか過ぎにけり
     來福寺にて
 友の僧いまだ若けれしみじみと梅の老木をいたはるあはれ
 酒出でつ庭いちめんの白梅に夕日こもれるをりからなれや
     薄雪
 常のごとただに汐風吹きしくと嘆きは起きし雪の降りつつ
(30) 椎椿吹き撓《た》む風になかそらになから消えつつ薄雪の降る
 藍深く海はよどみつ向ふ崎安房の國邊に雪晴れにけり
     朝寒し
 寒む寒むとあかつき起きに見やりたる背戸の笹山春雨の降る
 椿の木ゆらぎ光りてうす雲の朝風の空に日は懸りたり
     肥料船來る
 下肥料《しもごえ》を賣る帆前船《ほまへせん》寄りにけりこの海人が村に雪は降りつつ
 肥料船《こえぶね》の來しとおらびて海人どもの錢かぞへつつ肥料《こえ》買ふあはれ
 砂畑に麦は芽ぐみつ畏みてその痩麥に肥料《こえ》やる海人は
 沖にのみ漁《すなど》るならず砂畑にけふ海人が子は糞肥料《くそごえ》をまく
     畔の草
(31) 曇り日のこころいぶせみうち出でて來しは山田の枯草の畔《くろ》
 枯草の山田の畔のなにかなくなつかしくして行きとどまらず
 春淺み土は鋤《す》かれず山はざま細田だんだんにたたなはるかも
 前の山のまろみうれしく眺め入る山田のくろの枯草深し
     沈丁花
 めづらしく白雪降るとかしこみて部屋にこもれば匂ふ沈丁花
 沈丁花いまだは咲かね葉がくれのくれなゐ蕾匂ひこぼるる
 みちのくの雪見に行くと燃え上るこころ消しつつ錢つくるわれは
 貧しければこころ怯《おそ》れつひさかたの天の照るにもかき曇るにも
     若布とり
(32) はつはつに生ふる若布に潜き寄るきさらぎの海の海人少女たち
 天つ日をよこぎる雲のうつりつつ浪|眞蒼《まつさを》に海女群れゐたり
 はたはたと倒るる浪の前にうしろに海女が黒髪|縒《よ》れなびきつつ
 海人少女群れたる崎の白浪に鵜はひたひたにまひ過ぎにけり
 四方の海霞みこめつつわが崎の浪水沫|立《だ》ち潜ける少女《をとめ》
     殘葩
 雪もよひ黒雲くづれ夕燒けつ庭の白梅褪せ褪せて咲く
 霜とけて雫ながるる葉がくれにくれなゐ椿なほ散り殘る
     菜の花
 ひとかたまり菜の花咲けり春の日のひかり隈なき砂畑の隅に
 くろぐろと棕梠の影させり菜の花のかたまりて咲く傍らの砂に
(33) 春早くまよひ出でたる蜂の子の菜の花のうへをなきめぐるあはれ
     三崎港へ
 向つ崎眞赤き崖に吹きつくる風の寒きに舶傾きぬ
 岩とびとび鵜の大群《おほむれ》の浮き沈む潮騷にして船傾きぬ
     三崎港
 大島の山のけむりのいちじろく立つよと見れば暮るるなりけり
 相模の海月夜浪立ら片寄りの黒雲のかげに伊豆の山燃ゆ
 伊豆人はけふぞ山燒く十六夜の月夜の風にその火靡けり
 
(34) 殘雪行
 
     三月十五日朝、仙臺驛にて
 停車場の柱時計を仰ぎつつ現なや朝のストーヴの椅子に
 朝づく日停車場前の露店《ほしみせ》にうららに射せば林檎買ふなり
     鹽釜より松島灣へ出づ
 鹽釜の入江の氷はりはりと裂きて出づれば松島の見ゆ
     同日夜盛岡着
 盛岡の街か灯《ひ》ぞ見ゆわが汽車の窓に楊の搖れては消ゆる
     盛岡驛に野菊君等と逢ふ
 人ごみのなかに見出でし友が顔笑みかたまけてありにけるかな
(35) 相逢へば昔ながらの言すくな菊池野菊は齢もとらずけり
     盛岡古城址にて
 樅檜五葉の松はた老槇の並びて春の立つといふなり
 啄木鳥の眞赤き頭ひつそりと冬木櫻に木つつきゐたり
 啄木鳥ぞ來てとまりたる槇の蔭の落葉櫻の眞白き幹に
 ほのぼのと燃ゆる思ひにせんすべの盡きて眺むる梢なりけり
     雫石川か中津川か
 城あとの古石垣にゐもたれて聞くとしもなき瀬の遠音《とほね》かな
     雪やめば四方の山見ゆ
 遠山に消えつつ殘るはだら雪雨のごときを見る眞晝かな
     宿醉か旅の疲れか
(36) 朝まだき日はさしながら降る雪を軒に眺めて疲れてゐたり
     大吹雪の野邊地驛に草明君出で迎ふ
 われ待つと荒野野邊地の停車場の吹雪のかげに立らし友はも
     野邊地出づれば海見ゆ
 大吹雪汽車の小窓のかき曇り雫垂れつつ海見え來る
     青森驛着、舊知未見の人々出で迎ふ
 やと握るその手この手のいづれみな大きからぬなき青森人よ
     宿望かなひて雪中の青森市を見る
 いつか見むいつか來むとてこがれ來しその青森は雪に埋れ居つ
 鈴鳴らす橇にか乘らむいないな先づこの白雪を踏みてか行かむ
 雪高く往き交ふ人の輝きていま青森に夕日さすなり
(37)     明けぬとて酒、暮れぬとてまた
 酒戰《さかいくさ》たれか負けむとみちのくの大男どもい群れどよもす
 たくたくと大酒樽のひもすがら斷えず吹雪きて夜となりしかな
     青森より大釋迦驛へ
 古汽車の中のストーヴ赤々と燃え立つなべに大吹雪する
     大釋迦より騎馬し北津輕へ入る
 雪いよよ峽も深みてわが馬の鬣黒く歩まぎるなり
 わが行く手晴るるとすれば岩木山また吹雪き來て馬嘶かず
     これより訪ねむとする友は聞えし沈黙の人なり
 もの言はぬ加藤東籬を見ばやとてはるばる急ぐ雪路なるかも
     五所川原町一泊
(38) ひつそりと馬乘り入るる津輕野の五所川原|町《まち》は雪|小止《をや》みせり
     津輕平野一面積雪數尺に及ぶ
 橇の鈴戸の面《も》に聞ゆ旅なれや津輕の國の春のあけぼの
     雪の上に橇數多行き交ふは己が田と目ざす邊に肥料を運び置くなりとか
 晝かけて雨とかはれる白雪の原のをちこち肥料《こえ》運ぶ見ゆ
     雪深けれど既に春なればその表氷りたり。土地の人これを堅雪と呼ぶ
 堅雪の畦道《あぜみち》ゆけば津輕野の名殘の雁《かり》か遠空に見ゆ
     東籬君宅にて初めて蟇を聞く
 白雪の何處にひそみほろほろと鳴き出づる蟇《ひき》か津輕野の春
     津輕なる松島村は友東籬山蘭君等が故郷なり
 歸る雁《かり》とほ空ひくく渡る見ゆ松島村は家まばらかに
(39)     南津輕板留温泉雜詠
 雪消水岸に溢れてすゑ霞む淺瀬石川《あぜいしがは》の鱒とりの群
 むら山の峽より見ゆる白妙《しらたへ》の岩木が峯に霞たなびく
     片栗といへる草ありて雪の蔭に萌ゆ
 かたくりの若芽摘まむとはだら雪片岡野邊にけふ兒等ぞ見ゆ
     家を出でて既に七旬
 歸らむといそぐこころのしかすがに動くとはすれ寂しきものを
     南津輕黒石町
 黒石の町の坂みら登りつつ春は深しといひにけるかも
     秋田市千秋公園
 鶸《ひは》繍眼兒《めじろ》燕山雀啼きしきり櫻はいまだ開かざるなり
(40) 曇さびしいま七日たたば咲かむとふ櫻木立の蔭を行き行くに
     秋田美人
 名に高き秋田美人ぞこれ見よと居ならぶ見れば由々しかりけり
     岩代瀬上町より飯坂温泉へ
 花ぐもり晝は闌けたれ道芝につゆの殘りて飯坂とほし
 たわたわに落つる春田のあまり水道邊に續き飯坂とほし
 行き行けば菜の花ばたけ蝶蝶の數もまさりて飯坂とほし
 友ふたりたけぞ高けれだんまりの杖をうちふり飯坂とほし
 菜ばたけのすゑの低山やますそにそれとは見ゆれ飯坂とほし
     飯坂温泉雜詠
 川ごしに杉は明るく並び立ちたまたまにして鶯啼くも
(41) 津輕にて田打櫻と聞きし花いまぞ咲きたれ岩代辛夷
 とつとつと早瀬流れて咲き垂れし田打櫻は花雪の如し
 君が背に辛夷|白花《しらはな》咲き枝垂れその花を背に君はまだ醉はず
     酒興いよ/\到る
 夕かけて雲は山邊に流れ來ぬ櫻はいまだ散るといはなくに
     某妓磯節を唄ひ某妓秋田節をよくす
 磯節をきけばかなしも陸奥の山の奥の唄をきけば悲しも
     福島市某旗亭即興
 つばくらめちちと飛び交ひ阿武隈の岸の桃の花いま盛りなり
 夕日さし阿武隈河のかはなみのさやかに立ちて花散り流る
 
 白梅集
 
(45) 卷首に
 
 「過ぎゆく時」それを静かに見まもつてゐる場合と、時そのもののなかに自分自身をぶち込んで、若しくは卷き込まれて、よれつもつれつしてゆく場合とが私にはある。歌にも自然この二つの場合が出て來る。本集に收めた歌は總じて後者の場合に出來たものが多いやうである。そして、ともすれば絶望的な、自暴自棄的な、とり亂した心のひびきが隨所に見えて居ることが自分自身にもよく感ぜられて誠に苦しい心地である。
 年齢境遇の關係があるかも知れない。また漸次に歌を作り進んでゆく上から、是非經ねばならぬ一の道程であつたかも知れぬ。兎に角、從來のわが歌風に無かつた斯の傾向を自らいま嫌惡と驚きの眼を以て私は見て居るのである。而して、心よりなつかしく本集を顧る日の一日も速く來らむこ(46)とを祈つて居るものである。
   大正六年晩春            於小石川金富町寓居
                            牧水生
 
(47) 夏の歌
 
     椋の葉の風
 朝床の枕のうへにながれ入る椋《むく》の葉の風雨よぶらしも
 けふもまた明けにけるかな軒端なる椋の青葉に風は見えつつ
 椋の葉の風は流れて朝床のわが眼わが手の萎えしに吹く
 朝起きの萎えごころか椋の葉にうごける風を見ればいとはし
 さわさわに朝風吹けば深みどり椋はそびえて大空曇る
     ある朝
 夏草のなびける山に眞向ひて今朝をさびしく歩み居るかも
 砂みちの砂のほこりの今朝立たずゆく手にほそき苗代田見ゆ
(48) 浪の音今朝は凪ぎたれ坂みちの木がくれにして聞けば凪ぎたれ
     麻の葉
 麻の葉の茂りさびしも砂畑のくろの細みらゆけば袖濡る
 麻にいつ花咲くものぞ茂り葉の青きがままの夏のしののめ
 しぶしぶと顔洗ひをれば眞青《まつさを》に梅雨の朝日の落ちて來にけり
 梅雨雲の垂れに垂れつつひさかたの空の隅より朝日子させり
     自嘲
 妻子らを怖れつつおもふみづからのみすぼらしさは目も向けられず
 犬に追はるる猫といへどもわがごとき醜きなりはえはなさざらむ
 われと身を思ひ卑しむ眼のまへに吾子《あこ》こころなう遊びほけたり
(49) 砂濱の濱ひるがほのしよんぼりと咲けるこころか涙ながるる
 めづらしく妻をいとしく子をいとしくおもはるる日の晝顔の花
     友
 相逢ひて顔みてをればなにほどかこころ安まるこの友とわれ
 慰むる慰めらるる新しき言葉もあらねうれしきぞ友
 さぴしげにほほゑめる汝《なれ》をいつもいつも思ひいだきてこひしきぞ友          山百合
 夏草の茂みが上に伸びいでてゆたかになびく山百合の花
 夏山の風のさぴしさ百合の花さがしてのぼる前にうしろに
 折りとればわれより高き山百合の青葉がくれの大白蕾《おほしろつぼみ》
 たわたわに蕾ばかりが垂れゐつつこの山百合の長し眞青し
(50) 山百合の花のひとたばさげ持ちて都へのぼる友に逢はむため
     ある庭
 鳳仙花しらじら咲きて細庭の夏もさかりとならむとすらむ
 柿の木のおほき根もとに虎耳草木賊しげりて梅雨明けにけり
 白き蝶そらのかたよりふわふわと木賊の莖にきてとまりたる
     古池
 青苔の地《つち》にしみ入る樫の葉の影のゆれゐてわが歩む二人
 古池のみぎはの草にみそはぎのほそぼそ咲きてわが歩む二人
 古池のひるのかがやきなかなかにうとましくしてわが歩む二人
 古池のめぐりにおふる八重葎分けて歩めば日の光さびし
 ゆるびたる手足の筋に八重葎しみて痛むとねころぴてをり
(51) うつつなく眺めてをれば古池の藻草のかげをゆける魚の子
 眼の前の夏のひかりのさびしさよ古池をゆく魚の子の群
 ふと仰ぐみそらの雲に眞ひるの日てりよどみゐて占池さびし
 眼にうつるもののわびしく見入らるるけふの日なれや古池ひかる
 藺といふもさびしき草ぞうつつなうわがをる今日の眼の前にして
     ある夕
 いと遠き人の世に啼く蜩のこゑかも雨とすみて聞ゆる
     東京より相模なる妻の許に
 ほがらかに晴れゆく夏の朝空のいよよ深みてひとのこひしき
 こころややに冴えゆけば夏の朝の空窓にかがやきひとのこひしき
 眞ひる空窓にかがやきわが腕に汗のながれてひとのこひしき
(52) たちいでて見る庭さきの夏草の眞ひるしなえてひとのこひしき
 晝の空ひかりのなかにまふ塵の見ゆとも見えてひとのこひしき
 をりからやゆきずりびとの聲さへも身にしみわたりひとのこひしき
 ちりほこり光り煙れる晝の街ゆきかふ子らを見つつこひしき
 屑買のひそひそすぐる裏街の窓にこもりゐて戀ふは苦しき
 こひしさのいまはたへがたくかきさぐり小さき鏡をとりにけるかも
     秋風と蓮の花
 蓮ひらくしらじら明けに不忍の池にまひ降るる白鷺のむれ
 朝露の蓮みるひとの靜かなるつかれたる顔をよしとおもへり
 しののめの蓮見るむれにまじりたり白蓮よりも靜かなる少女
 雨よべる風なるらしも朝空に雲のみだれて白蓮さけり
(53) 黒々と雨に濡れつつ水鳥のかいつむり啼けり蓮の花のかげに
 暴風雨《しけ》すぎし池はあふれて今朝の秋咲きいづる蓮のひともと紅《くれなゐ》
 いまは早やこぼれむとするくれなゐの蓮の花あはれくもり日のもとに
 はちす葉の青みかわきて秋の風吹き立てる池の白蓮の花
 秋立つや池の水錆《みさび》の片よりに白はちすのみ咲きて風吹く
 葉がくれにくれなゐの花ゆれゐつつ秋風しるきはらす葉の池
 あかあかと朝日さしゐて池の蓮みながら秋の風ならぬなき
 
(54) 秋の歌
 
     失題
 つきつめてなにが悲しといふならず身のめぐりみなわれにふるるな
 とりにがすまじいものぞといつしんにつかまへてゐしこころなりけむ
 ある時は身體いつぱい眼となりてつまらなさをば見てゐる如し
 つまらなさ手足にあふれふらふらとさまよひあるく身體なりけり
 ぢつとしてひとみ落せば早や其處に來てちぢまれるつまらなさなる
 ちからなき足をうごかしあゆまむとあせる甲斐なさいまはやめなむ
 何もかもおもひあぐめるはてに來て見ゆるひとといふひとみないぢらしき
 ゆゑはなく今はたのしとおもひあがりつと立ちにしか眼こそくるめけ
(55) 何もかもつまらなく見ゆるこの日頃いかなる面《つら》をわれのせるらむ
 新しき出來ごとといふ聞《きき》よろしその出來ごとの近づくなゆめ
     秋の風
 秋の風吹きしきれどもよそにのみ見てちぢまれるこころなりけり
 とりとめのなき日と今日も暮れにけり日にけに秋の風は吹きつつ
     落葉のころ
 りがすきの落葉のころとなりにけり身體のつかれくやしけれども
     こほろぎ
 何草ぞこの草むらの硬さよと腰をおろせばこほろぎ啼けり
 われと身の重みを地《つち》におぼえつつ草むらに見る秋の風かな
 こほろぎのなきたつところそこにここに櫻の落葉ちらばれるかな
(56) 耳は耳目は目からだがばらばらに離れて蟲をきいてをるものか
 ほのぼのとわが頬染まるかこほろぎの啼きしきりたる草むらのかげに
     夜の窓
 夜の窓ひるのつかれのやはらかう浮び來る身に倚ればたのしき
 窓を開けよ風邪はひくともこのごろの夜空ながめでねむらるるものか
 だんだんにからだちぢまり大ぞらの星も窓より降り來るごとし
 このままに落ちむ底なき穴もあれいまをたのしく睡らむとする
     秋の雨
 倦みはてしわが身つつみて降るものか濡れゆく屋根の秋雨の音
 うつとりと雨をながむるこころかも疲れていまは何もおもはなくに
 めづらしくこころ晴れつつながめ入るけふ秋雨のかなしくもあるか
 
(57) 冬晴
 
     秋の樹木
 
 樫の木と山毛欅《ぶな》の木立とさしかはす小枝《さえだ》小枝に秋深みたれ
 樫の木の瑞枝の伸びのみづみづし山毛欅の紅葉に入りまじりたる
     冬晴
 稀なれや今日のうらら日庭さきの眞冬篠竹ひかりてやまず
 ガラス戸に夜露垂る見ゆ下宿屋のそのガラス戸の蔭に坐れば
 冬の空ガラス戸越しに墨よりも深きをながめ夜半居るはたのし
     獨酌
(58) おひおひに酒を止むべきからだともわれのなりしか飲みつつおもふ
 酒のめばなみだながるるならはしのそれもひとりの時に限れる
 たいねんと靜もれる山もありがたししかおもへども心は騷ぐ
 知るひとのそれもこれもがみな可愛くなりゆく時ぞ涙ながるる
 めいめいのこころそれぞれに向きてゆくこの友どちをとどめかねつも
     遠國なる友を訪ねむとて
 相逢はば先づ何事を語らはむその事をおもふ面はゆきかな
 老いふけしといふにはあらねそのかみのわれにもあらず面はゆきかな
 君が妻和歌子もいまはいささかを老いやしつらむ夙く逢はましを
 落葉木の木の間晴れなば遠山の見ゆとふ君が庭を夙く見む
 君が妻君が子庭の落葉ふみ出で入る冬をゆきて夙く見む
(59)     冬の夜
 とりとめて何おもふとにはあらねども夜半ひとり居るはたのしかりけり
 つま子等のねくたれ床を這ひいでてともし掻き上ぐる冬の夜の机
 その湯釜この水さしにいつぱいに湛へて冬の夜を起きてをる
 箱の隅の粉炭《こなずみ》つげば何の枯葉かまじりて燃ゆる匂ひするなり
 次第次第にほそくなりゆくともしびに夜半をつぎたす石油のながれ
 永き夜の夜床いぶせみ起きてをれば蠅も出で來てわがめぐり飛ぶ
 長火鉢にひとりつくねんと凭《よ》りこけて永き夜あかずおもふ錢のこと
 棚の隅あさりさがして食ひものに鼻うごめかす冬の夜の餓鬼
     失題
 わがことのやうにはあらねこれやこの三十三歳になるといふなり
(60) やうやくに此處に來にしか今日のわれ我が思ふことをよろしとはする
 何はあれあたり明るく見え來たりここに斯くあるわれとなりにけり
 われとわが淺間しさなど時折に思ひ出せども煙には似る
 かにかくにわれの歩みは遲きなりさなりたゆまで歩もとおもへ
     梅
 梅の木の蕾みそめたる庭の隅に出でて立てればさびしさおぼゆ
 梅のはな技にしらじら咲きそめてつめたき春となりにけるかな
     日比谷公園にて
 公園に入れば先づ見ゆ白梅の塵にまみれて咲けるはつ花
 公園の白けわたれる砂利みちをゆき行き見たり白梅の花
 眼に見えぬ籠のなかなる鳥の身をあはれとおもへ籠のなかの鳥を
(61) 椎や椎や家をつくらば窓といふ窓をかこみて植ゑたきこの樹
 推の木の葉にやや赤み見ゆるぞとおもふこの日のこころのなごみ
 冬深き日比谷公園ゆき行けば楮しら梅さきゐたりけり
     酒
 酒のめばいのちいささか身にかへる身としおもふにたへられなくに
 今もなほ心かわけば時わかず飲まむとおもふこの酒ばかり
 汝《な》が顔の醉ひしよろしみ飲め飲めと強ふるこの酒などかはのまぬ
     失題
 ためいきも腹いつぱいにつきがたきこころぼそさが身より離れず
 一時《いつとき》もやすむひまなくわれの身より何かはなれて消えゆくごとし
 われもしらぬ大きな力前に後に押しつ引きつつわれを運ぶかも
(62) われと身のめぐりをふつとふりかへる癖がをりをり眼につけるかな
 ぽつちりと開いてはをれわがまなこ動かぬもののごとくおもはる
 なにごともまともにものを見さだむるちからをもたぬわが眼なりけり
     多摩川
 何處《いづこ》にゆかむ山ことごとし海も憂し多摩川ぞひの冬木の中か
 行くべくばみちのくの山甲斐の山それもしかあれ今日は多摩川
 案のごとく川は痩せ痩せ流れをり岸の冬木もまたその如く
 戸をさすや窓のめぐりは落葉木の櫟のみなる冬の夜の宿
 多摩の川眞冬ほそぼそ痩せながれ音《ね》を立つるかも冬の夜ふけに
 多摩川の冬の川原のさざれ石くぐれる水か枕には來る
 雪のこる痩庭ながめ朝はやく宿屋にのめる麥酒の濁
(63) ひる過ぎて庭の冬竹さやさやに鳴りさやぎつつ西晴れにけり
 知る人の顔を見ざりし今日ひと日ひと日の旅をうれしとはする
     友東籬が許に送る
 津輕野や落葉木立のまばらかにつづける村の端に住む君
 戸を繰れば雪は背よりも高かりしその窓かげに今日もこもるか
 君が前にたはけつくせしゑひどれの旋の姿を何と見つらむ
 君をおもへばたもの根もとによどみたる冬野の川ぞおもかげに見ゆ
 わがこころさびしき時しはつきりとはるかなれどもうつれるは君
 しよんぼりと瞳おとしてありとなくあるらむ君をおもひこそやれ
 ありありと耳にのこれる君がこゑこよひ靜かに聞えをるなり
 いまいちどあひておかねばならぬごときおもひは苦しいつ逢ふべしや
(64) 津輕野をおもへば遠しいつしんに君をおもへばいよいよ遠し
 あやふかるもろかるものに故はなくおもひなされてこひしきぞ君
 はつきりと眼をみひらかぬその性《さが》の相似しものか忘られかねつ
 みちのくの津輕のはてとおもふよりこころいよいよこひしくなりぬ
     そばかき
 戸棚の戸あけたてすれば鳴りひぴき氷れる夜半にかける蕎麥かき
 そばかきの上手の我妹《わぎも》とくいねて小夜の深きにかけるそばかき
 そばかきをかきつつふつとおもひ出し戸棚あくればありし殘り酒
 信濃なる彼もさびしきひとりなる友が送りしこれの蕎麥の粉
 そばかきの辛からぬはた甘からぬこの蕎麥かきの味のよろしも
 
(65) 春淺し
 
     倦怠
 梅の花紙屑めきて枝に見ゆわれのこころのこのごろに似て
 褪せ褪せてなほ散りやらぬ白梅の花もこのごろうとまれなくに
 乘るはなほ電車通りをゆくこともこころいためば耐へられなくに
 地とわれと離ればなれにある如き今朝のさびしさを何にたとへむ
 はつきりととらへかねたるわがかげの今日もふらりとこころにうかべり
 おほかたのひとのこころはいかならむ今日も今日とてわれのさびしく
 世の常の身のゆく末といふ言葉いまは言葉にあらざりにけり
(66) うろたへて見張りしひとみそのままに二月もいつか終りけるかな
     梅
 きさらぎや起きいでて縁に立つ朝のつかれにさびし白梅の花
 庭の土白けわたりて草萌えず一もとの梅咲けるわびしも
 この庭に芝草植ゑよ白梅も金絲櫻《えにしだ》の木もこちごちに立つ
 なにごとぞ今朝の霞といひすてて庭にいづれば白梅咲けり
 白梅のはなが咲きたり咲きたりと朝な夕なに過すこのごろ
     鴨
 寒む寒むと起きいでし門に郵便屋來たりておきぬ二羽の眞鴨を
 新聞紙の上にころがれる二羽の鴨羽根のむらさきさびしくもあるか
 手にとりてしみじみ見れば鴨の羽根みどりむらさきいたましきかな
(67) いそいそと鴨を料ると立ちあがれば研屋來にけり庖丁研がす
     失題
 ゐつ立ちつ動けるわれを影のごと眺めくらせるこころすべなさ
 わが前を過ぎ去り過ぎ行く時の歩みのまざまざ見ゆるこのさびしさよ
 思ふさへわが身つめたしましてわがめぐりのものはすべてつめたし
 燃ゆといふ心のしんの燃えつきていまは斯くまでさびしきものか
 四邊《あたり》みな凍れるごときさびしさのなかにゆくりなく眼をさましたれ
 ふらふらと忘れものめける生心《なまごころ》身にかへるありていのちさびしき
     春の一日
 朝戸出の淺きつかれや行くかたの道もかすみて梅ところどころ
 さらさらと清水ながれて畔《くろ》のかげに芹は萌えたり摘まばや芹を
(68) 芹摘もとおもふこころのかなしさに指ぬらして芹つみにけり
 ちろちろと音《ね》にこそいづれ芹つみをやめて坐れば畔のかげの水
 白梅の老木のかげのくつきりと動かぬ芝にたんぽぽ咲けり
 ぶよといふ蟲の居るさへ春淺みなつかしきかも枯草の原
 枯草のかげにまろびて煙草など吸へばよろしきわが姿かも
 うつかりと立ちつくしたる身のめぐりけふの夕日のあきらけきかな
     同じく
 ゆきずりに日日見て通る椎の樹の梢あからみ春は來にけり
 木木の芽の芽ぐみつのぐみ白梅の花はいよいよ褪せはてにけり
 へとへとに疲れつくして一日の終りともいまはなりにけるかな
(69) 明日のことは明日ぞさだめむとにかくに寢《いね》むとおもへつかれしものを
 とにかくに寢むとおもへいねてのち眼覺むることはおもふべからず
 つかれはてて眠り沈めばいつしかにわが身につどふ夢のかずかず
 泥のごと倦みつかれたる身のねむりおほかた夢の餌食《ゑじき》とはなる
     同じく
 ひしと戸をさしかたむべき時の來て夜半をたのしくとりいだす酒
 いつ知らず醉のまはりてへらへらとわれにもあらず笑ふなりけり
     辛夷
 春はやく匂ひ出でたる白花の辛夷の枝の垂りのよろしも
 落葉木の木の間たわたわに枝たれてひともと咲ける白花辛夷
 しらじらと咲きしづもれる白花の辛夷に春の日はさし照れり
(70) うつらうつら歩み更かせる春の夜の小暗き濠におつる水音
 江戸川の水《み》かさまさりて春雨のけふも煙れり岸の櫻に
 朝戸出や垣根の椎のしたゆけば葉がくれもるるうぐひすのこゑ
     櫻
 顔の汗ぬぐひながらに九段坂櫻ながめてのぼるひとりぞ
 九段坂息づきのぼりながめたる櫻の花はいまさかりなり
     同じく
 日なかには人目ゆゆしみおぼろ夜のくだちに妻と來し櫻狩
 いそいそとよろこぶ妻に從ひて夜半の櫻を今日見つるかも
 おほかたはひとの歸りし花見茶屋夜深きに妻と來て酒酌めり
(71)     同じく
 花見むといでては來つれながらふるひかりのなかをゆけばさびしき
 うらうらと芝生かぎろひわがひとり坐りて居れば遠き櫻見ゆ
 天つ日の光さびしも芝生よりふらふらとわれの立ちあがる時
 遠見にも咲きこそなびけ醉ひどれてわが行くかぎり櫻ならぬなき
     同じく
 けふもまた風か立つらしひんがしに雲茜さし櫻さかりなり
 風ひたと落ちし軒端のさくら花夕かけて雨の降りいでにけり
     室内
 いづくより漏るるものかも部屋のうら風ありて春の眞晝なりけり
 ねがはくはわが居る部屋に水ひきて手のよごれなばつねに洗はむ
(72)     同じく
 窓の障子ほそ目に繰れば風ほこり渦まけるなかに櫻花見ゆ
 春風や窓しめて部屋のまんなかに机はおけど來てたまる塵
     酒
 一杯をおもひ切りかねし酒ゆゑにけふも朝より醉ひ暮したり
 それほどにうまきかと人のとひたらばなんと答へむこの酒の味
 なにものにか媚びてをらねばたへがたきさぴしさ故に飲めるならじか
 醉ひぬればさめゆく時のさびしさに追はれ追はれてのめるならじか
 しづしづと天日《てんじつ》のもとに生くことの出來ねばこそあれ醉ひどれて居る
     失題
 いと淺き芝原の火のぢりぢりとけふもこころに燃えやまぬかも
 
 さびしき樹木
 
(75) はしがき
 
 本集に輯めた歌は殆んど昨年の夏いつぱいと、秋の初めにかけての間の作にかかる。即ち私の著作歌集出版の順序からいふと『白梅集』(咋年九月發行)と『溪谷集』(本年五月發行)との間に位置するものである。昨年冬發行すべき筈であつたところ發行所の都合のため斯く遲延したのであつた。
 
 私は身心とも妙に季節の變移から受くる影響が強い。中で夏は好みに於て最も親しい季節で、そして最も身體の弱つてゐる時である。身體と共に心もまた萎えて、何にもあれ唯だ眼前の風物に縋り甘えてゐたい樣な氣になつてゐる。本集の歌は殆んど悉くそんな心の状態に於て詠まれたものである。この事は本集を挾んだ前述の二歌集と比較してみればよく解る。出(76)來のよしあしは別としてさうした種類のものであるだけ、愛着の念はこちらの方へ多く注がれてゐる樣に思ふ。
 私は歌を作る上に於て質量とも甚しくむらのある方で、出來始めれば急に幾首となく連つて出來、出來なくなれば一向に出來ない。本集の歌はそのいづれにも屬せず、ぼつぼつと二首か三首かづつ出來てゐた樣である。謂はば先づ窓の蔭に小さくなりながらこの頃最も力を帶びて來る天の光や樹木の光を仰いで息をひそめて作つてゐたといふ形であらう。
   大正七年六月末
                        東京府巣鴨町にて
                             牧水生
 
(77) 窓
 
     室に高窓ありて東に面す
 さやさやにその音《ね》ながれつ窓ごしに見上ぐれば青葉瀧とそよげり
 やはらけき欅のわか葉さざなみなし流れて窓にそよぎたるかも
     晴れし日の机の上
 ふつとして眼につけるかも黒塗の一閑張にうつれる青葉
 置かれたる酒杯《コプ》のさけにもこまごまと靜けき青葉うつりたるかな
 なみなみと滿ちたる酒をながめつつ時惜しみつつ心靜まらず
     曇り日の窓
 ゆさゆさと搖れ立つ重き葉のひぴきうす暗き窓のうちに聞ゆる
(78) ひとしきり風に吹かれてしなえたるあを葉の蔭のひるすぎの窓
 青臭き香さへ漏れ來て曇り日の窓邊のわか葉風立つらしも
     風と日光と靜けさ
 或時は雨かとも聞ゆ窓押せばかはることなき欅のひかり
     眞晝
 雀啼くなんといふそのたのしげのほしいままなる啼聲かいま
     大樹
 さやさやにさやぐ青葉の枝見つつ沖の白浪おもひゐにけり
 欅青葉さやげる見れば額《ぬか》あげてわれも大きく眸《まみ》張るべかり
     夏漸く深し
 日ごと日ごと黒みかたまる窓の前の欅のわか葉見つつ惜めり
(79)     とほり雨
 通り雨葉かげにそそぎ朝風のさやぎもつるる窓邊より見ゆ
 
(80) 夏の疲勞
 
     家の近くに伐り殘されし楢の林あり
 あたりみな鏡のごとき明るさに青葉はいまし搖れそめにけり
 青嵐立たむとならし楢の葉のきらりきらりと朝日に光る
     悲しきはわが疲れなり
 いつしんに事を爲さむとおもひ立つそのたまゆらは樂しきものを
     倦怠か疲勞か
 ともすれば外れがちなるこころの破目《はめ》けふもはづれて一日暮るる
 熟れすぎしいちご林檎のたぐひにや饐えし欠伸のまたしても出づ
     たそがれ
(81) 疲れはてて歸り來ば珍しきもの見るごとくつどふ妻子ら
     靜夜
 けふもまた誰も來ざりき斯くおもひこころ安らかに戸は閉すなり
     夏の東明のたのしさよ
 午前四時五時まだ過ぎずしののめの靄降れる間のわれのたのしさ
 けだるきを叱り叱りて起き出づるしののめの空に靄深く降れり
     をりをりの朝寢
 あはれはれ雨かも降ると起き出でて見ればけうとき青葉のひかり
     一人の舊友
 かかることいふべくもあらぬ男より斯くさびしげの手紙來にけり
     晝を恐る
(82) とかくして朝七時すぎ八時九時過ぎゆくなべに世はひかりなり
     あかつき
 竹※[者/火]草あをじろき葉の廣き葉のつゆをさけつつ小蟻あそべり
     或る家の二階
 がらす戸にふりかかる雨の三粒四粒かずわかずなりて搖るる大枝
     木下みち
 しつとりと垂れて動かぬ曇り日のわか葉の枝をくぐるさびしも
     夏の朝
 朝の街いそぎ通ればをちこちに青葉そよぎゐて酒ほしくなれり
     夏の夕
 親しさや日ごとつかれてわが通る貧民窟の夏のたそがれ
(83)     わびしき朝夕
 父の眼のつめたき光うつつなき兒にもわかるか見ればさびしげ
 いふことはすべて空しと誓ひつつさりとても身のただにさぴしく
     池袋村
 麥畑のくろにならべる四五本の桃のわか木に實のなれる見ゆ
 何といふ蟲のおほさぞ花しろき大根《だいこ》ばたけの土みてあれば
 麥ばたの垂り穂のうへにかげ見えて電車過ぎゆく池袋村
 黄楊の木のはなの眞白きうとうとと坂を登れば植木屋の籬《かき》に
 
(84) 妙義山
 
     その日妙義山に志したれど心變りて磯部に泊る
 氣まぐれの途中下車して温泉《いでゆ》町停車場|出《づ》れば葉ざくら暗し
 眼に立たぬ宿屋さがして温泉町《いでゆまち》さまよひ行けば河鹿なくなり 湯の町の葉ざくら暗きまがり坂曲り下れば溪川の見ゆ
     町端れの宿屋に入れば心の疲れ俄かに身に浸む恩ひす
 ひとり來てひそかに泊る湯の宿の縁に出づれば溪川の見ゆ
 溪川の見ゆるうれしみひろびろと部屋あけ放ち居ればうら寒し
     河鹿しきりになく
 碓氷川川原をひろみかたよりて流るる瀬々に河鹿なくなり
(85) はるかにも來つるおもひの旅心地宿屋の窓に杉の山見ゆ
     その翌朝
 川上の妙義巖山白雲のわくにこもりてこの朝見えず
     朝夙く出で立たむとおもひしが
 みなかみの峰にかかれるしら雲のいちじろくなりて晝たけにけり
     翌々日磯部を出で高原の路を歩きて妙義山に向ふ
 行き行けば青桑畑ひとすぢの道をかこみて盡きむともせず
 みちばたの桑の葉かげに腰おろし煙草すひ居れば霧|降《お》り來《きた》る
 その山は雲にかくれつ妙義道直きかぎりに桑畑曇る
     このあたりの村すべて蠶を飼へるにや
(86) 妙義道たまたま逢へるいちにんのをんな青桑を背負ひ急げり
 水無|月《つき》の朝霧寒み戸をおろしこもれる村を行けば蠶《こ》の匂
     道漸く山に懸れば霧は雨とかはれり
 道ややに登りとなれば桑畑のをりをり斷えて雜木の林
 はらはらと雜木林に雨來り音あらきなかにほととぎす啼く
     妙義町なる宿屋に雲と雨とを眺め暮すこと三日間
 杉山のわか葉の溪の雨を繁みはるかなるかもその瀧の音
 向つ山|杉生《すぎふ》のうへに居る雲のなびき動きて雨降りしきる
 ひとしきり明るくなりて降る雨の向つ杉山雲立らわたる
     僅かの晴間を見てその峰に登りぬ
 雲しろくよどみ動かぬあめつちの深きがなかに岩ふみて立つ
(87) 秩父嶺《ちちぶね》のうねりの端か低く見えてただよへる雲は四方《よも》をとざせり
 此處に浮ぶ峰のとがりにわれ居りて見はるかせば四方を雲とざしたり
 雲深くとざせる溪の奥所《おくが》よりいよいよ冴えて水の聞ゆる
     山を下らむといふ日に
 溪々にひそみ靜まり白雲のこの朝立たず峰晴れにけり
 
(88) 溪をおもふ
 
     身の故にや時の故にや此頃おほく溪をおもふ
 疲れはてしこころの底に時ありてさやかにうかぶ溪のおもかげ
 何處《いづく》とはさだかにわかねわがこころさびしき時に溪川の見ゆ
     溪を思ふは畢竟孤獨をおもふ心か
 獨り居て見まほしきものは山かげの巖が根ゆける細溪の水
 巖が根につくばひ居りて聽かまほしおのづからなるその溪の音
     溪をおもへはわがこころ常にうるほふ
 五百重山峰にしら雲立たぬ日もひびきすずしきその溪をおもふ
 わが居ればわが居るところ眞がなしき音に出でつつ見ゆる溪川
(89)     いろいろと考ふるに心に浮ぶは故郷の溪間なり
 幼き日ふるさとの山に睦みたる細溪川の忘られぬかも
     時としてまた遠き山をおもふ
 わがこころいまは疲れぬ時じくの山の雫に行きて濡れましを
 高山のそのいただきに額《ぬか》あげて風の寒きに觸れましものを
 たのしきはわれを忘れて曉の峰はなれゆく雲あふぐ時
 夜とならばまた來てやどれしののめの峰はなれゆく夏の白雲
 天《あま》そそる峰にたなびきうち凍り峽《かひ》にたたなはる夏のしら雲          古句に山高而月小とかありけむ
 さびしさや峰高ければ小さしとひとのいひけむその月を見む
 
(90) さびしき樹木
 
     或夜風冴えて月清し
 うろこ雲空にながれてしらじらと輝けるかげの夏の夜の月
 ひさしくも見ざりしごときおもひしてけふあふぐ月の澄めるいろかも
 見てあれば見てあるほどにうろこ雲ながれ速みて冴ゆる月かげ
 軒端なる欅の並木さやさやに細葉そよぎて月更けにけり
 欅の木の葉を茂みかも月の夜に宿れる風の聞きのよろしき
 或時はひとのものいふ聲かとも月の夜ふけの葉ずれ聞え來
     或る朝
 井戸端にわが浴び浴ぶる水の音水のたえまに蜩《かなかな》きこゆ
(91) 醉ひざめに限るべしやは起き出でて朝井戸に飲むこの水の味
 起き出でて裸足に立てる朝庭の冷たき土に媚ぶるこころか
 ひんがしの白みそむれば物かげに照りてわびしきみじか夜の月
     また或る朝
 疲れつつ起き出で來ればみじか夜の月殘りゐて黍の葉の影
 夙く起きて靜かに居れば庭さきの黍の葉ずゑの露もまだ散らず
 朝起きの眞澄かなしきわがこころみださじものと疲れゐにけり
 あやふきは黍の葉ずゑのつゆよりも朝けしばしのわが靜心
 疲れたるひとのみぞ知るしののめの露の干ぬまのこのたのしさは
     朝の漸う深みゆくに
 此處はなほうす闇ながら朝空を輝きてゆく白鷺一羽
(92) あをあをと朝日さしゐて森の奥聲のかぎりの蜩《かなかな》きこゆ
     庭の畑
 庭の隅わがつくりたる黍畑にらきき露見え朝々晴るる
     秋近し
 いつとなく黒みて見ゆる楢の葉に今朝ふく風のあはれなるかも
 暫くは世のことぐさを思はずてひとりぞあらむこの朝風に
     窓の眞昼
 ふつとして額あぐればわが窓に燃えてのぞめる花柘榴花
 見上ぐれば窓いつぱいの欅の木椎の木の蔭の花柘榴花
     柘榴の花
 欅の木椎の木の葉のしづもりの蔭に燃えたる花ざくろ花
(93) 見てあれば見てあるほどに柘榴花くれなゐ燃えて枝にそよがず
 觸れがたきものにこそあれ水無月の曇りのかげに咲ける柘榴花
 汗もいま湧きか止まらむ柘榴花咲きみちて枝に燃ゆるならずや
 たましひよ萎えしといふな眞夏日のひかりのなかに柘榴は咲けり
 或時はひつそりとして葉がくれに悲しめるごとき花ざくろ花
 日のひかりかげり來れば枝々の柘榴の花は搖れてそよげり
     窓より大きなる銀杏の木見ゆ
 朝霧のやや晴れゆけば夏の日の青み輝き銀杏は立てり
 濃みどりの銀杏の葉かげこまごまと朝日やどりて風そよぐ見ゆ
     欅の枝と雀
 すずめ子の一羽とまりて啼く見ればあをき細枝に朝日さゆらぐ
(94)     午前
 窓漏れてあざやけきかな七月の青きひかりはわれの机に
     眞晝
 欅の葉ほのかにゆれて窓青みチヤルメラの笛とほく聞ゆる
 とほき木に蝉の鳴き入りゆくりなくなり出でし時計音のわびしも
     また或る午前に
 枝の葉にやどり輝く夏の日のひかりかなしきこの朝《あした》かな
 をりをりにひとみ上ぐれば窓を掩ふ欅の枝にまだ朝のひかり
     午睡
 輝きて睡眠《ねむり》は來《きた》る午ちかみ窓邊の木の葉照り青みつつ
(95) 蚊帳のなかに机持ち入れもの書くと夜を起きて居れば蚊の聲さびし
 蚊帳に見ゆる夜ふけの風の冷たきにこころ覺め居れば蚊のなく聞ゆ
 をりをりに吹き入る風の蚊帳をあふりこころさびしも秋のごときに
 いつしかも凪ぎぬる風か立ち出でて縁より見れば黒き夜の木木
 月夜にはあらねうすらに明りゐて秋めける空にならぶ木の數
 いまをかも露のおくらむ夜あかりに長く垂れたる黍の葉の見ゆ
 ほどちかく行ける夜汽車の音すらもなつかしくしてもの書きいそぐ
 たまたまに夜半を起きゐてもの書けば夜のめづらしく灯のめづらしく
 曉《あけ》ちかきものの冷《ひえ》かもしみじみと庭のあたりに蟲なきしきる
 眠らじとつとめつとめつ現なく蟲のこゑ聞けば夜は深からし
 額《ぬか》を手にささへてをればそのままに眠らむとする夜仕事あはれ
(96) ふとしては蟲かともまがふ夜仕事に疲れて居ればわれの耳鳴
     七月なかば
 いま蒔かむものはと問ひて買ひて來し二十日大根の種をこそ蒔け
     二十日大根
 二尺づつ角《かく》に鋤きたる土のうへにはらはら蒔けるものの種かも
 蒔きてまだ三日《みか》もたたぬに黒土にはつはつ萌えぬ二十日大根は
 
(97) 北國行
 
     板谷峠
 おしなべて汽車のうちさへしめやかになりゆくものか溪見えそめぬ
 たけ長く引きてしらじら降る雨の峽の片山に汽車はかかれり
 いづかたへ流るる瀬々かしらじらと見えゐてとほき峽の細溪
     院内峠
 峽ごしに汽車よりあふぐ高嶺には雲ひかりゐて窓に雨|鋭《と》し
 汽車のうちも光り明るむここちして四方の雨しるき秋草の原
 筋あらく汽車に降り入る山の両手にもとるごと光りてぞ見ゆ
     最上川
(98) 最上川岸の山群《やまむら》むきむきに雲籠《くもごも》るなかを濁り流るる
 中高にうねり流るる出水河《でみづがは》最上の空は秋ぐもりせり
     初めて酒田港を見る
 ささ丹の鯵つり舟か烏賊つりかわづか群れゐぬ羽後の酒田は
     同港滯在
 ゆきずりの旅人同士最上川に手洗ひつつ語る妓買話《よねかひばなし》
 はるばると羽後の酒田に妓買に來しとにはあらね來てみれば面白
     汽船にて酒田港を出づ
 大《おほ》最上海にひらくるところには風もいみじく吹きどよみ居り
 砂山の蔭に早やなりぬ何やらむ別れの惜しき酒田の港
(99) きりぎしの眞下に立でる岩むらに浪たちさわぎ沖邊晴れたり
 海ぎしの低山に雲のかかりゐて邊浪朝浪あざやけきかも
     海上鳥海山遠望
 あまたたぴ見むとはすれど陸《くが》のかぎり朝雲這ひて鳥海山《とりみやま》無し
 乳のごとき濃き雲とけて朝風の立つらしきさまや遠き鳥海山《とりみやま》に
     島見ゆ、飛島とかや
 ふと見れば雲のかげなるあはあはしき光のなかに飛島の見ゆ
 晴れたれど暗みをやどす夏の海の沖津邊のかたに浮ける飛島
     飛島の影消えしころ粟島見ゆ
 いまは早やまさしくなりし粟島の岸に立つ浪しらじらと見ゆ
 飛島と粟島といふ荒海に飛びてうかべる粟のごとき島
(100) 飛の魚のとぴはぬる海の靜かにて船にこもれば船もまた光る
 ゆきゆくに沖に浪なく船に音なしさぴしければぞ陸《くが》を見て居る
 なかば覺めなかばねむりて船に見るここの海ぎしの岩の渦浪
 浪しろき岸邊岸邊にそひてゆくひと日の船の乘合の顔
 兩眼を見ひらきながらねむり居るごときおもひを船の上にしつ
 ひとつらに低く見えをる陸《くが》のうへのこの國の山は誰《たれ》も名を知らず
 國人もその名を知らぬ低山の蜂こそつづけ夏雲のかげに
 斯くしつつ幾日もゆけと浪のなかのこれの汽船をいとしく思ふ
 沖津邊の浪のかたちに傾きてやがては直る船の上の眞晝
 ねころびてせうこともなき船の上のおもひにのぼるさまざまの人
(101) 身は船にありてふことむ忘れつつもの思ひをればさびしうなりぬ
 さまざまのひとを思ひ倦み起き直り船より見たる沖津邊の浪
 藍の泡のながれただよふ岩の間《あひ》の汐のとろみに魚釣らましを
 ざざと引くしら浪の岩に居る鳥の三つ二つ見えて浪さらに上《あが》る
     船中獨酌
 たへかねてとり出だしたる酒の壜いまだ飲まねばくちもとに滿てり
 近く見え手にもとるべき島山か酒飲みて居れば四方《よも》は明らか
 ふらふらと醉かも身には廻るらし甲板《でき》の小蔭に酒飲みをれば
     斷崖盡きて遠き砂丘起る、地圖を見れば越後の如し
 崖盡きて光り起れる砂濱のひくくつづけり越後の國は
 越後てふ聞のひさしくなつかしき國かも松の濱見えそめぬ
(102)     日没近く佐渡島見ゆ
 羽後の海朝けぶりゐき越え來れば越後の海は夕けぶりつつ
 この海にへなりて浮ける三つの島をひと日の船にとびとびに見つ
 
(103) 秋居雜詠
 
     木槿の花
 見しといはば見しにも似たれこの秋の木槿の花の影のとほきよ
 際《きは》白く奥むらさきのよき花の木槿おもへば秋の日かなし
 淀の深みにうかべる魚のごとくにて或る日行き居れば木槿さきゐたり
 この年の秋もなかばを過ぎぬるとおもふこころに木槿浮び見ゆ
     原
 疲れてはひそかに來り草を見るこの荒原の秋の幾日《いおくにち》
 櫟の木まばらにならび秋くさの荒れしこの原ひとは知らなく
(104) 新しき世界の見ゆといふことの言葉ばかりもかなしきものを
 あたらしきわれの踏むべき新しきかなしき地《つち》のまざまざと見ゆ
 ここにして身をし淨めよあたらしきわが日のなかにきよらかに行かむ
     罹病禁酒
 底なしの甕《もたひ》に水をつぐごとくすべなきものか酒やめて居れば
 咳吐かむらからも腹にいまはなし白けからびて罅《ひび》入りてあらむ
 膳にならぶ飯も小鯛も松たけも可笑しきものか酒なしにして
 ほほとのみ笑ひ向はむ酒なしの膳のうへにぞ涙こぼるる
     古川滴泉君より林檎を送られしに答ふる歌
 みちのくの小學校の校長のその妹と送りこし林檎
 山の村の學校なれば昼間とて靜けかるらむ何してか友よ
(105) 年わかく笑みこぼしつつ兒等を見る校長ぶりを見に行かないまに
 君が頬《ほ》にをりをりうかぶうなゐなす丹の頬のふりををりをり思ふ
     久しぷりに和田山蘭君に寄する歌
 ちからなく喫みてありや腹黒くかまへて居るかいづれかはいへ
 友としてちからを持たぬ時々のわれは見ゆらめどうとんずなゆめ
 罵ると汝《な》をする時しみづからのらから危しとこころは冷ゆる
 おほよそにおもひ棄つるなひとすぢに思ひ入りたることは尊し
 酒のみのわれとおれとが酒なしに向ひあふことも或るとき可けむ(【彼も亦病めりとか】)
     福地房志君より鮎を送られしに答ふる歌
 秋山のはざまの溪の瀧つ瀬の出水《でみづ》する待ちて取りし鮎とふ
 たぎり落つる濁りに投げし網のうちに落葉朽葉とをどりけむ鮎
(106) 岩山の黄葉ちり積る溪のおくにいまだ居にけむこの錆鮎は
 落鮎の姿《なり》は痩せたれ岩出でて黄葉《もみ》でし溪をおもひつつ食ふ おなじくば汝《な》が古家の大圍爐裡かこみて燒きてともに食はましを
     小河原素山君より松茸を送られしに答ふる歌
 ところどころ赤く禿げたる松山の端山がなかの友が村の秋
 松茸のかをりを嗅げば村住の友がこころに觸るるおもひす
 秋の日はまさしくさして籠りゐの縁の板さへそりてぞあらむ
 雀雀すずめのなかのただ一羽庭に降りきと君が眼は動け
 
 溪谷集
 
(109) 秋の曇冬の晴
 
     秋ぐもり
 起き出でて見る軒さきの枝葉みな垂れて輝かずけふも曇るなり
 おほかたは曇りつづきし長月のそのすゑつかたの今日もまた曇る
 さりげなく起居《たちゐ》はすなれ秋曇る家に籠れば悔ゆること多し
 秋咲きのくれなゐダリヤやうやうに咲きしと見ればけふも曇れり
 秋立ちてはや幾日《いくか》ならむなにしかもかの西の風は吹き立たざらむ
 長火鉢の抽斗《ひきだし》あけてかき探すしめりがらなるわゞ粉藥
 軒さきの木立に見ゆる朝霧の動ける見えてけふは晴るるか
(110) 軒晴れて風の冴ゆれば貧しさも忘れてうごくわがうからどち
 夕雲の細くたなびき地にひきて輝く見れば秋はさびしき
 裏光るひろ葉ほそき葉窓に見えて秋風聞ゆ西晴れゆけば
     睡蓮
 やとばかり驚き見たる一鉢の睡蓮の花は友の呉れしとふ
     失題
 溪川の澄めるこころはかたよりてひそかにものを避くとこそすれ
 おだやかに妻にものいふやすらけきこころをわれの持たぬものかも
 下をのみ見て居るごときおもひしてわが眼うとましきこの日頃かな
 いつしかも斯くはなりけめこころ刺す苦しきこともひとに告げなくに
 うつとりと疲れてものを見てゐしが狂ほしく吾子《あこ》の戀しくなれり
(111) 吾子よ吾子よとこころに呼びて瞼には涙たまれりさびしきものを
     貧しき庭
 たけ高くわれ越ゆべしとおもひゐし鷄頭は尺に足らで花咲けり
 きのふけふ野分吹けども枝葉のみ茂り暗みてダリヤは咲かず
 枝葉のみ黒み茂りて秋づきしわがダリヤ畑に蕾は見ゆる
 蜘蛛の巣のしじにからみて朝な朝な露ばかりなりわれのダリヤは
 小鉢より庭にうつせし糸萩の伸びいそぎつつ今は花咲けり
 庭せまく小草茂りつとりわけて露しとどなる糸萩の花
 このしばしこころ休まするてだてとて草に水やることおぼえたり
 しののめの霧晴れぬ間に起きいでて庭に花見ること覺えたり
 酒のみの主人《あるじ》とおもへ庭の隅に植ゑられし草は胡椒青蓼
(112) わが庭の紫苑ダリヤの花かげに夕晴れぬればうごく風みゆ
 小さければ拔き棄つべしと恩ひゐし鷄頭はいよよ色冴えて咲く
     雨と風と
 秋草は晴れてこそ見め長月のこの長雨に腐れつつ咲きぬ
 雨のいろ土に浸み入り黒みたる園のながさめにダリヤ叢咲《むらさ》けり
 なごりなく吹き荒らされし暴風雨後《あいけあと》の庭は土さへ新しく見ゆ
 手をつけむ術なきごとくすておきし暴風雨後の園に花はみな咲けり
 しけあとの落葉朽葉の下づみを伸び出でて咲けりダリヤの花は
 大しけに洗はれて出でし花畠の荒土に垂れてダリヤは咲けり
 ながながと折れたるままに先青みわづか擡げてコスモス咲けり
(113) 刈りあとの水田ひかりて影うつるわが朝戸出の靜けくもあるか
 うごきなきすがたに見えて遠峯に雲こそかかれ秋のしののめ
 黄葉せる櫟の木かも刈りあとの水田の畔《くろ》にとほく光るは
 この朝のわきて寒けく遠空にましろに晴れて富士見えにけり
 わが頬の凍るおぼえて朝風に吹かれ急げば冬畑晴るる
 行きずりの眼にこそうつれあかときの櫟のもみぢすがれ咲く菊
     晝
 この年の秋を雨おほみ土けぶるけふの日和に畑にぎはへり
 一人のおほき男のあらはれてあゆみいでたり青葱畑《あをねぎばた》を
 秋ならでいつか見るべき山のうへの彼の眞白雲かがやけるはや
(114) やはらかく照るは櫻か畑の畔にほそほそつづく雜木の黄葉
 つち掘れる金屬《かなもの》の音のをちこちに冴えつつ眞晝せきれい飛べり
 はつはつに秋を霞める武藏野の練馬の里の汽革よりぞ見ゆ
     草花
 中にありて黄菊は霜に強からしさかり過ぐとふ菊のはたけに
 褪せ褪せていまだは朽ちぬむらさきの薊のはなに薄霜の見ゆ
     桐畑
 めぐらせる籬の楓もみぢして桐のはたけはさびにけるかも
 落つる葉のすべて乾びてひろければうづたかきかも桐のはたけに
 晴れし日は冴えてたふとく曇りては寂びてま白し冬の桐の木
     冬晴
(115) 竹藪の蔭あらはなる赤土の乾きまひつつ續く冬晴
 時として曇れば藪の片かげの竹に來る鳥似つきてぞ見ゆ
 この冬は時雨も降らで庭さきにつのぐめる木木塵うきて見ゆ
 こもりゐの家のめぐりのほこりだち晴れつづく頃に咲ける梅かも
 けふもまた曇は晴れて庭の木に來啼く雀のこゑのさびしも
 淺藪の竹の垂枝《たりえ》の葉ごと葉ごと赤らみ見えて晴續くかも
 工場前あさ黄のいろの服つけし男出でをり落葉林に
 坂みちの落葉古りつつ片岡のこの櫟原春めくものか
 うらうらと伸び靜まれる馬のつらかすかに笑ふ冬のひなたに
 
(116) 秩父の秋
 
     十一月のなかば、打續きたる好晴に乘じ秩父なる山より溪を歴巡る、その時の歌。
 朝の山日を負ひたれば溪音の冴えこもりつつ霧たちわたる
 朝雲の散りのかすけさ秋冴えし遠嶺《とほね》に寄ると見れば消えつつ
 筏師の焚きすてていにしうす霜の川原のけぶりむらさきに立つ
 はだら黄の木の間に見えて音もなく流るる此處の淀深からし
 朝晴のとほきに見ゆる草山のまろきいただき黄葉せる見ゆ
 瀬のひびきにまじりて聞ゆ向つ岸杉の茂みの樫鳥の聲
 杉山の茂みのなかゆまひ出でて溪越す鳥の光る秋の日
 啼く聲の鋭どかれども鈍鳥《のろどり》の樫鳥とべり秋の日向《ひなた》に
(117) 眞砂《まさご》なす石も動きて溪川の秋の淺き瀬ながれたるかな
 石越ゆる水のまろみを眺めつつこころかなしも秋の溪間に
 朝曇やがてほのぼの明けゆくにつらなりわたる山黄葉かな
 たたなはるだんだら山の雜木山黄葉しはてていまは散らむとす
 八重山の折りのひだひだにこもらへる雜木のもみぢつばらかに燃ゆ
 ひとよさの泊りの背戸邊おもはぬに杉の花咲けり枝もとををに
 水痩せし秋の川原の片すみにしづかにめぐる水車かな
 瀬のなかにあらはれし岩よとびとびに秋のひなたに白みたるかな
 瀬に乘れる長き筏のまがりつつ流れゆく見れば夕かぎろへり
 ほそほそとうねりながるる眞白木の筏かなしも秋晴れし溪に
 一人乘り二人乘りたるとりどりに筏は過ぎぬ秋光る瀬を
(118) うらら日のひなたの岩に片よりてたたへし淵に魚あそぶ見ゆ
 片よりて青淵なせる岩溪のしづかにはあれどくるめき流る
 胡桃の樹枝さしかはし溪あひの早瀬のうへに薄黄葉せり
 白き雲かかりては居れ四方の峰の際あざやかに秋晴れにけり
 自轉車の走せぬけ行ける溪ぞひの秋の往還晴れわたりたり
 ほそほそと軒端を越えて菊の花の白きが咲けり瀬のそばの家に
 岩はしる瀧津瀬のうへに古榎欅植ゑ並め住み古りし見ゆ
 山の鳥の無く音にもふと似て聞ゆをりをり起る機織の音
 若杉の白木伐り乾せる片山の見のはるけしも秋のひなたに
 圓山の芒の穗なみ銀のいろにひかり靡きてならぶ幾山
 わが妻が好める花の濃むらさき龍膽を冬の野に摘めるかな
(119) 妻が好む花のとりどりいづれみなさびしからぬなきりんだうの花
 からからと枯葉鳴りつつ低き木のわれをめぐれる野の日向かな
 うららけき冬野の宮の石段の段ごとに咲くりんだうの花
 初冬の野のうららけき來てみればもみぢせぬ草も木もなかりけり
 冬の野の枯葉もみぢ葉ながめつつかきかがみ居ればさぴしくぞなる
 枯草のいろにまがへる蝗ゐてをりをりとべり初冬の野邊に
 斯くばかり紅葉づるものと知らざりし木苺の葉を摘めば枝さへ
 めづらしき木草たづぬる植木屋の爺とあひにけり廣き冬野に
 楢櫟わかき木どちの黄葉して押しひろごれりこのいただきに
 草括れて岩あらはれし冬の野の高きに居れば鵯鳥の啼く
 ひこばえの楢の小枝に實のなりてつぶつぶと見ゆもみぢ葉のかげに
(120) 山窪に醉ふばかりなる日の照りてひとりくるしき冬日向《ふゆひなた》かな
 たそがれのいろの澄めるやとほ空のひかりにならぶ冬草の山
 をちこちの峰のとがりにうらさむく夕日にほひて秋霞せり
 下拂ふ杉の木山の男たち聲のあらさよ山雀も啼き
 手洗へば飛沫《しぶき》は寒し秋の山の荒岩のかげを落ち下る水に
 夕餉《ゆふげ》にと鹹鮭《からざけ》燒ける杉の葉のにほひ寒けき溪ぞひの宿
 厨にて焚ける杉の葉板戸漏り煙りきたりて涙をさそふ
 飲む湯にも焚火のけむり匂ひたる山家の冬の夕餉なりけり
 晴れよとし祈れど西の山々に立つ雲みれば雨もよしとおもふ
 いかめしき白塗の鐵の橋ゆけば秋の溪水せせらぐ聞ゆ
 川原には吹くとしもなき風ありて秋のうらら日寒けくもこそ
(121) 荒溪の出水のあとの瀬の底の岩青白み秋晴れにけり
 古杉と苗植ゑなめしわか山とならびて晴れぬ秋のよき日に
 生ひきほふ杉生につづく草山の峰の雜木の黄葉せる見ゆ
 かぎろひて見えもこそすれ眞ひなたに傾き立てる若杉の山
 草山のまろき峰こそつづきたれ燃ゆるともなき薄黄葉して
 秋溪の水の痩せしをかなしみて筏あげ乾せる筏師の群
 さざれ石の淺瀬の水のさやさやに鳴りさやぎつつ筏はくだる
 砂擦れる筏のひびきはつはつにきこえほがらけき霜日和かな
 なよやかに芒のわか芽萌ゆるごと杉こそ生ふれ秋霞む山に
 ちろちろと岩つたふ水に這ひあそぶ赤き蟹ゐて杉の山靜か
 きりぎしの岩のさけ目をつたひつつ落ち落つる水は氷りたるごと
(122) 片山を伐りそぎし杉の高山は秋日の晴にくきやかに見ゆ
 霜とけし朝の霞のかすかにも溪の杉生《すぎふ》にうちなびきたる
 この澤のきはまり合ひてつづきたる遠山まろみ秋霞せり
 長雨のあとの秋日を忙しみひとの來《こ》ぬちふ溪の奥の温泉《いでゆ》
 秋の溪間|温泉《いでゆ》とはいへど斷崖《きりぎし》に滴る引きてやがてわかす湯
 かぐはしき町のをとめの來てをりてかなしきろかも溪の温泉は
 溪おくの温泉の宿の間ごと間ごとひとも居らぬに秋の日させり
 杉落葉しげき溪間の湯のやどの屋根にすてられて白き茶の花
 釣りランプ靜かにともり降り出でし山の時雨にうちゆらぐみゆ
 晴るる時杉生は驕り時雨るればむら木の黄葉いろめきて見ゆ
 よべの時雨いまはあがると杉むらの山はら這へる朝の霧雲
(123) 夜の雨のあとの淵瀬に魚寄ると霧《きら》ふ溪間に釣れる兒等見ゆ
 かの筏父子なるらし老若のうたひてくだる長きその瀬を
 だみごゑの錆びはてたれど瀬に乘りてうたふ筏師きけばかなしも
 夜の雨に岩みな濡れし朝溪の瀬々を筏師うたひて下る
 おどろおどろとどろく音のなかにゐて眞むかひに見る岩かげの瀧
 鶺鴒《いしたたき》來てもこそ居れ秋の日の木洩日うつる淵のはたの岩に
 淵尻のながれ細みて水際の黒き岩見えず落葉散りしけり
 川くまの眞砂に生ふる淺芝の冬枯れはててうつくしく見ゆ
 馬車の笛とほく聞えてひそまれる山峽のみちの薄黄葉かな
 山みちの落葉ふみつつおのづからおもふかなしき妻子等がことを
 目あぐれば黄葉の山の三重つづき四重かさなりて路は晴れたり
(124) 黄葉して凪ぎひそみたる低山の雜木が原をあはれとも見つ
 落葉積む路のひなたの長ければひとりかなしも身のことを思ふ
 みちばたのひなたの落葉かき敷きて憩ふとはすれど心おちゐぬ
 麓なる瀬の音かよふ山そばのけはしき行けば紅葉散りつつ
 夏ならば鮎もすむてふ岩溪の黄葉のかげの瀬々の寒けさ
 山鳩のするどく飛びて樫鳥ののろのろまひて秋の溪晴る
 早き瀬の此處に曲りて幅ひろき秋の川原に子等あそぶ見ゆ
 ひらひらと音の聞えてうち上り秋のひなたに光る早き瀬
 木がくれにやがてなりゆく細溪のみなかみの山は秋霞せり
 この溪よゆるく曲るととく折ると水速けれや紅葉みてゆくに
 淺き瀬の底の石つぶつぱらかに秋日寒けれ此處の川原に
 
(125) 上總の海
 
     十一月末、上總國大原海岸に遊ぶ
     途すがら
 葛飾の冬田の原の榛の木のくきやかに晴れて日の寒きかも
 榛の枝みだれなびかひ葛飾はこがらしすなり眞日照るなかに
 停車場の裏の冬田に風わたり田尻にひくき晝の月見ゆ
 なだらかに海へくだれる片岡の麥生あをみて木枯の吹く
 片空に朱をかき流しこがらしの上總だひらは夕燒けにけり
 上總野の冬田行きつつおほけなく富士のとほ嶺を見出でつるかも
 かがやきて月照る海ぞ見えきたる冬の夜冴えし汽車の小窓に
(126) 松原の蔭の小川にしらじらと照りたる冬の月夜なるかも
     きりぎし
 枯草の温《ぬく》とげなるに寢つつ見ればこの崖の窪に野菊むら咲けり
 冬草の枯れしひと葉もかがやけるよき日の崖に浪の音きこゆ
 どと上《あが》る音ぞ聞ゆる冬草のこの崖のもとに浪さわぐらし
 冬の日のひなたに居ればそこ此處と痒くなる身の古りにけらずや
     浪の歌
 眼ざめゐてひさしく聞けば浪の音にやがてまじらふ朝の人の聲
 よべ荒れし月夜の風のあとなれや岸邊濁りて朝燒けにけり
 朝日子のかげのあはきに寄る浪も高くは立たず濱眞白なり
 さしのぼる朝日のひかり深みつつ早やけぶりたつをちこちの浪
(127) 眞ひなたのきりぎしの岩に寄る浪のいまはなごみて煙りたるかな
 止む間なく光りうねれる浪のむらの晝近づきてなやましく見ゆ
 打ちあがる浪のしぶきにさとばかりうつらふ虹の寒けくもあるか
 藍流すかの沖津邊とながれあひて冬の日の雲ひくくこそ居れ
 わがこころ玉と澄みつつ見てぞ居るかの岩かげのひねもすの浪を
 眞白浪つぎつぎに立ちてひねもすを斷えねば岩の淋しくぞ見ゆ
 霜月の末の寒けど潮騷《しほざゐ》のひかりなびきてうららけきかも
 紺青の濃しといふとも何しかも彼の沖のいろを盡さうべしや
 見てあればこころぞ冷ゆる冬の日の沖の青きは限り知られず
 大浪の間の傾斜《なぞへ》にゆらゆらと搖れ居る浪は光りたるかな
 貝取るとわめけるらしも眞冬日の白浪がくれ海女《あま》が聲きこゆ
(128) この海に鳥はも啼かずたまたまに飛べるを見れば黒き鵜の鳥
 はすかひに日のなりゆけばそぎ立てる斷崖《きりぎし》の面は愁ふるがごと
 きりぎしに頭《かしら》眞青《まさを》き鳥居りて待てども啼かず浪にくぐれり
     旅館
 よりそひて坐るガラス戸をりをりに風に鳴れども沖邊晴れたり
     釣魚
 夕日さす崖の枯草にかき坐り釣する見ればわれも樂しき
 崎のかげの此處はかげりて向つ岸夕日かがやき釣れる兒等見ゆ
 何魚かひとつは釣れといのりつつ見てしその竿つりあげにけり
 釣竿を引きたわめつつ釣りあげしこれは荒布か魚ならなくに
 釣りあげて手には持てれどあはれあはれ魚にあらねば身うごきもせぬ
 
 
 
(130) ひとしきりどよむか浪も月昇りわが立ちつくすきりぎしの下に
     同じ處にて老漁師より鮪つきの話を聞く。
 漕ぎ出でて十里になれば見えずなるとふ大東崎《だいとうざき》の端の眞白さ
 潮澄みて三十尋の底も見ゆとふ沖邊に出でて鮪《まぐろ》つく話
 餌まけば群りきたる鋭き魚のかぢき鮪を突きめぐるとふ
 餌まけば深きより出でて尾鰭うち鮪は群れてうちどよむとふ
 舳にて突くまだるしみ跳び入りて素手に鮪をつかみたしといふか
 鯔《ぼら》鱸のたぐひにあらで鋭き魚の鮪走るを見せたしといふか
 大魚の青黒鮪むらがりてどよむこの沖瀬の速しとふ
 鮪突きて船には滿たせ風を強み三日四日沖に居る日ありといふ
 
(131) 伊豆の春
 
     一月元旦加藤東籬君と共に駿河沼津なる狩野川の川口に宿る
 とほく來て寢ぬるこの宿靜けくて夜のふけゆけば川の音《と》きこゆ
 向つ岸水際につづく篁のなびき靜もる冬のひなたに
 一夜《ひとよさ》に山に雪つみわが宿の庭のたかむら朝雨の降る
     翌二日汽船にて伊豆土肥へ越ゆ。
 わが船に驚き立てる鴨の群のまひさだまらずあら浪のうへに
 片空に崩《なだ》れかかれる雪雲のなだれのはしは降りてかあるらし
 なだらかにのびすましたる富士が嶺の裾野にも今朝しら雪の見ゆ
 大浪に傾き走るわが船の窓に見えつつ富士は晴れたり
(132)     二月七日今度はわれ一人にて土肥へ赴き月末まで滯在す、その時の歌のうちより。
     早春雜詠
 よりあひて眞すぐに立てる青竹の藪のふかみに鶯の啼く
 菅山《すげやま》の海ちかみかもこの朝けほのかに降りて雪滑えにけり
 軒ごとに梅の花咲き乾びたる枯田の里にけふは雪降る
 ただ一木《ひとき》青みて見ゆる梅のはなさびしくもあるか梅の林に
 東風吹くや霞みなびくと見るまでにこの沖津邊は潮ぐもりせり
 入り殘る月ぞ寒けき沖津邊は東風立つらしき潮曇して
 柴山の柴のかげなるしら梅のわか木の花は雪のごと咲けり
 曙のをぐらき藪の奥深みほのかなるかも白梅の花
 海かけて霞たなびくむら山の奧處《おくど》に寒き遠富士の山
(133) 薪《まき》に樵《こ》るはやしの雜木つのぐみて茜さす見ゆ山のひなたに
 雨雲のたたなはりつつ山あひの春のあけぼの溪川の鳴る
 枯草の小野のなぞへの春の日にかぎろひ咲ける白梅のはな
 大き澤せまりあへる坂の日あたりにひとつら赤き春の杉むら
 しらじらと枝に咲きみち侮のはなかがよふもとに立てば明るし
 ひそまりて久しく見ればとほ山のひなたの冬木風さわぐらし
 かれ草のかぎろふなかにひそまりてねむるとはすれものの思はる
 かなしきはさす日のひかり枯草のかげに坐りてうつつなく居るに
 柴山の椿がもとにゆきあへる丹の頬のをとめはぢらへるかも
 崎山のはたけの畔のあきぢはら沖ひろく見えて浪寄るきこゆ
 かすみあふ四方のひかりの春の日のはるけき崎に浪の寄る見ゆ
(134) 角石のつぶらの石のとりどりにかぎろふ濱に待てる舶かも
 石あらき入江の濱にひとりゐてあそべるけふの霞みたるかな
 枇杷山のはだらに續くしば山の春淺みかも日の寒くして
 ふるき葉の楢の梢のちりやらでさやげる林|繍眼兒《めじろ》居て啼く
 わだつみのけぶれる蔭のもろもろの崎も煙りてわが見るさびし
 このわたり端山低山おしなべて梅しろく咲けり寒き春日に
 いぶせみて見ればあたりの低山に白梅のはな咲きしづもれり
 うちわたす冬田のくろの低山のそのしば山のけふも晴れつつ
 とほ山のおほにまろめるいただきは枯菅ならし今朝雪の見ゆ
 なだれつつ空をおほへる山ごしの雪もよひ雲を出でてあふげり
 かぎろひの上《のぼ》れる原のかたすみに赤錆びたてり冬のたかむら
(135) 篁も杉の木立も冬さびてしづもれる里の温泉《いでゆ》には来し
 冬川の石のあひだのながれ水流れ清みて芹生ひにけり
 柴生ふる川原に出でてけふの日を温《ぬくと》み居れば瀬の高鳴れり
 ひと日見し山のかすみのつぎつぎて霞みわたれり海のむかひに
 ここに見る海のむかひの駿河路の低山脈にかすみたなびく
 春立つと沖邊かすめる湯の町にひとり籠りてさびしくも居る
 梅の花はつはつ咲ける海ぎしの温泉にきたり幾日《いくひ》經にけむ
 わだなかに入江の端ののびゆきてこころかなしもかき煙らへり
 とびとびに岩かあるらし春の日のとろめる入江浪動く見ゆ
 ほのぼのと煙草の醉の身にはしみ東風《こち》寒きかも朝のなぎさに
 皮かたき小鯵小ざかな月ちかく喰ひつづけたれば今は菜を思ふ
(136)     浪と眞晝と
 うねり寄るこの日の浪は日に透きて六つら五つらかさなりて寄る
 青渦やみなそこの石をかき鳴らし來寄れる浪は日に透きにけり
 岩のかげともしき砂をかき敷きてまのあたり見る浪のさやけさ
 眼のまへに浪はさわげど照りこもる日に蒸されつつよそごとを思ふ
 岩のあひをうねり越えては瀧となるうらら日の浪を見てたのしめり
     靜夜
 起きてゐて身にわるけむとおもひつつこの靜夜《しづかよ》をいねがてぬかも
 ぬばたまの夜の深みに灯《ともし》つけひそまり居りて身のことを思ふ
 疲れたれいまはいねむと小夜床に入ればいよいよ身のおもはるる
     海女(其の一)
(137) 崎山の楢の木かげの芝道に出であひし海女は藻の匂せり
 また一人とほくには見ゆ荒磯の浪しろき邊《へ》に藻をつめる海女
     海女(其の二)
 黒岩のこごしき蔭に見出でつるこの海女が子を親しとは見つ
 おもはぬに言葉はかけつ面染めてはぢらふ見れば悔いにけるかも
 これはまたこまかき藻草摘むものかその手のくびの肉《しし》のゆたけく
 手くびさへ見つつし居ればこひしさのいま耐へがたしとらむその手を
 裳のすその短かけれどものびやかにのびたる脛《はぎ》は神のままにして
 篠竹のさやらず生ひてたけたかきこの海女が子を尊みて見つ
 ひとみには露をたたへつ笑む時の丹の頬のいろは桃の花にして
 椿のいまだふふみて咲きいでぬこの海女が子を手にか取らまし
(138) 大浪の來寄り碎けて飛沫《ひまつ》あがり飛び避けてわらふその海女が子は
 岩かげにかくれてきけば海女が子のをとめどちして笑ふ高聲
 子安貝からす貝などうち群れてわらへるごとし海女が子の群
 素はだかにいまはならなとおもへるごとその健かの顔はわらへり
 汐かむりほほけたれどもたけながのこの子が髪は生きて光れり
 丈長の髪はうねりつなよやかにその身はやがて浪にうかびぬ
 髪も肩もそのやはら乳も濡れひたり汐のなかにしわらへる少女
 浪高みけふは永くは潜《むぐ》らずと笑みてこたふる汐垂らしつつ
 口すこし大きしとおもふ然れどもいよよなまめく耐へがてぬかも
 おのづから二重くくれし顎の邊《へ》の笑ふちからに豈かためやも
     妻が許へ送れる
(139) けふの日をこの柴山のつのぐめる雜木が原に居ると知れりや
 田の道のかたへの芝のぬくとげに日を浴びたれば居て汝《なれ》をおもふ
 たのしみて出でて來しかど樂しみてけふ居るものとゆめなおもひそ
 行く旅のいづかたはあれくつろぎてこころ休むる旅とてはなし
 かきいだき吾子《あこ》と眠れる癖つきてをりをりおもふその吾子がことを
 はつはつに梅のはな咲くおのづから思ふくるしき世の中のことを
 身ごもればこころさとしと聞くものをいかにか汝が獨り居をせむ
     土肥より汽船にて沼津へ渡らむとし、戸田の港口にて富士を見る。
 伊豆の國|戸田《へた》の港ゆ船出すとはしなく見たれ富士の高嶺を
 柴山の崎うちめぐり出でて來れば海の廣きに富士の山見ゆ
 野のはてにつねに見なれしとほ富士をけふは眞うへに海の上に見つ
(140) 浪を荒みかたむく船やひとごゑもせぬ甲板《かんぱん》に富士を見て居る
 冬日さし海は濃藍にとろみつつ浪だにたたぬ船に富士見ゆ
 冬雲のそこひうづまき上《かみ》かけてなびけるうへに富士は晴れたれ
 見る見るにかたちをかふる冬雲を拔きいでて高き富士の白妙
 
  くろ土
 
(143) 序
 
 本集には大正七年三月初から同九年十二月末までの作を収めた。歌の數はかつきり一千首ある。初め取りつ捨てつして一通り輯めたのを數へて見ると九百九十三首あつた。そこで更に七首を拾ひ足して斯うしたのである。
 出して來た歌集の順序からいふと『溪谷集』の次に當る。同集には大正七年二月伊豆國土肥で詠んだまでの作が入れてあつた。ついでに最初から今日までに出版して來た歌集を擧げて見ると、明治四十一年七月に『海の聲』(絶版)を出して以來、『獨り歌へる』(絶版)『別離』『路上』『死か藝術か』『みなかみ』『秋風の歌』『砂丘』『朝の歌』『白梅集』(これは妻との合著)『寂しき樹木』『溪谷集』から今度のとなるわけである。その間に『秋風の歌』までの作から自選した『行人行歌』があつたが間もなく絶版になり、次いで改めて『朝の歌』(144)までの中から千餘首を自選した『若山牧水集』がある。
 
 歌の配列は舊いのを初めに置き、順次新しいのに及んで居る。同じ題目のもとにその一その二などとあるのは作つた時間が違ふかまたは氣持が變るかした時の心覺えを記しておいたものである。然しそれの解らないのも隨分多かつた。さういふのは無秩序に唯だ前後なく並べておいた。『雜詠』とした中にそれが多い。
 これは歌集を出すごとに感じて來たことであるが(一二の例外はあつたが)私は常に舊い作より現在の作、即ち今日の自身に近い時の作を自ら佳しとする者である。實をいふと私はまだ十分に自分自身を試してみた氣がしないでゐる者である。そして漸次にさうした迂濶な心持を責めて來てゐる者の樣に思はれる。それで時を經るごとに多少ともの進歩は自分の上に(145)表れて來てゐるかと自分では思つてゐるのである。さういふなかにあつて今度のこの「くろ土』には特にこの感じが強く動いた。『やれやれ今になつて漸く自分には歌といふものが解つて來たのかなア』といふ氣持である。延いては『これが眞實の意味に於ける自分の處女歌集といふものかも知れない』といふ氣持である。それほどに私はこの『くろ土』には愛著を感じながら編輯したのであつた。
 それかといつて今までに作つて來た歌を出鱈目だとは決して謂はない。それは矢張りその時にはそれぞれ命をかけて作つて來たのである。だからその時その時の命の影はそれの歌に宿つてゐると謂つていいであらう。然しそれらの時代の私は極めて不完全にしか發育してゐなかつた樣だ。全體として出來てゐなかつた。從つてそれらの歌も私の或る一部づつの影であつたと思はれるのである。『海の聲』の歌、『路上』の歌、若しくは『みなかみ』の歌をいまの自分に作つて見よといはれても到底作り得ないだけのそ(146)れぞれの「時」が持つた純粹さをそれらの歌は持つて居る。が、どうしてもそれらは自分の全體ではなかつた。自分の中の或る一部分が働いて作つたものだと忠はるるのである。さうして今度のこの『くろ土』時代の作に及んで、よくも惡くも兎に角自分全體としての或るものが漸く歌の上に働き出して來た氣がするのである。明瞭ではなくとも、正確をば缺いてゐても、この歌集一册のなかにやや形をなして自分といふものが動き出して來てゐるかと思はるるのである。さういふ意味に於て私はこの一册を自分の第一歩にもたとへたいのである。
 それにしては餘りにその自分といふものが淺くはないか、といふ氣がしないではない。それも自分には相當に解つてゐるつもりである。けれどいま早急には何とも致しかたがない。十三四の頃から三十一文字を並べ始めて三十七歳の今になつて漸く自分の歌といふものが朧ろげながらに解り出した樣な自分にとつては、暫く今は今のままに棄てておくよりほか爲方が(147)ないのである。そしてこれまで通りの自分の道を靜かに歩み續けてゐるうちには終には何とか今少し纒つた自分を見出す事が出來ると思ふ。と同時にその時その時の歌はまた正直にそれを映し出して呉れると信ずるのだ。
 
 寫眞を一枚入れて置いた。これはこの二月の五日、恰度天城山の歌あたりを清書してゐる時に平常親しくしてゐる一青年が小型の寫眞機を持つて遊びに來た。その時に書齋の窓の下に立つて寫して貰つたものである。それから歌の取捨、改作のよしあし等で妻に相談してきめた所が多かつた。苦しい清書(自分の歌を清書するのが斯うまで苦しいものである事を知つたのもこんどが初めてである)にも彼女を煩はす事が多かつた。無理な旅にもつとめて卒氣な顔をして出して呉れた事などに對してもこの機會で彼女に感謝したい。また、私の疎懶と負乏とのため出版元の新潮社に對して少なからぬ迷惑をかけた。厚くお詫とお禮とを申しあげる。
(148)  大正十年二月十九日、富士あきらかに晴れたる正午沼津町在の宵居にて。
                   若山牧水
 
(149)     或る夜の雨(大正七年)
 わが屋根に俄かに降れる夜の雨の音のたぬしも寢ざめてをれば
 あららかにわが魂を打つごときこの夜の雨を聽けばなほ降る
 ややしばし思ひあがりて聽きてゐしこの夜の雨はいやしげく降る
 聽き入りてただに居りがたくぬばたまの闇夜の雨に窓あけにけり
 垣ちかく過ぐる夜汽車のとどろきのなつかしきかもいまの寢覺に
 みごもりていまは手さへも觸りがたきかなしき妻とそがひには寢る
     或る日の杉
 雨の後《のち》のけふのうらら日|陽炎《かぎろひ》のまひのぼる地《つち》に大き杉立てり
 來て見よとならび立ちつつ人妻のたをやめびとと大き杉見つ
 わが宿の裏の大杉こまごまと影含み立てり春の日向《ひなた》に
(150) めづらしく見るとにはあらね春の日のほうけ赤杉見れば親しき
     晩酌
 ゆふぐれを勞れて酌める一つきの洒はなかなかさびしくぞ酌む
 口にしてうまきこの酒こころにはさびしみおもひゆふべゆふべ酌む
     春の曉
 夜雨《よさめ》降り過ぎたる後の篁のひややけきかも春の朝明に(その一)
 戸外《とのも》いま明るみ來なば歩まむとねざめゐて待つ春の朝明を(その二)
 春の夜の屋根のしめりの身にかよふ靜けき朝を風吹き立ちぬ
 春寒きみそらの星のしめらへるこの東明《しののめ》を風吹き立ちぬ
 東《ひんがし》にうかべる雲のくれなゐの端みだれたり東風《こち》の寒きに
     留守居
(151) 留守居すとひそまりをりてわが宿の庭の杉垣めづらしく見つ
 乾しもののきたなき軒も春めきてけふのわが庭よく晴れにけり
 かぎろひのほのかに上《のぼ》り冬さびし庭の杉垣けぶらひて見ゆ
 稀にゐてひとりし見ればわが宿の庭の杉坦春めきにけり
 
    わかれ
 
     郷里の友平賀春郊の歸國を東京驛に見送る、大正七年四月廿三日の夜。
 いま別るるおもひこそせね汝が顔のゆたかに笑める前に坐れば
 いふことの何とて無けれ相遇へばこころ幼くなりて樂しき
 停車場の食堂の隅に人出入しげきを見つつ飲みて別るる
 飲仲間といふがうちにも飲口の無二なる汝《なれ》との飲別離《のみわかれ》かな
     梟と月と蛙と
(152) 眼覺むれば雨はやみゐて春の夜のやや寒けきに梟聞ゆ
 梟の啼き啼く聞けば雨過ぎしこよひの月夜さやけかるらし
 ゆくりなく聞けばかこよひ梟の啼く音身にしみ眠られなくに
 まどかなる月こそ殘れ春さむきあかつきはやくわが出で來れば
 曉の春の月夜の寒けきに出でてあゆめば蛙《かはづ》なくなり
     さくら
 わが宿のま近き森に三もと二もと四もとばかりの山櫻咲けり
 風吹けばおほになびかひうすべににつぼみわたれりさくらの花は
 いついつと待てればいつか木がくれに咲き出でて櫻しづかなるかも
 いついつと待ちし櫻の咲き出でていまはさかりか風吹けど散らず
 家に在れば縁よりぞ見ゆ見飽かねば出でて見に來つ此處の櫻を
(153) とりどりに木木の芽ぐめる背戸の森の木の間の櫻散り過ぎにけり
 
    眼前景情
 
     五月六日駒場村なる曹洞宗大學歌會に招かる、席上より見る郊外の景色甚だ佳し、即ち題として詠む。
 をりをりに明るみ見する初夏の曇日の原はそこひ光れり
 うちなびき雲こそわたれ初夏の大野の空は曇りながらに
 をちかたの杉のむらだち眞黒くていまは曇の晴れむとすらし
 聞きゐつつ樂しくもあるか松風のいまはゆめともうつつとも聞ゆ
 松の風いまは途絶えつ眺むればをちこちの松黒ずみて見ゆ
 庭に見るつつじ山吹あかるくてさびしくもあるかこの松の花は
 
    濱松にて
 
     五月八日夜遠江濱松市なる歌會席上にて詠める、題『初夏』及び『松』。
(154) 歌詠むとつどへるおほみ部屋二間拔けば寒けき葉ざくらの風
 あけはなつ窓に茂れる葉ざくらのそよぐともせで夜風さむけし
 曇りがちの夏のはじめのこよひまた曇りてさむき葉ざくらの色
 睡たさをこらへてよめる歌なればわが歌の松はひよろひよろの松
    比叡山にて
     五月中旬、京都より比叡山に登り山上の古寺に七日がほど宿りて詠める中より。
 をちこちに啼き移りゆく筒鳥のさびしき聲は谷にまよへり
 眞さびしき簡鳥の聲ひもすがらさまよふ谷に日は煙《けぶ》らへり
 簡烏の筒ぬけ聲のあるときははげしく起る眞日けぶる谷に
 簡鳥の聲のつづきて斷えざれば出でて見に來《き》ぬこのおほき谷を
 なだらかに大き尾引きてこの谷のくだれるかぎり杉ならび立てり
(155) 筒鳥のこもりて啼くはいづかたの杉にかあらむ峽の深きに
 啼く聲のやがてはわれの聲かともおもはるる聲に筒鳥は啼く
 日のひかりかげり來ればいや冴えて啼く筒鳥をひと目見まほし
 おほらかに何の鳥かも谷あひの大き杉の間《あひ》をまひうつりたる
 うちひろげし羽根はゆたけく動かずて大杉の梢《うれ》をまひうつる鳥
 そば路を行きて見おろす杉の木立はあなみづみづし限りなく立つ
 くきやかに地《つち》より生《お》ひて眞直《ますぐ》なる杉の瑞樹《みづき》はつぎつぎに立つ
 風立てばまひ落つる古葉身近くに雨とひぴきて杉ならびたり
 見廻せば杉の太幹たちならびさびしきものかわれの心は
 杉檜なみ立つ山のしめり道くぐまり行けばこころかなしも
 うちならび晝のひかりに立つ杉の鉾杉がくりほととぎす啼く
(156) ほととぎす身ぢかく啼くに見あぐれば鉾杉叢に日は雨と降る
 ありし日の若かりしわが心にもしばしはかへれほととぎす啼く
 見あぐれば十丈《とたけ》にあまる大杉の暗きこずゑゆ雨垂り來《きた》る
    わが宿れる寺には孝太とよぶ老いし寺男ひとりのみにて住持とても居らず。
 比叡山《ひえやま》の古りぬる寺の木がくれの庭の筧《かけひ》を聞きつつ眠る
 筧より水をひきつつ火焚きつつみづからわかす風呂のたのしさ
 板の間のひろき眞なかに据ゑられしひとつの膳に行きて坐るかも
 虎杖のわかきをひと夜鹽に漬けてあくる朝食ふ熱き飯にそへ
 うづだかく煮たる山椒の春たけて辛きに過ぎつこの熱き飯に
 酒買ひに爺《ぢい》をやりおき裏山に山椒つみをれば獨活を見つけたり
    その寺男、われにまされる酒ずきにて家をも妻をも酒のために失ひしとぞ。
(157) 言葉さへ咽喉につかへてよういはぬこの酒ずきを醉はせざらめや
 酒に代ふるいのちもなしと泣き笑ふこのゑひどれを醉はせざらめや
 
    奈良にて
 
 出で迎ふものとごとくに鹿の子のはやも來て居る奈良のはづれに
 吾子《あこ》つれて來べかりしものを春日野に鹿の群れ居る見ればくやしき 葉を喰めば馬も醉ふとふ春日野の馬醉木が原の春過ぎにけり
 奈良見人つらつらつづけ春日野の馬醉木が蔭に寢てをれば見ゆ
 つばらかに木影うつれる春日野の五月《さつき》の原をゆけば鹿鳴く
 春日野に生ふる蕨はひと摘まで鹿の子どもの喰みつつぞ居る
 いつ見てもかはらぬ山のわかくさの山のなだれに鹿あそぴをり
 
    熊野にて
 
(158) ながながしき旅のをはりを紀の國の友がり寄りて錢借りにけり
 雨雲の四方にかき垂りわだつみの光れる沖にわが船はをる
 日の岬越ゆとふいまをいちじろく船ぞ傾く暗き雨夜に
 船にしていまは夜明けつ小雨降りけぶらふ崎の御熊野の見ゆ
 日の岬うしほ岬は過ぎぬれどなほはるけしや志摩の波切は
     熊野勝浦港は奥廣く水深く小島多く景色甚だ秀れたり、港口に赤島温泉あり、滯在三日。
 繁山の岬のかげの八十島を島づたひゆく小舟ひさしき
 したたかにわれに喰せよ名にし負ふ熊野が浦はいま鰹時
 熊野なる鰹の頃にゆきあひしかたりぐさぞも然かと喰《を》せこそ
 今ははやとぼしき錢のことも思はずいつしんに喰《く》へこれの鰹を
 音たてて今し入り來しかつを船の釣りて積み來し魚とふこれは
(159) むさぼりて腹なやぶりそ大ぎりのこれの鰹の限りは無けむ
 あなかしこ胡瓜もみにも入れてあるこれの鰹を殘さうべしや
 比叡山《ひえやま》の孝太を思ふ大ぎりのつめたき鰹を舌に移す時
 
    奈智にて
 
     赤島を出で雨強きなかを奈智山に登り、瀧見ゆる宿に一泊す。
 未うすく落ち來《きた》る奈智の大瀧のすゑつかたかけて湧ける霧雲
 白雲のかかればひびきこもりあひて瀧ぞとどろくその雲の蔭に
 岩|割《さ》けるひびきと聞え澄みゆけばうらかなしくぞおほ瀧きこゆ
 とどろとどろ落ち來る瀧をあふぎつつこころ寒けくなりにけるかも
 まなかひに奈智の大瀧落つれどもこころうつけてよそごとを思ふ
 暮れゆけば墨のいろなす群山の折り合へる峽にひびくおほ瀧
(160) 夕闇の宿屋のてすりいつしかに雨に濡れをり瀧見むと凭れば
 起き出でて見る向つ山しめやかに小雨降りゐて瀧の眞しろさ
 朝なぎの五百重の山の靜けきにかかりてひびくその大瀧は
 雲のゆきすみやかなれば驚きて雲を見てゐつ瀧のうへの雲を
 
    兒等の病めるに
     八月初め兄の旅人先づ病み、妹みさき子相次いで倒れ、九月半ばを過ぐれども癒えず、兩人とも腸をいためたるなり。
 兒等病めば晝はえ喰はず小夜更けてひそかには喰ふこの梨の實を
 こほろぎのしとどに鳴ける眞夜中に喰ふ梨の實のつゆは垂りつつ
 四つにききひとつを持ちて皮むくやこの大き梨はなは手に餘る
 病む兒等に晝はかかりつ夜起きてわれの爲事をねぼけつつ爲る
 厨邊に井戸のあたりに塀越えし小路《こみち》にこよひ蟲なきしきる
(161) 夜更けて頭ぞ痛む焚きつぎし蚊やりの煙《けむ》に醉ひてなるらし
 月ふたつ越えてなほ病む兒が髪は耳をおほひて延びほうけたり
 忘れゐしこのあまえごとをおのづから思ひ出でてする病める兒あはれ
 己《み》みづから時を覺えて檢温器からくもはさむ枕ながらに
 六歳《むつ》の兄|四歳《よつ》の妹のならび寢てかたりあふ聞けば癒えて後のこと
 ゐざりより縁に來てゐつ庭に出でて萩をほめをる親たちを見に
 いざいまは飯《めし》ぞといへば起き出でてゐならぴ勇む泣くべかりけり
 おととひの一人なほりてなほひとり病みふせり居るはあはれなるかな
 妹はからく起きいで部屋のうちめぐり歩めど兄は寢て居る
 
    雜詠
 
 みじか夜の有明の月のかすかにてひんがしの空に雲燒くるなり
(162) ひんがしの朝燒雲はわが庭の黍の葉ずゑの露にうつれり
 朝燒の雲は杳かに散りゆきて水色のそらといまは澄みたり
 わがねむる家のそちこち音《ね》にすみてこほろぎの鳴く夜となりにけり
 露を帶び垂れて靜けき向日葵の花にさす日の秋めきしかな
 露帶びてうなだれ咲ける向日葵の秋づける花をなつかしみ見つ
 くきやかに伸びつついまはわが丈をゆたかにこえて鷄頭咲けり
 ふるさとに在りしをさな日おもひいでて立ちて見てをり鷄頭の花を
 はなやかに咲けどもなにかさびしきは鷄頭の花の性《さが》にかあるらむ
 伸び足りて眞赤に咲ける鷄頭にこのごろ吹くは西づける風
 くれなゐの色深みつつ鷄頭の花はかすかに實を孕みたり
 しみじみと見ればいとしき鷄頭の花にもあれや上枝《ほづえ》下枝《しづえ》の
(163) 新聞の天氣豫報のあたれりしよべの小雨に濡れをり萩は
 わが小庭たふれて咲ける鷄頭も散りこぼれたる萩もひさしき
 使ひをへていまたてかけしまな板の雫たりつつこほろぎの鳴く
 眼ざめゐて閨より見ればガラス戸にうつらふ桐の秋づきしかな
 ガラス戸にそよぐ桐の葉見てをれば戸外《とのも》は冴えし秋の朝ならし
 朝な朝な立つ風ありて桐の葉のそよぎしるけくこのごろ聞ゆ
 いつしかに耳に馴れたる馬追蟲《うまおひ》のこよひしとどに庭のうちに鳴く
 今朝見れば倒れし花の鷄頭になごりの風のひややかに吹く(あらしの後)
 ふと見ればわが立つ庭に桐の葉の影うつりをり秋づけるかも
 高窓のもとに置きたる小机にゆきてむかへば心はしづか
 わが軒の桐のしげみにさやりゐていまだは暗き月の影かも
(164) 月かげにうかべる桐のひろき葉にかすけき風のありてゆらげる
 うらさむくこころなり來て見てぞ居る庭にくまなき秋の月夜を
 月かげにかすかにうごく庭草のつめたきさまの身には浸みぬれ
 いつしかに月のひかりのさしてをる端居さびしきわが姿かも
 くまもなく月さす庭に出でてゐてふとしもおもふ遠き友のことを
 杉垣に杉のおち葉の散りかかり秋日さむきに糸瓜咲くなり
 杉垣の秋のわか芽の葉のかげに糸瓜のはなのいろ冴えて咲く
 杉垣の下葉は枯れて秋の日のあきらかなるに雀あそべり
 西日さすコスモスのはなの花かげにましろき蝶のまひてをるかな
 桐の葉の散りゆくままにわが窓の明るみそめて寒けかりけり
 厠なるちひさき窓の格子には檜葉の垂りゐて月夜なりけり
(165) 庭ごとに秋の草花植ゑなめて晝を留守居す此處らの妻は
 
〔未確認〕
 
 落葉積む此處のあたりのあさゆふのそぞろあるきは日ごとに親し
 のびのびと背伸をしつつ仰ぎたれ秋のゆふべの空の欅を
 うらさむき今朝の日和に風たちて欅の枯葉散り騷ぐなり
 散りつもり桐の落葉は桐畑のやはらかき土を掩ひつくせり
 
    郊外の秋
 
 とりどりの畑の畔《くろ》にうゑられてみのれる黍は野邊に續けり
 茄子畑に葱畑つづき畑をわかつ畔の高黍垂りみのりたり
 畑つづく傾斜《なぞへ》のはしに黍垂れていちじるきかも其處の風の色
 小鎌もてすいすい黍を刈りもてゆくあはれなるかも見てあるほどに
 黍はみな畔に植ゑられ黍の根に韮のほそき葉青み續けり
(166) 茄子畑の畔にならべる高黍の垂穗《たりほ》がしたに花ばたけ見ゆ
 ひしひしと植ゑつめられし蝦夷菊の花ところどころ咲きほころべり
 荒土にふさへる花かこのあたり花といへば赤き蝦夷菊の花
 ひともとに一本《ひともと》となり蝦夷菊のはたけの花はみな搖れてをる
 蝦夷菊の花ばたの畔にかいかがみ美しみ見ればみな搖れて居る
 えぞ菊の花をいやしといふもいはぬも眼のかぎりなるえぞ菊の花
 くれなゐはおほく摘まれつえぞ菊の畑にさびしきむらさきの花
 くれなゐもむらさきも濃きとうすきありてえぞ菊ばたけ露ふふみたり
 荒土に咲くえぞ菊の朝じめりとりどりに其處に影をおとせる
 ひとつらに咲きさかりたるえぞ菊の畑の上ひくく蝶群れてをり
 すがれ葉やすがれし蔓のうへにまろびあらはなるかも瓢《ひさご》の子等は
(167) ころころところがりあへる秋の野良のひさごの數は數かぎりなし
 見てあればひとつひとつが笑ひいづるひさごの數はかずかぎりなし
 大ひさご小ひさご地《つち》にまろびあひてねむりころがる秋のひなたに
 葱ばたけ牛蒡ばたけをゆきすぎてさびしきものか陸稻畑《をかぼばたけ》は
 ゆきゆけば陸稻畑のほこりあびてみのりみのらぬとりどりに見ゆ
 つづきあふ畑にとりどり日のさしていまぞ靜けき秋みのりどき
 見えみ見えずみ畑より畑に居る人の蟻と散りをり秋の日なかに
 はすかひにわが眼のまへをとびゆきし雀かすかに啼きて飛びたり
 とびたちし一羽のすずめ風さわぐ黍のたり穗のうへをゆくあはれ
 まひたちし雀のかずは砂の數あきらかなれや黍の畑のうへに
 はらはらと陸稻畑をまひたちし雀はくだる青葱畑に
(168) 陸稻畑過ぎ來て此處におもはぬに會へる水田の稻のつめたさ
 募るる野に釣竿さげてひとのゆくいづくに釣りていま歸るらむ
 この秋は沙魚も鮒子も釣らでをりきとおもふこころうら寒うして
 畔の草をわけつつあさる雀子のそのなきごゑもこほろぎも聞ゆ
 ひとりゐてひそかに見れば雀子のまひあそぶさまの身にしみて見ゆ
 おほかたはみのりてはてし秋の野良のはたけの隅を井手の流るる
 暴風雨《しけ》あとの井手は濁りてながれたれ蓼露草は泥のなかに咲き
 秋の日の畑に居るひとおほかたはものいはずをりてゐつたちつ動く
 かき寄せて大根《おほね》のもとにつち添ふる嫗が笠は破れたり見ゆ
 折り持てばわがたなごころあたたかき重みをおぼゆ黍の垂穗を
 秋の日の畔をゆきつつ親しさやはたけの土の濡れし乾きし
 
(169)    或る頃
 
     このまま酒を斷たずば近くいのちにも係るべしといふ、萎縮腎といふに罹りたればなりと。
 飲み飲みてひろげつくせしわがもののゆばりぶくろを思へばかなしき
 酒やめてかはりになにかたのしめといふ醫者がつらに鼻あぐらかけり
 彼しかもいのち惜しきかかしこみて酒をやめむと下思《したも》ふらしき
 酒やめていのち長めむことはかりするといふことのおもはゆきかな
      やめむとてさてやめらるべきものにもあらず、飲みつやめつ日頃を過す。
 癖にこそ酒は飲むなれこの癖とやめむやすしと妻|宣《の》らすなり
 宣りたまふ御言かしこしさもあれとやめむとはおもへ酒やめがたし
 酒やめむそれはともあれながき日のゆふぐれごろにならば何《な》とせむ
 朝酒はやめむ晝ざけせんもなしゆふがたばかり少し飲ましめ
(170)     つとめて愼めばおのづと手持無沙汰にて喰ひたくもなき飯をばすごす。
 斯くばかり腹のくるしき喰ひすぎずひもじくてあらむかたまさるらし
 喰ひすぎて腹出してをるは飲みすぎて跳ねて踊るに比すべくもなし
 飲みすぎは醉ひてくだまくよしゑやしこのくひすぎは屁をたれてねむる
     こころからにや少しすごせばただちに身にこたふる樣なり、悲しくて。
 酒なしに喰ふべくもあらぬものとのみおもへりし鯛を飯のさいに喰ふ
 おほかたはいま食物《くひもの》に係りたるそのたのしみも樂しみがたし
 おろか者にたのしみ乏しとぼしかるそれのひとつを取り落したれ
 うまきものこころにならべそれこれとくらべ廻せど酒にしかめや
 人の世にたのしみ多し然れども酒なしにしてなにのたのしみ
 おそらくは再びわれにかへりこぬそのたのしみと思へば泣かるる
(171) かへりみておもふ身體《からだ》のうちそとのきたなくもあるか破《や》傷《いた》みたり
     心淋しければそぞろに友が事のみ思ひ出でらる、山蘭が許に送れる戯歌教首。
 日曜のけふは晴れたれ今日あたり來ずもあらぬかと待つことをする
 山蘭がつらをつらつらおもふらく涙を垂れしつらにあらぬか
 山蘭がとてもかくても老ゆらくはいつそくとびに爺《ぢい》となりて來《こ》
 山蘭が禿のしるきはおもへらくその誰やらに敷かるるがため
 
    雜詠
 
 うら寒き鵯《ひよ》の聲おこりうら薮の杉の木立はかき曇りたり
 くもり日の森の深みにさまざまの聲してあそぶ鵯が群きこゆ
 くぐみ啼くひよひよといふ澄める聲このくもり日を時おかず聞ゆ
 なにかいひ何かささやく曇日の鵯がねいろは人聲に似る
(172) 寒き日の裏の小薮に風さわぎ小犬がとほる鈴のきこゆる
 曇りゆく部屋の寒きにたちいでてそぞろに居れば鵯啼きわたる
 うら寒く空の垂れたる野の末に薄紅葉せる低き森見ゆ
 ゆきゆきて飽くとこそせね初冬のうす日さす野をそぞろ行きつつ
 落葉焚くけむりのかげにほの見えて垣根に赤き寒薔薇の花
 はらはらと帽子に音を立てながら時雨降りきぬ野を去《い》に來れば
 つゆしとど花おほいなるくれなゐのダリヤは地《つち》に重りて咲きたり
 ひと花はまつたく地にひと花はあやふく垂りてダリヤ咲きたり
 よべ降りしあらき時雨に土はねて垂りしダリヤの花にかかれり
 垂り垂りて地につきたる大き花ダリヤの紅はうつろひて居る
 みのらねば刈らで置かれし捨小田の枯れし稻穗に雀あそべり
(173) 濡れいそぐひと呼びとめし相合のわが時雨傘やぶれたるかな
 窓に來む冬の日ざしをたのしみて待ちつつぞ見る椋の黄葉を
 からす瓜はひのぼりゆきて痩杉のこずゑに赤き實を垂らしたり
 木の間よりわれにさしたる冬の日の日かげは寒し光りながらに
 かげりつつやがて冷たく曇りたる裏の木立に風わたるなり
 裏薮に鵙鵯ならず聞きなれぬ鳥來て啼けりけふのくもりに
 切りとりていまはすくなき花のかず冬ちかうしてダリヤ畑に
 ふらふらと眩暈おぼえて縁側ゆころげ落ちたり冬照る庭に
 見つめゐてなにか親しとおもひしかころげ落ちたり冬照る庭に
 心づけば病みたる人の力なき眼をして土を見つめゐにけむ
 門口のかき根の菊はまだ咲かずわが出入《ではいり》に青々と見ゆ
(174) さとあくる障子のまへにあをあをと菊は茂りてまだ蕾ばかり
 掘りあげし蔓の藷《いも》よりはらひ落す眞くろき土は雨のごと落つ
 掘りあげし枯草の畔《くろ》の土藷《つちいも》のつち眞くろくて永く乾かぬ
 もみぢ色の濃き洋服を着しをとめたけ同じきが二人あゆめり
 
    みなかみへ
     十一月半ば上野國利根川の水上を見むとて清水越の麓湯檜曾までゆく、其處よりは雪深くして行き難かりき、路すがらに歌へる歌。
 わが郷の稻のなかばにだもしかぬみじかきを刈る毛の國人は
 刈りあとの稻田に生ふる苔草のあをあをしきをいま鋤き返す
 つぎつぎに影を投げつつ連なるや朝日さしそふ雪のむら山(四首、伊香保にて)
 峰を離《さか》り空にながれし朝雲のいま燒けそめぬ雪の山のうへに
 とほ山に降れる新雪《にひゆき》この朝の澄めるに見れば寒けくし見ゆ
(175) たのしみてけふぞ入り來し上野《かみつけ》のむら山の峰に秋の雪積めり
 町裏にそそり立ちたるとがり山秋ふかき山を雪おほひたり(沼田にて)
     小日向村附近に到り利根は漸く溪谷の姿をなす、對岸に湯原温泉あり、滯在三日。
 山肌のあらはに見えて雑木山もみぢおほかた散りすぎにけり
 よべ降りし時雨に雪のとけそめて黄葉の山の襞に縞なす
 こがらしのあとの朝晴間もなくて軒うすぐらみ時雨降るなり
 めづらしく降りし時雨に水《み》かさ増して流るる溪は落葉押し流す
 時雨過ぎし山の岩溪ひと日ただ濁りしままにけふ澄みて流る
 越え來れば山の蔭なる水ぐるま人かも居ると見れど居らなく
 時雨過ぎ濡れたる岩の片かげの淵にうかびて川鴉《かはがらす》啼く
 凩の吹きしくなべにわが宿のそぎへの山の雪とび來《きた》る
(176) 山かげの温泉《いでゆ》の小屋の破《や》れたれば落葉散り浮くそのぬるき湯に
 夜をこめてこがらし荒《すさ》び岩かげの温泉の湯槽《ゆぶね》今朝ぬるみたり
 散り浮きて場の面《も》に黄なるこれの落葉なにぞと見れば粟の葉らしき
 大うづの渦卷きあがりまろみなす寒けき見つつ岩にこそ立て
 岩山の尾の岩端《いははな》に堰かれたる溪はどよみて渦卷きかへる
 大渦のうづまきあがり音もなしうねりなだれて岩を掩ひつつ
 大渦のうづまきあがりなだれたるなだれのうへを水の玉走る
 ましぐらに流れ來れる荒き瀬の此處によどみて大き淵つくる
     湯原より利根の溪に沿うて湯檜曾に溯り更に轉じて谷川温泉に到る。
 山窪の此處の廣原に秋日照り下手の峽に橋かかる見ゆ
 かはしもの峽間の橋に秋日さしあきらかなれやいま人渡る
(177) 冬山の尾にあらはなる岩はらに水うちあげてゆく溪の見ゆ
 岩角に生ふるひとつ松そらにうかぴ微《かす》けくひかる冬の日のなかに
 木を流すわかき男の濡れそぼち大き岩かげゆ這ひあがり來ぬ
 まろやかに落葉しはてし山の根の杉の杯に樫鳥の啼く
 日射明き落葉林にゆきあひし杣人《そま》こゑひくくものいひて過ぎぬ
 わが行くは山の窪なるひとつ路冬日ひかりて氷りたる路
 行き行くと冬日の原にたちとまり耳をすませば日の光きこゆ
 日輪はわが行くかたの冬山の山あひにかかり光をぞ投ぐ
 日輪のひかりまぶしみ眼をふせてゆけぞも光るその山の端に
 澄みとほる冬の日ざしの光あまねくわれのこころも光れとぞ射す
(178) 山窪の冬のひかりのなかにしてかすけく啼ける何の鳥ぞも
 ちちいぴいぴいとわれの眞うへに來て啼ける落葉が枝の烏よなほ啼け
 枯れし葉とおもへる鳥のちちちちと枯枝わたり高き音をあぐ
 あたりみな光りひそまる冬山の落葉木がくれこの小鳥啼く
 木の根にうづくまるわれを石かとも見て怖ぢざらむこの小鳥啼く
 見てをりて涙ぞ落つる枯枝の其處に此處にし啼きうつる鳥を
 手にとらばわが手にをりて啼きもせむそこの小鳥を手にも取らうよ
 啼きすます小鳥は一羽あたりの木ひかりしづまり小鳥は一羽
 峰かけてかきけぶらへる落葉木の森ははてなし一羽あそぶ鳥
 水色の羽根をちひさくひろげたりと見れば糞《ふん》は落ちはなれたり
 網の目と枝はりわたし山はらに落葉木林おしひろごれり
(179) 見あぐればかきけぶらひて落葉木のこまかき枝は天《あめ》をおほひたり
 散りし葉のいまだ新しくいろふかく森のかぎりに積みひろごれり
 あるところわがあなうらのやはらかく覺えて今年の葉の散り敷けり
 冬木立おち葉のかげにあらはれて眞しろき岩を親しとぞおもふ
 わが憩ふ下手《しもて》の岸は落葉して眞しろき川瀬いちめんに見ゆ
 森かげに洗はれていでし眞白石荒き川原を落葉うづめたり
 ゆくりなく雲間ゆさせる日輪に落葉あかるみ薮鳥の啼く
 あとさきや足袋のうへにも來て落つるけふの山路の諸木の落葉
 椋の木は葉の散る遲し冬山の日の照るところその風きこゆ
 上野の越後にとなる山あひの村は軒ごとに桐を植ゑたり
 山里は雪來るはやく炭小屋の軒のせまきに稻かけ乾せり
(180) うららかに冬日晴れゐてけふ越ゆる路は水なき溪に沿ひたり
 水涸れし溪に沿ひつつひとりゆく旅のひと日の冬日うららか
 忘れてはひとりごとそぞろいひも出づ冬涸溪に沿へる山路に
 眞冬日のひたと射し照る落葉山越えいそぎつつ心は散らず
 足もとの落葉がなかゆまひたちし山鳥はゆく木の根を低く
 啄木鳥ぞ來てとまりたるあとさきも見わかぬひろき森の冬木に
 落葉して岩あらはなる荒山を超え來れば此處に溪青みたり
 片寄りて溪深み流る山あひの荒き川原の雪のかたへを
 きはやかに紅葉さしいでし岩溪の淺きながれを鞠びて行かな
 山裾に白くまがりて流れたるとほき溪見え冬の山澄めり
 冬空の澄みきはまりて藍色のかなしき下にまろき落葉山
(181) 落葉山ならび合ふ間《あひ》の遠空の藍の深みに雪の峰見ゆ
 うららかに落葉しはてし山窪にあそべる鴉啼かでまふなり
 岩山の傾斜《なぞへ》の道に落葉つみかぼそきかなや杣人《そま》がかよふ道
 向つ峰のけはしき山の岩腹にいまめづらしき紅葉殘れり
 わが憩ふ岩に日のさし溪むかひ日蔭岩山に瀧落つる見ゆ
 ゆふかげる岩山肌にさむざむとひぴける瀧は三つに折れて懸る
 冬日いま暮れむとしつつ岩かげの瀧むらさきに澄みてかかれり
 ことごとく葉をふるひ落しまばらなる木木は並べり岩山の襞に
 炭やくと伐り剥《はが》したる岩山に殘れる若木雪にうもれつ
 日のひかり白けきたりて寒けきに急ぐ冬山笹鳴りさわぐ
 木挽ゐて木を挽きゐたり越え來れば雪いよよ深き此處の溪間に
(182) 夕まぐれこの岨路に出あひたるラムプ賣あはれその籠落すな
     谷川温泉は戸數十あまり、とある溪のゆきどまりに當る、浴客とても無けれはその湯にて菜を洗へり。
 菜をあらふと村のをみな子ことごとく寄り來てあらふ此處の温泉《いでゆ》に
 いま入りて來しをみな子が負へる菜に雪は眞しろく降りたまりたり
 洗ひ終へてやがて菜を負ひかたつむり歩むがごとく負ひて歸りぬ
 晝は菜をあらひて夜はみみづからをみな子ひたる溪ばたの湯に
 わかきどちをみな子さわぎ出でゆきしあとの湯槽《ゆぶね》にわれと嫗ばかり
 月かげにわづかに見ゆる湯のなかのこの二三人ものいはぬなり
 いねがたみ夜半ただひとり起きいでて湯に降《お》り來れば月の射しをり
 月夜にてこよひありけり灯《ひ》ともさぬ湯ぶねに居りて見れば望《もち》の夜
 温泉小屋《いでゆごや》壁しなければ卷きあがる湯氣にこもりて冬の月射せり
(183) あばら屋のおそろしければ提灯ををとも入る夜半《よは》のいで湯に
 ともしおく提灯の灯の湯氣にこもり夜半のいで湯に湯のわく聞ゆ
 軒端なる湯氣のしたびに月冴えて向つ峰《を》の雪あらはにぞ見ゆ
 谷川と名にこそ負へれこの村に聞ゆるはただ谷川ばかり
 朝ごとにかならず來《く》とふ溪合の谷川村に降る朝時雨
 降る雨のつばらに見えてはだら雪積みわたす山に霧たちわたる
 見わたせば雪ふりつもりわが宿の眞下を溪のただ流れたり
 さびしさにこころほうけてゐるわれにふと心づき笑ひいだせり
 何かせむ何かもせむとゐつたちつあまりさびしくてうちほうけたり
 ほうけたるこころにわれの氣づく時ただ溪川の寒き瀬きこゆ
 越後より來し出かせぎのいつとなく住みなせりちふ谷川村は
(184) この奥にもはや家なしこの溪のゆきどまりなる村といふこれ
 ゑひどれのわれに恐れて逃げてゆく雪つみわたす村のむく犬
 木挽住む家のひとつか雪がくり鋸屑見えて菊の花咲けり
 落ちたぎつ溪の飛沫《しぶき》のうちあがり水づきて咲けり垣根の菊は
 十あまり二十に足らぬ家かずのこの山里に流行性感冒《はやりかぜ》流行る
 はやり感冒はらふといひて軒ごとに張れるしめ繩に雪つみにけり
 ゆふ山の日のかげりたる柿の木にのぼりて柿をおとす子の居り
 下なるは弟《おと》にかあらむ笊もちてかがみひろへりその柿の實を
 二夜《ふたよ》寢て去なむとしつつ溪ばたの雪の中の宿に名殘の殘る
     利根の流域より名も知らぬ山を越えて吾妻川の峽谷に出づ、此處には雪なくてなほ黄葉殘りたり。
 雜木山登りつむればうす日さしまろきいただき黄葉照るなり
(185) こまごまと雜木たちならびもみぢしてまろき峠の原を掩へり
 時雨空ひくく垂りゐて茂り合ふ雜木のもみぢうちしめり見ゆ
 この山の落葉松林わかければもみぢのいろのやはらけく見ゆ
 時雨空いよよ暗みて垂りくだりならびさびしきをちかたの峰
 低山に立ちてわが見るをちかたのむら山の邊に時雨降るらし
 とほ山はしろくかくろひわがいそぐ端山のはしに時雨かかれり
 朝ぞらにながれゐし秋の雲散りて山はつめたき日のひかりかな
 をちこちに人家《ひとや》みえゐて秋晴れし大野の奥をかぎる岩山
 秋の日のひかりを強み山の根の村うきいでて此處よりは見ゆ
 枯芝のほうけし山の山くぼにまがりかくるるその溪川は
     名久田川といふに沿ひて下れば遙けきかたに一きはすぐれて高き山見ゆ、里の娘にとへば淺間山なりといふ。
(186) おほよそにながめ來にしか名を問へば淺間とぞいふかのとほき嶺を
 朝戸出のころより見つついつくしく仰ぎ來し山は火の山淺間
 淺間にしまことありけり雲とのみ見し白けぶり眞すぐにぞ立つ
 おくれたる小田刈りいそぐ里過ぐとはしなく見たれとほき淺間を
 名も知らぬ低山つづきけふ越えてとほき淺間を仰ぎ暮せり
 このあたり低まりつづく毛の國のむら山のうへに淺間山見ゆ
     吾妻川の上流にあたり溪のながめ甚だすぐれたる所あり、世に關東耶馬溪とよぶ。
 岩山のせまりきたりて落ち合へる峽の底ひを溪たぎち流る
 うづまける白渦見ゆれ落ち合へる落葉の山の荒岩の蔭に
 青青と溪ほそまりて岩の根にかくるるところ落葉木は立つ
 見るかぎり岩ばかりなる冬山の峽間に青み溪たたへたり
(187) せまり合ふ岩のほさきの觸れむとし相觸れがたし青き淵のうへに
 夕寒き日ざしとなりてかげりたる岩蔭の淵の藍は深けれ
 眞冬日を岩のはざまに藍をたたへ流るる溪は音もこそせね
 そそり立つ岩山崖の岩松に落葉散りつもり小雀あそべり
 岩蔭ゆ吹きあげられて溪あひの寒き夕日にまふ落葉見ゆ
 岩のあひに生ふる山の木おほけきが立らならびゐて葉を落したり
 岩山にあらはに立てるとがり岩に散りたまりたる落葉新し
 峰《を》に襞に立ちはだかれる岩山の山の老樹はことごとく落葉
 岩山に生ふる山の木おほかたは太く低くして枝張りてをる
 岩山の岩をこごしみひと伐らず生ふる大木は枝垂らしたり
 何の木か古蔓《ふるかづら》なし垂りさがりおち葉してをるその岩端《いははな》に
(188) とある木はおほき臼なし八方に枝はりひろげ落葉してをる
 落葉して幹あらはなる一本《ひともと》の眞洞なせる木枝垂らしたり
 ものいふとわれにかも向ふ岩山のおち葉せる木木はわれのめぐりに
 岩かどをめぐれば溪はかくろひて岩にまひたつ落葉|乾反葉《ひぞりば》
     更に吾妻の溪を溯り、左折して良き山路を登れば六里が原に出づ、廣茫たる淺間火山の裾野なり。
 寒き日の淺間の山の黒けぶり垂りうづまきて山の背に這ふ
 山の背に凝りうづまける淺間山のけぶりは靡く朝たけゆけば
 眞冬日の澄みぬる空の寒風《さむかぜ》に東へなびく淺間山のけぶり
 いただきゆやや垂りくだり眞ひがしへなびき定まれる淺間山の煙《けぶり》 おほどかに東へなびく淺間山のけぶりは垂りてまなかひに見ゆ
 眞ひがしになびきさだまれる淺間山のけぶりのすゑの雪のむら山
(189) この幾日ながめつつ來し淺間山をけふはあらはにその根に仰ぐ
 噴きのぼる黒きけぶりの噴き絶えず淺間の山は眞暗くし見ゆ
 淺間山の大きすがたは寒げに見ゆけぶり雲なし湧き垂るる時
 峰《を》も襞も淺間の山はいたましく見ゆ眞黒煙の湧きうづまくに
 寒き日を淺間の山は低くし見ゆ噴きのぼりたる煙のかげに
 淺間山の北の根にある六里が原六里にあまる枯薄の原
 薄の原に立つは楢の木くぬぎの木落葉して立つそのところどころ
 
    冬の夜
 
 寒き夜に拍子木聞ゆ冴え入りて身にしみひびき拍子木聞ゆ(その一)
 拍子木のはたと途絶えつ寒《かん》の夜の夜まはり男何を爲すらむ
 笛聞ゆ汽車にしあらしその宙の動きつつ聞ゆ凍《し》み氷る夜を
(190) 長く鳴らすは何のしらせか寒き夜に走りつつ鳴らすその汽車の笛
 寒き夜にとりどりの音寄り聞ゆ犬汽革の笛机なる時計
 冬の夜のけふをぬくとみ出でて來れば月は赤みを帶びて昇れり(その二)
 喰ひすぎの腹をこなすと出でて來し冬の月夜にぬくき靄降れり
 シグナルの狹みどりの灯に靄降りてうるみ濡れをり冬の月夜に
 子が泣くに行きて添ひ臥す夜爲事に凍れる指のペンを擱きつつ(その三)
 わが部屋の夜つゆ帶びたるガラス戸にうつりゐて明き冬の夜の月
 うす青み窓にうつれる冬の夜の月ながめつつ寒き夜爲事
 更けてゆく夜の寒けきにしくしくと咽喉の痛みていよいよ寒し
 嗽ひすと厨に立てば寒き夜を鼠ゐにけりひとつならず二つ
 逃げぬをば何か親しく見てゐたり寒けき夜半に出でてをる鼠
(191) 冬の夜の爲事づかれに酒飲みてうつつなく居れば雨降り出でぬ
 わが側の鐵瓶の湯のわきたぎり雫はくだる夜半の玻璃璃戸《はりど》に(その四)
 忘れゐてふと見あぐればいつしかに月は玻璃戸を過ぎてゐにけり
 いつしかに曉ちかくなりぬると時計はひびく机の端に
 寒き夜の煮たる酒をば願はずて麥酒をぞすする氷れる麥酒
 咽喉にやや熱ある覺え飲みくだす寒き麥酒は泣くごとくうまし
 寒き夜にすする麥酒の濁れりと灯にかざしつつうち振りて飲む
 
(192)    犬吠岬にて(大正八年)
 
 ひさしくも見ざりしかもと遠く來てけふ見る海は荒れすさびたり(一月一日)
 とほく來てこよひ宿れる海岸《うみぎし》のぬくとき夜半を雨降りそそぐ
 眼さむれば風は凪ぎゐて眞夜中を浪とどろけり庭さきの海に
 曇りつつ朝たけゆくやわだつみの沖の青みの澄みまさり來て(一月二日)
 沖走る速きうしほにむら浪の立ち合ふけふを雪もよひせり
 雪ふくむ雲ゆきまよひわだつみにさわだつ浪のいろ定まらず
 磯海の浪かき濁り沖津浪雲のしたびにさむう澄みたり
 庭さきの芝生にあがる磯浪のいかれる見つつ寒き日を居る
 うちあがる浪かき濁り荒海に降るとも見えず時雨降るなり
 おどろしく鳴りどよめける浪の音の日すがらにして沖邊曇れり
(193) 大海にたちまよふ浪のとどろきのこの寒き日をひねもす聞ゆ
 時として絶え入るごとく大海の浪のひびきのひそまる聞ゆ
 風あらき沖つ瀬の浪に見えがくりひくく渡れり鵜の鳥のむれ
 雪雲の垂りたるままにひんがしへうつりゆく見ゆ荒海のうへを
 滿潮のいまはゆたけくわが宿の庭つづきなる岩が根に滿てり
 眞冬日のけふの滿潮かき濁り岩をおほひてすさびたるかな
 むらがれる岩のほさきにうちあがりならびて靡くその潮けぶり
 庭さきの荒磯にうかぶ鵜の鳥の黒く靜けく久しくぞ居る
 眞藍なすつめたき海にひとつらに浪たちさわぎ朝の日昇る(一月三日)
 まともなる海より昇る朝の日に机の塵のあらはなるかな
 わが部屋に射したる朝日くまなくて坐りながらに疲れを覺ゆ
(194) 草紅葉まだらなる庭のはづれより岩たちならび寒き浪寄る
 岩かげのわがそばに來てすわりたる犬のひとみに浪のうつれり
 かたはらにゆたけく呼吸《いき》の聞えたるこの大き犬に手を置きにけり
 つらなれる浪の穗さきの卷きあがり卷きてくづるる青海のなかに
 川口に寄り寄る浪の穗がしらの繁きを見ればひき潮ならし(銚子港)
 
    雜詠
 
 わが汽車のゆけばまひたつ一二羽の白鷺ゐたり廣き冬田に
 枯草の伏したる畔《くろ》のかたかげにあらはにぞ居る白鷺一羽
 ものあさるふりとも見えず薄氷《うすらひ》のとざせる小田に立てる白鷺
 霜解くるひなたの路次をほがらかに呼びつつ來《きた》る鮒を買はうよ
 寒鮒のにがきはらわた噛みしめて晝酌む酒の座は日のひかり
(195) 薮かげのみぎはの笹の冬枯のうごくを見れば鳥の居るらし
 笹むらをそよがせながらものあさる鶫をりをりしのび音に啼く
 
    大雪の後
 
 うす雲の空にのぼれる朝の日に杉のこずゑの雪散りやまず(その一)
 ところどころ濃き藍見ゆる朝ぞらの雲ふかくして杉の雪散る
 軒かこむ杉の小枝ゆ落ちくだる雪の繁きにこころ澄みたり
 しみじみと地《つち》にしたたる雪どけのあまねき響|四方《よも》に起れり
 散り散らぬ杉のこずゑのしら雪のあらはに見えて鵯《ひよ》啼きあそぶ
 枝わたる鵯鳥の影葉がくれに見えゐて杉の雪散りやまず
 大杉の雪のなだれのしげくして根がたの竹は伏しみだれたり
 片蔭の藁屋のけぶりほそぼそとなびける薮の雪は散りつつ
(196) 鷭の鳥めづらしきかも大雪の降りうづみたる庭に來てをる(その二)
 ふかぶかと雪積みわたす庭さきに薮より出でて水鳥の居る
 水鳥のあやふくあゆむ薮かげに止《や》みたる雪はうすく光れり
 積みわたす今朝の深雪《みゆき》に見とれつつ吸ひ吸ふ煙草やめられなくに
 縁側にとどかむとする庭の雪に親しみながら吸ふ煙草かな
 うす青み煙草のけむりたちのぼる軒端に深く雪積めるなり
 日のひかりかげり來《きた》れば庭も軒端も青みわたりて雪積めるなり
 ほのぼのと雪のおもてに照りまよふうすら青みのありて日かげる
 うづだかく積みわたしたるわが庭の雪ひさしくて塵おける見ゆ(その三)
 下草のうすら赤みの竹の葉のやうやく乾き杉の雪散る
 まだらなる杉の立木のとりどりに落せる雪はうへ氷りたり
(197) おほかたの梢のゆきは散りはてて淺きはやしの杉の木若し
 雪とけてひなたに乾く杉の木の赤み帶びつつ立ちひそみたり
 うら寒き春の日ざしははだら雪|消《け》のこる杉にさしこもりたり
 ひえびえと庭の雪より湧く寒さこの縁側に日はさしながら
 庭の雪かたく氷りて寒けきにひとり籠れば部屋の明るさ
 庭隈《にはくま》の雪はこほりて塵を帶び咲きがての梅のくれなゐ深し
 
    二月の雨
 
 家の窓ただひとところあけおきてけふの時雨にもの讀み始む
 しみじみとけふ降る雨はきさらぎの春のはじめの雨にあらずや
 庭くまにこほりつきたる堅雪に音たてて降るけふの雨かも
 塵浮きし堅雪のうへに降りしきるけふぬくき雨にみなみ風見ゆ
(198) 竹の葉を椎杉の葉をたわたわにうち濡らし降るきさらぎの雨
 春雨のけふの強降《つよぶり》めづらしみ杉の木むらを飽かず見るかも
 獨居《ひとりゐ》のひるげの飯をくひすぎて雨を見てをる雪のうへの雨を
 窓さきの暗くなりたるきさらぎの強降雨《つよぶりあめ》を見てなまけをり
 ぽつちりと眼をただあけてなまけをるけふのひと日の永くもあれかし
 獨りゐておもふひがごとうら消すと強き煙草を吸ひ吸ひて醉へり
 うつうつと煙草の醉のかうじ來し窓邊小暗く雨の降るなり
 きさらぎは春のはじめは年ごとにわれのこころのさびしかる月
 ふらふらと雨のなかさし出でかゆかむさびしきけふのこころのままに
 
    雜詠
 
 たてまはす紙の障子のあかるくてこころかなしきけふのひとりゐ
(199) わが煙草の灰の散るさへけふの日のこのひとりゐは樂しかりけり
 啼きむれて鵯《ひよどり》こもる杉の森の下蔭にしてみそさざい啼けり
 この森にこもれる小鳥おほきなかに鶫の鳥は越えさびて啼く
 葉がくれに見ゆるひよどり大きくて杉の林はいよよ曇れり
 ましぐらに雌追ひきそふ犬の群の雪を蹴立てて遙けきあはれ
 晴れつづき鐵道土堤を燒くけむりひくくあがれり雪殘る野に
 
    述懷
 
 貧しとし時には嘆く時としてそのまづしさを忘れても居る
 
    或る事に會ひて
 
 恐しき濡衣をわれに著せてをるしらじらしき友がつらを見守《まも》りつ
 あさましき彼がたくらみまざまざと裸には見ゆ知らじと思ふか
(200) 恐るべく憎むべくはた愚かなる彼がたくみに唾《つ》はただに出づ
 辛く身をまもらむための計畫《ことはかり》あせれる彼をさもこそと見つ
 この怒おさふと庭のかた雪をつかみては喰ふ雨のなかの雪を
 怒らずとこころにはおもへふところ手わが心臓は高鳴れるなり
 ひとを憎むこころ次第に冷えゆけるこのごろの我にけふも氣づきたり
 
    植物園
 
 朝起の靜けきこころ消えぬまにはやとく行かな植物園に
 かなしきは樹の姿かもその葉その枝靜けく居りてよそ心なし
 ましてこの冬の日に見る荒き幹こまかき枝の樹々の靜けさ
 少女子がかひなのごとく伸びやかに枝を張りたりわがそばの樹は
 ただ一花しろの八重咲葉がくれに見えゐて寒き大椿の樹
(201) 薮椿枝張りひろげつぼみたる褪せたる花のいちめんに見ゆ
 たかむらの細きこずゑの茂りつつ赤らみなびくこの春の日に
 とりわけて葉のこまやけき群竹のたけ高からず親しさ覺ゆ
 
    古沼の蟇
 
 沼の面《おも》に波うごきやがて浮びたる大けき蟇《ひき》はかすか音《ね》に鳴く
 蟇の眼の赤くうるみてうつたふるかなしき聲は澄みて徹れり
 思はぬにまたひとつ浮び古沼のをどめる水に蟇は鳴くなり
 枯草をひたせる沼の雪解水にごれるなかに蟇は鳴くなり
 春さむきみそらの日影しらじらと映れる沼に蟇は鳴くなり
 松の影青みうつれる沼のおもにかなしき蟇の聲は澄みたり
 鳴き澄みて蟇の群れたる古沼に大き緋鯉はいろさびて居る
(202) 蟇なきてさびしき沼の側ゆけば梅ありて白く咲き靜もれり
 けふの日を蟇ばかりかは古沼の側の木立に鵯《ひよ》なきさわぐ
 あさましき蟇のむくろの浮びたる沼にとびかひ鵯なき騷ぐ
 
    夢
 
 眼覺むれば寢汗しどろにおのが生《よ》のさびしきことをゆめみたるかな
 うつつにもゆめにもあれや眞寂しきくるしき夢をいま見たりけり
 おのが生《よ》のこころぼそさをかきあつめひそかに夢は見えて來にけむ
 うつつには思ひもかけぬうとましきわれの姿ぞ夢に見えたる
 ゆきつめしはるけきはてのわれの生《よ》の寂しきすがた夢は見するか
 ゆきづまり泣くに泣かれぬさびしさのわが生《よ》のはてか夢に見え來る
 ひとのいふ五臓のつかれ心《しん》の疲労《つかれ》わがみるゆめはよごれはてたれ
 
(203)    述懷
 
 なにひとつあだにはあらね心澄みわが居るほどはありなしごとも(その一)
 うつつにしわが生きてゐるけふの日とほのかにおもふ心澄みつつ
 わがこころ澄みゆく時に詠む歌か詠みゆくほどに澄める心か
 おのが身のさびしきほどを知りそめて今年の春にあひにけるかも(その二)
 よき下駄を履かなと思ひあゆみをるけふの心のさびしくもあるか
 ある日見し女教師のさびしげのすがたなど浮ぶけふのこころに
 わがこころにたのしみ滿ちてけふをゆく巷にとほく埃あがれり(その三)
 大神のこころはかしこわかねどもけふわれ樂し身に塵もなく
 
    杉の木
 
 事に倦みて縁に出づれば先づ見ゆるひとの邸の大き杉叢
(204) ひろびろと住みなす家の庭に立つ大杉叢に春は深けれ
 なかなかに親しくぞ見るかぎろはでけふ杉むらに雨の降れれば
 
    夜の春雷
 
 電燈をひくくおろしてもの書ける春の夜更を雨降りしきる
 風ほのかにかよへる覺ゆきさらぎの夜雨の降りてぬくき書裔に
 あたたかう夜半降る雨をなつかしみ聞き入りてをれば雷《いかづち》の鳴る
 いま鳴るはとほき雷春の夜のはげしき雨におどろおどろ鳴る
 いかづちのいまめづらしく耳すまし待てどもあまた鳴らざりにけり
 
    をとめ子
 
 はァるがきィたはァるがきィたとて歌ふ子は噴水の側に群れてうたへり
 その眼やや大きかれども少女子はその眼見張りてははと笑へり
(205) をとめ子のそのまろき頬《ほ》にくれなゐのさしきてやがてははと笑へり
 をとめ子がたばねあませる黒髪のゆたけき髪は搖れてくづるる
 
    椿
     一昨年の春を其處に過せし三浦半島の一漁村を妻と共におもひ出でて詠める。
 ひさしくも見ねば見まほし海岸《うみぎし》のかの椿原咲きたるならむ
 海岸のとりどりの木のくねりたる藪の椿はみな咲きたらむ
 沖津邊にひくく浪立ち木の蔭の砂のふかきに椿散りゐむ
 椿の木くさりて落つる丹の花のくさりたまりてうづだかくあらむ
 わが妻がこのめる花は秋はりんだう春はつばきの藪花椿
 
    甕の椿
 
 夜を深みひくくおろせば電燈は甕の椿の葉のかげに照る
(206) 片側はくらきに向ひ片側の甕のつばきは灯ににはひたり
 大甕にさしすててある玉椿ひとつ咲きひとつ散りなほ咲きつづく
 稀にすふ葉卷に醉ひてうとうととねむき眼に見る夜半の椿を
 葉がくれのつばきの花はおほかたは下向きて咲けり甕の椿は
 大枝を投挿《なげざし》にせる葉をしげみ籠りてぞ咲く甕の椿は
 信濃なる諏訪の湖邊《うみべ》に掘り出でしこの古き甕に椿はふさふ
 神つ代の酒の甕にしありけめといふこの甕に椿はふさふ
 むきむきに大きく咲ける椿の花甕のつばきは咲きて靜けき
 夜もいねで筆いそがするうとましさ机の椿大きくは咲く
 
    駒が嶽の麓
     信濃伊奈なる友達に招かれて行く、辰野にて歌會講演を試み、次いで伊奈の峡谷に入る。
(207) 天龍川いまだ痩せたるみなかみの此處の溪間に雪は積みたり
 雪雲の天つそらさし晴れゆけばあらはなるかも駒が嶽の山
 なだれたち雲とけそめし荒山に雲のいそぎて雨降りかかる
     名は歌の會なれど舊知多く揃へる事とておほかた徹宵痛飲の座とはなるなり。
 堅雪のこほりとざせる家の夜半に大き輪をなし踊り出でたれ
 小男の日野の義人《よしと》はいちはやく衣《きぬ》ぬぎすてて踊り出でたれ
 その小男義人があたまつらつらに禿げゐて踊る義人は踊る
 大男|矢島敏弼《やじまとしすけ》のそろのそろ眞黒裸體《まくろはだか》がをどるぞよやよ
 しみじみと見ればいよいよ輝ける眞黒裸體が踊るぞよやよ
 ※[言+軍]名《あだな》なるスカンヂナビヤたましひの拔けつつ踊るスカンヂナビヤ
 むぐらもち這ひ出《で》しごとく片すみに離れてをどる重田行歌《しげたかうか》は
(208) ちぢこまるわれに踊れと手とり足とり引き出だしたれ醉人《ゑひびと》どもは
 伊奈峽谷《いなだに》のゑひどれどもが大自慢伊奈をとめどちも群れて踊れや
 うるはしきとなりのをとめぬすみ見つつわれ古りにきと踊りけらずや
 いつしかに涙ながしてをどりたれ命みじかしと泣きて踊りたれ
 死ぬ時し死なせよわれに死ぬばかり酒くらはせよ何も彼も知らず
 
    馬醉木
     秩父名栗川より多摩川の水上に出でむとて越えたる山の峠に思ひがけぬ馬醉木の原ありき。
 登り來し路をはるけみ見て立てる山のいただき馬醉木咲きたり
 いただきの山のまろみにとぴとびに生ふる馬醉木は花ざかりなり
 禿山に生ふる馬醉木はたけひくくとををに花をつけて茂れり
 繁りたる馬醉木たけひくくあらはには見えぬその花下ごもり咲けり
(209) たけひくき馬醉木の花は山埴の赤きに垂りて鈴なりに咲く
 思はざる馬醉木が原を此處に見てこころは寂し山のいただきに
 
    磯部鑛泉にて
 
 とある樹の根にしたたれる苔清水見てをりていまは飽かずもあるかな
 川ばたの並木の櫻つらなめてけふ散りみだる麥畑のかたに
 樫の木の茂りを深み古き葉のきのふもけふも散りて盡きなく
 霰なす樫の古葉にうちまじり散りいそぐかも庭のさくらは
 芹生ふる澤のながれのほそまりてかすかに落つる音のよろしさ
 
    山上湖へ
     上州榛名山に登らむとて先づ前橋なる友が家に泊る、明くれば六月朔日の朝極めてよく晴れたり。
 水無月《みなつき》やけふ朔日《ついたち》のあさ晴れてむら山のおくに雪の峰見ゆ
(210) 水無月の朝たけゆきて浮きいづるうす雲のかげに秩父|山《やま》見ゆ
 とほ空に浮き出づる雲のとりどりに光りなびきて青あらし吹く
     その日風邪心地にて熱出で頭痛み友も強ふるに留りて二日ほど其處に遊ぶ。
 四万に鳴く晝の蛙《かはづ》に聞き入りてうつつなく居れば雲雀もぞ啼く
 アカシヤの瑞木の花は散りすぎて木の間にふかき日のひかりかも
 川ばたのアカシヤの森のした草は刈りあらされて蛇苺見ゆ
 うちあがる遠き荒瀬を見にあゆむ川原かぎろひ雲雀啼くなり
 荒土のきりぎし高くつづきたる利根の岸邊の濃き青葉かな
     草津を經て榛名山に登り山上湖畔なる湖畔亭に宿る、鳥多き中に郭公最もよく啼く。
 山の上《へ》の榛名の湖のみづぎはに女ものあらふ雨に濡れつつ(その一)
 みづうみのかなたの原に啼きすます郭公《かつこう》の聲ゆふぐれ聞ゆ
(211) 湖際にゆふべ靄たち靄のかげに魚のとびつつ郭公きこゆ
 みづうみの向つ岸なる山かげを移りつつ啼く郭公きこゆ(その二)
 みづうみの水のかがやきあまねくて朝たけゆくに郭公聞ゆ
 いただきは立木とぼしきあら山の岩が根がくり郭公聞ゆ(その三)
 吹きあぐる溪間の風の底に居りて啼く郭公のけぶらひ聞ゆ
 となりあふ二つの溪に啼きかはしうらさびしかも郭公聞ゆ
 
    初夏の朝
 
 見廻せばわがたたずめる足もとのとりどりの草に朝の露みゆ
 ほどもなく咲かむと言へば葉ごもりに咲きゐて紅し葵の花は
 わが顔の蒼きがうつる小鏡もあふひ咲くころの朝々はよし
 わが眉のふかきがかげにひそみたる蒼さも今朝はなつかしきかな
 
(212)    霞が浦
 
 明日漕ぐとたのしみて見る沼の面《おも》の闇の深きに行々子《よしきり》の啼く
 わが宿の灯かげさしたる沼尻の葭のしげみに風さわぐなり
 沼とざす眞闇ゆ蟲のまひよりてつどふ宿屋の灯に遠くゐる
 船つき場油煙あがりて夏の夜の川蒸汽待つひとの群見ゆ
 をみなたち群れてものあらふ水際に鹿島の宮の鳥居古りたり
 鹿島香取宮の鳥居は湖岸《うみぎし》の水にひたりて隔《へな》り向へり
 苫蔭にひそみつつ見る雨の日の浪逆《なさか》の浦はかき煙《けぶ》らへり
 雨けぶる浦をはるけみひとつゆくこれの小舟に寄る浪きこゆ
 
    雜詠
 
 梅雨晴の晝吹く風にしらじらと花粉をこぼす高き草立てり
(213) 眞晝降るゆふだち雨に見とれつつ窓邊に居れば蚊のしげきかも
 投挿《なげざし》の百合のつぼみの數わかずそのひとつひらくこの曉に
 植ゑすてし庭のダリヤの伸びはせでくれなゐ深き花つけにけり
 暑かりしひと日は暮れて庭草の埃しづもり月見草咲けり
 みじか夜のいつしか更けて此處ひとつあけたる窓に風の寄るなり
 夜爲事のあとの机に置きて酌ぐウヰスキイの杯《コプ》に蚊を入るるなかれ
 このペンをはや置きぬべし蜩《かなかな》の鳴きいでていまは曉といふに
 
    友へ
 
 雄心のしづまりかねつはやりつつ脚さだまらぬ君かとし思ふ(その一)
 うらわかき君がすがたを眼のあたりまもりゐてさびしわれのこころは
 むきむきのいのちの事におのづから話はいたる酒くみながら(その二)
 
(214)    晝の蚊遣香
 
 晝焚きて机のかげに置きたればほのぼの昇る蚊遣香のけむり
 降りつづく雨をいぶせみわが籠る窓にしたしき蚊遣香かも
 焚き馴れていまやめがたき蚊遣香の晝のけむりはむらさきに立つ
 
    九十九里濱
     八月末、九十九里なる片具濱に遊びて二三日を送る、避暑客殆んど去りて新涼漸く起らむとす。
 吹く風のしくしく暑し砂畑の黍たつ畔《くろ》に寄りていこへば(その一)
 道ばたの蘆のしげみにこもりゐて啼く行々子を立ちて聞くかも
 はちす田の花かげにとびし水鳥を鴫とおもふにふたたび飛ばず
 とほ見にはさぴしかりしか蓮田《はちすだ》をうづめて咲けるくれなゐの花
 砂山のかげの入江の花はちすしづけき蔭に鯔《いな》の子のとぶ
(215) 海人《あま》が家の蚊やりのけぶりなびきたるはちす田の花は靜かなるかも
 濱つづきすな地の庭にのぴいでてくきも眞赤き鷄頭の花
 朝掃除そぞろに宿のはしためのうたへる唄も秋めけるかな(その二)
 朝浪のつらなり立ちて九十九里の煙らふ岸を漕ぎ出づる船
 あかつきの沖津邊かけてたつ霧に茜さしつつ船こげる見ゆ
 うち撓み寄れるうねりのひとところ白むと見れば裂けてくづるる
 けふの浪たかく上らずしらじらと寄りあひくだけいちめんに寄る
 邊津浪は渦泡なせや沖つ浪うねりつらなりさ青くぞをる
 千鳥とると砂地に黐を張りて待つ海人が子どもの靜かなるかな
 起き伏せる砂山つづきはるかなるひとところ千鳥群れて立つ見ゆ
 砂濱のひろきがなかにくだかけの啼く聲あがる海人が伏屋に
(216) 荒濱の浪をかしこみ砂山のかげの小川にゆきて泳ぐかも
 夏ばかり居るとふ鳥のいまだゐて白き羽根かはし鯔の子をとる
 砂のごとらひさき魚のかず知れず泳ぎてぞをる川口の汐に
 穴つくる小蟹がふりの小ざかしくおもしろき見つつ時を忘れたり
 この小蟹逃げおほせたりと思へかも砂をかづきてかしこみてをる
 やとばかり蟹に聲かけ驚きつわらひいだして蟹を追ふなり
 思はぬにわが足もとゆまひ立ちて浪を超えつつ千鳥啼くなり
 まひわたる千鳥が群は浪のうへに低くつづきて夕日さしたり
 引く浪のあや織りなせる濡砂地影をみだして千鳥群れたり
 なびきあひくだけてひろき夕凪の九十九里が濱の浪のましろさ
 ながながと眞澄みとよもせり夕凪の九十九里が濱の沖のうねりは
(217) 秋がすみ四方をこめゐて夕凪の沖邊より來る風のすずしさ
 夕月の眞さをき鎌のうすうすとひかりそめつつ浪の上《へ》に見ゆ
 夕月のひかりとぼしみ九十九里の空ひくきところ星しげく居る
 夜出でて濱に立てれば九十九里の浪のとどろき四方にあがれり
 浪のあひを漕ぎいそぐらし見えがくり沖邊に赤きともしびの見ゆ
 くれなゐの大き眞珠《またま》とさしのぼり日はかかりたり沖の狹霧に(その三)
 くれなゐに澄みつついまだかがやかず朝日子は居る沖の狹霧に
 雨雲のかきくだり來て九十九里の海のまなかに集ふとすらし
 なかぞらに這ひわたりたる大蟹の眞くろ雨雲海をおほへり
 海とざす眞闇がなかにいなづまの飛びくるめけどい雷は來ぬ
 いなづまの射しかはしつつあぶらなす眞闇の濱に浪ひくく立てり
 
(218)    落葉松の落葉
     十一月中ころ信州淺間山の麓なる沓掛温泉に遊び十日ほど滯在す、四邊すべて落葉松の林なり。
 落葉松はなほ散りやまず散りつもり落葉色なすその根の地《つち》に
 たけたかきから松の木の梢より散りやまぬ落葉見つつおもしろ
 散りすぎていまは明るき落葉松の細枝がくりに小鳥をる見ゆ
 靜かなる鳥のさまかも散りすぎしから松が枝をとびとびて啼かぬ
 から松の今年のおち葉こぞの落葉かきわけてさがすちさき茸を
 黄しめじはきいろくちさしから松の落葉かづきてそこ此處に見ゆ
 落葉松の林にまじり生ひいでて白樺はわかしただに眞しろく
 白樺の若木たちまじり溪ぞひのから松林冬寂びにけり
 時雨の雨いつしか晴れて墨いろの宵の淺間につめる雪みゆ
(219) うちわたす薄のはらの冬枯れて此處のひろきに水の音《ね》きこゆ
 冬の溪ふたつ流れあひしらじらと水うちあげて良き瀬をなせり
 
    選歌
 
 よき歌のこよひ多きをえらみつつ心たかぶり吐息はいづる
 瞼熱くなみだぞ出づるよき歌にゆきあたりたるうたえらみびとは
 よき歌をつくるこころのすぐれびとと相見るがにも歌は選めや
 
    冬
 
 おほかたの木の葉散りすぎ靜かなる冬は來にけり眼にもあらはに
 散り盡きていまはまつたく枯木なす櫻木立に馴れてたのしき
 二三軒となりつづきのはしに見ゆ冬しつかなる杉の木立は
 このあたり人もゐぬげに靜かなる家居つづきて冬木立せり
(220) この一年何かは知らずうち疲れなまけつつ居りて冬に入るなり
 
    冬の夜
 
 誰か來よこよひさびしと下思ふこの冬の夜の心さわぎよ(その一)
 しみじみと逢ひたしとおもふ友だちの減りゆきしこと今宵おもはる
 蓄音機たかだか聞ゆ凍みこほりこよひ寒きにとなりの家に(その二)
 夜ふかくいろいろの音寄りきこゆ寒けくをればいよいよ聞ゆ
 夜ふかくつかれてをればいたづらに火は熾《おこ》りたれ沸す湯もなく(その三)
 うとうとと電燈の灯に見入りゐて寒さをおぼゆ疲れはてけむ
 疲れ果て眠りかねつつ夜半に飲むこのウヰスキイは鼻を燒くなり
 
    冬ごもり
 
 今年住むわが家は岡のうへにありていま冬景色うららけく見ゆ(その一)
(221) 霜日和わが二階より見はるかすひろきにぞ見ゆ豐島《としま》が岡は
 わが部屋のはしに居寄れば冬空のふかきに沈み遠き富士見ゆ
 隣家《となり》なる椎の老樹のうらがれていささか隱すその富士が嶺を
 朝の間をあかるくさせるこの窓の冬の日ざしにもの書き急ぐ(その二)
 窓に見るながめあらはに冬寂びてただありがたき日のひかりかな
 朝はこの窓にさしつつ晝かけて縁にぞまはる冬の日ざしは
 わが家のそばをとろとろ降《お》りゆきてまがる小路《こみち》を親しとは見る(その三)
 うつくしく散りしと見つる路ばたの落葉ひと日に踏みよごされぬ
 しめきりし雨戸の節をぬけてさす冬日眞赤しこがらし募り(その四)
 家をゆすり吹くこがらしのをちかたに啼く鵯鳥の聲みだれたり
 みだれ啼く木枯のなかのひよ鳥の聲よろこびに滿ちあふれたり
(222) 明るみを心はやどすながめつつさびしきものかその明るみは(その五)
 よき酒を昨日もらひつ今日はよき林檎もらひぬ冬ごもりをれば(その六)
 喰ひたしと思ひゐしものまことこの林檎なりけむまことにうまし
 夜のほどに降りつもりたる白雪の今朝をまぢかく鶫來て啼く(その七)
 
    平和來
     五ケ年にわたりし歐洲大戰漸く終り、平和を祝ふ歌をと某新聞社より求められしに答へて詠める。
 英吉利の勝ちさけびつつ獨逸|人《びと》負けさけびつつたたかひ終る
 亜米利加の大統領といへるをとこ佛蘭西にわたる戰爭終り
 初なくをはりなきに似たり遠つ國邊のたたかひ終るといふはまことか
 五年ごし永きにわたり戰ひしたたかひのむねを明らかにせよ
 たたかひの一途なりしを勝鬨のいまとりどりに亂れたり聞ゆ
(223) 勝つといひまけたりといふとりどりの唐人《たうじん》の聲はるかに聞ゆ
 たたかひの終れるあとに這ひまはる蟲けだものを追ひ拂へ神
 
    上總八幡崎
 
 斷崖《きりぎし》の岩うちそぎて建てられし宿屋のにはに浪うらあがる(その一)
 洞穴を湯殿と爲しつともしたるラムプはうつす荒岩の壁を
 はりはりと岩にくだくる浪の音夜半ねざめゐて聞けば寒けき
 めざめつつ靜まりをれば朝日さす海のきらめき部屋を染めたり(その二)
 日のひかり流れかがよふ海原にをりをりあがる眞冬日の浪
 朝づく日空にさだまり五百重浪《いひへなみ》かがよふ海を漕げる丹みゆ
 あぶらなしかがよふ海に小舟ゐて漕げる人見ゆその舟のなかに
 わが部屋の眞むかひに遠き崖のはな穗すすきなびく冬空を背に
(224) 眞むかひにきりそぎたてる斷崖の下なる海の迅《と》き流見ゆ
 浪型にそがれし崖にしみじみと冬の日のさし浪の寄る見ゆ
 ひもすがら冬日さしたるこの部屋に旅のこころか疲れてゐたり(その三)
 部屋にゐて見やるはるけき斷崖の根に寄る浪は雪のごと散る
 獨りゐてひさしく坐るこの部屋の破璃戸に觸りて黄なる冬草
 窓下に浪たちさわぎをりをりを小舟漕ぎ通る傾きながら
 夕日さす崖のさなかの岩かげに釣するらしも長き竿振る
 入江なる岩に日のさし浪くだけつぱらに見れば雀子のゐる(その四)
 槇の葉にすずめ子あそび海人《あま》が家の垣根に浪の影うつりたり
 しらじらと沖より寄する浪の穗の長くつらなれりこの寒き日を(その五)
 寒き日の浪を避《よ》けつつ岩かげに海苔摘む海女の二人三人ゐる
(225) 海人どもの若きたはむれ老いたるは專念に釣る斷崖の端《はな》に
 
(226) 伊豆にて(大正九年)
 
     二月十二日伊豆松崎港よりとある溪に沿ひて天城街道に出づ。
 幾年か見ざりし草の石菖の青み茂れり此處の溪間に
     十三日徒歩して天城山を越ゆ、やがて雪降り出で山上積る事尺に及ぷ。
 向つ峰の杉山の根にかかりたる岩かげの瀧は氷りたり見ゆ
 霜どけの崖ゆ落ち來るさざれ石のさびしき音は道に續けり
 土壞《つちくえ》をふせぐと植ゑし天城越の道の榛《はり》の木みな實を持てり
 蜘蛛の網《い》と枝を張りたる榛の木の實は眞黒くてたまたまに青
 九十九折登ればいよよ遙けくて麓の小溪《をだに》ながめ見飽かぬ
 見はるかす麓にほそき岩溪の水ところどころたぎちたるかな
 天城道|三椏畑《みつまたばた》の側《そば》ゆけばその花にほふ雪に濡れつつ
(227) 道下の三椏畑はいちめんにさぴしき花のいま盛りなり
 白白と枝張りわたし枯れて立つかの遠き木は樅《もみ》にしあるらし
 冬過ぐとすがれ伏したる萱原に降り積る雪の眞白なるかも
 大君の御獵《みかり》の場《には》と鎭まれる天城越えゆけば雪は降りつつ
 見下せば八十溪《やそだに》に生ふる鉾杉の秀並《ほなみ》が列《つら》に雪は降りつつ
 天城山わが越ゆる道の杉の木に降り積る雪は枝垂れそめたり
 立ちどまるわが身眞白し見かへれば降る雪暗く山を包みぬ
 天城嶺の森を深みかうす暗く降りつよむ雪の積めど音せぬ
 道の上《へ》に積みゆく雪をながめつつ今は急ぎぬ峠眞近を
 岩が根に積れる雪をかきつかみ食ひてぞ急ぐ降り晴むなかを
 降る雪の天《そら》過ぎゆけばわが越ゆる岨《そば》の雪道明るみきたる
(228) 繁山のかたへ伐りそぎ炭燒くと杣人《そま》が煙《けむ》あがる積む雪のうへに
 かけわたす杣人がかけ橋向つ峰の岨に續きて雪積める見ゆ
     山を越えて麓なる湯が島温泉に到る、あたりまた深々と雪積りたり、滯在四日。
 窓さきの樫に來て噂く樫鳥の口籠り聲はわれを呼ぶごとし
 樫鳥のつぱさ美し庭さきの青樫のあひをしばしばも飛ぶ
 樫の實の落ちちらばれる溪端の苔あをきところ張れる樫の根
 根もとより枝しじに分れ茂り生ふる老木柊の花は眞さかり
 山中の温泉《いでゆ》に來り靜けしとこころゆるめば思ふ事おほし
     附近に木立の淵といへる溪流あり、山の相迫れるところ岩秀で水深し。
 たまたまにひとつ出てをる冬ざれの岩間の魚を親しとし見ぬ
 流れ寄る水泡《みなわ》うづまき過ぎゆけど靜かなるかも岩蔭の魚は
(229) 樫の實の落ちて沈める淵の底に影を落して小魚あそべり
 
    散歩
 
 をちかたに鵯《ひと》の聲起りわが歩む冬田の畔に杉ならびたり
 ひよどりの聲の繁きにまじりつつ冬晴の森に百舌鳥《もず》啼く聞ゆ
 埋立の工事の車とろとろと黒き土こぼし坂くだり來る
 新しき土つみあげし埋立の工事のそばに冬木はあらは
 田の畔の茶の木ばたけのだんだんにつらなり光る寒き日射は
 墓原のかなめの若芽くれなゐに杉垣つづき伸びそろひたり
 おのがじし靜かに立てる冬枯の丘の杉の木葉は赤らめり
 桔草の小野にひともと立ちてをるこの常盤木の影の深さよ
 ちひさくてわが子がたけにだも如かぬこの冬の木の影ぞ靜けき
(230) 木木の影しるくうつれる枯草のぬくとき原にまじる青笹
 そことなき心おごりぞ湧き來るこの冬晴の靜けきなかに
 
    フリジヤの花
 
 一つかみ投げざしにせるフリジヤの青き葉の蔭に蕾は多し
 いそがしきわれの机のすみに置かれ咲きてひさしきフリジヤの花
 挿しすてて月のなかばも過ぎたらむフリジヤの花に塵はかかれり
 フリジヤの花いつしかに褪せそめていよいよ匂ふ机の隅に
 
    友が家にて
 
 この部屋の窓の障子の新しくなかばあきゐて梅の花見ゆ
 
    門さきの梅
 
 門出づと傘ひらきつつ大雨の音しげきなかに梅の花見つ
(231) 泥濘《ぬかるみ》の道に立ち出で大雨に傘かたむけて門《かど》の梅見つ
 見送ると門に出で來し妻を呼びて雨のなかの梅うら讃《たた》へ見つ
 門さきに咲きて久しき梅の花を今朝大雨のなかによく見つ
 枝伸びし若木の梅の花びらに降りそそぐ雨は音たててをる
 枝のさき入りかひみだれ大雨に雫たれつつ梅の花咲けり
 大雨に打たれ靜まれるとりどりの庭木のなかに梅の花白し
 
    同じ日に
 
 わが門の前の坂道狹かるに川なして流る今朝ぬくき雨は
 わがこころ澄みてすがすがし三月のこの大雨のなかを歩みつつ
 
    同じ日の夜
 
 夜爲事の部屋にうごける風ありてこの春の夜の雨はやみたり
(232) 何やらむ落ちたふれたるひびきしてこよひぬくきに風吹き立ちぬ
 
    友が家にて
 
 夕寒うかげり來れば庭杉の木かげの梅の花の眞しろさ
 湯豆腐の熱きをすすり夕まぐれ靜けくぞ見る庭の梅の花を
 
    桃のつぼみ
 
 部屋にゐて苦しきけふの曇日の窓に見てをる桃の木の花を
 かき曇りぬくときけふを桃の蕾の赤みふくらみ咲き出でむとす
 
    秩父の春
     四月六日、秩父の春を見て來むとて出で立つ、熊谷驛乘換秩父線に移る。
 乘換の汽車を待つとて出でて見つ熊谷土堤のつぼみ櫻を(熊谷驛附近)
 蟻の蟲這ひありきをりうす紅につぼみふふめる櫻の幹を
(233) 雨ぐもり重き蕾の咲くとしてあからみなぴく土堤の櫻は
 枝のさきわれよりひくく垂りさがり老木櫻のつぼみ繁きかも
 まひたつと羽づくろひする口《く》ごもりの雲雀の聲は草むらに聞ゆ
 雨雲のなかにまひのぼり啼く聲の雲雀はしげし今宵晴れなむ
 をちかたに澄みて見えたる鐵橋の川下うすく夕づく日させり
     その夜秩父長瀞なる溪合の宿に泊る、明くれば數日來の雨全く晴れて鶯頻りに啼く。
 溪の音ちかく澄みゐて春の夜の明けやらぬ庭にうぐひすの啼く
 部屋にゐて見やる庭木の木がくれに溪おほらかに流れたるかな
 朝あがりしめれる庭にたけひくき若木の梅の花散らしたり
 眞青なる篠のひろ葉に風ありて光りそよげり梅散るところ
 山窪に伐りのこされしわか杉の木立眞青き列をつくれり(二首、車中所見)
(234) わが汽車に追ひあふられて蝶蝶の溪間に深くまひ落つるあはれ
     秩父町にて少憩、其處より表秩父に出でむとして妻坂峠を越ゆ、思ひの外の難路なり。
 秩父|町《まち》出はづれ來れば機織の唄ごゑつづく古りりし家並に
 春の田の鋤きかへされて青水錆着くとはしつつ蛙鳴くなり
 朝晴のいつかくもりて天雲の峰に重りつつ蛙鳴くなり
 下ばらひきよらになせし杉山の深きをゆけば鶯の啼く
 岩づたひ落ち落つる水は八十《やそ》にあまり分れてぞ落つこの岩の溪は
 つぎつぎに繼ぎて落ちたぎち杉山のながき峽間を落つる溪見ゆ
 めづらしき大樹《おほき》の馬醉木山溪の斷崖《きりぎし》逆《さか》に咲き枝垂《しだ》れたり
 春あさみいまだ芽ぐまぬ遠山の雜木の林ひろくもあるかな
 菅山《すげやま》のいただき近く枯菅の枯れなびくところ岩が根の見ゆ
(235)     辛く峠に出で嶮しきをやや下りゆけばまたひとつの溪に沿ひたり、名栗川の上流なり。
 春立つとけしきばみたる裸木の木の根をあらふ岩溪の水
 岩ばかり土の氣もあらぬ溪合の岩のうへの木つのぐめり見ゆ
 桐畑の桐の木の間に植ゑられてたけひくき梅の花ざかりかも
 假橋のひたひた水にひたりたる板の橋わたり梅のはな見つ
 溪の端《はた》褪せし老木の梅にとなりひともとの梅眞さかりに咲く
     一夜を小さき鑛泉宿に過し翌日名栗川に沿うて飯能町に出づ、川小さけれど岩清く水澄みたり。
 わかし湯のラヂウムの湯はこちたくもよごれてぬるし窓に梅咲き
 溪ばたの老木の梅は荒き瀬のとびとびの岩に散りたまりたり
 何やらむ羽蟲のむれのまひ群れて溪ばたの梅の花にあそべり
 しらじらと流れてとほき杉山の峽の淺瀬に河鹿なくなり
(236) 清らけき淺瀬ながらに波をあげて杉山の根を流れたるかな
 ところどころ枯草のこる春の日の溪の岩原に鶺鴒の啼く
 手を洗ふにほどよきほどのほそき瀧きよらにかかる道の傍《かたへ》に
 うづだかく杉苗負ひて岨みちを登れる杣人《そま》はうたひ出でたり
 溪堰きて引きたる井手の清らかに流れたるかも春あさき田に
 黒々とおたまじやくしの群れあそぶ田尻のみづは淺き瀬をなせり
 蛙鳴く田なかの道をはせちがふ自轉車の鈴なりひびくかな
 馬の糞《ふん》ひろひながらにこの爺《をぢ》のなにか思ふらしひとりごと言ふ
 
    宇都宮市にて
 
 ひとしきり散りての後をしづもりてうららけきかも遠き櫻は
 町なかの小橋のほとりひややけき風ながれゐてさくら散るなり
 
(237)    上州吾妻の溪にて
 
 朝づく日峰をはなれつわが歩む溪間のあを葉透き輝けり
 朝づく日さしこもりたる溪の瀬のうづまく見つつこころ靜けき
 靜かなる道をあゆむとうしろ手をくみつつおもふ父が癖なりき
 飛沫《しぶき》よりさらに身かろくとぴかひて鶺鴒はあそぶ朝の溪間に
 溪あひにさしこもりたる朝の日の蒼みかがやき藤の花咲けり
 荒き瀬のうへに垂りつつ風になびく山藤のはなの房長からず
 
    伊太利飛行機來
     永き間わが興味をひきたりし伊太利の飛行機終に六月三十日代々木原に到着す、當日早朝より其處に待ちて。
 汝《なれ》を待ちつつ青草のうへにわが置ける時計はひぴく眞晝近しと
 おお今し汝を迎ふとわが國の飛行機はのぼる天雲をさし
(238) 宙がへり木の葉おとしのさまざまなれや汝を迎ふとわが飛行機は
 千よろづの人息をのみて立ちむかふその飛行機は雲のあひに見ゆ
 濃くうすく雲がくりつつひとすぢに空わけきたるその飛行機は
 出で迎ふわが飛行機と中ぞらにかたみに環《わ》をなし翔《ま》ひ澄めるあはれ
 うるはしきその飛行機はありありとわがまなかひに翔ひうかびたれ
 伊太利の旗じるし染めてまなかひに翔ひうかびたりその飛行機は
 青草の五月の原をとどろとどろうちとどろかし飛行機くだる
 
    夏のしののめ
 
 朝靜のつゆけき道に蟇《ひき》いでてあそびてぞをる日の出でぬとに
 旗雲のながれたなびき朝ぞらの藍のふかきに燕啼くなり
 竹煮草鐵道草のたけたかき草しげりあひて眞白花咲けり
(239) まひ降りて雀あゆめる朝じめり道のかたへのつゆ草の花
 
    香貫山
     八月中旬、東京を引拂ひて駿河沼津在なる楊原村香貫山の麓に移住す、歌を詠み始めたるは九月半ばなりけむか。
 海見ると登る香貫の低山の小松が原ゆ富士のよく見ゆ
 番貫山いただきに來て吾子とあそび久しく居れば富士晴れにけり
 低山の香貫に登り眞上にしそぴゆる富士を見つつ時經ぬ
 
    南風
 
 南吹き曇りかげれる愛鷹の峯に居る雲深くもあるかな
 汐風のみなみ吹きつのり愛鷹の峯あゐ色にくもり終れり
 照り曇りはげしき地にみなみ風吹きすさびつつ富士冴えてをる
 みなみ吹き雲湧き散れる空のもとにただに眞青《まさを》き香貫松山
 
(240)    雜詠
 
 駿河なる沼津より見れば富士が嶺の前に垣なせる愛鷹の山
 愛鷹の眞くろき峯にうづまける天雲の奥に富士はこもりつ
 夏おそき空にしづもれる富士が嶺に去年の古雪ひとところ見ゆ
 門出でて向ふ稻田の千町田《ちまちだ》の垂穗《たりほ》の畔に彼岸花咲けり
 富士が嶺に雲かかりたりわが門のまへの稻田に雀とぴさわぎ
 鷄《とり》にやる蝗とるとて出でて來し稻田はいまはなかば刈られつ
 刈りあとの泥田に逃げて飛ぶ蝗追ひかねて見ればいよよとびゆく
 柿紅葉|上枝《ほづえ》はいつか散りすぎて百舌鳥ぞ來て啼くおほかたの日を
 わが門のまへをながるる小流に散りうかぶ葉のやうやく繁し
 散りうかびまたくは濡れぬ櫻木のもみぢは流る門のながれに
(241) やや寒み火鉢の灰をつくるとて藁火たきつつこころは靜か
 けふ初めて火鉢を置けばわが部屋の障子のやぶれ氣にかかるかな
 綿雲の四方《よも》を覆ひておぼほしきけふくもり日の庭のもみぢ葉
 花を多み眞赤に見ゆる門口の山茶花をうとむ朝な朝なに
 愛鷹の襞のもみぢのつぱらかに見ゆる沼津の秋日和かな
 小松山香貫の秋に沼津なるうたひ女出でて群れあそぴをり
 わが門にならぶ櫻のうすもみぢ久しと見つれいまは散りたり
 消《け》つ降りつさだめなき秋の富士が嶺の高嶺の雪を朝な朝な見る
 
    庭の隅
 
 庭石を斜《はす》にすべれる眞冬日の日かげは宿る藪柑子の實に
 實をひとつふたつ持ちたるとりどりの藪柑子の木ならび生ひたり
(242) 松が枝の下枝《しづえ》はひくく地に垂りて上枝《ほづえ》の落葉散りたまりたり
 
    散歩
 
 このあたり道邊におほき蒜の花の露のしめりはひねもすにして
 葛の葉のもみでし色のさびはてて露おきわたす道のかたへに
 道のはた野菊にまじり露草の散りのこりつつ木瓜かへり咲けり
 下草のすすきしめれる山あひの小松が原に※[翁+鳥]《ひたき》啼くなり
 ゆく道の山の根ぞひにたちならぶ冬の日の松に枯れし葉おほし
 桑の葉のおち葉新しき畑道のこのあたりしげき鳥の聲かな
 桑の木の老いて枝張るこずゑより啼きてとびたつ頬白の鳥
 信濃なるつばくら嶽のみねに生ひし栂《とが》の木を植う其處より持ちて
(243) 青苔につつみ持てこし栂の木のそのちひさきがあをあをと居《を》る
 家にゐて家族《うから》とよからずあさゆふにさびしき友を此處に迎へぬ
 汝《な》がままに此處に寢てゆけ部屋ひとつ貸しは與へむ汝がままにせよ
 
    やき鳥
 
 木曾路なる奈良井の溪に網張りてとりし小鳥ぞ燒けと送り來ぬ
 鵯ひとつ鶫ここのつとりどりの鳥のあはひにもみぢ葉を敷けり
 合歡の木と我はもおもふ手づくりの小包の箱の眞新しさよ
 
    雜詠
 
 愛鷹の傾斜《なぞへ》にしげき襞ごとに籠らふ雲は朝亂れたり
 愛鷹に朝居る雲のたなびかば晴れむと待てや富士のくもりを
 綿雲の湧き立つそらに富士が嶺の深雪《みゆき》寂びつつかがよへる見ゆ
(244) 赤飯の花と子等いふ犬蓼の花はこちたし家のめぐりに
 ときは樹は遠きに光り柿紅葉やはらかなれや窓のひなたに
 刈株の蕎麥が根赤き霜月の番貫が原に雲雀ゐて啼く
 雪降りていまだ日を經ぬ富士が嶺の山の荒肌つぱらかに見ゆ
 めづらしきこの霜月の日照雨《ひでりあめ》に庭のもみぢ葉いろぞ滴る
 わくら葉の散りのこりたる桑畑のなかに晝餉す百姓たちは
 鋤きあげて眞くろき土のうへに坐り煙草すひをり老いたる人は
 
    述懷
 
 ゐつ立ちつ甲斐なくひと日すごす癖とりのぞきえで年は重ねし
 靜やかに今はなりぬとおもふ時事起るなりわれの生活《くらし》に
 庭さきに散れる松葉の靜けさのあれと願ひて籠居《こもりゐ》はする
(245) 愛憎のうごきやすまぬ底淺《そこあさ》のこころの濁り澄む時ぞなき
 
    愛鷹登山
     十一月十五日愛鷹山に登る、中腹以上は廣大なる御料林にて古木枝を交へ相連れり。
 裾野かけて今は積みけむ富士が嶺の雪見に登る愛鷹の尾根を
 峯に夙く登らばひたと向ひあはむ富士をおもひてなだれを登る
 熊笹のさゆらぎたちておほきなる雲は過ぎゆくわれの眞うへを
 大君の御料の森は愛鷹の百重なす襞にかけて繁れり
 大君の持たせるからに神代なす繁れる山ぞ愛鷹山は
 この山のなだれに居りて見はるかす幾重の尾根は濃き森をなせり
 峯ちかき幾重の襞はおほきなるひとつに落ちて深き森をなせり
 わけ入りて靜かに居れば海底《うなぞこ》のしづけさを持ちてこの森は居る
(246) さしわたす向つ峯のとがりけはしきに伸びぬる森は落葉してをる
 蜘蛛手なす老木の枝は黒鐵のいぶれるなして落葉せるかも
 繁山のいただき近み生ふる木のたけ高からず枝は張りたり
 張りわたす蜘蛛手なしつつ老いし木の枝の繁きに紅葉過ぎたり
 時過ぎていまはすくなき奥山の木の間の紅葉かがやけるかな
 際やかに深き紅葉のひともとを目じるしとして森わけあそぶ
 散りつもる落葉のいろの鮮かさ手にし掬へばいやあざやけき
 愛鷹のいただき疎き落葉木に木がくり見えて富士は輝く
 愛鷹の峯によぢ登りわがあふぐまなかひの富士は眞白妙《ましらたへ》なり
 山なだれなだらふ張の四方に張りてしつもり深き富士の高山
 
    山の根の淵
 
(247) 流るとしあらぬとろみの青淀に一すぢうつるわれの釣糸
 やごとなきおもひにもあるか持つ竿に垂りたる糸は張りてたるまぬ
 淵のくまにあらはれてゐる白き岩の冬はいよいよ眞白なるかな
 向ひ岸おそき紅葉の照りてゐて靜かなるかも冬の日の淵
 たけひくき小松ならべる山の窪日ざし寒けど去りがたきかも
 わが憩ふ窪みにふかき草むらの雜草《しこぐさ》の花は秋さびにけり
 ひとりゐの心ゆたかに腹ばひて足伸ばす此處の草むらは冬
 濃きけむりながれもゆくよ冬草のかげに坐りて煙草を吸へば
 とぴあそぶ蝗をとりて吸ひてをる草むらの巣のうつくしき蜘蛛
 
    時雨
 
(248) 夜半を降るしぐれの雨は歌を思ふわれのこころに浸みひびくなり(その一)
 戸のそとの闇に降るなる夜の時雨こころにひびきいよよ降るなり
 しみじみと聞けば聞ゆるこほろぎは時雨るる庭に鳴きてゐるなり(その二)
 こほろぎの今朝鳴くきけば時雨降る庭の落葉の色ぞおもはる
 
    雜詠
 
 道ばたのながれにうつる月の影見つつ急げるみちは凍れり
 植ゑかへて時へぬ葱のしほれ伏し青みて土にならぴたるかな
 植ゑかへしはたけの土の眞黒きに浸みてまよへり葱のにほひは
 庭さきの野菜ばたけにとりどりの影あざやけき曉|月夜《ぐくよ》
 山の根の淵に沿ひつつ一すぢの道はつづけり冬の日向に
 向う來る荷馬車の油きれたりや寒うきしりて山の根をくる
(249) 小魚賣る女が履ける下駄の音冴えひびく冬の日向なりけり
 浮雲につめたくかげる入江町そぎへ岩山紅葉してをる
 入海に寄る魚見むとたち並ぶ小屋|閉《さ》されたり山の高みに
 押せ漕げと櫓につかまれる若者の聲かまびすし入江の奥に
 茶の間より見る庭さきの冬薔薇のとぼしき花はつぎつぎに咲く
 落葉せる我の小庭に珍しく小鳥|※[翁+鳥]《ひたき》が來て啼きてをる
 わが離室《はなれ》へかよふ廊下の高窓に見てすぐる庭は日に日に落葉
 風を忌み締めすてておきし高窓を開けば庭は明るき落葉
 愛鷹に大雪降れり百襞《ももひだ》の眞くろき森を降り埋みつつ
 
    貧弱
 
 居すくみて家内《やぬち》しづけし一錢の錢なくてけふ幾日《いくひ》經にけむ(その一)
(250) 抽匣《ひきだし》の數の多さよ家のうちかき探せども一錢もなし
 貪しさに追はれていつか卑しきを錢に覺えぬ四十路近づき(その二)
 ゆく水のとまらぬこころ持つといへどをりをり濁る貪しさゆゑに
 苦しみに苦しみぬけど貧乏に懲るる心はまだ足らぬかも
 三日《みか》ばかりに歸らむ旅を思ひたちてこころ燃ゆれどゆく錢のなき(その三)
 待ち待ちし爲替來りぬわが泣きし借にはらふは惜しけき爲替(その四)
 
    千本松原
     千本松原は沼津の海岸にあり、狩野川の川口より起りて西數里が間に及び、老松甚だ多し。
 むきむきに枝の伸びつつ先垂りてならび聳ゆる老松が群(その一)
 風の音こもりて深き松原の老木の松は此處に群れ生ふ
 横さまにならぴそびゆる置幹の老松が枝は片靡きせり
(251) 立枯の松もまじらふ松原のふかきに入れば萱の原ある
 千よろづの松そぴえたちいづれみなひたに眞直ぐにひたに眞青き
 伸び伸びてななめに空にむかひ立つこの直き松はいまだ若き松
 張りわたす根あがり松のおほきなる老いぬる松は低く茂れり
 松原のしげみゆ見れば松が枝に木がくり見えてたかき富士が嶺
 松原につづける濱の眞しろなる眞妙に松はとびとびに立つ(その二〉
 わが投げし小石の音の石原にひびきて寒き冬の日の影
 濱つづき大松原の際《きは》をなすわか松が群に夕日さしたり
 くもり日は頭重かるわが癖のけふも出で來てあゆむ松原(その三)
 松ばらの木立ふかきをぬひてまふ朝の鴉の群のしづけさ
 梢《うれ》枯れし老松が枝におほらかに羽根をひろげて鴉はとまる
(252)     松原の海に向へるかたに美しき長濱あり、駿河灣深く湛へて伊豆は眞向ひにやや遙けく遠江見ゆ。
 此處ゆ見る伊豆の國邊に二並びならぴて國の背をなせる山
 この濱の濱石まろく深ければわが歩む音わきひびくなり
 潮ぞとおもひもかぬる清らけき澄みぬる凪を今朝濱に見つ
 うちわたす小石の濱に音たててさざ波よする今朝の凪かな
 見てをりてこころ澄みゆく今朝の凪のうしほの底の青石原を
 雲丹の子のうちあげられし拾ひとり小指《をゆび》さされぬ朝寒《あささむ》の濱に
 うす雲と沖とひといろに煙りあひて濱は濡れゆく今朝の時雨に
 末とほくけぶりわたれる長濱を漕ぎ出づる舟のひとつありけり
 
 山櫻の歌
 
(255) 序
 
 本書は先著『くろ土』(大正十年三月發行)に次ぐもので、大正十年正月より同十一年十二月に到るまで全二年間に詠んだ歌が收めてある。
 序文としていま書き度い事は、おほかた『くろ土』の序文に書いたことと變らないので、勢ひそれを繰返すわけになる。故に此處には省くことにした。ただ本書を讀んで多少とも感興を覺えられた人には併せて『くろ土』をも讀んでほしいといふことを書いておき度い。著者が一生の歩みの續きといふうちにも『くろ土』の頃から本書にかけての五六年の間には特に離しがたい因縁が結ばれてゐるやうに思はれるからである。
 なほこれは書かでもの事かともおもふが、氣づいたままに書きつけてお(256)く。假に動的の歌と靜的の歌といふものがあるとするならば『くろ土』は動の方で本書の歌は靜的のものであるらしく感ぜらるるのだ。これはこの二册に限らず、今までに出して來た歌集十數册(本書が十四册目に當る)を振返つて見ると、その間にこの二つの交替が知らず/\繰返されて來てゐるやうに思はるるのである。即ち或る期間頻りに主觀味の勝つた歌を詠んでゐたとすれば、(それを假に動的の歌と呼んだ)その次にはなるたけそれから離れた、靜かなものが詠みたくなる、そしてその入れ替らうとする場合に一册に纏めておきたい心が起る、といふのではなからうかと不圖考へられたのである。どうして斯うなるか、たださうした一つの詠みぶりに倦んでさうなるのか、それとも他に何か理由があるか、それは自分にも解らぬ。
 
 この三月十日、本書の原稿を持つて上京し神田の友人の許に泊つた。翌
(257)朝朝酒一杯の後縁側の柱に凭れてゐる處を寫眞好の友人が撮影した。口繪にしてあるのはその寫眞でるる。
           大正十二年四月廿一日、葉櫻に雨こまかき日、沼津在の寓居にて、
                     若山牧水
 
(259) 空に立つ煙のかげに燃え入りて色さびはてし晝の野火かも(その一)
 きさらぎや箱根萱山枯れはててさびぬる野邊を燒ける火のみゆ
 野火の火の遠見はさびしうちわたす枯田のなかの道をゆきつつ
 冴えかへり寒けき今日のうらら日に野火の煙の青みたなぴく
 うば玉の夜空の闇に油火のごとき野火見え寒き風吹く(その二)
 ちりぢりに燃ゆるはさびし烏羽玉の夜空のやみに見えわたる野火
 里人のはなてる野火は遠空の闇にわびしく燃えひろごれり
 幼くて見しふる里の春の野の忘られかねて野火は見るなり(その三)
 
    雪解川
 
 たまたまに出で來てわたる狩野川の水は張りたり雪解日和に
(260) 假橋をわたれば寒き風吹くや雪解の川の水はみなぎり
 橋錢《はしせん》をはらひてわたる假橋の板あやふくて寒き春風
 
    筬の音
 
 かすかなる羽蟲まひをり窓のさきけぶらふ春の日ざしのなかに
 畑中の草にうごける風ありてけふ春の日のうららけきかも
 かぎろひの昇りをるみゆ白菜の摘みのこされし庭の畑に
 窓下の霜の畑にかぎろひのたつ日をきこゆ隣家《となり》の機《はた》は
 藁屋根の軒端をぐらき北窓に起りゐて澄めりその筬の音《ね》は
 わが畑のさきの藁屋根いぶせきにその家の妻は機織りいそぐ
 窓あけて見てをれば畑のま向ひの家に織る機いよいよきこゆ
 畑爲事いまをすくなみ百姓の妻が織る機ひねもすきこゆ
(261) はるかなる聲にしきこゆ庭にいでて呼びかはしあそぶ妻子が聲は
 庭ききの屋敷畑にかぎろひののぼるを一日見つつさぴしき
 
    雲雀
 
 翔《ま》ひのぼり空の光にかぎろひて啼き入れる雲雀聞けばかなしも(その一)
 かそけくも影ぞ見えたる大空のひかりのなかに啼ける雲雀は
 天つ日にひかりかぎろひこまやかに羽根ふるはせて啼く雲雀見ゆ
 東風吹くや空にむらだつ白雲のしげきがなかに雲雀なくなり(その二)
 おほどかに空にうごける白雲の曇れる蔭に雲雀啼くなり
 
    冬拾遺
 
 時雨空|小《を》ぐらきかたにうかびたる富士の深雪《みゆき》のいろ澄めるかな
 門入れば庭の楓の散紅葉さびしくもあるか町のかへりに
(262) 障子さし電燈ともしこの朝を部屋にこもればよき時雨かな
 降りふらぬ寒き時雨の朝をいでて庭の落葉を見つつたのしき
 わが門ゆ眺むる富士は大方は見つくしたれどいよよ飽かぬかも
 愛鷹におほ雪降れり百襞の眞くろき森を降り埋みつつ(【註、この歌は前著『くろ土』と重出】
 この煙草味のにがきはわが心おちゐぬ故か朝のひなたに
 
    雜詠
 
 山の蔭此處の入江の奥まりに小波よせて梅の花咲けり(江の浦)
 笠なりのわが呼ぶ雲の笠雲は富士の上《へ》の空に三つ懸りたり
 砂丘《すなをか》のなぞへの畑の痩麥のほそき畝より啼きたつ雲雀(田子の浦)
 梅の花散りうかびたる池の面《おも》に降りしきる雨は音を亂さぬ(吐月峯庵)
 海鳥の風にさからふ一ならび一羽くづれてみなくづれたり(聖浦三首)
(263) 向つ國伊豆の山邊も見えわかぬ入江の霞わけて漕ぐ舟
 わがゆくやかがやく砂の白砂の濱の長手にかぎろひの燃ゆ
 庭さきの一もと蜜柑春の日のかぎろふなかに實をたらしたり
 頬かむり冠りて縁にもの縫へる妻がうしろでを親しとし見つ(縁側三首)
 もぎとりていまだ露けき椎茸を買へと持て來ぬ春日の縁に
 庭さきの籬根《かきね》のむかひゆく人にさゆるる日影かぎろひて見ゆ
 霞みあふ空のひかりに籠らひていろさびはてし富士の白雪
 をちこちに野火の煙のけぶりあひてかすめる空の富士の高山
 入海の向つ國山春たけてあをみわたれる伊豆の國山(聖浦)
 
    櫻と螻蛄
 
 夕霽《ゆふあがり》暮れおそきけふの春の日の空のしめりに櫻咲きたり
(264) 雨過ぎししめりのなかにわが庭の櫻しばらく散らであるかな
 さくら花まさかりのころを降りつぎし雨あがる見えて海の鳴るなり
 きくら花褪せ咲けるみゆめづらしくこよひを螻蛄の鳴ける夕に
 螻蛄の鳴く聲めづらしき春の夜のもののしめりは部屋をこめたり
 螻蛄の鳴く戸外《とのも》のしめりおもはるる今宵の灯影《ほかげ》あきらけきかな
 ひとところあけおく窓ゆかよひ來て灯かげにうごく春の夜の風
 
    櫻と鶫
 
 ひややけき風をよろしみ窓あけて見てをれば櫻しじに散りまふ
 春の日のひかりのなかにつぎつぎに散りまふ櫻かがやけるかも
 畑なる蠶豆《そらまめ》の花の久しきに散りかかりたりさくらの花は
 庭くまの落葉の上に散りたまりさくら白きに鶫來てをる
(265) 朽葉なす鶫の腹のいろさびて歩めるあはれわが見てをるに
 
    櫻と雀
 
 雀子の啼く聲しげしこの朝明ふりいでし雨はとほり雨ならむ
 散りのこる梢の櫻雨すぎしこの朝照にらりいそぐかも
 けふあたり名殘と思ふはなびらの櫻ほの白く散りまへるかも
 散りたまる樋《とひ》の櫻のまひ立つや雀たはむれ其處にあそぶに
 わが借りて住へる家の古ければ多き雀子朝夕になく
 
    鹽釜櫻
 
 曉の明けやらぬ闇にふりいでし雨を見てをり夜爲事を終へ
 うすれゆく曉闇にあめ降りて鹽竈櫻さむけくぞみゆ
 ひともとの稚木のさくらしほがまの八重咲く花の咲きしだれたり
(266) 稚木なる枝をみじかみたわたわに咲きかたまれる鹽竈櫻
 
    庭
 
 わが小犬あそびどころとあそぴをる庭の芝生にわれも出でたり
 數あらぬ庭木をわたる春風のとよみてきこゆわが立ち寄れば
 桃さくら咲きつぐなかにわが庭の松のしん白く伸びそろひたり
 庭に出でてみるわが部屋のうす暗く冷たきさまのなつかしきかな
 雲雀なく空の青みのけぶらひて心うら悲し庭に立ちつつ
 庭先の松のしげみに立ちてゐて聞くとしもなき鶯のこゑ
 わが門を流るる溝のみぎはなる藪にこもりてうぐひすの啼く
 
    小松原
 
 川向ひつづきはるけき松原の野邊の窪みに霞たちたり(その一)
(267) おほどかに傾斜《なぞへ》つくれる小松原小松のしんは伸びそろひたり
 川向ひ小松が原の廣原にこもりゐてうたふ唄聲きこゆ
 松原の廣きに起りひとところ動かぬ唄をききて久しき
 松原の廣きがなかに立ちまじる雜木の若葉けぶらひてみゆ
 鶯は巣のそば去らず啼く鳥の啼きてこもれり小松が原に(その二)
 松原のはしの岩山岩が根の裂目をつづる丹つつじの花
 ところどころ岩あらはなる山窪の小松が原にうぐひすの啼く
 伸びそろふ小松のしんのほの白くけぶらふ原にうぐひすの啼く
 
    河鹿
 
 丸木橋しめりあやふき曙にわがわたりゆけば河鹿なくなり(湯ケ島にて)
 水際なる岩のしめりのまだ深きこの曙を河鹿なくなり
(268) 山魚《やまめ》釣ると人身を臥せて這ひてをる岩の上なる山櫻花
 溪ばたの湯槽《ゆぶね》にをりて玻璃窓のうるほふみれば朝明くるなり
 水上の峽間を深くとざしたる雲はうごかで朝あけむとす
 樫の葉ぞしげり垂りたる瀬の音は其處におこりて部屋にかよふなり
 溪ばたの樫のかがやきふかみつつわびしき春の晝となりゆく
 溪端の淺き木立の椿の花らりのこりゐて河鹿なくなり
 
    吾子富士人
     四月廿六日次男誕生、富士人と名づく、今までになき可愛ゆさを覺ゆるも早や父となりはてし心からにや。
 春の夜の曉かけてさし昇る月にかすめり香貫の山は(その一、産婆をよびに)
 麥の穗にをりをりさはりゆく路に月のさしゐてこころかなしも
 生れ來てけふ三日《みか》を經つ目鼻立そろへるみれば抱《だ》かむとぞおもふ(その二)
(269) 貧しくてもはやなさじとおもひたる四人目《よたりめ》の子を抱けばかはゆき
 兄ひとり姉のふたりに増すとさへ恩はれてこの子いとしかりけり
 吾子《あこ》いまし睡入《ねい》るとすらし泣聲のかすけくなりて守唄きこゆ
 四人《よたり》をる吾子のなかなるすゑの子のみづごかはゆしわが年ゆゑに(その三)
 四人目の末のみづごのとりわけてかはゆしおのれ病みがらにして
 
    病み易くて
 
 年月のつかれ出で來てわが病めば咲きてあざやけき夏草の花(その一)
 つぎつぎに病みてしをれば家ごもり庭掃きくらす草花を植ゑ
 むしあつき梅雨あがり日を風邪ひきて汗ながしつつ庭木見てをる(その二)
 かりそめに冷えしとおもふたちまちに風邪ひきてこころ寒けかりけり
 汗くさき風邪の床出で庭先の花に水やる咳きむせびつつ
(270) 雨土用と今年いふべき雨おほき夏をこもりて風邪ひきくらす
 
    梅雨
 
 生垣に木がくりみゆる門さきの田植の人に雨のふるなり
 雨いよよふれば田植うる人々の寄りきていこふわが門の木に
 さやさやと音たてて來し雨脚のいま降りかかる窓さきの木に
 梅雨ふるや瓶に挿せればくれなゐのしみじみ深きダアリヤの花
 
    梅雨晴
 
 うす日さす梅雨の晴間に鳴く蟲の澄みぬるこゑは庭に起れり
 雨雲の今日の低きに庭さきの草むらあをみ夏蟲ぞ鳴く
 一重咲ダリヤの花のくれなゐの澄みぬるかなや梅雨ばれの風に
 眞白くぞ夏萩咲きぬさみだれのいまだ降るべき庭のしめりに
(271) 雀とると飽かぬ仔犬がたくらみの小走りをかし梅雨の晴間を
 
    或る朝
 
 この朝を事あるらしき燕《つばくら》のさへづりきこゆ庭木の風に
 苔のうへ這ひゆく蟻に心とまるこのわびしさのなほ深めかし
 ゐつたちつわびしき時は軒下の鷄に餌をやり親しむ事す
 わが門のまへうちわたす狹青田《さあをだ》のはるけきかたに田草とるみゆ
    草花
 
 橋こえて入るわが門の庭路に植ゑならべたるコスモスの苗
 コスモスの茂りなぴかひ伸ぶみれば花は咲かずもよしとしおもふ
 借り住ふふるき邸のくまぐまのすたれし園に時の花咲く
 時くれば咲きつぐ花を八重むぐら荒れたる庭に見つつ樂しき
(272) 居てみるやならびて咲ける草花の色香とりどりに飽く花ぞなき
 目に見えて肥料《こやし》利きゆく夏の日の園の草花咲きそめにけり
 朝夕に咲きつぐ園の草花を朝見ゆふべ見こころ飽かなく
 いま咲くは色香深かる草花のいのらみじかき夏草の花
 泡雪のましろく咲きて莖につく鳳仙花のはなの葉ごもりぞよき
 雪なせる白きをみれば鳳仙花咲き競ふ色のこれに如かめや
 朝夕につちかふ土の黒み來て鳳仙花のはな散りそめにけり
 鳳仙花いろとりどりに取り置かむ種を選ぶとしめむすぶなり
 
    夏の雨
 
 飯《いひ》かしぐゆふべの煙庭に這ひてあきらけき夏の雨は降るなり(その一)
 はちはちと降りはじけつつ荒庭の穗草がうへに雨は降るなり
(273) にはか雨降りしくところ庭草の高きみじかき伏しみだれたり(その二)
 澁柿のくろみ茂れるひともとに瀧なして降るゆふだちの雨
 
    こもりゐ
 
 北南あけはなたれしわが離室《はなれ》にひとりこもれば木草見ゆなり
 青みゆく庭の木草にまなこおきてひたた靜かに籠れよとおもふ
 めぐらせる大生垣の槇の葉の伸び清らけしこもりゐてみれば
 門口のふりぬる橋のみじかきをわたりわたらずあそぶ夕暮
 こもりゐの家の庭べに咲く花はおほかた紅し梅雨あがるころを
 焚く香《かう》のにほひほのかにこもりたる夏《け》ごもりのわが部屋をよしとす
 かきこもり此處に住めれど明日知らぬ家なし人は家をおもへり
 
    疲勞
 
(274) 怠けゐてくるしき時は門に立ち仰ぎわびしむ富士の高嶺を
 怠けつつ心くるしきわが肌の汗吹きからす夏の日の風
 門口を出で入る人の足音に心冷えつつ怠けこもれり
 心憂く部屋にこもれば夏の日の光わびしく軒にかぎろふ
 なまけをるわが耳底に浸みとほり鳴く蝉は見ゆ斬ちかき松に
 無理強ひに爲事いそげば門さきの田に鳴く蛙みだれたるかな
 蚤のゐて脛《はぎ》をさしさすゐぐるしさ日の暮れぬまともの書きをれば
 わが側に這ひよる蜘蛛を眺めゐてやがて殺しぬ机のかげに
 
    庭の畑
 
 しこ草の茂りがちなる庭さきの野菜畑に夏蟲の鳴く
 葱苗のいまだかぼそくうす青き庭の畑は書齋より見ゆ
(275) いちはやく秋風の音《ね》をやどすぞと長き葉めでて蜀黍《もろこし》は植う
 その廣葉夏の朝明によきものと三畝がほどは芋も植ゑたり
 もろこしの長き垂葉にいづくより來しとしもなき蛙《かはづ》宿れり
 今は早や捩がむと思《も》へど惜しまれて見つつただ居り蜀黍の實を
 紫蘇蓼のたぐひは黒き猫の兒のひたひがほどの地《つち》に植ゑたり
 青紫蘇のいまださかりをいつしかに冷やし豆腐に我が飽きにけり
 朝ゆふべつちかひながらわが植ゑしもののたぐひに愛憎のわく
 
    夏富士
 
 雲まよふ梅雨明空のいぶせきに曉ばかり富士は見らるる
 紫に澄みぬる富士はみじか夜の曉起きに見るべかりけり
 たづね來て泊れる人をゆり起す夏めづらしき今朝の富士見よ
(276) めづらしくこの朝晴れし富士が嶺を藍色ふかき夏空に見つ
 陰ふくみ湧き立ち騒ぐ白雲のいぶせき空に富士は籠れり
 叢雲にいただき見する愛鷹の峰の奥ぞと富士を思へり
 夏雲の垂りぬる蔭にうす青み沼津より見ゆ富士の裾野は
 
    雜詠
 
 梅雨晴のわづかのひまに出でてみる庭の柘榴の花はまさかり
 散りたまる柘榴の花のくれなゐをわけてあそべり子蟹がふたつ
 ゆきあひてけはひをかしく立ち向ひやがて別れてゆく子蟹かな
 庭木草あをみくろずみ茂りゆく梅雨夏かけてわびしかりけり
 生垣の槇の若葉の色ふかみ土用わびしき風は吹くなり
 いささかの蜆煮なむと眞清水にひたし生けおく夏のゆふぐれ
(277) 伸びすぎて葉のみしげれる蜀黍に紅の毛たらす實をいまだ見ず
 ひとの畑の蜀黍は痩せて實をもちつわがのはただに青みしげれり
 桃色の緋桃のいろの耳朶《みみたぶ》の少女は泳ぐ邊浪がなかに
 岸邊こそ浪は繁けれ沖邊さし泳ぎてゆけや耳あかき子よ
 蟻の蟲庭這ひめぐり群がれる眞黒き姿眼にいたきかな
 蟻の蟲庭這ひめぐり日に透きて青き葉蘭の葉かげにも見ゆ
 繋山のしげりて黒き愛鷹の峰のとがりの夏の色濃さ
 片空に凝りゐる雲の下かげに長き尾ひけり富士の裾野は
 みじか夜のいまだ小案暗き明方のとほ山に湧く雲の眞白さ
 蝉なくや西ゆひがしゆ庭の木ゆ或は軒端の廂ゆ聞ゆ
 
    温泉宿の庭
 
 (278) みじか夜をひびき冴えゆく築庭の奥なる瀧に聞き恍けてゐる(吉奈温泉にて)
 燈火《ともしび》のとどかぬ庭の瀧の音をひとりききつつ戸をさしかねつ
 水口につどへる群のくろぐろと泳ぎて鮒も水も光れり
 鶺鴒《いしたたき》あきつ蛙子《かへるこ》あそぴ恍け池にうつれる庭石のかげ
 まひおりて石菖のなかにものあさる鶺鴒の咽喉の黄いろき見たり
 庭石のひとつひとつに蜥蜴ゐて這ひあそぶ晝となりにけるかな
 
    裾野村
 
 日の光つゆけき朝の豆畑のなかみらゆけば埃立つなり
 籬木槿《かきむくげ》むらさきに咲く裾野村石ころ路を日暮下れり
 杉山の木叢《こむら》がうへにかかりたるゆふぐれの月は十日ごろの月
 みそ萩の花さく溝の草むらに寄せて迎火たく子等のをり
(279) みそ萩の花にほこりのほのみえて葉がくれにゆく水の音《ね》きこゆ
 盂蘭盆に今宵ありけりみそ萩の花咲く溝を見つつ思へば
 蜩の鳴くゆふぐれの旅籠屋に煙草ほろにがく喫ひてをるなり
 竹やぶに鷄をりてものあさるけはひ久しき夏の夕ぐれ
 畦《あぜ》に立つ蜀黍の葉の長き葉の垂りてつゆけき今宵の月夜
 とびとびに立ちてさびしき月の夜の蜀黍は見ゆ桑畑の畔《くろ》に
 
    鶺鴒と河鹿
 
 脚ほそき鶺鴒鳥《いしたたきどり》は岩蔭にわがをる知らず岩の上《へ》に啼く
 水あげて瀬に立ちならぶ石ごとに糞してあそぶ鶺鴒鳥
 弱蟲まつ河鹿が背《せな》は痩せやせて黒みちぢめり飛沫《しぶき》のかげに
 淵尻の岩端《いわはな》にゐて羽蟲とる河鹿しばしば水に落つるなり
(280) 岩の間をねりて流るる荒き瀬の底ひに水の玉湧き流る
 
    夜の蝉
 
 目ざめゐて夜半の署きに耳を刺す蝉の聲おほし家のめぐりに
 夜さわぐをちこちの蝉のけうときに馬追蟲は蚊帳に來て鳴く
 
    秋近し
 
 何はなくたべむと思ふたべものも秋めくものかこもりてをるに
 畑なかの小徑をゆくとゆくりなく見つつかなしき天の河かも
 天の河さやけく澄みぬ夜ふけてさしのぼる月のかげはみえつつ
 うるほふとおもへる衣《きぬ》の裾かけてほこりはあがる月夜のみちに
 野末なる三島の町の揚花火月夜の空に散りて消ゆなり
 園の花つぎつぎに秋に咲きうつるこのごろの日のしづけかりけり
(281) うす青み射しわたりたる土用明けの陽ざしは深し窓下の草に
 秋づきしもののけはひに人のいふ土用なかばの風は吹くなり
 愛鷹の根に湧く雲をあした見つゆふべみつ夏のをはりと思ふ
 明け方の山の根にわく眞白雲わびしきかなやとびとびに湧く
 
    大野原の秋
     富士の南麓にあたる裾野を大野原と呼ぶ、方十里にも及びたらむか、見る限りの大野原なり。
 富士が嶺や麓に來り仰ぐときいよよ親しき山にぞありける
 富士が嶺の据野の原の眞廣きは言に出しかねつただにゆきゆく
 富士が嶺に雲は寄れどもあなかしこ見てあるほどにうすらぎてゆく
 大わだのうねりに似たる富士が嶺の裾野の岡のうねりおもしろ
 穂すすきの原まひわたるつぶら鳥うづらの鳥は二つならびとべり
(282) つつましく心なりゐて富士が嶺の裾野にまへるうづら鳥見つ
 富士が嶺の裾野の原のくすり草せんぶりを摘みぬ指いたむまでに
 富士が嶺の裾野の原をうづめ咲く松蟲草をひと日見て來《き》ぬ
 なびき寄る雲のすがたのやはらかきけふ富士が嶺の夕まぐれかな
 
    茅萱が原
 
 かすかなる花にもあれや背低松たちならぶ岡の茅萱の花は
 はたはたと茅萱が原の日あたりに機織蟲は音たててとぶ
 飛ぶかげのをりをり見えて萱原の垂穗が原に蟲の鳴くなり
 秋の野を朝明《あさけ》登ればおきわたすしら露の上に落つる吾が影
 
    東京まで
     近年胃腸の衰へたる事甚し、信濃なる白骨温泉はその病によしとききて九月中旬遙々と沼津より出で立つ。
(283) まひのぼる朝あがり雲の渦卷の眞白きそらに富士の嶺見ゆ
 うとうとと汽革にねむればときをりに法師蝉きこゆ山北あたり
 相模なる松田の驛に下りてゆく小間物商も秋めけるかな
 秋風の藍色の海に三つ二つうかびゐてちさき海人の釣舟
 川向ひ松原のかげの桑畑に吹く秋風はみだれたるかな
 
    白骨温泉
 
 山路なる野菊の莖の伸びすぎて踏まれつつ咲けりむらさきの花
 おほかたの草木いろづける山かげの蕎麥の畑を刈り急ぐ見ゆ
 湯の宿のゆふべとなれば躬みづからおこしいそしむこれの炭火を
 消えやすき炭火おこすといつしかにこころねもごろになりてゐにけり
 露干なば出でてあそばむあかつきの薄が原の露のかがやき
(284) 四方の峰曇りて薄輝かぬ野なかの樺に百舌鳥のゐて啼く
 來て見れば山うるしの木にありにけり樺の林の下草紅葉
 冬山にたてる煙ぞなつかしきひとすぢ澄めるむらききにして
 枝ほそき落葉木立にくれなゐの實をふさふさと垂らす木のあり
 鋼《はがね》なす落葉の木木のかがやきをひもすがら見て山ゆくわれは(上高地へ)
 
    上高地附近
     上高地附近のながめ優れたるは全く思ひのほかなりき、山を仰ぎ空を仰ぎ森を望み溪を眺め涙端なく下る。
 いわけなく涙ぞくだるあめつちのかかるながめにめぐりあひつつ
 またや來むけふこのままにゐてやゆかむわれのいのちのたのみがたきに
 まことわれ永くぞ生きむあめつちのかかるながめをながく見むため
 山七重わけ登り來て斯くばかりゆたけき川を見むとおもひきや(梓川)
(285) たち向ふ穗高が嶽に夕日さし湧きのぼる雲はいゆきかへらふ
     わが伴へる老案内者に酒を與ふれば生來の好物なりとてよろこぶこと限りなし。
 老人《としより》のよろこぶ顔はありがたし殘りすくなきいのちをもちて
 
    燒嶽頂上
     上高地より燒嶽に登る、頂上は阿蘇淺間の如く巨大なる噴火口をなすならずして隨所の岩蔭より煙を噴き出すなり。
 群山のみねのとがりのまさびしく連なれるはてに富士の嶺見ゆ
 登り來て此處ゆのぞめば汝《なれ》がすむひんがしのかたに富士の嶺見ゆ(【繪葉書にかきて妻へ】
 岩山の岩の荒肌ふき割りて噴きのぼる煙とよみたるかも
 わが立てる足もとにひろき岩原の石のかげより煙湧くなり
 聽きすます耳にしみ入り足もとに湧き昇る煙とよみたるかも
 降りゆくとわが見おろせば秋日さし飛騨の山川うららけく見ゆ
 
(286)    原始林
     燒嶽より飛騨國中尾村をさして下るに路二里がはど斧鉞を知らぬ大森林のなかをゆくなり。
 双手もて杖をつきたて立ちいこふ森の深みにわが心燃ゆ
 まなかひの老樹の幹のつらなりを見ゐつつ心さわだたむとす
 岩山に大樹《おほき》しみ立ち樹々の根の岩に苔むせり森のかぎりに
 時知らぬ樹々のよはひぞおもはるる森のかぎりの樹々をあふぎつつ
 日の光とほく洩れ來つ老樹なる根方のわれに射して寒けき
 何の葉とかしこみてとる足もとのこれの落葉は笠の大きさ
 醜さは下下の獣にさこそ似め岩這ひくだるわれの姿の
 
    野口の簗
     そのすゑ神通川に落つる飛騨の宮川は鮎を以て聞ゆ、雨そぼ降る中を野口の簗といふに遊びて。
(287) 時雨ふる野口の簗の小屋にこもり落ちくる鮎を待てばさびしき
 たそがれの小暗き闇に時雨降り簗にしらじら落つる鮎おほし
 簗の簀の古りてあやふしわがあたり鮎しらじらと飛び躍りつつ
 かき撓み白う光りて流れ落つる浪よりとびて跳ぬる鮎これ
 おほきなる鯉落ちたりとおらび寄る時雨降る夜の簗のかがり火
 
    惠那曇
 
     美濃の國中津町在永瀧の鳥舍といふに小鳥網を見る。「小笠置晴れて惠那曇」と日和を占ふ土地の言葉の通りの寒き朝なりき、小笠置は北に惠那は南にそびゆ。
 惠那ぐもり網張りて待つ松原のいろの深きに小鳥寄りこぬ
 惠那ぐもり寒けき朝を網張りて待てば囮のさやか音《ね》に啼く
 小松原寒けきかげにかくされて囮のひはの啼きしく聞ゆ
(288) 網張りて待つやささ鳥ちちちちと啼きて空ゆくそのささ鳥を
 
    百舌鳥と鮒
 
 秋百舌鳥の高啼くこゑは軒にひびき部屋に響きて居るにをられぬ
 吾をよぶ吾が子の聲のわびしさよをちこちに啼く百舌鳥ききをれば
 百舌鳥啼くや居るにをられぬわびしさの募れる今朝を釣に出でゆく
 鮒釣るといそぐ田中のほそ路のゆきどまりなる藪に百舌鳥啼く
 冷やけき稻田の路をゆきすぎて通る豆畑にこほろぎの鳴く
 藪かげに新聞紙敷きてかき坐り寄る鮒まつよ一すぢの糸に
 小舟もて釣りゆく人の羨《とも》しさよ竹藪かげに糸を垂れつつ
 陸釣《をかづり》は如何にやと棹の手をとめて聲かけてゆく沖釣人は
 
    小鳥鶲
 
(289) 夙《と》くおきて机によれば木枯の今朝吹きたたず鶲《ひたき》啼くなり
 わが庭に來啼くひたきを知りそめて朝々待つぞたのしかりける
 桔芝に垂りたる梅の錆枝《さびえだ》にひたき啼きゐて冬晴の風
 枯落葉ちらばり動く風の日に鶲はひくき枝にのみ啼く
 まひうごく庭の落葉の色冴えて風あかるきに鶲なくなり
 
    煙草
 
 眼にふりて惶しくもとりあげつ膝の蔭なりしこれの煙草を
 うつつなく喫ひつけて口にふくみたる爲事なかばのいつぷく煙草
 よき煙草あしき煙草のけぢめなど忘れて今はただに喫ふ煙草
 手離さぬ煙草にしあれどしみじみとうましと喫ふはいくたびならむ
 人目さけてひとりこもらふたのしさよ煙草の煙むらさきにたつ
 
(290)    夕日と食慾
 
 木枯のをりをり響きわたりつつ窓の日ざしはいよよ澄みたり
 ガラス越し射す日ながらにわが頬にほてりおぼゆる今日の冬の日
 わが窓のくもりガラスに含み照る冬の日ざしはあきらけきかも
 午《ひる》かけて窓に射したる冬の日の日ざし永しとたのしみ向ふ
 落つる日のかがやきみせてガラス戸はいま冷やかに照りわたりたり
 夕日影窓につめたき部屋にゐてこよひは何をたべむと思へり
 身にしみてうましとおもふたべものを何はおきても食べたきゆふべ
 よるべなきけふの心のわびしさのかすかに動くたべ物の慾に
 このゆふべ食べたしと思ふ何ならむ思ひまはせどおもひあたらぬ
 
    雜詠
 
(291) いつ注《つ》ぐもこぼす癖なるウヰスキイこぼるるばかり注がでをられぬ
 わが舊き歌をそぞろに誦《ず》しをればこころ凪ぎ來ぬいざ歌詠まむ
 借り住まふ家の庭木のとぼしきに春はやくいでてうぐひすの啼く
 雪どけの雫軒端にあまねきに庭の木立にうぐひすの啼く
 とりどりの煙あがれり斑《はだ》ら雪消えのこる田の田末の町に
 
    入江の冬
 
 わが傍《かたへ》追ひ越す人のあまたありて冬田の中の路は晴れたり(靜浦附近)
 冬田中あらはに白き路ゆけばゆくての濱にあがる浪見ゆ
 田につづく濱松原のまばらなる松のならびは冬さびてみゆ
 朝たけて晝と思ふに松原の松の根に這ふ冬の靄かも
 桃畑を庭としつづく海人が村冬枯れはてて浪ただきこゆ
(292) 海人が家《や》に飼ふ者あらし入江なる冬枯の木に鳩の群れをり
 門ごとに橙熟れし海人が家の背戸にましろき冬の浪かな
 冬さびし靜浦の濱にうち出でて仰げる富士は眞|白妙《しらたへ》なり
 うねりあふ浪相打てる冬の日の入江のうへの富士の高山(靜浦より三津へ渡る、二首)
 浪の穗や音にいでつつ冬の海のうねりに乘りて散りて眞白き
 冬日いまだ晝に昇らず小松山襞折り合ひて影のこまかさ(江の浦附近)
 松山はかげりふかけど山の裏くぬぎが原の冬日うららか
 舟ひとつをりて漕ぐみゆ松山のこなたの入江藍の深きに
 釣絲をものに卷きつつさざ波のかがよふ舟に一人居る見ゆ
 奥ひろき入江に寄する夕潮は流れさびしき瀬をなせるなり
 うち越えて路にあがれる浪の泡夕日にさむくかがやけるかな
(293) しみじみと寒き夕日になりにけり入江の奥に波のさざめき
 足もとにさわげる浪は滿潮のゆたけき音をたたへたるかな
 網あぐる海人がさけびのもはらなる造のかたへに筬の音《ね》きこゆ
 曳網の綱の尻とり老いたるはその綱たたむ石の上にまろく
 舟に叫ぶ海人が叫びはおほかたは海人どちにのみきこゆべらなる
 大船の蔭にならびて泊せる小舟小舟に夕げむり立つ
 大根を煮るにほひして小さなる舟どち泊る冬の夕ぐれ
 砂の上にならび靜けき釣舟の冬さびはてて乾けるあはれ
 
    伊豆石山
 
 小松山なぞへの圓み掘りさきて冬の日なたに石切り出す
 沖爲事冬をすくなみ海人がどち海岸《うみぎし》の山に群れて石切る
(294) 伊豆石のやはらかき石冬草の原につまれて眞白なるかも
 見てあれば眞白き石にむらさきのあはき影させり積まれし石は
 石山に立てる男の衣の色切り出《いだ》す石に似て眞白なる
 己が身を縄にくくりつ千尋なす崖のさなかに居りて石切る
 眞白なる幕垂りなせる石山の崖に吊られて石切れり人
 人黒く並びゐて掘る石山の切りそぎ崖の冬の夕ばえ
 石山の切りそぎあとのましろきに音立てて落つ眞白き石は
 石山の崖の端《は》に立つ鍔廣《つばびろ》の帽子の人のあざやけきかも
 海人が村裏の岩山にとりどりに洞をうがちて物置けり見ゆ
 おのづから遊びよげなるなぞへして冬草山は子等を遊ばす
 夕日射す冬野のなかに人うごき枯草の色あざやけきかも
 
(295)    静かなれ心
     年いつしか暮れむとするに驚きて惶しく刷らせたる年賀状の端に書きつけし歌。
 年ごとに年の過ぎゆくすみやかさ覺えつつ此處に年は迎へつ
 寄る年の年ごとにねがふわがねがひ心おちゐて靜かなれかし
 去年《こぞ》あたり今年にかけていよよわが靜かなれとふこころは募る
 あさはかのわれの若さの過ぎゆくとたのしみて待つこころ深みを
 わが生きて重ねむ年はわかねどもいま迎ふるをねもごろにせむ
 
(296)    土肥温泉にて(大正十一年)
     一月一日、沼津狩野川々口より伊豆國土肥温泉に渡り十日あまり滯在す。
 奥山にはだら雪積み伊豆の國の海邊柴山時雨ふるなり(船中雜詠五首)
 寒《かん》の雨しらじら降りて柴山のはづれにかかる瀧のかすけさ
 冬の雨しき降る海ゆ寄る浪の高くあがらず岸に眞白き
 崖下のうねりの浪にゆられつつこの小《ち》さき船は岸に沿ひたり
 冬さびて赤みわたれる斷崖《きりぎし》の根に寄る浪はかすかなるかな
 柴山のかこめる里にいで湯湧き梅の花咲きて冬を人多し
 湯の宿のしづかなるかもこの土地にめづらしき今朝の寒さにあひて
 わが泊り三日四日《みかよか》つづき居つきたるこの部屋に見る冬草の山
 わが坐るま向ひの方ゆひぴきくる冬の夜ふけの海のとどろき
(297) この里に梅の花咲けりうちわたす枯柴山に杉は赤錆び
 北の風かすかに吹きて椿の葉枇杷の葉光り繍眼兒《めじろ》よく啼く
 少女《をとめ》にや嫗にや青き襟卷のくぐみゆく見ゆ霜田の末を
 麥を踏む背高き叟《をぢ》の頬かむりひねもすを居る其處の麥田に
 冬草の山のくぼみの楢の木にのこる枯葉の色のさやけさ
 朝を注《つ》ぐ紅茶の色の楢の葉のなほ落ちやらず春立つといふに
 夕凪の日和癖なる雲燒けて染め來《きた》るなりわが向ふ窓を
 雪もよひ寒けき空にうち群れて千羽鴉わたるこの里の上を
 温泉尻《いでゆじり》ながれて湯氣のたつ濱の芥の霜に鴉群れたり
 空に居る雲うす赤し入りつ日の沿えのこりたる冬山のうへに
 わが向ふ冬草山の上に垂りて雪をふくめるあかつきの雲
(298) 雲いまだうかばぬ朝の凍空《しみぞら》の青みをかぎる冬草の山
 柴山の尾根のわかれの山窪ゆ光さし來て昇る冬の日
 柴山の尾根よりいづる冬の日はひたと射したりわが坐る部屋に
 山の端にけぶらふ朝日麓田の枯田の霜をなかば照せり
 朝日子の光とどかぬ麓田の奥の根方の田の霜ぞ濃き
 向つ山なぞへに立てる炭燒の煙にやどる冬の日のかげ
     土地に梅おほし、暖き所とて一月初めにはや白白と咲き出づ、梅の歌五首。
 道ばたの古寺のかどのたかむらの蔭に見出でし梅の初花
 青竹のしみ立つかげにほそほそと枝を垂りつつ咲けるこの梅
 ひややけき日蔭に咲ける白梅のしみみに咲きて花のちひささ
 たかむらの小暗き蔭に浮き出でて咲く梅の花は雪のちひささ
(299) この梅はものをかもいふ居向ひて久しくみれば花のかはゆさ
 伊豆の國に我が居て見やる海むかひ雪かづき伏せる甲斐信濃の山
 甲斐信濃の山とわが思ふ遠山は雪をかづきてこちごちに立つ
     妻、沼津より明日來らむといふ夜俄かに風の吹き立ちければ。
 我妹子が明日を船出しわれを見に來むといふ今宵風吹き立ちぬ
 風の音つねならず身にこたふるは來ぬ我妹子をおもふゆゑにぞ
 末の子を抱きかきよせ今宵この風をなげきてあるらむ我妹
 いとし兒を四人《よたり》まうけついつしらずをみなさびしてよろしき我妹 我妹子のこころはひたにわれに向ふ我妹子のこころたもたざらめや
 
    梅の歌
 
 借り住まふ邸の庭にかぞふれば木がくれて咲く五本の梅
(300) 春はやく咲き出でし花の白梅の褪せゆくころぞわびしかりける
 花のうちにさかり久しき白梅の咲けるすがたのあはれなるかも
 老いたるは夙く散りうせつ枝長き若木の梅は褪せながら咲く
 ゆくさくさ仰ぎてすぐるわが門のあせぬる梅をうとみかねたり
 庭石の錆びたる上に枝垂れて咲きぬる梅の花のましろさ
 
    とある酒場にて
 
 停車場に人を送りてかへるさの夜更に寄れる酒場《バア》の三人《みたり》ぞ
 いとはだらに鬢の毛白き老教授はウヰスキイを呼ぶわれも然かせむ
 テーブルの上に枝張れる盆栽をかたよせて語る夜ふけの三人
 話やがて深山《みやま》の鳥の聲に及びわれおもひいでぬくさぐさの鳥を
 秋空にとべる尾長の尾長鳥のさびしき姿をおもひいでたり
(301) みちのくに豆蒔鳥と呼ぶ鳥の郭公の聲をおもひいでたり
 
    山ざくら
     三月末より四月初めにかけ天城山の北麓なる湯ケ島温泉に遊ぶ、附近の溪より山に山櫻甚だ多し、日毎に詠みいでたるを此處にまとめつ。
 うすべにに葉はいちはやく萌えいでて咲かむとすなり山櫻花
 うらうらと照れる光にけぶりあひて咲きしづもれる山ざくら花
 花も葉も光りしめらひわれの上に笑みかたむける山ざくら花
 かき坐る道ばたの芝は枯れたれや坐りて仰ぐ山ざくら花
 おほみ空光りけぶらひ降る雨のかそけき雨ぞ山ざくらの花に
 瀬々走るやまめうぐひのうろくづの美しき頃の山ざくら花
 山ざくら散りしくところ眞白くぞ小石かたまれる岩のくぼみに
(302) つめたきは山ざくらの性《さが》にあるやらむながめつめたき山ざくら花
 岩かげに立ちてわが釣る淵のうへに櫻ひまなく散りてをるなり
 朝づく日うるほひ照れる木がくれに水漬《みづ》けるごとき山ざくら花
 峰かけてきほひ茂れる杉山のふもとの原の山ざくら花
 吊橋のゆるるちさきを渡りつつおぼつかなくも見し山ざくら
 椎の木の木《こ》むらに風の吹きこもりひと本咲ける山ざくら花
 椎の木のしげみが下のそば道に散りこぼれたる山ざくら花
 とほ山の峰越《をごし》の雲のかがやくや峰のこなたの山ざくら花
 ひともとや春の日かげをふくみもちて野づらに咲ける山ざくら花
 刈りならす枯萱山の山はらに咲きかがよへる山ざくら花
 萱山にとびとびに咲ける山ざくら若木にしあれやその葉かがやく
(303) 日は雲にかげを浮かせつ山なみの曇れる峰の山ざくら花
 つばくらめひるがへりとぶ溪あひの山ざくらの花は褪せにけるかも
 今朝の晴青あらしめきて溪間より吹きあぐる風に櫻ちるなり
 散りのこる山ざくらの花葉がくれにかそけき雪と見えてさびしき
 山ざくら散りのこりゐてうす色にくれなゐふふむ葉のいろぞよき
 
    富士の歌
     或る日天城山なる噴火口の跡と云へる青篠の池に遊ぶ、ゆくゆく顧れば富士うららかに背後に聳えたり。
 わが登る天城の山のうしろなる富士の高きはあふぎ見飽かぬ
     高山にのぼらざれは高山の高きを知らずとか云へる言葉ありしをおもひ出でて一首。
 たか山にのぼり仰ぎ見高山のたかき知るとふ言《こと》のよろしさ
 山川に湧ける霞のたちなづみ敷きたなびけば富士は晴れたり
(304) まがなしき春の霞に富士が嶺の峰なる雪はいよよかがやく
 富士が嶺の裾野に立てる低山の愛鷹山は霞みこもらふ
 愛鷹の裾曲《すそみ》の濱のはるけきに寄る浪しろし天城嶺《あまぎね》ゆ見れば
 伊豆の國と駿河の國のあひだなる入江のま中漕げる舟見ゆ
 
    湯ケ島雜詠
 
 うちわたす萱野が腹の枯萱は刈りならされて積まれたり見ゆ
 瀬々に立つあしたの靄のかたよりてなびかふ藪にうぐひすの啼く
 この岩の苔の乾きのぬくときに寢てをれば淵にあそぶ魚見ゆ
 ひたひたと水うちすりてとぶ鳥の鶺鴒《いしたたき》多しこの谷川に
 たぎち落つる眞白き水のくるめきのそこひ青めり春の日なたに
 岩窪の砂のたまりに瀧つ瀬のしぶきは飛び來《く》日のいろに照り
(305) かちわたり濡れし足ふく川ばたの枯芝腹のつぼすみれ花
 人の來ぬ谷のはたなる野天湯《のてんゆ》のぬるきにひたるいつまでとなく
 椎の落葉ちりたまりゐてくされたる野天《のてん》いで湯に入りてひそけし
 淵尻の淺みの岩に出でてをる鰍《かじか》のすがた靜かなるかも
 やはらかく芽ぶける木木にかくろひて散りのこりたる山椿の花
 窓さきの冬の木に來て啼く鳥は昨日もけふも山雀《やまがら》の鳥
 目白鳥なきすぎゆけば朝靜《あさしづ》の庭木がうれに山雀の啼く
 石菖の花咲くことを忘れゐきうすみどりなる石菖の花
 道うへの井手に茂りて片なぴく石菖草《せきしやうぐさ》の風のかがやき
 なめらかに水越えおつる濡石に鶺鴒《いしたたき》ゐて啼く聲きこゆ
 ならぴ立つ赤松が根の下草のしげみの露に小鳥なくなり
(306) わが宿のいで湯の湯氣のすゑのびて谷むかひなる杉山に見ゆ
 吊橋の上《かみ》は木立のさびしさよ川下とほき瀬々の月かげ
 瀬々に立つ石のまろみをおもふかな月夜さやけき谷川の音《おと》に
 鐵瓶のふちに枕しねむたげに徳利かたむくいざわれも寢む(深夜獨酌)
 梨の木にまとへる藤の咲きいでて梨かとぞまがふ梨の花のあひに
 茂り葉にこもりて白き房花の咲きしだれたる茂り葉馬醉木
 雪なせるましろき房のすずなりに咲きて垂りたり馬醉木の花は
 岩ごとにせまりて白き瀬をなせるたぎつ谷川に釣る山魚《やまめ》なり
 青あらし吹き落ち來る谷川の椎の木かげをゆき行きて釣る
 川下ゆ釣りもて來《きた》る二人づれの釣るとも見えず飽くとしもせぬ
 蹈みわたる石のかしらの冷やかさ身にしむ瀬々に河鹿なくなり
(307) なめらかに石こゆる瀬にまひあそぶ羽蟲とりつつ啼くや河鹿は
 山の蔭日ざしかげれば谷川のひびきも澄みて河鹿なくなり
 照り澄める春くれがたの日のいろにひたりて立てるとりどりの木よ
 なぴきあふとりどりの木のいろどりや春くれがたの嵐吹く山
 山そばのかけ橋わたる春の日に匂ふ若葉のなかのかけ橋
 山そばのかけ橋わたるわれの上に啼きすましたるうぐひすの聲
 湯げむりの立ちおほひたる谷あひの湯宿を照らす春の夜の月
 まなかひに見るおもひして我妹子に文かきをれば河鹿なくなり(二首妻へ)
 やよ汝《なれ》が心かよわさ清らかさ山ざくらの花に似ずと云はめやも
 
    井手の鮎子
 
 大川を堰ける野中の井手に入りて泳ぎたはむるる鮎の子の見ゆ
(308) うすらかに道の埃のまひ浮び水皺《みじわ》寄る瀬におよぐ鮎見ゆ
 水を掩ふ藪いたどりの葉かげなる羽蟲に跳《は》ぬる鮎の子の群
 うちむれておよぐ鮎子にほどのよき井手の流の瀬のつよみかな
 この春の日照をおほみ石垢《いしあか》の深き淺瀬をおよぐ鮎子等
 なめらかになびく川藻のひとふさのなびける蔭をゆける鮎の子
 なめらけき尾鰭のふりや淺き瀬の石の垢つつく鮎の子がふり
 なめらかに日のさす石のかげにゐて尾鰭さやけくおよぐ鮎の子
 
    大御姿
     或る日の新聞に皇太子殿下の御肖像を大きやかなる寫眞版として掲げたり、乃ち壁にかかげ仰ぎまつりて歌へる歌。
 かむながら神のみすゑにましまして親しき君におはすかしこさ
 わが兄子《せこ》といはまほしきぞかしこかる大みすがたにむかひまつりて(309) しもじものわれ等がまをす言の葉も聽かせたまふとおもふかしこさ
 久方のあめのもなかを渡る日のはればれしさに君はおはせり
 山川も寄りてつかへむををしさをもたせますかも大みすがたに
 おほどかにゑみておはせばあなかしこゆたけきおもひわれらもぞする
 事しげき御代をはるけくのぞまして笑ませたまふか大みすがたは
 この國ぞ若しかぐはししろしめす日嗣の皇子をいま見るがごと
 
    大野原の初夏
     富士の麓大野原の秋は既に知りぬ、初夏の野原のながめいかならむとて六月初めまた其處に遊ぶ。
 眞日中の日蔭とぼしき道ばたに流れ澄みたる井手のせせらぎ
 道にたつ埃を避けて道ばたの桑の畑ゆけば桑の實ぞおほき
 桑の實を摘みて食べつつ染まりたる指さきかはゆ童《わらは》さびして
(310) 土ほこりうづまき立つや十あまり荷馬車すぎゆく夏草の野路に
 埃たつ野中のみちをゆきゆきて聞くはさびしき頬白の聲
 道ばたに埃かむりてほの白く咲く野茨の香こそ匂へれ
 熟れわたる麥のにほひは土埃まひ立つ道に流れたるかな
 白うつぎ紅《べに》うつぎ咲く野の藪の茂みに居りてうぐひすの啼く
 麥の穗のみなかきたれてふくみたる夕日のいろのなやましきかな
 麥畑のひとところ風の吹きたてば夕日は亂るその穗より穗に
 日をひと日富士をまともに仰ぎ來てこよひを泊る野の中の村
 ゆふぐれの山の青みにこもりゐて啼きほうけたるくろつがの鳥
 ひそやかにものいひかくる啼聲のくろつがの鳥を聞きて飽かなく
 曉をうすら白雲わき出でていよよみどりなる若杉の山
(311) 杉山の若き立木のくきやかに青みつらなれり山のなぞへに
 朝山のみどりが下の道ゆけば露ふりこぼす百鳥《ももどり》のこゑ
 草の穗にとまりて啼くよ富士が嶺の裾野の原の夏の雲雀は
 青草を拔き出でて立てる去年の秋の萩にゐて啼く巣立の鳥は
 此處の野にいま咲く花はただ一いろ紅《べに》うつぎの木のくれなゐの花
 ゆくりなく夏野が原にあらはれし眞黒き犬は遠くより吠ゆ
 夏草の大野をこめて白雲のみだれむとする夏のしののめ
 雲雀なく聲空にみちて富士が嶺に消殘《けのこ》る雪のあはれなるかな
 相添ひて啼きのぼりたる雲雀ふたつ啼きのぼりゆく空の深みへ
 寄り來りうすれて消ゆる水無月《みなつき》の雲たえまなし富士の山邊に
 張りわたす富士のなだれのなだらなる野原に散れる夏雲のかげ
(312) 夏雲はまろき環《わ》をなし富士が嶺をゆたかに卷きて眞白なるかも
 富士が嶺の裾野が原を照したる今宵の月は暈をかざせり
 
    みじか夜
 
 夜ふかくもの書きをれば庭さきに鳴く夏蟲の聲のしたしさ
 降りたてば庭の小草のつゆけきに蛙子《かへるご》のとぶ夏のしののめ
 みじか夜の明けやらぬ闇にかがまりてものの苗植うる人のかげみゆ
 まだ起きぬひとの庭べに露をおびてさやかに咲ける夏草の花
 あかつきをいまだともれる電燈の灯《ほ》かげはうつる庭のダリヤに
 
    馬追蟲
 
 やすらかに足うら伸ばしわが聞くや蚊帳に來て鳴く馬追蟲を
 めづらしく蚊帳にきて今なきいでし馬追蟲の姿をぞ思ふ
(313) 家人《いへびと》のねむりは深し蚊帳にゐて鳴く馬追よこゑかぎり鳴け
 
    木槿の花
 
 はしり穗のみゆる山田の畔《くろ》ごとに若木の木槿咲きならびたり(その一)
 畑の隈風よけ垣の木槿の花むらさきふかく咲きいでにけり(その二)
 風よけと山田の畔に垣なせる木槿の花はひとり咲きたり
 鋤きすててものまだ植ゑぬ秋旱木槿は畔に咲きさかりたり
 
    雜詠
 
 うちしぶき庭を掩ひて降りしきるゆふだち雨に匂ひ立つ土
 草木うつ雨はきこえてうす青き黄昏《たそがれ》の色部屋をこめたり
 花園の花のしげみを拔き出でてゆたかに咲ける向日葵の花
 このあたり風のつめたき山蔭に咲きてあざやけきみそ萩の花
(314) 秋づけどまだもろ草の青かるをぬき出でて咲けるみそはぎの花
 秋を咲く何百合ならむ山澤の草むらがくれくれなゐに咲く
 女郎花咲きみだれたる野邊のはしに一むら白きをとこへしの花
 曼珠|沙華《さげ》いろふかきかも入江ゆくこれの小舟の上よりみれば
 わが越ゆる岡の道邊のすすきの穗まだわかければ紅《べに》ふふみたり
 粟の穗ぞみだれなびかふ暴風雨《しけ》あとのしめりおびたるあかつきの風に
 西日さす窓の明るさにつつまれておもひつつをれば友ぞ戀しき
 いかでかは出でて見ざらめ庭木おらぶこの風の日にゆく飛行機を
 
    畑毛温泉にて
 
 人の來ぬ夜半をよろこぴわが浸る温泉《いでゆ》あふれて音たつるかも
 わが肌のぬくみといくらもかはらざるぬるきいで湯は澄みて湛へつ
(315) 夜ふけて入るがならひとなりし湯のぬるきもそぞろ安けくてよし
 長湯して飽かぬこの湯のぬるき湯にひたりて安きこころなりけり
 つぎつぎに出でし欠伸もいでずなりて心は澄みぬ夜半の湯槽《ゆぶね》に
 夜のふけをぬるきこの湯にひたりつつ出でかねてをればこほろぎ聞ゆ
 田づらより低き湯殿にひびきくる夜半の田面《たづら》のこほろぎのこゑ
 温泉村《いでゆむら》湯げむり立てり露に伏す田づらの稻の白きあしたを
 庭さきの稻田におつるわが宿のいで湯のけむり露とむすべり
 うちわたす箱根山なみ山の背のまろきにかかるあかつきの雲
 めづらしき今朝の寒さよおもはざる方には富士の高く冴えゐて
 垂穗田《たりほだ》の稻田のさきの低山にくろずみ深き楢櫟の木
 あるとなきかすけき蕾山茶花にふふめるを今朝見つけたりけり
(316) 澤につづく此處の小庭にうつくしき翡翠《かはせみ》が來て柘榴にぞをる
 なにげなく聞きゐし雨のいとどしく降りひびくかも酒盡くるころを(深夜獨酌)
 蚊帳ごしの灯をみてをれば曉を聞え來るなり遠寺の鐘
 物音もなきあかつきの靜もりにひびきてながきとほ寺の鐘
 ゆくりなく聞く遠寺の鐘の音にをさなきこころ湧きてかなしも
 をちこちに百舌鳥啼きかはし垂穗田の田づらは露に伏し白みたり
 湯の尻の沼のへりなる荻むらに今朝おく露はしとどなるかも
 わが俥濡れてぞ通る里道の道ばたの草の露のしげきに
 めづらしく俥が通る里みちにみのり伏したり秋草の穗は
 山の根の里道をゆくわが俥走るとせねば啼く鳥きこゆ
 今朝晴るる秋のよわき日水に射してかすかなるかも浮草の花
(317) 浮草の花ひとつ浮びかがやきて水泥《みどろ》は深し水づくその葉に
 ながめゐて眼ぞまどふなる草むらの露草の花の花のしげきに
 ひこばえの木槿たけ低し露草の咲きさかる中に花をひらきて
 
    尾張犬山城
 
 犬山の城に登り立ちわが見るや尾張だひらの秋のくもりを
 桑畑の中をすぎ來てかへりみる犬山の城は秋霞せり
     同所犬山燒とて陶器を産す、その竈のひとつに到り友人たちと樂燒を試む。
 立ち入れば陶器《すゑもの》つくりが小屋のうちうす暗き奥に素燒はならぶ
 並べたるなかゆとりいで塵を拂へばましろなるかも素燒の甕は
 とりどりに影を落してならびたり陶器つくりが庭の白甕《しらがめ》
 火を入れぬ竈《かま》のすがたのさびたるに射して靜けき秋の日のかげ
 
(318)    紅葉の歌
     十月十四日より十一月五日まで信濃上野下野諸國の山谷を歴巡る。「紅葉の歌」より「鳴蟲山の鹿」に到るまでその旅にて詠み出でたるなり。
 枯れし葉とおもふもみぢのふくみたるこの紅ゐをなにと申さむ(その一)
 露霜の解くるが如く天つ日の光をふくみにほふもみぢ葉
 ゆくりなく梢はなれてまひうかぶひと葉のもみぢ玉と照りたり
 溪川の眞白川原にわれ等ゐてうちたたへたり山の紅葉を
 神無月まだ散りそめぬもみぢ葉のあまねき山のかなしかりけり
 鏡なすけふのこころに照りうつる深山の紅葉かなしかりけり
 もみぢ葉のいま照りにほふ秋山の澄みぬる姿さびしとぞ見し
 しめりたる落葉を踏みてわが急ぐ向ひの山に燃ゆるもみぢ葉(その二)
 わが急ぐ山より見ればむかつ山ゆふ日に燃ゆるもみぢなりけり
(319) 見おろせば迫りて深き山峽《やまかひ》のかげりつめたき森のもみぢ葉
 
    啄木鳥と鷹
 
 落葉松の苗を植うると神代ぶり古りぬる楢をみな枯らしたり
 楢の木ぞ何にもならぬ醜の木と古りぬる木木をみな枯らしたり
 木木の根の皮剥ぎとりて木木をみな枯木とはしつ枯野とはしつ
 伸びかねし荒野が原の落葉松は枯薄よりいぶせくぞ見ゆ
 下草の薄ほうけて光りたる枯木が原の啄木鳥《きつつき》のこゑ
 枯るる木にわく蟲けらをついばむときつつきは啼く此處の林に
 啄木鳥のたむろどころとつどひたる枯木が原のきつつきの聲
 立枯の木木しらじらと立つところたまたまにしてきつつきのとぶ
 きつつきの聲のさびしさ飛び立つとはしなく啼ける聲のさびしさ
(320) くれなゐの胸毛を見せてうちつけに啼くきつつきの聲のさびしさ
 白木なす枯木が原のうへにまふ鷹ひとつ居りてきつつきは啼く
 ましぐらにまひくだり來てものを追ふ鷹あらはなり枯木が原に
 とびうつる枯木が原のきつつきのするどきすがた光りたらずや
 さかり來てきけばさびしききつつきの啼く音はつづく枯木が原に
 耳につくきつつきの聲あはれなり啼けるを遠くさかりきたりて
 
    枯野の落栗
 
 夕日さす枯野が原のひとつ路わがいそぐ路に散れる栗の實
 音さやぐおち葉が下に散りてをるこの栗の實の色のよろしさ
 柴栗の柴の枯葉のなかばだに如かぬちひさき栗の味よさ
 おのづから千てかち栗となりてをる野の落栗の味のよろしさ
(321) この枯野|猪《しし》も出でぬか猿もゐぬか栗うつくしう落ちたまりたり
 かりそめにひとつ拾ひつ二つ三つひろひやめられぬ栗にしありけり
     上州草津の湯に時間湯といふがありてただ三分間を限り入浴せしむ。その湯ほぼ沸騰點に近き温度なれば、一浴室につどへる浴客おほよそ四五十名はかりがおのおの長さ一間幅一尺ほどの板をもちて三十分の間揉みにもみて湯をやはらぐ。湯を揉みつつ聲を合せてうたへるうたのあはれさは一たび此處の湯を訪ひたる人の耳につきて離れぬものなるべし。
 このいで湯われ等生かすと病人《やまうど》のつどひ群れたる草津のいで湯
 上野《かみつけ》の草津の温泉《いでゆ》いにしへゆ言ひつたへたる草津のいで湯
 湧き昇る湯氣雲なせる高原の草津のいで湯賑はへるかも
 たぎち湧く草津のいで湯おほらかに湧きあふれつつ溪川となる
 たぎり湧くいで場のたぎりしづめむと病人《やまうど》つどひ揉めりその湯を
 湯を揉むとうたへる唄は病人がいのらをかけしひとすぢの唄
(322) 上野の草津に來り誰も聞く湯揉の唄をきけばかなしも
     ありとしも思はれぬ處に五戸十戸ほどの村ありてそれぞれに學校を設け子供たちに物教へたり。
 つづらをり嶮しき坂をくだり來れば橋ありてかかる峽の深みに(小雨村)
 おもはぬに村ありて名のやさしかる小雨《こさめ》の里といふにぞありける
 蠶飼せし家にかあらむを壁をぬきて學校となしつもの教へをり
 學校にもの讀める聲のなつかしさ身にしみとほる山里すぎて
 人過ぐと生徒等はみな走《は》せ寄りて垣よりぞ見る学校の庭の(大岩村)
 われもまたかかりき村の學校にこの子等のごと通る人見き
 先生の一途なるさまも涙なれ家十ばかりなる村の學校《がくかう》に(引沼村)
 ひたひたと土踏み鳴らし眞裸足《まはだし》に先生は教ふその體操を
 先生のあたまの禿もたふとけれ此處に死なむと教ふるならむ
(323) 小學校けふ日曜にありにけり櫻のもみぢただに散りゐて(四萬湯原村)
 山かげは日暮はやきに學校のまだ終らぬか本讀む聲す(永井村)
 
    山の歌溪の歌
 
 斷崖《きりぎし》にかよへる路をわが行けば天つ日は照る高き空より
 路かよふ崖のさなかをわが行きてはろけき空をみればかなしも
 木木の葉の染れる秋の岩山のそば路ゆくとこころかなしも
 きりぎしに生ふる百木のたけ伸びずとりどりに深きもみぢせるかも
 歩みつつこころ怯ぢたるきりぎしのあやふき路に匂ふもみぢ葉
 わが急ぐ崖の眞下に見えてをる丸木橋さびしあらはに見えて
 散りすぎし紅葉の山にうちつけに向ふながめの寒けかりけり
 しめりたる落葉がうへにわが落す煙草の灰は散りてましろき
(324) とり出でて喫へる煙草におのづからこころはひらけわが憩ふかも
 岩蔭の青渦がうへにうかびゐていろあざやけき落葉もみぢ葉
 片寄りに青みをなせる岩溪の淺處《あさど》にうかぶ落葉もみぢ葉
 こがらしの凪ぎぬるあとを夕燒す溪に落葉のうかび流れて
 苔むさぬこの荒溪の岩にゐて啼くいしたたきあはれなるかも
 高き橋此處にかかれりせまり合ふ岩山の峽のせまりどころに
 いま渡る橋はみじかし山峽《やまかひ》の迫りきはまれる此處にかかりて
 古りし欄干《てすり》ほとほととわがうちたたき渡りゆくかもこの石橋を
 いとほしきおもひこそ湧け岩山の峽にかかれるこの古橋に
 
    落葉と龍膽花
 
 つづらをりはるけき山路登るとて路に見てゆくりんだうの花
(325) うららかに峰は晴れたれわが登る山そばみちの路のゆくてに
 踏みゆくよ上はかわきて下しめる山そばみちの深き落葉を
 なかにありてくれなゐ深きこの落葉かへでにぞある踏み踏みてゆくに
 散れる葉のもみぢの色はまだ褪せず埋めてぞをるりんだうの花を
 さぴしさよ落葉がくれに咲きてをる深山りんだうの濃むらさきの花
 摘みとりて見ればいよいよ紫のいろの澄みたるりんだうの花
 越ゆる人まれにしあれば石出でて荒き山路のりんだうの花
 笹原の笹の葉かげに咲き出でて色あはつけきりんだうの花
 
    雪の歌
     十月十九日上野國吾妻郡花敷温泉といふに宿り翌朝出立す、夜のほどにあたりの山に雪の降り積みたれば詠める。
 ひと夜寝てわが立ちいづる山かげのいで湯の村に雪ふりにけり
(326) 起き出でてみるあかつきの裏山の紅葉の山に雪ふりにけり
 朝立ちの足もと暗し迫り合ふ峽間《はざま》の路にはだら雪積み
 上野と越後の國のさかひなる峰の高きに雪ふりにけり
 今朝みるや峰々かけてはだらかに雪ぞ降りたる初雪ならし
 初雪にこの雪あらしあざやかに紅葉の山に降り積みにけり
 はだらかに雪の見ゆるは檜《ひ》の森の茂れる山に降れる故にぞ
 檜の森の黒木の山にうすらかに降りぬる雪は寒げにし見ゆ
 遠山の峰なる雪に天雲の影落つる見えて寒けかりけり
 
    鴨鳥の歌
     上野の國より下野の國へ越えむとて片品川の水源林を過ぐ。
 下草の笹のしげみの光りゐてならぴ寒けき冬木立かも
(327) あきらけく日の射しとほる冬木立木木とりどりに色さび立てり
 時知らず此處に生ひ立ち鋼《はがね》なす老木をみればなつかしきかも
 散りつもる落葉がなかに立つ岩の苔枯れはてて雪のごとみゆ
 わが過ぐる落葉の森の木がくれに白根が嶽の岩山は見ゆ
 遲れたる楓一もと照るばかりもみぢしてをり冬木がなかに
 枯木なす冬木のはやし行きゆきてゆきあへる紅葉にこころ躍らす
 この澤をとりかこみなす樅《もみ》栂《とが》の黒木の山のながめ寒けき
 聳ゆるは樅栂の木の古りはてし黒木の山ぞ墨色にみゆ
 墨色にすめる黒木のとほ山にはだらに白き白樺ならむ
     山上に沼あり、大尻沼といふ、折から鴨の鳥あまた浮べるを見て。
 登り來しこの山あひに沼ありて美しきかも鴨の鳥浮けり
(328) 樅|黒檜《くろひ》黒木の山のかこみあひて眞澄める沼にあそぶ鴨鳥
 見て立てるわれには怯ぢず羽根つらね浮きてあそべる鴨鳥の群
 岸邊なる枯草しきてみてをるやまひ立ちもせぬ鴨鳥の群を
 羽根つらね浮べる鴨をうつくしと靜けしと見つつこころかなしも
 山の木に風騷ぎつつ山かげの沼の廣みに鴨のあそべり
 浮草の流らふごとくひと群の鴨鳥浮けり沼の廣みに
 鴨居りて水《み》の面《も》あかるき山かげの沼のさなかに水皺《みじわ》よるみゆ
 水皺よる沼のさなかにうかびゐて靜かなるかも鴨鳥の群
 おほよそに風に流れてうかびたる鴨鳥の群を見つつかなしも
 風立てば沼の隈囘のかたよりに寄りてあそべり鴨鳥たちは
     沼の岸全帶に石楠木生ひしげれり、おほく二三間の高さに及ぷ老木なり。
(329) 沼の縁《へり》におほよそ葦の生ふるごと此處に茂れり石楠木《しやくなぎ》の木は
 沼のへりの石楠木咲かむ水無月にまた見に來むぞ此處の沼見に
 また來むとおもひつつさびしいそがしきくらしのなかをいつ出でて來む
 天地のいみじきながめに逢ふ時しわが持ついのちかなしかりけり
 日あたりにをりていこへど山の上の凍《しみ》いちじるし今は行きなむ
 
    中禅寺湖にて
 
 裏山に雪の來ぬると湖岸《うみぎし》の百木のもみぢ散りいそぐかも
 見はるかす四方の黒木の峰澄みてこの湖岸のもみぢ照るなり
 みづうみを圍める四方の山脈の黒木の森は冬さびにけり
 下照るや湖邊の道に並木なす百木のもみぢ水にかがよひ
 舟うけて漕ぐ人も見ゆみづうみの岸邊のもみぢ照り匂ふ日を
(330) みづうみの照り澄めるけふの秋空に散りて別るる白雲のみゆ
     とりどりの紅葉散りくるなかにはなの木といへる紅葉は色淡くして柔かなり、乃ち戯れて詠める。
 はなの木の紅葉より濃き錦木のもみぢをよしと誰も云はなくに
 
    鳴蟲山の鹿
     鳴蟲山は大谷川を距てて女峯山男體山に向ふ、折々その山にて鹿の鳴くを聞く事ありと友の言へるを聞きて。
 聞きのよき鳴蟲山はうばたまの黒髪山に向ふまろ山
 鹿のゐていまも鳴くとふ下野の鳴蟲山の峰のまどかさ
 友が指す鳴蟲山のまどかなる峰のもみぢは時過ぎてみゆ
 草枯れし荒野につづくいただきの鳴蟲山の紅葉乏しも
 今にして獵《かり》とどめずば美しき鹿が歩みを其處に見ずならむ
 茸狩《たけがり》に行きて得狩らずかへるさのゆふ闇に鹿を聞きいでしとふ
(331) 夜ふけて鳴くといへれどをそごとぞ暮れ方にただ鹿はなくとふ
 二聲をつづけてあとをなかぬとふその鹿の聲をわれもききたし
 
    飲食其他
 
 いつしらず飲食《のみくひ》のことに心つかふわれのいのちとなりてゐにけり
 いまは早やただにうましと食ひはせで命つよめむこと圖《はか》るあはれ
 飲む酒を止めなばこの身強くならむとおもふこころかなしかりけり
 われに若しこの酒斷たば身はただに生けるむくろとなりて生くらむ
 寂しみて生けるいのちのただひとつの道づれとこそ酒をおもふに
 とりどりに色うつくしく並びたれこの魚屋が籠のうちのもの
 いきのよき烏賊はさしみに咲く花のさくら色の鯛はつゆにかもせむ
 噛みしむるもののあぢはひわが肝にこたへてうましよき日ぞ今日は
(332) 日に三たびそのひとたびに食ふものに量りをおきて物食ふあはれ
 すさまじくむさぼりくらふ子等がさまを嫉ましく父はながめをるなり
 貧しくも飲食のことにことかかぬわが今日の日をよろこびとせむ
 ゐつたちつする束の間もしづかなれおだやかなれと願ふこころぞ
 掃く間なき此頃の部屋のちりほこりを立てじとわれの起居するなり
 隙間よりもれゐて細き冬の日ざしをやごとなきものに眺めこそ見れ
 部屋にさす日ざしにまへる微塵《みぢん》にも靜けきこころ湧ける今日なり
 物書ける机のそばの窓ガラスの冬の日ざしに居る蠅の蟲
 夜もいねでただに爲事をつづくればえならぬものにおもふ炭火ぞ
 沸きおそきこの湯を待てば寒き夜の夜爲事のあひに頭痛めり
 枕許にかならず置きて寢るくせとなりぬる時計あはれなるかも
(333) 貧しくて時を惜しめば命さへみじかきものに思ひなさるれ
 
    命を惜しむ歌
 
 水汲むと井戸よりみれば散りしける落葉の庭に霜の明るさ
 衰ふるいのちとどむと朝々をとく起きいでて水浴ぶるあはれ
 身を強めむねがひを持ちてわが浴ぶる水のひびきぞ身にこたふなる
 寒の水に身はこほれども浴び浴ぶるひびきにこたへ力湧き來る
 浴び浴ぶる水身にしみて血のいろのあざやけきおのが肌となりたれ
 浴び浴びてわが立ちたれば身體よりしたたる水の湯氣たつるなり
 水はもよ豐かにしあれ浴び浴びてなほゆたゆたに餘らむがほど
 明るしとすなはち思ふ寒の水を浴びはてし時のわれのこころを
 水あびて眉にしたたる雫みればわがたましひも澄む心地すれ
(334) 朝ごとに垢あらひおとしあからひくおのが身體を見るはたのしき
 鋭心ぞおのづといづる寒の水浴びはててわが起ちあがるとき
 物怯ぢを子等がするごとわれとわがいのちを持てるあはれなりけり
 散れる葉のいろあざやけき冬凪のあかるき庭に立てばたのしも
 やがていま梅の咲かむとおもふころをすがれて菊の花咲きてゐる
 日の色を含み散り敷く枯松葉のあたらしき葉ぞ庭の霜の上に
 
    冬凪
 
 窓にさす午后の日ざしに心うきて立ちいづる庭にみそさざい鳴く
 すがれつつなほ咲く菊の根がたなる枯葉のかげにみそさざい鳴く
 すがれ咲く菊よりとびてみそさざい梅の枯枝にあらはなりけり
 さしかはす櫻の枝の冬さびにうすあかねさせりけふ出でてみれば
(335) 門さきの麥田のつちは乾きたりこの冬凪のつづく日和に
 いちはやく箱根の山のすがれ野を燒ける煙《けむ》見ゆ今日の凪げるに
 冬なぎに出でてわがみる富士の嶺の高嶺の深雪《みゆき》かすみたるかも
 草枯れし畦みちをゆくわがむすめくれなゐの帶を結びたるかも
 
    友をおもふ歌
 
 知れる人みななつかしくなりきたるこのたまゆらのかなしかりけり
 いま來よと云ひ告げやらば爲し難き事をして來む友をしぞおもふ
 をち方に離《さか》りゐる友をおもふ時かがやく珠をおもひこそすれ
 何事のあるとなけれど逢はざればこころはかわく逢はざらめやも
 逢ひてただ微笑みかはしうなづかば足りむ逢なり逢はざらめやも
 寂しきに耐へて彼をりさびしきにたへてわれをり逢はざらめやも
(336) あやふかるいのちを持ちておのもおのも生きこらへたり逢はざらめやも
 自《し》が肝をみづからくらふときめきを彼とあふ時しつねにしおぼゆ
 戀ひ戀ふる鋭心《とごころ》もてり彼も持てり逢はずしあらば錆びかはつらむ
 寂しさにおのおの耐へて在り經つついつか終りとならむとすらむ
 行き逢ひて別れ去りしかいつしかに影もわかたずなりし友おほし
 
  黒松
 
(339)    土肥温泉雜詠 (大正十二年)
 
 ひとをおもふ心やうやくけはしきに降り狂ふ雪をよしと眺めつ
 犬呼びてもの與へをれば縁さきの芝生に雪の降り積りつつ
 人妻のはしきを見ればときめきておもひは走る留守居する妻へ
 大雪は沼津にも降らむ驚きて眺め入りたる妻をしぞおもふ
 肌にややかなしきさびの見えそめぬ四人子《よたりご》の母のはしきわが妻
 をとめ子のかなしき心持つ妻を四人子の母とおもふかなしさ
 心なき泊りの人の足音を夜半《よは》更けて聞くいでゆの宿に
 曉《あけ》近き月の青みを宿したる玻璃戸の蔭の揚には浸れる
 この國に珍しき雪に驚きて迷ひ出でし鹿は里に射られつ
 
    峽のうす雲
 
(340)    三河鳳來山にて。
 
 降り入れる雨のひびきをわが聞くやわがまなかひの雨のひびきを
 降り入りて森とよもせる雨のなかに啼きすましたる何の鳥ぞも
 水戀鳥とひとぞをしへし燃ゆる火のくれなゐの羽根の水戀鳥と
 枝垂れてそびゆる檜むかつ峰の森のなぞへに黒みたる見ゆ
 合歡の木ぞひともとまじれる杉山の茂みがあひに花のほのけく
 まなかひに湧き出でし雲のたまゆらや浮べる見えて消えてあとなき
 盃に立つ湯氣よりもあはれなれ湧きて消えゆく峡のうす雲
 湧き昇る雲ばかりにて一すぢの亂るるとせぬ峽の朝雲
 ひとすぢに昇りいそげる朝雲のたなびくさまや峰のうへの空に
 向つ峰の鳥を聽かむと耳とほきわが耳たつるあはれなりけり
 
(341)    トマトの歌
 
 葉がくりにあるはまだ青しあらはなるトマトに紅のいろさしそめて
 一枝に五つのトマトすずなりになりてとりどりに色づかむとす
 この枝は風に折れたり折れながら青くちひきき實をつけてをる
 汲み入るる水の水泡《みなわ》のうづまきにうかぴて赤きトマトーの實よ
 水甕の深きに浮び水のいろにそのくれなゐを映すトマトよ
 皿にありてすでに溶けむとうるほへるトマトーの實ぞはやはやたべむ
 舌に溶くるトマトーの色よ匂ひよとたべたべて更に飽かざりにけり
 
    海邊雜詠
     伊豆國西海岸の漁村古宇に宿りゐてあけくれに詠みすてたる。
 一人釣る小笠の人の立すがたあざやけきかな沖の小舟に
(342) 向つ岸駿河の國の長濱に浪の立てれば間近くし見ゆ
 沖邊ゆく小型の船の白塗の色冴えわたり浪ぞきらめく
 かけ聲のただに冴えゐて秋晴の沖漕ぐ小舟かすかなりけり
 山かげの入江の隈のひとところに今朝も來て居る海鳥の群
 群れて啼く入江の隈の海鳥の聲澄みとほる朝涼《あさすず》の風に
 ふと見れば翼つらねてはるかなる沖邊へまへる海鳥の群
 澄み來る秋のゆふ日に浮び出でて入江向ひの草山は見ゆ
 さし汐の入江のくまの山かげに浮びてまろき海鳥の群
 入江の空にとびかひながら海鳥の啼く音《ね》はしげし夕づく日となりて
 
    餘震雜詠
 
 夜に晝に地震《なゐ》ゆりつづくこの頃のこころすさびのすべなかりけり
(343) 月越えてなほ搖りつづく大地震の今宵も搖るよこの靜か夜を
 眼の前の電燈の灯をゆりすてて地震すぎゆきぬこの靜か夜を
 庭木草すさみてぞ見ゆ夜晝なく地震ゆりつづき晴れし日ごろを
 わが心憤ろしも夜晝なくゆりつづくなゐをうちまもりゐて
 わがむすめ六つになれるがいたいたしなゐにおびえて痩の見えたる
 朝宵に相見る妻を子供等をまもりつつかなし地震のしげきに
 名殘なる壁のやぶれの冬はなほ目につくものをなほゆるる地震
 
    鶲啼くころ
 
 時雨ぞとおもふこころの靜けきに今朝の曇の親しかりけり(時雨三首)
 部屋出でてふと見やりたる庭のおもに時雨降りゐて明るかりけり
 ガラス戸をさして籠れば時雨の日のはの明るみは部屋をつつめり
(344) ひたき啼くころとはなりぬいつしかに庭の木の葉の散りつくしゐて
 年ごとに時としなればわが庭に來啼くひたきの聲のしたしさ
 聞え來るひたきの聲のあはれなり心さびしくわがをる時に
 部屋にゐて聞けばひたきはただ一羽ひもすがら啼く庭をめぐりて
 明らけき戸の面《も》の日ざしぞおもはるるこもりゐて聞くひたきの聲に
 柿の葉の落葉のもみぢ色あせず明るき庭にひたき啼くなり
 庭草の枯れしがなかに居るとばかり低きにをりてひたき啼くなり
 この小鳥高くとまらず冬さびし木々の根がたの枯枝に啼く
 窓の戸をとざすとしつつあなあはれ飛べるひたきの姿を見たり
 
    やよ少年たちよ
 
 若竹の伸びゆくごとく子ども等よ眞直ぐにのばせ身をたましひを
(345) をさな日の澄めるこころを末かけて濁すとはすな子供等よやよ
 すみやかに過ぎゆくものをやよ子等よ汝が幼な日をおろそかにすな
 うつくしく清き思ひ出とどめおかむ願ひを持ちて今をすごせよ
 人の世の長きはげしき働きに出でゆく前ぞいざあそべ子等
 子供等は子供らしかれ猿眞似の物眞似をして大人ぶるなかれ
 いぢけたるつらは醜しのびのびとそだてよ子等よ事にたゆまで
 生意氣はみにくきものぞ生意氣の人若しあらば見ておもへ子等
 老いゆきてかへらぬものを父母の老いゆくすがた見守れや子等
 
    寒夜執筆
 
 うとましき癖とはなりぬ晝はいねつ夜半起き出でてもの書き急ぐ
 散りやすきこころとなりて晝はいね夜半を僅かに起きてもの書く
(346) 吹き出だす煙草の煙の末すらも重くなびきて夜半の寒けさ
 夜の更けていよよ明るさ増しきたる電燈のあかり寒けかりけり
 亂れたる机のうへの物の色さやかに寒し夜半の灯かげに
 うすらかに灰をかづける炭の火の赤きに向ふ冬の夜の更
 ペン先のよごれを拭くとわが指の顫《ふる》ふ寒さをふと覺えたる
 勞れては耳のかゆきがわが癖の耳かゆくなりぬ夜半の灯かげに
 散らばれる机のうへのひとところ押しのけて置くよ飲食《のみくひ》のものを
 ほがらかに時計鳴り出であかつきの四時とはなりつ著《しる》き冷かも
 曉と鷄《とり》なく時しとりいでて飲む酒うまし夜爲事のあとに
 ウヰスキイに煮湯そそげば匂ひ立つ白けて寒き朝の灯かげに
 椅子にゐて足をかけたる圓火鉢まろきにかけて粥を煮るなり
(347) しらじらと煮立つを待ちてこれの粥に卵うちかけ吹きつつぞ喰ふ
 
    冬の歌
 
 時雨ぞと起き出でて見れば庭の面うるほひしめり降りゐたりけり
 窓あけて立ちて見てをり庭木々のおち葉を濡らす朝の時雨を
 時雨過ぎしほの明るさはわが庭のひともと紅葉にこもりてぞ見ゆ
 歸り來てわが門口のゆふまぐれ散れる落葉を見るはたのしき
 たまたまに窓をひらきてなほ殘れる庭の紅葉に驚きにけり
 庭木々の落菜しはてしのみにあらぬほの明るさを冬は持つなる
 冬が持つこの明るさは搖れず移らずただひとところに籠る明るさ
 ガラス戸にさせる明るさ昨日見し秋の日ざしとちがふ明るさ
 眼の前のうるさき事に心とられ忘れゐしかも頭あぐることを(偶感二首)
(348) 忘れゐしわれに氣づきて笑ひいづるわらひをわれと聞くはたのしき
 
    念場が原
     八が嶽の裾野を甲斐より信濃へ越えむとして念場が原といへるを過ぐ、方八里に及ぶ高原なり。
 枯薄に落葉松の葉の散り積みて時雨にぬれし色のさやけさ
 松若き枯野の芝の荒くして枯れてさやけきいろにもあるかな
 日をひと日わがゆく野邊のをちこちに冬枯れはてて森ぞ見えたる
 冬の野をはるけく來りいま通る落葉松の森親しかりけり
 荒れし野に森を作ると植ゑなめし若木落葉松冬枯れてをる
 落葉松の痩せてかぼそく白樺は冬枯れてただに眞白かりけり
 枯れさびし葉をとどめたる落葉松はすきまじきものぞ冬枯の野に
 甲斐より信濃へ越すと冬枯の野をひと日來て此處に日暮れぬ
(349) 野のなかのこのひとつ家に宿乞ふとわが立ち寄れば霧ぞなびける
 こはまた此處にもひとつ家ぞある枯れ伏せる草とともに低くて(そのあくる日)
 
    松原湖畔雜詠
     信濃南佐久郡なる松原湖畔の宿屋に同國の友人數名と落合ひ數日を遊び暮しぬ。
 ひと年にひとたび逢はむ斯く言ひて別れきさなり今ぞ逢ひぬる
 とほく來つ友もはるけく出でて來て此處に相違ひぬ笑みて言《こと》なく
 無事なりきわれにも事のなかりきと相逢ひていふそのよろこびを
 酒のみのわれ等がいのち露霜の消やすきものを逢はでおかれぬ
 湖《うみ》べりの宿屋の二階寒けれや見る冬の湖のさむきごとくに
 豆腐かもあらむ見て來よとわが言へば友出でゆきて鴨を持てきぬ
 したりがほに友さしいだす鴨の鳥わが受くる手に冷たかりけり
(350) この寒き冬のゆふべに煮なむものこの青首の鴨にしかめや
 隙間洩る木枯のかぜ寒くして酒のにほひぞ部屋に搖れ立つ
 今朝見るみづうみの隈にうかびゐてあざやけき色は落葉なりけり
 こがらしの落ちぬる今朝の靜けきに銃音《つつおと》きこゆ鴨かとれけむ
 銃《つつ》鳴りぬ鴨かとれけむいざ友よ舟漕ぎ出でて行きて見て來む
 銃聞ゆあなまた聞ゆこの朝の寒きに鴨の群れておりゐけむ
 木枯のすぎぬるあとのみづうみをまひわたる鳥は樫鳥かあはれ
 聲ばかりするどき鳥の樫鳥ののろのろまひて風に吹かるる
 まふとはすれもともとのろき樫鳥の風に吹かれてただよへるあはれ
 樫鳥の羽根の下羽の濃むらさき風に吹かれて見えたるあはれ
 をりからやまひたつ落葉樫鳥をなかにつつみてまひくるふあはれ
(351) はるけくも昇りたるかな木枯にうづまきのぼる枯葉の渦は
     一夜ふとしたる事より笑ひ始めて一座五人ほとほと脊骨の痛むまでに笑ひころげぬ。
 ひと言を誰《た》かいふただち可笑しさのたねとなりゆく今宵のまどゐ
 木枯が吹くぞと一人たまたまに耳をたつるもをかしき今宵
 笑ひこけて臍《へそ》の痛むと一人いふわれも痛むと泣きつつぞいふ
 笑ひ入りていつか泣きたる友が眼の瞼毛のなみだかがやけるかな
 ひとりは部屋の隅なる床の間に這ひゆきて笑ふ涙垂れつつ
 笑ひ泣く鼻のへこみのふくらみの可笑しいかなやとてみな笑ひ泣く
 世のなかにありとふ茸《たけ》のわらひ茸|誰《た》が喰はせてか斯くは可笑しき
.ならび寢し床の五つのとりどりの友のことをおもふ瑞にいねつつ
 
    佐久風物
(352)     松原湖畔を出でてよりなほ數日、南北佐久兩郡に亘る佐久高原をさまよひ歩きぬ。
 みすずかる信濃の國は山の國海の魚なくて鯉があるばかり
 その鯉の味の強きはひと日うまくふつかまだよく三日《みか》に飽きにけり
 鯉こくにあらひにあきて燒かせたる鯉の味噌燒うまかりにけり
 味噌燒にやがては飽きつ二年子《にねんご》の鯉の鹽燒うまかりにけり
 信濃なる鯉のうちにも佐久の鯉先づ喰ひてみよと強ひられにけり
 なるほどうまきこの鯉佐久の鯉ほどほどに喰はばなほうまからむ
 信濃なる梅漬うましまるまるとなまのままなるまろき梅漬
 信濃なる梅漬うましかりかりと噛めば音してなまのままの梅
 朝起きてまづ凭る炬燵ほどはどにぬくもりをりて今朝も日和ぞ
 朝ごとに噛む梅漬の音のよさこの旅人に日和つづきて
(353) わが好きの山芋の汁をよく知りて先づ作りたりこの友だちは
 とろろ汁とろりと啜りあぢはひつ冬に入れりと語らへるかも
 樂しみてわが作らせし大根おろし喰ひてわが泣く鼻の拔くると
 
    野邊山が原
     八が嶽北側の裾野を野邊山が原といふ、念場が原より更に廣く更に高き高原なり。
 野末なる山に雪見ゆ冬枯の荒野を越ゆとうち出でて來れば
 大空の深きもなかに聳えたる峰のたかきに雪降りにけり
 甲斐が嶺のむら山のなかのひとつ山峰のたかきに雪降りにけり
 高山に白雪ふれりいつかしき冬のすがたをけふよりぞ見む
 人いまだゆかぬ枯野の今朝の霜を踏みてわがゆくひたに眞直ぐに
 わが行くや見る限りなる霜の野の薄枯れ伏し眞しろき野邊を
(354) はりはりとわが踏み裂くやうちわたす枯野がなかの路の氷を
 野のなかの路は氷りて行きがたしかたへの芝の霜を踏みゆく
 枯れて立つ野邊のすすきに結べるは氷にまがふあららけき霜
 わが袖の觸れつつ落つる路ばたの薄の霜は音立てにけり
 朝日いま野にはさせれどうら寒し枯薄ただ霜にましろく
 草枯れて木に殘る葉の影もなき冬野が原をゆくはさびしも
 此處の野の高きより見る下《しも》の野の野末をゆける谷の寒けさ
 八が嶽峰のとがりの八つに裂けてあらはに立てる八が嶽の山
 昨日見つけふもひねもす見つつゆかむ枯野がはての八が嶽の山
 冬空の澄みぬるもとに八つに裂けて峰低くならぶ八が嶽の山
 
    千曲川上流
 
(355) 見よ下にはるかに見えて流れたる千曲の川ぞ音も聞えぬ(その一、市場村附近)
 入りゆかむ千曲の川のみなかみの峰仰ぎみればはるけかりけり
 ゆきゆけどいまだ迫らぬこの谷の峽間の紅葉時すぎにけり(その二、大深山村附近)
 この谷の峽間を廣み見えてをる四方の峰々冬さびにけり
 みなかみやいまだ岩見えず眞砂地の廣きに澄みて瀬々の流るる
 隙《ひま》あらく松ぞ生ひたる岩山の岩に苔むし枯れて白きに
 岩山のいただきかけてあらはなる冬のすがたぞ親しかりける
 岩山のふもとの野邊の枯草の色あざやけし冬の淺きに
 泥草鞋《どろわらぢ》踏み入れて其處に酒をわかすこの國の圍爐裡《ゐろり》なつかしきかな
 とろとろと榾火《ほたび》燃えつつわが寒き草鞋の泥の乾き來るなり
 居酒屋の榾火のけむり出でてゆく軒端に冬の山晴れて見ゆ
(356) 谷ぞひの村とりどりに人出でていま冬ごもりの構へするなり(その三、梓山村附近)
 昨日今日逢ふものはただおもおもと大根《だいこ》つけたるその馬ばかり
 冬ごもり雪の下にゐて食ふものにかばかり大根作るなりとふ
 冬枯の荒野のなかのひとところに作られて大根眞青なりけり
 人の聲とほく聞えつ眺むれば野末の畑に大根拔くところ
 葉は乾して馬におのれは漬物に大根漬けおきて冬ごもるとふ
 とりどりに量のおほきを誇りあひて大根ばかり作るこの里人は
 この國の寒さを強み家のうちに馬引き入れて共に寢起す
 寒しとて圍爐裡の前に厩《うまや》作り馬と飲み食ひすこの里人は
 大圍爐裡に榾火《ひたび》燃えたちゐろりの前に馬が寢てをり其處の厩に
 まるまると馬が寢てをり朝立の酒沸かし急ぐゐろりの前に
(357) まろく寢てねむれる馬を初めて見きかはゆきものよ眠れる馬は
 かの家の馬は痩せたり家の妻しはきからぞとひとの噂する
 のびのびと大き獣のいねたるはうつくしきかも人の寢しより
 
(358)    新年述懷(大正十三年)
 
 明けてわが四十といへる歳の數をかしきものに思ひなさるれ
 ありし日はひとごととのみ思ひゐし四十の歳にいつか來にけり
 いつまでも子供めきたるわがこころわが行ひのはづかしきかな
 あわただしき歳かさね來ついま迎ふる今年はいかにあらむとすらむ
 何やらむ事あるごとき氣おくれを年たつごとに覺えそめたる
 年ごとにわが重ね來し悔なるを今年はすまじせじと誓へや
 事しげき年にありしかなかなかに顧みていま惜しまれぞする
 
    枯木の枝
 
 この朝の時雨に濡れて歸りこし狩人は二羽の雉子を負ひたり(土肥にて)
 湯の宿の二階の軒につるされてこはうつくしき雉子の鳥かも
(359) 梅見むとわが出でてこし芝山の枯芝のいろ深くもあるかな
 咲くべくしなりていまだもさきいでぬ梅の錆枝にしげし蕾は
 桔草の匂いよいよかぐはしききさらぎの野となりにけるかな(香貫山の裏)
 枯草の原にひともと立ちほけし枯木の枝の光る春の日
 立ちとまり聞けば野の風寒けきにはや春の鳥そこここに啼く
 坐りたるわが前ちかき枯草の蔭を歩みをり小鳥あをじは
 
    旅中即興
     長崎にて。
 三郎よ汝《な》がふるさとに來てみれば汝が墓にはや苔ぞ生ひたる(中村三郎の墓)
 明日去ぬる港とおもふ長崎の春の夜ふけに逢へる人々
 
    筑後大川町にて。
 
(360) 庭の松乏しかれどもそよ風にさゆらぐ見れば春は來にけり
 十六夜はよべなりしかな今宵この月待ちがてに酒すすりをり
     同じく上妻村にて。
 唄うたひて紙漉く聞ゆ紙すきのわが友の村を通りかかれば
     故郷にて。
 山川のすがた靜けきふるさとに歸り來てわが勞れたるかも(坪谷村)
 故郷に歸り來りて先づ聞くはかの城山の時告ぐる鐘(延岡町)
 
    朝の散歩
 
 変畑のうね間の瓜はみのりたり麥も刈るべくいま色づきぬ
 忘るまじきこの錢入ぞ朝々の散歩に畑の瓜を買ふべく
 熟麥《うれむぎ》の穗波がうへに小ばしりにゆく帽子見ゆ小學生の帽子
(361) 刈り乾せる穗麥には見えで畝のあひの茄子の葉に露のむすびたるかも
 茄子の木の幹のむらさき深けれや黒しと或《ある》はまがふばかりに
 豚の子の檻《をり》逃げ出でておぼつかな瓜畑ゆくよ丸く眞しろく
 
    夏日雜詠
 
 ほろにがき煙草のけむりふくみつつ縁に見てをり青葉に射す日を
 縁側のうすら冷たくほのぐらきなつかしきかも青葉に掩はれ
 木の葉にやどれる光おのづから親しき夏のすがたなるかも
 板橋の板に苔むしおぼつかな渡りゆけば近く鮎ぞとぶなる(梅雨)
 若竹に百舌鳥とまり居りめづらしき夏のすがたをけふ見つるかも(夏の百舌鳥)
 夏深みこのごろ啼かぬ百舌鳥の鳥ひそやかにして餌をあさるあはれ
 若竹の小枝にをりてあらはなる百舌鳥見つつおもふ雛にしあるらし
 
(362)    甲州七面山にて
 
 朴の木と先におもひし近づきて霧走るなかに見る橡若葉(その一)
 山毛欅若葉橡の若葉のとりどりにそよぎ明るめりわが仰ぐうへに
 おのがじし光ふくみてそよぎゐる橡若葉なり山毛欅若葉なり
 さしかはす木々の瑞枝の中に垂りて長き藤蔓に小鳥こそをれ
 藤蔓にとまれる小鳥なにの小鳥ぞちさくつぶらに向うむきにをり
 立ち掩ふ木々の若葉の下かげにそよぎて咲ける山あぢさゐの花
 花ちさき山あぢさゐの濃き藍のいろぞ澄みたる木の蔭に咲きて
 幹ほそく伸びたちたればそよ風にそよぎやはらかき山あぢさゐの花
 雨をもよほす雲より落つる青き日ざし山にさしゐて水戀鳥の聲
 雨を呼ぶ嵐うづまける若葉の山に狂ほしきかも水戀鳥の聲は
(363) 呼びかはし鳴きみだれたる鳴聲の水戀鳥を聞くは苦しき
 山襞のしげきこの山いづかたの襞に啼くらむ筒鳥聞ゆ
 聲ありてさまよへるかもつづきあふ尾根の奥處《おくど》の筒鳥の聲
 筒鳥のほのけき聲のたづきなく聞えくるかも次にまた次に
 とめがたき聲なりながら聞えたる筒鳥の聲は消すよしもなし
 まなかひの若葉のそよぎこまやかにそよぎやまなく筒鳥きこゆ
 心あての麓もわかず遙かなれや眞たひらにただ霧のたちこめ(その二)
 卷き立つや眼下《ました》はるけくこもりたる霧ひとところ亂れむとして
 今しわが片手あげなばたちどころにとよみかも出でむこの霧の海は
 霧の渦われ包みつとおもふすなはちうすら冷たさ身をひたすなる
 走り過ぐる霧に聲ありわれを包みて渦卷けるなかにその聲聞ゆ
(364) 手を振りて霧かきわくるわが振のをかしけれども笑はれなくに
 吸ふ息吐く息なべて眞白なる霧にぞあなるこの深きなかに
 まなかひに老樹の樅のあらはれつ消えつ眞寂し霧の渦のなかに
 とりがたき霧のおこなひこころなく見ゐつつ寂しわがまなかひに
 たづきなく渦卷き狂ふ霧の海のはるけきに起る郭公の聲
 霧の海とよみこもれる底にありて移りつつ啼く郭公聞ゆ
 年ごとにひとたび聞かでおかざりし郭公は啼くよこの霧の海のなかに
 けふ聞く郭公の聲はうるみ帶びてせまりて速し霧にまぎれつつ
 照る日の郭公の聲はただに寂びたる霧にこもり啼ける今日のするどさ
 ひとつものに寄り合ひ靜もれるわれの心にひびきとほりて郭公聞ゆ
 
    雜詠
 
(365) 移し植ゑし竹は根づきてやはらかく葉をかへにけりこの水無月に
 芋蟲をなかに蹴合へる二羽の百舌鳥の羽根錆びはてて芋蟲眞青
 時はやく青葉がしたに味き出でて色あはつけき庭桔梗の花
 やめがたき煙草にありけり七月のこの朝の風に立ちふかれつつ
 金口《きんぐち》の口ざはりそぞろ身にぞしむ七月の朝の風の冷えゐて
 トマトを水よりあげつ惶しく水拭きて噛むよこの冷えたるを
 トマトのくれなゐの皮にほの白く水の粉ぞ吹けるこの冷えたるに
     わが家の犬初めて子を生みぬ。
 わが家《や》の犬初めて孕みおぴただしき子を生みにけり十あまりひとつ
 足場なく生み落しおきて中の三つを踏み殺したりこの母犬は
 生める子のおびただしきを眺めつつ舌だして寢て母犬はをる
(366) 愚かものの名にとほりたるわが犬の子を生みていとどしかぞ見ゆなる
 君捨てよいな君こそと童二人犬の子捨つるゆづりあひをる
 眼のあかぬあひだに捨てよとくとくと言はれつつ三日も犬の子はをる
 子を生みし疲れか暫し吠ゆることを忘れゐし犬がいま吠えにけり
 
    轉居雜詠
 
 うとましきこれらの荷物いつのまにわが溜めにけむ家なしにして
 身ひとつにさらばゆかむと行かるべき輕々しき身にあるべかりしを
 追はるるといふにはあらね家なしの身は追はるるに似て家を替ふ
 置き馴れしそれこれをいま一つの荷に積みまとめつつ家替ふるあはれ
 毀れやすきこの品物といらだてる心おさへて荷を造るかも
 まづ先に荷物荷馬車に積みだしおき家族《うから》を連れて立ち退くよ借家《しやくや》を
(367) 移り來て先づ戸のひきたてを試むる家のあるじのわれにしありけり
 家主に辭儀申しつつおもへらくよき家主にあるがごときぞ
 移り來し家の前なる桑ばたけ桑摘める人に聲かけにけり
 
    秋花譜
 
 青すすきゆたかになぴくかげに咲きてうすくれなゐの撫子の花
 ふるさとの村ざかひなる野の路をおもひぞいづる女郎花見れば
 萩いまだ花をとぼしみなよやかになびかふ枝ぞ葉ぞうつくしき
 枝垂れたる萩のすがたぞやさしかる花もおほかた葉ごもりにして
 淺茅生の岡のひなたに鳴く蟲の聲うつつなくて松蟲草の花
 
    富士の初雪
 
 富士が嶺にひと夜に降れる初雪の峰白妙に降りうづめたる
(368) この年の富士の初雪したたかに降りてなかなか寂しくぞ見ゆ
 わが門の草に殘れるよべの雨の露しげくして富士は初雪
 
    犬と戯るる歌
 
 朝凪の今朝の濱邊を漕ぎ出づる舟さはにしてかろやかに行く
 かろやかに漕ぎゆきし舟のはろかにて今は帆をあげ靜かなるかも
 居合はせし犬とたはむれて時ひさし其處漕ぎし舟も見えずなりたる
 またひとつ寄り來し犬の見知らぬがたはむれかかるわが手に足に
 長濱のながきはてより寄りか來しわがめぐり犬のいつか四つなる
 まひくだる鴉を追ひて飽くとせぬ犬の跫音《あしおと》は濱に亂れつ
 宿なしの犬と主ある犬どちのあそびざまおのづむきむきにして
 うち捨てておけば犬どち戯れて今は遙けく行きてかへらぬ
(369) 何處より漕ぎか寄りけむまなかひの入江にならぶ舟のかずかず
 
    沼津千本松原
 
 をりをりに姿見えつつ老松の梢《うれ》のしげみに啼きあそぶ鳥(その一)
 老松の枝さしかはすあひにをりてまひあそぶ冬の小鳥どちかも
 まふ鳥の影あきらけき冬の朝のこの松原の松のそびえよ
 樂しげの鳥のさまかも羽根に腹に白々と冬日あびてあそべる
 枯松にまひくだりたる椋鳥のむれてとまれるむきむきなれや(その二)
 茂りあふ松の葉かげにこもりたる日ざしは冬のむらさきにして
 うち聳え茂れる松のうれにをりてこまやかに啼ける繍眼兒《めじろ》なるらし
 鵯《ひよ》の鳥なきかはしたる松原の下草は枯れてみそさざいの聲
 まろやかになびき伏したる冬枯の草むらのなかのみそさざいの聲
(370) 路ひとつほそくとほれる松原の此處の深きにみそさざい啼けり
 ひといろにすがれ伏したる草むらに花ともみえぬうすむらさきのはな
 見てをりてこはおもしろき冬枯のさまざまの草の草の實なれや
 房なせる實の見えてゐて眞さかりの櫨《はじ》の紅葉のうつくしきかな
 時すぎし紅葉の枝にふさふさと實を垂らしたるあはれ櫨の木
 俥なる幌にひびける雨のおとを冬ぞとおもふ街をゆきつつ(その三)
 窓さきの竹柏《なぎ》の木に來て啼ける百舌鳥羽根ふるはせて啼きてをるなり
 時雨すぎし松の林の下草になびきまつはれる冬の日の靄
 ありとしもわかぬほのけき夕月のかかりてぞをる松のうへの空に
 松原のなかのほそみち道ばたになびき伏したる冬草の色
 木々の葉に草のもみぢにおきわたしいま靜かなる朝霜の原
(371) 網小屋の戸はとざされつ冬の日のかぎろひぞ見ゆ此處の砂地に
 この濱の石あらければ冬いとど白けたれどもよき日向《ひなた》なる
 遊女たち出でて遊べり沼津なるぬくとき冬の濱の眞砂《まさご》に
 松かさと見まがふ鳥のめじろ鳥群れてあそべり老松が梢《うれ》に(その四)
 冬の空やならびそびゆる老松のなかにつらなれる枯れし松ひとつ
 冬といへどぬくき沼津の海ぎしの森のみどりにさせる天つ日
 この森の木々に實ぞある實を啄《は》むと群れたる鳥の啼く音《ね》こもれり
 冬の日に照りてぞ匂ふ櫨紅葉その木のもとに立ちてあふげば
 松葉かくおともこそすれみそさざいあをじあとりの啼ける向うに
 松原のなかの小やしろなにの神のおはすにかあらむ落松葉が下に
 いつ知らずつきこし犬のわがそばに添ひてすわれる枯草の原
(372) 忘れこし煙草をぞおもふ枯草のにほひこもれる此處のひなたに
 あたたかき沼津の冬や枯草のあひにくれなゐのなでしこの花
 色さびし櫟のもみぢ散る遲しおそしと見つつわが飽かなくに
 老松の幹の荒肌に日ぞさせる寂びて眞しろき冬の日の色(その五)
 茂りあふ雜木のすがた靜かなり拔き出でて立てる老松はなほ
 木々の葉に宿れるつゆはよべの時雨のなごりの露ぞかがやけるかな
 啼く鳥の聲ぞ澄みたる木々の葉のよべの時雨のつゆは光りて
 ほがらかに冬日さしたる松が枝に群れあそぶ鳥の姿のさまざま
 松原の此處は小松のほそき幹はるけくつづきつづくはてなく
 かろやかに駈けぬけゆきてふりかへりわれに見入れる犬のひとみよ
 枯草の色の毛なみのわが小犬枯草のかげにすわれるあはれ
(373) 森なせる犬ゆづり葉の實を啄《は》むとつどへる小鳥うちひそみ啼く(その六)
 銃音《つつおと》にみだれたちたる群鳥のすがたかなしも老松がうへに
 忘れかねてまたもとの木の木《こ》の實に寄る小鳥たちあはれ銃音せねば
 枯枝に並びて羽根をやすめたる小鳥のすがたあはれなるかも
 夙く立てよ狩人來むぞむらがるな其處の枯木のうれの小鳥よ
 まふ時し黒く見えつつ冬日あびてとまれる小鳥ほの白きかも
 冬の日のみ空に雲の動きゐて仰げば松の枝のま黒さ
 犬の舌眞あかし荒き石濱の冬のひなたに物はめる見れば
 うち群れて釣れるは何の來しならむ冬めづらしき今朝の釣舟
 鶯をさだかにぞ見し枯草にこもりささなくそのうぐひすを(その七)
 主なき蜘蛛の古巣にかかりゐてうつくしきかもその玉蟲は
(374) あたたかき此處の冬なる中ぞらをかがやきてゆくよその玉蟲は
 けふひと日曇りれる冬の海に浮ぶ釣舟の數あきらなるかも
 冬枯の木の間に影のありと見き啼けるを聞けばあをじなりにし
 この小路《こみち》わがのとぞおもふ朝宵に來りあゆめど逢ふ人なしに
 相打てる浪はてしなき冬の海のひたと黒みつ日の落ちぬれば
 ひろぴろと散りみだれたる櫨《はじ》紅葉うつくしきかもまだ褪せなくに
 冬寂びし愛鷹山のうへに聳え雪ゆたかなる富士の高山
 低くして手も屆きなむ下枝に啼きてあそべる四十雀の鳥
 
    樹木とその葉
     散文集『樹木とその葉』を編輯しつつそぞろに詠み出でたる。
 書くとなく書きてたまりし文章を一册にする時し到りぬ
(375) おほくこれたのまれて書きし文章にほのかに己が心動きをる
 眞心のこもらぬにあらず金に代ふる見えぬにあらずわが文章に
 幼く且つ拙しとおもふわが文を讀み選みつつ捨てられぬかも
 自《し》がこころ寂び古びなばこのごときをさなき文はまた書かざらむ
 書きながら肱をちぢめしわがすがたわが文章になしといはなくに
 ちひさきは小さきままに伸びて張れる木《こ》の葉のすがたわが文にあれよ
 おのづから湧き出づる水の姿ならず木々の雫にかわが文章は
 山にあらず海にあらずただ谷の石のあひをゆく水かわが文章は
 書きおきしは書かざりしにまさる一册にまとめおくおかざるにまさるべからむ
 
    身邊雜詠
 
 貰ひたる石油ストーヴ珍しくしみじみ焚きて椅子にこそをれ
(376) 寒き夜を石油ストーヴ焚きすぎて油煙《ゆえん》に鼻毛染めたるあはれ
 程近き松原に日ごと出でて來て日ごとにぞおもふ身の忙《せは》しさを
 日に三度《みたび》來り來飽かぬ松原の松のすがたの靜かなるかも
 眼にうつる物のすがたのしづけきを靜けしとしも見やるひまなき
 靜けさをひたおもふこころ思ひ入りてわれから騷ぐわれにやはあらぬ
 たまたまに事に笑へばことさらにわらひゑらぎて涙こぼせり
 籐の椅子冬は寒しとひとはいへど寒からなくに倚り馴れてあれば
 心ややおちつきぬればめづらかやよき煙草けふは吸はむとおもふ
 獨り吸へる煙草のけむのしたたかにこもれる部屋も時に親しき
 珍しくけふの晝餉はたきたてのあつき飯なり冬菜漬そへて
 
    千鳥
 
(377) 長濱のかたへにつづく松の原のただに眞黒き冬のゆふぐれ
 うす墨になぎさの砂のうるほへる冬のゆふべを千鳥なくなり
 夕闇のなぎさの砂を踏みゆきておもはぬかたに聞きぬ千鳥を
 向つ岸伊豆の山暮れてまなかひの海のくらきに千鳥啼くなり
 おなじかたにまた啼き出でし千鳥かもわが立ち向ふ夕闇の海に
 さざれ波ほのかに白くつづきたる夕闇の濱に千鳥なくなり
 いさり火のひとつだになき冬の海や渚は暮れて千鳥なくなり
 
    冬日月
 
 箱根山うす墨色の山の端にうつくしき冬の日の出なるかも(その一)
 朝づく日昇りさだまれば冬凪のほのかなる靄晴れゆきにけり
 眞向ひゆひたとさしたる冬空の朝日の日ざしありがたきかも
(378) 電燈を消してぞ待たむ冬の夜の十六夜の月を椅子ながら見む(その二)
 大きなる月にしあるかな冬凪の空の低きにさし昇りたる
 冬凪の靜けく暮れてみづみづし光なき月昇りてぞをる
 朝は朝日ゆふべは冬のまどかなる月ををろがめるこの二三日(その三)
 こころよき寢覺なるかも冬の夜のあかつきの月玻璃窓に見ゆ
 冬いとどちさしとおもふ有明の月は高きにかかりたるかも
 
    千本濱の冬浪
 
 大海のうねりの端の此處に到り裂けくつがへりとよみたるかも
 高らかに卷き立ちあがり天つ日の光をやどし落つる浪かも
 大地《おほつち》もゆるげとうねりまきあがり卷き落つる浪は眞澄みたるかも
 うねり寄るうねりは此處にまなかひに眞澄みたかまりうねりよるかも
(379) 冬の海にうねりあひたる大きうねりひまなくうねり山なせるかも
 うねりあがり碎くるとしてうねりたるゆたけきうねりたゆたへるかも
 荒濱の石あらければ引く浪にうち引かれつつとよみたるかも
 とよみ落つる青浪の底に引かれゆくわれのこころしただならぬかも
 
    冬鶯
 
 わが窓のガラスにとどく竹柏の枝にゐてあそべるは冬の鶯
 厨の戸あけすてておけば冬日さし鶯が來るよその茶の木より
 庭先の茶の木にをりてささ鳴ける鶯よよきうぐひすとなれ
 冬の鶯これの厨《くりや》に入りてをりて皿に糞《ふん》して逃げゆきにけり
 
(380)    雜詠(大正十四年)
 
 よき日和つづくこのごろ遠空の高嶺の深雪《みゆき》かがやけるかも
 落葉せるからたち垣の根方なる葉蘭かがやくけふの日和に
 老松の梢《うれ》の荒き葉かがやくやその中空の冬の日ざしに
 やどり木のちひさき枝葉老松のこずゑに見えてゆらぐ冬の日
 老松の上枝《ほづえ》下枝《しづえ》のさゆらぎの澄み定まれる冬のうらら日
 よべ降りし霙こほりて眞白なる珠とむすべり枯草の上に
 若松の小枝がさきの葉の茂みに殘りたまれりよべの霙は
 ぬぎすてし妻が羽織を夜爲事の膝にかけつついとしと思へ
 
    旅中即興の歌
     信濃揮毫行脚記より。
(381) 呼子鳥啼くこゑきこゆ楢櫟枯葉をのこす春の山邊に
 梅櫻眞さかりなれや千曲川雪解ゆたかに濁る岸邊に
 訪ね來て君が二階ゆ眺めやるむかひの峰の松の色濃さ
 友どちと打連れ來りとよもして君が二階に遊ぶたのしさ
 咲き盛る石楠花の花の鉢の蔭に少女梳るうつむきながら
 少女子の頬を眺めつつ清らけきこの世の命讃へけるかも
 善光寺だひらの花のさかりに行きあひぬ折からの雨もただならなくに
 枝垂櫻老樹の枝のしづやかに垂れて咲きたる枝垂櫻の花
 うら仰ぎよしと眺めし眞盛りの櫻折り來て挿してまたよし
 鉢伏の山に朝日さしまろやかに降りつみし雪はよべ降りしとふ
 とろとろと榾火《ほたび》燃えつつ煙たちわが酒は煮ゆ煙の蔭に
(382) 夕日させる雲のあはひに表れて雪ゆたかなる駒が嶽の山
 
    美濃、信濃、尾張、揮毫行脚記より。
 
 麥の色親しきかもよ穗も莖もひとしなみなる熟麥の色
 土赤く禿げたる丘の裾のたひらに小學校ありて子等ぞ群れたる
 吹き立ちて走る風見ゆ青葉若葉うづまき茂る向ひの山に
 立ちまじるとりどりの木に風ぞ見ゆ松は靜けき青葉の山に
 栃の木とおもふ若葉ぞうらがへる美しきかなや向つ山の風に
 おしなびけ風こそ渡れ栃若葉くぬぎ若葉の見わかぬまでに
 屋根の上をさし掩ひたる老松の小枝にあそぶいしたたき鳥
 この老松に松かさおほし小さくて黒み帶びたる松かさの數
 梅雨晴の日ざしさしとほる池の隅に靜かなるかも鯉ぞ群れたる
(383) 桑の葉は柔らかきかも伸べば直ちに刈りとられゆく桑の葉の色
 椋鳥よ尾長鳥よ花の柘榴の木に群れあそぶすがた美しきかも
 青葉若葉花はくれなゐの柘榴の木に尾長鳥あそぶ長き尾垂れて
 山に雪降り里はあんずの花ざかり尾長鳥來て群れてあそべる
 枯草のあらはに殘る荒野原かすかなるかも郭公《かつこう》の聲は
 からかさを傾けて聞くや雨さむき枯野のすゑの郭公の聲を
 淺間山にそれともわかぬ煙見えてかすかなるかも郭公の聲は
 長々しくうすみどりの房をたらしたる胡桃の花を初めてわが見つ
 清らけきうす色の羽根よ葭の原ゆ啼きつつとべる行々子《よしきり》見れば
 葭の原ゆまひたちきたり落葉松のさみどりの枝に啼けるよしきり
 山の湯のそのわかし湯のえんとつのうへまひこえて啼くほととぎす
 
(384)    訪歐飛行機送迎の歌
     けふ七月二十五日午前九時三十五分、待ち待ちし二つの飛行機、富士のこなたの空に現はる。
 夏がすみかきけぶらへる足柄の峰《を》の上《へ》の空ゆ飛行機來る
 うらかなしき霞にもあれや眞夏空けぶらふなかに飛行機は見ゆ
 靜かなるかもわが飛行機ははてもえわかぬ旅に出で立てるわが飛行機は
 おお聽けわが飛行機の立つる響あを空の底にこもらふひびきを
 眞夏空けぶらふなかにおほどかに響かきたててゆくよ飛行機
 富士がねのこなたの空を斜《はす》に切りて二つうち並び行くよ飛行機
 行くよ飛行機かきけぶらへる青空のなかに眞澄みて行くよ飛行機
 つかず離れず二つならびてかろやかに靜けくゆくよわが飛行機は
 行け飛行機|降《くだ》るおもはず行くさき問はずつばさうち伸べ行けよ安らに
(385) 双手あげ呼ばむとしつつ涙落ちぬただに安らかに行けよ飛行機
 うしろ影靜けくあるかな今は遙けくなりまさりつつゆける飛行機
 家族《うから》みな門にうち立ちまさきくと祈りつつ送るその飛行機を
 飛行機より眼《まなこ》おろせばまなかひに靜かなるかも畑つもののみのり
 
    夢
 
 故郷に墓をまもりて出でてこぬ母をしぞおもふ夢みての後に
 空家めく古きがなかにすわりたる母と逢ひにけりみじかき夢に
 鮎燒きて母はおはしきゆめみての後もうしろでありありと見ゆ
 夢ならで逢ひがたき母のおもかげの常におなじき瞳したまふ
 父が墓は夢に見るなし白髪《しらかみ》のうつしみびとの母をよく見つ
 白き髪ちひさき御顔《みかほ》ゆめのなかの母はうつつに見えたまふかも
(386) うつしみの白髪人《しらかみびと》のかたくなの母をゆめみて後のさびしさ
 かたくなの母の心をなほしかねつその子もいつか老いてゆくなる
 母をめぐりてつどふ誰彼《たれかれ》ゆめのなかの故郷人よ寂しくあるかな 名はいまは忘れはてたれ顔のみのふるさとびとぞ夢に見え來る
 
    手賀沼に遊びて
 
 水あふひ水にうつりてほのかなる花のむらさきは藍に近かり
 かろやかに音かきたててわけてゆく眞菰がなかの舟のちひささ
 ばんの鳥かいつむりの鳥の啼聲のをりをり聞ゆ舟とめてをれば
 山に棲む鳥はおほしとおもひしか沼に來てみれば沼の鳥おほし
 さかづきのいと小さきに似てもをれや浮きて咲きたる水草の花
 沼のさなか眞こものかげに舟をとめて埃は來ずと酌める酒かも
(387) 水草の浮葉ひとところに片よりて靜けき見れば花咲けるなり
 かいつぶりの頭ばかりが浮きてをり黒くちひさくをりをり動き
 鵜の鳥の大きくあるかな沼のさなか眞菰の蔭ゆまひ出でてゆく
 水草のうき葉のうへにとまりたるうす水色の蜻蛉《あきつ》なりけり
 沼のうへにまひあそぶあきつをりをりをうき草の葉に寄りていこへる
 咲き出でて日は淺からむ眞菰の花うす紅のいろを含みたるかも
 秋の野の芒のさまに似は似つれみづみづしきよ眞菰の原は
 ひとしなみになびける見ればこの沼の眞菰は北に靡きたるなり
 夕燒の名殘は見えて三日の月ほのかなるかも沼の上の空に
 はるけくてえわかざりけり何のうへや近づき來る鷺にしありける
(388) 苗代茱萸熟れて落つれば秋ぐみの花ほの白く咲きいでにけり
 摘みとりてくふぐみ澁ししぶけれどをさなかりし日しのびつつくふ
 朝づく日いまだ射さねば葛の葉におきわたす露は眞白なりけり
 蚊のひとつ來てぞさすなる長月の汽車の窓べにもの讀みをれば
 この里よ柿のもみぢのさかりにて富士にはいまだ雪の降らざる(裾野村)
 
    旅中即興の歌
     周防國伊保庄村、村上可卿君方にて、十一月三日。
 石蕗の花咲きみてり君が家の寂びて並べる庭石の蔭に
 月夜にし今宵ありけり遠く來て泊れる此處の庭を見やれば
     伊保庄村の前面に鴉島なる小島あり、全島鬱然たる密林なり。
 鴉島かげりて黒き磯の岩に千鳥こそ居れ漕ぎ寄れば見ゆ
(389) この小島人の棲まねば靜けくていま石蕗の花の眞さかり
 この島よ樹々茂れれば木がくりの崖に石蕗咲きみだれたり
     八幡市荒生田の岡の上の宿にて、同十日前後。
 よべ一夜泊れる宿の裏庭に出でて拾ひぬこの落栗を
 人いまだ行かぬこの路うつくしう櫻もみぢの散れるこの朝
 新墾《にひはり》のこの坂路のすそとほし友のすがたの其處ゆ登り來《く》     荒生田山はもと小笠原侯松茸狩の山なりしとぞ。
 荒生田《あらふだ》の山の椎の木老いたれやなほ幾代かけて老い茂れかし
     福岡なる加藤介春君方にて、同十一日。
 久し振に來て泊りをればこの庭の山茶花のはな咲きそめしかな
     同市西公園の山かげなる安河内洲起君はわが行くを待ちてその庭の柿を殘し置きぬ、同十二日。
(390) 冬寂びし君が庭なる柿の實の殘れるをわが來てたべにけり
 よべ遲くわが來て泊り曉の霜おける柿をもぎてたぶるも
     長崎市なる高島儀太郎君方にて、同十六日。
 船の往來《ゆきき》うちにぎはひていにしへの寂びをもちたり長崎港は
     阿蘇山麓立野驛にて、同廿六日。
 停車場におりたちて見る眞向ひの冬枯山の日のにほひかも
     阿蘇山麓栃の木温泉にて、同廿七八日。
 散りすぎし紅葉を惜しむ霜月の栃の木の湯の靜かなるかも
 名を聞きて久しかりしか栃の木の温泉《いでゆ》に來り浸りたのしき
 夜半ひとり寢ざめてをれば靜けさや湯瀧のひびき溪川の音
 澄みとほるいで湯に浸りわが肌の錆びしをぞ恥づ獨り浸りて
(391) この宿の溪むかひなる岩山の岩のあひの冬木見つつ親しき
     阿蘇はその嶺五つに分れたり、世に阿蘇の五嶽といふ、同廿八日。
 阿蘇が嶺の五つのみねにとりどりに雲かかりたり登りつつ見れば
     阿蘇を下りて打開けたる廣野を過ぐ。
 美しき冬野なるかも穗すすきのなびかふ下の枯芝の色
     炭燒の煙にやと問へば地獄温泉の湯氣なりといふ。
 枯野原行きつつ見れば野末なる山のいで湯の湯げむりは見ゆ
     我等が登りし翌々日阿蘇には雪の白く積りぬ。
 阿蘇が嶺に白雪降りぬ咋日こそ登り來にしか白雪降りぬ
     肥後國荒尾町なる海達貴文君方にて、十二月一日。
 雀ゐてあさりをるなり麥蒔くと鋤きすてて黒き冬田の中に
(392) 降りすぎし時雨のあめぞたまりたる麥蒔くとして鋤きすてし田に
     霧島山榮之尾温泉にて、同所は海抜九百米の山腹に在り、同二、三日。
 見おろせば霧島山の山すその野邊のひろきになびく朝雲
 明方の月は冴えつつ霧島の山の谷間に霧たちわたる
     同所にて思ひがけなくも初雪にあひぬ、同二日。
 このいで湯ぬるきをかこち浸りをれば折からなれや雪の降り來つ
 窓さきになびき亂るる枯萱に降りくるふ雪のうつくしきかな
 降りすぎし今朝のはつ雪霧島の老樹の森に白く積りぬ
 はつ雪といへるこの雪庭さきの樹々につもりて美しきかな
 霧島の山の檜の木にはつ雪の白くつもりてやがて消えたる
 庭先に積みわたす雪のうへにまよふいで湯の煙匂ひたるかも
 
(393)    松風(大正十五年)
 
 籠り居の部屋のガラス戸輝きてうららけき今日を松風聞ゆ
 老松のうれの茂みに吹きこもりとよめる風を聞けば春なり
 老松のうれにこもれる風の音はるけくもあるか眺めつつ聞けば
 
    二月末の雨
 
 昨日はも時雨もよひの寒かりき夜半かけてこのあたたかき雨
 啼きすぎしは鶸の聲なり廂うつ雨あたたかきその軒さきを
 あたたかう今朝降る雨や軒さきにひは啼くきこゆ百舌鳥なく聞ゆ
 板廂《いたびさし》新しければ降る雨のひびきあららかに立ちそろひたり
 
    梅その他
 
 とりどりに庭の小石のかがやけるけふうらら日の白梅の花
(394) わがたけにたらずとおもふひと本の若木の梅の花のま白さ
 部屋のうちに火なきはさびし火のありて湯釜に湯氣の立たざる淋し
 櫨《はじ》の實ぞ落ちてかかれる枯萱のうす赤らみて立てる葉先に
 藁の灰あたらしければちさき爐のめぐりこのごろよごれがちなる
 
    椿と浪
 
 靜かなる椿の花よ葉ごもりに咲きてひさしき椿の花よ
 ひともとの野なかの椿枯草のすさまじきなかのひともと椿
 枯草のおどろがなかにひともとの椿かがやく葉は葉の色に
 風凪ぎて椿はひとり光りたり冬野の晴の枯草のなかに
 曇日は花すら色の褪せて見ゆ椿は晴れて見るべかりけり
 ひともとの椿の花に寄りてゆくわらべたち見ゆ枯草がくれ
(395) わらべたちとるな椿をわが部屋ゆ見ゆる冬野の其處の椿を
 からみたる草枯れはてて冬の野の椿は花のいよよ咲くなる
 椿の木に花は咲きみちあかつきの今朝の寒きに鶯のなく
 ねざめゐて起きいでぬ部屋に聞え來るやぶうぐひすの聲の親しさ
 闇の夜とおもふ夜ふけの廂うつこよひの雨の親しくあるかな
 しぐれの雨いつしかやみて靜かなる宵とおもふに浪の音起る
 今宵たつ浪のとよみは高くあがらず地をつたひて聞え來るかも
 親しさよ今宵の浪のとどろきは地にこもりて聞えたるなり
 
    鶯
 
 雨戸いまださされし部屋の曉に聞えたるかも藪鶯は
 冷やけき雨あがりかな曉のわが庭さきに鶯啼きて
(396) 枯れ伏して草すさまじき如月の野に啼きすますうぐひす一羽
 枯草の伏しみだれたるあらはなり雨降り過ぎて鶯の啼き
 枯草のかげにこもれる鶯のをさなき聲は移りつつ聞ゆ
 梅の花白く咲きたり曉の闇ほのかなる庭木がなかに
 葉のしげみうち枝垂れつつ枝ごとに椿花咲けりその葉ごもりに
 
    酒
 
 止むべしとただにはおもへ杯に匂へるこれのまへにすべなし
 これにておかむと置ける杯に殘る心を殺さうべしや
 笹の葉の葉ずゑのつゆとかしこみてかなしみすするこのうま酒を
 かなしみて飲めばこの酒いちはやくわれを醉はしむ泣くべかりけり
 われはもよ泣きて申さむかしこみて飲むこの酒になにの毒あらむ
(397) ふくみたる酒のにほひのおのづから獨り匂へるわが心かも
 うましとしわが飲む酒はとりがたき光にあれや消えてかげなき
 
    尾長鳥と鹿
     去年の春信州松代町に遊びぬ、折柄土地名物杏の花の眞さかりにて町といはず村といはず家ごとに植ゑられしこの木の花におほくの尾長鳥寄りゐてあそべるを見き、あたりの山々にはなほ雪の白かりしが杏の咲けば山を出で來てこの鳥の里に見ゆるがならひなりとぞ。或日ふとこの鳥を思ひ出でて松代町なる中村柊花に寄せし歌。
 山出でて尾長の鳥のあそぶらむ松代町の春をおもふよ
 尾長鳥垂尾うつくし柿若葉柘榴の花の庭にまひつつ
 啼く聲のみにくかれども尾長鳥をりをり啼きて遊ぶ美し
 うつつなく遊ぶさまかも尾長鳥あらはに柿の若葉にはをる
 斯くばかり馴れて遊べる美しさ尾長の鳥を山にかへすな
(398)     近頃事多く疲勞著しき大悟法和雄にすすめて伊豆天城山に登らしむ。そのいただきなる背篠の池のほとりにて鹿の遊ぶを見たりと歸り來て告ぐるに。
 雨降る天城の山の篠原に立てる牡鹿を君見たりてふ
 雨降れば出づることありてふ天城嶺の鹿を君見き梅雨の雨のなかに
 ししむらの尻のまろみに白き毛を見せつつ鹿の歩み去りしてふ
 おのづから立てる姿のうつくしき鹿を見してふ篠の原のなかに
 羨《とも》しさよ百山《ももやま》千《ち》山わけ行ききあそべる鹿をいまだわが見ず
 鹿の居る天城の山とおもふとき天城の山はなつかしきかな
 青篠《あをすず》の池はちひさし山のうへにまろく湛へて眞澄みたるなり
 天城嶺の峰にたたふる青篠の池の清水を思《も》へばかなしも
 
    孟宗竹
 
(399) 枯れしぞとあきらめてゐし孟宗の赤き葉は落ち幹青み來ぬ
 梢《うれ》切りて植ゑならべたる孟宗の葉は落ちつくし根づきたるかも
 竹植ゑなば根がたにごみを捨てよとふ埃《ごみ》を捨つるよわが樂しみに
 
    麥の穗その他
 
 麥の穗のうつくしきかも麥の穗のこの熟れぬるを持ちつつ見れば
 麥刈れる人に貰ひて麥の穗をひとつ持ちたりこの美しき
 麥の穗も熟れぬ葉かげに表れてうれつくしたる枇杷の實の色よ
 まひたてる何の花粉《くわふん》ぞ露ふくむ草原のうへにいままひたちぬ
 
    黒松
 
 黒松の老木がうれの葉のしげみ眞黒なるかも仰ぎつつ見れば
 黒松の黒みはてたる幹の色葉のいろをめづ朝見ゆふべ見
(400) 黒松の老木のうれぞ靜かなる風吹けば吹き雨ふれば降り
 
    夏の歌
 
 立ちよりてわが驚きぬ若竹の葉末は露の玉ばかりなる
 曉を早く眼ざめて起き出でつ夏にのみ知るわびしさのあり
 今朝の風つよく吹かぬに沖かけて白める浪はあげしほの浪
 青みつつ寄せぬる浪はゆたゆたに岸にたゆたふあげしほの浪
 濱わたる風のすがしさあげしほのあげさだまりて浪のゆたけく
 たけたかき少女くれなゐの衣着たり濱かぎろひの燃ゆるさなかに
 吹きかへす風もあらぬか紅ゐのしたたるばかり垂りし袂を
 いたづらに燃えわたりたるかぎろひの濱かぎろひのはてをゆく子よ
 かぎろひのみなぎらふ濱をひとりゆきて歩みひそけき少女子よ誰《た》ぞ
(401) 片手にはものをいだきつ袖の蔭に垂りし片手を見せつつ行くよ
 汝《なれ》が踏む眞砂の音の聞ゆるよわれはも行くをやめて聞きなむ
 たちさけばさと匂ひたち部屋のうち靜けき晝の西瓜なりけり
 われはもよ鹽をぞ選ぶ紅ゐのしたたる西瓜につけてたぶべく
 こはまた欝金の露のしたたるよ長目にまろき西瓜をさけば
 冷やけきにほひなるかもうこん色の西瓜の實よりしたたる匂
 たべあきし西瓜の種をふくみつつわびしくぞ居る部屋のかたへに
 あけくれのたべものまづき夏の日は西瓜のつゆを吸ひて生くべき
 
    竹葉集
 
 幾人《いくたり》の海人の乘れるや朝闇の浪に漕ぎいだし漕ぎ騷ぎたる(その一、千本濱)
 朝闇の浪の荒きに漕ぎ出づる舟ひた濡れて眞黒かりけり
(402) 澄みとほるうしほの色は水底の眞砂を染めて青みたゆたふ
     地曳網は大きく手繰網は小さし。
 濱人《はまうど》の群れて曳く網長ければ濱の朝闇明けはなれたる
 手繰網たぐりて曳きて得し魚は皿ひとさらの美しき雜魚《ざこ》
 松荒きこの松原にすひかづらひとり匂ひて咲きにけるかも(その二、千本松原)
 松の木に鴉はとまり木のかげの忍冬《すひかづら》のはなにあそぶ虻蜂
 松の木のならび明るき松原にはてこそなけれ松の木のならび
 松原にいつ生ひにけむひともとのアカシヤ生ひて花咲けり見ゆ
 松原のなかの老木の枯れたるを伐る音きこゆ昨日も今日も
 梢《うれ》をつとはなれて鴉重げなりたちならびたる老松の梢を
 梅雨曇くもりのなかに並みたてる老木の松は黒き黒松
(403) うす雲は雨氣おびたり藍うすき空にうかびて松のあひに見ゆ
 亂れやすきわれのこころよめざめたる朝のしばしを靜けくはあれ(その三、無題)
 ともすれば亂れむとするこの朝の心おさへてをるがくるしさ
 楝《あふち》の木うすむらさきの花のかげに美しき鵙がとまりをるなり(その四、鵙の子)
 かの鵙よ雛にしあらしうつくしく楝の花にあそびほけたる
 花につどふ羽蟲あさると鵙の子が遊びほけたり楝の花に
 軒さきの竹にとまれる鵙の子がわれを見てをる美しきかな
 墨色に曇りはてたる天城嶺の峰《を》に居る雲は深き笠なせり(その五、天城の雲)
 笠なして天城のみねにをる雲は春くれがたの眞白妙《ましらたへ》の雲
 明けやらぬ闇とおもふに軒さきを早や何鳥か鳴きてすぎたる(その六、朝の鳥)
 夜半に起きてもの書きいそぐならはしのわれに親しき曉《あけ》の鳥の聲
(404) 暮れ遲き庭の若葉をながめつつひとり酒酌ぐ靜けくあるか(その七、獨酌朝夕)
 朝日影さし入りて部屋にくまもなししみじみとして酒つぐわれは
 われはもよ酒飲みて早く老いぼれぬ酒飲まぬ友はいかにかあるらむ
 
    雜詠
 
 芽ぐみ遲き何の木ならむこの朝の雨に濡れつつ鳥とまりをる
 雨の雫やどせる竹に枯葉おほし日ごと見馴れし軒さきの竹に
 野茨の芽立の莖の伸びそろひ風になぴきて匂ふこの野よ
 此處の原にとぶつばくらめしげけれや野いばらの芽の芽立を縫ひて
 山櫻のはな散りすぎて天城山春のをはりのいまいかにあらむ
 ぬぎすてし娘が靴にでで蟲の大きなる居り朝つゆの庭に
 庭に居る物の音あり犬がゆき鷄がとほるをりをりの音
(405) 夕立の雨のさなかを墨色に澄みて見えつつ鳥まひすぎぬ
 聳えたる松のこずゑに鴉をりまた一羽來ぬ雨降れる松に(鴉二首)
 並み立てる老木の松のあはひ縫ひて鴉まひすぎぬゆふぐれの雨
 机なる柘榴ゆびざし見飽きなば賜《た》べよ喰べむと吾子《あこ》の言ふなる(末の子二首)
 ゆくさきざき嫌はれてゐしわんばくのひと日も終りいま眠りたる
 
    旅中即興
     北海道旭川齋藤瀏君方にて。
 野葡萄のもみぢの色の深けれや落葉松はまだ染むとせなくに
 柏の木ゆゆしく立てど見てをれば心やはらぐその柏の木
 兵營の喇叭は聞ゆ曉のこの靜かなる旅のねざめに
 遠山に初雪は見ゆ旭川まちのはづれのやちより見れば
(406) 旭川の野に霧こめて朝早し遠山|嶺呂《ねろ》に雪は輝き
 こほろぎのなく音《ね》はすみぬ野葡萄の紅葉の霜はとけ急ぎつつ
 時雨るるや君が門なる辛夷の木うす紅葉して散り急ぐなる
     増毛にて。
 音たてて霰降りすぎし軒さきにいま落葉松の落葉散りつつ
     石狩國深川町鬼川俊藏君方にて。
 ゐろりばたに大き鉢ありて茹栗《ゆでぐり》のゆであがりたる滿たしたるかも
 朝寒に鍛冶屋が鎚の冴えひびく深川町にめざめたるかも
     秋味とて鮭のとるるさかりなり、北見國網走港にて。
 あきあぢの網こそ見ゆれ網走の眞黒き海の沖つ邊の波に
 ひとつらに並び流るるよ網走のその川口の眞白きごめは(ごめは鴎)
(407)     十勝國池田町中島竹雄君方にて。
 池に落つる水は冬なりガラス戸にゐてあそべるは赤きあきつなり
     同國帶廣町なる社友歌會席上にて。
 おこし急ぐ炭火ほのかに熾《おこ》りつつ今は本降となりし雨かも
 うつつなに聞きゐし雨のしみじみと廂にひびくこの寢覺かも
     十勝より狩勝峠を越え石狩平原に出づ。
 野の末にほのかに靄ぞたなびける石狩川の流れたるらむ
     石狩國砂川炭山にて、雪中所見。
 秋すでに蕾をもてる辛夷の木雪とくるころ咲くさまはいかに
 霜はいま雫となりてしたたりつ朝日さす紅葉うつくしきかな
     夕張炭山の甲斐猛一君方にて。
(408) とろとろとひとり燃えつつゐろりなる榾《ほた》のほのほのあはれなるかも
     同君に案内せられて炭山坑内に入る。
 白雪の積めるがままに坑木はいま坑内《しき》ふかくおろされてゆく
     陸奥國新城村淡谷悠藏君の開墾地にて。
 起き伏せる岡の片かげに泉湧き泉のそばに君が家はありき
 
    朝
 
 朝闇に雨戸ひきあけ灯をともし圍爐裡に向ふこれのたのしさ
(その一)
 部屋にまだ灯のあるものをみそさざい障子のそとの竹に來啼ける
 軒寄りに茜いろ濃く下はうすし障子に朝日いまさすところ
 うら寒き茜かき流しわが障子煤びし染めて朝日さしきぬ
 夙く起きて心たのしもわが部屋の障子に竹の影さやぎたち
(409) 野末なる山の端ゆさしわが部屋にあまねき冬の朝日なりけり
 曉の光うすあをみ障子にあり今朝は曇りて寒けくあるらし(その二)
 曇りぞとおもひしものを朝づく日障子染め來つ寒き日和ぞ
 この朝や雪もよひして雲燒けぬ今し障子の赤く染まれる
 雪もよひけふの朝日の弱ければ障子に竹の影の淡かる
 雨戸まだしめきりてものを書き急ぐ戸面《とのも》に高き鳥の聲起る(その三)
 夜の明を先づ啼く鳥の百舌鳥はいま高音《たかね》張りつつなきいでてきぬ
 ほしいままに啼きすててつと飛び去りぬとおもふに百舌鳥は啼くよ彼方に
 
    庭の冬
 
 富士が嶺の麓ゆ牛に引かせ來て山櫻植ゑぬゆゆしく太きを
 冬ふけていよよ葉の色ふかみたる山梔子《くちなし》の木の葉がくれの實よ
(410) こぞ植ゑしばかりの柚子のこれの老樹思はざりけり實をあまたつけつ
 霜來むに早や摘みとりてかこへよとひとの言へれどつみかねつ柚子を
 冬青木の木に實のなることを知らざりきさんごのたまの赤き粒の實
 庭石のかげに咲きたる沈丁花いま咲ける花はこの沈丁花
 葉がくれに蜂の巣ありし梅もどき落葉しはてつ蜂の巣も落ちぬ
 このあたりちひさき池をほしとおもふ老樹の柘榴枝たれしもとに
 池を掘らば先づ鮒の子を放ちやらむ鮠も放たむ池のほしさよ
 この秋に笑みて三つ四つ實を落し若木の栗は落葉してをる
 ガラス戸をぬぐひ淨めてすがしきに透りて見ゆる庭木々の冬
 
    雜詠
 
 ひとところあけおける障子の間より見ゆるはただに枯芒の原
(411) 上枝《ほづえ》よりこぼれ落ちたるみそさざい胡頽子の下枝《しづえ》に落ちとまり啼けり
 縁先のちさき茂みの布袋竹《ほていちく》に朝ごと來啼くみそさざいの鳥
 つぎつぎに所を變へてなく鳥のみそさざいはなく常に低き枝に
 置く霜の今朝のさやけさ押しなびき枯れ伏せる草のうへに置く霜
 鐵瓶を二つ爐に置き心やすしひとつお茶の濟ひとつ燗の湯
 夜爲事のあとを勞れて飲む酒のつくづくうまし眠りつつ飲む
 ゐろりなるすすけ鐵瓶に影さしぬ障子の穴ゆ漏れし朝日は
 ふるさとの母にねだらむとおもひゐし椎の實をけふ友より貰ひぬ(その一)
 てのひらにこぼるるばかり持ちたれば椎の實の粒はひえびえとして
 椎の實の黒くちひさき粒々をてのひらにして心をさなし
(412) 椎の實の寂びぬる粒を手には持ち袋にはうつし心をきなし
 われはもよわらはべなりき故郷の山に椎の質を拾ひてありき
 曉の四時といへるに獨り起きゐて椎の實を炒《い》るよ夜爲事のあひに(その二)
 かきまずれば音のさやけさ焙烙の圓きがなかのこれの椎の實
 推の實のはやいれたらしかうばしき匂はおこるかきまずるままに
 ちひさなる圍爐裡のなかの焙烙に推の實はいま匂ひたちたり
 いる椎のはぜて飛びぬればいにしへのわらはべの日の驚きをしつ
 栗の實の甘さはなけれ椎の實のこのあまからぬありがたきかな
 鬚の中に白きがまじる歳になりていよよ親しき椎の實の味
 
    みそさざい
 
 わが額《ぬか》にあぶらを覺ゆ寒き夜をもの書き急ぎ書き終へし時
(413) 鐵瓶をおろせば湯氣のひたとやみて寒けき眞夜の部屋にありけり
 夜爲事のあとを勞れてすわりをり膝にしみたる曉の冷
 今朝早く電燈消えつ机のうへうす暗ければ爐には向ひぬ
 耳鳴のほのけく起る覺えつつゐろりにかざす双手なりけり
 みそさざいつと啼き出でぬわが部屋の障子のそとはまだ明けやらず
 日いまだし明の蒼みをやどしたる障子のそとのみそさざいの聲
 
    竹の影
 
 遠山の箱根の峰に出づる日のひかりまともにわが部屋にさす(その一)
 朝づく日野ずゑの山に昇りけむ障子に竹の影さやぎたちぬ
 朝づく日障子に淡く流れたりあはつけきかも竹の葉の影
 朝づく日ふふみ湛へて障子明るしさやぎて竹の葉の影ぞある
(414) 朝づく日昇りさだまり澄みぬれば障子に竹の影深くなりぬ
 縁先に見るものに竹をわが植ゑき障子に影さす知らざりにけり(その二)
 布袋竹枝葉こまやかにたけ伸びず枝垂れなびかひさゆらぎてをる
 根がたにはつねに鷄來てあそぶこのひとむらの布袋竹の蔭に
 雨降れば上枝しだれて濡縁にその葉とどかす布袋竹の竹
 
    爐邊
 
 藁灰のみにくかれどもやはらかに火をたもてれば爐には滿たせる
 獨り向ふこの爐にあればおのづからつつしみ向ふちさきこの爐に
 膝寄せてもろ手かざせば爐のなかの燠は靜かに燃え入りてをる
 ほの白き灰をうすうす被《かづ》きそめぬおこりきりたるこの燠はいま
 
    藁灰
 
(415) 藁の死減りやすくして圍爐裡寒し新たに焚きて添ふべくなりぬ
 とりおけるこの炭俵よこれを焚きて新《にひ》藁灰は作らむとおもふ
 野の萱を編みて作れる炭俵冬野のにほひふくみたるかも
 かき曇り雪もよひして風のなしけふ藁灰を焚かむとおもふ
 山萱を荒編なせる俵焚きて作れる灰の荒く眞黒し
 
    奉悼の歌
     十二月二十五日早曉終に崩御の報を聞く、かなしみうたへる歌。
 神去りたまひぬといふよべの夜半《よは》につひにとこしへに神去りたまひぬ
 おん病あつく永びきおはしましき今は終りとならせたまひぬ
 御身《おみ》弱くましませしかば國民《くにたみ》の我等がうれひ常にとけずありき
 とけざりし我等が憂ひあはれつひにけふのなげきとなりにけるかも
(416) うつし世にをろがみまつる稀なりしわが大君は神去りましぬ
 下々の我等がなげきあはれかしこしけふ雲のうへにありとおもふに
 うちつけになげき悲しむ下々のわれらがごとくにあらせたまはぬ
 
    多摩御陵をおもふ
 
 武藏野の大野の奥の靜もりにしづまりたまふ大御靈《おほみたま》かしこ
 おほらかに高まりゆける野の奥の野づかさなればさやけからまし
 山川の凪ぎしづもれる武藏野の野づかさ占めて休らはせます
 うつし世は御事おほかりき山川のいま靜けきに休らはせます
 御陵《みささぎ》の邊に生ふる木草ともしかも羨しかも木草羨しかも木草
 御民われ草鞋うちはき笠かうぶりまうでまゐらむ野の御陵に
 
(417)    昭和二年元旦(昭和二年)
 
 元日の明けやらぬ部屋に燈火《ともし》つけただに坐りゐて心つつまし
 元日の明けやらぬ書齋小暗きに獨り坐りをれば妻の入り來《き》ぬ
 年ひさしくむつみ來りぬ元日の今朝|壽詞《よごと》申すわが古妻に
 元日の明《あけ》の靜けさ聞ゆるは家の裏なる濱の白浪
 ふと見れば時計とまりをり元日のあかつきにして見れば可笑しき
 部屋出でてたち迎ふれば眞ひがしの箱根の山ゆ昇る初日子
 濡縁の狹きに立ちてをろがむよわが四十三のけふの初日を
     元日は陰暦霜月廿八日にあたれり。
 初日の出待ちつつあふぐ山の端にこはかすかなる有明の月
 けふあたり終りとおもふ有明の月はかすかに殘りたるかも
(418)     千本松原といへれど雜木茂りあひてさながらの密林なり。
 わが家は松原の蔭松に棲む鴉なき出でてけふは元日
 森なかをわが過ぎゆけばまなかひに小鳥まひかはしけふは元日
 かすかにもさゆらげる葉に日ざし透れり冬の瑞葉の美しきかな
 海岸《うみぎし》の森にしあれば高く聳えずこもり茂らひ瑞葉垂らせり
 冬ながらみづ葉かがやく此處の森のみづ葉めでをりけふは元日
 茂りあひてかたみに木々が落したる木洩日匂ひけふは元日
 森かげの路をゆきつつわが歳の四十三をおもふけふは元日
 木洩日の日ざし袖にあり森なかの路をゆきつつけふは元日
 路ばたの石に木洩日落ちてをり歩みつつおもふけふは元日
 路ばたの石に落ちたる木洩日の照り匂ひつつけふは元日
(419) 七草のなづなすずしろたたく音高く起れり七草けふは
 めでたさを祝ひてたける御《み》國振七草粥をいただきてたぶ
 七草の粥は眞白し七草のななくさなづな青し七草
 
    鮎つりの思ひ出
 
 ふるさとの日向の山の荒溪の流清うして鮎多く棲みき
 故郷の溪荒くして砂あらず岩を飛び飛び鮎は釣りにき
 われいまだ十歳《とを》ならざりき山溪のたぎつ瀬に立ち鮎は釣りにき
 おもほへば父も鮎をばよく釣りきわれも釣りにきその下つ瀬に
 上つ瀬と下つ瀬に居りてをりをりに呼び交しつつ父と釣りにき
 まろまろと頭禿げたれば鮎つりの父は手拭をかぶりて釣りき
(420) 鮎つりの父が憩ふは長き瀬のなかばの岸の榎《え》の蔭なりき
 釣り得たる鮎とりにがし笑ふ時し父がわらひは瀬に響きにき
 囮の鮎生きのよければよく釣れきをとりの鮎をいたはり圍ひき
 鮎かけのをとりの鮎をかこふべく石菖の蔭にその箱かくしき
 夜半に來て憎き獺わがかこふ囮の鮎をよく盗みにき
 鮎盗むたびたびなれば獺の憎きを穽に落して取りにき
 冬ならば剥ぎて賣らむを獺のこの皮のつやよと言ひて惜みき
 水打ちて躍れる鮎を手には持ち鼻に糸とほし囮とはしき
 鼻に糸さし囮の鮎となしゐつつ鮎の匂は掌にありき
 水の匂苔の匂と云はむよはめぐしわが鮎高くにほひき
 幼き日釣りにし鮎のうつり香をいまてのひらに思ひ出でつも
(421) 瀬の鮎の囮を追へるかすかなる手ごたへをいま思ひ出でつも
 瀬の水は練絹なしつ日に透きて輝ける瀬に鮎は遊びき
 瀬の渦にひとつ棲むなり鮎の魚ふたつはすまずそのひとつ瀬に
 淵の鮎は釣りにくかりき水澄みて影の見ゆるをくちをしみ見き
 淵の鮎は大きかりにき釣りがたみ諦めて見れば大きかりにき
 山の蔭日暮早かる谷の瀬に鮎子よく釣れ釣り飽かざりき
 ひと日釣りし鮎の籠持ち歸り來れば背戸に蚊の多き夕闇なりき
 釣り暮し歸れば母に叱られき叱れる母に渡しき鮎を
 
    竹の歌
 
 植ゑて今年|三年《みとせ》となりぬわが竹は痩せ痩せて立つ家のうしろに
 さき切りて植ゑたる竹の直き幹つや錆びはてて立ちならびたる
(422) 北向きのわが窓さきに泣びたちそよぐともせずこの痩竹は
 幹痩せて枝葉ともしきわが竹の孟宗に百舌鳥がよく來てとまる
 伸びたちて幹なほやかに枝葉深くこもらひ茂る竹をわが愛づ
 日照れば濃き影落し雨降れば濡れてしだるる竹をわが愛づ
 
    小鳥いろいろ
 
 庭の木に啼けるひたきの美しくまひあそびつつ聲さびて啼く
 聞きをりて笑みこそうかべみそさざいひたきも聲のみなあはれなる
 眞冬啼くひたきみそさざいいづれみな人里になきて聲の錆びたる
 啼きすぎしは目白とおもふ冬いまだ深ければ聲のととのはなくに
 啼聲をひとつ落してゆきにけり地面《ぢづら》するばかりまひゆける鳥は
 地におりてなける鳥あり曉の霜うす白き枝に啼けるあり
(423) 庭くまを啼きうつりをるみそさざい聞きゐつつおもふ庭の落葉を
 一群の目白うつり來てなきたちぬ庭の向ひのひともと椿に
 わが家の離れてあれば雀居らず目白百舌鳥ひは寄りて遊べる
 鳥一羽芒かれ伏せる冬枯の原の枯木にをりてしき啼く
 靜けきに啼く鳥きこゆ啼く聲にこもれるいのちありがたきかな
 朝闇の殘れるほどは川邊よりわが庭に來てあそぶ水鳥
 水鳥のものをはばかるふくみ聲あかつき闇の庭より聞ゆ
 
    炭火
 
 熾りたる炭火のさまをよしとおもふ猛く靜けくてはかなきぞよき
 燃えたたむ焔のきほひ内に見えて燃ゆとはしつつ燃えぬ炭の火
 燠の根にありとしもなきあはつけき青き焔のありて動ける
(424) 櫟の木楢の木の炭をよしとおもふ花咲けるごと燠の燃えたる
 山に生ふる木々はうつくしみな親し燒きて作れるこの炭もまた
 朝づく日さし入れる爐に燠の火の錆びし焔をあげてをるかも
 
    濱邊に住みて
 
 珍しくけふ引網のかけ聲の背戸なる濱ゆ聞え來るかも
 引網のかけ聲きこゆ霜深き今朝を濱よりかけ聲聞ゆ
 靜かなるこの曉を海人がどち聲うち合せ網引く聞ゆ
 海に落つる夕日のひかり照りたればこの長濱の冬の寂びざま
 この朝の浪のとどろき高かるよ障子うすあをく明けむとしつつ
 黒々と小舟群れをり冬凪のかの沖あひのひとつところに
 立ち騷ぐ浪の音かも恙ありていねつつ聞けば眞近き濱に
(425) わが庭に小石おほかり荒濱の浪のとどろき響き來る庭
 わが庭は芒の原に續きたり芒枯れ伏して色のさやけさ
 手繰網引ける姿のあはれなりけふ冬凪の濱の渚に
 椿の葉つやだち光る日和なりくるほしく起る鵯鳥の聲
     創作社八幡支社諸君の歌を讀みて諸君に寄す。
 彼の森に椿ひともと咲きたりと行き競ふらし若人たちは
 わが背戸の森に椿は咲き出でて數かぎりなし見せたきものを
 眼あぐればすなはち見ゆるこの森の椿の花を見せたきものを
 葉漏日のかがよふ森の葉がくれに咲き枝垂れたり椿の花は
 見に來よと言ひやりかねつけふもただ獨り見てをり椿の花を
 
(426)    述懷
 
 事を好む心われにありけはしきに耐へつつをりてわれと苦しき
 たひらかにありがたき心われにあり苦しみあへぐわれみづからに
 逢ひたしと思へる友をおもひつつをり寂しさは身を浸したるかも
 身に近き友のたれかれを思ひみつ寂しからぬなし人の生きざま
 
    桃畑
 
 石あらき桃のはたけをうちならす音の聞えて二月となりぬ
 さき揃へ刈りこまれたる桃畑の枝つやつやし蕾を持ちて
 桃ばたけ打ちならされて明るきに枝々の蕾吹き出でむとす
 桃畑の花のさかりぞあはれなる畑見廻りのただに見まはり
 
    溪間の春
(427)     富士と足柄とのあひだを流るる黄瀬川のみなかみに遊びて。
 通されし部屋に坐りて小暗きに障子はあけつ篁の蔭
 溪水に濁りぞ見ゆる山ざくら咲きなむとして雨のしげきに
 萌えたてるうすべにの葉のゆたかにて花いまだしき山ざくら花
 山櫻咲けりともなし明けがたのこのひとときの空のあかりに
 上枝なるは空にかがよひ下枝なる垂りて咲きたる山櫻花
 湛《たた》へたる淵のみぎはの岩の面《も》に苔まさをなる春の曙
 曙のもののしめりの深ければ芽ぶける木々の立ちて靜けき
 朝づく日峰にのぼりて山の蔭けぶらふ溪の山ざくら花
 此處ゆ見れば日は足柄の峰に出づ黄瀬の溪間の溪奥の宿
 啼聲は水鳥なりきあけぼのの庭の木の間をなきよぎりたる
(428) 寒かりしひと夜の雨にみかさまし流るる溪の山櫻花
 よべ降りし雨に濁れる溪の瀬につるみて遊ぶ川烏鳥
 楢の木の芽ぶく木の間にまひあそぶ樫鳥のすがたあらはなるかも
 まふ時の羽根うつくしく樫烏は遊びほけたり芽ぶく木の間に
 樫鳥の群れて遊べる岡に見ゆ春しらたへの大富士の山
 あらはなる富士の高嶺のかなしけれ裾野の春の野邊にあふげば
 富士の嶺の裾野のなだれゆたかなる片野の春の今はたけなは
 木炭山《すみやま》とひとのたてたる雜木山木々はきほひて芽ぶきたるかも
 むきむきに木々の茂りて靜かなり椎は椎の木樫は樫の木
 ひともとの樫の木たてり白樫とおもふ若木の美しきかな
 葉ばかりに花のとぼしき山櫻咲きまじりたり椎の木の間に
(429) なにならぬ花の匂ぞにほひたる雜木の山の春の日向に
 篁の蔭をながるる溪淺し光りせせらぎ流れたるかも
 野のなかの溪は淺けれあさき瀬の水うちあげて流れたるかも
 淺川のせせらぎ澄みて流れたりうららけきかも鶯の聲
 この春にまだめづらしき河鹿なり此處の淺瀬にひそみ鳴くなる
 岩蔭の淵は靜けし上つ瀬の水泡は岩のかげにうかびて
 この溪の岩のかたちぞ面白き根をゆく水は痩せて澄みつつ
 おのづから岩に苔むし松生ひぬ根をゆく水の流れやまなく
 黄楊の木ぞ岩に生ひたる松の木ぞ樫ぞ生ひたる寂びしこの岩
 この溪の水の乏しさ斷崖の岩に躑躅の咲きしだれつつ
 
    旅中即興の歌
 
(430)     下の關の宿屋にて。
 藤の若葉や船出の前の荷造りのせはしき部屋に見たる若葉や
     東莱温泉にて。
 この國の山低うして四方の空はるかなりけり鵲の啼く
     珍島邑内なる創作社友福島勉君に誘はれ岡島竹林洞に赴く、途中の濱にて端なくも鶴のまひ遊べるを見、馬上ながらに朗詠せる歌。
 潮干潟ささらぐ波の遠ければ鶴おほどかにまひ遊ぶなり
 遠干潟いまさす潮となりぬればあさりをやめて鶴はまふなる
 うちわたす干潟のくまの岩のうへに眞鶴たてり波あがる岩に
 おほどかに一羽の鶴はまひたてり三つ並びたるなかの一羽は
     竹林洞に同君の兄二郎氏の別墅あり、三日滯在す。
 窓さきの若木櫻をかきたわめかささぎは二羽とまりたるかも
(431) わが連れし犬に戯るるかささぎの聲はしどろに亂れたるなり
 松葉焚く厨のけむり匂ふなりまだ灯ともさぬ酒のむしろに
 呼びかはす雉子《きぎす》の聲やをちこちは小松ばかりの山まろうして
 二聲をつづけて啼けば向ひなる山のきぎすも二聲を啼く
     儒城温泉にて。
 呼びさます鵲の聲きこゆなり今朝も晴れたらむ窓さきの木に
     京城慶福宮後苑内、緝敬堂にて。
 ときめきし古《いにしへ》しのぶこの國のふるきうつはのくさぐさを見つ
     金剛山内、長安寺にて。
 咲き盛る芍藥の花はみながらに日に向ひ咲けり花の明るさ
 長安寺の庭の芍藥さかりなり立ちよればきこゆ花の匂ひの
(432) 芍藥のなかば咲きたるまだ咲かぬとりどりの花にあそぶ蟻蟲
 美しき雀なるかな芍藥の眞盛りの園の砂にあそべる
 長安寺梵王棲のたかどのに寢亂れたりな眞晝を人は(寺内梵王樓所見)
     同じく表訓寺にて。
 表訓寺御堂の裏に廻りたればこは眞盛りの芍藥の園
     同じく正陽寺にて。
 麓なる寺々の芍藥咲きたれど正陽寺の花はいまだ蕾める
     金剛山白雲臺より衆香城峰を仰ぐ。
 まなかひに聳え鎭もりたふとけれをろがみ申す衆香城峰
 わが立てる峰も向ひの山々も並びきほひて天《あま》かけるごとし
     同じく萬瀑洞にて。
(433) 淵のかみ淵のしもにしたぎちたるたぎつ瀬のなかの淵の靜けさ
 溪岸の森より出でて岩の上に遊べる栗鼠のあらはなるかも
 栗鼠ふたつ溪あひの岩に遊べればかささぎも來て戯れむとす
 うち仰ぐ岩山の峰に朝日さし起りたるかも郭公の聲
     金剛山の溪間に山木蓮なる花あり、寧ろ辛夷に似て更に眞白く更に豐かなる花なり。
 たぎつ瀬にたぎち流るる水のたま珠より白き山木蓮の花
 この淵の靜けきにものの浮びたれ枝のままなる山木蓮の花
     京城にて妓生の舞を見る、中に四鼓の舞といへるあり。
 長き袖うらふりあげて打ち鳴らす鼓のひびきいよよ迫り來
     元山港にて。
 眞向ひの沖に昇る日うららけく照らしたるかも此處の港を
(434)     偶然小學時代の舊友に會ひて。
 ひとの世は永し短したまたまに相會ひて語るこれのたのしさ
 この國に珍しき竹の林見ゆ訪ひ來て君が窓ゆ望めば
     歸途船中にて。
 勞れたりいねむとおもへ切り進む舳《へさき》の浪をきけばねがたき
     歸途病みて別府温泉に滯在す。
 わが家《や》にも早やうれたらむ吾子たちも今はたべゐむこの桃の實を
 留守居する子等うちつどひたうべゐむその桃の實を父もたぶるよ
 
    はつふゆ
 
 松が枝に鴉とまりつおもおもと枝のさき搖れて枯葉散りたり
 わが家を圍みて立てる老松よ高く眞黒く眞直ぐなる松よ
(435) ほがらかに鵯《ひよ》啼く聞ゆ老松の梢《うれ》の高みに鵯啼く聞ゆ
 この頃の部屋の障子にさす日影親しいかなや冬に入りたる
 灰をならし心しみじみなりにけり夜半の圍爐裡に獨り向ひゐ
 朝宵に圍爐裡にかざすもろ手なり痩せたるかなや老のごとくに
 池尻の落葉だまりに水あびてあらはなるかも一羽の小鳥
 池尻の砂を流るる水清し蜆の貝を其處に飼ひなむ
 植ゑよとて柿の木の苗を貰ひたり植ゑて四五年たたばならむとふ
 この朝よ木枯吹かむけしきなりひむがしの空に雲低く散り
 枯れし葉のまひおつるごとかろやかに枝を離れし何の小鳥ぞ
 
    枯野
 
 水底《みなそこ》に魚ぞ泳げるありとしもわかぬかすけき影ひきながら
(436) 枯葉いま落つるさかりの桑畑の廣きに居りて人の耕す
 道ばたの井手の流のうちあぐる水音聞ゆ冬野ゆくわれに
 路ばたにながるる井手の水澄みて枯草の蔭を流れたるかも
 近からばつみて歸らむこの井手に冬うつくしう芹ぞ生ひたる
 榛《はり》の木の株のひこばえ落葉して枝繁けれや何鳥か居る
 返り咲ける木瓜のくれなゐ枯草の根がたの土につきて咲きたる
 畦草《あぜぐさ》や冬田のなかの路一里來ていこふなりこの畔草に
 枯草の伏しみだれたる野の此處に野路はかすかに分れたるかも
 
    森のひなた
 
 かき坐り膝のめぐりの落葉の色めでつつあれば日のさしてきぬ
 冬枯れし枝のあひ漏れてさしてをるこの日の色のあたたかきかな
(437) 斯くしつつ時はもたつかわが坐るめぐりの落葉に匂ふ日の色
 犬柘植の若木の枝葉しげかるに散りつもりたる栗櫟の葉
 この松に松かさ茂ししげくしてみなちひさきが葉がくれに見ゆ
 うづだかき落葉のうへに置きてみればわが辨當のさいの美し
 据ゑおけばガラスの壜の酒のいろ其處の落葉のいろよりも濃き
 手にもてるガラスのコプの酒にさすこの木洩日は冬の木洩日
 
    裾野にて
 
 夜には降り晝に晴れつつ富士が嶺の高嶺の深雪《みゆき》かがやけるかも
 冬の日の凪めづらしみすがれ野にうち出でて來てあふぐ富士が嶺
 富士が嶺の麓にかけて白雲のゐぬ日ぞけふの峰のさやけさ
 天地《あめつち》のこころあらはにあらはれて輝けるかも富士の高嶺は
 
(438)    老松
 
 朝づく日させる仰ぎつ夕づく日させる仰ぎつ此處なる松を
 海の風荒きに耐へて老松の梢《うれ》の寂びたる見ればかなしも
 枝葉こそさわぐと見つれ老松の幹もかすかに風に揺れをる
 ゆらぎあひて天にそびゆる老松は老松どちに枝かはしたり
 うち仰ぎ眺めつつわれのあるからに老松が梢《うれ》はゆれてやまなく
 われはもよ幼子のごとあふぐなりこの老松の根にし立ちつつ
 うら寒く夕日さしたる老松の梢《こずゑ》に風のやどりたるかも
 
(439)    池の鮒(昭和三年)
 
 親魚は親魚ばかり墨の色のちさき子鮒は子鮒どち遊ぶ
 一疋がさきだちぬれば一列につづきて遊ぶ鮒の子の群
 鯉の魚はおほまかにして鮒の魚ははしこかりけりとりどりに居る
 青笹を入れやりたれば池の鮒早や青き葉の蔭に來てをる
 動かねばおのづからなる濃き影の落ちてをるなり池の鮒の影
 餌をやれば親鮒は逃げ子鮒どもわが手の下に群りてをる
 靜やかに動かす鰭の動きにも光うごけり眞晝日の池に
 群りて逃げて行きしが群りてとどまれる見れば鮒の靜けさ
 入れてやりし青笹の影深かるに鮒の影ありて動くかすかに
 
    雜詠
 
(440) 降り出でし時雨は強し窓さきの枯枝にゐて啼く鶲《ひたき》かも
 ありがたき夕暮ごとの一風呂やぬる湯このみて長湯するなり
 さし出でて池の上に咲く躑躅の花水にうつりて深きくれなゐ
 障子ごしに聞きをれば其處の木に居りて啼く頬白のうつつなげの聲
 縁さきになり枝垂れたる茱萸の實の熟れ赤らみて枝折れむとす
 やうやくに竹の形をなしきたり若竹どちのうちそよぐなる
 庭の池の溢れつつありて靜かなり部屋には蠅の三つ二つとび
 かすかにかすかに流るる水の音きこゆ眞日さし照れる庭草の蔭に
 池に落つる水はひねもす音たてて寂しきわが家《や》を輝かすなる
 音もせぬ水の流のかぼそきが光りて庭を流れたるかも
 若葉さしうすむらさきに咲きいでし樗の花のかげにゐる百舌鳥
(441) 匂ひ來る匂ひに驚き出でて見れば山梔子《くちなし》の花咲き出でにけり
     『春花譜』と題せし中より。
 わが庭の池のはたなる梅の木の三もと並びて咲きいでにけり
 老木より若木の梅はいち早く咲き出づるかも春ごとに見れば
 わが友のもて來て植ゑし沈丁花はや庭すみに咲き出でてをる
 わが庭に移し植ゑたる深山木の山櫻咲きぬ花のちひささ
     この頃取り出でて用ゐたる。
 青柳に蝙蝠《かはほり》あそぶ繪模樣の藍深きかもこの盃に
     中村柊花に寄す。
 君が庭に見てきし花の草藤の咲き出づる見れば君をしぞ思ふ
 
    合掌
 
(442) 妻が眼を盗みて飲める酒なれば惶て飲み噎せ鼻ゆこぼしつ
 うらかなしはしためにさへ氣をおきて盗み飲む酒とわがなりにけり
 足音を忍ばせて行けば臺所にわが酒の壕は立ちて待ちをる
 
    麥の秋
 
 麥の穗の風にゆれたつ音きこゆ雀つぱくら啼きしきるなかに
 うちわたすこの麥畑のゆたかなるさまをし見れば夏闌けにけり
 熟麥のうれとほりたる色深し葉さへ莖さへうち染まりつつ
 うれ麥の穗にすれすれにつばくらめまひ群れて空に揚雲雀なく
 立ち寄れば麥刈にけふ出で行きて留守てふ友が門の柿の花
 刈麥を積み溢らせて荷車のひとつ行くなりこの野のみちを
 眞晝間はたまたまになく河鹿の聲起りたるかも川瀬のなかに
(443) 岩かげの水に浮き出でし川鴉鋭き聲をあげにけるかも
 川鴉なきすぎゆきぬたぎつ瀬のたぎら輝き流るるうへを
 藤蔓の葉の茂みよりこぼれ落ちし川蝉の鳥は水にむぐりぬ
 
    水無月
 
 すずめ子のおりゐて遊ぶ縁先の庭のしめりのなつかしきかな
 雨蛙なきいでにけりとりどりの木々の若葉のゆれあへる中に
 いつせいにさやぎたちたるならの木の若葉のさやぎさやかなるかも
 軒端なる藤の若葉の明るきにさしとほりたる水無月《みなつき》の日よ
 藤の葉も若竹叢も庭木々もうちそよぎやまぬ眞晝時なり
 をりをりに縁に散り込むうす黄なる竹の葉ありて水無月の風
 軒端なる若竹叢にあふぎたり思ひがけざりしこよひの月を
 
(444)    曇を憎む
 
 つぱくらめ飛びかひ啼けりこの朝の狂ほしきばかり重き曇に
 窓あけてなほ耐へがたき深曇くもれる空に燕啼くなり
 降るべくは降れ照るべくは照りいでよ今日の曇はわれを狂はしむ
 けふ幾度顔を洗ひけむ晴れやらぬ心晴れよと願ふおもひに
 寄りあひて卵をこれにひれよとて青笹やりぬ池の鮒の群に
 親竹は伏し枝垂れつつ若竹は眞直ぐに立ちて雨に打たるる
 降り入れる雨に葉未をことごとくふるはせてをり若竹むらは
 筍の落せる皮を拾ひ持ちてこの美しきにこころうたれつ
 腹かへす魚の影見ゆ雨を強みさざなみだてる池のそこひに
 障子ごしに聞き入ればいよよ音たてて軒端の竹に雨の降るなる
(445) 眞盛りを過ぐれば花のいたましくダリヤをぞ切るこの大輪を
 梅雨空の曇深きにくきやかに黒み靜まり老松は立つ
 ゆれたてば音こそ起れ青嵐吹き渡る軒の若竹むらに
 紫陽花の花をぞおもふ藍ふくむ濃きむらさきの花のこひしさ
 
    奉祝
     秩父宮殿下の御成婚を祝ひまつりて。
 わがせなと申しまつらむ親しかる皇子はよびます美しの姫を
 おふたかた並びたまはばいかばかり美しからむかしこみおもふ
 
    最後の歌
 
 酒ほしさまぎらはすとて庭に出でつ庭草をぬくこの庭草を
 芹の葉の茂みがうへに登りゐてこれの小蟹はものたべてをり
 
(447) 卷末に
 
 この歌集は、本來ならば故人の存命中に出てゐなければならなかつた筈のもので、早くから「黒松」といふ書名まで決めてあつたのですけれど、生憎それを思ひ立つた頃から、非常に多忙な煩雜な朝夕を送らなければならなくなり、それに取り紛れて彼れこれしてゐる間に、突然の病歿といふことになつて了つたので、それ以來ずつと今日まで、私はこの歌集のことに就いてはいつも心に懸つてゐて、早く何とかして置かなくては、と思ひぬいて年月を經てゐたのでありました。
 考へて見ると、今年の九月十七日は早くも歿後滿十年に當るので、それを記念する意味でも、日頃の念願であつた歌集の出版を是非實現させたく、その事を改造社の山本實彦氏にお話して見たところ、早速まことに快よく御承諾下されたので、私は非常に有難く思ひ急いでその準備に取りかかつ(448)たのでありました。
 
 故人はさきに、去る大正十二年の春、その第十四歌集としての「山櫻の歌」を出版してゐるのですが、それ以來、つまり大正十二年度から歿年の昭和三年までの六年間は、絶えて歌集といふものを出してをりませんでした。ですからこの「黒松」一卷は、それに次ぐ第十五歌集となるわけで、それがまた眞に惜むべき最終の歌集ともなつて了つたのであります。故人は前にも書いたやうに、その晩年の一二年間は實に氣の毒な程多忙で落ちつかぬ日を過してをりましたので、この歌集なども出したい意志はありながら、實際としてはその歌稿の整理などにまで全部的には手が及んでゐなかつたのでした。でこの歌集の作品年別や配列順其他は、先に「牧水全集」を出版する時、私と大悟法利雄氏とで協力し、それまで諸雜誌新聞等に發表してあつた作品の全部にくはしく目を通し、また控へのノートなどをも(449)參考する事にし、その中に若し抹消の印のあつた場合などは愼重に考慮して、故人の意志を重んじる意味で取り退けておく、といふ風にして採録して行つた、その全集の原稿を土臺としてこの歌集は編輯したのでありました。ですから全集の場合でも、この歌集の場合でも歌數は同じで、きつかり一千首になつてをります。
 本文の組方は、故人がかねて前歌集の「くろ土」や「山櫻の歌」のそれを好んでをりましたので、すべてそれに倣ひ五號活字で一頁四首組といふことにし、見出しや詞書きなども殆ど全部諸雜誌新聞に發表されたその儘を取つておく事にしておきました。
 それからこの集の最終頁にある「最後の歌」二首のうち「芹の葉の」の方は原稿に七月二十九日、と明記されてあつたのでその點はつきりしてゐるけれど、「酒ほしさ」の方は歿後机の上に載つてゐた雜誌「創作」六月號の裏に赤インクで書きつけてあつたのを、そのまま全集に採録しておいたも(450)ので、作つた時ははつきりわかりませんけれど最後まで机の上にあつたのから察して見ても、大方選歌中のつれづれに詠んで書き殘したものだらうと思ひ、そしてまたそれが或ひは最後の作ではなかつたらうか、とも察しられるので、わざと最後に採録しておいたのであります。
 「黒松」といふ書名は、故人の好むがままに名としたもので、晩年のその匆忙の間にも、朝に夕に庭つづきの松原にそびえてゐるそれを愛し眺めてゐて、この集中にも
  籠居の部屋のガラス戸輝きてうららけき今日を松風きこゆ
  うら寒く夕日さしたる老松の梢に風のやどりたるかも
  黒松の老木がうれの葉のしげみ眞黒なるかも仰ぎつつ見れば
などと詠んでゐる、その松原の松を名としたのでありました。
 また口繪の寫眞も、それを記念するつもりで、わざと其處で撮したもの(451)を使用しておきました。この寫眞は亡くなる年の五月、豫てから服屋に依頼してあつた旅行用のマントが仕上つて來たので、早速それを着て伊豆方面へ草鞋がけの旅をしての歸途、寫眞屋を伴れて行つて、松原の中でも特に老樹を選びその下で撮したもので、私はその時は別に氣にもとめなかつたのでしたけれど、後になつて思ひかへして見るに、故人は矢張りこれを口繪にするつもりだつたのではあるまいか、と云ふことがふと思はれたのであります。
 
 裝幀一切は故人の早くからの親友だつた中川一政畫伯を煩しました。お蔭で立派な裝幀になりまことに忝いことと深く感謝いたしてをります。
 また改造社長の山本氏には、現今のやうな時勢にあるにも關はらず、突然でしかも我儘な私の申入れを快く御承引下され、種々同情ある御援助を賜りましたことを、厚く厚く御體申上げます。地下の靈も嘸かし慰められ(452)ることだらうと存じます。
   昭和十三年八月二十六日     東京雜司ケ谷にて
                         若山喜志子
 
 補遺
 
(455) 明治三十五年
 
 くれなゐの袴つけたる若き巫女の月に笙吹く春日の御堂
 野にみちし靄の薄衣露の薫り唯そのままに夜はあけゆきぬ
 焚火して網干しさわぐみなと江の月くらき夜に雁なき下る
 野の夕べはや星見えてたそがれぬ西へ驛馬の追分寒し
 
(456) 明治三十六年
 
 年たちし十戸の村の曙を村に一つの鐘高う鳴る
 柴を樵《こ》る鎌の手とめて仰ぎ見る雲に思の行方知らずも
 梅園を東にひろき麥畑のみなもえ出でて春の風のどか
 勝軍ほぎてさかもる幕のうちに櫻ふきまく夕あらしかな
 鞭あげて若殿原が駒ならす馬場の櫻に夕月のかげ
 柴こりて白梅かざし野の月に歸《かへ》さちらちら雪ふり出でぬ
 浦の宿にをきなき僧の物語ふけゆく夜学を春の雨ふる
 かたみにとたびし鶯今朝死にて雨の音さぴし春暮るる里
 うちしきる祭太鼓の音さえて桃咲きつづく江南の里
(457) 君よつひに柳の土堤は盡きにけり斯くて永劫別れむものか
 行幸のあると聞えて江南の桃の一村春長閑なり
 おごそかのいのりささげて野にたてば夕空遠う虹あらはれぬ
 江を北にかへる雁金かげ見えて今しみ堂の鐘低う鳴る
 そぞろにも雪洞《ぼんぼり》けしてたたずめりあまりに清き紅蓮白蓮
 年ごろの希望《のぞみ》かなひて舟出する海の曙清し美し
 春の夜をそぞろ浮かれて野に來れば月にほのめく若草のかをり
 春は來ぬ霞の衣花の帶斯くても山はなほ靜けきか
 いまさらに若葉色よき朝晴や虻美しき衣笠の山
 ここ暫し相見むこともなかるべしせめて聲あれ故郷の山
 せめて夢に春の行くへを追はしめむうつつのそれはわれに憂かりき
(458) 人去りて繪草紙のこる竹縁の永きま晝を吹く風もなし
 くだち行く夜は早や深し浪高し並木松原待つ人は來ず
 迫りくる花の匂ひや水の香やゆふべ森かげうたをもだしぬ
 小猫「玉」花に狂ひの身を倦みて眠れば蝶のまたゆり起す
 笹清水つらつら椿落ちやまで月になりゆくここ春の里
 春雨の宵にたすさぶ繪の人の面かげ君に似る怨みかな(春怨といふ超にて)
 ちれや花吾れも運命《さだめ》は同じみち祇園精舍の鐘うち撞かむ
 大川を越えてさ迷ふ朝霧の霧のいづくぞ五位鷺の聲(初戀てふ題を得て)
 若牛にわが背わが子をうち乘せてとるや手綱の紅濃紫
 夏草の深きにまじる百合一つ美くし幸を吾と云ひしか(野百合と改號せし折り)
 拾ひとり君にしめしてほほゑみぬまたも捨てつよ戀忘れ貝
(459) 山寺の枝折戸たたく朝月夜いらへはあらで鶯の聲
 おばしまにみ簾卷けば月おぼろ向つ圓山白きは花か
 唄につれてゆるるよ百合の紅き白き露の野わくる草籠のぬし
 せまりくる百合の匂ひや森の香や祷ささげて地にひれふしぬ
 無禮《なめ》なりや露の野に咲く白百合を耐へ得でいだく抽濃紫
 うらぶれの小笠に旅の歌もなく樹かげ泉の百合なつかしき
 酒買の吾妹《わぎも》待つまを門《と》にいでて深草つつみ螢追ひめぐる
 なつかしみ寄りてもみつるみ佛のみ相さながら罪をとふごと
 磯の番や霧に消えゆく人の名を石に刻めば夕潮のよる
 みだれてはそぞろに君がみ名よびて星のいづれともとめわづらふ
 
(460) 明治三十七年
 
 春の日のひかりかぎろふわか草の野にひややけき石二千年
 繪葉書に歌文字すこしみだれたり屠蘇のここちか京の友おもふ
 詩の神の息吹か溪のあさ風に梅が香こめて霞わきのぼる
 けふもまた雪にくれたる山さとの里居の窓に鐘まちわぶる
 闇遠く潮は落ちぬ磯くさの花には秋の風さはらずや
 あさ潮の沖の小島にわすれけむうす雲とけて霞たなびく
 めぐりあひて友がやさしき戀がたり酒よ冷えざれ梅さむき宿
 もえ出づる小草に春を粧はせて靜かに眠る雨のまる山
 ほのぼのとさくらにあくる島浮けてうすむらさきの春のあさ潮
(461) 身を恥ぢて春をうたふに音《ね》ぞ低き京にうられし小藪うぐひす
 たたかひの神のみ楯に血をそめて男子ほほゑむ「ほまれ」てふ文字
 こゑごゑに花よびさまし歌さまし靄のなか行くなつ野瑠璃鳥
 戀ひ戀ひてあはすふたつのたなごころ石とも凝らばそれ紫水晶
 水の富士草の富士さて畑の富士あづまは秋のうつくしき國
 富士遠く武藏のあさの秋晴れぬ蕎麥蒔く日なりいで孫も來よ
 待てしばし野の鐘撞くな秋しろう霧にまかれて夢さめぬ里
 この村のよき子おきみがもらはれて市にゆく日を野は霧の降る
 秋たかう鳴るやあさ潮あさあらししらじらしらむ島のゆめかな
 巌うたばこぼれいづべし神の國日向の秋の山の詩きかむ
 山ゆけばわが身眞珠とまろがりて音《ね》をなすごとも秋は鳥なく
(462) ほのじろうさ霧はれゆく草山やほがら山の日山雀啼くも
 野はづれや草にうもるる朽橋を狐ゆく見ゆ水さむきあさ
 もえいづる千草もも草はるの野の野の香に醉へる戀の一村
 憂かけりける秋は去にけりなみだ知る人にわかれし朝ここちかな
 秋霧やみだれ八千草みだれ髪野分のあさのひとうつくしき
 から松やさむき山の日やまがらす山の聲きくあさ峠かな
 啄木鳥の木つつくおとに朝木立木立しづかに秋めぐるらし
 
(463) 明治三十八年
 
 春の日や小鳥の城とそびえたる森の古木の花咲きにけり
 山ゆけば野ゆけば沖の島ゆけば天地いまと春の風吹く
 しめりおびてうつむく見ればよき人にふまれても見む春の小草か
 春山のさくら露ちる下かげを石ともならで行く法師かな
 故郷や振分髪をくらべつつ小草つみつつ戀知りそめし
 千鳥ともならばや人の島かげに夜な夜な鳴かむ島千鳥とも
 武藏野や筑波むらさき富士桔梗霞にあけて江戸の鐘鳴る
 唄合せて花藻草刈る朝舟のふたりをめぐる春の潮かな
 緋をどしに逸物たつる清水越楯をまきてははな吹雪する
(464) 雪の夜を島より島へともす灯の影うつくしみよる千鳥かな
 黒髪に潮の花散る櫻散る蠑螺《さざえ》とるとて衣つけぬ海人《あま》
 武藏野や松のこゑする杜いでて若草ふめば春の雲濃き
 わか草の小みちはつれば湖みえてきみの城あり春の雲浮く
 君こもる里に明けなば春の雲朝雨ながせわか紫に
 湯の室《むろ》に紅さすひまのしづけきを松風遠き小夜千鳥かな
 草の戸に君はこもれりながき日を春のもも鳥啼かせてしがな
 小皷はわれに召されぬ春の夜の和琴内侍にめさしめたまへ
 ゆく雲にさそはれぬべきおもひして秋照る岡に立らにけるかな
 一本の古樹がもとに沈みゆく靜かなる日や野は秋の聲
 草廂もるる野の日の古縁によき夢來よとまろ寢しにけり
(465) 山の日はふりわけ髪のふるさとの夢をさそひて寂しう照りぬ
 ふるさとの姉のみどり子いだくごと草をいだきぬ秋照る岡に
 けふのみは病める子わすれ母ぎみの胸やすからむよく照る日なり
 ゆく雁や大野の秋のふる城のしろきに啼かで月照る海へ
 秋の日の沈みゆく海浪死してしろき光は船つつみけり
 秋山の高きに伏して遠つ野の霧に白照る日ををろがみぬ
 金色のたてがみふるふ巨獅子に沈むと山の日を夢みけり
 母はやまに兄は丘の上に國遠みかたみに戀ふよ秋風の日を
 草籠にさびしう滿ちぬ海島の日ごとひろひし椰子の流れ實
 白菊やみやこにちかき里住みの男ばかりの家にみだれぬ
 老松のかげにかくれてこはやさし玉のやうなる水仙の花
(466) 冬枯の木の間にちりぬ山茶花は亡びむ城の姫逝きしごと
 椰子の實のよらむとしては流れゆく磯の秋の日人を思ひぬ
 
(467) 明治三十九年
 
 雲おほき冬の武藏の榛原《はりはら》にやぶうぐひすと春待ちにけり
 ならばやな春の日永きおん髪にかくれて住まむちさき人とも
 よき國のありとおもひぬ野の牛の春の日あふぐ瞳の奥に
 蓑むしは蓑よりいでぬ天つちに春やきぬるとうかがふさまに
 大國や岡にのぼれば花まつり春の人こそ野にうしほすれ
 白鳥は夕がすむ海高舞ひぬむらさきの世の大守の樣に
 春の雪山の旗籠のあかき灯に馬よりおるる市女笠かな
 春の野や水草追ひてさまよへる太古の人に似たる雲浮く
 大鐘のなごりうなれる一瞬を瀧のやうにも散る櫻かな
(468) 櫻の日戀しりそめしきのふよりこの世かすみぬうすむらさきに
 春の山つぱきのかげの古家にうぐひす來啼けちち母のまへ
 春の夜の朧のみちはゆきずりの人みなうれし別れずもがな
 灯ぞ戀ひし岡のさくらの下かげのすみ人しらぬ春の夜の家
 湖《うみ》めぐり古き障子の家々にひとまつごとき灯のともるかな
 遠海のほの鳴るごときおもひかな春の灯かげに人戀ふる夜は
 春草にほのぼのつゆのかをるごと夢はやどりぬ若きこころに
 初夏の富士こそ見ゆれあさ雲のひくく流るる相模の西に
 わがなげき音《ね》にたつごときおもひして夜雨聽くかなゆく春の家
 皐月の日森のみどりに木の花の白きみいでぬ涙ながるる
 地のひびき雲にかよはむ初夏のみどりゆるがぬ落日の國
(469) 白はちす靜かにひらく一瞬は秋にも似たり有明の水
 草の香に似てもさまよふ夢やみむはのかに人のなつかしき夜は
 なつかしき聲もまじりて聞ゆらむ草にほのめく皐月野の風
 はかなくも人をおもひぬかかる夜に咲くとやすらむ野の月見草
 おもひでや風にながるるほたる火の青うきえてはまたもゆるごと
 雜木のみどりに雨すかかる日の小家の縁をわすれ給ふや(友に)
 松透きて海さやさやにあけぼのの彩《いろ》こそまされ君と別るる
 別れ來れば松の下草夏花の白きがおほしあけぼのの路
 汐の香に鬢のにほひをかよはせて鏡すずしき磯の人かな
 青すすきいと若やかに若やかに小まどつつみぬ灯の涼しきに
 聲とほし高き島田の髪の香のみちぬる家の山ほととぎす
(470) ふるさとや昔の夢のなかにして聽きにし聲か小夜ほととぎす
 ふるさとの山にむかへばそのかみの童泣《わらべなき》せむなつかしさかな
 戀しさや葵の花の香にいでてほのかに匂ふ夕月の家
 海の聲ほのかにきこゆ磯の日のありしをおもふそのこひしさに
 草の香や枕すずしきまろびねの姿を照らす灯になより來ぬ
 あけぼのの海の遠鳴松かげに白鳥あれむ日と凪げるかな
 相見ての涙ぐむ日をおもひつつ怨むともなく待つひとりかな
 うつらうつら何おもふらむ初秋の森をさまよふさびしき我は
 金色のちひさき蛇と草の根を靜かに這へる秋の日のかげ
 草花のあはき香りのしめやかに身にしみわたる初秋の風
 秋の雨庭の古樹の大幹を白うながれぬ涙のごとも
(471) 花はみな白う咲くべき夏の國あらばうつらむ朝ゆく雲と
 草の戸の葵の花にいささかの雨して明けぬきぬぎぬの家
 白虹の小草のつゆにうつるごとほのかに怨む日もありにけり
 帆のかげや浪はみどりに御頬は紅うそまりぬ初夏の海
 戀しさに眼とづれば白鳥の海ゆくが見ゆ秋のまひる日
 別れの夜の君をおもへば秋雨に白かりし灯のまづ見ゆるかな
 秋の花水にみだるる姿して雲ちる秋の日に別れ來し
 樹間《こま》がくれ白衣の人のしめやかにあゆむを思ふ秋の森かな
 小春日や縁にをりくる柿の葉の紅きをひろふ姪をこそおもへ
 瞳さぴしあふげば遠く天ぎらひいざなふごとき初秋の雲
 夢がたり磯の夏樹の花かげに涼しかりにし曰をおもふかな
(472) 秋さめよおのが寂しき生命うつきざみの聲と音をたてて降れ
 初秋や夕日の海の白鳥の啼くがかなしき磯の家かな
 竹ごしに潮の香かよふ窓なりき別れに泣きし初秋の家
 柿紅葉櫻紅葉のなかに住む山家の子なり瞳《め》の涼しさよ
 秋の町霧おもげなり思ふことありげばかりの人にあふかな
 かへり咲く山の櫻になにごとのおもひでなきかやよ旅人よ
 白つゆの樹々もも草や武藏野の秋こともなしあけぼのの雲
 秋の山霧たらこむる白樺の木のまにきこゆ知らぬ國の海
 うらら日の秋の海こそおもほゆれ君が御髪《みぐし》の白菊の花
 別れての後の秋なる幾月はみながら物のなつかしきかな
 もの思ふにつかれて鈍き君が瞳のその靜けさよ秋の灯のかげ
(473) 悲しみは蘆の葉ゆらぬそよ風の靜けきに似て胸をつつみぬ
 ああ靜けさ君も語らずわれ言はぬ木蔭の上の秋のひとつ雲
 笠一つ阿蘇のけむりの青糸のかげをあゆみし秋おもふかな
 ともすれば巷の暮の夕雲に汝《な》を見る日ありかなしき阿蘇よ
 秋の日やああ山は鳴る寂莫《じやくまく》のこの世に人のいつ生れたる
 秋の樫め折れし梢の白色《はくしよく》のもの靜けさよ水に似し空
 
(474) 明治四十年
 
 わが胸によき人すめり名もしらず面わもしらずただに戀しき
 あひもみで身におぼえゐしさびしさと相見てのちのこの寂しさと
 初夏のうすきみどりの世に咲かむ白き花かやわが悲しみは
 窓おせば月照る庭の槇の樹に白う流るる冬の灯かげよ
 二月やわが家《や》遠卷くふるさとの野を燒く烟の青き戀しき
 女三人かたみにおのが戀人をおもへど言はぬ春の灯のかげ
 ふるさとの櫻の山のまぼろしのまろらにうかぶ春の灯のかげ
 君もわれもふりわけ髪のをさなきにかへりてめでむ山ざくら花
 ふるさとや從妹《いとこ》は町の商人《あきうど》の妻となりけり山ざくら花
(475) 山ざくら花のつぼみのゆらゆらに薄くれなゐのつゆ匂ふさま
 あひもみず逝きにし友の戀人のおもかげおもふ春の雨の日
 阿蘇の山けむりのなかの樫の葉に散りきてきゆる春のあは雪
 君よこよひあはれのきはみかたりいでわれ泣かせずや春雨のふる
 戯れてのぼりし春の樹のうへにはからず見えし遠き海かな
 えも忘れず般は駿河の沖なりき遠見てすぎし春の町の灯
 はるかなる遠世ならではまた逢はむよしなきさまのそのうしろ影
 いつとなう言葉は絶えて春の日の雲見てありき窓のふたりは
 灯のかげに怨ずる人をうちすてて出づれば春のよき月夜かな
 ゆゑ知らぬ悲しさせまり逃ぐるごと舟こぎいでぬおぼろ夜の海
 友よ酌めさかづきの數歌のかず山のさくらの數ときそはむ
(476) せまり來る涙かくすと杯をつづくる友よ春の灯のかげ
 春雨や醉ひしれて寢し朝明けは味噌汁の香の懷しきかな
 水いろの春の天《そら》ゆくうす雲と胸をながるるわが悲しみと
 春の日の暮れゆく山の山の家に父とむかはむ母のさまおもふ
 藤の花ややむらさきにやや長う房たれそめぬ雨つづくかな
 うしろ向き片頬の髪のおくれ毛を風のなぶるに何おもふ君
 物おもへばつねに南の窓ぎはに針もつ君と癖知りしかな
 仰ぎ居ていつしか君は眼をとぢぬうぐひす色のゆく春の雲
 戀ひ戀ふるに世に成らざらむこともなき思ひのみして若かりし日よ
 搖れもせで樹々のみどりの雫する朝のねざめの涙果てなし
 うつろなる胸にうつりていたづらにまた消えゆきし山河のかず
(477) 山靜けし山のなかなる古寺の古りし塔見て胸ほのに鳴る
 幾はしら神のみいましこの森ゆ海見ましけむいにしへの日よ(二首鵜戸にて)
 生れましし神のわく子のささ玉の耳に入りけむこの海の音《ね》か
 青々と梨の實垂るる木のかげに草うちしきて遠き海見る
 夜ひらく花のやうなり常ひごろ笑はぬ人のたまのほほゑみ
 何といふながき髪ぞや立ちてみよそちら向きみよ戸に倚りてみよ
 富士まづ燃えついでよろづの山々もみな火を上げよ青海のうへ
 母の身ゆうまれいでにしたまゆらのわがけだかさを日のなかに見る
 君のまへにわれは生くなり君のまへにわれはなきなり御こころのまま
 
(478) 明治四十一年
 
 安房の國海にうかべり君とわれ棲みてねむるによき春の國
 笛吹けばつと音ぞ走る春の日の眞晝うるめる靜寂《しじま》の底へ
 しののめの星の水いろ沈みゆく空の明るさ胸の寂しさ
 わが戀は彼のごとひろし君もまたかく深かれな海にちかはむ
 肌ふれて初めて少女われに添ふこの夜星降れ二月の家に
 初夏の濃青《こあを》の空のそこひよりわきいでむとし雲白う鳴る
 怨み泣くそのうしろ髪ながめつつその髪の香の水|如《な》すをきく
 あな戀しすさみ乾《か》れゐしわが胸の咋日をゆるせやよ戀人よ
 さびしさはいとあたたかうわが胸によもすがら燃ゆ戀しき人よ
(479) 世にふたつ枕わかれて相添はぬ幾夜なるらむ神にたづねむ
 君いかに薩摩の國は春暮れて雲おもからむいかにおもふや(友に)
 火の山のけむりの行衛ゆふ空に消え行く見つつ人をしぞおもふ
 日は落ちぬいまゆふぐれのしづけさにうるほはされて青し天地
 ものごとにさびしかりしは昨日なりけふはさびしといふさへも憂し
 晩秋や常磐木立にながれたる落日《いりひ》赤きに風みだれ吹く
 妻よ見よわかき友らは日もよるも戀をあさると野見ず山見ず
 よく欺く女なれども黒髪と肌のにほひにいつはりは無し
 
(480) 明治四十二年
 
 青海に行くとて船を待つひまも別れ來し子が髪を忘れず
 わだつみに何のおもひかかよふべき渚に泣くはわれひとりなり
 大風の白晝《まひる》の海を見てあればあるかひもなきわが嘆きかな
 安房の國別れがたなや安房の國別れがたなやいざさらばさらば
 眞晝日の海のひかりのうす青のみてる木立を君とあゆみき
 渚なりきちかくに波をききながら君の言ひしは夢のかなしさ
 さくら花君がほとりに咲くといふこのごろ海の遠音いかにや
 海にうくちひさき國にみちわたり櫻咲くとやなつかし安房よ
 やうやくにふくらみゆけるをとめ子のしろき乳房にひそむ寂寥《さびしみ》
(481) 薔薇のごとき若き母ありふところに稚兒をいだくは死よりいたまし
 晝の君夜のきみとてゆめのごとかはらせたまふうつくしき君
 働くをうれしきことに思ひつるめづらしき日の黄昏《たそが》れにけり
 ゆきかへり電車に乘るを終日のうれしき時と思ひそめてき
 
(482) 明治四十三年
 
 この女夜ごと日ごとの亂醉に衰へてなほわれを離たず
 腹空かばすきたるままに好むもの喰べ得むほどの錢の欲しさよ
 この命衰ふるままにいやふかくなつかしさこそつのり來にけれ
 
(483) 明治四十四年
 
 今は早やわれもいなむと淺草をかへり見すれば悲し塔見ゆ
 ただちには歸りもかねつ淺草を出でてわが踏む夜の吾妻橋
 春の夜の汐さすころの吾妻橋ひとりは越ゆな影にかも似む
 淺草のあかるき空のかげにして深夜《よふけ》さびしや隅田流るる
 淺草の夜露に濡れしわが袂ほさまく惜しき赤電車かな
 淺草をひとり出づればわが上のそらの重さよあをき星見ゆ
 さかづきのひとつ二つのころなれや松の花見る泣かまほしけれ
 さかづきを受くる指さき酌ぐ手さき二階をめぐる五月の松風
 醉ふものをとどむるなかれ酒をつげなみだながれてはてなきものを
(484) 酒ののち二階のかどの廊下より片手のばして摘みし松の實
 そらぞらしく晝を三味線ひきいでぬ松の花咲くなかの二階に
 晝の湯にひとり入る身のさびしさに人妻の乳兒を抱きゆくかな
 をさな兒のひとりしやぼんを身につけてあそぶ湯殿の五月の晝かな
 乳のみ兒の匂ひのふとも夏の夜の螢に似たるさびしさとなる
 やはらかに腕《かひな》のなかにいだかれて泣くみどり兒と湯のなかに居る
 五月の夜酒好まざる色白の友の顔見つつ酒をしぞ思ふ
 停車場に汽車のとまればきこえ來る小田の蛙の下總の國
 ひともとのあをき薄に露やどり風にゆらめく君かさびしや
 五月の夜本のひまよりこぼれたる赤き切手におどろきをする
 うすみどりほのかにさせるわが命たふとみて居れば松の匂へる
(485) われと身に呼吸《いき》のとぼしきさびしさを覺えきたりて初夏に入る
 さびしきは酒にさそはれうすうすと烟のごとくかなしみの湧く
 はやすでに降りねばならぬ驛に來ぬ離れともなき夜の電車かな
 いと靜かにねむれるそばにめざめゐて故こそ知らねわが悲しめる
 兒をあやし親のぴいぴい鳴らす笛ゆきずりに見てわが家に歸る
 探せどもわがくちすぎのわざ一つ無き東京の秋の落日
 暮にむかひひとりわが立つ方寸の地《つち》にまだらに散りたり落葉
 秋更けぬ落葉に似たるわが愛のその瞳いま黒くかがやく
 
(486) 明治四十五年(大正元年)
 
 さびしさを戀ひ戀ひて身は眼無鳥、ものなとひそね、山へ急がむ
 こぞの秋見ならひに來ておいらんの花に水やる越後のむすめ
 おいらんの無筆にかはり書くふみについみづからがつまされて來ぬ
 あはれなる手と手かさねてうす青き朝の二階にさしぐみて居る
 言葉なきわかき夫婦とその友の朝の端居やダーリアの花
 
    以下、故郷にて
 
 見てあれば我が名の活字ひえびえと濡れしがごとし秋の朝の日
 悲しきは入日のなかに立つごとき老いたる親につかへたる秋
 ただひとりあらはにわれを可愛がる足なえの姉の心もまたつらし
(487) わがみちのただみちばたのものとして眺めむに親のあまり老いたる
 我が身いかになりゆくも御こころのままならむ父よ母よいざいかにともせよ
 親のこころに身をまかせむとしてふと胸にうかぶ姿のわれのさびしさ
 なつかしき友の利吉《りきち》がおくりものこの帽子をばかぶりて夜も寢む
 この不孝者黒き烏に似てや見えむ柿のこずゑの茂き實のなか
 われを罵りつつ兩人して野鴨の毛をぬける姉のよこ顔がわれに似て居り
 姉よ君が神經質はその君が料《れう》る野鴨の血といづれが濃かるや
 冬の夜の心のごとし、わが知識の精のごとし、薔薇のくれなゐ
 鑛物より繪具をとるいふ話を聞きしことありき、忘れ難かり
 すいすいと窓の前に青き竹立てり、わが呼吸《いき》をそれぞれ吸ひ取るごとくに
 大島なる友の悲しめる眼をおもふはわれの悲しめる眼を思ふよりもかなし
(488) 明るき日なり、厠より出でぬ、山仰げば山悲し、いざ歌をつくらむ
 犬は犬好きの人をよく見わくといふが、この犬の眼の自分に親しげなことは
 金が欲しい、せめて本の自由に讀めるだけ。閑になれば、なるで、斯んなことを思ふ
 朝を思索の時間と定め、午後を讀書の時としようか、この山に居る間
 それで、牧水がきらひになつたとは、よつぽどけちな人でばしあらう
 父の愛は黒き幕の如く、母の愛は釘のごとし、滅びむとする家
 晝のばら、灯のかげのばら、晝のわれ、灯のかげのわれ、眞黒き机
 
(489) 大正二年
 
 野老蔓《ところづる》のすゑのしげみの青さよな、そのところ蔓摘み切りてまし
 かなしみは薔薇のはなびら、錆びた庖丁でなぜにそのよに小きざみに
 ゆたゆたにはやく潮滿てゆたゆたに酒さかづきにみちてあるほどに(伊豫岩城島、二首)
 窓前の瀬戸はいつしか瀬となりぬ白き浪たらはととぎす啼く
 見渡せばいづくか松のかげならぬ明石のまちの夏の陽の色(明石にて、二首)
 初夏の空のいぶりにはつなつの海のいぶりに浮ける島山
 いつしかに夏は過ぎけり櫻の葉ひややかにわがこころにぞ散る
 酒は身にこころに痛くしみゆけど松葉なす身にその甲斐もなし
 
(490) 大正三年
 
 ふと仰げばみ空に月の照りてゐきわびしくもわれの歩みゐしかな(題詠、月)
 行々子《よしきり》はしきりに啼きてみづうみに夏空しろくうつりたるかな(諏訪湖)
 朝の酒砂地に雨の來しに似てさびしきにあかず飽かず飲めるも
 
(491) 大正四年
 
 甲斐もなくおのが心を握りしめ悔いなげくことを今日もしにけり
 程とほみ松のはざまの山ざくらをちこち白く照りゐたりけり
 山蔭の落葉がくれに薄むらさきほそぼそ咲くは韮か野蒜か
 熊蜂の大き眞赤き熊蜂のわが前去らず落葉をちこちに
 
(492) 大正五年
 
 雪知らぬ此處の浦曲の梅の花咲き出づる見ればさびしき旅寢
 けふ見ゆる榛も椿も白梅も春あさみかも靜心なき
 庭つ鳥家鳩啼きてほのぼのと明けゆくなべに鳴れる溪川
 田の畔の草にかくれて鳴きゐつつわが行けば霧に濡れ飛ぶ蛙
 いち早く鴨來て浮けり不忍の蓮の花いまだ散り過ぎなくに
 くれなゐの褪する間もなく散る花のはちすに吹けるはつ秋の風
 友が庭や蕾ばかりの葉椿の蔭の木賊に時雨ふるなり(題詠、時雨)
 片空にさせる冬日の眞寂しきかげに見えたる雪の山々(題詠、遠山の雪)
 起きいでて朝の疊は歩めどもいまだはさめぬわが心かも(題詠、朝)
 
(493) 大正六年
 
 梅咲くと思ふこころのときめきをさびしむくせのいつつきにけむ
 こぞ相模ことし都に見る梅のその初花は常にさびしき
 行くところ梅の花咲き春めぐるわが代のはては何處なるらむ
 一年に一度二度あるならはしか椎の木を見て涙ぐむこころ
 ほこりまみれの心の底に大きなる穴かもあらめ底知れぬ穴が
 机の上かたりとペンを置くことも夜半獨り居ればいたましきかな
 ほのぼのと軒にさしたるあけぼのの春の日かげのうすあかねかも
 うらうらと光り流るる江戸川の岸の櫻木いまは咲くらむ
 晴れむぞとふところ手して出でてこし花見に雨の降りしきるかも
(494) 落葉する木々はひかりて畔《くろ》の前の黒つちばたけ日を吸へるなり
 酒二合飲みき早や寢むいないなさびしいま一合を飲むこととせむ
 子を負へる妻のすがたをたへがたくいたましきものに思ふ一時
 暮れゆけば硝子越しなる秋の夜の椎の樹の雨椅子より見えず(題詠、椅子)
 窓際に白木の椅子を欲しと思ふ折々ほつと息をつくべく
 
(495) 大正七年
 
 梅の花咲きかがよへる片岡の芝に日のさし波の音聞ゆ(題詠、波の音)
 水見れば我としもなくゆるび出でのびひろごれるわが心かも(題詠、水)
 横濱の港のみづも黒みわたりけふ初夏の日は晴れにけり
 砂ほこり渦卷きたてる風の日のちまたの隅を急ぎをる身か
 砂ほこり吹きあぐる風に行きなづむこの少女子をいとしとは見つ
 曇りてはいよいよ深きうばたまの闇の夜空の初夏の風(題詠、初夏)
 眺めつつめでたくやがてかなしきをわか木の杉の森にゐて覺ゆ
 借り得たる路銀をしかとふところの奥にをさめて夜船には乘る
 おほかたは思ひすてたれ草まくら旅にしあれば錢のほしさよ
(496) おくれ來て花のさかりは過ぎたれどうれしくもあるかここのうつ木は(【友の家にて、二首】
 うつぎの花さかり過ぎてはくれなゐにいづとふわれも醉ひすごしたれ
 つぎつぎに秋のをはりを咲きつづく糸瓜の花のいろ寒きかな
 桐散りて秋の日ざしのあきらかにさしそふ庭を親しとぞ思ふ
 塀ごしにダリヤの園の花見えて童子はがらかにものいふ聞ゆ
 わが庭に四もと五もととりどりに高さきそひて鷄頭咲けり
 秋茄子と牛蒡ばたけに隣りたる蝦夷菊畑の花ざかりかも
 黍の穗にとまれる雀羽根のいろのうちまがひつつ折々は見ゆ
 けふ降れる雨のぬくきに向つ山秋はやき雪のとけそめにけり
 おほかたは散りはてたれど山はらの廣きに黄葉とびとびに殘る
 散りはてて煙のごとき落葉木のならべる山に日はうららなり
(497) いつの日か水の涸れけむ古溪の岩の小かげに落葉つもれり
 おほらけき岩山の背に生ふる木の根もと根もとに落葉眞新し
 かみつけの水上郡《みなかみごほり》谷川の村のいで湯は菜をあらふいで湯
 谷川の村のいで湯は人は入らでをみな子つどひ菜を洗ふいでゆ
 炭燒と木挽とばかり住めりちふ谷川村に雪つみにけり
 かくばかりさびしき溪に湯の宿にはるばると來てふた夜寢にけり
 木がくれに瀧かもかかる溪川の音ただならず此祷にし聞ゆ
 幾すぢの絲のかかりて音にひびくかそけき瀧に立ち向ふかも
 おのが身のさびしきことの思はれて瀧あふぎつつ去りがたきかも
 岩山の岩のなぞへに散りしける落葉眞新し昨日かも散れる
 此處ばかり青淵なせる眞冬日の水涸溪に小魚あそべり
(498) 朝はただ凝りうづまきつ淺間山の煙はなびく晝闌けゆけば
 くろぐろと吐きいだされしいただきの山の煙は雲なして這ふ
 川下は遠くひらけて竝びたるむら山の峯も高からぬかな
 
(499) 大正八年
 
 雪雲の雪は降らさで天を閉し沖津邊の青に垂りくだりたり
 庭さきの柵のかげなる荒浪にうかぴをる鵜を見出でたるかな
 ほがらかに眞冬日させる山裾の村とほく見えて白鷺のまふ
 わがことを忘れて友を罵りぬあまりにまづしあまりに貧し(題詠、友)
 歌詠むと天狗つどへる鼻さきに音すさまじやけさの太鼓は(題詠、音)
 小机のはしの時計の針ばかりつめたき音を立ててをるなり
 わがせまき部屋に子供の騷げばか埃ぞしるき甕の椿に
 明方を風吹きいでて春の夜の寒きに蟇の鳴く聲きこゆ
 遠山は霞にこもりわが立てるここの峰の上に馬醉木しげれり
(500) 暑かりしひと日は暮れて庭草に埃しるけく月見草咲けり
 おもひ出のいづれはあれどさびしきは逢ひてののちのわかれなりけり(【友に、二首】)
 筑波嶺も霞が浦もはるけしや昨日ゆきしとおもふばかりに
 茂りあふ麻畑のあひを行きながら仰げばしげき山の端の星(題詠、星)
 法師蝉家のめぐりに鳴きいりてなやましきかも今日吹く風は(題詠、風)
 この港に汽船入らずとふ砂丘のかげにならべる帆前船の柱(題詠、港)
 向日葵の廣葉のはしにとまりゐて葉よりも青し馬追蟲は(題詠、蟲)
 雪もよひ暗き入江に小舟ゐて浪を掻きつつ漕ぎ急ぐ見ゆ
 
(501) 大正九年
 
 身ふたつに曲げてトロ押す少年の鳥打帽につぼすみれ挿せり
 朝づく日さしこもりつつくれなゐの海棠の花は三つばかり咲けり
 山深きかかる溪問に棲み古りて植ゑにし梅の花ざかりかも
 ひろき瀬の流れせばまりしらじらと飛沫《しぶき》うちあげ山の根をゆく
 とりどりにめぐみそめたる淺藪の木の間の櫻散りすぎにけり(題詠、櫻)
 杉山に檜山まじらひ眞青くぞ花ぐもり日をしづまりて見ゆ
 草の芽を口にふくみてわが吹ける笛のねいろは鵯鳥の聲
 うち續き降りしく雨のなかにして庭のわか葉は老け黒みたり(【題詠、雨中風景、二首】)
 雨の日のいぶせき電車乘りすてて歩めばなびく街並木かな
(502) わが馬車の馬の匂ひのほのかにて若葉は深し谷ぞひみちに
 朝たけてぬくき日ざしは机なる白菊の花にさしとどきたり
 老松の梢うちつらねあづさ弓張りわたす濱の松原は見ゆ(千本松原、三首)
 松原のなか行く道のいつか曲り海邊に出でて富士の山見ゆ
 射しわたす夕日にながき松の影は砂のうへにのびて末みだれたり
 櫨の葉のもみぢのかげにたりさがるその櫨の實の錆びざまぞよき
 愛鷹の山のそぎへにをる雲は富士にも寄らず黝みてをる(箱根舊道越、二首)
 天城嶺のいまはうしろになりぬると見つつ越えゆく箱根の山を
 ただにをりてをりがたき日の夕暮を外に出で来れば涙はくだる
 餌やらむ釣れよといひし先つ日の男に逢ひぬ入江の町に
 
(503) 大正十年
 
 しみじみと降り入りてさやに音にひぴく雨をまもりつつ心さびしき
 
     四月末より旅に出でけふ神戸なる叔父がり訪ね來ぬればさる四日俄に病みてみまかりゐたまひぬ。悲しみてうたへる歌のうちより二首、五月二十四日。
 相逢ひて語りあかさむたのしみにここまで來しを君のいまさぬ
 君が甥やうやく人となりぬるをほめもたまはで逝きませしかな
 夏霞朝たけゆけば山襞のすがたかなしき淡路島かも
 年ごとにわれの痩せゆき逢ふごとに君おほどかに肥えたまふかな(友に逢ひて)
 となりなる部屋の人たちの高話うるさしと聞きつやがておもしろ(【白骨温泉にて、六首】)
 夜半すぎし湯殿にわれのおり來れば足音聞きて來る人のあり
(504) たぎちつつ山川の瀬の鳴る聞けばこころは苦し夜半の寢覺に
 雨の音ながれのごとくなりぬればこころ澄み來て居らむすべなし
 今朝深くたち昇りたる湯けむりはわが居る部屋にくづれ入るなり
 蜜蜂のはや寒からし物書ける机に居りてまひがてに見ゆ
 うち敷きて憩ふ落葉の今年葉の乾き匂ふよ山岨道に
 うら悲しき光のなかに山岨の道のべの紅葉散りてゐるなり
 なめらけきなだれの雪のかがやきて冬澄みわたる富士の高山
 
(505) 大正十一年
 
 山ざくら散りすぎにけり昨日けふ雨ふる中に葉のうつくしく
 眼覺むればすなはち聞ゆ春の夜の雨あららけき谷川の音
 河鹿なく響こそ起れうばたまの闇のそこひの谷川の瀬に
 夜騷ぐ月夜の蝉のけうときに馬追蟲は蚊帳に來て鳴く
 鳴き入りてところもかへぬ蚊帳のうへの馬追蟲はまだ幼なからむ
 むら雲の湧きたつ夏の片空に墨色ふかき富士の高山
 夕空にうづまく雲のうづまきのみだれてなびく富士を眞中に
 愛鷹の峰に卷き立つ眞白雲亂るとならし末のたなびく
 水飲むな水は飲むなと暑き日を子供三人に言ひ張り暮しつ(題詠、水)
(506) おもひやる眞夏の沖は憂けれども岸に立つ波こひしかりけり(題詠、海)
 續きたるねむり不足を償ふといで湯には來てものに讀み耽る(題詠、讀書)
 豆の畑色づきそめしをちかたの川縁の畑をうちうつ二人
 豆畑のとなりの畑を打ちあげて黒く見ゆるに何か種蒔く
 眞裸體になるとはしつつ覺束な此處の温泉に屋根のなければ
 折からや風吹き立ちてはらはらと紅葉は散り來いで湯のなかに
 樫鳥が踏みこぼす紅葉くれなゐに透きてぞ散り來わが見てあれば
 二羽とのみ思ひしものを三羽四羽樫烏ゐたりその紅葉の木に
 はるかなる旅を辿り來《き》今ここにこの友どちと逢へるたのしさ
 胸にいまうかべる人をよびつどへまどゐせまほしき夜にもあるかな(【題詠、團欒】)
 
(507) 大正十二年
 
 湯を出でて部屋にかへれば葉卷の香ただよひゐたり冬の夜ふけに(【土肥温泉にて、一首】)
 紅梅はまさかりぞよき眞白きは蕾三つ四つほころべるよし(題詠、梅の花) むきむきに己を守る心湧きていまははるけく住める友かな(題詠、友を思ふ)
 春の夜のあけそめぬればをちこちに啼き出づる鳥の聲々きこゆ(題詠、春雜詠)
 いそがしさかこちながらに朝々を讀む新聞はやめられぬなり(題詠、新聞)
 おのづからたはぶれ言ぞ出でて來る語る心地に書きゆく手紙に(題詠、手紙)
 疲れゐて瞳おもたきくもり日の庭のしげみのなつかしきかな(題詠、庭)
 これなくば家内ゆるびていかばかり佗しかるらむ時計のひびき(題詠、時計)
 深山なる森のしげみもわが庭のともしき木々もともに親しき(題詠、樹木)
(508) しけ過ぎて亂れし薮の草むらに今朝咲きてをる曼珠沙華の花(題詠、初秋)
 忙しきなかの僅かのひまを盗み今刈らするよこのほはけがみを(題詠、髪)
 佛法僧佛法僧となく鳥の聲をまねつつ飲める酒かも
 申斐の國小淵澤あたりの高原の秋すゑつ方の雲のよろしさ
 こがらしの吹きしく夜半をめざめゐてきく湖の波のさびしさ(信州松原湖にて)
 なにといふ空のいろかも山川はわが眼の下に澄みてちひさき
 うちわたす佐久の平の朝晴れて澄みぬる見つつ酌みて別れぬ
 千曲川瀬々の流の氷りたる音ききながら酌める朝酒
 路ばたの居酒屋にして落ちあひしかの叟《をぢ》の顔の忘られぬかな(題詠、忘れ得ぬ人)
 
(509) 大正十三年
 
 めざましく強く美しく建て東京よわが日の本のみやこ東京よ(【題詠、新東京を思ふ】)
 待ちまさむ母おもひつつ子をつれてはるばるとくにに歸りゆくかも(題詠、親)
 いづくともなき啼聲の鶯のしきりに聞ゆこの朝靜に(題詠、鳥の聲)
 涙さへ浮べてわれの笑ひしよげにめづらしくわが笑ひしよ(題詠、笑)
 
(510) 大正十四年
 
 竹の葉の間なく散り來る背戸の山に百合野菊の芽伸びいそぐなる(土肥にて)
 わが眼ただ前を見つめてありぬれば來る日來る日のとこ新しき
 きその事はきその事なりき新しきけふの光をうちたたへなむ
 篠の葉の葉ずゑの露の大きさに薄のつゆは及ばざりけり
 
(511) 大正十五年
 
 冬枯の畑中みちを來る娘わが子と知りて立ちて待つなり
 蛸突くと浮けたる小舟ひと一人乘せてあやふく傾けり見ゆ
 わが建てむ家の間取の部屋々々の今はつばらに心にぞある(題詠、わが家)
 かへり來て入らむとしつつ門さきの辛夷のもみぢ見ればしたしき(【北海道旭川にて】)
 いのちありて再び來つるみちのくの松島村に見る野山かな(青森縣松島村にて)
 枝さきに果を殘したる林檎の木木立をなせるあはれなるかも(同、新城にて)
 
(512) 昭和二年
 
 草燒くと箱根の山に放つ火の赤き眺めむ二月となりぬ
 子等が部屋めざめたるらし高らかに笑へる聞けばわれも笑まるる
 早起の癖の二人のあねいもと競ひてぞ來るわが朝の部屋に
 夕霞たちこめたれば廣島のまちはいよいよ靜けくし見ゆ(中國新聞社棲上)
 なつかしき城山の鐘鳴り出でぬ幼かりし日ききし如くに(延岡にて)
 犬のゆく枯野の路のほそけれや枯野の末の富士の高山
 天地《あめつち》の眞澄めるさなか富士が嶺の眞澄める峰をあふぐかしこさ
 木枯の吹き荒びつつときは木の犬ゆづり葉はいよよ輝く
 
(513) 昭和三年
 
 盗み飲まるることを知りつつわが妻の酒の樽をばかくすとはせぬ
 椿の木枝葉の茂み深ければ葉ごもりに咲ける花の靜けさ
 大空の光を宿し富士が嶺の五月の雪はうす青みたる
 茂り合ふ庭木々の影落ちたればつつじの花の紅ゐ深し
 遠く啼き近く囀れるとりどりの鳥の聲しげし庭は若葉なる
 ひらひらと岩を打つなる瀧水の音きこえゐて靜けき眞晝
 青嵐吹きたちぬれば瀧つぼに落ち落つる水の亂れて聞ゆ
 散り殘れるつつじの花のくれなゐの三つ二つ見ゆ夕暮の庭に
 わが憎む藪枯らしとふ蔓草の這ひからみをりこの若竹に
              〔2023年1月5日(木)午前11時20分、入力終了〕