若山牧水全集第一巻、雄鷄社、490頁、600円、1958.5.1
 
(1)目次
歌集以前 二五〇首……………………………………三
海の聲 四七五首………………………………………三五
獨り歌へる 五五一首…………………………………八五
  上の卷………………………………………………九三
  下の卷……………………………………………一一一
別離 一〇〇四首……………………………………一四七
  上卷………………………………………………一五一
(2)  下卷……………………………………………一八九
路上 四八三首………………………………………二四五
死か藝術か 三八八首………………………………二九五
  手術刀……………………………………………三〇一
  落葉と自殺………………………………………三〇八
  かなしき岬………………………………………三二二
みなかみ 五〇六首…………………………………三三九
  故郷………………………………………………三四九
  黒薔薇……………………………………………三六二
(3)  父の死後………………………………………三七一
  海及び船室………………………………………三七七
  醉樵歌………………………………………………三八九
秋風の歌 三七七首……………………………………三九七
  夏の日の苦惱………………………………………四〇一
  秋日小情……………………………………………四〇八
  秋風の歌……………………………………………四一三
  病院に入りたし……………………………………四一八
  秋風の海及び燈臺…………………………………四二二
  夜の歌………………………………………………四三〇
  さびしき周圍………………………………………四三三
(4)砂丘 二四八首………………………………………四四一
  山の雲………………………………………………四四五
  三浦半島……………………………………………四五三
  曇日…………………………………………………四五九
  ふるさと……………………………………………四七一
 
解説…大悟法利雄…四七七
 
 第一卷 短歌 一
 
 歌集以前
 
(5)延岡中學校友會雜誌より
 
      早春懷梅
 梅の花今や吹くらん我庵の柴の戸あたり鶯の鳴く
      奢美をいましむ
 身に纏ふ綾や錦はちりひぢや蓮の葉の上の露も玉哉
      陰徳家
 かくれたる徳を行ひ顯れぬ人は深山の櫻なりけり
                 ――明治三十四年二月十七日發行
 
(6)『日州獨立新聞』より
 
       青葉若葉
 海にあびて歸る松原末遠く青葉若葉に白雨《ゆふだち》のふる(都農にありける頃)
 行き暮れてむしろを夜具の炭小屋に炭の枕よ啼く時鳥
 雨はれし山のみ堂の丸窓に青葉さゆらぎ時鳥なく
 天しのぎしのぎ聳つ青葉山青葉に白し一すぢの瀧(窓前の景を詠める)
 白鳩の鎭守の森に啼きたちて青葉幾重の明方の雨
 藥かみて旅に杜鵑の音を聞きぬ若葉をぐらき橘の雨
 清水湧く山路なかばの松かげに荷馬車の旗のひるがへる見ゆ
 岩にはうて晝顔花の紅くさきぬ眞清水わける嶺の松かげ
(7) 青葉若葉風にさゆらぎ月は出でぬ松の古きに庭の青きに
                       明治三十五年八月十二日
 
       野の草
 野のあした靄のうすぎぬ露の薫り唄聲さえて夜はあけわたる(草童の歌へる)
 野や十里朝日子いでぬ籠はみちぬ草はみどりに靄むらさきに(同じく)
 新月のしたたり落つる雫かも夜風に青く螢みだるる
 露にさめて朝のまどひのさりげなく野面をちこちの白百合の花
 都より訪ひ來し友と山茶のみて歌とく窓にほととぎすなく(【延岡より江雨秋檐兄の訪はれし折】)
 朝餉たく水汲み居れば野の谷に野ゆりの花のほろほろとちる
 峯にねて雲に下界は見えずなりぬただ親しきは星のまたたき(尾鈴に夜泊して)
 咲きほこる萩の花蔭ござしきて石像きぎむ年若き人
(8) 吾れとわが城をやかむのたゆたひに北斗七星かげうすうなりぬ(青史を讀みける折)
 燭たてて蘭麝たきこむくはがたのかぶとの星に紅葉ちりくる
                       ――同八月十七日
 
       はつ秋
 峰をこえ野こえとわたる雁のみえて山月たかしあかつきの風
 つるぎきて數百の騎兵すぎゆきぬ夕月あはき萩多き野を
 幾むれか花野をよぎる繪日傘に日かげうららの秋まつりかな
 芭煮葉のやればに秋の雨さむう死せしか蛸牛うごかずなりぬ
 門につづく西幾町の楢ばやし落葉ざわ/\秋の日あかし
 露しげき花のこみちわけて行く君がかげあはき朝月夜かな
 かざしみる墨染そでのわかいかな黄菊にそそぐたそがれの雨
(9) 村長のいたつきいよよおもりゆく十戸のむらの秋の雨しづか
 花野三里よひ月いでぬ露も置きぬ家路たのしく錦きる旅
 紫の手綱にあけの直衣つけし若きちごゆく月の花野路
                       ――同九月四日
 
       つゆ草
 蘭燈のほかげうするる小庭さき桔梗にそそぐ雨なやましき
 幾たびか寢ざめあやしき山の宿の固き枕に秋の雨きく(【神門あたりをさまよひける頃】)
 立ちいでし野寺は遠く霧に消えてすすき三里をあかつきの風
 君はいまいづこあたりや片われの月かげあはき峰の朝霧
 鞭うてどあがきすすまぬやせ馬のたてがみなでて暮の雁きく
 かざしみる小手いまさらのわななきや國たち出づる明方の月
(10) 明方の月のうすきに我れたてばわれうつつなの朝顔の花
 枝折戸を右にはるかや秋の水野をよこぎりて森をめぐりて
 絲車たえてつづきてまたやみて萩の小まどに秋の日ながき
 み佛を噛めるねずみの音高く山のあれ寺秋の雨ふる
                       ――同九月十八日
 
       秋かぜ
 送り來し遺骨抱きて淵にたつ底ひに君が笑《ゑみ》うかまずや
 拔きつれて舞ひしはいつの秋なりし君はやあらぬ刀のさびよ
 友君のうせ給ひにし其日より釋迦のみ像のなつかしき哉
 さらばとてさしうつむきてとりし手のきても冷えたり森の下道
 別れ來て土橋に立てば雁がねの頭かすめてなかですぎゆく
(11) 野の未の一つ家守に秋老いぬ家鴨のむれのまだ歸り來ぬ
 紫の豐旗雲のたなぴきに朝の思ひの行へ知らずも
 賣らるべく市にひかるる馬の子の今日の嘶きなどかくひくき
 獨りねの秋の深山の旅やかた木枕さむく秋の雨きく
 白つゆに裾のむらさきうるほひぬ蟲に迷へる月の花野路
                       ――同十月二十四日
 
       白菊(一)
 わがたまのうつりにける曉の夢のゆくへは白菊にとへ
 ふる城の影をひたせる湖に鷓鴣とぶ見えて秋の日うすし
 ゆく雲におもひの添はで今日も暮れぬ病みて雁きく里の秋雨
 紅ときて白菊にぬる若き子よ秋の女神の怒にふれな
(12) 燭けしておばしま近くたちよれば北斗さえざえて天の川遠し
 ふるびにし鈴のよどみの霜にさえて明星さむし驛路の秋
 藥かみてこの秋風にわれ堪へず庭の芭蕉を切りすてよとぞ
 別れ來てわれうつつなき驛はづれ並木三里を松時雨なる
 實をとるとつどひし子等はみないにて夕べ靜かに銀杏葉のちる
 美はしき神のみ像のなかばなりて欄による朝菊の香たかき
                       ――同十月二十五日
 
       白菊(二)
 笠はねてこ手かざしみる朝の虹野や秋草の花にみだれたり
 笛とりてしらぶる曲のひくいかなまばら秋雨夜はふけにけり
 里の子のかける神輿のきらめきて夕日まばゆき秋祭かな
(13) 雨暗き夕べをそぞろ窓によれば村のはづれの鐘ひくう來る
 曉を落葉林の路にいりぬ小笠はぬれば月峰にあり
 見下せば麓の小里目もはるにまだら樺色秋たけにけり
 しをりせし花白菊は枯れにしもうつり香ゆかし源氏物語
 枯蓮にふる夕雨のねも細く七堂伽藍秋さびにけり
 ちさき筆に紅ふくませてなにゑがく秋海棠に雨重き夕べ
 水汲むと曉早う野にたてば霜さえざえて月天にあり
                       ――同十月二十八日
 
       すげ笠(その一)
    おのれこの月の七日より二週間が程日向の境を出でて肥後豐後のあたりを旅にくらしぬ。今その道すがらの腰折を菅笠と名づけて貴き紙上をけがす事となしぬ
(14) 朝時の露おもしろきにひ草鞋山みち野みち秋心地よや
 日向の國高千穂峰の秋や深き宮居をこめて風みだれ吹く
 大やまとやまと島根の八百萬神のはじめはこの峰の神
 天つ風いたくし吹けば大宮の神のみ鈴のさと鳴りわたる(以上三首三田井にて)
 白銀の鞍は朝日に閃きて駒のいななき秋風に高き
 たちこむるつつの白煙野や山や少しのひまに劍の閃き(以上二首大演習地にて)
 名にし負ふ銀杏は秋の日にはえて澄みしみ空に天主閣高し(熊本城を見て) 阿蘇が根に登りて見れば野や遠しやせたる小山こちごちにたつ
 地の神の怒や遂にたばしりて人の世高く煙わきのぼる
 煙くるる阿蘇の曠野に雲ひくし枯かやすすき秋の聲みつ
 葉の落ちし森に凩すさぶ夜を梟きくかな山そばの宿
(15)                     ――同十一月二十九日
 
       すげ笠(その二)
 山の宿の固き枕に夢を呼ぶ秋の女神の衣白かりき
 旅寢せる山の一村霜早し衣のやぶれ縫ふ人もがな
 野の水に秋の雲見る夕月夜かげもまばらに雁かけりゆく
 月落ちて山のやどりの夜や四更聞ゆるものは猿《ましら》ならずや
 なりがたき夢の行衛のあと追ひて一夜きくかな芭蕉葉の雨
 秋二十日旅に小笠の紐古りぬこよひ雨の日野の道ながき
 追分の文字手さぐりにひろひ讀む秋の夕べを雨ふり出でぬ
 里川に故郷《さと》なつかしみそぞろ立てば夕空遠くゆくは雁にや
 岨づたひつたふ蔦みち霧こめて見さくる空を雁金のゆく
(16) さ夜ふけて里には蟲のねもたえぬ蕎麥の山畑月はるかなり
                       ――同十二月二日
 
       すげ笠(その三)
 たくましき栗毛に銀の鞍おきてこの秋の水渡らばやとぞ
 耐へかねて枝折戸出づる旅やかた月のくらきに雁なき渡る
 更たけて風閑かなる山里に十日の月のただすみ渡る
 藪かげのこみちはつれば朽ちし堂あり五百羅漢に全き形あらず
 くちなはのぬけがらかかる野茨の枯枝ならして秋の風ふく
 秋風のあれにあれゆく野の暮を笠結ばむに我手こごえたり
 寂しとはいづこの烏滸《をこ》の言ならむ旅の百里の秋面白や
                       ――同十二月三日
(17)       白李緋桃(天)
 ともすれば讀經くづるる朧夜やおぼろ梅が香竹の戸に漏る
 籠の戸に鶯ちちとささ鳴きて友よぶ宵を春雨のふる
 ふりかへりまたふりかへりふりかへる振袖ながし春の夜の月
 笛おきてみ簾あぐる朧夜を眠るに似たり春の遠山
 うす絹をかづける稚兒の入ると見し柳の門の薄月夜かな
 松のどよみ浪のをたけび今荒れよさらばとばかり磯の夜の別れ
 宵月に櫻うするる里の今を歌あらずやと友が戸たたく
 怨むまじと獨り嵯峨野の庵にいねて歌かきながす春の夕暮
 竹きつてよき音つくりし笹笛に唄合す夜を春の雨ふる
                       ――明治三十六年三月二十九日
 
(18)       白李緋桃(地)
 春雨にぬれて歸りし雛鳩を紅絹《もみ》の小袖にそといだきみし
 朧夜を櫻みだるるさよ嵐駒に笛ふく狩衣のかげ
 磯かげに潮の香たかきさざ波やささやきかすか春の月ふけぬ
 繪の具とき繪はがきゑがく繪だくみの繪の間の窓に繪のままの梅
 たきすてし伽羅のけむりのたなびきてあるじはあらぬ春雨の窓
 月の夜を桃のみ園にあくがれてそぞろに君がみ名よびし笑み
 名殘ぞと又も見かへる村はづれ柳のもとに立つ人や誰れ
 おぼろ夜を鸚鵡ひそかに籠出でて鶯まねる梅が枝の月
 あくがるる奈良や芳野の春の旅笈には繪筆さて歌の筆
                       ――明治三十六年四月一日
 
(19)       白李緋桃(玄)
 山寺に僧はいまさで春の夜を經のみ卷の風にみだるる
 花曇り今日は晝より雨になりて相合傘の裾美しき
 紅きとて罪にはあらじ若人の法衣にくらし海棠の花
 朧夜を緋扇かざす舞姫の舞の衣に花ちりかかる
 初陣の手柄に君のたまひつる櫻かざせば駒かけ出でぬ
 緋桃咲く籬にたちて道とへば京へは右とやさしげの聲
 苔青きこみちに沓のあとちさしとめてゆかむか海棠の園
 み使の文とどきたる春の宵うす紅文字のふみがらながき
 繪師といふとなりぶすまの若人の訛は京よ春雨の宿
                       ――同四月二日
 
(20)       白李緋桃(黄)
 うぶすなの森をよぎりて河を前に桃の盛りはむかし誰が家
 花に病みて閨にこもりの春ながし法師の袖に歌乞ひたしや
 京出でて小笠百里の越の旅見さくるそらに夕霞濃き
 ねたましの双蝶見やる花かげにもの憂や髪をまたなぶる風
 吾れ問はむ君はいづれの花めづる白李海棠桃山櫻(初戀といふ題を得て)
 うす月にさそはれて來し春の野の野末くる唄君にはあらじか
 琵琶おきて緋扇かざす江の月や羅綾の袖に潮の香たかき
 朧夜を黄金づくりの太刀はきて洛陽出づる緋縅の武者
 春雨の夕べ戸によるふり袖や落ちし金釵をとらむともせぬ
                       ――同四月三日
 
(21) きらば君情はつらしなかなかに聞きませ曉のあれ鐘が鳴る
 ほほゑみやなやみかなしみ血の痩せに君入相の鐘きき給へ
 舟よせて山吹手折る菅笠のひな唄わかし加茂の春雨
 山吹の眞盛り見むと湯上りを相合傘よ春さめの里
 山ぶきの庵は今日も雨に暮れて佛刻むにまだ馴れぬ人
                       ――同八月五日
 
       沈鐘
 ゆく春のなごり追へとや憂き文にそへて賜ひし藤濃紫
 琴の人や鼓の人や梅壺の櫻に更くる十六夜月夜
 かくてなほ身を去りがたき春の惑ひ松の風きく朝寒の戸や
(22) 野を歸る鳩は夕べの色に暮れてかすかなるかや霧をゆく鐘
 數ふればはやも七つか入相の雲は憂き色野を流れゆく
 雨今督別れていつかまた遇はむ入日名殘の冷たき鐘や
                       ――同八月六日
 
       つゆ草
 野の風に丈けの朝髪なぷらせて百合に笑む子をねたましと見き
 ふと見れば香もなき袖の墨ごろも一重のこして夢はいづくへ
 とひませるみ堂は森の樹がくれにうす紫の桐見ゆるそれ
 百合白き合歡の樹蔭の小泉にうつり香高き扇ひろひぬ
 人知れず石に刻みし歌古りて雨にはびこる屑白き花
                       ――同八月七日
 
(23)       つゆ草
 ふと見えし衣はみどりか水色か宵月百合にかくれてし人
 紅薔薇に香の煙のまつはりてみともし淡き明方の雨
 いつしかに夕立はれし靄の野を姉妹ふたりが追分小唄
 星の露けがれなき野の草におちて紅き朝顔白き夕顔
 玉のみ手に玉の水棹のまとひけり月のみ舟や紅蓮白蓮
                       ――同八月九日
 
       つゆ草
 
 繪の具といて今朝黙想の興ふかし憎くやしら絹そめてちる百合
 雨はいま島のあたりや江樓の朱廉ふきあぐる夕青嵐
 殿ぬけて磯へ下れば月まどか磯は千本姫小松原
(24) ゆくりなく友と相會ふ野の樹蔭と見れば同じうらぶれの笠
 墨染のみ裳裾長う夜の神のあゆみ靜かに夢ふけてゆく
 一村は若紫の靄に凝りて小雨しと/\青葉に明くる
                       ――同八月十一日
 
       つゆ草
 玉はちす昨日は紅きけふは白きみやこの畫師が里ごもり日記
 月たけて夢なホふかし萬象の鳴りをしづめてゆくホととぎす
 よる波の波の穗匂ふ松が根に乙女化粧か朝髪さらす
 高ゆくや山子規《やまほととぎす》水ちかし竹の枕に夢はなかりき
 百合出でて朝野流るる水色の四つの袂を吹く青嵐
 曙を露の小蟲の清き音や萩の野しむるうるはしき戀
(25)                     ――同八月十三日
 
 『新聲』歌壇より
 
        〇
 おのづから胸に合《あは》する罪の手や沈黙《しじま》の秋の夜は更けにけり
 梢たかき銀杏の寺のかね消えてねむるに似たり秋のひと村
 とても世の秋は寂しく冷たきにふかれて風の國に去《い》なばや
 ほのぽのと花野の朝はあけそめて靄に別るるつばさ白き神
                       ――明治三十七年一月一日號
        〇
 やまざとは雪の小うさぎ紙のつる姉と弟の春うつくしき
(26) ともすれば千鳥にともしかかげけり夜舟になれぬ舟子《かこ》が新妻
 しめやかに手と手冷たき物がたり宵の霙は雪となりにけり
                       ――同二月十五日號
        〇
 山駕籠にゆられごこちの欄干《おばしま》や湖《うみ》うつくしき山中のやど
 あけぼのの紫わかうにほはせてかすみに浮ふあさしほのしま
 まどろみの小草にのこる夢もあらむ吹くな春風野の旅ごろも
 鐘の音のなごりただよふ靄の中にほのぽのしらむしら桃の里
                       ――同四月十五日號
        〇
 若草や桃咲く路は闇ぞよき君が小窓の灯の洩れてくる
(27) 病めば戸による日ぞ多き戸によれば母のみ國の島ほのみゆる
 松の戸に磯の千鳥を聽く夜かな藻の火きえては寒しと添ひて
 相ふるるや緋染花ぞめはなだ染みやこの春は袖の波よる
 振袖の寢すがたかつぐ山駕籠のはだか男を捲く櫻かな
 美しうちさき歌よとほほゑまれ姉にそむけば春の雪ふる
 春の日は孔雀に照りて人に照りて彩羽あや袖鏡に入るも
                       ――明治三十八月三月一日號
        〇
 白駒や小鈴に稚兒のゆめのせてさくら吹雪のあさやま越ゆる
 詩の王のかむりつくると春山に桂たづねて入るかすみかな
 鎭國の伽藍きづくと國擧げ石切りいだす朝ざくらやま
(28) そぞろにもちぎられし袖かづきけり歌留多もどりの春の夜の雪
 春雨や鐘は上野かあさ草かふるき江戸みるゆめごこちかな
 いたづらに鐘は鳴るかな春雨にこのゆめやらじ明けなあさ室
 春の日やさくらがくれにしのびきて山のわが背の木樵唄きく
 山堂のおぽろ月夜をうかるるや古き壁畫の鬼ぬけいづる
                       ――同四月一日號
        〇
 うつらうつら春の海見る夕なぎやひとみおぼろに浮く戀の島
 病むひとの枕きよめてまどあけて鶯呼べばあささくら散る
 白桃や小まど小窓の機うたのもれてもつれて里の日暮るる
 高麗びとののどけき謠やつみ草や亡國の野に春ながれたり
 朝山に染分け手綱ひかへつつ鳥聽くひとに散るさくらかな
                       ――同四月十日號
        〇
 塔たかう大鐘鳴らす菜のはなの大和くにばら日の入りよどむ
 むらさきの靄さめかぬる朝やまのゆめのゆくへと鶯のなく
 山たかみ瀧のしぶきに散る花に笠して見ればとほき海かな
 わか草の小みちはつれば湖《うみ》みえてきみの城あり春の雲浮く
 はるさめやしぶ茶草もち小雪洞《こぼんぼり》ともの戀きく菜のはなの里
                       ――同五月一日號
        〇
 菜の花のなかなる唄のお師匠の門をきらばと五つの灯かな
(30) 牛つれて丘へのぼれば南の海めくくさにあをあらし吹く
 夏草の里にこもりてふたりしてあやめ葺く日を雨しづかなり
 緋芍藥島の女王にみつぎすと朝上ぐる帆に青あらし吹く
                       ――同七月一日號
        〇
 子規啼きぬ今宵のおん夢にわが子|去《い》ぬると入りしやいかに(【郷に歸る日舟より母に】)
 ふるさとや桃薄紅の實をつけてうらぶれ人の我むかへけり
 靄しろう蓮の香まよふあさ月夜あを鷺おほき水の村かな
 ほととぎす啼くなる山の大木に斧をふるへば霧青う降る
 古山や古樹森なす夏の日の青照るかげになくほととぎす
 ふるさとは島なりなつの青潮花藻咲かせてちち母まもれ
(31)                     ――同九月一日號
        〇
 ほととぎす鳴くよと母に起されてすがる小窓の草月夜かな
 父と寢ね母と起きいづるふる郷の山家このごろ鹿のこゑかな
 蔓ひけばゆらぐ紅花まだら花朝顔のびぬきみが窓まで
 草の實に木の實に秋のめぐりては小鳥よく啼く故郷の山
 ふる郷の梨の古樹を撫でて見つをさなきわれと逢ふここちして
                       ――同十月一日號
        〇
 一山の僧都《そうづ》紫衣する秋の日の高野はなるる朝の鐘かな
 ゆく雲を仰ぐになれし草の戸の蔦に影ひく秋の落日《いりひ》や
(32) 河越えて山に入る雁河越えて里に出る鐘朝のもや濃き
 ふるさとの秋を澄む月|翌日《あす》立たむわが衣うつ母に照るかな
 夕霧はしづかにふりくふるさとの別れの酒の冷たき窓に
 秋の日の青澄むそらをわたり鳥大河越えて椋ちる森へ
 古山の巨樹にすがる秋の日の沈みはつれば霧ふり出でぬ
 人の國へ秋の海越え山をこえなみださそはむ風と吹かばや
 森の城に姫や待つらむ潮こえて夕日にかへる白き鳩かな
 秋風は白うめぐりぬ大寺の稚兒の十人が衣するなかを
 秋草の小みち古路ふみなやむ提灯ちさき文づかひかな
 そぞろにも寒しとすだれ垂れにけり蟲のなかゆく戀の小夜駕籠
                       ――同十月二十日號
(33)        〇
 風吹かば秋風吹かばわかるともけふの武藏を思ふ日あらむ(【別るとて野に立ちぬ】)
 長き夜の夢路に露の草わけむきのふの人にあふやあはずや(【以下三首別れてのちに】)
 草の戸にふるや秋雨わすれては人の小傘のそぞろまたるる
 年經なば今日の別のおもひ出に秋美しむ日もまじるべし
 雁きくとともし火とれば山々の霧せまりくる萱びさしかな
 過ぎし世の秋めく日なり夕影のにぶき小窓に人戀ひをれば
 秋追ひてとこしへめぐる鳥やとて雁にかかげしふる簾かな
 山まゆに姉が手織のふる袷とりいでて着る菊びよりかな
 ふるさとの山ほの見ゆるそれのみに古き家去らぬ秋の人かな(夕暮君に)
                       ――同十一月一日號
(34)        〇
 秋さむや萩に照る日をなつかしみ照らされに出し朝の人かな 
 樹に倚りて相むつみゆく笠のかげとほく望みぬ秋照る岡に
 いささかのことばにすねて分れ來し岡の小林秋の鳥啼く
 塔たかみ遠鳴りわたる巨鐘やゆふ日の中のあき風の國
 秋の日は薄の波にしろがねの古き鏡に似てしづみけり
 大海のしづかなる香ぞおもほゆる穗薄月夜岡に立てれば
 小夜時雨かへさをわぶるやさ眉のひそむも見えてよき灯影かな
 岡の上に待てば麓の木がくれの白きすすきに笠みえそめぬ
 秋の日を野越え杜こえ丘こえて雲のやうなる旅もするかな
                       ――同十二月一日號
 
  海の聲
 
(37)序
 
 咋にして歡樂の夢すでにすくなかりし身の今におよぴて哀愁のいたみ更に切なるを覺ゆ。古人の多情練漉すでに低摧すといへるは或はかくの如きを歌へるなるべし。されどなほその人はそれに次ぐに獨寒林に倚つて野梅を嗅ぐの句を以てせり。余や日として走らざるなく時として息ふこと能はず、みづから憂へみづから苦しみてしかもつひにわが安んずべきところを知らず。ああ喜を見ていよくよろこび悲にあひてまたます/\よろこぶわが牧水君の今の時は幸なるかな羨むべきかな。
(38) おもほえず昨日われ射しわかき日のひかりを君がうへに見むとは
 きみがよぶこゑにおどろきながめやる老てふ道のさてもさびしき
 君によりてまたかへりふむわかき道花はきのふの紅にして
                        柴舟生
 
(39)序
 
 われは海の聲を愛す。潮青かるが見ゆるもよし見えざるもまたあしからじ。遠くちかく、斷えみたえずみその無限の聲の不安おほきわが胸にかよふとき、われはげに言ひがたき悲哀と慰藉とを覺えずんばあらず。
 こころせまりて歌うたふ時、また斯のおもひの湧きいでて耐へがたきを覺ゆ。かかる時ぞ、わがこころ最も明らかにまた温かにすべてのものにむかひて馳せゆきこの天地の間に介在せるわが影の甚しく確乎たるを感ず。まこと、われらがうら若の胸の海ほど世にも清らにまた時おかず波うてるはあらざるべし。そのとどめがたきこころのふるへを歌ひいでてわれとわがおもひをほしいままにし、かつそのまま盡くるなき思ひ出の甕にひめおかむこと、げにわれらがほこりにしてまた限りなきよろこびならずとせむ(40)や。
 われ幼きより歌をうたひぬ。されども詩歌としてゆるさるべき秀れしもの殆んどいまだあることなし。ここには比較的ととのひそめし明治三十九年あたりの作より今日に至るまでのもの四百幾十首を自ら選みいでて輯めたり。選むには巧みなると否とを旨とせず、好きすかずを先にしたり、要はただ純みたるわが影を表はさむとしてに外ならず。
 表紙畫は平福百穗氏の厚意に成れり。多忙のうちわがために勞をさかれし氏に對して感謝の意を表す。
   明治四十一年五月
                     若山牧水
 
(41) 海の聲
 
 われ歌をうたへり今日も故わかぬかなしみどもにうち追はれつつ
 眞晝日のひかりのなかに燃えさかる炎か哀しわが若さ燃ゆ
 海哀し山またかなし醉ひ痴れし戀のひとみにあめつちもなし
 風わたる見よ初夏のあを空を青葉がうへをやよ戀人よ
 空の日に浸《し》みかも響く青々と海鳴るあはれ青き海鳴る
 海を見て世にみなし兒のわが性《さが》は涙わりなしほほゑみて泣く
 白鳥はかなしからずや空の青海のあをにも染まずただよふ
 あな寂し縛《いまし》められて黙然と立てる巨人の石彫まばや
 海斷えず嘆くか永久《とは》にさめやらぬ汝《なれ》みづからの夢をいだきて
(42) 闇の夜の浪うちぎはの明るきにうづくまりゐて蒼海《あをうみ》を見る わが胸ゆ海のこころにわが胸に海のこころゆあはれ絲鳴る
 わがまへに海よこたはり日に光るこのかなしみの何にをののく
 戸な引きそ戸の面《も》は今しゆく春のかなしさ滿てり來よ何か泣く
 みな人にそむきてひとりわれゆかむわが悲しみはひとにゆるさじ
 蒼穹《おほぞら》の雲はもながるわだつみのうしほは流るわれ茫と立つ
 夜半の海|汝《な》はよく知るや魂一つここに生きゐて汝が聲を聽く
 われ寂し火を噴く山に一瞬《ひととき》のけむり斷えにし秋の日に似て
 闇冷えぬいやがうへにも砂冷えぬ渚に臥して黒き海聽く
 あなつひに啼くか鴎よ靜けさの權化と青の空にうかびて
 狂ひ鳥はてなき青の大空に狂へるを見よくるへる女
(43) おもひみよ青海なせるさびしさにつつまれゐつつ戀ひ燃ゆる身を
 君來ずばこがれてこよひわれ死なむ明日は明後日《あさて》は誰が知らむ日ぞ
 泣きながら死にて去にけりおん胸に顔うづめつつ怨みゐし子は
 われ憎む君よ眞晝の神のまへ燭《ひ》ともすほどの臈たき人を
 然《さ》なり先づ春消えのこる松が枝の白の深雪《みゆき》の君とたたへむ 玉ひかる純白《ましろ》の小鳥たえだえに胸に羽うつ寂しき眞晝
 黒髪のかをり沈むやわが胸に血ぞ湧く創《きず》ゆしみ出《づ》るごとく
 春や白晝《ひる》日はうららかに額《ぬか》にさす涙ながして海あふぐ子の(以下四十九首安房にて)
 聲あげてわれ泣く海の濃《こ》みどりの底に聲ゆけつれなき耳に
 わだつみの白晝《ひる》のうしほの濃みどりに額うちひたし君戀ひ泣かむ
 忍びかに白鳥啼けりあまりも凪ぎはてし海を怨ずるがごと
(44) わがこころ海に吸はれぬ海すひぬそのたたかひに瞳《め》は燃ゆるかな
 こころまよふ照る日の海に中ぞらにうれひねむれる君が乳の邊に
 眼をとぢつ君樹によりて海を聽くその遠き音になにのひそむや
 ああ接吻海そのままに日は行かず鳥|翔《ま》ひながら死《う》せ果てよいま
 接吻《くちづ》くるわれらがまへにあをあをと海ながれたり神よいづこに
 山を見よ山に日は照る海を見よ海に日は照るいざ唇《くち》を君
 松透きて海見ゆる窓のまひる日にやすらに睡る人の髪吸ふ
 ともすれば君口無しになりたまふ海な眺めそ海にとられむ
 君かりにかのわだつみに思はれて言ひよられなばいかにしたまふ
 ふと袖に見いでし人の落髪を唇《くち》にあてつつ朝の海見る
 ひもすがら斷えなく窓に海ひびく何につかれて君われに倚る
(45) 誰ぞ誰ぞ誰ぞわがこころ鼓《う》つ春の日の更けゆく海の琴にあはせて 夕海に鳥啼く闇のかなしきにわれら手とりぬあはれまた啼く
 鳥行けりしづかに白き羽のしてゆふべ明るき海のあなたへ
 夕やみの磯に火を焚く海にまよふかなしみどもよいざよりて來よ
 海明り天《そら》にえ行かず陸《くが》に來ず闇のそこひに育うふるへり
 うす雲はしづかに流れ日のひかり鈍める白晝《ひる》の海の白さよ
 眞晝時青海死にぬ巖《いは》かげにちさき貝あり妻《め》をあさり行く
 海の聲そらにまよへり春の日のその聲のなかに白鳥の浮く
 海あをし青一しづく日の瞳《まみ》に點じて春のそら匂はせむ
 春のそら白鳥まへり觜《はし》紅《あか》しついばみてみよ海のみどりを
 白き鳥ちからなげにも春の日の海をかけれり君よ何おもふ
(46) 無限また不斷の變化《へんげ》持つ海におどろきしかや可愛ゆをみなよ
 春の海ほのかにふるふ額《ぬか》伏せて泣く夜のさまの誰が髪に似む
 幾千の白羽みだれぬあき風にみどりの海へ日の大ぞらへ
 いづくにか少女泣くらむその眸《まみ》のうれひ湛へて春の海凪ぐ
 海なつかし君等みどりのこのそこにともに來ずやといふに似て凪ぐ
 手をとりてわれらは立てり春の日のみどりの海の無限の岸に
 春の海のみどりうるみぬあめつちに君が髪の香滿ちわたる見ゆ
 御《み》ひとみは海にむかへり相むかふわれは夢かも御ひとみを見る
 わが若き双《さう》のひとみは八百潮のみどり直《ひた》吸ひ何ほ飽かず燃ゆ
 しとしとと潮の匂ひのしたたれり君くろ髪に海の瓊《に》をさす
 君笑めば海はにほへり春の日の八百潮どもはうちひそみつつ
(47) 春の河うす黄に濁り音もなう潮滿つる海の朝凪に入る
 暴風雨《しけ》あとの磯に日は冴ゆなにものに驚かされて犬永う鳴く
 白晝《ひる》の海古びし青き絲のごとたえだえ響く寂しき胸に
 伏目して君は海見る夕闇のうす青の香に髪のぬれずや
 日は海に落ちゆく君よいかなれば斯くは悲しきいざや祷らむ
 白晝さびし木《こ》の間に海の光る見て眞白き君が額《ぬか》のうれひよ
 くちづけは永かりしかなあめつちにかへり來てまた黒髪を見る
 夕ぐれの海の愁ひのしたたりに浸されて瞳《め》は遠き沖見る
 蒼ざめし額《ひたひ》にせまるわだつみのみどりの針に似たる匂ひよ
 柑子やや夏に倦みぬるうすいろに海は濁れり夕疾風《ゆふはやち》凪ぐ
 海荒れて大空の日はすきみたり海女《あま》巖かげに何の貝とる
(48) 春の海さして舟行く山かげの名もなき港晝の鐘鳴る
 朱の色の大鳥あまた浮きいでよいま晩春《ゆくはる》の日は空に饐《す》ゆ
 山を見き君よ添寢の夢のうちに寂しかりけり見も知らぬ山
 春の雲しづかにゆけりわがこころ靜かに泣けり何をおもふや
 悲し悲し何かかなしきそは知らず人よ何笑むわがかたを見て
 わが胸の底の悲しみ誰知らむただ高笑ひ空《くう》なるを聞け
 悲哀《かなしみ》よいでわれを刺せ汝《な》がままにわれ刺しも得ばいで千々に刺せ
 われ敢へて手もうごかさず寂然《じやくねん》とよこたはりゐむ燃えよ悲しみ
 かなしみは濕れる炎聲もなうぢぢと身を燒くやき果てはせで
 雲見れば雲に木見れば木に草にあな悲しみのかげ燃えわたる
 ああ悲哀せまれば胸は地はそらは一色《ひといろ》に透く何等影無し
(49) 泣きはててまた泣きも得ぬ瞳《め》の闇の重さよ切《せち》に火のみだれ喚ぶ
 掟《おき》てられて人てふものの爲すべきをなしつつあるに何のもだえぞ
 馴れ馴れていつはり來にしわが影を美しみつつ今日をつぐかな
 あれ行くよ何の悲しみ何の悔い犬にあるべき尾をふりて行く
 天《そら》の日に向ひて立つにたへがたしいつはりにのみ滿ちみてる胸
 もの見れば燒かむとぞおもふもの見れば消なむとぞ思ふ弱き性《さが》かな
 天あふぎ雲を見ぬ日は胸ひろししかはあれども淋しからずや
 ただ一路風飄としてそらを行くちひきき雲らむらがりてゆく
 地のうへに生けるものみな死にはてよわれただ一人日を仰ぎ見む
 見てあれば一葉先づ落ちまた落ちぬ何おもふとや夕日の大樹《おほき》
 木の蔭や悲しさに吹く笛の音はさやるものなし野にそらに行く
(50) 樹に倚りて頬をよすればほのかにも頬に脈うつ秋木立かな
 山はみな頭《かうべ》を垂れぬ落日のしじまのなかに海簫をふく
 をちこちに亂れて汽笛鳴りかはすああ都會《まち》よ見よ今日もまた暮れぬ 青の海そのひびき斷ち一瞬の沈獣を守れ日の聲聽かむ
 人といふものあり海の眞蒼なる底にくぐりて魚《な》をとりて食む
 海の聲たえむとしてはまた起る地に人は生れまた人を生む
 西の國ひがしの國の帆柱は港に入りぬ黙然として
 海の上の老いし旅びと帆柱はけふも海行く西風《にし》冴えて吹く
 黄に匂ふ悲しきかぎり思ひ倦《う》じ對へる山の秋の日のいろ
 秋の風木立にすさぶ木のなかの家の灯かげにわが脈はうつ
 つとわれら黙《もだ》しぬ灯かげ黒かみのみどりは匂ふ風過ぎて行く
(51) われらややに頭《かうべ》をたれぬ胸二つ何をか思ふ夜風《よかぜ》遠く吹く
 風消えぬ吾《あ》もほほゑみぬ小夜の風聽きゐし君のほほゑむを見て
 つと過ぎぬすぎて聲なし夜の風いまか靜かに木の葉ちるらむ
 風落ちぬつかれて樹々の凪ぎしづむ夜《よ》を見よ少女《をとめ》さびしからずや
 風凪ぎぬ松と落葉の木の叢《むら》のなかなるわが家いざ君よ寢む
 山戀しその山すその秋の樹の樹の間を縫へる青き水はた
 青海の底の寂しさ去にし日の古びし戀の影戀ひわたる
 街の聲うしろに和むわれらいま潮さす河の春の夜を見る
 春の海の靜けさ棲めり君とわがとる掌《て》のなかに灯の街を行く
 はらはらに櫻みだれて散り散れり見ゐつつ何のおもひ湧かぬ日
 蛙鳴く耳をたつればみんなみにいなまた西に雲白き晝
(52) 朝|地震《なゐ》す空はかすかに嵐して一山《いちざん》白き山ざくらばな
 雪暗うわが家つつみぬ赤々と炭燃ゆる夜の君が髪の香
 鳥は籠君は柱にしめやかに夕日を浴びぬなど啼かぬ鳥
 煙たつ野ずゑの空へ野樹《のぎ》いまだ芽ふかぬ春のうるめるそらへ
 春の夜や誰ぞまだ寢ねぬ厨なる甕に水さす音《ね》のしめやかに
 仰ぎ見る瞳しづけし春更くるかの大ぞらの胸さわぐさま
 白晝《まひる》哀し海のみどりのぬれ髪にまつはりゐつつ匂ふ寂靜《しじま》よ
 秋立ちぬわれを泣かせて泣き死なす石とつれなき人戀しけれ
 眞晝日のひかりのなかに蝋の燭《ひ》のゆらげるほどぞなほ戀ひ殘る
 この家は男ばかりの添寢ぞとさやさや風の樹に鳴る夜なり
 春たてば秋さる見ればものごとに驚きやまぬ瞳《め》の若さかな
(53) わが若き胸は白壺《しらつぼ》さみどりの波たちやすき水たたへつつ
 うら若き青八千草の胸の野は日の香さびしみ百鳥を呼ぶ
 若き身は日を見月を見いそいそと明日《あす》に行くなりその足どりよ
 月光の青のうしほのなかに浮きいや遠ざかり白鷺の啼く
 片ぞらに雲はあつまり片空に月冴ゆ野分地にながれたり
 十五夜の月は生絹《きぎぬ》の被衣《かつぎ》して男をみなの寢し國をゆく
 白晝《ひる》のごと戸の面《も》は月の明う照るここは灯《ひ》の國君とぬるなり
 君|睡《ぬ》れば灯の照るかぎりしづやかに夜は匂ふなりたちばなの花
 寢すがたはねたし起すもまたつらしとつおいつして蟲を聽くかな
 ふと蟲の鳴く音《ね》たゆれば驚きて君見る君は美しう睡《ぬ》る
 君ぬるや枕のうへに摘まれ來し秋の花ぞと灯は匂《にほ》やかに
(54) 美しうねむれる人にむかひゐてふと夜ぞかなし戸に月や見む
 月の夜や君つつましうねてさめず戸の面の木立風|眞白《ましろ》なり
 短かりし一夜なりしか長かりし一夜なりしか先づ君よいへ
 靜けさや君が裁縫《しごと》の手をとめて菊見るさまをふと思ふとき
 机のうへ植木の鉢の黒土に萌えいづる芽あり秋の夜の灯よ
 春の樹の紫じめる濃き影を障子《さうじ》にながめ思ふこともなし
 つかれぬる鈍き瞳をひらきては見るともなしに何もとむとや
 君もまた一人かあはれ戀ひ戀ふるかなしきなかに生けるひとりか
 春の森青き幹ひくのこぎりの音と木の香と藪うぐひすと
 ぬれ衣《きぬ》のなき名をひとにうたはれて美しう居るうら寂しさよ
 母戀しかかる夕べのふるさとの櫻咲くらむ山の姿よ
(55) 春は來ぬ老いにし父の御《み》ひとみに白ううつらむ山ざくら花
 父母よ神にも似たるこしかたに思ひ出ありや山ざくら花
 町はづれきたなき溝《どぶ》の匂ひ出《づ》るたそがれ時をみそさざい啼く
 戀さめぬあした日は出でゆふべ月からくりに似て世はめぐるかな
 青き玉さやかに透きて春の夜の灯《ひ》を吸へる見よ涼しき瞳
 火事あとの黒木のみだれ泥水の亂れしうへの赤蜻蛉《あかとんぼ》かな
 帆のうなり濤の音こそ身には湧けああさやなれや十月の雪
 人どよむ春の街ゆきふとおもふふるさとの海の鴎啼く聲
 山ざくら花のつぼみの花となる間《あひ》のいのちの戀もせしかな
 海の聲山の聲みな碧瑠璃の天《そら》に沈みて秋照る日なり
 君は知らじ君の馴寄《なよ》るを忌むごときはかなごころのうらさびしさを
(56) うらこひしさやかに戀とならぬまに別れて遠きさまざまの人
 阿蘇の街道《みち》大津の宿に別れつる役者の髪の山ざくら花
 月光のうす青じめる有明の木の原つづき啼く鶉かな
 秋の海かすかにひびく君もわれも無き世に似たる狹霧白き日
 酒の香の戀しき日なり常磐樹に秋のひかりをうち眺めつつ
 おもひやる番の御寺の寺々に鐘冴えゆかむこのごろの秋
 秋の灯や壁にかかれる古崎子袴のさまも身にしむ夜なり
 野分すぎ勞れし空の静けさに心凪ぎゐぬ別れし日ごろ
 秋の夜こよひは君の薄化粧《うすげはひ》さびしきほどに靜かなるかな
 君去にてものの小本のちらばれるうへにしづけき秋の夜の灯よ
 いと遠き笛を聽くがにうなだれて秋の灯のまへものをこそおもへ
(57) 秋の雲柿と榛《はり》との樹々の間にうかべるを見て君も語らず
 秋晴や空にはたえず遠白き雲の生れて風ある日なり
 月の夜や裸形《らぎやう》の女そらに舞ひ地に影せぬ靜けさおもふ
 秋の雨木々にふりゐぬ身じまひのわろき寢ざめのはづかしきかな
 秋あさし海ゆく雲の夕照りに背戸の竹の葉うす明りする
 君が背戸や暗《やみ》よりいでてほの白み月のなかなる花月見草
 白桔梗君とあゆみし初秋の林の雲の靜けさに似て
 恩ひ出《づ》れば秋咲く木々の花に似てこころ香りぬ別れ來し日や
 秋風は木の間に流る一しきり桔梗色してやがて暮るる雲
 別れ來て船にのぽれば旅人のひとりとなりぬ初秋の海
 啼きもせぬ白羽《しらは》の鳥よ河口は赤う濁りて時雨晴れし日
(58) 日向の國むら立つ山のひと山に住む母戀し秋晴の日や
 うつろなる秋のあめつち白日《はくじつ》のうつろの光ひたあふれつつ
 秋眞晝青きひかりにただよへる木立がくれの家に雲見る
 うすみどりうすき羽根着るささ蟲の身がまへすあはれ鳴きいづるらむ
 日は寂し萬樹《ばんじゆ》の落葉はらはらに空の沈黙《しじま》をうちそそれども
 見よ秋の日のもと木草《きぐさ》ひそまりていま凋落の黄を浴びむとす
 海の上《へ》の空に風吹き陸《くが》の上の山に雲居り日は帆の上に
 むらむらと中ぞら掩ふ阿蘇山のけむりのなかの黄なる秋の日
 虚《うろ》の海暗きみどりの高ぞらのしじまの底に消ゆる雲おもふ
 落日や街の塔の上金色に光れど鐘はなほ鳴りいでず
 日が歩むかの弓形《ゆみなり》の蒼空の青ひとすぢのみちのさぴしさ
(59) 落葉焚くあをきけむりのほそほそと木の間を縫ひて夕空へ行く
 悲しさのあふるるままに秋のそら日のいろに似る笛吹きいでむ
 富士よゆるせ今宵は何の故もなう涙はてなし汝《なれ》を仰ぎて
 凪ぎし日や虚《うろ》の御そらにゆめのごと雲はうまれて富士戀ひて行く
 雲らみな東の海に吹きよせて富士に風冴ゆ夕映のそら
 雲はいま富士の高ねをはなれたり裾野の草に立つ野分かな
 赤々と富士火を上げよ日光の冷えゆく秋の沈黙《しじま》のそらに
 山茶花は咲きぬこぼれぬ逢ふを欲りまたほりもせず日經ぬ月經ぬ
 遠山の峰《を》の上《へ》にきゆるゆく春の落日《らくじつ》のごと戀ひ死にも得ば
 黒かみはややみどりにも見ゆるかな灯にそがひ泣く秋の夜のひと
 立ちもせばやがて地にひく黒髪を白もとゆひに結ひあげもせで
(60) 君さらに笑みてものいふ御頬《みほ》の上にながるる涙そのままにして
 涙もつ瞳つぷらに見はりつつ君かなしきをなほ語るかな
 朝寒や萩に照る日をなつかしみ照らされに出し黒かみのひと
 遠白《とほしろ》うちひさき雲のいざよへり松の山なる櫻のうへを
 水の音に似て啼く鳥よ山ざくら松にまじれる深山《みやま》の晝を
 なにとなきさびしさ覺え山ざくら花ちるかげに日を仰ぎ見る
 怨みあまり切らむと言ひしくろ髪に白躑躅さすゆく春のひと
 忍草《しのぷぐさ》雨しづかなりかかる夜はつれなき人をよく泣かせつる
 山脈や水あきぎなるあけぽのの空をながるる木の香《かをり》かな
 君戀し葵の花の香《か》にいでてほのかに匂ふ夕月のころ
 ※[虫+車]《こほろぎ》や寢ものがたりのをりをりに涙もまじるふるさとの家
(61) さらばとてさと見合せし額髪《ぬかがみ》のかげなる瞳えは忘れめや(二首秀孃との別れに)
 別れてしそのたまゆらよ虚《うつろ》なる双《もろ》のわが眼にうつる秋の日
 鰍をあげまた鰍おろしこつこつと秋の地を掘る農人どもよ
 酒倉の白壁つづく大浪華こひしや秋の風冴えて吹く
 まだ啼かず片羽《かたば》赤らみかつ黒み夕日のそらを行く鳥のあり
 窓ちかき秋の樹の間に遠白き雲の見え來て寂しき日なり
 胸さびし仰げば瑠璃の高ぞらにみどりの雨のまぼろしを見る
 行きつくせば浪青やかにうねりゐぬ山ざくらなど咲きそめし町
 山越えて空わたりゆく遠鳴の風ある日なり山ざくら花
 君泣くか相むかひゐて言もなき春の灯かげのもの靜けさに
 相見ねば見む日をおもひ相見ては見ぬ日を思ふさびしきこころ
(62) 海死せりいづくともなき遠き音《ね》の空にうごきて更けし春の日
 相見ればあらぬかたのみうちまもり涙たたへしひとの瞳よ
 われはいま暮れなむとする雲を見る街は夕べの鐘しきりなり
 船なりき春の夜なりき瀬戸なりき旅の女と酌みし杯
 いつとなうわが肩の上にひとの手のかかれるがあり春の海見ゆ
 ふとしては君を避けつつただ一人泣くがうれしき日もまじるかな
 世のつねのよもやまがたり何にさは涙さしぐむ灯のかげの人
 わだつみのそこひもわかぬわが胸のなやみ知らむと啼くか春の鳥
 笛ふけば世は一いろにわが胸のかなしみに染む死なむともよし
 春來ては今年も咲きぬなにといふ名ぞとも知らぬ背戸の山の樹
 おもひ倦《う》じふと死を念ふ安心《うらやす》になみだ晴れたる虚《うろ》の瞳よ
(63) 雲ふたつ合はむとしてはまた遠く分れて消えぬ春の青ぞら
 ただひとり小野の樹に倚り深みゆく春のゆふべをなつかしむかな
 『木の香にや』『いな海ならむ樹間《こま》がくれかすかに浪の寄る音《ね》きこゆる』
 町はづれ煙突《けむだし》もるる青煙《あをけむ》のにほひ迷へる春木立かな
 椎の樹の暮れゆく蔭の古軒の柱より見ゆ遠山を燒く
 鶯のふと啼きやめばひとしきり風わたるなり青木が原を
 春あさき海のひかりや幹かたき磯の木立のやや青むかな
 つかれぬる胸に照り來てほのかをるゆく春ごろの日のにほひかな
 田のはづれ林のうへのゆく春の雲の靜けさ蛙鳴くなり
 眼とづればこころしづかに音《ね》をたてぬ雲遠見ゆる行く春のまど
 植木屋は無口のをとこ常磐樹の青き葉を刈る春の雨の日
(64) 初夏の照る日のもとの濃みどりのうら悲しさや合歡の花咲く
 淋しくばかなしき歌のおほからむ見まほしさよと文かへし來ぬ
 ゆく春の月のひかりのさみどりの遠《をち》をさまよふ悲しき聲よ
 淋しとや淋しきかぎりはてもなうあゆませたまへ如何にとかせむ(人へかへし)
 いと幽《かす》けく濃青《こあを》の白日《ひる》の高ぞらに鳶啼くきこゆ死にゆくか地《つち》
 一すぢの絲の白雪富士の嶺に殘るがかなし水無月の天《そら》
 月光の青きに燃ゆる身を裂きて蛇苺なす血の湧くを見む
 初夏の月のひかりのしたたりの一滴《ひとたま》戀し戀ひ燃ゆる身に
 皐月たつ空は戀する胸に似む戀する人よいかに仰ぐや
 狂ひつつ泣くと寢ざめのしめやけき涙いづれが君は悲しき
 しとしとと月は滴《したた》る思ひ倦《う》じ亡骸《むくろ》のごともさまよへる身に
(65) かりそめに病めばただちに死をおもふはかなごこちのうれしき夕べ(【四首病床にて】)
 死ぬ死なぬおもひ迫る日われと身にはじめて知りしわが命かな
 日の御神氷のごとく冷えはてて空に朽ちむ日また生れ來む
 夙く窓押し皐月のそらのうす青を見せよ看護婦《みとりめ》胸せまり來ぬ
 人棲まで樹々のみ生ひしかみつ代のみどり照らせし日か天《そら》をゆく
 われ驚くかすかにふるふわだつみの肯きを眺めわが脉搏に
 わくら葉か青きが落ちぬ水無月の死しぬる白晝《ひる》の高樫の樹ゆ
 鷺ぞ啼く皐月の朝の淺みどり搖れもせなくや鷺空に啼く
 水ゆけり水のみぎはの竹なかに白鷺啼けり見そなはせ神
 水無月や日は空に死し干乾びし朱泥のほのほ阿蘇|靜《しづ》に燃ゆ
 聳やげる皐月のそらの樹の梢《うれ》に幾すぢ青の絲ひくか風
(66) 醉ひはてぬわれと若さにわが戀にこころなにぞも然かは悲しむ
 
     旅ゆきてうたへる歌をつぎにまとめたり、思ひ出にたよりよかれとて
 
 山の雨しばしば軒の椎の樹にふりきてながき夜の灯《ともし》かな(百草山にて)
 立川の驛の古茶屋さくら樹の紅葉のかげに見おくりし子よ
 旅人は伏目にすぐる町はづれ白壁ぞひに咲く芙蓉かな(日野にて)
 家につづく有明白き萱原に露さはなれや鶉しば啼く
 あぶら灯やすすき野はしる雨汽革にほううけし顔の十あまりかな
 戸をくれば朝寢《あさい》の人の黒かみに霧ながれよる松なかの家(以下三首御嶽にて)
 霧ふるや細目にあけし障子よりほの白き秋の世の見ゆるかな
 霧白ししとしと落つる竹の葉の露ひねもすや月となりにけり
(67) 野の坂の春の木立の葉がくれに古き宿《しゆく》見ゆ武藏の青梅《あうめ》
 なつかしき春の山かな山すそをわれは旅びと君おもひ行く(以下五首高尾山にて)
 思ひあまり宿の戸押せば和やかに春の山見ゆうち泣かるかな
 地ふめど草鞋聲なし山ざくら咲きなむとする山の靜けさ
 山靜けし峰《を》の上《へ》にのこる春の日の夕かげ淡しあはれ水の聲
 春の夜の匂へる闇のをちこちによこたはるなり木の芽ふく山
 汽車すぎし小野の停車場春の夜を老いし驛夫のたたずめるあり
 日のひかり水のひかりの一いろに濁れるゆふべ大利根わたる
 大河よ無限に走れ秋の日の照る國ばらを海に入るなかれ
 松の實や楓の花や仁和寺の夏なほ若し山ほととぎす(京都にて)
 けふもまたこころの鉦《かね》をうち鳴しうち鳴しつつあくがれて行く(十首中國を巡りて)
(68) 海見ても雲あふぎてもあはれわがおもひはかへる同じ樹蔭に
 幾山河越えさり行かば寂しさのはてなむ國ぞ今日も旅ゆく
 わが胸の奥にか香《かう》のかをるらむこころ靜けし古城《ふるしろ》を見る
 峽縫ひてわが汽車走る梅雨晴の雲さはなれや吉備の山々
 青海はにほひぬ宮の古ばしら丹なるが淡《あは》う影うつすとき(宮島にて)
 はつ夏の山のなかなる古寺の古塔のもとに立てる旅びと(山口の瑠璃光寺にて)
 桃柑子芭蕉の實賣る磯街の露店《よみせ》の油煙《ゆえん》青海にゆく(下の關にて)
 あをあをと月無き夜を滿ちきたりまたひきてゆく大海の潮(日本海を見て)
 旅ゆけげ瞳痩するかゆきずりの女《をんな》みながら美《よ》からぬはなし
 安藝の國越えて長門にまたこえて豊の國ゆき杜鵑聽く(二首耶馬溪にて)
 ただ戀しうらみ怒りは影もなし暮れて旅籠の欄に倚るとき
(69) 白つゆか玉かとも見よわだの原青きうへゆき人戀ふる身を(二十六首南日向を巡りて)
 潮光る南の夏の海走り日を仰げども愁ひ消《け》やらず
 わが涙いま自由《まま》なれや雲は照り潮《うしほ》ひかれる帆柱のかげ
 檳榔樹《びらうじゆ》の古樹《ふるき》を想へその葉蔭海見て石に似る男をも(日向の青島より人へ)
 山上や目路のかぎりのをちこちの河光るなり落日の國(日向大隅の界にて)
 椰子の實を拾ひつ秋の海黒きなぎさに立ちて日にかざし見る(以下三首都井岬にて)
 あはれあれかすかに聲す拾ひつる椰子のうつろの流れ實吹けば
 日向の國都井の岬の青潮に入りゆく端《はな》に獨り海見る
 黄昏の河を渡るや乘合の牛等鳴き出《で》ぬ黄の山の雲
 醉ひ痴れて酒袋|如《な》すわがむくろ砂に落ち散り青海を見る
 勞れはてて眼には血も無き旅びとの今し汝《なれ》見るやよ暮るる海
(70) 船はてて上れる國は滿天の星くづのなかに山匂ひ立つ(日向の油津にて)
 山聳ゆ海よこたはるその間《あひ》に狹しま白し夏の砂原
 遊君《いうくん》の紅き袖ふり手をかざしをとこ待つらむ港早や來よ
 大うねり風にさからひ青うゆくそのいただきの白玉の波
 大隅の海を走るや乘合の少女が髪のよく匂ふかな
 船醉《ふなゑひ》のうら若き母の胸に倚り海をよろこぶやよみどり兒よ
 山も見ぬ青わだつみの帆の蔭に水夫《かこ》は遊女の品さだめかな
 落日や白く光りて飛魚は征矢降るごとし秋風の海
 船の上に飼へる一つの鈴蟲の鳴きしきるかな月青き海
 港口夜の山そびゆわが船のちひさなるかな沖さして行く
 帆柱ぞ寂然としてそらをさす風死せし白晝《ひる》の海の青さよ
(71) かたかたとかたき音して秋更けし沖の青なみ帆のしたにうつ
 風ひたと落ちて眞鐵《まがね》の青空ゆ星ふりそめぬつかれし海に
 山かげの闇に吸はれてわが船はみなとに入りぬ汽笛《ふえ》長う鳴る
 南國の夏の樹木の青浪の山はてもなし一峠越ゆ
 夕さればいつしか雲は降り來て峰に寢るなり日向高千穂(三首日向高千穂にて)
 月明し山脈こえて秋かぜの流るる夜なり雲高う照る
 秋の蝉うちみだれ鳴く夕山の樹蔭に立てば雲のゆく見ゆ
 樹間《こま》がくれ見居れば阿蘇の青煙かすかにきえぬ秋の遠空(以下七首阿蘇にて)
 秋の雲青き白きがむら立ちて山鳴つたへ天馳《あまは》するかな
 山鳩に馴れては月の白き夜をやすらに眠る肥の國人よ
 ひれ伏して地の底とほき火を見ると人の五つが赤かりし面《つら》
(72) 麓野の國にすまへる萬人を軒に立たせて阿蘇荒るるかな
 風さやさや裾野の秋の樹にたちぬ阿蘇の月夜のその大きさや
 秋のそらうらぶれ雲は霧のごと阿蘇につどひて夙ぎぬる日なり
 やや赤む暮雲《ぽうん》を遠き陸《くが》の上《へ》にながめて秋の海馳するかな(八首周防灘にて)
 雲はゆく雲に殘れる秋の日のひかりも動く黒し海原
 落日のひかり海去り帆をも去りぬ死せしか風はまた眉に來ず
 夕雲のひろさいくばくわだつみの黒きを掩ひ曰を包み燃ゆ
 雲は燃え日は落つ船の旅びとの代赭《たいしや》の面《つら》のその沈黙よ
 日は落ちぬつめたき炎わだつみのはてなる雲にくすぽりて燃ゆ
 ぬと聳えさと落ちくだる帆柱に潮けぶりせる血の玉の灯よ
 水に棲み夜光《よひか》る蟲は青やかにひかりぬ秋の海匂ふかな
(73) 津の國は酒の國なり三夜《みよ》二夜《ふたよ》飲みて更なる旅つづけなむ(以下十三首攝津にて)
 杯を口にふくめば千すぢみな髪も匂ふか身はかろらかに
 白雲のかからぬはなし津の國の古塔に望む初秋の山(四天王寺に登りて)
 物々しき街のぞめきや蒼空《おほぞら》を秋照りわたる白雲のもと
 雲照るや出水《でみづ》のあとの濁り水街押しつつむ大阪の秋
 大阪は老女に裾の緋縮緬多きに慘る日の暑さかな
 泣眞似の上手なりける小女のさすがなりけり忘られもせず
 浪華女《なにはめ》に戀すまじいぞ旅人よただ見て通れそのながしめを
 われ車に友は柱に一語二語醉語かはして別れ去りにけり(大阪にて葩水と別る)
 醉うて入り醉うて浪華を出でて行く旅びとに降る初秋の雨
 昨日飲みけふ飲み酒に死にもせで白痴笑《こけわら》ひしつつなほ旅路ゆく
(74) 山行けば青の木草に日は照れり何に悲しむわがこころぞも(箕面山にて)
 住吉は青のはちす葉白の砂秋たちそむる松風の聲
 秋雨の葛城越えて白雲のただよふもとの紀の國を見る
 火事の火の光宿して夜の雲は赤う明りつ空流れゆく(二首和歌山にて)
 町の火事雨雲おほき夜の空にみだれて鷺の啼きかはすかな
 ちんちろり男ばかりの酒の夜をあれちんちろり鳴きいづるかな(紀の國青岸にて)
 紀の川は海に入るとて千本の松のなかゆくその瑠璃の水
 麓には潮ぞさしひく紀三井寺木の間の塔に青し古鐘
 一の札所第二の札所紀の國の番の御寺をいざ巡りてむ
 粉河寺遍路の衆のうち鳴らす鉦々きこゆ秋の樹の間に
 鉦々のなかにたたずみ旅びとのわれもをろがむ秋の大寺
(75) 旅人よ地に臥せ空ゆあふれては秋山河にいま流れ來る(葛城山にて)
 鐘おほき古りし町かな折しもあれ旅籠に着きしその黄昏に(二首奈良にて)
 鐘斷えず麓におこる嫩草の山にわれ立ち白晝《ひる》の雲見る
 雲やゆくわが地やうごく秋眞晝鐘も鳴らざる古寺にして(二首法隆寺にて)
 秋眞晝ふるき御寺にわれ一人立ちぬあゆみぬ何のにほひぞ
 みだれ降る大ぞらの星そのもとの山また山の闇を汽車行く(伊賀を越ゆ)
 峽出でて汽車海に添ふ初秋の月のひかりのやや青き海(駿河を過ぐ)
                       ――旅の歌をはり――
 舌つづみうてばあめつちゆるぎ出づをかしや瞳はや醉ひしかも
 とろとろと琥珀の清水津の國の銘酒|白鶴《はくづる》瓶《へい》あふれ出づ
 灯ともせばむしろみどりに見ゆる水酒と申すを君斷えず酌ぐ
(76) くるくると天地《あめつち》めぐるよき顔も白の瓶子《へいし》も醉ひ舞へる身も
 酌とりの玉のやうなる小むすめをかかへて舞はむ青だたみかな
 女ども手うちはやして泣上戸泣上戸とぞわれをめぐれる
 あな可愛《かは》ゆわれより早く醉ひはてて手枕《たまくら》のまま彼女《かれ》ねむるなり
 睡れるをこのまま盗みわだつみに帆あげてやがて泣く顔を鬼む
 醉ひはててはただ小をんなの帶に咲く緋の大輪の花のみが見ゆ
 ああ醉ひぬ月が嬰子《やや》生む子守唄うたひくれずやこの膝にねむ
 君が唄ふ『十三ななつ』君はいつそれになるかや嬰子《やや》うむかやよ
 あな倦みぬ斯く醉ひ痴れし夢の間にわれ葬らずややよ女ども
 渇きはて咽喉は灰めく醉ざめに前髪の子がむく林檎かな
 酒の毒しびれわたりしはらわたにあなここちよや沁む秋の風
(77) 石ころを蹴り蹴りありく秋の街落日黄なり醉醒《ゑひざめ》の眼に
 山の白晝《ひる》われをめぐれる秋の樹の不斷の風に海の青憶ふ
 琴弾くか春ゆくほどにもの言はぬくせつきそめし夕ぐれの人
 春の夜の月のあはきに厨の戸誰が開けすてし灯《ひ》のながれたる
 かはたれの街のうるほひ何處《いづく》ゆかふと出でよ髪の直《ひた》匂ふ子よ
 春のゆふべ戀にただれしたはれ女《め》の眼のしほ戀し渇けるこころ
 月つひに吸はれぬ曉《あけ》の蒼穹《あおぞら》の青きに海の音とほく鳴る
 窓ひとつ朧ろの空へ灯をながす大河沿の春の夜の街
 鐘鳴り出づ落日《いりひ》のまへの擾亂《ぜうらん》のやや沈みゆく街のかたへに
 仁和寺の松の木《こ》の間をふと思ふうらみつかれし春の夕ぐれ
 朝の室《むろ》夢のちぎれの落ち散れるさまにちり入る山ざくらかな
(78) 君見ませ泣きそぼたれて春の夜の更けゆくさまを眞黒き樹々を
 一葉だに搖れず大樹《おほき》は夕ぐれのわが泣く窓に押しせまり立つ
 われとわが戀を見おくる山々に入日消えゆく峽にたたずみ
 燐寸《まち》すりぬ海のなぎさに倦み光る晝の日のもと青き魚燒く
 秋の海阿蘇の火見ゆと旅人は帆かげにつどふ浪死せる夜を
 油つきぬされども消えず青白き灯のもゆる見よ寢ざめし人よ
 晝の街|葬式《とむらひ》ぞゆく鉦濁るその列形《れつなり》にうごめく塵埃《ほこり》
 直吸《ひたす》ひに日の光《かげ》吸ひてまひる日の海の青燃ゆわれ巖にあり
 大ぞらの神よいましがいとし兒の二人戀して歌うたふ見よ
 君を得ぬいよいよ海の涯《はて》なきに白帆を上げぬ何のなみだぞ
 あな沈む少女の胸にわれ沈むああ聽けいづく悲しめる笛
(79) みじろがでわが手にねむれあめつちになにごともなし何の事なし
 塵浴びて街のちまたにまよふ子等何等ちひさきわれ君を戀ふ
 みだれ射よ雨降る征矢をえやは射るこの靜ごころこの戀ごころ
 吹き鳴らせ白銀の笛春ぐもる空裂けむまで君死なむまで
 君笑むかああやごとなし君がまへに戀ひ狂ふ子の狂ひ死ぬ見て
 山動け海くつがへれ一すぢの君がほつれ毛ゆるがせはせじ
 われら兩人《ふたり》相添うて立つ一點に四方のしじまの吸はるるを聽く
 思ひ倦みぬ毒の赤花さかづきにしぽりてわれに君せまり來よ
 矢繼早火の矢つがへてわれを射よ滿ちて腐らむわが胸を射よ
 思ふまま怨言《かごと》つらねて彼女《かれ》がまへに泣きはえ臥さで何を嘲《あざ》むや
 わが怨言ききつつ君が白き頬《ほ》に微笑《ゑまひ》ぞうかぷ刺せ毒の針
(80) ひたぶるに木枯すさぶ斯る夜を思ひ死なむずわが愚鈍見よ
 生ぬるき戀の文かな筆もろともいざ火に燒かむ爐のむらむら火
 されど悲し斯く戀ひ狂ひやがて徒だ安らに君が胸に死《は》てむ日
 毒の香《かう》君に焚かせてもろともに死なばや春のかなしき夕べ
 胸せまるあな胸せまる君いかにともに死なずや何を驚く
 千代八千代棄てたまふなと言ひすててつとわが手|枕《ま》きはや睡るかな
 針のみみそれよりちさき火の色の毒花咲くは誰が脣《くちびる》ぞ
 疑ひの蛇むらがるに火のちぎれ投ぐるか君がその花の微笑《ゑみ》
 疑ひの野火しめじめと胸を這ふ風死せし夜を消えみ消えずみ
 君かりにその黒髪に火の油そそぎてもなほわれを捨てずや
 戀ひ狂ひからくも獲ぬる君いだき恍《ほう》けし顔の驚愕《おどろき》を見よ
(81) とこしへに逃ぐるか戀よとこしへにわれ若うして追はむ汝《いまし》を
 紅梅のつめたきほどを見たまへとはや馴れて君笑みて脣《くち》よす
 こよひまた死ぬべきわれかぬれ髪のかげなる眸《まみ》の滿干《みちひ》る海に
 いざこの胸千々に刺し貫き穴だらけのそを玩《もてあそ》べ春の夜の女
 『女なればつつましやかに』『それ憎しなどわれ燒かう火の言葉せぬ』
 渇けりやそのくちびるの紅ゐは乾《から》びて黒しそれわが血吸へ
 あめつちに乾びて一つわが脣も死して動かず君見ぬ十日
 『遣るも行かじ死海《しかい》ならではよし行くも沈みて燃えむ』ねたみの炎
 髪を燒けその眸《まみ》つぶせ斯くてこの胸に泣き來よさらば許さむ
 微笑《ゑみ》鋭しわれよりさきにこの胸に棲みしありやと添臥しの人
 毒の木に火をやれ赤きその炎ちぎりて投げむよく睡《ぬ》る人に
(82) 涙さぴし夢も見ぬげにやすらかに寢みだれ姿われに添ふ見て
 春は來ぬ戀のほこりか君を獲てこの月ごろの悲しきなかに
 夕ぐれに音《ね》もなうゆらぐさみどりの柳かさびしよく君は泣く
 君よなどきは愁れたげの瞳して我がひとみ見るわれに死ねとや
 ただ許せふとして君に飽きたらず忌む日もあれどいま斯くてあり
 あらら可笑《をか》し君といだきて思ふこといふことなきにこの涙はや
 ことあらば消《け》なむとやうにわが前にひたすらわれをうかがふ君よ
 君はいまわが思ふままよろこびぬ泣きぬあはれや生くとしもなし
 君よ汝が若き生命は眼をとぢてかなしう睡るわが掌《たなぞこ》に
 悲しきか君泣け泣くをあざわらひあざわらひつつわれも泣かなむ
 燃え燃えて野火いつしかに消え去りぬ黒めるあとの胸の原見よ
(83) さらばよし別るるまでぞなにごとの難きか其處に何のねたまむ
 撒きたまへ灰を小砂利をわが胸にその荒るる見て手を拍ちたまへ
 手枕よ髪のかをりよ添ひぶしにわかれて春の夜を幾つ寢し
 別れ居の三夜は二夜はさこそあれかがなひて見よはや十日經む
 事もなういとしづやかに暮れゆきぬしみじみ人の戀しきゆふべ
 かへれかへれ怨《ゑ》じうたがひに倦みもせばいざこの胸へとく歸り來よ
 あなあはれ君もいつしか眼《まみ》盲《し》ひぬわれも盲人《めしひ》の相いだき泣く
 戀しなばいつかは斯る憂《うき》を見むとおもひし咋《きそ》のはるかなるかな
 わりもなう直《ひた》よろこびてわが胸にすがり泣く子が髪のやつれよ
 心ゆくかぎりをこよひ泣かしめよものな言ひそね君見むも憂し
 さらば君いざや別れむわかれてはまたあひは見じいざさらばさらば
(84) 君いかにかかる靜けき夕ぐれに逝きなば人のいかに幸《さち》あらむ
 夕ぐれの靜寂《しじま》しとしと降る窓にふと合ひぬ脣《くち》のいつまでとなく
 『君よ君よわれ若し死なばいづくにか君は行くらむ』手をとりていふ
 春哀し君に棄てられはるばると行かばや海のあなたの國へ
 知らず知らずわが足鈍る君も鈍る戀の木立の靜寂《しじま》のなかに
 怨むまじや性《さが》は清水《しみづ》のさらさらに淺かる君をなにうらむべき
 戀人よわれらはさびし青ぞらのもとに涯《はて》なう野の燃ゆるさま
 
 獨り歌へる
 
     本書を本書發行當時誕生せし友緑葉が長男佐藤靜樹君に呈す
 
(87)自序
 
 私は常に思つて居る。人生は旅である。我等は忽然として無窮より生れ、忽然として無窮のおくに往つてしまふ。その間の一歩々々の歩みは實にその時のみの一歩々々で、一度往いては再びかへらない。私は私の歌を以て私の旅のその一歩々々のひぴきであると思ひなしてゐる。言ひ換へれば私の歌はその時々の私の生命の碎片である。
 
 多人數のなかに交り都合よく社會に身を立てて行かうがために、私は私の境遇その他からいつ知らず二重或は三重の性格を添へて持つやうになつて來た。その中には眞の我とは全然矛盾し反對した種類のものがある。自身にも能くそれに氣がついて時には全く耐へ難く苦痛に思ふ。而も年の進むと共に四六時中眞の我に歸つて居る時とては愈々少くなつて來た。稀し(88)くも我に歸つてしめやかに打解けて何等憚る所なく我と逢ひ我と語る時は、實に誠心こめて歌を咏んで居る時のみである。その時に於て私は天地の間に僅かに我が影を發見する。
 
 藝術々々とよく人は言ふ。實のところ私はまだその藝術と云ふものを知らない。斷えず自身の周圍に聞いて居る言葉でありながらいまだに了解が出來難い。だから私はそれ等一切の關係のなかに私の歌を置くことが出來なかつた。私は原野にあそぶ百姓の子の様に、山林に棲む鳥獣のやうに、全くの理窟無しに私の歌を咏み出で度い。
 
 私は私の作物を以て、斯うして生れて來た自己の全てをみづから明かに知らむがための努力であると今のところでは思つて居る。それ以上他に思ひ及ぽす餘裕が無い。歌を咏むのも細工師が指輪や簪をこしらへて居るの(89)とは違つて、自己そのものを直ちに我が詩歌なりと信じて私は咏んで居る。歌と言ふもの詩と言ふものといふ風に机の上にぶち轉がして考へらるることを私は痛く嫌ふ。自己即詩歌、私の信念はこれ以外に無い。
 
 一首々々取出して見ると私の歌などは實に夥しく拙い。技巧の不足なもの、嘘をついて居るものなどばかりで自ら滿足し得るものとては殆んど絶無である。それかと云つて全然是等を棄却し去ることは容易に出來ない。一首のうちに何處か自分の影が動いてゐて、なかなか思ひ切つて棄てがたい。いま夫等を拾ひ集めてこの一卷を編んだ。これからも尚ほ私が本當に生きて居る間、私は何處までもこの哀れな歩をとぼ/\と續けて行かねばならぬのであらう。
 
 歌の配列の順序は、出來るだけ歌の出來た時の順序に從ふやうに力めた。(90)前の歌集「海の聲」の編輯を終つたのが昨年の四月の廿日頃で、それからの作はたしか同年廿五日の夜武藏百草山に泊つた時を以て始つて居る。そして本書の編輯を終つたのは本年七月の十日頃偶然にも同じ百草山の頂上の家に滯在して居る時に於てであつた。つづまりこの「獨り歌へる」一卷はその間約一ケ年に亙る私の内的生活の記録である、その時その時に過ぎ去つた私の命の碎片の共同墓地である。
 
 詩歌書類の一向に賣れない現今にあつて、特にわがために本書出版の勞をとられた八少女會同人諸君に對し深く感謝する。
 
 今夜は陰暦九月十三日、後の月の當夜である。風冴えて時雨が時々空を過ぐる。街をば伊藤公暗殺の號外が切りに走つて居たが既にそれも止んだ。本書の校正刷を閲しこの序文を認めて、自身の昨日の歌を見て居ると色々(91)に恩ふことが多い。
    明治四十二年十月二十六日深夜
                    若山牧水
 
(93) 獨り歌へる 上の卷
 
       自明治四十一年四月
       至同    十二月
 
 いざ行かむ行きてまだ見ぬ山を見むこのさびしさに君は耐ふるや
 みんなみの軒端のそらに日輪の日ごとかよふを見て君と住む
 おのづから熟みて木《こ》の實も地に落ちぬ戀のきはみにいつか來にけむ
 女あり石に油をそそぎては石燒かむとす見るがさびしき
 いざ行かむ行方は知らねとどまらばかなしかりなむいざ君よ夙く
 何はおきあはれみを請ふその眸《まみ》の先づこそ見ゆれえはうらむべき
 若ければわれらは哀し泣きぬれてけふもうたふよ戀ひ戀ふる歌
 斯くねたみ斯くうたがふがわが戀のすべてなりせばなど死なざらむ
(94) うらかなしこがれて逢ひに來しものを驚きもせでひとのほほゑむ
 悲しまず泣かずわらはぬ晝夜に馴れしかいまはさびしくもなし
 うちしのび夜汽車の隅にわれ座しぬかたへに添ひてひとのさしぐむ(【以下或る時に】)
 野のおくの夜の停車場を出でしときつとこそ接吻《きす》はかはしけるかな
 摘みてはすて摘みてはすてし野のはなの我等があとにとほく續きぬ
 山はいま遲き櫻のちるころをわれら手とりて木《こ》の間あゆめり
 鬢の毛に散りしさくらのかかるあり木のかげ去らぬゆふぐれのひと
 木《こ》の芽摘みて豆腐の料理君のしぬわびしかりにし山の宿かな
 春の日の滿てる木の間にうち立たすおそろしきまでひとの美し
 小鳥よりさらに身がろくうつくしくかなしく春の木の間ゆく君
 靜かなる木の間にともに入りしときこころしきりに君を憎めり
(95) 君すててわれただひとり木の間より岡にいづれば春の雲見ゆ
 山の家の障子《さうじ》細目にひらきつつ山見るひとをかなしくぞ見し
 ゆく春の山に明るう雨かぜのみだるるを見てさびしむひとよ
 さみどりのうすき衣をうち着せむくちづけはてて夢見るひとに(以上)
 古寺の木立のなかの離れ家に棲みて夜ごとに君を待ちにき
 ものごしに靜けさいたく見えまさるひとと棲みつつはつ夏に入る
 推のはな栗の木《き》の花はつ夏の木《こ》の花めづるひとのほつれ毛
 あな胸のそこひの戀の古海の鳴りいづる日を初夏の雲湧く
 樹々の間に白雲見ゆる梅雨晴の照る日の庭に妻は花植う
 くちづけをいなめる人はややとほくはなれて窓に初夏の雲見る
 わが妻はつひにうるはし夏たてば白き衣きてやや痩せてけり
(96) 香爐ささげ初夏の日のわらはたち御そらあゆめり日の靜かなる
 はつ夏の雲あをそらのをちかたに湧きいづる晝麥の笛吹く
 燐寸《まち》すりぬ赤き毛蟲を燒かむとてただ何となくくるしきゆふべ
 とこしへに解けぬひとつの不可思議の生きてうごくと自らをおもふ
 このごろは逢へばかたみに繪そらごとたくみにいふと馴れそめしかな
 別れてきさなりき何等ことなげに別れきその後幾夜經ぬるや
 あめつちに頼るものなしわがなみだなにいたづらに頬をながれたる
 はたた神遠鳴りひびき雨降らぬ赤きゆふべをひとり酒煮る
 夕されば風吹きいでぬ闇のうちの樹梢《こぬれ》見ゐつつまたおもひつぐ
 われひとり暮れのこりつつ夕やみのあめつちにゐて君をしぞおもふ
 夕やみのややに明るみ大ぞらに月のかかればやや思ひ凪ぐ
(97) ひとりなればこの望月の夏の夜のすずしきよひをいざひとり寢む
 
     八月の初め信州輕井澤に遊びぬ。その頃詠める歌三十五首
 
 火を噴けば淺間の山は樹を生まず茫として立つ青天地《あをあめつち》に
 天地のしじまわが身にひたせまるふもと野に居て山の火を見る
 八月や淺間が嶽の山すそのその荒原にとこなつの咲く
 麓なる叫のひとつのいただきの青深草に寢て淺間見る
 夕空の風をしぞおもふ火の山のけむりは遠くうちながれたり
 夢も見ず旅寢かさねぬ火の山の裾の月夜の白き幾夜を
 火の山の裾の松原月かげの疎《あら》き月夜をほととぎす啼く
 火の山やふもとの國に白雲の居る夜のそらの一すぢの煙《けむ》
 大ぞらに星のふる夜を火の山の裾に旅寢し妻をしぞ思ふ
(98) 夜となればそらを掩ひて高く見ゆ白晝は低しけむり噴く山
 夜の山のけむりにやどりうす赤う地《つち》のそこなる火のかげの見ゆ
 火の山にしばし煙の斷えにけりいのち死ぬべくひとのこひしき
 女ありみやこにわれを待つときく靜かなりけり夜半の山の火
 月見草見ゐつつ居ればわかれ來し子が物思ふすがたしぬばゆ
 黒髪のそのひとすぢのこひしさの胸にながれて盡きむともせず
 わかれ來て幾夜經ぬると指折れば十指《とゆび》に足らず夜のながきかな
 ゆるしたまへ別れて遠くなるままにわりなきままにうたがひもする
 青草のなかにまじりて月見草ひともと咲くをあはれみて摘む
 あめつちにわが跫音《あおと》のみ滿ちわたる夕の野なり月見草摘む
 ものをおもふ四方《よも》の山べの朝ゆふに雲を見れどもなぐさみもせず
(99) 紅《べに》滴る桃の實かみて山すその林ゆきつつ火の山を見る
 蟲に似て高原はしる汽車のありそらに雲見ゆ八月の晝
 白雲のいざよふ秋の峰をあふぐちひさなるかな旅人どもは
 絲のごとくそらを流るる杜鵑《とけん》あり聲にむかひて涙とどまらず
 うつろなる命をいだき眞晝野にわが身うごめき杜鵑《ほととぎす》聽く
 ほととぎす聽きつつ立てば一滴《ひとたま》のつゆよりさびしわれ生くが見ゆ
 あめつちの亡び死になむあかつきのしじまに似たり杜鵑啼く
 わかれては十日ありえずあわただしまた碓氷越え君見むと行く
 胸にただ別れ來しひとしのばせてゆふべの山をひとり越ゆなり
 さらばなり信濃の國のほととぎす碓氷越えなばまた聞かめやも
 瞰下せば霧に沈めるふもと野の國のいづくぞほととぎす啼く
(100) ふと聞ゆ水の音とほし木の蔭に白百合見出でながめいるとき
 身じろがずしばしがほどを見かはせり旅のをとこと山の小蛇と
 秋かぜや碓氷のふもと荒れ寂びし坂本の宿《しゆく》の絲繰の唄(坂本に宿りて)
 まひる日の光のなかに白雲はうづまきてありふもと國原(妙義山にて)
 旅びとはふるきみやこの月の夜の寺の木の間を飽かずさまよふ(三首奈良にて)
 はたご屋へ杜の木の間の月の夜の風のあはれに濡れてかへりぬ
 伏しをがみふしをがみつつ階のゆふべのやみにきえよとぞおもふ
 大いなるうねりに船の載れるとき甲板《かうはん》にゐて君をおもひぬ(播磨灘にて)
 戀人のうまれしといふ安藝の國の山の夕日を見て海を過ぐ(瀬戸にて)
 雲去ればもののかげなくうす赤き夕日の山に秋風ぞ吹く(四首故郷にて)
 峰あまた横ほり伏せる峽間《けふかん》の河越えむとし蜩を聞く
(101) 父の髪母の髪みな白み來ぬ子はまた遠く旅をおもへる
 一人《いちにん》のわがたらちねの母にさへおのがこころの解けずなりぬる
 ときをりに淫唄《ざれうた》うたふ八月の燃ゆる濱ゆき燃ゆる海見て(日向の海邊にて)
 星くづのみだれしなかにおほどかにわが帆柱のうち搖《ゆら》ぐ見ゆ
 蓄音機ふとしも船の一室に起るがきこゆ海かなしけれ
 なにものに欺かれ來しやこの日ごろくやし腹立たし秋風を聽く
 秋立てどよそよそしくもなりにけり風は吹けども葉は落つれども
 忘れ得ずさびしきままにまたしてもさびしかりしを思ひつづくる
 とも思ひかくもおもへどとにかくにおもひさだめて幸祝《さちいはひ》せむ
 いねもせで明かせる朝の秋かぜの聲にまじりてすずめ子の啼く
 うらさびし盡きなく行ける大河のほとりにゆきて泣かむとぞおもふ
(102) 闇うれしこよひ籬根《かきね》のこほろぎの身にしむままに出でて聽くかな
 地のそこに消えゆくとおもひ中ぞらにまよふともきこゆ長夜《ながよ》こほろぎ
 霧ふればけふはいつより暮はやきゆふべなりけりこほろぎのなく
 時として涙をおぽゆ草木《さうもく》の悠々として日を浴ぶる見て
 消えやらぬ大あめつちの生物のひとつのわれに秋かぜぞ吹く
 君がすむ戀の國邊とわが住める國のさかひの一すぢの河
 白粉と髪のにほひをききわけむ靜かなる夜のともしびの色
 いと拙き歌きくごとし秋の夜のしづかなる夜に君|怨言《かごと》いふ
 おきたまへうらみつらみもこのごろのわれらに何の興《きよう》かあるべき
 秋立てばよく逢ふ夜なり灯のかげになみだながれてわりもなきこと
 夕ぐれの街をし行けばそそくさと行きかふ人に眼も鼻も無し
(103) わが胸に旅のをとこの情《じやう》なしのこころやどりてそそのかすらく
 秋おもへばこの茫漠のあめつちにわれただ獨り生くとさびしき
 秋たてば街のはづれの楢の木の木立に行きてよくものをおもふ
 秋はもののひとりひとりぞをかしけれ空ゆく風もまたひとりなり
 わがこころ行くにまかせてゆかしめよ世にこれよりのなぐさめは無し
 蝋燭の灯の穗赤きをつくづくと見つめゐてふと秋風をきく
 めぐりあひしづかに見守《まも》りなみだしぬわれとわれとのこころとこころ
 秋晴のまちに逢ひぬる乞食《こつじき》の爺《ぢい》の眸《まみ》見て旅をおもひぬ
 牛に似てものもおもはず茫然と家を出づれば秋かぜの吹く
 午すぎのつかれごころにとぼとぼとうつり來《く》あはれひとの戀しさ
 野菊ぞときも媚びなよるすがたして野に咲く見れば行きもかねつる
(104) 湯槽《ゆぶね》より窓のガラスにうつりたる秋風のなかの午後の日を見る
 落初《おちぞ》めの桐のひと葉のあをあをとひろきがうへを夕風のゆく
 人の聲車のひびき滿ちわたるゆふべの街に落葉ちるなり
 眼とづればはるかにとほくとぽとぽと日に追はれゆくわがすがた見ゆ
 秋かぜは空をわたれりゆく水はたゆみもあらず葦刈る少女
 足とめて聽けばかよひ來《く》河むかひ枯葦のなかの葦刈の唄
 魚釣るや晩秋河《おそあきかは》のながれ去り流れさる見つつ餌は取られがち
 わだの原生れてやがて消えてゆく浪のあをきに秋かぜぞ吹く
 相むかひ世に消えがたきかなしみの秋のゆふべの海とわれとあり
 ゆふぐれの沖には風の行くあらむ屍《むくろ》のごとく松にもたるる
 音もなうゆふべの海のをちかたの闇のなかゆく白き波見ゆ
(105) 行き行きて飽きなば旅にしづやかにかへりみもなく死なましものを
 ひたすらに君に戀しぬ白菊も紅葉も秋はもののさびしく
 病みぬれば世のはかなさをとりあつめ追はるるがごと歌につづりぬ
 あれ見たまへこのもかのもの物かげをしのびしのぴに秋かぜのゆく
 わかれては昨日も明日もをとつひも見えわかずしてひたに戀しき
 少女子のむねのちひさきかなしみに溺れてわれは死にはててけり
 戀ひに戀ひすさみはてぬるわが胸に植うべき花をなにとさだめむ
 君見れば獣のごとくさいなみぬこのかなしさをやるところなみ
 なほ飽かずいやなほあかず苛みぬ思ふままなるこの女《をんな》ゆゑ
 長椅子にいねて初冬午後の日を浴ぶるに似たる戀づかれかな
 なにものに追はれ引かれて斯く走るおもしろきこと世に一もなし
(106) あららかに梢の枯葉うち落し庭掃く僧のその面がまへ
 とぼとぼとありし若さのわがむねにかへり來るなり君をいだけば
 この林檎つゆしたたらばありし日のなみだに似むとわかき言《こと》いふ
 あはれそのをみなの肌《はだへ》しらずして戀のあはれに泣きぬれし日よ
 あはれ神ただあるがままわれをしてあらしめたまへ他《た》に祈る無し
 かかる時聲はりあげてかなしさを歌ふ癖ありきそれも止みつる
 わが住むは寺の裏部屋庭もせに白菊さけり見に來よ女
 消えもせず戀の國より追はれ來し身にうつり香のあはくかなしく
 見かへるな戀の世界のたふとさは搖れずしづかに遠ざかりゆく
 世に最《もと》もあさはかなればとりわけて女の泣くをあはれとぞおもふ
 黒牛の大いなる面《つら》とむかひあひあるがごとくに生くにつかれぬ
(107) ほこり湧く落日《いりひ》の街をひた走る電車のすみのひとりの少女
 仰ぎみてこころぞながる街の樹の落日のそらにおち葉するあり
 道化者つらの可笑しきあの友が戀にやつれてやや痩せてけり
 われうまれて初めてけふぞ冬を知る落葉のこころなつかしきかな
 落ちし葉のひと葉のつぎにまた落ちむ黄なる一葉の待たるるゆふべ
 あめつちの靜かなる時そよろそよろ落葉をわたるゆふぐれの風
 はつ冬のころのならひの曇り日は落葉のこゑのなつかしきかな
 早やゆくかしみじみ汝《なれ》にうちむかふひまもなかりきさらばさらば秋
 忍び來てしのびて去《い》にぬかの秋は盲目《めしひ》なりけりものいはずけり
 大河のうへをながるる一葉《いちえふ》のおち葉のごとしものもおもはず
 わが妻よわがさびしきは青のいろ君がもてるは黄朽葉《きくちば》ならむ
(108) めぐりあひふと見交して別れけり落葉林のをとこと男(戸山ケ原にて)
 冬木立落葉のうへに晝寢してふと見しゆめのあはれなりしかな
 武藏野は落葉の聲に明け暮れぬ雲を帶びたる日はそらを行く
 ゆふまぐれ落葉のなかに見いでつる松かさの實を手にのせてみぬ
 かすかなる胸さわぎあり燃え燃えぬ黄葉《きば》ふりしきる冬枯の森
 いかにせむ胸に落葉の落ちそめてあるがごときをおもひ消しえず
 ふりはらひふりはらひつつ行くが見ゆ落葉がくれをひとりの男
 木の葉みな落ちつくしたる寒林《かんりん》は斯《こ》のごときことおもふによろし
 いと靜かにものをぞおもふ山白き十二月こそゆかしかりけれ
 梢より葉のちるごとくものおもひありとしもなきにむねのかなしき
 なにとなくさびしうなりぬわが戀は落葉がくれをさまよふごとく
(109) 荒れはてし胸のかたへにのこりぬるむかしのゆめのうす蒼の香よ
 うす赤く木枯すさぶ落日の街のほこりのなかにおもはく
 窓あくればおもはぬそらにしらじらと富士見ゆる家に女すまひき
 日向ぽこ側にねむれる犬の背を撫でつつあればさびしうなりぬ
 近きわたり寺やたづねてめぐらなむ女を棄ててややさびしかり
 別るる日君もかたらずわれ言はず雪ふる午後の停事場にあり
 別るとて停車場あゆむうつむきのひとの片手にヴイオロンの見ゆ
 別れけり殘るひとりは停車場の群集《ぐんじゆ》のなかに口笛をふく
 
                     獨り歌へる 上の卷終り
 
(111) 獨り歌へる 下の卷
 
       自明治四十二年一月
       至同     七月
 
 大鳥の空をゆくごとさやりなき戀するひとも斯くや嘆かむ
 男といふ世に大いなるおごそかのほこりに如かむかなしみありや
 ほのかにもおもひは痛しうす青の一月《むつき》のそらに梅つぼみ來《き》ぬ
 うきことの限りも知らずふりつもるこのわかき日をいぎや歌はむ
 清ければ若くしあればわがこころそらへ去《い》なむとけふもかなしむ
 ゆめのごとくありのすさびの戀もしきよりどころなくさびしかりしゆゑ
 枯れしのち最もあはれ深かるは何花ならむなつかしきかな
 男なれば歳二十五のわかければあるほどのうれひみな來よとおもふ
(112) 斯くばかりこころ弱かりいつの日にわが悲しみの盡きむとすらむ
 けだものの病めるがごとくしづやかに運命《さだめ》のあとに從ひて行く
 
     一月より二月にかけ安房の渚に在りき。その頃の歌七十五首
 
 ふね待ちつつ待合室の雜沓に海をながめて卷たばこ吹く
 思ひ屈《く》し古ぼろ船に魚買の群とまじりて房州へ行く
 武藏野の岡の木の間に見なれつる富士の白きをけふ海に見る
 物ありて追はるるごとく一人の男きたりぬ海のほとりに
 病院の玻璃戸に倚れば海こえておぽろ夜伊豆の山燒くる見ゆ
 まつ風の明るき聲のなかにして女をおもひ青海を見る
 なにほどのことにやあらむ夜もいねで海のほとりに人の嘆くは
 われひとり多く語りてかへり來ぬ月照る松のなかの家より(人を訪ねて)
(113) ともすれば咯《は》くに馴れぬる血なればとこともなげにも言ひたまふかな(おなじ時に)
 海に來ぬ思ひあぐみてよるべなき身はいづくにも捨てどころなく
 とやかくに思ひひがめてわれとわが清きこころを蝕《は》みゆかむとす
 うす青くけふもねがての枕べに這ひまつはれり海のひびきは
 藻草焚く青きけむりを透きて見ゆ裸體《はだか》の海女《あま》と暮れゆく海と
 われよりもいささか高きわか松の木かげに立ちて君をおもへり
 朝起きて煙草しづかにくゆらせるしばしがほどはなにも思はず
 日は日なりわがさびしさはわがのなり白晝《まひる》なぎさの砂山に立つ
 ここよりは海も見えざる砂山のかげの日向にものをこそおもへ
 いづかたに行くべきわれはここに在りこころ落ち居よわれよ不安よ
 風落ちて渚木立に滿ちわたる海のひびきの白晝《ひる》のかなしみ
(114) きさらぎや海にうかびてけむりふく寂しき島のうす霞みせり
 火の山にのぼるけむりにむかひゐてけふもさびしきひねもすなりき
 大島の山のけむりのいつもいつもたえずさびしきわがこころかな
 晴れわたる大ぞらのもと火の山のけむりはけふも白々《しらじら》とたつ
 夕やみに白帆を下す大船の港入りこそややかなしけれ
 けふは早や戀のほかなるかなしみに泣くべき身ともなりそめしかな
 海よわれ思ひあまればいつもいつも汝をしたひて來て泣くものを
 梅はただ一もとがよしとりわけてただ一輪の白きがよろし
 君もまたくるしきときに君おもふ薄情者をとがめたまふや
 少年のゆめのころもはぬがれたりまこと男のかなしみに入る
 あはれこころ荒みぬればか眼も見えず海を見れども日を仰げども
(115) 人見れば忽ちうすき皮を着るわが性《さが》ゆゑの盡きぬさびしさ
 天地に享《う》けしわが性やうやうに露はになり來《く》海に來ぬれば
 つひにわれ藥に飽きぬ酒こひし身も世もあらず飲みて飲み死なむ
 やまひには酒こそ一の毒といふその酒ばかり戀しきは無し
 あさましく酒をたうべて荒濱に泣き狂へども笑ふ人もなし
 愚かなり阿呆烏《あはうがらす》の啼くよりもわがかなしみをひとに語るは
 あめつちにわが殘し行くあしあとのひとつづつぞと歌を寂しむ
 わがこころ濁りて重きゆふぐれは軒のそとにも行くをこのまず
 けふもまた變ることなきあら海の渚を同じわれがあゆめり
 安房の國海にうかぴて冬知らず紅梅白梅《こぞめしらうめ》いまさかりなり
 けふ見ればひとがするゆゑわれもせしをかしくもなき戀なりしかな
(116) おなじくは弱き男がいづくまでよわかるものかわれ試しみむ
 海に行かばなぐさむべしとひた思ひこがれし海に來は來つれども
 耳もなく目なく口なく手足無きあやしきものとなりはてにけり
 眼覺めつるその一瞬にあたらしき寂しきわれぞふと見えにける
 心より歌ふならねばいたづらに聲のみまよふ宵をかなしむ
 海あをくあまたの山等横伏せりわが泣くところいまだ盡くる無し
 やどかりの殻の如くに生くかぎりわれかなしみをえは捨てざらむ
 なつかしく靜かなるかな海の邊の松かげの墓にけふも來りぬ
 このごろは夜半にぞ月のいづるなりいねがての夜もよくつづくかな
 いつ知らず生れし風の月の夜の明けがたちかく吹くあはれなり
 物かげに息をひそめて大風の海に落ちゆく太陽を見る
(117) 蜑が家に旅寢をすれば荒海の落日《いりひ》にむかひ風呂桶を据ゆ
 蜑が家に旅寢かさねてうす赤き榾の火かげに何をおもふか
 白々とかがやける浪ひかる砂|白晝《ひる》のなぎさに卷煙草吸ふ
 いたづらにものを思ふとくせづきてけふもさびしく渚をまよふ
 青海の鳥の啼くよりいや清くいやかなしきはいづれなるらむ
 これもまたあざむきならむ『いざ行かむ清きあなたへ』海のさそへど
 砂山の起き臥ししげきあら濱のひろきに出でて白晝《ひる》の海聽く
 いと清きもののあはれにおもひ入る海のほとりの明るき木立
 砂山のばらばら松の木のもとに冬の日あびてものをおもふは
 わがほどのちひさきもののかなしみの消えむともせず天地《あめつち》にあり
 好かざりし梅の白きをすきそめぬわが二十五歳《にじふご》の春のさびしさ
(118) おぼろおぼろ海の凪げる日海こえてかなしきそらに白富士の見ゆ
 海のあなたおぼろに富士のかすむ日は胸のいたみのつねに増しにき
 安房の國朝のなぎさのさざなみの音《ね》のかなしきや遠き富士見ゆ
 うちよせし浪のかたちの砂の上に殘れるあとをゆふべさまよふ
 思ひ倦めば晝もねむりて夢を見きなつかしかりき海邊の木立
 おぽろ夜や水田のなかの一すぢの道をざわめき我等は海へ
 おぽろ夜のこれは夢かも渚にはちひさき音の斷えずまろべる
 おぼろ夜の多人|數《ず》なりしそがなかのつかね髪なりしひとを忘れず
 日は黄なり灘のうねりの濁れる日敗殘|者《もの》はまた海に浮く
 男なり爲すべきことはなしはてむけふもこの語《ご》に生きすがりぬる
 鳥が啼く濁れるそらに鳥が啼く別れて船の甲板《かうはん》に在り
(119) わかれ來て船の碇のくさり綱錆びしがうへに腰かけて居り(以上)
 このままに無口者《くちなしもの》となりはてむ言ふべきことはみな腹立たし
 おのづからこころはひがみ眼もひがみ暗きかたのみもとめむとする
 角もなく眼なき數《す》十の黒牛にまじりて行かばややなぐさまむ
 鉛なすおもきこころにゆふぐれの闇のふるよりかなしきは無し
 ただ一つ黒きむくろぞ眼には見ゆおもひ盡きては他にものもなし
 思ふも憂しおもはねばなほたへがたし思ふとてまたなにをおもはむ
 戀といふうるはしき名にみづからを欺くことにややつかれ來ぬ
 いふがごと戀に狂へる身なりしがこころたえせずさびしかりしは
 おほぞらのたそがれのかげにさそはれて涙あやふくなりそめしかな
 なにごともこころひとつにをさめおきてひそかに泣くに如くことは無し
(120) あはれまたわれうち棄ててわがこころひとのなさけによりゆかむとす
 戀もしき歌もうたひきよるべなきわが生命《いのち》をば欺かむとて
 かりそめの己がなさけに神かけていのちささぐる見ればあはれなり
 つゆほども醉ふこと知らぬうるはしき女をけふももてあそべども
 月見草咲くよりあはく戀ざめの胸にほのかにあはれみの萌ゆ
 あさましき歌のみおほくなりにけりものの終りのさびしきなかに
 いかにして斯くは戀ひにし狂ひにし不思議なりきとさびしく笑ふ
 狂ひ鳥日を追へるよりあはれなり行衛も知らずひとの迷へる
 わがいのち安かりしかなひとが泣きひとが笑ふにうち混りゐて
 爪延びぬ髪も延び來ぬやすみなく人にまじりてわれも生くなり
 心いよよ濁りをおもふ身にしみていよいよひとのなさけしげきまま
(121) よるべなき生命生命のさびしさの滿てる世界にわれも生くなり
 うちたえて人の跫音《あおと》の無かるべき國のあらじや行きて死なまし
 よそ目には石のくれなどそれよりも物おもひなき身と見えつべし
 斯くつねに胸のさわがばひろめ屋の太鼓うちにもならましものを
 行くところとざまかうざま亂れたるわかきいのちに悔を知らすな
 酒飲まば女いだかば足りぬべきそのさびしさかそのさびしさか
 沈丁花みだれて咲ける森にゆきわが戀人は死になむといふ
 大天地《おほあめつち》みどりさびしくひそまりぬ若き男のしつかに愁へる
 汚れせずわかき男のただひとりこのあめつちをいかに歩まむ
 蒼わだつみ遠くうしほのひぴくより深しするどし男のうれへる
 水いろのうれひに滿てる世界なりいまわがおもひほしいままなる
(122) 降ると見えずしづかに蒼き雨ぞふるかなしみつかれ男ねむれる
 ニコライの大釣鐘の鳴りいでて夕さりくればつねにたづねき
 酒飲まじ煙草吸はじとひとすぢに妻をいだきに友のがれたり
 この器具《うつは》さぴしきひとの朝夕につかへていかにさびしかるらむ(【煙草入を贈られしに】)
 消息《せうそこ》もたえてひさしき落魄の男をいまだ覺えたまふや(つぎ四首さる人のもとへ)
 おもへらく君もひとりのあめつちに迷ひてよるべあらざらむひと
 うす暗きこのあめつちの或るところ君在りとふをつねにわすれず
 君をもへばあたりあまりにかがやかずゆふぐれどきの如《ごと》なつかしき
 あらためてまことの戀をとめ行かむ來しかたあまりさびしかりしか
 戀なりししからざりしか知らねどもうきことしげきゆめなりしかな
 いざ行かむいづれ迷ひは死ぬるまでさめざらましをなにかへりみむ
(123) 歸らずばかへらぬままに行かしめよ旅に死ねよとやりぬこころを
 とこしへにけふのいのちの花やかさかなしさを君忘るるなかれ(哀果の新婚)
 聲あはせて歌をうたへり春の日の四辻にして救世軍は
 眞晝日の小野の落葉の木の間ゆきあるかなきかの春にかなしむ
 春は來ぬ落葉のままにしづかなる木立がくれをそよ風のふく
 安房の國海のなぎさの松かげに病みたまふぞとけふもおもひぬ
 海に沿ふ松の木の間の一すぢのみちを獨りしけふも歩むか
 君が住む海のほとりの松原の松にもたれて歌うたはまし
 山ざくら咲きそめしとや君が病む安房の海邊の松の木の間に
 憫れまれあはれむといふあさましき戀の終りに近づきしかな
 かなしきはつゆ掩ふなくみづからをうちさらしつつなほ戀ひわたる
(124) 飽き足らぬふしのみしげき戀なりきそのままにして早や逝かむとや
 はや夙くもこころ覺めゐし女かとおもひ及ぶ日死もなぐさまず
 女なればあはれなればと甲斐もなくくやしくもげに許し來つるかな
 憫れぞとおもひいたれば何はおき先づたへがたく戀しきものを
 逃れゆく女を追へる大たはけわれぞと知りて眼《め》眩《くら》むごとし
 斯くてなほ女をかばふ反逆のこころが胸にひそむといふは
 なにか泣くみづからもわれを欺きし戀ならぬかは清く別れよ
 唯だ彼女《かれ》が男のむねのかなしみを解《げ》し得で去るをあはれにおもふ
 林なる鳥と鳥とのわかれよりいやはかなくも無事なりしかな
 千度び戀ひ千度びわかれてかの女けだしや泣きしこと無かるらむ
 別れゆきふりもかへらぬそのうしろ見居つつ呼ばず泣かずたたずむ
(125) 鼻のしたながきをほこる汝《なんぢ》とて斯くは清くも棄てられつるか
 別るとて冷えまさりゆく女にはわが泣くつらのいかにうつれる
 山奥にひとり獣の死ぬるよりさびしからずや戀の終りは
 やみがたき憤りより棄てむとす男のまへに泣くな甲斐無く
 かへりみてしのぶよすがにだもならぬ斯る別れをいつか思ひし
 せめてただ戀に終りの無くもがなよりどころなきこのあめつちに
 報いなき戀に甘んじ飽く知らず汝をおもふと誰か言はむや
 あさましく甲斐なく怨み狂へるは命を蛇に吸はるるに似る
 鳥去りてしろき波寄るゆふぐれの沖のいはほか戀にわかれき
 海のごとく男《を》ごころ滿たすかなしさを靜かに見やり歩み去りし子
 別れといふそれよりもいや耐へがたしすさみし我をいかに救はむ
(126) 戀ひに戀ひうつつなかりしそのかみに寧ろわかれてあるべかりしを
 戀といふつゆよりもいやはかなかるわが生《よ》のなかの夢をみしかな
 わがこころ女え知らず彼女《かれ》が持つあさきこころはわれ掬みもせず
 再びは見じとさけびしくちびるの乾かむとする時のさびしさ
 柱のみ殘れる寺の壞《くゑ》あとにまよふよりげにけふはさびしき
 いつまでを待ちなばありし日のごとく胸に泣き伏し詑ぶる子を見む
 詑びて來よ詑びて來よとぞむなしくも待つくるしさに男死ぬべき
 別れてののちの互ひを思ふこと無かるべきなり固く誓はむ
 ふとしては何も思はずいとあさきかりそめごとに別れむとおもふ
 斯くばかりくるしきものをなにゆゑに泣きて詑びしを許さざりけむ
 おもひやるわが生《よ》のはてのいやはてのゆふべまでをか獨りなるらむ
(127) やうやうにこころもしづみ別れての後のあはれを味はむとす
 思ひ倦み斷えみ斷えずみわがいのち夜半にぞ風のながるるを聽く
 灯赤き酒のまどゐもをはりけりさびしき床に寢にかへるべし
 きはみなき青わだなかにきまよへる海のひびきかわれは生くなり
 冷笑すいのち死ぬべくここちよく涙ながしてわれ冷笑す
 死ぬばかりかなしき歌をうたはましよりどころなく身のなりてきぬ
 これはこのわが泣けるにはあらざらむあらめづらしや涙ながるる
 とりとめてなにかかなしき知らねどもとすればなみだ頬をながるる
 わが痛き生命のひびきただ一に冷笑にのみ生き殘るかも
 わがめぐりいづれさびしくよるべなきわかきいのちが數さまよへり
 さびしきはさびしきかたへさまよへりこのあはれさの耐へがたきかな
(128) 花つみに行くがごとくにいでゆきてやがて涙にぬれてかへり來ぬ
 櫛とればこころいささか晴るるとてさびしや人のけふも髪をゆふ
 富士見えき海のあなたに春の日の安房の渚にわれら立てりき
 おぼろなる春の月の夜|落葉《らくえふ》のかげのごとくもわれのあゆめり
 まどかけをひきてねぬれば春の夜の月はかなしく窓にさまよふ
 首たかくあげては春のそらあふぎかなしげに啼く一羽の鵝鳥
 彼はよく妻ののろけをいふ男まことやすこし眼尻さがりたる
 街なかの堀の小橋を過ぎむとしふと春の夜の風に逢ひぬる
 春の晝街をながしの三味がゆく二階の窓の黄なるまどかけ
 春のそらそれとも見えぬ太陽のかげのほとりのうす雲のむれ
 ひややかに梢《うれ》に咲き滿ちしらじらと朝づけるほどの山ざくら花
(129) 咲き滿てる櫻のなかのひとひらの花の落つるをしみじみと見る
 かなしめる櫻の聲のきこゆなり咲き滿てる大樹《おほき》白晝《まひる》風もなし
 寢ざめゐて夜半に櫻の散るをきく枕のうへのさびしきいのち
 海《わだ》なかにうごける青の一點を眼にとこしへに死せしむるなかれ
 よるべなみまた懲りずまに萌えそめぬあはれやさびしこのこひごころ
 よるべなき生命生命が對ひ居のあはれよるべなき戀に落ちむとす
 はかなかりし戀のうちなるおもひでのすくなき數を飽かずかぞふる
 かへるべき時し來ぬるかうらやすしなつかしき地《つち》へいざかへらなむ
 知らざりきわが眼のまへに死《しに》といふなつかしき母のとく待てりしを
 をさな子のごとくひたすら流涕すふと死になむと思ひいたりて
 海の邊に行きて立てどもなぐさまず死をおもへどもなほなぐさまず
(130) まことなり忘れゐたりきいざゆかむ思ふことなしに天《そら》のあなたへ
 根の知れぬかなしさありてなつかしくこころをひくに死にもかねたる
 死をおもへば梢はなれし落葉の地《つち》にゆくよりなつかしきかな
 ゆふ海の帆の上《へ》に消えしそよ風のごとくにこの世|去《い》なむとぞおもふ
 追はるるごと驚くひまもあらなくに別れきつひに見ざるふたりは
 若うして傷のみしげきいのちなり蹌踉としてけふもあゆめる
 然れども時を經ゆかばいつ知らずこのかなしさをまた忘るべし
 ふたたびはかへり來ることあらざらむさなりいかでかまたかへり來む
 ほのかなるさびしさありて身をめぐるかなしみのはてにいまか來にけむ
 思ふまま涙ながせしゆふぐれの室《へや》のひとりは石にかも似む
 死に隣る戀のきはみのかなしみの一すぢみちを歩み來《こ》しかな
(131) 故わかずわれら別れてむきむきにさぴしきかたにまよひ入りぬる
 見るかぎり友の顔みな死にはてしさびしきなかに獨りものをおもふ
 おぼろ夜の停車場内の雜沓に一すぢまじる少女《をとめ》の香あり
 疲れはてて窓をひらけばおぽろ夜の嵐のなかになく蛙《かはづ》あり
 ゆく春の軒端に見ゆるゆふぞらの青のにごりに風のうごけり
 ちやるめらの遠音や室《へや》にちらばれる蜜柑の皮の香を吐くゆふべ
 うしなひし夢をさがしにかへりゆく若きいのちのそのうしろかげ
 わが生命よみがへり來ぬさびしさに若くさのごとくうちふるへつつ
 わが行くは海のなぎさの一すぢの白きみちなり盡くるを知らず
 玻璃戸漏り暮春の月の黄に匂ふ室に疲れてかへり來しかな
 ガラス戸にゆく春の風をききながら獨り床敷きともしびを消す
(132) 四月すゑ風みだれ吹くこよひなりみだれてひとのこひしき夜なり
 あめつちのみどり濃《こまか》き日となりぬ我等きそうてかなしみにゆく
 また見じと思ひさだめてさりげなく靜かにひとを見て別れ來ぬ
 眞晝の曰そらに白みぬ春暮れて夏たちそむる嵐のなかに
 ただ一歩踏みもたがへて西ひがしわが生《よ》のかぎりとほく別れぬ
 うす濁る地平のはての青に見ゆかすかに夏のとどろける雲
 めぐりあひやがてただちに別れけり雨ふる四月すゑの九日《ここのか》
 ゆく春の嵐のみだれ雨のみだれしつかにひとと別るる日なり
 かなしみの歩みゆく音《ね》のかすかなり疲れし胸をとほくめぐりて
 しめやかに嵐みだるるはつ夏の夜のあはれを寢ざめながむる
 夏を迎ふおもひみだれてかきにごりつかれしむねは歌もうたはず
(133) 旅人あり街の辻なる煉瓦屋の根に行き倒れ死にはてにける
 いつしかに春は暮れけりこころまたさびしきままにはつ夏に入る
 空のあなた深きみどりのそこひよりさびしき時にかよふひびきあり
 あをあをと若葉萌えいづる森なかに一もと松の花咲きにけり
 底知らず思ひ沈みて眞晝時|一樹《いちじゆ》の青のたかきにむかふ
 大木《たいぼく》の幹の片へのましろきにこぽれぬる日の夏のかなしみ
 窓ちかき水田のなかの榛《はり》の木の日にけに青み嵐するなり
 大木の青葉のなかに小鳥啼くほかに晝の日をみだしつつ
 とりみだし哀しみさけび讃嘆すあああめつちに夏の来れる
 生くといふ否むべからぬちからよりのがれて戀にすがらむとしき
 ひややかにことは終りき別れてき斯くあるわれをつくづくと見る
(134) 思ひいでてなみだはじめて頬をつたふ極り知らぬわかれなりしかな
 女ひとり棄てしばかりの驚きに眼覺めてわれのさびしきを知る
 甲斐もなくしのびしのびにいや深にひとに戀ひつつ衰へにけり
 忽然と息斷えしごとく夜ふかく寢ざめてひとをおもひいでしかな
 怨むまじやなにかうらみむ胸のうちのかなしきこころ斯くちかひける
 ありし夜のひとの枕に敷きたりしこのかひなかも斯く痩せにける
 わが戀の終りゆくころとりどりに初なつの花の咲きいでにけり
 音もなく人等死にゆく音もなく大あめつちに夏は來にけり
 海山のよこたはるごとくおごそかにわが生くとふを信ぜしめたまへ
 きはみなき生命のなかのしばらくのこのさぴしさを感謝しまつる
 あなさびし白晝《まひる》を酒に醉ひ痴れて皐月大野の麥畑をゆく
(135) 青草によこたはりゐてあめつちにひとりなるものの自由をおもふ
 畑なかにふと見いでつる痩馬の草食みゐたり水無月眞晝
 ひややかにつひに眞白き夏花のわれ等がなかにあり終りけり
 棕梠の樹の黄色の花のかげに立ち初夏の野をとほくながむる
 初夏の野ずゑの川の濁れるにものの屍《むくろ》の浮きしづみ行く
 けだものはその死處とこしへにひとに見せずと聞きつたへけり
 水無月の洪水《おほみづ》なせる日光のなかにうたへり麥刈少女
 遠くゆきまたかへりきて初夏の樹にきこゆなり眞晝日の風
 木蔭よりなぎさに出でぬ渚より木かげに入りぬ海鳴るゆふべ
 みじか夜のころにはじめてそひねしてもののあはれを知りそめしかな
 松咲きぬ楓もさきぬはつ夏のさぴしきはなの吹きそめにけり
(136) 郊外に友のめうとのかくれ住む家をさがして麥畑をゆく
 夜のほどに凋みはてぬる夏草の花あり朝の瓶《かめ》の白さよ
 少女子の夏のころもの襞にゐて風わたるごとにうごくかなしみ
 母となりてやがてつとめの終りたるをみなの顔に眼をとめて見る
 停車場に札を買ふとき白銀の貸《かね》のひびきの涼しき夜なり
 夏深しかの山林のけだもののごとく生きむと雲を見ておもふ
 麥の穗の赤らむころとなりにけりひと棄てしのちのはつ夏に入る
 いつ知らず夏も寂しう更けそめぬほのかに合歡の花咲きにけり
 わがこころ動くともなく青草に寢居つつ空の風にしたがふ
 夏草の延び青みゆく大地《おほつち》を靜かに踏みて我等あゆめり
 深草の青きがなかに立つ馬の肥えたる脚に汗の湧く見ゆ
(137) 夏白晝うすくれなゐの薔薇《さうび》よりかすかに蜂の羽音きこゆる
 わが友の妻とならびて縁に立ち眞晝かへでの花をながむる
 麥畑の夏の白晝のさびしさや讃美歌低くくちびるに出づ
 黄なる麥一穗ぬきとり手にもちて雲なきもとの高原をゆく
 高原や青の一樹《いちじゆ》とはてしなき眞白き道とわがまへに見ゆ
 麥畑のなかにうごける農人《のうにん》を見ゐつつなみだしづかにくだる
 わが顔もあかがねいろに色づきつ高原の麥は垂穗《たりほ》しにけり
 ひややかに涙はひとりながれたりこころうれしく死なむとおもふに
 われみづから死《しに》をしたしくおもふころ誰彼ひとのよく死ぬるかな
 火の山にけむりは斷えて雪つみぬしづかにわれのいつか死ぬらむ
 渚より海見るごとく汪洋とながるる死《しに》のまへにたたずむ
(138) もの思へばおもひのはてにつねに見ゆ死といふもののなつかしきかな
 夏白晝あるかなきかのさびしさのこころのうへに消えがてにする
 松葉散る皐月の暮の或るゆふべをんな棄てむと思ひたちにき
 影のごとくこよひも家を出でにけり戸山が原の夕雲を見に
 皐月ゆふべ梢はなれし木の花の地に落つる間《ま》のあまきかなしみ
 ひとつひとつ足の歩みの重き日の皐月の原に頬白鳥《ほほじろ》の啼く
 日かげ滿てる木の間に青き草をしき梢をわたる晝の風見る
 見てあればかすかに雲のうごくなり青草のなかにわれよこたはる
 わがいのち空にみちゆき傾きぬあなはるかなりほととぎす啼く
 たそがれの沼尻《ぬじり》の水に雲うつる麥刈る鎌の音《ね》もきこえ來る
 なつかしさ皐月の岡のゆふぐれの青の大樹《おほき》の蔭に如かめや
(139) 落日《らくじつ》のひかり梢を去りにけり野ずゑをとほく雲のあゆめる
 けむりありほのかに白し水無月のゆふべうらがなし野羊《やぎ》の鳴くあり
 わが行けばわがさびしさを吸ふに似る夏のゆふべの地《つち》のなつかし
 麥すでに刈られしあとの畑なかの徑《こみち》を行きぬ水無月ゆふべ
 椅子に耐へず室《へや》をさまよひ家をいで野に行きまたも椅子にかへりぬ
 野を行けば麥は黄ばみぬ街ゆけばうすき衣ををんな着にけり
 やうやうに戀ひうみそめしそのころにとりわけ接吻《きす》をよくかはしける
 強ひられて接吻するときよ戸の面《も》には夏の白晝を一樹《いちじゆ》そよがず
 いちいちに女の顔の異るを先づ第一の不思議とぞおもふ
 六月の濁れる海をふとおもひ午後あわただし品川へ行く
 とかくして動きいでたる船蟲の背になまぐさき六月の日よ
(140) 月いまだひかりを知らず水無月のゆふべはながし汐の滿ち來る
 海のうへの月のほとりのうす雲にほのかに見ゆる夏のあはれさ
 少女等《をとめら》のかろき身ぶりを見てあればものぞかなしき夏のゆふべは
 いささかを雨に濡れたる公園の夏の大路を赤き傘ゆく
 桐の花落ちし本の根に赤蟻の巣ありゆふべを雨こぽれ來ぬ
 枝のはし三つほど咲けるうす紅の楓のはなに夕雨の見ゆ
 いたづらに麥は黄ばみぬ水無月のわがさびしさにつゆあづからず
 八月の街を行き交ふ群集《ぐんじゆう》の黙《もだ》せる顔のなつかしきかな
 とこしへに逢ふこと知らぬむきむきのこころこころの寂しき歩み
 あめつちに獨り生きたりあめつちに斷えみたえずみひとり歌へり
 
      六七月の頃を武藏多摩川の畔なる百草山に送りぬ。歌四十三首
 
(141) 涙ぐみみやこはづれの停車場の汽車の一室《ひとま》にわれ入りにけり
 ともすればわが蒼ざめし顔のかげ汽車のガラスの戸にうつるあり
 雨白く木の間にけぶる高原を走れる汽車の窓によりそふ
 水無月の山越え來ればをちこちの木の間に白く栗の咲く見ゆ
 とびとびに落葉せしごとわが胸にさびしさ散りぬ頬白鳥の啼く
 啼きそめしひとつにつれてをちこちの山の月夜に梟の啼く
 たそがれのわが眼のまへになつかしく木の葉そよげり梟のなく
 夕山の木の間にいつか入りも來ぬさだかに物をおもふとなしに
 あをばといふ山の鳥啼くはじめ無く終りを知らぬさびしき音《ね》なり
 わがこころ沈み來ぬれば火の山のけむりの影をつねにやどしぬ
 檜《ひ》の林松のはやしの奥ふかくちひさき路にしたがひて行く
(142) 青海のうねりのごとく起き伏せる岡の國ありほととぎす行く
 わが死にしのちの靜けき斯る日にかく頬白鳥の啼きつづくらむ
 紫陽花のその水いろのかなしみの滴るゆふべ蜩《かなかな》のなく
 煙《けむ》青きたばこを持ちて家を出で林に入りぬ雨後の雫す
 拾ひつるうす赤らみし梅の實に木の間ゆきつつ齒をあてにけり
 かたはらの木に頬白鳥の啼けるありこころ恍《くわう》たり眞晝野を見る
 日を浴びて野ずゑにとほく低く見ゆ涙をさそふ水無月の山
 松林山をうづめて靜まりぬとほくも風の消えゆけるとき
 眞晝野や風のなかなるほのかなる遠き杜鵑《とけん》の聲きこえ來る
 梅雨晴の午後のくもりの天地のつかれしなかにほととぎす啼く
 山に來てほのかにおもふたそがれの街にのこせしわが靴の音
(143) 或るゆふべ思ひがけなくたづね來しさびしき友をつくづくと見る
 幹白く木の葉青かる林間の明るきなかに歩み入りにき
 わが行けば木々の動くがごとく見ゆしづかなる日の青き林よ
 かなしめる獣のごとくさまよひぬ林は深し日はさ青なり
 はてしなくあまたの岡の起き伏せり眼に日光の白く滿つかな
 別るべくなりてわかれし後の日のこのさびしさをいかに追ふべき
 棄て去りしのちのたよりをさまざまに思ひつくりて夜々をなぐさむ
 ゆめみしはいづれも知らぬ人なりき寢ざめさびしく君に涙す
 あるときはありのすさみに憎かりき忘られがたくなりし歌かな
 遠くよりさやさや雨のあゆみ來て過ぎゆく夜半を寢ざめてありけり
 ゆくりなくとあるゆふべに見いでけり合歡のこずゑの一ふさの花
(144) きはみなき旅の途なるひとりぞとふとなつかしく思ひいたりぬ
 六月の山のゆふべに雨はれぬ木の間にかなし日のながれたる
 ゆふぐれの風ながれたる木の間ゆきさやかにひとを思ひいでしかな
 ゆふ雨のなかにほのかに風の見ゆ白夏花のそぼ濡れて咲く
 はるばると一すぢ白き高原のみちを行きつつ夏の日を見る
 放たれし悲哀のごとく野に走り林にはしる七月のかぜ
 かなしきは夜のころもに更ふる時おもひいづるがつねとなりぬる
 鋭くもわかき女を責めたりきかなしかりにしわがいのちかな
 七月の山の間に日光はあをうよどめり飛ぶつばめあり
 暈《かさ》帶びて日は空にあり山々に風青暗しほととぎす啼く
 生くことのものうくなりしみなもとに時におもひのたどりゆくあり
(145) うち斷えて杜鵑を聞かずうす青く松の梢に實の滿ちにけり
 わがこころ靜かなる時につねに見ゆる死《しに》といふもののなつかしきかな
                      獨り歌へる  下の卷終り
 
 別離
 
(149) 自序
 
 廿歳頃より詠んだ歌の中から一千首を拔き、一卷に輯めて『別離』と名づけ、今度出版することにした。昨日までの自己に潔く別れ去らうとするこころに外ならぬ。
 先に著した『獨り歌へる』の序文に私は、私の歌の一首一首は私の命のあゆみの一歩一歩であると書いておいた。また、一歩あゆんでは小さな墓を一つ築いて來てゐる様なものであるとも書いておいた。それらの歌が背後につづいて居ることは現在の私にとつて、可懷しくもまた少なからぬ苦痛であり負債である。如何かしてそれらと絶縁したいといふ念願からそれを一まとめにして留めておかうとするのである。然うして全然過去から脱却して、自由な、解放された身になつて今まで知らなかつた新たな自己に親しんで行き度いとおもふ。
(150) また、昨年あたりで私の或る一期の生活は殆んど名殘なく終りを告げて居る。そして丁度昨年は人生の半ばといふ廿五歳であつた。それやこれや、この春この『別離』を出版しておくのは甚だ適當なことであると私は歡んで居る。
 本書の裝幀一切は石井柏亭氏を煩はした。寫眞は昨年の初夏に撮つたものである。この一卷に收められた歌の時期の中間に位するものなので挿入しておいた。
 歌の掲載の順序は歌の出來た時の順序に従うた。
 左様なら、過ぎ行くものよ。これを期として我等はもう永久に逢ふまい。
 
     明治四十三年四月六日
                         著者
 
(151) 上卷
 
       自明治三十七年四月
       至同 四十一年三月
 
 水の音《ね》に似て啼く鳥よ山ざくら松にまじれる深山の晝を
 なにとなきさぴしさ覺え山ざくら花ちるかげに日を仰ぎ見る
 山越えて空わたりゆく遠鳴の風ある日なりやまざくら花
 朝|地震《なゐ》す空はかすかに嵐して一山《いちざん》白きやまざくらばな
 行きつくせば浪青やかにうねりゐぬ山ざくらなど咲きそめし町
 朝の室《むろ》夢のちぎれの落ち散れるさまにちり入る山ざくらかな
 阿蘇の街道《みち》大津の宿《しゆく》に別れつる役者の髪の山ざくら花
 母戀しかかるゆふペのふるさとの櫻咲くらむ山の姿よ
(152) 父母よ神にも似たるこしかたに思ひ出ありや山ざくら花
 春は來ぬ老いにし父の御《み》ひとみに白ううつらむ山ざくら花
 怨みあまり切らむと云ひしくろ髪に白躑躅さすゆく春のひと
 忍草雨しづかなりかかる夜はつれなき人をよく泣かせつる
 山脈や水あさぎなるあけぼのの空をながるる本の香《かをり》かな
 日向の國むら立つ山のひと山に住む母戀し秋晴の日や
 君が背戸や暗《やみ》よりいでてほの白み月のなかなる花月見|草《ぐさ》
 ※[虫+車]《こほろぎ》や寢ものがたりの折り折りに涙もまじるふるさとの家
 秋あさし海ゆく雲の夕照《ゆふで》りに背戸の竹の葉うす明りする
 朝寒《あささむ》や萩に照る日をなつかしみ照らされに出し黒かみのひと
 別れ來て船にのぽれば旅人のひとりとなりぬはつ秋の海
(153) 秋風は木《こ》の間に流る一しきり桔梗色してやがて暮るる雲
 白桔梗君とあゆみし初秋の林の雲の靜けさに似て
 思ひ出《づ》れば秋咲く木々の花に似てこころ香りぬ別れ來し日や
 秋立ちぬわれを泣かせて泣き死なす石とつれなき人戀しけれ
 この家は男ばかりの添寢ぞとさやさや風の樹に鳴る夜なり
 木の蔭や悲しさに吹く笛の音はさやるものなし野にそらに行く
 吾木香すすきかるかや秋くさのさびしききはみ君におくらむ
 秋晴や空にはたえず遠白《とほじろ》き雲の生れて風ある日なり
 秋の雲柿と榛《はり》との樹々の間にうかべるを見て君も語らず
 幹に倚り頬をよすればほのかにも頬に脈うつ秋木立かな
 机のうへ植木の鉢の黒土に萌えいづる芽あり秋の夜の灯よ
(154) 秋の灯や壁にかかれる古帽子袴のさまも身にしむ夜なり
 富士よゆるせ今宵は何の故もなう涙はてなし汝《なれ》を仰ぎて
 日が歩むかの弓形《ゆみなり》のあを空の青ひとすぢのみちのさびしさ
 悲しさのあふるるままに秋のそら日のいろに似る笛吹きいでむ
 山ざくら花のつぽみの花となる間《あひ》のいのちの戀もせしかな
 淋しとや淋しきかぎりはてもなうあゆませたまへ如何にとかせむ(人へかへし)
 うらこひしさやかに戀とならぬまに別れて遠きさまざまの人
 ぬれ衣のなき名をひとにうたはれて美しう居るうら寂しさよ
 春たてば秋さる見ればものごとに驚きやまぬ瞳《め》の若さかな
 町はづれきたなき溝《どぶ》の匂ひ出《づ》るたそがれ時をみそさざい啼く
 植木屋は無口のをとこ常磐樹の青き葉を刈る春の雨の日
(155) 船なりき春の夜なりき瀬戸なりき旅の女と酌みしさかづき
 春の森青き幹ひくのこぎりの音と木の香と藪うぐひすと
 ただひとり小野の樹に倚り深みゆく春のゆふべをなつかしむかな
 わだつみのそこひもわかぬわが胸のなやみ知らむと啼くか春の鳥
 ゆく春の月のひかりのさみどりの遠《をち》をさまよふ悲しき聲よ
 雲ふたつ合はむとしてはまた遠く分れて消えぬ春の青ぞら
 眼とづればこころしづかに音《ね》をたてぬ雲遠見ゆる行く春のまど
 鶯のふと啼きやめばひとしきり風わたるなり青木が原を
 椎の樹の暮れゆく蔭の古軒《ふるのき》の柱より見ゆ遠山を燒く
 春來ては今年も咲きぬなにといふ名ぞとも知らぬ背戸の山の樹
 町はづれ煙筒《けむだし》もるる青煙《あをけむ》のにほひ迷へる春木立かな
(156) われはいま暮れなむとする雲を見る街は夕の鐘しきりなり
 淋しくばかなしき歌のおほからむ見まほしさよと文かへし來ぬ
 人どよむ春の街ゆきふとおもふふるさとの海の鴎啼く聲
 街の聲うしろに和むわれらいま潮きす河の春の夜を見る
 春の夜や誰ぞまだ寢《いね》ぬ厨なる甕に水さす音《ね》のしめやかに
 春の夜の月のあはきに厨の戸|誰《た》が開けすてし灯のながれたる
 日は寂し萬樹《ばんじゆ》の落葉はらはらに空の沈黙《しじま》をうちそそれども
 見よ秋の日のもと木草《きぐさ》ひそまりていま凋落の黄を浴びむとす
 鰍をあげまた鰍おろしこつこつと秋の地を掘る農人《のうにん》どもよ
 うすみどりうすき羽根着るささ蟲の身がまへすあはれ鳴きいづるらむ
 うつろなる秋のあめつち白日《はくじつ》のうつろの光ひたあふれつつ
(157) 秋眞晝青きひかりにただよへる木立がくれの家に雲見る
 落日や街の塔の上|金色《こんじき》に光れど鐘はなほ鳴りいでず
 啼きもせぬ白羽の鳥よ河口は赤う濁りて時雨晴れし日
 さらばとてさと見合せし額髪のかげなる瞳えは忘れめや(二首秀孃との別れに)
 別れてしそのたまゆらよ虚《うつろ》なる双《もろ》のわが眼にうつる秋の日
 いま瞑ぢむ寂しき瞳明らかに君は何をかうつしたりけむ(途中大阪にかれは逝きぬ)
 短かりし君がいのちのなかに見ゆきはまり知らぬ清きさびしさ
 窓ちかき秋の樹の間に遠白き雲の見え來て寂しき日なり
 洒の香の戀しき日なり常磐樹に秋のひかりをうち眺めつつ
 見てあれば一葉先づ落ちまた落ちぬ何おもふとや夕日の大樹《おほき》
 をちこちに亂れて汽笛鳴りかはすああ都會《まち》よ見よ今日もまた暮れぬ
(158) 海の聲斷えむとしてはまた起る地《ち》に人は生《あ》れまた人を生《う》む
 人といふものあり海の眞蒼《まさを》なる底にくぐりて魚《な》をとりて食《は》む
 山茶花は咲きぬこぼれぬ逢ふを欲《ほ》りまたほりもせず日經ぬ月經ぬ
 遠山の峰の上にきゆるゆく春の落日《らくじつ》のごと懸ひ死にも得ば
 秋の夜やこよひは君の薄化粧《うすげはひ》さびしきほどに靜かなるかな
 世のつねのよもやまがたり何にさは涙さしぐむ灯のかげの人
 君去にてものの小本《こほん》のちらばれるうへにしづけき秋の灯《ともし》よ
 いと遠き笛を聽くがにうなだれて秋の灯《ひ》のまへものをこそおもへ
 相見ればあらぬかたのみうちまもり涙たたへしひとの瞳よ
 君は知らじ君の馴寄《なよ》るを忌むごときはかなごころのうらさびしさを
 落葉焚くあをきけむりはほそほそと木の間を縫ひて夕空へ行く
(159) 靜けさや君が裁縫《しごと》の手をとめて菊見るさまをふと思ふとき
 相見ねば見む日をおもひ相見ては見ぬ日を思ふさびしきこころ
 ふとしては君を避けつつただ一人泣くがうれしき日もまじるかな
 黄に匂ふ悲しきかぎり思ひ倦《う》じ對へる山の秋の日のいろ
 一葉だに搖れず大樹は夕ぐれのわが泣く窓に押しせまり立つ
      旅ゆきてうたへる歌をつぎにまとめたり。思ひ出にたよりよかれとて
 山の雨しばしば軒の椎の樹にふりきてながき夜の灯《ともし》かな(百草山にて)
 立川の驛の古茶屋さくら樹の紅葉のかげに見おくりし子よ
 旅人は伏目にすぐる町はづれ白壁ぞひに咲く芙蓉かな(日野にて)
 家につづく有明白き萱原に露さはなれや鶉しば啼く
 あぶら灯《び》やすすき野はしる雨汽車にほうけし顔の十あまりかな
(160) 戸をくれば朝寢の人の黒かみに霧ながれよる松なかの家(三首御嶽にて)
 霧ふるや細目にあけし障子よりほの白き秋の世の見ゆるかな
 霧白ししとしと落つる竹の葉の露ひねもすや月となりにけり
 野の坂の春の木立の葉がくれに古き宿《しゆく》見ゆ武藏の青梅《あうめ》
 なつかしき春の山かな山すそをわれは旅びと君おもひ行く(五首高尾山にて)
 思ひあまり宿の戸押せば和やかに春の山見ゆうち泣かるかな
 地《つち》ふめど草鞋聲なし山ざくら喚きなむとする山の靜けさ
 山静けし峰《を》の上《へ》にのこる春の日の夕かげ淡しあはれ水の聲
 春の夜の匂へる闇のをちこちによこたはるなり木《こ》の芽ふく山
 汽車過ぎし小野の停車場春の夜を老いし驛夫のたたずめるあり
 日のひかり水のひかりの一いろに濁れるゆふべ大利根わたる
(161) 大河よ無限に走れ秋の日の照る國ばらを海に入るなかれ
 松の實や楓の花や仁和寺の夏なほわかし山ほととぎす(京都にて)
 けふもまたこころの鉦をうち鳴しうち鳴しつつあくがれて行く(九首中國を巡りて)
 海見ても雲あふぎてもあはれわがおもひはかへる同じ樹蔭に
 幾山河越えさり行かば寂しさのはてなむ國ぞ今日も旅ゆく
 峽縫ひてわが汽車走る梅雨晴の雲さはなれや吉備の山々
 青海はにほひぬ宮の古ばしら丹なるが淡《あは》う影うつすとき(宮島にて)
 はつ夏の山のなかなるふる寺の古塔のもとに立てる旅びと(山口の瑠璃光寺にて)
 桃柑子芭蕉の實賣る磯街の露店《よみせ》の油煙《ゆえん》青海にゆく(下の關にて)
 あをあをと月無き夜《よる》を滿ちきたりまたひきてゆく大海の潮(日本海を見て)
 旅ゆけば瞳|痩《や》するかゆきずりの女《をんな》みながら美《よ》からぬはなし
(162) 安藝の國越えて長門にまたこえて豐の國ゆき杜鵑聽く(二首耶馬溪にて)
 ただ戀しうらみ怒りは影もなし暮れて旅籠の欄に倚るとき
 白つゆか玉かとも見よわだの原青きうへゆき人戀ふる身を(二十三頸南日向を巡りて)
 潮光る南の夏の海走り日を仰げども愁ひ消《け》やらず
 わが涙いま自由《まま》なれや雲は照り潮ひかれる帆柱のかげ
 檳榔樹の古樹《ふるき》を想へその葉蔭海見て石に似る男をも(日向の青島より人へ)
 山上《さんじやう》や目路のかぎりのをちこちの河光るなり落日の國(日向大隅の界にて)
 椰子の實を拾ひつ秋の海黒きなぎさに立ちて日にかざし見る(三首都井岬にて)
 あはれあれかすかに聲す拾ひつる椰子のうつろの流れ實吹けば
 日向の國都井の岬の青潮に入りゆく端《はな》に獨り海見る
 黄昏の河を渡るや乘合の牛等鳴き出《で》ぬ黄の山の雲
(163) 醉《ゑ》ひ痴れて酒袋如すわがむくろ砂に落ち散り青海を見る
 船はてて上れる國は滿天の星くづのなかに山匂ひ立つ(日向の油津にて)
 山聳ゆ海よこたはるその間《あひ》に狹しま白し夏の砂原
 遊君《いうくん》の紅《あか》き袖ふり手をかざしをとこ待つらむ港早や來よ
 南國の港のほこり遊君の美なるを見よと帆はさんざめく
 大うねり風にさからひ青うゆくそのいただきの白玉の波
 大隅の海を走るや乘合の少女が髪のよく匂ふかな
 船醉のうら若き母の胸に倚り海をよろこぶやよみどり兒よ
 落日や白く光りて飛魚は征矢降るごとし秋風の海
 港口夜の山そびゆわが船のちひさなるかな沖さして行く
 帆柱ぞ寂然としてそらをさす風死せし白晝《ひる》の海の青さよ
(164) かたかたとかたき音して夜更けし沖の青なみ帆のしたにうつ
 風ひたと落ちて眞鐵《まがね》の青空ゆ星ふりそめぬつかれし海に
 山かげの闇に吸はれてわが船はみなとに入りぬ汽笛《ふえ》長う鳴る
 夕さればいつしか雲は降《くだ》り來て峯に寢《ぬ》るなり日向高千穂
 秋の蝉うちみだれ鳴く夕山の樹蔭に立てば雲のゆく見ゆ
 樹間《こま》がくれ見居れば阿蘇の青烟かすかにきえぬ秋の遠空(以下七首阿蘇にて)
 山鳴に馴れては月の白き夜をやすらに眠る肥の國人よ
 ひれ伏して地の底とほき火を見ると人の五つが赤かりし面《つら》
 麓野《ふもとの》の國にすまへる萬人を軒に立たせて阿蘇荒るるかな
 風さやさや裾野の秋の樹にたちぬ阿蘇の月夜のその大きさや
 むらむらと中ぞら掩ふ阿蘇山のけむりのなかの黄なる秋の日
(165) 秋のそらうらぶれ雲は霧のごと阿蘇につどひて凪ぎぬる日なり
 海の上《へ》の空に風吹き陸《くが》の上の山に雲居り日は帆のうへに(六首周防灘にて)
 やや赤む暮雲を遠き陸《くが》の上《へ》にながめて秋の海馳するかな
 落日のひかり海去り帆をも去りぬ死せしか風はまた眉に來ず
 夕雲のひろさいくばくわだつみの黒きを掩ひ日を包み燃ゆ
 雲は燃え日は落つ船の旅びとの代赭の面《つら》のその沈黙よ
 水に棲み夜《よ》光る蟲は青やかにひかりぬ秋の海匂ふかな
 津の國は酒の國なり三夜二夜飲みて更なる旅つづけなむ
 杯を口にふくめば千すぢみな髪も匂ふか身はかろらかに
 白雲のかからぬはなし津の國の古塔に望む初秋の山(四天王寺に登りて)
 山行けば青の木草に日は照れり何に悲しむわがこころぞも(箕面山にて)
(166) 泣眞似の上手なりける小女のさすがなりけり忘られもせず
 浪華女に戀すまじいぞ旅人よただ見て通れそのながしめを
 われ車に友は柱に一語二語醉語かはして別れ去りにけり(大阪に葩水と別る)
 醉うて入り醉うて浪華を出でて行く旅びとに降る初秋の雨
 昨日飲みけふ飲み酒に死にもせで白痴笑《こけわら》ひしつつなほ旅路ゆく
 住吉は青のはちす葉白の砂秋たちそむる松風の聲
 秋雨の葛城越えて白雲のただよふもとの紀の國を見る
 火事の火の光宿して夜の雲は赤う明りつ空流れゆく(二首和歌山にて)
 町の火事雨雲おほき夜の空にみだれて鷺の啼きかはすかな
 ちんちろり男ばかりの酒の夜をあれちんちろり鳴きいづるかな(紀の國青岸にて)
 紀の川は海に入るとて千本の松のなかゆくその瑠璃の水
(167) 麓には潮ぞさしひく紀三井寺木の間の塔に青し古鐘
 一の札所第二の札所紀の國の番の御寺《みてら》をいざ巡りてむ
 粉河寺遍路の衆のうち鳴らす鉦々きこゆ秋の樹の間に
 鉦々のなかにたたずみ旅びとのわれもをろがむ秋の大寺
 旅人よ地に臥せ空ゆあふれては秋山河にいま流れ來る(葛城山にて)
 鐘おはき古りし町かな折しもあれ旅籠に着きしその黄昏に(二首奈良にて)
 鐘斷えず麓におこる嫩草の山にわれ立ち白晝《ひる》の雲見る
 雲やゆくわが地やうごく秋眞晝鐘も鳴らざる古寺にして(二首法隆寺にて)
 秋眞晝ふるき御寺にわれ一人立ちぬあゆみぬ何のにほひぞ
 みだれ降る大ぞらの星そのもとの山また山の闇を汽車行く(伊賀を越ゆ)
 峽出でて汽車海に添ふ初秋の月のひかりのやや青き海(駿河を過ぐ)
(168) 草ふかき富士の裾野をゆく汽車のその食堂の朝の葡萄酒
 晩夏《おそなつ》の光しづめる東京を先づ停車場に見たる寂しさ
                            ――旅の歌をはり――
 舌つづみうてばあめつちゆるぎ出づをかしや瞳はや醉ひしかも
 とろとろと琥珀の清水津の國の銘酒|白鶴《はくづる》瓶《へい》あふれ出づ
 灯ともせばむしろみどりに見ゆる水酒と申すを君斷えず酌ぐ
 くるくると天地めぐるよき顔も白の瓶子も醉ひ舞へる身も
 酌とりの玉のやうなる小むすめをかかへて舞はむ青だたみかな
 女ども手うちはやして泣上戸泣上戸とぞわれをめぐれる
 こは笑止八重山ざくら幾人《いくにん》の女のなかに醉ひ泣く男
 あな可愛ゆわれより早く醉ひはてて手枕《たまくら》のまま彼女ねむるなり
(169) 睡れるをこのまま盗みわだつみに帆あげてやがて泣く顔を見む
 醉ひはててはただ小をんなの帶に咲く緋の大輪の花のみが見ゆ
 醉ひはてては世に憎きもの一も無しほとほとわれもまたありやなし
 ああ醉ひぬ月が嬰子《やや》生む子守唄うたひくれずやこの膝にねむ
 君が唄ふ『十三ななつ』君はいつそれになるかや嬰子うむかやよ
 渇きはて咽喉は灰めく醉ざめに前髪の子がむく林檎かな
 酒の毒しびれわたりしはらわたにあなここちよや沁む秋の風
 石ころを蹴り蹴りあるく秋の街落日黄なり醉醒《ゑひざめ》の眼に
 もの見れば燒かむとぞおもふもの見れば消《け》なむとぞ思ふ弱き性《さが》かな
 黒かみはややみどりにも見ゆるかな灯にそがひ泣く秋の夜のひと
 立ちもせばやがて地にひく黒髪を白もとゆひに結ひあげもせで
(170) 君泣くか相むかひゐて言もなき春の灯かげのもの靜けさに
 かりそめに病めばただちに死をおもふはかなごこちのうれしき夕(四首病床にて)
 死ぬ死なぬおもひ迫る日われと身にはじめて知りしわが命かな
 日の御神《みかみ》氷のごとく冷えはてて空に朽ちむ日また生れ來む
 夙く窓押し皐月のそらのうす青を見せよ看護婦《みとりめ》胸せまり來ぬ
 
      女ありき、われと共に安房の渚に渡りぬ。われその傍らにありて夜も晝も斷えず歌ふ。明治四十年早春
 
 戀ふる子等かなしき旅に出づる日の船をかこみて海鳥の啼く
 山ねむる山のふもとに海ねむるかなしき春の國を旅ゆく
 春や白晝《ひる》日はうららかに額《ぬか》にさす涙ながして海あふぐ子の
 岡を越え眞白き春の海邊《かいへん》のみちをはしれりふたつの人車《くるま》
(171) 海哀し山またかなし醉ひ痴れし戀のひとみにあめつちもなし
 海死せりいづくともなき遠き音《ね》の空にうごきて更けし春の日
 ああ接吻海そのままに日は行かず鳥|翔《ま》ひながら死《う》せ果てよいま
 接吻《くちづ》くるわれらがまへにあをあをと海ながれたり神よいづこに
 山を見よ山に日は照る海を見よ海に日は照るいざ唇《くち》を君
 いつとなうわが肩の上にひとの手のかかれるがあり春の海見ゆ
 聲あげてわれ泣く海の濃《こ》みどりの底に聲ゆけつれなき耳に
 わだつみの白晝《ひる》のうしほの濃みどりに額うちひたし君戀ひ泣かむ
 忍びかに白鳥啼けりあまりにも凪ぎはてし海を怨ずるがごと
 君笑めば海はにほへり春の日の八百潮どもはうちひそみつつ
 わがこころ海に吸はれぬ海すひぬそのたたかひに瞳《め》は燃ゆるかな
(172) こころまよふ照る日の海に中ぞらにうれひねむれる君が乳《ち》の邊《へ》に
 眼をとぢつ君樹によりて海を聽くその遠き音になにのひそむや
 砂濱の丘をくだりて木の間ゆくひとのうしろを見て涙しぬ
 ともすれば君口無しになりたまふ海な眺めそ海にとられむ
 君かりにかのわだつみに思はれて言ひよられなばいかにしたまふ
 涙もつ瞳つぶらに見はりつつ君かなしきをなほ語るかな
 君さらに笑みてものいふ御頬《みほ》の上にながるる涙そのままにして
 このごろの寂しきひとに強ひむとて葡萄の酒をもとめ來にけり
 松透きて海見ゆる窓のまひる曰にやすらに睡る人の髪吸ふ
 闇冷えぬいやがうへにも砂冷えぬ渚に臥して黒き海聽く
 闇の夜の浪うちぎはの明るきにうづくまりゐて蒼海を見る
(173) 空の曰に浸みかも響く青々と海鳴るあはれ青き海鳴る
 海を見て世にみなし兒のわが性《さが》は涙わりなしほほゑみて泣く
 白鳥は哀しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ
 夜半の海|汝《な》はよく知るや魂《たま》一つここに生きゐて汝が聲を聽く
 かなしげに星は降るなり戀ふる子等こよひはじめて添寢しにける
 ものおほく言はずあちゆきこちらゆきふたりは哀し貝をひろへる
 渚ちかく白鳥《しらとり》群れて啼ける日の君がかほより寂しきはなし
 浪の寄る眞黒き巖にひとり居て春のゆふべの暮れゆくを見る
 夕海《ゆふうみ》に鳥啼く闇のかなしきにわれら手とりぬあはれまた啼く
 鳥行けりしづかに白き羽のしてゆふべ明るき海のあなたへ
 夕やみの磯に火を焚く海にまよふかなしみどもよいざよりて來よ
(174) 春の海ほのかにふるふ額《ぬか》伏せて泣く夜のさまの誰が髪に似む
 ことあらば消なむとやうにわが前にひたすらわれをうかがふ君よ
 君はいまわが思ふままよろこびぬ泣きぬあはれや生くとしもなし
 君よ汝《な》が若き生命《いのち》は眼をとぢてかなしう睡るわが掌《たなぞこ》に
 わがまへに海よこたはり日に光るこのかなしみの何にをののく
 海岸《うみぎし》の松青き村はうらがなし君にすすめむ葡萄酒の無し
 わがうたふかなしき歌やきこえけむゆふべ渚に君も出で來ぬ
 くちづけの終りしあとのよこ顔にうちむかふ晝の寂しかりけり
 いかなれば戀のはじめに斯くばかり寂しきことをおもひたまふぞ
 伏目して君は海見る夕闇のうす青の香に髪のぬれずや
 日は海に落ちゆく君よいかなれば斯くは悲しきいざや祷らむ
(175) 白晝《ひる》さびし木の間に海の光る見て眞白き君が額《ぬか》のうれひよ
 「木の香にや」「いな海ならむ樹間《こま》がくれかすかに浪の寄る音《ね》きこゆる」
 幾千の白羽みだれぬあさ風にみどりの海へ日の大ぞらへ
 いづくにか少女《をとめ》泣くらむその眸《まみ》のうれひ湛へて春の海凪ぐ
 海なつかし君等みどりのこのそこにともに來ずやといふに似て凪ぐ
 直吸ひに日の光《かげ》吸ひてまひる日の海の青燃ゆわれ巖にあり
 海の聲そらにまよへり春の日のその聲のなかに白鳥の浮く
 海あをし青一しづく日の瞳《まみ》に點じて春のそら匂はせむ
 春のそら白鳥まへり嘴《はし》紅《あか》しついばみてみよ海のみどりを
 燐寸《まち》すりぬ海のなぎさに倦み光る晝の日のもと青き魚燒く
 春の河うす黄に濁り音もなう潮滿つる海の朝凪に入る
(176) 暴風雨《しけ》あとの磯に日は冴ゆなにものに驚かされて犬永う鳴く
 白晝《ひる》の海古びし青き糸のごとたえだえ響く寂しき胸に
 月つひに吸はれぬ曉《あけ》の蒼穹《あおぞら》の青きに海の音とほく鳴る
 手をとりてわれらは立てり春の日のみどりの海の無限の岸に
 春の海のみどりうるみぬあめつちに君が髪の香満ちわたる見ゆ
 御《み》ひとみは海にむかへり相むかふわれは夢かも御ひとみを見る
 白き鳥ちからなげにも春の日の海をかけれり君よ何おもふ
 眞晝時青海死にぬ巖かげにちさき貝あり妻《め》をあさり行く
 夕ぐれの海の愁ひのしたたりに浸《ひた》されて瞳《め》は遠き沖見る
 蒼ざめし額《ひたひ》にせまるわだつみのみどりの針に似たる匂ひよ
 海明り天《そら》にえ行かず陸《くが》に來ず闇のそこひに青うふるへり
(177) ふと袖に見いでし人の落髪を脣《くち》にあてつつ朝の海見る
 ひもすがら斷えなく窓に海ひびく何につかれて君われに倚る
 海女の群からすのごときなかにゐて貝を買ふなりわが戀人は
 渚なる木の間ゆきゆき摘みためし君とわが手の四五の菜の花
 くちづけは永かりしかなあめつちにかへり來てまた黒髪を見る
 春の海さして船行く山かげの名もなき港晝の鐘鳴る
                    ――以上――
 窓ひとつ朧ろの空へ灯をながす大河沿の春の夜の街
 鐘鳴り出づ落日《いりひ》のまへの擾亂のやや沈みゆく街のかたへに
 仁和寺の松の木の間をふと思ふうらみつかれし春の夕ぐれ
 琴彈くか春ゆくほどにもの言はぬくせつきそめし夕ぐれの人
(178) 大ぞらの神よいましがいとし兒の二人戀して歌うたふ見よ
 君を得ぬいよいよ海の涯なきに白帆を上げぬ何のなみだぞ
 あな沈む少女の胸にわれ沈むああ聽けいづく悲しめる笛
 みだれ射よ雨降る征矢をえやは射るこの靜ごころこの戀ごころ
 吹き鳴らせ白銀の笛春ぐもる空裂けむまで君死なむまで
 君笑むかああやごとなし君がまへに戀ひ狂ふ子の狂ひ死ぬ見て
 山動け海くつがへれ一すぢの君がほつれ毛ゆるがせはせじ
 みじろがでわが手にねむれあめつちになにごともなし何の事なし
 われら兩人《ふたり》相添うて立つ一點に四方《よも》のしじまの吸はるるを聽く
 思ひ倦みぬ毒の赤花さかづきにしぽりてわれに君せまり來よ
 矢繼早火の矢つがへてわれを射よ滿ちて腐らむわが胸を射よ
(179) 生ぬるき戀の文かな筆もろともいざ火に燒かむ爐のむらむら火
 胸せまるあな胸せまる君いかにともに死なずや何を驚く
 千代八千代棄てたまふなと言ひすててつとわが手枕きはや睡るかな
 針のみみそれよりちさき火の色の毒花咲くは誰が脣ぞ
 ひたぶるに木枯すさぶ斯る夜を思ひ死なむずわが愚鈍見よ
 こよひまた死ぬべきわれかぬれ髪のかげなる眸《まみ》の滿干る海に
 いざこの胸千々に刺し貫き穴《す》だらけのそを玩べ春の夜の女
 「女なればつつましやかに」「それ憎しなどわれ燒かう火の言葉せぬ」
 黒攣に毒あるかをりしとしとにそそぎて侍れ花ちるゆふべ
 悲し悲し火をも啖ふと戀ひくるひ斯くやすらかに抱かれむこと
 戀ひ狂ひからくも獲ぬる君いだき恍《ほう》けし顔の驚愕《おどろき》を見よ
(180) とこしへに逃ぐるか戀よとこしへにわれ若うして追はむ汝《いまし》を
 紅梅のつめたきほどを見たまへとはや馴れて君笑みて脣《くち》よす
 涙さびし夢も見ぬげにやすらかに寢みだれ姿われに添ふ見て
 春は來ぬ戀のほこりか君を獲てこの月ごろの悲しきなかに
 夕ぐれに音《ね》もなうゆらぐさみどりの柳かさびしよく君は泣く
 床に馴れ羽おとろへし白鳥のかなしむごとくけふも添寢す
 疑ひの野火しめじめと胸を這ふ風死せし夜を消えみ消えずみ
 君かりにその黒髪に火の油そそぎてもなほわれを捨てずや
 髪を燒けその眸《まみ》つぶせ斯くてこの胸に泣き來よさらば許さむ
 微笑《ゑみ》鋭しわれよりさきにこの胸に棲みしありやと添臥しの人
 悲しきか君泣け泣くをあざわらひあざわらひつつわれも泣かなむ
(181) 燃え燃えて野火いつしかに消え去りぬ黒めるあとの胸の原見よ
 きらばよし別るるまでぞなにごとの難きか其處に何のねたまむ
 毒の木に火をやれ赤きその炎ちぎりて投げむよく睡《ぬ》る人に
 撒きたまへ灰を小砂利をわが胸にその荒るる見て手を拍ちたまへ
 手枕《たまくら》よ髪のかをりよ添ひぶしにわかれて春の夜を幾つ寢し
 別れ居の三夜《みよ》は二夜《ふたよ》はさこそあれかがなひて見よはや十日經む
 思ふまま怨言《かごと》つらねて彼女《かれ》がまへに泣きはえ臥さで何を嘲《あざ》むや
 君よなどさは愁れたげの瞳して我がひとみ見るわれに死ねとや
 ただ許せふとして君に飽きたらず忌む日もあれどいま斯くてあり
 あらら可笑し君といだきて思ふこといふことなきにこの涙はや
 毒の香《かう》君に焚かせてもろともに死なばや春のかなしき夕
(182) あめつちに乾《から》びて一つわが脣も死して動かず君見ぬ十日
 事もなういとしづやかに暮れゆきぬしみじみ人の戀しきゆふべ
 かへれかへれ怨《ゑ》じうたがひに倦みもせばいざこの胸へとく歸り來よ
 あなあはれ君もいつしか眼《まみ》盲ひぬわれも盲人《めしひ》の相いだき泣く
 この手紙赤き切手をはるにさへこころときめく哀しきゆふべ
 さらば君いざや別れむわかれてはまたあひは見じいざさらばさらば
 君いかにかかる靜けき夕ぐれに逝《ゆ》きなば人のいかに幸あらむ
 夕ぐれの靜寂《しじま》しとしと降る窓にふと合ひぬ脣《くち》のいつまでとなく
 戀しなばいつかは斯る憂《うき》を見むとおもひし咋《きそ》のはるかなるかな
 わりもなう直《ひた》よろこびてわが胸にすがり泣く子が髪のやつれよ
 心ゆくかぎりをこよひ泣かしめよものな言ひそね君見むも憂し
(183) 添臥に馴れしふたりの言《こと》も無うかなしむ家に櫻咲くなり
 「君よ君よわれ若し死なばいづくにか君は行くらむ」手をとりていふ
 春哀し君に棄てられはるばると行かばや海のあなたの國へ
 知らず知らずわが足鈍る君も鈍る戀の木立の靜寂のなかに
 怨むまじや性《さが》は清水のさらさらに淺かる君をなにうらむべき
 戀人よわれらはさびし青ぞらのもとに涯なう野の燃ゆるさま
 われ歌をうたへりけふも故わかぬかなしみどもにうち追はれつつ
 みな人にそむきてひとりわれゆかむわが悲しみはひとにゆるさじ
 君見ませ泣きそぼたれて春の夜の更けゆくさまを眞黒《まくろ》き樹々を
 雪暗うわが家つつみぬ赤々と炭燃ゆる夜の君が髪の香《か》
 然なり先づ春消えのこる松が枝の白の深雪《みゆき》の君とたたへむ
(184) 君來ずばこがれてこよひわれ死なむ明日は明後日《あさて》は誰が知らむ日ぞ
 泣きながら死にて去にけりおん胸に顔うづめつつ怨みゐし子は
 おもひみよ青海なせるさびしさにつつまれゐつつ戀ひ燃ゆる身を
 戸な引きそ戸の面《も》は今しゆく春のかなしさ滿てり來よ何か泣く
 狂ひつつ泣くと寢ざめのしめやけき涙いづれが君は悲しき
 鳥は籠君は柱にしめやかに夕日を浴びぬなど啼かぬ鳥
 煙たつ野ずゑの空へ野樹《のぎ》いまだ芽ふかぬ春のうるめるそらへ
 はらはらに櫻みだれて散り散れり見ゐつつ何のおもひ湧かぬ日
 蛙鳴く耳をたつればみんなみにいなまた西に雲白き晝
 朱の色の大鳥あまた浮きいでよいま晩春《ゆくはる》の日は空に饐《す》ゆ
 あな寂し縛められて黙然と立てる巨人の石|彫《きざ》まばや
(185) つかれぬる胸に照り來てほのかをるゆく春ごろの日のにほひかな
 田のはづれ林のうへのゆく春の雲の靜けさ蛙鳴くなり
 汪洋と濁れる河のひたながれ流るるを見て眼をひらき得ず
 醉ひはてぬわれと若さにわが戀にこころなにぞも然かは悲しむ
 聳やげる皐月のそらの樹の梢《うれ》に幾すぢ青の絲ひくか風
 わくら葉か青きが落ちぬ水無月《みなつき》の死しぬる白晝《ひる》の高樫の樹ゆ
 鷺ぞ啼く皐月の朝の淺みどり搖れもせなくや鷺空に啼く
 水ゆけり水のみぎはの竹なかに白鷺啼けり見そなはせ神
 いと幽《かす》けく濃青《こあを》の白日《ひる》の高ぞらに鳶啼くきこゆ死にゆくか地《つち》
 一すぢの絲の白雪富士の嶺に殘るが哀し水無月の天《そら》
 風わたる見よはつ夏のあを空を青葉がうへをやよ戀人よ
(186) 山を見き君よ添寢の夢のうちに寂しかりけり見も知らぬ山
 人棲まで樹々のみ生ひしかみつ代のみどり照らせし日か天をゆく
 われ驚くかすかにふるふわだつみの青きを眺めわが脉搏に
 掟《おき》てられて人てふものの爲すべきをなしつつあるに何のもだえぞ
 地のうへに生けるものみな死にはてよわれただ一人日を仰ぎ見む
 われ敢て手もうごかさず寂然とよこたはりゐむ燃えよ悲しみ
 われ死なばねがはくはあとに一點のかげもとどめで日にいたりてむ
 雲見れば雲に木見れば木に草にあな悲しみのかげ燃えわたる
 わが胸の底の悲しみ誰知らむただ高笑ひ空《くう》なるを聞け
 むしろわれけものをねがふ思ふまま地の上這ひ得るちからをねがふ
 かなしみは死にゆきただち神にゆきただひとすぢに久遠に走る
(187) あれ行くよ何の悲しみ何の悔い犬にあるべき尾をふりて行く
 天《そら》の日に向ひて立つにたへがたしいつはりにのみ滿ちみてる胸
 山の白晝《ひる》われをめぐれる秋の樹の不斷の風に海の青憶ふ
 月光の青のうしほのなかに浮きいや遠ざかり白鷺の啼く
 月の夜や君つつましうねてさめず戸の面《も》の木立風|眞白《ましろ》なり
 十五夜の月は生絹《きぎぬ》の被衣《かつぎ》して男をみなの寢し國をゆく
 白晝のごと戸の面は月の明う照るここは灯《ひ》の國君とぬるなり
 君|睡《ぬ》れば灯の照るかぎりしづやかに夜は匂ふなりたちばなの花
 寢すがたはねたし起すもまたつらしとつおいつして蟲を聽くかな
 ふと蟲の鳴く音たゆれば驚きて君見る君は美しう睡《ぬ》る
 君ぬるや枕のうへに摘まれ來し秋の花ぞと灯は匂《にほ》やかに
(188) 美しうねむれる人にむかひゐてふと夜ぞかなし戸に月や見む
 眞晝日のひかりのなかに燃えさかる炎か哀しわが著さ燃ゆ
 狂ひ鳥はてなき青の大空に狂へるを見よくるへる女
 玉ひかる純白《ましろ》の小鳥たえだえに胸に羽うつ寂しき眞晝
 秋の風木立にすさぶ木のなかの家の灯かげにわが脈はうつ
 つとわれら黙しぬ灯かげ黒かみのみどりは匂ふ風過ぎて行く
 われらややに頭《かうべ》をたれぬ胸二つ何をか思ふ夜風遠く吹く
 風消えぬ吾《あ》もほほゑみぬ小夜の風聽きゐし君のほほゑむを見て
 つと過ぎぬすぎて聲なし夜の風いまか靜かに木の葉ちるらむ
 風落ちぬつかれて樹樹の凪ぎしづむ夜を見よ少女さびしからずや
 風凪ぎぬ松と落葉の木《こ》の叢《むら》のなかなるわが家いざ君よ寢む
 
(189)下卷
       自明治四十一年四月
       至同 四十三年一月
 
 いざ行かむ行きてまだ見ぬ山を見むこのさびしさに君は耐ふるや
 いづくよりいづくへ行くや大空の白雲《しらくも》のごと逝きし君はも(三首獨歩氏を悼む)
 仰ぎみる御そら庭の樹あめつちの冷《ひた》かなりや君はいまさず
 君ゆけばむらがりたちて靜けさの盡くるを知らず君追ふとおもふ
 みんなみの軒端のそらに日輪の日ごとかよふを見て君と住む
 おのづから熟《う》みて木《こ》の實も地に落ちぬ戀のきはみにいつか來にけむ
 女あり石に油をそそぎては石燒かむとす見るがさびしき
 いざ行かむ行方は知らねとどまらばかなしがりなむいざ君よ夙く
(194) ゆるしたまへ別れて遠くなるままにわりなきままにうたがひもする
 青草のなかにまじりて月見草《つきみぐさ》ひともと咲くをあはれみて摘む
 あめつちにわが跫音《あおと》のみ滿ちわたる夕の野なり月見草摘む
 ものをおもふ四方の山べの朝ゆふに雲を見れどもなぐさみもせず
 紅滴る桃の實かみて山すその林ゆきつつ火の山を見る
 蟲に似て高原《たかはら》はしる汽率のありそらに雲見ゆ八月の晝
 白雲《しらくも》のいざよふ秋の峰をあふぐちひさなるかな旅人どもは
 絲のごとくそらを流るる杜鵑《とけん》あり聲にむかひて涙とどまらず
 うつろなる命をいだき眞晝野にわが身うごめき杜鵑《ほととぎす》聽く
 ほととぎす聽きつつ立てば一滴《ひとたま》のつゆより寂しわれ生くが見ゆ
 わかれては十日ありえずあわただしまた碓氷越え君見むと行く
(195) 胸にただ別れ來しひとしのばせてゆふべの山をひとり越ゆなり
 瞰下せば霧に沈めるふもと野の國のいづくぞほととぎす啼く
 身じろがずしばしがほどを見かはせり旅のをとこと山の小蛇と
 秋かぜや碓氷のふもと荒れ寂びし坂本の宿《しゆく》の絲繰の唄(坂本に宿りて)
 まひる日の光のなかに白雲はうづまきてありふもと國原(妙義山にて)
 旅びとはふるきみやこの月の夜の寺の木の間を飽かずさまよふ(三首奈良にて)
 はたご屋へ杜の木の間の月の夜の風のあはれに濡れてかへりぬ
 伏しをがみふしをがみつつ階《きざはし》のゆふべのやみにきえよとぞおもふ
 大いなるうねりに船の載れるとき甲板にゐて君をおもひぬ(播磨灘にて)
 戀人のうまれしといふ安藝の國の山の夕日を見て海を過ぐ(瀬戸にて)
 とき折りに淫唄《ざれうた》うたふ八月の燃ゆる濱ゆき燃ゆる海見て(五首故郷にて)
(196) 峰あまた横ほり伏せる峽間の河越えむとし蜩を聞く
 父の髪母の髪みな白み來ぬ子はまた遠く旅をおもへる
 雲去ればもののかげなくうす赤き夕日の山に秋風ぞ吹く
 星くづのみだれしなかにおほどかにわが帆柱のうち搖ぐ見ゆ
 蓄音機ふとしも船の一室に起るがきこゆ海かなしけれ
 なにものに欺かれ來しやこの日ごろくやし腹立たし秋風を聽く
 秋立てどよそよそしくもなりにけり風は吹けども葉は落つれども
 とも思ひかくもおもへどとにかくにおもひさだめて幸祝《さちいはひ》せむ
 いねもせで明かせる朝の秋かぜの越えにまじりてすずめ子の啼く
 うらさびし盡きなく行ける大河のほとりにゆきて泣かむとぞおもふ
 闇うれしこよひ籬根のこほろぎの身にしむままに出でて聽くかな
(198) めぐりあひしづかに見守りなみだしぬわれとわれとのこころとこころ
 秋晴のまちに逢ひぬる乞食《こつじき》の爺《じい》の眸《まみ》見て旅をおもひぬ
 牛に似てものもおもはず茫然と家を出づれば秋かぜの吹く
 野菊ぞとさも媚びなよるすがたして野に咲く見れば行きもかねつる
 湯槽より窓のガラスにうつりたる秋風のなかの午後の日を見る
 落初めの桐のひと葉のあをあをとひろきがうへを夕風のゆく
 人の聲車のひびき滿ちわたるゆふべの街に落葉ちるなり
 秋かぜは空をわたれりゆく水はたゆみもあらず葦刈る少女
 足とめて聽けばかよひ來《く》河むかひ枯葦のなかの葦刈の唄
 魚釣るや晩秋河《おそあきかは》のながれ去り流れさる見つつ餌は取られがち
 わだの原生れてやがて消えてゆく浪のあをきに秋かぜぞ吹く
(199) 相むかひ世に消えがたきかなしみの秋のゆふべの海とわれとあり
 ゆふぐれの沖には風の行くあらむ屍《むくろ》のごとく松にもたるる
 音もなうゆふべの海のをちかたの闇のなかゆく白き波見ゆ
 行き行きて飽きなば旅にしづやかにかへりみもなく死なましものを
 ひたすらに君に戀しぬ白菊も紅葉も秋はもののさびしく
 病みぬれば世のはかなさをとりあつめ追はるるがごと歌につづりぬ
 あれ見たまへこのもかのもの物かげをしのびしのびに秋かぜのゆく
 少女子のむねのちひさきかなしみに溺れてわれは死にはててけり
 君見れば獣のごとくさいなみぬこのかなしさをやるところなみ
 なほ飽かずいやなほあかず苛みぬ思ふままなるこの女ゆゑ
 長椅子にいねて初冬午後の日を浴ぶるに似たる戀づかれかな
(200) なにものに追はれ引かれて斯く走るおもしろきこと世に一もなし
 この林檎つゆしたたらばありし日のなみだに似むとわかき言いふ
 あはれそのをみなの肌《はだへ》しらずして戀のあはれに泣きぬれし日よ
 あはれ神ただあるがままわれをしてあらしめたまへ他《た》にいのる無し
 かかる時聲はりあげてかなしさを歌ふ癖ありきそれも止みつる
 わが住むは寺の裏部屋庭もせに白菊さけり見に來よ女《をんな》
 消えもせず戀の國より追はれ来し身にうつり香のあはくかなしく
 見かへるな戀の世界のたふとさは揺れずしづかに遠ざかりゆく
 世に最《もと》もあさはかなればとりわけて女の泣くをあはれとぞおもふ
 黒牛の大いなる面《つら》とむかひあひあるがごとくに生《い》くにつかれぬ
 ほこり湧く落日《いりひ》の街をひた走る電車のすみのひとりの少女
(201) 仰ぎみてこころぞながる街の樹の落日《いりひ》のそらにおち葉するあり
 われうまれて初めてけふぞ冬を知る落葉のこころなつかしきかな
 落ちし葉のひと葉のつぎにまた落ちむ黄なる一葉の待たるるゆふべ
 あめつちの靜かなる時そよろそよろ落葉をわたるゆふぐれの風
 早やゆくかしみじみ汝《なれ》にうちむかふひまもなかりきさらばさらば秋
 忍び來てしのびて去《い》にぬかの秋は盲目《めしひ》なりけりものいはずけり
 大河のうへをながるる一|葉《えふ》のおち葉のごとくものもおもはず
 わが妻よわがさびしさは青のいろ君がもてるは黄朽葉《きくちば》ならむ
 めぐりあひふと見交して別れけり落葉林《おちばばやし》のをとこと男(戸山が原にて)
 冬木立落葉のうへに晝寢《ひるね》してふと見しゆめのあはれなりしかな
 武藏野は落葉の聲に明け暮れぬ雲を帯びたる日はそらを行く
(202) ゆふまぐれ落葉のなかに見いでつる松かさの實を手にのせてみぬ
 かすかなる胸さわぎあり燃え燃えぬ黄葉《きば》ふりしきる冬がれの森
 いかにせむ胸に落葉の落ちそめてあるがごときをおもひ消しえず
 ふりはらひふりはらひつつ行くが見ゆ落葉がくれをひとりの男
 いと靜かにものをぞおもふ山白き十二月こそゆかしかりけれ
 梢より葉のちるごとくものおもひありとしもなきにむねのかなしき
 うす赤く木枯すさぶ落日《らくじつ》の街のほこりのなかにおもはく
 窓あくればおもはぬそらにしらじらと富士見ゆる家に女すまひき
 日向ぼこ側にねむれる犬の背を撫でつつあればさびしうなりぬ
 近きわたり寺やたづねてめぐらなむ女を棄ててややさぴしかり
 別るる日君もかたらずわれ言はず雪ふる午後の停車場にあり
(203) 別るとて停車場あゆむうつむきのひとの片手にヴイオロンの見ゆ
 別れけり殘るひとりは停車場の群集《ぐんじゆ》のなかに口笛をふく
 大鳥の空を行くごとさやりなき戀するひとも斯くや嘆かむ
 男といふ世に大いなるおごそかのほこりに如かむかなしみありや
 ほのかにもおもひは痛しうす青の一月《むつき》のそらに梅つぼみ來ぬ
 うきことの限りも知らずふりつもるこのわかき日をいざや歌はむ
 清ければ若くしあればわがこころそらへ去《い》なむとけふもかなしむ
 ゆめのごとくありのすさぴの戀もしきよりどころなくさびしかりしゆゑ
 枯れしのち最《もつと》もあはれ深かるは何花ならむなつかしきかな
 男なれば歳二十五のわかければあるほどのうれひみな來よとおもふ
 獣《けだもの》の病めるがごとくしづやかに運命《さため》のあとに從ひて行く
(204) 爪延びぬ髪も延び來ぬやすみなく人にまじりてわれも生くなり
 狂ひ鳥《どり》日を追へるよりあはれなり行方も知らずひとの迷へる
 あさましき歌のみおほくなりにけりものの終りのさびしきなかに
      一月より二月にかけ安房の渚に在りき。その頃の歌六十九首
 ふね待ちつつ待合室の雜沓に海をながめて卷たばこ吹く
 おもひ屈《く》し古ぼろ船に魚買の群とまじりて房州へ行く
 物ありて追はるるごとく一|人《にん》の男きたりぬ海のほとりに
 病院の玻璃戸に倚れば海こえておぽろ夜伊豆の山燒くる見ゆ
 まつ風の明るき聲のなかにして女をおもひ青海を見る
 なにほどのことにやあらむ夜もいねで海のはとりに人の嘆くは
 海に來《き》ぬ思ひあぐみてよるべなき身はいづくにも捨てどころなく
(205) われひとり多く語りてかへり來《き》ぬ月照る松のなかの家より
 ともすれば咯《は》くに馴れぬる血なればとこともなげにも言ひたまふかな
 うす青くけふもねがての枕べに這ひまつはれり海のひびきは
 藻草焚く青きけむりを透きて見ゆ裸體《はだか》の海女と暮れゆく海と
 われよりもいささか高きわか松の木かげに立ちて君をおもへり
 朝起きて煙草しづかにくゆらせるしばしがほどはなにも思はず
 日は日なりわがさびしさはわがのなり白晝《まひる》なぎさの砂山に立つ
 ここよりは海も見えざる砂山のかげの日向《ひなた》にものをこそおもへ
 いづかたに行くべきわれはここに在りこころ落ち居よわれよ不安よ
 風落ちて渚木立に滿ちわたる海のひびきの白晝《ひる》のかなしみ
 きさらぎや海にうかびてけむりふく寂しき島のうす霞《がす》みせり
(206) 火の山にのぽるけむりにむかひゐてけふもさびしきひねもすなりき
 大島の山のけむりのいつもいつも斷えずさびしきわがこころかな
 晴れわたる大ぞらのもと火の山のけむりはけふも白々《しらしら》とたつ
 夕やみに白帆を下す大船の港入りこそややかなしけれ
 けふは早や戀のほかなるかなしみに泣くべき身ともなりそめしかな
 少年のゆめのころもはぬがれたりまこと男のかなしみに入る
 あはれこころ荒《すさ》みぬればか眼も見えず海を見れども日を仰《あふ》げども
 人見れば忽ちうすき皮を着るわが性《さが》ゆゑの盡きぬさびしさ
 天地に享けしわが性やうやうに露はになり來《く》海に來ぬれば
 つひにわれ藥に飽きぬ酒こひし身も世もあらず飲みて飲み死なむ
 やまひには酒こそ一の毒といふその酒ばかり戀しきは無し
(207) あさましく酒をたうべて荒濱に泣き狂へども笑ふ人もなし
 愚かなり阿呆烏の啼くよりもわがかなしみをひとに語るは
 あめつちにわが殘し行くあしあとのひとつづつぞと歌を寂しむ
 わがこころ濁りて重きゆふぐれは軒のそとにも行くを好まず
 けふもまた變ることなきあら海の渚を同じわれがあゆめり
 安房の國海にうかびて冬知らず紅梅《こぞめ》白梅《しらうめ》いまさかりなり
 けふ見ればひとがするゆゑわれもせしをかしくもなき戀なりしかな
 海に行かばなぐさむべしとひた思ひこがれし海に來は來つれども
 耳もなく目なく口なく手足無きあやしきものとなりはてにけり
 眼覺めつるその一瞬にあたらしき寂しきわれぞふと見えにける
 心より歌ふならねばいたづらに聲のみまよふ宵をかなしむ
(208) 海あをくあまたの山等|横伏《よこぶ》せりわが泣くところいまだ盡くる無し
 やどかりの殻の如くに生くかぎりわれかなしみをえは捨てざらむ
 なつかしく靜かなるかな海の邊《へ》の松かげの墓にけふも來《きた》りぬ
 このごろは夜半にぞ月のいづるなりいねがての夜もよくつづくかな
 いつ知らず生《うま》れし風の月の夜の明けがたちかく吹くあはれなり
 物かげに息をひそめて大風の海に落ちゆく太陽を見る
 蜑が家に旅寢をすれば荒海の落日《いりひ》にむかひ風呂桶を据ゆ
 蜑が家に旅寢かさねてうす赤き榾《ほた》の火《ほ》かげに何をおもふか
 白々《しらしら》とかがやける浪ひかる砂|白晝《ひる》のなぎさに卷煙草吸ふ
 いたづらにものを思ふとくせづきてけふもさびしく渚をまよふ
 青海の鳥の啼くよりいや清くいやかなしきはいづれなるらむ
(209) これもまたあざむきならむ「いざ行かむ清きあなたへ」海のさそへど
 砂山の起き臥ししげきあら濱のひろきに出でて白晝《ひる》の海聽く
 いと清きもののあはれにおもひ入る海のほとりの明るき木立
 砂山のばらばら松の木のもとに冬の日あびてものをおもふは
 わがほどのちひさきもののかなしみの消えむともせず天地《あめつち》にあり
 好かざりし梅の白きをすきそめぬわが二十五歳《にじふご》の春のさびしさ
 おぽろおぼろ海の凪げる日海こえてかなしきそらに白富士の見ゆ
 海のあなたおぽろに富士のかすむ日は胸のいたみのつねに増しにき
 安房の國朝のなぎさのさざなみの音《ね》のかなしさや遠き富士見ゆ
 うちよせし浪のかたちの砂の上に殘れるあとをゆふべさまよふ
 思ひ倦めば晝もねむりて夢を見きなつかしかりき海邊の木立
(210) おぼろ夜や水田《みづた》のなかの一すぢの道をざわめき我等は海へ
 おぼろ夜のこれは夢かも渚にはちひきき音の斷えずまろべる
 おぼろ夜の多人数《たにんず》なりしそがなかのつかね髪《がみ》なりしひとを忘れず
 日は黄なり灘のうねりの濁れる日敗殘|者《もの》はまた海に浮く
 男なり爲すべきことはなしはてむけふもこの語に生きすがりぬる
 鳥が啼く濁れるそらに鳥が啼く別れて船の甲板に在り
 わかれ來て船の碇のくさり綱錆びしがうへに腰かけて居り(以上)
 このままに無口者となりはてむ言ふべきことはみな腹立たし
 おのづからこころはひがみ眼もひがみ暗きかたのみもとめむとする
 角もなく眼なき数《す》十の黒牛にまじりて行かばややなぐさまむ
 鉛なすおもきこころにゆふぐれの闇のふるよりかなしきは無し
(211) ただ一つ黒きむくろぞ眼には見ゆおもひ盡きては他にものもなし
 戀といふうるはしき名にみづからを欺くことにややつかれ來ぬ
 いふがごと戀に狂へる身なりしがこころたえせずさびしかりしは
 おほぞらのたそがれのかげにさそはれて涙あやふくなりそめしかな
 なにごともこころひとつにをさめおきてひそかに泣くに如くことは無し
 あはれまたわれうち棄ててわがこころひとのなさけによりゆかむとす
 戀もしき歌もうたひきよるべなきわが生命をば欺かむとて
 かりそめの己がなさけに神かけていのちささぐる見ればあはれなり
 つゆほども醉《ゑ》ふこと知らぬうるはしき女をけふももてあそべども
 いかにして斯くは戀ひにし狂ひにし不思議なりきとさびしく笑ふ
 わがいのち安かりしかなひとが泣きひとが笑ふにうち混りゐて
(212) 心いよよ獨りをおもふ身にしみていよいよひとのなさけしげきまま
 よるべなき生命《いのち》生命《いのち》のさびしさの滿てる世界にわれも生くなり
 うちたえて人の跫音《あおと》の無かるべき國のあらじや行きて死なまし
 斯くつねに胸のさわがばひろめ屋の太鼓うちにもならましものを
 行くところとざまかうざま亂れたるわかきいのちに悔を知らすな
 酒飲まば女いだかば足りぬべきそのさびしさかそのさびしさか
 沈丁花みだれて咲ける森にゆきわが戀人は死になむといふ
 大天地《おほあめつち》みどりさびしくひそまりぬ若き男のしづかに愁へる
 汚《けが》れせずわかき男のただひとりこのあめつちをいかに歩まむ
 青わだつみ遠くうしほのひびくより深しするどし男のうれへる
 水いろのうれひに滿てる世界なりいまわがおもひほしいままなる
(213) 降ると見えずしづかに青き雨ぞふるかなしみつかれ男ねむれる
 ニコライの大釣鐘の鳴りいでて夕さりくればつねにたづねき
 洒飲まじ煙草吸はじとひとすぢに妻をいだきに友のがれたり
 消息《せうそこ》もたえてひさしき落魄の男をいまだ覺えたまふや
 あらためてまことの戀をとめ行かむ來しかたあまりさびしかりしか
 戀なりししからざりしか知らねどもうきことしげきゆめなりしかな
 いざ行かむいづれ迷ひは死ぬるまでさめざらましをなにかへりみむ
 歸らずばかへらぬままに行かしめよ旅に死ねよとやりぬこころを
 安房の國海のなぎさの松かげに病みたまふぞとけふもおもひぬ
 海に沿ふ松の木の間の一すぢのみちを獨りしけふも歩むか
 君が住む海のほとりの松原の松にもたれて歌うたはまし
(214) 山ざくら咲きそめしとや君が病む安房の海邊の松の木の間に
 きはみなき青わだなかにさまよへる海のひびきかわれは生くなり
 思ひうみ斷えみ斷えずみわがいのち夜半にぞ風の流るるを聽く
 眞晝日の小野の落葉の木の間ゆきあるかなきかの春にかなしむ
 春は來ぬ落葉のままにしづかなる木立がくれをそよ風のふく
 憫《あは》れまれあはれむといふあさましき戀の終りに近づきしかな
 かなしきはつゆ掩ふなくみづからをうちさらしつつなほ戀ひわたる
 はや夙くもこころ覺めゐし女かとおもひ及ぶ日死もなぐさまず
 女なればあはれなればと甲斐もなくくやしくもげに許し來つるかな
 憫れぞとおもひいたれば何はおき先づたへがたく戀しきものを
 逃《のが》れゆく女を追へる大たはけわれぞと知りて眼眩むごとし
(215) 斯くてなほ女をかばふ反逆のこころが胸にひそむといふは
 なにか泣くみづからもわれを欺きし戀ならぬかは清く別れよ
 唯だ彼女《かれ》が男のむねのかなしみを解《げ》し得で去るをあはれにおもふ
 林なる鳥と鳥とのわかれよりいやはかなくも無事なりしかな
 千度び戀ひ千度びわかれてかの女けだしや泣きしこと無かるらむ
 別れゆきふりもかへらぬそのうしろ見居つつ呼ばず泣かずたたずむ
 鼻のしたながきをほこる汝とて斯くは清くも棄てられつるか
 別るとて冷えまさりゆく女にはわが泣くつらのいかにうつれる
 山奥にひとり獣《けもの》の死ぬるよりさぴしからずや戀の終りは
 やみがたき憤りより棄てむとす男のまへに泣くな甲斐無く
 かへりみてしのぶよすがにだもならぬ斯る別れをいつか思ひし
(216) 報いなき戀に甘んじ飽く知らず汝《なれ》をおもふと誰《たれ》か言はむや
 あさましく甲斐なく怨み狂へるは命を蛇に吸はるるに似る
 鳥去りてしろき波寄るゆふぐれの沖のいはほか戀にわかれき
 海のごとく男《を》ごころ滿たすかなしさを靜かに見やり歩み去りし子
 別れといふそれよりもいや耐へがたしすさみし我をいかに救はむ
 戀ひに戀ひうつつなかりしそのかみに寧ろわかれてあるべかりしを
 わがこころ女え知らず彼女《かれ》が持つあさきこころはわれ掬みもせず
 再びは見じとさけびしくちびるの乾かむとする時のさびしさ
 柱のみ殘れる寺の壞《くゑ》あとにまよふよりげにけふはさびしき
 いつまでを待ちなばありし日のごとく胸に泣き伏し詑ぶる子を見む
 詑びて來よ詑びて來よとぞむなしくも待つくるしさに男死ぬべき
(217) 別れてののちの互ひを思ふこと無かるべきなり固く誓はむ
 ふとしては何も思はずいとあさきかりそめごとに別れむとおもふ
 斯くばかりくるしきものをなにゆゑに泣きて詑びしを許さざりけむ
 おもひやるわが生《よ》のはてのいやはてのゆふべまでをか獨りなるらむ
 やうやうにこころもしづみ別れての後のあはれを味はむとす
 灯赤き酒のまどゐもをはりけりさびしき床《とこ》に寢にかへるべし
 冷笑すいのち死ぬべくここちよく涙ながしてわれ冷笑す
 死ぬばかりかなしき歌をうたはましよりどころなく身のなりてきぬ
 これはこのわが泣けるにはあらざらむあらめづらしや涙ながるる
 とりとめてなにかかなしき知らねどもとすればなみだ頬をながるる
 わがめぐりいづれさびしくよるべなきわかきいのちが數さまよへり
(218) さびしきはさびしきかたへさまよへりこのあはれさの耐へがたきかな
 花つみに行くがごとくにいでゆきてやがて涙にぬれてかへり來ぬ
 櫛とればこころいささか晴るるとてさびしや人のけふも髪をゆふ
 富士見えき海のあなたに春の日の安房の渚にわれら立てりき
 おぽろなる春の月の夜|落葉《らくえふ》のかげのごとくもわれのあゆめり
 まどかけをひきてねぬれば春の夜の月はかなしく窓にさまよふ
 首たかくあげては春のそらあふぎかなしげに啼く一羽の鵝鳥
 街なかの堀の小橋を過ぎむとしふと春の夜の風に逢ひぬる
 春の晝街をながしの三味《しやみ》がゆく二階の窓の黄なるまどかけ
 彼はよく妻ののろけをいふ男まことやすこし眼尻さがりたる
 春のそらそれとも見えぬ太陽のかげのほとりのうす雲のむれ
(219) ひややかに梢《うれ》に咲き滿ちしらじらと朝づけるほどの山ざくら花
 咲き滿てる櫻のなかのひとひらの花の落つるをしみじみと見る
 かなしめる櫻の聲のきこゆなり咲き滿てる大樹《おほき》白晝風もなし
 寢ざめゐて夜半に櫻の散るをきく枕のうへのさびしきいのち
 海《わだ》なかにうごける青の一點を眼にとこしへに死せしむるなかれ
 よるべなみまた懲りずまに萌えそめぬあはれやさびしこのこひごころ
 よるべなき生命生命が對ひ居のあはれよるべなき戀に落ちむとす
 はかなかりし戀のうちなるおもひでのすくなき數を飽かずかぞふる
 かへるべき時し來ぬるかうらやすしなつかしき地《つち》へいざかへらなむ
 知らざりきわが眼のまへに死《しに》といふなつかしき母のとく待てりしを
 をさな子のごとくひたすら流涕すふと死になむと思ひいたりて
(220) 海の邊《へ》に行きて立てどもなぐさまず死をおもへどもなほなぐさまず
 まことなり忘れゐたりきいざゆかむ思ふことなしに天《そら》のあなたへ
 根の知れぬかなしさありてなつかしくこころをひくに死にもかねたる
 死をおもへば梢はなれし落葉《らくえふ》の地《つち》にゆくよりなつかしきかな
 ゆふ海の帆の上《へ》に消えしそよ風のごとくにこの世|去《い》なむとぞおもふ
 追はるるごと驚くひまもあらなくに別れきつひに見ざるふたりは
 若うして傷のみしげきいのちなり蹌踉としてけふもあゆめる
 然れども時を經ゆかばいつ知らずこのかなしさをまた忘るべし
 ふたたびはかへり来ることあらざらむさなりいかでかまたかへり來む
 ほのかなるさびしさありて身をめぐるかなしみのはてにいまか來にけむ
 思ふまま涙ながせしゆふぐれの室《へや》のひとりは石にかも似む
(221) 死に隣る戀のきはみのかなしみの一すぢみちを歩み來《こ》しかな
 故わかずわれら別れてむきむきにさびしきかたにまよひ入りぬる
 見るかぎり友の顔みな死にはてしさびしきなかに獨りものをおもふ
 おぼろ夜の停車|場内《ばない》の雜沓に一すぢまじる少女の香《か》あり
 疲れはてて窓をひらけばおぼろ夜の嵐のなかになく蛙《かはづ》あり
 ゆく春の軒端に見ゆるゆふぞらの青のにごりに風のうごけり
 ちやるめらの遠音《とほね》や室《へや》にちらばれる蜜柑の皮の香を吐くゆふべ
 うしなひし夢をさがしにかへりゆく若きいのちのそのうしろかげ
 わが生命《いのち》よみがへり來ぬさびしさにわかくさのごとくうちふるへつつ
 わが行くは海のなぎさの一すぢの白きみちなり盡くるを知らず
 玻璃戸漏り暮春の月の黄に匂ふ室《へや》に疲れてかへり來しかな
(222) ガラス戸にゆく春の風をききながら獨り床敷きともしびを消す
 四月すゑ風みだれ吹くこよひなりみだれてひとのこひしき夜なり
 あめつちのみどり濃《こまか》き日となりぬ我等きそうてかなしみにゆく
 また見じと思ひさだめてさりげなく靜かにひとを見て別れ來ぬ
 寅晝の日そらに白みぬ春暮れて夏たちそむる嵐のなかに
 ただ一歩踏みもたがへて西ひがしわが生《よ》のかぎりとほく別れぬ
 うす濁る地平のはての蒼に見ゆかすかに夏のとどろける雲
 めぐりあひやがてただちに別れけり雨ふる四月すゑの九日
 ゆく春の嵐のみだれ雨のみだれしづかにひとと別るる日なり
 かなしみの歩みゆく音《ね》のかすかなり疲れし胸をとほくめぐりて
 しめやかに嵐みだるるはつ夏の夜《よる》のあはれを寢ざめながむる
(223) 夏を迎ふおもひみだれてかき濁りつかれしむねは歌もうたはず
 旅人あり街の辻なる煉瓦屋の根に行き倒れ死にはてにける
 いつしかに春は暮れけりこころまたさびしきままにはつ夏に入る
 空のあなた深きみどりのそこひよりさびしき時にかよふひびきあり
 あをあをと若葉萌えいづる森なかに一もと松の花咲きにけり
 底知らず思ひ沈みて眞晝時一|樹《じゆ》の青のたかきにむかふ
 大木《たいぼく》の幹の片へのましろきにこぽれぬる日の夏のかなしみ
 窓ちかき水田《みづた》のなかの榛《はり》の木の日にけに青み嵐するなり
 大木の青葉のなかに小鳥啼く細《こま》かに晝の日をみだしつつ
 とりみだし哀しみさけび讃嘆《さんたん》すあああめつちに夏の來れる
 生くといふ否むべからぬちからよりのがれて戀にすがらむとしき
(224) ひややかにことは終りき別れてき斯くあるわれをつくづくと見る
 恩ひいでてなみだはじめて頬《ほ》をつたふ極り知らぬわかれなりしかな
 女ひとり棄てしばかりの驚きに眼覺めてわれのさびしさを知る
 甲斐もなくしのびしのびにいや深にひとに戀ひつつ衰へにけり
 忽然《こつねん》と息斷えしごと夜ふかく寢ざめてひとをおもひいでしかな
 怨むまじやなにかうらみむ胸のうちのかなしきこころ斯くちかひける
 ありし夜のひとの枕に敷きたりしこのかひなかも斯く痩せにける
 わが戀の終りゆくころとりどりに初なつの花の咲きいでにけり
 音もなく人等死にゆく音もなく大あめつちに夏は來にけり
 海山のよこたはるごとくおごそかにわが生くとふを信ぜしめたまへ
 きはみなき生命のなかのしばらくのこのさびしさを感謝しまつる
(225) あなさびし白晝を酒に醉ひ痴れて皐月大野の麥畑《むぎばた》をゆく
 青草によこたはりゐてあめつちにひとりなるものの自由をおもふ
 畑なかにふと見いでつる痩馬の草食みゐたり水無月眞晝
 ひややかにつひに眞白き夏花のわれ等がなかにあり終りけり
 椋梠の樹の黄色の花のかげに立ち初夏《はつなつ》の野をとほくながむる
 初夏の野ずゑの川の濁れるにものの屍《むくろ》の浮きしづみ行く
 けだものはその死處とこしへにひとに見せずと聞きつたへけり
 水無月の洪水《おほみづ》なせる日光のなかにうたへり麥刈少女
 遠くゆきまたかへりきて初夏の樹にきこゆなり眞晝日《まひるび》の風
 木蔭よりなぎさに出でぬ渚より木かげに入りぬ海鳴るゆふべ
 松咲きぬ楓もさきぬはつ夏のさびしきはなの咲きそめにけり
(226) 郊外に友のめうとのかくれ住む家をさがして麥畑をゆく
 夜のほどに凋みはてぬる夏草《なつぐさ》の花あり朝の瓶《かめ》の白さよ
 少女子《をとめご》の夏のころもの襞にゐて風わたるごとにうごくかなしみ
 母となりてやがてつとめの終りたるをみなの顔に眼をとめて見る
 夏深しかの山林のけだもののごとく生きむと雲を見ておもふ
 麥の穗の赤らむころとなりにけりひと棄てしのちのはつ夏に入る
 いつ知らず夏も寂しう更けそめぬほのかに合歡の花咲きにけり
 わがこころ動くともなく青草に寢居つつ空の風にしたがふ
 夏草の延び青みゆく大地を靜かに踏みて我等あゆめり
 深草の青きがなかに立つ馬の肥えたる脚に汗の湧く見ゆ
 夏白晝うすくれなゐの薔薇《さうび》よりかすかに蜂の羽音きこゆる
(227) わが友の妻とならびて縁に立ち眞晝かへでの花をながむる
 麥畑の夏の白晝のさびしさや讃美歌低くくちびるに出づ
 黄なる麥一穗ぬきとり手にもちて雲なきもとの高原をゆく
 高原や青の一樹《いちじゆ》とはてしなき眞白き道とわがまへに見ゆ
 麥畑のなかにうごける農人を見ゐつつなみだしづかにくだる
 わが顔もあかがねいろに色づきぬ高原の麥は垂穗《たりほ》しにけり
 ひややかに涙はひとりながれたりこころうれしく死なむとおもふに
 われみづから死《しに》をしたしくおもふころ誰彼《たれかれ》ひとのよく死ぬるかな
 火の山にけむりは斷えて雪つみぬしづかにわれのいつか死ぬらむ
 渚より海見るごとく汪洋とながるる死《しに》のまへにたたずむ
 夏白晝あるかなきかのさびしさのこころのうへに消えがてにする
(228) 松葉散る皐月の暮の或るゆふべをんな棄てむと思ひたちにき
 影のごとくこよひも家を出でにけり戸山が原の夕雲を見に
 皐月ゆふべ梢はなれし木《こ》の花の地《ち》に落つる間《ま》のあまきかなしみ
 ひとつひとつ足の歩みの重き日の皐月の原に頬白鳥《ほほじろ》の啼く
 日かげ滿てる木の間に青き草をしき梢をわたる晝の風見る
 見てあればかすかに雲のうごくなり青草のなかにわれよこたはる
 わがいのち空に滿ちゆき傾きぬあなはるかなりほととぎす啼く
 たそがれの沼尻《ぬじり》の水に雲うつる麥刈る鎌の音《ね》もきこえ來る
 なつかしさ皐月の岡のゆふぐれの青の大樹《おほき》の蔭に如かめや
 落日《らくじつ》のひかり梢を去りにけり野ずゑをとほく雲のあゆめる
 けむりありほのかに白し水無|月《つき》のゆふべうらがなし野羊《やぎ》の鳴くあり
(229) わが行けばわがさぴしさを吸ふに似る夏のゆふべの地《つち》のなつかし
 麥すでに刈られしあとの畑なかの徑《こみち》を行きぬ水無月ゆふべ
 椅子に耐へず室《へや》をさまよひ家をいで野に行きまたも椅子にかへりぬ
 野を行けば麥は黄ばみぬ街ゆけばうすき衣ををんな着にけり
 やうやうに戀ひうみそめしそのころにとりわけ接吻《きす》をよくかはしける
 強ひられて接吻するときよ戸の面《も》には夏の白晝を一樹そよがず
 いちいちに女の顔の異るを先づ第一の不思議とぞおもふ
 六月の濁れる海をふとおもひ午後あわただし品川へ行く
 とかくして動きいでたる船蟲の背になまぐさき六月の日よ
 月いまだひかりを知らず水無月のゆふべはながし汐の滿ち來る
 海のうへの月のほとりのうす雲にほのかに見ゆる夏のあはれさ
(230) 少女等のかろき身ぶりを見てあればものぞかなしき夏のゆふべは
 いささかを雨に濡れたる公園の夏の大路を赤き傘ゆく
 いたづらに麥は黄ばみぬ水無月のわがさびしきにつゆあづからず
 八月の街を行き交ふ群集《ぐんじゆう》の黙《もだ》せる顔のなつかしきかな
 とこしへに逢ふこと知らぬむきむきのこころこころの寂しき歩み
 あめつちに獨り生きたりあめつちに斷えみたえずみひとり歌へり
      六七月の頃を武藏國多摩川の畔なる百草山に送りぬ。歌四十六首
 涙ぐみみやこはづれの停車場の汽車の一室《ひとま》にわれ入りにけり
 ともすればわが蒼ざめし顔のかげ汽串のガラスの戸にうつるあり
 雨白く木の間にけぶる高原を走れる汽車の窓によりそふ
 水無月の山越え來ればをちこちの木の間に白く栗の咲く見ゆ
 とびとびに落葉《おちば》せしごとわが胸にさびしさ散りぬ頬白鳥の啼く
 啼きそめしひとつにつれてをちこちの山の月夜に梟の啼く
 たそがれのわが眼のまへになつかしく木の葉そよげり梟の啼く
 夕山の木の間にいつか入りも來ぬさだかに物をおもふとなしに
 あをばといふ山の鳥啼くはじめ無く終りを知らぬさびしき音《ね》なり
 わがこころ沈み來ぬれば火の山のけむりの影をつねにやどしぬ
 檜《ひ》の林松のはやしの奥ふかくちひさき路にしたがひて行く
 青海のうねりのごとく起き伏せる岡の國ありはととぎす行く
 わが死にしのちの靜けき斯る日にかく頬白鳥の啼きつづくらむ
 紫陽花のその水いろのかなしみの滴るゆふべ蜩《かなかな》のなく
 煙《けむ》青きたばこを持ちて家を出で林に入りぬ雨後の雫す
(232) 拾ひつるうす赤らみし梅の實に木の間ゆきつつ齒をあてにけり
 かたはらの木に煩白鳥の啼けるありこころ恍《くわう》たり眞晝野を見る
 日を浴びて野ずゑにとほく低く見ゆ涙をさそふ水無月の山
 松林山をうづめて靜まりぬとほくも風の消えゆけるとき
 眞晝野や風のなかなるほのかなる遠き杜鵑《とけん》の聲きこえ來る
 梅雨晴の午後のくもりの天地のつかれしなかにほととぎす啼く
 山に來てほのかにおもふたそがれの街にのこせしわが靴の音
 或るゆふべ思ひがけなくたづね來《こ》しさびしき友をつくづくと見る
 幹白く木の葉青かる林間の明るきなかに歩み入りにき
 わが行けば木々の動くがごとく見ゆしづかなる日の青き林よ
 かなしめる獣のごとくさまよひぬ林は深し日はさ青なり
(233) はてしなくあまたの岡の起き伏せり眼に日光の白く滿つかな
 別るべくなりてわかれし後の日のこのさびしきをいかに追ふべき
 棄て去りしのちのたよりをさまざまに思ひつくりて夜々をなぐさむ
 ゆめみしはいづれも知らぬ人なりき寢ざめさびしく君に涙す
 遠くよりさやさや雨のあゆみ來て過ぎゆく夜半を寢ざめてありけり
 ゆくりなくとあるゆふべに見いでけり合歡のこずゑの一ふさの花
 きはみなき旅の途《みち》なるひとりぞとふとなつかしく思ひいたりぬ
 六月の山のゆふべに雨晴れぬ木の間にかなし日のながれたる
 ゆふぐれの風ながれたる本の間ゆきさやかにひとを思ひいでしかな
 ゆふ雨《さめ》のなかにほのかに風の見ゆ白夏|花《ばな》のそぼ濡れて咲く
 放たれし悲哀のごとく野に走り林にはしる七月のかぜ
(234) 松林風の斷ゆればわがこころふるへておもふ黒髪の香を
 かなしきは夜のころもに更ふる時おもひいづるがつねとなりぬる
 鋭くもわかき女を責めたりきかなしかりにしわがいのちかな
 七月の山の間《あひだ》に日光は青うよどめり飛ぶつばめあり
 午後晴れぬ煙草のあまさしとしとに胸に浸む日ほととぎす啼く
 暈帶びて日は空にあり山々に風青暗しほととぎす啼く
 生くことのものうくなりしみなもとに時におもひのたどりゆくあり
 うち斷えて杜鵑を聞かずうす青く松の梢に實の滿ちにけり
 わがこころ靜かなる時つねに見ゆる死《しに》といふもののなつかしきかな(以上)
 秋風吹くつかれて獨りたそがれの露臺にのぼり空見てあれば(某新聞社樓上)
 いつ知らず重ねて胸に置きたりし双《もろ》のわが手を見れば涙落つ
(235) このごろの迷ひ亂れにありわびて寂しやわれに歸らむとする
 しづやかに大天地《おほあめつち》に傾きて命かなしき秋は來にけり
 まれまれに言ひし怨言《かごと》のはしばしのあはれなりしを思ひ出づる日
 物をおもふ電車待つとて十月の街の柳のかげに立ちつつ
 公園の木草《きぐさ》かすかに黄に染《そ》みぬ馴れしベンチに今日もいこへる
 松蟲鳴きそよ風わたるたそがれの小野の木の間を過ぎなやむかな
 日は黄なり斑々《はんぱん》として十月の風みだれたる木の間に人に
 粟の樹のこずゑに栗のなるごとき寂しき戀を我等遂げぬる
 たはむれのやうに握りし友の手の離しがたかり友の眼を見る
 髪ながく垂れて額の蒼を掩ふ無言よ君にくちづけてゐむ
 野には來ぬこころすこしもなぐさまず木の間を行きつ草に坐りつ
(236) ふるさとのお秀が墓に草枯れむ海にむかへる彼の岡の上《へ》に
 波白く斷えず起れる新秋《しんしう》のとほき渚に行かむとぞおもふ
 けふ別れまた逢ふこともあるまじきをんなの髪をしみじみと見る
 こころ永く待つといふなりこころ永く待つといふなりかなしき女《をんな》
 冷やかに部屋にながるる秋の夜の風のなかなり我等は黙《もく》す
 こころ斯く荒《すさ》みはてぬるわが顔のその脣《くちび》をおもふに耐へず
 秋の白晝《ひる》風呂にひたりて疲れたる身はおもふなり女のことを
 破れたるたたみのうへに一|脚《きやく》の寢椅子を置きつ秋の夜を寢《ぬ》る
 うまき肉たうべて腹の滿ちぬれば壁にもたれてゐねぶりをする
 醉ふもまたなににかはせむすべからく酒を棄てむとおもひ立ちにき
 二階より更けて階子《はしご》をくだる時深くも秋の夜《よ》を感じぬる
 秋風吹き日かげさやかに流れたる窓にふたりは旅をおもへり
(237) おもはるるなさけに馴れて驕《おご》りたるひとのこころを遠くながむる
 手をとりて心いささかしづまりぬもの言へば彌《いや》寂しさの増す
 秋のあさうなじに薄く白粉の殘れるを見つつ別れかへりぬ
 わがちさき帽のうへより溢《あふ》れ來る秋のひかりに血は安からず
 健やかに身はこころよく饑ゑてあり野菊のなかに日を浴びて臥す
 四階よりのぞめば街の古濠《ふるぼり》にゆふべ濁りて潮のさし來る
 靴屋あり靴をつくろふ鍛冶屋ありくろがねを打つ秋の日の街
 くちもとのいふやうもなく愛らしきこの少年にくちづけをする
 わかくさの山の麓は落葉せむいまか靜かに鹿の歩まむ
 或時はなみだぐみつつありし日の寂しき戀にかへらむとする
(238) はてしなくひろき林に行かしめよしばし落葉の音《ね》を斷たしめよ
 彼のとほき林に棲める獣はかなしめる日の無きかあらじか
 われ死なば林の地《つち》を掘りかへしひとに知らゆな其處に埋めよ
 林には一|鳥《てう》啼かず木のかげにたふれて秋に身を浸し居り
 涙落つまぬかれがたき運命のもとにしづかに眼を瞑ぢむとし
 棄て去りしわが女をばさまざまに人等啄むさまの眼に見ゆ
 かへり來よ櫻紅葉の散るころぞわがたましひよ夙く歸り來よ
 しかれども一度戀に沈み來しこのかなしさをいかに葬らむ
 さまざまの女の群に入りそめぬ戀に追はれし漂泊|人《びと》は
 ことごとく落葉しはてし大木にこよひ初めて風のきこゆる
 晴れわたる空より樹より散りきたるああ落葉《らくえふ》のさまのたのしさ
(239) かきいだけば胸に沈みてよよと泣くそのかみの日の少女のごとく
 妻つれてうまれし國の上野《かみつけ》に友はかへりぬ秋風吹く日
 木々のかげまだらに落ちてわが肩に秋の日重し林に死なむ
 彼の國の清教徒《ぴゆうりたん》よりなほきよく林に入りて棲まむともおもふ
 ありつる日死をおもふことしげかりし身は茫然と落葉《らくえふ》を見る
 山蔭に吸はれしごとく四五の村巣くへる秋の國に來にけり(以下伴二と旅に出でて)
 名も知らぬ河のほとりにめぐり來ぬけむり流るる秋の夕《ゆふべ》に
 白々《しらじら》とゆふべの河の光るありたひらの國の秋の木の間に
 雲うすく空に流れて凪ぎたる日林の奥に落葉斷えせず
 落葉樹まばらに立てる林間の地平にひくし遠山の見ゆ
 身を起しまた忍びかに歩みいでぬ落葉ばやしの奥の木の間を
(240) 手ふるればはららはららと落葉《らくえふ》す林のおくの一もと稚木《わかき》
 林間の落葉を踏みつ樹に倚りつ涙かきたれなにを歌ふぞ
 ながながと地上に身をば横へぬ夕陽の前の落葉林《らくえふりん》に
 かきあつめ白晝落葉に火をやりぬ林の奥へ白き烟す
 ひややかに落葉林をつらぬきて鐵路走れり限りを知らず
 うす甘き煙草の毒に醉ひはてぬ黄なる林の奥の一人は(以上)
 軒下の濠のひびきと硝子戸のゆふ風の音と椅子に痛める
 夕暮のそよ風のなかにいたみ出づ倦みし額《ひたひ》に浮ける蒼さは
 新しき鷲ペンに代へしゆふぐれの机のうへに滿てるかなしみ
 ゆふぐれは蒼みて來りまた去りぬ窓邊の椅子にわれの埋《うも》るる
 ゆふ日さし窓のガラスは赤々と風に鳴るなり長椅子に寢《ぬ》る
(241) 數知れぬ女の肌に溺れたるこのわかき友は酒を好まず
 打ち連れて活動寫眞觀に行きし女のあとに灯《ひ》をともすなり
 果實《くだもの》をあまたたうべし夕まぐれ飯《いひ》の白きを見るは眼痛し
 家々にかこまれはてしわが部屋の暗きにこもりストーヴを焚く
 悲しげに赤き火を見せゆふ闇の椅子に人あり煙草は匂ふ
 黒髪の匂ふより哀しっかれたる身にゆふぐれのいどみ寄るさま
 海に沿ひ山のかげなるみだらなる温泉町《おんせんまち》に冬は來りぬ
 涙たたへ若かる友はかなしみぬ見よわが戀は斯くもまつたし
 容れがたし一度われを離れたる汝《なれ》がこころはまた容れがたし
 白々《しらじら》と鴎まひ出づる山かげの冷たき海をおもひ出でけり
 離れたる愛のかへるを待つごときこの寂しさの咒《のろ》ふべきかな
(242) この河の流れて海に入らむさま蘆の間《あひだ》におもひ悲しむ
 灯《ともしび》をともさむとする横顔の友の疲れは闇に浮き出づ
 命なりそのくちびるを愛せよと消息《せうそこ》に書き涙落しぬ
 衰へしひとの額《ひたひ》をかきいだき接吻《きす》せむとすればあはれ眼を瞑づ
 半島の國の端なる山かげのちさき港に帆を下しけり(以下旅に出でて)
 枝垂れ咲けり暗緑色の浪まろぶ海の岸なる老樹《おいき》の椿
 青き白き濤《なみ》のみだれにうちまじり磯に一羽の小鳥啼くあり
 ひろびろと光れる磯に獨りゐて貝ひろふ手に眺め入りぬる
 越え歩《あり》く海にうかべる半島の冬のうす黄の岡より岡へ
 旅人は海の岸なる山かげのちひさき町をいま過《よ》ぎるなり
 海岸《うみぎし》のちひさき町の生活《なりはひ》の旅人の眼にうつるかなしさ
(243) 男あり渚に船をつくろへり背《せな》にせまりて海のかがやく
 ゆふ日赤き漁師町行きみだれたる言葉のなかに入るをよろこぶ
 凰凪ぎぬ夕陽《せきやう》赤き灣内の片すみにゐて帆をおろす船
 わが船は岬に沿へり海青しこの伊豆の國に雪のつもれる
 夕陽《せきやう》の赤くしたたる光線にうかび出でたり岬の街は
 春白晝ここの港に寄りもせず岬を過ぎて行く船のあり(以上)
 
 路上
 
(247) 自序
 
 昨年の春出版した「別離」以後の作約五百首をあつめてこの一册を編んだ。咋一年間に於けるわが生活の陰影である。透徹せざる著者の生きやうは、その陰影の上に同じく痛ましき動搖と朦朧とを投げて居る。あての無い悔恨は、これら自身の作品に對する時、ことに烈しく著者の心を刺す。我等、眞に生きざる可からざるを、また繰返して思ふ。
   明治四十四年九月
                      若山牧水
 
(249)       自明治四十三年一月
         至同 四十四年五月
 
 海底《うなぞこ》に眼のなき魚の棲むといふ眼の無き魚の戀しかりけり
 わが足のつきたる土もうらさびし彼の蒼空の日もうらさびし
 靜やかにさびしき我の天地《あめつち》に見えきたるとき涙さしぐむ
 死にがたしわれみづからのこの生命《いのち》食《は》み殘し居りまだ死に難し
 光なきいのちのありてあめつちに生くといふことのいかに寂しき
 手を觸れむことも恐ろしわがいのち光うしなひ生《いき》を貪る
 たぽたぽと樽に滿ちたる酒は鳴るさびしき心うちつれて鳴る
 寂しさは屍《むくろ》に似たるわが家にこの酒樽はおくられて來ぬ
 この樽の終《つひ》のしづくの落ちむ時この部屋いかにさびしかるべき
(250) 酒樽をかかへて耳のほとりにて音をさせつつをどるあはれさ
 おとろへしわが神經にうちひびきゆふべしらじら雪ふりいでぬ
 ゆふぐれの雪降るまへのあたたかさ街のはづれの群集《ぐんじゆ》の往來《ゆきき》
 ひとしきりあはく雪ふり月照りぬ水のほとりの落葉の木立
 白粉のこぼれむとする横顔に血の潮《さ》しきたりたそがれにけり
 窓かけのすこしあきたるすきまより夜の雪見ゆねむげなる女
 投げかけし女ひとりのたましひをあはれからだを抱きなやめり
 醉ひはてて小鳥のごとく少女等はかろく林檎を投げかはすなり
 のびのびと酒の匂ひにうちひたり乳に手を置きねむれる少女《をとめ》
 一時の鐘とほくよりひびきいや深に三月《やよひ》風吹く夜のなやむかな
 枕より離れしときのしづかなる女のひとみわれに對《むか》へり
(251) 倦みはてしわれのいのちにまつはりつ斷えなむとして匂ふ黒髪
 みさをなきをんなのむれにうちまじりなみだながしてわがうたふ歌
 かなしげに疲れはてつつわれいだく匂へる腕ゆいかに逃れむ
 あわただしく汝《なむぢ》をおもひゆふぐれの窓かけのかげに涙ぐみぬる
 玉のごときなむぢが住める安房のなぎさ春のゆふべをおもひかなしむ
 うれひつつ歩めば赤き上靴のしづかに鳴れり二階のゆふべ
 數知れぬをんなとちぎり色白のこのわかき友は酒をこのまず
 身も投げつこころもなげつものをおもふゆふべかへさの電車の隅に
 相寄りつ離れつ憎みなつかしみ若きをとこのむれのどよめく
 夕まぐれ酒の匂ふにひしひしとむくろに似たる骨ひびき出づ
 沈丁花青みかをれりすさみゆく若きいのちのなつかしきかな
(252) われ歌をうたひくらして死にゆかむ死にゆかむとぞ涙を流す
 獣あり混沌として黄に濁る世界のはてをしたひ歩める
 なほ耐ふるわれの身體をつらにくみ骨もとけよと酒をむさぼる
 酒すすればわが健かの身のおくにあはれいたましき寂しさの燃ゆ
 あな寂し酒のしづくを火におとせこの夕暮の部屋匂はせむ
 酒のためわれ若うして死にもせば友よいかにかあはれならまし
 歸りくればわが下宿屋のゆふぐれの長き二階に灯のかげもなし
 書き終へしこの消息のあとを追ひさびしき心しきりにおこる
 光線のごとく明るくこまやかにこころ衰へ人を厭へり
 おとろへの極みに來けむ眼に滿てるあらゆる人の憎し醜し
 蹌踉と街をあゆめば大ぞらの闇のそこひに春の月出づ
(253) 深々と赤き灯よどむいろ街を醉うて走れば足音がする
 ひとつ飲めばはやくも紅く染まる頬の友もわが眼にさびしかりけり
 まれまれに相見る友のいづくやらむさびしげなるに心とらるる
 齒を痛み泣けば背負ひてわが母は峽《かひ》の小川に魚を釣りにき
 父おほく家に在らざり夕さればはやく戸を閉し母と寢にける
 ふるさとは山のおくなる山なりきうら若き母の乳にすがりき
 ふるさとの山の五月《ごぐわつ》の杉の木に斧振る友のおもかげの見ゆ
 おもひやるかのうす青き峽のおくにわれのうまれし朝のさびしさ
 親も見じ姉もいとはしふるさとにただ檳榔樹《びらうじゆ》を見にかへりたや
 衰へてひとの来るべき野にあらず少女等群れて摘草をする(五首戸山が原にて)
 めづらかに野に出で来ればいちはやく日光に醉ひつかれはてける
(254) つみ草のそのうしろかげむらさきの匂へる衣《きぬ》のかなしかりけり
 梢《うれ》あをむ木蔭にすわりつみ草のとほき少女を見やるさびしさ
 かの星に人の棲むとはまことにや晴れたる空の寂し暮れゆく
 ふと寄れば昔なじみの或るをんななほ三味ひきて此家《ここ》に住みける
 見詰めゐてふけたまひしと女いふみづからの老はいかに知るらむ
 三味をおくをんなのまへの夜の白さわが古着物わびしかりけり
 はや既に浸《にじ》みをへけむわが五體酒をのめども醉ふことをせず
 ややしばしわれの寂しき眸《まみ》に浮き彗星《はうきぼし》見ゆ青く朝見ゆ
 風光り櫻みだれて顔に散るこころ汗ばみ夏をおもへる
 いちはやく四月の街に青く匂ふ夏帽子をばうちかづきけり
 かのをとめ顔の醜し多摩川にわか草つみに行かむとさそふ
(255) われ二十六歳《にじふろく》歌をつくりて飯《いひ》に代ふ世にもわびしきなりはひをする
 小田卷の花のむらさき散りてありまれにかへれるわが部屋の窓
 頬《ほ》をすりて雌雄《めを》の啼くなりたそがれの花の散りたる櫻にすずめ
 わが歌を見むひとわれのおとろへて酒飲むか掩を見ることなかれ
 徳利取り振ればかすかに酒が鳴るわが醉ざめのつらのみにくさ
 月の夜半醉ひざめの身のとぽとぽとあゆめる街の夏の木の影
 あと月のみそかの夜より亂醉の斷えし日もなし寢ざめにおもふ
 風ひかり桃のはなびら椎の樹の落葉とまじり庭に散りくる
 いねもせず白き夜着きて灯も消さずくちずさむ歌のさびしかりけり
 初夏の木々あをみゆく東京を見にのぽり來よ海も凪ぎつらむ(友へ)
 別れたるをんなが縫ひしものなりき古き羽職を盗まれにけり
(256) 貧しければ心も暗し蟲けらの在り甲斐もなき生きやうをする
 やうやくに待ちえしごとくわがこころあまえてありぬ病みそめし身に
 濁りたるままにこころは凪ぎはてて醫師の寢臺によこたはるかな
 命より摘みいだすべき一すぢのさびしさもなしかなしさも無し
 恩ひいでて寢ぬ夜しもなきあはれさの二年《ふたとせ》を經てなほつづくらむ
 なほもかく飽くことしらずひとを思ふわれのこころのあはれなるかな
 ふらふらと野にまよひ来ればいつのまにさびしや麥のいろづきにけむ
 はらみたる黒き小犬の媚びもつれ歩みもかねつ青き草原
 いつ知らず摘みし蓬《よもぎ》の青き香のゆびにのこれり停車場に入る
 摘草のにほひ殘れるゆびききをあらひて居れば野に月の出づ
 あを草に降《お》りくる露をなつかしみ大野に居ればまろき月出づ
(257) わがいのち盡きなばなむぢまた死なむわが歌よ汝《な》をあはれに思ふ
 花見ればはなのかはゆし摘みてまし摘むともなにのなぐさめにせむ
      六月中旬、甲州の山奥なる某温泉に遊ぶ。當時の歌二十二首
 雲まよふ山の麓のしづけきをしたひて旅に出でぬ水無月《みなつき》
 たひらなる武藏の國のふちにある夏の山邊に汽車の近づく
 絲に似て白く盡きざる路の見ゆむかひの山の夕風のなか
 辻々に山のせまりて甲斐のくに甲府の町は寂し夏の日
 初夏の雲のなかなる山の國甲斐の畑に麥刈る子等よ
 雲おもくかかれる山のふもと邊に水無月松の散り散りに立つ
 遠山のうすむらさきの山の裾雲より出でて麥の穗に消ゆ
 山あひのちさき停車場ややしばし汽車のとまれば雲|降《お》りきたる
(258) 停車場の汽車のまどなる眼にさびし山邊の畑に麥刈れる子等
 山々のせまりしあひに流れたる河といふものの寂しくあるかな
 大河の岸のほとりの砂《いさご》めく身のさびしさに思ひいたりぬ
 山越えて入りし古驛《こえき》の霧のおくに電燈の見ゆ人の聲きこゆ
 わが對《むか》ふあを高山の峯越しにけふもゆたかに白雲の湧く
 おほどかに夕日にむかふ青山のたかき姿を見ればたふとし
 木の葉みな風にそよぎて裏がへる青山を人の行けるさびしさ
 しらじらととほき麓をながれたる小川ながめて夕山を越ゆ
 青巖のかげのしぶきに濡れながら啼ける河鹿を見出でしさびしさ
 わが小枝子《さえこ》思ひいづればふくみたる酒のにほひの寂しくあるかな
 泣きながら桑の實を摘み食うべつつ母を呼ぶ子を夕畑に見つ
(259) 酸くあまき甲斐の村々の酒を飲み富士のふもとの山越えありく
 ゆふぐれの河にむかへばすさみたるわれのいのちのいちじろきかな
 かへるさにこころづきたる掌《て》のうちの河原の石の棄てられぬかな
                    ――旅の歌をはり――
 めづらかに明るき心さしきたりたまゆらにして消えゆきしかな
 このままに衰へゆかばこの酒のにほひもやがて身に耐へぬらむ
 さやりなく青蔦の葉のもつれあふそのよろこびを夜の床にする
 高空に雲のうかべるあめつちのありのすさびも身にさぴしけれ
 枕敷きすひ終りたるひとすぢのけむりにこころなぐさめて寢む
 ふるさとの濱に寄るなる白波の繪葉書をもてかへり來よとふ
 夏の夜やここら少女のひとりだにわがものならぬかなしみをする
(260) 心ぬけし頬をかすかにながれたるこの涙こそわりなかりけれ
 わだつみのそこのごとくにこころ凪ぐ樅の大樹にむかふゆふぐれ
 すさみたるこころのひまに濡れて見ゆ木の根に散れる青石かわれ
 この瞳しばしを酒に離れなばもとの清さに澄みやかへらむ
 あかつきの寢覺の床をひたしたるさびしさのそこに眼をひらくなり
 この鼻のひくきが玉にきずぞかし肌のきよさよよく睡るひと
 あはれまたねむりたまふかたまたまに逢ふ夜はわきて短きものを
 なげやりのあまきつかれにうち浸り生きて甲斐あるけふを讃へむ
 衰ふる夏のあはれとなげやりのこころのすゑと相對ふかな
 涙ややにうかび出づればせきあげしかなしみは早や消えて影なし
 影さへもあるかなきかにうちひそみわがいのちいま秋を迎ふる
(261) いひがひなきわれみづからへつらあてかとすれば死《しに》に親しまむとす
 君住まずなりしみやこの晩夏の市街《まち》の電車にけふも我が乘る
 三味をひく手もとのふりのいかなればこよひはかくも身にししむらむ
 かりそめの一夜《ひとよ》の妻のなさけさへやむごともなし身にしみわたる
 蝉とりの兒等にをりをり行き逢ひぬ秋のはじめの風明き町
 をみなへしをみなへし汝をうちみればさやかに秋に身のひたるかな
 青やかに夜のふけゆけばをちかたに松蟲きこゆ馬迫も啼く
 蟲なけばやめばこころのとりどりにあはれなることしげきよひかな
 洪水《おほみづ》にあまたの人の死にしことかかはりもなしものおもひする
 またさらにこぞの秋まで知らざりしいのちの寂《さび》に行きあへるかな
       九月初めより十一月半ばまで信濃國淺間山の麓に遊べり。歌九十六首。
(262) 名も知らぬ山のふもと邊《べ》過《よ》ぎむとし秋草のはなを摘みめぐるかな
 朴の木に秋の風吹く白樺に秋かぜぞふく山をあゆめば
 城あとの落葉に似たる公園に入る旅人の夏晴子かな(小諸懷古園にて)
 秋風や松の林の出はづれに育アカシヤの實が吹かれ居る
 秋晴のふもとをしろき雲ゆけり風の淺間の寂しくあるかな
 浅間山山鳴きこゆわがあぐる瞳のおもき海にかも似む
 わがこころ寂しき骸《から》を殘しつつ高嶺の雲に行きてあそべる
 酒飲めばこころ和《なご》みてなみだのみかなしく煩をながるるは何《な》ぞ
 秋かぜの吹きしく山邊夕日さし白樺のみき雪のごときかな
 なにごとも思ふべきなし秋風の黄なる山邊に胡桃をあさる
 胡桃とりつかれて草に寢てあれば赤とんぼ等が來てものをいふ
(263) かたはらに秋ぐさの花かたるらくほろびしものはなつかしきかな
 白玉の齒にしみとほる秋の夜の酒はしづかに飲むべかりけり
 あはれ見よまたもこころはくるしみをのがれむとして歌にあまゆる
 殘りなくおのが命を投げかけて來し旅なれば障《さや》りあらすな
 旅人は松の根がたに落葉めき身をよこたへぬ秋風の吹く
 かなしみに驕りおごりてつかれ來ぬ秋草のなかに身を投ぐるかな
 小諸なる醫師《くすし》の家の二階より見たる淺間の姿《なり》のさびしさ
 秋風のそら晴れぬれば千曲川白き河原に出てあそぶかな
 薄暗きこころ火に似て煽《あふ》り立つ野山もうどき秋かぜの吹く
 顔ぢゆうを口となしつつ雙手《もろて》して赤き林檎を噛めば悲しも
 秋くさの花のさびしくみだれたる微風《びふう》のなかのわれの横顔
(264) わがこころ碧玉となり日の下に曇りも帶びず歎く時あり
 秋くさのはなよりもなほおとろへしわれのいのちのなつかしきかな
 われになほこの美しき戀人のあるといふことがかなしかりけり
 松山の秋の峽間に降り來れば水の音《ね》ほそしせきれいの飛ぶ
 うちしのび都を落つる若人に朝の市街《ちまた》は青かりしかな
 身もほそく銀座通りの木の蔭に人目さけつつ旅をおもひき
 絶望のきはみに咲ける一もとの空いろの花に醉ひて死ぬべし
 黄ばみたる廣葉がくれの幹をよぢ朴の實をとる秋かぜのなか
 かへり來て家の背戸口わが袖の落葉松の葉をはらふゆふぐれ
 せきあげてあからさまにも小石めく涙わりなき小夜《さよ》もこそあれ
 濁り江のうすむらさきの水草のここにも咲けば哀しわが生《よ》は
(265) 衰ふる夏の日ざしにしたしみて晝も咲くとや野の月見草《つきみぐさ》
 長月のすゑともなればほろほろと落つる木の葉のなつかしきかな
 沈みゆく暗きこころにさやるなく家をかこみてすさぶ秋風
 汝が弾ける絲のしらべにさそはれてひたおもふなり小枝子がことを
 わが母の涙のうちにうつるらむわれの姿を思ひ出づるも
 おほかたの彼《か》の死顔ぞ眼にうかぶこころうれしく死をおもふ時
 憫れめとなほし強ふるかつゆに似て衰へし子は肺を病むてふ
 戀人よわれらひとしくおとろへて尚ほ生くことを如何におもふぞ
 こころややむかしの秋にかへれるか寢覺うれしき夜もまじりきぬ
 ほろほろと啼くは山鳩さしぐめるひとみに青し木の間松の葉
 黄なる山まれに聞ゆる落葉《らくえふ》はかなしき酒の香に似たるかな
(266) むらさきの暗くよどみて光る玉夢ののちにもさびしくひかる
 秋かぜの信濃に居りてあを海の鴎をおもふ寂しきかなや
 わがいのち闇のそこひに濡れ濡れて螢のごとく匂ふかなしさ
 投げやれ投げやれみな一切を投げ出《いだ》せ旅人の身に前後あらすな
 あざれたるわれの昨日の生活《あさゆふ》の眼にこそうつれ秋草に寢《ぬ》る
 酒嗅げば一縷の青きかなしみへわがたましひのひた走りゆく
 秋かぜの都の灯《ほ》かげ落ちあひて酒や酌むらむかの挽歌等は(友をおもふ)
 こほろぎの入りつる穴にさしよせし野にまろび寢の顔のさびしさ
 さらばいぎさきへいそがむ旅人は裾野の秋の草枯れてきぬ
 山麓の古驛の裏をながれたる薄にごり河の岸はなつかし
 火の山のいただきちかき森林を過《よ》ぎらむとしてこころいためり
(267) 雲去れば雲のあとよりうすうすと煙たちのぼる淺間わが越ゆ
 火の山の老樹の樅のくろがねの幹をたたけば葉の落ち來《きた》る
 火の山の燒石原のけむりのかげ西ひがしさし別るる旅人
 風立てばさとくづれ落ち山を這ふ火山の煙いたましきかな
 見よ旅人秋のすゑなる山々のいただき白く雪つもり來ぬ
 眼をとめて暮れゆく山に對ふ時しみじみと身のあはれなりけり
 あの男死なばおもしろからむぞと旅なるわれを友の待つらむ
 背《せな》のいろ落葉にまがひ蜥蜴の子おち葉のなかを行く吾《ね》寂しも
 尺あまり延びし稚松《こまつ》に松かさの實れり秋の山の明るさ
 風止みぬ伐りのこされし幾もとの松の木の間の黄なる秋の日
 惶しき旅人《りよじん》のこころ去りあへず秋の林に來て坐れども
(268) 秋の森ふと出であひし溪間より見れば淺間に煙斷えて居り
 溪あひの路はかなしく白樺の白き木立にきはまりにけり
 忘却のかげかさびしきいちにんの人あり旅をながれ渡れる
 斯くばかり縮み終れるものなればこの命またいつか延ぶらむ
 眼は濁る腹いつぱいに呼吸《いき》づかむうらやすにさへ逢ふ日知らねば
 蟲けらの這ふよりもなほさびしけれ旅は三月をこえなむとする
 終りなき旅と告げなばわがむねのさびしさなにと泣き濡るるらむ
 はつとしてわれに返れば滿目の冬草山をわが歩み居り
 冬枯の黄なる草山ひとりゆくうしろ姿を見むひともなし
 嶺の草わがよこたはるかたはらに秋の淡雪きえのこり居り
 かかる時ふところ鏡戀しけれ葉の散る木の間わが顔を見む
(269) 蒼空ゆ降り來てやがて去り行きぬ山邊の雲もあはれなるかな
 いただきの秋の深雪に足あとをつけつつ山を越ゆるさびしさ
 冬草山鳥の立つにもあめつちのくづれしごとき驚きをする
 ものおもひ斷ゆれば黄なる落葉《らくえふ》の峽のおくより水のきこゆる
 秋の日の空をながるる火の山のけむりのすゑにいのちかけけれ
 日は暗く浮きあぶらなしわが命ただよふかたに火の山の見ゆ
 わがごとくさびしきこころいつの代に誰《た》がうづめけむ山に煙《けむ》見ゆ
 火の山のけむりのすゑにわがこころほのかに青き花とひらくも
 火の山を越えてふもとの森なかの温泉《いでゆ》に入れば月の照りたる
 火の山のけむりのかげの温泉に一夜ねむりて去りし旅人
 湯あがりをひとりし居ればわが肌に旅をかなしむ匂ひこもれり
(270) なつかしやわがさびしさにさしそひて秋のあは雪ふりそめにけり
 あはれなる女ひとりが住むゆゑにこの東京のさぴしきことかな(以下歸京して)
 人知れず旅よりかへりわが友のめうとの家にねむる秋の夜
 友が子のゆふべさびしき泣顔にならびてものをおもふ家かな
 友のごとく日ごと疲れてかへり來むわが家といふが戀しくなりけり
 終りたる旅を見かへるさびしさにさそはれてまた旅をしぞおもふ
 われを見にくらき都會《みやこ》のそこ此處に住み居る友がみなつどひ來る
 電燈のさびしきことよ旅路よりかへりて友が顔を見る夜
                       ――旅の歌をはり――
 眼のまへのたばこの煙《けむ》の消ゆるときまたかなしみは續かむとする
 鏡より沈めるひとみわれを見る死に對ふごとなつかしきかな
(271) けふもまた獨りこもればゆふまぐれいつかさびしく點る電燈
 賣り棄てし銀の時計をおもひ出づ木がらし赤く照りかへす部屋
 わがままは狂へる馬のすがたしきつかれて今は横はるかな
 思ひうみふところ手してわが行けば街のどよみは死の海に似る
 ゆふぐれの風にしのびて匂ひ來ぬ隣家《となり》の庭の落葉のけむり
 かいかがみ路ばたの石手に取れば涙はつひに煩《ほ》にまろびいづ
 歸るといふ世にいとはしきことのあり夜更けてけふもとぼとぼ歸る
 歩きつつひとり言いふはしたなき癖さへいつか身につきしかな
 街を行きこともなげなる家々のなりはひを見て瞳おびゆる
 ひもすがら火鉢かこみてゆびさきは灰によごれぬ庭に吹く風
 雪ふれり暗きこころの片かはにほのあかりさしものうきゆふべ
(272) 筆とめて地震《なゐ》の終るを待つ時のらんぷの前のわれの秋の夜
 戀人の肺にしのべるやまひよりなつかしいかな盃をとる
 死をおもふかつて登りし火の山の足もとに見し烟をおもふ
 あざわらふ死の横顔にさそはれてわが片煩《かたほ》にものぽる冷笑
 『あれ見給へ落葉木立の日あたりにすまひよげなる小さき貸家』
 ゆふまぐれ袂さぐれば先づこよひ淨瑠璃をきく錢は殘れり
 わが部屋に朝日さす間はなにごとも身になおこりそ日向ぼこする
 日向ぼこねむり入らむとするころのわが背のかたに散りくる落葉
 日向ぼこ酒|禁《と》められて衰へしわれの身體が日に醉へるかな
 日向ぼこ出勤|前《ぜん》の友もまたわが背まくらにうとうととする
 日向ぼこ枕もとなるうすいろの瓶のくすりに日の匂ふかな
(273) たべのこしし飯つぶまけばうちつどふ雀の子らと日向ぼこする
 路ばたの枯葉ばやしの日あたりにくるわがへりのいつ寢入りけむ
 つらかりしもののおもひでなつかしくなりゆくころもうらさびしけれ
 蝙蝠に似むとわらへばわが暗きかほの蝙蝠に見ゆるゆふぐれ
 ただひとり離れて島に居るごときこころ暫くうどかぬゆふべ
 ゆふまぐれ赤いんきもてわが歌をなほしてゐしが酒の飲みたや
 ほんのりと酒の飲みたくなるころのたそがれがたの身のあぢきなさ
 さきまでのいらいらしさのいつ消えてをんなのそばに斯く坐るらむ
 ややすこし遲れて湯より出るひとを待つ身かなしき上草履かな
 槇の葉のあをの葉ずゑにつもる雪きゆるゆきをば見てありしかな
 湯あがりのひとにまぢかく居ることの春はかなしきひとつなるべし
(274) 白粉のあまきかをりも身にのらぬ湯あがりびとをなにとすべけむ
 湯あがりのかほとかほとが鏡のうへいたづらをするかなしき眼をする
 ちりやすきはなのにほひにふとふれてなりぬかなしき空のつばめに
 わがかほにうすきねいきのうつつなや灯《ひ》の三階のしたをゆく三味
 あれを聽けまくらまくらにしとしととしたたりてくるとほき三味線
 かの友もこの友もみな白玉のこころ濁らずさぴしきわれかな
 濁りゐつひとつほしては一つ酌ぐさぴしき酒のわれのいのちか
 見ればげに二十七なるわがつらと驚かむとてわらふ白き齒
 濠ばたの巣より乞食を追ひ立つるわかき巡査のうしろかげかな
 風のごとくあとさきもなき苦笑ひつらにうかびぬ獨り坐るに
 封切れば枯れし野菊とながからぬ手紙と落ちぬわが膝のうへ
(275) 狐にも巣ありといへりさびしきぞ林のおくの眼にうつり來る
 ひとりひとり親しきひとと離れゆくこのはかなさの棄てがたきかな
 松も見ゆしら梅も見ゆ或るころのさびしき安房をおもひ出づれば
 梅やらむとわれをさがして來しひとと松のはやしに行きあひしかな
 梅つぼむころともなればいづくよりこのかなしさは身にかへるらむ
 ただ二日我慢してゐしこの酒のこのうまさはと胸暗うなる
 いづくまでわれをあはれむはて知らぬ汝《なれ》がこころは海かさびしや
 暗く重きこころをまたもたづさへて見知らぬ街に巣をうつすかな
 移り來て窓をひらけば三階のしたの古濠舟ゆきかよふ
 ふうらりとふところ手して住み馴れぬ門を出づるはうらさびしけれ
 移り來て見なれぬ街路《まち》の床屋よりいづるゆふべのくびのつめたさ
(276) 漂泊のかたみに殘すひげなれば斯くやあはれに見えまさるらむ
 星あをくながれて闇にかげひきぬわがふところ手さむし街路《まち》ゆく
 買ひきたりこよひかく着てぬる布團うりはなつ日はまたいつならむ
 日もひさしくわれにかかはりなきごとく思ひしかふと少女等を見る
 さびしさのとけてながれてさかづきの酒となるころふりいでし雪
 雪ふるにさけをおもひつ酒飲みぬひとりねむるはなにのさびしさ
 雪ふれりと筆とりあげし消息につい書きそへぬかなしげのこと
 ふる雪になんのかをりもなきものをこころなにとてしかはさびしむ
 雪ふればちららちららとさびしさがなまあたたかく身をそそるかな
 はつとしてこころ變れば蒼暗くそこひも見えず降るそらの雪
 灯のともる雪のふる夜のひとり寢の枕がみこそなまめかしけれ
(277) 濠のはた獨りをとこがねる家ぞこころして漕げした通ふ舟
 水の上《へ》にふりきてきゆる雪の見ゆ酒のにほひの身に殘りつつ
 知らぬ間に雨とかはりし夜のゆき酒ののちなる指のさびしさ
 草の葉のにほひなるらむいらいらとをんなこひしくなりゆけるとき
 かかる日は子供あつめに飴やの爺うたふ唄にもなみださしぐむ
 ともすればかなしき愛に陷ちむとすただゆきずりに見むとおもふに
 一昔まへにすたれし流行唄《はやりうた》くちにうかびぬ酒のごとくに
 虚無黨の一死刑囚死ぬきはにわれの『別離』を讀みゐしときく
 がらす戸に白くみだれてふれる雪よりそひて見れば寂しきものかな
 わが袖にひとつふたつがきえのこる雪もさびしや酒やにのぼる
 身もおもく酒のかをりはあをあをと部屋に滿ちたり醉《ゑ》はむぞ今夜《こんや》
(278) いざいざと友にさかづきすすめつつ泣かまほしかり醉はむぞ今夜
 たまたまにただひとりして郊外にわが出で來れば日の曇りたる
 多摩川の淺き流れに石なげて遊べば濡るるわが袂かな
 瀬もあさく藍もうすらに多摩川のながれてありぬ憂しや二月は
 多摩川の砂にたんぽぽ吹くころはわれにもおもふひとのあれかし
 曇日の川原の薮の白砂にあしあとつけて啼く千鳥かな
 川千鳥啼く音つづけば川ごしの二月の山の眼に痛み來る
 山のかげ水見てあればさびしさがわれの身となりゆく水となり
 山かげの小川の岸にのがれ來てさびしやひとり石投げあそぶ
 行くなかれかの人情のかなしきになれがいのちのなにと耐へむや
 山の樹よ葉も散りはてて鳥も來ずけふのわれにや似てやすからむ
(279) 石拾ひわがさびしさのことごとく乘りうつれとて空へ投げ上ぐ
 友もうし誰とあそばむ明日もまた多摩の川原に來てあそばなむ
 水むすび石なげちらしただひとり河とあそびて泣きてかへりぬ
 枝葉のみ眞暗くおもく打ち茂り根は枯るる樹かこころさびしき
 西吹かば山のけむりはけふもなほ君住む國のそらへながれむ(答背山君歌四首)
 なかぞらに山のけむりの斷ゆる時けだしや君も寂しかるべし
 淺間山そのいただきゆ眺めたる君が下野《しもつけ》は雲ふかかりき
 夜の牛乳《ちち》飲みつつおもひふらふらと淺間の烟《けむ》に走るさびしさ
 松おほき彼の鎌倉の古山に行かばや風のなかに海見む
 夜となれば瞳のおくのよろこびのさびしいかなや薄く汗帶ぶ
 常陸山負くるなかれとこころのうちいのるゆふべは居る所無し
(280) 常陸山つひに負けたる消息は聞くにしのびずわれ歌咏まむ
 山を拔く君がちからの衰へかなぎさ落ちゆく汐のひびきか
 わだつみの底の濁りか手をつかねものうき空のもとに棲みたる
 さびしさは蝶にかも似むこころにはつゆかかはらず過ぐす朝夕
 をりをりの夜のわが身にしのび入りさびしきことを見する夢あり
 酒飲めば鼻よりうすく血の出づる身のおとろへをいかに嘆かむ
 いまは早や生命《いのち》なるべき酒の香をうらさびしくも戀ひわたるかな いつとなくわれと身體をたのむこと薄らぎそめて在りぬ晝夜
 よぼよぼとわれ慰めに行くわれの姿か徳利あまた並べる
 軒したは濁れる海邊手に持つは晝のくるわの淺きさかづき
 この家の軒のしたには舟も無し寄る波もなし寂しき海かな
(281) 手をうちて踊れるわれのあはれさになほ手をうちてしきりに踊る
 かたはらにならぶ銚子の三つふたつ早やうらさぴしゑひそめしかな
 汐さすやくるわの裏の濁り江に帆を垂れてゆくゆふぐれの船
 岸ちかくゆたかに過ぐる大船に人聲もなしあをき打ともる
 ゆふぐれの水にうかべばこともなうさびしき群ぞ沖の鴎は
 かもめかもめ空に一羽が啼くときは水に入らむと身のかなしけれ
 おそらくは舟人ならむ唄のよさはやひけすぎのひやかしの群
 かたはらの女去りたるこころよさなみだのごとき朝の酒かな
 手《た》まくらのあさきえにしも身にはしめまたの夜逢はむうしやうつり香
 ちひさなる舟にわが乘りふらふらと漕ぎいでてゆく春の濁り江
 街暗くかすめる裏の濁り江にい群れて啼かぬ海の白鳥
(282) 濁り江はかすみて空もかき垂れぬわが居る舟に啼き寄る鴎
 枯草にわが寢て居ればそばちかく過《よ》ぎる子供のなつかしきかな
 かれ草のなかに散りたる楢の葉をひろはむとして手のさびしけれ
 われとべば犬も走りぬ目のかぎり薄日流れてかなしき野邊に
 悲しめるあるじ離れて目もとほく野末を走る愛犬のあり
 銃砲の弾のごとくに野を走るわが愛犬を見るもさびしき
 枯草にわが寢て居ればあそばむと來て顔のぞき眼をのぞく犬
 ゆふまぐれ遊びつかれてあゆみ寄る犬と瞳のひたと合ひたる
 うす曇りなまあたたかき冬の日に犬とあそぶはかなしきことぞ
 ましぐらにわれを馳け拔き立ちどまり振返る犬の眼を打擲す
 かなしきは愛のすがたか口笛にとほく野ずゑを馳せ來る犬
(283) 膝にゐて深き毛を垂れ樫の葉に夕日散るときわが小犬鳴く
 指に觸るるその毛はすべて言葉なりさびしき犬よかなしきゆふべよ
 杉の樹をつと離れたる夕風のなかの烏の大いなるかな
 一本《ひともと》の杉の木の根に起きかへるわがかげ長し野は薄日かな
 若き日をささげ盡して嘆きしはこのありなしの戀なりしかな
 秋に入る空をほたるのゆくごとくさびしやひとの忘られぬかな
 はじめより苦しきことに盡きたりし戀もいつしか終らむとする
 おもかげの移るなかれとひとのうへにいのりしことは全《また》くあれども
 五年《いつとせ》にあまるわれらがかたらひのなかの幾日《いくひ》をよろこびとせむ
 一日だにひとつ家にはえも住まず得忘れもせず心くさりぬ
 わがために光ほろびしあはれなるいのちをおもふ日の來ずもがな
(284) ほそはそと萌えいでて花ももたざりきこのひともとの名も知らぬ草
 わびしさやふとわが立てる足もとの二月の地《つち》を見て歩み出づ
 石油《せきゆう》をつぐ音きこゆ二階より薮ごしに見るちひさき家に
 薮ふかく窓のもとよりうちつづく友が二階の二月の月の夜
 ふつとして多摩の川原のなつかしく金を借り來て一夜《ひとよ》寢に行く
 砂のなかに顔をうづめて身をもだえ泣くごとくして去りぬ川原を
 かへるさは時雨となりぬ多摩川の川邊の宿に一夜寢しまに
 わが顔に觸れて犬あり枯くさの日向にいねてもの思ふとき
 杉の木の間ものおもふわが顔のまへ木漏日のかげに坐りたる犬
 まさむねの一合瓶のかはゆさは珠にかも似む飲まで居るべし
 誰にもあれ人見まほしきこころならむけふもふらふら街出で歩く
(285) わが部屋にわれを待つべく一樽に酒は斷たねどされどさびしき
 其處此處の友はいましも何をしてなに思ふならむわれ早も寢む
 わが部屋にわれの居ること木の枝に魚の棲むよりうらさびしけれ
 三階の玻璃窓つつみ煤烟のにはへるなかにひとり酒※[者/火]る
 芝居見て泣けるなみだをひと知れずぬぐはむとして身をはかなみぬ
 平戸間のほこりにまみれわがなみだ頬をながるるわびしいかなや
 かなしみにこころもたゆく身もたゆく酒もものうし泣きぬれてゐむ
 うち見やる舞臺のほかのさびしさにつまされてこそぬぐへ涙を
 しくしくとまたもなみだの眼ににじむこの劇場のはなれともなや
 そこはかと深山《みやま》の松葉ちることか寢ざめのこころ寄るところなし
 わだつみの底にあを石ゆるるよりさびしからずやわれの寢覺は
(286) 明けがたの床に寢ざめてわれと身の呼吸《いき》することのいかにさびしき
 寢ざむればうすく眼に見ゆわがいのち終らむとするきはの明るさ
 眼のさめてしづかに頭もたげつつまたいねむとす窓に星見ゆ
 夜ふかく濠にながるる落し水聞くことなかれ寢覺むるなかれ
 先づ啼くは濁る濠邊の鶺鴒《いしたたき》ほの青き朝を寢ざめてあれば
 かなしくもいのちの暗さきはまらばみづから死なむ砒素をわが持つ
 遠海のひびくに似たるなつかしさわが眼のまへの砒素に集る
 一つぶの雪にかも似む毒藥の砒素ぞ掌《て》に在りあめつちの隅
 なとがめそ腐るいのちを恐ろしみなつかしくこそ砒素をわが持て
 死にてのちさむく冷ゆれど顔のさま變らずといふ砒素はなつかし
 まなこ閉ぢ口をつぐめるさびしさに得耐へずついと立てど甲斐なし
(287) ふるさとの美々津《みみつ》の川のみなかみにひとりし母の病みたまふとぞ
 さくら早や背戸の山邊に散りゆきしかの納戸《なんど》にや臥したまふらむ
 病む母よかはりはてたる汝《なれ》が兒を枕にちかく見むと思ふな
 病む母のまくらにつどひ泣きぬれて姉もいかにかわれを恨まむ
 病む母を眼とぢおもへばかたはらのゆふべの膳に酒の匂へる
 病む母をなぐさめかねつあけくれの庭や掃くらむふるさとの父
 葉をすべる露のごとくになげやりのこころとなりて行くは何處ぞ
 終に身を酒にそこなひふるさとへ歸るか春のさびしかるらむ(友へ)
 わが暗きこころを海に投げ入れむ沈みて巖となりて苔生ひむ
 あめつちに獨り生きたるゆたかなる心となりて擧ぐるさかづき
 指さきにちさき杯もてるときどよめきゆらぐ暗きこころよ
(288) なにとせむすこし醉ひたる足もとのわが踏む地よりかなしみは湧く
 いまは早やとらへ難かり蒼暗き空に離れてわれの悲しむ
 眼も鈍くこころくもればおのづから眉さへ重し春の街見ゆ
 雪消えてけふもけむりの立つならむ淺間よ春のそらのかたへに
 あは雪のとけてながれむ火の山のかの松原に行きて死にたや
 靜かなりし日にかへらむとこころより思へるごとしわれのよこ顔
 をりをりは見えずなれどもいつかまた巣にかへり居り軒の蜘蛛の子
 わが部屋に生けるはさびし軒の蜘蛛屋根の小ねずみもの言はぬわれ
 誰ぞひとりほほゑめばみないちやうに酒をしぞ思ふ部屋のゆふぐれ
 大君の城の五月の森林にゆふきりくればともる電燈
 河を見にひとり來て立つ木のかげにほのかに晝を啼く蛙《かはづ》あり(【以下十三首下總稻毛にて】)
(289) いつのまに摘みし菜たねぞゆびさきに黄なるひともと持てる物思ひ
 かくばかり清きこころぞあざむくになにの難さと笑みて爲にけむ
 眼とづるはさびしきくせぞおほぞらに雲雀啼く日を草につくばひ
 根のかたにちさく坐れば老松の幹よりおもく風|降《お》り來《きた》る
 海光る松の木の間の白砂をあゆむもさびし坐らむも憂し
 かなしさに閉ぢしまぶたの瞼毛にも來てやどりたる松の風かな
 耐へがたくまなこ閑づればわが暗きこころ梢に松風となる
 波もなき海邊の砂にわが居れば空の黄ばみて春の月出づ
 なぎさ邊の藻草昆布のむらがりのなつかしいかな春の月出づ
 眼も開かず砂につくばひ夕風の松の木の間にわがひとり居る
 しら砂にかほをうづめてわれ祷るかなしさにお身をやぶるまじいぞ
(290) このこころ慰むべくばあめつちにまたなにものの代ふるあらむや
 なにはなく夭死《わかじに》せむとおもひゐし彼はまことにけふ死ににけり
 思ふとなく思はるることさびしけれさもなき友の死にゆきしとぞ
 よべもまた睡られざりき初夏の午前の街に帽かむり出づ
 酒を見てよろこぶわれのよこ顔をながめて居ればさしぐみ來る
 衣ぬげば五月《》の松のこずゑより日あをく流れ肌に匂へる
 松脂の匂ひかわれの寂しめるいのちのはしか一すぢとなる
 森出でてあをき五月の太陽を見上ぐる額《ぬか》のなにぞ重きや
 かたはらの地《つち》を見詰めて松の根にわれの五月をさびしがるかな
 松の葉のしげみにあかく入日さし松かさに似て啼ける山雀《やまがら》
 こまやかに松の落葉の散りばへるつちより蝉の子の這ひ出づる
(291) ゆく春のゆふ日にうかみあかあかとさびしく松の幹ならぶかな
 わが肌の匂ふも肌のうへを這ふ蟻のあゆみもさびしき五月
 松の葉の散りしく森にいぬるとてわが手枕《たまくら》のいたむ晝かな
 松の根の落葉にいねてものを思ふ夏の背広の紺の匂ひよ
 松ばやしわが寢て居ればひらひらと啼いて燕がまひ過ぎしかな
 あなあはれいつかとなりの楢の葉に這ひもうつれる蓑蟲の子よ
 松やにのあをき匂ひの血となりてわが身やめぐる森の午後の日
 草わけて雲雀の巣をばさがすとてわれの素足のいたむ晝かな
 美しく縞のある蚊の肌に來てわが血を吸ふもさびしや五月《ごぐわつ》
 日も青きすすきの原に蟲を啄《は》みつばくらあまた群れあそぶかな
 松の花うすく匂ふにさそはれてわが鬱憂《うついう》の浮き出でむとす
(292) おほいなるむらさきの桐手に持てばわが世むらさきに見ゆる皐月野
 わかやかに立てるすすきにふと觸れし小指の切れて血のしみいづる
 下總の國に入日し榛はらのなかの古橋わが渡るかな(以下下總市川にて)
 はり原やものおもひ行けばわが額のうすく青みて五月けぶれる
 あを草のかげに五月の地のうるみ健かなれとわれに眼を寄す
 ただひとり杉菜のふしをつぐことのあそびをぞする河のほとりに
 藪すずめ群るる田なかの停車場にけふも出で來て汽車を見送る
 しろき花散りつくしたる下總の梨の名所のあさき夏かな
 袖ひろき宿屋の寢衣《ねまき》着つつ見るアカシアの花はかなしかりけり
 あめつちの青くけぶれる河の邊の葭原に巣をまもる葭切鳥《よしきり》
 身を寄せし草のしげみのふかければこころやすくも物やおもはむ
(293) ゆく春の草はらに來てうれひつつ露ともならぬわがいのちかな
 あを草の野邊をかへればわが影のいつしか月となりにけるかな
 町の裏|川蒸汽船《かはじようき》より降り立てば花火をあげて子供あそべり
 榛はらのあをくけぶれる下總に水田うつ身はさぴしからまし
 ありなしの貧しき戀にいかなればわが泣くことの斯くも繁《しじ》なる
 
(295)死か藝術か
 
(297)本書の初めに
 
 本書には昨年の秋に出版した「路上」以後の作を收めた。咋年九月から本年七月まで、即ち我が忘れ難い明治年號の最終一年間に成つた歌である。
 
 明治四十五年七月二十一日に惶しく原稿をまとめて書肆に渡し、翌二十二日に私は東京を去つてこの郷里に歸つて來た。父危篤の急電に接したがためであつた。それで、本書の體裁などもあらましのことを相談しておいたきり、あとは校正まで東雲堂の西村辰五郎君を煩はした。原稿は自身で認めた。配列の順序は例によつて歌の出来た時の順序に從うた。一首々々の上にまだ鮮かな記憶が存してゐる。
 「昨年の春出版した「別離」以後の作約五百首をあつめてこの一册を編んだ。(298)咋一年間に於ける我が生活の陰影である。透徹せざる著者の生きやうは、その陰影の上に同じく痛ましき動搖と朦朧とを投げて居る。あてのない悔恨は、これら自身の作品に對する時、ことに烈しく著者の心を刺す。「我等、眞に生きざる可からざるをまた繰返して思ふ。」と「路上」の初めに書いて居る。その悔恨と苦痛とをばそのまままた本書の上にも推し及ぼさなくてはならぬことを心から悲しく思ふ。
 
 ことに、これから數年間、この零落し果てた山おくの家にこのまま留つて、憐れな老父母を見送らうと決心した今日、いままで我がままを極めてゐた自身の生活を見返る時、更に多少の感慨の動くを禁じ得ないのである。この「死か藝術か」を界にして、私の生活はどう移つて行くであらう。これからの我が背景を成すべきこの郷里は山と山との峽間五六里の間に渉つて戸数僅かに三百に滿たぬ村である。其處から一歩も出ることなしに暮して(299)行くつもりで居る。
 
 一昨夜來の大雨で、我が家のすぐ下の溪は一丈餘も水が増した。溪から直ぐ削つたやうに聳え立つた向ふの山の中腹には矢張りこの雨のために急に三つ四つの眞白な小きな瀧が懸つた。峯には深い雲が白く澱んで居る。
 
 この頃漸くこの二階の部屋まで上つて來られるやうになつた父は、この小さな瀧の一つを指して、あの小市瀧にあの位ゐ水が落るやうになつたから、もうこの雨もあがる、と獨りごとのやうに私の側で言つて居る。
 
 明治大帝御葬儀の話、乃木將軍殉死の噂も何だかよその世界に起つたことのやうに遠く/\耳に響く。實際この村に於てはそれらの事よりこの雨で栗が何升餘計に拾へたこと、積んでおいた材木が何本流れたことの方が(300)遙かに重大な事件であるのだ。
 
    大正元年九月十八日
                日向の國尾鈴山の北麓にて
                     若山牧水
 
(301) 蒼ざめし額つめたく濡れわたり月夜の夏の街を我が行く
 あるかなき思ひにすがりさびしめる深夜《よふけ》のわれと青夏蟲と
 わが家に三いろふたいろ咲きたりし夏くさの花も散り終りけり
 かなしくも痛みそめたるものおもひ守りて一日もの喰べず居り
 野にひとり我が居るゆゑかこのゆふべ木々のさびしく見えわたるかな
 根を絶えて浮草のはなうすいろに咲けるを摘めばなみだ落ちぬれ
 粟刈れるとほき姿のさびしきにむかひて岡にあを草を藉く
 獨り居ればほのかに地のにほふなり衣服《きぬ》ぬぎすてて森に寢《い》ねて居む
 おほいなる青の朴の葉ひと葉持ち林出づればわが身さびしも
(302) いかに悲しく秋の木の葉の散ることぞ髪さへ痛めいのち守らむ
 あが痛めるいのちの端に觸れ觸れて秋の木の葉の散りそめにけり
 なにに然かおびゆるものぞ我がいのち身をかためたるすがた寂しも
 いづくやらむこころのすみのもの思ふかたちは見ゆれ痛むともなし
 かもめかもめ青海を行く一羽の鳥そのすがたおもひ吸ふ煙草かな
 わが手より松の小枝にとびうつる猫のすがたのさびしきたそがれ
 ただひとつ風にうかびてわが庭に秋の蜻蛉《あきつ》のながれ來にけり
 しのびかに遊女が飼へるすず蟲を殺してひとりかへる朝明け
 地にかへる落葉のごとくねむりたるかなしき床に朝の月さす
 鬱々とくるわより歸りひとを見ず朝の林に葉をわけて入る
 わが髪にまみれて蟻の這ふことも林は秋のうらさびしけれ
(303) あたたかき身のうつり香を惡みつつ秋の青草噛めば苦かり
 秋花の莖を噛み切る歯のさきのつめたきよ朝のこのうつり香よ
 秋の市街しづかに赤く日を浴びぬやがてなつかしきわが夜は來む
 高窓の赤き夕日に照らされて夜を待つわれら秋の夜を待つ
 秋の街にゆふべ灯かげのともることいかなれば斯く身にし沁むらむ
 なにやらむ思ひあがりて眼も見えず秋の入日の街をいそぎぬ
 酒無しにけふは暮るるか二階よりあふげば空を行く烏あり
 螢のごとわが感情のふわふわと移るすがたがふつと眼に見ゆ
 我がうしろ影ひくごとし街を過ぎひとり入りゆく秋植物園
 植物園の秋の落葉のわぴしさよめづらしくわが靜かなること
 ふるさとの南の國の植物が見ゆるぞよ秋の温室の戸に
(304) うなだれて歩むまじいぞ櫻落葉うす日にひかりはらはらと散る
 あぢきなく家路のかたへ向きかふる夜霧の街のわがすがたかな
 其處に在り彼處にみえしわがすがたさびしや夜の街に霧降る
 ねがひしはこの靜けさか今朝のわがこころのすがた落葉に似たり
 秋かぜや日本《やまと》の國の稻の穗の酒のあぢはひ日にまさり來れ
 心のうへ狹霧みな散れあきらかに秋の日光《ひかり》に親しましめよ
 眼をあげよもの思ふなかれ秋ぞ立ついざみづからを新しくせよ
 それ見よさびしき膝の濡るるものさかづきを手になにを思ふぞ
 見も知らぬをんなのそばにひと夜來てねむらむとするこころの明るみ
 友を見てかなしきこころ潮《さ》しきたる見まはせど酒に代ふるものもなき
 あはれまこと雨にありけりまたしても降るかさきほど星の見えしに
(305) 動物園のけものの匂ひするなかを歩むわが背の秋の日かげよ
 身も世もなく兒をかはゆがる親猿の眞赤きつらに右投げつけむ
 秋の入日猿がわらへばわれ笑ふとなりの知らぬ人もわらへる
 秋の日の動物園を去らむとしかろき眩暈《めまひ》をおぼえぬるかな
 はつとして歩みをとどめなにやらむ拂ふがごとく癖ぞ袖振る
 停車場に入りゆくときの静かなるこころよ眼にうつる人のなつかし
 好むとなき煙草を手づから買ふことがうれしくもあり停車場の店に
 袂よりたばこ取うでて火をつくるときのこころをなつかしと思ふ
 わびしやなまたも夜つゆの軒したにかへりて雨戸たたかねばならず
 歸りきてまちを手さぐり灯をともすその灯をともすうれしや獨り
 眼の見えぬ夜の蠅ひとつわがそばにつきゐて離れず恐しくなりぬ
(306) ひとり寢の夜のねまきにかふるとてほそき帶をばわが結ぶかな
 ひとりねの枕にひたひ押しあてていのりに似たるよろこびを覺ゆ
 わが寢ざめこころかなしくかきくもりいためる蔭にこほろぎの啼く
 常磐樹の蔭には行かじ秋の地のその樹のかげのなにぞ憎きや
 眼馴れたるこの樹|四時《しいじ》に落葉せず黒き實ぞなる秋風立てば
 かなしくも我を忘れてよろこぶや見よ野分こそ樹に流れたれ
 いつとなく秋のすがたにうつりゆく野の樹々を見よ靜かなれこころ
 飛べば蜻蛉のかげもさやかに地《つち》に落つ秋は生くこと悲しかりける
 秋の地に花咲くことはなにものの虚偽ぞことごとく踏み葬《はふ》るべし
 なに恨むこころぞ夕日血のごとしわが眼すさまじく野の秋を見る
 手を切れ、双脚《もろあし》を切れ、野のつちに投げ棄てておけ、秋と親しまむ
(307) 秋となり萩はな咲けばおどろきてさしぐむこころ見るにしのびず
 われとわが指《おゆび》吸ひつつ身もほそく秋に親しむ野の獨りかな
 草原は夕陽深し帽ぬげば髪にも青きいなご飛びきたる
 歩きながら喰はむと買ひし梨ひとつ手に持ちながら入りぬ林に
 眺め居ればわが眼はつちとなりにけり秋の木の影落ちたる地に
 黒き蟲くろき畑のつちのかげに晝啼いて居々ほそくないて居り
 森よさらば街へいそがむくろ髪のなびける床をおもふに耐へねば
 見てあればこころ痛みてたへがたし深夜《よふけ》あやしき汝がすがたかな
 くれなゐのりぼんをつけて夜の挨拶する子を見れば悲しとぞおもふ
 晝は野の青き日に觸れ夜は燃ゆるひとの身にふれ秋は悲しき
 
(308) 落葉と自殺
 
 手探れど手には取られず眼開けば消えて影無しさびしあな寂し
 自殺といふを夢みてありきかなしくも浮草のごとく生きたりしかな
 わが眼こそ愁ひの巣なれ晴れわたる秋の日かげにさびしく瞑づる
 夜も晝も愁ふればとてなぞは斯く眸も暗く濁りはてけむ
 窓ひらけばぱつと片頬に日があたるなつかしいかな秋もなかばなり
 あきらかに秋は潮《さ》し來ぬにごりたるわれのいのちの血の新たなり
 枯草のわが身にあはれ血のごとく、夜深き市街、雨落ちきたる
 雨、雨、雨、まこと思ひに勞れゐきよくぞ降り來しあはれ闇を打つ
 かなしげに霧に月照り娼婦等の群れたる街のわがうしろ影
(309) 月の夜の街の夜霧に鳥のごとくさぴしき姿行くか何處へ
 秋更けぬ落葉に似たるわが愛のかなしき瞳ぬれてかがやく
 窓ひとつ北にひらきてうす暗きこの部屋の好さよ友が椅子に倚る
 あてもなく見知らぬ街路《まち》に歩み入りとある二階に夕飯を食ふ
 わづかなる窓のあひさにうす曇るゆふべの空を見つつ箸取る
 もの蔭に眠るがごとく郊外の墓地にひと知れずけふも來りぬ
 瞑ぢよとてかなしく瞼撫づるごと墓場の樹々の葉の散りきたる
 わがめぐり墓場のつちに散りしける落葉はなにの言葉なるらむ
 ひろひ來し墓地の落葉の散れる部屋灯かげに獨りねころぴて居る
 停車場の黒き柱に身をもたせ汝が行く國の秋をおもふかな(五首、友を送りて)
 ふり返るなかれといのり人ごみのうしろ委をぢつと見送る
(310) どよめける旅客のなかにただひとり落葉のごとくまじりし汝《なれ》よ
 東京を人目しのびてのがれ出づる汝《な》がうしろ影われも然かせむ
 別れ來て銀座の街に秋の木々かげ濃き午後を行けば靴鳴る
 秋、飛沫《しぶき》、岬の尖りあざやかにわが身刺せかし、旅をしぞ思ふ
 まだ踏まぬ國々戀し白浪の岬に秋の更けてゆくらむ
 秋かぜの紀伊の熊野にわけ入らむ鳥羽の港に碇をあげむ
 法隆寺のまへの梨畑梨の實をぬすみしわかき旅人なりき
 大和の國耳なし山の片かげの彼の寺の扉《と》をたたかばや此の手
    十月、十一月、相模の國をそこここと旅しぬ。歌三十一首
 茶の花を摘めばちひさき黒蟻の蕋にひそめりしみじみ見て棄つ
 わが身は地《つち》、畑のくろつち、冬の日の茶の花のなどしたしいかなや
(311) 秋の相模に畑うつひとよ、汝がそばにわれ草拔かむ、旅のひと日なり
 歩み居れば森もいつしか盡きにけりいざ歸らばやいざ歸らばや
 松ばやし暴雨風《しけ》に仆れし木をさがす相模の友の背丈《たけ》のたかさよ
 相模の秋おち葉する日の友が妻わすられぬ子に似てうつくしき
 縁がはの君が眞紅《しんく》のすりつぱをふところにして去なむとおもふ
 ほどもなく動きいだせる夜の汽車の片すみにわれ靜かに眼をとづ
 膝に組む指にいのちをゆだねおきて眼をこそ瞑づれ秋の夜汽車に
 あをあをと海のかたへにうねる浪、岬の森をわが獨り過ぐ
 浪、浪、浪、沖に居る浪、岸の浪、やよ待てわれも山降りて行かむ
 地よりいま生れしに似る、あを海にむかひて語るふたつ三つの言葉
 またもわれ旅人となりけふ此處のみさきをぞ過ぐ可愛《いと》しきは浪
(312) うねり寄る浪に見入ればゆらゆらと浪のすがたしこころ悲しむ
 見てあれば浪のそこひに小石搖れ青き魚搖れわが巖うごく
 海にひとつ帆を上げしあり浪より低し悲しや夕陽血に似て滴る
 朱のいろの浪かなしけれ落日《らくじつ》に眼瞑づればおつる涙のあつさ
 港の岸ちひさき旗亭、船を見て林檎噛み居れば煤煙《すす》落ちきたる
 港には浪こそうねれ夕陽《せきやう》は浪より椅子のわが顔に映ゆ
 木《こ》の花のごとく匂ひて明けてゆく夜はうらがなしはな札を切る
 横濱の波止場の端に烏居り我居り烏われを逃れず
 冬の日の砂丘の蔭に砂を掘るさびしき記憶あらはるるままに
 浪に醉ひしかほろろほろろに我がこころすすり泣きして海邊を去らず
 深きより悲哀こころにうかび出づ見よ海のうへに鳥啼いて居り
(313) 海は死せでありけり、青き浪ぞ立つ、いたましいかなわが見に来れば
 わがめぐり濡れし砂より這ひ出づる蟹あまたありて海に日沈む
 ただひとり知らぬ市街に降り立ちぬ停車場前に海あり浪寄る
 鳶いろのひとみの兒等のゆきかへる日本の港にわれも旅人
 男いろのあやしき鳥よやよ烏ここの港に數おほき鳥
 行くにあらず歸るにあらぬ旅人の頬に港の浪蒼く映ゆ(以上)
 なにやらむさびしき笑ひ浮きいづる片頬《かたほ》にあてぬつめたき木の實
 うるはしき冬にしあるかな獨りさびしくこもれる部屋にけふも夕陽す
 はらはらと降り來てやみぬ薄暗き窓邊の樫の葉に殘る雪
 はらはらに雪はみだれつうす黒き樫の葉は搖れ我が窓暗し
(314) 絲のごとくけむりのごとく衰へしわれの生命にふるへて雪降る
 雪ぞ降るわれのいのちの瞑ぢし眼のかすかにひらき、痛み、雪降る
 木に倚れどその木のこころと我がこころと合ふこともなしさびしき森かな
 眼のまへに散りし木の葉に惶《あわただ》しくもの言はむとし涙こぽれぬ
 たまたまに朝早く起き湯など浴び獨り坐りてむく林檎かな
 庭の冬樹のはだへにあたる薄日のいろ、朝《あした》林檎をもとむるこころ
 掌《て》のうへの林檎の重み、あるとなき朝のなやみに瞑ぢたる瞳
 見よあれ、うれしげに手にも持つことか今朝の林檎のなどてや斯からむ
 林檎の眞白き肉にいとちさきナイフをあてぬ思ひは淋し
 林檎林檎さびしき人のすむ部屋にやるせなげにも置かれし林檎
 おとろへし生命の酸味《すみ》のひややかに澄む朝《あした》なり手にとる林檎
(315) 冬の陽のあたる片頬《かたほ》にひそやかにさしそへてみぬこの紅き實を
 森のなかにちさき畑あり、夕日さす、麥の青き芽いたましきかな
 地よ感謝す汝とし居れば我がこころしづかに燃えて指も觸れ難し
 地よ汝に對ひてわれの坐りしを記憶せよ今日さびしき日なりき
 海の岸にうづくまるもこの森に來て木の根に居るもわが眼開かず
 わが手足われの生命のそのままに今日こそ動け死なむとぞ思ふ
 あはれ廣き森にしあるかな眼をとほくはなちてはまた瞑ぢて開かず
 落葉せる林に入ればいらいらと皮膚《はだ》こそ痛め何に怖づるや
 死は見ゆれど手には取られずをちかたに浪のごとくに輝きてあり
 この掌《て》の土とわれのいのちの滅ぶこといづれなつかしいづれ悲しき
 木の根に落葉かき藉《し》き手をあつる我が廣き額《ぬか》のなつかしきかな
(316) 出づるな森を、出づるな森を、死せるごときその顔を保て、出づるな森を
 あはれいま煙のごとく燃えいづる朽ちし生命ぞ觸るるなおち葉
 斯く居る間に手足の爪の尺と延びよわが皮膚《はだ》森の朽ちし葉となれ
 冬の陽は煙に似たり森も似たりさびしきわれのうしろ影かな
 むぐらもちわが爪先の落葉のかげの地《つち》掘りわがいのち燃ゆ
 土龍《むぐら》來よ地《つち》にかくれて冬の陽のけぶれるを見ざるべし出で來よ土龍
 その枝折りこの枝を折り一葉無き冬がれの森に獨りあそべり
      信濃より甲斐へ旅せし前後の歌、十六首
 山に入る旅人の背のいかばかりさびしかるべきおもへわが友
 おなじくば行くべきかたもさはならむなにとて山に急ぐこころぞ
 問ふなかれいまはみづからえもわかずひとすぢにただ山の戀しき
(317) 友よいざ袂わかたむあはれ見よ行かでやむべきこのさびしさか
 さびしさを戀ふるこころに埋《うづも》れて身にこともなし山へ急がむ
 山戀ふるさびしきこころなにものにめぐりあひけむ涙ながるる
 ひとすぢにひとを見じとて思ひ立つ旅にしあれば消息もすな
 なにゆゑに旅に出づるやなにゆゑに旅に出づるや何故に旅に
 山に入り雪のなかなる朴の樹に落葉松になにとものを言ふべき
 雪ふかき峽に埋れて木の根なす孤獨に居らむ陽も照るなかれ
 ただひともと伐り殘されし種子松の喬くしげれり春となる山
 ただ一羽山に烏の啼くことも幹にわが影のうつるもさびしや
 枝もたわわにつもりて春の雪晴れぬ一夜《ひとよ》やどりし宿の裏の松に
 雪のこる諏訪山越えて甲斐の國のさびしき旅に見し櫻かな
(318) をちこちに山櫻咲けりわが旅の終らむとする甲斐の山邊に
 見わたせば四方の山邊の雲深み甲斐は曇れり山ざくら咲く
 足袋ぬぎてわか草ふめばあぢきなやなにに媚びむとするこころぞも
 木々はみなそびえて空に芽をぞ吹くかなしみて居れば踏む草もなし
 折しもあれ春のゆふ日の沈むとき樅の木立のなかに居りにき
 歸らむと木かげ出づればとなりの樹かなしや藤の喚きさがりたる
 この額かなしき雨よ濡らせかしものを思ふとなにも知らぬげ
 樅のかげ雨もやみにき立ちいでむおお蓑蟲の濡れてさがれる
 さびしといふ我等がこころむきむきに燃えわたりつつ夏となりにけり
 はつ夏のときは樹の蔭の地にまろび帽ぬげばいや戀しさの燃ゆ
(319) 植物園の松の花さへ咲くものを離れてひとり棲むよみやこに
 あるとなきうすきみどりの木の芽さへわが悲しみとなるも君ゆゑ
 やるせなきおもひの歌となりもせで植物園に暮るる春の日
 地《つち》に寢てふと見まはせば春の木のさびしくも芽をふけるものかな
 葉を茂みしだれて地に影の濃きこの樫の樹に夏の來にけり
 はつ夏の常磐樹のかげのなつかしやこの蔭出でじ日の照るものを
 楠の蔭の暗きを憎み樫のかげのくらきを愛でつかなしみて居る
 身にちかき木の根木の根をながめやりつめたき春の地にまろび居り
 立ち出でつとほく離れて見るときのかの樫の樹の春はさびしき
       四月十三日午前九時、石川啄木君死す.
 初夏の曇りの底に櫻咲き居りおとろへはてて君死ににけり
(320) 午前九時やや晴れそむるはつ夏のくもれる朝に眼を瞑ぢてけり
 君が娘《こ》は庭のかたへの八重櫻散りしを拾ひうつつとも無し
 病みそめて今年も春はさくら咲きながめつつ君の死にゆきにけり
        ○
 酢のごとき入日に浮む麥の穂の穂さきかなしや摘まむと思ふ
 しとしとに入日やどせる青麥のあをき穂ずゑを搖すりてもみる
 わが蒼き片頬《かたほ》にあたる血のごときいろの入日を貪り吸ふも
 背のかたに沈む入日に染められて袂もおもく野を歸るなり
 野は入日いばらのかげにありやなし水もながれて我が歸るなり
 入日あかき野なかの村にひと群れて家つくり居り唄の聲悲し
 夕陽《いりひ》搖り海のうねればうら悲しわが立つ崎も搖れて沈まむ(五首鎌倉にて)
(321) 眠のまへを巨いなる浪あをあをとうねりてゆきぬ春のゆふぐれ
 眼に映る陸《くが》無し岬浪にゆれわがかなしみぞひとりたなびく
 わだつみの浪の一ひら掌《て》にもちて死なむとぞ思ふ夕陽《いりひ》のまへに
 並み立てる岬のあひにゆらゆらと海のゆれ居てゆふぐれとなる
 いたづらに窓に青樹の葉のみ搖れわれらが逢ふ日さびしくもあるかな
 
(322) かなしき岬
 
 うら若き越後生れのおいらんの冷たき肌を愛づる朝かな
 笑《ゑ》みながらぢつと見つむるまなざしに青みて夏の朝は來にけり
 おいらんのなかばねむりて書くふみに青くもさせる朝の太陽
 なにやらむ妹女郎をたしなむる姉の女郎に朝はさびしき
 摘みては投げつみては顔に投げうちぬおいらんの部屋の朝の草花
 お女郎屋《ぢよろや》の物干臺にただひとり夏の朝《あした》を見にのぼるかな
 初夏の朝の廊下のつめたきにまろびて起きぬ若きおいらん
 とられたるままのこの手のうす青さ別れともなきこのあしたかな
 手もとらず夏の朝の階子段うつとりとして降りてこしかな
(323) 桐の花うすく汗ばみ日ものぽりわがきぬぎぬのときとなりゆく
 いつ知らずくるわの戀のあはれさの身にやどれるにしみじみとする
 はつ夏の街の隅なる停車場のほの冷たさを慕ひ入るかな
 われ人もおなじ心のさびしさか朝青みゆく夏の停車場
 しみじみと遠き邊土のたび人のさびしき眼して停車場に入る
 朝な朝な停車場に來て新聞紙買ふ男居りて夏となる街
 水無月《みなつき》の青く明けゆく停車場に少女にも似て動く機關車
 月の夜の青色の花|搖《ゆら》ぐごと人びとの顔浮ける停車場
 停車場のあまき煤煙《けむり》のまひ來《きた》るレストラントの窓の燒肉
 午前九時起きも出づればこの市街《しがい》はやも五月の雲にくもれる
 青じめり五月の雲にしびれたる市街の朝の若人の眼よ
(324) 青いろの酒をしぞ思ふ朝曇る夏の銀座の窓をしぞ思ふ
      五月の末、相模國三浦半島の三崎に遊べり。歌百十一首
 あさなあさな午前は曇るならひとて今日も悲しく海をおもへり
 海戀ふる心頭痛に變りゆき午前は曇る初夏の街
 戀ひこがれし海にゆくとて買ふシヤボンわが蒼き掌《て》に匂ふ朝の街
 あらさびしやわが背のかたに少女居りほほ笑める如し海へのがれむ
 青色の酒賣る店も東京も見すてて海へいそぐ初夏
 明日ゆかむ海思ひをればゆきずりの街の少女もかなしみとなる
 わが渡る曇れる海にうすうすと青海月なしうつれる太陽
 海縁《うなべり》の五月の雲もわが汽船《ふね》の濡れしへききもうらがなしけれ
 曇り日の汽船《ふね》の機関に石炭をつぐ萌黄服海はわびしき
(326) うす青く雨に尖れる彼の岬《さき》へうち寄る浪も悲しかるらむ
 漕ぎよせし小さきはしけのゆらゆらと搖れゐて淋しこの古港
 浪の穗にかすかにやどる赤きいろ夏の夕日のなやましきかな
 かなしげに浪かきわけてわが汽船《ふね》入り入日の港死せるが如し
 皐月の、雲のかげりにうすき藍ひきうすき藍ひき伊豆が崎見ゆ
 入日さす岬のはなの汐ひきて青き瀬となりわが瞳《め》いためり
 ゆふ浪や五月の海の道化者やどかりの子がせつせとはたらく
 死にゆきし人のごとくもなつかしやこの東明の岬の藍色
 あかあかと西日にうかぴ安房が崎相模の海に近く寄るなり
 少女子の青パラソルよりなほひろき麥藁帽を着て海に入る
 太陽の正面《まとも》の岬、きずつきて血のたる指し貝ひろふかな
(327) 潮引きて崎のするどくなりまさり朝あをあをと松の風吹く
 雲のかげ入日の海はむらさきの酒のもたひとなりてゆらげる
 岬より入日にむかひうすうすと青色の灯をあぐる燈臺
 あをやかに双眼鏡にうつり出で五月の沖に魚釣る兒等よ
 沖邊なる五月の潮うら悲し双眼鏡に泡立ちて流る
 なつかしく午後二時ぞうつ、風呂《ゆ》やわかむ、この窓掛にゆるる海の日
 燈臺の青いろの灯もともりきぬ啼く音《ね》をやめよ浪間の千鳥
 ゆふされば沖のかたより晴れかかる五月の雲よ漕ぎゆく舟よ
 うす青き海月を追ひて海ふかく沈まばや、岬、雲に入日す
 朝なあさな白雲湧きて初夏の岬の森に啼く鳥もなし
 落日《ゆふひ》見に浪に死ぬともこの崎のきはまるはなに行かばや、落日《ゆふひ》
(328) 月の出の巖の暗きに時をおき浪白く立ち千鳥啼くなり
 浪に浮き油のしづく燃ゆる如岬の街に入日するなり
 岬越え不思議の邦にくだるごと灣《いりえ》のすみの灯の街に入る
 椎の若葉や崎の港の小學の女教師が彈くハンドオルガン
 岬なる古き港にかつを釣る石油發動船の群るる短夜
 月ひくく空にうかべり、晝なれば浪にうつらず、行くよわが舟
 わが眠る時の港をうす青き油繪具《あぷらゑのぐ》に染めて雨ふる
 みな忘れよ崎のみなとのこのひと夜五月の雨がふりそそぐなり
 旅人のからだもいつか海となり五月の雨が降るよ港に
 ほろびゆくこの初夏のあはれさのしばしはとまれ崎の港に
 ゆく春の海にな浮きそ浪ぞ立つかなしき島よとく流れ去れ
(329) 港はや青むらさきの夏の魚鰹ばかりを賣る街となる
 ゆたゆたに灣《いりえ》のくまに潮の滿ち入日かなしく崎に浮べり
 あを海の岬のはなに立つ浪の消しがたくして夏となりにけり
 汐ひけば白くあらはれやがて消ゆ月夜の家に岩見てあれば
 やよ海はあをき月夜となるものをわが寢る家に引くな木の戸を
 かなしげに潮のなかをかけめぐる青の小魚にさす五月の陽
 金ペンのさきのとがりの鈍りゆくころともなりて旅のわびしき
 みだれたち冷たく肌に散る飛沫《しぶき》詩人は海はなどてさびしき
 うもれたるわが罪惡のかたかげを慕ひて青くよるやこの浪
 いまぞ今日、蕾ながらに枯れゆきしわが若き日を海に沈めむ
 われみづから鉛のあをききりくちの寂しいかなや若き日を切る
(330) あはれその鉛の蒼き切り屑の散りて殘らばいかにとかせむ
 晝の海にうかべる月をかきくだき眞青き鰭となりて沈まむ
 身|搖《ゆす》らば青き岬もゆれやせむ晝の月浮くさびしき海に
 わが立てる岬をつつみうろくづもともに嘆かむさびしき日のため
 雲一片二ひら三ひら浮かずもあれ岬に立ちてわがなげく日に
 初夏の雲はただちにわが眉より海に浮ける如しさびしき岬
 さびしさは雲にかくれてあらはれぬかの太陽も海に似たらむ
 海よ搖れよわれのいのちは汝《いまし》よりつねに鮮かに悲しみて居り
 捉《と》りがたき苦痛に蒼くさびはてし我がこの額《ぬか》をとく碎け浪
 浪をもて衣をつくれけがれなくあえかに今ぞ眼をつぶりてむ
 越えくれば岬かなしくきはまりて海となりまた遠くとほく岬見ゆ
(331) あをあをと雲にかげれる彼の岬このみさきいざとびて渡らむ
 いたましき色情狂とならむより浪をくらひて死なむとぞ思ふ
 聲高く歌ひ終れば眼のまへの世界は蒼し死ぬにかあらむ
 海よ悲しあをき木の實を裂くごとく悔はわが身につねに新らし
 ゆらゆらと地震《なゐ》こそわたれ月の夜の沖邊に青く死にし岬に
 ゆらゆらと地震のわたれば身をくづし戸外《とのも》の山を見やるおいらん
 死んだよに睡る遊女の枕がみ月も蒼みて梟啼くなり
 耳すませばまこと梟にありにけりさびしき鳥をきけるものかな
 この寢顔|開《あ》きし小窓に眞青に迫りて山が明けそむるなり
 海わたる鳥のひとみのさびしさか寢ざめもの讀む若きおいらん
 この遊女かならず夭く死ぬべけむそち向のかほの夏の朝かげ
(332) あたらしきうすむらさきのこの紙幣夏のみなとの朝の遊女屋
 わが廿八歳《にじふはち》のさびしき五月終るころよべもこよひも崎は地震する
 岬なるふるき港のついたちの朝の赤飯《せきはん》宿屋の娘
 水無月《みなつき》の崎のみなとの午前九時赤き切手を買ふよ旅びと
 切りすてて海に投げ入れよ入日さす岬のはなに古き墓地あり
 崎の港の船の問屋のこの少女《をとめ》の眼の大きさよそのすずしさよ
 鰹賣ると月夜の海の魚のごと人こそさわげ崎の月夜に
 さらさらと蒼き月夜の浪ぞ寄る浪うちぎはに積まれし死魚《しぎよ》に
 月の夜の灣《いりえ》のすみの砂原に聲のみの人の群れて死魚賣る
 海より這ひも出で來て聲青く賣るにやあらむ彼等は死魚を
 あんまりに死魚賣る聲のかしましきに月夜のみなとわれも寢られず
(333) 魚釣れる岬のひとのあの唄は魚の言葉ならむ魚の唄ならむ
 ひかり無き楕圓の月の海に出づる午前一時のわれのあをさよ
 月蒼く海のはてより出でむとす死魚賣る聲をしばしとどめよ
 夜をこめて崎の港に入り來《きた》る船は死魚積む船ならぬなし
 月の夜の岬に群れて死魚積める帆前船《ほまへせん》をば待てる商人《あきうど》
 死魚積みてあまたの船の入り來れば月夜ゆるがせ港どよめく
 みどり兒の死にゆく如く月あをき崎の港を出でてゆく船
 月の夜の海のなかばのうろくづを釣り得し如くあをき帆をあぐ
 ただひとり貝拾ひをれば午後の雲うすうす岬過ぎてゆくなり
 ※[奚+隹]啼ける磯邊の午後のひき汐やなまの卵をすすり貝とる
 ひき汐を悲しむ青きやどかりのあしの小きざみ眞蒼き太陽
(334) 洞の暗きに貝とりつかれ見かへれば空にさびしくあがる青浪
.崎に立ち海のかなしきふくらみに岩を碎きて投げつくるかな
 誰となきうらめしき肌刺すどとくうす青き蟹を追ひめぐるかな
 眞裸體《まはだか》に青浪の中にもまれ來て死にしが如し酒を飲みてむ
        〇
 夏となり何一つせぬあけくれのわれに規則のごとく齒の痛む
.黒いろの蟲のやうなる商人《あきうど》がわが部屋に來てきいそくをする
 うす青き夏の木《こ》の果《み》を噛むごとくとしの三十路に入るがうれしき
 まづしくて蚊帳なき家にみつふたつ蚊のなき出でぬ、添ひ臥をする
 かんがへて飲みはじめたる一合の二合の酒の夏のゆふぐれ
 この熱い朝湯よ汗は出てしまへ青の木の葉の如くなりてむ
(335) かへるさや酒の飲みたくなりゆくをぢつとはぐくみ居るよ電車に
 朝さすや買うてかへさにしほれたる夏草の花を一りんぎしへ
 皿煙管ソースお茶などときどきに買ひあつめ來て部屋を作れる
 わがくせのながいかはやも何とやらたのしみとなり爲す事もなし
 忘れ居し一りんざしの夏花にしんみりとする午後のひとりよ
 朝の飯《めし》すごすまじいぞこの心しんみりとゐて筆とりてまし
 わが好きの眼とづるに似し心地今日もふらふら芝居見にゆく
 指先に拭けばなみだにほんのりと汗もまじりて夏はわびしき
 夏の日の芝居の笛のかなしさよはやく夜となれ曇り日となれ
 友はみな兄の如くも思はれて甘えまほしき六月となる
 水無月や木々のみづ葉もくもり日もあをやかにして友の戀しき
(336)      六月末、多摩川の上流なる御嶽山に登りぬ。歌八首
 鐵道の終點騨の溪あひの杉のしげみにたてる旅籠屋
 あをやかに山をうづむる若杉のふもとにほそき水無月の川
 多摩川のながれのかみにそへる路麥藁帽のおもき曇り日
 頬《ほ》につたふ涙ぬぐはぬくせなりし古戀人をおもふ水上
 搖るるとなく青の葉ずゑのゆれて居る溪の杉の樹見つつ山越ゆ
 ふるへ居る眞青の木の葉つみとりて瞼にあつる、山はさびしも
 おく山の木かげの巖にかかりたるちひさき瀧を見つつ悲しき
 山禰宜の峰の上《へ》の家のあさゆふのさびしき飯《いひ》を三日《みか》食《は》みにけり
        〇
 夏の部屋うつとりと檜本かさねたる膝のほとりの朝のなやみよ
(337) なかなかに繪を見ることもこの朝のおちゐぬむねにかなしかりけり
 死にゆきしひとのゑがける海の繪の青き給具に夏のひかれる
 けふも晴るるか暗きを慕ふわがこころけふも燃ゆるか葉月の朝空
 夏はいまさかりなるべしとある日の明けゆくそらのなつかしきかな
 やはらかき白き毛布に寢にもゆく晝のなやみか佛蘭西へ行く(山本君を送る)
 巨いなる蜂わが汗の香をかぎて身をめぐり居り啼聲さびし
 わが薄き呼吸《いき》も負債《おひめ》におもはれて朝は悲しやダーリアの花
 うつとりとダリアの花の咲きて居りひとのなやみを知るや知らずや
 肺もいまあはき勞《つか》れに蒼むめりダリアの圍の夏の朝の日
 とほり雨朝のダリアの園に降り青蛙などなきいでにけり
 とほり雨過ぎてダリアの園に照る葉月の朝の日いろぞ憂き
(338) 夏深き地《つち》のなやみか誘惑か、朝日かなしも、ダーリアの咲く
 夏の園花に見入りてつかれたる瞳のまへを朝の蝶まふ
 夏の樹にひかりのごとく鳥ぞ啼く呼吸《いき》あるものは死ねよとぞ啼く
 
 みなかみ
 
     本書を亡き父に捧ぐ
 
(341) 本書の初めに
 
 本書には大正元年九月ころから詠み始めて、翌二年三月に及ぶ約半年間の作歌五百餘首が輯められてある。即ちわが前歌集「死か藝術か」に続くものである。その半ケ年を中心に前後約一年間、私は郷里日向國尾鈴山の北麓に歸つてゐた。父の病氣、父の死亡、及び久しくうち捨てておいた家事の整理などに烈しく心を痛めながら作つてゐた歌である。
 分たれた五章は歌の出來た時の順序を示したものである。なかで、初めの一章などは從來の我が詠みぶりと大差がないが、次の「黒薔薇」以後に及ぶと、よほど其處に變化が起つて來てゐる。
 この變化に就いて自ら多少の説明を加へたい心地もするが、今はまだそ(342)の時でないと思ふ。そして此等の作の價値はとにかく、斯くの如き傾向の生じたことは、私の歌の歴史にとり強ち無意味のことで無いと私は自ら信じてゐる。尚ほこの事に關しては廣く一般の批評意見を聽きたいものと望んでゐる。私の心中に斯ういふ變化の起りかけてゐたのは決して昨今のことではなかつた。然し昨年偶然父の病氣のために郷里に歸つて、苦痛ではあつたが極めて清純な孤獨の境地に身を置くことを得たために、かねてから芽を出しかけてゐた希望が殆んど何の顧慮障礙なくして自由に外に表れて來たといふかたちであつた。單に歌に對するのみでなく、自他の生活に對する考へなども餘程よく變つて來たと認めらるることを、本書の出版に際して私はわが郷里の山河に感謝したい。尚ほ暫く其處に留るつもりでゐたのであつたが、いろいろの事情から今年の五月また惶しく上京して來て(343)しまつた。折角、彼の深山蒼海の間に養はれた尊い心持をむざむざ亡ぼして了ひはせぬかと心痛して居る。
 思ひ出のために、本書に縁ある寫眞三葉を挿入しておいた。父の寫眞は死ぬる前々年あたりのものである。平常極めて健康な人であつたが、昨年の夏七月急に病くなつて床についた。初め半身不隨のやうな容子で、積年の酒毒であらうと皆言つてゐたが、私が歸つて暫くすると、殆んど全快した。十一月十四日の朝、いつも私は毒りだけ二階の部屋に寢てゐたので、その日も何心なく二階から降りてゆくと、勝手の臺所に丹前を着て父が寢てゐる。朝早くから斯んなところにどうしたのだと訊くと、側にゐた母が、なアに昨夜の飲みすぎだらうと笑ひながらいふので私も何心なく戯談など(344)言ひかけて、やがて毎朝やるやうに裏の山に散歩に出かけた。二十分間も歩いたかと思はるるころ姪が泣き聲を張り上げて呼びに來た。驚いて馳け歸つてみると父は既に人事不省であつた。しがみついて呼びたてても聞える風はなく、一言をも發せず、惶しく口うつしに吹き込む水をも嚥み下さず、醫者が來て二三度試みた注射も效無く、終に不歸の人となつてしまつた。病名は腦溢血、年は六十八歳であつた。祖父若山健海の長男で、立藏と呼んだ。祖父の代から翳者で、酒を過すのと我がままなのとで評判はさまざまであつたが、近郷ひとしく彼の技倆をば重んじてゐた。私と違つて彼は甚だ寡言で、飽くまで善良な性質を持つてゐた。そのくせ、幼い山氣を胸に斷たなかつた人で、山林や鑛山などに幾度も手を出して祖父の殘していつた財産をば忽ちにして空費してしまひ、後には家宅庭園の修繕をな(345)す餘裕すら持たなかつた。それで、また平氣なものであつた。私とは親子といふより寧ろ親しい友達といつた樣な關係を保つてゐた。永い間の私の不孝に對しても露ばかり怒るでもなく恨むでなく、終始他に對して私を辯護愛撫することにのみ力めてゐた。一度、病氣も快くなつてゐたので、今年の春には兩人相携へて上京する約束が出来てゐたのである。いろいろな大きな病院を參觀し、いろいろな好い酒と料理とをあさることを子供のやうな彼がどんなに樂しんでゐたであらう。考へだせば、いつもの微笑を失はずに冷たく眠り去つた彼の顔が眼に浮び、いつでも涙が流れてくる。相見、相笑ふことの出來なくなつた今日彼に對する尊敬と愛慕とは荒れすさんだ私の胸の中に日ましに深く浸んで行きつつある。「今日の佛ほど、さまざまな人に泣かれた佛は御座りませぬ」といつて泣いてゐた葬式の日の人々(346)のことすら、なつかしく思ひ浮ばれて來る。
 第二の寫眞にあるのが即ち父の死んだ家、三十年前に私の生れた家である。石垣も塀も門も庭も何年か前に頽れたままに任せてあつて、頽靡そのものの姿のやうだ。第三は南面の家の庭先からやや東に向つて見た峯と溪とである。溪も私などの生ひ育つたころよりずつと水も少くなり、一切苔の深い岩石のみであつた河床が、山林濫伐から來るといふ毎年の洪水で悉くけばけばしい礫原と變じて、いやな溪になつてしまつた。前面の山は尾鈴山の連山の一つで七曲峠といふ嶮しい山なのだが寫眞の具合でたいへん低くやさしく見える。この溪の下流の海に入るところが私の大好きな美々津といふ古い港で「海及び船室」などに收められた海の歌は大方其處で出來たものである。
(347) まことに郷里坪谷村の一年間は、私にとつて今までにない内省的な、割合に豐かな生活を遂げさせてくれたと思つてゐる。その生活の滴りがこの短いかたちの詩のなかに幾分でも落ちてゐてくれれば幸ひであると思ふ。
 今日は八月二十一日、あと三日すれば私の第二十八回目の誕生日に當る。私の上京後、彼の山の家にうつらうつら病んでゐるといふ老母の上にも、四六時中おちつきのない時間にのみ追はれてゐる私自身の上にも、靜かな祝福のあれかしと祈られてならない。
 
     大正二年八月二十一日
                          若山牧水
 
(349) 故郷
 
 ふるさとの尾鈴の山のかなしさよ秋もかすみのたなびきて居り
 朝づく日うすき紅葉の山に照りつちもぬくみて鵯鳥の啼く
 獨りなれば秋の小山の日だまりの朝の日かげを酒と酌まうよ
 ほと照れりわが吸ふほどの風もなき山の窪地の秋の朝の日
 蝋燭のともるにも似む朝づく日かなしき山をわが歩み居り
 眼や病める涙ながれてはてもなし秋の朝日の裏山行けば
 秋のおち葉栴檀の木にかけあがり來よと兒猫がわれにいどめる
 爪延びぬ爪を剪らむと思ひ立ち幾日すぎけむ日々窓晴るる
 まだら黄に枯れゆく秋の草のかげ啼くこほろぎの眸《め》の黒さかな
(350) 草山に膝をいだきつまんまろに眞赤き秋の夕日をぞ見る
 草山にねてあるほどにあかあかと去にがてにすと夕日さすなり
 樹のかげぞながうなりゆく山の瑞の秋の夕日に染みつつ居れば
 阿蘇|荒《あれ》の日にかもあらめうすうすとかすみのごとく秋の山曇る
 ながめゐてなつかしがりしこの山にいまこそ登れなみだのごとく
 血啜るとだにの兒はだに這ふにや似む夕日の山をわが攀ぢのぽる
 浮みいで松のみ青くひかり居りけはしき山の秋の夕日に
 秋の夕日にうかみ煙れる山々の峰かぞへむとしてこころさびしき
 心より落ち散れる葉にものいはむさびしきわれとなる日ありや、森
 秋の山柴にひそめるだにの兒もいまは夕日のいろに染みゆく
 母が飼ふ秋蠶《あきご》の匂ひたちまよふ家の片すみに置きぬ机を
 (351) ふた親もわが身もあはれあかあかと秋の夕日のかげに立つごとし
 いづくにか父の聲きこゆこの古き大きなる家の秋のゆふべに
 まんまるに袖ひきあはせ足ちぢめ日向《ひなた》にねむる、父よ風邪ひかめ
 父よなど坐るとすればうとうとと薄きねむりに耽りたまふぞ
 とりわけて夕日よくさす古家の西の窓邊は父のよく居るところ
 ほたほたとよろこぶ父のあから顔この世ならぬ尊さに涙おちぬれ
 父よいざ出でたまへたすけまゐらせむこの低き岡越ゆることなにぞ
 わがそばにこころぬけたるすがたしてとすれば父の來て居るてと多し
 さきのこと思ふときならめ善き父の眉ぞくもれる眉ぞ曇れる
 親と兒のなかのかなしき約束の解かれぬままにいま朽ちむとす
 秋の日あし追ひつつうつる群をおひ父ひもすがら蠅うちくらす
(352) 二階の時計したの時計がたがへゆく針の歩みを合はせむと父
 父がのを聞くがつらさにわれもせし咳くせとなりあらためがたし
 老いふけし父の友どちうちつどひ酒酌む冬の窓の夕陽《せきやう》
 どの爺《をぢ》のかほもいづれもみななつかしみな善き父に似たる爺《をぢ》たち
 かくばかり踏まれてもなほうすうすと青き芽をのみふくとすや生命《いのち》
 蜜蜂も赤く染まりて夕日さすかなしき軒をめぐるなりけり
 痛き玉|掌《て》にもてるごとしふるさとの秋の夕日の山をあふげば
 あかあかと秋の入日にそめられて落穂ひろへる、姪かあらじか
 夕日の家かずをたがへて時をうつ古き時計も生きたるごとし
 なにをかもよろこびとせむふるさとに埋《うづも》るる身は梨腐るごとし
 眼いつぱいに悲しき顔の見えてきぬわれの疲労《つかれ》のなかより來にけむ
(353) 壺のなかにねむれるごとしこのふるさとかなしみに壺の透きと揺れかし
 つるむ小鳥うれたる蜜柑おち葉の栴檀家をめぐりて夕陽してあり
 栴檀の葉に秋のきたるは質《たち》わろき玉のひそひそ光れるごとし
 太陽にむかひしがめつくせるわがつらの皮膚のこはばりも朝はうれしき
 園には鷄蜜柑朝の日枇杷のはな父がたちいで摘める柚子の實
 しんしんと頭《かしら》痛めり、悲しき幻影、輝ける市街の停車場の見ゆ
 しんしんと頭痛めり、悲しき幻影、下の關の海峽に高き窓つくる
 憎まれ者のわれに媚びむとするこころにやわが部屋に鏡臺を置くといふ姪
 鰯のみ食ひつつ幾日すぎにけむ栴檀の葉の日々散る家に
 煙草の灰がぽつたりと膝におちしときなつかしき瀬の音聞えくるかな
 おお、夜の瀬の鳴ることよおもひでのはたととだえてさびしき耳に
(354) 一ところ山に夕日のさせるごとく東京の市街をおもひてぞ居る
 寸ばかりちひさき繪にも似て見ゆれおもひつめたる秋の東京
 數寄屋橋より有樂座見るものごしにこころをなしておもふ秋の市街《まち》
 相模の港津の國のみなといづくもみな秋となるらむ旅をしぞおもふ
 一りんの冬の薔薇《さうび》のうすくれなゐなつかしきものに手にもとるかな
 冬の薔薇われを憎める姉の娘が折りてあたへしくれなゐ薔薇
 わが園の山梔子の實の日ごと黄《きいろ》くなりまさりゆき雪も降らず居り
 くちなしのちひさく黄なる實をふたつにさけば悲しき匂ひ冬の陽に出づ
 わが生《よ》は浪、海のなかなるひとつの浪まつさをの浪ゆたゆたの浪
 久しくひかりを見ざる眼のごとくそこひ痛みて友のこひしき
 爲すことみな悔とならざるなき我が日今朝も新しく輝きてあり
(355) 薔薇《ばら》の花びらのごとく鮮かに起きてあり薔薇の花びらのごとく冷たき朝に
 愛すべきは朝の光線なりまことに光線にむかへる我が疲れし瞳なり
 さるにても不思議なるはわが健康かな鐵の碎片《かけら》のいよいよ黒く輝けるごとし
 くだもののごとき港よ横濱の思ひ出は酸く腐り居にけり
 とある旅館の窓の硝子にうつりゐし秋の港の朱の帆黄なる帆
 黒き帽子黒き背廣着て街路《まち》ゆくとありめづらかに來し友のたよりに
 さなりげに都は冬のつめたくて汝が戀人も輝きてあらむ
 健康の完かりせばこのさびしさ消えむかとおもふ、朝、冷えし鏡
 あはれ悲し玉にくもりのなきごとく健かならむ健かならむ
 われを恨み罵りしはてに噤みたる母のくちもとにひとつの齒もなき
 斯る氣質におはする母にねがはくは長き病の來ることなかれ
(356) 母が愛は刃のごときものなりきさなりいまだにそのごとくあらむ
 そそくさと夕陽にうかみ小止みなく働く庭の母を見じとす
 夕されば爐邊に家族つどひあふそのときをわれはもとも恐れき
 母にも姉にも對座をいとふ臆病のわれのこころの澄みたるかなや
 飲むなと叱り叱りながらに母がつぐうす暗き部屋の夜の酒のいろ
 わづかの酒に醉ひては母のつねに似ずくちかろく、夜のかなしかりけり
 猫が踊るに大ぐちあけてみな笑ふ父も母も、われも泣き笑ひする
 あはれ今夜《こよひ》のごとく家族のこころみな一いろにあれ一いろにあれ
 姉はみな母に似たりきわれひとり父に似たるもなにかいたまし
 くちぎたなく父を罵るる今夜《こよひ》の姉もわれゆゑにかとこころ怯ゆる
 あはれみのこころし湧けるときならむしみじみものいふ母の悲しも
(357) 母をおもへばわが家は玉のごとく冷たし父をおもへば山のごとく温かし
 くづ折れてすがらむとすれど母のこころ悲哀に澄みて寄るべくもなし
 こころより母を讃ふるときのありそのときのわれのいかにかなしき
 うちつけにものいふことをも恐れ居るその兒をなほし憎みたまふや
 なま傷にさはらぬやうに朝夕の世間話にも氣をおく納戸
 ひとを憚りてわれを叱れる父の聲きかむとして先づ涙おちぬれ
 父と母くちをつぐみてむかひあへる姿は石のごとくさびしき
 家に出づる羽蟻の話も案のごとくこの不孝者のうへに落ち終りけり
 母、姉、われ、涙ぐみたる話のたえま魚屋入り來ぬ、魚の匂へる
 なぜに斯く蜂多きならむわが家の軒のめぐりは蜂ばかりなり
 斯くおほく蜂に見馴れてはいつしかに友だちのごともおもはるる、冬
(358) 醉ひざめの水の飲みすぎしくしくと腹に痛みて冬の朝來ぬ
 ときどきに部屋より出でて身に浴ぶる冬の日光のうす樺いろよ
 帽子なしに歩くくせつきしふるさとの冬の日光のわびしいかなや
 母の聲姪の泣くこゑとりどりの肉聲さびしわが家《いへ》の冬
 西の窓の障子の紙が血のごとく夕陽にぞ染む父の背後《うしろ》に
 鷄ぬすむ猫殺さむと深夜《よふけ》の家に父と母とが盛れる毒藥
 泥棒猫をころして埋むる山際の金柑の根のつちの荒さよ
 死んだ猫をさげし指さきに金柑をつみてくらへどきたなしとせず
 ほとほと不要となりし父のテーブルを借りきて二階の窓邊にぞ据ゆ
 前の山より照りかへす冬の日光のしづけき明るみ包めり書齋を
 その障子もこの窓もみなしめきりて冬の夕陽に親しみて居り
(359) 椅子ながら山々の間《あひ》の落日を見居れば、二階、父の入り來ぬ
 葉よりさらにみどりに透けるちさき蟲薔薇の葉に居りき、夕陽に透ける薔薇に
 花いちりん葉が三四枚まがりくねれる九寸ほどの薔薇よ、この冬の薔薇よ
 薔薇の葉を喰ふ蟲を見出だしこの部屋のなにやら明るくなりし思ひす
 夕陽のかげちひさき黒き蟲のふん机に散りてあり、薔薇に蟲居り
 鹿の角を十四五本もなげ入れし古びし箱を見いでけり、朝
 父が獵《か》りしものなりと云ふ鹿の角眞黒くすすけ寶石に似る
 低聲《こごゑ》に卑俗なる唄うたひつつ夕陽の椅子を離るるはよき
 褪せてちればつぎなる小枝さして置く薔薇とわれとの冬の幾日
 斯くあきらかに秋の日光がわが肌にさせるは痛き冷笑に似たり
 わが肌に觸るるもの眼にうつるものいづれか痛き冷笑にあらざる
(360) 信ぜむとねがひ信じたりとおもひ思へどもこころの何處《いづく》にか細き風吹く
 わが朝夕の生活をうすき板のごとく思ひて裏より覗かむとする
 はたと踏みつけむわが生の地にも斯《こ》のごとき冬の夕陽が散りてあるべしと思ふ
 わが窓に黒き幕來て垂れてあり汝が生《よ》を靜かにはぐくめよとて
 梟のごとくわれを見守るもあり、杜鵑《とけん》の如くかすめ行くもあり、悔ぞ群れたる
 起き出でて戸を繰れば瀬はひかり居り冬の朝日のけぶれる峽に
 今朝もよく晴れたり、今し朝食後の散歩に趨ゆるちひさき冬の山
 五日がほど讀書に過ぎぬ、つかれたる暗き頭に親しきこの冬
 靜かなれ冬の日、わきてけふ一日、朝よりこころ死せるがごときに
 机のうへの二りんの薔薇にも愛憎の湧く日なり、眼《まなこ》昏《くら》し
 青杉の大枝をさせば北窓の机小暗しわれの讀書に
(361) 山河みな古き陶器のごとくなるこのふるさとの冬を愛せむ
      十一月三日、今年はすでに天長節の日にあらず、悲しみてうたへる歌三首
 曇りなき十一月三日の空の日のかなしいかなや靜やかに照る
 かしこしやこの一もとの菊にさへ大御心ののこれるごとき
 野に生《お》ふる草山にそびゆる樹のごときこのこころもて悲しみまつる
 
(362) 黒薔薇
 
 納戸の隅に折から一挺の大鎌あり、汝《なんぢ》が意志をまぐるなといふが如くに
 飽くなき自己虐待者に續《つ》ぎ來たる、朝、朝のいかに悲しき
 新たにまた生るべし、われとわが身に斯く言ふとき、涙ながれき
 靜かにいま薔薇の花びらに來て息《いこ》へるうすきいのちに夜の光れり
 こころづけば鏡に薔薇がうつりてあり、つとわが顔の動けるそばに
 ふと觸るればしとどに搖れて陰影《かげ》をつくるくれなゐの薔薇よ冬の夜の薔薇よ
 ひらかむとする薔薇、散らむとする薔薇、冬の夜の枝のなやましさよ
 はち切るるごとき精力を身に持ちたしと呼吸《いき》をぞとむる、薔薇のくれなゐ
 わが生存力はいまだ火を知らざる如し、油に黒く濡れて輝けど
(363) 傲慢なる河瀬の音よ、呼吸《いき》はげしき灯のまへのわれよ、血のごとき薔薇よ
 悲しみとともに歩めかし薔薇、悲しみの靴の音《ね》をみだすなかれ薔薇
 吸ふ呼吸《いき》の吐く呼吸のわれの靜けさに薔薇のくれなゐも病めるが如し
 わがかなしさは海にしあればこのごとき河瀬の音は身に染まず、痛し
 やうやくに馬の跫音《あおと》のきこえきぬ悲しき夜も明けむとすらし
 日に蒼みゆく神經質になりゐしにふと心づきぬ、とある冬の朝
 饑ゑたる蟲幹にひそめる樹のごとくわが家の何處《いづこ》にか冷たさのあり
 愛すべきただ一りんの薔薇あり、この日のわれの靜かなるかな
 斯る孤獨に我が居るときに見出でたる一りんの薔薇を愛でも惱める
 薔薇を愛するはげに孤獨を愛するなりきわが悲しみを愛するなりき
 虚《むな》しき命に映りつつ眞黒き玉のごとく冬薔薇の花の輝きてあり
(364) われ素足に青き枝葉の薔薇を踏まむ、かなしきものを減ぼさむため
 薔薇に見入るひとみ、いのちの痛きに觸るるひとみ、冬日の午後の鬱憂
 悲しみの影も滅びつ、見入りたる一りんの薔薇の黒くしぞ見ゆ
 古びし心臓を棄つるがごとくひややかに冬薔薇のくれなゐにひとみ對へり
 聞き馴れては蟲もどこやら鑛物の音するごとし、もはや冬なり
 愛する薔薇を蝕ばむ蟲を眺めてあり貧しきわが感情を刺さるるごとくに
 机の前の夜の山よりまひて來し濃みどりの蛾のとびてやすまず
 日光が行燈のごとく灯のかげがわが心の光明の世界に似たり
 灯を消すとてそと息を吹けば薔薇の散りぬ、悲しき寢醒の漸く眠りを思ふ時に
 わが悲しみは青かりき、水のごとかりき、火となるべきかはた石となるべきか
 わが煙草の煙《けむ》のゆくとき、夕陽の部屋薔薇はかなしき鬱憂となる
(365) しづかなる休息、冷やかなる休息、この木漏日のごとき休息
 この冬の夜に愛すべきもの、薔薇あり、つめたき紅ゐの郵便切手あり
 ひいやりと腰のあたりがなにものにか觸れしがごとくくづるる冥想
 疲れしにや、いないまやうやく痛める眼《め》にかなしき朝を見むとするなり
 わが孤獨に根を置きぬればこの薔薇の褪《あ》する日|永久《とは》にあらじとぞ思ふ
 思ひつめてはみな石のごとく黙《つぐ》み、黒き石のごとく並ぶ、家族の爭論
 ゆふぐれのわが家の厨の喧燥は古沼のごとし、西に高き窓
 家のいづくにか時計ありて痛き時を打つ、陰影《かげ》より出でよ、出でよとて打つ
 窓よ暗かれ、わが悲しき孤獨の日に、机のばらのさむきくれなゐ
 ついと眼《め》を外《そら》して、つとめの如く薔薇を見る、愛する讀書にも尚ほ耽り得ずや
 黒鐵のごとき机に身を凭せて薔薇にひややかに眺め入りたる
(366) わが孤獨の悲しみにひそかに觸るるごとく、冬の夜の薔薇にうちむかひ居り
 懷疑は曇れる日の海のごとし、痛きにほひにいのちもまた曇るなれ
 昨夜《よべ》のわれとこよひの我と肉體のほかいづくに係《かかは》りありて生けるにや
 あるがままを考へなほしてみむとするこころと絶對に新しくせむとする心と
 ひとの眼の哀樂はただよく描《か》かれし布の上のつめたき繪なり
 ともし斯くもするはみな同じ、やめよ、さらばわれの斯くして在るは
 いづれ同じことなり太陽の光線がさつさとわが眼孔を拔け通れかし
 感覚も思索もいちど斷れてはまたつなぐべからずつなぐべくもあらず
 窓に倚れば悲哀は朝のごとく明るく、鳥に似てわが命の影もさすなり
 際は悲しめる女の皮膚のごとし、いないなその如くわれもまた悲し
 わが瞳は涙に濡れてかがやき日に照らされし萬象はみな死にて冷たし
(367) 陽を浴びつつ夜を思ふはこころ痛し、新しき不可思議に觸るるごとくに
 脂肪にや額の皮膚のこはばれる或る冬の日の午後、多き蜂
 青やかに光れる鎌ひとつ地の上に在り、足跡はあれど人は見えず、眞晝
 髪延びし後頭部にも居るごとし、一疋の蜂、赤いろの蜂
 斯くばかり明るき光さす窓になにとて悔をのみ思ふらむ
 この山梔子《くちなし》の實に似ても靜かなれかし、何故にわれの斯くあわただしきや
 やや深きためいきをつけば、机のうへ眞青の薔薇の葉が動く、冬の夜
 高き窓より一すぢの薄明り、さすげなれども冷たしわが眼
 窓は傷のごとし、いためるいのちの上に光射すことを恐るればなり
 窓に向ふとき、わが眼古びし蝋のごとくこはばることあり、瞑ぢて居るべし
 窓より光線を見るも厭はし、わが眼松の皮となるに似たれば
(368) 運命とは言はじ、在るがままのこの一りんの薔薇のごとく悲しきもの
 薔薇は薔薇の悲しみのために花となり青き枝葉のかげに惱める
 なめらかにしてあぶらのごとき夜、窓を包めり、窓邊には薔薇とわれ
 ラムプを手に狹き入口を開けば先づ薔薇の見えぬ、深き闇の部屋に
 あまりに身近に薔薇のあるに驚きぬ、机にしがみつきて讀書してゐしが
 冬をしかと捉へてわが皮膚の血を注さむとするがごとき寂しさ
 言葉に信實あれ、わがいのちの沈黙より滴り落つる短きことばに
 忘れものばかりしてゐるやうなおちつきのない男の机の鮮紅薔薇《ウインターローズ》
 さうだ、あんまり自分のことばかり考へてゐた、四邊《あたり》は洞《ほらあな》のやうに暗い
 自分のこころを、ほんたうに自分のものにするために、たびたび來て机に坐るけれど
 全く自由な絶對境がないものなら、斯うして眺むる薔薇はうつくしい
(369) 晝は晝で、夜は一層薔薇が冷たいやうだ、何しろおちつかぬ自分の心
 と思ふまに薔薇がはらはらと散つた、朝、久しぶりに凭つた暗い机に
 ぢいつと薔薇に見入るこころ、ぢいつと自分に親しまうとする心
 薔薇を貰ひに隣家へ姪をやつた、人知れぬ涙ぐましい心地で
 北向きの暗い机にたびたび來ては坐るがすぐ讀書にも疲れる
 斯うしてぢいつと夜のばらを見てゐるときも心は薔薇のやうに靜かでない
 薔薇が水を吸ひやめたやうだ、玻璃《がらす》の瓶《びん》の冬のばらが
 しかたなさにばらを見てゐるのかも知れぬあかい薔薇、つめたい薔薇
 考へだせばみなからつぽのやうに思へてくる、机のうへの冬薔薇の美しいこと
 散つてみれば案外な花瓣の大きさ、薄さ、紅さ、冬の夜の机の薔薇
 無論さうして働いてうまい物を食ふのもいい、さうしてゐ給へ、君はほんとに健康《じやうぶ》さうだ
(370) さういふこともあらう、さうであらう、何しろ自分は自分で忙しい
 太陽の光線は地球の表皮だけに功能があるのだらうかなどとも考へる
 自分をたづぬるために孔を掘り、孔ばかりが若し殘つたら
 朝など、何だか自分が薄い皮ででもあるやうに思はるるときがある
 焚火、焚火、焚火に限るやうになつた、このごろの自分に最もふさはしい焚火
 叔父さん、今朝氷がはつたと姪が呼ぷ、さうか眼が痛いほどいい気持だ、寢床
 冷たい、冷たいと心からふるへて爐のそばに寄つてゆく、朝のわが身をいとしいと思ふ
 木の切端を投げだしたやうにめいめいの朝の膳が並んだ、爐には焚火
 ランプの灯は石油のやうな憂鬱で、窓の夜と私とにそそぐ
 さうさ、※[鼠+晏]鼠《むぐらもち》のやうに飲んでやる、この冬の夜《よ》の苦い酒
 眞黒な布《きれ》で部屋を張りつめ、椅子も机も、服までも黒くしたい
 
(371) 父の死後
 
 あなかしこし靜けさ御魂に觸るるごとく父よ御墓にけふも詣で來ぬ
 御墓にまうでては水さし花をさす、甲斐なきわざをわがなせるかな
 この墓場のつめたきもなにかなつかしく樒の木かげを去《い》にがてにする
 冷たき、見知らぬ境に入るごとくけふもひそかに墓場にぞ來ぬ
 樒のみ茂れる墓場、くらき墓場、此處にしもつひにねむりたまふか
 御墓ちかづく、墓場小暗き坂みちにこころは黒き玉とかがやき
 あわただしく薔薇を摘みきて挿しぬ、父逝きてのちのわれのいとしさに
 父の死後、いまだ十日を出でず、わがこころ川原の砂の白くすさみたり
 喪の家の爐邊《ろへん》、榾火のかげに赤き母が指姉がゆぴ我が指のさびしさよ
(372) わが厨の狹き深き入口に夕陽さし淵のごとし噤みて母の働ける
 ものいはぬわれを見守る老母の顔、ゆふぐれの爐邊のうす暗きよ
 いろいろに考ふれど心に染むことなし、來む明日さへ、おもへば恐し
 わが幸福の裏には常にわれを見守る冷笑あり、薄き朝のひかりのごとく
 空にひくき冬の朝の太陽、底無しのさびしき夜より出でて來しわれ
 起きいづれば太陽はとく峰にあり、氷れる溪にのぞみたる家
 唖を見て笑はずにゐられぬほどに浮きたちし心は今朝の空よりも碧し
 思ひだしたやうに水仙が匂ふ、水仙が匂ふ、朝の讀書の机に
 朱欒の實、もろ手にあまる朱欒の實、いだきてぞ入る暗き書齋に
 明るき山かな、朝の日のさせり、病める鳥かも、木の根にぞ啼く
 薔薇を手近に寄せぬ、闇夜の雷鳴に氷のごとくふるへ居るこの机よ
(373) 雨のなかの冬の樫の樹、灯《ひ》の窓より樫にむかへる薔薇のくれなゐ
 紺いろの小鳥をたなごころにそつと握り放たじとする、死んだこころ
 なんとやら頭ばかりが重たうて歩きにくかりぐつと踏みしめむ
 飴のやうに粘土のやうに、このこころ成れ、いろいろに細工してみむ
 やす鏡、てらてら鏡、青い鏡に伸びたり縮んだり、我がこころ
 この繪のやうにまつ白な熊の兒となり、藍いろの海、死ぬるまで泳がばや
 きゆうとつまめばぴいとなくひな人形、きゆうとつまみてびいとなかする
 要するにうその話、うたはうたへどわがこころ身にやどらず
 啼け、啼け、まだ啼かぬか、むねのうちの藍いろの、盲目《めしひ》のこの鳥
 安心できるやうな大きな溜息を吐かうとて背延びしたれば、頭痛めり
 冷ゆればすぐに風邪をひく、あはれにもたしかなるわが皮膚かな
(374) 饑ゑて一片の※[麥+面]麭をぬすまむとするごとくわが命の眼《まなこ》ひらけり
 何處より來れるや我がいのちを信ぜむとつとむる心、その心さへとらへがたし
 眼《め》をひらかむとして、またおもふ、わが生《よ》の日光のさびしさよ
 闇か、われか、眼ざめたる夜年の寢床をめぐれるもの、すべて空し
 何にもあれ貪ることに倦みて來ぬ、わびしや友情にも
 地の皮膚《はだ》にさせる日光と、陰翳と、わがいのちの繪具と、正午の新鮮
 死人《しにん》の指の動くごとく、わが貧しきいのちを追求せむとする心よ
 載るかぎり机に林檎をのせ朱欒を載せ、その匂ひのなかに靜まりて居る
 机のうへ林檎とざぼんとのなかに小さき鏡を置き、讀書の疲れを慰めむとす
 三つ四つころがれる朱欒の匂ひに書齋は鬱々として病めり、わが讀書
 酒の後、指忙あぶらの出でてきぬ、こよひひとしほ匂へ朱欒よ
(375) 今朝わが頭は水晶のごとくに澄めり、林檎よ匂へ、朱欒よ匂へ、二月この朝
 ざぼんの實の黄にして大なる、りんごの實のそのそばにして悲しみて匂へる
 みちのくの津輕の林檎、この林檎、手にとりておもふみちのくの津軽
 醉うて居れ、醉うて居れ、ほんとうに醉うて居れ、外目《よそめ》をしながら心が斯う呟く
 靜座に耐へられなくなれば、ついと立つ、立つて歩く、貧しい心そのもののやうに
 人がみなものをいふうとましさよ、わがくちびるのみにくさよ
 盡くるなき怠屈のうちにあれかしと思ふ、死人のゆぴの動く勿れかしと思ふ
 わがたいくつの夜《よ》に蟇《しき》の啼くが聞ゆ、雨もまばらにわが心にふりそそぐ
 疲れたるか頭よ、かすかに耳鳴りのする、耳鳴りのする、いで床へいそがむ
 空洞《うつろ》なるわがからだにも睡眠《ねむり》をおもふ時の來ぬ、したしき夜よ
 何にもあれ、はや塗らむとぞおもふ、甕を溢るるつめたき繪具、悲しき心
(376) 氣に入つた甕でもあらば、甕のかたちに、はやなりなまし、わがこころ
 身ぶるひをする藍いろの小鳥、そのやうにわれの心も、いざ、身ぶるひをせむ
 こころの闇に浸みる瀬の音、心のうつろに響く瀬の音、瀬の音、瀬の音
 溪のおとはいよいよ澄みゆき夜《よる》もふかめどいづくぞやわがこころは
 もとめて得ざるものなしといへる人あり、すべて空しといふ人あり、群れるかな
 死を感ぜよ、まことにひとり生けるごとき命を感ぜよ、まことに感ぜよ
 裂けばとてこの古甕になにものの入りてあるべき入りてあるべき
 
(377)    海及び船室
 
       一月初旬より二月初旬にかけ、九州の沿岸を一周せり。歌四十五首
 
 闇のうちにあまた帆ぞ鳴る、帆ぞ動く、わが汽船の漸く動き出でむとする港に
 船室の窓よりやはらかき朝日きたる、いでわがいとしき麥酒を呼ばむかな
 濤よりの反射か、船室の朝日の搖るることよ、やはらかきことよ
 身體《からだ》は皮膚のみのごとくつかれたり、船室の窓よりかなしき朝日きたる
 酒後の身を朝日が染め、船が搖る、甲板《でつき》あゆめば飛魚がとぶ
 飛ぶ、飛ぶ、とび魚がとぶ、朝日のなかをあはれかなしきひかりとなり
 太陽のこなたに帆が見ゆ、かげりて黒く死せるごとき帆
 すれすれに岬の絶壁を過ぐ、わが船室の時計のおと
(378) 風出でて浪ぞ立つ、朝日いまだ低くして陰翳《かげ》のみ多き海に
 わが顔にまともにさせる濃き朝日、船は搖れに搖れ、濃き朝日
 親船をはなるる艀、ゆらゆらと晝のみなとに浮びいでたれ
 船のかがみにうつる額の蒼さよな、旅なるわれの眼の痛さよな
 朝の甲板《でつき》にぎあざあとして水そそぐ、濃き陽のなかの四五の萌黄服
 防波堤に群れゐて市街《まち》のひとあそぶ、晝のみなとにうかべるわが汽船(別府港三首)
 艀なるわれ等見つめてかき噤み眞晝の波止場ひと群れて居り
 汽船《ふね》おりてしき石踏めばしんしんと腦にぞひびく、晝のみなと市街《まち》
 乘換驛、待ちゐし汽車に乘りうつる、窓にま白き冬の海かな(小倉驛)
 大海の荒の岸邊の浪のかげに人群るる見ゆわが冬の汽車
 汽車の窓べに蜜柑の皮をむきつつも身をかきほそめ昨夜《よべ》のこと悔ゆ
(379) 松の青さよ、とある悔をばおもひいで眼《め》の痛きときわが汽車の窓に
 風たてば有明の海は大いなる白き瀬となるわが小蒸汽船よ
 有明の海のにごりに鴨あまたうかべり、船は島原へ入る
 冬雲のかげりに暗き島、岬、憂き島原へわが船は入る
 船に乗り海を渡る、なんのたのしみぞ、船に乘り縁もなき海を渡る
 眼に膜の破りたらむごとき心地して島原へ行く船にわが在り
 何のために此處には來にけむ、何處《いづく》に居るも心になんの變りあるべき
 島原は海にうかべるかなしみか、宿屋のてすり、倚ればつめたき
 島原の宿屋にこもり晝も出でず、ひとりしわれをはかなみて居り
 あはれ此處にもはかなき記憶を刻まむとしはかなき行ひをわがするなりき
 風も凪ぎゆふべとなれば有明の海はあぶらの如し、憂鬱
(380) うるはしく笑ふものかな、笑ふなかれ、わがさびしきに相觸るるなかれ(【遊女深雪】)
 箱崎の濱のしら砂ふみさくみ海のなかみち見ればかなしも(海の中道は岬の名なり)
 博多なる冬の黒さよ、わが瞳、水の暗さよ、灯《ひ》のつめたさよ
 國ざかひ冬枯山のいただきを搖れまがりつつ行けるわが汽車
 櫻島はけむりを吐かぬ島なりき、あはれ死にたる火の山にありき
 梅寒き宿屋の二階、すみの部屋、夕日の薩摩明らけく見ゆ
 醉ひざめのこころの水のごとかるに痛しや夕日あかあかと浸《し》む
 海の黒さよ、ほそぽそとしてうかぴたる佐多の岬の夕日の濃さよ
 浪高み船のあゆみの遅さよな、みさきの端《はな》の白き燈臺
 入りゆけば港はおもきらくじつに鴎のむれも灰色に見ゆ
 やよ窓に灯をともすなかれ、海はいま薔薇いろに暮る、やよわが黒船
(381) やよ老人、いま船室には君とわれのみ我がさかづきをねがはくは受けよ
 船は搖るれども歩むともなし、窓に黒く月夜の陸《くが》が見ゆれども動かず
 あはれ悲し、いで衣服をぬがばやと思ふ、海は青き魚のごとくうねり光れり
 あまり赤く、あまりあまきこの蜜柑かな、海はをんなに似て青く動く日
 心のみいらだちて身はガラスの玉のごとし海は動く、ななめに動く
 身ぞ染まる、青き笑、人魚の笑、海死にてわが眼《め》石のごとく盲ひたるに
 絶壁を這ひあがる、黒き猫とや見えむ、いまかなしき絶壁を這ひ上る
 とかくして登りつきたる山のごとき巨岩のうへのわれに海青し
 岩角よりのぞくかなしき海の隅にあはれ舟人ちさき帆を上ぐ
 孤獨よ、黒鐵《くろがね》のごときこの岩の上にあざやかに我が陰翳《かげ》を刻め
 さかしくも孤獨のひとみの輝くことよ、黒鐵なせる岩の間に
(382) かなしくも海に濡れたるわがいのち、わが孤獨、あはれ太陽よりかくれまほしき
 悲しみに身もいらち、黒く巨いなる岩のかげに尿《いばり》をぞする、青き浪の中に
 うれし、うれし、海が曇る、これから漸く私のからだにもあぶらが出る
 蜘蛛が海よりも大きく見ゆ、眼のまへに松よりさがりし蜘蛛
 岬なる鬱憂の森、海は病み、ただ一羽かなしき鳥まへり
 身體は一枚の眼となりぬ、青くかがやける海、ひらたき太陽
 岩のあひだを這ひて歩く、はだしで、笑ひて、浪とわれと
 鵜が一羽不意にとびたちぬ、岩かげの藍いろの浪のふくらみより
 下駄をぬいでおいたところへ來た、これからまた市街へ歸るのだ
 岬の森よりしぶしぶ歸らむとすれば、港の市街にかなしき汽笛鳴る
 この帆にも日光の明暗あり、かなしや、あをき海のうへに
(383) 水平線が鋸の刃のごとく見ゆ、太陽の眞下の浪のいたましさよ
 太陽の具合で海がわが額の皺のやうに襞をつくる、呼吸《いき》の苦しいこの窓
 わが窓の冷たさよ、海はけふ實《げ》にいく度か色彩《いろ》を變へけむ
 少女よ、その蜜柑を摘むことなかれ、かなしき葉のかげの
 ひややかに海より廣き帆の來りぬ、港の旅館の窓のまへに
 微雨のなかに鳥まへり、海の蒼さ、冷たさ、やうやく夜《よる》とならむとするこの窓
 光無き海、濃き藍色にたたへたり、雨晴れむとして一羽のしろき鳥
 闇夜の波は戀するをんなの指のごとし、小ラムプとわれとの窓のしたに
 窓から下を見おろす、つめたい夜がうなじにも背にも
 わがこころ、今し鵜のごとくかへり來よ、夜の窓、濤のひびきのみ滿てるに
 精力を浪費するなかれ、はぐくめよと涙しておもふ、夜の濤に濡れし窓邊に
(384) 闇に眼の馴れぬあひだの港の市街《しがい》、戸出づれぼ濤の四方《よも》にくだくる
 かなしき月出づるなりけり、限りなく闇なれとねがふ海のうへの夜《よる》に
 とある雲のかたちに夏をおもひいでぬ、三月の海のさぴしき紫紺
 春の日の眞黒き岩にあふむけにまろがりて居れば睡眠《ねむり》さしきたる
 太陽にあたためられしこの黒きおほいなる岩にいざやねむらむ
 白き猫そらになくがにあをうみの春日のかげに啼き居る鴎
 われ知らずうたひいだせるわが聲のさびしさよ、春日《はるび》紫紺いろの海
 淫慾は冷たかりけり、濃くうすくわが身のうへに照りかげりする
 這ひあがり岩のかどより海を見る、さびしき紫紺、さびしき浪のむれ
 をちこちに岩のとがれる、陰翳《かげ》おほき午後四時の紺の海となりにけり
 岩かどに着物かきさき爪をやぶりきりぎしを攀づ、椿折るとて
(385) 潮引きてつかれはてたる岩かどにせまき海見え浪のうごける
 油なし浪ぞねばれる、曇り日の海に群れたる海女のをとめ等
 高まりたかまりつひに碎けずにきえゆきし曇り日の沖の浪のかげかな
 わが頬のかすかの熱や、小窓より海見てあれば蝙蝠のとぶ
 なみ高し、雨後の春日をはらみたる綿雲のかげにみさご啼くなり
 石のごと首つきいだし二階なる窓に海見つつ疲れはてにけり
 げにながく見ずありけりと海を見にうちいでてきぬこころを運び
 夜の海あぶらのごとく油繪のごとく孤獨をかなしましむる
 春のうみ魚のごとくに舟をやるうらわかき舟子《かこ》は唄もうたはず
 海を見てあり、海に染められわがこころしばしいろづく、海を見てあり
 太陽を拜まむ、海もそらもひとつ色なり、いま太陽ををろがまむ
(386) 太陽をたのしめとふと心に言ひておどろきて涙ながれぬ
 椿の花、椿のはな、わがこころもひと本の樹のごとくなれひとすぢとなれ
 紺いろの干潮《ひしほ》の海はわがこころの淺きにも似てもの憂かりけり
 わぴしき濱かな、貝がらのくづ砂のくづいざやひろはむ、海も晴るるに
 夜の雨しじにふるなり、沖津邊はかすかにひかりかすかに光る
 よるの雨そこともわかぬ海岸にほのじろき泡のつづくなりけり
 わがたましひのはしに悲しく染まり居る海の蒼みよ、夜となりにけり
 潮引きてあらはれし岩に鴎居り空みて啼けば下りくるがあり
 おのづから盲目のごとく岩を踏む、海見れば湧くおもひさぴしも
 夕陽に透き浪のそこひに魚の見ゆ、あるまじきこと思ふべからず
 黙然と岩を見つめておもふこと、ひとに告ぐべききはならなくに
(387) 手に觸るるわびしき記憶苦き悔岩をめぐりて浪ぞむらがる
 古き繪の布《きれ》のやぶれにのこりたるわびしき藍の海となりにけり
 日本語のまづしさか、わがこころの貧しさか海は痩せて青くひかれり
 太陽かがやき引しほの海は羽あをき一羽の蝶となりてうごかず
 をんなの匂ひなりけり、ふと雲がわたれば海のあをくかげれる
 たらたらと砂ぞくづるるわが踏めば砂ぞくづるる、あゐ色のうみの低さよ
 一灣《いちわん》の海の蒼みの深みゆきわが顔に來て苦痛とぞなる
 海もまた倦むらし、わが靈魂は曇らむとす、いづくに動き行かむとするや小蟹よ
 木の葉にも盛れるがどとく海は小さし、わが命燃え燃えて、一すぢの青き煙《けむ》たつ
 椿の木、椿の木、わが憂愁にきらきらとひらたき海のうつりかがやく
 天地創造の日の悲哀と苦痛とけふわが胸に新たなり、海にうかべる鳥だにもなし
(388) 陰翳《いんえい》を知らざるかの太陽のほとりよりうまれて雲のおりてくるなり
 けぶりなし搖れゆるる海の反映、陽は黄ばみわが顛の海の反映
 ふと浪にむかひてうすく笑ひけり、あやふき岩を降りはてしとき
 浪のかげより顔をいだせる海女のあり、眼もあをあをと口笛を吹く
 あら砂のすさめるこころ蒼白み海にむかひてうちうめくかな
 海よかげれ水平線の黝みより雲よ出で來て海わたれかし
 岩かげの浪のひとつのふくらみに彼女のかほをゑがき淋しむ
 わが顔の海の反映、一羽のかもめしらじらとしてまひいでにけり
 日光のかげのごとくにちらちらと海鳥あまたむれとべるかな
 鳥のおほさよちひきき波のたちさわぎ海あさあさとかげりきたりぬ
 
(389) 醉樵歌
 
 われも木を伐る、ひろきふもとの雜木原春日つめたや、われも木を伐る
 春の木立に小斧《よき》振ることのかなしさよ、前後不覺に伐りくづしけり
 さくさくと伐りてありしが、待てしばし、しばしはものをおもはざりける
 栂の木のしげれるかげに小半どきあまり小斧ふり伐りたふしける
 春の木は水氣《すゐき》ゆたかに鉈切れのよしといふなり春の木を伐る
 山柴の樫の冬青木《もちのき》のいろいろあるなかに椿まじれるかなしかりけり
 椿の木は葉のしげければぽつたりとつめたき音してつちにたふるる
 わが伐りし木々のみだれてたふれたる青きすがたを見てあるしばし
 ややありて指にはまめのできてきぬもはややめむと木かげに坐る
(390) 青木伐り、つかれて村のむすめたち夜床のくしきはなしをぞする
 さびしさにむすめの群に入りゆけばひとりのむすめわれにいふことに
 峰高み海見をすれば春がすみをどめるをちに青く見ゆかに
 ながめ居ればかすみのをちに見えきたる海あり海のなかに島あり
 あの山この山粘土細工のごとくにも見えきたるなり淋しみて居れば
 人聲ぞとおもへば鴉にありけり春日けぶれるみねの松山
 見おろせばふもとに山の幾うねりうねれるにみな松の生ひたる
 をのへなる松の山こそ明るけれそのまつ山に入りゆく樵夫《きこり》
 そこかしこ山に老木の松をもとめ大まさかりをふるふ男よ
 そのそばに子どもと犬とがついて居り大まさかりを振るきこりのそばに
 つぎつぎに伐り倒さるる松の木をながめて居れば春日さびしも
(391) どよめかしまつたく松のたふれ終りぬ大まさかりの汗ばめるかな
 わな見にとまだきに行けばおはいなる兎かかり居りわれを見て啼く
 わな張りしは椿のかげにありにけりうさぎかかりて椿散り居り
 霞に濡れて黒くつめたく山がせまる、窪地のしげみに雉子《きぎす》待つわれに
 かすんだ山にをりをり風が來る、樹が鳴る、わが手の銃《つつ》のつめたさよ
 つつの音《ね》がわれとわがこころに響く、深夜の酒のごとくひぴく
 我がかなしみに火をつけるやうに、地團太踏みて鳥を逐ふなり
 見知らぬ窪地の灌木原におりて來た、見廻せば、見まはせば春の鳥啼く
 傷つきて鳥かかりたる喬木に攀ぢむとて走《は》せ寄れば、青き樅の樹
 テーブルの上いつぱいに枝はひろがり咲き群がる躑躅、夜の青い瓶《かめ》
 ペンさきに滲み出づるインキ、ふと顔をあぐれば顔をつつめるつつじ
(392) 赤いつつじの咲きみだれた夜のテーブルに洋燈をつけて、すぐ消した
 夜になれば健康の恢復して來るごときわが身體、ラムプのかげの躑躅
 黄色なつつじもあると思ふ、この血のごときつつじのほかに、夜のテーブル
 不眠症ととざさぬ窓と戸外の闇と、ときどき机に落つる赤い躑躅
 わけとてはなくぢだんだを踏んでよろこんでみた、喜んだとてなににならうぞ
 居るところを失くしたこころがうつとりとかなしい日光を見つめて居る
 遠い麓に杉の木がまばらに立つて居る、人の生《よ》にある悲哀《かなしみ》のやうに
 燒酎に蜂蜜を混《こん》ずればうまい酒となる、酒となる、春の外光
 わがこころは極りなし、底もなし、ふたもなし、その心先づありやなしや
 萬葉集、いにしべびとのかなしみに身も染まりつつ讀む萬葉集
 人麿の歌をしみじみ讀めるとき汗となり春の日は背《せな》をながるる
(393) からくりめけるわれのこころのはたらきのはたと止まれり、雲雀うららうらら
 この國に雪も降らねばわがこころ乾きにかわき春に入るなり
 穴《す》だらけのわが心のその穴《す》にこの穴《す》に小鳥が眼を出しぴいとなき、ぴいと啼く
 藍甕《あゐがめ》に顔をひたしてしたしたにしたたる藍を見ばやとぞ思ふ
 鶺鴒が雲雀の聲によく似るとこころに言ひてあふぐ春の日
 氣がつけばこの春はいまだ椿を見ず、くれなゐの花をさびしくおもへり
 曇日のかすみのなかに鳥啼き鶺鴒啼き谿にのぞみてこの窓の高さよな
 ぢつと忍んで見て居れば、蟇が啼く、大きな咽喉をあけて春の日に啼く
 オヤ、そこにも啼く、なかに椎の樹二三本、けららけららと蟇啼きかはす
 蟇《ひき》の眼《め》のかなしさよ、つまが戀しとひたなきに啼くその蟇の眼
 踏めばくづるる山の赤つち、乾いた土、どこにしのんで蟇の啼くぞえ
(394) ほろほろとつちのくづれて蟇の啼く、きりぎしの春のつちのわれめに
 水甕に烙きつけられしつめたい青い裸體畫のやうなわがこころ
 觸れなばただちにものをばわれのいろに染めむ火のごとき心燃えたたず居り
 なやましき匂ひなりけり、わがさびしさの深きかげより鰭ふりて來る
 をんなが濡れた繪具のごとくそばを通る、つめたいさびしい春の一日
 我がうてるうさぎ雉子の肉つねに厨の釘に絶えざり、春暮れかかる
 夜ふけの厨にうさぎの股をさきとりて火にあぶるとき、きたれる孤獨
 なにはあれ第一の峰にのぼらむとかすめる山の背を歩み居り
 深山《みやま》わけ入り朽木の松のふしを掘るその松の節たいまつとなる
 太陽のかげりてゆけば悲しみつ雲いでて照ればよころぴぬ峰のとがりに
 朝の圍爐裡猫もとりわけあまゆるをあやしてあれば啼けるうぐひす
(395) けふも雨ふる、蛙《かはづ》よろこびしよぼしよぼに濡れて櫻も咲きいでにけり
 ねられぬままに起きて机の椅子に凭る、家をつつめる夜の雨かな
 春雨にみかさまさりて谷ぞこを石のながるるねざめてぞ聞く
 春の日のぬくみかなしも、ひたすらに淺瀬にたちて鮎つり居れば
 瀬の鮎子わが痩脛《やせはぎ》もきよらかに寒みいたみて春はゆくなり
 鳥うちのかへさは夜となりにけり山ざくらさへうちかざしたる
 すずしげに顔の感覺はたらけり、のちのつかれをおもはずもがな
 不眠症のラムプのかげのわが夜明、瓦たたきて雨ふりしきる
 夜《よ》の蝶のこの濃ねずみのなつかしや、このいろなせる帽子かぶらむ
 いだ釣ると春の川瀬につどひたるふるさとびとら黒き衣《きぬ》着る
 わが好きはこの灌木の原なれや、高くそびえてかげる樹もなし
(396) くだらぬものおもひをばやめにせむ、なにか匂ふは屁臭蔓《へくさかづら》か
 海いろにうちかげり居りかづら取るとてわがひとり入る尾鈴の山は
 樅に這ふ青きかづらよそのかづら取らむと樅をのぞみつつ行く
 いとながきかづらにありけり青きかづら引けども引けども盡きむともせず
 春の日や老いしかづらのあをあをと葉をつけて居り青かづら引く
 いとながく青きかづらをわれの引く身うちのちからこめてわが引く
 ぬすみする人のごとくにひそひそと深山にひとりかづら引くなり
 わが身十あまりあはせてなほ足らぬふとき樅なりよきかづら生《お》ふる
 かづら生ふるは山の北かげ春の日のにほひもさむき山の北かげ
 青かづら籠《こ》にみちみちぬいまはとてかへらむとすれば山も暮れにき
 
秋風の歌
 
(399) 私の著してきた歌集に、「海の聲」「獨り歌へる」「別離」(前の二集より避拔し更に新作を加へたるもの)「路上」「死か藝衝か」「みなかみ」があつた。今また昨春以来の作数百首を輯めて本集を編んだのである。さうするたびごとに、私は不知不識のうちに小休みなく移りゆく我が生命のすがたをまのあたりに見る思ひがして、一種言ひ難い感想にとらはるるが常である。さきには、歌は直ちに我そのものであつた。今でも無論我を離れての歌は一首もない.然しその間に、單に生命の表現または陰影であるといふより、われとわが生命を批評して居る如き傾向を生じてきたと思ふ。のみならずそれは單なる批評にとどまらずして、われとわれに對する希望や嘲笑や、要(400)するにその向上發展を促がしてゐるものと思はるる。われとわれを生んでゆくに要する一の力であり、その道程であると謂つてよいと思ふ。
 本書の校正に從事してゐる間、どうしたものか私は今までになくしみじみと時のちからを感じた。刻々に來り、過ぎゆく時といふものが自分の血や肉と終始してゐるのをまざまざ見てゐる如きを感じて、思はず慄然とした。さうして、顧みて自分の歌に對し今までと異つた可懷しみと力とを感じ、同時に自己に對し、歌に對し、悲しい慊厭咀咒の情を覺ゆる事實に從來に見ぬものがあつた。とにかく、私はいままた此處にこの集を殘して、更に新たな歩みを續けて行かねばならぬ。希くば留めしものに光あり、我が行くてに光あれと祈りながら、さびしい校正の筆を擱く。
                        若山牧水
 
(401) 夏の日の苦惱
 
 我が赤兒ひた泣きに泣く地もそらもしら雲となり光るくもり日
 ああつひにあか兒は泣《なき》をやめにけり妻の乳くびに喰ひいりにけむ
 膝に泣けば我が子なりけり離れて聞けば何にかあらむ赤兒ひた泣く
 なに故に泣くかよ吾兒よすやすやと寢入ればあはれ吾兒なるものを
 ことさらに泣かすにや子に倦みしにやかたはらにゐて手もやらぬ妻
 妻はしたにわれは二階にむきむきにちさき窓あけくもり日に居る
 片手のばせばとなりの屋根にとどくなりわれの二階のまどのくもり日
 或時は寢入らむとする乳呑兒の眼ひき鼻ひきたはむれあそぶ
 啼きまよひ鳶こそ一羽そらにまへくもり日もわれも流れ流るる
(402) 一枚の亞鉛《とたん》のいたのうす板のきらめき光るわがこころかな
 太陽のありかもしらずひたぐもり曇りかがやき窓あけかねつ
 風くもり蛇の如くに煙這ひ屋並のたうちわが窓をとづ
 ほろほろと遠く尺八なりいでぬこのくもり日のまどのいづれぞ
 涙さへ出でぬ眼なりけりみちばたの石のごとくもとぢし眼なりけり
 油なすものうさつらさほてほてとからだほてれど空を見てをり
 うつうつと浮かずなげかずかなしまぬこのこころ何にならむとすらむ
 梅雨雲の空に渦まき光る日はこころ石とも冷えてあれかし
 憂鬱は饐えてかたなくなりにけり蜘蛛の兒となり這ひ出でよこころ
 あやふきはこころなりけりゆらゆらに甕《もたひ》にまたく滿ちてうごかず
 大いなる呼吸《いき》一つ吐かむねがひにて曇りにおもき窓はひらけど
(403) 夏深しいよいよ痩せてわが好むつらにしわれの近づけよかし
 雜草に花咲くごとくいまのわが脣《くち》より聲のたえず出づるも
 すたすたと大股にゆき大またにかへり來にけり用ある如く
 わが顔は酒にくづれつ友がかほは神經質にくづれゐにけり
 踏みもせよなげうちもせよしかはあれ折れくづれむちから今はわれになし
 とりあぐる事なかれいまはわがこころ疊のちりにまみれをはりぬ
 ぺつぺつとつばきしにけりわが舌になにかほこりのたまれるごとく
 くまもなく探りまはれど指の先頭のなかに觸るるものなし
 おほいなるぱいぷ買ひたし大いなるぱいぷくはへて睡りてありたし
 折しもあれ借金とりが門をうつくもり日の家の海の如きに
 わが皮膚《はだ》に來て濡るる煤煙そのごとくひとりを悲しむ心燃えをり
(404) しくしくと額に汗湧き手足にわきあぷらの如し腐れる海の如し
 時は來ぬ飯をくらへと鳴りいづる市街の汽笛曇りたるかな
 曇り日の光の中に蚋《ぶよ》なきて汗ひややけきわが身をめぐる
      水明君と淺草にあそぷ。歌三首 
 七月のあさくさの晝いとまばらにひとが歩めりわれがあゆめり
 あさくさの曾我の家五九郎のばかづらに見入りてなみだながすなりけり
 鼻のききにたまれるつゆは何ならむわがものうさが泣けるなりけり
      山蘭君とともに醉ふ。歌二首
 朝まだき夏の市街のかたすみの酒場《バア》に醉ひをれば電車すぎゆく
 夜ふけし夏の銀座のしきいしのつめたきを踏みよろぼひあゆむ
 木綿蚊帳わが兒ひしひし泣きいづるあかつきとはやなりにけるかな
(405) 東京の七つ八つなる小娘の眼の小悧巧さわれとあそばず
 いつしかに頭かたぷけ晝のまどとほき電車を聞いてゐにけり
 兒をあやすとねぢをひねればほつかりと晝の電燈つきにけるかな
 わが窓の四方にからむ電線は蜘蛛のやぶれ巣けふも曇れり
 ものいはぬ我にすすむるうす色の晝のひや酒妻もかたらず
 大木の群れて暗きをおもひいで植物園に行かむとぞ思ふ
 植物園にゆかむと思ひ憂しと思ふ晝の電燈ともりたる部屋に
 わが頸のみじかきことを悲しみぬおほいにわれをののしらむとし
 横濱に行かずやといへば言は無く帽子をとりてさきに立つ友
 停車場の大扇風器|向日葵《ひぐるま》のごとく廻れり黙《もだ》せる群衆《むれ》に
 廢驛にならむといへる新橋の古停車場の夏の群衆
(406) 指もてつまめば汗ぞしみらに光り居りはだへさびしや蝉啼きやまず
 くもり日に啼きやまぬ蝉と我が心語らふ如くおとろへてをり
 わが立つや夏の市街のつちほこり麺麭《パン》の匂ひに似て渦をまく
 追ふことを我慢して見むと思ひ立てば蠅くまもなくわが顔を這ふ
 あはれ身はうしは腐れる海ぞこにむぐれる魚か汗湧きやまず
 燻りけぶれる晝の日ざしにかきつぐみ瓜をたづねて夏の街いそぐ
 瓜屋なる主婦《おかみ》よく肥えみせさきに晝の電燈ともりゐにけり
 手にとればたなごころより熱かりき晝の市街のみせさきの瓜
 かきつぐみうましともなくやめもせず大いなる瓜喰みてわがをり
 あまからず酸くさへあらぬ大いなる瓜をはみつつものを思へり
 しとしとに汗は湧けどもうちつけに暑しともなく萎《しな》え居るなり
(407) 瓜食めばそことしもなく汗滲み晝のやぶ蚊の身をなきめぐる
 ものうしやあまりに瓜をはみたれば身は瓜に似て汗ばみにけり
 
(408) 秋日小情
 
 音に澄みて時計の針のうごくなり窓をつつめる秋のみどり葉
 夕かけて照りもいだせる秋の日にさそはれて家を出でにけるかな
 郊外や見まじきものに行き逢ひぬ秋の欅を伐りたふし居り
 かの欅あはれならずや秋風にい群れて蝉の啼きも入りたる
 秋の葉の日に光るかなひそひそと急ぐははやも散りしきりつつ
 かなしきは日の光なり秋の樹にしとどに再葉散りしきりつつ
 今はとて穴にいそげる秋蟲のつめたきこころ憎みかねつも
 秋の森に蝶こそ一羽まひ出でたれやがて青葉にとまりてうごかず
 すずかけの落葉ひろふとかいかがめば地《つち》の匂ひてまなこ痛めり
(409) すずかけは落葉してあり吹くとしもなき秋風のあさの路傍に
 玉に似てこころふとしも靜まりぬ路傍のおち葉踏むに耐へむや
 わがこころの底ひにものを見むとするさびしさのなかにけふもこもれり
 死にゆきしわが戀ごころを繪の如くながめてゐしがやがてかなしき
 食はむとてしばしおきたるうす青の林檎に蜂のとまりゐにけり
 くだものの皮を離れぬ秋の蜂ちさきをみつつ涙ぐみける
 秋の夜栗の話のなかにしてふとふるさとの母おもふかな
 母ひとり拾ふともなく栗ひろふかの裏山の秋ふかみけむ
 秦樹園をさなき木々のもみぢしてうちつらなりて散りてゐるなり
 大いなる鋏の手とめ園丁はわれに木の名を教へけるかな
 朝ぐもりはれゆく空に風見えてさびしさに酒をわがのめるかな
(410) 靜ごころしづかに居よとさしぐまれまなこうつして見やるさかづき
 梨の果の舌ざはりさへうとましきわが靜ごころわが朝の酒
 いつしかに夏はすぎけりきりぎしの赤土原に蟻の這ひをり
 いつしかに夏はすぎけりただひとり野中の線路われの横ぎる
 きれぎれに市街の上に雲散れりつめたきかなや夏のおとろへ
 おそ夏の草葉のほねのかたきにもこころいらだちあざけりをおぼゆ
 脚ひとりちからをおぽえかぎりなく歩まむとする晩夏《おそなつ》の野や
 たたずみて蟻に見いれるわがすがたごうごうと汽車かたはらをすぐ
 わびしさや何をうらみつなに悔ゆるおそ夏の雲のちれる夕ぞら
 或る時は落葉の如くものわぴしくもの憂く眸《まみ》をとづる小犬よ
 此處はしも窪地にあればひややかに土ぞにほへる來よ来よ小犬
(411) 或る時はあはれを乞へるをとめ子のなみだの如く眼をあぐる犬
 かにかくに靜かに眠れこころより滿ちたらひなば起きておもへよ
 ひややかにうすらにわれに聞ゆるは若き盲目《めしひ》の歩む杖の音
 あめつちにわが身ひとりの凭る机ひややかにしも待ちてあれかし
 夜の雨なれがこころはいづくぞとわが身つつみて降りしきるなり
 しみじみとあふげば夜の雨のつぶいづれか胸にしまざらめやは
 ねがはくはひらたき板にふるごとくわれのこころに降るな夜の雨
 村雨のちとの晴間をはれやかに街に日の照りわが出で歩む
 公圍にわがごときもの入りゆきてにほへる街の兒等みるは憂き
 知る人も無けれ電軍のかたすみにしづかに重き眼をとぢにける
 今はみにくき我がこころかな瞳さへ錆びたる針となりて動かず
(412) 眼ひらけば紙の障子があかあかと夕日に染みて風もきこゆる
 秋風のゆふべのそらにひともとのけやきの梢吹かれて立てり
 夜の雨にぬれゆく秋の街並木ぬれつつわれも歩みてをりき
 絶望といひ終焉といひ秋の日のダリアの如き言葉のかずかな
 おやおやと思ふ心に昨日すぎけふも暮れけりものうき日かな
 老人のましてをんなのせせこましき心をなんと拾うてをられむ
 
(413) 秋風の歌
 
 あはれ悲しここらダリアの花を折り倦める心をとりよそはばや
 くつきりと秋のダリアの咲きたるに倦める心は怯えむとする
 黙然とダリアの花に見入りぬればこころしばらく晴れてゐにけり
 園丁は黒き帽着つ一心にダリアの蟲に取り入りて居り
 たけたかきダリアの園にほそほそと吹く秋風は雨の如しも
 園丁の黒帽子よりなほ高くそびえて風に咲いてゐるなり
 分秒と時間を惜しむこころもち重きまぶたを瞑ぢむとはする
 顔色のややに赤きは健康かこの倦みごこち何の故ぞも
 苦き木の根をひねもす噛みて居りぬべしこの蒸心地《むれごこち》やるよしもなき
(414) わが額《ぬか》の痩せおとろへに似もつかずつめたきあぶらにじみたるかな
 秋の樹の濡れて窓をばつつめるにこころいらだち煙草をぞ吸ふ
 ものおもひ戸ざさずあれば秋の日の風はわが頬の熱吸ひてゆく
 風もなき秋の日一葉また一葉おつる木の葉のうらまるるかな
 紙の障子にせまきガラスのはめられつ冷たき秋の庭園の見ゆ
 雨まてる窓べに雨のふりて來ぬ今は身を投げりやすらかにあらむ
 空のそこひに赤みを宿し夕雨《ゆふさめ》のさと落ちてきぬわが細き窓に
 藍色の風のかたまり樹によどみ郊外の秋ふかみたるかな
 秋木立光りたわみて大風に吹かるる見れば額《ぬか》あれにけり
 日に白みとほき林を吹く風のさびしいかなや四方をとざせり
 群れて散る風の葉を見よわが胸ゆもぎとる如く火のごとく散る
(415) 灰のごと風に光りつ空たかくまひもあがりて群れて散るなり
 なか空にちり立つ木の葉ひそひそと秋の木立をわれは過ぐなり
 骨と肉《み》のすきをぬすみて浸みもいるこの秋の風しじに吹くかな
 いとどしく心あやふく傾きてやぷれむとするに風凪ぎにけり
 おほらかに風無き空に散りてゐる木の葉ながめて窓とざすかな
 夜の讀書は海に青魚《あをな》のあそぶよりかなしいかなや風の聞ゆる
 寢さむれば折しも風の過ぎゆきつむなしきひぴき殘るなりけり
 いたづらに咽喉のあたりに呼吸をする生物の如く寢ざめてありけり
 わが居るは風のゆくへにあるごとく呼吸を引きつつきいてゐたりき
 吸ふいきの吐く呼吸《いき》のすゑにあらはるるさびしさなれば追ふよしもなし
 生きたるもの死にたるもののけぢめさへ見わかずなりて涙こぽるる
(416) きりきりと齒さへ痛めどこのこころとりなほしえでつかれはてにけり
 なまごころややに温《ぬく》みて身にかへりさいはひにして事もなかりき
 こころさへなま温《あたたか》く吸ふいきもおほらかにして睡眠《ねむり》ぞきたる
 ぽとぽとと油の如くわが瞼にねむりひそかに這ひ寄りにけり
 とぢし窓いらだつこころけはしきに耐へつつ風を聞いてゐたりき
 しみじみとおとぎ噺をかたり合ふ兒等ありき街路《まち》の夕やみのなかに
 秋霧の茄子のはたけに人居りきやがて車を曳きて去りにけり
 すがれつつ落ちゆく秋の木の葉よりいたましいかなわれの言葉は
 乏しきを拾ふが如くをりをりに鏡とりいでつらをながむる
 齒にかめど苦きつゆさへ出でて來《こ》ぬ秋の木の葉となりはてにけり
 ひとびとの顔のつめたく見えわたるけふのつどひの家を吹く風
(417) 古時計とまれる針の錆びはててむなしきかたをさしてゐるなり
 健康よとくわれの身にかへれかし見よ秋の樹々の葉のちりかひを
 葉も碎くるばかり一氣に噛みしめむよろこび事にいまだ會はなくに
 ばらばらと夜の障子を打つ雨におびやかされて戸外《そと》に出でゆく
 つめたきは風にありけりわがこころ白布《しろぬの》の如く吹かれたるかな
 いまだかつておもふがままにとぢしことなかりし如く眼を瞑ぢにけり
 
(418) 病院に入りたし
 
 わがちききまどに隣れる病院のガラス障子はいつも閉《しま》れり
 午砲《どん》鳴るやけふは時雨れて病院のえんとつの煙濃くたちのぼる
 病院の二階の廊下をりをりに通ふ看護婦と顔なじみせり
 白き帽子白き衣着しをとめ等の群れて笑へりガラス戸ごしに
 白樫の山茶花のやや茂りたるちひさき庭の病院のまど
 病院の廣きガラスの照りかへし赤き夕日の散れる冬の樹
 わがすめる二階の窓と病院の小高きまどのあひの冬の樹
 午後の日の窓にまはれば今日もまたかの看護婦はカアテンをひく
 カアテンを引く音くるくるくるくると冴えつつ窓に夕日は赤し
(419) いそぎ足廊下を通ふ看護婦をガラス戸ごしにながめてぞ居る
 ガラス戸ごし顔なじみなる看護婦の笑ふにわれも笑ひてゐたり
 はらはらと時雨ふる日の病院の二階のガラスにうつる看護婦
 ものかげに眠る如くにおくふかく病院に入りねてもあらまし
 病院に入りたしと思ひ落葉めくわが身のさまにながめいりたる
 病院のつめたきまどべ藥の香記憶に湧きてそれもなつかし
 病院にそれこれの人を見舞ひたる記憶をあつめたのしみて居る
 そこもわろし此處も痛むとせかせかと身うちのやまひかぞへても見し
 樫の葉の青くつめたき一瓶のくすりもがもな飲みて眠りゐむ
 病院に入りたしとねがふこのごろの身をかへりみるはあはれなりけり
 とりとめて病めりともなく楢の葉のまばらに染まるこころなるらむ
(420) 病院のことのみ思ひ居しがふとわが手のよごれに氣づき洗ひにと立つ
 燒く如き苦きくすりを飲みたしとこころ黄ばみてねがふなりけり
 をりをりに死にゆきし友を指折りてかぞへつつこころ冷えてゐにけり
 四邊《あたり》みなつめたき日なりわが心の疲勞《つかれ》衰弱《おとろへ》をのみ思ひてをれば
 病院の重げの扉ときどきの開閉《あけたて》をみてたのしみてゐき
 物いはぬ笑はぬ人のおほくゐる家とし思ひその窓をみる
 知る人のたえてなかれかし病院の臥床《ベツド》の上のわれとならしめ
 新しき身ともなりなむ古びたるわれの五體を藥もて燒き
 東明《しののめ》のあをきひかりのさすごとくながくねむりて眼ざめ來らむ
 靜けさをこひもとめつつ來にし身に落葉木立は雨とけぶれり
 目も重く落葉のこずゑ見上ぐれば欅の木立雨とけぶれり
(421) あぶらなし空にけぶれる落葉《らくえふ》の欅も冬の太陽もよし
 おち葉焚くけむりの中に動けるはをみなか男かとほき木の間に
 おち葉焚くをちこちの煙わがこころもうつらうつらと煙るなりけり
 
(422) 秋風の海及び燈臺
 
     東京靈岸島より乗船、伊豆下田港へ渡る
 
 ほてり立つ瞳かき瞑ぢ乘合客《のりあひ》の臭きにまじり海に浮べり
 電燈は卵つぶせし臭氣《にほひ》して船室《ケビン》に赤くともりゐにけり
 夜風寒み豚のいばりを※[者/火]るごとき船室《ケビン》にこもり伊豆に渡るなり
 寢たふれつ死人《しびと》めきたる乘合客のはだへはだへにひびく夜の濤
 ことことと機關のひびきつたひくる秋風の海の甲板《デキ》の椅子かな
 蛙なすちひさき汽船あき風の相模の海にうかぴゐにけれ
 伊豆の海や入江入江の浪のいろ濁り黄ばみて秋の風吹く
      伊豆の岬に近づきしころ、風雨烈しく船まさに覆らむとす
(423) どどと越ゆる甲板《デキ》の大なみ船室《ケビン》には五十のひとの生きてゐるなり
 ひたひたと濤はわが頬をなめて過ぐ船室の窓に怒るわが頬を
 走りかね蛙の如く這ひゐつつ汽船《ふね》くだくるも死ぬまじとする
 いつ知らず涙滲み居り今ここに死なむかと思ふ心のうへに
 雲さけて落日《いりひ》は海に漏れにけり赤きにうかぴ濤の立つ見ゆ
 あはれ陸《くが》見ゆ白なみがくれ岩も見ゆ死ぬまじ死ぬまじ汽船《ふね》は裂くとも
 屍《しかばね》に鳥よる如く夕ぐれの伊豆の岬に白き浪立つ
 はたと停り動かざること岩に似るあらしの海のわがゑびす丸.
 ふと時計の振子とまりし如くにもこころ冷えきて暴風雨《しけ》を見るなり
 ゑびす丸、甲板ふみたたき、ゑびす丸つひに下田に入りにけらずや
      下田港より燈臺用便船に乘りて神子元島に渡る。一木なき岩礁なりき
(424) 船は五挺櫓漕ぐにかひなの張りたれど濤黒くして進まざるなり
 大濤の蔭を漕ぐとき手もぬれず船はいはほと動かざりけり
 船子《かこ》よ船子よ疾風《はやち》のなかに帆を張ると死ぬる如くに叫《おら》ぶ船子等よ
 白刃なし岬並みゐる疾風の海にわれの小船は矢の如くなり
 大うねり押しかたむきて落つるときわが舟も魚とななめなりけり
 次のうねりはわれの帆よりも高々とそびえて黒くうねり寄るなり
 鯨なすうねりの群の帆のかげに船子等は金屬《かね》と光りゐにけり
 われとわが筋を噛むごと胸いたみ帆柱ぞひに立ちて浪見る
 ましぐらに浪にとぴ入り鰭あをき魚とならむと心はやるも
 みだれ立つしぶきにぬれて火のごとくわれの白帆は風に光れり
 はたはたと濡帆はためき大つぶのしぶきとび來て向かむすべなし
(425) かくれたるあらはれにたる赤岩に生物の如く浪むらがれり
 伊豆が崎岩礁多き秋風の海はとろとろうづまき流る
 やと叫《おら》ぶ船子等のこゑに驚けば海面《うなづら》くろみ風來るなり
 とびとびに岩のあらはれ渦まける浪にわが帆はかたむき走る
 荒瀬なす岩礁原《がんせうはら》をすぎも來て眞帆はぬれつつ光るなりけり
 やうやくに帆に馴れ浪に馴れきたりこころゆるめば海は悲しき
 泡だてる岬をややに離れくれば沖は凪ぎゐて雲にかげれり
 舳なるちひさき一帆《ひとほ》裂くばかり風をはらみて浪を縫ふなり
 船子たちの若きはねむり老いたるは風のはなしをわれに聞かする
 あはれこは潜水夫《むぐり》の舟にありにけり泡立つ沖の浪に舟居り
 しらしらと浪の穗がしらみだれたる沖邊に機械つかふ潜水夫等
(426) ほうほうと聲を合せつ空氣《かぜ》を迭る舟のうへなる潜水夫等の妻
 空氣《かぜ》送る潜水夫の舟の機械の書疾風の海にたえずひびけり
 海底《うなぞこ》に三時《みとき》四時《よとき》をすごしつつあさらふ貝を買はましものを
 海蟲のやや大きなるかたちして潜水夫は浪にあらはれにけり
 潜水夫いま舟に手を寄せ舟の中の妻等あらそひ抱きあげむとす
 笛の如わが小さき帆のなりはためき沖をはせつつ潜水夫を見たり
 みだれ吹く風にうかべる落葉ともさびしく舟を見てすぎにけり
 ある時はうねりにかくれ或時はうねりの嶺に叫ぶその舟
 風の海むら立つ浪にかくれつつ聲のみぞする潜水夫等の舟
 しばらくも搖れのやまぎる沖にしてをんなの聲をきくは悲しき
 遠ざかる潜水夫の舟をさびしみてわが帆をみればぬれてゐにけり
(427) 飛沫《しぶき》ちりわが帆のなかばぬれたるに雲を漏れつつ日の射しにけり
 いろ赤くあらはれやがて浪に消ゆる沖邊の岩を見てはしるなり
      その島にただ燈臺立てり。看守K−君はわが舊き友なり
 友が守る燈臺はあはれわだ中の蟹めく岩に白く立ち居り
 おほいなる岩のいただき黒蟻と見えつつ友はものを振りをり
 われも突立ち答へをせむとひしめけど舟搖れにゆれ這ひて布《きれ》振る
 やと叫ぷ聲かも姿目には見えいまだまつたくきこえざるなり
 切りたてる赤岩崖のいただきに友は望遠鏡《めがね》を振りてゐにけり
 友がよぶ赤き斷崖《きりぎし》見あげつつ舟をつけむと浪とあらそふ
 岩赤く崖もひとしほ濁血《にごりぢ》の赤かる島の友が燈臺
 岩赤きその島にしも近づけば浪はいよいよ荒れて狂へり
(428) 赤岩の十丈《とたけ》にあまるきりぎしを這ひつつややに友の下《お》り來る
 むらだてる赤き岩々飛びこえて走せ寄る友に先づ胸せまる
 赤き斷崖くづれて入江めきたるに舟子等《かこら》帆おろし舟漕ぎ入るる
 碎け立つ浪のすきまに沙魚《はぜ》のごと眞赤き岩にとぴうつりけり
 顔も蒼み人に餓ゑたる饑心地火の如き手をとり合ひにけり
 あはれ淋しく顔もなりしか先つ日の友にあらぬはもとよりなれども
 別れゐしながき時間《あひだ》も見ゆるごとさびしく友の顔に見入りぬ
 たづさへし我がおくりもの秋の園のダリアの束はまだ枯れずあり
 ダリアの花につぎつつ舟子等《かこら》とりいだす重きは友よ酒ぞこぽすな
 歩みかね我が下駄ぬげばいそいそと友は草履をわれにはかする
 友よまづ吾の言葉のすくなきをとがむな心何かさびしきに
(429) うつつともなく浪にもまれし身をはこぶ赤ききりぎしの岩の階段《きざはし》
 相逢ひて言葉すくなき友どちの二人ならびて登る斷崖
 見かへれば舟子等いづれも面あかめ舟流さじと叫び狂へり
 石づくり角《かく》なる部屋にただひとつ窓あり友と妻とすまへる
 その窓にわがたづさへし花を活け客をよろこぶ若きその妻
 語らむにあまり久しく別れゐし我等なりけり先づ酒酌まむ
 友醉はず我また醉はずいとまなくさかづきかはしこころを温む
 石室《いはむろ》のちひさき窓にあまり濃く晝のあを空うつりたるかな
 過ぎ去りし彼が昨日も眼のまへに石と靜けきそが顔も見ゆ
 石室のしづけかればかもの馴れぬところなればか泪し下《くだ》る
 
(430) 夜の歌
 
 ただひとり淵にのぞめる心地しつ椅子に埋《うも》れて酒をまつなり
 夕かけて風吹きいでぬ食卓の玻璃の冷酒の上のダーリア
 盲目にて目とぢて今宵ひとりにて飲みてあらむと椅子に埋るる
 わが目いま魚の如くに細くなりつめたくなりて夜に入るなり
 厭はしきにたへむとするはあだなりとささやく酒は月いろにして
 われとわが惱める魂《たま》の黒髪を撫づるとごとく酒を飲むなり
 金屬の匂ひしにつつ背の方の燈火《ともしび》いたく更けしづみけり
 我がまなこちりのくもりも帶びぬ夜にもののうつるはあはれなるかな
 見むとする甲斐なきわざを今日もしてひとみこらすが悲しかりけり
(431) テーブルの白布の上にはらはらと夜の白雪ちると思へり
 更けたりな雪しとしとと降るごとく電燈《ともしび》はわれをつつみゐにけり
 酒は火と燃え心の底に埋れ居りあやしき髪の冷えにもあるかな
 村時雨廣葉ぬらして過ぎにけり醉はぬわが身に夜はさびしき
 ひとり去り二人去りつつ夜の部屋われのみひとり飲めるなりけり
 みな去れ冷たき部屋となして去れ夜の椅子にわれのひとり飲めるに
 手に額に酒のあぷらの浸《にじ》みつつ夜はつめたくなりまさるなり
 動かじな動けば心散るものを椅子よダリアよ動かずもあれ
 をりをりにものの葉などのちるごとく灯かげにうかび女動けり
 醉ひしれて見つむる夜の壁の上に怪鳥あまたとべる畫のあり
 熟れ熟れて果實《このみ》あやふく散るごとく醉は身うちに破れむとする
(432) 風わたる戸の面の庭木見やるさへいとはしくして酒を飲むなり
 ただひとり最も隅の椅子に凭りダリアを前に寄せて飲めるも
 灯を強みダリアがつくるあざやけきかげに匂へるわ九の飲料《のみもの》
 肉叉《フォーク》の柄わづか觸れば散りてけり夜の机の黒きダーリア
 はなびらに宿る夜ふけのともしぴにダリアは女の肌の如しも
 眼にも頬にも醉あらはれぬ夜なるかな黒きダリアの陰に飲みつつ
 夜の机われのにほひを嗅ぐごとく黒きダリアを手にとりてみる
 つめたきは湧きし血しほかひいやりと灯《ともしび》のかげに身ぶるひをする
 荒《すさ》みたる心見つめて飲みて居ぬ紅きダリアも眼にうとましく
 或時はわがけがれたる血の色の塗られし如く夜の花を見る
 ダリアよ灯消さば汝が色も濃きあぶらなし闇となるらむ
 
(433) さびしき周圍
 
 わくら葉の青きが庭に散りてあり朝はひとみのわびしいかなや
 くされたる果實《くだもの》に似る悔心地舌にのこるに眼をとぢにけり
 われと身に唾する如くあぢ氣なく悔いつつ冬の朝日にあたれり
 向日葵《ひぐるま》のおほいなる花のそちこちの瓣ぞ朽ちゆく魂《たま》のごとくに
 死せる鳥むれつつ空やわたるらむわが日はけふもさびしう明くる
 思ふままにふるまひてさてなりゆきを見むと思ふに心冷たし
 言葉とわれとはなれ離れにあるごとき冷たき時にいつ逢はるべき
 死を思ひたのしむは早や秋の葉の甲斐なきごとく甲斐なかりけり
 大河の音なく海に入るごとく明日にいそがむこころともがな
(434) 青き幹かの枝を切れかの葉を裂け眞はだかにして冬に入らしめ
 れれならぬ人居りてけふもわがごとくわびしきことをして居たりけり
 わがひとみわれのまなぶたこのゆふべつちにもまして冷えて動かず
 時として市街のいらかもゆく人も黄なる落葉と見ゆることあり
 とりとめて何も思はぬ時多し葉の散る如きわが身なるらむ
 ふかきよりうかびいでつつ心ややあらはになりて悲しみてゐる
 えんとつに煙《けむ》わきならび市街みな磧の如し心のごとし
 こよひまた眠られぬ身に凍みひぴく冬の夜雨《よさめ》は神のごとしも
 夜の市街もわが身もしとど凍みとほり氷れとごとく時雨ふるなり
 髪の毛のひとつひとつがよごれゆく如きさびしさ身を去りかねつ
 靜かなる時來よと思ふひややかにわが目わが身にあれかしと思ふ
(435) 時わかず心冴ゆればわれと身のおきどころなくさびしかりけり
 あはれこは醜くも市街《まち》をゆくものか思ひあまりてせんすべもなく
 電車よりとびおりするな死にやせむこのごろのごとうつつなければ
 さびしさの凍れるかたへ妻も子も老いたる母も動きゐるなり
 わが如きさびしきものに仕へつつ炊ぎ水くみ笑むことを知らず
 妻や子をかなしむ心われと身をかなしむこころ二つながら燃ゆ
 あはれ身は生きものなればこの如く移らふこころとどめかねつも
 照りくもり空のをちこちゆきちがふ冬雲の群を窓にいとへり
 酒飲まむ酒飲まむ今しきはまりてわがさびしさの凍らむとするに
 いまぞわれ氷の上に眞裸體《まはだか》にねてゐむほどに滿ち足りにけり
 けふもまたよしなき人を訪ひてけりよしなきことを語り來にけり
(436) この賤しき友の心をうとんずとあやふくも我の動きけるかな
 いづれもみな心にあらぬことをのみ言ひてつどへり、集へり、雪の夜
 天つ日の匂ひしづかに身にもしみあはれしばしは眠れこころよ
 吹きすぎしかぜのたえまにほつとりと日の匂ひこそ身によどみたれ
 冬なれば散る葉もあらずこの木立稀にし來れば涙おつるも
 涙たれ落葉が上によこたはるわれの醜きつかれざまかな
 ことさらに鳥も啼くがに思はれて落葉木立を立ちいでにけり
 たましひのけぶるといふはあまりにも淋しからずや戀となれかし
 身に燃ゆるは新しき戀あるはまた埋れゐし夢かにかくにもゆ
 こころさへ身さへ落葉のいろもなくさびはてていま燃ゆるこの戀
 冬空のあまり乾けば市人もひそかに雪をまつ忙あらずや
(437) 地を踏めど地にいらへなく心のみくくとひぴきて人の戀しき
 雪積みて今宵はいとどしづけきに夜半にねざめよ人を思はむ
 雪どけの軒のしづくにいざなはれ友見まほしく家を出にけり
 雪照るや思ひぞいづる郊外のかのひとり者ながく訪ひ來ぬ
 片幹にこほれる雪のけぶりつつ入日の中に立てり欅は
 われと身の肌のめくみをなつかしみ梢より散る雪ながめ居り
 枯木立木々より雪の散りやまず行きずりの身に西日赤しも
 身に添ふは雪のにほひかわがはだの匂ひか西日せちに赤けれ
 おのづから悲しき聲にいでてなく雪の日の鳥西日にきこゆ
 雪ふかき落葉の木の間入日さしあまりてここの窓を染むるも
 わがそばに火ありて水を※[者/火]るを得べし玻璃のうつはに水も滿ちたり
(438) 火をたたじ沸湯《にえゆ》たたじとつとめつつさびしさに或夜起きてゐにけり
 なすべきをなさざる故にこの如くさびしきものとなりしやわれは
 消すまじと心あつめて埋火にむかへる夜半を雪凍るらむ
 ペン一つまへにあるさへひしひしと身にくひ入りてさぴしき夜なり
 工場|街《まち》折しも西日眞赤きに煙地に垂れわがひとりゆく
 工場街とほく歩める少女子のながき羽織に夕日ゆらめけり
 ただひとつちさくまじれる教會は扉《と》さしてありき工場街ゆけば
 西日赤き街路《まち》の辻にひと等うち黙《もだ》し血みどろの犬咬み合ひて居り
 春來ぬとこころそぞろにときめくをかなしみて野にいでて来しかな
 この歩み止《や》めなばわれの寂寥《さびしさ》の裂けて眞赤き血や流るらむ
 われと身を噛むが如くにひしひしと春のさびしき土ふみ歩む
(439) 青草の岡にいであひこらへかね泣ける涙のあとのさびしさ
 春の雲照りつつ四方をとざせる日高きに立てばわが世悲しも
 鶯の啼きてゐにけり久しくも忘れゐし烏なきてゐにけり
 ふと見れば路傍の軒にほこりあび籠にし鳥は啼けるなりけり
 さび色のあをき小鳥はあやしげにわれを見つめてやがてまた啼く
 つかれはてすわれる岡のもとをすぎ春あさき日の小川流るる
 おほぞらに垂れつつ春の雲光りここの林に鴉むれ騷ぐ
 
砂丘
 
(443)自序
 
 本集には『秋風の歌』以後、如ち昨年の春から今日までの作を集めた。ただ巻末「ふるさと」の一章のみは一昨々年から一昨年の春にかけ郷里滯在中及び上京の途中に詠んだもので『みなかみ』に編入すべきであつたのを誤つて今まで落してゐたものである。「曇日」は東京小石川寓居中、その他は當地移轉後の作である。
 今までは常に舊く詠んだものを卷首に置いて順次新作に及ぶ編輯法をとつてゐたが、今度はその反對に新作を初めに置いた。
 一歌集を縮むごとに何かしらものを思はせられるのは常であるが、今はそれを筆にするのも煩はしいほど靜かな氣もちになつてゐる。このままで(444)今少し澄み入つた作歌の三昧境に進みたいものである。
       大正四年九月十四日
                      三浦半島海濱にて
             著者
 
(445) 山の雲
 
      下野より信濃へ越え蓼科山麓の春日温泉に遊ぶ。歌四十五首
 朝空に黄雲たなびき蜩のいそぎて鳴けば夏日かなしも
 朝霧は空にのぽりてたなぴきつ眞青き峽間《はざま》ひとりこそ行け
 少女子がねくたれ帶か朝雲のほそほそとして峰にかかれり
 蜩なき杜鵑なき夕山の木がくれ行けばそよぐ葉もなし
 わがこころ青みゆくかも夕山の木の間ひぐらし聲斷たなくに
 岨路のきはまりぬれば赤ら松|峰越《をご》しの風にうちなびきつつ
 空高み月のほとりのしら鷺のうき雲の彫いまだ散らなく
 雨待てる信濃の國の四方《よも》の峰のゆふべゆふべを黄雲たなびく
(446)      山深く鳥多し。燕の歌
 あはれこは風の渦かもつばくらめ峽間の空にまひつどひたる
 有明の月かげ白みゆくなべに數まさりつつとぶ山燕
      尾長
 尾長鳥その尾はながく羽根ちさく眞白く晝をとべるなりけり
 尾長鳥石磨るごとき音《ね》には啼き山風強みとびあへぬかも
      杜鵑
 朝雲ぞけむりには似るこの朝けあわただしくも啼くほととぎす
 ほととぎすしきりに啼きて空青しこころ冷えたる眞晝なるかな
      鷹
 老松の風にまぎれず啼く鷹の聲かなしけれ風白き峰に
(448)      その他
 
 秋の鳥百舌鳥ぞ來啼ける夏山のこの山かぜの眞白きなかに
 ほととぎす樫鳥《かけす》ひよ鳥なきやまぬ峽間《はざま》の晝の郭公《くわくこう》のこゑ
 何鳥か雛をそだつるふくみ聲今朝も老樹の風に聞ゆる
      窓邊達望
 うすものの白きを透きて紅ゐの裳の紐ぞ見ゆこち向くなゆめ
 ふくよかに肥えも肥えつれ人怖ぢず眞向ふ乳のそのつぶら乳
 丈長に濡髪垂らし晝の湯屋出でて眞裸躰《まはだか》つと走りたれ
      秋近し
 峰のうへに卷き立てる雲のくれなゐの褪せゆくなべに秋の風吹く
 みねの風けふは澤邊に落ちて吹く廣者がくれの葛の白花
(449)      獨居
 うららかに獨りし居れどうら寒きこころをりをり起りこそすれ
 向つ峰《を》にけふもしらじら雲い立ち照り輝くに獨り居にけり
 輝けば山もかがやき家も照り夏眞白雲わぴしかりけり
 麓邊の路のひとすぢしらじらと見えて向つ峰雲わきやまず
      相模なる妻が許へ送れる歌
 相模なるその長濱の白濱に出でてか今日も獨り浪見む
 向つ峰に眞晝白雲わくなべに汝《なれ》が黒髪おも佗ゆるかも
 愁ふる時閉ぢゆく癖のその眸《まみ》を思ひ痛みて立ちてゐにけり
 眞白なるふとりじしなる双かひなむなしく床にありかわぶらむ
 われ獨りわが身|清《すず》しみ眼も痩せつ岨路《そばぢ》朝ゆき夕ゆきにつつ
(450) きはまりて戀しき時は三日にしてすへる煙草をひと夜には吸ふ
 夜のほどに雨過ぎけらし五百重山《いほへやま》今朝みづみづし戀しきぞ君 今もかも身か光りなむ眞晝憂し峰にはかかれ天の雲むら
      七月中旬下野なる背山君を訪ねむと思ひ立つ
 のちいつか逢ふべきものとたのみつるその時し終に來りけるかも
 下野の奈須野が原のなつ艸のなかにし君を見む日近づく
      友と相酌む歌
 飽かずしも酌めるものかなみじか夜を眠ることすらなほ惜みつつ
 盃をおかば語らむ言の葉もともにつきなむごとく悲しく
 一しづく啜りては心をどりつつ二つ三つとは重ねけるかも
 幾日《いくひ》かけ幾月かけてねがひつる今宵の酒ぞいざや酌みてな
(451) 死ぬごとくこころかわける時にして君と相見きうとんずなゆめ
 朝は朝晝は晝とて相酌みつ離れがたくもなりにけるかな
 時をおき老樹の雫おつるごと靜けき酒は朝にこそあれ
 那珂川に生けるうろくづ悉くくらへとわれに強ひし君かも
      或夜うち連れて川狩に行く
 うばたまの夜の川瀬のかちわたり足に觸りしは何の魚ぞも
 松明をさしかがやかしわが渡る早瀬の小魚雨降るごとし
      別離
 別れ來しけふの汽車路は夏雲の湧き立つ野邊のなかにしありけり
      別後友が妻へ贈れる
 若竹の伸びゆく夏のしののめのすがすがしさに君はおはしき
(452) 逢ひしとき姉のごとくも思はれき別れて後ぞなほ思はるる
 
(453) 三浦半島
 
      病妻を伴ひ三浦半島の海岸に移住す。三月中旬の事なりき
 海越えて鋸山はかすめども此處の長濱浪立ちやまず
 ひとすぢに白き邊浪ぞ眼には見ゆみ空も沖も霞みたるかな
 春眞晝沈み光れる大わだの邊《へ》に立つ浪は眞白なるかな
 うつうつと霞める空に雲のゐてひとところ白く光りたるかな
      春深し
 田尻なる雜木が原の山ざくらひともと白く散りゐたりけり
      永日
 地あをく光り入りたる眞晝の家菜の花はわれに匂ひ來るかも
(454) 棕梠の葉の菜の花の麥のゆれ光り搖れひかり永きひと日なりけり
      妻の病久し
 晝の井戸髪を洗ふと葉椿のかげのかまどに赤き火を焚く
 かたはらに晝の焚火の燃えしきりあをじろき汝《な》がはだへなるかな
      吾子旅人
 晝深み庭は光りつ吾子《あこ》ひとり眞裸體《まはだか》にして鷄《とり》追ひ遊ぶ
 尺あまり二尺に足らぬ子がたけの悲しくし見ゆ濱の浪の前に
      或朝
 近づけば雨の來るとふ安房が崎今朝藍深く近づきにけり
 この汐風いたくし吹けばふしぶしのゆるみ痛みて沖あをく曇る
(455) 晝の濱思ひほうけしまろび寢にづんと響きて白浪あがる
 走れ走れと身うち波うつ息づかひとどめかねつつ晝の濱走る
      夏立つ
 夏立つや四方の岬のうす青みあはれ入海荒れがちにして
      夏日哀愁
 夏の朝ややに更けゆきわがこころ離ればなれに疲れたるかな
 夏草の花のくれなゐなにとなくうとみながらに挿しにけるかな
 うす藍のいまは褪せなむあぢさゐの花をまたなくおもふ夕暮
 あぢさゐやこよひはなにか淋しきに立ち出でて雨をあふぐ夜の庭
 家のうち机のうへの紫陽花のうすら青みのつのる眞晝日
 わだつみの荒磯の貝をとり來り殻碎きつつさびし晝空
(456) 潮ぐもりこの貝あまり新しく磯くさくして食べがたきかな
      微恙
 縞ほそき紺の素袷身につけて晝の戸繰れば夏がすみせり
      夜の海
 傘さして見れば沖津邊夏の夜の紺の潮騷《しほざゐ》うかびたるかな
 ものうさに幾日か見ずて過ぎにけむこよひ眞闇の海ぞさびしき
      朝
 しみじみと朝空あふぎ立ちつくす夏の眞土の冷たきうへに
 いまはただ土の匂ひもありがたくたたずみてこそありね朝庭
 柿の葉の青きもわれのさぴしきもひたすらにして露もこぽれず
 柿の葉のこもりてしめる庭のつち朝はわが身も伸ぶ心地すれ
(457)      夏深し
 黒がねの鋸山に居る雲の晝深くして立ちあへなくに
      眞晝
 いはけなき涙ぞ流る燕啼きうす青みつつ晝更くるなかに
 しばらくはうつつともなく眞がなしき夏のま晝のわれにしありけり
      朝霧
 入りつ海朝霧ながるをちこちの岬に夏の日はさしながら
 横さまに霧は降りつつ黍青しけふも火のごと晴るるにかあらむ
 わびしさや玉萄黍畑《もろこしばた》の朝霧に立ちつくし居れば吾子呼ぶ聲す
      鴉
 凶鳥《まがどり》の鴉群れ啼きこもりゐの窓の晝空けぶりたるかな
(458) 日のひかり紫じみて見ゆまでに空にとぴかひ啼くむら鴉
 蛇もいま地《つち》にひそめる日なかどき眞黒がらすのやまずしも啼く
 早苗田のうへをめぐりて啼く鴉早苗|萎《な》ゆかに啼くむら鴉
      釣魚
 詮なしや晝の庭木の下くぐり釣りに出でゆくわがこころから
 燕啼く眞晝大野の日の眞下つり竿かたげ行けば遠きかな
 麥畑の熟れし片すみ野いばらのかげの小川にけふも來にけり
 
(459) 曇日
 
      植物園
 
 春あさきみ空けぷりて午前《ひるまへ》の植物園にひと多からず
 朝日さすかの温室のガラス戸のすこしあきたり春淺みかも
 木がくれのあを葉がちなる白椿繪かきがひとり描《か》いてゐるなり
 かのをとこ立ちてゑがけば紺ふかき背廣に春日ゆれてやまずも
 常磐樹の蔭にしあればひそひそと地も匂ひて椿描くなり
 ひややかに朝風ぞ吹く白つばき咲きは匂へど葉がくれにして
 遠つ空ひかりてけぶる春の日の植物園をひとり歩むも
 ひややかに光りつれたる青樫のこずゑのみけぶりたるかな
(460) 鵯鳥のけたたましくも啼くものか樫の木立のあをき春日《はるひ》に
 かたすみの杉の木立のうす赤み枯草原にたんぽぽの萌ゆ
 植物園のかれくさ原に居る鶫をりをり動き遠くとばなく
 ただひともとたんぽぽ咲けるそばに來てかの黒き犬は坐りけるかな
 ウヰスキイひそかに持ちて來べかりし春あさきこの枯草のはら
      樹や病める
 とある幹に玻璃の管さし水をとる黒服のをとこ居りにけるかな
 大いなる樹の根にあれば黒服の若人《わかうど》いとどさびしくぞ見ゆ
      妻の病久し
 病める子がとぢたるこころしばしだにひらくとはせよ淡雪のふる
 ひとすぢに降りも入りたるしら雪のかすけき聲のあはれなるかな
(461)      梅咲く
 年ごとにする驚きよさぴしさよ梅の初花をけふ見出でたり
 梅作けばわが咋《きそ》の日もけふの日もなべてさびしく見えわたるかな
      風を愛する癖あり
 耐へがたき生心《なまごころ》さへ身には燃え夜のくだちゆき風吹きやまず こらへかね寢床いづれば頬《ほ》はあつく染りゐにけり風吹きやまず
 戸出づれば家のめぐりの落葉樹に光りて夜風吹きゐたりけり
      音羽護國寺
 むら立ちの異木《ことき》に行かず山雀は松の梢にひもすがら啼く
 この寺の森に寄る鳥とりわけて山雀のなくはあはれなりけり
      母を憶ふ歌
(462) とある日の朝のさびしきこころより冬の野に出でて君戀ふるかな
 子のこころ或ひは親のむきむきに戀しとはいへどいまは燃えぬかも
 あは雪を手にもてるごときあやふさを老いませば君につねに覺ゆる
 あはれ再び逢ひがたき日の二人の上に今は近しとおもへど甲斐なし
 咒《のろ》ふべきそむきがちなる子のこころ老いたる親のその錆心《さびごころ》
 今は早やあきらめてかもおはすらめ老いたる人のみなするごとく
 落葉樹の根がたのつちにうづくまり君おもひ居れば匂ふ冬の陽
      二月末
 みなかみの山うすがすみ多摩川の淺瀬に鮎子まだのぽり來ず
      花屋
 水仙のたばにかくれてありにけりわが見出でたる白椿花
(463)      打群れて酒酌みたき人かずかずあり
 笑顔《ゑがほ》泣顔さらぬげにただ見合ひつつ夜明けてもなは酌まむとすらむ
      この頃の山蘭君へ
 萩のはな上枝《ほづえ》に見えてそよ風のながめさびしきころにもあるかな      やや寒し
 甲斐が根に雪來にけらしむらさめのいまは晴れてなうち出でて見む
      朝の窓
 秋の朝の酒場《バア》のつめたきひとびとのつかれたる顔|黙《もだ》し動かず
 なかの一人の塞いたる顔にうす赤みさすよと見れば眠るなりけり
 萎《しな》えたるわれのはだへにしみじみと秋の朝日のきして居るなり
 さびしさや酒場《バア》の小窓にこぼれたる秋の朝日を酌みも取らうよ
(464) 秋の朝|酒場《バア》の鏡に見入りたるわれのひとみの靜かなるかな
      秋漸く晩し
 崖のつちほろろ散る日の秋晴に漆紅葉のさびしくも燃ゆ
 浮雲にとりどり影のうまれつつ眞晝の空は傾かむとす
 あまりにもこころ渇くにたへかねてとりし煙草よ風白き畑
      獨り
 いたましくめづらしきものを見るごとくわが腕をそと撫でてみにけり
 秋の夜のほのつめたさにいざなはれ友戀しさは火のごとく燃ゆ
 しのぴかね友をたづねに出でてゆくこのすがた友よあはれとおもへ
      獨居
 ひとを厭《いと》ふとにはあらねどわがこころひそみひそみて歩むとすらし
(465) こころの端《はし》にかたみに觸れじふれじとてあらぬ事をば語りゐしかな
      野分
 消えみ消えずみはるけき空にうす雲のうちもたなびき朝野分する
 秋の風今朝は吹くぞと閨あけてまだ覺めぬひとをかへりみるかな
 わがこころあるにあられず大風のしどろの朝を出でて歩めり
 うす青みをんなの膚《はだ》のかなしくも耐ふるに似たり風のなかの樹
 風を強み幹のあをみのいとどしくその根のつちは搖れてやまなく
      平野
 再びは斯く晴るる日もあるまじと惜みつつ日ごと野に出づるかな
 大空はかすかにうごき動きをりあふむけに草にねれば冷たく
 大野邊の秋の日ざしをやや強み寄れる本かげは白樫にして
 
(466) くろぐろと汽車こそ走れ秋の日のその長き汽革のあとに立つ風
 野ずゑゆく汽車のかげのみはるかにて秋の日いまだ暮れずあるかな
      秋晝
 誰も見じとひとり眞はだかほしいまま秋のま晝を化粧《けはひ》す、をんな      秋立つ
 秋といひわれから聲に驚きて窓邊にとほき市街《まち》見やるかな
      野にひとり
 わが膚に夕日しみ入りしみ入るやさぴしさはただ涙となるに
 夕日さしきりぎりすなきこほろぎなき百舌鳥もいつしか啼きそめにけり
      晩夏郊外
 つら並《な》めつものを覗ひ蛙群れをり夏も終りの沼のくろつち
(467) ひとしきり蛙さわぎて靜まればこほろぎはつちになきいでにけり
 夏ぞらのくゆりさびしみ見つつあれば雲か風かも湧きそめにけり
      若人の群
 身のめぐりいづれさびしき人ならぬなきに怖れて狂ひて遊ぶ
 さわやかに高くも雲のかよふかな窓の木梢《こぬれ》に寄る風もなく
 木犀の匂ふべき日となりにけりをちこち友の住みわぴし世に
 大空に照りつつ渡るうき雲も身にしむとさへさびしきものを
 さびしさはあけはなちたる秋の窓にひしと流れ來《く》とほき常磐樹
 いや冴えに月の冴ゆるにうちしなえさびしきものとなりにけるかな
 かかりせば妻をともなひ來べかりしこよひの野邊の月のいろかな
(468) 窓の邊の木ぬれのあを葉かき垂れてほこりぞ見ゆる夏の夜の月
      瞑目
 曇りはてしはるけき空の底ひより雨はやうやく降りそめしかな
      朝寂し
 眼ざむるやさやかにそれとわきがたきゆめに疲れし夏のしののめ
      あけくれ
 貧しさに妻のこころのおのづから險しくなるを見て居るこころ
 貧しさに怒れる妻を見るに耐へかね出づれば街は春曇せり
 われと身のさびしきときに眺めやる春の銀座の大通りかな
      われと心を勵ませど
 はした女《め》もあはれむごときひとみして或時のわれを見るにあらずや
(469) 思ひ屈《く》しかへり來ぬれば部屋にひとり吾子《あこ》あそびゐき涙ながるる
      夏日哀愁
 土ぽこりにまみれ疲れて風の畑の木かげに入れば居たり青蛇
 魚群るるにほひか青葉風に裂けつつ幹にひえびえ蛇這ひてをり
 そこ此處とつちの燃ゆるにかなしみて蛇はも幹によぢ登りけめ
 つぱくらめ地《つち》に燻《くゆ》りてとびみだれ風に光れる樹に蛇は這ひ しみらしみらにわれの疲勞《つかれ》の匂ひ出で汗もかわくに行かぬ青蛇
 蛇は早やあを葉がくれのわれの目を見いでて細く身を曲げむとす
 ひと噛まぬうすいろの蛇風の日のしなえし幹をはひ上る這ひ上る
      夏冷し
 みづからのいのちともなきあだし身に夏の青き葉きらめき光る
(470) 水無月《みなつき》の朝ぞら晴れてそよ風ふきゆらぐ木の葉に秋かと驚く
      初めて飛行機を見る
 春の雲空かきうづめ光れる日飛行機ひとつかけりゆく見ゆ
 プロペラのひびきにまじり聞え居り春の眞晝の吾子が泣きごゑ
 いとかすけく春の青樹のこずゑ搖れ飛行機は雲に消えゆきにけり
 飛行機を見送りはてて立ちあがる身に寂しさの滿ちてゐにけり
 
(471) ふるさと
 
      春の歌
 菜の花のにほひほのかに身にも浸む二月の日とはなりにけるかな
 しとしとと春の雨こそ地には降れ居るとしもなきわがこころかな
 こころ怒れば血さへ裂しく身にはうつ寂しいかなやわが膚を見よ
 たべもののせゐにや指の荒れやうようす青き枝に山椒を摘む
 山に栖めば煤はつかねどわがこころつちくれのごと乾きくづるる
 峰にのぽり鳥がねきけば春がすみ霞める四方《よも》の悲しく光る
 松の木の伐られしは杉の木の伐られしよりあはれ深かり春の深山《みやま》に
 鶯よ鶯よとて息ひそめ聞いて居りしがとびさりにけり
(472) まつはるはかすみか松の脂の香か峯のとがりの春日かなしも
 汗をさまれば霞つめたく浸みきたる峯《を》の上《へ》の午後にとほく海見ゆ
 ひそひそと山にわけ入りおのづから高きに出でぬ悲しや春日
 春がすみこもれる山に啼く鳥を驚かさじとわがこころ熱し
 峯の上なる老木の松のひともとの枝のしげみにつどふ春風
 わな張りてあたり見かへれば春の山しみらにつちの匂ふなりけり
 乾きたる庭にたまたま出でて立てば黄《きいろ》き蝶のまひて來にけり
 家出て見ればそらには雲雀やまに蟇《ひき》春が悲しとひたなきに啼く
 闇のなかに動く葉のあり音ぞする窓さへ濡るる春の深夜《よふけ》に
      なまけ者
 なまけ者がふと氣まぐれに芹つみに出でて嘆きぬあはれ春よと
(473) あはれこは野蒜なりけりあをいろのほそながき草の野蒜なりけり
      不孝の兒を持てる老人に暫しの安息もなし
 春あさき田じりに出でて野芹つむ母のこころに休《やすら》ひのあれ
 餘念なきさまには見ゆれ頬かむり母が芹つむきさらぎの野や
      瀬戸内海
 瀬戸の海や浪もろともにくろぐろとい群れてくだる春の鰆《さはら》は
 瀬戸はいづれも瀬となりたてるひき汐の午後なり六十五噸の小蒸汽船《こじようき》
      明石人丸神社
 をろがむや御《み》はしに散れるひとすぢの松の落葉もかりそめならず
 ありし日はひとしほ松のしげり葉の繁くやありけむ君をしぞおもふ
 袖かざし君が見にけむ島山にけふ初夏の日ぞけぶりたる(淡路島見ゆ)
(474)      嵯峨濟涼寺
 はつ夏の雲は輝き松風吹く嵯峨の清涼寺にけふ詣で來ぬ
 罌粟の實のまろく青きがそよぎ居り清涼寺よりわが出で來れば
 清涼寺の築地くづれし裏門を出づれば嵯峨は麥うちしきる
      遠江辨天島
 濱つづき夏のおほそらはるかにて立つしら浪のけぶりたるかな
      日向國耳川
 あたたかき冬の朝かなうす板のほそ長き舟に耳川くだる
      美々津の磯
 老人よ樂しからずや海は青しやよ老人よ海は青し青し
 岩をおこし松をこぐとす、老人のそのうしろ影その青き松
(475)      福岡醫科大學
 窓おほき醫科大學の教室に松のかげこそいとさはにさせ
 松原は海にかも似むそのかげの醫科大學の赤き煙突
      おもひで二三首
 はりつめし力をふといま感覺のうへに知る、おもひでのわびしさよ
 キスを否める時そむけし癖の横顔の冷たさのいま身には沁みぬれ
 わが重き帽子をとれ服をぬげ、思ひ出のなかの悲しき女よ
 菜を洗ふ話なれども夕日のなか若きをなごの聲のよろしも
 味氣なき夕なるかな眼の前の膳の酒さへ爐の焚火さへ
 山に風來ぬ山ぞ鳴る、冬の午後の日うす赤きなかに
(476) 膝にねむれる兒猫のこころにも觸れぬやう心かなしき冬の日だまり
 窓の前の林に風の吹きすさびけふも啼き啼きすぎし小鳥よ
 軒瑞なるちひさき山も鹿の子まだら紅葉となりて冬の來にけり
      心あぶなし
 やがてして耳のかゆきに耳をかくわが身をつつむ春の光線
 身體のうち眼の玉ばかり何として斯く重きやらむ蟇なく春日
 指見れば指ばかり眼とづれば眼ばかり春のひなたに蝶が群れとぶ
 さまざまに指を動かし眠とぢ眼をあけあやしきものにわれを思へり
 くちにふくめば疑ひもなきこのうまさやめられぬ酒の悲しかりけり
 どうせ斯うなりア棟木を外《はづ》せえんやらさ柱ひきぬけそれえんやらさ
 藍甕に顔をひたしてしたしたに滴《したた》る藍を見ばやとぞ思ふ
〔2022年8月30日(火)午後7時40分、入力終了〕
 
若山牧水全集第二巻、雄鷄社、520頁、600円、1959.5.30
 
 朝の歌
 
(5) 自序
 
 本卷は昨年初秋出版した歌集『砂丘』に次ぐものである。即ち大正四年九月頃より同五年四月までの詠草を輯めた。
 秋の頃より本年二月前後まで、何か今までと異つた新しい昂奮を覺えて詠み耽つてゐたのであつたが、やがて東北地方の旅に出るやうになつて途絶した。その昂奮時代の作は尚ほ粗野たるを免れないが、從來よりやや進んだ氣持で作つてゐた。今後もこの氣持で作り績け度いと思つて居る。
 卷中「殘雪行」の旅の歌はただ行くさきざきでの即興歌のみである。今少し靜かな一人旅をするつもりであつたのが、何處も初めての土地であつたため日夜初對面の人々との應接に心をとられてしまつてゐた。歌の出來なかつたのは一つはそのためである。即興は即興のままその土地々々で詠(6)みすてた通りにしておいて改作しなかつた。
   大正五年五月下旬
                     三浦半島にて
                         著者
 
(7) 秋より冬へ
 
     千駄が崎
 來馴れつる磯岩の蔭にしみじみと今日し坐れば秋の香ぞする
 くれなゐの貝は寄らなく磯の藻の黒きばかりに秋更けにけり
 秋の濱かぎろひこもり浪のまにまに寄り合ふ小石音斷たぬかな
 秋の日かげ濡れし小石に散り渡り寄せ引く浪を見つつ悲しも
 風の音身にこたへつつ砂山の蔭にかがみて秋秋と言ひし
 白砂に穴掘る小蟹ささ走り千鳥も走り秋の風吹く
 いつの間に離《さか》りは行きしあはれ吾子《あこ》砂山の松の根にし手招く
(8) 秋日さすまばら小松の丘越しに磯あらふ浪のひねもす聞ゆ
     沖の岩
 秋の大潮沖の痩岩あらはれて光ればけうとわれも身寒く
 沖の岩に水雷艇のはしり舟眞赤き旗をたてて去りにけり
     夕燒雲
 沖邊より崎にたなびき秋かぜの夕燒雲となりにけるかな
 夕燒の雲たなびける崎の山そのかげの海に魚とびやまず
     濱に出でしに有明の月見えければ
 ふるさとの秋の最中《もなか》をふと思ふおもはぬ空の有明の月
(9) 朝日子の匂ひてさすに落葉焚くけぶりもまじり窓あけて獨り
 わが松に風は見えたれ入りつ海曇り晴れてな今朝はさぴしゑ
     芝山
 芝山に登れば見ゆる秋の相模の霞み煙れるをちの富士が嶺《ね》
 近山は紅葉さやかに遠つ山かすみかぎろひ相模はろばろ
 芝山の榊の蔭に風を避けゐつふと立らたれば見ゆる富士が嶺
 いただきの風をし寒み秋の山卷葉櫟のかげをやや下る
     また或時に
 もみぢ葉の照りは匂はねさやさやに秋浸みわたるここの芝山
 來て見れば松ばかりなる片山に浸み照る秋日麗らなるかも
 夕照るや落葉つもれる峽の田の畔《くろ》のほそみち行けば鴫立つ