若山牧水全集第一巻、雄鷄社、490頁、600円、1958.5.1
 
(1)目次
歌集以前 二五〇首……………………………………三
海の聲 四七五首………………………………………三五
獨り歌へる 五五一首…………………………………八五
  上の卷………………………………………………九三
  下の卷……………………………………………一一一
別離 一〇〇四首……………………………………一四七
  上卷………………………………………………一五一
(2)  下卷……………………………………………一八九
路上 四八三首………………………………………二四五
死か藝術か 三八八首………………………………二九五
  手術刀……………………………………………三〇一
  落葉と自殺………………………………………三〇八
  かなしき岬………………………………………三二二
みなかみ 五〇六首…………………………………三三九
  故郷………………………………………………三四九
  黒薔薇……………………………………………三六二
(3)  父の死後………………………………………三七一
  海及び船室………………………………………三七七
  醉樵歌………………………………………………三八九
秋風の歌 三七七首……………………………………三九七
  夏の日の苦惱………………………………………四〇一
  秋日小情……………………………………………四〇八
  秋風の歌……………………………………………四一三
  病院に入りたし……………………………………四一八
  秋風の海及び燈臺…………………………………四二二
  夜の歌………………………………………………四三〇
  さびしき周圍………………………………………四三三
(4)砂丘 二四八首………………………………………四四一
  山の雲………………………………………………四四五
  三浦半島……………………………………………四五三
  曇日…………………………………………………四五九
  ふるさと……………………………………………四七一
 
解説…大悟法利雄…四七七
 
 第一卷 短歌 一
 
 歌集以前
 
(5)延岡中學校友會雜誌より
 
      早春懷梅
 梅の花今や吹くらん我庵の柴の戸あたり鶯の鳴く
      奢美をいましむ
 身に纏ふ綾や錦はちりひぢや蓮の葉の上の露も玉哉
      陰徳家
 かくれたる徳を行ひ顯れぬ人は深山の櫻なりけり
                 ――明治三十四年二月十七日發行
 
(6)『日州獨立新聞』より
 
       青葉若葉
 海にあびて歸る松原末遠く青葉若葉に白雨《ゆふだち》のふる(都農にありける頃)
 行き暮れてむしろを夜具の炭小屋に炭の枕よ啼く時鳥
 雨はれし山のみ堂の丸窓に青葉さゆらぎ時鳥なく
 天しのぎしのぎ聳つ青葉山青葉に白し一すぢの瀧(窓前の景を詠める)
 白鳩の鎭守の森に啼きたちて青葉幾重の明方の雨
 藥かみて旅に杜鵑の音を聞きぬ若葉をぐらき橘の雨
 清水湧く山路なかばの松かげに荷馬車の旗のひるがへる見ゆ
 岩にはうて晝顔花の紅くさきぬ眞清水わける嶺の松かげ
(7) 青葉若葉風にさゆらぎ月は出でぬ松の古きに庭の青きに
                       明治三十五年八月十二日
 
       野の草
 野のあした靄のうすぎぬ露の薫り唄聲さえて夜はあけわたる(草童の歌へる)
 野や十里朝日子いでぬ籠はみちぬ草はみどりに靄むらさきに(同じく)
 新月のしたたり落つる雫かも夜風に青く螢みだるる
 露にさめて朝のまどひのさりげなく野面をちこちの白百合の花
 都より訪ひ來し友と山茶のみて歌とく窓にほととぎすなく(【延岡より江雨秋檐兄の訪はれし折】)
 朝餉たく水汲み居れば野の谷に野ゆりの花のほろほろとちる
 峯にねて雲に下界は見えずなりぬただ親しきは星のまたたき(尾鈴に夜泊して)
 咲きほこる萩の花蔭ござしきて石像きぎむ年若き人
(8) 吾れとわが城をやかむのたゆたひに北斗七星かげうすうなりぬ(青史を讀みける折)
 燭たてて蘭麝たきこむくはがたのかぶとの星に紅葉ちりくる
                       ――同八月十七日
 
       はつ秋
 峰をこえ野こえとわたる雁のみえて山月たかしあかつきの風
 つるぎきて數百の騎兵すぎゆきぬ夕月あはき萩多き野を
 幾むれか花野をよぎる繪日傘に日かげうららの秋まつりかな
 芭煮葉のやればに秋の雨さむう死せしか蛸牛うごかずなりぬ
 門につづく西幾町の楢ばやし落葉ざわ/\秋の日あかし
 露しげき花のこみちわけて行く君がかげあはき朝月夜かな
 かざしみる墨染そでのわかいかな黄菊にそそぐたそがれの雨
(9) 村長のいたつきいよよおもりゆく十戸のむらの秋の雨しづか
 花野三里よひ月いでぬ露も置きぬ家路たのしく錦きる旅
 紫の手綱にあけの直衣つけし若きちごゆく月の花野路
                       ――同九月四日
 
       つゆ草
 蘭燈のほかげうするる小庭さき桔梗にそそぐ雨なやましき
 幾たびか寢ざめあやしき山の宿の固き枕に秋の雨きく(【神門あたりをさまよひける頃】)
 立ちいでし野寺は遠く霧に消えてすすき三里をあかつきの風
 君はいまいづこあたりや片われの月かげあはき峰の朝霧
 鞭うてどあがきすすまぬやせ馬のたてがみなでて暮の雁きく
 かざしみる小手いまさらのわななきや國たち出づる明方の月
(10) 明方の月のうすきに我れたてばわれうつつなの朝顔の花
 枝折戸を右にはるかや秋の水野をよこぎりて森をめぐりて
 絲車たえてつづきてまたやみて萩の小まどに秋の日ながき
 み佛を噛めるねずみの音高く山のあれ寺秋の雨ふる
                       ――同九月十八日
 
       秋かぜ
 送り來し遺骨抱きて淵にたつ底ひに君が笑《ゑみ》うかまずや
 拔きつれて舞ひしはいつの秋なりし君はやあらぬ刀のさびよ
 友君のうせ給ひにし其日より釋迦のみ像のなつかしき哉
 さらばとてさしうつむきてとりし手のきても冷えたり森の下道
 別れ來て土橋に立てば雁がねの頭かすめてなかですぎゆく
(11) 野の未の一つ家守に秋老いぬ家鴨のむれのまだ歸り來ぬ
 紫の豐旗雲のたなぴきに朝の思ひの行へ知らずも
 賣らるべく市にひかるる馬の子の今日の嘶きなどかくひくき
 獨りねの秋の深山の旅やかた木枕さむく秋の雨きく
 白つゆに裾のむらさきうるほひぬ蟲に迷へる月の花野路
                       ――同十月二十四日
 
       白菊(一)
 わがたまのうつりにける曉の夢のゆくへは白菊にとへ
 ふる城の影をひたせる湖に鷓鴣とぶ見えて秋の日うすし
 ゆく雲におもひの添はで今日も暮れぬ病みて雁きく里の秋雨
 紅ときて白菊にぬる若き子よ秋の女神の怒にふれな
(12) 燭けしておばしま近くたちよれば北斗さえざえて天の川遠し
 ふるびにし鈴のよどみの霜にさえて明星さむし驛路の秋
 藥かみてこの秋風にわれ堪へず庭の芭蕉を切りすてよとぞ
 別れ來てわれうつつなき驛はづれ並木三里を松時雨なる
 實をとるとつどひし子等はみないにて夕べ靜かに銀杏葉のちる
 美はしき神のみ像のなかばなりて欄による朝菊の香たかき
                       ――同十月二十五日
 
       白菊(二)
 笠はねてこ手かざしみる朝の虹野や秋草の花にみだれたり
 笛とりてしらぶる曲のひくいかなまばら秋雨夜はふけにけり
 里の子のかける神輿のきらめきて夕日まばゆき秋祭かな
(13) 雨暗き夕べをそぞろ窓によれば村のはづれの鐘ひくう來る
 曉を落葉林の路にいりぬ小笠はぬれば月峰にあり
 見下せば麓の小里目もはるにまだら樺色秋たけにけり
 しをりせし花白菊は枯れにしもうつり香ゆかし源氏物語
 枯蓮にふる夕雨のねも細く七堂伽藍秋さびにけり
 ちさき筆に紅ふくませてなにゑがく秋海棠に雨重き夕べ
 水汲むと曉早う野にたてば霜さえざえて月天にあり
                       ――同十月二十八日
 
       すげ笠(その一)
    おのれこの月の七日より二週間が程日向の境を出でて肥後豐後のあたりを旅にくらしぬ。今その道すがらの腰折を菅笠と名づけて貴き紙上をけがす事となしぬ
(14) 朝時の露おもしろきにひ草鞋山みち野みち秋心地よや
 日向の國高千穂峰の秋や深き宮居をこめて風みだれ吹く
 大やまとやまと島根の八百萬神のはじめはこの峰の神
 天つ風いたくし吹けば大宮の神のみ鈴のさと鳴りわたる(以上三首三田井にて)
 白銀の鞍は朝日に閃きて駒のいななき秋風に高き
 たちこむるつつの白煙野や山や少しのひまに劍の閃き(以上二首大演習地にて)
 名にし負ふ銀杏は秋の日にはえて澄みしみ空に天主閣高し(熊本城を見て) 阿蘇が根に登りて見れば野や遠しやせたる小山こちごちにたつ
 地の神の怒や遂にたばしりて人の世高く煙わきのぼる
 煙くるる阿蘇の曠野に雲ひくし枯かやすすき秋の聲みつ
 葉の落ちし森に凩すさぶ夜を梟きくかな山そばの宿
(15)                     ――同十一月二十九日
 
       すげ笠(その二)
 山の宿の固き枕に夢を呼ぶ秋の女神の衣白かりき
 旅寢せる山の一村霜早し衣のやぶれ縫ふ人もがな
 野の水に秋の雲見る夕月夜かげもまばらに雁かけりゆく
 月落ちて山のやどりの夜や四更聞ゆるものは猿《ましら》ならずや
 なりがたき夢の行衛のあと追ひて一夜きくかな芭蕉葉の雨
 秋二十日旅に小笠の紐古りぬこよひ雨の日野の道ながき
 追分の文字手さぐりにひろひ讀む秋の夕べを雨ふり出でぬ
 里川に故郷《さと》なつかしみそぞろ立てば夕空遠くゆくは雁にや
 岨づたひつたふ蔦みち霧こめて見さくる空を雁金のゆく
(16) さ夜ふけて里には蟲のねもたえぬ蕎麥の山畑月はるかなり
                       ――同十二月二日
 
       すげ笠(その三)
 たくましき栗毛に銀の鞍おきてこの秋の水渡らばやとぞ
 耐へかねて枝折戸出づる旅やかた月のくらきに雁なき渡る
 更たけて風閑かなる山里に十日の月のただすみ渡る
 藪かげのこみちはつれば朽ちし堂あり五百羅漢に全き形あらず
 くちなはのぬけがらかかる野茨の枯枝ならして秋の風ふく
 秋風のあれにあれゆく野の暮を笠結ばむに我手こごえたり
 寂しとはいづこの烏滸《をこ》の言ならむ旅の百里の秋面白や
                       ――同十二月三日
(17)       白李緋桃(天)
 ともすれば讀經くづるる朧夜やおぼろ梅が香竹の戸に漏る
 籠の戸に鶯ちちとささ鳴きて友よぶ宵を春雨のふる
 ふりかへりまたふりかへりふりかへる振袖ながし春の夜の月
 笛おきてみ簾あぐる朧夜を眠るに似たり春の遠山
 うす絹をかづける稚兒の入ると見し柳の門の薄月夜かな
 松のどよみ浪のをたけび今荒れよさらばとばかり磯の夜の別れ
 宵月に櫻うするる里の今を歌あらずやと友が戸たたく
 怨むまじと獨り嵯峨野の庵にいねて歌かきながす春の夕暮
 竹きつてよき音つくりし笹笛に唄合す夜を春の雨ふる
                       ――明治三十六年三月二十九日
 
(18)       白李緋桃(地)
 春雨にぬれて歸りし雛鳩を紅絹《もみ》の小袖にそといだきみし
 朧夜を櫻みだるるさよ嵐駒に笛ふく狩衣のかげ
 磯かげに潮の香たかきさざ波やささやきかすか春の月ふけぬ
 繪の具とき繪はがきゑがく繪だくみの繪の間の窓に繪のままの梅
 たきすてし伽羅のけむりのたなびきてあるじはあらぬ春雨の窓
 月の夜を桃のみ園にあくがれてそぞろに君がみ名よびし笑み
 名殘ぞと又も見かへる村はづれ柳のもとに立つ人や誰れ
 おぼろ夜を鸚鵡ひそかに籠出でて鶯まねる梅が枝の月
 あくがるる奈良や芳野の春の旅笈には繪筆さて歌の筆
                       ――明治三十六年四月一日
 
(19)       白李緋桃(玄)
 山寺に僧はいまさで春の夜を經のみ卷の風にみだるる
 花曇り今日は晝より雨になりて相合傘の裾美しき
 紅きとて罪にはあらじ若人の法衣にくらし海棠の花
 朧夜を緋扇かざす舞姫の舞の衣に花ちりかかる
 初陣の手柄に君のたまひつる櫻かざせば駒かけ出でぬ
 緋桃咲く籬にたちて道とへば京へは右とやさしげの聲
 苔青きこみちに沓のあとちさしとめてゆかむか海棠の園
 み使の文とどきたる春の宵うす紅文字のふみがらながき
 繪師といふとなりぶすまの若人の訛は京よ春雨の宿
                       ――同四月二日
 
(20)       白李緋桃(黄)
 うぶすなの森をよぎりて河を前に桃の盛りはむかし誰が家
 花に病みて閨にこもりの春ながし法師の袖に歌乞ひたしや
 京出でて小笠百里の越の旅見さくるそらに夕霞濃き
 ねたましの双蝶見やる花かげにもの憂や髪をまたなぶる風
 吾れ問はむ君はいづれの花めづる白李海棠桃山櫻(初戀といふ題を得て)
 うす月にさそはれて來し春の野の野末くる唄君にはあらじか
 琵琶おきて緋扇かざす江の月や羅綾の袖に潮の香たかき
 朧夜を黄金づくりの太刀はきて洛陽出づる緋縅の武者
 春雨の夕べ戸によるふり袖や落ちし金釵をとらむともせぬ
                       ――同四月三日
 
(21) きらば君情はつらしなかなかに聞きませ曉のあれ鐘が鳴る
 ほほゑみやなやみかなしみ血の痩せに君入相の鐘きき給へ
 舟よせて山吹手折る菅笠のひな唄わかし加茂の春雨
 山吹の眞盛り見むと湯上りを相合傘よ春さめの里
 山ぶきの庵は今日も雨に暮れて佛刻むにまだ馴れぬ人
                       ――同八月五日
 
       沈鐘
 ゆく春のなごり追へとや憂き文にそへて賜ひし藤濃紫
 琴の人や鼓の人や梅壺の櫻に更くる十六夜月夜
 かくてなほ身を去りがたき春の惑ひ松の風きく朝寒の戸や
(22) 野を歸る鳩は夕べの色に暮れてかすかなるかや霧をゆく鐘
 數ふればはやも七つか入相の雲は憂き色野を流れゆく
 雨今督別れていつかまた遇はむ入日名殘の冷たき鐘や
                       ――同八月六日
 
       つゆ草
 野の風に丈けの朝髪なぷらせて百合に笑む子をねたましと見き
 ふと見れば香もなき袖の墨ごろも一重のこして夢はいづくへ
 とひませるみ堂は森の樹がくれにうす紫の桐見ゆるそれ
 百合白き合歡の樹蔭の小泉にうつり香高き扇ひろひぬ
 人知れず石に刻みし歌古りて雨にはびこる屑白き花
                       ――同八月七日
 
(23)       つゆ草
 ふと見えし衣はみどりか水色か宵月百合にかくれてし人
 紅薔薇に香の煙のまつはりてみともし淡き明方の雨
 いつしかに夕立はれし靄の野を姉妹ふたりが追分小唄
 星の露けがれなき野の草におちて紅き朝顔白き夕顔
 玉のみ手に玉の水棹のまとひけり月のみ舟や紅蓮白蓮
                       ――同八月九日
 
       つゆ草
 
 繪の具といて今朝黙想の興ふかし憎くやしら絹そめてちる百合
 雨はいま島のあたりや江樓の朱廉ふきあぐる夕青嵐
 殿ぬけて磯へ下れば月まどか磯は千本姫小松原
(24) ゆくりなく友と相會ふ野の樹蔭と見れば同じうらぶれの笠
 墨染のみ裳裾長う夜の神のあゆみ靜かに夢ふけてゆく
 一村は若紫の靄に凝りて小雨しと/\青葉に明くる
                       ――同八月十一日
 
       つゆ草
 玉はちす昨日は紅きけふは白きみやこの畫師が里ごもり日記
 月たけて夢なホふかし萬象の鳴りをしづめてゆくホととぎす
 よる波の波の穗匂ふ松が根に乙女化粧か朝髪さらす
 高ゆくや山子規《やまほととぎす》水ちかし竹の枕に夢はなかりき
 百合出でて朝野流るる水色の四つの袂を吹く青嵐
 曙を露の小蟲の清き音や萩の野しむるうるはしき戀
(25)                     ――同八月十三日
 
 『新聲』歌壇より
 
        〇
 おのづから胸に合《あは》する罪の手や沈黙《しじま》の秋の夜は更けにけり
 梢たかき銀杏の寺のかね消えてねむるに似たり秋のひと村
 とても世の秋は寂しく冷たきにふかれて風の國に去《い》なばや
 ほのぽのと花野の朝はあけそめて靄に別るるつばさ白き神
                       ――明治三十七年一月一日號
        〇
 やまざとは雪の小うさぎ紙のつる姉と弟の春うつくしき
(26) ともすれば千鳥にともしかかげけり夜舟になれぬ舟子《かこ》が新妻
 しめやかに手と手冷たき物がたり宵の霙は雪となりにけり
                       ――同二月十五日號
        〇
 山駕籠にゆられごこちの欄干《おばしま》や湖《うみ》うつくしき山中のやど
 あけぼのの紫わかうにほはせてかすみに浮ふあさしほのしま
 まどろみの小草にのこる夢もあらむ吹くな春風野の旅ごろも
 鐘の音のなごりただよふ靄の中にほのぽのしらむしら桃の里
                       ――同四月十五日號
        〇
 若草や桃咲く路は闇ぞよき君が小窓の灯の洩れてくる
(27) 病めば戸による日ぞ多き戸によれば母のみ國の島ほのみゆる
 松の戸に磯の千鳥を聽く夜かな藻の火きえては寒しと添ひて
 相ふるるや緋染花ぞめはなだ染みやこの春は袖の波よる
 振袖の寢すがたかつぐ山駕籠のはだか男を捲く櫻かな
 美しうちさき歌よとほほゑまれ姉にそむけば春の雪ふる
 春の日は孔雀に照りて人に照りて彩羽あや袖鏡に入るも
                       ――明治三十八月三月一日號
        〇
 白駒や小鈴に稚兒のゆめのせてさくら吹雪のあさやま越ゆる
 詩の王のかむりつくると春山に桂たづねて入るかすみかな
 鎭國の伽藍きづくと國擧げ石切りいだす朝ざくらやま
(28) そぞろにもちぎられし袖かづきけり歌留多もどりの春の夜の雪
 春雨や鐘は上野かあさ草かふるき江戸みるゆめごこちかな
 いたづらに鐘は鳴るかな春雨にこのゆめやらじ明けなあさ室
 春の日やさくらがくれにしのびきて山のわが背の木樵唄きく
 山堂のおぽろ月夜をうかるるや古き壁畫の鬼ぬけいづる
                       ――同四月一日號
        〇
 うつらうつら春の海見る夕なぎやひとみおぼろに浮く戀の島
 病むひとの枕きよめてまどあけて鶯呼べばあささくら散る
 白桃や小まど小窓の機うたのもれてもつれて里の日暮るる
 高麗びとののどけき謠やつみ草や亡國の野に春ながれたり
 朝山に染分け手綱ひかへつつ鳥聽くひとに散るさくらかな
                       ――同四月十日號
        〇
 塔たかう大鐘鳴らす菜のはなの大和くにばら日の入りよどむ
 むらさきの靄さめかぬる朝やまのゆめのゆくへと鶯のなく
 山たかみ瀧のしぶきに散る花に笠して見ればとほき海かな
 わか草の小みちはつれば湖《うみ》みえてきみの城あり春の雲浮く
 はるさめやしぶ茶草もち小雪洞《こぼんぼり》ともの戀きく菜のはなの里
                       ――同五月一日號
        〇
 菜の花のなかなる唄のお師匠の門をきらばと五つの灯かな
(30) 牛つれて丘へのぼれば南の海めくくさにあをあらし吹く
 夏草の里にこもりてふたりしてあやめ葺く日を雨しづかなり
 緋芍藥島の女王にみつぎすと朝上ぐる帆に青あらし吹く
                       ――同七月一日號
        〇
 子規啼きぬ今宵のおん夢にわが子|去《い》ぬると入りしやいかに(【郷に歸る日舟より母に】)
 ふるさとや桃薄紅の實をつけてうらぶれ人の我むかへけり
 靄しろう蓮の香まよふあさ月夜あを鷺おほき水の村かな
 ほととぎす啼くなる山の大木に斧をふるへば霧青う降る
 古山や古樹森なす夏の日の青照るかげになくほととぎす
 ふるさとは島なりなつの青潮花藻咲かせてちち母まもれ
(31)                     ――同九月一日號
        〇
 ほととぎす鳴くよと母に起されてすがる小窓の草月夜かな
 父と寢ね母と起きいづるふる郷の山家このごろ鹿のこゑかな
 蔓ひけばゆらぐ紅花まだら花朝顔のびぬきみが窓まで
 草の實に木の實に秋のめぐりては小鳥よく啼く故郷の山
 ふる郷の梨の古樹を撫でて見つをさなきわれと逢ふここちして
                       ――同十月一日號
        〇
 一山の僧都《そうづ》紫衣する秋の日の高野はなるる朝の鐘かな
 ゆく雲を仰ぐになれし草の戸の蔦に影ひく秋の落日《いりひ》や
(32) 河越えて山に入る雁河越えて里に出る鐘朝のもや濃き
 ふるさとの秋を澄む月|翌日《あす》立たむわが衣うつ母に照るかな
 夕霧はしづかにふりくふるさとの別れの酒の冷たき窓に
 秋の日の青澄むそらをわたり鳥大河越えて椋ちる森へ
 古山の巨樹にすがる秋の日の沈みはつれば霧ふり出でぬ
 人の國へ秋の海越え山をこえなみださそはむ風と吹かばや
 森の城に姫や待つらむ潮こえて夕日にかへる白き鳩かな
 秋風は白うめぐりぬ大寺の稚兒の十人が衣するなかを
 秋草の小みち古路ふみなやむ提灯ちさき文づかひかな
 そぞろにも寒しとすだれ垂れにけり蟲のなかゆく戀の小夜駕籠
                       ――同十月二十日號
(33)        〇
 風吹かば秋風吹かばわかるともけふの武藏を思ふ日あらむ(【別るとて野に立ちぬ】)
 長き夜の夢路に露の草わけむきのふの人にあふやあはずや(【以下三首別れてのちに】)
 草の戸にふるや秋雨わすれては人の小傘のそぞろまたるる
 年經なば今日の別のおもひ出に秋美しむ日もまじるべし
 雁きくとともし火とれば山々の霧せまりくる萱びさしかな
 過ぎし世の秋めく日なり夕影のにぶき小窓に人戀ひをれば
 秋追ひてとこしへめぐる鳥やとて雁にかかげしふる簾かな
 山まゆに姉が手織のふる袷とりいでて着る菊びよりかな
 ふるさとの山ほの見ゆるそれのみに古き家去らぬ秋の人かな(夕暮君に)
                       ――同十一月一日號
(34)        〇
 秋さむや萩に照る日をなつかしみ照らされに出し朝の人かな 
 樹に倚りて相むつみゆく笠のかげとほく望みぬ秋照る岡に
 いささかのことばにすねて分れ來し岡の小林秋の鳥啼く
 塔たかみ遠鳴りわたる巨鐘やゆふ日の中のあき風の國
 秋の日は薄の波にしろがねの古き鏡に似てしづみけり
 大海のしづかなる香ぞおもほゆる穗薄月夜岡に立てれば
 小夜時雨かへさをわぶるやさ眉のひそむも見えてよき灯影かな
 岡の上に待てば麓の木がくれの白きすすきに笠みえそめぬ
 秋の日を野越え杜こえ丘こえて雲のやうなる旅もするかな
                       ――同十二月一日號
 
  海の聲
 
(37)序
 
 咋にして歡樂の夢すでにすくなかりし身の今におよぴて哀愁のいたみ更に切なるを覺ゆ。古人の多情練漉すでに低摧すといへるは或はかくの如きを歌へるなるべし。されどなほその人はそれに次ぐに獨寒林に倚つて野梅を嗅ぐの句を以てせり。余や日として走らざるなく時として息ふこと能はず、みづから憂へみづから苦しみてしかもつひにわが安んずべきところを知らず。ああ喜を見ていよくよろこび悲にあひてまたます/\よろこぶわが牧水君の今の時は幸なるかな羨むべきかな。
(38) おもほえず昨日われ射しわかき日のひかりを君がうへに見むとは
 きみがよぶこゑにおどろきながめやる老てふ道のさてもさびしき
 君によりてまたかへりふむわかき道花はきのふの紅にして
                        柴舟生
 
(39)序
 
 われは海の聲を愛す。潮青かるが見ゆるもよし見えざるもまたあしからじ。遠くちかく、斷えみたえずみその無限の聲の不安おほきわが胸にかよふとき、われはげに言ひがたき悲哀と慰藉とを覺えずんばあらず。
 こころせまりて歌うたふ時、また斯のおもひの湧きいでて耐へがたきを覺ゆ。かかる時ぞ、わがこころ最も明らかにまた温かにすべてのものにむかひて馳せゆきこの天地の間に介在せるわが影の甚しく確乎たるを感ず。まこと、われらがうら若の胸の海ほど世にも清らにまた時おかず波うてるはあらざるべし。そのとどめがたきこころのふるへを歌ひいでてわれとわがおもひをほしいままにし、かつそのまま盡くるなき思ひ出の甕にひめおかむこと、げにわれらがほこりにしてまた限りなきよろこびならずとせむ(40)や。
 われ幼きより歌をうたひぬ。されども詩歌としてゆるさるべき秀れしもの殆んどいまだあることなし。ここには比較的ととのひそめし明治三十九年あたりの作より今日に至るまでのもの四百幾十首を自ら選みいでて輯めたり。選むには巧みなると否とを旨とせず、好きすかずを先にしたり、要はただ純みたるわが影を表はさむとしてに外ならず。
 表紙畫は平福百穗氏の厚意に成れり。多忙のうちわがために勞をさかれし氏に對して感謝の意を表す。
   明治四十一年五月
                     若山牧水
 
(41) 海の聲
 
 われ歌をうたへり今日も故わかぬかなしみどもにうち追はれつつ
 眞晝日のひかりのなかに燃えさかる炎か哀しわが若さ燃ゆ
 海哀し山またかなし醉ひ痴れし戀のひとみにあめつちもなし
 風わたる見よ初夏のあを空を青葉がうへをやよ戀人よ
 空の日に浸《し》みかも響く青々と海鳴るあはれ青き海鳴る
 海を見て世にみなし兒のわが性《さが》は涙わりなしほほゑみて泣く
 白鳥はかなしからずや空の青海のあをにも染まずただよふ
 あな寂し縛《いまし》められて黙然と立てる巨人の石彫まばや
 海斷えず嘆くか永久《とは》にさめやらぬ汝《なれ》みづからの夢をいだきて
(42) 闇の夜の浪うちぎはの明るきにうづくまりゐて蒼海《あをうみ》を見る わが胸ゆ海のこころにわが胸に海のこころゆあはれ絲鳴る
 わがまへに海よこたはり日に光るこのかなしみの何にをののく
 戸な引きそ戸の面《も》は今しゆく春のかなしさ滿てり來よ何か泣く
 みな人にそむきてひとりわれゆかむわが悲しみはひとにゆるさじ
 蒼穹《おほぞら》の雲はもながるわだつみのうしほは流るわれ茫と立つ
 夜半の海|汝《な》はよく知るや魂一つここに生きゐて汝が聲を聽く
 われ寂し火を噴く山に一瞬《ひととき》のけむり斷えにし秋の日に似て
 闇冷えぬいやがうへにも砂冷えぬ渚に臥して黒き海聽く
 あなつひに啼くか鴎よ靜けさの權化と青の空にうかびて
 狂ひ鳥はてなき青の大空に狂へるを見よくるへる女
(43) おもひみよ青海なせるさびしさにつつまれゐつつ戀ひ燃ゆる身を
 君來ずばこがれてこよひわれ死なむ明日は明後日《あさて》は誰が知らむ日ぞ
 泣きながら死にて去にけりおん胸に顔うづめつつ怨みゐし子は
 われ憎む君よ眞晝の神のまへ燭《ひ》ともすほどの臈たき人を
 然《さ》なり先づ春消えのこる松が枝の白の深雪《みゆき》の君とたたへむ 玉ひかる純白《ましろ》の小鳥たえだえに胸に羽うつ寂しき眞晝
 黒髪のかをり沈むやわが胸に血ぞ湧く創《きず》ゆしみ出《づ》るごとく
 春や白晝《ひる》日はうららかに額《ぬか》にさす涙ながして海あふぐ子の(以下四十九首安房にて)
 聲あげてわれ泣く海の濃《こ》みどりの底に聲ゆけつれなき耳に
 わだつみの白晝《ひる》のうしほの濃みどりに額うちひたし君戀ひ泣かむ
 忍びかに白鳥啼けりあまりも凪ぎはてし海を怨ずるがごと
(44) わがこころ海に吸はれぬ海すひぬそのたたかひに瞳《め》は燃ゆるかな
 こころまよふ照る日の海に中ぞらにうれひねむれる君が乳の邊に
 眼をとぢつ君樹によりて海を聽くその遠き音になにのひそむや
 ああ接吻海そのままに日は行かず鳥|翔《ま》ひながら死《う》せ果てよいま
 接吻《くちづ》くるわれらがまへにあをあをと海ながれたり神よいづこに
 山を見よ山に日は照る海を見よ海に日は照るいざ唇《くち》を君
 松透きて海見ゆる窓のまひる日にやすらに睡る人の髪吸ふ
 ともすれば君口無しになりたまふ海な眺めそ海にとられむ
 君かりにかのわだつみに思はれて言ひよられなばいかにしたまふ
 ふと袖に見いでし人の落髪を唇《くち》にあてつつ朝の海見る
 ひもすがら斷えなく窓に海ひびく何につかれて君われに倚る
(45) 誰ぞ誰ぞ誰ぞわがこころ鼓《う》つ春の日の更けゆく海の琴にあはせて 夕海に鳥啼く闇のかなしきにわれら手とりぬあはれまた啼く
 鳥行けりしづかに白き羽のしてゆふべ明るき海のあなたへ
 夕やみの磯に火を焚く海にまよふかなしみどもよいざよりて來よ
 海明り天《そら》にえ行かず陸《くが》に來ず闇のそこひに育うふるへり
 うす雲はしづかに流れ日のひかり鈍める白晝《ひる》の海の白さよ
 眞晝時青海死にぬ巖《いは》かげにちさき貝あり妻《め》をあさり行く
 海の聲そらにまよへり春の日のその聲のなかに白鳥の浮く
 海あをし青一しづく日の瞳《まみ》に點じて春のそら匂はせむ
 春のそら白鳥まへり觜《はし》紅《あか》しついばみてみよ海のみどりを
 白き鳥ちからなげにも春の日の海をかけれり君よ何おもふ
(46) 無限また不斷の變化《へんげ》持つ海におどろきしかや可愛ゆをみなよ
 春の海ほのかにふるふ額《ぬか》伏せて泣く夜のさまの誰が髪に似む
 幾千の白羽みだれぬあき風にみどりの海へ日の大ぞらへ
 いづくにか少女泣くらむその眸《まみ》のうれひ湛へて春の海凪ぐ
 海なつかし君等みどりのこのそこにともに來ずやといふに似て凪ぐ
 手をとりてわれらは立てり春の日のみどりの海の無限の岸に
 春の海のみどりうるみぬあめつちに君が髪の香滿ちわたる見ゆ
 御《み》ひとみは海にむかへり相むかふわれは夢かも御ひとみを見る
 わが若き双《さう》のひとみは八百潮のみどり直《ひた》吸ひ何ほ飽かず燃ゆ
 しとしとと潮の匂ひのしたたれり君くろ髪に海の瓊《に》をさす
 君笑めば海はにほへり春の日の八百潮どもはうちひそみつつ
(47) 春の河うす黄に濁り音もなう潮滿つる海の朝凪に入る
 暴風雨《しけ》あとの磯に日は冴ゆなにものに驚かされて犬永う鳴く
 白晝《ひる》の海古びし青き絲のごとたえだえ響く寂しき胸に
 伏目して君は海見る夕闇のうす青の香に髪のぬれずや
 日は海に落ちゆく君よいかなれば斯くは悲しきいざや祷らむ
 白晝さびし木《こ》の間に海の光る見て眞白き君が額《ぬか》のうれひよ
 くちづけは永かりしかなあめつちにかへり來てまた黒髪を見る
 夕ぐれの海の愁ひのしたたりに浸されて瞳《め》は遠き沖見る
 蒼ざめし額《ひたひ》にせまるわだつみのみどりの針に似たる匂ひよ
 柑子やや夏に倦みぬるうすいろに海は濁れり夕疾風《ゆふはやち》凪ぐ
 海荒れて大空の日はすきみたり海女《あま》巖かげに何の貝とる
(48) 春の海さして舟行く山かげの名もなき港晝の鐘鳴る
 朱の色の大鳥あまた浮きいでよいま晩春《ゆくはる》の日は空に饐《す》ゆ
 山を見き君よ添寢の夢のうちに寂しかりけり見も知らぬ山
 春の雲しづかにゆけりわがこころ靜かに泣けり何をおもふや
 悲し悲し何かかなしきそは知らず人よ何笑むわがかたを見て
 わが胸の底の悲しみ誰知らむただ高笑ひ空《くう》なるを聞け
 悲哀《かなしみ》よいでわれを刺せ汝《な》がままにわれ刺しも得ばいで千々に刺せ
 われ敢へて手もうごかさず寂然《じやくねん》とよこたはりゐむ燃えよ悲しみ
 かなしみは濕れる炎聲もなうぢぢと身を燒くやき果てはせで
 雲見れば雲に木見れば木に草にあな悲しみのかげ燃えわたる
 ああ悲哀せまれば胸は地はそらは一色《ひといろ》に透く何等影無し
(49) 泣きはててまた泣きも得ぬ瞳《め》の闇の重さよ切《せち》に火のみだれ喚ぶ
 掟《おき》てられて人てふものの爲すべきをなしつつあるに何のもだえぞ
 馴れ馴れていつはり來にしわが影を美しみつつ今日をつぐかな
 あれ行くよ何の悲しみ何の悔い犬にあるべき尾をふりて行く
 天《そら》の日に向ひて立つにたへがたしいつはりにのみ滿ちみてる胸
 もの見れば燒かむとぞおもふもの見れば消なむとぞ思ふ弱き性《さが》かな
 天あふぎ雲を見ぬ日は胸ひろししかはあれども淋しからずや
 ただ一路風飄としてそらを行くちひきき雲らむらがりてゆく
 地のうへに生けるものみな死にはてよわれただ一人日を仰ぎ見む
 見てあれば一葉先づ落ちまた落ちぬ何おもふとや夕日の大樹《おほき》
 木の蔭や悲しさに吹く笛の音はさやるものなし野にそらに行く
(50) 樹に倚りて頬をよすればほのかにも頬に脈うつ秋木立かな
 山はみな頭《かうべ》を垂れぬ落日のしじまのなかに海簫をふく
 をちこちに亂れて汽笛鳴りかはすああ都會《まち》よ見よ今日もまた暮れぬ 青の海そのひびき斷ち一瞬の沈獣を守れ日の聲聽かむ
 人といふものあり海の眞蒼なる底にくぐりて魚《な》をとりて食む
 海の聲たえむとしてはまた起る地に人は生れまた人を生む
 西の國ひがしの國の帆柱は港に入りぬ黙然として
 海の上の老いし旅びと帆柱はけふも海行く西風《にし》冴えて吹く
 黄に匂ふ悲しきかぎり思ひ倦《う》じ對へる山の秋の日のいろ
 秋の風木立にすさぶ木のなかの家の灯かげにわが脈はうつ
 つとわれら黙《もだ》しぬ灯かげ黒かみのみどりは匂ふ風過ぎて行く
(51) われらややに頭《かうべ》をたれぬ胸二つ何をか思ふ夜風《よかぜ》遠く吹く
 風消えぬ吾《あ》もほほゑみぬ小夜の風聽きゐし君のほほゑむを見て
 つと過ぎぬすぎて聲なし夜の風いまか靜かに木の葉ちるらむ
 風落ちぬつかれて樹々の凪ぎしづむ夜《よ》を見よ少女《をとめ》さびしからずや
 風凪ぎぬ松と落葉の木の叢《むら》のなかなるわが家いざ君よ寢む
 山戀しその山すその秋の樹の樹の間を縫へる青き水はた
 青海の底の寂しさ去にし日の古びし戀の影戀ひわたる
 街の聲うしろに和むわれらいま潮さす河の春の夜を見る
 春の海の靜けさ棲めり君とわがとる掌《て》のなかに灯の街を行く
 はらはらに櫻みだれて散り散れり見ゐつつ何のおもひ湧かぬ日
 蛙鳴く耳をたつればみんなみにいなまた西に雲白き晝
(52) 朝|地震《なゐ》す空はかすかに嵐して一山《いちざん》白き山ざくらばな
 雪暗うわが家つつみぬ赤々と炭燃ゆる夜の君が髪の香
 鳥は籠君は柱にしめやかに夕日を浴びぬなど啼かぬ鳥
 煙たつ野ずゑの空へ野樹《のぎ》いまだ芽ふかぬ春のうるめるそらへ
 春の夜や誰ぞまだ寢ねぬ厨なる甕に水さす音《ね》のしめやかに
 仰ぎ見る瞳しづけし春更くるかの大ぞらの胸さわぐさま
 白晝《まひる》哀し海のみどりのぬれ髪にまつはりゐつつ匂ふ寂靜《しじま》よ
 秋立ちぬわれを泣かせて泣き死なす石とつれなき人戀しけれ
 眞晝日のひかりのなかに蝋の燭《ひ》のゆらげるほどぞなほ戀ひ殘る
 この家は男ばかりの添寢ぞとさやさや風の樹に鳴る夜なり
 春たてば秋さる見ればものごとに驚きやまぬ瞳《め》の若さかな
(53) わが若き胸は白壺《しらつぼ》さみどりの波たちやすき水たたへつつ
 うら若き青八千草の胸の野は日の香さびしみ百鳥を呼ぶ
 若き身は日を見月を見いそいそと明日《あす》に行くなりその足どりよ
 月光の青のうしほのなかに浮きいや遠ざかり白鷺の啼く
 片ぞらに雲はあつまり片空に月冴ゆ野分地にながれたり
 十五夜の月は生絹《きぎぬ》の被衣《かつぎ》して男をみなの寢し國をゆく
 白晝《ひる》のごと戸の面《も》は月の明う照るここは灯《ひ》の國君とぬるなり
 君|睡《ぬ》れば灯の照るかぎりしづやかに夜は匂ふなりたちばなの花
 寢すがたはねたし起すもまたつらしとつおいつして蟲を聽くかな
 ふと蟲の鳴く音《ね》たゆれば驚きて君見る君は美しう睡《ぬ》る
 君ぬるや枕のうへに摘まれ來し秋の花ぞと灯は匂《にほ》やかに
(54) 美しうねむれる人にむかひゐてふと夜ぞかなし戸に月や見む
 月の夜や君つつましうねてさめず戸の面の木立風|眞白《ましろ》なり
 短かりし一夜なりしか長かりし一夜なりしか先づ君よいへ
 靜けさや君が裁縫《しごと》の手をとめて菊見るさまをふと思ふとき
 机のうへ植木の鉢の黒土に萌えいづる芽あり秋の夜の灯よ
 春の樹の紫じめる濃き影を障子《さうじ》にながめ思ふこともなし
 つかれぬる鈍き瞳をひらきては見るともなしに何もとむとや
 君もまた一人かあはれ戀ひ戀ふるかなしきなかに生けるひとりか
 春の森青き幹ひくのこぎりの音と木の香と藪うぐひすと
 ぬれ衣《きぬ》のなき名をひとにうたはれて美しう居るうら寂しさよ
 母戀しかかる夕べのふるさとの櫻咲くらむ山の姿よ
(55) 春は來ぬ老いにし父の御《み》ひとみに白ううつらむ山ざくら花
 父母よ神にも似たるこしかたに思ひ出ありや山ざくら花
 町はづれきたなき溝《どぶ》の匂ひ出《づ》るたそがれ時をみそさざい啼く
 戀さめぬあした日は出でゆふべ月からくりに似て世はめぐるかな
 青き玉さやかに透きて春の夜の灯《ひ》を吸へる見よ涼しき瞳
 火事あとの黒木のみだれ泥水の亂れしうへの赤蜻蛉《あかとんぼ》かな
 帆のうなり濤の音こそ身には湧けああさやなれや十月の雪
 人どよむ春の街ゆきふとおもふふるさとの海の鴎啼く聲
 山ざくら花のつぼみの花となる間《あひ》のいのちの戀もせしかな
 海の聲山の聲みな碧瑠璃の天《そら》に沈みて秋照る日なり
 君は知らじ君の馴寄《なよ》るを忌むごときはかなごころのうらさびしさを
(56) うらこひしさやかに戀とならぬまに別れて遠きさまざまの人
 阿蘇の街道《みち》大津の宿に別れつる役者の髪の山ざくら花
 月光のうす青じめる有明の木の原つづき啼く鶉かな
 秋の海かすかにひびく君もわれも無き世に似たる狹霧白き日
 酒の香の戀しき日なり常磐樹に秋のひかりをうち眺めつつ
 おもひやる番の御寺の寺々に鐘冴えゆかむこのごろの秋
 秋の灯や壁にかかれる古崎子袴のさまも身にしむ夜なり
 野分すぎ勞れし空の静けさに心凪ぎゐぬ別れし日ごろ
 秋の夜こよひは君の薄化粧《うすげはひ》さびしきほどに靜かなるかな
 君去にてものの小本のちらばれるうへにしづけき秋の夜の灯よ
 いと遠き笛を聽くがにうなだれて秋の灯のまへものをこそおもへ
(57) 秋の雲柿と榛《はり》との樹々の間にうかべるを見て君も語らず
 秋晴や空にはたえず遠白き雲の生れて風ある日なり
 月の夜や裸形《らぎやう》の女そらに舞ひ地に影せぬ靜けさおもふ
 秋の雨木々にふりゐぬ身じまひのわろき寢ざめのはづかしきかな
 秋あさし海ゆく雲の夕照りに背戸の竹の葉うす明りする
 君が背戸や暗《やみ》よりいでてほの白み月のなかなる花月見草
 白桔梗君とあゆみし初秋の林の雲の靜けさに似て
 恩ひ出《づ》れば秋咲く木々の花に似てこころ香りぬ別れ來し日や
 秋風は木の間に流る一しきり桔梗色してやがて暮るる雲
 別れ來て船にのぽれば旅人のひとりとなりぬ初秋の海
 啼きもせぬ白羽《しらは》の鳥よ河口は赤う濁りて時雨晴れし日
(58) 日向の國むら立つ山のひと山に住む母戀し秋晴の日や
 うつろなる秋のあめつち白日《はくじつ》のうつろの光ひたあふれつつ
 秋眞晝青きひかりにただよへる木立がくれの家に雲見る
 うすみどりうすき羽根着るささ蟲の身がまへすあはれ鳴きいづるらむ
 日は寂し萬樹《ばんじゆ》の落葉はらはらに空の沈黙《しじま》をうちそそれども
 見よ秋の日のもと木草《きぐさ》ひそまりていま凋落の黄を浴びむとす
 海の上《へ》の空に風吹き陸《くが》の上の山に雲居り日は帆の上に
 むらむらと中ぞら掩ふ阿蘇山のけむりのなかの黄なる秋の日
 虚《うろ》の海暗きみどりの高ぞらのしじまの底に消ゆる雲おもふ
 落日や街の塔の上金色に光れど鐘はなほ鳴りいでず
 日が歩むかの弓形《ゆみなり》の蒼空の青ひとすぢのみちのさぴしさ
(59) 落葉焚くあをきけむりのほそほそと木の間を縫ひて夕空へ行く
 悲しさのあふるるままに秋のそら日のいろに似る笛吹きいでむ
 富士よゆるせ今宵は何の故もなう涙はてなし汝《なれ》を仰ぎて
 凪ぎし日や虚《うろ》の御そらにゆめのごと雲はうまれて富士戀ひて行く
 雲らみな東の海に吹きよせて富士に風冴ゆ夕映のそら
 雲はいま富士の高ねをはなれたり裾野の草に立つ野分かな
 赤々と富士火を上げよ日光の冷えゆく秋の沈黙《しじま》のそらに
 山茶花は咲きぬこぼれぬ逢ふを欲りまたほりもせず日經ぬ月經ぬ
 遠山の峰《を》の上《へ》にきゆるゆく春の落日《らくじつ》のごと戀ひ死にも得ば
 黒かみはややみどりにも見ゆるかな灯にそがひ泣く秋の夜のひと
 立ちもせばやがて地にひく黒髪を白もとゆひに結ひあげもせで
(60) 君さらに笑みてものいふ御頬《みほ》の上にながるる涙そのままにして
 涙もつ瞳つぷらに見はりつつ君かなしきをなほ語るかな
 朝寒や萩に照る日をなつかしみ照らされに出し黒かみのひと
 遠白《とほしろ》うちひさき雲のいざよへり松の山なる櫻のうへを
 水の音に似て啼く鳥よ山ざくら松にまじれる深山《みやま》の晝を
 なにとなきさびしさ覺え山ざくら花ちるかげに日を仰ぎ見る
 怨みあまり切らむと言ひしくろ髪に白躑躅さすゆく春のひと
 忍草《しのぷぐさ》雨しづかなりかかる夜はつれなき人をよく泣かせつる
 山脈や水あきぎなるあけぽのの空をながるる木の香《かをり》かな
 君戀し葵の花の香《か》にいでてほのかに匂ふ夕月のころ
 ※[虫+車]《こほろぎ》や寢ものがたりのをりをりに涙もまじるふるさとの家
(61) さらばとてさと見合せし額髪《ぬかがみ》のかげなる瞳えは忘れめや(二首秀孃との別れに)
 別れてしそのたまゆらよ虚《うつろ》なる双《もろ》のわが眼にうつる秋の日
 鰍をあげまた鰍おろしこつこつと秋の地を掘る農人どもよ
 酒倉の白壁つづく大浪華こひしや秋の風冴えて吹く
 まだ啼かず片羽《かたば》赤らみかつ黒み夕日のそらを行く鳥のあり
 窓ちかき秋の樹の間に遠白き雲の見え來て寂しき日なり
 胸さびし仰げば瑠璃の高ぞらにみどりの雨のまぼろしを見る
 行きつくせば浪青やかにうねりゐぬ山ざくらなど咲きそめし町
 山越えて空わたりゆく遠鳴の風ある日なり山ざくら花
 君泣くか相むかひゐて言もなき春の灯かげのもの靜けさに
 相見ねば見む日をおもひ相見ては見ぬ日を思ふさびしきこころ
(62) 海死せりいづくともなき遠き音《ね》の空にうごきて更けし春の日
 相見ればあらぬかたのみうちまもり涙たたへしひとの瞳よ
 われはいま暮れなむとする雲を見る街は夕べの鐘しきりなり
 船なりき春の夜なりき瀬戸なりき旅の女と酌みし杯
 いつとなうわが肩の上にひとの手のかかれるがあり春の海見ゆ
 ふとしては君を避けつつただ一人泣くがうれしき日もまじるかな
 世のつねのよもやまがたり何にさは涙さしぐむ灯のかげの人
 わだつみのそこひもわかぬわが胸のなやみ知らむと啼くか春の鳥
 笛ふけば世は一いろにわが胸のかなしみに染む死なむともよし
 春來ては今年も咲きぬなにといふ名ぞとも知らぬ背戸の山の樹
 おもひ倦《う》じふと死を念ふ安心《うらやす》になみだ晴れたる虚《うろ》の瞳よ
(63) 雲ふたつ合はむとしてはまた遠く分れて消えぬ春の青ぞら
 ただひとり小野の樹に倚り深みゆく春のゆふべをなつかしむかな
 『木の香にや』『いな海ならむ樹間《こま》がくれかすかに浪の寄る音《ね》きこゆる』
 町はづれ煙突《けむだし》もるる青煙《あをけむ》のにほひ迷へる春木立かな
 椎の樹の暮れゆく蔭の古軒の柱より見ゆ遠山を燒く
 鶯のふと啼きやめばひとしきり風わたるなり青木が原を
 春あさき海のひかりや幹かたき磯の木立のやや青むかな
 つかれぬる胸に照り來てほのかをるゆく春ごろの日のにほひかな
 田のはづれ林のうへのゆく春の雲の靜けさ蛙鳴くなり
 眼とづればこころしづかに音《ね》をたてぬ雲遠見ゆる行く春のまど
 植木屋は無口のをとこ常磐樹の青き葉を刈る春の雨の日
(64) 初夏の照る日のもとの濃みどりのうら悲しさや合歡の花咲く
 淋しくばかなしき歌のおほからむ見まほしさよと文かへし來ぬ
 ゆく春の月のひかりのさみどりの遠《をち》をさまよふ悲しき聲よ
 淋しとや淋しきかぎりはてもなうあゆませたまへ如何にとかせむ(人へかへし)
 いと幽《かす》けく濃青《こあを》の白日《ひる》の高ぞらに鳶啼くきこゆ死にゆくか地《つち》
 一すぢの絲の白雪富士の嶺に殘るがかなし水無月の天《そら》
 月光の青きに燃ゆる身を裂きて蛇苺なす血の湧くを見む
 初夏の月のひかりのしたたりの一滴《ひとたま》戀し戀ひ燃ゆる身に
 皐月たつ空は戀する胸に似む戀する人よいかに仰ぐや
 狂ひつつ泣くと寢ざめのしめやけき涙いづれが君は悲しき
 しとしとと月は滴《したた》る思ひ倦《う》じ亡骸《むくろ》のごともさまよへる身に
(65) かりそめに病めばただちに死をおもふはかなごこちのうれしき夕べ(【四首病床にて】)
 死ぬ死なぬおもひ迫る日われと身にはじめて知りしわが命かな
 日の御神氷のごとく冷えはてて空に朽ちむ日また生れ來む
 夙く窓押し皐月のそらのうす青を見せよ看護婦《みとりめ》胸せまり來ぬ
 人棲まで樹々のみ生ひしかみつ代のみどり照らせし日か天《そら》をゆく
 われ驚くかすかにふるふわだつみの肯きを眺めわが脉搏に
 わくら葉か青きが落ちぬ水無月の死しぬる白晝《ひる》の高樫の樹ゆ
 鷺ぞ啼く皐月の朝の淺みどり搖れもせなくや鷺空に啼く
 水ゆけり水のみぎはの竹なかに白鷺啼けり見そなはせ神
 水無月や日は空に死し干乾びし朱泥のほのほ阿蘇|靜《しづ》に燃ゆ
 聳やげる皐月のそらの樹の梢《うれ》に幾すぢ青の絲ひくか風
(66) 醉ひはてぬわれと若さにわが戀にこころなにぞも然かは悲しむ
 
     旅ゆきてうたへる歌をつぎにまとめたり、思ひ出にたよりよかれとて
 
 山の雨しばしば軒の椎の樹にふりきてながき夜の灯《ともし》かな(百草山にて)
 立川の驛の古茶屋さくら樹の紅葉のかげに見おくりし子よ
 旅人は伏目にすぐる町はづれ白壁ぞひに咲く芙蓉かな(日野にて)
 家につづく有明白き萱原に露さはなれや鶉しば啼く
 あぶら灯やすすき野はしる雨汽革にほううけし顔の十あまりかな
 戸をくれば朝寢《あさい》の人の黒かみに霧ながれよる松なかの家(以下三首御嶽にて)
 霧ふるや細目にあけし障子よりほの白き秋の世の見ゆるかな
 霧白ししとしと落つる竹の葉の露ひねもすや月となりにけり
(67) 野の坂の春の木立の葉がくれに古き宿《しゆく》見ゆ武藏の青梅《あうめ》
 なつかしき春の山かな山すそをわれは旅びと君おもひ行く(以下五首高尾山にて)
 思ひあまり宿の戸押せば和やかに春の山見ゆうち泣かるかな
 地ふめど草鞋聲なし山ざくら咲きなむとする山の靜けさ
 山靜けし峰《を》の上《へ》にのこる春の日の夕かげ淡しあはれ水の聲
 春の夜の匂へる闇のをちこちによこたはるなり木の芽ふく山
 汽車すぎし小野の停車場春の夜を老いし驛夫のたたずめるあり
 日のひかり水のひかりの一いろに濁れるゆふべ大利根わたる
 大河よ無限に走れ秋の日の照る國ばらを海に入るなかれ
 松の實や楓の花や仁和寺の夏なほ若し山ほととぎす(京都にて)
 けふもまたこころの鉦《かね》をうち鳴しうち鳴しつつあくがれて行く(十首中國を巡りて)
(68) 海見ても雲あふぎてもあはれわがおもひはかへる同じ樹蔭に
 幾山河越えさり行かば寂しさのはてなむ國ぞ今日も旅ゆく
 わが胸の奥にか香《かう》のかをるらむこころ靜けし古城《ふるしろ》を見る
 峽縫ひてわが汽車走る梅雨晴の雲さはなれや吉備の山々
 青海はにほひぬ宮の古ばしら丹なるが淡《あは》う影うつすとき(宮島にて)
 はつ夏の山のなかなる古寺の古塔のもとに立てる旅びと(山口の瑠璃光寺にて)
 桃柑子芭蕉の實賣る磯街の露店《よみせ》の油煙《ゆえん》青海にゆく(下の關にて)
 あをあをと月無き夜を滿ちきたりまたひきてゆく大海の潮(日本海を見て)
 旅ゆけげ瞳痩するかゆきずりの女《をんな》みながら美《よ》からぬはなし
 安藝の國越えて長門にまたこえて豊の國ゆき杜鵑聽く(二首耶馬溪にて)
 ただ戀しうらみ怒りは影もなし暮れて旅籠の欄に倚るとき
(69) 白つゆか玉かとも見よわだの原青きうへゆき人戀ふる身を(二十六首南日向を巡りて)
 潮光る南の夏の海走り日を仰げども愁ひ消《け》やらず
 わが涙いま自由《まま》なれや雲は照り潮《うしほ》ひかれる帆柱のかげ
 檳榔樹《びらうじゆ》の古樹《ふるき》を想へその葉蔭海見て石に似る男をも(日向の青島より人へ)
 山上や目路のかぎりのをちこちの河光るなり落日の國(日向大隅の界にて)
 椰子の實を拾ひつ秋の海黒きなぎさに立ちて日にかざし見る(以下三首都井岬にて)
 あはれあれかすかに聲す拾ひつる椰子のうつろの流れ實吹けば
 日向の國都井の岬の青潮に入りゆく端《はな》に獨り海見る
 黄昏の河を渡るや乘合の牛等鳴き出《で》ぬ黄の山の雲
 醉ひ痴れて酒袋|如《な》すわがむくろ砂に落ち散り青海を見る
 勞れはてて眼には血も無き旅びとの今し汝《なれ》見るやよ暮るる海
(70) 船はてて上れる國は滿天の星くづのなかに山匂ひ立つ(日向の油津にて)
 山聳ゆ海よこたはるその間《あひ》に狹しま白し夏の砂原
 遊君《いうくん》の紅き袖ふり手をかざしをとこ待つらむ港早や來よ
 大うねり風にさからひ青うゆくそのいただきの白玉の波
 大隅の海を走るや乘合の少女が髪のよく匂ふかな
 船醉《ふなゑひ》のうら若き母の胸に倚り海をよろこぶやよみどり兒よ
 山も見ぬ青わだつみの帆の蔭に水夫《かこ》は遊女の品さだめかな
 落日や白く光りて飛魚は征矢降るごとし秋風の海
 船の上に飼へる一つの鈴蟲の鳴きしきるかな月青き海
 港口夜の山そびゆわが船のちひさなるかな沖さして行く
 帆柱ぞ寂然としてそらをさす風死せし白晝《ひる》の海の青さよ
(71) かたかたとかたき音して秋更けし沖の青なみ帆のしたにうつ
 風ひたと落ちて眞鐵《まがね》の青空ゆ星ふりそめぬつかれし海に
 山かげの闇に吸はれてわが船はみなとに入りぬ汽笛《ふえ》長う鳴る
 南國の夏の樹木の青浪の山はてもなし一峠越ゆ
 夕さればいつしか雲は降り來て峰に寢るなり日向高千穂(三首日向高千穂にて)
 月明し山脈こえて秋かぜの流るる夜なり雲高う照る
 秋の蝉うちみだれ鳴く夕山の樹蔭に立てば雲のゆく見ゆ
 樹間《こま》がくれ見居れば阿蘇の青煙かすかにきえぬ秋の遠空(以下七首阿蘇にて)
 秋の雲青き白きがむら立ちて山鳴つたへ天馳《あまは》するかな
 山鳩に馴れては月の白き夜をやすらに眠る肥の國人よ
 ひれ伏して地の底とほき火を見ると人の五つが赤かりし面《つら》
(72) 麓野の國にすまへる萬人を軒に立たせて阿蘇荒るるかな
 風さやさや裾野の秋の樹にたちぬ阿蘇の月夜のその大きさや
 秋のそらうらぶれ雲は霧のごと阿蘇につどひて夙ぎぬる日なり
 やや赤む暮雲《ぽうん》を遠き陸《くが》の上《へ》にながめて秋の海馳するかな(八首周防灘にて)
 雲はゆく雲に殘れる秋の日のひかりも動く黒し海原
 落日のひかり海去り帆をも去りぬ死せしか風はまた眉に來ず
 夕雲のひろさいくばくわだつみの黒きを掩ひ曰を包み燃ゆ
 雲は燃え日は落つ船の旅びとの代赭《たいしや》の面《つら》のその沈黙よ
 日は落ちぬつめたき炎わだつみのはてなる雲にくすぽりて燃ゆ
 ぬと聳えさと落ちくだる帆柱に潮けぶりせる血の玉の灯よ
 水に棲み夜光《よひか》る蟲は青やかにひかりぬ秋の海匂ふかな
(73) 津の國は酒の國なり三夜《みよ》二夜《ふたよ》飲みて更なる旅つづけなむ(以下十三首攝津にて)
 杯を口にふくめば千すぢみな髪も匂ふか身はかろらかに
 白雲のかからぬはなし津の國の古塔に望む初秋の山(四天王寺に登りて)
 物々しき街のぞめきや蒼空《おほぞら》を秋照りわたる白雲のもと
 雲照るや出水《でみづ》のあとの濁り水街押しつつむ大阪の秋
 大阪は老女に裾の緋縮緬多きに慘る日の暑さかな
 泣眞似の上手なりける小女のさすがなりけり忘られもせず
 浪華女《なにはめ》に戀すまじいぞ旅人よただ見て通れそのながしめを
 われ車に友は柱に一語二語醉語かはして別れ去りにけり(大阪にて葩水と別る)
 醉うて入り醉うて浪華を出でて行く旅びとに降る初秋の雨
 昨日飲みけふ飲み酒に死にもせで白痴笑《こけわら》ひしつつなほ旅路ゆく
(74) 山行けば青の木草に日は照れり何に悲しむわがこころぞも(箕面山にて)
 住吉は青のはちす葉白の砂秋たちそむる松風の聲
 秋雨の葛城越えて白雲のただよふもとの紀の國を見る
 火事の火の光宿して夜の雲は赤う明りつ空流れゆく(二首和歌山にて)
 町の火事雨雲おほき夜の空にみだれて鷺の啼きかはすかな
 ちんちろり男ばかりの酒の夜をあれちんちろり鳴きいづるかな(紀の國青岸にて)
 紀の川は海に入るとて千本の松のなかゆくその瑠璃の水
 麓には潮ぞさしひく紀三井寺木の間の塔に青し古鐘
 一の札所第二の札所紀の國の番の御寺をいざ巡りてむ
 粉河寺遍路の衆のうち鳴らす鉦々きこゆ秋の樹の間に
 鉦々のなかにたたずみ旅びとのわれもをろがむ秋の大寺
(75) 旅人よ地に臥せ空ゆあふれては秋山河にいま流れ來る(葛城山にて)
 鐘おほき古りし町かな折しもあれ旅籠に着きしその黄昏に(二首奈良にて)
 鐘斷えず麓におこる嫩草の山にわれ立ち白晝《ひる》の雲見る
 雲やゆくわが地やうごく秋眞晝鐘も鳴らざる古寺にして(二首法隆寺にて)
 秋眞晝ふるき御寺にわれ一人立ちぬあゆみぬ何のにほひぞ
 みだれ降る大ぞらの星そのもとの山また山の闇を汽車行く(伊賀を越ゆ)
 峽出でて汽車海に添ふ初秋の月のひかりのやや青き海(駿河を過ぐ)
                       ――旅の歌をはり――
 舌つづみうてばあめつちゆるぎ出づをかしや瞳はや醉ひしかも
 とろとろと琥珀の清水津の國の銘酒|白鶴《はくづる》瓶《へい》あふれ出づ
 灯ともせばむしろみどりに見ゆる水酒と申すを君斷えず酌ぐ
(76) くるくると天地《あめつち》めぐるよき顔も白の瓶子《へいし》も醉ひ舞へる身も
 酌とりの玉のやうなる小むすめをかかへて舞はむ青だたみかな
 女ども手うちはやして泣上戸泣上戸とぞわれをめぐれる
 あな可愛《かは》ゆわれより早く醉ひはてて手枕《たまくら》のまま彼女《かれ》ねむるなり
 睡れるをこのまま盗みわだつみに帆あげてやがて泣く顔を鬼む
 醉ひはててはただ小をんなの帶に咲く緋の大輪の花のみが見ゆ
 ああ醉ひぬ月が嬰子《やや》生む子守唄うたひくれずやこの膝にねむ
 君が唄ふ『十三ななつ』君はいつそれになるかや嬰子《やや》うむかやよ
 あな倦みぬ斯く醉ひ痴れし夢の間にわれ葬らずややよ女ども
 渇きはて咽喉は灰めく醉ざめに前髪の子がむく林檎かな
 酒の毒しびれわたりしはらわたにあなここちよや沁む秋の風
(77) 石ころを蹴り蹴りありく秋の街落日黄なり醉醒《ゑひざめ》の眼に
 山の白晝《ひる》われをめぐれる秋の樹の不斷の風に海の青憶ふ
 琴弾くか春ゆくほどにもの言はぬくせつきそめし夕ぐれの人
 春の夜の月のあはきに厨の戸誰が開けすてし灯《ひ》のながれたる
 かはたれの街のうるほひ何處《いづく》ゆかふと出でよ髪の直《ひた》匂ふ子よ
 春のゆふべ戀にただれしたはれ女《め》の眼のしほ戀し渇けるこころ
 月つひに吸はれぬ曉《あけ》の蒼穹《あおぞら》の青きに海の音とほく鳴る
 窓ひとつ朧ろの空へ灯をながす大河沿の春の夜の街
 鐘鳴り出づ落日《いりひ》のまへの擾亂《ぜうらん》のやや沈みゆく街のかたへに
 仁和寺の松の木《こ》の間をふと思ふうらみつかれし春の夕ぐれ
 朝の室《むろ》夢のちぎれの落ち散れるさまにちり入る山ざくらかな
(78) 君見ませ泣きそぼたれて春の夜の更けゆくさまを眞黒き樹々を
 一葉だに搖れず大樹《おほき》は夕ぐれのわが泣く窓に押しせまり立つ
 われとわが戀を見おくる山々に入日消えゆく峽にたたずみ
 燐寸《まち》すりぬ海のなぎさに倦み光る晝の日のもと青き魚燒く
 秋の海阿蘇の火見ゆと旅人は帆かげにつどふ浪死せる夜を
 油つきぬされども消えず青白き灯のもゆる見よ寢ざめし人よ
 晝の街|葬式《とむらひ》ぞゆく鉦濁るその列形《れつなり》にうごめく塵埃《ほこり》
 直吸《ひたす》ひに日の光《かげ》吸ひてまひる日の海の青燃ゆわれ巖にあり
 大ぞらの神よいましがいとし兒の二人戀して歌うたふ見よ
 君を得ぬいよいよ海の涯《はて》なきに白帆を上げぬ何のなみだぞ
 あな沈む少女の胸にわれ沈むああ聽けいづく悲しめる笛
(79) みじろがでわが手にねむれあめつちになにごともなし何の事なし
 塵浴びて街のちまたにまよふ子等何等ちひさきわれ君を戀ふ
 みだれ射よ雨降る征矢をえやは射るこの靜ごころこの戀ごころ
 吹き鳴らせ白銀の笛春ぐもる空裂けむまで君死なむまで
 君笑むかああやごとなし君がまへに戀ひ狂ふ子の狂ひ死ぬ見て
 山動け海くつがへれ一すぢの君がほつれ毛ゆるがせはせじ
 われら兩人《ふたり》相添うて立つ一點に四方のしじまの吸はるるを聽く
 思ひ倦みぬ毒の赤花さかづきにしぽりてわれに君せまり來よ
 矢繼早火の矢つがへてわれを射よ滿ちて腐らむわが胸を射よ
 思ふまま怨言《かごと》つらねて彼女《かれ》がまへに泣きはえ臥さで何を嘲《あざ》むや
 わが怨言ききつつ君が白き頬《ほ》に微笑《ゑまひ》ぞうかぷ刺せ毒の針
(80) ひたぶるに木枯すさぶ斯る夜を思ひ死なむずわが愚鈍見よ
 生ぬるき戀の文かな筆もろともいざ火に燒かむ爐のむらむら火
 されど悲し斯く戀ひ狂ひやがて徒だ安らに君が胸に死《は》てむ日
 毒の香《かう》君に焚かせてもろともに死なばや春のかなしき夕べ
 胸せまるあな胸せまる君いかにともに死なずや何を驚く
 千代八千代棄てたまふなと言ひすててつとわが手|枕《ま》きはや睡るかな
 針のみみそれよりちさき火の色の毒花咲くは誰が脣《くちびる》ぞ
 疑ひの蛇むらがるに火のちぎれ投ぐるか君がその花の微笑《ゑみ》
 疑ひの野火しめじめと胸を這ふ風死せし夜を消えみ消えずみ
 君かりにその黒髪に火の油そそぎてもなほわれを捨てずや
 戀ひ狂ひからくも獲ぬる君いだき恍《ほう》けし顔の驚愕《おどろき》を見よ
(81) とこしへに逃ぐるか戀よとこしへにわれ若うして追はむ汝《いまし》を
 紅梅のつめたきほどを見たまへとはや馴れて君笑みて脣《くち》よす
 こよひまた死ぬべきわれかぬれ髪のかげなる眸《まみ》の滿干《みちひ》る海に
 いざこの胸千々に刺し貫き穴だらけのそを玩《もてあそ》べ春の夜の女
 『女なればつつましやかに』『それ憎しなどわれ燒かう火の言葉せぬ』
 渇けりやそのくちびるの紅ゐは乾《から》びて黒しそれわが血吸へ
 あめつちに乾びて一つわが脣も死して動かず君見ぬ十日
 『遣るも行かじ死海《しかい》ならではよし行くも沈みて燃えむ』ねたみの炎
 髪を燒けその眸《まみ》つぶせ斯くてこの胸に泣き來よさらば許さむ
 微笑《ゑみ》鋭しわれよりさきにこの胸に棲みしありやと添臥しの人
 毒の木に火をやれ赤きその炎ちぎりて投げむよく睡《ぬ》る人に
(82) 涙さぴし夢も見ぬげにやすらかに寢みだれ姿われに添ふ見て
 春は來ぬ戀のほこりか君を獲てこの月ごろの悲しきなかに
 夕ぐれに音《ね》もなうゆらぐさみどりの柳かさびしよく君は泣く
 君よなどきは愁れたげの瞳して我がひとみ見るわれに死ねとや
 ただ許せふとして君に飽きたらず忌む日もあれどいま斯くてあり
 あらら可笑《をか》し君といだきて思ふこといふことなきにこの涙はや
 ことあらば消《け》なむとやうにわが前にひたすらわれをうかがふ君よ
 君はいまわが思ふままよろこびぬ泣きぬあはれや生くとしもなし
 君よ汝が若き生命は眼をとぢてかなしう睡るわが掌《たなぞこ》に
 悲しきか君泣け泣くをあざわらひあざわらひつつわれも泣かなむ
 燃え燃えて野火いつしかに消え去りぬ黒めるあとの胸の原見よ
(83) さらばよし別るるまでぞなにごとの難きか其處に何のねたまむ
 撒きたまへ灰を小砂利をわが胸にその荒るる見て手を拍ちたまへ
 手枕よ髪のかをりよ添ひぶしにわかれて春の夜を幾つ寢し
 別れ居の三夜は二夜はさこそあれかがなひて見よはや十日經む
 事もなういとしづやかに暮れゆきぬしみじみ人の戀しきゆふべ
 かへれかへれ怨《ゑ》じうたがひに倦みもせばいざこの胸へとく歸り來よ
 あなあはれ君もいつしか眼《まみ》盲《し》ひぬわれも盲人《めしひ》の相いだき泣く
 戀しなばいつかは斯る憂《うき》を見むとおもひし咋《きそ》のはるかなるかな
 わりもなう直《ひた》よろこびてわが胸にすがり泣く子が髪のやつれよ
 心ゆくかぎりをこよひ泣かしめよものな言ひそね君見むも憂し
 さらば君いざや別れむわかれてはまたあひは見じいざさらばさらば
(84) 君いかにかかる靜けき夕ぐれに逝きなば人のいかに幸《さち》あらむ
 夕ぐれの靜寂《しじま》しとしと降る窓にふと合ひぬ脣《くち》のいつまでとなく
 『君よ君よわれ若し死なばいづくにか君は行くらむ』手をとりていふ
 春哀し君に棄てられはるばると行かばや海のあなたの國へ
 知らず知らずわが足鈍る君も鈍る戀の木立の靜寂《しじま》のなかに
 怨むまじや性《さが》は清水《しみづ》のさらさらに淺かる君をなにうらむべき
 戀人よわれらはさびし青ぞらのもとに涯《はて》なう野の燃ゆるさま
 
 獨り歌へる
 
     本書を本書發行當時誕生せし友緑葉が長男佐藤靜樹君に呈す
 
(87)自序
 
 私は常に思つて居る。人生は旅である。我等は忽然として無窮より生れ、忽然として無窮のおくに往つてしまふ。その間の一歩々々の歩みは實にその時のみの一歩々々で、一度往いては再びかへらない。私は私の歌を以て私の旅のその一歩々々のひぴきであると思ひなしてゐる。言ひ換へれば私の歌はその時々の私の生命の碎片である。
 
 多人數のなかに交り都合よく社會に身を立てて行かうがために、私は私の境遇その他からいつ知らず二重或は三重の性格を添へて持つやうになつて來た。その中には眞の我とは全然矛盾し反對した種類のものがある。自身にも能くそれに氣がついて時には全く耐へ難く苦痛に思ふ。而も年の進むと共に四六時中眞の我に歸つて居る時とては愈々少くなつて來た。稀し(88)くも我に歸つてしめやかに打解けて何等憚る所なく我と逢ひ我と語る時は、實に誠心こめて歌を咏んで居る時のみである。その時に於て私は天地の間に僅かに我が影を發見する。
 
 藝術々々とよく人は言ふ。實のところ私はまだその藝術と云ふものを知らない。斷えず自身の周圍に聞いて居る言葉でありながらいまだに了解が出來難い。だから私はそれ等一切の關係のなかに私の歌を置くことが出來なかつた。私は原野にあそぶ百姓の子の様に、山林に棲む鳥獣のやうに、全くの理窟無しに私の歌を咏み出で度い。
 
 私は私の作物を以て、斯うして生れて來た自己の全てをみづから明かに知らむがための努力であると今のところでは思つて居る。それ以上他に思ひ及ぽす餘裕が無い。歌を咏むのも細工師が指輪や簪をこしらへて居るの(89)とは違つて、自己そのものを直ちに我が詩歌なりと信じて私は咏んで居る。歌と言ふもの詩と言ふものといふ風に机の上にぶち轉がして考へらるることを私は痛く嫌ふ。自己即詩歌、私の信念はこれ以外に無い。
 
 一首々々取出して見ると私の歌などは實に夥しく拙い。技巧の不足なもの、嘘をついて居るものなどばかりで自ら滿足し得るものとては殆んど絶無である。それかと云つて全然是等を棄却し去ることは容易に出來ない。一首のうちに何處か自分の影が動いてゐて、なかなか思ひ切つて棄てがたい。いま夫等を拾ひ集めてこの一卷を編んだ。これからも尚ほ私が本當に生きて居る間、私は何處までもこの哀れな歩をとぼ/\と續けて行かねばならぬのであらう。
 
 歌の配列の順序は、出來るだけ歌の出來た時の順序に從ふやうに力めた。(90)前の歌集「海の聲」の編輯を終つたのが昨年の四月の廿日頃で、それからの作はたしか同年廿五日の夜武藏百草山に泊つた時を以て始つて居る。そして本書の編輯を終つたのは本年七月の十日頃偶然にも同じ百草山の頂上の家に滯在して居る時に於てであつた。つづまりこの「獨り歌へる」一卷はその間約一ケ年に亙る私の内的生活の記録である、その時その時に過ぎ去つた私の命の碎片の共同墓地である。
 
 詩歌書類の一向に賣れない現今にあつて、特にわがために本書出版の勞をとられた八少女會同人諸君に對し深く感謝する。
 
 今夜は陰暦九月十三日、後の月の當夜である。風冴えて時雨が時々空を過ぐる。街をば伊藤公暗殺の號外が切りに走つて居たが既にそれも止んだ。本書の校正刷を閲しこの序文を認めて、自身の昨日の歌を見て居ると色々(91)に恩ふことが多い。
    明治四十二年十月二十六日深夜
                    若山牧水
 
(93) 獨り歌へる 上の卷
 
       自明治四十一年四月
       至同    十二月
 
 いざ行かむ行きてまだ見ぬ山を見むこのさびしさに君は耐ふるや
 みんなみの軒端のそらに日輪の日ごとかよふを見て君と住む
 おのづから熟みて木《こ》の實も地に落ちぬ戀のきはみにいつか來にけむ
 女あり石に油をそそぎては石燒かむとす見るがさびしき
 いざ行かむ行方は知らねとどまらばかなしかりなむいざ君よ夙く
 何はおきあはれみを請ふその眸《まみ》の先づこそ見ゆれえはうらむべき
 若ければわれらは哀し泣きぬれてけふもうたふよ戀ひ戀ふる歌
 斯くねたみ斯くうたがふがわが戀のすべてなりせばなど死なざらむ
(94) うらかなしこがれて逢ひに來しものを驚きもせでひとのほほゑむ
 悲しまず泣かずわらはぬ晝夜に馴れしかいまはさびしくもなし
 うちしのび夜汽車の隅にわれ座しぬかたへに添ひてひとのさしぐむ(【以下或る時に】)
 野のおくの夜の停車場を出でしときつとこそ接吻《きす》はかはしけるかな
 摘みてはすて摘みてはすてし野のはなの我等があとにとほく續きぬ
 山はいま遲き櫻のちるころをわれら手とりて木《こ》の間あゆめり
 鬢の毛に散りしさくらのかかるあり木のかげ去らぬゆふぐれのひと
 木《こ》の芽摘みて豆腐の料理君のしぬわびしかりにし山の宿かな
 春の日の滿てる木の間にうち立たすおそろしきまでひとの美し
 小鳥よりさらに身がろくうつくしくかなしく春の木の間ゆく君
 靜かなる木の間にともに入りしときこころしきりに君を憎めり
(95) 君すててわれただひとり木の間より岡にいづれば春の雲見ゆ
 山の家の障子《さうじ》細目にひらきつつ山見るひとをかなしくぞ見し
 ゆく春の山に明るう雨かぜのみだるるを見てさびしむひとよ
 さみどりのうすき衣をうち着せむくちづけはてて夢見るひとに(以上)
 古寺の木立のなかの離れ家に棲みて夜ごとに君を待ちにき
 ものごしに靜けさいたく見えまさるひとと棲みつつはつ夏に入る
 推のはな栗の木《き》の花はつ夏の木《こ》の花めづるひとのほつれ毛
 あな胸のそこひの戀の古海の鳴りいづる日を初夏の雲湧く
 樹々の間に白雲見ゆる梅雨晴の照る日の庭に妻は花植う
 くちづけをいなめる人はややとほくはなれて窓に初夏の雲見る
 わが妻はつひにうるはし夏たてば白き衣きてやや痩せてけり
(96) 香爐ささげ初夏の日のわらはたち御そらあゆめり日の靜かなる
 はつ夏の雲あをそらのをちかたに湧きいづる晝麥の笛吹く
 燐寸《まち》すりぬ赤き毛蟲を燒かむとてただ何となくくるしきゆふべ
 とこしへに解けぬひとつの不可思議の生きてうごくと自らをおもふ
 このごろは逢へばかたみに繪そらごとたくみにいふと馴れそめしかな
 別れてきさなりき何等ことなげに別れきその後幾夜經ぬるや
 あめつちに頼るものなしわがなみだなにいたづらに頬をながれたる
 はたた神遠鳴りひびき雨降らぬ赤きゆふべをひとり酒煮る
 夕されば風吹きいでぬ闇のうちの樹梢《こぬれ》見ゐつつまたおもひつぐ
 われひとり暮れのこりつつ夕やみのあめつちにゐて君をしぞおもふ
 夕やみのややに明るみ大ぞらに月のかかればやや思ひ凪ぐ
(97) ひとりなればこの望月の夏の夜のすずしきよひをいざひとり寢む
 
     八月の初め信州輕井澤に遊びぬ。その頃詠める歌三十五首
 
 火を噴けば淺間の山は樹を生まず茫として立つ青天地《あをあめつち》に
 天地のしじまわが身にひたせまるふもと野に居て山の火を見る
 八月や淺間が嶽の山すそのその荒原にとこなつの咲く
 麓なる叫のひとつのいただきの青深草に寢て淺間見る
 夕空の風をしぞおもふ火の山のけむりは遠くうちながれたり
 夢も見ず旅寢かさねぬ火の山の裾の月夜の白き幾夜を
 火の山の裾の松原月かげの疎《あら》き月夜をほととぎす啼く
 火の山やふもとの國に白雲の居る夜のそらの一すぢの煙《けむ》
 大ぞらに星のふる夜を火の山の裾に旅寢し妻をしぞ思ふ
(98) 夜となればそらを掩ひて高く見ゆ白晝は低しけむり噴く山
 夜の山のけむりにやどりうす赤う地《つち》のそこなる火のかげの見ゆ
 火の山にしばし煙の斷えにけりいのち死ぬべくひとのこひしき
 女ありみやこにわれを待つときく靜かなりけり夜半の山の火
 月見草見ゐつつ居ればわかれ來し子が物思ふすがたしぬばゆ
 黒髪のそのひとすぢのこひしさの胸にながれて盡きむともせず
 わかれ來て幾夜經ぬると指折れば十指《とゆび》に足らず夜のながきかな
 ゆるしたまへ別れて遠くなるままにわりなきままにうたがひもする
 青草のなかにまじりて月見草ひともと咲くをあはれみて摘む
 あめつちにわが跫音《あおと》のみ滿ちわたる夕の野なり月見草摘む
 ものをおもふ四方《よも》の山べの朝ゆふに雲を見れどもなぐさみもせず
(99) 紅《べに》滴る桃の實かみて山すその林ゆきつつ火の山を見る
 蟲に似て高原はしる汽車のありそらに雲見ゆ八月の晝
 白雲のいざよふ秋の峰をあふぐちひさなるかな旅人どもは
 絲のごとくそらを流るる杜鵑《とけん》あり聲にむかひて涙とどまらず
 うつろなる命をいだき眞晝野にわが身うごめき杜鵑《ほととぎす》聽く
 ほととぎす聽きつつ立てば一滴《ひとたま》のつゆよりさびしわれ生くが見ゆ
 あめつちの亡び死になむあかつきのしじまに似たり杜鵑啼く
 わかれては十日ありえずあわただしまた碓氷越え君見むと行く
 胸にただ別れ來しひとしのばせてゆふべの山をひとり越ゆなり
 さらばなり信濃の國のほととぎす碓氷越えなばまた聞かめやも
 瞰下せば霧に沈めるふもと野の國のいづくぞほととぎす啼く
(100) ふと聞ゆ水の音とほし木の蔭に白百合見出でながめいるとき
 身じろがずしばしがほどを見かはせり旅のをとこと山の小蛇と
 秋かぜや碓氷のふもと荒れ寂びし坂本の宿《しゆく》の絲繰の唄(坂本に宿りて)
 まひる日の光のなかに白雲はうづまきてありふもと國原(妙義山にて)
 旅びとはふるきみやこの月の夜の寺の木の間を飽かずさまよふ(三首奈良にて)
 はたご屋へ杜の木の間の月の夜の風のあはれに濡れてかへりぬ
 伏しをがみふしをがみつつ階のゆふべのやみにきえよとぞおもふ
 大いなるうねりに船の載れるとき甲板《かうはん》にゐて君をおもひぬ(播磨灘にて)
 戀人のうまれしといふ安藝の國の山の夕日を見て海を過ぐ(瀬戸にて)
 雲去ればもののかげなくうす赤き夕日の山に秋風ぞ吹く(四首故郷にて)
 峰あまた横ほり伏せる峽間《けふかん》の河越えむとし蜩を聞く
(101) 父の髪母の髪みな白み來ぬ子はまた遠く旅をおもへる
 一人《いちにん》のわがたらちねの母にさへおのがこころの解けずなりぬる
 ときをりに淫唄《ざれうた》うたふ八月の燃ゆる濱ゆき燃ゆる海見て(日向の海邊にて)
 星くづのみだれしなかにおほどかにわが帆柱のうち搖《ゆら》ぐ見ゆ
 蓄音機ふとしも船の一室に起るがきこゆ海かなしけれ
 なにものに欺かれ來しやこの日ごろくやし腹立たし秋風を聽く
 秋立てどよそよそしくもなりにけり風は吹けども葉は落つれども
 忘れ得ずさびしきままにまたしてもさびしかりしを思ひつづくる
 とも思ひかくもおもへどとにかくにおもひさだめて幸祝《さちいはひ》せむ
 いねもせで明かせる朝の秋かぜの聲にまじりてすずめ子の啼く
 うらさびし盡きなく行ける大河のほとりにゆきて泣かむとぞおもふ
(102) 闇うれしこよひ籬根《かきね》のこほろぎの身にしむままに出でて聽くかな
 地のそこに消えゆくとおもひ中ぞらにまよふともきこゆ長夜《ながよ》こほろぎ
 霧ふればけふはいつより暮はやきゆふべなりけりこほろぎのなく
 時として涙をおぽゆ草木《さうもく》の悠々として日を浴ぶる見て
 消えやらぬ大あめつちの生物のひとつのわれに秋かぜぞ吹く
 君がすむ戀の國邊とわが住める國のさかひの一すぢの河
 白粉と髪のにほひをききわけむ靜かなる夜のともしびの色
 いと拙き歌きくごとし秋の夜のしづかなる夜に君|怨言《かごと》いふ
 おきたまへうらみつらみもこのごろのわれらに何の興《きよう》かあるべき
 秋立てばよく逢ふ夜なり灯のかげになみだながれてわりもなきこと
 夕ぐれの街をし行けばそそくさと行きかふ人に眼も鼻も無し
(103) わが胸に旅のをとこの情《じやう》なしのこころやどりてそそのかすらく
 秋おもへばこの茫漠のあめつちにわれただ獨り生くとさびしき
 秋たてば街のはづれの楢の木の木立に行きてよくものをおもふ
 秋はもののひとりひとりぞをかしけれ空ゆく風もまたひとりなり
 わがこころ行くにまかせてゆかしめよ世にこれよりのなぐさめは無し
 蝋燭の灯の穗赤きをつくづくと見つめゐてふと秋風をきく
 めぐりあひしづかに見守《まも》りなみだしぬわれとわれとのこころとこころ
 秋晴のまちに逢ひぬる乞食《こつじき》の爺《ぢい》の眸《まみ》見て旅をおもひぬ
 牛に似てものもおもはず茫然と家を出づれば秋かぜの吹く
 午すぎのつかれごころにとぼとぼとうつり來《く》あはれひとの戀しさ
 野菊ぞときも媚びなよるすがたして野に咲く見れば行きもかねつる
(104) 湯槽《ゆぶね》より窓のガラスにうつりたる秋風のなかの午後の日を見る
 落初《おちぞ》めの桐のひと葉のあをあをとひろきがうへを夕風のゆく
 人の聲車のひびき滿ちわたるゆふべの街に落葉ちるなり
 眼とづればはるかにとほくとぽとぽと日に追はれゆくわがすがた見ゆ
 秋かぜは空をわたれりゆく水はたゆみもあらず葦刈る少女
 足とめて聽けばかよひ來《く》河むかひ枯葦のなかの葦刈の唄
 魚釣るや晩秋河《おそあきかは》のながれ去り流れさる見つつ餌は取られがち
 わだの原生れてやがて消えてゆく浪のあをきに秋かぜぞ吹く
 相むかひ世に消えがたきかなしみの秋のゆふべの海とわれとあり
 ゆふぐれの沖には風の行くあらむ屍《むくろ》のごとく松にもたるる
 音もなうゆふべの海のをちかたの闇のなかゆく白き波見ゆ
(105) 行き行きて飽きなば旅にしづやかにかへりみもなく死なましものを
 ひたすらに君に戀しぬ白菊も紅葉も秋はもののさびしく
 病みぬれば世のはかなさをとりあつめ追はるるがごと歌につづりぬ
 あれ見たまへこのもかのもの物かげをしのびしのぴに秋かぜのゆく
 わかれては昨日も明日もをとつひも見えわかずしてひたに戀しき
 少女子のむねのちひさきかなしみに溺れてわれは死にはててけり
 戀ひに戀ひすさみはてぬるわが胸に植うべき花をなにとさだめむ
 君見れば獣のごとくさいなみぬこのかなしさをやるところなみ
 なほ飽かずいやなほあかず苛みぬ思ふままなるこの女《をんな》ゆゑ
 長椅子にいねて初冬午後の日を浴ぶるに似たる戀づかれかな
 なにものに追はれ引かれて斯く走るおもしろきこと世に一もなし
(106) あららかに梢の枯葉うち落し庭掃く僧のその面がまへ
 とぼとぼとありし若さのわがむねにかへり來るなり君をいだけば
 この林檎つゆしたたらばありし日のなみだに似むとわかき言《こと》いふ
 あはれそのをみなの肌《はだへ》しらずして戀のあはれに泣きぬれし日よ
 あはれ神ただあるがままわれをしてあらしめたまへ他《た》に祈る無し
 かかる時聲はりあげてかなしさを歌ふ癖ありきそれも止みつる
 わが住むは寺の裏部屋庭もせに白菊さけり見に來よ女
 消えもせず戀の國より追はれ來し身にうつり香のあはくかなしく
 見かへるな戀の世界のたふとさは搖れずしづかに遠ざかりゆく
 世に最《もと》もあさはかなればとりわけて女の泣くをあはれとぞおもふ
 黒牛の大いなる面《つら》とむかひあひあるがごとくに生くにつかれぬ
(107) ほこり湧く落日《いりひ》の街をひた走る電車のすみのひとりの少女
 仰ぎみてこころぞながる街の樹の落日のそらにおち葉するあり
 道化者つらの可笑しきあの友が戀にやつれてやや痩せてけり
 われうまれて初めてけふぞ冬を知る落葉のこころなつかしきかな
 落ちし葉のひと葉のつぎにまた落ちむ黄なる一葉の待たるるゆふべ
 あめつちの靜かなる時そよろそよろ落葉をわたるゆふぐれの風
 はつ冬のころのならひの曇り日は落葉のこゑのなつかしきかな
 早やゆくかしみじみ汝《なれ》にうちむかふひまもなかりきさらばさらば秋
 忍び來てしのびて去《い》にぬかの秋は盲目《めしひ》なりけりものいはずけり
 大河のうへをながるる一葉《いちえふ》のおち葉のごとしものもおもはず
 わが妻よわがさびしきは青のいろ君がもてるは黄朽葉《きくちば》ならむ
(108) めぐりあひふと見交して別れけり落葉林のをとこと男(戸山ケ原にて)
 冬木立落葉のうへに晝寢してふと見しゆめのあはれなりしかな
 武藏野は落葉の聲に明け暮れぬ雲を帶びたる日はそらを行く
 ゆふまぐれ落葉のなかに見いでつる松かさの實を手にのせてみぬ
 かすかなる胸さわぎあり燃え燃えぬ黄葉《きば》ふりしきる冬枯の森
 いかにせむ胸に落葉の落ちそめてあるがごときをおもひ消しえず
 ふりはらひふりはらひつつ行くが見ゆ落葉がくれをひとりの男
 木の葉みな落ちつくしたる寒林《かんりん》は斯《こ》のごときことおもふによろし
 いと靜かにものをぞおもふ山白き十二月こそゆかしかりけれ
 梢より葉のちるごとくものおもひありとしもなきにむねのかなしき
 なにとなくさびしうなりぬわが戀は落葉がくれをさまよふごとく
(109) 荒れはてし胸のかたへにのこりぬるむかしのゆめのうす蒼の香よ
 うす赤く木枯すさぶ落日の街のほこりのなかにおもはく
 窓あくればおもはぬそらにしらじらと富士見ゆる家に女すまひき
 日向ぽこ側にねむれる犬の背を撫でつつあればさびしうなりぬ
 近きわたり寺やたづねてめぐらなむ女を棄ててややさびしかり
 別るる日君もかたらずわれ言はず雪ふる午後の停事場にあり
 別るとて停車場あゆむうつむきのひとの片手にヴイオロンの見ゆ
 別れけり殘るひとりは停車場の群集《ぐんじゆ》のなかに口笛をふく
 
                     獨り歌へる 上の卷終り
 
(111) 獨り歌へる 下の卷
 
       自明治四十二年一月
       至同     七月
 
 大鳥の空をゆくごとさやりなき戀するひとも斯くや嘆かむ
 男といふ世に大いなるおごそかのほこりに如かむかなしみありや
 ほのかにもおもひは痛しうす青の一月《むつき》のそらに梅つぼみ來《き》ぬ
 うきことの限りも知らずふりつもるこのわかき日をいぎや歌はむ
 清ければ若くしあればわがこころそらへ去《い》なむとけふもかなしむ
 ゆめのごとくありのすさびの戀もしきよりどころなくさびしかりしゆゑ
 枯れしのち最もあはれ深かるは何花ならむなつかしきかな
 男なれば歳二十五のわかければあるほどのうれひみな來よとおもふ
(112) 斯くばかりこころ弱かりいつの日にわが悲しみの盡きむとすらむ
 けだものの病めるがごとくしづやかに運命《さだめ》のあとに從ひて行く
 
     一月より二月にかけ安房の渚に在りき。その頃の歌七十五首
 
 ふね待ちつつ待合室の雜沓に海をながめて卷たばこ吹く
 思ひ屈《く》し古ぼろ船に魚買の群とまじりて房州へ行く
 武藏野の岡の木の間に見なれつる富士の白きをけふ海に見る
 物ありて追はるるごとく一人の男きたりぬ海のほとりに
 病院の玻璃戸に倚れば海こえておぽろ夜伊豆の山燒くる見ゆ
 まつ風の明るき聲のなかにして女をおもひ青海を見る
 なにほどのことにやあらむ夜もいねで海のほとりに人の嘆くは
 われひとり多く語りてかへり來ぬ月照る松のなかの家より(人を訪ねて)
(113) ともすれば咯《は》くに馴れぬる血なればとこともなげにも言ひたまふかな(おなじ時に)
 海に來ぬ思ひあぐみてよるべなき身はいづくにも捨てどころなく
 とやかくに思ひひがめてわれとわが清きこころを蝕《は》みゆかむとす
 うす青くけふもねがての枕べに這ひまつはれり海のひびきは
 藻草焚く青きけむりを透きて見ゆ裸體《はだか》の海女《あま》と暮れゆく海と
 われよりもいささか高きわか松の木かげに立ちて君をおもへり
 朝起きて煙草しづかにくゆらせるしばしがほどはなにも思はず
 日は日なりわがさびしさはわがのなり白晝《まひる》なぎさの砂山に立つ
 ここよりは海も見えざる砂山のかげの日向にものをこそおもへ
 いづかたに行くべきわれはここに在りこころ落ち居よわれよ不安よ
 風落ちて渚木立に滿ちわたる海のひびきの白晝《ひる》のかなしみ
(114) きさらぎや海にうかびてけむりふく寂しき島のうす霞みせり
 火の山にのぼるけむりにむかひゐてけふもさびしきひねもすなりき
 大島の山のけむりのいつもいつもたえずさびしきわがこころかな
 晴れわたる大ぞらのもと火の山のけむりはけふも白々《しらじら》とたつ
 夕やみに白帆を下す大船の港入りこそややかなしけれ
 けふは早や戀のほかなるかなしみに泣くべき身ともなりそめしかな
 海よわれ思ひあまればいつもいつも汝をしたひて來て泣くものを
 梅はただ一もとがよしとりわけてただ一輪の白きがよろし
 君もまたくるしきときに君おもふ薄情者をとがめたまふや
 少年のゆめのころもはぬがれたりまこと男のかなしみに入る
 あはれこころ荒みぬればか眼も見えず海を見れども日を仰げども
(115) 人見れば忽ちうすき皮を着るわが性《さが》ゆゑの盡きぬさびしさ
 天地に享《う》けしわが性やうやうに露はになり來《く》海に來ぬれば
 つひにわれ藥に飽きぬ酒こひし身も世もあらず飲みて飲み死なむ
 やまひには酒こそ一の毒といふその酒ばかり戀しきは無し
 あさましく酒をたうべて荒濱に泣き狂へども笑ふ人もなし
 愚かなり阿呆烏《あはうがらす》の啼くよりもわがかなしみをひとに語るは
 あめつちにわが殘し行くあしあとのひとつづつぞと歌を寂しむ
 わがこころ濁りて重きゆふぐれは軒のそとにも行くをこのまず
 けふもまた變ることなきあら海の渚を同じわれがあゆめり
 安房の國海にうかぴて冬知らず紅梅白梅《こぞめしらうめ》いまさかりなり
 けふ見ればひとがするゆゑわれもせしをかしくもなき戀なりしかな
(116) おなじくは弱き男がいづくまでよわかるものかわれ試しみむ
 海に行かばなぐさむべしとひた思ひこがれし海に來は來つれども
 耳もなく目なく口なく手足無きあやしきものとなりはてにけり
 眼覺めつるその一瞬にあたらしき寂しきわれぞふと見えにける
 心より歌ふならねばいたづらに聲のみまよふ宵をかなしむ
 海あをくあまたの山等横伏せりわが泣くところいまだ盡くる無し
 やどかりの殻の如くに生くかぎりわれかなしみをえは捨てざらむ
 なつかしく靜かなるかな海の邊の松かげの墓にけふも來りぬ
 このごろは夜半にぞ月のいづるなりいねがての夜もよくつづくかな
 いつ知らず生れし風の月の夜の明けがたちかく吹くあはれなり
 物かげに息をひそめて大風の海に落ちゆく太陽を見る
(117) 蜑が家に旅寢をすれば荒海の落日《いりひ》にむかひ風呂桶を据ゆ
 蜑が家に旅寢かさねてうす赤き榾の火かげに何をおもふか
 白々とかがやける浪ひかる砂|白晝《ひる》のなぎさに卷煙草吸ふ
 いたづらにものを思ふとくせづきてけふもさびしく渚をまよふ
 青海の鳥の啼くよりいや清くいやかなしきはいづれなるらむ
 これもまたあざむきならむ『いざ行かむ清きあなたへ』海のさそへど
 砂山の起き臥ししげきあら濱のひろきに出でて白晝《ひる》の海聽く
 いと清きもののあはれにおもひ入る海のほとりの明るき木立
 砂山のばらばら松の木のもとに冬の日あびてものをおもふは
 わがほどのちひさきもののかなしみの消えむともせず天地《あめつち》にあり
 好かざりし梅の白きをすきそめぬわが二十五歳《にじふご》の春のさびしさ
(118) おぼろおぼろ海の凪げる日海こえてかなしきそらに白富士の見ゆ
 海のあなたおぼろに富士のかすむ日は胸のいたみのつねに増しにき
 安房の國朝のなぎさのさざなみの音《ね》のかなしきや遠き富士見ゆ
 うちよせし浪のかたちの砂の上に殘れるあとをゆふべさまよふ
 思ひ倦めば晝もねむりて夢を見きなつかしかりき海邊の木立
 おぽろ夜や水田のなかの一すぢの道をざわめき我等は海へ
 おぽろ夜のこれは夢かも渚にはちひさき音の斷えずまろべる
 おぼろ夜の多人|數《ず》なりしそがなかのつかね髪なりしひとを忘れず
 日は黄なり灘のうねりの濁れる日敗殘|者《もの》はまた海に浮く
 男なり爲すべきことはなしはてむけふもこの語《ご》に生きすがりぬる
 鳥が啼く濁れるそらに鳥が啼く別れて船の甲板《かうはん》に在り
(119) わかれ來て船の碇のくさり綱錆びしがうへに腰かけて居り(以上)
 このままに無口者《くちなしもの》となりはてむ言ふべきことはみな腹立たし
 おのづからこころはひがみ眼もひがみ暗きかたのみもとめむとする
 角もなく眼なき數《す》十の黒牛にまじりて行かばややなぐさまむ
 鉛なすおもきこころにゆふぐれの闇のふるよりかなしきは無し
 ただ一つ黒きむくろぞ眼には見ゆおもひ盡きては他にものもなし
 思ふも憂しおもはねばなほたへがたし思ふとてまたなにをおもはむ
 戀といふうるはしき名にみづからを欺くことにややつかれ來ぬ
 いふがごと戀に狂へる身なりしがこころたえせずさびしかりしは
 おほぞらのたそがれのかげにさそはれて涙あやふくなりそめしかな
 なにごともこころひとつにをさめおきてひそかに泣くに如くことは無し
(120) あはれまたわれうち棄ててわがこころひとのなさけによりゆかむとす
 戀もしき歌もうたひきよるべなきわが生命《いのち》をば欺かむとて
 かりそめの己がなさけに神かけていのちささぐる見ればあはれなり
 つゆほども醉ふこと知らぬうるはしき女をけふももてあそべども
 月見草咲くよりあはく戀ざめの胸にほのかにあはれみの萌ゆ
 あさましき歌のみおほくなりにけりものの終りのさびしきなかに
 いかにして斯くは戀ひにし狂ひにし不思議なりきとさびしく笑ふ
 狂ひ鳥日を追へるよりあはれなり行衛も知らずひとの迷へる
 わがいのち安かりしかなひとが泣きひとが笑ふにうち混りゐて
 爪延びぬ髪も延び來ぬやすみなく人にまじりてわれも生くなり
 心いよよ濁りをおもふ身にしみていよいよひとのなさけしげきまま
(121) よるべなき生命生命のさびしさの滿てる世界にわれも生くなり
 うちたえて人の跫音《あおと》の無かるべき國のあらじや行きて死なまし
 よそ目には石のくれなどそれよりも物おもひなき身と見えつべし
 斯くつねに胸のさわがばひろめ屋の太鼓うちにもならましものを
 行くところとざまかうざま亂れたるわかきいのちに悔を知らすな
 酒飲まば女いだかば足りぬべきそのさびしさかそのさびしさか
 沈丁花みだれて咲ける森にゆきわが戀人は死になむといふ
 大天地《おほあめつち》みどりさびしくひそまりぬ若き男のしつかに愁へる
 汚れせずわかき男のただひとりこのあめつちをいかに歩まむ
 蒼わだつみ遠くうしほのひぴくより深しするどし男のうれへる
 水いろのうれひに滿てる世界なりいまわがおもひほしいままなる
(122) 降ると見えずしづかに蒼き雨ぞふるかなしみつかれ男ねむれる
 ニコライの大釣鐘の鳴りいでて夕さりくればつねにたづねき
 酒飲まじ煙草吸はじとひとすぢに妻をいだきに友のがれたり
 この器具《うつは》さぴしきひとの朝夕につかへていかにさびしかるらむ(【煙草入を贈られしに】)
 消息《せうそこ》もたえてひさしき落魄の男をいまだ覺えたまふや(つぎ四首さる人のもとへ)
 おもへらく君もひとりのあめつちに迷ひてよるべあらざらむひと
 うす暗きこのあめつちの或るところ君在りとふをつねにわすれず
 君をもへばあたりあまりにかがやかずゆふぐれどきの如《ごと》なつかしき
 あらためてまことの戀をとめ行かむ來しかたあまりさびしかりしか
 戀なりししからざりしか知らねどもうきことしげきゆめなりしかな
 いざ行かむいづれ迷ひは死ぬるまでさめざらましをなにかへりみむ
(123) 歸らずばかへらぬままに行かしめよ旅に死ねよとやりぬこころを
 とこしへにけふのいのちの花やかさかなしさを君忘るるなかれ(哀果の新婚)
 聲あはせて歌をうたへり春の日の四辻にして救世軍は
 眞晝日の小野の落葉の木の間ゆきあるかなきかの春にかなしむ
 春は來ぬ落葉のままにしづかなる木立がくれをそよ風のふく
 安房の國海のなぎさの松かげに病みたまふぞとけふもおもひぬ
 海に沿ふ松の木の間の一すぢのみちを獨りしけふも歩むか
 君が住む海のほとりの松原の松にもたれて歌うたはまし
 山ざくら咲きそめしとや君が病む安房の海邊の松の木の間に
 憫れまれあはれむといふあさましき戀の終りに近づきしかな
 かなしきはつゆ掩ふなくみづからをうちさらしつつなほ戀ひわたる
(124) 飽き足らぬふしのみしげき戀なりきそのままにして早や逝かむとや
 はや夙くもこころ覺めゐし女かとおもひ及ぶ日死もなぐさまず
 女なればあはれなればと甲斐もなくくやしくもげに許し來つるかな
 憫れぞとおもひいたれば何はおき先づたへがたく戀しきものを
 逃れゆく女を追へる大たはけわれぞと知りて眼《め》眩《くら》むごとし
 斯くてなほ女をかばふ反逆のこころが胸にひそむといふは
 なにか泣くみづからもわれを欺きし戀ならぬかは清く別れよ
 唯だ彼女《かれ》が男のむねのかなしみを解《げ》し得で去るをあはれにおもふ
 林なる鳥と鳥とのわかれよりいやはかなくも無事なりしかな
 千度び戀ひ千度びわかれてかの女けだしや泣きしこと無かるらむ
 別れゆきふりもかへらぬそのうしろ見居つつ呼ばず泣かずたたずむ
(125) 鼻のしたながきをほこる汝《なんぢ》とて斯くは清くも棄てられつるか
 別るとて冷えまさりゆく女にはわが泣くつらのいかにうつれる
 山奥にひとり獣の死ぬるよりさびしからずや戀の終りは
 やみがたき憤りより棄てむとす男のまへに泣くな甲斐無く
 かへりみてしのぶよすがにだもならぬ斯る別れをいつか思ひし
 せめてただ戀に終りの無くもがなよりどころなきこのあめつちに
 報いなき戀に甘んじ飽く知らず汝をおもふと誰か言はむや
 あさましく甲斐なく怨み狂へるは命を蛇に吸はるるに似る
 鳥去りてしろき波寄るゆふぐれの沖のいはほか戀にわかれき
 海のごとく男《を》ごころ滿たすかなしさを靜かに見やり歩み去りし子
 別れといふそれよりもいや耐へがたしすさみし我をいかに救はむ
(126) 戀ひに戀ひうつつなかりしそのかみに寧ろわかれてあるべかりしを
 戀といふつゆよりもいやはかなかるわが生《よ》のなかの夢をみしかな
 わがこころ女え知らず彼女《かれ》が持つあさきこころはわれ掬みもせず
 再びは見じとさけびしくちびるの乾かむとする時のさびしさ
 柱のみ殘れる寺の壞《くゑ》あとにまよふよりげにけふはさびしき
 いつまでを待ちなばありし日のごとく胸に泣き伏し詑ぶる子を見む
 詑びて來よ詑びて來よとぞむなしくも待つくるしさに男死ぬべき
 別れてののちの互ひを思ふこと無かるべきなり固く誓はむ
 ふとしては何も思はずいとあさきかりそめごとに別れむとおもふ
 斯くばかりくるしきものをなにゆゑに泣きて詑びしを許さざりけむ
 おもひやるわが生《よ》のはてのいやはてのゆふべまでをか獨りなるらむ
(127) やうやうにこころもしづみ別れての後のあはれを味はむとす
 思ひ倦み斷えみ斷えずみわがいのち夜半にぞ風のながるるを聽く
 灯赤き酒のまどゐもをはりけりさびしき床に寢にかへるべし
 きはみなき青わだなかにきまよへる海のひびきかわれは生くなり
 冷笑すいのち死ぬべくここちよく涙ながしてわれ冷笑す
 死ぬばかりかなしき歌をうたはましよりどころなく身のなりてきぬ
 これはこのわが泣けるにはあらざらむあらめづらしや涙ながるる
 とりとめてなにかかなしき知らねどもとすればなみだ頬をながるる
 わが痛き生命のひびきただ一に冷笑にのみ生き殘るかも
 わがめぐりいづれさびしくよるべなきわかきいのちが數さまよへり
 さびしきはさびしきかたへさまよへりこのあはれさの耐へがたきかな
(128) 花つみに行くがごとくにいでゆきてやがて涙にぬれてかへり來ぬ
 櫛とればこころいささか晴るるとてさびしや人のけふも髪をゆふ
 富士見えき海のあなたに春の日の安房の渚にわれら立てりき
 おぼろなる春の月の夜|落葉《らくえふ》のかげのごとくもわれのあゆめり
 まどかけをひきてねぬれば春の夜の月はかなしく窓にさまよふ
 首たかくあげては春のそらあふぎかなしげに啼く一羽の鵝鳥
 彼はよく妻ののろけをいふ男まことやすこし眼尻さがりたる
 街なかの堀の小橋を過ぎむとしふと春の夜の風に逢ひぬる
 春の晝街をながしの三味がゆく二階の窓の黄なるまどかけ
 春のそらそれとも見えぬ太陽のかげのほとりのうす雲のむれ
 ひややかに梢《うれ》に咲き滿ちしらじらと朝づけるほどの山ざくら花
(129) 咲き滿てる櫻のなかのひとひらの花の落つるをしみじみと見る
 かなしめる櫻の聲のきこゆなり咲き滿てる大樹《おほき》白晝《まひる》風もなし
 寢ざめゐて夜半に櫻の散るをきく枕のうへのさびしきいのち
 海《わだ》なかにうごける青の一點を眼にとこしへに死せしむるなかれ
 よるべなみまた懲りずまに萌えそめぬあはれやさびしこのこひごころ
 よるべなき生命生命が對ひ居のあはれよるべなき戀に落ちむとす
 はかなかりし戀のうちなるおもひでのすくなき數を飽かずかぞふる
 かへるべき時し來ぬるかうらやすしなつかしき地《つち》へいざかへらなむ
 知らざりきわが眼のまへに死《しに》といふなつかしき母のとく待てりしを
 をさな子のごとくひたすら流涕すふと死になむと思ひいたりて
 海の邊に行きて立てどもなぐさまず死をおもへどもなほなぐさまず
(130) まことなり忘れゐたりきいざゆかむ思ふことなしに天《そら》のあなたへ
 根の知れぬかなしさありてなつかしくこころをひくに死にもかねたる
 死をおもへば梢はなれし落葉の地《つち》にゆくよりなつかしきかな
 ゆふ海の帆の上《へ》に消えしそよ風のごとくにこの世|去《い》なむとぞおもふ
 追はるるごと驚くひまもあらなくに別れきつひに見ざるふたりは
 若うして傷のみしげきいのちなり蹌踉としてけふもあゆめる
 然れども時を經ゆかばいつ知らずこのかなしさをまた忘るべし
 ふたたびはかへり來ることあらざらむさなりいかでかまたかへり來む
 ほのかなるさびしさありて身をめぐるかなしみのはてにいまか來にけむ
 思ふまま涙ながせしゆふぐれの室《へや》のひとりは石にかも似む
 死に隣る戀のきはみのかなしみの一すぢみちを歩み來《こ》しかな
(131) 故わかずわれら別れてむきむきにさぴしきかたにまよひ入りぬる
 見るかぎり友の顔みな死にはてしさびしきなかに獨りものをおもふ
 おぼろ夜の停車場内の雜沓に一すぢまじる少女《をとめ》の香あり
 疲れはてて窓をひらけばおぽろ夜の嵐のなかになく蛙《かはづ》あり
 ゆく春の軒端に見ゆるゆふぞらの青のにごりに風のうごけり
 ちやるめらの遠音や室《へや》にちらばれる蜜柑の皮の香を吐くゆふべ
 うしなひし夢をさがしにかへりゆく若きいのちのそのうしろかげ
 わが生命よみがへり來ぬさびしさに若くさのごとくうちふるへつつ
 わが行くは海のなぎさの一すぢの白きみちなり盡くるを知らず
 玻璃戸漏り暮春の月の黄に匂ふ室に疲れてかへり來しかな
 ガラス戸にゆく春の風をききながら獨り床敷きともしびを消す
(132) 四月すゑ風みだれ吹くこよひなりみだれてひとのこひしき夜なり
 あめつちのみどり濃《こまか》き日となりぬ我等きそうてかなしみにゆく
 また見じと思ひさだめてさりげなく靜かにひとを見て別れ來ぬ
 眞晝の曰そらに白みぬ春暮れて夏たちそむる嵐のなかに
 ただ一歩踏みもたがへて西ひがしわが生《よ》のかぎりとほく別れぬ
 うす濁る地平のはての青に見ゆかすかに夏のとどろける雲
 めぐりあひやがてただちに別れけり雨ふる四月すゑの九日《ここのか》
 ゆく春の嵐のみだれ雨のみだれしつかにひとと別るる日なり
 かなしみの歩みゆく音《ね》のかすかなり疲れし胸をとほくめぐりて
 しめやかに嵐みだるるはつ夏の夜のあはれを寢ざめながむる
 夏を迎ふおもひみだれてかきにごりつかれしむねは歌もうたはず
(133) 旅人あり街の辻なる煉瓦屋の根に行き倒れ死にはてにける
 いつしかに春は暮れけりこころまたさびしきままにはつ夏に入る
 空のあなた深きみどりのそこひよりさびしき時にかよふひびきあり
 あをあをと若葉萌えいづる森なかに一もと松の花咲きにけり
 底知らず思ひ沈みて眞晝時|一樹《いちじゆ》の青のたかきにむかふ
 大木《たいぼく》の幹の片へのましろきにこぽれぬる日の夏のかなしみ
 窓ちかき水田のなかの榛《はり》の木の日にけに青み嵐するなり
 大木の青葉のなかに小鳥啼くほかに晝の日をみだしつつ
 とりみだし哀しみさけび讃嘆すあああめつちに夏の来れる
 生くといふ否むべからぬちからよりのがれて戀にすがらむとしき
 ひややかにことは終りき別れてき斯くあるわれをつくづくと見る
(134) 思ひいでてなみだはじめて頬をつたふ極り知らぬわかれなりしかな
 女ひとり棄てしばかりの驚きに眼覺めてわれのさびしきを知る
 甲斐もなくしのびしのびにいや深にひとに戀ひつつ衰へにけり
 忽然と息斷えしごとく夜ふかく寢ざめてひとをおもひいでしかな
 怨むまじやなにかうらみむ胸のうちのかなしきこころ斯くちかひける
 ありし夜のひとの枕に敷きたりしこのかひなかも斯く痩せにける
 わが戀の終りゆくころとりどりに初なつの花の咲きいでにけり
 音もなく人等死にゆく音もなく大あめつちに夏は來にけり
 海山のよこたはるごとくおごそかにわが生くとふを信ぜしめたまへ
 きはみなき生命のなかのしばらくのこのさぴしさを感謝しまつる
 あなさびし白晝《まひる》を酒に醉ひ痴れて皐月大野の麥畑をゆく
(135) 青草によこたはりゐてあめつちにひとりなるものの自由をおもふ
 畑なかにふと見いでつる痩馬の草食みゐたり水無月眞晝
 ひややかにつひに眞白き夏花のわれ等がなかにあり終りけり
 棕梠の樹の黄色の花のかげに立ち初夏の野をとほくながむる
 初夏の野ずゑの川の濁れるにものの屍《むくろ》の浮きしづみ行く
 けだものはその死處とこしへにひとに見せずと聞きつたへけり
 水無月の洪水《おほみづ》なせる日光のなかにうたへり麥刈少女
 遠くゆきまたかへりきて初夏の樹にきこゆなり眞晝日の風
 木蔭よりなぎさに出でぬ渚より木かげに入りぬ海鳴るゆふべ
 みじか夜のころにはじめてそひねしてもののあはれを知りそめしかな
 松咲きぬ楓もさきぬはつ夏のさぴしきはなの吹きそめにけり
(136) 郊外に友のめうとのかくれ住む家をさがして麥畑をゆく
 夜のほどに凋みはてぬる夏草の花あり朝の瓶《かめ》の白さよ
 少女子の夏のころもの襞にゐて風わたるごとにうごくかなしみ
 母となりてやがてつとめの終りたるをみなの顔に眼をとめて見る
 停車場に札を買ふとき白銀の貸《かね》のひびきの涼しき夜なり
 夏深しかの山林のけだもののごとく生きむと雲を見ておもふ
 麥の穗の赤らむころとなりにけりひと棄てしのちのはつ夏に入る
 いつ知らず夏も寂しう更けそめぬほのかに合歡の花咲きにけり
 わがこころ動くともなく青草に寢居つつ空の風にしたがふ
 夏草の延び青みゆく大地《おほつち》を靜かに踏みて我等あゆめり
 深草の青きがなかに立つ馬の肥えたる脚に汗の湧く見ゆ
(137) 夏白晝うすくれなゐの薔薇《さうび》よりかすかに蜂の羽音きこゆる
 わが友の妻とならびて縁に立ち眞晝かへでの花をながむる
 麥畑の夏の白晝のさびしさや讃美歌低くくちびるに出づ
 黄なる麥一穗ぬきとり手にもちて雲なきもとの高原をゆく
 高原や青の一樹《いちじゆ》とはてしなき眞白き道とわがまへに見ゆ
 麥畑のなかにうごける農人《のうにん》を見ゐつつなみだしづかにくだる
 わが顔もあかがねいろに色づきつ高原の麥は垂穗《たりほ》しにけり
 ひややかに涙はひとりながれたりこころうれしく死なむとおもふに
 われみづから死《しに》をしたしくおもふころ誰彼ひとのよく死ぬるかな
 火の山にけむりは斷えて雪つみぬしづかにわれのいつか死ぬらむ
 渚より海見るごとく汪洋とながるる死《しに》のまへにたたずむ
(138) もの思へばおもひのはてにつねに見ゆ死といふもののなつかしきかな
 夏白晝あるかなきかのさびしさのこころのうへに消えがてにする
 松葉散る皐月の暮の或るゆふべをんな棄てむと思ひたちにき
 影のごとくこよひも家を出でにけり戸山が原の夕雲を見に
 皐月ゆふべ梢はなれし木の花の地に落つる間《ま》のあまきかなしみ
 ひとつひとつ足の歩みの重き日の皐月の原に頬白鳥《ほほじろ》の啼く
 日かげ滿てる木の間に青き草をしき梢をわたる晝の風見る
 見てあればかすかに雲のうごくなり青草のなかにわれよこたはる
 わがいのち空にみちゆき傾きぬあなはるかなりほととぎす啼く
 たそがれの沼尻《ぬじり》の水に雲うつる麥刈る鎌の音《ね》もきこえ來る
 なつかしさ皐月の岡のゆふぐれの青の大樹《おほき》の蔭に如かめや
(139) 落日《らくじつ》のひかり梢を去りにけり野ずゑをとほく雲のあゆめる
 けむりありほのかに白し水無月のゆふべうらがなし野羊《やぎ》の鳴くあり
 わが行けばわがさびしさを吸ふに似る夏のゆふべの地《つち》のなつかし
 麥すでに刈られしあとの畑なかの徑《こみち》を行きぬ水無月ゆふべ
 椅子に耐へず室《へや》をさまよひ家をいで野に行きまたも椅子にかへりぬ
 野を行けば麥は黄ばみぬ街ゆけばうすき衣ををんな着にけり
 やうやうに戀ひうみそめしそのころにとりわけ接吻《きす》をよくかはしける
 強ひられて接吻するときよ戸の面《も》には夏の白晝を一樹《いちじゆ》そよがず
 いちいちに女の顔の異るを先づ第一の不思議とぞおもふ
 六月の濁れる海をふとおもひ午後あわただし品川へ行く
 とかくして動きいでたる船蟲の背になまぐさき六月の日よ
(140) 月いまだひかりを知らず水無月のゆふべはながし汐の滿ち來る
 海のうへの月のほとりのうす雲にほのかに見ゆる夏のあはれさ
 少女等《をとめら》のかろき身ぶりを見てあればものぞかなしき夏のゆふべは
 いささかを雨に濡れたる公園の夏の大路を赤き傘ゆく
 桐の花落ちし本の根に赤蟻の巣ありゆふべを雨こぽれ來ぬ
 枝のはし三つほど咲けるうす紅の楓のはなに夕雨の見ゆ
 いたづらに麥は黄ばみぬ水無月のわがさびしさにつゆあづからず
 八月の街を行き交ふ群集《ぐんじゆう》の黙《もだ》せる顔のなつかしきかな
 とこしへに逢ふこと知らぬむきむきのこころこころの寂しき歩み
 あめつちに獨り生きたりあめつちに斷えみたえずみひとり歌へり
 
      六七月の頃を武藏多摩川の畔なる百草山に送りぬ。歌四十三首
 
(141) 涙ぐみみやこはづれの停車場の汽車の一室《ひとま》にわれ入りにけり
 ともすればわが蒼ざめし顔のかげ汽車のガラスの戸にうつるあり
 雨白く木の間にけぶる高原を走れる汽車の窓によりそふ
 水無月の山越え來ればをちこちの木の間に白く栗の咲く見ゆ
 とびとびに落葉せしごとわが胸にさびしさ散りぬ頬白鳥の啼く
 啼きそめしひとつにつれてをちこちの山の月夜に梟の啼く
 たそがれのわが眼のまへになつかしく木の葉そよげり梟のなく
 夕山の木の間にいつか入りも來ぬさだかに物をおもふとなしに
 あをばといふ山の鳥啼くはじめ無く終りを知らぬさびしき音《ね》なり
 わがこころ沈み來ぬれば火の山のけむりの影をつねにやどしぬ
 檜《ひ》の林松のはやしの奥ふかくちひさき路にしたがひて行く
(142) 青海のうねりのごとく起き伏せる岡の國ありほととぎす行く
 わが死にしのちの靜けき斯る日にかく頬白鳥の啼きつづくらむ
 紫陽花のその水いろのかなしみの滴るゆふべ蜩《かなかな》のなく
 煙《けむ》青きたばこを持ちて家を出で林に入りぬ雨後の雫す
 拾ひつるうす赤らみし梅の實に木の間ゆきつつ齒をあてにけり
 かたはらの木に頬白鳥の啼けるありこころ恍《くわう》たり眞晝野を見る
 日を浴びて野ずゑにとほく低く見ゆ涙をさそふ水無月の山
 松林山をうづめて靜まりぬとほくも風の消えゆけるとき
 眞晝野や風のなかなるほのかなる遠き杜鵑《とけん》の聲きこえ來る
 梅雨晴の午後のくもりの天地のつかれしなかにほととぎす啼く
 山に來てほのかにおもふたそがれの街にのこせしわが靴の音
(143) 或るゆふべ思ひがけなくたづね來しさびしき友をつくづくと見る
 幹白く木の葉青かる林間の明るきなかに歩み入りにき
 わが行けば木々の動くがごとく見ゆしづかなる日の青き林よ
 かなしめる獣のごとくさまよひぬ林は深し日はさ青なり
 はてしなくあまたの岡の起き伏せり眼に日光の白く滿つかな
 別るべくなりてわかれし後の日のこのさびしさをいかに追ふべき
 棄て去りしのちのたよりをさまざまに思ひつくりて夜々をなぐさむ
 ゆめみしはいづれも知らぬ人なりき寢ざめさびしく君に涙す
 あるときはありのすさみに憎かりき忘られがたくなりし歌かな
 遠くよりさやさや雨のあゆみ來て過ぎゆく夜半を寢ざめてありけり
 ゆくりなくとあるゆふべに見いでけり合歡のこずゑの一ふさの花
(144) きはみなき旅の途なるひとりぞとふとなつかしく思ひいたりぬ
 六月の山のゆふべに雨はれぬ木の間にかなし日のながれたる
 ゆふぐれの風ながれたる木の間ゆきさやかにひとを思ひいでしかな
 ゆふ雨のなかにほのかに風の見ゆ白夏花のそぼ濡れて咲く
 はるばると一すぢ白き高原のみちを行きつつ夏の日を見る
 放たれし悲哀のごとく野に走り林にはしる七月のかぜ
 かなしきは夜のころもに更ふる時おもひいづるがつねとなりぬる
 鋭くもわかき女を責めたりきかなしかりにしわがいのちかな
 七月の山の間に日光はあをうよどめり飛ぶつばめあり
 暈《かさ》帶びて日は空にあり山々に風青暗しほととぎす啼く
 生くことのものうくなりしみなもとに時におもひのたどりゆくあり
(145) うち斷えて杜鵑を聞かずうす青く松の梢に實の滿ちにけり
 わがこころ靜かなる時につねに見ゆる死《しに》といふもののなつかしきかな
                      獨り歌へる  下の卷終り
 
 別離
 
(149) 自序
 
 廿歳頃より詠んだ歌の中から一千首を拔き、一卷に輯めて『別離』と名づけ、今度出版することにした。昨日までの自己に潔く別れ去らうとするこころに外ならぬ。
 先に著した『獨り歌へる』の序文に私は、私の歌の一首一首は私の命のあゆみの一歩一歩であると書いておいた。また、一歩あゆんでは小さな墓を一つ築いて來てゐる様なものであるとも書いておいた。それらの歌が背後につづいて居ることは現在の私にとつて、可懷しくもまた少なからぬ苦痛であり負債である。如何かしてそれらと絶縁したいといふ念願からそれを一まとめにして留めておかうとするのである。然うして全然過去から脱却して、自由な、解放された身になつて今まで知らなかつた新たな自己に親しんで行き度いとおもふ。
(150) また、昨年あたりで私の或る一期の生活は殆んど名殘なく終りを告げて居る。そして丁度昨年は人生の半ばといふ廿五歳であつた。それやこれや、この春この『別離』を出版しておくのは甚だ適當なことであると私は歡んで居る。
 本書の裝幀一切は石井柏亭氏を煩はした。寫眞は昨年の初夏に撮つたものである。この一卷に收められた歌の時期の中間に位するものなので挿入しておいた。
 歌の掲載の順序は歌の出來た時の順序に従うた。
 左様なら、過ぎ行くものよ。これを期として我等はもう永久に逢ふまい。
 
     明治四十三年四月六日
                         著者
 
(151) 上卷
 
       自明治三十七年四月
       至同 四十一年三月
 
 水の音《ね》に似て啼く鳥よ山ざくら松にまじれる深山の晝を
 なにとなきさぴしさ覺え山ざくら花ちるかげに日を仰ぎ見る
 山越えて空わたりゆく遠鳴の風ある日なりやまざくら花
 朝|地震《なゐ》す空はかすかに嵐して一山《いちざん》白きやまざくらばな
 行きつくせば浪青やかにうねりゐぬ山ざくらなど咲きそめし町
 朝の室《むろ》夢のちぎれの落ち散れるさまにちり入る山ざくらかな
 阿蘇の街道《みち》大津の宿《しゆく》に別れつる役者の髪の山ざくら花
 母戀しかかるゆふペのふるさとの櫻咲くらむ山の姿よ
(152) 父母よ神にも似たるこしかたに思ひ出ありや山ざくら花
 春は來ぬ老いにし父の御《み》ひとみに白ううつらむ山ざくら花
 怨みあまり切らむと云ひしくろ髪に白躑躅さすゆく春のひと
 忍草雨しづかなりかかる夜はつれなき人をよく泣かせつる
 山脈や水あさぎなるあけぼのの空をながるる本の香《かをり》かな
 日向の國むら立つ山のひと山に住む母戀し秋晴の日や
 君が背戸や暗《やみ》よりいでてほの白み月のなかなる花月見|草《ぐさ》
 ※[虫+車]《こほろぎ》や寢ものがたりの折り折りに涙もまじるふるさとの家
 秋あさし海ゆく雲の夕照《ゆふで》りに背戸の竹の葉うす明りする
 朝寒《あささむ》や萩に照る日をなつかしみ照らされに出し黒かみのひと
 別れ來て船にのぽれば旅人のひとりとなりぬはつ秋の海
(153) 秋風は木《こ》の間に流る一しきり桔梗色してやがて暮るる雲
 白桔梗君とあゆみし初秋の林の雲の靜けさに似て
 思ひ出《づ》れば秋咲く木々の花に似てこころ香りぬ別れ來し日や
 秋立ちぬわれを泣かせて泣き死なす石とつれなき人戀しけれ
 この家は男ばかりの添寢ぞとさやさや風の樹に鳴る夜なり
 木の蔭や悲しさに吹く笛の音はさやるものなし野にそらに行く
 吾木香すすきかるかや秋くさのさびしききはみ君におくらむ
 秋晴や空にはたえず遠白《とほじろ》き雲の生れて風ある日なり
 秋の雲柿と榛《はり》との樹々の間にうかべるを見て君も語らず
 幹に倚り頬をよすればほのかにも頬に脈うつ秋木立かな
 机のうへ植木の鉢の黒土に萌えいづる芽あり秋の夜の灯よ
(154) 秋の灯や壁にかかれる古帽子袴のさまも身にしむ夜なり
 富士よゆるせ今宵は何の故もなう涙はてなし汝《なれ》を仰ぎて
 日が歩むかの弓形《ゆみなり》のあを空の青ひとすぢのみちのさびしさ
 悲しさのあふるるままに秋のそら日のいろに似る笛吹きいでむ
 山ざくら花のつぽみの花となる間《あひ》のいのちの戀もせしかな
 淋しとや淋しきかぎりはてもなうあゆませたまへ如何にとかせむ(人へかへし)
 うらこひしさやかに戀とならぬまに別れて遠きさまざまの人
 ぬれ衣のなき名をひとにうたはれて美しう居るうら寂しさよ
 春たてば秋さる見ればものごとに驚きやまぬ瞳《め》の若さかな
 町はづれきたなき溝《どぶ》の匂ひ出《づ》るたそがれ時をみそさざい啼く
 植木屋は無口のをとこ常磐樹の青き葉を刈る春の雨の日
(155) 船なりき春の夜なりき瀬戸なりき旅の女と酌みしさかづき
 春の森青き幹ひくのこぎりの音と木の香と藪うぐひすと
 ただひとり小野の樹に倚り深みゆく春のゆふべをなつかしむかな
 わだつみのそこひもわかぬわが胸のなやみ知らむと啼くか春の鳥
 ゆく春の月のひかりのさみどりの遠《をち》をさまよふ悲しき聲よ
 雲ふたつ合はむとしてはまた遠く分れて消えぬ春の青ぞら
 眼とづればこころしづかに音《ね》をたてぬ雲遠見ゆる行く春のまど
 鶯のふと啼きやめばひとしきり風わたるなり青木が原を
 椎の樹の暮れゆく蔭の古軒《ふるのき》の柱より見ゆ遠山を燒く
 春來ては今年も咲きぬなにといふ名ぞとも知らぬ背戸の山の樹
 町はづれ煙筒《けむだし》もるる青煙《あをけむ》のにほひ迷へる春木立かな
(156) われはいま暮れなむとする雲を見る街は夕の鐘しきりなり
 淋しくばかなしき歌のおほからむ見まほしさよと文かへし來ぬ
 人どよむ春の街ゆきふとおもふふるさとの海の鴎啼く聲
 街の聲うしろに和むわれらいま潮きす河の春の夜を見る
 春の夜や誰ぞまだ寢《いね》ぬ厨なる甕に水さす音《ね》のしめやかに
 春の夜の月のあはきに厨の戸|誰《た》が開けすてし灯のながれたる
 日は寂し萬樹《ばんじゆ》の落葉はらはらに空の沈黙《しじま》をうちそそれども
 見よ秋の日のもと木草《きぐさ》ひそまりていま凋落の黄を浴びむとす
 鰍をあげまた鰍おろしこつこつと秋の地を掘る農人《のうにん》どもよ
 うすみどりうすき羽根着るささ蟲の身がまへすあはれ鳴きいづるらむ
 うつろなる秋のあめつち白日《はくじつ》のうつろの光ひたあふれつつ
(157) 秋眞晝青きひかりにただよへる木立がくれの家に雲見る
 落日や街の塔の上|金色《こんじき》に光れど鐘はなほ鳴りいでず
 啼きもせぬ白羽の鳥よ河口は赤う濁りて時雨晴れし日
 さらばとてさと見合せし額髪のかげなる瞳えは忘れめや(二首秀孃との別れに)
 別れてしそのたまゆらよ虚《うつろ》なる双《もろ》のわが眼にうつる秋の日
 いま瞑ぢむ寂しき瞳明らかに君は何をかうつしたりけむ(途中大阪にかれは逝きぬ)
 短かりし君がいのちのなかに見ゆきはまり知らぬ清きさびしさ
 窓ちかき秋の樹の間に遠白き雲の見え來て寂しき日なり
 洒の香の戀しき日なり常磐樹に秋のひかりをうち眺めつつ
 見てあれば一葉先づ落ちまた落ちぬ何おもふとや夕日の大樹《おほき》
 をちこちに亂れて汽笛鳴りかはすああ都會《まち》よ見よ今日もまた暮れぬ
(158) 海の聲斷えむとしてはまた起る地《ち》に人は生《あ》れまた人を生《う》む
 人といふものあり海の眞蒼《まさを》なる底にくぐりて魚《な》をとりて食《は》む
 山茶花は咲きぬこぼれぬ逢ふを欲《ほ》りまたほりもせず日經ぬ月經ぬ
 遠山の峰の上にきゆるゆく春の落日《らくじつ》のごと懸ひ死にも得ば
 秋の夜やこよひは君の薄化粧《うすげはひ》さびしきほどに靜かなるかな
 世のつねのよもやまがたり何にさは涙さしぐむ灯のかげの人
 君去にてものの小本《こほん》のちらばれるうへにしづけき秋の灯《ともし》よ
 いと遠き笛を聽くがにうなだれて秋の灯《ひ》のまへものをこそおもへ
 相見ればあらぬかたのみうちまもり涙たたへしひとの瞳よ
 君は知らじ君の馴寄《なよ》るを忌むごときはかなごころのうらさびしさを
 落葉焚くあをきけむりはほそほそと木の間を縫ひて夕空へ行く
(159) 靜けさや君が裁縫《しごと》の手をとめて菊見るさまをふと思ふとき
 相見ねば見む日をおもひ相見ては見ぬ日を思ふさびしきこころ
 ふとしては君を避けつつただ一人泣くがうれしき日もまじるかな
 黄に匂ふ悲しきかぎり思ひ倦《う》じ對へる山の秋の日のいろ
 一葉だに搖れず大樹は夕ぐれのわが泣く窓に押しせまり立つ
      旅ゆきてうたへる歌をつぎにまとめたり。思ひ出にたよりよかれとて
 山の雨しばしば軒の椎の樹にふりきてながき夜の灯《ともし》かな(百草山にて)
 立川の驛の古茶屋さくら樹の紅葉のかげに見おくりし子よ
 旅人は伏目にすぐる町はづれ白壁ぞひに咲く芙蓉かな(日野にて)
 家につづく有明白き萱原に露さはなれや鶉しば啼く
 あぶら灯《び》やすすき野はしる雨汽車にほうけし顔の十あまりかな
(160) 戸をくれば朝寢の人の黒かみに霧ながれよる松なかの家(三首御嶽にて)
 霧ふるや細目にあけし障子よりほの白き秋の世の見ゆるかな
 霧白ししとしと落つる竹の葉の露ひねもすや月となりにけり
 野の坂の春の木立の葉がくれに古き宿《しゆく》見ゆ武藏の青梅《あうめ》
 なつかしき春の山かな山すそをわれは旅びと君おもひ行く(五首高尾山にて)
 思ひあまり宿の戸押せば和やかに春の山見ゆうち泣かるかな
 地《つち》ふめど草鞋聲なし山ざくら喚きなむとする山の靜けさ
 山静けし峰《を》の上《へ》にのこる春の日の夕かげ淡しあはれ水の聲
 春の夜の匂へる闇のをちこちによこたはるなり木《こ》の芽ふく山
 汽車過ぎし小野の停車場春の夜を老いし驛夫のたたずめるあり
 日のひかり水のひかりの一いろに濁れるゆふべ大利根わたる
(161) 大河よ無限に走れ秋の日の照る國ばらを海に入るなかれ
 松の實や楓の花や仁和寺の夏なほわかし山ほととぎす(京都にて)
 けふもまたこころの鉦をうち鳴しうち鳴しつつあくがれて行く(九首中國を巡りて)
 海見ても雲あふぎてもあはれわがおもひはかへる同じ樹蔭に
 幾山河越えさり行かば寂しさのはてなむ國ぞ今日も旅ゆく
 峽縫ひてわが汽車走る梅雨晴の雲さはなれや吉備の山々
 青海はにほひぬ宮の古ばしら丹なるが淡《あは》う影うつすとき(宮島にて)
 はつ夏の山のなかなるふる寺の古塔のもとに立てる旅びと(山口の瑠璃光寺にて)
 桃柑子芭蕉の實賣る磯街の露店《よみせ》の油煙《ゆえん》青海にゆく(下の關にて)
 あをあをと月無き夜《よる》を滿ちきたりまたひきてゆく大海の潮(日本海を見て)
 旅ゆけば瞳|痩《や》するかゆきずりの女《をんな》みながら美《よ》からぬはなし
(162) 安藝の國越えて長門にまたこえて豐の國ゆき杜鵑聽く(二首耶馬溪にて)
 ただ戀しうらみ怒りは影もなし暮れて旅籠の欄に倚るとき
 白つゆか玉かとも見よわだの原青きうへゆき人戀ふる身を(二十三頸南日向を巡りて)
 潮光る南の夏の海走り日を仰げども愁ひ消《け》やらず
 わが涙いま自由《まま》なれや雲は照り潮ひかれる帆柱のかげ
 檳榔樹の古樹《ふるき》を想へその葉蔭海見て石に似る男をも(日向の青島より人へ)
 山上《さんじやう》や目路のかぎりのをちこちの河光るなり落日の國(日向大隅の界にて)
 椰子の實を拾ひつ秋の海黒きなぎさに立ちて日にかざし見る(三首都井岬にて)
 あはれあれかすかに聲す拾ひつる椰子のうつろの流れ實吹けば
 日向の國都井の岬の青潮に入りゆく端《はな》に獨り海見る
 黄昏の河を渡るや乘合の牛等鳴き出《で》ぬ黄の山の雲
(163) 醉《ゑ》ひ痴れて酒袋如すわがむくろ砂に落ち散り青海を見る
 船はてて上れる國は滿天の星くづのなかに山匂ひ立つ(日向の油津にて)
 山聳ゆ海よこたはるその間《あひ》に狹しま白し夏の砂原
 遊君《いうくん》の紅《あか》き袖ふり手をかざしをとこ待つらむ港早や來よ
 南國の港のほこり遊君の美なるを見よと帆はさんざめく
 大うねり風にさからひ青うゆくそのいただきの白玉の波
 大隅の海を走るや乘合の少女が髪のよく匂ふかな
 船醉のうら若き母の胸に倚り海をよろこぶやよみどり兒よ
 落日や白く光りて飛魚は征矢降るごとし秋風の海
 港口夜の山そびゆわが船のちひさなるかな沖さして行く
 帆柱ぞ寂然としてそらをさす風死せし白晝《ひる》の海の青さよ
(164) かたかたとかたき音して夜更けし沖の青なみ帆のしたにうつ
 風ひたと落ちて眞鐵《まがね》の青空ゆ星ふりそめぬつかれし海に
 山かげの闇に吸はれてわが船はみなとに入りぬ汽笛《ふえ》長う鳴る
 夕さればいつしか雲は降《くだ》り來て峯に寢《ぬ》るなり日向高千穂
 秋の蝉うちみだれ鳴く夕山の樹蔭に立てば雲のゆく見ゆ
 樹間《こま》がくれ見居れば阿蘇の青烟かすかにきえぬ秋の遠空(以下七首阿蘇にて)
 山鳴に馴れては月の白き夜をやすらに眠る肥の國人よ
 ひれ伏して地の底とほき火を見ると人の五つが赤かりし面《つら》
 麓野《ふもとの》の國にすまへる萬人を軒に立たせて阿蘇荒るるかな
 風さやさや裾野の秋の樹にたちぬ阿蘇の月夜のその大きさや
 むらむらと中ぞら掩ふ阿蘇山のけむりのなかの黄なる秋の日
(165) 秋のそらうらぶれ雲は霧のごと阿蘇につどひて凪ぎぬる日なり
 海の上《へ》の空に風吹き陸《くが》の上の山に雲居り日は帆のうへに(六首周防灘にて)
 やや赤む暮雲を遠き陸《くが》の上《へ》にながめて秋の海馳するかな
 落日のひかり海去り帆をも去りぬ死せしか風はまた眉に來ず
 夕雲のひろさいくばくわだつみの黒きを掩ひ日を包み燃ゆ
 雲は燃え日は落つ船の旅びとの代赭の面《つら》のその沈黙よ
 水に棲み夜《よ》光る蟲は青やかにひかりぬ秋の海匂ふかな
 津の國は酒の國なり三夜二夜飲みて更なる旅つづけなむ
 杯を口にふくめば千すぢみな髪も匂ふか身はかろらかに
 白雲のかからぬはなし津の國の古塔に望む初秋の山(四天王寺に登りて)
 山行けば青の木草に日は照れり何に悲しむわがこころぞも(箕面山にて)
(166) 泣眞似の上手なりける小女のさすがなりけり忘られもせず
 浪華女に戀すまじいぞ旅人よただ見て通れそのながしめを
 われ車に友は柱に一語二語醉語かはして別れ去りにけり(大阪に葩水と別る)
 醉うて入り醉うて浪華を出でて行く旅びとに降る初秋の雨
 昨日飲みけふ飲み酒に死にもせで白痴笑《こけわら》ひしつつなほ旅路ゆく
 住吉は青のはちす葉白の砂秋たちそむる松風の聲
 秋雨の葛城越えて白雲のただよふもとの紀の國を見る
 火事の火の光宿して夜の雲は赤う明りつ空流れゆく(二首和歌山にて)
 町の火事雨雲おほき夜の空にみだれて鷺の啼きかはすかな
 ちんちろり男ばかりの酒の夜をあれちんちろり鳴きいづるかな(紀の國青岸にて)
 紀の川は海に入るとて千本の松のなかゆくその瑠璃の水
(167) 麓には潮ぞさしひく紀三井寺木の間の塔に青し古鐘
 一の札所第二の札所紀の國の番の御寺《みてら》をいざ巡りてむ
 粉河寺遍路の衆のうち鳴らす鉦々きこゆ秋の樹の間に
 鉦々のなかにたたずみ旅びとのわれもをろがむ秋の大寺
 旅人よ地に臥せ空ゆあふれては秋山河にいま流れ來る(葛城山にて)
 鐘おはき古りし町かな折しもあれ旅籠に着きしその黄昏に(二首奈良にて)
 鐘斷えず麓におこる嫩草の山にわれ立ち白晝《ひる》の雲見る
 雲やゆくわが地やうごく秋眞晝鐘も鳴らざる古寺にして(二首法隆寺にて)
 秋眞晝ふるき御寺にわれ一人立ちぬあゆみぬ何のにほひぞ
 みだれ降る大ぞらの星そのもとの山また山の闇を汽車行く(伊賀を越ゆ)
 峽出でて汽車海に添ふ初秋の月のひかりのやや青き海(駿河を過ぐ)
(168) 草ふかき富士の裾野をゆく汽車のその食堂の朝の葡萄酒
 晩夏《おそなつ》の光しづめる東京を先づ停車場に見たる寂しさ
                            ――旅の歌をはり――
 舌つづみうてばあめつちゆるぎ出づをかしや瞳はや醉ひしかも
 とろとろと琥珀の清水津の國の銘酒|白鶴《はくづる》瓶《へい》あふれ出づ
 灯ともせばむしろみどりに見ゆる水酒と申すを君斷えず酌ぐ
 くるくると天地めぐるよき顔も白の瓶子も醉ひ舞へる身も
 酌とりの玉のやうなる小むすめをかかへて舞はむ青だたみかな
 女ども手うちはやして泣上戸泣上戸とぞわれをめぐれる
 こは笑止八重山ざくら幾人《いくにん》の女のなかに醉ひ泣く男
 あな可愛ゆわれより早く醉ひはてて手枕《たまくら》のまま彼女ねむるなり
(169) 睡れるをこのまま盗みわだつみに帆あげてやがて泣く顔を見む
 醉ひはててはただ小をんなの帶に咲く緋の大輪の花のみが見ゆ
 醉ひはてては世に憎きもの一も無しほとほとわれもまたありやなし
 ああ醉ひぬ月が嬰子《やや》生む子守唄うたひくれずやこの膝にねむ
 君が唄ふ『十三ななつ』君はいつそれになるかや嬰子うむかやよ
 渇きはて咽喉は灰めく醉ざめに前髪の子がむく林檎かな
 酒の毒しびれわたりしはらわたにあなここちよや沁む秋の風
 石ころを蹴り蹴りあるく秋の街落日黄なり醉醒《ゑひざめ》の眼に
 もの見れば燒かむとぞおもふもの見れば消《け》なむとぞ思ふ弱き性《さが》かな
 黒かみはややみどりにも見ゆるかな灯にそがひ泣く秋の夜のひと
 立ちもせばやがて地にひく黒髪を白もとゆひに結ひあげもせで