若山牧水全集第十巻535頁、600円、1959.04.30

雜文

   目次
雜文
彼の一卷、この一卷……………………… 5
石火記……………………………………… 9
歌の話……………………………………… 12
耳川と美々津……………………………… 15
遠き日向の國より………………………… 16
六號私見…………………………………… 21
行人獨語…………………………………… 37
「佇みて」を讀む………………………… 42
「赤光」に就いて………………………… 47
大會前記…………………………………… 48
誌友大會始終記…………………………… 53
大會後記…………………………………… 58
大會雜觀…………………………………… 63
この不滿を如何…………………………… 69
齋藤茂吉君へ……………………………… 71
「潮音」創刊について…………………… 72
『砂丘』のこと…………………………… 73
父も母も若い俤…………………………… 75
「砂丘」の批評について………………… 77
姉の讀む物語から………………………… 79
『海の聲』のこと………………………… 81
歌日記……………………………………… 83
今後の前田君の境遇……………………… 89
先生の惡口が縁…………………………… 91
出發点一つ二つ…………………………… 95
所感………………………………………… 97
旅より妻へ………………………………… 98
森、湖、及び人…………………………… 112
『海の聲』出版當時……………………… 126
石川啄木の臨終…………………………… 131
半折短册會を起すに就いて……………… 135
大會前記…………………………………… 137
大會後記…………………………………… 145
抗議………………………………………… 156
最近の感想………………………………… 157
時雨酒……………………………………… 158
淺野君に答ふ……………………………… 160
安成二郎君に答ふ………………………… 163
汽車の中にて……………………………… 166
大會雜報…………………………………… 167
解説………………………………………… 172
病床漫吟…………………………………… 176
中央新聞記者時代
不忍池の大螢狩…………………………… 179
夏の都の湊口……………………………… 180
震後の江山………………………………… 184
「新片町より」を讀む…………………… 188
九月の短歌………………………………… 189
靈柩を迎ふ………………………………… 192
秋は寢たり偉人の墓畔…………………… 194
主宰誌編輯便……………………………… 197
明治四十四年……………………………… 199
明治四十五年……………………………… 218
大正二年 ………………………………… 222
大正三年 ………………………………… 242
大正六年 ………………………………… 274
大正七年 ………………………………… 305
大正八年 ………………………………… 327
大正九年 ………………………………… 354
大正十年…………………………………… 363
大正十一年………………………………… 374
大正十二年………………………………… 389
大正十三年………………………………… 415
大正十四年………………………………… 444
大正十五年………………………………… 466
昭和二年 ………………………………… 498
昭和三年 ………………………………… 521

  第十巻 雜篇

   雜文

(5) 彼の一卷、この一卷
         ――詩集の印象――

 私の中學四年の頃、肥後の熊本へ秋季修學旅行が催されたことがある。熊本では或るお寺に泊つて城や市街を見物した。その頃から私は細々と三十一文字を並べてゐて、その周圍では先づ兄貴分の地位に立つてゐた。所でそのお寺に泊つてゐたうち、右の私の弟分に當る或る一人が、とある夕、二册の細長い妙な形の本を持つて歸つて來た。何だと訊くと、歌の本だといふ。なるほど二册ともに歌ばかりで埋つて居る。兩方とも聯か破れてゐた所などを考へると先生古本屋から見出して來たものらしい。翌日は熊本を立つた。肥後の平野を貫いて白々した秋の道路に沿うて阿蘇山麓に進むのである。既に日向から肥後へ幾多の山河を横切つて來てゐるのでその年少い旅行隊はもう大分疲れて居た。火山の麓の宿驛の宿屋はたしか粟屋と云つた。茅葺の屋根には月がさして煤けた窓から月光裡に立昇る山の煙がよく見えた。組が違つて居るので、行進中は一寸逢ふことの出來ぬ右の男が其處へ來て、例の二册を出して、一册のは實によく解るが一方のは一向解らぬ、是でも歌であらうかと日向訛の獣的な調子で私に尋ぬる。よく見ると一方のは表紙に『おぼろ舟』と題してあり、一册のは赤い文字で『みだれ髪』と書いてある。一方の『おぼろ舟』を開いて見ると、いかにもよく解る、當時の我等には實にそれが無上の佳作である樣に思はれた。一方の『みだれ髪』の方を取つて讀んで見ると、例の「夜の帳にさゝめきつきし……」から(6)始まつて一つとして直ぐ了解の出來るといふのがない。仕方がないから、乃公にも解らんといふと、そんなら是をば君に上げよう、持つてゐたつて仕樣がないといつて『おぼろ舟』だけを大事相に懷中して彼は去つた。貰ひ受けた『みだれ髪』を丁寧に一字々々と讀んで見たが中々解らない。そのくせ何だか底に奇妙なものがある樣で、幾度びも/\教師にかくれて繰り攪げて見た。その翌日は愈々阿蘇に登つた。途中休息の間や歩きながらもこの細長な小形の本は幾度びか汚い小倉服のポケットを出入したものだ。阿蘇に登り、三國峠を越え豐後路から日向の國に歸りつくまで常に斯くあつた。阿蘇の舊噴火口の跡だといふ坂梨を登つて、ずうと海の樣になだらかに傾斜した豐後の高原を通る時など、隊に遲れて讀みながら歩いたのなどがよく思ひ出される。その翌年の春、日向の耳川の上流の田代といふ村へ友人を訪ねて行つた。丁度友人は留守で、薄暗い百姓家の――庭さきには山櫻が咲いてゐた――部屋の縁に腰かけて待つて居ると、机の上に『新派和歌評釋』といふ小さな本が載つて居る。何心なく讀み始めると、さア耐らないほど面白い。今まで唯だぼんやりと瞳の前に映つてゐた神秘の國に親しく一歩々々を運び入れる樣な氣持だ。脚絆も解かずに讀み耽つた。それに由つて私は當時の新派和歌といふものを漸く了解し得た樣な氣がした。著者は黒瞳子と書いてあつた。聞けば今の平出修氏である相な。右の熊本で二册の本を買つた男も三四年前郷里を飛び出して文學をやるとか云つて東京に出て來て、前田君などにも大した迷惑をかけてまご/\してゐたが、中途で踏み外づして今では飛んでもない者になつて居る。先日の國からの便りによれば自殺したとも云ひ監獄に入つて居るとも傳へられて居る。『おぼろ舟』の著者は現今の人は大概知るまい、長谷川濤涯と云つた人だ。つい先頃まで數寄屋橋の(7)無名通信社に居るといふので、一度逢ひたいものだと念つて居るうちにもう今は居なくなつた相だ。田代村の友人は兵除にとられて樺太に行き、朝鮮に行き、今は歸つて村の郵便局に居る相だ。來號の本誌にはその人の歌を載せたいものだ。一昨夜であつたか前田君とこの『亂れ髪』の話が出て、毎年梅の咲き出す頃になるとこの詩集が讀みたくなる、そして愈々その歌を見るとすぐいやな氣になるが、とにかくこの讀み度いといふ心持だけは誠にいゝものだと話し合つた。阿蘇を越えた『解らぬ本』はいま東京の早稻田の或る家の二階に破れ/\て殘つて居る。
 同じく郷里の中學に居た頃、私の下宿してゐた大見といふ家――そこの息子は僕等の先輩で歌を詠み文を作つた、今は鹿兒島の港務局とかに居る相だ。名は達也といふ、同地の創作の社友中で誰か一度訪ねて行つて見給へ、背の高い、鼻の隆い男だ――に或日僕を尋ねて若い男がやつて來た。出て見るとそれは久しく逢はなんだ僕の從兄である。彼もまた家業を嫌つて家を出て諸所飛び歩いて數年間といふもの逢ふことが出來なかつたのだが、或時僕の投書した作文か何かを何かの雜誌で見て僕が村を出て某町中學に入つて居る事を知り學校宛に手紙を呉れ、爾來幾度びか文通をばして居た。從兄を見て僕はもう嬉しくて/\仕樣が無かつた。勿論彼の歸國は失意のはてゞある。彼はその夜酒に醉つてまだ子供の從弟を捉へて盛んに憤慨した。そして汚い風呂敷包の中から取出して大聲に讀み始めた本がある、それが即ち薄田泣菫氏の『ゆく春』であつたのだ。從兄には、確かに眞の意味の天才の素があつた。當時彼の作つてゐた長詩、短歌等を思ひ起して見ると、目下盛んに作られつゝある象徴ぶり官能ぶりの作風に全然適合して居る。惜しい事に彼はまだ國にも歸らず、事をも爲さず、いまは福岡の近所に哀れな生活を送つて居るらしい。(8)もう三十を餘つ程越したであらう。餘談はおき、その『ゆく春』は著者から時任霧峯に贈られたとかいふので、霧峯はまた從兄に贈つたといふ履歴つきのものであつたと記憶する。霧峯とは當時の新詩牡で羽振を利かせた人で、與謝野さんなどはよく御存じだらうと思ふ。今でも時々新詩社詠草の中に名を見る園田愛緑氏なども從兄の知人であり、尚ほ熊本縣の緒方雁峯などと云つた人もあつた。恐らく『ゆく春』ほど僕の愛讀した本はないだらう。いつしか一字一句を悉く暗記して、山に行き海に行く時など殆んど間斷なく僕の唇頭にその中のどの詩かゞ上つてゐた。東京に上る時もその本を――言ひ落したが、從兄からその履歴つきの本を強奪しておいたのだ――携へて來た。そして散歩や旅行に出る時など一度として缺かしたことはない。だから中國や紀州や色々な國々をこの本は旅行した。身體に似合はず僕の咽喉は美しい聲を出す、そのいゝ聲で實に幾百千度か吟じ上げられたものだ。所がいまは僕の手許にその本がない。知つて居る人は知つて居るだらう、もと僕等が雜誌新聲に歌を出してゐた頃、一緒に出してゐた關葩水と云つた男がある、小學校からの友人で中學を途中で止し、大阪に出て繪をかいてゐた。その男の戀人が矢澤孝子君の友達であつたか何かで矢澤君も屹度この男を御存じだらうと思ふ。本をばその男に呉れて了つたと覺えて居る。この記憶にして相違が無かつたならば、葩水は昨年死んで了つた、それと共に我が愛する『ゆく春』一卷の行衝も終にもとめ難いであらう、――その後一二册買求めたが、思はるるはあの古い破れた一册である……森の家より野に出でて、ゆふべの雲を眺むれば、緋絨裂けし落武者の、すがたに似たる春の暮、穗の毛のびたる大麥の、畑にかくるゝ笛の音よ……――。
 噫、希くぽ今夜我をして一椀を傾け、かの滿卷の詩を高誦せしめむことを! (明治四十三年)

(9) 石火記
     ――「創作」誌友會の記――

▽あの日の會合の象徴をわが北原白秋君となす。その故は、息せきと馳けつけて、來るや否や、わアつといふ騷ぎに忽ちもう眼が見えなくなり、忽然としてまた脱兎の如く京橋は木挽町まで走せ歸り、二階の部屋から室内の書籍を悉く庭に投じた同君の情緒氣分は即ち當日の會合そのものの情緒氣分であつたと認知せざるを得ないのである。
▽僕は當日の朝、田端の小杉未醒氏の宅から出て來たのであつた。途中で緑葉君と落ち合つて十二時すぎに會場へ行つた。行つて見ると今朝の十時から來て待つてゐる人があるといふ。見れば山崎阿木良君であつた。同君とは昨秋信州で逢つて知つてゐる。
∇縁側の日向で來る人を待つてゐる間のつらさといつたらなかつた。四邊の樹木はすつかりもう芽を吹いて櫻が汗ばんだ樣にそこらに散り乱れてゐる所など、すつかり晩春初夏の重苦しい氣分で、どうしてもじつとしてゐることが出來ない。その心を抑へて鹿爪らしくしかも甚だ呆然として人を待つこころもちといつたらなかつた。其處へ火事だといふ。この風では定めし燒けることでせうね、一體何處です、吉原ですよ、左樣ですか……などとやつてゐるものの何だかひどく氣が氣でない。
▽來る筈の人がなか/\來ない。火事の方に取られましたよとみんな恨めしさうな泣き出しさう(10)な顔をして、燃えてるといふ空の方を仰いでゐる。庭の籬根ごしには三々五々春衣をこらした若い女連中が通つてるのが、あてつけがましく見えてる。つけ元氣の雜談もともすればとだえがちになる。時はたつ。
▽そこへ珍客の長田秀雄君がそろ/\歸營の時間に近づいたといつて帶劍などをつけ始める。耐へかねて膳を出すやうに言ひつける。その間に僕は大いに雄辯をふるつて開會の辭を述べるつもりでゐたが、ばた/\と膳部の並び始めるのを見るともう何をいふのも面倒くさくなつて唯だ口のうちで、ムニヤ/\にして了つた。さアぞれからだ。
▽何しろ初めからさういふ有樣で十分にぢれてゐた所へずらつと銚子が並んだのだから耐らない、電光石火の如くに一同ががぶ/\とやり始めた。がぶ/\では甚だ言ひ足りない、實際はもつと急激なものであつた。十四五本も銚子が什されると、ソロソロ調子外れの黄色な聲がそこらで聞え出した。みんなの目や鼻の格好が少しづつ變つて來た。
▽泰然として腰を拔かす、といふ言葉がある。當日の牧水には聊かその氣味があつた。會のあとで、あの日は君は餘り醉はなかつた樣ですね、と誰からも不思議がられたが、なアに實際は飲まぬ前からふら/\してゐたのだ。だから杯が膝のまはりに七つ八つ宛並んで來た頃は既に泰然として拔かしてゐたのである。
▽怒濤の如くに皆が醉つた(のだ相だ。實は僕もこの怒濤の一分子たりしが故に其詳細を知るの光榮を有しない)その中でも尚ほ且つ珍とするに足るのは〇〇君紛失の一件である。もう會も終りがたで、人は大方歸つて行つた、氣がつけば〇〇がゐない、羽織も帽子も荷物も下駄もある。そ(11)して本尊の人間だけが紛失してゐる。ツイ先刻まで切りに鼻聲になつて山水君に行つたり福永君を捕へたりして飲み廻つてゐた細長いひとが急に見えなくなつた。さア大變といふので手分けをして探したがなかなか見つからない。誰か一人これから△△の彼の宅まで行つてみなくてはなるまいと會場の門口に立つて評議してゐる所へ、――少しくその場の背景を語らしめよ。公園の松木立入り亂れて、アーク燈の薄紫の光ほのかに其間に漂ひ、地には落花白く亂れて、行人殆ど絶えたる眞夜中近く――ふツと向うを見ると、髪長く亂れて泥を帶び、躯幹松の如くに瘠せ、瞳すわり、兩手をだらりと下げた人物が忽然としてその木立の間に表れた。わが〇〇君其人である。彼は醉後獨り身を逃れて晩春の松籟に心耳を濟ましてゐたのださうだ。
▽まだ澤山あるがもう止さう。要するに實に他愛なく醉つて遊んで子供のやうになつてみんなが別れて行つたのである。
▽實は斯ういふ會合でなく少しく鹿爪らしいものにする筈であつたが、幹事の方に急用が起つたり、また講演演説を頼んだ人に差支へがあつたりしたので、それではその種の會はまたに讓り今度は唯だ面白く遊ぶだけの會にしようとツイ當日の二三日前に方針を一變さしたのであつた。そして我等は滿足してこの會合を終つたのである。
▽終りに當日の會合に對し祝詞祝電及び金員を寄せられた原田實君、高鹽背山君、乾山茶花君、東雲堂君の厚意に對し一同を代表して謝意を表する。(明治四十四年)

(12) 歌の話
     ――田山花袋氏を訪ふ――

 四月十七日、快晴。郡山君と共に巣鴨停車場から二時間近くを電車と汽車に搖られ十一時近く横濱へ着いた。横濱の土地に留ること僅に十有五分間、清水氏を同伴して再び東京行の汽車に轉げ込み、車中に用談を濟まし新橋にて同氏と別れ、精養軒、東京印刷所及び他一軒を訪ひ、日本橋のまる花にて麥酒と晝飯とを掻込み、郡山君と別れて、唯一人博文館編輯部三階の應接間に突立つて汗を拭つた時は殆んど既うぼんやりとなつて了つてゐた。午後二時頃の日光が窓に當つて、窓からは風と煤煙と砂塵とに包まれ終つた初夏の市街がいら/\輝いて海の樣に見渡される。何か知ら用事を頼む時にのみ登つて來たことのあるこの三階の應接室は逸早くも自分の身にあれこれと佗しい追憶を強ひずにはおかなかつた。一室を二間にし切つて、一個の机、三個の椅子及び幅廣い書棚のほかには別に裝飾とても見當らぬ。机の上には一個の灰皿と赤いレッテルの半ば破れた燐寸箱が二つ置いてある。

『たいへん白髪がおふえになつたぢアありませんか』
 自分は先づ何より是に驚いた。
『えゝ、僅か一二年の間にどうも……、ひどいお爺きんになりましたよ、もう四十二歳ですから(13)……、考へも何もすつかり變りました』
『でも、ひと頃よりはずつとお肥えになつた樣ですが……』
『そうかね、左樣かも知れない、すつかりのんきになつたから……』

『僕はもとから熊谷直好の歌が好きで……イヤ/\そんなに手帳などに書きつけられては困る、君が聞いてゐて解つただけで……僕などは元來景園派のうちでも、寧ろ景樹より直好が好きだ。何處が好いといふことはないが、あの巧まない裡に却つて強く人の心を惹きつける所がある。そして彼が當時の歌人中に在つて他と異つてゐた第一は、彼は自分自身及び人間といふものを常に自然の一分子と見て靜かに歌つてゐたことで、單に感情そのものに没頭する所などが無かつた。同じ山を詠み草木を詠むにしても常に自分自身の存在を忘れなかつた人である。そして能く自然といふものを見た人で決して空騷ぎの歌をば詠まなかつた。またそのため多く歌が治極的になつてゐる所はある。景樹は巧みだが、どうも俗で不可ん、どこか鐵幹君の風がある。
   咲く花も瀧もましろにあらはれて暮れゆく山のおくぞさびしき
などは直好の歌の好い例である。其他能く記憶してゐないが、
   いまぞ知る野にも山にもおく露はみな旅人の涙なりけり
   里の子が澤に鴫わな張りしよりこころにかかり夜こそ寢られね
   笹の葉の白きは霜の光にてまだ夜は深し岡の邊の里
(14) どこか斯うものの奥に靜かに濟んで居る涙とでもいつた樣な歌が多い。最後の一首などはいかにも旅の心地がよく表れてゐる。

 僕の師匠(故松浦辰男氏)などは始終「初一念で詠め」と言つて聞かした。直好の歌などが如何にもこの初一念から出來てゐる樣だ。初一念とは心で巧まない、作らうといふ氣持で作らないといふ謂である。子供の樣な初一念でなく、考へた上の初一念で詠み度いものだ。昨今の歌はどうもわざとらしく、理窟つぼくて不可ん。歌は決してああいふものぢアないと思ふ。君の作などは新しい歌の中で僕の愛讀してゐるものだ。僕は感情そのままをすぐ歌とせずにそれを眺めてゐる氣持で詠んで見度いと思つて居る。

 僕の最近の作?……僕のなどを言ふとまた相馬君に笑はれるから……、ソラ西園寺侯の雨聲會の時のあれさ、ハヽヽヽ、もつともあれは新聞のが違つてゐたよ。實際は
   大川の水にうつれるともしびのかげさやかなり初秋にして
といふのだ。大いに得意の作なんだが。
 そのほか?…どうも一年に三首か四首位ゐ詠まうといふ歌よみなんだから…。七月頃日光の奥の湯元に行つてゐた。彼處は石楠花の多い處で、その湯元の宿屋になか/\きれいな女中が居た。
   奥山は七月に吹く石楠花の花ばかりとも思ひしものを
 ハヽヽヽヽ、(明治四十五年)

(15) 耳川と美々津

 「即興詩人」を讀んだ人は覺えてゐるであらう、アントニオが賊の山寨から逃れ出て二三十里にわたる曠原を馳けに馳けて來ると、不圖眼の前に眞蒼《まつさを》な異樣なものがあらはれて來た。彼はあまりの驚きに暫しは茫然としてこれを眺めてゐたが、やがて惶しく馬から飛び降りて、「海、海、ああ地中海よ!」と呼んで涙の溢るるにまかしたといふことを。
 また、日本の一詩人が米國に渡る船のなかに在つて、
   海を見て太古の民のおどろきを我《われ》ふたたびす大空のもと
   大空の圓きがなかに船ありて夜を見晝を見こころ怖れぬ
と歌つたこともある。初めて海を見て驚く驚愕《おどろき》は總ての驚愕《おどろき》の中にあつて最も偉大な崇高なものであらうと思ふ。
 私は六歳か七歳の時、母に連れられて耳川を下つたことがある。そして舟が將さに美々津に着かうとする時、眼の前の砂丘を越えて雪のやうな飛沫を散らしながら青々とうねり上る浪を見て、母の袖をしつかと捉りながら驚き懼れて、何ものなるかを問ふた。母は笑ひながら、あれは浪だと教へた。舟が岸に着くや母はわざ/\私を砂濱の方に導いて更に不思議に更に驚くべき海、大洋を教へてくれた。その時から今日まで、海は實に切つても切れぬ私の生命《いのち》の寂しい伴侶《みちづれ》となつて來てゐるのである。
(16) さういふ記憶を除いても私は美々津が好きである。河口の港には必ず着いてゐる氣分、即ち何となく解放されたやうな、ゆつたりした氣分はこの南國の美々津の港に實にいつぱいに滿ちて居る。耳川を下つて來て遙かに此處の帆柱を望み、砂丘や浪を眺めた氣持は言はずもがな、富高の方から車で來てあの幸脇上の阪から白々したこの港を瞰下した時にも、亦た斯の氣持は必ず起つて來る。自由な、爽快な、新鮮な氣持!
 あの渡舟場の舟を待つて砂の上に佇む度ごとに私は常に鮮かに「旅」といふことを思はせられぬことはない。遠くから遠くへ渡る旅の心地、これはどこの港にでもある氣分だが、美々津は一層それが強い。山陰《やまげ》からの高瀬舟を降りて渡舟を待つてゐると、相變らずあたりがざわ/\してゐる。馬車夫は馬を河の中に迫ひ入れて腹を洗つてやつて居る。若い女は筒袖の短い襦袢を着て脛もあらはに桶か何か洗つて居る。見れば色うすく黒く※[月+鰐の旁]のあたりから襟のほとり、乳も腕も氣持よく肥えて瞳は黒い玉のやうに涼しい。眞黒な髪をばゆた/\に無雜作につかねて、馬車夫と何やら聲高に罵り合ひ笑ひ合つて居る。(大正元年)

 遠き日向の國より

 私にはこのごろいよ/\露西亞の新しい人のかいた小説が身にしみるやうになりました。ゴルキイの「夜の宿」(とツイ書きましたが、私の讀んだのは昇さんの譯した「どん底」の方でした)などが、漸くわかるやうになりました。もつとも「どん底」を讀んだのは、二三年前の秋、三四(17)ケ月信州に行つてゐたとき、小諸町の病院の二階で讀んだものでした。そのときには、殆んど無意識に五感を刺戟せられたやうな形で、解つたやうな、解らないやうなものでした。昨今、漸く彼の一篇に出て來る人たちの心持、それを描いた作者の心持に、意識的に同感するやうになつたと思ひます。その時一度讀んだきりの本を、いまになつて憶ひ出すのなども可笑しい話ですが、まつたくさうなのです。そして近頃、鹿兒島からの歸りみち、船の中で、クープリンの「決闘」を讀みました。これは、もう讀みながらも書いてある以上のことにまで心が走つて、却つて困つた位でしたが、こんなのを讀むことは、いよ/\目下の自分の苦惱を鮮明にする所以なのです。ロシア人は、みな、自ら解決することの出來ない人たちらしいのです。一種先天的の無意識的の不安苦惱に驅られて、一意にその方面へやつて行く、そして、いよ/\といふ瀬戸際になつて、眼を瞑つてしまふ。まつたく、いぢらしいほど、さうなのです。そしてそれがまた氣味のわるいまでに目下の私には了解同感出來るのです。悲しいことに、私には彼ほどのエナージイが足りません。健康状態から來るのではないかと思つたりして、自身をかへりみてゐます。
 お讀みでなかつたら、右の二册など讀んでごらんなさい。作としては評判ほどには私には思へないけれど、これらの作ほど、無言の裡に我等に語るものは、多くありますまい。
        *
 歌が出來ない、といふのにもわけがあると思ひます。作りたくないから出來ないといふのか、作らうとしても出來ないといふのか、私のは、いま後方の部に屬してゐます。作れば、無論出來るが、自分の心持と、よほどかけ離れたのを感ずるときに、もうそれを自分の作と認めたくなく(18)なるのです。
 私はこのごろ、人から送られて、人麿の歌集を讀みました。そののち、幾日もたゝぬうちに、これも人から借りて「路上」を讀みました。夜なかでしたが、私は床から起き上つて、この二册の歌集を一所に置いて、何とも言へぬ涙をおぼえました。斯ういう單純な生活――生命といひますか、ヒユーマニチイーと云ひますか――に甘んじてゐた自他の人におもひやる涙であつたのです。――單純なといふ簡單な形容詞では甚だ不充分ですが――
 要するに、その時その時の生命です。今日から、昨日の作をなみするわけにはゆかぬ。そして、唯だ心の注がるゝのは、最も切端迫つたいまであるのです。寧ろ未來といひたい位のいまであるのです。
 前後を考へ合せて、ねち/\とていさいよくぼろを出さずにやつて行く人々を我々は何といひませう。
        *
 東京の佐藤緑葉から手紙をくれました。中に、『西洋の地圖のくわしいのを借りて持つて歸つて「ヴアンゴオホ」のひとり住んだといふタヒチの嶋をしらべてみた。ゴオホはフランスのポストアンプレツシヨニストの中で特にすぐれた人であるが、タヒチとは一體どこだらうと僕は考へたのだ。索引を繰つて、探しあてたところによると、タヒチとは濠太利の東方、ニュージイランドのやゝ北にあたる南太平洋の一孤嶋であつた。』
 と斯うありました。どうでせう、私はもうこゝまで見て呼吸のつまるやうな感におそはれて、(19)地圖のけし粒ほどの嶋と、繪具箱一ケを負つて、澄んだ瞳を動かさずに、そこまでやつて行つたゴオホとをおもひ浮べないわけに行きませんでした。われら眞個に生きざる可からず、極端まで生命のいたみの源を追求しなくてはならぬ――斯んなことを野暮臭くもまた眞劍になつて考へ始めました。要するに、我等は、あまりに上のそらで生きてゐる!
        *
 斯うは考へてゐるが、サテいかにすべきか、いづくに行くべきか、これが少しもわからないのです。
 どうしたらいゝだらう、という叫びを、心から全ての精神を茲に集めて叫び度いのです。これが、まことに、せめてもの願ひです。
        *
 九州はもう梅は過ぎました。鹿兒島には寒櫻とかいつて、淡紅の八重のさくらが咲いてゐました。こちちには三月の中旬でなくては、さくらは見られません。例の山ざくらといふ、花よりも葉の方がさきに出る單瓣の美しいのです。私は、あれを十年ぶりで見るのです。東京にはありません。東京の櫻は造花のやうなものでした。
        *
 嶋原に渡りましたとき、雪がちら/\してゐました。そして、そこ此處に紅梅が咲いてゐました。日も明るく照つてゐたのです。嶋原はまことにいい港でした。たいへんに醉つて、とう/\宿屋でがまんができなくつて、例の灯のみ明るい狹い市街へ入りこみました。そして不思議に例(20)の「別離」のヒロインそつくりの女を、そのなかに見出して、ひどく驚きました。上つてみましたら、その氣質まで、そつくりでありました。
 翌日の晝、汽船でその港を出やうとしましたとき、甲板の上の私の名をしきりに呼ぶものがあります。不思議に思つて見廻しましたら、汽船はすれ/”\に遊廓の裏を通つて出て行きつゝあつたのです。
 私は、(バカなことを云ひ出しましたが)どうしても「別離」のをんなを忘れることが出來ないのを、このごろになつてしみ/”\さとりました。あの時分の自身を、まことにバカ/\しく、物足りなく、齒がゆく、身もだえて思ひ起します。私はそのころ、あまりに何をも知らなかつたのです。そして、一面から云ひますと、戀をする準備の出來てゐない愚かな若者にとつて、彼女はあまりに怜《さか》しくあつたのです。
 問はれるのを恐れて、これから申します。その後、彼の女の生死すらわかりません。私は、こんど上京したら、全力をつくして、彼女のあとを探します。そして、よそながら幸福な生活裡にある彼女を發見せむことを畏れつゝ祈つてゐます。然し、恐らくさうでありますまい。
        *
 旅は然し、作の方から見ますと、大分邪魔になりました。東京から歸郷後の心が漸くまとまつて、ぼつ/\歌の出來かけてゐた(一月號發表分)所へ今度の旅で、またすつかり心の整調を破りました。といふより、身體の健康をこわしました。一首も出來ません。「東北」へも失敬しました。どの雜誌へもよう出しませんでした。四月號までには出來ださせるつもりです。
(21) 一月號の私の作の評判の今さらながらに惡いのに多少驚いてゐます。小細工人どもに、ものゝ解りやうはありませんが、斯うわるく云はれる歌を作らねばならぬやうになつた自分を省るときに、一種緊縮した感をおぼえるのです。これからのは、もつと、ひどくなりませう。
        *
 早く櫻が咲いてくれゝばいゝに、とそれのみいま祈つてゐます。霞の深いところですからね。春は非常によかつたとおぼえてゐます。少し月並だが毎日のやうに酒でも持つて、山のおくへ入り込むつもりです。(二月十九日いやな曇り日)――(大正二年)

 六號私見

     前月歌壇

 初め、斯んなに歌を書きぬくことのみをせず、まとまつた批評の記事を作るつもりであつた。頁と時日との都合から、愈々の場合になつて斯ういふ風にして了つた。これも初めは多くの中から優秀の作と認められるものに點をつけておいてあとから書き移したものであつたが、いざ清書といふ段になつてその優秀と認めた自身の眼に甚だしい疑惑と侮蔑とを投げねばならぬのを感じた。一例を引けば、點をつけたなかに「目はとづれど衰へし身にせまりくる木の葉いきれも悲しみとなる」といふのがある。衰弱した身に迫つてくる夏の樹木の蒼臭い呼吸や色やの心持に取敢(22)へず同感して點を附けたものであつたが、親しく清書のときになつてみると、目はとづれどといふ言葉も全體から見て極めて弱いし、曖昧だし、句と句との移りゆきも甚だふなふなしてゐるではないか。一貫した強みが缺けてゐる。これなどは單に手法の上に故障があるのだが、全體から見てもつと貪弱なのが他に多いかも知れぬ。要之、雜誌々々か又は各個人の特色を見るために拔萃を作つたといふ方が適當かと思ふ。主旨は優秀なるものをとの考へを一貫させた。
 此等のなかでは前田夕暮君の「冬青の葉」が一番私に強く響いた。曲のない、噛み締むれば味の出る詠みぶりが、誠になつかしかつた。尾上柴舟氏のにも同じくさういふ感じを覺えた。尾山篤二郎君については項を別にして記しておいた。
 初めは地方雜誌にまで克明に眼を通して、點だけはみな附けてあるのだが、頁の都合から割愛した。來號は更らにもつと面目を更めて此欄を作り度い。私一人でなしに、誰かに加勢を頼みたいとも思つてゐる。
 然し、見渡したところ、何といふ歌の寂びれかただらう。惰力と因習とによつて空しく羅列せられたあやしきものを通覽することに今更めいた驚きを感ぜずにはゐられない。
 一度高い崖から轉がり落ちた氣にでもなつて、めい/\にもう少し強く驚いて見ようではないか。
 さういふことから、本誌「創作」などをば端から端まで丁寧に、寧ろ辛辣に見ていただきたいものと思ふ。わるい所があつたら、どし/\突き込んで頂き度い。
 詩歌
(23)  朝鮮にて(土岐哀歌)
わが顔のまことに黄ろく痩たるが朝鮮に來てさらに悲しも
韮と垢とたばこと酒とのごつちやになれるそのにほひにも馴れつつあるかも
  夏草の朝(田村飛鳥)
唇をかみものおもふわが前に夏草の花ひからびて咲く
  淋しき血管(山田邦子)
暗き家淋しき母を持てる兒がかぶりし青き夏帽子はも
ちり多きこの六月の夕ぐれのものの明りの迫る悲しさ
兒の肉につと齒あつれば全身の愛ぞめさむれけものの如く
  赤潮と岬の空(寺井義)
夕潮はわが血の色に似て赤しなみだかきたれ海にむかへる
太陽をつつみて空ぞ赤かりき血のごとき心ゆきかへりする
思ひ屈し風青き野の堤防の上にきたりて日の光嗅ぐ
  初夏の鬱憂(村田光烈)
夏來る我の酒屋をいづるとき樹々あを/\と限にうつるなれ
  青き夜空(佐々木順)
いねずして血ぞ走りたるわが眸に薔薇輝けり薔薇輝けり
わが部屋の赤き薔薇を見てゐしがそのまま君は歸り行きけり
くろずめる夜の青葉に雨そそぐわれら無言に見てありしかな
  處女の素肌(小谷清子)
(24)君おはさば許さるまじきうたたねをひそにしてみつ心うれしき
  樫の木(都會詩人)
光なき君が黒髪うちすてて行くも悲しく行かぬも悲し
事みなは道にすてたる食ひさしの蜜柑の皮とばかりあぢきなく
  うしろ影(瀧澤謙)
母よりも父に親しむ子の心思ひやりつつその寢顔見る
  燃ゆるかなしみ(米田雄郎)
空とほく青みわたりてしんしんと夜はふけにけり街をわれ行く
不孝なるわれの涙もにじみたり机にかけしロシヤ更紗に
  路傍の石(佐藤嘲花)
路ばたの石にまろびし幼兒のまろびしままに泣けるをぞ見る
今日もまた雨かや吾兒がかき鳴らすちさき太鼓の音のかろさよ
  五月の薔薇(金子不泣)
五月わが眸はなみだに濡れにけりか黒きつちに咲ける薔薇よ
たまゆらのをののきふとも身を襲ひ手にせる薔薇を地におとしけり
  青葉の壓迫(小野深雪)
橋の上にながめてあればいつしかにこころ流れて君をしぞ思ふ
  喜悦の惱み(奥村博)
たましひは君が頸をいだきしめくちつけしまま瞼ひらかず
  黒き草の實(狹山信乃)
(25)六月の空の濁りよ悔おほき手が植ゐしこの夏ぐさの花
うすじめる土の匂ひをなつかしみ秋さく花の種子まきにけり
君が愛に掩はれてゐるこの心瞳ひらかぬさびしき心
  冬青の葉(前田夕暮)
我が父を眼病院にともなひぬ冬青の葉のなかの白き病室
冬青の葉がべつたり濡れて病室の窓の硝子を青く塗れるも
硝子越し冬青の青葉の濡れたるがわれの心に触るる心地す
冬青の葉のぬれしがうすら光るなりましろき室にたそがれぞ來る
車前草
  霧に浮ぶ灯(石井直三郎)
この三日雨の續けば足裏の黒くなるにも心ひかるる
  このさつき(井淵はな子)
わがままもこのかたくなもいつの間に心のおくにしみつきにけむ
  ぺんぺん草(永山みつ子)
こころよき疲れおぼえて圖書室をいでくるころの小さなる月
  ねむれる貝(山田葉月)
瞳をとぢてあればわが身の見にくさの根はりて立てる天地の見ゆ
君をおもふわが足音のせめてだに強くひびかばうれしかるべき
  草いちご(森園天涙)
梭の音まつたく絶えて機場の灯くらきに雨のひとしきり降る
(26)かかる時腹のそこより湧くわらひ聲ともならばさびしからまし
寸ばかり障子の紙のやぶれより搖るる竹見ゆ日光も見ゆ
  絃の餘韻(逸見義亮)
戀をする心に細き光さし歩みょる夏の音のゆかしさ
  憎み(尾上柴舟)
呆としてありとて何か憎むべき思ふにさへも倦みけるものを
喜もなく悲しみもあらぬ日の空しきなかに一日ゐてまし
弱き音通ふかぎりはつづくべきわが喜劇こそ幕なかりけれ
アララギ
  草の平地(島木赤彦)
誰れかに行きたくなりぬま寂しき草のみどりに身は冷えぬれば
工場の笛折からあはれに聞え來れ雨ふりにふる晝萠黄原
鐵瓶の下しら/\と燃えぬればあはれなる晝の雨はふるなり
  雪の野(松島梧風)
ここはしも山の冷氣のいりきたるさびしき夜半の部屋にぞなりける
  一歩一歩(清水謙一郎)
大海の端に吾立ちゐるなりと思ひうれしく腕さすりつつ
靜まりし濱をうしろにまた煙立てて出行く船ほ悲しも
ふと一羽まひ立ちたれば群烏地をややはなれ羽動かしぬ
  今宵も倦みて(山田駒鳥)
(27)二日三日黙てゐしがさびしげに妻に言葉をつかひて見たり
沈黙に堪へ居る妻をいとはしくあはれになりて今は負けにけり
  勿忘ぐさ(守屋其翠)
川の瀬おとにゆれゆるるなる青木立わがかなしみをあつめてあをめる
  赤楝蛇(並樹秋人)
わが女は汝をおそれて逃げさりぬとりのこされしわれと赤楝蛇
  野路の馬車(金原よしを)
さわがしき群れに離れて夕ぐれの野道の馬車に一人乘りつも
夕月に向ひてさへも捨てられしひとの如くに涙ぐむかな
  鹿教の湯にて(小蟹女)
病みてあれば只ひたぶるに病守るこの安けさよ悲しかりけり
たんぽぽは穗となりにけり春ゆく日しみ/”\おのが身を思ひみる
  無題(斎藤茂吉)
この心葬り果てんと秀の光る錐を疊にさしにけるかも
わらじ虫たたみのうへに出で來しに煙草のけむりかけて我居り
劇と詩
  君がこころ(天野謙二郎)
おろかなるわれをあざける人のなかに君をみいでつかなしみのはてに
ひるのまを君を戀ふるにやつれたるわれなれどなほ夜もいねられず
  蔓草の歌(中川一政)
(28)あはれみてひと夜をわれと寢たりけるきみとあふげば涙ながるる
蔓草のおのがむきむき大木をよじのぼるにもひとしかりけり
かがやかにわれの柩はつくらましこの世をいでてあすはゆくべく
  同(高鹽背山)
それもただつかのまなりきあざやかに伸びし若葉を見入れる心
いかんともしがたく魂の行く方へ背きつつ我悲しうも生く
  同(小柳江村)
雪もいま雨にかはるかほんのりと足のぬくみて寐におちむとす
  同(佐藤謹子)
静なりいと静なり海面を見れば悲しく心しぼめり
空青く小鳥飛ばぬを見てあればふと甘えたき心地する日よ
      新刊歌集
  昨日まで 吉井 勇
 吉井君の歌はいよ/\練れてきた。そして以前捕鯨船時代の元氣に代ふるにいかにも苦勞人らしい錆びを帶びてきた。中に含まれた味ひには昔と變りがない。
  いと微かにおとづれきたる夏の呼吸われにかかりて惱ましきかな
  蝋燭は月草のごと燃えにけり五月の夜のわかうどの窓
  夏鼬鳥をうかがふ夜はふけぬ誰が子ぞわれの門をたたくは
  秋のかぜ馬樂ふたたび狂へりといふ噂などつたへくるかな
(29)  老ぼれし新内ながし過ぎゆきぬ避暑地の街の秋のゆふぐれ
  雪ふればあはれ小せんが脊髓のいたみいかにと思はるるかな
  廣重の海のいろよりややうすしわがこのごろのかなしみのいろ
  われひとり君思ふべき岩蔭に誰が子ぞこよひ尺八を吹く
  夏くれば君がひとみに解きがたき謎のやうなる光さへ見ゆ
  珈琲の香にむせびつつものがたるわが戀がたり聽く人もなし
  夏ゆきぬ目にかなしくも殘れるは君がしめたる麻の葉の帶
  山姥の終らむとせしたまゆらに見かはせし目を誰か知るべき
  新内は秋のこころを歌へりとよろこびし子を訪れてまし
  秋きぬとうらはかなげにいふ女やがて骨牌をとりだす女
  皺がれし歌六の聲もかかる夜に君と聽けばか忘れがたかり
  けふよりはまた蝋燭にしたしまむわがなつかしき郊外の家
  つく/”\と昨日のわれをおもふときはや夜明けぬと燭を消すとき
  なにゆゑにかばかり悔をおぼゆらむ弄びたる戀ならなくに
 経りの「二藝人」の章に納められた狂へる馬樂盲ひし紫朝を思ふ數十首の歌などにはそれ/”\に熱もこもつてゐて一首として棄てがたい。「昨日まで」一卷、讀みもてゆけば何かは知らぬもののあはれがおそ夏の夜のうすものめきて身をつつんで來る。君が愛する夏の日も早や逝かむとするとき、久しぶりに親しく君の温容に接したいものと思ふ。
 春かへる日に 松村英一
(30) 誰しも經驗する一生の或る一期、戀愛結婚産兒職業等を殆どかたの如くに遂げ了つた或の時期に際して、ひとは多く他の異つた新しい生活を欲求するやうに傾いてゐる。松村英一氏はその歌集「春かへる日に」の序文のなかに次ぎのやうなことを書いて居る。「一切のあらゆる繋累を斷ち切つて、朝に出でては畑を耕し、夕に入つては燈下に書をひもとくといふやうな靜かな、誘惑の至らぬ所に於て、もう一度自分といふものを振返り、猶、自己の生活そのものを考察して行きたい――私の求めむとする生活はそれなのです。歌集はその都會と田園との生活の間を劃する一線です。二つの生活の境に建てたる私の記念碑です。」
「春かへる日に」の歌にはさうたいした深い味ひはない。呼吸も細いし、かたちも大きいとは云はれない。ただ、右の序文にも見えるやうに眞の自己の生活を求めて止まぬ不斷の努力、じいつと一ところを見詰めて、かりそめには瞳を動かさぬその態度、さうした點からうまれて來る味ひ、らからが俄かに他におかされぬ特色を帶びてゐる。白状すれば、私は他の歌集や雜誌を讀み續けただらけた態度でこの本にもとりかかつた。そして、やや少し讀んで行くうちにいつ知らず心をとられ、終には居ずまひ正して讀み終つたものである。
 惜むらくは、今少し嚴選してほしかつた。水に油が混つたやうに、思ひ切つてあまい歌が其處らに散見する。特に春の朧夜などを歌つたなかにそれが多い。

  一日のわが生活にともなひてかろくも來るさびしきこころ
  われいつか己が心もうち忘れ夕ぐれどきの來るをば待つ
  かうばしき物煮る匂ひ厨にて妻がわらへば亡き子思ほゆ
(31)  初冬の寒き光の身にぞ染む街をしゆけば亡き子思ほゆ
  看護婦の白き服さへ秋に染む日とはなれども子は病みてあり
  限りなき旅にゆくごとわが汽車は笛吹きならし東京を出づ
  物一つ賣らぬ小き驛に來てほと息つかる倦みし心地に
  ひた/\と我が後より車して來たる人あり雨の夜の街
  酒苦く口に染みゆくそれすらも淋しくなりて夕暮の來る
  いささかのことにいらだつ心さへさびしくなりて秋に入るかな
  鳥の聲しづかに耳にかへりきぬその日よりして秋のなつかし
  ひとり病みて我が生活より遠ざかるこの二三日の秋の靜けさ
  故わかぬ涙つときて眼ににじむこの夕ぐれを風いたく吹く
  よく眠ることをねがひて眼つぶれど眠られがたくなりし夜かな
  我を擧げて念ずる心生れ來ぬさびしき朝のその眼覺めより
  幾たびかわが心碎かれまた碎かれつ物を思へば安らけくなりぬ
  われを鞭つ何の笞ぞかなしくも我を鞭つ強かれとまたも打ちつ
  憎み心の苦さあま苦さわれほ耐ふまじ愛せよとこそ心を抱く
  口にして吹きこころむれば笛の鳴りぬあはれなる音に我をとらへて
  事なげに笑へる女白き齒は美しく冷くもわが心をぞ引くなやみたる夜
  そともらす苦笑ぞわがために可愛ゆしもの言はぬ日の小き苦笑ぞ
  只一つの齒くさり殘れるの一つの齒うづきつつわれを惱ます
 行雲篇第一集 中川一政
(32) 中川君の近頃の氣焔は全く天馬空を翔るの慨がある。天上天下唯我獨尊、われらはただ茫然として仰望、杳かにその威風に驚嘆の眼を細うして居るのみである。而してその作歌を見る、氣焔には充分威赫されてゐるし、手法に一寸巧みなところはあるし、いかにも佳いものであらねばならぬと思はるゝのだが、どうも腑に落ちて佳いものだと飲み込み得るちからがない。凡俗の身の悲哀である。行雲篇にしたところが矢張りさうで、我等はまごつきながらに空しく一篇を讀過した次第であつた。行雲流水去つて歸らず、せめて我等も此半分位ゐでも大悟徹底したいものである。
  わがつらに君がつばきしゆけりともきみをにくまむこころはなきに
  いそのうみのつめたき底の月夜蟹わがかげを見ておとろへにけり
  身はつねに暮るるにちかきここちにていまはをまちてあるここちにて
  うつくしくうまれてかへる日のあらばちたびやちたび身もくだかまし
  しろたへのころもにきよき身をつつみ死ぬる日いまはあらずなりけり
 水仙咲く日 杉野照子
 やさしい歌である。ただあまりに數多く、氣の無い歌までごつちやに集められたまま、一卷としての影をよほど稀薄にして居る。
  あたたかき春の日のもと水仙の花美しく咲き出でにけり
  そことなく春のけはひのせまり來て水仙の花咲き出でにけり
  疑は親にまでさへのびてゆく悲しきはわが荒みしこころ
  唇をかみてこの子は今日もまた人知れずこそ嘆き居るなれ
(33)  いと清く細くおのれの一念のもえてゆらげるこの頃の秋
  やるせなき心おさへてぢつと見る空はくもりて薄光りせり
  飾りなき机の上に手をくみて夕べうするる空をながむる
 渚より 藤元夕水
 新しさと鋭どさのあるのはいゝ。ただ氣取つたそれらであつて欲しくない。小さくすます小さく氣取ることは性分として私の甚だ好まぬところである。著者は福井市のまだうら若い青年であるときく。北國のその近所の人々によつて、他の個所で一寸見ることの出來ぬ明るさ、強さ、鋭さを含む詩歌を相續いて見ることを得たのを何よりも嬉しく思ふ。尾山篤二郎君がさうである。室生犀星君がさうである。藤元君の作にもまだ極めて小さいながらに同じ特色を見るのをたのもしく思つてゐる。願はくばその種の畸形となること勿れだ。
  初蝉のしみ/”\きこゆ海岸に朝の牛乳こころよきかな
  渚より夏の大空をながめやる心の病める、耐へがたき、耐へがたき
  いらいらと心にごりて血ばしれるわが眼すぎゆく秋の雲かな
  ひとすぢの悲しみをもてしみ/”\と心をえぐるここちすれども
  けふもまた一日あびてくらしけるかなしき心さびしき心
  冬の夜のあたりしづかにわがとれる酒の匂ひのうらさびしけれ
 はがぐら 中塚直三
 これは歌集ではない。
 この一卷に對しては批評的言辭を今しばらくつつしみたいと思ふ。ただ甚しく愛讀してゐるこ(34)とのみを記し、左にそれら數句を引用しておく。本書に對する批評は「人生と表現」七月號に可なり詳しく出てゐる。然し私はああまで抽象的に解剖的にのみ立脚して詩歌一般を見たくないのである。
  菓子屑に似て女工等や春日照る
  春の宵やわびしきものに人體圖
  灰の中に生きとる虫や春日影
  街行くに誤診の耻やとぶ燕
  ずか/\と田に入りて蛙釣る兒等よ
  窓の藤煌くや特に妻居ぬ日
  兒の死顔端正と見つ藤の花
  葉柳のこの夕や兒と疎み居る
  風吹いてこの夜暑きの色狂ひ
  額廣うなりゆかむ思ひ夏籠りぬ
  驚きの過ぎしに汲むや家清水
  我死ぬ家柿の木ありて花野見ゆ
  兒の心ひたぶるに鷄頭を怖づ
  秋風や發病の日に似て凪げる
  赤兒見て出づ門や赫つと秋晴れて
  鍵の錆手につく佗びし晝千鳥
  灰を拂ふ心に去る地なく千鳥
(35) 三人の處女 山村暮鳥
 馬鈴薯の花 柿の村人・中村憲吉合著
 右二册とも裝幀に於て遺憾なき出來榮である。時日の都合上、細評を次號にゆづる。

       尾山篤二郎君の近業

 最近一二ケ月間の歌壇に於て特に異色を放ちつつあるは尾山篤二郎君である。言は聊か私情に渉るかも知れぬが、私は前から朝夕相逢ふ交友のうち、特に尾山君に敬畏の心を持つてゐた。その人格といひ、才能といひ、事あるごとに日を經るごとに、いよよなつかしくもわが胸に沁まぬはなかつた。ただ同君の性質に甚だ不用意な、時にのぞんで即ち發し過ぎる弊があつた。その揮發性の甚だしいところから、前かた發表してゐた作物にはその片光を宿しながらも徒らに空疎な、から元氣な、亂暴なものが多かつた。尾山びいきの人にすら、心からうなづかせることのなかつたのは全く茲から出たものであつた。ところが、昨年來郷里の金澤に歸つてわづらはしい友の群や境遇から離れて、冬かけては雪に閉ぢこめられ、やがては永い病氣にまで罹つた結果か、おのづと彼の思索にその創作に今までに見ぬおちつきを添ふることを得たのであつたらしい。このごろ見る彼の作には、前かたの弊であつた凡そで物をいふ所など、よほど失くなつて來た。それだけ作の重みを増してきた。今少しといふ憾みがないではないが、在る所に漸くものを置いたやうな安心とよろこびを我等の一群はひとしく感じてゐるのである。すつかり解り切つたやうな風をしてゐる同君は、その實大に迷ひ大に惑うて居る人である。今後の彼になほ一層の囑目を拂ひ度いも(36)のである。
 次ぎに七月の早稻田文學と詩歌とから同君の作を引いてみる。特に前者所載のものなどは一篇悉く連作風に出來てゐるので、一首々々引き出すなどは無理な話であるのだが、多少の紹介にもなれば幸ひである。

  踊り狂ひよろこばしげにおちきたる雪に心をぢつと壓さるる
  雪見れば心おそるる、眼をあげて、空のとほきに注ぐかなしみ
  一杯の酒もなし、物狂ほしき心を手もておさへつ、降る雪を見る
  仰げば心怖る、眼を落せばなほ悲しまる、あまりに雪の光れば
  魂を休むるにあまり冷し、眼を射て雪のとほく光れる
  杖もて突けば極めて堅し、朝の雪、空あを/\と地に影をさす
  彼方にわづか空あをし、あはれ、さいつ日見しままのいろ
  とはばやな、手をあげて何處知らなく、雪の舞踊にあはせ、はろ/”\
  福祉を得よ、福祉を得よ、あはれ雪のみぞ生きに踊れり
  下より見る雪のスロープ、月させば木の彫あはし、われわが影に見入る
  斷崖の上の雪、こけて身を堅く伏す、怖しきこと多き日なるかな
                         以上 雪の舞踊より
  水の滴る音をきけば、われいつか水となり、岩の間に生命を注ぐ
  崖の上に坐れば風は嬉しげにわれを廻り草はみな手を打てり、若しわれ崖をとばば彼等欣びに狂ひ死なむか
(37)  われ孤獨に疲れ全き力をこめて笑へり、皺嗄れし笑ひよ、瀕死の者のみが知る空しくして滿てる笑!
           以上 斷篇十五章より  (大正二年)

 行人獨語

 創作牡の人々の歌には、一向に欲望もなく煩悶もない。
 在るがまゝに安んじきつて、安易に巧者に歌といふものを作爲しながら、自ら樂しんで居るかたちである。何といふ生氣のない圖であらう。
 創作社の人々の歌には、概して若隱居臭味が瀰汎してゐる。何事にも早や解り切つた樣な、寸毫も不滿不安の無い悟りすました長閑な顔の行列の甚だ羨望に値すべきものがある。

 和田山蘭君の歌は、陶器の彩色畫のやうである。また、素燒をおもふ。

 小川水明君のは、ガラス細工の宮殿をおもふ。透明にして清冷無比。而してそばで見てゐて危《あぶな》つかしくてたまらない。また曰く、危篤患者に附添つてゐる氣持もする。

 小柳江村君のは、旦那藝の手品つかひをおもふ。

(38) 越前翠村君のは月夜の蟹。(註曰、月あるころ河海の蟹おほむね肉少し。)

 何かむつかしい事を云つて硬くなりきつてゐる人たちにくらぶれば、然し、山蘭君のなどは一種のいゝ皮肉である。

 加藤東籬君の作には、他の人々に比してたしかに一縷暗い煩悶の彫が沈んでゐる。けれど、その背後には例の黄《きいろ》いあきらめがペンキ繪の如くにくつ着いてゐる。

 松岡朝次郎君を加藤君に次いで聯想せざるを得ない。無氣力と相隣れる一種のあきらめ、をさまりがいかばかり彼の作品に薄ぎたない花を咲かしてゐることだらう。よく物の解つた人だけに、それが尚ほいたましい。

 おなじ聰明にも、ガラスの板もあれば水晶の珠もある。僅かに自ら求め得た或る一境に尾鰭をさめて悠々安住の夢を貪らうとする一群の遠影が眼に見えてならない。

 或るあきらめに到り得るまでには、既に幾多の努力が拂はれたに相違ないことに對して我等は尊敬と同感とを持つ。
(39) 而かも我等はその一境からいま一歩新しい歩みを踏み出さならぬものと感じてゐるのだ。稚氣、衒氣の除かれた眞虚の境地に入つて、其處から、他にけがされてゐぬ新鮮清淨の自己といふものを改めて生み出さねばならぬものを信じてゐる。

 何の自覺もなく、朝夕我等が經驗する日常の出來事、及びそれに關する雜多なる感傷を忠實に歌に收めて、自ら安じ慰めてゐる人々が可なり多い。これは自分の生といふものに就いてまだ普通一般の思想感情以上に出て見てゐないせゐではないかと思ふ。さうとしたならば、その根柢に於ては所謂舊派の歌や俳句と幾らも違つてはゐぬ道理である。この項目ついでに特に名を引くのは多少氣の毒の觀もあるが菊池野菊君一派の歌の平板にして無味淡泊なるは恐らくその源を斯の種の所に發してゐるものと認めて可からう。これは同君のみならず、「創作」に於て最も多數見受くる型であるのだ。此等の作品の極めて皮相に留り、たゞ行きずりの感興に過ぎざるなきはもとよりその筈である。

 指田縫三郎君の作が近來甚しく蕪雜淺薄に陷つたもまた右と病弊を近くしてゐるかと思はるる。彼の作には不斷の不滿があり、不平が溢れてゐる。而かもその歌はれてある所は何れとして行住坐臥の、ホンの眼前の浮世の不平に留つてゐないのはないではないか。それで我等が全生的要求、藝術的要求が滿足されやう筈がない。また、靜かにものを眺めて歌つてゐたこの人の以前の特長が次第に影をひそめて、粗々《あら/\》しい感情が何の選擇洗錬を經ずしてそのまゝお疎末に表はれ(40)てゐるやうになつた。謂はゞ淺墓な自暴的態度で自他を取扱つてゐるかたちである。

 うき世の、眼の前の世相を巧みに歌に消化《こな》す手腕に於て、江波戸白花君は矢張り一個の地歩を占めて居る。面白いと見れば、いかにも面白い。而かも彼の歌に表はるゝ不平皮肉諷刺も此頃では如何やら附燒刃臭くなつて來たのを覺えざるを得ない。さういふことをいふに倦厭を感じながらも一種の隋力でやつてゐるといつた姿ではないだらうか。彼の歌に表はるゝ感情のまことに人間の心の底より浸み出でたものとしたならば、我等は實際可笑しいの面白いのと云つてる騷ぎではなからうと思ふ。一皮剥げば何も無き手品づかひの物の哀れをもろともに覺えたくないものと思ふ。

 もつとお互ひに人間臭くあつてほしい。もつと人間であつてほしい。不盡の執着心を我等みづからの生活の上に置き度い。生きてゐることを確め度い。吹けば飛ぶやうな一生であつてほしくない。

 誰。
 彼。
 みなにもつと不平がならべて見度い。然し、もう疲れて來た。印刷せられて諸君の眼に映るとき、何の苦もなくすらすらと書き流されたものとこれが見ゆるに相違ない。實際はなか/\さうでないのだ。自分に問ひ、自分に答へ、希くぼ誤り無きに庶幾《ちか》からむため、可なり苦心して書い
(41)て居る。自分に當てはめて見て、そして自分にも諸君が持つ缺點の有ることを承知しつゝ、それに向つて言ふ心になつて筆を執つたところもある。諸君と自分との違ふだらうと思はるゝことは自分はどうしてもその缺點に甘んじて居られないといふ、唯だそれだけ位ゐのところであらう。

「創作」の歌には概して浮華な輕薄なところが少い。寧ろ無いといつていゝだらう。その代りまた生氣に富み、※[さんずい+發]溂としたところがない。謂はば榮養不良のすがたである。

 お互ひがいろ/\の新知識に缺けてゐる事もその一因であらう。無自覺で作歌に從事してゐることもまたさうであらう。希くば我等ひとしく新しき生活、新しき藝術に對する知能を啓き心痛むがまでに我等を覺醒せしめたいものである。そして、因習、流行、無自覺のそれらから絶縁したいものではないか。

 今少し眼を内部に注がうではないか。ぼんやりと、或はせか/\と外方《そと》を眺めてゐることをも止さうではないか。もつと深くわれ自らと親しまうではないか。

 純粹に缺けてゐる。眼を瞑つてそれらの作品に觸つて見るとき、どこか斯うかす/\してゐる。がさ/\してゐる。單に何かのうへに置かれてあるものゝ如く、感ぜらるゝ。
 生に皺が寄つてゐるからであらう。張りつめてゐないためであらうと思ふ。いや寧ろ自分とい(42)ふものを頭から知らないためではなからうかと思つたりする。

 幸にして、我等が仲間には彼の色盲的な、淺薄にも自他を茶化して醜い得意を恣《ほしいま》まにして居る一知半解の徒輩がゐない。見てくれ專門の、讀者ばかりを相手にして跳ね廻つてゐる芝居者《しばゐもの》がゐない。

 唯だ、新鮮にして清淨なる血液を溢るゝばかりに我等が上に持たうではないか。願ふところは、たゞ、たゞ、それのみである。
   このあと、「短唱に就て」の一章ありたれど、來號に廻りたり。從つて、本號に短唱を休掲せる理由をも述べ得ざりしことゝなれり。たゞ短唱募集に意を注げること、寧ろ舊に増すものあるを知り給へ。本號の編輯校正はおほかた病床に於てなせり。尚ほ目下或る小著述に着手中にて、匆忙目もあてられず、無沙汰其他暫く寛恕を乞ふ。(大正二年)

 「佇みて」を讀む

 土岐哀果君は勤めてゐる新聞社の用務を帶びてさきに滿洲朝鮮に遊んだ。その旅中の作二百首を輯めてこの一册を成したのである。この「佇みて」に於て土岐君は彼獨特の調子を益々強く發揮し、いまは一種の凄味をさへ帶びて來た觀がある。讀んで行くうちに、知らず/\或る調子の(43)なかに引入れられてしまふ。世間の一部では、土岐君の歌はあまりにぞんざいだと言はれてるやうであるが、私はそれと正反對の見を持つてゐる。實によく洗練せられ、琢磨せられたあとの作物であるのだ。一句もかりそめにせず、物の言ひぶりにも實に目に見えぬ用意が拂はれてゐると思ふ。だから、讀んでいかにも快い印象を不知不識のうちに受けてくる。目の速いこと、配合の要を得てゐること、その場の呼吸をよく歌の上に移すこと、物を纏めるに敏捷な事、刻々の自分の生活を常に温い興味を持つて送迎してゐることなど、みな彼の特色に數へることが出來る。私は總體の土岐君の傾向には同感し兼ぬるが、彼獨特の優れた特色、才能に對しては常に深い尊敬を捧げてゐるのである。よくやる私の屁理窟を一切拔きにして、次に「佇みて」一卷から私の眼についた歌を引いて見る。

    唾を吐けば、
     五月のまひる、
    日本の草木はみどりにかがやけるかも。

    たそがれの、
    さびしき心の前に來て、
    ボーイは寢臺をつくりにかゝる。

    浴室のきふじの靴は、びしよびしよに
(44)    濡れて、五月の
     夜となれりけり。

    や、や、−
    朝鮮服が立つてをり、白くぼんやりと、
     朝のみなとに。

    朝鮮へ來しには來しが、
     いまだ、わが
    心は遠く遊ばずあるかも。

    朝鮮の、五月のひるの
     ポプラの青葉、
    そよりともせず、鷄あそべり。

    やうやう食慾のつき、
    卓上の
     あかき葵の花びらを嗅ぐ。

    あけがたの、
(45)     よぼの畠の青麥に
    ほほじろが啼けり、おれも泣こかな。

    大豆、大豆、大豆は黄ろく、
     よぼよ、よぼよ、
    たうがらし、たうがらし、たうがらしは赤し。

    桃の花、
    秋風嶺驛の柵のほとりに赤かりし
     年後三時かな。

    わが顔のまことに黄ろく
     痩せたるが
    朝鮮に來て、さらにいとしも。

    ぎやつ、ぎやつ、――
     この鵲のこゑの、さびしさに、
     五月のあさの、眠たかりけり。

    よぼよぼと、そつと、
(46)    聲をかくれば、ふりむけり、
     南大門の、たそがれの顔。

    唾を吐き、唾を吐きつつ、
    このみやこの
     貧しき屋を通るなりけり。

    朝鮮のやくしやの顔の、ながぼそく、
    青く、ふやけて、いつか、わが
     かなしみとなる。

 以上は二百十頁ある一卷の五十五頁までの中から拔いた。まだいゝ歌と思ふもの、變つた歌と見ゆるものがあるが、何しろ一首三行でもあるし、さう澤山引く譯にゆかぬ。土岐君の歌によつて或一面の時勢相が窺はれるやうなのを見落してはならぬ。すべてのものを一種の興味化し、美化し――臭いものにふたをして行くといつたところも目につく。それが歌としてのよしあしは、私には解らない。(大正三年)

(47) 「赤光」に就いて

 齋藤茂吉君の「赤光」を讀讃んでその讀後感を可なり詳しく書いてみたのであつた。そこへ同君の「さすらひを讀みて」といふ一文が屆いたので、それを讀んでみたところ、前に私の書いた「赤光」評を發表するのがバカ臭くなつたから、やめることにした。
 ついでだから齋藤君に一言しておく。君の牧水嫌ひも執念深いもので、「アララギ」誌上殆ど二年越しずゐぶん聞きづらいいやみやら罵倒やらが續いて來たやうである。今度の「さすらひ」評も見やうによつては折からの「さすらひ」をだしにして私に對するあてこすりを書かれたものだともとられる。歌といふものにたいへんな知識確信及び忠實を持つて居られる君から色々言つていたゞくことは誠にありがたいことゝも思ふ。然し、君のおつしやることは大體に於て私にも夙うに解つてゐたことのみのやうに思はれる。若し私の希望が許さるゝならば、暫くこのまゝ私を私の自由に任しておいてほしいことであるのだ。私はいま(私のいまといふのは刻々に續いてゐるので、殆どこのまゝ涯なくして終るかも知れぬが)非常に迷つて居る。非常に迷つてゐると同時に、はつきりと眼にも見えず言ふことも出來ないが、とり除くことの出來ぬ信念を持つてゐる。其の處まで行つて見たくてたまらない。溪や溝におちこんでそのまゝ歩いて行く私からは斷えず雫が落ちてゐる。(君はその雫のみを見て常に私に喰つてかゝつてゐらつしやる、だから私は今までたゞ黙つて君のおしやべりを聞流してゐた)もと/\貪弱の身であるがため、行くところま48)で行き得ないで仆れるかも知れぬ。それはとにかく、成るべくは途中事少くしてずん/\行ける所まで行つて見度いのである。若しまた君がその私を見逃すに耐へかね、和歌忠勤軍か何かの大御旗を押し立てゝ私を叩きつぶさうとなさるのなら、それは君の隨意である。要するに個人同志の君と私とは全然別物であるので、おつしやる君の方でも言ひばえがあるまいが、聞かきれてゐる私の方でもくだらぬ煩鎖である。だから、わがまゝではあるが、この機に際して右の希望を提出した。
 斯んなことをいふと、失敬な奴だとお憤りにならぬとも限らぬ。私に關して書かれた君のものの眼に觸れる時々私もそんなことを感ぜぬでもなかつた。それもこれで帳消しになるわけだ。(大正二年)

 大會前記

□出席申込、及び茶話會席上で披露する兼題短歌投稿の〆切をば三月二十日とする。地方誌友はその申込と同時に五日間の全會費拾圓を振替で創作社宛振込まれたい。(若し何か事情があつたならば、その日までには申込だけで會費は着京の時に持込まれてもいゝが、成るべくはさうして頂きたい、各會場の手附金などに入用であるからである。)東京誌友は茶話會、觀劇、宴會、送別會等それぞれの部門を明記して矢張り同じく三月二十日までに申込まれたい。會費も右同樣前納を悦ぶ。各部門の會費を左に掲げておく。
   茶話會 參拾圓   觀劇會  壹圓
(49)   宴會 貳圓   送別會   未定
 強ち前納に限るといふではないが、茶話會はいゝとして宴會觀劇會等は申込と同時にその準備を整へるので萬一違約でもされた時は大に困るのだ、その責任を分つて貰へれば、前納には及びませぬ。
□十圓會費の内譯は、宿泊、宴會、觀劇、茶話會、送別會、電車賃、及び外出さきでの晝食夕食料から博覧會や活動寫眞等の入場料までも計入されてあるのである。博覽會時といふので普通であつたら宿屋でも一泊二三圓はきまりであろう。それを右の有樣で行かうといふのが發企人側の苦心の存する所である、驚くべき勉強といつていゝであらう。それで決して見すぼらしくなく行ひ得るつもりでゐる。宿屋は一軒借切りの約を結んであるが、これは場合では六疊に三四人づつやすんで貰ふやうなことにならぬとも限らぬ、前以てお斷りしておく。會期中は僕等も多く宿屋に泊り込むだらうから嘸ぞ混雜するだらうが、我慢してほしい。
□東京府下、千葉縣埼玉縣等の近くからは、右の十圓組でなく、五日中の一日か二日かを出席せらるるも自由であらうと思ふ。市内の人々のため、またそれ等近縣の人々のために特に廿八、廿九兩日を中に挿んだ意味もあるのだ、その兩日は土曜と日曜である。私はまた此頃多くの人に逢ふのを避けてゐたゝめ、名のみは熟知してゐる市内の誌友諸君の誰にも殆ど逢つてゐない、この機會に際して大いにお目にかゝりたいと思ふ。抂げても出席してほしい。
□各停車場に出迎へするやうに前々號かで云つておいたが、餘り仰々しいからそれは取消した。新橋着の人は驛から二三丁だから櫻田本郷町まで歩いて、其處から巣鴨行電車に乘り、春日町で(50)大塚行に乘換へ、大塚町停留所で降りれば創作社も宿屋も直ぐだ。上野に着いた人は、先づ上野廣庶小路まで二三丁歩いて大塚ゆきに乗れば乘換無しで右の大塚停留所に來る。新宿へ着く人は新宿驛から山の手線の電車(市内電車でなく)に乘換へ大塚驛停車場で降り、約五六丁歩くと創作社である。第一荷物などは成る可く持たずに身輕のことだ。若しまたもつとくはしく電車の案内などを知らうとする人は我等が定宿たるべき大塚仲町廿八番地芳靜館へ宛て請求せらるれば屹度送ってあげるだらうと思ふ。各停車場からの案内記を印刷するやうに云つてゐたから。(人力車は何處からでも先づ五六十錢とるだらうと思ふ。)
□創作社々々々と云つて一體どんな所だらうなどと思つて來て貰つては困る、座布團もなければ茶道具もない所に我等はいま栖息してゐるのであるから、その場に臨んで餘り驚かれないやうに斷つておく。
□茶話會席上披露の歌をば皆して互選するのである。だから當日出席者にのみ出詠の資格があるのだ。二十日まで送附といふのは前以て清書の要があるからである。其日は初對面の人が多く、北國南國と、言葉なども種々であらうし、その身分年齢も區々であらう。職業等をも各自名乘をあげるときに披露したいものだ。お互ひに寄せ書などをもやるが、來賓諸君に染筆をお願ひするのも或程度までは宜からうと思ふ。その用意として短册色紙扇子等を携帶するもいゝであらう。
□トルストイの「復活」が藝術座の諸氏によつて帝劇で上演されることは、折も折、我等にとつて實に僥倖であつた。新しい芝居の粹中の粹を僅かな會期間に於て偶然觀得ることゝなつたのである。彼の可憐なる一少女カチユウシヤは無論松井須磨子孃によつて演ぜらるゝことと信ずる。(51)また劇場も地方の人にとつては一顧の價値があるといつて宜しい。成る可く大勢で惣見のやうにしたいと思ふから市内の諸君の同行をも大いに希望するのである。
□講演會は公開するのである故、その際また改めて各新聞の文藝消息欄にその會場演題などを發表するであらうが、樗牛會や早稻田文學社の講演會などから推して、大いに盛大であるべく豫期せられる。
□二十九日夜の懇親宴會は自然今度の會合の中心となるべきものであらう。一切無禮講で、大いに快飲快談を遂げたいものである。藝者などは成るべくかんたんにして、先づ大いに食ひ大いに飲むといふ方針をとりたい。各自各國よりお土産のかくし藝などの甚だ豐富ならむことを祈つて居る。和田君郡山君岩淵君などは、その日の話さへ出れば今から血の氣を滿面に溢らせて力んでゐるので、當日になつたらどんなだらうと内々怖れを抱いてゐる次第である。牧水衰へたりと雖もそれまでには大いに鋭氣を恢復しておいて敢て人後に落ちざらんことを期してゐる。また、意外な邊から畏るべき猛者が現れて暴威を振ふことなどあるであらう。信州山中から出て來る小河原素山老、瀬戸内海の一島なる郵便局長三浦敏夫君など先づその一人であらう。
□市内見物はその場所によつて晝と夜とを選んである。九段二重橋日比谷増上寺等は晝、銀座淺草吉原等は夜間。博覽會のことについては私が彼是いふより近來毎日の紙面に表はれてゐる新聞記事に由らるゝ方が宜いであらう。美術館は秋の文展を見得ない人にとつて誠に幸である。
□記録係を置き會の全體を通じての記事を作るのみならず、各出席者の感想文等を輯め、一二面の寫眞版など挿入し、來る五月發行の木誌を二倍位ゐに擴大して大會記念號を作る。ほんとに、(52)この會合をして一生のうち最も紀念すべき出來事の一つに數へたいものである。私などはこの會が終つたら屹度暫くは寢込む位ゐのことになるであらうと思つてゐる。然しその位ゐ氣を揉んでゐながら常に樂しみが先に立つてゐる。
□伊勢の野垣内白草君からは、私のやうな無名なものでも出席して差支へないかと訊き合せて來た。無論、無名も有名もあるものではない、我等はたゞ我等が心で相許した連中だけ集つて一緒に數日を過さうといふのである。政治家か宗教家の言草めくが、此頃のやうに皆の心が萎微してゐる時に當つては、眞實斯うした會含も有意味であると信じられてならない。人生意氣に感ずなどといふと言草は舊いが、意味は深い。また、田舍で知らず/\の内に小さくなつてくすぼつてゐるやうな人々は、斯んな機會に際して心氣を一轉させるもいゝであらう。昨今切りに一般の牡會でも動搖が起つてゐるやうである、文藝や宗教の上などから我等各自の生命にも等しく改革の迫つてゐる時期のやうに見ゆる。眞に新しい自己となることをお互ひに急がうではないか。自然斯うした談話にも觸れて行くことゝ思ふので從來行はれた單なるお祭騷ぎでは決して無いのだ。
□春に一囘開催し、夏にも一度同じやうな會合を開くかも知れぬといふことを書いておいたが、あれをば取消す。今囘の囘合を行ふほかに少くとも本年内には斯の種のものをば行はないことにきめた。だから、夏に出席するつもりでゐた人々は何とか都合して今度出て來てほしいものである。入學などの都合から四月になつて上京などといふ人もあるであらうが少しの事だから急いでほしいと思ふ。(大正三年)

(53) 誌友大會始終記

 大正三年三月廿五日拂曉、未だ閉せる創作社の門戸を叩く者あり。出でて迎ふれば信州東筑摩郡坂北村の人小河原素山君なり。昨日諏訪を發し中央東線夜行列車によりて上京せるなりと。蓋し君を以て本會最初の出席者となす。
 同三月廿七日午前九時、打揃ひたる巨大漢四人、折からの雨をついて創作社に來る。同じく信州北安曇郡松川村の人榛莫胡鬼子、高田枯月、同郡烏川村の人青柳殘雨、望月正生の四君なり。程なく漆髪白面の一青年野垣内白草君來る、遠く伊勢國一志郡川合村より走れるなり。次いで下野國喜連川町より高鹽背山、同綾雄、齋藤春光の三君來る。岩淵要、石山龍二、茅野昌栖、山浦貫一君來り、山蘭君は昨日青森縣より上京せりとて令弟和田霊光君を携へて來る。
 取り敢へず當夜直ちに右一同晩餐會を開く。同席上遲れ走せに馳けつけたる人々に太田水穗、茨木猶之吉、吉田常夏、尾山篤二郎、田里維昌、越前翠村(以上東京)及び信州鹽尻より佐藤辰雄、同松本市より中村柊花、同小諸町より宮坂常子、駿河靜岡市より來れる法月俊郎の諸君ありて之に加はり、我が誌友大會の意氣乃ち先づ今夜を以て發す。

 三月廿八日、快晴。年前七時盛岡市より菊池野菊君來る。同九時より午後四時半まで牛込區西五軒町清風亭に於て茶話會を開く。初對面の人々多かるべきを豫期し、午前を以て專ら懇談挨拶(54)の時とし、正午より開會す。會者堂に溢れ、障子を徹して縁側に及ぶ。此日の來賓諸氏左の如し。
    土岐哀果   内藤※[金+辰]策
    尾山篤二郎  金子薫園
    古泉千樫   齋藤茂吉
    服部嘉香     (以上來會順)
 出席者左の如し(四十三名の氏名略す)
 牧水の開會の辭、服部内藤兩氏の講話あり、兼題和歌互選並びに披露あり、寄せ書きあり、色紙短册其他の揮毫あり、寫眞撮影等ありて茶話會を閉づ。時正に午後四時三十分。
 會場を出でたる者の中、菊池、中村、佐藤、榛葉、高田、青柳、宮坂、野垣内、神戸、烏谷部、濱、源、茨木、太田、茅野、岩淵、石山、山浦、小河原、南、同令妹、高鹽、高鹽令弟、齋藤、萩原、法月、和田、原田、越前及び牧水の三十名、及び小泉平十郎氏、郡山幸男君、逸見義亮君、望月正生君、世良田優子孃、若山喜志子の六名は共に丸の内帝國劇場に赴き、藝術座諸氏が所謂「復活」と「嘲笑」とを見る。會衆各自の情緒漸く濃かに相寄り相纒れつつ同じ調子に同じ方向に次第に昂り來るを見る。

 三月廿九日、快晴。午前中地方より出席したる諸君と共に九段神田お茶の水附近を散歩し、正午神田區錦町女子音樂學校内に於て開かれたる講演會に赴く。
(55) 我が社のために此日特に出席講演せられたる人々及び演題は左の如し。
   藝術雜感            島村抱月
   僕の詩             相馬御風
   短歌に於ける主觀の位置     太田水穗
   ロオマン・ロオラン       中澤臨川
 右講演のほか、国民歌劇會技藝員諸氏の並ならぬ厚意により左記數囘の音樂演奏を聽くを得たり。
   マイト オブ ライト(マーチ)
   アスフォーデル   (ワルツ)
   嘲り        (男聲四部)
   うかれ達磨     (合唱、オペラ劇曲)
 講演といひ、音樂と云ひ、一同非常の熱心と感動とを以て謹聽せるさま實にあり/\見渡され、我等發企人一同ひそかに涙を飲んで感謝し、欣喜す。蓋しこの種の會合にして斯くの如く能く緊張し、能く謹嚴なりしは他に多く類を見ざるを感じたればなり。末筆ながら茲に講演者演奏者諸氏、及び當日多く斡旋の勞をとられし深澤白人君に多大の感謝を捧ぐるものなり。
 同日午後六時、右講演會の果つると共に麹町區飯田河岸富士見樓に懇親會を開く。同樓外濠に面せる階上大廣間に相集りたる一同の面上、酒杯未だ出でざるに先だつて既に十分の醉色動ける見る。出席者左の如し。(二十四名の氏名略)
(56) 山蘭、牧水の兩個まづ衆に先立つて醉ひ、面々相次いで醉ひ、舞ひ、歌ひ、歡極る所を知らず。會の果てしはそも何時にてかありけむ。筆者不幸これを知らず。

 三月三十日、微雨。芳靜館組諸君に岩淵石山の兩君及び牧水、先づ創作社を出でて小石川植物園を見る。多く北方の諸國より上京せられし人々多きを以て同園内温室の諸草木最も多くその興味を引きたり。折りしも微雨來りて、園内早春の巨幹細芬風情極めて濃かに、自づとそれに誘はれしにや、一歩一歩ともすれば各自密談私語に赴かむとして、所謂見物の旨を盡さざる觀ありしは同園に對し多少お氣の毒の感無き能はざりし。蓋し昨夜の今朝の心もちまた甚だ淺からざりしに因るなるべきか。
 出でて直ちに不忍池畔なる大正博覽會第二會場に赴く。雨中、人の山なり。一同相逸れざらむとしてカチユーシヤ可愛やを合唱し場内を練る。行く所滿場を壓倒す。場を出づれば正に正午、一旗亭に投じ晝餐を取る。亭前の櫻花既に滿開、善哉を叫んで直ちに向島に走る。今年の花、何ぞ然く春を急ぐや、例年季に先だつ確かに一旬日たらむ。
 さすがに向島はまだ滿開に至らず、加ふるに折からの微雨ありて却つて平日の雜沓を見ず悠々我等の觀を肆まならしめ得たり。小松島附近に至り言問ひに戻り一錢蒸汽に搭じ吾妻橋に上陸淺草公園に入る。既に薄暮、同公園の面目漸く生氣を帶び來らんとするの時なり。餘りに陶然たる諸君の肝を奪はむと欲して先づ木馬館に入り、次いで帝國館の活動寫眞を見る。奈翁一代記といふ長尺物を見終りて同館を出づれば雨漸く烈しく、歩むに難し。雨に伴うて冷氣も加はりたれば(57)とて肉鍋を圍んで相温まるべく議一決、乃ち各自相擁して杯を擧ぐ。雨愈々烈しく、興益々募り、終に銀座見物を犠牲にして更に大いに酌み、殆ど一電車借切りの盛況を呈して深更芳靜館に歸る。

 三月三十一日、晴。午前夙くより午後三時まで博覽會第一會場を見る。その最も多くの時間は美術館に於て費されたり。南洋美人の舞踊また甚だ一行の情緒を動かしたりと傳へらる。會場を出でて二派に分れ、一は日本橋京橋方面に赴き、一は直ちに小石川三軒町なる太田水穗氏邸に赴く。蓋し同氏の招待により、お別れの會を同家に於て開催すべく決しゐたればなり。午後五時、京橋方面への一隊も來り合して階上に集る。此日遲れ走せに遠く信州より來り會したる人々に小諸町土屋殘星、池田町松島梧風の兩君あり、東京出席者は郡山幸男、原田實、岩淵要、茅野昌栖、
石山龍二、高鹽綾雄、矢崎俊作、小川水明の諸君に主人夫妻及び若山夫妻、これに地方よりの諸君を合して總計二十七人を數ふ。夕食の馳走あり、短歌長詩の朗吟あり、本誌友會に對する感想談あり、「創作」改良發展に關する各自の意見論議あり、懇談密語の裡に時は進みて名殘惜しくも茲に閉會を告ぐるの止むを得ざるに至りぬ。乃ち牧水は進みて初めこの創作社誌友大會を開くに至れる次第より、開會するに及んで意外にも斯の盛大を見しは一に諸君の熱誠の致す所なりとて遠來の諸友に勞を謝し尚ほ来夏第二囘誌友會を開くべきを告げて一同再會の機あらむを望み、更に今後創作社の執つて進むべき方針に就いて意見を述べ、深く一同の自重健康を望みて閉會の辭となす。次いで信州小諸町なる宮坂常子君地方來會者を代表して答辭を述べられ、茲に創作社(58)第一囘誌友大會を終る。時まさに午後九時なりき。(大正三年)

 大會後記

 三月三十一日午後九時、大會は終つたわけである。然し、その實、その後數日間は前と同じく――否、前よりは次第にその内容に於て濃密に我等が會合は續いてゐた。記憶のまゝ書き並べて見よう。
 三十一日午後九時、太田さんの家を出た三十名のうち、五六人を除いた二十有餘名は直ちに淺草に向つた。三十日の晩雨のために見殘した同公園の夜景を見ようといふのである。池の端は美しかつた、次いで世に謂ふ塔の下(またいふ苦痛の谷)の一部を通つて見た。話だけでは解らない、餘りに驚くべき現象を眼のあたりに見せしめむと欲したのである。諸君は果して驚いた、寧ろ凄惨見るに耐へぬの風であつた。急ぎ足に其處を通り過ぎて、日本堤に出で、吉原に入つた。綺麗だと喜ぶ人もあり、案外だと落膽する人もあつた。天氣はよかつたし、可なり賑つてゐたので、それに大會の濟んだあとといふ多少の安堵氣持もあるかして、全體に平日よりは皆の心がうつとりと緩んでゐた。どの樓であつたか、煙管をとり落したおいらんがゐて、切りに拾つて奨れと哀訴してゐたが誰も拾つてやらなかつた。それを一行中での巨大漢にして至極の生眞面目屋たる土屋殘星君が掬躬如として拾つてやつたので、一同大喝釆であつた。一廻りするまではと少し危險を感じたので、切りに要求する人のあつたにも係らず、私はまだ酒をとることを許さなかつ(59)た。然しそのうち、わるい手本を示す人などがあつて、其處此處のおでん屋へちよいと隱れをする面々も出來てきた。從つて次第に一行の英氣は募つてきた。先づ無事に程よく見物を切り上げて大門を出ると先づ安心と見返り柳の蔭のとある酒場へと一同してとび込んだ。謂ふところの Akuto※[長音記号あり]組はえたり賢しと俄に大熱を發して沸騰せむと欲した。其處へ、いつの間に拔けてゐたのか五人か六人、我々より一足先きに一行を出し拔いて、他で飲んで來た一團があつて、既に十分いゝ氣持になりカチユーシヤ可愛やを合唱しながら我等のなかへとび込んで來たからたまらない。むづ/\してゐた大僧小僧共がみな一齊に跳び上つて之に相和した。何しろ三十人近くの人間だ。忽ちその一軒の酒場は鼎の沸くが如くに變化した。何事ならむとその門口には忽ちにして山を築いた。事態穩かならずと見たので私は椅子の上に立ち上つて退散の命を下した。すると、また忽ちにして一絲亂れず、響の物に應ずるごとく肅然と一同は其處を立ち出でた。出でたと見れば、こは如何に、その前の四辻の大通りの眞中に、さながら電氣仕掛の人形の如く、ばら/\つと各自に手に手をつなぎ合つて、散らばつたと思つたら直ぐにそのまゝ眞丸な大圓を作り上げ足並そろへて、カチユーシヤ可愛やと踊り出した。何しろ場所が場所だ、その輪のぐるりは眞黒の人山で、唯一人道を通ることが出來ない。一聯を踊り終れば、唯一言發するものもないのに、びたりとつないだ手を解いて、何處を風が吹くといつた風に濟まし切つてめい/\歩き出す。ものゝ五十間も歩いたかと見ると、また何一つの合圖もないのに元の通りに輪を作つて踊り出す。群衆心理とでもいふのか、斯の無邪氣な、熱し切つた一行の心熱に同化きれたと見えて、其處等から追々飛入加入者が現れて來た。中に一人の三十四五歳の立派な紳士が切りに双手をあげて喝釆(60)しながら我等について來るので、私はそれに感謝の意を表す可く、側に出かけて握手を求めた。握手ばかりと思ひきや、その紳士忽ち私の兩手をとつて火の如くに踊り出した。斯くてまた其處に新たな大きな輸が出來たのである。
 山谷から電車に乘らうとすれば、誰一人乘らうとするものがない、皆が皆まだ歩くのだといふ。歩き歩いてまたたうとう淺草までやつて來た。最後に吾妻橋の袂で、もう一度輪を作つて餘力を納めて無事に電車に乘り了つた。ほんとに、可笑しい位ゐに皆の心の一致してゐた晩で、初めはこそ/\と私の所へ脱走誘惑に來た人など三四人もあつたが、後には何れもそれをば忘れてしまひ、終に唯の一人の脱線者を出さなかつたのは、先づ不可思議といつていゝであらう。内心脱走を思はぬではなかつたらうが、斯の一團から拔け去るといふ事がいかにも苦痛であつたのだらうと思はれた。
 四月一日 晴。
 昨夜に引替へ、今日は誠にしめやかな日であつた。朝早くから創作社へ高鹽君、菊池君、山浦君が暇乞ひに來られた。午前早くの汽車で立つべき豫定が、もう一汽車々々々で遲れて正午をも過ぎた。仕方が無いので、たうとう立ち上つた。山浦君をば小河原君が送つて新橋へ、高鹽君は私が送つて上野へと赴いた。夜はまた信濃の高田君、榛葉君、松島君、青柳君が明朝一番で飯田町驛を立つ、多分これでお目にかゝれぬからとて挨拶に來られた。よく/\厭や相に見えてゐた菊池君も、今は思ひ切つたといふ風に別れて行つた。丁度其處へ出來て來た「創作」四月號の發送にとり懸るのも苦痛で、たゞぼんやりとしてゐると、折よく來合せた茅野君、石山君、中村君、(61)越前君が手傳つてくれて、とにかく一緒にそれを郵便局に持つて行くことになつた。發送を濟ませると同時にこれから行けばまだ間に合ふからと急に一同上野驛へ駈けつけることになつた。菊池君を見送るためである。さういふ話でなかつたので、既に危く發車しやうとしてゐた同君は我等を見て驚喜した。意外にも其處へ小河原君が唯一人間じく菊池君を見送らむとしてやつて來た。汽車を見送り果てて停車場を出た我等は全くまだぼんやりしてしまつてゐた。そしてたうとうその中の四人だけはその夜を徹して飲み明かすことになつてしまつた。
 四月二日 曇、後雨。
 お晝まで四人は共にゐて、午後を中村君と唯二人夏蜜柑をてんでに持ちながら武藏野を散歩した。冷たく曇つてゐた空からは終にぽつ/\と落ちて來た。濡れながら創作社に歸ると小川君が來てゐたので三人一緒にお湯に入り、芳靜館の二階の一室で、實に靜かに別杯を酌み交はした。中村君も明日は立つて行くのである。折からの雨のなかを、伊達邸か護國寺かで啼く雉子の聲が切りに聞えて來て、飲めど/\醉ふこともなく、徒らに談話のみ續いて次第に夜は更けて行つた。其處へ昨日から舊友訪問に時を送つてゐた野垣内君が歸つて來て、急にこれから立つといふ。餘り急ではないかと留めてみたが、既にもう友人とも決めてあるからと惶しく用意を濟ませて立出るのを驚きながら玄關まで見送つた。雨は土砂降りになつてゐた。小川君も歸つてしまひ、私はたうとうまた中村君と共に其室で夜を明かした。
 四月三日 曇。
 中村君と兩人、電車中でも停車場でも、多くは黙つたまゝ別れてしまつた。愈々芳靜館に殘つ(62)てゐるのは小河原君と宮坂君とだけになつてしまつた。此日はこの兩人と共に暮す。
 四月四日 雪。
 何事ぞ、櫻の盛りに大雪だ。宮坂君は茨木君を訪ねてゆき、じつとしてゐるに耐へかね私は小河原君と兩人して淺草に活動寫眞を見に出かけた。全市街は眞白だ。電氣館に大評判のクレオパトラを見る。小河原君ほど、浮き沈みの烈しい人はない、私も人並以上だが同君はもつとひどい。今日など、もう全く悄氣切つて、話しかけても返事の出來ない沈みかただ。いよ/\心細くなつて、折角のクレオパトラをも半分で割愛し、雪のなかをぶら/\と向島の堤を通り、和田山蘭君を訪ふことになつた。彼に逢つてこの心を慰めてほしかつたからである。折よく越前君も來合せてゐた。兩人は雀躍して我等を迎へてくれ、自炊生活の不自由極るなかに即座に御馳走をこしらへて、巨大な貧乏徳利まで並ぶに到つた。場合が場合であつたし、私はその夜すつかり泥醉した。泊り込んだは無論のこと、あやしき舞踊を試みて一方ならず諸君を惱ましたといふことだが、半ばは嬉しさ餘つての事であつた。小河原君も非常に愉快であつた相だ。
 四月五日 快晴。
 和田君は用事ありて早朝他へ赴き、殘りの三人はまた墨堤に出て、歩きも歩いたり、終に鐘が淵の外れまで行つてしまつた。昨日の雪の中の花も靜かでよかつたが、今日のは正に艶麗無比といふ滿開どこであつた。隅田川を一錢蒸氣で吾妻橋に下り、晝すぎ創作社に歸る。社には茨木君と宮坂君とが待つてゐた。そして宮坂君は今夜の十時で歸るからこれから何處かで別杯を酌まうと云ふのだ。否みかねて共に神田に出で、また醉うて兩君と別れた。
(63) 四月六日 晴。
 今夜十時、終に小河原君も歸つてしまつた。
 眞實、すべての事が夢のやうである。思ふともなく當時の事を思ひ、いま各地に相分れ去つてゐる人々の事を思ふと、何とも云へぬはかない、人なつかしさを感じて、泣くともなく涙の流るゝを禁じ得ない。
 諸君、私はいままた改めて、左樣なら! を叫び、遠く諸君の健在を祈るものである。(大正三年)

 大會雜觀

▼歌人の會などといふものには必ず一種の變な臭ひの伴ふもので、何だか斯う擽つたい樣な、打解け難いものである。今度の會合には、それが微塵も無かつた、謂はゞ普通の人間の會合とでも云ふべきものであつた。
▼そして集つて來た多くの人々の性格氣風が殆ど悉く似通つてゐたのも一の奇觀であつた。それがあんなに一致統一を生んだ原因であつたと思ふ。一概には言へまいが、打ち見たところ多く一本調子の素朴な人々であつた。
▼和田君などとも話してゐたことだが、右の性格氣風の一致してゐたといふ以外に、あんな調子に行つた直接の因をなしたのは廿七日の夕方高鹽背山君によつて發せられた一語に基くと見ても(64)よいところがある。廿七日にはまだ私一身の準備は何一つ出來てゐなかつたのみならず、音樂會が新たに加はり、從つて講演會の會場にも異變を生じて來た、それを各新聞に發表せねばならぬ。止むを得ぬので、既に四五人創作社に集つてゐた人々の應待をば茅野君に頼んでおいてその日の正午から私はそゝくさと下町方面を駈け廻つてゐた。そして夕方歸つて見ると、驚くべし、社の二階はもう私の坐る場所が無くなつてゐる。小さい二室の間の襖を除いても尚ほ二三の人は階子段の板の上にはみ出してしまふ。私は實際心ひそかに二階落下の惧を懷いてゐたのである。夕食の時間だが、右の有樣で私も一寸途方に暮れた。其處へ高鹽君が、如何です、とりあへず皆で晩餐會を開かうぢアありませんかと、言ひ出した。それから記事中にある寶亭の一幕となつたので、事があまりに速くとつ/\と突差の間に運んだためか、寶亭の二階に上つた時には諸君の顔は既に紅くなつてゐた。その會はまた全く豫想の外の旺盛を呈し、五日間の大會を今夜一夜に縮めてしまへと盛んに呼應せられたのを見ても一般は推せられるであらう。さうした間に各自初對面などといふ隔意はすつかり除去せられてしまつたのであつた。
▼會期中で最もだれてゐた日を求むれば茶話會の時であつたらう。何しろ、經驗のない世話人たちに加へて第一日といふのだから無理もない。會場の混亂したのは揮毫のためであつた。また餘りに烈しく攻めたてたゝめ金子きんなどはとうとう頭痛がしだしたと別室に逃げてしまはれた。實際皆さんにお氣の毒に思つた。兼題歌互選披露も拙かつた。今度の會にはみなうまくやり得ると信ずる。
▼何しろ、芝居は面白かつた。みな同じ場所に集つて見られなかつたのは遺憾で、宮坂君等十人(65)餘りの場所からは舞臺が十分に見られず、表情などよく解らぬとてこぼして居たが、これは強ちに場所の如何に係らず、諸君の眼球が入場早々既に異状を呈してゐたのだらうといふ評判であつた。青柳君、野垣内君や私などの椅子は最もよく、南さん姉妹、菊池君等のもよく、悲喜交々到ると大ベソをかいた疎林翁は最も背後の壁際に獨り泰然として逆上せてゐた。(山蘭君の見物記は來號に載ります)疎林翁と私と廊下を歩いてゐると經堂君がキユラソーか何かをなめながら、長身亭々群衆の頭上に聳えてベソかき最中の場に出會つた。翁と兩人ウヰスキイを飲んでゐる所へ青柳、榛葉、高田の巨人連がまた通りかゝつて、これはサイダーを飲んで行つた。三君の去つたあとをボーイが切りに呼ぶので如何したのだと訊くと、御勘定が足りませぬといふ。諸君の頭もよつぽど如何かしてゐたものと見える。またその後、飯食ひに出かけた時に連中一の美男子高田君が迷子になり、折よく出合つた茅野君に引張られながら我等が鮨を喰ひ終つた所へあたふたと跳び込んで來たのも偉觀であつた。鮨は食つたが腹に反應なく、更にその後天どん幾個かを平げたといふのは芳靜館の諸勇士であつたといふことである。その後、何處へ行つても鮨は食はぬことにきめた。芝居がはねてイザ電車といふ時に、まだ歸りたくない是非日比谷公園を歩かうと言ひ出し、もう赤電車だよといへば、電車が無くなりア歩けばいゝぢアないかと外に出てまで逆上せてゐたのは巣鴨村の住人岩淵要大人であつた。
▼廿九日午前の散歩のとき、ニコライ堂へ行つたところ丁度日曜の禮拜日で、堂内は紫衣金金襴の僧たちや昂奮した信者や、濛々たる尊い香のけむりやらで滿たされ、實に莊嚴なものであつた。ツイ一寸見物のつもりの我等餓鬼連中も流石に難有さの思ひにはうたれたが、斯くてあるべきに(66)もあらねばとほど/\に引上げようとすると、目に感涙を溢らせてどうしても其處を動かぬ人が一人出來て來た。醉へば必ず梁に跳びつく蝙蝠藝の名人山浦貫一君であつたので一層に驚かされた。彼はその晩もまた富士見樓の梁へ吸ひついた。
▼富士見樓といへば隨分また珍聞奇觀が續出した相だが、不幸にも私はその日其處に行くと直ぐさま醉拂つてしまつて、何が何であつたやら少しも知らない。太田さんの遊魂式空中游泳、内藤君の拳闘術練習等、惜しいものをみな見逃した。イヤ見るには見てゐたのかも知れないが、泰然としてみな解らなかつたのだ。越前君の記事に羽織一杯飯粒だらけになつて奮闘したとあるのは○〇君(出世前故、特に〇〇君)だといふ事である。するとその人はまた四面楚歌子によつて描かれた如くその翌朝ぼんやりと其處より二三里を離れた中野兵營横の麥畑で眼を覺した人と同人であるわけだ、考へみればて恐しい話だ。一人が離るればまた一人、無闇にその晩私は誰やらに首つ玉に噛り着かれた形跡がある。翌朝はなま/\しい傷が額についてゐた、爪か齒の痕である。(その後三四日してまた一つ傷が増えた、これも同種類のものであつた)。宮坂君と野垣内君とだけは白状したが、あとは解らない。
▼その晩、氣の毒であつたのは芥川葭穗君であつた。同君は少し遲れて、一同の眼つきが少々怪しくなつた所へ掬躬如として這入つて來たのだからたまらない。一同それつと同君を包圍した。私が初めて自身の座を離れて遠い同君の席までよろめいて行つた時が即ち私の意識の最後であつたのである。さう/\、その後もう一つ覺えてゐる事がある、踊りだか唄だか、何かしら女連がやつてゐるすぐ前に大あぐらをかいて能ふ限りに兩肱を張り、まるで矢大臣(若しくは蛙の剥製)
(67)そつくりに兩々相並んで口あんぐりと仰眺してゐた二人のさまがいかにも可笑しく、あんまり笑つて到頭胸を痛くした。兩人とは右の〇〇君にニコライ堂感涙君のことである。それからどうしたはずみであつたか、不時のつかへで今度出席出來なかつた井田君、三浦君の事が急に頭に湧いて切りに悲しかつたことを思ひ出す。彼等のためにとひとり言を言ひながらその時は私は獨酌で幾つかやつたものだ。
▼集つた人の全ての酒の強いのも一つの驚きであつた。佐藤辰雄君は、乃公は幾らでも飲むぞといつた大きな蒼い顔をしていつもにや/\してゐたが、相對してその虚實を試すの機がなかつた。一番年少でいつもにこ/\と黙つてゐる神戸節君もいざといふ場合には可なり飲んだ。齋藤春光君もこの種類に屬すると見た。見かけ倒しは榛葉君、土屋君位ゐのものであつたらう。青柳君は量はさほどでもないらしかつた。然し、或人は斯う評した、一朝彼を四疊半裡に放したならば彼は凄しく暴威を振ふであらう、と。無闇に飲んで、無闇にはしやいで、無闇にしつかりしてゐるのは石山柳路君である、或人はまた斯う評した、彼は一首の上の句を知つて未だ下の句の味ひを解せぬ、と。飲ませたくはあるが、飲まれて困るのは小川水明君である、さらぬだにキネトホン式なる彼の言語は、酒後殆ど語呂を成さぬ。吉原でこつそりと私と宮坂君とおでん屋に忍んだところへ、私にも一杯下さいとひよつこり入つて來た人を見たら、それは温厚の君子高田枯月君であつた。始め處女の如く後脱兎の如きは松島梧風君、後暴虎の如きはそれ小河原素山君か。
▼いつやつてもまづくはなかつたが、最もしみ/”\と身にしんで飲んだのは芳靜館の二階で雉子子の鳴く音軒端の夜雨を聽きながら酌み交はした中村君との別杯であつた。何か語りたげに見えて(68)終に黙々として歸つて行つた菊池君を、せめてその時までゝも留めておきたかつた。
▼先に發表した會としての豫定行事は先づみな完全に遂行せられたものと見てよいであらう。單に外形でなく、その内容に於て特にさうであつた。唯だ少々遺憾に思つたのは所謂東京見物が果して十分であつたか否かの一事である。これは然し、既に東京を知つてゐてそれを欲せぬ人の多かつた事にも因してゐる。それを望んだ人々はまた幸ひに各自それを遂行せらるゝ機會があつた樣である。會費は實のところ、諸所で大分穴のあいてゐた事をあとで發見した。これは主として世話人(主として私)の不馴のためであつた。これも幸ひにどうにか斯うにか急を逃れて追加の悲哀から脱し得た。然し、十圓といふ會費はほんの定つたものだけへの割りあてで、他の酒代小づかひ等は別であつたゝめ、各自可なりの消費額に上つたことゝ思ふ。來年の大會は成る可く日數を短くし、全くに通じて一層の統一秩序を保ち度いものと思つてゐる。夏ではあるし、萬事あつさりと行きたいものだ。
▼幾度もいふ樣に參會者諸君の誠意と熱心とによりて世に稀なこの好會合を遂げ得たのは無論であるが、會期中この不注意極る私を助けて直接各種の經營に當つて頂いた幹事諸君の勞力が無かつたならば失態百出でとても斯の結果を收めることは望まれなかつたのである。思ひ起すごとに感謝の念を禁じ得ない。そしてまた實に腕きゝの揃つてゐたことをも大なる欣びとする。
▼地方よりの諸君が歸郷後の消息は如何であらう。たとへ幾らでもよい方面の影響を受けられたと聞けば嬉しい。かりそめにもその反對の現象ありと聞くことがあつたらば吾等の悲哀は實に甚しい。幸に各自々重の上、この事の絶無ならむことを祈つておく。(大正三年)

(69) この不滿を如何
     ――小川水明論のうち――

□既に越前君が言つてゐる如く、小川君は他のいふことなどてんで耳に入れようとする人でないと同時にこれほどまた他のいふことに神經を惱まし喜怒哀樂する人もない。見やうでは彼は他の人にかれこれ言はれることによつて然かく懸命に作歌に從事してゐる人であるとも見える。畏友原田實君曾て余に問うて曰く、讀者といふものが全く無くなつたとしても小川君は矢張り今のまゝの作歌を續けて行くであらうかと。
□余は昨今の小川君の歌を最も愛誦してゐる一人であると信じてゐる。小川君の歌から受ける感銘は、然し、決して全身的ではない、部分的である。余は親しくこの人の平常を知つてゐる、それが因をなして、同君の作に同感し共鳴する場合が多い。謂はば、同情し、憫れむと云つた心持で然かする事が少くない。一種遊離した氣分になつてこれを愛誦するといふ場合が多いのである。止むに止まれぬ要求または衝動から隨時これに同感し共鳴するといふのではない。
□小川君の歌を讀んでゐると、次第に一篇の戯曲を見てゐる心持と似通つて行く事が多い、即ち小川水明の歌といふ背景をうしろに、小川水明といふ一個の役者が絶え入るばかりに唄ひ且つ舞つてゐる光景をよく聯想する。いい心持である。然し、遠く離れて見物してゐる心持である。
□小川君は造次顛沛、悲しい苦しいやるせないといふ風のことを口から絶たず、また實際常にそ(70)の樣に身もだえしてゐる人である。而かも余の眼のせゐでもあるか、それは單に指のさき足のさきで然かあるごとくに見え、時に抑へ難き滑稽をすら覺えしめることがある。言ひ得べくんば、彼は先づ偶然そんな所に行き合せたにすぎず、而かもその他の場所をば一向これを知るに由なくまた知らんともせず、えこぢになつて其處に堂々めぐりを試みてゐる如き形さへ見える。
□さういふ所からか、彼の歌は時に甚だしき不自然を生む事が多い。單に誇張とも認め兼ぬるやうな、つづまり下手なお芝居を試みてゐる樣な姿に見受くる事が少くない。イヤ實際に自分はさうなんだと彼は言ふかも知れない。彼の事だから實際にさうやつてゐるかも知れない。而して余等はさういふ態度も擧動も歌も、その全てを忌み嫌ふのである。
□小川君の歌の長所はその生一本な所にある。一途にして寸毫も他を顧みないといふ樣な、至純にして濁りのない所にある。余等も常にそれに動かされて、知らず/\耽誦してゐるのである。而かも我に歸つた時にはまた必ずの樣に何やらの不滿を感ずるのが常である。その不滿は果して何處から來てゐるか、余自身にも充分滿腹するだけの理解が無い。この不滿には單に小川君の作に對してのみならず、ひろく短歌といふものに對する不滿の一部が含まれてゐるのだとも思はれる。茲には唯だ小川君の作に對するほんの具體的の不滿を書き連ねておいたに過ぎない。
□部分的または末梢的の喜怒哀樂に留らず、深く人間の基調をなせるそれ等より滴り來る歌といふものは出來ないものであらうか。少くとも我が小川水明君の歌は我等が社の内外を問はず近來我が眼に觸るる歌のうち、最も傑出したものであるに係らず、尚ほ擧上限りなき不滿を覺えざるを得ないのである。(大正三年)

(71) 齋藤茂吉君へ

 九月號の「前月歌壇」の中にかいた齋藤茂吉君の歌に對する小生の言が同氏の激怒を招いたらしく見ゆる。「どつちつかずといふ如き言葉を用ゐて予の歌風の獨立性を認めない點に論を歸着せしめてゐる」(アララギ十月號)とは驚いた話である。小生は北原君と長塚氏との歌の趣きが非常に變つてゐるものであることを述べて、そのいづれにも屬してゐない中間に貴君の歌のあることを言つたにすぎない。もつともその時、右兩氏の作に對していたく感動してゐた小生は、そのいづれにも似てゐないといふ言葉の裡に兩氏の作より貴君の作を多少輕視した意味を含ませてゐたには相違ないが、それは止むを得ない。その時の貴君の作に對する不滿は簡單ではあつたが言つておいたつもりである。それも充分貴君の獨立性を認めたればこそ相當の敬意注意を拂つて言つておいた。「つらつら予の歌風といひ得べきものについて思推するに、その因縁ふかくして遠い。初生來予の命は幾ばくの流轉生長を經來つてゐる。そしてその因縁や深くして遠い。」と自ら力まるゝ迄もないことである。然し不滿は不滿である。右の「前月歌壇」の中にもそれに就いては寧ろ貴君等によつて何等かの啓示を與へてほしい意味をも附加しておいた樣に思ふ。また貴君に對し相當の敬意を持つては居るものの「予の歌風の發育史を論ずる」ほど執心でない事を承知して頂きたい。最後に我等が「甘言苦語」の貴君によつて愛讀せられたことを我等社中一同只管恐縮に存じて居る。(六日朝、印刷所にて),−(大正四年)−

(72) 「潮音」創刊について

 今度太田さんの手で「潮音」が出ることになつた。前の「創作」が休刊してから正統に舊創作社の人たちの作物を發表する機關がなく、少なからぬさびしさを感じてゐたときであつたので、いまこの事のあるのは我等にとつて實にこの上もない幸福である。いふまでもなく體裁などに多少の相違があるだけで、内容に至つては殆んど前の「創作」と變りはないと信ずるからである。本意なくも久しく相別れてゐたものが、また一堂に相會ふに至つたことだけでも愉快でたまらぬ。創刊の事が發表せられてからまだ幾日もたたぬのに殆んど全部の舊創作社友が相集つたのを見ても皆のよろこびは察し得らるるではないか。
 太田さんならば私のたび/”\遭遇した經營難に罹ることなくやつて行かれる、其方面の資格を充分に具備して居らるる。尚またこれも私と違つて、大きく撞けば大きく響き小さくすれば小さく、諸君の聲援に對して鋭い反應を持つて居らるる人である。だからどれだけ聲援甲斐があるか知れない。私のづぼらと無神經に懲り切つてゐた人たちも今度は誠に樂しんで潮音社の事業を後援せらるるであらうと思ふ。私もまた經營といふ不愉快から脱して自由に自分のちからを用ゐることが出來ると思ふ。我等の日はまた茲に新しく明け始めた。(大正四年)

(73) 『砂丘』のこと

 九月の二十日前後に出來上る筈であつた『砂丘』が本屋の主人の病氣のため段々と遲れた。愈々本日小包より御送り致し候間御受取下されたく、小生病氣にて萬事印刷所任せに致しおき候ひしため紙質其他甚だ不出來にて困り入り候、再版の際には云々といふ本屋からの通知状の來たのが一昨日で、其日は小包は來なかつた。今日はいよ/\來ますネ、お祝ひに一杯買ひませう、おさかなが何も無い、お豆腐屋でも來るといいに……などと妻は昨日の朝軒端の雨を眺めて言つてゐた。正午近く眞黒に合羽で身を掩うた年寄りの配達夫が、重い小包が來ましたよ、少し濡れた樣だから直ぐ解いて下さいと言ひながら投げるやうに一個の小包を差し出した。どうも御苦勞樣、こんな天氣に大變ですねえ、とお世辭を言ひ/\直ぐお茶を入れて縁側に持ち出したりなどしてゐる妻のうしろで、私は早速その包を解きに懸つた。幾重にも括つてある紐を丁寧に解くと、見本の時に見覺えのある小型の本が十册ばかり出て來た。おゝ、出來ましたねえと妻も妻を看護《みと》りに此頃信州から來てゐる義妹《いもうと》もその側に寄つて來た。一册を取り上げて開いて見るなり、自分は愈々がつかりした。覺悟はしてゐたもののこの紙は餘り酷い。わざ/\見本まで拵へておいていざ本ものとなるとこれでは全く仕樣が無いと、失望やらなさけないやら、側からいろ/\と言ひかける女たちに返事をする勇氣も無く、さればとて其場で憤るわけにも行かず、ぼんやりと頁をめくつてゐると、組み違ひの所なども眼について、次第に暗い氣持になつてゆく。一册だけ手に(74)とつて私は自身の部屋に入つて襖を締めた。うす暗い机に凭り懸ると心はます/\沈んで、ざアつといふ雨の音が急に耳につく。
 自分は元來書物を作るに贅澤をいはぬ性質である。裝幀など別に凝る好みもなく、唯だあつさりとして歌に誤植さへ無くばよいといふ方で、それらの事は一切本屋任せであつた。そのため後でいやな思ひをした經驗もあつたので、今度だけは少し氣を注《つ》けたいと今までになく自身で原稿の清書をもし、わざ/\本屋に見本を作らせて見たりした。それに本屋とは舊い知り合ひでもあるしするから今度こそは幾らか自分の庶幾にちかいものが出來る事と信じてゐた。そして、今までになくその出來上りを待ち焦れてゐた。それが容易に出來ず、病氣だと聞き、通知状が來て、漸く着いた書物は右の樣子である。失望しはてた私は黄い表紙の一册を前に投り出して、中の歌を見るどころか唯だもう永いことぼんやりしてゐる間にいつか紙や印刷の事をば離れた物思ひを始めてゐた。この小さな一册に收められた歌、考へてみるとこれが自分の二箇年間に於ける仕事の全部である。このほかにはまつたく何ひとつしてはゐない。してゐないどころか一々かへりみると實にいやなことばかりだ。その間に、裏では次第々々に自分の命の幾分かが消え滅んで行きつつある。何といふ果敢ない、そして怖しい事であらう。
 今朝になつた。この三四日便秘してゐるので起きると直ぐ飲んだ苦鹹い、鹽水が胸につかへて、どうも飯が喰ひたくない。チヤブ臺代りの妻の机の上には昨夕誰もたべなかつたからとて握飯《むすび》にして燒いたのや雜炊やが並んでゐる。妻は雜炊を、妹と子どもとは握飯を喰つてゐる。私はわざと濃くした茶をちびちびと飲みながら、火鉢に.噛りついて――今朝も雨で、たいへん寒い(75)――餘りのしよざいなさに昨日そのままに棄てておいた『砂丘』を取り上げ今度は初めから讀み初めた。初めはうはの空で目を移してゐたが、いつの間にか興が乘つて、はては一首々々と聲に出して讀み始みた。極く新しい作はそんなでもないが、少し舊く自分でも忘れてゐた樣なのになると、其時々々の自分の事がはつきりと思ひ出されて、それにまた自分ながらよく詠み得たと思ふのにも出合ふことがあつて、すつかりいい氣持になつてしまつた。氣がつくと机上の食事はいつか終つて、子どもはゐず、兩人はしいんとして私の讀むのを聽いてゐる。妹などは眼を瞑つていかにも思ひ昂つて聽いてゐる。更に續けてゆくうちにこの書物の作者といま讀んでゐる自分とはまつたく關係のないやうな氣持になりはてて、極めて安らかに一首々々を追つて行つた。薄い書物の事で、直ぐに讀み終つたが、心にはまだ微かな幸福を感じてゐる。折からの雨をさかなに『砂丘』のために今日こそ一杯を擧げようと思ふ。(十月二十五日)−(大正四年)−

 父も母も若い俤
   ――お正月の思ひ出――

 私の郷里にはその頃下駄のま、登り降りした藁葺の尋常小學しか無かつた。學校の裏には暗く迫つた細長い溪が續いてゐた。その溪に梅樹が多く、新年の式場に挿す梅の花を採りによく先生に連れられて行つた。とび/\に白い花の咲いてゐる溪間を丈高い痩せつぽちの先生が何かぶつぶつ言ひながら鉈を持つて歩いてゐた姿をよう忘れぬ。先生は私の父とは親しい飲友達で、いつ(76)も何か獨り言を言つてゐる人であつた。
 新のお正月門松を立てるのは近所で私の家だけであつた。いつも父が自分で山に松を伐り出しに行つた。お伴は必ず私であつた。あれでもないこれでもいけぬと父の氣むつかしやに癇癪を起して獨りで拗ね切つてゐると遠くの方でことん/\と木を伐る音がして、やがて、繋、繋と呼ばれて何とも知れぬ悲しい思ひのしたことを思ひ出す。
 餘程でないと出る事のない高い足のついたお膳や、それに附隨した珍しい食器類の現はれるのも嬉しかつた。
 お正月の遊び、と云つてもそれは舊のお正月であつたが、めい/\一枚か二枚づつの半紙を出し合つて疊の上に重ねておき、物縫針のさきを唇に含んでそれにつけた短い糸でその紙に針を打ち込み、靜かに引き上げて針の先に留つたゞけのものを自分のものとする遊び、いま一つはこれは他處でもやるやうだが例の根つ子遊び、そんなもので、いづれも賭事であつた。
 郷里の新年のことを考へてゐると、父も母も何だか極めて若い面影をして私の心に浮んで來る。
 去年の正月のことを書き添へて置かう。大晦日は晴れて温かな日であつた。銀座の方に金策に出たが思ふ樣に行かず、日本橋の村井銀行の地下室みたいになつてゐる東洋軒の昇降口を降りて行つて靜かに沸き立つホツトウヰスキイに咽せながらいつか物事を斷念めたやうな穩かな氣持になり、神田の立花に小さんの獨演會があるといふので夜の更けるまで其處に籠り、電車にも乘らず其處此處と歩き廻つて窪町の家に歸ったのは午前の一時か二時であつた。街路には靄が深かつ
(77)た。歸つてから質屋に行き、二錢か三錢出して露店で松の小枝二本を買ひ求め、家の格子戸の兩側に釘で打ちつけて置いて、流石にこれだけは正月らしく用意してあつた大きな容器から酒をくみ出し、その頃からやゝ病氣の重つてゐた細君の枕もとでちび/\とやつて居るうちに耐らなく睡くなり、うと/\と布團を被つて居ると戸を叩かれた。お目出度う、お目出度うで、型の如く酒洒、酒。三日四日と重つた頃には私は半病人の如くになつてゐた。
 この機會を利用して知己友人諸君に年賀を申し上げておきます。惡しからず思召し下さい。(大正五年)

 「砂丘」の批評について

 あれほど誠實に批評して頂いて原田清水茅野の三君にだけにでもお禮を言はねばならぬと氣をあせつてゐるのであるが、どうもいまよう言へぬことを甚だ悲しく思ふ。たゞ感謝したことを言ひ表はすだけならばわけは無いのだが、それはいやだ。あれ等の言葉に對してそれでは心が濟まぬ。いちく自分の考へを述べ、諸君の友情に酬いたいと思つてゐる。兎に角部分的になるほどなるほどと思つて讀んだ右三君の批評に對して、なるほどと領くと同時にまた自分として多少註を加へ度い事がかなりある。また、頭からなるほどと思ひ、それを直ちに自作の上に省みたいことも幾つかある。が、それもいまようしない。私はいま自分で考へたことを實行するに非常に勇んでゐる。邪でも非でも、兎に角やつて見たい。實際、あまり深く諸君の言に聽くことは折角の思ひ立(78)ちに水をさす事とならぬとも限らぬ。水でもない油でもない、變なものにならうも知れぬ。要するに、あゝだ斯うだと餘り細かく考へ渡り、言ひ散らすことは現在の私に不利益である。少くとも身に創作慾の燃えて居る間は、何にも言はず考へず、ぢいつと思つた通りをやつて行き度い。言ふ事が極めてまち/\だが、此等の點を合點して頂いて、今暫く贈り物の貰ひつ放しを容赦して欲しいと思ふ。諸君は必ずこれを容れて呉れることゝ信じて居る。而して、或は言葉無しに諸君に答へ得る日の來る事の案外に近いかも知れぬと自ら樂しんで居るのである。

「砂丘」、つまり私の近作に對し割合に長い批評の加へられたのは右三君の外に西村陽吉(「生活と藝術」)尾山篤二郎(「文章世界」)の二君があつた。「潮音」に出た三君のものも決してよくは言つてないのだが、それとは打つて變つた意味に於ての不評であつた。斯る事情に自然精通せる東雲堂主人が私の歌集濫發を咎めたことの外は、彼等の批評は私にとつて全然關係のないものであつた。よしあしに係らず、他の言をば割合によく了解する私も、此等の批評に對しては更に何物も感じはしなかつた。特に篤二郎(この下にどうしても君の字がつけられない)の書いたものを見た時など、あの馬鹿奴が、と思つたきり、半分あとをば讀む氣にもなれなかつた。(大正五年)

(79) 姉の讀む物語から

     ――文壇諸家立志の動機(【どうして文壇に出た乎】)――

 私の幼年時代に、小説や物語などの好きな二番目の姉が、私を守りしながら、小栗判官や白縫姫などのことを物語つて聽かした。これがまづ一番最初の刺戟であつたやうに思ふ。しかし私は小さい時分には非常な亂暴者であつた。小學時代には毎時間先生から罰をくつた。中學の二年生位まではさうであつた。で、運動などには何時でも選手であつた。
 或時、他の學校から撃劍の仕合に來たことがあつた。その時私も武徳會の道場で仕合をした。そして對手の爲めに横面《よこめん》を食つて耳を潰して氣絶をした。それからすつかり連動をやめてしまつた。
 恰度その時の校長が山崎庚午太郎といふ若い人で、大變私を可愛がつて呉れた。この人は文學狂で、香川景樹の「桂園一枝」や西行法師の「山家集」などを愛讀してゐた。私達も自然それを讀ませられた。そして歌ばかりでなく色々の文學書類を讀み始めた。「一葉全集」は寄宿舍の押込に體をのしこんで豆らんぷの明りで讀んでゐた。すると或時舎監に見付けられて、その本を風呂場で燒かれてしまつた。けれども、讀まないでゐることが出來ないで、新に一本を買つて來て、今度は學校の近くの稻荷さんの祠のところへ行つて讀んだ。歸る時にはその本を砂の中へ埋めて置いた。次の日、それを又取出しては讀んだのであつた。
(80) それから漸々《だんだん》文学熱が高まつて來た。投書も始めた。しかし家が醫者であつたから、私が文學をやることをゆるさない。そこで卒業證書を握ると直ぐに、私は小説家になる志望を抱いて上京して、早稻田へ入つた。
 その頃獨歩や透谷のものを讀んだ。殊に獨歩の「武藏野」は、一々古本を買つて來て友達に讀むやうに歡めたものである。
 そのうちに安成貞雄、佐藤緑葉、土岐哀果、仲田勝之助、福永挽歌、服部嘉香等の仲間が出來た。皆は一週に一囘宛、各自の宅へ順番に集會して、その月の創作を批評しあつたり、文學論を闘はしたり、各々の持ち寄つた創作を朗讀したりなどした。
 さうしてゐるうちに、田山さんの自然主義の運動が起つた。そして我々の抱いてゐた文學に對する信念が打撃を受け、我々の一團は離散してしまつた。土岐、服部などは暫らく立消えのやうな形であつた。
 私は又國にゐた時分から私淑して居て尾上柴舟きんの所へ行つて、歌を見て貰つてゐた。そして前田夕暮や正富汪洋等と「車前草社《しやぜんさうしや》」を結んで、歌を「新聲」誌上に發表した。
 その後私は單獨で短歌雜誌「創作」を始め、今日まで旅行をしたり、雜誌を出したり、殆んど交代にやつてゐる。(大正六年)

(81) 『海の聲』のこと
     ――處女歌集の追憶――

 全く突然であつたか、またはどうかした引つ張りであつたかいま覺えてゐないが、或る日或る見知らぬ四十前後の人が菓子折などを持つて訪ねて來て、今度新たに出版を始めたいと思ふから何分の助力を願ひたい、とりあへず此處に斯ういふ雜誌(その名も思ひ出せない、何でも在郷軍人か何かを相手にしたものであつたと思ふ。)が出てゐるのでそれを引き受けた、どうか今後この方の選歌をお願ひしたいといふことであつた。それがきつかけで、では先生の歌集を最初に出しませうといふことになり、其後若干の金を持つて來た。先生などといはれたのは恐らくそれが私にとつての初まり位ゐで、何しろまだ早稻田に通つてゐる學生ではあつたし、牛込の原町の或る寺の離室《はなれ》を借りて自炊の樣な生活をしてゐる頃のことであつた。その金を手金にして印刷所へ原稿を持つて行くと、やがて校正刷といふものが出始めた。丁度それが早稻田の卒業試驗の始まるのと一緒になつて、勉強も何も手につかず、試驗場に一寸顔を出しては直ぐ印刷所へ馳けつけてゐた。自分の歌が活字に組まれて、それを自分で校正する、そして次第に一册の本になりつつある、などといふことは全く經驗のないことなので、まつたくどれほど嬉しかつたか知れなかつた。原町の或る曲り角で校正刷を見ながら歩いてゐて八百屋の車につき當り、自分で驚いて藪の中に飛び込んだこともあつた。校正は勿論、編輯といふことも初めてであつた。どういふ風に輯(82)むべきかで大分苦しんで、友人などをもいぢめて廻つた。が、友人とてみな五十歩百歩であつた。表紙の「海の聲」といふ字をば學校で始終机を共にしてゐた土岐哀果に書いて貰つた。畫をば平福百穗さんにお願ひした。まだ千駄ケ谷あたりの二階に間借して居られた時分である。序歌を尾上先生が下さつた。
 校正もすみかけたが、事が起つた。例の出版屋氏がふつつり影を斷つたことである。その宿へ行つてみると國へ歸つたといふ。其處あてに手紙を出しても返事がない。印刷屋ではとつ/\と仕事を運ばせていつの間にか綺麗な本にしてしまつた。心はせくが、あと金をよこさねば渡さないといふ。それとなく印刷所へ行つてみるとちやんと積まれてある。が、手にとれない。其處へその男から手紙が來た。事情でもう出版業は見合はす、惡しからずといふのである。泣きながら駈け廻つて金を集めたが、子供の事だ、幾ら集るものでない。もう試驗の成績どころの騷ぎでないのである。たうとう尾上先生の許へ泣きついて行つた。(その金をまだよう返さずにゐる事を附記しておく。事ごとにそれが氣になつて、お宅の敷居が實に高い。)
 時は明治四十一年廿四歳初夏のこと、刷つたのは七百部、三百部も賣れず、その秋かその翌年かに殘部を一册八錢か九錢に捨賣にしてしまつた。その後一册手もとにとつて置きたいものと古本屋を氣をつけてゐるが、まだ見つからない。本誌(註、短歌雜誌)讀者諸君のうちにお持ちの方があつたら讓つて頂けまいか。(大正六年)

(83) 歌日記

 二月十五日(大正七年)
 この月の七日から私は伊豆の西海岸にある土肥といふ小さな温泉場に滯在してゐた。が日記にはこの十五日まで歌は一首も書きつけてない。この日初めて四五首を詠んで居る。
   峽深み眞すぐにのぼる炭やきのけむりましろき春のあけぼの
   雨雲のたたなはりつつ山あひの春のあけぼの溪川の鳴る
   枯草の小野の傾斜《なぞへ》の春の日にかぎろひて咲く白梅の花
   よりあひて眞すぐに立てる青竹の藪のふかみに鶯の啼く
 土肥は北に山を負ひ、前に駿河灣を控へて居る。その山の間から流れ出てゐる溪に沿うて東海岸の方に越えてゆく路がついて居るが、此等の歌はこの山路を散歩しながら手帳に書きつけたものであつた事を思ひ出す。最初の『峽《かひ》深《ふか》み』の一首は手帳だけで、雜誌にも歌集にも發表しないで居る、調子の弱いのが氣になつたものかと想はるゝ。この日はこのほかに「東京の近藤君に葉卷を註文す」として
   たましひも煙るばかりに靜かなるこのあけぼのに吸はむねがひぞ
 の一首を書きつけて居る。これも何處にも發表せず。
 土肥にはそれからずつと廿四日まで滯在してゐた。そして右の十五日を振出しに滯在中毎日毎(84)日五六首乃至二十首位ゐづつを詠んで居る。當時の作をばその年五月に出版した歌集『溪谷集』の中に收めてあるが總てゞ八十首ほどある。然し右の樣に作るには作つても發表せずに置いたものが可なりあるから百二三十首も日記には書きつけてある樣だ。いま少し纒つて作つてゐる日の分だけを次ぎに書き拔いてみる。

 二月十八日
   東風吹くやかすみなびくと見るまでにこの沖津邊は潮曇せり
   入り殘る月ぞ寒けき沖津邊は東風立つらしき潮曇して
   此處に見る海のむかひの駿河路の低山脈《ひくやまなみ》に霞たなびく
   海かけて霞みたなびくむら山の奥所《おくど》に寒き遠富士の山
   石あらき入江の濱にひとりゐてあそべるけふの霞みたるかな

 二月廿一日
   ひそまりてひさしく見れば遠山のひなたの冬木風騷ぐらし(午前中)
   かなしきはさす日のひかり枯草の蔭に坐りてうつつなく居るに
   柴山の椿がもとにゆきあひし丹《に》の頬の少女はぢらへるかも
   崎山のはたけの畔《くろ》の淺茅原沖ひろく見えて浪寄る聞ゆ
   かすみ合ふ四方かぎりなき春の日のはるけき崎に浪の寄る見ゆ
(85)   とびとびに岩かあるらし春の日のとろめる入江浪動く見ゆ
   うねり寄る此日の浪は日に透きて六つら五つらかさなりて寄る(其午後)
   青渦のみなそこの石をかき鳴らし來寄れる浪は日に透きにけり
   岩かげのすくなき砂をかき敷きてまのあたり見れば浪はさやけし
   岩のあひをうねり越えては瀧となるうらら日の浪を見てたのしめり
   起きてゐて身にわるけむと思ひつつこの靜夜をいねがてぬかも(その夜)
   ぬばたまの夜の深みに灯つけひそまりて居りて身のことをおもふ

 二月廿二日
 東京に留守居をして居る妻が許へ書き送つた歌が十首ばかり出來てゐる。
   けふの日をこの柴山のつのぐめる雜木が原に居ると知るべしや
   田の道のかたへの芝のぬくとげに日を浴びたれば居て汝をおもふ
   たのしみて出でて來しかど樂しみてけふ居るものとゆめなおもひそ
   はつはつに梅の花咲くおのづからおもふ苦しき世の中の事を

 三月廿三日
 或る劫な友達が上京して來た、そしてそれの歸郷するのを東京驛に見送つて彼の手帳に書きつけた即興。
(86)   いま別るる思ひこそせね汝が顔のゆたかに笑める前に坐れば
   停車場の食堂なれば人出入しげかる隅に酒酌みて別る
   いふことの何とて無けれ相逢へばこころ幼くなりてたのしき

 四月十七日
 巣鴨天神山に住んでゐた頃、家の縁側から一つののこんもりした森が眺められた。それは廢兵院の構内なのだが、其處に櫻が五六木咲いてゐた。
   雨降ればつめたき縁に立ちいでて遠目には見る森の櫻を
   家に在れば縁よりぞ見ゆ見飽かねば出でて見に來しここの櫻を
   いついつと待ちし櫻の咲き出でていまはさかりか風吹けど散らず

 二月十日(大正八年)
 このあとの歌はすべて自宅で詠んだものである。
   ひえびえと庭の雪より寒さ湧くこの縁側に日は射しながら
   うづだかく置きわたしたるわが庭の雪ひさしくて塵しるく見ゆ
   しらじらと雪のおもてゆ照りかへす光つよくて寂しさ覺ゆ
   ほのぼのと雪のおもてに照りまよふうすら青みのありて日かげる
   日の光かげりきたれば庭も軒端もあをあをとして雪つめるなり
(87)   うす青み煙草のけむりたちのぼる窓の軒端に大雪積めり
   縁側にとどかむとする庭の雪に親しみながら吸ふ煙草かな
   ところどころ濃き藍見ゆる朝空の雲しげくして杉の雪散る
   ときをりに日のさし來れば雪積める裏の林に鵯《ひよ》の啼くなり
   葉がくれに見ゆる鵯鳥大きくて杉の林はいよよ曇れり

 二月十三日
   雪とけてひなたに乾く杉の木のけふうらら日に赤錆びて見ゆ
   うら寒き春の日ざしははだら雪消殘る杉にさしこもりたり
   鷭《ばん》の鳥ぞとめづらかに見つ大雪の積みわたしたる庭に來て居る

 二月十四日
   家の窓ただひとところあけおきてけふの時雨にもの讀み始む
   しみじみとけふ降る雨はきさらぎの春のはじめの雨にあらずや
   堅雪の解けかゆくらむけふの日の二月《にぐわつ》の雨にみなみ風添へり
   春雨のけふの強降りめづらしみ杉の木叢を飽かず見るかも
   獨りゐて思ふひがごとうち消すと強き煙草をつぎつぎに吸ふ
   追々に煙草の醉のかうじゆきわが眼の前の雨いよよ暗し
(88)   獨りゐの晝餉の飯をくひすぎて雨を見て居る雪のうへの雨を
   小机のはしの時計の針ばかり倦まず進むを見てなまけをり
   ぽつちりと眼をただあけてなまけをるけふのひと日の永くもあれかし
   ふらふらと雨のなかさし出でて行かむきびしきけふの心のままに

 二月廿四日
   眼さむれば寢汗しどろに己が生《よ》のさびしきことを夢みたるかな
   うつつにもゆめにもあれや眞さびしき苦しき夢をいま見たりけり
   己が生《よ》のこころぼそさをかき集めひそかに夢に見えて來にけむ
   ゆきづまり泣くに泣かれぬさびしさのわが生の果か夢に見え來る
   ひとのいふ五臓のつかれ心《しん》の疲れわがみる夢はよごれはてたれ
   うつつには思ひもかけぬうとましきわれの姿ぞ夢に見えたる

 二月廿五日
   電燈を低くおろせるわが書齋に夜の更けゆきて雨きこえきぬ
   風ほのかに通へる覺ゆきさらぎの夜雨の降りてぬくき書齋に
   あたたかう夜半降る雨をなつかしみ聞き入りをれば雷の鳴る
   いま鳴るはとほき雷おどろおどろ音のこもりて遠きいかづち
(89)   いかづちのいま珍しくしみじみと待てどもあまた鳴らざりにけり

 二月廿六日
 淺草公園に遊んだ時の即興。
   はァるがきィたはァるがきィたとて唄ふ子は噴水の側に群れて唄へり
   その眼やや大きかれども少女子はその眼見張りてははと笑へり
   その少女そのまろき頬に紅ゐのさしきてやがてははと笑へり
   その少女がたばねあませる黒髪のゆたけき髪は揺れてくづるる

 斯うして引いてゆけば限りがないからこの遽でやめておく。(大正八年)

 今後の前田君の境遇
   ――歌と人、前田夕暮氏―― 

 前田君は尾上門下といふが、雜誌『新聲』の歌壇を尾上さんが選しておゐでた時分に於ける、正當汪洋君と共に僕の先輩であつた。さうして車前草社を結んで以來永く一緒に勉強してきた。勉強してゐるうちに彼の心は、尾上さんよりか寧ろ窪田空穗氏の方に惹かれてゆくやうに見えてゐた。きうして尾上氏と窪田氏との間に迷つてゐた矢先に恰度自然主義が文壇に興つてきた。そ(90)の自然主義にも彼は餘程心を動かされたらしく見えた。そこへ又、主として繪畫の上に於ける運動としての印象主義が出てきて、彼はそれにも亦餘程感動したらしく思はれる。さういふ風に彼は次々にいろいろな色彩の歌を作つて來た。それは彼の初めから今日までの歌集を通じて見ればよくわかることである。僕としては、さういふ事をむしろ不愉快に眺めてゐた。併しさう云つた間に彼は常に彼の本質を失ふ事をば少しもしなかつた。いろいろ形や色は變つても要するに前田夕暮の歌を彼は作つてきた。その點は全集としての彼の歌集に軈て重きをなすであらうと思ふ。傍に見てゐる僕としては、これがもう少し初めから一本調子であつたならば尚彼本來の影を濃くしたであつたであらうと思ふ。同君は常に、自分の歌を未成品を以て甘んじてゐるかに見える。慥かにその如く彼の作は未成品である。彼のどの歌集を見てもこの點は最も著しく目につく。丁度雜誌などといふ厄介な仕事から離れた今日からはその未成品振を棄てて、本當の眞作品を見せて呉れるであらうと期待する。同君が雜誌をよしたといふ事に就いては僕には非常な同感がある。よくやつたと思ふが、彼としては又そこに一種の淋しさがあるであらう。その淋しさによく堪へて、雜誌をよしたといふ事實を有意義ならしめて呉れるやうに竊に祈る譯である。
 前田君と僕とは前にも言つた如く兄弟弟子のやうな關係ではあり、彼是十年あまりも一緒に同じ歌の道を進んできたのであるが、個人としての交際はまことに尠い。これは要するに下戸上戸の齎すところである。さういふ私的關係から今眼前に浮ぶ彼の風※[三本の斜め線を縦棒が串刺し]は、彼が如何にも心地よげに笑ふときの顔とその聲とである。思ふに彼は常にその如く心地よく笑はんとして、そうして笑はずに居る人のやうに見える。それが友達として僕にとつて、何となく近づき難からしむる。
(91) 彼は表面きわめて平和な道を來たやうで、その實、いろいろな惱みを心の内で經驗してゐるかも知れない。戀愛の、女の、創作上の、若しくは日常生活上のいろいろな苦しみを經て來て居はしないかと思ふ。要するにこれは他人の推察に過ぎないが、僕としては慥かにその事あるを思ひ、そうしてそれらの事が今後の彼に役立たん事を祈つてゐる。
 前田君は根はまことにいい人である、懷かしい人である。それが世間からはよく油斷の出來ない人であるかのやうに言ひ觸らされてゐるかの觀がある。然し今後の同君の境遇はよくこの世評を除き得る地位に立つものであると思ふ。彼自身も、漸くこれからは乃公の生地《きぢ》を出せるぞと思つてゐるであらう。それは何事よりも先にまづまづ望ましい事である。(大正八年)

 先生の惡口が縁
   ――歌と人、土岐哀果氏――

.いまでもおゐでる筈だが私達が早稻田のまだ豫科にゐた頃國文を教へて頂いた先生に永井先生といふがあつた。齢の割には頭の禿げた、何處となく瓢輕な先生であつた。何のきつかけであつたかこの先生と、當時日向から出て來たばかりの色の黒い一學生であつた私とは甚だ仲が好くなかつた。隨分先生からいぢめられた。その頃私と毎日机を同じくして坐る程仲のよかつた學生に藤田紀水といふがあつた。この男も永井先生を餘り好いてゐなかつた。怪しい質問をしかくる傍ら授業中の間がな隙がな先生の惡口を殆んど競爭の形で兩人してやつてゐた。ひそ/\とやつて(92)ゐるのだが、次第にその惡口の秀逸が出て來る樣になると自づと聲も高くなつて來た。ちやうど其頃我等兩人のツイ前の机に坐り馴らしてゐた二人の學生があつた。私共の秀逸が重なつて來る頃になると前の机の二人にいつかその惡口病が傳染した。彼等も直接ではないが私共に聞えよがしに同先生に向つて惡口を始めた。その惡口がまた極めて辛辣で輕妙で、とても日向や紀州出の田舍者の我等の比でなかつた。いつか主客轉倒でうしろの我等は聲をひそめて前の彼等の頻りと發展してゆくのに耳を傾くる事になつた。或日學校の退《ひ》ける頃雨が降つた。私は下宿が學校のツイ近くだつたので晝飯の時に下宿に歸つて傘を持つて來てゐた。多勢が此の俄雨のかなり烈しい中を濡れながら歸つてゆく中に前の机の惡口連二人も混つてゐた。思はず聲をかけて君達は何處まで歸るのですと訊くと、僕は淺草ですと中でも背の高い一人は答へた。ではこれをお持ちなさい、僕はツイ其處ですから、と言つて傘を彼等に持たせた。翌日その一人は傘を返しながら「僕は土岐です」と言つた。これが彼と口をきいた最初であつた。今一人は仲田勝之助君であつた事をあとで知つた。
 當時私は車前草社同人として『新聲』に歌を發表してゐた。よくその雜誌を學校にも持つて行つて机の上でこつそり讀んでゐた。それをじろ/\見てゐた前の土岐なる男は或日『新潮』歌壇にある白菊會詠草の所を示して『僕も斯ういふいたづらをやつてゐます、どうぞ宜しく』と言つた。『ア君は土岐湖友君でしたか』と思はず聲を高くせざるを得なかつた。白菊會は會として車前草社よりずつと舊く、然も土岐湖友はその中で當時最も振つてゐたのであつた。この惡口屋があの艶麗一點張りの歌を作らうとは全く想像外であつたのである。それから兩人は全く可笑しい(93)位ゐ仲が好くなつてしまつた。目は惡いが何處か至極お坊ちやんであつた彼が後には折々私の怪しい下宿に泊つてゆく樣にまでなつた。其時私の出す唯一の御馳走は豚肉をごて/\と煮て出す事で、彼は恐る/\箸を出しながら『自宅では牛肉は時々喰べるが豚は……』と言ひ出すのをおつ被せて『牛肉より豚の方がどれだけうまいか知れないよ』と云つた調子であつた。
 兩人はよく學校を怠けて小さな旅行に出かけた。或時は多摩川沿ひを歩いて御嶽に登り、林(と云つたと思ふ)といふ神官(と云つても半ば宿屋風になつてゐるのだ)の家に泊めて貰ひ、その家の女中(名は解つてゐたのだ、おまんさんと云つた)に銚子のお代りを註文するのにどうして呼んでいいか解らず廿分間も苦勞した末じやんけんで愈々土岐君が呼ぶ事になり二階の梯子段の降口まで出かけて『お、ま、ん、さ――ん』とふるへ聲で呼んだ事などあつた。或時は彼と佐藤緑葉と三人して武州高尾山に登つて山上の僧坊に泊り、私だけはいい氣持に醉つ拂つて寢てしまひ夜中に喉が渇いて眼を覺すと、兩人とも床から脱け出て、御丁寧にも兩人が兩人肌身離さず持つて出て來ためい/\の戀人の寫眞を見せあひながらめそ/\と泣いてゐた。當時の私はまた私でそれを見ると非常に森嚴な感にうたれて聲をかけるのも恐る/\と云つた風であつた。聞けば兩人とも同じく喉が渇いてゐるといふ。忽ち犠牲的勇氣を振ひ起して私が水取りに出かけたのだが、離室の樣な所に寢かされて勝手がわからず、苦勞した末雨戸を外すと戸外は月夜で雪が積つてゐる。其上に這ひ出して自分は飽くまで雪を喰ひ、彼等には附近の桶から氷の塊を持ち歸つて噛らせた事などある。
 彼とは京都にも一緒に行つた。市外花園村に私の郷里の友人で蠶絲學校に通ひながら或る農家(94)に部屋を借りて自炊してゐる男の所に四五日を過した。便所が農家の常で肥料溜と共通になつてをり一つごとにとぷん/\と反應のある奴であつた。私も弱つたが、彼は更に弱つた。會議の末野外で試みることになつた。折しも月の夜、家の周圍の薩摩薯の畑の中に相當の距離を置いて相構へた。折々虚勢を張るために聲をかけ合つて、まん前の衣笠山のまる/\しい姿を眺めながら月を賞して用を足した事など思ひ出すとあはれになつかしい。
 土岐君に極めて美しい妹さんがあつた。ほんとに美しい人であつた。或朝土岐君と私の下宿に枕を並べて寢みながら、若し君が欲しいなら妹を君にあげるよ、と言はれてから妙に氣がさして今までの樣にしげ/\淺草の彼の家をよう訪ねなくなつてしまつた事もある。
 思ひ出はなか/\に盡きない。
 彼はいま新しき才人として、敏腕なる新聞記者として社會上の地歩を極めて確實に占めて行きつつある。そして(これは多くの人には氣づかれない樣だが)その一面に彼は捨つる事の出來ない生れながらの或る寂しさを持つてゐる樣である。それがつまり彼をして忙しい中から歌を作らしめてゐるのであらうが、折々新聞社の應接室に彼を訪ねて見ると私は極めて多量に昔ながらの土岐君を見出だすのが常である。私に逢ふ時だけ特にさうなのかも知れないと思はれるほどさうである。強い樣で、弱い人である。(大正八年)

(95) 出發點一つ二つ
     ――初めて歌に志す人々に――

 歌人になると言つても根本は要するに普通に言ふ藝術家の心掛がありさへすればよいと思ふ。それに藝術家としての素質とその努力があつて、その上に歌といふ特種な形式に對する憧憬執着があれば歌人として立つ根本の要素が具《そなは》つたものである。「歌」若しくは歌人といふことにつき過ぎて、自分自ら非常に窮屈な範圍の中に棲んで行くやうな傾向が折々目につく。これは一種傳統的な習慣と言へば言へるが、そのために歌そのものゝ自由を殺してゐるのが少くないやうに思ふ。で、「歌詠みになる」といふことを最初から頭腦《あたま》に置かずに、只「藝術家になる」「詩人になる」といふ覺悟で出立して欲しい。殊に、今後の新しい歌を作る上から一層その必要なのを思ふ。
 それからいま一つ注意したいのは歌は形の小さいところから兎に角に作り易い。殊に色々な規則や習慣の取除かれた所謂新派和歌にあつてはそれが著しい。私は曾て、數年前に、今後の新派和歌が昔の床屋の親方や八公熊公などのやつてゐた所謂發句なるものに取つて代らねばよいがと懸念を抱いてゐた。ところがどうやら此の頃の有樣では私のその懸念が實現されさうにまで餘りに普遍的に、あまりに容易に、歌といふものが取扱はれて來たやうに思ふ。きういふ状態であるが故に一般の人が、歌といふものを非常に早呑込に、さうして好きだといふのを表看板にして内