若山牧水全集第十巻535頁、600円、1959.04.30

雜文

   目次
雜文
彼の一卷、この一卷……………………… 5
石火記……………………………………… 9
歌の話……………………………………… 12
耳川と美々津……………………………… 15
遠き日向の國より………………………… 16
六號私見…………………………………… 21
行人獨語…………………………………… 37
「佇みて」を讀む………………………… 42
「赤光」に就いて………………………… 47
大會前記…………………………………… 48
誌友大會始終記…………………………… 53
大會後記…………………………………… 58
大會雜觀…………………………………… 63
この不滿を如何…………………………… 69
齋藤茂吉君へ……………………………… 71
「潮音」創刊について…………………… 72
『砂丘』のこと…………………………… 73
父も母も若い俤…………………………… 75
「砂丘」の批評について………………… 77
姉の讀む物語から………………………… 79
『海の聲』のこと………………………… 81
歌日記……………………………………… 83
今後の前田君の境遇……………………… 89
先生の惡口が縁…………………………… 91
出發点一つ二つ…………………………… 95
所感………………………………………… 97
旅より妻へ………………………………… 98
森、湖、及び人…………………………… 112
『海の聲』出版當時……………………… 126
石川啄木の臨終…………………………… 131
半折短册會を起すに就いて……………… 135
大會前記…………………………………… 137
大會後記…………………………………… 145
抗議………………………………………… 156
最近の感想………………………………… 157
時雨酒……………………………………… 158
淺野君に答ふ……………………………… 160
安成二郎君に答ふ………………………… 163
汽車の中にて……………………………… 166
大會雜報…………………………………… 167
解説………………………………………… 172
病床漫吟…………………………………… 176
中央新聞記者時代
不忍池の大螢狩…………………………… 179
夏の都の湊口……………………………… 180
震後の江山………………………………… 184
「新片町より」を讀む…………………… 188
九月の短歌………………………………… 189
靈柩を迎ふ………………………………… 192
秋は寢たり偉人の墓畔…………………… 194
主宰誌編輯便……………………………… 197
明治四十四年……………………………… 199
明治四十五年……………………………… 218
大正二年 ………………………………… 222
大正三年 ………………………………… 242
大正六年 ………………………………… 274
大正七年 ………………………………… 305
大正八年 ………………………………… 327
大正九年 ………………………………… 354
大正十年…………………………………… 363
大正十一年………………………………… 374
大正十二年………………………………… 389
大正十三年………………………………… 415
大正十四年………………………………… 444
大正十五年………………………………… 466
昭和二年 ………………………………… 498
昭和三年 ………………………………… 521

  第十巻 雜篇

   雜文

(5) 彼の一卷、この一卷
         ――詩集の印象――

 私の中學四年の頃、肥後の熊本へ秋季修學旅行が催されたことがある。熊本では或るお寺に泊つて城や市街を見物した。その頃から私は細々と三十一文字を並べてゐて、その周圍では先づ兄貴分の地位に立つてゐた。所でそのお寺に泊つてゐたうち、右の私の弟分に當る或る一人が、とある夕、二册の細長い妙な形の本を持つて歸つて來た。何だと訊くと、歌の本だといふ。なるほど二册ともに歌ばかりで埋つて居る。兩方とも聯か破れてゐた所などを考へると先生古本屋から見出して來たものらしい。翌日は熊本を立つた。肥後の平野を貫いて白々した秋の道路に沿うて阿蘇山麓に進むのである。既に日向から肥後へ幾多の山河を横切つて來てゐるのでその年少い旅行隊はもう大分疲れて居た。火山の麓の宿驛の宿屋はたしか粟屋と云つた。茅葺の屋根には月がさして煤けた窓から月光裡に立昇る山の煙がよく見えた。組が違つて居るので、行進中は一寸逢ふことの出來ぬ右の男が其處へ來て、例の二册を出して、一册のは實によく解るが一方のは一向解らぬ、是でも歌であらうかと日向訛の獣的な調子で私に尋ぬる。よく見ると一方のは表紙に『おぼろ舟』と題してあり、一册のは赤い文字で『みだれ髪』と書いてある。一方の『おぼろ舟』を開いて見ると、いかにもよく解る、當時の我等には實にそれが無上の佳作である樣に思はれた。一方の『みだれ髪』の方を取つて讀んで見ると、例の「夜の帳にさゝめきつきし……」から(6)始まつて一つとして直ぐ了解の出來るといふのがない。仕方がないから、乃公にも解らんといふと、そんなら是をば君に上げよう、持つてゐたつて仕樣がないといつて『おぼろ舟』だけを大事相に懷中して彼は去つた。貰ひ受けた『みだれ髪』を丁寧に一字々々と讀んで見たが中々解らない。そのくせ何だか底に奇妙なものがある樣で、幾度びも/\教師にかくれて繰り攪げて見た。その翌日は愈々阿蘇に登つた。途中休息の間や歩きながらもこの細長な小形の本は幾度びか汚い小倉服のポケットを出入したものだ。阿蘇に登り、三國峠を越え豐後路から日向の國に歸りつくまで常に斯くあつた。阿蘇の舊噴火口の跡だといふ坂梨を登つて、ずうと海の樣になだらかに傾斜した豐後の高原を通る時など、隊に遲れて讀みながら歩いたのなどがよく思ひ出される。その翌年の春、日向の耳川の上流の田代といふ村へ友人を訪ねて行つた。丁度友人は留守で、薄暗い百姓家の――庭さきには山櫻が咲いてゐた――部屋の縁に腰かけて待つて居ると、机の上に『新派和歌評釋』といふ小さな本が載つて居る。何心なく讀み始めると、さア耐らないほど面白い。今まで唯だぼんやりと瞳の前に映つてゐた神秘の國に親しく一歩々々を運び入れる樣な氣持だ。脚絆も解かずに讀み耽つた。それに由つて私は當時の新派和歌といふものを漸く了解し得た樣な氣がした。著者は黒瞳子と書いてあつた。聞けば今の平出修氏である相な。右の熊本で二册の本を買つた男も三四年前郷里を飛び出して文學をやるとか云つて東京に出て來て、前田君などにも大した迷惑をかけてまご/\してゐたが、中途で踏み外づして今では飛んでもない者になつて居る。先日の國からの便りによれば自殺したとも云ひ監獄に入つて居るとも傳へられて居る。『おぼろ舟』の著者は現今の人は大概知るまい、長谷川濤涯と云つた人だ。つい先頃まで數寄屋橋の(7)無名通信社に居るといふので、一度逢ひたいものだと念つて居るうちにもう今は居なくなつた相だ。田代村の友人は兵除にとられて樺太に行き、朝鮮に行き、今は歸つて村の郵便局に居る相だ。來號の本誌にはその人の歌を載せたいものだ。一昨夜であつたか前田君とこの『亂れ髪』の話が出て、毎年梅の咲き出す頃になるとこの詩集が讀みたくなる、そして愈々その歌を見るとすぐいやな氣になるが、とにかくこの讀み度いといふ心持だけは誠にいゝものだと話し合つた。阿蘇を越えた『解らぬ本』はいま東京の早稻田の或る家の二階に破れ/\て殘つて居る。
 同じく郷里の中學に居た頃、私の下宿してゐた大見といふ家――そこの息子は僕等の先輩で歌を詠み文を作つた、今は鹿兒島の港務局とかに居る相だ。名は達也といふ、同地の創作の社友中で誰か一度訪ねて行つて見給へ、背の高い、鼻の隆い男だ――に或日僕を尋ねて若い男がやつて來た。出て見るとそれは久しく逢はなんだ僕の從兄である。彼もまた家業を嫌つて家を出て諸所飛び歩いて數年間といふもの逢ふことが出來なかつたのだが、或時僕の投書した作文か何かを何かの雜誌で見て僕が村を出て某町中學に入つて居る事を知り學校宛に手紙を呉れ、爾來幾度びか文通をばして居た。從兄を見て僕はもう嬉しくて/\仕樣が無かつた。勿論彼の歸國は失意のはてゞある。彼はその夜酒に醉つてまだ子供の從弟を捉へて盛んに憤慨した。そして汚い風呂敷包の中から取出して大聲に讀み始めた本がある、それが即ち薄田泣菫氏の『ゆく春』であつたのだ。從兄には、確かに眞の意味の天才の素があつた。當時彼の作つてゐた長詩、短歌等を思ひ起して見ると、目下盛んに作られつゝある象徴ぶり官能ぶりの作風に全然適合して居る。惜しい事に彼はまだ國にも歸らず、事をも爲さず、いまは福岡の近所に哀れな生活を送つて居るらしい。(8)もう三十を餘つ程越したであらう。餘談はおき、その『ゆく春』は著者から時任霧峯に贈られたとかいふので、霧峯はまた從兄に贈つたといふ履歴つきのものであつたと記憶する。霧峯とは當時の新詩牡で羽振を利かせた人で、與謝野さんなどはよく御存じだらうと思ふ。今でも時々新詩社詠草の中に名を見る園田愛緑氏なども從兄の知人であり、尚ほ熊本縣の緒方雁峯などと云つた人もあつた。恐らく『ゆく春』ほど僕の愛讀した本はないだらう。いつしか一字一句を悉く暗記して、山に行き海に行く時など殆んど間斷なく僕の唇頭にその中のどの詩かゞ上つてゐた。東京に上る時もその本を――言ひ落したが、從兄からその履歴つきの本を強奪しておいたのだ――携へて來た。そして散歩や旅行に出る時など一度として缺かしたことはない。だから中國や紀州や色々な國々をこの本は旅行した。身體に似合はず僕の咽喉は美しい聲を出す、そのいゝ聲で實に幾百千度か吟じ上げられたものだ。所がいまは僕の手許にその本がない。知つて居る人は知つて居るだらう、もと僕等が雜誌新聲に歌を出してゐた頃、一緒に出してゐた關葩水と云つた男がある、小學校からの友人で中學を途中で止し、大阪に出て繪をかいてゐた。その男の戀人が矢澤孝子君の友達であつたか何かで矢澤君も屹度この男を御存じだらうと思ふ。本をばその男に呉れて了つたと覺えて居る。この記憶にして相違が無かつたならば、葩水は昨年死んで了つた、それと共に我が愛する『ゆく春』一卷の行衝も終にもとめ難いであらう、――その後一二册買求めたが、思はるるはあの古い破れた一册である……森の家より野に出でて、ゆふべの雲を眺むれば、緋絨裂けし落武者の、すがたに似たる春の暮、穗の毛のびたる大麥の、畑にかくるゝ笛の音よ……――。
 噫、希くぽ今夜我をして一椀を傾け、かの滿卷の詩を高誦せしめむことを! (明治四十三年)

(9) 石火記
     ――「創作」誌友會の記――

▽あの日の會合の象徴をわが北原白秋君となす。その故は、息せきと馳けつけて、來るや否や、わアつといふ騷ぎに忽ちもう眼が見えなくなり、忽然としてまた脱兎の如く京橋は木挽町まで走せ歸り、二階の部屋から室内の書籍を悉く庭に投じた同君の情緒氣分は即ち當日の會合そのものの情緒氣分であつたと認知せざるを得ないのである。
▽僕は當日の朝、田端の小杉未醒氏の宅から出て來たのであつた。途中で緑葉君と落ち合つて十二時すぎに會場へ行つた。行つて見ると今朝の十時から來て待つてゐる人があるといふ。見れば山崎阿木良君であつた。同君とは昨秋信州で逢つて知つてゐる。
∇縁側の日向で來る人を待つてゐる間のつらさといつたらなかつた。四邊の樹木はすつかりもう芽を吹いて櫻が汗ばんだ樣にそこらに散り乱れてゐる所など、すつかり晩春初夏の重苦しい氣分で、どうしてもじつとしてゐることが出來ない。その心を抑へて鹿爪らしくしかも甚だ呆然として人を待つこころもちといつたらなかつた。其處へ火事だといふ。この風では定めし燒けることでせうね、一體何處です、吉原ですよ、左樣ですか……などとやつてゐるものの何だかひどく氣が氣でない。
▽來る筈の人がなか/\來ない。火事の方に取られましたよとみんな恨めしさうな泣き出しさう(10)な顔をして、燃えてるといふ空の方を仰いでゐる。庭の籬根ごしには三々五々春衣をこらした若い女連中が通つてるのが、あてつけがましく見えてる。つけ元氣の雜談もともすればとだえがちになる。時はたつ。
▽そこへ珍客の長田秀雄君がそろ/\歸營の時間に近づいたといつて帶劍などをつけ始める。耐へかねて膳を出すやうに言ひつける。その間に僕は大いに雄辯をふるつて開會の辭を述べるつもりでゐたが、ばた/\と膳部の並び始めるのを見るともう何をいふのも面倒くさくなつて唯だ口のうちで、ムニヤ/\にして了つた。さアぞれからだ。
▽何しろ初めからさういふ有樣で十分にぢれてゐた所へずらつと銚子が並んだのだから耐らない、電光石火の如くに一同ががぶ/\とやり始めた。がぶ/\では甚だ言ひ足りない、實際はもつと急激なものであつた。十四五本も銚子が什されると、ソロソロ調子外れの黄色な聲がそこらで聞え出した。みんなの目や鼻の格好が少しづつ變つて來た。
▽泰然として腰を拔かす、といふ言葉がある。當日の牧水には聊かその氣味があつた。會のあとで、あの日は君は餘り醉はなかつた樣ですね、と誰からも不思議がられたが、なアに實際は飲まぬ前からふら/\してゐたのだ。だから杯が膝のまはりに七つ八つ宛並んで來た頃は既に泰然として拔かしてゐたのである。
▽怒濤の如くに皆が醉つた(のだ相だ。實は僕もこの怒濤の一分子たりしが故に其詳細を知るの光榮を有しない)その中でも尚ほ且つ珍とするに足るのは〇〇君紛失の一件である。もう會も終りがたで、人は大方歸つて行つた、氣がつけば〇〇がゐない、羽織も帽子も荷物も下駄もある。そ(11)して本尊の人間だけが紛失してゐる。ツイ先刻まで切りに鼻聲になつて山水君に行つたり福永君を捕へたりして飲み廻つてゐた細長いひとが急に見えなくなつた。さア大變といふので手分けをして探したがなかなか見つからない。誰か一人これから△△の彼の宅まで行つてみなくてはなるまいと會場の門口に立つて評議してゐる所へ、――少しくその場の背景を語らしめよ。公園の松木立入り亂れて、アーク燈の薄紫の光ほのかに其間に漂ひ、地には落花白く亂れて、行人殆ど絶えたる眞夜中近く――ふツと向うを見ると、髪長く亂れて泥を帶び、躯幹松の如くに瘠せ、瞳すわり、兩手をだらりと下げた人物が忽然としてその木立の間に表れた。わが〇〇君其人である。彼は醉後獨り身を逃れて晩春の松籟に心耳を濟ましてゐたのださうだ。
▽まだ澤山あるがもう止さう。要するに實に他愛なく醉つて遊んで子供のやうになつてみんなが別れて行つたのである。
▽實は斯ういふ會合でなく少しく鹿爪らしいものにする筈であつたが、幹事の方に急用が起つたり、また講演演説を頼んだ人に差支へがあつたりしたので、それではその種の會はまたに讓り今度は唯だ面白く遊ぶだけの會にしようとツイ當日の二三日前に方針を一變さしたのであつた。そして我等は滿足してこの會合を終つたのである。
▽終りに當日の會合に對し祝詞祝電及び金員を寄せられた原田實君、高鹽背山君、乾山茶花君、東雲堂君の厚意に對し一同を代表して謝意を表する。(明治四十四年)

(12) 歌の話
     ――田山花袋氏を訪ふ――

 四月十七日、快晴。郡山君と共に巣鴨停車場から二時間近くを電車と汽車に搖られ十一時近く横濱へ着いた。横濱の土地に留ること僅に十有五分間、清水氏を同伴して再び東京行の汽車に轉げ込み、車中に用談を濟まし新橋にて同氏と別れ、精養軒、東京印刷所及び他一軒を訪ひ、日本橋のまる花にて麥酒と晝飯とを掻込み、郡山君と別れて、唯一人博文館編輯部三階の應接間に突立つて汗を拭つた時は殆んど既うぼんやりとなつて了つてゐた。午後二時頃の日光が窓に當つて、窓からは風と煤煙と砂塵とに包まれ終つた初夏の市街がいら/\輝いて海の樣に見渡される。何か知ら用事を頼む時にのみ登つて來たことのあるこの三階の應接室は逸早くも自分の身にあれこれと佗しい追憶を強ひずにはおかなかつた。一室を二間にし切つて、一個の机、三個の椅子及び幅廣い書棚のほかには別に裝飾とても見當らぬ。机の上には一個の灰皿と赤いレッテルの半ば破れた燐寸箱が二つ置いてある。

『たいへん白髪がおふえになつたぢアありませんか』
 自分は先づ何より是に驚いた。
『えゝ、僅か一二年の間にどうも……、ひどいお爺きんになりましたよ、もう四十二歳ですから(13)……、考へも何もすつかり變りました』
『でも、ひと頃よりはずつとお肥えになつた樣ですが……』
『そうかね、左樣かも知れない、すつかりのんきになつたから……』

『僕はもとから熊谷直好の歌が好きで……イヤ/\そんなに手帳などに書きつけられては困る、君が聞いてゐて解つただけで……僕などは元來景園派のうちでも、寧ろ景樹より直好が好きだ。何處が好いといふことはないが、あの巧まない裡に却つて強く人の心を惹きつける所がある。そして彼が當時の歌人中に在つて他と異つてゐた第一は、彼は自分自身及び人間といふものを常に自然の一分子と見て靜かに歌つてゐたことで、單に感情そのものに没頭する所などが無かつた。同じ山を詠み草木を詠むにしても常に自分自身の存在を忘れなかつた人である。そして能く自然といふものを見た人で決して空騷ぎの歌をば詠まなかつた。またそのため多く歌が治極的になつてゐる所はある。景樹は巧みだが、どうも俗で不可ん、どこか鐵幹君の風がある。
   咲く花も瀧もましろにあらはれて暮れゆく山のおくぞさびしき
などは直好の歌の好い例である。其他能く記憶してゐないが、
   いまぞ知る野にも山にもおく露はみな旅人の涙なりけり
   里の子が澤に鴫わな張りしよりこころにかかり夜こそ寢られね
   笹の葉の白きは霜の光にてまだ夜は深し岡の邊の里
(14) どこか斯うものの奥に靜かに濟んで居る涙とでもいつた樣な歌が多い。最後の一首などはいかにも旅の心地がよく表れてゐる。

 僕の師匠(故松浦辰男氏)などは始終「初一念で詠め」と言つて聞かした。直好の歌などが如何にもこの初一念から出來てゐる樣だ。初一念とは心で巧まない、作らうといふ氣持で作らないといふ謂である。子供の樣な初一念でなく、考へた上の初一念で詠み度いものだ。昨今の歌はどうもわざとらしく、理窟つぼくて不可ん。歌は決してああいふものぢアないと思ふ。君の作などは新しい歌の中で僕の愛讀してゐるものだ。僕は感情そのままをすぐ歌とせずにそれを眺めてゐる氣持で詠んで見度いと思つて居る。

 僕の最近の作?……僕のなどを言ふとまた相馬君に笑はれるから……、ソラ西園寺侯の雨聲會の時のあれさ、ハヽヽヽ、もつともあれは新聞のが違つてゐたよ。實際は
   大川の水にうつれるともしびのかげさやかなり初秋にして
といふのだ。大いに得意の作なんだが。
 そのほか?…どうも一年に三首か四首位ゐ詠まうといふ歌よみなんだから…。七月頃日光の奥の湯元に行つてゐた。彼處は石楠花の多い處で、その湯元の宿屋になか/\きれいな女中が居た。
   奥山は七月に吹く石楠花の花ばかりとも思ひしものを
 ハヽヽヽヽ、(明治四十五年)

(15) 耳川と美々津

 「即興詩人」を讀んだ人は覺えてゐるであらう、アントニオが賊の山寨から逃れ出て二三十里にわたる曠原を馳けに馳けて來ると、不圖眼の前に眞蒼《まつさを》な異樣なものがあらはれて來た。彼はあまりの驚きに暫しは茫然としてこれを眺めてゐたが、やがて惶しく馬から飛び降りて、「海、海、ああ地中海よ!」と呼んで涙の溢るるにまかしたといふことを。
 また、日本の一詩人が米國に渡る船のなかに在つて、
   海を見て太古の民のおどろきを我《われ》ふたたびす大空のもと
   大空の圓きがなかに船ありて夜を見晝を見こころ怖れぬ
と歌つたこともある。初めて海を見て驚く驚愕《おどろき》は總ての驚愕《おどろき》の中にあつて最も偉大な崇高なものであらうと思ふ。
 私は六歳か七歳の時、母に連れられて耳川を下つたことがある。そして舟が將さに美々津に着かうとする時、眼の前の砂丘を越えて雪のやうな飛沫を散らしながら青々とうねり上る浪を見て、母の袖をしつかと捉りながら驚き懼れて、何ものなるかを問ふた。母は笑ひながら、あれは浪だと教へた。舟が岸に着くや母はわざ/\私を砂濱の方に導いて更に不思議に更に驚くべき海、大洋を教へてくれた。その時から今日まで、海は實に切つても切れぬ私の生命《いのち》の寂しい伴侶《みちづれ》となつて來てゐるのである。
(16) さういふ記憶を除いても私は美々津が好きである。河口の港には必ず着いてゐる氣分、即ち何となく解放されたやうな、ゆつたりした氣分はこの南國の美々津の港に實にいつぱいに滿ちて居る。耳川を下つて來て遙かに此處の帆柱を望み、砂丘や浪を眺めた氣持は言はずもがな、富高の方から車で來てあの幸脇上の阪から白々したこの港を瞰下した時にも、亦た斯の氣持は必ず起つて來る。自由な、爽快な、新鮮な氣持!
 あの渡舟場の舟を待つて砂の上に佇む度ごとに私は常に鮮かに「旅」といふことを思はせられぬことはない。遠くから遠くへ渡る旅の心地、これはどこの港にでもある氣分だが、美々津は一層それが強い。山陰《やまげ》からの高瀬舟を降りて渡舟を待つてゐると、相變らずあたりがざわ/\してゐる。馬車夫は馬を河の中に迫ひ入れて腹を洗つてやつて居る。若い女は筒袖の短い襦袢を着て脛もあらはに桶か何か洗つて居る。見れば色うすく黒く※[月+鰐の旁]のあたりから襟のほとり、乳も腕も氣持よく肥えて瞳は黒い玉のやうに涼しい。眞黒な髪をばゆた/\に無雜作につかねて、馬車夫と何やら聲高に罵り合ひ笑ひ合つて居る。(大正元年)

 遠き日向の國より

 私にはこのごろいよ/\露西亞の新しい人のかいた小説が身にしみるやうになりました。ゴルキイの「夜の宿」(とツイ書きましたが、私の讀んだのは昇さんの譯した「どん底」の方でした)などが、漸くわかるやうになりました。もつとも「どん底」を讀んだのは、二三年前の秋、三四(17)ケ月信州に行つてゐたとき、小諸町の病院の二階で讀んだものでした。そのときには、殆んど無意識に五感を刺戟せられたやうな形で、解つたやうな、解らないやうなものでした。昨今、漸く彼の一篇に出て來る人たちの心持、それを描いた作者の心持に、意識的に同感するやうになつたと思ひます。その時一度讀んだきりの本を、いまになつて憶ひ出すのなども可笑しい話ですが、まつたくさうなのです。そして近頃、鹿兒島からの歸りみち、船の中で、クープリンの「決闘」を讀みました。これは、もう讀みながらも書いてある以上のことにまで心が走つて、却つて困つた位でしたが、こんなのを讀むことは、いよ/\目下の自分の苦惱を鮮明にする所以なのです。ロシア人は、みな、自ら解決することの出來ない人たちらしいのです。一種先天的の無意識的の不安苦惱に驅られて、一意にその方面へやつて行く、そして、いよ/\といふ瀬戸際になつて、眼を瞑つてしまふ。まつたく、いぢらしいほど、さうなのです。そしてそれがまた氣味のわるいまでに目下の私には了解同感出來るのです。悲しいことに、私には彼ほどのエナージイが足りません。健康状態から來るのではないかと思つたりして、自身をかへりみてゐます。
 お讀みでなかつたら、右の二册など讀んでごらんなさい。作としては評判ほどには私には思へないけれど、これらの作ほど、無言の裡に我等に語るものは、多くありますまい。
        *
 歌が出來ない、といふのにもわけがあると思ひます。作りたくないから出來ないといふのか、作らうとしても出來ないといふのか、私のは、いま後方の部に屬してゐます。作れば、無論出來るが、自分の心持と、よほどかけ離れたのを感ずるときに、もうそれを自分の作と認めたくなく(18)なるのです。
 私はこのごろ、人から送られて、人麿の歌集を讀みました。そののち、幾日もたゝぬうちに、これも人から借りて「路上」を讀みました。夜なかでしたが、私は床から起き上つて、この二册の歌集を一所に置いて、何とも言へぬ涙をおぼえました。斯ういう單純な生活――生命といひますか、ヒユーマニチイーと云ひますか――に甘んじてゐた自他の人におもひやる涙であつたのです。――單純なといふ簡單な形容詞では甚だ不充分ですが――
 要するに、その時その時の生命です。今日から、昨日の作をなみするわけにはゆかぬ。そして、唯だ心の注がるゝのは、最も切端迫つたいまであるのです。寧ろ未來といひたい位のいまであるのです。
 前後を考へ合せて、ねち/\とていさいよくぼろを出さずにやつて行く人々を我々は何といひませう。
        *
 東京の佐藤緑葉から手紙をくれました。中に、『西洋の地圖のくわしいのを借りて持つて歸つて「ヴアンゴオホ」のひとり住んだといふタヒチの嶋をしらべてみた。ゴオホはフランスのポストアンプレツシヨニストの中で特にすぐれた人であるが、タヒチとは一體どこだらうと僕は考へたのだ。索引を繰つて、探しあてたところによると、タヒチとは濠太利の東方、ニュージイランドのやゝ北にあたる南太平洋の一孤嶋であつた。』
 と斯うありました。どうでせう、私はもうこゝまで見て呼吸のつまるやうな感におそはれて、(19)地圖のけし粒ほどの嶋と、繪具箱一ケを負つて、澄んだ瞳を動かさずに、そこまでやつて行つたゴオホとをおもひ浮べないわけに行きませんでした。われら眞個に生きざる可からず、極端まで生命のいたみの源を追求しなくてはならぬ――斯んなことを野暮臭くもまた眞劍になつて考へ始めました。要するに、我等は、あまりに上のそらで生きてゐる!
        *
 斯うは考へてゐるが、サテいかにすべきか、いづくに行くべきか、これが少しもわからないのです。
 どうしたらいゝだらう、という叫びを、心から全ての精神を茲に集めて叫び度いのです。これが、まことに、せめてもの願ひです。
        *
 九州はもう梅は過ぎました。鹿兒島には寒櫻とかいつて、淡紅の八重のさくらが咲いてゐました。こちちには三月の中旬でなくては、さくらは見られません。例の山ざくらといふ、花よりも葉の方がさきに出る單瓣の美しいのです。私は、あれを十年ぶりで見るのです。東京にはありません。東京の櫻は造花のやうなものでした。
        *
 嶋原に渡りましたとき、雪がちら/\してゐました。そして、そこ此處に紅梅が咲いてゐました。日も明るく照つてゐたのです。嶋原はまことにいい港でした。たいへんに醉つて、とう/\宿屋でがまんができなくつて、例の灯のみ明るい狹い市街へ入りこみました。そして不思議に例(20)の「別離」のヒロインそつくりの女を、そのなかに見出して、ひどく驚きました。上つてみましたら、その氣質まで、そつくりでありました。
 翌日の晝、汽船でその港を出やうとしましたとき、甲板の上の私の名をしきりに呼ぶものがあります。不思議に思つて見廻しましたら、汽船はすれ/”\に遊廓の裏を通つて出て行きつゝあつたのです。
 私は、(バカなことを云ひ出しましたが)どうしても「別離」のをんなを忘れることが出來ないのを、このごろになつてしみ/”\さとりました。あの時分の自身を、まことにバカ/\しく、物足りなく、齒がゆく、身もだえて思ひ起します。私はそのころ、あまりに何をも知らなかつたのです。そして、一面から云ひますと、戀をする準備の出來てゐない愚かな若者にとつて、彼女はあまりに怜《さか》しくあつたのです。
 問はれるのを恐れて、これから申します。その後、彼の女の生死すらわかりません。私は、こんど上京したら、全力をつくして、彼女のあとを探します。そして、よそながら幸福な生活裡にある彼女を發見せむことを畏れつゝ祈つてゐます。然し、恐らくさうでありますまい。
        *
 旅は然し、作の方から見ますと、大分邪魔になりました。東京から歸郷後の心が漸くまとまつて、ぼつ/\歌の出來かけてゐた(一月號發表分)所へ今度の旅で、またすつかり心の整調を破りました。といふより、身體の健康をこわしました。一首も出來ません。「東北」へも失敬しました。どの雜誌へもよう出しませんでした。四月號までには出來ださせるつもりです。
(21) 一月號の私の作の評判の今さらながらに惡いのに多少驚いてゐます。小細工人どもに、ものゝ解りやうはありませんが、斯うわるく云はれる歌を作らねばならぬやうになつた自分を省るときに、一種緊縮した感をおぼえるのです。これからのは、もつと、ひどくなりませう。
        *
 早く櫻が咲いてくれゝばいゝに、とそれのみいま祈つてゐます。霞の深いところですからね。春は非常によかつたとおぼえてゐます。少し月並だが毎日のやうに酒でも持つて、山のおくへ入り込むつもりです。(二月十九日いやな曇り日)――(大正二年)

 六號私見

     前月歌壇

 初め、斯んなに歌を書きぬくことのみをせず、まとまつた批評の記事を作るつもりであつた。頁と時日との都合から、愈々の場合になつて斯ういふ風にして了つた。これも初めは多くの中から優秀の作と認められるものに點をつけておいてあとから書き移したものであつたが、いざ清書といふ段になつてその優秀と認めた自身の眼に甚だしい疑惑と侮蔑とを投げねばならぬのを感じた。一例を引けば、點をつけたなかに「目はとづれど衰へし身にせまりくる木の葉いきれも悲しみとなる」といふのがある。衰弱した身に迫つてくる夏の樹木の蒼臭い呼吸や色やの心持に取敢(22)へず同感して點を附けたものであつたが、親しく清書のときになつてみると、目はとづれどといふ言葉も全體から見て極めて弱いし、曖昧だし、句と句との移りゆきも甚だふなふなしてゐるではないか。一貫した強みが缺けてゐる。これなどは單に手法の上に故障があるのだが、全體から見てもつと貪弱なのが他に多いかも知れぬ。要之、雜誌々々か又は各個人の特色を見るために拔萃を作つたといふ方が適當かと思ふ。主旨は優秀なるものをとの考へを一貫させた。
 此等のなかでは前田夕暮君の「冬青の葉」が一番私に強く響いた。曲のない、噛み締むれば味の出る詠みぶりが、誠になつかしかつた。尾上柴舟氏のにも同じくさういふ感じを覺えた。尾山篤二郎君については項を別にして記しておいた。
 初めは地方雜誌にまで克明に眼を通して、點だけはみな附けてあるのだが、頁の都合から割愛した。來號は更らにもつと面目を更めて此欄を作り度い。私一人でなしに、誰かに加勢を頼みたいとも思つてゐる。
 然し、見渡したところ、何といふ歌の寂びれかただらう。惰力と因習とによつて空しく羅列せられたあやしきものを通覽することに今更めいた驚きを感ぜずにはゐられない。
 一度高い崖から轉がり落ちた氣にでもなつて、めい/\にもう少し強く驚いて見ようではないか。
 さういふことから、本誌「創作」などをば端から端まで丁寧に、寧ろ辛辣に見ていただきたいものと思ふ。わるい所があつたら、どし/\突き込んで頂き度い。
 詩歌
(23)  朝鮮にて(土岐哀歌)
わが顔のまことに黄ろく痩たるが朝鮮に來てさらに悲しも
韮と垢とたばこと酒とのごつちやになれるそのにほひにも馴れつつあるかも
  夏草の朝(田村飛鳥)
唇をかみものおもふわが前に夏草の花ひからびて咲く
  淋しき血管(山田邦子)
暗き家淋しき母を持てる兒がかぶりし青き夏帽子はも
ちり多きこの六月の夕ぐれのものの明りの迫る悲しさ
兒の肉につと齒あつれば全身の愛ぞめさむれけものの如く
  赤潮と岬の空(寺井義)
夕潮はわが血の色に似て赤しなみだかきたれ海にむかへる
太陽をつつみて空ぞ赤かりき血のごとき心ゆきかへりする
思ひ屈し風青き野の堤防の上にきたりて日の光嗅ぐ
  初夏の鬱憂(村田光烈)
夏來る我の酒屋をいづるとき樹々あを/\と限にうつるなれ
  青き夜空(佐々木順)
いねずして血ぞ走りたるわが眸に薔薇輝けり薔薇輝けり
わが部屋の赤き薔薇を見てゐしがそのまま君は歸り行きけり
くろずめる夜の青葉に雨そそぐわれら無言に見てありしかな
  處女の素肌(小谷清子)
(24)君おはさば許さるまじきうたたねをひそにしてみつ心うれしき
  樫の木(都會詩人)
光なき君が黒髪うちすてて行くも悲しく行かぬも悲し
事みなは道にすてたる食ひさしの蜜柑の皮とばかりあぢきなく
  うしろ影(瀧澤謙)
母よりも父に親しむ子の心思ひやりつつその寢顔見る
  燃ゆるかなしみ(米田雄郎)
空とほく青みわたりてしんしんと夜はふけにけり街をわれ行く
不孝なるわれの涙もにじみたり机にかけしロシヤ更紗に
  路傍の石(佐藤嘲花)
路ばたの石にまろびし幼兒のまろびしままに泣けるをぞ見る
今日もまた雨かや吾兒がかき鳴らすちさき太鼓の音のかろさよ
  五月の薔薇(金子不泣)
五月わが眸はなみだに濡れにけりか黒きつちに咲ける薔薇よ
たまゆらのをののきふとも身を襲ひ手にせる薔薇を地におとしけり
  青葉の壓迫(小野深雪)
橋の上にながめてあればいつしかにこころ流れて君をしぞ思ふ
  喜悦の惱み(奥村博)
たましひは君が頸をいだきしめくちつけしまま瞼ひらかず
  黒き草の實(狹山信乃)
(25)六月の空の濁りよ悔おほき手が植ゐしこの夏ぐさの花
うすじめる土の匂ひをなつかしみ秋さく花の種子まきにけり
君が愛に掩はれてゐるこの心瞳ひらかぬさびしき心
  冬青の葉(前田夕暮)
我が父を眼病院にともなひぬ冬青の葉のなかの白き病室
冬青の葉がべつたり濡れて病室の窓の硝子を青く塗れるも
硝子越し冬青の青葉の濡れたるがわれの心に触るる心地す
冬青の葉のぬれしがうすら光るなりましろき室にたそがれぞ來る
車前草
  霧に浮ぶ灯(石井直三郎)
この三日雨の續けば足裏の黒くなるにも心ひかるる
  このさつき(井淵はな子)
わがままもこのかたくなもいつの間に心のおくにしみつきにけむ
  ぺんぺん草(永山みつ子)
こころよき疲れおぼえて圖書室をいでくるころの小さなる月
  ねむれる貝(山田葉月)
瞳をとぢてあればわが身の見にくさの根はりて立てる天地の見ゆ
君をおもふわが足音のせめてだに強くひびかばうれしかるべき
  草いちご(森園天涙)
梭の音まつたく絶えて機場の灯くらきに雨のひとしきり降る
(26)かかる時腹のそこより湧くわらひ聲ともならばさびしからまし
寸ばかり障子の紙のやぶれより搖るる竹見ゆ日光も見ゆ
  絃の餘韻(逸見義亮)
戀をする心に細き光さし歩みょる夏の音のゆかしさ
  憎み(尾上柴舟)
呆としてありとて何か憎むべき思ふにさへも倦みけるものを
喜もなく悲しみもあらぬ日の空しきなかに一日ゐてまし
弱き音通ふかぎりはつづくべきわが喜劇こそ幕なかりけれ
アララギ
  草の平地(島木赤彦)
誰れかに行きたくなりぬま寂しき草のみどりに身は冷えぬれば
工場の笛折からあはれに聞え來れ雨ふりにふる晝萠黄原
鐵瓶の下しら/\と燃えぬればあはれなる晝の雨はふるなり
  雪の野(松島梧風)
ここはしも山の冷氣のいりきたるさびしき夜半の部屋にぞなりける
  一歩一歩(清水謙一郎)
大海の端に吾立ちゐるなりと思ひうれしく腕さすりつつ
靜まりし濱をうしろにまた煙立てて出行く船ほ悲しも
ふと一羽まひ立ちたれば群烏地をややはなれ羽動かしぬ
  今宵も倦みて(山田駒鳥)
(27)二日三日黙てゐしがさびしげに妻に言葉をつかひて見たり
沈黙に堪へ居る妻をいとはしくあはれになりて今は負けにけり
  勿忘ぐさ(守屋其翠)
川の瀬おとにゆれゆるるなる青木立わがかなしみをあつめてあをめる
  赤楝蛇(並樹秋人)
わが女は汝をおそれて逃げさりぬとりのこされしわれと赤楝蛇
  野路の馬車(金原よしを)
さわがしき群れに離れて夕ぐれの野道の馬車に一人乘りつも
夕月に向ひてさへも捨てられしひとの如くに涙ぐむかな
  鹿教の湯にて(小蟹女)
病みてあれば只ひたぶるに病守るこの安けさよ悲しかりけり
たんぽぽは穗となりにけり春ゆく日しみ/”\おのが身を思ひみる
  無題(斎藤茂吉)
この心葬り果てんと秀の光る錐を疊にさしにけるかも
わらじ虫たたみのうへに出で來しに煙草のけむりかけて我居り
劇と詩
  君がこころ(天野謙二郎)
おろかなるわれをあざける人のなかに君をみいでつかなしみのはてに
ひるのまを君を戀ふるにやつれたるわれなれどなほ夜もいねられず
  蔓草の歌(中川一政)
(28)あはれみてひと夜をわれと寢たりけるきみとあふげば涙ながるる
蔓草のおのがむきむき大木をよじのぼるにもひとしかりけり
かがやかにわれの柩はつくらましこの世をいでてあすはゆくべく
  同(高鹽背山)
それもただつかのまなりきあざやかに伸びし若葉を見入れる心
いかんともしがたく魂の行く方へ背きつつ我悲しうも生く
  同(小柳江村)
雪もいま雨にかはるかほんのりと足のぬくみて寐におちむとす
  同(佐藤謹子)
静なりいと静なり海面を見れば悲しく心しぼめり
空青く小鳥飛ばぬを見てあればふと甘えたき心地する日よ
      新刊歌集
  昨日まで 吉井 勇
 吉井君の歌はいよ/\練れてきた。そして以前捕鯨船時代の元氣に代ふるにいかにも苦勞人らしい錆びを帶びてきた。中に含まれた味ひには昔と變りがない。
  いと微かにおとづれきたる夏の呼吸われにかかりて惱ましきかな
  蝋燭は月草のごと燃えにけり五月の夜のわかうどの窓
  夏鼬鳥をうかがふ夜はふけぬ誰が子ぞわれの門をたたくは
  秋のかぜ馬樂ふたたび狂へりといふ噂などつたへくるかな
(29)  老ぼれし新内ながし過ぎゆきぬ避暑地の街の秋のゆふぐれ
  雪ふればあはれ小せんが脊髓のいたみいかにと思はるるかな
  廣重の海のいろよりややうすしわがこのごろのかなしみのいろ
  われひとり君思ふべき岩蔭に誰が子ぞこよひ尺八を吹く
  夏くれば君がひとみに解きがたき謎のやうなる光さへ見ゆ
  珈琲の香にむせびつつものがたるわが戀がたり聽く人もなし
  夏ゆきぬ目にかなしくも殘れるは君がしめたる麻の葉の帶
  山姥の終らむとせしたまゆらに見かはせし目を誰か知るべき
  新内は秋のこころを歌へりとよろこびし子を訪れてまし
  秋きぬとうらはかなげにいふ女やがて骨牌をとりだす女
  皺がれし歌六の聲もかかる夜に君と聽けばか忘れがたかり
  けふよりはまた蝋燭にしたしまむわがなつかしき郊外の家
  つく/”\と昨日のわれをおもふときはや夜明けぬと燭を消すとき
  なにゆゑにかばかり悔をおぼゆらむ弄びたる戀ならなくに
 経りの「二藝人」の章に納められた狂へる馬樂盲ひし紫朝を思ふ數十首の歌などにはそれ/”\に熱もこもつてゐて一首として棄てがたい。「昨日まで」一卷、讀みもてゆけば何かは知らぬもののあはれがおそ夏の夜のうすものめきて身をつつんで來る。君が愛する夏の日も早や逝かむとするとき、久しぶりに親しく君の温容に接したいものと思ふ。
 春かへる日に 松村英一
(30) 誰しも經驗する一生の或る一期、戀愛結婚産兒職業等を殆どかたの如くに遂げ了つた或の時期に際して、ひとは多く他の異つた新しい生活を欲求するやうに傾いてゐる。松村英一氏はその歌集「春かへる日に」の序文のなかに次ぎのやうなことを書いて居る。「一切のあらゆる繋累を斷ち切つて、朝に出でては畑を耕し、夕に入つては燈下に書をひもとくといふやうな靜かな、誘惑の至らぬ所に於て、もう一度自分といふものを振返り、猶、自己の生活そのものを考察して行きたい――私の求めむとする生活はそれなのです。歌集はその都會と田園との生活の間を劃する一線です。二つの生活の境に建てたる私の記念碑です。」
「春かへる日に」の歌にはさうたいした深い味ひはない。呼吸も細いし、かたちも大きいとは云はれない。ただ、右の序文にも見えるやうに眞の自己の生活を求めて止まぬ不斷の努力、じいつと一ところを見詰めて、かりそめには瞳を動かさぬその態度、さうした點からうまれて來る味ひ、らからが俄かに他におかされぬ特色を帶びてゐる。白状すれば、私は他の歌集や雜誌を讀み續けただらけた態度でこの本にもとりかかつた。そして、やや少し讀んで行くうちにいつ知らず心をとられ、終には居ずまひ正して讀み終つたものである。
 惜むらくは、今少し嚴選してほしかつた。水に油が混つたやうに、思ひ切つてあまい歌が其處らに散見する。特に春の朧夜などを歌つたなかにそれが多い。

  一日のわが生活にともなひてかろくも來るさびしきこころ
  われいつか己が心もうち忘れ夕ぐれどきの來るをば待つ
  かうばしき物煮る匂ひ厨にて妻がわらへば亡き子思ほゆ
(31)  初冬の寒き光の身にぞ染む街をしゆけば亡き子思ほゆ
  看護婦の白き服さへ秋に染む日とはなれども子は病みてあり
  限りなき旅にゆくごとわが汽車は笛吹きならし東京を出づ
  物一つ賣らぬ小き驛に來てほと息つかる倦みし心地に
  ひた/\と我が後より車して來たる人あり雨の夜の街
  酒苦く口に染みゆくそれすらも淋しくなりて夕暮の來る
  いささかのことにいらだつ心さへさびしくなりて秋に入るかな
  鳥の聲しづかに耳にかへりきぬその日よりして秋のなつかし
  ひとり病みて我が生活より遠ざかるこの二三日の秋の靜けさ
  故わかぬ涙つときて眼ににじむこの夕ぐれを風いたく吹く
  よく眠ることをねがひて眼つぶれど眠られがたくなりし夜かな
  我を擧げて念ずる心生れ來ぬさびしき朝のその眼覺めより
  幾たびかわが心碎かれまた碎かれつ物を思へば安らけくなりぬ
  われを鞭つ何の笞ぞかなしくも我を鞭つ強かれとまたも打ちつ
  憎み心の苦さあま苦さわれほ耐ふまじ愛せよとこそ心を抱く
  口にして吹きこころむれば笛の鳴りぬあはれなる音に我をとらへて
  事なげに笑へる女白き齒は美しく冷くもわが心をぞ引くなやみたる夜
  そともらす苦笑ぞわがために可愛ゆしもの言はぬ日の小き苦笑ぞ
  只一つの齒くさり殘れるの一つの齒うづきつつわれを惱ます
 行雲篇第一集 中川一政
(32) 中川君の近頃の氣焔は全く天馬空を翔るの慨がある。天上天下唯我獨尊、われらはただ茫然として仰望、杳かにその威風に驚嘆の眼を細うして居るのみである。而してその作歌を見る、氣焔には充分威赫されてゐるし、手法に一寸巧みなところはあるし、いかにも佳いものであらねばならぬと思はるゝのだが、どうも腑に落ちて佳いものだと飲み込み得るちからがない。凡俗の身の悲哀である。行雲篇にしたところが矢張りさうで、我等はまごつきながらに空しく一篇を讀過した次第であつた。行雲流水去つて歸らず、せめて我等も此半分位ゐでも大悟徹底したいものである。
  わがつらに君がつばきしゆけりともきみをにくまむこころはなきに
  いそのうみのつめたき底の月夜蟹わがかげを見ておとろへにけり
  身はつねに暮るるにちかきここちにていまはをまちてあるここちにて
  うつくしくうまれてかへる日のあらばちたびやちたび身もくだかまし
  しろたへのころもにきよき身をつつみ死ぬる日いまはあらずなりけり
 水仙咲く日 杉野照子
 やさしい歌である。ただあまりに數多く、氣の無い歌までごつちやに集められたまま、一卷としての影をよほど稀薄にして居る。
  あたたかき春の日のもと水仙の花美しく咲き出でにけり
  そことなく春のけはひのせまり來て水仙の花咲き出でにけり
  疑は親にまでさへのびてゆく悲しきはわが荒みしこころ
  唇をかみてこの子は今日もまた人知れずこそ嘆き居るなれ
(33)  いと清く細くおのれの一念のもえてゆらげるこの頃の秋
  やるせなき心おさへてぢつと見る空はくもりて薄光りせり
  飾りなき机の上に手をくみて夕べうするる空をながむる
 渚より 藤元夕水
 新しさと鋭どさのあるのはいゝ。ただ氣取つたそれらであつて欲しくない。小さくすます小さく氣取ることは性分として私の甚だ好まぬところである。著者は福井市のまだうら若い青年であるときく。北國のその近所の人々によつて、他の個所で一寸見ることの出來ぬ明るさ、強さ、鋭さを含む詩歌を相續いて見ることを得たのを何よりも嬉しく思ふ。尾山篤二郎君がさうである。室生犀星君がさうである。藤元君の作にもまだ極めて小さいながらに同じ特色を見るのをたのもしく思つてゐる。願はくばその種の畸形となること勿れだ。
  初蝉のしみ/”\きこゆ海岸に朝の牛乳こころよきかな
  渚より夏の大空をながめやる心の病める、耐へがたき、耐へがたき
  いらいらと心にごりて血ばしれるわが眼すぎゆく秋の雲かな
  ひとすぢの悲しみをもてしみ/”\と心をえぐるここちすれども
  けふもまた一日あびてくらしけるかなしき心さびしき心
  冬の夜のあたりしづかにわがとれる酒の匂ひのうらさびしけれ
 はがぐら 中塚直三
 これは歌集ではない。
 この一卷に對しては批評的言辭を今しばらくつつしみたいと思ふ。ただ甚しく愛讀してゐるこ(34)とのみを記し、左にそれら數句を引用しておく。本書に對する批評は「人生と表現」七月號に可なり詳しく出てゐる。然し私はああまで抽象的に解剖的にのみ立脚して詩歌一般を見たくないのである。
  菓子屑に似て女工等や春日照る
  春の宵やわびしきものに人體圖
  灰の中に生きとる虫や春日影
  街行くに誤診の耻やとぶ燕
  ずか/\と田に入りて蛙釣る兒等よ
  窓の藤煌くや特に妻居ぬ日
  兒の死顔端正と見つ藤の花
  葉柳のこの夕や兒と疎み居る
  風吹いてこの夜暑きの色狂ひ
  額廣うなりゆかむ思ひ夏籠りぬ
  驚きの過ぎしに汲むや家清水
  我死ぬ家柿の木ありて花野見ゆ
  兒の心ひたぶるに鷄頭を怖づ
  秋風や發病の日に似て凪げる
  赤兒見て出づ門や赫つと秋晴れて
  鍵の錆手につく佗びし晝千鳥
  灰を拂ふ心に去る地なく千鳥
(35) 三人の處女 山村暮鳥
 馬鈴薯の花 柿の村人・中村憲吉合著
 右二册とも裝幀に於て遺憾なき出來榮である。時日の都合上、細評を次號にゆづる。

       尾山篤二郎君の近業

 最近一二ケ月間の歌壇に於て特に異色を放ちつつあるは尾山篤二郎君である。言は聊か私情に渉るかも知れぬが、私は前から朝夕相逢ふ交友のうち、特に尾山君に敬畏の心を持つてゐた。その人格といひ、才能といひ、事あるごとに日を經るごとに、いよよなつかしくもわが胸に沁まぬはなかつた。ただ同君の性質に甚だ不用意な、時にのぞんで即ち發し過ぎる弊があつた。その揮發性の甚だしいところから、前かた發表してゐた作物にはその片光を宿しながらも徒らに空疎な、から元氣な、亂暴なものが多かつた。尾山びいきの人にすら、心からうなづかせることのなかつたのは全く茲から出たものであつた。ところが、昨年來郷里の金澤に歸つてわづらはしい友の群や境遇から離れて、冬かけては雪に閉ぢこめられ、やがては永い病氣にまで罹つた結果か、おのづと彼の思索にその創作に今までに見ぬおちつきを添ふることを得たのであつたらしい。このごろ見る彼の作には、前かたの弊であつた凡そで物をいふ所など、よほど失くなつて來た。それだけ作の重みを増してきた。今少しといふ憾みがないではないが、在る所に漸くものを置いたやうな安心とよろこびを我等の一群はひとしく感じてゐるのである。すつかり解り切つたやうな風をしてゐる同君は、その實大に迷ひ大に惑うて居る人である。今後の彼になほ一層の囑目を拂ひ度いも(36)のである。
 次ぎに七月の早稻田文學と詩歌とから同君の作を引いてみる。特に前者所載のものなどは一篇悉く連作風に出來てゐるので、一首々々引き出すなどは無理な話であるのだが、多少の紹介にもなれば幸ひである。

  踊り狂ひよろこばしげにおちきたる雪に心をぢつと壓さるる
  雪見れば心おそるる、眼をあげて、空のとほきに注ぐかなしみ
  一杯の酒もなし、物狂ほしき心を手もておさへつ、降る雪を見る
  仰げば心怖る、眼を落せばなほ悲しまる、あまりに雪の光れば
  魂を休むるにあまり冷し、眼を射て雪のとほく光れる
  杖もて突けば極めて堅し、朝の雪、空あを/\と地に影をさす
  彼方にわづか空あをし、あはれ、さいつ日見しままのいろ
  とはばやな、手をあげて何處知らなく、雪の舞踊にあはせ、はろ/”\
  福祉を得よ、福祉を得よ、あはれ雪のみぞ生きに踊れり
  下より見る雪のスロープ、月させば木の彫あはし、われわが影に見入る
  斷崖の上の雪、こけて身を堅く伏す、怖しきこと多き日なるかな
                         以上 雪の舞踊より
  水の滴る音をきけば、われいつか水となり、岩の間に生命を注ぐ
  崖の上に坐れば風は嬉しげにわれを廻り草はみな手を打てり、若しわれ崖をとばば彼等欣びに狂ひ死なむか
(37)  われ孤獨に疲れ全き力をこめて笑へり、皺嗄れし笑ひよ、瀕死の者のみが知る空しくして滿てる笑!
           以上 斷篇十五章より  (大正二年)

 行人獨語

 創作牡の人々の歌には、一向に欲望もなく煩悶もない。
 在るがまゝに安んじきつて、安易に巧者に歌といふものを作爲しながら、自ら樂しんで居るかたちである。何といふ生氣のない圖であらう。
 創作社の人々の歌には、概して若隱居臭味が瀰汎してゐる。何事にも早や解り切つた樣な、寸毫も不滿不安の無い悟りすました長閑な顔の行列の甚だ羨望に値すべきものがある。

 和田山蘭君の歌は、陶器の彩色畫のやうである。また、素燒をおもふ。

 小川水明君のは、ガラス細工の宮殿をおもふ。透明にして清冷無比。而してそばで見てゐて危《あぶな》つかしくてたまらない。また曰く、危篤患者に附添つてゐる氣持もする。

 小柳江村君のは、旦那藝の手品つかひをおもふ。

(38) 越前翠村君のは月夜の蟹。(註曰、月あるころ河海の蟹おほむね肉少し。)

 何かむつかしい事を云つて硬くなりきつてゐる人たちにくらぶれば、然し、山蘭君のなどは一種のいゝ皮肉である。

 加藤東籬君の作には、他の人々に比してたしかに一縷暗い煩悶の彫が沈んでゐる。けれど、その背後には例の黄《きいろ》いあきらめがペンキ繪の如くにくつ着いてゐる。

 松岡朝次郎君を加藤君に次いで聯想せざるを得ない。無氣力と相隣れる一種のあきらめ、をさまりがいかばかり彼の作品に薄ぎたない花を咲かしてゐることだらう。よく物の解つた人だけに、それが尚ほいたましい。

 おなじ聰明にも、ガラスの板もあれば水晶の珠もある。僅かに自ら求め得た或る一境に尾鰭をさめて悠々安住の夢を貪らうとする一群の遠影が眼に見えてならない。

 或るあきらめに到り得るまでには、既に幾多の努力が拂はれたに相違ないことに對して我等は尊敬と同感とを持つ。
(39) 而かも我等はその一境からいま一歩新しい歩みを踏み出さならぬものと感じてゐるのだ。稚氣、衒氣の除かれた眞虚の境地に入つて、其處から、他にけがされてゐぬ新鮮清淨の自己といふものを改めて生み出さねばならぬものを信じてゐる。

 何の自覺もなく、朝夕我等が經驗する日常の出來事、及びそれに關する雜多なる感傷を忠實に歌に收めて、自ら安じ慰めてゐる人々が可なり多い。これは自分の生といふものに就いてまだ普通一般の思想感情以上に出て見てゐないせゐではないかと思ふ。さうとしたならば、その根柢に於ては所謂舊派の歌や俳句と幾らも違つてはゐぬ道理である。この項目ついでに特に名を引くのは多少氣の毒の觀もあるが菊池野菊君一派の歌の平板にして無味淡泊なるは恐らくその源を斯の種の所に發してゐるものと認めて可からう。これは同君のみならず、「創作」に於て最も多數見受くる型であるのだ。此等の作品の極めて皮相に留り、たゞ行きずりの感興に過ぎざるなきはもとよりその筈である。

 指田縫三郎君の作が近來甚しく蕪雜淺薄に陷つたもまた右と病弊を近くしてゐるかと思はるる。彼の作には不斷の不滿があり、不平が溢れてゐる。而かもその歌はれてある所は何れとして行住坐臥の、ホンの眼前の浮世の不平に留つてゐないのはないではないか。それで我等が全生的要求、藝術的要求が滿足されやう筈がない。また、靜かにものを眺めて歌つてゐたこの人の以前の特長が次第に影をひそめて、粗々《あら/\》しい感情が何の選擇洗錬を經ずしてそのまゝお疎末に表はれ(40)てゐるやうになつた。謂はゞ淺墓な自暴的態度で自他を取扱つてゐるかたちである。

 うき世の、眼の前の世相を巧みに歌に消化《こな》す手腕に於て、江波戸白花君は矢張り一個の地歩を占めて居る。面白いと見れば、いかにも面白い。而かも彼の歌に表はるゝ不平皮肉諷刺も此頃では如何やら附燒刃臭くなつて來たのを覺えざるを得ない。さういふことをいふに倦厭を感じながらも一種の隋力でやつてゐるといつた姿ではないだらうか。彼の歌に表はるゝ感情のまことに人間の心の底より浸み出でたものとしたならば、我等は實際可笑しいの面白いのと云つてる騷ぎではなからうと思ふ。一皮剥げば何も無き手品づかひの物の哀れをもろともに覺えたくないものと思ふ。

 もつとお互ひに人間臭くあつてほしい。もつと人間であつてほしい。不盡の執着心を我等みづからの生活の上に置き度い。生きてゐることを確め度い。吹けば飛ぶやうな一生であつてほしくない。

 誰。
 彼。
 みなにもつと不平がならべて見度い。然し、もう疲れて來た。印刷せられて諸君の眼に映るとき、何の苦もなくすらすらと書き流されたものとこれが見ゆるに相違ない。實際はなか/\さうでないのだ。自分に問ひ、自分に答へ、希くぼ誤り無きに庶幾《ちか》からむため、可なり苦心して書い
(41)て居る。自分に當てはめて見て、そして自分にも諸君が持つ缺點の有ることを承知しつゝ、それに向つて言ふ心になつて筆を執つたところもある。諸君と自分との違ふだらうと思はるゝことは自分はどうしてもその缺點に甘んじて居られないといふ、唯だそれだけ位ゐのところであらう。

「創作」の歌には概して浮華な輕薄なところが少い。寧ろ無いといつていゝだらう。その代りまた生氣に富み、※[さんずい+發]溂としたところがない。謂はば榮養不良のすがたである。

 お互ひがいろ/\の新知識に缺けてゐる事もその一因であらう。無自覺で作歌に從事してゐることもまたさうであらう。希くば我等ひとしく新しき生活、新しき藝術に對する知能を啓き心痛むがまでに我等を覺醒せしめたいものである。そして、因習、流行、無自覺のそれらから絶縁したいものではないか。

 今少し眼を内部に注がうではないか。ぼんやりと、或はせか/\と外方《そと》を眺めてゐることをも止さうではないか。もつと深くわれ自らと親しまうではないか。

 純粹に缺けてゐる。眼を瞑つてそれらの作品に觸つて見るとき、どこか斯うかす/\してゐる。がさ/\してゐる。單に何かのうへに置かれてあるものゝ如く、感ぜらるゝ。
 生に皺が寄つてゐるからであらう。張りつめてゐないためであらうと思ふ。いや寧ろ自分とい(42)ふものを頭から知らないためではなからうかと思つたりする。

 幸にして、我等が仲間には彼の色盲的な、淺薄にも自他を茶化して醜い得意を恣《ほしいま》まにして居る一知半解の徒輩がゐない。見てくれ專門の、讀者ばかりを相手にして跳ね廻つてゐる芝居者《しばゐもの》がゐない。

 唯だ、新鮮にして清淨なる血液を溢るゝばかりに我等が上に持たうではないか。願ふところは、たゞ、たゞ、それのみである。
   このあと、「短唱に就て」の一章ありたれど、來號に廻りたり。從つて、本號に短唱を休掲せる理由をも述べ得ざりしことゝなれり。たゞ短唱募集に意を注げること、寧ろ舊に増すものあるを知り給へ。本號の編輯校正はおほかた病床に於てなせり。尚ほ目下或る小著述に着手中にて、匆忙目もあてられず、無沙汰其他暫く寛恕を乞ふ。(大正二年)

 「佇みて」を讀む

 土岐哀果君は勤めてゐる新聞社の用務を帶びてさきに滿洲朝鮮に遊んだ。その旅中の作二百首を輯めてこの一册を成したのである。この「佇みて」に於て土岐君は彼獨特の調子を益々強く發揮し、いまは一種の凄味をさへ帶びて來た觀がある。讀んで行くうちに、知らず/\或る調子の(43)なかに引入れられてしまふ。世間の一部では、土岐君の歌はあまりにぞんざいだと言はれてるやうであるが、私はそれと正反對の見を持つてゐる。實によく洗練せられ、琢磨せられたあとの作物であるのだ。一句もかりそめにせず、物の言ひぶりにも實に目に見えぬ用意が拂はれてゐると思ふ。だから、讀んでいかにも快い印象を不知不識のうちに受けてくる。目の速いこと、配合の要を得てゐること、その場の呼吸をよく歌の上に移すこと、物を纏めるに敏捷な事、刻々の自分の生活を常に温い興味を持つて送迎してゐることなど、みな彼の特色に數へることが出來る。私は總體の土岐君の傾向には同感し兼ぬるが、彼獨特の優れた特色、才能に對しては常に深い尊敬を捧げてゐるのである。よくやる私の屁理窟を一切拔きにして、次に「佇みて」一卷から私の眼についた歌を引いて見る。

    唾を吐けば、
     五月のまひる、
    日本の草木はみどりにかがやけるかも。

    たそがれの、
    さびしき心の前に來て、
    ボーイは寢臺をつくりにかゝる。

    浴室のきふじの靴は、びしよびしよに
(44)    濡れて、五月の
     夜となれりけり。

    や、や、−
    朝鮮服が立つてをり、白くぼんやりと、
     朝のみなとに。

    朝鮮へ來しには來しが、
     いまだ、わが
    心は遠く遊ばずあるかも。

    朝鮮の、五月のひるの
     ポプラの青葉、
    そよりともせず、鷄あそべり。

    やうやう食慾のつき、
    卓上の
     あかき葵の花びらを嗅ぐ。

    あけがたの、
(45)     よぼの畠の青麥に
    ほほじろが啼けり、おれも泣こかな。

    大豆、大豆、大豆は黄ろく、
     よぼよ、よぼよ、
    たうがらし、たうがらし、たうがらしは赤し。

    桃の花、
    秋風嶺驛の柵のほとりに赤かりし
     年後三時かな。

    わが顔のまことに黄ろく
     痩せたるが
    朝鮮に來て、さらにいとしも。

    ぎやつ、ぎやつ、――
     この鵲のこゑの、さびしさに、
     五月のあさの、眠たかりけり。

    よぼよぼと、そつと、
(46)    聲をかくれば、ふりむけり、
     南大門の、たそがれの顔。

    唾を吐き、唾を吐きつつ、
    このみやこの
     貧しき屋を通るなりけり。

    朝鮮のやくしやの顔の、ながぼそく、
    青く、ふやけて、いつか、わが
     かなしみとなる。

 以上は二百十頁ある一卷の五十五頁までの中から拔いた。まだいゝ歌と思ふもの、變つた歌と見ゆるものがあるが、何しろ一首三行でもあるし、さう澤山引く譯にゆかぬ。土岐君の歌によつて或一面の時勢相が窺はれるやうなのを見落してはならぬ。すべてのものを一種の興味化し、美化し――臭いものにふたをして行くといつたところも目につく。それが歌としてのよしあしは、私には解らない。(大正三年)

(47) 「赤光」に就いて

 齋藤茂吉君の「赤光」を讀讃んでその讀後感を可なり詳しく書いてみたのであつた。そこへ同君の「さすらひを讀みて」といふ一文が屆いたので、それを讀んでみたところ、前に私の書いた「赤光」評を發表するのがバカ臭くなつたから、やめることにした。
 ついでだから齋藤君に一言しておく。君の牧水嫌ひも執念深いもので、「アララギ」誌上殆ど二年越しずゐぶん聞きづらいいやみやら罵倒やらが續いて來たやうである。今度の「さすらひ」評も見やうによつては折からの「さすらひ」をだしにして私に對するあてこすりを書かれたものだともとられる。歌といふものにたいへんな知識確信及び忠實を持つて居られる君から色々言つていたゞくことは誠にありがたいことゝも思ふ。然し、君のおつしやることは大體に於て私にも夙うに解つてゐたことのみのやうに思はれる。若し私の希望が許さるゝならば、暫くこのまゝ私を私の自由に任しておいてほしいことであるのだ。私はいま(私のいまといふのは刻々に續いてゐるので、殆どこのまゝ涯なくして終るかも知れぬが)非常に迷つて居る。非常に迷つてゐると同時に、はつきりと眼にも見えず言ふことも出來ないが、とり除くことの出來ぬ信念を持つてゐる。其の處まで行つて見たくてたまらない。溪や溝におちこんでそのまゝ歩いて行く私からは斷えず雫が落ちてゐる。(君はその雫のみを見て常に私に喰つてかゝつてゐらつしやる、だから私は今までたゞ黙つて君のおしやべりを聞流してゐた)もと/\貪弱の身であるがため、行くところま48)で行き得ないで仆れるかも知れぬ。それはとにかく、成るべくは途中事少くしてずん/\行ける所まで行つて見度いのである。若しまた君がその私を見逃すに耐へかね、和歌忠勤軍か何かの大御旗を押し立てゝ私を叩きつぶさうとなさるのなら、それは君の隨意である。要するに個人同志の君と私とは全然別物であるので、おつしやる君の方でも言ひばえがあるまいが、聞かきれてゐる私の方でもくだらぬ煩鎖である。だから、わがまゝではあるが、この機に際して右の希望を提出した。
 斯んなことをいふと、失敬な奴だとお憤りにならぬとも限らぬ。私に關して書かれた君のものの眼に觸れる時々私もそんなことを感ぜぬでもなかつた。それもこれで帳消しになるわけだ。(大正二年)

 大會前記

□出席申込、及び茶話會席上で披露する兼題短歌投稿の〆切をば三月二十日とする。地方誌友はその申込と同時に五日間の全會費拾圓を振替で創作社宛振込まれたい。(若し何か事情があつたならば、その日までには申込だけで會費は着京の時に持込まれてもいゝが、成るべくはさうして頂きたい、各會場の手附金などに入用であるからである。)東京誌友は茶話會、觀劇、宴會、送別會等それぞれの部門を明記して矢張り同じく三月二十日までに申込まれたい。會費も右同樣前納を悦ぶ。各部門の會費を左に掲げておく。
   茶話會 參拾圓   觀劇會  壹圓
(49)   宴會 貳圓   送別會   未定
 強ち前納に限るといふではないが、茶話會はいゝとして宴會觀劇會等は申込と同時にその準備を整へるので萬一違約でもされた時は大に困るのだ、その責任を分つて貰へれば、前納には及びませぬ。
□十圓會費の内譯は、宿泊、宴會、觀劇、茶話會、送別會、電車賃、及び外出さきでの晝食夕食料から博覧會や活動寫眞等の入場料までも計入されてあるのである。博覽會時といふので普通であつたら宿屋でも一泊二三圓はきまりであろう。それを右の有樣で行かうといふのが發企人側の苦心の存する所である、驚くべき勉強といつていゝであらう。それで決して見すぼらしくなく行ひ得るつもりでゐる。宿屋は一軒借切りの約を結んであるが、これは場合では六疊に三四人づつやすんで貰ふやうなことにならぬとも限らぬ、前以てお斷りしておく。會期中は僕等も多く宿屋に泊り込むだらうから嘸ぞ混雜するだらうが、我慢してほしい。
□東京府下、千葉縣埼玉縣等の近くからは、右の十圓組でなく、五日中の一日か二日かを出席せらるるも自由であらうと思ふ。市内の人々のため、またそれ等近縣の人々のために特に廿八、廿九兩日を中に挿んだ意味もあるのだ、その兩日は土曜と日曜である。私はまた此頃多くの人に逢ふのを避けてゐたゝめ、名のみは熟知してゐる市内の誌友諸君の誰にも殆ど逢つてゐない、この機會に際して大いにお目にかゝりたいと思ふ。抂げても出席してほしい。
□各停車場に出迎へするやうに前々號かで云つておいたが、餘り仰々しいからそれは取消した。新橋着の人は驛から二三丁だから櫻田本郷町まで歩いて、其處から巣鴨行電車に乘り、春日町で(50)大塚行に乘換へ、大塚町停留所で降りれば創作社も宿屋も直ぐだ。上野に着いた人は、先づ上野廣庶小路まで二三丁歩いて大塚ゆきに乗れば乘換無しで右の大塚停留所に來る。新宿へ着く人は新宿驛から山の手線の電車(市内電車でなく)に乘換へ大塚驛停車場で降り、約五六丁歩くと創作社である。第一荷物などは成る可く持たずに身輕のことだ。若しまたもつとくはしく電車の案内などを知らうとする人は我等が定宿たるべき大塚仲町廿八番地芳靜館へ宛て請求せらるれば屹度送ってあげるだらうと思ふ。各停車場からの案内記を印刷するやうに云つてゐたから。(人力車は何處からでも先づ五六十錢とるだらうと思ふ。)
□創作社々々々と云つて一體どんな所だらうなどと思つて來て貰つては困る、座布團もなければ茶道具もない所に我等はいま栖息してゐるのであるから、その場に臨んで餘り驚かれないやうに斷つておく。
□茶話會席上披露の歌をば皆して互選するのである。だから當日出席者にのみ出詠の資格があるのだ。二十日まで送附といふのは前以て清書の要があるからである。其日は初對面の人が多く、北國南國と、言葉なども種々であらうし、その身分年齢も區々であらう。職業等をも各自名乘をあげるときに披露したいものだ。お互ひに寄せ書などをもやるが、來賓諸君に染筆をお願ひするのも或程度までは宜からうと思ふ。その用意として短册色紙扇子等を携帶するもいゝであらう。
□トルストイの「復活」が藝術座の諸氏によつて帝劇で上演されることは、折も折、我等にとつて實に僥倖であつた。新しい芝居の粹中の粹を僅かな會期間に於て偶然觀得ることゝなつたのである。彼の可憐なる一少女カチユウシヤは無論松井須磨子孃によつて演ぜらるゝことと信ずる。(51)また劇場も地方の人にとつては一顧の價値があるといつて宜しい。成る可く大勢で惣見のやうにしたいと思ふから市内の諸君の同行をも大いに希望するのである。
□講演會は公開するのである故、その際また改めて各新聞の文藝消息欄にその會場演題などを發表するであらうが、樗牛會や早稻田文學社の講演會などから推して、大いに盛大であるべく豫期せられる。
□二十九日夜の懇親宴會は自然今度の會合の中心となるべきものであらう。一切無禮講で、大いに快飲快談を遂げたいものである。藝者などは成るべくかんたんにして、先づ大いに食ひ大いに飲むといふ方針をとりたい。各自各國よりお土産のかくし藝などの甚だ豐富ならむことを祈つて居る。和田君郡山君岩淵君などは、その日の話さへ出れば今から血の氣を滿面に溢らせて力んでゐるので、當日になつたらどんなだらうと内々怖れを抱いてゐる次第である。牧水衰へたりと雖もそれまでには大いに鋭氣を恢復しておいて敢て人後に落ちざらんことを期してゐる。また、意外な邊から畏るべき猛者が現れて暴威を振ふことなどあるであらう。信州山中から出て來る小河原素山老、瀬戸内海の一島なる郵便局長三浦敏夫君など先づその一人であらう。
□市内見物はその場所によつて晝と夜とを選んである。九段二重橋日比谷増上寺等は晝、銀座淺草吉原等は夜間。博覽會のことについては私が彼是いふより近來毎日の紙面に表はれてゐる新聞記事に由らるゝ方が宜いであらう。美術館は秋の文展を見得ない人にとつて誠に幸である。
□記録係を置き會の全體を通じての記事を作るのみならず、各出席者の感想文等を輯め、一二面の寫眞版など挿入し、來る五月發行の木誌を二倍位ゐに擴大して大會記念號を作る。ほんとに、(52)この會合をして一生のうち最も紀念すべき出來事の一つに數へたいものである。私などはこの會が終つたら屹度暫くは寢込む位ゐのことになるであらうと思つてゐる。然しその位ゐ氣を揉んでゐながら常に樂しみが先に立つてゐる。
□伊勢の野垣内白草君からは、私のやうな無名なものでも出席して差支へないかと訊き合せて來た。無論、無名も有名もあるものではない、我等はたゞ我等が心で相許した連中だけ集つて一緒に數日を過さうといふのである。政治家か宗教家の言草めくが、此頃のやうに皆の心が萎微してゐる時に當つては、眞實斯うした會含も有意味であると信じられてならない。人生意氣に感ずなどといふと言草は舊いが、意味は深い。また、田舍で知らず/\の内に小さくなつてくすぼつてゐるやうな人々は、斯んな機會に際して心氣を一轉させるもいゝであらう。昨今切りに一般の牡會でも動搖が起つてゐるやうである、文藝や宗教の上などから我等各自の生命にも等しく改革の迫つてゐる時期のやうに見ゆる。眞に新しい自己となることをお互ひに急がうではないか。自然斯うした談話にも觸れて行くことゝ思ふので從來行はれた單なるお祭騷ぎでは決して無いのだ。
□春に一囘開催し、夏にも一度同じやうな會合を開くかも知れぬといふことを書いておいたが、あれをば取消す。今囘の囘合を行ふほかに少くとも本年内には斯の種のものをば行はないことにきめた。だから、夏に出席するつもりでゐた人々は何とか都合して今度出て來てほしいものである。入學などの都合から四月になつて上京などといふ人もあるであらうが少しの事だから急いでほしいと思ふ。(大正三年)

(53) 誌友大會始終記

 大正三年三月廿五日拂曉、未だ閉せる創作社の門戸を叩く者あり。出でて迎ふれば信州東筑摩郡坂北村の人小河原素山君なり。昨日諏訪を發し中央東線夜行列車によりて上京せるなりと。蓋し君を以て本會最初の出席者となす。
 同三月廿七日午前九時、打揃ひたる巨大漢四人、折からの雨をついて創作社に來る。同じく信州北安曇郡松川村の人榛莫胡鬼子、高田枯月、同郡烏川村の人青柳殘雨、望月正生の四君なり。程なく漆髪白面の一青年野垣内白草君來る、遠く伊勢國一志郡川合村より走れるなり。次いで下野國喜連川町より高鹽背山、同綾雄、齋藤春光の三君來る。岩淵要、石山龍二、茅野昌栖、山浦貫一君來り、山蘭君は昨日青森縣より上京せりとて令弟和田霊光君を携へて來る。
 取り敢へず當夜直ちに右一同晩餐會を開く。同席上遲れ走せに馳けつけたる人々に太田水穗、茨木猶之吉、吉田常夏、尾山篤二郎、田里維昌、越前翠村(以上東京)及び信州鹽尻より佐藤辰雄、同松本市より中村柊花、同小諸町より宮坂常子、駿河靜岡市より來れる法月俊郎の諸君ありて之に加はり、我が誌友大會の意氣乃ち先づ今夜を以て發す。

 三月廿八日、快晴。年前七時盛岡市より菊池野菊君來る。同九時より午後四時半まで牛込區西五軒町清風亭に於て茶話會を開く。初對面の人々多かるべきを豫期し、午前を以て專ら懇談挨拶(54)の時とし、正午より開會す。會者堂に溢れ、障子を徹して縁側に及ぶ。此日の來賓諸氏左の如し。
    土岐哀果   内藤※[金+辰]策
    尾山篤二郎  金子薫園
    古泉千樫   齋藤茂吉
    服部嘉香     (以上來會順)
 出席者左の如し(四十三名の氏名略す)
 牧水の開會の辭、服部内藤兩氏の講話あり、兼題和歌互選並びに披露あり、寄せ書きあり、色紙短册其他の揮毫あり、寫眞撮影等ありて茶話會を閉づ。時正に午後四時三十分。
 會場を出でたる者の中、菊池、中村、佐藤、榛葉、高田、青柳、宮坂、野垣内、神戸、烏谷部、濱、源、茨木、太田、茅野、岩淵、石山、山浦、小河原、南、同令妹、高鹽、高鹽令弟、齋藤、萩原、法月、和田、原田、越前及び牧水の三十名、及び小泉平十郎氏、郡山幸男君、逸見義亮君、望月正生君、世良田優子孃、若山喜志子の六名は共に丸の内帝國劇場に赴き、藝術座諸氏が所謂「復活」と「嘲笑」とを見る。會衆各自の情緒漸く濃かに相寄り相纒れつつ同じ調子に同じ方向に次第に昂り來るを見る。

 三月廿九日、快晴。午前中地方より出席したる諸君と共に九段神田お茶の水附近を散歩し、正午神田區錦町女子音樂學校内に於て開かれたる講演會に赴く。
(55) 我が社のために此日特に出席講演せられたる人々及び演題は左の如し。
   藝術雜感            島村抱月
   僕の詩             相馬御風
   短歌に於ける主觀の位置     太田水穗
   ロオマン・ロオラン       中澤臨川
 右講演のほか、国民歌劇會技藝員諸氏の並ならぬ厚意により左記數囘の音樂演奏を聽くを得たり。
   マイト オブ ライト(マーチ)
   アスフォーデル   (ワルツ)
   嘲り        (男聲四部)
   うかれ達磨     (合唱、オペラ劇曲)
 講演といひ、音樂と云ひ、一同非常の熱心と感動とを以て謹聽せるさま實にあり/\見渡され、我等發企人一同ひそかに涙を飲んで感謝し、欣喜す。蓋しこの種の會合にして斯くの如く能く緊張し、能く謹嚴なりしは他に多く類を見ざるを感じたればなり。末筆ながら茲に講演者演奏者諸氏、及び當日多く斡旋の勞をとられし深澤白人君に多大の感謝を捧ぐるものなり。
 同日午後六時、右講演會の果つると共に麹町區飯田河岸富士見樓に懇親會を開く。同樓外濠に面せる階上大廣間に相集りたる一同の面上、酒杯未だ出でざるに先だつて既に十分の醉色動ける見る。出席者左の如し。(二十四名の氏名略)
(56) 山蘭、牧水の兩個まづ衆に先立つて醉ひ、面々相次いで醉ひ、舞ひ、歌ひ、歡極る所を知らず。會の果てしはそも何時にてかありけむ。筆者不幸これを知らず。

 三月三十日、微雨。芳靜館組諸君に岩淵石山の兩君及び牧水、先づ創作社を出でて小石川植物園を見る。多く北方の諸國より上京せられし人々多きを以て同園内温室の諸草木最も多くその興味を引きたり。折りしも微雨來りて、園内早春の巨幹細芬風情極めて濃かに、自づとそれに誘はれしにや、一歩一歩ともすれば各自密談私語に赴かむとして、所謂見物の旨を盡さざる觀ありしは同園に對し多少お氣の毒の感無き能はざりし。蓋し昨夜の今朝の心もちまた甚だ淺からざりしに因るなるべきか。
 出でて直ちに不忍池畔なる大正博覽會第二會場に赴く。雨中、人の山なり。一同相逸れざらむとしてカチユーシヤ可愛やを合唱し場内を練る。行く所滿場を壓倒す。場を出づれば正に正午、一旗亭に投じ晝餐を取る。亭前の櫻花既に滿開、善哉を叫んで直ちに向島に走る。今年の花、何ぞ然く春を急ぐや、例年季に先だつ確かに一旬日たらむ。
 さすがに向島はまだ滿開に至らず、加ふるに折からの微雨ありて却つて平日の雜沓を見ず悠々我等の觀を肆まならしめ得たり。小松島附近に至り言問ひに戻り一錢蒸汽に搭じ吾妻橋に上陸淺草公園に入る。既に薄暮、同公園の面目漸く生氣を帶び來らんとするの時なり。餘りに陶然たる諸君の肝を奪はむと欲して先づ木馬館に入り、次いで帝國館の活動寫眞を見る。奈翁一代記といふ長尺物を見終りて同館を出づれば雨漸く烈しく、歩むに難し。雨に伴うて冷氣も加はりたれば(57)とて肉鍋を圍んで相温まるべく議一決、乃ち各自相擁して杯を擧ぐ。雨愈々烈しく、興益々募り、終に銀座見物を犠牲にして更に大いに酌み、殆ど一電車借切りの盛況を呈して深更芳靜館に歸る。

 三月三十一日、晴。午前夙くより午後三時まで博覽會第一會場を見る。その最も多くの時間は美術館に於て費されたり。南洋美人の舞踊また甚だ一行の情緒を動かしたりと傳へらる。會場を出でて二派に分れ、一は日本橋京橋方面に赴き、一は直ちに小石川三軒町なる太田水穗氏邸に赴く。蓋し同氏の招待により、お別れの會を同家に於て開催すべく決しゐたればなり。午後五時、京橋方面への一隊も來り合して階上に集る。此日遲れ走せに遠く信州より來り會したる人々に小諸町土屋殘星、池田町松島梧風の兩君あり、東京出席者は郡山幸男、原田實、岩淵要、茅野昌栖、
石山龍二、高鹽綾雄、矢崎俊作、小川水明の諸君に主人夫妻及び若山夫妻、これに地方よりの諸君を合して總計二十七人を數ふ。夕食の馳走あり、短歌長詩の朗吟あり、本誌友會に對する感想談あり、「創作」改良發展に關する各自の意見論議あり、懇談密語の裡に時は進みて名殘惜しくも茲に閉會を告ぐるの止むを得ざるに至りぬ。乃ち牧水は進みて初めこの創作社誌友大會を開くに至れる次第より、開會するに及んで意外にも斯の盛大を見しは一に諸君の熱誠の致す所なりとて遠來の諸友に勞を謝し尚ほ来夏第二囘誌友會を開くべきを告げて一同再會の機あらむを望み、更に今後創作社の執つて進むべき方針に就いて意見を述べ、深く一同の自重健康を望みて閉會の辭となす。次いで信州小諸町なる宮坂常子君地方來會者を代表して答辭を述べられ、茲に創作社(58)第一囘誌友大會を終る。時まさに午後九時なりき。(大正三年)

 大會後記

 三月三十一日午後九時、大會は終つたわけである。然し、その實、その後數日間は前と同じく――否、前よりは次第にその内容に於て濃密に我等が會合は續いてゐた。記憶のまゝ書き並べて見よう。
 三十一日午後九時、太田さんの家を出た三十名のうち、五六人を除いた二十有餘名は直ちに淺草に向つた。三十日の晩雨のために見殘した同公園の夜景を見ようといふのである。池の端は美しかつた、次いで世に謂ふ塔の下(またいふ苦痛の谷)の一部を通つて見た。話だけでは解らない、餘りに驚くべき現象を眼のあたりに見せしめむと欲したのである。諸君は果して驚いた、寧ろ凄惨見るに耐へぬの風であつた。急ぎ足に其處を通り過ぎて、日本堤に出で、吉原に入つた。綺麗だと喜ぶ人もあり、案外だと落膽する人もあつた。天氣はよかつたし、可なり賑つてゐたので、それに大會の濟んだあとといふ多少の安堵氣持もあるかして、全體に平日よりは皆の心がうつとりと緩んでゐた。どの樓であつたか、煙管をとり落したおいらんがゐて、切りに拾つて奨れと哀訴してゐたが誰も拾つてやらなかつた。それを一行中での巨大漢にして至極の生眞面目屋たる土屋殘星君が掬躬如として拾つてやつたので、一同大喝釆であつた。一廻りするまではと少し危險を感じたので、切りに要求する人のあつたにも係らず、私はまだ酒をとることを許さなかつ(59)た。然しそのうち、わるい手本を示す人などがあつて、其處此處のおでん屋へちよいと隱れをする面々も出來てきた。從つて次第に一行の英氣は募つてきた。先づ無事に程よく見物を切り上げて大門を出ると先づ安心と見返り柳の蔭のとある酒場へと一同してとび込んだ。謂ふところの Akuto※[長音記号あり]組はえたり賢しと俄に大熱を發して沸騰せむと欲した。其處へ、いつの間に拔けてゐたのか五人か六人、我々より一足先きに一行を出し拔いて、他で飲んで來た一團があつて、既に十分いゝ氣持になりカチユーシヤ可愛やを合唱しながら我等のなかへとび込んで來たからたまらない。むづ/\してゐた大僧小僧共がみな一齊に跳び上つて之に相和した。何しろ三十人近くの人間だ。忽ちその一軒の酒場は鼎の沸くが如くに變化した。何事ならむとその門口には忽ちにして山を築いた。事態穩かならずと見たので私は椅子の上に立ち上つて退散の命を下した。すると、また忽ちにして一絲亂れず、響の物に應ずるごとく肅然と一同は其處を立ち出でた。出でたと見れば、こは如何に、その前の四辻の大通りの眞中に、さながら電氣仕掛の人形の如く、ばら/\つと各自に手に手をつなぎ合つて、散らばつたと思つたら直ぐにそのまゝ眞丸な大圓を作り上げ足並そろへて、カチユーシヤ可愛やと踊り出した。何しろ場所が場所だ、その輪のぐるりは眞黒の人山で、唯一人道を通ることが出來ない。一聯を踊り終れば、唯一言發するものもないのに、びたりとつないだ手を解いて、何處を風が吹くといつた風に濟まし切つてめい/\歩き出す。ものゝ五十間も歩いたかと見ると、また何一つの合圖もないのに元の通りに輪を作つて踊り出す。群衆心理とでもいふのか、斯の無邪氣な、熱し切つた一行の心熱に同化きれたと見えて、其處等から追々飛入加入者が現れて來た。中に一人の三十四五歳の立派な紳士が切りに双手をあげて喝釆(60)しながら我等について來るので、私はそれに感謝の意を表す可く、側に出かけて握手を求めた。握手ばかりと思ひきや、その紳士忽ち私の兩手をとつて火の如くに踊り出した。斯くてまた其處に新たな大きな輸が出來たのである。
 山谷から電車に乘らうとすれば、誰一人乘らうとするものがない、皆が皆まだ歩くのだといふ。歩き歩いてまたたうとう淺草までやつて來た。最後に吾妻橋の袂で、もう一度輪を作つて餘力を納めて無事に電車に乘り了つた。ほんとに、可笑しい位ゐに皆の心の一致してゐた晩で、初めはこそ/\と私の所へ脱走誘惑に來た人など三四人もあつたが、後には何れもそれをば忘れてしまひ、終に唯の一人の脱線者を出さなかつたのは、先づ不可思議といつていゝであらう。内心脱走を思はぬではなかつたらうが、斯の一團から拔け去るといふ事がいかにも苦痛であつたのだらうと思はれた。
 四月一日 晴。
 昨夜に引替へ、今日は誠にしめやかな日であつた。朝早くから創作社へ高鹽君、菊池君、山浦君が暇乞ひに來られた。午前早くの汽車で立つべき豫定が、もう一汽車々々々で遲れて正午をも過ぎた。仕方が無いので、たうとう立ち上つた。山浦君をば小河原君が送つて新橋へ、高鹽君は私が送つて上野へと赴いた。夜はまた信濃の高田君、榛葉君、松島君、青柳君が明朝一番で飯田町驛を立つ、多分これでお目にかゝれぬからとて挨拶に來られた。よく/\厭や相に見えてゐた菊池君も、今は思ひ切つたといふ風に別れて行つた。丁度其處へ出來て來た「創作」四月號の發送にとり懸るのも苦痛で、たゞぼんやりとしてゐると、折よく來合せた茅野君、石山君、中村君、(61)越前君が手傳つてくれて、とにかく一緒にそれを郵便局に持つて行くことになつた。發送を濟ませると同時にこれから行けばまだ間に合ふからと急に一同上野驛へ駈けつけることになつた。菊池君を見送るためである。さういふ話でなかつたので、既に危く發車しやうとしてゐた同君は我等を見て驚喜した。意外にも其處へ小河原君が唯一人間じく菊池君を見送らむとしてやつて來た。汽車を見送り果てて停車場を出た我等は全くまだぼんやりしてしまつてゐた。そしてたうとうその中の四人だけはその夜を徹して飲み明かすことになつてしまつた。
 四月二日 曇、後雨。
 お晝まで四人は共にゐて、午後を中村君と唯二人夏蜜柑をてんでに持ちながら武藏野を散歩した。冷たく曇つてゐた空からは終にぽつ/\と落ちて來た。濡れながら創作社に歸ると小川君が來てゐたので三人一緒にお湯に入り、芳靜館の二階の一室で、實に靜かに別杯を酌み交はした。中村君も明日は立つて行くのである。折からの雨のなかを、伊達邸か護國寺かで啼く雉子の聲が切りに聞えて來て、飲めど/\醉ふこともなく、徒らに談話のみ續いて次第に夜は更けて行つた。其處へ昨日から舊友訪問に時を送つてゐた野垣内君が歸つて來て、急にこれから立つといふ。餘り急ではないかと留めてみたが、既にもう友人とも決めてあるからと惶しく用意を濟ませて立出るのを驚きながら玄關まで見送つた。雨は土砂降りになつてゐた。小川君も歸つてしまひ、私はたうとうまた中村君と共に其室で夜を明かした。
 四月三日 曇。
 中村君と兩人、電車中でも停車場でも、多くは黙つたまゝ別れてしまつた。愈々芳靜館に殘つ(62)てゐるのは小河原君と宮坂君とだけになつてしまつた。此日はこの兩人と共に暮す。
 四月四日 雪。
 何事ぞ、櫻の盛りに大雪だ。宮坂君は茨木君を訪ねてゆき、じつとしてゐるに耐へかね私は小河原君と兩人して淺草に活動寫眞を見に出かけた。全市街は眞白だ。電氣館に大評判のクレオパトラを見る。小河原君ほど、浮き沈みの烈しい人はない、私も人並以上だが同君はもつとひどい。今日など、もう全く悄氣切つて、話しかけても返事の出來ない沈みかただ。いよ/\心細くなつて、折角のクレオパトラをも半分で割愛し、雪のなかをぶら/\と向島の堤を通り、和田山蘭君を訪ふことになつた。彼に逢つてこの心を慰めてほしかつたからである。折よく越前君も來合せてゐた。兩人は雀躍して我等を迎へてくれ、自炊生活の不自由極るなかに即座に御馳走をこしらへて、巨大な貧乏徳利まで並ぶに到つた。場合が場合であつたし、私はその夜すつかり泥醉した。泊り込んだは無論のこと、あやしき舞踊を試みて一方ならず諸君を惱ましたといふことだが、半ばは嬉しさ餘つての事であつた。小河原君も非常に愉快であつた相だ。
 四月五日 快晴。
 和田君は用事ありて早朝他へ赴き、殘りの三人はまた墨堤に出て、歩きも歩いたり、終に鐘が淵の外れまで行つてしまつた。昨日の雪の中の花も靜かでよかつたが、今日のは正に艶麗無比といふ滿開どこであつた。隅田川を一錢蒸氣で吾妻橋に下り、晝すぎ創作社に歸る。社には茨木君と宮坂君とが待つてゐた。そして宮坂君は今夜の十時で歸るからこれから何處かで別杯を酌まうと云ふのだ。否みかねて共に神田に出で、また醉うて兩君と別れた。
(63) 四月六日 晴。
 今夜十時、終に小河原君も歸つてしまつた。
 眞實、すべての事が夢のやうである。思ふともなく當時の事を思ひ、いま各地に相分れ去つてゐる人々の事を思ふと、何とも云へぬはかない、人なつかしさを感じて、泣くともなく涙の流るゝを禁じ得ない。
 諸君、私はいままた改めて、左樣なら! を叫び、遠く諸君の健在を祈るものである。(大正三年)

 大會雜觀

▼歌人の會などといふものには必ず一種の變な臭ひの伴ふもので、何だか斯う擽つたい樣な、打解け難いものである。今度の會合には、それが微塵も無かつた、謂はゞ普通の人間の會合とでも云ふべきものであつた。
▼そして集つて來た多くの人々の性格氣風が殆ど悉く似通つてゐたのも一の奇觀であつた。それがあんなに一致統一を生んだ原因であつたと思ふ。一概には言へまいが、打ち見たところ多く一本調子の素朴な人々であつた。
▼和田君などとも話してゐたことだが、右の性格氣風の一致してゐたといふ以外に、あんな調子に行つた直接の因をなしたのは廿七日の夕方高鹽背山君によつて發せられた一語に基くと見ても(64)よいところがある。廿七日にはまだ私一身の準備は何一つ出來てゐなかつたのみならず、音樂會が新たに加はり、從つて講演會の會場にも異變を生じて來た、それを各新聞に發表せねばならぬ。止むを得ぬので、既に四五人創作社に集つてゐた人々の應待をば茅野君に頼んでおいてその日の正午から私はそゝくさと下町方面を駈け廻つてゐた。そして夕方歸つて見ると、驚くべし、社の二階はもう私の坐る場所が無くなつてゐる。小さい二室の間の襖を除いても尚ほ二三の人は階子段の板の上にはみ出してしまふ。私は實際心ひそかに二階落下の惧を懷いてゐたのである。夕食の時間だが、右の有樣で私も一寸途方に暮れた。其處へ高鹽君が、如何です、とりあへず皆で晩餐會を開かうぢアありませんかと、言ひ出した。それから記事中にある寶亭の一幕となつたので、事があまりに速くとつ/\と突差の間に運んだためか、寶亭の二階に上つた時には諸君の顔は既に紅くなつてゐた。その會はまた全く豫想の外の旺盛を呈し、五日間の大會を今夜一夜に縮めてしまへと盛んに呼應せられたのを見ても一般は推せられるであらう。さうした間に各自初對面などといふ隔意はすつかり除去せられてしまつたのであつた。
▼會期中で最もだれてゐた日を求むれば茶話會の時であつたらう。何しろ、經驗のない世話人たちに加へて第一日といふのだから無理もない。會場の混亂したのは揮毫のためであつた。また餘りに烈しく攻めたてたゝめ金子きんなどはとうとう頭痛がしだしたと別室に逃げてしまはれた。實際皆さんにお氣の毒に思つた。兼題歌互選披露も拙かつた。今度の會にはみなうまくやり得ると信ずる。
▼何しろ、芝居は面白かつた。みな同じ場所に集つて見られなかつたのは遺憾で、宮坂君等十人(65)餘りの場所からは舞臺が十分に見られず、表情などよく解らぬとてこぼして居たが、これは強ちに場所の如何に係らず、諸君の眼球が入場早々既に異状を呈してゐたのだらうといふ評判であつた。青柳君、野垣内君や私などの椅子は最もよく、南さん姉妹、菊池君等のもよく、悲喜交々到ると大ベソをかいた疎林翁は最も背後の壁際に獨り泰然として逆上せてゐた。(山蘭君の見物記は來號に載ります)疎林翁と私と廊下を歩いてゐると經堂君がキユラソーか何かをなめながら、長身亭々群衆の頭上に聳えてベソかき最中の場に出會つた。翁と兩人ウヰスキイを飲んでゐる所へ青柳、榛葉、高田の巨人連がまた通りかゝつて、これはサイダーを飲んで行つた。三君の去つたあとをボーイが切りに呼ぶので如何したのだと訊くと、御勘定が足りませぬといふ。諸君の頭もよつぽど如何かしてゐたものと見える。またその後、飯食ひに出かけた時に連中一の美男子高田君が迷子になり、折よく出合つた茅野君に引張られながら我等が鮨を喰ひ終つた所へあたふたと跳び込んで來たのも偉觀であつた。鮨は食つたが腹に反應なく、更にその後天どん幾個かを平げたといふのは芳靜館の諸勇士であつたといふことである。その後、何處へ行つても鮨は食はぬことにきめた。芝居がはねてイザ電車といふ時に、まだ歸りたくない是非日比谷公園を歩かうと言ひ出し、もう赤電車だよといへば、電車が無くなりア歩けばいゝぢアないかと外に出てまで逆上せてゐたのは巣鴨村の住人岩淵要大人であつた。
▼廿九日午前の散歩のとき、ニコライ堂へ行つたところ丁度日曜の禮拜日で、堂内は紫衣金金襴の僧たちや昂奮した信者や、濛々たる尊い香のけむりやらで滿たされ、實に莊嚴なものであつた。ツイ一寸見物のつもりの我等餓鬼連中も流石に難有さの思ひにはうたれたが、斯くてあるべきに(66)もあらねばとほど/\に引上げようとすると、目に感涙を溢らせてどうしても其處を動かぬ人が一人出來て來た。醉へば必ず梁に跳びつく蝙蝠藝の名人山浦貫一君であつたので一層に驚かされた。彼はその晩もまた富士見樓の梁へ吸ひついた。
▼富士見樓といへば隨分また珍聞奇觀が續出した相だが、不幸にも私はその日其處に行くと直ぐさま醉拂つてしまつて、何が何であつたやら少しも知らない。太田さんの遊魂式空中游泳、内藤君の拳闘術練習等、惜しいものをみな見逃した。イヤ見るには見てゐたのかも知れないが、泰然としてみな解らなかつたのだ。越前君の記事に羽織一杯飯粒だらけになつて奮闘したとあるのは○〇君(出世前故、特に〇〇君)だといふ事である。するとその人はまた四面楚歌子によつて描かれた如くその翌朝ぼんやりと其處より二三里を離れた中野兵營横の麥畑で眼を覺した人と同人であるわけだ、考へみればて恐しい話だ。一人が離るればまた一人、無闇にその晩私は誰やらに首つ玉に噛り着かれた形跡がある。翌朝はなま/\しい傷が額についてゐた、爪か齒の痕である。(その後三四日してまた一つ傷が増えた、これも同種類のものであつた)。宮坂君と野垣内君とだけは白状したが、あとは解らない。
▼その晩、氣の毒であつたのは芥川葭穗君であつた。同君は少し遲れて、一同の眼つきが少々怪しくなつた所へ掬躬如として這入つて來たのだからたまらない。一同それつと同君を包圍した。私が初めて自身の座を離れて遠い同君の席までよろめいて行つた時が即ち私の意識の最後であつたのである。さう/\、その後もう一つ覺えてゐる事がある、踊りだか唄だか、何かしら女連がやつてゐるすぐ前に大あぐらをかいて能ふ限りに兩肱を張り、まるで矢大臣(若しくは蛙の剥製)
(67)そつくりに兩々相並んで口あんぐりと仰眺してゐた二人のさまがいかにも可笑しく、あんまり笑つて到頭胸を痛くした。兩人とは右の〇〇君にニコライ堂感涙君のことである。それからどうしたはずみであつたか、不時のつかへで今度出席出來なかつた井田君、三浦君の事が急に頭に湧いて切りに悲しかつたことを思ひ出す。彼等のためにとひとり言を言ひながらその時は私は獨酌で幾つかやつたものだ。
▼集つた人の全ての酒の強いのも一つの驚きであつた。佐藤辰雄君は、乃公は幾らでも飲むぞといつた大きな蒼い顔をしていつもにや/\してゐたが、相對してその虚實を試すの機がなかつた。一番年少でいつもにこ/\と黙つてゐる神戸節君もいざといふ場合には可なり飲んだ。齋藤春光君もこの種類に屬すると見た。見かけ倒しは榛葉君、土屋君位ゐのものであつたらう。青柳君は量はさほどでもないらしかつた。然し、或人は斯う評した、一朝彼を四疊半裡に放したならば彼は凄しく暴威を振ふであらう、と。無闇に飲んで、無闇にはしやいで、無闇にしつかりしてゐるのは石山柳路君である、或人はまた斯う評した、彼は一首の上の句を知つて未だ下の句の味ひを解せぬ、と。飲ませたくはあるが、飲まれて困るのは小川水明君である、さらぬだにキネトホン式なる彼の言語は、酒後殆ど語呂を成さぬ。吉原でこつそりと私と宮坂君とおでん屋に忍んだところへ、私にも一杯下さいとひよつこり入つて來た人を見たら、それは温厚の君子高田枯月君であつた。始め處女の如く後脱兎の如きは松島梧風君、後暴虎の如きはそれ小河原素山君か。
▼いつやつてもまづくはなかつたが、最もしみ/”\と身にしんで飲んだのは芳靜館の二階で雉子子の鳴く音軒端の夜雨を聽きながら酌み交はした中村君との別杯であつた。何か語りたげに見えて(68)終に黙々として歸つて行つた菊池君を、せめてその時までゝも留めておきたかつた。
▼先に發表した會としての豫定行事は先づみな完全に遂行せられたものと見てよいであらう。單に外形でなく、その内容に於て特にさうであつた。唯だ少々遺憾に思つたのは所謂東京見物が果して十分であつたか否かの一事である。これは然し、既に東京を知つてゐてそれを欲せぬ人の多かつた事にも因してゐる。それを望んだ人々はまた幸ひに各自それを遂行せらるゝ機會があつた樣である。會費は實のところ、諸所で大分穴のあいてゐた事をあとで發見した。これは主として世話人(主として私)の不馴のためであつた。これも幸ひにどうにか斯うにか急を逃れて追加の悲哀から脱し得た。然し、十圓といふ會費はほんの定つたものだけへの割りあてで、他の酒代小づかひ等は別であつたゝめ、各自可なりの消費額に上つたことゝ思ふ。來年の大會は成る可く日數を短くし、全くに通じて一層の統一秩序を保ち度いものと思つてゐる。夏ではあるし、萬事あつさりと行きたいものだ。
▼幾度もいふ樣に參會者諸君の誠意と熱心とによりて世に稀なこの好會合を遂げ得たのは無論であるが、會期中この不注意極る私を助けて直接各種の經營に當つて頂いた幹事諸君の勞力が無かつたならば失態百出でとても斯の結果を收めることは望まれなかつたのである。思ひ起すごとに感謝の念を禁じ得ない。そしてまた實に腕きゝの揃つてゐたことをも大なる欣びとする。
▼地方よりの諸君が歸郷後の消息は如何であらう。たとへ幾らでもよい方面の影響を受けられたと聞けば嬉しい。かりそめにもその反對の現象ありと聞くことがあつたらば吾等の悲哀は實に甚しい。幸に各自々重の上、この事の絶無ならむことを祈つておく。(大正三年)

(69) この不滿を如何
     ――小川水明論のうち――

□既に越前君が言つてゐる如く、小川君は他のいふことなどてんで耳に入れようとする人でないと同時にこれほどまた他のいふことに神經を惱まし喜怒哀樂する人もない。見やうでは彼は他の人にかれこれ言はれることによつて然かく懸命に作歌に從事してゐる人であるとも見える。畏友原田實君曾て余に問うて曰く、讀者といふものが全く無くなつたとしても小川君は矢張り今のまゝの作歌を續けて行くであらうかと。
□余は昨今の小川君の歌を最も愛誦してゐる一人であると信じてゐる。小川君の歌から受ける感銘は、然し、決して全身的ではない、部分的である。余は親しくこの人の平常を知つてゐる、それが因をなして、同君の作に同感し共鳴する場合が多い。謂はば、同情し、憫れむと云つた心持で然かする事が少くない。一種遊離した氣分になつてこれを愛誦するといふ場合が多いのである。止むに止まれぬ要求または衝動から隨時これに同感し共鳴するといふのではない。
□小川君の歌を讀んでゐると、次第に一篇の戯曲を見てゐる心持と似通つて行く事が多い、即ち小川水明の歌といふ背景をうしろに、小川水明といふ一個の役者が絶え入るばかりに唄ひ且つ舞つてゐる光景をよく聯想する。いい心持である。然し、遠く離れて見物してゐる心持である。
□小川君は造次顛沛、悲しい苦しいやるせないといふ風のことを口から絶たず、また實際常にそ(70)の樣に身もだえしてゐる人である。而かも余の眼のせゐでもあるか、それは單に指のさき足のさきで然かあるごとくに見え、時に抑へ難き滑稽をすら覺えしめることがある。言ひ得べくんば、彼は先づ偶然そんな所に行き合せたにすぎず、而かもその他の場所をば一向これを知るに由なくまた知らんともせず、えこぢになつて其處に堂々めぐりを試みてゐる如き形さへ見える。
□さういふ所からか、彼の歌は時に甚だしき不自然を生む事が多い。單に誇張とも認め兼ぬるやうな、つづまり下手なお芝居を試みてゐる樣な姿に見受くる事が少くない。イヤ實際に自分はさうなんだと彼は言ふかも知れない。彼の事だから實際にさうやつてゐるかも知れない。而して余等はさういふ態度も擧動も歌も、その全てを忌み嫌ふのである。
□小川君の歌の長所はその生一本な所にある。一途にして寸毫も他を顧みないといふ樣な、至純にして濁りのない所にある。余等も常にそれに動かされて、知らず/\耽誦してゐるのである。而かも我に歸つた時にはまた必ずの樣に何やらの不滿を感ずるのが常である。その不滿は果して何處から來てゐるか、余自身にも充分滿腹するだけの理解が無い。この不滿には單に小川君の作に對してのみならず、ひろく短歌といふものに對する不滿の一部が含まれてゐるのだとも思はれる。茲には唯だ小川君の作に對するほんの具體的の不滿を書き連ねておいたに過ぎない。
□部分的または末梢的の喜怒哀樂に留らず、深く人間の基調をなせるそれ等より滴り來る歌といふものは出來ないものであらうか。少くとも我が小川水明君の歌は我等が社の内外を問はず近來我が眼に觸るる歌のうち、最も傑出したものであるに係らず、尚ほ擧上限りなき不滿を覺えざるを得ないのである。(大正三年)

(71) 齋藤茂吉君へ

 九月號の「前月歌壇」の中にかいた齋藤茂吉君の歌に對する小生の言が同氏の激怒を招いたらしく見ゆる。「どつちつかずといふ如き言葉を用ゐて予の歌風の獨立性を認めない點に論を歸着せしめてゐる」(アララギ十月號)とは驚いた話である。小生は北原君と長塚氏との歌の趣きが非常に變つてゐるものであることを述べて、そのいづれにも屬してゐない中間に貴君の歌のあることを言つたにすぎない。もつともその時、右兩氏の作に對していたく感動してゐた小生は、そのいづれにも似てゐないといふ言葉の裡に兩氏の作より貴君の作を多少輕視した意味を含ませてゐたには相違ないが、それは止むを得ない。その時の貴君の作に對する不滿は簡單ではあつたが言つておいたつもりである。それも充分貴君の獨立性を認めたればこそ相當の敬意注意を拂つて言つておいた。「つらつら予の歌風といひ得べきものについて思推するに、その因縁ふかくして遠い。初生來予の命は幾ばくの流轉生長を經來つてゐる。そしてその因縁や深くして遠い。」と自ら力まるゝ迄もないことである。然し不滿は不滿である。右の「前月歌壇」の中にもそれに就いては寧ろ貴君等によつて何等かの啓示を與へてほしい意味をも附加しておいた樣に思ふ。また貴君に對し相當の敬意を持つては居るものの「予の歌風の發育史を論ずる」ほど執心でない事を承知して頂きたい。最後に我等が「甘言苦語」の貴君によつて愛讀せられたことを我等社中一同只管恐縮に存じて居る。(六日朝、印刷所にて),−(大正四年)−

(72) 「潮音」創刊について

 今度太田さんの手で「潮音」が出ることになつた。前の「創作」が休刊してから正統に舊創作社の人たちの作物を發表する機關がなく、少なからぬさびしさを感じてゐたときであつたので、いまこの事のあるのは我等にとつて實にこの上もない幸福である。いふまでもなく體裁などに多少の相違があるだけで、内容に至つては殆んど前の「創作」と變りはないと信ずるからである。本意なくも久しく相別れてゐたものが、また一堂に相會ふに至つたことだけでも愉快でたまらぬ。創刊の事が發表せられてからまだ幾日もたたぬのに殆んど全部の舊創作社友が相集つたのを見ても皆のよろこびは察し得らるるではないか。
 太田さんならば私のたび/”\遭遇した經營難に罹ることなくやつて行かれる、其方面の資格を充分に具備して居らるる。尚またこれも私と違つて、大きく撞けば大きく響き小さくすれば小さく、諸君の聲援に對して鋭い反應を持つて居らるる人である。だからどれだけ聲援甲斐があるか知れない。私のづぼらと無神經に懲り切つてゐた人たちも今度は誠に樂しんで潮音社の事業を後援せらるるであらうと思ふ。私もまた經營といふ不愉快から脱して自由に自分のちからを用ゐることが出來ると思ふ。我等の日はまた茲に新しく明け始めた。(大正四年)

(73) 『砂丘』のこと

 九月の二十日前後に出來上る筈であつた『砂丘』が本屋の主人の病氣のため段々と遲れた。愈々本日小包より御送り致し候間御受取下されたく、小生病氣にて萬事印刷所任せに致しおき候ひしため紙質其他甚だ不出來にて困り入り候、再版の際には云々といふ本屋からの通知状の來たのが一昨日で、其日は小包は來なかつた。今日はいよ/\來ますネ、お祝ひに一杯買ひませう、おさかなが何も無い、お豆腐屋でも來るといいに……などと妻は昨日の朝軒端の雨を眺めて言つてゐた。正午近く眞黒に合羽で身を掩うた年寄りの配達夫が、重い小包が來ましたよ、少し濡れた樣だから直ぐ解いて下さいと言ひながら投げるやうに一個の小包を差し出した。どうも御苦勞樣、こんな天氣に大變ですねえ、とお世辭を言ひ/\直ぐお茶を入れて縁側に持ち出したりなどしてゐる妻のうしろで、私は早速その包を解きに懸つた。幾重にも括つてある紐を丁寧に解くと、見本の時に見覺えのある小型の本が十册ばかり出て來た。おゝ、出來ましたねえと妻も妻を看護《みと》りに此頃信州から來てゐる義妹《いもうと》もその側に寄つて來た。一册を取り上げて開いて見るなり、自分は愈々がつかりした。覺悟はしてゐたもののこの紙は餘り酷い。わざ/\見本まで拵へておいていざ本ものとなるとこれでは全く仕樣が無いと、失望やらなさけないやら、側からいろ/\と言ひかける女たちに返事をする勇氣も無く、さればとて其場で憤るわけにも行かず、ぼんやりと頁をめくつてゐると、組み違ひの所なども眼について、次第に暗い氣持になつてゆく。一册だけ手に(74)とつて私は自身の部屋に入つて襖を締めた。うす暗い机に凭り懸ると心はます/\沈んで、ざアつといふ雨の音が急に耳につく。
 自分は元來書物を作るに贅澤をいはぬ性質である。裝幀など別に凝る好みもなく、唯だあつさりとして歌に誤植さへ無くばよいといふ方で、それらの事は一切本屋任せであつた。そのため後でいやな思ひをした經驗もあつたので、今度だけは少し氣を注《つ》けたいと今までになく自身で原稿の清書をもし、わざ/\本屋に見本を作らせて見たりした。それに本屋とは舊い知り合ひでもあるしするから今度こそは幾らか自分の庶幾にちかいものが出來る事と信じてゐた。そして、今までになくその出來上りを待ち焦れてゐた。それが容易に出來ず、病氣だと聞き、通知状が來て、漸く着いた書物は右の樣子である。失望しはてた私は黄い表紙の一册を前に投り出して、中の歌を見るどころか唯だもう永いことぼんやりしてゐる間にいつか紙や印刷の事をば離れた物思ひを始めてゐた。この小さな一册に收められた歌、考へてみるとこれが自分の二箇年間に於ける仕事の全部である。このほかにはまつたく何ひとつしてはゐない。してゐないどころか一々かへりみると實にいやなことばかりだ。その間に、裏では次第々々に自分の命の幾分かが消え滅んで行きつつある。何といふ果敢ない、そして怖しい事であらう。
 今朝になつた。この三四日便秘してゐるので起きると直ぐ飲んだ苦鹹い、鹽水が胸につかへて、どうも飯が喰ひたくない。チヤブ臺代りの妻の机の上には昨夕誰もたべなかつたからとて握飯《むすび》にして燒いたのや雜炊やが並んでゐる。妻は雜炊を、妹と子どもとは握飯を喰つてゐる。私はわざと濃くした茶をちびちびと飲みながら、火鉢に.噛りついて――今朝も雨で、たいへん寒い(75)――餘りのしよざいなさに昨日そのままに棄てておいた『砂丘』を取り上げ今度は初めから讀み初めた。初めはうはの空で目を移してゐたが、いつの間にか興が乘つて、はては一首々々と聲に出して讀み始みた。極く新しい作はそんなでもないが、少し舊く自分でも忘れてゐた樣なのになると、其時々々の自分の事がはつきりと思ひ出されて、それにまた自分ながらよく詠み得たと思ふのにも出合ふことがあつて、すつかりいい氣持になつてしまつた。氣がつくと机上の食事はいつか終つて、子どもはゐず、兩人はしいんとして私の讀むのを聽いてゐる。妹などは眼を瞑つていかにも思ひ昂つて聽いてゐる。更に續けてゆくうちにこの書物の作者といま讀んでゐる自分とはまつたく關係のないやうな氣持になりはてて、極めて安らかに一首々々を追つて行つた。薄い書物の事で、直ぐに讀み終つたが、心にはまだ微かな幸福を感じてゐる。折からの雨をさかなに『砂丘』のために今日こそ一杯を擧げようと思ふ。(十月二十五日)−(大正四年)−

 父も母も若い俤
   ――お正月の思ひ出――

 私の郷里にはその頃下駄のま、登り降りした藁葺の尋常小學しか無かつた。學校の裏には暗く迫つた細長い溪が續いてゐた。その溪に梅樹が多く、新年の式場に挿す梅の花を採りによく先生に連れられて行つた。とび/\に白い花の咲いてゐる溪間を丈高い痩せつぽちの先生が何かぶつぶつ言ひながら鉈を持つて歩いてゐた姿をよう忘れぬ。先生は私の父とは親しい飲友達で、いつ(76)も何か獨り言を言つてゐる人であつた。
 新のお正月門松を立てるのは近所で私の家だけであつた。いつも父が自分で山に松を伐り出しに行つた。お伴は必ず私であつた。あれでもないこれでもいけぬと父の氣むつかしやに癇癪を起して獨りで拗ね切つてゐると遠くの方でことん/\と木を伐る音がして、やがて、繋、繋と呼ばれて何とも知れぬ悲しい思ひのしたことを思ひ出す。
 餘程でないと出る事のない高い足のついたお膳や、それに附隨した珍しい食器類の現はれるのも嬉しかつた。
 お正月の遊び、と云つてもそれは舊のお正月であつたが、めい/\一枚か二枚づつの半紙を出し合つて疊の上に重ねておき、物縫針のさきを唇に含んでそれにつけた短い糸でその紙に針を打ち込み、靜かに引き上げて針の先に留つたゞけのものを自分のものとする遊び、いま一つはこれは他處でもやるやうだが例の根つ子遊び、そんなもので、いづれも賭事であつた。
 郷里の新年のことを考へてゐると、父も母も何だか極めて若い面影をして私の心に浮んで來る。
 去年の正月のことを書き添へて置かう。大晦日は晴れて温かな日であつた。銀座の方に金策に出たが思ふ樣に行かず、日本橋の村井銀行の地下室みたいになつてゐる東洋軒の昇降口を降りて行つて靜かに沸き立つホツトウヰスキイに咽せながらいつか物事を斷念めたやうな穩かな氣持になり、神田の立花に小さんの獨演會があるといふので夜の更けるまで其處に籠り、電車にも乘らず其處此處と歩き廻つて窪町の家に歸ったのは午前の一時か二時であつた。街路には靄が深かつ
(77)た。歸つてから質屋に行き、二錢か三錢出して露店で松の小枝二本を買ひ求め、家の格子戸の兩側に釘で打ちつけて置いて、流石にこれだけは正月らしく用意してあつた大きな容器から酒をくみ出し、その頃からやゝ病氣の重つてゐた細君の枕もとでちび/\とやつて居るうちに耐らなく睡くなり、うと/\と布團を被つて居ると戸を叩かれた。お目出度う、お目出度うで、型の如く酒洒、酒。三日四日と重つた頃には私は半病人の如くになつてゐた。
 この機會を利用して知己友人諸君に年賀を申し上げておきます。惡しからず思召し下さい。(大正五年)

 「砂丘」の批評について

 あれほど誠實に批評して頂いて原田清水茅野の三君にだけにでもお禮を言はねばならぬと氣をあせつてゐるのであるが、どうもいまよう言へぬことを甚だ悲しく思ふ。たゞ感謝したことを言ひ表はすだけならばわけは無いのだが、それはいやだ。あれ等の言葉に對してそれでは心が濟まぬ。いちく自分の考へを述べ、諸君の友情に酬いたいと思つてゐる。兎に角部分的になるほどなるほどと思つて讀んだ右三君の批評に對して、なるほどと領くと同時にまた自分として多少註を加へ度い事がかなりある。また、頭からなるほどと思ひ、それを直ちに自作の上に省みたいことも幾つかある。が、それもいまようしない。私はいま自分で考へたことを實行するに非常に勇んでゐる。邪でも非でも、兎に角やつて見たい。實際、あまり深く諸君の言に聽くことは折角の思ひ立(78)ちに水をさす事とならぬとも限らぬ。水でもない油でもない、變なものにならうも知れぬ。要するに、あゝだ斯うだと餘り細かく考へ渡り、言ひ散らすことは現在の私に不利益である。少くとも身に創作慾の燃えて居る間は、何にも言はず考へず、ぢいつと思つた通りをやつて行き度い。言ふ事が極めてまち/\だが、此等の點を合點して頂いて、今暫く贈り物の貰ひつ放しを容赦して欲しいと思ふ。諸君は必ずこれを容れて呉れることゝ信じて居る。而して、或は言葉無しに諸君に答へ得る日の來る事の案外に近いかも知れぬと自ら樂しんで居るのである。

「砂丘」、つまり私の近作に對し割合に長い批評の加へられたのは右三君の外に西村陽吉(「生活と藝術」)尾山篤二郎(「文章世界」)の二君があつた。「潮音」に出た三君のものも決してよくは言つてないのだが、それとは打つて變つた意味に於ての不評であつた。斯る事情に自然精通せる東雲堂主人が私の歌集濫發を咎めたことの外は、彼等の批評は私にとつて全然關係のないものであつた。よしあしに係らず、他の言をば割合によく了解する私も、此等の批評に對しては更に何物も感じはしなかつた。特に篤二郎(この下にどうしても君の字がつけられない)の書いたものを見た時など、あの馬鹿奴が、と思つたきり、半分あとをば讀む氣にもなれなかつた。(大正五年)

(79) 姉の讀む物語から

     ――文壇諸家立志の動機(【どうして文壇に出た乎】)――

 私の幼年時代に、小説や物語などの好きな二番目の姉が、私を守りしながら、小栗判官や白縫姫などのことを物語つて聽かした。これがまづ一番最初の刺戟であつたやうに思ふ。しかし私は小さい時分には非常な亂暴者であつた。小學時代には毎時間先生から罰をくつた。中學の二年生位まではさうであつた。で、運動などには何時でも選手であつた。
 或時、他の學校から撃劍の仕合に來たことがあつた。その時私も武徳會の道場で仕合をした。そして對手の爲めに横面《よこめん》を食つて耳を潰して氣絶をした。それからすつかり連動をやめてしまつた。
 恰度その時の校長が山崎庚午太郎といふ若い人で、大變私を可愛がつて呉れた。この人は文學狂で、香川景樹の「桂園一枝」や西行法師の「山家集」などを愛讀してゐた。私達も自然それを讀ませられた。そして歌ばかりでなく色々の文學書類を讀み始めた。「一葉全集」は寄宿舍の押込に體をのしこんで豆らんぷの明りで讀んでゐた。すると或時舎監に見付けられて、その本を風呂場で燒かれてしまつた。けれども、讀まないでゐることが出來ないで、新に一本を買つて來て、今度は學校の近くの稻荷さんの祠のところへ行つて讀んだ。歸る時にはその本を砂の中へ埋めて置いた。次の日、それを又取出しては讀んだのであつた。
(80) それから漸々《だんだん》文学熱が高まつて來た。投書も始めた。しかし家が醫者であつたから、私が文學をやることをゆるさない。そこで卒業證書を握ると直ぐに、私は小説家になる志望を抱いて上京して、早稻田へ入つた。
 その頃獨歩や透谷のものを讀んだ。殊に獨歩の「武藏野」は、一々古本を買つて來て友達に讀むやうに歡めたものである。
 そのうちに安成貞雄、佐藤緑葉、土岐哀果、仲田勝之助、福永挽歌、服部嘉香等の仲間が出來た。皆は一週に一囘宛、各自の宅へ順番に集會して、その月の創作を批評しあつたり、文學論を闘はしたり、各々の持ち寄つた創作を朗讀したりなどした。
 さうしてゐるうちに、田山さんの自然主義の運動が起つた。そして我々の抱いてゐた文學に對する信念が打撃を受け、我々の一團は離散してしまつた。土岐、服部などは暫らく立消えのやうな形であつた。
 私は又國にゐた時分から私淑して居て尾上柴舟きんの所へ行つて、歌を見て貰つてゐた。そして前田夕暮や正富汪洋等と「車前草社《しやぜんさうしや》」を結んで、歌を「新聲」誌上に發表した。
 その後私は單獨で短歌雜誌「創作」を始め、今日まで旅行をしたり、雜誌を出したり、殆んど交代にやつてゐる。(大正六年)

(81) 『海の聲』のこと
     ――處女歌集の追憶――

 全く突然であつたか、またはどうかした引つ張りであつたかいま覺えてゐないが、或る日或る見知らぬ四十前後の人が菓子折などを持つて訪ねて來て、今度新たに出版を始めたいと思ふから何分の助力を願ひたい、とりあへず此處に斯ういふ雜誌(その名も思ひ出せない、何でも在郷軍人か何かを相手にしたものであつたと思ふ。)が出てゐるのでそれを引き受けた、どうか今後この方の選歌をお願ひしたいといふことであつた。それがきつかけで、では先生の歌集を最初に出しませうといふことになり、其後若干の金を持つて來た。先生などといはれたのは恐らくそれが私にとつての初まり位ゐで、何しろまだ早稻田に通つてゐる學生ではあつたし、牛込の原町の或る寺の離室《はなれ》を借りて自炊の樣な生活をしてゐる頃のことであつた。その金を手金にして印刷所へ原稿を持つて行くと、やがて校正刷といふものが出始めた。丁度それが早稻田の卒業試驗の始まるのと一緒になつて、勉強も何も手につかず、試驗場に一寸顔を出しては直ぐ印刷所へ馳けつけてゐた。自分の歌が活字に組まれて、それを自分で校正する、そして次第に一册の本になりつつある、などといふことは全く經驗のないことなので、まつたくどれほど嬉しかつたか知れなかつた。原町の或る曲り角で校正刷を見ながら歩いてゐて八百屋の車につき當り、自分で驚いて藪の中に飛び込んだこともあつた。校正は勿論、編輯といふことも初めてであつた。どういふ風に輯(82)むべきかで大分苦しんで、友人などをもいぢめて廻つた。が、友人とてみな五十歩百歩であつた。表紙の「海の聲」といふ字をば學校で始終机を共にしてゐた土岐哀果に書いて貰つた。畫をば平福百穗さんにお願ひした。まだ千駄ケ谷あたりの二階に間借して居られた時分である。序歌を尾上先生が下さつた。
 校正もすみかけたが、事が起つた。例の出版屋氏がふつつり影を斷つたことである。その宿へ行つてみると國へ歸つたといふ。其處あてに手紙を出しても返事がない。印刷屋ではとつ/\と仕事を運ばせていつの間にか綺麗な本にしてしまつた。心はせくが、あと金をよこさねば渡さないといふ。それとなく印刷所へ行つてみるとちやんと積まれてある。が、手にとれない。其處へその男から手紙が來た。事情でもう出版業は見合はす、惡しからずといふのである。泣きながら駈け廻つて金を集めたが、子供の事だ、幾ら集るものでない。もう試驗の成績どころの騷ぎでないのである。たうとう尾上先生の許へ泣きついて行つた。(その金をまだよう返さずにゐる事を附記しておく。事ごとにそれが氣になつて、お宅の敷居が實に高い。)
 時は明治四十一年廿四歳初夏のこと、刷つたのは七百部、三百部も賣れず、その秋かその翌年かに殘部を一册八錢か九錢に捨賣にしてしまつた。その後一册手もとにとつて置きたいものと古本屋を氣をつけてゐるが、まだ見つからない。本誌(註、短歌雜誌)讀者諸君のうちにお持ちの方があつたら讓つて頂けまいか。(大正六年)

(83) 歌日記

 二月十五日(大正七年)
 この月の七日から私は伊豆の西海岸にある土肥といふ小さな温泉場に滯在してゐた。が日記にはこの十五日まで歌は一首も書きつけてない。この日初めて四五首を詠んで居る。
   峽深み眞すぐにのぼる炭やきのけむりましろき春のあけぼの
   雨雲のたたなはりつつ山あひの春のあけぼの溪川の鳴る
   枯草の小野の傾斜《なぞへ》の春の日にかぎろひて咲く白梅の花
   よりあひて眞すぐに立てる青竹の藪のふかみに鶯の啼く
 土肥は北に山を負ひ、前に駿河灣を控へて居る。その山の間から流れ出てゐる溪に沿うて東海岸の方に越えてゆく路がついて居るが、此等の歌はこの山路を散歩しながら手帳に書きつけたものであつた事を思ひ出す。最初の『峽《かひ》深《ふか》み』の一首は手帳だけで、雜誌にも歌集にも發表しないで居る、調子の弱いのが氣になつたものかと想はるゝ。この日はこのほかに「東京の近藤君に葉卷を註文す」として
   たましひも煙るばかりに靜かなるこのあけぼのに吸はむねがひぞ
 の一首を書きつけて居る。これも何處にも發表せず。
 土肥にはそれからずつと廿四日まで滯在してゐた。そして右の十五日を振出しに滯在中毎日毎(84)日五六首乃至二十首位ゐづつを詠んで居る。當時の作をばその年五月に出版した歌集『溪谷集』の中に收めてあるが總てゞ八十首ほどある。然し右の樣に作るには作つても發表せずに置いたものが可なりあるから百二三十首も日記には書きつけてある樣だ。いま少し纒つて作つてゐる日の分だけを次ぎに書き拔いてみる。

 二月十八日
   東風吹くやかすみなびくと見るまでにこの沖津邊は潮曇せり
   入り殘る月ぞ寒けき沖津邊は東風立つらしき潮曇して
   此處に見る海のむかひの駿河路の低山脈《ひくやまなみ》に霞たなびく
   海かけて霞みたなびくむら山の奥所《おくど》に寒き遠富士の山
   石あらき入江の濱にひとりゐてあそべるけふの霞みたるかな

 二月廿一日
   ひそまりてひさしく見れば遠山のひなたの冬木風騷ぐらし(午前中)
   かなしきはさす日のひかり枯草の蔭に坐りてうつつなく居るに
   柴山の椿がもとにゆきあひし丹《に》の頬の少女はぢらへるかも
   崎山のはたけの畔《くろ》の淺茅原沖ひろく見えて浪寄る聞ゆ
   かすみ合ふ四方かぎりなき春の日のはるけき崎に浪の寄る見ゆ
(85)   とびとびに岩かあるらし春の日のとろめる入江浪動く見ゆ
   うねり寄る此日の浪は日に透きて六つら五つらかさなりて寄る(其午後)
   青渦のみなそこの石をかき鳴らし來寄れる浪は日に透きにけり
   岩かげのすくなき砂をかき敷きてまのあたり見れば浪はさやけし
   岩のあひをうねり越えては瀧となるうらら日の浪を見てたのしめり
   起きてゐて身にわるけむと思ひつつこの靜夜をいねがてぬかも(その夜)
   ぬばたまの夜の深みに灯つけひそまりて居りて身のことをおもふ

 二月廿二日
 東京に留守居をして居る妻が許へ書き送つた歌が十首ばかり出來てゐる。
   けふの日をこの柴山のつのぐめる雜木が原に居ると知るべしや
   田の道のかたへの芝のぬくとげに日を浴びたれば居て汝をおもふ
   たのしみて出でて來しかど樂しみてけふ居るものとゆめなおもひそ
   はつはつに梅の花咲くおのづからおもふ苦しき世の中の事を

 三月廿三日
 或る劫な友達が上京して來た、そしてそれの歸郷するのを東京驛に見送つて彼の手帳に書きつけた即興。
(86)   いま別るる思ひこそせね汝が顔のゆたかに笑める前に坐れば
   停車場の食堂なれば人出入しげかる隅に酒酌みて別る
   いふことの何とて無けれ相逢へばこころ幼くなりてたのしき

 四月十七日
 巣鴨天神山に住んでゐた頃、家の縁側から一つののこんもりした森が眺められた。それは廢兵院の構内なのだが、其處に櫻が五六木咲いてゐた。
   雨降ればつめたき縁に立ちいでて遠目には見る森の櫻を
   家に在れば縁よりぞ見ゆ見飽かねば出でて見に來しここの櫻を
   いついつと待ちし櫻の咲き出でていまはさかりか風吹けど散らず

 二月十日(大正八年)
 このあとの歌はすべて自宅で詠んだものである。
   ひえびえと庭の雪より寒さ湧くこの縁側に日は射しながら
   うづだかく置きわたしたるわが庭の雪ひさしくて塵しるく見ゆ
   しらじらと雪のおもてゆ照りかへす光つよくて寂しさ覺ゆ
   ほのぼのと雪のおもてに照りまよふうすら青みのありて日かげる
   日の光かげりきたれば庭も軒端もあをあをとして雪つめるなり
(87)   うす青み煙草のけむりたちのぼる窓の軒端に大雪積めり
   縁側にとどかむとする庭の雪に親しみながら吸ふ煙草かな
   ところどころ濃き藍見ゆる朝空の雲しげくして杉の雪散る
   ときをりに日のさし來れば雪積める裏の林に鵯《ひよ》の啼くなり
   葉がくれに見ゆる鵯鳥大きくて杉の林はいよよ曇れり

 二月十三日
   雪とけてひなたに乾く杉の木のけふうらら日に赤錆びて見ゆ
   うら寒き春の日ざしははだら雪消殘る杉にさしこもりたり
   鷭《ばん》の鳥ぞとめづらかに見つ大雪の積みわたしたる庭に來て居る

 二月十四日
   家の窓ただひとところあけおきてけふの時雨にもの讀み始む
   しみじみとけふ降る雨はきさらぎの春のはじめの雨にあらずや
   堅雪の解けかゆくらむけふの日の二月《にぐわつ》の雨にみなみ風添へり
   春雨のけふの強降りめづらしみ杉の木叢を飽かず見るかも
   獨りゐて思ふひがごとうち消すと強き煙草をつぎつぎに吸ふ
   追々に煙草の醉のかうじゆきわが眼の前の雨いよよ暗し
(88)   獨りゐの晝餉の飯をくひすぎて雨を見て居る雪のうへの雨を
   小机のはしの時計の針ばかり倦まず進むを見てなまけをり
   ぽつちりと眼をただあけてなまけをるけふのひと日の永くもあれかし
   ふらふらと雨のなかさし出でて行かむきびしきけふの心のままに

 二月廿四日
   眼さむれば寢汗しどろに己が生《よ》のさびしきことを夢みたるかな
   うつつにもゆめにもあれや眞さびしき苦しき夢をいま見たりけり
   己が生《よ》のこころぼそさをかき集めひそかに夢に見えて來にけむ
   ゆきづまり泣くに泣かれぬさびしさのわが生の果か夢に見え來る
   ひとのいふ五臓のつかれ心《しん》の疲れわがみる夢はよごれはてたれ
   うつつには思ひもかけぬうとましきわれの姿ぞ夢に見えたる

 二月廿五日
   電燈を低くおろせるわが書齋に夜の更けゆきて雨きこえきぬ
   風ほのかに通へる覺ゆきさらぎの夜雨の降りてぬくき書齋に
   あたたかう夜半降る雨をなつかしみ聞き入りをれば雷の鳴る
   いま鳴るはとほき雷おどろおどろ音のこもりて遠きいかづち
(89)   いかづちのいま珍しくしみじみと待てどもあまた鳴らざりにけり

 二月廿六日
 淺草公園に遊んだ時の即興。
   はァるがきィたはァるがきィたとて唄ふ子は噴水の側に群れて唄へり
   その眼やや大きかれども少女子はその眼見張りてははと笑へり
   その少女そのまろき頬に紅ゐのさしきてやがてははと笑へり
   その少女がたばねあませる黒髪のゆたけき髪は揺れてくづるる

 斯うして引いてゆけば限りがないからこの遽でやめておく。(大正八年)

 今後の前田君の境遇
   ――歌と人、前田夕暮氏―― 

 前田君は尾上門下といふが、雜誌『新聲』の歌壇を尾上さんが選しておゐでた時分に於ける、正當汪洋君と共に僕の先輩であつた。さうして車前草社を結んで以來永く一緒に勉強してきた。勉強してゐるうちに彼の心は、尾上さんよりか寧ろ窪田空穗氏の方に惹かれてゆくやうに見えてゐた。きうして尾上氏と窪田氏との間に迷つてゐた矢先に恰度自然主義が文壇に興つてきた。そ(90)の自然主義にも彼は餘程心を動かされたらしく見えた。そこへ又、主として繪畫の上に於ける運動としての印象主義が出てきて、彼はそれにも亦餘程感動したらしく思はれる。さういふ風に彼は次々にいろいろな色彩の歌を作つて來た。それは彼の初めから今日までの歌集を通じて見ればよくわかることである。僕としては、さういふ事をむしろ不愉快に眺めてゐた。併しさう云つた間に彼は常に彼の本質を失ふ事をば少しもしなかつた。いろいろ形や色は變つても要するに前田夕暮の歌を彼は作つてきた。その點は全集としての彼の歌集に軈て重きをなすであらうと思ふ。傍に見てゐる僕としては、これがもう少し初めから一本調子であつたならば尚彼本來の影を濃くしたであつたであらうと思ふ。同君は常に、自分の歌を未成品を以て甘んじてゐるかに見える。慥かにその如く彼の作は未成品である。彼のどの歌集を見てもこの點は最も著しく目につく。丁度雜誌などといふ厄介な仕事から離れた今日からはその未成品振を棄てて、本當の眞作品を見せて呉れるであらうと期待する。同君が雜誌をよしたといふ事に就いては僕には非常な同感がある。よくやつたと思ふが、彼としては又そこに一種の淋しさがあるであらう。その淋しさによく堪へて、雜誌をよしたといふ事實を有意義ならしめて呉れるやうに竊に祈る譯である。
 前田君と僕とは前にも言つた如く兄弟弟子のやうな關係ではあり、彼是十年あまりも一緒に同じ歌の道を進んできたのであるが、個人としての交際はまことに尠い。これは要するに下戸上戸の齎すところである。さういふ私的關係から今眼前に浮ぶ彼の風※[三本の斜め線を縦棒が串刺し]は、彼が如何にも心地よげに笑ふときの顔とその聲とである。思ふに彼は常にその如く心地よく笑はんとして、そうして笑はずに居る人のやうに見える。それが友達として僕にとつて、何となく近づき難からしむる。
(91) 彼は表面きわめて平和な道を來たやうで、その實、いろいろな惱みを心の内で經驗してゐるかも知れない。戀愛の、女の、創作上の、若しくは日常生活上のいろいろな苦しみを經て來て居はしないかと思ふ。要するにこれは他人の推察に過ぎないが、僕としては慥かにその事あるを思ひ、そうしてそれらの事が今後の彼に役立たん事を祈つてゐる。
 前田君は根はまことにいい人である、懷かしい人である。それが世間からはよく油斷の出來ない人であるかのやうに言ひ觸らされてゐるかの觀がある。然し今後の同君の境遇はよくこの世評を除き得る地位に立つものであると思ふ。彼自身も、漸くこれからは乃公の生地《きぢ》を出せるぞと思つてゐるであらう。それは何事よりも先にまづまづ望ましい事である。(大正八年)

 先生の惡口が縁
   ――歌と人、土岐哀果氏――

.いまでもおゐでる筈だが私達が早稻田のまだ豫科にゐた頃國文を教へて頂いた先生に永井先生といふがあつた。齢の割には頭の禿げた、何處となく瓢輕な先生であつた。何のきつかけであつたかこの先生と、當時日向から出て來たばかりの色の黒い一學生であつた私とは甚だ仲が好くなかつた。隨分先生からいぢめられた。その頃私と毎日机を同じくして坐る程仲のよかつた學生に藤田紀水といふがあつた。この男も永井先生を餘り好いてゐなかつた。怪しい質問をしかくる傍ら授業中の間がな隙がな先生の惡口を殆んど競爭の形で兩人してやつてゐた。ひそ/\とやつて(92)ゐるのだが、次第にその惡口の秀逸が出て來る樣になると自づと聲も高くなつて來た。ちやうど其頃我等兩人のツイ前の机に坐り馴らしてゐた二人の學生があつた。私共の秀逸が重なつて來る頃になると前の机の二人にいつかその惡口病が傳染した。彼等も直接ではないが私共に聞えよがしに同先生に向つて惡口を始めた。その惡口がまた極めて辛辣で輕妙で、とても日向や紀州出の田舍者の我等の比でなかつた。いつか主客轉倒でうしろの我等は聲をひそめて前の彼等の頻りと發展してゆくのに耳を傾くる事になつた。或日學校の退《ひ》ける頃雨が降つた。私は下宿が學校のツイ近くだつたので晝飯の時に下宿に歸つて傘を持つて來てゐた。多勢が此の俄雨のかなり烈しい中を濡れながら歸つてゆく中に前の机の惡口連二人も混つてゐた。思はず聲をかけて君達は何處まで歸るのですと訊くと、僕は淺草ですと中でも背の高い一人は答へた。ではこれをお持ちなさい、僕はツイ其處ですから、と言つて傘を彼等に持たせた。翌日その一人は傘を返しながら「僕は土岐です」と言つた。これが彼と口をきいた最初であつた。今一人は仲田勝之助君であつた事をあとで知つた。
 當時私は車前草社同人として『新聲』に歌を發表してゐた。よくその雜誌を學校にも持つて行つて机の上でこつそり讀んでゐた。それをじろ/\見てゐた前の土岐なる男は或日『新潮』歌壇にある白菊會詠草の所を示して『僕も斯ういふいたづらをやつてゐます、どうぞ宜しく』と言つた。『ア君は土岐湖友君でしたか』と思はず聲を高くせざるを得なかつた。白菊會は會として車前草社よりずつと舊く、然も土岐湖友はその中で當時最も振つてゐたのであつた。この惡口屋があの艶麗一點張りの歌を作らうとは全く想像外であつたのである。それから兩人は全く可笑しい(93)位ゐ仲が好くなつてしまつた。目は惡いが何處か至極お坊ちやんであつた彼が後には折々私の怪しい下宿に泊つてゆく樣にまでなつた。其時私の出す唯一の御馳走は豚肉をごて/\と煮て出す事で、彼は恐る/\箸を出しながら『自宅では牛肉は時々喰べるが豚は……』と言ひ出すのをおつ被せて『牛肉より豚の方がどれだけうまいか知れないよ』と云つた調子であつた。
 兩人はよく學校を怠けて小さな旅行に出かけた。或時は多摩川沿ひを歩いて御嶽に登り、林(と云つたと思ふ)といふ神官(と云つても半ば宿屋風になつてゐるのだ)の家に泊めて貰ひ、その家の女中(名は解つてゐたのだ、おまんさんと云つた)に銚子のお代りを註文するのにどうして呼んでいいか解らず廿分間も苦勞した末じやんけんで愈々土岐君が呼ぶ事になり二階の梯子段の降口まで出かけて『お、ま、ん、さ――ん』とふるへ聲で呼んだ事などあつた。或時は彼と佐藤緑葉と三人して武州高尾山に登つて山上の僧坊に泊り、私だけはいい氣持に醉つ拂つて寢てしまひ夜中に喉が渇いて眼を覺すと、兩人とも床から脱け出て、御丁寧にも兩人が兩人肌身離さず持つて出て來ためい/\の戀人の寫眞を見せあひながらめそ/\と泣いてゐた。當時の私はまた私でそれを見ると非常に森嚴な感にうたれて聲をかけるのも恐る/\と云つた風であつた。聞けば兩人とも同じく喉が渇いてゐるといふ。忽ち犠牲的勇氣を振ひ起して私が水取りに出かけたのだが、離室の樣な所に寢かされて勝手がわからず、苦勞した末雨戸を外すと戸外は月夜で雪が積つてゐる。其上に這ひ出して自分は飽くまで雪を喰ひ、彼等には附近の桶から氷の塊を持ち歸つて噛らせた事などある。
 彼とは京都にも一緒に行つた。市外花園村に私の郷里の友人で蠶絲學校に通ひながら或る農家(94)に部屋を借りて自炊してゐる男の所に四五日を過した。便所が農家の常で肥料溜と共通になつてをり一つごとにとぷん/\と反應のある奴であつた。私も弱つたが、彼は更に弱つた。會議の末野外で試みることになつた。折しも月の夜、家の周圍の薩摩薯の畑の中に相當の距離を置いて相構へた。折々虚勢を張るために聲をかけ合つて、まん前の衣笠山のまる/\しい姿を眺めながら月を賞して用を足した事など思ひ出すとあはれになつかしい。
 土岐君に極めて美しい妹さんがあつた。ほんとに美しい人であつた。或朝土岐君と私の下宿に枕を並べて寢みながら、若し君が欲しいなら妹を君にあげるよ、と言はれてから妙に氣がさして今までの樣にしげ/\淺草の彼の家をよう訪ねなくなつてしまつた事もある。
 思ひ出はなか/\に盡きない。
 彼はいま新しき才人として、敏腕なる新聞記者として社會上の地歩を極めて確實に占めて行きつつある。そして(これは多くの人には氣づかれない樣だが)その一面に彼は捨つる事の出來ない生れながらの或る寂しさを持つてゐる樣である。それがつまり彼をして忙しい中から歌を作らしめてゐるのであらうが、折々新聞社の應接室に彼を訪ねて見ると私は極めて多量に昔ながらの土岐君を見出だすのが常である。私に逢ふ時だけ特にさうなのかも知れないと思はれるほどさうである。強い樣で、弱い人である。(大正八年)

(95) 出發點一つ二つ
     ――初めて歌に志す人々に――

 歌人になると言つても根本は要するに普通に言ふ藝術家の心掛がありさへすればよいと思ふ。それに藝術家としての素質とその努力があつて、その上に歌といふ特種な形式に對する憧憬執着があれば歌人として立つ根本の要素が具《そなは》つたものである。「歌」若しくは歌人といふことにつき過ぎて、自分自ら非常に窮屈な範圍の中に棲んで行くやうな傾向が折々目につく。これは一種傳統的な習慣と言へば言へるが、そのために歌そのものゝ自由を殺してゐるのが少くないやうに思ふ。で、「歌詠みになる」といふことを最初から頭腦《あたま》に置かずに、只「藝術家になる」「詩人になる」といふ覺悟で出立して欲しい。殊に、今後の新しい歌を作る上から一層その必要なのを思ふ。
 それからいま一つ注意したいのは歌は形の小さいところから兎に角に作り易い。殊に色々な規則や習慣の取除かれた所謂新派和歌にあつてはそれが著しい。私は曾て、數年前に、今後の新派和歌が昔の床屋の親方や八公熊公などのやつてゐた所謂發句なるものに取つて代らねばよいがと懸念を抱いてゐた。ところがどうやら此の頃の有樣では私のその懸念が實現されさうにまで餘りに普遍的に、あまりに容易に、歌といふものが取扱はれて來たやうに思ふ。きういふ状態であるが故に一般の人が、歌といふものを非常に早呑込に、さうして好きだといふのを表看板にして内(96)心では見くびつて如何にも手輕に作歌に取りかゝるやうである。この調子ではその人自身の極《ごく》安つぼい歌は出來るかも知れないが、眞實の歌といふものはまるでそれとは方角の違つたところにゐるわけになる。で、歌といふものを早呑込することに、手輕なものであると思込むことに、さういふ態度から生ずる歌を一般藝術の踏臺にして出て行かうといふやうな不心得をば堅く愼んでもらひたい。眞實の歌はそれとはまるで關係のないところにあつて、他の型の藝術の企及し能はぬ獨特の境地を占めてゐるのである。少しでも歌を好きだと思ふ人はこの貴重なる出發點を踏み誤らないやうに注意して欲しい。
 いま一つ、投書といふことをするにも少なからぬ注意を拂つてもらひたい。誰しも誘はれ易い階段として投書があるのであるが、これも彼岸に達する方便としての投書だといふ覺悟でそれをやつて欲しい。それでなくして投書そのものにのみ興味を奪はれてゐるやうだとその人の歌は伸びない。その人個人としての個性の出た、自然な歌は現はるゝことなしに終り易い。つまり投書家としての歌で終り易い。投書を好む人の癖として多く小才《こさ》が利き、小手際《こてぎは》がよすぎる。さういふことから自ら自分の病を深めて行つて折角の自己の才能をも現はすことなしに終り易いやうである。なほこれは言はでものことではあるが、さういふ人に限つて小さな天狗になり易い。尚|細《こま》かな注意は數々あるであらうが、こゝには單に出發點に於ける大體のことのみ述べて置く。(大正八年)

(97) 所感
    ――内觀歌壇擔當に際して――

▼作る氣で作つた歌をよしとする。世の中に歌といふものがあるから、新聞雜誌で募集してゐるから、といふ理由で作られる歌はいけない。
▼つまり自分に交渉のあるものでなくてはいけない。自分を樂しまするもの自分を警しむるもの、自分を鞭打つもの、何か知ら自分自身の生活に影響する歌が作り度い。
▼ひとに見する氣で作る歌はいけない。ツイ自分を空にするおそれがあるからである。
▼歌をあまりヱライものに考へて作るのはいけない。昔からあつたもの、幽遠なもの、優美なもの、そも/\詩歌藝術は、といふ風に考へて作り始めると多くはウソモノになり易い。つまり歌を他人扱ひにする事になるからである。ゆくりなく此處に自分は自分の歌を詠むといふ態度で詠むのがよい。さうして自啓自發して詠み進んで行つたところに眞實の歌の道、すなはち歌道といふものが出て來るのだ。
▼歌を恐れてはいけない。非常に親しいものに考へるがよろしい。身を入れて詠み耽る樂しさは其處から出て來る。
▼但し、歌を侮つては更にいけない。今のいはゆる新派の歌よみたちがいゝ氣になつて三十一文字を並べたてながら、安價な惚氣を歌ひ、貪乏を歌ひ、配合按配の風景歌を作つて一向に耻ぢな(98)いのは要するに歌を馬鹿にしてかゝつてゐるからだ。尤も歌の方でも彼等をば相手にはしてゐない。彼等はただ彼等だけのあんな遊戯に憂身をやつしてゐるに過ぎぬ。歌は歌で別な所で遠く美しく輝いてゐる。
▼歌は言葉と心とから成つてゐる。自分の心を粗末に扱ふのは即ち自分自身を輕んずるものである。それと同じく言葉をぞんざいに詠むのは自分の歌を卑しくする所以である。新派の歌はぞんざいでよろしいといふ愚かな無知な考へを先づ第一に捨てねばいけない。
▼歌は御存じの通り極めて短かい小さい形から成つてゐる。よほど大切に取扱はないと、この微妙な形、微妙な魂を壞し易い。心の緊張、言葉の洗錬、そしてその間に出來て來る格調の微妙さ、それらによく/\注意せねばならぬ。
▼然し、さう考へて來ると、また歌が恐くなる。とにかく、恐れず、狎れず、侮らず、自分で出來るだけの注意と努力とを拂つて自由に面白く詠んで御覽なさい。高い山を仰ぐ樣に、大きい海に對する樣に、正しい自分に向ふ樣に、額を擧げ、胸を張つて詠んで御覽なさい。小さな原稿紙の罫の中に填め込む氣で作るのは最もよくない。(大正十二年)

 旅より妻へ

  旅のさき/”\より葉書、繪葉書、または手帳を破りつゝ書きつけて送れる手紙などをとり集めたり

(99) 岩村田の歌會のくづれが小諸に延び、更らに轉じて此處にまで及んでゐる。此處で愈々三方へのお別れだ。即ち東京へ歸る者二人、佐久、長野へ歸るもの四人、而して小生と門林《かどばやし》君とはこれから午後六時發の輕便鐵道に乘り、六里が原を越えて上州方面へ入り込むつもりだ。
 二三日斯うして晝夜を共にして來たので流石にみな勞れたらしい。そしてみな別れともない顔だ。此處はさゝやかな蕎麥屋、夕日が土間までさし込んで、何やらの木の薪の燃える匂ひがしてゐる。(十月十七日午後四時廿分、信州輕井澤、松本屋にて)

 六里が原の野つ原を小さな/\汽車がこつとん/\と走つてゐる所だ。四方まつくら暗、たゞ窓さきに枯芒の伏し靡く音だけは感ぜられた。それでも停車場らしい所があり、一ケ所では若い女房が子供をおぶつて、ランプを點して、柿を賣つてゐた。(同、六時半)

 終點驛嬬戀といふのに着いた。驛とは云つても矢張り枯野原のまん中で、まだ幾軒も家は建つてゐないらしい。驛前の宿屋に入る。風呂をば線路向うの運送屋で貰つて來て呉れといふ。小女に連れられて行くと彼女が忽ちころんで、提灯を消し、三人半ば這ひながらに運送屋に着いた。新築の、がらんどうな建物の中に主人だか番頭だか唯だ一人、新聞を讀んでゐた。風呂の下を焚きつ焚かれつして二人辛くも身體をあたゝめ、いま宿まで歸つて來た所だ。因果と隣室に醉つ拂ひの一座があつてどんちやん騷ぎをやつてゐる。我等兩人苦笑しながらおとなしく炬燵に入つて、盃をなめてゐる。昨日一昨日の賑ひを思ひ出すと、まさに感無量である。(夜九時十分、上州(100)嬬戀村嬬戀館にて)

 寒い。非常に寒い。炬燵に噛りついてゐると、女中の云ふにはもう此處にはひと月も前に雪が來ましたよと。
 因果と、今日、しよぼ/\と降つてゐる。川に沿うて川原湯温泉へ下るか、奮發して草津へ越ゆるか、いま地圖をひろげて相談中だ。
 マアコヨンヨンのよく唄ふミナミハジヤバヨウといふ唄をいま宿のねゑやがうたつてゐます。(十八日朝八時半)
(註、マアコヨンヨンとは我等が次女眞木子をさす)

 迷ひぬいてゐる所へ、不意に草津行の自動車が出ると云ふ。乃ち出立。車内でしよつちゆう頭のはち合せをやつてゐた程車は搖れたが、をり/\眼につく雨中の紅葉の美しさは格別であつた。
 この宿には一昨年だが小生一人で來た事があつたのだが、番頭め忘れてゐて、首實驗のやり直しをやりやがつた。が、何しろお湯は難有い。手足までほか/\して來た。(夕五時、草津温泉一井旅館より)(註、首實驗云々は草津温泉は癩患者と區別するため挨拶にことよせ番頭先づ客の人相を視るなり)

 骨に徹る寒さだ。そのなかにいま例の湯揉みの悲壯な唄が聞えて來た。これは一度お前にも聞(101)かしたい。
 空は晴れた。これから草鞋だ。(十九日、朝七時)

 漸く旅の氣持になつた。草鞋を履いて湯氣に包まれた草津の宿《しゆく》を立ち出づると、やがて眞向うに淺間山の赤茶けた素裸體の姿が仰がれた。嶺には雪だ。煙もなびいてゐる。
 此處は一つの溪ばただ。溪ばたに實に見ごとな楓の老樹があり、八方に枝を張つて今をさかりと紅葉してゐる。その木の下で、溪の石の上で、いま辨當を開いてゐる。手を洗ひ、顔を洗ひ、口を漱《すす》ぎ、サテ一杯|徐《おもむろ》ろにふくんだ味と來たらたまらない。(その一)
 然し、何といふ綺麗な紅葉だらう。我等が頭上の老樹は更らなり、見渡す限りの山から山が、みな、ほんとに滴る樣な紅ゐだ。生れて初めて見る紅葉とおもふ。それに、お天氣もいゝ。山から山へしっとりとお天道さまが照り輝いてござる。(その二)
 珍しく歌なるものが出來かけて來た。
   枯れし葉とおもふ紅葉のふくみたるこのくれなゐを何と申さむ
   露霜の解くるがごとく天つ日の光をふくみにほふもみぢ葉
   ゆくりなく梢はなれてまひうかぶひと葉のもみぢ玉と照りたり
   神無月まだ散りそめぬもみぢ葉のあまねき山のかなしかりけり
   鏡なすけふの心に照りうつる山邊の紅葉かなしかりけり
   もみぢ葉のいま照り匂ふ秋山の澄みぬるすがた寂しとぞ見し
(102) ひらゝ、ひらゝ、と頭の上から斷えず紅葉が散つて來てゐる。ドレ、これから愈々暮坂峠へととりかゝる。(十九日、午前十一時四十五分)

 芒々たる枯芒のなかを登るともなく登つて來た。野とも澤ともいへるおほどかな峠道だ。立枯れになつた(ではない、本當はわざと枯らしたのださうだが)大きな/\楢の木が枯芒の中にあちこちと立つてゐる。それらの枯木に啄木鳥《きつつき》啼き、中天には高く鷹がまつてゐる。いつとなくおごそかな氣持になつて歩いて來た。
   下草の薄ほほけて光りたる枯木が原の啄木鳥の聲
   枯るる木にわく蟲けらをついばむと啄木鳥は啼く此處の林に
   立枯の木々しら/”\と立つところたまたまにして啄木鳥の飛ぶ
   啄木鳥の聲のさびしさ飛びたつとはしなく啼ける聲のさびしさ
   白木なす枯木が原のうへにまふ鷹ひとつ居りて啄木鳥は啼く
   ましぐらにまひくだり來てものを追ふ鷹あらはなり枯木が原に
 これを書いてゐるのは暮坂峠の路を折れて登つて來た一つの峠だが(五萬分の地圖に一一六〇米突の標高だけあつて名は出てゐない)これは小生自身にも思ひがけなかつた道草のひとつだ。詳しくは今夜書く。腰をおろした落葉のなかに、きれいな栗の實が幾つとなくこぼれてゐる。
   夕日さす枯野が原のひとつ路わが急ぐ路に散れる栗の實
   おのづから干《ひ》てかち栗となりてをる野の落栗の味のよろしさ
(103)   この枯野猪も出でぬか猿もゐぬか栗うつくしう落ちたまりたり
   かりそめに一つ拾ひつ二つ三つ拾ひやめられぬ栗にしありけり
                   (十九日午后二時十分)

 お前にこのことを話したつたかどうか覺えてゐないが、二三年前、草津から今日と反對に澁峠を越えて信州の澁温泉に出たことがあつた。その時、遙か遠くの麓にうね/\とうねり渡つてゐる枯野のはづれの一點を指ざして、彼處が花敷温泉だ、大きな崖の眞下に温泉が湧き、崖の躑躅の花がその温泉に影をうつす、とてもきれいに澄んだ温泉だよ、とその時連れてゐた老案内者が教へて呉れた事があつた。今日、枯野の芒の中を通つてゐると、不圖眼についた道ばたの棒杭があつた。右|澤渡《さわたり》、左花敷温泉道」と書いてある。やれ/\此處から行くのか、と思ふたらもうとてもじつとして居れなくて、門林君を引つ張つて此處までやつて來たわけだ。路が樂でなくて、實は途中で後悔しい/\來たのだが、來てみればまたよかつたと思ふよ。成程、嶮しい崖の根に湯は湧いて、湯槽《ゆぶね》は天然の岩、温度も先づよかつた。が、驚く勿れ、屋根も無ければ壁もない。立つて手を延ばせば溪の水に屆くのだ。その溪の水の冷たかつたこと。崖にはいろんな木がはえて、殆んど落葉してゐたが、樫鳥が二三羽、其處に來て遊んでゐ、頻りに我等のしやがんでる上に紅葉した奴を落すのだ。
 いま、炬燵の上にランプが吊るされた。程なくお膳が出るであらう。(十九日午後五時、花敷温泉、關晴館にて)

(104) 恐しい風となつた。雨戸といふ雨戸がみながたびしとやつてゐる。ランプの灯も搖れ動いてゐる。側には門林君がすや/\と眠つてゐる。可哀相に、勞れたのだ。午前二時半だ。(二十日)

 今朝の食事をば階下の大圍爐裡の側で、ランプの灯かげでたべて來た。草鞋を履いて、戸外へ出て驚いた。庭から山から一面の雪だ。昨夜の風は吹雪だつたのだね。
 そんなに早く立つた甲斐あつてかつきり十一時に此處に着いた。六里歩いたわけだが、路が路で、非常に急いだ。いま一浴後一飲の圖。此處も崖の上に在つてなか/\いゝ温泉だ。いつそ此處に泊りたいが、四萬まで行く事にきめてゐるので、食事が済んだらまた草鞋だ。途中の落葉と紅葉の美しかつたこと。(二十日正午すぎ十分、澤渡温泉正榮館三階にて)

 矢張り澤渡に泊つて、此處をよせばよかつた。一泊客だといふので悉く酷待され、氣のせゐか足も腰も頭まで痛くなつた。(二十一日午前一時、四萬温泉田村旅館にて)

 いよ/\お別れの時が來た。門林君は明るく開けた方へ出て行くのだからいゝが、小生はいよいよ奥へと一人して入つて行くので、旅づかれの出た身に、心細い。然し、行つて見度い。思ひ切つて入つて行くことにする。此處のうち、川魚の看板が出てゐたので入つてみたら、なアんだ、かしはだつた。(二十二日午後一時半、上州澁川驛前にて)

(105) すれちがひの電車で、彼高崎へ小生沼田へと別れた。車窓に見る利根川の、ことに大きな荒瀬の夕日にきらめき流るゝさまなど、實によかつた。が、寒かつた。因果と電車が停電ばかりしてゐて、此處に着いたは夜の七時サ。車から降りた時など、足は暫らく動かなかつた。
 とりあへず郵便局に行つて、留置の郵便を受取り、この宿に來た。湯から上つて、やれ/\一杯いたゞかうと云ふ所へ思ひもかけぬ數名の來客だ。留置郵便を受取らうとすると局員が、今夜何處にお泊りかと訊くから可笑しいと思ひながら澁川で聞いて來た此處の宿の名を教へて來たのであつたが、それが網の一端であつたのだ。土地の文藝愛好者たちであつた。唯だ、中に社友Z・U君がゐた。この人は歌とは違つてまだ紅顔の好青年であつた。諸君十一時過ぎ退散。今朝はこれより九里奥、越後境の山中に在る法師温泉といふへ行く。お手紙並びに『創作』十月號拜見、難有うござんした。(二十二日午前五時二十分)
 いまネ、食事を終つた所へZ・U君來訪、一緒に法師まで參りませうとのこと、大に安心、共に早速草鞋を履く。(二十二日朝七時)(註、社友とは、我等が歌の結社創作社々友のこと)

 好いお天氣でもあつたが、片登り九里の道も遠かつた。途中、珍しい所を見せて貰つて來た。月夜野橋といふを渡つてほどなく、路の左手の高みにまだ新しいお宮があつた。土地の義民、磔《はりつけ》茂左衛門を祭つたものであつた。そのお宮の庭から利根川を距てた向う地に高橋お傳の生家といふが見えた。それから赤谷川に沿うて溯ること暫く、鹽原多助の生れた村といふをも過ぎた。而(106)して猿ケ京村といふ名からして怪しき村に終に社友T・M君を訪ねた。そしてとう/\同君をも誘ひ出して同行三人、早や暮れかけた峽間の路を急いだ。猿ケ京村には同じく社友G・H君がゐるわけで訪ねたが、仙臺に行つたとて留守であつた。一里近く夕闇の中を走つて、えんやらやつと此處まで漕ぎつけた。闇と山とで西も東も解らぬが、何か知ら山の山の奥といふ氣持が身體をしつとり包んでゐる。浴場なども如何にも此所らしい原始的なものであつた。いづれ歸つて話す。(廿二日夜七時、お膳を待ちつゝ、上州法師温泉にて)
 U――君、M――君と並んで次ぎが僕だ。枕を並べて寝てゐる所だ。M――君の歌をばもう何年か見て來てゐるのだが、とう/\逢ふ事が出來た。それにしてもエライ所に生れて歌など詠まうと志したものと不思議に思へて來る。寢顔を見ながらそれを考へてゐる所だ。歌も、書く文字もあんなに細々しいのに、當人は岩疊な山國人だ。昨夜、食事を始めてゐた所へ、二人の來訪者があつた。沼田の宿屋でこちらに來た事を聞いて追ひかけて來たのだといふ。一人はK・U君、一人はその友人。U――君は小生の歌集を持參し、口繪の肖像と引きくらべて見て、やアほんものだほんものだと喜んだ。流石に山の上だ。非常に寒い。床の中から首を出して書いてゐるのだが、指がよく動かない。(廿三日午前一時半)
 いま、一湯、浴びて來たところ、午前六時十五分、空も山も氷つた樣に晴れてゐる。恐らく二度とは訪ねて來ないであらう法師温泉よ、左樣なら、法師温泉。

 此處は笹の湯といふ道下の、崖下の、溪ばたの小さな一軒屋だ。やゝぬるい湯を浴びて少し早(107)目だが、お晝を使つてゐるところだ。M――君とはツイこの下で別れねばならぬからネ。宿屋の二階から斜め上の方に、崖と崖との間に、橋のかゝつてゐるのが見える。これは群馬縣で二番目の高い橋ださうだ。高さ二十五間。兩岸の崖の散り殘りの紅葉が濡れた樣に美しい。恐らく今ころ霜が解けつゝあるのかも知れない。(二十三日午前十一時、笹の湯にて)

 不思議な邂逅が行はれた。此處は笹の湯から二三里下つた所の湯宿(ユジュクと讀む)温泉、此處まで見送つて來てM――君は引返し、U――君も今日は是非自宅(沼田の在だ)まで歸つておきたいとて別れ去り、小生一人、急にがつかりして心ぼそく、晝間から女中に床を取らして寢込んでゐた所へ、やがてその女中が來て、あなたは若山といふ人ではないか、と訊く。左樣だ、と答へて不思議がつてゐるところへ、一人の立派な青年を連れて來た。それがお前、昨日訪ねて、仙臺へ行つて留守であつたG・H君だらうぢやないか。跳ね起きて訊くと、昨日同君は仙臺からの歸り路、沼田に寄り、其處の本屋で小生の法師に行つた事を聞いたのださうだ。蟲が知らすか、ともすると今日はこの邊に引返して來て泊つておいでゞはないかと念のため立寄つて訊いてみた宿屋に小生が寢込んでゐたので、彼自身も驚いたといふのだ。手をとつて奇遇を喜んだ。これで今夜ゆつくり話せる。(廿三日午後四時、湯宿温泉金田屋より)

 今日は久しぶりに獨りになつて川沿ひの日向路をほくら/\と歩いて來たが、何だか心ぼそくて寂しくていけなかつた。此處は此間の宿と違つて青池屋といふ。沼田の町はづれの大きな崖に(108)臨んだ宿屋だ。崖上の高みに在るだけ、利根川から遠くの山々を見晴し得る。今夜此處で歌の會が開かるゝ事になつてるのださうだ。沼田に來てはまるで蜘蛛の巣にかゝつた樣なもので、こちらの知らない間にいろんな事が行はれてゐる。何しろ、少々草臥れた。(廿四日夕方、沼田町青池屋にて)

  昨夜寢たのが一時半、今朝、見送りに來てくれた昨夜の人たちとまた一杯飲んでゐる。(廿五日午前八時半、青池屋にて)

  書き忘れてゐたが、法師温泉へ訪ねて來たK・U君は、昨夜の歌會にも出て來た。いま同君とZ・U君との二人だけ、此處まで見送つて來てくれた。此處は片品川(沼田の下で利根に合する)のへりで、川をはさんだ四邊の紅葉が素晴しいものだ。(廿五日年前十一時、沼田の在、横塚土橋にて)

  また、エライ所へ來たぞよ。収穫時の忙しきを思うてZ――君をば強ひて歸らせたが、K――君はどうせひまだからと此處まで一緒にやつて來た。來て貰つてよかつた。途中で日が暮れて僕一人ではどうにもならなかつた。此處の温泉は痛快で、カツケ川場揚カサ老神と稱せられてをるそのカサにいゝのださうだが、何しろ宿屋から提灯をつけて溪ばたへ降る、その降る坂と來たら兩手で岩に縋《すが》らなくてはおりられない嶮崖で、お湯はまた川原のまん中に出放しになつてゐるの(109)だ。流石に此處には板の屋根板の壁があつた。唯だ川原を掘つたゞけだからお湯の湯槽は砂と石だ。その湯に迫つて片品川の激流がどう/\と流れてゐる。石や砂で冷えてぬるい湯に浸りながら、壁の内側に持ち込んで吊るした提灯の灯を見てゐると、實に不思議な國に來てゐる樣な氣がしてならなかつた。手足一つ動かさず、やゝ長湯をして小屋から出、川原の石の頭にぬいでおいた着物を着ようとすると濡れてゐる。なるほど、こまかな雨が降り出してゐたのだ。
 宿屋の川魚と、とろゝ汁はうまかつた。
 いま眼をさましてみると、大變な雨になつてゐる。風も出て來たらしい。噫、噫、といふ氣持だネ。(廿五日、午前一時、老神温泉にて)

 今朝なほ大いに降る。濡れながら、彼は沼田へ、我は更らに山奥に向はむとす。(廿六日午前八時、老神にて)

 いま、吹割の瀧といふのゝまん中に立つてこの手紙を書く。瀧のまんなかに立つとはこれ如何にか、先づ聞け。
 長さ四五町、幅三町ほど、平滑を極めた川床の岩の上を、初め二三町がほど、辛うじて足の甲を浸す深さで一帶に流れて來た川水(その水の中に突つ立つて實はこれを書いてゐるのだよ)は或る場所に及んで急に一つの岩の窪みに集合し、落下する。窪みの深さ三四間か、幅二三間、その底を恐しい勢ひで流れ下る事七八十間、其處でまた急に底知れぬ淵と湛へて青み靜まつてゐる。
(110) 兎に角、奇怪な瀧ではある。瀧壺といふのか、その深い淵に臨んでは例のこゞしい岩の崖山、崖には紅葉。雨、幸にして晴れむとす。(廿六日午前十一時、追貝吹割瀧にて)

 愈々あやしき所へ入つてゆくと云つたかたちだ。此處は片品川上流最後の部落、そのまたはづれの一軒屋の温泉宿だ。今日も途中で日が暮れて、それこそ一抱へもある樣に仰いだ峰の上の大きなお月樣をたよりに此處まで辿りついたのだが、頼りにして來た酒が無いといふ。腰の拔けるほど驚いたが、宿のちひさな子供たちが村の方へ走つて呉れて、どうやらそれにはありついた。押し迫つた峽間の一軒屋で、谷がツイ縁ききを流れてゐる。炬燵の上に膳を置き、いまちびりちびりと始めたところだ。(廿六日夕六時半)
 ナンといふことだ、いま、バラ/\ツといふ音がしだしたので驚いて障子をあけてみると、大粒の雨だ。ツイ先刻まで皓々たる滿月の夜空であつたに、氣違ひじみた時雨ではある。眞の闇だ。山の時雨で濟むとはおもふが、本降りとなると明日の事が誠に氣になる。降つても登るか、それとも此處に寢てゆくか。とにかく晴れて呉れ、雨よ。(同七時)
 八つ子女子(名を忘れたから年で行くのだ)がいま三本目を持つて來た。大柄な、眼のくる/\した、可愛いゝ子だ。雪袴をはいてゐる。突つ立つたまゝ體操をする手附で、僕の額を目がけて徳利をニユツと突し出し、『もういゝか、まだ飲むか』と訊く。牧水、最敬禮をして『アヽ、もういゝよ、もうおぢさん、よつぱらつたよ』と答ふ。答へざるを得ざればより。(その三)
 氣がつくと雨の音が聞えない。縁先の谷川ばかりが騷々しい。ほんとうに晴れたかナ。立つて(111)障子をあければすぐ解るのだが、立つのがおつくうだ。サテ、答へざるを得ざるよりはと答へたが、おぢさん、もう一本ほしくなつたナ。實は明日登つてゆく山の山番にお土産にとおもつて少し澤山買つて來て貰つてあるので、まだ、あるにはある筈だ。やア、これ、八つ子よ、ちよつくら來てくんな。(その四)
 四本日もいつのまにやら終らんとしつゝある。此處に於て僕は偉大なる發見をした。この徳利のだネ、下から三分の二以上のところまでを飲むうちはまさしく酒の味がしてゐるが、サテそれから下になると唯だ単に餘香を拜するにとゞまり、徒らに腹がくちくなる。などゝわるくちはよすか、漸くありついたおんさけさまだ。ドレ、寢るとするか。八つ子女史も寢たらしい。(その五)
 昨日の路も終日片品川に沿うてゐた。川をずつと下に見る樣な崖の縁を歩くので、氣持がよかつた。吹割の瀧を過ぎてから、空も晴れた。途中、この附近の豪家T――家を訪うた。主人は不在で、細君に逢ひ、今日これから登つてゆく山の山番への紹介状を貰うて來た。T――家には沼田の人たちから貰うて來て寄つたのだ。そして今夜は其處の山番の家に泊めて貰はうといふわけだ。明日の山路もたいした事はなさ相だが、お前の命令を思ひ出して、案内者を雇うて貰うた。
 確かに雨は晴れた。寒いぞ/\。(廿七日午前一時四十分)
 難有し、難有し、空、寒々乎《かんかんこ》として晴れたり。(廿七日午前五時半、東小川温泉にて)−(大正十一年)

(112) 森、湖、及び人
     ――旅より妻への手紙、繪葉書――

 溪間を少し歩いて、路は山にかゝつた。といふより森に入つた。素晴しい森だ。平地にならして五里四方あるといふ。樅、栂《とが》等、多く針葉樹の森林だ。昨日寄つて來たT――家の持山で、伐採期間四十五ケ年とかの約束でツイ先頃某製紙會社に賣渡されたものださうだ。
 仕合せと案内人が樹木に詳しかつた。歩きながらこれは何、あれは何と教へて呉れる木々の名が知る知らぬに係らず、すべてなつかしい。今までに教はつて來たものだけで、山毛欅、楢、橡、桂、惡ダラ、澤胡桃、アサヒ、ハナ、ウリ、等の落葉樹があり、これらは我等の歩いて來た谷間――澤に多い木で、その他澤から峰にかけてはこの大森林の基調をなしてゐる樅、栂、椹、唐檜《とうび》、黒檜《くろび》等の所謂黒木の森を作つてゐる常緑樹だ。此等常緑樹の老木たちはもう緑とか青とかの色を通り越して葉も幹も黒くなつてゐる。それを案内人が黒木々々と呼ぶのがいかにもふさはしく聞えた。その黒木の森に立ち混つて例の白樺がところ/”\眞白な枝や梢を張つてゐるのが美しい。
 いま、午前十時二十分、やゝ廣くなつた澤の木蔭の苔深い石の上に腰かけてこれを書いた。丁度頭の上に大きな楓の木があつて、散り殘りの眞紅な葉を一枚二枚と落してをる。實にいゝ日和だ。ツイ傍を流れてゐる急瀬の音が獨りこの峽間に澄んで居る。けふの行程は極く近いので、路はわるいが氣は樂だ。(廿七日年前、ア、向うに一寸頂上の赤茶けて見えてゐるのが白根山ださ(113)うだ)
   下草の笹の茂みの光りゐてならび寒けき冬木立かも
   時知らず此處に生ひ立ち鋼《はがね》なす老木を見ればなつかしきかも
   散りつもる落葉がなかに立つ岩の苔枯ればてて雪のごと見ゆ
   遲れたる楓ひともと照るばかりもみぢしてをり冬木がなかに
   枯木なす冬木のはやし行き行きてゆきあへる紅葉にこころ躍らす
   わが過ぐる落葉の森の木がくれに白根が嶽の岩山は見ゆ
   この澤をとりかこみなす樅栂の黒木の山のながめ寒けき
   聳ゆるは樅栂の木の古りはてし黒木の山ぞ墨色に見ゆ

 サテ、たいへんな所に出會つた。先刻の澤を立つて少し登つて來ると一つの沼に出た。大尻沼といふ。沼とはいつても底知れず澄み切つた見ごとな湖だ。黒木の山に圍まれて、さまで大きくはない。其處のヘリの小みちの落葉を踏みながら歩いてゐると、實に意外な、美しいものを見出した。鴨の鳥が、三十羽もゐるか、じいつと群れて湖の上に浮いてゐるのだ。ハツと思うて足をとめたが、向うで逃げない。たゞ、群れたまゝ静かに/\氷の樣な水の面を大きなかたまりをなしてあちこちと押し移つてゐるのみだ。
 何といふ美しさ、靜けさ、寂しさか。とう/\わたしは此處の落葉の上に坐つてしまうた。湖向うの黒木の山には日光がしいんと照り入つて、まつたく恐しい樣な靜けさだ。(114)たまりかねて案内者の背なかから一升壜をぬき出し、これを嘗めつゝ、徐ろに騷立《さわだ》つ心を鎭めようとしてゐる。歌が出來た。
   登り來しこの山あひに沼ありて美しきかも鴨の鳥浮けり
   樅《もみ》黒檜《くろび》黒木の山のかこみあひて眞澄める沼にあそぷ鴨鳥
   岸邊なる枯草敷きて見てをるやまひたちもせぬ鴨鳥の群を
   羽根つらね浮べる鴨を美しと靜けしと見つつ心かなしき
   山の木に風騷ぎつつ山かげの沼の廣みに鴨のあそべり
   おほよそに風に流れて浮びたる鴨鳥の群を見つつかなしも
 日はよく照つてをるのだが、流石に山の上だ。寒い。手足が凍みる。では、左樣なら鴨の鳥よ、さうしていつまでも泳いでをれよ。(十一時半)

 鴨のゐた招から此の丸沼はほんのとなりであつた。同じくそゝり立つた黒木の山に四方を圍まれた、靜寂のかたまりみたいな湖であつた。沼のへりに家があり、番人が住んでゐた。
 番人が、おめえさまは釣りが出來るかと訊くから、出來ると云つたら、みゝずをも掘つて呉れて、これで澤山釣つて來いといふ。これは難有いと沼の岸にしやがんで糸を垂れたが、早速釣れた。一尺から一尺二三寸の大きさの、實に美しい魚だ。虹鱒といつて、此處でその養殖を試みてゐるのださうだ。面白い樣に釣れるが、困つたのは寒さだ。指がかぢかんで、針に餌をつけるにも、魚を針から離すにも、云ふ事をきかぬ。強ひてやつてゐたところ、針で左手の指に一二ケ所
(115)血を出してしまうた。慄へながら、魚をさげて番小屋に歸る。番小屋といふより別莊といふが近く、大きな堂々たるものだ。夏はT――氏がその知りあひなどを連れて避暑に來るとかで、他にも二三棟の家が湖畔に白々と戸を閉して並んでゐた。
 老番人のほかにもう一人の老人がゐた。これは農商務省の水産局から虹鱒養殖状態を視るために派遣されて來てゐる人ださうだ。十二月から四月までは四方雪に圍まれて下界との往來も絶え、この二老人だけでお互ひのつらを見合ひつゝその長い冬を越すのださうだ。
 實に寒い。どん/\と燃える爐の火に眼をこすりつゝ、これを書いた。これから樂しき夕飯だ。案内人は虹鱒を二三疋提げて、先刻麓へおりて行つた。(二十七日、年後五時)

 寒い/\蒲團の中でがた/\慄へつゝこれを書く、いま正に十二時廿五分也。
 初めいつもの樣にシヤツやズボン下等をぬいで寢たのだが、蒲團も二枚はかけてあるのだが、とても寒くてやりきれない。また起き上つて、ぬいでおいたものをみんな着込み、羽織も着、その上から帶をしめて、濕つた樣な、固い樣な、氷つた樣な蒲團の中に潜つてゐるところだ。初め酒のおかげで、とろ/\と一寢入りしたと思ふと、眼が覺めた。夜明までの長さがおもひやられる。心細げな枕もとのランプよ、どうか油が切れてくれるな。

 いまおしっこに起きてみたら、戸外は物凄いほどの月夜だつた。湖も、山も、氷の樣に光つてゐた。湖は、本當に氷つたのか知れないぞ。オヽ寒い。
(116) 昨夜、一升壜を中にあはれな事があつた。圍爐裡に火をどんどと焚いて、釣つて來た鱒を燒いて、サテ老番人君と(技手老は飲めず)一杯始めようとしてゐる所へ、意外な闖入者《ちんにふしや》があつた。山の奥へ爲事に行つて居た樵夫《きこり》たちが三人、とても山小屋では寒くて叶はぬとて、此處へおりて來たのだ。番人老、此等樵夫の前で自分ばかり飲んで居るわけに行かぬ義理合でもあると見え、寒々鬱々として彼等へ盃をさすのだ。その顔! なさけない樣な、うらめしい樣な、泣く樣な、……、お蔭でこつちまで盃の廻りも惡く、何とやら理には落ちる、いつもほどいゝ氣持に醉へなかつた。今日はこの爺さんを連れて、湯元温泉へ越えて、昨夜のしかへしにうんとたらふく飲ましてやらうとぞ思ふ。オヽ寒、指が手が動かぬワ。(廿八日午前三時五分)

 此處は奥日光湯元温泉いたや旅館の一室、廿八日午後一時半。
 いろ/\樂しんで來たのだが、何も無く、僅かに鮭のフライ、貝の罐詰、豚鍋などにて、炬燵に入りながら一杯試みつゝある。獨りでだ。丸沼の爺さんはゐない。サテ、今日は隨分と書くことがあるぞ。
 今朝、圍爐裡ばたに音の起るのを待ち受けてわたしは氷の床から這ひ出した。そして寂しい朝飯を濟ますと爺さんと共に湖べりの家を出たのである。出がけに一寸水産技手老人の部屋に挨拶にゆくと、老人、大きさ風呂桶ほどのストーブを眞赤にして朝飯をたべてゐた。今朝の温度、室内三度、室外零度であつたさうだ。別れを述べると、彼はわざ/\箸をおいて、わたしに目下彼の試みつゝある鱒の人工孵化の有樣などを別棟の家に案内して見せて呉れた。そして甚だ貴重であ(117)らうところの茶菓子を出し、茶をいれかへてすゝめて呉れた。何彼と話しかけられて座を立ちかねてゐると今度は早や身仕度の出來た番人に呼びたてられ、惶てゝわたしも草鞋を履いた。二人揃うて出かけようと庭先へ歩き出した所に、技手老は窓を引きあけて番人を呼びとめた。怒つてる樣な、鋭い聲であつた。客人を送り届けたら今夜は是非歸つて來なくてはいけないぞ、と云ふのである。
 湖べりから急な坂になつた。即ち昨日から仰いで來た黒木の森なかの一部に當る坂路なのだ。右も左も、ほんとうにしん/\として茂つてゐる。その邊、幹のうす白い唐檜といふ木ばかりであつた。いづれも丁度一抱へほどの大きさで、見上ぐる樣に高くまつ直ぐに茂り合つてゐる。この見ごとな樹木の一本がおよそ七錢か八錢の割で賣られてゐるのださうだ。
 森なかの坂を登りつくした所にまた一つの沼があつた。菅沼といふ。昨日から見て來た二つよりずつと大きい。そして同じく眞青に澄んでゐる。此等の湖はすべて火山湖であるらしい。
 この湖の岸にも一軒の番小屋があつた。これはほんとうの番小屋で、大きな圍爐裡を切つた部屋一つの家であつた。此處の番人はまだ若く、寢床をも敷き放しにしたまゝ、飯をたいてゐた。圍爐裡には串にさして大きな魚が――鱒ばかりでなかつた――澤山燒いてあつた。
 番人同志の短い用談が濟むとまた森のなかを歩いた。そしてその森のなかにわたしは實に珍らしい、喜ばしい或るものを見出した。ひとつの大きな泉なのだ。泉も泉、ほんとうの泉、むくり/\と地の底から大きな清水のかたまりが湧き出して來ては溢れてゐる泉なのだ。次ぎ/\に湧き上つて來るその大きな渦を見てゐるとわたしはもう耐へ切れなくてその渦の一端に草鞋を踏(118)み込み、顔を洗ひ頭を洗ひ、兩手で掬うて胸につかえるまでも貪り飲んだ。この泉が直ちに落ちて菅沼となり、菅沼から丸沼へ、次いで大尻沼へ落ちて片品川の源をなすのである。斯うした珍しい所をわたしはもう一つ知つてゐる。それは輕井澤から碓氷峠を越えた峠近くの森なかの泉である。この泉は落ちて碓氷川となつてゐた。
 やがて湖岸の森を歩きつくすと、また急な登りとなつた。そしてその邊、森も急に薄くなつて多くは立枯の木となつてゐた。驚くべき霜柱である。幾日も誰一人通らなかつたであらうその山路は唯だもう驚くべき霜柱の堆積であり行列であつた。嘘と思ふな、まつたく脛を没する深さである。
 漸く、峠に出た。やれ/\と枯れ乾いた落葉の中に身を投げると、眼にまばゆい日の光である。まつたく久し振にお天道さまを拜む氣持であつた。それほどにも昨日今日の森は深かつたのだ。
こんせいたうげ
 かさ/\音する落葉に埋れて上野下野の國境石が立つてゐた。即ち金精峠《こんせいたうげ》の頂上であるのだ。眞向ひには男體山《なんたいざん》が大きく高く天を限り、右手眞上には白根山の赫茶《あかちや》けた頂上が今にも落ちかゝらうばかりに聳えてゐる。
 其處でまた一つの悲劇があつた。菅沼の岸を出外れてから老番人の御機嫌が惡くなつた。それまで向うから何彼と話しかけてゐたのが、その頃からものを尋ねてもろく/\返事をしなくなつた。そのわけが峠に來て漸く解つた。峠から湯元まではもう一足のくだりなのだから、早く其處へ行つて湯にも入り、老人に苦しい思ひをさせた昨夜の液體のつぐのひをもつけようものとわた(119)し一人ではしやいでゐると、老人實に浮かぬ顔をして云ひ出した。
『旦都、へえわしやこれから沼に歸るべえ』
『どうしてだ、もう湯元は其處ぢやないか』
 わたしは落葉の上に起き直つた。
 云ふのを聞けば斯うだ。これから湯元に行つてゐたでは歸りには先刻の霜柱が解け、とても酒の後の身體では歩けないから、いつそ今のうちに此處から引返さうと思ふ、と云ふのだ。
『だからサ、今夜湯元に泊つて、明日の朝早く歸ればいゝぢやアないか』
『それが旦那、やつぱりさう行きましねえ』
 來るみち/\、彼は丸沼の技手老人の惡口をさんざ云つて來た。けちんぼだ、情知らずだ、ごうつくばりだ、後生はよくねえ、云々と。だが矢張り彼には技手老が恐かつた。今朝の出がけに、今夜は屹度歸つて來るだぞ、と云はれた言葉が、頭に刺さつてゐた。それでどうしても湯元一泊が出來なくなつてしまつたのだ。
 いづれも六十近い歳をした老人二人があんな山の中で、しかも半年近く二人きりで雪の中に埋れて暮さねばならぬ身で、やつぱり喧嘩をしてゐねばならぬのかとわたしは眼の前の皺だらけの横顔を見ながら、なさけなくなつた。まだ出がけの頃は、今日のわしの湯元ゆきがあの年寄にどんなに妬《や》けるか解《わか》らねえ、と得意であつたその顔だ。
 なさけなくもあり、また、哀れでもあつた。わたしは懷中から案内料湯元斷念料併せて金若干也を取り出してこのあはれな老爺に渡した。そして云つた。
(120)『これで麓におりた時、うんと仕入れて來とくのだネ、さうしてひとに見せずにちび/\獨りで樂しむがいゝや』
 それが終るとわたしはその老爺と別れて、一氣に此處まで馳け降りて來た。
 以上、書いたり、よしたり、散歩したり、いつの間にやら夕方になつた。ドレ、もう一風呂あびて來るとしませう。此處は硫黄泉だネ、少し臭い。此處も寒い。宿はすいてるが、人相がよくないか變な部屋に通されてゐる。床の間とてもない部屋だ。二階あたりに繪かきの書生さんが二三人泊つてゐる樣だ。(午後四時、オヤ/\、炬燵まで冷くなつてる。)

 宿屋などで優待されないのも時にとつては難有いことがある。此處でもそれを(獨り客また一泊者をばこの邊では妙に嫌ふ傾向がある)感じたのでこの夕飯を始むるに當り先づ火鉢(炬燵のほかに)と繊瓶と炭取と一升壜とを取り寄せておいて、サテかつきり六時半にお膳を下げに來いと云ひつけて女中を下げた。これから六時半までは乃公《だいこう》一人《ひとり》の天下だ、誰に氣兼も入らない。
 また鮭のフライが出た。中禅寺湖で捕れるのだとかで、存外にうまい。ほかは牛罐、これもたまにたべるとうまいものだよ。

 湯元はなか/\いゝ所だつた。三方を險しい山に圍まれ、山はすべて例の黒木の密林であり、山の根つこ、この湖水(湯の湖といふ、これも岸から深くなつてゐる火山湖だ)の岸の僅かな平地には落葉松や柳や白樺が簇生し、それ等はもう殆んど落葉しはてゝ、枝や幹が美しい。水邊に(121)は葦が茂つて、丁度この繪葉書の通りだ。繪葉書では大觀が利かぬから殘念だ。先刻散歩してゐるとこの葦むらを渡る風の音が實に冷く寂しかつた。
 ひどい風だ。二階だつたら嘸ぞ搖れるだらう。折々、この大きな家がめり/\、みしみし云つてやがる。
 此處の湯はのぼせる。酒の味がちと重い。
 落葉松の落葉を吹きつける風が實に凄い樣だ。
 まだ期限は切れぬが、女中を呼んで、寢るとするかナ。
 爺さんはどうしてるかナ、丸他の爺さんは。
 技手老人とのけんかはをさまつたかナ。
 爺さんが峠で別れる時に泣く樣なつらをして云つたよ、來年六月には石楠花の花を見に是非やつて來なさい、待つてゐますと。
 オヽ石楠花のことをまだ云はなかつたナ。
 とてもたいへんな石楠花なんだよ、それが湖水の、どの湖水でもの、岸に普通さういふ所に葭葦の茂るがごとくにして茂つてゐるのだ。石楠花がだよ、此奴が咲いたらほんとにどんなだらうとおもふナ。お前には沼まではちと無理だらう、せい/”\この湯元までなら連れて來られるがナ。
 サテ、寢るとしよう、ひどい風だ。(二十八日夜、六時四十五分)

 あの木枯が、夢の樣に凪いで、實に靜かな朝だ。やはらかな朝日が、うす茜を含んで、庭にも(122)縁にもさしてゐる。昨夜の風で散りつくしたらうとおもはれた庭の落葉松の黄葉が、風もないのに、ひとうつふたあつと散つてゐる。
 いま煙草を貿ひに出たら煙草屋のをばさんが、お寒うございますお山に雪が見えました、これで今年四度目でござりますと云うた。振り仰ぐと、成程昨日その側を通つて來た白根山のいただきが眞白くなつてゐた。昨日通る時には見えなかつたのだから昨夜のあの風の中に降り且つ積つたのだネ。(廿九日、朝八時)

 此處の山や湖が非常に氣に入つたので二三日泊つて行かうと思つてゐたら晝近くなつて大勢の遊覽客(東京から日歸りで來るのだといふから驚く)が次ぎ/\とやつて來るので騷々しい。諦めて草鞋を履かむとぞおもふ。この×符の山が白根山、これに雪が來てゐるのだ。(廿九日午前九時)

 ぴつたりとたひらかな方二三里のまんまるい平原、その中の一本道をいまぽつとり/\と歩いてゐる。ほんとにいゝ日和、日の光が酒の樣だ。原は戰場が原、原を圍んでは例の男木の山、山の根つ子の原つぱに落葉松、白樺、楢などがうす紅葉の遠い林を作つてゐる。原の行く手、山と山の迫つた所に靄の樣なものがなぴいてゐる。昨夜の木枯で立つた中禅寺湖の水煙であらう。ああ、何がなしに愉快だ。走りたいが、走るのも惜しい。(廿九日午前十時四十分、戰場が原のまん中にて)

(123) サテ、妙な所にてこれを書く。眺めて來た靄は果して水煙であつたが、それは山際にのみなびいて湖はいまぴたりと凪いでゐる。その湖の岸の、眞白い砂の上、やゝ立ちこんだ木立の蔭にてこれを書くのだ。木立の向ふの道をばぞろ/\と人が通つてゐるがお互ひに見えつこなし。なぜ斯う人が多いのかと訊いたら今日は日曜なのださうだ。みな日歸り人種だ。
 中禅寺の郵便局で留置郵便(いろ/\おたより難有う)を受取り、丁度その隣が洋食屋だつたので其處へ入つて、讀み且つ要急な奴には返事を書き、それから此處に來たのだ。先刻一度見て通つたのだが此の近所の紅葉が素敵であつたのでもう一度見直すべく引返して來たのだ。が、どうも意外に人間共の多いのに魂《たま》げて紅葉どころでなくなつた。其處でフイとこの砂の上に折れ込んだのだ。斯うして寢てゐると、この附近にも何やらの紅葉が散つて來る。ツイ二三間さきには小波がぴしやり/\と寄せてゐる。
 實に靜かだ。先刻の洋食屋の酒がいま身體を廻つてゐる。此處にてしばらく眠らむとぞおもふ。(廿九日午後一時半)

 流石に旅先だ、風邪が恐くて眠れない。その代り珍しく歌が出來た。
   裏山に当の來ぬると湖岸《うみぎし》の百木《ももき》の紅葉散り急ぐなり
   見はるかす四方の黒木の峰澄みてこの湖岸の紅葉ちるなり
   舟浮けて漕ぐ人も見ゆみづうみの岸邊の紅葉照り匂ふ日を
(124) 最後に傑作が一首ある。お前は知るまいが、いや乃公も一昨日あの案内人から教はつたのだが、ハナノキといふ木の紅葉がある。柿の葉を二三倍した大きさで、紅といふより黄に近い色のもみぢだが、その葉もいろも共にみづ/\しくて滑らかだ。そのもみぢがいま斯うしてゐる側に二ひら三ひらと散つて來る。其處へ、これはまた眼覺むるばかりの錦木(この邊にはなか/\この木の大きいのが多い) の紅葉がひゝらひゝらと斷えず散つて來るのだ。其處で曰くサ。
   はなの木のもみぢより濃き錦木の紅葉をよしと誰もいはなくに

 此處は米屋旅館、危ふく玄關拂ひを喰ひさうだつたので鞠躬如としてO――の名前を持ち出し、自分はそのO――の友人である事を披露して辛くも通さるゝ事を得た。この宿はo――君の叔父さんのうちである事を小生知つてゐたのだ。
 いゝ部屋に通された。隣室には伯爵平田松堂画伯がこの二三日泊つてゐるのださうだ。湖は眼下《ました》、眞正面に男體山が仰がるゝ。何かしら疲れた。少し眠り度い。が、飯まで待つか。(廿九日午後三時半、中善寺湖畔米屋より)

 よきゆふぐれ。
 男體山のいたゞきに雲かゝり、かゝれりと見れば散る。散るよとみればまたかゝる。雲は白く、山は黒し。この山別名黒髪山とは申すなり。(夕方五時)

(125) 今朝、この華嚴の瀧を見て來た。瀧ぎらひのわたしも頓首敬禮した。寒岩枯木に近いこの季節もよかつたのだ。
 いま日光町S――君の寓居に辿り着いて七八年振の杯を擧げてゐる所だ。濟んだら裏見の瀧へ案内しようといふ譯だが、あぶないもんだ。(三十一日正午)

 裏見は終《つひ》に憾みの瀧となり、夕方まで坐り込み、サテ席を改めてと案内された料理屋にたいへん美しい娘さんがゐた。S――君がわざ/\その人を呼んで、このかたは若山牧水先生だと紹介すると、彼女は非常に驚いて、わたしを見詰め、
『まア、もう少し兄が居りましたら………』
 といふ。きけば驚くべし、この娘さんの兄さんは永らく我等の創作社の社友であつたA――君なのださうだ。A――君の名なり歌なりはお前も知つて居るであらう。そのA――君がツイ先日榛名湖に身を投げて一人心中をやつたのださうだ。實に偶然にもその人に香を手向けることになつた。

 昨日は右の始末、今日こそ東照宮拜觀だ。××新聞通信員なるS――君がいま通信を書き/\話すのを聞くと、この溪向うに見ゆる鳴蟲山《なきむしやま》(名も面白いがいゝ姿の山だ、山の紅葉既に過ぎたり)から出た鹿が、今朝その邊に在る發電所の水路に落ちて死んでゐたさうだ。いかにも山の初冬らしい話ではないか。(三十一日、朝十時)

(126) 陽明門、左甚五郎の猫、泣き龍、その他、みな面白いものに見て廻つたのだが、何しろこの案内人、斯んな猫より生きてるのゝ方がいゝですよとばかりでそこ/\に拜觀を切りあげ、町に歸つてまた二三ケ所を梯子をかけた。久しぶりに人なかに出て來た身にとつては面白くもあつたが、疲れもした。けふは朝から寒い雨だ。これより宇都宮を經て東京へ。其處にて一二泊、而していよ/\沼津に歸る。子供たちによろしく。(十一月一日、朝十時、日光にて)−(大正十一年)

 『海の聲』出版當時
    ――處女歌集を出した思ひ出――

 私の處女歌集を一般では『別離』だとおもつてゐる樣だが、實はその前に『海の聲』と『獨り歌へる』とが出てゐる。『別離』はこの二歌集のなかから拔いたものに幾らか新作を加へたものである。
 『海の聲』の出たのは明治四十一年の初夏であつた。名をどうしても思ひ出せないが、その頃私の下宿してゐた牛込原町の或るお寺の離室にひよつこり訪ねて來た一人の男があつた。上州人だといふことで、年の頃四十にも見え、もつと若くも見えた。よく「グレたことをする、グレた男で」といふ風に「グレ」といふ形容詞を濫發するところから、私と一緒に住んでゐた友人(いま臼杵か佐伯の女學校の教頭をしてゐるさうだ)とはこの人に「グレさん」といふ名をつけてゐた。
(127) その「グレさん」が突然訪ねて來た用向は、自分はこれから出版業を始める、雜誌をも追々出すつもりだが、さしあたり先生の歌の本を出さして頂き度い、といふことであつた。先生といふ名稱で呼ばれたのは私にとつてこの時が最初で、右云つた友人からひどく冷かされたものだつた。この人が何故最初に私のものを出版したいと言ひ出したのであつたか、その理由をどうも思ひ出せない。別に歌が好きだといふ人ではなかつた。いかにもグレさんの名にふさはしいお百姓然たる人であつた。驚くにも驚いたが、嬉しいにも嬉しかつた。早速話はまとまつて、私は原稿をまとめにかゝつた。原稿と云つても其の頃出てゐた『新聲』といふ雜誌に發表してゐたゞけだつたので、それから書き拔けばいいのであつた。
 そして出來た原稿にその人から受取つた若干の金(四十圓だつたとおもふが、思ひ出せない)を添へて印刷所へ持つて行つた。印刷所は牛込の日清印刷であつた。その頃そこの取締をしてゐた大鳥居※[棄の草書]三氏に體裁の事から何から一切厄介になつて、四號活字、一頁三首組、全部で百六十頁といふ樣なことで、印刷にかゝつた。表紙畫をば平福百穗氏に頼んだ。どうして氏に頼む樣になつたのだつたか、はつきり思ひ出せないが、恐らく同氏の繪が好きで、突然訪ねて行つたものだつたらうとおもふ。當時氏は千駄ケ谷だか青山裏だかに下宿して居たので、なかなか出來て來ない繪を幾度となく恐る恐る其處まで催促に行つた事を覺えて居る。その附近が霜とけでひどかつた。或る時はその門前まで行つて、二階での氏の笑ひ聲を聞きながら中に入りかねて歸つて來た事などあつた。
 表紙の繪は百穗氏ときめ、それに題する文字をば土岐哀果君(當時は土岐湖友と云つてゐた)に(128)頼んだ。この人とは學校での唯一の歌の友達であつたのだ。友達になつた遠因は或る先生(永井一孝先生だつたとおもふ)のわるくちを言ひ合ふ事に共鳴したのがもとで、近因は學校からの歸途俄雨に會つた時、私の雨傘を彼に貸したのがそれであつた。その頃彼は仲田勝之助君と共にいつも私等のすぐ前の机に並ぶのが癖で、私はいま朝日新聞紐育特派員になつて米國に行つてゐる藤田進一郎君と並んで坐るのが常であつた。そして前で言ひうしろでいふ先生の惡口が自づと一致したのがお互ひの間に興味を惹くもととなつたのであつた。雨傘一件は私は其頃學校裏の穴八幡下の下宿にゐたので、遠く淺草から通つてゐた彼に貸したのであつた。
 詰が段々もとに戻るが、その頃(明治三十七年頃)日向の山奥からはる/”\東京へ出て來た時には私はまだ『新聲』に二首か三首づつ尾上柴舟選で出てゐた投書家であつたが、土岐君はもう金子薫園門下の粹を集めた白菊會々員として堂々と題附きで半頁位ゐの歌が『新潮』に出てゐた頃だつたので、永井一孝先生の惡口を痛快にやつてのける前の机の痩せた男が土岐湖友だと聞いた時には心ひそかに偉大な驚きをしたものであつた。
 やがて校正が出だした。折も折、その時が丁度私の早稻田大學を出る卒業試驗の最中に當つてゐた。誰彼のノートを借り集めて一夜漬の勉強をやつては學校へ出て何課目かの試驗を受ける。そしてその歸りには印刷所に寄つて『海の聲』の校正刷を貰つてゆく。途々それを見ながら下宿近くの道下の藪中に落ち込んだこともあつた。試驗のノートを見るよりこの校正刷を見る方が確かに面白かつた。
 校正が終り、表紙の繪も字も出來、本文の刷りも出來上つた頃、印刷所からあと金の交渉を受(129)けた。一囘前金としての金を渡すと同時にグレ氏は急用が出來て田舍の方へ歸つたのであつた。で、うろたへてその旨をグレ氏の方へ云つてやつたが、一向に返事が來ない。二度三度と續けて云つてやると、家事の都合で出版業を見合はせなければならなくなつた。どうか惡しからず思つて呉れと云つて、それでも幾らだかの金を添へてことわりの手紙が來た。金額は必要の五分の一にも足らぬものであつた。非常に弱つたが、どうにもならず、自分や友達の手で急に金を集め始めたけれど幾ら出來るものでない。よく/\困つた末、とう/\尾上柴舟氏の許へ出かけて貳拾圓を借りて來た。それこれを集めてもまだ多少不足であつたが、大鳥居氏が大目に見て呉れて、兎にも角にも製本出來の『海の聲』は著者の手に渡る事になつたのであつた。部數七百部であつた。紙型も作つてあつたのだが、それは印刷所に押へられてゐた。
 その後久しく私はその歌集の中に歌つてある戀愛問題の失敗やら何やらで、學校を出ても確とした職業にも就かず、婆や一人を雇つて同じ牛込原町に小さな家を借り、ぶら/\と暮してゐた。そしていよ/\困つて來て、賣れ殘りの『海の聲』(賣れ殘りといふより殆んど全部が殘つてゐた樣なものであつた)を菁莪堂といふ古本屋に賣つてしまつた。一册が八錢であつた。『旦那樣、なんぼなんでもそれでは餘りにひどい、何とか賣らずに置く法はないものか』と云つて婆やが泣いたのを覺えて居る。事情があつて女中奉公などに出てゐた、面白い婆やであつた。
 二三年前私は急にこの『海の聲』が見度くなり矢張りこの『短歌雜誌』であつた、誰か持つてゐる人があつたら讓つて貰ひ度いと書いて、二人の人からそれ/”\に送つて貰つたのであつた。その時が何かひどく私のごたついてゐた時で、直ぐにお禮が言へず、一人の方だけによほど遲れ(130)て禮状を書いて出したのであつたが、所屬部隊不明で返つて來た。その人は海軍水兵であつたのだ。いま一人の人には終に住所書きを紛失して黙りつばなしになつてしまつた。その人たちが、今でも『短歌雜誌』の讀者であるならば、どうかその無禮を許して下さい。お詫び申します。
 菁莪堂の話が出たから、『海の聲』に次いで出た『獨り歌へる』の事を一寸附け加へておく。『獨り歌へる』は菊版一頁四首の百四十頁、名古屋熱田にその頃あつた八少女會といふのから出たもので、出版部数實に貳百册であつた。これをも手許になくして困つてゐた所に、先年神田の古本屋の前を通りかかつて、この一册を見附け大喜びで買ひ取つて店を出ようとしてフイと店の名を見ると、それが婆やを泣かせた菁莪堂であつたので少なからず驚いたのであつた。『海の聲』を賣つた時はこの古本屋は本郷の天神町あたりにゐたのだ。そして『獨り歌へる』をあけて見てまた微笑まれた。本の扉に『明治四十五年一月廿三日、著者より送らる。空穗』と例の名筆で書かれてその空穗の二字だけが爪か何かで削り消してあつたからだ。何しろ、二百册しか世に出なかつたのだから、この本は私にとつて誠に尊いものなのだ。
 サテ『處女歌集出版當時の感想』といふ題目で書く樣に言はれて、たゞの無駄話を書いてしまつた。然し、右言つた通り嬉しかつたり困つたり(言ひ落したが尾上先生には當時の貳拾圓をまだお返しせずに居る、斯うなるとお返しするのがいかにも殘り惜しい)したほかには、たゞなつかしい微笑苦笑があるのみなのだ。強ひて言ふならば、若山牧水の歌は作り始めの頃は面白かつたが、此頃のは一向に面白くないといふ批評を折々聞く事に就いてだ。然し、これとても要するに苦笑微笑あるのみで今更腕まくりをする勇氣も無い。自分で思ふには矢張り現在の自分が一番(131)ヱライので、十五年も前の(處女集出版當時)若山牧水に對する感じは十五違ひの弟に對する感じに外ならぬのだ。(大正十二年)

 石川味木の臨終

 小石川の大塚辻町の疊職人の二階借をして住んでゐた頃である。朝まだ寢てゐるところに石川君の細君から使ひが來た。病人が危篤だから直ぐ來て呉れといふのであつた。明治四十五年四月十三日午前六時過ぎの事である。馳けつけて見ると、彼は例の如く枯木の枝の樣に横はつてゐた。午前三時頃から昏睡状態に陷つたので夜の明けるのを待焦れて使を出したのだが、その頃からどうやら少し落ちついた樣ですと細君は語りながら病人の枕もとに顔を寄せて大きな聲で『若山さんがいらつしやいましたよ』と幾度も幾度も呼んだ。すると彼は私の顔を見詰めて、かすかに笑つた。「解つてゐるよ」との意味の微笑であつたのだが、あとで思へばそれが彼の最後の笑ひであつたのだ。その時、側にいま一人若い人が坐つてゐたが、細君の紹介で金田一京助氏である事を知つた。
 さうして三四十分もたつと、急に彼に元氣が出て來て、物を言ひ得る樣になつた。勿論きれぎれの聞き取りにくいものではあつたが、意識は極めて明瞭で、四つ五つの事に就いて談話を交はした。私から土岐哀果君に頼み、同君から東雲堂に持込んだ彼の歌集の原稿料が昨日屆いたといふお禮を何より先に言つた。そしてその頃私の出さうとしてゐた雜誌の事に就いてまで話し出し(132)た。何しろ昨夜以來初めて言葉を發したといふので細君も非常に喜び、金田一氏もこのぶんならば大丈夫だらうからと、丁度出勤時間も來たので私はこれで失禮すると云つて歸つて行つた。細君も初めて枕許を離れた。
 それから幾分もたたなかつたらう、彼の容體はまた一變した。話しかけてゐた唇をそのままに次第に瞳があやしくなつて來た。私は惶てて細君を呼んだ。細君と、その時まで私が來て以來次ぎの部屋に退いて出て來なかつた彼の老父とが出て來た。私は頼まれて危篤の電報を打ちに郵便局まで走つて歸つて來てもなほその昏睡は續いてゐた。細君たちは口うつしに藥を注ぐやら、唇を濡らすやら、名を呼ぶやらしてゐたが、私はふとその場に彼の長女の(六歳だつたとおもふ)居ないのに氣がついてそれを探しに戸外に出た。そして門口で櫻の落花を拾つて遊んでゐた彼女を抱いて引返した時には、老父と細君とが前後から石川君を抱きかかへて、低いながら聲をたてて泣いてゐた。老父は私を見ると、かたちを改めて、『もう駄目です、臨終の樣です』と言つた。そして側に在つた置時計を手にとつて、『九時半か』と呟く樣に言つたが、まさしく九時三十分であつた。
 私は直ぐかかりつけの醫者に走つた。書き落したが同君はその半年ほど前から小石川の久堅町に住んでゐた。番地を忘れたが一二度訪ねたのでは直ぐ忘れてしまふ位ゐ解りにくい家であつた。醫者は矢張り久堅町の三浦醫院といふのであつた。細君たちももう醫者を連れて來る必要はあるまいから唯だ知らせてだけ置いて呉れといふ意見であつたが、醫者の方でも夙うにその樣に承知してゐて、直ぐ診断書(死亡屆か)を書いて呉れた。
(133) 三四丁離れた醫者から歸ると老父と細君とはただ二人きりで手速く部屋を片附けてゐた。何といふ惶しい臨終だらうと、今までとやや場所をかへてひつそりと置き捨てられてゐる彼の遺骸のそばに坐りながら、かぶせてあつた毛布を少し引いて彼の顔を見てゐると、生前と少しも變らぬ樣子にしか感ぜられぬのであつた。彼は初め腹膜炎で腹部が非常に膨れてゐた。それが肋膜炎に變ると急にまたげつそりと痩せてしまつた。久堅町に來て半年餘りといふものすつかり床に就いてゐたので次第に痩せ痩せて、初め枯木々々と呼んでゐたのをやがては「枯木の枝」と呼ぶ樣になつてゐたのであつた。
 私は永く彼の顔を見てゐられなかつた。
 よく安らかに眠れる如くといふ風のことをいふが、彼の死顔はそんなでなかつた。で、直ぐまた死亡の打電のため郵便局に走り、次いで警察署に行き、區役所に行き葬儀社に行き、買物から自働電話から、何も彼も私一人で片附けてしまつた。他に手も無かつたのだが、結局さうして動いてゐる方が氣輕でもあつたのだ。蒸暑い日和で、街路には櫻の花が汗ばんで咲き垂れてゐた。
 その夜の十時頃までは二三の人も來てゐたが、それからはまた午前の通り老父と細君と子供と私との四人きりになつてしまつた。細君も夙うから同じ病に冒されてゐたのだが、その夜は見るも氣の毒なほどよく咳いた。で、強ひて子供と二人を次ぎの間に寢さして、老父と二人して遺骸に添ふて夜を明かした。
   かなしきはわが父!
    けふも新聞を讀みあきて、
(134)    庭に小蟻とあそべり。
 とその子に歌はれた老父もまた痩せて、淋しい姿の人であつた。石川君の死ぬる丁度三十日前に彼はその妻を、即ち石川君の母を、同じその家で死なしてゐたのである。そして心をまぎらす積りで北海道の縁家か何かに行つてゐるとまた五六日前、息子の病氣の重つたために東京に呼びかへされてゐたのであつた。折々耐へ難い愚痴をば漏らしながら、つとめて私の方を淋しがらすまいとして斷えず世馴れた口調で何か知らの世間話を續けてゐた。その中で私の心に殘つてるのは小樽だか室蘭だかの古棧橋から魚を釣る話であつた。眼の前のこの老人が糸を垂れてゐる姿が、古棧橋と一緒にいかにもありありと想像せられたからである。
 話も盡きて、夜の白みそめた頃老人は一枚の紙に次ぎの樣な歌を書きつけて私に示された。
『母ゆきていまだ中陰も過ぎぬにその子また失せにければ』と前書きをして、
   さきたちし母をたつねて子すすめの死出の山路を急くなるらむ
 佛の枕許に小さく片附けられた小道具などの中に私に眼についてならぬ一箱の藥品があつた。死ぬ前々日に石川君を見舞ふと、彼は常に増して險しい顔をして私に語つた。『若山君、僕はまだ助かる命を金の無いために自ら殺すのだ。見給へ、其處にある藥がこの二三日來斷えてゐるが、この藥を買ふ金さへあつたら僕はいまに直ぐ元氣を快復するのだ、現に僕の家には一圓二十六錢(或は單に廿六錢であつたかとも思ふ)の金しか無い、しかももう何處からも入つて來る見込は無くなつてゐるのだ』と。
 その藥の名を訊いておいて私はすぐ附近の藥屋に出かけたが、私の財布の中の金でもそれを買(135)ふに足りなかつた。たしか藥の價は一圓六十錢であつたとおもふ。本郷まで金を借りに行つたが出來なかつた。そしてその足で、同じくその日彼から頼まれた歌集(「かなしき玩具」であつたらう)原稿を賣るために土岐君を芝に訪ねた。土岐君はすぐ日本橋の東雲堂に行き、それを二十圓に代へて石川君の許に屆けたのであつた。その金で早速買ひ求めたのであらう。その何とかいふ藥が、僅かに箱の蓋がとられたばかりで其處の枕許に置かれてあるのであつた。
 葬式はその翌日、土岐君の生家である淺草の等光寺(?)で營まれた。が、私は疲勞と其處で種々の人に出逢ふ苦痛をおもふとのために缺席した。(大正十二年)

 半折短册會を起すに就いて創作社々友諸君に申す言葉

 創作社々友諸君。
 私はいま折入つて諸君の前にお頗ひ申す事があります。それは私共一家族の住む住宅、私自身の讀書し執筆する書齋、及び雜誌『創作』の編輯所發行所等を兼ねた創作社といふ一軒の家を建築したい事に就いてゞす。
 私がほんの三年間、休養の目的でこの沼津に移つて來て以來、いつの間にやら足掛四年目の春を迎ふる事になりました。豫定に從へば夙うに東京の方へ引上げねばならぬ時機に當つてゐるのですが、どうしてもそれをやる氣にならない。第一私自身または家族たちの健康のために躊躇せられます。第二には自分の勉強のためまた事業のためにどれだけ當地が東京より優れてゐるか(136)解りません。いろいろ考へた末、いよ/\、この地に永住して一生この見馴れた富士山を仰ぎ暮す事に決心しました。これは私を識つてゐる人の全部が悉く賛成して下さる事だと信じます。
 さうなると先づ起つて來るのは住宅問題です。自分たちの巣であり勉強道場であり事務室である住宅の必要です。田舍の事で貸家が誠に少い。都會と違つて無いとなれば絶對にないのです。暫くといふわけで只今借りてゐるのは東京の或る實業家の別莊ですが、殆んど好意的に貸して貰つてゐる樣なものでいつまでも暢氣に構へて居られぬ状態にあるのです。で、何は措いても此際一軒の家を拵へねばなりません。
 元來が無一物の身で、急に斯ういふ企てを思ひ立つたゝめ、先づ此處にそれだけの金錢を集むる必要が生じました、あれこれと問合せて見ますと土地から何からで少くとも壹萬圓の費用を要する樣です。一切贅澤ぬきの極めて切詰めた設計であり費用であるのです。この壹萬圓を、他に何の能もないまゝに、自分自身で半折を書き短册を書いてその報酬として集め得たいと思ひ立ちました。そして、その半折なり短册なりを諸君自身、または諸君の世話によつて汎く他へ頒布し、それだけの金に代へて貰ひ度いと思ひ立つたのです。無論、社以外の各知人にも依頼はしますがそれは人數も僅かな事であり、何と云つても一番頼りになるのは諸君創作社々中の人々であるのです。
 金錢の餘裕といふものは誰人にもさうあるものではない。それに斯ういふ申し出を受けられたのでは諸君にも甚だ御迷惑の事とおもふ。その點誠に恐縮に思ひますが、これだけのものを書き上げようといふのも、また大抵な事ではないのです。その勞力を思ひ、私たちお互ひの機關雜誌(137)の發行所の建設せらるゝ樂しみを思ひ、多少の無理をば忍んで頂いて、諸君の後援により立派にこの企ての實現出來ます樣、強ひてもお骨折を願ひ度いと思ふのです。何卒書の拙いのや其他すべて勝手がましいことを赦して頂いて、快くこのお頼みを御承引下さる樣、深く御願ひ申します。
   大正十二年二月             若山牧水

  なほ、この會の期間を向ふ一ケ年間としますので別に急ぎませんが、次ぎの規定により順次に申込んで頂き度く存じます。(規定其他略)

 大會前記
        その一

■いつの間にやら申込數が百名を突破してしまつた。この分ではおもひのほかの大會を見る事が出來るかも知れぬ。
■講演に出て下さる人たちはすべてわが社と縁故の深い人ばかりである。白鳥君はもと第一期の「創作」に歌を出してゐた人である。歌から詩に入つて行つたのだ。同君が民衆詩人として立つてゐる事は歌をわが日本民族の民族詩と見てゐる小生にとつて何彼につけて親しみを感じさせて呉れる事が多い。原田君といま山口の高等學校教授をしてゐる平賀春郊君と小生との三人は、(138)「創作」の中繼として一時「自然」の發行に共同して當つた事があるほどで本誌とは切つても切れぬ仲である、今は早稻田文學社同人として少壯教育評論家として活動し歌には遠ざかつてゐるが。佐藤君は小生が第一期本誌の編輯をやめたあとに小生に代つてその事をやつて呉れやがてまた二人共同して編輯してゐた事もあつた。ことによると山口から平賀君も馳せ參じて呉れるかも知れぬ。服部氏とは極く最近の知り合じであるが、小生が沼津に移つて以來その邸が隣接してゐるばかりでなくよく話が合つて、非常に親しく往來してゐる人である。本誌の沼津發行に就いては横濱の長谷川君と共に最も具體的に力を盡して呉れた人である。もとの國民黨の宣傳部理事であり目下は岡山縣金川中學の校長をして居られる。
■社中の柴山君は目下女性改造の編輯に從つて居る。菊池君は慶應義塾幼稚舍の教師で童謠と綴方に就いては多年の研究から實に卓越した識見力量を持つて居る。そのためにあれだけ熱心であつた歌にも暫く遠ざかつて專心その研究創作に没頭し、その論文集「綴り方」は既にいま第六卷目が同校出版部から發行されてゐる。なほ少年雜誌「私の雜誌」をも主幹してゐる。丁度大會のある前後一週間生徒を連れて相州葉山に臨海教授とかいふ事をやつてゐるのだ相で出席困難かも知れぬが一寸でも出たいと云つて呉れてゐる。
■斯んな關係から他とは違つて實の入つた、親しみ深い講演が聽けるに相違ない。
■兼題を三月二十日迄に出すのを忘れないこと、出詠は出席者に限ります。
■第二日目の朝千本濱で大地曳網を曳かうといふ企てについては六三頁に大悟法君たちも書いてゐる事であるが、是非一つ有志の奮發喜捨を希望したい。金額の餘計になるのは一向に苦しまな(139)い。黨日雨でも降れば附近の茶屋を借り切つて見物する必要もあるのだ。その代り時季はいゝし土地名物の興津鯛の五六百枚も入つて來ないとも限らぬ。さうなれば魚市場に出して儲けさしてあげます。五六百枚は怪しいが、ねぼけた章魚入道位ゐは入つて來るでせう。濱ですぐ燒いて食ふも惡くない。飲料は耕文社で寄附したがつて困つてゐる。
■それからもう一つ此處によき催しがある。出席者の中に寫眞機を持つてゐる人があるに相違ない。その人たちは必ず忘れないで持つて來てほしい。そして種々と撮つて貰つてその中から十四五種類を拔いて一組とし大會記念繪葉書を作り度い。出席者には好記念、出られなかつた人はそれを見て慰む、といふわけだ。繪葉書は「短歌雜誌」あたりに廣告して社の内外を問はず大いに高價に賣出し、大いに利益を占め、創作社建築費に廻さうといふのだ。ナント妙案だらう。
■「短歌雜誌」で、書く事がある。それは同誌二月號十二頁「緩言急語」欄の中に本年度未來記といふものがあり、その四月の部に次ぎの樣な記事がある。

   四月。若山濁水沼津町臨川館で創作社全國社友大會を催し、全國不良少年少女を千本松原へ放して歡晤自由自在のお祭をやる。會費晝間一圓、夜間五圓、宿泊料三圓、茶代一圓、都合一人前金十圓也、旅費日黨は先方持也、ざつと先づ二十圓程で三國一の富士山が見られる安いものだといふので來會者雲集して爲めに東海道沼津町大沙ツ糖を極め、地方新聞特號見出で書く、「この大會は牧水氏沼津に地所を買ひ家を建てる爲めのプロバガンダーで實は曩に牧水氏買地建屋の擧あるやかくの如き名士を同町に持つは同町發展の瑞祥なれば直ちに建築敷地木材等を寄附すべしといふ有志あつて町會の議案に上りしも豫算なしとて一蹴されしを以て牧水氏憤然として此擧に出でたるもの也(中略)餘興にはフシ劇、泥鰌スク(140)ヒ、アリナレ節、オケサ節、イソ節、木曾節、伊奈節、鰹節等にして宛然全國節の大會の如く、ヤンヤヤンヤのうちに芽出度閉會せり。」とある。以つて一斑を窺知すべし。
 隨分ふざけたものだが、實はこの大會と半切會との事に就いては小生ひどく頭を痛めたものであつたのだ。
 正直のところ、創作敢は今の流行語でいふとプロ黨に屬する傾向がある。傾向どころでなく實はその旗頭位ゐの資格があるかも知れぬ。大會に出るとすると東京から來ても十圓以上かゝる。況してこれが遠國から出て來るとなると五六十圓から百圓近い費用が入るのである。プロ黨にとつては少からぬ痛事なのだ。それで、半折會の事を思ふと大會はやらない方が遙かにいゝかと最初考へたのだ。然し、一度みんなして集つて見度い、誰彼と會つて見度いと思ひ立つとどうしてもそんな豫算定などしてゐられなくなつた。そして御覽の如く二つの事業を一時に擧げてしまつた。
 然し貪乏といふ奴は氣の持ち樣一つで或る程度までは撃退出來るのである。どうか大會出席者諸君よ、くよ/\せずと大會では大いに元氣よく遊び、半折會の方では諸君が該運動の中堅となつて活動する事にして下さい。敢て此處に「短歌雜誌」毒舌記事一部の裏書をする愚に出でた所以である。
■前號で高松市の堀君の事を書いたが、それと反對の方角、羽後の酒田町から遙々と出席する白旗浩蕩君がまた堀君同樣耳の不自由な人である由を聞いて居る。堀君は筆談でなくては駄目だが、白旗君はその必要はないらしい。兎に角さうした人たちのわざ/\の出席は何とも感謝に耐(141)へない思ひがするのである。
■開會を午前七時からに改めた。どうせ前夜から會場に泊つてゐる人か、朝四時ごろの汽車で到着してゐる人が多いのだから、早いのは早いだけいゝとおもふのだ。土地の人たちに少し用心して頂き度い。(下略)――大正十二年――
       その二
■現在の創作社の邸を圍んで數十本の櫻樹が立並んでゐる。全て一抱の大木である。これが四月二日までに咲いて呉れたらと待たれたのだが(今年は梅などは大變に遲れたので、)どうだ、四月どころか此處四五日のうちに綻びさうな氣勢になつて來た。招待會の日には滿庭の落花を踏む事になるであらう。いよ/\氣になるのはその日の天氣だ。六十人(第二日出席者)の思だけでも大丈夫晴れるとは思ふが、萬一降つたと來たらこれだけの人數を何處にどう押込むか、臺所から雪隱の隅まで應用せずばなるまい。地曳網は雨はまだよし、夢にも風は吹く勿れ。
■渡邊水哉翁に「いやさか」の發聲をやつて貰ふのは多分講演會の濟んだ時であらう。
■何とも殘念な手紙を昨日受取つた。高松の掘俊資君からの出席取消であつた。來る六月同地においでになる筈の久邇宮、同妃、良子女王、信子女王の各殿下一行の御豫定が繰上げられ、この四月になつたゝめ、同地松平伯から殿下に献上する事になつてゐた御料紙硯箱を同君の手で急いで作らねばならなくなり、何とも致し方がないといふ涙の出る樣な手紙であつたのだ。受取つた我々の方でもただ顔を見合はせるばかりであつた。今度出席する百何十人かのうち、最も喜び樂しんでゐた同君に、偶然にもこの事の起つたのは、何たる事であらう。然し、この光榮ある爲事(142)に同君がよく精神を統一して當つて呉れる樣にと祈るの外はないのだ。
        記念繪葉書の話
 瓢箪から駒が出るといふ。この繪葉書の話が全くそれだ。
 いつであつたか或日大悟法君と附近の枯田圃を散歩しての歸るさ、番貫山の夕景色から寫眞の話になり、延いて繪葉書の話になり、終に前號に書いた樣な「大會記念繪葉書」の話を生むに到つたのであつた。
 前號までは、みな大會出席者の手によつて成る繪葉書をのみ考へてゐたのだが、十五か六日、素敵によく晴れた日があつた。そろそろ霞みそめた春の空に白玲瓏として富士の高嶺が晴れてゐる。沼津の繪葉書からこの山を拔くのは魂を拔いたも同じだ。大會當日降るか霞むかでもしたことにはもう間に合はない。と思ふと私は爲かけた爲事を放り出しておいて本誌發賣所蘭契社の寫眞部に馳け着けた。そして其處の主任碇君を引張り出して千本濱に行き、松原の上に聳えた富士を一枚、波打際から見たのを一枚、それに松原の中の幹や枝の參差として茂つてゐる所を一枚、先づ三枚を撮り、直ちに引返して創作社門前から見た富士を撮らうとすると、惜しいかなもう霞んでしまつて駄目であつた。止むなく冬枯の櫻木立に圍まれた創作社を前景にして香貫山をとつた。中央やゝ右寄りに木立の中に隱見してゐるのが私の書齋であり、本誌の編輯室であるのだ。そして夜に入つてもう一度同君に來て貫ひ、折柄半分選を濟した詠草の散らかつてゐる机に向つてゐる處をマグネシウムでとつて貰つた。
 それから蘭契社と東京の工場との間に長距離電話が幾度か往復せられ、とりあへずこの五枚を(143)一組としたものを大會當日までに作り上げるといふ謂はゞ偶然な無理な事業が演ぜられたのであつた。
 この一組定價金十五錢也、坊間鬻ぐ所に比し別に富士の山ほど高くはない。賣上高より純利一切を半折會の方と通算して建築費の方へ廻さうと云ふ。今後社友全部の通信用には一切これ以外を使用すべからずといふ法度を出し度いものである。今月末までには出來、十組までは郵税二錢位ゐか、どんどん註文してほしい。但し、面倒でも振替を用ゐて頂き度い、切手小爲替の類は片端から使用して一向に溜る事がないからである。
        その三
×いよ/\迫つて來た準備もおほかた整つた。今は氣になるのはお天氣ばかりだ。第一日は降るもよし、どうか晴れてくれ、第二日よ。
×三月三十一日夜、臨川館に泊るのが各講師を初め十四五人ある。中には二十七八日から泊り込まうといふ二三人がある。
×東京横濱、それに加はる束北方面の人々の沼津驛着が、四月一日午前三時十八分、四五十人の乘込だ。春曉まだ暗い。高張ならぬブラ提灯を振翳して出迎へる事になり、その註文ももう濟んだ。
×關西方面の時間が未だ定らぬが、多く同日午前七時四十八分のものらしい。乃ち開會を午前八時と訂正した。
×受附で會費と引換に幅二寸長さ一尺餘の白布に姓名を書入れたものを安全ピンと共に渡す。各(144)自それを自分の左の襟に着けてほしい。そしてお互ひに一日坐つて居れば大抵「ハヽア、アレはアレか、アンナ男が(女)がアンナ歌を詠むのか」と解るであらう。
×和田山蘭君が病氣で出られない。腰の神經痛で宇都宮市の至誠堂病院に入院してゐるのだ。而して其處の院長工藤正郎君は二日とも出席する。なほ山口縣から遙々出て來る高木壽嘉君もお醫者樣である。二人揃つてゐれば少し位ゐ逆上せても大丈夫ではあらうが、まアまアお靜かに願ひ虔い。
×互選の方法等は受附でお渡しする詠草印刷の紙の裏面に書きつけてある故、その通りにやつて下さい。少し時間のかゝる方法を採つたが、その積りで、しつかりしてゐて下さい。宴會は六時半頃から始めることになるであらうと思ふ。
×第二日、地曳網も無事に曳ける。場所を靜浦か獅子漬かそれとも田子の浦にしないかと頻りに勸められたが、時間の關係で矢張り千本濱を選ぶほかなかつた。其處はよく/\運がよくないと入らない所ださうだ。雨はやめ、時には運をめぐらせて、八大龍王鯛入れ給へ。
×地曳網寄附金のことは來號大會記事の中に詳しく書く。なほ、京都の銀磬社の雨森長三郎君より西内白穗君の歌集五十部を寄贈せられた。これは兼題互選の結果に見てそれぞれお分ちするつもりでゐます。小生よりも博文館版「萬葉集略解」上下二册づつ各三卷を最高點より三番目までの人に贈ることにしました。
×午餐會は會費を一圓づつ取り、小生から麥酒などでも出すことにしようと考へてゐたのであつたが、どうも第一日が普通の會費だけでは足りさうにないのでこの會費をそちらに廻して午餐會(145)は小生の招待とすることにします。おこわにお煮締、それに番茶の冷したの位ゐで我慢して下さい。
×二日閉會後小生は直ちに近所の温泉に行つて身體を休めますが、十人前後同伴希望者があれば次ぎの順序で一緒に出かけませう。御成橋下より發動機船にて靜浦江の浦を廻り伊豆三津上陸、岡を越えて長岡温泉一泊、翌三日修善寺か吉奈温泉にて晝食、夜湯ケ島温泉泊、其處の滯在は自由の事と。大抵一日五六圓の豫算。
×多少の變更あり、且つ各國別、各個人の印象を深からしむるためもう一度出席者の名を次ぎに掲げます。出席せぬ人のため、講演筆記其他各記事をば詳細に次號に載せます。何と云つてもあと八九日の事になりました。(三月廿三日午前四時)

 大會後記

        その一

■氣になつたのはお天氣であつた。妙にそのころ、三月の二十日頃から照り續いた。五日六日となるとそれが氣になりだした、斯ういま照つて大會ころになつて土砂降りになるのでないかと。七日晴、八日晴、九日曇、三十日の午後から降り出した。やれ/\いよ/\豫想が當つたかとシヨゲると自信屋の大悟法君、イヽエ大丈夫です、これで明日の夜から晴れて朔日二日と快晴です、理想的です、と獨りで威張つてゐるのだが、私としてはさうノン氣に構へては居られない。(146)これで三十一日朔日と降つてせめて二日だけ晴れて呉れ、と全く臍の裏の痛くなるまでに氣を揉んだ。ところがどうだ、三十一日の夜を待たず、その正午から晴れ始めた。門前に出て見ると富士が輝やかしく頭を出してゐる。あまりの嬉しさに、昨夜々行で來て早速ビラや名札を書きかけてゐていやがる土江君を初め、高久細野服部の諸君を引張り、取りあへず町まで出かけて祝盃を擧げた。朔日晴天、二日は更に快晴、三日になつて初めて蕭々と降り出した。何といふ難有い事であつたらう。
■お天氣祝の歸りに臨川館に寄つて早速會場を作りにかゝつた。我等のうろ/\してゐるに引替へ、大茶目服部純雄、どうした事か獨り大車輪になつて片つばしからぴし/\と片附けてゆく。どうも此奴が氣に入らねエとばかしで、床の間に懸つてゐた何やら古ぼけた奴を引つ外し、早速俥を走らせて瀧和亭筆の見ごとな大幅を取寄せ、更にテーブルを運ばせ、ビラを貼り、受附を作り、賣店(繪葉書其他)を設け、忽ちにして立派な大會場を作り上げてしまつた。その間に三井穗光君來り、中島夫妻、田中緑夜君等來る。何れも廊下や玄關に突立つた儘久濶の握手を交はす。
■その夜の晩餐會はまた樂しいものであつた。何しろ天氣は見定めたし、會場は出來上つた、人數も恰好、合はせた顔は舊知の仲と來てゐるので、膳に向はぬ先から私などもうおろ/\してゐたのだ。酒に醉つた程度も私としては大會期中を通じてこの夜が一番深かつた。どうしても歸らぬと頑張るのをそれでは明日明後日の身體がもてぬといふので、四五人してとう/\私を俥の上に擔ぎあげ、幌をおろしてしまつた。餘程口惜しかつたと見え、俥からおろされた時、懷中あり(147)つたけの金を車夫にやつて、あとで悲しみをなした。
■明けて第一日の當日は實を言ふと私には何が何やらさつぱり解らなかつたのだ。よほどしつかりしてゐた積りではあつたが、魂はいつのまにやら昇天してゐたので、一個の傀儡子が終日そこらをうろ/\してゐたに過ぎぬ形があつた。今にして甚だお恥しくも殘念にも思はるゝのだ。
■講演は全く他のそれらと異つた、稀有な種類のものであつた。講師に寸毫も大向うを相手にする氣が無く、一人々々を相手にして話しかくると云つた態度であつたゝめ、聽く方でも自づと一人一人で聽くといふ心持になつて了つた。いはゆる明鴉組などは昨夜殆んど一睡もしてゐないに係らず、どうしても耳を傾けずにはゐられない事になつてしまつた。初めこの講演だけをば土地の中學校か女學校の講堂を借りて一般に公開したものにしようかと思つたのだつたが、ての有樣を見るにつけて矢張りさうせぬ方がよかつたとしみ/”\思はせられた。殘念なのは講師のうち三人の缺席者を生じた事だつた。柴山君は來るには來たのだが急用で肝心の時に出られなくなり菊池君は初めつから無理だつたのだが矢張り出席不能になつた。其處へ思ひもかけぬ佐藤緑葉君までが急病で出られぬと云つて來た。原田君がその前日同君方に誘ひに寄つた時、かなり發熱してゐた相だが、それでも明朝の具合では遲れても馳けつけるからと言つてゐたといふので心待ちしてゐたのだが、終に駄目であつた。夙くから樂しんでゐた同君自身嘸ぞ殘念だつたらうとおもふ。
■講演筆記は高橋希人、神部孝、古川慰、近藤孝太郎の四君がやつて呉れた。本號には白鳥原田の兩君分を、來號に服部、小生兩人分を掲げる。
■だれがちの互選歌會も終始緊張裡に進行した。實は今度のは一つの試みとしてやつて見た方法(148)であつたが、よく成功した。互選係で投票の番號を讀みあげる。朗詠係がその番號の歌を二度朗詠する。朗詠終れば歌の作者は直ちに起立の上高聲に自分の名を名乘る。朗詠も名乘も第一囘一度だけ、といふ風でやつて行つたのである。喝采が屡々場内に湧き起つた。詠草を印刷した紙の裏面には出席者の自署欄が設けてあつたのでそれ/”\の署名が行はれた。喜志子の許にそれを求めに來て「奥さん、あなたが先づ囮になつて書いて下さい、でないとあちらの佳人連なか/\書いて呉れません」と言つた人があつたさうだ。神戸より出席の某法學士であつたと聞く。
■サテ順序として宴會の記事に移るわけだが小生その頃いよ/\亡我の境に入つてゐたらしく何が何やら薩張り解らない。獻酬全廢の綻の確守せられてゐたのは盃が出て約三四分の時間であつたかと記憶する。何でも眞先きにずつと遙かな席から立ち上つて影のごとくに小生の所に盃を持つて來たのはたしか中野秀郎であつた。「オヤツ」と思ふ位ゐ其時既に彼の顔は眞赤になつてゐた。それから小生の右手二三人目に坐つてゐた中村柊花が頻りと其虞等を持ち廻つてゐた。彼は晝間に實に偉大なる失敗を演じてゐたのでその贖罪の意味をもつて斯の擧に出たのであらうと、そぞろあはれにうしろ姿が眺められた。
■此處にあはれを留めたはその席に出た藝者連であつた。何でも十五六人ゐたわけだが、誰一人として彼等の存在を認めない。てんでに飲んだり喋舌つたり唄つたりしてゐたのである。で、自然客は客だけ女は女だけよりよりに集るといふ傾向を帶びて來たが、中に氣の利いた雛妓がゐて小生宅の子供等がやつて來たのを見るや早速子供たちと手をつないで「モシモシカメヨカメサンヨ」か何かをやり始めた。これが大當りで殆んど總勢その輪に加はり、廣い座敷一杯になつて踊(149)り廻つた。
■この夜も小生は俥にくゝしつけられて自宅に運ばれたのであつたが、聞くところによると、或る一人が小便に起きるとガラス戸がもう白んでゐた、通りすがりにフイと見ると梯子段に近いところに五六人一塊になり、ひつそりと頭をつき合せ圓座を作つてゐる。恰も何か祈りでもしてゐる形だ。よく見るとめい/\に盃を持ち徳利の十五六本を膝のききに並べて居る。オヤ/\と思ひながら聲をかけよく/\見るとこれはまためい/\頬に涙を垂れて泣いてゐる所であつた相な。敬意を表し氏名發表を預る。
■地曳網の大當りはまた話の外であつた。二網曳かせたが、第一の網には第一階級に屬する興津鯛一尾に、この濱にも斯んなのがゐるのかと漁師たちを嘆ぜしめた大章魚一尾、鯖が一束と二十、烏賊無數、雜魚二笊(升で量つて約二斗)二番網には鯛三尾、烏賊十數尾、雜魚無數といふ有樣であつた。早速臨川館と近くの東京亭の料理番及び小生宅に出入する魚屋とを呼んでそれらを料理せしめ樽の殘りの酒を取寄せた。庖丁の來るのを待兼ねた連中は東京亭から木炭一俵を擔ぎ出して來て火を作り、ピン/\跳ねてる大鯖をぶち込んで早速の濱燒を作り、兩手に持つて横ぐはへにやつてゐるといふ物凄い光景だ。福井縣から出て來た伊藤踏青和尚(ほんものです)は「これが一番です」と言ひながらまだ生きてゐる子烏賊の首をチヨイと拔きすてゝザブ/\と浪で洗ひあげピチヤ/\とやつてゐる。「ヱライ事をやるなア」と最初大いに侮蔑的横目で見てゐた古川慰はひそかにこれを眞似て見て「ウン、これアうまい」と飛上る。讃美の聲が漸次に濱に攪がつた。
(150)■斯んな有樣で、時間は來てもいつかな動かうとしない。止むなく創作社で用意して待ち受けてあつた晝食おこわの折詰をば車に積んで濱まで持つて來させた。
■そのうちぼつ/\と停車場の方へ歸つて行かねばならぬ人も出來、そろ/\心細くなつた殘りの二十六七人が二手に分れて創作社へ引上げたは午後の三時頃でもあつたらう。朝の六時からだから隨分と長い間、小石原の陽炎の中に遊んでゐたものだ。その間富士は常に松原の上に麗らかにその姿を見せてゐた。流石に豪傑たちも疲れて來た。社へ來ては疊の上や庭の芝生に寢轉ぶのみで、あまり話をする者もない。一汽車二汽車と延してゐた人もどうでも六時何分かの終列車では歸らねばならぬと悲しい聲を出す。その時まで全部殘つてゐた大阪神戸方面の人たちもそれと引違へに出る西行へ乘らうといふ事になる。
■何となく打ちしめつた「いやさか」を社の庭で唱へて一同門を出た。我等長岡温泉行の一行は初めの豫定では御成橋の下から發動船を仕立てゝ乘り出す積りであつたが次第に時間が遲れたゝめ陸路をとる事になり、これも一緒に揃つて出懸けたのである。町に來ていよ/\別れねばならぬとなると年甲斐もない心細さ悲しさが咽喉元を締めつけて來た。一種氣合をかける氣持で「麥酒を一杯飲んで別れませう」と、否應なしに小生は一行をとある酒場に押込んでしまつた。
■驚いたのは其處の酒場だ。東京邊と違つて一度に十人以上を迎へた事など少なからうと思はるゝ所へ三十人近くがどや/\と入つて行つたのだ。でも感心にどうやら椅子をば揃へ得た。
■幼い言ひ方を許し給へ、全く涙の樣な其場の酒であつた。惶てゝ唇に當てると同時に熱いとも冷いとも知れぬその感觸が直ちに瞼にも感じられたのだ。或は手にも足にも傳はつたのかも知れ(151)ぬ。誰しもさうであつたらう。だから、直ぐ醉つてしまつた。重田行歌が立ち上つた。そして短くはあつたが心の籠つた別辭を述べた。黒木傳松が立つた。大悟法利雄が立つた。いつか知ら小生も立ち上つてあらむ限りの聲で歌をうたつた。
■時は容赦なく迫る。勘定をして席に歸ると帳場の者がおつりを盆に載せて持つて來た。隣にゐた行歌はチラリとそれを見るや否や極めて敏捷に中の壹圓札とお盆とを小生の手より奪ひ取つて立ち上つた。そして始めた。「諸君、我等が和田山蘭はこの一月より病床に就いて居りまして……」と拍手の中を彼は盆を持つて廻つた。因果なのは我等の入つて來る前から一隅で飲んでゐた二人連のお客樣で、そんな事とは露知らぬ行歌先生、矢張り仲間のつもりで其處へも盆を持つて行つた。「違ふよ/\、オイ違ふよ」と皆から注意されて初めて向うの顔を見たがペコンとお辭儀を一つして何ほお盆を引かうとしない。お客樣も面喰ひながら青い顔のが拾錢銀貨を赤い顔をしたのが五十錢札を各一枚づつその中へ落した。高久耿太が直ぐ立つてお客樣に詫びに行つた。服部純雄もまた持つてゐた創作社繪葉書四組をその机に贈つた。「みんなで拾六圓と拾錢あります、これをば僕が預つて明日早速和田さんの方へお送りします」と大悟法利雄が報告しながら何やら怪しげな歌をうたつた。それをきつかけに皆立ち上つて今度は景氣よく「いやさか」を唱和して其處を出た。それから停車場行と長岡行との二組が相別れる光景は神部君の數行が實によく書き盡してゐる。
       その二
■今度の出席者中、初對面の人でその歌と風貌との上に意外を感じたのが二人あつた。一人は伊(152)藤踏青君、一人は野坂龍水君、二人とも福井縣から打揃うて來てゐたのだ。伊藤君はあのこまこました優美な歌を作るに似ず、體格から態度から立派な大入道であつた。よくゆけば豪放、惡くなれば蕪雜な歌の作者である野坂龍水君は、またそれと正反體の小柄な優男であつた。歌風と似てゐると思へば思へるし、違つてゐると云へば云へる人は山口縣から來た村上可卿君で、五尺七八寸もあらうかと思はれる偉丈夫であつた。歌とそつくりだつたのは滋賀縣からの鑓源三郎君、京都市からの上木樂羊君であつた。久し振に逢つて見忘れてゐたのは樺太の三井穗光君、福岡醫科大學の春木水脈君、熊本の五高から東大文科に入る中村政雄君、大阪の牧田草庵君であつた。久保田之道君と田中梅太郎君とは共に來會者中の年輩者であつたらうが、よく似てゐて、ともすると間違へさうであつた。
■氣になるのはお天氣だつたと前に書いた。實はもう一つ胸につかへてゐたものがある。岡山市の三浦敏夫君から寄贈の銘酒神露一樽未着の事であつた。初め二十四日に送り出した旨の通知に接したので二十六七日からは毎日驛前の運送店に訊きに行つた。三十日三十一日となると日に二度づつ行つた。
「まだ來て居りませんワ」と言つて歸つて來る笹田君の顔が今でも眼に見える。朔日の正午を過ぎると半ば小生も諦めた。其處へその日の夕方、互選の批評の始つた時「來ましたよ/\先生、いま運送屋から電話がありました!」と誰であつたか馳けて來て小生の耳にさゝやいた。ほんたうに萬事萬端、この調子で具合よく行つたのだつた。「神露」は金光教の御神酒として用ゐられ、贔屓目拔きによき酒である。宴會の時、よし一樽は來るとしても料理屋の酒を取らぬも惡いと一(153)人宛二本づつをば先づ膳につけさせたのであつた。かなり席が亂れてから誰であつたか(餘り上戸でない人だつた)「オヤ、酒が變りましたネ」といふので甞めて見ると全くぐいと變つてゐた。長岡湯ケ島と飲み歩いて歸つて來るとまだ幾分かそれが自宅に殘つてゐた。その時もつく/”\これはいゝ酒だと思つた。
■飲む話ばかりで少々我ながらイヤ氣がさすが事のついで故書きつける。偉大なる失敗家中村柊花が事である。重田行歌と共に信州から東京へ出て明鴉組の中に加はり、皆と一緒に着くには着いたが、驛前の居酒屋で夜の明けるまでやつてゐたとやらで流石に參つてしまひ、少しく風などに吹かれむ願ひを持ちて千本濱へ出かけたはいゝが其處の砂上にぐつすりと寢込んでしまつた。眠が覺めて見ればもう日は正午を過ぎてゐた。とぼ/\と臨川館前まで來て見たがきまり惡さに何としてもよう入れず、ツイ附近の宿屋に一先づ上つてしまつた。そして夕方ひそかにその宿まで行歌と喜志子とを呼んで二人に連れられて會場に入つて來たのであつた。何のために遙々信州川中島のほとりから出かけて來たのだか意味甚だ朦朧となる。それでも彼は千本濱で眼を覺して悲しさのあまりか歌を十首ほど詠んだらしい。本號第二頁に載つてゐるのがそれである。今度の歌會で一首なり二首なりひねり出したといふのは、會者百人のうち恐らく彼一人であつたらう。歌の會で歌を作つたが珍しいとなるとこれも意味は餘り明瞭でないことになる。
■鈴木菱花が居る。臨川館は知らないが長岡でも湯ケ島でも必ず枕許にノートと鉛筆とを置いて寢た。そしてヒヨイと見ると彼は必ずいつの時でも腹這ひになつて鉛筆の先をなめてゐたのである。一體彼は總てを通じて何時間眠つて歸つたらう。可笑しな男だ。
(154)■長岡の、朝の雨はよかつた。みんなよみがへつた樣な顔をしてゐた。湯ケ島もよかつたが一日一日と顔の減つてゆくのが穴の中に入る樣な寂しさだつた。四日午後には中島夫妻と白旗浩蕩君とが歸つた。五日朝には高久耿太鈴木菱花越前翠村に喜志子の四人が歸つた。あとには細野春翠と小生とだけになつた。六日に歸るといふ春翠を拜む樣に引留めたが七日にはどうでも困るといふ。元來小生は今月の中頃まで其處に滯在して來る積りだつたのだが、とても一人で殘れるものではない。しよぼしよぼと春翠について歸つて來たのであつた。「逢うてうれしや別れのつらさ、逢うて別れがなけれやよい。」そのころ頻りに唄つた伊奈節であつたが、今でもそれを繰返すと坐つて居られぬ心地になる。遠く羽後の國まで獨りして歸つてゆく白旗君など一層いやだつたに相違ない。自動車から振返つた中島夫人の顔もはつきりと眼に浮ぶ。
■然し、實にみな心持よく遊んで下された。思ひ起すとすべてが感謝である。平面的な大會記事を讀んだりすると如何にも終始馬鹿騷ぎでぶつ通した樣にも聞えやうが、内容は決してさうではなかつた。試みに當時の事を想ひ起して貰ふとよく解る。何か知らうるほひのある、にこ/\せずにはゐられぬといふ心持が最初から最後まで續いてゐたと思ふ。主催者として口幅つたい言ひ分だが、恐らく一人としてさう不快な印象を受けて歸られた人は無かつたらう樣に思はれるのだ。酒、酒と何彼につけてそれが出て來るので恐縮するが、さりとてさう馬鹿飲をやつたわけではない。第一誰一人として惡醉をした人が無かつたではないか。大きな聲一つ出さず、ゲロ一つ吐かなかつたではないか。謂はゞ子供がいゝ玩具を貰つて喜ぶ氣持であれに甘えてゐたに過ぎぬ。下戸の人も半分はゐたであらうが、如何でした、側で見てゐて目に餘るほどの場面がありま(155)したか。
■世話人たちにもほんとにお世話になりました。ぴたり/\と事が運んで唯の一度もどぢを踏まなかつたのなど、一に諸君のお蔭でした。梅川春雄君があの大きな圖體を小まめに動かして餘興の事で氣を揉んでゐた姿などなつかしく思ひ出されて來る。臨川館もよくして呉れた。聞けば家中二晩とも徹夜だつたさうだ。そしていつ行つて見ても夜晝なしに湯殿には湯が沸いてゐた。地曳では金澤修二君の令兄山本茂三郎君に大變に世話になつた。同氏は土地の裁判所の檢事であるが(今度川越に轉任)同じ檢事の七條清美君も講演會に出席して、端なく白鳥省吾君と舊知の仲である事が解り、互選歌會の間自動車を呼んで白鳥原田の兩君を靜浦から江の浦かけて案内して下された相だ。
■沼津の名折にならぬ樣にとわざ/\任地岡山縣から歸つて來た土地つ子の服部純雄君の働きは全く双肌ぬきであつた。殊に會計應接其他内輪一切の事務全部を殆んど一人で引受けて何等の澁滯を生ませなかつた高久耿太君の盡力はまた別であつた。この人がゐず若し小生自身がそれらの事にまで當らねばならなかつたとすると、それこそどんなヘマが演出されたか解つたものではなかつた。彼は大會二日の間ばかりでなく、いつとなく湯ケ島行のお終ひまでその負乏籤を引き續ける事になつてゐた。越前翠村或る時の彼を目で指しながら小生に耳語して曰く「しつかり者になるもんぢやアありませんネ」。
■高久君の事のついでに會計の説明を加へてこの記事を終らう。かなり大仕掛でかゝつた今度の事で會計に穴のあかなかつたのは寧ろ不思議な幸福であつた。會費だけではとても足りないと見(156)たので第二日の會費六七拾圓を一般會計の方へ廻す事にした。思ひは同じの高久君は小生の肖像寫眞四五十枚を作つてこれを賣り出しそれを會費へ寄附した。(この寫眞は三月の九日「山櫻の歌」の原稿を持つて上京した時同君の許に」泊した、翌朝一杯飲んだ後縁側に出てゐる所を撮影したもので「山櫻の歌」の口繪にも入れておいた)それに一般の寄附金も豫想外に上り、肝心の飲料は樽で來てゐると來たし、それこれで以て多少の穴を豫期してゐたものが穴どころか却つてプラスを生むに至つたのであつた。めでたし/\。(大正十二年)

 抗議

 今日の大阪時事、只今着、直に披見、申に第四面に掲げられた「短歌壇の合同成る」の記事に就き一寸一言さして貰ひます。
 樹海社成るの報道はさておき、そのおしまひの方に、「而して大合同成立後の歌壇の分野を見れば」云々から、樹海社、アララギ社、國歌社の三を主流とし、佐々木氏の竹柏園、尾上氏の水甕社、及び小生等の創作社等を以てその傍流をなすに過ぎぬものと斷ぜられた所以は一體何處にあるのですか。これが或る一派の宣傳か何かであつたならばともかくだが、署名のないところを見ればこれを以て大阪時事の意見と見ざるを得ぬ。然らばその傍流にすぎぬ所以を附記する責任があつたらうとおもふ。
 若しこれが前三社にはエライ人(世間に名の聞えて居るといふ意味に於て)が多く集まつて居(157)り後三四社にはそれが無いか少いかの故を以て斷ぜられたのだとするならば、また多少言ふ事がある。一體いまの歌壇といふ所の表面に出てがや/\騷いでゐる連中の作と各自田舍に籠つたりなどして靜かに作歌してゐる人たちの作との素質に於てどれだけの差があるであらう。各黨分立がいけない、歌壇改革せざる可からず、やれ何處其處に合同吟行だとか云つて何だか騷いでゐた樣だが、さうした連中の作にロクなものがあつたかどうか。小生などは寧ろあゝしてがや/\騷ぐ事によつてさらぬだに浮足たつてゐる歌壇の作風を一層浮華ならしむるものだとしか觀てはゐない。
 餘談に逸れた形があるが、なほついでゆゑ一二言附記して置く。とにかく傍流呼ばはりは御免蒙る。樹海社の面々は勿論、主流視せられた他の一二社を一束にしたものでもいゝ、優にそれ等に對抗してゆく實質をわが創作社は持つてゐる積りであることを記憶しておいて頂き度い。そして若し小生の斯う言ふことに反感か疑念か興味かを持たるゝ人は、我等の月々發行してゐる雜誌「創作」に表はるゝ我等一味の歌によく注意せられむ事を望んでおく。(十二月十日午後三時半、沼津市上香貫にて)――(大正十二年)

 最近の感想

 丁君、いつだか、この夏ごろかな、君も貰つたらうが、僕も貰つた大正十二年度版年刊歌集といふものを、今夜讀んでゐる。そして思ふ、なんといふちつぽけな窮窟なもので歌があることよ(158)と。用語問題なども尤ものことではあるが、それより先にこの窮窟さを取除かないことにはまつたくやりきれないと思ふよ。そしてその窮屈さは決して言葉や形式の問題でないと思ふ。(大正十二年)

 時雨酒
   ――淺野梨郷君に寄す――

 浅野君。
 未だ御逢ひしたことなく、手紙をさしあげたこともない。が、とにかく此處で斯う呼ばして呉れ給へ。

 この三四日まことにイヤな日和が續く。降らず照らず、生暖かく重苦しい。僕には斯うした日和が一番いけない。眼も鼻もふさがつてしまつて、袋にでも入れられた氣持になる。
 卒かに今日の夕方から少し風が出た。晴れるかナと思つてゐたら、雨が落ちて來た。そして、俄に寒くなつた。
 寒いのも僕には苦手だが、此際、嬉しかつた、幾らか身體の緊るのを感じたからである。ことにガラス戸にあたる雨の音はよかつた。漸くに眉を開いてそれに向ふ心地になつた。
 普通の飯の時間を待ちかねて自分で勝手へ出懸けて酒その他簡單な飲食物を書齋に運び、テー(159)ブルの上で一杯飲み始めた。原稿類の散らかつた端を少し押しのけて其處に盃を置いて飲む味ひは、また自ら別なものがある。ことに、右手左手のガラス窓には荒らかな雨の粒が玉を作り條を引いて亂れて居る。
 程なく醉つた。うつら/\としてゐる所へ、端なく思ひ出されたのは今朝ほど讀んだ名古屋新聞の「本年歌壇の囘顧」といふ記事である。君の書かれたものだ。
 先づ頼まれて書いたといふおざなり調子のかなりに強いものであつたことを思ひ浮べたが、中に「創作」は千篇一律の歌を陳列して云々……の言葉のあつたのが頭に浮んで來た。佳いとか拙いとか云ふのなら、何でもないのだが、「千篇一律」は耳につく。一體何處を根據として彼は斯ういふことを言つたのだらうと、思ひ廻されて來た。いはゆる牧水張が強すぎる、といふのかと顧みた。そしてまた思つた、これは止むを得ないことである、牧水を中心として集まつた結社である以上大體の色彩にそれのあるのはそれは止むを得ない。他の社でも全く同樣である、創作牡だけが特にさうだといふのではない。では、その上の千篇一律とは果して何か。
 次いで思つた、若し「創作」の歌を千篇一律とするならば一體他の雜誌の歌を浅野君は何と見るであらうか、よく千變萬化の色彩と活動とを持つものと見るであらうか、と。そして思はず僕は笑ひ出した。
 醉つては理窟をいはないが、とにかく君は「創作」の持つ一種の雰圍氣を嗅いだのみで内容をよく見る事なくして先づ斯う言つたものだとおもふ。現にこの机に「創作」新年號の詠草が一杯に載つてゐる。これが一册になるのも遠くない。出來次第、君に送る。それをよく見て下さい。(160)そして、もう一度徹底した批評をして見て下さい。
 我々は實に黙りこくつて、もくもくとしていたづらに歌だけを作り續けて來た。いはゆる「研究」も發表せねば「評論」も「吟行」も「合同」も、「改革」もしない。然し、とにかく我々の歌をばめい/\に作つてゐると信じてゐる。それを少しおちついて見て頂き度いとおもふのだ。他意なし、とにかく改めての君の批評を聞き、顧み度いと思ふのだ。
 長くなるから、これでよします。突然で驚かないやうに。(大正十二年)

 淺野君に答ふ

 淺野梨郷君。
 「千篇一律の解」を難有う。君が非常に眞面目に、しかし今度はぐつと調子を高くして書いてゐるのを見て誠に快よかつた。早速返事すべきであつたが、元日早々家族其他十數人でこの温泉にやつて來て「お正月」をしてゐたゝめ君の評論を見たのもこれを書くのもひどく遲れてしまつた。
 君のこの評論の骨子をなすべき藝術論には大體に於て同意である。殊に最初に引いた西田氏の言うたといふ「總ての生命は唯一生命あるのみである」といひ「眞摯なる生命の欲求の上に立たない藝術は單なる遊戯でなければ技巧である」といふあたり至極同感である。小生などずつと前からその積りで作歌して來てゐる。その意味は十年も前に出した「牧水歌話」の中などにも書い(161)てあつたと思ふ。傳統や形式やゲン學(旅さきにて辭典なくテラフの字を忘れた)やからのみ作らるゝ歌といふものを離れて、自分だけの、自分の生命を追求欲望する願ひからのみ歌といふものを小生は作つて來た。我等の社中にもこの意志は相當に行きわたつてゐる事と信じてゐる。從つて君が西田氏の言によつてこの詩歌藝術の根本義を知られたのは喜ばしい事である。
 その根本義を君は一千首餘りの歌の第五句によつてのみ求めようとせられた。これは驚くべき冒險である。のみならず君はその第五句を「一首の生命の宿るべき結句」と斷じたのはどうした根據から來たのです。
 さういふ方面の研究を主とした場合ででもあつたらばいかにも第五句のゆるがせにせられぬ事が言へるであらうが、歌の根本を見るに當つて第五句のみを以て歌そのものゝ價値を定めようとするなどは全く以ての外の沙汰である。
 君は五十頁にわたつてその第五句を拾つたといふ。誠に御苦勞なことであつた。その五十頁の大部分は多くみな初心の、歌を始めてまだ日淺い人たちの作であつた筈である。その苦勞をよして、何故社中重立つた人たちの作を今少し注意して讀んで呉れなかつたか。そしてそれ/”\の個性の現れを見て呉れなかつたか。
 君にさう言はれて見ればいかにもみな第五句の結びなどをば少し無雜作に片附けてゐる樣だ。これは早速社中へも傳へて置かう。然し、それは此際さほどの問題ではない。主とする所はその一首々々に、また一人々々の作に、どれだけの力が籠つてゐるかといふことである。言ひ換へればそれ/”\の面目が、個人性が、獨創力がそれ/”\の作にどれほど現れてゐるかといふことであ(162)る。
 其處を見なかつたとすれば恐ろしい無責任な批評である。若しまた見て何も見えぬといふならばそれは意外にも無雜な低級な批評家である。我々はたゞ「オヤ/\」の評語を以て君の價値を定めてしまふほかはないのである。何の識見もなく知つたかぶりの小理屈をひね廻してお山の大將然としてゐる其處等の雜輩の一人として君を見ねばならぬことになるのである。
 淺野君。
 君は小生の『歌は窮屈だ』と言つたのを全然誤解してゐる。これは多分『東京朝日』に書いた『最近の感想』の中の小生の言葉を引いたのだと思ふが、あれは大正十二年度年刊歌集に收められた他の人の作つてゐる歌を見て其窮屈なのに驚いた、斯んなものをば自分達は作つてゐられない、といふ意味のものであつた筈である。その『東京朝日』に出た文章を小生は見なかつたので詳しい事は言へないが、書いた時の心持は確に右の如くである。君の手許にあつたら讀み直してほしい。從つてそれに就いて何やらむつかしげな註釋を試みた事も全く君の徒勞であつた。
 ついで故いふ。君の文章の中にある『私は我々の眞生命の靈なる發露は……』だの『嚴肅なる人間の人格的創造作用に觸れて……』だの『十全とならむ事を欲する』だのといふ文章を見るとただもう苦笑が湧いて來てしやうがない。小生の雜誌に評論がないといふが、斯うした文章を書きたい人は矢張り世間並で隨分と多いのだ。ただ、見るのがイヤさに小生が押へてゐるに過ぎない。
 ついでにもう一つ書いておく。千篇一律だといふ君の批評が出て俄かに『創作』の編輯法が變(163)つた、と君の斷じ(?)た事に就いてだ。これはもう苦笑の程度を超えた問題である。なるほどこの度胸がなければ他の批評は出來ない次第だが、兎に角これは君の心中で取消をやつておいて呉給へ。事實は創作社の根柢が漸く定まり、相當の金を印刷其他にかける事が出來る程になつた證左にすぎないのだ。淺野梨郷とは關係はない。
 サテ、淺野君。
 小生はもうこの邊で切りあげる。君の千篇一律の見地も大抵解つたし、この上には聽きたくなくまた言ひたくない。小生は理窟をいふのが誠に嫌ひで、そのため時にはひどい損をし、またツイ失禮を働く事にもなるが、止むを得ない。厚く今度の君の勞を謝して此處に筆を擱く。(一月十三日、伊豆土肥温泉土肥館にて)――(大正十三年)

 安成二郎君に答ふ

 安成君。
 思ひがけないお便りを難有う。
 早速君も取つちめられた一人であつたのか。何しろ十人だか二十人だかの委員たちが八方に手を分けて、多少とも僕に引つ張りのあらうと想像せらるゝあらゆる方面――と云つても文壇關係が主であらうが――の人々に押しかけて行つてゐるといふ話を聞いてひそかに苦笑し恐縮してゐたところであつた。君の文中にあつた永代君の許にも無論誰かゞ行つたであらう、多分舊居小石(164)川原町の方へであらうと思ふ。原町といへば尾上先生の所へも屹度お伺ひしたに相違ない。若山牧水の書を尾上八郎に賣りつけてゐる圖などはまさしく自然を超越したものだ。
 二郎君。二郎君と呼ばして呉れ給へ。安成君といふとどうも君の亡兄の貞雄君の方が先に頭に來ていけない。
 初め君の先日の文章を讀んだ時には何の氣もつかなかつたが、斯うして返事を書かうとなつて見ると、君があの文章を書いて呉れた事が意外にも偶然でないのを感じつゝある所だ。と云ふと可笑しいが、僕がこの牧水半折會なるものを實地に行はうと決心した、そも/\は實は君の兄さんの死が與つて甚だ力があつたのだ。
 東京と同じくこの地方も甚だしい借家難である。土地が狹いだけに無いとなつたら完全にない。わざ/\東京から沼津三界迄出懸けて來てゐ乍ら尚且つ自分の尻のおちつかぬのも誠に苦しいし、第一僕は此頃になつて頻りに勉強といふものがしたくなつた。いつの間にか歌詠みとたてられ、歌で今日を過ごしてゐ乍ら實のところ僕はまだ本氣で歌といふものを詠んだ氣がしないでゐるのだ。一杯の呼吸をつかずにゐる苦しさが常に胸に蟠つてゐる。それにはもう少し勉強もしたいし、自分獨りで氣を凝らす修行もしたい。そして欲しいのは先づおちついた自分の部屋だ。書齋だ。でこの書齋建築、そのための所謂牧水半折會、といふ樣な考へを抱いたのはもう三四年も前の事に當るであらう。早速その事を昵近《じつこん》の社中の人にも謀り、友人たちにも相談したりした。
 が、もと/\好きや自慢で書く文字でない。いざとなればいつも怖氣ついて、氣はあせつても(165)なか/\に書き續ける事が出來なかつた。それを、思ひ切つて斯んな會を臆面もなく人樣の前に持ち出す勇氣をつけて呉れたのは、實に君の兄安成貞雄君の死であつた。
 實業之世界の故人追悼號の中でも書いた樣に、僕は故人に對しては常に兄貴といふ親しみを持つてつきあつてゐた。性格から身體の恰好から行状から、先づ第一にその酒食ひの點から、多くの友人の中で彼と僕とは最もよく似通つて居り、僕は萬事につけて彼に一目おいてゐた。そして逢ふごとに、逢へば必ず飲み耽るごとに、口には出すも出さずも必ずの樣に兩人は言ひ合つてゐた。即ち、
『オイ、どつちが先にやられるかなア』
 といふ氣持だ。言ふまでもなく酒のためにである。その安成君が何の豫告もなくぽつきりと行つてしまつた。
 僕の驚きをどうか察して呉れ給へ。近年この位ゐ僕にこたへた出來事は全くなかつたのだ。無論これには甚だ申譯ないが單に彼の死を嘆き悲しむといふのみでなく、多分にそれを利己的に見た驚愕が混つてゐたのだ。兎に角僕はあまりの傷心から大事なその葬式にもよう行かなかつた。
 これは愚圖々々してゐられないといふ心が本氣になつて身に湧いて來た。先づ勉強のこと、次には身近の者たちのこと。安成君はあんな氣樂な身分だつたから自分だけでさつさと旅立つて行かれたらうけれど僕にはさうはゆかぬ。
 二郎君。
 そんな斯んなが自分に一種の勇氣を與へて呉れた。そのことを社中の人たちに打ち明けると、(166)さうれ御覽なさいといふなり、蜘蛛の子を散らすが如くに早急に駈け歩いて、皆してやり出して呉れた爲事が今度の牧水半折會なのだ。
 厚意に甘えついでに二三行の廣告を許してくれ給へ。昨日と今日十五十六の二日、神田の駿河臺下クラブで右の半折會の中の一つの爲事として牧水半折展覽會といふのが開かれてゐる。僕も出席する筈だつたが、三四日前から急に激しい腹くだしをやつてゐるためによう行かぬ事になつた。で、其やり直しを今月廿九三十の兩日京橋元數寄屋橋町三の六村田畫房で開く事になつたさうだ。その日には是非僕等夫妻も出懸ける。君とも出來たら其處で出逢ひたいものと思ふ。
 何とか狸の皮算用で、先頃からぽつ/\と『地所の選定』などに出歩いてゐる。四方はすつかり小春のながめだ。一度沼津に出かけて來ないかね。待つてゐる。(大正十三年十一月)

 汽車の中にて

 四月十八日午前七時十八分東京行急行にて沼津驛發車。
 割にこんでゐた。辛うじて席をとる。手荷物の片附《かたづけ》も濟み、先づ一服と煙草を取り出したころ、今日の素晴しい日和に氣がついた。
 富士がきれいに晴れてゐる。一昨日あたりの雨が山では雪であつたらしく、一時消えてゐたのが、今日見れば山の二合目あたりまでゆつたりと來てゐる。三島裾野と汽車の進むにつれて、段々山も、雪もよく見えて來る。春の雪らしくなく、まつたくどつしりと山肌を降り埋めてゐるの(167)だ。豐かに圓味《まろみ》を帶びたその雪の肌には、うらゝかな朝日が射して、ほのかな青さが漂うてゐる。山の前の裾野の大平野はまだ冬ながらの枯草が一面、線路に近い雜木林に山櫻がところ/”\咲いてゐる。時々、辛夷の純白なのも見えた。
 出立前の一杯が利いて來て、御殿場あたりからうと/\と眠くなる。窮屈な中に眼を瞑ぢ、手を膝に重ねて、暫く眠る。
 眼を覺せば、其處は山北、幸にトンネルの間だけ眠つて來たのだ。差向ひの乘客は大阪あたりの青年紳士で、氣持のいゝ人であつた。組合の總會があり、熱海に行くとかで、このあたりの地理に暗い人であつた。この人、二三の同伴者《つれ》と共に國府津驛下車、席廣くなる。乃ち原稿紙を取り出で、約束のこの原稿を書き始めた。
 海、うらゝかに輝く。自分の背後《うしろ》が海なので毎日眺め暮してゐながら、斯うして汽車の窓などから見れば、また新しい感興が湧く。大磯あたり、藁家瓦家の間に、いろ/\の木の若芽が萌えてゐて美しい。正宗さんのことなど、頭に浮ぶ。
 二つ置いて向うの椅子に、兄妹とも見え、情人同志とも見ゆる二組の青年男女がゐた。(未完)――(大正十四年)

 大會雜報
    ――以上の諸記事に附け足し、大會に出席し得なかつた中村梅花に與ふる手紙――

(168)▼身體の具合からも爲事の都合からも、その頃大會をやるといふのはわたしにとつて隨分と無理であつた。休日が二日續くに、惜しいことだが今年は諦めようと思つてゐた。ところが、たつてと勸める向きもあり今から貯金までして待つてゐる、などいふことを聞くとツイまけてしまつて、ではやらうといふことになつたのであつた。
▼さういふ出立の會にしては意外な盛會となつた。盛會といふより、この前にもましてよき會合であつた。矢張りこれはやつてよかつた、と思はざるを得なかつた。來會された諸君もまたさう思うて下された樣におもふ。
▼御存じの通り、この前の時とちがつて前景氣といふものを一切拔きにしたので來會者も少いことゝ豫期したに、これも意外な數に上つた。出席を樂しまれつゝあつた下野の高鹽背山君、紀州の野上草夫君、横濱の高梨武雄君たちが急用のため中止されたのは惜しかつた。斯ういふ人は他にもあつた事とおもふ。
▼何しろ丁度『詩歌時代』の用事の一番忙しい時にかち合つたので、濟まない話であるが準備らしい準備をする事が出來なかつた。若し何かしたといへばそれは喜志子夫人が一人で氣を揉んだ位ゐのことである。揉み過ぎて肝心の當日、病氣となつて寢込んでしまつた。但し、當日の午後續々とつめかけて來た皆の顔を見ると、急に元氣になり、夜の會には出かけるといふ有樣であつた。何もしないと云つても全然何もしないわけにはゆかぬ。詠草の印刷發送等には大悟法君たちが當り、わたしは長倉宜一菊池檳榔子兩君と共に會場其他のことに心配した。そして二日の夕方、右兩君に大悟法日野兩君、田中要吉君とわたしの六人が臨川閣に寄つて萬事の打合せを濟ま(169)せた。今夜あたり五人十人は乘り込んで來るであらうが、サテ誰々であらうと語り合ひながら一杯を擧ぐるに及んで、中村君、漸くわたしは大會氣分になつて來たのであつた。あの大きな宿屋の隅の一室、――色々と思ひ出のある部屋だ――一方の庭には櫻が咲き一方の縁側からは狩野川の流が見える、其處で何だ彼だと言つてるうちにわたし自身久し振に一種の旅愁めいた興奮をすら覺えて來て、これはいつそ自分も此處に泊つて皆を迎へようかなどと思ひ出した。が、何しろ病體だ、明日の事があるからと言はれつ思ひつしてわたしだけ早目に其處を辭し、俥に乘つた。そして歸る途中、中村滿洲子さん平澤貴美子さんたちを停車場に迎へて歸りがけの妻や娘たちの一行に出會つた。一緒になつて宅に歸りついたところへ、會場に行く前に一寸、と言ひながら中島花楠長谷川銀作の兩君が例の通りの面をしてやつて來た。斯ういふ場合の氣持はよくお察し願へる事とおもふ。だが、此處でもわたしは大事をとり失禮して早く床に入つた。其處へ、遙々信州北佐久の郡から阿母さんを連れて重田行歌君がやつて來たのであつた。
▼翌日は不幸、雨であつた。今日一日は我慢する、明日は降るなと念じながら皆して出かけて行つて見ると、もう立派な會場となつてゐた。初體面の人、久し振の人ととり/”\であつたが、何と云つても久し振の人がその都度多くなつて來る。ずつと顔を見廻しながらいろ/\の思ひの湧く事またいつもの通りであつた。
▼歌會の進行はなか/\むつかしいものであるが、順序よく進んだ。たゞ東京の一部の連中が我儘をして遲れて來たのがやゝ調子を破つた。午前の講演も顔ぶれは乏しかつたが、割に實の入つたものであつた。わたしなども珍しくいゝ氣持で話が出來た。たゞ少し内輪に見すぎて話がこま(170)かく、あゝした席には向かなかつたかも知れぬ。
▼雨にはいろ/\弱らされた。午後の創作社招待などもそれである。僅かの時間を見て來て貰つたので、氣が落ちつかなかつた。これに細君が朝のまゝ寝込んででもゐるやうものならそれこそ散々だつたが、幸に起きてゐた。元來庭に席を設けるつもりだつたので室内の設備も何も出來てゐなかつた。ただ然し來て貰かさへすればよいのであつた。富士は駄目であつたが、二階から見渡す桃畑の花は眞盛りであつた。松原を見るには雨の方が却つてよいのである。それにツイ近所の、源平時代から續いてゐるといふ舊家市川令次郎氏がその愛藏せらるゝ古代土器石器の類を陳列して見せて下さつたのは難有かつた。
▼夜の宴會、これは御想像に御一任申しておけばよいのであるが少しばかり附け加へる。今の臨川閣はこの前とは代が變つてゐる。今の主人はこの沼津に他に二軒の料理屋宿屋を經營して當てゝゐる男である。席の漸く亂れ出した頃、フツと見るとわたしの前にこの親爺が掬窮如と畏つて坐つてゐる。そして曰く、わたしも永らくこの稼業をやつて宴會も見馴れてをりますが、今夜の會の樣に御愉快さうな會は見たことがありません、恐れ入りますがこれを記念に寫眞にとらせていたゞけますまいか、といふのである。親爺どころか、内儀から料理番までやがては席末に侍つて見惚れてゐたといふ。初め社友の女流たちは宴會だけは遠慮しようといふことであつた。まア出てごらんなさい、いやだつたら直ぐお歸りなさいと勸めて一緒に出席したのであつたがあとで諸君の宣はく、まア出てよかつた、わたし宴會つてあゝいふものぢやアないとばかしおもつてましたの。
(171)▼いつもの事ではあるが、實によくあゝ無邪氣に愉快に遊べたものである。精かぎり、根かぎり樂しまうといふところが見ゆる。なるほどよく飲むにも飲むが、始末にをへぬ醉つ拂ひが出るではなし、喧嘩口論一つなし、何が何で嬉しいんだか解らないと云つた醉ひかたばかりである。自然こちらでも引き入れられて用心してゐた盃におのづと手がゆく。でも、三十分間ばかりは大いに愼しんでゐた。「どうもこれはやりきれぬ、思ひ切つて飲まうか」「お飲みなさいとも、大丈夫ですよ」といふ樣な問答の交はされたのを界としてすつかりわたしは無我の境に入つてしまうた。さうなつてしまへばまだ/\この若い連中に一歩もひけはとらぬ。
▼因果と翌日も雨であつた。風さへも加つてゐた。田子の浦はおろか、創作社から會場まで行くにも難儀な日和であつた。もうすつかり顔馴染にもなつてゐるので、その風雨の中で催された即詠歌會は寧ろ異樣な親しみと緊張とを持つた歌會となつた。歌の發表が終ると共に歌會續きの緊張と戸外の風雨とが自づとまた我等を酒に赴かしめた。然し、昨夜の樣に醉ふまでには至らなかった。そして微醉のうちに各自の藝づくしなどが行はれた。謂はゞ意外に賑かな閉會となつたわけである。
▼意地惡く閉會すぎになつて雨が晴れた。まだ汽車に乘らなかつた廿人ばかりの人たちを誘ひ、創作社近くの濱に出で、手操網を引く事になつた。浪も荒く、網も小さく、たいしたことはなかったが、それでもなにがしかの獲物はあつた。火は焚かれ、庖丁は運ばれ、酢醤油は用意せられ、一升壜は並べられた。二日間、部屋づめにせられてゐた一同の顔はみな一齊に輝き、波も風も輝き、富士もうららかに晴れて來た。
(172)▼其宴遊は日暮れて其儘創作社に移された。が、老骨牧水、威張つても駄目だ、そのあとの事を少しも知らぬ。夜十一時の汽車で立つた大阪組をもよう見送らないでつぶれてしまつたのださうだ。眼がさめてみればちやんと蒲團の中にゐる。枕もとを見れば時計がある、見れば四時少し前、電燈のついてゐるのをみれば午前に相違ない。すますともなく耳を澄ませばそれらしい笑ひ聲が聞ゆる。これはとばかりに跳ね起きて茶の間に行つてみると案の定、越前翠村重田行歌柴山武矩等々の面々昼夜を分たぬ面相よろしく悠々としてちびりつゝあり給うた。
▼その日の昼頃、みんなお別れすることになつた。牧水いよ/\正體なく、停車場までもよう行かず、左樣なら、左樣ならを言ふや言はずに蒲團に潜つた。そして其後數日間其處からよう出なかつた、ただ、日に三四度づついのちの水を採りに這ひ出して來たほかは。
▼大會は斯くて終つた。我等のよくうたふ逢うてうれしやの唄のとほり、濟んだあとは誠にいやなもので、いつそ初めから企てずにおけばよかつた位ゐに思ふのである。然し、この前のが大正十二年の春だつたから丁度今度三年目に當る。三年に一度位ゐはやるがいゝかと思ふよ。たゞお互ひに顔を合せるだけでいゝのである。三年は短く、三年は永い。以上。(大正十五年)

 解説

                   我輩は猫である  夏目漱石
 (前略)所へ威勢よく玄關をあけて、山の芋の寄贈者多々良三平君が上つてくる。多々良(173)三平君はもと此家の書生であつたが今では法科大學を卒業してある會社の鑛山部に雇はれて居る。是も實業家の芽生で鈴木藤十郎君の後進生である。三平君は以前の關係から時々舊先生の草廬を訪問して日曜などには一日遊んで歸る位、此家族とは遠慮のない間柄である。
『奥さん。よか天氣で御座ります』と唐津訛りか何かで細君の前にずぼんの儘立て膝をつく。
『おや多々良さん』
『先生はどこぞ出なすつたか』
『いゝえ書齋に居ます』
『奥さん、先生のごと勉強しなさると毒ですばい。たまの日曜だもの、あなた』
『わたしに言つても駄目だから、あなたが先生にさうおつしやい』
『そればつてんが……』と言ひかけた三平君は座敷中を見廻して、『今日はお孃さんも見えんな』と半分細君に聞いて居るや否や、次の間からとん子とすん子が駈け出して來る。
『多々良さん、今日は御壽司を持つて來て?』
と姉のとん子は先日の約束を覺えて居て、三平君の顔を見るや否や催促する。多々良君は頭を掻きながら、
『よう覺えて居るなう、此次は屹度持つて來ます。今日は忘れた』と白状する。
『いやーだ』と姉が云ふと、(174)妹もすぐ眞似して『いやーだ』とつける。細君は漸く御機嫌が直つて少々笑顔になる。
『壽司は持つて來んが、山の芋は上げたらう、お孃さん喰べなさつたか』
『山の芋つてなあに?』と姉が聞くと、
妹が今度も眞似をして『山の芋つてなあに?』と三平君に尋ねる。
『まだ食ひなさらんか、早くお母きんに煮てお貰ひ、唐津の山の芋は東京のと違うてうまかあ』と三平君が國自慢をすると、細君は漸く氣が附いて、
『多々良さん、先達ては御親切に澤山有難う』
『どうです、喰べて見なすつたか。折れん樣に箱を誂へて堅くつめて來たから、長い儘でありましたらう』
『所が折角下すつた山の芋を昨夕泥棒に取られてしまつて』
『盗人が? 馬鹿な奴ですなあ、そげん山の芋の好きな男が居りますか?』と三平君大いに感心して居る。
『お母さま、昨夕泥棒がはいつたの?』と姉が尋ねる。
『えゝ』と細君は輕く答へる。
『泥棒がはいつて――さうして――泥棒がはいつて――どんな顔してはいつたの?』と今度は妹が聞く。この奇問には細君も何と答へてよいか分らんので、
『恐い顔して這いりました』と返事して多々良君の方を見る。
『恐い顔って多々良さん見た樣な顔なの』と姉が氣の毒さうにもなく、押し返して聞く。
(175)『何ですね。そんな失禮な事を』
『ハヽヽヽ私の顔そんなに恐いですか、困つたな』と頭を掻く。(後略)

 本文の作者夏目漱石に就いては諸君は大抵御存じの事であらうとおもふ。帝國大學卒業後、高等學校の教授、英國留学、大學教授となり、教授をやめて後は専ら小説の筆を執つてツイ十年程前物故された。此處に引いた一文は氏の文筆生活に入らるゝ極く初めのもので、これによつて一時に名を成したといつてもいゝ程當時の文壇を騷がしたものである。
『我輩は猫である、名前はまだない』といふ書き出しで始つてをるが如く、一疋の捨てられた猫が或る學校教師の臺所で辛うじて拾はれて一生を教師の家で暮す。その一生の間に見聞した事どもを猫自身が書き綴つた形で書いたものである。全集になつてゐるのを見ると菊判六百頁の大部のものとなつてをる。滑稽、諷刺が一文の骨子となつてをるが、さうした性質の文章にありがちの野卑惡辣なところが無い。すべてが上品で、而かも隅々まで行き屆いた細かな筆づかひである。これには物をこまかに見てこまかに寫すといふ主義の寫生文といふ當時行はれた文體の脈を引いた所も見えてをる。
 此處に引いたのはその中のほんの一部分だが、その學校数師の家に或夜泥棒がはひつて衣類全部のほかに丁度よそから貰つてあつた山の芋までも持ち出されてしまつた、その翌朝、二人とも着のみ着のまゝの主人公夫婦が盗難屆を出す事からいつもやつてゐるところの口論に移り、勝手にしろと主人公は自分の書齋に引上げてゆく。丁度そのあとがこの一節となる。
(176) 第一冗漫でない。一寸見ると書いてある事が事だけに冗漫の樣に見えるが、なか/\さうでない。緊める所はちやんと緊めてある。ほんの一口の言葉つきのうちにもそれを話してをる人の心持なり面影なりがはつきりと出てゐるのを感ずる。それに前にも云つた様にものが全て上品に寫されてある。明るく、樂しい氣持で讀み續けて行ける。
   そればつてんが(それはさうだが位ゐの意)うまかあ(うまくある、おいしいの意)そんげ(そんなにの意)――(昭和二年)

 病床漫吟
         ――昭和三年九月十四日作――
   つれづれや天井をはふ百足の子
   秋の夜やのそ/\と人の入りて來つ

     中央新聞記者時代

(179) 不忍池の大螢狩(【明治四十二年七月二十四日】)
        ――「螢狩雜觀」の中から――

▲鳥黏《とりもち》で螢を捕る 二三の子供が黏《とりもち》の棹を擔いで力んでる、可哀相に、東京の子は螢を知らない。
▲花に浮く舟 まだ明るいうち蓮をわけて舟を行《や》つて居る男がある、花は舟を繞り葉は花を繞る。雨來らむとして風のふくこと急に葉搖れ花皆勤く、平常舟を見ない所だけに眼を惹いた。
▲靜かな賑かさ 花火といひ祭禮といひ、夏の催しは何れも皆浮き立つたものと定つたやうなところへこの螢放しの遊びは全く空前のことで、思ひもつかぬ珍しい而も極めて上品な優美な面白さを數萬の人に與へた、水あり、花あり、その上にちら/\と舞ひ出でた露の如《やう》な青い螢火、若い婦人の中には涙ぐんでつゝましやかに手を拍つて居るのさへあつた。
▼皆美人だね 小父さんもあり御隱居樣も無論多かつたが、とりわけて多かつたのは少年少女の諸君で、その中でも物が物だけに少女諸君の派手な浴衣姿が最も多く眼につく、或人曰く、「螢を見る女は皆美人だね」。
▲私の若かつた時 孫娘に手を引かれた腰の曲つた一老嫗、あまりの雜踏に怖氣づいてズツと群集と外れた他端の草原に引込んで「螢は草原が好きだからやがて皆此處に飛んで來ますよ、お婆さんの若かつた時にはね、時々螢狩をしたもんだよ」とお婆さん何も彼も御承知といふ風で泰然(180)自若|焉《たり》。
▼笹を仆せ 天の續く限り地の續く限り、群集の波斷えまじと想はるゝ池畔にあつて、これまた不斷の叫聲が續く、曰く『笹を仆せ、網を下《おろ》!』なるほど後の方は前の群集の押し立てた笹と手網とで、星の如く亂れ飛ぶ螢をすら見ることが出來ないのだ。
▼急雨來、急雨來 雨と共に籠を開いた、風雨、而して螢、散亂また散亂、空の騷ぎは一通りでない、空の騷ぎにつれて地にもまた怒濤の如く群集が騷ぎ立てる、一匹の螢池より逃れて群集の上に飛んで來ると、數十の笹と網とは狂氣の如くそれに向つてパサ/\と亂打する、螢が群集の中に打落されると今度は群集の頭の上に笹や網が降る、イヤモウ阿鼻叫喚の極。
▲終《つひ》に水中の人『押すな、落ち込むぞ』『落ち込め、涼しいや』などと怒鳴つてゐた池畔の人々は一度螢の放たるるを見るや終に自ら籠を飛越して池の中へと入り込んで水上の螢を拾はんとする、モウ夢中だ。

 ○夏の都の湊口(【七月二十九日】)

      黄昏るゝ新橋停車場

 避暑に行く人、用あつて旅立つ人、此等の人々の此の炎暑の頃を停車場に集合せる有樣を見むものと先づ黄昏近く新橋へ赴く。
 入口前の廣場には人車や馬車の控へて居る間を忙し相に行き交ふ群集が皆落日のうす赤い光を(181)浴びて、如何にも暑さうに黙々として歩いて居る。軒下の石階《いしだん》には今俥で着いたばかりの學生が行李の始末を車夫に頼んで居る、茫然と人待顔に佇める二名の婦人がある、隅の壁際に五六人の赤帽が帽子を脱いで汗を拭きふき大聲に話して居る、風は少しも無い。三等待合室には室内一杯に西日が流込んで入るや否や目が眩み相だ、それでも人は隨分入つて居る、別に暑いと叱言《こごと》も云はず、せつせと手荷物を片附けたり、連れた子供の帶を結び直してやつたりして居る、隅の方の共同椅子《べんち》に三人連の紫の袴を着けた看護婦か女學生かゞ、何を面白がつてか切りに打興じて笑つて居る、手荷物の少い所を見れば一寸一泊の海邊行きとでも云ふのだらう。一人の白服の警官が入つて來た、そしてコラ/\を繰返す、見れば日を全身に浴びて汗だら/”\で顔色を赤黒くして椅子の上に三十四五歳の男が眠り轉《ころ》げて居る。暑いのに壓迫せられてだらう、動いて居る人々の割には室内は餘程|靜寂《ひつそり》して、柱時計の響きが耳に立つ、今六時二十分、四十分には國府津行の列車が出る筈。
 二等待合室も滿員だ、そして打揃つて白扇を使つて悠然と椅子に倚つて居る、衣《きぬ》からか髪からか尊《やごとな》き香が微約《ほのか》に其處らに漂ふて居る、三等室とは違つて亂れてもゐず見るからに涼し相だが、皆多少の汗を帶びて居る、この待合室の前の柱の下に十三四歳の少女が草花を賣つて居る、さゝやかな籠の中、花は紅く葉は緑に、今注いだぼかりの清水はその葉に花に白い雫を宿して居る、身材《たけ》高く衣白き一西洋婦人あり、あまたの花の中からマリゲリットを選り出して銀貨と代へた、余はその西洋婦人を慕《お》ふて共に婦人待合室に入る。此室《ここ》はまた馬鹿に暗い、冬なら兎に角とても永居の出来る室ではない、人も少く今余と共に入り來つた婦人は今求めた白い花の一枝をその友(182)らしい一人に分つた、他に姉妹《きやうだい》を連れた中年の未亡人らしき奥様の在るのみ。便所の手水鉢の水が生温い、是は是非冷いのに改めて貰ひたい、夏日《なつ》の停車場の生命はこの手水の冷いのにあると旅馴れた余は確信する。
 鈴《りん》切りに鳴る、群集は皆改札口に進み、既に車内に在るも多かつた、多くは浴衣がけの輕い姿である、結ひ立の水々しい髪の美しさは夏の日の斯んな雜沓裡にあつて特別に人の心を惹く、汽笛一聲、午後六時半神戸行一二等車は出發した、引續いて六時四十分國府津行七時十五分横須賀行。いつもと違つて見送りの人は極めて少い、あつても笑つて手巾《はんけち》を振るといふ側で、至極|淡白《あつさり》している、避暑か歸省かそれらの客の多いためである。(木醉生)

 ○真の都の湊口(【七月二十九日】)

         月冴ゆる靈岸島

 永代橋の袂で電車を降り河に沿ふて下る、此夜月甚だ明らかに風涼しく吹く。
 潮ゆたかに河に滿ち、夜泊の舟の灯、河岸《かし》の軒燈みな何れもあざやかに水上に映じて居る。夜泊の舟は山の手邊に住む我等に誠に珍らしく見受けらるゝ、三四艘位づつ連なつて岸に沿ふて碇を下し、船夫は大概家族連れで水上生活をやつて居るらしく、爺さんも居れば娘も居る、彼等は皆|舷《ふなばた》に出て涼き月光を浴びて居る、舟と舟とで半裸體の娘と男とが實に獰猛な夜話を高々とやつて居るのが水を渡つて聞えて居る。七輪に薪を焚いて物を煮て居る女房も見える、小波《さざなみ》ゆた/\(183)と舟から舟へ響き渡つて、打見る所河は海の如く廣く、何だか人に一種の旅心地を誘ふ。
 涼みがてらに一度行つて御覽なさいと讀者諸君にお勤めしたい、最も興味深く且つ簡單な探涼の一であらう。閑話休題、小橋を渡ること三四、余は靈岸島の房州行汽船發着所に到る。
 行つて見て驚いた、どうも大變な人で待合室に入り切れずに多く室外《そと》の月光線に佇んで居る、これが夏以外の時であるなら、廣くもない室内の隅々に三人五人を數ふるに過ぎない所であるのだ、面食つた記者は周章《うろた》へて先づ事務所に赴むき所長大谷氏に面會し、昨今の景況を訊く。目下の所客數の平均は日に三百五十を數ふべく八月に入らば更らに五百以上に及ぶが常にて、暑氣の爲めにや今年は例年よりやゝ多數なりと。客種は矢張り學生が多く、團隊の乘船も少からず、次ぎは官吏、而して上等客は割合に多からず、上陸地は概ね北條館山なれど其割に北條館山そのものは賑はず、其處を經て他へ散る樣子なり、途中勝山へ寄港するのみにて北條館山へ直航する直航船は朝六時と夜の十時の二囘出帆する由。
 事務所を辭し待合室に入つて見ると丁度切符賣出の時で百五六十の人が狹い室内に大混雜を演じて居る、成程中流以下の諸君ばかりで、房州人種の眞黒なのも散見して居る。此頃何處へ行つても見かけぬ事無き氷屋とロシヤパン屋の兩君は逃さずこの群集の中にも突貫を試みて居る、姫御前のあられもない二の腕あたりまで捲くし上げて汗を拭いてる海老茶氏あり、立寄つて耳傾くればオヤ/\まだ生々しい房州辯、いまお歸省《かへり》の所と見える。第一高等學校の徽章をつけた甚だ快活なる一青年と語る。
『何處へ』『房州へ』『北條ですか』『否、八幡です』『八幡は北條の一部でせう』『左樣ですか』(184)『お一人ですか』『行くのは一人ですが、向ふには澤山友人が行つてます、學校の寄宿舎があるものですから』『行つて何をなさるお意見《つもり》です』『遊びますよ、勉強する者はしませうし……』『水泳は』『盛んに行《や》りませう、教師も行つてます』『面白いことでもありましたら何卒御通信を願ひます』『承知しました、僕は文章が下手だから誰かに頼みませう』
 そのうちに小艇が出る、余も見送人のつもりになつて乘つて見た、船進んで河の中流に到れば月いよ/\空に冴え銀波|細《こまや》かに兩舷に亂れて水棹の雫が玉の樣に袖に散つて來る、このまゝ束京灣に浮び出でゝ月夜の富士を仰いだら、どんなにいゝだらうと同乘の諸君を羨しく思つた。本船に着くや人々先きを爭ふて甲板に登つた、準備全く成り、汽笛涼しく響いて波白く起り、汽船東海丸は徐々として海のかたへと進行を開始した、左樣ならわが月夜の船よ。(木醉生)

 ○震後の江山(一)(【八月十九日】)

          十七日 若山特派員發
 汽車の美濃高原に進み、車窓に近く伊吹の山を仰ぐに至れば思ひなしにや早や一種凄慘の氣の浮動せるを感ず、此日雲多くして日光甚だ薄く風微かに吹く、關ケ原停車場に達せし時、車窓直ちに停車場構内に數ケ所の假小屋を見る、二疊敷程に地に板を敷き上に疊を載せ屋根を蓆にて葺く、吊りしままの蚊帳ありて中に子供に添乳せし若き女の眠れるを見る、汽車を棄てて出札口を出づれば腕と脚とに繃帶せる若者あり、手に茶瓶を提げた人と語る、尚ほ進みて關ケ原の宿場に(185)入れば元來荒れ寂びれたる古驛の街道の礫ばかりの白々と日に晒されし上に兩側悉く假小屋を押し連ね人々多く其中に起臥せるなり、竈をも街路の上に持出し薪を焚きて物を煮る、火災を恐れて洋燈一つも屋内に點ずることを許されざるなり、假小屋の中には晝眠を貪る者多し、夜間眠らずして警戒に力むるためならむ、中には手習ひせる娘あり、物を縫ふ婦人あり、やゝ安堵せる態も見ゆれど見渡す所軒は候き屋根は剥がれ小路上に壁土の落下せし物多く行交ふ人の面に幾分の曇を帶びざる無く凄氣油然として吾人の胸裡を刺し來る。
 關ケ原村長加木屋氏の紹介にて栗田トワなる者の牛潰家屋を見る、一歩軒を潜れば名状しがたき古臭き匂ありて身を包む、天井落ちて居ながらに雲の去來を仰ぐべく井戸湯殿便所の如き所は一切押潰されて其何たるを分ちがたく奥座敷とも見るべき所に數個の瓦の碎片の落散りたるまゝに殘れるあり、主婦の面は蒼く兩眼痛々しく落ち凹みたり、伽藍堂なる屋敷中の柱は悉く斜めに曲り彎《ゆが》みたり。同じく全潰家屋の一なる三宅寅三の許を訪ふ、住宅は右同樣半潰にして倉庫は無殘にも根底より倒潰せるなり、今は漸く跡片附も終らむとする頃なれど米麥等の俵は尚ほ壁土瓦の下に影を見せ大なる柱は滅茶々々にねぢれ折れて横はりたり、家人に物を問ふも殆んど茫然として何等確たることを答へ得ず。當村の精査に由れば全潰家屋は二軒にして半潰は二十五軒、其他全村壁落ち屋根の破れたるなどの故障なきは一軒も無しといふ、國道の龜裂も少からずして短きは五六尺位より長きは七百間に及び幅は六七寸より三尺に及び深さは所により其際を知り難きものあり。
 激震當時は村の四方を圍める伊吹、多岐の諸山を初め萬山悉く黄白の土煙を以て包まれ鳴動遠(186)く延《ひ》き歩行叶はず見る/\うちに柱傾き屋根落ちて其状詳しく云ひ難しと諸人口を揃へていふ、怪しきは地一度び震ふや附近の溪谷一時に増水し、就中源を伊吹の山中に發したる藤古《ふぢこ》河の夥しく一時に赤黒く濁り果てたることにて震源地の伊吹山にあるや事實に近からむかと云會へり。
▲正午十二時十八分余が此處まで筆を進めし時殷々として音あり遠くより來りて家忽ちに搖ぐ、即ち激震後の微震の一なるなり、斯くの如きは晝夜何十囘なるを知らずといふ、編輯局の諸兄よ、余は更らに當地を發し伊吹の麓を廻《めぐ》り災害最も甚しき琵琶湖の北に向はざる可からず、天重く垂れ蝉聲野外に滿ち路上行人を見ず。

 〇震後の江山(二)(【八月二十日】)

          十七日 若山特派員發
▲湖上の愁雲 午下關ケ原を發せしわが列車は伊吹山の麓に添ふて走る、線路を修繕する工夫隨所に見ゆ、山は諸所に白く崩壞の痕を止めて宛ら雪の解けそめし頃の姿に似たり、米原驛にて乘換ふれば此度は車窓に近くE々たる水を見る、琵琶の湖なり、雲低く湖上に迷ひ風凪ぎて水面死せるが如くに薄氣味惡く靜かなり、遠く眼を放てどもまた一帆を見ず。
▲激震時の湖上 激震當時に湖上竹生島附近にて魚釣に從事せしといふ股野友次(廿四)を町外れなる水邊の茅屋に訪ひ其有樣を訊ねしに彼曰く、
 『丁度岩の上か何かに乘上げた時のやうに何とも知れず舟底をずどんと打ちましたよ、これと(187)同時に其所等中の遠くの方で雷でも鳴るやうな音を聞きました、それから氣味が惡くなつて急いで歸つて來ましたら御覽なさいよ自分の家が斯んな風になつて居ました』
 いかにも壁は見事に落ちて青蘆さや/\と室内に搖ぎ入り、座《ゐ》ながらにして水光雲影を仰ぐを得るなり。尚ほ一老人の談によれば先年の大地震はゆら/\と左右に震ひたれど今度のはぐらぐらつと旋風《つむじかぜ》のやうに忽然と搖り來り忽然として去れりと。
▲秋近き虎姫《とらごぜ》驛 午前四時過ぎ、天未だ全く明けざるに虎姫停車場へ着く、出でて村内を歩むに滿目何れか蕭條の景を呈せざるなし、見よ停車場先づ潰えて形骸を止めず、家といふ家大方は碎け去り、未だ碎けざるものも急《には》かに人の住むを許きず、人は皆|桑條榛樹《さうでうはんじゆ》の蔭に板を敷き蓆を張つて昨今の日夜を送る、秋既に近し、曉風夕雨いかに彼等の身に沁みむ。
▲自轉車の大恩 停車場を出でゝ行くこと少時、路傍に最《いと》も無殘に倒れたる一家屋あり、顔面蒼々たる一老爺其邊を彷徨せる有樣のいかにも痛々しげなれば御身の住家《すみか》にやと問ふに、否とよ此はわが母屋《おもや》野坂助右衛門の宅にて僅かに數年前わが世話の下に建てたるものなり、柱といふ柱は皆檜にて杉一つ混へざりしものを見給へ既に斯の通りなり、今我に一萬圓を與へて改築せよと云はるゝも如何でか舊《もと》の如きを爲《つく》り得むと尚ほ未練げに手近の棟木の倒れしものなどを撫でさする、怪我人は無かりしにやと問へば、幸にもそれはあらざりきそれに就きて珍しき事のあり丁度地震の起る數分前この家の子供が折柄通りかかりの自轉車のために打倒されて僅かの傷を負ひしより附近の人々が皆打集ひて家内に殘る者一人も無かりし所へ忽然として震ひ來り家は見る間に斯の通りになり果てしなり若し自轉車の事なくして家の中に居りしならば如何でかあの早さに逃れ出(188)づる事を得む一家悉く枕を並べて慘死を遂ぐべかりしにと、流石に漏す微笑の見るからなか/\に哀れなり。
▲廢村の廢寺 桑畑中の路を行く程に鐘の音近く聞こえ來るに逢ひぬ、面を擧げて四邊を見れば森の木の間に大寺の屋根少し見ゆ、夫を目當にして辿り行けばまこと田舍に似合はぬ大いなる伽藍あり、東本願寺の別院といふは即ちこれ。庫裡も御殿(接待所)も無殘/\と潰れて本堂のみ辛うじて殘りたれど金色の壁は曲り一切の裝飾悉く脱落し郡役所役場等の帳面類を其處等中に積立てたれば其亂雜甚しく僅かに奥の方に空所を置き灯をかゝげて一老僧の一心に經を讀めるあり、曉風白く燈影に流れ松籟幽かに鉦音に和す、記憶せよ激震當白此寺の庫裡下に敷かれて再び歸らずなりし増田孫兵衛(【四十一】)のあることを。寺の門前には大きく天幕を張りて救護所を設けられ、白衣の看護婦數名立働けり、醫員の談によれば負傷者の經過は甚だ良好なりとぞ。

 〇「新片町より」を讀む(【十月十二日】)

 編輯局の塵垢《ほこり》の中に窓から照《さ》し込む朝夕の日光がいかにも秋らしく黄《きいろ》く澄んで椅子の座《すわり》心地も何となく落着いて來た、余は忽忙の裡に島崎藤村氏の『新片町より』を讀んで近頃にない靜かな心に立歸るを得た。『新片町より』は藤村氏の雜録集である、『破戒』や『春』や其他の短篇等を藤村氏の表玄關であるとしたならば、是は裏口であり勝手元である、帽子も被らずこと/\と裏口の戸を叩いて木犀か何かの匂つて居る裏庭に通つて縁側に腰かけてて主人藤村氏と四方山の話で(189)もして居る樣な氣持がこの一册を讀む時に胸一杯に滿ちて居る、打解けた氏の眞面目を充分に味ひ得ると思ふ。
 氏の人生觀藝術觀をも窺ふ事が出來、我等若い者に取つては大きな利益を得る事が少くない、中には純然たる詩――散文詩となつて居るものもある、物に騷がぬ同氏、沈黙せる同氏は案外にも話上手である、至つて下らぬげに見受けらるゝ問題も一度氏の話題に上つては何時知らず深遠な事實となつて我等の前に表はれて來る、又氏の話しぶりは如何なるいたづら者をも靜かに傾聽させずにはおかぬといふ風の魔力を持つて居る。
 この次ぎにはこの『新片町より』と同型の田山花袋氏著『インキ壺』が出るといふ、我等は寧ろ創作以上の期待を以て是等の雜録集を迎へむと欲する。(木醉生)

 九月の短歌(【九月八日】)

        (上)       牧水生

▲九月初めの諸新聞紙の廣告は各雜誌に一種清新な活氣の動き初めた事をいち早く報道した、短歌界にもその活氣の幾分を分つて居る樣に見受けらるゝ、少し勢ひがよくなつたかと思ふと直ぐまた衰へる、由來歌壇の盛衰ほど覺束ないものはないが何うか今年はこの秋だけなりと景氣よく續いて行つて貰ひたいものだ。
▲「新潮」に金子薫園氏の『わが八月』二十六首がある、從來の型から逃がれ――一種氣取つた(190)所謂詩人風の物の觀かたを止めて、泰然として天地に對して歌ひ出すと云つた風の詠みぶりに甚しく落つきが見え肉が着いて來た、歌が浮いてゐない、大きくなつた、内省的沈思的の重みを帶びて來た、就中自然を歌つたものに佳作が多い。
  繊き月ひかりを帶びて來るほど多摩川べりの黄昏に立つ
  遠き空しろ/”\つゞきしののめの雲のいづこにか秋は動けり
  杜鵑山の火燃ゆる邊《へ》を去らずこの高原はものゝ音もなし
  初秋の風冷やかに吹くなべに身内の疲勞《つかれ》いちじるきかな
等を一例として引いて置く。
▲「昴《スバル》」に北原白秋氏の『哀調』がある、同氏の長詩に似ず夥しく優しいものだ、『わが八月』を讀んでこの『哀調』に移ると野原から離れて繪畫展覽會場か活動寫眞かに入込んだ時の心地がする、色彩の配合、官能のはたらき等を歌ふべく實に精緻巧妙を極めて居る、然し不幸にして余の生命と是等の歌とは殆ど何等の交渉を有つてゐない、趣味を趣味として味ふと云ふ風の――換言すれば趣味を骨董品の樣にして玩ぶといふ樣な詠みぶりは余に一種の腹立しさを齎すに過ぎない、その如何に美しく如何に配合の妙なるかを紹介せむために茲に其三四を引けば、
  白鳥《しらとり》の黄なる流に泳ぎ入るかろき身ぶりをけふも眺むる
  夕されて棕櫚の花ぶさ黄に光る醫院の裏に座《すわ》る琴弾者《ことひき》
  雜種兒《あひのこ》のわかき女の手にもてる勿忘草《なわすれぐさ》のそらいろの花
  眞白なる石鹸《しやぼん》の泡に沁み來る萎びし花の苦《くるし》みかなし

(191) 〇九月の短歌(【九月十一日】)

        (下)       牧水生

▲『帝國文學』に晶子女史の『かりそめごと』が出て居る。熱烈なりし最初の主觀的なる咏みぶりは『みだれ髪』に表はれ、暫《やが》て甚だ單純なる客觀詩『舞姫』『常夏』時代となり更に轉じて力弱き主觀詩時代に入られてよりそれらの咏みぶりに飽足らなかつた余は久しく女史の作を見なかつた、そして今この『かりそめごと』を見るに及んで誠に云ひ知れぬ嬉しさを感ぜざるを得なかつた。
 この中の歌は殆ど主觀の客觀のといふ五月蠅い事を超越して唯だ渾然たる抒情詩として押しも押されもせぬ立派なものとなつて居る。歌の上に表れた靜かに自己を客觀して泣きもせず笑ひもせぬ亂れぬ態度が讀者に深い/\感じを起さずには置かない、社會から女史の黄金時代の樣に認められて居た『舞姫』『常夏』の頃の歌は唯だ女史の才氣の煥發せるを證據立てるに有力にして詩歌としての價値は却て『みだれ髪』時代の方が優れてゐるのではあるまいか(聊か云過ぎて居るけれど)と余は常に思つてゐた、余は常に藝術としての藝術を輕んずる、我等が内的生命に何等の交渉を有たず唯だ自己の才氣から趣味から或は時の流行から製造し上げた作物に一體何の根柢があるだらうと常に思つて居る。これらの立場から暫く女史の作物に眩惑せられてゐた余は漸く少なからぬ不滿足を感じ始め失禮をも顧みず幾度びか女史の作に對する不平を漏らしたものであ(192)る、夫等の事からであらう女史は人に向つて『若山さんは何でそんなに私が憎いんでせう』とか云つた事がある相だ、女心の驕慢と狹量とは歴々と其短い言葉に滿溢《あふ》れて居る、が、要するに余はこの『かりそめごと』に出た樣な歌を見せて頂きさへすれば充分なのだ、右の言葉に射する御返事として一言是を申上げておく。『かりそめごと』より四首を拔く。
  しみ/”\と口なぐさめをなす人もなさるゝ人もあはれなるころ
  このなげき三十路にあまる二とせのその春のころ未だ知らざりき
  さてもなほすて給はじとたのむこと古きならひになりてけるかな
  一人死に一人はとつぎその昔あらそひし人少くなりぬ

 ○靈柩を迎ふ(【十一月二日】)
       落葉雨の如き加納山
         一日 若山特派員(横須賀發)

 藤公の遺骸海を渡つて今日横須賀の埠頭に着くと云ふ、東京より出迎への人々並びに横須賀市民は云ふも更なり附近の住民悉く心を一にして之を待ち受け此日肅然の氣は夙く一帶の沿岸山野に溢れてゐた、市街の上なる加納山は附近の海上一面を瞰下し得る好地位にあるので年前八時頃からどや/\と押來る者引きも切らず瞬たく間に其所等に人の山を築いて了つた、日極めて清和碧りに凪いだ遙かの海上に夫らしい煤煙を認めたときには皆云合せた樣に黙然と瞑目叩頭し何れも(193)暗涙に咽んででゐた。
▽愈々秋津|洲《しま》の碇を下すや風の無い靜かな海や山に『哀の極』の哀譜が鳴り渡り港内數隻の軍艦の欄干にピツたりと水兵が立並んだ時、群衆は再び泣いた。
∇水兵に舁かれた靈柩が愈々停車場の列車内に運ばれ徐々に運轉を始めた時、其場にゐた紅衣黒袴の軍樂隊先づ「哀の極」を奏し打續いて海上數隻の軍艦ども肅然として同じ譜を吹奏し其哀韻悲調の山に海に流れ渡つた時、我等は三度び泣いた。
▽野に稻穗垂れ山に黄葉明かなる時、而かも斯くまで天晴な風凪いだ日に日本乎和の權化とも云ふべき藤公の遺骸を迎ふるは甚だ因縁多きを感じた、それにしてもツイ先日同じ東海道を揚々として西下した公が思ひもかけぬ姿となつて東へ歸つて行くのを見ては衷心より哀悼の情に堪へない。
▽各地方の有志、學校の生徒は云はずもがな田畑の農夫工場の職工連まで列車通行の時間を計つて線路に立並び謹んで合掌しつつ送迎して居る有樣、公の永眠は眞實の意味に於ける國家的の死であつた。
▽上陸の有樣、沿道の此模樣などを見てゐた或人が私語いて、公の生涯は實に光明、派手の結晶であつた、あの平和主義の人が暗殺せらるゝと云ふは如何にも矛盾の樣で悲慘に聞ゆるがまた一面から見れば士として實に立派な派手な最後である、逝いて故國に歸るや國を擧げて斯くの如く迎へらるゝでないかと云つてゐた、如何にもその通りで光明の裏派手の奥には却つて深い悲哀強い寂寥が潜んで居るものである、枢車の新橋停車場に着するや日本國の最高級に位する數多偉傑(194)の士が皆殆ど身分をも忘れて落涙してゐるのを見て特に然う感じた、彼等の涙は匹夫下郎の涙より更に杳かに高價なものであらう。
▽柩車が兵士に別かれて新橋を發する頃のあの附近の人出は實に夥しいもので、曾て日露戰役の當時諸將軍の凱旋を迎ふるのと殆ど同樣であつた、勝ち誇つた將軍の凱旋、暗殺せられた宰相が遺骸の歸郷、何たる悲慘な對照であらう、一國の大政治家が異郷に於て暗殺せられ屍となつて首都に歸る、記憶せよ日本歴史は昨日に於て一大記事を掲ぐべき新事實を作つたのである。

 ○秋は寢《いね》たり偉人の墓畔(【十一月二十七日】)
      △墳塋《おくつき》尚ほ浜に濕り
      △詣づる故に置く露繁し

 十一月廿六日、今日は宇内の偉人我が伊藤博文公の命日に當る、早いものだ既う彼の哈爾賓の變を聞いてより早や一月は過ぎ去つた、偉人の精靈天に歸つて我が日本全國は一種火の消えた樣な寂莫に包まれ上下いまだ愁傷の眉を開かぬ、秋意漸く老い樹葉草莖また將さに地に萎せむとし公の墓畔土いまだ乾かざるに早くも故公を憶ふ天下の事變は相次いで起り來らむとしつつある、往事を憶ひ未來を案じつゝ大井村なる故公の墓に詣づ。
 大井村一帶の高原に秋は空しく逝かむとしつゝある、青物横町に電車を棄て墓地に通ぜる一條の里道を歩む、霜葉大方は地に落ち諸所矗々として樺の大木が赤裸々の姿で中天を摩して居る、(195)路には轍の痕が滋く路傍には急作りの茶店が澤山出來た、何れもお墓に詣づる諸人の多きを示して居る、左手に恩賜館の寂しげな屋根を仰いでより三四町にして墓地に達した。途中色々な人に出逢つた、何れも土地の人らしくなく皆墓よりの歸りと覺しく中には四五人連の藝妓などもゐて手に楢の黄葉した小さな枝を持つてゐた、墓地の門前に小さな家が出來て花や榊を賣つて居る、門を這入つて左手の長屋には國葬當時の花輪が美しく並べてある、其背後には小さな板に英國皇帝、獨逸皇帝其他世界の各帝王を初め寄贈者なる諸名士の名が書き聯ねられ中には彼の遭難當時露國大藏大臣コーコツオロフの捧げたものも見ゆる、正面の一段小高き所に「樞密院議長從一位伊藤公の墓」と記された木標が立ち大きな墳塋《おくつき》が寂然として無數の榊の中に見えて居る、其等の榊は畏多くも我が天皇陛下、皇后陛下を初め東宮、同妃殿下及小松、有栖川其他各宮殿下より賜はつたものである、恭しく墓前に額づき瞑目して公の冥福を祈り奉る。
 氣がつけばお墓の前には白木の賽錢箱が備へてある、逝かれた事さへまだ事實とは信じ得られぬやうな今日にあつて公は早くも斯う神さま扱ひにせられて居るのだと思ふと今更乍ら一種の感が湧く、暫く佇んで居ると引次ぎ/\に參詣の人が斷えぬ、フロックの人あり武官あり印半纏あり丸帶あり銀杏返あり、彼等の供へた花は墳塋の下小さな扉の邊に堆かい、先刻の藝妓連中が供へたものか新橋新津の國やうさ子玉福松屋すゞをなど、小さな名札をつけてあるのも見ゆる。
 歸路、茶店に休んで眞赤な柿を喰べながら内儀の語るを聞けば『お葬式の日から毎日々々雨が降つても何でもお參りの馬車などの來ない日はありません、可笑しなものでツイこの前恩賜館に住つてお居での時分には矢張りお偉いながらに私共と同じな人間の樣に思つてゐましたがあゝお(196)なりになりますと既うすつかり神さまだと思ひ込まれましてネ……やがてお社でも出來ましたら嘸ぞこの村などもお蔭を蒙むることが多う御ざいませう、アレ御覽なさいまたお馬車が通ります』なるほど夫婦相乘のうしろ姿が徐ろに墓地の方に走つて居る、午前中には渡邊昇子、有馬頼寧子、安樂兼柔道、杉田定一氏などが詣つて居た。(木醉生)

   主宰誌編輯便

(199) ◇明治四十四年

 机邊より

  二月號(『創作』【第二卷第二號】)
 久しぶりで、また直接諸君と相見るやうになつたことを喜ぶ。丁度本誌の創刊を企てたのが昨年の今頃であつたことなども思ひ合はされて、一層この感が深い。過去一年間、諸君と我等との間に交はされた友誼を顧みることに於ても一種の云ひ難い感じが湧いて來る。更に可懷しく、意味多き未來を持ち度いものであると、つく/”\然う思ふ。小生自身からいふと昨年は終始まごつき通しにまごついてゐて、落着いて仕事を爲ることも出來なかつた。何かしら事を爲さぬ時間は、思ひ出しても苦痛なものである。延いて諸君に對しても患ふ所を專らにしなかつた憾みが甚だ深い。出來るだけこれからその償ひをしたいものだと思つてゐる。
『机邊より』は小生及び小生を中心にして諸君に縁故深しと思はるゝ消息を傳へむとするものである。本號以下毎號續けて行かうと思ふ。

 旅から歸つて更にまた旅立たうとしてゐる際に突然本誌編輯に與ることになつたのであつた。先づ編輯室兼僕の居所を決めねばならぬといふので隨分諸所を探し歩いた。大川端を中心として京橋日本橋附近、また赤坂麻布附近、麹町附近と脚を棒にして見廻つたがどうも思はしいのがない。そして不圖した縁故からこの家のこの部屋を借りることになつた。移つて來て見れば案外にも此家の主人の甥に當る人で叔父の事業を助けてゐるM・K君が夙うから本誌の愛讀者であつたとかで色々の便宜を得ることが出來たのは誠に幸福であつた。引越したのが十七日午前。
 部屋は神田川の濠に沿うて、濠から見れば三階になつて居る八疊の一室、濠を距てゝ正面に砲兵工廠の煤ばんだ大きな建物が並び立つて居り、數本の巨大な煙突と、それに伴ふ煤烟と、工廠内に在るときく後樂園の常盤樹の林とが硝子障子を透して居ながらに眺めらるゝ、窓の下の濠をば斷えず數多の舟が往來して、汐(200)のさしひきにつれていたいけな鴎が時々まつて來る。河口からは大分距てたこの市街の奥へ入込んで來る小さな海の鳥は早や既に僕のために二つなき親友となつて居る。油ぎつて濁つた古濠と空に群る煤姻とのなかにどこからか浮んで來るあの白い翼と紅い嘴、そして古い鈴を振るやうな稀な啼聲、それがすれ/\に獨座の傍の硝子障子をかすめて飛んでゆくのである。濠の向ふ側をば外濠線の電車が走つて居るし、表の印刷工場では機械の音が斷えないのであるが、それらの喧騷とは全く縁の無いやうな閑寂をこの一室は保つて居る。よく大きな急流の傍に忘られたやうに小さな入江があるものであるが、一寸さう云つた姿である。唯だ眞正面に吹きつくる川風に對しては今のところ何等妥協の法が無い。

 十七日午後、緑葉小徑の兩君來訪、室に入るなり其處らを見廻して坐りもやらずに、恐しく好い所を見附けたものだと喜んで呉れた。同日夜、新しい洋燈の下で此三四日間諸所携へ廻つてゐた創作詠草の大きな包みを解いて選に懸つた。今度は新年號締切に遲れたのが大分殘つてゐて平常よりか量が多かつた。いつも云ふことだけれど、見てゆくうちに秀れた作を發見すると自身に佳いのを咏んだよりも心嬉しい。いつであつたか數日前の晩、青山附近に宿を探しに行つたついでに長詩の投書原稿を持つて北原白秋君宅に寄つた。そして長火鉢を圍みながら同君はそれ、僕は短歌の包みを解いて早速一わたり調べて見た。その時白秋君も僕と同じやうなことを云つて、斯んなのを見出すと實に嬉しいと云つて示されたのが山内春迷君のものと邦枝完二君のものとであつた。實に斯ういふ時には選者も幸福を感ずるのである。ついでに報告しておくが、その時白秋君は『創作』の原稿が一番眞面目で油が乘つてゐるから見てゐて心地がいゝと元氣よく喜んで、そして斯んなに一度に一人で澤山よこされても困るとこぼされたのがたしか水上おぼろ君のものであつたと記憶する。斯ういふことは選者に對して禮を缺ぐことに當るかも知れぬ。
 十八日夜、福永挽歌君來訪、同じく今度の雜誌の改革を喜んで、我等の間で純潔な詩歌の雜誌を持つてゐるといふことは……といふのから始つて力強い散文詩(201)の議論が出た。話のついでに、別に募集したといふでもないけれど散文詩の投稿が澤山來てゐるが、ひとつ君に眼を通して貰へまいか、若し佳かつたら苦しい頁だけれどそのために幾分を割きたいから、と云ふと、では僕が見て見よう、と承諾して呉れた。そして二三日して同君から送り返して來たのが本號掲載の茅野君外二君のものである。何を云つても散文詩はまだ試作中のものに屬するので角立つて募集するといふことをば餘り好まないけれど、若し有志の人があつたならば投稿規定に從つて寄稿して貰ひ度い。右と同樣の方法に由つて出來るだけ掲載して世に問はうと思ふ。尚ほ散文詩に對する挽歌君の感想を本號に掲げる筈であつたが間に合はなかつた。來號には出る。散文詩に對して世間はさま/”\な誤解を持つてゐるといふ同君の説には僕も賛成である。作り易いから作るのだらうなどとは以ての外のことである。
 作り易い、といふ言葉は僕には常に不愉快な聯想が伴ふ。それは近來あまりに作り易げに短歌が作らるゝからである。何でも彼でも不用意に歌にして仕舞ふので詩歌も雜文も見分けがつかなくなつたほどではないか。石川君や土岐君の咏みぶりを眞似る人の出て來たのなども屹度作り易いものと早飲込してから始めたことだらうと、二三日前夕暮君と逢つた時に話して笑つたのであつた。この模倣家諸氏の模倣をして作らうなら、眼の前にあるだけの物品を題材にしても十首や廿首はわけなく出來ると思ふ。斯う書きながら一つやつて見ようか。
  いや/\とおもひながらにいつしかに無くなつて居りビスケツトの袋
  あとで食ふものと思ふらむ干からびし餅菓子の皿をまだ下げぬ下女
  大概で買ひ代へようと思ひゐし古ペン軸が五年あまりかな
  こなひだのは佳かりしものを今日買ひしインクの惡さやすい故ならむ
  妻があらば斯んなことだけは無かるらむ四日洗はぬ牛乳の鍋
 くだらないから止さう。詩歌に限らず、すべてものを餘り安つぼく見て居る人々の不幸はとにかく、これを傍から見てゐる我等の不快さは何とも形容のしがた(202)いものである。
 今號の編輯は實に惶しいうちに濟まさねばならなかつたので、思ふ通りにやつて見ることが出來なかつた。來號からは緑葉君と手分をして働くことになつてゐるので聊か異色あるものを作り得るかと思ふ。本號に廣告する筈で間に合はなかつたが、四月には一大短歌號を出す豫定である。(一月廿四日)
    三月號(【第二卷第三號】)
∇大分春らしくなつた。天氣の續くのが何より嬉しい。
 四月には是非『創作』の大會を擧げる。十二月に開いた小集は少々陰氣だつたとか聞いたが四月のは大にに陽氣にやりたい。場所は多分山王臺の通りになるかと思ふ。時日は恐らく四月上旬、櫻の漸く咲きそむる頃、會費は先づ一圓内外、お晝過ぎから夜にかけてゆつくりと面白く遊び度い。其頃は月もある。仔細は四月號に發表するが、お誘ひ合せの上、盛んなる來會を今から希望しておく。餘興などで面白い思ひ附きがあつたならば申込んで欲しい。四斗樽の一つも寄贈して貰へれば尚ほ甚だ歡迎する。
▽四月には豫定の如く特別號を發行する。實はこの三月一日が本誌の誕生日であるのだがそれを一月繰延ばして、右の大會と共に聊か紀念祝賀の志を表したいと念ふのだ。内容の編輯豫定も略ぼ定つてゐるが、出てからでなくては大きなことは云へぬ。滿更ら拙いものも拵へまいと思つてゐる。投稿〆切を特に總て五日間だけ遲らし、歌は歌數を三十首限りに増す。この横會を利用して本誌の新たに世に推薦すべき秀才の現れむことを深く祈つて居る。
▽眞實我等は本誌から特に推薦するやうな作家の一日も早く出て欲しいことを常に希望してゐるのであるが、一向まだ出ない。一部の人々はみなうまいにはうまいが、何れも一定の水平線に於てうまいのでそれを拔いた人とてはない、謂はゞ高等何とかの背くらべと云つた形である。それがまだ慊らない。
▽私などが本誌のうちで、度々繰返して見て飽かないのは唯だ應募歌の一部あるのみである。一首々々引拔いて讀んで見ればみな中々立派なもので、既に老手と許すべきものが甚だ多い。けれども、それを幾人か並べて、サテずうつと見渡すと、何れあやめと引きぞわ(203)づらふ悲哀を覺えざるを得ないのだ。
∇みながあまり器用過ぎるからではあるまいか、と私にその理由を疑つた人がある。成程一理あるかも知れぬ。器用はえて早熟し易く、模倣に走り易い。從つて、同じ型にみんなが集つて來て同じ所に止つて居るといふ結果を生むのかも知れぬ。
▽斯ういふ種類の器用は、一面その人に眞摯の氣の缺げてゐることを語つてゐると思ふ。衒氣、匠氣、獨りよがり、などもこの器用から陷り易い厄病といふより墳墓である。
▽眞摯な歌はたとへ上手ならずとも、強みがある、永久牲を有つて居る。
∇歌はまことなり、と様に云ひ傳へてゐた昔の言葉には無限の味がある。昔と云つても、まことといふのが漸次墮落して一時は道義上の意味に解せられてゐた時もあつたらしいがもとの心は確かにさうでは無かつたらう。眞は新なりといふ言葉もまた動かし難い。まつたく眞そのものは時間をすら超越して居る。歌ふところは眞なるべく、歌ふ態度は眞摯なるべし、私は常にこれを思ふ。
▽投稿歌中で最も眼につくのは、例のたゞごと歌といふのである。私は新たに是等に對して、さうですか歌と名をつけた。所以は、その歌を讀んでも唯だ、さうですかと返事をすればそれで充分であり、またそれ以外に返事のしやうがないからである。手近にある没書歌中から二三の例を引いて見やう。
  この頃は只意義もなくたゞ起きて事務をつとめて夜は只寝ぬ
  一人寢のねざめさびしきその夜の夢などしのぶあたゝかき床
  長しへに子供でゐたく思ふ子に親はかなしく妻をすゝむる
など、何れかさうですかならざらむ。そして没書の八割は斯の種類が占めて居る。是等は作者自身にその歌つて居る境地に對して殆んど何等感觸することなくして、平氣の平左で三十一文字にして仕舞ふが故に起る弊だと思ふ。斯ういふのが例の報告歌、筋書き歌である。若し作者にして意義もなく起きて働きて寢て暮す其昨今の境遇に對して本當に何とか感ずる所があつた(204)のならば今少し何とか歌へたらうと思ふ。歌にする前に先づ自ら深く感じ、味ひ、觀照して後、初めて三十一文字に表すべきである。自ら感ずることなくして他に強ひやうとは無理な相談である。
∇自ら深く感じて、そして他がそれだけ感じて呉れないのは、それは技巧が足りないからである。自分の心そのまゝの調子が歌の上に表れたならば手材の如何は問はず必ずその歌は生きてゐねばならぬ。
∇技巧の不足な歌は添刪すれば生きるが、さうですか歌は一寸手がつけられぬ、改めれば初めから全然作り更へねばらぬ。私のやつてゐる通信教授の方にも一番多くこれが來るが甚だ骨が折れる。一々批評と注意とが書き切れないから茲に是を書いておく。
▽尚ほ通信教授の方の詠草を直ちに『創作』の詠草としやうとする人は手數でも同じものを二通り書いて送つて貰ひ度い。またこちらから添刪して返したものを清書して本誌詠草として送る人であつたらば返送の際○符を附けたものだけ選んで送り給へ。(昨年私の旅行前に受取つたものを信州まで持つて行つて其處からも尚ほ返し殘したものがあつたとも思ふ。誠に相濟まぬ。さういふ人は其の時のゝ代りに新しく歌を送つて呉給へ。古いのを信州から取寄せてお返しするよりか可いだらうと思ふ)

∇本誌の投稿歌は益々増加して來る。特に本號は頁數の勘定が狂つて詠草の各欄とも何れも二三頁から五六頁づゝを次號廻しにせねばならぬことになつた。次號(特別號)には一切を掲げ盡す樣に既に豫算を立てゝ居るので今度新たに送らるゝ詠草と合せて殘りなく掲載する。
∇石川啄木君は腹膜炎とかいふ病氣に罹つて入院中である。從つて同君と哀果君との共同經營になる『樹木と果實』の發刊も一月だけ延期することになつた。それと共に投稿〆切も三月十日まで延ばされた相だ。前號の『机邊より』の中で書いた事を哀果君は直ちに自身の歌に就いて云はれたと勘違ひして何日ぞやの讀賣新聞で妙な皮肉めいた事を書いてゐたが、要するに下らんことで改めて返事するにも當るまいと思つたから黙つておく。
∇四月一日から前田夕暮君の白日社から月刊詩歌雜誌(205)が出る、名は『詩歌』。内容其他の事は本誌に廣告が出る筈だから就いて見られたい。
▽三津木春影氏の小品文集「曇日」が神田の有隣閣から出版せられる。
∇先日熊本市で九州歌人大會が開かれて鹿兒島の暮山天涙の兩君は相携へて若松に嵐翠君を訪ひ共に出席した相だ。
    四月號(【第二卷第四號】)
▽『矢車』といふ川柳の雜誌が下谷から出てゐる。川柳のことは少しも知らないが、これは極く新しい心を持つた人達の間で出來てゐる雜誌かと思はるる。中々面白い句がある。二三を擧げて見れば、
  偶とわれを忘れて唄ふ喇叭節(五葉)
  欠伸してさとる淋しい自己の影(同)
  烟草ばかりすつて友達歸りけり(同)
  よし町を流るる三味のなつかしさ(眉愁)
  ペン止めて淋し安治河口の笛(水府)
  物足らぬ日曜なりしかな灯を點す(同)
  君はまた僕の嫌いなゴム雪駄(青明)
  何時の日の二時か止りし儘の時計(同)
  我が儘を云ひつのりたる後の火鉢(同)
 など、尚ほ他にも多い。
▽此等を讀みながら偶と考へた、土岐君の歌の狙ひ所はこれと同じぢあないかと。讀んで殘つた感じは實によく似てゐる。そして却つて斯ういふ形式で行つた方が三十一文字ののろ/\した形より遙かに中の材料に適當して居り、遙かに藝術品の匂ひがしはせぬかと僕は思つた。斷つておくが斯ういふねらひ所を輕視したりなどして斯ういふのでは夢更らない。現に僕自身も昔から斯ういふ所によく手を出して居る。また哀果勞働者君から答ふるのにもきまりの惡い位ゐ氣障な皮肉(?)を云はれるのが恐いから御丁寧に斷つておく。(二月二十七日夜)
▽まだ暗いうちに一寸眼がさめたらしきりに雨の降つてる樣子であつた。ぐつすりまた寢込んで、今度起きた時には日が窓にさしてゐた。−寸急ぐ用事があつて神田橋まで出懸けたがどうにも電車に乘るのが惜しくて柔い日光に照らされながらずつと河岸通りのぬかるみを歩いて行つた。潮のさした河岸には荷揚人夫が元氣よく働いてゐた。歸りにも電車をよして神田の賑や(206)かな通りを選つて歩いて來た。そしてどうしたものか急に麥酒の味を患ひ出して心持や告のさきが變になつたので、ふら/\と見知らぬレストラントへ登つた。二階で註文を待つてゐると、うるんだ日光をどよめかして午砲が鳴つた。斯う汗ばんだ身體に浸みてゆく冷たい酒の匂はまた何とも云ひがたい。此頃は牛乳だけで朝飯を廢してゐるのでお晝に飲むのが別してうまい。一二杯飲んでるとひどく醉つた。ふら/\しながら歸つた。今日は緑葉が來る筈なので外出したいのを我慢して待つてゐるけれど一向來ない。窓をあけて濠を行く舟を見てゐるうちに眠くなつたので毛布をかぶりながら睡てしまつた。眠がさめて大いに緑葉を憤慨しながら獨で湯に行つた。湯屋には駒鳥か何か澤山飼つてあつて、透る聲で啼いて居る。湯屋から歸つてぼんやりしてゐる所へ富田君が來た。夕飯後一緒に本郷の平賀君を訪ふた。誰からも彼からも雜誌はまだか/\と催促せられる。實際發行日に遲らすのはつらいものである。今度からはと改めて決心はしたものの危いものだ。
 雜誌の話から歌の話に遷つて、一言二言いふうちに自分は獨りで曜鬼になつた。どうしても其日生れて其日初めて歌を詠むやうな心持を毎日持續して行かなくては駄目だ。自分の過去未來に右顧左眄してゐたり、他人及世間との交渉にばかり腐心してゐて、どうして思ふやうな歌が咏めるものか。斯の意味に於て僕は情實とか地位とかいふものを實に淺間敷くなさけなく思ふ。いやだ/\、一首として自分が滿足するやうな歌も咏めないでゐる現在が、死にかけた蛇のやうに、不快に苦痛に思はるる。一首咏んだら、それでその場の自分の生命は全然破壞してしまつたものと感ずる程骨身に響くものが欲しい。それでなくて、何のために歌を咏む、自分はわけが解らなくなつて來る。
 斯ういうことを氣色ばんで話しかけたが、兩人がぼんやりした顔をして聞いてゐるので、またつまらなくなり、何處か寄席へでも行かうと誘ひ立てた。そして三人して若竹に入る。戸外の夜の空氣は極めて濃かで、暖かであつた。空の低い所で星がひとつ二つ青く光つてる。身體の何處かは圓右やむらくの上手な話に面白がらされてゐるのだが、何だか自分と一向交渉のないやうな氣がして少しも身にしまぬ。平賀君と別れて富(207)川君と二人、水道橋まで歩いた。濠端の櫻には何だかもう花でも咲いてるやうな氣持がせらるる。先刻聞いた橘之助の三味の移り香に誘はれて大きな聲で歌でもぅたつて見たい心地なので試にうたひ出して見ると、それはもう自分の聲ではない。どうして斯う自分といふものが一つにまとまつてゐて呉れないのだらう。(三月一日)

∇私がいつぞや作歌の上に技巧の必要なことを述べたあとで、諸所でちよい/\と賛成の旨の言葉を見受けた。その中に、何だかいやな氣持のする言葉も混つてゐた。
 何も私は、技巧は必要ですよと初めから名乘をあげて技巧を使ひ、技巧論を唱へるわけではない。唯だ、どうしたら自分の思ふ通りを、自分そのままを、間違ひなく遺憾なく云ひ表はし得やうかと、能ふだけの努力を其ために拂つて居ると云ふだけの事でそれが即ち技巧だらうとは、實は第三者に由つて傳へらるべき性質のものであるのだ。あの場合、あゝはいつて見たものの(不必要だなどといふ説に對していふ上から)本當はどんなものを技巧といふのだか知らないのだ。また作家當人には強ち知る必要はあるまいかと思ふ。技巧に限ります、と云ふわけでなかつたことを一寸書足しておく。

∇殆ど外国語の一語をすら知らないので、彼我の比較は出来ないが、私はわが日本語にも亦た棄て難いいのちのあることを信じて疑はない。斯ういふ所が斯うだとの説明をば御免蒙るが、この海洋に浮く島の上に何千年來生息して來た日本人種に、よし幾多の缺點はあらうとも、亦た棄てがたく好い所のあると同樣に、此人種に今日まで用ゐられて來た日本語に私は少からぬ愛情と感謝とを持つて居る。出來るなら私は私の歌にこの日本語の好い所を極度まで結晶させて見度い。使ひやうによつては(即ち技巧の程度によつては)この言語それ自身が、我等人間同樣の感觸を帶びるに相違ないと信ずる。何となくすたれ氣味になつて來た我が日本語よ、私は心から御身の健在を祈る。

▽特別號も漸く出來上つた。もう大概で手馴れてよさ(208)相なものだが一册出來るごとに大まごつきをやつて、どうやらかうやら編輯を終り得る。そして自分自らの豫期にさへそふことの出來なかつたのは遺憾である。
∇私ばかりかも知れないが本號の中心は『創作詠草』に在るかと思ふ。見て居て誠にいい心地だ。本號に集つた歌の數は實に夥しいもので選拔に取懸らうとする時は私は全く命懸けの氣がした。一人一人見て行くとそれぞれの作者の生活や面影が選者の眼に映つて、云ひ樣のない可懷しさが胸に滿ちてゐた。本誌が出て丁度一年、漸く詠草の詠みぶりが一定してきたやうに見受けらるる。私は選拔の標準を成るべく作者個々の特色の上に置かむことを力めてゐる。が、以前は實に法外に近い亂暴なものが澤山混つてゐた。近來漸くそれが少くなつた。みんなが眞心から作歌に從事するやうになつた故かと思ふと誠に嬉しい。校正が出始めた今日になつて、見て見ると一段組にしてある人々の詠草は少々選みかたが緩るすぎたかと思はるる。却つて二段組の人々の方が堅張して居る。あれらの中からどの一首を持つて來られても選者は顔を赤らめずにこれは『創作』の歌ですと威張つて居り得ると信ずる。組版の間違ひや何かで、體裁にも不揃ひな所などが出來、また二三頁切りすてた所もあるが辛抱して貰ひたい。詠草中でも自分の歌だけを読んで喜んでゐずと、皆に目を通して貰ひ度い。小さいながらもみな特色が表れてゐやう。
▽鼎、白秋、挽歌、緑葉及び小生、此頃よく落合つては飲んで居る。少し要領をば得てゐないが先づ何れも元氣を以て許すべきであらう。じり/\と寄せて來る春のきほひに追ひつ追はれつしてゐる若人の一團に、希くば幸多かれとみづから請ひ祈るになむ。
▽本號の裏繪に山本兄のかいた『小諸のおもちや』は昨年の秋、同兄、茨木不仙君、及び小生が信州小諸に落合つてゐた頃、飲めば必ずこのおもちやを呼んで騷いだものであつた。氣のさつばりした、血色のいい妓であつた。今でもあの火山の麓に三味を弾いて呑氣に騷いでゐるのであらう。火山の烟も戀しく、あの人を馬鹿にした樣な罪のない笑顔も思ひ出される。(校正の日)
    五月號(【第二卷第五號】)
 どうしても行かねばならぬ用事のあつた大阪へ、終に行かないといふ電報を打つたまゝ、くら/\する(209)頭を抑へて、何處へといふあてもなかつたが先づ近くの江戸川の方へ歩を向けた。川沿ひの櫻の青葉は既に淡い黒みを帶びてゐる。大曲りの岸の或家では丁度子供か何ぞの葬式の出る所であつた。それを見やうと七八人の近所の女や子供が櫻の葉蔭に晝近くの強い日光を避けて集つてゐた。それらの櫻の一本の枝には目白の籠がかけてあつて、あの青色がゝつた小さな鳥が、通りがゝりの僕の口笛に合せて勇しく啼き立てた。江戸川を外れて坂を登つて雜司ケ谷の方に入り込むに從つて、いよ/\夏だといふ感じを強くさせられざるを得なかつた。麥はもうすつかり青々と肥えた穗をぬいて、墓地の杜あたりでは日本の木といはず西洋の木といはずあらゆる樹木がみなその柔かな若葉を光澤のある微風と日光とのなかに、醉つたやうにそよがせてゐる。それに久しく斯ういふ郊外の風物に觸れないでゐたので、少し歩いてゐるうちに、もうすつかり疲勞を覺えて、歩くのは勿論、眼をあいてゐるのさへいやになつた。そして、ぢいつと眼を瞑つて立つてゐると、全身を溶かすやうな重い哀愁が流れ集つて來る。
 僕はふと思ひついてその近所に住んで居る友人を訪ねて行つた。縁がはから僕の顔を見るや否や、頓狂な聲を出して、オヽ君か、よう來て呉れた、あんまり心が忙しいので我身で我身を持てあましてゐた所だつた、サァひとつゆつくり話さうといふ。どうしたわけだと訊くと、實は漸く職が決つて是からすぐ大阪へ下らねばならぬことになつた、就いては明日あたり妻子をその里の信州まで送つて行つておいて自分だけひとり就職地へ赴任したいと思つて、いまその旅費が電報で送つて來るのを待つてる所だ、それに今日明日のうちに四十圓ほどの仕事をしあげねば立つことが出來ないので、それもやらねばならず、大いにまごついてゐるのだと顔に汗をかいてゐる。それでは僕がゐては邪魔だらうといふと、いゝや居て呉れねば心が落ち着かぬと強ひて留める。大きな身體の子供の樣な顔をして立つてゐる友を見てゐると、どうしても僕も上らねばならなくなつた。いつ見ても好い氣持のする細君も切りに上れと勸める。取り散らした部屋に上ると、眞中にまる/\と肥えた赤ちやんが寢かしてあつた。昨年の秋、僕が信州に行つてゐる間に出來たので、逢ふのは今日が初めてゞある。抱き上げれば人見知りもせず(210)に元氣よく僕の膝の上で踊つて居る。昂奮して居る友は切りに何か話しかけてゐたが、やがて立上つて、是から夕方までにMO君を訪ねて來ようではないかといふ。行かうと一緒に出かけて鬼子母神の森を拔けやうとした所で、其處に住んで居るUA君が丁度子供を遊ばしてゐるのに出逢つた。そしてまた勸められて其部屋に通つた。此人とは僕は一年振りほどに逢つたのであれこれの話がとび/\に出て來て、まるで油紙に火のついたような風に取止めもなく喋舌り立て、何だか薄暗く暮れかけた氣勢に驚いてお暇した。もうMO君の所へは行けない。友は先に立つて此附近の名物の燒鳥屋に這入つた。家は奥まつた可なり大きな二階家で僕等の外には誰も客が無い。註文した鳥の骨を叩く庖丁の音が遠い勝手の方から響いて來た。障子を開くれば前には數百年も經つたかと想はるゝ欅の大木が數本並び立つて、その細かな葉が夕風にそよめいてゐる。太陽はいま丁度平野のはてに落ちかけてゐる所である。暫く黙つて、ぢいつとして居ると、漸く心が落ちついて來て、自分の目鼻立ちがほんのりと明瞭になつて來る心地ぶする。飲まぬといふ約束で上り、身體のためにわるいからと其場でも繰返して留める友人の心にも反いて、とう/\僕は銚子をつけて貰つた。
 談話は更に今迄と異つた靜かな氣分で勢ひよく繰返された。友の行くべき大阪の話、實は僕も苦しい必要な用事のために是非大阪まで行かなくてはならなかつたのだが、五六日も煩悶しつゞけた揚句、とう/\今朝行かぬといふ電報を打つて來たといふやうなことから、其處の風土、其處に居る友人のことなどを話した。友はまた是から自身の從事する事業に就いての抱負を語り、大阪を足臺に一つ大きな漂浪者になつて見たいといふ樣な事から、彼の常日頃憧れぬいてゐる南歐伊太利あたりの話などが出て、終りは矢張り先刻《さつき》から引續いてゐた藝術のことに歸つて來た。藝術は終に Dreamer の手に歸すべきであるとは彼の持論である。
 靜かな夕暮よ、僕は實に何ケ月目かに斯ういふ心持になり得たと思つた。そしてしみ/”\自分の落着きの無い朝夕が苦痛に、無意味に思はれて、何だか座に耐へぬほどに苦しくなつた。そして、今年などは全然春といふものを知らないで過ごして、いま斯う急に自分の身邊に深くなつて來てゐる夏に驚いてゐる。が、恐
(211)らくは、これも春と同じで、目の前の夏をも知らずにやがて秋に驚くのであらう。この驚愕、苦痛寂寥は何れも季候に關してのみでない。萬事につけてさうである。第一自分は現に何をしてゐるのだかそれからが既に解らない。うまれて居るといふことだけがぼんやり解りながら、何ひとつ、その命の明瞭になるやうなことをもしてゐない。歌をつくり、藝術に親しむといふことからして何だかほんの片手間にごまかしてやつてゐるやうにばかり思はれる。それでどうして自分を慰め得やう。何も僕は藝術を作すことによつてのみこの不滿足を填充しやうとはかりそめにも思つてゐない。何でもいゝ、何でもいゝから、一分の殘りなくこの全生命を捧げつくして或一事に當つて見度い。その事の終つたあとは、一週間も二週間も、或は永劫に眼もあけ得ぬはどに疲勞するやうなことがやつて見度い。その事無くして何の生存の價値ぞ、自分は實にさう思ふ。そして君、いま自分の過去の生涯に振返つて見て殆んど何ひとつ斯の感を滿足せしめたことがない。唯だ僅かに一少時、曾つての戀のなかにその光が見えかけたかと思はるゝが、それも極めて淺はかな謂はゞ片手間ごとのひとつに過ぎなかつた。この不滿足を懷いたまゝには中々死なうにも死なれないでは無いか。
 いつのまにか眞面目になつて斯ういふことを自分は語り出してゐた。友も黙つて聞いてゐる。急に氣がついて其家を出た。そして、また僕は友の家に行つて、十一時近くなつて漸く別れを告げた。夕方から恐しく風が出て雜司ケ谷附近の平原は風とほこりでまるで海のやうな有樣だ。人氣のない池袋の停車場で切符を買つて電車に乘つた。新宿で乘換へると飯田町につくまで乘客は殆んど僕一人で、氣味の惡いほど速度を強めて走らせる車體の激しい動搖につれて二三十の黒い吊革が生きたものゝやうにばた/\と動きはためく。電車を降りて宿の前に來るともう門は固くしめられてあつた。二十分間も叩いて漸く中に入ることが出來た。部屋にランプを點すと間もなく風が止んで窓の前のトタンの屋根に大粒の雨の音がし始めた。床は延べたが寢る氣にもなれない。むつかしい面をしながらこの記事を書いた。雨はまだ切りに降つて居る。(四月二十四日夜)

(212) 先號で川柳と土岐君の歌と似てゐると書いたら、いつぞやの讀賣新聞に土岐君が何かそれに就いて書いてゐるのを見かけた。例の調子で書いてあるので隨分長くはあつたが中味は何にも無い。唯だ「君の謂ふ歌とは何ぞ、川柳とは何ぞ」といふ一句にだけ答へて見度い。
 と云つて何も、そも/\歌は川柳はと講釋を始めるつもりはない、唯だ川柳は歌に比して輕く出る所に特質があるといふ樣な事だけを云つておきたい。川柳のことには門外漢だから先づ例を君の歌に取るが、君の歌の命はその極めて輕く巧みに出來てる所に在るではないか。君の歌にとる材料には矢張り當世並みに人生のことが主になつてゐる樣だが、それも人生そのものを如何しようといふ樣なそれに對する深い執着も何もなく、通りがゝりに一幕二幕の立見をやつて來ましたよといふ氣味がある。先アづ斯んなもんでげせうかナといつた風の所にえも云へぬ味があるのである。主題を取扱ふ態度、及びそれに對して用ふる君の表白法の具合などが明かにこの心を語つて居るではないか。乃ち僕の想見してゐた川柳といふものが同じく斯ういふ風の所に獨特の妙味を持つものとして君の歌と似てゐると云ひ、同じくば川柳の形式をとつた方が結晶したものが出來はしないかと云った所以である。若しそれが間違つてゐたら取消していゝのだ。

∇前田君の『詩歌』と太田氏の『同人』とが出た。『詩歌』はひどくあつさりしたもので、菊版八十頁が大概短歌ばかりで埋めてある。前田君の作約七十首、近藤元君の四十首、尾山秋人君の二十首、近藤嵐翠君の七十首、富田君の四十首が先づ本誌の中堅とも見るべきであらう。歌はみないつもより拙いやうであつた。特に前田君のはひどく氣がぬけてゐる。今少し格調の緊張などに氣を用いたらと思はるゝ所が澤山あつた。他の人のでは無理はあるが富田君の殆ど猪勇的の詠みぶりに生氣豐かなのを寧ろ好ましいと思つた。兩近藤君のはいつみてもなつかしみのある詠みぶりだが、とりとめてこれといふ所はなかつた。總じて今號のこの欄の人のは乎常よりもうら淋しい。一段組にしてある人々の中で眼に殘つた人の歌を次ぎに認めて見よう。
(213)                森園 天涙
  すさまじくうらての山の燒くる夜をわづかの父の錢をぬすみいづ
                 中川一政
  我が師なほいとけなき子らを教へつゝあらむとおもふに涙ぐまれぬ
  ふるさとの新茶のにほひこよなくも好きなりし母早世しけり
  髪のびてこゝろやうやく暗くなる月の末こそさびしかりけれ
  「あらひもの」とわが書きやりし札かけて野末に伯母がすめるきさらぎ
  牧場の青きあかりのちらづける枯木のなかをかへる夕ぐれ
  かへりきてひそかにひたる湯のぬるさ灯の暗さなどなく虫もなし
                 橋口 暮山
  ひとすぢの煙草の煙に似てかなし春の夜深をひとりねむるは
  友とのむこゝの二階の三味を戀ひ灯をこひ雨のしめやかにふる
  男らがのぼればここの三階に赤き灯がつき酒にほふなり
                 堀 露洋
  別れおしむ從妹二人が凭りそへる橙の木に黄なる實のなる
  ひとりてふことのかなしく身をせむる鴎のあそぶ海のしづけさ
  海峽の潮にしたがひながれ行く鴎に春の雪ふりかかる
                 天野謙二郎
  この涙うすらあまかるかなしみを誘はむとしてまづ落ちぬるか
  鑛泉をいづれどなほも身にのこる鐵のにほひのなつかしきかな
  しどけなき汝が表情のさびしさよ歡樂の夜も深林のごと
  楢の葉の青くさびしく光るあり毛蟲の這へる晝のしづけさ

(214)▽『同人』は太田水穗氏を中心として信州の少壯文學者が寄つて居るものである。中心は歌らしく、他に詩や散文もあつて、菊版五十頁の小さなもので、何處となく氣のきいた雜誌である。岩淵芦江、四賀光子、土屋殘星、有賀露草、小河原素山、山田邦子、山口破魔子、太田きし子、茅野昌栖、松島梧風、中村柊花の諸君の作が載つてゐる。光子女史の『紅箋記』にうんとあてられたことを遙かにお禮申しあげる。

∇通信教授の方では詠草返附が甚だしく遲延して申譯がない。三月の中頃からかけて今日まで、目もあてられぬ位ゐ色々のことでまごついてゐたゝめに殆んど何處へも葉書一本差出す餘裕も無かつた。從つてこのことに關してもゆつくり手をつけることが出來なかつたので、ツイ/\申譯もない有樣にならざるを得なかつた。色々な混雜も漸くまとまりがついたのでこれから專心に今迄の、かたをつけ度いと思つてゐる、空しく諸君に待ち受けさせた罪は折入つてお詫する。

∇次號から毎號『創作詠草』の批評を募る。一段組二段組三段組の各欄に渉つて各自思ふ通りの批評感想を述べて貰ひ度い。二十字詰で丁寧に認めて、長さには制限を置かないが冗漫にならない樣に願ひ度い。僕が拜見して採否をきめる。紙上の匿名は隨意。
▽なほ次號から今少し研究的の記事を掲げ度いと思つてゐる。その一端として通信教授の方で添刪したものなどを發表するかも知れない。その外、知名の士の作を解剖的に批評することなどもして見度い。
∇前號に續いて誌友の重立つた人々の作を批評するつもりであつたが、頁はないし、また次號送りにした。いつも約束を破るやうで誠に相濟まぬ。近頃はみんながひどくまごついてゐるので不本意なことばかりしてゐる。
    六月號(【第二卷第六號】)
▽僕はまた轉居した。氣候の影響もあるだらうが昨今切りに靜かな場所が戀しくなつてゐる。この郊外に移つて來ても毎日の樣に近所の土堤や林に出かけてぼんやりしてゐる。人と逢つて下らない話をしてゐるのなどは耐へ難い苦痛である。出來たらまた旅行にでも出かけ度いものだ。
(215)▽先日、下總の市川に行つてゐる山本鼎君を訪ねて行つて四五日遊んで來た。宿はすぐ河に臨んでゐて、居ながらに水の流るゝのや向ふの鴻の臺や榛の林や河蒸汽や白帆などが見えた。一日土堤の草の中に寢ころんでゐると山本君が油繪に寫生して呉れた。睡つてゐるその面を見てゐるとわれながら可懷しくなつて來る。今度の「路上」の口繪に入れる筈である。
▽「路上」は著者も本屋も實に呑氣で、まだ製本が出來上らない。校正はもう濟んでゐるのだが新しく出來るのを皆入れ度いので段々延びた。それでもとう/\見切を附けたので今度こそ本になるだらう。歌はみな好いやうである。自分で見てさういやなのが無いのが何よりだ。
▽本號から少しづつ歌の選の標準を高くして行くことにした。雜誌の頁數でも豐富なのならとにかくだがさうで無いのに水とも油ともつかぬ歌を三首四首づつ掲げて行つた所で自他のために甚だ無意味であると思ふ。少くともその人の個性の出てゐないやうな歌はそれの出るまでお預りすることにする。その代り少しでも見所のある人の作は出來るだけ紹介の勞を取り度い。徒らに自分の名前に歡ぶ稚情を捨てゝ誠心から詩歌を見、且つ愛する心になつて欲しいと思ふ。
▽今號に載せるつもりで頁數の都合で次號に廻つた歌が數人分ある。來號からは六號三段組の歌を廢して他の歌欄を増加するつもりでゐる。
▽通信教授の方を大方は返したがまだ殘つてゐる。添刪の發表をも本號でする筈であつたが同じく頁の都合で駄目であつた。
▽新井勘司君が病氣でなくなつた相だ。考へて見ると何だか元氣のある樣で無い人であつた。緑葉君の紹介で逢つてから、交つてゐた時間は短かゝつたが直ぐ親しくなつて隨分馬鹿な騷ぎもし合つたものだ。けれ共これといふ強い印象は殘つて居らぬ。酒でも飲むと色の白い、眼の細い彼の顔の輪郭が初めて明瞭になる樣に思はれた。彼も案外に野心家であつた、一種の空想家で、心の中では大分企畫したことが多かつたらうと思ふ。それでも終りの方は至極音無しくなつて、東京を去つたのすら僕は知らなかつた。聞けばその頃から病氣が起つてゐたのだ相だ。そして思ひも寄らぬ彼の訃音を聞いた時は、何だかいやに心細い氣がしてなら(216)なかつた。彼の一生はまるで水の上に一寸影を映して直ぐさま消え去つた樣な觀がある。上野國沼田の人であつた。
∇富田碎花君が近々歌集を出すといふ噂がある。名は「悲しき愛」とかいふのだ相だ。
∇邦枝完二、水上おぼろ、武智三太郎、森れじな其他の諸君が「ピリー」といふ詩歌の廻覽雜誌を出してゐる。
∇來號から本誌編輯所が變つた。投稿家の注意を要する。
    十月號(【第二卷第十號】)
 本誌歌壇に對して
『吾人は最も吾人の生命の沈滯を怖る。然して吾人は亦切實に現文壇の若き心を失へるを思はざるを得ざる也。生命の推移、發展、吾人の欲するは即ちそれ也。現文壇に若き一味の生氣を注入せむ。然して吾人自らも生命の移動を感じ、發展を思はむ。是吾人の念ふ所也、標榜せむとする所也、雜誌『創作』の世に出づる、實にこの願ひに外ならず。依つて吾人の進む所はこの目的に添ふべきあらゆる方面に於ける活動也、研鑽也。一言以て雜誌發刊の眞意の存する所を告白す。』斯の舌の廻らぬ數行の文字は、昨年の一月、本誌『創作』發刊當時、眞劍になつて天下に檄した我等の呼號であつた。其後約一年有半、雜誌の號を重ぬる僅々二十に及んだ今日に於て、端無く我等は本誌を去ることになつた。

 其間、我等は、主として私は、果して何を爲し得たか、答ふるに當つて先づ自ら暗然たらざるを得ない。
 無爲にして無能、殆んど蠢々乎として今日に至つて居る。爲す可くして未だ爲し得なかつた事業が空しく山積してゐるのを眺めては、今に及んで實に無限の悔恨を覺えざるを得ないのだ。笑止とも謂ふ可く、また自分自身としては深く一種の罪惡を感ぜずには居られない。この場合に際して私は愼んで諸君の前に謝意を表さねばならぬ。日本短歌のために我等の爲す可かりし事は誠に多かつた。

 創作社解散の決議をなした日の午後。私は獨り市街(217)を歩いてゐた。そして云ふともなく自分自身に云つてゐた口癖に、『我等、常に鮮《あたら》しく生きざる可からず』といふのがあつた。
 我等常にあたらしく生きざる可からず、私は眞實斯う思つて居る。斯の意味に於て私は寧ろこの創作社解散を歡び度い。創作社は既に業にその底が澱んでゐた。去らねばならぬ。
 去つて更に新鮮なる日光の下に我等が健かなる翼を羽搏ち度い。

 去るといふ事は、それでも、いやなことだ。この數日間、私の心には一種云ひ難い哀愁と寂寞とが切りに去來して居る。私は心より諸君の健在を祈るものである。

 最後に當り、私は今日以後、我が素志を遂行せむために新たに自然社と云ふを結び、雜誌『自然』を發行する計畫を立てたことを發表しておき度い。我が素志とは、我が微力のあらむ限りを短歌のために捧げ度い一念である。云ひ得べくんば、短歌が有する權威の何處まで深遠なるかを計り知らむための行途につくことである。自然社の趣意書規則書風のものをば遠からず印刷して同志に分ち度い、希望の人は府下淀橋町柏木九十四番地土屋方小生宛に申込まれ度い。
   九月廿九日、我が「創作」の校正終る日に
                  若山 牧水

(218) ◇明治四十五年

 手紙に代へて

    『自然』創刊號(五月)
 昨年の秋、出るはづであつた『自然』が延び延びになりながら漸くいま形をなして現れることになつた。何ものをか覓めて止まぬ心がここにまたうす青い芽をふいた姿である。強いて出せば昨年の秋だつて出せない事はなかつたかも知れぬ、けれ共その時私はそれほど心が進まなかつた。そして以前の『創作』をよすとすぐ、十月の末であつたか、横濱の方に行つてゐた。其處には重もに外國人を相手にして錢を取る、殆んど半人半獣の脂ぎつた色彩を帶びた私の舊友が棲んでゐた。その周圍には矢張り類を以て集つた青年が四五人も群つてゐた。彼等の特殊な生活が私の勞れた瞳にどんな影を投げて映つたか、私は夜は狂へる如く彼等と共に同じ空氣の裡に明し、晝は獨り離れて斷えず船の煤烟のまつて來る波止場のベンチや特に異人種のために設けられた樹木の茂い丘の上の公園、または遠く根岸杉田あたりの渚に行つて時を過ごすことを歡んだ。その友が阿米利加の方に行く樣になつて更に私は相模平原のずつと奥、散り殘りの欅の葉に風の渡るほかには物音ひとつしない樣な舊い大きな家に友を訪ねて數日を費し、十二月の初めに東京に歸つて來て某新聞の記者となつた。初めの二十日餘りは訪問記事をとるために某伯爵某代議士講釋師某佳人某大臣等の門を毎日くゞつてゐた。淺草の奥に佗びしく暮して居る某老女義太夫を訪うた時などはその侠骨とその不遇とに思はず昂奮の眉をあげて危く職業より追はれむとした事もある。小石川久世山の上にツイその前物故した某博士の未亡人を訪うた時世に稀有なる女丈夫として喧傳せられてゐる其人が談たま/\故人の上に及ぶや正體なく泣き沈んだ姿を見て誠に異樣に感じ、歸途、まだ其頃は病床に在つた石川君を訪うてその話をすると同君は辛うじて這ひ起きて、イヤそれは面白い、さういふ現象を見る事は歌を作つて居るより君自身にとつて重大な事件である、つく/”\僕は君のその健康が羨しい、と云つて私を見上げたこともある。けれ共、私に(219)は三十日とその訪問事業を續けてゐる勇氣が無かつた。そして自ら請うて『夜之東京』を描くべき役割に當つた。夜の十二時に家を出て志す市内の場所を曉方の五時まで歩いて眼に觸れた出來事を其日の記事とする一夜と、不時の急に應ぜむため輸轉機の顫動と音響と塵垢との裡に午前二時より明方まで新聞社の樓上にうと/\とする一夜とが隔日に續いた。雪の降る夜もあつた。火事の火元を探して走る夜もあつた。自然また身體に無理を強ゆるべく酒にも近づかざるを得なかつた。拭ひ難き片頬の擦傷のあとも其頃に着いたのである。二十日足らずでその『夜仕事』をもよした。そして新聞記者をもやめた。牧水歌話の出版を急いで三月の十日過ぎ、信濃に赴いた。横濱にゐた時からこの冬をばそのほかに何物も眼に見えぬといふ位ゐの雪の中に送り度いと切りに希望してゐたのである。雪には遲れたがせめてそれに似た深山の奥にでも行つて見たら、と東京を立つたのである。ひそかに上野驛を出てゆく汽車の窓に倚つて瞑ぢられた私の瞳には信濃の山も見え、遠く秋田青森あたりの雪も見え更に轉じては惱ましげに春の暮れてゆく奈良京都大阪あたりの舊い市街から、波さへ死んだ瀬戸内海の島々の青葉のそよぎさへいた/\しく瞳の裡に映つてゐたのであつた。私は眞實そのあたりまでぶら/\と歩いてゆくつもりでゐたのである。碓氷峠を越ゆると漸く黄昏れてゆかうとする信濃の國が眼前にあらはれた。あの山、この山、みな雪である。その中のひとつ、我が可懷しい淺間山は雪のうちからほの白い烟をあげてゐた。信濃は然し私を靜かに睡らして呉れなかつた。朝眼がさめるとから醉うてつぶれて睡るまで濃密な酒のみで攻められた。けれ共、其處には忘られ難い可懷しい人のたれかれがあつた。自身の性に似た慘しい人の多くを見た。幸ひに私が行つてから土地の人すら珍しいといふ雪が三四度も降つてくれた。川邊にはいち早く春が忍んでゐた。山の裾を縫うてしめやかに流れてゆく川のすゑ、狹い峽のあひだにはあるとなきかなしい霞がたつてゐた。わきてけふ逢坂山のかすめるはたちおくれたる春や越ゆらむ、この古歌がしきりに唇に出た。場合は違ふが心にうかぶかなしみには違ひはなかつた。千曲川に添うてうつゝなく十日十五日と遊び歩いてゐるうちに、私は漸く具體的に『自然』の創刊時に近づいたこ(220)とを思ひ初めた。前からさうは思つてゐたものゝ、まだはつきりと心には形をなしてゐなかつたのである。で、木曾川をおりて伊勢から大和に入るまぼろしはその時に消えねばならなかつた。一點の曇りを帶びぬ日本アルプス連山の雪を眺めてそこ此處と歩いてゐた頃は、毎日太陽は輝き、山は霞んでゐた。之れにも別れをつげて最後に上諏訪に一泊し、四日四日朝、密雲の裡に富士見野を越えて甲州に入れば、其處にはをちこちの山に櫻がほの白く咲いてゐた。夜に入りて着京、直ちに郡山君を訪ひ、其處に初めて具體的に『自然』の發行が企てられたのである。

 せめて心持だけでも氣もちよく暮してゆきたいといふ私自身の願ひと、前の『創作』以後どこにも作品を發表せず、じいつと待つてゐる地方の同志の心もちを思ひやるに耐へかねたのとが本誌創刊の直接の原因であつた。更にその底に横はる大きな根本はすなはち常に常に何ものをか覓めてやまぬ何物かゞわが生命の底にあるが故である。その『何物』が果して此の『自然』の上にいかなる結果を生むか、『何物』とはなんぞ。私はそれをさだかに捉へむことを欲して斷えず苦しみつゝある。然し我等の生けることが否む可からざる事實であるならばその生命の上に殆んど之を司配するが如く常に耐へ難き影を投ぐる『何物』も終に否む可からざる事實であらねばならぬ。私はその影の、即ち我が『自然』であるが如き状態に達せむことを祈つて居る。
 これは私一個のみの問題ではない。我等が同志もまた必ず各自それと同じき心を以てこの『自然』に對するであらうと信ぜらるゝ。

 また一面、我等はこの雜誌を以て我等がための磨き粉であり、鑢であらしめたいと思ふ。曇れる玉をみがき、つぶれたる刃を立てる便宜に供したいと思ふ。曇れるまゝに埋れ※[金+肅]びたるまゝに朽ちてゆく生命の如何ばかり多くしていかばかり惨しいか、人は概ね之を自覺せずして、事も無げに空しく朽ちて行くのが多いのだ。
 我等は決して無意義には存在しない。このこゝろを思ふとき、私は常に云ふやうなき權威と哀愁とを痛感せ(221ざるを得ない。

 斯の必要と、斯の意氣とを溢るゝばかりに抱いてゐて、悲しい哉、それを具體的に實行する方便に私は一切缺けてゐる。第一、一文の資本も無い。のみならず斯る場合に處して極めて適當に事を運んで行く巧妙にして剛毅なる手腕をも有せぬ。この我が性格其他の缺陷を自覺して居るが故に、經營方面には他に適當の人を頼んでやつて行つて貰ふことになつてゐたのであつたが、端なくそれも中途にして挫折した。しかも、初號の印刷が初め二三十頁に及ぶか及ばぬかの時に於て、思ひがけなくも挫折した。
 途方に暮れたが暮れて居らるゝ場合では無かつた。いはゆる骨が砂利になつても、やらねばならぬ時である。勿論、我等はこの運命を甘受しつゝ、靜かに第二歩を踏み起す可く決心した。そして實行に着手した。かくして、先づ『自然』初號が創刊せられたのである。
 この決心は、單に我等二三の當事者のみに限られた問題では無いのである。同時に一般社友同志の間に等しく分たる可き性質のものである。私は以上を述べて改めて茲に諸君の自覺と奮起とを希望し、歩を同じうして行く可き所まで行かねばならぬと思ふ。諸君また恐らく同感のことゝ信ずる。

 匆忙として明けまた暮れて居る私は常に諸君の厚意に悖ることのみ多かつた。この機を利用して謹んでこの心を抒べ、諸君の健在を祈り、併せて私自身の甚だ健在であることをも歡んで頂き度い。石川君は身體がわるくあゝして死んで往つた、私は幸ひにまだそれが丈夫である。そして、爲さねばならぬ實に多くの事を有して居る。

 最後に當つて、本誌創刊に際し清水政治、郡山幸男兩氏の非常なる厚意を寄せられ、今後なほ然うであることを社友諸君の前に公表する。(四月二十九日早朝)

(222) ◇大正二年

 創作社より

  八月號(『創作』【第三卷第一號】)
 偶然といへば極めて偶然、當然といへば當然、今茲におなじ「創作」の名のもとに再び諸君と相見ゆるに到つたことを、甚だ因縁深く思ふ。去る五月、郷里を立つて東京に入る迄、私は三四十日間を多くは舊友訪問の旅行に費した。その途中、行くさきざきで出逢つた人々のなかにはもとの「創作」の誌友とも見るべき人が多かつた。その人たちは確實な理由とては無ささうであつたが、何故だか私が再びもとゝ同樣の雜誌をいつかしら發刊するにきまつてゐるといふやうな甚だ漫然な、しかも根深い信念をおほかた懷いてゐた。そしてそのため各自の作物をも發表することなく、安んじて私に信頼してゐるといふ容子であつた。私はこれらを見て内心大いに苦痛を感ぜざるを得なかつた。然し、その時は私にはまだ何等本誌復活の腹案も何もあつたのではない。事は殆ど偶然に私の上京後約二週間を經て、私の身を並ならず氣づかつてくれてゐる某氏との會談の末に起つて來たのであつた。私は背後に少なからぬ危懼の念をば懷きながらも、歡び勇んでその話をお受けした。それから僅々三週間のうちに、寧ろ驚くべき速度で仕事は進んで、いつの間にやらもう一册の編輯も首尾よく濟んでしまつたといふわけである。初め六十四頁で切り上げるといふ豫定が他愛もなく頽れて辛うじて九十頁で踏み留つたといふ一事に見ても、斯般の消息は窺はれると思ふ。今更ながら世の同情の厚いのに私は胸を動かさゞるを得なかつた。
 私も今度は眞に身を入れてこの事業に從ふべく決心してゐるのである。事の困難なのをもこれまでの經驗から充分覺悟してゐる。然し、どうともしてそれを切り拔けねばならぬと心を躍らしてゐるのだ。あらためて、此上ともの後援をわが誌友諸君の前に依頼したいと思ふ。双方の努力相俟つて初めて斯の困難な事業が進み得るのである。
 編輯はもとより、發送販賣の經營にいたるまで悉く私一個の手でするのである。以前の「創作」とはこの(223)點が違つてゐる。

 一面、方今の詩歌壇は實際睡つて居る。何といふことなく深い惰眠を貪つて、敢て自ら不安をも感じてゐないらしく見ゆる。恐るべく、驚くべきことではないか。

 一度斯うして起つた以上、我等は單に無意味に我等が事業を存在せしめたくない。ちからに及ぶだけのことをば斯界のために捧げたいと思つてゐる。自他のために、快く最上の努力を勵まねばならぬ。會心のことと思ふ。

 理論上の理解といふものは殆どいまの私の頭にない。けれども、いまのまゝでは、詩にしろ歌にしろ、どうしても滿足できない。そしてこの不滿足の心を今少し押し進めて行つたら其處に我等の求めてゐた境地があるらしく信ぜられてならない。斯うした心を懷いてゐるのは私一人でないのである。不徹底ながら皆さう考へてゐるらしい。この考へのためにも充分雜誌を便したいと思つてゐるのだ。
 とにかく、本誌來號を一大評論號として、種々な形に據つて居る日本の詩歌に對する各専門家の意見態度を聽いて見度いと思ひ立つた。俳句短歌長詩その他、日本語の韻律の關係、それ/”\の詩形が含む内容の特質、改革すべきか其儘にしておくべきものか、など此等の諸問題はなか/\一朝一夕で解決さるべきものとも思はぬが、何等か多少の暗示刺戟を與ふることでもあらば少なからぬ幸福であることを思ひ、敢てこの擧に出でたのである。唯だ何事も私一人の手によること故、この思ひ立ちの完全に進むこと甚だ覺束ないのを悲しんでゐるものである。
 不眞面目らしくも受取れぬ破調の歌などが本號の投稿中に大分あつた。右の企ては自然目下の問題になつてゐる破調云々のことにも接觸して行くであらう。
 希くば來九月號をして現今詩壇に對する一大警鐘たらしめたいものである。

 尚ほ來號は右評論數篇或は數十篇を掲ぐるほかに本號同樣名家と社友との創作を掲載すること無論であ(224)る。本誌復活に際し久しぶりに作つたといふ社友もあつた。それらの人々によつても來號は更に一段と精彩を帶び來ることを信じて疑はぬ。本誌掲載の諸作品に對しては種々の意味に於て特に注意して精讀せられむことを私からお願ひしておく。

 よくある例だがまた投稿家一部の人々によつて優待不優待の愚痴を聞くことであらうと思ふ。くだらぬことである。かりに私の眠が暗かつたとしても見ること三度四度と重なるうちには眞の佳品を全く見逃して了ふことはあるまいではないか。そして、私は過去の經驗からその方面に關しては可なりの自信を持つて居る。安心して苦心の作を寄せられたいものである。また、優待々々といふうちにも時には雜誌の體裁やら世間の義理から來たものがないでもないことを述べておく。

 これは經營の話であるが、先づ本號を見て多少なり我等のこの事業に同感し同情してくれた人々があつたならば、私は折入つてその人にお願ひする。即ち、各自一册づつ自分以外の人に本誌購讀を勸誘してほしいことだ。さうすれば本紙が百部賣れたとして來號は忽ちその倍額賣れることになるからである。言ひにくい話であるが、創作社の事業繼續のため進んで御依頼する。自分の周圍に一人の同志を作ることは甚だ易々にして且つ愉快なことでもあらうと思ふ。

 全国各地の書店へは大概籾山書店より廻してある筈であるから、それ/”\の店で御買求めを乞ふ。若し、その地の書店に出てゐない地方の個人または團體の註文は直接創作社あてにねがひたい。目下振替貯金加入出願中であるが、今號印刷の濟む迄に許可の通知があつたら裏表紙奥附の所へその番號を記入しておく故、みなそれに依つて註文して頂き度い。若しその許可が本號に間に合はなかつたら普通の爲替によられたい。指定郵便局は小石川區大塚町郵便局。
 本號發行の廣告をば不充分とは思ひながら萬報朝(ママ)と東京朝日新聞とに漸く小さいのを出すことにした。尚ほ厚意ある誌友諸君の種々の方法によつて各地方に本誌復活のことを吹聽して頂くことが出來れば幸甚である。
(225) 本號の編輯も印刷も本當に案外速く進行した。印刷だとて今日既に五十九頁まで校了した。多少まごついたものと見え、行數または頁數の違算がちよい/\出た。ひどいのは實際は六頁で濟む所を十二頁と計算してゐたことだ。豫算より超過しなかつたのだから先づ便利だつたやうなものゝ、そのため九十六頁のつもりが九十頁で終つた。馴れゝば斯んなへまはやるまい。本號の編輯校正は最近上京中の和田山蘭君に加勢して貰つた。來號は評論號の企てから二倍も三倍も忙しいことゝ思ふ。下野の高鹽背山君、奥州の丹羽洋岳君、そ(ママ)他越後北海道あたりから遊びに來ぬかと招かれてゐるが今年はその好きな旅行もとても出來まいと思ふ。少しの仕事がまとまつてきたら、各地方へ創作社の團隊旅行なども面白いことと思ふ。早くさうなりたいものだ。夏、琉球へ渡り、冬、樺太へ航するなど、考へるだけでも不愉快ぢアない。

 來號投稿に添へて先づ一度だけでもいゝから、各自の年齢職業及び生活の状態などを記して送つて貰ひたいと思ふ。兼て私はこの誌上に於て各誌友お互ひの消息を通じ合つて、單にその作物を通じて知るのみならず、今少し世俗的にも直接間接相知ることを得たらば、種々の意味に於て興味深く且つ相益すること多からうと思つてゐたのだ。さし當り、先づ形式だけでもいゝから來號から右の企てを試みて見たい。諸君の方でも自ら進んでこの計畫に賛成であらうと信ずる。甲君が十何歳の少女であり、乙君が男女六人のお父さんであり、丙君が鐵工場の職工で、丁君が汽船の機關長であつたりするなど、いろ/\あるであらう。社會生活、内生活、我等は實際半道樂のいはゆるうたよみであり得ない。是非、實行したいものだ。模樣によつてはまだ此方面にいろ/\の計畫をも考へてゐる。山に棲む人、海に浮ぶ人、市街の底に働く人、少い誌友のなかでも隨分と意味深い色別けが出來るであらう。

 私の近くに居る人々、または遠く離れて地方に在る人々、それらの人々より私の今囘のこの擧に對し寄せられた同情厚意を深く感謝する。これらの深い厚意に對し、敢て背かざらむことを誓ひたい。
(226) 今日本文だけは校正濟になるかと思ふ。廣告や表紙畫が明日、それから印刷製本、第三種郵便物の認可が先づ二三日、斯んなに急いでも一册となつて世に出るのは月末であらう。赤インキで染められた校正刷を見てゐると、何とも言へぬ感慨が胸の奥に動いてくる。早く一册となつて、面々相會したいものである。

 暑氣激甚の折柄、お互ひ健康に注意したい。私も先づ達者の方である。(七月廿六日印刷所にて)
    九月號(【第三卷第二號】)
 評論號と銘打つて先づ滿足に本九月號を諸君の前に提供し得たことを歡びとする。見る人すべてが既に感じたことゝ思ふが本號所載の諸家の評論感想が、現時の我等にとつて、また一般詩歌壇にとつて、如何に有意味のものであるかは、寧ろ豫想外のことであらうと思ふ。まことに編輯者として多大の滿足を感ずると共に、各執筆諸家に對し厚く謝意を申し述べねばならぬ。
 而かも、評論號と殊更に名乘ることは、實はあまり心が進まなかつたのである。一時に聲を大きくして一擧に我等が素志を遂げ、全然眼覺めたる詩歌を獲ようとすることは、それは餘りに慾が深く到底成就し得べきことでないと思つたからである。それ故本號を以て慊れりとせず、更に號を逐うて此の方面に力を盡すつもりでゐる。際立つて豫告することをしないが來月號はまた一種の評論の評論號といふ風のものにならぬとも限らぬ。充分に滿足出來るまで是を先輩諸家に聽き、同時に我等自身の疑惑懊惱を披瀝し、往く所まで往つて見度いからである。

 本號印刷に間に合はず、來號に廻した原稿に、蒲原有明氏の散文詩「山の修多羅」あり、水野葉舟氏の評論「階上の書齋より」あり、古泉千樫氏の「伊藤左千夫先生の事ども」がある。小生の感想文「我が破調の由來竝びに雜感」及び「創作社の事業」の二つは双方で十數頁を超えてしまつたので頁の都合から見合せることにした。特に初めの評論は、その言はむとするところが原田實君の「聰明嚴肅なる生活批評」と酷似して而かも原田君のの方が遙かに要を得てゐると見たので、全てを印刷所へ廻したあとに遲れて屆いた同君の原稿(227)を小生のと引換へに入れて置いたのである。尤も小生の書いたものゝ方には、原田君と似通つた内容論のほかに、形式に就いて述べた所が多かつた。その結論だけを引用すれば、今まで單に「歌」と稱してゐた所謂破調の歌を今後普通の短歌と引離して別種のものと認むること、短歌には短歌の特質あり、引離した新形式の歌にはまたそれ獨特の境地あることを述べたものである。この事はまた來號改めて書く筈である。其處で、本號には一切破調の投稿歌を載せなかつた。來號、別欄を新設してその中に收むるつもりである。その名稱について今尚ほ惑つてゐるのであるが、單に「長歌」又は「新長歌」としたいとも思ひ「短曲」又は「短唱」と名づけやうかとも言ひ合つてゐる。何れとかきまるだらう。されば來號より改めてその種のものを募集することになつた。進んで志ある人々は投稿するがよい。これも頁數の關係から普通の短歌か、此の方か、何れか一方にのみ定めて貰ひたい。念のために言ひ添へておく、單に新奇を珍しがり、またはだらしなくのんべんだらりと作れるものと心得てこの貴重なる新詩形を濫用してほしくないことである。
 今一つの小生の感想文はそのまゝ來號へ掲載する。重に雜誌「創作」の執つて進むべき方針、原始的の意味に於ける宗教の取扱つた範圍に我等の事業を置きたいといふことについて記したものである。
 重立つた同人の歌の組みかたを普通の創作詠草にしてみたり、右のやうに自身の論文を外したりしたけれど、見らるゝ通りの頁數になつてしまつた。これで定價三十錢は素人商賣のものにしては思ひ切つての勉強であるのだ。

 來十月號を新自選歌號といふものにするのは豫告の通りである。現代日本短歌の生粹をこの一册に結晶させたいものだ。一般の投稿をも念入りに讀んでほしい。丁度時季もいゝし、佳作と認むればこれを機會にぐん/\引立てゝ行きたい。本號の山梔君井田君等の歌はやや掘出しものゝ觀がある。來號は更に/\この種の多からむことを希望する。

 別に廣告欄にもあるやうに、來年の春季或は夏季を期し誌友大會を開く。今まで斯る企ての行はれたこと(228)をも聞いてゐないので定めし異樣に感ぜらるゝであらうが、是は小生が多年の希望の一つであつた。そして案外たやすく實行出來ることである。單に東京見物を手輕くやると見てもいゝし、同志相會して握手するといふ意味に見られてもいゝ。それ以前に一寸上京したい人などは、成る可くはその大會の時まで延ばしておいて貰ひたいと思ふ。何しろまだ何ケ月かさきのことである。ゆるゆると準備その他に手を盡し得らるゝので、出來るだけ完備した、意味深く興味豊かなものにしたい。何か然るべき希望思ひつきがあつたら申込んでほしい。失禮な申し分だが、平常金錢に餘裕のない人なども今から用意に着手すれば事は意外に容易に成し速げ得らるゝであらう。往復の旅費に懇親會の會費(かなり旺盛にやつてみたいつもり故)位ゐと見てもいゝ。それにしても一時も早く春か夏かを定め度いものだ。來號から出席申込者の氏名を列記して行くことにする。

 前の「創作」でやつてゐたやうに、初心の人々のために歌の評釋又は作法注意めいたものを來號より載せて行くことにした。小生の通信教授の原稿をこちらに廻すことにしてもいい。尚ほ他に少しづつ研究的の記事をも入れたいものだ。

 復活號は却つて氣恥しいほど諸方で歡迎せられた模樣である。この事に關しては各誌友諸君の個人紹介も大いに力があつた。がわけても各新聞社の新刊紹介欄擔當記者諸君の盡力が更に效があつたかと思はれる。東京より地方の方が特に強かつた。記して厚く御禮を申述べる。
 然し、何を云つても手が廻りかねるので、評判とは反對に販賣の方では成效してゐない。印刷した三分一強も賣殘りがあるやうだ。僅かの部數しか刷らないのにこの有樣では甚だ心太からぬ次第である。今一層奮發してこの方面に特志家諸君の盡力を希望したい。自ら進んで幾人もの購讀者を紹介せられ、又は長い手紙をわざ/\籾山善店主人に宛てゝ「創作」のための盡力を感謝し更に一層のそれを願望せられた人などもあつた。實際、涙の出るほど熱心に親切に本社のために盡力して呉れる人々があるので嬉しくてならぬ。
(229) 各地方の書店にして本誌が出てゐず、而して四五部でも賣れさうな見込のたつた所では盛んに書店の主人をせき立てゝ取寄せさせることに力めて頂きたい。五部以上取纒めた團體の直接註文に對しては相當の割引をする。

 雜誌をやつてゐると日のたつのが實に速い。單に雇はれてやつてゐる仕事か何かなら、さうでもあるまいが、殆ど自己の身體一つを唯一絶體の資本として、何か意味のある事業を成し途げて行かうとするには、なかなか人知れぬ苦心苦労を要してゐる。それでゐて平氣で馬鹿な酒も飲めば、雜談者の對手にもなつてゐる。内心我が身の精力に驚いてゐる姿である。秋にでもなればこの元氣をして今少し質を細やかならしめたいものと心がけてゐる。秋と云つても、もうこの數日來めつきり秋らしくなつて來た。
 そんな有樣で、當面のことにのみ私の貧しい精力は全部注ぎ盡されてゐる。なか/\おちついて葉書一本書く餘裕もありはせぬ。願はくば毎月のこの雜誌を即ち私よりの私信とも見て、暫く無沙汰を見逃して頂きたい。事業の基礎の整ふまですつかり事務家にならねばならぬ。
    (中略)
 では、左樣なら。
 また來月面目を新たにして相見えよう。(八月廿四日)
    十月號(【第三卷第三號】)
 自選歌掲載の順序はその到着順によつた。題のつけてあるのも無いのもあつたので、體裁上みな單に自選歌としてしまつた。つけてあつた題目及びその斷り書きは次ぎのやうなものであつた。島木氏のは「今年の秋」、金子氏のは「近き過去の作より」武山氏のほ「心の記録より」西出氏のは「あきらめへ」として「明治四十三年夏――大正二年夏」と、斷つてあつた。土岐氏のは「第二の手」が題で、「不平なくの百三十四頁から七十二頁までの間より」としてあつた。
 競詠二十四家集は濃淡はあるがみなそれ/”\各自の個性の表れてゐるのを快く思ふ。自選歌とくらべて讀み味つてみるのも面白い。現代青年の心の傾向の覗はるゝ心地もする。歌としては、どうも多少行き詰らね(230)ばいいがと掛念せらるゝのが多いやうだ。

 今度の編輯には實に苦勞した。初め、集つただけの原稿のページ數を計算して見たら百三十頁からになつた。發行所としての方針から本號はどうでも百頁で切りあげねばならぬことにきめてあつたので、厭でも應でもその三四十頁を割愛せねばならぬ始末となつた。さてそれがなか/\容易に行はれ得べき仕事でない。三頁五頁ならまだしもだが、何しろ數が纒つてゐる。とつおいつの末、殆ど眩暈を覺えつつ決行して行つた。歌を消し、「不平なく」「みなかみ」その他數種の新刊批評及び散文類を抑へ、小生の「短歌講義」及び「作法添削」等を次號に廻し、四苦八苦の結果漸く百頁に追込むことを得たのである。なかでも最も殘念であきらめきれないのは或る匿名にかくれた某氏の、「創作九月號短歌批評」であつた。實に理解に富んだ、聰明な辛辣なものであつて、このために被批評者たる創作社誌友がどれだけ啓發される所が多からうと小生は無上に嬉しがつてゐたのである。六號活字三段ものにして八頁を超えてゐたので、それにまた不幸にも經費と印刷所との都合上六號括字を多く使用することを許されないので、とう/\掲載することが出來なかつた。來號また改めて執筆して貰へればこの上もないことである、と新しい望を起してもゐる。それもこれも不本意な遺憾なことが多かつた。深く執筆者及び誌友諸氏にお詫びを申上げる。

 來號から少々雜誌の内容を改めて見たいと思つてゐる。要するに、もつと我等の日常生活に直接にして行きたいのである。或はよはど一般的な通俗的なものにならぬとも限らぬ。とてもすべての氣に入るやうには出來ないから不平も起るであらうが、出來るならば月の初めごとにこの雜誌を見ることによつて、心がくつきりと洗はれて、淨められ豐かにせられて、今一歩深く各自の生活に歩を踏入れて行かねばならぬといふやうな欲望を起さしむるものにしたいと思ふのだ。うはの空の純藝術的や道樂的やには到底耐へられなくなつた。幼稚でもいゝから何より先づ信實の人間に返つて、其處から確かな歩武を踏み出して行き度い。

(231) 我々の短歌が從來のものに比し、遙かに生活といふものに接近して來たのは疑もない事實である。
 けれども、よく見ると實はそれもほんの表面上形骸上に限られてゐて、まご/\すれば昔の俳句や川柳の取扱つた極く淺薄な材料及び態度の方面に墮ちて行かぬとも限らぬ状態に在る。
 わが身を知り、わが身を味ふといふこともそれが單に表皮だけに留つてゐるのならば、却つて淺薄な、半可通な、誠に見苦しい一生を送つて行くといふ結果に終り易いと思ふ。全然さういふことに風馬牛である人達の方が不知不識のうちに却つて意味饒かな一生を送り得るかも知れない。
 我等は如何にかしてその慘しい境地から脱して、完全な隙間のない生活を營み度いものではないか。我等のこの片々たる雜誌刊行の事業をすらもまた充分にそのために便したいと思ふのだ。
 さうしてゐるうちにまた自づと眞實の歌といふものにも痛いまでに接觸して行くことになるのである。

 さういふ見地から競詠廿四家集でも第五十頁内外邊及び其他の歌などを能く見詰むるとその輕重など誰の眼にも直ぐ解つて來ることゝおもふ。理論では多少耳に馴れてゐた生活對詩歌の問題を、我等はいま實地に行はうといふのである。我等の生きを自覺せしめ、生長せしめ、而して歌はしめよといふのである。

 本誌編輯者として、内面より外面より、そのため遺憾なき手段をつくしたいと、いま私はあせつてゐる。次號から逐次徐ろにその願望を形の上に表して行き度いものだ。

 田波御白君の死去は、前號の欄外に(印刷後にその事を耳にしたので)取敢へず報じておいたが、悼しいことであつた。小生も同君とは同君がまだ岡山に行かぬ前のころ親しく往來して一緒に廻覽雜誌などをも作つてゐた。本誌には内藤君の追想記を載せ(來號また金子薫園氏のそれが出る)たので、小生のをば内藤君の「抒情詩」に書くことにした。同君の遺稿、(本誌廣告欄參照)も出るので、それによつて天折した詩人の面影をよく偲んでほしいと思ふ。
(232) 曾て新詩社の「明星」の盛んであつたころ、一方の雄と仰がれてゐた前田翠溪氏も田波君と同じ病氣で郷里に於て先頃逝去せられた相である。佐々木信綱、與謝野寛氏及び其他故人の舊知諸氏によつて遺稿「翠溪歌集」が出版せられ、小生にもその一部を贈られた。讀んでゆくうちにも不遇な地位に沈んでゆく才人の面影があり/\と見えて來て、言ふ樣なく苦痛であつた。遠い近いに係らず、自分とほぼ似通つた境遇に在る人の死んでゆくといふことが、單にあはれといふでなく此頃は一種の痛苦を覺えさせられるやうになつた。不知不識自身の上に引き比べようとする傾向が生じたのではないかとも思ふ。生を盡せ、命を悉せ、斯ういふ心が、速く/\と自らをせき立てるやうになつたのではないかと思ふ。そして、それは直ちに點じて自己の現在を咒ふの眼ざしとなる。
 今二十七日、故人のために故人の母校たる高等師範學校に於て追悼講演合が開かれ、與謝野寛、平木白星諸氏の講演があるといふ。創作社よりも太田水穗出席同じく「文藝と教育」といふ題で講演する筈である。
 去る二十四日、江東萩寺に於て故落合直文氏の紀念碑除幕式が行はれた。殘念にも差支へがあつて小生は出席するを得なかつた。百四五十名とか集られた故人の知友諸氏の氏名を新聞で見て、所謂新派和歌の歴史も短時日のうちに案外な複雜を生んだものだと思つた。

 一人で三人も五人も勸誘してほしいといふのでない。一人で唯だの一人に購讀勸誘をやつて貰ひたいといふ夙うからの希望が、いまだに一向受取られてゐないのを、寧ろ不思議にも齒痒くも思ふ。今少し經費の融通がきかなくては何をやらうとするにも不自由で仕樣がない。それが出來れば、今度なども頭をぐらぐらさせて三十頁切り縮めの悲劇を行はなくとも濟んだわけだ。さほどの困難もないと思ふ事ゆゑ、早速思ひ立つて事を運んでほしい。わざわざの注文が手數ならば近所の書店に交渉をつけて其處から大賣捌の方へ申込まして貰ひたい。
 評論號は景氣のいゝ方であつた。印刷した殆んど大(233)部を賣捌所へ廻したので、本社宛の註文をばあとの方ではお斷りせねばならなかつた程である。(本社宛に九月號を註文して送品を受けられなかつた人たちに――來月初めには評論號の返品が賣捌店の方から返つて來るが、遲れたけれどそれを送りませうか、それとも評論號を拔きにして十月號から送りませうか、御返事を待つ、御返事なき方には評論號を送ることにします)本號は一層その上にも多く出てほしいものと思ひ、改めて販賣方の加勢を御依頼する次第である。
 直接註文で、先月特價號の特價分不足の人は自身で記憶してゐてついでの時に追加送付を乞ふ。都合では來號も特價になるかも知れぬ。追加など甚だ面倒ながら諒とせられたし。

 誌友大會も豫定以外の好景氣である。案外に遠い土地からの申込の多いのに驚いてゐる。近い所はこれからであらう。春と夏とでは今のところ双方相半ばしてゐるが、或人のいふには春は春夏は夏と二度やつたらどうですとのことだ。人員の都合ではさうしても宜しい。
 講演會、懇親會、市内見物などのほかに地方ではなかなか聽くこと見ることの出來ない優れた新しい音樂や演劇などにも地方の人々のために特に何とかわたりをつけて見たいと思つてゐる。
 全國に渉つた文藝中心の斯ういふ會合は日本では初めての企てであるさうだ。

 今日校正が終つたらすぐ上野の音樂學校の土曜日演奏會に行くつもりだ。郷里に歸つてゐたため久しく聽くことを得なかつたものを久しぶりで聽くことが出來る。ありがたいわけだ。校正よ迅く終れかし、頭もへとへと疲れて來た。迅く、迅く!(九月二十七日午前十一時印刷所にて)
    十一月號(【第三卷第四號】)
▽社告の通り、本號に限り創作詠草の殆んど全部を休掲した。それを待つてゐた人たちに對しては實にお氣の毒に思ふが、來號をたのしみにして我慢してほしい。然し、本號にも充分その代りの材料をば收め得たつもりだ。自作一囘休掲の代りにそれらを充分熟讀して、靜かに自省し修養して頂きたいものと思ふ。單に