若山牧水全集第巻、雄鷄社、514頁、600円、1958.9.30

 

紀行・隨筆 

 

   目次

紀行
金精峠より野州路へ………………………… 5
寺紀行……………………………………20
木枯紀行………………………………………38
こんどの旅……………………………………67
身延七面山紀行………………………………98
信濃の春…………………………………… 128
半折行脚日記……………………………… 143
九州めぐりの追憶………………………… 165
梅雨紀行…………………………………… 194
北海道行脚日記…………………………… 215
北海道感………………………………… 278
朝鮮紀行 葉書日記……………………… 290
朝鮮紀行…………………………………… 295
岬の若葉と雨……………………………… 338

花二三……………………………………… 355
藤の花……………………………………… 358
信州一巡と間温泉……………………… 360
秋立つころ………………………………… 367
火を焚く…………………………………… 373
家のめぐり………………………………… 378
信濃の高原………………………………… 382
たべものの木……………………………… 396
鴉と正坊………………………………… 404
沼津千本松原……………………………… 413
沼津千本松原……………………………… 419
酒と歌……………………………………… 426
金比羅り………………………………… 428
夢…………………………………………… 437
湯槽の朝…………………………………… 442
庭さきの森の春…………………………… 445
野蒜の花…………………………………… 449
千本松原の春……………………………… 454
河口………………………………………… 459
鮎釣に過した夏休み……………………… 464
流るる水…………………………………… 468
居日記…………………………………… 508
竹と風雨…………………………………… 511

(5) 金精峠より野州路へ

 

 上州と野州との國境にあたつてゐる金精峠《こんせいたうげ》の頂上で、其處まで送つて來て呉れた丸沼の養魚場の老番人と私は別れた。そして獨りになつて降り始めた野州路側の山坂は、まつたく掌を立てた樣に嶮しかつた。自然と小走りになつて、一時間もかかることなく麓の平らかな澤に着いた。

 其處には熊笹が身の丈より高く茂つてゐた。ざは/\と音を立てながら足早やに急いでゐると、向うからも同じ樣にして急いで來る男に會つた。上州路へ越ゆる小商人らしかつた。冷たい小流を一二度渡つて、ほどなく熊笹も薄れ、うち開けた湯元湖々畔の平地に出た。大きな落葉松の樹が三本四本と錆びはてた黄葉《もみぢ》を殘して、立ち竝んでゐるのを見た。この樹木は上州路では極めて稀にしか見ぬ樹であつた。熊笹の全く盡きたあたりから枯れはてた葦の原が續いてゐた。葉も穗もからからとうす黄に枯れ靡いてゐる中から、畫布を擔いだ二人の若い畫學生が出て來たりした。

 湯元温泉が目の前に在つた。今少しハイカラな温泉場を豫想して來たのであつたが、矢張り山地の、板屋根の上に石を並べた温泉であつた。そして、それらの板屋根がいかにも低く、ぺつた(6)りと地にねばりついてゐるかの樣に見えた。家數は割合に多く、一握りにした樣に固まつてゐた。

 歩み入ると、道幅は意外に廣くて、ツイ山の根に沿うた入口に馬車の立場があり、一二匹の馬がつないであつた。丸沼の番人に聞いて來た板屋旅館といふのはほぼ宿場の中程の所に在つた。古びた土間に立つて案内を乞ふと、一泊では、といふ風な顔をしてゐたが、それでも愛憎よく通して呉れた。

 部屋は極く粗末な、帳場からは取つ着きにあたる階下《した》の六疊ほどの部屋であつた。一泊者といふので、上州の四萬温泉でもひどい虐待を受けて來たのであつたが、それに比べては此處の内儀や女中の態度は氣持がよかつた。そして久し振に聞く下野の國の訛であつた。二三日うちに逢ふ筈になつてゐるこの國の友人の誰彼の言葉づかひなどが自づとなつかしく思ひ出されて來た。

 構への古びてゐるに似ず、湯殿は新築の明るい綺麗なものであつた。湯槽に溢れた湯は卵色に幾らか青みを帶びてゐた。たつた一人、のび/\と浸つてゐると、自づからにして深い溜息が出て來た。信州の北佐久郡を振出しに歩き始めたのが月の十五日であつた。そして今日は二十八日、その間十四日間をば殆んど歩きづめに歩いて上州の山や谷を横切り、此處まで越えて來たのだ。隨分亂暴に歩いたものであつたが、もう此處まで來れば大丈夫、あとは中禅寺、日光、と次第に賑かな人間界に入つてゆくのである。

(7) 實は此處には暫く滯在して、永い歩行の疲れを休め、出來たらばその途中で出來た歌をも見直し紀行をも書いてゆきたい、と考へて來たのであつた。然し、いよ/\此處まで近づいて來ると、ツイ手近の日光に、宇都宮に、喜連川《きつれがは》に、それ/”\友人たちが待つてゐることが心にいつぱいになつて、とてもぢつとしてゐられない思ひがしだした。で、昨夜丸沼の寒い/\寢床の中で、湯元滯在の豫定を捨てて一日も速くそれ/”\に定めてある土地を廻り歩いて友人たちに逢ふことにしようと考へ直したのであつた。

 溜息が欠伸に變るまで、ぼんやりと私は手足を伸ばして浸つてゐた。其處へ一人の丈高い青年が入つて來た。彼は先づ湯に入る前に湯殿の隅へ行つて油繪具の刷毛を洗ひ始めた。先刻《さつき》途で會つた二人のことも頭に浮び、よほど此處には斯うした畫學生が入り込んでゐるのだナ、と思つた。

『此處の湯は、あまり永湯してはいけない樣ですネ。』

 と、やがて私の側に來て浸りながら彼が言つた。私の額の汗をでも見たのであらう。

『どうしてです。』

『硫黄泉だから、心臓を刺戟すると見えて、あまり永湯したり一日に何度も入つたりすると逆上《のぼ》せて夜眠れません。馴れゝばそれほどでもない樣ですけれど。』

(8)といふ。

 なるほどこの湯の色からも匂ひからも、先づその位ゐの用心はすべきであつた、と惶《あわ》てゝ立ち上りながら、

『どうも難有う、ツイぼんやりしました。あなたはもう暫く御滯在でしたか。』

 私は訊いた。

『今日で三週間目です。』

 身體を拭きながら、何となく私にはこの青年がいま佳き繪をかきかけてゐる樣な氣がしたのであつた。その元氣な、明るい顔と、三週間目とを思ひ合せて。

 部屋に歸ると明るい西日が射してゐた。私は汗じみたシヤツやズボン下、着物などをすべて裏返しにして縁側に乾し竝べた。そして、今日までの十幾日間に、斯んなことをする餘裕も無かつたことなどが思ひ出された。自分自身もそら寒い西日を浴びて暫く其處に長くなつてゐたが、やがて繪葉書でも買つて來ようと、戸外《そと》に出た。

 宿を出て右になほ二三軒の湯宿の續いた前を通りすぎると、直ぐ其處は湖水になつてゐた。其處の岸からは沸々《ふつふつ》と湧き出た湯が深い湯氣をたてながら空しく湖の中に注いでゐるのなども見えた。

 

(9) 初めて見る湯元湖は私の豫想よりも遙かに廣く遙かに深く、そして曾つて見たことのない深い景色を見せて呉れた。屈折の多い山の根がたを浸して、ぴつたりと澄み湛へた靜けさは、先づ私の疲れ緩んだ心を引き緊めた。そして更に私の眼を覺すものは、湖の向う岸からうち聳えた黒木の山であつた。

 温泉場寄の岸邊は遠淺となつてゐるらしく、水際からすぐ枯葦の原となり、その向うに楊《やなぎ》の竝木らしい枯木立がつらなり、やがて先刻見て來た落葉松の木立となり、其處からは急に直角に近い角度で聳え立つた山となつてゐるのだが、その山腹にはそれこそ漆黒色にも見ゆるほどぎつしりと立ち込んだ黒木の森、常磐樹の林が茂つてゐるのである。温泉場から少し左手寄りになると、この嶮しい黒木の山は湖岸から直ちに起つて切り立つて居る。墨色の森の中に諸所、雪の樣な幹を見せて居るのは白樺で、これが一層森の深みと靜けさを増して見せてゐる。

 そしてこれらの茂つた山腹が次第に中空高く聳えて行つた眞上には、白根火山の灰白色の尖峰が槍の樣に、また鋸の樣に、冷やかに臨み立つてゐるのである。

 水は清らかで、殆んど湖水全部が青みを宿した深さに澄んで居る。私の歩いてゐる湖岸に沿うた道の背後には男體山《なんたいざん》が聳えてゐる筈だが、それは其處からは仰がれなかつた。

 繪葉書にもなか/\いゝのがあつた。澤山買ひ込んで宿に歸る。歸ると、丁度時間もよかつた。(10)今夜は久し振りに人里に出たよろこびを味はふべく、精々御馳走をたべようと、あれこれと注文して見たが、殆んど何も出来なかつた。それでも普通の膳部のほかに、中禅寺湖でとれるといふ鱒のフライと豚鍋とを頼むことが出來た。酒をもそれに準じて注文しておき、獨り靜かに火鉢に手をかざしながら盃を取つた。

 いつか戸外には風が出て來た。盃を嘗め、箸をとり、繪葉書を書いてゐる間に、恐ろしい勢ひで庭の木立を吹きはためかしてゐるのが聞えてゐた。

 

 十月二十九日。

 二階ならば嘸ぞ搖れるだらうとおもはれるほど夜を通して木枯がすさんでゐた。眠りつ覺めつ、枕許の水を幾度か飲んでやがて朝日のさしそめたころ、起き上つて見ると不思議な樣に凪いでゐた。雲の影すら見えぬ大空には洽ねく日の光が溢れて、まつたくそよとの風もない。でも、他に何の木とてもない寂しい庭に立ち竝んだ數本の落葉松の梢からは、散るともないこまかな黄葉《もみぢ》がひと葉ふた葉と靜かに散つてゐた。私の立つてゐる縁の下あたりには、昨夜のうちに散つたのであらう、眞新しいその落葉が堆《うづたか》く溜つてゐた。

 あたりの部屋に客のけはひもせぬ靜けさに、此處に正午まで遊んで昨夜の續きの繪葉書でも書(11)いて、それから中善寺へ向はうなどと考へてゐろところへ、二三人の女中たちが大騷ぎで隣室から二三室通しになつた大きな座敷の襖を拂つて大掃除を始めた。けふは日曜で、東京から百人あまりの團體が此處まで徹夜で登つて來るのだとのことだ。それでは、と朝食後直ぐ草鞋を穿いてその宿を出た。

 宿《しゆく》はづれの煙草屋で煙草を買つてゐると店の老婆が、お寒うございます、今朝はこれでお山は四度目の雪でございます、といふ。店を出て振仰ぐと、なるほど湖の對岸からそゝり立つた黒木の山を拔いて聳えて居る白根山の頂上に疎らに白く積つてゐた。道理こそ昨夜からの寒さよ、とそゞろに足が速められたが、湖の岸に出るとまた散歩々調の靜かな足どりになつた。とても急いでは見過せぬ湖から黒木の森の眺めであるのだ。

 その湖の尻に大きな瀧が落ちてゐた。それを見て過ぎると道は戦場ケ原に入つた。方二三里のぴつたりとした圓形の平原、それを圍むのは例の黒木の山々だ。山の根がたにはずらりとまんまろく楢や白樺の枯木立が輪をなして茂り合ひ、その背後を圍んで黒木の山が起つて居る。原の中には幾本かの大きな落葉松が立つてゐるのみで、たゞ打ち渡した枯草の原である。煙る樣に温い日ざしが原に落ちて、道はたゞ一本まつ直ぐに原を貫いて眞向うに續いてゐる。その道が枯木林の間に消えたあたり、林の向うにほんのりと霧か霞の樣なものが棚引いてゐるのが見えた。其處(12)だけにほんのりと立つてゐるので不思議に思うたが、あとで思へば昨夜の烈しい木枯に波だつた中禅寺湖の水煙の名殘であるらしかつた。道では三々五々と打ち連れた例の團體客らしい人たちに出逢つた。何れも多少酒氣を帶び、更に今日の上天氣に醉つてゐる樣に見えてゐた。

 枯木林に入るとやがて一つの大きな溪に沿うた。湯元湖から出て中禅寺に注ぐものである。多くは葉を落し盡した冬木の中に、岩に激しく眞白になりながら流れ下つてゐるのである。道をそれてその溪ばたの危い岩の上に立つてゐる三人づれの西洋人の少年たちの青味を帶びた服の色なども美しかつた。

 ほどなく中禅寺湖に出た。先づ驚いたことは其處が湯元あたりと違つてまだ紅葉の盛りと云つてもいゝことであつた。湖《うみ》べりの道を掩うて立て込んだ木立が見るかぎりに眞紅に染まつた葉を輝かしてゐるのであつた。勿論もう道の上には、草鞋を埋めて散り敷いてゐるのである。その紅葉の木立をすかしてツイ右手に湯元湖よりは遙かに大きい湖が晴れ切つた日ざしを湛へて輝いてゐる。湖の向う岸、いや湖全帶の岸に沿うてひとしなみに自分の歩いてゐる所と同じい樣に紅葉の木立となつて居り、まんまるいその紅葉木との環の背後にはまた湯元と同じく黒木の山がずうつと圍んでゐるのである。

 私もいつか醉つた者の樣に、ふらり/\とその湖《うみ》べりの道を、照り匂ふ紅葉の光に染められな(13)がら歩いて行つた。左手に二荒《ふたら》神社の鳥居があつた。そこを過ぐると大きな宿屋の立竝んだ前に出た。間に郵便局があつた。

 其處に寄つて留置きになつてゐる數通の郵便物を受取つた。幸ひその隣家が洋食屋であつたので、其處に寄つて、折しも時間でもあつたので晝食を注文しながら、手紙や葉書を讀み、必要なものには返事を書いた。かなり永い時間をかけて晝食を終つたが、まだこれから宿につくには早退ぎる。もう一度いま來た道の紅葉を見て來ようと、再び引返して、先づ二荒山に詣でた。

 日の闌《た》くるにつれて紅葉の色のいよ/\深くなるのが感ぜられた。木立を仰ぎ、湖を見、飽くことなく歩いてゐたが、晝食の時に飲んだ酒が非常に身體に利いてゐた。あとでは歩むに苦しくなつたので、道から湖の岸に降り、そこの綺麗な砂の上に寢てしまつた。眠くもあるが、流石に風邪が恐しく眠られない。うと/\してゐるうちに、フイと歌が心のうちから湧いて來た。腹這ひながらノートに書きつけた。

   裏山に雪の來ぬると湖岸《うみぎし》の百木《ももき》のもみぢ散り急ぐかも

   見はるかす四方《よも》の黒木の峰澄みてこの湖岸の紅葉照るなり

   下照るや湖邊《うみべ》の道に竝木なす百木のもみぢ水にかがよひ

   舟うけて漕ぐ人も見ゆみづうみの岸邊のもみぢ照り匂ふ日を

(14)   みづうみの照り澄むけふの秋の空に散りて別るる白雲の見ゆ

 歌を書きつけながら砂の上に横たはつて居る身體のめぐりに楓や錦木、その他名も知らぬ種々雜多の紅葉の散つて來るなかに、これはまた眼だつて柔かな色の、葉も柔かに大きい一種があつた。よく見ると、二三日前、丸沼まで登る途中案内人から教へられたはなの木といふのゝ葉であつた。何やらになつかしくてその葉を口にあてながら一首を詠んだ。

   はなの木のもみぢより濃き錦木の紅葉をよしと誰も言はなくに

 かなりの時間を砂の上に費して午後三時ころ、かねて豫定してゐた米屋旅館に入つた。この宿屋は私の友人の叔父の經營してゐるもので、友人から是非其處に行く樣にと言はれてゐたのであつた。多くある中禅寺湖畔の宿屋のうち、この米屋だけ一軒、普通のと離れて二荒神社と反對の靜かな湖岸に建てられてある。で、通された二階の障子をあけると湖を越して眞正面にいたゞきのその奥の院に祭られてあるといふ二荒山の山全體が仰がれた。この山、またの名を男體山といひ、また黒髪山といふ。この宿から仰ぐ山の姿にはまことにこの二つの名のいづれともふさはしいと思はるゝ雄々しさみづ/\しさが感ぜられた。夕方かけて何處からともない眞白な雲があらはれ、この豐かな山腹を昇りつ降りつしてゐた。

 夕食まで宿の若主人であるⅠ――君に連れられて附近の歌が濱や立木觀音などを見て歩いた。(15)夕食の膳にはどつさり御馳走が出て、昨夕の恨みを晴らすことが出來た。ゆつくりと食べ且つ飲んで、やがて湖に面して廊下に出て見ると湖の面はうすら寒い月の夜となつてゐた。黒髪山もその光に濡れて、晝間より更にくつきりと高く中空に聳えてゐた。

 

 十月三十日、快晴。

 朝は霧が深かつた。湖岸の紅葉は霜に濡れていよ/\美しかつた。華嚴の瀧までⅠ――君が見送つて呉れた。

 あまり瀧といふものゝ好きでない私にも華嚴の瀧だけは流石に見ごとなものだと眺められた。四邊の岩のすがた、冬木立、その間に深い色の紅葉の殘つてゐるのなどもよかつた。Ⅰ――君に別れて馳せ下る九十九折の急坂にはまつたく織る樣な人出であつた。多くは美しく着飾つた都人士で、その間に二人引の人力車が續き、自動車が唸りながらに上下してゐるのである。一時秋の初めから流行したコレラで屏息してゐた人たちが、病氣の終熄と共に斯うして押し出して來たのださうだ。

 般若、方等と呼ぶ二つの瀧が淀んで落ちてゐるのを見るところがあつた。私には瀧よりも、その瀧を見ようとして端なく仰いだ二荒山の荒れ寂びた姿が難有かつた。中禅寺潮の方面から見る(16)この山は前にも云つた樣にいかにもみづ/\しい豐かな山容を持つてをるのだが、一歩こちら側に來て仰ぐと、これまたいかにも二荒山の名に似つかはしい死火山の物寂びた山嶺が仰がるゝのであつた。

 頂上から中腹にかけ、全部龜裂して赤茶けた山肌を洒してゐるのである。

 馬返しの電車終點で打合せておいた通り、S――君に會ふことが出來た。七八年ぶりの再會で、私は辛うじて彼を見分け得たが、彼は私を全く見忘れてゐた。

『でも、まさかあなたがそんな風をして來やうとは思ひませんでしたからなア。』

 と、しげ/\と私の草鞋脚袢尻端折の姿を打ち眺めた。半月ほどの山歩きに、荷物を通して洋傘を擔ぐ古羽織の肩の所などすつかり破れて綿が出てゐたのである。

 直ぐ電車に乘つて日光町の同君方に向つた。途中で裏見の瀧に廻りたかつたが、一先づ日光に落ちついて、それから出直さうといふ同君の意見に從つたのであつた。

 兩人竝んで腰かけた膝の上には電車のガラス窓を通して温かな秋の日がさしてゐた。或る所で、S――君は少し身をくゞめて窓ごしに眞向うの方を仰ぎながら、

『あれが鳴蟲山です、今でもあそこには鹿が出て折々鳴くのを聞くことがありますよ。』

 と一つ二つそれに就いての思ひ出話をした。折からの事ではあり、私にはその事が少なからず(17)興味を惹いた。

   聞きのよき鳴蟲山はうばたまの黒髪山にむかふまろ山

   鹿のゐて今も鳴くとふ下野の鴨蟲山の峰のまどかさ

   友がさす鴨蟲山のまどかなる峰のもみぢは時過ぎて見ゆ

   草枯れし荒野につづくいただきの鳴蟲山の紅葉乏しも

   今にして獵《かり》とどめずば美しき鹿が歩みを其處に見ずならむ

   茸狩に行きてえ狩らずかへるさのゆふ闇に鹿を聞き出でしとふ

   夜更けて聞くといへれどをそごとぞ暮れがたにただ鹿は鳴くとふ

   二聲をつづけてあとを鳴かぬといふ鹿の鳴く音をわれも聞きたし

 日光板挽町の同君宅は、ツイ大谷川《だいやがは》の岸に臨み、川を距てた向うの山はいま紅葉の眞盛りであつた。中禅寺よりよほど季節が遲れてゐるらしい。

 先づ一杯ととり出された酒が、終に夕方まで續き、裏見の瀧は流れてしまつた。電燈がつく樣になると、打連れて明るい町へ出て折から丁度時季だといふ燒鳥を食べることになつた。

 その時我等の寄つた或る料理屋の息子はもと大變に歌が好きであつたが、ツイ數日前失戀の樣なことから榛名山の山上湖に入水して自殺したといふ樣な四方山話からよく聞いて見ると、思ひ(18)もかけぬその人は私の興してゐる歌の結社創作社の舊い社友であつたのであつた。非常に驚いて今はたゞ一人殘された妹さんをも部屋に招いて、いろいろと故人のことを聞いたりした。

 

 十月三十一日、曇。

 宿醉《ふつかよひ》の重い頭で日光山内のお宮からお宮を見て廻つた。はつきりと醒めきらぬ瞳に映る陽明門も束照宮も、三代廟も、たゞ美しいもの、素晴らしいものとのみしかうつらなかつた。却つて其處の博物館の内に心を惹かるゝものがあつた。

 朝から我等のあとを追うて山内を廻るつてゐたといふ昨夜の料理屋の美しい娘さんが友達を三人ほど連れてあちこちと歩いてゐたのに出會つた。この娘さんも、その友達も、みな歌など詠む人であるさうだ。

 とある亭に腰かけて四五人が暫く語つた。あたりに末枯《すが》れてゐる萩などを眺めながら娘さんは言つた、兄の死骸を湖水の底から引上ぐるとその腰のまはりにはいつばいこの花をさして眠つてゐたのであつたことなどを。

 

 十一月一日、雨。

(19) 日光に別れて宇都宮市に向つた。


(20) 鳳來寺紀行

 

 沼津から富士の五湖を廻つて富士川を渡り身延に登り、その奥の院七面山から山づたひに駿河路に越え、梅ケ島といふ人の知らない山奥の温泉に浸つて見るも面白からうし、其處から再び東海道線に出て鷲津驛から濱名湖を横ぎり、名のみは久しく聞いてゐる奥山半僧坊に詣で、地圖で見れば其處より四五里の距離に在るらしい三河新城町に廻つて其處の實家に病臥してゐるK――君を見舞ひ、なほ其處から遠くない鳳來山に登り、山中に在るといふ古寺に泊めて貰つて古來その山の評判になつて居る佛法僧鳥を聽いて來よう、イヤ、佛法僧に限らず、さうして歴巡る山から山に啼いてゐるであらう杜鵑だの郭公だの黒つがだの、すべて若葉の頃に啼く鳥を心ゆくまで聽いて來度いとちやんと豫定をたててその空想を樂しみ始めたのは五月の初めからであつた。折惡しく用が溜つてゐて直ぐには出かけられず、急いでそれを片附けてどうでも六月の初めには發足しようときめてゐた。

 ところが恰度そのころから持病の腸がわるくなつた。旅行は愚か、部屋の中を歩くのすら大儀(21)な有樣となつた。さうして起きたり寢たりして居るうちにいつか六月は暮れてしまつた。七月に入つてやや恢復はしたものの、サテ急に草鞋を穿く勇氣はなく、且つ旅費にあてておいた金もいつの間にかなくなつてゐた。

 七月七日、神經衰弱がひどくなつたと言つて勤めさきを休んで東京からM――君がやつて來た。そして私の家に三四日寢轉んでゐた。その間に話が出て、それでは二人してその計畫の最後の部である三河行だけを實行しようといふことになつた。

 七月十二日午前九時沼津發、同午後二時豐橋着、其處まで新城からK――君が迎へに來てゐた。案外な健康體で、ルパシカなどを着込んでゐた。まだ然し、聲は前通りにかれてゐた。豐川線に乘換へ、豐川驛下車、稻荷樣に詣でた。此處は亡くなつた神戸の叔父が非常に信仰したところで、九州へ歸省の途中彼を訪ふごとに、何故御近所を通りながら參詣せぬと幾度も叱られたものであつた。謂はゞ偶然今日其處へ參詣して、この叔父の事が思ひ出され、その位牌に額づく思ひで、頭を垂れた。

 再び豐川線に乘つて奥に向ふ。この沿線の風景は武藏の立川驛から青梅に向ふ青梅線のそれに實によく似てゐた。たゞ、車窓から見る豐川の流が多摩川より大きいごとく、こちらの方が幾分廣やかな眺めを持つかとも思はれた。

(22) 新城の町は一里にも餘らうかと思はれる古びやかな長々しい一すぢ町で、多少の傾斜を帶び、俥で見て行く兩側の店々には漸くいま灯のついた所で、なか/\に賑つて見えた。豐川流域の平原が次第につまつて來た奥に在る附近一帶の主都らしく、さうした位置もまた武藏の青梅によく似てゐた。

 K――君の家はその長々しい町のはづれに在り、豫《か》ねて聞いてゐた樣に酒類を商ふ古めかしい店構へであつた。鬚の眞白なその父を初め兄夫婦には初對面で、たゞ姉のつた子さんには沼津で一度逢つてゐた。名物の鮎の料理で、夜更くるまで馳走になつた。

 翌日一日滯在、降りみ降らずみの雨間に出でて辨天橋といふあたりを散歩した。この邊の豐川は早や平野の川の姿を變へて溪谷となり、兩岸ともに岩床で、激しい瀬と深い淵とが相繼いで流れてゐる。橋は相迫つた斷崖の間にかけられ、なか/\の高さで、眞下の淵には大きな渦が卷いてゐた。淵を挾んだ上下は共に白々とした瀬となつて、上にも下にも鮎を釣る姿が一人二人と眺められた。この橋の樣子は高さから何から青梅の萬年橋に似て居り、鮎を名物とするところもまた同所と似て居る。武藏の青梅は私の好きな古びた町であつた。

 夜はK――君父子に誘はれて觀月樓といふ料理屋に赴いた。座敷は南向きで嶮崖に臨み、眼下に稻田が開けて、野末の丘陵、更に遠く連山の起伏に對するあたり、成程月や星を觀るにはいい(23)場所であらうと思はれた。惜しいかなその夜も數日來打ち續いた雨催ひの空で、低く垂れた密雲を仰ぐのみであつた。

 友の老父も酒を愛する方であつた。徐ろに相酌みつつ終にまた深更まで飲んでしまつた。

 七月十四日。眼が覺めるとすさまじい雨の音である。今日は鳳来山へ登らうときめてゐた日なので、一層この音が耳についた。

 樫、柏、冬青《もち》、木犀などの老木の立ち込んだ中庭は狹いながらに非常に靜かであつた。ことごとしく手の入れてないまゝに苔が自然に深々とついてゐた。離室の縁に籐椅子を持出してぼんやり庭を見、雨を聞いて居るのは惡い氣持ではなかつたが、サテさうしてもゐられなかつた。M――君と兩人で出立の用意をしてゐると、家内總がかりで留めらるる。そのうちに持ち出された徳利の數が二つ三つと増してゆく間に、いつか正午近くなつてしまつた。雨は小止みもないばかりか、次第に勢を強めて來た。

 漸く私は一つの折衷案を持ち出した。鳳來山登りをやめにして、今日はこれからK――君も一緒にこの溪奥に在る由案内記に書いてある湯谷温泉へ行きませう、そして其處から我等は明日山へ登り、君はこちらへ引返し給へ、若し君獨り引返すのがいやだつたら姉さんを誘はうぢやないか、と。

(24) 斯くして四人、降りしきる中を停車場へ急いで、辛く間に合つた汽車に乘つた。古戰場で聞えてゐる長篠驛あたりからの線路は峽間の溪流に沿うた。そして其處に雨と雲と青葉との作りなす景色は溪好きの私を少なからず喜ばしめた。

 三四驛目で湯谷に着いた。改札口で温泉の所在を訊くと、改札口から廊下續きの建物を指して、それですといふ。成程考へたものだと思つた。湯谷ホテルと呼んでゐるこの温泉宿はこの鐵道會社の經營してゐるものであるのだ。何しろ難有かつた。この大降りに女連れではあるし、田舍道の若し遠くでもあられては眞實困るところであつたのだ。

 通された二階からは溪が眞近に見下された。數日來の雨で、見ゆるかぎりが一聯の瀑布となつた形でたゞ滔々と流れ下つてゐる。この邊から上流をば豐川と言はず、板敷川と呼んで居る樣に川床全體が板を敷いた樣な岩であるため、その流はまことに清らかなものであるさうだが、今日は流石に濁つてゐた。濁つてゐるといふより、隨所に白い渦を卷き飛沫をあげて流れ下つてゐた。對岸の崖には山百合の花、萼の花など、雨に搖られながら咲きしだれてゐるのが見えた。その上に聳えた山には見ごとに若杉が植ゑ込んであつた。山の嶮しい姿と言ひ、杉の青みといひ、徂徠

する雲といひ、必ず杜鵑の居さうな所に思はれたが、雨の烈しいためか終に一聲をも聞かなかつた。

(25) 温泉と云つても沸かし湯であつた。酒や料理は、會社經營の手前か、案外にいものを出して呉れた。繪葉書四五十枚を取り寄せ知れる限りに寄せ書きをした。

 七月十五日。かれこれしてゐるうちに時間がたつて、十二時幾分かの汽車に乘つた。重い曇ではあるが、珍しく雨は落ちて來なかつた。M――君と私とは長篠驛下車、寒狹川に沿うて鳳來山の方へ溯つて行つた。寒狹川もまた岩を穿つて流れてゐる溪であつた。

 途中、鮎瀧といふがあつた。平常から見ごとな瀧とは聞いてゐたが、今日は雨後のせゐで凄しい水勢であつた。路を下りてそれに近づかうとすると遠く水煙が卷いて來て、思はず面を反けねばならなかつた。

 行くこと二里で、麓の村|門谷《かどや》といふに着いた。見るからに古びはてた七八十戸の村で農家の間には煤び切つた荒目な格子で間口を廻らした家なども混つてゐた。山駕籠や、芝居でしか見ない普通の駕籠などの軒先に吊るされてあるのも見えた。とある一軒に寄つて郵便切手を買ひながら山上のお寺に泊めて貰へるか否かを訊ねた。上品な内儀が、泊めては賞へませうが喰べ物が誠に不自由で、とにかく今日の夕飯だけでもこの村の宿屋で召上つてからお登りになつたがいいでせうといふ。

 厚意を謝して其處を出ると直ぐ一軒の宿屋があつた。これも廣重の繪などで見るべき造りの家(26)である。其儘立ち寄らうとしたが、然し其處で夕飯をとるとすると到底今日山へ登る事をばようしないにきまつてゐる。私はいいとしてもM――君は明日はまた山を下らねばならぬ人である。それを思うて、兎にも角にも寺まで行つて見ようといふことになつた。宿屋のはづれに硯を造つてゐる一二軒の家が眼についた。この山の石で造るもので良質の硯の出来るといふ話を聞いたのを思ひ出した。

 黒々と樹木のたちこんだ岩山が眼の前に聳えてゐた。妙義山の小さい形であるが、樹木の茂みが山を深く見せた。宿を外れると直ぐ杉木立の暗い中に入り、石段にかゝつた。僅に數段を登るか登らぬに早やすぐ路の傍へから啼き立つた雉子の聲に心をときめかせられた。

 石段の數は人によつて多少の差はあつたが、いま途中で休んだ茶店の老爺老婆は一千八百七十七段ありますと言下に答へたのであつた。數は兎に角兩人は直ぐ勞れてしまつた。一度二度と腰をおろして休みながら登るうちに右手に一軒の寺があつた、松高院と云つた。今少し登ると翳王院といふがあり、接待茶、繪葉書ありの看板が出てゐた。其處へ寄つて茶の馳走になり繪葉書を買ひ、本堂再建の屋根瓦一枚づつの寄進につき、更に山上遙に續いてゐる石段を登り始めやうとすると、應接してゐたまだ三十歳前後の年若い僧侶が、貴下は若山といふ人ではないか、と訊く。いぶかりながらその旨を答へると、實は今日の正午頃に私の知人の某君といふが來て、昨日か今(27)日、その人が佛法僧鳥を聽くために登つて來る筈だ、來たらばこの寺に泊めて呉れと言ひ置いてツイ先刻歸つたばかりだとの事であつた。では新城町のK――家から山のお寺へも紹介しておくからとの話はその事であつたのかと思ひながら、意外の便宜に二人とも大いに喜んだ。のんきな我等は、この石段の續いた果にまだお寺があるだらうしその一番高い所に在るお寺に泊めて貰はうなどと言ひながらなほ勞れた足を運ばうとしてゐたのであつた。聞けばこの上には東照宮があるのみで、お寺はもう無いのださうである。もと本堂があつたのだけれど、この大正三年に燒失したのださうだ。

 喜びながら手荷物を其處に預け、足ついで故その東照宮までお參りして來ようと再び石段を登つて行つた。大きくはないが古びながらに美しいお宮は見事な老木の杉木立のうす暗いなかに在つた。社務所があつても雨戸が固く閉ざされてゐた。

 お寺に引返して足を伸して居ると、程なく夕飯が出た。新城から提げて歩いてゐた酒の壜を取出して遠慮しながら冷たいまゝ飲んでゐると、燗をして來ませうと温めて貰ふ事が出來た。お膳を出されたのは、廊下に疊の敷かれた樣な所であつたが、居ながらにして眼さきから直ぐ下に押し降《くだ》つて行つてゐる峽間《はざま》の嶮しい傾斜の森林を見下すことが出來た。誠によく茂つた森である。そして峽間の斜め向うにはその森にかぶさる樣に露出した岩壁の山が高々と聳えてゐるのであ(28)る。湧くともなく消ゆるともない薄雲が峽間の森の上に浮いてゐたが、やがて白々と其處を閉ざしてしまつた。そしてツイ窓さきの木立の間をも颯々と流れ始めた。

 まだ酒の終らぬ時であつた。突然、隣室から先刻の年若い僧侶――T――君といふ人で快活な親切な青年であつた――が、

『いま佛法僧が啼いてゐます。』

 と注意してくれた。

 驚いて盃を置き、耳を傾けたが一向に聞えない。

『隨分遠くにゐますが、段々近づいて來ませう。』

 と言ひながらT――君はやつて來て、同じく耳を澄ましながら、

『ソレ、啼いてませう、あの山に。』

 と、岩山の方を指す。

『ア、啼いてます/\、隨分かすかだけれど――。』

 M――君も言つて立ち上つた。

 まだ私には聞えない。何處を流れてゐるか、森なかの溪川の音ばかりが耳に滿ちてゐる。

 二人とも庭に出た。身體の近くを雲が流れてゐるのが解る。

(29)『啼いてますが、あれでは先生には聞えますまい。』

 と、M――君が氣の毒さうにいふ。彼は私の耳の遠いのを前から知つてゐるのである。

 近づくのを待つことに諦めて部屋に入り、酒を續けた。酒が終ると、醉と勞れとで二人とも直ぐぐつすりと眠つてしまつた。

 

 M――君はその翌十六日、降りしきる雨を冒して山を下つて行つた。そして私だけ獨りその後二十一日までその寺に滯在してゐた。その間の見聞記を少し書いて見度い。

 鳳來山は元來噴火しかけて中途でやみ、その噴出物が凝固して斯うした怪奇な形の山を成したものださうである。で、土地の岩層や岩質などを研究するとなか/\複雜で面白いといふことである。高さは海拔僅かに二千三百尺、山塊全體もさう大きなものではないが、切りそいだやうに聳えた大きな岩壁、それらの間に刻み込まれた溪谷など、とにかく眼に立つ眺めを持つて居る。それにさうした岩山に似合はず、不思議によく樹木が育つて、岩壁や裂目にまで見ごとな大木が隙間もなくぴつたりと立ち茂つてゐる。この樹木の繁いことが少なからずこの山の眺めを深くもし大きくもしているのである。多く杉檜等の針葉樹であるが、間々この山獨特の珍しい草木もあるとのことである。

(30) 南面した山の中腹に鳳來寺がある。推古天皇の時僧理修の開創で、更に文武天皇大寶年間に勅願所として大きな堂字が建立されたのださうだ。その後源頼朝もいたくこの寺の薬師如來を信仰して多くの莊園を奉納し、下つて徳川廣忠は子なきを忍びて此所に參寵祈願して家康を生んだといふので家光家綱相續いて殿堂鐘樓樓門その他山林方三里、及び多大の境地を寄附し、新に家康の廟東照宮を置き一時は寺封千三百五十石、十九ケ村の多きに上つたといふことである。(加藤與曾次郎氏著『門谷附近の史蹟』に據る)ところが明治の革新に際し制度の變遷から悉く此等の寺封を取除かれ、その上明治八年及び大正三年兩度の火災で本堂初め十二坊からあつた他の寺々まで燒け失せて今では僅に醫王院松高院の二堂を殘すのみとなつている。現在の住職服部賢定氏これを嘆いて數年間に渉つて鳳來山の裏山にあたる森林の排下げを願ひ出て終に許可を得、それより費用を得て目下本堂建築の工事中である。沸下げを受けた面積三千百十三町七反歩、而かもなほ寺の境内として殘してある森林の面積百五十八町三反歩といふのに見ても如何にこの山を包む森林の廣いかは解るであらう。

 或日私は案内せられて東照宮の裏手から山の頂上の方に登つて行つた。前にも言う通りこの山は岩山ゆゑ、みつちりと樹木の立ち込んだ峯のところ/”\に恰も鉾を立てた樣に森から露出して聳え立つた岩の尖りがある。それらの一つ一つに這ひ登つてこちらの溪、そちらの峽間に茂り合(31)つて麓の方に擴がつて行つゐる森の流を見下してゐると、まことに何とも言へぬ伸びやかな靜かな心になつてゆくのであつた。

 何百丈か何千丈か、乾反《ひそ》り返つて聳え立つた岩壁の頂上に坐つて恐る/\眼下を見てゐると、多くは迫《せこ》になつた森の茂みに籠つて實に數知れぬ鳥の聲が起つてゐる。我等の知つてゐるものは優にその中の一割にも足らぬ。多くは名も聲も聞いた事のないもののみである。僅に姿を見せて飛ぶは鴨樫鳥に啄木鳥位ゐのもので、その他はたゞ其處此處に微妙な音色を立てゝゐるのみで、見渡す限りたゞ青やかな森である。

 中に水戀鳥といふのゝ啼くのを聞いた。非常に透る聲で、短い節の中に複雜な微妙さを含んで聞きなさるゝ。これは全身眞紅色をした鳥ださうで自身の色の水に映るを恐れて水邊に近寄らず、雨降るを待ち嘴を開いてこれを受けるのださうである。そして旱が續けば水を戀うて啼く、その聲がおのづからあの哀しい音いろとなつたのだと云ふ。

 私は此處に來てつく/”\自分に鳥についての知識の無いのを悲しんだ。あれは、あれはと徒らにその啼聲に心をときめかすばかりで、一向にその名を知らず、姿をも知らないのである。山の人ものんきで、殆んど私よりも知らない位ゐであつた。

 石楠木《しやくなぎ》のこの山に多いのをば聞いてゐたが、いかにも豫想外に多かつた。そして他の山のもの(32)と違つた種類であるのに氣がついた。さうなると植物上の知識の乏しいのをも悲しまねばならぬことになるが、兎に角他の石楠木と比べて葉が甚だ細くて技が繋い。檜や栂《とが》の大木の下にこの木ばかりが下草をなしてゐる所もあつた。花のころはどんなであらうと思はれた。葉も枝もどうだんの木と少しも違はないやうな木で釣鐘躑躅といふのがあつた。花がみな釣鐘の形をなし、それこそ指でさす隙間もないほどぎつちりと咲き群がるのださうである。ふり仰ぐ絶壁の中腹などに僅に深山躑躅の散り殘つてゐるのを見る所もあつた。また、苔清水の滴つている岩の肌にうす紫のこまかな花の咲いてゐるのがあつた。岩千鳥といふのださうでいかにも高山植物に似た可憐な花であつた。鳳來寺百合といふ百合も岩に垂れ下つて咲いてゐた。この百合もこの山獨特のものだと聞いてゐた。

 山の尾根から傳つて歩いてゐると、遠く渥美牛島が見えた。またその反對の北の方には果もなく次から次と蜒《うね》り合つた山脈が見えて、やがて雲の間にその末を消してゐる。美濃路信濃路の山となるのであらう。さうした大きな景色を眺めてゐると、我等の坐つた懸崖の眞下の森を啼いて渡る杜鵑の聲がをり/\聞えて來た。もう時季が遲いために、この鳥の啼くのはめつきり少なくなつているのださうである。

 私が山に登つてから三日間は少しの雨間もなく降り續いた。しかも並大抵の降りでなく、すさ(33)まじい響をたてゝ降る豪雨であつた。で、その間は全くその山を包んだ雨聲の中に身うごきならぬ氣持で過してゐたのである。雨に連れて雲が深かつた。明けても暮れても眞白な密雲のなかに、殆んど人の聲を聞かず顔を見ずに過してゐた。

 十八日の晝すぎから晴れて來た。

『今夜こそ啼きますぞ。』

 寺の人が斯う言つて微笑した。最初この寺に登つて來た晩に遠くで啼いたと聞くばかりで、私はまだ樂しんで來た佛法僧を聞くことなしにその日まで過して來たのであつた。この鳥は晴れねば啼かぬのださうだ。

『啼きませうか、啼いて呉れるといゝなア。』

 その夕方は飲み過ぎない樣に酒の量をも加減して啼くのを待つた。洋燈がともり、私の癖の永い時間の酒も終つたが、まだ啼かない。庭に出て見ると、久しく見なかつた星が、嶮しい峰の上にちらちら輝いてゐる。墨の樣に深い色をした峽間の森には、例の名も知れぬ鳥が頻りに啼いてゐるのだが、待つてゐるのはなか/\啼かない。

 九時頃であつた。半ば諦めた私は床を敷いて寢ようとしながら、フツと耳を立てた。そして急いで廊下の窓のところへ行つた。其處の勝手の方からも寺の人が出て來た。

(34)『解りましたか、啼いてますよ。』

『ア、矢張りあれですか、なるほど、啼きます、啼きます。』

 私はおのづから心臓の鼓動の高まるのを覺えた、そしてまたおのづからにして次第に心氣の潜んでゆくのをも。

 なるほどよく啼く。そして實にいゝ聲である。世の人の珍しがるのも無理ならぬことだと眼を瞑ぢて耳を傾けながら微笑した。

『自分の考へてゐたのとは違つてゐる。』

 とも、また、思つた。

 私は初めこの佛法僧といふ鳥を、山城の比叡山あたりで言つてゐる筒鳥といふのと同じものだと豫想してゐた。その啼き聲が、佛、法、僧といふと云ふところから、曾つて親しく聞いたことのある筒鳥の啼き聲を聯想せざるを得なかつた。筒鳥の聲が聞きやうによつてはさう聞えないものでもないからである。たゞ筒鳥は單に佛、法、僧といふ如く三音に響いて切れるでなく、ホツホツホツホツホウと幾つも續いて釣瓶打に啼きつゞけるのである。然し、その寂びた靜かな音いろはともすると佛法僧といふ發音や文字づらと關聯して考へられがちであつたのだ。

 まことの佛法僧は筒鳥とは違つてゐた。然し、その啼き聲を佛、法、僧と響くといふのも甚だ(35)當を得てゐない。これは佛法の盛んな頃か何か、或る僧侶たちの考へたこぢつけに相違ないと私は思つた。この鳥の聲はそんな枯れさびれたものではないのである。いかにも哀音悲調と謂つた風の、うるほひのある澄み徹つた聲であるのだ。いかにも物かなしげの、迫つた調子を持つてゐるのである。

 そして佛、法、僧という風に三音をば續けない。高く低くたゞ二音だけ繰返す。その二音の繰返しが十度び位ゐも切々《せつ/\》として繰返さるゝと、合の手見た樣に僅かに一度、もう一音を加へて三音に啼く。それをこぢつけて佛法僧と呼んだものであらう。普通はたゞ二音を重ねて啼くのである。

 たとへば郭公の啼くくのが、カツ、コウと二音を重ねるのであるが、あれと似てゐる。然し似てゐるのはたゞそれだけで、その音色の持つ調子や心持は全然違つてゐる。郭公も實に澄んだ寂しい聲であるが、佛法僧はその寂びの中に更に迫つた深みと鋭どさとを含んで居る。さればとて杜鵑の鋭どさでは決してない。言ひがたい圓みとうるほひとを其鋭どさの中に包んでゐる。兎に角、筒鳥にせよ、郭公にせよ、杜鵑にせよ、その啼聲のおほよその口眞似も出來、文字にも書くことが出來るが、佛法僧だけは到底むつかしい。器用な人ならば或は口眞似は出來るかも知れぬが、文字には到底不能である。それだけ他に比して複雑さを持つてゐるとも謂へるであらう。

(36) 不思議に四月の二十七日か若しくはその翌日の八日かゝら啼き始めるのださうである。始んどその日を誤らないといふ。南洋からの渡り鳥で、全身緑色、嘴と足とだけが紅く、大きさはおほよそ鴨に似てゐるさうだ。稀には晝間に啼くこともあるさうだが、決して姿を見せない。山に住んで居る者でも誰一人それを見た者はないといふ。

 この鳥も郭公などと同じく、暫くも同じところに留つてゐない。啼き始めると續けさまにその物悲しげな啼聲を續けるのであるが、殆んどその一聯ごとに場所を換へて啼いてゐる。それも一本の木の枝をかへて啼くといふでなく、一町位ゐの間を置いて飛び移りつゝ啼くのである。このことが一層この鳥の聲を迫つたものに聞きなさせる。

 十八日、私は殆んど夜どほし窓の下に坐つて聽いてゐた。うと/\と眠つて眼をさますと、向うの峯で啼くのが聞える。一聲二聲と聞いてゐると次第に眠が冴えて、どうしても寢てゐられないのである。

 星あかりの空を限つて聳えた嶮しい山の峰からその聲が落ちて來る。ぢいつと耳を澄ましてゐると、其處に行き、彼處に移つて聞えて來る。時とすると更け沈んだ山全體が、その聲一つのために動いてゐる樣にも感ぜらるゝのである。

 十九日の夜もよく啼いた。そして午前の四時頃、他のものでは蜩《ひぐらし》が一番早く聲を立つるのであ(37)るが、それをきつかけに佛法僧はぴつたりと黙つてしまふ樣である。それから後はあれが啼きこれが叫び、いろ/\な鳥の聲々が入り亂れて山が明けて行く。

 二十日に私は山を下つた。體在六日のうち、二晩だけ完全にこの鳥を聞くことが出來た。二晩とも闇であつたが、月夜だつたら一層よかつたらうにと思はれた。また、月夜にはとりわけてよく啼くのださうである。いつかまた月のころに登つてこの寂しい鳥の聲に親しみたいものだ。


(38) 木枯紀行

      ――ひと年にひとたび逢はむ斯く言ひて別れきさなり今ぞ逢ひぬる――

 

 十月二十八日。

 御殿場より馬車、乘客はわたし一人、非常に寒かつた。馬車の中ばかりでなく、枯れかけたあたりの野も林も、頂きは雲にかくれ其處ばかりがあらはに見えて居る富士山麓一帶もすべてが陰鬱で、荒々しくて、見るからに寒かつた。

 須走の立場で馬車を降りると丁度其處に蕎麥屋があつた。これ幸ひと立寄り、先づ酒を頼み、一本二本と飲むうちにやゝ身内が温くなつた。仕合せと傍への障子に日も射して來た。過ぎるナ、と思ひながら三本目の徳利をあけ、女中に頼んで買つて來て貰つた着茣蓙を羽織り、脚輕く蕎麥屋を立ち出でた。

 宿場を出はづれると直ぐ、右に曲り、近道をとつて籠坂峠の登りにかかつた。おもひのほかに嶮しかつた。酒は發する、息は切れる、幾所《いくところ》でも休んだ。そしていつもの通り旅行に出る前には留守中の手當爲事《てあてしごと》で睡眠不足が續いてゐたので、休めば必ず眠くなつた。一二度用心したが、終(39)に或所で、萱か何かを折り敷いたまゝうと/\と眠つてしまつた。

『モシ/\、モシ/\。』

 呼び起されて眼を覺すと我知らずはつとせねばならなかつた程、氣味の惡い人相の男がわたしの前に立つてゐた。顔に半分以上の火傷があり眼も片方は盲ひて引吊つてゐた。

『風邪をお引きになりますよ。』

 わたしの驚きをいかにも承知してゐたげにその男は苦笑して、言ひかけた。

 わたしはやゝ恥しく、憧てゝ立ち上つて帽子をとりながら禮を言つた。

『登りでしたら御一緒に參りませう。』

 とその若い男は先に立つた。

 酒を過して眠りこけてゐた事をわたしは語り、彼は束京の震災でこの火傷を負うた旨を語りつつ、峠に出た。

 吉田で彼と別れた。彼は何か金の事で東京から來て、昨日は伊豆の親類を訪ね、今日はこれより大月の親類に廻つて助力を乞ふつもりだといふ樣な事を問はず語りに話し出した。いかにも好人物らしく、彼が同意するならば一緒に今夜吉田で泊るも面白からうなどとわたしは思うた。が、先を急ぐと云つて、そゝくさと電車に乘つて彼は行つてしまつた。

(40) ほんの一寸の道づれであつたが、別れてみれば淋しかつた。それにいつか暮れかけては來たし、風も出、雨も降り出した。其儘、吉田で泊らうかと餘程考へたが、矢張り豫定通り河口湖の岸の船津まで行く事にし、両手で洋傘《かうもり》を持ち、前こゞみになつて、小走りに走りながら薄暗い野原の路を急いだ。

 午後七時、湖岸の中屋ホテルといふに草鞋をぬいだ。

 

 十月二十九日。

 宿屋の二階から見る湖にはこまかに雨が煙つてゐたが、やゝ遅い朝食の濟む頃にはどうやら晴れた。同宿の郡内屋(土地産の郡内織を賣買する男ださうで女中が郡内屋さんと呼んでゐた)と共に俄かに舟を仕立て、河口湖を渡ることにした。

 眞上に仰がるべき富士は見えなかつた。たゞ眞上に雲の深いだけ湖の岸の紅葉が美しかつた。岸に沿うた村の柿の紅葉がことに眼立つた。こゝらの村は湖に沿うてゐながら井戸といふものがなく、飲料水には年中苦勞してゐるのださうだ。熔岩地帶であるためだといふ。

 渡りあがつた所の小村で郡内屋と別れ、ルツクサツクの重みを快く屑に背に感じながらわたしはいい氣持で歩き出した。直ぐ、西湖に出た。小さいながらに深く湛へてゐるこの湖の縁を歩き(41)つくした所に根場《ねんば》といふ小さな部落があつた。所の祭禮らしく、十軒そこ/\の小村に幟が立てられ、太鼓の音が響いてゐた。

 不圖見ると村に不似合の小椅麗なよろづ屋があつた。わたしは其處に寄り、酒と鑵詰とを買ひ、なほ内儀の顔色をうかがひながらおむすびを握つて貰へまいかと所望してみた。お安いことだが、今日は生憎くお赤飯だといふ。なほ結構ですと頼んで、揃つた夫等を風呂敷に包んで提げながら、其處を辭した。今朝、雨や舟やで、宿屋で此等を用意するひまがなく、また急げば晝までには精進湖まで漕ぎつけるつもりで立つて來たのであつた。然し、次第に天氣の好くなるのを見てゐると、これから通りかゝる筈の青木が原をさう一氣に急いで通り過ぎることは出來まいと思はれたので、店のあつたを幸ひに用意したのであつた。

 樹海などと呼びなされてゐる森林青木が原の中に入つたはそれから直ぐであつた。成る程好き森であつた。上州信州あたりの山奥に見る森林の鬱蒼たる所はないが、明るく、而かも寂びてゐた。木に大木なく、而かもすべて相當の樹齢を持つてゐるらしかつた。これは土地が一帶に火山岩の地面で、土氣《つちけ》の少ないためだらうと思はれた。それでゐて岩にも、樹木の幹にも、みな青やかな苔がむしてゐた。

 多くは針葉樹の林であるが、中に雑木も混り、とりどりに紅葉してゐた。中でも楓が一番美し(42)かつた。楓にも種類があり、葉の大きいのになるとわたしの掌をひろげても及ばぬのがあつた。小さいのは小さいなりに深い色に染つてゐた。多くは栂《とが》らしい木の、葉も幹も眞黒く見えて茂つてゐるなかに此等の紅葉は一層鮮かに見えた。

 わたしは路をそれて森の中に入り、人目につかぬ樣な所を選んで風呂敷包を開いた。空が次第に明るむにつれ、風が強くなつた。あたりはひどい落葉の音である。樅《もみ》か栂のこまかい葉が落ち散るのである。雨の樣な落葉の音の中に混つて頻りに山雀《やまがら》の啼くのが聞える。よほど大きな群らしく、相引いて次第に森を渡つてゆくらしい。と、ツイ鼻先の栂の木に來て樫鳥が啼き出した。これは二羽だ。例の鋭い聲でけたゝましく啼き交はしてゐる。

 長い晝食を終つてわたしはまた森の中の路を歩き出した。誰一人ひとに會はない。歩きつ休みつ、一時間あまりもたつた頃、森を出外れた。そして其處に今までのいづれよりも深く湛へた靜かな湖があつた。精進湖である。客も無からうにモーターボートの渡舟が岸に待つてゐた。快い速さで湖を突つ切り、山の根つこの精進村に着いた。山田屋といふに泊る。

 

 十月三十日。

 宿屋に瀕死の病人があり、こちらもろく/\え眠らずに一夜を過した。朝、早く立つ。

(43) 坂なりの宿場を通り過ぎると愈々嶮しい登りとなつた。名だけは女坂峠といふ。掘割りの樣になつた凹みの路には堆く落葉が落ち溜つてじとじとに濡れてゐた。

 越え終つて溪間に出、溪沿ひに少し歩き溪を渡つてまた坂にかゝつた。左右口峠《うばぐとたうげ》といふ。この坂は路幅も廣く南を受けて日ざしもよかつたが、九十九折の長い/\坂であつた。退屈しい/\登りついた峠で一休みしようと路の左手寄りの高みの草原に登つて行つてわたしは驚喜の聲を擧げた。不圖振返つて其處から仰いだ富士山が如何に近く、如何に高く、而してまたいかばかり美しくあつたことか。

 空はむらさきいろに晴れてゐた。その四方の空を占めて天心近く暢びやかに聳え立つてゐる山嶺を仰ぐにはこちらも身を頭をうち反らせねばならなかつた。今日の深い色の空の眞中に立つこの山にもまた自づと深い光が宿つてゐた。半ばは純白の雪に輝き、なかばは山肌の黒紫《くろむらさき》が沈んだ色に輝いてゐた。而してその山肌には百千の糸卷の糸をほどいて打ち垂らした樣に雪がこまかに尾を引いてしづれ落ちてゐるのであつた。

 峠を下り、やゝ勞れた脚で笛吹川を渡らうとすると運よく乘合馬車に出合つてそれで甲府に入つた。甲府驛から汽車、小淵澤驛下車、改札口を出やうとすると、これは早や、かねて打合せてあつた事ではあるが信州松代在から來た中村柊花君が宿屋の寢衣を着て其處に立つてゐた。

(44)『やア!』

『やア!』

 打ち連れて彼の取つてゐた宿いと屋といふに入つた。

 親しい友と久し振に、而かも斯うした旅先などで出逢つて飲む酒位ゐうまいものはあるまい。風呂桶の中からそれを樂しんでゐて、サテ相對して盃を取つたのである。飲まぬ先から心は醉うてゐた。

 一杯々々が漸く重なりかけてゐた所へ思ひがけぬ來客があつた。この宿に止宿してゐる小學校の先生二人、いま書いて下げた宿帳で我等が事を知り、御高論拜聽と出て來られたのである。

 漸くこの二人をも酒の仲間に入れは入れたが要するに座は白けた。先生たちもそれを感じてかほど/\で引上げて行つた。が、我等二人となつても初めの氣持に返るには一寸間があつた。

『あなたはさぼしといふものを知つてますか。』と、中村君。

『さア、聞いた事はある樣だが……』

『此の地方の、先づ名物ですかネ、他地方で謂う達磨の事です。』

『ほゝウ。』

『行つて見ませうか、なか/\綺麗なのもゐますよ。』

(45) 斯くて二人は宿を出て、怪しき一軒の料理屋の二階に登つて行つた。そしてさぼしなるものを見た。が、不幸にして中村君の保證したゞけの美しいのを拜む事は出來なかつた。何かなしに唯がぶ/\と酒をあふつた。

 二人相縺れつゝ宿に歸つたのはもう十二時の頃であつたか。ぐつすりと眠つてゐる所をわたしは起された。宿の息子と番頭と二人、物々しく手に/\提灯を持つて其處に突つ立つてゐる。何事ぞと訊けば、おつれ樣が見えなくなつたといふ。見れば傍の中村君の床は空である。便所ではないかと訊けば、もう充分に探したといふ。サテは先生、先刻の席が諦めきれず、またひそかに出直して行つたと見える。わたしはさう思うたので笑ひかながらその旨を告げた。が、番頭たちは強硬であつた。あなた達の歸られた後、店の大戸には錠をおろした。その錠がそのまゝになつてゐる所を見ればどうしてもこの家の中に居らるゝものとせねばならぬ……。

『實はいま井戸の中をも探したのですが……』

『どうしても解らないとしますと駐在所の方へ屆けておかねばならぬのですが……』

 吹き出し度いながらにわたしも眼が覺めてしまつた。

 如何なる事を彼は試みつゝあるか、一向見當がつきかねた。見廻せば手荷物も洋服も其儘である。

(46) 其處へ階下からけたゝましい女の叫び聲が聞えた。

 二人の若者はすはとばかりに飛んで行つた。わたしも今は帶を締めねばならなかつた。そして急いで階下へおりて行つた。

 宿の内儀を初め四五人の人が其處の廊下に並んで突つ立つてゐる。宵の口の小學教師のむつかしい顔も見えた。自《おのづ》からときめく胸を抑へてわたしは其處へ行つた。と、またこれはどうしたことぞ、其處は大きなランプ部屋であつた。さま/”\なランプの吊り下げられた下に、これはまたどうした事ぞ、わが親友は泰然として坐り込んでゐたのである。

『どうもこのランプ部屋が先刻からがた/\いふ樣だものですから、いま來て戸をあけて見ましたらこれなんです、ほんとに妾《わたし》はもうびつくりして……』

 内儀はたゞ息を切らしてゐる。怒るにも笑ふにもまだ距離があつたのだ。

 わたしとしても早速には笑へなかつた。先づ居並ぶ其處の人たちに陳謝し、サテ徐ろにこの石油くさき男を引つ立てねばならなかつた。

 

 十月三十一日。

 早々に小淵澤の宿を立つ。空は重い曇であつた。

(47) 宿場を出外れて路が廣い原にかゝるとわたしの笑ひは爆發した。腹の底から、しんからこみあげて來た。

『どうして彼處に這入る氣になつた?』

『解らぬ。』

『這入つて、眠つたのか。』

『解らぬ。』

『何故《なぜ》戸を閉めてゐた。』

『解らぬ。』

『何故坐つてた。』

『解らぬ。』

『見附けられてどんな氣がした。』

『解らぬ。』

 一里行き、二里行き、わたしは始終腹を押へどほしであつた。何事も無かつた樣な、まだ身體の何處やらに石油の餘香を捧持してゐさうな、丈高いこの友の前に立つても可笑しく、あとになつても可笑しかつた。が、笑つてばかりもゐられなかつた。二晩つゞきの睡眠不足はわたしの足(48)を大分鈍らしてゐた。それに空模樣も愈々怪しくなつて來た。三里も歩いた頃、長澤といふ古びはてた小さな宿場があつた。其處で晝をつかひながら、この宿場にあるといふ木賃宿に泊る事をわたしは言ひ出した。が、今度は中村君の勢ひが素晴しくよくなつた。どうしても豫定の通り國境を越え、信州野邊山が原の中に在る板橋の宿《しゆく》まで行かうといふ。

 我等のいま歩いてゐる野原は念場が原といふのであつた。八ケ嶽の南麓に當る廣大な原である。所々に部落があり、開墾地があり、雜草地があり林があつた。大小の石ころの間斷なく其處らに散らばつてゐる荒々しい野原であつた。重い曇で、富士も見えず、一切の眺望が利かなかつた。

 止むなく彼の言ふ所に從つて、心殘りの長澤の宿《しゆく》を見捨てた。また、先々の打ち合せもあるので豫定を狂はす事は不都合ではあつたのだ。路はこれからとろ/\の登りとなつた。この路は昔(今でもであらうが)北信州と甲州とを繋ぐ唯一の道路であつたのだ。幅はやゝ廣く、荒るゝがまゝに荒れはてた惡路であつた。

 とう/\雨がやつて來た。細かい、寒い時雨である。二人とも無言、めい/\に洋傘をかついで、前こゞみになつて急いだ。この友だとて身體の勞れてゐぬ筈はない。大分怪しい足どりを強ひて動かしてゐるげに見えた。よく休んだ。或る所では長澤から仕入れて來た四合壜を取り出し、路傍に洋傘をたてかけ、その蔭に坐つて啜り合つた。

(49) 恐れていた夕闇が野末に見え出した。雨はやんで、深い霧が同じく野末をこめて來た。地圖と時計とを見較べ/\急ぐのであつたが、すべりやすい粘土質の坂路の雨あがりではなか/\思ふ樣に歩けなかつた。そのうち、野末から動き出した濃霧はとう/\我等の前後を包んでしまつた。

 まだ二里近くも歩かねば板橋の宿には着かぬであらう、それまでには人家とても無いであらうと急いでゐる鼻先へ、意外にも一點の灯影を見出した。怪しんで霧の中を近づいて見るとまさしく一軒の家であつた。ほの赤く灯影に染め出された古障子には飲食店と書いてあつた。何の猶豫もなくそれを引きあけて中に入つた。

 入つて一杯元氣をつけてまた歩き出すつもりであつたのだが、赤々と燃えてゐる圍爐裡の火、竈の火を見てゐると、何とももう歩く元氣は無かつた。わたしは折入つて一宿の許しを請うた。圍爐裡で何やらの汁を煮てゐた亭主らしい四十男は、わけもなく我等の願ひを容れて呉れた。

 我等のほかにもう一人の先客があつた。信州海の口へ行くといふ荷馬車挽きであつた。それに亭主を入れて我等と四人、圍爐裡の焚火を圍みながら飲み始めた酒がまた大變なことゝなつた。

 折々誰かゞ小便に立つとて土間の障子を引きあけると、捩《ね》ぢ切る樣な霧がむく/\とこの一座の上を襲うて來た。


(50) 十一月一日。

 酒を過した翌朝は必ず早く眠が覺めた。今朝もそれであつた。正體なく寢込んでゐる友人の顔を見ながら枕許の水を飲んでゐると、早や隣室の圍爐裡ではぱち/\と焚火のはじける音がしてゐる。早速にわたしは起き上つた。

 まだランプのともつた爐端には亭主が一人、火を吹いてゐた。膝に四つか五つになる娘が抱かれてゐた。昨夜から眼についてゐた事であつたが、この子の鼻汁は鼻から眼を越えて瞼にまで及んでゐた。今朝もそれを見い/\この子の名は何といひましたかね、と念のため訊いてみた。マリヤと云ひますよとの答へである。そして、それはこの子の生れる時、何とかいふ耶蘇の學者がこの附近に耶蘇の学校を建てるとか云つて來て泊つてゐて、名づけてくれたのだといふ。

『昨晩はどうも御馳走さまになりました。』

 と、やがてそのマリヤの父親はにや/\しながら言つた。

『イヤ、お騷がせしました。』

 とわたしは頭を掻いた。

 其處へ荷馬車挽きも起きて來た。

 煙草を二三本吸つてゐるうちに土間の障子がうす蒼く明るんで來た。顔を洗ひに戸外《おもて》に出よう

(51)とその障子を引きあけて、またわたしは驚いた。丁度眞正面に、廣々しい野原の末の中空に、冨士山が白麗朗と聳えてゐたのである。昨日はあれをその麓から仰いで來たに、とうろたへて中村君を呼び起したが、返事もなかつた。

 膳が出たが、わが相棒は起きて來ない。止むなく三人だけで始める。今朝は炬燵を作りその上で一杯始めたのである。霧は既に晴れ、あけ放たれた戸口からは朝日がさし込んで炬燵にまで及んで居る。そしていつの間に出て來たものか、見渡す野原も、その向う下の甲州路も一面の雲の海となつてしまつた。富士だけがそれを拔いて獨りうらゝかに晴れてゐる。二三日前にツイこの向うの原で鹿が鳴いたとか、三四尺の雪に閉ぢこめられて五日も十日も他人の顔を見ずに過す事が間々あるとか、丁度此處は甲州と信州との境に當つてゐるので、この家のことを国境といふとかいふ樣な話のうちに、おとなしく朝食は終つた。

 困つたのはランプ部屋居士である。砂糖湯を持つて行き、梅干茶を持つて行き、お迎へに一杯冷たいのをぐつとやつて見ろとて持つて行くが、持つて行つたものを大抵飲み干すが、なか/\御神輿《おみこし》が上らない。『とても歩けさうにない、あのお荷物を頼みますよ。』とわたしが言つたので荷馬車屋もよう立ちかねてゐる。六時から十時まで、さうして過した。『いつまでもこれでは困るだらう、お前さん先に行つて呉れ。』

(52) と荷馬車屋を立たせようとしてゐる所へ、蹌踉として起きて來た。ランプ部屋ではまだ何處やら勇ましかつたが、今朝はあはれ見る影もない。

 早速出立、實によく晴れて、霜柱を踏む草鞋の氣持はまさしく腦にも響く快さである。昨日はその南麓を巡つて來た八ケ嶽の今日は北の裾野を横切つてゐるわけである。からりと晴れたこの山のいただきにもうつすらと雪が來てゐた。

『大丈夫か、腰の所を何かで結《ゆは》へやうか。』

『大、丈、夫、です。』

 と、居士は荷馬車の尻の米俵の上に鎭座ましまし、こくりくと搖られてゐる。

 野原と云つても多くは落葉松の林である。見る限りうす黄に染つたこの若木のうち續いてゐる樣はすさまじくもあり、また美しくも見えた。方數里に亙つてこれであらう。

 漸く歌を作る氣にもなつた。

   日をひと日わが行く野邊のをちこちに冬枯れはてて森ぞ見えたる

   落葉松は瘠せてかぼそく白樺は冬枯れてただに眞白かりけり

 二里あまり歩いてこの野のはづれ、市場といふへ來た。此處にも一軒屋の茶店があつた。綺麗な娘がゐるといふので晝食をする事にした。

(53) 其處より逆落しの樣な急坂を降れば海の口村、路もよくなり、もう中村君も歩いてゐた。やゝ歩調も整うて存外に早く松原湖に著き、湖畔の日野屋旅館におちついた。まだ誰も來てゐなかつた。

 程なく布施村より重田行歌、荻原太郎の兩君、本牧村より大澤茂樹君、遠く松本市より高橋希人君がやつて來た。これだけ揃ふとわたしも氣が大きくなつた。昨日一昨日は全く心細かつた。

 夕方から凄じい木枯が吹き出した。宿屋の新築の別館の二階に我等は陣取つたのであつたが、たび/\その二階の搖れるのを感じた。

 宵早く雨戸を締め切つて、歌の話、友の噂、生活の事、語り終ればやがて枕を並べて寢た。

   速く來つ友もはるけく出でて來て此處に相逢ひぬ笑みて言《こと》なく

   無事なりき我にも事の無かりきと相逢ひて言ふその喜びを

   酒のみの我等がいのち露霜の消《け》やすきものを逢はでをられぬ

   湖《うみ》べりの宿屋の二階寒けれや見るみづうみの寒きごとくに

   隙間洩る木枯の風寒くして洒の匂ひぞ部屋に搖れたつ

 

 十一月二日。

(54) 夜つぴての木枯であつた。たび/\眼が覺めて側を見ると、皆よく眠つてゐた。わたしは端で窓の下、それからずらりと五人の床が並んでゐるのである。その木枯が今朝までも吹き通してゐたのである。そして木の葉ばかりを吹きつける雨戸の音でないと思うて聽いてゐたのであつたが、果して細かな雨まで降つてゐた。

 午前中をば膝せり合せて炬燵に噛りついて過した。晝すぎ、風はいよいよひどいが、雨はあがつた。他の四君は茸とりにとて出かけ、わたしは今日どうしても松本まで歸らねばならぬといふ高橋君を送つて湖畔を歩いた。ひどい風であり、ひどい落葉である。別れてゆく友のうしろ姿など忽ち落葉の渦に包まれてしまつた。

 茸は不漁であつたらしいが、何處からか彼等は青首の鴨を見附けて來た。山の芋をも提げて來た。善哉《ぜんざい》々々と今宵も早く戸をしめて圓陣を作つた。宵かけてまた時雨、風もいよ/\烈しい。が、室内には七輪にも火鉢にも火がかつかと熾《おこ》つた。

 どうした調子のはずみであつたか、我も知らずひとにも解らぬが、ふとした事から我等は一齊に笑ひ出した。甲笑ひ乙應じ、丙丁戊みな一緒になつて笑ひくづれたのである。それが僅かの時間でなく、絶えつ續きつ一時間以上も笑ひ續けたであらう。あまり笑ふので女中が見に來て笑ひこけ、それを叱りに來た内儀までが廊下に突つ伏して笑ひころがるといふ始末であつた。たべた(55)茸の中に笑ひ茸でも混つてゐたのか知れない。

 

 十一月三日。

 相も變らぬ凄じい木枯である。宿の二階から見てゐると湖の岸の森から吹きあげた落葉は凄じい渦を作つて忽ちにこの小さな湖を掩ひ、水面をかくしてしまふのである。それに混つて折々樫鳥までが吹き飛ばされて來た。そしてたま/\風が止んだと見ると湖水の面にはいちめんに眞新しい黄色の落葉が散らばり浮いてゐるのであつた。落葉は楢が多かつた。

 今日は歌を作らうとて皆むつかしい顔をすることになつた。

   木枯の過ぎぬるあとの湖をまひ渡る鳥は樫烏かあはれ

   聲ばかり鋭き鳥の樫鳥ののろのろまひて風に吹かるる

   樫鳥の羽根の下羽の濃むらさき風に吹かれて見えたるあはれ

   はるけくも昇りたるかな木枯にうづまきのぼる落葉の渦は

   ひと言を誰かいふただち可笑しさのたねとなりゆく今宵のまどゐ

   木枯の吹くぞと一人たまたまに耳をたつるも可笑しき今宵

   笑ひこけて臍の痛むと一人いふわれも痛むと泣きつつぞ言ふ

(56)   笑ひ泣く鼻のへこみのふくらみの可笑しいかなやとてみな笑ひ泣く

 

 十一月四日。

 今日はわたしは皆に別れて獨り千曲川の上流へと歩み入るべき日であつたが、『わが若草の妻し愛《かな》しも』とばかり言ひ張つてゐる重田君の宅を布施村に訪うてそのわか草の新妻の君を見る事になつた。

 やれとろゝ汁よ鯉こくよとわが若草の君をいたはり勵まし作りあげられた御馳走に面々悉く食傷して昨夜の勢ひなくみなおとなしく寢てしまうた。

 

 十一月五日。

 總勢岩村田に出で、其處で別れる事になつた。たゞ大澤君は細君の里なる中込驛までとてわたしと同車した。もうその時は夕暮近かつた。

 四五日賑かに過したあとの淋しさが、五體から浸み上つて來た。中込驛で降りやうとする大澤君を口説き落して汽車の終轉馬流驛まで同行する事になつた。

 泊つた宿屋が幸か不幸か料理屋兼業であつた。乃《すなは》ち内藝者の總上げをやり、相共に繰返してう(57)たげる伊那節の唄。

   逢うてうれしや別れのつらさ逢うて別れがなけりやよい

 

 十一月六日。

 どうも先生一人をお立たせするのは氣が揉めていけない、もう一日お伴しませう、と大澤君が憐憫の情を起した。そして共に草鞋を履き、千曲川に沿うて鹿の湯温泉といふまで歩いた。

 其處で鯉の味噌燒などを作らせ一杯始めてゐる所へ、裁判官警察官山林官聯合といふ一行が押し込んで來た。そして我等二人は普通の部屋から追はれて、臺所の上に當る怪しき部屋へ押込まれた。下からは炊事の煙が濛々として襲うて來るのである。

『これア耐らん、まつたくの燻《いぶ》し出しだ。』

 と言ひながら我等は膳をつきやつてまた草鞋を履いた。

 夕闇寒きなかを一里ほど川上に急いで、湯澤の湯といふへ着いた。

 

 十一月七日。

 朝、沸し湯のぬるいのに入つてゐるとごう/\といふ木枯の音である。ガラス戸に吹きつけら(58)れ、その破れをくゞつて落葉は湯槽の中まで飛んで來た。そしてとう/\雨まで降り出した。

 終日、二人とも、炬燵に潜つて動かず。

 

 十一月八日。

 誘ひつ誘はれつする心はとう/\二人を先日わたしと中村君と晝食した市場といふ原中の一軒家まで連れて行つた。其處で愈々お別れだと土間に切られた大きな爐に草鞋を踏み込んで盃を取らうとすると不圖其處の壁に見ごとな雉子が一羽かけられてあるのを見出した。これを料理して貰へまいかと言へば承知したといふ。其處へ先日から評判の美しい娘が出て來て、それだつたら二階へお上りなさいませといふ。兩個相苦笑して草鞋をぬぐ。

 いつの間にやら夜になつてゐた。初めちよい/\顔を見せてゐた娘は來ずなり、代つてその親爺といふのが徳利を持つて來た。そして北海道の監獄部屋がどうの、ピストルや匕首《あひくち》が斯うのといふ話を獨りでして降りて行つた。小半日、ぐづくして終に泊り込んだ我等をそれで天晴れ威嚇したつもりであつたのかも知れない。

 二階は十六疊位ゐも敷けるがらんどうな部屋であつた。年々馬の市が此處の原に立つので、そのためのこの一軒家であるらしい。

 

(59) 十一月九日。

 早曉、手を握つて別れる。彼は坂を降つて里の方へ、わたしは荒野の中を山の方へ、久しぶりに一人となつて踏む草鞋の下には二寸三寸高さの霜柱が音を立てつつ崩れて行つた。

 また、久し振の快晴、僅か四五日のことであつたに八ケ嶽には早やとつぷりと雪が來てゐた。野から仰ぐ遠くの空にはまだ幾つかの山々が同じく白々と聳えてゐた。踏み辿る野邊山が原の冬ざれも今日のわたしには何となく親しかつた。

   野末なる山に雪見ゆ冬枯の荒野を越ゆと打ち出でて來れば

   大空の深きもなかに聳えたる峰の高きに雪降りにけり

   高山に白雪降れりいつかしき冬の姿を今日よりぞ見む

   わが行くや見る限りなるすすき野の霜に枯れ伏し眞白き野邊を

   はりはりとわが踏み裂くやうちわたす枯野がなかの路の氷を

   野のなかの路は氷りて行きがたし傍への芝の霜を踏みゆく

   枯れて立つ野邊のすすきに結べるは氷にまがふあららけき霜

   わが袖の觸れつつ落つる路ばたの薄の霜は音立てにけり

(60)   草は枯れ木に殘る葉の影もなき冬野が原を行くは寂しも

   八ケ嶽峰のとがりの八つに裂けてあらはに立てる八ケ嶽の山

   昨日見つ今日もひねもす見つつ行かむ枯野がはての八ケ嶽の山

   冬空の澄みぬるもとに八つに裂けて峰低くならぶ八ケ嶽の山

   見よ下にはるかに見えて流れたる千曲の川ぞ音も聞えぬ

   入り行かむ千曲の川のみなかみの峰仰ぎ見ればはるけかりけり

 おもうて來た千曲川上流の溪谷はさほどでなかつたが、それを中に置いて見る四方寒山の眺望は意外によかつた。

 大深山村附近雜詠。

   ゆきゆけどいまだ迫らぬこの谷の峽間《はざま》の紅葉時過ぎにけり

   この谷の峽間を廣み見えてをる四方の峰々冬寂びにけり

   岩山のいただきかけてあらはなる冬のすがたぞ親しかりける

   泥草鞋踏み入れて其處に酒をわかすこの國の圍爐裡なつかしきかな

   とろとろと榾火《ほたび》燃えつつわが寒き草鞋の泥の乾き來るなり

   居酒屋の榾火のけむり出でてゆく軒端に冬の山晴れて見ゆ

(61) とある居酒屋で梓山村に歸りがけの爺さんと一緒になり、共にこの溪谷のつめの部落梓山村に入つた。そして明日はこの爺さんに案内を頼んで十文字峠を越ゆることになつた。

 此處の宿屋でまた例の役人連中と落合ふことになつた。ひとの食事をとつてゐる炬燵にまで這入つて來て足を投げ出す傍若無人の振舞に耐へかねて、膳の出たばかりであつたが、わたしはその宿を出た。そして先刻知り合ひになつた爺さんのうちにでも泊めて貰はうとその家を訪ねた。爺さんはまだ夕闇の庭で働いてゐた。見るからに荒れすたれた家で、とても一泊を頼むわけに行きさうにもなかつた。當惑しながら、ほかにもう宿屋は無からうかと訊くと、木賃宿ならあるといふ。結構、何處ですといふと爺きんが案内して呉れた。木賃宿とは云つても古びた堂々たる造りで、三部屋ばかり續いた一番奥の間に通された。

 煤びた、廣い部屋であつた。先づ炬燵が出来、ランプが點り、膳が出、徳利が出た。が、何かなしに寒さが背すぢを傳うて離れなかつた。二間ほど向うの臺所の圍爐裡端でもそろ/\夕飯が始まるらしく、家族が揃つて、大賑かである。わたしはとう/\自分のお膳を持つてその焚火に明るい圍爐裡ばたまで出かけて仲間に入つた。

 最初來た時から氣のついてゐた事であつたが、此處では普通の厩でなく、馬を屋内の土間に飼つてゐるのであつた。津輕でもさうした事を見た、餘程この村も寒さが強いのであらうと二疋並(62)んでこちらを向いてゐる愛らしい馬の限を眺めながら、案外に樂しい夕飼を終つた。家の造り具合、馬の二疋ゐる所、村でも舊家で工面のいゝ家らしく、家人たちも子供までみな卑しくなかつた。

 

 十一月十日。

 滿天の星である。切れる樣な水で顔を洗ひ、圍爐裡にどんどんと焚いて、お茶代りの般若湯《はんにやたう》を甞めてゐると、やがて味噌汁が出來、飯が出來た。味噌汁には驚いた。内儀は初め馬の秣桶で、大根の葉の切つたのか何かを掻きまぜてゐたが、やがてその手を圍爐裡にかゝつた大鍋の漸くぬるみかけた水に突つ込んでばしや/\と洗つた。その鍋へ直ちに味噌を入れ、大根を入れ、斯くて味噌汁が出來上つたのである。

 馬たちはまだ寢てゐた。大きい身體をやゝ圓めに曲げて眠つてゐる姿は、實に可愛いゝものであつた。毛のつやもよかつた。これならお前たちと一つ鍋のものをたべても左程きたなくはないぞよと心の中で言ひかけつゝ、味噌汁をおいしくいたゞいた。

   寒しとて圍爐裡の前に厩作り馬と飲み食ひすこの里人は

   まるまると馬が寢てをり朝立《あさだち》の酒わかし急ぐ圍爐裡の前に

(63)   まろく寢て眠れる馬を初めて見きかはゆきものよ眠れる馬は

   のびのびと大き獣のいねたるは美しきかも人の寢しより

 其處へ提灯をつけて案内の爺さんが來た。相共に上天氣を喜びながら宿を出た。

 十文字峠は信州武州上州に跨がる山で、此處より越えて武蔵荒川の上流に出るまで上下七里の道のりだといふ。その間、村はもとより、一軒の人家すら無いといふ。暫らく溪に沿うて歩いた。もう此處等になると千曲川も小さな溪となつて流れてゐるのである。やがて、溪ばたを離れて路はやゝ嶮しく、前後左右の見通しのきかない樣な針葉樹林の中に入つてしまつた。木は多く樅《もみ》と見た。今日はいちにち斯うした森の中を歩くのだと爺さんは言つた。

 三國に跨がるこの大きな森林は官有林であり、其處にひそ/\盗伐が行はれてゐた。中でもやや組織的に前後七年間にわたつて行はれてゐた盗伐事件が今度漸く摘發せられたのださうだ。何しろ關係する區割が廣く、長野縣群馬縣東京府の役人たちがそのために今度出張つて來たのだといふ。わたしは苦笑した、その役人共のためにわたしは二度宿屋から追放されたのだと。

 いかにも深い森であつた。そして曲のない森でもあつた。素人眼には唯だ一二種類と見ゆる樹木が限界もなく押し續いてゐるのみであるのだ。不思議と、鳥も啼かなかつた。一二度、駒鳥らしいものを聞いたが、季節が違つてゐた。たゞ、散り積つてゐるこまかな落葉をさつくり/\と(64)踏んでゆく氣持は惡くはなかつた。それが五六里の間續くのである。

 幸ひに登りつくすと路は峰の尾根に出た。そして殆んど全部尾根づたひにのみ歩くのであつた。ために遠望が利いた。ことに峠を越え、武州路に入つてからの方がよかつた。我等の歩いてゐる尾根の右側の遠い麓には荒川が流れてゐ、同じく左側の峡間の底には末は荒川に落つる中津川が流れてゐた。いや、ゐる筈であつた。山々の勾配がすべて嶮しく、且つ尾根と尾根との交はりが非常に複雜で、なか/\其處の川の姿を見る事は出來なかつた。

 やがて夕日の頃となると次第にこの山上の眺めが生きて來た。尾根の左右に幾つともなく切れ落ちてゐる山襞、澤、溪間の間にほのかに靄が湧いて來た。何處からとなく湧いて來たこの靄は不思議と四邊の山々を、山々に立ちこんでゐる老樹の森を生かした。

 また、夕日は遠望をも生かした。遠い山の峰から峰へ積つてゐる雪を輝かした。淺間山の煙だらうとおもはるゝものをもかすかに空に浮かし出した。其他、甲州路、秩父路、上州路、信州路は無論のこと、沓かに越後境だらうと眺めらるゝもろ/\の峰から峰へ、寒い、かすかな光を投げて、云ふ樣なき莊嚴味を釀し出して呉れたのである。

『ホラ、彼處《あそこ》にちよつぴり青いものが見ゆるづら……』

 老案内者は突然語り出した。指された遙かの溪間には、溪間だけに雜木もあると見え、色濃く(65)紅葉してゐた。その紅葉の寒げに續いてゐる溪間のひと所に、成程、ちよつぴり青いものが見えてゐた。

『あれは中津川村の大根畑だ。』

 と老爺はうなづいて、其處の傳説を語つた。斯うした深い溪間だけに、初め其處に人の住んでゐる事を世間は知らなかつた。ところが折々この溪奥から椀のかけらや、箭の折れたのが流れ出して來る。サテは豐臣の殘黨でも隱れひそんでゐるのであらうと、丁度江戸幕府の初めの頃で、所の代官が討手に向うた。そして其處の何十人かの男女を何とかいふ蔓《かづら》で、何とかいふ木にくゝつてしまつた。そして段々檢べてみると同じ殘黨でも鎌倉の落武者の後である事が解つて、蔓を解いた。其處の土民はそれ以來その蔓とその木とを恨み、一切この溪間より根を斷つべしと念じた。そして今では一本としてその木とその蔓とを其處に見出せないのださうである。

 日暮れて、ぞく/\と寒さの募る夕闇に漸く峠の麓村栃木といふへ降り着いた。此處は秩父の谷の一番つめの部落であるさうだ。其處では秩父四百竈の草分と呼ばれてゐる舊家に頼んで一宿さして貰うた。

 栃本の眞下をば荒川の上流が流れてゐた。殆んど直角に切れ落ちた斷崖の下を流れてゐるのである。向う岸もまた同じい斷崖で聳えたつた山となつて居る。その向う岸の山畑に大根が作られ(66)てゐた。栃本の者が斷崖を降り、溪を越えまた向う地の斷崖を這ひび登つてその大根畑まで行きつくには半日かゝるのださうだ。歸りにもまた半日かゝる。ために此處の人たちは畑に小屋を作つて置き、一晩泊つて、漸く前後まる一日の爲事をして歸つて來るのだといふ。栃本の何十軒かの家そのものすら既に斷崖の中途に引つ懸つてゐる樣な村であつた。

 

 十一月十一日。

 爺さんはまた七里の森なかの峠を越えて梓山村へ歸つてゆくのである。わたしは一人、三峰山に登つた。そして其處を降つて、咋日尾根から見損つた中津川が、荒川に落ち合ふ所を見度く、二里ばかり溪沿ひに溯つて、名も落合村といふまで行つて泊つた。

 翌日は東京に出、ルツクサツクや着茣蓙を多くの友達に笑はれながら一泊、十七日目だかに沼津の家に歸つた。

 

(67) こんどの旅

 

 今度の旅は三月十六日に長崎で中村三郎君の三周忌を行ひ、終つて郷里日向で父の十三周忌を營むといふのが重な目的であつた。と共にその往復沿路の同志たちに逢ひ度いといふのも願ひであつた。逢ひ度いといふ願ひと共に直ぐまた氣づかはれたのは、酒攻めに逢ひはせぬかといふ事であつた。今年になつて妙なきつかけから飲む機會ばかりが續いて、正月から二月にかけ、身體は殆んど酒漬になつてゐた觀があり、今までには心づかなかつた心臓の方にまで多少の故障の出來てゐるのが感ぜられてゐたので、餘程これは注意せねばならぬと思はれたからであつた。

 三月八日午前六時、沼津驛を立つた。長男|旅人《たびと》を伴うての旅立であつた。祖父の墓に參らせ、久し振の祖母に逢はせ、まだ見ぬ父の故郷を見せておき度いからの思ひたちであつた。そして彼に勸めさせて彼の祖母をこの沼津まで伴ひたい謀《はかりごと》その中に含まれてゐた。彼の祖母は四十歳にもなる彼の父を一向に信用せず、彼の父から幾度手をかへ品をかへて勸誘してやつても未だ曾てその一人息子なる彼の父の側に來て暮らすといふ事を肯《がへ》んじなかつた。彼の父がいまなほ昔の(68)如く朝夕の米鹽にも苦しんでゐるが如くに思ひ込んでゐるらしかつた。そして八十に近い齢で、手馴れた産婆を業としながら日向の山奥の村に寂しい苦しい暮しを續けてゐるのであつた。

 午後一時、熱田驛に降りた。まだずつと先まで行ける解《わけ》であつたけれど旅馴れぬ子供に六七時間以上の汽車に耐へさせたくなく、且つ彼をして四方の風物を眺め樂しますために一切夜行を廢したいと思ひきめて立つたのでまだ日が高いのに途中下車をしたのであつた。そして熱田神宮前の鷲野飛燕君を訪うた。多くの友人に逢ふ事を旨としたならば當然も一つ先の名古屋驛に降りるべきであつたが何しろ『サケ』が恐かつた。そして特に素下戸《すげこ》の鷲野君方を狙つたのであつた。所が、同君はまた自身一滴も飲み得ない事を悲しみ特に小生の相手として附近で最強の飲手である中林晴太郎、前田源の兩君を招いて既に酒陣を張つて待ち受けてゐる所であつた。そして型の如く同家のを飲み乾した挙句、まだ何處かで起きてゐる家があるだらうと夜中に三人して出懸けて二三軒も飲み廻るといふ結果になつてしまつた。その間に旅人は飛燕君次男春次君に連れられて名古屋見物から活動見物をしてゐたのであつた。

 午前九時熱田驛發の豫定の汽車に乗遲れ、轉じて名古屋驛からその次のに乘る事になり、前記三君及び鷲野中林兩君の愛孃たちに見送られて嬢車した。前田君は一の宮まで見送らうとて一緒に乘り込んだが、車中にて妥協成立、到頭大阪まで行つてしまふ事になつた。

(69) 大阪駅で降りると既に顔を眞赤にしてゐる大島武雄、三池蔦於、平田春一及び泉かをる女の四君の叫喚の中に取圍まれた。一汽車遲れた間を同君達は決して無にする事をせなかつたのである。そして微雨の中を二臺のタクシーで靱南通の大島君方に運ばれた。大阪らしい古堀に臨んだ同君宅の二階には早や阿母さんや妹さんたちの心づくしの御馳走が所狹く並べられてあつた。其後の事を詳細に書くのはわれながら弊に耐へないが、兎に角午後の八九時から午前一二時に至る數時間は道頓堀附近のそちこちに於て費されたのであつた。大いに歌を書くべくして用意されたノートも名刺も、その夜誰やらに買つて貰つた高價な西洋煙草もその數時間の中の何處やらに置き忘れられてしまつた。

 三月十日。午前九時發の豫定が十時半となり午後の一時と變更されてゐるうちにいつやら豫定外の神戸まで運ばるゝ事になり、まだ銀行會社に執務中の野元純彦、谷口孤梢の兩君を呼び出して神戸驛近くの三つ輪で大いに牛肉を喰ふ事になつた。昨夜醉壞した平田君を除く外、昨日のままの同勢である。矢張り一軒では足りず、更に一二軒を歴遊してもう電車の無くなるといふ頃、漸く大島前田の兩君、泉女史は汽車で大阪へ、あとの五人は自動車で西須磨の野元君方に赴き、其處でも更にまた結婚後間もない和歌子夫人の肝をつぶす事になつた。就床午前二時。

 午前九時なにがし神戸發の汽車に間に合はせる事は異常な苦勞であつたが、野元夫妻の努力で(70)辛うじて成效した。更に驚いた事は我等があたふたと同君宅を出掛け樣とするともう其處に大阪から大島君が來てゐて呉れた事だつた。

 僅々一兩日の間であつたが、サテ汽車が走り出して見ると、げに久し振に親子のみの旅になつたといふ氣持でお互ひの顔が見合はされた。天よく晴れ、風よく凪ぎ、車窓から見ゆる瀬戸内海の眞帆や片帆や島々の眺めは悉くわが少年を喜ばせ、合せてその父の醉眼をも澄ませて呉れた。

 正午十二時岡山驛を過ぎた。實は此處で下車すべき約束で、四五の友人も待ち受けてゐて呉れた筈なのである。唯だ、『サケ』が恐かつた。待ち受けてゐる四五人といふはそれこそ選りに選つたその道の剛の者であるのである。ひそかに頓首して岡山驛を通過した。

 薄暮、宮島驛着、下車、直ちに嚴島に渡り龜福本店に投宿した。子供は直ぐにも神社に參拜したい風であつたが、何しろ父は勞れてゐた。出立前三四日殆んど徹夜して留守中手當の用務を執り、サテ出立して見れば上記の始末である。階子段をも手離しでは上下出來ぬ有樣で、僅かに風呂に赴きしのみ。夕食の膳に子供にはサイダーをとりよせ、その側で麥酒一本銚子二本を甞めて直ちに床に潜つた。

 三月十二日。朝食前に參拜と見物とを濟ませた。この嚴島神社參拜は小生にとりては約十七八年目のことである。當時學生であつたが、海岸沿の宿屋に泊つてゐて夜半ふと眼を覺ますと杜鵑(71)が頻りに啼いてゐる。雨戸ををあけて見るとさやかな月夜だ。ひそかに階下に降り大戸をあけて戸外に出た。鳥の聲を尋ねてお宮の森の方まで行かうとすると折柄の干潟に例の大鳥居がくつきりと立つてゐるのが見えた。乃ち道から降りてその下まで辿りつき、やがて上げ汐の寄するまでも其處に佇んで啼き交はす一二羽の杜鵑の聲に聽きとれたのであつた。

 食後、土地名物の杓子に署名して各地の知人數名に贈り、年前十一時何分かの汽車で宮島驛を立つた。岩国驛には柳井津在の村上可卿君が出迎へてゐてくれた。柳井津まで同車、頻りにその村までの同行を勸められたけれど時日なきため固辭して別れた。其頃から雨が降り出してゐた。小郡驛乘換、年後四時過山口着、大降りとなつた中に平賀春郊君が末の娘の春ちやんを連れて出てゐてくれた。幌深い車で同君の寓居に赴く。竹林に圍まれて靜かな家であつた。但し不日松江高等學校教授として同地に轉任する由で家内は多少取込んでゐた。思ひながらも、夜はまた遲くまで食卓を圍んだ。

 僅かの事で汽車に乘遲れ、止むなく自動車を飛ばして小郡驛に急いだ。どうしても十一時同驛發の汽車に間に合はせぬと多分戸畑から下の關まで出迎へてゐて呉れるであらう未知の諸君をまごつかす事になるからであつた。

 案の如く下の關の長いプラットフォームの片隅に雜誌『創作』を手にした四五人の若者たちが(72)立つてゐた。握手目禮、直ちに連絡船に急ぎ、北風の吹き荒ぶその甲板の上で漸く言葉を交はした。創作社戸畑支社の三苫守西、久原喜衛門、佐藤白霧、坂根彌吉の四君に今一人は遙々肥後の八代から出て來た由解實君であつた。門司驛の雜沓裡に佇んで暫く汽車を待つ間、早や旅人は佐藤君に連れられて其處等見物に出懸け、大きなバナヽの一莖を買つて貰ひ嬉々として引提げて來た。

 やがて戸畑驛着、其處のフォームには更にまた十數人の若人達が待つてゐて呉れた。挨拶もあとさきにブリッヂを渡らうとすると其處の物蔭に婦人ばかりの五六人が一かたまりになつて立つてゐた。三苫夫人京子、坂根夫人洋子、久原夫人凉子、伊岐須夫人雪子、神夫人露子の人々に唯一人銀杏返しの娘さんは毛利雨一樓君愛孃豐子さんであつた。橋を渡つて改札口を出やうとする所でひつしと兩手を掴んだ矮躯肥大の中老人があつた。名乘らるゝ迄もなくそれは豐子さんの阿父さんである事が解つた。

 相連つてその毛利君方に赴いた。商賣物の米を並べた板の間續きに六疊か八疊の部屋があり廿人からの人がその一室に押並んで坐らうとして終《つひ》にはその板の間にまで居流れねばならぬ事になった。全部の人が小生には初對面であつた。そして目下わが創作社に幾つか出來てゐる各地の支社のうち最も熱心に作歌に從ひ、その成績拔群なのがこの戸畑支社の即ち眼前に押並んでゐる人(73)達である。お互ひの間の緊張が暫時は部屋を靜まらせてしまつた。そしてお互ひの顔には汗の浸みさうな光輝があつた。

 各夫人連の手によつて茶菓が配られてから漸く談話の緒《いとぐち》が解けて來た。彼一言此一句、次第に高笑ひの聲も混る樣になつた。見廻す所三十歳を越えたるは殆んど幾人もなく、多くは廿四五歳前後の血氣盛んな人達である。ことに此處で眼についたは女流歌人の多い事で、露子雪子さんは毛利夫人を助けてお勝手に働き、凉子洋子京子さん達は主として茶菓係として座敷に在り、折々障子の腰ガラスを透いてはまだ肩揚げのある豐子さんが折々やつて來るお客樣にそれ/”\米を量つて渡してゐるのが見えた。

 程なく夕飯の時が來た。我等父子と毛利君とはその大勢のゐる八疊の間と狹い土間を距てた四疊半の別室に退いて膳を圍む事になつた。暫く杯を重ねた末、不圖思ひついて杯を手にとりながら毛利君を顧みて『これは、あちらにも出てますか』と訊いた。『いゝえ、あちらは若い者ばかりですから酒は出しません、先生にも餘り澤山は差上げない積りです』と笑ひながら彼は答へた。これは旅立つ前豫じめ小生からどうか酒攻めにせずに呉れ、とわざ/\頼んでおいたゝめの返事であつたのだ。サテさうなると寂しくなつた。こちらは飲んでてあちらが飲まぬといふのは何としても寂しい事であつた。暫く考へた末『どうか三升だけ私に買はして下さい』と哀願した。毛(74)利君も笑ひながら快諾して呉れた。三升の冷酒は忽ち二十あまりの茶飲茶碗に酌ぎ渡され、其處には湧く樣な歡呼が起つた。そして瞬く間にその液體は盡き果てた。いつより速く醉の廻つてゐた小生は早速豐子さんを小蔭に呼んで『もう三升!』再度の哀願を極めて勢よく提出した。

 三月十四日。朝、割合に早く眼が覺めて見ると枕許の古びたガラス戸を通してちら/\と雪の降つてゐるのが見えた。更に思ひがけなかつたのは、我等のやすんだ四疊半の部屋を出て、土間向うの部屋を見ると、寢たりや寢たり、宛ら燒芋屋の大釜の蓋を取つた形に、身體と身體とを結び合せた如くにして大勢の人が横たはつてゐるのである。昨夜、ほど/\にして我等父子はこちらの部屋に引上げて床についたのであつたが、その後も向うの賑はひはなほ止みさうになかつた。然し、いづれはそれ/”\に歸り去つたものと思つたに、なんのこと、これでは全部が全部泊つてゐるかに見えた。『婦人連にほか二三人が歸つたゞけでせう、十五六人も寢てますかナ』主人公は笑つて答へた。

 程なくその婦人連を先に、家に歸つたといふ三四人の人たちもまた集つて來た。そして婦人たちは早速晝のお辨當拵へにかゝつた。今日は一同名護屋岬に近い中原の濱といふに行き、其處で歌の會を催さうといふのである。辨當の出來るを待ちながら、また雪の止むのを待ちながら、ひしひしと押並んだ我等の間にはいつか知ら盛んな歌の話が持出きれてゐた。聞けば昨夜も小生等(75)の休んだ後、なほ二三時間も、最もひどいのは今曉六時の打つまでも、烈しい歌論が戰はされてゐたのださうだ。

 風が出て、日が薄らかにさし始めた。まだちらほらと白いものの落ちてゐるなかを打揃うて電車停留場へ向つた。氣を利かせたつもりで夏外套を着込んで來た小生の姿は此處で思ひもかけぬ滑稽なものとなつたのである。

 濱の松林から廣く玄海を見渡す景色はなか/\大きな眺めであつた。が、如何にも風が強かつた。ために一時眞白な砂の上で開かうと云はれてゐた歌會をば、松林の中にある茶店の二階を借りて催すことになつた。雪全く止み、日うららかに射して四方たゞ松風と浪の響とに圍まれたよき會場であつた。乃ち眼前小景即題二首といふ定めでめい/\考へ込むことになつたのだが、此處でもまた歌を作るよりもそれに就いての感想を語り合ふのが先になつた。此處の支社では作歌と共にをの考察論議の上にもまた甚だ熱心であるのを見た。初め三室ほどの襖を拔いた部屋の形なりに長方形に並んだのがいつか圓陣を作りなす程にめい/\が膝を乘り出して來ての談話振りである。やがて辨當が開かれ、酒も温ためられたが、僅かに小生が杯を取つた位ゐで他の人は殆んど無關心であつた。

 夕方までさうしてゐて處威からぶら/\と高原めいた野中の夕日の路を歩いて戸畑町字幸町二(76)丁目の三苫守西君の宅に赴いた。招かれて一同夕飯を御馳走になる事になつたのである。見るともう三十近い膳部が並べてあつた。京子さんを初め凉子さん洋子さん若い夫人たちが顔を眞赤にしての接待振である。盃を啣《ふく》まずして先づ醉ふの感があつた。

 果して賑やかな華やかな宴會となりゆいた。杯の織りなす間に語る者笑ふ者唄ふ者、はては感極つて慟哭する人なども出て來た。席漸く亂れむとする頃、羽織袴の老紳士が入つて來られた。守西君の舅御さんで京子さんがわざ/\その實家から招いて小生に引合はして下されたのであつた。若者たちの斯うした醉態を苦々しく思はれはせぬかと小生には氣遣はれたが一向にその風なく、最後まで快げに附き合うて下された。いつ果つべしとも見えぬ一座の感興を見殘して小生は子供と共に別室に退いて眠る事にした。幾度か引起され樣としたが、深い疲勞からか隣室の騷ぎを外に熟睡してしまつた。

 夜中に厠に行かうとして、また喫驚《びつくり》した。障子をあくれば隣室は全然足の踏處もない人の寢姿なのである。オヤ/\今夜もまたこれかと呆れながら種々な頭や足の間を四つ這に這ひ渡らうとしてフト異樣な頭を見出した。イガ栗か分けたのかの別はあつても若者の頭ばかりの散らばつてゐる中にこれはまた珍しい禿頭が一つ混つてゐた。オヤ/\お父さまもたうとう若者の意氣に呑まれてこの中にやすまれたかと可笑しいとも可懷《なつか》しいともつかぬ氣持で暫くそれを眺めて辛くも(77)廊下まで這ひ出すと、その片隅には京子さんが幼い人を抱いて横になつてゐた。眠れもしなかつたと見えて、直ぐ半身を起しながら挨拶した。『大變ですねエ』と我知らず言葉をかけると彼女は低聲に笑ひながら『可笑しな事があるのですよ、皆がもう眠られてから暫くして妙な唄聲が聞えますの、誰だらうと障子の破れから窺いて見ますとそれが父ですのよ、一人だけ起きて坐りながら煙管で調子をとつて何か小唄らしいものを唄つてゐるのです、私この齢になつて初めて父の唄ふのを聞きましたわ』といふ。さう言ひながら彼女は顔をそむけたが恐らくそれは笑聲を殺すといふよりも、もつと他の表情を隱すためであつたらうと思はれた。彼女の父と彼女の夫との間には普通の婿舅の樣な情誼が無かつたらしく、それを嘆いた歌を彼女はこれまで幾首となく詠んで來てゐた。單に父が夫を解さない、文学をやる我等夫婦を解して呉れない、といふより更に深げな双方の家庭に關しての種々な嘆きの詠まれた歌を小生も久しい間彼女の作に見て來てゐるのである。さればこそ今夜わざ/\彼女は遠方から父を呼び迎へて我等のこの席に列ならしめたのではなかつたか、などと考へると小生もすつかり眼が冴えて久しい間睡りつくことが出來なかつた。

 臺所を受持つた夫人たちは殆んど一睡もしなかつた位ゐであらう。まだ明け切らぬうちに出立する我等の膳に種々温かい物を揃へて下された。そして殆んど最初に逢つたまゝに少しも頽《くづ》れぬ(78)同勢の人達に見送られて戸畑驛を出立した。八幡驛まで同車した人數人、特に毛利君と露子さんの夫君神君とは遠く二日市驛まで見送らうとて乘車、その他遠方から參集して共に二日を過し今日一緒にそれ/”\の驛まで歸る人たちに柴田六郎、藤江省三、由解實君等があり、車内大いに賑はつた。幸に好晴で海も山も野もすべて廣々と見渡す事が出來た。ことにこの邊種々と名所古蹟の多い土地柄とて、子供は毛利さん其他の小父さんたちからそれ/”\説明を聽くのに大忙しであつた。

 久し振りの福岡驛をも黙つて通り過ぎた。降りたかつたのだが、もう時間がなかつた。二日市驛で見送の兩君に別れた。其處からは太宰府が近いとやらで切に降車を勸められたが、拜辭して別れた。そして鳥栖驛では最後に一人殘つてゐた由解君とも別れた。別るゝといふのは幾度經驗しても實にイヤなものである。

 また久し振に(確かにさうした氣持がしたのだ)父子だけになつた。子供には豐富に飲食物を買ひ與へておいて親爺はぐつすりと寢込んでしまつた。車中では眠る事の出來ぬ癖の小生も流石に疲れたものと見える。『海が見える、海が見える』とて起されたのはそれから程經てであつた。成程、綺麗な海が見えてゐる。面白い形の島も見える。地圖によるまでもなく其處は小生にとつても初めての大村灣であらねばならぬ。いゝ氣持に眼が覺めて共々窓にしがみついて久しい間晴(79)やかな海の景色に眺め入つた。戸畑邊と違ひ、急に暖氣をも覺えた。蜜柑畑などのあるのを見てもこの邊一帶北九州の方では暖い土地と察せられた。

 午後五時十一分、終《つひ》に長崎驛に着いた。遠くも來にけるものかなの感が自づと身に湧いて、胸をときめかせながら降り立つと、其處に未知舊知一團の人達が立つてゐた。舊知は二人、一人は大橋松平君であり一人は越前翠村君である。越前君は小生に先立つ僅か數時間餘り前に此處に着いたのださうだ。彼は久しく岡山市に在つて繪をかいてゐたが、今度共に故人の展墓のため、また自分の畫會を開かむためにやつて來たのであつた。大橋君とは二三年越に逢ふのであらう、上京の途次一度沼津の寓居を訪うて呉れた事があつた。未知の人とは高島儀太郎、上野初太郎、澁谷秋雄、其他の諸君で、名のみはもう七八年の永きに亙つて知つてゐた人たちである。彼一語此一語、我等の一組だけずつと遲れて改札口を出、直ぐ市内要町なる高島君の宅に赴いた。

 二階の廣間にはやがて擧上の人たちのほかに菊枝興藏、高田二郎、澤本直明其他の社友諸君が顔を揃へた。現在長崎創作支社には十二人の社友が居るのであるが、それは漸く近年になつての事で、初めは大橋、高島、上野、澁谷の四君及び故人の中村三郎君等僅々四五人の同志でそれこそ七八年の永い闇終始變らぬ固い團結を作つて創作社の歌風を維持して來たのであつた。元來この長崎といふ土地はもとから歌の盛んな所で、從つて種々の流派の人達がそれ/”\に割據してめ(80)いめい覇を唱へてゐたのださうである。その間に在つて我が創作社の連中はどちらかと云へばその性格からか獨り孤壘を守るといつた形で、南風甚だ競はぬものがあつたらしい。さうした感慨の漏らされた手紙をばよく此等の人たちから受取つてゐたのであつた。今、初めてその長崎の地にやつて來て、此等新舊の同志たちの前に坐つて見ると、いつか知ら小生までが一種の感慨に打たれねばならぬのを覺ゆるのであつた。來た者、迎へた者、その間言ふに言はれぬ氣持が交錯するのであつた。口吃して俄かに言ひ難い觀すらもあるのであつた。

 食通といふか凝り屋といふか、好みを同じうするらしい高島、大橋、上野君たちが數日に亙つて用意しておいて興れたとり/”\の御馳走がやがて大きな卓子二脚を並べた上に持出された。見るからに唾の走る色どりであり香味である。多く支那風の料理で(卓子其他の器物まで)あつたが何しろうまかつた。酒またまづからう筈なし、一々口に持つてゆくのが面倒なといふ心持であつた。就床午前二時、我等別室、隣室にはまた五六の床が並べられた。

 三月十六日。故人の追悼會の催さるゝ日である。支社々友一同、高島君宅に揃うて、それから墓參に赴かうといふ事になつてゐた。三人五人と集つてゐるうちに思ひがけぬ參加者が來り加つた。筑後大川町なる大川支社の宮部貴一、酒見幹風の二君が夜行汽車でやつて來たのだ。

 墓は市街と港とを下瞰《げかん》する急勾配の山の中腹に在つた。僅かにぞれと知らせる目標が置いてあ(81)るだけで、まだ墓らしい墓は建てゝなかつた。聞けば故人の老母と兄とが佐賀とかに移り住んでゐるが、故人在世中と同じく貧窮で、そのためか知らしてやつても今日の會合に出て來ぬとの事であつた。然し、その寂しい墓のあたりが掃き清められ、新しい花などの挿されてある所を見れば、或は昨日あたり誰かゞ來てこつそりこれだけの事をして行つたのだらうとの事であつた。墓のうしろにかなりの楓の木があり、うす紅ゐの芽を吹きかけてゐた。なほ、見ごとな樟の老樹がこの坂なりの墓場の其處此處に鬱然と立ち茂つてゐる。この樟は三郎君自慢の一つで、よく歌にも詠んでゐた。櫻や菜の花や、故人の好きだつたとり/”\の花が多勢の手によつて供へられた。そして薫の高い香が墓のめぐりに豐かに焚かれた。そして、一人々々が在りともわかぬ彼の墓の前にぬかづいた。僅かにさし置いたその石標によく/\みれば、うつすらと青苔が萌えそめてゐるのである。私は、出立以來初めて鉛筆をとり出して一首の歌をノートに書きつけた。

   三郎よ汝《な》がふるさとに來てみれば汝が墓にはや苔ぞ生ひたる

 午後一時から、其處より程近い光源寺で追悼會並びに追悼歌會が催された。斯うした公開の會合をやつた經驗のないといふ發企人たちによつて準備せられたにも係らず、五十人からの來會者が集つて來た。やがて故人の自畫像を掲げて、しめやかに追悼會が始められた。故人が生前いろいろと世話になつたといふこの寺の老住職の讀經を靜かに聽いてゐると、小生の瞼にはいつ知ら(82)ず涙が浸んで來た。讀經の聲の中に故人の心を、面影を、次第々々に感じ出して來たのである。ことにまたこれほどの人が寄つてその靈魂を弔ひ慰めてゐるに係らず、その血族の唯の一人すらが居合はせないのだと思つた時、在りし世の故人の寂しい生活がいまだにまだ續いてゐる樣に思はれて、一層胸は苦しくなつた。

 法要が終ると直ぐしの同じ寺で歌會が開かれた。よそで行ふそれらとは異つた方法で、先づ來會者からそれ/”\持ち寄りの歌を集めそれを一首づつ文字太に黒板に書いて一同して合評するのである。小生など、次ぎ/\に昂奮しがちな出來事に會つて來てゐたので初めは唯それらの批評論議を眺めてゐたが、いつか知ら誘はれて口を入れる樣になつた。何しろ前にも言つた通りこの地には各流派が入り亂れてをり、ことに今日はそれ/”\その派の重立つた人たちも來合はせてゐるとやらで、追悼歌會の名に似げない烈しい歌會となりゆいた。とにかくこの長崎でも今日の樣に盛んな歌會は少なかつたと世話人たちの大喜びの裡にめでたく閉會した。黒板の文字の見えにくゝなつた頃であつた。

 次いで市内出島東亞館といふ支那料理店で小生並びに越前君の歡迎會が開かるゝことになつた。社友全部の主催でそれに光源寺の和尚樣二人、今日の歌會の重立つた人達が參加せられ、かれこれ三十人ちかい人數であつた。一品二品の料理ならば横濱あたりの支那人の店などで喰べた(83)事はあるが、正式の宴會に出たのは今日が初めての事で珍しくもあり恐しくもあつた。ことに上野君といひ高島君といひ何れも支那貿易に從事してゐる人たちのことであちらの人と接觸する事繁く、從つてその道の通人と云つたわけで、今日の御馳走は特にも念入りのものが誂へられてあつたのださうだ。

『勝手が解らなくて困るナ』

 といふと上野君が、

『では私がお側に居りませう』

 といふことになつた。何しろ西瓜の核《たね》すら滿足に喰べ得ない身にとつては、これが海燕の巣、これが海鼠《なまこ》の干物、これが鱶《ふか》の鰭《ひれ》、これは家鴨の丸煮で斯うして食ふもの、これは豚の子の丸燒(?)、これは何とか魚(何とまた大きなさかなであつたか)の丸煮か丸燒、といふ風に何でも十幾種類かの、而かも尨大な品物が、次々に眼の前に出て來るので噛み味はふは後のこと先づ以て肝心の肝をつぶしてしまつた。

 從つて今日は固體を主とし液體を客とするといふ、げに小生にとつては珍しき宴會になつて來た。と云つて液體が粗略されたではない、これもまた次から次と運ばれて、いつか滿座とも醉つてしまつた。

(84 一同して其處を出たはもう十二時にも近かつたか、空にはさやかな月が懸つてゐた。誰からとなく海岸通りの方へ歩いて、其處で歸る人は歸り去つた。何しろ腹が荷物であつた。顎を引き胸を張り臍のあたりをずんと前に突き出して歩いてゐるのだが、それでも苦しい。此儘歸つて寢込まうなら當然夢魔のためにとり殺さるゝにきまつて居る。思ひは同じの同勢十人ばかり、ぶらりぶらりと歩いていつか大浦海岸の浪打際に出、更に引返して丸山あたりの明るい街を歩き廻つた。歸つて床に就いたは二時か三時か。ずつと隨伴してゐたわが旅人君にはちと少々、或は大いに氣の毒であつた。

 十七日。見物日にあてられた日である。四五人の人に案内せられ先づ土地名物の南京寺(赤寺とも呼ぶさうな)を見て廻る。昨日ちよい/\と眼に腐れたそれらの姿がいかにも面白かつたからである。崇福寺、興福寺、福濟寺等を見た。いづれも特別保護建築物ださうで、昔支那から渡來してゐた人たちがこれらを建てゝ冥福を祈ると共に海上往來の無事を願つたものらしい。

 轉じて大浦の端《はつ》れに天主教々會堂を見た。物寂びた堂の中に入るとほのかに空の光の射した四壁には幾枚かの宗教繪が掲げられ、中央には椅子が冷たく並んでゐた。繪のうち、例の踏繪の折の虐殺の大幅の前に立つた時には流石に身内の引き緊るのを覺えた。

 其處から今度はまた電車に乘つて遠く浦上村の天主教々會堂を訪うた。この驚くべき大建築、(85)工費恐らくは百萬圓を超えたであらう大會堂がほんのこの小さな村の村民たちだけの手によつて作り上げられたと聞いてはその信仰心の力に今更ながらに驚かざるな得なかつた。乞うて中に入れば今しも信者たちの祈祷が行はれてゐた。水を打つた樣な廣大な堂内には其處に此處に寂然としてひた伏して居る信者の姿が見えるのみで、咳一つ聞えない。ことにその服裝が普通の百姓着のまゝの人の多いのに眠が惹かれた。たゞ、婦人たちの一團は頭から深々と清淨な白布のかぶり物をかぶつてゐた。

 歸途、聞くところによればこの浦上村は殆んど村民全部天主教の嚴しい信者であるに係らず、附近で一番私生兒が多く、嬰兒壓殺、窃盗等の犯罪また少くないといふ。

 更に諏訪公園に登つた。此處の話も故人によつて隨分よく語られたものであつたが、いま實際其處に登つてその話の節々を思ひ出して來ると懷舊の情がまた新たである。

『故人の記念碑でも建つるなら此處にするのだね』

『え、さう私達も考へてます』

 其處を降りると薄暮、二三の人は別れて歸り、中の一人に頼んで旅人をその希望の活動寫眞見物に案内して貰つた。そして殘つたゞけで故人の一時住んでゐた家、臨終の家、等を見て廻つた。臨終の家といふ二階建の長屋の端の二階にはいまどんな人が住んでゐるか安物のメリヤスシャツ(86)が乾されてあつた。ついでにといふではないが大橋君がまだ床屋の親方であつた頃の舊居の前にも連れて行つて貰つた。見るからに小さな理髪屋にはその後の何代目氏か、蒼い顔の小男が自ら鬚を拔いてゐた。この溝に沿うた小理髪店こそ故人在世當時には實に花々しい詩歌論議の壇場であつたのだ。大橋君にしてもその頃は家族との間の悶着から幾度か危ふい決心を執らうとしてゐたのである。

『これも好個の記念物だね』

 と顧みると、現在長崎縣廳のお役人でありよき夫であり父親である松平朝臣さらでだに狹からぬ顔面を一度に解きほぐして、

『まつたくさうですよ、ハハア』

 と笑つた。

 よくも歩けたものだと思ふ脚を引きずつてカルルス温泉とかいふ旗亭に這ひ上つた時は越前、大橋、高島、小生の四人となつてゐた。電話で呼んだ上野、澁谷の二君我等の入浴中に來り加はり、同座を作つて骨拔きの杯を擧ぐる事になつた。

 十八日。別れの日である。驛まで大勢の見送を受け、更に四五の人は大村驛まで行かうといふ。大村驛着、車窓で手を握つて別るゝ事と思ひのほか一寸降りよといふ。驛前などにて一杯の事な(87)ならむと從へばこれはまた遠くも町を横切つて大村藩舊城趾の上なるお茶屋まで誘はれた。物々しき石垣も昔のまゝに、あたりを老樹立ち覆ひ、いかにも古めかく城あとらしい城あとであつた。ことにいゝのはその小さな茶店の部屋から立ち並んだ木の間を通して遙かに灣曲した入江の干潟の眺めらるゝ事であつた。

 二汽車ほど遲れて、今度こそはいよ/\固い握手を交し、大村驛から西と東に別れた。汽車も丁度其處で擦れ違ひとなつてゐた。あとはまた久し振の父と子とだけとなり、型の如く父親は眠りこけてしまつた。

 元來午後四時それがしに着く樣に豫報しておいた大牟田驛に恐々ながら降り立つたのは八時半であつた。それでも從兄はそれほど怒つた樣もなく其處に出て待つてゐて呉れた。十二年目の對面である。見れば禿げかけてゐた頭髪はいよ/\禿げて、額の皺も深く、氣のせゐか腰まで少し曲つてゐる樣に眺められた。十歳近い遵ひであつたからもうこの人も世にいふ五十の坂に手のかかつた年配となつてゐたのだ。

 家では義姉が膳部を整へて待つてゐた。そして此處では小生より旅人の方が遙かに歡迎せられた。可笑しかつたは初對面の伯母の心づくしの手料理のどの皿にも彼は一向に手をつけ樣とせず、いろいろに説き勸められたはてに突然、
(88)『梅干は無い?』

 と驚かしておいて、梅干でお茶漬を掻き込んだ事である。大人並の待遇を受け通して各地の馳走を荒し歩くこと此處に十幾日、終に流石の大織冠鎌足公も故郷戀しき梅干の所望に及んだのであつた。彼の眠つた後我等はなほ久しく語り更かした。從兄にも男の兄弟なく小生もまた同樣であつた所から從兄弟とはいへ殆んど實の兄弟同樣の氣持で大きくなつて來たのであつたのだ。

 十九日。今日は社をば休むからといふ振れ出しで從兄は朝からゆつくりと構へて酒をつけた。彼の父も、また小生の父も、等しく酒に溺れた組であつた。我等またお互ひにその點だけでは不肖兒の名から超越する光榮を有する次第である。縁側寄りの座敷の隅に食卓を持ち出して相對して見るとどうしても亡き父亡き叔父の事を思ひ浮べざるを得なくなつて來る。父と叔父とが相逢へば常に必ずこれであつた。そしてどうかすると二日三日とそれが續いた。村の人たちは『若山の兄弟を逢はすれば病人はあがつたりだ』と言つてそれを恐れた。兩人とも醫者で、相隣つた村に開業してゐたのであつた。

 從兄は土地で出てゐる新聞の記者をしてゐるのであるが商賣柄に似ぬ黙り屋で、酒を飲むにしても幾らか俯向き加減の姿勢で、唯だこつ/\と盃を口に運ぶのである。この點は彼寧ろ小生の父に似、醉うてともすれば口輕くなるところ小生却つて彼の父に似てゐるのを思うた。

(89) 其處へそゝくさとして小生を訪ねて來た人がある。八女郡上妻村の高山三千樹君であつた。昨年秋沼津以来の再會である。手を執つて健康を祝し、先づ/\と共にその食卓に並んだ。坐るや否や彼は直ちに『先生、これから直ぐ私の宅に行きませう』と言ひ出した。初め先づ彼を訪うて大牟田に來る筈であつたのだが、何分にも身體が勞れたので其處を素通りして彼にこちらへ來て貰ふことにしたのであつた。が、彼なか/\にその素通りを承知しない。まア/\と從兄と二人して盃を強ひながらいつか晝になつた。『サ、行きませう、父どもゝ待つて居りますから』と彼は立ち上つた。さうなると小生も心が動くのだが、これから行つて初對面のその家族たちと交驩すべく矢張り小生は勞労れすぎてゐた。兎角の押問答の後、一つの妥協案が成立した。これから彼の居村近くの船小屋温泉といふに行き今夜一泊、ゆつくり話して明日其處でお別れするといふ事に。『では兄さん、あなたも行きませう』

 と小生は從兄を誘うた。

『そろ/\選挙だからなア、さうもして居られん』

『では姉さん、あなた行きませう、いゝ機會ですよ、是非行きませう』

 三千樹君も言葉を添へて勸めたが、結局從兄が行く事になつて、旅人と四人、蹌踉として停車場に向うた。

(90) 船小屋温泉は、湯は沸し湯であつたが、我等の寄つた樋口屋といふのゝ二階からツイ下に矢部川の流を見、川向うに鬱蒼として打ち續いた樟の並木を眺めた心持は惡くなかつた。樟の數何百本とか見積價格何百萬圓とかいふ見ごとな並木である。三千樹君も此處に來てすつかり落ち着いたらしく、久し振に彼天性の快活さを見る事が出來た。從兄にとつて詩歌の話など、更に二三十年來の久闊さであつたらうが、それでも喜んで談話の中に入つた。彼初めは家業を繼ぐべく醫學生として出立したのであつたが不圖踏み入れた文學のぬかるみから足を拔く事が出來なくなり、さればと云つて彼の父の頑固から留學の方の足を洗ふ事もならず、とつおいつの裡にどつちつかずの田舍記者などに落ちついてしまつたのであつた。而して、小生は實に初めて彼によつてこの詩歌の甘露味を教へられたのであつた。それやこれや、いつもに似ずこの黙り屋さんまでが饒舌の仲間入をする事になつたのである。四十歳と五十歳の從兄弟の詩歌論を廿四歳の高山君がどんな氣持で聽いてゐたか、惜しい哉その感想を聞き落した。

 三月二十日。朝の一杯が幾らか永引かうとしてゐる時であつた。思ひもかけない宮部貴一君がひよつこりと立ち現はれた。これも高山君にしたと同じく、宮部君たちの大川町に長崎から直ぐ立寄る筈であつたのを素通りして來てゐた。それを承知せず、宮部君が大川支社を代表して追跡して來たのである。またうまく斯うした意外な場所で捉まつたものだと驚いた。

(91) 一義なく彼に從はねばならなくなつた。と云つて自分一人は心細かつた。結局、髙山君も從兄も一義ない仲間になつて、一緒に人大川町に向うた。

 羽犬塚驛まで自動車、其處で一度電車に乘つてまた自動車に換へ、お晝過ぎに大川町に入つた。風浪宮といふ附近で有名な神社の前で自動車を降りて參詣し、社前の宿屋に上つて休んでいるところへ宮部君からの報知で支社の石橋滿、佐藤増太郎の兩君がやつて來た。そして、ひどく疲れたといふ從兄と旅人とをその宿屋に殘しておいて、我等は先づ附近の見物、といふうちにも筑後川の川口を見ようといふので立ち出でた。途中で石橋君の宅を訪うた。米屋さんであつた。折も折、明後日は同君のお嫁さんを迎ふる日に當つてゐるのださうだ。轉じて佐藤君方に寄つた。同君方はこの地方一般に土地名物となつてゐる家具類の指物屋さんで、同君自身の爲事場をも見せて貰つた。同君は在郷軍人で土地青年會の副會長、石橋君は同會計主任であるのださうだ。町つづきの若津町に入ると、家と家との間などに思ひがけぬ帆柱が立つてゐたりして、いかにも港町らしく見えて來た。事實少し以前までは君津港として賑つたものであつたのださうだ。今は筑後川の川口が淺くなつて、殆んど昔日の俤はないといふ。廣々としたその川口は丁度引汐の干潟になつてゐた。いかにも見渡す限り一面の泥の洲で、川は僅かにその中の一部に同じく黄泥の色をして流るゝとなく流れてゐるのであつた。近くに居る帆前船も、遠くに見える汽船も、全て船腹(92)をあらはに泥の上に露出して、傾きながらに立つてゐた。珍しいせゐか、このとりとめのない廣々とした干潟の景色が私には親しかつた。

 引返して、同じく支社々友の一人で宮部君の從兄弟に當る志岐春岐路君の宅に寄つた。同君の父君は俳句に熱心で、座敷も廣いといふ處から、支社の歌會は常にこの志岐君方で開かれてゐるのださうだ。夕方になると支社の全部が揃うた。酒見幹夫、古賀林一、北島徳一の諸君に前記の志岐、佐藤、石橋、宮部君等である。宿屋に殘つてゐた二人も迎へられてやつて來た。それに志岐君の父君晴雲氏も加はり、志岐君の宅と向ひ合せになつてゐる料理屋魚林で歌談會を兼ねた懇親會が開かれた。閉會午前二時。全部志岐君方に引上げて枕を並べた。

 二十一日。朝、雨が降つてゐた。暫く話してやがて、袂を分つ。宮部君と志岐君とは羽犬塚驛まで送つて來て呉れた。實は其處で、皆と別れて、我等三人だけ大牟田に歸るべきであつたのだが、どうせ斯うなればあとの一日位ゐどうでもよいではないかと高山君に叱られながら、終に同君宅まで出向く事になつてしまつた。斯うなることなら最初の船小屋温泉が甚だ意味朦朧となるわけである。宮部君たちをも誘うたが、勤めの都合で駄目とのことで、兩君は其處から久留米に向うた。

 驛前から動搖烈しい電車に乘つた。福島町で下車、其處の停留場前で暫く休んだ間の麥酒の肴(93)に出された香の物のたかな漬(大芥漬か)は小生にとつて實に十何年振の珍味で、思はず聲に出して賞美した。からし菜に似た風味を持ち、香氣もからみもそれに優つてゐる。自分郷里にはこれが多かつたが、關東では一度も出會はなかつた。流石に此處は九州だなアと言つて笑つた。

 やがて上妻村に入つた。同村は矢部川に沿ひ、殆んど一村が紙漉を業としてゐる樣な村ださうだ。高山君の家もまたさうであつた。で、いよ/\此處に來るときまつた時も、君と細君とが兩人で紙を漉いて見せて呉れたら行く、といふと必ず漉くからとの約束のもとにやつて來たのであつた。門を入ると、母屋つづきの小屋から、ちやぱ/\、ちやぱ/\といふ自分等も子供の時に聞いた事のあるその紙漉の音が聞えて來た。そしてそれは戯談に言つて來た同君の年若い細君の手によつて起されてゐた音であつた。

 古めかしい奥座敷に通されて坐つて見ると矢張り來てよかつたといふ故のない安心が胸に湧いた。うす暗い座敷も、光つてゐる佛壇も、縁側から庭、庭から畑、畑の向うに茂つてゐる大きな竹藪も、すべて夙うから見馴れてゐるこの年若い友人の歌に對すると同じい可懐しさを持つて眼に映つて來た。一時晴れてゐた雨が夕方かけてまた細々と降つて來た。洋傘を持つて庭先から竹藪の方へ歩いて行くと其處はすぐ矢部川の土堤になつてゐた。そしてその途中、畑中の一軒家からは例のちやぱ/\の音に混つて、若い男の暢びやかな唄聲が聞えてゐた。

(94) 夜は丁度その小字のお大師講とかが同君方に催さるゝ混雜中に、高山家の人たち、三千樹君の實家三宅家の人たちに勸められて遲くまで馳走になつた。風邪で床に就いてゐたといふ三宅家の十七八になる妹さんをまで呼び寄せ、丁度その時座にその妹さんと細君との二人しかゐなかつたのを見るや多少醉つて來た三千樹君は昂奪した瞳をあげて二人を見詰めながら、現在の私の心からの友人といふと本統にこの二人きりなのです、二人だけが私をよく識つてゐて呉れます、とさも難有さうに言つたりした。長崎の大橋君もさうであつたが、この高山君も養子の身の上で、何彼と家庭のごたごたが斷えぬらしいのをば隨分前からその歌を通しても知つてゐたのであつた。

 二十二日。幸にたいして降らず、九時ころこの靜かな村を出た。羽犬塚まで送らうとて高山君も一緒であつた。羽犬塚に着くと私は一軒の料理屋に上り、藝者をも二三人呼んで賑かに別宴を張つた。昨年の秋逢つた時よりどうもこの年若い友人に元氣が無く、何となく氣になつてゐたからであつた。肝心の主賓より陪賓の從兄の方が先に醉つてしまつた。そして、よし、今度は大牟田でわしが御馳走する、高山君、行きまつしう、と捉へて放たず、また/\四人して大牟田まで來てしまつた。驛からすぐ自動車で公會堂の中に在る何とかいふ料理屋に入り、また改めて賑やかな盃を擧げた。飲みながら不圖私は考へついて同じ市中の中村酒店といふに電話をかけて見た。案の如く中村政雄君は歸つて來てゐた。昨日歸つたのださうだ。東京の學校が休みになり次第歸(95るとの話を大阪の三池君から聞いてゐたのを思ひ出して、同君方に問合せて見たのであつた。間もなく同君もその席へ表はれた。

 二十三日。今日は一日ゆつくり休まうと考へてゐたところへ、中村君方から迎ひが來、連れられて赴く。老母、令兄夫妻、ツイ最近迎へた同君の新夫人たちにお目にかゝつてゐるうちに、お酒が出た。同家は大きな酒店でこれならば幾らでもあるからといふ條件附きなのだ。が、流石にもう幾らもよう飲まず、たわいもなく醉つた所へ、三池町から遠藤典太君ほか二三人の社友が訪ねて見えた。そして各自の歌の批評を求められ、何やら大いに語つたが、何を言つたか怪しいものであつた。その間に旅人は政雄君の甥御たちと仲好しになり、たうとう獨りで、其處に泊る事になつた。その時まで一緒だつた高山君も、夜の汽車で上妻村に歸つて行つた。

 二十四日。昨日中村君方で約束が出來、けふは萬田炭坑を見物する事になつた。單に外部だけならば兎に角、坑内を見する事をば近來一切禁じてあるのださうだが、中村君の義兄が其處に勤めて居られその盡力で坑内にも入る事を許されたのである。私はこの前矢張り從兄を訪ねた時、一緒に坑内まで降りて見たのであつた。そしてその異常な光景に悉く驚いたのであつた。その驚きを旅人にも經驗させたく、中村君を通じて無理を願つたのであった。

 附近には他にも幾つかの炭坑があるのであるが、中でもこの萬田が最も大きく、且つ諸種の設(96)備も此處が一番整つてゐるのだ相だ。事務所に着いたは正午すぎで、直ぐ着物を脱ぎ、筒袖じみた合羽を着、防水布製陣笠樣の帽子を冠り、長靴を履き、カンテラを携へ、杖をついた姿は天晴凛々しいものであつた。更に幸な事に中村君の義兄のお友達(二人とも働き盛りの工學士であつた)で坑内の某課主任をしてゐる人に親しく案内して貰ふ事が出來た。眞直ぐに九百五十 呎呎の深さを持つた坑道を、ヱレヴヱターの疎未な樣な機械に乘つて、ほんの一呼吸の間に落下してゆくのである。そして、降りついた其處の坑内は二里四方(所によつては今少し廣く)にわたれる廣さで掘り廣げられてあり、その大部分に電車が通ひ、その先にはトロが走り、その先には馬が歩むといふ風に地下千尺のところを蜘蛛の網の樣に石炭運びの設備が整ひ、さうして先々の、お互ひに二三里を距てた圓周の端々には素裸體の男女がゐて、せつせと石炭の壁を掘りくづしてゐるのである。其他坑内の通風機關、排水機關等の壯大にして微妙を盡くした機械の力を見るごとに我等の樣なものはただもう驚くばかりで、折角丁寧に説明して貿ふ話も殆んど耳には入らなかつたのである。坑内を經巡る事二時間あまりで、上に出た。そして今度は陸上に在る工場を見せて貰ひ、やがて事務所の大きな風呂に入れて貰つて、漸く夢から覺めた樣に自分に返る事が出來た。感心に旅人も途中で屁古垂れず、この永い危險な見物を終始息を呑んだ儘に成就し得たのであつた。(この萬田炭坑見物記をば別に書く積りで,多少のノートを取つておいたのであつたが惜(97)しい事にそれを紛失してしまつた。)風呂から出ると丁度黄昏であつた。直ぐに辭し去らうとすると、中村君の義兄さんの宅で夕飯を用意してあるからとて勸められ、遠慮なくいただく事になつた。そしてやゝ更けそめたころ、馬車に送られて大牟田に歸つた。

 廿五日。年前八時、意外の永滯在となつてゐた大牟田を立つ。從兄、頭あがらず、姉が代つて中村君と共に見送つて呉れた。

 あとは、兼ねて立寄る事になつてゐた熊本にも鹿兒島にもよう寄らず、僅かに八代在の林温泉にひつそりと浸つて酒の膏《あぶら》を拔いた上十二年振の故郷日向に入つた。

 滯郷記は別に他の雜誌に書くことになつている。


(98) 身延七面山紀行

 

 午前七時沼津驛發、富士驛乘換、大宮驛下車、淺間神社に詣でた。富士山を背景にして世間に聞えた神社としてはやゝ奥行の淺い觀があつた。いかにも野原に露出してゐるといふ感じのお宮であつた。次の汽車の時間を待ちながらお池の鯉と暫く遊ぶ。鯉には見ごとなのがゐた。ことに重々しい曇日の空の光と青葉の蔭と池の水の薄濁りとがこの魚の群の色や形を一層面白く美しく見せた。眞鯉緋鯉のほかに青白い色をした大きいのが幾疋か混つてゐたが、これが徐ろに、濁りの底から浮き上つて來る時はいかにも貴とげにまた美しく見えた。石の反橋《そりばし》の蔭に靜かに浮んで動かないのにはその鱗や尾鰭の色に冷やかな陰影が織り込まれてゐてなは常ならず眺められた。

 大宮驛を離れると間もなく汽車は富士川に沿うた。實は私はこの線路は初めてなので、この大きな河瀬を見下しながら登つてゆく車窓の眺めを樂しんで來たのであつたが、やがて失望を覺えた。見ゆるものはたゞ廣々と白洒《しろざ》れた河原のみで、河の瀬は僅かにその河原の何處かに寄生した形で細々と流れてゐるにすぎないのである。さみだれを集めてはやし最上川、といふ樣な青葉若(99)葉のころの大河の眺めとしてはひどく乾《から》び果てたものであつた。でも、ところ/”\そのたゞ廣い中に楊の木の原があり、風に靡いてほの白い葉裏を見せてゐるのなど、やはり夏の初めの河原であつた。ことに對岸の青葉の中にこの汽車と並行して見えがくれに一本の路の續いてゐるのが私の心を靜かにした。汽車のなかつた以前、岩淵から登つて來るにはその路によつたのださうである。

 車内はこんでゐた。中に神港年參講と白く拔いた赤地の旗を押し立てた六七十人ばかり、七分通りは女人で他に老爺や若者の混つた一團は神戸から來たのださうで、昨夜ちつとも眠れなかつたとこぼしながらもこれ見よがしに騷ぎ合つてゐた。

 正午近く終點身延驛に着いた。同行の大悟法君と二人、驛前にひしめき合つてゐる俥屋馬車屋の間をさつさと拔けて田舍には不似合な大きな橋身延橋といふを渡つた。車内の人いきれに蒸されてゐた身に吹きあつる河風が氣持よかつた。折柄その風を豐かに孕んで溯つて來る二三の白帆も珍しかつた。久し振に履きしむる草鞋のあたりごこちが誠によく、自づと急ぎ足になつて溪に沿うた路を登つてゆく。對岸の茂みには栗の花がほの白く咲き乱れ、道下の瀬の中からは河鹿の聲が斷えず聞えて來た。

 途中で思ひがけぬものを見た。溪の瀬が一つの小さな淀を作つてゐる。其處に泳いで居る二人(100)の女があつた。季節がまだ早いし、それに一人は十七八、一人は三十越した年増、二人とも揃つて派出な海水着を着けてゐる。驚いて立ち留つた我等の視線から逃るゝふりに若い方の女は二つ三つの大きな岩の間を身をくねらせて這つてゐたが、豊かに肉づいた手足の伸び、着物の色艶、何だか美しい獣を見る樣であつた。

『近所の坊さんの娘や細君ででもあるでせうね』

『いかにも日蓮宗らしいや』

 笑ひ捨てゝ急げば程なく總門に着いた。開會關と大書された額が掲げてある。當山三十六代日潮上人の揮毫だといふ。門を過ぐれば爪先上りの身延の町となり、小さな商家がとり/”\に店を飾つて客を待つて居る。小さく明るく細々とした町である。町の行きあたりに三門があり、門を入れば直ぐに菩提梯と稱へられ二百八十七段からあるといふ急峻な石段となる。それを登りつめた所が即ち久遠寺《くをんじ》である。

 我等の登つた六月十六日は折よくも宗祖入山六百五十一年目の當日だといふ事で、開闢大法會といふが行はれてゐた。集る僧侶おほよそ五六十人、おほく經典を持ち、又は樂器を携へ、飾り立てられた廣やかな本堂の内に圓く大きく輸を作つて徐ろに練り歩き、所謂|行堂《ぎやうだう》とかいふ會式《ゑしき》が始められてゐた。中に三四人、天童に型どつたといふ稚兒も混つてゐた。樂器の響讀經の聲、立(101)ち籠る香煙と共に堂内に滿ち滿ちて見るからに眼覺ましいものであつた。一拜の後我等はまた草鞋を履いて石段を降り、三門より右に折れ、七面山の方へ登りかけた。

 路は直ぐに溪に沿うた。その溪ばたに深敬院病院と記された木札のかゝつた一堂があつた。深敬院と口のうちに呟きながら私は不圖思ひ出した事があつた。今より十五六年前、私は一度身延山に詣でた事がある。着いたは夜で、三門近くの宿屋に泊り、翌朝まだ暗いうちに久遠寺に詣でた。眼下の溪間には山から町にかけてひつたりと霧がたちこめてゐたが、その深い霧の中の或る一個所から實に烈しい斷扇太鼓の音と題目の聲とが聞えてゐる。何處もまだ眠つてゐるなかにどうした事かと、たづぬるともなくその聲の方へ霧をわけてゆくと、ある一つのお堂の内に耿々と蝋燭を立てつらね、その前に押し並んだ廿人たらずの人が一齊に祈願を凝らしてゐるのであつた。太鼓の打ちかたお經の唱へかた、それこそいづれも物凄いばかりの一心不亂さで、何心なく見てゐるうちに私自身何か知ら一種の惡寒を覚えたのである。そしてそれと同じい感じをその前に熊本の清正公神社で癩病血統の人たちの捧げてゐる祈りを見て身に覺えた事をすら思ひ出したのであつた。聞けばそれらはみな精神病の人たちであつたのである。深敬院の文字を見ながら舊い記憶を思ひ出してあたりを見廻すと正しく場所も昔の其處である。たゞ看板のみが新しい。

『深敬院はひどいね』

(102) 苦笑しながら通り過ぎた。今日は堂内に蟲一つ鳴かぬ靜かさであつた。

 溪が漸く深山の溪らしく岩の間に眞白な飛沫をあぐる樣になつてゐた。道も細まり、上を掩ふ若葉の茂みも深くなつた。草鞋の歩調も次第に定まらうとしかけた時、

『ほつたんかけたか、ほつたんかけたか』

 と不意に頭上近く啼き過ぐる鳥を聞いた。樂しんで來た一つの杜鵑の聲である。毎年の事だが、これらの鳥の聲を聞かないうちにはこの季節が身に沁まず、また聞かずにはおかれぬ焦燥をすら覺ゆるのが私の癖である。

『よし/\、啼いてゐるな』

 さういふ氣持で洋傘の柄に兩手を置き、暫く立ち停つて耳を傾けた。

 御草庵舊跡といふ前を通つた。此處が即ち六百數十年前初めて日蓮の庵を結んだ跡だとかで、相迫つた溪間のほんの僅かの窪地である。此處に籠つて獨り靜かに燃え立つ心を抑へながら水を汲み枯枝を拾つた姿の一人の僧侶を思ひ浮ぶる事は他のいづれの金ぴかものゝ日蓮宗の看板を見るより遙かになつかしい事であつた。私たちは久しい間、落葉の上に腰をおろして、眼下の細い流の石に碎くるさまやあたりの草木の風にそよぐ姿に見入り親しんだ。

 路は漸く嶮しくなつた。そして折々立ち停つて見下すたびに次第に高い所に登つてゐるのが感(103)ぜられた。我等の登つてゐるのと溪一つを距てた向う側の峻しい傾斜の山腹は一帯に廣やかな樅《もみ》栂《とが》などの針葉樹林となつてゐたが、その青黒い斜面の何處からとなく霧が湧いては擴がり、やがてまた消えて行つた。霧に浮く老樹の樅の梢から梢に萌え渡つた新芽の美しさは、度々私の脚を引き留めた。舊い葉は殆んど漆黒とも言ひたい固い黒さで、その上に僅かに吹き出た今年芽の眞みどりはまた例へやうのない清純な、柔かな色であるのだ。夙うに知るべくして知らなかつたこの大きく間の拔けた樹の若芽の美しさを今年初めて知る事の出來たのも可笑しかつた。

 樅栂や雜木の多い山路に一ところ見ごとな杉の立木の立ちこんだ林があつた。杉の數は三百本か五百本か、さまでに大きくはなく丁度根もとが我等の一抱へほどで、而かもその大きさを持つたまゝ眞直ぐに高々と生《お》ひ伸びて胸すくばかりの高さにまで生ひ伸びて茂つて居るのである。根もとも梢も大きさに變りはなげに、それこそ鵜の毛一つの曲りも見せず、聳えも聳えたり眼の疲るゝ高さにまで立ち聳えてゐるのである。路はその林の中を通つてゐた。何氣なく歩み入つて不圖振り仰ぐと共に我知らず讃嘆の聲を放つて暫らく見惚れてゐたが、耐へかねて私はその林のまん中どころと思はるゝあたりに行き落葉の上に仰臥してしまつた。見れば見るほど美しき杉の木よ、杉の林よ。ことに美しいのは所謂老杉古松の惡固いところを此處の杉は持つてゐなかつた。いかにも若い。しかもびるつこい若さでない。ほど/\に伸び、ほど/\に固まり、ほどほどの(104)色を光をその葉に幹に持つて、天空開※〔さんずい+(門/舌)〕、何のさやりもなく生ひ伸びてゐるのである。おゝ、いまその林が搖れる。折からの風に、林全體が耳に聞えぬ一つの調子を作つて、かすかにかすかに搖れ始めたのである。私は冷たい大地に双手を一文字に投げひろげたまま、飽く事なくこの明るく大きくさわやかな杉の林を讃美した。

 身延から七面山の頂上まで、ほゞ二十町おき位ゐにお寺とも茶店ともつかぬ建物が一軒づつ路端に續いてゐた。奥は簡単な祖師堂となり店先には駄菓子などが並べてある。これもその一つであつたらうと想像せらるゝ十萬部寺といふのが燒けてゐた。燒跡に立てられた木札によると僅かにこの十日ほど前の事である。建物を圍んでゐた老木の杉木立の燒殘りの焦げ色も眞新しい。隣家といふものを持たぬ深山の中の斯うした一軒家が燒ける時の光景、その家人たちの氣持はどんなものであつたらうとそゞろに思ひやられた。然し、工面のいゝ家と見えて早速もう新しい木材にそれぞれ手が入れられて積み重ねてあつた。

 其處等は路は既に溪問から山腹を出て尾根づたひの樣な處を通つてゐた。折も折、朝からの重い曇が晴れかけて、雲はまだありながら空の何處かに明るみが宿つてゐた。漸く馴れて來た歩調に歩みは次第に速くなりながら、それと共に疲れも出て、多く足もとをのみ見詰めて歩いてゐた鼻先に、七面山遙拜所といふ札をかゝげた小さな茶店のあるのが眼についた。店は閉ぢてあつた。(105)遙拜所の文字に氣附いて面を擧ぐると、成程丁度路の曲り角に當つた其處のやゝ右手の方に形けはしい高山の聳えてゐるのが仰がれた。山の上あたり僅かに雲が切れて鋭い頂上一帯に夕日が青やかに落ちてゐた。

『や、素敵だ、あれが七面山かナ』

 さう私がいふと、大悟法君もそちらを振仰ぎながら晴やかな聲に、

『さうでせうね、あれだと幾らか山らしい氣がしますね』

 と言つた。

 茶店の裏手に廻つて小用を足してゐると、その山よりずつと左手に當つて同じく嶮しい形の山のあるのを見た。前のはそれぞれ錐を並べた形に尖つた峰を並べてをり、其處で見附けた山は屏風を立てた樣な扁平な容で、いづれも相當の高みを持ち、嶮しい角度を持つて相聳えてゐるのである。私は大悟法君を呼んだ。

『サテ困つた、どつちが一體七南山だらう』

『サア、どつちにしても明日は相當面白いでせうよ』

 初め身延を餘程の高山に想像して來てやゝ失望氣味であつたこの元氣のいゝ年若な友人は、どちらにせよあれなら多少登り甲斐があると云つた風に明るい微笑を浮べて腕を組んだまゝ双方の(106)山を仰ぎ較べてゐた。

 其處から路は急な下り坂となつてゐた。隨分ときびしい坂である。ともすれば走り出しさうな足もとを踏みしめながら用心して降りてゐると思ひがけぬその眼下の麓に一かたまり人家の寄つてゐるところが見えて來た。二人とも急に言ひ合せた樣に足に力を入れて立ち停つた。

『あれですね、赤澤村は』

『さうだ、確かにあれだ、とすると……』

 私は答へながら、友人を振返つて笑ひ出した。

『あれなら面白い、こいつは思ひがけぬ拾ひ物をした、あそこなら君確かに面白いよ』

 友人も點頭《うなづ》いて笑つた。

 病みあがりの私には到底今日中に七面山まで登りつける勇氣はなく、身延山と七面山との中間に在るといふ赤澤村に泊る事にきめてゐたのであつた。そしてその赤澤村といふのを、その名前やまたは今日半日辿つて釆た身延山の山の淺さなどから想像して極く平べつたい平凡な澤の中に在る事とのみ思ひきめてゐた。ところがいまこの急坂の中途で發見した赤澤村は――附近に村らしいものゝ無い事を地圖によつて知つてゐたのでそれはどうでも赤澤村であらねばならぬ――平凡などころか、その急峻な垣の一部に位置して、更にその下に急坂あり、其處にかなりの溪を置(107)いて眞向うに先程から仰いで來た傾斜きびしい高山の一つと相對してゐるのである。村自身の位置も面白く、眞向うの山を仰ぐに丁度恰好な場所に當つてゐる。ほんとに掘り出しものをした氣持で、戸數十戸ばかりのその村をさして元氣よく坂を降りて行つた。

 村は全部宿屋ばかりで出來てゐるらしかつた。我等は坂を降りながら、對岸の山を仰ぐに最も位置のいゝ宿屋を選ばうと路々評議して來て、とにかく一番取つ着きのゑびす屋といふにあがる事にした。二階に通るや早速その溪を見、山を仰ぐに適當らしい一室を自ら選定して先づ障子を引きあけた。

 善哉《ぜんざい》々々、山は軒に迫つて眞向うに、溪はやゝ身體を乘り出して見下す位置の下方に在つた。ことにまた今更らしく仰がれたはおほどかに前面一帯に立ちはだかつて聳えた山の半分以上の高さに夕日が明らかに射し渡してゐることであつた。近く來て見れば見るほどこの山には木が深かつた。そしてその七八分通りが※〔さんずい+(門/舌)〕葉樹で、山が高いだけに少し季が遲れて今が若葉の眞盛りらしく、山全體が夕日に透いても見ゆるまでに緑の色が鮮かであつた。

 主婦の挨拶を聞き流して私は問うた。

『七面山はどれです』

 けゞんな顔をして彼女は頸を低めて軒端を仰ぎながら、

(108) 『それですよ』

 『矢つ張りこれか、いゝ山ですねエ』

 と我等は顔を見合せて笑つた。

『すると、もう一つあちらの高い山は』

『あれは笊が嶽《たけ》』

 多分寒からうと推察して持つて來た冬シヤツを取出して着込みながら私はなほ部屋には入らず、廣い冷たい縁側に疲れた足を投げ出しながらこの若葉の山の峰に射してゐる夕日を眺めてゐた。幾日待つても晴れさうもないので肝癪半分いつそ雨の中を濡れ通さうと覺悟して出て來た私たちにこの鮮かな夕日はまつたく難有かつた。空半分、かつきりと青み渡つてゐる。幾らか頭に置いて出て來た樂しみの一つの今夜は確かに月がある筈だ。宵月でなく、やゝ更けて出る筈、私はその方角などをも考へながら山から空を見越した。

 夕日は、然し、永くは射してゐなかつた。頂上から消え去つたと思ふと、見る/\山の若葉は黝《くろ》ずんで來た。そして、俄かに溪の瀬の音が耳に立つて來た。うすら寒い夕闇を感じながらもなほ其儘欄干に凭れてをると、何やらぱち/\と物の燃ゆる音が聞え出した。見れば、宿の前からとろ/\と登つて行つた坂路の眞中に百姓の女房たちが二三人せつせと麥の籾殻を燃やしてゐる(109)のであつた。なるほどツイ先刻私たちはその路なかに敷いてうす黄いろな刈麥の擴げられた蓆《むしろ》の上を草鞋のまゝに踏んで通つて來たのであつた。その火を見附けたか、四五人の子供たちが何やら叫びながら宿の前を通つて駈け登つて行つた。

『お山には佛法僧は啼きませんか』

 釣洋燈を持つて入つて來た背の馬鹿高い宿屋の隱居に私は訊いた。

『啼くさうですよ、月のいゝ晩なんかによく啼くといひますがね、私等にはツイ氣がつきませんよ』

『郭公は』

『ア、あれなら啼きます。毎晩啼きます』

 私はにやりと笑ひながら傍の友人を顧みた。

『大悟法君、これア今夜は眠るわけに行かんぞ』

 この友人には今日身延の御草庵舊跡のあたりで聞いて、それから路々聞き續けて來た杜鵑すら殆んど初めての鳥であつたらしい。佛法僧、郭公、簡鳥、すべてが彼にとつては生れて初めてのめづらしい深山の鳥であるのだ。

 それでも私は夕飯の時の酒のためか疲れのためかよく眠つた。毎晩の癖の醉醒《ゑひざ》の水を飲まうと(110)して枕許の時計を見ると二時である。サテ、と思ひながら頭を擧げて見ると、これはまた素晴らしい、障子半分がくつきりと白く明るく染つてゐる。突嗟の勢ひで私の頭は冴えてしまつた。そして起き上つて縁へ出た。

 成程いゝ月夜だ。宿の下から坂なりに並び下つてゐる屋並《やなら》びの屋根も、それを圍む野菜畑も、ツイ右手下の寺の杉の森も、すべてひつたりと月の光に濡れ輝いてゐる。いよ/\瀬の音の冴えて聞ゆる遙かの下の溪川の川原も瀬もさながら刻みあげたものゝ樣に白々と見えて居る。月は丁度七面山の峰つづきを横ざまに照らし出して、やゝ中空低く懸つてゐた。此處から仰ぐ山の絶壁面は殆んどすべて大きな濃密な陰影となつて、その廣やかな中に起伏してをる山襞の高みと、頂上の峰の走りとだけが浮き出た樣に白い光を宿して居る。

 枕許から煙草を持つて來て私は久しい間冷たい縁側に坐つてゐた。そして見れば見るだけ明るい靜かな眼前の景色に眺め入つた。が、たゞ溪川の音と其處に鳴くであらう河鹿の聲とが冴えてゐるだけで、何の鳥も啼かなかつた。イヤ、何鳥か折々聞き馴れぬ聲に啼くのはあつたが、心あての鳥ではなかつた。寒さに我慢が出來兼ねてこの靜かな景色に別れようとしてゐると、友人がこつそりと出て來た。

『啼きませんね』

(111)『啼かん,啼かなきアならぬ夜だけれどね』

 私は部屋に入つた。代りに友人が縁に坐つた。

 またぐつすりと眠つてやがて頭も輕く眼が覺めた。筧の水で髪を洗ひ顔を洗ひ、氣持のいゝ肌寒を覺えながら部屋に歸つて來ると、あれからずつと起きてゐたらしい友人が待ち受けてゐて問ひかけた。

『あれは何でせう、いま啼いてるのは』

 いかにも何鳥か啼いてゐる。丁度いま日の射して來たところ、夕日とはまた格別な若葉の山の朝日のなかで、切々《せつ/\》として何の鳥か啼いてゐる。寂びて、而かも水々しい。

『サテ、聞いた事のある鳥だが……』

 暫く考へても思ひ出せなかつた。一羽でなく、二羽か三羽か煙る樣な若葉の山の山合で啼き交してゐる。

『丁度あそこをお登りになるのです』

 眞赤な炭火を持つて來た宿の亭主は腰をかゞめながら指ざした。

『丁度あの、ずうつと上まで續いてゐる杉並木の中をお登りになるのです』

 頻りにいまその珍しい鳥が啼き交して、瑞々しい若葉の渦を卷いてゐる山腹に一列黒く杉並木(112)らしいものが見ゆる。

『すると、隨分嶮しい登りですね』

『ナニ、此處から見た程の事はありません』

 草鞋を履くと直ぐまた急な下り坂となつた。二町ほど部落の間を下るなかに、我等の泊つたのより遙かに大きく古めかしい宿屋の一二軒が眼についた。昔から開けたゐた身延七面山街道の合の宿と云つた感じがなつかしく胸に湧いた。程なく昨日から夕日に眺め月影に見下してゐた溪川の春木川といふ川縁へ降りついた。此處もまた山奥の溪らしくなく川原がちの溪ではあつたが、流石に水は澄んでゐた。そして川原も洗ひあげた眞白さの川原であつた。

 朝じめりの路を心地よく歩いてゐると、早や向うから例の團扇太鼓の音が近づいて來る。行きちがひに見れば網代笠)を冠つて白地木綿の着物には所嫌はず南無妙法達華經を書き散らした男であつた。そして歩きながらに太鼓を叩きお題目を唱へて居る。昨日とてもその通り、行き違ふすべてが斷間もなく南無妙法蓮華經を呼び續けてゐる人たちばかりであつた。

『ヤ、御苦勞さま、南無妙法蓮華經、南無……』

 と、これがきまつた挨拶であつた。

 身延路から七面山へ越ゆるところに羽衣橋といふが高々とかかつてゐた。昨日渡つた身延橋も(113)田舍に珍しい大仕掛なものではあつたが、それは要するに鐵道會社のかけた營業用の大仕掛であつた。が、いま見るこの羽衣橋はそれとは打つて變つた神々しい、清楚な、堅牢なものである。先づ第一に日蓮宗に似合はぬその清々しさが目についた。東京の人某大阪の人某、二人の共同喜捨から成り、某工學博士といふ人の設計に據つたものださうである。私はいまこの紀行を書きながらこの設計者の名前を忘れた事を殘念に思ふ。斯うした山奥の且つまた身延から七面山へ越す橋として、それ/”\の條件によくぴつたりと適合する樣に實に氣持よく出來てゐるのである。合せてまた私はその構成せられた材料や用式に就いて語る事の出來ぬのをも殘念に思ふ。

 橋にかゝらうとする左手に一つの瀧がかゝつてゐた。白絲の瀧といふ。高さ約十丈、正保年間徳川家康の側女お萬の方養珠院、三七日聞この瀧に浴して後七面山に登つたのを縁起として今でもこの瀧に身を淨めてお山にかゝる人が多いといふ。

 この好ましい橋を一二度行き戻りしてみなかみや川下の眺望を樂しんだ。ことに川下かけて僅かに開けてゐる峽谷の空に思ひがけない遙かに大きな山脈を望み見た。山脈の嶺から嶺にかけてほのかに雪が輝いてゐた。方角といひ山容といひどうしても信濃の赤石山脈であらねばならぬ。

 橋から置ぐまた登りとなつた。宿屋から望み見た通りに坂路の兩側に杉の並木があり、それを圍んで種々雜多な雜木の若葉があつた。掩ひかぶさる樣な若葉である。その深い森の中で文字に(114)も言葉にも移す事の出來ない微妙な音いろを持つた例の鳥が狂ほしげに啼き交してゐる。ツイ身近に來て啼いたかと思ふと、ずつと離れて啼く。

『さかんに啼きますね』

『……』

 幾度か我等は足をとめて耳を澄ませた。蒸す樣な若葉の色や匂の焦點をなすかのごとくによく徹つた聲で啼いてゐる。立ち寄つた路傍のとあるお堂で私は訊いた。

『あれは何の鳥です』

『あれですか、あれは水戀鳥《みづこひどり》ですよ』

『ア、さうでしたか、水戀鳥でしたか』

 聞いた樣な鳥と思つた筈だ、昨年の初夏、三河の鳳來寺山で私は初めてこの鳥を聞いたのであつた。大きさ鵯に似、全身眞紅、火の色をした鳥だといふ。

『あつ、あれが水戀鳥ですか』

 友人も安心した樣に言つた。前に私から噂をも聞きまたその鳥を詠んだ私の歌をも彼は知つてゐたのである。

『見たいものだなア』

(115) また一つの欲望が殖えた。

 羽衣橋あたりまで晴れてゐた空はいつの間にか曇つて來た。路から見下す溪間にはいち速く霧が生れて、ともすると我等の側まで靡いて來る。自づと足も速められて行くのであつたが、或る時、私はフイと立ち停つた。そして不思議な顔して同じく立ち停つた友人に惶てゝ或る方角を指ざしながら私は早口に言つた。

『君、ソレ、啼いてる、筒鳥が』

『エ、……』

 彼も惶てゝ耳を立てたが、馴れぬ耳には俄かにそれと聞きわけ難かつた。距離もまた遠かつた。

『ア、啼いてる/\、確かに筒鳥だ、ソレ君、ポツ/\、ポツ/\、ポツ/\/\/\と續けてるのがあるだらう、あれがそれだ。難有いな、これで樂しんで來た幾つかを果したわけだ。この上は郭公と佛法僧だぞ』

 嬉しくなつて私がいふと、

『あゝ、成程、聞えます、あれが筒鳥ですか』

 この友人には初めのうちは彼の想像して來たほど閑寂な鳥として受取れなかつた樣であつた。木魚か太鼓の遠音の聞き違ひではないかなどとも言つた。が、二度三度と馴れるに從つて次第に(116)眞實の聲の味ひを聞きわけて來た。そして後には、『ア、啼いてる』と獨りして呟きながら立ち停つて耳を澄ます樣になつた。

 麓から續いた杉並木は登るにつれて途斷えがちになつた。そして路の兩側からさしかはした若葉の茂みの下をくゞつて歩くことが多くなつた。山毛欅や橡や楓や、我等の知つてる名前の樹木はその中のほんの一部にすぎなかつたが、何にせよすべてが柔かで清らかで、美しかつた。ぢいつと仰いで見ると重暗い空の曇の中に寧ろ一枚々々のこの木の葉の方が明るい光をかき含んで輝いてゐる樣にすら見ゆるのであつた。頂上に近づくに從ひそれらの中に落葉松が加はり、白樺、樺櫻なども混る樣になつた。きうした明るい若葉の下草に山紫陽花の青むらききの花がそよ風に吹かれてゐたり、名も知らぬ高山植物性の花などの咲いてゐるのも寂しかつた。

 霧がいよ/\烈しくなつた。さアつと吹き靡いた霧が身體のめぐりを取り圍むと汗ばんだ肌に急にうすら冷たさを覺えたりした。其處から富士がよく見ゆるといふお堂茶店の前の溪あたりも一面に深い霧の海であつた。今一軒其處からも富士の見ゆるといふお堂には六十近い比丘尼が一人ゐた。茶を汲んで出しながら、丁度其處の路ばたの梅の木の蔭あたりに見える筈だがこの天氣ではといふ話から、その梅の木とても花がろくに咲くでなく實とてはならず、伐つてのけたら坐りながらに富士も見えさつぱりとするものゝ私が此處に來た年に植ゑたものでかれこれ十六年の(117)間私と共に此處にゐたと思ふとなか/\伐る氣にもならないなどといふ愚痴も出た。お詣りのある間はいゝが、雪でも積む樣になると淋しいでせうね、といふと、それは軒につく樣な大雪にも幾度か出合つた、さうなればもう人さまの顔は見られず、たゞこの焚火ばかりが命だ、と圍爐裡の薪を動かして我等の茶をとりかへた。

 程なく隨身門といふに着いた。門の前の廣場に、日天子月天子遙拜所といふ木札が建てゝあつた。僅かに北に森を負うたのみで東西南が開けてゐる。成程いゝ遙拜所だと考へながら見渡す四方が濛々たる霧の海である。隨身門からとろ/\と降つた盆地に七面山の本社があつた。七面天女を祀るといふ。お宮は久遠寺より寂びてゐて好ましかつた。が、殘念にも七面天女のどうした神樣だが佛樣だかを私は知らなかつた。お宮の中からは例により太鼓とお題目の聲とが聞えてゐた。

 お庭先の茶店に寄つて晝飯を頼み、疲れ休めの酒を含んでゐると、店先を一人の僧侶が何やらの木の小枝を持つて通りすぎた。

『いゝのがありましたね』

 とそれを見て茶店の亭主が聲かけた。

『何です、あれは』

(118) 私は亭主に問うた。

『此處では平桧《ひらび》と云つてますが本統の名はあららぎといふのださうです。これから奥の院に行く路下の森の中にあれの苗木があり、このお山の神木になつてゐます』

 といふ。

 此儘この本社の御坊に泊らうか、それとも奥の院まで行つて頼まうかと迷つたが、どうもこの盆地では眺望はきかず、お坊も多少こんでゐる樣だし、ともかく奥の院まで行つて見ようと其處を立つた。社殿の裏に薄濁りの小さな池があつた。昔はこれが七つ並んでゐたのださうだ。永仁二年、日朗尊者がこの山にわけ登りこの池を發見して池畔に小祠を建て七面天女を祀つたのがこのお山の始まりだといふ。

 僅か八町にして奥の院に着いた。頂上ではなかつたが、頂上近い尾根の一角に位置し、霧さへ晴るれば少くとも三方の見晴らしのきく場所に在つた。喜んで先づお宮を一拜し、僧侶に請うて其處に草鞋を脱いだ。

 通された御坊の二階は十五疊敷の二室を拔いて一室としてあつた。締め込んであつた雨戸を開くと、霧が颯々《さつさつ》と入つて來た。麓から本社まで五十町あるといふ。坂が嶮しいためかその割合には私は疲れてゐた。それよりも先づ眠かつた。お茶など運んで來た老婆に頼んで布團を出して貰(119)つた。

 その布團が珍しいものであつ。一枚の長さ十二三尺幅約七尺といふ厖大なものである。敷布團も着布團もなくみな同樣のものである。呆氣にとられて笑ひながら私はその一枚づつを四つに折つて敷きもし着もした。大悟法君も初め私にならつたが、彼は眠るが主でなく寒さしのぎに床に入つて何か書かうといふのであつた。それには四つに折つた敷布團では疊から高過ぎて書きにくい。乃ち彼は上下とも長いなりに二つ折にした。ふつと見ると彼はその十二三尺の一端に頭だけ出して何か書いてゐる。私はまた吹きだした。何の事はない、鰻か鯰のおばけが其處に一疋のたうつてるとしか見えないからである。大勢の講中などが泊つた時、恐らくこの一枚の布團には十人からの人が押し込まるゝのであるのだらう。

 直ぐ眠つたが、直ぐ覺めた。すさまじい豪雨の響が忽然《こつねん》として家を包んだからである。立つて障子をあけると、ツイ二階の窓とさし向ひになつて立つてゐる樅の老樹もはつきりとは見えぬまでに四方たゞ眞白になつて降つてゐた。

 二三十分もするとその雨は晴れた。そしてどうやら遠空の底にうすら青さすら見えて來た。下界の方は霧だか、雲だか、ねつとりと重く立ち罩めてゐる。

 先刻茶店で聞いた御神木あららぎの木を見にゆく事になつた。路から折れて入り込んだ森は意(120)外にも深かつた。樅の苗木が眼の及ぷ限りぎつしりと立ちこんで、大抵の樹の枯れかけた樣な枝先には猿をがせが長々と垂れ下つてゐる。一寸見ればただ黄いろい樣で、よく見れば淡い緑が含まれたこの猿をがせはいかにも清らかで美しい。また、その森の下草には見たこともない不思議な草が、草とも見えぬ草が、幾種類か生えてゐた。三四丁も下つたが、あららぎの木はまだ見えない。そのうちに大悟法君は猿をがせの採集を始めた。登れさうもない樹へ登つて行つて、少しでも長いのを選んで採つてゐる。其處へ雨が來た。初めは霧雨の樣なしめやかさで降つてゐたが、やがて粒が大きくなつた。近くの樹遠くの樹が一齊に荒々しい響を立て始めた。とりあへず附近で最も大きい樅の木の蔭に逃げ込んだが、聞くともなく聞いてゐる雨の響、森を包んでぢいつと降り入つてゐる雨の響は、初め珍しく、やがて何やら恐しくなつて來た。はらりはらりと枝から雫の落ち始めたのをきつかけに我等は跳ねあがる樣な勢ひでその森の中を走り始めた。奥の院行の路まで出ると大勢の參詣者が同じくぐしよ濡になつて走つてゐるのと一緒になつた。

 うす暗く暮れてまで三人五人と奥の院まで參詣者がやつて來た。南無妙法蓮華經、々々々々々々々と途徹もなく大きな聲を張りあげながらやつて來てばら/\と賽錢を投げお札などを買ひ、また南無妙法蓮華經と歸つてゆく。この御坊に泊る者は一人もゐなかつた。本社の御坊には恐らく百人から百五十人の泊りがあつたであらう。

(121)『よかつたねエ、……』

 窓に腰かけて歌か何か考へてゐる友人に私は呼びかけた。

『向うもこの布團だらうが、この中にあの連中とごた/\押し込まれたのぢやアたまらないからなア』

『だつて女はどうするでせう』

『多分一緒くたでせうよ、萬事そんな調子ぢやないか』

 釣洋燈をば眞つくらになつてから持つて來た。

『お婆アさん、佛法僧は啼きますか』

『啼くでせうよ』

『郭公は』

『啼くでせうよ、私等はへえ何が何んだかちつとも知りませんよ』

 二人は顔見合せて苦笑した。

『然し、どうもこの樣子では月が出さうだ、出るとすると今夜もまた寢ずの番かなア』

 さう言ひながら最後の日和見に立ち上つたが、霧は矢張り窓を掩うて立ちこめてゐるのであつた。

(122) 恐る/\お膳に徳利を一本つけて貰つたところ、思ひの外にその酒はうまかつた。そして、ツイ二本三本と重ねた、この分では此處の坊主も相當好きだと見えるわいと思ひながら。

 意外の上酒に醉ひすごして豫定よりずつと遲れて眼がさめた。友人はもうちやアんと起きて窓に凭つて居る。

『晴れてる、……、啼きますか』

 私も立つて行つた。

『啼きませんよ、降つてはゐないんですけど』

 月の光とも明方の光とも解らぬものが、四方の霧の中に宿つてゐた。

『この位ゐなら啼きさうなものですがねエ、それとももつと晴れねば駄目か知ら』

 昨年佛法僧鳥を聽きに鳳來寺山へ登つてゐて、初め七日は雨に降られて駄目、八日の晩僅かに晴れて漸く聽く事を得た記憶を語りながら、私も窓に腰かけた。

 とにかく深い霧であつた。おつとりと凝り澱《をど》んで、動くらしいけはひも見えない。その中から一つの不思議な音いろが聞えて來た。ぴい――、ぴい――、ぴい――といふ風に一つの單音を長アく引いて三つを重ね、やがて、ひよう――、という風にとめる。また、ぴい――の終りにかすかに「ン」の鼻音が附いてる樣にも聞きなされた。斯う文字で表はせば寧ろ可笑しいものに聞え(123)るが實際は何とも言へない寂しさを含んだ聲であつた。ぴい――と初めやや強く高く、次第に、いィ――とかすかに引いて一寸間をおき、また次の、ぴいィ――に移る。いかにも狹い深い所へ誘はれてゆく樣な聲である。

『何です、あれは』

『さア、何でせう、あれならもうずつと前から啼いてるのですが』

氣をつけてゐると、この鳥もまた佛法僧や郭公と同じく、啼きながら絶えず場所を換へてゐるのである。ぴい――、ぴい――ぴい――、ひよう――と一くさりの聲が聞えたと思ふと、今度はまた他の違つた場所から聞えて來る。二羽三羽居て啼きかはす調子でなく、確かに一羽のみが獨りで隨所に啼く聲である。それが何一つ見えわかぬ霧の中のあちこちをまひ移りつゝ啼いてゐるので一層物寂しいものに聞えるのであつた。そのうち、あちこちに他の小鳥たちの啼聲が起つて來た。すると、ぴつたりとこの不思議な鳥の音はやまつてしまつた。無論、御坊の老婆も、老僧もこの鳥の名も何も知らなかつた。

 霧は次第に晴れた。ゆつくりと奥の院を立ち、途中幾組かの連中を追ひ拔いて麓に下つた。そして春木川を渡つて身延山にかゝり、二十町も登つたと思はるゝ頃に、一昨日汽車で一緒であつた例の神港年參講の連中と出會つた。彼等は身延に二泊したと見える。女の若いのはすべて長襦(124)袢一枚のあらはな姿、老婆老爺は肌ぬぎ、中に歩きかねた連中は六七挺の山駕籠を連ねて中にはぐんなり眠りこけてゐるのもあり、元氣な婆さんたちは金剛杖を股間に引つ挾んでハイ/\ドウドウと竹馬の眞似をしながらやつて來た。

 追分茶屋といふから昨日來た時と路を違へて身延山の奥の院へ登つて行つた。路はずつと尾根づたひになつてゐた。尾根の片側、我等の右手に當る方は昨日登つて來た身延一帯の大きな峽谷で、おもに黒木の森林帯となつてゐる。其處には濛々たる霧が渦卷いてゐた。それこそ盛んな勢ひで、くる/\くる/\卷き上り卷き下りしてゐるのである。そして折々その渦卷のはづれが我等の尾根へ靡いて來て前後を取り圍んだ。が、それと反對の片側はからりと晴れて、遠くの下に見えて居る富士川の川原には日光でも落ちてゐさうな明るさだ。

 頂上の奥の院に程近い頃であつた。あまりの霧の見ごとさに私は暫らく立ち停つて眼下からすぐ嶮しく落ち込んで行つてゐる大きな峽谷を見下してゐた。渦卷き動く霧の海には樅や杉の黒木の梢が物々しく現はれては消え、消えてはまた現はれてゐた。昨日私の感心して寝ころんだ杉の林などもこの海の底のいづこかに在る筈なのである。そんな事を思つてゐた時であつた。端《はし》なく私は一つの鳥の烈しい啼聲を聞きつけた。

『カツ、コウ……カツ、コウ、……』

(125) 惶てゝ私は先に行く友人を呼びとめた。そして自分でもぢいつと耳を傾けながら、無言に眞下の白濛々たる霧の海を指ざした。

『カツ、コウ、……、カツ、コウ、……カツコウ、カツコウ……』

 まさしくその何處からか聞えて來る澄みに澄んだ郭公の聲である。

『ア、啼いてますね、何です、あれは』

 友人も惶てた樣に二三歩あと戻つて私の側へ寄つて來た。そして首を延ばす心持で遠くの霧の中に窺《のぞ》き入つた。

 やれ/\と私は思つた。佛法僧は何とも言へないが、せめて郭公だけは聞いて歸り度いと思つてゐたそれをいま果したのである。しかもこの見ごとな霧の中で聞いたのである。友人も喜んだ。

『この聲が僕には一番親しい』

 とも言つた。郭公は、實は、晴れた日に聞くがいゝ。日光の煙つてゐる樣な林か野原で聞くのが一番寂びて聞える。郭公らしい聲である。今日のは郭公にしては少し鋭どすぎた。鋭どいといふが惡ければ、少し調子が迫りすぎた。鳥にもよるであらうが、たしかにこの深い霧のためもあるだらうと私は思つた。郭公だとは信じながらも、ともすれば佛法僧の聲音《こわね》が思ひ出された。それだけに、聲はよく澄んでゐた。

(126) 奥の院で休んでゐる時、荒い雨が來た。それから五十町、久遠寺の庭におりつくまで、ばらばらと響く杉の雫を洋傘に聞きながら急いだのであつた。

『ソレ/\、彼處に咲いてる、あれだよ/\』

 私は下から降りあぐる樣な雨に傘を傾けながら友人にさし示した。途中で朴の木の葉を初めて見た彼はわざ/\その幾枚かを摘み取つて持つてゐるので、どうかしてその大きな花をも見せてやりたいと思ひながらくだつて來た尾根路の片側の溪間に漸く一本のその木の花を見附けたのであつた。吹き降りの烈しい雨の中に廣やかな葉を翻しながら、一本だけ雜木を拔いてその木は聳えてゐた。そして純白な大きな花はその梢にはつきりと見えてゐたのだ。

 老木ぞろひの其處の杉並木の梢には杜鵑が來て遊んでゐた。

『今度こそは見えるぞ』

 さう言つて、ほつたんかけたかの啼聲の移つて行つた方角の杉の木の下に傘傾けてこつそりと近づいても一向にその姿は見えなかつた。荒い筋となつて流れてゐる霧が見えるばかりだ。

『ほつたんかけたか、ほつたんかけたか、たか、たか、けきよけきよ』

『なアんだ、もうあんな所に行つてやがる』

 笑ひながら並木をはづれて立ちこんだ杉の森に入り、やがて久遠寺、身延町と過ぎて身延駅に(127)辿り着くまでしやア/\と雨は降り續けてゐた。

 大悟法君はこの三日の山歩きに五足の草鞋を蹄み破った。


(128) 信濃の春

      ――半折行脚記――

 

 四月十八日朝沼津發、晝近く東京驛着。この日午前二時の、汽車にて揮毫用品買込のため東京まで先發してゐた大悟法利雄、及び驛前丸ビル内の會社に出勤中の長谷川銀作の兩君が驛に出てゐて呉れた。直ちに三人して上野驛に向ひ、驛前にて晝食す。午後二時、長谷川君に別れ、兩人して同驛發。

 青一色の平野を走る。四方ともうら/\とうち煙つた春の日和である。熊谷土堤は櫻の滿開といふところだつたが、沼津あたりと同じく此處の櫻も今年はめつきり色がわるさうだ。高崎驛にて夕食を買込み、冷酒の醉漸く瞼に及ぶ頃、親しく妙義を窓前に仰いだ。立ち並んだ險しい峯から峯の間に星が大きく輝いてゐた。

 うち續いた隧道を拔けて輕井澤の高原に出た時はもう闇であつた。闇ながらに四邊《あたり》の冬さながらの枯野原がよく想像せられて、やゝ旅めいた氣持になつた。寒さ凌ぎにと大悟法君は驛構内の蕎麥を喰ひに出て行く。九時近く、御代田驛着、重田行歌君が自動車を用意して待つてゐてくれ(129)た。

 佐久高原の蕭條たる桑畑や赤松林が自動車の頭光に照らし出されて、この久闊の地に次第に親しみが湧いて來る。程なく岩村田町着、この前の時泊つた佐久ホテルに車を着ける。其處には本牧村から大澤茂樹君が來て待つてゐた。乃ち久し振りの炬燵を中に、四人相對して不取敢の盃を擧げ、いつか深更に及んだ。

 同十九日。快晴であつた。曉起廊下に出てツイ眼の前に聳えて居る淺間山のおほどかな姿を仰ぎながら、また久闊のおもひをした。庭の梅樹、まだ蕾らしきものをも見せてゐない。我等は既にこの正月元日に伊豆の古奈温泉でこの花を見て來た事など語つて打ち笑つた。食後附近の名所|鼻顔《はなづら》観音に詣でた。なにがし川の岸、崖の中腹にきらびやかな御堂が設けられてあつた。我等はその崖の上の落葉松の林に入り、枯葉枯草を敷いて休んだ。丁度淺間を前に蓼科八ケ岳を背後に望むといふ位置にあつた。諸山悉く雪を纒ひ、あたりの落葉松も一向まだ芽ぶかう樣子をも見せてゐなかつた。この木を初めて見るといふ大悟法君は我等と一緒に坐つてゐる事をもせず、獨り離れて林の奥深く逍遙してゐた。

 實は此邊の半折會をばこの月末に開くことになつてゐたのだが、それだとそろ/\農繁期にも入る事なり、ずつと早めた方がよいとの重田君の意見で、急に斯うして出て來たのであつたが、(130)重田君の方にもまだ充分の用意は出來てゐなかつた。相談の上、午後俄かに自動車を驅つて本牧村の大澤君方に赴く事になつた。

 その間約四里、佐久高原の丘陵を縫うて通じて居る舊中仙道を走るのである。寒くはあつたが、快かつた。途中、布施村通過の際重田君は下車して家に歸り、代つて其處に待ち受けてゐた荻原太郎君が同乘した。同じく赤松林の丘に挾まれた樣な古驛、茂田井の宿に大澤君の邸はあつた。

 同二十日。朝荻原君はその勤むる田口小學校に歸り、我等はその年前午後を半折その他の揮毫に費した。そして當地方第一囘頒布會を明日同君方で開く事になり、茂樹君の令弟及びその從弟大澤光雄の兩君は共に自轉車により附近三四里四方の有志間に参觀勸誘を試みて呉れられた。何しろ村から村の間が近くないので、一方ならぬ骨折であるのだ。

 夜はまた一同打揃うて大きな炬燵を圍み、心ゆくまで盃を擧げ、名物の蕎麥、山芋汁など馳走になつた。茂樹君嚴父茂十郎翁、甚だ酒を愛し、而かも壯者をしのいで元氣横溢、昨夜も今夜も最後は翁と小生との對酌對談となり終るのであつた。乃ち茂樹君末弟の私語なるものを聞く、曰く、『先生(小生の事)は兄さんのお客さまで無うて阿父さんのお客だ』と。

 同二十一日。早曉、朝飯を携へて茂樹、光雄、利雄の三君及び小生、附近の山、中のたひら上のたひらといふに遊ぶ。共に蓼科山の山裾の延びてそれ/”\の尾根をなせるものである。山は全(131)部冬景色で、とり/”\の色をして立ち並んだ枯木立の間に白樺の純白も立ち混り、昨日の落葉松と同じく大悟法君を喜ばせた。上の平の尾根を歩いてゐた時であつた。何やら耳につく鳥の啼聲が聞えて來た。立ち佇つて聽けばたえて久しい呼子鳥の聲であつた。

   呼子鳥啼く聲聞ゆ楢櫟枯葉を殘す春の山邊に

 正午歸宅、直ちに會場を作りにかゝり、二時頃出來。ぽつ/\と人見え、歸るもあり留るもあり、夕方まで殘つた人たち十五六人の間にさゝやかな宴會が開かれた。隣村協和村より社友依田國武、田中紅兒の兩君來會、他は多く大澤家としての知人らしく、極く内輪なものであつた。宴半ばの頃、重田君來る。茂十郎翁と小生との殿軍に一枚また勇者が加はつた譯である。

 同二十二日。たいへん厄介になつた大澤家に別れを告げ、重田君の勤め先、南佐久郡岸野村なる小學校に向ふ。茂樹君同行。また自動車である。

 學校の隣りの某家にて少憩、晝食。鯉は信州の自慢、信州では佐久、佐久でも岸野の鯉といふ程の本場である。大澤君方より持つて來た分の不足を若干揮毫して、會場に定められた小學校二階の裁縫室に陳列し、午後三時より先づ其處にて講演會を開く。聽衆は其處を始めとし附近の小學校の先生たちで凡そ七十名、僅時日の間によく手の廻つたものであつた。講演果てゝより會場をそのまゝに二十名程の有志により簡素な懇親會開催、學校の小使氏の手になつたといふ鰍《かじか》料理(132)がたいへんおいしかつた。會果つる頃、小諸より宮坂古梁君來り加はる。

 その夜再び岩村田町佐久ホテルに到る。

 同二十三日。朝食前一杯を傾けてゐる所へ、同地社友關口勝邦氏來訪、同氏はわが創作社中第一の高齢者であるのだ相だ。初對面の挨拶終るや、氏は端然膝を正して小生に禁酒勸告をせられた。一座無言、僅かに宮坂君によつて多少のとりなしが行はれた。而かも氏は思ふ所を述べ終るや自ら立つて勝手に赴き新たな肴をも添へ、大壜の酒二本を齎らして我等に勸められた。

 荻原君の來るを待ち、宮坂關口兩君に別れて自動車により松原湖に向ふ。途中臼田町にて大澤君は別れた。初産のため里歸り中の細君を訪ねむためである。

 自動車からおり、坂道にかゝらうとする所で先程からばらついてゐた雨が急に本降りになつた。幸ひ附近に重田君の中學時代の級友小池美喜司君宅あり、使して傘四本を借り、難儀をしながらぬかるみの急坂を登る。湖の雨景はよかつたが、水がずつと減つてゐた。湖畔に何とか電氣會社の發電所が設けられつゝあるためだといふ。この前泊つた日野屋別館に上る。成程、二階から見れば鮮人工夫らしいのが附近に澤山見えてゐる。折々石を割るらしい爆發の音も聞える。

 夜、小池君、その友鷹野君といふを件ひ來訪。山芋好きの話が出てわざ/\鷹野君は自宅よりそれを取寄せ早速宿屋に料理せしめて振舞はれた。この宿では二三年前の秋、中村柊花君を初め、(133)今日同行の重田荻原兩君等も共に投宿、どうしたはずみからか笑ひ始めて連中等しく一晩中を笑ひ明かして、二三日も腹の皮を痛めた事があつた。偶々、部屋もまたその時の部屋であつた。今度は笑ふまじいぞと相警めて、おとなしくとろゝを啜る。切《しき》りに留めたが、小池君達は大雨の中を十時もすぎて下山して行つた。舊作、松原湖日野屋樓上笑の歌を録す。

   ひと言を誰かいふただち可笑しさの種となりゆく今宵のまどゐ

   木枯が吹くぞと一人たまたまに耳をたつるも可笑しき今背

   笑ひこけて臍の痛むと一人いふわれも痛むと泣きつつぞ言ふ

   笑ひ入りていつか泣きたる友が眼の瞼毛の涙かがやけるかな

   ひとりは部屋の隅なる床の間に這ひゆきて笑ふ涙垂れつつ

   笑ひ泣く鼻のへこみのふくらみの可笑しいかなやとてまた笑ひ泣く

 四つの枕を並べたうちに小生のは一番はづれの窓際であつた。雨戸に當る吹き降りの烈しい音を幾度か耳にしながらも、却つて靜かな氣持でよく眠つた。

 同二十四日。どうせ降らるゝ事と諦めてゐたのが、朝起きてみればどうやら晴れるらしい。重い曇の何處やらにも確かな明るみが宿つてゐる。湖から四方の枯木の森にかけ、ふとしてはまた寒いのを我慢してあけ拂つた障子の内までも折々捩《ね》ぢ切れさうな濃い霧が襲うて來たりした。

(134) さうしたところを眺めてゐるうちにいつか小生はいはゆる「牧水半折會」から逃れていつもの一個の旅人としての身にかへり度い欲望、いつそ本能ともいふべきものに附き纒はれかけてゐた。ことに此處より一二里奥、野邊山が原の森林中にある稻子の湯のあたりに今頃啼きしきつてゐるであらうといふ駒鳥の音色などを思ひ出すと、きり/\と膽の痛む樣な身もだえをすら覺ゆるのであつた。

 が、實際はさうはゆかなかつた。今日は午後二時から臼田町に於て例の半折會が開かれる事になつてゐるのである。幾度か追加した熱燗に元氣をつけて紙を展べ、諸君に助けられつゝ立ち上つて毫を揮ふ。

 そんな風で書きそこなひ徒らに多く、十二時近くなつて漸く預定の數を書き終へた。晝飯を食ふ時間もなく、愴惶として湖畔を立ち裾を端折つて小海驛に向ふ。昨夜の雨が山では雪であつたか、八ケ岳など殆んど全山純白となつて我等が背後に輝いてゐた。

 急いだ甲斐なく、數分時の事にて小海驛發の汽車に乘遲れた。豫定の開會時間に間に合ふべくもない。荻原君氣轉を利かして臼田町に電話をかけ、其處より自動車をよこして貰ふ事にし、それを待ちながら附近の蕎麥屋に上つて晝食をとる。
 今日の自動車の速さは全く眼も眩むばかりで、曾て船車に醉うた事のない小生も終には異な心(135)地になつて來た。第一道路が危い。一つ過《あやま》てば何處からでも自由に千曲川に飛び込み得る斷崖の中腹を始終疾走してゐるのだ。だが、その代り前に豫定した汽車に乘つたと殆んど同時刻に臼田町に着く事が出來た。この邊の自動車の發展は實におもひの外で、どんな小さな宿場にでもまたどんなに危い道でも大方これによつて往來出來る樣になつてゐる。そして都會地と比べて賃銀も廉《れん》である。

 會場は岸旅館といふのゝ二階で、直ちに千曲川の廣い川原に臨んでゐる。川岸に立ち並んだ數株の柳の枝には流石にもうありとなき緑が靡いて昨夜の松原湖あたりとは大分趣きが違うて居る。會者は多くまた附近の小學校の先生たちで、中には前から知つてゐた人などもゐた。會果てて更に有志諸君と土地一の料理店三龜といふに赴く。同旅館一泊。

 同二十五日。早朝の汽車で、同行四人、小諸に向ふ。此處には櫻が咲きかけてゐた。小諸城趾懷古園のほとりなる宮坂古梁君宅を訪ふ。この附近櫻最も多く、早や花見の人出が多かつた。我等もこれにならふべきかとて、淺酌す。其處にて宮坂君と重田君とに別れ、正午の汽車にて三人同乘、松代に向ふ。

 松代驛には中村柊花君がその友なる大平君と共に待ち受けてゐた。相携へて先づ驛に近き舊城趾に滿開の櫻を見る。同じ北信州の中でも昨日一昨日歩いてゐた地方ではまだまるで冬のまゝで(136)あるに、此處まで來るともうすつかり春である。かねて打合せてあつたとかで其處に川中島町の社友北澤八郎君が忙しい中を訪ねて來て呉れた。

 轉じて象山に登る。この山登りは昨今の小生にとつてはかなり苦勞であつた。が、登りついての眺めはよかつた。打ちわたす善光寺平は悉く一眸の裡にあり、しかもその廣茫たる平野の中にあつてそれと指示せらるゝ清野村豐坂村西條村東條村寺尾村を初めとして山麓なる松代町にかけ打ちも揃うての花ざかりなのである。而かもその花が、普通いふ花の櫻ばかりでなく、「梅櫻桃李一時に開く」の文句どほりに梅から李、杏の類に至るまでみな一時に咲き揃うてゐるのである。ことにこの松代地方は杏を以て特産としてゐるのださうだ。

   梅櫻眞さかりなれや千曲川雪解ゆたかに濁る岸邊に

 山を下つて佐久間象山の邸の趾といふを見た。池の形など、まだ殘つてゐた。此處に斯う向いて座敷があり、此處で彼は火藥の製造を試みたのだ、と大平君は斯うした事に詳しかつた。なほ、土地名物の一つである松井須磨子の生れた家も山の上から指示されたのであつた。その家の黄味を帶びた土塀には折柄夕日がさしてゐた。

 町に入つて或る料理屋に上つた。程なく北澤操、太田秋二、宮林忠二君等參會。知つてゐる人は知つてゐるであらう、すべて一頃創作社中の人たちであつた。顔の揃つた所で、この次此處で(137)開かるべき半折會の下相談をなす。

 流石に數日の飲み疲れか、此夜小生泥醉、其處を引揚げ萬屋といふ宿屋に行つてまで脚定まらず、時計など滅茶々々に踏み碎いた。憐れむべし、悲しむべし。

 同二十六日。眼がさめると雨が降つてゐた。この宿屋はよほど舊い家と見え、我等の部屋から見ゆる表二階の屋根は古びはてた藁葺であつた。その藁葺を背景に狹い中庭に茂つてゐる樫の木の漸う萌えそめた若芽がすばらしくよかつた。今度造る家、といふうちにも、自分の書斎の窓をばこの樹にて圍みたしなど宿醉《ふつかよひ》の重い頭でうつゝなく考へてゐる枕許では荻原君と大悟法君とがこともこまかに踏み碎かれた時計のガラスを克明に拾つてゐる。

 酒を飲めば癖として小生飯を食はず、さればこそ斯くは弱りけめと特にとろゝ汁を註文して今朝大いに食はむとし、而してまたつひに飲み終んぬ。

 北澤操君、次いで森島千冴子女史來訪。雨を眺めながらの相談の結果、さう半折會々々々で頭を痛めてゐてもよくなからうから今日はこれより少々息拔きの意味に於て何處か靜かな温泉へでも出懸くべきかとの中村柊花大人の説に從ひ、北澤君を除く五人は相合傘にて停車場に至り、乘車、一時間の後終點中野驛下車、自動車にて三四十分、安代《あんだい》温泉に到り萬屋旅館に投宿した。宿の庭には櫻がほの紅らんでゐるが、軒喘に見ゆる手近の山から山にかけてはまだ白々と雪が殘つ(138)てゐるのである。この邊殆んど半道と距たる事なくして、湯田中、安代、澁、上林と温泉場が並んで居る。數年前、小生は上州の草津から澁峠七里の雪を踏んで此處へ越えて來、半死半生のおもひを經て澁温泉に泊つた事があつた。端なく此處にやつて來て多少の感なきを得なかつた。

 夕かけて雨晴れ、冴え返る夜空甚だ美し。乃ち湯田中温泉にまだろくに咲いてもゐない夜櫻見物に出かけ、藤間靜枝女史の振附に成つたといふ須坂音頭なるものを見て歸つた。

 同二十七日。安代滯在。別に記事なし。土地名物の色々な深山木にて造りし刳木細工《くりきざいく》を買ふ、橡の木の大盆、槐の木の小盆、桑の木の椀また盃など。桑の椀は中氣中風を防ぐとか。

 同二十八日。安代發、千冴子さん獨り中野を經て松代に歸り、我等四人は豐野まで自動車、其處より汽車、長野市下車、湯勞れの物憂き五體にて市内を散歩し、時間なればとて土地に名高き蕎麥屋「藪そば」に入つて晝食す。その間に中村君の友人にて小生にも舊知なる池田彩雲君に電話をかけその在否を問へば、幸に在り、突然なるに驚きながら直ちに馳けつけて來て呉れた。其處にてまた半折會の相談をなす。彼喜んで萬事を引受けて呉れた。

 話の末、社友なる西條梅子女史の噂出で、聞けば池田君もよく知つてゐるとの事で、早速其處に電話をかけ、大勢にて押しかくる事の如何を考へながらも終に皆して訪ね行く事となつた。梅子さんは久しい前に主人に遲れいま單獨にて藥種商を營んで居るのであつた。池田君以上にその(139)突然に驚かれながら一行は二階に招ぜられた。そして唯だ挨拶だけしてお暇しようとしてゐると、いつかお膳が出、お銚子が出た。恐縮しながらこちらもいつかいゝ氣持になつて頂戴する事になつてしまつた。そればかりかてんでに即興の歌など作り、聲高々と歌ひあげたりした。この古風の商家にとり蓋し前代未聞の事であつたらう。

   訪ね來て君が二階ゆ眺めやるむかひの峯の松の色濃さ

   友どちと打ち連れ來りとよもして君が二階に遊ぶ樂しさ

 知らぬ間に夜となつてゐた。流石に惶てゝ立ち上れば、善光寺さまへ案内せむとて彼女も共に連れ立つた。善光寺さまは晝間とは打つて變つての靜けさ寂しさであつた。其處より更に城山の夜櫻を見むとて赴く。櫻は今が眞盛り夥しい人出で賑つてゐた。東京風の「お花見」が年々盛んになつてゆくのださうだ。

 轉じて池田君の家を訪ふ。途中より別れて梅子さんは歸り、代りに池田君の友人百瀬波村君と一緒になつた。更けたればと宿屋を求めむとするに池田君捉へて放たず、小生と中村君とは同君方に厄介になる事になり、大悟法荻原の兩君は附近の宿屋に行つた。

 同二十九日。朝來微雨。荻原太郎君は早朝別れて南佐久の方へ歸つて行つた。我等の朝飯の膳はいつか晝に續いた。その間にまた即興の歌を作る。

(140) 昨日の街上所見二首。

   咲き盛る石楠花の花の鉢の蔭に少女梳るうつむきながら

   少女予の頬を眺めつつ清らけきこの世の命讃へけるかも

 今朝即興一首。

   善光寺だひらの花のさかりに行きあひぬ折柄の雨もただならなくに

 池田君の勤むる信濃日日新聞社、小生選歌を受持てる信濃毎日新聞社を訪うて挨拶をなし、停車場に赴く。其處にて五日振の中村柊花君と別れた。

 何日振かで二人きりとなつて大悟法君と車中に寂しく對坐す。姨捨の山にかゝるころ、この數日の惶しさに眼にも留らなかつた落葉松の木の色あざやかに芽を吹いてゐるのを見た。佐久高原のこの木ももう少しは春めいてゐるであらう。

 麻績、西條と昔戀しき驛を通りすぎていつか松本、其處を過ぎて鹽尻、其處で大悟法君とも別れた。彼は其儘木曾を經て沼津に歸るのである。小生は下車して、其處の在なる長畝村に親戚を訪ふ事になつてゐたのだ。

 土砂降りの雨の中を古びた俥に搖られて永い間名に聞いてゐた「長畝の家」に着いた。吉江豐氏宅である。妻喜志子の長姉美保江子の嫁げる所で、義兄にも義姉にも逢つてゐたが家を訪うの(141)は今度が初めてゞあつた。

 正確に事実を知らしておかなかつたので、非常に驚かれた。そして一家に喜び迎へられて温い炬燵に落着いた。やれ/\といふ氣持で胸一杯である。

 義兄がまた甚しく酒を嗜んだ。乃ちその炬燵に落ちつくとから始つた酒は其處を出て暇乞するまで約三日の間打ち續いたものと見ていゝのであつた。

 丁度櫻の花の咲きそめた所であつた。廣い庭に見ごとなその老樹があり、今までに見て來たのとはまるで違つた眞實の櫻らしい色で咲き枝垂れてゐた。酒間折々立つてこの花を仰ぎながらまた二三首の即製を試みる。

   枝垂櫻老樹の枝のしづやかに垂れて咲きたる枝垂櫻の花

   うち仰ぎよしと眺めし眞盛りの櫻折り來て插してまたよし

   鉢伏の山に朝日さしまろやかに降りつみし雪はよべ降りしとふ

   とろとろと榾火《ほたび》燃えつつ煙たちわが酒は煮ゆ烟の蔭に

   夕日させる雲のあはひに表れて雪ゆたかなる駒が嶽の山

 

 中一日滯在、四月一日午後、隣村廣丘村に義母の病を見舞うて一泊、四月二日信州を辭し美濃(142)大井町田中緑夜君方一泊、翌三日名古屋市三田澪人君方に一泊して、四月四日夜深更十七日目で沼津に歸つたのであつたが、あまり長くなるので筆を擱く。

 

(143) 半折行脚日記

      ――美濃、信濃、尾張紀行――

 

 六月三日。

 午前二時起床、昨日のやりかけの『中國民報』の選歌を終り、電燈の下にて朝食。やがて子供達に門前に送遮られながら夫婦して俥に乘る。富士人だけはまだ眠がさめてゐなかつた。

 かつきり六時、大悟法利雄、金澤修二の兩君に見送られながら沼津驛發。夜來の曇次第に薄らぎ、鈴川あたりを通るころは富士がほがらかに密雲の上に晴れてゐた。

 静岡邊より席に胡坐し、バスケットを机に『名古屋新聞』の選歌にかゝる。いつもながら濱名湖は佳し。ことに小生は湖の方より遠淺らしき海岸に長々と寄せてをる白浪を愛する。到る所さうではあつたが、尾張だひらにかゝつての麥の秋は美しかつた。麥の熟れたるは稻よりはるかに柔かく明るくて小生は好きである。

   麥の色親しきかもよ穗も莖もひとしなみなる熟麥の色

   土赤く禿げたる丘の裾のたひらに小學校ありて子等ぞ群れたる

(144) 名古屋驛にて中央線に乘換ふ。其處に三田澪人君が出てゐて呉れた。三十分の間の立話に、この旅行の歸りに名古屋に於て同君及び鷲野飛燕、中林晴太郎、入谷溪石君たちの世話にて、開かるべき半折會の用談をなす。

 高蔵寺驛あたりより汽車は玉川に沿うて走る。大きくはないが清く明るくて、この溪流も小生の好きな一つである。ことに今は青葉の季節、溪を掩うて茂つてゐる向う岸の森林――どうしてこの邊だけあゝ森が深いのであらう――の最も美しい時である。時々青嵐がその森の其處此處を過ぎて行く。亂れ立つ葉裏葉表の光のかゞやかしさは、眼の痛くなるまで見入つても飽きなかつた。

 冷たき壜を膝にしながら郎詠數首を得た。

   吹きたちて走る風みゆ青葉若葉うづまき茂る向ひの山に

   立ちまじるとりどりの木に風ぞ見ゆ松は靜けき青葉の山に

   栃の木とおもふ若葉ぞうらがへる美しきかなや向つ山の風に

   おしなびけ風こそ渡れ栃若葉くぬぎ若葉の見わかぬまでに

 年後三時五十分、大井驛着。綿引蒼梧、田中緑夜の兩君に迎へられて市川旅館といふに落ち着く。阿木川に臨み、古風な廣やかないい宿であつた。此處ならばこれまづい字など書き散らすのをやめて靜かに歌でも作り度い氣がするとて相笑ふ。夜、妻はその姉なる蒼梧夫人の許へ、小生(145)は緑夜君方を訪うた。この前の旅行の歸りに其處に一泊し、信州にての餘勇を振つて大いに飲み荒らしたお詫びを同夫人に申しあげむためであつた。そしてまた馳走になつて歸る。

 六月四日。

 つとめて起きむとしたが、汽車の疲れかなか/\に能はなかつた。僅かにこの行脚記の稿を起せしのみ。

 中津町より來て呉れた社友三井正雄君に墨を磨つて貰ひ、緑夜君と妻とに手傳はれつゝ、午前午後を揮毫に送る。ツイ眼下の川に起つて居る河鹿の聲が苦しい勞働の間に折々聞えて來た。

 夕方、中津より田中冷灰子君、少し遲れて清水芹畝君、安井竹美君を伴ひ來訪。安井君とは誠に暫らくであつた。晩餐を共にし、十時の汽車にてみな歸つて行つた。

 六月五日。

 眠より覺め耳を澄ませど、聞ゆべき筈の河鹿の聲更に聞えず、起き出でて見ればこまかな雨が降つてゐたのだ。昨日よりやゝ早し、四時半。

 食前、『東京日々』の選歌。やがて隣町岩村町より小早椎之介君來訪。

 午前午後を揮毫に專念す。ことに午後は凄じい勢ひで、明日に割當てゝあつた分まで一氣に書き完る。

(146) 終日、雨。他の鯉が頻りにはねてゐた。椎之介君同宿一泊。

 六月六日。

『創作』の選にかゝらむとすれど、昨日の疲弊か、一向に氣進まず。緑夜、椎之介兩君に誘はれて午前近郊を散歩す。小笠置は晴れ、惠那山は曇り、重く明るき梅雨晴の日和である。

 晝食後、雜談を交へつゝ即興歌を作る。

   屋根の上をさし掩ひたる老松の小枝にあそぶいしたたき鳥

   この老松に松かさおほし小さくて黒み帶びたる松かさの數

   梅雨晴の日ざしさしとほる池の隅に靜かなるかも鯉ぞ群れたる

 午後、その後追加の分をまた揮毫す。この地、意外の好成績となつた。夕方、雷鳴。夜雨。夜、土地の有志七八人來訪。

 六月七日。

 曉起、『創作』の選に着手す。

 朝食後、肥料商阿部季四郎君の宅に赴き土地名物かすみ網の囮の小鳥を見せて貰ふ。同君方は先々代よりこれが道樂の由にて獵期となれば貨車一臺に此等の囮を積み遠く越前の山へまで出かけてシベリヤから渡海して來る小鳥を捕獲するのださうだ。時に日に四五千羽の數に上る事があ(147)つたといふ。囮のために一つの倉が設けられてあつた。種類はツグミ最も多く、シナヒ、マミシロ、ウソ、アトリ、ヒハ其他、可愛いゝ姿をして並んでゐた。

 年前十時過ぎより町はづれの二葉幼稚園にて歌會並びに揮毫展覽會開催、會場、小ぢんまりと明るくて誠に氣持よかつた。ことに低い小机の前に敷き並べられた座布團がすべて一尺五寸四方位ゐ、紅や緑の布で作られてあるのなど愛らしく、我等の尻を置くには少々苦笑の態であつた。めい/\竹中勇、山本すゞ子などと名前が書きつけられてあつた。而かも今日の會衆に年長者多く、町長收入役、三人の醫師、五十年輩の石工理一さんといふのなども居た。

 幼稚園は桑畑の中にあつた。

   桑の葉は柔らかきかも伸べば直ちに刈りとられゆく桑の葉の色

 夜、女氣ぬきの懇親會。氣の毒に中津組はずつと更けてから歸つた。

 六月八日。

 かねて樂しみにしてゐた惠都峽行きの日である。朝十時の汽車で中津に向ふ。同行は蒼梧緑夜椎之介の三君に小生等夫婦である。

 中津では先づ冷灰子君の店を訪ひ次いで芹畝君方を訪うた。お茶代りの酒出づ。なほ珍しかつたは正銘薩摩産の薯燒酎を出された事であつた。久し振に獨特のその香を喚いで夏らしい氣にな(148)つた。

 芹畝君が取締役を勤むる北惠那鐵道により惠那峡入口まで行き、直ちに舟に乘つた。中津よりの同行は同君夫妻を初め冷灰子、竹美の四君に、なほ接待役として同鐵道の係員兩君が加はつた。惠那峽は元來山城の保津川下りと同じく急流激湍に棹さして峽間を驅せ下るが名物となつてゐたのださうだが、現在では有名な大同ダムのためにその急瀬を堰きとめられ肝心のところ二三里が間、悉く淵となり終つたのださうだ。大同ダムとは小生よく知らないが大同電氣會社とかいふ風のものあり大膽にも木曾川を堰き留めて其處に水深百七十尺に及ぶ淵を作り、その水を落して電氣を起してゐるものださうだ。木曾川を堰いて三里が間を淵にするなど、痛快は痛快である。

 なるほど、一面の淵である。密林と何やらの傳説とを以て聞えた設樂の森にもその水は及んでゐる。水に浸されたこの木深い森はいま朴の花の眞さかりであつた。森と相對した側には苗木城の舊城址だといふ尖塔形の小さな山が水に臨んで聳えてゐた。山に木なし、たゞ中腹に傾斜をなした竹藪がおほらかに風に靡いてゐた。

 程なく森は盡き、兩岸相對峙した岩壁となつた。岩壁には松をはじめ種々の雜木が形おもしろく生ひ古り、杜鵑花はやゝ褪せながらも隨所に咲き垂れてゐた。この邊、もとの河瀬の時分には岩から岩のながめがいまより遙かに高く仰がれてゐたのださうだ。今とて、然し、惡くはない。(149)寧ろ靜けくていいかも知れぬ。やがて舟は急に右折して付地川といふ一つの支流へ入つた。本流より幅は狹いが、岩といひ樹木といひ、一層の寂びを帶びて見えた。舟の行く所まで行き、引返す。その間、芹畝夫人は二人の助手を使ひながらにお燗番やらお酌やら、なか/\岩壁の樹木の枝振りを見るひまとてもなかつたのだ。其處へ、非常な速度で近づいて來た一人乗のボートがあつた。見れば好漢三井正雄君が店の半纒着の儘で我等のあとを追うて來たのであつた。若い人の元氣なのを見るのは老樹の寂びを見るが如くに嬉しいことだ。

 氣遣つた雨にも降られず、充分の「惠那峽行」を果たして、所謂大同ダムに着き、舟から上つた。上つて其處の工事を見物し――なるほど素晴しいものだと思つた――同會社私設鐵道の便をかりて大井町に着き、其處で五人の中津組と別れた。惠那峽はまつたく水と岩と樹木の世界であつた。

 我等はそれより蒼梧君宅に赴き、同君松本中學教諭時代の教子武井某君がわざ/\その居村落合村より齎したといふ山芋を汁に作つて貪り食うた。

 六月九日。

 たいへん永く滯在した樣な氣のする大井町を、その間常に一緒にゐた諸君に見送られて晝近く出立した。所謂半折會風の惶しい氣持を味ふ事なくしてこの數日を過させて貰へたのは甚だ難有