若山牧水全集第八巻、雄鷄社、514頁、600円、1958.9.30
紀行・隨筆 四
目次
紀行
金精峠より野州路へ………………………… 5
鳳來寺紀行……………………………………20
木枯紀行………………………………………38
こんどの旅……………………………………67
身延七面山紀行………………………………98
信濃の春…………………………………… 128
半折行脚日記……………………………… 143
九州めぐりの追憶………………………… 165
梅雨紀行…………………………………… 194
北海道行脚日記…………………………… 215
北海道雜感………………………………… 278
朝鮮紀行 葉書日記……………………… 290
朝鮮紀行…………………………………… 295
岬の若葉と雨……………………………… 338
隨筆
花二三……………………………………… 355
藤の花……………………………………… 358
信州一巡と淺間温泉……………………… 360
秋立つころ………………………………… 367
火を焚く…………………………………… 373
家のめぐり………………………………… 378
信濃の高原………………………………… 382
たべものの木……………………………… 396
鴉と正覺坊………………………………… 404
沼津千本松原……………………………… 413
沼津千本松原……………………………… 419
酒と歌……………………………………… 426
金比羅參り………………………………… 428
夢…………………………………………… 437
湯槽の朝…………………………………… 442
庭さきの森の春…………………………… 445
野蒜の花…………………………………… 449
千本松原の春……………………………… 454
河口………………………………………… 459
鮎釣に過した夏休み……………………… 464
流るる水…………………………………… 468
籠居日記…………………………………… 508
竹と風雨…………………………………… 511
(5) 金精峠より野州路へ
上州と野州との國境にあたつてゐる金精峠《こんせいたうげ》の頂上で、其處まで送つて來て呉れた丸沼の養魚場の老番人と私は別れた。そして獨りになつて降り始めた野州路側の山坂は、まつたく掌を立てた樣に嶮しかつた。自然と小走りになつて、一時間もかかることなく麓の平らかな澤に着いた。
其處には熊笹が身の丈より高く茂つてゐた。ざは/\と音を立てながら足早やに急いでゐると、向うからも同じ樣にして急いで來る男に會つた。上州路へ越ゆる小商人らしかつた。冷たい小流を一二度渡つて、ほどなく熊笹も薄れ、うち開けた湯元湖々畔の平地に出た。大きな落葉松の樹が三本四本と錆びはてた黄葉《もみぢ》を殘して、立ち竝んでゐるのを見た。この樹木は上州路では極めて稀にしか見ぬ樹であつた。熊笹の全く盡きたあたりから枯れはてた葦の原が續いてゐた。葉も穗もからからとうす黄に枯れ靡いてゐる中から、畫布を擔いだ二人の若い畫學生が出て來たりした。
湯元温泉が目の前に在つた。今少しハイカラな温泉場を豫想して來たのであつたが、矢張り山地の、板屋根の上に石を並べた温泉であつた。そして、それらの板屋根がいかにも低く、ぺつた(6)りと地にねばりついてゐるかの樣に見えた。家數は割合に多く、一握りにした樣に固まつてゐた。
歩み入ると、道幅は意外に廣くて、ツイ山の根に沿うた入口に馬車の立場があり、一二匹の馬がつないであつた。丸沼の番人に聞いて來た板屋旅館といふのはほぼ宿場の中程の所に在つた。古びた土間に立つて案内を乞ふと、一泊では、といふ風な顔をしてゐたが、それでも愛憎よく通して呉れた。
部屋は極く粗末な、帳場からは取つ着きにあたる階下《した》の六疊ほどの部屋であつた。一泊者といふので、上州の四萬温泉でもひどい虐待を受けて來たのであつたが、それに比べては此處の内儀や女中の態度は氣持がよかつた。そして久し振に聞く下野の國の訛であつた。二三日うちに逢ふ筈になつてゐるこの國の友人の誰彼の言葉づかひなどが自づとなつかしく思ひ出されて來た。
構への古びてゐるに似ず、湯殿は新築の明るい綺麗なものであつた。湯槽に溢れた湯は卵色に幾らか青みを帶びてゐた。たつた一人、のび/\と浸つてゐると、自づからにして深い溜息が出て來た。信州の北佐久郡を振出しに歩き始めたのが月の十五日であつた。そして今日は二十八日、その間十四日間をば殆んど歩きづめに歩いて上州の山や谷を横切り、此處まで越えて來たのだ。隨分亂暴に歩いたものであつたが、もう此處まで來れば大丈夫、あとは中禅寺、日光、と次第に賑かな人間界に入つてゆくのである。
(7) 實は此處には暫く滯在して、永い歩行の疲れを休め、出來たらばその途中で出來た歌をも見直し紀行をも書いてゆきたい、と考へて來たのであつた。然し、いよ/\此處まで近づいて來ると、ツイ手近の日光に、宇都宮に、喜連川《きつれがは》に、それ/”\友人たちが待つてゐることが心にいつぱいになつて、とてもぢつとしてゐられない思ひがしだした。で、昨夜丸沼の寒い/\寢床の中で、湯元滯在の豫定を捨てて一日も速くそれ/”\に定めてある土地を廻り歩いて友人たちに逢ふことにしようと考へ直したのであつた。
溜息が欠伸に變るまで、ぼんやりと私は手足を伸ばして浸つてゐた。其處へ一人の丈高い青年が入つて來た。彼は先づ湯に入る前に湯殿の隅へ行つて油繪具の刷毛を洗ひ始めた。先刻《さつき》途で會つた二人のことも頭に浮び、よほど此處には斯うした畫學生が入り込んでゐるのだナ、と思つた。
『此處の湯は、あまり永湯してはいけない樣ですネ。』
と、やがて私の側に來て浸りながら彼が言つた。私の額の汗をでも見たのであらう。
『どうしてです。』
『硫黄泉だから、心臓を刺戟すると見えて、あまり永湯したり一日に何度も入つたりすると逆上《のぼ》せて夜眠れません。馴れゝばそれほどでもない樣ですけれど。』
(8)といふ。
なるほどこの湯の色からも匂ひからも、先づその位ゐの用心はすべきであつた、と惶《あわ》てゝ立ち上りながら、
『どうも難有う、ツイぼんやりしました。あなたはもう暫く御滯在でしたか。』
私は訊いた。
『今日で三週間目です。』
身體を拭きながら、何となく私にはこの青年がいま佳き繪をかきかけてゐる樣な氣がしたのであつた。その元氣な、明るい顔と、三週間目とを思ひ合せて。
部屋に歸ると明るい西日が射してゐた。私は汗じみたシヤツやズボン下、着物などをすべて裏返しにして縁側に乾し竝べた。そして、今日までの十幾日間に、斯んなことをする餘裕も無かつたことなどが思ひ出された。自分自身もそら寒い西日を浴びて暫く其處に長くなつてゐたが、やがて繪葉書でも買つて來ようと、戸外《そと》に出た。
宿を出て右になほ二三軒の湯宿の續いた前を通りすぎると、直ぐ其處は湖水になつてゐた。其處の岸からは沸々《ふつふつ》と湧き出た湯が深い湯氣をたてながら空しく湖の中に注いでゐるのなども見えた。
(9) 初めて見る湯元湖は私の豫想よりも遙かに廣く遙かに深く、そして曾つて見たことのない深い景色を見せて呉れた。屈折の多い山の根がたを浸して、ぴつたりと澄み湛へた靜けさは、先づ私の疲れ緩んだ心を引き緊めた。そして更に私の眼を覺すものは、湖の向う岸からうち聳えた黒木の山であつた。
温泉場寄の岸邊は遠淺となつてゐるらしく、水際からすぐ枯葦の原となり、その向うに楊《やなぎ》の竝木らしい枯木立がつらなり、やがて先刻見て來た落葉松の木立となり、其處からは急に直角に近い角度で聳え立つた山となつてゐるのだが、その山腹にはそれこそ漆黒色にも見ゆるほどぎつしりと立ち込んだ黒木の森、常磐樹の林が茂つてゐるのである。温泉場から少し左手寄りになると、この嶮しい黒木の山は湖岸から直ちに起つて切り立つて居る。墨色の森の中に諸所、雪の樣な幹を見せて居るのは白樺で、これが一層森の深みと靜けさを増して見せてゐる。
そしてこれらの茂つた山腹が次第に中空高く聳えて行つた眞上には、白根火山の灰白色の尖峰が槍の樣に、また鋸の樣に、冷やかに臨み立つてゐるのである。
水は清らかで、殆んど湖水全部が青みを宿した深さに澄んで居る。私の歩いてゐる湖岸に沿うた道の背後には男體山《なんたいざん》が聳えてゐる筈だが、それは其處からは仰がれなかつた。
繪葉書にもなか/\いゝのがあつた。澤山買ひ込んで宿に歸る。歸ると、丁度時間もよかつた。(10)今夜は久し振りに人里に出たよろこびを味はふべく、精々御馳走をたべようと、あれこれと注文して見たが、殆んど何も出来なかつた。それでも普通の膳部のほかに、中禅寺湖でとれるといふ鱒のフライと豚鍋とを頼むことが出來た。酒をもそれに準じて注文しておき、獨り靜かに火鉢に手をかざしながら盃を取つた。
いつか戸外には風が出て來た。盃を嘗め、箸をとり、繪葉書を書いてゐる間に、恐ろしい勢ひで庭の木立を吹きはためかしてゐるのが聞えてゐた。
十月二十九日。
二階ならば嘸ぞ搖れるだらうとおもはれるほど夜を通して木枯がすさんでゐた。眠りつ覺めつ、枕許の水を幾度か飲んでやがて朝日のさしそめたころ、起き上つて見ると不思議な樣に凪いでゐた。雲の影すら見えぬ大空には洽ねく日の光が溢れて、まつたくそよとの風もない。でも、他に何の木とてもない寂しい庭に立ち竝んだ數本の落葉松の梢からは、散るともないこまかな黄葉《もみぢ》がひと葉ふた葉と靜かに散つてゐた。私の立つてゐる縁の下あたりには、昨夜のうちに散つたのであらう、眞新しいその落葉が堆《うづたか》く溜つてゐた。
あたりの部屋に客のけはひもせぬ靜けさに、此處に正午まで遊んで昨夜の續きの繪葉書でも書(11)いて、それから中善寺へ向はうなどと考へてゐろところへ、二三人の女中たちが大騷ぎで隣室から二三室通しになつた大きな座敷の襖を拂つて大掃除を始めた。けふは日曜で、東京から百人あまりの團體が此處まで徹夜で登つて來るのだとのことだ。それでは、と朝食後直ぐ草鞋を穿いてその宿を出た。
宿《しゆく》はづれの煙草屋で煙草を買つてゐると店の老婆が、お寒うございます、今朝はこれでお山は四度目の雪でございます、といふ。店を出て振仰ぐと、なるほど湖の對岸からそゝり立つた黒木の山を拔いて聳えて居る白根山の頂上に疎らに白く積つてゐた。道理こそ昨夜からの寒さよ、とそゞろに足が速められたが、湖の岸に出るとまた散歩々調の靜かな足どりになつた。とても急いでは見過せぬ湖から黒木の森の眺めであるのだ。
その湖の尻に大きな瀧が落ちてゐた。それを見て過ぎると道は戦場ケ原に入つた。方二三里のぴつたりとした圓形の平原、それを圍むのは例の黒木の山々だ。山の根がたにはずらりとまんまろく楢や白樺の枯木立が輪をなして茂り合ひ、その背後を圍んで黒木の山が起つて居る。原の中には幾本かの大きな落葉松が立つてゐるのみで、たゞ打ち渡した枯草の原である。煙る樣に温い日ざしが原に落ちて、道はたゞ一本まつ直ぐに原を貫いて眞向うに續いてゐる。その道が枯木林の間に消えたあたり、林の向うにほんのりと霧か霞の樣なものが棚引いてゐるのが見えた。其處(12)だけにほんのりと立つてゐるので不思議に思うたが、あとで思へば昨夜の烈しい木枯に波だつた中禅寺湖の水煙の名殘であるらしかつた。道では三々五々と打ち連れた例の團體客らしい人たちに出逢つた。何れも多少酒氣を帶び、更に今日の上天氣に醉つてゐる樣に見えてゐた。
枯木林に入るとやがて一つの大きな溪に沿うた。湯元湖から出て中禅寺に注ぐものである。多くは葉を落し盡した冬木の中に、岩に激しく眞白になりながら流れ下つてゐるのである。道をそれてその溪ばたの危い岩の上に立つてゐる三人づれの西洋人の少年たちの青味を帶びた服の色なども美しかつた。
ほどなく中禅寺湖に出た。先づ驚いたことは其處が湯元あたりと違つてまだ紅葉の盛りと云つてもいゝことであつた。湖《うみ》べりの道を掩うて立て込んだ木立が見るかぎりに眞紅に染まつた葉を輝かしてゐるのであつた。勿論もう道の上には、草鞋を埋めて散り敷いてゐるのである。その紅葉の木立をすかしてツイ右手に湯元湖よりは遙かに大きい湖が晴れ切つた日ざしを湛へて輝いてゐる。湖の向う岸、いや湖全帶の岸に沿うてひとしなみに自分の歩いてゐる所と同じい樣に紅葉の木立となつて居り、まんまるいその紅葉木との環の背後にはまた湯元と同じく黒木の山がずうつと圍んでゐるのである。
私もいつか醉つた者の樣に、ふらり/\とその湖《うみ》べりの道を、照り匂ふ紅葉の光に染められな(13)がら歩いて行つた。左手に二荒《ふたら》神社の鳥居があつた。そこを過ぐると大きな宿屋の立竝んだ前に出た。間に郵便局があつた。
其處に寄つて留置きになつてゐる數通の郵便物を受取つた。幸ひその隣家が洋食屋であつたので、其處に寄つて、折しも時間でもあつたので晝食を注文しながら、手紙や葉書を讀み、必要なものには返事を書いた。かなり永い時間をかけて晝食を終つたが、まだこれから宿につくには早退ぎる。もう一度いま來た道の紅葉を見て來ようと、再び引返して、先づ二荒山に詣でた。
日の闌《た》くるにつれて紅葉の色のいよ/\深くなるのが感ぜられた。木立を仰ぎ、湖を見、飽くことなく歩いてゐたが、晝食の時に飲んだ酒が非常に身體に利いてゐた。あとでは歩むに苦しくなつたので、道から湖の岸に降り、そこの綺麗な砂の上に寢てしまつた。眠くもあるが、流石に風邪が恐しく眠られない。うと/\してゐるうちに、フイと歌が心のうちから湧いて來た。腹這ひながらノートに書きつけた。
裏山に雪の來ぬると湖岸《うみぎし》の百木《ももき》のもみぢ散り急ぐかも
見はるかす四方《よも》の黒木の峰澄みてこの湖岸の紅葉照るなり
下照るや湖邊《うみべ》の道に竝木なす百木のもみぢ水にかがよひ
舟うけて漕ぐ人も見ゆみづうみの岸邊のもみぢ照り匂ふ日を
(14) みづうみの照り澄むけふの秋の空に散りて別るる白雲の見ゆ
歌を書きつけながら砂の上に横たはつて居る身體のめぐりに楓や錦木、その他名も知らぬ種々雜多の紅葉の散つて來るなかに、これはまた眼だつて柔かな色の、葉も柔かに大きい一種があつた。よく見ると、二三日前、丸沼まで登る途中案内人から教へられたはなの木といふのゝ葉であつた。何やらになつかしくてその葉を口にあてながら一首を詠んだ。
はなの木のもみぢより濃き錦木の紅葉をよしと誰も言はなくに
かなりの時間を砂の上に費して午後三時ころ、かねて豫定してゐた米屋旅館に入つた。この宿屋は私の友人の叔父の經營してゐるもので、友人から是非其處に行く樣にと言はれてゐたのであつた。多くある中禅寺湖畔の宿屋のうち、この米屋だけ一軒、普通のと離れて二荒神社と反對の靜かな湖岸に建てられてある。で、通された二階の障子をあけると湖を越して眞正面にいたゞきのその奥の院に祭られてあるといふ二荒山の山全體が仰がれた。この山、またの名を男體山といひ、また黒髪山といふ。この宿から仰ぐ山の姿にはまことにこの二つの名のいづれともふさはしいと思はるゝ雄々しさみづ/\しさが感ぜられた。夕方かけて何處からともない眞白な雲があらはれ、この豐かな山腹を昇りつ降りつしてゐた。
夕食まで宿の若主人であるⅠ――君に連れられて附近の歌が濱や立木觀音などを見て歩いた。(15)夕食の膳にはどつさり御馳走が出て、昨夕の恨みを晴らすことが出來た。ゆつくりと食べ且つ飲んで、やがて湖に面して廊下に出て見ると湖の面はうすら寒い月の夜となつてゐた。黒髪山もその光に濡れて、晝間より更にくつきりと高く中空に聳えてゐた。
十月三十日、快晴。
朝は霧が深かつた。湖岸の紅葉は霜に濡れていよ/\美しかつた。華嚴の瀧までⅠ――君が見送つて呉れた。
あまり瀧といふものゝ好きでない私にも華嚴の瀧だけは流石に見ごとなものだと眺められた。四邊の岩のすがた、冬木立、その間に深い色の紅葉の殘つてゐるのなどもよかつた。Ⅰ――君に別れて馳せ下る九十九折の急坂にはまつたく織る樣な人出であつた。多くは美しく着飾つた都人士で、その間に二人引の人力車が續き、自動車が唸りながらに上下してゐるのである。一時秋の初めから流行したコレラで屏息してゐた人たちが、病氣の終熄と共に斯うして押し出して來たのださうだ。
般若、方等と呼ぶ二つの瀧が淀んで落ちてゐるのを見るところがあつた。私には瀧よりも、その瀧を見ようとして端なく仰いだ二荒山の荒れ寂びた姿が難有かつた。中禅寺潮の方面から見る(16)この山は前にも云つた樣にいかにもみづ/\しい豐かな山容を持つてをるのだが、一歩こちら側に來て仰ぐと、これまたいかにも二荒山の名に似つかはしい死火山の物寂びた山嶺が仰がるゝのであつた。
頂上から中腹にかけ、全部龜裂して赤茶けた山肌を洒してゐるのである。
馬返しの電車終點で打合せておいた通り、S――君に會ふことが出來た。七八年ぶりの再會で、私は辛うじて彼を見分け得たが、彼は私を全く見忘れてゐた。
『でも、まさかあなたがそんな風をして來やうとは思ひませんでしたからなア。』
と、しげ/\と私の草鞋脚袢尻端折の姿を打ち眺めた。半月ほどの山歩きに、荷物を通して洋傘を擔ぐ古羽織の肩の所などすつかり破れて綿が出てゐたのである。
直ぐ電車に乘つて日光町の同君方に向つた。途中で裏見の瀧に廻りたかつたが、一先づ日光に落ちついて、それから出直さうといふ同君の意見に從つたのであつた。
兩人竝んで腰かけた膝の上には電車のガラス窓を通して温かな秋の日がさしてゐた。或る所で、S――君は少し身をくゞめて窓ごしに眞向うの方を仰ぎながら、
『あれが鳴蟲山です、今でもあそこには鹿が出て折々鳴くのを聞くことがありますよ。』
と一つ二つそれに就いての思ひ出話をした。折からの事ではあり、私にはその事が少なからず(17)興味を惹いた。
聞きのよき鳴蟲山はうばたまの黒髪山にむかふまろ山
鹿のゐて今も鳴くとふ下野の鴨蟲山の峰のまどかさ
友がさす鴨蟲山のまどかなる峰のもみぢは時過ぎて見ゆ
草枯れし荒野につづくいただきの鳴蟲山の紅葉乏しも
今にして獵《かり》とどめずば美しき鹿が歩みを其處に見ずならむ
茸狩に行きてえ狩らずかへるさのゆふ闇に鹿を聞き出でしとふ
夜更けて聞くといへれどをそごとぞ暮れがたにただ鹿は鳴くとふ
二聲をつづけてあとを鳴かぬといふ鹿の鳴く音をわれも聞きたし
日光板挽町の同君宅は、ツイ大谷川《だいやがは》の岸に臨み、川を距てた向うの山はいま紅葉の眞盛りであつた。中禅寺よりよほど季節が遲れてゐるらしい。
先づ一杯ととり出された酒が、終に夕方まで續き、裏見の瀧は流れてしまつた。電燈がつく樣になると、打連れて明るい町へ出て折から丁度時季だといふ燒鳥を食べることになつた。
その時我等の寄つた或る料理屋の息子はもと大變に歌が好きであつたが、ツイ數日前失戀の樣なことから榛名山の山上湖に入水して自殺したといふ樣な四方山話からよく聞いて見ると、思ひ(18)もかけぬその人は私の興してゐる歌の結社創作社の舊い社友であつたのであつた。非常に驚いて今はたゞ一人殘された妹さんをも部屋に招いて、いろいろと故人のことを聞いたりした。
十月三十一日、曇。
宿醉《ふつかよひ》の重い頭で日光山内のお宮からお宮を見て廻つた。はつきりと醒めきらぬ瞳に映る陽明門も束照宮も、三代廟も、たゞ美しいもの、素晴らしいものとのみしかうつらなかつた。却つて其處の博物館の内に心を惹かるゝものがあつた。
朝から我等のあとを追うて山内を廻るつてゐたといふ昨夜の料理屋の美しい娘さんが友達を三人ほど連れてあちこちと歩いてゐたのに出會つた。この娘さんも、その友達も、みな歌など詠む人であるさうだ。
とある亭に腰かけて四五人が暫く語つた。あたりに末枯《すが》れてゐる萩などを眺めながら娘さんは言つた、兄の死骸を湖水の底から引上ぐるとその腰のまはりにはいつばいこの花をさして眠つてゐたのであつたことなどを。
十一月一日、雨。
(19) 日光に別れて宇都宮市に向つた。
(20) 鳳來寺紀行
沼津から富士の五湖を廻つて富士川を渡り身延に登り、その奥の院七面山から山づたひに駿河路に越え、梅ケ島といふ人の知らない山奥の温泉に浸つて見るも面白からうし、其處から再び東海道線に出て鷲津驛から濱名湖を横ぎり、名のみは久しく聞いてゐる奥山半僧坊に詣で、地圖で見れば其處より四五里の距離に在るらしい三河新城町に廻つて其處の實家に病臥してゐるK――君を見舞ひ、なほ其處から遠くない鳳來山に登り、山中に在るといふ古寺に泊めて貰つて古來その山の評判になつて居る佛法僧鳥を聽いて來よう、イヤ、佛法僧に限らず、さうして歴巡る山から山に啼いてゐるであらう杜鵑だの郭公だの黒つがだの、すべて若葉の頃に啼く鳥を心ゆくまで聽いて來度いとちやんと豫定をたててその空想を樂しみ始めたのは五月の初めからであつた。折惡しく用が溜つてゐて直ぐには出かけられず、急いでそれを片附けてどうでも六月の初めには發足しようときめてゐた。
ところが恰度そのころから持病の腸がわるくなつた。旅行は愚か、部屋の中を歩くのすら大儀(21)な有樣となつた。さうして起きたり寢たりして居るうちにいつか六月は暮れてしまつた。七月に入つてやや恢復はしたものの、サテ急に草鞋を穿く勇氣はなく、且つ旅費にあてておいた金もいつの間にかなくなつてゐた。
七月七日、神經衰弱がひどくなつたと言つて勤めさきを休んで東京からM――君がやつて來た。そして私の家に三四日寢轉んでゐた。その間に話が出て、それでは二人してその計畫の最後の部である三河行だけを實行しようといふことになつた。
七月十二日午前九時沼津發、同午後二時豐橋着、其處まで新城からK――君が迎へに來てゐた。案外な健康體で、ルパシカなどを着込んでゐた。まだ然し、聲は前通りにかれてゐた。豐川線に乘換へ、豐川驛下車、稻荷樣に詣でた。此處は亡くなつた神戸の叔父が非常に信仰したところで、九州へ歸省の途中彼を訪ふごとに、何故御近所を通りながら參詣せぬと幾度も叱られたものであつた。謂はゞ偶然今日其處へ參詣して、この叔父の事が思ひ出され、その位牌に額づく思ひで、頭を垂れた。
再び豐川線に乘つて奥に向ふ。この沿線の風景は武藏の立川驛から青梅に向ふ青梅線のそれに實によく似てゐた。たゞ、車窓から見る豐川の流が多摩川より大きいごとく、こちらの方が幾分廣やかな眺めを持つかとも思はれた。
(22) 新城の町は一里にも餘らうかと思はれる古びやかな長々しい一すぢ町で、多少の傾斜を帶び、俥で見て行く兩側の店々には漸くいま灯のついた所で、なか/\に賑つて見えた。豐川流域の平原が次第につまつて來た奥に在る附近一帶の主都らしく、さうした位置もまた武藏の青梅によく似てゐた。
K――君の家はその長々しい町のはづれに在り、豫《か》ねて聞いてゐた樣に酒類を商ふ古めかしい店構へであつた。鬚の眞白なその父を初め兄夫婦には初對面で、たゞ姉のつた子さんには沼津で一度逢つてゐた。名物の鮎の料理で、夜更くるまで馳走になつた。
翌日一日滯在、降りみ降らずみの雨間に出でて辨天橋といふあたりを散歩した。この邊の豐川は早や平野の川の姿を變へて溪谷となり、兩岸ともに岩床で、激しい瀬と深い淵とが相繼いで流れてゐる。橋は相迫つた斷崖の間にかけられ、なか/\の高さで、眞下の淵には大きな渦が卷いてゐた。淵を挾んだ上下は共に白々とした瀬となつて、上にも下にも鮎を釣る姿が一人二人と眺められた。この橋の樣子は高さから何から青梅の萬年橋に似て居り、鮎を名物とするところもまた同所と似て居る。武藏の青梅は私の好きな古びた町であつた。
夜はK――君父子に誘はれて觀月樓といふ料理屋に赴いた。座敷は南向きで嶮崖に臨み、眼下に稻田が開けて、野末の丘陵、更に遠く連山の起伏に對するあたり、成程月や星を觀るにはいい(23)場所であらうと思はれた。惜しいかなその夜も數日來打ち續いた雨催ひの空で、低く垂れた密雲を仰ぐのみであつた。
友の老父も酒を愛する方であつた。徐ろに相酌みつつ終にまた深更まで飲んでしまつた。
七月十四日。眼が覺めるとすさまじい雨の音である。今日は鳳来山へ登らうときめてゐた日なので、一層この音が耳についた。
樫、柏、冬青《もち》、木犀などの老木の立ち込んだ中庭は狹いながらに非常に靜かであつた。ことごとしく手の入れてないまゝに苔が自然に深々とついてゐた。離室の縁に籐椅子を持出してぼんやり庭を見、雨を聞いて居るのは惡い氣持ではなかつたが、サテさうしてもゐられなかつた。M――君と兩人で出立の用意をしてゐると、家内總がかりで留めらるる。そのうちに持ち出された徳利の數が二つ三つと増してゆく間に、いつか正午近くなつてしまつた。雨は小止みもないばかりか、次第に勢を強めて來た。
漸く私は一つの折衷案を持ち出した。鳳來山登りをやめにして、今日はこれからK――君も一緒にこの溪奥に在る由案内記に書いてある湯谷温泉へ行きませう、そして其處から我等は明日山へ登り、君はこちらへ引返し給へ、若し君獨り引返すのがいやだつたら姉さんを誘はうぢやないか、と。
(24) 斯くして四人、降りしきる中を停車場へ急いで、辛く間に合つた汽車に乘つた。古戰場で聞えてゐる長篠驛あたりからの線路は峽間の溪流に沿うた。そして其處に雨と雲と青葉との作りなす景色は溪好きの私を少なからず喜ばしめた。
三四驛目で湯谷に着いた。改札口で温泉の所在を訊くと、改札口から廊下續きの建物を指して、それですといふ。成程考へたものだと思つた。湯谷ホテルと呼んでゐるこの温泉宿はこの鐵道會社の經營してゐるものであるのだ。何しろ難有かつた。この大降りに女連れではあるし、田舍道の若し遠くでもあられては眞實困るところであつたのだ。
通された二階からは溪が眞近に見下された。數日來の雨で、見ゆるかぎりが一聯の瀑布となつた形でたゞ滔々と流れ下つてゐる。この邊から上流をば豐川と言はず、板敷川と呼んで居る樣に川床全體が板を敷いた樣な岩であるため、その流はまことに清らかなものであるさうだが、今日は流石に濁つてゐた。濁つてゐるといふより、隨所に白い渦を卷き飛沫をあげて流れ下つてゐた。對岸の崖には山百合の花、萼の花など、雨に搖られながら咲きしだれてゐるのが見えた。その上に聳えた山には見ごとに若杉が植ゑ込んであつた。山の嶮しい姿と言ひ、杉の青みといひ、徂徠
する雲といひ、必ず杜鵑の居さうな所に思はれたが、雨の烈しいためか終に一聲をも聞かなかつた。
(25) 温泉と云つても沸かし湯であつた。酒や料理は、會社經營の手前か、案外にいものを出して呉れた。繪葉書四五十枚を取り寄せ知れる限りに寄せ書きをした。
七月十五日。かれこれしてゐるうちに時間がたつて、十二時幾分かの汽車に乘つた。重い曇ではあるが、珍しく雨は落ちて來なかつた。M――君と私とは長篠驛下車、寒狹川に沿うて鳳來山の方へ溯つて行つた。寒狹川もまた岩を穿つて流れてゐる溪であつた。
途中、鮎瀧といふがあつた。平常から見ごとな瀧とは聞いてゐたが、今日は雨後のせゐで凄しい水勢であつた。路を下りてそれに近づかうとすると遠く水煙が卷いて來て、思はず面を反けねばならなかつた。
行くこと二里で、麓の村|門谷《かどや》といふに着いた。見るからに古びはてた七八十戸の村で農家の間には煤び切つた荒目な格子で間口を廻らした家なども混つてゐた。山駕籠や、芝居でしか見ない普通の駕籠などの軒先に吊るされてあるのも見えた。とある一軒に寄つて郵便切手を買ひながら山上のお寺に泊めて貰へるか否かを訊ねた。上品な内儀が、泊めては賞へませうが喰べ物が誠に不自由で、とにかく今日の夕飯だけでもこの村の宿屋で召上つてからお登りになつたがいいでせうといふ。
厚意を謝して其處を出ると直ぐ一軒の宿屋があつた。これも廣重の繪などで見るべき造りの家(26)である。其儘立ち寄らうとしたが、然し其處で夕飯をとるとすると到底今日山へ登る事をばようしないにきまつてゐる。私はいいとしてもM――君は明日はまた山を下らねばならぬ人である。それを思うて、兎にも角にも寺まで行つて見ようといふことになつた。宿屋のはづれに硯を造つてゐる一二軒の家が眼についた。この山の石で造るもので良質の硯の出来るといふ話を聞いたのを思ひ出した。
黒々と樹木のたちこんだ岩山が眼の前に聳えてゐた。妙義山の小さい形であるが、樹木の茂みが山を深く見せた。宿を外れると直ぐ杉木立の暗い中に入り、石段にかゝつた。僅に數段を登るか登らぬに早やすぐ路の傍へから啼き立つた雉子の聲に心をときめかせられた。
石段の數は人によつて多少の差はあつたが、いま途中で休んだ茶店の老爺老婆は一千八百七十七段ありますと言下に答へたのであつた。數は兎に角兩人は直ぐ勞れてしまつた。一度二度と腰をおろして休みながら登るうちに右手に一軒の寺があつた、松高院と云つた。今少し登ると翳王院といふがあり、接待茶、繪葉書ありの看板が出てゐた。其處へ寄つて茶の馳走になり繪葉書を買ひ、本堂再建の屋根瓦一枚づつの寄進につき、更に山上遙に續いてゐる石段を登り始めやうとすると、應接してゐたまだ三十歳前後の年若い僧侶が、貴下は若山といふ人ではないか、と訊く。いぶかりながらその旨を答へると、實は今日の正午頃に私の知人の某君といふが來て、昨日か今(27)日、その人が佛法僧鳥を聽くために登つて來る筈だ、來たらばこの寺に泊めて呉れと言ひ置いてツイ先刻歸つたばかりだとの事であつた。では新城町のK――家から山のお寺へも紹介しておくからとの話はその事であつたのかと思ひながら、意外の便宜に二人とも大いに喜んだ。のんきな我等は、この石段の續いた果にまだお寺があるだらうしその一番高い所に在るお寺に泊めて貰はうなどと言ひながらなほ勞れた足を運ばうとしてゐたのであつた。聞けばこの上には東照宮があるのみで、お寺はもう無いのださうである。もと本堂があつたのだけれど、この大正三年に燒失したのださうだ。
喜びながら手荷物を其處に預け、足ついで故その東照宮までお參りして來ようと再び石段を登つて行つた。大きくはないが古びながらに美しいお宮は見事な老木の杉木立のうす暗いなかに在つた。社務所があつても雨戸が固く閉ざされてゐた。
お寺に引返して足を伸して居ると、程なく夕飯が出た。新城から提げて歩いてゐた酒の壜を取出して遠慮しながら冷たいまゝ飲んでゐると、燗をして來ませうと温めて貰ふ事が出來た。お膳を出されたのは、廊下に疊の敷かれた樣な所であつたが、居ながらにして眼さきから直ぐ下に押し降《くだ》つて行つてゐる峽間《はざま》の嶮しい傾斜の森林を見下すことが出來た。誠によく茂つた森である。そして峽間の斜め向うにはその森にかぶさる樣に露出した岩壁の山が高々と聳えてゐるのであ(28)る。湧くともなく消ゆるともない薄雲が峽間の森の上に浮いてゐたが、やがて白々と其處を閉ざしてしまつた。そしてツイ窓さきの木立の間をも颯々と流れ始めた。
まだ酒の終らぬ時であつた。突然、隣室から先刻の年若い僧侶――T――君といふ人で快活な親切な青年であつた――が、
『いま佛法僧が啼いてゐます。』
と注意してくれた。
驚いて盃を置き、耳を傾けたが一向に聞えない。
『隨分遠くにゐますが、段々近づいて來ませう。』
と言ひながらT――君はやつて來て、同じく耳を澄ましながら、
『ソレ、啼いてませう、あの山に。』
と、岩山の方を指す。
『ア、啼いてます/\、隨分かすかだけれど――。』
M――君も言つて立ち上つた。
まだ私には聞えない。何處を流れてゐるか、森なかの溪川の音ばかりが耳に滿ちてゐる。
二人とも庭に出た。身體の近くを雲が流れてゐるのが解る。
(29)『啼いてますが、あれでは先生には聞えますまい。』
と、M――君が氣の毒さうにいふ。彼は私の耳の遠いのを前から知つてゐるのである。
近づくのを待つことに諦めて部屋に入り、酒を續けた。酒が終ると、醉と勞れとで二人とも直ぐぐつすりと眠つてしまつた。
M――君はその翌十六日、降りしきる雨を冒して山を下つて行つた。そして私だけ獨りその後二十一日までその寺に滯在してゐた。その間の見聞記を少し書いて見度い。
鳳來山は元來噴火しかけて中途でやみ、その噴出物が凝固して斯うした怪奇な形の山を成したものださうである。で、土地の岩層や岩質などを研究するとなか/\複雜で面白いといふことである。高さは海拔僅かに二千三百尺、山塊全體もさう大きなものではないが、切りそいだやうに聳えた大きな岩壁、それらの間に刻み込まれた溪谷など、とにかく眼に立つ眺めを持つて居る。それにさうした岩山に似合はず、不思議によく樹木が育つて、岩壁や裂目にまで見ごとな大木が隙間もなくぴつたりと立ち茂つてゐる。この樹木の繁いことが少なからずこの山の眺めを深くもし大きくもしているのである。多く杉檜等の針葉樹であるが、間々この山獨特の珍しい草木もあるとのことである。
(30) 南面した山の中腹に鳳來寺がある。推古天皇の時僧理修の開創で、更に文武天皇大寶年間に勅願所として大きな堂字が建立されたのださうだ。その後源頼朝もいたくこの寺の薬師如來を信仰して多くの莊園を奉納し、下つて徳川廣忠は子なきを忍びて此所に參寵祈願して家康を生んだといふので家光家綱相續いて殿堂鐘樓樓門その他山林方三里、及び多大の境地を寄附し、新に家康の廟東照宮を置き一時は寺封千三百五十石、十九ケ村の多きに上つたといふことである。(加藤與曾次郎氏著『門谷附近の史蹟』に據る)ところが明治の革新に際し制度の變遷から悉く此等の寺封を取除かれ、その上明治八年及び大正三年兩度の火災で本堂初め十二坊からあつた他の寺々まで燒け失せて今では僅に醫王院松高院の二堂を殘すのみとなつている。現在の住職服部賢定氏これを嘆いて數年間に渉つて鳳來山の裏山にあたる森林の排下げを願ひ出て終に許可を得、それより費用を得て目下本堂建築の工事中である。沸下げを受けた面積三千百十三町七反歩、而かもなほ寺の境内として殘してある森林の面積百五十八町三反歩といふのに見ても如何にこの山を包む森林の廣いかは解るであらう。
或日私は案内せられて東照宮の裏手から山の頂上の方に登つて行つた。前にも言う通りこの山は岩山ゆゑ、みつちりと樹木の立ち込んだ峯のところ/”\に恰も鉾を立てた樣に森から露出して聳え立つた岩の尖りがある。それらの一つ一つに這ひ登つてこちらの溪、そちらの峽間に茂り合(31)つて麓の方に擴がつて行つゐる森の流を見下してゐると、まことに何とも言へぬ伸びやかな靜かな心になつてゆくのであつた。
何百丈か何千丈か、乾反《ひそ》り返つて聳え立つた岩壁の頂上に坐つて恐る/\眼下を見てゐると、多くは迫《せこ》になつた森の茂みに籠つて實に數知れぬ鳥の聲が起つてゐる。我等の知つてゐるものは優にその中の一割にも足らぬ。多くは名も聲も聞いた事のないもののみである。僅に姿を見せて飛ぶは鴨樫鳥に啄木鳥位ゐのもので、その他はたゞ其處此處に微妙な音色を立てゝゐるのみで、見渡す限りたゞ青やかな森である。
中に水戀鳥といふのゝ啼くのを聞いた。非常に透る聲で、短い節の中に複雜な微妙さを含んで聞きなさるゝ。これは全身眞紅色をした鳥ださうで自身の色の水に映るを恐れて水邊に近寄らず、雨降るを待ち嘴を開いてこれを受けるのださうである。そして旱が續けば水を戀うて啼く、その聲がおのづからあの哀しい音いろとなつたのだと云ふ。
私は此處に來てつく/”\自分に鳥についての知識の無いのを悲しんだ。あれは、あれはと徒らにその啼聲に心をときめかすばかりで、一向にその名を知らず、姿をも知らないのである。山の人ものんきで、殆んど私よりも知らない位ゐであつた。
石楠木《しやくなぎ》のこの山に多いのをば聞いてゐたが、いかにも豫想外に多かつた。そして他の山のもの(32)と違つた種類であるのに氣がついた。さうなると植物上の知識の乏しいのをも悲しまねばならぬことになるが、兎に角他の石楠木と比べて葉が甚だ細くて技が繋い。檜や栂《とが》の大木の下にこの木ばかりが下草をなしてゐる所もあつた。花のころはどんなであらうと思はれた。葉も枝もどうだんの木と少しも違はないやうな木で釣鐘躑躅といふのがあつた。花がみな釣鐘の形をなし、それこそ指でさす隙間もないほどぎつちりと咲き群がるのださうである。ふり仰ぐ絶壁の中腹などに僅に深山躑躅の散り殘つてゐるのを見る所もあつた。また、苔清水の滴つている岩の肌にうす紫のこまかな花の咲いてゐるのがあつた。岩千鳥といふのださうでいかにも高山植物に似た可憐な花であつた。鳳來寺百合といふ百合も岩に垂れ下つて咲いてゐた。この百合もこの山獨特のものだと聞いてゐた。
山の尾根から傳つて歩いてゐると、遠く渥美牛島が見えた。またその反對の北の方には果もなく次から次と蜒《うね》り合つた山脈が見えて、やがて雲の間にその末を消してゐる。美濃路信濃路の山となるのであらう。さうした大きな景色を眺めてゐると、我等の坐つた懸崖の眞下の森を啼いて渡る杜鵑の聲がをり/\聞えて來た。もう時季が遲いために、この鳥の啼くのはめつきり少なくなつているのださうである。
私が山に登つてから三日間は少しの雨間もなく降り續いた。しかも並大抵の降りでなく、すさ(33)まじい響をたてゝ降る豪雨であつた。で、その間は全くその山を包んだ雨聲の中に身うごきならぬ氣持で過してゐたのである。雨に連れて雲が深かつた。明けても暮れても眞白な密雲のなかに、殆んど人の聲を聞かず顔を見ずに過してゐた。
十八日の晝すぎから晴れて來た。
『今夜こそ啼きますぞ。』
寺の人が斯う言つて微笑した。最初この寺に登つて來た晩に遠くで啼いたと聞くばかりで、私はまだ樂しんで來た佛法僧を聞くことなしにその日まで過して來たのであつた。この鳥は晴れねば啼かぬのださうだ。
『啼きませうか、啼いて呉れるといゝなア。』
その夕方は飲み過ぎない樣に酒の量をも加減して啼くのを待つた。洋燈がともり、私の癖の永い時間の酒も終つたが、まだ啼かない。庭に出て見ると、久しく見なかつた星が、嶮しい峰の上にちらちら輝いてゐる。墨の樣に深い色をした峽間の森には、例の名も知れぬ鳥が頻りに啼いてゐるのだが、待つてゐるのはなか/\啼かない。
九時頃であつた。半ば諦めた私は床を敷いて寢ようとしながら、フツと耳を立てた。そして急いで廊下の窓のところへ行つた。其處の勝手の方からも寺の人が出て來た。
(34)『解りましたか、啼いてますよ。』
『ア、矢張りあれですか、なるほど、啼きます、啼きます。』
私はおのづから心臓の鼓動の高まるのを覺えた、そしてまたおのづからにして次第に心氣の潜んでゆくのをも。
なるほどよく啼く。そして實にいゝ聲である。世の人の珍しがるのも無理ならぬことだと眼を瞑ぢて耳を傾けながら微笑した。
『自分の考へてゐたのとは違つてゐる。』
とも、また、思つた。
私は初めこの佛法僧といふ鳥を、山城の比叡山あたりで言つてゐる筒鳥といふのと同じものだと豫想してゐた。その啼き聲が、佛、法、僧といふと云ふところから、曾つて親しく聞いたことのある筒鳥の啼き聲を聯想せざるを得なかつた。筒鳥の聲が聞きやうによつてはさう聞えないものでもないからである。たゞ筒鳥は單に佛、法、僧といふ如く三音に響いて切れるでなく、ホツホツホツホツホウと幾つも續いて釣瓶打に啼きつゞけるのである。然し、その寂びた靜かな音いろはともすると佛法僧といふ發音や文字づらと關聯して考へられがちであつたのだ。
まことの佛法僧は筒鳥とは違つてゐた。然し、その啼き聲を佛、法、僧と響くといふのも甚だ(35)當を得てゐない。これは佛法の盛んな頃か何か、或る僧侶たちの考へたこぢつけに相違ないと私は思つた。この鳥の聲はそんな枯れさびれたものではないのである。いかにも哀音悲調と謂つた風の、うるほひのある澄み徹つた聲であるのだ。いかにも物かなしげの、迫つた調子を持つてゐるのである。
そして佛、法、僧という風に三音をば續けない。高く低くたゞ二音だけ繰返す。その二音の繰返しが十度び位ゐも切々《せつ/\》として繰返さるゝと、合の手見た樣に僅かに一度、もう一音を加へて三音に啼く。それをこぢつけて佛法僧と呼んだものであらう。普通はたゞ二音を重ねて啼くのである。
たとへば郭公の啼くくのが、カツ、コウと二音を重ねるのであるが、あれと似てゐる。然し似てゐるのはたゞそれだけで、その音色の持つ調子や心持は全然違つてゐる。郭公も實に澄んだ寂しい聲であるが、佛法僧はその寂びの中に更に迫つた深みと鋭どさとを含んで居る。さればとて杜鵑の鋭どさでは決してない。言ひがたい圓みとうるほひとを其鋭どさの中に包んでゐる。兎に角、筒鳥にせよ、郭公にせよ、杜鵑にせよ、その啼聲のおほよその口眞似も出來、文字にも書くことが出來るが、佛法僧だけは到底むつかしい。器用な人ならば或は口眞似は出來るかも知れぬが、文字には到底不能である。それだけ他に比して複雑さを持つてゐるとも謂へるであらう。
(36) 不思議に四月の二十七日か若しくはその翌日の八日かゝら啼き始めるのださうである。始んどその日を誤らないといふ。南洋からの渡り鳥で、全身緑色、嘴と足とだけが紅く、大きさはおほよそ鴨に似てゐるさうだ。稀には晝間に啼くこともあるさうだが、決して姿を見せない。山に住んで居る者でも誰一人それを見た者はないといふ。
この鳥も郭公などと同じく、暫くも同じところに留つてゐない。啼き始めると續けさまにその物悲しげな啼聲を續けるのであるが、殆んどその一聯ごとに場所を換へて啼いてゐる。それも一本の木の枝をかへて啼くといふでなく、一町位ゐの間を置いて飛び移りつゝ啼くのである。このことが一層この鳥の聲を迫つたものに聞きなさせる。
十八日、私は殆んど夜どほし窓の下に坐つて聽いてゐた。うと/\と眠つて眼をさますと、向うの峯で啼くのが聞える。一聲二聲と聞いてゐると次第に眠が冴えて、どうしても寢てゐられないのである。
星あかりの空を限つて聳えた嶮しい山の峰からその聲が落ちて來る。ぢいつと耳を澄ましてゐると、其處に行き、彼處に移つて聞えて來る。時とすると更け沈んだ山全體が、その聲一つのために動いてゐる樣にも感ぜらるゝのである。
十九日の夜もよく啼いた。そして午前の四時頃、他のものでは蜩《ひぐらし》が一番早く聲を立つるのであ(37)るが、それをきつかけに佛法僧はぴつたりと黙つてしまふ樣である。それから後はあれが啼きこれが叫び、いろ/\な鳥の聲々が入り亂れて山が明けて行く。
二十日に私は山を下つた。體在六日のうち、二晩だけ完全にこの鳥を聞くことが出來た。二晩とも闇であつたが、月夜だつたら一層よかつたらうにと思はれた。また、月夜にはとりわけてよく啼くのださうである。いつかまた月のころに登つてこの寂しい鳥の聲に親しみたいものだ。
(38) 木枯紀行
――ひと年にひとたび逢はむ斯く言ひて別れきさなり今ぞ逢ひぬる――
十月二十八日。
御殿場より馬車、乘客はわたし一人、非常に寒かつた。馬車の中ばかりでなく、枯れかけたあたりの野も林も、頂きは雲にかくれ其處ばかりがあらはに見えて居る富士山麓一帶もすべてが陰鬱で、荒々しくて、見るからに寒かつた。
須走の立場で馬車を降りると丁度其處に蕎麥屋があつた。これ幸ひと立寄り、先づ酒を頼み、一本二本と飲むうちにやゝ身内が温くなつた。仕合せと傍への障子に日も射して來た。過ぎるナ、と思ひながら三本目の徳利をあけ、女中に頼んで買つて來て貰つた着茣蓙を羽織り、脚輕く蕎麥屋を立ち出でた。
宿場を出はづれると直ぐ、右に曲り、近道をとつて籠坂峠の登りにかかつた。おもひのほかに嶮しかつた。酒は發する、息は切れる、幾所《いくところ》でも休んだ。そしていつもの通り旅行に出る前には留守中の手當爲事《てあてしごと》で睡眠不足が續いてゐたので、休めば必ず眠くなつた。一二度用心したが、終(39)に或所で、萱か何かを折り敷いたまゝうと/\と眠つてしまつた。
『モシ/\、モシ/\。』
呼び起されて眼を覺すと我知らずはつとせねばならなかつた程、氣味の惡い人相の男がわたしの前に立つてゐた。顔に半分以上の火傷があり眼も片方は盲ひて引吊つてゐた。
『風邪をお引きになりますよ。』
わたしの驚きをいかにも承知してゐたげにその男は苦笑して、言ひかけた。
わたしはやゝ恥しく、憧てゝ立ち上つて帽子をとりながら禮を言つた。
『登りでしたら御一緒に參りませう。』
とその若い男は先に立つた。
酒を過して眠りこけてゐた事をわたしは語り、彼は束京の震災でこの火傷を負うた旨を語りつつ、峠に出た。
吉田で彼と別れた。彼は何か金の事で東京から來て、昨日は伊豆の親類を訪ね、今日はこれより大月の親類に廻つて助力を乞ふつもりだといふ樣な事を問はず語りに話し出した。いかにも好人物らしく、彼が同意するならば一緒に今夜吉田で泊るも面白からうなどとわたしは思うた。が、先を急ぐと云つて、そゝくさと電車に乘つて彼は行つてしまつた。
(40) ほんの一寸の道づれであつたが、別れてみれば淋しかつた。それにいつか暮れかけては來たし、風も出、雨も降り出した。其儘、吉田で泊らうかと餘程考へたが、矢張り豫定通り河口湖の岸の船津まで行く事にし、両手で洋傘《かうもり》を持ち、前こゞみになつて、小走りに走りながら薄暗い野原の路を急いだ。
午後七時、湖岸の中屋ホテルといふに草鞋をぬいだ。
十月二十九日。
宿屋の二階から見る湖にはこまかに雨が煙つてゐたが、やゝ遅い朝食の濟む頃にはどうやら晴れた。同宿の郡内屋(土地産の郡内織を賣買する男ださうで女中が郡内屋さんと呼んでゐた)と共に俄かに舟を仕立て、河口湖を渡ることにした。
眞上に仰がるべき富士は見えなかつた。たゞ眞上に雲の深いだけ湖の岸の紅葉が美しかつた。岸に沿うた村の柿の紅葉がことに眼立つた。こゝらの村は湖に沿うてゐながら井戸といふものがなく、飲料水には年中苦勞してゐるのださうだ。熔岩地帶であるためだといふ。
渡りあがつた所の小村で郡内屋と別れ、ルツクサツクの重みを快く屑に背に感じながらわたしはいい氣持で歩き出した。直ぐ、西湖に出た。小さいながらに深く湛へてゐるこの湖の縁を歩き(41)つくした所に根場《ねんば》といふ小さな部落があつた。所の祭禮らしく、十軒そこ/\の小村に幟が立てられ、太鼓の音が響いてゐた。
不圖見ると村に不似合の小椅麗なよろづ屋があつた。わたしは其處に寄り、酒と鑵詰とを買ひ、なほ内儀の顔色をうかがひながらおむすびを握つて貰へまいかと所望してみた。お安いことだが、今日は生憎くお赤飯だといふ。なほ結構ですと頼んで、揃つた夫等を風呂敷に包んで提げながら、其處を辭した。今朝、雨や舟やで、宿屋で此等を用意するひまがなく、また急げば晝までには精進湖まで漕ぎつけるつもりで立つて來たのであつた。然し、次第に天氣の好くなるのを見てゐると、これから通りかゝる筈の青木が原をさう一氣に急いで通り過ぎることは出來まいと思はれたので、店のあつたを幸ひに用意したのであつた。
樹海などと呼びなされてゐる森林青木が原の中に入つたはそれから直ぐであつた。成る程好き森であつた。上州信州あたりの山奥に見る森林の鬱蒼たる所はないが、明るく、而かも寂びてゐた。木に大木なく、而かもすべて相當の樹齢を持つてゐるらしかつた。これは土地が一帶に火山岩の地面で、土氣《つちけ》の少ないためだらうと思はれた。それでゐて岩にも、樹木の幹にも、みな青やかな苔がむしてゐた。
多くは針葉樹の林であるが、中に雑木も混り、とりどりに紅葉してゐた。中でも楓が一番美し(42)かつた。楓にも種類があり、葉の大きいのになるとわたしの掌をひろげても及ばぬのがあつた。小さいのは小さいなりに深い色に染つてゐた。多くは栂《とが》らしい木の、葉も幹も眞黒く見えて茂つてゐるなかに此等の紅葉は一層鮮かに見えた。
わたしは路をそれて森の中に入り、人目につかぬ樣な所を選んで風呂敷包を開いた。空が次第に明るむにつれ、風が強くなつた。あたりはひどい落葉の音である。樅《もみ》か栂のこまかい葉が落ち散るのである。雨の樣な落葉の音の中に混つて頻りに山雀《やまがら》の啼くのが聞える。よほど大きな群らしく、相引いて次第に森を渡つてゆくらしい。と、ツイ鼻先の栂の木に來て樫鳥が啼き出した。これは二羽だ。例の鋭い聲でけたゝましく啼き交はしてゐる。
長い晝食を終つてわたしはまた森の中の路を歩き出した。誰一人ひとに會はない。歩きつ休みつ、一時間あまりもたつた頃、森を出外れた。そして其處に今までのいづれよりも深く湛へた靜かな湖があつた。精進湖である。客も無からうにモーターボートの渡舟が岸に待つてゐた。快い速さで湖を突つ切り、山の根つこの精進村に着いた。山田屋といふに泊る。
十月三十日。
宿屋に瀕死の病人があり、こちらもろく/\え眠らずに一夜を過した。朝、早く立つ。
(43) 坂なりの宿場を通り過ぎると愈々嶮しい登りとなつた。名だけは女坂峠といふ。掘割りの樣になつた凹みの路には堆く落葉が落ち溜つてじとじとに濡れてゐた。
越え終つて溪間に出、溪沿ひに少し歩き溪を渡つてまた坂にかゝつた。左右口峠《うばぐとたうげ》といふ。この坂は路幅も廣く南を受けて日ざしもよかつたが、九十九折の長い/\坂であつた。退屈しい/\登りついた峠で一休みしようと路の左手寄りの高みの草原に登つて行つてわたしは驚喜の聲を擧げた。不圖振返つて其處から仰いだ富士山が如何に近く、如何に高く、而してまたいかばかり美しくあつたことか。
空はむらさきいろに晴れてゐた。その四方の空を占めて天心近く暢びやかに聳え立つてゐる山嶺を仰ぐにはこちらも身を頭をうち反らせねばならなかつた。今日の深い色の空の眞中に立つこの山にもまた自づと深い光が宿つてゐた。半ばは純白の雪に輝き、なかばは山肌の黒紫《くろむらさき》が沈んだ色に輝いてゐた。而してその山肌には百千の糸卷の糸をほどいて打ち垂らした樣に雪がこまかに尾を引いてしづれ落ちてゐるのであつた。
峠を下り、やゝ勞れた脚で笛吹川を渡らうとすると運よく乘合馬車に出合つてそれで甲府に入つた。甲府驛から汽車、小淵澤驛下車、改札口を出やうとすると、これは早や、かねて打合せてあつた事ではあるが信州松代在から來た中村柊花君が宿屋の寢衣を着て其處に立つてゐた。
(44)『やア!』
『やア!』
打ち連れて彼の取つてゐた宿いと屋といふに入つた。
親しい友と久し振に、而かも斯うした旅先などで出逢つて飲む酒位ゐうまいものはあるまい。風呂桶の中からそれを樂しんでゐて、サテ相對して盃を取つたのである。飲まぬ先から心は醉うてゐた。
一杯々々が漸く重なりかけてゐた所へ思ひがけぬ來客があつた。この宿に止宿してゐる小學校の先生二人、いま書いて下げた宿帳で我等が事を知り、御高論拜聽と出て來られたのである。
漸くこの二人をも酒の仲間に入れは入れたが要するに座は白けた。先生たちもそれを感じてかほど/\で引上げて行つた。が、我等二人となつても初めの氣持に返るには一寸間があつた。
『あなたはさぼしといふものを知つてますか。』と、中村君。
『さア、聞いた事はある樣だが……』
『此の地方の、先づ名物ですかネ、他地方で謂う達磨の事です。』
『ほゝウ。』
『行つて見ませうか、なか/\綺麗なのもゐますよ。』
(45) 斯くて二人は宿を出て、怪しき一軒の料理屋の二階に登つて行つた。そしてさぼしなるものを見た。が、不幸にして中村君の保證したゞけの美しいのを拜む事は出來なかつた。何かなしに唯がぶ/\と酒をあふつた。
二人相縺れつゝ宿に歸つたのはもう十二時の頃であつたか。ぐつすりと眠つてゐる所をわたしは起された。宿の息子と番頭と二人、物々しく手に/\提灯を持つて其處に突つ立つてゐる。何事ぞと訊けば、おつれ樣が見えなくなつたといふ。見れば傍の中村君の床は空である。便所ではないかと訊けば、もう充分に探したといふ。サテは先生、先刻の席が諦めきれず、またひそかに出直して行つたと見える。わたしはさう思うたので笑ひかながらその旨を告げた。が、番頭たちは強硬であつた。あなた達の歸られた後、店の大戸には錠をおろした。その錠がそのまゝになつてゐる所を見ればどうしてもこの家の中に居らるゝものとせねばならぬ……。
『實はいま井戸の中をも探したのですが……』
『どうしても解らないとしますと駐在所の方へ屆けておかねばならぬのですが……』
吹き出し度いながらにわたしも眼が覺めてしまつた。
如何なる事を彼は試みつゝあるか、一向見當がつきかねた。見廻せば手荷物も洋服も其儘である。
(46) 其處へ階下からけたゝましい女の叫び聲が聞えた。
二人の若者はすはとばかりに飛んで行つた。わたしも今は帶を締めねばならなかつた。そして急いで階下へおりて行つた。
宿の内儀を初め四五人の人が其處の廊下に並んで突つ立つてゐる。宵の口の小學教師のむつかしい顔も見えた。自《おのづ》からときめく胸を抑へてわたしは其處へ行つた。と、またこれはどうしたことぞ、其處は大きなランプ部屋であつた。さま/”\なランプの吊り下げられた下に、これはまたどうした事ぞ、わが親友は泰然として坐り込んでゐたのである。
『どうもこのランプ部屋が先刻からがた/\いふ樣だものですから、いま來て戸をあけて見ましたらこれなんです、ほんとに妾《わたし》はもうびつくりして……』
内儀はたゞ息を切らしてゐる。怒るにも笑ふにもまだ距離があつたのだ。
わたしとしても早速には笑へなかつた。先づ居並ぶ其處の人たちに陳謝し、サテ徐ろにこの石油くさき男を引つ立てねばならなかつた。
十月三十一日。
早々に小淵澤の宿を立つ。空は重い曇であつた。
(47) 宿場を出外れて路が廣い野原にかゝるとわたしの笑ひは爆發した。腹の底から、しんからこみあげて來た。
『どうして彼處に這入る氣になつた?』
『解らぬ。』
『這入つて、眠つたのか。』
『解らぬ。』
『何故《なぜ》戸を閉めてゐた。』
『解らぬ。』
『何故坐つてた。』
『解らぬ。』
『見附けられてどんな氣がした。』
『解らぬ。』
一里行き、二里行き、わたしは始終腹を押へどほしであつた。何事も無かつた樣な、まだ身體の何處やらに石油の餘香を捧持してゐさうな、丈高いこの友の前に立つても可笑しく、あとになつても可笑しかつた。が、笑つてばかりもゐられなかつた。二晩つゞきの睡眠不足はわたしの足(48)を大分鈍らしてゐた。それに空模樣も愈々怪しくなつて來た。三里も歩いた頃、長澤といふ古びはてた小さな宿場があつた。其處で晝をつかひながら、この宿場にあるといふ木賃宿に泊る事をわたしは言ひ出した。が、今度は中村君の勢ひが素晴しくよくなつた。どうしても豫定の通り國境を越え、信州野邊山が原の中に在る板橋の宿《しゆく》まで行かうといふ。
我等のいま歩いてゐる野原は念場が原といふのであつた。八ケ嶽の南麓に當る廣大な原である。所々に部落があり、開墾地があり、雜草地があり林があつた。大小の石ころの間斷なく其處らに散らばつてゐる荒々しい野原であつた。重い曇で、富士も見えず、一切の眺望が利かなかつた。
止むなく彼の言ふ所に從つて、心殘りの長澤の宿《しゆく》を見捨てた。また、先々の打ち合せもあるので豫定を狂はす事は不都合ではあつたのだ。路はこれからとろ/\の登りとなつた。この路は昔(今でもであらうが)北信州と甲州とを繋ぐ唯一の道路であつたのだ。幅はやゝ廣く、荒るゝがまゝに荒れはてた惡路であつた。
とう/\雨がやつて來た。細かい、寒い時雨である。二人とも無言、めい/\に洋傘をかついで、前こゞみになつて急いだ。この友だとて身體の勞れてゐぬ筈はない。大分怪しい足どりを強ひて動かしてゐるげに見えた。よく休んだ。或る所では長澤から仕入れて來た四合壜を取り出し、路傍に洋傘をたてかけ、その蔭に坐つて啜り合つた。
(49) 恐れていた夕闇が野末に見え出した。雨はやんで、深い霧が同じく野末をこめて來た。地圖と時計とを見較べ/\急ぐのであつたが、すべりやすい粘土質の坂路の雨あがりではなか/\思ふ樣に歩けなかつた。そのうち、野末から動き出した濃霧はとう/\我等の前後を包んでしまつた。
まだ二里近くも歩かねば板橋の宿には着かぬであらう、それまでには人家とても無いであらうと急いでゐる鼻先へ、意外にも一點の灯影を見出した。怪しんで霧の中を近づいて見るとまさしく一軒の家であつた。ほの赤く灯影に染め出された古障子には飲食店と書いてあつた。何の猶豫もなくそれを引きあけて中に入つた。
入つて一杯元氣をつけてまた歩き出すつもりであつたのだが、赤々と燃えてゐる圍爐裡の火、竈の火を見てゐると、何とももう歩く元氣は無かつた。わたしは折入つて一宿の許しを請うた。圍爐裡で何やらの汁を煮てゐた亭主らしい四十男は、わけもなく我等の願ひを容れて呉れた。
我等のほかにもう一人の先客があつた。信州海の口へ行くといふ荷馬車挽きであつた。それに亭主を入れて我等と四人、圍爐裡の焚火を圍みながら飲み始めた酒がまた大變なことゝなつた。
折々誰かゞ小便に立つとて土間の障子を引きあけると、捩《ね》ぢ切る樣な霧がむく/\とこの一座の上を襲うて來た。
(50) 十一月一日。
酒を過した翌朝は必ず早く眠が覺めた。今朝もそれであつた。正體なく寢込んでゐる友人の顔を見ながら枕許の水を飲んでゐると、早や隣室の圍爐裡ではぱち/\と焚火のはじける音がしてゐる。早速にわたしは起き上つた。
まだランプのともつた爐端には亭主が一人、火を吹いてゐた。膝に四つか五つになる娘が抱かれてゐた。昨夜から眼についてゐた事であつたが、この子の鼻汁は鼻から眼を越えて瞼にまで及んでゐた。今朝もそれを見い/\この子の名は何といひましたかね、と念のため訊いてみた。マリヤと云ひますよとの答へである。そして、それはこの子の生れる時、何とかいふ耶蘇の學者がこの附近に耶蘇の学校を建てるとか云つて來て泊つてゐて、名づけてくれたのだといふ。
『昨晩はどうも御馳走さまになりました。』
と、やがてそのマリヤの父親はにや/\しながら言つた。
『イヤ、お騷がせしました。』
とわたしは頭を掻いた。
其處へ荷馬車挽きも起きて來た。
煙草を二三本吸つてゐるうちに土間の障子がうす蒼く明るんで來た。顔を洗ひに戸外《おもて》に出よう
(51)とその障子を引きあけて、またわたしは驚いた。丁度眞正面に、廣々しい野原の末の中空に、冨士山が白麗朗と聳えてゐたのである。昨日はあれをその麓から仰いで來たに、とうろたへて中村君を呼び起したが、返事もなかつた。
膳が出たが、わが相棒は起きて來ない。止むなく三人だけで始める。今朝は炬燵を作りその上で一杯始めたのである。霧は既に晴れ、あけ放たれた戸口からは朝日がさし込んで炬燵にまで及んで居る。そしていつの間に出て來たものか、見渡す野原も、その向う下の甲州路も一面の雲の海となつてしまつた。富士だけがそれを拔いて獨りうらゝかに晴れてゐる。二三日前にツイこの向うの原で鹿が鳴いたとか、三四尺の雪に閉ぢこめられて五日も十日も他人の顔を見ずに過す事が間々あるとか、丁度此處は甲州と信州との境に當つてゐるので、この家のことを国境といふとかいふ樣な話のうちに、おとなしく朝食は終つた。
困つたのはランプ部屋居士である。砂糖湯を持つて行き、梅干茶を持つて行き、お迎へに一杯冷たいのをぐつとやつて見ろとて持つて行くが、持つて行つたものを大抵飲み干すが、なか/\御神輿《おみこし》が上らない。『とても歩けさうにない、あのお荷物を頼みますよ。』とわたしが言つたので荷馬車屋もよう立ちかねてゐる。六時から十時まで、さうして過した。『いつまでもこれでは困るだらう、お前さん先に行つて呉れ。』
(52) と荷馬車屋を立たせようとしてゐる所へ、蹌踉として起きて來た。ランプ部屋ではまだ何處やら勇ましかつたが、今朝はあはれ見る影もない。
早速出立、實によく晴れて、霜柱を踏む草鞋の氣持はまさしく腦にも響く快さである。昨日はその南麓を巡つて來た八ケ嶽の今日は北の裾野を横切つてゐるわけである。からりと晴れたこの山のいただきにもうつすらと雪が來てゐた。
『大丈夫か、腰の所を何かで結《ゆは》へやうか。』
『大、丈、夫、です。』
と、居士は荷馬車の尻の米俵の上に鎭座ましまし、こくりくと搖られてゐる。
野原と云つても多くは落葉松の林である。見る限りうす黄に染つたこの若木のうち續いてゐる樣はすさまじくもあり、また美しくも見えた。方數里に亙つてこれであらう。
漸く歌を作る氣にもなつた。
日をひと日わが行く野邊のをちこちに冬枯れはてて森ぞ見えたる
落葉松は瘠せてかぼそく白樺は冬枯れてただに眞白かりけり
二里あまり歩いてこの野のはづれ、市場といふへ來た。此處にも一軒屋の茶店があつた。綺麗な娘がゐるといふので晝食をする事にした。
(53) 其處より逆落しの樣な急坂を降れば海の口村、路もよくなり、もう中村君も歩いてゐた。やゝ歩調も整うて存外に早く松原湖に著き、湖畔の日野屋旅館におちついた。まだ誰も來てゐなかつた。
程なく布施村より重田行歌、荻原太郎の兩君、本牧村より大澤茂樹君、遠く松本市より高橋希人君がやつて來た。これだけ揃ふとわたしも氣が大きくなつた。昨日一昨日は全く心細かつた。
夕方から凄じい木枯が吹き出した。宿屋の新築の別館の二階に我等は陣取つたのであつたが、たび/\その二階の搖れるのを感じた。
宵早く雨戸を締め切つて、歌の話、友の噂、生活の事、語り終ればやがて枕を並べて寢た。
速く來つ友もはるけく出でて來て此處に相逢ひぬ笑みて言《こと》なく
無事なりき我にも事の無かりきと相逢ひて言ふその喜びを
酒のみの我等がいのち露霜の消《け》やすきものを逢はでをられぬ
湖《うみ》べりの宿屋の二階寒けれや見るみづうみの寒きごとくに
隙間洩る木枯の風寒くして洒の匂ひぞ部屋に搖れたつ
十一月二日。
(54) 夜つぴての木枯であつた。たび/\眼が覺めて側を見ると、皆よく眠つてゐた。わたしは端で窓の下、それからずらりと五人の床が並んでゐるのである。その木枯が今朝までも吹き通してゐたのである。そして木の葉ばかりを吹きつける雨戸の音でないと思うて聽いてゐたのであつたが、果して細かな雨まで降つてゐた。
午前中をば膝せり合せて炬燵に噛りついて過した。晝すぎ、風はいよいよひどいが、雨はあがつた。他の四君は茸とりにとて出かけ、わたしは今日どうしても松本まで歸らねばならぬといふ高橋君を送つて湖畔を歩いた。ひどい風であり、ひどい落葉である。別れてゆく友のうしろ姿など忽ち落葉の渦に包まれてしまつた。
茸は不漁であつたらしいが、何處からか彼等は青首の鴨を見附けて來た。山の芋をも提げて來た。善哉《ぜんざい》々々と今宵も早く戸をしめて圓陣を作つた。宵かけてまた時雨、風もいよ/\烈しい。が、室内には七輪にも火鉢にも火がかつかと熾《おこ》つた。
どうした調子のはずみであつたか、我も知らずひとにも解らぬが、ふとした事から我等は一齊に笑ひ出した。甲笑ひ乙應じ、丙丁戊みな一緒になつて笑ひくづれたのである。それが僅かの時間でなく、絶えつ續きつ一時間以上も笑ひ續けたであらう。あまり笑ふので女中が見に來て笑ひこけ、それを叱りに來た内儀までが廊下に突つ伏して笑ひころがるといふ始末であつた。たべた(55)茸の中に笑ひ茸でも混つてゐたのか知れない。
十一月三日。
相も變らぬ凄じい木枯である。宿の二階から見てゐると湖の岸の森から吹きあげた落葉は凄じい渦を作つて忽ちにこの小さな湖を掩ひ、水面をかくしてしまふのである。それに混つて折々樫鳥までが吹き飛ばされて來た。そしてたま/\風が止んだと見ると湖水の面にはいちめんに眞新しい黄色の落葉が散らばり浮いてゐるのであつた。落葉は楢が多かつた。
今日は歌を作らうとて皆むつかしい顔をすることになつた。
木枯の過ぎぬるあとの湖をまひ渡る鳥は樫烏かあはれ
聲ばかり鋭き鳥の樫鳥ののろのろまひて風に吹かるる
樫鳥の羽根の下羽の濃むらさき風に吹かれて見えたるあはれ
はるけくも昇りたるかな木枯にうづまきのぼる落葉の渦は
ひと言を誰かいふただち可笑しさのたねとなりゆく今宵のまどゐ
木枯の吹くぞと一人たまたまに耳をたつるも可笑しき今宵
笑ひこけて臍の痛むと一人いふわれも痛むと泣きつつぞ言ふ
(56) 笑ひ泣く鼻のへこみのふくらみの可笑しいかなやとてみな笑ひ泣く
十一月四日。
今日はわたしは皆に別れて獨り千曲川の上流へと歩み入るべき日であつたが、『わが若草の妻し愛《かな》しも』とばかり言ひ張つてゐる重田君の宅を布施村に訪うてそのわか草の新妻の君を見る事になつた。
やれとろゝ汁よ鯉こくよとわが若草の君をいたはり勵まし作りあげられた御馳走に面々悉く食傷して昨夜の勢ひなくみなおとなしく寢てしまうた。
十一月五日。
總勢岩村田に出で、其處で別れる事になつた。たゞ大澤君は細君の里なる中込驛までとてわたしと同車した。もうその時は夕暮近かつた。
四五日賑かに過したあとの淋しさが、五體から浸み上つて來た。中込驛で降りやうとする大澤君を口説き落して汽車の終轉馬流驛まで同行する事になつた。
泊つた宿屋が幸か不幸か料理屋兼業であつた。乃《すなは》ち内藝者の總上げをやり、相共に繰返してう(57)たげる伊那節の唄。
逢うてうれしや別れのつらさ逢うて別れがなけりやよい
十一月六日。
どうも先生一人をお立たせするのは氣が揉めていけない、もう一日お伴しませう、と大澤君が憐憫の情を起した。そして共に草鞋を履き、千曲川に沿うて鹿の湯温泉といふまで歩いた。
其處で鯉の味噌燒などを作らせ一杯始めてゐる所へ、裁判官警察官山林官聯合といふ一行が押し込んで來た。そして我等二人は普通の部屋から追はれて、臺所の上に當る怪しき部屋へ押込まれた。下からは炊事の煙が濛々として襲うて來るのである。
『これア耐らん、まつたくの燻《いぶ》し出しだ。』
と言ひながら我等は膳をつきやつてまた草鞋を履いた。
夕闇寒きなかを一里ほど川上に急いで、湯澤の湯といふへ着いた。
十一月七日。
朝、沸し湯のぬるいのに入つてゐるとごう/\といふ木枯の音である。ガラス戸に吹きつけら(58)れ、その破れをくゞつて落葉は湯槽の中まで飛んで來た。そしてとう/\雨まで降り出した。
終日、二人とも、炬燵に潜つて動かず。
十一月八日。
誘ひつ誘はれつする心はとう/\二人を先日わたしと中村君と晝食した市場といふ原中の一軒家まで連れて行つた。其處で愈々お別れだと土間に切られた大きな爐に草鞋を踏み込んで盃を取らうとすると不圖其處の壁に見ごとな雉子が一羽かけられてあるのを見出した。これを料理して貰へまいかと言へば承知したといふ。其處へ先日から評判の美しい娘が出て來て、それだつたら二階へお上りなさいませといふ。兩個相苦笑して草鞋をぬぐ。
いつの間にやら夜になつてゐた。初めちよい/\顔を見せてゐた娘は來ずなり、代つてその親爺といふのが徳利を持つて來た。そして北海道の監獄部屋がどうの、ピストルや匕首《あひくち》が斯うのといふ話を獨りでして降りて行つた。小半日、ぐづくして終に泊り込んだ我等をそれで天晴れ威嚇したつもりであつたのかも知れない。
二階は十六疊位ゐも敷けるがらんどうな部屋であつた。年々馬の市が此處の原に立つので、そのためのこの一軒家であるらしい。
(59) 十一月九日。
早曉、手を握つて別れる。彼は坂を降つて里の方へ、わたしは荒野の中を山の方へ、久しぶりに一人となつて踏む草鞋の下には二寸三寸高さの霜柱が音を立てつつ崩れて行つた。
また、久し振の快晴、僅か四五日のことであつたに八ケ嶽には早やとつぷりと雪が來てゐた。野から仰ぐ遠くの空にはまだ幾つかの山々が同じく白々と聳えてゐた。踏み辿る野邊山が原の冬ざれも今日のわたしには何となく親しかつた。
野末なる山に雪見ゆ冬枯の荒野を越ゆと打ち出でて來れば
大空の深きもなかに聳えたる峰の高きに雪降りにけり
高山に白雪降れりいつかしき冬の姿を今日よりぞ見む
わが行くや見る限りなるすすき野の霜に枯れ伏し眞白き野邊を
はりはりとわが踏み裂くやうちわたす枯野がなかの路の氷を
野のなかの路は氷りて行きがたし傍への芝の霜を踏みゆく
枯れて立つ野邊のすすきに結べるは氷にまがふあららけき霜
わが袖の觸れつつ落つる路ばたの薄の霜は音立てにけり
(60) 草は枯れ木に殘る葉の影もなき冬野が原を行くは寂しも
八ケ嶽峰のとがりの八つに裂けてあらはに立てる八ケ嶽の山
昨日見つ今日もひねもす見つつ行かむ枯野がはての八ケ嶽の山
冬空の澄みぬるもとに八つに裂けて峰低くならぶ八ケ嶽の山
見よ下にはるかに見えて流れたる千曲の川ぞ音も聞えぬ
入り行かむ千曲の川のみなかみの峰仰ぎ見ればはるけかりけり
おもうて來た千曲川上流の溪谷はさほどでなかつたが、それを中に置いて見る四方寒山の眺望は意外によかつた。
大深山村附近雜詠。
ゆきゆけどいまだ迫らぬこの谷の峽間《はざま》の紅葉時過ぎにけり
この谷の峽間を廣み見えてをる四方の峰々冬寂びにけり
岩山のいただきかけてあらはなる冬のすがたぞ親しかりける
泥草鞋踏み入れて其處に酒をわかすこの國の圍爐裡なつかしきかな
とろとろと榾火《ほたび》燃えつつわが寒き草鞋の泥の乾き來るなり
居酒屋の榾火のけむり出でてゆく軒端に冬の山晴れて見ゆ
(61) とある居酒屋で梓山村に歸りがけの爺さんと一緒になり、共にこの溪谷のつめの部落梓山村に入つた。そして明日はこの爺さんに案内を頼んで十文字峠を越ゆることになつた。
此處の宿屋でまた例の役人連中と落合ふことになつた。ひとの食事をとつてゐる炬燵にまで這入つて來て足を投げ出す傍若無人の振舞に耐へかねて、膳の出たばかりであつたが、わたしはその宿を出た。そして先刻知り合ひになつた爺さんのうちにでも泊めて貰はうとその家を訪ねた。爺さんはまだ夕闇の庭で働いてゐた。見るからに荒れすたれた家で、とても一泊を頼むわけに行きさうにもなかつた。當惑しながら、ほかにもう宿屋は無からうかと訊くと、木賃宿ならあるといふ。結構、何處ですといふと爺きんが案内して呉れた。木賃宿とは云つても古びた堂々たる造りで、三部屋ばかり續いた一番奥の間に通された。
煤びた、廣い部屋であつた。先づ炬燵が出来、ランプが點り、膳が出、徳利が出た。が、何かなしに寒さが背すぢを傳うて離れなかつた。二間ほど向うの臺所の圍爐裡端でもそろ/\夕飯が始まるらしく、家族が揃つて、大賑かである。わたしはとう/\自分のお膳を持つてその焚火に明るい圍爐裡ばたまで出かけて仲間に入つた。
最初來た時から氣のついてゐた事であつたが、此處では普通の厩でなく、馬を屋内の土間に飼つてゐるのであつた。津輕でもさうした事を見た、餘程この村も寒さが強いのであらうと二疋並(62)んでこちらを向いてゐる愛らしい馬の限を眺めながら、案外に樂しい夕飼を終つた。家の造り具合、馬の二疋ゐる所、村でも舊家で工面のいゝ家らしく、家人たちも子供までみな卑しくなかつた。
十一月十日。
滿天の星である。切れる樣な水で顔を洗ひ、圍爐裡にどんどんと焚いて、お茶代りの般若湯《はんにやたう》を甞めてゐると、やがて味噌汁が出來、飯が出來た。味噌汁には驚いた。内儀は初め馬の秣桶で、大根の葉の切つたのか何かを掻きまぜてゐたが、やがてその手を圍爐裡にかゝつた大鍋の漸くぬるみかけた水に突つ込んでばしや/\と洗つた。その鍋へ直ちに味噌を入れ、大根を入れ、斯くて味噌汁が出來上つたのである。
馬たちはまだ寢てゐた。大きい身體をやゝ圓めに曲げて眠つてゐる姿は、實に可愛いゝものであつた。毛のつやもよかつた。これならお前たちと一つ鍋のものをたべても左程きたなくはないぞよと心の中で言ひかけつゝ、味噌汁をおいしくいたゞいた。
寒しとて圍爐裡の前に厩作り馬と飲み食ひすこの里人は
まるまると馬が寢てをり朝立《あさだち》の酒わかし急ぐ圍爐裡の前に
(63) まろく寢て眠れる馬を初めて見きかはゆきものよ眠れる馬は
のびのびと大き獣のいねたるは美しきかも人の寢しより
其處へ提灯をつけて案内の爺さんが來た。相共に上天氣を喜びながら宿を出た。
十文字峠は信州武州上州に跨がる山で、此處より越えて武蔵荒川の上流に出るまで上下七里の道のりだといふ。その間、村はもとより、一軒の人家すら無いといふ。暫らく溪に沿うて歩いた。もう此處等になると千曲川も小さな溪となつて流れてゐるのである。やがて、溪ばたを離れて路はやゝ嶮しく、前後左右の見通しのきかない樣な針葉樹林の中に入つてしまつた。木は多く樅《もみ》と見た。今日はいちにち斯うした森の中を歩くのだと爺さんは言つた。
三國に跨がるこの大きな森林は官有林であり、其處にひそ/\盗伐が行はれてゐた。中でもやや組織的に前後七年間にわたつて行はれてゐた盗伐事件が今度漸く摘發せられたのださうだ。何しろ關係する區割が廣く、長野縣群馬縣東京府の役人たちがそのために今度出張つて來たのだといふ。わたしは苦笑した、その役人共のためにわたしは二度宿屋から追放されたのだと。
いかにも深い森であつた。そして曲のない森でもあつた。素人眼には唯だ一二種類と見ゆる樹木が限界もなく押し續いてゐるのみであるのだ。不思議と、鳥も啼かなかつた。一二度、駒鳥らしいものを聞いたが、季節が違つてゐた。たゞ、散り積つてゐるこまかな落葉をさつくり/\と(64)踏んでゆく氣持は惡くはなかつた。それが五六里の間續くのである。
幸ひに登りつくすと路は峰の尾根に出た。そして殆んど全部尾根づたひにのみ歩くのであつた。ために遠望が利いた。ことに峠を越え、武州路に入つてからの方がよかつた。我等の歩いてゐる尾根の右側の遠い麓には荒川が流れてゐ、同じく左側の峡間の底には末は荒川に落つる中津川が流れてゐた。いや、ゐる筈であつた。山々の勾配がすべて嶮しく、且つ尾根と尾根との交はりが非常に複雜で、なか/\其處の川の姿を見る事は出來なかつた。
やがて夕日の頃となると次第にこの山上の眺めが生きて來た。尾根の左右に幾つともなく切れ落ちてゐる山襞、澤、溪間の間にほのかに靄が湧いて來た。何處からとなく湧いて來たこの靄は不思議と四邊の山々を、山々に立ちこんでゐる老樹の森を生かした。
また、夕日は遠望をも生かした。遠い山の峰から峰へ積つてゐる雪を輝かした。淺間山の煙だらうとおもはるゝものをもかすかに空に浮かし出した。其他、甲州路、秩父路、上州路、信州路は無論のこと、沓かに越後境だらうと眺めらるゝもろ/\の峰から峰へ、寒い、かすかな光を投げて、云ふ樣なき莊嚴味を釀し出して呉れたのである。
『ホラ、彼處《あそこ》にちよつぴり青いものが見ゆるづら……』
老案内者は突然語り出した。指された遙かの溪間には、溪間だけに雜木もあると見え、色濃く(65)紅葉してゐた。その紅葉の寒げに續いてゐる溪間のひと所に、成程、ちよつぴり青いものが見えてゐた。
『あれは中津川村の大根畑だ。』
と老爺はうなづいて、其處の傳説を語つた。斯うした深い溪間だけに、初め其處に人の住んでゐる事を世間は知らなかつた。ところが折々この溪奥から椀のかけらや、箭の折れたのが流れ出して來る。サテは豐臣の殘黨でも隱れひそんでゐるのであらうと、丁度江戸幕府の初めの頃で、所の代官が討手に向うた。そして其處の何十人かの男女を何とかいふ蔓《かづら》で、何とかいふ木にくゝつてしまつた。そして段々檢べてみると同じ殘黨でも鎌倉の落武者の後である事が解つて、蔓を解いた。其處の土民はそれ以來その蔓とその木とを恨み、一切この溪間より根を斷つべしと念じた。そして今では一本としてその木とその蔓とを其處に見出せないのださうである。
日暮れて、ぞく/\と寒さの募る夕闇に漸く峠の麓村栃木といふへ降り着いた。此處は秩父の谷の一番つめの部落であるさうだ。其處では秩父四百竈の草分と呼ばれてゐる舊家に頼んで一宿さして貰うた。
栃本の眞下をば荒川の上流が流れてゐた。殆んど直角に切れ落ちた斷崖の下を流れてゐるのである。向う岸もまた同じい斷崖で聳えたつた山となつて居る。その向う岸の山畑に大根が作られ(66)てゐた。栃本の者が斷崖を降り、溪を越えまた向う地の斷崖を這ひび登つてその大根畑まで行きつくには半日かゝるのださうだ。歸りにもまた半日かゝる。ために此處の人たちは畑に小屋を作つて置き、一晩泊つて、漸く前後まる一日の爲事をして歸つて來るのだといふ。栃本の何十軒かの家そのものすら既に斷崖の中途に引つ懸つてゐる樣な村であつた。
十一月十一日。
爺さんはまた七里の森なかの峠を越えて梓山村へ歸つてゆくのである。わたしは一人、三峰山に登つた。そして其處を降つて、咋日尾根から見損つた中津川が、荒川に落ち合ふ所を見度く、二里ばかり溪沿ひに溯つて、名も落合村といふまで行つて泊つた。
翌日は東京に出、ルツクサツクや着茣蓙を多くの友達に笑はれながら一泊、十七日目だかに沼津の家に歸つた。
(67) こんどの旅
今度の旅は三月十六日に長崎で中村三郎君の三周忌を行ひ、終つて郷里日向で父の十三周忌を營むといふのが重な目的であつた。と共にその往復沿路の同志たちに逢ひ度いといふのも願ひであつた。逢ひ度いといふ願ひと共に直ぐまた氣づかはれたのは、酒攻めに逢ひはせぬかといふ事であつた。今年になつて妙なきつかけから飲む機會ばかりが續いて、正月から二月にかけ、身體は殆んど酒漬になつてゐた觀があり、今までには心づかなかつた心臓の方にまで多少の故障の出來てゐるのが感ぜられてゐたので、餘程これは注意せねばならぬと思はれたからであつた。
三月八日午前六時、沼津驛を立つた。長男|旅人《たびと》を伴うての旅立であつた。祖父の墓に參らせ、久し振の祖母に逢はせ、まだ見ぬ父の故郷を見せておき度いからの思ひたちであつた。そして彼に勸めさせて彼の祖母をこの沼津まで伴ひたい謀《はかりごと》その中に含まれてゐた。彼の祖母は四十歳にもなる彼の父を一向に信用せず、彼の父から幾度手をかへ品をかへて勸誘してやつても未だ曾てその一人息子なる彼の父の側に來て暮らすといふ事を肯《がへ》んじなかつた。彼の父がいまなほ昔の(68)如く朝夕の米鹽にも苦しんでゐるが如くに思ひ込んでゐるらしかつた。そして八十に近い齢で、手馴れた産婆を業としながら日向の山奥の村に寂しい苦しい暮しを續けてゐるのであつた。
午後一時、熱田驛に降りた。まだずつと先まで行ける解《わけ》であつたけれど旅馴れぬ子供に六七時間以上の汽車に耐へさせたくなく、且つ彼をして四方の風物を眺め樂しますために一切夜行を廢したいと思ひきめて立つたのでまだ日が高いのに途中下車をしたのであつた。そして熱田神宮前の鷲野飛燕君を訪うた。多くの友人に逢ふ事を旨としたならば當然も一つ先の名古屋驛に降りるべきであつたが何しろ『サケ』が恐かつた。そして特に素下戸《すげこ》の鷲野君方を狙つたのであつた。所が、同君はまた自身一滴も飲み得ない事を悲しみ特に小生の相手として附近で最強の飲手である中林晴太郎、前田源の兩君を招いて既に酒陣を張つて待ち受けてゐる所であつた。そして型の如く同家のを飲み乾した挙句、まだ何處かで起きてゐる家があるだらうと夜中に三人して出懸けて二三軒も飲み廻るといふ結果になつてしまつた。その間に旅人は飛燕君次男春次君に連れられて名古屋見物から活動見物をしてゐたのであつた。
午前九時熱田驛發の豫定の汽車に乗遲れ、轉じて名古屋驛からその次のに乘る事になり、前記三君及び鷲野中林兩君の愛孃たちに見送られて嬢車した。前田君は一の宮まで見送らうとて一緒に乘り込んだが、車中にて妥協成立、到頭大阪まで行つてしまふ事になつた。
(69) 大阪駅で降りると既に顔を眞赤にしてゐる大島武雄、三池蔦於、平田春一及び泉かをる女の四君の叫喚の中に取圍まれた。一汽車遲れた間を同君達は決して無にする事をせなかつたのである。そして微雨の中を二臺のタクシーで靱南通の大島君方に運ばれた。大阪らしい古堀に臨んだ同君宅の二階には早や阿母さんや妹さんたちの心づくしの御馳走が所狹く並べられてあつた。其後の事を詳細に書くのはわれながら弊に耐へないが、兎に角午後の八九時から午前一二時に至る數時間は道頓堀附近のそちこちに於て費されたのであつた。大いに歌を書くべくして用意されたノートも名刺も、その夜誰やらに買つて貰つた高價な西洋煙草もその數時間の中の何處やらに置き忘れられてしまつた。
三月十日。午前九時發の豫定が十時半となり午後の一時と變更されてゐるうちにいつやら豫定外の神戸まで運ばるゝ事になり、まだ銀行會社に執務中の野元純彦、谷口孤梢の兩君を呼び出して神戸驛近くの三つ輪で大いに牛肉を喰ふ事になつた。昨夜醉壞した平田君を除く外、昨日のままの同勢である。矢張り一軒では足りず、更に一二軒を歴遊してもう電車の無くなるといふ頃、漸く大島前田の兩君、泉女史は汽車で大阪へ、あとの五人は自動車で西須磨の野元君方に赴き、其處でも更にまた結婚後間もない和歌子夫人の肝をつぶす事になつた。就床午前二時。
午前九時なにがし神戸發の汽車に間に合はせる事は異常な苦勞であつたが、野元夫妻の努力で(70)辛うじて成效した。更に驚いた事は我等があたふたと同君宅を出掛け樣とするともう其處に大阪から大島君が來てゐて呉れた事だつた。
僅々一兩日の間であつたが、サテ汽車が走り出して見ると、げに久し振に親子のみの旅になつたといふ氣持でお互ひの顔が見合はされた。天よく晴れ、風よく凪ぎ、車窓から見ゆる瀬戸内海の眞帆や片帆や島々の眺めは悉くわが少年を喜ばせ、合せてその父の醉眼をも澄ませて呉れた。
正午十二時岡山驛を過ぎた。實は此處で下車すべき約束で、四五の友人も待ち受けてゐて呉れた筈なのである。唯だ、『サケ』が恐かつた。待ち受けてゐる四五人といふはそれこそ選りに選つたその道の剛の者であるのである。ひそかに頓首して岡山驛を通過した。
薄暮、宮島驛着、下車、直ちに嚴島に渡り龜福本店に投宿した。子供は直ぐにも神社に參拜したい風であつたが、何しろ父は勞れてゐた。出立前三四日殆んど徹夜して留守中手當の用務を執り、サテ出立して見れば上記の始末である。階子段をも手離しでは上下出來ぬ有樣で、僅かに風呂に赴きしのみ。夕食の膳に子供にはサイダーをとりよせ、その側で麥酒一本銚子二本を甞めて直ちに床に潜つた。
三月十二日。朝食前に參拜と見物とを濟ませた。この嚴島神社參拜は小生にとりては約十七八年目のことである。當時學生であつたが、海岸沿の宿屋に泊つてゐて夜半ふと眼を覺ますと杜鵑(71)が頻りに啼いてゐる。雨戸ををあけて見るとさやかな月夜だ。ひそかに階下に降り大戸をあけて戸外に出た。鳥の聲を尋ねてお宮の森の方まで行かうとすると折柄の干潟に例の大鳥居がくつきりと立つてゐるのが見えた。乃ち道から降りてその下まで辿りつき、やがて上げ汐の寄するまでも其處に佇んで啼き交はす一二羽の杜鵑の聲に聽きとれたのであつた。
食後、土地名物の杓子に署名して各地の知人數名に贈り、年前十一時何分かの汽車で宮島驛を立つた。岩国驛には柳井津在の村上可卿君が出迎へてゐてくれた。柳井津まで同車、頻りにその村までの同行を勸められたけれど時日なきため固辭して別れた。其頃から雨が降り出してゐた。小郡驛乘換、年後四時過山口着、大降りとなつた中に平賀春郊君が末の娘の春ちやんを連れて出てゐてくれた。幌深い車で同君の寓居に赴く。竹林に圍まれて靜かな家であつた。但し不日松江高等學校教授として同地に轉任する由で家内は多少取込んでゐた。思ひながらも、夜はまた遲くまで食卓を圍んだ。
僅かの事で汽車に乘遲れ、止むなく自動車を飛ばして小郡驛に急いだ。どうしても十一時同驛發の汽車に間に合はせぬと多分戸畑から下の關まで出迎へてゐて呉れるであらう未知の諸君をまごつかす事になるからであつた。
案の如く下の關の長いプラットフォームの片隅に雜誌『創作』を手にした四五人の若者たちが(72)立つてゐた。握手目禮、直ちに連絡船に急ぎ、北風の吹き荒ぶその甲板の上で漸く言葉を交はした。創作社戸畑支社の三苫守西、久原喜衛門、佐藤白霧、坂根彌吉の四君に今一人は遙々肥後の八代から出て來た由解實君であつた。門司驛の雜沓裡に佇んで暫く汽車を待つ間、早や旅人は佐藤君に連れられて其處等見物に出懸け、大きなバナヽの一莖を買つて貰ひ嬉々として引提げて來た。
やがて戸畑驛着、其處のフォームには更にまた十數人の若人達が待つてゐて呉れた。挨拶もあとさきにブリッヂを渡らうとすると其處の物蔭に婦人ばかりの五六人が一かたまりになつて立つてゐた。三苫夫人京子、坂根夫人洋子、久原夫人凉子、伊岐須夫人雪子、神夫人露子の人々に唯一人銀杏返しの娘さんは毛利雨一樓君愛孃豐子さんであつた。橋を渡つて改札口を出やうとする所でひつしと兩手を掴んだ矮躯肥大の中老人があつた。名乘らるゝ迄もなくそれは豐子さんの阿父さんである事が解つた。
相連つてその毛利君方に赴いた。商賣物の米を並べた板の間續きに六疊か八疊の部屋があり廿人からの人がその一室に押並んで坐らうとして終《つひ》にはその板の間にまで居流れねばならぬ事になった。全部の人が小生には初對面であつた。そして目下わが創作社に幾つか出來てゐる各地の支社のうち最も熱心に作歌に從ひ、その成績拔群なのがこの戸畑支社の即ち眼前に押並んでゐる人(73)達である。お互ひの間の緊張が暫時は部屋を靜まらせてしまつた。そしてお互ひの顔には汗の浸みさうな光輝があつた。
各夫人連の手によつて茶菓が配られてから漸く談話の緒《いとぐち》が解けて來た。彼一言此一句、次第に高笑ひの聲も混る樣になつた。見廻す所三十歳を越えたるは殆んど幾人もなく、多くは廿四五歳前後の血氣盛んな人達である。ことに此處で眼についたは女流歌人の多い事で、露子雪子さんは毛利夫人を助けてお勝手に働き、凉子洋子京子さん達は主として茶菓係として座敷に在り、折々障子の腰ガラスを透いてはまだ肩揚げのある豐子さんが折々やつて來るお客樣にそれ/”\米を量つて渡してゐるのが見えた。
程なく夕飯の時が來た。我等父子と毛利君とはその大勢のゐる八疊の間と狹い土間を距てた四疊半の別室に退いて膳を圍む事になつた。暫く杯を重ねた末、不圖思ひついて杯を手にとりながら毛利君を顧みて『これは、あちらにも出てますか』と訊いた。『いゝえ、あちらは若い者ばかりですから酒は出しません、先生にも餘り澤山は差上げない積りです』と笑ひながら彼は答へた。これは旅立つ前豫じめ小生からどうか酒攻めにせずに呉れ、とわざ/\頼んでおいたゝめの返事であつたのだ。サテさうなると寂しくなつた。こちらは飲んでてあちらが飲まぬといふのは何としても寂しい事であつた。暫く考へた末『どうか三升だけ私に買はして下さい』と哀願した。毛(74)利君も笑ひながら快諾して呉れた。三升の冷酒は忽ち二十あまりの茶飲茶碗に酌ぎ渡され、其處には湧く樣な歡呼が起つた。そして瞬く間にその液體は盡き果てた。いつより速く醉の廻つてゐた小生は早速豐子さんを小蔭に呼んで『もう三升!』再度の哀願を極めて勢よく提出した。
三月十四日。朝、割合に早く眼が覺めて見ると枕許の古びたガラス戸を通してちら/\と雪の降つてゐるのが見えた。更に思ひがけなかつたのは、我等のやすんだ四疊半の部屋を出て、土間向うの部屋を見ると、寢たりや寢たり、宛ら燒芋屋の大釜の蓋を取つた形に、身體と身體とを結び合せた如くにして大勢の人が横たはつてゐるのである。昨夜、ほど/\にして我等父子はこちらの部屋に引上げて床についたのであつたが、その後も向うの賑はひはなほ止みさうになかつた。然し、いづれはそれ/”\に歸り去つたものと思つたに、なんのこと、これでは全部が全部泊つてゐるかに見えた。『婦人連にほか二三人が歸つたゞけでせう、十五六人も寢てますかナ』主人公は笑つて答へた。
程なくその婦人連を先に、家に歸つたといふ三四人の人たちもまた集つて來た。そして婦人たちは早速晝のお辨當拵へにかゝつた。今日は一同名護屋岬に近い中原の濱といふに行き、其處で歌の會を催さうといふのである。辨當の出來るを待ちながら、また雪の止むのを待ちながら、ひしひしと押並んだ我等の間にはいつか知ら盛んな歌の話が持出きれてゐた。聞けば昨夜も小生等(75)の休んだ後、なほ二三時間も、最もひどいのは今曉六時の打つまでも、烈しい歌論が戰はされてゐたのださうだ。
風が出て、日が薄らかにさし始めた。まだちらほらと白いものの落ちてゐるなかを打揃うて電車停留場へ向つた。氣を利かせたつもりで夏外套を着込んで來た小生の姿は此處で思ひもかけぬ滑稽なものとなつたのである。
濱の松林から廣く玄海を見渡す景色はなか/\大きな眺めであつた。が、如何にも風が強かつた。ために一時眞白な砂の上で開かうと云はれてゐた歌會をば、松林の中にある茶店の二階を借りて催すことになつた。雪全く止み、日うららかに射して四方たゞ松風と浪の響とに圍まれたよき會場であつた。乃ち眼前小景即題二首といふ定めでめい/\考へ込むことになつたのだが、此處でもまた歌を作るよりもそれに就いての感想を語り合ふのが先になつた。此處の支社では作歌と共にをの考察論議の上にもまた甚だ熱心であるのを見た。初め三室ほどの襖を拔いた部屋の形なりに長方形に並んだのがいつか圓陣を作りなす程にめい/\が膝を乘り出して來ての談話振りである。やがて辨當が開かれ、酒も温ためられたが、僅かに小生が杯を取つた位ゐで他の人は殆んど無關心であつた。
夕方までさうしてゐて處威からぶら/\と高原めいた野中の夕日の路を歩いて戸畑町字幸町二(76)丁目の三苫守西君の宅に赴いた。招かれて一同夕飯を御馳走になる事になつたのである。見るともう三十近い膳部が並べてあつた。京子さんを初め凉子さん洋子さん若い夫人たちが顔を眞赤にしての接待振である。盃を啣《ふく》まずして先づ醉ふの感があつた。
果して賑やかな華やかな宴會となりゆいた。杯の織りなす間に語る者笑ふ者唄ふ者、はては感極つて慟哭する人なども出て來た。席漸く亂れむとする頃、羽織袴の老紳士が入つて來られた。守西君の舅御さんで京子さんがわざ/\その實家から招いて小生に引合はして下されたのであつた。若者たちの斯うした醉態を苦々しく思はれはせぬかと小生には氣遣はれたが一向にその風なく、最後まで快げに附き合うて下された。いつ果つべしとも見えぬ一座の感興を見殘して小生は子供と共に別室に退いて眠る事にした。幾度か引起され樣としたが、深い疲勞からか隣室の騷ぎを外に熟睡してしまつた。
夜中に厠に行かうとして、また喫驚《びつくり》した。障子をあくれば隣室は全然足の踏處もない人の寢姿なのである。オヤ/\今夜もまたこれかと呆れながら種々な頭や足の間を四つ這に這ひ渡らうとしてフト異樣な頭を見出した。イガ栗か分けたのかの別はあつても若者の頭ばかりの散らばつてゐる中にこれはまた珍しい禿頭が一つ混つてゐた。オヤ/\お父さまもたうとう若者の意氣に呑まれてこの中にやすまれたかと可笑しいとも可懷《なつか》しいともつかぬ氣持で暫くそれを眺めて辛くも(77)廊下まで這ひ出すと、その片隅には京子さんが幼い人を抱いて横になつてゐた。眠れもしなかつたと見えて、直ぐ半身を起しながら挨拶した。『大變ですねエ』と我知らず言葉をかけると彼女は低聲に笑ひながら『可笑しな事があるのですよ、皆がもう眠られてから暫くして妙な唄聲が聞えますの、誰だらうと障子の破れから窺いて見ますとそれが父ですのよ、一人だけ起きて坐りながら煙管で調子をとつて何か小唄らしいものを唄つてゐるのです、私この齢になつて初めて父の唄ふのを聞きましたわ』といふ。さう言ひながら彼女は顔をそむけたが恐らくそれは笑聲を殺すといふよりも、もつと他の表情を隱すためであつたらうと思はれた。彼女の父と彼女の夫との間には普通の婿舅の樣な情誼が無かつたらしく、それを嘆いた歌を彼女はこれまで幾首となく詠んで來てゐた。單に父が夫を解さない、文学をやる我等夫婦を解して呉れない、といふより更に深げな双方の家庭に關しての種々な嘆きの詠まれた歌を小生も久しい間彼女の作に見て來てゐるのである。さればこそ今夜わざ/\彼女は遠方から父を呼び迎へて我等のこの席に列ならしめたのではなかつたか、などと考へると小生もすつかり眼が冴えて久しい間睡りつくことが出來なかつた。
臺所を受持つた夫人たちは殆んど一睡もしなかつた位ゐであらう。まだ明け切らぬうちに出立する我等の膳に種々温かい物を揃へて下された。そして殆んど最初に逢つたまゝに少しも頽《くづ》れぬ(78)同勢の人達に見送られて戸畑驛を出立した。八幡驛まで同車した人數人、特に毛利君と露子さんの夫君神君とは遠く二日市驛まで見送らうとて乘車、その他遠方から參集して共に二日を過し今日一緒にそれ/”\の驛まで歸る人たちに柴田六郎、藤江省三、由解實君等があり、車内大いに賑はつた。幸に好晴で海も山も野もすべて廣々と見渡す事が出來た。ことにこの邊種々と名所古蹟の多い土地柄とて、子供は毛利さん其他の小父さんたちからそれ/”\説明を聽くのに大忙しであつた。
久し振りの福岡驛をも黙つて通り過ぎた。降りたかつたのだが、もう時間がなかつた。二日市驛で見送の兩君に別れた。其處からは太宰府が近いとやらで切に降車を勸められたが、拜辭して別れた。そして鳥栖驛では最後に一人殘つてゐた由解君とも別れた。別るゝといふのは幾度經驗しても實にイヤなものである。
また久し振に(確かにさうした氣持がしたのだ)父子だけになつた。子供には豐富に飲食物を買ひ與へておいて親爺はぐつすりと寢込んでしまつた。車中では眠る事の出來ぬ癖の小生も流石に疲れたものと見える。『海が見える、海が見える』とて起されたのはそれから程經てであつた。成程、綺麗な海が見えてゐる。面白い形の島も見える。地圖によるまでもなく其處は小生にとつても初めての大村灣であらねばならぬ。いゝ氣持に眼が覺めて共々窓にしがみついて久しい間晴(79)やかな海の景色に眺め入つた。戸畑邊と違ひ、急に暖氣をも覺えた。蜜柑畑などのあるのを見てもこの邊一帶北九州の方では暖い土地と察せられた。
午後五時十一分、終《つひ》に長崎驛に着いた。遠くも來にけるものかなの感が自づと身に湧いて、胸をときめかせながら降り立つと、其處に未知舊知一團の人達が立つてゐた。舊知は二人、一人は大橋松平君であり一人は越前翠村君である。越前君は小生に先立つ僅か數時間餘り前に此處に着いたのださうだ。彼は久しく岡山市に在つて繪をかいてゐたが、今度共に故人の展墓のため、また自分の畫會を開かむためにやつて來たのであつた。大橋君とは二三年越に逢ふのであらう、上京の途次一度沼津の寓居を訪うて呉れた事があつた。未知の人とは高島儀太郎、上野初太郎、澁谷秋雄、其他の諸君で、名のみはもう七八年の永きに亙つて知つてゐた人たちである。彼一語此一語、我等の一組だけずつと遲れて改札口を出、直ぐ市内要町なる高島君の宅に赴いた。
二階の廣間にはやがて擧上の人たちのほかに菊枝興藏、高田二郎、澤本直明其他の社友諸君が顔を揃へた。現在長崎創作支社には十二人の社友が居るのであるが、それは漸く近年になつての事で、初めは大橋、高島、上野、澁谷の四君及び故人の中村三郎君等僅々四五人の同志でそれこそ七八年の永い闇終始變らぬ固い團結を作つて創作社の歌風を維持して來たのであつた。元來この長崎といふ土地はもとから歌の盛んな所で、從つて種々の流派の人達がそれ/”\に割據してめ(80)いめい覇を唱へてゐたのださうである。その間に在つて我が創作社の連中はどちらかと云へばその性格からか獨り孤壘を守るといつた形で、南風甚だ競はぬものがあつたらしい。さうした感慨の漏らされた手紙をばよく此等の人たちから受取つてゐたのであつた。今、初めてその長崎の地にやつて來て、此等新舊の同志たちの前に坐つて見ると、いつか知ら小生までが一種の感慨に打たれねばならぬのを覺ゆるのであつた。來た者、迎へた者、その間言ふに言はれぬ氣持が交錯するのであつた。口吃して俄かに言ひ難い觀すらもあるのであつた。
食通といふか凝り屋といふか、好みを同じうするらしい高島、大橋、上野君たちが數日に亙つて用意しておいて興れたとり/”\の御馳走がやがて大きな卓子二脚を並べた上に持出された。見るからに唾の走る色どりであり香味である。多く支那風の料理で(卓子其他の器物まで)あつたが何しろうまかつた。酒またまづからう筈なし、一々口に持つてゆくのが面倒なといふ心持であつた。就床午前二時、我等別室、隣室にはまた五六の床が並べられた。
三月十六日。故人の追悼會の催さるゝ日である。支社々友一同、高島君宅に揃うて、それから墓參に赴かうといふ事になつてゐた。三人五人と集つてゐるうちに思ひがけぬ參加者が來り加つた。筑後大川町なる大川支社の宮部貴一、酒見幹風の二君が夜行汽車でやつて來たのだ。
墓は市街と港とを下瞰《げかん》する急勾配の山の中腹に在つた。僅かにぞれと知らせる目標が置いてあ(81)るだけで、まだ墓らしい墓は建てゝなかつた。聞けば故人の老母と兄とが佐賀とかに移り住んでゐるが、故人在世中と同じく貧窮で、そのためか知らしてやつても今日の會合に出て來ぬとの事であつた。然し、その寂しい墓のあたりが掃き清められ、新しい花などの挿されてある所を見れば、或は昨日あたり誰かゞ來てこつそりこれだけの事をして行つたのだらうとの事であつた。墓のうしろにかなりの楓の木があり、うす紅ゐの芽を吹きかけてゐた。なほ、見ごとな樟の老樹がこの坂なりの墓場の其處此處に鬱然と立ち茂つてゐる。この樟は三郎君自慢の一つで、よく歌にも詠んでゐた。櫻や菜の花や、故人の好きだつたとり/”\の花が多勢の手によつて供へられた。そして薫の高い香が墓のめぐりに豐かに焚かれた。そして、一人々々が在りともわかぬ彼の墓の前にぬかづいた。僅かにさし置いたその石標によく/\みれば、うつすらと青苔が萌えそめてゐるのである。私は、出立以來初めて鉛筆をとり出して一首の歌をノートに書きつけた。
三郎よ汝《な》がふるさとに來てみれば汝が墓にはや苔ぞ生ひたる
午後一時から、其處より程近い光源寺で追悼會並びに追悼歌會が催された。斯うした公開の會合をやつた經驗のないといふ發企人たちによつて準備せられたにも係らず、五十人からの來會者が集つて來た。やがて故人の自畫像を掲げて、しめやかに追悼會が始められた。故人が生前いろいろと世話になつたといふこの寺の老住職の讀經を靜かに聽いてゐると、小生の瞼にはいつ知ら(82)ず涙が浸んで來た。讀經の聲の中に故人の心を、面影を、次第々々に感じ出して來たのである。ことにまたこれほどの人が寄つてその靈魂を弔ひ慰めてゐるに係らず、その血族の唯の一人すらが居合はせないのだと思つた時、在りし世の故人の寂しい生活がいまだにまだ續いてゐる樣に思はれて、一層胸は苦しくなつた。
法要が終ると直ぐしの同じ寺で歌會が開かれた。よそで行ふそれらとは異つた方法で、先づ來會者からそれ/”\持ち寄りの歌を集めそれを一首づつ文字太に黒板に書いて一同して合評するのである。小生など、次ぎ/\に昂奮しがちな出來事に會つて來てゐたので初めは唯それらの批評論議を眺めてゐたが、いつか知ら誘はれて口を入れる樣になつた。何しろ前にも言つた通りこの地には各流派が入り亂れてをり、ことに今日はそれ/”\その派の重立つた人たちも來合はせてゐるとやらで、追悼歌會の名に似げない烈しい歌會となりゆいた。とにかくこの長崎でも今日の樣に盛んな歌會は少なかつたと世話人たちの大喜びの裡にめでたく閉會した。黒板の文字の見えにくゝなつた頃であつた。
次いで市内出島東亞館といふ支那料理店で小生並びに越前君の歡迎會が開かるゝことになつた。社友全部の主催でそれに光源寺の和尚樣二人、今日の歌會の重立つた人達が參加せられ、かれこれ三十人ちかい人數であつた。一品二品の料理ならば横濱あたりの支那人の店などで喰べた(83)事はあるが、正式の宴會に出たのは今日が初めての事で珍しくもあり恐しくもあつた。ことに上野君といひ高島君といひ何れも支那貿易に從事してゐる人たちのことであちらの人と接觸する事繁く、從つてその道の通人と云つたわけで、今日の御馳走は特にも念入りのものが誂へられてあつたのださうだ。
『勝手が解らなくて困るナ』
といふと上野君が、
『では私がお側に居りませう』
といふことになつた。何しろ西瓜の核《たね》すら滿足に喰べ得ない身にとつては、これが海燕の巣、これが海鼠《なまこ》の干物、これが鱶《ふか》の鰭《ひれ》、これは家鴨の丸煮で斯うして食ふもの、これは豚の子の丸燒(?)、これは何とか魚(何とまた大きなさかなであつたか)の丸煮か丸燒、といふ風に何でも十幾種類かの、而かも尨大な品物が、次々に眼の前に出て來るので噛み味はふは後のこと先づ以て肝心の肝をつぶしてしまつた。
從つて今日は固體を主とし液體を客とするといふ、げに小生にとつては珍しき宴會になつて來た。と云つて液體が粗略されたではない、これもまた次から次と運ばれて、いつか滿座とも醉つてしまつた。
(84 一同して其處を出たはもう十二時にも近かつたか、空にはさやかな月が懸つてゐた。誰からとなく海岸通りの方へ歩いて、其處で歸る人は歸り去つた。何しろ腹が荷物であつた。顎を引き胸を張り臍のあたりをずんと前に突き出して歩いてゐるのだが、それでも苦しい。此儘歸つて寢込まうなら當然夢魔のためにとり殺さるゝにきまつて居る。思ひは同じの同勢十人ばかり、ぶらりぶらりと歩いていつか大浦海岸の浪打際に出、更に引返して丸山あたりの明るい街を歩き廻つた。歸つて床に就いたは二時か三時か。ずつと隨伴してゐたわが旅人君にはちと少々、或は大いに氣の毒であつた。
十七日。見物日にあてられた日である。四五人の人に案内せられ先づ土地名物の南京寺(赤寺とも呼ぶさうな)を見て廻る。昨日ちよい/\と眼に腐れたそれらの姿がいかにも面白かつたからである。崇福寺、興福寺、福濟寺等を見た。いづれも特別保護建築物ださうで、昔支那から渡來してゐた人たちがこれらを建てゝ冥福を祈ると共に海上往來の無事を願つたものらしい。
轉じて大浦の端《はつ》れに天主教々會堂を見た。物寂びた堂の中に入るとほのかに空の光の射した四壁には幾枚かの宗教繪が掲げられ、中央には椅子が冷たく並んでゐた。繪のうち、例の踏繪の折の虐殺の大幅の前に立つた時には流石に身内の引き緊るのを覺えた。
其處から今度はまた電車に乘つて遠く浦上村の天主教々會堂を訪うた。この驚くべき大建築、(85)工費恐らくは百萬圓を超えたであらう大會堂がほんのこの小さな村の村民たちだけの手によつて作り上げられたと聞いてはその信仰心の力に今更ながらに驚かざるな得なかつた。乞うて中に入れば今しも信者たちの祈祷が行はれてゐた。水を打つた樣な廣大な堂内には其處に此處に寂然としてひた伏して居る信者の姿が見えるのみで、咳一つ聞えない。ことにその服裝が普通の百姓着のまゝの人の多いのに眠が惹かれた。たゞ、婦人たちの一團は頭から深々と清淨な白布のかぶり物をかぶつてゐた。
歸途、聞くところによればこの浦上村は殆んど村民全部天主教の嚴しい信者であるに係らず、附近で一番私生兒が多く、嬰兒壓殺、窃盗等の犯罪また少くないといふ。
更に諏訪公園に登つた。此處の話も故人によつて隨分よく語られたものであつたが、いま實際其處に登つてその話の節々を思ひ出して來ると懷舊の情がまた新たである。
『故人の記念碑でも建つるなら此處にするのだね』
『え、さう私達も考へてます』
其處を降りると薄暮、二三の人は別れて歸り、中の一人に頼んで旅人をその希望の活動寫眞見物に案内して貰つた。そして殘つたゞけで故人の一時住んでゐた家、臨終の家、等を見て廻つた。臨終の家といふ二階建の長屋の端の二階にはいまどんな人が住んでゐるか安物のメリヤスシャツ