垣内先生還暦記念會編、日本文學論攷、文学社刊行
1938年1月15発行、641頁、5圓80錢
 
(48)   古代の小説批評の考察    久松潜一
 
       序
 
 私は文學批評の發生に於て、作者と讀者といふ二の立場から次第に文學批評が生ずると見て居る。作るはたらきと讀むはたらき(見る、聽くはたらきもある。その場合には聽衆、觀衆、見物等となる)を深めることから、批評のはたらきが生ずると見るのである。さうして作者の方では技術から入つてゆき、續者は素材から入つてゆく傾きがある。從つて批評的に進んでも一方は技術論的傾向が多く、一方は素材論的傾向が多いと思ふ。さうして前者は詩歌論に多く、後者は小説、戯曲論に多いと思ふ。こゝではかういふ點を念頭に置いて、古代の小説の讀者の立場から小説批評の生じてゆく過程を少しく見たいのである。古代といつても大體平安時代をさすことになる。さうしてこの時代の小説批評から二三の問題をとりあげて考察することにする。
 
(49)       一 小説の讀者と批評家
 
 最初に小説の讀者と批評家との關係を少しく見たい。小説を説話的樣式と物語樣式と狹い意味の小説樣式に分ける時、説話に對しては、本來傳誦的性質が多いために讀まれるよりは語り傳へられる場合が多いと思ふ。風土記に見られる種々の民間説話にしても、その地方地方に於て語り傳へられたと思ふ。神話にしてもまた浦島その他の説話にしても、かくの如くして傳誦されたのである。眞間娘子の場合にも、
  とりがなくあづまのくにに古にありけることと今までにたえずいひくる
とあつて、是等の説話は次第に傳誦されたものと見られる。もとよりさういふ傳誦がやがて記載されたのである。風土記等に於てはすでに記載されたものもあつたであらうが、またその時はじめて古老の傳誦を記載したものもあつたと思はれる。さうして記載されて文獻となつたものも讀まれたであらうが、とにかく説話に於ては讀者よりも語りつたへを聞くといふ形式が主となつたであらう。かくの如く傳へきくものが興味を感じ、また好惡の感じをともなつた事は想像される所である。かういふ説話に於ける傳誦とそれを聽くものとの關係は興味昧い問題であり、聽くものも單に聽く立場からはなれてそれに多少の創作を加へて、傳誦者の位置にたつ場合が多いのであつて、か(50)くして傳誦者とそれを聽くものとの關係は、次第に繰返されて説話形式が作られるのである。さうして聽くものが傳誦者となる場合にその説話に對する批評が行はれ、それがその説話の形式に働きをなすことが言はれるのである。
 併しかういふ説話に於ける傳誦者とそれを聽くものとの關係に就いては、材料が乏しいのであり、結局説話の傳誦とそれによる成長といふ點が主となつて、聽くものの關係に於て考へることは困難であるが、これに對して次の物語樣式に於ては、讀者といふものの側から推測すべき多少の材料は存するのである。
 古代小説としての物語は相當に廣く讀まれたと思はれるが、これを讀むものの態度にも種々あつたと思はれる。讀まれる範圍から言へば宮廷の女官を中心として、國司の娘といふやうな女性が最も多かつたと思はれる。さうして宮廷に奉仕する上達部や殿上人にしてもこれを讀んだであらうが、最も心醉して讀んだのは宮廷の女官や、若い相當に教養のある女性によつて最も多く讀まれたのであらう。たとへば紫式部日記に於て、紫式部の事を「このあたりに若紫やさぶらふ」と公任等に言はれた事は、宮廷に奉仕する上達部等に源氏物語が多く讀まれた事を示して居り、また枕草子に、定子皇后の御前で宇津保物語の事について女官等に語られるのはそれを示して居るのである。更に更級日記に於て、作者が地方の任にある者の娘といふ境涯に居て、中央に於て喧傳されて居る源氏物(51)語を讀みたいと日夜神佛に念じて居るのは、容易に讀む事を得ないが故に一層讀みたいといふ欲求を起すのである。是等の少數の記載は決して例外的なものではなくして、當時に於ける宮廷奉仕の上達部殿上人や女官や、更に多少の教養をもつた女性の一般の傾向を示したものと見る所に興味が深いのである。さうしてかういふ讀者があるとともに、またさういふ讀者によつて言はれる評判といふものが、讀まないものの間にもひろがつて居た事も知られるのである。更級日記の著者が源氏物語を讀まうとしたのも、このひろがつて居る評判を傳聞して讀書欲をそゝられたと見られるのである。
 しかし是等はよつて源氏物語を中心とする物語は多く讀まれたが、是等を讀む態度は所謂研究家としての立場ではなく、また批評家としての立場でもなく、どこまでも讀者としての立場であつたのである。恐らく平安時代に於ての物語を讀まれる態度は、すべて讀者としての態度以上には出てゐない。しかしかういふ小説の讀者の間にも何等かの好惡感は存したのであり、それが批評なり研究なりに進展すべき筈のものであつた事も疑はれないのである。
 第一に枕草子によつて少しく讀まれる態度を吟味して見たい。七十一段に皇后の御前で物語の品定めの事がかゝれて居る。
  御前に人々おほくつどひ居て物語のよきあしき、にくき所などをぞさだめいひしろひ、すゞし仲忠がことなど(52)御前にもおとりまさりたる事など仰せられける。
 (女房)「まづこれはいかにとことわれ、仲忠が童おひのあやしさをせちに仰せらるゝぞ」たどいへば、(清)「何かは、琴なども天人おるばかり彈きていとわろき人なり。みかどの御むすめやはえたる」といへば、仲忠がかたうどと心を得て、(女房)「さればよ」などいふに、宮「この事どもよりは、ひる齋信が參りたりつるを見ましかば、いかにめで惑はましとこそ覺ゆれ」と仰せらるゝに云々
 これは小説を讀む態度を見る上に極めて興味深い敍述である。
 枕草子には外に「物語は」として、
  住吉、空穗の類、殿うつり,月まつ女、交野の少將、梅壺の少將、人め、國ゆづり、うもれ木、道心すゝむる、松が枝、こま野の物語はふるきかはほりさし出でてもいにしがをかしきなり。(百七十二段)
と書名を擧げて居る所があり、この七十一段に「繪にかき物語のめでたきことにいひたる」ともある。
 また卷末の跋ともいふべき文の中に、物語と隨筆との相違とも見るべき見解があるが、この文は小説の讀者としての態度を見る上に極めて意昧深いのである。
 宮の御前で、空穗物語を讀んだ人々の會話であるが、この場合物語のよきあしき、にくき所をさだめて居るとあるから、それは單に讀みふけるのみならず、そこから判斷をも下して居る點が知られるのである。殊によきあしきといふ點から言へば小説批評ともいふべきである。
(53) たゞこの言によつてみると、よきあしきも必ずしも嚴密な小説批評ではない事は、すぐ次に「にくき」とあるのによつて知られる。即ち「にくき」によつて、それは作中の人物の好惡感といふ事を示すのが知られるのである。即ち宇津保に對する評判として作中の凉と仲忠との人物論が主であるが、それが如何にすぐれて表現されて居るかといふやうな點よりは、それが如何に愛すべき人物であるか、にくき人物であるかといふ事が主となるのである。さうしてその人物批評の標準を見ると、仲忠の方は童おひのいやしいといふ點を以て非難されて居るが、しかしみかどの御女を得た事を以て最上の名譽として居る。さうして凉は天人居るばかりに琴をひいたとあるが、これは吹上の卷に、仲忠が琴を奏すると、
  雲の上より聞き、地の下よりとよみ、風雲動きて月星騷ぐ、屏風のやうなる火ふり雷なりひらめく。
とあるに對して、凉が奏すると「仙人くだりて舞ふ」とあるのと比較したのであるが、こゝに音樂に對するすぐれた技能に對する讃嘆と、内親王を得奉る如き名譽に對する憧憬とを示して居り、それを通して、この時代の教養や生活の理想に對する態度をよく示して居るのである。しかしそれは文學としての批評といふよりは現實の人問としての好惡であるのである。從つてそれは人物評判といふべき性質を有するのである。從つてかういふ物語評判は現實の理想的人物の評判に比すれば興味はうすいのである。この物語批評の半ばに於て、この事どもよりは、ひる齋信が參つたのを見た(54)ならばどんなにめで惑つたであらうと、現實の理想の男子齋信の方により多くの關心と興味とを有して居る事を示すのである。こゝにこの宇津保物語の批評が作中人物の評判であり、現實の人物に對する好惡感と同樣の立場を以て語られて居る事を示すのである。
 これは源氏物語に就いて「若紫やさぷらふ」といはれた時に、式部が公任に「かゝるべき人見え給はぬに、彼のうへはまいていかでものし給はむと聞きゐたり」といつた言の中にも、作中の人物といふ事が重んじられて居た事を示すのである。
 この枕草子七十一段に見られる記載は、その段の初めに「かへる年の二月廿五日」とあり、この會話の行はれたのは長コ二年二月廿七日の夕となるのである。この年は道長の女彰子の中宮となられた長保二年より四年前であり、寛弘元年よりは八年前であつて、紫式部の宮仕するよりも八九年も前である。式部の夫宣孝の死んだのは長保三年であるから、まだ源氏物語は着手されても居ないと思はれる。さういふ年代にこの會話が行はれたことは興味ぶかいのであるが、この會話によつて宇津保物語に對するよきあしきのことわりも、實在の人物と同じ意味に於ける評判であり、公任や齋信に封する女官たちの關心と同樣であつたとも見られるのである。ともあれこの記載は小説批評の初期のものとして注意せられるのである。さうして枕草子には前に記した如く當時の物語を擧げて居るが、その中に空穗物語も擧けられて居る。恐らく住吉空穗はその代表的作品であつたと見ら(55)れるのである。空穗を評することは彼の源氏物語を論ずるが如きであり、かういふ機運が源氏物語をも生出したと見られるのである。
 源氏物語にも住吉物語や空穂物語・竹取物語等は物語の代表作として擧げられてあるのである。枕草子の「物語は」の條は書名をあげるに止つて居るが、最後の「こま野の物語」については、
  ふるきかはほりさし出でてもいにしがをかしきなり。
とあるのである。こま野の物語は散佚物語としてその作品は見るに由ないものであるが、相當に愛讀された事は特にこゝに評語をかいたのでも知られるし、また枕草子には二百五十二段にも、
  こま野の物語は何ばかりをかしき事もなく、詞もふるめき見所多からねど、月に昔を思ひ出でて蟲ばみたる蝙蝠とり出でて、「もとこし駒に」といひて立てるがいとあはれなるなり。
とあるのである。こま野の物語は源氏物語の螢の卷にも、
  こま野の物語の繪にてあるをいとよく書きたる繪かなとて御覽ず。
とある。たゞ源氏物語の方ではこま野の物語の繪卷になつて居るのをさしたと思はれるのであつて、直接作品の批評にはふれてゐないのであるが、枕草子の二ケ所は大體同じ事柄を扱つてゐるのであるが、かなり小説批評の性質を有して居ると思ふ。この場合に批評されて居るのは人物よりも構想もしくは描寫の點にある。意味から言へば、月の晩に昔を思ひ出して古びた扇をとり出して歌(56)を口吟むといふのであるから、零落した人物が花やかなりし昔を回顧するといふ筋であり、その構想なり情趣なりを清少納言は愛したと見られて、二度も敍述して居るのである。たゞこゝで注意されるのは、この場面の評語に一方は「をかし」とあり、一方は「あはれ」とある事である。即ちこの場面は、一面には「をかし」の要素があるとともに「あはれ」も存したと思はれるが、兩者を比較して見ると、「をかし」といつたのはその構想的方面をさしたやうであり、「あはれ」といつたのは古を偲ぶ所からくる成就をさして居るやうに見られるのである。ともあれこの描寫をさして清少納言が「あはれ」といひ、「をかし」として居る所に注意せられるのである。さうして「こま野の物語」全體としては何程の「をかしき所」もなく、詞も古く見所も尠いといふのであるが、この場合の「をかしき」も趣向的な意味が多いとも見られる。しかし全體として「をかし」といふ所に批評の基準をおいて居るやうに見られる。枕草子中にある「をかし」と「あはれ」との數については、「あはれ」が八六〔二字右○〕に對して、「をかし」が四六六〔三字右○〕あるといふやうに「をかし」の方が多くて、源氏物語に「あはれ」が一〇四四〔四字右○〕あるに對して、「をかし」が六八三〔三字右○〕あるといふやうに相反して居るのであるが、物語批評の基準にもこの「をかし」が中心になつて居る事を知られるのである。なほこの場合に、「詞ふるめき」といふ事を難點として居るが、古來歌には古めいた詞に却て雅語として情趣を見出した場合が多いが、物語は歌ほど雅語を重んじなかつたとも見られる。しかしなほ雅語を(57)重んずる傾向はあつたと見られる。しかも清少納言が詞ふるめきを非難したのは、清少納言の新しい感覺を求めた點の現れとも見られるのである。
 ともあれこの「こま野の物語」の批評を見ると、小説批評としては空穗の評判よりも進んで居る所が見られるのであり、前者に於ては空穗の一讀者に過ぎなかつたのが、こゝでは「をかし」「あはれ」を基準とする小説の批評家となつて居るのを感ずるのである。
 かういふやうにして清少納言に於ても、讀者としての立場から批評家としての立場に進んで居るのであり、この態度から彼女は物語の本質を「をかし」と「あはれ」とに見たのであり、その立場から枕草子の如きは、「をかし」といふやうな批評の基準によつて評價され得ないと考へたのである。即ち枕草子の終りの段は、さういふ批評家としての清少納言を一層鮮明に表して居るのである。
  大かたこれは世の中のをかしき事、人のめでたしなど思ふべき事、なほえり出でて、歌などをも木草鳥蟲をもいひ出したらばこそ、思ふほどよりはわろし、心見つなり、ともそしられめ云々
とあるのは清少納言の批評態度、或は小説批評の基準をも示して居ると見られるのである。こゝにも「をかしき事」といふのがその根本に於て見られるのである。
 
       二 源氏物語螢の卷の批評史的考察
 
(58) 源氏物語の螢の卷を對象として批評史的立場から考察したいのである。螢の卷に就いて紫式部の物語觀を見る事はすでに多く試みられて居り、特に本居宣長の多摩の小櫛は精細な論文である。明治以後に於ても諸家によつて繰返し扱はれて居るのであるが、こゝでは螢の卷によつて物語の讀者と批評家との關係を少しく考へて見たいのである。源氏物語の中で帚木の卷に見られる女性の品さだめと螢の卷の物語論とは、所謂作品としての構想や表現から離れた内容本位の立場から扱はれて居る。それは作品研究といふ上から言へば素材研究であるに過ぎないが、式部の人生觀女性觀或は文學觀をみる上には極めて重要なる考察であるのである。
 たゞかういふ箇所によつて紫式部の人生觀なり小説觀を知る前に、一應それ等の見解の表現されて居る形式を見ることが必要てあらう。即ち雨夜の品定めにしても、それによつて直ちに女性觀を見る前に、その構想を通して平安時代の若き上達部や殿上人が、雨夜のつれ/”\に部屋に集つては、周圍にある婦人や人物を語りあふといふ現實としての場面を考へることが必要である。それは枕草子に於て、定子皇后の御前で女房達が種々の事を語りあふ、といふ現實的な場面と全く同樣なものを感ずるのである。從つてさういふ場面に語られる事も、紫式部の見解とともに當時の一般の考へ方、即ち種々交錯しもしくは對立する種々の考へ方をも併せ記して居るのであるが、その事は螢の卷に於ても同樣であるのである。螢の卷に於ける物語批評の部分は大對二の場面に分れて居る。初(59)めの部分は長雨のふりつゞく頃、光源氏が玉鬘の部屋(西の對)で物語をよみかきして居る所で、邊りに散亂する物語を見ながら物語に就いて語りあふのであるが、源氏は玉鬘を養女としながら懸想してさういふすき心を示すので、玉鬘は
  ふるきあとをたづぬれどげになかりけりこの世にかゝる親の心は
といふ歡をよんでたしなめるといふやうな、比較的端正でない場合に於て物語に就いて語られて居るのであり、物語を語ることから現實の戀愛感情に直ちに結びついて來るのである。それだけに物語小説を何等の顧慮する所なく、文學としての立場から率直に批判して居るのである。後の部分は源氏が紫の上と物語を語りあふのであるが、紫の上が明石の姫君の求められるにかこつけて、自分も物語を愛好して居るのを、光源氏が見ながら物語について語るのであるが、こゝでは實の女の明石の姫君に對する教育的立場から、世なれたる物語は姫君には見せてはならないといふのである。その點に於て、一面には色好みであつた光源氏が父としての子に對する嚴格さを以て語るのである。それだけにこゝでは物語を、純粹文學といふよりは教育的立場に於てのべられて居るのである。
 さうしてこの二の描寫を通して、女性が如何に物語を愛讀したかといふ事が知られるのであり、玉鬘のやうなまだ結婚しない女性も、紫の上のやうな結婚した女性も愛好した事が分り、更に年少の明石姫君の如き女性もこれを讀んだ事が知られる。それは更級日記の著者が、まだ年少の時から(60)物語を讀みふけつたと同樣な?態であるのである。この場合に玉鬘の方では、
  あけくれ書きよみいとなみおはす。
とあり、柴の上の方では、
  いみじくえりつゝなむ書き整へさせ、繪などにも書かせたまひける。
とあつて、讀む外に「書く」ともあるが、この場合の書くは物語を創作する意味ではなく、物語もしくは繪物語を寫す意であると思はれるのである。刊本のなかつた時代には、物語を讀む事は一面には寫すといふ事にもなつたのである。その中から物語を創作する心境も生れやすかつたと思はれるのである。さうして物語を讀む場合にも、單に無批判的に愛讀する所謂讀者に過ぎないものと、それに對して鋭い批評家の態度にまで進んで居るものとがあるが、この場合の玉鬘にしても紫の上にしても、まだ讀者といふ程度から多く出てゐないと思ふ。玉鬘が作中のさま/”\な人物を見て、それを自己と比較して「わがありさまのやうなるはなかりけり」と思ふのを見ても、住吉物語を讀んで、その姫君が繼母によつて七十歳ほどの主計頭といふ老人に與へられようとする描寫をみて、玉鬘が九州にあつた頃大夫の監に苦められた事を想起するのであるが、作中の人物をみては實在の人物にひきくらべて見るといふ態度であるのである。源氏が物語にはいつはりが多いといふに對して、玉鬘が自分等の如き世の中のいつはりやにごりを多く見ないものには、「まこと」と見えると(61)いふのは、現實的な意味に解して居るに過ぎないのである。紫の上が源氏に答へた言葉は多少批評にわたつて居るやうであるが、むしろ作中の人物を現實の人間とみて、これに人物批評を加へて居るに止まるのである。空穗物語の中の藤原の君の女を評して、甚だ重々しくしつかりした女性であり過失はしないであらうが、女らしい所がない人のやうであると言つて居るのは、現實の女性と見ての評と見るべきであり、文學的にみた小説批評にまで至つてゐない感があるのである。
 これに對して光源氏の小説を讀む態度は、一層深い立場に進んで居るのであつて、單なる讀者といふ立場から批評家といふ立場に進んで居るのである。さうして一方には小説の本質をとくとともに、子女の教育的立場からこれを批判して居るのであり、こゝに恐らくは紫式部の小説觀といふべきものを見得ると思はれる。即ちこの螢の卷に於ても構想の上から、讀者と批評家といふ二の態度を以て物語小説に向つて居るのである。
 かういふ點を先づ考慮して、作者の小説觀といふべきものを少しく考へてみたいのである。
 光源氏によつて語られる物語論に於ては、先づ物語のもついつはりの方面、素材に放ける虚の方面が言はれる。光源氏の言葉に、「女こそ物うるさからず、人に欺かれむと生れたるものなれ、ここらの中にまことはいと少からむを云々」といつたのもそれを示して居るのである。しかしこの「いつはり」は、必ずしも物語の本質が「いつはり」であると言ふのではない。「いつはり」の中(62)に、「げにさもあらむ」と思はれる「あはれ」が在するのを認めて居るのである。むしろ光源氏はこの「あはれ」に物語の本質を見出して居るのである。從つて玉鬘が物語の「いつはり」をある程度まで認めると、光源氏は直ちに反對して、物語にこそ「みち/\しき物」がある事を認め、日本紀などは「片そばぞかし」といふのである。この物語に對して道々しきものを認める根據は、物語が「いつはり」の素材の中に、眞實によつて貫かれたものがある事を認めて居るのである。その「あはれ」であり「みち/\しきもの」は眞實なるものであるが、この「あはれ」と「みち/\しきもの」とが如何なる關係にあるかは興味ある點があるが、その前に問題とされるのは、「よきさまに言ふとてはよきことの限をえり出で」、あしき事を言ふ場合にはあしき事をえりいだして表現するといふ事である。この現實をあるがまゝに表現するよりは、よきあしきをえりいだす所に寫實的よりは理想的であるといふ事も言へるのであり、それが素材に於けるいつはりもしくは虚とも蹟聯する點があるのである。かういふやうに物語がいつはりであるのは、この人生の眞實としてのよきあしきを誇張する所から生ずるとも見られるのであるが、それはしかし物語の素材に於てであり、また人生の眞實を理想化して居る所から來て居るに過ぎないのである。根柢に眞實がある事を認めてゐるからこそ、日本紀などはかたそばぞかしと言ふ言が生じたのであらう。
 かくの如くいつはりと眞實なるものとの關係は解せられると思はれるのであるが、次に問題とな(63)るのは「あはれ」と「みち/\しき事」との關係や、よきあしきの内容に就いてである。この場合「よき」「あしき」といふのを道コ的にいふ善惡と解すれば、それは道コ的解釋となるのであり、また源氏物語螢の卷で解して居るやうに、よきあしきを光源氏の言葉の中にある、「菩提」と「煩惱」との意味に解すれば、宗教的解釋となるのである。かういふ宗教的もしくは道コ的解釋も、必ずしも全面的には否定されないのであるが、しかしよきあしきが直ちに菩提と煩惱であると解してしまふ事は出來ないのであり、光源氏の言葉でも、よきあしきは菩提と煩惱との關係の如きであるとして居るに過ぎないのである。むしろ「よき」」「あしき」の基準になるものは、「あはれ」と「みち/\しき事」とであると思ふ。所謂「もののあはれ」を批評の基準とする立場は、「あはれ」の立場を平安時代的文學樣式化として見たのであるが、この立場が物語の中心をなしてゐたとは考へられる。しかし一方に於て道々しきといふ立場があつたのであり、これが物語の中心概念とまで言はれないにしても、かういふ立場が存してゐたことは見られるのである。「あはれ」が中心であるにしても、一方に道々しきといふ事が一の標準となつて居たのである。
 こゝで螢の卷に於て物語の種類ともいふべきものをのべてある點をひろふと、
  まろがやうに實法なるしれものの物語
  世なれたる物語
(64)  繼母のはらぎたなき昔物語
等が見られるのである。即ちこれによれば、第一は比較的實直なる野暮ともいふべき人物を扱つた物語である。もつともこれは自己の事を道コ的にいつたとも言はれるが、とにかく世なれたる物語に對して反對をなす物語を認めたのであり、またはらぎたなき人物を扱つたとも見られるのである。世なれたる物語は色好みの物語であるのである。これは物語を大きく分けたとも見られるのであるが、これをよきあしきの標準によつて分ければ、實法なるしれものの物語は或は物のあはれ知らぬ物語であり、世なれたる物語は餘りに物のあはれすぐした物語とも見られる。しかしこの二は「あはれ」の標準から言はれたものであらうが、腹ぎたなき物語は道コ的意味が多く入つて居ると思はれる。もとより是等は作中の人物から言つたものであらうが、しかしまたこゝに作品の全體の傾向をも、この點から示して居ると見られるのである。
 さうして若い子女の教育的立場に於て、光源氏は姫君に「世なれたるもの語などな讀み聞かせ給ひそ」と言つて、これを教育的にはさけようとして居るのであり、また
  繼母のはらぎたなき昔物語も多かるを、心見えに心つきなしと思せば、いみじくえりつゝなむ昔を書き整へさせ、
とあつて、腹ぎたなき繼母の物語はこれを讀ませないやうにしたかと見られる。こゝには純粹に「あはれ」の立場からでない道コ的にみられた物語觀、道々しきといふ立場から批判せられた物語(65)觀があつたと見られるのである。それは純粹の物語の文學的意味ではないとも見られるが、また物語批評の一の方面であるとは見られるのてある。即ち文學としての物語には、「あはれ」の立場に於て世なれたるものや心きたなきものをもゆるされるのであるが、更に教育的立場に於て世なれたるものや心きたなきものをとゞめる事によつて、道々しきものを求める所に到達しようとしたのではないかと思ふ。さうして「あはれ」と「道々しき」とを統一する所に、物語の全體的意義を認めようとしたと思はれるのである。
 
       三 歴史物語に於ける小説批評
 
 歴史物語特に今鑑を中心として小説批評を考察したいのであるが、その前に歴史物語といふ形態に就いて一言すると、歴史物語といふ形態それ自らの中に、人物評判と人物批評との關係が見られるのである。いはば歴史物語は世の中の評判記といふべき性質を形態的には有するのである。一體歴史物語といふ名稱は、明治時代芳賀博士の名づけられたものであるが、かういふ一群の歴史小説ともいふべき形態に就いては、古くから一の形態として自覺されて居たと思ふ。殊に大鏡が百五十歳と百四十歳との、二人の老翁と若侍との語りあふといふ形式を序に於て示し、それを本文の構想に於て効果あるやうに表現してから、この形式がそれ以後踏襲せられたのを見ても、自覺的にかう(66)いふ同じ一群の文學形態が考へられ作られたと見られる。さうしてこの場合に老翁や若侍によつて、語られる主題となる人物もしくは歴史に對する各種の態度が示されて居るのである。即ち大鏡でいへば、大宅世繼や夏山繁樹は道長に對する世の中の評判を語る側を代表して居るのであり、若侍は批評家としての立場を代表して居るのである。それは小説批評に於ける讀者と批評家との關係と同樣であるのである。さうしてこの點を大鏡は最も巧みに行ふ事によつて、主題を極めて明瞭にして居るのであるが、今鏡・水鏡・増鏡等はこの態度を踏襲しながら、この兩方面を現すといふ點は殆ど閑却して、單に傳誦的性質のみを表して居るのである。即ち今鏡は大宅世繼の孫で、紫式部の仕へた上東門院の母の倫子に仕へた女房が百五十歳ほどになり、泊瀬詣の時語ることになつて居るが、批評家にたつべき人物が描かれて居ないのである。この事は水鏡に於ても同樣であつて、大和の泊瀬郡の龍蓋寺から泊瀬に詣でた七十三歳の尼が、三十四五の修行僧にあふのであるが、後夜すぎた頃修行僧は請はれるまゝに、大峯葛城で仙人にあつて聞いた話をこの尼に語つたのを、後に尼が書き記したやうになつて居る。さうして最後に紫式部の源氏物語や大鏡に比較してある點に、著者の態度は見られるのであつて、今鏡と同じく源氏物語に對する闘心の深さは見られるのであるが、主題に對する批評家は存しないのである。増鏡も嵯峨の清凉寺に於て老嫗の語ることになつて居るのである。これ等には世の中の評判を語るものはあるが、一方の批評家を活躍せしむる事が出(67)來なかつたのである。
 こゝに大鏡のかういふ點から見ても、特に注目すべき點があるのであるが、しかしともかく、老翁もしくは老尼が數人集つて語るといふ形式をとつた事は同一である。歴史物語がかういふ形式をとつた事は、佛教の多少の影響があるとも見られるが、また古事記が稗田阿禮によつて傳誦せられたといふ傳誦文學的性質を、形式だけでも踏襲した點もあるであらうし、また古の事を自ら經驗したといふ老人に語らせる事によつて、現實的ならしめた點もあるであらう。また大鏡等を世の中の評判記といふ點から見ると、大鏡のやうに普通の語部とともに批評家を出したのは、歴史的事件もしくは歴史的人物を、世の中の評判や批判の種々の方面から語るといふ爲である。從つて一般の評判とともに識者の批評といふ立場もあげる事によつて、全體的理解をとげしめようとしたと見られるのである。この形式が後の無名草子等にも見られるとともに、近世の各種の評判記の形式ともなつてゆくのである。
 さうしてこの形式を最もよく活かしたのは前述した如く大鏡であつて、道長に對する人物論を各種の立場から極めて明瞭に説いて居るのである。が同時に大鏡のかくの如き敍述の中に、歴史物語といふ形態と日記や小説物語等の關係を見得る言説があるのである。大鏡の下卷に、世繼が若侍の批判の正しいのに驚いて、
(68)  見奉るは翁らがやしは子のほどにこそはと覺えさせ給ふに、このしろしめしげなることどもは、おもふにふるき御日記たどを御覽ずるならむかし。
として、自分等老人は「さばかりのざえはいかでか侍らむ、たゞ見きゝたまへし事を心に思ひおきて、かくさかしがり申すにこそあれ」として、兩者の相違をのべて居るのである。さうして翁のいふ事も決して「そら物語」ではないとして、それほどの分別もないものは「そら物語する翁」と思ふかもしれないけれども、佛菩薩の前で妄語はしないといふ點などに、大鏡等の歴史物語の性質に對する明瞭なる自覺が見られるのである。即ち古日記等によつて研究する學生と、傳聞する所を傳へる人との二の對照を明瞭に示し、その二をともにまとめたのが歴史物語であるとしたのである。さうしてかくの如きものを「そら物語」ではないとする所に、源氏物語等の小説物語と、大鏡等の所謂歴史物語との區別をおいてゐたと見られるのである。またかういふ「そら物語」に對する事實を主とする系列として、日記を考へてゐた事は蜻蛉日記の冒頭に於て、
  世の中に多かる右物語の端などを見れば世に多かる空言だにあり。
として、眞實なるものを書かうとした態度に於てみることが出來るし、枕草子を世の中のをかしき事をえりいでて書いたのではないとした見解にも見られるのである。かくすればそら物語に對してまことを書いたものとして、日記・隨筆・歴史物語等を平安時代人は考へてゐたのであらう。この(69)點から言へば、歴史物語は日記の流れをくむものとして意識せられてゐたと見られるのである。この事は紫式部日記等の日記と、榮華物語との關係の深い事を見ても推測されるのである。
 かくして歴史物語といふ形態そのものの小説物語と異なる點や、歴史物語そのものに對する批評意識などは大鏡にも見られるが、小説物語に對する比較的精細な批評は今鏡に見られるのである。
 今鏡は序には高倉天皇の嘉應二年に語つたとあり、後鳥羽院に仕へた内大臣通親の著といはれて居る。それが定説とはしがたいにしても、平安時代に作られたことはほゞ信ぜられるのであるが、この今鏡に於て、物語に對する自覺といふ點が相當に見られるのである。それは今鏡に於ける嫗が紫式部とともに仕へた女性としてある事が、物語を特に愛好した人物である事を示して居るが、書中?物語の事が出て居るのである。特に第十は和歌・物語に對する批評とも見るべきであり、「作り物語のゆくへ」はそれ自ら獨立した物語批評と見る事が出來るのである。今鏡の序の中にも紫式部をといて、
  それは名高くおはする人ぞかし。源氏といふめでたき物語つくり出して、世に類ひなき人におはすればいかばかりの事どもか聞きもちたまへらむ。
とあつて、紫式部を重んじた態度は見られるのである。かういふ點から物語の性質を特に項目をたてて説いて居るのである。次にその點を考察したい。
(70) 「作り物語のゆくへ」もこの老嫗と他の人との問答の形式になつて居るのであつて、構想の上から見ると第一の貿問者は、源氏物語はさのみ實事でもないことで、なよび艶なることを書いたによつて、地獄に落ちて烟の苦みをうけたといふ傳へをのべると、嫗が答へて、佛で禁ずるのは妄語であるが、妄語といふのは身にない事をあり顔にいひ、わるい事をよいと思はせて罪をうることを言ふのである。所謂綺語といふのはそれほど深い罪ではないのである。源氏物語は妄語ではなく綺語であるとするのである。さうしてかくの如き、なさけをかけ艶ならんことを求めたのは、輪廻の業とはなる事があつても奈落に沈む事はないとするのである。佛でも譬喩經など作つて、ない事を作り出して説明されたのであるとして、紫式部が女の身としてかういふ物語を作つたのは、妙音觀音といふべきであらうと辯解して居るのである。
 これに對して更に供のわらはが、勝曼夫人が親にすゝめて佛の道に入らしめたなどは、佛の再來ともいはれるが、男女の艶なることを書いて人に示し、なさけをのみ盡したのでは、尊い御のりをつくしたとは言はれないとしたのに答へて、更に源氏物語の特質をのべてそのすぐれたのをいひ、源氏物語は單に男女の事を記したのみではなく、佛道心を示して居る點が多いとするのである。或は帝王の位を退いて弟君にゆづられ、西山の麓にすみたまひ、或は別れを悲しんで優婆塞をたもつたりするのは、佛の道に入りたまふ道心に通ずるものがあるとして居る。さうして罪ふかき行爲を(71)うつしたのも佛道に導くためであり、世のはかなき事をうつすのも、それによつて佛の道にすゝめたのであるといふやうに、よき事も佛道を示した點が多いととくのである。かく語つてこの尼は姿をけしたと結んで居るのである。
 以上のやうな敍述の中に、源氏物語に對する各種の見方或は世の中の評判を示して居るのである。特に佛教的立場に於てこれを妄語であり、式部は妄語戒を犯して地獄に落ちたといふ見方や、源氏物語は狂言綺語であるといふ見方を示して居るのである。またこの狂言綺語といふ見方と大體一致するのであるが、渡氏物語は男女のなさけやえんをのみ記したと見る見方もあげて居るのである。是等は恐らく當時に於ける種々の源氏觀であつたと見られるのである。ことに物語が狂言綺語であるといふ見方、男女の艶やあはれを記したといふ見方は多く存したのであり、紫式部自分もさういふ物語のある事を認めて居るのである。所謂「世なれたる物語」といふのはそれであるのである。
 これに對して今鏡の作者の物語觀、或は源氏物語觀は妄語でもないとするのであり、また單なる世なれたる物語でもなく、佛道に入る道を示した物語として居るのである。それは罪深き事がらを扱つても、それによつて佛道に入る機縁となるとして居るのである。
 そこに源氏物語に對する宗教的解釋の萌芽を今鏡に於て見るのである。さうして罪深き事を記すのも道を得る機縁となるとして居る所に、囚果律をも認めて居ると見られるのである。しかし同時(72)に今鏡に於ては、源氏物語の男女のあはれや艶なる方面を記してある事をも認めないのではなく、さういふ方面もある事を認めて居るのである。即ち世なれたる物語としての一面をも認めて居るのであり、狂言綺語であることをも認めて居るのである。而もさういふ「なよぴたる詞」も佛の道の第一義にする所に、佛の御志があるとするのである。狂言綺語をそのまゝ佛道へ入る道、讃佛乘として居るのである。
 かういふやうにして、今鏡は當時に於ける物語觀の種々相をといて、而も宗教的立場を窮極に置いて居るのである。さうしてこれを枕草子や源氏物語に見られる物語觀と比すると、著しく宗教的傾向が強くなつて居る事を認めるのである。さうして源氏物語を宗教的立場に於て非難する立場に對して、これを肯定する立場にたつて居るのであるが、何れにしても、宗教的立場による批判がこゝに生じて居る事は注目されるのである。源氏物語螢の卷にも煩惱と菩提といふ言葉はあるが、それはよきあしきを譬喩として用ゐたといふ程度であつたのであるが、こゝに至つて明らかを宗教的立場にたつ批評が、力強くあらはれて來たことを知るのである。而もそれは源氏物語の男女の艶なる事を書いた、「もののあはれ」的なるものを認めた上で、それを佛道へ入らしめる方便ともして居るのである。かういふ點の明瞭に見られる初めとして、今鏡の源氏物語論は注目されるのである。
 歴史物語に於ける物語觀は前に記した如く、今鏡に於て著しく見られるのであるが、今鏡よりや(73)や遲れて作られたと思はれる水鏡に於ても、大鏡等の歴史物語をはじめとして、源氏物語に對する見解の片鱗が見られるのである。水鏡の成立もなほ多くの疑問があるが、普通には中山忠親と言はれて居るが、彼は建久六年三月十二日に歿して居るから、忠親の作とすれば尠くとも建久六年以前であり、或は鎌倉幕府のひらかれた建久三年より以前である、平安時代後期の作とも推定されるのである。水鏡の最後の段に、大鏡を推賞して自己の水鏡に對しては、「詞いやしくひがこと多く見所も少く文字おちちりて云々」としたのは謙遜の辭とも見られるが、また如何なる點に批評の基準をおいて居るかが想像されるのである。即ち詞がいやしくないことが、歴史物語に於ても求められたことが知られるのである。ひがことのないといふ點は歴史物語に於て重要な事であるが、詞のすぐれて居ることも求められるのである。こゝに源氏物語と比較される點もあるのであり、さういふ點から源氏の作者をたゞ人ではないと論ずるのである。こゝに源氏物語を尊重する立場から、源氏を人間以外の人とも見る、所謂觀音の再來と見るやうな考へ方に近いものが見られるのである。さうして一方に、「大鏡の卷も凡夫のしわざなれば、佛の大圓鏡智の鏡にはよも及び侍らじ」とあるのは、源氏物語に比して一歩低いものと考へたのである。さうして最も理想とするものはたゞ人ならざるものであり、佛の大圓鏡智の鏡であるとするのであるから、結局は宗教的なものに理想をおいたと見られるのである。さうして源氏物語はこれに近いものと考へたやうでもあるが、しかし式(74)部もその時代には一部から冷笑されたといふ世評をあげてある所に、式部をも源氏物語をも究竟のものとは考へて居なかつたやうであるが、とにかく紫式部や源氏物語を佛の大圓鏡智の鏡に近いと考へたやうである。こゝに今鏡と同樣な立場を繼承して居るとも見られるのである。
 かういふ今鏡や水鏡に於ける源氏物語の宗教的解釋は、平安時代後期に於て次第に有力となつて來たのであるが、しかし一面に於て源氏物語を單に物語として、宗教的なるものとは關係なく見ようとする見解も存したのである。たとへば更級日記の著者の物語觀の如きも、物語を宗教的なるものとは別のものとして考へてゐたのである。更級日記の著者の物語に對する態度は愛讀者として、もしくは心醉者としての立場であつたのであり、それは枕草子に於ける宇津保物語の愛讀者と同樣の態度であつたのである。源氏物語を見ようとする熱意は藥師佛を信仰させるに至るのであるが、それはたゞ源氏物語を見ようとするための信仰に外ならないのである。さうして源氏物語を讀む態度としては、作中の人物に對してこれを實在のものとして愛好するのである。
 
(255)   變字法に就て        〔文中(−?)とあるのは誤植と思われるもの〕
                高木市之助
 
         おことわり
 本稿は昭和十二年十一月五日、日本諸學振興委員會第一回國語國文學會に於て、「日本文學に於ける用字の意義特に紀記歌謠の用字に就て」といふ題で發表したものを骨子として、之を補正敷衍したものであり、且變字法の内容については從來一二の小稿に於て之に言及し、簡單な説明を加へた事もあるから、これ等の意味に於て本稿は舊稿を再録するに近いものである。これは發起人の一人として、垣内先生に對し誠に恐懼に堪へない事であるが、唯、私としては、かねてから變字法に就て、單に事の序に引用する程度でなく、之を主題として相當詳細に報告したいと考へてゐた矢先でもあり、又前記諸學振興會の發表も二十分といふ時間の制限を受けて意を盡さず,その上印刷される事の前後から言へば、本稿の方が先となる譯であるし、旁々幹事と御相談の上この非禮を肯へてした次第である。
 
          一
 
 紀記歌謠の用字法には、私が從來假りに變字《かへじ》と呼んでゐる一つの慣用法があるやうである。一見誠に零細な、隨つて又特に採りあげて彼是論ずるにも及ばない事のやうにも思はれるが、私として(256)はそれが後に述べるやうに、日本文學に於ける日本的な用字法といふ事にも觸れて來ると信ぜられるところから、一應この事實を報告し、併せてこの事實の有つ意味を考へて見たい。
 變字法とは、同一句又は類似句の反覆に於て、多數の反覆字中に、少數の文字だけをことさらに變へて用ふる一種の用字法で、主として紀記の歌謠に慣用されたと思はれる方法なのである。例へば、書紀景行天皇十八年秋七月の條に掲載されてゐる時人の歌、
  阿佐志毛能 瀰概能佐烏麼志 魔幣菟耆彌 伊和?羅秀暮 彌開能佐烏麼志
に於ける一對の反覆句を並書して見ると、
  瀰概〔二字右○〕能佐烏麼志
  彌開〔二字右○〕〃〃〃〃〃
となる。即ち七字中ノ・サ・ヲ・ハ・シの五字は同一字を使用し、ミとケの二字はわざと文字を變へたものである。又書紀、允恭天皇二十三年春三月の木梨の輕太子の「あしひきの山田を作り云云」の御歌の中にある一對の反覆句、
  志〔右△〕?那〔右○〕企貳 和餓儺勾菟摩
  箇〔右△〕?儺〔右○〕企貳 和餓儺勾菟摩
(257)は、嚴密に言へば反覆ではなく、語としても「した」と「かた」と對句的な變化を持つてゐる、謂はゞ上述「類似句」の反覆に屬するが、各二句を一連と考へるならば、反覆される部分、即ち「タナキニワガナクツマ」の十字中「泣きに」のナ〔二重傍線〕だけが那と儺〔傍線〕と變字を用ひ、他の九字は全然同一文字を反覆してゐるのである。尤もかうした例が紀記歌謠の用字に於て、極めて稀にしか求められないならば、それは單に偶然の出來事であつて、こと/”\しく取上げるにも及ばないが、實際はさうでなく、書紀歌謠中にかうした例が、概數四十六類、五十六回、四十四對(句を單位として數へたもの)にも達してゐるのであるから、それは明かに、意識的に用ひられた用字上の一つの慣用法でなければならぬ。
  私は他の機會に於て、紀のかうした用字の例を十數回、又は大まかな調査によつて約十六回などと説明してゐるが、本稿とのこの開きは、其後の調査によつて新しい例を求め得た結果でもあるが、一つには數へ方の標準の相違にもよるので、例へば他の場合反覆句と認めなかつたものも本稿では便宜反覆句と認め、隨つて新に變字を加へ得たやうな事情もあるのである
 變字は原則として連續的或は頻繁に用ひられるものではなく、一單位に一字乃至二字を用ふるのが普通である。つまり全體としては同一の文字を繰返してゐる中に、僅かに一二字の異字を混へて變化の姿を求めようとするところに、變字の意圖があるのであつて、最も極端な例としては、
(258)  伊比爾惠弖 許夜勢屡〔右○〕 諸能多比等 阿波禮
  〃〃〃〃〃 〃〃〃留〔右○〕 〃〃〃〃〃 〃〃〃推古紀二十一年聖コ太子御歌
の樣に三句又は四句の完全な反覆を通じて、僅かに一字の變字しか使用しないやうな場合を求める事も出來るのである。即ち比(此?)例に於ては「伊比爾惠弖」とか、「諸能多比等阿波禮」とかいふ句は變字が無いのではなく、數句を連續的に考へて、十六字の同一字反覆中に唯一字の變字を配したものと見るべきであらう。
 尤も三字以上の變字を連續的に使用してゐる例も絶無ではない。仁コ天皇五十年三月の條にある天皇と武内宿禰との問答歌には、
  阿耆豆〔二字右○〕辭莽〔右○〕 揶莽等能區〔右○〕珥珥 筒利古武等 儺〔右△〕波企〔二字右○〕箇輸〔右○〕揶 (
  〃企菟〔二字右○〕〃摩〔右○〕 〃〃〃〃倶〔右○〕〃〃 〃〃〃〃〃 和例〔二字右△〕破枳〔二字右○〕〃懦〔右○〕× (
のやうに、一句の中に殆ど連續約に三珥の變字を使用し、同一字の方が却つて少數になつてゐる部分がある。これは他の變字法の場合とは逆であるが、かうした異例は極めて少數で、私の調査ではこの外には唯一箇所それらしいものがあるだけであるから、觀方によつては、變字法を認めないで除外して差支ないとも考へられる。
 變字法は同一歌謠中の各部分の相互關係として意識されたばかりでなく、相並ぶ二首の關係に於(259)ても考へられたやうである。例へば神功皇后攝政元年の條に掲げられてゐる、武内宿禰の二首の歌の中には三句の反覆句があるが、之を並べて見るとそこには明かに變字法が用ひられてゐる事を看取出來る。
  阿布彌〔右○〕能彌〔右○〕 齊多能和多利珥 伽〔右○〕豆區苔利 〔第一首
  〃〃瀰〔右○〕〃瀰〔右○〕 〃〃〃〃〃〃〃 介〔右○〕〃〃〃〃 〔第二首
 次に變字法は音・付置・當該語句の性質等には無頓着に使用されたものらしく思はれる。音に就ていへば、書紀中に使用された變字を集めて五十音圖に配して見ると略左表の通りである。〔○は變字を有つ音、×は之を缺く音〕
    ア  イ  ウ  エ  オ
  ア ×  ○  ×  ×  ×
  カ ○  ○  ○  ○  ○
  サ ×  ○  ○  ○  ×
  タ ○  ○  ○  ×  ○
  ナ ○  ×  ×  ×  ×
  ハ ○  ○  ○  ○  ○
  マ ○  ○  ×  ○  ×
  ヤ ○  ×  ×  ×  ×
(260)  ラ  ○  ○  ○  ○  ×
  ワ ○  ×  ×  ×  ○
即ち、五十音圖中、行は十行、列は五列に行亘つてゐるところから推せば、之を缺く音も單に偶然の結果であつて、決して原則的に某々音を避けた理でない事は明かてあらう。位置に就ても同樣であつて、前掲諸例の示すやうに、或は句の頭に、或は句の末に、或は又句の中間に無頓着に使用される。語句の性質といふのは例へば物名とかテニヲハとか、或は文法的に言つて體言とか用言とかにのみ使用したのではなく、是亦前掲諸例の示すやうに、物名或は特に地名等に限つてもゐなければ、逆に用言の活用の部分とか、テニヲハとかを目指してもゐない。要するに同一又は類似の句が二對又はそれ以上反覆されてゐればよいのである。
 唯、變字法を制限するものは、反覆される部分の一定の長さであるやうに思はれる。私の説明が最初から句〔右△〕を固執して來たのもその爲であつて、嚴密に言へば、反覆される部分は必ずしも句〔右△〕たるを要しないかも知れないけれども、少くともそれは句に相當する或長さを必要とするやうに思はれるからである。例へば神代紀上に或云として載せてゐる素戔嗚尊の夜句茂多菟の御歌に、「やへがき」といふ語彙は三度反覆されてゐるが、用字は毎に夜覇餓岐であつて何等變字らしいものを使用してはゐない。尤もかうした短い反覆の場合にも時としては變字らしいものを認め得るのであるが、(261)これはむしろ特例であつて、要するに變字の意識は、反覆の部分が句又は句に相當する程度の長さに及んで始めて明瞭になつて來ると言へよう。(かうした關係については私の調査はまだ十分ではない
 反覆句に於ける修辭的な變化も亦、變字法を制限はしないまでも、之に相當の影響を與へてゐるやうに思はれる。修辭的な變化とは、前掲、木梨輕太子の御歌に於ける「した〔二字傍線〕なきに」と「かた〔二字傍線〕なきに」のした〔二字傍線〕とかた〔二字傍線〕の如き場合を指すので、それは勿論言葉の相違であるが、音の上から言へば單にし〔傍線〕とか〔傍線〕の變化であり、用字の上から言へば「志」と「箇」の變化であつて、字面からすれば、第三字目の「那」と「儺」との變化、即ち變字法と何等異なるところは無い事となる。即ち單に用字の側面からのみ觀れば、これも亦一種〔二字傍点〕の變字なのである。今かうした條辭上の變化を、變字に對して、姑く變詞《カヘコトバ》と呼ぶならば、(本稿諸例に於て變詞はすべて△を附し變字の○と對照せしめた)變詞は往々變字の代役を勤めてゐるやうに思はれる事がある。例へば、應神天皇十三年三月の條の仁コ天皇の「水たまる、依網の池に云々」の御製の中の、
  破陪〔二字右△〕?區辭羅珥
  佐辭〔二字右△〕〃〃〃〃〃
或は又、應神天皇二十二年四月の條の應神天皇の「淡路島云々」の御製の冒頭の、
  阿波〓〔二字右△〕辭摩 異椰敷多那羅弭
(262)  〃豆枳〔二字右△〕〃〃 〃〃〃〃〃〃〃
などに於て、變字の無い、少くとも一つの理由として、吾々はそこに破陪――佐辭、波〓――豆枳の變詞を數へる事が出來よう。この場合變詞は變字の代りになつてゐる。もつと言へば字面のみから觀ればそのまゝ變字となつてゐるのである。尤も變詞のあるところには變字が無いときまつてゐるのではなく、現に、前出輕太子の御歌のやうに一句の中に變詞と變字と併せ持つ場合も少くないのであつて、統計的に言へば、
  變字ありて變詞なきもの (概數) 一三
  變詞ありて變字なきも山 (同 ) 一七
  變字變詞共にあるもの  (同 ) 二三
といふ結果になる。即ち兩者の闕係は絶對的ではないが、相互に相補ひ、相代つてゐると見做す事が出來よう。
 以上は書紀歌謠に於ける變字法の大體であるが、古事記歌謠に於ても吾々は略同樣の事實を認める事が出來る。唯之に對する筆者の關心は、こゝでは書紀に於けるほど顯著に看取されないやうである。その一二の例證を擧げるならば、紀記共通の歌謠で、紀には變字があつて記には無いものがある。宇治の和紀(稚)郎子の「ちはや人うぢのわたりに」の御歌に於て、書紀では
(263)  望苔〔二字右△〕弊〔右○〕波 枳瀰〔二字右△〕烏於望臂〔右○〕泥
  須惠〔二字右△〕幣〔右○〕 伊暮〔二字右△〕〃〃〃比〔右○〕〃
と變字を用ひてゐる同じ部分を、古事記では
  母登〔二字右△〕幣波 岐美〔二字右△〕袁淤母比傳
  須惠〔二字右△〕〃〃 伊毛〔二字右△〕〃〃〃〃〃
と何等變字を用ひてゐない。又短歌型の歌謠に於て、第二句を第五句で繰返す形は、上代歌謠の一つの慣用格をなすものであるが、此場合、書紀では繼體天皇二十四年の條の、毛野臣の妻の歌のやうに、
  輔曳輔〔右○〕枳能朋樓……(第二句)
  〃〃府〔右○〕〃〃〃〃……(第五句)
變字を用ひるのを常とするが(尤も五例中一例は變詞で代へてゐる)、古事記の場合は三倒中の二例は變字を缺いてゐる。例、履中天皇御製、
  泥牟登斯埋勢婆……(第二句)
  〃〃〃〃〃〃〃……(第五句)
尤も右は必ずしもかうした特殊の慣用格として一方は用ひ、他方は用ひないといふ事實ではなく、(264)單に反覆句としての比較例に過ぎないかも知れないが、それにしても、書紀に頻繁に用ひられたものが古事記ではそれほどでない證にはなるであらう。
 純粹に數量として調べたところでも、古事記の方は概數十六類三十一回二十六對であつて、前掲書紀の同樣の調査に比べて著しく少い。併し書記との比較を離れて考へるならば、百十數首の記歌謠中にこれだけの數量を含むといふ事は、矢張り相當に注意すべき用字上の慣用法と見て差支ないであらう。
 なほかうした事實は、萬葉集の用字に於ても求められなくはないが、唯こゝでは、一般に修辭上の技巧が著しく進んでみる爲に、紀記歌謠のやうな同一或は類似の反覆句が乏しく、隨つて純粹にして典型的な變字法を求める事は困難である。
 變字法とは略以上の如き事實を指すものである。
 
          二
 
 如上、誠に零細な、用字上の一つの事實、變字法は一般日本文藝に於ける一般用字の歴史の上から觀て、凡そどのやうな意味を持つてゐるか。
 變字法が言葉を精密的確にうつすと言ふ用字上の意味と無關心である事は明かである。或語句を(265)精確に表はさうとするならば、同一語句には常に同一の文字を使用することをこそ心がくべきであるのに、何を苦しんでことさら文字を變へようとするか。
 變字法は又音韻とも無關係であらう。勿論變字の各は假名であるから、是等個々の文字によつて表はされる特定の音を有つといふ意味に於ては、音韻と無關係ではあり得ないけれども、文字の相互的關係の上に存在する變字といふ事實は、當該二字或は三字が、反覆の部分、即ち同一の語を表はす事を前提として成立するものである限り、變字それ自身に音韻との關係を豫想する事は出來ない。
 それでは變字法の意味は何であるか。一體かうした特殊な用字法の由來を考へて見るに、私の單なる假説的私見に隨へば、それは上代漢詩、殊に詩經所收詩の配字の姿と何等かの關係があるのではないかと想はれる。
  南有樛木 葛〓〓〔右△〕之 樂只君子 福履綏〔右△〕之
  〃〃〃〃 〃〃荒〔右△〕〃 〃〃〃〃 〃〃將〔右△〕〃
  〃〃〃〃 〃〃〓〔右△〕〃 〃〃〃〃 〃〃成〔右△〕〃 (國風・周南
詩經に於けるかうした一種の慣用格は、本來は勿論、意義音韻形態等の綜合的關聯によつて成るものであるけれども、若しさうした關聯を離れて、單に可視的な一面のみを抽象して考へるならば、(266)それは正に變字法と酷似してゐる。さうして當時の人々がかうした外來の觀念文字を學習するに當つて、全面的に或は綜合的に之を受容せず、困難且複雜な音韻や意義よりも、比較的容易且單純な可視的部面に多大の關心を持つといふ事は、むしろ自然な事ではないか。即ちかうした事情によつて、彼等が漢詩に於けるかうした文字配列の可視性のみを切離して、之を我が歌謠の用字の上に移し試みたものが變字法に外ならないのではないか。これは一私見に過ぎず、更に檢討を要する事であるが、變字法の意味は少くとも、文字のかうした可視性に關聯を持つてゐる。即ち變字法とは文字の有つ可視的な性質を、音韻的な言葉を超えて直接その作品の藝術的表現へ參與せしめようとする事なのである。尤も變字の場合、かうした意味はまだ極めて簡単素樸であつて、具體的には、單に修辭上の對句法に照應する、或美的な効果を表現しようとしてゐるに過ぎないが、簡單であるだけに、用字の純粹に可視的な効果は一層明瞭に現はれてゐるとも言へるのである。
 用字のかうした意味は、一般に日本文學を通じて看取せられる、謂はゞ日本的なもので、例へば次の萬葉時代には一層顯著且複雜になつて來てゐる。吉澤博士が曾て萬葉集に於ける文字の文學的用法として論ぜられたものは、その代表的な實例であるが、卑見によればかうした意味は、博士の擧げて居られるやうな一部特殊の用字にのみ偏在してゐるのではなく、程度の差はあつても萬葉人の一般用字意識の中に、かなり普遍的に行亙つてゐたと思はれる。例へば
(267)  秋風爾 山跡部越 雁鳴者 射矢遠放 雲隱筒 (二一二八
  吾屋戸爾 鳴之雁哭 雲上爾 今夜喧成 國方可聞遊群 (二一三〇
 右二首の短歌に於て、「いや」に射矢を用ひ、「ゆく」に遊群を用ひたのは、前者は此の用字の持つ意味を視る〔二字傍点〕事によつて、雁が忽ちにして雲隱れ去る意味を強く認識する事が出來、後者は同じく「遊群」の二字を視る〔二字傍点〕事によつて、うち群れ行く意味を受取る事が出來、共に吉澤博士の文學的用字法に近いものであるが、「文字の有つ可視性が音韻的な言葉を超えて、直接その作品の藝術的表現へ參與」してゐるのは、兩歌に於て此の二連の四字だけに限つてはゐないのである。齊しく「雁がね」にしても雁鳴〔傍点〕と雁哭〔傍点〕とではその表現が全く同一ではなく、「なく」にしても鳴〔傍点〕と喧〔傍点〕ではその受容の映像を異にする。是等はいづれも、かすかながら鳴・哭・喧の文字の可視性が、音韻的な言葉とは無關係に直接表現に參與してゐる證である。更に極端に言ふならば、「とほざかる」に「遠放」を、「わがやど」に「吾屋戸」を、其他すべての言葉にそれ/”\の文字を充當してゐる事自身が、文字の可視性と無關係な事ではなく、例へば「さかる」に「離」を「やど」に「宿」を充てた場合と、その表現價値に於て嚴密に同一と斷ずる事は出來ない。文字の可視性はこゝにも極めて稀薄な程度にその表現に與つてゐるのである。
 尤も文字の可視性は、文學に於ける義視が複雜隱微に進むに隨ひ、漸次文字の他の性質と交錯融(268)合して行く爲に、變字法乃至萬葉集の場合のやうに、この意味のみを端的に指摘する事は困難であるが、併し吾々はかうした事情の爲に、文學に於ける用字の可視的意義を見失つてはならない。漢字が觀念文字としてそれ自身何等かの意味を表してゐる間は、それが假字であらうと正字であらうと、或は音讀されようと訓讀されようと、要するに如何なる方法によつて使用されようとも、そこにその文字の有つ可視性は、多少の程度に於て必ず作用してゐると認めなければならぬ。もつと言へば可視性も亦文字の他の性質と共に、時代を逐うて漸次其の職能を増してゐる筈だから、文學に於ける用字法としてのかうした意味も亦、紀記歌謠から萬葉へ、萬葉から更に後代の文學へと、漸次その重要さを加へつゝあるものと考へるべきであらう。して見れば文字の可視性とは、畢竟日本の古典文學を鑑貫理會する上に看過する事の出來ない一つの課題なのである。
 それは併し、さうした古典學の一技術上の問題たるに止まらず、もつと廣汎に、日本に於ける現在或は將來の文學活動の全面に於て採りあげなければならぬ事である。もしも吾々が吾々の文學に於てもつと如實に、もつと力強く吾々の生を現前しなければならないならば、吾々はその媒體たる言語文字の有つあらゆる可能性を動員して之に參加さすべきであり、さうして文字の可視性とは畢竟かうした可能性中で最も不當に看過されてゐる一つなのである。今日漢字間題といへば單に日用文字として、極めて消極的にその形態の煩瑣、學習の困難などを採りあげて、漢字の制限乃至全廢(269)等が議せられてゐるに過ぎない。これは勿論その限りに於て正しい事であり、私としても勿論賛意を表する者であるが、一面に於て同時に又、漢字の他の性質がもつと積極的に檢討されなければならないのである。單り漢字の如き觀念文字のみの持つかうした可視性は、一體吾々の文學的表現乃至は世間的プロパガンダに際していかに有力に參加し得るか、さうしてそれが觀念文字ならざる別の文字、例へばローマ字等との間に、その表現力に於てどの程度のひらきをつけ得るかといふやうな問題が、もつと積極的に檢討されなければならないのである。もしさうならば、文學の用字に於ける可視的意味の考察はその應用的側面として、我國今後の國字問題にまでも何等かの示唆を投げる事になるであらう。
 文字の可視性はそのまゝ文學に於ける日本的なものへ連なる。何となれば、表音文字の國に於ても、文字の可視性といふ事が全然存在しない譯ではないが、その意味は勿論單純であり、殊にその藝術的な表現に於ては到底比較すべくもなく低度である。又漢字の本國たる支那と比較しても、その可視性に於て果していづれがより高度に、より複雜に發達してゐるかといふ事は少くとも問題である。前に述べたやうに、我國に於ける漢字は、その生國に於てよりも、もつと獨立してその可視性が意識され、それだけ又一層關心を持たれ、重要視されても來たのである。一體、我國の用字史程多岐多端なものは無い。吾等の祖先が、彼等の最初の文字として、外來の而かも觀念文字をいか(270)にもて扱つたかは、今日想像にあまりある事であるが、先づ、かうした外來文字が音と訓と二元的に使用されてゐる中に、所謂萬葉假名が複雜多岐に發生成長し、次で表音的な草片兩假名が成立固定し、最後に是等の殆どすべての字體や用法が交錯混用されて今日に及んだのである。かうした獨自の用字史を省みるならば、吾々はそこにいかに?漢字の可視性が參加し、又いかに嚴密にそれが檢討を受けたかといふ事を想像する事が出來よう。つまり傳來後の漢字は少くとも其可視性に於て、極めて特殊な謂はゞ日本的なものとなつて來たのである。即ち文字の可視性が日本的なものへ連なる所以である。
 
 以上を要するに、變字法の有つ用字的意味は一般文字の可視性に關聯し、一般文字の可視性は又、一般日本文學の表現に關聯して行くのである。して見れば、かうした諸關聯の出發點にあつて、最も簡單純粹な形に於て現はれてぬるこの零細な用字法も亦、決して等閑に附し去る事の許されない文學史上の事實であると言ふべきであらう。(十二・十一・十六)
 
(271)   狹野茅上娘子       上田英夫
 
          一
 
 狹野茅土娘子(「茅」の芋は本によつて「※[草がんむり/第の下]」となつてゐたり、「弟」となつてゐたりしてゐる)の作は萬葉集卷第十五に出てゐて、すべてが中臣朝臣宅守と贈答した歌である。この二人がいつごろの人であつたか勿論詳しくは分らないけれども、續紀によると聖武天皇の天平十二年のところと、淳仁天皇の天平寶字七年のところとに、宅守に關する記事が見えてをり、殊に前者は茅上娘子との戀愛事件のために流罪になつて越前にゐた宅守が、その年の大赦にもれた旨を記した記事であるから、それを基として歌を味つてみると、彼等二人の戀愛時代だけはおほよその見當がつくのである。さてそれにしてもこの二人はどういふ關係にあり、又どういふわけで宅守が流罪などにならねばならなかつたか。それはこの卷第十五の目録に、「中臣朝臣宅守、娶藏部女嫂狹野茅上娘子之時、勅斷流罪、配越前國也、於是夫婦相嘆易別難會、各陳慟情贈答歌六十三首」とあるのによつてほぼ察知するこ(272)とが出來るのであるが、右の文中「嫂」の一字には頗る問題があるのであつて、これを「娉」の誤とするか「嬬」の誤とするかによつて、全文の解釋の上に大いに差異が生じて來るのである。今かりに「娉」説によつて讀んでみると、「中臣朝臣宅守が藏部女に娶《あ》ひて狹野茅上娘子を娉《よば》へる時云々」となるのであつて、宅守は藏部女といふ妻があるのにも拘らず、更に茅上娘子と戀に陷つたため重婚の罪に問はれたことになる。併し今日の學者間では新考を初め「嬬」説による人が多い。それによれば茅上娘子が藏部の女嬬であつて、それに通じたがために宅守が罪に問はれた事になる。(「嫂」の字は西本願寺本温故堂本神田本には「嬬」の異體字になつてをり、大矢本京都帝國大學本には「〓」になつてゐる)つまり官女であつたであらう娘子を犯した譯なのである。娘子が官女であつたらうといふ事は、「娉」説の訓による古義でもさういつてゐるところであり、歌にも宅守の「今日もかも都なりせば見まく欲り西の御厩の外に立てらまし」などといふのがある所を見ても大體推測せられる。極く年若い下級の官女であつたのであらう。ただここで一寸疑問なのは、たとへ近流にしろ宅守が流罪になつた事で、今かりに重婚説を採りあげてみても、萬葉集卷第十八に見える「有妻更娶者、徒一年、女家杖一百、離之」といふ戸婚律の逸文によつても知られるやうに、つまり重婚でも徒刑程度てあつたと思はれるから、どうも流罪では少しひどいやうに思はれる。(尤も當時正刑の流刑といふのは終身刑で、しかも後世の遠島と懲役とを合せたやうなものであつた上に、その刑がその家族(273)にも及んだといふから、或は宅守の場合などは正規のものでなく、特別のものであつたかとも思はれもするが)しかも宅守は前記の如く、天平十二年の大赦の恩典にも浴してゐない所などから考へて見て、これは何か餘程重く罰せられなければならないやうな理由があつたと思はれる(それに娘子の方は一向罰せられなかつたやうに見えるのも變といへば變である)。その理由とは――やはり官吏である者が官女に通じた罪によるものと見ておくことにしよう。因みに女に通じたが爲に流された人としては、宅守の外に石上乙麿の例があり、さうかと思ふと一方には、尤もこれは大寶律令撰定以前の話ではあるが、采女を得て喜んで躍りあがつたやうな歌を詠んでゐる藤腹鎌足の如きもある。併せ考へてみるべきであらう。(政爭の激しかつた當時の政界などに就いて考へてみる事も強ち無意味ともいへまい)次に前記の目録に「贈答歌六十三首」とあるが、その内譯をすると、娘子の作が二十三首、宅守の作が四十首といふことになり、それが萬葉集には兩者の作が數首或は十數首づつ交互に配列せられてぬるのである。但し宅守の最後の七首だけは、「右七首中臣朝臣宅守寄花鳥陳思作歌」と左註にもある通り、(尤もこの左註はのち人の書入だといふ人もあるが)たとへ作者がそれを相手に示したものであるにしても、その性質上正確にいふならば、むしろ題詠風を帶びた獨語的述懷の詠であつて對人的のものではないから、眞の意味での贈答歌は、最後の七首を除いた五十六首となるわけである。
 
(274)          二
 
 そこで今その五十六首の贈答歌に就いて詳細なる吟味を試みることにする。前にもいつた通りこの二人の贈答歌は、萬葉集卷第十五に數首づつ交互に配列せられてゐるのであるが、今それらの歌數と作者名と、それから歌の左註もしくは内容によつて知られ得る作歌の時處とを、原本の配列順序に從つて記してみるならば、
  1 四首(娘子)……別に臨んで詠んだ歌(左註による)。
  2 四首(宅守)……出發してから詠んだ歌(左註による)。
  3 十四首(宅守)……配所に到着後詠んだ歌。
  4 九首(娘子)……宅守配所に到着後、娘子が都に居殘つて詠んだ歌。
  5 十三首(宅守)……その後の心境を配所にて詠んだ歌。
  6 八首(娘子)……その後の心境を都にて詠んだ歌。
  7 二首(宅寸)……更にその後配所にて詠んだ歌。
  8 二首(娘子)……更にその後都にて詠んだ歌。
といふやうなことになるのであつて、これらの歌の順序は、ほぼ制作時のそれによるものではない(275)かと思はれる。而してこの餘りに整然たる所が、それでは何人がこの整理をなしたかに就いて、一種の疑問を生ぜしめるのでもあるが、それは兎も角としてこの整然たる順序は、更にそれらの作品の一首一首を通して現れてゐる心境の展開を考へてみることによつて、一層明かに裏書せられるやうな氣がする。即ち、贈答した耐者の心境は、まづ宅守の方をとつてみるならば、最初の四首(前表2の一聯)にあつては、その愛情の動きが次第に高まつてゆくけはひ〔三字傍点〕は見えるものの、矢張概していへばまだ靜かであるが、次の十四首(前表3の一聯)になると作者の感情は次第に高調して來、殊に「天地の神なきものにあらばこそ吾が思ふ妹に逢はず死にせめ」(笠女郎に類歌がある)其他の後半部の歌にいたつて、この作者としての最高頂を示してゐる。配所に身が落ちついたがため一入戀人を思ふ心が募つたのであらう。併しさうして一度高まつた感情も次の十三首(前表5の歌)に入ると、もはや明かにその下り坂たるを示してをり、「さす竹の大宮人は今さへや人なぶりのみ好みたるらむ」などと對世間的意識を見せたり、「世の中の常のことわりかくさまになり來にけらし末の種から」のやうな諦め〔四字傍点〕心に陷つたりして來てゐるのである。いやそればかりではなく、前にすでに一度自分が詠んだ同じ心持を又しても繰り返してみたり、すでに自分なり女なりが一度使つた語句をくりかへし用立てるといつた有樣である。これらは勿論、もともとこの作者の感動が餘り強からず且つ語彙も豐かでなかつたからだともいへるであらうが、又一方たしかに時と共に感情の弛緩を(276)來たしたためであると思はれる。かうして宅守の歌は最後の二首(  前表7の歌)に入るのであるが、この二首は共に殆ど蛇足の觀があり、力弱い感懷に過ぎない。以上は宅守の作の吟味であつたが、これに対して娘子の作の方はどうであらうか。
 
          三
 
 さて茅上娘子の作といふのを、ここに一聯づつ竝べてみるならば、四首・九首・八首・二首となるが、まづ第一聯の四首から鑑賞吟味して行かう。
  1 足曳の山路越えむとする君を心に持ちて安けくもなし
  2 君が行く道の長路《ながて》を繰りたたね燒き亡ぼさむ天の火もがも
  3 わが背子し蓋し罷らば白妙の袖を振らさね見つつしぬばむ
  4 この頃は戀ひつつもあらむ玉匣明けてをちより術《すぺ》なかるべし
 1の歌、作者は靜かにしかし重々しく、自己の惱ましい胸中を歌つてゐる。それは何處か呻き聲に似た所さへもある。一・二・三の稍間延びのした幾分風變りな表現法と、四・五句の迫つた飾り氣のない調子とは、相互に働きあつて感情の流れを有效に助けてゐる。この歌、一見作者が自己の感情をそのままに詠んでゐて、そこに少しの巧みもないかのやうではあるが、かういふ歌は無技巧(277)ともいふべきもので、ただ技巧上の苦心が表面にあらはに見えてゐないばかりである。「心に持ちて」の句などには殊にさうした苦心がひそめられてゐさうで、これから流人として苦しい山路の旅を始めようとする戀人の姿を、絶えず胸中に抱いてゐる趣がよくあらはれてゐる。
 2の歌、前の歌の重苦しいが、しかし表面は兎に角靜穩的であつたのからこの歌に入ると、俄然作者の熱情は表面化し、それが火の玉のやうな激しさとなり、張り切つた調子で一氣に歌はれてゐる。「天の火」に就いて代匠紀には、左傳云ふ所の「凡火人火曰v火天火曰v災」なる文句を引いてゐるが、娘子は勿論さういふことを念頭に置いて詠んだのではなからう。併しそれは兎に角としてここに「天の火」などを持つて來たところは、一應慥かに觀念的にも大袈裟にも見えなければならない筈である。だがそれは普通の場合にはさうだといふのであつて、この場合などほ一首を貫く熱情の餘りの激しさに、さうした箇所もすつかり炎に包まれてしまつた形である。かういふことは萬葉集にあつても極く稀なことであつて、かういふ點になると、何人もこの娘子の熱情化には及び難いやうにさへ思はれる。(尤もこの歌などに對して、マジック的な或は假託視的な見方をしてゐる學者もある
 3の歌、いくら火のやうに激しい事を口走つて見たところで、さればといつてどうにもならない自分達だと分つてみると、失張結局はあきらめなければならない。殊に何といつてもかよわい女の身である。「――せめて袖を振つて下さい。私はそれを見ながらおしのび申して居りませう。」とそう(278)つ〔三字傍点〕と涙を拭うた態である。さて前の二首とこの歌とを比較してみる時、前の二首に獨語的なとでもいはうか、或は内に目的を持つとでもいはうか――兎に角相手に向つてものをいふといふよりは、寧ろ自分の内部に蟠るものを吐き出さずには居れないから吐き出すのだ――といつた所の多分にあるのに對して、3の歌にはさうした所が少く、全く對人的な歌である事を誰しも認めるであらう。從つて讀む者の胸をうつ力も弱いやうである。
 4の歌、この歌は3の歌の對人的なのに比して稍獨語的ではあるが、かつ〔二字傍点〕と吐き出したのではなくして、寧ろつぶやき〔四字傍点〕に近い。しかもこれだけでは常識的發想以上の何物でもない。無論あきらめ心である。
 さて以上四首に現れた心理を總括的に眺めて見るに、まづ我々は1に於て、内に籠る重苦しい――そしてそれは爆發を豫想させる――惱みを觀取したが、その惱みは2に於て俄然爆發し、何物をも燒き亡ぼさずにはおかないやうな激しい叫びとなつて現れた。がその緊張した感情も、3に於て又俄かに弱々しい哀願的な泣き聲と變り、遂に4に至つてあきらめから出たつぶやき〔四字傍点〕となり終つたのである。かうして感情の起伏のまことに激しく鋭角的である所に於て、我々はたとへそれが戀の爲とはいへ、作者茅上娘子の毅い烈しい性格の一面に觸れずにはゐられないのである。そして同時に、これらの歌と、そのあとにつづいて來る宅守の、
(279)  塵泥の數にもあらぬ吾故に思ひ佗ぶらむ妹が悲しさ
  あをによし奈良の大路は行きよけどこの山道は行きあしかりけり
  うるはしと吾が思ふ妹を思ひつつ行けばかもとな行き惡しかるらむ
  かしこみとのらずありしをみ越路のたむけに立ちて妹が名のりつ
等四首の、どこか間の拔けたやうなおほどかな素直さ、淡々として抑揚に乏しい感情の表現、との對照に、自然我々は二人の爲人の相違を感じさせられるのである。
 
          四
 
 次に茅上娘子の歌の第二聯に移る。これは九首あつて、宅守が配所に到着後詠んだ十四首に對するもので、或は宅守の十四首を見てからの作であるのかも知れない。そして、前にもいつたやうに宅守のこの十四首は、殊にその後半部は、彼としては感情の最も高調に達した時の詠のやうであるが、それに對する娘子のこの九首も、概括的に見て矢張、彼女の全作中でも感情の高まつてゐた時の作であるらしい。眞に戀し合ふ者の心は、お互に對していづれも敏感であり弾力性に富んで居る。だから一方が激しく出れば他方からも必ず激しくかへして來るのが常で、この時の二人の心も矢張、恰もお互に反響し合つてゐるやうなものであつたと思はれる。
(280)  1 命あらば逢ふこともあらむわが故にはたな思ひそ命だに經ば
娘子のこの歌は、その前にある宅守の十四首中の後半部にある、「命をしまたくしあらばあり衣のありて後にも逢はざらめやも」を初めとして、その前後の數首に對するものであらう。即ち男が餘りに嗟嘆の聲を洩らすのを見ては、どうしても「はたな思ひそ」と一應宥めずに居られなかつた譯である。そこに毅いやうでも矢張女らしさが見える。殊に結句の「命だに經ば」と繰り返したところなど中々よく利いてゐるが、何となく姉さんが弟をなだめてゐるかのやうな樣子さへも見える。併しさうはいふものの、勿論自分自身も物狂ほしいのだ。だから第二首以下になると、今度は逆にさかんに男にむかつて苦惱を訴へてゐるかたちである。
  2 人の植うる田は植ゑまさず今更に國別れしてあれはいかにせむ
  3 わが宿の松の葉見つつあれ待たむはや歸りませ戀ひ死なぬとに
  4 ひとぐには住みあしとぞいふ速けくはや歸りませ戀ひ死なぬとに
  5 ひとぐにに君をいませていつまでかあが戀ひ居らむ時の知らなく
  6 天地のそこひのうらにあがごとく君に戀ふらむ人はさねあらじ
  7 白栲のあが下衣失はず持てれわが背子ただに逢ふまでに
  8 春の日のうらがなしきにをくれゐて君に戀ひつつうつしけめやも  9 逢はむ日の形見にせよと手弱女の思ひ亂れて縫へる衣ぞ
(281)今これらの歌をながめてみても、「あれは如何にせむ」といひ、「戀ひ死なぬとに」といひ、或は「うつしけめやも」といふところ、これが「我が故にはたな思ひそ」と相手を宥めた女の言葉とも思はれないほどである。
 2の歌、この歌の解は諸説區々であるが、一・二句はやはり、田植の頃となつて人々がせつせ〔三字傍点〕と田植ゑをしてゐるのを見ての心持、即ち現前矚目の事實を詠んだものであらう。「田植の時節となつて人々はせつせと田植の仕事をしてゐる。しかるに貴方はそのまま遠いところへ行つてしまはれた。今更私はどうしませう。」といふ意味に解したい。「國別れして」なる句、端的にしてよく心持を出してゐる。激情的な歌ではないが、内に蓄ふるところのある詠である。
 3の歌、一・二句に於て矢張眼前矚目の事物を寫すことによつて、比較的靜かに感懷を展べてゐるのであるが、四・五句に入つて俄然感情の激發を示してゐる。凝乎と抑へてはゐたものの、抑へ切れないで爆發したといつたかたち。この歌でも前の歌でも、眼前矚目の景を通して情を抒べようとしてゐるが、かういふ所なども、娘子の歌が宅守の歌とちがつて、讀む者の胸にはつきり〔四字傍点〕した印象をのこす所以であらう。
 4の歌、前の歌と同じ手法によつた詠で、これを心理的に見れば、前の歌の心持をもう一度一寸いひ方をかへてだめ〔二字傍点〕を押したかたちである(それは手持無沙汰での無意味な繰返しとはちがふ)。こ(282)の理を分析して見ると、「ひとぐには住みにくいといふことです。早くお歸りなさいませ」で、相手に對する思ひやりは十分に現れてゐるのに、結句の「戀ひ死なぬとに」に至つてがらりと調子を變へてゐる。宅守にしても勿論歸りたい。併し赦されなければ歸れないことはきまつてゐる。それを「戀ひ死なぬとに」などと、一種威嚇的な言葉をまで口走らずには居られない所、一應押へては見るものの、しまひにはどうしても狂ほしくなつてくる自分の感情をよく物語つてゐる。そしてこの事は、3の歌などに就いても勿論同樣にいはれうるてあらう。このあたり作者の達者な手腕のほどを思はせる。そして作者は可成調子に乘つて一氣に詠んだらしく、次の5の歌などになると、その調子から自然に生れ出た作のやうな氣さへするが、これを心境的に見て新しい展開は見られない。併し6の歌になると感動が充實してをり、いひ方に熱が籠つてゐて率直に吐き出した所がある。いつてある事は別にちつとも新しいことではなく、寧ろ繰返しに過ぎないが、そこに反つて戀する者の一途さが見える。
 7の歌は宅守の「吾妹子がかたみの衣なかりせば何物もてか命つがまし」に對するものであらう。
 8の歌は今までの他の歌とは異つて、春の日の明るくものがなしい氣分情調を雰圍氣としてゐるために、その次の一首にまで、一種華やかな物惱ましい氣分を擴げて居るばかりでなく、この一聯全體の美的效果を大ならしめてゐるやうにさへ思はれる。一首に現れた心持の方からいふと、「うつ(283)しけめやも」などといつてはゐるものの、矢張もはやこのあたりになつて來ると、戀しいといふ感情も情緒的といふよりは情調的になつてゐて、それこそ「うらがなしい」氣分に包まれてゐるのである。そしてこのうらがなしい氣分は、更に次の9の歌の、「たわやめの思ひ亂れて」衣を縫つてゐる女の姿をまでも、一層あはれ深いものに感じさせる。春の天地は明るく華やかだ。そして世間の人達のいづれもが陽氣に春を享樂してゐる。併しさういふ風に、世間一體が明るく樂しさうに見えれば見えるほど、苦惱を抱く身にとつては、春は惱ましくも又悲しい季節である。それも、ここに思ひ亂れて衣を縫ふ娘子は、つよいやうでも烈しいやうでも、矢張まだうら若い一個のたわやめであつたのである。
 以上の如く、この一聯九首は、中途で一寸氣持の上にたるんだところもないではないが、概していへば相當に心境に變化を見せてをり、無駄もなくひきしまつてゐる。そしてそれには、1の歌と6の歌とそれから最後の二首とが、如何に重要な程割を演じてゐるかを我々は知らなければならない。
 
          五
 
 次に茅上娘子の歌の第三聯八首であるが、その前にある宅守の十三首が、前述の通り、作者の感情の上に明かに弛緩を見せて居るのに對して、この八首に現れた娘子の心境はどうかといふに、流(284)石に男の作に見るやうな無意味な繰り返しや、對世間的意識の露出などはないけれども、總じて反省的回顧的傾向が見えて來てゐるのは注意すべきであらう。以下一首一首に就いて鑑賞吟味をしてみる。
  1 魂はあしたゆふべに魂ふれどあが胸痛し戀の繁きに
  2 この頃は君を思ふと術《すべ》も無き戀のみしつづ哭《ね》のみしぞ泣く
  3 ぬばたまの夜見し君を明くるあした逢はずまにして今ぞ悔しき
  4 味眞野に宿れる君が歸り來む時の迎へをいつとか待たむ
  5 宮人の安眠《やすい》も寢ずて今日今日と待つらむものを見えぬ君かも
  6 歸りける人來れりといひしかばほとほとしにき君かと思ひて
  7 君がむた行かましものを同じこと後れて居れど良きこともなし
  8 我背子が歸り來まさむ時のため命のこさむ忘れたまふな
いふまでもなく以上の八首全部娘子の作である。
 1の歌、第三句の「魂ふれど」に就いては昔から諸解あるが、矢張、鎭魂即ち戀情のために兎角不安であくがれがちなわが魂をば、朝夕しづめようと努めてをるけれども、といふ位の意味にとるべきであらう。そしてこれが當時の呪的習俗の反映的語句であることはいふまでもない。さてこの歌を味はつてみるに、一首全體が直接的な響を讀む者の胸に與へない。何となくものを隔てて物を(285)聽いてゐる如き一種のもの足りなさがある。そしてその原因は、ひとつは一・二・三句に歌はれてゐる所が、今日の我々にぴつたりしないためでもあらうし、又四・五の句のやうな、形式化した誇張的な月並的な語句の關係からも來て居らうと思ふが、やはりその根本をいへば、この歌を詠んだ第一の目的が、宅守に見せようといふ對人的な所にあつた爲である。而してこの對人的意識の傾向は、もうひとつの回顧的反省的傾向と共に、次節に著しくなつていつてゐるやうである。
 2の歌にしても矢張對人的意識から生れた産物に外ならない。宅守の作にも既に、「茜さす晝は物思ひぬば玉の夜はすがらに哭のみし泣かゆ」といふのなどがあつたが、それらとこれとが似たやうな内容を詠んでゐたとしても、それは少しも構はない。何故ならば、戀し合ふ者同志はどうせ同じやうなことを繰り返し合つてゐるのだから。ただ問題は、どれだけ熱が籠つてゐるかどうか、又どれだけ心持が純粹であるかどうかの問題である。そこでこの歌を見るに、どうも餘り熱が籠つてゐるとも思へない。それに對人的意識も相當強く働いてゐて、非常に純粹だともいへない。いや同じ娘子の作である、「この頃は戀ひつつもあらむ玉櫛笥あけてをちより術なかるべし」ほどの張りと一途さとすら認められないのである。3の歌はいふまでもなく後悔の心持を詠んだもので、回顧的傾向の作。これでは相手の男の胸に直接に迫る力は無論なかつた筈である。4の歌、作者はもはや現在の感情を歌つてゐない、將來のことを歌つてゐる。過去をふりかへつてみたりすることは、(286)つまり現在の感情にそれだけ餘裕が出來て來たことになるのではなからうか。更にその餘裕は、相手に對する戯談ともなつて現れて來ることさへもあつて、我々はその例を5の歌に於て見出す。この歌の第一句の「宮人」は、「家人」の誤であらうとの説が行はれてゐる。即ち茅上娘子は家族でないから、家族の者の氣持を推し測つてかう詠んだのだといふのである。併しそれは、古寫本の中のどれかにでもさうなつたのがあれば兎に角、さういふのがない以上採用出來ない説である。だから矢張これは「宮人」として讀み味はれなければならない。それでは「宮人」とは何か。いふまでもなく「宮仕へをしてゐる人」といふ意味であらう。然らばそれを男性と見るべきか、女性と見るべきか、それとも又娘子が自身のことをわざとこんな風にいつたものとでも見るべきか。若し自分以外の女性とでも見るならば、この戯談は一層強く響く譯であるが、それでは少しあくど〔三字傍点〕過ぎよう。だから今はあまり限定的に解しないで最も平凡に、男性を主とした宮仕への人達のこととしておかう。併しさうするにしてもすぐ思ひ浮ぶのが、宅守の詠んだ「さす竹の大宮人は今さへや人なぶりのみこのみたるらむ」といふ一首であつて、若しこの5の歌がそれに對するものであつたとするならば、茅上娘子も中々皮肉な戯談をいつたことになる譯である。
 次に6の歌であるが、續紀天平十二年六月庚午の勅に、「……其流人穗積朝臣老、多治比眞人祖人、名負東人、久米連若女等五人、召令2入京1。大原采女勝部鳥女還2本郷1。小野王日奉弟日女、石(287)上乙麻呂、牟禮大野、中臣宅守、飽海古良比、不v在2赦限1。」とあり、この時に大赦があつて流人達がだいぶ赦されて歸つたのであつたが、宅守等はまだ赦されるに至らなかつたのである。併しとにかく、赦されて歸つて來たといふことを人から聞かされた時、宅守が歸つて來たのだと思つて、餘りにも驚喜したその時の自分の心持を、少し後に稍氣分が落ちついてから、反省して詠んだのがこの歌なのではあるまいか。さてこの歌の第四句を「殆死にき」と解するのが、眞淵以來の通説のやうになつては居るが、併し又一方に契沖の如き、ほとほとしにきといふのは驚いて胸のほどばしるのだ、又は悦んで立ちほどばしるのだ、といつた意味にとる學者もあり、又宣長の如き、歡びの餘りに胸がふたふたと騷いだのだ、といふ風に解した學者も既にあり、現在でも「殆死にき」では可成誇張されてゐる事にもなるし、又稍穿ち過ぎの觀もあるといふ理由から、契沖若しくは宣長流の解釋をする人もある。成程「殆死にき」では、誇張云々は兎に角として、稍穿ち過ぎの觀は慥かにある。恐らく原作者も、歡喜の餘りにわくわく〔四字傍点〕して胸騷ぎがした、位の意味でこの句を使つたのであらう。ただ、誇張云々といふ事だけは餘り強くいへないやうにも思ふ。何故ならば、當時戀に狂つてゐたこの作者には一體にさうした傾向が歌に見え、既に「燒き亡ぼさむ天の火もがも」などと口走つた當人なのであるから、今日の我々からの氣持から見て、或は非常識と考へられたり、或は大袈裟に見えたりするやうなこともいひかねないと考へられるからである。で兎に角この第四句(288)は前述の通り、恐らく原作者はわくわく〔四字傍点〕して胸騷ぎがした位の意味で詠んだのであらうが、併し原作の間題を離れてここに自由な鑑賞が若し許されるならば、私には「殆死にき」と見るのも中々面白いと思はれるのであつて、他の歌人が使つたとしたならば當然大袈裟にも厭味にも響く筈の語句が、反つて一首全體をいきいきさせてゐる所以は、新局この作者の純情に基くものであると思はれる(尤も殆死にきと解しないで、單に胸がわくわくしたといふ意味にとつても、作者の純情といふ點には變りはないが)。そしてこの事は、前出の「天の火もがも」のやうな觀念的な語句が、この作者によつてよく情熱化せられてゐることと併せ考へらるべきだと思ふ。何にしても作者は、内に蟠る感情の塊をそのまま吐き出すことそれ自身が目的であつて、恐らくこの一首を産む際の作者の腦裏には、それを戀人に見せるのだなどといつた意識すら無かつたのではあるまいかと思はれる位に、この歌は純粹な心の表現になつてゐる。併しながら如何にこの歌が純粹な感情の表現であつたにしても、その歌はれたる感情が、作者によつて反省せられたる過去の感情である事は、「ほとほとしにき」なる語によつて明かである。つまり作者の現在や感動そのものの表現ではない。尤も自己の感情を歌に詠む――即ち自己の感情を表現するといふことは、これを嚴格にいふならば、幾分でも自己の感情を反省したり客觀視したりするだけの餘裕が心になくては、到底不可能であるとも考へられる。例へば今自分の感じたままを直ちに歌に詠んだとする。すると歌に詠むといふその事(289)が、既に自己の感情の反省であり客觀視となつてゐる譯だからである。その上殊に茅上娘子のこの歌の場合の如く、異常な「胸がわくわく〔四字傍点〕したことであつた。若しくは殆ど苑にさうであつた」その刺那はあつては、それこそ歌どころではなかつたであらうから、どうしてもこれを歌に詠む爲には幾分でも時間的餘裕を要し、從つて反省的になるのは又當然の事だとも一應は考へられるのである。併しながらそれは理窟であつて、假令嚴格なる意味に於ける現在的表現は不可能であつたにしても、娘子のこの場合の如きその刹那は歌どころではなかつたにしても、それらの理由によつただけでは、この歌の作者が「ほとほとしにき」とまで反省的な回顧的な詠嘆をするに至つてゐる心理を、完全に説明することは出來ないやうに思はれる。これは矢張、以上のやうな理由もさることながら、この頃の作者の氣持の上に、一種の落ちつきなり餘裕なりが生じてゐて、大體心境が反省的に傾いて來てわたことを、證據だてるものと考へられなければならないものだと思ふ。
 さて以上のやうにそれはたとへ糠喜びに終つたとはいへ、流人歸るの一報は、とかく弛みを見せつつあつた娘子の感情を、一時に異常なる昂奮の山巓にまで突き上げたのであつたが、併しそれも眞相が判つて見れば、彼女の心は以前にも増して心細さを感じたに違ひない。一日千秋の思ひで戀人を待つ身にとつて、男が大赦に洩れたといふ一事は、いかばかり彼女の心を腐らせ且つ暗くしたことであらう。かくて彼女の心は、7の歌に現れたやうな、今更いはでもの愚痴に陷ることも度々(290)あつたことと思はれる。併し元來激しい毅い氣性を持つ彼女である。自らは慘めにうちひしがれてほそぼそと生きる身でありながらも矢張、自分以上に絶望的な暗い思ひに陷つて居るであらうところの、愛する者への心づかひをするだけの毅さと餘裕とが、まだ殘つてゐたものと考へられる。そこで彼女は相手の氣持を引きたてると同時に、自分の悲壯なる決意を示すべく、8の歌を詠み送つたものではなからうか。「貴方が歸つていらつしやるその時の爲に、私は命をとりとめておきます。どうぞ私のこの心をお忘れ下さいますな」といふので、これが大赦に洩れたことの判つてから後の作であるらしいだけに、一層あはれに饗くのである。「命殘さむ」によつて、ほそぼそと生くる彼女の命はよく窺はれるが、更に「歸り來まさむ時のため〔四字傍点〕」であつて、「歸り來まさむ時まで〔三字傍点〕」などでない所に、彼女の一途な激しい性格の一面と、悲壯な意氣のほどとが知られるやうに思ふ。
 
          六
 
 最後に、娘子の最後の一聯二首であるが、
  1 昨日今日君に逢はずてするすべのたどきを知らに哭のみしぞ泣く
  2 しろたへのあが衣手を取り持ちて齋《いは》へ我背子直に逢ふまでに
の1の歌は「この節は貴方に逢はないでゐるので、どうしてよいのか仕樣も分らないで、聲をあげ(291)て泣いてばかりゐます」といふので、前にあつた同じ作者の、「この頃は君を思ふと術もなき戀のみしつつ哭のみしぞ泣く」とほぼ同じ意であり、その上同じ語句まで使つてゐるが、前出の歌に比して發想に稍不自然なところがあり、表現がごたついてゐるだけ、この方に幾分の弱味が感じられる。
 2の歌も既に前出同じ作者の、「しろたへのあが下衣うしなはず持てれ我背子|直《ただ》に逢ふまでに」と意味も非常に似てゐるし、それに同じ語句まで使つてゐる。ただ「齋へ」といふところだけが、當時の祈?的習俗の反映として一種の興味を呼ばないでもないが、一首全體として前出歌に比較して見ると、矢張發想上の自然さの點に於て幾分の遜色が感ぜられる。
 かうして最後の一聯は、二首とも殆ど前出歌の拙い繰返しに過ぎないのであつて、その前にある宅守の一聯二首の蛇足的な存在と、全くその軌を一にしてゐるかの觀がある。
 
          七
 
 以上を以て、萬葉集所載の狹野茅上娘子の歌二十三首の鑑賞吟味は全く終つたのであるが、既に述べた如く、娘子の歌に現れた心境の展開は要するに、光づ最初の一聯に於て感動の激しき起伏を見せ、次の九首に於てよくひきしまつた調子のうちに、豐かな心境上の變化を見せたのであつたが、さうした感情の高潮も、その次の八首に入つて流石に下り坂となり、反省的回顧的傾向が著しく見(292)えて來、さらに最後の一聯二首に至つては、流石の娘子も前出の歌を殆ど繰返すのみといつた有樣で、情の炎はまさに危く消えなむとし、僅かに殘骸のみを止めたに過ぎない觀がある。
 併しながらそれにしても、全身全靈の熱情を傾けつくして戀し合つた、この若い二人の歌が數首或は十數首づつ交互に、しかもそれらがほぼ制作時順によるかと思はれるばかりり整然たる配列によつて傳へられてゐるのは、まことに興味あることと言はねばならない。それにしても何人の手によつてかくまでに整理せられたのであらうか。それに就いての考察も亦決して無意味ではないであらう。が、此處でその間題に觸れる事は紙幅がそれを許さないから止める。併し兎に角この整然たる配列は、慥かにこの贈答の情史的興味の幾パーセントかを高めてゐることは事實である。我々はこの贈答を、それが二重唱なるが故に殊に愛する。ただ聽衆の多くが、ともすれば女の甲高くして表情に富めるソプラノに心を惹かれる餘りに、男の滋味あるテノールを輕視しようとする傾きのあるのを遺憾に思ふ。宅守の歌は成程娘子のそれに比すれば感動も弱く調子も低い。併しながらその發想の素直さ、淡々たる其現の中に籠る一脈の魅力等に就いて考へるならば、彼の作が萬葉の他の男性歌人の戀歌と比較せられて、優に上位を占め得るものであることが容易に理解せられる筈である。
 かくして茅上娘子に對する中臣宅守の歌人としての地位は、それが戀愛歌の問題である限りに於て、萬葉のすべての男性歌人の女性歌人に對する地位を表明するものとなるのかも知れない。
 
(293)     石花海に對する一考察     大岡保三
 
  萬葉集 卷三
 (一) 山部宿禰赤人望2不盡山1歌一首并短歌
  天地之分時從神左傭手高貴寸駿河有布土能高嶺乎天原振放見者度日之陰毛隱比照月乃光毛不見白雲母伊去波代(伐?)加利時自久曾雪者落家留語告言繼將往不盡能高嶺者
 (二) 反歌
  田兒之浦從打出而見者眞白衣不盡能高嶺爾雪波零家留
 (三) 詠2不盡山1歌一首并短歌
  奈麻余美乃甲斐乃國打縁流駿河能國與己知其智乃國之三中從出之有不盡能高嶺者天雲毛伊去波代(伐?)加利飛鳥母翔毛不上燎火乎雪以滅落雪乎火用消通都言不得名不知霊母座神香聞|石花海《せのうみ》跡名付而有毛彼山之堤有海曾不盡河跡人乃渡毛其山之水乃當烏日本之山跡國乃鎮十方座紙可聞寳十方成有山可聞駿河有不盡能高峯者雖見不飽香聞
(294) (四)反歌
  不盡嶺爾零置雪者六月十五日消者其夜布里家利
 (五)布土能嶺乎高見恐見天雲毛伊去羽計田菜引物緒
     右一首高橋連蟲麻呂之歌中出焉以類載此
 
 誰も知る有名な歌である。私は中學時代に國語の教科書で始めて此の歌を習ひ因、爾來常に愛誦してゐるのであるが、實は最初から二つの疑義を持つてゐた。第一は(三)(四)の歌の作者についてであり、第二は同じく(三)の歌の中にある石花海〔三字傍点〕についてである。
 (一)及び(二)の歌が赤人の作である事については何人も疑義はないが、(三)及び(四)の歌の作者については種々の想像が許される。(三)の詞書に詠不盡山歌一首并短歌とあり、(五)の註に右一首高橋聯蟲麻呂之歌中出焉以類載此とあるから、これをそのまゝ忠實に信用すれば(五)は高橋連蟲麻呂の歌であり、(三)及び(四)は作者不詳といふことになる。
 併しながら萬葉全體の編纂體制からみて、又歌の内容等から見て、一概にさうとばかりは信じかねる。そこで古來此の作者についていろ/\の説が生まれた。藤井高尚は「歌のしるべ」に於て、これを赤人の作とし、拾穗本には笠朝臣金村の作だといふ書入がある。新考の著者井上通泰氏は、(295)歌の調や詞の上から赤人でないとしてゐる。
 斯くの如く作者については尚疑問が殘されてゐて、私も多少の意見がないでもないが、それは後日の事として、直ちに第二の疑義について述べる事とする。
 
      石花海
 
 石花海については、仙覺抄に
  山の乾にある水海なり、すべて山を廻りて八の海あり
とあり、契沖の代匠記には
  今按下につゝめる海ぞと云へるは鳴澤の事にやとおぼしきなり、上
に池を海といひつれば鳴澤を海と云まじきにあらず云々
とある。千蔭は略解にこの鳴澤説を採つて居るが、其の他の殆んど總ての人は仙覺説の系統に屬し、富士八湖の中の西湖〔二字傍点〕の事だと主張してゐる。一々諸家の説を擧げるまでもないから、左に古義の説を代表的に掲げる。
  せのうみ(石花海) 駿河國富士郡富士山にあり、都氏富士山記に、頂上有2平地1、廣一許里、其頂中央窪下、體如2炊甑1、甑底有2神池1、池中有2大石1、云々、窺2其甑底1如v湯沸騰、其在v遠者常見2煙火1、亦其頂上、匠v池(296)生v竹青紺柔?、とある、神池をいふにやともおもはるれど、石花海は、頂上なるにはあらねば、それとは別なるべし、かの神池は、いはゆる不盡の高根の鳴澤なるべし、世に此の集をとく人、石花海を鳴澤のことなりとするるは、ひがごとなるべし〔二十三字傍点〕、但し池ならむからには、海とはいふまじとにはあらず、荒山中に海をなすかもといへるも、池を云れば、其には妨なし、石花海は、頂上を一二里ばかり、乾の方に去てありしとおもはるゝは、三代實録に、貞觀六年五月廿五日、駿河國富士郡大山、其勢甚熾燒v山、方一二許里、西北有2本栖水海1、所燒巖石流埋2海中1、同年六月十七日、甲斐國言、駿河國藤大山忽有2暴火1、本栖并|?《セノ》兩水海、水熱如v湯魚鼈皆死、百姓居宅與v海共埋、兩海以東亦有2水海1、名曰2河口湖1、火 焔赴2向河口(ノ)海本栖?等(ノ)海1、未2燒埋1之前地大震動云々、七年十二月九日、異火之變于v今未v止、遣2使者1檢察、埋2?海千許町1、とあるにて、そのありしところをしるべく、又かの貞觀の暴火によりて、いたく埋もれしをも知るべし、さて其の後日本紀略に、承平七年十一月、甲斐國言、駿河國富士山神火埋2水海1、と見えたる、此山承平の火にて、水海は絶しにやあらむ、今世に、富士蓮肉といふものを出す沼のあるは、かの水海どものかたばかり沼となりて遺れるなるべし、仙覺抄に、富士山の麓には山をめぐりて、八の海ありとなむ申す、石花海とは、かの八の海の其一なりと云ふ云々
とある。即ち多くの學者の説く所は、石花海は?《セ》の海と同じもので、今日の西湖であるといふに一致する〔二十九字傍点〕。
  石花海−→?海−→西湖
 此の説を一先づ肯定するとして、次に、それによつて歌の本文が果して正當に解釋せらるゝか否かを檢討することゝする。本文は
(297)  せの湖と名付けてあるも、此の山の包める海ぞ〔九字傍点〕
といふのであるから、以上の説に從へば、「西湖は富士山の包んでゐる海だ」といふ事になるが、これは地理的關係に於て首肯し得ることであらうか。たとへ、今日とは地形の上で多少異る所があるとしても、又此の來現が寫實的なものでないにしても、餘りに地理的關係に矛盾してゐる。又單に空想的な表現としても、餘りに常人の感情と背馳したものといはねばならぬ。鳴澤説の起つたのも、誰でもが抱くこの不滿からであらう。
 次に、西湖のみを一つ取出して「この山の包める海ぞ」といふのも頗る奇妙な表現である。前に掲げた三代實録の記述によつても、當時已に本栖河口兩湖の名稱が出て居り、仙覺抄には八湖あつたことが記されて居り、それ以前に富士の湖の數が増減した記録もないから、萬葉時代には西湖のみであつたとか、又それが最も代表的の湖であつたとかいふ想像は首肯し難い。然るに、此の歌に於て西湖のみを特に抽出して、此の山の包める海だといふのは、如何にも諒解に苦しむ點である。
 また石花をせ〔傍点〕と讀むのはよいとしても、こんな特殊の使用法を固有名詞たる?海に代用することに就いても疑義がある。
 こんな理由から、西湖説に對して永年不滿を感じてゐた私は、偶然の機會から、別箇の考察を爲すべきヒントを得た。
(298) それは今から十年餘も前の事であつたが、或る用件で、軍艦に便乘して伊勢の方へ行つた事があつた。其の時、駿河灣上から眺めた富士の姿は實に莊嚴秀麗の極で、私は今までにあんな立派な姿を見た事がない。甲板の上から、これに飽かず見入つてゐた時、自然に想起されたのは赤人の富士の歌であつた。詮索好きな私は、續いて田子の浦の位置、現在自分の艦の位地が知りたくなつて、通り合はせの青年士官に尋ねたところが、士官は海圖について精細に説別してくれた。其の時始めて海圖といふものを見た私は、異常な興味を覺えて、あすここゝと餘計な處まで見て行くうちに大變なものにぶつかつた。何と駿河灣上に石花海といふのがあるではないか。而も漢字の外にローマ字で Seno umi と書いてある。私は思はず膝を打つてこれある哉と叫ばざるを得なかつた。それは東經百三十八度三十分、北緯三十四度四十八分邊の處にあつて、清水港の南方約七里、大井河口の東方約六里の所である。海圖には海中に點線を以て楕圓形の一地區を畫してある。此の地區の特徴とするところは、附近に比して海が非常に淺い事である。この點線に沿うて外側の水深を北方から順次に一周り擧げてみると、四二九米・二四四米・二七四米・四五六米・二三三米・三三七米・二六六米・一〇三七米・九〇米・三二一米である。此の部分はまだ淺い方で、その更に外廓をなす部分は、多くは七八百米から千二三百米もあるが、點線の内側即ち石花海の水深は、五〇米乃至六〇米で、最も深い所で一六一米に過ぎない。
(299) 元來石花〔二字傍点〕といふのは貝の名で、
倭名妙十九、龜貝類に
  尨蹄子、勢《セ》貌似2犬蹄1、而附v石生者也、石華二三月皆紫舒v花、附v石而生、故以名v之、
とある如く、和名を勢《セ》といひ、蠣の如く岩石に附着する貝であるから石花又は石華といふ文字を宛てる。別名をかめのて〔四字傍点〕〔龜の手に形が似てゐるから)ともいつて磯の岩石等に多く生じる。(日本動物圖譜
  かめのて(えぼしがひ科)
   本屬中最大ナル種ニシテ大ナルモノニアリテハ頭?部幅員五五粍、長サ四〇粍ヲ有ス。生時ニアリテハ頭状部は黄灰色ニシテ柄部は暗褐紫色ナリ。頭?部ハ一般ニ三十二――三十四枚ノ石灰部∃リナル。即チ楯板・背板・峰板・嘴板及ビ一列ノ上部側板・下部ノ側板之レナリ。下郡ノ小形ノ側板ハ二十四――二十六ヲ普通トス。此等ノ板ハ多少重リ各板面ニハ明瞭ナル成長線アリ。楯板ハ三角形ニシテ背板ハ四邊形ナリ。峰板ハ三角形ヲ呈シ内面著シク屈曲シ嘴板ハ概ネ峰板ニ等シ。柄板ハ一般ニ短キモ稀ニ頭?部ト同長ナルコトアリ。柄部ノ表面ニハ石灰質ヨリナル小鱗片アリ。本種ハ滿干線ノ岩石ノ裂目ニ塊?ヲナシ群棲ス。之レヲ採リテ食用トスル所アリ。
 
      結び
 
 そこで、いよ/\結論であるが、私の自由なる想像を許せば、駿河灣中の現今の石花海は、水深(300)の淺い所から考へても、石花即ちかめのて〔四字傍点〕の多く棲息する事から起つた名稱であり、昔は更に廣範圍にあの邊一帶の海面を、同じ名稱で呼んだとも考へられる。してみると、萬葉集の石花海は西湖ではなくして、必ずやこの石花海だといふことが出來る。海上から眺めると、右手には長く伊豆半島があり、左手には清水から御前崎に亙る一帶の海岸が弧を描いて突出し、兩半島の中央に高く富士の神山が聳えてゐる。即ち突出した左右の兩半島を富士の裾と見立てゝ、駿河灣を「この山の包める海ぞ」といふ語は頗る自然な表現である。「富土川と人の渡るも、その山の水のたぎちじ」といふ表現も、海上から眺めた富士を考へる場合に、更に一段の精彩を加へて來る。
 垣内先生は、暗示に充ちた講義によつて、國文學者の通弊を離脱し、高く廣く自由な立場から物を觀察すべく、正しい學問の道を示された恩師である。この度、先生の還暦の祝賀に當り、未定稿ながら匆忙の間に一篇を綴つて之を捧げ、先生の御健闘を祈り奉る。〔完)
 
(441)   國文學の特殊表現から見た態象徴音象徴について
                北島葭江
 
      一 國文學散文作品の特質
 
 エミール−アウグュスト・シァルチエ(Emile‐Auguste, Chartier)がアラン(Alain)のペンネームで書いた散文論(【藝術論集第十卷】)を見ると、文藝作品の文體を別けて、散文とそれに對し、韻文とそれに類似性の多い雄辨との二大別にして居る。この見方は、一見甚だ獨斷的のやうに思はれるけれども、「著者は能ふ限り、實際の作品に即しつつ、先づ各の藝術の差違を明かにすることによつて、藝術の本質を捉へんと努め……飽まで實踐的指導的であつて、」(【譯者桑原氏の言葉】)散文といふものゝ純粹な性質を闡明するためには極めて妥當であり、それに依つて兩者の區別は明瞭に意識されて來る。今その所説の要項を摘出概括して見ると、
 一、散文に於ては文字は唯音を示すに止まり、記號の形態と音そのものとの間には少しの類似もない。この文字の表はす言葉の長も著しい特色は、それが對象を表現するに當つて、對象と全然類似しない形式を以てすることである〔文字は〜傍点〕。この飽まで抽象的なる方法をそのあるが儘に認めることこそ最も賢明といふべきである。斯る音標(442)文字(殊に活字的なもの)の記號は、その性質上その集りと排列とによつて語が形成されるから、その孤立せる要素は何物をも表はさない。一つの要素が他のものを變化することのないことは丁度物理學者の原子の如くである。肉筆で書かれたものは草書や略字の爲にその行間になほ何か身振り的なるものと舞踏的なるものを殘して居るが、純粹の散文の頁には決して斯んなものはないのである〔肉筆〜傍点〕。散文の特性は先づ印刷された紙上にその純粹な抽象の  状態に於て現れ、何等作家の身體の動きのあとかたを留めぬことにある。
 二、散文藝術が自己を發揮せんとする限り、語を文字の地位まで引下げることに努めねばならぬ。しかし語は文字以上變化に富み、その音や綴りさへが或ものを他より強力になし得るから、語を要素の役割にまで引戻すのは中々困難である。併し散文の觀念から、このことは是非とも實行されなければならぬ。擬聲法とか擬態法とか音のものに類することの目立たない日常語と、稀語であるために注意を惹くやうに創められた語とを區別しなければならない。散文は元來音讀せらるべきでなく、目讀せらるべきものである以上、語の響から生ずるかかる種類の効果は散文には場違ひで、何の役にも立たぬ〔擬聲法〜傍点〕ことにすらなるだらう。
 三、語はまた迷信によつて力を得ることもあり得る。地名がそれと結びついた強い回想のために或者には他の者と違つた響を與へることを以てよく解るやうに、地方人に對しては行儀を見習つた郡會の名前、旅行した者に對しては異國の名前、歴史や諸の作品が有名にした名前の如きも亦皆さうである〔語はまた〜傍点〕。語には魔力があり、その各に好惡があるといはれるのは尤なことである。かゝる方法を全然排斥しようといふのではないが、……優れた作家はありふれた語の集りによつて、散文としての偉大た効果を擧げることに存するだらう。
 四、語の眞の力はかくてその占むる位置から、また他の語との結合から生じる。もし普通の話方又は書方に反して讀者の期待する以外の位置へ一つの語を置くならば、それも亦一種のアンダーラインとなることは明かである。かゝるものは散文として常に卑しい方法である〔もし普通〜傍点〕。純粹な?態に於て考へる時、散文は常に注意力を部分的(443)要素から引き離し、全體の上に導かんとする傾向をもつ……そしてその目的は結合された語の連續によつて思想と呼ばれる所のものを創り出すことに存する。……然るに詩は時間の法則に從ふ。だから讀まれるよりも聞かれねばならぬ。詩に在つては諧調が豫め空虚な形式を決定し、語がそこへ來て位置を占める。多くの語と律動との間の應和不應和が諧調を確保して注意力をそこへ惹きつける。後戻りのない動きが聽く人ぐるみ運び去るのだ。眞の散文は全く之に反し、諧調から解放されるのみならず、諧調を排除する〔詩に在つ〜傍点〕。この點に於て散文は同時に詩と雄辯とに對立する。(【桑原氏譯文より摘録】)
 私は長々と散文論の冒頭の要旨を引用したが、この文は散文と詩との差別に鋭利な深い洞察と卓見とを示して居り、而も其の所説の否定詞と肯定詞とを取換へるなら、國文學の所謂散文作品に甚だよく當てはまる程それ程皮肉に國文學の所謂散文作品に韻文的要素の多いことや、時によつては殆んど全體が韻文でもあり得ることを諷刺して居るやうに見える。
 國文學作品に於ける先づその漢字の特質が齎らす感じや、草假名の樣々の樣式や、歴史的地理的社會的傳統や因襲による觀念語が讀者に訴へて之を誘引する諸點、語の轉換、又枕詞、懸詞、縁語、疊句等の反覆等は中古中世の所謂散文と目せられる所の物語日記隨筆等に隨所に認められて、極めて少數の作品を除いて――それも純粹な散文ではないが――全部が韻文の種類に數へられようし、近世期の所謂散文に至つては讀本の類は勿論、引用句や通語や語呂合せを主とする洒落滑稽皮肉でさへ韻文的の要素を多分に有つて居る。自然主義文學の平面描寫は純散文といへよう。
(444) この事實は畢竟何を語るものであらうか。文藝の原始的形態は何れの民族のものでも皆韻文であつたのだが、それは悟性的理智の發達しない時代の感情の自由な表現が、常にメロヂカルな律動を以て表現せられるからだといふことに歸せられる。それは記紀の歌や萬葉集中の比較的古い歌に實例が徴せられる。併しその歌謠は古代人の感情的生活の力が充實した生そのものゝ強い主觀的の表現であつた。然るに理性の目醒めに伴ふ物に對する客觀的傍觀の態度は其處に記述的の散文文學の出生を促したのであるが、日本國民の強い傳統踏襲の精神は其の散文を傳統的和歌の詞書として發達させた。それは竹取、伊勢、土佐等の物語日記が如實に説明して居る。そして其の詞書が愈發展するにつれて物語日記隨筆等の色々の文藝が出來たが、和歌中心の述作意圖は依然として存續した。――枕草子は此の點に關して稍異色のものであるが――彼等は形式の上で云へば記述的の散文を律動的韻文で、精神の上で云へば客觀的理智を主觀的感情で統一せんとした。併し作家の此の如き意圖は決して散文と和歌とにさう判然と區別をおいて働くことは不可能であり、意圖は常に思想の全體を左右する。此處に又散文の韻文化する一つの理由があらう。
 芳賀先生はその著聞氏性十論に於て我が國民の特性を十種目に分類して委曲に説明せられて居るが、是に依つて見ると、我が國民の思想乃至世界觀といふやうなものは、何れも對象に對して哲學的の解釋や批判の結果ではなくて、寧ろ感覺感情を通して得た主觀的情緒的の了解であり把握であ(445)つて、彼等の道コ觀さへも、趨味嗜好と餘り隔りのない情意の陶冶訓練であるやうに思はれる。若し近代的の解釋に從つて、言語は常に生そのものゝ解釋であり、文藝は自己生活の表現であるとするなら、上述の作品の傾向は如實にこれを語るものであつて、彼等は悟性的認識から來る反省による客觀的散文の記述よりも、感覺感情の直覺力による主觀的情緒的の韻文歎詠を好んだともいへようし、そして其の感覺感情が鋭敏繊細に精練せられながら、對象に對する理智的な認識判斷が働きかねるとき、彼等は其の形式の上に於ては語と語とのつながりに種々な樣式を工夫して諧調や律動を持たせることにより、又内容の上では變化多樣の自然現象や、地理的名勝や、歴史的故事や、詩文の名句の引用譬喩象徴の力を假りて其の複雜な情緒を表現しようとする。茲に國文學にアランの所謂韻文的要素が益加つて來たのだといへよう。
 
      二 態象徴
 
 作品たる文に就いていつたことは又その組成分子たる語詞についてもいへるであらう。日本國民はその鋭敏な繊細な感覺感情を以て一つの單位的の「こと」や又は「もの」を見る時、それに名づくべき適切な言語り選擇にもどかしい苦慮を重ねた結果、遂に自己經驗に於ける實際的行動や、自然的現象のその「こと」又は「もの」に類似するものを直感し、それを假り來つて、先づ模倣的に、(446)次いで譬喩的に、又象徴的に、之を表現せんとすることは今日の世俗一般の會話にも?見られる所である。斯くして出來た言葉は擬聲法であり、擬態法であり、又態象徴音象徴となつて、之を表現するのである。高橋殘夢はその言靈説中の「靈の宿」の解説に於て、
 抑靈は神也。口にいふべくもあらず、筆に書くべきにあらず。譬へば味の如く口には其味を知ると雖も、其味かかりといふべきものあらず。いひがたく説きがたきが故に靈也。五味の妙は口にあり、五色の艶は目に覺え、五韻の靈は耳にさとる。是則耳の靈也。
といつて居る。私は殘夢の言靈説を信ずる者ではないが、殘夢一派の人々の音義を解説せんとして、識別に苦しんだ結果、その神秘を神靈に歸せんとした心持は理解出來ると思ふ。音象徴の多くは元來理智的認識を經ないで、之を譬喩や象徴に假りて表現したものである。而して今日既に認識を經て一つの表現手段として用ゐられた所の、譬喩や、寓言や、象徴詩の類に於てさへ、それは作者の主觀的表現であるが爲に、客觀性に乏しく、之を作つた者の意義と聽者の感得する所とは必ずしも一致するものでなく、まして、始めから對象に對して理智的認識の的確な判斷以前の氣持の表現たるものに於ては、吾々に取つて一層曖昧であり多岐であることは勿論である。
 私は斯る表現法に態象徴と音象徴とがあると思ふ。年實際に即してこの態象徴の場合を考へて見るに、彼の理智に乏しく感覺感情に敏感な婦人の會話や、又演説者の昂奮した場合に自己の氣持を(447)適格に聽者に訴へ、之に正《まさ》しく感應を求むる時に當りての身振り手振りに注意するがよい。彼等は(1)事物の混沌として捕捉すべからざる  状態や、繁雜混亂したり、又陰昧の中に晦滅する事件を表現せんとする時には、意識的に或は無意識に物を掻き廻す〔四字傍点〕樣な手振りをし、(2)突如に事件の生起すること、深甚なる感想、又は賛意を促すが如き場合には卓などを打ち叩く〔四字傍点〕ことがあり、(3)又緊張すべく、收集すべく、連續すべきことを表はさんとする時には兩手を身體に引き寄せたり〔六字傍点〕、手を以て弧を曳いたり〔六字傍点〕することがある。其他(4)物を纒めることや、交換をしたり又は物を合併分割する場合の如きは手で物を取るが如き態度をするもので、それは要するに、その事件々々に對する人間の心の  状態を體現したものであつて、嘗て經驗した行動を再現し、模倣し、譬喩として言語の不足を補つたものに外ならない。だから種々の關係でその身振り手振りが制限されて傳達の効力が失はれた場合には、この意味を專ら言葉や、文の上に表はさうとするであらう。その時
 (1)掻き亂る。掻き暮る。掻きくもる。掻きさぐる。掻き伏す。掻き消す。掻き失す。掻き絶ゆ。
 (2)打ち見る。打ちつけに。打ち笑ふ。心を打ち込む。打ちなびく。打ち解く、打ちうなづく。打ち合はす。
 (3)引きまとむ。引き結ぶ。引きしむ。引きつくろふ。引きわたす。引き組む。引きつゞく。引きとほす。
 (4)取りまとむ。取りよろふ。取りつくらふ。取りまかなふ。取りとむ。取りかはす。取りわく。取りそろふ。
等の語が出來るであらう。勿論此等の接頭辭と目せられるものゝ中にも、掻き集む。掻きやる。打(448)ち捨つ。打ち切る。引き取る。引き拂ふ。取り拂ふ。取り戻す。などの語は仔細に考察することに依つてそれは單に複合詞であると分るものもあるし、又掻き、打ち、引き、取り、が此處に解釋した以外に當時の慣習があつたかも知れない。なほ此等の意義が下の本詞によつてま/\であり、何れの場合にも通ずる統一した意味がないから、此等の接頭辭は全く無意味だとするのは、丁度例へて見るなら青息、青侍、青人草、青二才、其の他青馬、青鷺、青葉、青反吐等の複合語があつても、その青といふ詞に凡てに通じて統一した意味がないから「青」は畢竟無意義であると斷ずるの妄と全く同一であつて、青の場合では「失望苦慮」「下位」「繁殖」「未熟」等々の概念的語を故意に避けるか、或は選擇不可能の爲にその類似性の他物を自己の經驗の中から直覺して、その感覺的な特性を取つて之を形容した其具體的表現法に外ならないので、「打ち」「掻き」「引き」「取り」「持て〔二字傍点〕あます」「さし〔二字傍点〕あたり」等も自己經驗の實踐的行動の場合を直覺的に想到して、象徴的に或は譬喩的に使用したとも、又見方によつては、その中の或ものは未開時代の實際具體的事物を處置した語が、精神的方面にも應用せらるゝに至つて、意味が曖昧に没したものもあらう。
 か青し、か黒し、け遠し、た易し、等の形容詞の接頭辭の中のあるものは音象徴とは其の類を異にし、「か」は香、「け」は氣、「た」は手に通ずるものであつて、香は物の匂ひであり、匂ひは國語に於て色澤光彩を意味する故に、一種のニュアンスを有ち、「け」は氣高し、氣さやか、「た」は(449)手馴れ、手狹む、の手で、手で物を處置する具體的意味から精神的意味に變つたものであらう。
 此等の接頭辭は元來既に一つの觀念語であつて、音義を表はしたものとは全く其の種類を異にし、一つの物の性質?態語を假りて、之を象徴的表現に用ぬるもあであるから、私は之を態象徴と呼んで居る。
 
      三 音象徴
 
 同じく理智的認識によらず、情緒的に事を表現せんとする時に?用ゐられる方法に音象徴がある。之れは經驗した所の自然の音響か、或は人が自己の發音器官の發音作用から得るその感覺的印象によつて、それぞれの音に主觀的に一つの意義ありと思爲して、之を事物の推移?態や、性質形?等或る觀念を表はすに譬喩的に或は象徴的に使用することで、所謂音義又は音象徴と呼ばれるものである。――だから「ぱち/\〔四字傍点〕と火が燃える」、「から/\〔四字傍点〕と笑ふ」などの擬聲の場合は之れは單に音の模寫であるから、私は音象徴の中に含めない。
 音義論は從來國學者によつて?説かれた所であつて、井面守訓の「辭の音の貌」、鈴木重胤の「詞の捷徑」、及び平田篤胤や清原道舊の言靈説に現はれたやうに一行一義説を稱ふるものもあり、又橘守部の「助字本義一覽」や、富樫廣蔭の「五十音圖説」や、堀秀成の「音圖略説」「助辭音義考」(450)「假字本義考」「言靈妙用論」の如く、一音一義説を稱へたものもあり、又鈴木朗の「雅言音聲考」には主として擬聲語に就いて述べて居る。最近では大矢博士の「國語溯源」佐藤鶴吉氏の「ことだま考」(【藝文第十二年第三號】)佐久間鼎氏の「音聲的描寫による語構成」(【岩波發行藤岡勝二博士功績記念言語學論文集】)及び小林好日氏の「音義説と音象徴」(【國語國文第七卷第三號】)大島正健氏の「國語の語根と其分類」、其の他大槻博士の大言海等語原論に關する諸先輩の著書は大抵音義説に觸れた所があり、英、獨、佛等の言語學者や哲學者には早くより此の音象徴を説いたものが多いが、主として我が國のものに就いて云へば音義論者は凡ての國語を音義によつて説かんとし、之を排撃する者は凡ゆる用語に照して見て、同一音の音義が統一一定した意味を有たないから、音義論は信據するに足らないといふ兩極端に立つて居る。
 凡ての國語が音義によつて成るといへないことは勿論であるが、同一音の音義が一定しないから音義説は信據するに足らないといふのは、前の態象徴の場合に述べた如く、それがそも/\譬喩、象徴として使用されて居るといふ態義及び音義の根本的成立に無理解であるためであつて、取るに足らないことである。而してなほその上に其の一音の音義が不定である根本の理由としては、
(一) 元來音義語を作る者に取つても、音はそれを聽取する人の感覺感情に依つて、個人的にも地方的にも、又民族的にも同一でないこと、例へば同一音を出す所の、犬、猫、?等各の啼聲の擬聲でも民族によつて等しくない以上、その象徴たる一音義に對する音が、同一であることはあり得(451)ない。
(二) 又音そのものも同一種類と思はれる物體から發するものでも、其の物體の小異によつて全く異なるものがある。エスペルゼンは Bang と云ふ英語は戸を閉づる音の擬聲から生じたといつて居るが、それは開き戸の而も竪密な西洋建築の場合であつて、日本建築の場合なら、開き戸なら「ドタン」「ガタン」であり、引戸なら「ピッシヤリ」である。物の廻轉移動する音の擬聲には世界各國皆 R 音を以てするが、露國では Katat Katit. であると同氏はいふ。いかにも氷の上を堅い金屬などの廻轉することを想はせる。斯くの如く同一物の音響と、それを聽取する人の個性や民族によつて擬聲がまち/\である以上、同一意義の象徴にも音は決して一定しないことがあるのが當然である。既に始原に溯つて音義の成立を推測して見てもこの樣であるが、而もそれが成立後に於ても、
(一) 例へば接頭辭などについて考へて見ても、接辭と本詞との接續は其の性質上客觀的確實さがない爲に、後代の者によつて隨分濫用誤用せられることのあり得ることは、枕詞と本詞との關係が其の眞意の了解せられない爲に、その枕詞の制限なき自由の解釋と、――例へば「ひさかたの」の如く。又、本詞の頭音の相通により――例へば「たまだれの」の枕詞に對して「小簾、落つ、越ち」等の詞が添ふ如く、全く其の接續の關係が、不明になつて了ふやうなこともあらうと考へら(452)れる。
(二) 而してもつと言語の性質の根本的なものに徴して見ても、所謂「言語の誤用は正語の始め」であつて、誤用が一旦通用語となれば、遂に正常視せられて來るものは非常に多い。例へば「だに」と「さへ」、「怪《け》し」と「怪《け》しからず」と、「さながら」と「あだかも」と、「漸次」の意の「やうやう」が「辛うじて」の意に、「寧ろ」の意か「なか/\」が「甚しく」の意に、その他「とても」「斷然」「而も」等々、僅々此の數時代の間に於てさへ誤用が通用語となつて、用言に對する副詞などの意義の變つて來たものは甚だ多い。ましてそれに幾百千倍の年數を經たか計り知られない言語の始原から記録發生の奈良朝期までの間には、如何程の誤用が正當視せられた事であらう。
(三) なほ國語が上代に於て漢字を假りて寫された關係上、その訓を以てしたものに、接頭辭の「い」には「五十〔二字傍点〕串」「射〔傍点〕立つ」、「さ」には「五月〔傍点〕蠅」「狹〔傍点〕野」「小〔傍点〕牡鹿」、「ま」には「馬〔傍点〕草」「信〔傍点〕櫛」「目〔傍点〕細《くは》し」「間〔傍点〕細し」「二〔傍点〕梶」「心〔傍点〕悲し」「前〔傍点〕垣」「眞〔傍点〕子」「亦〔傍点〕打山」などの用字があるので、中古以後――或は上代にも――此等の漢字自らの固有の意味が、その接頭辭としての意味にも保たれて居るとのみ考へる者もあつたがために、一層此等接頭辭の音義が不明に歸して了つたといふこともあらう。
斯く音義はその成立に當つても、又その後に於ても同一音の音義が一定しないといふ理由が多々あ(453)るのであるから、それを以てのみ音義説を無視することが出來ようか。科學萬能の今日に於てさへ、人は常に言語の音が其の内容意義に適切なるものを索めて已まないことは、小説の作家の中には今もなほ、その作中の人物の固有名詞が、その性格を表はすに適當な音を有つやう選擇するに苦心し、ポスターや新開に[颯爽」、「明朗」、「豪華」、「爆笑」等の文字が煩さい程に?用ゐられ、「ストライキ」「サボ」「エロ・グロ」等の言葉が廣く市井に流行することを見れば明かで、之と反對に、「グラウンド」の名は殘つても「ベースボール」は野球となり、「コート」の名は保存されても「ロンテニス」の名は庭球に讓られ、「エレキ」「ステンシヨ」の簡譯〔傍点〕語さへも電氣、驛の名に變つてしまつた。榮える言葉は凡て音義を有つものとは限らないが、音義を有つものは殊に日本民族に於て珍重せられるやうである。
 吾々は熱誠を見て血の赤きを想ひ、つれなき〔四字傍点〕を見て冷きを感じ、醜惡を感じて臭きを、困難を受けてはそれを苦《にが》きに譬へる。五官に觸るゝ所のものを以て事物を象徴するのは、人間の原始的本能とでもいへよう。之が音義の存する所以である。
 私は言語の歴史や其の意義を究めんとして、偏へに用例の蒐集と、其の總計や比例を表記して、何等の洞察卓見もなく之を論斷せんとする者の徒勞にして、且つ危險なことを知つて居る。吾々は呼吸に次いで最も多くの言語を吐き、食物に増して一層多くの言語を耳目に入れる。間斷なき洞察(454)に依つて、科學的知識に乏しいながらに、直覺的卓見のある近世の國學者の言説を私は寧ろ尊重する。殊に鈴木重胤の五十音圖に於ける各行固有の音義説や、橘守部の「助字本義一覽」に於ける一音一義説の中には傾聽すべきものが多々ある。重胤の説は自然の音響よりも、人間の發音器官の發音作用と、發音個所に於ける各行の音の感覺的印象からの音義説と見るべきであるが、ア行音の「廣厚」などは餘りに概括杓である。中にも「イ」音の如きは、「い行く」「い漕ぐ」「い隱る」「い・きほふ」「い刈る」「い取る」など、その發音作用に於て「顎角の極度に小さく、口裂も亦極度に狹く、舌の前に勢よく乘り硯す。」(金田一氏國語音韻論)といふことが、狹小〔二字傍点〕から勇進〔二字傍点〕といふやうな凡て積極的に勢づくといふやうな音義となつたので、堀秀成が音義本末考に「萬物萌騰ル状」といひ「チカライル象」といつたのも當つて居るやうに思はれる。「カ行音」の「堅牢」といふことは誰しも一致する所で、「サ行音」の「窄小」にも異論はあるまいが、それだけではいまだ盡さないやうである。寧ろその發音作用の上顎舌端の窄小〔二字傍点〕なる間を通ずる氣息は、隙間漏る風の感じを與へる所から清凉〔二字傍点〕とか爽洒〔二字傍点〕とかの印象を留め、從つて又輕快の感じも件ふこと、例へば
 さ・さやぐ。さ枝。さ・まよふ。さ霧。さ百合。さ衣。さ小牡鹿。さ・走る。さ・をどる。
の如き音象徴を得たのではあるまいか。
 「ハ行音」を「變更」とする重胤の説と、守部の「物を切り分ち離つ意の一統」としたのとは、其(455)處に「ハ行音」の歴史的變化から見て、守部の説にはP音時代の音例に目をつけ、重胤はF音時代又はF音使用地區からの音象徴を採つたのではあるまいかと思はれる。「ハ行音」に、助詞の「は」「ば」の如きものと、「ほのめく」「ほのほ」「ほめく」「振る」「映《は》ゆ」など二種あつて、後者はエスペルゼンが特色のないやうな運動として、flow.flag.flutter.fling.等を擧げたと同一種のものであらう。
 其の他重胤の「マ行=渾融」「也行=進前」「良行=形?」「和行=揉曲」など、その中「良行=形?」の如きは承服出來ない寧ろ流轉とでもいふべきであらうが、其の他は大體に於て妥當であらう。「マ行音」については國語國文の本年三二月號に小林好日氏の所説があるが、氏の接頭辭の「ま」は、始め「何も意味を持つて居なかつたものが、たま/\純粹眞實の意味を持つて居るものに同化されて意義を生じたと考へる方が自然にちかい」といはれるのは、其の文意がやゝ曖昧で、「ま」の意味を持つて居るものと居らぬものと始めから二者併存して居たといふのか。何れにしても私は音義生成の有樣から見ても、始めこそ意味があつたものが、誤解誤用から只昔のみのつく無意義なものも生じたと見るのが自然であらうと思ふ。
 
       四 助動詞「つ、ぬ、たり」の音象徴
 
(456) 「タ行音」と「ナ行音」との關係について見るに、重胤は「タ行音」を以て剛直の音義がありとし、「ナ行音」を以て和順の義を含むものとし、守部は助動詞「つ」の變化につきて「た行は舌音にて此五音を唱ふるに其口の動き如v撥如v押如v突如v扇なるより此音にも人の所作、立居、進退の上に關る一統あるなり云々。」といひ、助詞「の」を以て「所有言の菜かに最もなだらかなる音なりければ恒に切るゝ詞の連接となりて云々。」と説き、助動詞「ぬ」を以て『「往ぬ」の義なり。されば「なりぬ」は「成往」、「たえぬ」は「絶往」なり云々。』といつて居る。守部が「ぬ」を「往ぬ」「去ぬ」などと同一に解する處は一見誤つて居るやうであるけれども、俄かに誤謬とは論斷出來ない。而して兩者の説には幾多の暗示がある。
 「タ行音」は破裂音で、その發音作用には堅い上顎に柔き舌端が觸れて、遮斷、閉鎖、破裂の綜合運動がある所から、その印象は自から、(1)接觸合重、(2)反撥弾性、(3))及びその聯想から相對、段階等の感じを生じて、この種の音象徴を生ぜしめたであらうことは、
 (1)た・なびく。た・のむ。た・くはふ。と・わたる。た・たむ。つ・つむ。と・どむ。つ・づく。つむ。
 (2)た・ばしる。た・たく。た・たかふ。つ・つく。た・がふ。ち・がふ。た・ふす。
 (3)助詞「つ」助動詞「つ」等
などに見ることが出來る。而して「ナ行音」は兩者のいふ加く、和順の意や、柔かな意を感じさせ(457)ることは、畢竟發音作用が柔い舌端、軟口蓋、鼻腔で行はれ、それが靜かに發音する所に此の印象を遺すのであらうと思はれる。發音の起點作用が殆んど同所で行はれる「タ行音」に比べた時、柔和と共に永續的な感じの伴ふことも否定することは出來まい。斯くて「なびく。なぐ。なごむ。なむ。ながる。ながし。」等に相通ずる音義を生じ、又「塗《ぬ》る」「濡《ぬ》る」「伸《ぬ》る」「潤《ぬ》る」「染《ぬ》る」「寢《ぬ》る」等の同音語で而も「粘着」とか「柔ぐ」とか「休止」とかの意を含んだものが生ずるのであらう。
 「タ行音」と「ナ行音」とが發音の起點を同じくして、其の感覺から來る印象に此の差違があることは、自から兩者の比較が意識的に又は無意識的に行はれ易いであらう。そして兩者が互に相對的の意義をもつて語られるといふことは云へないであらうか。
(イ)タ行音――雨と〔右○〕なる。花と〔右○〕見ゆ。父た〔右○〕り(と〔右○〕》、あり)天つ〔右○〕神、國つ〔右○〕神。行きつ〔右○〕。行きて〔右○〕けり。
(ロ)ナ行音――雨に〔右○〕なる。花に〔右○〕見ゆ。父な〔右○〕り(に〔右○〕、あり)天の〔右○〕星地の〔右○〕花。行きぬ〔右○〕。行きに〔右○〕けり。
此の(イ)(ロ)兩者の例を兩々相對比して見ると、「と」が「タ行音」の反撥的弾性を有つ所から、強いながらに突發的一時的の印象を留め、「に」は「ナ行音」の有つ柔いながらに永續的又は漸定的の現象を表はすに用ゐられて居るる。又助詞の「つ」が多く同一種類のもので屬性?態を相對的に見た時に用ゐられ、「の」の方は單に固定的の一般屬性?態を示すものとして用ゐられて居る。(拙稿、國語解釋本年五月號所載のものを參照せられたい。)而して今私の論じて見たいと思ふ所は助動詞としての「つ」(458)と「ぬ」との關係である。
 この兩者はやはり、「タ行音」と「ナ行音」との音義か相違を有ち、「つ」は事件の一段階の突差的認定に用ゐられ、「ぬ」は事件の存續的經過を主とする漸定を表はして居る。例へば
 淡路島 いや二たらび 小豆島 いや二並び よろしき島々 誰がかればか 散ちし 吉備なる妹を 相見つる〔二字右○〕もの (應神紀)
 小竹の葉に 打つや霰の たしだしに 寢ねてむ〔二字右○〕後は 人議ゆとも うるはしと さねしさ寢て〔右○〕ば 刈薦の 亂れば亂の さねしさ寢て〔右○〕ば (古事記下)
 小猪待つと 吾が立たせば 腓に 虻かき着きつ〔右○〕 (雄略紀)
 吾が欲りし 野島は見せつ〔右○〕 (萬葉12)
 吾も見つ〔右○〕 人にも告げむ 葛飾の 眞間の手兒名が 奥つ城どころ (萬葉432)
 手に持たる 我が子飛ばしつ〔右○〕 世の中の道 (萬葉904)
          ○
 青山に 日が隱らば ぬば玉の 夜は出でなむ〔二字右○〕 (古事記上)
 楯なめて いなさの山の 木の間ゆも い行きまもらひ 戰へば われはや飢ぬ〔右○〕 (神武紀)
 須々許理が 釀みし御酒に 我れ醉ひに〔右○〕けり (古事記中)
 君が行き け長くなりぬ〔右○〕 (萬葉5)
 いや遠に 里はさかりぬ〔右○〕 いや遠に 山も越え來ぬ〔右○〕 (萬葉131)
 野島が埼に 舟近づきぬ〔右○〕 (萬葉250)
(459) 夜晝といはず 念ふにし 吾身はやせぬ〔右○〕 (萬葉723)
等を對照することに依つてその用法の差違は自から明かであらう。中古に及んでも此の用法は可なり著しく表はれ、殊に敏感な女性の作には多い。
 この道もかしこからざめり。筵道敷きたれば皆落ちいりて騷ぎつる〔二字右○〕は (枕草子六)
 犬は狩り出でて瀧口などして追ひつかはしつ〔右○〕 (枕草子七)
 さ思ひつ〔右○〕かし (源語、桐壺)
 猶いぶせさを限りな宣はせつる〔二字右○〕を夜中打過ぐる程になん絶え果て給ひぬる〔二字右○〕 (源語、桐壺)
          ○
 潮滿ちぬ〔右○〕。風も吹きぬ〔右○〕べし (土佐日記〕
 炭櫃火桶の火も白き灰がちになりぬる〔二字右○〕はわろし (枕草子一)
 得たるはよし得ずなりぬる〔二字右○〕こそいとあはれなり (枕草子三)
 世のためしにもたりぬ〔右○〕べき御もてなしなり (源語、桐壺)
 限りこそありけれと世の人も聞え女御も御心落ちゐ給ひぬ〔右○〕 (源語、桐壺)
從來此の助動詞「つ」の連用形「て」が、用言の連用形の下について、次の用言と連續する接續助詞のやうな形になつて居るのは、即ち一段階の認定の意に用ゐられたためであつて、決して特に完了の意や接續する意味で置かれたのではないことは、一般に完了の意として解せられて居る所の「ぬ」「たり」「り」等の連用形がこの場合に使用せられてゐないのを見ても分る。之をたり〔二字傍点〕=て〔傍点〕・(460)あり〔二字傍点〕の「て」が分離したのだと解くのは間違ひであらう。又「つつ」が一見事の連續を表はして居るやうであるが、之れは續行の意味ではなく、一事件と一事件の一段一段と併行しつゝ進むことを認定したのである。「て」の此の用法の例を擧げると、
 二柱の神を始めて〔右○〕百八十六社に坐す皇神等を某甲が弱肩に太襷取り挂けて〔右○〕伊都幣の緒結び(此の所に「て」のないことも注意すべきである。)天の美賀秘を冠りて〔右○〕仰豆の眞屋に※[鹿三つ]草を伊豆の席と苅り敷きて〔右○〕伊都閉黒益し(此の所にも「て」なきことを注意)天の※[瓦+長]和に齋み許母利て〔右○〕志都宮に忌み靜め奉りて〔右○〕朝日の豐榮登りに伊波比の返言の神賀の吉詞奏し賜はくと奏す(出雲國神賀詞)
 直衣ばかりをしげもなく著なし給ひて〔右○〕紐なども打捨てて〔右○〕添ひ臥し給へる御火影いとゞめでたく女にて〔右○〕見奉らまし (源語、箒木)
のやうなものがある。併し「て」は「つつ」と同じやうな意味で併行を示す場合もある。上の「紐など打捨てて〔右○〕」のて〔右○〕はそれであらうが此處に例は略することにする。而も誤用の正語となつたのではないかとも思はれる。
 なほこの「つ」が主觀的の強い認定であるが爲に「ぬ」「たり」「り」と違つて、「とも」といふ假定の條件を示す接續助詞の上に用ゐられぬことで、萬葉集時代までには「ぬとも」「りとも」はあつても「つとも」及び「てあり=たりとも」――之れは歌語として不便であつたからかも知れない――の例はないやうである。用言の未然形に連つて、假定條件を示す「ば」の助詞の上には極めて稀(461)に來ることがあるが、此の場合には自ら其の條件を確認的に斷定して、次に來る結果の事件の可能を期するやうな場合である。
 たゞにあひて 見てば〔二字右○〕(而者)のみこそ〔四字傍点〕 たまきはる 命にむかふ 吾戀やまめ
 此の筥を 開きて見てば〔二字右○〕(手齒) もとのごと 家はあらむと…… (萬葉1740)
 末遂に 君に會はずば 吾命の 生けらむ極み 戀ひつつも 吾は度らむ まそかゞみ まさ目に君を 相見てば〔二字右○〕(天者)こそ〔二字傍点〕 我が戀やまめ (萬葉3250)
 ところがこの「つ」を元來説者によつて過去とし、或は完了とし、又兩者を兼ねるものとして居るけれども、果してそれが正しからうか。私は之が現在をも表はして居る例を見るのである。
 越の海の 手結の浦を 旅にして 見ればともしみ 日本忍びつ〔右○〕 (萬葉367)
 世の中を 憂しとやさしと 思へども 飛び立ちかねつ〔右○〕 鳥にしあらねば (萬葉893)
 足曳きの 山はなくもが 月見れば 同じき里を 心隔てつ〔右○〕 (萬葉4076)
 みづほなす かれる身ぞとは 知れれども なほしねがひつ〔右○〕 ちとせの命を (萬葉4470)
この「かね」「しぬび」の下には決して「ぬ」の助動詞のつづくことのないことは、即ち「つ」が主觀的に強い認定を表はして居るからでこそあらう。前に掲げた用言連用形の下にある「て」の如きは完了の意はなく、最も多く現在の場合に使用されて居る。
 若し此の「ぬ」や「つ」が完了を示すものであるならば、「てむ」「なむ」なる複合詞は未來完了(462)を表はすものでなければならないけれども、作品の實際に即して見ると、未來完了を表はして居るものではない。
 吾妹子に 見せむが爲に 紅葉取りてむ〔二字右○〕 (萬葉4222)
の如きは如何にも印歐語系の末來完了の意を有つやうであるが、それは偶然で、
 いざや兒ら 香椎の潟に 白妙の 袖さへ沾れて 朝菜つみてむ〔二字右○〕 (萬葉957)
 春日野のとぶ日の野守出でて見よいまいく日ありて若菜つみてむ〔二字右○〕 (古今集18)
 いともをかしき事かな。詠みてむ〔二字右○〕や。咏みつ〔右○〕べは早いへかし (土佐日記)
等の用例を見れば單に未來のことを確認的に強調して表はしたに過ぎないことが分る、「ぬ」も亦「今日降る雨に散りか過ぎなむ〔二字右○〕」(【過ぎむの漸定萬葉一五五七】)「雪は消ぬ〔右○〕とも」(【消ゆともの意の漸定萬葉八四九】)「咲きに〔右○〕けり」(【咲いて來たといふ漸定古今集、夏部】)の如くに時相《テンス》に闕係なくして、その漸定や存續の有樣を表はして居ることも多くの例を擧げることが出來る。「たり」が「つ」を以て認定したものゝ存在を示すことも例證し得るのであつて、それが事件に關する限りに於て、偶然に印歐語系の時相《テンス》を表はすものと一致したとて、之をさう斷定して了ふことは西洋文法の直譯的解釋である。「つ」「ぬ」「たり」は時相に關する客觀的な悟性的認識以前に於て、對象たる事件が我に投げかける感覺的感情の感得する種々なる情緒を、反射的に音義によつて表現したものであつて、其處に主觀の鋭敏なる感受性を示して居る。この事は(463)此等の助動詞について一層詳説した上でいふべきであるが、既に許された紙數を越えんとするので説く餘裕のないことを遺憾とする。
 ローマ字論者は一義一語に言語を制限統一しようとする。それは科學者の方程式的記述に取つて最も都合のよいことであらう。併し人間の日常生活の精神的情緒の表現としては、世の中に不必要な語は決してあり得ないのである。併し文化が進んで科學萬能の世となり、新しい物件事態の増加するに從つて、それを識別する概念語は愈増加するが、使用上概念的には同一で情緒的に異つた非概念語は愈減少する。其處に思想的にも言語的にも、國文學の危機は潜んで居ないだらうか。標準語は結構であるが、方言の色や匂いや味に表はれた國民性の保存も必要である。そして其處らに情緒的表現を必要とする歌人達の古代語復活に熱心であることの理由がある。
 
 
(524)   關東地方の方言分布   東條操
 
          一
 
 昭和に興つた方言研究は民俗研究と提携して、これまで開拓されてゐなかつた各地方の言語調査に着手し、ほゞ所期の目的を達したやうであるが、なほ今日に於ても資料の不足や調査の行屆かぬ地方が無いでもない、關東地方はその一つである。
 關東地方の方言調査の遲れた一つの原因は、東京の近縣に於てはあまり調査甲斐のある方言を發見出來まいといふ臆斷に基く誤解であつた。江戸方言や東京語の發祥地ともいふべきこの地方が、かゝる誤解のために調査の遲れた事はまことに不幸な事實である。尤も近來、千葉・群馬・埼玉の各縣で全縣的調査が行はれたやうであるが、千葉縣の調査の一部が塚田芳太郎氏によつて發表された以外は、その調査の結果を知るを得ないのは遺憾である。
 帝國學士院の研究補助を得て關東地方の方言調査に着手したのは昭和八年以降の事である。單語(525)を中心として之に音韻と語法とを加味した質問集を材料とし、各縣の師範學校の援助を得て全關東各地の方言の分布相を明かにする事を主目的とした調査であるが、今日までには漸く多數の調査報告を整理し、分布圖を作成する運びとなつただけで、まだ調査の不完全な點がある。今後は臨地調査によつて之に補正を加へてゆく積である。この論文は一つの中間報告ともいふべきものである。
 分布を調査する事を主眼とした爲に、調査地域を關東地方以外に、隣接の福島・長野・山梨・靜岡の各縣に及ぼして、各方言相互間の影響を考察する事としたが、此等の隣接地域は姑く之を省いて、次に關東各縣に於ける調査町村數を郡別に掲げておく。
 茨城縣。多賀 十二、久慈 十三、那珂 二十一、東茨城 十三、西茨城 十、鹿島 九、行方 九、新治 七、稻敷 十一、眞壁 十一、筑波 七、結城 八、猿島 八、北相馬 五、水戸市。
 千葉縣。海上 四、匝瑳 七、香取 十四、印旛 十、東葛飾 十三、千葉 八、山武 十五、長生 十四、夷隅 十一、市原 十三、君津 十一、安房 十八、千葉市、銚子市。
 栃木縣。那須 十四、潮谷 十、芳賀 九、河内 十三、上都賀 十四、下都賀 二十一、安蘇 八、足利 四、宇都宮市、足利市。
 群馬縣。利根 十一、吾妻 九、勢多 十四、群馬 十七、碓氷 十三、北甘樂 十、多野 十一、山田 四、新田 五、佐波 十一、邑樂 七、前橋市、高崎市、桐生市。
(526) 埼玉縣。北葛飾 二、北埼玉 十六、南埼玉 七、北足立 十九、大里 十三、兒玉 八、秩父 十一、入間 十六、比企 八、熊谷市、川越市。
 東京府。北多摩 三、南多摩 六、西多摩 八、東京市、八王子市。(大島、新島、三宅島、八丈島 四。)
 神奈川縣。橘樹 四、都筑 七、久良岐 二、三浦 十一、津久井 六、愛甲 八、足柄上 八、足柄下 六、横濱市、横須賀市、平塚市。
郡によつて多少の精粗はあるが、大體に於て主要な町村を含んでゐる積である。東京府に屬する豆南の七島は調査が不完全である事を發見したので、その記載を省く。
 次に調査の成績の大要を記して見よう。
 
          二
 
 この調査に使用した質問集は九十五項の問を含んでゐるが、その大部は關東方言の特色を代表するものと想像される語彙である。この語彙は多數の方言資料を參酌して余の選定したものである。以下、質問集の順序により、一々の標語と其に對する方言で分布地域の廣いものだけを、分布縣名の頭字を擧げて示す事とする。頭字のあげてある縣は全縣または縣の大部でその方言を使用する事を示す、局部的の場合には註記を省く、(但し、例外として東京府三多摩郡に使用されるものに限り、三多摩(527)と註記した)また千葉縣は往々必要上國名であげた場合もある。なほ、全關東と記した場合にも東京市と伊豆七島とは含まない。
  1 雷   カンダチ(千、神) ライサマ(茨、栃、群、埼、下總)
  2 氷柱  アメンボー(全關東) サガンボー(茨、栃) コーリンボー(群、神〕 トロロ(下總) サガリガンクリ(上總)
  3 霜柱  オリキ(茨、栃) タッペ (埼、神、三多摩)
  4 堤   ママ (群、神)
  5 藪   ボサ (全關東)
  6 梟   ボロスケ(茨、栃)、ゴロスケ(神) ネコドリ(茨) ゴヘードリ(栃、埼) ホーホードリ(全關東)
  7 雀   ノキバ(下總、上總) チンチン(茨、栃、千)
  8 蜻蛉  ゲンザ(茨、栃)トンバ(栃) ドンブ(群、埼) トンブ(神)
  9 蟻地獄 テッコハッコ(群) イッコタッコ(茨) ニワムシ(全關東)
  10 蝶   チョーチョーバッコ(群、埼、三多摩、神) チョチョマ、チョチョマ(栃、茨、下總)
  11 蟷螂  ハイトリ(群) ハラタチムシ(埼) イボジり(神) カマギッチョー(全關東)
  12 蜥蜴  カガミッチョー(埼、神) カナヘビ(栃、茨) カマキッチョー(群、埼、千)
  13 蝸牛  ツノンダイロ(群、埼) ネーボロ(栃) メーボロ(茨) メーメー(神) マイマイツブロ(全關東)
(528)  14 蛞蝓 ノメラツクジ(群) ナメラ(神〕 マメクジ(栃、茨) デーロ(栃)
  15 蟇蛙  オガマゲーロ(栃、茨) アンゴ(千〕 オヒキ(群、埼・神)
  16 狐   オトーカ(群、埼) トーカ(下總)
  17 丁斑魚 ザコ(栃、茨) ザッコ(群、埼、千) メザカ(全關東)
  18 玉蜀黍 トーミギ(栃、茨) トームギ(栃) トーギミ(群)
  19 馬鈴薯 カンプライモ(栃、茨) サントクイモ(群) サンドイモ(埼) セイダイモ(神)
  20 枯松葉 マツゴク(栃、群、埼) マツザラ(茨) クズ(千、神)
  21 虎杖  イタンドリ(群) イッタンドリ(栃、東) ウシノスカンボ(栃、茨)
  22 兄   セナ(全關東) セナー(茨、栃、千) ナー(下總) セナゴ(群、埼、神)
  23 嫡子  イセキ(神)
  24 後妻  トライ(栃、茨) トーレー(下總)
  25 乞食  オカンジン(栃、茨、千) ヘートー(上總、安房)
  26 飯焚女 オバンシ(郡、神)                         
  27 ?  ウーチ(茨、千) ウッチ(栃) オッチ(群) ゴッコ(茨)
  28 唾  キタキ(茨、栃) クタケ(下總) アマチャ(上總、安房)
  29 痘痕 ジャンカ(全關東)
  30 黒子《ホクロ》  ホソビ(栃、茨、下總) フスベ(群)
  31 簑  クダイ(群)
(529)  32 裁縫  ハシン(群)
  33 奥の間  デイ(茨、千、群、埼、神) オクリ(群)
  34 入口 トボ(栃、茨、群) トボグチ(栃、茨、千、群、埼) トンボグチ(栃、神) トブグチ(群、埼)
  35 擂鉢 シラジ(栃、茨、下總、上總、群、埼、神)
  36 爼板 サイバン(茨) セーバン(茨、下總) キリバン(栃、上總、安房、埼、三多摩、神) キリイタ(群)
  37 笊  ショーギ(栃、茨、群、埼)
  38 飯米 ケシネ(栃)
  39 お手玉  オヒト(栃、群、神) オヒトツ(栃、茨、神) ナンゴ(群、埼)
  40 片足飛  アシケンケン(栃、茨) センギョ(群)、シンゴ(群) ビッコ(埼、神)
  41 石拳  チッチ(全關東) チッカ(群)、チッケン(神)
  42 竹馬 タカアシ(茨、三多摩、神)
  43 嘘  チク(栃、茨) デンボー(群) デッポー(神) デホーラク(栃、茨、群、埼、神、安房)
  44 汝  ニシ(栃、群、埼、上總、安房)
 以上が體言に屬するものである。用言に屬するものと、若干の副詞に關するものは次の通りである。
   1 可愛い  メンゴイ(栃、茨)、モゴイ(千) モジッコイ(群)
(530)  2 可愛さうだ オヤゲネー(群)
   3 恐しい オッカネー(全關東)
   4 大儀だ コワイ(栃、茨、千、群) カッタルィ(埼、神)
   5 賢い  オゾイ(下總、埼、神)
   6 危い  イブセイ(群)
   7 大きい ズナイ(栃、群、埼、上總、安房) イガイ(茨、下總) デガイ(栃、茨) デッカイ(全關東)
   8 恥しい ショーシイ(群、上總)
   9 驚く  タマゲル(全關東)
  10 始める ハタツ(栃、井畑、千) ハナエル(群、埼)
  11 あげませう タカランチョ(群、埼、三多摩、神)
  12 叱られる オンツァレル(栃) オッツァレル(群、上總) コータレル(埼) コーヂャレル(下總) オゴラレル(栃、茨) ヤレル(茨) オダサレル(上總、安房)
  13 行け  ヤーベ(栃、茨、千、三多摩、神) ヤベ(群、埼、千)
  14 載せる イッケル(栃、茨、群、埼) エッケル(茨) ツッケル(千)
  15 繕ふ  ハソンスル(栃、群、埼、三多摩) クスクル(茨、千)
  16 死ぬ  シグ(栃、茨) シム(群、埼、三多摩、神、千)
  17 ふざける シャジケル(群) ソバエル(栃、茨、千、神)
(531)  18 誘ふ  カソー(千、群、埼)、カショー(群、埼)
  19 入れる セール(栃、茨、千、埼)
  20 若しや ボット(栃、茨、群、埼)
  21 何故  アゼ(下總、上總、埼、神) アンデ(千)
  22 非常に ガショーキ(栃、群、埼、干、神)
  23 度々  トロッピョー(栃、群、埼、三多摩、神)
  24 不意に グイラ(栃、茨、群)
  25 十分  ヨッパラ(栃、茨)
 語法と音韻との質問事項については別項に記述する。
 次に以上の語彙分布の上から觀察し得た分布相について一言しよう。
 
          三
 
 單語には語によつて方言の極めて豐富なものと、また然らざるものとがある。今日までの調査の結果では、兒童に關係をもつ動植物名や遊戯の名などは、全國的に方言量の豐富なことが判明してゐる。今回の調査にも加へておいた蝸牛、蟻地獄、蜻蛉、丁斑魚、虎杖、お手玉、片足飛、石拳などはその例である。かゝる單語は方言量の多いために、その各方言の分布區域は狹小な事が多い、(532)從つて數十の方言があつても、その多くは一縣の一局部に行はれてぬるために、前掲の表からは大部分が洩れる事となる。(その他のものでも表に載つてゐるのは、方言の中でも分布の廣いものだけに限られてゐる)蟇蛙の一例をあげて省略の程度を例示しよう、この蟇蛙の方言は關東では量から見て中位に屬するものである。
 蟇蛙(ヒキガエル)(15)の方言は關東に於ては大體、東のオカマガエル系と西のオヒキ系と南のアンゴ系の三系統に分れる。
 即ち、栃木・茨城兩縣ではオガマゲーロといひ、武藏の東部と下總の西部との一帶の地域、及び之に隣接する栃木・群馬兩縣の一部ではオカマゲールといひ、東京市ではオカマガイルといふ。
 このオカマガエル系の西部にオヒキ系が擴がつてゐる、群馬の大部、武藏の西部、相模の大部、之に隣接する甲斐の郡内がその分布區域で、オーヒキ・オヒキはその代表方言である。アンゴは上總・安房と上總寄りの下總で行はれてゐる、アンゴーまたはアンゴがその代表方言である。この三大系は表にあげておいた。しかし蟇蛙の方言は以上の三大系の外に各地に種々な方言がある、その主要なものを述べて見よう。
 先づ神奈川縣では津久并・愛甲の兩郡に、ゴトーベー・ゴトーベ・ゴトーバンバーなどの方言があり、津久井には外にゴトロ・ゴットロ・ゴットロベーがある。足柄上郡にバックリとかオバックリ(533)といふ方言があり、千葉縣印旛郡にオンバクといふ類似の形がある、これは車前草を連想させる。東京府の三多摩地方にはオーヒキバッタといふ方言があり、西多摩の日原村ではオーヒキベットーといふ。埼玉縣秩父郡のオーヒキベットー・ベットクシャー・ベットー・ベットコとの連絡が考へられる、秩父の白鳥村にはウバゲットクといふ方言がある。秩父に隣接した群馬の多野郡にも、オーヒキベットー・オーヒキベットク・ベットクショー・ベットーなどの方言があり、更に北進して北甘樂、碓氷郡にもオヒキベットー・オヒキベットを發見する事が出來る。碓氷郡には外に、ガンタク・ガンタクゲーロとか、マンカツ・マンカツゲーロといふ方言がある、ガンタクは東の群馬・勢多兩郡に分布し、マンカツの類形は北の吾妻郡に分布してゐる。即ち吾妻郡にはマンカチ・マンカナゲーロの外にマンバチの形もある。群馬縣にはドンピキ系も若干ある。
 栃木縣にも異稱を發見する事が出來るが、その一つはナンコである、安蘇郡にナンコ・エボナンコ・ナンコボがあり、足利市にもナンコーがある、千葉縣のアンゴとも形の類似はあるが同系とは思はれない。面白いものでは、下都賀郡にドマンゲーロ、河内郡の姿川村からドンクといふ報告が出てゐる。鹽谷・芳賀・河内郡にはバンタンゲーロといふ方言があり、下總の鹿島郡や北相馬郡にもバッタゲールといふ形がある、滑稽なのは鹽谷郡大宮村でバッタンドッタンといふ事だ。
 この外にフクガエル・エボガエル・クソガエル等の異稱が各縣に散在してゐるが、これは別とし(534)ても、以上の蟇蛙の特殊の方言は、分布の狹小なために表に掲記する事を省いてある。この一例によつて表の記載が、多くの方言中の一部に過ぎない事は了解される事と思ふ。
 蟇蛙について具體的な例を示したのは、これが方言量から見て中位の方言であると共に、その方言分布が關東に於る分布相の一つの代表として適當なものと考へられたからである。關東地方を東部の栃木・茨城兩縣と、南部の千葉縣と、西部の群馬・埼玉・東京・神奈川の三地域に分ける事は、多くの語彙の分布に於ても便利な場命が多い。尤もある單語に於ては東の栃木・茨城・千葉と、西の群馬・埼玉・東京・神奈川との二つの系統に分れるものも若干あるが、廣く見ると千葉縣の方言は多く群馬・埼玉・神奈川と一致したり、時に獨立する場合もある。
 方言分布に關する此等の事實は、前にあげた分布表を一覧すればその例を發見する事は困難でない筈であるが、まづ數側をあげて栃木・茨城・千葉の一致を説明して見よう。
 後妻(24)をさしてトーライといふ方言は如木・茨城・千葉の三縣に行はれるもので、訛つてトーレーともいふ、栃木・茨城の兩縣では全縣下にあり、千葉では多く下總に行はれ、上總でも山武・長生の二郡にある。群馬では邑樂郡、埼玉は北埼玉・南埼玉・南葛飾三郡等に分布し、關東以外では福島縣の南會津郡に發見される。他に類例のない關東の特殊方言である。トーライは到來かと思ふが不明である。
(535) 黒子《ホクロ》(30)をさしてホソビといふ方言も栃木・茨城・下總に分布し、ほゞ分布は前例と同樣てあるが群馬・埼玉には發見されない、群馬ではフスベといふ、これは岐阜・長野と同じである。關東以外でホソビといふ地方は東北地方の宮城・山形・福島の各縣である。「燻べる」といふ動詞と同系であらう。和名抄の布須信(附贅)との關係の有無は何れとも斷言しにくい。
 乞食(25)をさしてオカンジンといふ地方を見ると、茨城・千葉兩縣ではほゞ全縣にあり(安房には少い)、栃木縣では東部の那須・鹽谷・芳賀の三郡に多く西部に稀である。「お勸進」の訛りである、この系統の方言は關東以外でも新潟・長野・靜岡にあるが、カンジンまたはクヮンジンといつてオカンジンといはず、離れて出雲でクヮンジ、九州の鹿兒島・宮崎・熊本でクヮンジンといふ。
 吏に栃木と茨城との兩縣だけに共通して、關東の他の地方に發見されない方言は著しく多い。その數例をあげよう。
 霜柱(3)はこの兩縣ではオリキ・オリギ・オリケ・オリゲといふ。下總・群馬・埼玉・三多摩・神奈川では、立氷の訛と思はれるタッペ・タッペーが行はれてゐる、尤も群馬の北部に少く上總・安房・東京市には發見されない、栃木縣でも西部の下都賀・安蘇・足利にはタッペ系が行はれてゐる。關東地方以外ではオリキは全く現はれないが、タッペは山梨・靜岡の外に秋田・岩手・宮城・福島にある、但し東北地方のタッペは霜柱ではなく、土地の氷結した場所などをいふ例である。
(536) 蜻蛉(8)の方言では栃本・茨城にゲンザまたはゲンザンボーといふ異稱がある。(物類稱呼には「常州及上州野州にて○げんざと云」とあるが群馬では今日は使はない)栃木でも西部の都賀・安蘇・足利には無いやうである。關東以外では、秋田縣の秋田市や河邊郡で「やんま」をケンザといふのは同系かも知れない。語源については柳田國男氏は「驗者」に關係ありとし、東雅にはヱンバの轉語なりといふ。
 唾(28)をキタキ・キタギ・キタケ・キタゲといふ方言は栃木・茨城に分布してゐる、栃木ではチタキ・チタケ・シタキ・シタケともいひ、下總でシタキ・シタケ・フタキ・フタケといふのは同系であらう。外に下總にクタケ、茨城にクダキ・クダケの形も行はれてゐる。然るに關東の他の部分にはこの系統の方言は行はれてゐない、多くはツバキまたはツバで、たゞ上總と安房とにアマチャといふ方言がある。關東以外では宮城・福島・山形にシタギ・シタゲの系統が行はれ、岩手・秋田兩縣の南部にも散布する。語源については柳田國男氏は舌液《シタキ》なりとの説を述べられた。
 最後に嘘(43)の例をあげて、この煩しき例證を終らう。關東で嘘をチクといふ事はかなり有名な方言である、チクは栃木・茨城の兩縣を中心とし、千葉の香取・海上・東葛飾、埼玉の北埼玉・南埼玉・北葛飾、群馬の邑樂等の接壤地帶に分布し、チクラク・チクラッペ・チクラッポなどともいふ。群馬の勢多・佐波郡に行はれるデグラ・デグ、利根郡のタークラも同系の語かと思はれる。(537)關東以外では岩手縣の遠野にある事が、「テクラク・ペテンにかける手段」といふ遠野方言誌の記事によつて知る事が出來る。これは手管と通じるテクラ(博多小女郎浪枕)テクロ(毛吹草)や、贋物の意のテクラモノ(新永代藏)などの江戸言葉との關係を思はせる、なほ秋田の雄勝郡の地名に「言語同斷」と書いてテクラとよませ、山形の飽海郡の地名にも「言語道斷」と書いてテクラダとよませた事が記されてゐるから、精査したら東北には發見する事が出來るかも知れないが、現在の方言集には報告されてゐない。物類稱呼に「尾張にては謀計なる事すべて深きたくみをちくらくと云」とあるが、今日なほ殘つてぬるかどうか不明である。
 語法と音韻についても同樣な分布相を見る事ができる。
 
          四
 
 語法調査の參考資料として今回用ひたのは左の十五の連語である。
  1 行かう   ユクペイ、インベイ、ユクッペイ、ユクベ、ユカズ
  2 するだらう スンダンベイ、スルダッペイ、スルベイ、スッペ、シルベイ、スルズラ、スルラ
  3 行つた   インダ、イッタッタ
  4 來なかつた キナカッタ、コナンダ
(538)  5 來ない  キナイ、コナイ、コン
  6 行きません  ユキマシネー、ユキヤセン
  7 ございます  ガンス、ガス、ゲス、ゴス、ゴイス、ゴンス、ゴザイス、オザリマス
  8 見なさい   ミナンショ、ミナンシ、ミサイ、ミッシャイ、ミナイ、ミサッシ
  9 見て下さい  ミテクンロ、ミテケーロ、ミテクンド、ミテクッセイ、ミテクラッセ
 10 さうすれば  ソウスルトスケエ、ソウスルトセー
 11 東へ行く   ヒガシサイグ
 12 見に行く   ミサイグ
 13 こればかり  コレバー、コレベー、コレバッカチ
 14 何だ(何)  アンダ(アニ)
 15 さうだね   ソーダムシ
 各連語の下に掲げた片假名で表記した方言形式は、關東地方に分布する特殊な表現を中心とし、これに若干の參考的なものを加へたもので、質問集に參考として例示したものである。例へばユカズ(行かう)スルズラ、スルラ(するだらう)の如きは、長野・山梨・靜岡の中部方言表現形式の影響を見るために加へたものであり、コナンダ(來なかつた)オザリマス(ございます)ソウスルトスケエ(さうすれば)アンダ(何だ)の如きは、江戸の文獻に現はれてゐる方言形式の存否を確かめる目的の下に加へたものである。此等の連語は語法資料といふよりは寧ろ語彙調査に類するものであるが、(539)なほ特異な表現の分布だけは明かにする事が出來た。其他語構造について、
  1 名詞の下に「コ」をつける慣習の有無
  2 動物名の下に「メ」をつける慣習の有無
の二問を掲げ、その實例をなるべく多く集めて見た。
 音韻に關する調査は臨地調査以外には確實な資料を得る方法がない。例へば「カ」行鼻濁音の有無とか、「イ」母音の變化とか、語中の「カ」行「タ」行音の有聲化とかいふやうな比較的簡單な事項でも、正催な調査報告を集める事は困難である、況やアクセントやイントネーションの問題などになれば、耳の鋭い調査者を待つて始めて資料を得る事が出來る。下に記す結果も、音韻に關するものに限り臨地調査の成績を參考としたものである。
 此等の語法・音韻に關する諸現象の分布も、これを前章に述べた語彙の分布と比較するに、一致する場合が極めて多く、語彙・語法・音韻の三規準による方言區劃の可能なる事を想はせる、以下その要點を擧げよう。
 この場合にも最も著しい現象は栃木・茨城兩縣の間における共通現象の存在であり、東北方言の延長なる場合が多い。
 音韻方面で、語間音の「カ」行「タ」行を、カギ(柿)ハゴ(箱)ハダ(旗)ハド(鳩)の如く有(540)聲化する現象は東北方言の一特質であるが、栃木・茨城兩縣に於ても同樣である、但し栃木縣でも西部の下都賀・阿蘇・足利の各郡に入ると稀になる、兩縣以外では、千葉縣の海上・匝瑳・香取・印旛・山武の各郡にはこの有聲化現象が行はれてゐる。
 栃木・茨城兩縣に、いはゆる尻上り調のイントネーションの行はれてゐる事は世間周知の事實であるが、最近アクセントの研究の進歩につれ、この兩縣のアクセントが關東の他の地方と違つて、宮城・山形・福島と同類の一型アクセントに屬する事が、金田一春彦學士によつて發見された。
 語法方面で、動詞「死ぬ」の活用は、栃木・茨城兩縣と千葉の東北部に於てはシグの形が普通である、これも宮城・山形・福島と一致する、績東の他の地方ではシムが使はれてゐる。連語では兩縣で「見て下さい」の形をミテオクンナンショ・ミテクンナンショ・ミテクナンショといひ、「お見なさい」をミナンショといふ。この言ひ方も福島縣と共通するものである。
 更に一層この栃木・茨城兩方言に東北的の色彩を賦與するのは、助辭の「サ」が廣く行はれてゐる事である、この「サ」は「東へ行く」の如き方向を示す時にも、「机に載せる」の如き地點を示す時にも、「見に行く」の如き目的を示す時にも一樣に用ひられ、「東サ」「机サ」「見サ」といふ。但し目的を示す「サ」は幾分勢力が微弱である。この「サ」は千葉縣にも分布してゐるが、上總では目的を示す場合に限りミサニイグ・ミサイイグ・ミサンイグといふ、安房ではこの場合「サ」を用(541)ひない。
 栃木・茨城兩縣の方言に限り造語上の特色として、動物名に限りウシメ(牛)ハチメ(蜂)の如く「メ」といふ接尾語を附加する慣習がある。かゝる類例は八丈島にあるが、東北方言では福島以外にはない。
 千葉縣は語彙の分布に於て既にその例を見たやうに栃木・茨城とも一致するが、また群馬・埼玉と一致する事が多い。音韻や語法でも同樣である。倒へば關東に於て「カ」行鼻濁音を使用しない地方は、群馬・埼玉・千葉の三縣を貫いて帶?の地域を構成してゐる。この帶?地域に栃木縣の下都賀・安蘇・足利の三郡と茨城縣の猿島郡とをも包括して居る事は、此等各郡が群馬・埼玉と一致する事を示してゐる。(東京府にもこの鼻濁音を使用しない地方があるやうであるが、今後の再調査を待つべきものと思はれる)また「何」をアニ、「何だ」をアンダと言ふ地方は、埼玉・東京府三多摩・神奈川の三縣と千葉縣である。群馬でもこの傾向は微弱ながら認める事ができる。「行きません」は東京市ではユキマセンといふが、群馬・埼玉・三多摩・神奈川に於て「イギマシネー」の形を用ひ、中部方言との績係を見せてゐる。千葉縣でも各地にこの形が使はれてゐる。
 千葉縣特に上總・安房に於ては特異な現象の現はれる事があるが、語間の「カ」行音の子音が脱落する現象もその一つである。(但し山武郡だけは寧ろ下總方言に一致する場合が多く、「カ」行脱(542)落現象は見られない)カイ(柿)カウ(書く)ハタエ(畑)オトオ(男)などはこの例である、「來なかつた」を土總・安房でコナアッタ・コナッタ、上總でキナッタといふのもその一例であらう。
 その外に千葉縣では促音化現象の現はれる場合の多い事が注意される。「行かう」を「イッペ」、「するだらう」をシルダッペ・シッタッペと促音化し、「見てくれろ」をミテクッロ・ミテクッドと促音化する。
 
          五
 
 近來、方言區劃の設定を無用視し、またはその可能性を疑ふ説もある、その理由とするところは單語分布が語によつて區々であり、語法上の區劃、首韻上の區劃と互に相一致せざる事を擧げるのである。然るに今回の調査によつて、語彙・語法・音韻の三規準よりする分布調査が相當の程度に符合する一例を、績東方言の上に發見する事が出來た。
 前章に例證して來た通り、島嶼を除く關東の方言區劃を設定せんとすれば、東の栃木・茨城、西の群馬・埼玉・東京・神奈川、南の千葉の三方言區を設くべきである。但し、東京市とその近郊は特別な地帶であるから東京府から省き、栃木縣に於ては都賀特に下都賀と阿蘇・足利の三郡は、西隣の群馬と一致するものがあり、茨城縣の中、下總に屬する各郡は中間地帶である。埼玉縣は西の(543)秩父に特異な方言が多く、東部特に中仙道以東の地帶亦注意すべきものがある。而して東北的色彩を帶びた東部方言と、幾分本州中部方言の色彩を帶びた西部方言との境界線は、群馬の利根・勢多、栃木の安蘇の各郡の東境を通通し、茨城・千葉の縣界に治うて東走するものと見るべきであらう。
 關東方言に此の如き區劃の發生した原因についてはまだ推定はつかないが、その南境が利根川の線に治ふ事だけは看過する事が出來ない。(昭和十二年十月)