豐後國風土記新考、井上通泰、巧人社、1935.1.25発行、臨川書店、1974.2.20.
 
  本書ヲ著作スルニ當リテ財團法人啓明會
  ヨリ研究補助金ヲ給セラレキ茲ニ同會ニ
  對シテ深厚ナル謝意ヲ表ス
 
 
(1) 豐後國風土記新考目次
緒 言…………………………………………………………一六頁
凡 例……………………………………………………………一頁
本 文………………………………………………………一三六頁
後 記…………………………………………………………二二頁
索 引…………………………………………………………二二頁
 
(3)  豐後國風土記新考本文目次
                           頁
總説…………………………………………………………………一
同 …………………………………………………………………四
日田郡……………………………………………………………一二
 石井郷…………………………………………………………二〇
 鏡坂……………………………………………………………二二
 靱編《ユギアミ》郷…………………………………………二三
 五馬《イツマ》山……………………………………………二九
球珠《クス》郡…………………………………………………三三
直入《ナホリ》郡………………………………………………四〇
 柏原《カシハバラ》郷………………………………………四七
 禰疑《ネギ》野………………………………………………四八
(4) 蹶石《クヱイシ》野…………………………………… 五一
 球※[譚の旁]《クタミ》郷……………………………… 五七
 宮處《ミヤコ》野……………………………………………五八
 救※[譚の旁]《クタミ》峯……………………………… 六一
大野郡……………………………………………………………六四
 海石榴《ツバキ》市・血田…………………………………六六
 網磯《アミシ》野……………………………………………七三
海部《アマ》郡…………………………………………………七五
 丹生郷…………………………………………………………七九
 佐尉郷…………………………………………………………八一
 穗門《ホト》郷………………………………………………八二
大分《オホキダ》郡……………………………………………八八
 大分河…………………………………………………………九六
 酒水《サカミヅ》……………………………………………九七
(5)速見郡……………………………………………………… 九八
 赤湯泉《アカユ》…………………………………………一〇八
 玖倍理湯井《クベリユノヰ》……………………………一一〇
 柚富《ユフ》郷……………………………………………一一七
 柚富峯………………………………………………………一二〇
 頸峯《クビノミネ》………………………………………一二三
 田野…………………………………………………………一二七
 國埼郡………………………………………………………一三一
 伊美《イミ》郷……………………………………………一三五
 
(1)豐後國風土記新考
 
      緒  言
 
豐後風土記はいつの世に出來たか。まづ本居宣長の玉勝間卷一なる「古書どもの事」といふ條に
 かくて風土記も今の世にもかれこれとあるははじめの奈良の御代のにはあらず、やや後の物にてそのさま古きとはいたくかはりて大かたおかしからぬものなり。其中に豐後國のは奈良のなれどただいささかのこりて全からず
といひ、次に荒木田久老は其校正本の跋に
 これの豐後風土記の書は出雲のにつぎて古く正しき文なりけるを云々
と云うて居る。出雲風土記の勘造は天平五年二月である。されば久老は豐後風土記を天平五年以後の撰と認めて居るのである。次に同書に冠らせたる長谷川菅緒の序に
(2) これの豐國の道の後の風土記もうつなき延長の往昔のにしあれば云々
と云うて居る。菅緒は前年に木戸千楯等と共に久老に肥前風土記の※[手偏+交]正訓點を乞うた人であろから此序の説は久老の意を承けたのであらう。少くとも久老の同意を獲たのである。次に田能村孝憲(竹田)は其師豐後岡藩の唐橋世済が作つた箋釋豐後風土記に跋を加へて居るが共跋の中に
 傳云。豐後風土記者延長中奉v勅所v進也。今世|特《ヒトリ》與2出雲風土記1並行。…唐君山先生(○唐橋世済)…甞謂v余曰。是書蓋非2延長之舊1。其跡往々可v見。體裁亦與2出雲風土記1不v類。忽略頗多。恐博古之士私据2日本紀1僞造〔二字傍点〕書也。雖v然豈鎌倉氏以降所2能出1耶と云うて居る。世済は寛政十二年十一月に歿した人で常陸・播磨の風土記を見ぬは勿論、肥前風土記も見なかつたやうであるから之を責むるは酷であるが豐後風土記が節略本なる事を悟らなかつたのである。さるが故に忽略頗多と訝つたのである。試に思へ。吾妻鏡を書いた鎌倉時代の人がどうして本書のやうな古體の漢文を書き得ようぞ。又其時代に上代の豐後國の地理をかばかり深く研究した所謂博古之士があつたとはどうして思はれようぞ。畢竟世済は本書が節略本なる事を悟らず又出雲風土記のみを知りて風土記とい(3)ふものの體裁は必出雲風土記の如くなるべきものと誤信して居たのである。もし肥前風土記だけでも見て居たならばかやうに淺薄なる説は吐かなかつたであらう。次に狩谷望之が(日本古典全集に收めたる門人岡本保孝編纂「毎條千金」の郷里の條に)
 豐後風土記には郷も有り里も有り。此書は疑はしければ今取らずといへるはいぶかしい。本書に郷を里といへる處は無いでは無いか。次に中山信名が本書を出雲風土記と同時代の物とし伴信友が出雲よりは後れたれど延長以前の物であらうと云うた事、然も其説どもは「さう見える」といふ外に何の證據も無い事は肥前風土記新考の緒言に述べた通りである。次に當国臼杵の人鶴峰|戊申《シゲノブ》の臼杵小鑑卷二「豐後國号之説」の條に
 抑豐後風土記ハ醍醐帝ノ延長年中勅テ奉ジテ進ル所ニシテ今世ヒトリ出雲風土記トナラビ行ハルトイフ。然レドモ其體裁出雲風土記ト類セズ。多ク日本紀ノ文ニヨツテ書ヲナス。且〔右△〕白鳥化爲v餅片時之間化2芋草數千殊1々葉冬榮故ヲモツテ豐國ノ名起ルノ説尤イブカシキナリ。コレニヨツテ唐橋世済氏モ甞言是書蓋非2延長之舊1。戊申ヒソカニ考フルニ同ジ風土記載ル所田野ノ故事ニ餅化2白鳥1百姓死絶シ水田遂ニ荒廢スト。シカレバ(4)白鳥化シテ餅トナリ片時ノ間芋草數千株ニ化スルトハ其ウラニテ是ヲ以テ菟名手《ウナデ》治國ノ徳ヲ賀スルモノカ。猶後ノ君子ノ正説ヲマツノミ
と云うて居る。且以下は文意が不明であるが
 餅ガ白鳥ニナツタト云フ田野ノ百姓ノ故事ト、白鳥ガ餅ニナリ更ニ芋ニナツタト云フ菟名手ノ故事ト重複シテ居ルヤウデアルガ餅ガ白鳥ニナルハ凶事、白鳥ガ餅ニナルハ吉事デ、相似テ非ナル事デアル。サウシテ後者ハ菟名手ノ徳ヲタタヘタ傳説デアラウ
といふ意か。又多ク日本紀ノ文ニヨリテ書ヲ成スまでは專箋釋の跋に據つて文を成したのであるが出雲風土記に體裁の類せざる事は問題とすべきで無く寧肥前風土記と體裁の同一なる事が著目すべきであること上に述べた通りである。又日本紀の文と酷似したる處のあるは事實であるが此事實に據つて直に日本紀によつて書を成したといへるは輕率である。元來此小鑑は戊申が其少年の時に作つたのを青年の時に至つて訂正したものであるが、もし壯年晩年の時に之を見たらば更に大訂正を加へたであらう。若い時に書いた物に累さるるは戊申ばかりで無い。余なども常に及ばざる悔を抱いて居る。終に渡邊重春の豐前志|企救《キク》郡の下に
(5) 豐後風土記は出雲常陸などの風土記とは文體いたく異りて稍後世の物とおぼゆれば採り難きこともあり
といへる主なる理由は柏峽《カシハヲ》大野・禰疑《ネギ》野・碵田《オホキダ》國・速見邑・鼠石窟・血田・海石榴《ツバキ》市・城原《キハラ》などを悉く豐前の地名とする著者の説と扞挌するからである。按ずるに日本紀景行天皇十二年に
 冬十月到2碵田國1。其地廣大亦麗。因多2碵田1也。到2速見邑1有2女人1曰2速津媛1爲2一處之長1。其《ソレ》聞2天皇|車駕《イデマシ》1而自奉v迎之諮言《マヲサク》。茲山有2大石窟1曰2鼠石窟1。有2二土蜘蛛1住2其石窟1。一曰v青二曰v白。又於2直入《ナホリ》郡禰疑野1有2三土蜘蛛1。一曰2打※[獣偏+爰]1二曰2八田1三曰2國摩侶1。是《コノ》五人並其爲v人強力、亦衆類多之。皆曰。不v從2皇命1。若強|喚者《メサバ》興v兵距焉。天皇惡v之不2得進行1即留2于|來田見《クタミ》邑1權《カリニ》興2宮室1而居之。仍與2群臣1議之曰。今多動2兵衆1以討2土蜘蛛1、若其畏2我兵勢1將v隱2山野1必爲2後愁1。則採2海石榴樹1作v椎爲v兵、因簡《エラビ》2猛卒1授2兵椎1以穿v山排v草襲2石室之土蜘蛛1而破2于稻葉川上1悉殺2其黨1。血流至v踝。故時人其作2海石榴椎1之處曰2海石榴市1、亦血流之處曰2血田1也。復將v討2打※[獣偏+爰]1徑度2禰疑山1之時賊虜之矢横自v山射之、流2於官軍前1如v雨。天皇更返2城原1而卜2於水上1、便《スナハチ》勒v兵先撃2八田於禰疑野1而破。爰打※[獣偏+爰]謂v不v可v勝而謂v服。然不v許矣。皆自投2洞谷1而死之。天皇初將v討v賊次2于柏峽大野1。其野有v石。長六尺、廣三尺、厚一尺五寸。天皇祈之曰。朕得v滅2土蜘蛛1者將v蹶2茲石1如2柏葉1而(6)擧焉。因蹶v之則如v柏上2於大虚1。故号2其石1曰2蹈石1也。是時祷神則志我神・直入物部神・直入中臣神三神矣
とあると本書速見郡の下に
 於2此村1有2女人1名曰2速津媛1爲2其處之長1。即聞2天皇行幸1親自奉v迎奏言。此有2大磐窟1曰2鼠磐窟1。土蜘蛛二人住之。其名曰2青白1。又於2直入郡禰疑野1有2土蜘蛛三人1。其名曰2打※[獣偏+爰]・八田・國摩侶1。是五人竝爲v人強暴、衆類亦多在。悉皆謠云。不v從2皇命1。若強喚者與v兵距焉
といひ大野郡海石榴市・血田の下に
 詔2群臣1伐2抹梅石榴樹1作v椎爲v兵、即簡2猛卒1授2兵椎1以穿v山排v草襲2石室土蜘蛛1而悉誅殺。流血没v踝。其作v椎之處曰2梅石榴市1、亦流v血之處曰2血田1也
といひ直入郡|蹶石《クエイシ》野の下に
 同天皇欲v伐2土蜘蛛之賊1幸2於柏峽大野1。其野中有v石。長六尺、廣三尺、厚一尺五寸。天皇祈之曰。
 朕將v滅2此賊1者當v蹶2茲石1譬如2柏葉1而擧焉。即蹶v之騰如2柏葉1。因曰2蹶石野1
といへると其文辭が殆同一であるから日本紀が風土記から取つたとするか又は唐橋世済・鶴峰戊申などの説のやうに風土記が日本紀から取つたとせねばならぬが、肥前風土記(7)新考の緒言に云うた通り風土記は太政官に奉るものであるから若日本紀の或節を取るならば其儘に取るべきであつて勅撰の日本紀の文辭を添削して取らう筈が無い。又右に擧げた文の中でも日本紀の朕得〔右△〕v滅2土蜘蛛1者將〔右△〕v蹶2茲石1如2柏葉1而擧焉と風土記の朕將〔右△〕v滅2此賊1者當〔右△〕v蹶2茲石1譬如2柏葉1而擧焉との如く明に風土記の方が劣つて居る處がある。されば右の文は日本紀が本書から取つたので日本紀編纂の時に本書を一資料としたのである。但破2于稻葉川上1といふ事の本書に見えぬは今の略本ならぬ原の全本の或節にあつたか又は別に據る所があつたのであらう。さて本書が日本紀の資料となつたとすれば本書は里を郷に改められしより後、日本紀を編纂せられしより前、即元正天皇の靈龜元年から養老四年までの間に撰進したのである
 ○豐後風土記を養老四年以前に即日本紀より前に成つたものとする余の説の妨となる事が二つある。其一は國府のありし大分郡の下に寺貮所(僧寺尼寺)とあつて其寺が金光明四天王護國寺及法華滅罪寺(即國分僧寺及國分尼寺)であるやうに見える事である。一般の説に依れば國分寺の設立は天平十三年三月の發詔以後であるが實は此時の詔には
(8) 宜v令d天下諸國各敬2造七重塔一區1并寫2金光明最勝王經・妙法蓮華經各十部u。朕又別|擬(トス)d寫2金字金光明最勝王經1毎v塔各令uv置一部1
また                              
 毎v國僧寺施2封五十戸水田十町、尼寺水田十町1。僧寺必令v有2二十僧1其寺名爲2金光明四天王護國之寺1、尼寺一十尼、其名爲2法華滅罪之寺1。兩寺相共宜v受2教戒1
とあるのみで國毎ニ國府ニ近ク僧寺尼寺各一所ヲ造ラシムベシなどは無いつ。右兩節の中間なる其造塔之寺兼爲2國花1必擇2好處1實可2長久1といふ文は在來の寺に塔を造らしめられるやうにも新に寺を建てしめられるやうにも聞える。然し天平十九年十一月の詔に
 朕以2去天平十三年二月十四日1至心發願欲v使2國家永固、聖法恒修1遍詔2天下諸國1國|別《ゴトニ》令v造2金光明寺・法華寺1其金光明寺各造2七重塔一區1并寫2金字金光明經一部1安2置塔裏1。而諸國司等怠緩不v行、或廃寺不v便或猶未2開基1。々々々限2來三年以前1造2塔・金堂・僧房1悉皆令v了
とあるを見ればやはり天平十三年(二月か三月か)に諸國をして寺(金堂・僧房)を造らしめられたのであるが不審なる事にはそれより前即同年正月の下に三千戸施2入諸國國分(9)寺〔三字傍点〕1以充d造2丈六佛像1之料uとある。これに由りて國分寺の設立を泝つて天平十二年とし同年六月の詔に令d天下諸國毎v國寫2法華經十部1并建c七重塔u焉とあるに充てようとする説もあるが天平十九年十一月の詔並に束大寺藏天平勝寶五年正月の銅板詔書に據れば國毎に國分兩寺を造る事を命ぜられたのは明に天平十三年である。然し諸國の國分寺は悉皆此年以後に造つたものでは無く教化の必要上夙く國府の附近に一國の諸寺の首たるべき僧寺尼寺を有したりし國もあるであらう(たとへば續紀大寶元年八月の下に觀世音寺・筑紫尼寺とある、これは太宰府にあつた僧寺尼寺である)。但それが總稱を何と云うたかは分らぬ。國史に國分寺といふ名の見えたるは前述の如く天平十三年正月が始である。國分寺に關する論述は澤山あるであらうにそれ等から更に啓發を受けず又一切それ等を渉獵せずに妄にかやうな事を述べるのは余の目的は國分寺の濫觴を研究するので無く天平十三年以前に國府附近に僧寺尼寺があつても支障が無いといふ事を明にするにあるからである
今一つ余の説の妨となる事は本書大野郡海石榴市・血田の下に流血沒踝とある事である。景行天皇紀十二年の同じ記事には血流至踝とある。血流至踝は南史侯安都傳に例が(10)あるが、それは頭などから流下る血が足の踝に達したと云ふ事で、ここにはかなはぬ。ここは地上にたまれる血が踝を隱すばかりであつたと云ふ事であるから風土記のやうに流血没踝と無ければならぬ。もし日本紀が風土記より後に成つたものならば風土記の妥ならざる處を改めこそすべけれ、今はそれが倒になつて居るから日本紀が先、風土記が後ではあるまいか。さうして風土記に流血没踝とあるは神武天皇紀に兄猾《エウカシ》が死にし處に
 時陳2其屍1而斬v之流血没v踝。故号2其地1曰2菟田《ウダノ》血原1
とあるを學んだのではあるまいか。以上は假に或人となつて余の説を難じたのであるが流血没踝は恐らくは漢籍に例があつて神武天皇紀も豐後風土記も共にそれに據つたのであらう。但何の書の何處にあるかまだ見當らぬ。谷川士清の曰本書紀通證に四字見2魏書1とあるが此四字を※[手偏+僉]出する爲に魏書を再讀する事は得せぬ
次に述ぶべきは本書と肥前風土記との類似である。唐橋氏も云へる如く本書の體裁は出雲風土記などとは似て居らぬ。然し肥前風土記の體裁とは全く同一である。即まづ卷頭に郡驛烽寺の數を幾所と擧げ次に國号總説を擧け(その冒頭に豐後國者本與2豐前國1合爲2一(11)國1と書けるも彼書の肥前國者本與2肥後國1合爲2一國1と同一なり)次に郡名の下に郷驛等幾所と擧げ郷數の下に里數を註し次に郡内の郷名並に其他の地名の下に在2郡西1、在2郡東南1とやうに郡家よりの方位を註したるなど彼此全く相齊しい。かやうに體裁の全く同一なるのみならず文辭も亦相同じき又は相似たるが少く無い。其若干を云はば總説の日晩僑宿は肥前風土記總説の日晩止宿と相似、同節の菟名手即勅2僕者1遣v看2其鳥1は彼書|高來《タク》郡の仍勅2神《ミワノノ》大野宿禰1遣v看v之と相似、同節の擧状奏聞は彼書總説の更擧2燎火之状1奏聞と相似、日田郡の昔者纏向日代宮御宇大足彦天皇征2伐玖磨※[口+曽]※[口+於]1凱旋之時は彼書|彼杵《ソノキ》郡の昔者纏向日代宮御宇天皇誅2滅球磨※[口+曽]※[口+於]1凱旋之時と相似、石井郷の年魚多在は彼書藤津郡鹽田川の年魚多在と相同じく靱編郷の其|邑阿自《オホアシ》後就2於此村1造v宅居之。因v斯名曰2靱部村1は彼書大家嶋の自v爾以來白水郎等就2於此嶋1造v宅居之。因曰2大家嶋1と相似、頸峯の若垂2大恩1得2更存1者は彼書|値嘉《チカ》嶋の若降2恩情1得2再生1者と相似て居る。體裁の同一なる事のみならば甲が先成つて乙がそれに倣うたと見てもよいが文辭が右の如く相似て居るのは同一人の手に成つた爲と見るが至當であらう。肥前風土記新考の緒言に云へる如く九國三島の風土記は恐らくは各國各島から太宰府に提出した資料又は稿本に據つて太宰府で同一人が編纂撰(12)定したのであらう。但本書の肥前風土記に異なるは斯其縁也といへると因斯といへると自時以來又は自時以降といへるとの三辭のみである。かやうに僅に二三辭でも特色のあるのは稿本の作者の筆癖が其儘に殘つて居るのであらう
余は不幸にして本書の古寫本を見た事が無いが世間には殘つて居らぬでも無いと見えて箋釋本の跋に
 唐君山先生方d撰2國志1之日u偶於2一故家1得2嘉禎中鈔本1。蠹食相半。先生遂手録一過、精2核同異1分2柝是非1稽v古徴v今詳施2註釋1
とある。嘉禎は四條天皇の御代、所謂鎌倉時代の初期で今より凡七百年の昔であるが世済は奥書だに存ぜぬ程の無關心者であるから其箋釋本は果して嘉禎鈔本のままなりや甚おぼつかない。否往々意を以て改めたのでは無いかと疑はるる處がある。右の文中に精2核同異1分2柝是非1とあり又右の文の前に有2鈔本數種1好事家傳以珍藏焉とあるから世済は數本を以て所謂嘉禎本と對校したのであるが其中の一本は久保田滿明君が貸された本の原本である。久保田本の奥書に
 右風土記殘冊者藤秋峯叟之秘書樓之本地。強求v之歴覧焉、竊寫v之云
(13) 藤秋峰不v知2何人1。此書得2之我門人源安崇1傳寫以爲2家藏1。今因2中川君(○岡藩主)需1寫呈v之云。
 寛延二年己巳仲秋廿四日 武江隱者容齋矢道垣書(○左傍に朱にて住2束都西久保1稱2矢野丹衛門1儒者と註せり)
 此書以2矢道垣之所v(○以上八字久保田本に缺失せり。今海量舊藏本を以て之を補ふ)呈之書1寫v之○于v時安永十年(○天明元年)辛丑三月子(○海量本には支の上に一字分を明けたり。于を書殘したるなり)伊藤猛(○左傍に朱にて豊後岡人号2伊藤文藏1儒者と註せり)于v時寛政八丙辰歳二月東本願寺使僧|從《ヨリ》2淨林坊辨惠1傳2得之1寫v之 朝長圖書滕正喬
とある。此本は數本と校合してあるが本文の後、右の奥書の前に藍にて 題曰。永仁五年二月十四日書寫畢。同十九日一校了
 風土記者我邦之要書也。展轉※[言+比]謬不v少。今也應2中川丈人(○岡藩家老か)之求1滴2朱露1下2墨字1者《テヘリ》。只恐有2三豕渡川之事1噫 寛文壬寅(〇二年)夏六月中休|渉《ヤル》2筆于浪速存心軒1 如松子
と記してある。此等の奥書によつて岡藩が夙くから本書の善本異本を獲るに勤めた事と同藩の儒醫なる唐橋世済が此等の本を見た事とが知られる。伊藤猛は字を寛叔号を鏡河と云うて儒を以て岡藩に仕へた人で世済の沒後に田能村孝憲と共に箋釋並に國志を補(14)訂した人である。三豕渡川は己亥を三豕と誤つた事で孔子家語に出て居る。如松子、氏は福住、名は嘉、通稱は道祐、如松子・存心軒の外に竹溪逸人・梅林老夫の号がある。浪華尼崎町に住みし醫で、森尚謙などの師で、藏書家であつたといふ(據森銑三君報告)。※[言+比]謬は紕繆の誤寫かと思うたが存心軒書目の自序にも言扁に書いて居るから如松子自身かやうに書いたのである。次に久老本の末に
 一本云。永仁五年二月十四日書寫畢。同十九日一校丁
 文録四乙未年臘月三日書寫※[手偏+交]合等了 梵舜
とある。文緑四年は後陽成天皇の御代で今より三百三十九年の前であるが久老の見た本は梵舜自鈔の本では無くて幾傳かの轉寫本であらう。さて久老本の自拔には「よついつつの異なるを集てかれに依くれにあらためて」と云うて居る。栗田博士は其標注本の凡例に據れば異本を獲られなかつたと見える
豐後風土記も肥前風土記と同じく久老の※[手偏+交]正本が最廣く行はれて居る。その自跋の末に
 寛政十二年五月都のやどりにして※[手偏+交]ぬ 從四位下荒木田神主久老
とある。箋釋豐後風土記は上に述べたる如く豐後岡藩の唐橋世済の著で其歿後文化元年(15)に其門人田能村孝憲が苦辛して上梓したものであるが僅しか刷らなかつたと見えて傳本が極めて乏しい。大正十五年に日本古典全集刊行會から古風土記集を出す時に此書を収載しようと思うて正宗敦夫君が豐後の知人に頼んでまで探したが手に入らなかつた。然るに偶然に余が一本を藏せるを聞いて大に喜んで借用したいと乞うたから余も喜んで其乞に應じた。當時古典全集本は澤山印刷したから箋釋も世間に行亙つた筈である。君山も竹田も幽界で大に正宗君等に感謝して居るであらう。君山の傳も、竹田が藏書を賣拂ひ又知人の助力を乞うて亡師の遺著を出版した涙ぐましい美談も共に彼古風土記集の解題に出て居る。さて余が正宗君に貸した本は其年の一月に大阪の斎藤周吉君から贈られたのである。栗田寛博士の標注本は明治三十二年發行の樓注古風土記の中に出て居るが骨を折られたものとは思はれぬ。右の外に豐後風土記は群書類從卷四百九十九に收めてあるがこれは勿論素本である。又明治三十二年(即栗田氏の標注と同年)に刊行した故渡邊重春著の豐前志に重春の息重兄君が校訂した素本が附載してある。此外にも夙く本書の出版せられた事があるかも知れぬが南天莊文庫にある物はこれだけである
本書の研究も亦國漢文學・國史學・地理學・國語學等に渉るべき事勿論であるが唐橋氏の箋(16)釋はさすがに地理だけはよく研究して居る。此人には又豐後國志の名著がある。伊藤常足の太宰管内志は元來すぐれたる歴史地理書であるが、その豐後の部に引きたる同國人森春樹の龜山隨筆と同國|日出《ヒヂ》藩の名儒帆足萬里の説とには箋釋を補ひ又は訂すべきものがある。余が本書を研究するに當つて地理には肥前風土記ほど骨が折れなかつたのは右の諸氏の賜である。蛇足のやうではあるがなほ一言を添へんに豐後國志に以上幾村舊屬某郷と書ける類の郷は莊と並立せし後世の郷で本書に云へる郷と出入あり廣狹の差ある事勿論である
 
    昭和九年四月八日
 
 
(1)      豐後國風土記新考凡例
 
本文は荒木田久老の校訂本に據る。但その改字補字は頭書に依りて所謂舊本即原本に復す。久老の改字補字は必しも正しからざればなり。又卷頭に「風土記 豐後國」とあるは猪熊本肥前風土記にただ肥前國とあるを例として豐後國の三字とす
久老本に據れるは本風土記の通行本はやがて此本なればなり
一般古抄本の例を思ふに久老本は原本所用の宇體を變更したるもの少からざるに似たり。さる疑はあれどなほ偏に久老本に據れるは久老本所用の字體の方少くとも活版にうつしやすく又現代の讀者に適すればなり
久老本の分註は皆一行に改めて括弧内に収む。其他も體裁は必しも原に從はず
本風土記は正しくは豐後國風土記と稱すべし。新考の外題を始として書中にも徃々豐後風土記と書けるは略したるなり。他の國のも然せり
 
(1)豐後國風土記新考
                     井上通泰著
豐後國
 
郡捌所(郷四十、里一百十) 驛玖所(並小路) 烽伍所(※[□の中に並]下國) 寺貳所(僧寺、尼寺)
 
新考 流布本即久老本の内題には「風土記 豐後國」とあり肥前風土記の内題をも「風土記 肥前國」としたれど肥前風土記の古寫本なる猪熊本に風土記の三宇無ければ今はそれに準じて風土記の三字を削りつ。但本書の内容即郡捌所以下は久老本に據り、ただ久老が自按を以て改めたる處のみその原本に復する事肥前風土記新考の例の如し○箋釋本などの初に日本總國風土記とあるはいぶかし。恐らくは後人が妄に加へたるな(2)らむ○和名抄國名に豊後(止與久邇乃美知乃之利)とあり。後にブンゴといふは豐の呉音ブをはねたるなり。豐原氏を略したる伶人の豐氏もブンと唱ふ○延喜民部式に
 西海道豐後國上 管日田・球珠・直入・大野・海部・大分・速見・國崎(〇崎一本作v埼)
また和名抄郡名に
 豐後國(國府在2大分郡1)管八 日高(比多)球珠(久須)直入(奈保里)大野(於保乃)海部(安萬)大分(於保伊多)速見(波夜美)國埼(君佐木)
とあり。即延喜式の日田を和名抄に日高とせり。これに就いても、和名抄大分の訓註於保伊多と國埼の訓註君佐木とに就いても各其下に云ふべし。當國今は日田《ヒダ》・玖〔右△〕珠《・クス》・直入《ナホリ》・大野・南北|海部《アマベ》・大分《オホイタ》・速見・東西|國東《クニサキ》の十郡に分れ豐前國の宇佐・下毛《シモケ》二郡と共に大分縣に隷せり。豐前國は近古の俗に高瀬川一名山國川を界として以東を東豐前といひ以西を西豐前といひき。今大分縣に入れるは所謂東豐前の二郡なり○此國も肥前國も風土記に下國とあるに延喜式には上國とあり。第四等國なりしが奈良朝の末又は平安朝の始に第二等國に進みしにこそ。さて二國を下國としたるも亦二國の風土記が所謂延長新撰にあらざる證とすべし。此國は九州の東北端に在りて北は周防灘に、東北は伊豫灘に、東は(3)豐後水道に臨めり。豐後水道の北端を佐賀關海峽といふ。當國北|海部《アマベ》郡佐賀關の地藏崎と伊豫國西宇和郡佐田岬との間に當ればなり。陸の方にては西北は豐前に、西は筑前筑後に、西南は肥後に、南は日向に續けり○郷名の和名抄に見えたるは四十七所なれど其中にて大分郡の笠祖は重複なるべく又直入郡の三宅の一と日高郡下の五郷とは明に重複なれば之を省きて適に四十郷なり。但和名抄の郷名には脱漏ありとおぼゆれば(たとへば直入郡の柏原・球※[譚の旁]《クタミ》二郷)和名抄時代の豐後國の郷數は風土記撰進の時より多かりけむ。律書殘篇の國名表(延歴遷都以前の作製)には豐後國郡八、郷四十、里百十とありて適に本書と合へり○驛は延喜兵部式に
 豐後國驛馬 小野十疋、荒田・石井・直入・三重・丹生・高坂・長湯・由布各五疋
 傳馬 日田・球珠・大野・海部・大分・速見郡各五疋
とあり。小路なれば各驛五疋なるべきに小野に限りて十疋となれるは如何。此事は一の謎なり。日向界の山路を控へたる故なりといふ解釋に甘んずべからず。なほ後に云ふべし。並小路の並字肥前風土記には無し。並下國の並字は衍字ならむ○寺貳所(僧寺尼寺)は共に大分郡に在り
 
(4)豐後國者本與2豐前國1合爲2一國1。昔者《ムカシ》纏向日代宮御宇《マキムクノヒシロノミヤニアメノシタシロシメシシ》大|足《タラシ》彦天皇詔2豐國|直《アタヒ》等之祖|菟名手《ウナデ》1遣v治《ヲサメシム》2豐國1。徃到2豐前國仲津郡中臣村1。于《ソノ》時日晩僑宿。明日昧爽忽有2白鳥1從v北飛來翔2集此村1。菟名手即|勸〔左△〕《ノリテ》2僕者1遣v看《ミシム》2其鳥1。鳥化爲v餅、片時之間|更《マタ》化2芋草數千許1、株※[□の中に花]葉冬(ナガラ)榮。菟名手見v之爲v異《アヤシ》歡喜云。化生之芋未2曾有1v見。實至徳之感、乾坤之瑞。既《カクテ》而參2上朝庭1擧v状奏※[□の中に已上本]聞。天皇於v茲歡喜之、有〔左△〕即《スナハチ》勅2菟名手1云。天之瑞物、地之豐草《トヨクサナリ》。汝之治國可v謂2豐國《トトクニ》1。重〔左△〕《マタ》賜v姓曰2豐國|直《アタヒ》1。因曰2豐國1。後分2兩國1以2豐後國1爲v名
 
新考 纏向日代宮御宇大足彦天皇は景行天皇の御事なり○直はアタヒとよむべし。アタヘとよむはわろし。直と書けるは無論借字なり○豐國直等之祖菟名手は景行天皇紀に
 十二年秋七月熊襲反之、不2朝貢1。八月幸2筑紫1。九月到2周芳婆磨《スハノサバ》1時天皇南望之詔2群卿1曰。於2南方1烟氣多起。必賊將v在《アラムト》。則|留《トドマリ》之先遣2多臣《オホノオミ》祖|武諸木《タケモロキ》・國前《クニサキ》臣祖菟名手〔三字傍点〕・物部君祖夏花1令v察《アキラメシム》2(5)其状1
とあり。國造本紀には
 豐國|造《ミヤツコ》 志賀高穴穗朝御代|伊甚《イジミ》國造同祖宇那|足尼《スクネ》定2賜國造1
 國前國造 志賀高穴穗朝吉備臣同祖吉備都彦命六世午〔左△〕佐自命定2賜國造1
とあり。栗田氏は午佐自を宇佐自として
 手佐自は菟名手ト相近ク聞ユレバ決メテ同人ナルベシ
と云へれど菟名手と宇佐自とは相近く聞えず又人名を書くに音訓を交へては書くべからず。午佐自は或は牟佐自の誤か。和名抄國埼郡の郷名に武藏あり。古事記孝靈天皇の段には
 次日子刺肩別命者豐國之國前臣之祖也
とあり。ヒコサシカタワケノ命は大吉備津日子命・若|建《タケ》吉備津日子命の御弟なり。又或は豐國造宇那足尼とあるは宇那弖足尼の脱字か。もし然りとすれば風土記と國造本紀とは相合へど日本紀に菟名手を國前臣祖といへると相合はず。國前臣は即國前國造なるべければなり○菟名手の名義は溝洫《コウキヨク》のウナデか○遣治の遣は下文の遣看の遣とひと(6)しく令又は使の如くつかへるなり。されば遣治はヲサメシム(うるはしくはヲサメシメタマヒキ)とよむべし○豐國は古事記に
 次生2筑紫嶋1。此嶋亦身一而有2面四1。毎v面有v名。故筑紫國謂2白日別1、豐國謂2豐日別〔六字傍点〕1、肥國謂2建日向豐久士比泥別1、熊曾國謂2建曰別1
とありて略、後の豐前豐後兩國に當るべき事勿論なるが豐前豐後と分れし時代は明ならず。豐前國の名の初出は景行天皇紀に豐前國|長峽《ナガヲ》縣とあり。豐前國あらば同時に豐後國もあるべきなれど、こは後を前にめぐらして云へるにて當時夙く豐前國ありし證とはすべからず。文武天皇紀に二年九月乙酉令3豐後國獻2眞朱1とあり。又正倉院文書の大寶二年戸籍に豐前國|上三毛《カムツミケ》郡又豐前國仲津郡とあり。又同年のと思はるる戸籍に豐後國印を捺したり。されば文武天皇の御世の程に夙く二國に分れたりし事は明なり。國造本紀には豐國造・宇佐國造・國前國造・比多國造を擧げたり。宇佐國造は夙く神武天皇の御世に定め給ひ其他は成務天皇の御世に定め給ひしなり。又火國造の下に大分國造の名見えたり。右の豐國は狹義の豐國なり。此國々の外に景行天皇紀に直入縣見えたり。同紀に碩田《オホキタ》國とあるは即大分國なり。されば廣義の豐國の中に或時代にはあまたの國及縣あ(7)りしを其國及縣を廢せられし後に豐國を豐前豐後の二國に分たれしなり。渡邊重春の豐前志に
 偖豐國を古訓にしたがひて本居翁もトヨクニと訓まれ我師(○平田篤胤)の古史成文にも夫に雷同せられたるは如何ぞや。是は必トヨノクニと訓むべきをや。然らずば肥國をヒクニ、越國をコシクニ、吉備國をキビクニと訓むべきを然訓める例無きを以て知るべし。萬葉集の歌なる豐國も悉くトヨノクニと訓むべくこそといへれど韓國をカラクニとよめる例あり又和名抄に豐前豐後を止與久邇ノミチノクチ止與久邇ノミチノシリとよめろを思へば昔よりトヨクニと唱へ來りしにこそ。又萬葉集に豐國之・豐國乃・豐國能・豐州・豐國と書ける歌九首ある、之をトヨノクニとよめば六言となりて詞宜しからねば若トヨノクニと訓むべくば寧下のノを略してトヨノクニカガミノ山ニ・トヨノクニキクノハマ邊ノなどいふべきを豐國乃・豐國之と特に乃・之を添へたるを見ればなほトヨクニとよむべきなり○豐前國仲津郡は今|京都《ミヤコ》郡に入れり。中臣は和名抄の郷名に見えたり。伊藤常足の太宰管内志に
 國人云。仲津郡草場村、古は中臣村と云りし由古き村名帳などに見えたりと云り
(8)といひ豐前志(再刊本一二七頁)に
 中臣郷 此の名今は廢れたり。應永宇佐宮寺造営日記に當宮一御殿定燈御料所豐前國仲津郡内中臣〔二字傍点〕今男八丁御寄附云々と見えたれば此の頃までは中臣の名を存ししなり。……徃昔は久富・福富・彌富の三村を總べて中臣郷と云ひしが後に分れて三村となれる時好字を以て如此分ち云へるには非るか
といひ大日本地名辭書には
 中臣卿 今、今元村並に泉村なるべし。諸書中臣郷を以て草場彌富の邊としたるは全く其實に反するごとし
といへり○僑は寄留なり。されば僑宿はタビヤドリなり。日晩僑宿は肥前風土記の總説に日晩止宿とあるに似たり。昧爽は未明なり○勸は異本に勤とも勒とも勅とも命ともあり。栗田氏は勅トアルハ勒ト宇體近キヨリ誤レルモノナリといへれど勅を正しとすべきか。古典に徃々天子ならぬ常人の言にも勅宇を用ひたり。即ノル・ツグに充てたるなり。
 ○イマシムの意なる勅は史記にも君臣相※[勅の力が攵]と見えて臣下にも用ふるは常の事なり。(9)今いふはそれにはあらず
たとへば播磨風土記|宍禾《シサハ》郡川音村の下に天日|槍《ホコ》命宿2於此村1勅〔右△〕2川音甚高1とあり。漢籍にもたとへば世説新語、棲逸篇南陽劉之云々の條に
 ケ粲晋紀曰。……桓沖(○荊州刺史)甞至2其家1。之方條《エダトルv桑。謂v沖。使君既枉v駕光臨。宜3先詣2家君1。沖遂詣2其父1。父命2之1。然後乃還、排2※[衣偏+豆]褐1(〇三字宋※[斬/木]本に依る。王世貞の補本には被短褐に作れり)與v沖言。父使2之自持1v濁酒※[草冠/俎]菜(○ツケモノ)供1v賓。沖※[勅の力が攵]〔右△〕v人代v之。父辭曰。若|使《ツカハバ》2官人1則非2野人之意1也。沖爲慨然。至v昏乃退
とあり。※[勅の力が攵]は勅の正字なり。さて菟名手即勅2僕者1遣vr看2其鳥1とあると肥前風土記|高來《タク》郡の下に仍勅2神《ミワノ》大野宿禰1遣v看v之とあると文辭の相似たるに注目すべし。此事は取束ねて緒言に云へり○芋草を久老がウモと訓じたるは萬葉集卷十六に
 はちす葉はかくこそあるもの意吉《オキ》麻呂が家なるものは宇毛の葉にあらし
とあるに依れるなり。芋には青芋(サトイモ)と白芋(ハスイモ)とあり。白芋の葉は特によく荷葉に似たり。片時之間の下、久老本には更化2芋草數千許株1花〔右△〕葉冬榮とありて頭註に花一本無之といひ箋釋本には化2芋草數千株1株葉冬榮とありて(即更字・許字無くて株字重(10)なれり)註に株下一有2花字1誤矣といひ又二寫本に化芋草數千許株葉冬榮とあり。宜しく久老本より更字を取來りて二寫本に補ひて更化2芋草數千許1株葉冬榮とすべし。思ふに箋釋本は許を株に誤り又は改めたるならむ。又久老は誤りて株字を上に附けて更《マタ》芋草數千許株ニ化レリとよみ、その爲に葉が一字となりて調あしくなれるより一本より花字を取來れるならむ。ともかくも花葉とあるは可ならず。芋には花らしき花無ければなり。但箋釋に芋無花といへるは非なり。芋にも花はあり。さて芋は元來外國より來りし物なるべきに夙く景行天皇の御世に渡りたりしにやと訝らむは愚なり。ここに言へるは傳説のみ○冬榮を久老が冬モサカユと訓じたるはわろし。前の季節より冬に亙りて觀祭せし趣にあらで端的の光景を述べたるなれば冬モとはいふべからず。宜しく冬ナガラサカエタリと訓ずべし。さてここは白鳥が餅になりしなるが、それとは反對に餅が白鳥になりし例は下文速見郡田野の下に
 已富大奢作v餅爲v的。于時餅化2白鳥1發《タチテ》而南飛とあり又山城風土記の逸文に
 伊呂具秦公《イログノハダノキミ》積2稻梁1有2富裕1。仍用v餅爲v的者化成2白鳥1飛翔居2山峯1伊奈利|生《オヒキ》
(11)とあり○歡喜云。化生之芋未2曾有1v見は肥前風土記總説に天皇勅曰。所v奏之事未2曾所1v聞とあると文辭相似たり。至徳之感、乾坤之瑞は音讀すべし○擧状奏已上本聞の本を久老は奉に改めたれど状はソノサマなれば已上はこれと重複し又奉聞は奏と重複せり。箋釋本には已上本の三字無くて擧状奏聞とあり。之に從ふべし。肥前風土記總説にも更擧2燎火之状1奏聞とあり○天皇於v茲歓喜之有〔右△〕即勅2莵名手1云の有を久老は在に改めてその歡喜之在をヨロコビオホマシマシと訓じたれど在としても妥ならず。恐らくは便の誤ならむ。もし然らば歡喜之の下を句とし之字を助字とし便即を聯ねてスナハチとよむべし。便即は國漢の古典に多くつかへり。肥前風土記|姫社《ヒメゴソ》郷の下にも見えたり○瑞物を久老はアヤモノと訓じたれどシルシモノとよむか又は寧音讀すべし。神護景雲元年八月の宣命の傍訓に大瑞をオホキシルシ又ダイズヰとよめり○豐草のトヨはトヨミキ・トヨアシハラなどのトヨにて最上のたたへ辭なり。この豐草こそ邦語に漢字を充てたるなれば訓讀すべけれ。漢語の豐草、たとへば詩經小雅湛露の湛湛露斯在彼豐草(湛々タル露ハカノ豐草ニアリ)また大雅生民の※[草冠/弗]厥豐草種之黄茂(カノ豐草ヲハラヒテコノ黄茂ヲウエタリ)の豐草は勿論、下りて漢書司馬相如傳の諫獵上疏に渉2豐草1騁2丘虚1といひ(虚(12)は墟なり。史記には渉2乎蓬蒿1馳2乎丘墳1とあり)貞觀政要(※[田+攵]獵第三十八)に踐2深林1渉2豐草1といひ杜甫の沙苑行に豐草青々寒不v死といへるなどは皆茂草にてここなると別なり○重賜姓曰豐國直とありては前に姓を賜ひしが再姓を賜ひし如く聞ゆ。恐らくは重は更の誤にて豐國といふ國号を賜ひ又豐國直といふ姓を賜ひきといへるならむ。上にも片時之間|更《マタ》化2芋草數千許1とあり
 
   日田都  郷伍所(里一十四)驛壹所
昔者《ムカシ》纏向日代宮御宇大足彦天皇征2伐|玖磨※[口+贈]※[口+於]《クマソ》1凱旋之時發2筑後國|生葉《イクハ》行宮1幸2於此郡1。有v神名曰2久津《ヒサツ》媛1。化而爲v人參迎、辨2申國(ノ)消息1。因v斯曰2久津媛之郡1。今謂2日田郡1者|訛也《ナマレルナリ》
 
新考 日田郡は今ヒダと唱ふ。豐後國の西端に在りて他郡の水が東又は北又は南に流れて周防灘・伊豫灘・豐後※[さんずい+彎]・豐後水道に注げるに反して玖球《クス》郡と本郡との水は相集りて西に流れ筑後國を繞りて筑紫海に注げり。筑後川即是なり。本郡の今の主邑は日田町なり○郡名は延喜式に日田とあるを和名抄には日高と書きて比多と訓註せり。もしこれが逆ならば初にヒタカといひしを略してヒタといひ終に日田の二字を充てたるなりとも認むべけれど後出の書に日高とあるなれば日高とあるは日田の誤記又は誤寫にあらざるかと疑はる。管内志に
 高は田を誤るかとも思ひしかど同書(○和名抄)九卷に肥前國小城郡高來(ハ)多久とも見えたれば誤にもあらざるべきか
といへるはタカクをタクと約したるとヒタカのカを略したるとを同視したるにて同意せられず。國造本紀にも
 比多〔二字傍点〕國造 志賀高穴穂朝御世葛城國造同祖|止波足尼《トバノスクネ》定2賜國造1
とあり。然るに今本郡三芳村の大字に日高ありてヒタカと唱へ又唐橋世済の豐後國志に豐西記爲2日鷹國1といひ又
 豐西記曰。斯國鴻荒之世衆山環2四面1。中有2大湖1濶千餘頃。百谿注焉、洋々水湛。適有2大鷹1自v東飛來※[鼻+羽]2翔湖上1北向而去。俄然地震鳴動白日如v晦。西崖崩裂水傾涸竭更作2平野1。所v餘三岡鼎立、水痕唯留2一帶川1。其南岡名2日隈1北名2月隈1西名2星隈1國名2日鷹〔四字傍点〕1。又其飛去之國名2鷹(14)羽1。蓋豐前國高羽郡(○田川郡)是也
とあり。此等に依りて和名抄の日高は誤字にあらじと思ふ人もあるべけれど三芳村の大字日高は國志の本郡の村一百二十二の中に見えざるのみならず此地方の地理學者森春樹の龜山鈔の「比多國日田郡となれる事」「日田の町は田嶋に在し由來」などの條にも見えざれば恐らくは古名にあらじ。 ○新に獲たる一郷土誌に據れば明治八年に刀連・上井手・下井手の三村を合せて新に日高村と名づけ〔九字傍点〕、同十七年に田島・日高・求來里《ククリ》の三村を合せて田島村とし、同二十二年に田島村を三芳村と改めしなり
又國志に引ける豐西記には國名日鷹とあれど(此一節を栗田氏の標注と大日本地名辭書とに引けるには誤脱頗多し)同書を太宰管内志に引けるには 豐西記と云物に古日高郡に湖水あり。其面一千餘町あり。其中に三島あり。昔|葺不合《フキアヘズ》尊の時一の大鷹來りて此湖水に羽を漬し朝日の光にまぎれて北に飛去る。此時湖水鳴り動きて遂に西南の岸邊に水落盡して其地平原となる。羽を漬せし處なれば後に日田といふ〔羽を〜傍点〕。かの三島は三岡となり湖水の流落し道は河となる。三岡といふは先東なる(15)を日(ノ)隈山といひ北なるを月(ノ)隈山といひ西なるを星(ノ)隈山といふ。其川は筑後に流出るに因て筑後河といふ。一説には孝安天皇の御時なりとも云と見えたり
とありて鷹が羽を漬ししが故にヒタといふと云へり。此豐西記は原書はいまだ見ねど豐後國の西偏なる日田郡の事を記せるが故に豐西記と名づけたるなるべきが國志に引けると管内志に引けると其説の相異なるは不審なり。但此不審は後に森氏の龜山鈔を見るに及びて始めて釋けにき。即同書乾之卷なる「豐西記の事」といふ條に
 此書の一本に曰。諸家の私録或は老人の口碑に遺れるものを其實否を不v論誌て童語のたすけとすといひ又天和三年領主松平大和守直矩君、其臣早川氏・佐和氏に託して眞名に書て奉らしむ。又貞享三年御代官小川藤左衛門主假名に書しむ。と見えたり。しかし誰人の著述といふ事は書せず。一説には元和の頃内川野村(○今の五和村の大字)の庄屋の隱居某が書たるものといへり。予考るに元和以前より有しをおひおひに書改書増たるもの成べし。先年數本を集見しに異本五通りぞ有し。……此書僞説妄誕多しといへども此書なくては日田の古事は悉皆亡びて知るべからぬを嗚呼誰人かよくもよくも書遺し置たり
(16)といへり。されば此書には五種以上の異本あるにて國志に引けると管内志に引けるとが相異なるは訝るに足らざるなり。又初には國志に引けるが漢文なるは唐橋氏が漢譯したるにこそと思ひしに龜山鈔に據れば夙く漢譯したるもの有るなり。又同書に據れば初邦文なりしを漢譯し更に又邦譯しきと見ゆれば管内志に引ける邦文のものは初のにや又は後のにや明ならず。從ひて國志に引けるものより古きにや又は新しきにや知られざれど其説の相異なるを見れば元來同系統の本にあらず。さて其二説のうちの漬羽《シウ》説は筋よく通りたれど日鷹説は日といへる由來明ならず。恐らくは此説は和名抄の日高を字に引かれてヒタカと訓みての後に作出でし説ならむ。右の如くなれば今日高といふ地名ある事も豐西記の一本に日鷹とある事も共に和名抄の日高を誤字にあらずといふ證とはすべからず。但同書に日高を比多と訓註せるに就きては之を辨護せる説もあり。たとへば村岡良弼氏の日本地理志料に
 肥前ノ高來郷多久ト注セリ。薩摩ノ高城郡(○今の薩摩郡の内)今多岐ト稱ス。高字ハ古單ニ多ト訓ミキ。多加ハ高處ナリ。奈加ノ中處タリ乎加ノ岡處タル、以テ例トスベシ(○原漢文)
(17)といへり。按ずるに高來のタク・高城のタキは上(一三頁)にも云へる如くカクを約してクといひカキを的してキと云へるにてヒタカのカを略してヒタと云はむと同視すべからず。なほ云はば前者はカを次なる同行の音に讓れるなり。又タカは元來タケといふ名詞より形容詞を作るに就きてそのケをカに轉じたるにてなほフケ・アケを轉じてフカシ・アカシといへる如し。されば中をナといひ岡をヲといふと同例とはすべからず。
 ○村岡氏が奈加之爲2中處《ナカ》1といへるは日本紀に敏達天皇の御名ヌナクラフトタマシキのヌナクラを渟中倉と書き又天武天皇の御名ヌナハラオキノ眞人を浮中原瀛と書きて渟中此云2農難《ヌナ》1と註したるなどに據れるなり
所詮高と書きてタと訓むべき即タに高を充つべき確證無ければ和名抄に日高と書きて比多と訓註せる高字は誤と認むべし○和名抄郷名に
 日高郡 安伎・伊美・來繩・田染・津守
とあるは
 國埼部 武藏・來繩〔二字傍点〕・國前・由〔左△〕染〔二字傍点〕・阿岐〔二字傍点〕・津守〔二字傍点〕・伊美〔二字傍点〕
とあると重複せり。按ずるに安伎以下五郷を日田郡に系けたるは誤れるなり。又
(18) 海部郡 佐加・穂門・佐井・丹生・日田・在田・夜關〔左△〕・日〔左△〕理・父〔左△〕連・石井
とある日田以下六郷は日田郡に系くべきを誤れるにて然も夜關は夜開を、日理は曰理を、父連は叉連を誤れるなり。さて本書に郷伍所とあるを見れば後に一所を増ししなり
 ○箋釋に夜開をヤケと訓めるは土人の稱呼に從へるなるべけれどそのヤケは夜開の音讀にあらでヨアケの約なるべければうるはしくヨアケとよむべし。今の村名は夜明と書きてヨアケと唱ふ。又箋釋に和名抄の日理を亘理の誤としたるは非なり。古は地名を書くに音訓を交へ書く事は無かりき。日理は曰理の誤なり。曰の呉音ワツをワタに轉音したるなり。叉連の事は下にくはしく云ふべし。又箋釋に日田郷を落せり。日田を入るれば六郷となりて本書に郷伍所とあるに一致せざるが故に故意に省けるならむ
○驛壹所とあるは石井驛にて西、太宰府を發し隈埼・廣瀬・把伎三驛を經て當國に入りての第一驛なり。今も五和村の大字に石井あり○昔者纏向日代宮御宇大足彦天皇征伐玖磨※[口+贈]※[口+於]凱旋之時の二十四字、肥前風土記|彼杵《ソノキ》郡の下に
 昔者纏向日代宮御宇天皇誅2滅球磨※[口+贈]※[口+於]1凱旋之時
(19)とあると殆同文なるに注目すべし(後者の凱旋の二字は猪熊本に有りて流布本に無し。凱旋之時は征伐ヲ了ヘタマヒシ後と心得べし。御徃路ならで御歸路なるを云へるなり。箋釋に按幸2於此郡1非2凱旋之時1是巡狩取2歸路1也といへるは誤解せるなり。※[口+贈]※[口+於]は一本に贈於とあり。地名は二字を用ふべき定に從ひてソといふ地名を(強ひて母韻を添へて)贈於と書き又之に口篇を添へて※[口+贈]※[口+於]とも書きしなり。箋釋に贈於と書ける本に據りて征2伐球磨贈1於2凱旋之時1と點じたるはいみじき誤なり。於は上に附くべきなり○筑後國生葉行宮とある生葉《イクハ》は今の浮羽《ウキハ》郡にて本郡の西に接せり。生葉郡は筑後風土記の逸文に、生葉山は肥前風土記養父《ヤブ》郡|曰理《ワタリ》郷の下に、的《イクハ》邑は景行天皇紀十八年に見えたり○辨申國消息は其地方の地勢人事を詳説せしなり。地名辭書に
 古風土記に日田は久津の訛と曰ふ。日左津を如何にしてか日田と轉訛せん。疑ふら〔二字左△〕くは附會の説のみ
といへるは千慮の一失なり。ヒサツ媛のツは助字、サとタとの相通ずる事は常の事なれば(タ行とサ行とを隣行に排列したるは元來兩行の音の相近きが故なり)ヒサを訛りてヒタと唱へむに何の怪むべき事かあらむ。今も小児がサといふべきをタといふを思ふ(20)べし
 
石井郷(在2郡南1)昔者此村有2土蜘蛛之堡1不v用v石築以v土。因v斯名曰2無石堡《イシナシノヲキ》1。後人謂2石井郷1誤〔左△〕《訛》也。郷中有v河名曰2阿蘇川1。其源出2肥後國阿蘇郡|少國《ヲグニ》之峯1流到2此郷1即通2玖〔左△〕殊《クス》川1會爲2一川1。名曰2日田川1。年魚|多在《サハナリ》。遂過2筑前筑後等國1入2於西海1
 
新考 今五和村の大字に石井あるは郷名の殘れるなり。管内志に石井はイハヰとよむべしと云へれどイシヰとよむべからざる理由なきのみならず今もイシヰと唱ふればなほイシヰとよむべし。地理志料にも攝津石井郷ノ例ニ依ラバ讀ミテ以之韋ト云フベシといへり。森春樹の豐西説話坤之卷に
 石の古言都て岩なり。石と云し事なし。其證は擧るに及ばず。古書を見て知るべし。石と云事は中古以來の事也。右郷名古しへ風土記の頃迄もイハヰ郷と云けるを後人の口に任せてイシヰとは云ならはしけん。且是もイシナノコシロ(○無石堡の誤訓)を石井と誤し事いかが。此石井郷の中に石井あり。小畑村の川の邊りに今猶存ず。最清水也。是(21)より号しか
といへり。後半は傾聽すべし。古言に石をイシと云はずと云へるは萬葉集卷五にマタマナスフタツノ伊斯ヲ、またナツラストミタタシセリシ伊志ヲタレミキ、同卷十四にアソノカハラヨ伊之フマズとあるをさへ忘れたるなり。國志に
 郷今廢セラレテ村トナル。三隈川ノ南ニ在り。蓋古昔此地方及津江莊ヲ併セテ總ベテ石井郷ト稱ストイフ
といへり。本文に郷中有v河名曰2阿蘇川1とあれば古の石井郷は東、聊今の大山川に跨りて叉連《ユギアミ》郷に隣り北は三隈川を界とし西と南とは國界に達せし廣き地域にて今の五和村大字石井は其北偏に當るべし。但石井驛の在りし處は今の石井の附近ならむ○在郡南を箋釋本は在郡西に作れり。ここに郡といへるは地域の郡にあらで郡家即郡廨の事なるが郡家の在りし處は今の日田町・三芳村の界なれば本郷は在郡南とありてよく叶へり。箋釋の著者は郡の義を誤解して妄に南を西に改めたるならむ○土蜘蛛は一種の先住民族なり。恐らくは今のアイヌの祖先ならむ。堡は肥前風土記小城《ヲキ》郡の下に
 小城郡 昔者《ムカシ》此村ニ土蜘蛛アリテ堡ヲ造リ隱リテ皇命ニ從ハズ。日本武尊ノ巡幸シ(22)タマヒシ日皆悉之ヲ誅ス。因リテ小城郡ト号ク
とあればヲキとよむべし。そのヲキはここに不v用v石築以v土因v斯曰2無石堡1とあれば例は石を以て障壁を作りそれに出入の口を設けしならむ○阿蘇川は今の大山川なり。少國之峯の少は小の通用なり。阿蘇郡の北端に小國谷ありて今南北二村に分れたり。少國之峯は即|久住《クヂユウ》山の西峰なり。久住山は玖珠・直入二郡と阿蘇郡小國谷とに跨り大山川は其西より發し玖珠川は其北より發せり。二川は本郡の三芳村大字日高にて相合して三隈川即本書の日田川となり
 ○國志に大山川……至2下井手小淵1會2玖珠川1といひ管内志に引ける龜山隨筆に
 此川日田郡高瀬村の小淵と云處までは南方なるを大山川とよび北方なるを玖珠川とよぶなり
といへるは右に云へると同事なり
筑前筑後の間又筑後肥前の界を經て筑紫海に注げり○年魚多在の例は肥前風土記藤津郡鹽田川の下にあり○本文の玖珠川は球珠川とあるべし。郡の處にて云はむ
 
鏡坂(在2郡西1) 昔者纏向日代宮御宇天皇登2此坂上1御2覧《ミソナハシテ》國形1即勅曰。此國(23)地形似2鏡面1哉《カモ》。因曰2鏡坂1斯《コレ》其|緑《ヨシ》也
 
新考 鏡坂は高瀬村大字上野、即筑後國浮羽郡より本郡に入りて三隈川の南岸に沿ひて東行したる處にあり。箋釋に
 石井郷上野邑ノ東ニ在り。坂上ニ南北ノ二路アリテ倶ニ筑ノ後州ニ達ス
といへり。國形《クニガタ》は即地形なり。此國とのたまへるは日田郡の中心の小區域なり。箋釋に
 今此ニ登臨スルニ山翠、群表ヲ圍繞シ其中豁然トシテ平圓ニシテ眞ニ斯言(○斯勅)ノ如ク然リ
といひ管内志に
 此坂は三隈川の西南の傍《ソヒ》にして少しの坂なり。坂の上に石祠あり。是は今より六七十年ばかり昔に建て景行天皇を祭れりと云。……此地川を隔てて隈町に向へり。其間にわたり船あり
といひ夙く箋釋にも阪上有v祠曰v崇2景行天皇1といへり
 
靭編《ユギアミ》郷(在2郡東南1) 昔者|磯城嶋《シキシマ》宮御宇|天國排開《アメクニオシハルキ》廣庭天皇之世日下部君(24)等祖|邑阿自《オホアシ》在〔左△〕《仕》2奉|靭部《ユギベ》1。其邑阿自|玖〔左△〕《後》就2於此村1造v宅|居之《ヲリキ》。因v斯名曰2靭負村1後人改曰2靭編1。郷中有v川曰2玖〔左△〕《球》珠川1。源從2玖〔左△〕《球》殊郡東南山1出、流到2石井郷1通2阿蘇川1會爲2一川1。今謂2日田川1※[□の中に訛]是也
 
新考 ユギは正しくは靫(音サ)と書くべきを昔より靭とも書習へり。靭編は久老の如くユギアミとよむべし。管内志にも
 由支阿美と訓べし。靫は編て造る物なり。今里人は叉連と書て由支比と唱ふるなり
といへり。地名辭書にユケヒとよみて
 此靭編は姓氏録未定雜姓中に見ゆる字にして靭負に同じ
といへるは本文に因v斯名曰2靭負村1とあると管内志に今ユキヒといふと云へるとを思へるなるべけれど実は非なり。次々に云ふべし。按ずるに和名抄征戰具に靫釋名ニ云ハク云々とあろ箋注に
 原書(○劉※[にすい+熙]の釋名《セキメイ》)ニ歩叉人所v帶、以v箭叉2其中1也ニ作レリ。按ズルニ續漢書ノ注ニ通俗文ヲ引キテ云ハク。箭服謂2之歩叉1ト。……又按ズルニ靫字ハ古ニ無キ所ナリ。故ニ原(25)書ニハ單ニ叉ニ作レリ
といへり。ユギはもと叉といひしを他義の叉と別たむ爲に之を歩叉といひ又革を添へて靫と書きしなり。箋釋に叉を靫の省文とせるはよく考へざるなり。次にいにしへの靫は蒲を以て編みしが故に靫を作ることを靫ヲ編ムといひしなり。貞觀儀式祈年祭儀に但靭者靭編氏造v之といひ臨時祭式(延喜式)祭料楯板|置座木《オキクラギ》等の註に河内国靭編部百姓等とあり。又新撰姓氏録未定雜姓に靭編|首《オビト》とあり。次に玉篇に編(ハ)織也連也とあり。又アムを連と書ける例あり。たとへば萬葉集卷十三(新考二九〇七頁)にオキナガノヲチノ小菅|不連爾《アマナクニ》イカリモチキと書けり。されば近頃まで靫編を叉連と書傳へしは(但刀連とも誤れり)古風を守りしにていとたふとき事なり。和名抄流布本の郷名に父建とあるは適《マサ》に叉連を書誤れるなり。さてその叉連を土人のユキヒ(管内志)ユキイ(國志傍訓)ユキヘ(箋釋)など唱へけむは靭負と混同せしにこそ。これもなほ下に云ふべし○靭編郷は箋釋に
 郷名今廢セラレテ村トナレリ。三隈川ノ東ニアリ
といひ地名辭書に今|馬原《マバル》村・中川村・五馬《イツマ》村是なりといへり。石井郷の東、在田郷の南、日田郷の東南にて東は玖珠郡界に達し南は肥後國界に至りきと思はる。此地名が今大字に(26)だに殘らずなれるは惜むべし(一四頁參照○磯城嶋宮御宇天皇は欽明天皇の御事なり○日下部氏のカバネ、君なるは肥前風土記松浦郡鏡渡の下又|賀周《カス》里の下に見えたり。恐らくは連《ムラジ》・首《オビト》などのカバネなるとは別族にて西海道にぞ蔓りけむ。彼松浦佐用姫も其氏人なり○邑阿自を久老以來皆ムラアジと訓みたれどオホアジ又はオホアシとよむべし(自は清音にも借れり)。播磨風土記に揖保《イヒボ》郡の驛名|大市《オホチ》を邑智と書き民部式及和名抄に備前の郡名オホクを邑久と書けり。余は播磨風土記新考に巨勢朝臣邑治・因幡邑由胡をオホヂ・オホユコとよみおけり(七頁及三四一頁)。邑阿自の義は大脚か○在奉靭部の在は箋釋本及二寫本に仕とあるに從ふべし。さて此四字はユギベニツカヘマツリキとよむべし。抑ここに靭部ニ仕ヘシ人ノ住ミシニ由リテ靭負村ト名ヅケシヲ後人改メテ靭編トスといへるは不審なり。ユゲヒがユギアミと訛らるべからざるのみならず
 ○靭負をユゲヒとよむはユギオヒの約ユゴヒを轉じたる又はユゲオヒのオを略したるなり。後には更に訛りてユギヘ又ユキヘといひき
靭負は靭を負ひて奉仕する武官の稱、靭編は靭を作る工人の名にて全然相異なるをや。思ふに靭負をも靭編をも共に靭部といひしかば
(27)○景行天皇紀四十年に日本武尊の御事を叙べて則居2是宮1(○酒折宮)以2靭部〔二字傍点〕1賜2大伴連之遠祖武日1也といへるは明に靭負部なり。又安閑天皇紀二十年に置2勾《マガリ》舍人部・勾靭部〔二字傍点〕1とあるも舍人部と相對したるを思へば亦靭負部ならむ(勾は皇居の地名なり)。又敏達天皇紀十二年に火葦北國造刑部靭部〔二字傍点〕阿利斯登之子臣達率日羅とあるも亦靭負部ならむ。靭編部を略して單に靭部と云へる例は未見當らねど、たとへば的《イクハ》を作る工人の部曲を的部といひ(播磨風土記)失ハギを矢部といひ(綏靖天皇紀)陶ツクリ・鞍ツクリ・畫カキ・錦オリを陶部・鞍部・畫部・錦部といへる(雄略天皇紀七年)などを思へば靭を作る工人の部曲を靭部と云ひつべし。因に云はむ。久老が靭部の部にビと傍訓したるは非なり。今ヘといふを古ヒといひしは邊のヘなり。部のヘにあらず
後人靭負と靭編とを混同して村の名の靭負を靭編と改めしにや。かくも思へど村の名靭負ならむをなほ靭編とは改むべからず。本文に因斯名曰靭負村とあるは或は靭部村の誤にあらざるか。ともかくも靭編村と改めたる上はユギアミと唱ふべきをユキイ・ユキエとやうに唱ふるは不審なり。思ふに本書の如く靭編と書きし間はユギアミと訓みけむを之を叉連と書く事となりし後、時を經て連をアミとよむ所以知られずなりて、さ(28)かしら人のユギアミ(又はユガミ)と唱ふるをユゲヒの訛と誤認めて村人を誘ひてユゲヒと唱へしめ終に一般の習の如くユキイ・ユキエと訛られしにあらざるか。こは試に云ふのみ。箋釋に刃連(○実は叉連)ハ靫編・靫連・靫部・靫負ト國音並ニ同ジといへるはあやなし。初三者はユギアミ、靭部はユギベ、靭負はユゲヒなり○其邑阿自の下の玖を久老は久の誤としたれど玖は恐らくは後の誤ならむ。箋釋本に此事無きは削りたるならむ○其邑阿自後就2於此村1造v宅居之。因v斯名曰2靭負村1とあるは肥前風土記大家嶋の下に
 自v爾以來白水郎等就2於此嶋1造v宅居之。因曰2大家嶋1
とあると文辭の相似たるに注目すべし。但相異なるは肥前風土記には因とあり本書には因斯とあるのみ。因斯といふ字本書には多く見えたれど肥前風土記には見えず○久老は後人改曰靭編郷中有川とある郷の下を句としたれど宜しく前の下を句として郷中有川とよむべし。上文石井郷の條にも郷中有v河名曰2阿蘇川1とあり
 ○郷一本に村とあり。箋釋も管内志も誤りて其下を句とせり
○玖珠川の事は上(二二頁)にいへり。玖珠郡束南山は即|久住《クヂユウ》山なり。此川と阿蘇川と相合する處は上にいへる如く今の三芳村大字日高なり。其南岸は今の高瀬村にて古の石井(29)郷の内なれば本書には流到2石井郷1通2阿蘇川1會爲2一川1と云へるならむ○訛是也の訛は衍字なり。夙く箋釋に或云訛字衍文と云へり
 
五馬《イツマ》山(在2郡南1) 昔者此山有2土蜘蛛1名曰2五馬媛1。因曰2五馬《イツマ》山1。飛鳥淨御原《アスカノキヨミハラ》宮御宇天皇御世戊寅年大有2地震1山崗裂崩、此山一峽崩落、温※[□の中に之]泉處處而出。湯氣熾熱、炊v飯早熟。但一處之湯其穴似v井|臼注〔二字左△〕《口徑》丈餘無v知2淺深1。水色如v紺。常(ハ)不v流。聞2人之聲1驚慍騰v※[泥/土]一丈餘許。今謂2慍湯《イカリユ》1是也
 
新考 靫編郷の内なり。箋釋に
 後世五馬荘アリ。二十四村ヲ管ス○其聚落(○中心部落)ヲ五馬市ト曰フ。官道アリテ南肥ノ小國ニ達セリ
といひ國志に
 五馬山 五馬荘ノ五馬市村ニ在リ。數山連接シ形皆臥馬ノ如シ。故ニ名ヅク
といへり。但本書には土蜘蛛の女酋の名を山名の原《モト》とせり○飛鳥浮御原宮御宇天皇は天武天皇の御事なり。戊寅は其六年なり(日本紀は壬申より數へたれば戊寅を天皇の七(30)年とせり)○大有2地震1云々は天武天皇紀七年に
 冬十月筑紫國大地震之。地裂廣二丈長三千餘丈。百姓舍屋毎v村多仆壞とあり。阿蘇山脈の爆發にぞありけむ○温之泉の之は箋釋本にも群書類從本にも一寫本にも無し。又處々而出の而、箋釋本に無し。少くとも前者は衍字とすべし。今の五馬村の北に中川村ありて玖珠川に跨れるが其北岸なる大字湯山に天箇瀬《アマガセ》温泉あり。又南岸なる大字櫻竹にも温泉あり。但本書のイカリ湯は今のいづれにか知るべからず。否温泉にも興亡あれば上古の温泉は必しも殘るべからず。龜山隨筆に「天ケ瀬の慍湯」といへるは妄なり○熾熱は類從本に熾盛とあり〇一峽を久老はヒトヲとよめり。峽を古典にヲともカヒとも訓みたればヲはやがてカヒ即タニぞと心得たる人もあれど古事記に谿八谷峽八|尾《ヲ》とあり日本紀に八|丘《ヲ》八谷とあればヲはタニにあらず又歌にミネニモヲニモと、よみたればヲはミネにあらず。所詮ヲはミネとタニとの間即ナダレなり。さてここの一峽は久老に從ひてヒトヲとよむべし○其穴似井臼注丈餘を久老は「其穴井臼ニ似タリ。ソソグコト丈餘」とよみたれどソソグといふこと妥ならず。又井臼は後漢書|馮《フウ》衍傳に兒女皆自操2井臼1、南史※[まだれ/臾]域傳に妻子猶事2井臼1などありて水を汲み米を舂く事即所謂舂(31)汲にてここにかなはず。下文玖倍理湯井の條に此|湯井《ユノヰ》在2郡西河直山東岸1口徑丈餘〔四字傍点〕とあれば臼注は口徑の誤にて其穴似井にて訓切るべきならむと思ひしに箋釋本にも類從本にも正しく其穴似井口徑〔二字傍点〕丈餘とあり○常不流といへる、所謂間歇泉なり。常を從來ツネニとよみたれど宜しくツネハとよむべし。常ニハの意なり。騰※[泥/土]は箋釋本に騰沸とあり。一本に騰泥土とあるはわろし。慍湯は久老の如くイカリユとよむべし。箋釋本に温湯に作れるはわろし。彼玖倍理湯井の記述の續に
 湯色黒※[□の中に※[泥/土]]常不v流。人竊到2井邊1發v聲大言、驚鳴涌騰二丈餘許、其氣熾熱不v可2向昵1。縁邊草木悉皆枯萎。因曰2慍湯井1
とあり又豐後國志に
 姫島 比賣語曾《ヒメゴソ》神祠アリ。其下巌石屏立シ蹈ム所磊々トシテ尖起シ螺ノ如ク拳ノ如シ。一歩ヲ失スレバ水ニ陷ル。一石|罅《カ》アリテ泉ヲ吐ク。手ヲ拊《ウ》チテ之ニ節スレバ響ニ應ジテ相緩急ス。名テ拍子水〔三字傍点〕ト呼ブ。其色清ク味最酸ク臭氣惡ムベシ。ソノ觸ルル所色悉正赤ナリ。蓋鐵氣ノ釀ス所ナリ。故ニ又|鐵醤水《オハグロミヅ》卜名ヅク(○地名辭書に本書を引けるには其音宛モ手ヲ拊ツガ如シと譯したれど原文には拊v手節v之應v響相緩急とあり。節は(32)フシヅクルなり)
とあり。姫島考には同事を
 比賣語曾神を赤水明神といへり。……赤水明神とは其岡のある岩下より赤錆の鐵醤水流れ出、手を拍てば響に應じて迸る故に拍子水となづけ土人は明神の靈水なりといひ傳へたり
といへり。又豐後國志玖珠郡山川の條に
 念佛水 千町|蕪田《ムダ》ニ在リ。小渠細流ナリ。人聲ヲ發シテ佛名ヲ稱シ其岸ヲ力踏スレバ相應ジ水動キテ沫ヲ吐ク
とあり。なほ下文玖倍理湯井の下にも例を擧ぐべし○今も五馬市に五馬媛を祭れる社あり又其隣村塚田(○今の五馬村大字塚田)に塚田媛を祭れる社ありて其祭日にいと淫なる事行はれし由管内志に引ける龜山隨筆と彼龜山鈔とに見えたり(龜山鈔の記事は版本には削れり)○和名抄に見えたる六郷のうち日田は今日田町に、在田は東西有田村に、夜開は夜明に、曰理《ワタリ》は光岡《テルヲカ》村の大字|渡里《ワタリ》に其名を殘せり
 
(33)   玖〔左△〕珠《クス》郡  郷參所(里九)驛壹所
昔者此村有2洪《オホシキ》樟樹1。因曰2玖《球》〔左△〕珠郡1
 
新考 近世こそ玖珠と書け、延喜式にも和名抄にも球珠とあり。されば玖は球に改むべし。箋釋本にも一寫本にも球とあり。但類從本には玖とあり○郷は和名抄に今巳・小田・永野とあり。箋釋に
 今己は今|古後《コゴ》ニ作レリ(○今の八幡村の大字)。小田ハ山田ニ作ルベシ。傳寫(ノ)致ス所ナリ。其地今並ニ儼存セリ。永野ハ蓋大隈・塚脇二村ノ地方(○共に今の萬年《ハネ》村の大字)
といひ國志に
 山田 倭名砂ニ小田ニ作レルハ誤ナリ。蓋山田ヲ以テ稱スル者|尚《ヒサ》シ。或ハ今郷中ニ小村、小田ト名ヅケタルアリ。因リテ舊名トスルハ恐ラクは非
といひ地理志料に
 今按ズルニ大同類聚方ニ袁田《ヲダ》藥、豐後國球珠郡小太都奴麻呂(ノ)方トアリ。圖田帳ニ山田郷ニ作リテ地頭ヲ小田氏ト稱セリ。今尚小田村アリ。蓋舊名小田ナルヲ後ニ改メテ山(34)田ト稱セシ者
といひ地名辭書に
 今巳詳ならず。恐らくは誤なるべし。風土記解(○即箋釋)今巳をコゴと訓じ古後村に充てたれど今字を古《コ》に假れる例を知らず。且古後村は森村の北なる僻地にて郷名を起つべき者にあらず。今巳は其正を知るべからずと雖|飯田《ハンダ》村は必定此誤謬の郷里に當るごとし
 小田郷 今萬年村・山田村にして中世山田郷を分ち今萬年村に大字小田存ず
 永野郷 今森村・八幡村。郡の西北部なり。中世永野を長野と改めたりといへり。按ずるに本郡は玖珠川、南より發して北に向ひ更に西に走りて其西南凡三分一を限れり。もし地理上より三郷を想定せば一を玖珠川に抱かれたる西南部とし一を北部とし一を東部又は東南部とすべし。さて地名辭書にいへる如く今をコの假字に用ひたる例は無けれど
 ○神今食《ジンコンジキ》を略してジンコジキといふ例はあり。又續紀天平七年四月の下なる上毛野朝臣今具麻呂の傍訓にコグとあり。但此傍訓は證とすべからず
(35)今巳の巳は己を誤れるにてもとコムコと唱へしをコンゴと撥ね更にコゴと約めたるにあらざるか。又地名辭書に「且古後村は森村の北なる僻地にて郷名を起つべき者にあらず」といへれど古の郷名が其地域の邊境に殘れる事あるは稀なる事にあらず。されば今巳は今己の誤としてしばらくコムコと訓みて後世の古後に其名を殘せるものとすべし。次に箋釋に小田を山田の誤としたれど地理志料に引ける如き證もあればなほ小田を正しとして今の萬年《ハネ》村大字小田を以て其名を繼げるものとすべし。次に地名辭書に今の飯田《ハンダ》村を古の今巳郷に充てたれど飯田は誤りて速見郡の下に載せたる田野にて當時田無かりし處なれば郷は立てられざりけむ。さればしばらく郡の北部なる森町・八幡村・北山田村を今己に、西南部なる萬年村・南山田村を小田に、郡の東部なる野上村・東飯田村を永野に充つべし○又驛壹所とあるに就いては箋釋に延喜兵部省式ニ曰。球珠郡出傳馬五疋ト。今案ズルニ古後郷ニ古驛址アリ。四日市ト名ヅク(○今の北山田村大字四日市)。或ハ此地方カ
といひ地名辭書に
 延喜式荒田驛は即本郡の驛所なるべし。驛址疑ふら〔二字左△〕くは亦此誤謬の郷(○今己郷)に屬(36)し今の野上などに當るごとし
といひて、これも亦相合はざるのみならず地名辭書には又
 按に延喜式球珠傳馬五疋、とあり。其驛名は直入といひ太宰府より日田郡荒田・石井を經て直入に到り大分國府に向ふ。今の野上の邊に古驛址あらん。和名抄今巳郷と云ふに當る歟
といひて前後矛盾せり。按ずるにまづ驛馬と傳馬との別、今まで明ならざる所あれば已むを得ざる事にはあれど二書の著者は驛馬と傳馬とを混同せり。兵部省式に傳馬球珠郡〔右△〕五疋とあればとて本郡に驛ありきとは定むべからず。兵部省式に郡とあるは郡家なり(たとへば球珠郡とあるは球珠郡家なり)。抑傳馬に驛家に屬したると郡家に隸したるとあり〔傳馬〜傍点〕。續紀の神護景雲二年三月の下に
 山陽道使左中辨正五位下藤原朝臣雄田麻呂言。本道郡傳〔二字傍点〕路遠、多致2民苦1。乞復隸v驛|將《モチテ》送迎
といへる郡傳は即後者なり。此郡傳は馬を郡家に備へたりしなり。こは新説にて之を聞かむ人必しも同意せざるべければ機を得ば更に細に論ずべし。次に地名辭書の一説に(37)本書の本郡驛壹所を兵部省式の直入に充てたれど直入は直入郡のうちにて本郡にあらじ。然らば本郡驛壹所は兵部省式の何驛にかと云ふに元來本書と延喜式とは異時の編纂なれば本書編纂の時には有りて延喜式編纂の時には無くなりたりし驛もあるべく又それと倒なるもあるべけれど、しばらく當國にはさる事無かりきとせば延喜式の荒田驛ぞ本郡驛壹所に當るべき。即地名辭書の一説の如くならむ。
 ○荒田をスサミタとよみて大野郡西寒田《ササムダ》に充つる説は從はれず
諸書に荒田驛址を日田郡の有田村としたれど
 ○たとへば龜山隨筆に
  日田那在田郷|小寒水《ヲサウヅ》村に札本町(札町ともいふ)とて聊の町あり。是古の荒田驛址なるべし。此處上代に玖珠郡に通ひし道筋と聞ゆ
といへり(管内志所引○小寒水は今の西有田村大字有田の字)
今の東西有田村の附近とせば前驛石井との距離近きに過ぎ次驛由布との距離遠きに過ぐるを如何にせむ。地理を思ふに由布と石井との中間驛は必本郡内に在らざるべからず。又然らばその荒田驛址は地名辭書の一説の如く今の野上村野上附近なりやと云(38)ふにそは或は然らむと答ふる外無し。故に又二つの謎あり。即兵部式に當國の九驛を擧げたるに日向界に最近き小野を第一としたるが、こは小野の馬數、十疋にて他驛の比にあらざれば地理的順序に拘らざるにて怪むに足らねど之を除きては順序に從ひて石井荒田とすべきを荒田を石井に先だてたる事是一、荒田・石井の次には東に向ひて由布・高坂と數ふべきを直入・三重・丹生・高坂・由布と次でて(枝線なる長湯を除く)所期に反して東南に向ひ次に北方に回り次に東方より戻來れること是二なり。此等の謎は前(三頁)に殘したる小野驛馬十疋の謎と共に直入驛の下に至りて解決すべし○洪は久老の如くオホキナルとよみても可なれど古風によまばオホシキ又はオホキとよむべし。古は大も多も凡も共にオホシといひ(そのオホシはオホシ・オホシキ又はオホシ・オホキとはたらきしなり)オホキナルとは云はざりき。箋釋に郡南ニ山アリ。洪樟ト名ヅク。一ニ斷株《キリカブ》山ト名ヅク。高サ一里許、周廻二里餘。上平ニシテ臺ノ如シ。相傳フ。古昔一大樟樹アリ。樹ノ高サ幾千尺トイフコトラ知ラズ。其樹自僵倒ス。土人之ヲ伐リテ株ヲ斷ツ。蟠根化シテ石トナル。即此山ナリト。又曰ク。昔此山ニ寺アリ洪樟ト名ヅク。其廢趾、土人地ヲ發キテ磁器古物ヲ獲ル者|間《ママ》アリト(39)といへり。キリカブ山は萬年《ハネ》山の前峯なり。圓錐形なるが其頂平にて横に截りたる如くなればキリカブ山といふなり。洪樟傳説は其形より生じたるならむ。一名をコウシヤウジ山といひそのコウシヤウジは又興正寺と書くといふ。興正と洪樟と音相同じきより興正を風土記の洪樟に傅會したるにあらざるかとも疑はるれどなほ然にはあらじ。國志廢寺の下に
 興正寺 山田郷中山田村ニ在リ。萬年山ト号ス。然レドモ寺モト斷株山上ニ在リ。因リテ洪樟寺ト稱シキ。音相近シ。故ニ改ム。山上寺跡尚存ズ云々
とあり。萬年山は西方、日田郡に跨れる高山なり○地理志料に天武天皇紀元年に
 且遣2佐伯|連《ムヲジ》男於筑紫1遣2樟使主《クスノオミ》磐手於吉備國1並悉令v興v兵云々
とあるを引きて(但志料に引けるには甚しき誤あり)
 樟使主、大分君ト同ジク朝ニ立チテ盖本郡ノ人
といへり。但樟磐手は弘文天皇の臣下、大分惠尺《オホキダノヱサカ》・同稚臣は後の天武天皇の徒黨なり○本郡は西は日田郡に、北は豐前國に、東は速見・大分二郡に、東南は直入郡に、西南は肥後國に接せり。今の主邑は森町にて、もと森藩主久留島氏の館の在りし處なり
 
(40)   直入《ナホリ》郡  郷肆所(里十)驛壹所
 
昔者郡東|垂水〔二字左△〕《桑木》村有v桑|生之《オヒタリキ》。其高極|陵《タカク》枝幹直美。俗曰2直桑村1。後人改曰2直入郡1是也
 
新考 直入はナホリと訓むべし。景行天皇紀十二年に直入縣見えたり。萬葉集卷九に
 藤井連遷任上v京時娘子贈歌−首 あすよりは吾はこひむな名欲《ナホリ》山いはふみならし君がこえいなば
とあるも此直入にてそのナホリ山は同書卷四に志摩國|英虞《アゴ》郡なる山々をアゴノ山イホヘカクセルサデノ埼云々といへるが如く直入郡の山々をいへるにて一山を指せるにあらじ。諸書に(たとへば國志に)城原《キバル》の西北なる鉢山の事としたるは從はれず。又古義にこの名欲山を名次山の誤としたるは非なり(新考一八〇四頁參照)。又地名辭書に
 此歌は即播磨國在任の人の上京に當り娘子のよめるなり。之を豐後に求むるは方角をたがへたりと謂ふべき歟
(41)といへるは娘子を前の歌の作者と同じく播磨娘子とせる古義の説に誤られたるなり。或は云はむ
 藤井|連《ムラジ》は即葛井《フヂヰ》連なるべきが、その葛井連は誰にか。大成にもあれ廣成にもあれ、この名欲山を豐後國直入郡の山とせむに其人をいづくの任に在りとし娘子をいづくの人とかせむ。本書に直入郡驛壹所とあれど藤井連もし豐後の國司なりけむには遷任して京に上るべくまづ太宰府に上らむに速見・球珠・日田三郡を經て筑後國に入るべく直入郡は過ぐべからず
と。答へて云はむ。こは旅行の經驗乏しかるべき女子の作なれば豐後の國府より西方に見ゆる連山を大やうにナホリ山と云へるならむ。今の世にても地理的知識の深き人ならずばいづれの峯までが何郡といふ事は得辨へじと。藤井連は大成にや廣成にや、又は別人にや知るべからず。豐後國志に
 豐日志ニ曰ク。天平七年二月外從五位下藤井連廣成ヲ以テ豐後介トス。我鹿《アカ》邑ニ寓スト。按ズルニ萬葉集ニ藤井連ノ名欲山ノ歌アリ。盖是人ナリ。我鹿ハ三宅郷ニ在リ。今ノ阿鹿《アジカ》野(○今の宮城村)
(42)とあれど廣成が豊後介たりけむ事は續日本紀にも萬葉栗にも見えず。又介ならば國府に住すべく他郡には住すべからず。
 ○因にいはむ。別府といふ地名を誤りて副國府と心得、介は國府ならで別府に住せしなりといへるは俗説なり。別府は別符の誤字又は借字にて太政官の別符即特許に依りて開墾したる土地の稱なり。さればこそ別府といふ地名は諸國に(徃々一國内數處に)あるなれ
又豐後國は本書には下國とあり延喜式には上國とある事上(二頁)に云へる如くにて天平七年には何等國なりしにか確には知られねど介を任ぜられしは大國と上國とのみなればしばらく夙く上國なりきとせむに上國の介の相當は從六位上なり。されば豐日記の「外從五位下藤井廣成豐後介に任ぜられて直入郡に住す」といへる説は信すべからず
 ○廣成が天平二年に太宰府に在りし事は萬葉集卷六なるオク山ノイハニコケムシといふ歌の左註に見え、天平十五年三月に筑前國に遣されし事は續日本紀に見えたり。又葛井連大成が筑後守たりし事は萬葉集卷四なる今ヨリハ城ノ山道ハサブシケ(43)ムといふ歌の題辭と同卷五なる梅花歌の脚註とに見えたり。大成は廣戒の兄か
○和名抄の郷名に三宅・直入・三宅とありて三宅重複せり。本書に見えたるは柏原《カシハバラ》・球※[譚の旁]の二郷のみ。之と和名抄の三宅直入とを合せて郷四所とあるに充つべきか。さて國志に
 入田 和名鈔ニ直入ニ作リ弘安注進牒ニ入田ニ作レリ。精シク之ヲ校フルニ則直入郷ナリ
といひ又
 蓋直入ハ後ニ改メテ入田ト曰ヘルナリ
といへるは入田《ニフタ》を以て直入田の略とせるに似たれどニフダの名義は丹生田ならむ。四郷のうち球※[譚の旁]は郡の半を占めて北部に當り三宅は中部に、直入は東南部に、柏原は西南部に當れり○駅壹所とあるは延喜式の直入なるべきが箋釋にも直入として
 駅今廢レテ村トナリ古市(○今の都野村大字|柏木《カヤギ》の内)ト稱セラレ朽網《クタミ》郷ニ屬セリ
といへり。然るに地名辭書には
 延喜式に.直入駅あれど通路の次第を研究するに此には非ず。玖球郡に直入駅別に在りしものの如し(〇三七頁參照)
(44)といへり。球珠郡に一驛を立てて之に名を命ぜむに隣郡の郡名郷名を冒さむや、いとおぼつかなし。思ふに日向國府より太宰府に上るには當國を經し事なるが三重・丹生・高坂・由布を經しにはあらで小野より分れて直入を經て荒田に到りしならむ。かく小野にて二路に分れしが故に小野には他驛に倍したる馬を備へしならむ。又太宰府より下る者は荒田にて二路に分れしかば荒田にも他驛より多く馬を設けしならむ。其數は九疋以下六疋以上にて恐らくは八疋なりけむ。かくの如く荒田の馬數も他驛より多かりしかば地理的順序に拘はらで本驛を石井に先だてたるならむ。されば兵部省式には原《モト》小野十疋、荒田八疋、石井・直入等各五疋とありけむを今本には荒田の下の馬數を落したるならむ。又かく荒田にて二路に分れたれば驛名を擧ぐるには
 石井(荒田)由布・高坂・丹生・三重(小野)直入(○弧を以て括したるは兵部省式に地理的順序に拘はらずして初に擧げたるもの)
とするか又は
 石井(荒田)直入(小野)三重・丹生・高坂・由布
とするかの二案を生ずべきが、後者の方支線の長湯を挿入するに便なれば後者に依り(45)たるにこそ。さて直入驛の在りしは今の玉來《タマライ》町附近ならむ。國志にいへる古市村は強※[譚の旁]・三宅二郷の界に當りて驛名を直入といひしに副はず。因に云はむ。玉來は玉洗の借宇ならむ○垂水村を青柳種麻呂は桑木村の誤ならむと云へり。即管内志に
 青柳大人の説に垂水は桑木を書誤れりと聞ゆ。垂水桑木字形相似たり。と云はれし、さる事なり
といへり。此説いとおもしろし。桑の大木ありしかば桑木村と名づけたりしに其桑常の桑とは異にて眞直なりしかば俗には直桑村と稱せし、その直桑が縛じて直入となりきと云へるなり。今荻村の大字に桑木あれど郡東とあるにかなはじ。
 ○郡家の所在は知られねど三宅郷の内ならむ(城原《キバル》附近か)。直入郷の内にはあらじ。柏原郷を在郡南といへればなり
箋釋に
 案ズルニ郡ノ東ニ桑迫村アリ。又七里村(○豐岡村大字|會會《アヒアヒ》の内)ニ桑木《クハノキ》原アリ。或ハ是ソノ遺ナラム
といへり。前者もし今の宮城村大字上畑の内なる桑迫ならば郡内の西偏にて少くとも(46)箋釋の定義の郡東にあらず。此外長湯村の大字に桑畑あり嫗嶽《ウバタケ》村の大字に倉木あれど共に本書に郡東といへるにかなはじ。但郡名の直入は郷名の直入より起りしなるべければ所謂直桑村の址は直入郷中に求むべきに似たり○陵を箋釋に凌としてシヌギとよみたれど、さては辭ととのはず。もしくは峻の誤かとも思へど杜甫の詩に西成聚必散、不獨陵我倉(西成《アキノミノリ》聚ラバ必散ゼム、獨我倉ヲ陵《タカ》クセジ)とある陵はタカクとよむべければ、ここも原のままにてタカクとよむべし○直桑村を久老が直生村に改めたるはナホクハよりはナホオヒとあらむ方ナホリに轉じやすからむと思へるなるべけれど、そはいと妄なり。世には古書の宇を改むる事を罪惡の如く思へる人あれど古書に誤字あるべき事は勿論なれば、もし原のままにて通ぜざらむに理を推して字を改むる事はただ罪惡ならざるのみならず亦學者の義務なり(但原字を存ずることを要す)。さて偏に理に依りて定めがたからむに或は原に從ひ或は改めむは學間上の常識に依りて決すべきなり。此境はいまだ學問上の常識を養ひ得ざるものの窺ひ知る所にあらず○箋釋本に俗の下に名の宇あり。こは無き方優れり〇本郡は北大分郡に、東大野郡に、西北玖珠邪に、西肥後國に、南聊日向國に接せり。今の主邑は竹田町なり。竹田は即もとの岡城の市街な(47)り。岡藩主は中川氏にて當國第一の大名なり
 
柏原《カシハバラ》郷(在2郡南1) 昔者此郷柏樹多生。因曰2柏原郷1
 
新考 箋釋に
 案ズルニ郡ノ西南ニ在リ。號名今猶存ズ
 方俗稱スル所ノ柏樹ハ今猶多ク生ズ
といへり。本書にいへる郡は郡家の事なるを箋稱は地域の郡と心得たるなり。又地名辭書に
 今柏原村・宮砥村・荻村・菅生村并に波野村・野尻村等なるべし。波野・野尻は近代以降肥後阿蘇郡の所部となる
といへり。柏原は今訛りてカシハバルと唱ふ○カシハ一名ハハソ(今ハウソといふ)は古、食物を盛るに主として此木の葉を用ひしかば賞愛せられしなり。北史倭國傳にも俗無2盤俎1籍以2※[木+解]葉1とあり。柏は實はヒノキの類にてカシハに當らず。カシハには北史の如く※[木+解]を充つべきなり。諸國に此木の多く生じたるに由りて命ぜられたる地名少からず。たとへは播磨風土記にも讃容《サヨ》郡柏原里及|宍禾《シサハ》郡柏野里見えたり
 
(48)禰疑《ネギ》野(在2柏原郷之南1) 昔者纏向日代宮御宇天皇行幸之時此野有2土蜘蛛1名曰2打※[獣偏+爰]・八田・國摩侶1。等〔左△〕《并》三人。天皇親欲v伐2此賊1在2茲野1勅|歴《アマネク》勞《ネグ》2兵衆1。因〔左△〕《今》謂2禰疑野1是也
 
斬考 下文速見郡の下なる速津媛の辭中にも
 又於2直入郡禰疑野1有2土蜘蛛三人1其名曰2打猿・八田・國摩侶1
とあり。猿は※[獣偏+爰]の俗字なり。又景行天皇紀十二年にも又於2直入縣禰疑野1云々といふ速津媛の辭を挙げ、さて
 復將v討2打※[獣偏+爰]1径度2禰疑山1時賊虜之矢横自v山射之、流2於官軍前1如v雨。天皇更返2城原1而卜2於水上1便《スナハチ》勒v兵先撃2八田於禰疑野1而破。爰打※[獣偏+爰]謂v不v可v勝而請v服。然不v聽矣。皆自投2洞谷1而死之
といへり。紀に據らば禰疑山は禰疑野よりこなたに、城原は禰疑山よりこなたにあるべきなり。今|城原《キバル》村大字城原ありて稻葉川の北に在り。箋釋に城原今作2木原1とあり。今城原と書くは古に復せしなり。即明治八年に木原村等六村を合せて城原村と稱し同二十二(49)年に更に城原村等六村を合せて又城原村と稱せしなり。禰疑山は國志に
 柏原郷池部・小塚二村ノ間(○今の菅生村大字|小塚《ヲツカ》)ニアリ。山險シ。其西側ハ肥ノ界ナリ。……禰疑山ハ稻葉川ノ南ニアり。……城原ハ禰疑山ノ東北ニアリ。稻葉下流ノ經ル所ナリ
といひ又箋釋の海石榴市・血田の註に菅生山ハ史ニ謂ヘル禰疑山ナリといへり。禰疑野は直入郡志に菅生村大字今にありと云へり。かく云へるは今此處に郷社禰疑野神社ある故なれど大字今は大字小塚より東即こなたに在れば日本紀に據りて想像せらるる所と相合はず。紀に據らば禰疑野は禰疑山よりあなた即今の肥後國の境にあるべきなり。但箋釋に
 案ズルニ今郡ノ西南ヲ菅生邑ト日フ。其西ニ小塚村アリ。村中ニ古塚アリ。周圍十餘歩、其上ニ叢樹鬱茂セリ。故ニ小塚村ト名ヅク。土人云ハク。昔者土蜘蛛ヲ殺シ之ヲ※[病垂/(夾/土)]ミテ墳ヲ爲《ツク》リキ。故ニ蜘蛛塚卜曰フト。其東三百歩ニシテ祠アリ。禰疑野明神ト曰ヒ景行天皇ヲ奉祀セリ
といへり。按ずるに禰疑野は土蜘蛛の巣窟なるが天皇が之を伐たむとして其野に入り(50)たまひし後に皇軍を犒ぎたまひしを思へば一望して見渡さるばかりの狹き野にはあるべからず。されば小塚の内なりといふ箋釋の説は容易に信ずべからず。國志に禰疑野在2柏原郷東北1といへるは同一の著者が箋釋にいへる所と矛盾せり。小塚は柏原郷の東北にあらざれはなり○在2柏原郷之南1の郷は在2郡西1、在2郡東南1など云へる郡の例とは異にて地域を云へるなり。郷には郡家に比すべき廳舍あるまじきが上に次に郷之中とあるは一地域の中央と見ざるべからざれはなり。さて菅生村大字小塚は柏原郷の地域の西北端に在りて本書に在2柏原郷之南1とあるにかなはず○此野有土蜘蛛名曰打※[獣偏+爰]八田國摩侶等三人とある、訓みがたし(久老は強ひて名テ打※[獣偏+爰]ト曰フ八田國摩侶等ト三人アリとよめり)。箋釋に
 一本ニ等三人ノ三字無シ。是ナルニ似タリ。蓋衍文ノミ
といひ栗田氏標注にも「舊印本摩侶ノ下、等三人ノ三宇アリ。恐ラクハ衍」といへり。按ずるに
 名ヲ打※[獣偏+爰]・八田・國摩侶ト曰フ。等三人
と切りて訓むべきにてその等は并の誤ならむ。古事記に并六島・并八神・并五柱などいへ(51)るを例とすべし○天皇親欲伐此賊の親字は欲の下に在るべし。勞を久老はネギラヒタマヘリとよめり。うるはしくはネギタマヒキとよむべし。萬葉集卷六なる聖武天皇の御製歌に
 すめらわが、うづの御手もち、かきなでぞ、禰宜たまふ、うちなでぞ、禰宜たまふ
又卷二十なる追痛2防人悲別之心1作歌に
 とりがなく、あづまをのこは、いでむかひ、かへり見せずて、いさみたる、たけきいくさと、禰疑たまひ云々
とあり○因謂禰疑野是也は辭ととのはず。因は今の誤か。又是あまれるか
 
蹶石《クヱイシ》野(在2柏原郷之中1) 同天皇欲v伐2土蜘蛛之賊1幸2於|柏峡《カシハヲ》大野1。其野中有v石。長六尺、廣三尺、厚一尺五寸。天皇祈之曰。朕將〔右△〕v滅2此賊1者當〔右△〕v蹶2茲石1譬如2柏葉1而擧焉。即蹶v之騰如2柏葉1。因曰2蹶石野1
 
新考 景行天皇紀十二年に(四八頁に引きたる文の續に)
 天皇初将v討v賊次2于柏峡大野1。其野有v石。長六尺、廣三尺、厚一尺五寸。天皇祈之曰。朕得〔右△〕v滅2土(52)蜘蛛1者將〔右△〕v蹶2茲石1如2柏葉1而擧焉。因蹶v之則如v柏上2於大虚1。故号2其石1曰2蹈〔左△〕石1也。是時祷神則志我神・直入物部神・直入中臣神三神矣
とありて殆同文なるが風土記の朕將滅此賊者の將を得に作れり。原のままにても此賊ヲ滅サムニハと訓まれて通ぜざるにあらねど得とあらむ方優れり。思ふに日本紀の撰者が風土記の文を取るに當りて改めしならむ。次に當蹶茲石は茲石ヲ蹶ルニアタリテとも訓むべけれど當の宇妥ならず。さればこそ日本紀には將に改めたるなるべけれ。その將蹶茲石はコノ石ヲ蹶ムニとよむべし○蹶石野を久老がイシフミ野とよみたるは日本紀の傍訓に將蹶茲石また因蹶之の蹶をフムとよめるに基づきたるにて日本紀の傍訓に蹶をフムとよめるは下に故号2其石1曰2蹈石1也とあるに據れるなれど蹶に蹈の義無きのみならす天皇は石を蹈みたまひしにあらで正しく蹶たまひしなれば曰蹈石也とあるは恐らくは蹶石の謬ならむ。
 〇日本紀の傍訓に蹶をフミとよめるは實は此處のみにあらず。はやく垂仁天皇紀七年に各擧v足相蹶則蹶2折|當麻蹶速《タギマノクヱハヤ》之脇骨1。亦蹈2折其腰1而殺之とある相蹶を相フムとよみ蹶折をフミサクとよみたり。按ずるに此訓は第一に蹶速をクヱハヤとよめると相(53)かなはず。第二にフムは上より下に向ひて力を加ふるなれば擧足といへると相かなはず。第三に蹶折をフミサクとよみ蹈折をフミクジキテとよみたれど蹶と蹈と同訓なるべからず。又蹶折と蹈折との折は異訓なるべからず。又蹈折其腰をフミクジキテとよめるは是※[以を□で囲む]首邑有2腰折田1之縁也の腰折田をコシヲレタとよめると相かなはず。されば相蹶はアヒクウとよむべく(蹶《ケ》をいにしへクヱといひしは經をいにしへハヘといひしと同例なるべく、そのクヱの活はスヱなどと同じかるべし)蹶折はクヱヲリとよみ蹈折はフミヲリテとよむべし
さて蹶石野は何と訓むべきか。箋釋にはケイシとよみ標注にはイシフミ・ケイシの兩訓を擧げたり。宜しくクヱイシとよむべし。さて文に據れば蹶石野はやがて柏峽大野なるが柏峽大野といふ舊名を蹶石野と改めしにあらで柏峽といふ處にある無名の大野に蹶石野と名づけしならむ○箋釋本に其野の二宇・此賊の下の者宇・擧焉の二字無きは落したるなり。また祈之曰を折曰としたれど之字あらむ方優れり。古文には盛に此助字を用ひたり。日本紀にも祈之曰とあり○祈之曰は祝曰とあらむに齊し。久老のウケヒタマハクとよめるが當れり。こは所謂石占なり。さて特に如柏葉とのたまひしは地名の柏峽(54)が示す如く御目前に柏多く生ひたりしが故なり。柏葉は二字を聯ねてカシハとよむべし。木とまぎれざらむ爲に葉字を添へたるにて總説にイモを芋草と書けると同例なり○此風土記も肥前風土記と同じく日本紀に取られたり。くはしくは緒言に云へり○箋釋に
 蹶石野ハ未其所在ヲ詳ニセズ。此注(○標題の下の注)ニ曰ク在柏原郷之中ト。恐ラクは非ナラム。蓋日本紀ニ柏峽大野ト曰ヘリ。故ニ斷ジテ柏原トセルナリ(○箋釋の著者は此風土記を日本紀に據りて書けるものと思へるなり)。然レドモ柏原は寇賊(ノ)屯セル所ナリ。事理ニ於テ妄ニ敵地ニ入リ且石ヲ蹶テ神ニ祷ルベカラザルナリ。案ズルニ日本紀ニ曰ク。即留2于|來田見《クタミ》邑1權興2宮室1居之、仍與2群臣1議v討v賊ト。所謂蹶石は當ニ此地方ニ在ルベシ。當時祷ル所ノ三神ニ直入中臣神アリ。其祠は朽網ノ中野村(○今の阿蘇野村の内)ニ在リテ石ヲ祭リテ神トシ石神明神ト稱セリ。其石ノ大小稍之ニ相近シ。然レバ蹶石野ハ乃其地方ノ野ニシテ蹶石は乃此石カ。其三神ノ直入物部神は朽網ノ社家村ノ鶴田(○今の長湯村)ニ在リテ籾山八幡ト稱シ志賀神ハ大野郡志賀村(○今の上井田村の大字にて直入郡界に近し)ニ在リテ若宮八幡ト稱シ前ニ稱《ア》ゲタル直入中臣神(55)ト倶ニ三トシ歳時奉祀ス
といへり。今の阿蘇野村なる村社直入中臣神社に蹶石之碑あるは右の箋釋の説に據りて嘉永二年に建てしなるが本書にまさしく蹶石野在柏原郷之中とあるを(中は中央の義)朽網郷の北偏なる地に擬したるは妄なり。箋釋の著者が柏原郷内にあらずとせる理由は柏原寇賊所v屯、於2事理1不v可d妄入2敵地1且蹶v石祷uv神といふに在れど土蜘蛛の巣窟は後の柏原郷の西北端なる禰疑野にて後の柏原郷がさながらに賊巣なりしにあらざるべければ天皇が來田見の行宮より發し稻葉川を渡りて西南に進み途中なる柏峽の大野にて石占を行ひたまひしに何の訝るべき事かあらむ。土蜘蛛の巣窟なる禰疑野にてすら兵衆を犒ひたまひし事前條に見えたるにあらずや。夙く管内志に
 風土記解(○箋釋)の説、地方の考はさる事ながら(○否さる事ならず)石神明神を景行天皇の祈給へる直入中臣神とし、やがて又天皇の蹶給へる石の事なりとするはいかに思ひまどへるにや
と云へり。管内志の著者の意は中臣神社の大石は天皇の祈りたまひし中臣神の神體なれば固より天皇が蹶たまひし大石とは別なるべきなりと云へるなり。地名辭書柏原郷(56)の下に
 景行紀に柏峽大野といふ地名ありて通證には柏峽を本郷に充てたり。然れども當時戰陣の形勢に參考すれば柏峽は朽網郷より稻葉川に至る邊にあるべし。此にあらず
といへるは風土記の記事を忘れ又箋釋と惑を齊しくせるなり。所詮蹶石野は今の荻村附近なるべきなり。さて巡狩の路次を考ふるに天皇は豐前國|京都《ミヤコ》郡より發して豐後國の西北部より入り(恐らくは山國川に沿ひて日田郡に入り)大分郡を經て北、速見郡に入りたまひしが其郡に土蜘蛛あり又直入郡の南部に土蜘蛛ありて共に頑強なりと聞きたまひしかば退きて直入郡の北部なる來田見即朽網に留りたまひし後に、まづ北方なる速見の土蜘蛛を滅したまひ、次に南方なる禰疑野の土蜘蛛を討たむとしたまひしが、こたびは御心に任せざりしかば一たび東北方なる城原まで退きたまひ稻葉川の邊にて卜を行ひ再禰疑野の賊を討たむとしたまふ途なる柏峽の野にて石占を行ひ又附近の地方にいます三神に祷りたまひしなり。地名辭書城原八幡宮の下に
 卜於水上とあるも有石祈之とあるも是時祷三神とあるも皆城原の親祭に外ならず
といへるは非なり。日本紀に見えたる稻葉川上以下の地名に就いては大野郡の下にて(57)云はむ
 
球覃《クタミ》郷(在2群北1) 此村有v泉。同天皇行幸之時奉膳之人|擬《トシテ》v炊2於御飲〔左△〕《飯》1令v汲2泉水1即有2蛇※[雨/(口口口)/龍]《オカミ》1(謂2於箇美1)。於v是天皇勅云。必將v有v※[自/死]《アシキカアラム》。莫v令2汲用1。因v斯名曰2※[自/死]泉《クサイヅミ》1。因爲2△《村》名1。今謂2球覃郷1者訛也
 
新考 球覃郷は景行天皇紀に來田見邑とあると同處なり。字は次なる宮處《ミヤコ》野の註などに朽網とも書けり。本郡の北部より大野郡の西北部に亙りし廣き地域にて本郡にては今下竹田・阿蘇野・長湯・都野・白丹《シラニ》の五村及|久住《クヂユウ》町に分れたり。箋釋に
 和名鈔ニ來民ニ作リ誤リテ肥後國山鹿郡ニ混ジタリ。轉寫ノ致ス所ナリ
といへるは非なり。和名抄肥後國山鹿郡の郷名に來民とあるは(別に朽納とあるは朽網の誤にて來民の重複なるべけれど)豐後國直入郡の郷名の混入したるにあらず。彼クタミと此クタミとは別なり。元來クタミは諸國にある地名なり。豐前國にもあり○景行天皇が此地に留りたまひし事は上に云へり。次節にもいふべし○奉膳は久老の如くカシハデとよむべし。後に音にてブゼンと唱へられて高橋・安曇《アヅミ》二氏の世職となりき。因にい(58)ふ。此天皇と高橋朝臣の祖|磐鹿六鴈《イハカムツカリ》との關係は同天皇紀五十三年・姓氏録・高橋氏文などに見えたり。高橋氏文は本朝月令の逸文に引けり。件信友の高橋氏文考證はその全集の第三に出でたる外に單行本としても發行せられたり○炊字、箋釋本に落ちたり。御飲は御飯の誤なり。擬炊は將炊に同じ。肥前風土記|速來門《ハヤキノト》の下にも貢上セムトスを擬貢上と書けり。於をテニヲハのヲに充てたる例は播磨風土記埴岡里の下に小竹彈2上其屎1※[さんずい+于]2於衣1とありて其新考(三八七頁)になほ若干の例を擧げたり。かかれば擬炊於御飯はミイヒヲカシガムトシテと訓むべし○オカミは漢籍の龍に當れり。萬葉集卷二なる藤原夫人奉和歌にも
 わが崗の於可美にいひてふらしめし雪のくだけしそこにちりけむ
とあり○將有はアラムとよむべし。※[自/死]を久老がクサとよめるは拙し。宜しくアシキカと訓むべし。※[自/死]は臭に同じ○因爲名はまぎらはし。因爲村名の村を落したるにこそ
 
宮爲《ミヤコ》野(朽網郷所v在之野) 同天皇爲v征2伐土蜘蛛1之時起2行宮於此野1。是以名曰2宮處野1
 
(59)新考 宮處はミヤコの正字なる事、爲を古語にコといひし事、ミヤとミヤコとの別、行宮の所在地をもミヤコといひし事は夙く肥前風土記神埼郡|宮處《ミヤコ》郷の下にいへり○景行天皇紀十二年に
 冬十月到2碩田《オホキタ》國1……到2速見邑1……天皇惡v之不2得進行1。即留2于來田見邑1權《カリニ》興2宮室1居之
とあるはやがて此處なり○箋釋に
 案ズルニ其地、宮園ト名ヅク。朽網郷市村(○今の都野村大字|佛原《ホトケノハル》の内)ニ在リ。蓋宮處野・宮園方音相近シ。土人其地ニ就キテ祠ヲ立テテ奉祠セリ。サテ嵯峨帝ノ祠モ亦其近ニ在リ。故ニ後世相混ジテ惟《タダ》一祠ヲ餘シ單ニ嵯峨ノ祠ト稱シ景行ノ祠ハ遂ニ廢レキ。今舊跡ヲ詳ニスルニ宮園ノ南ニ一頃田アリ。土俗天皇警蹕(○駐蹕)ノ處ト相傳ヘテ敢テ糞穢セズ。其側ニ泉アリテ極メテ清潔ナリ。供御ノ水ト名ヅケテ衆皆畏敬ス。又案ズルニ日本紀ニ云ヘル城原ハ今木原ニ作レリ。宮園ト相距ルコト二里半許。此地ニモ亦祠ヲ作リテ天皇ヲ奉祀セリ。後世應神帝ヲ配祀シテ八幡ノ祠ト稱セリ。祠宇最壯麗ナリ
といへり。按ずるに都野村大字佛原の宮園にある郷社宮處野神社はもと嵯峨宮と稱せ(60)しを明治の初に今の如く改稱せしにて今景行天皇・嵯峨天皇・日本武尊等を祭りたれど元來嵯峨天皇のみを祭りたりしに後に景行天皇等を合祀せしなり。されば此宮園は景行天皇の行宮址にあらず。行宮址と思はるる景行天皇の舊祠の址は今知るべからざるなり。箋釋にミヤゾノとミヤコ野と音相近ければ宮園即官處野なりと云へるはうべなはれず。
 ○因にいふ。豐後國には宮園といふ地名多し。即此處の外に日田郡高瀬村・同|馬原《マバル》村・直入郡城原村・日管生村・大分郡|石城川《セキジヤウガハ》村などにもあり。豐前國下毛郡下郷村の大字にもあり。元來宮園は神領の御園といふことならむ。ともかくもその宮は行宮には關係なからむ
次に箋釋に宮園の南なる一頃田の側の泉を臭泉に擬したる如くなれど臭泉は臭あるが故に供卿とはならざりしなり。されは箋釋に云へる所には此地方が行宮址なる證となるべきもの無けれど口碑に據れば行宮の在りしはなほ此地方ならむ。但都野といふ村名は明治二十二年に口碑に基づきて命ぜしなり○箋釋に因に城原八幡祠の事を云ひたれば余も因に云はむに彼十二年紀に天皇更返2城原1而卜2於水上1とある城原は三宅(61)郷の内にて本より朽網行宮とは別なるが今|城原《キバル》村大字|米納《ヨナイ》に縣社城原八幡社のある處かといふに當社は慶長元年に今の處に遷されしにて舊社地即今當社の神幸所となれる松原といふ處ぞ城原行宮の址なると云ふ。國志に城原故祠在2城西勝山(〇八幡山)天勝院1といへるは又別處にて文禄三年より慶長元年までただ三年の間當社の在りし處なり。又因にいふ。今城原八幡宮の在る處をも宮園又御所園といふ由國志に見えたり。いとまぎらはしければ定めて読者を悩さむかし○類從本には是以名曰宮處野の下に也字あり
 
球覃《クタミ》峯(在2郡南〔左△〕1》) 此峯頂|大垣〔二字左△〕《火垣》燎之《モユ》。基有2數川1。△△△《其大者》名曰2神河1。亦有2二湯河1流會2神河1
 
新考 クタミノ峯は今の朽網《クタミ》山なり。朽網山は郡の西部に在りて玖珠郡並に肥後國阿蘇郡に跨れる山彙にて久住《クヂユウ》山・大船《タイセム》山・黒岳等の諸峯より成れり。其中にて久住山の一峯九重山(一名星生山)は活火山なり。今人此山彙を九州アルプスと稱するはいとうたてし○救覃峯も亦朽網とも書けり。たとへば下文大分河の下に直入郡朽網之峯とあり。按ず(62)るにクタミがクサミとなり(本書の記事に據ればクサミに復し)そのクサミがクスミに轉じたるを久住と書き更にそれをクヂユウと音讀して九重とも書きしが遂に久住山と九重山とは指す所を異にせしにこそ(陸地測量部發行帝國圖參照)。
 ○部落の名は久住村・久住町と書きて昔も今も九重と書かず。或郷土誌の説に此山彙は玖珠郡に跨りたればクス山とも云ひて久住の字を充てたるならむと云へれど住は音チユ又ヂユ、慣用音ヂユウにて音訓共にスには借るべからず萬葉集卷十一に
 朽網山ゆふゐる雲のたちゆかばわれはこひむなきみが目をほり
とあるも此山にや。但仙覺の註釋・八雲抄などには此クタミ山を豐前とし、近くは豐前の人渡邊重春の豐前志に同國企救《キク》郡の山とせり○在郡南とある不審なり。上に述べたる如く郡の西部にありて郡家の所在地は不明なれど之を三宅郷の中部としても直入郷の北部としても朽網山はその郡家より西北に當るべきなり。在郡南は在郡西の誤ならざるか。上にも柏原郷の西北部なるべき禰疑野を在柏原郷之南といへり。箋釋には
 案ズルニ郡北ニ在り。恐ラクハ傳寫之ヲ誤レルナラム
(63)といへり○大垣燎之の大垣を久老は火恒に改めたり。之に從ふべし。但大は箋釋本には初より火とあり○其有數川名曰神河とある、心得がたし。數は衍字か。又は名の上に其大者などの落ちたるか。基は麓なり。山城風土記の逸文にも定《シヅマリ》2坐久我國之北山基1とあり。又姓氏録右京皇別上、垂水君の下にも垂水岡基とあり。神河を久老がカムノカハとよめるはわろし。カムカハ又はカミノカハとよむべし。ノの添ひたる時にはカモはカムに轉ぜぬが例なり○湯河は温泉の末又は湯の湧く川なり。播磨風土記|神前《カムザキ》郡埴岡里の下にも見えたり。同國|美嚢《ミナギ》郡|吉川《エカハ》里も湯川の訛なるべし。今も紀伊を始として諸國に湯川・湯河といふ地名あり○朽網山の東方より發する川は南北二系統に分れたり。南方なるは東、大野郡へ流るる川なり。其上流を稻葉川・久住川といひ下流を大野川といふ。北方なるは東北、大分郡へ赴く川にて其上流を朽網川といひ下流を大分川といふ。ここに云へる神河は即朽網川の主源なり。箋釋に神河今朽網川ト曰フ。湯原《ユノハル》(○湯原川)ノ下流ナリ。東北行三里許ニシテ蛇生瀬《ジヤウセ》瀑トナリテ大分郡ニ入ル。下文大分河ノ條ニ源出2直入郡朽網之峯1ト曰ヘル是ナリ二ノ湯河今湯(ノ)原川ト曰フ。一ハ黒嶽ノ東ヨリ出デテ湯原邑(○長湯村の内)ノ北ヲ※[しんにょう+堯]リ(64)一ハ大船山ノ西ヨリ出デ東北行シテ湯原邑ノ東ニ至リ二水相合ヒテ神河トナル。此水道ノ經ル所七里田・葛淵及湯原等(○今の都野長湯二村の内)温泉處々ニ在リ。湯河ト名ヅクル所以ナリ
といへり。本書に據れば主源は神河にて二の湯河は支源なり。然るに箋釋には二湯河とあるに合すべく黒岳より發するものと大船山より出づるものとを合せて湯原川としたる爲に神河に當るもの無くなりたれば枉げて二水相合爲神河と云ひて本書と一致せざるに至れるなり。本書に神河といへるは大船山より出づるものにて二湯河といへるは(少くとも其一は)黒岳より發するもの即今の湯原川なり。日本地誌提要にも大分川三源アリ。……一ハ直入郡大船山下ニ發シ南流|柏木《カヤギ》(○都野村の大字)ヲ過ギ東北流シ湯原川ヲ合セ朽網川ト云
といへり
 
   大野郡  郷肆所(里一十一)驛貳所・烽壹所
 
此郡所v部《スブル》悉皆原野也。因v斯名曰2大野郡1
 
(65)新考 和名抄本郡の郷名に田口・大野・緒方・三重とあり。田口は後に井田と改められしにや。國志に
 倭名鈔ニ田口アリ。圖田牒ニ井田アリ。蓋後世改ムル所ナリ。今田口ハ井田郷中ニアリ。是古名ノ靡レテ村ニ存ズルノミ
といへり。郡家の在りし處は大野か。今も東西の大野村ありて東大野村の大字に郡山あり。緒方・三重の名も村名町名に殘れり。大野川、西方直入郡より來りて初は東走し後は東北走して大分郡に入れり。四郷の内大野・田口は其左岸に、緒方・三重は其右岸にありき。されば三重は郡の東部に、緒方は西南部に、大野は西北部に、田口は其東方に當れり○驛二所とあるは延喜式に見えたる三重・小野なるべし。箋釋に
 三重ハ今ノ三重郷三重市、小野は今ノ宇目郷小野市ニテ並ニ是古驛址ナリ
といへり。小野はげに今の小野市村大字小野市なるべけれど三重を今の三重町大字市場(即三重市)とすれば兩驛の距離短きに過ぐ。然も三重と前驛丹生(之を北|海部《アマベ》郡の丹生とすれば)との距離長きに過ぐ。されば地名辭書に今の大野郡犬飼町を丹生に擬したれど、さては丹生・三重・小野の三驛共に大野郡の内となりて本書に大野郡驛二所、海部郡驛(66)一所とあるに合はざるに由りて地名辭書には又今の大野郡の東南部なる小野市・重岡の二村をいにしへ海部《アマ》郡に屬せしならむと云へり。此説は思得たるに似たれど犬飼町を古、丹生と稱せし證も無ければ其根據薄弱なり。按ずるに三重驛は後世の三重市よりは遙に北方にぞありけむ。近世三重郷の北に野津院莊ありしかど、そは三重郷より分れしにて古の三重郷は北、直に大分郡界に達したりしなり。又豐後の國府より日向の國府に通ひし官道は今の國道より北方にて大野川を渡りて北海部郡の丹生をぞ過きけむ。なほ海部郡の處にて云ふべし○此官道は小路なれば各驛馬五疋なるべきを延喜式に小野十疋とあるは(箋釋に五疋とせるは誤なり)直入郡の下(四四頁)に云へる如く官道此驛にて二路に分れたる爲ならむ○烽壹所の三字、箋釋本に見えざるは落したるなり。同系統の二寫本にも見えたり〇本郡は西は直入郡に、北は大分郡に、東は南北海部郡に、南は日向國に接せり。今の主邑は三重町・犬飼町なり
 
海石榴《ツバキ》市・血田(並在2郡南1) 昔者纏向日代宮御宇天皇在2球覃《クタミ》行宮1仍欲v誅2鼠石窟土蜘蛛1而詔2群臣1伐2採海石榴樹1作v椎《ツチ》爲v兵即|簡《エラビ》2猛卒1授2兵椎1以穿v山(67)排v草襲2石室土蜘蛛1而悉誅殺、流血没v踝。其作v椎之處曰2海石榴市1亦流v血之處曰2血田1也
 
新考 此記事と下文速見郡の條なる記事とを取合せて日本紀景行天皇十二年に 到2速見邑1有2女人1曰2速津媛1爲2一處之長1。其《ソレ》聞2天皇|車駕《イデマシ》1而奉v迎之|諮言《マヲサク》。茲山有2大石窟1曰2鼠石窟1。有2土蜘蛛1住2其石窟1。一曰v青二曰v白。又於2直入縣禰疑野有2三土蜘蛛1一曰2打※[獣偏+爰]1二曰2八田1三曰2國摩侶1。是五人並其爲v人強力、亦衆類多之。皆曰v從2皇命1。若強|喚者《メサバ》興v兵距焉〔四字傍点〕。天皇惡v之不2得進行1。即留2于來田見邑1權《カリニ》興2宮室1居之。仍與2群臣1議之曰。今多動2兵衆1以|討《ウタムニ》2土蜘蛛1若畏2吾兵勢1將v隠《カクレムニ》2山野1必爲2後愁1。則採2海石榴樹〔五字傍点〕1作椎爲v兵因簡2猛卒1授2兵椎1以穿v山排v草襲2石室土蜘蛛1而破2于稻葉川上1悉殺2其黨1血流至v踝。故時人其作2海石榴椎1之爲|△《曰》2海石榴市1亦血流之爲曰2血田1也
と書けり
 ○まづ右の文中なる採海石榴樹〔五字傍点〕以下が風土記の文といとよく相似たるに注目すべし。與兵距焉〔四字傍点〕以上は更に速見郡の爲に至りて比較せむ。又讀者の爲に豫、疑を釋かむに(68)日本紀には諮をマヲスに充て(垂仁天皇二年一云以下)車駕をミユキ又はイデマシに充てたり(景行天皇三年以下)
○在2球覃行宮1仍欲v誅2鼠石窟土蜘蛛1は上文|宮處《ミヤコ》野の下に同天皇爲v征2伐土蜘蛛1之時起2行宮於此野1とあるに當れり。日本紀に即留〔右△〕2于來田見邑1權興2宮室1居之と書けるは撰者が地理を審にせずして書けるならむ。天皇は大分郡を經て一たび速見郡に入りたまひしが速津媛より前にも後にも強力なる土蜘蛛の住みて皇軍に抗せむとする事を聞きたまひて大分川を泝りて直入郡なる朽網まで退きたまひしなり(五六頁參照)。されば日本紀の文にては即退〔右△〕2于來田見邑1權興2宮室1居之とあるべきなり○鼠石窟は速見郡に在るべし。同郡の處に至りて云はむ○海石榴はツバキなり。ツバキを椿と書くは我邦にて製したる無音の會意字なり。なほハギを萩と書く如し。漢字の椿・萩にはツバキ・ハギの義無しと知るべし。萬葉集にはツバキを海石榴とも椿とも書けり○因にいふ。ハ ギを萩と書けるは播磨風土記が初なわ(新考二八四買參照)
 ○椎は音ツヰ、槌に同じ(樹名の時の音はスヰ)。兵は武器なり。ツハモノとよむべく兵椎はツハモノノツチとよむべし。さて特にツチを用ひしめたまひしは後世のカケヤと同じ(69)く敵を斃す外に障害物を除くに便なる爲ならむ。齊明天皇紀六年なる百済の來奏の中に兵盡2前役1。故以v※[木+倍の旁]《ツカナギ・ハウ》戰とあるはここなると事情を異にせり。但兵盡の兵も亦兵器なり。兵士にあらず○襲の下の石室の二字箋釋本・類從木・一寫本に無きは落したるならむ。一寫本にはあり。日本紀にも有り○踝は今いふクルブシなり。古語はツブナキ又ツブフシといふ。流血没踝は地上にたまれる血、足のくるぶしを隱すばかりなりといふ事にて神武天皇紀にも見えたる辭なり。書紀集解に流血及v履・流血霑v踝を例に引きたり。景行天皇紀の血流至v踝は南史卷六十六侯安都傳に安都躬自接戰爲2矢所1v中血流至v踝〔四字傍点〕とあると同例なれど、こは頭などより流下る血が足の踝に達すといへるにてここには副はず○海石榴市を久老と箋釋とはツバキ市とよみ管内志にはツバ市とよめり。萬葉集卷十二なる
 海石榴市の八十のちまたをたちならしむすべる紐をとかまくをしも
 紫に灰さすものぞ梅石榴市の八十のちまたにあへる兒やたれ
の海石榴市(これは大和國の地名)を余も舊訓に從ひてツバ市とよみたれど、これもツバキ市ともよまる。蜻蛉日記・枕草紙・源氏物語玉鬘の卷などにツバ市とあり今もツバ市といへばツバ市ぞ正しからむとも云ふべけれど、こはツバキイチをツバイイチと訛りし(70)後に一のイを略したるにてもあるべし。強ひて思ふに木の名はツバにあらでツバキなれば大和なるも初にはツバキ市とぞ唱へけむ。敏達天皇紀十四年の海石榴市亭にはツバキノイチノウマヤダチと傍訓せり○亦流v血之處曰2血田1也は神武天皇紀に
 兄猾《エウカシ》獲2罪於天1事無v所v辭。乃自蹈v機而壓死。時陳2其屍1而斬v之流血没v踝〔四字傍点〕。故号2其地1曰2菟田血原《ウダノチハラ》1
とあると相似たり○箋釋に
 案ズルニ古書ノ殘缺ニハ自錯簡アリ。所謂海石柘市・血田ハ並ニ直入ノ禰疑野ノ下ニ在ルベシ。案ズルニ今朽網郷稻葉村(○今の白丹《シラニ》村大字白丹字稻葉)ニ海石榴山アリ。蓋其舊址ナリ。血田は柏原郷小塚村(○今の菅生村大字小塚字小塚)ノ南ニ在リ。水田東西二十歩、南北十餘歩。田水赤色ナルヲ異トスルノミ。血田ノ北ニ古塚アリ。蜘蛛塚トイフ。賊ヲ殺シテ埋メシ所ナリ。其東ニ禰疑野洞アリ。菅生山ハ史ニ謂ヘル禰疑山ナリ。皆是歴々タル陳跡ナリ。之ヲ大野ニ混ジタルハ誤レリといひ管内志には海石榴市・血田を直入郡の部に收めて風土記解(○箋釋)の説に依て此郡の内に擧つ。今にても風土記の古本など出なば此郡(71)の内に載たる卷もあるべし
といへり。箋釋はまづ所謂海石榴市・血田當d並在c直入禰疑野下uといひ本書に海石榴市・血田を大野郡の下に擧げたるを誤として禰疑野附近即直入郡の西部に二地を求めしなるが夙くその當d並在c直入禰疑野下uと云へるが誤れり。箋釋及國志の著者唐橋氏は速見の鼠石窟の土蜘蛛と禰疑野の土蜘蛛とを混同せり。日本紀の文に則採2海石榴樹1とあるより曰2血田1也とあるまでは鼠窟の賊を伐ちたまひし事を云ひ復將v討2打※[獣偏+爰]1とあるより下が禰疑野の賊を討ち給ひし事を云へるなり。さて當時天皇はクタミのミヤコ野の行宮にましまししなれば兵椎は其附近にて作らしめたまひしなるべく從ひて海石榴市は今の都野村附近に求むべし。又その土蜘蛛を滅したまひし處は速見郡なるぺければ(風土記には大野郡とし日本紀には稻葉川上としたれど)血田も禰疑野附近には求むべからず。あらぬ地方を物色してたまたまツバキ市に似たる地名ツバキ山に遭遇し水色の血に似たる田を發見したりとも何の詮かあらむ。箋釋の誤ははやく辨へつ。更に風土記並に日本紀に對する疑を述べむ。風土記に依りても日本記に據りても鼠窟の土蜘蛛は速見郡に在りしなれば官軍の進みて之を滅ししは逮見郡なるべきなり。しばらく(穿v(72)山排v草襲2石室土蜘蛛1とあるには合はねど)土蜘蛛の方よりクタミの行宮に向ひて逆襲し來りしなりとしても兩軍交戰の地は朽網川の流域に在るべく所謂稻葉川上には在るべからず。然らば風土記に海石榴市・血田を大野郡に屬したるを錯簡として速見郡に改屬し日本紀に稻葉川上とあるを朽網川上の誤記とすべきかと云ふに朽網川即大分川は大分郡内にて海に入りて速見郡を經ねば仍彼土蜘蛛は官軍を逆襲せむ爲に南、大分郡まで來りしものとせざるべからず。從ひて少くとも血田は大分郡に屬せざるべからず。又もし稻葉川上とあるを原のままとし
 ○川上は川ノホトリとよみて(否川カミと訓みても)上流の義ならで河邊の意ともすべし(萬葉集新考四一頁又肥前風土記新考六九頁參照)
又海石榴市・血田を風土記に大野郡に屬せるに從はば
 ○喜田貞吉博士は血田を大野郡南緒方村大字知田に充てたり(日向國史上卷三一四頁)
梅石榴市・血田の名を起しし土蜘蛛は速津媛が天皇に奏上せし土蜘蛛とは別にて本來大野郡に住みし者とし從ひて鼠窟とあるを誤記とするか又は速津媛の奏言中の鼠窟(73)と同名異地とせざるべからず。約して言はば箋釋の錯簡説は誤解より出でたるものなれば固より採るに足らず。但風土記・日本紀に恐らくは多少の誤記あらむ
 ○なほ云はむに景行天皇は初朽網川に沿ひて下り由布川との合流點より由布川を泝りて由布院に入りたまひしか。もし然らば鼠窟の土蜘蛛は由布山中に在りしならむ。又速津媛といふは由布川に因れる名か
 
細〔左△〕磯《アミシ》野(在2郡西南1) 同天皇行幸之時|此間《ココニ》有2土蜘蛛1名曰2小竹鹿奥(謂2志努汗意※[手偏+勾]均《シヌカオキ》1)小竹鹿臣1。此土蜘蛛二人擬v爲2御贈1《ミケヲツクラムトシテ》作2田※[獣偏+葛]《カリセシニ》1其※[獣偏+葛]人聲甚|※[言+華]《ミスシ》。天皇勅曰2大囂《アナミス》1(謂2阿那美須1)。因v斯曰2大囂《アナミス》野1。今謂2網磯野1者訛也
 
新考 細は網を誤れるなる事記事によりて明なり。又箋釋本には網とあり。磯は日本紀にシカ・シキを磯鹿・磯城と書き又兄磯城の下に磯此云v志と注せるに依りてげにシと訓むべし。箋釋に
 今阿志野ニ作ル。大野郡ニ屬シテ郡ノ西北ニ在リ。本注ノ南字ハ誤寫ノ致ス所カ
といひ國志に
(74) 細磯一ニ網磯ニ作レリ。今阿志野ニ作ル。並ニ國音相近シ。風土記ニ又曰ク在郡西南ト。今按ズルニ西北ニ作ルベシ。地方|較《ヤヤ》直入郡朽網郷ト壌ヲ接セリ。則車駕經過ノ地トセムニ穏當ナルニ似タリ
といへり○小竹を一本に小片に作れるは無論誤なり。小竹鹿奥の訓註なる志努汗意拘の拘は一本に無く一本に招、に又一本に拓に作れりといふ。又久老は疑起〔右△〕誤乎といへり。恐らくは枳の誤ならむ。さてシヌカオキは男子、シヌカオミは女子ならむ。キとミとにて男女を別てるはオキナ・オミナ又畏かれどカムロギ・カムロミ、イヅナギ・イザナミなどの例あり。古事記傳卷三(一八七頁)にキを君として
 君をキとのみ云る例、明宮《アキラノミヤ》の段の大御言にサザキアギ、又|忍熊《オシクマ》王の歌にイザアギなどあるが如し。又|女君《メギ》をつづむればミとなるなり
といへれど、キは元來男子の尊稱、ミは女子の尊稱にてキミといふ語はやがてこのキとミとを合せたるにあらざるか。小竹鹿臣の臣は奥と共に(おそらくは小竹鹿も)借字なり。汗をカに借れるはめづらし。萬葉集卷十三の初の歌の汗湍能振の汗を契沖眞淵はカとよみたれど、こは恐らくは誤字ならむ(久老本には汗を※[さんずい+于]に誤りてなほカとよめり)○擬(75)爲御膳はミケヲツクラムトシテとよむべし(久老はオホミケヲナスニアタリテとよめり)。球覃郷の下なる擬炊於御飯がミイヒヲカシガムトシテとよむべきと同例なり。擬を將の如くつかへる例は漢籍にもあまた見えたるが本書などの用例を見るにセムといふ時には將と書き、セムトス・セムトシテなどいふ時には多くは擬と書けるに似たり(五八頁參照)○田※[獣偏+葛]の※[獣偏+葛]は獵の古宇なり。田も亦獵なり。作を久老はナセリとよみたれどナシキとよむべし。否カリヲナスとは云はねば作田獵の三字を聯ねてカリシキとよむべきか○※[言+華](群書類從本及一寫本には※[言+勸の左]に作れり)を久老はカマミスシとよみ箋釋本にはカマビスシとよみ管内志には「森氏の説にここにアナミスといふミスはカマビスの略言なりとあるはさる事になむ」といへり。※[言+華]は宜しくミスシとよむべし。今いふカマビスシはカマミスシの轉じたるにてそのカマミスシはカマシとミスシと同義の二語の相連れるなり(肥前風土記新考五九貢參照)○ァナはアナアハレなどいふアナにて噫などにこそ當るべけれ。さるを大と書けるは意を迎へたるなり
 
   海部《アマ》郡  郷肆所(里一十二)驛壹所・烽貮所
 
(76)此郡百姓並海邊|白水郎《アマ》也。因曰2海部郡1
 
新考 和名抄郡名海部の訓註に安萬とあり。今はアマベと唱ふ。恐らくはいにしへアマと唱へしを後に字に泥みて、アマベと唱ふる事となりしならむ。海部は元來海人部と書くべきを地名は二字とすべき制に依りて人字を略したるかと云ふに萬葉集にアマを海人(又白水郎又泉郎又海子又海夫又礒人)と共にいと多く海部と書けるを見れば固より海部と書きしにて地名なるが故に二字にちぢめしにあらざるなり。海部郡は明治十一年以來南北二郡に分たれたり○和名抄郷名に佐加・穗門・佐井・丹生・日田・在田・夜開・曰理・叉連・石井の十郷を擧げたれど本郡なるは佐加・穗門・佐井。丹生の四郷にて日田以下六郷は日田郡に屬すべき事同郡の註にいへる如し。四郷の内佐加・佐井・丹生は今の北部に屬し穗門は今の南北二郡の界に在りき。さて初三郷のうち佐加は今の北海部郡の東北部に當り佐井は其西に接し丹生は更に其西に接し三郷の南なる大地域(穗門郷の外の)は當時はなほ未開にて無所屬なりしに似たり(播磨風土記新考五〇頁參照)。右の如くなれば廣大なる海部郡の中にて夙く開けたるは其北端と中央との小部分のみなりしなり。日本地理志料に和名抄大分郡管の神前郷を本郡に屬して移2大分郡神前郷于此1以復2源(77)君(○和名抄の著者源順)之舊1といひ又
 神前 按原係2大分郡1。蓋錯簡也。今移2于此1
といへるは妄なり。かく云へるは北海部郡の東北部に神崎《カウザキ》村大字神崎あるが故なるべけれど此地方は和名抄の佐加郷の内なり○驛一所を箋釋にも管内志にも兵部省式に見えたる丹生に充てたり。然るに地名辭書には本郡丹生郷の下に
 按に延喜式に丹生驛あり。本郷に充つべきにや。然れども海部の丹生は通路たるべしとは信ぜられず。大野郡犬飼ならん
といひ又大野郡犬飼の下に
 按に延喜式丹生驛あり。犬飼などに當るべし。和名抄海部郡に丹生郷あれど驛路通過の地に非ず。延喜式豐後國驛馬を録し小野十疋、荒田・石井・直入・三重・丹生・高坂・長湯・由布各五疋と曰ひ又郡別の傳馬を録し日田・球珠・大野・海部・大分・速見郡各五疋と曰ふ。其經由の郡別に就き通路を察見するに(○豐後の國府より)日田を經て太宰府に赴く者と豐前並に日向に赴く者すべて三線とす。風土記に參考するに日田郡驛一所は石井に當り球珠郡驛一所は荒田に當る(○直入驛の事は避けて云はざるなり)。大野郡驛二所(78)は三重・丹生とし大分郡驛一所は高坂にて速見郡驛二所は長湯・由布に當る。而して小野は當時海部郡驛一所と云ふに當ること亦推知すべし
といへり。然るに小野は今大野郡の内なればそを辨じて又
 今大野郡小野市・重岡等は徃時海部の屬にて延喜式海部(?)小野驛と云ふは即小野市なり(○海部郡の下)
といひ又
 延喜式小野驛十疋と注し又海部郡傳馬五疋と注するは此山驛の海部郡の屬なるを證す。風土記にも海部郡驛一所と録す(○大野郡小野市の下)
といへり。何の證も無きに大野郡小野をいにしへ海部郡に屬したりきとし又丹生を大野郡犬飼に充てむよりは寧豐後日向間の驛路は大野川の河口を渡りて海部郡丹生郷を經しものと認むべし(六六頁參照)○白水郎は肥前風土記|値嘉《チカ》島の下にも見えたり。アマを白水郎と書ける例は此等に次ぎては允恭天皇紀十四年・仁賢天皇紀六年などにあり。萬葉集には卷一なるウチソヲヲミノオホキミ白水郎ナレヤを始としてあまた見えたり。唐の元※[禾+眞]の詩に白水郎行2旱地1稀と見え同じき薛瑩の龍女傳にも白水郎※[まだれ/臾]※[田+比]羅と(79)あり。但漢籍には之より古き物にもあるべし。白水は本來蜀の水名なり。萬葉集に又泉郎と書ける泉は白水の二合字なり。さてアマは元來漁撈航海に長じたる一種の異民族より成れる部曲なるが其中には牧畜に長じたるものもありきと見ゆ(肥前風土記|値嘉《チカ》島參照)○此郡百姓並海邊白水郎也とあれば本郡の郷は主として海濱に存ぜしならむ〇本郡(即今の南北二郡)は北と東とは海に臨み西は大分・大野二郡に接し南は日向國に續けり。北郡の今の主邑は臼杵町・佐賀關町などにて南郡の主邑は佐伯町なり。臼杵・佐伯は各其藩治の在りし處なり
 
丹生《ニフ》郷(在2郡西1) 昔時之人取2此山沙1該《アツ》2朱沙1。因曰2丹生郷1
 
新考 豐後國弘安八年圖田帳(續群書類從所収)に見えたる丹生莊・臼杵莊は此郷の分れたるなり。箋釋に
 此郷四境尤廣シ。後此郷ヲ割キテ臼杵莊ヲ置キ又此ヲ割キテ彼ヲ補ヒ以テ中臼杵ト稱ス。故ニ臼杵城モト丹生城ト謂フ。野史ニ永禄六年冬大友宗麟丹生島ニ城《キヅ》クト曰ヘル是ナリ
(80) 案ズルニ郷ノ西北ニ久所《クジヨ》村アリ。地、赤迫《アカサコ》ト名ヅクル、多ク朱沙ヲ出ス。蓋此《ココ》ニ取ルカ
といひ國志に
 今郷中ニ久所村アリ。地、赤迫ト名ヅクル、地ヲ掘レバ多ク朱沙ヲ獲。性粗、下品ニシテ藥及畫材ニ入ルベカラズ。但牆壁ヲ飾ルベシ
といへり。地名辭書に
 丹生郷、今臼杵町并に都留《ツル》の諸村にして中世丹生莊・臼杵莊と稱せる地なり。佐井郷の南、佐加郷の西南とす。後世佐井郷の内にも丹生村あるは丹生莊を以て佐井の地を兼攝したるにやあらん
といへるは從はれず。丹生といふ地名は本郡の西北部なる今の丹生村より起りて南方の廣き地域に及びしなり○在郡西とある郡は屡云ひし如く郡家の事なるが丹生郷を在郡西といひ佐尉郷を在郡東といへるを見れば郡家は今の小佐井村と丹生村との間に在りしなり
 ○もし驛路本郡の西北部を經ずば(即地名辭書に云へる如くならば)本郡即本郡家に傳馬は置くべからず。本郡家は驛路外に在るべければなり
(81)○該を箋釋に
 該は兼ナリ。既ニ是山沙ヲ取リ朱沙ヲ兼獲ルナリ
といへり。管内志は此説にや誤られけむ、その引ける本文に該獲朱抄としたれど、いづれの本にも獲の字は無し。按ずるに該は該當の該と心得てアツと訓むべし。朱沙即辰沙(硫化水銀)は我邦に稀なれば此山の沙を取りて朱抄に充用せしなり。久老がソナフとよめるは誤とは云はれねど事を審にしての訓なりやおぼつかなし。文武天皇紀二年に令d豐後國獻c眞朱uとあるは即此山の沙にや
 
佐尉《サヰ》郷(在2郡東1) 此郷舊名酒井。今謂2佐尉郷1者訛也
 
新考 和名抄郷名に佐井とある是なり。箋釋に
 案ズルニ郡ノ北ニ在り。東ニ作レルハ恐ラクハ誤寫ノミ。……今廢レテ村トナリ大西《オホザイ》小西《コザイ》ト稱セリ。又細村(○今の坂ノ市村の大字)アリ。蓋佐井ノ轉訛ナラム。今呼ビテ保曾村ト曰フ
といへり。案在2郡之北1といへるは例の如く郡を地域の郡と誤解せるなり。管内志に
(82) 此風土記の文多く落たりと聞ゆ。此郷とある下に酒泉の事か又は大分郡酒水などやうの事ありしなるべし
といへれど脱文あるにあらず。地名辭書に
 佐井郷 今西大在村・東大在村・小佐井村・川添村・丹生村の五に分る。西は犬飼川を隔てて大分郡に至り北は海、南は山(白山・廣内山)東は佐加郷とす。……按に當時海部の郡家は佐加〔左△〕郷に在り
といへれど今の丹生村は當時の丹生郷の内なるべき事上に云へる如し。川添村も丹生郷の内なり(恐らくは大在村も)。又「當時海部の郡家は佐加郷に在り」とあるは佐井郷の誤植ならむ○今小佐井村は丹生村の東に在りて大在村(今は東西に分れずして一村なり)は小佐井の西北、丹生の北に在り。本書に佐尉卿在2郡東1とあるを思へば佐尉郷は今の小佐井村と其東なる坂ノ市村(佐賀市村)とに當るべし
 
穗門《ホト》郷(在2郡南1) 昔者纏向日代宮御宇天皇御船泊2於此|門《ト》1。海底|多生2海藻1而《メサハニオヒ》長美。天皇即勅曰。取2最勝海藻《ホツメ》1(謂2※[人偏+尓]郡《保都》〔二字左△〕米1)。便《スナハチ》令2以進御1。因曰2最勝海藻門《ホツメノト》1。(83)今謂2穗門1者訛也
 
新考 長美は箋釋本に甚美とありて註に甚一作vとあり。最勝海藻の原注を久老は謂保都米に改めて頭註に依2或考1改v之といへり。箋釋本には謂※[人偏+尓]那米とあり。なほ下に云ふべし○和名抄郷名にも穗門とあり。箋釋に
 穩門ヲ分チテ佐伯莊トシテ穗門ハ漸以テ陵夷シ徒ニ一海島ノ名トナレルノミ 今保戸《ホト》ニ作リ海島ノ名トナレリ。其海崖ニ蒲戸崎アリ。呼ビテ※[言+可]摩登ト曰フ。是モ亦保戸ノ轉訛ナリ。此地方モト是穗門郷ナリ。後此郷ヲ割キテ佐伯莊ヲ置ク。郷名竟ニ廢レテ悉莊ニ入ル
 蒲戸崎、海中ニ突出スルコト五里。東豫州ト相對ス。其間|才《ワヅカ》ニ數里。故ニ門ト稱スルナリ。
 此門ヲ經テ南行スレバ日州ノ海ニ到ル
といへり。本郷は今の南北二郡の界にありしにて其南方なる今の南海部郡の大部分は當時はなほ未開にて確に穗門郷にも屬せざりしが後世に至りて其一部を開拓して佐伯莊を立てしならむ○天皇御船泊2於此門1とあるは下文速見郡の下に
 昔者纏向日代宮御宇天皇欲v誅2玖磨※[口+贈]※[口+於]《クマソ》1行2幸於筑紫1從2周防《スハ》國|佐婆津《サバノツ》1發v船而渡、泊2於海(84)部郡宮浦1時云々
とあると合せて思へば周防灘より豐後國の東岸に沿ひて南下し海部郡宮浦に上陸して熊襲を討たむとしたまひしにて御船の穗門に泊てしは其途中なるに似たり。然るに日本紀には
 十二年秋七月熊襲反之不2朝貢1。八月幸2筑紫1。九月到2周芳《スハノ》娑磨《サバ》1。……天皇遂幸2筑紫1到2豐前國|長峽《ナガヲ》縣1興2行宮1而居。故号2其處1曰v京《ミヤコ》也。冬十月到2碩田《オホキダ》國1。……到2速見邑1。……十一月到2日向國1起2行宮1以居之。是謂2高屋宮1。……十三年夏五月悉平2襲國《ソノクニ》1因以居2於高屋宮1已六年也
 十八年春三月天皇將v向v京以巡2狩筑紫國1。……夏四月到2熊縣1。……自2海路1泊2於葦北小島1。……五月從2葦北1發v船到2火國1。……六月自2高來《タク》縣1渡2玉杵名《タマキナ》邑1。……到2阿蘇國1。……秋七月到2筑紫|後國《シリヘノクニ》御木1居2於高田行宮1。……到2八女《ヤメ》縣1。……八月到2酌《イクハ》邑1。……十九年秋九月天皇至v自2日向1
とありて周防灘より豐前國|京都《ミヤコ》郡に上陸しさて豐後國に入り豐後國より陸路を經て日向國に入りたまひし趣にて豐後國の東岸に沿ひて航行したまひし事は見えず。或は(85)初に周防灘より豐後國の東岸に沿ひて南下しその南端なる宮浦に上陸して日向に入らむとしたまひしが目的を達したまはざりしかば同じ海路を北上して豐後國の國東《クニサキ》半島を廻りて豐前國|京都《ミヤコ》郡に上陸し、さて後は日本紀に記せる如く巡狩したまひしか。神武天皇が西より大和國に入らむとしたまひしが豫定を變じて終に紀伊國の海岸を廻りて東、伊勢國を經て大和國に入りたまひし例を思ふべし○多生海藻而は久老の如くメサハニオヒテとよむべし。主語たとひ下にありとも必しもヲを添へて訓むべからざる事播磨風土記なる折2其弓1落v粒の處(二三一頁・二九八頁・五八六頁)などにいへる如し。箋釋に多ク海藻ヲ生ジテとよめるは所謂漢籍訓なり。長美と甚美とは長美の方まさるべし○※[人偏+尓]郡米を久老は保都米の誤としてホツメとよみ箋釋は其本に※[人偏+尓]那米とあるに從ひてニナメとよみ栗田氏標注には
 小山田與清云。保都米ハ古本ニ※[人偏+爾]郡米トアルゾヨキ。ソハ柔藻ニテ郡ト期ト、米ト毛ト通音也。久老ガミダリニ改メタルは中々シヒゴト也。ト云リ。ナホ能ク考ベシ
といへり。與清の説はいとわろし。與清はメとモとを混同し、海藻をメとよむべき事を忘れ、又世にニギメといふ語あるを忘れたり。然持廻らずともニグメはニギメの轉訛なり(86)といふべきにあらずや。さて今南海部郡東|上浦《カミウラ》村に最勝海浦と書きてニナメウラと唱ふる大字あれば箋釋本に從ひて※[人偏+尓]那米とあるを正しとすべしとも云ふべけれど第一最勝をニナといへる例無く、第二ニナメトを訛りてホトといふべき由無し。彼大字の名稱は何時より存ずるにか知らねど若古くよりニナメと唱へ來れるならば之に尋常の音字又は訓字を充つべきに特に最勝海の字を充てたるを見れば恐らくは近世のさかしら人が本書の誤字本、たとへば箋釋本に據りてかかる名を命ぜしならむ。
 ○後に郷土誌を見るに明治五年六月蒲戸・福泊・長田・夏井の四浦を合併して新に最勝海浦と命名せしなりといふ。果して豐後風土記の誤字本に據れるなり。然も最勝海藻の藻字を略したるは滑稽なり。かかる愚名を存ずるは豐後人の耻辱なり。機を見て改稱すべし
久老が或考に依りて保都米に改めたるはいと宜し。その或考とは誰が考にか。肥前豐後兩風土記に就きて久老が字を改めたる中にてこれは第一に宜しくて栗田博士が肥前風土記の擧落葉船を擧落乘〔右△〕船に改めたるに匹敵すべき發見なるを或考とおぼめかしたるはいとうたてし。さて萬葉集卷十五なる六鯖《ムサバ》作挽歌の中なるユキノアマノ保都手(87)乃〔左△〕《ヲ》ウラヘを釋して契沖は
 保都手は最手にて中にも上手に占はするを云歟。第九に最末枝をホツエとよめり。第十七にはすぐれたる鷹を保追多加《ホツタカ》とよめり。日本紀には秀の字をホツとよめり
といひ鹿持雅澄は
 保都手は秀眞《ホツマ》國又|秀枝《ホツエ》・秀鷹《ホツタカ》などいふ保都に同言なり。即|秀津《ホツ》なり
といへり。余は萬葉集新考(三二七〇頁)に
 ユキノアマは壹岐の海人なり。ホツテは古義にいへる如く秀手《ホツテ》にて上手といふことなり。相撲人の長をホテといふはやがてホツテのつづまれるなり
といひ、さて此穂門郷の文を引きて
 ホツに最勝の字を充てたるに注目すべし。さてァマノホツテは最勝れたる水手なり
といひおけり。所詮ホツは最上・第一等などいふ事なり〇便令以進御を久老はスナハチオモノニタテマツラシムとよめり。オモノは日本紀の傍訓にも見えたれど新し。神代紀海宮遊幸章第二一書に即以2口女《クチメ》魚1所2以不1v進v御者此其繰也とある不進卿をオホミモノニタテマツラザルとよめるに倣ひてここもオホミモノとよむべし(通釋本に進の下御(88)の上に供を補へるは卻りてわろし)。さて漢籍に食物に進御といへる例はたとへば唐書百官志(卷四十七)に
 司苑・典苑・掌苑各二人掌2園苑1蒔2植蔬果1。典苑以下分2察之1。果熟進御〔二字傍点〕
とあ。つ司苑以下は内侍省即内廷の職員なり
 
  大分郡  郷玖所(里二十五)驛壹所・烽壹所・寺貮寺〔左△〕《所》(僧寺尼寺)
 
昔者纏向日代宮御宇天皇△《自》2豐前國|京都《ミヤコ》行宮1幸2於此郡1遊〔左△〕《御》2覧地形1嘆曰。廣大哉此|郷〔左△〕《郡》也。宜v名2碩田《オホキダ》國1(碩田謂2大|分〔左△〕《田》1)。今謂2大分1斯其緑也
 
新考 景行天皇紀十二年の訓註に碩田此云2於保岐陀1とあり。和名抄郡名に大分(於保伊多)とあるは夙くキをイと訛れるなり。さて今オホイタと唱へ諸書にもタを清みたれど大分と書けるを思へば、もとはオホキダとタを濁りて唱へしなり
 ○字書に段をキダとし分をキタとしたるものあれど段分共にキダにて、そのキゲはキザムのキザの相通なり。キザハシをキダハシともいふを思ふべし
(89) ○古事記神武天皇の段に神八井耳命者火君・大分君・阿蘇君・筑紫三家連等之祖也と見え天武天皇紀元年に大分君|惠尺《ヱサカ》・大分君稚臣(八年紀には稚見)といふ人見えたり。又國造本紀火國造の下に大分國造同祖とあり(別に大分國造を擧げざるは落したるならむ○和名抄郷名に見えたるは阿南《アナミ》・植〔左△〕田《ワサダ》・津守・荏隈《エノクマ》・判太《ハニタ》・跡部・武藏・笠祖・笠和・神前《カムサキ》の十郷にて本書に郷九所とあるより一郷多し。箋釋に
 蓋判田・跡部・笠祖ハ並ニ所在ヲ知ラズ。笠祖ハ疑ハクハ笠和ノ宇ヲ※[立心偏+呉]寫シテ別ニ一郷トセルナラム。武藏ハ乃國東郡内ノ郷名、神前ハ海部郡中ノ地名ナルヲ並ニ※[立心偏+呉]リテ此ニ入レタルナリ。設《モシ》判太・跡部・笠祖・武藏・神前此五者ヲ除ケバ阿南・植田・津守・荏隈・笠和此五郷ハ今儼存セリ・案ズルニ圖田牒ニハ但笠和・荏隈・判太ノ三ヲ以テ郷トシ別ニ植田・戸次・高田・賀來・阿南・津守ノ六有リテ是ヲ莊トセリ。蓋此三郷六莊相通ズレバ此記ニ云ヘル郷九所ハ此ト相|符《カナ》ヘリ。今土人是ヲ大分ノ八莊トセリ
といひ國志には更に進みて
 大抵郡内ノ諸村各自所屬アリ。故ニ今裁シテ莊ヲ改メテ郷トシ以テ舊ニ復スト云爾
といひて笠和・荏隈・賀來・阿南・植田・津守・判田・高田・戸次を本書の郷九所に充てたるはいと(90)妄なり。本書の郷數と和名抄の郷數と一致せざるは本郡に限らず。又訝るべき事にあらず。兩書は同時代の撰にあらざればなり。但和名抄當國の郷名には誤謬いと多かれば(たとへば日高郡・海部郡)本郡の郷名にも誤謬無しとは云ふべからず。從ひて笠祖は笠和の誤寫重出にてもあるべし。武藏は國東郡の郷名の混入にてもあるべし。されど直に此二郷を削去るだに武斷の嫌あるに更に海部郡に同名の地ありといふ理由を以て神前を除き、所在明ならず又鎌倉時代の圖田帳に見えずといふ理由を以て跡部を棄て、殘れる阿南・植田・津守・荏隈・判太・笠和の六郷に圖田帳に見えたる戸次《ヘツギ》・高田・賀來《カク》の三莊を加へて九數に充て以て舊に復しつと云ふべけむや○按ずるに和名抄の郷名中阿南・植〔左△〕田は今村名に、津守は瀧尾村の大字に、荏隈と笠和とは大分市の大字に、判太は村名と大字との判田に、神前は八幡村大字神崎に殘れり(七六頁參照)
 ○植田の植は※[禾+直]の誤なり。今も※[禾+直]田と書きてワサダと唱ふ。※[禾+直]は字書に音チョク、早種禾也とあり。毛詩魯頌の傳に先種曰v※[禾+直]後種曰v穉とありといふ。國志に音職といへるは誤なり。又早種之稱といへる稱は禾の誤か。地理志料に「正平二年阿蘇惟澄注進状ニ豐後國早田庄内滿吉名地頭職田尻道綱トアリ。早田は蓋和佐多ト訓ムナリ」といへり。神(91)崎・判田は明治八年以來の新名なり。即同年三月に白木・田浦二村を合併して神崎村と名づけ住床・昆布刈・光永等の十村を合併して上中下の判田村と成ししなり
箋釋及國志に
 判太ハ所在ヲ知ラズ。近世ノ野史ニ稱スル所ニ清田《セイタ》トイフ者アリ。其境、幅員廣クシテ十餘村アリ。郷ニアラズ莊ニアラザルナリ。知ラズイハユル判田トイフ者相轉訛シテ清田トナル歟。請フ姑ク判太ニ充テ以テ後考ヲ待タム
といへり。新村名の判田は右の説に據れるにや。さて判太を管内志に「波多と讀べし」といひ地理志料に讀ミテ波太ト云フベシといへるはいかが。恐らくは管内志に引ける龜山隨筆に
 大分郡判太は中古よりの事にやハンタと唱ふるなり。囚て按ずるに古訓はハエタにて埴田なるべきか。……玖珠郡の飯田《ハンダ》も古は埴田なるべし。彼地は丹土の地多ければかかる地名もあるなるべし
と云へる如くならむ○驛一所とあるは兵部省式の高坂か。地名辭書に
 延喜式大分郡(?)高坂驛は國府より玖珠郡を經て太宰府に赴く道路に當る阿南莊内(92)に在りしならんと想像せらるれど今高坂の名を聞かず
といへり。箋釋に
 延喜兵部式ニ曰ク。大分置傳馬五疋ト。驛今廢レテ村トナレリ。賀來郷ニ在リテ狹間市ト稱ス
といへるは傳と驛とを混同せるにて(然も當國の傳馬は郡家に備へられしなる事上に云へる如し)栗田氏標注に驛ハ大分驛云々といへるは箋釋の文を引誤れるなり。大分驛といふは延喜式に見えず。郡家は國府と共に荏隈郷に在りしならむ○寺貳寺とあるは外の例にたがへるのみならず箋釋本にも類從本にも寫本にも寺貳所とあれば下の寺は所の誤とすべし。古は神祠佛寺共に之を數ふるに所といひしなり。たとへば北史卷五十三に神祠一所、同卷九十四に神廟二所、同卷八十に佛圖精舍七十二處、同卷八十二に浮圖二所、南史卷七十九に佛寺二三百所とあり。推古天皇紀三十二年にも寺四十六所とあり。箋釋にこの寺貳所を國分寺の事とせるは非なり。天平中に此二寺を轉じて國分寺とせられもしけむ、本書は其時代より前に成りしなるをや(緒言參照)○久老は豐之上疑脱2自字1乎といへり。げに自2豐前國京都行宮1とあるべし。景行天皇紀十二年に
(93) 天皇遂幸2筑紫1到2豐前國|長峽《ナガヲ》縣1興2行宮1而居。故号2其處1曰v京《ミヤコ》也。冬十月到2碩田國1。其地形廣大亦麗。因名2碩田1也
とあり○遊覧は御覧の誤ならむ。上文鏡坂の下に御2覧地形1即勅曰とあり。郷は箋釋本に郡とあるに從ひてクニとよむべし(一寫本には此郷郡也とあり)。郡をクニとよめる例は萬葉集卷九なる過2足柄坂1見2死人1作歌にクニトヘドを郡間跡と書けり。又郡國通用の事は播磨風土記新考四九二頁にいへり。又肥前風土記佐嘉郡の下に故以2賢女1欲v爲2國名1。因曰2賢女郡1とあり○碩田國の註に碩田謂大分とあるは妥ならず。宜しく分を田の誤として碩田謂2大田1とすべし〇本郡は北は海に臨み、東は北海部郡に、南は大野・直入二郡に、西はいささか玖球郡に(湯平《ユノヒラ》村によりて。但湯平を速見郡より大分郡に轉屬せしは明治三十二年なり)、西より北に亙りて速見郡につづけり。二川あり。東なるは大野川又犬飼川といひて大野郡より來り西なるは大分川といひて直入・大野二郡の界を經て本郡に入り速見郡より來れる由布川と相會せるが共に北海即豐後※[さんずい+彎](一名|※[草冠/函]※[草冠/陷の旁]《カンタン》海)に注げり。本郡は沿海の地勢平坦なる上に二大川に貫かれて地味膏腴なれば夙く上古より開けたりしなり。さればこそ碩田と名づけられ又郷の數も多かりしなれ。今の本郡の主邑は大分市・(94)鶴崎町などなり○當國の國府は本郡にありき。今の大分市の大字|古國府《フルコフ》是その遺址なり○箋釋に
 案ズルニ本文及日本紀ニ据レバ天皇は豐前(ノ)京都ヨリ先碩田國ニ到リ次ニ速見ニ到リ遂ニ直入ノ土蜘蛛ノ賊ヲ誅シキトイヘリ。其車駕經過ノ跡ヲ推驗スルニ大分郡は速見ノ南ニ在リテ豐前國ト壤ヲ隔テタレバ前後混淆セリ。蓋上世ノ事ソノ詳ナルコト知ルヲ得ベカラザルノミ
といひ龜山隨筆(管内志所引)に
 紀の文に碩田に到給へる後に速津媛が事の見えたるは文の前後亂れたるなるべし。豐前國京都郡より豐後國大分郡までは南北相去ること三十里に近かるべし。さて速見郡は其間にあり。されば京都郡より大分郡に至り給ふには必速見郡を通り給ふべきなり。かかる事のたがひめは紀中此外にも見ゆる事なり
といへるは誤解なり。風土記にも日本紀にも豐前國ミヤコより豐後國オホキダに來たまひきとこそあれ、豐前の東部を經てとはあらぬをや。天皇は恐らくは豐後國には其西北部より入り、さてオホキダに來たまひしならむ(五六貢參照)○さて日本紀に據れば豐(95)後には豐前の京都郡より入りたまひしのみなれど本書に依れは三路を經て三たび豐後に入りたまひしなり。即第一周防の佐婆津より海路を經て當國海部郡宮浦に著きたまひし事下文速見郡の下に見え、第二筑後の生葉《イクハ》より當國に入りたまひし事日田郡の下並に鏡坂の下に見え、第三豐前の京都より當國に入りたまひし事此條に見えたり。第一の事ははやく穂門《ホト》郷の下にいへり。なほ下文速見郡の下に云ふべし。又第三の事は上にいへる如く日本紀と合ひたればさもあるべけれど第二の筑後の生葉より當國に入りたまひけむ事はうたがはし。まづ景行天皇紀に
 十八年八月到2的《イクハ》邑1而進食(○的は即生葉なり)。……十九年秋九月天皇至v自2日向1
とありて生葉を以て西海道巡幸記事の最後とし次に筑後風土記逸文に
 昔景行天皇巡國既畢還v都之時膳司在2此村1忘2御酒盞1云々。天皇勅曰。惜乎朕之酒盞《アガウキハヤ》。因曰2宇枳波夜郡1後人誤号2生葉郡1
とありて生葉より更に豐後に入りたまひし事は見えず。日本紀は其資料として本書をも取りきと思はるるに右の事の見えざるは日本紀の撰者も此事を疑ひて取らざりしにこそ
 
(96)大分河(在2郡南1) 此河源出2直入郡|朽網《クタミ》之峯1指v東下流、經2過此郡1遂入2東海1。因曰2大分河1。年魚|多在《サハナリ》
 
新考 大分川の河源は即上文直入郡|球覃《クタミ》峯の條に見えたる神河なり。神河は今朽網川といふ。此川の事は上(六四頁)にいへり。なほ此郡に入りてより後の事を云はば阿南村にて速見郡より來る由布川(一名|透内《スキウチ》川)と相會し大分市の東にて豐後※[さんずい+彎]に注げり。下流を堂尻川ともいふ。管内志に
 帆足氏(○萬里)云。實は由布川の方水勢盛なり。眞の源とすべし。故(○合流後も)由布川と云。風土記の説實を失へり
といへり。古今の變遷もあるべければ妄に風土記を貶すべからず。箋釋に在郡南を在郡之東南の誤とせるは郡を例の如く地域の郡と誤解したるなり。郡家は荏隈郷に在りしなるべければ大分川を在郡南と云へる、よく叶へり。箋釋に又、入東海を入北海の誤としたるは理無きにあらねど本書に東海といへるは國の東方なる海の義にて特に豐後※[さんずい+彎]を指したるにはあらじ。又續日本後紀承和十五年の下に見えたる寒川を神川の事とし(97)たるはあやなし。寒川はサムカハとこそよむぺけれ〇年魚多在は上文日田郡石井郷の下に例あり
 
酒水《サカミヅ》(在2郡西1) 此水之源出2郡西柏野之磐中1指v南下流。其色如v酒味小酸焉。用療2痂癬1(謂2胖太氣《ハタケ》1)
 
新考 箋釋に「今呼ビテ柏野川ト曰フ。賀來郷ニ屬ス」といひ此水南行シテ堂尻川ニ入ル
といひ又其色如洒云々の註に
 案ズルニ郡ノ西、速見郡ト壤ヲ接セリ。故ニ鶴見ノ硫礬ノ氣脈ヲ受ケ地中ニ伏行シテ此ニ發スルガ故ニ然ルナリ
といへり○磐中は萬葉集卷二に讃岐|狹岑《サミネ》島視2石中死人1作歌とあり又王維の詩に颯々松上雨、潺々石中流とある石中とおなじく磐石の間といふ義なり。語例は史記齊世家懿公四年に
 二人倶病2此言1乃怨謀、與v公游2竹中〔二字傍点〕1二人弑2懿公車上1棄2竹中〔二字傍点〕1而亡去
とあり○肥前風土記基肄《キノ》郡酒殿泉の下に
(98) 此泉〔左△〕之《ハ》季秋九月始變2白色1味酸氣臭、不v能2喫飲1。孟春正月變而清冷。人始飲喫。因曰2酒井泉1。後人曰2酒殿泉1
とあるに似たる如くなれど、こは人始飲喫の次に又以釀v酒などいふことを落したるにて酒を造るが故に酒井泉又は酒殿泉と稱せしにて、酒水の方は水色酒に似たるが故に酒水と稱せしなれば彼此相異なり○ハタケは學名を白癬Trichophytiaといひ俗には今もハタケといふ。和名抄に疥癬(ハ)波太介とありて其箋注に法華經などに疥癩と見えたる疥と癩とは別にてハタケは疥なりと云へれど疥はハタケに當らじ。箋釋本及一寫本に胖を盻に作れり。さて箋釋本にハと傍訓したるは無論誤なり。盻の音はケイなればなり。盻は恐らくは※[目+分]《ハン》の誤ならむ。又同本に小を少に作れり。古書には多く少を小と書ければ原本には恐らくは小とぞありけむ
 
  速見郡  郷伍所(里一十三)驛貮所・烽壹所
 
昔者纏向日代宮御宇天皇欲v誅2玖磨※[口+贈]※[口+於]《クマソ》1行2幸於筑紫1從2周防《スハ》國|佐婆津《サバノツ》1發v(99)船而渡、泊2於|海部《アマ》郡宮(ノ)浦1時於2此村1有2女人1名曰2速津媛1爲2其處之長1。即聞2天皇行幸1親自奉迎奏言。此|△《山》有2大磐窟1名曰2鼠磐窟1。土蜘蛛二人|住之《スメリ》。其名曰2青白1。又於2直入郡禰疑野1有2土蜘蛛三人1其名曰2打猿・八田・國摩侶1。是五人竝爲v人強暴、衆類亦|多在《サハナリ》。悉皆謠〔左△〕云。不v從2皇命1。若強喚者興v兵距焉。於v茲天皇遣v兵遮2其要害1悉誅滅。因v斯名曰2速津媛國1。後人改曰2速見郡1
 
新考 箋釋本に烽壹所の三字と※[口+於]行の二宇とを脱せり。又此の下に山字あり。又鼠磐窟の上に曰無く又摩を磨に作わ於茲を於是に作れり○和名抄郷名に朝見・八坂・田〔左△〕布・大神・山香とあり。本書に郷五所とあるに合へり。田布は由布の誤なり。即本書の柚富郷なり。朝見は續日本紀寶龜三年十月の下に豐後國速見郡|敵見《アタミ》郷とあると同處なればアタミと唱へし事もあるなり。サのタに轉じタのサに變じたる例頗多し。今別府市の大字に朝見あるは其名の殘れるなり。八坂は今杵築町の西に八坂村大字八坂あり。由布は今南北の由布村あり。大神はオホミワとよむべし。今|日出《ヒヂ》町の東に大神村大字大神ありてオホガと唱ふるは訛れるなり。諸國の地名又は氏にオホミワをオホガと訛り甚しきは字を大(100)賀などに更へたる例多し。山香はヤマカとよむべし。今東山香村・中山香村あり○驛二所は長湯・由布なり。本郡を經由せる驛路は筑後に至るものと豐前に至るものとにて由布は實に前者に屬せり。されば長湯は後者に屬したるべけれど其地今知られず。地名辭書には山香郷なるべしといへり。ともかくも此驛より豐前の安覆驛に接せしなり
 ○安覆は地理志料に云へる如く安幕の誤にてアマキとよむべきならむ。さてそのアマキは宇佐郡|馬城峯《マキノミネ》の山中にぞありけむ
○久老も箋釋も渡泊をつづけて訓みたれど船ヲ發《ヒラ》キテ渡リ海部郡宮浦ニ泊テタマヒシ時ニとよむべし。或は渡の下に海を脱したるにてもあるべし○海部郡宮浦に就いて箋釋に
 海部ト言ヘルハ※[立心偏+呉]レリ。速津媛ノ海部ニ在リシコトヤ當ラザルナリ。宮浦ハ今海部郡ノ南濱ニアリテ日州ト接近セリ(○ミヤノウラといふ地數處あり。こは今の南海部郡|米水津《ヨノヅ》村の大字宮野浦をいへるならむ)。ソノ佐婆ニ於ケル海路遼絶ニシテ風濤急迅ナリ。其不便思フベキノミ。或ハ云ハク當ニ速見郡|古《コ》浦ニ作ルベシ
といへるには一誤解あり。本文には天皇ガ佐婆ノ津ヨリ發船シテ海ヲ渡リテ海部郡宮(101)浦ニ泊テタマヒシ時ニ此速見郡ニ〔五字傍点〕女人アリ云々といへるにて途中の事を云へるなるを箋釋は此村を其村と誤解せるなり。此村といへるは標題の速見郡を指せるなり。標題の郡を指して村といへる例は肥前風土記佐嘉郡の下に昔者樟樹一株生2於此村1といへり。次に管内志に
 海部郡宮浦とあるは豐後國より日向國にうつりたまふ時の事にて佐婆津より速見郡にいたり給ふ時にはあらず。こは錯文なる事森氏の説を引出て一卷の初にあげつらへるが如し
といへるは豐後之一(國誌上)に
 龜山隨筆に豐後風土記に泊2海部郡宮浦1云々とあるは豐後より日向に移り給へる時の事を語り傳へたるものなり。速見と海部郡宮浦の地とは海陸ともに相去ること廿里餘にして共に難路なるをや。とあり
といへるを指せるにて又同書豐後之五(海部郡)に
 是は風土記の文亂れて速見郡の事と海部郡の事と一つに成れりと聞ゆ。……さて安永九州圖又道中行程細見記等に宮浦を日向の内に入れたり(○このミヤノウラは(102)今の日向國東臼杵郡北浦村の大字にて豊後國南海部郡の界に近けれど彼|米水津《ヨノヅ》村の大字なるとは別なり)。……又龜山隨筆に
  日向より南の船ども季秋より仲春の比までは佐加關にだに泊てず。よく日よりを見て速見郡探江湊(○大神村の内、豐後※[さんずい+彎]の北角)まで來りて泊る事なり。又佐加・臼杵・佐伯邊の船も直に灘には出ずして皆かの湊にて風を待て灘をわたる事昔よりして然り。さるを景行天皇の渡海九月より後の事なれば其國の船人さへ難しとする灘を渡りて物遠き海部郡の南の極に至り給ふべきやうなし。此灘と云は祝灘の事にて則周防灘の上の端なり。ここより豐後日向の海に出るにかの潮の往來と風のあやとにてともすれば船人のあやまつ處なり。さるを深江湊にものすればいつも難なしと云
とあり
といへり。龜山隨筆の文意聊たどたどしかれど海部郡宮浦とあるは速見郡深江湊の誤ならむと云へるにや。天皇が海路を經て速見郡竝に海部郡(穗門及宮浦)に到りたまひし事は日本紀に見えざる事又その事實の有無は固より知るべからざる事なるが風土記(103)に見えたる上は古、さる傳説ありて風土記はそをさながらに録したるなりと見てあるべし。又道理を推して海部郡宮浦を速見郡深江の誤とせむとならば穗門に御船を泊てたまひきとあるをもそのままには措くべからず。豐後※[さんずい+彎]の北角なる深江湊にて上陸したまひしならむには遙に其南方なる佐伯※[さんずい+彎]の北岸なる穗門に御船の泊てむ由無ければなり。さて豐後國の東海を經て海部郡に到りたまひし事は日本紀には見えねどそは或は最初の御路次ならざりしかと思はるる事は上(八五頁)なる穗門郷の註に云へり。次に宮浦はいづくにか。箋釋に今在2海部都南濱1與2日州1接近といひ龜山隨筆に海部郡の南の極といへるに對して管内志には
 國人の説に海部郡宮浦より日向の堺まで十二里あれば豐後風土記解に與2日州1接壤とあるは誤なり。さて此宮浦に宮浦神社とてあり(○神社あるが故に宮浦と名づけたるなり)東南の海に向ひて立てり。社は山の谷にあり。此邊佐伯の毛利家の領地なりとあり(○こは米水津《ヨノヅ》村の宮浦なり)
といへり。箋註及龜山隨筆は日向國の宮野浦と混同せるにあらざるか。管内志も「安永九州圖等に宮浦を日向の内に入れたり」といへるは適に兩者を混同したるなり〇日本紀(104)には速津媛が天皇に謁せしを天皇が碩田を經て速見に到りたまひし時の事とし、さて
 到2速見邑1有2女人1曰2速津媛1爲2一處之長1。其《ソレ》聞2天皇車駕1而自奉迎之諮言。茲山有2大石窟1曰2鼠石窟1。有2二土蜘蛛1住2其石窟1。一曰v青二曰v白。又於2直入縣禰疑野1有2三土蜘蛛1。一曰2打※[獣偏+爰]1二曰2八田1三曰2ニ摩侶1。是五人並其爲v人強力、亦衆類多之。皆曰。不v從2皇命1。若強喚者興v兵距焉。天皇惡v之不2得進行1。即留2于來田見邑1權興2宮室1居之○全文は上文大野郡海石榴市の下に引けり)
といへり。風土記の文と殆全く相同じきは風土記より採りたるが故なり○速津媛又日田郡の處に見えたる久津媛などは先住民族にはあらで天孫民族ならむ。神武天皇が東征したまひし時天孫民族の主なるものは供奉しけめど、なほ日向に留りしもありて其子孫も亦所謂九州にはびこりけむかし。景行天皇西征の時の九州を熊襲と土蜘蛛とのみ居りし處と思はむは事情に昧しといふべし。歸化韓人も亦あまた住みたりけむかし
○此の下に箋釋本に山字あり。之に從ふべし。日本紀にも茲山とあり○鼠磐窟に就きて箋釋に
 此郡朝見郷北石垣原ニ石窟二區アリ。巨石モテ之ヲ築キ土ヲ以テ其上ヲ封ジ竹樹鬱(105)蒼タリ。土人云ハク土蜘蛛ノ※[石+巣]居ナリト
といひ國志に
 鼠磐窟 二所、並ニ石垣莊北石垣村ニアリ。俗ニ鬼(ノ)岩屋〔三字傍点〕ト曰フ。蓋土蜘蛛ノ賊ノ※[石+巣]居セシ所ナリ。形山ノ如ク、高サ一丈五六尺、窟ノ戸ノ濶サ七八尺、深サ二丈餘。巨石モテ疊築シ頗人爲ニ非ザルニ似タリ。其上竹樹鬱叢セリ。兩窟大サ稍同ジ
といひ脇愚山の※[草冠/函]海漁談に
 此所{○石垣原)よりしばらく北に往て村あり。北石垣と稱す。民家の後に鬼の窟と云ものあり。外より見れば唯竹樹ある阜の如く、近く立寄れば巨石をたたみて門戸の如きあり。炬火を執て入るに石窟を構へ成して凡數十人を坐せしむべし。高さも大概徑の丈尺にひとしかるべく、上を覆ひたる石は平なる大石を並て人力には能ふまじと見ゆる者なり。是を男鬼の窟〔四字傍点〕とす。女鬼の窟〔四字傍点〕も相並て在り。石門の狹隘なるより入るに二室あり。奥なる方稍廣くして一石牀を側立《ソバダツ》。土俗これを女鬼の産臺〔五字傍点〕と云ひ傳ふ。何の世に造り何の用なる事を知るものなし。上代の穴居の遺物にや。或人の説に古昔豪酋を葬たる石槨ならんと云。女窟の中の石牀は石棺なるかもしらず〔或人〜傍点〕。上國にも西州にもか(106)かる類ありて石槨と云傳る者あればさに非ずとも言がたし。又按ずるに日本書紀景行紀に見えたる鼠の窟と稱する者あり。……速見郡に石窟と稱すべきもの今存せず。もしは此所にやとおもへども紀の後段に襲2石室土蜘蛛1而破2于稻葉川上1とあれば此所に非るなり(○それよりは日本紀に茲山〔右△〕有大石窟とあるに叶はざるを思ふべし)
といひ管内志に
 龜山隨筆に鼠石窟は速見郡石垣莊石垣村にあり。共形山の如くにして高さ一丈五六尺あり。又窟の戸の廣さ七八尺許にして深さ丈餘あり。巨石にて築立たるさま人力のしわざに似ず。窟上には竹樹生茂れり。但かくの如くなる窟二處にありて其樣大かた相似たり。是彼青白の賊の居たる處なりと云
 帆足氏云。鼠石窟は予も見たる事あり。皆大石を以て造れる物なり。されども天造にはあらず。人力の造れるものなり。窟二つ並びてあり。其内甚狹し。一二人を容るべし。海邊にて平地なり(○即此山又茲山といへるに叶はず)。嶮岨の據とすべきにもあらず。是は正しく古、有力の者夫妻合葬の地なるべし。予が著書にも擧たり。賊窟の云傳いかがあらん。直入郡|城原《キバル》・血田のあたりにあらんとする説も捨がたかるべし
(107)といへり。帆足萬里はその肄業餘稿卷二(全集上卷五八一頁)にも 本藩速見郡石垣村ニ俗ニ鬼窟ト号スル者二アリ。皆大石ヲ疊ミテ室トシー門僅ニ人ヲ容レテ隧道ノ状ノ如シ。窟内數席ヲ布クベシ。蓋フニ丈餘ノ大石ヲ以テセリ。其上ニ小竹ヲ生ジ之ヲ望ムニ古塚ノ如ク然リ。度《ハカ》ルニ數百人ノ力ニ非ズバ成ス能ハジ。予|以爲《オモ》フニ此《コレ》上古ノ時酋帥力アル者ノ葬埋ノ地ニシテ後人之ヲ發キテ其藏スル所ヲ取リシナリ(○原漢文)
といへり。本書は萬里が青年時代(享和年間)の著述にて其師脇愚山に示して其序を乞得たるものなれば愚山が「或人の説」にといひて古墳説を擧げたるはやがて萬里の説なるか。今石垣村大字北石垣に一對の石窟あり。相去る事三十歩許、一は西に向ひ一は南に面せり。總稱してオニノイハヤといふ(ネズミノイハヤと云はず)。明治三十七年佐藤藏太郎氏、日名子太郎氏と共に窟に入りて檢せしに南面せるものは一室なれど西向せるものは口中奥の三室に分れ其奥室には壞れたる石棺ありきといふ。されば帆足氏の古墳説を是とすべし。窟の圖は豐後史蹟考八七頁以下に見え豐國小志二三八頁以下にも轉載せり○類從本には打猿を打※[獣偏+爰]に作れり。※[獣偏+爰]は猿の正字なり。謠を久老は談に改めてカタ(108)ラヒテとよめり。なほ考ふべし○於v茲天皇遣v兵遮2其要害1悉誅滅は上文大野郡海石榴市の記事に讓りて略叙に止めたるなり○因v斯名曰2速津媛國1といへるは上文日田郡の下に因v斯曰2久津媛之郡1とある、と相似たり○本郡は豐後※[さんずい+彎](陸地測量部の地圖に別府※[さんずい+彎]と記入せるもの)の北岸と西岸とを形成し東北は國東郡に、西は豐前國宇佐郡と玖珠郡とに、南は大分郡に接せり。今の主邑は別府市・日出《ヒヂ》町・杵築《キツキ》町などなり。因にいふ。別府は今はベップと唱ふれど近古まではベフと唱へき。即豐國紀行に「別府はベップともベフとも云。里人ベフとつづけて云」とあり
 
赤湯泉《アカユ》(在2郡西北1) 此湯泉之穴在2郡西北|竈門《カマド》山1。其周十五許丈。湯色赤而有v※[泥/土]《ヒヂ》。用《モチテ》足v塗2屋柱1。※[泥/土]流出v外變爲2清水1指v東下流。因曰2赤湯泉1
 
新考 和漢三才圖會山類地獄の條に
 豐後(速見郡野田村)ニ赤江地獄ト名ヅクル者アリ。方十餘丈。正赤湯、血ノ如ク流レテ谷川ニ至ル。未冷定セザル處ニ魚アリテ常ニ躍リ游ブ。亦一異ナリ
といへり。赤江は赤湯の訛ならむ。又箋釋に
(109) 湯ハ今石垣莊野田邑ニ屬ス。其濶サ十餘丈、純赤ニシテ朱ノ如シ。足ヲ下セバ便《スナハチ》爛ラシ能ク生物ヲ熟ス。時ニ赤魚ノ游泳スルヲ見ル。然レドモ此湯近歳大ニ衰ヘ舊日ノ觀ナシ。其旁ニ寺アリテ赤湯山(○朱湯山か)長泉寺ト曰フ
といへり。野田は別府市の西北に在りて今龜川町(舊名|御越《オコシ》町)の大字となれり。赤湯は今血の池地獄といふ。※[草冠/函]海漁談に
 血の池地獄と稱するは赤湯と呼て豐後風土記に載たる赤湯泉なり。二十餘年前までは赤色なりしが變じて淡青色となれり
といへるは同時に成りし箋釋と一致せず。如何○竈門山は箋釋に
 此山竈門莊内竈門村ニ屬ス。蓋後世ニ及ビテ郷ヲ割キテ莊ヲ置キ始メテ山ト湯ト(○湯は石垣莊に、山は竈門荘に)其所屬ヲ異ニセシノミ
といひ國志に
 竈門山 赤湯山ト隣タリ。亦温泉ヲ出ス
といへり。内竈は野田の北に接して亦龜川町の大字となれり。管内志に
 龜山隨筆に速見郡竈門山は赤湯山に隣りて共に温泉ある處なれば山烟常に絶るこ(110)と無し。故に竈門とは負せたりと聞ゆ。とあり
 神洞隨筆に速見郡竈門山は高山にあらず。竈門村のある處にして鶴見山よりは一里半許北にありて山の尾つづきなれども鶴見山に對へては麓と云べし。鶴見村の人家ある處よりは一里西(?)にあり
 常足按ずるに風土記の比には廣く指して竈門山と云るを漸後にさす處も狹くなりて温泉の穴と山と郷を異にするにや。解(○箋釋)の説今すこし委くてあらまほしきわざなり
といへり。常足の云へる如く今の赤湯山かけて古は竈門山と稱せしに由りてこそ本書に此湯泉之穴在2郡西北竈門山1といへるなれ○因曰2赤湯泉1の五字は用足v塗2屋柱1の下にあるべし○※[泥/土]流出外の※[泥/土]は箋釋本に泥とあり○指東下流は小川となれるなり。箋釋に今古市川ト曰ヒ東流シテ海ニ入ルとあり
 
玖倍理湯井《クベリユノヰ》(在2郡西1) 此湯井在2郡西|河直《カハナホ》山東岸1。口徑丈餘。湯色黒※[泥/土]※[※[泥/土]を□で囲む]常不v流。人竊到2井邊1發v聲大言、驚鳴涌騰二丈餘許。其氣熾熱不v可2向昵《チカヅク》1。縁邊草(111)木悉皆枯萎。因曰2慍湯井《イカリユノヰ》1。俗語曰2玖倍理湯井1
 
新考 久老は
 按ズルニ久倍理ハ燒ノ俗言、今猶火にくべる或ハもえくぼりト云フガゴトシ
といひたれど俗語のクベルはクブルの轉訛なれば、もし俗語のクベルに齊しからばクベ湯といふべくクベリ湯とは云ふべからず。又俗語のクベル即雅言のクブルは火に投ずる事にて他動詞なるにここは自動詞ならではかなはず。
 ○遊仙窟(元緑版卷二の五丁裏)なる聞|渠《キミガ》擲入火の擲入を醍醐寺本にはクブルとよめり(元禄版にはナゲイルルコト)
又モエクボリは自動詞より生じたる名詞と見ゆれど雅にも俗にも一般に行はれざる語なり。伊勢志摩の方言に薪のもえさしをモエクボリといふとぞ。恐らくはモエクスボリの片言ならむ。さて俗に玖倍理湯井といひし所以は知られず○湯井は上文日田郡|五馬《イツマ》山の下にも但一處之湯其穴似v井とあれば口狹く底深き温泉なり。湯井の語例は文選なる潘安仁の西征賦に湯井温谷とあり。和漢三才圖會水類温泉の下に
 温井 湧2於井1者豐後(五處)肥前(二處)有v之
(112)とあり○箋釋に
 今石垣莊鐵輪村ニ屬ス。其山多ク硫黄ヲ生ズ。土脈甚熱シ。處々ニ温湯アリ。所謂湯井ハ小池ナリ。濶サ二丈餘、深サ丈餘。旁ニ小洞アリ。温泉ココヨリ出ヅ。盈涸オノヅカラ定候アリ。盈チムトスルトキハ霹靂鳴動シ熱湯奮發シ炎氣特ニ甚シ。土俗呼ビテ鬼山地獄ト曰フ
といへり。鐵輪《カンナワ》は野田の南方に在りて今朝日村の大字となれり。されば鐵輪としては在郡西と云へるにかなはざる如し。郡家の所在は不明なれど今の別府・濱脇附近にあらざるかと思はる。もし然らば在郡西北とこそ云ふべけれ。
 ○因にいふ。別府は近古までは今より東方に在りしに似たり。即貝原益軒の豐國紀行(元禄七年の記)に
  此百二十年程以前の事なりし、別府の邊大地震して古へ有し別府村は悉海となる。古の別府村は今の町の數町東に在。其所今は海と成て其跡もなし。昔別府村の西に在し温泉今の別府の東の海濱に在。……今の別府は其後新に立てる町なり。又昔の別府の北(?)に近き所久光と云村、家數千軒有しと云(○ただ久光千軒など稱せし(113)大邑と心得べし)。是又地震によりて別府と一時に海と成、今はなし
といへり。久光半島の陷没せしは慶長三年七月鶴見山爆裂の時なり。されば百年程以前とあるべきなり。又因にいふ。豐後※[さんずい+彎]内にありし瓜生島の陷波せしは久光島より二年前即慶長元年閏七月なり
又濶二丈餘深丈餘といへる湯井の状ならず。世々を經て地形の變れるにや。又豐國紀行に
 鐵輪村は別府の北一里餘に有。實相寺山より猶北なり。熱泉處々に多し。民俗是を地獄と稱す。……其西の山際所々地獄と稱する所多し。鬼山〔二字傍点〕と稱するは深き穴有て下り見るに其の底熱湯わく事其音宛も雷の響の如し。其西の山際に海地獄〔三字傍点〕とて池有。熱湯也。廣さ一段計。上の池より湧出づ。上の池廣さ方六間計。其邊岩の色赤し。岩の間より湧出づ。見る者怖る。……豐後風土記に曰。速見郡赤湯泉、此湯泉之穴在郡西北竈門山、其周十五許丈、湯色赤而有※[泥/土]といへり。即此海地獄の事成べし。此外鐵輪村の西の方に所所に熱湯多し。又其西鶴見村の野に圓内坊が地獄〔六字傍点〕とて熱湯あり。泥湯なり。佐田へ行道のかたはらより近し。池の廣さ方六間計有。其内に湯の湧出る處三所有。其湧あがる事(114)皆三尺餘り有。是又甚怖るべし。豐後風土記云。速見郡玖倍理湯井在郡西、湯色黒※[泥/土]常不流云々是此湯の事なるべし云々(○管内志に引きたると文辭に少異なり)
といへり。赤湯泉の事は上に云へり。今の海地獄にあらず。玖倍理湯井も眞に今の圓内坊地獄にや、いとおぼつかなし○久老が在郡西河直山東岸とある西河をつづけ山を直山としたるは誤れり。郡(ノ)西ナル河直山とよむべし。さて箋釋に河直をカナホとよみて「河直山は即鐵輪山ナリ。蓋國音相近シ」といひ管内志に
 河直はカナホとよむべし。後世鐵輪と書てカナワと唱ふ。今は又鐵輪をカンナワと唱ふるなり
といへる、半はわろし。河直はカハナホとよむべし。カナホを河直とは書くべからず。ナホを直と書かばカも字訓を借りて香・蚊・鹿など書くべきなり。さてそのカはナホを訛りてカンナワと唱へ終に鐵輪の字を充てたるなり。然も今なほカンナワと唱ふるは喜ぶべし。されど後には字に引かれてカナワとぞなりなむ○赤湯泉の條に湯色赤而有※[泥/土]とあればここも湯色黒の下※[泥/土]の上に有字を落したるかとも思へど※[泥/土]は恐らくは衍字ならむ。此字無き本もありといふ○常不流云々とあるは間歇泉の状なり。常はツネハとよむ(115)べし。ツネニとよめるはわろし〇慍を箋釋本に温に作れるは又わろし。上文日田郡五馬山の下に
 一處之湯其穴似v井口徑丈餘無v知2淺深1。水色如v紺|常《ツネハ》不v流。聞2人之声1驚慍騰v※[泥/土]一丈餘許。今謂2慍湯1是也
とあるといとよく相似たり。陸放翁の入蜀記卷六に
 發2大谿口1入2瞿唐峽1。……過2聖|姥《ボ》泉1。蓋石上一|罅《カ》。人大呼2於旁1則泉出、屡呼則屡出。可v怪也
とあり又太平寰宇記卷百二十九|淮《クワイ》南道壽州壽春縣の下に
 咄泉〔二字傍点〕在2縣東北十里淨界寺北一百歩1。其泉與v地平一無2波浪1。若人至2其傍1大叫即大湧、小叫即小湧。若咄v之湧彌甚。因名2咄泉1
とあるとも相似たり。ただ冷熱の差あるのみ。咄は叱咤なり。
 ○淵鑑類函卷三十一に此文を引けるに安豐那〔三字傍点〕咄泉在2淨戒〔右△〕寺北1云々といへるは別本に據れるにや。此附近に安豐郡の置かれしは同じ宋の代ながら寰宇記の成りしより後ならむ
和漢三才圖會温泉の下に甚しく誤りながらも右の文を擧げたる後に
(116) 案ズルニ有馬温泉ノ傍ニ後妻《ウハナリ》湯アリ。人之ニ向ヒテ罵詈スレバ急ニ湧上リ宛然怒恚スル貌ナリ。俗ニ呼ビテ後妻湯ト曰フ
といへり。諸國に念佛水・念佛淵などいふがあるも此類と思はる○今の別府市の西方に由布岳・鶴見岳の二火山あれは(但前者は休火)別府市竝に其附近には温泉いと多く別府温泉の名は夙く外國にさへ聞えたり。ここに伊豫風土記の逸文に
 大穴特命見〔左△〕2悔耻1而宿奈※[田+比]古那命欲v活而大分速見湯〔五字傍点〕自2下樋1持度來以2宿奈※[田+比]古奈命1而漬浴者暫時有v活起居。然詠曰。眞暫寢哉。踐健跡處今在2湯中石上1也
といへり。右の文には誤字もありて細に之を釋くには多く紙を費すべければ唯その内容を敷演せむに
 オホナモチノ命とスクナビコナノ命と共同して國土を經営せし時伊豫國にてスクナビコナが事ありて假死せしかばオホナモチは之を蘇生せしめむと思ひて豐後國速見の温泉を豐後海峽の海底を通じて伊豫に引來りて其湯にスクナビコナを漬ししかば暫時にして醒覺しき
といへるにて速見の湯を道後の湯の本源としたるなり。さて栗田氏の逸文考證に大分(117)速見湯は大分と速見との温泉なりといへるは誤れり。大分郡には西端なる湯平《ユノヒラ》村の外に温泉なく其湯平も明治三十二年までは速見郡に屬したりしなり。ここの大分は大名にて大分國ノ内ノ速見といへるなり〇涌騰を箋釋本に沸騰に作れり
 
柚富《ユフ》郷(在2郡西1) 此郷之中|栲〔左△〕樹《タクノキ》多生。常取2栲〔左△〕皮1以造2木綿《ユフ》1。因曰2柚富郷1
 
新考 栲と書けるは※[栲の最後が丁]《チヨ》の通用(嚴密に云はば誤字)なり。栲は別宇なり。萬葉集には※[栲の最後が丁]を或はタクに充て(たとへば※[栲の最後が丁]ヅヌ)或はタヘに充てたり(たとへばシキ※[栲の最後が丁])。タヘは布帛の總稱にてここに用無ければ措かむ。箋注和名抄(木綿の條)に據れば※[栲の最後が丁]は※[木+紵の旁]の異體なりといふ。※[木+紵の旁]《チヨ》は苧の草に從へるに對して木に從へるにて楮と同字なり。さればタクは今のカヂ一名カミノ木竝にカウゾなり。古人はカヂとカウゾとの名を別たざりしなり。又ユフはタクノ木の皮の繊維にて、古人は之を總ねて彼スガソの如く清潔なるものとして神事に用ひしなり。又タクはその皮を取りてユフを作るが故にユフノ木とも云ひしなり。なほ紙を作るが故に今カミノ木とも云ふがごとし○箋釋に
 今由布院ト曰フ。蓋往昔城院ヲ置ク地是ナリ
(118)といひ國志には
 圖田牒ニ由布院ニ作レリ。蓋郷莊ヲ院ト稱スルハ大野郡野津院ノ如ク間《ママ》コレ有リ。按ズルニ文徳實録ニ曰ク。肥後國菊池城院ト。或ハ舊《モト》城院アリシヲ以テ爾《シカ》云ヘルカ
といへり。文徳天皇實録天安二年閏二月の下に丙辰肥後國言。菊池城院兵庫皷自嶋とあり。唐橋氏は此城院を如何に解釋せるにか。彼大野城・椽《キ》城などの四王院の類と思へるにや。さて地名辭書に
 今南由布村・北由布村・湯平村等是なり。鶴見嶽・由布嶽の西にして大分川の上游とす
といへり。大分川の上游といへるはまぎらはし。宜しく透内《スキウチ》川即由布川の流域といふべし○因に由布院といふ地名に就いて云はむ。院字を蹈みたる地名は豐後にてこそ由布院・野津院・佐伯院の外に聞えざれ、薩摩・大隅・日向の三國にはいと多し。筑前國・能登國を始めて他國にも往々あり。院は寺院にあらで倉院なり。類聚三代格卷十二に見えたる延暦十四年の太政官符に或は正倉院といひ或は倉院といひ又續日本紀同十三年二月癸卯の條に一倉に對して全體を合院といへり。院は音ヱン(ヰンは通音)にて元來周垣の事なる事播磨風土記新考|邑曰《オホワチ》野の下(四〇二頁)に云へる如し。各郡にて百姓の輸《イタ》したる租税(119)を納むべくあまたの倉庫を建連ねそれに築土《ツイヂ》を周らしたるを正倉院又は倉院又はただ院といひしなり。今昔物語卷二十九伯耆國府藏人盗人被殺語にも國府ノ傍ニ院ト云フ藏共〔六字傍点〕有りとあり(尾上高砂十二景詩歌といふ書に見えたる高砂寶藏の圖、尾張名所圖會の卷頭に出でたる廣井官倉の圖などより推して其状を察すべし)。されば倉院は御米藏所といはむが如し。さて延暦十四年までは一郡一院にて院は郡家と同處に在りしに、かくては僻地の百姓が租税を輸すに苦むべしといふ理由と今一の理由とによりて郷郷相隔りたらむには毎郷に一院を置き又郷々相接したらむには其中央に一院を設くべく定められしなり。即延暦十四年九月十七日の官符に今須d彼此相接比近之郷於2其中央1同置c一院u、村邑遙阻絶隔之處宜d量2地便1毎郷置uv之といへり。さてその院を郷名里名などに據りて某院と稱しけむに後に其院名が逆に地名となりて郷名莊名と相並ぶ事となりしなり。
 ○右續日本紀(國史大系本七七二頁)類聚三代格(國史大系本七六一頁以下)三國名勝圖會卷一(二十三丁裏)及卷五十九(二丁)明治三十一年八月發行史學雜誌第九卷第八号所載星野恒博士の薩隅地名稱院攷(附正倉院の攷)日本地理志料第十四册(卷六十五の二(120)丁裏)日向國史(上卷又は古代史の五三六頁)參照。政事要略第五十三(史籍集覧本三五一頁)に近2百姓居1各建2小院1云々と云へるは別事なり
なほ正倉の名義に就いて云はむ。星野博士は正倉院は正税を收儲する倉院なりと云はれたり。さらば正税倉と云ふべきを、さは云はで單に正倉と云ふは恐らくは義倉に對したる名稱ならむ。その一證を擧げば高力士傳に
 林甫用2變造之謀1(○前に李林甫用2紫曜之謀1矣興2變造1とあり)……足v堪v救v弊、未v可2長行1。恐變2正倉〔二字傍点〕1盡、即義倉〔二字傍点〕盡。正義〔二字傍点〕倶盡國無2旬月之蓄1、人懷2饑饉之憂1
とあり
 
柚富《ユフ》峯(在2柚富郷西〔左△〕1) 此峯項有2石室1。其深一十餘丈、高七丈四尺、廣三|尺〔左△〕《丈》餘。常有2氷凝1經v夏不v解。凡柚富郷近2於此峯1。因以爲2峯名1
 
新考 柚富峯は即由布岳なり。柚富郷を由布院即今の南北由布村等とせば在2柚富郷西1の西を東の誤とせざるべからず。管内志に引ける本には西字無くて在柚富郷とあれどさては文中に凡柚富郷近2於此峯1といへると相協はず○類從本に此峯頂の下に上字あ(121)れど上文|救覃《クタミ》峯の條にも此峯頂とあればなほ底本に從ふべし○廣三尺とあるは三丈餘ならではと思ひしに箋釋本にも類從本にも一寫本にも廣三丈餘とあり。之に從ふべし○氷凝を久老がコゴリとよみたるは萬葉集卷一なる從2藤原京1遷2于寧樂宮1時歌に川之氷凝とあるを眞淵が川ノヒコゴリと訓めるに倣へるなるべけれど、そは川ノヒコホリとよむべき事新考(一二四頁)に云へる如し。殊に今は常有氷凝とありて氷る事を云へるにあらで氷れる物を云へるなれば旁コホリ(上聲)と訓まざるべからず。否コホリならばただ氷と書くか又は凝氷と書くべきなり。又箋釋本・類從本・一寫本には常有水凝に作りたれど然めぐらして云はずともただ常有氷といふべきなり。按ずるに古語に氷のはる事をヒコホルといひき。たとへば播磨風土記|讃容《サヨ》郡|凍《コホリ》野の下(新考三二三頁)に廣|比賣《ヒメ》命占2此土1之時凍v冰とあり。これはヒコホリキとよまざるべからず。又彼萬葉集卷一なるイハドコト川ノ氷凝もヒコホリとよむべき事上に云へる如し。さればここは常有氷凝とあるままにて常ニヒノコホレルアリとよむべし。塵添※[土+蓋]嚢抄卷十に引ける所謂記に
 國2一石門1……秉v燭瞻v奥遍室冰凝〔二字傍点〕。或如v鋪2玉※[土+專]1或似v豎2銀柱1云々
とあるも問題の字が水凝の誤にあらざる一證とすべし○箋釋に
(122) 山極メテ高峻ニシテ周廻三里餘、麓ヨリ嶽ニ至ルマデ亦三里許。……絶頂二峯秀出シ屹立シテ相對セリ。西ヲ西嶽ト曰ヒ東ヲ東嶽ト曰フ。……其形ニ因リテ目シテ筑紫ノ富士〔五字傍点〕トス。……山足林叢ノ中ニ神祠アリ。六所權現ト稱ス(○國志には六社權現とあり)。由布山ノ神ヲ祭レリ。延喜式ニ宇奈岐日女神社一座速見郡ニ在リト曰ヘル即此ナリ。今由布山ノ南磴口ニ石表アリテ榜シテ木綿明神ト曰ヘル是ナリ。其柱ニ鐫リテ火男《ヒノヲ》火賣《ヒノメ》神社ト曰ヘリ。此ハ是謬妄ニシテ鶴見山ノ神ヲ以テ混ジテ一トセルノミ。三代実録ニ火男神火賣神二社在2速見郡鶴見山上1ト曰ヘリ。宜シク史ニ從ヒテ正ヲ取ルベシ
といひ豊國紀行に
 鶴見山の西に湯の嶽有。是由布山也。又木綿山とも云。古歌有。名所也。俗に筑紫の富士〔五字傍点〕と云。きはめて高山なり。鶴見嶽より猶高し。此山の下に由布院と云村有。所々温泉有と云
といひ管内志に
 龜山隨筆に湯岳は豐前國字佐郡・下毛郡などより見るに山形ことにうるはし。又周防灘より見るに鶴見岳の向ひに聳えて見ゆ。などあり
(123)といへり。萬葉葉卷七に
 をとめらがはなりの髪を木綿山《ユフノヤマ》雲なたなびき家のあたり見む
又卷十に
 おもひいづる時はすべなみ豐國の木綿山雪のけぬべくおもほゆ
とあるは即此山なり。因にいふ。筑紫富士と稱するは此山のみならず外にも多し。たとへば筑前の浮岳又|可也《カヤ》山、薩摩の開聞《カイモン》岳などをも其國又は其地の人は筑紫富士と稱せり。されば由布岳は又豐後富士と稱せるに從ひて彼此の混同を防ぐべL○峯頂の石室に就いては速見郡史に引ける田原邦直著臥游漫抄に
 西北疊級ノ下ニ一大洞アリ。俗媼氏ト名ヅク。……風土記ニ此峯頂有石室云々ト曰ヘルハ即此洞ヲ謂ヘルナリ。洞中幽邃ニシテ目撃ノ及ブ所ニ非ス。然レドモ巓ヨリシテ之ニ臨ムニ三級アリ。峭絶隆崛ニシテ絶エテ人迹無シ云々(○原漢文)
といへり。實地を見ねば本書にいへるに叶へりや否やを知らず
 
頸峯(在2柚富峯西南1) 此峯下有2水田1△《曰》2△△《頸田》1。本名|宅田《ヤカダ》。此田苗子鹿恒喫v之。(124)田主作v柵《キ》伺待。鹿|到來《キタリテ》擧2己頸1容2柵間1即喫2苗子1。田主捕獲將v斬2其頸1。于《ソノ》時鹿請云。我今立v盟。免2我死罪1若垂2大恩1得2更存1者、告2我子孫1勿v喫2苗子1。田主於v茲大|懷2怪異《アヤシトオモヒテ》1赦〔左△〕《放》免不v斬。自v時以來此田苗子不v被2鹿喫1。令〔左△〕《イマモ》獲2其實1。因曰2頸田1兼《マタ》爲2峯名1
 
新考 頸峯は今知られず。此峯の名を久老以下皆クビとよめるを獨吉田東伍博士のみウナとよみて地名辭書宇奈岐日女神社の下に
 頸はクビとよむべきも亦項と相通じウナともよむべし。宇奈岐日女の名疑ふら〔二字左△〕くは頸峰に因む所あらむ
といへり。此説おもしろし。然らばウナギのギは如何といふに古語に頸に物を挂くる事をウナグといひき。即古事記なる高比倍命(日本紀なる下照《シタテル》姫)の歌に天ナルヤオトタナバタノウナガセル玉ノミスマル云々といへるウナガセルはウナグの他作格ウナガスのはたらけるなり。又萬葉集卷十三に見えたるヲトメラガヲケニタレタルといふ長歌の纓有ヒレモテルガニはウナギタルとよむべき事同書新考(二八〇六頁)にいへる如し。(125)又同集卷十六なる琴〔左△〕《カミ》酒ヲオシタル小〔左△〕《ミ》野ユといふ長歌(新考三四四〇頁)にはワガ宇奈雅流《ケナゲル》珠ノナナツ條《ヲ》とあり。さればウナギ日女は或物(めでたき玉の緒など)を頸に挂けたる女神の義とすべし。更に思ふに古典にウナを頸と書ける例もあれど(肥前風土記總説なる土蜘蛛頸※[獣偏+爰]もウナザルとよめり)元來クビとウナとは相齊しからず。即クビはクビノメグリにてウナはクビノウシロなり。さて此處は擧己頸といひ將斬其頸といひたればウナにてはかなはず。されば地名辭書の説は從ひがたし。頸峯の頸は仍クビとよむべし○水田を久老がコナタとよめるは和名抄に漢語抄云水田は古奈太とあるに據れるなり。但コナタは元來新田即アラキダに對する熟田の義なる如し。有水田の下に恐らくは曰頸田の三字を落したるならむ○宅田を久老はイヘタと訓みたれどイヘタと云はむ事意義無し。恐らくはヤカダと訓むべきにてもと御ヤケ即御料の田なりしかばヤカダと稱せしならむ(播磨風土記新考|印南《イナミ》郡|益氣《ヤケ》里の下に「今マスダ村といふはヤカダを益田と書き終に字に就きてマスダと唱ふる事となりしならむ」と云へると參照すべし)○鹿を久老がシシとよめるは正しからず。シシはもと肉をいひ轉じて猪鹿を總稱せしにて別けては猪をヰノシシといひ鹿をカノシシと稱せしなり。ここの鹿はただカと訓むベ(126)し。牡をシカといひ牝をメガといひ併稱の時にはカといひしなり。柵をキとよめるはよろし。今もキドなどいふキはやがて柵なり(萬葉集新考二三五一頁参照)○到來をキタリテとよめるも宜し(播磨風土記新考九三頁参照)。容の下に之など無くてはまぎらはし○若垂2大恩1得2更存1者は肥前風土記|値嘉《チカ》島の下に若降2恩情1得2再生1者とあると相似たり○赦免は箋釋本及類從本に放免とあり。久老が一本作v敢といへるも放の誤ならむ○自時は次節田野の下にも見えたり。時ヨリとよみてソノ時ヨリと心得べし。トキニなどいふもソノ時ニといふ事なり。此辭肥前風土記には見えず。同書には自爾已來また自爾以來とあり。自時の例は尚書無逸に
 自時〔二字傍点〕厥後|立《タチシ》王(ハ)生則逸。生則逸、不v知2稼穡之艱難1、不v聞2小人之勞1、惟耽樂(ニ)之《コレ》從。自時〔二字傍点〕厥後亦|罔《ナシ》v或《アル》2克《ヨク》壽(ナルモノ)
とあり。小人は人民なり。自時以來の例もあるべし○令獲其實といへる、主格は何にか聊心得がたし。令は或は誤字ならざるか。今の誤としてイマモと訓むべきか。今をイマモと訓むべき例は播磨風土記|讃容《サヨ》郡の下にも今《イマモ》有2讃容町田1也とあり。類從本にはうれしくも今とあり。實は田實なり。タノミとも訓むべし
 
(127)田野(在2郡西南1) 此野廣大土地沃腴、開2墾之1便《スナハチ》無v比2此土1。昔者郡内百姓居2此野1多開2水田1餘糧宿v畝。大奢已富〔四字左△〕《已富大奢》作v餅爲v的。于《ソノ》時餅化2白鳥1發而《タチテ》南飛。當年之間百姓死絶、水田|不v造《ツクラレズ》遂以荒廢。自v時以降不v宜2水田1。今謂2田野1其縁也
 
新考 塵添※[土+蓋]嚢抄卷三に
 昔豐後國玖珠郡〔三字傍点〕ニヒロキ野有ル所ニ大分郡ニスム人其野ニ來テ家造リ田ヲ作リテ住ケリ。有ルニ付テ家トミタノシカリケリ。酒呑遊ビケルニトリアヘズ弓ヲ射ケルニ的ノナカリケルニヤ餅ヲククリテ的ニシテ射ケル程ニ其餅白キ鳥ニナリテ飛去ニケリ。其ヨリ後次第ニ衰ヘテ迷失ニケリ。跡ハ空シキ野ト成タリケルヲ天平年中ニ速見郡ニ住ケル訓邇《クニ》ト云ケル人サシモ能|※[貝+周]《ニギハヒ》タリシ所ノアセニケルヲアタラシトヤ思ヒケン又爰ニワタリテ田テ作リタリケル程ニ其苗皆失ケレバ驚恐テ又ト作ラズ捨ニケリト云ヘル事有
といへり。今も田野長者一名千町むだ〔二字傍点〕の朝日長者が餅を以て的として弓射しに其餅白鳥に化して飛去りそれより田荒れて家亡びきといふ話説を傳へたり。右の塵添※[土+蓋]嚢抄(128)に見えたる一節は風土記より採りしにあらで他の古書に據りしなる事風土記の文と比較して直に知らるる事なるが、これに依りて風土記の文の錯簡なる事の知らるるはいとたふとし。箋釋に
 案ズルニ地ノ田野ト名ヅクル者諸郡ニ往々アリ。惟《タダ》玖珠ノ田野ヲ以テ最トス。且其故事相似タリ。及《マタ》荒田千頃今猶存ズ。之ヲ耕シテ成ルコト無シ。田野トセル所以ナリ。恐ラクハ玖珠ヲ以テ速見ニ混ジタルモ亦知ルベカラザルノミ。……其地今千町|無田《ムダ》ト名ヅク。方里許。畦畝儼トシテ在リ。春夏草離々タルガ畝毎ニ色ヲ異ニシ或ハ蒼或ハ黄或ハ黄赤ニシテ禾苗早晩ノ状ヲ成ス云々
といへり。管内志には田野を球珠郡の部に擧げて
 風土記に速見郡とあるは誤なり。今風土記解(○即箋釋)又森氏の説(○龜山隨筆)に依て球珠那の内に擧つ。さて龜山隨筆に今も球珠郡田野村に白鳥神社あり。此社古は長者が宅地の邊|蕪田《ムダ》の傍に在りしをいつの比よりか蕪田より二三町ばかり北の方田野村の内の北方と云處に移せり。今も祭などあり。里人の傳には此社日本武尊を祭れりと云(129)といへり。右の二書に見えたる千町むだ〔二字傍点〕の無田又は蕪田は無論所謂アテ字なるが九州の地名には何ムダといへるが多し。字は又牟田とも書けるがこれも無論借字なり。神名帳に大野郡|西寒田《ササムダ》神社とあるもこのムダならむ。柳田國男の説に九州のムダは即上國のウタ又はウダにて濕地の事なりといふ。夙く青柳種麿も牟田は沼田なりと云へりとぞ。管内志肥後國阿蘇郡白川の條の注に
 十二の宮より西四里ばかりに廣きムタありてそこに蘆多し。此邊にひらくち(○マムシの方言)甚多くして人をはむ。秋の比に蘆を刈る日一日あり。その日に刈る時は聊も人をくふ事なしとて皆人其日に出て刈る事なり
といへり。以てムダの状を察すべし。さて田野は今玖珠郡|飯田《ハンダ》村の大字となれり。玖珠郡の中央よりは東南に當りて久住《クヂユウ》山の一峯なる星出山(九重山)の北麓にあり。速見・大分・直入・玖珠四郡の相界せる處よりは西南に當れり。速見郡由布院(即今の由布村)の南に湯平《ユノヒラ》あり。明治三十二年まで速見郡に屬せしが今は大分郡に屬せり。湯平の西南に扇山あり。玖珠郡の内なれど郡界に近し。其西に田野ありて山中ながら由布院との間に通路あり。郡界の世に隨ひて變動する事は常の事なれば風土記の成りし頃には田野は速見郡に(130)屬せしかとも思へど田野を速見郡に屬すれば玖珠郡と直入郡とは相接せざる事となる上に田野は恰玖珠川の水源に在れば昔も玖珠郡に屬したりけむ。されば此田野の一節は錯簡と認むべし。但そは編纂後の錯簡にあらじ。若編纂後の錯簡ならば在2郡東南1などあるべく在2郡西南1とはあるべからざればなり。
 ○球珠郡家の在りし處は今知られねど交通に便なる處に在りしなるべければ今の北山田村附近にぞありけむ。果して然らば田野は在郡束南とこそいふべけれ
なほ云はばかくの如く編纂時に生ぜし錯簡あるは亦本書が實地を知らざる人の手によりて編纂せられたるものなる一證とすべし(緒言一一頁參照)○此一節は昔膏腴なりし高原が九重山の爆發などに由りて荒廢せしを彼農民の奢侈を誡むる話説に托せしにあらざるか。山城風土記逸文に
 伊呂具(ノ)秦公《ハタノキミ》積2稻※[梁の木が米]有2富裕1。仍用v餅爲v的者化成2白鳥1飛翔居2山峯1伊奈利|生《オヒキ》
とあり○開墾之便無比此土を久老も箋釋にも開墾ノ便云々と訓みたれど之ヲ開墾セバスナハチ此土ニクラブベキ無カラムと訓むべきか。無比此土の語例は陶淵明の詩に辛苦無2此比1(此比無ケレド)常有2好容顔1とあり○餘糧宿畝を久老は餘v糧宿v畝と點じ箋釋の著者は心得かねきと見えて點を加へず。按ずるに多ク水田ヲ開キ、餘レル糧ハ畝ニ宿《トド》メキとよむべきか。糧は食料、宿畝は田ニ殘シキといふ意にて詩經北山なる大田に彼《ソコニ》有2不v※[木+蕉]穉1、此《ココニ》有2不v斂※[禾+齊]1、彼有2遺秉1、此有2滯※[禾+惠]1とあると相似たる意ならむ。穉はオクテ、※[禾+齊]はカリイネ、秉はイナヅカ即稻ノタバなり。遺・滯は共にノコレルと訓むべし。陶淵明の詩にも仰想東戸時、餘糧宿2中田1といへり。今は之を例とせるなり○大奢已富は箋釋に從ひて已富大奢の顛倒とすべし。さらでは心得られず。發而南飛はタチテ南ニ飛ビキとよむべし。余は播磨風土記|賀毛《カモ》郡鴨里の下なる發飛をタチトビキとよみき。當年之問はリノ年ノ内ニとなり○今謂2田野1其緑也は田野を田ノアトノ野の義とせるにや
 
  國崎〔左△〕郡  郷陸所(里一十六)
 
昔者纏向日代宮御宇天皇御船從2周防《スハ》國|佐婆津《サバノツ》1發而|度之《ワタリ》遙覧2此國1勅曰。彼《ソノ》所見者《ミユルハ》若《モシクハ》國之崎〔左△〕乎。因曰2國崎〔左△〕郡1
 
新考 崎は古典に多く埼と書けるのみならず和名抄にも本書箋釋本にも同じき類從(132)本にも同じき一寫本にも國埼と書けり(但箋釋本には因曰國崎郡の時のみ山扁とせり)。久老本には本書にも肥前風土記にも上古の慣用字を近世式に改めたりと思はるる處少からず○國埼を和名抄郡名に君佐木と訓註せり。久老も箋釋の著者も之に依りてクサキと傍訓したり。此傍訓は當を得たりや否や。まづ君の音はクヌ Kun なれば君字はヌを略してクにも借るべく又ヌを轉じてクニにも借るべし。右と同例なるは和名抄山城國乙訓郡の郷名訓世の訓註郡勢なり。郡の音もクヌなれば郡勢はクセに借りたりともクニセに借りたりとも見らるべし。但訓世は後世久世と書きてクセと唱ふれば郡勢はクセに借りたるなりとも云ふべけれど日本後紀弘仁六年六月の下に山城國乙訓郡國背郷とあるを見れば訓世の訓はなほクニセにて、後世クセと唱ヘ更にセを濁りてクゼと唱ふるはクニセのニを省けるなるに似たり。
 ○なほ駿河國安倍郡の郷名埴生の訓註反布などの例あれど煩はしければ略しつ
否國は國※[木+巣]をクズ(應神天皇紀訓註久須〔二字傍点〕)隱國をコモリク、國※[不/見]をクマギ(伊呂波字類抄久部姓氏)などクとよむ事あれば日本後紀に國背郷とあればとて訓世の訓はクニセと定むべからざるは、なほ問題の國埼の訓をクニサキと定むべからざるが如し。元來クには處といふ義あり。イヅクのク即是なり(ココ・ソコなどのコ、アリカ・スミカ・ヤマガなどのカに齊し)。されば國をクともよむは本來の訓にてクニのニを省きたるにあらじ。否國はもとクと云ひしに後にニを添へてクニと云ひそのクニが終に汎語となりしに似たり。抑和名抄の訓註は必しも一音一字ならず(たとへば上總國の郡名|周淮《スヱ》の訓註に季とあり)又クは多くは久と書きたれば國埼の訓註の君佐木はクサキとよむべきかクニサキとよむべきか確には定めがたけれど國はクともよむべき事右に云へる如くなればクサキとよみてもあるべし。其例とすべきは志摩國長岡村の大字|國崎《クザキ》なり。但問題の郡名は今はクニサキと唱ふ。なほ下に云ふべし○和名抄郷名に武藏・來繩・國前・由〔左△〕染・阿岐・津守・伊美とありて本書に郷六所とあるに比して一郷多し。國志に
 蓋津守ハ當ニ大分郡中ニ在ルベキヲ※[立心偏+呉]リテ此ニ混ジタルナリ。若之ヲ除カバ則是六郷ナリ
といへり。なほ下に云ふべし。驛無きは官道、當郡を經ざればなり○古事記孝靈天皇の段に
 日子刺肩別命者豐國之|國前臣《クニサキノオミ》之祖也
(134)とあり。又景行天皇紀十二年に國前臣祖|菟名手《ウナデ》とあるを本書の總説には豐國直等之祖菟名手といへり。又國造本紀に
 國前國造 志賀高穴穂朝吉備臣同祖吉備都命六世午〔左△〕佐自命定2賜國造1
とあり。垂仁天皇紀二年の註に豐國國前郡とあるは後を前にめぐらして云へるなり○本郡は今は國東郡と書きてなほクニサキと唱へ明治十一年以來東西二郡に分てり。國東と書くは何時よりにか。宇佐大鏡及豐後國圖田帳に國東郡とも書きたれば夙く鎌倉時代より埼を東に更へしなり。サキに東字を充てたるは例を知らず。七郷の内阿岐・武藏・國前・伊美は今の東郡に、田染《タシブ・タシム》。來繩《キナハ・クナハ》は今の西郡に屬して其名今も町村名として儼存せり(但來繩は高田町の大字となれり)。獨津守は不明なり。恐らくは今の西部の北部に當るべし。此附近に一郷ありしなるべきに他の六郷中には之に擬すべきもの無ければなり。さて中古の香地《カガチ》郷と都甲《トガフ》・眞玉・臼野の三莊とは此津守郷の分れしか。郡家のありしは國前郷か又は武藏郷か。彼國造本紀なる午佐自命は一本に牟佐自命とありといふ。是もし正しくば武藏郷は此國造の名を負へるならむ(夙く龜山隨筆にいへり)。自は播磨の牛鹿を宇自可と書けるなど清音にも使へり○兩郡は當國の東北端に在りて周防灘に突出し(135)其西及西南のみ豐前國字佐郡と速見郡とに接せり。今の主邑は宇佐郡界に近くて桂川に跨れる高田町なり○景行天皇紀十二年に
 秋七月熊襲反之不2朝貢1。……九月到2周芳娑磨1時天皇南望之詔2群卿1曰云々
とあり。娑磨は仲哀天皇紀八年に周芳娑麼之浦とあり(磨・麼は日本紀にマにもバにも充てたり)、此處にも上文速見郡の下にも佐婆津とあり、萬葉集卷十五に佐婆海中とあり(婆は萬葉集にハにもバにも借りたり)、和名抄周防國郡名に佐波と書きて波音馬と註したり。思ふに初よりサバと唱へしならむ。應仁元年の文書に佐波川を佐波郡鯖川と書けりといふ。今も郡名をも川名をもサバと唱ふ。さて佐婆津を地名辭書に今の三田尻港とせり。佐波川の河口にあらざるか。國東郡は佐波郡の正南に當れり○彼所見者は久老の如くソノ見ユルハとよむべし。播磨風土記揖保《イヒボ》郡|伊都《イツ》村の下に何時將v到2於|此所v見土《コノミユルトコロ》1乎とあり。若はモシクハ又はケダシクハと訓むべし。今モシヤ・或ハなどいふに同じ。箋釋・類從本・一寫本に乎を脱して國ノ埼ノ若《ゴト》シとよめるはいとわろし
 
伊美郷(在2郡北1) 同天皇在2此村1勅曰。此國道路遙遠、山谷阻險、往還疎稀(ナルヲ)乃《イマシ》得v見2此國1。因曰2國〔左△〕《今》見村1。今謂2伊美郷1其〔左△〕《者》訛也
 
(136)新考 今東國東郡の北偏に伊美村及上伊美村あり。されば郷は今の東郡の北部に在りしならむ○此國道路遙遠山谷阻險とのたまへる、固より佐婆津より直に船にて此處に著きたまひし趣ならで陸路を通過したまひし趣なるが、さて何處よりか來たまひけむ。もし豐前のミヤコより來たまはむには築城《ツキキ》・上毛《カミツミケ》・下毛《シモツミケ》・宇佐四郡の海岸を經たまふべければ山谷阻險とはのたまはじ。されば此地には南方速見郡より來たまひしにこそ○乃はイマシとよむべし。イマシは今シにてシは助辭なり。さて今シ此國ヲ見ルコトラ得タリとのたまひしに由りて命名せむには今見村と云ふべく國見村とは云ふべからず。又國見を訛るともイミとはならじ。よりて思ふに因曰國〔右△〕見村は因曰今〔右△〕見村の誤にてそのイマミを訛りてイミといふなりと云へるなり○其は者の訛ならむ
 
(1)      豐後國風土記新考後記
 
          一
 
此書を作つた動機は肥前風土記新考の後記に云へる如くである。さうして其工程は左の如くである
 昭和六年六月五日  豐後風土記註起筆
 同年七月五日    同初稿完了
 同年十一月八日   第二稿に著手せしが健康不良の爲中止す
 同年十二月九日   再著手せしが數日にして再中止す。健康なほ常に復せざればなり
 同七年一月九日   三たび着手す
 同年三月六日    第二稿完了
 同八年十二月十三日 第三稿著手
(2) 同九年三月十六日  脱稿
 
          二
 
肥前風土記新考の後記に云へる如く血壓亢進の爲に旅行の企を止めなければならなかつたから地理の研究は專地誌に據る事としたが今曰までに一讀又は一見したのは僅に左の書籍である
 日本地誌堤要
 郡區町村一覧
 郡名異同−覧
 市町村大字讀方名彙
 日本地理志料
 大日本地名辭書
 太宰管内志
 九州繪圖
(3) 九州之山水
  以上冊數・發行年紀・著者等の掲記は肥前風土記新考後記に讓る
 豐後風土記
  一冊。寛政十二年荒木田久老校訂
 豐後國風土記
  群書類從卷四百九十九所收
 豐後風土記 △
  美濃紙判寫本一冊。寛政八年二月寫。くはしく緒言の末に云へり
 豐後風土記
  半紙判寫本一冊。永仁五年・文禄四年・元禄二年・寛延二年・實暦七年の奥書の寫ありて末に安政五午年彌生下旬以2佐谷藏本1謄2寫之1畢。橋爪太神正澄(○江藤氏)とあり
 箋釋豐後風土記
  美濃紙判一冊。唐橋世済著。文化元年上梓
 標注豐後國風土記
(4)  栗田寛博士著。標注古風土記所収
 豐後國志
  和装半紙判活字本三冊。唐橋世済著。明治三十一年出版
 同上
  洋装菊判一冊。昭和六年發行
  因にいふ。此書の附圖八葉は繪師淵野蘭溪の所描なるが今帝國圖書館に藏せられ其速見郡の一葉の縮寫は速見郡史に附せられたり
 古事類苑地部三十一豐後國
 豐國小志
  洋装菊判一冊。大分縣著作。明治四十年發行
 大分縣町村沿革誌
  假装菊判一册。佐藤藏太郎氏著。明治四十二年發行
 大分縣案内
  假装菊判一冊。第九回西南區實業大會著作。明治三十五年發行
(5) 大分縣案内
  假装一冊。所謂|三六《サブロク》判。大正十年大分縣協賛會發行
 豐後全史
  假装四六判一冊。加藤賢成氏著。明治二十五年改題再版
 豊後史蹟考
  洋装菊判一冊。佐藤藏太郎氏著。明治三十八年發行
 大分縣史蹟名勝天然紀念物調査報告書
  假装十一冊。第一輯は大正十一年、第十一輯は昭和八年の發行なり
 大化帖
  一帖。縦一尺二寸五分、横七寸五分。後藤碩田蒐集、日名子太郎氏編纂。豐後國に傳はれる寶物の圖譜なり。明治四十四年印刷
 大分縣寫眞帖
  四六四倍判一冊。大正九年大分縣發行
 大分縣名勝地
(6)  菊判一冊。昭和五年大分縣發行
 豐後國弘安八年圖田帳
  續辞書類從卷九百七十四所収
 豐國紀行△
  寫本一冊。元禄七年四月貝原益軒が豐前を經て豐後府内まで旅行せし記なり。益軒全集には見えず
 ※[草冠/函]海漁談
  二卷。脇蘭室全集所収。文化四年著
 龜山鈔
  半紙判一冊。森春樹著。大正五年發行。以下五種は日田郡の郷土誌なり
 同上△
  寫本二冊。前者と小異あり。彼は家傳本にて此は著者の弟永昇が謄寫して大原八幡神社に納めしものなり
 豊西説話
(7)  半紙本二册。森春樹著。明治二十二年出版。誤植極めて多し
 同上△
  寫本二册
 造領記△
  寫本二冊。森春樹著。内題には日田造領記とあり
 日田郡史
  假装菊判一冊。大正四年日田郡小學校長會發行
 三隈鈔
  假装一冊。所謂三六判。千原豐太氏著。大正十四年發行
 玖珠郡史
  假装菊判一冊。大正六年玖珠郡教育會發行
 直入郡志
  洋装四六判一冊。直入郡教育會編。大正十二年發行
 佐伯志
(8)  假袋菊判一冊。佐藤藏太郎氏著。大正三年發行。一種の南海部郡誌なり
 臼杵小鑑△
  寫本三冊。鶴峰戊申書。今傳はれるは再考本にてやがて臼杵小鑑拾遺なり
 大分市史
  洋装菊判一冊。大正四年大分市役所編纂發行
 速見郡史
  洋装菊判一冊。志手環氏著。大正十四年速見郡教育會發行
 別府町史
  假装菊判一冊。佐藤藏太郎氏著。大正三年別府町役場發行
 別府市史
  名は美なれど翩々たる小冊子なるのみ。昭和三年別府市役所發行
 別府温泉誌
  假装菊判一冊。佐藤藏太郎氏著。明治四十二年發行
 國束半島史上卷
(9)  洋装菊判一冊。昭和三年東國東郡教育會發行
 姫島考
  美濃紙判一冊。文政八年杵築藩士小串重威著。刊行は天保三年か
 西國東郡誌
  洋装菊判一冊。西国東郡役所編纂。大正十二年發行
 豐鐘善鳴録
  半紙判二冊。謄寫版。寛保中僧彦契著。上卷は豐後國の名僧の傳記、下卷は同じき語録なり。昭和八年再版完了
 大分縣偉人傳
  假装菊判一冊。明治四十三年發行。大分縣教育會著作
 大分縣勤王家小傳
  附大分縣偉人小傳。假装四六判一冊。大正九年大分縣發行
 二十萬分一帝國圖
外若干種若干冊。右の中にて書名の下に△を附したるは借覧せしもの、其他は南天莊文庫(10)所藏なり
 
         三
 
豐後國は大友氏が亡びてからはあまたの小藩に分たれた。彼の研究者も余の如くまぎらはしさに苦まるる事であらうから左に不十分ながら表を以て徳川幕府末造の状況を示さう
 
  藩名     藩主       禄      治所今名
 森      久留島       一萬二千石  玖珠郡森町
 岡      中川        七萬石    直入郡竹田町
 佐伯     毛利        二萬石    南海部郡佐伯町
 臼杵     稻葉        五萬石    北海部郡臼杵町
 府内     松平(大給《オギフ》)二萬一千石 大分市
 日出《ヒヂ》 木下        二萬五千石  速見郡日出町
 杵築《キツキ》松平        三萬二千石  同郡杵築町
  ――――――――――――――――――――
(11) 幕府領   治所今名は日田郡日田町豆田郡代役所を永山布政所と稱す。俗に、日田の陣屋と云ふ
 熊本藩領  治所今名は大分郡鶴崎町
熊本藩は豐後國にても直入・海部・大分三郡内に領地を有したりき。さて其内の鶴崎を藩主迹職の乘船地としたりしかば藩士の一部をして此地に住ましめしなり
當國の諸藩中岡と森とは海に臨まざるが故に岡は大分郡三佐(今の三佐町)を、森は速見部頭成《カシラナリ》(今の豐岡町豐岡の内)を以て其埠頭としたりき
 
         四
 
豐後國には人物が多い。其人々の出身地を擧げて見たらば讀者を益する所があらうと思うたが困難なるは其人々の選擇である。そこで熟慮を重ねた末に第一學者文人に止め第二世間周知の人に止める事にしたが(わざと二三の讀書子に擇ばしめた)元來名の高さは必しも力の大きさに準ずるもので無いから勝れたる人の漏れたるもあるであらう
(12)    日田郡
 大倉永常  日田町隈
 廣瀬淡窓  日田町豆田
 廣瀬旭荘  同上       前者弟
 長 三洲  中川村?     父梅外修2長谷《ナガタニ》1爲v長
 平野五岳  日田町隈
彼川路聖謨も日田町豆田なる郡代役所にて生れしなり
    直入郡
 清原雄風  宮城村志士知   初稱森忠次郎、仕于岡藩
 角田九華  岡藩士      生于大坂藩邸乎
 田能村竹田 岡藩士    
 僧 雲華  豊岡村滿徳寺徒弟 住豐前
    南海部郡
 毛利高標 佐伯藩主      以藏書聞
(13) 中島子玉  佐伯藩士
    北海部郡
 鶴峯戊申  臼杵町      仕于水戸藩
    大分郡
 秋山玉山  鶴崎町      仕于熊本藩
 岡松甕谷  高田村      仕于熊本藩
 帆足杏雨  戸次《ヘツギ》村 
    速見郡
 麻田剛立  前杵築藩士    住大坂
 脇 蘭室  豊岡町      一号愚山、仕于熊本藩
 帆足萬里  日出藩士     
 物集高世  杵築町      仕于藩
 高橋草坪  杵築町
篠崎小竹は大坂の産なれど其實父加藤周貞は杵築領八坂村(今の速見郡八坂村八坂)の人(14)なり。小竹が別号を南豐といひしは此故なり
    東國東郡
 三浦梅園  西武藏村富清
右に見えたる如く儒者多くして國學者少し。以て國風を知るべし
 
         五
 
森春樹は其學問は恐らくは其師久老でも允可しなかつたであらうが其郷土日田郡の地理歴史をよく※[手偏+嶮の旁]べた人で特に數種の書物を作つて居るから其功績は卻つて世間周知の或人々より優つて居る。さて本註にも其著書を引用すると共に屡其名を擧げて居るからどういふ人であらうかとゆかしがる人もあるであらう。今此人の事の諸書に見えたるを抄出すれば左の如くである。まづ豐後國志の凡例に
 森春樹ノ如キハ其功勞多キヲ居《シ》ム。因リテ姓名ヲ茲ニ詳録ス。曰ク姓ハ森、名ハ春樹、字ハ仁里、日田郡隈ノ人
次に田能村竹田の識せる箋釋豐後風土記の跋に著者唐橋君山が業未畢らずして歿せし(15)事を述べ、さて
 是ニ於テ伊藤先生寛叔(○鏡河)古田君寛齋(○匡方)森君仁里〔四字傍点〕ト謀リテ後藤君子肅○教成)ヲシテコレヲ録セシメ志ヲ翕セ力ヲ同ジクシテ參訂校讎スルコト前後再三云々
と云うて居る。次に宜園百家詩初篇卷六に
 森春樹 字士碧、号蓼洲。豐後日田人○蓼洲遠思樓集所v稱森一郎也。以2國學1知v名。詩乃中年後所v學。然亦可v觀
と云うて次2淡窓先生村居韻1、除夜の五律二首を擧げて居る。次に續群書類從所收豐後國圖田帳の奥書に
 文化四年丁卯仲春以2豐後國日田森春樹之本1書2寫之1云々 筑紫青柳種麿
次に太宰管内志豐後國國埼郡姫島の條に
 此龜山隨筆〔四字傍点〕と云はこたびおのが此書造るにつけて豐後國日田郡人森春木と云人の書送れる説どもなり
又日田郡靫編郷の條に
 風土記解補〔五字傍点〕は森氏の説なり
(16)次に龜山鈔の自序に
 去し寛政といひし歳の初つかた中川侯のきのへ(○岡城下)にて侯の儒醫唐橋世済翁に遇しに翁の曰。我今本國の志編輯のおもひ有。日田球珠二郡の古事古跡、風土記の不載ものを記して得させよ。と請るるに任て豐西紀・日田志等にもりたる事ども創覓てしるし贈れり。これによりて僕も亦ここの事を書集置んと思ひをりつつ壯歳の時なれば等閑にのみ過しける間、元來多病の身のいよいよ病がちに成て今は死の近きにやとおぼゆれば驚きて病を扶つつ造領記〔三字傍点〕一まき龜山鈔〔三字傍点〕一卷を書て肥後熊本の長瀬眞幸〔四字傍点〕主に見せにつかはしけるに、ぬし序文をつけて返されしを其後豐前中津の渡邊〔二字傍点〕上野介重名〔二字傍点〕主來りて「我も序を書べし。さはいへよく讀みての事」とて持歸られしが主の藏書と共に門人に偸まれて失へりとて返さず。然るに我手もとなるその稿本をさへ人にかし失ひつ。再ものせんことの慵くかつは世の家累にさへられて只一たびは一たびはと思ひすぐしつつ多くの星霜を空く明しくらしにたり。このたび大原八幡宮の寶庫に藏奉るとて水戸の西山君の物したまへる大日本史數百卷書寫の事より其讀考まで僕と家弟永昇とに誂られてそれは辛うして事をへたり。さる程に思へらく曩におのれ世を辭んとせし(17)もはや三拾餘年のいにしへとなりて今は六十の惷迂半世ながら猶ありけり。いでや年ごろ打おきつる二書再びかきてむと老くちぬる心を振おこしてかの國史讀考るひまひまに筆を立そめてうれしくも果しつる哉。……文政十三(○天保元〕庚寅年十月望日。
 限町潜※[草冠/固の最後の横線なし]森春樹
又木文に
 今は出雲・豐後・肥前三國のみ遺れり。これを我師伊勢の荒木田久老〔五字傍点〕神主校訂鼈頭して印行せられし也
 予盛年より家の事につきて岡城に往來する事頻にて田能村竹田〔五字傍点〕先生と親く交りて常に畫諭をして遊びしかば先生もここに來られしこと今まで三四度文政元寅年の冬十一月竹田先生のすすめによりて頼山陽〔三字傍点〕先生予が家に來られて……暫滯留あるによりて西教寺の座舗をかりて客居をうつせり
 近江彦根の眞宗西沢の覺勝寺の海量〔二字傍点〕と云僧來れり。予がもとに來りし時云々
 予春樹享和元辛酉年浪花にて木村※[草冠/兼]葭堂〔五字傍点〕老人にしたしく出會せし時云々
次に造領記の序に
(18) 此豐後國日田郡隈里の森春樹ぬしわかかりし時よりおもひおこし老の今にいたるまで年久しく考へ日田の郡にありとある事しるせしとて造領記・龜山鈔・俚言鈔〔三字傍点〕などいつ卷となしておのれにはしぶみかきてよとこふ。……時は天保三とせといふ年の十一月。岡藩隱士淵黙翁廣計(○古田氏)
又本文に
 後浪花にて我師伊勢の荒木田神主久老先生に問しかども其よし知られず
とある。次に三隈川の南岸なる鏡坂に建てたる碑に
 鏡阪之爲v名其所2由來1久矣。大足彦忍代別《オホタラシヒコオシロワケ》天皇時熊襲逆v命。天皇征v之幸2于筑紫1。及v至2比多國1遊臨斯阪1觀2望地形1曰。鏡面乎哉。因以名焉。比多今日田郡是也。余懼2其義之久而失1v傳也考2諸《コレヲ》古史1作v文刻v石以垂2不朽1繋v之以2歌一章1。辭曰。すめらぎのいむきたたししこのさかにかくるかがみのなこそくちせね 享和二年壬戌春正月龜山森一郎源春樹誌 嘉慶七年壬戌夏六月浙江杭州府錢塘縣知縣加一級蒋重耀書
とあるさうである。廣瀬淡窓の遠思樓詩鈔卷下に
 鏡阪觀2森一郎所v建碑1 高原望盡比多郷、山似2屏風1四面張、畫閣北開隈市近、布帆西下筑川(19)長、楷書妙絶蒋重耀、歌曲清新森一郎、惆悵寒煙衰草裏、空因2片碣1弔2先皇1
とあると參照するがよい。次に三隈鈔に
 字は士碧、蓼州〔左△〕と号す。壯年俳諧を嗜み後伊勢の人荒木田久老の門に入り國學を修め和歌を詠ず。歸來著書に從ふ。龜山抄・豐西説話等あり。晩年詩を學ぶ。集あり。天保五年八月歿す。年六十四
とあり次に竹田莊師友畫録卷上に
 五石翁又淮陰漁叟ト号ス。姓ハ杜、名ハ常勝、字ハ子賓。豐後日田郡ノ人。家|世《ヨヨ》富饒、一郡ニ甲タリ。資巨萬ヲ擁シ田若干ヲ置ク。而シテ翁特ニ畫ヲ嗜ミ雪舟ヲ學ブ。既而廼《カクテ》崎人眞村蘆江トイフ者ヲ招キテ之ヲ其家ニ館シ轍ヲ改メテ特ニ清人ノ花卉※[令+羽]毛ヲ作ル。蓋蘆江始熊斐ニ從ヒテ南蘋ノ法ヲ學ビ後ニ方西園ニ就キテ其指授ヲ受ク。故ニ翁二家ノ所長ヲ兼有ス。而シテ晩年專西園ニ歸宿シ旁、出スニ新意ヲ以テス。其家ニ藏セル菊花冊ノ如キ是ナリ。翁又宅ヲ吾邑(○竹田町)ニ買ヒテ酒ヲ造リ其子仁里ト毎歳往來シテ其利息ヲ計リ留滯スルコト數旬ナリ。余眞齋(○淵世龍蓬島(○所謂邊寧)ノ二老、九巍(○所謂松易)江三山ノ輩ト翁及仁里ニ約シ書畫社ヲ訂《サダ》メテ宋元ノ宗派ヲ討論シ酒茶徴逐シ優游歳ヲ卒(20)フ。當時風俗敦朴、事稀ニ人簡ニテ逼塞セラルル無キコト如此。今日斯風寂然トシテ地ヲ拂ヘリ
 杜春樹字ハ成作、仁里ト号シ又睡翁間客ト号ス。五石翁ノ令嗣ナリ。※[糸+丸]袴ノ内ニ生長シテ古人ノ秘跡名冊ヲ好ミ多方購求シ金ヲ視ルコト泥ノ如シ。最賞鑑ニ精シク眞贋ヲ辨別シ毫釐ヲ細剖シ妍※[女+蚩]|慝《カク》ルルコト無シ。其畫ハ花卉ヲ專ニシ沒骨法ヲ喜ビ更ニ新奇ヲ好ム。多ク山野ノ異草、時史ノ鳥シテ未到ラザルモノヲ作ル。年耳順ニ近ケレドモ粉ヲ※[口+允]ヒ丹ヲ舐リテ仍《ナホ》少シモ倦ム所無シ。旁國史ヲ讀ミ和歌ヲ咏ジ近クハ廣廉卿(○淡窓の初字)ニ從ヒテ詩ヲ攻《ヲサ》メ瀟洒多致ナリ。葢吾豐書畫ノ行ハルルコト久シ。而シテ日田邑ヲ以テ盛トシ春樹之ガ嚆矢タリ。……予モ亦早歳相與ニ※[草冠/固の最後の横線なし]※[手偏+寉]シ蒙ヲ指シ雲ヲ披カル。今ヲ距ツルコト三十餘年、彼此衰老シ鬢毛種々ナリ。知ラズ今後何ノ時カ再唔シ斯事ヲ※[さんずい+卒]磨セム(○原漢文)
とあり終に豐後國志再版本に附したる今村孝次氏稿豐後國志編纂始末に
 寛政十一年八月三日世済は竹田蘭溪○繪師淵野世龍)富次(○後藤教成。此人と竹田とは編纂助手なり〕及び僕一人と都合五人にて岡を出立し四日日田郡隈町に着き鍋屋伊左衛門(○春樹の父森五石)方に投宿。……是より君山は旅館主人の男鍋屋政助即ち森春樹の案内にて日々郡内各地を巡覧調査し廿一日日田を去りて玖珠郡森町に著き云々
とある。以上抄出したる所に據りて傳を立つれば
 森春樹字は仁里又士碧、号は蓼洲又龜山又睡鴎間客、通稱は鍋屋政助又成作又一郎、日田郡隈町(今の日田町大字隈)の富商にて國學を荒木田久老に學びて長瀬眞幸・渡邊重名・青柳種麿・伊藤常足等と交りき。又善く花卉をゑがきて田能村竹田等と遊びき。郷土の地理及歴史に精通し唐橋世済が豐後國志を作りし時大に之を助け又伊藤常足が太宰管内志を著しし時爲に龜山隨筆を撰して之を贈りき。著書は此外に豐西説話・龜山鈔・日田造領記・俚言鈔・豐後風土記解補(解は即箋釋)あり。晩年詩を同郷の廣瀬淡窓に學びて詩集もありと云ふ。天保五年八月歿す。年六十四。子孫儼として存ぜり。因にいふ龜山といふ号は日隈《ヒノクマ》山の一名を取れるなり。日隈山は三隈川の兩派に抱かれたる山にて隈町の誇なり。淡窓が(速思樓詩鈔卷上隈川雜咏に)龜山宛在2水中央1と作れるは即此山なり
春樹の爲にあまたの紙數を費すのは外との釣合の取れぬ事であるから幾度も諸書の(22)抄出を省いて立傳だけにしようかと思うたがさすがに※[奚+隹]肋の感が無いでも無いからなほ大方の嘲を忍ぶことにした
 
         六
 
此書を著作するに際しても亦多く諸君の厚意に浴した。左に其人々の芳名を掲げるが或は漏したるもあるであらう
 外山且正君・鶴見左吉雄君・森繁夫君・齋藤周吉君・柳田國男君・故中村修二君・蘆田伊人君・牧野悦子君・大高せつ子君・藤原鐵太郎君・南弘君・森銑三君・遠藤二郎君・久保田滿明君・柴田常惠君・工藤壯平君・笠森傳繁君等
 
    昭和九年四月十二日
 
         豊後國風土記新考索引〔省略〕
 
                 2008年1月16日(水)午後2時入力終了