荷田春滿全集第四巻、官幣大社稲荷神社編纂(代表鈴木松太郎)、六合書院発行、1944年4月1日、561頁7圓24錢
 
(1) 荷田春滿全集 第四卷
 
      凡例
一、本卷には、萬葉童蒙抄の自卷第一至卷第十一の十一卷、即ち萬葉本集の第二、三、四の三卷を收めた
一、萬葉童蒙抄四十六卷は、春滿の弟暗滿(又倉丸、暗丸とも)信名の著である。信名は春滿に後るゝ十六年、貞享二年の生れ、同腹の季弟であつて、元禄九年十二歳にして父の信詮を失ひ、後長兄信友の猶子として社職を襲ぎ、稻荷社御殿頂職を奉仕し、春滿が倭學の興隆に專念したに對して、家門を株守して、世襲の神勤を勵んだ一面、最も長く、深く、春滿の學問に親炙した眞の高弟である。
童蒙抄は明治初年、羽倉可亭良信(春滿の弟宗武五世の孫)が福羽美靜に提出した、春滿遺稿目録に
 一萬葉童蒙抄 信名筆記 四十二册欠本、春滿之所考講也、世所傳有全部八十卷云
と記され、又近世名家著述目録第一にも、春滿の著として八十卷と見えて居つたが、現存せる東羽倉家藏本の信名の自筆稿本は四十六卷で(四十一卷、四十四卷は半紙版で筆者が異なつてをる。これは後年他の所傳本に依つて補寫したるものゝ樣である)萬葉本集卷第二より、卷第十六及び、卷十七卷初、太宰帥大伴卿上京之時、陪從人等、各陳所心作歌十首の六首目多麻波夜須云々の歌迄の解で終つてをる。即ち現存の卷數を以て、假に萬葉全集を推算しても八十卷には至らない、先づ六十卷である。しかも最(2)終卷の四十六卷は右の歌の解を以て中絶せられてをつて、且若干の餘葉が存してをる所から考ふるに、恐らく八十卷は傳聞の錯覺より生じたものと思はれる。
 本書は上記の如く、萬葉本集第二卷より書初められ、現に稿本の第一册目には、表紙に
  本集卷第二
   萬葉童蒙抄  一
と記され、且書中に屡第一卷にて釋せる通、第一卷にて紀を引て注せる通、など述べられてをるから、本集第一卷の釋は春滿の著たる萬葉に讓り、即ち此れに續くの意味を以て、本集第二卷よりものせられたものであらう。又童蒙抄に續いて、萬葉集剳記を第十七卷から二十卷迄、同じく信名が記してをる。要するに僻案抄、童蒙抄、剳記の三書を以て、萬葉全集の注解がなされてをるわけである。
本書中に於ては、概ね初めに、宗師案として春滿の案を述べ、次に愚案、予今案等として信名自身の案を述べてをり、本集卷第八の藤原朝臣八束歌一首、棹四香能云々の歌の相佐和爾の解につきて、宗師の案に、暗丸未2甘心1と特に自分の名を記し、他にも予未だ不2得心1など記してをる。又、宗師の説にたがふ事いかゞなれど、予得心無ければ愚案を云也。とか、宗師の意にたがひ、先達の意にたがふ拙見其罪難v逃など、記してをるが、中に一册
  本集卷第四
    萬葉集打聞  初捌 
(3)と表紙が記されてをる(後に述ぶる松井本には、此打聞の題號について、「師本此題號計り如v此侍り、外は皆童蒙抄とあり、しかし是も童蒙抄也。本のまゝに書うつす也」と頭書がある)處から見て、宗師案の部分は春滿の講義の筆記であつて、それを基として自案を加へ注抄を記したものと思はれる。且書中には處々、或種の釋について、當家の師傳、家傳、一家の傳などの語が用ゐられてをるから、僻案抄が、春滿に依つて記され、童蒙抄が信名に依つて記された區別はあるが、何れも荷田一家の萬葉注釋書と見らるべきである。しかも僻案抄は單に本集第一卷に止まり、他に本集第二卷以下には改訓抄、童子問、問答等の零本はあるが、最も大量に、且詳細に、春滿の萬葉注解を傳へたものは、即ち此童蒙抄であるといふを憚らぬのである。
内容に就いて贅説の要は無いが、唯注目せらるゝのは、書中に明かに萬葉代匠記に就いて述べてをる事である。僻案抄、其他の中にも、仙覺抄、季吟の拾穗抄、長流の管見、又代匠記の釋も引かれてをるが、書名を現さず、ある抄とせられてあるのもある。しかし本書中には、明かに契沖又は契沖抄の字が見えてをる。例へば本集第五卷の初、太宰府大伴卿報凶問歌の報凶問の解について「契沖抄に能被v勘たり仍而略v之」とあり、又同卷卷ノ次「老身重病經年辛苦及思兒等歌七首」の中靈剋内限者云々の歌の、「たまきはる」の解につき、「大坂契沖程の萬葉者なれど、此本説をひらかずして、此歌にて此詞明らかなりと注せり云々」とあり、又東羽倉家藏本中には、春滿の自筆雇筆の萬葉代匠記が二十七册現存せるが、これらの事實は萬葉研究の學統上看過すべからざる現象である。尚書中同氏在滿發起也とか、門人等の説も見えてをる。(4)本書の傳本は、著者信名自筆の四十六册(東羽倉家所藏)の他に、文學博士松井簡治氏所藏の、本集卷第三より同第十卷までの二十七册がある。松井本は、もと四十四册あつたのであるが、終の十七册は震災にて失はれたのである。文學博士久松潜一氏が嘗て調査した所によると、松井本の元の四十四册の中に一册、十八卷異本と題して卷八前半の注があつたが、これは萬葉代匠記の初稿本であつたとの事であり、又第十七卷の注釋は無かつたとの事であつた。松井本は平縁信(石野氏、只軒石翁。在滿の門人)の筆寫で、往々「六友堂版」七行罫紙を用ゐてをり、第一卷本紙第一枚の冐頭に、「荷田先生藏本縁信傳寫」の寫あり、又
  此書第一、第二は萬葉考ニ委記ス、サレバ第三卷ノ甲ヲ第一ト成ス
と記し、頭書に、
  此童蒙抄一、二卷有るも荷田氏にも秘本とす。此本まことに日本に二ツあり。一本は此通、荷田先生亭に有。可v秘々々とあり、又
  第四卷の奧書に、
   安永三年九月十日書畢、小雲堂主人
  同五卷に
   明和八年秋九月小雲堂主人東只軒書
  同七卷に
   萬葉集童蒙抄本集卷第七
(5)   荷田先生日本二本目之内也
   天明五年巳九月廿日書寫檢了 石翁
  同二十三卷に
    右寛政五年丑八月二日より三日に至り公用の間に書寫了
                             南叡吏隱 只軒石野縁信
  同二十四卷に
    寛政六年寅如月十三日寫 七十二翁只軒石翁平縁信
  同二十六卷に
     右寛政六年寅三月卅日書寫了
         七十二歳小雲堂石野石翁
の奧書に據つて、少くも安永より寛政に至る十餘年の間、東羽倉信卿の時代(後の奧書に見ゆ。信卿は春滿の弟宗武の孫)に、借覽を請ふて暇を得る毎に書寫したものと思はれる。
此松井本と羽倉本とは編綴の區分を異にし、且兩者は内容に於て、前者は後者の抄本の樣ではあるが、處々に縁信の頭書があると、又第一卷一枚目の裏の頭書に
 此本に△如v此點有は百ケ傳とて誓紙の上可2相傳1と信卿先生の傳へ也
とあるのは、羽倉本の本集第四卷廣川女王歌二首中「こひ草を力車に七車」の歌の解
(6)   すべての草をさしていふとの事なれど、宗師案にはこひ草と云草あり。一種にはあらねど名付くる所故あり。集中百家の傳とす。秘傳書に注せり。
とあるのと符合してをつて、彼の宮内省圖書寮架藏の、春滿が、出羽國能代の門人村井政方に與へた古今和歌集の講義、又は眞淵の萬葉考に見えてをる萬葉卷第一の難解の歌、莫囂圓隣之云云の訓等と共に當時の學傳乃至歌道の上に、奧秘の相傳が存し、萬葉集の解にも秘傳を設けた事が注目せられる。
この百ケの相傳につきては、羽倉本には右の外、或は、神代上卷に奧秘の傳あることなれば略すとか、又社、さかき、御室、五十戸等主として神祇神祭の儀式調度につきて示されてをり、又寛永本に於て第十巻詠鴈歌、吾屋戸爾云々の歌の行の次「遊群」の二字を、國方可聞遊群(くにへかもゆく)と訓を下して
  是今案發起は、數百年來の誤りを見ひらきたる宗師の案なれば、當集奧秘の傳來の中別而秘藏の義也疏略に他説に漏らすべからず
など、往々高潮の箇所もあるが、別に符牒は附せられてをらぬけれど、松井本には△(又ハヽ)の印を施る外、或は此歌秘傳別記に書べし、百ケ傳の内也。口傳也。師傳也可v秘々々。又は○印を附して此圏點は達意を解也、など頭書に記されてある。
 本書刊行に就いては西羽倉家藏本に據つた。この西羽倉家所藏本は東羽倉家所藏原本の寫本である。原本は未定稿であつて、「淨書の時尚加v加2考?1、可2追考1、尚沈吟を以て決すべし、」等々記されあり、又處々に略筆した處が多い。勿論、寛永本を底本とし所持の本、一古本などと述べてをる處の古寫本を參酌して(7)記したもので、例へば書中歌を示すに、印本何枚目の表等記し、又、端書、序文、左注につき、淨書の時一字下げて記すべき等、十分に筆者の意が窺はれるから、考檢、追考(第五卷、山上憶良沈痾自哀文につきて、序文の注釋淨書の時可2書加1の如き、第十六卷竹取翁作歌の解を別注しれ省いてをる如き)を想像する事は難いが、略筆の部分は原本の體裁に反せない限度に於て、之を筆者の意に則つて校訂補筆した。即ち
 一、寛永本に據つて目録を加へた。
   これは書中目録の字句に就いて述べてをる處が多いからである。
 二、歌、端書等一切の眞字も寛永本に據つて書加へた。
   すべて寛永本の文字は大書とし、注解は小字とし、萬葉の本文と注解文との區別を明かにした。
   但し寛永本に就いては脱字、衍字等、解に於て疑を挾んで特に述べてあるものは其儘とし、疑無く改めて釋を下したものは改めた。(十を千、黒を墨、干を千、于としたる如き)
 三、歌の訓について
   原本短歌には殆ど訓があるが、讀解明瞭なるものには、往々省略せられてをる、これは省略した。長歌に就ては、訓を仮名書にする筈で、書初められてをるものと、之を記さず、直ちに、語釋を述べてをるのとある。前者は解に依つて、全部その訓を知ることが出來るから、大部分眞字の次に訓を仮名書し且句讀を施した。後者は概ね讀解容易のものであるから省略したらしいから省いた。
(8) 四、引用書及引用文について
 例へば、卷第三、天探女に就て、攝津風土記の書名のみを記し置き、解の中に前に引ける風土記の文の通也とせるが如きは、明かに風土記の文を、拔抄してのせる筈であつた著者の眞意が知られてをるから之を補筆した。又志貴皇子について
 續日本紀卷第七云、二年秋七月庚子|−《イ》八月壬子|−《ロ》甲寅二月志貴皇子薨、遣從四位下|――《ハ》宿禰筑紫監護表事
 とせるが如きは、明瞭なる略筆であるから、イ、ロ、は中略とし、ハは「六人部王正五位下縣犬養」の十一字を補つた。
 書史名と引用文とを記して、卷名、紀の天皇名、令式の區分等を省略して線を引けるものも後に檢索挿入する筈であつたと思はれるものは書加へた。書名のみを記して引用文を記さざるもので文長きに渉るものゝ中には、要否を考へて書名に卷、條名等を附加して「に出づ」「に見ゆ」とのみ記すに止め、濫に新加の引用をなさゞる事とした。而して補つた部分については〔 〕を以て原本との區別を明らかにした。
 又引用が記憶によつた爲、錯誤があると思はれた後撰集、(後拾遺集の誤り)、本朝文粹(該當の文見當らず)等につきては、同じく〔 〕に依つて其旨を附注した。
 又本書には本集第四卷以後に、卷尾に難解記といふものを附して、其卷中の難解歌を擧げ、難解の字(9)句につきて、再び見解を下してをる、之も現存せるものは全部加へた。
 本書の著述年代については、相當の卷數であることゝ、宗師後案とか、予後案とあり、書き加へや又上欄の書添、朱筆の書加へ等あり、到底短期の間に記されたものではない事は諾はれるが、恐らくは享保年中の僻案抄の後であつて、春滿の晩年から、或は歿後にも渉つて信名の記したものと思はれる。
 
 卷頭寫眞版
 一、萬葉童蒙抄が、萬葉集の第二卷より始められた證左として、首卷の表紙を掲げた。勿論本表紙も信名の自筆である。
 二、童蒙抄の内容については、校本萬葉集の萬葉集諸本輯影二七四、二七五に掲載せられてをる。今重出を避けて、童蒙抄卷八、五音横通に對する説の見えてをる處を出した。他にも、春滿、信名が詠歌の時代推移及び上代の詠歌を通じての言語の原始的考察、即ち、歌論、語釋の上の興味ある諸説が見出される。
三、石野縁信抄寫の童蒙抄に就ても前述の通りである、茲には童蒙抄首卷〔本集卷第三、(石野本には卷第二は無い)〕の一部を出した。(萬葉童蒙抄 羽倉敬尚校訂)
 
(5)〔目次省略〕
 
(7)相聞
あいきゝとよむべし。古今集已來の集には相聞といふ部類はなく、戀の部と名付て、此集にて相聞と云類の歌を載せたり。しかれば後々の集にて、戀の部といふ類に同じかるべし。しかれども此集にて相聞と名付られたる部には、戀歌にあらざる親子兄弟姨姪などの、互に情をあらはし告る歌をも多く入られたれば、後世の戀歌の部類とはすこし違あり。奧に到りては、四季をわけて、春相聞、夏相聞とも名目をあげられたり。兎角互に情をかよはし、心中の事をあらはし告る事を、相聞と名付たるものと可v見也
 
難波高津宮御宇天皇代
 
なにはたかつの宮にあめのしたしろしめすすべらみことのみよとよむべし。人王第十七代にあたり給ふ帝にて、御諱大鷦鷯尊と奉v稱り御謚は仁徳と奉2追尊1也。應神天皇の第四の皇子也
 
大鷦鷯天皇
 
おほさゝぎのすべらみことゝよむべし。大鷦鷯の事は日本紀第十一卷に詳也。攝津國の難波高津の宮に、天下を治め給ふことも日本紀に見えたり。此五字は第一卷にもしるせるごとく、後人の加筆なり
 
磐姫皇后
いはのひめのみきさきとよむべし。日本紀には、磐之姫とあり。古事記には、葛城之曾都毘古之女石之日賣とあり。釋日本紀には盤足姫葛城襲津彦女としるせり。釋日本紀の足の字は之の字のあやまりたる歟。此集にまた之の字を脱したる歟。之の字なくては、いはひめとよむべければ、日本紀、古事記を證として、之を脱したると見るべし。皇の字はすべて尊稱して書たるもの也。二字合せてみきさきとよむ也
 
(8)思天皇御作歌四首
 
すべらみことをしたひ給ひてのみつくり歌よぐさ
 
85 君之行氣長成奴山多都禰迎加將行待爾可將待
きみがゆき、けながくなりぬ、やまたづの、むかひかゆかん、待にかまたん
 
君かゆき氣ながく成ぬとは、天皇の后の御方へみゆきのことひさしくと絶給ふことをの給ふこと也。尤此天皇八田皇女を寵愛ましませば、八田姫のかたへ、みゆきなりて久して還御もなかりしとき、皇后したひおぼしめしてよませ給ふか。しからば外へみゆきなりて、そのみゆきのながくなりぬとの義也。氣ながくといふことは、諸抄の説は、長吁大息などいふと同じ事にて、ものを待わび、おもひにせまりては大あくび大いきなどのつかるゝことのあるをいふとの説也。甚不v當義也。氣は發語にていきのかたへかゝることにはあらず、たゞながきといふ初語にけといふたるなり。古詠にはいかほども、けながく、け遠く、け近きなど證歌あり。旅行などの事には、日のことにいふこともあり。日はけとも、かとも、こともいふなり。こゝの氣は、長きといふの初語と見るべし。尤八田姫の方へ行幸のときの義にて、よませ給ふ歌ならば、御旅行の事にも侍らんか。しからば、みゆきの日長くなりぬとの御事か。いづれにても、大いきのつかるゝことなど云説は不v當事也
山多都禰迎かゆかん このやまたづのといふは、迎ひといふの冠辭にて、禰の字は能の字のあやまりたる也。此誤字をあやまりと不v見より、諸説にみゆきし給ふ山路をたづねてとの説有。甚歌詞の不v考の説なり。山たづねと云歌詞はなきこと也。山たづといふことは、むかふと云冠詞にて、此集第六、天平四年壬申、藤原宇合卿遣西海遺節度使之陣高橋蟲麿作歌の終の句にも、さくら花さくらんときに山たづのむかひまゐてんきみしきまさばとよみて、たづぬるの事にはあらず。たゞむかふと云までの冠詞也。そこにも山多頭能と能の字ありて、禰とはなき也。古事記にも此歌におなじき歌ありて、此集此卷にすなはち古注者同類の故を以て證例の爲にか、また古事記にもかやうの歌あるといふの證にか注しのせられたり。則古事記には山たづの自注ありて、此云山多豆者是今造木者也と注せり。山たづは順和名抄には鐇の字をあてゝ、廣匁の斧と釋せり。八等抄には杣人の(9)事との御説なり。これは兵仗を持ものをつはものといふにひとしく、山たづといふ木を造るはものを持もの故、杣人などの事にしてもいはるべきか。實はひろはの斧の事にて、此斧を持て使ふにはとかくむかふさまならでは、つかはざるもの故、むかひむかふといふの冠辭に、古詠みな山たづとはよめる也、この詠もたゞむかひといはんため計に、山たづのとある也。この山たづに意はなき事也。すべて上代の歌風みな如v此にて、三の句は四の句をおこさんための初語冠辭をもちゐたること也。是萬葉集時代の口風口躰みな此一格具れり
迎加ゆかんまちにかまたん 天皇のみゆきのあまりと絶給ふゆゑ、待わび給ひて、むかひ出給はんか、また待居給はんかと、み心のせつなるところをあらはし給ふ御歌也。とやせん、かくやし給はんと、おもひわび給ふ情をあらはしきこえ給ふ也。御歌の意、なに事もなきやうにて、よくきこえたる中に、むかひかゆかん、まちにかまたんとあるにて、到て待わび給ふ御心のせつ ることおのづからあらはれたり。御詠の歌は君のみゆきの久しくほどへだゝり給ふ故、こなたより御むかひに出給はんか、またまちしのび給はんやとの義也。かくれたるところもなくきこえたる御歌なり
 
右一首歌山上憶良臣類聚歌林載焉
 
これは萬葉の本文にはあらず。萬葉集撰者より後の人此集をみて、類聚歌林に載たることを書入置たる也。是を古注とはいふ也。撰者の筆にはあらざる也
 
86 如此許戀乍不有者高山之磐根四卷手死奈麻死物乎
かくばかり、こひつゝあらずば、かぐ山の、いはねしまきて、しなましものを
 
かくばかりこひつゝあらずば、このこひつゝあらずばといふこと、此集中にいくらもある詞にて、諸抄の説は、あるにもあらずばといふ義なりとの義、或こひてもこふるかひのあらずばとの釋なれど、それは詞を足して釋したる義也。此不有ばといふ事は、萬葉集中をよく/\熟覽してその意を得べき也。これは存在せずばといふ義にて、か樣にこびわびてとてもしなばと云義也。不有の二字義訓によまばしなばと可v讀也。如v此の釋にては集中の歌、此不有の二字の意悉濟也。こゝの御歌かくばかりこ(10)ひつゝしなばかく山のと云義にて、歌の意滯る處なく聞え侍る也。次の歌に、在つゝもとあるも、存在してながらへての義也。
高山の 高山の二字は、たか山のと古本印本ともによませり。たか山にても意はおなじかるべけれど、第一卷にも高山と書て香山のことをよめる歌ありて、直にかぐ山とよませたり。香高音同じければ通ても書たるか。宗師の發起は、香山は今云金生山の事なるべし。いかんとなれば、日本紀神代のまきにも天香山の金をとりて、日ほこ作り玉ふ神わざもありて、もとより金生る山といふこといちじるし。しかれば大和一國の大山高山故、上古は高山と書て香山のことになりたると見えたり。諸説かぐ山は至極の高山故天に近くて、天の芳はしき香のする故、香きたる山とも書など云説あれども、其説は難2信用1ながら至極高山と云傳たるところ、げにも後世に云香山にはあるべからす。至つて高き山故上代高山の二字を用て、かぐ山の事としらせたるなるべし。今大和にある香山と差山は甚小山のよし也。如v此世に名高き山、さばかりちいさき山にはあるべからざるを、金生山と云名出來たるより取用ゐて、後世にまぎらはしたると見えたり。金生山、香山は同山にてあるべき也。さてこの歌にては高山を常の山にして、たか山とよみても、歌の意はおなじかるべけれど、上に如v此ばかりと讀み出給ふなれば、かぐ山とよむべき也。かやうのところ古詠の例格あり。詞の縁たか山とよみては歌の餘情なき也。かく山とよみ給ふところ、歌といふもの也。此續の事諸抄物にかつて不v考事也
磐根四卷手死奈麻死物乎 かぐ山とある故に、さがしき山の岩根をも枕にして死なましものと也。とてもかくこひつゝながらへずば、さがしき山路の岩ねをも枕として死なんと也。いはねしの四は助字なり。まきてとは、枕としての義なり。この御歌を考へみれば、初發の御歌の、きみが行とあるは、他所に行幸なりしことをよみたまへる歟。此歌のたゞ山のことをよみ出し給ふ意、行幸なりて還御ほどふることを待わび給ふより、さがしき山路の事も思召よられたるかと見えたり。まきてといふ詞は此卷の末、柿本朝臣人丸の歌にいくらもあり。奧の歌にては、枕にしてといふ意慥にきこゆれ共、こゝの岩根しまきてとばかりあるを、枕にしてといふ義には少ことたらざるやうなれども、歌の意さなくては不v通なり。奧の歌には、枕とまきてとあれば慥にきこえ侍る也。又鴨山の岩根之卷有ともあり。先いづれも枕にしての意と見るべし。しかれども奧の歌に少さしつかふることあれば、岩根にまとはり、いはねをいだきといふの義とも見るべき歟
 
(11)87 在管裳君乎者將待打靡吾黒髪爾霜乃置萬代日
ありつゝも、君をばまたん、打なびき、わがくろかみに、しものおくまでに
 
在管裳 ありつゝもとは、いつまでもまちこらへて存在して待たんとの事なり。前の歌の不有ばといふうらなり。此ありつゝもと云事も、たゞなほざりに見ては不v濟。存在してといふ義と見るべし。これに不v限ありかよひなど云詞もあり。みな不有の二字の釋の意をうけて見れば濟なり
打靡 うちなびきとは、おしなべてといふの義也。くろ髪にかゝりたる打なびき也。髪はなびくの、みだるゝのといふことあるもの故、その縁をもつて、打なびきとはよみ出したるもの也。惣髪に霜の置までにと云の意なり。打なびき春さりくればなどよめる、此集にもいくらもありて、一まい不v殘おしなべてといふのこと也。しかればここも、惣髪白くなるまでもといふの義也
吾黒髪に霜のおくまでに 年を經て、くろかみも白くなるまでも君を待ちたへんとの御事也
御歌の意は、いつまでも君のみゆきなるまで御存命ましまして、君をば待つけ給はんとの義なり。くろ髪に霜の置までにとあるにて、年老て白髪になり給ふまでもとの意はあきらけし。しかるにこの初五文字の在つゝもの詞、古註者もとくと不v濟故にか、奧にある本の歌を被v載たり。奧の歌と此御詠とは大成意の違あることなり。此御詠は年久敷ことを云たる歌なり。奧の歌は一夜にかぎりたる歌也。までにといふ日の字は、今時の歌にては、如v此の字あまりは不v詠ことなれど、これらは時代の口風にて、實朴に意をのべたまふと云もの也。置までといひても聞え侍れど、上代の歌みな如v此首尾を丁寧によみとゝのへたるもの也。霜の置までに在りつゝも待たんとの意にて、且歎の意をもふくめたる詞也
 
88 秋之田穗上爾霧相朝霞何時邊乃方二我戀將息
秋の田の、ほのへにきりあふ、あさがすむ、いづこのかたに、わがこひやめん
 
此歌の釋諸説と、當家の傳とは、うらはらの違あり。諸説は秋の田の穗の上にきりかすみ、相かさなりて、おほひとぢたるごときの后の御思ひの、かた/\よりはれて、のちにはみなはれつくすごとく、いづかたよりかはれ給はんとの御詠と釋したり。宗(12)師の傳は、秋の田の穗の上一まいにくもりとぢたるごときの御おもひの、いづかたをみそなはしても、はるべきかたなきとの御歌とみる也。とかくおもひのやすまらず、やまぬといふことに如v此よませ給ふと見る也。これ諸家の説とは表裏の違也
秋之田穗上 別の意なし。古本點本ともに穗のうへにといふ點をなせり。穗のうへとは不v被v讀。穗すゑとか、ほのへとかはよまるべし
霧相 きりあふとよむべし。意はくもること也。此集にいかほども此二字を書て、くもると云意のところに用ゐたり。天霧相などともありて、とかく雲のはれざることを云たる義也。秋の田とよみ出したるもの故、きりとかすみとあひあふてくもりたるごときのおもひのはれがたきことに、たとへたまふと見えたり。兎角きりあふとは、くもりたることを云也
朝霞 あさがすむとよむべし。第四句へつゞく句故、すむとはよむべし。古本印本共に、あさがすみとあれど、それにては上へつゞくことばになる也。朝がすむいづこの方と下へつゞくよみやう、古詠の例格にて、又別にすむとよめるには一義の案有故也。霞は四季にわたるもの也。此集にいくらも春に不v限霞をよめる歌あり
何時邊乃方二 此邊の字難2心得1。處の字の誤と見えたり。しかるに古本點本共に誤字そのまゝに點を付て、いづへとよませたり。萬葉集中にいづへと云こと不v見。尤何時邊と書たることもなし。またいづへと云詞歌詞にあらず。いづくいづこと云詞はあり。決て處の字を誤りたると見えたり。處なればいづくともいづこともよむべし。諸説にも誤字をそのまゝ釋して、海邊、磯邊、奧邊、など云とおなじ義と云説は取にもたるべからず。
歌の全體の意は、秋の田の穗のへ一まいにくもりて霞めるごとく、いづくいづかたを御らんじても、はれぬべきかたなきごとくに、后の御おもひもいづかたにかはれ給ひて思ひのやすまり給はんと也。扨此歌に朝霞いづこのかたにとよませ給ふは、朝霞のことにして、下の心は吾夫が住拾ふ何方にと云の意なり。それゆゑ朝霞を取出して詠給ふなり。この御下心なくて、たゞあさがすむとはよみ出し給ふべきやうなきなり。古詠の格はみな如v此わけありて、此朝霞とよみ出給ふは、天皇の住給ふいづこのかたに后の思ひははれんやとの義也。奧に至ても、あさがすむかひやが下に鳴かはづといふ歌の意もおなじにて、あさもあせも同事にて、あせとは吾夫といふこと也。第一卷にて日本紀の字訓を引て注せる通也。しかれば、あせがすむいづこの方と(13)つゞけたる義にて、すむとよまねばならぬ意味ある也。此説他家の抄物にはゆめ/\おもひよらざること也
歌の一躰は、たゞ秋のころ穗のへ一まいにくもりたる朝霞の景色のごとくに、后のおもひはれ不v給、いづかたよりはるべきかたもなきとのなに事なき意にて、下には天皇の住ませ給ふ何處のかたにか、如v此こひわび給ふおもひのやすまらんとの御歌なり
 
或本歌曰
 
萬葉集の別本地。是は此集を學びし人、前の在管裳の歌に同詞の古歌ありしを、似たる歌故傍註して置たる本あるを、古註者萬葉の別正本と心得て、如v此載たるもの也。これ正本の萬葉集の歌にはあらざる也。秋の田の前に書入置たるにてあるべし。古註者の時如v此奧に書直して板行せしと見えたり。前にもいへる如く、古註者も在管もの歌の意とくと不v濟故、此歌と類歌のやうに心得、傍註とも不v辨故此處に載たるなるべし
 
89 居明而君乎者將待奴婆珠乃吾黒髪爾霜者零騰文
ゐあかして、きみをばまたん、ぬば玉の、わがくろかみに、しもはふるとも
 
此歌は一夜のことをよみたる歌なり。ゐあかしてと云にて、一夜にかぎりたること明也。前の后の御歌は、幾年ものことをよみ給ふ歌にて、同じ事のやうにて格別意の違あり。しかれば同類の差別は、うたがふべくもなきことなるに、あるべきやと古註者は載たりと見えたり
 
右一首古歌集中出
 
古註者の文なり。若は是も傍註ならんか
 
古事記曰輕太子奸輕太郎女故其太子流於伊豫湯也此時衣通王不堪戀慕而遣徃時歌曰
 
此文は古註者同詞歌有を以、何とも難v辯て古事記日本紀を引て註せり。歌の行一字下て書べきことなり。此註しひて不v及2解釋1事なり
 
(14)90 君之行氣長久成奴山多豆乃迎乎將徃待爾者不待 此云山多豆者是今造木也
きみがゆき、けながくなりぬ、やまたづの、むかへをゆかむ、まちにはまたぬ
 
右一首歌古事記與類聚歌林所説不同歌主亦異焉因?日本紀曰難波高津宮御宇大鷦鷯天皇廿二年春正月天皇語皇后納八田皇女將爲妃時皇后不聽爰天皇歌以乞於皇后之三十年秋九月乙卯朔乙丑皇后遊行紀伊國到熊野岬取其處之御綱葉而還於是天皇伺皇后不在而娶八田皇女納於宮中時皇后到灘波濟聞天皇合八田皇女大恨之云云亦目遠飛鳥宮御宇雄朝嬬稚子宿禰天皇二十三年春正月甲午朔庚子木梨輕皇子爲太子容姿佳麗見者自感同母妹輕太娘皇女亦艶妙也云云遂竊通乃悒懷少息廿四年夏六月御羮汁凝以作氷天皇異之卜其所由卜者曰有内亂盖親親相姦乎云云仍移太娘皇女於伊興者今案二代二時不見此歌也
 
近江大津宮御宇天皇代
 
あふみ大つのみやにあめのしたしろしめすすべらみことのみよと読むべし
 
天命開別天皇
 
あめみことひらかすわけのすべらみことゝよむべし。人王三十九代にあたり給ふ帝なり。人王三十五代舒明天皇のひとはしらにあたり給ふ皇子也。はじめのみ名は葛城皇子とも又中大兄皇子とも稱し奉りし也。御母は皇極天皇なり。此天命開別天皇の六字も茲に註せるごとく後人の加筆なり
 
天皇賜鏡王女御歌一首
 
是は集の標題なり。非2後人之筆1
 
鏡王 いづれの皇女王女か傳不v詳。追而可v考。日本紀の天武の卷にはじめて、娶鏡王額田姫王とあり。其後同卷十二年秋七月鏡(15)姫王薨とあり。前に記したる鏡王額田とある、此所には脱字ありと見えたり。鏡王女額田とありしを女の字を脱せるなるべし女 此むすめとあるは額田姫王のことか。また外の女子かうたがはしき也。此次のこたへ歌の下に、後人の傍註せるは額田姫王と記したれども、此集卷第八秋相聞のところに、額田王思近江天皇作歌一首、君待跡云々、鏡王女作歌一首風乎谷云々、如v此ひとゝころにならべてしるせり。いづれと分がたし。八卷目にも思近江天皇作歌とあれば、此所も額田姫ならんか。額田王の事は第一卷めに註せり。天武の夫人也。此所にも卷第八にも、女と計あげてすめの名を不v顯事は、いかなる意にてかありけん、不v詳也
 
91 妹之家毛繼而見麻思乎山跡有大嶋嶺爾家母有猿尾
いもがいへも、つきて見ましを、倭なる、大しまのねに、家もあらましを
 
山跡有 これをやまとなるとよむは、にあの約音な也。心は大和に有と云の義にて、當集に此例あげてかぞふべからず。御歌の意は、皇居は近江、女の家所は大和の國故、常にみそなはすことなりがたく、女をしたひおぼしめすより、その家所をも常に不v絶も御覽なさるべきを、程へだたればつきてもえ御らんぜられざる故、大嶋のねに皇居をもあらまほしく思召との御詠也。大嶋といふも大和の地名、その大嶋嶺といふ所のあたりに、鏡王女の家所ありしと見えたり。大嶋のねとあれば、大嶋といふところのことにもきこゆれども、和歌に秋山のと、山をよみ出したるを見れば、大嶋のねといふ山ありと見えたり
 
一云妹之當繼而毛見武爾
 
いもがあたりつきても見むに。これは第一二句のかはりたるをしるせり
 
一云家居鹿之乎
 
いへゐせましをと云義にて鹿の字は麻の字の誤なり。せましをとよみては、せの字不v足やうなれども、訓よみのときは義にかなふ一言は添てよまるゝ也。居の字をゐとよむは訓なり。しかれば家ゐすとか、家ゐしとかせとかよまるゝなり。此或説も尾の句のかはれるをしるせる也。歌の意は、上二句の替りも、尾の句の替りもさして勝劣もあるべからず。先本文にしたがふべし
 
(16)鏡王女奉和御歌一首
 
今云返歌のことなり。こたへ奉る歌とよむべし。御の字を書たるは天皇の御歌に和へ奉る歌故、天皇をさして御の字を用ゐて、天皇にこたへ奉ると云意にて、撰者心を得てしるせる歟。また衍字歟。女の歌に御の字はしるすまじきを、前の天皇の御歌の所御歌とありし故、板行のときにあやまりて入れたる歟
 
鏡王女又曰額田姫王也
 
後人の傍註なり。第八卷目の秋相聞に額田王思近江天皇作歌とあるを見て、此女とあるも額田にてあるべしと心得て傍註せしか。古本の書本には朱にて細字に傍註せり。既に印本には如v此本行大字にしるせり。後人の加筆傍註見わけざれば、此集をば誤ること多し
 
92 秋山之樹下隱遊水乃吾許曾益目御念從者
あき山の、このしたがくれ、ゆく水の、われこそまさめ、みおもひよりは
遊の字は逝の字の誤り也。古本の書本には直に逝の字をしるせり。歌の意は、天皇の女をしたひおぼしめして、大嶋ねに皇居だになさしめまほしく思召ども、それよりも人しれず下にこがれて、思ひ奉ることはわれこそまさめ、中々みおもひの樣なることにはなきとの義也。しかるに秋山の木のしたがくれとよみ出したるには、別に意ありての事かと云不審有也。たゞ行水のわれこそまさめといへる計にては、此水を取出したるところ心得難し。秋山とよめるは、天皇の御歌に、大嶋嶺と大和の地名をよませ給ひたる故、和歌にも同じ地名の秋山とはよめる也。此下かくれ行水とは、人しれず下にかくれしのびての意をこめたるなるべし。行水をよめることは、秋山といひて莊子の秋水の篇の意をとりて秋は陰氣こりて淋雨しげゝれば、水のますといふ事のあれば、それゆゑよめるかと見る説もあれど、宗師の傳それにあらず。古詠の格左樣に六ケ敷古事をたくみてはよみ出さず。唯われとうけん迄の冠詞に、行水のとはよめるとみるべし。尤その行水を秋山のこの下がくれとよめるは、意味ありて也。その意味は、秋のころは木葉もおちつもりたる、その木の下がくれ行水故、かなたこなたにせかれて一筋にはながれず、われて(17)行なれば、下の第四句の、われこそまさめといはんために、如v此はよみ出したるものと見るべし。詞花集に入たる崇徳院の御製にもよませ給ふ、瀬をはやみの御歌のわれての格也。末にあはんとの御ことばかりに、瀬を早み岩にせかるゝ瀧川とよみ出させ給ふごとく、此歌もたゞわれこそまさめとはいはん爲に、秋山の云々とはよみ出たるものと見えたり。古詠の格はみなかくのごとし
 
内大臣藤原卿娉鏡王女時鏡王女贈内大臣歌一首
 
内大臣藤原卿は大職冠鎌足公の事也。藤原卿と書るは至て尊稱したる義なり。内大臣藤原氏の事は第一卷に註せり
娉 めとるとも、よばへるとも、よばふともよむべし。禮記娉則爲妻とあり。字書に與v聘同、聘問也とあり。此女も名不v記ばいづれとわきがたし。極めて額田王にてはあるべからざる也。此集に娉の字に娶の字を用ゐたるには意味あること也。娉の字は忍びてむかふの事也。表面の婚姻にはあらざるべし
 
93 玉匣覆乎安美開而行者君名者雖有吾名之惜毛
たまくしげ、あけぬをやすみ、あけてゆかば、せがなはあれど、わかなのをしも
 
玉匣 は古來よりたまくしげとよめり。玉手ばこともよまるべけれど、古來よみ來るまゝによむ事可v然也。玉とよめるはくしげを稱美しての詞なり
覆乎 點本古本等にもおほふとよみ、おほひと躰によむなど云て、諸抄の説もみなおほふといふ文字のまゝによみ解たり。萬葉集は文字のまゝによみときては中々不v通こと多し。意をさとし義訓に書たる集格を不v知輩、すでに古來よりおほふのおほひのとよめり。おほふをやすみといふて、歌の意いかんとも不v通也。よつて宗師の傳はくしげを覆なれば、あけぬと云意をさとりて義訓にはよめる也。すでにあけてゆかばと下にうける詞あり。おほふをやすみといふ歌詞はなき也。おほふたるはあけぬ義也。しかれば夜のあけぬはやすきと云義也。あけて行通ひては、あらはれて名の立んことのをしきと也。あけぬうちに行通ふがやすきと也
(18)君名者雖有 君をせとよむことは、前にも毎度注せり。君夫をさして背といふは古語也。雖有の二字をあれどゝよむは、ありといふともの意也
此歌の意は玉くしげはあけてといはん迄の義也。玉くしげに意はなし。あけぬをと云は、夜のあけぬをやすきと也。あけては人もしり、顯れてそなたの名はともかくも、女の名のあらはれ、名の立んことのをしきと也。夜のあけあけぬといふことは、此歌にては不v見とも、次の報贈歌に、さねずばとあるにて、本歌のあけぬあけては夜のことに見ゆる也。愚案は此歌はもし又、夜のあけぬあくることにはあらで、藤原卿此女にひそかに通ひむすび給ひて、つひに事をあらはしてめとり給はんとし給ふときの歌か。娉時贈歌と標題にもあれば也。又女の内大臣の方へ行通ひし時のうたか。女の情、わかれををしみ夜のあくるをもいとはず、まだきになきてなどよめるは通情なるに、あけてゆかばといひて、歸すをいそげる意すこし戀の情にかなはざらんか。しかれば女のしのびて通ふときの歌とも見ゆる也。前にも註せるごとく、娉の字をしるせるは禮義をもつてむかへめとる義にはあらざる意を助て、此集にみな書たる也。如v此の宇格此集にはあまたあること也。心を付て可v見事也
 
内大臣藤原卿報贈鏡王女歌一首
 
報贈 こたへおくるとよむべし
 
94 玉匣將見圓山乃狹名葛佐不寐者遂爾有勝麻之目
たまくしげ、みむろの山の、さなかづら、さねずはつゐに、ありがてましを
 
歌の意は、本歌に玉くしげとある故、こたへの歌にも玉くしげとよみ出して、此玉くしげに意はなきなり。たゞみとうけんための計也。さねかづらにも意はなく、さねずばといはん爲までの事也。女のあけて行は、人めにはあらはれん名のをしきといへるにつき、枕をかはしいねずばありがてまじきとのこたへ也。これらも今時の序歌躰なるべし。たゞさねずばといはんばかりにみむろの山のさなかづらとはよみ出せり。しかれども古詠の格みむろとは地名ながら、室は家室の事にて家の事をいへば、さねずばといふ下の句の縁を上にむすびたるもの也。此返しの意にても、しのびてちぎり給ふことゝきこゆる也。女の歌に、あけ(19)ぬをやすみとありて、あけはてぬさきをやすみといへど、いねがたくはてはありがてまじきとこたへ給ふ意なり
將見圓山 これは古本印本ともに、みんまど山とよみたり。そのよみあやまりに付て、又後人の諸抄に、まどやまといふ地名なければ、高まど山の事にて、高くまろなる故知v此よめるか、まと山はかぐ山の事かなど、いろ/\の僻説をなせり。下のある説の歌のみむろ戸山といふにて、いちじるき事なり。將見山とあればみむ也。圓の字はまろとよめば、下のよみを一語とりてろとはよむ也。圓の字をまどかとよむ故、まどとならではよまれぬ事のやうに心得て、見んまど山と點を付たるは誤也
 
或本歌云玉匣三室戸山乃
 
古註者の一本に初五文字の違ある本を見たる故、その違ひたる義をしらしめん迄に如v此あげたり。此三室戸の或説の一本の説あるにて、將見圓山のよみやうもおのづからいちじるしき也。もし古註者も後人のよみあやまらざる爲に、一説をも註せる歟。此集中古註者の意に其意味あまた見えたり
 
内大臣藤原卿娶采女安見兒時作歌一首
 
内大臣藤原卿の事は前に同じ
釆女安見兒 傳不v知。何人の子といふ事、考ふる所なきなり。釆女は官女の號也。安見兒は其女の名也。兒といへるは女の通稱此集中女をさしてこといふ事數多なり
娶 めとるとよむべし
 
95 吾者毛也安見兒得有皆人乃得難爾爲云安見兒衣多利
われはもや、やすみこえたり、みな人の、えがてにすちふ、やすみこえたり
 
歌の意 釆女やすみこをめとり給ふに、何さはりもなく、やすみこもいなびにくゝ、藤原卿の心にかなひて、やすくめとられたる故、その義を心に悦給ふて、やすみこといふ名によそへて、人々は此やすみこを得る事得がたき事といへれど、如v此やすくえたりとの義也。別の意もなき歌なり。此安見兒何とぞ容儀もすぐれ、人々こひしたひし釆女なりしを、藤原卿如v此めとり(20)給へる歟
吾者毛也 と云はわれはと云の義也。もやの二語は助語也。もやと云はたんそくの詞にもなりて、此も歎の意もあり。ともに助語と見るべし
爲云 此二字をすちふとよむは、えがたにすると云の義也。との字はあらねど、するといふ事を訓にてよめば、との字一言はそへて不v苦なり
久米禅師 傳不知。久米は氏、禅師は名也。ぜんしとまぎらはしく僧徒沙彌かと誤事あらんか。禅師は背虫と讀むべし。背虫と云は人の身中にある虫の名也。よつて人の名に付たると見えたり。惣て上代此時分の人の名は、みなかくの如き草木禽獣虫魚その躰あるものを名としてよべり。是尤上古の古實なり。此古實をしらざる人、上代の人名をよむに甚あやまりたる事あげてつきず
 
娉石川郎女時歌五首
 
いしかはのいらつめをよばへる時のうたいつくさとよむべし
 
娉 前に註せるごとく、禮を以むかへるの婚姻にはあらず。しのびて情を通じたる相聞の歌なるべし
石川郎女 傳不v知。郎の字は賞美の意にて、女の通稱に用也。女郎と書ても同事なり。此集中女郎郎女不v定書たり
五首の歌は 背虫郎女贈答合せて五首也。せむしの歌三首郎女の歌二首也
 
96 水薦苅信濃乃眞弓吾引者宇眞人佐備而不言常將言可聞
みすゞかる、しなのゝまゆみ、われひかば、うまひとさびて、いなといはんかも
 
歌の意は郎女をむかへとらば、郎女よき人ぶりてせむしの心にしたがふまじきかと也。しかるを如v此みすゞかるといひ出していなといはんかと云までの句作の縁語、至て上手の歌也。歌はかやうに縁をもつてよみ出す事ならぬもの也。尤縁の詞なしに大樣によめる一格に、名歌と沙汰したる歌もあれど、それはまた時代の風、人の口風による事也。先萬葉の歌は大かた此歌の(21)ごとく、意はかるき事にてつゞけがらの詞にわけありてよめる歌多也。古歌はとかく古實をそんじ、ふまへどころを取てよみしと見えたり。
みすゞかるとは すゝきをかるしのとうけたる冠詞也。しなもしのも同事也。信濃の國は元來すゝき多生茂たる野と見えたりすゝきの名産のところ故、國の名ともなりたるか。しのとはすゝきの事にて、しのすゝきとも云なり。かるとは上代は信濃の國よりしのすゝきをかりて貢獻もしたるか。尤信州諏訪社のみさやま祭りといふは、すゝきをもつて神殿をかざりぬさにも用る也。よつて古歌にすゝきかることを信濃の事によめる此因縁也。まゆみとよめるは信濃の國の名物なり。上代は甲斐信濃奧州などより、名物故弓を貢獻したる事續日本紀をはじめ國史に見えたり。よりて國の名物故、信濃の眞弓とはよめる也。われ引は背虫の郎女を引とらば也。弓は引の、はるのと云ことあるもの故、郎女をむかへとらんとおもふことを、弓のことによせてひかばと也
眞人とは よき人と云古語也。上古はよき人と云事をうま人と云し也。ひつきやう苦辛になき、仁愛甘味の人と云意にてうま人といへるなるべし。こゝの意は先を賞美して云たる也。上にみすゝかるといふは、われを卑下しいやしめていへる也
佐備而 このさびといふことは、第一卷にも注せるごとく、ふりといふと同意、さびるさぶるみな同事の詞にて、今云よき人ぶりてと云義也。しかれば郎女のよき人がほしていなぶるにてあらんかと也。いなといはんかもといへるも、うま人と上にある故、馬のなくこゑはいと云より縁をふまへて如v此つゞけたる也。よく/\の上手ならでは如v此不v被v讀もの也。みすゞかるといふより古實のことをふまへて、さてみなその縁のはなれぬ詞を用ゐたる也
水薦の二字を 古本印本ともにみくさ或まこも、まくさなど點を付たり。諸抄に薦は草※[禾+周]を曰v薦字義もあれば、草の事にてくさとよむと云。こもといひかやと云は草の惣名なりと解する説もあれど、今少し案不v中なり。惣て此集は日本紀の訓文字を用て書たる集なり。さるによつて薦は日本紀神代卷にすゝと訓せり。すゝきの事にてかやも同物也。すでに信濃の名目となり、今以神祭の古實殘りたる信州のすゝきの事なれば、古訓といひ遺風證明有義といひ、すゝきとならではよまれざる事故、水薦の二字をすゝきとはよむ也。水はみづのみに非ず、初語のみなり。みづと云和訓の一語をとりて、みとはつかひたるもの也。みと(22)云詞多くは初語に用ゐることなれども、所によりて神の略語に用たることもあり。天子の御事に何によらず御の字を用てみと訓ずることも神のものと云義とみゆる也。天子は直に神也。此水すゝかるも、みさやま祭りに國中のすゝきをかりて神物に用る事故、神のすゝかると云意にみすゞともいひたるなるべし。その意にあらざれども、今の人その意とみる事證明なきにあらざれば少も難あるまじき也
不言 いなとよむ事義訓也。不聞とも不知とも書、此集中に多し。不言、不聞、不知はいなむの義なれば、義をもつて訓ぜり。すべて此集中義訓の案なくては一首も義不v通也
 
禅師
 
古本には小字にて傍註せり。印本には本文の字に書たり。これみな後人の傍註也。此已下郎女禅師下にしるせり。みな後註也。撰者の筆にあらず
 
97 三薦苅信濃乃眞弓不引爲而強作留行事乎知跡言莫君二
みすゝかる、しなのゝまゆみ、ひかずして、をつくるわざを、しるといはなくに
 
歌の意は先のことばをうけて、みすゞかる信濃のま弓と也。不v引してはいまだ何ともいはず、引もせぬ弓にをゝつくるはわざをしるとはいはれぬと也。いなといはんもいふまじきも、引もせぬ弓にはそのことは何ともいはれぬと答へたる歌なり。此をつくるわざと云事は、夫をつくるわざと云事をふくめて、弓の弦にみせて云たる也。是みな前にも註せる通りの風格なり
強作留 此強の字弦の字のあやまり也。或一本に弦の字を書たるものあるにて、彌明也。弦と云字の誤と不v見より、しひすると云點をそへたり。しひするわざと云事あらんや。又作留を矢作部とかきて失はぎ部とよみ來れば、つるはけると義訓をつけてよむ人もあるべけれど、つるはけるとよみては歌にならず。よつて當家の傳は、をつくるとよむ也。を作ると云は弓につるをつくること也。それを夫をつくることによせて云ひし處、古代の歌格也。つるをゝとも云て次の歌につる絃とりはけともよめり。つるはけるわざといふては歌詞に非ず。萬葉集の歌は上代の歌故、詞あげてめづらしき詞をよみたると計心得たるは大成(23)誤なり。よみとく人の心たらざるより、歌詞をもただことによみなせり。弦作ると云をのかなも。をつとのをもかな不v違。古人の詠にはいひかけの詞のかなもいさゝか不v違也
 
98 梓弓引者隨意依自友後心乎知勝奴鴨 郎女
あづさゆみ、引ばひくまゝ、よらめども、すゑの心を、しりがてぬかも
 
歌の意はせむしの引給ふまゝになびきよらめども、すゑはいかならんもはかりがたくしりはてぬと也。きこえたる通也
梓弓引者 上のしなのゝまゆみとあるより、此歌には略してすぐに、あづさ弓とはよみ出たる也
隨意 此二字古本印本ともにまに/\とよめれど、まに/\と云事、上に何ぞ一つ躰の物をすゑていはねばいはれず。古詠古語の例みな、神のまにまに風のまに/\とよめり。引はまに/\とは詞にて躰なき故、おなじ義訓なれど引まゝとはよむ也。意はまに/\の意も引まゝの意もおなじけれど、いはれぬ義訓と語例の義訓との違ある事也
後心乎 古本印本等にも、のちの心をとよませたれど、弓にのちといふ縁なきことば也。本のすゑのと云事はあり。よつて意はおなじけれどすゑとはよむ也。尤弓は引時末のかたよる物なれば也
知勝奴鴨 しりがてぬとは、今はかく引まゝによりなびけども、末とげん心の程はしりはてぬと也。見とゞけぬとの義也。是郎女歌なり。傍註にも下に郎女とあり
 
99 梓弓都良絃取波氣引入者後心乎知人曾引 禅師
あづさゆみ、つるをとりはけ、引人は、すゑの心を、しる人ぞ引
 
都良絃 つるをとよむ也。良の字にるの音はなけれ共、上代約音の一音をみな音に用ひたる事多し。これ日本の古書を見れば此傳をしる事也。りようの音を約すればる也。信濃の濃の字古代はぬと用たると同事也。上古呉音は多く約音を音に用たる也。此傳をしらざれば今時の音に合せては難2心得1事ある也
歌の意は 前の郎女の歌に、かく引まゝによらめども、すゑの心をしらぬとうたがひてよめる故、かく引人ぞ末の心のたがは(24)ぬをしりてぞ引との返歌也。人ぞとゝがめたるは、かく引人こそ末かけてかはらぬ事をしれりとの歌也
郎師 郎の字禅の字の誤なり。古本の書本に小字にて禅師と傍註したる本あるにて、彌禅の字のあやまりとはしるべし。尤後人の註を板行のときまたあやまりたる也
 
100 東人之荷向※[しんにょう+(竹/夾)]乃荷之緒爾毛妹情爾乘爾家留香問 禅師
あづまどの、のざきのはこの、にのをにも、いもはこゝろに、のりにけるかも
 
此歌少六ケ數解しがたし。もしくは誤字あらんか。しかれどもまづ本のまゝに解釋せば、石川郎女背虫にしたがひてめとられたるとき、背虫のよめる歌と見ゆる也。東人とよめる、前の歌ともみな東國しなのゝ事をよみ出したれば、そのつゞきのゑんをもて東人とはよめるなるべし。北國西國もあるに、東人とよみ出せるは、前の贈答の次第を守ての意と見ゆる也。尤東人のゝさきのとよめるに何の意もあるまじき也。下のいもは情にとよまん迄の序なるべし
荷向※[しんにょう+(竹/夾)] これは古は諸國より其としのはつ穗を朝廷へ奉りて諸神に供進せられ、御みづからもなめきこしめして、十陵九墓坏といひて供をせらるゝ使をたて給ふ也。それを荷前の使といひて十二月に此事ありけるによりて、其前に諸方よりはつ穗のみつぎものを奉る、その初穗物をしたゝめのぼす箱に、荷の緒のくる/\まとはれるやうに、ぜんしの心によりしたがひけるかなどよみし歌也。しかるにいもはこゝろにといふ事をいはん爲に、荷のをとはよみ出せり。心とはすべて紐緒糸をつける鐶をこゝろはといふ也。さるによりて、上代の歌には、いとひものことをよむに、みなこゝろといふ事をよみ入し也。此うたもいと紐にはあらねども、緒といふものをもて情に入りにけるかもとはいひ出したり。すべてふまへどころありてよみし也。古今集の離別の歌に貫之のよみし、いとによるものならなくにとよめるも、心葉といふものゝ縁をもつて也。此こゝろはといふもの、いとひも緒の類を付けたるといふ事大方の人はしらざる古實也。此古實を不v知ばいとゝひも緒などの事をよみ出して、こゝろとよめる歌のわけ不v濟事也
乘爾 此乘と云字不v濟也。心にのるといふ事いかんとも難2心得1也。なにぬねの通音にてなりにても不v濟。とかく寄と云字の(25)あやまりにやあるべからん。字形もまがひやすければ寄と云字の誤と見えたり。なれば背虫の情に郎女はよりにけるかもといふ歌にて、これはめとりたるときの歌と見えたり。前のしる人ぞ引と云歌の返歌を不v載は、もはや返歌なくして郎女のなびきしたかひたると見えたり。よりて此歌をよめるなるべし
歌の意は 是迄に註せるごとく、背虫の心に郎女よりけるかなと云の義也
香問 うたがひの詞にかもとあれども此かもはかな也。惣て此集中にはかもとよめるところ大方歎の意にて、かなと云義によめる歌多也。此歌もかなと云義と見ゆる也。全躰此歌すこし解釋しがたき所あれども、まづ如v此迄に見侍る也。にのをにもといへるも六ケ敷なり。爾毛の爾の字もしくは何の字のあやまりか。にのをかもなれば安くきこえ侍らんか。爾の字にては、にのをのやうにもと意に見おく也
 
大伴宿禰嫂巨勢郎女時歌一首
 
右大伴宿禰とは何の人の事歟難v知。名脱せると見えたり。古本書本細註云。大伴宿禰諱曰2安麿1也。難波朝右大臣大紫大伴長徳卿第六子也。平城朝任2大納言兼大將軍1薨也。如v此傍註せる古本あり。しかれば此大伴宿禰は安麿歟。本書に名を脱したれば、暫く古本の傍註に隨ひ置なり
巨勢郎女 傳不v知也。然共次の報贈歌の下に、古本傍註に云、即近江朝大納言巨勢人卿之女也。如v此傍註せり。此註は考ふるところありてかくはしるせる歟。即近江朝と書るは此歌の標題に、近江大津宮とある故によつて也
 
101 玉葛實不成樹爾波千磐破神曾著常云不成樹別爾
玉かづら、みならぬこには、ちはやぶる、神ぞつくちふ、ならぬこゞとに
 
玉葛 諸抄物の説は葛類のつるのことに釋せり。しかれどもこれは木のことゝ見えたり。すでにみならぬ樹にはとよみたるを、葛類とは見がたし。木にもかつらの木といふあれば、其木をいふたるかつらなるべし。尤かつらにも桂楓杜木の差別ありて、日本紀、神代卷下に被v書たるかつらは、濁音によむべき證明もあれば、もし此樹を云たる玉かつら歟。葛の字を用ひたれば、か(26)つらと清音にはよまれまじき歟。しかれども玉はほめたる詞にて、かつらは木のことゝ見ゆる也。且玉かつらとよめるは靈楓の意をこめて歟。たましゐの著かつらと云の事歟。楓の字は、漢土の字書にあやしきことに用ゐたる字註も見えたれば、靈楓の意もうたがはし。もつとも我朝神代にも彦火火出尊海祇宮に到り給ひて、先よりつかせ給ふも杜樹の木とあり。又無名雉、神使として葦原國へ下りし時も、杜木のすゑによれり。しかれば神のつくといふ由來、よりどころなきにもあらざるを以て、古代は古實をそんじて歌にもよめるなるべし。今の代とても、年老までをとこせぬ女には神のつき給ふとは、時俗のことわざにいへり。むかしよりの諺と聞えたり。しかれば此玉葛は、葛類のかづらにてはなく、木のことゝみるべし。猶かつらの事に付ては、かもの社にかつらを用る事も深きむねあるべきことなり。順倭名鈔云、葛、音割、和名、久須加豆良乃美、葛實名也云云。しかれどもみならぬ木にはとよめるは、葛の類にはあるべからぬ事をしるべし。葛類は實なるものと見えたり。この歌のかつらは、とかくみのならぬ木の義と見るべし。楓、同抄云、和名、乎加豆良云云
實不成樹爾波 みならぬとは、木の實のならぬことにいひなして、意は女の夫をもたぬ事をいふ義也。古代は女の婚姻せぬをならぬと云し也。婚姻せしをなるとは云しゆゑ、こゝにも不v成とはよみて、夫をまうけぬ事にいへり。樹の字を古本印本ともにきとよめり。しかれども上代は女の通稱をこといひし故、此集中女のことをみな兒の字子の字を用てこといひ、すでに此集初發の御歌にもなつますことあり。その以下あげてかぞへかたし。よりて此も木のことにして、實に女の事をいへる歌なれば、きもこも同事故ことよめる事歌の意にかなふべき也。俗言にいはゞをつとせぬ女には神のつくといふとの義なり
千磐破神曾 ちはやぶる神といふ事古來説々多し。神代のむかし天照大神の御言のりに、ちはやぶるあしき神とありて、日本紀神代卷下卷にも殘賊強暴横惡之神とかゝせ給へり。尤此集中にもち早ぶるいはやぶる金とも人とも、うちともよみて、所によりてかはれり。しかれ共意はいづ方もひとつ事なるべし。まづ千磐破神とは文字の通にみるべし。最も人王の御代となりて出所をいはゞ、神功皇后の御時、つくしの松浦の迹驚の岡にて、雷電霹靂蹴2裂磐1令v通v水とあるをおこりとせんか。又古事記の景行紀に、日本武尊東夷をたひらげ給ふとき、相模國にて國造等詐白せしにも、此沼にすむ神甚道速振神也とあり。しかれば千々のいはをもけさきやぶり、あらぶるたけきすさみ、また火をちらし雨をふらし、さま/”\のあやしきことをなし給ふ神(27)をさして、千早振神とはいふなるべし。つらゆきが土佐日記に、ゆくりなく風ふきて、こげどもこげどもしりへしぞきにしぞきて、ほど/\しく打はめつべし。かぢとりのいはく、この住吉の明神はれいの神ぞかし、中略。さればうちつけに海はかゞみのおもてのことなりぬれば、ある人のよめる歌、ちはやぶる神のこゝろをあるゝ海にかゞみをいれてかつ見つるかな。如v此とかくあらけすさめることをなす神を、千早振とは云也。さて又むかし神と計いひ傳ふるところは、いかづちのことにして、すでにかみなりともかんどきともいひて、雄略天皇の御代に少子部連すがるをして、みもろの岳の神をとらへさせられし時にも、其雷※[兀+虫]※[兀+虫]目精赫赫《ソノカミヒカリヒロメキマナコカヽヤク》天皇|畏《オチタマフ》云云とありて、名を改て爲v雷とありて雷の字をかみと讀せたり。これよりして三諸山を雷岳と云なり。此集卷の第三にも、皇者神にましませば天雲の雷之上爾いほりするかも。ある本にはいかづち山にともあり。又みもろ山を神山ともよめり。則此卷の奧に見えたり。各由來あること也。歌にもいくらもいかづちの事を神と許よめる事多し。後撰集に、ち早振神にもあらぬ我中の雲井はるかになりもゆく哉。しかれば山しろにしては、千早ぶる神と云は、かもの社にかぎりたる事ならんか、山の名をも神山といふ。あふひかづらをもちゐる由來も、此歌のかづらの事ならんか。また古今の歌にも、ちはやぶるかものやしろの木綿だすきとよめるも、よりどころなきにしもあらず。神とかける本もあれば、かもはかみのあやまりたるといへる説もあれど、之は神もかもゝ同事の事故、かもともかみとも書たる歟。其より所一つならず二つならぬ事なれば、ちはやぶる神とはかものいかづちの神のことゝも見ゆる也。しかれば天神の事にはあるべからず。尤上代の歌には、ちはやぶる天照神などよめる事無2所見1也。然ば今も國津神の事ならでは、ちはやぶる神とはよむまじき事歟。ちはやぶるは岩やぶると云義と見るべし。ちもいも同事也。ちはやぶるうぢなどゝよめる歌此集にもありて、之もうぢ川は近江の湖水の岩谷を經てうぢ河に流るゝ故に、かくはよめると見えたり。尚その所にしるせり
著常云 つくといふとの事也。常云《トイフ》はちふとよめる事前に注せり。むかしより神の女につくといふことあり。崇神天皇の御時、倭迹迹日百襲姫命大物主神の妻となり給し時の古事より、上古も今も云習ひたる諺なるべし
不成樹別爾 ならぬこゝとにとは、上の句を二度おこしていへる古歌の風也。歌の意はみならぬ木には神ぞつくといへば、郎女も大伴宿禰にしたがひ婚姻をなさずば、神のつき給はんほどに、したがひなびき給へといはずしてをしへたる意也
 
(28)巨勢郎女報贈歌一首
 
こせのいらつめこたへおくる歌一くさとよむべし
巨勢郎女 傳不v知。前にしるせるごとく、古書本に一首とある下に、小字にて【即近江朝大納言巨勢人卿之女也】如v此註せり。後人の傍証ながら勘ふるところありてしるせるなるべし
 
102 玉葛花耳開而不成有者誰戀爾有目吾孤悲念乎
たまかづら、はなのみさきて、ならざるは、たがこひならめ、わはこひしのぶを
 
玉葛 本歌の句を直にうけてなり。かつらとは靈楓のことか。又今俗にいふもくせいの木か。もくせいはゆつかつらといふ木なり。花は咲とも實のなるならぬといふ事を慥に不v考。楓はまた花の咲ことを不v知。いづれか兩木の中なるべし
花耳開而不成有 は花ばかりさきても、實のならざるはと也。實の事は本歌にゆづりて直にならざるはと也。不成有は、をつとをもたざるはといふがことし
不成有者 これを古本印本共にならずあるはとよませたれど、すあの約言はさなれば、例のごとくちゞめてはよむ也。意は同じけれど、詞やすらかにて耳たゝず。此集中皆如v此つゞめてよませたれば也
誰戀爾有目 此爾有目の三字も古本印本共、にあらめとよめれど、前に註せるごとくに、りあのことばをつゞめてならめとはよむ也。或人目はもと音をかなに用たり。もとよむべくめとよみてはてにをは違てあしきよしいへり。心得がたし。目の字音をとりて、もとよみてはかへつて此歌の意のてにをは不v合也
吾孤念乎 これをわはこひしのぶをとよめるは、古本印本諸抄の訓點とはことなれども、かくよまざれば歌の意通じがたかるべし。念の字はおもふとも、しのぶとも、こふともよみて、此集中に數しられず。此歌はおもふとよみても義はたがふまじけれど、しのぶとよみて義かなはゞ、字あまりにしひてよむべき事にあらず
此歌の意は 本歌に實ならぬこにはとある故、玉かつら花のみさきて實の不v成は誰れ人のこひならめ、われはかくばかりこ(29)ひしのぶなれば、かんにんをなして實はなるにてあらんをとの意也
 
明日香清御原宮御宇天皇代 天渟名原瀛眞人天皇
 
第一卷に註せる通なれば畧v之
 
天皇賜藤原夫人御歌一首
すべらみことふぢはらのおとしにたまふおんうたひとぐさとよむべし
 
天皇は天武天皇なり
夫人 おとしと訓ぜり。大夫人はおほとしと訓ず。夫人とは天子後宮の官女を云。妃の次也。後宮職員令云、夫人三員、右三位以上云々。此夫人は藤原大臣鎌足女氷上娘也。天武紀云二年二月丁巳朔癸未云々、夫人藤原大臣女氷上娘生2但馬皇女1云々、同十一年春正月乙未朔壬子氷上夫人薨2于宮中1云云
 
103 吾里爾大雪落有大原乃古爾之郷爾落卷者後
わがさとに、大雪ふれり、大原の、ふりにしさとに、ふりまかばのち
 
吾里 わかさとゝは、その時すべらみことのましませる所をさしてよませたまふ也。すべて人の住居する所は、帝都にてもさとゝ云の證明は此歌などをやいふべからん。尤郷の字はくにともさとゝも訓ぜり。やまとの訓釋に付てふかきむねある事也
大雪 つもれること尺におよへば、大雪とすること左傳隱公九年の傳に見えたり。續日本紀天平神〔護元年十月己未朔辛未、行2幸紀伊國1云云。是日到2大和國高市小治田宮1。壬申、車駕巡2歴大原長谷1、臨2明日香川1而還〕
大原 和州の大原也。氷上夫人此大原郷に住給ふと見えたり。大和に大原と云所あることは天平神護元年十月の所に見えたり
古爾之郷 夫人すみ給ふさとをさしての給ひし也。天皇の里は都なれば、それに對してふりにしとはの給へるなるべし
落卷 ふりまかばとよむべし。欲の字をまくとよむ意とはことなり。散蒔の意なり。古本印本共にふらまくとよみたれど、其意を得ざればふりまかばとはよむ也
(30)御歌の意は 折節雪のふかくおもしろうふりつみたるをみそなはして、夫人にたはむれ給ひて、こゝにはかくおもしろう雪ふりたれど、夫人の住るさとにはかやうにはふるまじ。ふるとてものちにこそふらめと、夫人へうらやましめてよませ給ふ也
 
藤原夫人奉和歌一首
ふぢはらのおとしこたへたてまつるうたひとさ
 
吾崗之於可美爾言而令落雪之摧之彼所爾塵家武
わかおかの、おかみにいひて、ふらしむる、雪のくだけが、そこにちりけむ
 
104 吾崗之 夫人の住ける大原の邊のをかに、?の神の鎭祭りてありしか、また此神は時の間に雲をおこし雨をふらし、雪をもちらしむるごときの、あやしき神わざをなし給ふ神故、かくはよめる歟。おかみの事は日本紀神代卷に見えたり
令落 ふらしむるとも、ふらせたるともよむべし。いひてと上に下知したることばあれば、ふらしむるとよむべきか
摧之 古本印本共にくだけしとよみたり。しかれどもくだけしそこにとはつゞきがたし。勿論くだけのともよみがたし。よりてまづ之の字を我と濁音によむ也。しかれどもくだけがと云ことも言葉不v穩。もしくは摧々とゆりたるを傳寫にあやまりて、之の字にかけるか。しかれば下にちりけんとあれば、ちり/”\とよみて摧々は義訓に書たるなるべし。又は之は天の字の誤歟。しからばくだけてとよむべし。尚異本をまつもの也
彼所爾 そことは天皇の御許をさして也
歌の意は 天皇の里にふりし雪は、夫人の住る崗のおかみにいひてふらせたる雪のくだけちりて、そのあまりがそなたにはふりたるにてこそあれと、あざむきたはむれてこたへ奉れる歌なり
 
藤原宮御宇天皇代 天皇謚曰持統天皇
 
前に註せる通なれば重而釋するに不v及
 
大津皇子竊下於伊勢神宮上來時大伯皇女御作歌
(31)おほつのみこ、ひそかにいせのかんのみやにくだりてのぼりきたるとき、おほきのすめひめのみつくりのうた
 
大津皇子 天武天皇第三皇子、御母は大田皇女持統天皇の姉也。此皇子の事は日本紀卷第三十持統天皇の紀に見えたり。朱鳥元年冬十月二日に謀反の事あらはれて三日に死を賜はれり。此みこはみかたちきら/\しく、みこゝろざしも高くさとくて、世人にもすぐれ給ふことまし/\て、遠くもろこしのふみつくり、からうたをのべたまふことまでこのみ給へり。持統の卷にも及v長有2才學1、尤愛2文筆1詩賦之興自2大津1始とあり。よりて古今の眞名序にも自3大津皇子之初作2詩賦1とかけり
窺下於伊勢神宮上來時 此事日本紀天武持統の卷に見えず。ひそかにとあれば、勿論御謀反の事抔覺しめしたらんことをおなじはらからなれば、あねの大來の皇女にかたり給はんとて、しのびて下り給ふなるべし。しかれば標題に藤原宮御宇とはしるせれど、天武天皇は朱鳥元年九月朔日に崩御なりて、大津の皇子の御謀反のあらはれしは十月二日のことなり。此間に何とて神宮にいま/\しく下り給はんや。もしくは天武天皇の御病の中のことならんか。此標題は少いぶかしき也。且此次の歌もみおやのきみのかみあがりたまひて三十日の間に、石川の郎女をこひしたまふことのあるべき事にもあらず。かた/\不審也。藤原宮御宇天皇代とある標題は、奧の日並皇子歌の前にありしを傳寫のとき混雜せしか
大伯皇女御作歌 此皇女も天武天皇の第二の御子にて、御母も大津皇子とおなじ。日本紀第二十九ニ云、二年春正月丁亥云云先納2皇后姉大田皇女1爲v妃生2大來皇女與大津皇子1云云。紀には大來とあり。此集には伯の字をしるしたれど、ともにおほきとよむべし。日本紀は來の字の訓を被v用、此書は伯の字かみといふ訓ある故、かみを約すればきなり。よつて用たりと見えたり。天武天皇白鳳三年に齋宮に立せ拾ひ、朱鳥元年十一月に京に歸り給へり
 
105 吾勢枯乎倭邊遣登佐夜深而鷄鳴露爾吾立所霑之
わがせこを、やまとへやると、さよふけて、あかつき露に、われ立ぬれし
 
吾勢枯乎 わがせこをとは大津皇子をさして也。すべてわがといふ事はしたしみていひたる義也。弟のみこにてもをのこ皇子(32)ゆゑ賞美してせことはよみたまへり。上代は弟にてもせこといひし也。神代卷に天照大神の素神をさして、なせのみことゝさへ被v仰し也。先をほめての給ふ義也
鷄鳴 あかつきとよむ事は釋するに不v及。義訓にて日本紀をはじめ、手ぢかくみなさるゝふみどもに多くよみ來れる訓他
所霑之 ぬれしとよむ。この所の字を此集中にラリルレロの訓に用たることは、數ふるにいとまなく、第一卷にくはしく註せる通也
歌の意は大津皇子の歸り上り給ふに、夜ふかく曉のころ、とく立出給ふ旅行のわかれををしみおぼしめしかなしみ給ひて、露にぬれしとよそへてよみ給ふ也
 
106 二人行杼去過難寸秋山乎如何君之獨越武
ふたりゆけど、ゆきすぎがたき、あきやまを、いかにかきみが、ひとりこゆらん
 
二人行杼 ふたりゆけどゝあるは、下に獨りとよみ給ふに對して也。御兄弟もろともにつれだちていでまし給ふとも、ゆきすぎがたからんにとの意にて、ふたりゆくともと云の意也
秋山乎 地名のあきやまにはあるべからず。上り給ふころしも秋なりけらし。その秋の山路をおぼしやり給ふて也
如何 いかにかとはいかやうにしてかの意也
君之 きみがとあるは弟の御子なれども大津のみこをさして也。今とても歌には君臣の間ならでも、先を賞して君とよめる也
越武 古本印本共にこゆらんとよめり。らの字不v足やうなれど、越の字はこゆるともよめば、らんとよむ事難なし。その上前にも註せる如く、訓によむには、一ことそへてよむ事くるしからず
歌の意は御兄弟ふたりともにつれだちて行給ふとも、旅のならひ物うくさらぬだに行過がたからんに、いと物かなしき秋のころしも、露ふかき山路をいはんやひとりいかにしてかこえ給ふらんと、おぼつかなくあはれに覺しめしやり給ふてよみ給へる也。古今集に、夜半にや君のとよめるも之に同じき感情也。こと更むつまじき御はらからの中にて御むほんのことなどかたりきこえ給ふて、その事のなりならぬ事もはかりがたく、又御再會の事のいつともはかられざらんには、此御わかれの名殘のほ(33)ど今だにおもひやられて、此歌の感情はつたなき筆には中々にかきつくされぬあはれさ也
 
大津皇子贈石川郎女御歌一首
おほつのみこ、いしかはのいらつめにおくるおんうたひとくさ
 
石川郎女 傳不v知。奧にも大津皇子宮侍石川郎女とあり。同人にて大津皇子に仕る歟
 
107 足日木乃山之四付二妹待跡吾立所沾山之四附二
あしびきの、やまのしづくに、いもまつと、われたちぬれし、やまのしづくに
 
足日木乃 このあしびきの山といふこと古來より説々まち/\なり。先あしびきといふは木の名としるべし。山といふは病といふ義にて、やみやむの事と心得べし。諸説あるひは蘆を引の禹王のへんばいの義などとり合たる説々あれど、語例にのゝ字を入ていはるゝ義と、いはれざる義ある事を不v知の説どもにて信用しがたし。正説はあしびきはあせぼの木といふこと也。あせぼの木は到て毒木にて、これをいらへばかならず病を生ずる也。よつてあせぼの木のやまひと云の義也。古今六帖、あせみ。蛙鳴吉野の河の瀧の上のあせみの花そ手なふれそゆめ、即此集仙覺律師の抄にも證とすることあり。牛馬などこの木を喰ば忽ち死すと云傳たり。此集にては馬醉木と書てあせみとは訓ずる也。此あしびきの山とつゞく事いろ/\の説のあたらざることわりあれど、こと長ければ巨細の傳をこゝにはゝぶきて別にしるせり
山之四付二 山のしつくにとありて、木の葉草の葉などの雫といふ意にてきこえたる事なれど、今少何のしづくといふことたらざるやうなり。よりて上にあしびきのと、しかも木の字を書て歌の意をたすけたり。此集の字格也
吾立所沾 古本印本ともにわれ立ぬれぬとよめり。意はおなじけれど、和歌の意を見るに、君かぬれけんとあれば、當然のぬれ給ふにてはなく、ぬれ給てのちよみて贈り給ふ歌の意なれば、過去の詞にわれたちぬれしとはよむ也。山のしづくにわれ立ぬれしといふ意なるを、いもまつと第三句をてんじてよめる、みな古詠の格にしてまたこれらを隔句躰と云也。山のしづくにいもまつとはつゞかぬ也。いもまつとあしびきの山のしづくにわれ立ぬれしと云歌なり。あしびきと云は毒木の事をいへば、此(34)歌の意にも、郎女をまち給ふには、毒木のしづくをもいとはで立ぬれ給ふせつなる事をいはんとて、あしびきの山のしづくともよみ出し給へるならんか。古詠の格にはみなかやうの意を下にふくめる事あれば也。歌の意はきこえたる通也
 
石川郎女奉和歌一首
 
108 吾乎待跡君之沾計武足日木能山之四附二成益物乎
われをまつと、君かぬれけん、あしびきの、やまのしつくに、ならましものを
 
歌の意は釋するに不v及きこえたる歌也。本歌を直に引うけてよくよみこたへたる歌也
 
大津皇子竊婚石川女郎時津守蓮通占露其事皇子御作歌一首
おほつのみこ、ひそかにいしかはのいらつめにたはくるときに、つもりのむらじとほるうらへてその事あらはす、みこのみつくりうたひとくさとよむべし
 
竊 此ひそかにとあるにつきておもへば、奧に到りて大津皇子宮侍石川女郎とあるも同人にて、此ときはいまだ天皇の御かたの侍女なりしを、かくしのびてむつみ給て、のちに皇子のかたへ侍女となりしか。皇子のかたに仕ふる侍女にひそかにとはあるまじく、また通の占にかゝり給ふべき事にもあらぬに、此標題の趣は何とぞわけありての事と見ゆる也。前にも註せる如く御父きみの崩御なりてわづかに三十日の間に、かくのごとき御不行跡の事は心得がたし。もしくは御親の御病の中のことならんか
津守連通 續日本紀卷第七和銅元年春正月、〔正七位上津守連通授2從五位下1。〕同第九神龜元年冬十月云々、外從五位上津守連通姫云々、占の事に達せる事は紀に不v見。此集此所の文にてうらへの事に達したる人とはしる也
 
109 大船之津守之占爾將告登波益爲爾知而我二人宿之
おほふねの、つもりのうらに、のらんとは、まさしにしりて、わがふたりねし
 
大船之 おほふねとはたゞふねと云までの事にて、大の字にさして意はなき事なり。しひていはゞ、大ふねはめだちてみあら(35)はさるゝものと云意をふくみてよみ給ふか。郎女にあひ給ふ事のあらはれやすきといふことの意に、大ふねともありしか。されどもたゞふねと云義迄の事と見るべし
津守之占爾 攝津國住吉のつもりの浦と云地名あり。その浦を占のうらによせてよみ給ふ也。尤津守といふて船の出入を守る者あり。その津を守るものゝある浦といふことにもよせ給へる意なるべし
將告登波 古本印本ともに、つげんとはとよめり。しかれども第一卷の雄略天皇の御歌にて註せるごとく、つぐると云古語をのるともいひしなれば、こゝは大船のとよみ出し給ひて、しかもうらにとあれば、うらへにのると浦に乘との義をよせてよみ給ふ歌なれば、告はのるとよむべき也
盆爲爾知而 まさしにのしは助語也。まさしくしりてといふ意也。此爲の字少心得がたけれど、先は助語に見るべき也。爾の字もしくは久の字具抔のあやまりにてあらんか。まさしくしりてとあればやすき也
歌の意は石川郎女にひそかに通じ給ふ事は、かねてかくあらはれんとしろしめしてなし給ふと也。津守連通の占にあひてあらはれたる故、地名の津守の浦によそへて、大船のとよみ出し給ふ也。大津皇子は御歌も御上手と聞え侍る也
 
日並皇子尊贈賜石川女郎御歌一首
ひなめしのみこ、いしかはのいらつめにたまふみうた一首
 
日並皇子 天武天皇の太子草壁皇子尊之御事也。第一卷に柿本朝臣人麻呂の歌に日雙斯皇子命とよめる命の御事也。その所にくわしく註したれば不v及2再註1也
石川女郎 傳不v知也。前にある郎女と同人歟。又同名なる故を以、歌のなみにのせられたる歟、傳はしれざる也。女郎も郎女もおなじ義なれども此に、此いらつめにかぎりて女郎と書は別人としらしめんの筆力歟
女郎字曰大名兒也 古本には御歌一首の下に如v此小字にて傍註せり。尤後人の加筆也
 
110 大名兒彼方野邊爾苅草乃束間毛吾忘目八
(36)おほなこを、をちかたのべに、かるかやの、つかのあひだも、われわすれめや
 
大名兒 古本傍註にある通り、女郎の名故よみ出し給ふ也
彼方野邊 地名なるべし。山城のうちの彼方か、その所の野を彼かた野といふか。追而可v考。こゝは遠方の野邊とも見て濟也。この大なこをちかたに意はなき也。下のかるかやのつかの間といはん爲也
苅草 かるかやといふ草一種あるやうにいひふれたれど、すべてかりたるかやの事をいふたる事也。かるかやのみだれてとよみて、かりたるかやはみだれちりたるものなれば、みだれみだるゝと云事ばかりに、かるかやとはよみきたれるなるべし。此かるかやも勿論かやをかるにつかぬる間もといふの義也
束間毛 かやをかるには手にてつかねよせてかる也。そのつかねるあひだほどのすこしの間もわすれぬと也。此説いかゞ。をじかのつのゝつかの間ともあれば、一束二束の事ならんか。八つかなどゝ云て、尺をはかるを一つか二つかといふ、その短の字の方にてはなく、たゞつかねるあひだの少しの間もといふ義也。みじかきあひだといふても同じ事のやうなれど、すこし意違へり
歌の意は女郎をしたひおぼしめす事は、をちかたの野などにてかやをかるつかの間少の間もわすれたまはぬと也。かやなどかるのべは里はなれの遠きところなれば、をちかたのべとはよみたまへる也、
 
幸于吉野宮時弓削皇子贈與額田王歌一首
よしのゝみやにみゆきのとき、ゆげのみこ、ぬかたのおほきみにおくりあたふるうたひとくさ
 
幸于吉野宮 持統天皇の御代吉野へみゆきの事度々なれば、何のときのみゆきともしれがたし。然共ほとゝぎすよみ給ふ意あれば、朱鳥四年五月同五年四月のみゆきの内なるべし
弓削皇子 ゆげのみこと讀むべし。天武天皇第六の皇子にて、母は天智皇女大江皇女也。天武紀云二年春正月云々、次妃大江皇女生2長皇子與弓削皇子1云々。續日本紀卷第一云、三年春正月云々、秋七月云々癸酉淨廣貳弓削皇子薨云々
(37)額田王 前に註せり。天武天皇の妃也
 
111 古爾戀流鳥鴨弓絃葉乃三井能上從鳴渡遊久
いにしへに、こふるとりかも、ゆづるはの、みゐのうへより、なきわたりゆく。又むかしかくわぶる鳥かも
 
此歌古本印本とも初五文字と七文字、いにしへにこふるとりかもとよめり。諸抄物にもその通にて、意はいにしへをほとゝぎすのこひてなくといふ義に解せり。しかれども次のこたへの歌にも、いにしへにとありて爾の字を書たれば、いにしへをこふるとはいひがたし。なれば宗師の見やうと諸抄の説とは表裏の違あり。師の説は、天武天皇にもこひわび給ふ鳥がとの意に見る也。此論未v決也。先諸説にしたかふべし。しかれば諸抄の説のほとゝぎすがいにしへをこひて、三井のうへよりなき過るとの意とは甚違へり。諸抄の見やうは古をといふては歌の意やすくきこえ侍れど、古にとあるを古をとは釋しがたき也。此集中妹爾戀君爾戀などありて、妹をこひ君をこひとはなき也。それには別によみやうのわけあり。その歌のところ/”\にて釋すべし。まづ爾の字は此集中に、にともねともしかともかくともよむべし。そのところ/”\の歌によりてかはるべし。よりてこゝも上の句のよみやう別訓をしるせり
古爾 此二字をむかしかくともよむべきか。むかしかくは此にていはゞ、天武天皇のかくしたひわび給ふかとの意なり
戀流 わぶるとよむべき歟。戀の字はしたふとも、こふとも、わぶとも、しのぶとも、ところによりて讀やうかはるべし。此處のよみやうにては天皇のこひわび給ふといふにはあらず。たゞほとゝぎすの今なき過るごとくなきしがと云の意也。わぶと云はなやむことにて、ほとゝぎすはたゞひとつなきて、こゑをかぎりひたもの/\なくもの故、血になくなどゝもいひてあまりせはしくなきて、のちにはくちより血をいだすもの也。よりてこゝもわぶと云はなやむ方の意にて、むかしもかくなやみてなきしか、今三井のほとりをなき渡るはとの意也。此贈答の歌二首ともにいまだ見やう不v決なり
鳥鴨 和へ歌の意にて見れば、ほとゝぎすの事としられたり。前書に何とも不v見。歌にもたゞ鳥かもと計ありては何とも心得(38)がたし。然ども古爾戀流鳥鴨とよみて、何とぞほとゝぎすのことゝあらはれたる義もあらんか
弓弦葉 大和の國にある地名也。ゆづるはの峯といふあり。その所の邊に御皇居ありし時に被v用たる井ありと見えたり。三井とは皇居の御井の義なるべし
歌の意は、弓弦葉のみゐのうへより郭公の鳴渡るをきゝ給ひて、御親天武天皇の御時にもかくやなきわたりしと、過にし御事をしたひおぼしめし出されて、感慨のおこらせ給ふ故よみ給へるなるべし。ほとゝぎすの鳴音にはむかしも今も、人をしたひおもふ情のおのづからいでくる物故、此御歌も天武天皇の御事をしたひおぼしめしてなるべし。弓弦葉の三井とよみ出給ふには、何とぞゆゑありてか其意しれがたし。たゞほとゝぎすの鳴渡りし所の當然をよみ給ふと計見ておくべきか。先達の諸抄物等にもそれまでの事は見えざる也
 
額田王奉和歌一首
ぬかたのおほきみ、こたへたてまつりたまふうたひとくさ
 
從倭|京《重イ》進入 古本には和歌一首とある下に如v此註せり。これは王は供奉にてあらざる歌と云註歟
 
112 古爾戀良武鳥者霍公鳥盖哉鳴之吾戀流其騰
いにしへに、こふらんとりは、ほとゝぎす、けだしやなきし、わがこふるごと
むかしかく、わぶらん鳥は、ほとゝぎす、あかずやなきし、わがわぶるごと
 
歌の意は、むかしも天皇のこひ給ふ鳥はほとゝぎすならん。すべてほとゝぎすはむかしもいまも人のこひしたひ待ものなればこふらん鳥はほとゝぎすとけつして、さてその鳥は今わがいにしへをこひしたふごとくなきしやと也。けだしやと云はうたがひの言葉也。此けだしやといふ言葉集中に多くあり。尤假名書にもけだしと書きたるところあり。なれども、ふたといふ字なれば、ところによりてあかずともよむべき也。此歌も別訓のよみやうにてはあかずの義訓によむ也。おほふなればあかぬ也。よつて不v飽と云意の義訓によむ也
(39)霍公鳥 ほとゝぎすと訓ずること出所本文未v考。ならびに杜鵑郭公子規等の字もみな、ほとゝぎすとよめる事不v詳也。順倭名鈔には〓〓鳥の三字を唐韻を引て和名保度々木須、今之郭公也と註せり。〓〓の二字ほとゝぎすにあたる事難2心得1。正字通等の注にはほとゝぎすにはあたらざる趣也。霍公鳥の古事追而可v考
蓋哉 けだしといふことはうたがひの詞也。尤此集中十四五首余も此詞の歌あり。内十五、十七、十八卷の歌には三首ともに、氣太之、氣太之久毛と假名書ありて、けだしといふ詞によみ來れり。しかれども蓋といふ字をかきたる所は、けだしと計もよむまじきや。すでにこゝにも蓋哉とあり。此やの字心得がたし。けだしにてうたがひの詞なるに、やと重而うたがひたる事心得られねば、あかずと義訓によむべきや。あかずは不足にてひたもの/\なく意なり。しかれば王のむかしをしたひわび給ふごとく、ほとゝぎすもわびてなきしやとこたへたる歌也。古本に從倭京進入とある古註あれば、額田王は供奉にてはなく、京よりよしのへこたへ給ふ歌と見えたり
 
從吉野折取蘿生松柯遣時額田王奉入歌一首
よしのより、こけおひたる松のえだをゝりとりおくる時、ぬかだのおほきみ奉入うたひとぐさ
 
遣時 古本印本等遺の字を書たるは誤也。此遣すとあるは歌の次第を見れば、弓削皇子よりつかはされたると見えたり。尤折取てとあり。天皇より被v遣ならば令折取とあるべけれど、是は弓削皇子よりおくり給ふと見ゆる也
蘿 倭名鈔に松蘿女蘿同物にて和名萬豆乃古介と註せり。一云佐流乎加世とも註せり。古詠にまつのこけとよめる歌多し
 
113 三吉野乃玉松之枝者波思吉香聞君之御言乎持而加欲波久
みよしのゝ、たままつがえは、はしきかも、きみがみことを、もちてかよはく
 
玉松之枝 松をほめてなり。すべて玉としいふは賞美のことに添用る也
波思吉 これもほめたる詞也。うるはしきといふ意也。愛の字と云説もあれど心得がたし。愛の字はめぐみうつくしむなど云意也。此集中、はしきよし、はしけやし、はしきとよめる歌數しらず。皆かながき也。愛の字を用たるところ見えず。よしえやし(40)といふ詞に愛の字を用たるはあり。はしきかもとはうるはしきかなといふ意也。かもはかなの意にて歎のことば也
御言乎持而 松柯を給はるに付て皇子の口状もあれば、松柯の持て來れるとはいひなしたまふ也
加欲波久 かよふと云義也。はくを約すればふ也。しかればふを延たる詞也。いふと云ことをいはくと云がごとし
歌の意は、みよしのゝ松ケ枝はうるはしくよきかな、今かく皇子みことをもうけて、我かたにもち通ふなればと云義也。聞えたる通の義也
 
但馬皇女在高市皇子宮時思穗積皇子御歌一首
たじまのひめみこ、たけちのみこのみやにましますとき、ほづみの皇子をおもひ給ふみうたひとくさ
 
但馬皇女 天武の皇子也。御母は藤原夫人氷上娘也。叙2三品1文武天皇和銅元年六月に薨。續日本紀卷第四に見ゑたり
在高市皇子宮 たけちとよむべし。大和國の郡の地名なり。倭名鈔云、大和國高市【多介知】。天武天皇皇子御母胸形君徳善女尼子娘也。持統天皇四年秋七月丙子朔云々、庚辰以2皇子高市1爲2太政大臣1云々。後に皇子尊と申も此皇子の事也。但馬皇女の御爲には御兄なれば、おなじ宮殿にましましたると見えたり
思穗積皇子 ほづみといふも攝津國の地名なり。倭名鈔攝津國穗積保都美歟。此皇子も天武皇子なり。御母蘇我赤兄大臣女大※[豕+生]娘也。但馬皇女とは異母弟なり。續日本紀云、靈龜元年秋七月云々、丙午知2大政事1一品穗積親王薨云々。天武天皇之第五皇子也云々
 
114 秋田之穗向乃所縁異所縁君爾因奈名事痛有登母
あきのたの、ほなみのよりし、ごとよりし、きみによりなゝ、こちたくありとも
 
穗向 古本印本ともにほむけとよめり。ほむけといふ事ありや。またほむけのよるといふ事はいはれぬ事也。のゝ字不v續也。
向の字はさきともなんともよめば、さきとか、なみとかよまでは歌詞にあらず。さきといはゞ穗のさきといふものあれば、その(41)なびきよるといふ意にもなるべき歟。しかれども向の字なんとよめば、なんはなみと同事なれば、下によりしとよめる縁あれば波の心にて穗なみとはよむ也。詩抔にも向と書てなん/\とよめり。今もなみのよるといふ縁にて、穗なみのよりしとはよむ也
異所縁 此三字の訓點いまだ不v決。何とぞ別訓あるまじきか。しかれども先文字に從て訓をなして、ごとよりしとはよむ也。異の字ごとゝ濁音によんで如の字の意に見る也。清音の字をくんにはだく音によむ事古來くるしからざる也。ほなみのよりしごとくよれるの意也
事痛 言いたくなり。人にいひさわがるゝ事を云。といの約音ちなり。よりてこちたくとよむ也。ありとも、かりともとよみてもおなじこと也
歌の意は但馬皇女ほづみの皇子をおもひこひ給ふて、秋の田の稻穗の波のごとくになびきよりしごとく、おもひより給ひしこと、とても人の言の葉にかけていひさわがれ給ふともいとひたまはず。とかくになびきより給はんとの義也
 
勅穗積皇子遣近江志賀山寺時但馬皇女御作歌一首
ほづみのみこにみことのりありて、あふみのしがやまでらへつかはさるゝとき、たじまのすめひめのみつくりうたひとくさ
 
勅穗積皇子 これは但馬皇女とあらぬ御振舞の事あらはれしゆゑ、此しが寺へ籠居させしめられたるみことのりなるべし。しかれば此標題、歌ともに奧の歌の次に入べきを、混亂してこゝに被v入し歟。しが山寺へ被v遣しに付て此歌の意何とも心得がたし。とかくおしこめられたまふ義と見ゆる也
志賀山寺 號2崇福寺1天智天皇の勅願寺也。古は十二月三日天智の御正忌、此寺に被v行し事國史等に見えて、歌に志賀の山越とよめるも此寺にまうづる義也。聖武天皇天平十二年十二月幸2志賀山寺1禮v佛たまふ事も續日本紀に見えたり。遣の字誤て遺に作れり。
 
(42)115 遺居而戀管不有者追及武道之阿囘爾標結吾勢
のこりゐて、こひつゝあらずは、おひしかん、道のくまわに、しめゆへわがせ
 
遺居而 古本印本共におくれゐてとよめり。意はおなじけれど、此に遲速の意あるべきことにあらず。なれば字のまゝにのこるとよむ也。歌の意もほづみのみこは山寺へ被v遣て、皇女はやまとにのこり居給ふなれば、おくれ先だち給ふことにてはなきなり
戀管不有者 前に磐姫の御歌に注せるごとし。かくこひわびて存在したまはずばと也
追及武 古本印本共おひゆかんとあり。意はおなじけれど、及の字日本紀等にも行とよめる事不v見。しきしくとはよめり。日本紀に仁徳天皇の御歌にも、いしけ/\とよませ給ふもおなじ意にて、皇子のまします所いづかたまでもおひいたり給はんと也。おぼろ月夜にしくものぞなきとよめるもこのしくと同事にて、およぶものぞなきといふの事なり
阿回 くま/”\まわりとなど云の義也。くまとはいりこみまがりたるところなり
標結 しめゆへとはしるしをしておき給へと也。今もしをりをするなど云と同事にて、行過る路にしるしをゆひつけおくこと也
吾勢 穗積の皇子をさして也
歌の意は皇子は山寺へいでましければ、のこり居てこひわびてえしのびたへたまはねば、ともにみあとをしたひておひつき給はんほどに、みちのくま/”\まわり/\などにしるべをゆひおかせ給へと也。皇子の山寺へ引こもり給ふは、もはや死してわかれ給ふとおなじきやうに思しめして、よみ給へる意に見ゆる也。尤即日の御歌と見えたり
 
但馬皇女在高市皇子宮時竊接穗積皇子事既形而後御作歌一首
たじめのすめひめ、たけちのみこのみやにましましゝとき、ひそかにほづみのみこにまじはり給ふこと、すでにあらはれての御つくりうたひとくさ
 
(43)但馬皇女と穗づみのみことはことはらの御はらからなるに、かくの如きの御事あるべき御事にもあらぬ事なり。允恭の御時かるの皇子皇女の御ふるまひとおなじき御事也。これによりて志賀山寺へも被v遣しと見えたり。しかれば此歌は前にあるべきことに見ゆる也
 
116 人事乎繁美許知痛美己母世爾未渡朝川渡
ひとごとを、しげみこちたみ、いもせに、いまだわたらぬ、あさかはわたる
 
人事乎 すべて人とよめる事は外の事をさしていふことにみなよめり。他の字の意なり。事と書ても言の字の義也。外人の言にいひさわがるゝ義をひとことゝは云り
繁美 言のしげきなり。人にそしらるゝことのしげきと也
許知痛美 こといたき也。人にいひさわがるゝことのいとしげくゝるしきと也
己母世爾 古本印本ともおのがよにとよめり。母の字をがとよむべき義心得がたし。もし我の字のあやまりと見てよめるか。しかれどもおのがよにとよみて歌の意不v通也。われもよにとはよむべきか。いもせにとよめるは川の縁ある詞にて、いもは皇女、せは皇子にかゝる詞なれば、いもせにと四言一句によむ也。古詠四言によむ例數しらず。釋するに不v及也。しかれども此四字の訓いまだよみときやうあらんか。惣じて此一首しかと難v通歌也
未渡朝川渡 此いまだわたらぬあさかはわたると云事は、何ぞ難儀なる事の古事などあると見えたり。唐にても世人の朝川渡は難義なることのやうに作る詩もあれば、とかく古事あるごとく見ゆれども上古の事故不2考得1也
歌の意は皇女と皇子とあるまじき御事のあらはれて、他の人々にいひさわがれ給て、すでに皇子は志賀へ蟄居し給ふやうなる事のいでくる事、相ともに難儀にあひ給ふとの事地。いもせにとはいもせによりていまだわたらぬあさ河をわたる、一とき難儀にあひ給ふとの意也。末渡朝川渡といふ義分明に難v解故尚後案をまつもの也
 
舍人皇子御歌一首
(44)とねりのみこのおんうたひとくさ
 
舍人皇子 舍人の訓に説々あれども、皇子の御名には、乳母の姓氏を以て名づけ奉るの古實文徳實録に見えたれば、此みこの御名もとねりといふ乳母の氏を以て被2名付1たると見えたり。よりてとねりと訓ずること正統なり。やど、いへ人など云氏はなき也。尤古記等に舍人の二字を、いへひと、やど、しやじんなどよめることかつてなし。東山左府公の名目抄にもとねりと點あり。天武天皇第五皇子御母は天智皇女新田部皇女也。日本紀の御撰者にて、我朝神祇皇統の基本を興し立給ひて、後代萬也までものこし傳へ給ふ神祇道徳の太宗師とも被v仰させ給ふみこ也。右日本紀といふ國史を傳へおかれし故、我神國の御皇統不v絶由來神系正敷相繼せ給ふ事、いやしきやつがれまでも傳へ承り尊み崇め奉るなり。すでに其御功徳不v虚して崇道盡敬皇帝とおくりなし給られし也
 
117 大夫哉片戀將爲跡嘆友鬼乃益卜雄尚戀二家里
ますらをや、かたこひせんと、なげけども、しこのますらを、なほこひにけり
 
大夫哉 大の字は丈の字のあやまりたるか。大の字の下に丈の字を脱したるか。日本紀神武卷に慨哉大丈夫とあり。又皇極紀には大夫とあり。これともに不審也。此集は多分日本紀の文字を用ゐて書きたれば、皇極紀に從てかきたるか。此集中みな大夫とかけるは丈夫の二字をあやまりたるなるべし。大夫をますらをとよまんことも心得がたし。ますらをとはをのこの通稱にしてたけき人をいふ也。すでに日本紀神代卷神武紀皇極紀等に見えたり。さてこの哉の字は、かたこひやせんと云下につく也。古詠にこの格あり
片戀 とはかたおもひの義也。此方にばかりこひおもへども、先にはうけひかぬ事を片こひとはいふ也
將爲跡嘆友 たけきますらをがかたこひなどをやすべき。ますらをのちからをもておもひきり給はんと、なげきたまへどもといふの義也
鬼 これを古本印本ともしこのとよめり。鬼と云字しことよめる事古記に見えず。尤日本紀神代卷に醜女醜男と書て、しこめ、(45)しこをとよませたれど、鬼の字をしことよめる事なし。あしきものと云の義訓にて、しこともよむべきや。しかれどもこゝにてはしこと云は歌の意にあはざらんか。もしくはこひのしこるといふ意にてよめるか。それにてもおだやかならず。宗師の案には下にますらをとあれば、おもひのますといふ義にて思の字のあやまりならんか。しからばもひのますらをと云義なるべし。すなはちおもひのますとよみかけたまへる意ならん。しこのますらをと云ては歌の意にあはざる也。歌はかやうのところに少の意味ありて、たゞ一句のことにてうたになるとうたにならざる差別あり。よむ人能々可v味事也
御歌の意はますらをのかたこひなどはせまじとなげゝども、おもひのやみがたくてなほこひのますとの事也。そのますと云義をもひのますらをとよみかけさせ給ふ也。もひのますらをいよ/\こひしたふ故、おもひやませられがたきと也
 
舍人娘子奉和歌
とねりのいらつこ、こたへたてまつるうたひとくさ
 
舍人娘子 傳不v知。舍人氏のむすめと聞えたり
 
118 難管大夫之戀亂許曾吾髪結乃漬而奴禮計禮
なげきつゝ、ますらをがこひ、みだれこそ、わかゆふかみの、ひぢてぬれけれ
 
大夫之 古本印本共にますらをのこがとよめり。をのこは無用のことばならんか。ますらをにて濟義也。しかれどもこふれこそとよまんとて上を七言によめる也
戀禮許曾 古本印本共に此四字を五言にこふれこそとよめり。こふれこそといふ歌詞あるべきや。此戀の字は上につきたる字と不v見故如v此のよみやういでくる也。ますらをがこひと上へ付てよむべき也。亂許曾の三字をみだれこそと五言によむべしみだれは下の髪の縁にて也
吾髪結乃 古本印本ともにわがゆふかみのとよめり。もしくは結髪とありしを下上へあやまりて傳寫せしか。尤此通にてもゆふかみとよむべきか。髪結とあればもとゆひとよめらんことしかるべからんといふ説もあれど、髪の一字をもとゝよまんこと(46)いかゞ。二字合て義訓にもとどりとはよむべきか。しかれども日本紀天武卷に垂髪于背とかきて、すべしもとゞりと點をつけたれば、結といふ字にさし合べきか。古本の點にしたがふかたしかるべし
漬而奴禮計禮 ひぢてはひたして也。ぬれるの事也。何にてぬるゝとも上にぬれもの見えねども、なげきつゝとあるにて、先のなみだにて此方のかみもひぢると云の意也。奴禮計禮はまつはれけれ也。ぬれと云はまつはれると云ことなり。此奧の歌にもたけばぬれとあるも、あくればまつはれと云こと也。ぬれとあれば重ねことばのやうに見る人もあるべけれど、上にひぢてとぬれたることをいへば、無益に重ねていふべきにあらず。ぬれてまつはれけれと云の義也
歌の意はますらをの片戀などはせまじとなげきこひ給ふ、その戀の亂れの涙にこそわか髪もぬれてまつはるれと也。まつはるゝとはかくなげきこひわびらるゝゆゑ、われもともに思ひなびきて、そなたによりまつはるゝ心にてこそあれとの意也
 
弓削皇子思紀皇女御歌四首
ゆげのみこ、きのすめひめをおもひたまふおんうたよくさ
 
弓削皇子 前に注せり
思紀皇女 きのすめひめは天武皇女穗積のみこの同母妹也
 
119 芳野河逝瀬之早見須臾毛不通事無有巨勢濃香毛
よしのがは、ゆくせのはやみ、しばらくも、たゆることなく、ありこせぬかも
 
芳野河 大和のよしの川也
逝瀬之早見 ゆくせのはやみとは、流のはやきといはんがごとし
須臾毛 しばらくも、すこしのあひだもといふ意也
不通 義訓也。かよはぬは絶ゆる義也。
有巨勢濃香毛 ありとは助語のやうなるものなり。ありかよひなどゝも云て、たゞこせぬかもといはんとての序詞也。こせぬ(47)は來りぬ也。不の字のぬにはあらず。すぎぬといふばかりにやなど云のぬ也。かもとはかなの意也。
歌の意は、よしの川のはやきながれのたゆることなきごとく、しばしのほどもへだてずきたりたまへよとの意也。こせぬかもは來り給ひぬらんかもと云意也。此ぬの字見あやまりて不の字の意に見る人もあるべきや。その意にては此歌不v通也
 
120 吾妹兒爾戀乍不有者秋茅之咲而散去流花爾有猿尾
わきもこに、こひつゝあらずば、あきはぎの、さきてちりぬる、花ならましを
 
吾妹兒爾 紀の皇ひめをさして也。戀乍はわびつゝなり。戀の字のこと前にも注せり。此歌もわびつゝとよむべし。こひわびの意也。不有の事前にくわし
秋茅之 此茅の字は芽の字のあやまり也。倭名鈔云、鹿鳴草、辨色立成、新撰萬葉集等用2芽字1、唐韻、芽音胡誤反、草名也云々。芽の字はぎとよめる事字義不v詳。しかれども此集中多く此字を用てはぎとよませたり
咲而散去流 さきてとよめるは意味ありて也。われは花さくこともなく、しのぶおもひの下にこがれてしぬるにてあらんに、萩は一度花さきて盛をも得てだにちるなれば、その花にならましをと也
花爾有猿尾 花ならましをとは、にあをなと約してよむ也。あらましをと云も同意也
歌の意は妹をかく戀わびて遂にはとてもしぬるにて有べし。然らばせめて秋萩になりて花に咲てなりともしなん物をとの意也。さきて散ぬるといふ處に意味ある事は、花は咲て盛だに有ものなれば、せめてその花になりともならましをと也
 
121 暮去者鹽滿來奈武住吉乃淺香乃浦爾玉藻苅手名
ゆふされば、しほみちきなん、住のえの、あさかのうらに、たまもかりてな
 
淺香の捕 攝津國住吉なり。淺香とよめるに意味あり。上にゆふさればとよみたまふ故、下に朝の意をこめて淺香の浦とはよめる也。古詠のおもしろきと云はかやうのところ也。たゞふまへなく淺香の浦をよみ出たるにはあらず
玉藻苅手名 おもひをとげはらさんことによそへてよみ給ふ也
(48)歌の意はゆふさればしほみちきて玉藻をかる事もなるまじきほどに、あさとく玉藻をからんと云て、紀のひめみこにあひ給はんことのおそくては、さはりさまたげなどもいで來んまゝ、はやくあひたまはんとの事を玉藻によせてよみ給ふ歌なり。玉藻と云も皇女になぞらへ給ふ也。かりかるといふも、いもかりなどいふてもとめえること也
 
122 大船之泊流登麻里能絶多日二物念痩奴人能兒故爾
おほふねの、はつるとまりの、たゆたひに、ものおもひやせぬ、人のこゆゑに
 
大船之 大の字に意はなし。たゞふねと云はんまでの義也。しかれども下にたゆたひにといふて、ただよふことをいはんために大ふねともよめるなるべし。
泊流登麻里能 船のとまりをはつるといふ。あまをぶねはつせなどよめるも、はつといはん冠詞に船をいふ也。とまりとは重ねていふやうなれども、そのはてんとするときのとまりに、たゞよふとの事をいふたるもの也
絶多日二 たゞよふこと也。とやせんかくやせんと皇子のおもひまどひ給ふことにたとへ給ふ也。たゆたふなどゝも云て、ゆら/\としてあることを云也。大船のはつるとまりと云に意はなく、たゞ此とやせんかくやせんと船のたゞよふごとくに、物をおもひたまふといはんとての序他
人能兒故爾 わがものにあらぬ故にと云意也。兒とは女の通稱、我妻ならぬ故にこひわびおもひわづらひ給ふとの事也。歌の意は不v及v釋きこえたる通也
 
萬葉童蒙抄 卷第一終
 
萬葉童蒙抄 第二卷
 
(49)三方沙彌娶園臣生羽之女未經幾時臥病作歌三首
みかたのさみ、そのゝおみいくはがむすめをめとりて、いくばくもへずして、やまひにふしてつくるうたみくさ
 
右男女の傳不v知也。古本傍注に三方所の名と記せり。しかれども地名を姓氏によべる歟、傳不v知は不2分明1。また生羽をなりはと點を付たれど、なりはとはいふこと何の事にや。いくはと云は的の字をも訓して、いくはの臣などいへることもあればまづいくはとはよむ也
 
123 多氣婆奴禮多香根者長寸妹之髪比來不見爾掻入津良武香 三方沙彌
たけばねれ、たかねばながき、いもがかみ、このごろみぬに、みだれつらむか
 
三方沙彌 右の歌の作者といふ義を注せり
多氣婆奴禮 あぐれはまつはれと云義也。かみはあぐると云。たけもあげも同意也。たぐればぬれと云説もあれどもあぐると云方義やすかるべし
多香根者長寸 あげねば長きなり
比來不見爾 このごろみぬにはやまひにふして見ざるにと也
掻入津良武香 掻人の二字を古本にはみだりとよみ、印本にはかきれとよめり。みだりはみだれと同じけれど、直にみだれとよむ方しかるべし。古本に※[獣偏+蚤]の字に書たり。もしくは猥の字歟。しかればいよ/\みだれの方義安也
歌の意は女をめとりてまなくやまひにふしたれば、女の心のいかにみだれかはりたらんかと、うたがひの意をふくめて女の髪(50)の事によそへて、このごろみざるうちにながきかみのみだれつらんかと也
 
124 人皆者今波長跡多計登雖言君之見師髪亂有等母 娘子
ひとみなは、今はながしと、たけといへど、きみかみしかみ、みだれたりとも
 
娘子 印本には此二字を脱せり。古本には注せり
人皆者 奧に至つてかながきにもひとみなはとかきたれは、義訓にはあるべからず。意はみな人はと云義也。しかるを上古は如v此人みなはとよめること古風の一躰なり
今波長跡多計登雖言 もはやながしといふの意也。あげたるかみのみだれたるほどに、いまはあげよと人みないへどもあげぬとの義也。あげぬといふことはいはねども、いへどと云にてふくめて見る也
君之見師髪 すでにめとられてきみがめにふれたるかみなれば、そのまゝにてあげまじきと也
亂有等母 みだれてありとも也。てあの約言たなれば、みだれたりともよむべし
歌の意はきみが見たるときあげたるかみなれば、いま病にふしてあれば、外よりなかくみだれたりといふともわれはあげまじ。夫にま見えもせねばかたちつくりすべきやうなしと、貞節の意をあらはしたる意也。君ならずしてたれかあぐべきとよめるこゝろもこれにおなじ
 
125 橘之蔭履跡乃八衢爾物乎曾念妹爾不相而 三方沙彌
たちばなの、かげふむみちの、やちまたに、物をぞおもふ、いもにあはずて
 
橋之蔭履 たちばなのかげふむといふ事すみがたき事也。これは史記李廣傳の桃李不v言、下自成v蹊といへる意とおなじ義にて、橘は本朝にて上古もめづらしきものなれば、諸方より賞翫して人々より來る故、かげふむみちのやちまたとつゞけたるものと見えたり。畢竟下のやちまたにものおもふと云んとてよみ出たる也
跡乃 古本印本共に跡の字を書てみちと點をなせり。決而路の字のあやまりと見えたり。
(51)八衢爾 やちまたとは四方八方に達する通路の事を云也。日本紀神代の下の卷天孫降臨のところにも、有2一神1居2天八達之衢1と見え、延喜式第三云、八衢祭、同式第八道饗祭詞にも大八衢と云古語は見えたり。爾雅云、八達謂2之衢1。諸方に通ずる道をやちまたといふによりて、一筋ならずさま/”\に物を思ふといふの序によめる也。此集第六にも、橘本爾道履やちまたに物をぞおもふ人爾不所知とよみて、とかくさま/”\に物思ふ意に、橘のかげふむみちのやちまたとよみ來れる事と見えたり
物乎曾念 此物をぞおもふとは、きみのこひもとめて妻をめとりたるに、いくほどもなくやまひの床にふして、相かたらふことも心のまゝならず、かつはいたはりの重りて、そひはてんこともはかりがたきなどおもひつゞけて、とやかくやとさま/”\におもひなやめるより、よみ出たる歌なるべし
妹爾不相而 めとりたる妻にあはずとは心得難けれど、病の床にふしたれば、心のまゝに相したしむ事もならざるにより、かくはよめるなるべし。此歌はいまだめとらざる前かまたは、病重りていのちのかぎりもすでにはかりがたきときなどよめる歌のやうにも見ゆる也
歌の意は妻をめとりたれど、いくほどもなくてかよふにいたはりになやみふしたれば、心のまゝにあひかたらふ事もなりがたく、また病のうへはいかになりはてんもはかりがたきなどとおもひつゞけて、さま/”\にものをおもふと也。橘のかげふむみちのやちまたとよめるは、むかしも立花はめづらしく、諸方の人より來れば、よもやもにみちをふみ通ひて、かなたこなたにかよへる故、そのごとくさま/”\におもひわづらふとの事に、橘をとり出したるなるべし
 
石川女郎贈大伴宿禰田主歌一首
いしかはのいらつめ、大とものすくねたぬしにおくるうたひとくさ
 
此石川女郎大伴宿禰田主ともに傳系不v詳。古本に歌一首とある下に、小字にて即佐保大納言大伴卿第二子母曰2巨勢朝臣1也。如v此田主の事を傍注あり。又女にても朝臣と書事きはまれる事也。田主の母巨勢氏にて姓は朝臣と見えたり。此注は考ふるところありたると見えたり
 
(52)126 遊士跡吾者聞流乎屋戸不借吾乎還利於曾能風流士
みやびとゝ、われはきけるを、やどかさず、われをかやせり、おそのみやびと
 
遊士跡 この三字を古本印本ともにたはれをと訓ぜり。尤下の風流士の三字をもおなじくたはれをと訓じて、後成恩寺兼良公の歌林良材に、俊頼の、世の中はおそのたはれのたゆみなくつゝまれてのみすき渡る哉と云歌を證と引給ひて、こゝもおそといふは河うそといふ獣也。獺之字也。此獣はじめはたはるゝやうにて後にはくひあふ物なれば、それを田主にたとへていへる也との御釋也。然れども遊士風流士の文字をたはれと訓ずる義理、又歌の意ともに相かなひがたく、おそとは獺の事といふ義も不v合。かた/”\もつて難2信用1ければ宗師案は各別の趣意也。遊士の二字はともあれ、風流士の三字をたはれをとよむべき義なし。惣て風流風雅風骨などいふてよき事には用來れり。たはれとは卑俗の人をいふ事にして、風流の字には甚だ表裏せり。しかれば左注にも容姿佳艶風流とあれば、これをよみ訓ぜんことすがたうるはしく、たはれたる事とよまんや。これはすがたうるはしくみやびやかなりとこそよむべき。むかしは風流風雅の事をなすを、みやびをするといへり。すでにいせ物語の詞にもむかし人はかくみやびをなんしけるといへり。よつて風流士の三字をみやびとゝは訓ぜり。これよりして歌の意をかんがふるに、遊士の二字も同訓によまざれば意通がたき故、ともに同訓にはよませり。みやびとゝは宮人といふの意にて、よき人といふ意をかねていふたる歌と見るなり。返歌の意にてよくそのことわりはきこゆべき也
於曾能 獺のことにて虚言うその意と見る義、兼良公の御説なれども、たはれといふこと心得がたし。順和名抄巻第十八毛群部獣類部、獺、兼名苑注云、獺【音脱和名乎曾】水獣恒居2水中1食v魚爲v粮云云。又虚言を俗にうそと云。此集卷第十四の歌に、からすとふ於保乎曾杼里能まさてにもきまさぬきみをころくとぞなくとよめるも、うそのとりといふこと也。なればこゝの於曾と云もうそといふ事か。もつともおうの通音は、奧、端のをともに通ふ也。又はおそろしのと云義とも見えたり。いまも東國の俗こはい人といふ事をおぞい人といへり。古語のゝこれるか。此歌の意も柔和にみやびやかなる人とこそきゝしに、おそろしのみや人といふのことに、おぞのとはいへるなるべし
(53)歌の意は柔和にみやびやかなるひとゝこそきゝしに、やどをもかさでかへせるはおそろしのみや人なりとの義也
 
大伴田主字曰仲郎容姿佳艶風流秀絶見人聞者靡不歎息也時有石川女郎自成雙栖之感恒悲獨守之難意欲寄書未逢良信爰作方便而似賤嫗己提鍋子而到寢側哽昔跼足叩戸諮曰東隣貧女將取火來矣於是仲郎暗裏非識冒隱之形慮外不堪拘接之計任念取火就跡歸去也明後女郎既恥自媒之可愧復恨心契之弗果因作斯歌以贈諺戯焉
 
是古注者の文なり。文字の音訓を交へてかきたる也。しひて訓義をなすに及ばず。文字の意をもつて義をしるべき也
成2雙栖之感1云々 夫婦になりて共にすまんとこひおもふの義也。獨守之難はひとりすまんことをえまもりかぬるの意也。雙栖獨守の字詩句に用ゐたること多き也
未逢良信 よき便宜を得ぬ也
似賤嫗 嫗は老女の通稱、倭名鈔に於無奈と訓ぜり。いやしき老女ににせて也
己提鍋子 己はみづからの意也
哽昔《キヤウイン》 世人の物にむせぶごときの聲をして也
跼足《きヨクソク》 跼は曲也と云てあしをかゞめる義、今ぬきあしなどゝ云の義也
諮曰 いつていはくとよむべし
冒隱 をかしかくすとよむ。字書に望は莫報切、覆也とありて、ものをおほひかくしての意、衣などをひきて形をかくしたるの意也
不堪拘接之計
右は古注者の文也。依2此注1宿戸不v借とよめる説きこえたり
 
大伴宿禰田主報贈歌一首
 
(54)127 遊士爾吾者有家里家戸不借令還吾曾風流土者有
みやびとに、われはありけり、やどかさず、かへせるわれぞ、みや人にはある
 
前にも注せる如し。宮人は神の宮殿など守る宮人と云迄也。遊人の二字前にも注せる如く、宮人とよむ義は此歌の意、みや人と不v讀ば不v通故、下の風流士をみや人とよむ縁によつてよむ也。尤和名抄には遊女と書てうかれめとよませたれは、うかれをともよむべけれどそれは證例なし。殊に歌の意不v通故みや人とはよむ也。後學の人的然たる別訓の案もあらば之をまつのみ
歌の意はおそのみや人とのたまふなる程われはみや人なり。その宮人故神の宮殿などには容易に人をとむるものにはあらず。そのかへせるところこそみや人にてあれとの返答也
 
同石川女郎更贈大伴田主中郎歌一首
おなじいしかはのいらつめ、さらに大ともの田ぬし中いらつこにおくるうたひとくさ
 
中郎 なかいらつことよむべし。前の注にも佐保大納言の第二の子とあれば、三人ありし中の子故中いらつことあざなをよびしか
 
128 吾聞之耳爾好似葦若末乃足痛吾勢勤多扶倍思
わがきゝし、のみにたがはず、あしかびの、あしひかばあせ、つとめたふべし
 
耳爾好似 これを古本印本ともに、みゝによくにばとよめり。歌言葉とも不v覺。いまだいかなる義ありてよめるや其意も心得がたし。好似の二字は訓よくにたるなれば、たがはぬといふ義をさとりてよむべきため書たると見えたり。よつてわがきゝしのみにたがはずとはよむ也。のみとはきゝたる通にたがはずばと也。仲郎足のやまひありときゝしが、いよ/\そのきゝし通にたかはずばといふの義也
葦若末 あしかびとはあしのはじめて生出るを云也。古事記上卷云、如葦牙云々。成神名字麻志阿斯訶備比古遲神。日本紀神代上卷云、如2葦芽1、和名抄卷第二十草木部云。蘆、葦、兼名苑云、葭一名葦家※[火+韋]二音、和名阿之云云。若末の二字はわかくいまだしき(55)と云意にて義訓にかきたる也。このあしかびのびを、通例みな清音にとなへ來れども、古事記に備の字を用ゐたれば、濁音にとなふべき也。此あしかびには何の意もなく、たゞ下の句のあしひかばといはんための縁に、第三句より改めたる句と見るべし
足痛 あしひかばとよむべし。此集中にあしびきの山とつゞけたる歌にも足痛の二字を用たり。尤も古注にあしの疾によりてとしるし、かつあしいたむなればあしをひくべき理なれば、かた/\”痛の字をひくと義訓せり
吾勢 あせとは、先を賞美したる詞なり
勤 つとめは、ゆめなどゝ云も同事にて、よくつゝしめといふことば也
多扶倍思 たまふべしと云義也
歌の意は、仲郎あしのいたはりありときゝしが、わがきゝし通にたかはず、あしのいたはりあらば、つゝしみて保養をなし給ふべしとの事也
 
右依中郎足疾贈此歌間訊也
みぎながいらつめ、あしをやむによりて、このうたをおくりとひとぶらふ也
 
足痛吾勢とよめるを以て、古注者如v此注を加へたり
 
大津皇子宮侍石川女郎贈大伴宿禰宿奈麿歌一首
おほつのみこのみやにはんべる石川女郎、おほとものすくねすくなまろにおくるうた一くさ
 
女郎字曰2山田郎女1、宿奈麿宿禰者大納言兼大將軍卿之第三之子也 古本傍注に一首とある下に、如v此注せり。かんがふる所ありてか
 
129 古之嫗爾爲而也如此許戀爾將沈如手童兒
としへにし、をむなにしてや、かくばかり、こひにしづまん、たわらはのごと
 
古之 古本印本共にいにしへのとよめり。しかれども下に嫗と云て老女のことをいへるに、いにしへのをむなとは不v續こと(56)ば也。よりてとしへにしと義訓によむかたしかるべからんか
嫗爾 をむなとは、としおひたる女と云義也。嫗の字は、前にも注せるごとく老女の通稱なり
爲而也 このやの字跡にかへるや也。丈夫やの類也。こひにしづまんやのや也
爾將沈 こひは泥土の事によせてしづまんやと也
如手童兒 たは初語の詞也。たゞわらはのごとくと云義也。童、和名抄云、禮記注云、童徒紅反、和名和良波、兒は添字也
歌の意は、土※[泥/土]のひぢりこなどへは、小兒わらべなどこそはまるべきに、としおいたるをんなの身にて、わらはべなどの如く、こひにしづまんや、しづむべきものにはあらぬに、かくばかりすくなまろをこひわびて、思ひにしづむと也。してやのやは、しづまんやといふに返りたるやなり。この詠格いくらもある也
 
一云戀乎太爾忍金手武多和郎波乃如
こひをだに、しのびかねてん、たわらはのごと
 
古注考一本に如v此あるを見てしるせり。しかれども本書の歌の意勝りたるなるべし
 
長皇子與皇弟御歌一首
をさのみこ、すめおとにあたへたまふみうたひとくさ
 
長皇子 天武天皇の皇子御母は大江皇女也。此歌すめおとにあたふとあれば、御同母弟の弓削皇子に被v遣たる御歌歟。此歌戀歌とも決しがたし
 
130 丹生乃河瀬者不渡而由久遊久登戀痛吾弟乞通來禰
にぶのかは、せはわたらずて、ゆく/\と、こひわぶわがせ、こちかよひこね
 
丹生乃河 大和にあり。丹生の河をよみ給ふに意はなし。もしくは長皇子と弟皇子とすみ給ふ所の間に此河ありしか
瀬者不渡而 古本印本等には、せをばわたらでとよめり。義は同じき事ながら、ずてといふことば古くいひ來りたる詞也。物が(57)たりなどによりて、文字の通に瀬はわたらずてとよむ也。瀬をわたらずてとは、河をわたりては心もとなきほどに、わたらずにかち路より來り給へと也
由久遊久登 ゆる/\とゝいふ義也。ゆくらかになどゝもいひて、いそがぬ事を云。事の急なる事を、ゆくりもなくと云も、ゆるやかになき不意の事を云也。いそぎて川をわたり給ふ事は、心もとなきほどに、河をわたらずに、ゆる/\と來り給へとの事也
戀痛 古本印本等にはこひいたむとよめり。しかれどもことばつたなければ、痛はなやむ義也。よりてこひわぶとよむべし。わぶはなやむ事を云、こひしたひ給ふとの義也
吾弟 前にも注せるごとく、先を賞してせと云也
乞通來禰 こちは此方へといふ義也。此方と云ことを、こちと古くいひ來りて、源氏物語等にも多く見えたり。いでともよまんか、出るの意地。且通の字道と云字にて、こちもかちも同事なれば、歩道の意かちぢとよめる義もあらんか。此終の句末v決也。先こち通ひこねとよみて、此方へかよひ來り給へとの事也。歌の意は河を渡り給ふてはあやうくおぼつかなき程に、急ぎ給はずとも、ゆる/\とかちぢを通ひ來り給へと也。御兄弟むつまじき御間がら、かくこひしたひ給ふて、よみたまへるなるべし
 
柿本朝臣人麿從石見國別妻上來時歌二首短歌
かきのもとのあそんひとまろ、いはみのくにより、女にわかれてのぼりくるときのうたふたくさならびにみじかうた
 
柿本人麿 傳系不v詳、第一卷に注せり。生國は石見の國と見えたり。則此集の此所の文にしたがつてしる也
妻 和名抄卷第二人倫部夫妻類云、白虎通云、妻【西反和名米】者齊也、與v夫齊v體也云云。此妻の名傳系共に不v知也。人麻呂妻には前後妻あり。此妻は前妻と見えたり。後に京にてもとめられたる妻は依羅娘子といへり。此奧にいたりて見えたり
 
(58)131 石見乃海角乃浦回乎浦無等人社見良目滷無等【一云磯無登】入社見良目能嘆八師浦者無友縱畫屋師滷者【一云磯者】無鞆鯨魚取海邊乎指而和多豆乃荒磯乃上爾香青生玉藻息津藻朝羽振風社依米夕羽振流浪社來緑浪之共彼縁此依玉藻成依宿之妹乎【一云波之伎余思妹之手本乎】露霜乃置而之來者此道乃八十隈毎萬段顧爲騰彌遠爾里物放奴益高爾山毛越來奴夏草之念之奈要而志怒布良武妹之門將見靡此山
いはみのうみ、つのゝ浦わを、うらなしと、人こそみらめ、かたなしと【一云いそなしと】ひとこそみらめ、よしゑやし、うらはなくとも、よしゑやし、かたは【一云いそは】なくとも、いさなとり、うみべをさして、にぎたづの、あらいそのうへに、かあをなる、たまもおきつも、あさはふる、かせこそよらめ、ゆふはふる、なみこそきよれ、なみのむた、かよりこちより、たまもなす、よりねしいもを【一云はしきよしいものたもとを】つゆしもの、おきてしくれば、このみちの、やそくまごとに、よろつたび、かへりみすれど、いやとほに、さとはさかりぬ、いやたかに、やまもこえきぬ、なつくさの、おもひしなえて、しのぶらむ、いもがかどみむ、なびけこのやま
 
角乃浦回 倭名鈔卷第八國郡部石見那賀郡都農【都乃】。角里といふ所に妻の殘り居る故、角の浦わをよみ出せる也。或本の歌にはつのゝさとみんとあり
浦回 うら間といふこと也。浦のめぐりぎはの事也。うらの惣躰を云義也
滷 しほ水の就たり又さしたる處を云。此ろの字又瀉の字をかたとよみ來れる字義未v考
人社見良目 海上をもはるかにへだて來りたれば、人はうらもかたもなしと見るらめども、人丸は妻をしたふ心から、目にはなれぬとの義也
(59)一云磯無登 古注者の加へたる也。下みな小書これにおなじ。いそは海邊のいしある所を云
能嘆八師 今云よしやと云と同じ。ゑは助語と見る也。やとえと通ずるにてはあらず。むかしはよしゑやしといひたるを、今はよしやよしといひ來れり。うらはなくともよし、かたはなくともよしと云古風の重詞也
鯨魚取海邊乎 此いさなとりといふこと、古來説々あれどもみな信用しがたき義也。いさなとりとは鵜の一名をいさな鳥といふか。又漁梁のことをすなどりといふ故いすなどりといふ事か。僻説にいさなと云はくじらの事にて、それをとる海といふの事といへり。日本紀允恭の卷衣通郎姫の歌に、異舍儺等利宇彌能とあれば、取の字をかきても、りとよまざればならぬ義也。且此集にもいさなとりあふみのうみとよめる歌あれば、くじらをとるといふ義にはいはれざること也。いさなとりとはうとうけんための冠辭としるべし
海邊乎指而 見わたす所にうらもなく滷もなくとも、海邊をさして玉もおきつもの來よると也
和多豆乃 伊豫の熟田津也。此歌いよの國迄來りてよめると見えたり
荒磯乃 あらきいそのほとりと云義也。磯は前にも注せるごとくいしと云義也。海のはたにあるあらきいしのほとりと云義也
香青生 かは初語の詞にてたゞあをきと云事也
朝羽振 風にも波にもふりふると云事あり。これはものゝうごくことをふりと云也。あしたに風のうごきふれてよるといふ義也。貫之土佐日記にも、いそふりのよするいそには年月をいつともわかぬゆきのみそふるとよめるも、風波などのあらく吹よする事をよめる也
依米 風などこそよらめ、われはよらぬにと、うらやみしたふの意也
夕羽振流 ゆふべにはなみのふれよすると云義也。あしたには風のうごきより、夕べには波のうごきよりくるといふて、ことばをつがはしめたる也
浪之共 この共と云字を此集中にむたとよめり。これは仙覺律師よみ初たり。むたといふは、西國の俗語にして、意はともにと(60)いふ義也。西國にては、ものゝ無v別一つなる事を古むだといひたりと見えたり。よりて仙覺共と云字にむたといふよみを付けられたるは義不v合にてもあるまじ。如の字の意によみたきもの也。波のことゝいひて、波とゝもにの意なり。しかれども古くむたとよみ來りて、義不v濟ことなれば、點の通によむべし。今俗言に、めつたくたむちやなど云、物の混雜し一つに成たる事を云も此むたと云ふ俗語なり
彼縁此依 かしこによりこゝによりといふの意也
玉藻成 玉ものごとくにと云ふの義也
依宿之 これまでの詞みなこの依ねしといはんとての縁に、詞花をかざりたるものなり
一云波之伎余思 前に注せるごとくほめたる詞なり。すぐによしとあり。うるはしくよきといふ義也。此異句は、かよりこちより、はしきよしと續たる句と也。しかれども本書の句勝るべし
露霜乃 下の置てしといはん迄の料也
八十隈毎 多くのくま/”\のごとになり。數にかゝはりたる八十にはあらず。數多きくま/”\ごとにといふ義也
萬段 これもいくたびも/\、かへりみするの説也
里者放奴 このさとは妻の殘り居角の里也。放奴の二字にはなれぬさかりぬ兩點あれども、遠さかるの義なればさかりぬとよむべし。義はいづれにてもおなじ
益高爾 古本印本ますたかにといふ點はあし。前のくにいや遠とあれば、こゝもいや高にとよむべし
夏草之 妻をさしてなり。妻もおもひしなえてわれをしたふらんと也。しのぶもしたふも同事也
之奈要而 なやむといふと同事也
志奴布良武 此句あるより、反歌にしのゝ葉とはよめる也
靡此山 その當然の山也。したひおもふ情の切なるあまりに、なびくべき山にはあらねど、なびけと下知したる也。業平の山の端にげていれずもあらなんといへる意とおなじ雅情也。時代の口風にて當今はなびけこの山とは、つまりたるやうなる終の(61)句なれども、これらは時代の風也。今時は不v可v好終句歟
歌の意は、石見の國に妻をおきてわかれのぼるに、その國の海もうら回も遠く隔てつれば、うらもなくかたもなしと人は見るらめども、人丸は妻をしたふ心から、まのあたりはなれぬやうにて、よしうらもかたもなくとも、われはあるやうにおぼゆると也。いさなとりと云より、また言葉をおこして、波風にしたがひて、玉もおきつものうごきふれるかなたこなたになびきよれるごとく、むつまじくよりそひし妻をおきてくれば、その上り來る路次のくま/”\ごとに、いくたびも國のかたをかへりみすれども、くるにしたがひ彌々とほくへだたり、妻ののこり居る里も次第に遠ざかり、越來る山もいやかさなりてへだて見えねば、いよ/\したひ思はれて、國にのこれる妻がさぞ夏草のしなえるごとくに、うらぶれしのぶらんとさつしわび、そのしなえてしのぶらん妻のすむ門を見やらんまゝ、いや高くたちかさなり、へだたる山もなびきふして、妻のすむ門を見せよと、したひわぶる切なる情をのべたる也
 
反歌
 
反歌短歌のことは第一卷に注せる通なれば、重而注するに不v及
 
132 石見乃也高角山之木際從我振袖乎妹見津良武香
いはみのや、たかつのやまの、このまより、わがふるそでを、いもみつらんか
 
石見乃也 このやの字は助語也
高角山 石見の名所也
歌の意は長歌にある通、妻にわかれて上り來れば、石見のかたこひしくしたはれて、いく度も國のかたをかへり見しつゝ旅行するありさまを、高角山の木間より妻の見るらんかと也。此歌隔句躰の歌也。なほざりに見ては、人丸の木の間より袖をふるを、妻のみつらんかとよめるやうにきこゆれども、さにはあらず。木間より妻の見るらんかとよみし歌也
 
133 小竹之葉者三山毛清爾亂友吾者妹思別來禮婆
(62)しぬのはは、みやまもさやに、みたれども、われはいもしぬぶ、わかれきぬれば
 
小竹之葉者 是を古本印本共に、ささのはとよめり。しかれど此歌反歌と見るところは、此しぬとよみ出したる所を以て反歌とは見ゆる也。長歌に、志怒布良武とよみたる縁をうけて、しぬのはゝとよみ出したるもの也。且前にも注せる如く、此集は多く日本紀の文字をもつて書たれは、彼紀の訓にしたがふべき事、神功皇后紀云、小竹此云2之努1如v此字訓あれば、歌の意も相かなふ上は、しぬとならではよまれまじき事也。然共古今六帖また後成恩寺殿良材集などにも、此歌をみなさゝとよまれたるは、如v此の詮議に不v及歟
三山毛 みは初語の詞也。只山といふ義也。長歌に山も越えきぬとよみ、靡けこの山とよみたれば、反歌にも山とは讀る也
清爾 さやにとはさやかに也。そよともよませり。さやもそよも同事の詞なれども、そよとは音にかゝることば、さやには見る方にかゝる詞也。此歌はさやかに見たれどもと云歌の意也。故に清爾はさやにとよむべき也。さやにはあきらかに也
亂友 みだれともと濁音のたれなれ共、雖v爲v見の意にて此字を用ゐたり。ことばおなじければ、すみにごりにはむかしより不v拘也。此類いくらも例あり
妹思 古印本共に、おもふとよみたれど、長歌にしぬぶらんとあるをとりて、上にもしぬの葉はとよみ出したれば、しぬとよまではかなふまじき故、いもしぬぶとよめるなり
歌の意は長歌の意をおしかへして、尚餘意をのべたる也。まづ上に、おもひしなえてしのぶらんとあるゆゑ、その詞をとりて、しぬのはゝとよみ出して、しぬのはは越え來る山にもさやに見たれども、たゞわかれ來るいもをわれはしのぶとの義也
 
或本反歌
 
古注者異本の歌を後に載せたり。石見乃也とある歌の異説也
 
134 石見爾有高角山乃木間從毛吾袂振乎妹見監鴨
いはみなる、たかつのやまの、このまゆも、わがそでふるを、妹みけんやも
 
(63)此一本の歌本集の歌とさして勝劣もあるべからず。少づゝのかはりあるをしるしたる迄也、歌の意おなじ義也
 
135 角※[章+おおざと]經石見之海乃言佐敝久辛乃埼有伊久里爾曾深海松生流荒礒爾曾玉藻者生流玉藻成靡寐之兒乎深海松乃深目手思騰左宿夜者幾毛不有延都多乃別之來者肝向心乎痛念乍顧爲騰大舟之渡乃山之黄葉乃散之亂爾妹袖清爾毛不見嬬隱有屋上乃【一云室上山】山乃自雲間渡相月乃雖惜隱比來者天傳入日刺奴禮大夫跡念有吾毛敷妙乃衣袖者通而沾奴
つのさはふ、いはみのうみの、ことさへぐ、からのさきなる、いくりにぞ、ふかみるおふる、ありそにぞ、たまもはおふる、たまもなす、なびきねしこを、ふかみるの、ふかめておもふと、さぬるよは、いくばくもあらず、はふつたの、わかれしくれば、きもむかふ、こゝろをいたみ、おもひつゝ、かへりみすれど、おほふねの、わたりのやまの、もみぢばの、ちりのまがひに、いもがそで、さやにもみえず、つまこもる、やがみのやまの、くもまより、わたらふつきの、をしめども、かくろひくれば、あまつたふ、いりひさしぬれ、ますらをと、おもへるわれも、うつたへの、ころものそでは、とほりてぬれね
 
角※[章+おおざと]經 此つのさはふといふ義、諸抄まち/\にして一定し難し。古本印本共に、つのさふると點をなせり。これは日本紀仁徳卷仁徳天皇の御歌に、兎怒瑳破赴以破能臂謎、如v此あれば、ふるとは外に證明なければよみがたし。一説に何の代か強き牛ありて、池の堤の大石を角にてふり穿ちたる古事より、角障經岩とつゞけ來ると云説あれども、此論もし風土紀などにありて、古説ならばさもあるべけれど、此説の出所不2分明1、たゞ云觸したる迄の憶説故證明ともしがたし。よつて宗師案には、岩には岩綱といふ草生るもの也。我國の邦語いはをいはんとて、たゞいはと計はいひ出さず。何にてもその縁あるものをかしらにかうむ(64)らしめて、言葉を長くいひ來れり。此角さはふも、いはといはんとての冠辭に、岩に生ずる草の名をいひ出したるものと見えたり。角はつな也。今三角かしはなどいふも、元は御綱葉の事にて、すでに仁徳紀に御綱葉の三字見えたり。のもなも同音にて、つのはつな也。尤もつぬとも云也。つなといふ草のさはに生たる岩をいふの義と見る也。畢竟いはといはんまでの縁にいひたる義也。今もいはひばと云ものあり。これをばいはつなと云ふと見えたり。常磐草にて、いはづなのわかがへりなど古詠によめるも此草の事なるべし
言佐敝久 此ことさへぐといふ事は、ものゝあやのきこえぬ事を云也。日本紀景行卷にあるごとく、日本武尊のとりこにして、伊勢神宮へ奉らせたる東の國の蝦夷等昼夜|喧嘩《さへきて》出入無v禮云云、是今播磨讃岐伊勢安藝阿波凡五國佐伯部之祖也とある事よりおこりたる義にて、ものゝかまびすしく、ことばのあやめわかれぬことを、古語にことさへぐと云也。唐人の言語は、この國にては通じがたく、事のあやしれざる故、ことさへぐ唐とつゞけたる義也。高麗ともよむ也。こましらぎともに、ことばのあやきこえぬゆゑに、からこまなどといはん爲の冠辭に、ことさへぐとはよみ來れり
辛乃崎 石見の國の地名也。埼は碕と同字にて海際の岩頭を云也。日本紀には島曲と書てみさきと字訓あり。海際へ岩などの差出たる所を云也。此は惣名にて、その所の海のことを云たる義也
伊久里 伊は初語にて、くりと云事也。くりとは海中の石の事を云也。くりはくろきいしといふ約言也。ろしを約すれば里也
深海松 ふかみるは、海のふかきところに生るみると云意に、ふかとよめる也。みるは和名抄卷第十七海菜類部云、崔禹錫食經云・水松、状如v松而無v葉【和名美流】楊氏漢語抄云、海松【和名上同俗用v之】海の菜類也
荒礒爾曾 ありそとは、海邊に石ありて、なみのあらく立よするところを云也
玉藻者生流玉藻成 これまではみな序詞也。玉もなすは前にある通、玉ものごとくにと云義也
靡寢之兒乎 このなびきといはんための序詞に、上に段々と詞花をよみつらねたる也
深目手思騰 國にのこれる妻を、ふかくおもひしのぶともと云義也
幾毛不有 いくばくもあらずとは、いもとむつびかたらひしことは、心に思ふほどはなくてと云義也
(65)延都多乃 はふつたとは、わかれといはん爲の冠辭也。此集中いくらもあり。つたといふ草は、いく筋もあなたこなたへわかれてはふもの故、わかれと云冠辭によみ來れり。和名抄云、本草云、絡石一名領石、和名豆太、蘇敬曰、此草苞2石木1而生故以名v之
肝向 このきもむかふといふこといかんとも心得がたきことなり。諸抄等の説々も皆信用しがたき義なり。此集卷の第九の長歌にも肝向心とありて外にかながきも不v見、唯二首計なり。しかれば宗師案には此集中に、村肝の心とよめる歌四首迄あり。もしくは村の字を脱して向の字は乃をあやまりたる歟。また物といふ字のあやまりたる歟。心膽の座は、相對してむかふと云の義をとる説は信用しがたし
大舟之渡乃山 地名也。國所未v考
散之亂爾 ちりしみだれにもとよめり。意はおなじけれど古今集にも詞の例あり。古本にはちりのまがひにとあり。よつて古本にしたがふ也
妻隱有屋上乃山 つまこもるは、やといはんための冠辭也。屋上の山、地跡不v考
渡相 わたらふとはわたるといふ詞をらふとのべたるもの也。わたると云義也。月のわたらふとはかたぶき入義也。下のをしめどもといはん爲の序也
雖惜 月の入をゝしむといふ義にて、畢竟の意は、妻にわかれくるなごりのをしきことを云たるもの也。をしめどもやがみ山に月もかくれ、妹がかたも不v見、遠ざかり來ればと也
天傳 日といはん爲の冠辭、あまつたふとは日月は空を行もの故つたふと也
入日刺奴禮 入日さしくれといふ義也。ぬれはくれと同詞也
大夫跡念有 第一卷に軍王の歌によみ給へる意とおなじ義也。たけきますらをとおもふわれながら、妻にわかれ來る旅の心弱くて、こひしたふ夜ごとの涙に、しき妙の衣の袖もぬるゝと也。
歌の意は、きこえたる通に侍れば再釋に不v及也。畢竟石見國に妻を置て別來れば、心にはますらをとおもへども、旅行の事なればいとゞ心ぼそく、妻をこひしたふ涙にて、衣の袖もしたゝる計にぬるゝとの義也
 
(66)反歌二首
 
長歌一首に反歌二首づつよめる也。此時の歌以上六首也
 
136 青駒之足掻乎速雲居曾妹之當乎過而來計類【一云當者隱來計留】
あをこまの、あがきをはやみ、くもゐにぞ、いもがあたりを、すぎてきにける
 
青駒 あを駒に限らず、赤ごま黒ごまとよみて、これらは事實をいふたるものにて、その當然乘たる馬の毛色にてよめる也
足掻 あがきとはあしにてかくことをいふて、馬のあゆむは、前へかきよせるごとくなる物故、あゆむ事をあがきとは云也。しひてあゆみのはやきにてもあるまじけれど、したひおもふつまのあたりをはやく過來り、へだゝりし事をいはんとて也
雲居曾 遠ざかりへだてゝ來れるとの義也。馬のあゆみのすゝみて、俗にとぶがごとくになどいふごとく、はやく遠ざかりくる事をいふたるもの也
歌の意は、きこえたる通也。妻に名殘をしくしたひおもへども、駒のあゆみはやくて、妻のあたりを過來りし事、雲井の如く立隔たれるとの義也
一云當者隱來計留 一本の歌には、終の句如v此あると古注者しるせり。しかれどもあがきをはやみとあれば、本書の過てきにけるの方まされるならん
 
137 秋山爾落黄葉須臾者勿散亂曾妹之當將見【一云知里勿亂曾】
あきやまに、おつるもみぢば、しばらくは、なちりみだれそ、いもがあたりみむ
 
秋山爾 地名に秋山あれども、こゝは人丸の上り來るとき、折しも秋のころと見えたり。よりてなべての秋山の事と見ゆる也
落黄葉 長歌にわたりの山のもみぢばのとよみし故、反歌に如v此よめる也
須臾者 もみぢばのちりみだれたればとて、見ゆべきかたの見えざるべけんや。しかれども如v此幼き心によみなす事、雅情の至極なり
(67)歌の意は釋するに不v及。よくきこえたる歌也
一云知里勿亂曾 本書になちりとあるを、ちりなとかきたる本ある、かはりめをしるしたる也。いづれにてもおなじ意なり
 
或本歌一首短歌
 
是古注者別本の長歌短歌をしるしたり
 
138 石見之海津乃浦乎無美浦無跡人社見良目滷無跡人社見良目吉咲八師浦者雖無縱惠夜思滷者雖無勇魚取海邊乎指而柔田津乃荒磯之上爾蚊青生玉藻息津藻明來者浪己曾來依夕去者風己曾來依浪之共彼依此依玉藻成靡吾宿之敷妙之妹之手本乎露霜乃置而之來者此道之八十隈毎萬段顧雖爲彌遠爾里放來奴益高爾山毛越來奴早敷屋師吾嬬乃兒我夏草乃思志萎而將嘆角里將見靡此山
いはみのうみ、つのうらをなみ、うらなしと、ひとこそみらめ、かたなしと、ひとこそみらめ、よしゑやし、かたはなくとも、いさなとり、うみべをさして、にぎたつの、ありそのうへに、かあをなる、たまもおきつも、あけくれば、なみこそきよれ、ゆふされば、かぜこそきよれ、なみのむた、かよりこちより、たまもなす、なびきわがねし、うつたへの、いもがたもとを、つゆしもの、おきてしくれば、このみちの、やそくまごとに、よろづたび、がへりみすれど、いやとほに、さとさかりきぬ、いやたかに、やまもこえきぬ、はしきやし、わがつまのこが、なつぐさの、おもひしなへて、なげくらむ、つのゝさとみむ、なびけこの山
 
浦津乃浦乎無美、本書につのゝ浦回をと有。一本には如v此替りて記たり。つのゝ浦と云も、つのうらと云も同事也。無美とはなしといふを重て云たる迄也。元よりなきといふにはあらず。本書にて注せる如く、あれども人こそなきと見るらめと云の義也
(68)明來者浪己曾 本書に朝羽振風社よらめとあり。風となみとの上下になりたる替りにて、意は本書も一本もおなじ義也。明くればと來の字を書たれども、たゞあくればと云義也。下に夕去者と去の字をかきたるも、來去の二字を對して書たるまでにて夕になればと云義也。きたりたると云意にてはかつてなきとしるべし
靡吾宿之 本書には依宿之妹をとあり。同じ事なり。本書のかたは妹をおきてしくればと有。此は妹之手本乎とあり。尤上に宿之といふ言葉あるより、數妙ともよみたるなるべし。歌の意の勝劣はあるべからざる也
里放來奴 本書には里者放奴とあり。同じ意ながら、下に山も越來ぬとあれば、或本のかたしかるべき歟
早敷屋師 はしきやしは、前にも注せるごとく、うるはしくよしとほめること也。やしもよしも同事、又やしはいやはしきと云の意、重詞とも見ゆる也。いづれにても、たゞ賞美したることを古語にはしきやしと云也
吾嬬乃兒我 はしきやしわがつまの子が、此二句は本書になき也。一本には、此くのごとくありたると見えたり。兒我といへるは前にも注せるごとく、ことはをんなの通名也。此集中みな女のことをことあり。尤古來は女にこと云詞を悉く付ていふたる也。本書は山もこえきぬ夏草のと、直につゞけたり。一本には如v此二句いりたり。是も或本のかた、きゝやすきやうに侍る也
將咲 本書にはしぬぶらんとあり。上にしなへてとあれば、しのぶのかた勝らんか
角里 本書には妹之門とあり。國に殘れる妻のすめる所、角の里と聞えたり。石見の海、つのうらをとあるも、此角里に妻の居る故によみ出したると見えたり。しかれば此句は始終にかゝりて聞ゆれは、本書のかたしかるべからんか
 
反歌
 
139 石見之海打歌山乃木際從吾振袖乎妹將見香
いはみのうみ、うつたのやまの、このまより、わかふるそでを、いもみつらむか
 
打歌山 地名也。上に石見海とありて、うつたの山とはつゞきがたきやうなれど、海邊にある山故と見えたり。此打歌二字古本共にうつたの山のと、の字をそへてよめり。うつうた山ともよまんか。地名なれば證據あるべけれども、いまだ不v考故、ま(69)づ古本の通にしたがふ也。此反歌は以上三首ありて、みな少づゝのかはりあり。しかれども歌の意はいづれも勝劣あるべからず。
 
右歌體雖同句句相替隱此重載
 
例の古注者の追加也
 
柿本朝臣人麿妻依羅娘子與人麿相別歌一首
かきのもとのあそん人まろの妻よさみのいらつこ、人まろとあひわかるゝ歌ひとくさ
 
依羅娘子 傳系不v知。前にも注せるごとく、人丸の妻にはさきのちあり。此妻は後の妻と見えたり
相別 これは人丸何方へぞ任におもむきしとき、わかれをかなしみて、妻のよめるなるべし。尤此時は倭にすめる妻ならん
 
140 勿念跡君者雖言相時何時跡知而加吾不戀有乎
おもふなと、きみはいへども、あはんとき、いつとしりてか、われこひざらんや
 
歌の意は、きこえたる通の歌也。君とは人丸をさして也。任國などのわかれならば、先は六年の間は相別れんこと、人の生死ははかりがたければ、如v此いつとしりてかとはよめるなるべし。
 
挽歌
ひくうた
 
挽 字書云、武館功、音晩引也。挽歌執※[糸+弗]者相和聲也云々。送葬のときひつぎに※[糸+弗]といふて、つなをつけてそれを引きてかなしみの歌を吟唱する也。その歌を挽歌といふ。死するときの前後當然のかなしみのうたをさして云也。後々の集には哀傷と部類をなせるにおなじかるべし
 
後崗本宮御宇天皇代 天皇財重日足姫天皇
 
(70)第一卷に注せるごとく、齊明天皇の御代也
 
有馬皇子自傷結松枝歌二首
ありまのみこみづからいたんで、まつのえだをむすぶ歌ふたくさ
 
有馬皇子 皇《マヽ》徳天皇の皇子也。母阿倍倉梯麿大臣女小足媛也。日本紀卷第廿五皇徳紀云、大化元年秋七月丁卯朔戊辰云々、立2二妃1元妃阿倍倉麿大臣女曰2小足姫1生2有間皇子1云々。斉明天皇四年に御謀叛の事あらはれて、紀州藤白坂にて絞て死せませるみこ也。此二首の歌も留守官蘇我赤兄に被v捕て、數千の軍兵に被v圍て都より紀洲の温湯の行在所へ被v送給ふときの御歌と見えたり
 
141 磐白乃濱松之技乎引結眞幸有者亦還見武
いはしろの、はまゝつがえを、ひきむすび、まさきくあらば、またかへりみん
 
磐白乃濱 紀州、第一卷にも注せり
松之枝乎引結 松がえを結て、ちかひを立給ふ也。一度御謀反をたくみ給へども向2赤兄臣家1登v樓まして、ことのなるまじきを御みづからはかり知り給ふて、倶に盟而おもひとゞまり給ふ事なれば、その申ひらきもたちて、あはれ今一度ゆるしかへされさせ給ふ樣にと、御心に祈り給ふてあはれみ、命のさきもあらせ給はゞかへり見給ひて、今むすび給ふ松が枝をもときゆるめ給はんと松に誓ひ給ふ也。しかれども遂に御ゆるされなくて、丹比小澤連國襲をしてくびられて死せさせられ給ふ也。これよりして、磐白の松を後世物のむすぼほれとけざる事の古事とせり。また祝歌などには、磐白の松不v詠事となれるも、これそのことのもとなり
眞幸有者 此點初めは、まさしくあらばともよみ、まことさちあらばともよめるを、龜山院文永年中仙覺律師まさきくあらばとよみ改むるよし別抄に記せり。眞幸の二字、まさきくとよまん事勿論の事なるべし。すでに日本紀等に、幸の字をさきくともさちともよみ、又此集卷第十七の長歌にも、麻佐吉久毛といふ詞ありて、まとは發語の詞、さきくはさいはひあらばといふ事也(71)仙覺まさきくとはよみたれども、まことさいはひあらばと釋せるは、不v可v然か。御命も全くかへり給ん事を、幸あらばと誓ひ給ふなるべし。まことにせちにあはれなる御意也。歌の意きこえたる通也
 
142 家有者笥爾盛飯乎草枕旅爾之有者椎之葉爾盛
いへならば、けにもるいひを、くさまくら、旅にしあれば、しひのはにもる
 
家有者 例の約言家にあらばと云義也
笥爾盛 飯物を盛るうつは物を笥と云也。仙覺はこれをくしげと心得たると見えたり。文永の頃迄は勸學院には此義ありと云て、笥は食物をもる物にはあらで、くしげの一種と見たるか。其意得がたし。もし笥の字にくしげと後人點をつけたるか。其意心得難し。日本紀武烈卷、物部影妻が歌にも、玉笥には飯さへもりと有。和名鈔卷第十六云、笥、禮記注云、笥思吏反、和名計、盛v飯器也云々
椎之葉爾盛 上古は飲食物を旅行などにては、柏椎の葉にもりて食したることもあるべし。さまではあるまじけれど、此歌はたゞ旅のいぶせく、ものわびしき躰をよみ給ふ也。あながちそれと決したる事にはあらねど、とらはれ人となりての旅行なれば、いぶせさいはん方なき躰をよみたまへる也
此標題とは不v合歌也。結松枝歌二首とありて、此歌は難2心得1。もしくは標題の松枝の下に、時の字を脱したる歟。椎の字松の字の誤り歟。椎の字松にても、むすぶといふには不v合とも、松なればまだ縁あるか。時の字の脱ならば、二首と標せるもかなひ侍らんか。歌の意はたゞ旅行のいぶせく、あさましきありさまをよみ給ふて、あはれによくきこえたる御詠也
 
長忌寸意吉麿見結松哀咽歌二首
ながのいみきおきまろ、むすびまつを見てかなしみむせぶうたふたくさ
 
長忌寸意吉麿 系傳不v知。奧にいたりて奥麻呂ともしるせり。標題に後崗本宮御宇としるしたれど、前二首計にて此歌已下は後の御代の歌なり。しかれども結松につきてよめる故、此次にのせたると見えたり
 
(72)143 磐代乃岸之松枝將結人者反而復將見鴨
いはしろの、きしのまつがえ、むすびけん、ひとはかへりて、またみけんかも
 
岸之松枝 有馬皇子の御歌には、濱松がえとあり。此處にはきしとあり。海邊の惣体を云たるものなり。次の歌には野中にともあり。これ岩代の濱の邊の惣てを云たる也
將結人者 皇子をさして云たる也。み命さきくましまさば又かへりみんと、誓ひ給ひて結べる松が枝は今猶存せるが、そのむすび給ひし人は、返りてみたまひしや、見もしたまはでくびれさせられたる事の、いたましきよとかなしみたる歌也
歌の意別の義なくきこえたる通也
 
144 磐代乃野中爾立有結松情毛不解古所念 未詳
いはしろの、のなかにたでる、むすびまつ、こゝろもとけず、むかしおもはる
 
磐代乃野中 前の歌には濱岸とあり。此歌には又野中とあり。是は磐代の惣躰をいふたる義なるべし。此詠にては何本のまつともみゆるなり。然共一本の松にてあるべき也。磐代の濱の邊の野中にある松なるべし
情毛不解 いたましくかなしみのこゝろのむすぼれてとけぬと也。麻呂の心の不v解事を云ふたる也。心のとけぬとは、有馬のみこの古事をおもひ出て悲歎せる事を云たる義也
古所念 過にし有馬皇子のむすび給ひし事の、今も猶あはれにかなしみおもはるゝと也。歌の意聞えたる通也
未詳 此注何とも難2心得1義也。これは古注者の注にてもあるべからず。古本には細字にて書たれば、古注者より後人の傍注なるべし。未詳と書たる意は、作者の事を云たる事なるべし。前にも古注者如v此記したる例あり。それを以て又後人傍注したると見えたり。此歌拾遺集には人丸の歌にして、剰戀の部に入られたり。いかんとも心得がたし。よつて後人拾遺集を見て作者も違ひ部類も違ひたる故、不詳の二字を傍注したると見えたり。別而拾遺集に被v入たる萬葉集の歌心得がたき義、かず/\の事なれば、此事のみに不v限難有義なれば、花山法王御自撰との事も云傳へたるばかりにて、うけあひがたき事なり
 
(73)山上臣憶良追和歌一首
やまのうへのおくら、おひこたへるうたひとくさ
 
山上臣憶良 第一卷に注せり
追和歌 長忌寸の歌にこたへたる也
 
145 鳥翔成有我欲比管見良目杼母人社不知松者知良武
あすかなし、ありかよひつゝ、みらめども、人こそしらね、まつはしるらん
 
鳥翔成 此三字を古本印本共にとりはなすとよめり。然れども翔の字かけるとよみて、羽とよむべき義難2心得1。尤字書に回飛といふ字義あれども、はとよまん義訓にはとりがたし。とりの羽のごとく、有馬のみこのたましゐあまがけりて、かよひ給ふらんなどいふ説あり。意は其通の事にてもあるべけれど、つばさのはのと云義は、無理なる字義、殊に歌詞にとりはなすといふ語例なし。依て宗師の義訓は、挽歌といひ又追悲み和ふる歌なれば、その縁語なくては歌にならざる故、此三字をあすかとは訓ずる也。あすかなしは如2飛鳥1と云義也。とりのかけるなれば、これ飛鳥なり。飛鳥の二宇はあすかと訓ずる也。しかればこれかなしと云詞、挽歌の縁語にして義尤歌の意に相かなふべからんか
有我欲比 前にも毎度注せるごとく、ありは存在して也。不v絶に通ひてと云の義也。文選に蟻の如くあつまると訓ずる義、蟻の往通する事如2偶語1也と云て、蟻の不v絶通ふことをいふ義にとる説もあれど、迂遠の義也。古語にありと云ひたるは、存在してと云義と心得べき也。蟻通ともかきたる所、此集いくらもあれど、これ俗訓といふものなり。字にかゝはる事一向不v足v論事也
人社不知 上にこそといふたれは、えけせてねへめえの詞にてよめる例格故、不v知をしらねとよむべき也
歌の意飛鳥のごとく、有馬皇子のたましゐ存在して通ひ給はんずれども、人の目には不v見。知らずかへつて無情の松は知りてあらんと也。人はかへりてまたみけんかもと意吉丸のよめる歌にこたへたる歌也
 
(74)右件歌等雖不挽柩之時所作唯擬歌意以載類焉
みぎくだんのうたのしな、ひつぎをひくときつくるにあらずといへども、たゞうたのこゝろをなずらへ、かれもつてひくうたのたぐひにのす
 
柩、玉篇云、柩渠救切、尸在v棺其棺曰v柩。禮記檀弓下云、弔2於葬1者、必執引、若從v柩及v壙皆執v※[糸+弗]。白虎通云、柩究也、久也、不2復彰1釋名曰、柩究也、送v終隨v身之制、常究備也。例の古注者の文也。注者の意のごとく、有馬の皇子のうた二首の外は、はるかに後の歌なれば、挽歌とはいひがたし。しかれども此集中には、哀傷といふ後々の集のごとき部分なければ、みなかなしみいたむ歌のたぐひは、如v此次にしたがつてのせられたりと見えたり
 
大寶元年辛丑幸紀伊國時結松歌一首
大寶はじめのとしかのとのうし、きのくにゝみゆきのとき、むすびまつのうたひとくさ
 
大寶元年辛丑に紀伊國へみゆき、紀に不v見。九月丁亥天皇幸2紀伊國1冬十月丁未車駕至2武漏温泉1云云。此時のみゆきによめる歌なるべし。大寶元年には此みゆきより外無v之也。辛丑丁亥の違は、紀と此集と何方にぞ轉寫のあやまりあるべし。作者たれとも不v記されば不v知也
 
146 後將見跡君之結有磐代乃子松之宇禮乎又將見香聞
すゑ見んと、きみがむすべる、いはしろの、こまつのうれを、またみけんかも
 
後將見跡 古本印本等、のちみんとよめり。歌詞にはいかゞ、殊にまつの事をよめる歌なれば、すゑとよむべき也
君之 有馬皇子をさして也
子松之宇禮 うれは、松の上といふと同事也。松の末の事也
又將見香聞 有馬皇子またみたまはんか。松にちかひてむすびたまへども、遂にみたまはでうせ給ふことを、かなしみいたんでよめる也。歌のこゝろは、しれたる歌なれば釋に不v及
 
(75)近江大津宮御宇天皇代 天命開別天皇
 
天皇聖窮不豫之時太后奉御歌
すめらみこと、みやまひしたまふとき、おほきさきのたてまつりたまふみうたひとくさ
 
天皇は天智天皇也
聖窮不豫之時 此六字にきはまりたる訓はあらねど、義をとりてみやまひしたまふと、義訓によむ也
太后 通例は、先皇のみきさきを、太皇后といへども、此太后は、則當皇后倭姫の御事なり。古本傍注に、皇后倭姫王大兄皇子女也としるせり。天智紀七年二月丙辰朔戊寅、立2古人大兄皇子女倭姫王1爲2皇后1云々。同紀十年冬十月云々、庚辰天皇疾病彌留、勅喚2東宮1引2入臥内1詔曰、〔朕疾甚、以2後事1屬v汝云々、於v是再拜稱v疾〕固辭不v受曰、請奉2洪業1付2屬太后1令3大友王奉2宣諸政1臣請願云々。日本紀にも太后とあれば、これにしたがつて、此集にも太后と書るなるべし
 
147 天原振放見者大王乃御壽者長久天足有
あまのはら、ふりさけみれば、おほきみの、おはきいのちは、ながくてたれり
 
天原振放 ひろくかぎりなきそらをさして、あまのはらとは云なり。ふりとは詞の序也。さけといはんとての序詞にて、さけは遠ざかりへだゝりたる空を見たまへばと云義也
大王乃 天智天皇をさして也
御壽者 古本におほみいのちとよめり。みいのちはとよむべきなれど、七言の句なれば、古本の點にまかせよむ也。いづれにても天皇のみいのちのことなれば、尊んで云たる義也。御の字おほむともよみてむはみなれば、おほみいのちとよみてもくるしからざるべし
長久天足有 ながくてたれりとは、天皇の御病の時ゆゑ、天長地久といふ義に祝してよみたまへり。長久の二字もし別訓もあらんか
(76)御歌の意は天皇御不豫にまします故、天地のかぎりもなくひさしくとこしなへなるに、御命の長からんことをよそへてよみ給ふ也。よつて初五文字に、天原ふりさけみればとよみ出し給ふ也。天は廣大にしてひさしくかぎりなきものなれば、そのごとくに天皇のみいのちも、長くひさしく、天とゝもにつづきたらせ給ふらんと、祝し奉り給ふ也
 
一書曰近江天皇聖體不豫御病急時太后奉獻御歌一首
あるふみにいはく、あふみのすべらみこと、みやまひはなはだなるとき、おほきさきたてまつりたまふみうたひとくさ
 
此注は、前の歌の左注歟。また青旗乃木旗能歌と共に別本の歌歟不分明也。しかれども青旗の御歌崩御の後の歌の意なれば、御病のときの御歌には決而なき御歌也。しかれば前の御歌の前書の或説と見ゆる也。次の天皇崩御之時云々とある前書も、此御歌の前にありしが混雜したるなるべし
 
148 青旗乃木旗能上乎加欲布跡羽目爾者雖視直爾不相香裳
あをはたの、こはたの上を、かよふとは、めにはみれども、たゞにあはぬかも
 
青旗乃木旗 青はたの木はた、ともに葬具のはた也。仙覺律師抄云、常陸國風土記に、信太郡と名づくる由縁を記して云、黒坂命征2討陸奧蝦夷1、事了凱旋及2多歌郡角拈之山1、黒坂命遇2病身1、故爰改2角拈1號2黒前山1黒坂命之輪轜車發2自黒前之山1到る2日高之國1、葬具儀赤旗青幡交雜飄※[風+易]雲飛虹張瑩v野耀v路、時人謂2之幡垂國1後世言便稱2信太國1云云。此集第四卷目にも青はたのかつらぎとあり。第四の歌は木のしげりたる山の躰、青きはたなどのかゝりたるやうに見ゆる躰をよめる歟。第十三にも青はたの忍坂山とありて挽歌の中の歌なり。葬具のはた故こゝにも青はたの木はたとよみて、木はたは黄はたと云とも同事なるべし。今も葬禮の時色々の旗を用ゐるは、古き遺風と見えたり
上乎賀欲布 青はた黄はたのうへを、天皇の通ひ給ふやうに面かげには見えたまへども、まことにはあひ給ふ事なきとなり
目爾者雖視 天皇の面かげの、青はたこはたの上に通ひ給ふごとく、太后のみおもかげにはみえさせられても、まことにはあひ給はぬと也
(77)直爾 此集中に此詞多し。今俗にぢきになど云と同事にて、まさしくあひ給ふことゝはなきと也
御歌の意は、すめらみことの崩じ給ふて、かなしみしたひ給ふから、御葬禮のときのいろ/\のはたの上にましますやうに、御面かげには見えさせらるれども、まことにはあらせられぬことのいとも悲しく、したはせ給ふことをよませ給へる也。前に注せる如く、此御歌の意は崩御なりての歌とみゆる也。然るに前書の趣とあはぬ也。なれば前書は前の歌の左注と見るべき也
 
天皇崩御之時倭太后御作歌一首
すべらみこと、かみあがりまし/\しとき、やまとのおほきさきのみつくりうたひとくさ
 
天皇 天智天皇也。日本紀卷第廿七云十年春云々、十二月癸亥朔乙丑、天皇崩2于近江宮1
崩 禮紀曲禮云、天子死曰v崩。左傳注疏云、天子崩若2山崩1。爾雅云、崩落死也。白虎通云、天子稱v崩、何別2尊卑1異2二生死1也、天子曰v崩、大尊豫崩之爲v言、崩伏強2天下1、撫撃失2神明1黎庶殞v涕、海内悲凉云々
倭太后 此倭とあるは、太后の御諱倭姫王と稱し奉る故、そのやまと姫王のみきさきといふの事歟。また太后の大和にましましてよませ給へるといふの事歟。一決しがたし。先は御名の義をあらはしたると見ゆる也。これによりて前の太后とあるも倭姫王の事とはしる也。
 
149 人者縱念息登母玉※[草冠/縵]影爾所見乍不所忘鴨
ひとはよし、おもひやむとも、たまかづら、かげに見えつゝ、わすられぬかも
 
人者縱 古本印本共に人はいさとよめり。縱の字をいさと訓ずる義心得がたし。此集に縱の字よしゑやしなどいひて、よしとよませたること多き也。延喜式卷十一縱【讀曰2與志1】縱は緩也。舍也。恣也。放縱也といふ字義ありて、ゆるすともほしいまゝともよませたり。然れば此よしと云詞は、今も俗言にまゝよなど云とひとしく、よしやなど云も同事也。なればゆるすと云字義の意より、よしとはよませたるもの也。こゝの御歌の意も、そのごとく人はとまれかくまれ、大后はわすれさせたまはぬとの事也
玉※[草冠/縵] たまかづらとは、仙覺抄などには冠の纓を云との説甚だ心得がたし。また或書に、かほよきうへに玉かづらなどかけた(78)らんは、まことに面かげに見ゆべき物なりなどいふ説あれど不v可v然。たゞ下に影といはんために玉かづらとは第三句に置たる迄也。古詠の格を不v辨故、いろ/\の説を立る也。影は懸といふことばの縁をうけたる計也。古は清濁不v拘よめることは、前にも後にも數多なる事不v及v擧也。尤太后のかけ給ふ玉かづらのかげにみゆるとの意をもこめて、面かげに見えさせ給ふとの事也
不所忘鴨 天皇の御面かげ立そひ給ふて、見えさせらるゝ故、わすれさせられぬと也
御歌の意はかみあがり給ふ天皇の御事をば、よの人はたとひおもひ忘れかなしみしたふ事のやむとも、太后の御心には、中々面かげに見えさせられて、少しも忘れさせられぬと也
 
天皇崩時婦人作歌一首
すべらみこと、かみあがり給ふとき、たをやめのつくれるうた一首
 
天皇 前に同じ
婦人 倭名鈔卷第二人倫部云、婦人、日本紀、手弱女人、和名太乎夜米
 
姓氏未詳
 
古本には小字に注せり。古注者の文なり。注のごとくいづれの婦人とも難v考也
 
150 空蝉師神爾不勝者離居而朝嘆君放居而吾戀吾玉有着手爾卷持而衣有者脱時毛無吾戀君曾伎賊乃夜夢所見鶴
もぬけせし、かみにたへねば、はなれゐて、あさなげくきみ、はなれゐて、わがこふるきみ、たまならば、てにまきもちて、きぬならば、ぬぐときもなく、わがこふる、きみぞきそのよ、夢にみえつる
 
空蝉師神爾 古本印本諸抄物共に、うつせみしとよみて、うつせみの世と云意に用ゐたる義など釋せり。いづれにもあれ、うつせみしといふこと何と云歌詞にや。語例句例もこれなき義、無理にうつせみの世と云意にと釋せるも心得がたし。師の字野の(79)あやまりたるかと見ても、うつせみの神といふ事難v濟。よりて宗師の訓傳はこれを、もぬけせしとよむ也。空蝉なればせみのぬけたるごときむなしきあとのからをさして云たる義、天皇のかみあがり給ふを、それに比して喪と云詞は則崩御に縁ある詞又物かだり等にも、もぬけると云詞は用ゐ來たれば、崩じ給ふ天皇をせみのぬけ出たるに比して、もぬけせし神とはつゞけたるもの也。神とは則天子の御事直に神と奉2尊稱1義不v及v云義也
不勝者 もぬけてかみあがり給ふ天皇には、附そひ從ひ奉ることのならねばと也
離居而 崩御したまふ君なれば、はなれ奉る也
朝嘆君 あした夕部の無2差別1歎き慕ひ奉る君と也
睨時毛無吾戀 玉になぞらへていはゞ、手にまきもてるごとく、きぬにしていはゞ、少しの間もぬぐときもなく、君を慕ひ詫びなげくとの義也
君曾伎賊乃夜 こひしたひ奉る君そきのふの夜といふ義也。きそはきのふといふ事也。ゆふべの夜といはんがごとし。上にあさなげく君とある故、きのふの夜と下によみたるもの也
夢所見鶴 こひしたひなげきかなしみ奉る心の、せつなるあまりに、かみあがり給ひし君の、夢に見えさせ給ふと也
歌の意はせみのぬけ出たる如く、むなしくかみあがり給ふ君に、つきそひしたがひ奉る事のかなはねば、はなれ奉りて朝夕なげきしたひ奉ることは、玉ならば手にまけるごとく、衣ならば少しの間もぬぐことなきごとく、なげきかなしむことの不v被v止、こひしたひ奉る君の、ゆふべの夢にさへ見えさせ給ふと也。慕ひ悲みたてまつることの切なる心をあらはしたる歌也
 
天皇大殯之時歌二首
すべらみこと、おほもがりのときのうたふたくさ
 
大殯 日本紀卷第廿七云、十年云々、十二月癸亥朔乙丑、天皇崩2于近江宮1、癸酉殯2于新宮1。おほもがりとは、尊骸を棺におさめ奉るを云ひ、いまだ禮を以て不v奉v葬、かりに奉v葬を殯斂と云。斂は收也。大とは尊稱して云たる義、又禮紀曲禮に、小殯大(80)殯と云事あれば、この大殯は先奉v葬ときの事と見えたり
 
151 如是有乃豫知勢婆大御船泊之登萬里人標結麻思乎
かゝらんと、かねてしりせば、大みふね、はてしとまりに、しめゆはましを
 
如是有乃 此乃の字、古本印本ともに同事也。及の字のあやまりと見えたり。乃の字とゝよまん義心得がたし。登の字か及の字の誤りと見るべし。かくあらんとはかねてしりせば也。もがりの時志賀より湖水をみふねにて、山科のみさゝきへ送り奉りしと見えたり。今時の通路とはちかひて、上古は志賀より大津の邊迄ふねにて通ひたる歟。禮記曲禮に天子舟車殯といふ事あり。これによつて殯の義舟の事をよめる歟
大御船 大は天子のみふねなれば尊んで也
泊之登萬里人標結麻思乎 みふねのつく所にしめをゆふて、天皇をあげたてまつらせまじきをと也。みふねとまりてあがらせ給ふてよりは、もはや二度かへらせ給はぬ事を、なげきかなしみて也
 
額田王
 
古本に如v此歌の下に注せり。本文にはあらず。古注者考ふるところありて記し置きたる也。いかさまにも、歌のすがた女子の意と見えて、あはれにもおろかしく聞え侍る也
 
152 八隅知之吾期大王乃大御船待可將戀四賀乃辛崎
やすみしゝ、わがおはきみの、おはみふね、まちかこふらん、しがのからさき
 
やすみしゝの事は、第一卷にくわしく注せる通也。近江の志賀の都のときなれば、からさきよりみふねにめさしめて、もがりなし奉りたると見えたり。もがりのときのみふねなれば、もはや二度かへらせ給はぬを、それとも知らで待ちやこふらんとおさなくよめること、あはれにきこゆる也
 
舍人吉年
 
(81)是も古本の注なり。古注者考ふるところありて如v此注せる也。舍人吉年か傳系於v今者難v考也
 
太后御歌一首
おほきさきのみうたひとくさ
 
此御うたあながちかりもがりの時の御歌とも見えねども、何とも標題なし。太后御歌とあれば前二首の歌の標題をうけて見るべき歟。此歌の終句如何とも解しがたき故、全躰の意難v決なり。よりてかりもがりのときの歌とも不v被v定。またそれにてあるまじきとも不v被v決。とかく裳中の御歌と見て置くべき也
 
153 鯨魚取淡海乃海乎奧放而榜來船邊附而榜來船奧津加伊痛勿波禰曾邊津加伊痛莫波禰曾若草乃嬬之念鳥立
いさなとり、あふみのうみを、おきさけで、こぎくるふね、へにつきて、こぎくるふね、おきつかい、いたくなはねそ、へつかい、いたくなはねそ、わかくさの、つまの念鳥立
 
鯨魚取 は前に注せるごとく、うといはんための冠辭いさなとり鵜とうけたる義、また鵜の別名をいさなといふ歟の兩義也
奧放而 遠ざかりて也
榜來船 すべての船をさして也。もがりのときのみふねと云にはあらず
邊附而 おきをさけてある故、いそばたにつきての意也
興津加伊 おきつは添たる詞也。下のへつも同斷かいといふ迄の事也。和名鈔云、棹、釋名云、在v旁撥v水曰v櫂、【直教反、字亦作v棹、楊氏漢語抄云加伊、】櫂2於水中1、且v進v櫂也云々。釋名曰【櫂濯也、濯2於水中1也】字書云、櫂進v船※[手偏+楫の旁+戈]也、在v傍撥v水、短曰v※[手偏+楫の旁+戈]長曰v櫂
痛勿波禰曾 いたくは、はなはだ敷など云と同事にて、俗にかさだかになどいふと同事也。はねそは、船をこぐわざの事也。櫂をもてふねを漕ぐとき、水中より櫂をあげるをはねると云也
邊津加伊 上と同事にて、重ねて言葉をながくのべたるもの也
(82)若草乃嬬之 夫婦を云古語也。こゝは則ち天皇をさしての給ふ詞也。日本紀卷第十五仁賢紀云、古者以2弱草1喩2夫婦1、故以2弱草1爲v夫
念鳥立 此三字の意、いかんともしれがたき也。宗師案にはもし一句脱たる歟。念の字命の字の誤り歟。たゞし此集十一卷目の歌の格をもて、通例意のしれたる歌は、てには詞をそへてよむごとく、此の歌もしのべるともこそたてとよまんか。又みことの鳥やたつらんとか。然るときは歌の意淡海のうみの奧邊より、こぎくるすべての船のかひをあらくさはがしげにはねそ、湖水にうかめる水鳥は、天皇の御遊覽ありて、したひおぼしめしたる鳥のたちさらんあひだ、鳥のたゝぬやうに、こぎ來れとの御歌と見る也。外に見樣なき歌なれば、古來如v此迄には解釋す。もし後學の發起あらば幸ならんかし。愚案此歌殯の時又御葬禮のとき、みふねにめさしめて送り奉る時の歌にて、ふねを速鳥と云古語あれば、鳥は船のこと歟。又鳧の字歟。立は出の字のあやまれる歟。しからばつまの命のみふね出にといふ事ならんか。天子舟車殯といふ事あれば、とかく舟の義と見ゆる也
 
石川夫人歌一首
 
石川のおとし、傳不v知
 
154 神樂浪乃大山守者爲誰可山爾標結君毛不有國
さゞなみの、おはやまもりは、たがためか、やまにしめゆふ、きみもあらなくに
 
神樂浪 近江國の地名第一卷目に注せり
大山守 地名歟。但し天子の御物の山故、大山と云か。夫木氷室の歌に、行家、六月の照日もとかすさゞ波や大山ふかくつめる氷室は
標結 しめゆふは、彼地と此地との堺を限つてしるしを立るを云也。前にいふしめゆふもしるしをつけおく義也。字書云、標、卑遙切、表也。立v木爲v表
歌の意は、天皇ましまさぬに、何のため、誰がためにか山にしめゆふて、御山をまもるぞと、かなしみてよめる也
 
(83)從山科御陵退散之時額田王作歌一首
やましなのみさゝきよりまかであらくるとき、ぬかだのおほきみつくりたまふうたひとくさ
 
山科御陵 延喜式第廿一諸陵式云、山科陵。【近江大津宮御宇天智天皇、在2山城國宇治郷1兆域、東西十四町、南北十四町、陵戸六烟】陵、字書曰、大阜也、後高也、又帝王所v葬曰2山陵1。釋名曰、陵、隆也、體隆高也。喪葬令義解云、帝王墳墓如v山如v陵故謂2之山陵1。此陵の事、水鏡の説により給ひて歟、一條禅閤も公事根源抄に、あやしき説をしるし給へども天皇崩御の事は紀に明文ありて、此集にも如v此御不豫の御ときより、崩御の義、御葬の事迄の歌どもありて、うたがはしき事もなき御事也。御沓を藏め奉りて、御陵となし奉るとの説は、沙彌延鎭が事をとりちがへたる義なり。松下見林考文あり。尤しかるべき説也。さて日本紀を考ふるに、天智天皇の御葬禮は紀に脱せり。天武帝と大友皇子との御軍によりて、御葬禮の儀式は史の闕文歟。しかれども御葬禮被v行し事は、此集に如v此あれば、此葬禮はありしと見えたり
退散之時 御葬の事につどひ奉る諸司百官の人々、みな事果てかへりしぞくの時也
額田王 前に注せり。王も御葬禮の供奉にしたがひ給ふ歟。たゞし退散の時を察し給ひてよみ給ふか決しがたし
 
155 八隅知之和期大王之恐也御陵奉仕流山科乃鏡山爾夜者毛夜之盡晝者母日之盡哭耳呼泣乍在而哉百磯城乃大宮人着去別南
やすみしゝ、わがおほきみの、かしこきや、みはかつかふる、山しなの、かゞみのやまに、くるればも、よのあくるまで、ひるはもは、ひのくるゝまで、ねのみおらひ、いさちつゝありてや、もゝしきの、おほみやびとは、ゆきわかれなむ
 
御陵奉仕流 みはかつかふるとよむべし。於2御陵所1つかへまつる儀式の事どもある也
鏡山爾 山科の御陵の地名也
 
(84)夜者毛夜之盡 これを當家の流には義訓によむ也。古本印本のよみも義はおなじけれど、歌詞にしてはおだやかならず。よりてくるればもよのあくるまでとよむ也。者毛の二字は助語也。盡の字古本印本等晝の字にあやまれり。一本盡に書るを以て證とす
晝者毛日之盡 上に準じてひるはもは、日のくるゝまでと義訓によむなり。意はよはよもすがら、ひるはひねもすといふの義なり
哭耳呼 古本印本等には晝なきとよめり。晝の字の誤れると不v考故、一句によめるはあまりにつたなからんか。當家の傳にはねのみおらひとよむ也。ねのみおらひとは、今俗にも云なきさけぶ事也。此集中いくらも如v此よめる句例等不v及v擧
泣乍在而哉 是を一句にいさちつゝありてやとよむ也。泣の字をいさちとよむ事は、日本紀をはじめ此集中めづらしからぬ訓なれば細注に及ばず。ねのみおらひもいさちといふも、みなかなしみのあまり、こゑを出し泣く事を云義也。ありてやは御陵の事につかへ奉る間は、おらひかなしみゐて、今はそれ/\にかへりわかるゝと也
百磯城乃 は第一卷に注せる通也
去別南 御葬禮の儀に、奉仕の諸司百官、其事終りぬれば、みなそこ/\にかへりまかると也
歌の意はきこえたる通也
 
明日香淨御原宮御宇天皇代
 
是よりまた天武天皇の御代の歌どもを擧られたり
 
十市皇女薨時高市皇子尊御作歌三首
といちのひめみこ、みうせ給ふとき、たけちのみこのみことのみつくりうたみくさ
 
十市皇女 十市は大和國郡の地名也。倭名鈔卷第五、國郡部云、大和十市【戸保知】。第一卷に注せる通天武のみ子にて母は額田王也
薨時 日本紀卷第廿九、天武天皇七年夏四月丁亥朔云々、癸巳云々、十市皇女卒然病發薨2於宮中1、云々。懷風藻葛野王の傳によ(85)るに大友皇子の妻也
薨 禮記曲禮云、天子死曰v崩、諸侯曰v薨、喪葬令云、凡百官身亡者、親王及三位以上稱v薨、五位以上及2皇親1稱v卒。延喜式云、六位以下達2於庶人1稱v死。白虎通云、諸侯曰v薨、國失v陽薨之言奄也、奄然亡也
高市皇子尊 天武天皇皇子也。母胸形徳善女尼子娘
尊 日本紀神代上卷、至尊曰v尊、自餘曰v命、並訓美擧等也。此皇子を尊と奉v稱事は、草壁皇子薨去の後、皇太子となり給ふ故也。尊稱して尊の字を加へたりと見えたり。持統紀に後皇子尊としるしたるも此み子の事也
 
156 三諸之神之神須疑巳具耳矣自得見監乍共不寐夜叙多
みもろの、神のかみすぎ、いめにのみ、見えけんながらも、ねぬよぞおほき
 
三諸之神之 古本印本には、みもろのやとよむ、四言一句の例を不v知歟。十市皇女このみもろの近邊にましませしか。また赤穗に葬ると紀にあれば、赤穗といふ所みもろの近所なるか。とかくさやうの縁にて、みもろとは端書したまふなるべし。尤みもろきといふ意をも含めて、みもろ三輪の義とも聞ゆる也
神須疑 みもろの杉は神木にて、上古も今も同體の神にて、しるしの杉などゝよめる也。神木なるゆゑ下にいめとありて、いめは齊忌の字の意にて、神すぎいむとうけたるもの也
巳具耳 これを古本印本ともに、いくにのみとよむ。いくにのみとの義は、何と云事ならんか。具の字は冥の字のあやまりと見えたるを、誤字のまゝにくとよまんこと其意得がたし。それも意通ずる義あらば、そのまゝにもよまんか。いくにのみといふ義いかんとも心得がたし。當家の傳に冥の字と見て、いめにとよむ意は、神すぎをいむとうけたる意にていめは夢也。いめと云までは何の意もなく神木の杉なれば、たゞいむといふ冠辭によみ出でたる義と見るなり。歌の意はいめにのみといふより夢にある也
矣自 古本印本ともにをしとよめり。いくにをしとはいかなる義をいふ事にや。矣の字は笶の字の誤れる也。よりて笶自の二(86)字は訓字と見てのみとよむ也。しかれば夢にのみといふ義也
得見監乍共 これを一句字あまりに見えけんながらもとよむ也
此歌の意は、薨給ふ十市皇女なれば、現には見給ふ事は不v成。ゆめにのみは見え給ふらんながらも、深くなげきかなしみ給ふて、いねさせ給はぬ夜の多ければ、その夢にさへ見給はぬとの御歌也。三諸の神の神すぎとは、皇女の御在所此三諸の邊か又奉v葬しところそのあたりかの縁をもつて三諸とよみ出し給ひ、さていめといはん爲に、神の神すぎとは冠辭に置きたまふと見えたり。此歌古來よりいかんとも解釋する人なく、たま/\ありといへども心得がたき義なれば、當家の傳は如v此よみ解也もし後學者正字の別本を得て後案を加へ、異見の解釋もあらば猶珍重ならんかし
 
157 神山之山邊眞蘇木綿短木綿如此耳故爾長等思伎
かみやまの、山べまそゆふ、みじかゆふ、かくのみからに、ながくとおもひき
 
神山之山邊 前の歌にもみもろのとあり。此神山もみもろ山の事を神山とよめると見えたり。皇女の御在所近きあたりか、またはふむりおさめし近所歟。さなくば山邊には神などまつり置物故に、かくよみ出たまふならん。みもろ山を雷岳ともいふ。よりて神山ともいふと見えたり。雷を神といふことは、前にちはやぶる神といふ歌の所に具さに注せる也
眞蘇木綿短木綿 神祭の具へ物也。仙覺抄に、筑紫風土紀に長木綿短木綿といへる是也と云て二物にはあらず、まそゆふ、みじかゆふと重ねたる意に注せり。風土紀の全文所見なければ決しがたけれど、仙覺は所見ありてこそ如v此引書したらんなれば、先此説に從ふべき也。然れば麻にてつくるを長ゆふといひ、眞苧にて作るをみじかゆふといふて、苧麻にても作りたるをいふと號し、穀《カヂ》に作りたるをゆふと計り稱したると見えたり
木綿 神代上卷一書云、日神之田有2三處1中略、下枝懸2以粟忌部祖天日鷲所v作木綿1云云。古語拾遺云、令3天日鷲神|及《マヽ》津見昨見神穀木種殖之、以作2白和幣1是木綿也云云。和名抄卷第十三祭祀具部云、木綿、本草注云、木綿【和名由布】折v之多2白絲1者也。今もめんといふ音を以て稱するものとは異也。もめんは桓武天皇の御代唐代より渡りて、其後世に弘まれり。此まそゆふは、みじかゆふといはんためによみ出たる也。みじかゆふは、皇女のいのちのみじかきになぞらへて也
(87)如此耳故爾 かくのみからにとは、皇女のみうせ給ふをさして、かくのごとき故にとの義也
長等思伎 かく皇女の命の短かりし故、常にながかれと祈りおぼせしと也。如v此みじかき命故に、前表にか常々長くもがなとおぼしめしたるとの意也。諸抄の説はかく短き命なるに、いつまでももながき事とおぼせしとの注なり。しかれども故にといふ詞、右の釋にて不v濟、故にとよみても、からにとよみても、諸抄の釋にて此故にといふ事不v濟也
歌の意は、みもろの山邊に祭れる神に奉るみじか木綿のみじかきといふによそへて、皇女の命のかくもみじかくて、はやくみうせ給ふゆゑにか、つね/\長かれとのみおぼせしと也
 
158 山振之立儀足山清水酌爾雖行道之白嶋
やまぶきの、にほへるいろの、やましみづ、くみにゆかめど、みちのしらなく
 
山振 倭名鈔卷二十草木云、※[疑の旁が欠]冬。本草云、※[疑の旁が欠]冬一名虎鬚。【一本冬作v東也、和名夜末不々木一云夜末布木】萬葉集云、山吹花。此集山吹とも書けり。是れ訓書なり。振の字はふりともふきとも訓ずる也。此集に山吹、山振と訓書にせり。振はふりとも、ふきとも訓ずる故、※[疑の旁が欠]冬の訓書に如v此書きたり
立儀足 古本印本共にさきたると義訓せり。又或説にしみづをばと云。をばの字も見えねば、此三字をかちよそひたるとよむべしと釋あれども、兩説共に立儀二字の熟字證例を見ざれば、宗師の案は光儀の二字なるべく、神代下卷云、時味耜高彦招神光儀花艶云々とありて、光儀の二字は日本紀に書例あれば、立と光と紛れやすき字形なれば、決して立は光の誤れると見て、光儀の二字を匂へると義訓によむなり。ひかるよそほひはにほへる色なり。にほひと云は、香の事計りにてはなく、色の事を云也。足の字は色の字なるべし。これも誤りやすき字形也。よつて三字を一句ににほへるいろのとよむ也。山ぶきのにほへる色とは、黄泉の義を云たるもの也。山吹のいろは黄なるものなれば、黄なるいづみといふ意によそへてよめると見えたり。さなくてたゞ四月にかくれ給ふ故、山吹のある時節なればとの説計りにては其意得がたし。山吹をよみ出したるは、黄泉のことをいはん爲、にほへる色ともよみ出で給ふと見ゆる也
(88)山清水 やましみづと云て、下の意は闇きし水の義をふくみて也。死て行をやみ路に入と云。またやみくになどいへば也。やまもやもゝ同事にて、やもとやみと、同音なれば、下の意はやみ路の水といふ義也。且山清水の三字を谷水ともよむべき歟
酌爾雖行 くみにゆかめどみちのしらなく。死たる人に水を手向ることは、天竺の法にもある事にや。わが朝にては佛法の來渡せぬ已前よりあるわざにて、すでに日本紀武烈卷に鮪の臣が殺されし時、物部麁鹿火女影媛がよめる歌にも、玉笥には飯さへもり、玉もひに水さへもりとありて、上代より于v今猶のこれるわざ也。此歌の意は、水をも汲みそへ上げ給はんとおぼせど、よもぢに入たまふなれば、黄泉の水はくみに行き給はんみちのしられぬと也
古本には、小字にて紀曰七年戊寅四月丁亥朔癸巳十市皇女平然病發薨2於宮中1。如v此古注者の傍注あり。日本紀天武紀の文を書加へたる也。丁亥朔癸巳とあるは日本紀も如v此なり。しかれば四月七日なり。しかるに或抄等には四月朔日と書ける説あり日本紀を見あやまりたる歟
 
天皇崩之時太后御作歌一首
すべらみこと、かみあがり給ひしとき、おほきさきのみつくりうたひとくさ
 
天皇は天武帝也。朱鳥元年九月九日に、淨御原宮に崩じ給ひし事日本紀卷第廿九に審か也
太后は持統天皇也。崩御の時太后とは不v奉v稱れ共、後より尊稱して太后とは書たる也。日本紀卷第三十云、高天原廣野姫天皇、少名※[盧+鳥]野讃良皇女天命開別天皇第二女也
 
159 八隅知之我大王之暮去者召賜良之明來者問賜良志神岳乃山之黄葉乎今日毛鴨問給麻思明日毛鴨召賜萬旨其山乎振放見乍暮去者綾哀明來者裏佐備晩荒妙乃衣之袖者乾時文無
やすみしゝ、わがおほきみの、ゆふされば、召たまふらし、あけくれば、とひたまふらし、かみをかの、やまのもみぢを、けふもかも、とひたまはまし、あすもかも、めしたまはまし、そのやまを、ふりさけみつつ、ゆふされば、あやにかなしび、あけくれば、うらさびくらし、あらたへの、ころもの(89)そでは、ひるときもなし
 
神岳 仙覺抄にはみわ山とよむべしと釋せり。然れ共みわ山とみもろ山は別にて、ことに郡も違ひたれば、かんなびのみもろの山をよめる歌と聞ゆれば、文字の通かみをかとよむ也。神岳はみもろの事なり
召賜萬旨 上の召賜良之とあるも、この召賜ましとあるも同事にて、天皇の御在世にてましまさば、めしたまひ、とひたまはましに、崩れ給へばその事もなく、かへつてその山をもふりさけ見つゝと、よそに遠ざけみなすと也
綾はあなと云と同詞にて、嘆の詞かなしみの切なる義を云たる義也
裏佐備 第一卷にも注せるごとく、うらは初語の詞也。心をうらと云説あれども發語とみるべし
佐備 是も一卷の歌に注せり。ものゝかなしさの切なることをいふたる義也
荒妙乃 あらきゝぬの事、荒たへはふぢぬの抔云におなじく、崩御のときなれば、みなあらきぬのを着給ふ故に、縁あればよみ出し給ふなるべし
乾時文無 ひるときもなしと云て、天皇をこひしたひかなしみ給ふて、涙にくれて衣の袖のかはく間もなきと也
歌の意はきこえたる通かなしみの歌也
 
一書曰天皇崩之時太上天皇御製歌二首
あるふみにいはく、すべらみことかみあがり給ひし時、さきのすべらみことの、みつくりうたふたくさ
 
此標題萬葉の本文にはあらず。古注者の文にして、前に天皇崩之時太后のみつくりうたとあるによりて、別書に此二首のうた有しを所見して後に加へたる也。或本云とあらば此集の異本とも可v被v見也。一書とあれば別の書左の二首の御歌書きのせありしを所見と見えたり
 
太上天皇 持統天皇の御事也。日本太上天皇のはじめは持統天皇也。此崩之時太上天皇御製歌二首とあるも、後に書きたるも(90)のと見るべし。天武崩御の時太上天皇といふ號は無きなり。はるか後に書たるものなり。畢竟古注者尊稱してかきたる歟。また一書すぐに如v此かきたる書ありたる歟
 
160 燃火物取而※[果/衣]而福路庭入澄不言八面智男雲
ともしもの、とりてつゝみて、ふくろには、いるてふことは、おもしろなくも
 
燃火物 古本印本の點ともしひもとあり。ともしびをつゝむべきやうやあらん。これは乏物といふ意にて、天皇の御秘藏なされし物を悉くおさめ入れて、送り奉るの義、今の世とてもある事也。かつ上古は火打などをも棺の内へ入たるごとくも聞ゆる也。やみぢに入るといふによりさだめて火打を入たる義もあるべし。さてこそとりてつゝみてふくろにはと下にあるなり。此ふくろは火打袋などを云たる義歟。生前の時の旅行には上代みな火打袋を持ちたる也。日本武尊の東征のとき倭姫命の被v遣し事など、古事記に見えたり。しかれば送葬のときの具にも此歌を以て見れば棺中へ被v入たるやうにも聞ゆる也。火打と珍物との事をかねて、ともしものとはよみたまへるなるべし
入澄不言八 古本印本共にいるといはずやとよめり。かくよみては歌の義いかんといへる事か聞き得がたく、又聞えたる釋もなく、下の句の意も歌詞とも聞えず。いかんとも心得がたき點なり。當家の傳には、いるてふことはとよむ意は、火打あるひは珍物寶物等をとりつゝみて、ふくろにいるゝといふことは、御葬のときのことなれば、面白からぬ物うき事の義といふの意にて、入てふことゝはとよむ也。澄の字は※[徴の行人偏がさんずい]の字の俗字也。字書に※[徴の行人偏がさんずい]、直貞切、音里、水靜而清、徐鉉曰、今俗作v澄非v是云々。しかれば澄不の二字の音を借訓に書たると見る也。尤此集中に此澄の字をてと用ひたる事此外に不v見ば、若し片の水を誤りて添へたる歟。しからばとふとよむべし。とふといふもちふといふ轉語にて、といふといふことを等布ともいふこと則ち此集第十四卷の歌に、からす等布おほをそ鳥とよめる歌ありて、此とふもからすといふおほをそとといふ義也。いづれにまれ澄不の二字はといふといふの義と見ゆる也
面智男雲 古本印本共にもちおとこくもとよめり。如v此の歌詞あらんや。しかれども仙覺律師の釋に、葬禮のならひ二たび物(91)をあらため用ゐることを忌む事なれば、死人の枕上にともしたる火を以て葬所にて用ゐる故、それをもつべきをのこもきたるとの意歟と注せり。如v此釋しても全體の歌の意不v通也。よりて當家の傳はおもしろなくもよみて、全體の歌の意通する也。御葬送の時乏物どもをとりつゝみて、袋に入るゝといふ事は、おもしろからぬ物うき事と云の歌の意と聞ゆる也
智の字一本に知の宇に作れるもあり。因v茲則一僻案の釋あり。もし今の本の智の字知白の二字の合したる歟。なき本によりておもへば白の字を脱したる歟。智の字一字ならば、落すべき事にもあらねど、知白の二字故脱落あるまじきにもあらず。もしゝからば下の句の意別案あり。入澄不言八百知白男雲を、いるといふことのやもぢしらなくともいふ義ならんか。男雲とかきてなくもとよませる事は此集中數多也。やもぢはやみぢなり。ともし物とり包みてふくろに入といふことの、やみぢはいかやうのところぞ。したひ行たまひてしり給はんとの意歟。しらなんとはよもつくにゝ追ひ行て、そのみちをしり給はんとねがひたまふ意なり。御かなしみのあまり、やみぢをもしろしめしたきと、ねがひ給ふ義歟
 
161 向南山陣雲之青雲之星離去月牟離而
北山に、たなびくゝもし、青ぐもし、ほしはなれゆき、月もはなれて
 
向南山 きた山と古點をなせる尤よき訓なり。又大内山とも訓すべきか。天子は南面してたゝせ給ひ、臣は後に從ふなれば向南山とは禁廷をさしていひし御詠と見えたれば、禁中を大内山ともいへば、直ちに禁中をさしてのたまひし歌の意にもきこゆる也
陣雲之 この陣の字つらなるともよむべき歟。諸司百官の禁庭につらなるの義をよそへたまふか。然れどもくもとある故、つらなるよりは古點の通たなびく雲しかるべからんか。好むところにしたかふべし。たなびくにてもつらなるにても意はおなじ事なるべし。雲之とある之の字を訓によまん事きゝよけれども、青雲のほしとつゞく事いかゞなり。此歌は月卿雲客の事をよそへよみ給ふ事なれば、青雲のほしとは、ほしにかぎるところいかゞ也。よりて助字に見てしとはよむなり。もしくは毛のあやまり歟。たなびく雲も青雲もとよみたまへるか、しかれば義安き也
(92)星離去月牟離而 三公九卿月卿雲客悉くはなれ奉りて、行てかへらせ給はぬよみぢへ、天皇たゞ御ひとりいてますことの、果敢なくかなしき御事におぼしめす、かぎりなき御かなしみの御歌也
歌の意は右に釋するごとく、諸臣悉くはなれ奉り、かくれまします事を、いたみかなしませ給ふて、よませたまへるいともあはれなる御歌也
 
天皇崩之後八年九月九日奉爲御齊會之夜夢裡習賜御歌一首
すめらみこと、かみあがりたまふてのち、やとせながつき九日、おほんためのみをがみのよ、ゆめのうちによみ給ふみうたひとくさ
 
天皇 天武帝也
崩之後八年九月八日 日本紀卷第卅持統天皇七年九月丁亥朔云々、丙申爲2淨御原天皇1設2無遮大會於内裏1云々。此外八年九月に齊會を被v行し事紀に不v見。此時の御齊會のことなるべし。尤崩御の年より八年にあたる故、後八年としるせる歟。又九日とあれども持統紀を考ふれば、十日にあたるなり。しかれば九日夜のみゆめに見給ふを、九日としるせる歟。御忌日は九月九日也
御齊會之夜 饗僧拜佛誦經施物等を賜ふて佛事を被v行し義也
夢裏習賜 此習の字難2心得1。誦の誤りなるべし。よつてよみ給ふと點をなせり
 
162 明日香能淨御原乃宮爾天下所知食之八隅知之吾大王高照日之皇子何方爾所念食可神風乃伊勢能國者奧津藻毛靡足波爾鹽氣能味香乎禮流國爾味凝文爾乏寸高照日之御子
あすかの、きよみはらに、あめのした、しろしめしゝ、やすみしゝ、わがおほきみ、たかてらすひのみこ、いかさまに、おぼしめしてか、かみかぜの、いせのくには、おきつもゝ、なびきしなみに、け(93)ぶりのみ、かをれるくにゝ、うまごりの、あやにとぼしき、たかてるひのみこ
 
明日香能淨御原乃宮爾 天武天皇の御在世の皇居の地宮殿の義を云たる義也
高照日之皇子 前にも度々注せるごとく、天照大神より御正統のひつぎをうけ給ふすめらみこと故、直ちに日神のみこと云義也。此歌には別而日のみことなくてはかなふまじき御歌也
鹽氣能味 古本印本ともにしほけのみとよめり。しかれども鹽の氣のたつは、けむりのごとくなるものにて、水のけむりなどゝ古詠にもよめば、鹽氣の二字義則にけむりとはよむなり。波のたつときは煙のたつにひとしく見ゆれば、なびけるなみにけむりのみとつゞけたると見えたり
香乎禮流國爾 かをれるは薫る義也。今通例にはかほると書けども、薫るのかなはを也。かほるとほの字を書たる證明不v見。よつて當家の流にはをのかなを用ゐる也。はねる音の字のをほのうたがはしき假名は、ほの字を書くと云ひならはせり。不v合こと也。既に薫の字かなにほの字を書たる正記證明所見なく、既に此集如v此をの假名を用ゐたり
味凝文爾 うまこりとはあやといはんための冠辭にて、ほめたることば也。古本印本等にはあぢこりとよめり。あぢこりといふ義は何といふことわりにや心得がたし。當家の傳はうまこりとよむ、うまはほめたる義うま人のうましなどいふて稱美の詞也。こりはおりといふ義にて、うまおりの綾とうける冠詞也。あやとは感嘆したる詞あなと云も同事也
乏寸 は珍敷といふと同事にて、至つてほめたる詞也。如v此上より段々と、かをれる國にうまこりのあやにともしきと云下して、みな詞をながくほめたる義也
高照日之御子 天照大神の直にみことさしてのたまふたる義也。
この歌の意は、天武天皇のみたましゐ伊勢神宮にうつり入らせられ、直に日の神の御徳とひとしくならせ給ふゆゑ、あやにともしく見奉ることも、ならせられぬといふ義を御夢中によませ給ふ也。御夢の中の御うたなれば、始終の連續もあるまじき事なるに、しかもよくきこえて不思議なる御夢の歌也。かやうのこともありし故、御謚を天武とも奉2尊稱1られたると見えたり
 
藤原宮宮御宇天皇代 高天原廣姫天皇
 
(94)大津皇子薨之後大來皇女從伊勢齊宮上京之時御作歌二首
おほつのみこみまかれる後、おほきの皇女、いせのいつきのみやよりみやこにのぼり給ふときみつくりうたふたくさ
 
大津皇子 大來の皇女の事は前に審也
從伊勢齊宮上京之時 日本紀卷第卅持統紀云、朱鳥元年十一月丁酉朔壬子、幸2伊勢神祠1皇女大來還2至京師1云々
 
163 神風之伊勢能國爾母有益乎奈何可來計武君毛不有爾
かみかぜの、いせのくにゝも、あらましを、なにゝかきけん、君もあらなくに
 
此歌の意はきこえたる通也。此君とよみ給ふは大津皇子の事歟。また御父の親天武の御事をよませ給ふやわかちがたし。標題に大津皇子の事をあげたれば、皇子の事と見ゆれども、君とさし給ふことは前にもありといへども、このところにては、天武の御事ともきこゆる也
 
164 欲見吾爲君毛不有爾奈何可來計武馬疲爾
みまゝくはり、わがせしきみも、あらなくに、なにゝかきけん、うまつからしに
 
欲見吾爲 大來の皇子のみまほしくおぼしめすきみもましまさぬに、何しに京へのぼり給ひしことぞと也。これらの御うたをみても君とさし給ふは天武の御事のやうにきこえ侍る也。御父のみことをおきて、大津のみこをかくまでしたひ給ふべき事にも不v覺義也。歌の意はきこえたる通也
 
移葬大津皇子屍於葛城二上山之時大來皇女哀傷御作歌二首
おほつのみこのかばねを、かつらぎのふたかみやまにうつしはふむるとき、おほきのすめひめかなしみいたみたまふてみつくりうた二くさ
 
(95)屍 和名抄云、屍【音與v尸同、訓或通】死人形體曰v屍。禮記曲禮云、在v牀曰v尸在v棺曰v柩。白虎通云、尸之爲v言失也、陳也、失v氣亡v神形體独陳
葛城二上山 大和
移葬 一度被v葬てまた改葬ありしと見えたり。この葬の事前後とも紀に不v見ば年月時日難v考。次の羊醉木歌をもておもんみれば、翌年三月の頃ならんか
 
165 宇都曾見乃人爾有吾哉從明日者二上山乎弟世登吾將見
うつそみの、人なるわれや、あすよりは、ふたかみやまを、おとせとわれみん
 
宇都曾見 うつせみといふも同じ事にて、現の身といふこと也。第一卷にもくわしく注せり
人爾有吾哉 にあの約言なゝれば、なるわれやとはよむ也。意は皇女は現在の身なればと也。哉と云はわれはといふと同事也
二上山乎弟世登吾將見 過行たまふ弟のみ子を直に見給ふ事はもはやならねば、屍をおさめられたるふたかみ山を、おとゝのみこと見給はんと也。おとせといふはおとうとゝいふと同事也。せとはすべて女子より男子をさしていふ古語也。なせとわれ見んとよみて同じからん
歌の意は、おなじはらからの、おとのみこうせ給ひわけてもいたましきありかたちにて、かくれ給ひ、ことさらに改葬までありて、いとゞ御なげきのあまりに、皇女はかく現在まし/\ても、過行たまふ弟のみこを直に見たまふ事ならねば、今よりしては御はか所の二上山をおとのみこと見給はんと、したひかなしみ給ふて、よみたまへる也
 
166 磯之於爾生流馬醉木乎手折目杼令視倍吉君之在常不言爾
いそのうへに、おふるつゝじを、たをらめど、見すべききみの、ありといはなくに
 
礒之於爾 いしの上也。いそはいしといふ義也。水邊ならではなきものと心得たる人もあらんか。大なるたがひ也。石上ふるといふ地名にてもしるべき也。此いそのうへも、古注者もし海邊の事に心得たる歟。左注の趣心得がたき也
(96)馬醉木 馬の字は羊の字のあやまりならんか。馬なればあせみ也。毒木のあせみを折て、見すべき君かとよみ給ふ事あるべからず。あせみを此集に馬醉木と書て、牛馬此葉を食めば忽醉花と云傳へたり。又羊躑躅と書て、いはつゝじとも、もちつゝじともよめり。羊此花を喰はゞ、躑躅して忽死と云義あり。是によりてつゝじをもあせみの例にて羊醉木と書きたるを、羊を誤りて馬に作れる歟。されば古本印本ともに點にはつゝじとよめり
 
右一首今案不似移葬之歌盖疑從伊勢神宮還京之時路上見花感傷哀咽作此歌乎
みぎのひとくさ、いまおもふに、はふりをうつすときのうたにゝず、けだしうたがふらくは、いせのかんのみやよりみやこにかへり給ふとき、みちのほとりのはなざかりなるを見て、いたみかなしみむせびてこのうたをつくれるか
 
是古注者の文なり。此注心得がたし。二首ともなるほど移葬の時の歌と見ゆる也。しかるを伊勢よりかへり上り給ふとき、路次の花盛を見てといへること大成不v考事也。大來皇女いせよりかへり登り給ふは十一月なり。則年月前に注せり。しかればつゝじの咲くべき時節にあらず。古注者如v此見あやまりたるは、礒の於を海邊の事と見たる故なるべし
 
日並皇子尊殯宮之時柿本人麻呂作歌一首短歌
ひなめしのみこの尊のもがりの宮のとき、かきのもとのひとまろつくるうたひとくさならびにみじかうた
 
日並皇子尊 草壁皇子の事也。第一卷に注せり。持統紀云三年云々、夏四月云々、乙未皇太子草壁皇子尊薨云々。もがりのみやの事は、紀に不v見故月日難v考也
 
167 天地之初時之久竪之天河原爾八百萬干萬神之神集集座而神分分之時爾天照日女之命【一云指上日女之命】天乎波所知食登葦原乃水穂之國乎天地之依相之極所知行神之命等天雲之八重掻別而【一云天雲之八重雲別而】神下座(97)奉之高照日之皇子波飛鳥之淨之宮爾神隨太布座而天皇之敷座國等天原石門乎開神上上座奴【一云神登座爾之可婆】吾王皇子之命乃天下所知食世者春花之貴在等望月乃滿波之計武等天下【一云食國】四方之人乃大船之思憑而天水仰而待爾何方爾御念食可由縁母無眞弓乃崗爾宮柱太布座御座香乎高知座而明言爾御言不御問日月之數多成塗其故皇子之宮人行方不知毛【一云刺竹之皇子宮人歸邊不知爾爲】
あめつちの、はじめのときの、ひさかたの、あまのかはらに、やほよろづ、ちよろづかみの、かみづとひ、つどひいまして、かむくばり、くばりしときに、あまてらす、ひなめのみこと【一云さしあぐるひるめのみこと】あまつをば、しろしめさむと、あしはらの、みづほのくにを、あめつちの、よりあひしかぎり、しろしめす、かみのみことゝ、あまぐもの、やへかきわけて【一云あまぐものやへくもわけて】かみくだり、いましつかへし、たかてらす、ひのみこは、あすかのきよめしみやに、かみながら、ふとしきまして、すめろぎの、しきますくにと、あまのはら、いはとをひらき、かみあがり、あがりいましぬ【一云かむのぼりいましにしかば】わがきみの、みこのみことの、あめのした、しろしめしせば、はるはなの、かしこからむと、もちづきの、みちはしけむと、あめのした【一云をしくにの】よもなるひとの、おほぶねの、おもひたのみて、あまつみづ、あふぎてまつに、いかさまに、おぼしめしてか、ゆゑもなき、まゆみのをかに、みやばしら、ふとしきまして、みあらかを、たかしりまして、あさごとに、みことゝはせず、よるひるの、あまたになりぬ、そのゆゑに、みこのみやびと、ゆくへしらずも【一云さすたけのみこのみやびとゆくへしらざりし】
 
初時之 天地開闢ありしはいつともしれず。そのはじめのときは遠くひさしき事なれば、ひさかたの天といはんとての序に、(98)如v此よみ出したるもの也
久堅之 これは古來より説々多し。しかれどもみな理屈の説にて難2信用1義也。先づ久かたとはあめあまといはん爲の冠辭にて、それよりうけて天象の物に直ちに久かたの月、ひかりなどともよみ來れり。あめの冠辭にひさかたとよむ義は、天はとこしなへにして天地ひらけわかれしとき、いつをはじめともしられず。初めより遠く久しきものなれば、久しき方といふ義に、あめ空などの冠辭にいへるものなり。堅といふ字は借訓にて字義の意にはあらず。堅のとつゞく義はならぬ也
天河原爾 上天の義をさして云。神代卷古語拾遺等に、天安川などしるされたるも同事也
八百萬干萬 數かぎりもなく、あまたの神たちをさしていふたる義なり
神集集座 神代下卷云、故高皇産靈尊召2集八十諸神1云々。延喜式祝詞部、高天原神集賜比神議議云々
神分分之時爾 かんくばり、くばりし時にとよむべし。此意は天地山川萬物をつかさどりしろしめす神々を、それ/\そこそこに八百萬千萬の神たちあつまりて、はかり從ひ給ひしと云義也。神代の卷等にては、伊弉二神のみことのりにては御子神々をそれ/\にことよさゝしめ給ふとあるを、此歌にてもろ/\の神たち寄集りてはかり給ふと也。神代上卷云、是共生2日神1號2大日〓貴1中略當d早送2于天1而授以c天上之事u云々。此神くばりの事をいふたる也
天照日女之命 天照大神の義を云也。神代上卷、一書云、天照大日〓尊云々。しかれば日女の二字ひるめとよむべき也
一云指上日女之命 一本にはさしあぐるひるめの命とありしを、古注者書入れたる也。神代卷に天照大神を天柱をもてあめに送上と云ことあるによりて、さしあぐるひるめの命ともよめる歟
天乎波 古本印本にあまつをばとよめり。津の字なくても、訓義によりて例あれば苦しからず。みそらをばとよみても同事なれば、聞きよきかたにしたがふべし
所知食登 延喜式大殿祭祝詞云、所知食 止、古語云、志呂志女須。 是迄天の事は天照大神の治めしろしめすとの事なり
葦原乃水穂之國乎 我國を稱讃したる國號なり。神代卷に委しき傳あることなれば、細注を憚る。先は我國の佳名と心得て、廣く及ぼしては一天地國土の義ともしるべし。日本紀且延喜式の祝詞の文等に多き言葉也
(99)天地之依相之極 あめつちのよりあひしきはみとは、一天地國土のあらんはてかぎりまでと云義也。延喜式祝詞の文にあまたあり
所知行 國土の極まるはてまでをしろしめすとの事也
神之命等 天地國土の限をしろしめすことは、中々凡人の徳にてはならぬ義、神明の御徳を具へたまふて、をさめしろしめすといふ義、もつとも上天は天照大神しろしめし、國土のかぎりは瓊々杵の尊より已來、御代々の天皇をさして神の命とはよめる也
天雲之八重掻別而 幾重ものあまぐもゝかきわけて、はるかに遠き天より降臨ましませし事を述べたる也。神代卷且宣命祝詞等の詞に多き詞也
天下座奉之 天孫降臨の義を云て、天武帝迄の事をうけていひたるもの也。瓊々杵の命より、天武天皇迄の義を云ひたる事と見るべし
高照日之皇子 至つて尊稱して天子を直ちに日のみこにして、奉v見べき事也。此高照は天武の御事とも見え、また日並皇子の御事とも見ゆる也。いづれに見ても同事の意なるべし
神隨 かみなるからにと云の義也。第一卷にも注せり
太布座而 第一卷に注せり。天子の天下を治め給ふ事の、大なる御徳の正しく確かなる事になぞらへて、ほめ奉りたる詞也。祝詞の文等に多き詞也
天皇之敷座國等 御代々の日嗣の皇子のしきをさめ給ふ國と、太布座而と上へかへりて見る意也。日並皇子の天皇となり給ふて、敷をさめ給ふ國なるにと云の意にも相通ふ也
天原石門乎開神上 是は天皇はもし日嗣のみ子にもあれ、かくれましましたる義を云ひたること也。天照大神のみたまの御座所は、高天原の岩屋戸也。そのみたまをうけつぎ給ふ日嗣の御子なれば、その本の御座所に歸り給ふ故、石門を開きとなり。上天歸天といふて上一人より下萬民までも、たましゐのかたちを離るれば、本の上天に歸る理、この歌にてもさとりしるべきこ(100)と也。此歌一首をもつて我國神道の教を解かんにはいかやうにもいひのべらるべけれども、歌は歌の道一筋の事に見るべし。歌の道をもて天下の治亂の事をとき、教へのことに解きなすは、かへつて道の妨げあるもの也
上座奴 神あがりまし/\ぬと、是迄にて天武帝の崩御の義をのべたるもの也。皇子のかくれたまふ事を述べたる義とも見ゆる也
一云神登座爾之可婆 一説には如v此あると也。此一説の趣をもつてみれば、天武帝の神あがり給ひたる事をいふ句にきこゆる也
吾王皇子之命乃 日並尊をさして也
貴在等 花の香とうけたる意也。かしこからんと云は、おそるゝ義をもいへども、こゝは花のうるはしくよからんといふの意にて、花の香とうけんためにかしこからんとはいふたるもの也
望月乃滿波之計武跡 もちづきは十五夜の月を云。その月のくもりなきごとく、あきらけき道をしきほどこされんと、天下の人のおもひをかけしといふ義をよそへてよめる也
天下 一云食國 意は同じき也。本文にてはあめのしたとよみ、一云の義にてはをしくにのと、のゝ字を添へてよむべき也
四方之人乃 是を古本印本共に、よもの人のと一字不足によめり。四言一句の例もあまたあれば難もなけれど、此集中に之の字をなるとよめばよく義通じ、又よまねばならぬ歌もありて、之の字はなるとよむべき也。にあるといふの義にて、此之の字を書たると見えたり。駿河なる、信濃なるなども、信濃にある、駿河にあるといふ義を約してなるとは云たるもの也。此處もよもなる人のとよめば、能く句意調ふ也
大船之思憑而 此詞集中にあまたあり。古本印本等にも、おもひたのみてとよめり。大船はたのみあるものなる故にと云意にて、かくよめると云義なれども、たのみと云詞、船に縁なき詞なれば、何とも解しがたき也。日本紀神代上卷に顯神明之憑談、此六字をかんがゝりとよめる字訓あれば、憑の字かけてとか、かゝりてとかよむべき也。よつておもひをかけてとよむ也。船はかゝりかゝるといふことあれば也。又はおもひをよせてとよむ義もあらんか。依也託也といふ字義あれば、よせてもたのみと云(101)義とおなじ意にて、あめの下の人おもひよりて、たのみにしてと云義也
天水 あまつみづとつと云言葉をそへてよむべし。天水とは、雨の事を云たるもの也
仰而待爾 旱魃に雨を乞ふ如くに、皇子の天下をしろしめさんときをまちしにと也。又下の眞弓の岡より歸らせ給ふを、待つなど云の意をもこめたるか
由縁母無 何のよしもなきまゆみのをかの、もがりのみやにとゞまりましますことを云也
宮柱太布座 皇子のもがりのみや故、當然稱美してよめる也
御在香乎 御座所の事也。御殿をさしてみありかと云也。古語拾遺延喜式祝詞の文に、御殿の古語を、みあらかといふ事見えたり
明言爾 朝毎といふ意也。言の字もしくは暮の字の誤り歟。夜はいね給ふなれば、仰ごとあるはあさことゝもいはるべけれど暮の字なれば、明くれにと云ていよ/\義やすき也
御言不御問 みことゝはせずとは何事をものたまはずと也。不御問の字みとはずともよむべけれど、句例なければ天子の御事には御の字を添へ用ゐる事常のことなれば、とはせずとよむ也
日月之數 ひるよるのと、義訓に句を調へてよむべし
數多成塗 あまたになりぬとは、日並皇子かくれまして、もがりのみやへいでませしよりかへらせ給はず、仰事とてもなくあまたの月日のへぬればと也
其故 月日のあまたふれども、みことも問はせずして、かくれさせ給ふ故、皇子に奉仕の宮人どもみな離散すると也
行方不知毛 日並皇子尊うせ給へば、奉仕の宮人ども、みなちり/”\にわかれさりて、行へもしられずなり行事の、あはれにあさましき事をよめる也
此歌の意は、天つちひらけわかれて、たかく遠くひろき天の河原に、八百萬の神たちあつまりまして、それ/”\の神の御徳にしたがひて、つかさどり給ふ事を、ことよさし給ふて、そこそこにくばり給ふに、天照大神はみそらのことをしらしめ給へとの、(102)神はかりごと定まりて、一天地國土の君とならしめ給ふ事をはじめて、其御徳を今上皇帝までも、うけつぎゆづらせ給ふ事の、萬國にすぐれて尊くもかしこき我本邦の神系たゞならぬ趣をいひのべ、一天四海の夷八蕃までも、我神國の神の命の御徳をもて、惠み治めさせ給ふ儀と尊稱し奉りて、神代のふみにしるされたる天孫降臨まし/\てより、天武天皇まで神系たえず、神くだりいまし給ふ事をいひつゞけて、御代々のすめらぎは、すなはち御大祖の日の神のみ子と、尊みかしこみ奉る理りを示して、高照日の皇子とよみ給ふ。その御徳のことなる事は、神あがり給ふも日の神のみもとに歸りをさまり給ふといふ義を、石門をひらき、神上り上りいましぬとよみきりて、さて日並皇子の御存命まし/\て、日嗣の御徳をうけつがせ給ひて、あめの下を治め給はゞ、春の花も香はしく、秋の月もさやかにあきらけき御代と、四方の國人もたのみをかけて待ち奉りしに、よしもなくかくれまして、眞弓の宮に移り給ひしより、歸らせ給ふこともなく、御言だにのたまひ仰せられず、あまたの月日のへぬれば、つかへまつりし宮人のみなちり/”\にわかれ行きて、いとあさましくあはれなる時のありさまを、かくつまびらかによめる也。何の事もなき事をかやうに連續分明によみつらねし事、まことに人丸の風骨ならではなりがたき事也
一云刺竹之皇子云々 例の古注者の一説也。古本には小字にて下に割書せり。尤可v然也。さす竹の事説々有て、竹は君の徳に比し、天子皇子をさしていふたるものと云傳へたれど、すべて上代の冠辭さやうの理をつめて、重き事をいふたる義かつてなきこと也。みな後世入りほかなる説をもつていひまはしたること多し。此さす竹も箕といふ冠辞と見えたり。箕は竹にてさすものなれば、たゝみとうけるまでのことゝみゆる也。この後の歌はみな大みや人とあり。舍人壯士と云歌一首あり。これはとねりとよまんや。みやび人おのこともよむべきや。又うしかひわらはをもとねりといへば、このさす竹は別の意あらんか。まづさすたけとは箕の冠辭と見るべし。のち/\の集に入りたる歌には、さゝ竹ともよめり。しかれども本語はさす竹也。此集十五卷目の歌に、佐須太氣のと書きたれは、これを證とすべし
歸邊不知爾爲 古本印本ともに、不知爾爲の四字をいさにしてとも、しらずにしとも點をなせり。難2心得1點也。此四字は、しらざりしとよむべし。しらざりしはしらずありしと云の意也
 
反歌二首
 
(103)人丸の歌也
 
168 久堅乃天見如久仰見之皇子乃御門之荒卷惜毛
ひさかたの、あめみるごとく、あふぎみし、みこのみかどの、あれまくをしも
 
本歌に天水の仰て待にと云詞あり。よりて此反歌にも、天を見るごとく、仰見しと縁を引てよみたり。歌の意は、日つぎのみこなれば、天をあふぐことく尊みかしこみ奉りし、日並のみこかくれ給ひておはしまさねば、その宮殿宮門もあれはてんことのをしきと、かなしみいたみてよめる也。もといふはすべて嘆の詞をしきと云義を切にいひたる詞也
 
169 茜刺日者雖照有烏玉之夜渡月之隱良久惜毛
あかねさす、日はてらすれど、ぬばたまの、よわたる月の、かくらくをしも
 
日者雖照有云々 是は日を天皇に比し奉りて、月を皇子になぞらへてよめる歌と見えたり。かくらくをしもとは、かくるゝをしもといふ義也。るをのふればらくといふ詞也。歌の意はきこえたる通也
 
或本云以件歌爲後皇子貴殯宮之時歌反也
 
古本には如v前小書になせり。例の古注者の文なり。一本には、のちのみこのみことのもがりのみやのときの反歌にしるせり。いかさまにも奧の高市皇子殯のみやのときの反歌と混雜せると見えたり。いかにとなれば、奧の歌に去方を知らずとねりは迷惑とあるは、こゝの歌の反歌の句にきこえて、上の句の日はてらすれどゝよめるも、草壁皇子の薨じ給ふときには、いまだ太后萬機を攝政したまひて、帝位には即かせ給はざりし時也。高市皇子のかくれ給ふときは、全く持統天皇の即位まし/\し後なり。後皇子貴、此貴の字は尊の字のあやまりなるべし。後のみ子の尊と稱し奉るは、いづれのみこの事とも雖v知事なるに、釋日本紀私記の説によりて、高市のみことは知らるゝ也。高市のみこ立太子の事紀に不v見。正敷闕文と見えたり。尤釋日本紀にも此事を釋せり。日本紀持統卷云十年春正月云々、秋七月辛丑朔云々、庚戌後皇子尊薨云々
歌反也 反歌の轉倒なるべし
 
(104)或本歌一首
 
170 嶋宮勾乃池之放鳥人目爾戀而池爾不潜
しまのみや、まがりのいけの、はなちどり、ひとめにもひて、いけにかづかず
 
古本には一行さげてしるせり。古注者の書添へたる歌也
島宮勾乃池 日並皇子のまし/\たる所をよみたる也
放鳥 庭水或は池に飼はせ置たまふ鳥を云也
人目爾戀而池爾不潜 古本印本ともに人めにこひてとよめり。人めにもひてともよむ也。もひてはみだれまよひてといふ義也。まよの約言はもなり。戀といふ詞は心迷ひ也。今云請乞の意と、上古の戀と云義とは意違ひたり。こゝも皇子のましまさねば見る人めもなき故に、恒にかはりたれば、まどひて鳥も池に浮沈をしてもあそばぬと也。古今集に、いつの人間にうつろひぬらんとよめる歌あり。こゝも人間と云ことにやあらん。意はおなじき義にて、見る人もなくてことかはりたる故に、心迷ひて鳥も水に浮沈して遊ばぬとの義ならんか
 
萬葉童蒙抄 卷第二終
 
(105)萬葉童蒙抄 卷第三
 
皇子尊宮舍人等働傷作歌二十三首
みこの宮のとねりら、かなしみいたみてつくるうたはたちあまりみくさ
 
皇子宮 日並皇子の御座所の義也
舍人等 春宮の雜使供奉禁衛等を勤むるもの也。禁中には、大舍人内舍人など云。春宮にてはたゞ舍人といひて數百人あり。東宮職員令云。舍人監正一人、掌2舍人名帳、禮儀、番事1、佑一人、令史一人、舍人六百人、云云
 
171 高光我日皇子乃萬代爾國所知麻之島宮婆母
たかひかる、あが日のみこの、よろづよに、くにしらさまし、しまのみやはも
 
高光我日皇子乃 あがひのみことは、あが大きみなど云意とおなじ義にて、たかひかる明とうける意にて、あがはしたしみの詞にいひたる義也
所知麻之 しらさましとよむ意は、しろしめさましと云義也。古本印本等には、しられましとよめり。しられましとよみては義解しがたき也
婆母 かなしみいたむ歎悲の詞也。はやわやなど云も、みなかなしみ慕ひて心に歎慨をなすを云ふことば也。日本紀等にあまたある義也。此歌の意は、皇子尊御存命ましまさば、よろづ代までも此島の宮に、天下をゝさめしろしめさましを、かくれたまひてましまさねば、今はあはれにかなしき宮かなと悲歎し奉りたる也
 
172 島宮上池有放鳥荒備勿行君不座十方
しまのみや、うへのいけなる、はなちどり、あらびなゆきそ、君まさずとも
 
(106)島宮上池 前の或本の歌にも、勾の池之よめり。此歌に上池なるとあるは、もし勾の字を上にあやまりたるか。うへといふてはほとりの義と見るべし。島宮の邊に勾のいけと云がありしと見えたり
池有 と云は、池にあるはなちどりと云義也。さして深き意味もなく、きこえたる歌なれば不v能2細釋1
 
173 高光吾日皇子乃伊座世者島御門者不荒有益乎
たかひかる、あがひのみこの、いましせば、しまのみかどは、あれざらましを
 
益乎 の益の字盖に作れるは、益の字の誤也。よって益の字に改る也。歌の意不v及v釋。島のみやはもの歌の意にかよひたる意也
 
174 外爾見之檀乃岡毛君座者常都御門跡侍宿爲鴨
よそに見し、まゆみのをかも、きみませば、とこつみかどゝ、とのゐするかも
 
檀乃岡 前の人丸の長歌にもよめる眞弓のをか也。此所にもがりなしたてまつれると見えたり
此歌はもがりのときの歌と見えたり。さるによりて、日ごろはこゝろをもとめず、よそに見し所なれども、皇子をもがりし奉るにより、其殯の宮をとこつみ門とおもひ宿直すると也。當分かりの事なるに、いつまでもましますことのやうに、果敢なくも宿直するかなと悲歎の意を下にふくみてよめる歌也
 
175 夢爾谷不見在之物乎欝悒宮出毛爲鹿作日之隅囘乎
ゆめにだに、見ざりしものを、こゝろうく、宮でもするか、さひのくまわを
 
不見在之 すめの約言さなれば、みずありしといふ義をみざりしとはよむ也
欝悒 此二字所によりて訓一定せざる也。此處にてはこゝろうくとよむべし。悒の字を把※[手偏+邑]に作れるは誤也
宮出 皇子の宮に仕へ奉りし時は、外出他行は成難かりしに、み子の宮人行方不v知とよめる如く、皆ちり/”\に離散する義也
佐日之隅囘乎 和州の地名也
(107)此歌の意は、皇子尊まします時は、外出他行をすることならざれば、さひのくまなども見もしらざりし所なるに、みこかくれましては、舍人等もみなちり/”\に行わかるゝ故、常にも不v見し所を、今はみることの心うきと也
 
176 天地與共將終登念乍奉仕之情違奴
あめつちと、ともにをへんと、おもひっゝ、つかへまつりし、こゝろたがひぬ
 
日並皇子の御在世、幾久しく限なくましませと願ひて仕へ奉りしに、思はずもかくみまかりかくれさせ給ふ故、かねて願ひ思ひしにたがひたる事共をあらはして、情たがひぬとはよめる也。奧の歌に、吾御門千代とことはにとよめる意と同じき歌也
 
177 朝日弖流佐太乃岡邊爾群居乍吾等哭涙息時毛無
あさひてる、さたのをかべに、むれゐつゝ、あらなくなみだ、やむときもなし
 
朝日弖流 あさひのさしむかひてらす、佐太の岡邊の當然の事實をもよみたるか。尤日嗣の皇子なれば、東の宮と稱し奉る意をもて、あさひは東をてらすなれば如v此よめるなり
吾等 あらとよむは嘆の意を含て也。歌はきこえたる通也
 
178 御立爲之島乎見時庭多泉流涙止曾金鶴
みたゝせし、しまをみるとき、にはたづみ、ながるゝなみだ、やめぞかねつる
 
御立爲之云云 皇子の御座被v成し島の宮の、作り庭泉水などをみる時にはと云義也。御立爲之は、被v成2御座1しと云と同じ
庭多泉 雨ふりて庭上路上などに水の流るゝを云也。和名鈔卷第一云、潦、唐韻云、潦音老【和名爾八太豆美】雨水也。字書曰、雨水大貌云云、にはたづみとはたまり水と云義也。下に、ながるゝなみだといはん爲に、庭たづみながるゝとはよみ出したる也。かなしみのいと切なるまゝに、涙も雨水のごとくながれてとゞめかぬると也。きこえたる歌也
 
179 橘之島宮爾者不飽鴨佐田乃岡邊爾侍宿爲爾徃
(108)たちばなの、島のみやには、あかずかも、佐田のをかべに、とのゐしにゆく
 
橘之島宮 皇子の常にましませる所、其近所にさたの岡べありて、その所にもがりし奉れると見えたり。眞弓のをかともいひ、さたのをかべともいへる歟。常にましましたる橘の島の宮に、あかずつかへ奉らんに、かへつてさたのをかべへとのゐをしにゆくと、なげきたる歌と見えたり
 
180 御立爲之島乎母家跡住鳥毛荒備勿行年替左右
みたゝせし、しまをもいへと、すむとりも、あらびなゆきそ、としかはるとも
 
御立爲之 前に注せるごとく、皇子被v成2御座1しと云と同じ
島乎母家跡 皇子の住給ひし宮に、島山池など被v爲v被v作てありし故、島の宮ともいひて、はなち鳥など被v飼しと見えたり
荒備勿行 これは皇子のましませし時とは、よろづの事うつりかはり行事をかなしみて、かはれし鳥にせめてみこのましまさずとも、さのみなあらびて、みあともゆかりもなきやうになり行にかしと、皇子をしたひ奉る情のふかきよりかなしみてよめる歌也。左右の字はともとも讀べき義訓也
 
181 御立爲之島之荒磯乎今見者不生有之草生爾來鴨
みたゝせし、しまのあらそを、いまみれば、おひざりしくさ、おひにけるかも
 
島之荒磯乎 島池等をつくらせおかれたる宮と見えたり。皇子のましまさぬ故、草木庭の木立置石などもあれ行き、うつりかはれる景色をよめる也。如v此宮所のあれはて行故、前の歌に鳥に下知して、あらぴな行そともよみて、御座所の作庭迄うつりかはり行て、あれはつることをいたみてよめる也。かもはかなにて皆歎の詞也
 
182 鳥〓立飼之鴈乃兒栖立去者檀崗爾飛反來年
とくらたて、かひしたかのこ、すだちゆかば、まゆみのをかに、とびかへりこね
 
鳥〓立 鳥を飼屋也
(109)飼之鴈乃兒 此鴈の字鷹の字のあやまり也。鴈に鳥〓を立べき理なし。鴈は水鳥にて鳥屋に飼ふべきものならず。日並皇子狩を好ませ給ふなれば鷹にてあるべき也。よつて鷹の字に改むる也
來年 きたるべしと下知したる義也。ねと云詞は、すべてわれよりかれに下知する詞此集中多し
歌の意は聞えたる通也
 
183 吾御門千代常登婆爾將營等念而有之吾志悲毛
わがみかど、ちよとことはに、さかえむと、ねがひつゝありし、われしかなしも
 
吾御門 皇子の宮をさして也。前の天地とゝもにとよめる歌の意とおなじ
念而 ねがひつゝとよむべし。念の字而の字の訓、奧に到りても尚釋すべし
 
184 東乃多藝能御門爾雖伺侍昨日毛今日毛召言毛無
ひがしの、たきのみかどに、さむらへど、きのふもけふも、めすこともなし
 
東乃 ひがしのとよむべき也。ひんがしと皆よみ來れども、訓釋の義、むとはねては不v合也。いきしちにひみいりゐは、みな讀みくせにはねる故ひんとはぬるは讀みくせ也。義訓にみこのみやのとか、はるのみやのとかよみたき也。しかれども外に句例證例なき故、先ひがしのと四言一句によむ也
多藝能御門 是も皇子の御座ありし所と見えたり。歌の意はしれたる義なれは不v及2注釋1
 
185 水傳礒乃浦囘乃石乍自木丘關道乎又將見鴨
みづつたふ、いそのうらわの、いはつゝじ、こゞせきみちを、またみなんかも
 
水傳 水邊の岩山かげの岩ねなど、おのづから水したゝりつたふものなれば、礒の序詞にいへる也。外に義訓あらんか。まづ古本印本の點にまかせよむ也
礒の浦回 攝津國の名所也
(110)石乍自 和名鈔卷廿云、陶隱居、本草注云、羊躑躅、【擲直二音和名以波豆々之、一云毛知豆々之】羊誤食v之、躑躅而死、故以名v之。今つゝじといふに二種あり。もちつゝじといふはうすむらさき也。いかさま此つゝじには毒氣あるものか。さる國にて或僧童男女二三子つれてつゝじの花見に山中に行しが、わらべのためとて、さたうもち用意したりけるに、みな打寄りてくひけるが、あたりなるつゝじの花を、手ずさみにむしりてともにくひければ、たちまちその二三子のわらわべ、まのあたりに血をはきて死せり。かの僧もそのまゝにはえあり難ければ、同じくさとうにあえし餅とつゝじの花をくひければ、そのまゝこれも血をはきて死にきとなんかたりつたへたるものあり。のちのちも心得侍るべき事也
木丘開道乎 古本印本とも關の字開の字に作りて、もくさくみちをとよめり。茂の字の意にて、しげくさくことを、もくさくといふとの説などあれど、この集中にもまた外々の集にも、もくさくと云語例句例歌詞に不v見。よつて宗師案には開の字關の字の誤にて、こゞせきみちとよむ也。その意は、いはつゝじなどの、しげり生ひたるさかしきこゞしき道といふ義也。こゝは石乍自濃とうけたる詞にて、こゞせきはこゞしきといふと同じ。第一卷の歌にも、石根禁などよめるもおなじ意にて、山路の岩根などに、つゝじなどしげりて、こゞしきみちを云たる義也
此歌の意は、舍人の本國津の國礒浦なる故、皇子かくれ給ひしかば、みな離散して國にかへるなれば、島宮などの結構なるところにつかへしに、また引かへて本國にかへり、礒のうらわのさかしき道をみなんかと、かなしみてよめる歌也。さひのくまわをの歌と同じ意の格に見るべし。さなくては礒のうらわをよめる理、いかんともきこえざる也
 
186 一日者千遍參入之東乃太寸御門乎入不勝鴨
ひとひには、ちたびまゐりし、みこのみやの、たきのみかどを、いりたへぬかも
 
一日者千遍 ひとひの内には、いくたびも/\まゐり入まかで出たると也。千たびとは幾度もと云の意地。ひとひとよみ出たる故、數字の詞をもてちたびとはよめる也。あながち千度ときはめさだまりたる事にはあらず。幾たびもの事也
東 これを古本印本等の點、みなひんがしとよみきたれども、東の字義ひんとはねる義は不v叶。よみくせにひんとはいへども、義に於てはぬることはならぬ也。よりてみこのみやのと前にも點せるごとくよむべき也
(111)入不勝鴨 いりたへぬかもは、入はたさぬと云義也。よりてあへぬとも、たへぬとも、かてぬともよむべし。意はいりはたさぬと云の義也。此歌の意、皇子のましましゝときは一日に幾度ともかぎらす參入侍りし御門を、今はその通に入はたさぬとなり
 
187 所由無佐太乃岡邊爾反居者島御橋爾誰加住舞無
ゆゑもなき、さたのをかべに、かへりゐば、しまのみはしに、たれかすまはん
 
所由無 前に人丸の長歌にも、由縁もなきまゆみのをかとよめる意とおなじ。何のゆゑんもなきところに皇子をもがりし奉れる故に、よからぬといふ意にゆゑもなきとはよめる也
反居者 殯の宮に舍人等奉仕する義を反居者と也。島の宮檀の岡さたの岡べ皆一所の義にて、御座所の有ところ/”\の地名と見えたり。其内に橘のしまの宮、たきのみかど、檀のをかなど云は、常にみこの住み給ひし宮と見えたり。さたのをかべはもがり所と見ゆる也
島乃御橋爾 壇弓のをかの宮の内に、島を被v造たる所ありしと見えて、如v此池嶋御橋などよめる也
歌の意はゆゑもなきもがりの宮所へ皆まゐり仕へて居れば、皇子の常に住み給ひし島のみやには、誰つかへまつるものなく、折角造り置れたる嶋回御橋等もすむ人もなくなりて、むなしき荒地とならんとかなしみてよめる也
 
188 旦覆日之入去者御立之島爾下座而嘆鶴鴨
【しまかくれ・かつくらく・あさくもり】ひの【いりゆけば・いりぬれば】みたゝせし、しまにおりゐて、なげきつるかも
 
旦覆 此二字の訓點いまだ何とも難v決。古本印本の點はあさぐもりとよめり。夕部にこそ日は入といふに、あしたに日の入ゆけばと云義六ケ敷也。諸抄の説は、皇子の東宮にてましませば、日の出でさせ給ふごとくおもひ奉りしに、俄にかくれさせ給ひあさぐもれる日の出もやらせられずいり給ふと同じやうに思と云意にて、皇子のみことのかくれさせ給ふたる義によそへてよめるとの義也。しかれども詞を添てかくのごとくいはねば、聞得がたき義理故むづかしき釋也。尤次の歌にも、あさひてるといふに、旦日の二字を書たれば、こゝも旦の字にて、あさとよむべき歌ならんずれども、あさぐもりと云訓は心ゆかず。何と(112)ぞ別訓あらんか。師案には且《シヤ》の字歟。しからばしばとよむ訓あり。なればしばはしまなれば、嶋宮の地名あれば、しまがくれとよまんか。又の案|旦《タン》の字にて、かつとよむ意もあらんか。かつはかくといふ義なれば、かつくらくとは皇子のかくれさせ給へば、仕官の舍人等は闇夜のごとくかなしき意にて、かくゝらく日の入りぬればとよむべきや。右三點は後學の人尚後案の助けによるべし
御立之 爲の字なくても、前の例にてせしとよむべし
下座而 島にと有故、おりゐてとよみて、おり居に別の意はなく、たゞみこの住給ふ宮の作り嶋などに居て慕ひ悲むとの義也
歌の意不v及v釋也。旦覆の訓尚可v有2後案1こと也
 
189 旦日照嶋乃御門爾欝悒人音毛不爲者眞浦悲毛
あさひてる、しまのみかどに、こゝろうく、ひとおともせねば、まうらかなしも
 
旦日照 日嗣の皇子の宮故、前のうたにもよめる意におなじ。岡邊抔はあさひ殊にさし出るところゆゑよめると云説もあれどしまともあれば、とかく東宮の御座所を尊稱していふたる意と見るべき也
欝悒の二字は前の歌にもありて、此歌にてもこゝろうくとよむべき也。おぼつかなゝど云ては此歌の意心得がたし
眞浦悲毛 まうらかなしとは、まもうらも初語にてたゞかなしきといふ意也。しかれどもこのうらかなしき、うらさびしなど云は、歎の意をこめて、どこともなくかなしきといふ意のとき、うらと云詞をよめる也。こゝろかなしきと云義なりとの説もあたらぬにてもなし。何をそれとさすこともなく、いづかたともなくものかなしきこと也
 
190 眞木柱太心者有之香杼此吾心鎭目金津毛
まきばしら、ふときこゝろは、ありしかど、このわがこゝろ、しづめかねつも
 
眞木柱 まは初語也。たゞ木と云こと也。はしらとはふときといはんための序也。神代の古語にもはしらはふとくたくましくとあり。その外日本紀延喜式の祝詞にも、宮柱ふとしきなど云古語ありて、家居のはしらはふときをよしとし、たのめるも(113)のなれば、ふときといはん冠辭にまきばしらとよめる也。此集中にも宮柱太しきなどよめること數しらず
太心者 舍人等の皇子に仕奉るに、隨分勇者丈夫を守りて仕ふる身なれども、今この皇子のかくれさせ給ふかなしみの愁情は、しづめがたきと也。此わがこゝろとは、かなしみのこゝろの義を云ふたる也。歌の意かくれたるところもなき也
 
191 毛許呂裳遠春冬片設而幸之宇陀乃大野者所念武鴨
けごろもを、はるふゆかけて、いでませし、うだのおほのは、しのばれむかも
 
毛許呂裳 鳥獣の毛をもつておりたるころも也。狩場抔に用ある衣、常服にはあらぬ衣也。衣を張といひ出ん爲の序詞也。尤も狩に出で給ふことを云たる歌故、狩場の衣をもてよみ出たる也
片設而 これを諸抄物尤も點本等みなかたまけてとよめり。時にさきだつて設おきて時をまつを、かたまけといふとの説也。何とも心得がたし。當家の流には、片設の二字は義訓と見る也。かた/\まうけるといふには不2同意1。決如の義にて掛の借訓とする也。闕掛義は異なれど、ことばおなじければ、春冬掛てといふ義と、闕の字の訓をかりてよむ也。春冬かけては、春から冬までと云意にもきこえ、また春と冬とにかけてと云の義にもきこゆる也。それはいづれにまれ、此皇子狩をこのみ給ふ故、春冬ともにいでませしといふ義を云たるもの也
宇陀乃大野 大和の地名也。狩をしたまふ野ときこゆる也
所念武鴨 皇子の度々みかりに出ませし野なる故、この後は皆人のしのぶにてあらんと、おしはかりたる也。しのばるゝかもと可v云樣なれど、大野を人のしのぶにてあらんと察したる歌也。きこえたる歌也
 
192 朝日照佐太乃岡邊爾鳴鳥之夜鳴變布此年己呂乎
あさひてる、さたのをかべに、なくとりの、よなきわびしき、このとしごろを
 
上の句はきこえたる通にて、下の句誤字有る故難v解。師の案には變の字誤れりと見る也
變布 此二字うつらふとよみて、歌の意不v通也。或抄に凶鳥の夜鳴せしことを、よめる歌と注せる尤可也。しかれども變布の(114)字の注解をなさず、いかゞ見置たるやいぶかし。此變の字は戀の字の誤りと見れば下の句の意通也。變布はわびしき也。わづらはしきと云義也。しかれば此歌の意、此としごろさたのをかべに、ぬえふくろうなどの凶鳥夜なきせしことの、わづらはしくおもひつるは、かゝる凶事あらんとての沙汰なりしと、かなしみてよめる歌也
變布の二字一本には、變而布の三字に作れるもありし故、仙覺律師はかへてふとよめるを、自讃の改點とせり。其意得がたし。てふとよみて、下の句の意いかんとも不v通也。而布をあやまりて、又後に布を加へたる本なるべし
此年己呂乎 此乎の字古詠の一格にて、歎の意を云ふたるを也。嘆のを、嘆のう、歎のに、歎のもと云事此集中にあまたあり數知られず。たゞとしごろと計云意にて、歎の意をて念乎とは留めたるもの也
 
193 八多籠良家夜晝登不云行路乎吾者皆悉宮道叙爲
やたこらが、よるひると【なく・いはず】ゆくみちを、われはさながら、みやぢとぞする
 
八多籠良 或抄云、やたこは、たと、つと通へば、やつこらと云義となり。尤可ならん。宗師案は、やは發語にて、田兒子といふ義なるべし。さたのをかべとあれば、田夫のかよふをかべ、其邊田畠などありて、田子のよるひるとなく通ふ道をといふ義ならん
吾者皆悉 田夫のよるとなく、ひるともわかず行き通ふあやしき賤のかよひ路をも、舍人らは、もがりの宮所故宿直しに行かふ故、みやぢとぞすると也。皆悉の二字點本にも、さながらとよめり。さもあるべき訓也。さながらは、それながらと云義也。賤の行道ながら、今舍人等はみやぢとして、通ふ事のあさましき事哉と、なげきたる意をふくみて、わびしみてよめる也。皇都宮殿の通路ならば、田夫などの行かよふべきにはあらざるべきを、皇子かくれさせ給ひて、よしなきもがりのみやとなりたる故、田夫の通ふみちをみやぢとして、舍人等の通ふと也。はたこらと云説もあり。甚不v可v然よみやう也
 
右日本紀曰三年己丑夏四月癸未朔乙未薨
 
古注者文にて持統紀を引て、草壁の尊薨給ふ年月を釋したる也。前に則日本紀を引て注したる義也
 
柿本朝臣人麿獻泊瀬部皇女忍坂部皇子歌一首短歌
(115)かきのもとのひとまろ、はつせべのひめみこ、おさかべのみこにたてまつるうたひとくさならびにみじかうた
 
泊瀬部皇女 天武天皇の皇女也。母は宍人臣太麻呂女擬媛娘也。日本紀卷第廿九に詳也。後注を案ずるに、天智天皇の皇子河島の御女となり給ふと見えたり
忍坂部皇子 此皇子も天武のみ子、泊瀬部皇女の同腹の兄忍壁皇子の義なるべし。紀には忍壁の二字を書せり。此集には坂の字を加へたる故うたがひあれども、外におし坂部といふ皇子見えざれば、忍壁の御子の御事なり。しかるに此みこなると云義御兄弟の事ながら心得がたし。尚後注にしるせり
 
194 飛鳥明日香乃河之上瀬爾生玉藻者下瀬爾流觸經玉藻成彼依此依靡相之嬬乃命乃多田名附柔膚尚乎劔刀於身副不寐者烏玉乃夜床母荒良無【一云何禮奈牟】所虚故名具鮫魚天氣留敷藻相屋常念而【一云公毛相哉登】玉垂乃越乃大野之旦露爾玉藻者※[泥/土]打夕霧爾衣者沾而草枕旅宿鴨爲留不相君故
とぶとりの、あすかのかはの、かみつせに、おふるたまもは、しもつせに、ながれふれふる、たまもなす、かなたこなたに、なびきあひし、いものみことの、たゝなづく、やはゝだすらを、つるぎたち、みにそへねゝば、ぬばたまの、よとこもあるらむ【一云かれなむ】そこからに、なぐさめてける、しば/\も、あふやとおもひて【一云きみもあふやと】たまだれの、をちのおほのゝ、あさづゆに、たまもはひづち、ゆふぎりに、ころもはねれて、くさまくら、たびねかもする、あはぬきみから
 
飛鳥明日香 大和の地名、前に毎度注せり
下瀬爾流觸經 かみつせに生ひたる玉もの、下つせにながれよりたると云義也
(116)玉藻成 上の流れよりたるたまものごとくにと也
彼依此依 かしこにより、こなたによる也
靡相之 河島皇子へ泊瀬部皇女のなびきあひまつはれ給ひしと也
嬬乃命 河島の皇子をさして也
多田名附 此詞は第一卷にもありて、そこに日本紀の歌を引て注せるごとく、たゝは楯の義也。名附は並べ衝の意也。楯をならべつくといふ義也。下の矢とうけんための冠辭也。日本紀の歌のたゝなづく青がきやまこもれるやまと云も、矢と云詞をうけんための冠辭と見るべし。經の名付と云説もあれど、これは時代の前後ありてつかへある也。此集の歌にては苦しからずとも、日本紀景行の卷の歌にては、成務のときにこそ日のたて日よこしといふ義を定めさせられたれ、景行の時分には其定めなければ、たては矢をふせぐためにつくものゆゑ、矢といふ詞の序にたてなづくとはよみ出せる也。かつ冠辭初語の間に、詞を入れてつゞくる事いか程も證例あり。考へ見るべし。ぬば玉のかひのくろこまなどの類にてしるべし。今楯は立るともいへど、つくと云が古語と見えたり。すでに日本紀當集等の歌につくとよめる也
柔膚尚乎 此やはのやとうけんための冠辭に、たゝなづくと上によめり。やはゝだすらは河嶋のみこのはだへをもと云義也
劔刀於身 つるぎたちは身にそふものなれば、つるぎたちに意はなし。たゞ身にそへといはん迄の事なり。河嶋皇子に、はだへを副ていね給はねばと也
烏玉 此訓に付きては色々説あり。先此はよるといはん爲の冠辭也
夜床母荒良武 一云何禮奈牟 本集ある説共に意はおなじ義なり。かれるもあるゝも同事也。人丸のおもひやりてよめる也
所虚故 そこからにとは、それからと云とおなじ
名具鮫魚天氣留 此詞は下に何ぞなぐさむる義を云ひし句あると見えたり。此下に句の脱あらんか。此本のまゝにては、下の句解釋むづかしき也
敷藻相屋常念而 これを古本印本共に、しきもあふやどおもひてとよめり。しきもあふと云いかなる事にや通じかたし(117)師案には敷の字はうつとよむなれば、うつしもの見るやと思ひてと云義にて、現在のものをみるやとおもひて、なぐさめてけるとよめる意か。みると云も海松の縁あれば、ものみるとつゞく詞にてよめるか。敷藻相の三字の訓點未v決。尚追而可v加2後案1もの也。しきもあふと上にてよむ故、屋どと下をよめり。一説にきみもあふやとあるなれば、宿の字の意にてはあるまじく、てにはの詞と見ゆる也。愚案には敷の字數の字の誤りにて、しば/\もあふやとおもひてとよまんか。しからば隔句体にて、しば/\もあふやとおもひなぐさめてけると云ふ意ならんか
一云公毛相哉登 あふやとよまんか。みるやともよまんか。兩樣によまるべき也。これはあふやと思ひてとよめば、敷藻の二字を一句に何とぞ義訓にして、下をきみもあふやとよめる一説也。點本の通なれば、やどとおもひてと云一句を、君もあふやと云句に替へたる一説を、古注者しるせりと見る也。しかれども此一説によりて見れば、相の字は下へ付く字と見ゆる也。愚案のしぱ/\もあふやとおもひてとよまん事、一理なきにしもあらざらんか
玉垂乃越乃大野之 此玉だれのをちと云義に付て、簾のことをこすと數百歳誤きたれることあり。越の字こすともよめば、みな玉だれのこすと心得て、後々には釣簾とも書くなどゝ云説も出來て、甚あやまりたること也。くだ/\しければ不v記v之。越の字こすとも、をちともよむ。しかるに此越の大野は、則古注越智能と記し、一説に乎知野と書たる證明あれど、をちの大野とよむべきを、こすの大野とよみあやまりたる也。玉だれのをちとよめるは、玉を貫き垂れる緒とうけたる詞也。をちのをも玉をぬくをも假名同じければ、如v此冠辭に玉だれとよめる也。古今集に、玉だれの小瓶やいづらとよめるも同じ心也。こゝの、玉だれのをちの大野とよめる玉だれには、何の意もなく、たゞをちのをとうけん迄の事としるべし。すべて歌にも文にも冠辭を添ふる事は、本邦の古實雅俗をわかつの理、他にいさゝか此傳をしらざること也
越乃大野、大和の地名也。延喜式卷第廿一詔陵式云、越智崗上陵、飛鳥川原宮御宇皇極天皇、在2大和國高市郡1云々
旦露爾玉藻 朝の露に、皇女の玉藻のぬれひづるを云たる也
※[泥/土]打 これをひづちともひぢてともよめり。いづれもぬれたる義也。下に衣はぬれてとあれば、こゝはひづちとよむべき也
夕霧爾 上にあさ露とよみたれは、如v此あした夕部を對によめる也
(118)旅宿鴨爲留 皇女へ奉れる歌故、人丸察して、たびねをもしたまふらんとの意に、かもと疑ひの詞によめる也
不相君故 古本印本ともに、あはぬきみゆゑとよめり。ゆゑとよみて全体の歌六ケ敷也。故の字は、かれからとよめば、あはぬきみがらと濁音によむべし。からとはながらといふの意也。過ぎ去り給ふ君なれば、あひ給ふことはなけれども、それながらこひしたひたまひて、旅ねをもし給ふかとの意也。又見ざる背ながらともよむべし。相の字は上の敷藻相の相の字のよみにしたがひて、見るとあふとのよみやうかはるべし。いづれにても故の字はゆゑとはよまれず。あはぬ君ゆゑに、たびねをかもしたまふらんとは歌の意六ケ敷也。あはぬながらもしたまふと云の意やすき也
歌の意は、河嶋皇子かくれたまひて、をちのにおさめまつりし故に、皇女の慕ひ悲み給ふあまりに、あさ露夕ぎりにぬれしほれて、かのをち野にいでまして、あひ給ふべきことのあるべき事にもあらねど、悲み慕ひ給ふあまりに、現在の時のやう皇子にあひ給ふこともあらんやとおぼして、旅ねをもしたまふらんかと、人丸の察してよめる也
 
反歌一首
 
195 敷妙乃袖易之君玉垂之越野過去亦毛將相八方【一云乎知野爾過奴】
しきたへの、そでかへしせな、たまだれの、をちのすぎにし、またもあはんやも
 
敷妙 うつたへとも、しきたへともよむべし。きぬのことを云也。第一卷に詳也
袖易之 そでかはせしと云義也。はせを約すればへ也。枕をかはし袖をかはすなど云て、みな親み睦びしことを云義也。玉手さしかへなど云も同じ意也
過去 すぎにしとも過ぬともよむべし。すきにしはすぎいにしと云義也。河嶋のみこのかくれさせ給ふことゝ、皇女のをち野に出てたびねをしたまふかと云義をかねてよめる也
亦毛將相八毛 このあはんも長歌にしたがひて、みんともあはんともよむべき也。またもあはんやもは二度あひ給ふことのなきと也
(119)一云乎知野爾過奴 本集には越野過去と書きけるを、一書には假名書にして、爾の字を加へたる書あるを、古注者書加へたり。越の字長歌にても、此處にてもをちとよむべきの證明、かな書にしるしたるを以てしるべし
歌の意は、泊瀬部皇女の袖をかはして、むつまじくなれそひ給ひし夫君のみまかり給ひて、をち野に葬られさせ給ふによりて、皇女かなしみしたひ給ふあまり、をち野に出まし給ふとも、一度過ぎいにし君にあひたまはんや。二度あはせ給ふことのなきことを、人丸いたみなげきてよみて奉れる也
 
右或本曰葬河島皇子越智野之時献泊瀬皇女歌也日本紀曰朱鳥五年辛卯秋九月己巳朔丁丑淨太參皇子川島薨
みぎあるふみにいはく、かはしまのみこををちのにおさめまつりしとき、はつせべのひめみこにたてまつるうた也云々
 
是例の古注者の文なり。此文によりて見れば、忍坂部皇子に奉れるにはあらず。はつせべのひめみこばかりに奉れると見えたり。いかさま標題の文に忍坂部を加へたるは混雜なるべし。別に歌も不v見。また右の長歌反歌ともに、忍坂部へ奉る歌の意はいさゝかも不v見也
越知野 本集には越の字ばかりを書きたる故、古本印本等にもこすのとよみ誤れり。如v此一説にも注にも、知の字智の字を書きたるに、心もつけずしてよめる歟。皇子の薨は左注に記せり
河嶋皇子 天智天皇の皇子也。日本紀卷第廿七云、七年春正月丙戍朔〔戊子皇太子即2天皇位1中略、立2倭姫王1爲2皇后1遂納2四嬪1中畧〕有2忍海造小龍女1、曰2色夫古娘1、生2一男二女1、其一曰2大江皇女1、其二曰2川嶋皇子1、其三曰2泉皇女1、云云。懷風の傳には淡海帝の第二子也と記せり
泊瀬皇女 部の字を脱せりと見えたり。日本紀並前の標題にも泊瀬部と記せり。續日本紀卷第十二云、天平九年二月戊午天皇臨v朝中略、四品水主内親王長谷部内親王多紀内親王並授2三品1云云。しかれば此注に部の字なきは脱落也。或抄に天平九年二(120)月四品長谷部内親王薨と注せるは大成誤也。仝紀卷第十四、天平十三年三月己酉三品長谷部内親王薨云云とあり
淨大參 是は位の名也。訓せばきよきおほきみつのくらゐとよまんか。日本紀卷第廿九云、十四年春正月丁未朔云云丁卯更改2爵位之號1、仍増2加階級1、明位二階、淨位四階、毎階有2大廣1、并十二階、以前諸王已上之位云云。是日草壁皇損子授2淨廣壹位1中略川嶋皇子忍壁皇子授2淨大參位1云云。大、太に作るは誤なり
薨 前に注せるごとく、親王諸王三位以上身死るを薨といふ令の法也。古注者河嶋皇子のかくれ給ふ年月を日本紀を引て注せる也。懷風云、位終2于淨大參1時年三十五とあり。薨年三十五歟
 
明日香皇女木※[瓦+缶]殯宮之時柿朝臣人麻呂作歌一首並短歌
あすかのひめみこ、きがめのもがりのみやのとき、柿本あそんひとまるつくるうたひとくさならびにみじかうた
 
明日香皇女 天智天皇の皇女也。日本紀卷第廿七云、七年春正月丙戍朔中略、二月丙辰戊寅中略、次有2阿部倉梯麻呂大臣女1曰2橘姫1生2飛鳥皇女與新田部皇女1云云。續日本紀卷第一云、四年夏四月癸未淨廣肆明日香皇女薨遣v使弔2賻之1
木※[瓦+缶]殯宮 きがめは大和の地名也。その所にもがりの宮を作りて、もがりし奉りたると見えたり
 
196 飛鳥明日香乃河之上瀬石橋渡【一云石浪】下瀬打橋渡石橋【一云石浪】生靡留玉藻毛叙絶老生流打橋生乎爲禮流川藻毛叙干者波由流何然毛吾王乃立者玉藻之如許呂臥者川藻之如久靡相之宜君之朝宮乎忘賜哉夕宮乎背賜哉宇都曾臣跡念之時春部者花折挿頭秋立者黄葉挿頭敷妙之袖携鏡成雖見不厭三五月之益目頬染所念之君與時時幸而遊賜之御食向木※[瓦+缶]之宮乎常宮跡定賜味澤相目辭毛絶奴然有鴨【一云所己乎之毛】綾爾憐宿兄鳥之片戀嬬【一云爲乍】朝鳥【一云朝露】往來爲君之夏草乃念之萎而夕星之彼往此去大船猶預不定見(121)者遣悶流情毛不在其故爲便知之也音耳母名耳毛不絶天地之彌長久思將往御名爾懸世流明日香河及萬代早布屋師吾王乃形見何此焉
とぶとりの、あすかのかはの、かみつせに、いはゝしわたし【一云いはなみ】しもつせに、うちはしわたし、いしはし【一云いはなみ】の、おひなびきたる、たまもゝぞ、たゆればおふる、うちはし、なびきをゝれる、かはももぞ、かるればはゆる、なにしかも、わがおほきみの、たゝせれば、たまものごとく、ころぶせは、かはものごとく、なみあひし、よろしきゝみが、あさみやを、わすれたまふや、ゆふみやを、そむきたまふや、うつそみと、おもひしときの、はるべには、はなをりかざし、あきたてば、もみぢばかざし、うつたへの、そでたづさはり、かゞみなす、みれどもあかず、もちづきの、いやめづらしみ、おもほえし、きみとゝき/”\、みゆきして、あそびたまひし、みおしもの、きがめのみやの、とこみやを、さだめたまひて、味澤相、まこともたえぬ、しかあるかも【一云そこをしも】あやにかしこみ、ぬえこどりの、かたこひづま【一云しつゝ】あさがらす【一云あさつゆの】かよひしきみが、なつぐさの、おもひしなへて、ゆふづつの、かなたこなたと、おほふねの、たゆたふみれば、おもひやる、こゝろもあらず、そのゆゑの、すべもしるしや、おとのみも、なのみもたえず、あめつちの、いやとほながく、しのびゆかん、みなにかゝせる、あすかゞは、よろづよまでに、はしきやし、わがおほきみの、かたみかこゝを
 
打橋渡 古き名目にて、日本紀神代卷の下にも造2打橋1と出たり。神代の打橋はうつはしと云意にて、現在のはしと云義、またはしをほめて云たる義にもかなふ也。源氏物語桐壺の卷、うちはし渡どの、其外の卷にも見えて、その注には、假初にかけつ(122)はづしつする橋を云との説なり。枕草紙にも、ほと/\うちはしよりもおちぬべしなどいひて、むかしよりふるくもいひつたへたることなり。尤此集にいくらもある名目なれど、いかなるをそれといふ、慥なる先達の注釋もなければ究めがたし。神代にいへるごとく、うちはうつといふ詞にて、こゝによめるも、常にあらはし見せてわたせる橋をいへるか。たゞしうき橋といふ事にや。うきは慥にさだまらぬ義なれば、うつろげなると云意にて、浮橋をうつはしともいへる歟。假初の橋といひては、此歌の意には不v合也。假にかけはづせる橋ならば、玉藻の生ひなびけるとはあるまじければ、その説にはよりがたし。尚追而證例を考ふべき也
一隱石浪 此石なみの浪の字は並の字の義也。川なみといふ意と同じ心にて、石をならべて橋とせるをいふたる義也。また河づらにある石並といふ義とも見ゆる也
生靡留 おひ靡きたるとよむべし。靡を誤りて麿に作るあり
生乎爲禮流 古本印本ともに、おふるをすれるとよめり。いかにいへることにや。師案、生の字靡の訛、爲は烏の誤りにて、なびきをゝれるとよむ也。乎烏禮流と云詞は、此集中あまたありて、ものゝおひ重りてしげりたる事をいふ。花咲きをゝりなどよめるもおなじ義也
干者波由流 上よりよみつゞけたることみな序詞にて、皇女を河も、玉もになぞらへてよめる也。なれども河も玉もは、枯れてもまたあとよりはゆれども、みまかり給ふ皇女は、二度かへらせ給はぬといふかなしみの意を含めて、枯るればはゆるとよめる也
何然毛 なにとてかくのごとくにと云意なり。下の朝宮を忘れ給ふ、夕宮をそむきたまふやといふ句にかゝる、隔句のなにしかも也
吾王 皇女を尊んでいへる也
立者 たゝせればころばせばといひて、皇女の起居動作の御ありさまのうるはしきを、玉もにたとへいひたる也
靡相 なみあひしとも、なびきあひしともよむべし。夫君にむつびあひたまひしことを云たる也。此皇女いづれの人に嫁ぎ給(123)ふといふこともしらねども、此歌の詞によりてみれば、夫君のありしと見えたる也
宜君之 夫君をさしてかしこしとも、よろしきともほめたる詞也。よろしきともかしこしともよむべし。假名書によろしきといふ事あれば、かしこきよろしき二樣によむべし
念之時 現在ましませしとき也。うつの身とおぼしめしゝとき也
花折挿頭 かざしとは、かしらにさすといふ義、則文字の通也
袖携 夫君と相つれだち給ひてといふ意にて、鏡を袖に持そふといふの縁ともきこゆる也
鏡成 如v鏡といふ義也。みれどもといはん冠辭也
三五月 十五夜の月を云。三五合て十五の數といふ縁をもて義訓せり。望月、倭名鈔卷第一云、釋名云、望月、和名毛知都岐、月大十六小十五日、日在v東月在v西遙相望也。十五夜月のみちたるごとくあきらかに、きよらかに見えたまふと云義也。夫君の方から見れどもあき給はずや、また皇女の方よりめづらしみ給ふやと、兩方へかけて見ゆる也
君與時時幸 夫君と春の花の折、秋のもみぢのころいでまし給ふてと也
御食向 これを古本印本等みなみけむかふとよめり。すべて此集中に此三字をかきたるうた四首あり。此一首は、きとうけたる詞、今一首はみなとうけたる歌、二首は、あは、あちとうけたる歌也。しかるに諸説みけむかふとは、食を備ふるとき、み食にむかふごとく、前ちかくあるものをいふとの説也。しかれども四首の歌の詞一やうならず。別々のつゞきにて、食を備ふる時前ちかくむかふものならでもいへる歌あれば、此説も信用しがたし。假名書にみけむかふともあらば、異義あるまじけれど、四首の歌皆同字なれば、みけむかふにてはあるまじ。向の字物といふ字のあやまりと見ゆる也。よつてみおし物とよみて、みおしものは飲食どもの義なれば、四首の歌のつゞき、みなおし物の冠辭とみゆる也。こゝもみおし物きがめとつゞきて、きとは酒の古語、しかればかめも酒がめの意にて、みおし物に備ふるもの也。殘り三首の詞つゞきの釋は其所にて注すべし。みおし物なればひろくわたりて、四首の歌につかゆる所なき也。向と物とは、誤りやすき字形なれば、きはめて物の字のあやまりとは見る也
常宮跡 もがりの宮となし給ひて、此ところに葬られさせ給ふ故に、今よりのとこみやと定めたまふとの義歟
(124)味澤相 此三字いかんとも解しがたし。諸抄にあぢさはふといふて、あぢとはよきといふ義、そのよき事の多くあふたることをいふと也。さいふて此ところの義相聞え侍るにや。此三字此集中以上六首の歌ありて、多分は、めとか、まとかうけたる冠句也。一首宵とうけたる歌あり。かれこれをもつて何とよむべき義訓か、いまだ不v決故まづ除き置く也
目辭毛絶奴 まは發語にて、ことは言の義也。かくれ給へば、ものゝたまふ事も絶給ふと也
然有鴨 此句別して心得がたし。しかるからと云べきを、かもとうたがひたる意不審なり。人丸のしかるかもと、前の句どもの意はみな察していひたる義故、かもとうたがひたる歟
一云己乎之毛 此一説の句にて、義安くきこゆる也。上にいひのべたるその事ども、あやにあはれなると云の意也
綾爾 切になげきたる詞也。喜怒哀樂につきてみなせちに感嘆したることをあやにと云也
憐 哀の字の意とおなじ。あはれなると云義也
宿兄鳥 第一卷にて注せり。ものかなしき事によめり
片戀嬬 ぬえと云鳥は雌雄一所に不v居もの故、かたこひづまといふ縁によめり。嬬は夫君をさしていふたる義也
一云爲乍 かたこひしつゝともあると也。此一説も義安くきこゆる也
朝鳥 かよふの序詞也。鳥はあしたに、おのが行く道のかたへ立行くものなる故、通ふの冠辭に、あさどりのとあると云諸説なれども、此説しかと不2打着1也。師案は、朝鳥は朝烏にてあるべし。鳥烏の誤は擧て數へ難き也。烏はかゝとなく聲をもてなづけたる鳥也。されば烏は夜あくれば、そのまゝ鳴きて何方へも飛びかよふものなれば、かれこれ相叶ふ義をもて、かよふと云冠句に朝烏とはいへるなるべし。かゝとなくは、かとよぶの義なれば、あさがらすかよひとはよめると見えたり。皇女の御存在のとき、夫君の通ひたまひしことを、ことばの縁につれていひ出せる也
一云朝露 古一本に露を霧に作れるもあり。しかれども此ある説は、本集の朝がらすの句勝れたらんか
夏草乃 しなへといはんための冠句也
念之萎而 これより夫君のかなしみ給ふ事をのべたる也。しなへと云は、しをれたるといふ意に同じ。勢無きありさまを云た(125)る也
夕星 倭名鈔卷第一云、兼名苑云、太白星一名長庚、暮見2於西方1爲2長庚1、世間云2由不豆豆1。夕暮かたの星のかげ、彼方此方に、光のあらはれて、一所にさだかにも見えざる義をいへる也。かなたこなたといはんとて、夕づつとはよみ出たり
彼往此去 前の歌にも、彼依此依とありて、かよりかくよりとよませたれど、かゆきかくゆきと云詞、雅言證例もなければ、こゝもかゆきかくゆきとよませ、義訓によまんためにかく書きたれば、前もこゝも、かなたこなたとよまん事しかるべし。こゝかしこといふもおなじ義にて、此かなたこなたは夕づつの此處彼處にあらはれて一所に光も不v定義と、また大ふねのかなたこなたにたゞよふの義、兩方へかけて書きたると見えたり
猶預不定 これをたゆたふとよむ事、此集中數多也。たゆたふとは、たゞよふと云とおなじ義にて、大船はゆくこともゆるやかにして、たゞよふものなれば、夫君の悲みに沈み給ひて、此方彼方歎きまどひ給ふありさまを、たとへていへる也。あすか川とはじめによみ出したる故、此所に縁なきやうなれど、大船とはよみ出せり
見者 なげきかなしみ給ふ夫君のありさまを、人丸のみれば也
遣悶流情毛不在 おもひやるとは、かなしみなげきのこゝろをさりやりて、なぐさむこゝろもなきの義也
其故 そのゆゑのとよむべき歟。この以下の句少心得がたし
爲倍知之也 これは、すべもしるしやとよむべき歟。かくなげきかなしみまどひ給ふすべも、いちじるきぞといふの事ときこゆる也。師案は下へつゞくすべの印やといふ義歟と也。未v決
音耳母名耳毛不絶 これよりまた皇女のかくれ給ふあとを長く久しくいつまでも慕はんといふ事をいひたる也
思將徃 しのびゆかんとは、したひ奉らんとの義也
御名爾懸世流 みなに負せると義訓にもよむべきか。かゝせると云てもかけませると云義也。けまを約すればかなり。皇女のみなをあすかと稱し奉る故あすか川と云名は、天地とゝもに絶ゆることなくのこれる名なれば、万代までしのばんと也
早布屋師 前にもはしきかも、はしきつまなどよめる歌あり。その所に注せるごとくほめたること葉也。はしきよしとよめ(126)る歌もあり。同詞なり。皇女を稱美していへる也
吾王乃 あがもわがもおなじ義にて、したしみて云たる義也。おほきみとは、皇女をさして云たる也
形見何此焉 皇女の御名を、あすかと稱し奉りし故、此明日香川おなじ名なれば、万代までも皇女のかたみとしのばんと也。此焉の二字、こゝをとよむべし。烏焉は相通也。こゝをと云は、及2万代1にと云句へもかゝり、しのばんと云句へもかへるてにをは也
右長歌の意は凡てつゞめては解し難ければ、皆句の六ケ敷處々にて釋し侍る也。よまん人句々の釋を見て全躰を沈吟可v有也
 
短歌二首
 
197 明日香川四我良美渡之塞益者進留水母能杼爾賀有萬思
あすかがは、しがらみわたし、せかませば、ながるゝみづも、のどにかあらまし
 
進留 此二字義をもてかけり。水のすゝむは流の義なれば、古本印本にもなかるゝとよめる義可v然。今一訓は、急速にながるゝ水も、せきたらんにはよどみてのどやかにあらましとよめる意と見ゆれば、みなぎるともよむべからんか。のどにかあらましといふ句に對せんには、ながるゝよりみなぎるとよまんかたまさらんか。好む所にしたがふ也
能抒爾加 のどにといふは、すべてものゝしづかにおだやかにして、あらく急疾ならぬことを云也。拾遺集に、涙川のどかにだにもながれなんこひしき人のかげや見ゆるとゝよめるも、しづかにといふ意也。又拾遺集に、此歌の終の句を、のどけからましとしるせり。もし爾と氣とを傳寫に誤りたるか
 
一云水乃與杼爾加有益
 
例の古注者の或説を載せて、のどにかといふも、水のよどみの事と云意を注したるもの也。別の意なし
此歌の意は、あすか川のみなぎりて、とくながるゝ水もせかませば、のどやかにゆるみてよどまんに、御名を負せる皇女のみい(127)のちはとめてもとゞまらぬと、なげきの意を裏にふくめてよめる也。古今集に、忠岑かあねのみまかりけるとき。せをせけばふちとなりてもよどみけりわかれをとむるしがらみぞなき、とよめるも、此歌の意におなじ
 
198 明日香川明日谷【一云左倍】將見等念八方【一云念香毛】吾王御名忘世奴【一云御名不所忘】
あすかかは、あすだに【一云さへ】みむと、おもふやも【一云おもふかも】わがおほきみの、みなわすれせぬ【一云みなわすられぬ】
 
歌の意は、皇女の御名をあすかといふにつきて、その御名をわすれぬは、あすも見奉らんとおもふか、過行き給ふ皇女は二度見奉ることはならぬに、あすか川のあすかと云み名のわすられぬと也。あすか川とよめるは、皇女のみなと同じければ、すなはちあすとうけんためによみ出せる也。一云の意は釋するに及ばず。おなじ義也
一云御名不所忘 木集の意とおなじ義也。本集のせぬと云よりは、わすられぬと云かたまさらんか。かつ古注者もわすれせぬと云は、わすられぬと云義なりとの注に、一説をもあげたるか
 
高市皇子尊城上殯宮之時柿本朝臣人麻呂作歌一首並短歌
 
高市皇子 傳前に詳也。薨給ふ年月は古注者奧に注せる通に、持統紀に見えたり。尤釋日本紀私紀の説も同v之也
城上 大和の地名也。日本紀卷第十六、武烈天皇三年冬十一月、詔2大伴室屋大連1發2信濃國男丁1、作2城像於水派邑1、仍曰2城上1。倭名鈔卷第五國郡部云、大和國城上、之岐乃加美。元明天皇和銅六年夏五月甲子、幾内七道諸國郡郷名著2好字1事被v定、礒城上下と被v定其後又延喜の御時凡諸國郡内郡里等名並用2二字1必取2嘉名1とある式文によりて、礒の字は省かれてもしきと唱へ來れる故、和名鈔にも如v此しるせる歟。たゞし此歌にて見ればしきとはとなへず、木上とよめり。尤佳字に不v被v改已前の歌なれば、しきの上の郡の事にても、武烈紀に被v記たる通によめる筈也。もしくは郡の城上とは別所にて、かみもかめも同訓なれば、此も木※[瓦+缶]の事歟
 
199 掛文忌之伎鴨【一云由遊志計禮杼母】言久母綾爾畏伎明日香乃眞神之原爾久堅能天津御門乎懼母定賜而神佐扶(128)跡磐隱座八隅知之吾大王乃所聞見爲背友乃國之眞木立不破山越而狛劍和射見我原乃行宮爾安母理座而天下治賜【一云拂賜而】食國乎定賜等鳥之鳴吾妻乃國之御軍士乎喚賜而千磐破人乎和爲跡不奉仕國乎治跡【一云掃部等】皇子隨任賜者大御身爾大刀取帶之大御手爾弓取持之御軍士乎安騰毛比賜齊流皷之音者雷之聲登聞麻低吹響流小角乃音母【一云笛乃音波】敵見有虎可※[口+立刀]]吼登諸人之※[立心偏+協の旁]麻低爾【一云聞惑麻低】指擧有幡之靡者冬木成春去來者野毎著而有火之【一云冬木成春野燒火乃】風之共靡如久取持流弓波受乃驟三雪落冬乃林爾【一云由布乃林低】飄可毛伊卷渡等念麻低聞之恐久【一云諸人見惑麻低爾】引放箭繁計久大雪乃亂而來禮【一云霰成曾知余理久禮婆】不奉仕立向之毛露霜之消者消倍久去鳥乃相競端爾【一云朝霜之消者消言爾打蝉等安良蘇布波之爾】渡會乃齊宮從神風爾伊吹惑之天雲乎日之目毛不令見常闇爾覆賜而定之水穗之國乎神隨太敷座而八隅知之吾大王之天下申賜者萬代然之毛將有登【一云如是毛安良無等】木綿花乃榮時爾吾大王皇子之御門乎【一云刺竹皇子御門乎】神宮爾裝束奉而遣使御門之人毛白妙乃麻衣著埴安乃御門之原爾赤根刺日之盡鹿自物伊波比伏管烏玉能暮爾至者大殿乎振放見乍鶉成伊波比廻雖侍侯佐母良比不得者春鳥之佐麻欲比奴禮者嘆毛未過爾憶毛未盡者言右敝久百済之原從神葬葬伊座而朝毛吉木上宮乎常宮等高之奉而神隨安定座奴雖然吾大王之萬代跡所念食而作良志之香來山之宮萬代爾過牟登念哉天之如振放見乍玉手次懸而將偲恐有騰文
かけまくも、いみじきかも【一云ゆゝしけれとも】いはまくも、あやにかしこき、あすかの、まがみのはらに、ひさかたの、あまつみかどを、かしこくも、さだめたまひて、かみさぶと、いはかくれます、やすみしゝ(129)わがおほきみの、きこしめす、そとものくにの、まきたてる、ふはやまこえて、こまつるぎ、わさみがはらの、かりみやに、あもりいまして、あめのした、おさめたまひし【一云はらひたまひて】をしくにを、しづめたまふと、とりがなく、あづまのくにの、みいくさを、めしたまひつゝ、ちはやぶる、ひとをなごしと、まつろはぬ、くにをおさむと、【一云はらへと】みこながら、まかせたまへば、おほみゝに、たちとりはかし、おほみてに、ゆみとりもたし、みいくさを、あともひたまひ、とゝのふる、つゝみのおとは、いかづちの、こゑときくまで、ふきなせる、くだふえのねも【一云ふえのねも】あだみだる、とらがほゆると、もろびとの、をびゆるまでに【一云きゝまどふまて】さしあぐる、はたのなびきは、ふゆごもり、はるさりくれば、のらごとに、つきたりしひの【一云ふゆこもり、はるのやくひの】かぜのつれ、なびくかごとく、とりもたる、ゆはずのうごき、みゆきふる、ふゆのはやしに【一云ゆふのはやしに】あらしかも、いまきわたると、おもふまで、きゝのかしこく【一云もろびとのみまどふまでに】ひきはなつ、やのしげらけく、おほゆきの、みだれてきたれば【一云あられなす、そちよりくれば】まつろはぬ、たちむかひしも、つゆしもの、けなばけぬべく、ゆくとりの、あらそふはしに【一云あさじもの、けなばきゆとにうつせみと、あらそふはしに】わたらひの、いつきのみやゆ、かみかぜに、いぶきまどはし、あまぐもを、ひのめもみせず、とこやみに、おほひたまひて、しづめてし、みづほのくにを、かみながら、ふとしきまして、やすみしゝ、わがおほきみの、あめのした、まをしたまはゞ、よろづよも、しかしもあらむと【一云かくもあらむと】ゆふはなの、さかゆるときに、わがきみの、みこのみかどを【一云さすたけのみこのみかどを】かみゝやに、かざりまつりて、つかはしゝ、み(130)かどのひとも、しろたへの、あさのころもき、はにやすの、みかどのはらに、あかねさす、ひのくるゝまで、しゝじもの、いはひふしつゝ、ぬばたまの、ゆふべになれば、おほとのを、ふりさけみつゝ、うづらなす、いはひもとはり、さもらへど、さもらひえねば、うぐひすの、さまよひぬれば、なげきしも、いまだすぎぬに、おもひもの、いまだつきねば、ことさへぐ、くだらのはらに、たまはふり、はふりいまして、あさもよし、きのうへのみやを、とこみやと、たかくしたてゝ、かみながら、しづまりましぬ、しかれども、わがおほきみの、よろづよと、おもほしめして、つくらしゝ、かぐやまのみや、よろづよに、すぎむとおもへや、あめのごと、ふりさけみつゝ、たまたずき、かけてしのばむ、かしこけれども
 
掛文 此詞祝詞宣命等にかぎりなくいひならはせること也。いかなる義をかけまくとはいふことゝ、むかしより解釋したる人もなければ、後學の人一己の勘案をもて、さとりしるべき事となれり。まづは尊み恐れていへる詞としるべし。その尊み恐れて云こと葉に如v此いへるは、義理はいかんぞと問答したらんには、其解釋容易には解しがたきこと也。此釋は別に家傳にし傳ふれば此に除く。まづたゞたふとみかしこまりたる義をいふたる事としるべし。挂の字にかけるは誤り也。よって掛の字に改也
忌之伎鴨 是も尊稱のことば也。尊み崇め奉る神明を敬ひて遠ざけ奉るの意にて、いみはゞかりて、したしみなれ/\しからざる義をもて、いみじきとはいへるならん。いみじきとはすべてあがめほめたることゝしるべし
言久母 上は心にかけるもいみじく、下はことのはにいふもおそれあるとの義也
綾爾 前に度々注せる通、みな尊稱の辭也。あすか淨御原の御門を尊み崇め賞讃し奉る序の詞也
眞神之原爾 天武天皇の皇居大和の地名淨御原ともいひ、まがみの原とも稱せし也
神佐扶跡 第一巻に注せる如く、神すさびと云義也。天武帝の崩御まし/\て神靈とならせ給ひたることを、神さぶとはいへ(131)る也
磐隱座 崩御なりしことをいはかくれとは云也。神代の上卷岩戸の段に所以あること也。此處にいふ神さぶと、いはくれますとは天武天皇の義を申せしこと也
所聞見爲 きこしめすとも、きこしみすともよむべし。いづれも同じ意にて、天武帝の天下をしろしめせしといふ義也
背友乃國 五畿内の外の國をさして云義にて、近江の國をはじめ、東山道は大和の北うしろにあたる故也
眞木立 山といはんための冠辭也
不破山越而 美濃國不破山也。是より天武天皇の大友皇子とのみ軍の義を、いひつらねたる也。これより已下の義、日本紀卷第廿八の紀を引合せ見れば詳也。紀に洩れたることを此歌にあらはしよめる義もあり
狛劔和射見我原 狛劔とはわと云冠辭也。こまの劔には柄の頭に環あり。よつてこま劔わとはいひたる也。今用ふる太刀にも※[手偏+丙]に鐶あるは、今の太刀狛劔の形歟
和射見我原 美濃國の地名也。日本紀巻第廿八大友皇子とみ軍の時の文に云、高市皇子自2和※[斬/足]1參迎以便奏言云云。悉授2軍事1皇子則還2和※[斬/足]1云云。又云戊子天皇徃2於和※[斬/足]1檢2校軍事1而還、己丑天皇徃2和※[斬/足]1命2高市皇子1號2令軍衆1云云。このわさみのはら也
行宮爾 旅の皇居也。よりてみなかりみやと稱する也。日本紀巻第三神武紀云、乙卯年春三月甲寅朔己未徙入2吉備國1起2行宮1以居v之。字訓はなけれど、是より次に行宮の二字、悉くかりみやと訓ぜり。日本紀卷第廿八天武紀の此歌によめる時の文(ニ)云、天皇於v茲行宮興2野上1而居焉云云。しかればこのうたの詞と紀の文とは少々たがへり。しかれどもわさみのはらへも軍のときより度々み幸ましませること、紀の文に見えたれば、暫時にても行在所の所をさしてかりみやとはよめる也
安母理座 古本印本ともに、やすもりましてとよめり。奧の歌ともに天降附とかき、又阿毛理之とかながきの語例の證あればあもりとよむべし。あもりとは天降附とかける字の意にて、あまくだりいましてと云の義也。天武天皇東國に入らんとし給ひて、不破關鈴鹿の關を越えさせられて、勢州桑名にましませしかども、軍の便行程へだゝりてはよろしからざる由、高市の尊(132)の御いさめにて、不破の關の近所此わさみのはらの行宮にまし/\て、みいくさの勝利を得させ給ひて後、大和の淨御が原の宮に入らせ給ふ也。大友皇子と御たゝかひの間は、此行宮に皇居なりし故、あまくだりましてとよめる也
天下治賜 これはみいくさの當然のことをいへるにはあらず。始終を遂げさせ給ひし後の事を云ひたる句也。よりて古本印本にもおさめたまひしとよませたるは可也
一云拂賜而 或説には、治を拂に書ける一本もありと也。此説には而の字を加へたり。本集のおさめ賜ひしとよめる方然らんか。はらひたまひて、其後あづまの國のいくさをめし給ふにはあらず。是迄にて大むねの義をのべて、これより以下、み軍の時のありさまこまかによみあらはしたる也
食國を 第一卷にも注せるごとく、をしくにとは我本朝の事を賞美していへる號也。をし物のみちたれるうましくにといふ義に、此國をさしてをしくにとはいへる也
定賜 しつめ給ふとも、さだめ給ふとも義はおなじ事也。前に注せるごとく、天下を治め賜ひて、其後又しづめたまふとて、あづまの軍をめすにはあらず。み軍の時の義をいふたる事地
鳥之鳴吾妻乃國 此とりがなくあづまといへることは、日本紀古事記の文且歌中にも不v見。此人丸の此歌にはじめて見えて、尤此集中にもあまたあり。仙覺律師の抄にも此釋くはしく注したれども、入組みたる意味をふくめる説ときこゆる也。まづとりとさすは鷄の事にて、にはとりはきはめてよあけんとするときなくものなれば、あかつきといふ詞の縁に、とりがなくあとうけたるものと聞ゆる也。尤あづまの國の事は、景行天皇のとき、日本武尊の橘媛の事を慕ひ給ひて、吾嬬者耶とのたまひし古語よりおこりて、山の東の國をさして、すべてあづまの國とはいへる也。これらの義につけてなくといふ悲みの詞により、色々の意味を添へていはゞ、いひよそへん義もあるべけれども、それみな穿説にて古義には叶はざる事也。たゞ鳥はあかつきになくもの故その詞の縁をもつて、あづまのあとうけんまでに、とりのなくとはよめる事と見るべし
喚賜而 大友の皇子との御戰のときの文に云。先遣2高市皇子於不破1令v監2軍事1、遣2山背部小田安斗連阿加布1發2東海軍1、又遣2稚櫻部臣五百瀬土師連馬手1發2東山軍1云云
(133)千磐破人乎 古本印本等に、人の字にかみと點をなせり。尤日本紀神代卷にも人をかみと訓せる一書あれども、こゝは字のまゝによむべし。千磐破人とは、千々のいはをもおし破る如きの、あらくたけきわざをなしてあらびすさめる人を云也
和爲跡 そのたけくあらびすさめる人をも、なつけしたがへしめ給ふ義をなごすといふ也。なごしのはらへなどいふも、あしきわざはひをなす神をはらひしづめるといふ義にて、なごしとは云也。なごし、なごすおなじき也
不奉仕國乎 王化の未だ及ばずして、君命に從ひ仕へざる國々を云也。かの御軍の時、天武天皇に歸服せぬ國々所々の義をさして也
治跡 或説に上のなごすと云點も、此のおさむと云も、皇子へ下知し給ふ義なれば、なごせと、しらせとよむべしといへり。いづれにてもおなじ義なり。みこ御一人のたゝかひにあらず。全躰天皇の御はからひの事なれば、古本印本の點にまかせよむべき也
一云掃部等 此等の字誤て本文に入れり。一本小書に書て一云の行に記せるを以て證とす。をさめもはらへも意はおなじき義あらけすさみ君命に從はぬあしきものをはら平らげおさめ給へと、皇子へことよさゝせ給ふと也
皇子隨 古本印本且近世の抄物等にもわがみこにとよめり。心得がたき點也。神ながらと云とおなじ意にて、みこなるからにまかせ給ふとの義なれば、みこながらとよむべき也
任腸者 みいくさの事を、高市の尊にまかせ給ふ也。日本紀卷第廿八この軍の時の文に、天皇謂2高市皇子1曰、其近江朝左右大臣及智謀群臣共定v議、今朕〔無2與計v事者1唯有2幼小少嬬子1耳〕奈之何、皇子攘v臂按v釼奏v言、近江群臣雖v多〔何敢逆2天皇之靈1哉、天皇雖v獨則〕臣高市頼2二神祇之靈1請2天皇之命1、引2率諸將1征討豈有v距乎、爰天皇擧v之携v手撫v背曰、愼不v可v怠、因賜2鞍馬1悉授2軍事1、皇子則還2和※[斬/足]1云云。如v此勇猛に諫言をも、奏せさせ給ふて、いきほひ勝れさせ給ふ故、此軍もすでに勝利を得させ給ひし也。此時いまだ廿歳にはならせ給ふまじきに、かやうの御武勇、まことに日本武尊の御化身ともいふべからんか
大御身爾云々 これより已下、皇子の武備の事をのべたる也
(134)安騰毛比賜 此詞集中にあまたあり。あつめたまひと云義也。仙覺抄には、今はとおもひたまひと云義と釋せり。或抄には誘の字の意にて、日本紀にあとふとよませる此意なりと云説あり。心得がたし。あつめとゝのひ給ふといふ義を、あともひ給ひと云たる也。ともつも同詞也。もひとはめとを約すればも也。よりてあつめとゝのひといふ略語とする也
齊流 軍列を立て、前後左右の備へをとゝのへるとの義也。古詠の格、いも|ゐ《マヽ》とよめるかたしかるべからんか。つゝみとうけたる冠句也。いも|ゐ《マヽ》はつゝしみの事を云。つゝしみといふを、古語にはつゝみといへり。然れば古訓のいもゐとよめる方可v然也。此點は仙覺律師の改點也。其前はいも井するとよませたり
皷之音者 軍のときは、すべて笛皷太皷鉦等の器を以て進退を定むる也。皷、和名鈔卷第四音樂部云、蔡※[災の火が邑]獨斷云、皷、公戸反和名都々美黄帝臣岐伯所v作也。軍防令云、凡軍團各置2皷二面大角二口小角四口1云々
雷之聲登聞麻低 此時の紀の文にも、旗職蔽v野埃塵連v天、鉦皷之聲聞2數十里1云々。おびたゞしくすさまじき有樣をのべたる也
吹響流 ふきなせるは、ふきならせる也
小角乃音母 古本印本をつのとよめり。或抄には小ふえとよめり。いづれも心得難し。日本紀卷第廿九云、天武天皇十四年十一月丙午詔2四方國1曰、大角《ハラ》小角《クタ》鼓吹幡旗及弩※[手偏+施の旁]之類、不v應v存2私家1云々。和名鈔卷第十三征戰具云、兼名苑注云、角、本出2胡中1、或云、出2呉越1以象2龍吟1也、楊氏漢語鈔云、大角波良乃布江小角久太能布江。如v此あれば、くだぶえのねとよむ也
一云笛之音波 此一説は、本集に音母とあるを、或説には、音波とある異説をあげて、小角の二字くだぶえとよむ證明の爲にも注したると見えたり。くだの二言を略して、ふえと計り書したるはこれ異訓をふせげる古注者の筆義と見ゆる也。さなくては、ふえの音はとよみては、上に二言不v足句なり。是非とも、くだとか、何とぞ二語なければ續けられざるをもて、笛といふ字を書して倭名鈔に從ひて、くだぶえとよまん爲の説と見えたり。すべて此集中一説を擧げたるは、本集の義の語例になさしめん爲に、或説をあげたる事數多也
敵見有虎可※[口+立刀]登 虎に害をなさしめんずるあだを、とらの見て怒り猛りて吼る如くに、くだぶえのなりひゞけるとなり。軍陣(135)に皷ふえ鉦太鼓を用るは、進退をとゝのへ軍兵の機を進ましめ、かつ敵の氣を脅さんために備へし由軍書には見えたり
恊流麻低爾 おどろかすといふとおなじ義也
一云聞惑麻低 或の字を書けるは誤也。心を脱したる也
幡之靡者 旌旗の末の、靡き垂れたる躰を云ひたる義也。倭名鈔征戰具部云、孝二記云、幡、音翻和名波太旌旗精期二音之惣名也、唐韻云、旒音流、和名波太阿之旌旗之末垂者也云々。此靡者といへるは、旒の字の意なり
冬木成春去來者 これは野火の事をいはんとての序詞也。此軍春の事にはあらず
野毎 古本印本共に、のべごとにとよめり。おなじやうなれど、邊といふと、のらといふとは少し意味違ひあり。へといふては邊の字なくてはよみがたからん。よりてのらとはよむ也。のら毎とは野ごとゝいふと同意也
著而有火之 古印本等の點にては、たゞごとのやう也。義は同じけれど、つきたりし火のとよむ方やすらかならんか
一云冬木成春野燒火乃 此一説にて彌春去來ればとあるは、そのときの義にあらず。たゞ春野を燒く火にたとへいはん爲に、冬ごもり春さりくればとよめる義あきらか也。春になれば若菜蕨を早く生出させん爲に、野を燒く也。倭名鈔卷第十二燈火部にも野火といふ名目を擧げたり。烽火の義にはあらず
風之共 仙覺抄に筑紫の古語として、共の字をむたとよめり。前にも此義を注せし如く、むたと假名書の歌もありて、ともにといふ義をむたといひしごとく見ゆれども、こゝはつれと云義訓によむべき也。風につれそひて靡くと云義也。つれもともゝ同義也。さしあぐるはたのなびきひるがへる有樣、春野をやく火の、風にしたがひて靡ける如くに見ゆるとたとへてよめる也
弓波受乃驟 弓を射るに、※[弓+肅]の動き弦音のはげしきことをよめり。倭名鈔卷第十三征戰具弓條下、釋名云、弓末曰v※[弓+肅]、音蕭、倭名由美波數
冬乃林爾 弓はずのむら立てるさま、雪の降りかゝれる冬の林、梢のごとくなるにたとへたる也
一云由布乃林 此ある説は、木の躰白きにはあらねど、白ゆふはな、白たへのゆふなどいひて、白きことにいひ來れる故、み雪ふるとあるによりて、由布のはやしとかきたる一本ありしか、たゞ布由のかな書の轉倒歟。いづれにもあれ意はおなじ義也
(136)飄可毛 かぜのはげしく吹躰を云。よりて飄の字をあらしと義訓せり。あらしは嵐の字なれども、こゝは意をも義訓によみ來れり
伊卷渡等 いは發語也。まきは風のはげしく、吹わたる景色にたとへてよめる也。文選詩云、回※[風+火三つ]卷2高樹1云云、此意也。數萬の弓はずのむらだちたる有樣、みゆきふりかゝれる冬の林の梢の如くにもの凄じく、射はなつとき弓はずの動きなる音はげしき嵐の高樹をたゝき動かすにさも似たるやうに、兩方をかねてよみなせる也。天武紀の文にも、旗幟蔽v野埃塵連v天云云とあり
聞之恐 そのはげしき音をきく人、見る人おそるゝと也
一云諸人見惑麻低爾感 此ある説は、いまきわたると諸人のとつゞく句の一説也。後の感の字は衍字なり。一古本にはなき也
引放箭繁計久
大雪乃亂而來禮 紀の文にも、列弩發亂失下如v雨とありて、射はなつ矢の、間なくすきまもなくしげき事を、大雪の亂れふるごとくとよめる也。印本等には、みだれてきたれとよめり。或抄にはきたればといふを、きたれと計いへるは、古語の格といへる説あれども心得がたき説也。きたれとばかりありては、文句つゞかず。一説によりて案ずるに、もしくは、婆の字を脱したるか。此儘にては、きつれとよまば文句もつゞくべからんか。上の箭のみだれふる雪のごとくに、きつるとの義也
一云霰成曾知余里久禮婆 霰の如くにそなたの道よりよりくればと云義世。此一説をもてみれば、此集にも來禮婆とありしを、婆の字を落したると見えたり。此一説の句は、本集の句よりも勝りたるといはんか。脱字も見えねば詞のつゞきもやすらかに聞ゆる也
不奉仕 天武帝の御方に不v屬して、大友方となりて立むかひし敵兵をさして也
消者消倍久 味方より射放つ矢の大雪あられのごとくにみだれきつれば、立むかひし敵の軍兵のにげさりて露霜の消ゆるごとくほろぶべくと也
去鳥乃 にげちる軍兵のことを、立去る鳥に比して也
相競端爾 たち鳥はわれ先にと爭ふもの也。その如くにと比したる也。端にと云は間にと云義也。古今集に、木にもあらず草(137)にもあらず竹のよのはしにはとよめるはしも此はしも同意にて、あひだにと云義也。日本紀等にも間人と書てはしうどゝよませたり。此集第一にも、はしうどの連、はしうどの宿禰など云にみな間人と書り。川に渡をはしと云も、兩方のきしの間と云の意にて橋とはいひたるか。當集第十九卷家持の歌にも此詞ありて、みなあひだと云義をはしといふ也。然ればわれさきと先がけをこのむにもあれ、またにげさるときにてもあれ、そのあひだにと云義也
一云朝霜 これは一本には、立向之毛とある下の露霜とあるを、朝霜之云々とある異説を注せり
消者消言爾 とにと云は、ことゝ云とをとりて、本集の消倍久といふとおなじ意也
打蝉等 去鳥のとあるを、一説にかくのごとくありと也。うつの身といふ意、現在の軍兵どもの戰ふ間にと云義也。上にけなばけぬとにとあるにより、現在の身とあらそふはしにとよめり
渡會乃 上にはしとある縁をもて、わたらへとつゞけたり。人丸の歌、如v此のつゞく妙句を具へたり
齊宮從 伊勢神宮よりと云義也。從の字をゆとよむ事古語にして、きはまりたる約言といふもの也
神風爾伊吹 いぶきのいは發語の詞也。齊宮よりとあるによりて神風とはよめり。此時不意に如v此の風立たるなるべし
惑之 敵軍を迷はし給ふと也
天雲乎云々 これより已下、覆賜而と云迄の句紀の文には不v見。戰より前に風雨雷電等夥敷夜天武天皇神宮に向はせ給ひて、祈誓をなされしかば、忽然と天晴れたる事紀に見えたり。その義をこのところへ引直してよめる歟。たゞし紀の文には脱したれども、此歌によめるからは實に如v此の事有し故よめるか。何れにもあれ、此集の歌に如v此あれば實録とはすべき也
定之 伊勢の大神の宮より、神風をもて吹立て、天雲日をかくして、大友皇子のいくさを迷はし給ひて、かけまくもかしこき大神のみちからをそへ給ひ、此みいくさの勝利をあたへたまひ、天武の御代とさだめ給ひしと也
水穗之國 前に注せるごとく、我國を賞讃していへる國號也
太敷座而 天下をたしかにをさめしきまして也
八隅知之吾大王 これは天皇をさしていふたる事也。高市皇子をいふにはあらず
(138)天下申賜者 古本印本おさめたまへばとよめり。申の字おさめとよまん字義おぼつかなし。これは天下の事を、天皇へ高市の申給はゞとの義とは見えたり。給へばと云と、給はゞと云とに少し意の違あり。こゝは過去のことをよめる義なれば、給は《マヽ》ゞとよむべき也。高市のみこは、持統天皇の時太政大臣にもならせ給ひ、其後皇太子ともなり給ふ故、それらの事を引合せてよめるなるべし
萬代 これも、よにと云と、よもといふとに少し違ひあり。こゝは萬代もとよむべき也
然之毛 御代太平に、人丸の時分のやうに萬代もかくあらんと也。天武のみ代とならせ給ひて、天下をたしかにおさめしきいまして、その天下の成敗を天皇高市のみこの申し給はゞ、今の代のごとく萬代もおだやかならんと也
一云如是毛安良無等 假名書にしたる一本もありし故、別に注せし也。印本等に本集をしかしもとよめり。かくしもと云詞もおなじき也。是迄にて句絶也。これより高市のみこのかくれ給ふ事をよめる也
木綿花 前に注せり。杜仲の義也。まさきともいふ歟。日本紀神代卷にうつゆふのまさきくにと續る文あり。しろき花咲きてよく榮ゆる木也。歌にしらゆふ花ともよめるこれ也。昔は葬具にも木綿を用ゐたる故、如v此よみ出たる歟。前にも挽歌の内に、山邊まそゆふみじかゆふなどよめり。これもゆふ花をもて、もがりの宮を飾りたるやうに聞ゆる也
榮時爾 高市皇子御齡も漸さかりに御徳義もいよ/\増し、すでに皇太子ともならせ給ひて、御威勢もことさらに、木綿花の榮ゆるごとくなる時に、あへなくもかくれさせ給ふことの、本意なくをしきといふ意を、ふくめてよめる也
吾大王皇子之御門乎 高市皇子の御座所をさして御門と也
一云刺竹皇子云々 さす竹の事、前に注せるごとく、箕の冠句也。本集に吾大王、みこのとあるを、一説には刺竹のとある本を引ける也。或説の句可v然。上にも大王の歌しげくいでたり
神宮爾 高市皇子のましませる所を、直ちにもがりの宮によそひ奉りて也。かくれさせ給ふ故、神靈とあがめまつる義を以て神宮爾とよめり
遣便 此便の字は使の字の誤也。古本印本等たてまたす、又やるつかひなどよめり。難2信用1。是は皇子のみかどに、奉仕の(139)人をさして云たる義なれば、つかはしゝとか、つかはせるとかよむべし。
白妙乃麻衣着 たへはしろきものにて、衣服に作る物故、白妙の麻とはつゞくる也。是は喪服をいふたるもの也。ふぢ衣などいふにおなじ。倭名鈔巻第十四葬送具部云、※[糸+衰の下半が衣]衣唐音云、※[糸+衰の下半が衣]、倉回反、音催、和名、不知古路毛、喪服也
埴安乃御門之原 皇子の御座所の地名を云。大和の内にあり
赤根刺 日といふ冠句也。日の出づるには、四方にあかき光のさすをもていへる也。第一卷の茜さす紫といふは別の義也
日之盡 前にもよめるごとく、盡は字義を以てくるゝまでとよむ也
鹿自物 しゝのごとくにといふ義、自物といふ古語祝詞祭文等にもあまた見えて、そのごとくといふ義を、何じものと古語にいへり
伊波比伏管 いは發語はひふしつゝ也。此鹿のごとくにはひふすとよめるにつきては、やすみしゝとよめる義、しゝのふして、天皇をかしこみたると云古説正義にして、こゝもその古事によりてよめると見えたり。或抄どもには、鹿はよく膝を折りてふすもの故との義、古今の序、鳴鹿のおきふしはと書たるも、それ故との説あれば、さもあるべき事にもあらんずれども息しゝの古事あれば、かれこれを引合せてよめる義と見ゆる也。この句は皇子をかしこみて、もがりの宮に奉仕する躰を、且奉仕の人の悲み慕ひまつる意をのべたる也
烏玉能 鳥の字は誤れり。よりて烏に改むる也。ぬば玉の夜とつゞく義は前に注せし也。すべてくろきとつゞく詞故、よるともつゞけたる也
大殿乎 みあらかともよむべし。皇子の御座所をさして也
振放見乍 よるになれば、奉仕の人は退出して御座所より隔たれる所に侍る故、ふりさけ見乍と也
鶉成 うづらのごとくといふ義前に注せり。ひるは鹿のごとくはひふし、よるはうづらのごとくはひまわりと、律詩の對句のごとく、甚妙の詞をもてたとへよめる也。鶉は草の中をよくくゞりまわるもの故、そのごとくにと奉仕の人の躰によそへたる也。まわるといふも、もとほると云もおなじ義也。今も俗言に、舌などの不自由なるを、もとほらぬなどゝ云也
(140)雖待 みこかくれ給へは、遂にその宮に始終は侍らねば佐母良比えねばと也
春鳥之 倭名鈔卷第十八羽族部云、※[(貝+貝)/鳥]、陸詞切、韻云、※[(貝+貝)/鳥]【烏莖反楊氏漢語抄云春鳥子宇久比須、】春鳥也云云
佐麻欲此奴禮者 泣き悲むことをいふたる義也。吟の義を訓ぜり。西國の方にては、今も聲をたてゝうめくことを、さまよふと云也。神代下卷彦火々出見尊愁吟在海濱とあり。文選漁父が辭にも行吟澤畔とよませたり。此春鳥のさまよひぬればとよめる意は、鶯の聲を發せんとする時、くうといひて枝をくゞりつたふものなれば、その處をよそへてよめると見えたり。偖此者の字少し心得がたし。上にも不得者とあり。又此處にも、ばとありてはてにをは合はざるやうにて、詞重りて耳にたつ也。若しこれは堵の字のあやまりにてや侍らん。又者と云字は、人ともよむべき字なれば、その意にてどゝよませたるか。かりうど、かたうど、まろうどなどいふも皆人をさしてどとはいひし事あまたあり。はとよみては、てには調はざる樣に聞ゆる也
嘆毛未過爾 なげきあかぬにと也。此句をもて見るに、上のさまよひぬればとよみては句不v續。意も通せざる樣に聞ゆ。さまよひぬれどなげきあかぬと云義ならん。然れば上をばとよみたきもの也。印本にはなげゝどもとよめり。此よみ心得がたし。なげきもいまだあきたらぬにと云の義にて、なげきしのしは助字也
憶毛未盡者 これも同じくなげきのものおもひもつきせねばと也。このおもひしものしの字も助語也。此者の字も下へつきがたきは也。しかれどもこれはかけて將v偲といふところにかゝるつきねばのばと見るべし。惣体此佐母良比不得者といふより、これ迄の句のてには少し難v調。もし誤字あらんか。誤字にしては、いづれの字をいふべきぞ。なれば愚案には不得者の者、未盡者の二字共、煮の字の火を脱したるか。しかればえぬにとよみ、つきぬにとよめば句意相調ふなり。しかればさまよひぬればの者は、本のまゝにはとよめばてにはよく調ふ也。さもあらずば、此未盡者のばは、懸けてしのばんといふ句にかゝるはと見るべき也
言右敝久 前にもことさへぐからの崎と續けたる所に注せる如く、ことさへぐ也。左を誤りて右に作り乍ら、印本の點にはさへぐとよませたり。くだらの冠句也。からとも續けくだらとも續くる也。何れも異國の人の言は、わや/\と計聞えて義通ぜすといふ義に、ことさへぐくだらとはつゞけたる也
(141)百濟之原 大和の地名、はら野など皆名所也
神葬 くだらの原にかくし奉れると見えたり
朝毛吉 第一卷に朝毛吉木人乏母とよめる歌の所に注せり。木といふ冠句に、あさもえとは置きたる也或抄の説には、麻裳吉と書たるを證として、麻は紀の國の名産なる故、紀伊國につゞくる詞につゞくる詞なれど、惣即立名の例と云事ありて、外の義にてもきと云詞につゞけん爲に用ゐたるとの義と釋せり。當家の師傳も之に同じく、きといふ冠句とする故、理に及ばず、いづかたにても不v障也。吉の字よしとよむべし。古訓はみなえと訓したり。日吉住吉みなえなれども、後世になりてあやまりてよしとは訓ぜり。すでに古事記等には、日吉を日枝と書るをもてしるべし。しかれどもことのほめたるところには、よしと用ゐる故此もよしとよむ也
木上宮乎 前の標題の所に注せる如し。木瓶も同所歟。標題には城上と有。歌には木上とあれば,今城上城下といふ磯城郡の地名とは別所にてあらんか。しかればくだらの原も木上もおなじ所にて、又別名ありしと見えたり。いづれが惣名にて、いづれが小名といふ義は難v考けれど、兎角さなくては、こゝの句ともいづれもひとつになりて、聞わけがたき也。木上宮は、もがりの宮にて、直ちにその所に葬りまつりて、常宮としたてまつりたるとの意也
常宮等 いつまでも神靈ましますとこしなへの宮と、高くあがめ奉りてと也
高久奉而 久の字之の字にあやまれり。高久とは尊んでいへる義、高くあがめ奉りてと也
神隨安定座奴 高市皇子を直に神と尊稱して、神なるからに神の如くにしづまりましぬと也
雖然 木上宮にかくしまつり、常宮とあがめ奉りて、此所に神靈はしづまりませどもと云義也。下の句に其意をのべたる也
吾大王之 高市皇子の義を尊稱していへり
作良志之 此句によれば、高市皇子萬代までもましまさんとおぼしめして、香來山に宮を建立させしめられしときこゆる也
香來山之宮 上にいへる如く、香來山と云所に萬代迄の宮と思召して、つくらしゝ宮を直ちにかぐ山と號せると見えたり
(142)萬代爾過牟登 此過の字難v通。遇の字のあやまりか、つくると云遏の字歟。過の字にてはおぼほしての解釋六ケ敷也
念哉 此二字も解しがたき也。然れ共と云より是迄の全躰の意、少し解しがたき也。追而熟見後考の上注すべし。先づは木上宮にしづまりましませども、高市のみこ御存生の御とき萬代迄もましまさんとおぼゝして建立なさしめられたる宮のあれば、この宮をいつ迄も天を仰くごとく尊みあがめて、御形見としたひ奉らんと云意とはきこゆる也。しかれ共、文句の内に紛らはしき詞どもありて、とくと徹底しがたし。又おもふやとよませたり。さよみては義不v通。おもへやとよむべきか。それにても打ちつかぬ句也
天之如振放見乍 香來山の宮を尊みなして、天を仰ぐごとく見奉りてと也
玉手次 かけてといはん序詞也
懸而將偲 おもひをこゝよりかしこにかけ通はして、したひ奉らんと也。なげかじと思ひしもいまだあきらめつきねば、いつ迄もおもひをかけてかなしみしたひ奉らんと也
恐有騰文 おそれ多けれども、香來山の宮を萬代までもの御かたみとおもひかけて、したひまつらんと也
 
短歌二首
 
目録には二首字なし。尤目録は後人の筆故、此歌或本反歌一首とある故、二首か三首か難v決故省きたるか
 
200 久竪之天所知流君故爾日月毛不知戀渡鴨
ひさかたの、あめをしらせる、きみからに、ひつきもしらず、こひわたるかも
 
天所知流 古本印本諸抄の説、神あがり給ふは、天子歸り給ふなれば、天にしられます君といふの義に釋して天にとよめり。しかれ共此義にてはとくと打つかぬ釋なり。よりて師傳は天をしらするとは、日嗣のみこにて、高光日のみこともよめれば、歸天し給ふて大空をおさめしろしめすといふ義に、天をしらせるとよむ也。上天をしりませるきみといふの義也
君故爾 諸本みな君ゆゑにとよめり。當家の傳はからにとよむ。その意は日月もしらずこひわたるかもと下によめる意をもつ(143)て也。天にしらるゝきみ故に日月もしらずといふ義如何にも正しくきこえたる也。からにとよむは、天をしらするきみなるからに、日のくれ夜のあくるわかちもなく、こひしたひまつるといふ意也。天をしらする君なるからに、日月もしらずとよめるところ此歌の手也。天にしらるゝ君ゆゑに、日月もしらずとはいはれぬ義也。よく/\沈吟すべき事也。日月もしらずとは、夜晝のわかちなく、月日の過行こともおぼえず。かなしみしたひ奉るとの義也
 
201 埴安乃池之堤之隱沼乃去方乎不知舍人者迷惑
はにやすの、いけのつゝみの、こもりぬの、ゆくへをしらず、とねりはまよふ
 
埴安乃池 大和の名所、長歌に埴安の御門のはらとよめるより、短歌にもその所をすゑてよめる也
隱沼乃 いけのつゝみのこもりぬのとは、沼といふもいけといふも同じ義にて、つゝみをめぐらしたる池の流るゝかたなく、こもりたるといふの義に、いけのつゝみのこもりぬとよめり。下に去方といはんための序詞也。こもりたるいけぬまは、いづかたへ流行くかたなきもの故、みこにつかへたる舍人どもの途方を失ひ、なげきさまよふといふ義によそへてよめる也
 
或書反歌一首
 
古注者の加筆也。口の目録には或本歌一首と計ありて、反の字なし
 
202 哭澤之神社爾三輪須惠雖?祈我王者高日所知奴
なきさはの、もりにみわすゑ、いのれども、わがおほきみは、たかひしらしぬ
 
哭澤之神社 大和の地名、啼澤女命を祭りたる社と見えたり。仙覺抄には紀州と注せり。同名多き事なれば、紀州にもあらんかしかれども此森は大和ならでは、歌の意不v濟。日本紀神代上卷云。其涙墮而爲v神、是即畝丘樹下所v居之神、號2啼澤女命1矣。古事紀上卷云。於御涙所成神、坐2香山之畝尾木本1、名泣澤女神云云。右如v此あれば、此神を祭りたる杜にて、此集にては如v此もりの名をあげたれども、式の神名帳にもたしかにそれと見えざれば、此哭澤の杜いづ方とも分明に難v定。しかるに僞書ながらも、舊事紀に畝尾丘と書たるは、日本紀古事記の畝尾は、うねびのをかの木下にてあるべし。しからば神名帳畝尾都多本神社(144)とある此社の事ならんか。既に古事記には香山之畝尾とあり。尾はびなり。日本紀に尾の字を脱したるか。丘比のあやまりたるか。とかく廣く畝丘の木のもとにます神と云ては、神代の卷の釋も六ケ敷也。地名の畝比と見ればいと安き也。後成恩寺兼良公の纂疏の説も、吟澤畔と云漁父辭に混合して解釋し給ふ意と見えたり。啼澤は便化してなれる字なれば、哭きかなしむ事多といふの義、さはは多の字の意なるに、吟澤而無v所v歸焉との釋は難2信用1也
神社二字合せてもりとよむ。上古は社といふ義はなし。みな神を祭りたる所をもりといふたる也。今神社のもりに、森の字を用ゐるは不v當義也。森は字書に衆木貌と注せり。しかれば木のしげりあつまりたる所をいふべきを、神のます所はおのづから諸木繁茂して有故、此森の字を書來れる歟。元來※[土/木]と書てもりと義訓せるを、後に杜の字に作り直して書たる義、此類數多例有事也。榊木の類にて知るべし。唐土も本朝も上古は、土を高くつき木を植ゑて、神を祭りたる義也。和漢一義也。よりて杜の字を用ひ、神社の義をしらしめてもりと訓ぜり。是日本の作字にて、もりはみもろと云義、みもろはひもろと云義也。ぴもみも同音にて、實はみもろぎと云義也。みもろぎと云釋は別に秘傳あること也。此哭澤のもりとよめるは事實と見るべし。そのとき此近所に居住し給ふ人故、此神社に祈り申さしめ給ふ事と見るべし。哀情の歌故、此神社をよめるにてはあるべからず
三輪 酒の古語をみわといふ。仙覺律帥土佐風土記を引て、うまさけみわとつゞく由來を釋せる如く、土佐國三輪川の水をもて作れる酒至て佳味なる故、さけを三輪とは云來れるとの義、先從2此説1也。倭名鈔卷第十三、祭祀具部云、神酒、日本紀私記云、神酒和語云美和。神を祭る時のさけをみきみわとはいふ也。三輪にては、酒瓶を地にほりすゑて神に奉る也。此集中に三輪ほりすゑといふ歌もあり
雖?祈 神代上卷岩戸の段に、相與致其祈?焉。?、字書曰、祈v神求v福也。祈、同云、渠宜切、音奇、?也、求v福也。爾雅云、告也、叫也、郭璞曰、祈祭者、叫呼而請v事也。祈?とも?祈と連り字意同事也。此?祈は高市尊のみいのちを、長かれと神に詣でいのりたれども、そのしるしもなく、神あがり歸天し給ふと云義也。わが王はといへるは、高市皇子をさしてなり
高日所知奴 上天まし/\て、あめをしろしめされぬといふ義、皇子のかくれ給ふたるといふ義也。古本印本ともに、高日しられぬとよませたれど、しられぬといひては義不v通。しらしぬと云ふは、しろしめされぬるといふ義なれば、當家の傳には、しら(145)しぬとよむ也
 
右一首類聚歌林曰檜隈女王怨泣澤神社之歌也
前略ひのくまひめおほきみ、なきさわのもりをうらめるうた
 
古注者の文也。此類聚歌林は、いづれの歌林歟難v知也。第一卷廿卷の初に注せるには、悉山上憶良太夫類聚歌林と記せり。此歌林も憶良の歌林ならんか。一本には、此歌一首人丸の短歌の次にのせてありしを、古注者所見と見えたり
檜隈女王 傳不v知。高市皇子の御妻歟、於v今は考ふるところなし。尤も此うた女王の歌なるべし。ひと丸のうたにはあるべからず
 
案日本紀曰持統天皇十年丙申秋七月辛丑朔庚戌後皇子尊薨
 
古注者の文也。日本書紀卷第三十持統天皇の紀に見えたり。後皇子尊と奉v稱るは、草壁皇子薨給ひて其のち、此高市のみこ皇太子となり給ふ故、如v此紀にも書かれたる也
 
但馬皇女薨後穗積皇子冬日雪落遙望御墓悲傷流涕作歌一首
たじまのひめみこかくれ給ふてのち、ほづみのみこ、ふゆのひゆきふりて、はるかにみはかをみて、かなしみていたみ、なみだをながしてつくりたまふうたひとくさ
 
但馬皇女 前に注せり
薨後 續日本紀卷第四。元明天皇和銅元年六月丙戌三品但馬内親王薨、天武天皇之皇女也、云云。標題に藤原宮の御宇とあげたれど、挽歌の類故、一所にあげたると見えたり。此已下の歌ども、皆持統の御代の歌にあらざるをあげたり。挽歌故類を集めたるなるべし
穗積皇子 前に注せり
(146)冬日云々 穗積皇子但馬皇女は、ことはらの御兄弟ながら、わけて御むつまじきわけ前にも注せり。かなしみしたひ給ふ所以あるなり
 
203 零雪者安幡爾勿落吉隱之猪養乃岡之塞爲卷爾
ふるゆきは、あばになふりそ、よなばりの、ゐかひのをかの、せきにならまくに
 
安幡爾勿落 このあはになふりそを、沫のやうになふりそと云の意と心得たれど、沫の字は波の音、幡は濁音、ばんはまん也。清音によむ故、歌の意をも無2考辨1。沫雪の意に釋して、沫の假名あはとも書くなどゝ注せる抄あり。大なる違なり。播幡相通じて濁音の婆武は麻武也。八まんのまんも此字なり。しかれば安婆になふりそは、あまりになふりそと云義也。此よみ誤りより、下のせきにせまくにと云あやまりの點も出來たる也
吉隱之猪養之岡 大和地名也。これを古本印本ともによごもりの猪養とよめり。よりて或抄に吉隱はよくこもると云義にて、猪のしゝの寢床はよくかまへて、ふすもの、かるもかきふす猪などゝつゞくると同意、猪養とつゞけん迄の冠句と釋せり。さもあるべからんか。しかれども日本紀卷第三十持統紀、九年十月幸2菟田吉隱1如v此あれば、吉隱も地名と見ゆる也。吉なばりにある猪養の岡と見る方安き也。隱の字なばりと訓する由來は、風土記等無2所見1故未だ考へざれども、先は日本紀によりてよなばりとは訓する也。又此集卷第八の歌に、古名帳乃猪養山爾云云とあり。古の字は吉の字のあやまりか。此集中に吉魚張と書る歌もあり。是はふなばりにてあらんか。これもよなばりともよまるれば、いづれとも決しがたし。尚其所にて可v考也。但馬皇女の墓此よなばりのゐかひの岡にありしと見えたり
追考、或抄に、これをふなばりとよむべしといひ、日本紀のよなばりのかなは、さがしきものゝしわざにて、片假名のコの字に中の二點を以てヨとしたるから、よなばりとはよみ來れるならん。然れども、吉隱の字をふなばりとよむ由來義訓は考へざれども、當集に古名張と書ける歌あるを證とすとの説なれども、いかにとも難2信用1。吉隱の二字ふなばりとよむ義證明ありて、假名にてもあらばさもいはるべきや。當集に古名張とある計りの證は用ゐがたし。古の字もし吉告の字などの誤りもしれず。(147)又吉隱はよごもりといふ地名あるかもしれず。いかにとなれば第三の歌に、掠橋の山をたかみか夜隱爾出來月乃光乏寸。如v此よめる歌あり。此夜隱も地名にあらざればこの歌不v聞。然ればよこもりといふ地名ありと見えたり。隱の字をなばりとよむ義所見なきうちは、則地名とならでは見がたし。よごもりの猪とつゞけたるといふ説、あたらざるにもあらざるか、また吉魚張はふなばりともよむべき歟。古名張は古の字、吉の字の誤りとも可v謂哉。所詮三名一所に有とも見るべし。吉隱をふなばりとは、いかにとも證明なければよみがたし。日本紀に吉の字はよとよみて、隱の字なはりとよめる事、後人の字訓釋もなく、たゞ假名づけに任せてよみ來れる事、證明にはしがたけれど、吉はよとかよしとよみ來れる字也。通例しれたる訓、隱をなばりとは何とぞ由來ありてよませたらんか。當集の吉魚張の訓書を證明としてよむ迄の義也
塞爲卷爾 これを古本印本等せきにせまくにとよませたり。是は上の安幡のよみあやまりより、爲の字をせとよむあやまり出で來りたる也。これはせきにならまくにとよまでは歌の意不v通也
歌の意は、但馬の皇女のみ墓を、速くのぞみたまひ慕ひ給ふより、ふる雪もあまりになふりそ、ふりつもりては、皇女の墓のせきとなりて、墓のかくれへだゝりて見えまじきとの意にて墓を慕ひのぞみてかなしみ給ふ歌也。せきにせまくにとよみては皇女をしたひ給ふ歌の意には不v通也
 
弓削皇子薨時置始東人歌一首並短歌
ゆげのみこかくれたまふとき、おきそめのあづまうどのうたひとくさならびにみじかうた
 
弓削皇子 傳前に注す。薨の年月も注せり
置始東人 傳不v知
 
204 安見知之吾王高光日之皇子久堅乃天宮爾神隨神等座者其乎霜文爾恐美晝波毛日之盡夜羽毛夜之盡臥居雖嘆飽不足香裳
やすみしゝ、わがおほきみ、たかひかるひのみこ、ひさかたの、みそらのみやに、かみながら、か(148)みといませば、それをしも、あやにかしこみ、あくればも、ひのくるゝまで、くるればも、よのあくるまで、ふしゐなげけと、あきたらぬかも
 
吾王 六言一句によみて、皇子を尊稱してよめる也。下の句も同事也
天宮爾 あまつみやともよむべけれども、みそらのみやにと、句をとゝのへてよむべし
神等座者 かみといませばと、これも句を調へてよむ意也
其乎霜 神あがり給ひて、かみとなりましませば、いよ/\それをもかしこみてと云の義也
文爾恐美 是迄の句釋みな前に度々注せる通也
晝波毛 これも前に義訓せるごとく、あくれはもとよむ也
日之盡 ひのくるゝまでとよむべし
夜羽毛 上の義訓とおなじく、くるればもと義訓せり
夜之盡 よのあくるまでとよむべし
右之歌はきゝやすく解釋するにも不v及也
 
反歌一首
 
此次に又短歌一首とあれば、反歌短歌別のやうなれど、ともにみじかうたと訓して、同事と心得べし。古今の眞字序に三一十字の詠今反歌躰也と書けり。國史にみな、短歌を反歌と記せり
 
205 王者神西座者天雲乃五百重乃下爾隱賜奴
おほきみは、かみにしませば、あまぐもの、いほへのしたに、かくれたまひぬ
 
天雲之五百重之下爾 皇子を尊稱して、凡人に異なる意を述べて、上天したまひて、雲にかくれ給ふと也。凡下の人は死ては地下黄泉に沈むといへども、天子の皇子は殊に尊ければ、賞して神にしませばとよみて、上天空中の雲にかくれ給ひ、すなはち(149)神となり給ふといふ義を長歌反歌に述べあらはせり
 
又短歌一首
 
或説歟。此標題不審也
 
206 神樂波之志賀左射禮浪敷布爾常丹跡君之所念有計類、
さゞなみの、しがのさゞれなみ、うつたへに、つねにときみが、おぼしたりける
 
神樂波之志賀 近江の地名をいふ。下のさゞれなみをいはんための序とみるべし
左射禮浪 小浪也。さゞれいしなどと云も、ちいさき石といふ義をさゞれといへり。倭名鈔卷第一水泉類、泊※[さんずい+狛]、唐韻云、淺水貌也、白柏二音、文選、師説左々良奈三
敷布 此集中此二字をしるせること數しらず。みなしき/\とよませり。最しき/\はしげくたへぬことを云たる義也。此歌も常住絶えざることを敷布とよみて、すなはち常にとつゞけたり。しき波など云て、古語の例證もあれば、しき/\ともよむべき歟。同じくは、うつたへにとよまんか。うつたへも、常住不斷の義を云たる義也。布の字たへとも訓すべき字也。然ればしき/\うつたへ兩樣によむべし。意は兩義とも、常住不斷にと云意としるべし
常丹跡君之所念有計類 歌の意、如v此長からぬみいのちを、さゞれなみの不斷によするごとく、御身もいつ迄もましますことのやうに、おぼしたりけると、慕ひ歎ける歌也
 
柿本朝臣人麿妻死之後泣血哀慟作歌二首並短歌
 
妻死之後 此妻は依羅娘子の前の妻なるべし。依羅娘子は後妻と見えたり
泣血哀慟 悲み歎くことの、切なることを如v此文に書きたる也
 
207 天飛也輕路者吾妹兒之里爾思有者懃欲見騰不止行者人目乎多見眞根久往者人應知見狹根葛後毛將相等大船乃思憑而玉蜻磐垣淵之隱耳管在爾度日乃晩去之如照月乃雲隱如奧津藻之名延之妹(150)者黄葉乃過伊去等玉梓之使乃言者梓弓聲爾聞而【一云聲耳聞而】將言爲便世武爲便不知爾聲耳乎聞而有不得者吾戀千重乃一隔毛遣悶流情毛有八等吾妹子之不止出見之輕市爾吾立聞者玉手次畝火乃山爾喧鳥之音母不所聞玉桙道行人毛獨谷似之不去者爲便乎無見妹之名喚而袖曾振鶴 或本有謂之名耳聞而有不得者句
あまととぶや、かるのみちをば、わぎもこが、さとにしあれば、ねもごろに、みまほしけれど、やまずゆかは、ひとしりぬべみ、さねかづら、のちもあはむと、おほぶねの、おもひをかけて、かげろふの、いはがきふちの、かくれのみ、こひつゝあるに、わたるひの、くれゆくがごと、てるつきの、くもかくるごと、おきつもの、なびきしいもは、もみぢばの、ちりていゆくと、たまづさの、つかひのいへば、あづさゆみ、おとにきゝつゝ【一云こゑのみきゝて】いはむすべ、せむすべしらに、おとのみを、きゝてありえねば、わがこひの、ちへのひとへも、おもひやる、こゝろもあれやと、わぎもこし、やまずいでみし、かるのいちに、わがたちきけば、たまだすき、うねびのやまに、なくとりの、おともきこえず、たまぼこの、みちゆきびとも、ひとりだに、にてしゆかねば、すべをなみ、いもがなよびて、そでぞふりつる
 
天飛也 かるかりと云冠句也。空をとぶとりのかりとつゞけたる義也。何のふかき意もなく、古語皆かくの如く冠句をいひ來れり
輕路者 大和の地方也。かるの里と云所もありて、そこに妻のありしと見えたり。みちをばとよめるは。見まほしけれどとよめるにかけて見るべき也
(151)里爾思有者 さとなればと云義也。にしは助語也
懃 此集中に多き詞、したしくおろそかならずといふの義也
欲見騰 見たくおもへどゝいふの義也。かるのみちを見まくほしきと也
不出行者 人丸朝勤の身なれば心のまゝに里亭に行通ふこともならず。妻の住所輕市の邊にて、行かふ人の絶ゆる間もなきことゝいふ義をいへる也
狹根葛後毛 すべてくづかづら、つたかづらなど、こなたかなたにはひ絡ろひて、末はまた一所によりあふ物故、すゑもあはんと云序に、みなはふつたの、さねかづらのなどよめり
思憑而 前にも注せるごとく、おもひをかけてとよむべし
玉蜻 倭名鈔卷第十九蟲豸類云、蜻蛉本草云蜻蛉精靈二音一名胡※[(來+力)/虫]音勅和名加介呂布云々。玉蜻の二字をかげろふと訓ずること、何によれるか。出所未v考。かげろふはもと、かける火といふ義にて、こゝにあるかと見れば、かしこにちるごとく、ちらちらとする火をもていへり。此虫の飛かふありさまその如くなれば、名付けたるものなるべし。日本紀には、蜻蛉の二字をあきつと訓ぜり。和名鈔とは違へり。あきつは古名にして、かげろふは後の名か。今俗に野馬といひ、とんぼうと云、共にあきつの事也和名鈔胡黎赤卒、みな蜻蛉の類にして、小さきものと注せるを見れば、かげろふもあきつの後名と見えたり。種類多くして明らかにはわかちがたし
磐垣淵之隱耳 かげろふは右にいふごとく、かける火といふ事なれば、石の火のちらつくごとくなるといふ義にて、岩かきぶちとはつゞけたる義か。最もかげろふも石の火も、はかなきことにいひなせるもの故、妻のみまかりたる時の歌なれば、かくつゞけたるが。此いはがきとつゞく事少難2心得1。もし蜻の字限の誤りたるか。玉限の字なれば、いはとつゞく也。奧の歌に蜻火の字ある故、玉限を蜻にあやまり、假名をもかげろふと附けたるか、いぶかし
隱耳 おもてにつゝみて、かくれに戀ひわびてありしと也。古今六帖、玉きはる岩かげふちのかくれぬまとよめる歌もあれば、此玉蜻は玉晴のあやまりにてもあらんか。尚後案後考を待也
(152)晩去之 日のくれゆくがごとく、妻のみまかりたることを、もみぢ葉の散りていゆくと段々にかさねてよめる也
過伊去等 すぎてとよみきたれども、もみぢばのと上によみたれば、意は同じけれど、義訓にちりてとよむべし。第一卷輕皇子あきのに宿り給ふときの歌にも、此過去の字を書きて、そこもちりゆくともよませて、則ち此歌を證例に引て、黄の字の脱ならんと注せり
玉梓之 つかひといふ冠句也。人丸他所にゆける故、妻の死したることをつげやりしと也
聲爾聞而 而の字はつゝとよむべし。印本等には音にきこえてとよめども、句意おだやかならす
一云聲耳聞而 耳の字をのみとよむで、而の字をてとよむの或説をあげたり。さなくては此一説本集の字と同じき也。これによりて本集の而の字つゝとよむべき也。つまのみまかりたると音にのみ聞きて、他所にあればいかんともすべきやうなく歎き悲めることを、これより下にいへり
聞而有不得者 妻のしゝたりと、音にのみきゝてあるにもあられねばと也
遣悶流 おもひを消しやりて、慰む心もあれやと也
不止出見之輕市爾 妻の常に出て慰むる市と見えたり。人丸朝庭よりか、他所よりか、輕の里にかへりてこのかるの市に立聞けるなるべし
玉手次畝火 此玉手次うねとつゞける義、田をすくうねとつゞく義と云説もあれど、玉田をすくといふ義心得がたし。又うねめは陪膳等の役につかふるもの故、ひもめも同音なれば、玉だすきをかくるうねめと云義あり。是はさもあるべけれど、當家の説は玉襁うてとつゞけたる義と見る也。うてとうねは同音にて、襁はつねにかけるものなれば、かくよみつゞけたるなるべし
喧鳥之 此うねび山より、なくとりといへるまでは、何の意もなき事也。たゞ下の聲もといはんまでの序也。音も聞えずば、妻の聲もせぬと云義也
玉桙道行 此玉ぼこの道とつゞく事も、いろ/\説ありて、或抄にも玉は鉾をほめたる詞、鉾は直なるもの、道の直なるに比し(153)ていふたる義、周之道如v砥其直如v矢と云へる、唐土の古語を引たる説もあれど難2信用1。上代の通路のしるしに、日本も唐土も幡鉾を立て置き、又は旅行には皆はたほこをもたせる故、玉鉾の道とは、つゞけたるならん。たゞ何の意もなく、當然にあることの縁を云たる事上代の風俗也。直きもの故などいへるおもしろき道理は上代かつてなき事也。すでに日本紀成務卷に、諸國に楯桙を賜はり、表とせる古事もあれば、桙をたてたるみちといふ事、正義なるべし
獨谷似之 人丸の妻に似たるものもなきと也
爲便乎無見 いかにせんかたもなきと也
妹之名喚而袖曾振鶴 せんかたなきあまり、妻の名をいひて、もしいづかたよりぞ來ることもあらんやと、袖にてまねきよばふと也。したひなげく事の、切なる意をのべたる也
或本有謂之名耳聞而有不得者句 此文不v詳。本集に聲耳乎聞而有不得とあるの異説を此所へあげるたもの歟。兎角不分明也
 
短歌二首
 
208 秋山乃黄葉乎茂迷流妹乎將求山道不知母【一云路不知而】
あきやまの、もみぢをしげみ、まどひぬる、いもをもとめむ、やまぢしらずも
 
迷流 人丸のまどひたるにてはなく、いものみまかりて見えざるは、山路に迷ひて不v歸といふ義によみなしたる也。第三より第四句へ續く古詠の法をもて見れば、人丸の迷ひたる義とは見えざる也
歌の意は、妻のみまかりて、もとむれども不v見事を、秋のころ山などに入りて、不v歸ばそれをたづねもとむれども、もみぢ葉などのちり亂れて、一筋ならぬ山路の、いづかたにありとも難v知やうなる義に、なぞらへてよめる也。秋山とよめるも、妻を山に葬りたる故、その縁をもてよめるなり。奧には引出の山に妹を置きてとあり
一云路不知而 (154)或本には如v此書たるもあると也。しかれ共本集の句しかるべし
 
209 黄葉之落去奈倍爾玉梓之使乎見者相日所念
もみぢばの、ちりゆくなべに、たまづさの、つかひをみれば、みしひしのばる
 
奈倍爾 此ことばの釋むつかしき也。すべて古詠どもに幾等も此詞あり。詞の意とくと難v解也。まづはちりゆくうへにとか、はてにとか云義と心得べし。ちり行ばすなはちと云意也。諸抄物の説は、からにとも、まゝにとも云の意に釋したれ共、語の釋さいふては不v通也。此意は妻の死したる事を、もみぢばのちるなへにとよみたる也
玉梓之使乎見者 長歌にも、玉づさの使のいへばとあり。妻のみまかれる時、人丸は朝に參勤の折歟、又公使にて外に徃きける時にて、死を告來る使をいへる義と見えたり
相日所念 いけりしとき、相みし折ふしの事を思ひ出て慕はるゝと也。相の字はみるともよめば、詞の縁聞きよければみし日とよむ也。古本印本には、あふ日と讀たれども、こゝは過去の事なれば、あひし日とは讀べきなれど、あふ日とは心得難し
歌の意は妻の死したるを、もみぢ葉のちりゆくになぞらへてよめる也
 
210 打蝉等念之時爾【一云宇都曾臣等念之】所持而吾二人見之※[走+多]出之堤爾立有槻木之己知碁智乃枝之春葉之茂之如久念有之妹者雖有憑有之兒等爾者雖有世間乎背之不得者蜻火之燎流荒野爾白妙之天領巾隱鳥自物朝立伊麻之弖入日成隱去之鹿齒吾妹子之形見爾置若兒乃乞泣毎取與物之無者鳥穗物腋狹持吾妹子與二人吾宿之枕付嬬屋之内爾晝羽裳浦不樂晩之夜者裳氣衝明之嘆友世武爲便不知爾戀友相因乎無見大鳥羽易乃山爾吾戀流妹者伊座等人之云者石根左久見乎名積來之吉雲曾無寸打蝉跡念之妹之珠蜻髣髴谷裳不見思者
うつせみと、おもひしときに【一云うつそみとおもひし】たづさへて、わがふたりみし、わしりいでの、つゝみにたて(155)る、つきのきの、こち/\のえの、はるのはの、しげきがごとく、おもへりし、いもにはれど、たのめりし、こらにはあれど、よのなかを、そむきしえねば、かげろふの、もゆるあらのに、しろたへの、あまひれがくれ、とりじもの、あさたちいまして、いりひなす、かくれにしかば、わぎもこが、かたみにおける、みどりこの、こひなくごとに、とりあたふ、ものしなければ、とぼしもの、わきばさみもち、わぎもこと、ふたりわがねし、まくらつく、つまやのうちに、ひるはも、うらさびくらし、よるはも、いきつきあかし、なげけとも、せむすべしらに、こふれども、あふよしをなみ、おほとりの、はがへのやまに、わがこふる、いもはいますと、ひとのいへば、いはねさくみて、なづみこし、よけくもぞなき、うつせみと、おもひしいもが、かげろふの、ほのかにだにも、みえぬおもひは
 
打蝉の事は前に注せり。存在の身の時にと云義也。一云は打蝉の二字を假名に書きたる一本もありて、それにはそみとありと也。そみもせみも同事也
所持而 此二字通本には取而と書きて、古本印本共にとりもちてとよめり。しかれども奧の或本の歌を見るに、携手とあり。しかればこゝもとりもちてとよみては、何をとりもちてといふ義、上に不v見。下のつきの木の枝をとりもちてといふ義なれども詞のつゞき心得がたし。或本によりて見れば、所持の二字義訓にたづさへてとよむべきか。取所の違ひは、いづれにても義はたづさへるの意なるべし。たづさへてとは、相つれだちそひてといふの意、今俗に手を引合てなど云とおなじ意にて、たづさへてとよめるならんか
※[走+多]出之堤爾 地名歟。又かるの里の近所に在山のすそ抔の出たるところにて、つねに立出見し所故、はし出といへる歟。堤は川池などの縁の士を高くきづきたる所を云也。倭名鈔卷第一河海類部云、陂※[こざと+是]、禮記云、畜v水曰v陂、音碑、和名豆々三※[こざと+是]又作v堤云々。同鈔云、塘、纂要云、築v士遏v水曰v塘、音唐、又謂2之※[こざと+是]1。字書曰、堤、典禮切、音邸、壅也、滯也、塞也、後人相承作v※[こざと+是]、字非(156)ナリ云々。令義解第六營繕令云、凡近2大水1有※[こざと+是]防1之處、【謂大水者、江河及海也、堤防者※[こざと+是]塘也、防障也云々。】同云。反堤内外并堤上多殖2楡柳雜樹1充2提堰用1云々。むかしは如v此堤に樹木を植させられたると見えたり
槻木之 よく枝葉のしげる木なるべし。倭名鈔廿木類部云、槻、唐韻云槻、【音規、和名豆木、】木名堪v作v弓也。俗(ニ)けやきといふ木なりといへる人あり。いかなる木をいふか未v考
巳知碁智乃枝之 枝のしげくかなたこなたへさかえたるを云也。あちこちといふにおなじ
春葉之茂之如久 槻の木の青葉の榮えし如く思ひし、うるはしき妻にはありしかども、かくばかり早く散り過ぎしと云意也
兒等 妻の事也。兒とは此集中すべて女の事をいへり。妹といひ兒といひかへていへる也
背之不得者 世の中の人の道にはそむかれねば、たかきもいやしきも定規ありて、老少不定のならひ、死する事はまぬかれざると也。世間の道理にそむく事ならねば、妻の死したるといふ意也
蜻火之燎流荒野爾 前の歌には、玉蜻の字を書きたり。此處に蜻火の字を書たるは、慥に此歌はかげろうとよむべき也。蜻の字一字にてもかげろうなれども、火の字を添へたるは、下にもゆるとよめるによりて、意を通はしたる此集の字格なるべし。荒野はひろくかぎりなき野といふの義、人のしらざる郊原にかくし埋む故、かくよみしと見えたり。此あら野は地名にはあらず。たゞひろき野をさしていふたる義也。上古の野といひしは郭外の外也。山野とわけたるにはあらず。くるわの外の牧野也
天領巾 領巾の二字ひれと訓せり。しかれば天のひれとよむべし。みまかりたりし故、天ひれとはよめり。死するを歸天といふより、天ひれともよみたり。畢竟かくれといふは、みまかりたるをいひたる也。十卷目の歌に、秋風にふきたゞよはす白雲は七夕つめの天つひれかも。領巾、日本紀卷第五崇神紀云、我聞武埴安彦之妻我田媛密來之取2倭香山土1※[果/衣の下半]2領巾頭《ヒレノハシニ》1云云。倭名鈔卷第十二衣服類云、領巾日本紀私記云比禮婦人頂上※[金+芳]也。上古は男女共にひれと云ものを、頭にかけたると見えたり。倭名鈔にも頭上の※[金+芳]と書せり。かしらをつゝむための服か。又延喜式大祓祝詞の文には、比禮掛伴男手襁掛件男とあり。此義外に不v見。祝詞文計にて男服のやうにみゆる也。此義に附きては別にわけあらんか。こゝによめるひれは死者のひれを云たるもの也
烏自物朝立伊麻之※[氏/一]云云 とりじものは、しゝじものと義おなじく、とりのごとくいふ義也。あさたちいましてと云ふより、か(157)くれにしかばといふまでは、つまのしゝたることを、とりのあさ立ちて、いづかたともなくゆけるごとく、日の入りはてたるごとくに、むなしくなり行きしとよそへよめる也。あさ立といふより、入日といふ詞の對の詞のやうによみたる也
若兒乃 此時みどりこありたると見えたり
乞泣毎 死したる母を、わがこのたづね慕ひ泣くたびごとに也
取與物之 はみまかりたれば、抱きはぐくむものゝなければ也
鳥穂自物 乏しもの也。珍敷ものゝやうに大切にして、わきはさみもつごとくに、みどりこをいだきと也
枕付嬬屋 前にも注せり。まくら付は、つま屋といふ冠句也。夫婦枕を着けていぬるやと云義也
浦不樂 うらは歎の詞ながら、おもてにあらはさず裏にかなしみのふかく切なることをいへる義也。不樂の二字を、古本印本ともにふれとよみたれど、ふれにてはあるまじ。さびにてあるべし。さびは淋敷の意、おもしろからぬ、心のなぐさまぬことをいひたる義也。奧の歌に不怜の二宇をも、ふれと音にてよみたれども、不樂の例を以ておもひのつもりしといふ義訓にて、これもさびにてあるべき也
氣衝 かなしみなげくことの、むねにたまりぬれば、自ら息を發生せざれば、胸せまりて苦しき故、いきをはくと也。これをいきつくと云也。今も俗言に、といきをつくといふ此事也。心中に悲みなげく事の切なる事を、いひたるもの也
嘆友世武爲便不知爾 いろ/\になきしたひかなしみても、せんかたもなく、何とすべきやうもなきと也
戀友相因乎無見 こひわびても、相見るよしのなきと也
大鳥羽易乃山爾 大和なるべし。地跡しかとは不v考なれども、大和の内とは見えたり。かるの里の近所の山歟。此所に葬りしか此事不詳。前の荒野がくれとよみたるは、野邊に葬りたるやうにもきこゆる也。奧の引手の山に妹をおきてともあれば、山葬したると見ゆる也
名積來之 艱難し、苦しみて來りしと也。ものになづむといふ事も、何にてもその事に拘束されて、外へ氣のはたらかぬ事をなづむと云。その意と同じく、險難の山坂路をのぼれば、その道路にかゝはりおさへられて、外へ氣のはたらくものならぬ道理(158)をもつて云ひたる也
吉雲曾無寸 よけくもぞなきとよむべし。能くもぞなきと云義也。かげろふのほのかにだにも不v見事を思へば、よけくもぞなきといふ義也
打蝉跡念之 羽易乃山爾妹の居るときゝて、山坂路をも厭はで、尋ね來りぬれど、よけくもなくうつの身とおもひしいもはかくれて、ほのかにだに不v見と歎じたる也
珠蜻 本集後には玉蜻とあり。此處には珠蜻の字を書たり。本集此所共二字の出所未v考。かげろふのほのかにだにも不v見とある、此かげろうはほのかにといはんための冠句也
歌の意は、所々の句釋にて聞え侍れば不v及2再釋1
 
短歌二首
 
211 去年見而之秋乃月夜者雖照相見之妹者彌年放
こぞみてし、あきのつきよは、てらすれど、あひみしいもは、いやとしさけぬ
 
月やあらぬ春やむかしのとよめるも、此歌のおもかげ也。こぞ夫婦詠めし月はかはらず秋のよをてらせども、相かたらひて見し妹はみまかり行て、日月の立つにしたがひて、年をへだたりさかると也
 
212 衾道乎引手乃山爾妹乎置而山徑徃者生跡毛無
ふすまぢを、ひきてのやまに、いもをおきて、やまみちゆけば、いけりともなし
 
衾道乎引手山 大和地名也。延喜式卷第廿一諸陵式云、衾田墓、手白香皇女、在2大和國山邊郡1去云。此邊の義なるべし。葬車を引出と云義にてよめるか。衾はよるの服、又は物を隔つる物覆なり。又衾路といふ所を經て、引手の山といふ所へ到る故かくよめる歟。ふすまぢを引手とは、縁語をもて云出したると見ゆる也。前に有大鳥の羽易山 別名か。奧の歌に大鳥の羽易山に汝戀云々とあれば、大鳥の羽易の山に葬りたると見ゆるに、こゝにも妹を置きてとあり。とかく同所異名と見ゆる也。本集の長(159)歌に、荒野に白妙の天ひれかくれとよめるは、野に葬りたるやうにもきこゆれども、上古の歌に野といふは、みな廓外をさしていひたれば、山岡林野相兼ねたる義也。しかれば天ひれがくれといひしは先みまかりたることをもいひて、葬りたる義をもかねていひたるなるべし。衾路は衾田也。田は手也。既に諸陵式にも衾田と有。然れば手引とうけたる義也。路を手と云也。行路の古詠に皆行手とよむはたちつてと同音故也
生跡毛無 人丸のいきたるこゝろもなきと也
歌の意はきこえたる通也
 
或本歌云
 
213 宇都曾臣等念之時携手吾二見之出立百兄槻木虚知期知爾枝刺有如春葉茂如念有之妹庭在雖恃有之妹庭雖有世中背不得者香切火之燎流荒野爾白栲天領巾隱鳥自物朝立伊行而入日成隱西加婆吾妹子之形見爾置有緑兒之乞哭別取委物之無者男自物脅挿持吾妹子與二吾宿之枕附嬬屋内爾且者浦不怜晩之夜者息衝明之雖嘆爲便不知雖戀相緑無大鳥羽易山爾汝戀妹座等人云者石根割見而奈積來之好雲叙無宇都曾臣念之妹我灰而座者
うつそみと、おもひしときに、たづさへて、わかふたりみし、いでたてる、もゝえつきのき、かちこちに、えださせるごと、はるのはの、しげれるがごと、おもへりし、いもにはあれど、たのめりし、いもにはあれど、よのなかを、そむきしえねば、かげろふの、もゆるあらのに、しろたへの、あまひれかくれ、とりじもの、あさたちいゆきて、いりひなす、かくれにしかば、わきもこが、かたみにおける、みどりこの、こひなくごとに、ゆたとりし、ものしなければ、男自物、わきばさみもち、わき(160)もこと、ふたりわがねし、まくらつく、つまやのうちに、ひるはも、うらさびくらし、よるはも、いきつきあかし、なげけども、すべのしらなく、こふれども、あふよしもなみ、おほとりの、はがへのやまに、ながこふる、いもはゐますと、ひとのいへば、いはねさくみて、なづみこし、よけくもぞなき、うつそみと、おもひしいもが、はいしてませは
 
出立百兄 つきの木の、生出でたる体をいふたる義也。百兄は百枝也。槻の木のしげりたる義をいへり
香切火之 蜻蛉の飛かふは、火のかけるごとくなるもの故、かげろふはかける火といふの義にて、則かぎるもかけるも同じければ、香切火之と三字訓書にはしたる也
乞哭別 こひなく毎也。度ごとにの意也
取委 本集には取與とあり。此處には委の字をかきたれば、ゆだねとよむで、みどりこをとりあつかふものしなきとの事也
男自物 此義少心得がたし。をのじものといふ義歟。またをのこじもとよむ義か。をのじものといふは、何の樣にといふ義歟不分明。をのこじもなれば、をのこながらもといふ義にて、しは助語と見る也。をとこながらも、乳母女のなどのやうに、みどりごをとりいだくとの事也
吾妹子與 これより句を改めて、妻の存在の時二人みしと云事わざ也。はさみもちといふへかゝりたることにてはなし
不怜 音借訓の意にて古本印本共にふれとよめるか。しかれどもふれと云義は釋むづかしき也。不樂の二字をさびと此集中いか程もよみたれば、此不怜の二字もさびと義訓によむべき也。さびはさみしきと云かた也。この奧の歌にも、不伶彌可をさびしみかとよませたり
爲便不知 古本印本ともに、せむすべしらずと本集の通によめり。しかれども、本集には世武の二字かな書にて、下をすべとよみたり。此は本集の通にはよみがたし。こゝろは同じ義なれども、すべのしらなくとか、すべもしられずとかよむべき也。何とすべきかたもしられぬと云義也
(161)相縁無 相逢ふ事もなきと也
人云者 きはめて人のいひしにもあるまじけれど、歌の餘情なれば、如v此つらねたるもの也
好雲叙無 よくもぞなきといふ義也
宇都曾臣 現在してある身とおもひしに、妻を火葬にしたれば、よくもぞなきと、歎き悲みたる也
灰而 是火葬にしたると見えたり。前にかげろふのもゆるあら野などよめるも火葬にしたる故、その縁をもてよめると見えたり。火葬のはじまりは、續日本紀文武天皇の四年に、禅僧道昭より起りたること審也。しかれば妻のみまかりしも、文武帝の四年已後頃と見えたり。人丸の死去の事も、此火葬の義によりて見れば、文武元明の頃とみゆる也。はいしてませばとは、はひとなりていませばと云義也
 
短歌三首
 
或本には、短歌三首のりたると見えたり
 
214 去年見而之秋月夜雖度相見之妹者益年離
 
雖度 月日の過行をわたるともいふ也。本集に雖照といへるおなじ意也。本集の短歌の意と、させる替りもなき也
 
215 衾道引出山妹置山路念邇生刀毛無
ふすまぢを、ひきての山に、妹をおきて、やまぢおもふに、いけりともなし
 
引出山 本集には引手とあり。一説には、出の字を書せり。葬車を引出だす通路の衾道故、出の字を書きて、意をあらはしたると見えたり。よりて古注者も此一説を注せりと見ゆる也
山路念 やまぢしのぶにとも、おもふにともよむべし。畢竟妹をおさめし山を、慕ひ思ふにと云義也
 
216 家來而吾屋乎見者玉床之外向來妹木枕
いへにきて、わがやをみれば、たまゆかの、よそむきにけり、いもがこまくら
 
(162)家來而 妻の死せるときは、人丸外にありしおもむき、前の長歌にも見えたり。死して後歸り來て也
吾屋 家に來てと重言のやうなれど、わがねやといふ意也
玉床 床をほめて玉とはいへり。我床なれども卑下せぬは歌の雅詞也
外向來 ほかむきけるとよませたり。意は同じけれど世を背きて死したる妻といふ意をこめて、よそむきにけりとよむかたしかるべからんか
木枕 きのまくらといふ義也。つげのまくらなどともいへば、木にても枕はするものなれば、初語のことにては有べからず。いづれにても、此歌本集には不v見。一本には、如v此ありしと見えたり
歌の意きこえたる通也
 
吉備津釆女死時柿本朝臣人麿作歌一首并短歌
きびつのうねめまかるとき、かきのもとのあそんひとまろつくるうたひとくさならびにみじかうた
 
吉備津釆女 今云備前備中備後の内より、貢献したる采女と見えたり。吉備津といふところ未v考。津は、なには津、大津などの津にて、ひろくさしたる所の義か。但し三備の國の内に、吉備津といふところあるか未v詳
 
217 秋山下部留妹奈用竹乃騰遠依子等者何方爾念居可栲紲之長命乎露己曾婆朝爾置而夕者消等言霧己曾婆夕立而明者矢等言梓弓音聞吾母髣髴見之事悔敷乎布拷乃手枕纏而劍刀身二副寐價牟若草其嬬子者不怜彌可念而寐良武時不在過去子等我朝露乃如也夕霧乃如也
あきやま【のしほめるにしもふる】いろと、なよたけの、とをよるこらは、いかさまに、おもひをりてか、たくなはの、ながきいのちを、つゆこそは、あしたにおきて、ゆふべには、きえぬといへ、きりこそは、ゆふべに(163)たちて、あしたには、うせぬといへ、あづさゆみ、おときくわれも、ほのにみし、ことくやしきを、しきたへの、たまくらまきて、つるぎたち、みにそへねけむ、わかぐさの、そのつまのこは、さびしみか、おもひてぬらむ、ときならず、すぎにしこらが、あさづゆのごとや、ゆふきりのごとや
 
秋山下部留妹 此義諸抄の説もまち/\にして、正義難v決。たとなと同音故、しなへると云義との説もあれど、山のしなへるといふ義いかにとも心得がたし。宗師案は兩義也。この下部留は下のいろといふ冠句の縁とみる也。秋山とよみ出たるは、妹の字いろとゝよまん爲の冠句にて、秋山は露霜をうけて、木々のいろづきもみづるものなれば、下部るは霜降といふ意にて、いろとうけたる義ならんと見て、秋山にしもふるいろとゝはよむ也。又の一義秋山のしほめるいろとゝ、釆女を紅葉にたとへて、死したる釆女なれば、しほめるいろとはよむ也。愚案は秋山にしたへるいろとゝ云義ならんか。秋の山は紅葉すれば、したへるとよみ出たるか。又は釆女の故郷秋山といふ所なるか。その里へ朝勤暇あきてかへるさにみまかりたる故、秋山にかへるいろとゝよめるならんか。先づ宗師の説にしたがひて、前の両義をとりて、假名書には用ふれども、尚愚案をも左にあらはす也
奈用竹乃騰遠依子等 これは釆女の全躰をほめて云たる義也。女はすべてすがた、たをやかにしなへたるものなれば、たをやかにしなへたるすがたの女と云義を、なよたけのとをよるとはいひたる也。とをはたわゝなど云と同じ。枝もとをゝになどよめるも、しなへたれたることを云ふたる義也。或抄にあぢむらのとをよる海などよめると同意にて、遠く放るゝことをいふたるとの説は、假名違の釋なり。遠の字のかなはとほなり。とをゝ、をゝりなどいふ假名のをは此遠也。これは兎角たをやかにしなひたる子といふ義と見るべし
子等とは釆女をさして也。此集中女をすべてこといひたること不v及2細擧1也
栲紲之 ながきといはん爲の冠句也。栲紲は栲にて編みたる繩也。船をつなぐ綱あるひはあまのいさりするに用ゐ、水に入れても不v朽強きもの也。栲の字のこと前に注せり。楮の字を古來より誤れる也
露己曾婆 此婆の字波の字なるべき所、此集中悉くあやまれり。是傳寫の誤りたる歟。板行の時誤りたるかならん
(164)明者失等言 露はあしたにおきて、夕にきゆといへり。夕に立ちあしたにはうせぬとこそいひならはしてあるべきに、釆女のかく早世したる果敢なきことは、何とおもひ居てか、かくはあへなきことぞといへる義也
音聞吾母 初は音にのみきゝしに、後にほのかに見たればと今更にまかりしことをしりて、いたましければくやしきと也
手枕は たゞまくらと云義也。手は初語也。枕をかはしてねけんその夫のいたましきと云義也
釼刀 身にそへと云はんための冠句也。つるぎ太刀は身にそふものなれば、身にそへねけんとつゞけんため也
其嬬子者 釆女の夫をさして也。つまとはすべて夫婦の間を云由來の事は前に注せり。此れは釆女の夫の義也
不怜彌可 さびしくあらんと也
時不在 釆女のわかくて死したるか、また何とぞ逆死にてもしたる歟。海川谷などに落ち入て不意に死したるとも見えたり。此歌の並すべて不慮に死したる列に見ゆる也
朝露乃如也 前によみ出したる朝露夕霧を重ねてとり出して、首尾をとゝのへたる也。如也と云は、ごとくぞと云義也。すべて也の字はぞと云詞にあたる也。歌の意句釋にてきこえたる通也
 
短歌二首
 
218 樂浪之志我津子等何【一云志我津之子我】罷道之川瀬道見者不怜毛
さゞなみの、しがつのこらが【あるにいはくしかつなるこか】まかりぢの、かはせのみちを、見ればかなしも
 
樂浪 神樂の二字をさゝとよむは、神代のむかしゑらきことありし時、篠葉を手ぐさとして舞ひ給ひし神わざの義をもて義訓せる也。その神樂の神の字を畧して、樂の一字をもさゝとはよませたり。此集第一此卷の前には、神樂の二字を書て、其後は如v此畧せる也。比例此集中いか程もあり。全篇をよく學悟すべき也。さゞなみとよみ出たるは、しがといはんための序詞にて、さざ浪もしが津もともにあふみの地名を書きたる也
志賀津子等 此しが津子とよみ出したるは、貢る釆女の近江のしがつに居て、朝勤をしたると見えたり。あふみのしが津とい(165)ふと云は、今の大和の邊の事ならんか。次の歌にも凡津子之とあり。子等とは釆女をさしたる義也
一云志我津之子我 本集には志我津子等何と書たるを、一本には如v此書たることあるとの注也。しかるに此之の字を、こゝにてはなるとよむべし。此集、之の字をなるとよませたること數多にて、あるといふ義又なるといふ事を、のと一語につゞめていひたる義也。前にも注せるごとく、駿河のと云義を、駿河なるとよむたぐひ、此れも、しがにあると云義にて、之の字なるとよむべき也
罷道之 釆女朝勤の年限はてゝ、吉備津に歸へる道の事を云ひたる義と見えたり
川瀬之道 釆女の本國にかへるさの、道筋の名なるべし。或抄に、釆女の身を投げて死したる故、川瀬のみちともよめるかとの説有。いか樣長歌の意にも逆死などをも、したるやう聞え侍るところもあり。しかれども川瀬の道とよみたれば、通路の道の名なるべし。川邊のみちとあらば、入水したる川の義とも聞ゆべけれど、川瀬の道と云ひては心得がたし
不怜毛 此歌にては、かなしもとよまるべし。さむしもとよみては、歌の意不v通。此二字は、所により歌によりて訓可v違也。此もかなしもとよまざれば不v聞也
 
219 天數凡津子之相日於保爾見敷者今叙悔
あまつかず、おほつのこの、ありし日に、おほにみしかば、いまぞくやしき
 
天數 これを古本印本等其外諸抄にも、あまつかぞふとよめり。義は天の日月の行度星辰舍次の事をかぞふるは、細密にはなりがたく、おほよそなる物といふ義にて、天かぞふ凡とつゞけたるとの説也。いひおゝせぬ詞也。外にあまかぞふ空かぞふなど句語の例もあらば、さもあるべき歟。此歌の外にあまかぞふと云語例句例もなければ、此説難v信也。よりて當家の流にはあまつかずとよみて、天數は大なるものといふ意にて、數大とうけたる詞と見る也。凡は大也といふ字義ありて、大に通ずる也。國史等に凡河内直と云氏姓を、大河内と書たるところも多也。これ凡と大と通用の字故也。此も大なるといふ意に見るべし。然るに凡河内を、中世いつの頃よりか、おほしかうちと讀み癖をつけてよみて、凡の字おほしとよませり。出所いづかたより(166)何によりて如v此よめるか。正記の證明も無v之事也。凡河内もおほかうちとよむべき事也。さればこそ國史に大河内と書たるにて、しの字を入れてよむ事無2證明1事としるべし。一言たらざる故におほしかうちとよませたると見ゆる也。しかれば上の天數はおほといはん爲の冠句と見る也。一字たらぬやうなれど、古詠には、此格いくらもあること也。子の次に等の字などを脱したるにてあるべし
凡津子之 大津子なり。しかつの子とよめる意におなじく、しがの大津に居任したる釆女故、如v此よめる歟
相日 あひし日とよめる點あれども、存日の誤ならんか。しからば存住したる日にといふ義にて、ありしひにとよむべき也
於保爾見敷者 釆女の存在してありし日に、凡に見しことを、人丸くやしくいたんでとよめる也。此集中に、疎の字をも凡の意にもちゐたるところあり。今もことの疎畧なることを、おほよそなどいへる意とおなじ
今叙悔 釆女のかく果敢なくなるべきともしらず、存在のときは、いつまでもながらへをる人のやうにおもひて、さのみ親しからず、おほよそにのみまみえしことの、今なき人と聞けば、慕はれて疎畧に打過しことのくやしきと也
 
讃岐狹岑島視石中死人柿本朝臣人麿作歌并短歌
をぬきのさみねのしまのいしのなかにしせるひとをみて、かきのもとのあそんひとまろつくるうたならびにみじかうた
 
讃岐 古事記上卷云。次生2伊歟之二名島1、此島者、身一而有2面四1、毎v面有v名、故伊豫國謂2愛比賣1【此三字以音下效此】讃岐國謂2飯依比古1云々。今四國と云内の一つ也。此歌の詞に、神乃面とよめる古事記の古語によりて也
狹岑島 讃岐の地名さみなの山、狹みねの野など云てありと見えたり。さみねの山といふは、此島の中にある山と見えたり
石中死人 誰人ともしれず。島の石の間に死したる人ありしを見て、よめる歌なるべし。柿本人丸四國西國へ故ありて徃來のとき、折節この死人を見ての事と見えたり
 
220 玉藻吉讃岐國者國柄加雖見不飽神柄加幾許貴寸天地日月與共滿將行神乃御面跡次來中乃水門從(167)船浮而吾※[手偏+旁]來者時風雲居爾吹爾奧見者跡位浪立邊見者白浪散動鯨魚取海乎恐行船乃梶引折而彼此之島者雖多名細之狹岑之島乃荒磯面爾廬作而見者浪音乃茂濱邊乎敷妙乃枕爾爲而荒床自伏君之家知者往而毛將告妻知者來毛問益乎玉桙之道太爾不知欝悒久待加戀良武愛伎妻等者
たまもよし、さぬきのくには、くにがらか、みれどもあかぬ、かみがらか、こゝらかしこき、あめつちと、ひつぎとゝもに、みちゆかむ、かみのおもあと、つきてくる、なかのみかどゆ、ふねうけて、わがこぎくれば、ときつかぜ、くもゐにふくに、おきみれば、跡位浪立、へたみれば、しらなみとよみ、いさなとり、うみをかしこみ、ゆくふねの、かぢひきをりて、をちこちの、しまはおほかれど、なぐはし、さみねのしまの、あらそもに、いほりしてみれば、なみのねの、しげきはまべを、しきたへの、まくらになして、あらどこと、ころべるきみが、いへしらば、ゆきてもつげむ、つましらば、きてもとはましを、たまぼこの、みちだにしらず、おほゝしく、まちかこふらむ、をしきつまらは
 
玉藻吉讃岐國 此玉もよしさぬきといへる事、いろいろの説ありて、慥に證明いづれと難v決。先は讃岐は海邊の嶋なれば、此海邊より海藻の名産を出せる國といふ義にて、玉は藻をほめていふたる義にて、海藻の能き國といふ義と也。空海の三教指歸にも、然項日間刹那幻住2於南宛閻浮提陽谷輪王化之下、玉藻所v歸之嶋、橡樟蔽v日之浦1云々。此玉藻屏v歸之嶋と云注にも、此集の此歌を引て、海藻の名産の事に釋せり。しかれども讃岐の國にかぎり、海藻の能といふ事難2心得1。元來空海も此集に、玉もよき讃岐とある古語によつて、指歸にも、玉藻所v歸之嶋と被v書たるにてあらんも難v計。麻もよしきといふ冠句にも、藻の字書きたるも有れば、これも麻と藻とのよき紀伊の國といふべきや。右の説も決着しがたき説なり。尤延喜式にも讃岐國中男作物云々海藻とあれども、他國にも何程歟其類あれば、此一國に定めん事もいかゞ也。宗師案にも、さぬきといふこのぬきぬくといふは、玉にそふたる詞故、元此國石玉貝玉等のよき國なる故、玉の最上の國、その國をぬくと云意にて、如v此冠句を置きたる(168)ものと見えたり。藻の字は最の字の意にて、玉の隨一の國といふ稱美の詞、さぬきと云玉の縁語あれば、かくよめると見えたり。もは初語の詞、まといふ義也。あさもよしも、麻まよしと云義と見る也。吉の字をゑとよむ事は、古實古語なれども、語例を考ふるに、あをによしあさもよし、玉もよしといふ同類の語と見ゆれば、矢張よしとよむべき也。藻の字は助字同意にて、たゞ玉よきくにといふ義なるも、尚此さぬきの事は例證を考ふべし
國柄加 くになるからと云義也
幾許 こゝらこゝた同事也。至て尊きと稱美していへる也
天地 との字を入てよむべし
滿將行 上に日月とあるより、みちとはよみて又道にいひかけたる也。皆國をほめて萬の事とゝのひみちたる國といふ義也
神乃御面跡 前に注せるごとく、古事記の古語をもて、直に此國を神面の跡と稱したる義にて、神のおもあとゝよむべき也
次來中乃 此義兩説あり。人麿西國にくだる行路の次第を、來るつぎ/\といふ義、また神のおも跡の次/\を來るに、さぬきは中にあたる國故、中のみとうけんための義ともきこゆる也。或説には、上中下始中終ともに、中は上に次ぎ始に次もの故、次て來る中といふとの釋もあれど、此義は入ほかなる釋にきこゆる也
水門從 船のよりあつまるところをみなとゝ云と同事也。印本にはみなとゝよませり。倭名鈔卷第一涯岸類云。説文云、湊、水上入所v會也、音奏和名三奈止
時風 此ときつ風といふは、あらき風の事を云。旋風といふ意なるべし。今時のときつかぜといふ意とは異意也
雲居爾吹 風のはげしく、海路遙に吹立つ躰を云たる義也
跡位浪立 此義つゞき難き詞也。古本印本ともに、あとゐなみたちとよみたれども、あとゐなみたちといふ義はいかなる事にや。語例語證もしらざれば、此よみも心得がたし。宗師案は、此句の前後ともみな風はげしく、波のたちさわぐよしをよめればはるかに風の吹たちて、奧の方を見やれば、鹽煙などのたつといへるごとくに、あらき波たちて、海上くらくみゆる躰をいひて暗く波立ちと云義歟。跡はしりを也。また語も跡を約すればをなる故、をくらゐと云の意にて、跡位の二字を書きたる歟。(169)または音暗波の畧語にて、とくらなみといふ事か。意は奧のかたなれば、しほけぶりなどのたちて、くらきやうになりて、なみのたつといふ義なるべし。第十三卷にも跡座浪之立塞と書きて、此句同意の義と見えたり。いづれにもあれ、こゝの意はとかく波のあらく立景色をいふたる義ときこゆる也。下の句にも則ちへた見れば白なみさわぎとよめり
邊見者 へたみればとよむべし。へとはへたの畧語、へたははたと云義也
海乎恐 前にあるごとく、奧邊の浪風あらき故、わきて海上のおそろしきと也。かしこみはおそるゝといふ義也
梶 倭名鈔卷第十一舟具部云、釋名云【音接一音集和名加遲】使2捷疾1也。兼名苑云。※[揖+戈]一名※[木+堯]奴効反一音饒梶の字は、和名にて訓をかりて書たると見えたり。梶の字義は和字なればこれなし。ある抄に櫓の事といへり。櫓は進v船所以のものとあれば、同じ義ともいふべからんか
引折而 船をこぐ躰を云たる也。かひのをれたるを云にはあらず。横に引をりて舟をすゝむる躰を云たる也
彼此 をちこちの嶋とは、見えわたるところの遠近のしま/”\也
名細之 狹岑の島をほめたる義也。此集中なぐわしはなぐわしなどいふて、みなものをほめたる事也
荒磯面爾 面は回の字の誤りたるなり。あらそもとよむべし
廬作而 いほりしてとも、また義訓にやどりてともよむべし
見者 或抄にこの上に一句半の脱句あるべしとの釋あり。いかなる意にや。此句の通にてもさみねの島のあらいそのめぐりに人丸のとゞまりて見たればと云義にきこゆる也
爲而 なしてとも、しつゝともよむ。何れも意は同じ
自伏 二字引合て義訓にころべるとよむべし。印本等にはころふすとよめり。或抄に自の字をころとよむは、おのづからと云古語といへり。此釋心得難し。且法相宗には自の字を聖教等にてもころとよむよし注せり。其義未v考。此に云ころぶは人の躰の不v立、横にふしたるを云義也。今も俗語に躰をよこにするを、ねころぶといふ也。石中に死て居る人をさしていへる也
君之家知者 死人の家を知りたらば、ゆきて告しらさんにと也
(170)欝悒 此にてはおほゝしくとも、いぶかしくともよむべし。いぶかしくとは、今俗に云、心もとなきと云意なり。おほしくと云義もおなじ意なり。此句は下の妻にかゝりたる句なり。妻のいぶかしくまつらんと也
愛伎 前にも注せる通妻を稱して云詞、うるはしきといふの略語也
歌の意は聞えたる通也、
 
反歌二首
 
221 妻毛有者採而多宜麻之佐美乃山野上乃字波疑過去計良受也
つまもあらば、とりてたげまし、さみな山、のはらのうはぎ、すぎにけらずや
 
妻毛有者 石中に死したる人のつまもあらば也。此歌つまとよみ出たるより、草の義を下に云て、死したる人を野原のうはぎの事によそへたる也。草の葉末をつまといふ也。その縁をはなれず、始終草の事にて首尾を調へたる古詠の歌格也
採而多宜麻之 これも死たる人の妻もあらば、此死人をとりて、いだきもたげましといふ義也。印本等にはたきましとよめりこれは下にうはぎとよみ出たれば、それをたきにるの義によそへてたきとはよめるならんか。しかれども實意は手にいだきもたげましといふ義也。よりてたげましとよむ也
作美乃山 標題には狹岑とあれば、こゝもさみねの山といふ義にて、ねの字を畧したるか。またにとなと同音通なれば、乃の字はなとよむべき歟。しかればさみな山とよむべき也
野上 これをのはらのうらはぎとよめり。上の文字はうへといふ義にはあらず。上の文字を用ゐたる所に、此意數多見えてあること也。心を付て可v見也
宇波疑 今俗によめうはげといふものあり。此菜草なるべし。延喜式卷三十九、内膳式云、漬年料雜菜薺蒿一石五斗と有。此うはぎの事なり。をはぎともいふ也。此集卷第十にもよめり
過去計良受也 うはぎのたけすぎざるや、もはやたけ過たるにといふ意也。うはぎのたけ過てかれたれば、葉末つまもなきと(171)いふ義をよそへてよめる也
 
222 奧波來依荒磯乎色妙乃枕等卷而奈世流君香聞
おきつなみ、きよるあらそを、しきたへの、まくらとまきで、なせるきみかも
 
奧波 海邊の島なれば、奧より波の打よする也。その所のあらきいしをまくらとして、死したる君かなといふ歌の意也。奈世流君香聞の事難v濟也
香聞 歎の詞也。かなといふと同事也
 
柿本朝臣人麿在石見國臨死時自傷作歌一首
かきのもとのあそむひとまろ、いはみのくにゝありてまかるにのぞむとき、みづからいたみてつくるうたひとくさ
 
在石見國臨死時 人麿の生國何國共難v知。後世石見國を本國と傳へ來れり。此集の前に石見國より別妻上來時の歌あり。こゝにまた臨死時の歌と標せり。因v茲後世本國とする歟。しかれども國史實録等にも分明に生國を不v記ば、いづくとも難v決けれど、先此集に上來時と終る時の歌の標題に從ひて、石見國と心得べき歟。且古今の序に、人丸をおほきみつのくらゐとあるよりして、後世の諸抄にも皆、三位の人と心得て書記せしことの數しれず。しかれども是も國史實録に不v見。剰へ薨年とても不v記。此集の標題にも如v此臨死時とあり。此次の標題にも、死時と記せるを以て、五位迄の人にあらざることを明辨すべき事也。しかれば古今の假名の序、後人の加筆たることあきらけし。人麿死期の事病死とも不v見。此集の歌の列前後、かつ此人丸の歌次の妻の歌の意ともを、よく/\考へあはするに、横死と見えたり。もしくは他所に出て卒病にて死したる歟。病死ならば病中の歌一首なりともあるべき事なるに、その歌も見えず。また死にのぞめる時の歌とても、たゞ此歌一首計なれば、とかく逆死頓病などにて死せると見えたり
 
223 鴨山之磐根之卷有吾乎鴨不知等妹之待乍將有
(172)かもやまの、いはねしまける、われをかも、しらずていもが、まちつゝあらん
 
鴨山 石見國の地名也。此山に葬りたる歟
磐根之卷有 前に注せり。此卷の最所磐之姫の御歌に見えたり
不知等 等の字不審。たちつてと通音故、とうの音のとをてに通じ用たる歟。歌の意はしらでと云義か。若くは寺の字のよみの一語をとりて書けるを、誤りて等の字になりたるか。又は傳の字の誤りたるか。いづれとも難v決けれどよむところはでとならでは難v讀所也。古本印本にも等の字なれども、點はてと假名をつけたる也。然れば文字のあやまりと見ゆる也
待乍將有 此句によりても、人丸病床にて死たるとは不v見也。次に妻の依羅娘のよめる歌にても、とかく病死とは不v聞也
歌の意は、鴨山の磐根にまとはれふして、われはかく死するをも妹の知らずして、今か/\とかへりを待ちつゝあらんと、いともあはれに聞え侍る也
 
柿本朝臣人麿死時妻依羅娘作歌二首
かきのもとのあそむひとまろみまかりしとき、めよさみのいらつこつくるうたふたくさ
 
死時 此卷の前十市皇女の薨時、高市皇子の御歌の標題の所に、延喜式を引注せる通、六位以下輩達2於庶人1を稱v死也。然れば人麿六位以下の人と見えたるを、後世擧而正三位と稱へ來る事何の證明ある事にや。すでに此集此標題にも如v是記したるをもて、五位迄の人にあらざる事をしるべし。此歌は人麿のみまかりたりし時よめる歌と見えたり。死ぬる時の歌にてはなく死したる跡のその當座によめる歌なるべし
 
224 且今日且今日吾待君者石水貝爾【一云谷爾】交而有登不言八毛
【あけくれといつか/\】わがまつきみは、いしかはの、かひにまじりて、ありといはぬやも
 
且今日且今日 此六字を古本印本共に、けふ/\とよめり。此訓點いづれか是ならん。未だわきがたし。且の字は將の字と通じて、上へかへりてはぬる訓のとき用ゐる字也。例へば今か/\と云事にあたる字也。尤字義は數多ありて、又と通じ此と通(173)じ、或は初語助語にも用る也。しかれども今日/\と書きても、けふ/\とよまるゝに、且の字を加へたるには、言葉の意を助けたる集格の例と見ゆる也。よりて宗師案には、兩樣の義訓によむ也。けふならん/\と待意なれば、あけくれの意、いつかいつかといふ意也。又六字五言に助語をいれて、いつしかともよむべきか。右三つの義訓いづれとも未v決、後學の好む所にまかす也
石水 地名と見えたり。奧の歌に、石川に雲たちわたれとあるにても地名と見ゆる也。水を川とよむ事は、日本紀神武卷雄畧紀等にも見えたり。尤此集にもあり
貝爾 倭名鈔卷第十九龜貝體部云。尚書注云、貝、音拜和名加比水物也云々
一云谷爾 谷の字かひとも訓せり。よりて一本には貝を谷の字にかへて書けるもありと注せり
交而 源氏物語宇治の卷に、此歌の意をとりて書けるか。いづれの底のうつせにまじりにけんと書けり
不言八方 いはぬかなと云意也。八方は歎息の詞にて、石水のかひまじりてなりともありといはゞ、せめてなぐさむ情もあるべきに、かひにまじりてだにありともいはぬかなと、かなしみなげきてよめる也。此集中やもといふ詞數多ありて、大かた歎の意によめる也
 
225 直相者相不勝石川爾雲立渡禮見乍將偲
たゞにあはゞ、あひがでましを、いしかはに、くもたちわたれ、見つゝしぬばん
 
直相者相不勝 此たゞといふ事に兩義あり。たゞちにと云意と、いたづらにと云との意有。此意はいたづらにと云意也。今俗にものゝあたひなきことを、たゞといふその意と同じき也。かつぢきにといふ義と同じ。ものにかはらずして、そのまゝにあふ事はなるまじきほどに、ものにかはりてあらはれよとの歌故に、たゞにあはゞとよめり。印本諸抄物等にもたゞにとよませたれど、その釋はつけざる也。物にかはらずありしまゝの直きにはあはれまじき程にと云の義地。此卷の前に、天智天皇の皇后の御歌にも、直爾あはぬかもとあるその意とおなじき也
(174)石川爾 石見國の鴨山の中にある川の名と聞ゆる也
雲立渡禮 人死ては雲となり、雨となるなどいふ古事もあれば、それによりてよめる也。一度みまかりし人なれば、直にあはれぬなれば、雲霧ともなりて立わたれと也。それなりともせめてのかたみと見て、悲み慕ふ思ひをしのびたへんと也。此二首の歌の趣を考ふるに、人丸の死は不慮の死と見ゆる也。もし鴨山川に入水などしたる歟。此歌石見國にて妻のよめるとは此歌にて知るべし。前の歌のあけくれいつか/\と待居りてと云意は、遠國へも行て歸るを待歌のやうに見ゆれば、大和にての歌かともおもへど、雲立わたれとあるにて、當國の石見にてよめるときこゆる也。大和なるを、石見の石川に雲たちわたるを見つつしぬばんはいはれぬ事也。後人の見誤り、娘子大和にてよめるやうにも注せる抄物もあれど、鴨山の歌の標題に在2石見國1とありて、此二首の歌の端書に、何國にありてとも不v記。こゝに死時とあれは、標題の通に心得て見るべきこと也。大和に居て娘子のよめる歌にてならば、娘子在2大和1とか、京にありてとか、標題あるべきなれば、同國にとよめる歌と聞えて、意もその通なれば、當家の流には他國の歌とは不v見也
 
丹比眞人 名闕 擬柿本朝臣人麿之意報歌一首
たぢひのまひと、なをかく、かきのもとのあそむひとまろのこゝろになぞらへてこたふるうたひとくさ
 
丹比 元は丹治比と書り。しかるを二字にてたぢひとよむ事は、續日本紀に依v願三字を二字に改め用る由見えたり。丹比は氏也
眞人 かばね也。朝臣宿禰と云に同じ。此姓の事も、御代によりて次第かはれり。眞人をかばねの第一にせられたる時もあり。第二第三になされたることもありて今にては朝臣第一となれり
名闕 古注者の加筆也
擬柿本云々 本集の文也。人丸になりかはりてよめる意也
 
226 荒浪爾縁來玉乎枕爾置吾此間有跡誰將告
(175)あらなみに、よりくる玉を、枕におき、われこゝなりと、たれかつげけん
 
玉乎枕爾置 此玉は石玉貝珠波の玉ともに、あら浪につれてよりくる川邊に、岩がねを枕として、みまかりふしたると云義也。置と云字もし四直の二字を誤りて一字になしたるか。もしさならばしてとよむべし。直は子ともよむ、子はあたひの〔虫クヒ〕手ともよむべき義なれば、枕にしてといふ義ならんか。尤おきと云も、枕しての意とおなじき也
此間有跡 こゝにありと也。石川をさしてのことなり。しかるを有と云字をなりとよむは、にあの約言なゝり。よつてこゝなりとはよむ也。意はこゝにありと云也
歌の意は、石川のあら波のよする川邊に死せば、玉をも且珠をも枕にして、かく死に伏したるを誰かつげしらせて、直にはもはやあはれまじきほどに、雲霧と變化して成りともあらはれよとは、いへるぞと答へたる也
 
或本歌曰
 
古注者の加筆也。古注者の時分までは、天離の歌を載せずしてありしと見えたり
 
227 天離夷之荒野爾君乎置而念乍有者生刀毛無
 
天離夷 第一卷にも注せるごとく、日は天にあるものなれば、すべてひとうけんための冠句に、あまさかるとはよみたるものと見ゆる也。天は違くさかりたるもの故、天にさかりたるといふ意也。帝都にはなれたる遠國外邦は、天子のみいづ不v及故、日の徳のなきと云義にて、天さかるひなといふとの説なれども、大和の帝都の時近江を天さかるとよみたれば、遠國にかぎりたる義とも不v見。なればたゞ日とうける迄の事と見ゆる也。神功皇后の紀にも、天さかるむかつひめの命とあるにても、とかくひと云一語にうける事ときこゆる也
荒野 葬り置きし所をさしてあら野といへり
念乍 しのびつゝは、人丸を慕ひ悲むのしのび也
有者 存在して殘り居ればと云義也
(176)歌の意きこえたる通也。此歌の作者、いづれとも不v知。則奧に古注者其趣加筆せり。娘子の歌とも見え、又人丸の從者の大和に歸りてよめるともみゆる也。いづれにても大和へかへる人の歌なるべし
 
右一首歌作者未詳但古本以此歌載於此次也
 
古注者の文なり。古き本には、娘子の歌の列に記せる本ありと見えたり。しからば娘子の歌にてもあるべき歟
 
寧樂宮 元明天皇の御代の皇居也。續日本紀卷第五云、元明天皇和銅三年三月中畧、辛酉始遷2都于平城1。寧樂の二字をならとよむ事兩義有。先はねいらくの假名書と心得べし。義此ねはなの音故也。一義はなんぞとよむ故又樂の一語ゑらきとよむ、らをとりてかくはよむ也。然れ共、是より已後元明天皇の御時代の歌どもを載せたる故、後人此標題を加筆せる欺。撰者の筆とは不v見也
 
和銅四年歳次辛亥河邊宮人姫嶋松原見孃子屍悲歎作歌二首
あかゞねのよつのとし、ほしのやどりかのとのゐ、かはのべのみやびと、ひめじまのまつはらにをとめのかばねをみてかなしみなげきてつくるうたふたくさ
 
和銅 續日本紀卷第四云。和銅元年春正月乙巳、武藏國秩父郡獻2和銅1詔曰云々、東方武藏國自然作成和銅出在獻焉中略、故改2慶雲五年1和銅元年爲御世年號定賜云云
河邊宮人 河邊は氏也。宮人は名也。傳系不v知也。河の邊は攝津の國の郡の名也。姫島も同國なれば、此宮人は攝津國の人と見えたり
姫島松原 津國也。豐後國と云説もあれど、仙覺律帥抄に攝津國の風土記を引て注せり。尤可v然。其風土記云。比賣嶋松原者昔輕嶋豐阿伎羅宮御宇天皇世、新羅國有2女神1、遁2去其夫1來暫住2筑紫國伊波比乃比賣嶋1、地名乃曰、比賣嶋者猶不v遠、若居2此嶋1l男神尋來。乃更遷來停2此嶋1。故取2本所v住之地名1以爲2嶋號1。日本紀第六垂仁卷一書終云、所v求童女者詣2于難波1爲2比賣許曾社神1、且至2豐國國前郡1復爲2比賣語曾社神1、並二處見v祭焉。日本紀卷第十八安閑天皇二年秋八月乙亥朔中略九月甲辰(177)朔丙午中畧、丙辰別勅2大連1云、宜v放3牛於難波大隅嶋與2媛嶋松原1冀垂2名於後1。延喜式卷第九神名帳云、摂津國東生郡比賣許曾神社【並名神大月次新嘗】倭名鈔卷第九國郡部云。肥前國基肄郡姫社郷名なり。右日本紀風土記、延喜式、和名鈔の表不2一決1。今尚摂津國に姫嶋姫語曾社といふ所ある事にや。未v取v聞也。然れ共日本紀風土記の趣は、慥に攝津國に姫嶋松原在りしと見えたり。豐後といふ説も垂仁紀によりていへる義なるべし。なれども此姫嶋はきはめて津の國の義也
孃子 字書云、孃、少女之號と注せり。よりてをとめとよむ也
屍 大津皇子の所に注せり
此姫嶋松原美人 第三卷にも同人の歌四首載せられたり。その歌の意をみれば、宮人の悲忍びたる人の樣に見ゆる也
 
228 妹之名者千代爾將流姫島之子松之未爾蘿生萬代爾
いもがなは、ちよにつたへん、ひめじまの、こまつがうれに、こけむすまでに
 
歌の意は、姫嶋のあたりの海中に、沈みし孃子の屍、このひめじまの松原にあがりたるによりて、松は千年をふるものなればそれによせて、かく果敢なさにいたましきことのありしと云、をとめの名はいつまでもいひつたはりのこらんと、いたみてよめる也
 
229 難波方鹽干勿有曾禰沈之妹之光儀乎見卷苦流思母
なにはがた、しほひなありそね、しづみにし、いもがすがたを、みまくゝるしも
 
難波方 方は潟也。かたの事は前に注せるごとく乾たりさしたりするところを云。倭名鈔卷第一涯岸類云、潟、文選海賦云、海冥廣、潟、思積反、與v昔同、師説【加太】
有曾禰 あるなと下知したる詞也。ねと云詞はみな下知のことば也
見卷 見む事のくるしきと也。まくと云はむといふ詞をのべたるもの也。すべて歌に約言延言のある譯は、上代の歌は皆うた(178)ふたるものなれは、語呂のつゞきのよきあしきによりて、のべもしちゞめもしたる事也。此わけをしれる人稀也。このみまくも、見むが苦しきといふことを見まくとうたふたる也。歌の意きこえたる歌也
 
靈龜元年歳次乙卯秋九月志貴親王薨時作歌一首并短歌
あやしきかめのはじめとし、ほしのやどりきのとのうあきながつき、しきのみこかくれたまふときつくるうたひとくさならびにみじかうた
 
靈龜 元正天皇の御代の年號也。續日本紀卷第六云、元明天皇和銅七年八月己未中畧、丁丑左京人大初位下高田首久比麻呂獻2靈龜1、長七寸闊六寸、左眼白右眼赤、頸著2三台1、脊負2七星1、前脚並有2離卦1、後脚並有2一爻1腹下赤白兩點相次八字。同紀第七元正天皇卷云、九月庚辰受v禅即2位于大極殿1、詔曰、中畧、粤得2左京職所v貢瑞龜1、臨位之初天表2嘉瑞1、天地※[貝+兄]施不v可v不v酬、其改2和銅八年1爲2靈龜元年1云云。とあり
志貴親王 第一卷の終にも出たり。其所に注せり
薨時 續日本紀卷第七云、二年秋七月庚子中畧、八月王子中畧、甲寅二品志貴親王薨、遣2從四位下六人部王、正五位下縣犬養宿禰筑紫1、監2護喪事1、親王天智天皇第七之皇子也。寶龜元追尊稱d御2春日宮1天皇u。右紀の文と此標題とは年月共に違ひあり。撰者何としてか誤りたりけん
 
230 梓弓手取持而大夫之得物矢手挿立向高圓山爾春野燒野火登見左右燎火乎何如問者玉桙之道來人乃泣涙※[雨/沛]霖爾落者白妙之衣※[泥/土]漬而立留吾爾語久何鴨本名言聞者泣耳師所哭語者心曾痛天皇之神之御子之御駕之手火之光曾幾許照而有
あづさゆみ、てにとりもちて、ますらをの、さつやたばさみ、たちむかふ、たかまどやまに、はるのやく、のびとみるまで、もゆるひを、いかにとゝへば、たまぼこの、みちくるひとの、なくなみだ、(179)をさめにふれば、しろたへの、ころもひづちて、たちどまり、われにかたらく、いつしかも、もとなといひて、きゝつれば、ねのみぞなかる、かたらへば、こゝろぞいたき、すめろぎの、かみのおほみこの、おほむたの、たびのひかりぞ、こゝたてりたる
 
梓弓 此五文字より立向といふまでに、何の意もなき也。これはたゞ高圓山といはんまでの序也。圓は的也。言葉おなじければ、如v此よみ出したるもの也
得物矢 のことは第一卷に注せり。ともやにてはなき也
高圓山 大和の地名也。志貴親王を此山の邊に葬りしと見えたり
野火登 此處にも春野やく野火とありて、春の頃うどわらび若なの類など生ひ出んために、山野をやく也。倭名鈔卷第十二燈火部にも野火といふ名目を出せり
燎火乎 葬禮の手火などの火、又は火葬にもしたる歟
道來人乃泣涙 葬禮の供奉の人に、高圓山にもゆる火は何ごとぞと問ぬれば、親王の葬儀のよしを云て、悲み歎くとの事也
※[雨/沛]霖爾 古本印本にはこさめとよめり。或抄にはひさめとよむとの説有。尤日本紀にひさめふるといふ古語ありて、倭名鈔にも※[雨/沛]霖の二字をひさながあめと訓せり。いづれも大雨長雨のことをいへり。しかれば此歌にては、涙の雨とふるといふまでの意にこそあれ、大雨長雨の義までには及ぶまじき所なれば、二字をあはせてたゞあめと心得て、初語を添へてをさめとはよむ也
衣※[泥/土]漬而 御おくりの人の泣きかなしみて、衣もぬれひぢつゝ立留りて、皇子のかくれ給ふ事をかたると也
何鴨
本名言 よしなき事を云を聞つればと也。もとなとはゆゑもなき、よしなきことゝ云義、皇子のかくれたまふことのよくもあらぬことゝ云義也
(180)泣耳師所哭 此歌のすべての意の、ねのみなかると也
語者 みこのかくれたまふことを、何かとかたりあへば、心のいたましきと也
天皇之神之 志貴のみこを尊稱の意にて、神のみこと也
御子之 おほみことゝよむべし。おほんこと云義也。むはみと同音なれば、おほんこもおほみこもおなじ詞也
御駕 おほんだといふは、葬車を云古語歟。すべて葬車をだといふこともあるか。しからばだは、なとも、のとも通ひてくるまといふことを、古はだとばかりもいへるか。今俗にいやしきものゝ屍などのせるをあをだといふ。あをは青にて卑賤のものを云義也。しかればむかしは、葬車をだといひしかともきこゆる也。此御駕もみくるまのとよむべきを、古本印本の點、おゝんだとよめるは、古語によれると見ゆる故、通本の點にしたがふ也。或抄に日本紀には車駕とかきて、おほんだとよむといへり。字訓に不v見點訓は證明ともなりがたし。日本紀のよみを證とするは、字訓を注せられたる分は證據ならん。字訓なき訓は後人の加筆加點なれば、誤りたる點も多かるべし
手火之光曾 葬儀の送り火の事也。是もおほんだと云につきて、もしだびといふ義歟。しからば野送り火と云畧ともきこゆる也。尤神代卷上伊弉※[冉の異体字]尊神去り給ふとき、諾尊だぴとしてみしかばとある古語もあれば、今云松明などの義をいへる歟。いづれにてもあれ、葬儀の送り火の多くてりひかれると也。こゝたはこゝらとおなじ詞にて數多きを云也
照而有 てりたるとよむ。たはてあの約言なり
歌の意、句釋にてきこえたる通也
 
短歌二首
 
231 高圓之野邊秋芽子徒開香將散見人無爾
たかまどの、のべの秋はぎ、いたづらに、さきかちるらん、見る人なしに
 
志貴の皇子を高圓山に葬る故に、かくよめると見えたり。見る人なしにとよめるは、皇子のかくれたまひてましまさぬといふ(181)ことを、なげきたる意也
 
232 御笠山野邊徃道己伎大雲繁荒有可久爾有勿國
 
御笠山 大和、春日山とも云也
野邊徃道 しきのみこの常に徃來し給ふ道のことをいへる歌也。皇子の御座所みかさ山の邊なりし故かくのごとくよめるか
己伎大雲 音訓交へて如v此かけること此集にはあまた也。これらをも萬葉書と後世にいふなるべし。前の歌の幾許といふと同じ義にて、ものゝ多き事をいふ也。しかれば道筋の物ことにあれたると云義也
繁荒有可 あるゝことにしげくとよめる意心得がたきやうなれど、のべ行みちとあるより、道筋の草木も人通はねば、しげりふさげることをふくめていへる義也。あるゝといふことは、ものゝいさぎよからず、雜物のまじりしげれるを云義也。よりてしげくあるゝかとよめる也
久爾有勿國 皇子のかくれたまひて、いまだひさしくもあらぬに、牲來の道のあれてあるかなといたみて也
歌の意きこえたる通也。扨この三首のうた誰人のよめる歌とも不v知也。尤古注者左に金村の歌集に載せたるよしは注せり
 
右歌笠朝臣金村歌集出
 
古注者の注也。歌集に出とばかりあれば、よみ人はいづれ共知れがたき也。先は金村の歌と見置くべきか。金村傳系不v詳。此集中數多載せたり。上代の歌人也
 
或本歌曰
 
萬葉の別本には左の歌を記せりと也。しかれば右二首の歌の左に記したる本もありと見えたり
 
233 高圓之野邊乃秋芽子勿散禰君之形見爾見管思奴幡武
たかまどの、野べのあきはぎ、なちりそね、君がかたみに、みつゝしのばん
 
此歌は本集の秋はぎのうたとは意異なり。此歌によりて見れば、いよ/\皇子を高圓山に葬り奉れるときこゆる也
(182)勿散禰 ちるなと下知の詞也。前のしほひなありそねといふ歌には曾の字を加へたれど、この歌にはその字なけれども、上にてなといふ時はきはめて下にそと云詞はそふ也。これ和語の例格也。よりて此集中その字なくても、上にてなといふときは、きはまりてそといふ詞のそふたる歌あげてかぞふべからず。此一本の歌本集の歌よりは義安く聞ゆれば、勝れりともいふべからんか
 
234 三笠山野邊從遊久道己伎太久母荒爾計類鴨久爾有名國
みかさ山、野べゆゝくみち、こきたくも、荒にけるかも、ひさにあらなくに
 
野邊從 本集にはのべゆくとあり。一本には從の字を置けり。古本印本には野べにとよめり。しかれども野べにと云意なれば從の字なくてもてには詞によまるべし。從の字を書たるは、のべよりと云の意にてあるべし。よりてゆとよむ也。よりといふ古語は伊と云也
歌の意本集の意におなじ。あれにけるかもとあるは、しげくあるゝかと云よりきゝ安き也。かもといふはかなの意歎の詞と見るべし
 
萬葉童蒙抄 卷第三終
 
萬葉栗 本衆卷第二終
      2009年7月14日(火)午前11時8分、巻二入力終了(2019年9月15日(日)午前10時15分、校正終了)
 
〔巻三の目次省略〕
 
(193)萬葉童蒙抄 卷第四
 
雜歌
 
四季相聞の部類にもあらざる、唯くさ/”\の歌を擧げたる也。よりてくさ/”\の歌と云標題也
 
天皇御遊雷岳之時柿本朝臣人麻呂作歌一首
すべらみこと、いかづちのをかに、みあそびのとき柿本朝臣人麻呂作歌ひとくさ
 
天皇 此すべらきはいづれの天皇をさしたる歟。難2一決1也。前の標題にゆづりて、いづれの天皇と云ことも不v記也。第二首目の歌にては、女帝ときこゆれば、持統の御事歟。もしくは元明元正歟。未v決也。第一第二卷の例によれば、何みやに御宇天皇代と云標題を落脱したると見えたり。尤も元明天皇已後の歌どもをあげたるぞならば、年號を標題すべき事也。既に第一、第二卷にも年號あるみ代のうたは、その年號をはじめにあらはせしに此卷の初に標題なきは、傳寫のとき誤り脱せるならん。此天皇とさすところ、いづれとさだめがたし。此奧に弓削皇子遊2吉野1時御歌を擧たれば、此天皇は先づ持統天皇と見るべき歟。弓削皇子は文武天皇三年秋七月に薨去也
雷岳 大和國三諸岳也。雄略天皇七年秋七月に、三諸岳神に改賜v名爲v雷と有より、いかづちの岳とも神岳ともいふ也。第二卷目の歌に、神岳とよめるも三諸岳の事也。改賜v名いかづちとし給ふ所以は、雄略紀に詳也。上古神とばかりいへるは雷の事也。第二卷に千早振神とよめる歌の所に記せり。持統天皇みもろ山に御遊の事、年月等紀に不v見ば何の比とも難v考也
 
235 皇者神二四座者天雲之雷之上爾廬爲流鴨
すめらぎは、かみにしませば、あまぐもの、いかづちのうへに、いほりするかも
 
皇者 時の天子を奉v尊稱號也
 
(194)神二四座者 御代々の天子は天照大神の御正統、幾萬世不v絶神系の尊き理を以て、みかどを直に神と稱し奉る也。天子を神と奉2尊稱1れる古語證例は、此歌に不v限、日本紀を始め國史宣命等にあまたあることなれば、わけて注するに不v及也
天雲之 雨雲と空のくもとをかねてよめり。いかづちの鳴らんとする時は、かならず雨雲のおこるなれば、いかづちとうくる詞の故也。俗言ながら頼政の謠に、あまぐものいなりとつゞけたる詞あり。これもいなびかりとつゞく詞と聞ゆる也。雷電は男女の差別ありて鳴動するは男雷、いなびかりといふは女電の事を云なるべし。さればこそいなづまともいふ、電の義なるべし
雷之上爾 日本紀神代上云、〔一書曰伊弉諾尊、拔v釼斬2軻遇突智1爲2三段1、〕其一段是爲2雷神1、云々。同紀卷第十四雄略天皇七年秋七月〔甲戌朔丙子、天皇詔2少子部連※[虫+果]羸1曰。朕欲v見2三諸岳神之形1。【或云。此山神爲大物代主神也。或云兎田墨坂神也。】汝膂力過v人、自行捉來。※[虫+果]羸答曰、試徃捉v之。乃登2三諸岳1捉2取大※[虫+也]1、奏2示天皇1。不2齋戒1、其雷〓目精赫々。天皇畏蔽v目不v見、却2入殿中1、使v放2於岳1。仍改賜v名爲v雷。倭名鈔卷第一鬼神部云、雷公、兼名苑云、雷公一名雷師。力回反、和名伊加豆知、一云【奈流加美】。電、堂練反【和名伊奈比加利】、一言【伊奈豆流比】、一言伊奈豆萬、電之光也。いかづちのうへにといふは、いかづちのをかといふ山の名によりて、直に空中になるいかづちの事にしてよめる也。神にしませばとよめるは、尊稱の意ながら、上古は雷を神ともいひたれば、神にしませばいかづちとうけたる意もあるべし
廬爲流鴨 雷岳に御遊行ありて行宮を造らさしめてましませるをいへる也。古本印本ともにいほりとよませり。倭名鈔の字義によれば、いほと計りよむべからんか。倭名鈔卷第十居宅部云。營。唐韻云、營、余傾反、日本紀私紀云。和名伊保利、軍營也。廬、毛詩注云、農人作v廬、以便2田事1。【力魚反、和名伊保。】如v此字義異なれども、こゝの意はたゞ當分のかりみやの事をいひたる義なれば、いほなせるかもとよみても、いほりするかもともよみても、おなじかるべし
歌の意は、天皇雷岳に行幸まし/\て、當分のかり宮を立てさせ御まし/\給ふを、雷のをかといふ名によりて、萬乘の君徳は靈妙不測の神靈なるから、空中に鳴動するいかづちのうへにもいほをしめさせ給ふと、帝位のかしこくも尊き事を尊稱して、いかづちのをかをまことの雷にとりなしてよめる也。鴨と云は、例の嘆の詞、かなと云義也
 
(195)右或本云獻忍壁皇子也其歌曰王神座者雲隱伊加土山爾宮敷座
みぎあるふみにいはく、おさかべのみこにたてまつる也、そのうたにいはく
おほきみは、かみにしませば、くもかくす、いかづちやまに、みやしきいます
 
右或本云 一本の萬葉集には天皇御遊のとき忍壁皇子に奉るとしるして、歌も皇者と云を王とあり。雷之上を伊加土とあり。終の句宮敷座と替れる異本有しを、所見故古注者如v此注せり。御遊の時本集の如くよめる歌を、首尾の句を替へて、皇子へ奉れる事もあるべし。よりて一本にまたその歌をしるせると見えたり
忍壁皇子 天武天皇の皇子也。母宍人臣太麻呂女擬媛娘也。日本紀卷第廿九に具なり
王神座者 本集の皇の字、一本には王の字を書たり。しかればおほきみとよむべし。皇子をさしていひたる義也。天皇のみこなるゆゑ、ともに神靈を尊稱してよめる也。第二卷の歌にも弓削皇子を王者神西座者とよめり
雲隱 古本印本ともにくもかくれとよめり。しかれども禁句のはゞかりもあれば、くもかくすとよむべし。第四句へのつゞきはくもがくれといひてはつゞかぬ也。くもかくすいかづち山とはつゞく也。くもこもるいかづちともつゞくべき歟
伊加土山爾 本集の意とおなじ。いかづちの岳といふより實のいかづちのことにとりなして、神にしませば雲中にかくれなりわたるいかづち山にも宮所を敷まします也
宮敷座 本集の廬といふよりも、此句はまさりたらんか。天皇皇子の御座所なれば、かりそめの所にても宮敷とあるべきこと可ならんか
 
天皇賜志斐嫗御歌一首
すめらみこと、しびのをんなにたまふ御歌ひとくさ
 
天皇 いづれの天皇とも分明には難v注けれど、先は持統天皇と申べからんか。老女など御側近く被v召て、物語などさせてきこえめさんこと女帝に似つかはしければ也。前の歌にも注せるごとく、標題を脱したる故決しては申がたき也
(196)志斐嫗 志斐は氏なるべし。續日本紀卷第八、元正天皇養老五年春正月、中略。算術正八位上悉悲連三田次云々。此氏の老女と見えたり。但しひなと云老女の名ならんか。傳不v知ば難v注也
嫗 老女の稱也。第二卷目石川女郎の歌の處にても注せり
 
236 不聽跡雖云強流志斐能我強語此者不聞而朕戀爾家里
いなといへど、しひるしひなが、しひごとを、このごろきかずて、われこひにけり
 
不聽跡雖云 不聽、不知と書きて此集中いなとよむは義訓也。これは天皇のいやと被v仰どもとの御事也
志斐能我 古本印本にはしひのがとよめり。しかれども端作にても注せるごとく、志斐氏の女か、又志斐魚といふ女の名ときこゆる故、能となとは同音なればしひなとよむ也。尤志斐を氏としてしひのをむなと云の略記と見る也。のがとよみては句意不v穩也
強語 天皇のいやと被v仰ても被2聞食1よとひたとしひ奉りて、物語を申せしことをと也。氏にまれ名にまれ、しひと云義によそへ給ひて、強語とよませ給へる也
此者不聞而 此のごろ嫗か不v參して、しひごとをも聞しめされぬ故、したはせらるゝと也
御歌の意きこえたる通也
 
志斐嫗奉和歌一首
 
此端書にも志斐と書たれば、しひなと云老母の名とも見ゆる也。氏ならば前にて知れたる義なれば、嫗と計りにてもすむべからんか
 
嫗名未詳
 
古注者の文也。志斐を氏と決したる注也
 
237 不聽雖謂話禮話禮常詔許曾志斐伊波奏強話登言
(197)いなといへど、かたれかたれと、のればこそ、しひいはまうせ、しほごとゝのる
 
不聽雖謂 嫗はいなびたれども、天皇のかられ/\とみことのればこそ、物がたりをも奏し奉れると也
志斐伊波 伊は初語の詞也。しひはまうせと云義也。語の中に初語を加ふること證例いくらもあり。此しひは強の義にあらず。嫗の自らを云義也。或説に伊は野と通じてしひやは申といふ義といへり。少迂衍の説なり。かたれ/\とのればこそ、しひ嫗はまうせ、それをこなたよりのしひごとゝのらせ給ふと、たはむれて奉v和れる歌也。伊波をやはとよみては、上に一句何とか申てとかいふて、しひやは申せといはねばきこえぬ也。のればこそしひは申せ、それをしひごとゝみことのらせらるゝと見れば義安き也
 
長忌寸意吉麿應詔歌一首
ながのいみきおきまろ、みことのりにこたふるうたひとくさ
 
長忌寸意吉麿 第一卷太上天皇幸于參河國時歌の處に注せる奧麻呂也
應詔 いづれの天皇のみことのりとも難v知。是も持統天皇の何かたぞ海邊へ行幸なりし時、行宮離宮などにて、何とぞみことのりありしときの歌歟。或説には難波宮へみゆきのときの歌ならんかといへり。いか樣大宮の内までとあればさもあらんか
 
238 大宮之内二手所聞網引爲跡網子調流海人之呼聲
おほみやの、うちまできこゆ、あびきすと、あみこしらぶる、あまのよびこゑ
 
大宮之内二手 いづかたにもまれ、行在所の皇居をさしていへるなるべし。海邊の歌なれば難波の宮の事ならんか。海近き宮故海人のあみ子をよびあつむる模樣殿中までも聞ゆると也
網引爲跡 天皇行幸まし/\し折しも、海人のあさりする時あみをひくにあまたの海士人をよびあつめて、それかれとさし引をする義也
(198)網子調流 古本印本等にもあことゝのふるとよみ來れり。しかれどもとゝのふるとは、歌詞とも不v覺。あこはあみこの略語なれども、とゝのふるの詞俗語にちかし。しらぶるとは、何にても物をあきらかにわきまへることをいひて、別而物の音などをわかつことをいふ義なれば、こゝもあみ子どもを、それかれとあきらめわかちて、あみを引しむる義にて、上に引くとよみ、下に聲とあれば琴などを引しらべるとも云縁の言葉あれば、しらぶるとよむかたしかるべからんか。とかく縁語をもて雅情をあらはす處歌といふもの也。俗語雅言の別ちをしらぬ人は心得がたからんか
呼聲 大宮のうちまできこゆと云句へかへるてには詞也
歌の意きこえたる通也
 
長皇子遊獵路池之時柿本朝臣人麿作歌一首并短歌
ながのみこ、かるちのいけにあそび給へるとき云云
 
長皇子 第一卷に出ませり。天武天皇の御子也
遊獵路池 何れの國の地名とも難v決けれど、第二卷目に人麻呂の妻死したる時の歌にも、輕路輕の里輕の市などあればこれも大和の國の地名か。若本草後の名所抄等には加賀或ひは越前等と記せる物あれど、此の獵路池とは別處歟。此端作の所にては先大和國と見ゆる也。日本紀卷第十應神天皇十一年冬十月作2釼池輕池鹿垣池厩坂池1云々。此輕池の事ならんか。奧の或本歌に、あら山中に海成可聞とよめる意は此時の事歟。また後代に至て堀被v改たるか。詳に難v考
 
239 八隅知之吾大王高光吾日乃皇子乃馬並而三獵立流弱薦乎獵路乃小野爾十六社者伊波比拜目鶉己曾伊波比回禮四時自物伊波比拜鶉成伊波比毛等保理恐等仕奉而久竪乃天見如久眞十鏡仰而雖見春草之益目頻四寸吾於富吉美可聞
やすみしゝ、わがおほきみの、たかてらす、わがひのみこの、うまなめて、みかりにたゝる、わかゝやを、かりちのをのに、しゝこそは、いはひふせらめ、うづらこそ、いはひもとほれ、ししゞもの、(199)いはひふせりて、うづらなす、いはひもとほり、かしこしと、つかへまつりて、ひさかたの、あめみるごとく、まそかゞみ、あふぎてみれど、わかぐさの、いやめづらしき、わがおほきみかも、
 
八隅知之吾大王 長皇子を尊稱していへる詞也。毎度注せる義也
馬並而 第一卷に注せり。文字の通の意也
三獵立流 獵に出給ひて、その野の池にあそび給ひたりと聞ゆる也
弱薦乎 古本印本にわかくさまたはわかこもとよめり。薦の字の事第二卷久米のせむしの歌にて悉しく注せる如く、日本紀にすゞと訓ぜられて、すゞはかやの事を云なればこゝもわかゝやとよむべき也。尤くさと云ても同じなるべけれども、日本紀を證とせんこと正義たるべき欺。此わかゝやわかくさ何れにまれ、此事に意はなきなり。下の獵路とうけん爲の冠句也。かやをかるとうけたる詞也。奧の歌にも、刈薦と書きて點にはかりこもとよませたれど、これもかるかやのみだれと請たる詞也
獵路小野 池の地名も同前にて大和國なるべし。後世の名歌抄等には加賀とも越前とも記せり。加賀越前にもありけるか。此歌にては先大和と見ゆる也
十六社者 十六をしゝとよませたるは、四を四合せたれば十六になる故也。これらを萬葉書とは云也。社の字をこそとよむ事は、古來より難v濟事也。是はふかき故實あるべき事也。まづは木石と云義と心得べき也。いかんとなれば、上古の社は石をたゝみて土を高くし、木を植えたる所をやしろとは奉v稱る也。木と石との所といふの義訓なるべし。第二卷人丸石見より上れるときの歌にも、こそといふ詞に、社の字を書たり。そこに不v注故今こゝに注也
伊波比毛等保理 鹿鶉こそをがみふしもとほるものなるに、人としてかく鹿鶉のやうに、はひをがみもとほるは、王の尊くかしこき故との意也。よりて上の拜目はをがまめとよむべし。下の拜目はをがめりとよむ也。四時物鶉成は、前にも注せる通、しゝうづらのごとくと云古語也
眞十鏡 鏡を稱美していへる義也。日本紀神代上卷に、白銅鏡とあるも同じ義、延喜式第八出雲國造神賀詞の末にも、御表知(200)坐、麻蘇比乃大御鏡とあるも、わけありてかがみを賞讃してまそとはいふたる義、神代上卷に、白銅鏡と書給ふもあきらかにしろきかがみといふ義なる也。然るをかなづけにますみと有を、理屈をおもしろく附會して、眞にすむ鏡などいへる説は、本邦の語學を不v知人の、僻説としるべし。扨て鏡は日神の御正躰ともかたどりて奉2尊崇1ものゆゑ、此歌にても皇子をあふぎあがめ奉るといふことの冠句、又見るといふの序詞に、まそかがみ仰ぎてとはよめる也。此所にてまそかがみに深き意味はなき事也。下の見れどといはんための序詞ながら、鏡の徳の常ならぬものなるをもつて也
春草之益 わかくさとは義訓也。盆の字を古點等にもましとよませり。ましめづらしといふ歌詞とも心得難し。いやはいよ/\ます/\の意也。所によりてましますともよむべき縁もあるべけれど、此歌にてはいやとならではよみがたかるべし。ましめづらしといふ歌詞、集中にも古詠にもきゝ不v及也
歌の意は、長のおほきみのかるちのをのにみかりに出給ひて、その所の池に遊び給ふを、たゞなにとなくみこを尊みほめ奉りて、何程あふぎあがめてもめづらしくかしこき皇子とほめ奉れる也
 
返歌一首
 
240 久堅乃天歸月乎網爾刺我大王者盖爾爲有
ひさかたの、そらゆく月を、あみにさし、我おほきみは、きぬがさにせり
 
久堅乃天歸月 濱成和歌式には、ひさかたのあま行月とよみたるよし仙覺抄に見えたり。古點はそらゆくとよませたり。盖爾爲有を古點にはかさになしたりとよみ、和歌式にはきぬがさにせりとよめる趣、同樣にしるせり。久かたのあまくもぞ行も意はおなじ。古點のそら行のかた聞よければそれに從ふ也
網爾刺 月のまろなるを、皇子のさしたまへる蓋に見立てとりなしてよめるなり。皇子をほめ奉り、天徳のましますといふ意をこめてよめる也。月をかさにみなすより、あみにさしといへり。長歌にあめみるごとくとよめるから、反歌にも天行月をとよみ出せる也。あみにさしとよめる意少し解しがたし。きぬがさの模樣に月などを繍に編みつけたる意にてよめるか。さし(201)といふはかさといふ縁によりてなり。但あみにとよめるは、此意をもてよめるならんか。
盖爲有 儀制令運、凡蓋、皇太子紫表、蘇方、裹頂及四角覆錦垂總、親王紫大纈、一位深緑三位以上紺、四位縹、云云。倭名鈔卷第十四云、調度部服玩具云、兼名苑注云、華盖、和名岐沼加散、黄帝征2〓尤1時、當2帝頭上1有2五色雲1、因2其形1所v造也
歌の意はたゞ皇子をほめて月のまどかなるを、皇子のさし給ふきぬかさにとりなして、天子の皇子なるからそら行月をきぬがさにしてめさるゝと云意也
 
或本反歌一首
 
一本にはきぬがさのことならで、左の歌をのせたる本ありし故、古注者如v此注せり
 
241 皇者神爾之坐者眞木之立荒山中爾海成可聞
すべらきは、かみにしませば、まきのたつ、あらやまなかに、うみをなすかも
 
眞木之立 眞は發語の詞也。諸抄等に※[木+皮]のことにいへる誤也。一種の木にかぎる事ならず。只木の生い茂りたるあら山中に池を堀らせ給ふと云義也。あら山中に海をとよめるは、歌の餘情神徳なるといふ意にて、池をも海とよみなせる也
海成可聞 獵路池を此みぎり堀らさせ給へる故に、かくよめるか。獵輕同詞なれば應神天皇の時被v造たる輕の池の事ならんか。しかれども獵路池とあれば、輕池とは異所歟。此義分明には難v考。同じ池にて應神天皇の時に被v造たる事を、今よみても歌の意に相叶ひて聞ゆる也。いづれにもあれ、天子のみ徳を尊賞し奉りて、神にしませばとよめる也。可聞は例のかな也
 
弓削皇子遊吉野時御歌一首
ゆげのみこ、よしのにあそび給ふときの御歌ひとくさ
 
弓削皇子 前に注せり。天武の御皇子也
 
242 瀧上之三船乃山爾居雲乃常將有等和我不念久爾
たきのへの、みふねのやまに、ゐるくもの、つねにあらんと、われおもはなくに
 
(202)瀧上三船月山 吉野にある地名、第一卷に瀧宮杯とよめるもこのところなるべし。このみふねの山に何の意もなし。下の居雲より趣向をのべたまふ歌也。懷風藻正五位下圖書頭吉田連宜從2駕吉野宮1、五言詩云。神居深赤靜、勝地寂復幽、雲卷三舟谷、霞開八名洲云云とあり
居雲乃常時有云々 雲に御身を比してよみ給へる意也。みふねのやまにゐる雲も晴るゝときもあり、又きゆる折もありて、さだめがたき景色を御覽ぜられて、人の身の上もまことに浮べる雲の如くなるものなれば、かの雲の山にかゝりまた消えちる如くに、常しなへにはあらぬものと思ひなすとの事也。常にはとこしなへにの意也。常住不變にはあらぬとの義也。景色の面白きに付て、おのづから御感慨もおこらせられて、世の中のさだめなき事を當然御覽なされし雲になぞらへて、よませ給へる御歌と聞ゆる也。別の意なき御歌也。おもはなくには、御主の御身も常住不變にあるべきとはおぼしめされぬとの義也
 
春日王奉和歌一首
かすがのおほきみ、こたへたてまつれるうた一首
 
春日王 志貴皇子の御子也。天智天皇の御孫也。續日本紀卷第一、文武天皇三年六月庚戌、淨大肆春日王卒、遣v使弔賻云々
 
243 王者千歳爾麻佐武白雲毛三船乃山爾絶日安良米也
おほきみは、ちとせにまさん、白くもゝ、みふねの山に、絶ゆる日あらめや
 
王者 弓削の皇子をさして也
千歳 弓削の皇子の世のさだめなき事を雲に比して、御身の上をも感慨なさしめ給ふ故、引かへて祝し直し、いつまでもみいのち長くゐましまさん、みふねの山に居る雲もたちゐ絶ゆることあらんや。おほきみの千とせにまさんためしは、白雲もみふねの山にたえまじきと也。御こたへの歌には、如v此御挨拶あるべき御事、殊勝なる御和歌なるべし。歌の意、何のとゞこふるところもなくきこえたる通也
 
或本歌一首
 
(203)244 三吉野之御船乃山爾立雲之常將在跡我思莫苦二
みよしのゝ、みふねのやまに、たつくもの、つねにあらんと、わがおもはなくに
 
三吉野 本集には瀧上之と有。居雲を立雲と文字替れり。和我の二字を我の一字、不念久爾を思莫苦二とかはれる迄の事にて歌のこゝろは同じき也。よりて再釋に及ばず
 
右一首柿本朝臣人麿之歌集出
 
萬藥の一本に如v此本集とかはりて書たる本ありしを、古注者所見故左に注せり。右の歌は人麻呂の歌集に出でたる歌と有、
古注者再注也
 
長田王被遣筑紫渡水嶋之時歌二首
おさだのおほきみをつくしにつかはさるゝ時、みづしまをわたれるときのうなふたくさ
 
長田王 長皇子の孫にて栗栖王の事也。續日本紀卷第十二、聖武天皇天平九年六月辛酉、散位正四位下長田士卒云云
被遣筑紫年月不v詳也。筑紫とは今云筑前筑後の兩國也。偏僻を守る要害地故、むかしは筑前の國に太宰府といふまつりごと屋をおかれて、重きつかさ人を被v遣て、西海諸蕃を守護させしめ給ふ也。この王も任國の事に付て被v遣たるならん
 
245 如聞眞貴久奇母神左備居賀許禮能水島
きゝしごと、まことたふとく、あやしくも、かみさびゐるか、これのみづしま
 
如聞眞貴久 これは景行天皇の御時、水嶋の岸傍にふしぎの寒泉忽然と湧出したる古事ある也。その義を云傳ふるごとくまこと尊くあやしくもと也
奇母 暴行の御時忽然と泉の湧き出たることのあやしき事故、あやしくもと也。かつ水島を賞美したる義をかねて也
(204)神左備居賀 昔より不思議のきこえある此嶋なるが、今も不思議にのこりてその儘にあるかなと云の義也。あるかとはあるかなといふの賀也
許禮能 これやこれならんと云義也。能の字はもし也の字、野の字の誤字にてもあらんか。またのはなとおなじ詞なればこれなとおさへたる詞ならんか。今一案はこれこのみしまといふ義にて、能の字の上に許の字を脱したる歟。尤此の書面にても歌の意は聞ゆる也。水島をみしまとよむかみづしまとよむべきかの兩義ある也
水嶋 肥後國にあり。日本紀卷第七景行天皇十八年夏四月壬戌朔中略。壬申自2壬申。自2海路1泊2於葦北小嶋1而|進〔食。時召2山部阿弭古之祖小左1令v進2冷水1。是等島中無v水不v知2所v爲。則仰之|祈2于天神地祇1。忽寒泉從2崖傍1涌出。乃酌以獻焉。〕故號2其嶋1曰2水島1也。其泉猶今在2水嶋崖1也。如v此不思議なる故事ある水嶋すでに元明天皇の時分迄も猶存せるをもて、舍人親王の御傳跡もありて、此歌にもきゝし如く、神さびあるかとよめる也
 
246 葦北乃野坂乃浦從船出爲而水嶋爾將去浪立莫勤
あしきたの、のざかのうらゆ、ふなでして、みしまにゆかむ、なみたつなゆめ
 
葦北乃野坂乃浦 肥後國にあり。仙覺抄云、葦北乃野坂乃浦は肥後國也。水嶋又同肥後也。風土記云。球磨乾七里海中有v嶋稍可2七十里1、名曰2水嶋1、島出2寒水1、遂v潮高下云云。倭名鈔卷第五國郡部西海郡部云、肥後國葦北【阿之木多】球麻久萬
水嶋爾將去 風土記の通、海中に離れてある嶋故、あしきたの野坂の浦より船にて通ふところと聞えたり。古本印本共にみしまにゆかむとよめり。前の歌はこれのみづしまとよませて、此歌にては同嶋の名をみしまとよめること仙覺抄にも不審の義にて、後賢の考を待つの由注せり。或抄には續後撰にみしまにゆかむとあることあやまれり。さきの歌これのみしまとよみてとまるべきやと難ぜり。しかれどもみしまとよみてみづしまの事になるまじきにもあらねば、先の歌も若し脱字ありてみしまとよみしもはかりがたく、また後の歌みづしまとよみては文字あまり耳に立ちて聞ゆれば、みしまともよみたきもの也。所詮後の歌は前の水嶋の訓にしたがふべき也。當流に於ても尚後案を待つものなり
(205)浪立莫勤 船出して水島にゆかん程に、海上もおだやかに波風のたつ事なかれと下知したる也。ゆめとはつつしめよと教へ示したる義也。つとめともゆめともいふて、何かによらず、つゝしめと制したる義也
 
石川大夫和歌一首
いしかはのまうちきみのこたへうたひとくさ
 
石川大夫 傳不v知。左注にも注せるごとく、いづれの人とも難v知也
 
名闕
 
古注者の加筆也
 
247 奧浪邊波雖立和我世故我三船乃登麻里瀾立目八方
おきつなみ、へつなみたてど、わがせこが、みふねのとまり、なみたゝめやも
 
歌の意は、おきつなみへつ波はたつとても、長田王の船出し給ふてみふねのとまるところには、いかで浪のたゝめや、波はたゝぬと也。船出を祝して和へたる也。八方のもは例の嘆の詞助字と同じき樣なるものなり。わがせことよめるは、今時の風体にていへば、夫をさしていふやうなれど、長田王を敬稱の詞也。せことは、すべて君長をさしていへる詞也
 
右今案從四位下石川宮麻呂朝臣慶雲年中任大貳
 
是より已下誰作此歌焉迄古注者の文也。讀日本紀卷第三、文武天皇慶雲二年十一月己卯中略、甲辰中略、從四位下石川朝臣宮麻呂爲2大貳1云々
 
又正五位下石川朝臣吉美侯神龜年中任少貳不知兩人誰作此歌焉
 
吉美侯 きみこ也。續日本紀卷第九神龜元年二月中略、石川朝臣君子並五五位下云々とあり。此人なるべし。しかれども此注は誤と見えたり。續日本紀を考ふるに、吉美侯任2少貳1ぜし事、神龜年中は勿論紀中に不v見。此集の中にも石川朝臣足人(206)歌七首あれば、こゝにいふ吉美侯は足人のあやまりなるべし
 
又長田王作歌一首
 
是は撰音の標題也
 
248 隼人乃薩摩乃迫門乎雲居奈須遠毛吾者今日見鶴鴨
はやひとの、さつまのせとを、くもゐなす、とほくもわれは、けふみつるかも
 
隼人乃薩摩 隼人は兵士也。火酢芹命の裔也。日本紀神代下卷に見えたり。令義解卷第一末云、隼人司、正一人、掌d檢2校隼人1【謂隼人者分2番上下1、一年爲v限、其下番在v家者差2料課役1、又簡2點兵士1、一如2凡人1】及名帳教c習歌※[人偏+舞]u、佑一人、令史一人、使部十人、直丁一人、隼人。この隼人は大隅薩摩兩國より出て朝廷へ分番上下する兵士也。衛門府の被官也。此處に云隼人はさつまといはんための冠句也。薩摩の國より出るもの故、はや人のさつまとつゞくる也
迫門 すべて海中にて浪風などのたちやすく底深き處をいふ也。俗に大事の瀬戸をこすなどいふも、海路にて大切にするところ、浪潮のあらきところを、せとあるひは灘抔と云と聞えたり。せまき處といふ義にて左右に山島などありて、そのところの海せまくて、底深く潮はやき處ゆゑ、せとゝいふなるべし
雲居奈須遠毛 くもゐなすとは遠といはん爲の序詞にて、大隅さつまは帝都よりはるけき遠國なれば、雲ゐの如くに遠きとよめるも理也。歌の意は何となく只はる/”\の海路一入に便りなき旅愁の意也。鴨は例の歎詞今更に餘情の哀れに聞え侍る也
 
柿本朝臣人麿※[羈の馬が奇]旅歌八首
かきのもとのあそんひとまろ、たびのうたやくさ
 
※[羈の馬が奇]旅 二宇合せてたびとよむべき也。此八首の歌は、往來の旅の歌を載せられたりと見えたり。人丸の何國へ往來の時の事とも不v知れ共、歌の趣を考ふるに西國筋へゆきかへりの時の歌と見えたり。もし石見國よりの上り下りの時の歌ならんか。八首の全篇をよく考ふるに二首並べあげたるは、往來のときの歌を並べ載せたるかと見ゆる也
 
(207)249 三津埼浪矣恐隱江乃舟公宣奴島爾
みつのさき、なみをかしこみ。こもりえの、ふねこぎとめて、やどれぬじまに
 
三津埼 攝津國難波にあり。なにはのみつともよめるところ也
浪矣恐 なみあらかりし故おそろゝと也
隱江 なみをおそれてこもるとうけたる詞にて、此處にこもり居るにてはなく、このこもり江も地名なるべし。こもり江の船といへるは、なには船抔云と同じ意にて、その處の船を云たる義歟。先は波を恐れて、こもるといふつゞきにいへるこもり江也
舟公宣奴島爾 古本印本共にふねこぐきみがゆくかぬじまにとよめり。舟公宣の三字をかくよめることいかに共心得難し。とかく誤字脱字あらんか。此書面の通にて案をめぐらして見る師案には、公の字は泊の字にて船はつるなどよめる字なれば、泊の字にして見る時はふねこぎとめてとよむべし。宣の字は宿の宇なるべし。しからばやどれとよむべし
歌の意は、みつのさきのなみあらくてかしこき程に、こもり江の舟もまづこぎとめてぬじまにとゞまりやどれとよめる歌とみる也。點本の通のよみにては歌の意如何とも不v聞也。しかれば此歌は西國より上れる時の歌と見るべき歟。若し脱字ありて別の意もあらば、他國へ下向の歌にもあらんか。此歌は如何にもと未だ決しがたき歌也
奴島爾 淡路也。次の二首目の歌には直ちに粟路之野島とよめり
 
250 珠藻苅敏馬乎過夏草之野島之崎爾舟近著奴
たまもかる、みぬめをすぎて、なつぐさの、ぬじまがさきに、ふねちかづきぬ
 
珠藻苅敏馬乎過 敏島の浦なるべし。先は攝津の國の地名とす。但淡路にもあるか。仙覺律師抄云、攝津國風土記云、みぬめの松原云々。たまもかるみぬめとつゞくる外の意は不v可v有v之。玉藻は浦にてかるもの故みぬめの浦といふ意にてよみたる迄ならん。外に意はあるまじき也。浦といふ詞はなけれども、みぬめとよめば浦とか崎とかきはまりたること故、みぬめと(208)ばかりありても浦の義と見るべし
夏草之 の島とうけん爲の冠句也。夏草に意は無し
此歌は前の歌と次第して見る時は、前の歌は難v濟。前の歌ははとかく脱字ありて、京より西國へ下る時の歌ならんか。みぬめの歌は攝津國、津島は淡路なれば、みぬめを過ぎて野島とあれば、こなたより西國へ下れる時の樣に聞ゆる也。然れどもみぬめの浦も淡路の内にありけるにや、證明難v知。往來の歌を部類一つにあつめて、前の歌は上るときの歌、是は下る時の歌とて載せたる歟。次第して見る時は、前の歌何とぞ外に誤字脱字あるべき也。下るときの歌と次第して見る義も、奧に到りていまだ支へあり。天さかるひなの長ぢの歌は、上る時の歌と聞ゆる也。されば往來の歌を一つに載せたると見ざれば不v濟也。止る時の歌と次第して見れば、奧の歌どもにては次第連續して淡路より播磨播磨より津の國と次第すれども、此二首の歌不2連續1故不審おこれる也
 
或本云 處女乎過而夏草乃野島我埼爾伊保里爲吾等者
 
或本に云く、みぬめをすぎて、なつぐさの、ぬじまがさきに、いほりすわれは
 
處女乎 是を古本印本其外抄物等にもをとめとよめり。然れども本集にみぬめとありて、その或説の下の句の替りをあげたる歌なれば、處女とかきてもみねめめとよみたると心得べき也。但しみぬめの浦ををとめの浦としいへる何ぞ證明もあらば、處女とかきてをとめとよむ事は、此集にも奧にいたり毎度あれば、をとめとはよむべけれど、こゝにては心得がたし。此一字は若し敏女脱字にてあらんも知るべからず
野島我埼 淡路也
伊保里爲我等者 本集には船ちかづきぬとあり。或説はいほりすわれはとよめる、いづれもぬじまに船泊せしと見ゆる也。
此歌にて見れば初の歌の宿の宇脱字と見る意も叶ふべからんか
 
251 粟路之野嶋之前乃濱風爾妹之結紐吹返
(209)あはぢなる、ぬじまがさきの、はまかぜに、いもがむすびし、ひもふきかへす
 
粟路 あはぢと點をせる理を述のぶるにも不v及誤也。あはぢの事は、神代上卷に見えたれば不v及2細注1也
之 是をなるとよむ事前にも注せり。此集中なるとよまではならぬ義數多ある也。これをあはぢのと四言一句によめる句例多き事なれど、之の字なければ四言にもよむべき事なれども、なるとよむ例あれば五言によむべき事なり
野島之前 前は埼の義也。借訓にかきたるなり。前後のさきにてはなき也
此歌の意は、旅行の物うき有樣をよめる也。旅たつ節は身のいたはりを厭ひはかりて旅衣の紐などをも、妻のしめ結びしに、濱風の荒くはげしきまゝにとけやらぬ紐をも吹かへすにつけて、古郷の事をも思ひ出て慕ふ心の意をふくみてよめる也
 
252 荒栲之藤江之浦爾鈴寸鉤白水郎跡香將見旅去吾乎
あらたへの、ふぢえのうらに、すゞきつる、あまとやみらん、たびゆくわれを
 
荒栲 ふぢへつゞかん爲の冠句、第一卷あらたへのふぢゐが原とよめる意に同じ
藤江之浦 播磨國明石郡の内にあり。倭名鈔卷第八、播磨國明石郡葛江、布知江
鈴寸 鱸也、借訓書也。倭名鈔卷第十九、鱗介龍魚部類云。鱸、崔禹食經云、鱸【音盧、和名、須須木】貌似v鯉而鰓大開者地。四聲字苑云似v※[魚+厥《あさち》]而大青色
歌の意かくれたる義もなし
 
一本云白栲乃藤江能浦爾伊射利爲流
一本云、しろたへの、ふぢえのうらに、いさりする
 
第一第三の句のかはりを説きたる意にて、歌の意は同じ義也
 
253 稻日野毛去過勝爾思有者心戀敷可古能島所見
いなびのも、ゆきすぎがてに、おもへれば、こゝろこひしき、かこのしまみゆ
 
(210)稻日野 播州印南郡にある野也。日は濁音によむべき歟。もつともひとみとは同音にて、濁音なればなり。倭名鈔卷第五國郡部云、山陽郡、中畧。播磨國明石安加志賀古、印南伊奈美
去過勝爾 いなみのゝ景色おもしろきによりて、旅行の愁情を忘れて行過がたく思ふと也
心戀敷 こゝら戀しきといふ意也。かなたもこなたもおもしろき風景あまたありとの意也
可古の島所見 可古も播州也。賀古郡の内にある島也。前の稻日野の處と同じく倭名鈔にも見えたり。日本紀卷第十應神紀十三年の條一書説云。一曰、日向諸縣君牛仕2朝庭1中略。便入2于播磨鹿子入門1中略。時人号2其著岸之處1曰2鹿子水門1也
 
一云潮見
 
鹽をうみとよむ事古訓に有。印本等にしほとよめるは、潮をうみとよむ古訓を不v知りし人の點をくだせし也
此歌の意は、いなみのゝ風景おもしろき故、旅行のうさを忘れて、ゆき過難く思ふ折ふし、かこのしま同じ國の海中にてま近く見ゆれば、またその處へもわたりて、景色をも見まほしかりけるにや、かくよめるなるへし。こゝろこひしきはこゝらと云意にて、かなたもこなたも行過きがたく、またゆきてみまほしきといふ義を、心戀ひしきとはよめる也
 
254 留火之明大門爾入日哉榜將別家當不見
ともしびの、あかしのみとに、いるひにや、こぎわたるらん、いへのあたりみず
 
留火之 あかしとうけん爲めの冠句也
明 播磨なり。前にひける倭名鈔の郡のうちにも見えて明石也
大門 大は水の字lの下迄筆つゞかざるを、のちにあやまりて大の字に作れると見えたり。古點はせとゝよみたるを、仙覺律師阿波國風土記を引て、奈汰と改點せり。大門をなだとよむべき義、證例も不v見。門の字はすでに迫門と書きてせとゝよみきたり。門の字計もとゝよめば、みとゝ云は、神代卷より始め古記いくらも證例すくなからざる古語なれば、大の宇の誤宇と見て水門とは訓ずる也。水門はみなとゝ云義にて、衆船のあつまりよる處也。歌の意も、海上よりは故郷のかたもはるけき(211)ながら見わたさるべけれど、湊に入りては、家のあたりも隔たり見えまじければ、かくよめると見たる也
入日哉 みなとへ入日には、古郷のかたをも詠めやり來りしも、見えずなりて、こぎわたるらんとの意なるべし。然ども此句少六ケ敷聞えがたし
榜將別 此句難v濟。こぎわかるゝといふもの今一つ何ぞわかれるものなくては聞えざる句なれど、諸抄にもたゞ聞えたる様に釋し來れり。此分ばかりにては何とも聞得がたし。注釋の詞を入れて見ざればすみがたき歌也。上に船のこともなく、こぎわかれとよめるも心得がたし。若誤字などあらんか。然ども先詞を添へて水門に入る日には、詠めやりし古郷の家のあたりも見えずなりて、こぎわかるゝといふ義と釋し侍れど、實意はしかとすみがたき歌也。入日は入舟にてはあるまじきか。舟の字ならばこぎとうけたる詞は濟むべき也。それともに全躰の意はとくときゝ得がたき也
家當不見 この歌は倭より西國へ下る時の歌故、あかしのみなと迄は海上より大和のかたをも見やりゆきて、湊へ入ればもはや海山をも隔つる故、如v此よめる歟。次の歌にもあかしのとよりやまと島見ゆともあれば、あかしの浦からは大和のかた見やらるゝと聞えたり。前に注せる如く二首ならべあげたるはゆきゝのときの歌を載せたると見ゆる也
 
255 天離夷之長道從戀來者自明門倭島所見
あまさかる、ひなのなかぢゆ、こひくれば、あかしのとより、やまとしま見ゆ
 
天離夷之 此事は前に注せり。天に遠ざかります日とうけたる詞也。他家の説とは異意也
長道從 長き旅道よりと云義也。前にも注せる如く、よりといふ義を古語にはゆと云へる也
戀來者 こひくればとあるからは、此歌は上る時の歌と見ゆる也。長路よりこひ來ればとよめるからは、西國より登る時よみし歌なるべし
 
一本云家門當見由
一本云、やどのあたりみゆ
 
(212)歌の意は聞え侍る通也
 
256 飼飯海乃庭好有之苅薦乃亂出所見海人釣船
けひのうみの、にはよかるらし、かるかやの、みだれいでみゆ、あまのつりぶね
 
飼飯海 飼飯は越前なるに、此歌の次に入る事五文字心得がたし。一本歌に武庫とよめるはこゝの歌の次に相叶へり。攝津國泉川の浦の内に飼飯といふ處あれば、若し其處を略してけひとよめる歟
庭好 海上のことをにはと云也。にはとは波穗といふ義ならんか。この意は海上靜にて波風もなくよくあるらしといへる也好有之の三字は約言によみてよかるらしとよむ也。よくあるらしと云義也
苅薦 みだれといはん爲の序詞也。印点にはかりごもとよみたれ共、かるかやはみだれとつゞく後々の歌にも置例多ければかやとよむ方然るべし。その上薦はすゞ、かやとよむが古訓也
亂出所見 海上波靜なる故、海士のつり舟あまた出でたる景色も見えたれば、出見ゆとよめる也。つり舟のこゝかしこにあまた出みゆるにつきて、海上にはもよくあるらしと察したる也
 
一本云
 
異本には左の歌を載たると也。例の古注者の加筆也
 
武庫乃海舶爾波有之伊射里爲流海部乃釣船浪上從所見
むこのうみ、ふねにはあらじ、いさりする、あまのつりぶね、なみのへにみゆ
 
武庫海 攝津國也。倭名鈔卷第六國郡部云、攝津國武庫無古。郡にも郷にもあり。武庫郡の内の海なるべし
舶爾波 海上の事をふなにはともいふと見えたり
有之 借訓書にて荒しといふ義なるべし
伊射里爲流 海邊、海中、江、湖、川、惣而水邊にて魚をとる事をいさりといふ也。白水郎の所業を云詞也
(213)海部 白水郎、海人、海士、漁人、と書きて皆あまと訓せり
浪上從所見 浪のうへに見ゆるなれば、海上荒く波高き故、あまのつり舟も浪の止に漂はせると也。本集の歌とはうらはらの意也
 
鴨君足人香具山歌一首并短歌
かものきみたるひと、かぐやまのうたひとくさならびにみじかうた
 
標題に雜歌とあげたる通、かくの如く連續なきくさ/”\の歌どもをまじへて載せられたり
足人 傳不v知
 
257 天降付天之芳來山霞立春爾至婆松風爾池浪立而櫻花木晩茂爾奧邊波鴨妻喚邊津方爾味村左和伎百磯城之大宮人乃退出而遊船爾波梶棹毛無而不樂毛己具人奈四二
あもりつく、あまのかぐやま、かすみたち、はるにいたれば、まつかぜに、いけなみたちて、さくらばな、このくれしげに、おきべには、かもめよばひて、へつかたに、あぢむらさわざ、もゝしきの、おほみやびとの、たちいでゝ、あそぶふねには、かぢさほも、なくてさびしも、こぐひとなしに
 
天降付 天よりくだりつくといふ義也。これは阿波國の風土記に天より大なる山の降り下りて、一つは阿波國に止まりてあまのもと山と云ひ、又一つくだけて大和國に降り下れるを、香具山といふとの説あり。その説によりてよめる歌也。よりて天降付とよみなす也
霞立 霞立つ春の頃、此かぐ山に大宮人の出で來りて遊びし事のありしが、今は物ふりて面白かりし風景の處も、さびしくなりしことを云へる歌也。歌の意、これ已下聞えたる通也
池浪立而 香久山の内に大なる池ありと見えて、第一巻にも海原とさへよませ給へり。今時は、池のさゞ浪とはよめ共池波と(214)よむ事好まず。されど古は如v此よめる也。尤是は池の大なる由を云ひて奧邊などともよみたり
木晩茂爾 古本印本等にもこのくれしげにとよめり。尤奧の歌どもに假名書に許能久禮繁とも書、許乃久禮能之氣伎ともあれば、古點の通なるべし。然れどもこのくれと云事は、何と云へる事をこのくれと云との釋古來より無v之故、此詞如何とも解しがたき也。先づは物の重り茂りたる事を云ふ義にて、木の暮にて木のしげりたる處は日のくれたる如く暗き義をとりて、このくれといへる也。此詞より後世木の下やみ五月やみといふ事をよめるも、これよりおこりたること也。かつ木のしげりたる事を云ふにも限らず。思ひのしげき事にもよみたり。此れは櫻花の茂りて咲ける事を云ふたる義也
鴨妻喚 古印本點等にもかもめよばひと點せり。然れども鴎の字あるに鴨妻を書きたれば、かものつまよびともよむべきか。尤第一卷にてもかもめたちたつとよませ給へば、古點に從ふべきか。いづれにても意は同じきなれば、好む處に從ふべし
味村 鴨の類也。あしかもなどよむもこれ也。爲v群鳥故むらといふか
百磯城之 此もゝしきと云義、いろ/\説有事也。古本に百官の屋敷所故百敷と書きて朝庭を云との説もあれば、只朝庭は百の城をめぐらせる處故、帝都の皇居をさして百敷とは云へる義なるべし。礒の字は石をかさね城となせる故、百の石の城ある大宮とつゞけたる義なるべし。礒の字は助字とも見ゆる也。助語に見ればいよ/\義あきらけし
退出而 まかり出ては、朝勤の暇には、諸官の人此地に出遊びしと也
無而不落毛 帝都の近かりし時は、宮人も出て遊びし船に、今はかぢ棹もなく誰こひ遊ぶ人もなければ、いと物ふりてさびしきと也
此歌の意は、左注に注せる如く、藤原宮を寧落にうつされて後は、此香具山の程隔たりて、みゆきなどもなく宮人の出て遊興せる事もなく、物さびたるを哀れみてよめると聞ゆる也
 
反歌二首
 
258 人不榜有雲知之潜爲鴦與高部共船上住
(215)ひとこがで、ありくもしるし、あさりする、をしとたかbと、ふねのへにすむ
 
有雲知之 ありきたるもしるしと也
潜爲 鳥の餌を求むるをあさりと云也。あさりはあしさぐると云義にて、あしにてかきさぐる也。潜はかづくともよみて、字義にはあたらざれ共、水鳥の水中に沈浮するも皆餌を求むる義故、義訓にあさりするとはよむ也
鴦與 倭名鈔第十入鳥部云。鴛鴦。崔豹古今注云、鴛鴦。※[う冠/免]〓二音和名、乎之。雌雄未2甞相離1、人得2其一1則其一思而死、故名2匹鳥1也
高部共 同云。※[爾+鳥]。爾雅集注云、※[爾+鳥]。音彌一音施、漢語鈔云、多加倍、多加閉、一名沈鳧、貌似v鴨而小、背上布v文
船上住 位の字に書ける本は誤也、一本住の字に作るを正とす
歌の意は、香具山の地にすて小舟はあれども、誰こぐ人もなければ、かもたかべのその船の上に住みて、人のこぐ事もなく、あり來れる儘にすて小舟となりてあることのしるきと也。帝都の遠ざかりぬれば宮人の出遊びし處も、今は人氣稀なる由をよめる也
 
259 何時間毛神左備祁留鹿香山之鉾椙之本爾薛生左右二、
いつしかも、かみさびけるか、かぐ山の、むすぎのもとに、こけむすまでに
 
何時間毛 いつかくかもと云義にて、はつきりと何時ときはの知れざる事を云ふたる義也。かもといふは疑ひの詞にて、今云ふいつしかもと同事の意也。はつきりといつ來りたり共見えず知れぬ事を、いつしかも秋は來にけり、冬は來にけりなどよむ意も同事也
神左備祁留鹿 神さびしく古びたるといふ義に神さびと也。鹿はかなの意也。神さびけると也
香山 日本紀神武卷云、香山此云2介遇夜縻1これによりて此集にも此一字を用ゐたり
鉾椙 むは、まと同じ詞にて初語也。眞椙と云ふに同じ。すぎの字は和名鈔には俗用v椙非也と注したれども、日本紀卷第十(216)五顯宗紀に椙此云須擬と書かせ給へる故、此集にもすぎと用たり
歌の意は、全體香山の物ふりてさびしき義をよめる也。別に意あるにあらず、森々と杉のはえ茂りて、行かふ人もなければ、おのづから薛苔もむすまで物ふりたる景色をよめる也
 
或本云
 
長歌の一説也
 
260 天降就神乃香山打靡春去來者櫻花木晩茂松風丹池浪※[風+火三つ]邊都返者阿遲村動奧邊者鴨妻喚百式乃大宮人乃去出榜來舟者竿梶母無而佐夫之毛榜與雖思
あもりつく、かみのかぐやま、うちなびき、はるさりくれば、さくらばな、このくれしげみ、まつかぜに、いけなみたちて、へつべには、あぢむらさわき、おきべには、かもめよばひて、もゝしきの、おほみやびとの、ゆきいでゝ、こぎこしふねは、さをかぢも、なくてさぶしも、こがむとおもへど
 
神乃香山 かぐ山 賞美して、神のかぐ山とも云へる也。天地萬物いづれか精靈神ならずと云ことなく、殊に此香山は正敷神明來降の山といふ事に、神のとはよめるなり
池浪※[風+火三つ] 本集には立の字を書けり。※[風+火三つ]の字は字書に暴風從v下而上也とある義をもて、波のたつといふ意に書きたると見えたり
阿遲村動 本集には、味村と書き、さわぎは假名に書きなせるを、一本には如v此あぢを假名に書きさわざを動に書きかへたり動の字も義訓にてうごきともどよみともよむべき也。本集にさわぎとあれば、こゝもやはりさわぎとよむべきか。とよみといふもあまりよき樣に聞え侍らんか
榜來舟 古點にはこぎくるとよませたるを、仙覺改めてこぎこしとよめる由、抄に注せり。尤可v然也。こぎけるともよむべき歟
(217)竿梶母 本集と上下によめり。意はおなじ。
榜與雖思 これ古點はこぐとおもへどとよめり。仙覺師改めて、こがんと思へどとよませたり。如何にも可v然也。本集の歌のこゝろざしと替る事なく、聞えたる歌也
 
右今案遷都寧樂之後怜舊作此歌歟
みぎいまおもふに、みやこをならへうつされしのち、ふるきをあはれみて作2此歌1歟
 
此歌ども注の通とも聞え侍る也。然れどもしかと未v決故古注者も此歌を作る事いづれと考ふる處なければ、於v今は尚遷都の歌とも決し難き也
 
柿本朝臣人麿献新田部皇子歌一首并短歌
 
新田部皇子 天武天皇之皇子也。日本紀卷第廿九云、次夫人氷上娘弟五百重娘生2新田部皇子1。人麿勘文抔云物に、新田高市の皇子にあふと書けるも、第二卷目の高市尊薨じ給ふ時の歌、此歌などによりて書きたる也
 
261 八隅知之吾大王高輝日之皇子茂座大殿於久方天傳來白雪仕物往來乍益及常世
やすみしゝ、わがおほきみ、たかひかるひのみこ、さかえます、大みあらかのへに、ひさかたの、あまつたひこし、ゆきじもの、ゆきゝつゝまず、ときはなるよと
 
八隅知之 皇子と云ふまでは、新田皇子を尊稱しての詞例也。賞讃の意也
茂座 印本等にはしげりませ、しきませなどとよめり。然れども、茂の字は繁茂とつゞく字、榮の字と同じければ、さかえますとよまん事然るべし
大殿於 古本印本共大とのをとよめるは、あまりに假名を不v辯の點なり。於の字をてにはのをによめる事、國史令式其外の古書尤此集中にも不v見。中世已來の古記の假名をも不v辯書にはこれ有も知らず。大殿の二字は、おほとのともよむべからんか。しかれども殿はみあらかといふ古訓あれば、おほみあらかとよむべし。於の字は上の字と通じて上とよむ也。うたの(218)意も御殿の上に雪のつみます如くとよめる意なれば、うへにとならではよまれまじき也
天傳來自 雪は空よりふり來るものなれば、霜雪雨の冠句に多くかくよめる也
雪仕物 前にも毎度注せるごとく、雪の如くにといふ義也。このゆきじものとよめるは、下の往きつゝますと云事の縁によみ出て、下の意天傳來るとは、遠國地境よりもみ子の御徳を慕ひて萬民のより來ると云ふの義を含めたる也
往來乍益 ゆきゝつゝますとは、人丸の當然行き通ふ事によみなして、扨多くの人の遠近となく天より雪のみあらかの上にふりつむ如く、みこを尊み慕ふて、行きかふ人のますと云事と、又皇子のときはかぎはに榮えまさんと云義を兼ねてよめるなり
及常世 此訓點古本印本も色々に詠ませたれども、難2信用1訓點也。尤宗師案には此外に未だ別案もあれど、先づ常の字は、ときはとよむ事知れたる訓義、不v變不v改して常なき事なれば、ときはとこしなへの義也。及といふ字はとゝよむ事勿論なれば、古の三字を、ときはなる世とよむ也。とこよなるまで、いやとこよまでとよむ點もあれど、なる迄といふ義、又とこよまでといふ義、句釋六ケ敷也。千代萬代迄といふ義は、いはるべけれども、とこよまで、とこよなるまでといふては、歌の意如何とも六ケ敷難v濟也。此外に訓義もあらんずれど、於2當流1者先如v此訓ぜり。尚此歌全篇の意貫通の後學ありて、改點もあらば拜伏して從2其義1耳
此歌の意は、新田の皇子の方へ、雪の降ける日人丸參り合てよみて奉れると聞えたり。されば反歌にその意あらはれたり。よりて此長歌の、雪じものとよみ出たる義も、その當然の實事をよめる歌と聞ゆる也。上には段々と、皇子を例の詞に尊み稱讃し奉て幾久と榮えましますみあらかの上に、その當然久方の遠き空より降積れる雪の如く、遠國諸方の諸人の往來も、いやまして榮えましますから、誰々も絶ゆることなく、いつまでもかはらず、ときはのみ世と參り仰がんかしこきみことゝ、到て祝讃し奉れる歌なるべし
 
262 矣駒山木立不見落亂雪驪朝樂毛
いこまやま、こだちも見えず、ふりみだれ、はだれのこまの、まうでくらくも
 
(219)矣駒山 大和の國にある山也。此矣駒の二字、一本に矢釣と書ける有。其本に從へる或抄の説には、此集にやつり川とよめる歌も在りと云ひて、日本紀顯宗卷に、八釣宮とあるを引きたり。然れ共古本矣駒とありて、殊に矢釣と詠むべき縁、此歌により處なし。いこまとよめるは、歌に縁あれば、極めて矢釣山にてはあるまじ。矣の字のムを略し、駒の字のへんを、草字にては見誤り易ければ、一本に傳寫誤りたると見えたり。古語の格、ただ縁なき事を讀出せる事は稀也。古詠を見る事此の習ひ第一也
木立不見落亂 長歌にて注せるごとく、此歌雪のふりける日、新田部皇子の方へ參りて、其當然をよめる歌と見ゆる也。皇子の方へ往來の道筋、生駒山を通ひけるに、雪ふり亂れて、山の景色もさだかに見えわかぬと也
落亂 散りまがふとも、降りみだれともよめり。何れにても同じ意なれば、好む所に從ふべし
雪驪 これを雪もはだれとよみ雪のうさぎまなど詠める點もあれど、全體の歌の意をも不v辨、また雪をはだれと云事も不v知人のよみやう也。※[麗+鳥]は異本驪に作るを是とすべし。驪は説文云、馬深黒色と注せり。禮、檀弓云、夏后氏尚v黒、大事斂用v昏、戎事乘v驪云云、字書にも馬純黒色と注せり。然れば是はくろこまと詠むべき也。人丸の歌に、いそげ黒駒などとも詠めれば、人丸黒馬を好みて乘られたると見えたり。古代黒駒を愛するは、其能あるによりてなり。兎角黒駒に名馬有と見えて、源氏物語にも源氏君須磨にましませるを、頭中將たづね行き給ふとき、源氏の引手物に贈り給へるにも黒馬と有。平家物語等にも、くろきする墨など云て、名馬は大かた黒馬に有と見えたり。これによりて上古は黒馬を秘藏せしと聞えたり。然ればこゝの雪驪の二字は、はだれの駒と詠むべき也。雪は至つて潔白の色、驪は至つて黒色なれば、交はりたる色をもてはだれの駒とよませる義訓なるべし。偖雪をはだれと云義は、はなあめと云義也。はだは花也。凡て濁音は別の通音をも了解する法故駄と濁りたる音はなし。れと云はあめと云義也。あめを古語にれと計りも云也、しぐれ、みぞれ、五月雨にて知るべし。是當流師説の外知る人無き事也。又はだらはまだらと云義にも通ふ故、右兩樣を兼ねてはだれの駒のと讀むべき也。白墨相雜したればまだら駒也。且黒こまと云意にも叶ふ也。くろを約すればこ也。然らばはだれ黒駒とよむ意にも叶ふ也。いこま山とよみ出でたるも下の句のはだれのこまとよめる縁あるによりて、いこま山もとり出せるならん。往來の道筋はいくらも山のあらんに、いこま山を詠める意、雪の日に黒駒に乘りて。みこの方へ詣でる故はだれの駒と詠まんひかへに、いこま山と初五文字に(220)置けるなるべし。やつり山、何の縁なき山なれば難2信用1也
朝樂毛 朝の字は、萬國より參り仕ふる處と云ふ義にて、まうでとよむ字故、こゝもまうでくるといふ義也。くらくもとは、まうで來るといふ義也。るといふ詞をのぶれば、らくになるべし。もといふは、助語の樣にて嘆の詞也
歌の意は、新田部のみこを尊み慕ひて、如v此雪のふり亂れて、山の木立も見えわかず、乘れる駒もはだれになるをも厭はで詣來ると也。詩經葛※[潭の旁]篇。陟2彼高岡1我馬玄黄、我始酌2彼※[凹/儿]※[角+光]1維以不2永傷1此意をも含めてよめる歌ならんかし
 
從近江國上來時刑部垂麿作歌一首
あふみのくによりのぼりきたるとき、刑部のたるまろつくるうた
 
此端作心得がたし。これは上に柿本朝臣人麻呂の七字を脱したるか。たゞし前後に人麿の歌もありてたるまろの歌の意にて人麿近江の國より上り來る時といふ事明かなる故、略して書ける歟。人麿の近江の國より上る時、人麿へ贈りたる歌と見ゆる也。惣て此集の格法次の歌の標題にもある通り、旅行する人の歌なれば、その人を先に擧げたり。此垂丸に限りて後にあげたるは、これ此人の上る時にあらざる故也
刑部垂麿 傳不v知。おさかべは氏なり
 
263 馬莫疾打莫行氣並而見※[氏/一]毛和我歸志賀爾安良七國
うまないたく、うちてなゆきそ、けならべて、みてもわがゆく、しがにあらなくに
 
馬莫疾 いたくともとくともよむべし。意は同じ事也。乘れる馬を急がせて、繁く鞭などを打ちてないそがせそといふ義也。
打莫行 上にてなと云詞の時は、極めて下にそとおさへる詞の添ふ事はきはまれる語法也。上にてうちてなと云ひてゆきそとよめる類、きはまりたる義也
氣並而 これをいきなめてと詠ませたれども、いきと云ふて馬をならぶれば、いきをもならべつくもの故との諸抄の釋なれども心得難し。これは發語の詞にて、けといふ義と見れば義安かるべし。若しくは馬といふ字の誤り歟。けと云ても上に馬とい(221)ふ義あれば、馬を並べての事也
見※[氏/一]毛和我歸 垂丸の共に馬を並べて見ても、ゆくにはあらぬと也。垂丸は近江に留まり、人丸計り上る故、見ても我が行くしがにはあらぬと也
歌の意は、人丸の近江より大和へ上りけるを、垂丸別れを惜みてさのみいたく馬に鞭打ちて、急ぎてな行き給ひそ。われも共につれたちて見て過ぎ行しがにはなきそ、われは留まりぬる身なれば、しがは見て過行にはあらぬぞと、人丸に名殘を惜みて詠める歌也
 
柿本朝臣人麿近江國上來時至宇治河邊作歌一首
 
264 物乃部能八十氏河乃阿白木爾不知代經浪乃去邊白不母
ものゝふの、やそうぢがはの、あじろぎに、いざよふなみの、ゆくへしらずも
 
物乃部能八十氏河 此ものゝふのやそうぢと云義、古來より色々の説を立て、應神天皇の御時芳野より物の部集りける、その名をやそ氏と申と奏せしかば、それに處を給はりて、宇治に住まさしめ給ふ。よりて云ふとの説また舊事記を僞書と知らざるより、舊事記に從ひて天孫降臨ましませる時、廿五人の物乃部氏供奉せしより、此氏數多にして、他氏より多き氏といふ義などとの説々悉難2信用1。證記證明なき説ども也。宗帥案には物乃部とは、凡て兵士を指して云義なれば、武器の縁語を置きたる冠句にて、物の部は第一に弓箭を帶するもの故、弓箭の冠句にて、此處もものゝふの箭とうけたる義なるべし。すべて冠句はたゞ一語にうける事多し。然れば矢といふ一語にうけん爲の詞也。又ものゝふのいとうけたる詞もあり。これも弓射るのいにうけたる迄の事也。八十氏にかゝる詞ならば、此いとうけたる詞の義いかんとも不v可v濟也。ものゝふのいとうけたる詞の歌は、此集中にも其外古詠にも多き事なれば、引歌を注するに不v及。兎角武士は弓箭を第一に帶する物故、その縁語に云へる詞と見るべき也
阿白木爾 川の中に杭を打ち、竹を編み水をくゞらせて、魚をせき止めて取る物也。網のかはりに作りて魚をとるもの故、網(222)代とも書ける文字の意の如くなるもの也。網代の事は追而悉敷注すべし。大概如v此也。近江の湖の魚を、田上にとり洩したるを、宇治の川瀬の網代にかけてとると、古よりいひ傳へたるも、げに古き漁梁の義にて、如v此人丸の歌にも詠める也
不知代經波乃 いざよふとは、流るゝ水の止まりてある事をいふ。凡べて出んとしして未だ出てざる義、可v行して不v行義をいざよふとは云ふ也。こゝも可v流水のとゞこふりてあるを、いざよふ波のといへる也。よりて行方知らずもとありて、網代木にせかれて、水のとゞこふりて、行方知れぬを云へる也。去邊と云ふ義、後世にては行衛など書きて、行末のことゝ心得たるは大なる誤也。此歌の去邊にても可v知也。衛と邊とは甚かなの違あり。去邊はゆくかたの知らぬと云義也。此集中には方の字をへと用ゐたる歌多き也。行方と書きてゆくへとよめるは、義訓とも云ふべきか。又ハヒフヘの通音をもて、ハウの音故へに用ゐたる義とも見ゆる也。此歌の意もゆく方の知れぬと云義也
歌の意は、近江より大和へ上り來れる折しも、宇治川を經て通れるに川中の阿代に波のいざよふ景色を見て、その當然の風景をよめる也。下の意には人丸任國に從ひては彼方此方と轄變する、身の上のうちつきどころも不v足事など感慨して詠めるにてもあらんか。孔子の逝川の歎意を含みて詠めるなどいふ説もあれど、それは推量の義にて、當然の標題にも不v見事也。歌は只輕く當然の實事を詠ぜられたる義と見るべき事也
 
長忌寸奧麻呂歌一首
 
前に出たる意吉麿也。第一卷にも是の通に奧と記せり
 
265 苦毛零來雨可神之埼狹野乃渡爾家裳不有國
くるしくも、ふりくるあめか、かみのさき、さのゝわたりに、いへもあらなくに
 
雨可 あめかな也。歎息の事也
神之埼 古本印本等にもみわがさきとよめり。且此地名五代集の歌枕には、大和國と記せり。或名寄には、紀州と記せり。仙覺律師も大和と云説を不2信用1して近江國に三和社あり。此歌の前後近江の詞ある故、此みわのさきは近江なるべしと注せ(223)り。然るに近江國に、三和社ありと注せる事、證明の引書無ければ此義不審なり。宗師傳には神之崎をかみのさきとよませるは、古點諸抄の釋とは異なれども、神の字はみわともかみともよめば、みわとよむべき證明未v決故、かみとよむ也。そのより處は、倭名鈔第七國郡部云、近江國神崎郡云云、即此郡の内の郷名にも、神崎、加無佐木とあり。又此集第一卷高市古人感傷近江舊都の歌に、さゞ浪の國つ美神の浦さびてとよめる美神の浦も、神の埼と同處のより處ならずや。又延喜式卷第十神名帳、近江國神崎神社とあり。これもみわさきとよむべきや。かみさきとよまんや。證明不v決れ共、倭名鈔の郡郷の地名と此集第一卷の歌を證明として、此神の崎は神のさきと詠むなり。若し美神の浦とよめるは、今三上山と云ふ所あれば、そのあたりの事にても侍らんか、その所はいぶかしき也
狹野乃渡 これは神の埼とあれば、先づは湖水のわたりの處か。古來わたりと云は、あたりと云義を云ひたれば、若しくはさのゝあたりといふ義にはあらぬか。後世の歌にさのゝ渡とよみ來れるは、皆此歌によりての事なれば、その根元の事はいぶかしき也。八雲御抄等にも渡とあげられて、源氏物語を引かせ給ひ、あたりといふ意を書き加へさせ給へり。然れども神之崎とあれば、水邊と聞ゆる故、先は水上のあたりの事と見るべき也。地跡の義は決して近江なるべし。仙覺注釋の通、前後の歌近江うぢの水邊の歌也。其中へ一首大和紀州の歌を入れらるべき事、きはめて有まじき也。尤紀州などにみわが埼さのゝわたりといふ處もありしより、此歌の神の字をみわと點を付けたるか。夫木集の崎の鳥歌に、權大納言實家卿、三輪か崎夕汐させは村千鳥佐野の渡りに聲つつる也。右の歌も、此集の神之崎狹野の渡を紀州と心得て、よみ給へるかも難v計ければ、證明にも難v成けれど、紀州の歌を此處へ一首可v被v入事は決してあるまじきなれば、地名は同名いか程もある事故、結局紀州の地名より此歌の神の字をみわとはよみなせるかと、疑ひおこれるのみ。定家卿の、駒とめて袖打ちはらふかげもなしとよみ給ひ、近世逍遥院實隆公、渡月に、あかす猶めてあかざらん月よゝし夜よしと告ぐる我はなくともと詠み給へる歌も、皆此歌を本としての詠なり
奧麿の歌の意は聞えたる通にて、旅行などにて立ちよるべき方もなく、宿るべき家もあらぬに、雨などふり來らば、いとも苦しかるべき事にて、いぶせく聞え侍る歌也。尤是も近江より大和への往來の時詠める歌と聞えたり
 
(224)柿本朝臣人麻呂歌一首
 
266 淡海乃海夕浪千鳥汝鳴者情毛思努爾古所念
あふみのうみ、ゆふなみちどり、ながなけばこゝろもしぬに、むかしゝのばる
 
夕浪千鳥 夕浪のたちて、千鳥のなく當然をよめる也。夕浪の立ちてその姿のものさびしき折ふし、また千鳥の泣く聲の相まじはりて、一方ならぬ景色の義を夕なみ千鳥とは詠める也
汝鳴者 千鳥を指して汝がなけば也。夕浪の音に添ひて、また千鳥も泣けばと、いと物さびしき景色をよめる也
情毛思努爾古所念 此しぬにといふ事、此集中また古今集にても不v濟事也。諸抄の説は物悲しき事、又はしげきことに云ひなせり。然れども語釋にも不v合、歌の意にも不v合説ども也。このしぬにと云ふは、しどろにと云ふ義也。物の亂れ合ひて、しどろもどろなどいふ義にて、此歌の意夕波の立音に千鳥の鳴く聲相交はれば、心も一方ならず靜かに、あなたこなたに亂るゝばかりに、過にし方の事を慕ひ思ふとの義也。古今集の歌に、菅の葉しのぎといふも、しぬにといふ義にて、それも葉のみだれてしどろになりたることをいふたる義也。情毛思努爾は心もしげくといふ義といへる説あれど、しげくといふ義いかんとも不v合事也。心のしげきといふ事は、いかゞしたる事ならんや。しどろにといふ義なれば、いづれの歌にてもこと/”\く濟也。古所念とは、天智の朝の事などしのばるゝといふ意にてもあるべし
歌の意は不v及2細釋1、聞えたる通也
 
志貴皇子御歌一首
 
前に注せり。志紀とも書けり
 
267 牟佐佐婢波木末求跡足日木乃山能佐都雄爾相爾來鴨
むさゝびは、こずゑもとむと、あしびきの、やまのさつをに、あひにけるかも
 
牟佐佐婢 倭名鈔第十八毛郡類部云、※[鼠+吾]鼠本草云、※[鼠+田三つ]鼠。上音力水反、又力追反、一名※[鼠+吾]鼠、上音、吾、和名毛美、俗に云、無佐佐(225)比、兼名苑注云、状如v※[獣偏+爰]而肉翼似2蝙蝠1。能從v高而下、不v能2從v下而上1。常食2火烟1聲如2小兒1者也云云。字書云、※[鼠+吾]鼠。状如2小狐1云々。頂脅毛紫赤色云々、脚短爪長尾三尺許飛且乳亦謂2之飛生鼠1云々、一名夷由。朗詠には五枝※[鼠+吾]鼠笑2鳩拙1とも記せり
木末求跡 おのれの食物を求めんとて、高き梢を求むると也
山能佐都雄 獵人の事也。山に入りて獣類をかりとる事を業とする物を山のさつをと云也。このさつをといふ根元は、神代下卷彦火火出見尊得2山幸1たまふと云ふより起りたる事と聞ゆる也。火酢芹命の苗裔を隼人といふ。其隼人の居處をさつまといふも、此さつといふ義より名付けたる義ならんか
相爾來鴨 かもはかなにて歎息の詞、むさゝびは高きよりひきゝにはくだる事を得たる物の、登り難き木末を求むるから、思はずさつをに出合ひて命をも失ひ果す哉といふ事を、歎じて詠める歌也。此歌の意をもて人の身の上にも奉承して云はゞ、人もわれに能はざる義を、無理に求め得んと貪ぼる時は、必ずおのづから天の咎めをも蒙る理りある事を、思ひはかるべき事也。何事もなき歌にて、人事に奉承してかんが見れば、甚面白き意味ある歌なり
 
長屋王故郷御歌一首
ながやのおほきみふるさとのうたひとくさ
 
長屋王 天武天皇之御孫、高市皇子之御子也。左大臣正二位也。聖武天皇天平元年二月謀叛之企顯れ被v誅。御妻は日並知尊の御子吉備内親王也。續日本紀卷集第九云、神龜元年二月中畧是日一品舍人親王、益2封五百戸1、二品新田部親王授2一品1、從二位長屋王正二位。中畧又以2右大臣正二位長屋王1爲2左大臣1。同紀卷第十云、天平元年二月辛未、左京人從七位下漆部造君足无位中臣宮處連東人等、告v密稱d左大臣正二位長屋王私學2左道1欲uv傾2國家1、中畧。就2長屋王宅1窮2問其罪1、癸酉令3長屋王自2盡其室1云々。一古本朱書の傍注に被v誅時の年四十六と記せり。懷風には左大臣正二位長屋王三首、年五十四と記せり。何れか是ならんか不v盡也
 
(226)268 吾背子我古家乃里之明日香庭乳鳥鳴成島待不得而
わがせこが、いにしへの里の、あすかには、ちどりなくなり、しまゝちかねて
 
吾背子我 稱2君長1義也。つまをいふたる義との説あれど不審の義也。せことは、君をも指し父兄妻子をも指して云へり。此處のせこは全く君父を稱したる義也
古家乃 古點はふるへとよめるを、仙覺改點していにしへのとよめり。意は同じかるべし。點は好む所に從ふ也。當流はいにしへとよむ也
明日香庭 明日香清御原宮より、藤原宮に遷都ありて、此處ふる里となりし義をよめる也
千鳥鳴成 遷都の後はあすかの里荒れ果てゝ、千鳥などの集まりなく樣になりしと也
島待不得而 屡々待ちかねてと云義也。飛鳥河の邊なるべければ、飛鳥の里には、千鳥など集りて、君のみゆきなりて、やがて還御ならんことの樣に思ひしに、歸りましまさんことの何時とも知れ難ければ、里は荒れゆくまゝ、屡々諸人の待ちかねて泣くと云義を、千鳥によそへて詠める歌と聞ゆる也。表は千鳥の事にして、明日香里もる民の屡々待ちかねることを譬へたる意と見ゆる也。鳴成はなくなすとよむ義もあらんか。千鳥の鳴く如くに、諸人のしば/\待ちわびる義を詠みたる歟。然らばなくなすとは、千鳥の鳴く如くと云の意にも見るべし
 
右今案從明日香遷藤原宮之後作此歌歟
みぎいまおもふに、あすかよりふぢはらの宮にうつるのゝち、このうたをつくるか
 
此注の意尤可v然也。歌の意遷都の後詠める歌と聞えたれば、此左注の通なるべし
 
阿倍女郎屋部坂歌一首
あべのいらつめやぶさかのうた一くさ
 
阿倍女郎 傳不v知。阿部氏の女あべのいらつめとは詠める也
(227)屋部坂 地名不v知。やぶ坂と云ふか。又やべ坂と云ふか。不2分明1れども、日本紀卷第廿四皇極天皇四年、蘇我入鹿被2誅戮1時前表謠歌に、はる/”\にことぞ聞ゆるしまのやぶ原と云ふことあれば、是をより所として、大和の内にやぶ坂と云所のあらんか。又此歌の意、やぶは草木の繁茂したる處を云ふ。然るに草木不v茂、はげたる坂の體を詠める意に聞ゆる故に、やぶ坂とは詠む也。此歌の全體の意は、不毛坂の體を詠めると見えたり。名はやぶ坂と云へ共、草木不2出來1してはげたる處故、人々其體を詠めるなるべし
 
269 人不見者我袖用手將隱乎所燒乍可將有不服而來來
しのびなば、わかそでもちて、かくさんを、こがれつゝかあらん、きてきざりけり
 
人不見者 これを古點にはひとみずばと詠ませたれど、仙覺師改めてしのびなばと義訓をなせり。然れ共全體の歌の意を不v通して、只しのびなはと改點せる故、今少不2相合1訓點也。此歌の意は、やぶ坂の草木不v生體を詠みてやぶ坂と云ふ名に不v似義を戀歌の樣にとりなして、やぶ坂を人にして詠める歌と見ゆる也。やぶといふは草木はえしげれるものなるに、そのはげたるをしのぶならばといふの義にて、しのびなばとよめると見ゆる也。よりて人不見者の四字をしのびなばとは訓點する也
我袖用手 女郎の袖にて、そのはげたるを隱さんをと也
所燒乍 これを古本印本共、やかれつゝかとよめり。然れども歌の意不v通也。當流にこがれと詠む意は、はげ山なる故こがれは木枯れつゝといふの意をもて詠める義と見る也。表の意は戀の意を含みて女郎を戀ひこがれつゝかあらむとの事に詠みなして、下の意は木枯れたるかとの義也。火に燒かれたるにかあらんと直ちに見る意もあり。火にてこがれたる所には草木不2出來1故、上にしのびと詠みて火と云ふ事あれば也
不服而來來 古本印本共にきずてきにけりと詠みて色々のとり合せたる心得がたき注釋どもあり。一つも歌の意不v通也。宗師案は木不2出來1けりといふの義を詠めるものと見る也。木枯て木出來ざるか、やぶさかといへども草木の不2出來1、はげ坂なるはと云意也。又別訓點には、きもせざりけりと云義かとも見ゆる也。然れ共來來の二字を詠む事少六ケ敷けれ共、來(228)の字一字を書る本もあらんかと、疑はしき事あり。仙覺律師注釋の本文には來の字一字を記せり。然れば一本一字の本もありしと見ゆれば、別訓點の案をも注し侍る也。きもせざりけりと讀む意は、表の意は女郎のかたへ來もせざりけりといふの義にて、下の意は木枯れてか木不v爲2繁茂1けりと云の義也。草木の生ひしげる事をしきもすといふは、神代下卷の古語にも見えて、語例なきにあらざれば、木の生しげらざる事を、きもせざりけりと詠める意とも見ゆる也。尤來の字一字にても、訓の一語をとりて詠む事あまた例あれば、普通の本の來々と書けるにても、かく詠まれまじきにもあらざるべし
此歌の意は、やぶ坂といふ地名の名にも不v似、草木不v生して不毛坂なるをもて、その體をよめるなるべし。そのやぶ坂を人にして、女郎のかたへ不v來事になぞらへ詠みなして、言句の中におのづから不毛坂の理をいひ述べたる歌と見ゆる也。題に屋部坂歌とあるからは、その題の意を能々案じて歌の情をさとるべき事也。先一通の意は、やぶ坂を人にして、阿部女郎のかたへ來る事をしのぶならば、女郎の袖にしてなりとも隱すべきに、來りたきと思ひこがれてやあらん、きたりもせざりけりといひて、偖下の意はやぶ坂と云ふ名は、草木のはえ茂る處の名なるに、それに木のはえざるは、木枯れてか、草木繁茂せざるといふ義を、いひ述べたる歌と見ゆる也。また所燒は火にて燒きこがれたるにかあらん。木のもせざりけりと云意とも見ゆる也。燒きこがしたる處は草木の不v生ものなり。上にしのびなばといふて、詞に火といふ事あれば、火にてこがれつゝかと云意に見ても苦しかるまじき也。雜歌の部故、如v此色々の歌共を無2連續1擧たると見えたり
 
高市連黒人※[羈の馬が奇]旅歌八首
 
高市連黒人 前に出たり
 
270 客爲而物戀敷爾山下赤乃曾保船奧榜所見
たびにして、ものわびしきに、やまもとの、あけのそほふね、おきにこぐみゆ
 
物戀敷爾 それとさゝれず、何となく廣く何方共わびしきを、ものわびしきとはいふ也。俗に何處ともなくわびしきなどいふ意とおなじ。旅行にては何となく心細く物悲しく、わづらはしき物なり。その景色を詠める也
(229)山下乃 地名なり。近江國より東のかたの地名なるべし。所は不分明也。
赤乃曾保船 赤土にて塗りたる船をいふ也。袖中抄歌林良材等にも此説ありて、しかとも難v決けれど、そほにをもて塗りたる船の事と見ゆる也。龍頭鷁首の船といふ類の如し。朱をもて船を色どり繪書きて、海獣の難を除く爲に、丹土にて塗れる事もあるべし。又は鹽水をふせぐ便にもなるもの故歟。或説に曾は發語にて赤の帆船と云義もあり。此説も義安也。兩義不v決。好む所に從ふ也
歌の意は、旅行の折節、海邊の眺望物哀れに、心細き景色を詠める也
 
271 櫻田部鶴鳴渡年魚市方鹽干二家良之鶴鳴
さくらたへ、たづなきわたる、あゆちがた、しほひにけらし、たづなきわたる
 
櫻田部 尾州なり。紀伊國と云へる説あれど、此櫻田は尾州也。紀州にも同名の處ある歟。地名には同名如何程もある事也
鶴鳴渡 倭名鈔卷第十八、羽族名部云、鶴。四聲宇苑云、鶴、何各反、和名豆流、似v鵠長嘴高脚者也。唐韻云、※[零+鳥]、音零、楊氏抄云多豆、今案倭俗謂v鶴爲2葦鶴1是也。鶴別名也
年魚市方 方は潟也
歌の意は、たゞ當然の景色を述べたるまでにて、瀉の鹽干たる故、たづの鳴きわたるを聞て詠める歌也
 
272 四極山打越見者笠縫之島※[手偏+旁]隱棚無小舟
しはつやま、うちこえみれば、かさぬひの、しまこぎかくる、たなゝしをぶね
 
四極山 此地名豐後豐前の内と云ひ來り、八雲御抄等にも豐前と載せさせ給へり。然れども此歌の處は近江美濃の内と見えたり。地名は同名多ければ、幾處もあるべきを、此しはつ山を豐前豐後と注せるは誤りなるべし。此集古今集第廿卷には近江ぶりの次にのせて、しはつ山ぶりと入れたり。尤古今集に、此集の歌の入れたる事心得難ければ、證明には引難かるべし。なれども於2此歌1は、極めて近江美濃兩國の内の地名と見ゆる也。愚案には若し鹽津山にてはあるまじきか。はとほと同音なれ(230)ば、はつをほつとも詠ませたる歟
笠縫之島 地名前に同じ。古今集にはかさゆひと書けり。此集に縫の字を書きたれば、ぬひと詠むべき也。但し昔はぬふもゆふも同じ義に用ゐたる歟。但しゆひとは書きあやまれる歟
棚無小舟 大船には兩脇に棚有。小舟には棚なき也。依てたなゝしをぶねとは小舟の義を云也。歌の意は聞えたる通也
 
273 礒前※[手偏+旁]手回行者近江海八十之湊爾鵠佐波二鳴
いそさきを、しきたみゆけば、近江海、やそのみなとに、たづさはになく
 
礒前 地名にはあらず。湖の磯ぎはの事を云へる也
手回行者 めぐりゆけばといふの義也
八十之湊爾 此集第十三卷目の歌に、あふみの海とまり八十あり、やそしまのとよめる歌もあれば、數多湊の有る事を指して云へる義とも聞ゆる也。然れども一處にしても同じ意なれば、地名と見るべき歟。なれどもたづさはに鳴くと詠めるは、湊の數多きといふ意に、詠めるとも聞ゆれば、凡ての湊の義を詠めると見るべし
鵠 これをたづともつるとも詠まん事心得がたし。今俗には鵠つるといふ。昔はこふつると云ひしか。日本紀にてはくゞひと詠みたり。くゞひと今云こふつるとは異ならんか。此歌の鵠はもし鶴の字を誤りたるか。倭名鈔卷第十八羽族部云。野王按鵠、胡高反、漢語鈔云、古布、日本紀私記云、久久比、大鳥也云云
歌の意は聞えたる通地
 
未詳
 
後人の加筆なり。鵠の字義不v詳といふ義歟。又黒人の歌といふ事未v決との義歟。若しくは衍字歟。いづれにまれ、本集の文にはあらず後人の加筆也
 
274 吾船者牧乃湖爾榜將泊奧部莫避左夜深去來
(231)わがふねは、ひらのみなとに、こぎはてん、おきへなさけそ、さよふけにけり
 
牧乃湖 近江の地名なり。牧は枚の字の誤り也。湖の字は古訓みなとゝよめり
奧部莫避 湖水の奧へはこぎ遠ざかりそ、既に夜も更け行きし程に、比良の湊に宿らんと也。聞えたる通の歌也
 
275 何處吾將宿高島乃勝野原爾此日暮去者
いづこにか、われはやどらん、高島の、かちのゝはらに、このひくれなば
 
高島乃勝野原 近江也。倭名鈔に、有2高島郡1と載せたり。高島郡の内の郷に高島【太加之末】と載たり
暮去者 くれいなばといふ義也。かちのゝ原なれば、宿るべき家もなき處ならんから、いづこにか宿らんと詠めるなり。聞えたる歌也
 
276 妹母我母一有加母三河有二見自道別不勝鶴
いもゝわれも、ひとつなるかも、みかはなる、ふたみゝちより、わかれかねつる
 
此歌は次第して見る歌にはあるべからす。旅立つ時三河にて詠めるを、旅の歌故一處に集めたるなるべし。數の詞を手にしてよめる歌也
歌の意は、妹とわれと、一つの身なる故、二見と云ふ處より別るゝ事をしかぬると、別を惜みて詠める也。一身なる故、二身となりて別るゝ事を得たへぬと也。夫婦一處に旅行せし時の歌ならんか。一本の歌の意、共に少心得難き歌也
 
一本云
 
異本に左の歌あぐる也。古注者の文也。此一本云の文難2心得1。歌の意は贈答の歌の樣に聞ゆる也
 
水河乃二見之自道別者吾勢毛吾毛獨可毛將去
みかはの、ふたみのうちゆ、わかれなば、あがせも吾毛、ひとりかもゆかん
 
(232)吾勢毛 此詞は女の歌と見ゆる也。但しあがせと詠みて、妻の事にもなる例あらんや。此詞不審也。依りて妻の贈答の歌かと見る也。獨りかも行かんとは、獨り行くにてあらんとの意也
 
277 速來而母見手益物乎山背高槻村散去留鴨
とくきても、見てましものを、やましろの、たかつきむらの、あせにけるかも
 
高槻村 今高槻といふ處は、攝津國の内に入りたり。今の高槻といふ處とは、此歌は別處か未v考。古は山州の内なりしか。中世攝津國へ入りたる事も知れず。黒人何とぞ此高槻といふ所に由緒ありたる故、かく詠めるなるべし。尤高き槻の木ありし處故、地名ともなりたる歟。その高つきのむら立てる木のあせたるといふ義によそへて、處の荒廢したる事を悼みて詠める歌と聞ゆる也
散去 古本印本ともにちりにとよめり。高槻村のちるといふ事あるべき事にもあらず。尤槻の木の事にしても、木のちるといふ事は云はれまじ。散去の二字は、日本紀神代卷にもあらけぬとも詠ませて、あせるともあらけるとも、義訓すべきなれば地跡の荒れたる事を詠める歌なれば、あらけゝるとか、あせにけるとか可v讀也
歌の意は聞えたる通也
 
石川少郎歌一首
 
石川少郎 傳不2分明1。左注に古注者君子か別名と注したれば、先古注者に隨はん物か。然るに水郎と書ける本有。然らば少の字は、水の字を誤りたる歟。字形紛れ易ければ、古一本の方正義なるべし。左注に少郎子と書きたるは心得がたし。水郎子なれば、あまと詠む故、歌も我名によそへて詠める意と聞ゆれば、少は水の字の誤と見ゆる也。少郎なれば、わかことならでは詠まれまじ。尚異本を待つのみ
 
278 然之海人者軍布苅鹽燒無暇髪梳乃小櫛取毛不見久爾
しがのあまは、めかりしほやき、いとまなみ、くしげのをぐし、とりもみなくに
 
(233)然之海人者 しがは筑前の國の地名也
軍布苅 軍は渾の字のシを脱したる也。字書云、渾與v混通也。昆上聲云々。然れば昆布の意にて、混布と書けるを、渾の字のシを落したると見ゆる也。昆布は女といふ義訓也。
鹽燒 めをかりまた鹽を燒てと、ことわざのしげく忙はしき義をよせていへる歌也。此歌の意をもて見れは、少郎は水郎にてあまと云吾名によせて詠めると見えたり。古一本の水郎と書きたる本正義なるへし
髪梳乃 これを古本印本に、つげともかみけづりのともよめり。此二字をつげとよまん義、如何にとも心得難く、又かみけづりのとよまんもあまり俗語也。然れば仙覺抄に、大隅國風土記を引きて、久四郎と詠めるは古説尤也。其引書に云。大隅國風土記。大隅郡串卜郷、昔者造國神勤v使者遣2此村1令2消息1。使者報道有2髪梳神云1、可v謂2髪梳村1。因曰2久四郎1。【髪梳者隼人俗語久四良今改曰2串卜郷1】今も薩摩櫛とて、くしの名物とせるは、加樣の古説によりてか。此處にて作れるくし名物故、くじらの櫛とも詠める歟。義は髪をけづると云ふ事にして、此二字をくじらとよむ義理は知れ難けれども、此二字風土記にかく詠みなしたれば、古説に任かせ此二字くじらと詠むべき也
小櫛 普通の本は、少の字なれ共、一本少を小に作れるあり。爲v是也
取不見久爾 めをかりまたしほをやく故、いとまなくて、髪をけづり身を飾る事もならねば、櫛をとり見る事もなきと、身の業の暇なく忙かはしき事を詠める歌也
此歌を伊勢物語には、蘆のやのなだのしほやきいとまなみつげのをぐしもさゝず來にけりと引直して、業平の歌の樣に作れりこれによりて、新古今集には直ちに業平と作者を付けられたり。めを苅り、鹽を燒く事こそ暇のなき理りなるに、蘆のやの灘のしほやきいとまなみとよめる拙作は、いかで業平の自詠にはあるべき。全く此萬葉集の歌を、歌道雅情をも不v知好事者の惡敷直して、作りたるを新古今に業平を書たるは、在五中將の亡靈いか計りか惜かるべき事也
 
右今案石川朝臣君子號曰少郎子也
 
この左注の文、誤字ありと見えたり。號曰の二字難2心得1。古一本に水郎と有本に基きて案ずるに、曰少の二字は、泉の字を誤(234)れると見えたり。さなくては左注の文不v聞也。泉郎子なれば、君子の異名をあまともいへるなるべし。石川君子は太宰大貳にも任ぜられたる事あれば、その任の時など詠めるか。國處多にしがの海人とよみ出たる事、任國の時の歌故、その國の事を詠めると見えたり
 
高市連黒人歌二首
 
279 吾妹兒二猪名野者令見都名次山角松原何時可將示
わぎもこに、ゐなのは見せつ、なつぎやま、つのゝ松はら、いつかみせなん
 
猪名野、名次山、角松原
猶名 延喜式卷第九神名帳云。豐嶋郡、爲那都比古神社二座。倭名鈔卷第五國郡部云。攝津國河邊、雄家、乎倍、山本【也萬毛止】爲奈云云猪名野は此郷之内の野なるべし。豐嶋と河邊とはつゞきたる郡故、式と鈔と混じたる歟
名次山 延喜式卷第九神名帳上云、武庫部名次神社
將示 見せなんとよむ、示は視と通也。正字通云。師古曰漢書多以v視爲v示云云
歌の意は別義なし。たゞ黒人の妻子相伴ひて、旅行の歌と見ゆる也。猪名野は、も早過ぎて、名次山、角松原を又いつか見せんといふ迄の意也
 
280 去來兒等倭部早白管乃眞野乃榛原手折而將歸
いさこども、やまとへはやく、しらすげの、まのゝはぎはら、たをりてゆかん
 
去來 いさとは誘ふ詞也。いさなふなど云ふも同意にて、すゝめ誘ふ事をいさといふ也
兒等 とは妻子を指して云へる義也
倭部早 歌の次第を見るに、攝津國より和州へ往く時の事と見えたり。然れども白菅のまのゝ地名不2分明1。若しくは近江より和州へ行くの時か
(235)白管乃眞野 諸抄物には大和と記せり。此歌の趣にては、大和とは聞えざる也。大和攝州に白管眞野といふ處ある證明未だ所見無ければ、いづくと決し難けれど、此歌の次をもて歌の意を見れば、兎角大和にてはあるまじきと見ゆる也。近江國には眞野といふ地名滋賀郡の内にありて、倭名鈔に見えたれば、此歌若し近江より大和へ往來の時の歌か。いづれとも難v定也
榛原 萩の多くはえたる處をいへるなるべし。白菅の眞野といふ處、芽子多き處なりし故、如v此詠めると見えたり
手折而將歸 榛原を通りて大和國へ行くによりて、そのはぎを手折りて行かんと、通路の面白き體を云ひたる也。榛原をたをりてとは心得難き樣なれども、はぎ原とあるより、その處の萩を折りてといふの意也
歌の意、外に替れる歌も不v見。聞えたる通の事なるべし
 
黒人妻答歌一首
くろひとのめこたふるうたひとくさ
 
答を※[草冠+令]に作れるは誤也
 
281 白管乃眞野之榛原往左來左君社見良目眞野之榛原
しらすげの、まのゝはぎはら、ゆくさくさ、君こそみらめ、まのゝはぎはら
 
往左來左 行くにも歸へるにもといふ義也。行くさき歸るさまと云ふも同じ。いづさ、いるさと云も同じ。さは助語の樣なるもの也
君社見良目 黒人こそ、大和へ往來に見給ふらめ。いさ子どもと誘ひいざなはれても、妻はつれ難き故ありて、在處に止まり居れば、榛原をも見る事なき趣を、少し恨みたる歌の意にて、君こそと咎めたるはわれは未だ見ざるの意をこめたる樣に聞えて、妻は在處に殘り居る由に聞ゆる歌也
 
春日藏首老歌一首
かすがくらのおほとおゆのうたひとくさ
 
(236)春日 氏也。藏首は姓也。老は名也。續日本紀卷第二。大寶元年三月壬辰、令d2僧辨紀1還俗u代度一人賜2姓春日倉音名老1。授2追大壹1。同紀和銅七年正月正六位上春日椋首老云々。懷風云、從五位下常陸介春日藏老一絶年五十二
 
282 角障經石村毛不過泊瀬山何時毛將超夜者深去通都
つのさはふ、いはむらもすぎず、はつせやま、いつかもこえん、夜はふけにつゝ
 
角障經 前に注せり。石といはん爲の冠句なり
石村 いはの集りたる處を云へるか。又石村といふ地名歟。難v考
泊瀬山 大和の地名也
何時毛云々 いつかもこえん夜はふけにつゝとは、石村のさかしき路を、行きなづみたる事を詠める歌と聞ゆる也。夜の行路の時詠める歌なるべし。別に替りたる意も無き歌也
 
高市連黒人歌一首
 
283 墨吉乃得名津爾立而見渡者六兒乃泊從出流船人
すみのえの、えなつにたちて、見わたせば、むこのとまり從、出づるふなびと
 
墨吉 攝津也
得名津 同所也。然るに倭名鈔住吉郡の内に榎津以奈豆といふ地名あり。此以奈豆の以は衣の誤也。武藏の國にも同字ありそこには衣と注して書けり。榎はえのきと云字にてえのはえつと同音也。然るを以なと書けるは衣を以に誤りたる事明也。然らばこゝに詠めるえなつなるべし。郡も住吉郡なれば、此歌にもすみのえのえなつと詠める故、とかく得名津は倭名鈔に載せたる攝津と見ゆる也
見渡者 中世以來の歌の見渡と云義は、物を二つ見くらべる事を詠めり。見渡せば柳櫻を、見渡せば花も紅葉も、如v此詠み來りて、此格を守れり。上古の歌は、此格には拘らざると見えて、、此歌二所を見渡す義にはあらず。唯武庫の浦を見たる體也
(237)六兒乃 攝津國武庫也。郡の名郷名にもあり。則倭名鈔にも見えたり
泊從 古本印本等に泊をとまりと詠ませたり。古本一點にうらよりともよめり。しかれば泊は浦の字歟。言葉のつゞきもうらよりとよめるかた、穩かなればうらと讀べき也
歌の意は、何事もなき書面の通の歌也
 
春日藏首老歌一首
 
284 燒津邊吾去鹿齒駿河奈流阿倍乃市道爾相之兒等羽裳
やいつべに、われゆきしかば、するがなる、あべのいちゞに、あひしこらはも
 
燒津邊 駿河國也。日本武尊の迎火にて燒給ふ所也。日本紀〔卷第七、景行天皇二十八年の條燒津の名出づ。又〕延喜式卷第九神名帳、駿河、益頭郡、燒津神社
阿部乃市道 同國也。倭名鈔にも駿河國の郡の内に見えたり。今尚阿部河といふ大河もあり
相之兒等羽裳 右藏首老、駿河國へ往きし時、あべの市道といふ處にて、女に逢ひし事を後に思ひ出して慕ふ意也。兒等と云ふは、凡て女の通稱也。羽裳は嘆息の詞也。はやと云ふも同じ。こらはもとは、今思ひ出て悲歎し慕ふ義也
歌の意、右の通也
 
丹比眞人笠麿往紀伊國超勢能山時作歌一首
たぢひのまつとかさまろきのくにゝゆくにせのやまをこゆるとき作歌一首
 
笠麿 傳不2分明1
勢能山 第一卷に見えたり
 
285 拷領巾乃懸卷欲寸妹名乎此勢能山爾懸者奈何將有
たくひれの、かけまくほしき、いもがなを、このせのやまに、かけばいかにあらん
 
(238)一云可倍波伊香爾安良牟
一云、かへはいかにあらん
 
拷領巾乃 たくの木にて作れるひれといふ義也。たくは凡て服になるもの故たくひれとは詠めり。ひれは女の服、前にも注せり。此たくひれは、妹と云事をいはん爲の縁に詠み出て、此句に意はなき也
懸卷欲寸 妹のかける物故、そのひれをかけたく思ふといふ意にて妹を慕ふたる義也。下の句に、せの山にかけばとよめる故こゝにもかけまくとは詠み出たり
妹名乎 せの山と云に依て、いも山と云ひたらば、せの山の面白く美しき景色尚いやまして、いか樣にかあらんとの歌の意也
一言可倍波云云 懸者とあるを、一本にはかへばと有を、古注者所見故知v此注せり。意は同じ義也。懸者といふ義は、せの山と云を、いも山といはゞいかにあらんとの義と云ことわりを釋せる意に、古注者此一説をもあげたるなるべし。かへばといふにてよく聞え侍る也
歌の意聞えたる通也
 
春日藏首老|即和《スナハチコタフ》歌一首
 
286 宜奈倍吾背乃君之負來爾之此勢能山乎妹者不喚
よろしなへ、わがせのきみの、おひきにし、このせのやまを、いもとはよばじ
 
宜奈倍 此句六ケ敷詞也。語釋未v決故先づよろしといふ事と計り見おく也
吾背之君 わがとは、親みの詞、夫の事にして勢能山をさしていへる也。或抄には笠麿をさしてほめたる樣に釋せり。少いりほかなる説ならんか
負來爾之 古より勢の山とおひ來りたる名なればと云義也
妹者不喚 古より勢の山と名付け來りたる名山の名なれば、今更妹山とはよぶまじきと、せの山を稱讃したる歌也
 
(239)幸志賀時石上卿作歌一首 名闕
しがにみゆきのときいそのかみのきみつくるうたひとくさ
 
名闕 古注者の加筆也
幸2志賀1 何の時とも難v知也
石上卿 誰人とも難v考。卿と書けるは八省の卿に任ぜし人か。また三位已上を卿といへば、三位已上の人なりし故、たゞ卿と計り記せるか。但し從三位中納言兼中務卿石上朝臣乙麻呂歟。懷風等に載せたる詩人也
 
287 此間爲而家八方何處白雲乃棚引山乎超而來二家里
こゝにして、いへやもいづこ、しらくもの、たなびくやまを、こえてきにけり
 
此間爲而 志賀にて、やまとの家はいづこと知られぬといふの義也
何處白雲乃 いづこと知れぬとうけたる詞也
歌の意よく聞えたる歌也
 
穗積朝臣老歌一歌
 
穗積朝臣老 傳末考。日本紀續日本紀を可v考
 
288 吾命之眞幸有者亦毛將見志賀乃大津爾縁流白浪
わがいのちの、まさきくあらば、またもみん、しがのおほつに、よするしらなみ
 
能聞えたる歌也
 
右今案不審幸行年月
 
古注者の文也
 
(240)間人宿禰大浦初月歌二首 大浦紀氏見六帖
はしひとのすくねおほうらみかづきのうたふたくさ
 
間人 氏也
大浦 傳系不v知。古一本に浦を輔に作れる也。是正本なるべし。下の傍注は本集の輔によつて、六帖には浦の字に書けると後人加筆したるものと見えたり。うらにもあれ、すけにもあれ、傳はいづれの人とも難v知也
初月 古印本共にみかづきと點をなせり。月は三日に光をあらはさゞるものなれば、初月の二字三日月と義訓せるもことわりならんか。はつゞきと詠みても同じ意にて、三日より十日頃までの月を詠めるなるべし
大浦紀氏見六帖 これは、後人の傍注といふべし。古本に細字朱書にて傍注したるもあり。又一古本万葉には、紫墨にて浦紀六氏六帖と計り書けるもあれば、所詮後人傍注也
 
289 天原振離見者白眞弓張而懸有夜路者將吉
天のはら、ふりさけ見れば、白まゆみ、はりてかゝれる、やみぢはよけん
 
天原云々 前にも注せり。聞えたる二句也
白眞弓 三ケ月を弓にとりなしたる也。弓はり月などいふも、月の未v滿形は弓をはれるに似たる也
張而懸有 三ケ月のあらはれたる體をいひたるもの也。倭名鈔第一天部云。劉煕釋名云、弦月、月半之名也。其形一旁曲一旁直、若v張2弓弦1也。弦、和名由美波利有2上弦下弦1。これらの義によりて、初月を弓にとりなして詠める也
夜路者將吉 表の意は、三ケ月にもあれ十日頃までの月の、明らかにかゝりたる夜の道はよからんと云ふ事也。然れども古詠の格、下に意味をこめて、上の句にしらまゆみと詠めるより、下に矢といふ義をつらね、弓に矢をばかけてはりてかゝりたる矢の道は除んと云の義にいひなしたるもの也。かやうに詠みなせる處即ち歌の雅情と云ふもの也。一通の意は何の事なく、たゞ淺く輕きやみ路と云ひ出でたる處に、おのづから縁を不v離して、いひつらねたるところ、歌の格例也。能々心をつけて見るべ(241)き也
 
290 椋橋乃山乎高可 夜隱爾出來月乃光乏寸
くらはしの、やまをたかみか、よなばりに、いでくる月の、ひかりとぼしき
 
椋橋乃山乎 くらはしやま、大和也。はしだてのくらはしやまなどとも詠める地名也。一説にむらはしと云説あるは、椋の字むくとも詠む故、誤りたるなるべし
夜隱爾 古本印本共に、よごもりにと詠めり。然れども前にも注せる如く、大和の地名にて、日本紀によなばりと詠ませたれば、上にくらはしと地名を詠み出たれば、これも地名と見ゆる也。よごもり又はよぐもりと詠みては、其意解し難し。夜ぐもりは、夜の曇りたる事をいふにしても、句例語例なき故、さは解し難き也
出來月乃 此句小題に不v合、不審也。初月の出くると云事義むづか敷也。十四日迄の月は、空中に出てあかるき光なれば、その儘光りのあらはるゝ物なれば、此句の意とは少不v合也。然れども夕月ながらも、くらはしの山に、隱れてよなばりへは、光のさしくる事乏しき事ある當然を詠めるなれば、みか月の歌にはあらで、三日より十日比までの歌と見るべし。題の初月といふも三日の月にかぎりては見難き故宗師案に、はつ月の意に見る也。しかし初月の二字、三日月と詠む義訓有まじきにもあらず、兩義に見るべき也
光乏寸 うときといふ意也。くらはし山高くてそれに遮られて、よなばりにてみか月の光の疎きと也。歌の意、この釋の通なるべし。間人宿禰よなばりに居候の人なる故、かく詠める歟
 
小田事勢能山歌一首
をだのつかふ、せの山のうたひとくさ
 
小田事 傳不v知
勢能山 前に注せり。紀州也
 
(242)291 眞木葉乃之奈布勢能山之奴波受而吾超去者木葉知家武
まきのはの、しなふせのやま、しぬばずて、われこえゆくは、このはしりけん
 
眞木 一名の木にあらず。すべての木を、さして也。まは發語也
之奈布 しなへると云ふ意なり。へるの約言ふ也。まきのはを女にして詠めると見えたり
之奴波受而 不v忍しての意なるべし
木葉知家武 此句不審也。木の葉は女の事になして、こなはといふ意とも見えたり。和家武の家の字、今時の意とは不v合。昔は家武といふて、らんといふに叶ふたる歟。此義末v考。此集中の句例全篇を不v辨。追而可v考也
歌の意はまきのはを女にたとへなして、その女のしなひしなへるをしのびかねて、それになづみてせの山をこゆるを、木葉は知りてかかくしなへるならんと也。木の葉はこなはと云義にて女の事と見る也。又の意は、木の葉を女にしてしなふとは、しのぶと云義にて、女のしのぶ勢の山をわれしのばずしてこえゆかば、木の葉は兒の母は、しりけんといふ意歟。此歌見樣未v決家の字良の字の誤にてもあらんか。尚追而考案を加へん歌也
 
角麿《ツノマロ》歌四首
 
これは角兄麻呂なるべし。兄の字を脱したると見えたり。兄麻呂は續日本紀に出でたり
 
292 久方乃天之探女之石船乃泊師高津者淺爾家留香裳
ひさかたの、あまのさくめが、いはふねの、はてしたかつは、あせにけるかも
 
久方之 天とうけんための冠句、天のひらけしは、いつを初めとも知らず。久しき方なる故、天象の物につゞくるの冠句には久方とよむ也。此文字の意の義也。いろ/\の説あれども、此に掲たる文字の意正義也
天之探女 天稚彦の侍女也。神代下卷、〔時天探女【此云2阿麻能左愚謎1】見而謂2天稚彦1曰云々。〕倭名鈔卷第二鬼神部魑魅類云、日本紀私記云天探女、和名阿乃佐久女、一云安万佐久女
(243)石船乃 神代の古天探女、石船に乘りて天降れるといふ事、攝津國の風土記の古説也。其れによりて詠める歌也。仙覺師抄に第一卷の歌の處に引ける攝津國風土記に云〔難波高津ハ天稚彦天降リシ時天稚彦ニ屬キテ下レル神天探女、磐船ニ乘リテ此ニ到ル。天磐船ノ泊ル故ニ高津ト號ク云云。〕
泊師高津 播磨の地名也。高津といふ處あり。前に記せる風土記に見えたり
淺爾家留香裳 荒れにけるかなと、嘆慨を起したる意也。五文字に久かたのと詠み出たるも代々を經て年限も知られぬ程、久しく年を經しかば、石船のとまりし處もあれにけると云意也。かもは例の歎息の詞、かなと云義也
 
293 鹽干乃三津之海女乃久具都持玉藻將苅率行見
鹽ひの、みつの海女の、くゞつもち、たまもかるらん、いさゆきでみん
 
鹽干 これをしほがれのとよめる、其意得がたし。外に句例なければ信用し難き也。よりて當家の流にはしほひのとよむ也
三津之 攝津國の地名也
久具津 海藻を入る籠の類也
歌の意聞えたる歌也
 
294 風乎疾奧津白浪高有之海人釣船濱眷奴
かぜをいたみ、おきつ白なみ、高からし、あまのつり船、はまにかへりぬ
 
風乎疾 風のはげしく吹體をいふたる也
歌の意は能きこえたる歌なり。あまのつりぶねの沖へ榜き出たりしも、風いたく波高故濱邊にかへりしと也
 
295 清江乃木笶松原遠神我王之幸行處
すみのえの、きしの松原、遠神、我王の、みゆきしところ
 
(244)遠神我王之 天子を直に神と奉2尊崇1りて、とほつ神とは詠める也歌の意聞えたる通也
 
萬葉童蒙抄 卷第四終
 
(245)萬葉童蒙抄 卷第五
 
田口益人大夫任上野國司時至駿河淨見崎作歌二首
たぐちのますひとのたいふ、かうづけの國のかみによさゝるとき、するがのくにきよみのさきにいたりてつくるうたふたくさ
 
田口益人 續日本紀卷第四云。和銅元年三月從五位上田口朝臣益人爲2上野守1云々
大夫 益人正五位上なる故、五位の唐名を以て益人を賞美の意にて、大夫とは書ける也。此歌和銅元年國守になりし時の歌なるべし
 
296 廬原乃清見之埼乃見穗乃浦乃寛見乍物念毛奈信
いほはらの、きよみがさきの、みほのうらの、ゆたに見えつゝ、ものおもひもなし
 
廬原 駿河國郡の名也。倭名鈔卷第六國郡部、駿河廬原郡、西奈世奈廬原【伊保波良】今清見寺とて小さき寺あり。昔は此處に關もありし故名詠多し。今は清見寺と三穗の松原といふ處は、行程余程へだたれり
見穗乃浦 縁起式神名帳云、駿河廬原郡御穗神社
寛見乍 浦のゆとつゞきたる語ありと見えたり。何とてゆとつゞくと云義は未v考ども、語格ありと見えたり。古本印本共にゆたにと詠ませたり。是ゆたかにと云義也。たゞよひてかなたこなたと處を不v定事をも、ゆたのたゆたになど云へど、此歌の意はさいふ事とは不v聞。たゞみほの浦の渺々と廣く、方處もなき景色の面白き體と、益人の心にもさはりなくゆたかに見る意なれば、とゞこふりたゞよふ事を詠めるとは不v聞也。廣くゆたかなるといふ事を詠める也。浦のとあれば、ゆたかに見えつゝと詠まざればなり難き也。源氏物語須磨の卷などには、廣くゆたかなることを、ゆほびかにと云へり。寛の字の意也。(246)浦をとあれは、ゆたかにと直ちに詠まるれど、浦のとあれば見えつゝとならでは詠み難かるへし。然ればたかの約言たなる故ゆたかなるといふ義をゆたとは詠めるなるべし
歌の意別の義なし
 
297 晝見騰不飽田兒浦大王之命恐夜見鶴鴨
ひるみれど、あかぬたごのうら、おほきみの、みことかしこみ、よるみつるかも
 
晝見騰不飽 是は多兒の浦を通りしときは、夜の旅行なりと聞えたり。國の守にて下向すれば、君命をうけての行程故、日數の限りありて心の儘にはなり難くて、ひる見てさへあかぬ面白き景色なるに、夜行に見ればいよ/\殘り多きとの意也。詩經の祗役の詩の句に只見行不v見v春と云句の意に同じ
田兒浦 名高き駿河國の名所也
大王乃命恐 君命をうけて國の司にて下れば、みことのりの恐ろしくて、夜行なれども晝に延ばして行事もなり難き故、面白きたこの浦の景色をも夜見る事の殘り多きとの義也。鴨は例の嘆の詞かな也
 
弁基歌一首
 
弁基還俗の事は前に注せり。則左注にも古注者記せり
 
298 亦打山暮越行而廬前乃角太河原爾獨可毛將宿
まつちやま、ゆふこえゆきて、いほざきの、すみだがはらに、ひとりかもねん
 
亦打山 此歌の列をもて見れば、此一首の地名先駿河と見ゆれども、後々の諸抄物或は物がたり物等に武藏下總などありて一決し難し。八雲御抄には此三處駿河と注せさせ給へり。惣て八雲御抄の説被v爲v訛られたること多けれど、この御説は此集の次第をもて注せられたる歟。しかるべき御説也。今武州江戸の内に角田川亦打山といふ處をこしらへたるは甚難2信用1處也。尚證明の所見を待て可v決也。先駿河と見ること歌の次第を證として難あるまじき歟
(247)暮越行而 此句はつまりたる句なれば、何とぞ暮越二字義訓もあるべき事なれど、古く詠み來りて衆人の耳に觸れたれば、先古點にしたがふ也
廬前 前の廬原と同處にて海によりたる處か。仙覺抄には廬前、角田川、紀州と注せり。証明なければいづれの國とも難v決也
角太河原爾 前に注せる通り何國とも難v定。東鏡に隅田川と出たり。何國とも不2分明1。追而可v考也
獨可毛將宿 弁基と標題したれば、法師にて諸國流行の時、此歌を詠めるなるべし。沙門の身なれば獨かもねんとは記也。ひとりねんとの意也。かもといへるは嘆慨の詞也
歌の意、旅行のものうき事をよめる迄の意也
 
或本云弁基者春日藏首老之法師名也
 
此古注者の文は弁基と計ありて、いづれの人とも難v知、殊に續日本紀には弁基と書ける故、旁々如v此或説を注せしと見えたり。弁基還俗の事は前にも注せる通、續日本紀に詳なれば、知れたる事也
 
大納言大伴卿歌一首
おほいもの申つかさおほとものきみのうたひとくさ
 
大納言職員令に出。又倭名鈔卷五職官部云、大納言【於保伊文乃萬宇須豆加佐】
大伴卿 大伴旅人の事也。如v此書れたるは尊稱の意也。續日本紀卷〔廿二天平三年秋七月辛未大納言從二位大伴宿禰旅人薨難波朝右大臣大紫長徳之孫大納言從三位安麻呂之第一子也。〕懷風藻云、從二位大納言大伴宿禰旅人一首【年六十六】
 
未詳
 
此注難2心得1也。一向はるか後の人の加筆なるべし
 
299 奧山之菅葉凌零雪乃消者將惜雨莫零行年
(248)おく山の、すがのはしのぎ、ふるゆきの、けなばをしけん、あめなふりこそ
 
奧山之 此奧山と云事、此集中に數多也。然るに菅はおく山ならではなきといふものならば、かく詠み出たるも理なれど、奧山に限るものならねば心得かたし。とかく大和の内にある山の地名と見えたり。さなくては奧山とよみ出たる意不v濟也
菅葉 倭名鈔卷第廿草部云、唐韻云、菅【音※[(女/女)+干]、字亦作v※[草冠/間]和名須計】草名也。奧山のすがのはと詠みたれば、山すげの樣に聞ゆる也。山すげは同鈔に麥門冬を和名、夜末須介と注せり。菅の宇とは異也。此集中山すげとまがふ歌多也。尤菅は山中滋潤の處にも多く生る草にて葉茅に似たるもの也。古今集の歌に、すがのねしのぎと書けるは誤字也。葉を根と書きあやまれる也
凌 此しのぎといふこと古人も不v通事にて、侵といふ意也といへる説もあれど、歌の意不v通也。しのぎはしのにと云義也。しのには前にも注せる如く、しどろといふ義也。雪ふれば菅の棄しどろにみだるゝをしのぎとは詠める也。菅のはもみだれてふりつもれる雪の、おもしろき景色なるを惜みて、雨のふることなかれとよめる也
雨莫零行年 雨ふるなといふ義也。なふりそといふ義を、雨なふりこそとは詠めり。去年のことを行年と書て、こぞとよむ義訓也。此集には清濁を不v構に用ゐたること數多也。なふりそといふ義にて、こは發語と見る也。或抄にこそといふは、乞の字の意にて願ふ事也と注せり。社の字をこそと訓ずるも、社には諸人の物を祈り願ふ故、其處をさしてこそと訓ずるとの説あり。意はいひまはせば同じきやうなれど六ケ敷説也。たゞ發語と見れば安也。また社の字をこそと訓ずる事は、當家の流に秘傳あること也。木石といふ事也。古今此訓義を知人なかりし也。願ふ處などといへる迂衍の説也。此集中に乞願ふことをよみて、社の字を書きてこそと訓じ用ゐたるところ多き故、それより思ひよれる釋ならんか
右歌の意は、きこえたる通也
 
長屋王駐馬寧樂山作歌二首
ながやのおほきみ、うまをならやまにとゞめてつくるうた
 
長屋王 傳前に注せり
(249)寧樂山 大和の地名、音借訓に書きたるもの也。ねいの音はな也。らくの一音をとりてらと用ゐたる也。なら山の事は神武紀に官軍の蹈みならせしより名付けられたる處也。馬をとゞめてとあるは、長屋王いづこへぞ旅行し給ふ時の事なるべし
 
300 佐保過而寧樂乃手祭爾置幣者妹乎目不離相見染跡衣
さほすぎて、ならのたむけに、おくぬさは、いもをめかれず、あひみしめとぞ
 
佐保 大和の地名也。佐保大納言といふも此處の名をとりて稱號とせるなるべし
手祭 手向山をさしていへる也。旅立のとき祭る神のます所也。物を神にさゝげ供するを手向といふ。神をあがめまつるの意を以て義訓に詠ませたり。たむけといふは、たは發語にてむけはむかへるの意也。神を天降しむかへたてまつるの意也。此手祭は手向山にと云義也。古今集に菅家素性等の詠める所も此手向山也
置幣者 ぬさとはきぬあさといふ訓にて、神への奉り物を云義也。奉りものにきぬあさを用ゐるは、畢竟御衣の爲に奉る也。今幣を奉るといふも、きぬあさをかたどりて奉れる也。官幣といふものは、皆絹布織物の類を卷物にして奉らるゝ也。幣は字書にも幣帛とつゞき、又帛也といふ注もありて、絹布の事をさしていふたる義也。神社に幣を安置して神體とあがめ奉るは畧式の事ながら、人のかたちに神明の御かたちをもなぞらへて、衣服になる物を以てしるしとはする也。神明を天降しまつる本式は深き傳ある事也
目不離 めかれずは、めもはなたず付そひて見せしめよとの義也
見染 みしめは見せしめよと願ひたる義也。見せのせを畧していへる詞也
此歌は旅行にての戀の歌と見ゆる也
 
301 盤金之凝敷山乎超不勝而哭者泣友色爾將出八方
いはがねの、こゞしきやまを、こえかねて、ねにはなくとも、いろにいでんやも
 
盤金之凝敷 岩ねのこりあつまりたる山といふ義也。こゞしきといふ詞は此集中あまた有。古點はこりしくと文字の通によ(250)ませたれど、かな書にいくらもこゞしきとよめる古語あれば、仙覺抄にもこゞしきと改めたるは尤可也。こゞしきとは、岩根のしるくこりかたまれるをいへる古語なり
歌の意は岩根のこりかたまり甚だけはしき山路を越ゆるごとく、苦み切なりとも、戀にまよふ景色をあらはさじと也。此歌も戀歌と見るべきか。また妻子にわかれて、他國に行き給ふに、さがしき山を越えかねて、心中には泣き給ふとも、名殘を慕ふ景色は、色に出まじきとの意ならんか。兩義と見ゆる也
 
中納言安倍廣庭卿歌一首
なかのものまうすつかさあべのひろにはのきみの歌ひとくさ
 
中納言 倭名鈔卷第五職官部云、二方品員云、令外置2中納言1。【奈加乃毛乃萬宇須豆加佐】
安倍廣庭 續日本紀に出たり。懷風藻云、從三位中納言兼催造宮長官安倍朝臣廣庭二首年七十四
 
302 兒等之家道差間遠烏野干玉乃夜渡月爾競敢六鴨
こらが家、ほどへだたるを、ぬばたまの、よわたる月に、きほひあへんかも又こらがいへぢほどへだたるを歟
 
兒等之家 こらとは妻女の義といへり。古本印本に家道と一句につゞけたれど、下のやゝま遠きと云句全體の意難v通故、當流にはこらが家と一句によみきる也。尤下にきほひあへんといふて、みちを行ことによみたれば、上にみちの事なくてはいかゞともおぼゆれば兩義によむ也
道差間遠烏 此五文字やゝまどほきとよみたれど、家ぢやゝま遠きといふ句難2心得1故、五字は義訓にかける字と見えたればほどへだゝるをとよむ也。然れども下にきほひあへむとあれば、こらが家にゆくことを競ふの義なれば、上にみちといふ事なくてもいかゞとおぼゆ。又道の字を上につけて、差間遠烏四字を、程へだゝるをと義訓すべき歟。いづれにまれ、やゝま遠きとはよみ難かるへし
(251)野干玉 是をぬば玉とよむ事は義訓也。野干は今からすあふぎと云草也。射と野と音通故、射干ともかく也。そのからす扇の玉至つて黒きもの也。その玉をぬば玉とは云也。倭名鈔卷第二十草部云、本草云、射干、一名烏扇【射音夜】和名加良須安布木。ぬば玉といふ事、いろ/\の説ありて難2信用1説多也。正義はいぬまたまといふ義也。明白の眞珠にあらぬと云義にて黒きといはん爲の冠句也。よるやみなどと詠めるも、皆黒きと云意よりつゞくる詞也。此も下の夜わたるとつゞけん爲の序也
競 あらそふにて、きほふともきそふとも詠み、月の空をわたり給ふにつれだちて、月におくれず兒等が方へいたりはせんかもと云也。くらべるともよみて、行程を月の光の内に月と共に到らんかと也
敢六鴨 月につれだちて行はてんか。程へだたれば月の光のうちには得いたるまじきかとの意、又かなの意をも兼ねたる鴨也
歌の意は、妻女または相慕ふ女にまれ、住家の程へだゝりたるを、よわたる月の光にいざなはれ、月と共にきほひ出て至りあへなんと也。月の光の内にかの家に至り著かんや、得いたるまじきかとの意を兼ねて詠めると見えたり。先は月にきほひては、月と共に急ぎて至らんかなといふ意と見ゆる也。得いたるまじきと云意は、少あはぬ意也。上をへだゝるをと詠みたれば、遠けれども月にきほひて行果てんと云意に聞ゆる也
 
柿本朝臣人麿下筑紫國時海路作歌二首
かきのもとのあそんひとまろ、つくしの國にくだるときうみぢにてつくろうたふたくさ
 
303 名細寸稻見乃海之奧津浪千重爾隱奴山跡島根者
なぐわしき、いなみのうみの、おきつなみ、ちへにかくれぬ、やまとしまねは
 
名細寸 此五文字は此集中にも多く、又古詠にあまたありて、はなぐわしなどともよめり。これはものをほめたる詞也。然れば稻見海をほめたる詞と見るべし。然るに何故稻見之海名細寸とほめたるといふ義、古今考辨する人なし。宗師一人の發明(252)此等の義當流の秘傳とする義也。千載の後迄も古今に獨歩せる人丸の詠、無益の五文字は詠み給ふまじきを、千載已來誰れもそれを甘心する人もなき事は歎ケ敷事ならざらんか。これはなみの海といふ意にて、名ぐわしきとは詠める歌也。いなみのいは發語にて、波の海故おきつ波にて千重にやまと嶋根をかくせれども、名にかなひたる波の海かなといふ意をもて、名のくわしきと詠み出たる也。さなくては、名ぐわしきとよみ出たる詮は、いづれか何にてあらんや知りがたし。この意を古今見辨へる人無かりし故、諸抄物等にもかつて注釋せざりし也
稻見乃海 播磨也。前に注せる稻日印南同處也。いなみと地名を詠み入れし也。いは發語にてなみのうみと云意也。古人の詠作には、かくの如く僅なる處に、言外の意をこめたる處あり。能々あまなふべき事也
千重爾隱奴 おきつなみにて、千へにやまとの方をも立へだてかくせると也。此歌はおきつなみを千重に隱れぬと云て、波のことをもつぱらと詠める故、名細寸とはよめる也。やまと島根はと詠みてしたひおもふ嶋根なれども、沖つ波にて千重にかくせしと、大和の方を慕ひたる意をこめたる也
 
304 大王之遠乃朝庭跡蟻通島門乎見者神代之所念
おほきみの、とほのみかどと、ありかよふ、しまとをみれば、かみよしゝのばる。又神代しおもはるともよむべし
 
大王之遠乃朝庭 大王はすめらぎみをさしていへる義、とほのみかどは、筑紫の都のとき、神武天皇已前のとき、神代の時分の事なれば、遠きみかどと也。とほと云義つまりて語例もすくなけれど、假名書きにも此集中にあまた書きたれば、古語の例ありと見えたり。筑紫の事をいひたる義也
蟻通 在通の意也。昔より今に存在してあるつくし故、あり通ふと也
島門 廣くさして昔よりあり來り通ふ、海路の嶋々、水門のことをいへる義也
神代之 神よしのしは助語にて、神武天皇の東征なされし已前のみかどは、つくしの日向なれば、その昔より今にあり來れる海路の嶋々水門を見れば、その昔の神代の事をおもふとの義也。神代しゝのばるとも、おもはるともよみて、意はいづれも同(253)じ義、むかしをしたふの意也
 
高市連黒人近江舊都歌一首
たけちのむらじくろ人、あふみのふるきみやこの歌一くさ
 
舊都歌 ふるきみやこの事をおもひ出て詠める歌といふ義なるべし。若し見2近江舊都1歌とありしを見の字を脱せる歟
 
305 如是故爾不見跡云物乎樂浪乃舊都乎令見乍本名
かくゆゑに、見じといふ物を、さゞなみの、ふるきみやこを、見せつゝもとな
 
此歌は黒人誰人かにいざなはれて、舊都を見し時の歌と聞えたり。あれはてし昔のあとを見ては、感慨の發せんことをおもひて辭退したりしを、とかくにいざなはれて見せられたる故、よしなくも見つるとの歌也
令見乍 とあるは、いざなはれし人にあたりたる詞也
本名 は前に注せるごとく、よしなきと云義也
歌の意みまじきといひしものを見せしめられて、よしなくも昔のことをおもひ出で、心を悼ましめ歎慨をなすとの義也
 
右謌或本曰小弁作也未審此小弁者也
 
古注者の文也。一本には黒人の作にあらず。作者小弁とありしが、此小べん誰人の事ともつまびらかならざる也
 
幸伊勢國之時安貴王作歌一首
いせのくにゝみゆきのとき、あきのおほきみつくるうたひとくさ
 
幸2伊勢國1之時 このみゆきは聖武天皇のとき也
安貴王 續日本紀天平元年三月无位阿紀王、授2從五位下1
 
306 伊勢海之奧津白浪花爾欲得※[果/衣]而妹之家※[果/衣]爲
(254)いせのうみの、おきつしらなみ、はなにがな、つゝみていもが、いへづとにせん
 
花爾欲得 花にてあれかしと願ふたる義也。かなとはねがふことを云。よりて欲得と云字を義訓せり。えまほしきは願ふ意なれば、かなと願ふ訓には用ゆる也
家※[果/衣の一画目なし]爲 今俗間に、外に出て歸るとき何にてもとりきて、家人に與ふをみやげといふ、その義也
 
博通法師往紀伊國見三穗石室作歌三首
はくつほうし、きのくにゝゆきてみほのいはやを見てつくるうたみくさ
 
博通法師 傳不v知
三穗石室 紀州の内三穗といふ處にあるいはや也。むかし仙人の往みし處といふ説もあり。然れども顯宗仁賢のかくれましませし處なるべし。そのむかしを慕ひて詠める歌ならん
 
307 皮爲酢寸久米能若子我伊座家留【一云家年】三穗石室者雖見不飽鴨 一云安禮爾家留可毛
はたすゝき、くめのわかこが、いましける、あるにいはくけんみほのいはやは、みれどあかぬかもあるにいはくあれにけるかも
 
皮爲酢寸 印本等諸抄物にもしのすゝきと詠めり。皮の字をしのとよむ事義むづかし。しのすゝきは穗の出でぬさきのかはをかうぶれる薄をいふとの義なれども、皮ははだとよめばはたすゝきなるべし。いづれも未だ穗に出でぬを云へる義也。檜皮とかきてひはだとよむ也。これらの類にて皮ははだとよむべき也
久米能 はたすゝきは未だ穗に出でぬをいふて、こめたると云意にて久米とはうけたる也。しのはしのぶの義にて、くめはこめるといふ意、しのびたる意との釋とあり。いづれか是ならん。難v決也。しかれども皮の字をしのと詠まん事義不v通也。此久米の若子と云は、久米の仙人の事をいふ説もあれど、日本紀卷第十五云、弘計天皇更名來目稚子云云如v此あれは、顯宗天皇の御事と見えたり。はりまみやけに出給ふまで先この處にかくれまし/\ける所故、後世迄も云傳へて、博通か時分迄はよく(255)しれたる事故、如v此詠めるなるべし
不飽鴨 三穗岩や、古代の舊跡故、物ふりたる處にて、殊に古事ある處なれば見ても/\あかぬと、石室を稱美したる歌也
 
308 常盤成石室者今毛安里家禮騰住家留人曾常無里家留
ときはなる、いはやはいまも、ありけれど、すみける人ぞ、つねなかりける
 
309 石室戸爾立在松樹汝乎見者人乎相見如之
いはやどに、たてるまつのき、なをみれば、むかしの人を、相見るごとし
 
右二首の歌不v及2注釋1。能聞えたる歌也
 
門部王詠東市之樹作歌一首
かどべのおほきみ、ひがしのいちのうゑきを詠めてつくるうたひとくさ
 
門部王 續日本紀卷第六云、〔元明紀云。和銅三年春正月王子朔戊午、授2無位門部王從五位下1。聖武紀云。天平十七年四月戊子朔庚戌、大藏卿從四位上大原眞人門部王卒〕
東市之樹 京城の東西にある處の市也。樹はその處に何の木にもあれ、樹木のありしを眺めて詠めるなるべし。人に久しくあはぬ事をよそへて詠める歌と聞ゆる也
 
310 東市之殖木乃木足左右不相久美宇倍吾戀爾家利
ひがしの、いちのうゑきの、こたるまで、あはでひさしみ、うべわびにけり
 
東市之殖木 通例皆、ひんがしとよめり。尤もよみくせにてひんとはぬる事もあるべけれど、語釋の傳にはひんとはぬる事なりがたし。よりて四言の句によむ也。うゑきはその市にある何の木にもあれ、生立る木のありしを見ての歌なり
木足左右 この發語の詞、木の年を經、枝葉も茂りて葉垂るゝをいへる也。小の木の大木となりて枝などの垂れさかれる迄、(256)不v相人をわれひとり慕ひわぶると也。人に不v逢事の年月を經しを、木の年經て枝葉垂るゝによそへていへる歌也
宇倍は 尤といふ義也。諾の字をうべと訓する、其意也
吾戀爾 われこひにけりともよむべけれど、うべわびにけりと詠む方聞きよければ、われわびと云を、れとわとを畧して二字にてわびとよむ也
此歌の意は、誰とは知らねど人に久しく逢ぬ事を、木の年を經て、枝などの垂れたるを見て、其當然におもひをのべよそへて詠める也。人に久しく逢はぬ事を歎じて詠める歌也
 
按作村主益人從豐前國上京時作歌一首
くらつくりのすくりますひと、とよくにのみちのくによりみやこにのぼるときつくれるうたひとくさ
 
按作村主益人 傳難v孝。くらつくりは氏、すくりは姓也
從豐前國 和名鈔卷第五國郡部云、西海國、豐前、止與久邇乃美知乃久知
 
311 梓弓引豐國之鏡山不見久有者戀敷牟鴨
あづさゆみ、いむとよくにの、かゞみやま、みずひさならば、こひしけんかも
 
梓弓引 此句とよとつゞく事いろ/\の説あれども、皆あたらざる説也。古本印本等にはひくとよくにとよませたり。ひくとよとつゞく詞の義不v濟也。これは豐國の鏡山には、神功皇后の御時、鏡をいはひおさめられたると云古事あり。それよりいむいはひといふ義にぞ、鏡山といはんための冠句に、梓弓いるとつゞく詞の縁にて、引の字の音を訓に借りて、いむとはよめる義也。たちつてとは通音にて、ともても同音故、引てとうけたるといふ説もあれど、鏡山の古事ある事なれば、齋の字の意にて、弓、いとうけたる義也
鏡山 仙覺律師抄に云、鏡山と云は豐前國風土記云、田河郡鏡山、【在郡東、】昔者氣長足姫尊在2此山1遙覽2國形1、勅祈云。天神地祇(257)爲v我助v福。便用2御鏡1安2置此處1。其鏡即化爲v石。見在2山中1。因名曰2鏡山1。已上。此古事あるによりて、いむとよくにの鏡山とは詠める也。鏡山とよみ出たるは、下の不v見といはん爲の序也。豐前の國よりのぼるときの歌には、尤かなひたる趣向也
久有者 ひさしくあらばといふを、約言してひさならばと詠めり
戀敷牟鴨 戀しからんかも也。けんかもとよみても同じ意也。古本印本等にも戀しけんかもと詠みたればそれに從ふ也。かもは例の歎息のかなの意を兼ねたる義也
歌の意は聞えたる通、鏡山を久しく見ずば戀しからんとの意也
 
式部卿藤原宇合卿被使改造難波堵之時作歌一首
しきぶきやうふぢはらのうがふきやう、なにはのかきをあらためつくらしめらるゝときつくる歌一首
 
式部卿 職員令に出づ
藤原宇合卿 續日本紀卷第十二、天平九年八月、參議式部卿兼太宰帥正三位藤原朝臣宇合薨云々。懷風云、正三位式部卿藤原朝臣宇合六首
被使改造難波堵 續日本紀卷第九、聖武天皇神龜三年冬十月辛酉行幸中略。癸亥行還至2難波宮1。庚午以2式部卿從三位藤原宇合1、爲v知2造難波宮事1。陪從無位諸王六位已上才藝長上并雜色人難波宮官人郡司已上賜v禄各有v差云々
堵 難波宮のめぐりの垣を、改めつくらるゝ也。堵は説文に垣也と注せり。或抄に都の字と通ずるかとあれど難2心得1也。
右の改めつくらるゝの年月未だ不v考
 
312 昔者社難波居中跡所言奚米今者京引都備仁鷄里
むかしこそ、なにはゐなかと、いはれけめ、いまは〔以下記入ナシ〕
 
(258)此歌下の一句半いかにも詠みとき難し。よりて後案を待つ。歌の全體は、昔は難波も都にてありしかど、年久しく帝都を移されたれば田舍となりしが宇合卿知2造難波宮事1となり、其外官人も被v補て、難波の宮のみかきなどつくり改められたるによりて、みやこぶりてひなの樣にあらぬと云の意と聞えたり。然れども京引の二字いかにともよみときがたし。古本印本などにはみやびとそなはりにけりとよませたり。或抄には、みやひきといふをよみあらためて、みやこひきみやこひにけりとよめり。此義叶ひたる樣なれど、みやこひきとよめること心得難し。聖武の御時難波へみやこをひかれたる事なければ、みやこひきとはいはれまじ。もし此卿難波の知造宮事になりて、破壞の處々をも造修せられし故、今まではゐなかなれども、今は京の樣になりたれば、みやこをも此處にひけかしといふ意にて、みやひけみやこひにけりとよむべからんか。古點にみやびとゝよみたれども、都の字を、とゝよめる例、此集中且此集時代の書に例なし。つとならでは不v讀なれば、みやびとゝはよみ難し。終の句は兎角みやこひにけりとよむ一句なるべし。所詮後考を待つのみ
 
土理宣令歌一首
 
土理は氏也。續日本紀懷風には刀利と記せり。此氏同氏なるべし
宣令 傳不v知。此よみいまだ決せず。せれとよまるれ共せれと云名、昔此時代の人の名は,前にも注せる如く、何にても體ある物をもて、名によびたれば、せりなれば芹といふ草の名によりて、付けたるとも見ゆれど、せれといふ事はより處無し。又何のりとぞ讀むべきや。令の字は法令とつゞきて用ふれば、のりとは讀まるれど、宣の字訓いかによむべきかも未v決なり。續日本卷第八、養老五年春正月、戊申朔庚午、詔2從五位上佐爲王中畧刀利宣令等1退v朝之後令v侍2東宮1焉。懷風云、正六位上刀利宣令二首【五十九】續日本紀卷第五、和銅三年正月壬子朔甲子、正六位上刀利康嗣、授2從五位下1。懷風云、大學博士刀利康藤一首【年八十一】上野刀利同氏を此集には如v此書きたる歟
 
313 見吉野之瀧乃白波雖不知語之告者古所念
みよしのゝの、たきのしらなみ、しらねども、かたりしつけば、むかししのばる
 
(259)歌の意は、吉野の瀧は名瀧にて名高き處なるが、もはや瀧つの浪の流れもなくなりて、昔のあり樣は知らねども、いひ傳へ語り繼ぎたれば、昔いかやうにありけんと、慕ふ意をのべたる歌也。告者と書きたれども、つゞくの意を兼ねてよめる也
 
波多朝臣少足歌一首
はたのあそむすくなたるのうたひとくさ
 
波多は畠の字の意か。秦の字の意にはあらず。よりてたの字は清音に讀むべき也
少足 すくなたるか、わかたるか不v決也。傳不v知。續日本紀〔文武紀云〕波多朝臣牟後閉〔孝謙紀云〕波多朝臣足人と有。これらの類族父子兄弟にやあらん
 
314 小浪礒越道有能登湍河音之清左多藝通瀬毎爾
さゞれなみ、いそこせぢなる、のとせがは、おとのさやけき、たきつせごとに
 
小浪 さゞなみとよめる點もあれど、それにては地名になれば、さゞれなみとよむべき也。石をこす少しの浪をいふ義にて、いそこせぢといはん爲の序也。石のあるめぐりは、小さきなみのたつもの故、さゞれなみいそとはよめたる也
礒越道 これは大和と紀州の間の地名と見えたり。こせやまといふ處もあれば、其邊の地名と見えたり
能登湍河 能登の地名といふ説あれど心得がたし。大和紀州の間巨勢といふ處のわたりなる河なるべし。地跡分明に不v爲2所見1故注記未v引也。能登の國の地名、此處に入るべきにあらず。皆大和の歌の並也
多藝通 河のたきにながるゝ瀬ごとゝいふ事也
歌の意きこえ侍る通也
 
暮春之月幸吉野離宮時中納言大伴卿奉勅作歌一首并短歌 未逕奏上歌
やよひよしのゝかりみやにみゆきのとき中畧いまだまふしあげたてまつるにおよばざるうた
 
(260)暮春 義訓にやよひとよむ也
幸吉野離宮時 續日本紀卷第八、元正天皇養老二年三月〔戊戌、車駕自2美濃1至。〕此時のみゆきなるべし
中納言大伴卿 同紀云、大伴宿禰旅人爲2中納言1凡て此集中の官位を記せること後より記せるものなれば、非2其官位1ときの歌にも、後に任ぜる官位を記せると心得て見るべし。さなくては不v合事まゝある也
未v逕2奏上1歌 是れ古注者考ふる所ありて如v此注せるなるべし
 
315 見吉野之芳野乃宮者山可良志貴有師水可良思清有師天地與長久萬代爾不改將有行幸之宮
見よしのゝ、よしのゝみやは、やまからし、たふとかるらし、かはからし、いさぎよからし、天つちと、ながくひさしく、よろづ代に、かはらずあらん、みゆきせしみや
 
見吉野之芳野乃宮 前にも毎度注せるごとく、よしのゝ離宮をよめる也
山可良志 やまなるからといふ義にて、しは助語也。今處がらなどいふと同じ意也。やまなるからと云義也
貴有師 末の代までも如v今尊くあらんと也。名山なるから、いつまでもかくの如く尊く、よき處ならんとほめたる也
水可良思 此水の字、普通の本は古本印本點本ともに永の字に作れり。然るを南都春日若宮神主千鳥家に所持の古葉略葉集に水の字を記せり。よりて數本の訛を畧葉の一本にてあきらめ侍る也。水の字正義にて、此集中水の字を川と通じて書たる處數多也。日本紀にてもかはとよませたれば、古例疑ひ無く、此歌も川からしとならでは、下の句の清かるらしの句不v濟。又反歌のきさの小河とよめるも長歌に縁有ることを知るべし。古來より此一字にも誰不審をなす人なかりき。宗師獨歩の發明等是等のこと也。永の字にては不v濟と心をつけしより、數本をも遍覽し、已に略葉の正本を見あらはしたれば、數百歳の發起なるべし。かはからしは、山からしの義に同じ也
 いさぎよからし、いさぎよくあるらしと也。上の意と同じく、清くいさぎよき川なるとほめたる也
天地與長久萬代爾云々
(261)これ奉勅て詠奏の歌なれば、よし野のみやを祝讃してよめる意と見ゆる也。尚いつまでも不2相變1歳久々とみゆきもましまさんとの意をこめたる也
 
反歌
 
316 昔見之象乃小河乎今見者彌清成爾來鴨
むかしみし、きさのをがはを、いま見れば、いやいさぎよく、なりにけるかも
 
昔見之 そのかみ大伴卿、此離宮に詣りて見給ひしことありしと見えたり。いつにもあれ已前に見しと也
象乃小川 大和國吉野の内にある山川也。きさ山きさ川といへり。何とてきさ山きさ川といへるか。此由來の事未v及2所見1也。さだめて因縁あるべし。若しくは山川の體形、獣の象に似たる地勢なるをもて名付けたる歟。上古象など渡り來り、此所にて被v放しより名付けたる歟。傳記所見なければ注し難き也。此反歌をもて見れば、長歌の永の字不審也。尤長歌の内にて永からしとよみて、いさぎよからしとよめる意、又長久万代と下によめることも、いかにとも聞えがたし。其上此反歌にきさの小河とよみ出でたること長歌に縁なき小河也。永は水の字にてかはと讀までは不v濟理を、此反歌を見ても知るべきこと也
今見者彌清云々 今度のみゆきに見れば、昔見しよりもいやましに、いさぎよくすみわたれる名川と賞讃して、その時の當然をも奉2賞美1れる挨拶の意をこめたる歌也
 
山部宿禰赤人望不盡山歌一首并短歌
やまべのすくねあかひと、ふじのやまをのぞめるうたひとくさならびにみじかうた
 
山部宿禰赤人 傳不v知。古今集假名序眞名序共に柿本人丸と無2勝劣1歌人と論ぜり。古往今來に名高き歌人也。しかれども傳記等國史にも不v載事遺念の至也。尤朝勤の人と見えて、此集第六卷目に載せられたる歌の端作にも、幸2于芳野離宮1之(262)時山部赤人應v詔作歌あり。後世百人一首といふ僞作の書に、此不盡山の歌の反歌をのせ、山邊赤人と書ける山邊の文字心得がたし。邊と部と音同じきと云へども、氏のときは姓異也。山邊氏のかばねは公也。山部氏は則此集こゝにも記せる如く宿禰也。後々の書に山邊赤人と書ける事は不v考のいたすところならんかし
望不盡山 倭名鈔卷第五國郡部云、駿河國富士【浮士】則富士郡に有。唐土天竺、我朝三國の大仙山名也。詩歌記文擧而不v可v數就中都良香富士山の記文本朝文粹にも載せたり。この望とあるは、高山大仙なれば、尤仰見るの意、かつ眺望の義をもかねての標題也
 
317 天地之分時從神左備手高貴寸駿河有布士能高嶺乎天原振放見者度日之陰毛隱比照月乃光毛不見白雲母伊去波伐加利時自久曾雪者落家留語告言繼將往不盡能高嶺者
あめつちの、わかれしときゆ、かんさびて、たかくたふとき、するがなる、ふじのたかねを、あまのはら、ふりさけみれば、わたるひの、かげもかくろひ、てるつきの、ひかりもみえず、しらくもゝ、いゆきはゞかり、ときじくぞ、ゆきはふりける、かたりつぎ、いひつぎゆかむ、ふじのたかねは
 
天地之分時從 あめつちわかれはじまれる時より、依然と高くあやしくあり來ると也
神左痛手 我神國山川萬物の精靈、いづれか神靈ならずといふ事無ければ、直に此名山も神として仰ぎ見るの意に神ふりてと也
駿河有 するがの國と名付くる由來を未だ所見せず。或説にいたりて早く鋭き河あるより、かく名付けたるとの事也。風土記等不2所見1故不2分明1也。駿河にある富士と云義也
天原振放見者 第二卷にも注せる如く、あまの原を仰き見ればといふ義也。ふじの山の空中に聳えたるを見ればと也。至りて高き事を言はんとて、高ねを天原ふりさけとはよめる也。ふりは詞の序也。さけは遠くへだゝりたると云義なり
陰毛隱比 ふじの山の高ければ、日の光をも覆ひて、その邊は陰となりて、日のめにあたらざると也。下の月の光も不v見と(263)いふも同じ意なり
伊去波伐加利 憚行事の意也。伊は發語の詞、あまりに山高くて、白雲ものぼりかねるとの義也。はゞかりは得行かぬとの義也。はびこる方にはあらず
時自久曾 日本紀には非時と書て、ときじくと讀めり。常住不變の事也。いつとても不v絶雪のふれること也
語告言繼將徃 萬國萬世までも言つぎ語り傳へん、此ふじの名山高嶺はと、至てほめたる歌也
歌の意別に釋するにも不v及。能く聞たる名歌也
 
反歌
 
318 田兒之浦從打出而見者眞白衣不盡能高嶺爾雪波零家留
たごのうらゆ、打出で見れば、ましろにぞ、ふじのたかねに、ゆきはふりける
 
田兒之浦 駿河國の名所也
打出而 うちはことばの序也。發語といはんが如し。たゞ出てふじの高ねを眺望したる義也。打あふぎうち眺めなど云ふも同じ詞の序也
雪波零家留 長歌ときじくぞ雪はふりけるとあるを以て、反歌にかくよめり
歌の意はかくれたる處も無く、ふじの高根に明白清々と空中に雪をあつめたる如くに、雪の降りたる高山の景色、えもいひがたき山の姿を、感嘆してよめる也。扨此歌を新古今集に、下の句を白妙のふじの高根に雪はふりつゝと引直して被v入、且世にもてはやす百人一首といふ僞作の書にものせて、心得難き引直しの句を、赤人の歌ともてはやさるゝ事、數百歳の僻説、今尚歎ずるにも餘りあり。先代の歴々も此集を悉くは見ざりけるにや。心得がたき事ども也
 
詠不盡山歌一首并短歌
ふじのやまをよめるうたひとくさならびにみじかうた
 
(264)此歌の作者は誰とも知れ難し。赤人の歌なれば、前の標題に可v被v載に、如v此別目に擧げたるは、作者不v知と見えたり。但前の歌は望2不盡山1とあり。此歌はたゞふじ山の事をよめる歌故、同人の歌ながら標題を別に擧げたる歟。いづれにもあれ、作者の無きは、此集篇撰の時名を脱したる歟
 
319 奈麻余美乃甲斐乃國打縁流駿河能國與己智其智乃國之三中從出之有不盡能高嶺者天雲毛伊去波伐加利飛鳥母翔毛不上燎火乎雪以滅落雪乎火用消通都言不得名不知靈母座神香聞石花海跡名付而有毛彼山之堤有海曾不盡河跡人乃渡毛其山之水乃當烏日本之山跡國乃鎭十方座神可聞寶十方成有山可聞駿河有不盡能高峯者雖見不飽香聞
なきよみの、かひのくに、うちよする、するがのくにと、こち/\の、くにのさかひに、いだしたる、ふじのたかねは、あまぐもゝ、いゆきはゞかり、とぶとりも、とびものぼらず、もゆるひを、ゆきもてきやし、ふるゆきを、ひもてけしつゝ、いひかねて、なをもしらせず、あやしくも、いますかみかも、せのうみと、なづけてあるも、そがやまの、つゝめるうみぞ、ふじかはと、ひとのわたるも、そのやまの、みづのあたりを、ひのもとの、やまとのくにの、しづめとも、いますかみかも、たからとも、なれるかみかも、するがなる、ふじのたかねは、みれどあかぬかも
 
奈麻余美乃 此冠句色々の説ありて、いづれも難2信用1説々也。宗師案は甲斐信濃よりは弓は貢献し出す事國史に明か也。然ればよみもゆみも同音の詞、生弓のかひといふ意なるべし。また眞弓のかひといふ事ある故、なまは發語の詞にて、只弓の國といふ義ならんか。いづれにまれ、弓のかひの國とつゞけたる義と知るべし
打縁流駿河能國 これはなみのうちによする洲とうけたる義と聞ゆる也。又古説に駿河國浮島がはらは南海より打よせたる嶋なり。それによりて打よするするがの國とつゞけると云説も有。此義未だ正説不v決也。波のうちよする洲と云義も、今少し(265)いひおふせぬところあり
己智其智乃 前にこち/\の枝などとよめるごとく、あちこちのくにといふの義也
三中從 みつの國の中よりといふにはあるべからず。かなたこなたのくに/\の中より出したる山と云義也
出之有 此之の字もし立の字ならんか。然らばいでたてるとよめる句也。普通の本如v此なれば先出したるとはよむ也
翔毛不上 あまりの高山故、とぷ鳥も得とびのぼらざると也。至つて高き體をよめる也
燎火乎 昔は常住もえて煙のたちし故、古詠にふじのけむりと歌によみ、文にも書けるをもて知るべし
火用消通都 上の句と文を互ひにするごとく、句を互ひにして、ふじの高根のたぐひも無く、あやしきまでに聞ゆる樣によめる也
言不得 言の葉にもいひつくされぬ、言語に不v及山と也
名不知 何と名をつけん樣も知らずと也
靈母座神香聞 ことばにもいひつくされず、何と名づくへき樣も無く、ふしぎ奇妙のあやしき名山、直に神靈かと思ふと也
石花海跡 石花とは貝の名也。倭名鈔卷第十九、龜貝類部云、崔禹錫食經云、尨蹄子、和名勢、〔貌似2犬蹄1而附v石生者地。兼名苑注云。石花【花或作v華】二三月皆紫舒v花附v石而生、故以名v之〕この貝多く生ずる海故、勢と名づけたるなるべし。昔此山の中にかくいへる海ありしが、いつの頃よりか埋りて今は無き也。此集中に石花海を詠める歌あり。仰覺抄云、富士山の麓には八つのうみあり。此水海もその一つにて、山のいぬゐの角にありしと也
堤有海曾 ふじの山の麓に石花海ありて、その海のめぐりを此山にてめぐらせると聞えたり。海をもつゝむ程の、大成山といふ義を詠める意也
不盡河跡 今に尚存して東西第一の大川也
水乃當烏 ふじ河といひて人の渡り通ふ大河也。かの山より流れ出る、川のあたりなるぞと云の義也。又石花のうみの水流れ出て、ふじ河となりし故、その川のあたりとつゞけたるか。いづれにまれ、人のわたり通ふ大河も、此山より流れ出づる河と(266)の意也。水の字前にもかはと詠める例、此にても同じ義也。當もわたりといふ義也。烏の字は焉の字なるべし。焉の字なればそとよみきる句也
鎭十方座神可聞 日本の守りともなり、實に神靈とも思ふと也
雖見不飽香聞 富士山の絶景は、何程見ても飽くこと無き不思議の名山、實に地祇の精靈と尊稱讃美したる名歌也。世の常の人、かくの如く詠みつらね難かるべき事也
 
反歌
 
320 不盡嶺爾零置雪者六月十五日消者其夜布里家利
ふしのねに、ふりおくゆきは、みなづきの、もちにきゆれば、そのよふりけり
 
歌の意聞えたる通にて、駿河國の風土記に六月十五日雪消えて、直に其夜またふり初むると云義ある由、仙覺抄に載せたり。風土記所見せざれば引書不v記也
 
321 布士能嶺乎高見恐見天雲毛伊去羽計田奈引物緒
ふじのねを、たかみかしこみ、あまぐもゝ、いゆきはゞかり、たなびくものを
 
此歌の意、ふじのねのあまりに高くて、空にたちのぼる雲だにも、恐るゝ如くにて、中々たちのぼることならず。上へはあがらで、みねより下に靡きわたると也。たなびくとは、下へのぼる事をかしこみ憚りて、山に横たはり靡くと也。いたりて高山なる事を詠める也
 
右一首高橋連蟲麻呂之歌中出焉以類載此
 
此左注の文、前に如v此の類あり。虫麻呂の歌中に出づとあれば、決して虫麻呂の歌とも難v決からんか。然れどもまづ虫麻呂と見るべき也。前の一首は誰人の歌とも知れがたき也
 
山部宿禰赤人至伊豫温泉作歌一首并短歌
(267)やまべのすくねあかひと、いよのでゆにいたりてつくるうた
 
至伊豫温泉 伊豫の國の事は、前の讃岐の國の處にもあらまし注せり。南海國の中の四つの國の一也。日本紀神代上卷古事記上卷に、諾冊二神伊豫二名洲を生む事見ゆ。延喜式神名帳に、伊與國温泉郡伊佐爾波神社、湯神社有。倭名鈔云、伊豫、伊與國、温泉湯郡。温泉と書きていでゆとよむは義訓也。此伊豫國の温泉は、よその國にもすぐれてよろしき温泉にや。むかしの天皇皇后を始め、數多みゆきなりしこと風土記に記されて、仙覺抄にも風土記の文を抄に引きたり。故に不v記v是
 
322 皇神祖之神乃御言乃敷座國之盡湯者霜左波爾雖在島山之宜國跡極此疑伊豫能高嶺乃射狹庭乃崗爾立之而歌思辭思爲師三湯之上乃樹村乎見者臣木毛生繼爾家里鳴鳥之音毛不更遐代爾神佐備將徃行幸處
すめろぎの、かみのみことの、しきませる、くにのかぎり、みゆはしも、さはにあれども、しまやまの、よろしきくにと、きはめけん、いよのたかねの、いさにはの、をかにたゝして、うたおもひ、いふおもひせし、みゆのうへの、こむらをみれば、をみのきも、おひつきにけり、なくとりの、こゑもかはらず、とほきよに、かみさびゆかむ、みゆきしところ
 
皇神祖之神乃 すめらぎの神と稱し奉るは、凡て天子のみおや/\の神明をさして、稱し奉ること也。皇統のみおやの神たちを廣く尊稱し奉る義と知るべし
御言乃 尊の字の義也。尊命の字をみことゝ訓じて神の御事と云の義は、尚深き旨ある事也。必竟みおや/\の神より、今上皇帝までしろしめし治め給ふ、我國々にといふの義也
國之盡 こと/”\くの國にといふ義、又國毎にとの意歟。此盡の字別訓あらんか。師案に、奧の句くにのしま山はとあれば、つくすと云字の意にて、國のしま/\か。然れば國島をつくすの意也。愚案は國の限りとよまんか。限りはつくすの意也。(268)奧の尼理願死たる時の歌の、有間温泉へ行きたる石川命婦へ遣す歌にも、人の盡とあり。これも人のかぎりならんか
湯者霜 奧の句には、三湯とあり。此處にも三湯とありしを三の字脱したる歟。但しみゆはとよまでは不v叶ところ故、湯の字計にても、發語を添へて讀むべき如く思ひ、撰者一字計に書きたる歟。いかにもあれ、みゆはと讀むべき也。しもは助語にて、み湯はといふ事也。諸々の國々にいでゆは多くあれどもといふ義也
島山之宜國跡 伊與はもと島國、南海郡の内、阿波讃岐伊與土佐とて海中にある四の島の内なれば、島山の宜しきとは詠めり。畢竟國をほめて、島山の風景佳勝の處と云義也。郷の名に島山といふ處あり。然れどもその處を云にはあるべからず
極此疑 これを古本印本等にも、きはめしかと讀めり。疑の字はうたがふとよめば、歟とよまんこと尤しかり。此字を助字のしと、此集中に用ゐたる例無ければ、此點も心得難し。よりて此疑《シギ》の二字直に疑ひの意に訓じて、きはめけんと讀むべし。此疑なればけんといふ詞に相叶ふべからんか。けんらしなど云詞は、疑ひのことに云詞なれば也。上古の昔より人々宜しき國と定めきはめたるかといふ義也
射狹庭乃 仙覺律師の引ける風土記文云、上畧立2湯岡側碑文1。其立2碑文1處、謂2伊社邇波之岡1也。所v名伊社邇波者、當土諸人等其碑文欲v見而伊社那比來、因謂2伊社爾波1本也云々
歌思辭思爲師 此句珍しき句也。いかなることゝもしかとは解し難けれど、先づは風土記にも記したるとて、仙覺抄に引ける如く、舒明天皇の御時、こゝにみゆきし給ひて、御製作もありしその歌をおぼしめし、歌の詞をもおぼしめぐらせし事をいへる義と聞ゆる也。若しくは上宮太子碑を立給ふ由、風土記にも載せたる事なれば、その時の御歌碑文の事を、歌おもひことおもひせしといへる義歟とも聞ゆる也。いづれとも決し難ければ、きはめては解し難けれど、まづ太子と舒明帝の古事を兼ねて、いへることゝきこゆる也。下の句の事は全く風土記の説の如く、舒明帝のみゆきの時椹有りて、それにいかるかひめの二鳥あつまりし事を言へると聞えたり。此句は聖徳太子の事とも聞ゆる也。畢竟歌を詠み給ひ碑文を作らせ給ひしことを云へる義也
三湯之上乃 いでゆのわきいづるほとりといふ義也
(269)樹村乎 倭名鈔卷第廿木類部木具云、纂要云、木枝相交、下陰曰v※[木+越]、音越、和名古無良。こむらとは木の茂りて、枝々相交れる處の樹陰を云へる也
臣木毛生繼爾家里 此臣木の事不v詳也。或抄には樅の事を云へりともあり。仙覺抄に引ける風土記には椹の字を書きて有v椹云2臣木1とあり。椹は今むくの木と訓ずる也。またさはら木とも訓ず。いづれのことゝも決し難し。むくには實なりてこれにつく鳥を俗にむく鳥といふ。これひめどりの事ならんか。此むくの木は枝葉はびこり榮えて大になる木なれば、臣木はもし巨木の誤りなるにやあらん。何の木にもあれ、臣木と書きてそれにあたる義未v考。よりて巨の木ならんかと今案をめぐらす也。此句の意は、全風土記の説によりて詠めるもの也。生繼にけりともいへる、昔より今につゞきて臣木の繁茂し榮えあると也
鳴鳥之音毛不更 舒明の御時、臣木に集りて木實稻穗をはみし鳥の聲の、今も不v更又遠き末の代までも變らざると也。これ前にも注せる如く風土記の説によりて詠める意、則終の句に行幸處と詠めるにても明らけし
遐代爾 今よりゆく末遠き代に迄もと也
神左備 神さびとは、その處をほめて物ふりゆかんとの意也
行幸處 第一卷軍王の歌の左注の處に注せり
全體の歌の意は、皇統のみおやの神々、その御代々々のすめらみことを、凡てしき治めさせ給ふ此日のもとの國々に、いでゆは多けれど、くにところ島山の勝地風景迄ある、此伊與の温泉を、昔より宜き處ときはめられたりけん。まこともよろしき景色の處なれば、御代々の天子皇后太子皇子諸臣も、此處にいでまし/\て、殊に上宮太子の湯岡に碑文を立て給ひし古事、舒明天皇のみ幸まし/\て、をみの木に稻穗をかけさせ、比米鳥を養はせしめ給へる古事ある、みゆのほとりのかのをみの木の、枝々相まじはり茂りたるかげを見れば、遠き昔より今に不v枯木v凋葉つき榮えて、それによりくる鳥の音、今もかはらず、昔の説の如くにあつまりて、遠く行末の代々いつまでも不2相變1、上古の行幸ありし古事も殘りて、尚いつまでも物ふりてよき温泉の處ならんと也
 
(270)反歌
 
323 百式紀乃大宮人之飽田津爾船乘將爲年之不知久
もゝしきの、おほみやびとの、にぎたつに、ふなのりしけん、としのしらなく
 
飽田津 第一卷に注せり
年之不知久 舒明天皇のみ幸の時、從2御駕1群臣の飽田津より船乘りせし年月、遙かにへだたりぬれば、その年月いつと云ふ事知れ難しと也。知れ難からぬ事なれども、たゞ遙かに年暦の經たる事を云はんとて、かくは詠めるなるべし
 
登神岳山部宿禰赤人作歌一首并短歌
かみのをかにのぼりて、山べのすくね赤人つくるうた一くさならびにみじかうた
 
324 三諸乃神名備山爾五百枝刺繁生有都賀乃樹乃彌繼嗣爾玉葛絶事無在管裳不止將通明日香能舊京師者山高三河登保志呂之春日者山四見容之秋夜者河四清之旦雲二多頭羽亂夕霧丹河津者驟毎見哭耳所泣古思者
みもろの、かみなびやまに、いほえさし、しゝにおひたる、つがのきの、いやつぎ/”\に、たまかづら、たゆることなく、ありつゝも、やまずかよはむ、あすかの、ふるきみやこは、やまたかみ、かはとほじろし、はるのひは、やましうるはし、あきのよは、かはしさやけし、しのゝめに、たづはみだれて、ゆふぎりに、かはづはさはぐ、みるごとに、ねにのみなかる、むかしおもへば
 
三諸乃神名備山爾 大和國三輪山の事也。みもろ山とも、かみのをかとも、神なび山とも云と見えたり
五百枝刺 つがの木の生茂りて枝しげく榮えたる義を云へる也。五百枝の數にかゝはれる事にはあらず。これより以下止まず通はんといふ迄は、皆序詞に云ひつらねたる義也
(271)○都賀乃樹 第一巻に注せり。ものゝ絶えず續く事に、つがの木のよく茂り、枝々相つゞき繁茂する木をもてよそへ云る也
玉葛 下の絶ゆること無くと云はん爲の序也
在管裳 いつ迄も存在して不v絶不v止赤人の通ひ來んと也
明日香能舊京師者 天武天皇の天の下しろしめされし皇居の、舊都を慕ひほめて、これより以下その景色の義をつらねたり。明日香川はみもろ山の内にあると見えたり。みもろ山をおひて流るゝ川と見えて、此集中みもろ山に不v離、明日香川の歌どもあり。古今の歌に、立田河紅葉々流る神なびのみもろの山に時雨ふるらし、とある左注に、又はあすか川とあり。此左注の方正義なるべし。傳寫の誤りにてかやうに書き誤れる事は多き事也。此集の歌には、立田川とみもろ山と取合せたる歌は無く、皆みもろ山に詠み入れたれば、きはめて古今の歌もあすか川なるべし。能因法師の、あらし吹みもろの山の紅葉々は、立田の川の錦と詠めるも少不審のもの也。尤立田河に紅葉を詠める古詠數多なれば、因師はそれに從ひ、みもろ山を近き處なりと心得て詠み合せたるか、又はあすかの川の錦なりけりとよみしを、後人傳寫しあやまれるにやあらん。今尚立田川といふ川はあるかなきか、細き溝の如くなるよしなり
山高三 三諸山をほめて高みと也
河登保志呂之 明日香川をほめて遠白しと也。河水を遠く見やれば白きものなれば、見たる當然の景色をいひたる句也。とほ白しは、ろは助語にて乏といふて珍しとほめたる詞歟。日本紀神代下卷大小魚をとほしろのと讀ませたり。その意とは異なる義也。これはたゞ河の流の遠く清らに白く見えわたれる當然の景色をほめて、とほ白しと讀める也
山四見容之 古本印本共に、山しみかほしと讀みて、或抄には見容之とはあれども、みまくほしと云義也と釋せり。心得がたき釋也。下の河四清之とある對句なれば、見まくほしと云てはかけ合はぬ也。宗師案は見容之の三字義訓あるべし。見の字美の字誤りてあるべし。此集中美の字を見の字に誤れる處數多あれば、こゝもきはめて見はうるはしきと云美の字の誤りにて、美容之の三字、うるはしと義訓に書きたるものと見ゆる也。然らば下の河四清之の對句にかなふべからんか。春の日は山色洋々と青くうるはしきとほめたる詞也
(272)河四清之 秋の夜は、水氣清々ときよらに、涼しくいさざよき景色なりと、あすか川をほめたる也。秋は水を專らと賞する時令故、河景のいさざよき事を、秋をもてほめたる詞に河しさやけしと也
旦雲二 古來よりあさ雲にと讀ませたり。宗師案にはあさ雲と云語例句例外に不v見。夕雲と云詞も無ければ、此旦雲の二字も義訓あるべし。東雲旦雲同じ意にて、此二字しのゝめと讀むべし
夕霧丹 これも同じく、此集中に霧といふ字を暗陰の事に用ゐて書きたる處多し。然れば上のしのゝめに對して、夕ぐれにと義訓すべし。然ればしのゝめ夕ぐれにと、朝夕の景色を云ひて、上の春秋朝夕と對したる句也。雲に田鶴の亂るゝ景色はいはるべけれど、夕ぎりに蛙のさはぎといふ事心得難し。あしたにみだれ、夕にさはぐといふ對は云はるべからんか。こゝに本歌に雲きりの事を詠みたるに、反歌に霧のことばかり詠みて、雲の事を不v詠不審あり。赤人の歌仙何ぞ、さ程の事を詠み殘すべきや。然れば長歌にては、雲霧の事なしにたゞあした夕べの事にして見れば、反歌の不審も無き也。これらは當流一傳の歌詠の筋なれば、知る人ならではかやうの案は、得心し難からんか。古來よりたゞあさ雲夕霧と點のまゝに讀みて、其通をもて解釋もし來れども、宗師今案は古人の跡を不v蹈、只獨歩の發起より如v此の見樣も出來しもの也。あはれ赤人の存在ならば、問はまくほしきのみ
毎見云云 山河の景色の面白く、あはれにもおぼえて昔のことを慕ふと切なる感情をいはんとて、ねにのみなかる昔しのべばと也
哥の意は、神岳にのぼりて、明日香川の舊都を見下し、その景色の面白きにつけて、山川舊都の風景をほめて、古都を慕ひ歎きたる歌也
 
反歌
 
前のはし作には、短歌一首と記せり。此處には反歌と書けるは、前々にも注せる如く反歌短歌同意にて、みじか歌と讀むの證此等の處なり
 
(273)325 明日香河川余騰不去立霧乃念應過孤悲爾不有國
あすかがは、かはよどさらず、たつきりの、おもひすぐべき、こひならなくに
 
川余騰不去 流水のよどみて滯り去らざる樣に、霧の立おほふたる體に、なぞらへていへる也
立霧乃 おもひの晴れぬことに、深く霧の立つとなぞらへて詠める也。あながち如v此霧の立ちたるにはあらねど、よそへて詠める義也。河よど不v去立霧の樣に、古を慕ふ心のこなたかなたと、迷ふ義を思ひ過ぐべきこひにあらぬと也
念應過 思ひをやりすごすべき樣の無きと也。神岳に上りて舊都を見下したる景色の感情より古の事の慕はれて、その思ひ迷ふことの過しやる方の無きと也
孤悲爾 今時云戀の意とは、古詠の戀の字は違也。古は心のなやみ迷ふことを戀といへる也。此集中に皆何にこひといひて、人にこひ、妹にこひ、君にこひと有は、皆おもひに迷ひ惱むことを戀とは云也。此も古都を慕ふおもひに、心のかれこれと間違ふと云義也。その迷ひの心を何方へも過しやるべき樣の無きといふ義を、戀ならなくにと也。にあの約言な也。よりてあらなくにといふ義をつゞめて、ならなくにとは讀む也
歌の意は、たゞ舊都を慕ひ思ふ心の、河よどさらず立きりの如くたえずして、思ひのすごしやられず、心のこなたかなた慕ひ迷ふと也
 
門部王在難波見漁父燭光作歌一首
かどべのおほきみなにはにありてあまのともしのひかりを見てつくるうたひとくさ
 
門部王 前に注せり
漁父 日本紀に漁人と喜きて、あまと讀ませたれば、それに從ひてあまとよむ也。和名鈔の意とは少違なり。追而可v考
 
326 見渡者明石之浦爾燒火乃保爾曾出流妹爾戀久
みわたせば、あかしのうらに、たけるひの、ほにぞ出つる、いもにこふらく
 
(274)見渡者 遠く詠めやりたる體を云たる義也。今時は物ふたつを見くらぶるを見わたせばといへど、古詠はその事にはかゝはらざる也。今時は見わたせば柳櫻、見わたせば花ももみぢもの類を本として詠ずる、これらは時代の風體也。此見わたせばはたゞ難波より明石の方を詠めやりたる體也
燒火乃 端作には燭光とあるを、たける火と讀めるはいかゞしたる意ならんや、辨がたし。漁人のいさり火などをたくを見て詠める歟
保爾曾出流 火をほともいへば、たける火の光のあらはれ見えたるを、ほにぞといへる也。何にても、ものゝあらはれるをほに出ると云へば也
妹爾戀久 漁人の妹にこひわぶることの、しのぶとも見たへかねて、色に出しあらはすにてあらんと、おもひやりよそへて詠める也。火の光の見ゆるにつけて、おもひのあらはれたることによそへ詠める也。こふらくとは、妹にこひわぶるにてあらんそれゆゑほにあらはれたるならんとおもひやりたる意に、こふらくとはいへり。尤我戀ることにも良久とよむ事もあれど、此は漁人のこふにてあらんと、察したるらく也
歌の意、別義無くたゞともし火の光の見ゆるは、海士の妹にこふおもひのほに出たるにてあらんと、よそへ詠める迄の歌也
 
或娘子等賜※[果/衣]乾鰒戯請通觀僧之咒願時通觀作歌一首
あるをとめらつゝめるほしあはびたまふて、たはむれにつうくわんそうに、いのりごとをこへるとき、つうくわんつくるうたひとくさ
 
或娘子 何人の事とも考ふる處無し
賜裹乾鰒 あばび貝のほしたるを、つゝみて賜ひたるなるべし
通觀 傳不知
咒願 まじなひごとの願文の事也。ほしたるあはび貝を生きかへらしめ給へと、たはむれて通觀に請ひたる義也。咒願の二(275)字佛經より出る處の義也
 
327 海若之奧爾持行而雖放宇禮牟曾此之將死還生
わたつみの、おきにもてゆきて、はなつとも、うれむそこれが、よみがへらんや
 
海若 うみの惣名也。日本紀には海童の二字をわたつみと訓せり。倭名鈔卷第二云、海神、文選海賦、海童於v是宴語【海童即海神也】和名和太豆美云々。海若の二字をわたつみと讀む事出處未v考也
宇禮牟曾 此ことは此集中にも此處計にて、且外にも所見無きめづらしき詞也。仙覺抄には、うれへの喪といふ義との釋なれども難2信用1。或抄には何ぞいかんぞなど云義と釋したれど、うれむそと云詞を何ぞ、いかんぞとは、何と釋してさはいへる義とも知れず。意は何ぞいかんぞといふ意にも通ずべけれども、うれむそといふ語、何ぞいかんぞとは釋しがたき也。宗師案には得もそといふ語なるべしと也。うれの約言えなり。わいうえおはやゐゆえよの通音にて、うれは得と云言葉也。むはもなれば得もそと云詞と見る也。いふ意はほしかれたるあはびを、海中へもちゆきて放つとも、得もこれか生きかへらんやといへる義也
將死還生 此四字義訓に讀む也。古本印本等にはしにかへりいなんと讀めり。歌の意通じ難し。よりて義訓に讀む也
此歌の意、ほしかれたるあはびなれば、たとひ咒願にて祈りまじなふて海中へ放ちたりとも、いかでこれがよみがへらんやといへる義也
 
大宰少貳小野老朝臣歌一首
おほみこともちのすないすけをのゝおゆあそむの歌ひとくさ
 
大宰 筑前國府の官名也。凡て九州を太宰といへども、大宰府と云館省は筑前國にかぎれり。異國邊鄙の第一の押へ故、外官にしては至而重き官也。職員令云、大宰府【兼筑前國】主神一人、掌2諸祭祠事1。帥一人、掌2祠社戸口簿帳1、字養2百姓1、勸2課農業1、糾2察所部1、貢擧、孝義、田宅、良賤、訴訟、租調、食廩、※[人偏+徭の旁]役、郵驛、傳馬、烽候、城牧、過所、公私馬牛、闌遺雜物、及寺僧尼名籍、小蕃客(276)歸化【謂遠方之人欽化内歸也】饗讌事。大貳一人掌同v帥。小貳二人掌同2大貳1。諸國の防人の相勤むる處も此府也
小野老朝臣 續日本紀卷第八養老三年二月、同卷第十天平元年三月、同第十一卷六年正月の條に小野朝臣老叙位の事見え、又同卷十九天平勝寶六年二月の條に、去天平七年故大貳從四位上小野朝臣老の名見ゆ
 
328 青丹吉寧樂乃京師者咲花乃薫如今盛有
あをによし、ならのみやこは、さくはなの、かをれるごとく、今さかりなり
 
青丹吉寧樂 第一卷に注せり
薫如今盛有 ならの都を賞讃して、如v此さく花の花盛のごとく、今帝都となりし繁榮のときと也
歌の意聞えたる通、當時の帝都の繁榮をほめたたる計の義也
 
防人司祐大伴四繩歌二首
さきもりつかさのすけおほとものよつな、うたふたくさ
 
防人司 太宰府の被官也。職員令云、防人正一人、掌防人名帳戎具教閲及食料田事、佑一人掌同v正。軍防令云、凡兵士向v京者名2衛士1、【中畧】守v邊者名2防人1
大伴四繩 大伴の尸は宿禰也。こゝには脱せる歟。四繩傳不v詳也
 
329 安見知之吾王乃敷座在國中者京師所念
やすみしゝ、わがおほきみの、しきませる、くにのなかには、みやこしのばる
 
國中 くに/\の中にては、帝都を慕ふと也
歌の意不v及v注。能きこえたる歌也
 
330 藤浪之花者盛爾成來平城京乎御念八君
(277)ふぢなみの、はなはさかりに、なりにけり、ならのみやこを、おもほすやきみ
 
此歌は太宰府にありて、藤の花の盛りなる頃、長官帥、大伴卿に詠みて贈れる歌と聞えたり。おもほすやきみとさせるところは、長官の帥をいへるなるべし
歌の意よく聞えたる通也
 
帥大伴卿歌五首
おほみこともちのかみおほとものきみのうた、いつくさ
 
帥 前に注せり。太宰府の長官也
大伴卿 前にも注せる如く大納言旅人也
 
331 吾盛復將變八方殆寧樂京師乎不見歟將成
わがさかり、またかへらんやも、ほと/\に、ならのみやこを、みずかなりなん
 
吾盛 大件卿の年の盛りの又二度かへらんや、かへることは無きと也。やもとは年若く盛んなる事の、又かへることの無きといふ義を、悲しみ歎息したる義也
殆 俗言にはほとんどといふ也。歌詞はほと/\といふ。此ほと/\といふ義何といふことか、古來より釋せるもの無し。此詞いかんとも解し難き也。字義は將也、危也、幾也、近也とあれども、ほと/\といふ語いづれの字義に當るべきとも難v定。先づは幾といふ意かと見るべき歟。兎角此語釋しかたければ暫くさしおくのみ
不見歟將成 年の盛りの二度かへる事無ければ、太宰府にありて年老いたらば、古郷の奈良のみやこを不v見なりはてんかと、古郷を慕はるゝ事の、切なる意を述べたる歌也
歌の意、畢竟古郷を慕ふ事をいひたる也
 
(278)332 吾命毛常有奴可昔見之象小河乎行見爲
わかいのちも、つねにあらぬか、むかし見し、きさのをがはを、ゆきてみんため
 
常有奴可 人のいのちは定め難く、常磐ならぬものなれば、常ならぬを常磐なれかしと願ふたる義也。昔見し象の小河を、今一度行て見まほしきゆゑ、不定の命を常磐なれかしと願ふと也
 
333 淺茅原曲曲二物念者故郷之所念可聞
あさぢはら、つばらつばらに、物おもへば、ふりにしさとの、おもはるゝかも
 
淺茅原 淺茅は茅のちいさきをいふ。茅、音バウ、和名をチと云也。古郷に縁ある句也。芝原の生じたる處と云義也。はらとは平らかに廣き處をいへる也
曲曲 此二字古本印本の點は、とざまかくざまと讀あり。あさぢはらに、とざまかくざまといふ事いかんとも不v續詞也。曲の字は日本紀にても、つまびらかと讀ませたれば、つまびらかに物思へばと云の義にて、つばら/\にと讀むべし。つばはつま也。畢竟つばらはつまびらかの略語にして、淺茅に縁ある詞也。淺茅より穗にたち出づるものを、つばな、ちはなと云也。然ればあさ茅に離れぬ詞にして、古郷の妻の事をも思ふといふ義と、また色々の事をつまびらかに思ひつゞくるといふ義をこめて、つばら/\にとは詠める義也。印點の、とざまかくざまといふ意も同じ意なれども、詞の縁いかにとも淺茅原と詠み出たる五文字につゞかず。何につけ、かにつけてものを思ひ出て、古郷の事の思ひしたはるゝことの義也
歌の意、右に注せる通、聞えたる義也
 
334 萱草吾紐二付香具山乃故去之里乎不忘之爲
わすれぐさ、わがひもにつく、かぐやまの、ふりにしさとを、わすれぬがため
 
萱草 倭名鈔卷第二十草部云。兼名苑云、萱草一名忘憂【萱音喧、漢語抄運、和須禮久佐、俗云如2環藻二音1、】毛萇詩傳云、萱草、令2人忘1v憂
この草うれへを忘れさするものと云傳へたり。葉菅の如くにて柔也。夏より秋にかけて、鎗のごとき花咲草也。此集第四第十(279)二にも、忘れ草下紐につけるといふことを詠める歌どもあり
香具山乃云々 大伴卿の住處なるべし。昔より所領の處故、ふりにし里と詠めるならん
不忘之爲 忘るゝ爲に付るを、不忘之爲とあるは聞得がたき樣なれ共、不v忘故の爲にといふの義也。爲の字を故と云意に見れば濟也。古郷を慕ふ思ひの忘られぬ故に、何とぞ忘れんが爲に萱草を紐に付ると也
歌の意、古郷を慕ふ事の切なる義を詠める意也。別の意無し
 
335 吾行者久者不有夢乃和大湍者不成而淵有毛
わか【ゆき・たひ】は、ひさにはあらじ、ゆめのわた、せにはならずて、ふちにてあるも
 
吾行者 第二卷の初の、磐之姫御歌にも、君がゆきとあり。古事記の歌にも同詞ありて、ゆきといふ古語有也。よりて古本印本ともにゆきと讀めり。然共日本紀神代卷にて、行の字をたびと點をなせり。是は行度の意にて、たびと讀ませたる也。此處の行の字はたびと讀みて旅の字の意にとる義もあるべからんか。ゆきとよむ意は、大伴卿の太宰府より故郷へ歸り行の義と見ゆる也。然れば少六ケ敷詞ならんか。旅の意にてたびと讀みては太宰府に居ることを久しくはあらじと云意に見る也。太宰は邊土にて帝都にあらざれば、畢竟たびの意なる故、わがたびと詠めるにやあらん。二義の説好む處に從ふべし
久者不有 故郷へかへる事の、久しくはあるまじとの義なるべし
夢乃和太 是は地名なるべし。夢のわたりと云處もあれば、津の國の内にある地名と見ゆる也。第一卷にも夢といふ處あるべきと見ゆる歌あれば、此夢のわた兎角地名と見ゆる也。その夢のわたと云處を夢に見たるより、夢と云義を兼ねて詠める歌と見ゆる也。わたといふは、海の事なれば海邊の地名歟。已に淵湍といふことをも讀みたれば、兎角海邊の地名と見ゆる也。この夢のわたを夢に見しに、そのまゝふちにてありし故、世の變災も無く、大伴卿の本國へ歸り給ふ事も久しかるまじく、近きに太宰より上らん瑞夢と思ひて、詠める歌と見ゆる也。全體此歌の趣意は、少しとゞこほり推量の釋也。或説には夢のわたとは少の間夢の間といふ義との釋あれど、下の湍には不v成てと詠める意不v濟也。とにかく夢のわたといふ處を夢に見たるよ(280)り、詠める歌と見ざれは、下の句の意不v通也。淵は湍になると云は、世の變災の端なる故不v宜。大伴卿の意にはそのまゝ淵にてあるは、能瑞夢と思ふより、故郷へ歸國のこと、やがてにあるべしと詠めるなるべし
淵有毛 此句文字はすくなき故、よみ樣幾筋もあるべし。然れども歌の意に叶ふべからんは、淵にてあるもと詠める義安かるべからんか
歌の意上に釋する通、大伴郷古郷を慕ふあまりに、本國近き處の夢のわたといふ、水深き處を夢に見給ふに、未だ湍ともならずそのかみ見し如く淵にてありし故、さてはわがこの太宰府の旅館に居る事も、あまりに久しくはあるまじき、瑞たき夢と思ひて詠める歌と聞ゆる也。夢に見給ふ故、夢のわたを直ちにかねて詠み入れたるものなるべし
 
沙彌滿誓詠綿歌一首
さみまんせい、わたをよめるうた、ひとくさ
 
本文に一首とある下に、小書にて如v左後人傍注せり
造筑紫觀音寺別當俗姓笠朝臣麻呂也
如v此傍注せり。後人の加筆也。又朱書傍注に續日本紀云、養老五年五月太上天皇、元明不豫、大2赦天下1。戊午右大弁笠朝臣麻呂爲太上天皇出家入道勅許也。如v此朱書傍注、是亦後人の加筆也
沙彌滿誓 古本傍注朱書の通也。此集中に歌あまた入れられたり。續日本紀卷第九、養老七年二月の條に僧滿誓【俗名從四位上笠朝臣麻呂】の字あり
 
336 白縫筑紫乃綿者身著而未者伎禮杼暖所見
しらねひの、つくしのわたは、みにつけて、いまだはきねど、あたゝかにみゆ
 
白縫 不知火といふ借訓書也。つくしと云冠句也。日本紀卷第七、景行天皇十八年春三月、〔巡2筑紫國1。夏五月壬辰朔、從2葦從葦北1發船、到2火國1。於v是日沒也。夜冥不v知2著岸1。遥視2火光1。天皇挾杪者曰。直指火處。因指v火徃v之。即得v著v岸。天皇(281)問2其火光處1曰。何謂邑也。國人對曰。是八代縣豐村。亦尋2其火1、是誰人之火也。然不v得v主、茲知v非2人火1〕故名2其國1曰2火國1。この古事よりしらぬひつくしとはつゞくる也。此火の國とさす處は、今の肥後の國なれども、九州を惣てつくしとは云へる故、しらぬ火のつくしと云來れる也
筑紫 つくしと名付る事前に注せり。凡て西海國九ケ國をさしていへる也。釋日本紀の説三通ありて、木菟と云鳥に似たる國形を以て名付るとの説、又山路嶮難にて枝を衝て徃通ふ故との説、今一説もありて信用し難き説ども也。なれ共古注故一條禅閤も島の形みゝづくの鳥に似たる故、つくしと云説により給ふて、纂疏にも釋し載せられたり。宗師案は日に向ふといふ國の名もあれば、日は東にとりて、西を月にとれるから、月にしの國といふ義なるべしと傳へり
綿 倭名鈔卷第十二綿布類部云、唐韻云綿【武連反、和名和多云々】つくしのわたとほめて詠める意いかゞしたるならんや難v考。つくしの觀音寺の別當たりしとき詠める故、つくしのわたとはほめたるならんか。源氏物語末摘花卷に、松の雪のみあたゝかげにてふりつめると書けるも、此歌などの句によりて書きたるならん。花鳥餘情にも此歌の詞を引きたるは口惜し
歌の意、何の事もなく、たゞわたの多くつみたるを見てつくしのわたをほめたる迄也
 
山上臣憶良罷宴歌一首
やまのうへのおみおくら、うたげをまかるうた、ひとくさ
 
山上臣憶良 前に注せり
罷宴 饗宴の座をたち、退くを云。宴の字は古語にうたげと讀み來れり。飲食をして歌を謠ひ遊ぶ故、義訓にかくは讀ませたるなるべし
 
337 憶良等者今者將罷子將哭其彼母毛吾乎將待曾
おくらゝは、いまはまからん、こなくらん、そのかのはゝも、われをまたんぞ
 
其彼母毛 上にかくらんといへる、その子の母もと云義也
(282)歌の意、不v及v釋、きこえたる通也
 
太宰帥大伴卿讃酒歌十三首
おはみこともちのかみおほとものきみ、さけをほむるうた、十あまり三くさ
 
此卿は至つて酒を好める人と見えて、奧にも酒の歌あり
 
338 驗無物乎不念者一杯乃濁酒乎可飲有良師
しるしなき、ものをおもはずば、ひとつきの、にごれるさけを、のむべかるらし
 
驗無物乎不念者 しるしなきものといふは、無益の事をおもはじとならばといふ義也。物を思ひても、何のしるしも無きものなどをせじとならば、酒を飲めよと也。たゞ一つきの酒にて鬱を散じて物思ひを消しやる、至りて徳有ものとほめたる意也
一杯 杯は飲食物を盛器也。今俗に一ぱいといふは音をもていひ習へり
濁酒 酒をきともいひて、しろきくろきといふあり。こゝにいへる濁酒はくろきといふ也。今の俗、白酒をにごりさけといふは後世の俗語なるべし。清酒をしろきといふなり。諸白といふ俗言あるも、これよりいへるなるべし。くろきと云には、まぜものあり。延喜式に見えたり。倭名鈔卷第十六飲食部酒醴類云、食療經云、酒【和名佐介】五穀之華、味之至也、故能益v人、亦能損v人
飲有良師 飲むべくあるらしと云詞の、くあをつゞめてかといふ也。よりてのむべかるらしと讀む
此歌の意は、たとひ何程に物を思ひても、しるし無きものなれば、そのしるし無きことを思はじとならば、ひとつきの酒を飲むべきと也。たゞ一つきの酒にても、さま/”\の無益の事を思ふおもひをも、そのまゝ消しやる徳のあるものとほめたる意也
 
339 酒名乎聖跡負師古昔大聖之言乃宜左
さけのなを、ひじりとおふせし、いにしへの、おほきひじりの、ことのよろしさ
 
聖跡負師 これは唐土にて、古督、魏徐※[しんにょう+貌]、字は景山といふもの好v酒て、酒清者爲2聖人1、濁者爲2賢人1といふ古事あるを引て詠める也。酒は至つてよきもの故、ひじりと名をおふせし人こそ、尚大聖人にてよくも名付けし〔判読不能〕
 
(283)340 古之七賢人等毛欲爲物者酒西有良師
いにしへの、なゝのかしこき、ひとたちも、ほりするものは、さけにしあるらし
 
古之七賢人 これは竹林の七賢、〓康、阮籍、山濤、劉伶、阮咸、白秀、王戎の言なり。後世までも賢人とよばれし人たちにても、酒を望み好むところの人情は離れざると也
 
341 賢跡物言從者酒飲而醉哭爲師益有良之
さかしらと、ものいふよりは、さけのみて、ゑひなきするし、まさりたるらし
 
賢跡 かしこしといふ點もあり。然れども酒の歌なれは、さかしらとよむ方よからんか。下へのうつりも酒の意とつゞけばさかしらとよむ也。さかしらとは、今俗かしこげにといふ事也。そのかしこげに物いはんよりは、酒を飲みてゑひつゞけて泣きさはぐ方まさると也。酒をほめたる意ながら、これらの歌には、少人の行跡の上に意をふくめて詠める歟。かしこだてをして物云ひちらけんよりは、酒に醉てゑひ泣きする方には、人をそこなふかひはあるまじきなり。その意をふくめて詠めるならんか
 
342 將言爲便爲便不知極貴物者酒西有良之
いはんすべ、せんすべしらず、きはまりて、たふときものは、さけにしあるらし
 
將爲便 上にて將言爲使と書きたる故、其例を以て爲の字を略したる歟。便の宇計にてはすべとよみ難からんを、上に准じて略せるなるべし。何といふべき樣も、又すべき樣も無く、たゞ至つてたつときものは酒にてあらんとほめられたり
 
343 中々二人跡不有者酒壺二成而師鴨酒二染甞
なか/\に、ひとゝあらずば、さかつぼに、なりにてしがも、さけにしまなん
 
人跡不有者 人にてあらずばと也。中々に人となりしゆゑ、今更さけつぼにもなり難きもの故、殘り多きと也。いか程飲みて(284)も飽きたらぬといふの意なるべし。鴨はにごりてよむかも也。願のかも也
 
344 痛醜賢良乎爲跡酒不飲人乎※[就/火]見者猿二鴨似
あなみにく、さかしらをすと、さけのまで、ひとをながむは、さるにかもにる
 
痛醜 日本紀卷第三神武紀云、大醜乎【大醜、此云鞅奈瀰※[人偏+爾]句】あなとはたんの詞也。よりてこゝにもいたむといふ字をあなと義訓に讀ませたり。せつに云ふ詞也
※[就/火]見者 よく見ばと讀ませたれど、それにては歌の意通じかたし。此歌はあしきものとてかしこだてをして、酒を飲まぬ人の酒飲みをつら/\見るは、猿の人を眺むるに似たるといふ意なれば、※[就/火]見の二字は、眺むと義訓に書きたるものと見ゆる也。よりて如v右讀む也
此歌の意は、下戸を譏り、下戸を猿にたとへて酒を賞美したる也。此歌少聞きまがふところあり。酒飲む人の顔の赤きが、猿に似るといふ樣に聞ゆる處もあれど、さにはあらず。下戸を猿にかも似ると詠める歌也
 
345 價無寶跡言十方一杯乃濁酒爾豈益目八
あたひなき、たからといふとも、ひとつきの、にごれるさけに、あにまさらめや
 
豈 なんぞまさらんや。いか樣の寶とても、酒に過ぎたるものは無きとの事也。價無き寶といふ語は、佛經或は續博物志等に出たる語也
 
346 夜光玉跡言十方酒飲而情乎遣爾豈若目八目【一云八方】
よるひかる、たまといふとも、さけのみて、こゝろをやるに、あにしかめやも
 
一云八方 これは本集八目の二字、一本に八方と書けるもありと古注者の記せる也。八目の字は音訓を交へて書ける故、若しやめとよみ誤るべからんかと、一本を引て古注者が注せる意ならんか
夜光玉 夜光の名玉といふとも、酒の徳には若かざると也
(285)情乎遣爾 鬱憤を消しやるには、酒に過ぎたるもの無きと也
 
347 世間之遊道爾冷者醉哭爲爾可有良師
よのなかの、あそびのみちに、すさめるは、ゑひなきするに、あるべかるらし
 
冷者 すさまじとよむ事故、好求のすさむ訓に借り用ゐたると見えたり。すさめるとは、長ずるといふの意に同じ。世の中の人の遊びの中にすさみ長ずるは、只醉ひ泣きするに過ぎたるはあるべからずとの義也
 
348 今代爾之樂有者來生者蟲爾鳥爾毛吾羽成奈武
このよにし、たのしくあらば、こんよには、むしにとりにも、われはなりなむ
 
此の歌は酒の歌にはあらざれども、心のまゝに酒を樂みて一生を終らんとの意をのべたる意と見ゆる也。よつて酒をほめたる十三首の中に入たると見えたり。歌の意は聞えたる通也。老莊の悟通の意を借りて、酒を樂むの意を述べたるもの也。これらの歌は畢竟戯れに詠めると見えたり
 
349 生者遂毛死物爾有者今生在間者樂乎有名
いけるもの、つひにもしぬる、ものなれば、このよなるまは、たのしきをあらめ
 
生者必有v死。ものゝ必至也と云義をとりて、心にすき好むもの、心のまゝに樂みて、一生を終らんと、これも酒の事は句中に聞えねども、酒を樂みて終らんとの意を云へる歌也
 
350 黙然居而賢良爲者飲酒而醉拉爲爾尚不如來
もだしゐて、さかしらするは、さけのみて、ゑひなきするに、なをしかざりき
 
黙然居而賢良爲者 ものも云はず、うつくすみ居て賢人だてをせんよりは、只酒を飲みて、醉ひたふれて、泣く方がまし也との義也。不v如とは不v及と云ふの意也。醉ひ泣きする方まされりと、酒をほめたる歌也
(286)右十三首の酒を賞讃する歌には、唐土の詩等に引合せてよく相合ふ語釋等あまたあるべけれど、管見つたなく、また博覽をよそひても、させる益無き事なれば不v能2細注1也
 
沙彌滿誓歌一首
 
首を誤りて前に作るは非也
 
351 世間乎何物爾將譬旦開※[手偏+旁]去師船之跡無如
よのなかを、なにゝたとへん、あさびらき、こぎゆきしふねの、あとなきがごと
 
何物爾 物といふ字をにとよむ字義は無けれど、此集中何物と書きて皆何と讀ませたるは義訓と知るべし。此集中に物の字を、にとも讀み事とも讀み、又事の字をものとも讀める處多し。これらはその處の義をもて讀ませたる也
旦開 このあさびおらきといふ事、何としたる事を云へるぞと知る人少し。中古已來此事不v濟故、皆朝ぼらけと讀める點あり。あさぼらけといふ事もいかゞしたる義とも不v知事也。この歌など殊にあさぼらけと讀みては、下の句いかんとも不v通也。然るに此歌を、拾遺集には、朝ぼらけこぎ行く舟のあとのしら浪と被v入たる事、歌の意を何と聞取給ふ義にや。いかにとも心得がたし。此あさびらきといふ事は、帆の事を云たる義也。あしたにはあさなぎとて、風も無く波しつかなるもの故、帆をひらきて舟を漕出す故、朝びらきこぎ行きしとは讀める也。此集中朝びらきと讀める歌多し。あさぼらけとよみては一つも義不v通に、無理に義を付けてあけぼのに船をこぐ義などと可v云歟。古詠の格さ樣にはし無き事を讀める事は、かつて無き事也
跡無如 拾遺集には、あとのしら浪と書けり。歌の意むつかしく聞え難き也。此通にては句の意も無くよく聞えたる歌也。
此歌の意は、自問自答の歌也。上に何にたとへんと問ひて、下の句にこぎ行きし船の跡無き如くなるものと、世の中の有樣を唯何とも定まらず見て、在る處はこぐ船の如く、無きところは海上の船の通り過ぎたる跡の如く、何の姿と目にとまる間も無きものと、悟道したる意をいへる得意をもこめたる歌也。萬誓の身の上の義、凡て人の過去の事を云ふたる歌也
 
若湯座王歌一首
(287)わかゆゑのおほきみのうた一くさ
 
若湯座王 傳不v知。湯座は日本紀神代下云、彦火々出見尊〔取2婦人1、爲乳母湯母及飯嚼湯座【疏曰、湯座謂洗欲兒者】〕新撰姓氏録〔河内神別に、若湯座連、膽杵磯丹杵穗命之後也云云とあり〕
 
352 葦邊波鶴之哭鳴而潮風寒吹良武津乎能埼羽毛
あしべには、たづがねなきて、しほかぜの、さむくふくらむ、つをのさきはも
 
葦邊波 これを古くは葦べなみと讀めるを、仙覺律師てには言葉に改點して、にはと讀ませたり。いかさまにも蘆邊なみといふ五文字、全體の歌の意に叶ひ難き發句なり。波はてには詞の字にてあるべき也
潮風 此潮の字本々不2一決1。湖の字に作れるも有て、是も仙覺抄に云、湖の字訓うしほ不審也と注せり。且みなとゝ書ける事は、阿波國の風土記に中湖具湖等にも用ゐたり。又第七卷歌に、美奈刀可世佐牟久布久良之余呉乃江爾都麻欲比可波之多豆佐波爾奈久ともあれば、みなと風と讀むべき由注せられたり。然れば何れとも定め難し。潮の字なればしほ風のと讀むべきことなる故、所持の本は潮の字故、先隨2所見之本1也
津乎能崎 仙覺抄には、伊與國野間郡にある由を注せり。或抄には近江國なるべし。倭名鈔に淺井郡の内都宇郷あれば、此處にして湖風と詠める、湖水の邊故なるべき趣注せり。いづれとも未v決。後考を待つのみ
羽毛 例の歎の詞也。つをの埼哉といふ意也
歌の意は、つをの埼の蘆邊に、鶴の鳴きよるを聞きて、しほ風の寒くならん蘆邊に、たづの音のみ聞ゆるつをの埼かなといふ義也。津乎の崎にての當然の歌なるべし。或抄には、つをの崎を思遣りて、いか樣にかあらんと詠める意なりと見たる説あれども、それにては蘆邊をいづくの蘆邊ともさし處無き也。此あしべは若浦にしほみちくればの歌の意と、同じき意なるべし
 
釋通觀歌一首
しやくのつうくわんうた、ひとくさ
 
(288)釋通觀 前に出たる通觀同人なるべし
 
353 見吉野之高城乃山爾白雪者行憚而棚引所見
みよしのゝ、たかきのやまに、しらくもは、ゆきはゞかりて、たなびきみゆる
 
行憚而 前の富士の歌にありし意と同じ。高城の山の高き事を云はんとて、雲ものぼりかねてたな引との義也
歌の意何の事も無く、高きの山に白雲のたな引を見て、その當然のけしきを詠める歌也
 
日置少老歌一首
へきのすくなおゆがうたひとくさ
 
日置 へきとよむ
少老 傳不v知
 
354 繩乃浦爾塩燒火氣夕去者行過不得而山爾棚引
つなのうらに、しほやくけぶり、ゆふされば、ゆきすぎかねて、やまにたな引
 
繩乃浦 此浦いづれの國とも知れがたく、また古本印本等にもなはと讀めり。然れ共師案に此歌の續きども播磨あはぢの歌なれば、淡路にはつなの郡といふ郡もあれば、若しその處の浦なるべからんか。なはの浦と云處確かに不v知ばなはにてあらんや、つなにてあらんや、また網の字の誤りにてあみの浦にてあらんや。第一卷にあみの浦と云有。これらを以て見れば、いづれとも難v定なり。よりて此處の歌の次第をより處として、あはぢの都奈にてあらんやと見る也。尚証明の後考を待つのみ
夕去者行過不得而 煙はわきてあさ夕に立ちそふ物にて、殊に夕べになれば、しほ燒煙などは立ちそふもの故、夕さればとよみて、行過ぎかねては立そふもの故、散きえかねるといふ義を、行過きかねてと詠めり。過といふはちるといふ義きゆるといふ意に見れば濟也。煙の晴れずちらぬ景色をいへる也。散かね消かねてひたもの立添ゆゑ、自ら山などに、たな引く夕べの景色をよめる也
(289)歌の意きこえたる通なり
 
生石村主眞人歌一首
おふいしのすくりのまつとうたひとくさ
 
生石は 大石と同じ氏也。續日本紀卷第十八、天平勝寶二年正月庚寅朔乙巳、正六位上大石村主眞人、授2外從五位下1云々
村主 姓也。眞人は名也。姓にも眞人といふあれど、此眞人は名也。傳不v詳
 
355 大汝少彦名乃將座志都乃石室者幾代將經
おほなむち、すくなひこなの、いましけん、しづのいはやは、いくよへぬらん
 
大汝 日本紀神代上卷に、大己貴命少名彦命と共に、天の下を經營し給ふ由あれば、かく並べあげたる也
志都乃石室 地名也。播州に今も石の室殿とて不測の石殿ある由世に名高くきこえたる處也。決して此石室殿の義なるべしその處をしづといへる歟未v考。大己貴少彦名神社、播磨の式内には不v見。延喜式卷第十神名帳播磨宍粟郡内伊和坐大名持御魂神社名神大とあり。此社の舊都をしづのいはやといへる歟
幾代將經 神代より有來れる石室なる故、幾年をか經ぬらんとそのかみを思ひ感じたる歌也
歌の意は、たゞ昔より兩神のましませしと傳へ來れる石室の、其頃迄も存在して、神さびふりてあるを感じて、さていつの比よりかくあり來り、幾代を經ぬらんと、いはやの神座の物ふりたるを感じて詠める也
 
萬葉童蒙抄 卷第五終
 
(290)萬葉童蒙抄 卷第六
 
上古麻呂歌一首
うへのふるまろのうたひとくさ
 
上古麻呂 傳不v知。續日本紀卷第七、靈龜元年四月癸酉、上村主通政賜2姓阿刀連1
 
356 今日可聞明日香河乃夕不離川津鳴瀬之清有良武
けふもかも、あすかのかはの、ゆふかれず、かはづなくせの、さやけかるらん
 
今日毛河聞 けふもといふ義也。けふもあすもといひかけたる也
明日香河乃 けふもか、あすもか、かはらずかはづは鳴くにてあらんと也。あすか川は、うつりかはる事によむ事也。然るにこの歌けふもかもあすかの川とよめる意は、あすかの宮より藤原の都へ遷都の時の歌と聞えたり。歌の表に、遷都の事は見えねども、全體の歌のおもむき、あすかの都はうつりかはりしに、かはづはけふもあすもかはらず、かはり行く世の中の、かはれる事をも知らで鳴くらんと云意と聞えたり。さやけかるらんとは、かはづはかはらず聲さやかに鳴くらんと、川の瀬によそへて云へる歌と聞ゆる也
夕不離 古本印本等には、ゆふさらずと讀めり。かはづ嶋くねとあるなれは、かれずと讀まんこと然るべし
 
或本歌發句云
あるふみの歌のはじめの詞に云、これ古注者の追加也。一本の集には、左の如くに第一第二の句替れるを注せし也
 
明日香川今毛可毛等奈
あすかゞは、いまもかもとな
 
(291)本集のけふもかもあすかのかはのと云一二の句を如v斯替りて書きたる本ありしを、古注者所見あるゆゑ、こゝに注せし也。此或本の句にて、遷都の時節の歌と聞ゆる也
毛登奈 前にも注せし如く、よしなと云義也。よしなといへる意、あすかの都より、藤原へ被v遷たる此うつりかはれるあすかゞはなるに、けふもよしなく夕かれず鳴くかはづの川瀬のさやけかるらんとの歌也。しかれば兎角遷都の時節に詠める意ならでは、かくの如く詠める義心得がたし。よりて當家の流には、兎角遷都の時の歌と見る也
 
山部宿禰赤人歌六首
 
357 繩浦從背向爾所見奧島榜回舟者釣爲良下
つなのうらゆ、そむきにみゆる、おきつしま、こざまふふねは、つりしつらしも
 
繩浦從 つな、なはいづれとも決しがたけれど、前に注せる如く、この歌もあはぢの國より、のぼる時の歌と見る故、つなとは讀む也。ゆとは前にも注せる通り、よりといふ古語也
背向 そむきむかふ也。うしろざまにかへり見る義也。眞向に見ざるを、そむきてむかひに見ると云也。つなの浦を通るには海中のおき中の嶋は、うしろざまに見ゆると聞えたり
奧嶋 海中の沖の島也。その嶋をこぎめぐる舟は、つりをするにてあらめと也
歌の意聞えたる通也。つなの浦よりそむきにかへり見やれば、沖中の嶋に、ふねのこぎめぐれるは、定めて此舟はつりをするならんと、當然の景色を見やりて詠める他
 
358 武庫浦乎※[手偏+旁]轉小舟粟島矣背爾見乍乏小舟
むこのうらを、こぎまふをぶね、あはしまを、そむきに見つゝ、ともしきをぶね
 
武庫浦 攝津國也。赤人の西國より往來の時の歌にて、此歌は上るときの歌と聞えたり
※[手偏+旁]轉小舟 これは、赤人の乘りたる船をいへると聞えたり。武庫の浦をこぎめぐる折しも、あはしまの方を、後ざまにかへり(292)見る景色の、ところを詠めると聞ゆる也
粟島矣 紀州のあはしまか、あはぢのしま歟。不分明也。この浦からはそむきに見ゆるなるべし。昔と今とは、地理も同じからざるものなれば、今にてはあはざる方角の事もあらんか
背爾 前の歌に皆向とある故、向の字を畧せる也。此集の格也
乏小舟 ともしきは珍しきといふ義也。然ればこの浦をこぎめぐるをぶねの、面白き景色を見るといふの意にて、珍しきかなと感じて、二度上の小船をよび出せる也。赤人の舟にて、むこの浦をこぎめぐるに、あはしまのうしろ樣にかへり見えけるを、眺望して景色の面白き珍しき舟なりといへる意と聞ゆる也。都の方へのぼるには、むこよりは粟嶋は、後になりてかへり見る故、そむきにと詠めるなるへし
 
359 阿倍乃島宇乃住石爾依浪間無比來日本師所念
あべのしま、うのすむいしに、よるなみの、まなくこのごろ、やまとしゝのばる
 
阿倍乃鳥 攝津國なり。八雲御抄にも、つの國と有。尤此集この歌の列をもて、御抄にもつの國とのせさせられたる歟。外につの國と云證未v考也。武庫の浦のつゞきの歌ゆゑ、先はつの國と見ゆる也
宇乃住石爾 此句に意無し。下の依浪のまなくと云はんため迄の序句也
歌の意、たゞやまとの戀しき事、ま無くひま無く忘られぬといへる義迄の歌也
 
360 鹽干去者玉藻刈藏家妹之濱※[果/衣]乞者何矣示
しはひなば、たまもかりてん、いへのいもが、はまづとこはゞ、なにをかみせん
 
刈藏 古本印本共、かりこめと讀ませたり。これは刈りて來めといふの意にて、藏の字はをさむると讀む故、こめるの意を兼ねて、籠を來めとよそへて、讀める意ならんか。然れども少むつしき處もあれば、おさむの一言をとり、かりてのては付よみにして、かりてんとはよむ也。此方義もあかるく聞ゆべからんか。鹽ひなば海の藻をからんとの義也
(293)濱※[果/衣] 家づとなどいふに同じ。海邊へ往ける人の、家に歸るさのみやげの事を濱づとゝいふ也
何矣示 示は前にも注せり。視と通ふ也。よりて何をか見せんと讀み、又は何を見せなんと讀みても同じ意也
歌の意は鹽ひたらば、海藻を刈りてん。いもが濱づとを乞ひたらん時、何も見すべきものなければ、玉もを刈りて濱づとにせんと也
 
361 秋風乃寒朝開乎佐農能崗將超公爾衣借益矣
あきかぜの、さむきあさけを、さぬのをか、こゆらんきみに、きぬかさましを
 
朝開乎 あさといふ義也。夕けともいふ。いづれもたゞあした夕といふ義を、けといふ詞を添へたるもの也。これらを雅語といふ也。あさと計り夕と計にては、言葉短かくて、雅情無きゆゑ、我國の雅風は凡て詞を長くいふを雅言とする也。けといふに意は無き事也
佐農崗 仙覺抄に紀伊國と注せり。その外、近來の抄共にも紀の國と記せり。何ぞ證明所見ありけるにや。當家の流には歌の次第を相考ふるに、和泉河内の内にてやあらんと見る也。尤紀州にも此地名あるべけれど、既に今存在して、和泉にもさのといふ處有也。然れば此歌の列を見るに、武庫あべの次第なれは、いづみ河内の國のさぬにてあるべきと見るなり。猶追而可v考也。さて此佐農崗を讀み出せるは、何故詠めるぞなればさぬはねると云義也。此集の歌の格、凡て古詠の格、皆この格あることをよく/\味ふべし。これはさぬの崗にねて寒き朝けをおきて越ゆらんといふ義に、さぬとは詠み出せる也。上に朝けをと詠めるてには隔句の體也。さぬのをかに寢て、寒き朝けを越ゆらん君にと詠める意也。此歌はさぬとよみ入れたるところを專と見る歌也
 
362 美沙居石轉爾生名乘藻乃名者告志五余親者知友
みさごゐる、いそわにおふる、なのりその、なはのれしこよ、おやはしるとも
 
美沙 倭名鈔卷第十八鳥部云、爾雅集注云、雎鳩、雎音七余反、倭名美佐古、※[周+鳥]※[層+鳥]也、好在2江邊山中1亦食v魚者也云云。みさご(294)ゐるいそといふ迄皆序詞也
石轉爾 いそのめぐり也。さわぐといふ詞を、わとはいふ也。うらわなどいふも同じ
名乘藻 海の藻の名也。日本紀卷〔第十三允恭紀云、十一年春三月癸卯朔丙午、幸2於茅渟宮1、衣通部姫歌之曰。等虚辭倍邇、枳彌母阿閉揶毛、異舍儺等利、宇彌能波摩毛能、餘留等枳弘。時天皇謂2衣通郎姫1曰。是歌不v可v聆2他人1、皇后聞必大恨。故時人號2濱藻1、謂2奈能利曾毛1也。〕倭名鈔〔藻類云、本朝式云、莫鳴菜【奈々里曾】楊氏漢語抄云、神馬藻、【奈能利曾、今案本文未詳、但神馬莫v騎之義也。】〕この句も、名はのれといはん爲の序也。古詠の風格序歌體といふもの也
名者告 此句をいひ出でん爲に、上の句をだん/\といひ來りて、女の名はなのれといふの事也
志五余 須臾よといふ義也。しもすも同音にて、すこといふ義也。或抄のりし子よと云釋をなせれども心得違の説也。すことは此集中いくらも例あることにて、女の事をすことはいふ也。第一卷頭の歌にも、なつむすこと詠めるをはじめ、集中あげて數へがたし。しを助語と見るは、歌の意をいかゞ見たる説にや。のりしと助語に見ては、下の句不v續。歌の意不v通也。しと書きても、すこといふ義と心得べき也
親者知友 女の名を名のりて、われに從へよ、たとひ親は知るとも我つまとせんとの意也。これは海邊にて女抔を見て詠める歌と聞えたり  
 
或本歌曰
 
363 美沙居荒磯爾生名乘藻乃告名者告世父母者知友
みさごゐる、あらいそにおふる、なのりその、のりなばのれよ、おやはしるとも
 
告名者告世 名をなのるそなたのれよと也。一説にのる名は名のれと云の意とも釋せり。いづれにても意は少の違計にて、同じ義也。本集の歌の意と同前の事にて、赤人海邊抔にて、をかしき女を見て詠める歌と聞ゆる也
 
笠朝臣金村鹽津山作歌二首
(295)かさのあそむかなむら、しほつ山にてつくうるたふたくさ
 
笠朝臣 前に注せり
鹽津山 近江國也。倭名鈔卷第七國郡部云、淺井郡鹽津【之保津】八雲御抄には、越前と注せさせ給ふは、此次の歌によりてあやまらせ給ふなるべし
 
364 大夫之弓上振起射都流矢乎後將見人者語繼金
ますらをの、ゆはずふりたて、いづるやを、のちみんひとは、かたりつぐかね
 
弓上 弓を射るには、本はずをふりおこしたてゝ、射るもの故、弓はずふりたてと也。上の字をはずと讀むは義訓也。日本紀神代紀に、振起弓※[弓頁肅]をゆはずふりたてとよめり
繼金 つくかにとも、かねとも、かなとも讀むべし。意はいづれも同じ事にて、かたりつぐにてあらんとの義也
比歌或抄には、いかなる心にて詠まれたるか、少し心得がたし。精兵故後世まで名をのこさんとて、彼山の木などに、矢を射込まれるにやと書けり。いかさまにも、此歌を詠み給ふ金村の意趣は知れ難けれど、歌の意は聞えたる通の歌にて、古代は旅行などする時、山路深林などを通ふには、きはめて魑魅魍魎の氣を退散せんが爲に矢を發し、鳴弦などをせしこと也。此歌もその當然の義を詠まれたる義と見ゆる也。いかさまにも精兵などにてありし故、木などに矢を射込みて、後の代にも知らしめんとの意にてもあるべき歟。旅行の山中に入るとき、弓を射發つ事は、此歌にても古實の義と知らるゝ也。矢の根には姓名を彫込み、あるひは朱などにて※[竹冠/矢]中にも記せる也。昔もさこそありしとおぼゆ。それゆゑ、のち見ん人はかたりつぐかにと詠みて、今かく射發てる矢の、木にもあれ射こみ殘りたるを、後に見ん人、誰れそれの射てる矢といひ傳へ語りつがんと也
 
365 鹽津山打越去者我乘有馬曾爪突家戀良霜
しほつやま、うちこえゆけば、わがのれる、うまぞつまづく、家にこふらしも
 
鹽津山 前に注せり
(296)馬曾爪突 これは旅行の時、家にこひしたふものあれば、其人路次にて蹶くといふ諺あり。その義によりて詠める也。乘れる馬つまづけるゆゑ、家にある妹のこひ慕ふにぞあらんと詠める也。今も旅行の跡にては、よろづの事をつゝしむと云ならはして、怪我あやまちなどあれば、かならず旅行の人に應ずるとて、つゝしむことのあるは、昔よりの諺と聞えたり。此集第七第十三にも、馬のつまづくといへることを詠める、皆家なる人の慕ふにてあらんとの意地。爪突は蹶、※[(壹の豆をヒ)/疋]、※[足+易]等の字也
歌の意きこえたる通也
 
角鹿津乘船時笠朝臣金村作謌一頸 并短歌
つのがのつにてふねにのるとき、かさのあそぬかなむらつくるうた
 
角鹿津 越前國也。今は敦賀といふは訛也。日本紀卷第六垂仁天皇〔紀二年の條一云の中、額有v角人乘2一船1泊2于越國笥飯浦1、故號2其處1曰2角鹿1也。云々とあり〕倭名鈔卷第五國郡部云、北陸郡越前國敦賀【都留我】
 
366 越海之角鹿乃濱從大舟爾眞梶貫下勇魚取海路爾出而阿倍寸管我※[手偏+旁]行者大夫乃手結我浦爾海未通女鹽燒炎草枕客之有者獨爲而見知師無美綿津海乃手二卷四而有珠手次懸而之努櫃日本島根乎
こしのうみの、つのがのはまゆ、おほぶねに、まかぢさしおろし、いさなとり、うみぢにいでゝ、あへぎつゝ、わがこぎゆけば、ますらをの、たゆひがうらに、あまをとめ、しほやくけぶり、くさまくら、たびにしあれば、ひとりして、みるしるしなみ、わたつみの、てにまかしたる、たまだすき、かけてしのびつ、やまとしまねを
 
越海 北陸道越前加賀能登越中越後、この五ケ國をすべてこしの國とはいへり。此こしの海といふは、越前の國の海をさしていへる也。北陸道をさしてこしといへる義は、いかなる譯とも知れがたし。此歌の發句の意は、越前の國のつのがの濱より、ふねにのれることを先よみ出せる也
(297)貫下 此集中此句數多あり。古本印本ともにぬきさげと詠ませたり。然れどもかぢをぬくといふこと心得難く、その上ぬくと云こと船に縁無き詞なれば、さしおろしとよむ也。貫の字はさしさすともよむべき字也。今錢などを繋ぐものを俗にさしといふなれば、語例無きにあらず。さしさすは船に縁ある詞なり。直ちに船をもかぢにてさしつかふものなれば、貫の字は書きたれど、さしとよむ儀と見ゆる也
阿倍寸管 俗にすだくといふ義也。喘の字の意にて、息をせはしくつかふ義也。舟子どもの息をもやすめず船を漕ぐ躰を、我身の上にうけて、あへぎつゝとはいへり
大夫乃手結我浦 越前國つるがにあり。延喜式卷第十神名帳云、越前國敦賀都田結神社。ますらをの手ゆひとは、今兵士の着類具に有籠手といふもの也。男士の着物故、ますらをの手ゆひと讀める也。あしに着する物に、あゆひといふ有。日本紀に脚帶と書けり。然れば手帶と書くべからんか。脚帶は今俗に、もゝひききやはんといふもの也。古詠の風格、たゞ手ゆひといふ事をいはんとて、大夫とよみ出せり
海未通女 此集中に毎度よみたる義訓也
鹽燒炎 大夫のといふより、これまでの句皆意無く序詞にて、此鹽燒炎といふまでの序也
獨爲而 たゞひとりといふ意也。ひとりしてとも居てとも可v讀。妻子をも故郷におきて、たゞひとり物うき旅なれば、海士の鹽燒景色などを見るに、心を慰むるしるしも無きと也
見知師無美 あまの鹽燒炎を見ても、心も慰まで、旅の物うきを消しやるしるしも無きとなり
綿津海乃 海神の義をさしてなり
手二卷四而有 海神の手にまかせる珠といふ義也。玉をつらねて足にかざり付くるを足玉といひ、手につらねてぬきもつを手玉といふ也。海神に限らぬ事なれど、萬の珠は海より出來るものにて、殊に日本紀神代下卷〔又問曰、其於秀起浪穗之上起2八尋殿1而手玉玲瓏織袵之少者是誰之子女耶、答曰云々〕如v此の縁ありて、此歌海路の詠なれば、かく詠めるも理也。必竟手すきには、何の意もなけれど、下のかけてといはん爲の序詞也
(298)懸而之努櫃 かけてと云義は、こゝよりかしこを思ひやり、心をかけりやりてとも云義地。第一第二卷の歌にも毎度注せり
日本嶋根乎 金村、大和國古郷なるゆゑ、こしの國へ下れる海路の景色を見て、たゞひとりのみ見る景色なれば、慰むるしるしも無く、身はこゝにありても、心はかけりて古郷にある如く、大和の妻子などを慕ひ思ふ意を詠めり
 
反歌
 
367 越海乃手結之浦矣客爲而見者乏見日本思櫃
こしのうみの、手ゆひがうらを、たびにして、みれば乏しみ、やまとしのびつ
 
乏見 たびにして見る景色の、めづらしきと也。然ればひとりのみ見れば、珍らしき景色につけても、古郷のしのばるゝと也。このともしみといふには、心細くものさびしきといふ意をこめて、詠めると聞ゆる也。乏は珍らしく物のすくなき事をいへる義なり。然ればおのづから心細く寂しきといふ意もある故、乏しみと詠めると見えたり
 
石上大夫歌一首
いそのかみのまうちきみのうた一くさ
 
此人誰れとも難v考。後注者左に注せる通ならんか
 
368 大船二眞梶繁貫大王之御命恐礒廻爲鴨
おほふねに、まかぢしゝさし、おほきみの、みことかしこみ、いそみするかも
 
大船二 大ふねなる故、かぢを何挺もしげくさして海路をわたると也
大王之命恐 天子の命をうけて、任國に下れる時か、何とぞおほやけの事につきて、海路の旅行をし給ふなるべし。かしこみとは、天子の命令をおそれて、あやうき海の上をもめぐるとの義也
礒廻 これをいさりするとも、あさりするとも讀ませたれど、兩義とも心得がたし。いそめぐりと書きたれば、めぐりの約言はみなり。國見をするといふ古語もあれば、礒廻の二字をいそみと讀むべし。意はいそめぐりをするかなといふ義也。天子(299)の命令をおそれて、あやうき海をも大舟にいくらものかぢをさして、いしなどそばだち、あらき波うつあたりをも、いとはでめぐるとの意也
此歌は、すこし旅行を辛苦に思ひなしたる意をふくめる歌也。さるによりて、次の和歌の意にもそれを示したる樣に聞ゆる也
 
右今案石上朝臣乙麿任越前國守蓋此大夫歟
みぎいまおもふに、いそのかみのあそんおとまろ任越前國守、けだしこのまうちぎみか
 
石上朝臣乙麿 此左注の通りにてもあるべき歟。石上大夫とばかりの標題にては、いづれとも難v考。前の歌の次第越前の歌なれば、いづくの海路とも知られねど、撰者歌の列を心得て載せたるか。然れば乙麿越前のかみにて下れる時の歌なるべし
 
和歌一首
 
369 物部乃臣之壯士者大王任乃隨意聞跡云物曾
ものゝべの、おみのをのこは、すめみことの、よさしのまゝに、きくといふものぞ
 
物部乃 前に人丸の歌にても注せる如く、ものゝふとも、ものゝべとも讀む也。武男のものゝ惣名也。尤饒速日命の御苗裔に、ものゝべといふ姓もありて、石上朴井など云氏にわかれたり。石上氏も同姓なる故に、かくよめるならんか
壯士 これを古本印本等たけをと讀ませたり。尤さかんなるひとならば、たけきをとことも云ふべけれど、上におみと詠める詞のひゞきには、假名は違ひたれど、をのこと讀まん方然るべからんか。をのこもたけをも意は同じかるべし
大王 これを此集中皆おほきみのと讀めり。こゝもさ讀むべけれど、古葉畧葉集に此三字の下に言之の二字あり。通例の本には皆無v之。然れば正本には言之の二字ありしを、今の本脱したるにてやあらん。おぼつか無し。よりて兩義をかねてすねにことのとは讀むなり。大王とは天子の御事をさしていへる義なれば、言之の二字をかねて、すめみことのとよむ義然るべからんか
任乃隨意 すめらみことのみことのり通にと云義也。よさしとは、國守などによさゝれし義をいへるなるべし。何事にまれ、(300)天子の仰せごとにはそむかず、みことのりのまゝにしたがふとの義也
聞跡云物曾 王命にはたかはず、みことのりのまゝにうけたまはりつかふる筈のものと也
歌の意は、ものゝふのたけき臣下のうへにては、君の仰せごとにまかせて、心にかなはぬことをもしのび堪へて、みことのりのまゝきゝ仕ふる筈のものぞ。それをこそ臣たるもの道を守るといふものぞと、前の歌のいましめたる歌と聞ゆる也。不敬の意あるを、王命をおそれ、いそみをするかなとよめるは、おそれずばかく辛勞をもせまじきにといふ意を含みたる歌に聞ゆる故、かくいさめし歌なるべし
 
右作者未審但笠朝臣金村之歌中出也
みぎつくるひと、いまだつまびらかならず、かさのあそんかなむらがうたのなかにいづる也
 
例の古注者の文也。たれ人のこたへ歌とも知れざる也。金村の歌中に出づとあれば、古注者所見と聞えたり。然らば金村の歌にてもあるべきか。いかんとなれば、金村の鹽津山の歌前にありて、次に越前角鹿の歌を載せられたるは、此時金村同道にてもありしか。歌中に出るとあれば、少のより處也
 
安倍廣庭卿歌一首
あべのひろにはのかみのうた一首
 
安倍廣庭 前に中納言安倍廣庭と出たり
 
370 雨不零殿雲流夜之潤濕跡戀乍居寸君待香光
あめふらで、とのぐもるよの、しめ/”\と、こひつゝをりき、きみまちがてら
 
殿雲流 空の一まいに雲のたな引き曇れるをいふ也。たなぐもりといふも同じ。俗言にどろりと曇るなどいへる此事也。雲の晴れ間無くうつとう敷曇りたるを、古語にとのぐもり、たなぐもるなどいへり。尤此集中に多く詠めり
潤濕跡 これを古本印本等には、ぬれしかと、ひぢたれとなど詠めり。上にあめふらでとありて、ひぢぬれるとの義心得難く、(301)殊に潤濕の二字ぬれひぢる意には合がたく、ぬれんとするの意にはかなふべき字なれば、しめ/”\と讀むべからんか。歌の意にもしめ/”\と訓したらんには叶ふべくもあらんか。空一まいにくもりはてゝ、雨はふらで、たゞしめ/”\敷夜に、人を待心も同じく、はれ/”\しくもあらず、もの戀しき樣なる義をいふたる事と聞ゆる也。夜の景色と心と相ともにしめ/”\と君を特との義也。下の句意、ものをかねたることをいふ詞也。然れば夜の景色と心と相ともにかねていへる義也
君待香光 このがてらといふこと今俗語にも云傳へり。尤雅語にて古詠に皆詠み來れり。此集中にも多く有。又古今の歌にも、我宿の花見がてらと詠めるがてらも同じ義にて、かねたることをいふ詞也。がてらともがてにともいふ詞にて、これとかれとをかねあはせてなすことを、がてらといふ也。此歌も夜の景色と君を戀乍待居る心の、しめ/”\としたるといふ義に、がてらと詠めると聞ゆる也
歌の意はあめはふらで、雨雲一まいにたな引曇りて、うつとほしき夜、來るとも定まらぬ人を思ひこひ待ち居る心のしめ/”\しきは、うちくもれる夜の景色も相ともに同じければ、しめじめとして、君をこひつゝぞ待つと云義也。夜のしめ/”\しきと人をこひつゝ待ち居る心の、しめやかなるものわびしきと、相かねたることをいふ義に、がてらとは詠める也。畢竟の意は、雨空の夜の景色も、人をこひ詫び居る心も、相ともにしめじめしく待ゐるとの義也
 
出雲守門戸部王思京歌一首
いづものかみかどべのおほきみ、みやこをしたふ歌一首
 
出雲守門戸部王 傳前にあり
思京 出雲國の守となりて、かの國にありて、大和のみやこの古郷のことを、慕ふて詠めると也
 
371 飯海乃河原之乳鳥汝鳴者吾佐保河乃所念國
おうのうみの、かはらのちどり、ながなけば、わがさほがはの、しのばるらくに
 
飯海 出雲國意宇郡の海なる故、おうの海と也。倭名鈔卷第五國郡部山陰郡云、出雲國意宇【於宇】
(302)河原之 海邊よりつゞきたる河原ありしと見えたり
乳鳥 千鳥とも書皆假名書なり。千鳥といふには漢字いづれの字あたらんや未v考。ちどりと名附くる所以はちよ/\となく聲によりて、ちどりとは號くる也。諸鳥諸虫大かた依v聲名を付くる也
汝鳴者 前に人丸の歌にも、夕なみ千鳥ながなけばと詠める歌に同じ意也
吾佐保河 わがとは、門部王の古郷の大和國をさして也。佐保河の邊に家居ありしか。さなくとも河原の千鳥故、佐保の河原の事を思ひ慕ふ心なるべし
所念國 われをおもはるらくとも、おもほゆらくとも詠ませたり。今しのばるらくと詠めるも同じ意也。おもふといふは、慕ひしのぶ義なり。おもふとばかりにては、とりとめて何をおもふ事にや、廣くわたる詞故、慕ふとは詠む也。したふは古郷をこひ慕ふの義也
歌の意はおうの海の河原にて千鳥のなく聲を聞けば、大和國の佐保の河にて、聞きける千鳥の聲を思ひいでられて、いとゞ古郷のことの慕はるゝとなり。一句に鳴かずあれかしといふ餘意をふくみたる歌也
 
山部宿禰赤人登春日野作歌一首并短歌
やまべのすくねあかひと、かすがやまにのぼりてつくるうたひとくさならびにみじかうた
 
登春日野 此野の字不審也。山の字の誤なるべし。あやまるべき字形にもあらねど、篇集の時山と書くを野と書きあやまれるを、その儘に用ゐ來れるなるべし。長歌短歌とも皆山の歌にて、野の歌かつて見えざれば、決して山の字の誤りとは見ゆる也。よりてかすが山にのぼりてとは詠む也
 
372 春日乎春日山乃高座之御笠乃山爾朝不離雲居多奈引容烏能間無數鳴雲居奈須心射左欲比其鳥乃片戀耳爾晝者毛日之盡夜者毛夜之盡立而居而念曾吾爲流不相兒故荷
はるのひを、かすがのやまの、たかくらの、みかさのやまに、あさかれず、くもゐたなびき、かほど(303)りの、まなくしばなく、くもゐなす、こゝろいざよひ、そのとりの、かたこひのみに、ひるはもひのつき、よるはもよのつき、たちてゐて、おおひぞわがする、あはぬこゆゑに
 
春日乎春日山 大和國添上郡にある山也。このはるのひをかすがとうけたる意は、少し心得がたけれども、古來よりの説ども春の日は霞みてのどやかにかすかなる物故、かくつゞくるとの義也。尤上代の歌は、如v此日をといひて、下へつゞくる例もあれども、今時の風體には合はざる讀み也。然れども先づ春の日のと云意と同じ事と見るべし。日本紀卷第四に、春日、此云2箇酒鵝1と有。この春の日のかすがを過ぎてと詠める義、古今不v濟事にて、春日の二字をかすがと訓しられたることも、如何なる由來と云事は知れ難し。これも春の日は霞に映して、光おぼろにかすかなるもの故、かすがと義訓せられたるか。又かすがといふ地名の因縁は、新撰姓氏録、春日眞人、敏達天皇皇子春日王之後也。此古説を證として、傳へ來ること也。倭名鈔卷第六國郡部大和國添上郡山村、春日加須加添上郡にある郷地。その處の山を即ちかすが山と云ひて、四所太神も御鎭座まします山也
高座之 地名とも聞ゆれども、これはみかさへつゞく冠辭なり。高座は天子の御座所たかみくらの義をいひて、天子の高みくらにはかならず御蓋錦蓋といふものある故に、みかさといはん爲の序詞に高くらとはよみ出たる也。地名なれば何の意も無く理るにも不v及ことなれど、添上下郡に高くらといふ地名不v見。廣瀬郡の内には、上倉下倉といふ處あれども、春日山三笠山などとは、郡も道程も隔たれるなれば、上倉などの事とも不v見也。よりて兎角御笠の冠句と見る也。くらといふは、すべてものをじつとすえ置く處を云也。よりて座の宇をも義訓にくらとは讀む也
御笠乃山爾 春日山の中に又少ひきゝ山ありて、今は春日大明神の社のある處といひ傳ふる也。たゞかさ山と計云てみは發語の詞と聞ゆる也。則短歌の次の石上乙麿の歌には笠の山と詠めるにて、みは發語と見ゆる也。春の日をと詠み出せるより是までの句は皆此三笠山といふ句の序詞也。古來の歌は如v此次第をのべて地名を長々と讀みつらねたる歌多し。上古の風體と知るべし。上に何の意は無きこと也
朝不離 諸抄物等ににもあさゝらずと詠ませたり。前の蛙の歌にてはかれずとよめり。こゝもかれずもさらずも同じ意にて、畢竟毎朝にと云意也。前にかれずとよめる故、こゝもかれずとよむなり。意はさらずとよみても同じ義也
(304)雲居多奈引 毎朝雲のたな引ける春の頃の景色をいへる也
容鳥能 この鳥の事古來より何鳥といふこと不v決。古今六帖にも人丸の歌に、かほとりとよみたる歌あり。源氏物語やどり木の卷にも、かほ鳥の聲も聞きしにかよふやとしげみをわけてけふぞ尋ぬるとよめり。定家卿も、このかほ鳥の事何共未v決由かきおかれ、その後諸抄物にも、いづれの鳥といふことを決せざる也。仙覺抄には容鳥とは、田舍人はかぽ鳥といふ是也。かぽ/\と鳴けば鳴聲を、名とせるなりと註したり。此説いかにも可v然なり。凡て語釋の傳にも鳥虫の名は皆鳴聲によりて、名を付くる也。此鳥も今山野林中などにて、かつぽ/\と鳴鳥の事を、容烏とは書きたる也。かつぽといふもかぽ/\といふも同じ事也。容鳥と書きたるより、うつくしき鳥などと云説あれども、これは文字によりたる説にて、難2信用1也。容の字は借訓に用ゐたる字にて、字義による事にはあらず。今一名を呼子鳥といふも、これなるべし。宗師年來の案に、稻負鳥と此容鳥の事諸抄諸歌に心をつくされしに、とかく此容鳥は呼子鳥同烏異名にして、三月の末より夏にかけて、かつぽ/\と鳴く鳥をいへるとの發起なり。倭名鈔普鳥の名をあげ、殊に喚子鳥稻負鳥を並べて、萬葉集を引きてあげたるに、此容鳥を不v載はいかゞしたる事にや。此集は勿論、後々の諸歌にもよめる事はすくなからざるに、何とて不v載ぞなれば、是呼子鳥をあげたる故と見えたり。古今傳授等の説、諸抄物に鶺鴒と稻負鳥を同鳥と世擧げて傳へ來れども、倭名鈔には別鳥と記せり。然れば容鳥古詠諸歌此集に數多のれる鳥なるを不v載は、これ呼子鳥と同鳥故と知られたり。かつぽ/\と鳴く聲、人を呼ぶ聲にその儘なれば、これより名ともせるなるべし。此鳥はほとゝぎすの雌といひならはせり。いかにもさもあるべく、群比をなさず一鳥のみ鳴く鳥故、片戀妻などともよみ、人をこふことに詠めり。源氏物語の歌などによめる意は、※[白/ハ]といふ詞を縁にとりたる義にて、うつくしき鳥といふ義にはあらぬを、後人の見あやまりて、色々の説にとりなせることある也。兎角容鳥とは今かつぽ/\と鳴く鳥の事にて喚子鳥と同鳥と見るべし
間無數鳴 ひたもの/\鳴くとの詞也。かほ鳥の鳴く事如v此なるものとなり
雪居奈須 居といふは助宇にてたゞくもといふ義也。なすはごとくといふの古語、前に毎度注せり。雲居とはたゞ雲の名也。前にも雲居たな引と有。こゝに雲居なすとあり。皆雲といふ義にて、昔は雲とも雲ゐとも云へると聞えたり。今は空又はる(305)かにへだたり遠き事を雲井といふと心得ぬれども、古詠の意は皆たゞ雲といふ義ばかりに聞ゆる也。此歌の二つの居の字、さなくては不v濟こと也
心射左欲比 雲のかなたこなたに、たゞよひ靡き一所に定まらざる如くに、心のいざよふと也。いざよふとは一方にじつときはめ定めず、これかそれかとためらふことをいふ義也。射、この字を訓に讀みて、左欲比と書けること心得難き樣なれど、此集中此格數多なり。日本紀古事記等の格は、少違へる義なり。十六夜の月をいざよひの月といふも、月の出づるか、不v出かと暫ためらふをもていふなり
其鳥乃云々 容鳥は、群類をなさぬもの也。たゞ一鳥のみ鳴く鳥也。よりて如v此片戀耳とは詠めり。畢竟赤人の思ふ人に逢はぬ事を、容鳥の片戀に鳴く樣にとよそへて詠める也
念曾吾爲流 容鳥の片戀してひた鳴きに人をよぶ如く鳴く樣に、赤人の思ひをなすと也
若兒故荷 兒故とは女の通稱にいへる事也。此集中の格也。我子の事にはあるべからず。反歌に戀もするかもとよめるにて兎角戀歌と見ゆる也。兒故荷にと詠めるも、是容鳥はよぶ子鳥ともいへば、その下心をふくみたるか
歌の意は春日山に登りて容鳥の鳴くに付けて、我思ひの情を、その鳥によそへて詠める也。標題に登2春日山1とありて、さして山興風景のごとは無くて、たゞ人を戀ふおもひを述作せる歌なり。是等の事は、古代の風格を知らざれば心得難き樣なれど此集中此格多き事にて、上代は風景景色につけても、皆その身のおもひをのべたることにて、上古の歌は此義第一の見樣ある事也。既に此歌も、山色風景の事は一つも無く、たゞおもひの事を、段々と云ひ述べたる計なり。實は戀歌ともいふべき歌なれども、極めてそれと指せる處の無き戀の情を述べたる歌故、雜歌の部には入れたると見ゆると也。後の撰集の歌の格、此格に同じき也。其心得を以て不v見は後撰の歌も不v通事多也
 
反歌
 
373 高按之三笠乃山爾鳴鳥之止者繼流戀哭爲鴨
(306)たかくらの、みかさのやまに、なくとりの、やめばつがるゝ、こひもするかも
 
高按之 長歌の座之字も按之字も同意にて、高みくらの義をいひたるもの也
鳴鳥之 長歌の容鳥をさして云へる鳥也
止者繼流 かのかほ鳥の鳴きやむかとすれば、ひたもの/\あとよりつゞきて鳴くごとく、赤人の人をこひ思ふ心も、ひたもの跡より追つきて、そのおもひの情の不v絶、やまれぬこひをもするかなと、春日山にのぼりて容鳥の聲を聞きて、それより歎慨を起して情を述べたる也
哭 此字をもとよむ事前に注せり
歌の意聞えたる通、おもひの不v止、ひたすらに鳴く如く、おもひも止まざるといふことをよめる也
 
石上乙麿朝臣歌一首
いそのかみのおとまろのあそむうたひとくさ
 
石上乙麿朝臣 官中納言兼中務卿也。續日本紀卷第十八〔天平勝寶二年九月丙戌朔、中納言兼中務卿石上朝臣乙麻呂薨、左大臣贈從一位麻呂之子也云々とあり〕
 
374 雨零者將盖跡念有笠乃山人爾莫令盖霑者漬跡裳
あめふらば、さゝんとおもへる、かさのやま、人にさゝせな、ぬれはひづとも
 
將盖跡念有 赤人のさゝんとおもへる義也
笠乃山 みかさ、笠ともよみたるは、發語にてたゞかさの山といふ地名と見えたり。上に高按とある時は、天子のみ蓋の意にて、みかさとはよめるなるべし。後々みかさと地名に呼ぶも、か樣の歌にみかさとよみしによりてなるべし。實はたゞかさの山といへると聞えたり
莫令盖 此莫といふ字は、無、勿の字の意にはあらず。たゞてには詞にいへるなり。さゝしむること勿れと云義にては無く(307)なと教へたる詞にて、なんと乞ふ義也。さゝせよといふ意と同じ義と見るへし。此格此集中いくらもありて、てにはのなにて、なかれと躰にいひたる莫の字にては無き也。笠の山と名を負ひたる山故に、あめふらば誰もさゝんとおもふ程に、かさの山はぬれひづとも人にさゝせなんとよみたる歌也。此歌いかゞしたる事を詠めると聞き得難き歌なれども、右の如くに聞けば、笠の山といふ名目に基きて詠める歌也、此集中に此莫の字を書きたる此歌の格いか程もある也
歌の意たゞ笠の山と名におふたる山なれば、雨ふらば誰れにもさゝせ得ん、山はぬれひづともと云義也。歌の全體笠の山といふ名に本づきて詠める歌也
予思案、此歌前の長歌短歌も戀歌をつらねたれば、是も笠の山を女にして、戀の情をよそへ詠みたるにはあらざらんや。雨ふらばさゝんとおもへるとは、赤人の我方へ從へんと思ふといふ意にて、人にさゝせなは外人に手も觸れさすな、外よりたとひぬれひぢてこひわぶるとも、外人へは從ふなと、笠の山を女にしてよそへ詠める事にはあるまじき歟。ぬれはひづともとは、外人のこひ慕ふともと云義ならんか
 
湯原王芳野作歌一首
ゆはらのおほきみ、よしのにてつくるうたひとくさ
 
湯原王 傳不v知
 
375 吉野爾有夏實之河乃川余杼爾鴨曾鳴成山影爾之※[氏/一]
よしのなる、なつみのかはの、かはよどに、かもぞなくなるも山かげにして
 
歌の意不v及2注釋1。よく聞えたるなり
 
湯原王宴席歌二首
ゆはらのおほきみ、うたげのむしろのうたふたくさ
 
(308)376 秋津羽之袖振妹乎珠※[しんにょう+更]奧爾念乎見賜吾君
あきつはの、そでふるいもを、たまくしげ、おくにおもふを、見たまへあがせ
 
秋津羽 蜻蛉のはねの事也。蜻蛉はかげろふともあきつともいふ也。倭名鈔にてはかげろふと訓せり。日本紀卷第三神武紀に蜻蛉のとなめせるが如しの句あり。日本紀卷第十四雄畧紀三年八月の條、雄畧天皇御製にあり。今俗野馬、あるひはとんぼふなどいふ虫なり。その羽美しきものなれば、舞女の義に賞美してあきつはの袖ふるとはつゞけたり
珠※[しんにょう+更]奧爾 此玉くしげおくにとつゞけたる義、不v濟也。句例も外に不v見。若し奧の字何とぞ誤字ならんか。さりとて何といふ字とも案不v付也。ある釋に玉くしげといふものは、婦女の身にそふ物故、はし近くおかぬもの、居所にても奧ふかき所にあるもの故、おくとつゞけたるものといへど、外に句例稀なれば此説にも定め難けれど、別に考案無ければ先奧にとは讀みおき、後考の人を待つのみ。奧にといへる意は、宴に集へるまろうどを深くおもふとの意也と見る也。然れども玉くしげおくとは不v續詞也。なかとか底とかはつゞくべきか。しばらく待2後考1耳
見賜吾君 吾君は君長をさして稱せる辭禮、あがせは賓客を指していへる也。宴席を設けて客をみあへするに、舞女などを舞はしてもてなすは、客人を深く思ふ故と見給へとの義也
 
377 青山之嶺乃白雲朝爾食爾恒見杼毛目頻四吾君
あをやまの、みねのしらくも、あさにけに、つねに見れども、めづらしあがせ
 
青山之嶺 一山をいふにあらず。青き山の美はしき嶺に、白雲のたな引きたるを見る如く、朝夕に見なれても飽かぬとほめていへる義也。畢竟客人を美しき山の嶺に、いさぎよくたな引ける朝夕の雲に比していへる也
朝爾食爾 此句古人の説、夕にまさりてといふことゝいへり。又朝夕といふことゝ釋したれど、何としてあした夕といふ事をあさにけにとはいへる義との釋も無く、又朝夕といふ義ならば、あさ夕にと讀みてすむべき事なるに、夕のことをけにとは何とていへるやらん、不v濟義也。宗師案には、古記の重字を書く古實朝々食々と書くなれば、これも朝爾食爾と書きたるは、朝(309)々食々と書けるを訛りて爾の字に書き、又朝二食二と有けるを、あさにけにと心得て、朝爾食爾と書ける歟。二の字は上をゆりたる字、古書皆何二々々と書ける例多し。然らばあさけ/\といふ義にて、あさに/\といふと同じ意也。古記古書に重詞を書例皆如v此なり。あさけ/\といふ義を、朝け夕けと書くは古實なれば。それを後人轉寫しあやまりて、如v今書けるにてやあらんと也。又一案に夏まけて冬まけてといふことあり。此あさにけにもその格の詞ならんか。然らばけといふはくれといふ約言也。夏まけ春まけと云ふまは發語の詞にて、夏くれ春くれてといふ義なり。此朝にけにもあしたにくれにといふ義歟。くれの約言けなれば、決してあしたにくれにといふことを、古語に約してあさにけにと詠めるなるべし。さなくては此あさにけにといふ釋いかんとも不v通也。此歌の意も、あけくれに見れどもあかずめづらしき賓客と、まろうどをほめたる歌の意也。細注に不v及、聞えたる通也
 
山部宿禰赤人詠故太政大臣藤原家之山池歌一首
 
故太政大臣 淡海公不比等也。續日本紀、文武紀、元正紀、考謙紀、廢帝紀に見えたり。律令之撰者也。延喜式卷第廿壹諸陵式云、多武岑墓【贈太政大臣正一位淡海公藤原朝臣在2大和國十市郡1】懷風藻序云、藤太政之詠2玄造1。謄2茂實於前朝1飛2英聲於後代1云云。同云、贈正一位太政大臣藤原朝臣史五首。或抄に故の字の下に、贈の字を脱せるやといへり。故の字あれば、苦しかるまじき歟。贈の字ありとも可v然也
藤原家之 淡海公の居所、藤原といふ處にありて、その作庭の池を見て詠ぜるなり。大職冠の時藤原の姓を賜ふ事は前に注せり
 
378 昔者之舊堤者年深池之瀲爾水草生家里
いにしへの、ふるきつゝみは、としふかき、いけのなぎさに、みくさおひけり
 
昔者之 古本印木共に、いにしへのと詠めり。尤此三字にては、かく読むべきことなれども、昔者と書きて古へと讀まんには、之の字はあるまじきことなるに、之の字を加へたるは、者の字若し見の字をあやまりたるにやあらんか。然らば昔見しにて、(310)歌の意もよく連續すべき也
年深 としふかみとも讀ませたれど、下の池につゞく句なれは、深きと讀むべき也。年ふかきとは年ふりたるといふ意也
池之瀲爾 瀲の字、日本紀神代下卷なぎさと讀ませり。倭名鈔には渚の字を記せり。字義同意なる故也。なぎさとは、波打ぎはといふと同じ所也。畢竟水際の事を云。汀といふとも同じ義ながら、少づつの違あると見えたり
水草生家里 大臣のましまさゞる故、庭の池などもあれ行きて年ふるまゝ、水草も生繁れることをいたみて詠める歌也。或抄には舊堤と詠めり。大臣の朝廷を、能守護し給ひしことをふくみて詠めるなどいふ説あれど、牽合附會の義也。たゞふりにし昔を慕ふ意はふくめる意と見えたり
 
大伴坂上郎女祭神歌一首并短歌
おほとものさかのうへのいらつめ、かみをまつるうたひとくさならびにみじかうた
 
大伴坂上郎女 傳不v祥。大伴氏誰人の女といふ事くわしくは難v考。家持駿河麿等と贈答の歌奧に至りてあまた出たり。坂上は地名也。そこにありし郎女故、如v此いへると見えたり
祭神 これは郎女戀ふ人ありて、それにあはんことを祈りて神をまつれるか。左注の趣は、大伴氏の神を供祭の時、聊つくるとあれども、歌の意は全く人にあはぬことを歎きて、神祭を設けて祈る歌の樣聞ゆる也
 
379 久堅之天原從生來神之命奧山乃賢木之枝爾白香付木綿取付而齊戸乎忌穿居竹玉乎繁爾貫垂十六自物膝折伏手弱女之押日取懸如此谷裳吾者折奈牟君爾不相可聞
ひさかたの、あまのはらより、うまれこし、かみのみことを、おくやまの、さかきのえだに、しらがつけ、ゆふとりつけて、いはひべを、いはひほりすゑ、すゞたまを、しのにぬきたれ、ししゞもの、ひさをりふせて、たをやめが、あふひとりかけ、かくだにも、われはをらなむ、きみにあはじかも
久堅之 神のみことゝいはんとて、神明は高天原より生出給ふたるといふ次第を、先よみ出でたる古詠の例格なり。神のみこ(311)とをといふ迄の次第序文也
神之命 神明を祭らん爲に、おく山の何に/\といへる也。神の命とは神を祭とてといふに同じ
奧山乃 これらの義、古代事實をおのづから詠める也。上古の神をいはひまつる神具に用ゆる木は、たゞ人の近くなれ、けがらはしき木を不v用、深山嶮難の坂路の人の踏みもし、けがさゞる處の木をとりて祭れる事也。この古實の義は、神代上卷にて奧秘の傳あることなれば畧v之。まづ何となく奧山のとあるはたゞ假初の事ながら、上古の事實をあらはしたる義と知るべし奧山といはず、おひ立るさか木のとも讀むべき事をかく詠めるは、おのづから時代の古實のそなはりたる事なり
賢木之枝 日本紀神代上卷云、堀2天香山之五百箇眞坂樹1、而上枝懸2八坂瓊之五百箇御統1、中枝懸2八咫鏡1【一云眞經津鏡】下枝懸2青和幣【和幣此云尼枳底】白和幣1。倭名鈔卷第十三祭祀具云、楊氏漢語抄云、龍眼木【佐加岐】今按龍眼者其實也見2本草1。日本紀私記云、坂樹刺立、爲2祭v神之木1。今按本朝式用2賢木二字1漢語鈔用2榊字1並未v詳。仙覺抄には、さかきはさかえたる木といへり。元來さかきと云文字は、漢字には不v見。榊の字は此方にて作りたる和字也。常盤にて枝葉繁茂する木なる故、神木に用ゐ來れるより、榊とは作れる字なるべし。實は坂木と書ける義本義なるべし
白香付 苧をつけたる義なるべし。仙覺抄にはしらかみの四手と釋せり。上古の神祭に紙を用ゆる事心得がたし。紙は木綿の代りに用ゆるなれば、此白香は苧の事なるべし。白香といふは松蘿、さかりごけの事をも云也。しらがの語釋はしらくさ也數十年を經たる古木には、きはめてさがり苔といふもの白く、白髪のさがりたる如くに、生たれる也。上代はこれをもて神祭の具に備へたる也。いたつて清潔のもの也。下に又木綿とあるは、青にぎてに用ゐたる歟。是紀にては青和幣は麻、白和幣は木綿也。此歌にての意少心得がたし
木綿取付而 仙覺抄に白にぎて、青にぎてなるべしと注せり。此處には不v合説也。あらたへ、にぎたへをもて神を祭るの義也。然れば白香といふは木綿のことにてあるべきを、この歌にては少紛らはし。然れ共或ひは同物を用ゐたるか。白にきて青にぎてと云は不v合也
齊戸乎 仙覺抄にも、み酒をかもする瓶と注せり。上古神を祭るには、極めて酒をもてまつれり。よりて先づ酒瓶をほり居て(312)まうけるなり。奧の歌にもみもろをすゑなど詠める皆此類也。然れば上代の古語に、神に奉る神酒を設ける處をいはひべといひしなり
竹玉を 仙覺抄に、陰陽家に祭りの次第を問ひ侍りしに、たかたまといへるは、我朝の祭の中に、昔は竹を玉の樣にきざみて、神供の中にかけて飾れる事有となん申。且たけたまとは云はず、たか玉と云と答へし由注せり。いかさま有べき事ならんか。然れ共、陰陽家は元來道家と云ひて、我本邦の神祇神祭の事を傳ふる家にあらざれば、此説本邦の古記證明無2所見1故、本儀とも難v決。よつて宗師案には、本邦の古實は鈴を玉として、神を祭れる事あれば、この竹玉の二字は、鈴玉の義訓に書きたるにやあらん。若し小竹と書きてしのとも讀み、しのはすゞとも讀めば、その略書にてすゞたまと読むべきこと也。此説古實に疎き人は心得難からんずれとも、神代の古風、上古の古事を考ふれば、鈴玉の訓書と見ること甚當理ならんかし。下の繁爾貫たれも別に案ある事也。是も上に引ける神代の日神を迎へ祭れる時の神事、上枝懸2八坂瓊之五百箇御統1とあるの遺風也
繁爾貫垂 歌の詞、此集中凡て其縁詞を不v離事を專とする習あり。よつて此しゝにぬきたれと有も、すゞ玉をすゝにぬきたれといふ義と見ゆる也。神代上卷岩戸の段に語例ありて、神祭の義なればすゝ玉をすゝに貫きたれと讀めるなるべし。しゝはすゝ、しぬと同じ詞也。しげにぬきとは、語例句例も無き詞なり。しゝにと詠める點は、尤然るべし。しゝはすゝ、しぬと同じ詞なれば、神代の五百箇のすゝの例をもて詠めると見えたり。すゝはすゝきの事、又しの竹のことをも云也。繁をしのとか、すゝとか讀まざれば此歌の次第不v濟也。いかにとなれば、上の白香木綿は賢木に付とよみて中に齊戸の事を云、句を隔て竹玉をぬきたれとは、何に貫きたれる事にや。これ貫きたれるもの無ければ、繁爾と云はすゝか、しのにて無くては不v叶義なり。然れば坂木としのとをもて、神を祭るの具相備ることを知るべし
十六自物 前にも注せる如く、しゝのかしこまりおそれて、膝を折て伏したる樣に、神を伏し拜むとの事なり
手弱女之 郎女の自身の事を云へる義也
押日取懸 押日は上着也。制未v考。男女ともに、上に着する衣也。うはおそひといふ是也。女服に限りたる樣にいふ説あれども、日本紀古事記によれば、男女の服と見ゆる也。〔古事記中日本武尊と宮簀姫との唱和に意須比能須蘇爾とあり。又日本紀(313)仁徳卷四十年の條の歌に、ひさかたの、あめかなはだ、めとりが、おるかなはだ、はやぶさわけの、みおすひがねと有〕
如此谷裳 かやうにもといふ義也。前段々と述べ來れる如くに、神祭をなしてといふ義也
吾者折奈牟 此折の字、重覆の無點本の第四巻目は悉三巻目の歌也。然るにその重覆の無點本に、此折の字祈の字なり。重覆の益此一字也。先達諸抄にも是を不v考故、皆をらなんといふ點をなせれども祈の字にあらざれば聞得難ければ、決而祈の字と見ゆる故、當家の傳にはこひなんと讀む也。祈の宇はいのりとも、ねぎとも、のみとも讀まるべけれど、反歌乞の字を書きたれば、こひとは讀む也。偖このこひ奈牟といふ義、兩義とも三通にもよみ解かるゝ義ありて、いづれとも一決し難き也。いかにとなれば奈牟の字は左注の意によれば、大伴氏の神祭るとき、坂上郎女いさゝか此歌を作れる趣にて、身にとりて神祭をなしてよめるとは不v聞。同氏の男子先祖の神、或は詔神を祭れる折節、思ふ人に不v相ことを歎きて、かく祭れるごとくに、われも神に祈らなんと願ふ歌と見ゆる也。このなんと云は、われも君にあふ事を、前段々の神祭の次第の通執行にて祈らなんと願ふ詞と見る意也。又義は如v此だにもわれはとある詞は、直ちに郎女かやうにだにこひのめども、その神靈の君にあはぬかもと、君といふは直ちに祭るところの神をさしていへる義にて、その時の奈牟はなもといふ詞と見る義あり。これは本集に神祭歌と標せし儘に隨ひての見樣也。古注者所見ありて年月迄を注しておきたれば、兩義いづれとも難v決歌也。だにといふ詞はもといふ詞に通へる也。かやうにもといふ意也
君爾不相可聞 此きみとさせるは、前に注せる如く、祭るところの先祖の神靈をさしていへるか。又思ふ人ありていへる歟。兩義と見ゆる也。思ひ慕ふ人に不v相故に、如v此神祭をもなせる歌とも聞え、又こひ慕ふ人に不v相故、神祭の時にあたりて、男子の神祭をなせるを見て、われも女ながら如v此にも祭らんならば、人にあふ事もあらんやと歎きて詠める歌歟。いづれとも決し難き歌也
 
反歌
 
380 木綿疊手取持而如此谷母吾波乞嘗君爾不相鴨
(314)ゆふだたみ、てにとりもちて、かくだにも、われはこひなん、君にあはぬかも
 
木綿疊 此ゆふだたみといふ事、古來不v濟事也。然れども後世の遺風ある物をもて相考ふるに、これは上古神を拜する時、平伏してぬかづく所にしけるものと見えたり。然れば木綿にてしたるたゝみといふ意にて、今なづらへ云はゞ風呂敷の如くなるものなるべし。佛家には座具といふといふものあり。此類なるべし。畢竟木綿は清淨のもの故、旅行などにて、神を拜し迎ふる時それを前に敷て、その所へ神を迎へておかむ爲に、人々手にかけて神に迎へたるものと見えたり。今の俗、神を拜するにあふぎを披きて、前に置、それにぬかづく事はこれ木綿だたみの遺風なるべし。此集中に五首あり。手向と續きて、旅行の時の歌に多く詠めり。此歌は神祭の當然の歌なれども、神祭の具、木綿だたみといふものある故、如v此詠めるなるべし
歌の意、長歌の意と同じき義に見ゆる歌也
 
右歌者以天平五年冬十一月供祭大伴氏神之時制作此歌故曰祭神歌
みぎのうたはおもんみるに、天平五年ふゆしもつきおほともうぢのかみをいはひまつれるとき、いさゝかこのうたをつくる、かるがゆゑにかみまつりのうたといふ
 
これ古注者かんがふる所ありて、大とも氏の祖神をまつれる時と注せる也
聊作此歌 いさゝかといふ義、此處にすこしかなはざる文也。こゝの意にては、わづかにといふの意に書きたると見えたり。本集の端作りには、大伴坂上郎女祭神歌と標せしかども、神を祭る歌の意には聞えず。後世の題にていはゞ祈戀抔ともいひつべき歌に聞ゆる故、古注者も如v此の注を加へたる歟。此注の意は、郎女實に神をまつるにはあらで、祭の時にあたりて、郎女の思ひをはづかに述べたる歌と見たる注也。歌の處に注せる如く、右の歌の意兎角一決し難き也。よつて兩義に注し侍る也
 
筑紫娘子贈行旅歌一首
つくしのいらつこたびゆく人におくるうた一首
 
筑紫娘子 傳不v知。古本には一首とありて、小書に娘子字曰兒島、如v此注せり。古注者の加入と見えたり。普通の印本等に(315)は不v見。奧に至りて、此兒島子の事入れたる歌あり
 
381 思家登情進莫風俟好爲而伊麻世荒其路
いへおもふ、とごころすゝむに、かぜまちて、よくしていませ、あらきそのみち
 
登情 此集中多き詞にて、とこゞろとは事に早まる事を云義とも聞ゆれども、發語と見るも然るべし。海路の旅行にて、古郷の家などを思ひ慕ひ、風波の荒きをも厭はず、心を早め進めて、怪我過ちなどをすな、時日をもよく見合て旅行をし給へと、示したる歌也。或抄に情進の二字を、さかしらと讀むとの説あれども、此點心得がたし。さかしらとはかしこだてをするをいふ義也。こゝにはあはぬ義也。理を付けていへば云はるべけれど、言葉を添へ、まはり遠に注せざれば聞え難し。失張とごころと古本印本にも讀み來れる通然るべし
伊麻世 出座といふ義にも聞え、また伊は發語にて、たゞ何事も、よくとゝのへてましませとの事と見てもよき也
荒其道 そのとさしたるは、その處々あやうからん道にて、と心を進むなと示して旅行の行先を思ひいたれる歌也。此句は少つまりたる樣なれども、此集第四卷の歌にも詠める詞也
 すはうなるいはくに山を越えん日はたむけよくせよあらきそのみち
如v此句例あり
 
登筑波岳丹比眞人國人作歌一首并短歌
つくばねにのぼりてたぢひのまつとくにひと作歌一首ならびに短歌
 
筑波岳 常陸のつくば山の事也。岳の字は倭名鈔卷第一地部云、嶽、蒋魴※[土+力]、韻曰、嶽、高山名也。五角反宇亦作v岳云々。唐土の大山の名に用ゐたる字也。通例はをかとも訓ずれど、此義未v詳。こゝはたけとか、ねとか讀まむ爲に、此字を書きたると見えたり。尤筑波の大山をしらしめんとの意にも書きたる歟。ねと云はみねと云義なれ共、山の惣名をいへる義と見ても苦し(316)かるまじき歟。陽成院の御製に、つくばねのみねと詠ませ給ふも、ねは惣名と心得させ給ふ御歌と奉2拜聞1らるゝ也。さなくては、此御詠のみねよりと重ねて詠ませ給へる義濟がたし。よりて此端作りもつくばねにのぼりとよむ也。たけと讀みても然るべからんか
丹比眞人 丹比は氏也。眞人はかばね也
國人 傳不v知也。國人常陸のすけなどに任じて、在國せし時詠める歌と聞ゆれども、國史にも國人の傳不v見也
 
382 鷄之鳴東國爾高山者左波爾雖有明神之貴山乃儕立乃見果石山跡神代從人之言嗣國見爲筑羽乃山矣冬木成時敷時跡不見而徃者益而戀石見雪消爲山道尚矣名積叙吾來前二
とりがなく、あづまのくにゝ、たか山は、さはにあれども、ともかみの、たふときやまの、ともだちの、みぐはし山と、神世より、ひとのいひつぎ、くに見する、つくばの山を、ふゆごもり、ときじくときと、みずていなば、ましてこひしみ、ゆきげする、山みちすらを、なづみぞわれこし
 
?之鳴東國爾 とりがなくと云義、第二卷目人丸の歌に注せり。東國の冠句也。あづまのくにの事も前に注せり。ひがしのくに/\にたかき山はあまたあれどもと也
明神之 是を古本印本等に、てる神又あきつかみなどよめり。歌の全篇を不v弁故歟。此所にてるあきつ神といふ義はより所なき句、不v續句也。筑波山はをつくば、めつくばといひて、二山相共に立ならべる山と傳へ來りたり。よりて此明の字は、朋の字の誤りにて、とも神のとよめる義也。相共に立ちならべる山をさして、とも神と也。山川を直に神と指す事は不v及v注。前にも皆例ある事也。已に次の句にも、詞の縁につれて、儕立のとつゞけたり
果石山 これを見かほし山と讀めり。よき山の男女立ちならべる山故、見まほしきといふ義にて、見かほしとの説あれども此句も心得難く續かぬ句也。これは果《クハ》の字の音を、借訓に讀ませたる義と見ゆる也。見ぐはしといふはまぐはしにてみといふても、まといふても同詞故、見の字にて、みとよみても意はまぐはしといふ意にて、まぐはしとは賞美の詞、前にも幾度か注(317)せる古語也。是までは皆つくば根をほめたる詞也
言嗣 代々人々いひつぎ傳へて、名高き名山と也
國見爲 高山故、此山に登りて、その一國をふせり見ると也。代々云つき傳へて、此國の守ともなれば、此つくば根に登りて國見をすると也
冬木成 此下に、春なに/\といふ句を脱したりと見ゆる也。冬ごもり春さりとか、春にもとか兎角春と續く冠句なるに、時じく時と云へるつゞき不v濟句也。句意もいかにも不v通。然れば時の字、晴といふ字にて、何とぞいへる句を脱せりと見ゆる故、此以下の句解釋なり難し。下の句にも、春の頃登山をせし歌の意なり
益而戀石見 國の守ともなりて、此山に登りて國見をもせずして、他の任國にもうつりゆかば、遣念にてわびしく、なやましからんとて、雪どけして登り難き山路をも登ると也
雪消爲 此句を見れば、前の脱したる句に、春のことを詠み入れたると見えたり。雪げするとは春は雪どけにて、山路はいよ/\通ひ難きものなれば、それをすら厭はで、行きなづみて登山すと也
吾來前二 古本印本等われ來さきにと詠めるは、何の考案も無き點なり。此集中に重二と書きて、四と讀ませたり。此も前の字は、并の字の誤にて、并二と書きて四とよませたる義なるべし。よりて當家の傳には、此四字をわれこしと讀む也
歌の意、はじめには、筑波ねの男女山とならび立てることをほめて、高き山と云事をのべ表して、代々云つぎ傳へて、國見をする山故、國人も國見せんとて春の雪どけの頃、險難の山路をなづみつゝ登りこしと也
 
反歌
 
383 筑波根矣四十耳見乍有金手雪消乃道矣名積來有鴨
つくばねを、よそにのみ見つゝ、ありかねて、ゆきげのみちを、なづみきたるかも
 
歌の意は、つくばねの名高き山を、平生よそに見なしてはあり難き故、今登り見んとて、雪げして山路の滑らかに登り難きを(318)も厭はで來ると也。なづみとは容易く登り難きことを云也。雪どけの頃なれば山路滑らかにして、こゝにとゞまり、かしこにたゝずみなどして、たやすく登り得難きことをなづみとは云也
 
山部宿禰赤人歌一首
 
384 吾屋戸爾幹藍種生之雖干不懲亦毛將蒔登曾念
わかやどに、からあゐはやし、かるれども、こりずてまたも、まかんとぞおもふ
 
幹藍 和名本草に、?冠草、和名加良阿爲
種生 古本には蘇生と書けり。同じ意なるべし。種生蘇垂共にはやしと義訓に讀む也
歌の意聞えたる通也。何とぞよそへて讀みたる意あるべけれども、標詞にも不v顯は、たゞこのまゝ見置也。赤人の意には、何ぞ下心ありて讀めると見ゆる也
 
仙柘枝歌三首
やまびとつみえのうたみくさ
 
仙柘枝 吉野の仙女の名也。柘と云木は似v桑刺ある木と云傳へり。未2考見1。倭名鈔卷第廿六木類部云、玉篇云、桑柘、音射、漢語抄云、豆美、蠶所v食地。上古何の時代にかあるらん。つみえといへる仙女吉野にありしと見えて、此集にもかく載せたり。仙女の詠める歌にはあらず。かの仙女つみえのことを詠みし歌也
       懷風藻贈正一位太政大臣藤原朝臣史五首之内五言、遊2吉野1二首句云
    飛v文山水地。命v爵薛蘿中。漆姫控v鶴擧。柘媛接莫v通
    煙光巖上翠。日影?前紅。翻知玄圃近。對翫入2松風1
如v此上代の詩にも、柘媛と被v作たれば至而上古の仙女と見えたり。續日本後紀卷第十九仁明天皇嘉祥二年三月、南都與福寺の僧の奉奏賀長歌にも、此柘媛の事に似たる趣あれども、これは天女とある故、慥に此仙女の事とも不v見也。たゞし仙女の事(319)をあまつをとめとも讀みたるや。此義は不v詳也。史公の漆姫控鶴擧とある句は、後紀の長歌に詠める趣に相かなへる也。然れども是は柘とは別人の事と見えたり。是柘枝か傳昔はありしと見えたれども、今は世に絶えて知る人も無ければ、いかにとも難v考也
 
385 霰零吉志美我高嶺乎險跡草取可奈和妹手乎取
あられふる、きしみがたけを、さがしみと、くさとるかなわ、妹がてをとる
 
霞零 此あられふると讀みたるは、きしみがたけの山路のあらくけはしきことを兼ねて、あられとよみ出でたると見えたり
吉志美 通例の本には、美の字を脱せり。一本にはこれあり。殊更此歌肥前風土記にも見えたり。其歌にも耆資態加多?塢とあれば、決してしの字を脱せりと見えたり。よりて今之を加へて記せり。倭名鈔卷第九國郡部云、肥前國杵島郡木之萬郷の名にもあり
高嶺乎 肥前風土記に、假名書にて右に記せる如く、多?塢とあれば、高嶺の二字たけと讀むなり。倭名鈔卷第一地部云、嶽蒋魴※[土+力]、韵日、嶽、高山名也、五角反、又作v岳、訓與v丘同、未詳、漢語抄云美太介
草取可奈和 一本には草取所奈と計あり。風土記には區縒刀理我泥底、如v此あり。いづれを正義とも難v考。先づ此本の儘にて釋せば可奈は兼也。和は吾也。然ればきしみがたけを登るに險難の地故、草をとらへ妹が手をもかねてとるとの義と聞ゆる也。さかしき山路故、いもをたすけて草をとりかねて、われは妹が手をとらゆるとの歌也。一本の草取所奈妹手乎とあるに從へば、草はとりそな、いもが手をとれと下知したる意と見ゆる也。此本の意は風土記の意は同じく、かねていもが手を取とよめる意に聞ゆる也。いづれにまれ、歌の意はきしみのたけはさかしき故、妹に怪我過ちなからん樣に、又草をもとらへ、又かねて妹が手をもとるとの義と聞ゆる也
此歌は左注、味稻與柘枝仙媛歌とあり。兩人とも吉野に住めるものなるに、はる/”\と肥前國のきしまがたけを詠める意、いかなる所以とも知れ難し。風土記に此歌を載せたるは、木島嶺を詠める上古の歌故、閭士女、春秋の樂飲の歌舞の曲となせる(320)事実を記したるもの也。男女携v手登山する時のことにかなへる歌故、此歌を歌舞の曲とはなせると見えたり。至つて古き歌と知るべし
肥前國風土記云、杵島郡縣南二里有2一孤山1、〔從v坤指v艮三峯相連、是名曰2杵島1、坤者曰2比古神1、中者曰2比賣神1、艮者曰2御子神1【一名耳子神、靱則兵與矢、】閭士女提v酒抱v琴毎v歳春秋携v手登望、樂飲歌舞、曲盡而歸。歌詞云、あられふる、きしまがたけを、さかしみと、くさとりかねて、いもがてをとる【これきじまふり】〕
 
右一首或云吉野人味稻與柘枝仙媛歌也但見柘枝傳無有此歌
みぎひとくさ、あるにいはく、よしのゝ人うましね、つみえのやまひめにあたふるうたなり。ただしつみえがつたはりのふみを見るに、このうたあることなし
 
右古注者の注釋也
 
味稻 何時代の人とも不v知。尤傳系考ふる所無し。上古吉野川に釣杯を業として居れる人歟。懷風藻云、大宰大貳正四位下紀朝臣男人三首、七言、遊2吉野川1
 方丈崇巖削成秀、中畧 留斂美稻逢2槎洲1
同云從三位中納言丹?眞人廣成三首、五言、遊2吉野山1
 山水隨v臨賞、巖谿遂望新、中畧 栖2心佳野域1、尋2問美稻津1
七言、吉野之作
 高嶺嵯峨多2奇勢1、【中畧】美稻逢v仙月冰洲
從五位下鑄錢長官高向朝臣諸足五言從2駕吉野宮1
 在昔釣魚士、方今留風公、彈v琴與v仙戯、投v江將v神通、柘歌泛2寒渚1【中畧】駐v蹕望2仙宮1
右詩章皆味稻の事を作れると見えたり。遠くその聞えある人と見えたり。美も味も音通じ訓も皆うまと讀める事、日本紀已下古記に見えたり
(321)與柘仙媛歌也 古注者有2所見1右のきしみがたけの歌、味稻の歌にて、柘枝仙女に與ふる歌と知れり。然れば右の歌に、妹手乎取とあれば、柘枝仙媛をさして詠めると見えたり
但見柘枝傳無有此歌 古注者の時分までは、柘枝が傳と云記ありと聞えたり。今は絶えて無き書也。彼の傳に右歌不v載と也
 
386 此暮柘之左枝乃流來者梁者不打而不取香聞將有
このくれに、つみのさえだの、ながれくるは、やなはうたずて、とらずかもあらん
 
此暮 此夕部といふと同じ
梁者 倭名鈔卷第十五魚釣具部云、魚梁、毛詩注云、梁、音良、和名夜奈魚梁也。字書曰、魚梁、堰石障v水而空2其中1以通2魚之徃來1者
不取香聞云々 やな不v打して魚をもとらずあるか、如v此柘枝の流れ來るはと云意と聞ゆる也
此歌の意は柘の左枝とは仙女つみ枝がことをなぞらへて云ひ、やなは不v打てといへるは、味稻かことを云へるか。此夕に柘の枝の流れくるは河上に梁を不v打故、柘枝のかく流れくるかとの意に間ゆる也。柘枝傳を不v見。歌の意も解釋し難き也。流れくるとは、吉野川の事をいへるにやあらん
 
右一首 此下無詞諸本同
 
此七字は古注者の文にあらず。後人の加筆也。本書に作者を脱せると見えたり。誰人の歌とも難2考知1也
 
387 古爾梁打人乃無有者世伐此間毛有益柘之枝羽裳
いにしへに、やなうつひとの、なかりせば、こゝもあらまし、つみの枝はも
 
古爾梁打人 これは味稻のことをいひたるにやあらん。又すべての釣梁を業とする人をさせる歟。たゞし梁には柘を用る木故か。いづれの事とも難v決也。先は凡ての魚梁を業とする人を指したる義と見ゆる也
此間毛 こゝたくもの意也。只あらましと也
(322)柘之枝羽裳 仙女の名柘枝といへる故、木の柘になぞらへていへる也。梁には柘の木を用ゆる故、如v此よめるか。仙女柘枝と味稻との事に付、何とぞ古事もあるか。風藻の詩句を見るにも、其趣の意聞ゆる句あり。柘媛接魚通とあり。或は在昔釣魚士、方今留風公、云々。か樣の句をもて見れば、古事ありし樣に聞ゆる也
一連の歌の意は昔よりやな打人の無くば、柘の枝は榮えて繁茂してあらんに、やなにとりて打ちたる故、今は無きといへる意也。羽裳と云へるは枝はといふ義也。裳は助語、又嘆の言葉とも見ゆる也
 
右一首若宮年魚麻呂作
みぎひとくさ、わかみやのあゆまろつくる
 
若宮年魚麻呂 傳不v知
 
※[羈の馬が奇]旅歌一首并短歌
たびのうたひとくさならびにみじかうた
 
此※[羈の馬が奇]旅の歌注、何方よりいづれの國に行く時とも知れ難し。尤左注にも作者不審と注せり
 
388 海若者靈寸物香淡路島中爾立置而白浪乎伊與爾回之座待月開乃門從者暮去者鹽乎令滿明去者鹽乎令干鹽左爲能浪乎恐美淡路島礒隱居而何時鴨此夜乃將明跡待從爾寢乃不勝宿者瀧上乃淺野之雉開去歳立動良之率兒等安倍而※[手偏+旁]出牟爾波母之頭氣師
わたつみは、あやしきものか、あはぢしま、なかにたておきて、しらなみを、いよにめぐらし、ゐまちづき、あかしのとには、ゆふされば、しほをみたしめ、あけぬれば、しほなほさしめ、しほさゐのなみをおそれみ、あはぢしま、いそがくれゐて、いつしかも、このよのあけむと、まつからに、いのねられねば、たきのうへの、あさのゝきゞす、あけぬとし、たちさわぐらし、いさこども、あへてこ(323)ぎいてむ、にはもしづけし
 
海若者 わたつみの神靈はといふ義也
靈寸物香 あやしきとは、賞讃したる詞也。思ひはかられぬ靈妙不可思議のものかなと、歎賞したる義、ものかの香はかなにて歎の詞也
中爾立置而 海中に一島のそびえたちたる如くあるは、いかさまにも怪しく不思議なる事と感じて也
伊與爾囘之 いよゝかなど云て、和文にもいひならはせり。いよゝかといふ意は森の字をも訓せり。森などの盛に高く見ゆる如くに、白きなみの島のめぐりにそびえて見ゆると云ふ義をいよにめぐらしと也。なみの高くさかんに、島のめぐりに立ちそふ景色の絶妙なるといふ義也
座待月開乃 ゐまち月は十八夜の月をいふ。日くれてしばらく座して待程に出る月故、居まち月とはいへり。十七夜は立待の月、十九夜はねまち月といふ。皆出來る月を待程の事に付ていへる名也。此居まち月其時の事實を詠めるか。旅行の節十八日などにてありし故詠めるならん。尤あかしとうけん爲の冠句なれども、その時たま/\十八日なりし故なるべし
暮去者 くれぬればしほをみたしめ、鹽は陰即月に隨ひて滿干あるものなれば、あさなぎてといふて、朝は鹽ひ波風も靜に、夕は鹽さし滿つるもの故、如v此よめり。尤文をたがひに詞の花に如v此よめり
明去者 あけぬればしほをほさしめ、上にみたしめと讀みたれば、これの對の詞に、くれあけと朝夕の事を讀みて、畢竟あはぢはりまの海路、島礒の風景の事を讀みたる也
鹽左爲能 第一卷にもある通り、左爲はさわぎ也。しほさわぎと云義也。波風など荒くて、海上のあれたることを云へり。しほをほさしめしほさゐとつゞかぬ義、朝なぎにしほさわぎとは、いかゞいへる不審もあるべけれど、上の句はあした夕を對にいひたる義にて、此句は別に下へ續く句と見るべし
浪乎恐美 鹽さわぐ故、あらき波のたちさわぐを恐れてと也
礒隱居而 鹽さわぎにて、波のあらく海上あるゝ故、あはぢ島の、礒邊にかくれて宿れると也
(324)待從爾 從の字を、此集中に毎度からと讀ませたり。からとは待故にといふの意、たゞまつにといふの意とも見るべし
寢乃不勝宿者 鹽さわげば海上あるゝなれば、波の早きを恐れて、磯邊に宿り居て、夜の明くるをまてば愈寢られぬと也
瀧上乃淺野 淡路島の内にある地名也。それに朝野を詠みかけたると見えたり
雉開去歳 雉は朝に早く鳴くもの故、朝の野のきゞすとうけたる也。毛詩の雉之朝※[口+句]と云句などをもおもひよりて、詠めるなるべし。歳は助語也。たゞあけぬとてと云義也
立動良之 夜明ぬと、雉も立ちさわぐらしと也
率兒等 旅行に隨身のものを指して也
安倍而 敢而也。すゝんでといふの意也。前によわたる月にきほひあへんかもといふの、あへも同じ意也。果してといふ意に同じ。或抄共にはあへぎての略といへるは心得難し。いさすゝんで今こそこぎいでんなど云如きの意也
爾波母之頭氣師 夜あけぬれば、例のあさなぎにて海上も靜かなる程に、ともなふ兒等いさや今こそと、こぎ出なんと也
歌の意所々の句釋にてきこえ侍るべし
 
反歌
 
389 島傳敏馬乃埼乎許藝廻者日本戀久鶴左波爾鳴
しまづたひ、みぬめのさきを、こぎまへば、やまとこひしく、たづさはになく
 
敏馬乃埼 前に注せり
歌の意、海路の旅行心細き折しも、たづの聲などをきゝて、感慨を發し、古郷の戀しく慕はるゝ意を述べたる也。船と云義は句中に見えねど、こぎまへばといへるにて、船中のことゝは知るべし。前の本歌にもこぎ出でんと詠めるも、船の句はなけれど通じてきこゆる也。この作例何程もある也。然れども今時の風格にはいかゞ侍らんか
 
右歌若宮年魚麻呂誦之但未審作者
(325)みぎのうた、わかみやのあゆまろこれをよむ、たゞしつくるものいまだつまびらかならず
 
誦之 年魚麻呂ずんし詠みたる也。自身吟詠せるにはあらず。他人の詠めるを口ずさみによみたるを誦v之と云へり。今ずんずると云此事也。作者は誰れとも難v考。已に古注者すら如v此の左注也
 
譬喩歌
 
六義にていふ興の歌也。かれをもて、こなたのことに譬へて思ひを述ぶる歌也
 
紀皇女御歌一首
 
紀皇女の御事は、第二卷にて委しく注せり。天武天皇の皇女也
 
390 輕池之納回往轉留鴨尚爾玉藻乃於丹獨宿名久二
かるのいけの、うちをゆきめぐる、かもすらに、たまものうへに、ひとりねなくに
 
輕之池 前に注せり。大和也
納回 これをいりえと讀ませたり。池に入江といふこと心得難く、又回の字の音をゑと用ゆる時はおくのゑ也。入江のえははしのえなり。然れば古書さやうの假名違の詞は無き事なり。よりて當家の傳には、うちをとよむ也。納内は相通じて、うちともいるゝともよむ也。回の字をてにはのをに用ゆることは、音借訓にて、日本紀神代の上卷素戔嗚尊の八雲の御歌の假名、終の句のをに被v用たり。此義を考へ心付く人稀也。廻の字を被v用たり。此回の字も、一本には廻の字に作れり。同事ながら日本紀の通に用ゐたるものと見る爲の證に、一本の廻の字を正本と見るべし。已に仙覺抄に、廻の字に作り、廻るの字ををと遣ふことは、アイウエヲのヲとワヰウユオノワと通ふこと、古記にまゝ見えたり。此廻の字も、ワといふよみある故に、乎に通ぜると見えたり
歌の意きこえたる通也。池の内をゆきめぐる水鳥の鴨すら、玉藻の上に雌雄羽をかはしてねるに、われはかたらふ人も無く、(326)ひとり寢ると、かもにたとへて我身の上の義を恨みて詠み給へるたとへ歌也
 
造筑紫觀世音寺別當沙彌滿誓歌一首
つくしのくわんぜおんじをつくるべつたうさみまんせいうたひとくさ
 
造筑紫觀世音寺 續日本紀第四元明天皇和銅二年の條に營作を令せらるゝ事見え、又同じく續紀元正天皇養老七年二月の條に丁酋勅2僧滿誓1【俗名從四位上笠朝臣麻呂】於2筑紫1令v造2觀世音寺1云云とあり
別當 職號也。惣而其官司の第一の人を云也。本朝文粹(以下ナシ)
 
391 鳥總立足柄山爾船木伐樹爾伐歸都安多良船材乎
とぶさたて、あしがら山に、ふなきゝり、きにきりよせつ、あたらふなきを
 
鳥總立 此集中第十七卷目の歌にもあり。登夫佐多底船木伎流等云々。後撰集〔後拾遺和歌集戀部輔親歌にも、わが思ふ都の宮のとぶさゆゑ君もしづえのしづ心あらじ。〕此とぶさたてといふ事、斧の事といふ説あり。また古説に、草木の末をとぶさといふとの義もあれど、語釋濟みがたき説なり。八雲御抄の御説にも、伐木の末を立て、山神を祭る義とあり。此御説相かなへる義ならんか。師案には、ともぬさ立といふ義なるべしと也。ともはむなり。むはふ也。夫といふ濁音はむなれば、ともぬさの略語と見ゆると也。御抄にも伐木の末を立て、山神を祭る義との御説なれば、義相かなへるならんか。又はふはぬなれば、とは發語にてたゞぬさ立といふ義歟。右兩義と見る也。いづれにまれ、杣人の山神を祭る事をいへる義也。古へ材木を伐るにも木の末をぬさとして、山神を祭る也。今とても杣人など木を伐り初めるには山入と云て、御酒を山人に供へて、あとを頂戴するなど云事あるも古の遺風なるべし
足柄山爾 伊豆國也。仙覺抄には木をきり、そのきりくずをあかしといふにより、とぶさはまさかりの事、其まさかりにてきる木のあかしといふ義に、あしからとつゞけたるとの事は、いかにとも心得難き注解也。十七卷に、能登のしま山ともあればこの續きにわけあるにはあらず。いづかたにても、繁茂したる山より伐り出せる處の當然を詠める義と見ゆる也。尤伊豆國(327)は船を作れる古例の所以もあれば、あしがら山は高山、しげれる山故、如v此よめる歟。船木は大木の杉を用ゆるなれば、能登のしま山、此あしがら山、古大木の杉多くありしゆゑ、伐りたるときこえたり。その時代の事實と見るべし
樹爾伐歸都安多良船材乎 船に造る木は、山にて伐る時も、外に障る事を忌みける也。これは海路にて、船のものにさはれば反覆することをを忌みて也。切角船木にせんとて、伐りても外の木にかゝりよれるは、忌避けて不v用故、あたら船木乎とは詠める也
歌の意は、他覺抄には戀歌の樣に釋せられたれど、滿誓歌とあれば、此釋は心得難し。笠朝臣麻呂ともあれば俗の時の歌にもあらん。されば戀歌とも見らるべき歟。標題に別當沙彌などあれば出家の後の歌ときこゆる也。然らば唯その當然のものゝたとへと見ゆる也。譬へば觀世音寺をつくるに、外方の役にも不v立木をきりあつめたる當然を譬へいへる歟。又足柄山にて船木を切るを見て、外に何ぞ譬へ思ふ事ありて、かく答へたる歟。たとへたる意は、いかにとも難v知ければ注しがたき也
 
太宰大監大伴宿禰百代梅歌一首
だざいのたいけんおほとものすくねもゝよ、うめのうたひとくさ
 
太宰大監 太宰府の官人也。職員令云、太宰府、帶筑前。主神、一人云々。帥一人云々。大貳、一人云々、大監二人掌d糾2判府内審署文案1勾2稽失1察c非違u【中畧】小監二人、掌同2大監1
大伴宿禰百代 傳不v見
 
392 烏珠之其夜乃梅乎手忘而不折來家里思之物乎
ぬばたまの、そのよのうめを、たわすれて、をらずきにけり、おもひしものを
 
烏珠之 黒玉の事、うば玉といふ故、からすと云字を書きて、義訓には讀ませたり。凡てくらきくろきといふ冠句、よとつゞくるもくらきといふ義より、うば玉の夜とはつらねたる也。前にくはしく注せり
手忘而 手は發語也。手折といふことゝ同じ。手にて折るものなる故、かやうの發語はよく叶へり。發語を用ゆるにも、その(328)縁あることに使ふべき事也。尤發語冠句も、古詠の例格なくては不v用事也
思之物乎 手折らんと思ひしを、忘れたること也
此歌も何ぞ思ふ意ありて、たとへたるならんずれど、その意趣は知れがたし。先は女をこふ歌のたとへ歌なるべし。いかにとなれば、うめとよめるは、凡て古詠の格の妻といふ下心をふまへての句ときこゆる也
 
滿誓沙彌月歌一首
まんせいさみつきのうたひとくさ
 
393 不所見十方孰不戀有米山之末爾射狹夜歴月乎外爾見而思香
見えずとも、たれこひざらめ、やまのはに、いざよふつきを、よそに見てしか
 
不所見十方 月の光の見えずとも、誰れか月をこひ慕はざらんと也。山の端にほの見ゆれば愈々こひしく慕はるゝとの意也
孰不戀有米 誰れこひずあらめ、こふると也。すあの約言さなれば、こひざらめとはよむ也。月は誰れしもこふるものなるに、まして山の端に出かゝる月の光の画白き景色を、ほのかによそながら見しから、堪えがたく慕ふとの意也。いざよふとは欲v出の意なり。前に注せり
外爾見而志香 ほのかに見たるの意也。たとへば遠望などの氣味也。香は歎の詞、かなといふ義也。よそながらも面白き月かげの出でなんとするを見たるなれば、いよ/\月を慕ふとの意也
 
金明軍歌一首
かねのあきくさのうたひとくさ
 
金明軍 傳不v知。金は姓氏なるべし。明軍は名にて秋草に本づきて名付けたるなるべし
 
394 ※[仰の旁]結而我定義之住吉乃濱乃小松者後毛吾松
(329)しめゆひて、わがちぎりにし、すみのえの、はまのこまつは、すゑもわがまつ
 
※[仰の旁]結而 しるしつけてむすびおきし事也
我定義之 わがさだめてしなどよめる點あり。然れどもこれは戀歌のたとへ歌と聞ゆれば、契りにしとよむべき事可v然。尤古點にも、ちぎりにしと讀める點もあり。義之の二字をにしとはてには也。義の字の唐音をにいといふなり。又ぎといふ濁音は語釋の傳皆にと釋也。自然には本邦異國の音通ふこともある也。扨古は小松の末を結びて、ものゝしるしとしたることいづかたにもありしと見えたり。已に此歌もかくの如し。これ時の事實を詠める也。有馬皇子の初めて結び給へるにもあらず。上古のならはしに松を結びて、それにことをよせて、ちぎりおきし事ありと見えたり。今も邊土にては、却つて此事多くある由也。此定義之の三字もむすびにしと義訓によむべき歟。しめゆひては、しるしをしての意にて、松に縁ある事なればむすびにしともよみたきもの也
小松者 幼稚の時約束せしといふ意なるべし。末かけてわか妻などにせんと、人の娘子などに契りおきしことを、松にたとへて詠めるなるべし
後毛 前にも注せる如く、松を結と詠みたれば末とよむべき也。のちと云縁は無ければ、木には末といふ詞縁ある也。岩代の結松は不凶の事によめり。此歌を見ては住吉の結松は、吉事のかたによむべき歟。住吉とよめるは、姫小松などいひて昔も松の名所と聞えたり
 
笠女郎贈大伴宿禰家持歌三首
かさのいらつめ、おほとものすくねやかもちにおくるうたみくさ
 
笠女郎 傳不v知。笠朝臣金村など同姓の婦人と見えたり。笠は氏也
大伴宿禰家持 續日本紀卷〔第三十八延暦四年夏四月條に、其名出づ〕
贈 笠女郎大伴家持をこひ慕ふて、おくれる歌なるべし
 
(330)395 託馬野爾生流紫衣染未服而色爾出來
つくまのに、おふるむらさき、きぬにそめ、いまだきぬとも、いろにいでけり
 
託馬野 近江國坂田郡にあり。紫の名所也。よりてつくま野を詠み出したるならん
批歌の意は、家持を戀したふ心をしのべども、たへかねて色にあらはれたるといふ義を、むらさきに染めたる衣にたとへたる也。紫の衣は、人にあへば色の變ずると云諺の古事などありてよめるか。尤むらさきは色の第一とするものなれば、かくたとへて女の事によめるか。きぬに染め未だきずと詠める意、別にわけあらんか。たゞ色に出にけりといふ事をいはんとての、序歌とも見ゆる也。尤紫を染むるには、その色を煎じ出して染むるならん。その衣に染めて未だきぬとは、たゞ色に出たる思ひにあらはれたることにたとへたる也。古今集戀、こひしくはしたにをおもへむらさきのねすりの衣いろに出なゆめ。これをはじめ、戀の歌に紫の色を詠める事古詠例多し。色の内の最上なるものから、かく詠みたるならんかし
 
396 陸奧之眞野乃草原雖遠面影爲而所見云物乎
みちのくの、まのゝかやはら、とほけれど、おもかげにして、見ゆといふものを
 
眞野乃草原 倭名鈔卷第五國郡部云、陸奧國行方郡眞野云々。白菅眞野といふは、攝津國大和の間なり。この卷の初めに見えたり
 
雖遠 みちのくにの眞野の原は、數十里を隔て遠けれども、心におもひ出て、面かげにしてまのあたり見ゆるに、まぢかくても相まみゆることのなりがたきことを譬へて恨みて詠める意也。これも古き古事などありて詠めるか。みちのくは遠國ならばさもあるべし。まのゝかやはらを詠み出せることも意知れがたし。みゆといふものをと詠めるは、これ古くいひふらしたる諺と聞ゆる也
 
397 奧山之磐本管乎根深目手結之情忘不得裳
おくやまの、いはもとすげを、ねぶかめて、かためしこゝろ、わすれかねつも
 
(331)奧山之 深き山といふ意にても濟むべけれど、此集中奧山と詠める歌多し。地名ならんか。いはもとすげを詠める、下のふかめてと云ふことの序と見るべし
根深目 ふかくちぎりかはせしことのありしと聞ゆる也
結之 これをかためしと讀むべし。結の字かたねると讀むは古訓なり。かたねるといふは、ものをとけぬ樣に結ぶこと也。江次第等に假名書にも見えたり。むすびと讀みてその義なれども、岩本と讀める縁にはかためしと讀むべき也。めもねも同じ
歌の意は、前かたに深くかはらじと契りかためし情は、今なほ忘れぬと也。皆これ物に比喩して讀める歌也
 
藤原朝臣八束梅歌二首
 
八束 後に號2眞楯1。贈正一位太政大臣房前公の子。續日本紀聖武紀云、天平十二年正月戊子朔庚子、正六位上藤原朝臣八束授2從五位下1。天平寶字四年名を眞楯と改む
 
398 妹家爾開有梅之何時毛何時毛將成時爾事者將定
いもがいへに、さきたるうめの、いつも/\、なりなんときに、ことはさだめん
 
何時毛々々々 いつにても/\といふの義也
將成 花ばかり咲きたるにては、末かけてとげん事も定め難ければ、實のなりなん時に、末とけての契りを定めんと也。なりなんとは、婚姻の調はん時にといふ義を、下に含みて云へる也。昔は凡て婚姻の事をなるならざるとは云ひしなり。表は梅に譬へて實の事にいひなしたる也
事者將定 表の意は、若木の梅は花のみ咲きて、容易に實はなり難し。その實のなりし時に、まことの治定を定めんとの事也。凡て女の通稱を兒といふ故、その事と又兒といふ義をかねて也。下の意は當然の花の色にめでて、云かはす事は頼み難きものなれば、眞實の心のきはまり調ひたる時、一生夫妻とも定まることの契をなさんとの意也。然るに此歌の意をよく考吟するに(332)發句いもが家にと詠み出せし事は、定めんと云へること、身分の婚姻などの事にては無く、これは人のむすめを八束の嫁に貰はんとの約束の歌なるべし。家に咲きたる梅とあれば、先の、むすめのことを梅と喩へしと聞え、事者將定といへるも、此方の子とは定めんとの意なるべし。然れば歌の意、先の娘未だ少年などにてある故、已に婚姻もなるべき時節になりたれば、いつにても嫁と定めんとの意と聞ゆる也。次の歌の意も同じく其意と見ゆれば、兎角娘に貰はんとの事を喩へたる歌なるべし。尤發句に妹がとよめる處、少は不審なれども、全躰の歌の意、人の娘を貰はんといふ意と聞ゆる也
 
399 妹家爾開有花之梅花實之成名者左右將爲
いもがいへに、さきたるはなの、うめのはな、みにしなりなば、もとこにはせん
 
妹家爾 前の歌にも此五文字あり。誰人を指したるとも知られず。前にも注せる如く、此妹と指したる所は人のむすめの事を云ひたるか。たとひ我妻の事にもせよ、又嫁の事にもせよ。兎角人のむすめの未だ不v嫁を、むかへ貰はんと云ふ歌と聞ゆる也。家に咲きたると云ふは、これその妹と指したる人の事にはあらで、そのむすめのことの樣に聞ゆる也。然れども喩へ歌故、如v此よめる歟
開有花之梅花 古詠には、如v此重ねて云へる事いくらもあり。然れども梅と詠めるは女の事故、その言葉に縁をふくめて詠める也。この花のうめの花とあるにても、兎角人のむすめのことに聞ゆる也
實之成名者 前の將成といふと同じく、この歌にて前の歌の意、實のなりなんといふ事と相兼合せて知るべし
左右將爲 古本印本等には、かもかくもせんと讀めり。尤左右の二字眞字伊物にも、かにかくとも讀ませたり。然れども日本紀には、此訓不v見。もとことは讀ませたり。義訓にかもかくも、ともかくもとも讀まれまじきにもあらねど、古訓に從ふまじきや。かもかくもと讀む意は、實だに相定まりたらば、いか樣ともせんと云事に聞ゆれども、前にも注せる如く、これは我許の子にせんといふ義にて、嫁にとらんとの事をたとへたる歌ならんか。もとことは古訓といひ、歌の意、嫁にせさせよ、又わが妻のことにもあれ、女の通稱を兒といへば、わかもとの兒にせんと云ふと見るによりて、當家の傳は、左右の二字はもとこと讀む也
 
(333)大伴宿禰駿河麿梅歌一首
 
駿河麻呂 續日本紀卷〔第十五天平十五年五月の條に其名出づ〕
 
400 梅花開而落去登人者雖云吾標結之枝將有八方
うめのはな、さきてちりぬと、ひとはいへど、わがしめゆひし、えだならめやも
 
梅花 五文字のうめと詠めるは、女といふ詞の縁をとりてなり。さくら花と讀みて同じ義なるべきを、梅と詠めるはこれ如v此のふまへによりて也
開而落去登 これは約束せし女の外へうつり行たると、人のいふ事に喩へたる意なり
吾標結之 標の字の事、第二卷にも注せり。ものゝしるし境目などの表に、木を立置くをしめと云也。物をじつと堅めることを、しめるといふ意も同じ義也。然ればこゝの意は、わか妻にもあれ、嫁にもあれ、一度しるしをさして堅めおきし人の、など外へうつり行かんや。わか約束せし人にはあらじ、人たがひなるべしとの意を、かく喩へたる也
枝將有八方 にあの約な也。意は枝にあらんや。わがしめゆひて約束せし人にはあらじと也。此枝とあるを見れば、これもむすめの事を詠める歟
 
大伴坂上郎女宴親族之日吟歌一首
おほともさかのうへのいらつめ、うからやからうたげするひ、によふうたひとくさ
 
大伴坂上郎女 大伴氏の郎女也。誰人の子とも傳不v知也。坂上は郎女の住所をさして記せり。坂上と云處に居住したる郎女故、如v此記せり
親族 むつまじきともがらともよむべき歟。日本紀等にうからやからと讀ませたれば、古訓に隨ふ也。宴は酒もりをして、歌を歌ひかなでて遊ぶ事なり。一門親類打寄宴をなせると聞ゆる也
吟歌 これは、我作れる歌をひたもの/\となへ歌ふたる義を云也。これをによふと讀むべし。古き點に片假名にて吟の字(334)にニヨフと付けたる點あり。みな人サマヨフのサを脱したるものと心得て、すませどもさにはあらず。によふと云古訓と見えたり。今も西國の方言には、人の煩ひなどにうめくことを、によふといふ也。これ古語也。によふと云ふ義は、なきよぶといふ義也。なきの約はに也。然れば歌を吟詠するも、昔はみな歌ひたるものなれば、今俗にいふうめく如くの音聲なるものなれば、吟の字を古くはみなによふと訓したると聞ゆる也。當集の歌、住吉のきしのはぎふににほはさましをなど詠める歌あり。これも旅人と歌舞をなして、慰めましをといふこと也。歌を吟詠して舞曲などをせんといふことを、によふと云へるも吟の字よりいへること也。此宴は、駿河まろのかたへ娘を貰はんと約束せし折、一家一類のやからの祝宴などにもやあらん。郎女と云は娘の親、母の事ならんか。奧に至り大孃二孃とありて、姉妹ありし樣に見ゆれば、こゝに郎女とばかり記せしは、母親の事を云ひしものか。此義不審也
 
401 山守之有家留不知爾其山爾標結立而結之辱爲都
やまもりの、ありけるしらに、その山に、しめゆひたてゝ、ゆひしはぢしつ
 
山守之 これはすべて、山を守り領するものゝ事を云也。昔は諸國に、山守部といふものありし也。日本紀卷第十應神天皇五年秋八月庚寅朔壬寅、令3諸國定2海人及山守部1云云
結之 古本印本等には、ゆひのと讀めれど、ゆひのとは續かぬ詞也。過去の事を云ひしことにて、ゆひし也
此歌の意は、山守のありて領する山とも知らで、この山は、吾山なりとしるしのしめをたてゆへることのはぢを得たると也。その喩ふる意は、我夫にもあれ、むこにもあれ、それと定めんと約束せしに、外より聞けば、先だちて妻又は嫁ともならんときつと約束せし人のあるをも知らで、かく恥辱を得しと云へる義也
 
大伴宿禰駿河癖呂即和歌一首
おほとものすくねするがまろ、すなはちこたふうたひとくさ
 
即和歌 大伴氏打ち寄りて宴をなせしなれば、駿河麿も同じく宴席にありしと見えて、そのまゝ即席に返歌を作れると見えた(335)り
 
402 山主盖雖有吾妹子之將結標乎人將解八方
やまもりは、けだしありとも、わぎもこの、ゆひけんしめを、ひとゝかむやも
 
山主 守と相通じて、主の字を用ゐたり。尤も山ぬしともよむべきか。しかし主殿などいふ例もあれば、やはりもりと讀むべき事ならんか
盖雖有 けだしとは、たとひといふ意に用ゐたる也。外に約せる義は無けれども、假令ありともそなたと約束せしからは、誰れその約を變ぜんやと譬へ答へたる也
 
大伴宿禰家持贈同坂上家之大孃歌一首
おほとものすくねやかもち、おなじく坂上のいへのあねをとめにおくるうたひとくさ
 
同坂上家 大伴氏の娘にて、坂上といふ處に居住せられしと聞えたり
大孃 大とあれば、あねむすめの事と聞ゆる也。よりて義訓に姉をとめとは讀む也。この第孃又奧の二孃とある、二は次の字の意にて、兎角兄弟姉妹ありしと見えたり。前の郎女とはこれ母親の事なるべし。然れば家持は姉を娶り、駿河麿は妹を娶りたるか
 
403 朝爾食爾欲見其玉乎如何爲鴨從手不離良牟
あさにけに、みまくほりする、そのたまを、いかにしてかも、手にかれざらん
 
朝爾食爾 あけくれにといふ意也。又あしたくれにといふ意も同じき也
其玉乎 大孃を指して也。これ喩へ也
歌の意聞えたる通也。玉を娘に喩へていか樣にしてか、常住不2相離1なれそひぬらんと也。すあの約さ也。よりてすあらんをざらんとは讀む也
 
(336)娘子報佐伯宿禰赤麿贈歌一首
いらつこさへきのすくね、あかまろにこたへおくるうたひとくさ
 
娘子 誰人とも難v考。歌の次第によりて見れば、大伴氏坂上郎女歟
 
404 千磐破神之社四無有世伐春日之野邊粟種益乎
ちはやぶる、かみのみもりし、なかりせば、かすがのゝべに、あはまかましを
 
千磐破神之社 先は春日明神の社の事を云へると聞ゆる也。然れども春日社鎭座年月と、此娘子の時代と分明に前後の差別考へざれば、四所明神の事とも不v被v決。惣而その處にある、神のやしろを指して詠める歟。ちはやぶるの事は前に具らか也
社四 みもりしと讀むべし。上古は皆神の御座を杜と稱せり。若し杜の字をあやまりて、社に作れるならんか
春日之野邊粟種盆乎 神の社無くば、春日野に粟まかましを、其所を領し給ふ神のあれば、まかれぬと也。粟と詠めるは逢事によせて也。喩へたる歌は、先達而赤麿より此娘子にたはむれ言を云ひやりし、その返事と聞ゆる也。かく云ひわたり給へばぬしだに無くば逢ひもし、契りもかはさましけれど、そこには領する女のある故、中々逢ふ事は思ひもよらぬと云義を、あはぬ事を粟に喩へて詠める也
 
佐伯宿禰赤麿更贈歌一首
さへきのすくねあかまろ、さらにおくるうたひとくさ
 
佐伯 此姓の起は、日本紀景行卷に見えたり
赤麿 傳不v知
 
405 春日野爾粟種有世伐待鹿爾繼而行益乎社師留烏
かすがのに、あはまけりせば、まつしかに、つきてゆかましを、もりはしるから
 
此歌の意は、再答の意也。はじめに赤麿何かたはむれ言を、娘子の方へ云ひおくりし故、千磐やぶるの歌を詠みて報ひたるそ(337)の詞につきて、春日野に粟まけりせばと也。これは逢ふ事をもとめなさばといふ義を、粟まけりせばと比喩していへり
待鹿爾 古本印本等には、またんかにと讀ませたり。然れども、春日野は鹿の多くある處にて、粟はことに鹿の食み物なれば、粟をまかば、それを食まんと知りて、待つにてあらんといふことに、喩へたる歌なれば、まつ鹿にと下へつゞく詞をも、ふせたるものと聞えたり。よりてまつ鹿にと讀なり
一通の意は、逢はんことをもとめなさば、娘子の待つにてあらんにといふ義也。それを鹿の待つことに喩へ云へる也。今一義は、先鹿にといふの意をもかねたることゝ聞ゆる也。粟をまきたらば、先鹿の通ひて食まんと云意也。その鹿につゞきて、行かましをとうけたる詞とも聞ゆる也。古詠には、待、先の清濁にはかゝはらず、かねて詠める事此集中にもまゝ見えたり
繼而行益乎 つゞきて也。娘子の逢はんと待つならば、つゞきて不v絶通はんと云意也
社師留烏 古本印本諸抄物の點、やしろはしるをと讀めり。尤前の歌に社四とありて、やしろしと點せるも、此やしろはしるをといふ句も、古詠とても歌詞にあらず。社はもしくは杜の字の誤ならんか。尤社といふ字にても、もりと讀む事義訓なれば苦しかるまじきにや。よりて當家の傳には、もりはしるからと讀むなり。意は春日野の杜は知れたる處なれば、その所にいでませば、處をもたかへず、繼て出て逢はんにと云へる歌と聞く也。烏の字はからすと讀めば、故にといふ意にて、からとは讀む也
歌の意、尤もりはしるからと讀みて相通ずる也。或抄には、社はしるをと云ふは、春日明神も諫むる道ならねば、春日野に粟まけりともさして、咎めもあるまじければ、いであはんとのことゝ釋せり。しるをとは春日明神も此男女交際の道しるをと云義と釋せるも、あまり迂衍の説ならんか
 
娘子復報歌一首
いらつめまたこたふるうたひとくさ
 
右の如く、再答の歌、赤麿より詠みて贈れる、その又答へ也
 
(338)406 吾祭神者不有大夫爾認有神曾好應祀
わがまつる、かみにはあらず、ますらをに、とめたる神ぞ、よくまつるべき
 
認有 此とめたると云言詞、釋兎角いひとき難し。まづ從ひたるといふ意と見ゆるべし。古今集春部、たれしかもとめて折りつる春がすみ立かくすらん山の櫻を、これを初め、集共に何程も詠める詞也。もとめてと云ふ意にはあらで、そのものにより從ふことをいふ意也。此認有も赤丸により從へる神ぞといふ意也
歌の意は、赤丸の繼て行ましとあるに返して、そなたはわが祭る神にはあらず。そこによくより從ひたる人のあるにぞ、その人こそ、そなたをよく祭るべけれ。我はそなたに從ひてまつるものにはあらぬと、妬みて報答せる歌也。とめたるかみぞと喩へたるは、附き從へる妻こそ、そなたをよくもてなし睦じくもせられめ、そのぬしある人を我がまつるべきにあらずといへる歌也
 
大伴宿禰駿河麿|娉《ヨハフ》同坂上家之|二孃《オトムスメ》歌一首
 
娉 よばへるとあれども、此歌の意又奧の歌の次第を見るに、かよひ迎ふる前の歌と見えたり
二孃 前に大孃とあるに對して見れば、二は次の意なれば家持の歌贈れるは姉、此女は妹と見ゆる故、おとむすめとは義訓せり。尚また後考もあらばしかり
 
407 春霞春日里爾殖子水葱苗有跡云師柄者指爾家牟
はるがすみ、かすがの里に、うゑこなき、なへなりといひし、えはさしにけん
 
春霞春日 此はるがすみ春日とうけたる意は、かすみかすところの縁をもてつゞけたる義とも聞ゆる也。かすがといふ字は、春日と書く故、彼のはる霞は春立つもの故、春といふ文字によりて、詠めるといふ説もありて、一決せぬ也。或は春のひは霞みて微かに見ゆるもの故、如v此つゞくるとも云へり。いづれにも決し難く、正義の古説を所見せざれば、いかにとも辨じ難し。先はおもひよる處は霞かすがと、言の縁につゞけたる義と見る也
(339)殖子水葱 うゑしなきと讀める點あれども、これはこなぎにてあるべし。うゑたる子水葱といふ意なるべし。此水葱和名鈔には見えねども、水邊に生ずる水菜なり。今こなぎといふて、池澤などにも有て紫色なる花の咲くものといへり。木になぎの木といふあり。その葉に似たる草故、なぎとも云歟。當集第十六卷の歌にも、なぎのあつものと詠めり。延喜式卷第廿四主計式云、供奉雜菜水葱四把【准四升五六七八月】澤桔校、をもだかなどいふにはあらず。その類に少しは似たるものなるべし。尚追而可v考也。これは前に坂上弟娘を約束せし頃は、未だ少年なりしがといふ義をたとへたる也。子なきと、なへなりといひしと有は、前にも注せる如く、わが嫁などに貰はんと約束せしか。又駿河丸の妻にとらんと約せしか。兎角娘の親の方へ詠みて贈れる歌と聞ゆる也
柄者指爾家牟 枝はさしたるやらんと云意也
此歌の意は、前に駿河丸のかたへ貰はんと約せし時は、未だ少年にてなへなりと云ひしが、も早や枝さす程にも成人したるにてあらんと云ふ意也。標題に娉歌とあれば、迎へし時の歌と聞ゆれども、枝はさしにけんといふ意にては、標題に不v合。娉する前に詠みて遣したる歌故、標題に娉歌と記したるか。尤枝はさしぬらんといふ意は、迎へんとの意をこめたる故、娉歌と標せし歟。苗なりと云ひしとは、娘の少年なりと云ひしといふ義に喩へたる也。柄はさしにけんと云へるは、成人したるらんといふ事を比喩したる義歟
 
大伴宿禰家持贈同坂上家之大孃歌一首
おほとものすくねやかもち、おなじ坂上のいへのあねおとめにおくるうたひとくさ
 
前にも如v此の端作りありて注せり
 
408 石竹之其花爾毛我朝且手取持而不戀日將無
とこなつの、そのはなにもか、あさな/\、てにとりもちて、こひぬひなけん
 
石竹之 此字出所未v考。倭名鈔には、瞿麥の二字、なでしこ、あるにとこなつと和名あり。石竹の字は、いづれの出所にや。(340)追而可v考v之。古本印本等には、なでしこのその花にもかと讀ませたり。尤前にも注せる如く、坂上家の姉むすめを、家持の迎へんと慕へる歌に聞ゆれは、子といふ縁に詠める意もあるべけれど、なでしこを喩へるは、みどりこ至つて幼稚の娘などならばさもあるべけれど、これはも早や夫をもつべき程の女と聞ゆれば、やはりとこなつと讀まん事然るべし。常住のことに云へる縁なるべし。已に朝な朝なと下に詠みたれば、時などの意を兼ねてとこ夏と讀むべき也。常住不變變らぬ花にもかもと願ふたる意也
歌の意聞えたる通にて、大孃をとこ夏の花に喩へて、それにもあれかし。心のまゝになれ親みなば、かく戀ひ佗ぶることもあるまじきと也
 
大伴宿禰駿河麿歌一首
 
409 一日爾波千重浪敷爾雖念奈何其玉之手二卷難寸
ひとひには、ちへなみうつに、おもへども、なぞその玉の、てにまきがたき
 
一日爾波 一日のうちにはと云意也
千重浪 なみの幾度も/\重りうつ樣に、やまず思ひ慕ふと也
敷爾 此集中此詞多し。古本印本諸抄等これをしきと讀ませたれど、師案にはこの重、しきといふことは心得がたし。なみはうちうつ、よるよせるなどつゞく詞なれば、うつにと讀みて、うつゝにの意をかねて云ひたる義なるべし。うつゝは常住不v絶思ひの重なるといふの意をふくみていへる義也。しきと讀みて義しげきといふ釋に解する也。しきをしげきといふことゝは解し難きこと也。尤日本紀卷第六崇神紀に、常世浪重浪よするくにといふ義ありて、しき浪よすると讀ませたれど、此義しげきといふ義とは不v聞也。敷の字は令集解神祇令神衣祭條下庄に云、釋云、【上畧】敷和御衣織奉【中畧】敷和者宇都波多也。如v此古訓うつと訓したる證例もあれば、浪につゞく詞にて、現の字の意をかねてうつと讀むこと然るべからんか
奈何 なにとてといふの義になぞといひたり
(341)其玉之手二 浪には玉を打よする物なるに、何とて心のまゝに手にとられぬと云ひて、おもふ人の心のまゝになり難きといふ事に喩へたる也
是歌の意にては、前に詠める坂上の次孃を娉とあるは、駿河麿の妻にこひ取れるにやあらん。これらの歌は、未だよび迎へさる先の歌どもと聞ゆる也
 
大伴坂上郎女橘歌一首
おほとものさかのうへのいらつめ、たちばなのうた一くさ
 
大伴坂上郎女 前に出たる郎女也。駿河丸の妻の母親の事と聞ゆる也。二孃とある女をいふにはあるべからず。歌の意母親の事と見ゆる也
 
410 橘乎屋前爾殖生立而居而後雖悔驗將有八方
たちばなを、庭にうゑおほし、たちてゐて、のちにくゆとも、しるしあらんやも
 
屋前爾 古本印本等やどと讀ませたり。屋前の二字をやどとよむ義心得がたし。前の字若し所といふ字のあやまりにや。然らばところの一語をとりて、やど、とも讀むべき也。やの前なれば庭とか、のきとか讀むべき也。兩義好む處にしたがふべし
立而居而 常住座臥に付ての意也。悔ことの切なるを云たる義也
後雖悔 此句不審也。橘をうゑてとよめるは、名の立といふ事によせていへるか。その名の立事を後にくゆともといふ義歟
此歌全體の意難v濟也。若し漢の古事等によりて詠める歟。かの古事の田道間守が事をふくめる意とも不v聞也。橘の事に付後悔する義は、漢に古事あること漢書に見えたり。追而可v注。むかしの人の袖の香ぞするといふ歌も、漢の古事によりて詠める歌と聞えたり。世上諸抄の説は、田道間守の古事といひ觸らしたれど、歌の意たぢまもりがことゝは不v聞也。此集中に橘の歌あまたありて、おしなべて古事をふくめるにはあらねど、此後に悔ゆともと詠める歌は、兎角古事をふまへて詠めると聞ゆる也。古事の義未v考故、こゝの歌の意釋し難し。先一通の歌の意は、駿河まろりよばへる二孃の事を喩へて詠めると聞(342)えたり。下の意は、かの孃の婚姻をなしても、後にいかになりゆかんもはかられねば、引人になびきて名の立ちて末もとけざらん時には、立ちて居て悔ゆともしるしもあるまじと、末を思ひはかりて、少斟酌の意に詠める歌と聞ゆる也。又は娘の婚姻はなしても、行末何と成らんや。未だ年の程も若くて行跡も覺束無く思ひて詠める意か。じつとは聞き届け難き歌也。和歌の意をもて見れば、兎角女の婚姻の前に、末をいぶかしく思ひて詠める歌と聞ゆる也
 
和歌一首
 
誰人のこたへたるとも難v考。歌の次第を見るに、駿河麿の和と見ゆる也
 
411 吾妹兒之屋前之橘甚近殖而之《マゝ》故二不成者不止
わぎもこが、庭のたちばな、いとちかく、うゑてしからに、ならずばやまじ
 
吾妹兒之 郎女をさして云へり
甚近 いとゞはことの切なる詞也。則ちはなはだと云字を用ゐて字意の通也。近くといふ意は、大伴氏同家親族なれば、女近くあるといふ義を、橘を殖たりし故にと喩へたる也
不成者不止 婚姻を不v調ばやむまじきといふ義を、たちばなの實のなることに喩へたり。郎女の歌の末の程を思ひやりて、悔むともかひあるまじと、行末を思ひはかりて、少し斟酌の意によめるこたへ故、いと近く橘を植ゑたるからは、その實ならずばあるまじきと云ふて、親族の間近き中に孃のあるからは、わがこひ慕ふまゝに、駿河麿のかたへ娶らずばおくまじと喩へたる和歌と聞ゆる也。とかく駿河丸の歌なるべし
 
市原王歌一首
いちはらのおほきみのうた一くさ
 
市原王 安貴王の子也。此集第六卷にも市原王宴?父安貴王歌と出でたり。續日本紀〔卷第十五天平十五年五月無位高丘王林王市原王并に從五位下を授けらるゝ由見ゆ〕
 
(343)412 伊奈太吉爾伎須賣流玉者無二此方彼方毛君之隨意
いなたきに、きすめるたまは、ふたつなき、こなたかなたも、きみがまにまに
 
伊奈太吉爾 諸説いたゞきといふ義と釋し來れども、それにてはいだと上を濁らばならぬなり。だと濁りはならぬ也。然るにいたゞきとこそいへ、いたのたを濁りて下のたきのたを清音には不2唱來1也。これはいなづきといふ義なるへし。いは發語の詞、奈都氣といふ事と聞えたり。だといふ濁音は豆也。だもづも同音也。惣て人のかしらの眞中をなづきといふと聞えたり。なやむといふも惱の字を書きて、なづきを病といふの義、頭痛のすることをいふたる事也。古語に頭を打破などいふ事を、なづきをうちわりなどいへる也。今いたゞきと云ふは後の詞にて、本語はいなづき也。いたゞきといへるは、人の身體の頂上といふ義にて、いたゞきとは後にいへるならん。日本紀神代上〔に髻鬘と書けり〕。ただし又いだだきと、二のたをともに濁音にいひ來りしを、後に上を清音にとなへ來る歟
伎須賣流 きたるといふ義也
玉者無二 或抄に、文殊の頭にあることゝ釋せり。心得かたし。これは古代は男女ともに玉をもて頭を餝りし也。その玉は、眞中に唯一ツ※[金+芳]にしたる玉といふ義也。此集の中に、うすの玉かけと詠める歌もあり。然れば上古は、唯一ツ眞中に玉をかざれる事と聞ゆる也。はる/”\と法華經の文を引出して、詠めるにはあるべからす。唯上古の時代の事實をいへることゝ見ゆる也
此方彼方 頭上の※[金+芳]の一ツの玉は、頭を左右へ傾くれば、傾くにしたがふていづ方へもよるといふ義也。喩へたる意は臣の意にしては、一身は君に任せおくなれ。一ツの玉のあるさへも、こなたへも貰ふ如く、いか樣にも君の御心次第にしたがふとの意なり。戀歌の喩へにしては、おもふ先の人の心まかせに、此身をまかすとの意なるべし
 
大綱公人主宴吟歌一首
おほつなのきみ人ぬし、うたげによぶうたひとくさ
 
(344)大網公人主 傳不v知。大綱は氏也。續日本紀卷第三十五光仁天皇寶龜九年十二月〔正六位上大綱公廣道爲2送高麗客使1〕
 
413 須麻乃海人之鹽燒衣乃藤服間遠之有者未著穢
すまのあまの、しほやきゞぬの、ふぢころも、まどほにしあれば、いまだきなれず
 
藤服 ふぢぬのなど云ふて、今も至つてあらきぬのゝある也。さきをりともいふ。山かつなどの著る也。よみのあらきといふことを、間遠にしといひて、宴日にたま/\來れる人には、あふ事の間遠に相隔れることを、藤ごろものよみのあらきことに比喩したる也
歌の意、聞えたる通也。飲宴の日、來れる賓客のまれに逢ふたることを、人のまゝにはなれそはぬと歎きて、藤衣のよみのあらき事に比喩したる歌也。宴の事なれば戀歌とも決し難き也。古今集に、すまのあまのしほやきころもをさをあらみと詠める歌も、此歌に基づきて詠めるなるべし。をさをあらみといふ義、此歌の間遠にしと詠める意に同じ
 
大伴宿禰家持歌一首
 
414 足日木能石根許其思美菅根乎引者難三等標耳曾結烏
あしびきの、いはねこゞしみ、すがのねを、ひけばかたみと、しめのみぞゆはん
 
足日木能石根 此つゞきの事古來いろ/\説ありて心得難きつゞき也。此集中に嵐とつゞきたる歌もありて、古來よりの説に山と續く冠辭故、山といふ文字によりてつゞけたるとの儀也。木毎に花の格にて、昔は文字につゞけて讀みなしたるにもありと傳へたり。一説に高大有v岩曰v山といふ字義よりつきてよめるともいひ、又石根のこりしきたる險難の處は、足を惱み引といふ義につゞけたりともいへり。然れども嵐とつゞける歌あれば、外の説は心得がたし。古説の通文宇によりて讀めると云義、先づ然るべからんか。外にいかんともより處無きつゞき也
許其思美 こゞしみとは、岩のかたまりてこりしきたる樣にと云ふの義也。しきといふを、しみと云へるは、ことにより、きといふことを、みと使ふ事あり。山深き雪深きをふかみ、遠をとをみと詠める義あまたあり。此しみは、しきといふことをしみ(345)とつらねたるばかりにては無く、こゞしき樣にといふ意をもて、しみとは詠める也
菅根乎 これは女のことを、すげに喩へて詠める也
引者難三等 一通は、山中の岩根などに、根をからみたるすがの根を引けば、いはねのこりかたまり敷たる如くに、かたきといふの意也。下の意はわがおもふ女を外より引人ありとも、その方へなびき移らぬ樣に、竪くしめをゆはんとの義を、如v此喩へ詠める歌と聞ゆる也。然れば前のこゞしみといふは、こりしきたる樣にといふの意をこめて見る也。その樣に、女の心をもかためんとの意也
結烏 これをゆふと讀ませたれど、ゆふの假名にうとは續き難き也。これは無の字の誤りにて、ゆはんといふ義と見るべし
歌の意、我契りし人を外より引とも、その方へ靡き引かれぬ樣に、岩根のこりかたまりたる如く、堅く貞節を守らんとの事を、しめのみをいはんと譬へたる歌なるべし。愚案、此歌うらはらの意にも聞ゆる也。思ふ人を菅に喩へて、根ながら引かんとすれど、岩根のこゞしくからみて引得られず。なか/\靡き從はで、いよ/\固くしめを、女の方に結べるといふ事を詠める歌とも聞ゆる也。引けばかたみといふ詞、しめのみぞゆふとの句、家持のしめを結ぶ義とは聞えざる處あり。また烏は無の字の訛にしても、のみぞいはんとよめる句も、穩かならず。烏の字如何とも心得がたければ、衍字ならんか。兩義に聞ゆる歌也
 
萬葉童蒙抄 卷第六終
 
(346)萬葉童蒙抄 卷第七
 
挽歌
ひつぎをひくうた
 
第二卷に注せり
 
上宮聖徳皇子出遊竹原井之時見龍田山死人悲傷御作歌一首
かんつみやひじりのいきほひますみこ、たかはらのゐにいでてあそびたまへるとき、たつた山にまかれる人を見たまひ、かなしみいたみ給ふつくりうた一くさ
 
目録には、一首とある下に、小墾田宮御宇天皇代と記せり。後人の加筆也
上宮 日本紀卷第廿一用明天皇紀云、元年春正月の條初居2上宮1云々、如v此皇子の御座所としたまふ故、上宮の聖徳太子と奉v稱也
聖徳皇子 同云、用明天皇元年春正月壬子朔、立2穴穗部間人皇女1爲2皇后1。是生2四男1其一曰2厩戸皇子1【更名聰聖徳或云豐聰耳法大王或云法主王】〔此之皇子初居2上宮1云々〕同紀卷第廿二推古天皇元年春正月壬寅云々。夏四月庚午朔己卯立2厩戸豐聽耳皇子1爲2皇太子1。仍録攝政〔以2万機1悉委焉。橘豐日天皇第二子也。母皇后曰2穴穗部間人皇女1〕皇后懷妊開胎之日、〔巡2行禁中監察諸司1至2于馬宮1。乃〕當2厩戸1而不v勞忽産之生而能言〔有2聖智1及v壯一聞2十人訴1以勿v失能辨兼知2未然1且習2内教於高麗僧惠慈1學2外典於博士覺※[加/可]1兼悉達矣〕父天皇愛v之令居2宮南上殿1。故稱2其名1謂2上宮厩戸豐聰耳太子1。
出遊竹原井 河内國にあり。皇子の出遊給ふ事、日本紀には不v見也。續日本紀〔元正紀云。養老元年二月壬午、天皇幸2難波宮1。丙戌自2難波1至2泉宮1。【中畧】庚寅、車駕至2竹原井頓宮1。聖武紀云。天平十六年九月庚子、太上天皇行2幸珍努及竹原井頓宮1。(347)光仁紀云。寶龜二年二月庚子、車駕幸2交野1。辛丑進到2難波宮1。戊申車駕取2龍田道1、還到2竹原井宮1。
時見龍田山死人 此事も日本紀に不v見。日本紀卷第廿二推古天皇紀には、二十一年冬十一月作2掖上池畝傍池和珥池1云々十二月庚午朔皇太子遊2行於片岡1時、飢者臥2道垂1云々。此事に能似たる義なれども、これとは別事と見えたり。歌も日本紀の御歌は長歌、此歌は短歌也。紀に洩れたる故、此集に載せたる歟
龍田山 大和國平群郡にあり。日本紀〔卷第三神武紀に勒v兵歩趣2龍田1とあり。〕延喜式〔神名帳大和國龍田坐天御柱國御柱神社二座【并名神大】〕
 
415 家有者妹之手將纏草枕客爾臥有此旅人阿怜
いへならば、いもがてまかん、くさまくら、たびにふしたる、このたびとあはれ
 
家有者 いへにあらばといふ義を、約めてならばとは例のにあの約言なゝり
手將纏 妻子などに、介抱せられてあらんにとおぼしはかり給ふて也。手まかんとは手をも枕にしてまかんにと也
阿怜 此集中※[立心偏+可]怜とも書、阿怜とも書けり。元は可怜の字を如v此記來れると見えたり。第一に注せるごとく、日本紀神代下卷に被v記たる、可怜の二字をもて、義訓にあはれとは用ゐられたるを、傳寫あやまりて、※[立心偏+可]阿等の字に成りたると見えたり。二字合せてあはれと義訓によむ也
歌の意きこえたる通也。聖徳皇子片岡山の飢人を見てよみ給ふ歌に付ては、元亨釋書等其外諸抄物などにも、南山大士の再來など奇怪の説をなせれども、難2信用1義也。此歌も紀には洩れたれども、此集に載せられたれば無v疑、御歌紀にのりたる長歌の事に能似たる義なれども、別事と見ゆる也。此御歌もたゞ當然の感慨をのべ給へる御歌也。聖徳太子の御事は、本朝文粹古今集眞字序をはじめ、台家眞言家の書、元亨釋書等太子傳抔云書にも、いろ/\附會の説々を記したれども、此に用なければ不v及v注。後世の俗古學古實を不v弁故、神靈佛化身など尊稱し奉れど、本邦神祇王道廢衰の基元は、正敷此皇子に始まり、殊には奉v弑2崇峻天皇1蘇我馬子にみしたしみ給ふ御下心の程も疎ましき御事、萬代の後にもこの御不徳を、上天精神も豈に允(348)し給はんや。終に山背大兄王をはじめ、嶋臣に亡され給ふて、太子の御系圖絶えはてたる天道の顯然たる理りを見ては、さのみ尊ぶべき皇子にもあらされば、無益の妄説書き添へん事も、詮無き事ならんかし
 
大津皇子被死之時磐余池蚊流涕御作歌一首
おほつのみこ、ころされたまふとき、いはれのいけのつゝみにてなみだをながしてつくりたまふうた一くさ
 
大津皇子の被v殺給ふ事は第二卷に詳也。不v及2再注1
磐余池 大和也。日本紀卷第三、【上略】因改v號爲2磐余1云々と有。同紀〔卷第十二履仲天皇三年冬十一月丙寅朔辛未、天皇泛2兩枝船于磐余市礒池1、與2皇妃1各分乘而遊宴云々〕
 
416 百傳磐余池爾鳴鴨乎今日耳見哉雲隱去牟
もゝつたふ、いはれのいけに、なくかもを、けふのみゝてや、くもがくれなん
 
百傳磐余池 百につゞく五十といふ義也。すべて數によりて、百につゞく詞に、百つたふ八十、三十とも冠句に据え來れり。日本紀神代下卷【上略】百不足八十隈隱去矣。此古語も同じ意也
去牟 いなんの畧語也。雲がくれいなんとは、殺され給はんとの義也
御歌の意聞えたる通、いたくもあはれなる御歌也。懷風藻云
   五言臨終一絶
食鳥臨西舎、皷聲催2短命1、泉路無2賓主1、此夕離v家向
これ同時の御詩歌なるべし。千載の下今も尚いたましき御詠吟、聞人ごとに尚流涕難v止侍るのみ
 
右藤原宮朱鳥元年冬十月
 
これは後人の加筆ならんか。但し古注者の記せる歟。大津の皇子殺され給ふ年月を、日本紀によりて注せる也
 
(349)河内王葬豐前國鏡山之時手持女王作歌三首
かはちのおほきみを、とよくにのみちのくちのくにかゞみ山にはふむれるとき、たもちのひめおほきみの作り歌みくさ
 
河内王 日本紀卷第三十持統天皇三年〔八月辛巳中略丁丑、以2淨廣肆河内王1爲2筑紫大宰師1云々〕
豐前國鏡山 前に梓弓引豐國の鏡山と詠める歌の處に注せり。神功皇后の時、鏡を埋み被v齋し處との古説也
手持女王 河内王の御子か。傳不v知
 
417 王之親魄相哉豐國乃鏡山乎宮登定流
おほきみの、むつたまみゆや、とよくにの、かゞみのやまを、みやとさだむる
 
親魄 貴玉也。王の亡靈を尊んでいひたる詞也。むちもむつも同じ詞也。日本紀神代上卷、天日〓貴、大己貴などあり。皇親の二字をすめむつと訓ずるも、尊稱の義也。王のみたまを尊稱してむつとはいへる也。倭名鈔卷第二鬼神部云、靈、四聲字苑云、靈【郎丁反、日本紀私記云、美太万、一云美加介、又用2魂魄二字1】通神也
相哉 あふやともよませたり。鏡山と讀めるなれば、みゆやと讀むべき也
歌の意は鏡山に葬りて、宮と定めるからは、王のみたまの見ゆるや、見えはせぬにと歎きたる歌也
 
418 豐圀乃鏡山之石戸立隱爾計良思雖待不來座
とよくにの、かゞみのやまの、いはとたて、かくれにけらし、まてどきまさぬ
 
石戸立 石槨に入れて葬りし故、如v此詠み給へる歟。死たることをいはがくれと詠むも、石槨に納むるからいへる事と聞えたり。尤神代上卷、天照大神の天岩戸にこもらる給へる事に基きて、石戸立てとも詠める歟。人の死したることを右の神わざに比する事心得難けれど、作者の御意は、若しさやうの意をふくみて詠み給へる歟。先は石槨に納めて葬れるからと見る也
歌の意聞えたる通、鏡山に葬れるから二度相見たまふ事も無きを哀みて、待てど來まさぬと歎きたる歌也
 
(350)419 石戸破手力毛欲得手弱寸女有者爲便乃不知苦
いはとわる、たぢからもがな、てをよはき、をんなにあれば、すべのしらなく
 
手力毛欲得 石槨をもわりくだく程の力もがな。しからばかくれ給ふ王をも引出し奉らんにと也。女を手をやめと云も、手弱女といふ義にて、女は力無き者なれば、せんかたも無きとなきたる歌也。これも神代上卷の手力雄神の古事などをふくみて詠めるならん
歌の意聞えたる通也
 
石田王卒之時丹生作歌一首并短歌
いしだのおほきみまかるとき、にぶのおほきみつくるうた一くさならびにみじかうた
 
石田王 傳不v知。丹生の下に王の字を脱せる也。傳不v知
 
420 名湯竹乃十縁皇子狹丹頬相吾大王者隱久乃始瀬乃山爾神左備爾伊都伎坐等玉梓乃人曾言鶴於余頭禮可吾聞都流枉言加我聞都流母天地爾悔事乃世間乃侮言者天雲乃曾久敝能極天地乃至流左右二杖策毛不衝毛去而夕衢占問石卜以而吾屋戸爾御諸乎立而枕邊爾齊戸乎居竹玉乎無間貫垂木綿手次可比奈爾懸而天有左佐羅能小野之七相管手取持而久竪乃天川原爾出立而潔身而麻之乎高山乃石穗乃上爾伊座都流香物
なゆたけの、とほよるみこ、さにほへる、わがおほきみは、こもりくの、はつせのやまに、かみさびに、いつきいますと、たまづさの、ひとぞいひつる、およつれか、わがきゝつる、まがごとか、わがきゝつるも、あめつちに、くやしきことの、よのなかの、くやしきことは、あまぐもの、そぐへのきはみ、あめつちの、いたれるまでに、つゑつきもも、つかずもゆきて、ゆふげとひ、いしうらもちて、(351)わがやどに、みもろをたてゝ、まくらべに、いはひべをすゑ、たかたまを、まなくぬきたれ、ゆふだすき、かひなにかけて、あめにある、さゝらのをのゝ、なゝみすげ、てにとりもちて、ひさかたの、あまのかはらに、いでたちて、みそぎてましを、たかやまの、いほほのうへに、いましつるかも
 
名湯竹乃云々 第二卷に、吉備釆女か死したる時、人丸の詠める歌にも、此詞ありてそこに注せる如く、すがたのなよやかなるといふ義に、なぞらへてほめたる詞也。十縁もなびきよるといふの意、しなやかになよやかなどいふ意にて、みかたちの美はしく、しなよきといふ義を云ふたる義也
狹丹頬相 さは發語の詞にほへる也。紅顔などいふて、にほひある顔色の美はしきといふ義、いたく稱美の詞なり。御壯年にて卒し給ふと聞えたり
隱久乃 こもりくとは、はつせの冠辭也。地名を重ねていふたる義なるべし。古來説々難2信用1。剰へよみ樣さへ大成誤ある事也。人の口中には、齒といふものこもりてあるものから、口の齒とつゞけたる歟。古來説々不v决也。先は地名と見る方易かるべし
神左備爾 み子のかくれ給ひて、神といつき祭りたるといふ事也
玉梓乃人曾言鶴 みこのかくれ給ふといふ事を、丹生王へ被v赴たる使の義を言たる義也。玉梓のつかひとつゞく例を以て、人ともいふたる也。またつかひぞ云ひつるとも讀むべし。人といふ字を義訓に使とも讀むべき也。初瀬山に葬りたると聞えたり
於余頭禮可 およつれかは、虚言かといふ義也。日本紀に見えたる詞、前に注せり
吾聞都流 丹生王の聞き給ふはさかしまごとか。聞き違ひ給ふ歟といふの義也
枉言 すぐになき、きかせられやうかとの意也
我聞都流母 これは上の句へつゞきたる句也。重ねてのべたる句也。使の云ふもうそさかしまごとか。王の聞き給ふもきゝ(352)誤りて、まがごとに聞しめしたるかとの意也
天地爾悔事力 此天地により、句を改めてのべられたる也。これより以下畢竟石田王の存在にてましまさば、いか樣にもいのりねぎてなりともまします處に至りまさんを、かくれましまして高山の上に岩がくれます故、いたりまみえ給ふものならぬと悔み給ふ義を詠み給へる也
曾久敞能極 そぐへとは、そこばくと云語にて、天地の限りはてといふ意也。いづくいづ方までも、たづね行きてとの義也。祝詞の文にも、野のそぎ、山のそぎとあると同意也。野のはて山のはて也
天地至流左右二 これも天地の至りきはまれる處までにといふの意也
夕衢占問 ゆふげとひと云は義訓也。夕ぐれにちまたに出て、往來の人の言葉につきて吉凶を考ふることを、夕げのうらといふ也。上代はかくの如き愚かなる占をもし來れる也。これ古實也。御子の方へ尋ね行き給はんをと云の意也。くれを約すればけなり。よりて義訓約言をかねて、ちまたと云字を書て意を助けたる也
石卜以而 これも上代の占の法也。石を拾ひてその數によりて、吉凶善惡の義をかんがふる義也
御諸乎立而 是より以下、神祭祈?の事にて、前にくわしく注せり
枕邊爾 我居處の上座とするところにと云意也。必竟まくらべといふに意無し。たゞ歌の雅詞の事也
天有左佐羅能小野之 上天に、此さゝらの小野といふ所あると詠み給へる意也。下の菅を詠まんとて、まづさゝらの小野と、處をすゑて詠み出せる也。古代の歌の格皆かくの如し
七相菅 七みすげといふは、何のよりどころにて、七とよみ給へるとも知れ難し。たゞ菅の葉をとも詠み給ふてすむべきことなるに、七と詠める意、いかにともかんがへ難し。然れども、これは石田の王のかくれ給ふ時の挽歌故、句つゞきに七の數を詠み出し給へると見えたり。すべて本朝にては、死せる時のことに用ゆる數、皆七つ也。四十九日も七七四十九の數にて、七日二七日といふ。又生るゝ祝義にも、七夜二七夜といふて用ることにて、祓の地名にも七瀬の祓といふ事ありて、七の數をとり出たまふは古格也。上代は兎角生死の事の數に、七を用ゐたる也。これは神代よりの古實也。已に神代卷の上に、神代(353)七代と被v記たる本文によりて出たる義と知るべし。此處の七みすげも、卒去の時の歌故、させる故も無けれど、七と詠み入給ふなるべし。相菅のみは發語のみ也
潔身麻之乎 王の生きてさへましまさば、如v此みそぎ祈をもせんに、何事も詮無き事のくやしきとの義也
高山乃石穗乃上爾 石槨に埋葬まつる故、その意をもて、いはほの上にとは詠み給へるなるべし
右歌の意、句注にて聞えたる通也。かもとは歎息のかも也。かなといふ意也
 
反歌
 
421 逆言之枉言等可聞高山乃石穗乃上爾君之臥有
 
此歌の意は、高山の岩上に石田王の臥してましますと云ひ、ゐましもせぬを使の人の空言を云ふとの意也。然れば石田王のかくれまして、高山の石穗の上にかくしまつれると、告げしらしむるは、さか言のまが言か。伏してもましまさぬにとの意也
 
422 石上振乃山有杉村乃思過倍吉君爾有名國
 
杉村のとよめるは、下のおもひ過ぐべきと云はんとての序詞也
思過倍吉 過しやられぬといふ意也。忘れられぬといふ意と同じ。しのぶとも、慕ひとも、思ふとも讀むべし。いづれにても同意にて、兎角慕ひても/\、慕ひやまれぬ君との意也。しのび過ぐべき君にては無きと、いと深切に慕ひ給ふ意をのべ給へる歌なり
 
同石田王卒之時山|前《クマ》王哀傷作歌一首
おなじくいしだの王みまかり給ふとき、やまぐまの王かなしみいたみてつくるうたひとくさ
 
山前王 續日本紀卷第三云、慶雲二年十二月癸酉無位山前王云々。前の字はくまと讀むべき也。和名鈔國郡部云、但馬國氣多郡樂前【佐々乃久萬】大和國高市郡檜前【比乃久末】と出づ。いづれのみ子といふ傳未v考
 
423 角障經石村之道乎朝不離將歸人乃念乍道計萬四波霍公鳥鳴五月者菖蒲花橘乎玉爾貫【一云貫交】※[草冠/縵]爾將爲(354)登九月能四具禮能時者黄葉乎折挿頭跡延葛乃弥遠永【一云田葛根乃彌遠長爾】萬世爾不絶等念而【一云大船之念憑而】將通君乎婆明日從【一云君乎從明日香】外爾可聞見牟
つのさはふ、いはむらのみちを、あさかれず、よりけむひとの、おもひつゝ、かよひけましは、ほとゝぎす、なくさつきには、あやめぐさ、はなたちばなを、たまにぬき、かづらにせむと、ながづきのしぐれのときは、もみぢばを、なりてかざすと、はふくずの、いやとほながく、よろづよに、たえしとおもひて、かよひけむ、きみをばあすより、よそにかもみむ
 
角障經石村之道乎 つのさはふは、のとなと同音にて、いはづなといふものさはに生ひたる岩むらといふの義也。第二卷にくはしく記せり。石村の道を、いはれと讀むべしと云説もあり。心得難し。是はさかしき岩むらの道といふ迄の事也
朝不離 毎朝に也
將歸 これをよりけんと讀むべし。朝廷へ出仕の義と見るべし。それをよりけんと讀みたる也。山前王の方に、寄といふにはあらず。朝廷へ出仕の往來の事をのべ給へる也
念乍 とは此下の五月九月の佳節のよそほひのことをも、石田の王の心におぼしめして通ひ給ふらんとの意也
通計萬四波 通ひしあひだはといふ義也。けもしも助詞也
霍公鳥鳴五月者 五月といはんとて、ほとゝぎす鳴くと詠み出たる也
菖蒲 五月五日には、上代あやめのかづら藥玉などかける儀式、諸記に詳也。節物故、佳節の祝物に用ゐられて、那氣を除く祝物とせられたる也
九月能 なが月の頃、重陽の節抔紅葉を折かざして、朝廷に仕へ給ふらんことの、よそほひの事を思ひつゞけて、詠みつらね給へる也
(355)四具禮 和名鈔卷第一云、霖雨小雨也。之久禮。
彌遠永 いやをちながら、いやすゑながらとも讀べし。
將通君乎婆明日從外爾可聞見牟 石田王の存在し給ふ時は、いく千代迄も、いやをちながく不v絶朝參勤仕し給はんとおぼして、毎朝に通はせられ給はん人の、壯年にてみまかり給ひて、あすよりは外に見んことのいといたましきと也
 
右一首或云柿本朝臣人麻呂作
 
古注者の後注也。或説には、人丸の歌とも記せるものを所見と見えたり
 
或本反歌二首
 
此注も同じく、古注者の筆也
 
424 隱口乃泊瀬越女我手二纏在玉者亂而有不言八方
 
こもりくのはつせをとめがとは凡て難波泊瀬には、上代遊女のあまたありし故、はつせをとめとは詠める也。難波女といふも遊女の事にて、此越女も遊女の事を詠み給へるなり。泊瀬に戀を祈るといふことのあるも、上代遊女のありし故からのことなるべし。此事、いせ物語後撰集等にて、大成論ある事也。兎角泊瀬越女難波女などよみたるは、遊女の事と見るべし。その女の手にまきたる玉は、亂れてありといへども、かくれ給ひし人の、たましゐは無きにと歎じて詠める也。左注に紀皇女の薨じ給ふ時、石田王に代りて、山前王の詠み給ふとある注さもあるべき歟。女皇子のみまかり給ふことを、歎じて詠める歌故、女が手にまけるとも詠み出せるならんかし
有不言八方 ありといはずやもとありて、玉は手にみだれてあるといふにとの意歟。無き人の玉しゐは無きことの悲しきとの意也。又玉はみだれてなき故に、有といはぬかなと云の意とも見ゆる也。玉は亂れてなくなりし故ありとは云はぬを、ありといへかしと歎きたる意とも見るべし。人丸の死したる時、依羅娘子が歌にも同じ言葉あり。その意と同じ意に見る時は、ありと云はぬを歎じたる歌と見る也。八方といふ詞はいづれにても歎息の詞と見るべし。命を玉の緒と云へばそれにもよせ(356)てよみ給へる也。あかず思ふ人のうせ給ふを、手玉の緒絶えて無き如くに、惜み悼むの意也
 
425 河風寒長谷乎歎乍公之阿流久爾似人母逢耶
 
これも遊女のある處故、はつせを詠み出たるなるべし。公があるくにと云も、遊女にひかれて、うかれあるき給ふことを、なぞらへて詠める意也
似人母逢耶 かくれ給ひし人に、似たる人にも逢ふやとの義也。公之と指したるは、みまかりたる人をこひ慕ふ人をさして也
左注に、人にかはりて詠み給へる歌とある注にて見れば、いかにもあるべき歟。さなくては、公があるくにと詠める處むつか敷歌也。山前王の、石田王にかはりて詠み給ふなるべし。兩義ある歌也。なき人を慕ひさまよひてあるき給ふ程に、せめて無き人に似たる人なりとも逢ふや。さもあらば少し歎きを助けんこともあらんにと、思ひやりて詠める歌にもあらんか。然れども似人にもあふや。無き人なれば風寒き處をさまよひあるき給ふとも、何とてみまかりし人に逢ひ給ふべきや。逢給ふことはあるまじと、歎き悼める歌と見る方やすかるべし
 
右二首者或云紀皇女薨後山前王代石田王作之也
みぎ二くさはあるにいふ、きのひめみこみまかりたまふのち、やまくまのおほきみいしだの王にかはりてこれをつくる也
 
是古注者或説と所見ありて、如v此左注を加へたるなるべし。いかさま歌の趣、左注の意に相叶ひたる歌なれば、此説の通ならんか
 
柿本朝臣人麻呂見香具山屍悲慟作歌一首
 
426 草枕※[羈の馬が奇]宿爾誰嬬可國忘有家待莫國
くさまくら、たびのやどりに、たがつまか、くにわすれたる、いへにまたまくに
 
(357)誰嬬可 女の屍か。つまとは男女に通じて歌に詠めば、此屍いづれとも決し難し。泊瀬女の歌、本集の歌なれば、歌の次第女の屍とも見るべけれど、或説の歌故女子の事とも見難し。次下に田口廣麻呂歌あり。本集にて前に、石田王卒の時の歌あり。然れども、嬬の字を記し女子の事を知らしめん爲、歌の意を助けたりと見えたれば、いづれとも難v決也
國忘有 これは本國に歸らずして、しる邊も無き處にて、死したることの悼ましきといふ義を詠める也。狐丘に枕するといふ古事をもふくめたる歟。よりて忘れたるとは詠める歟
家待莫國 莫の字、古一本に眞の字に記せり。尤可なり。またなくにとありては義不v通。然るを諸抄に色々義を付けて記せるは、誤字の考なきより也。眞の字にすれば、よく聞えたる歌となる也。死人の家には、幾許待たんにといふ意也。待たまくにと詠める意、感情深し。待たまくと計も讀まれるども、まくにとよむ方然るべし
 
田口廣麿死之時刑部垂麿作歌一首
たぐちのひろまろしせるとき、おさかべのたるまろつくろうたひとくさ
 
田口廣麻呂、刑部垂麻呂 傳未v考
 
427 百不足八十隅坂爾手向爲者過去人爾蓋相牟鴨
もゝたらぬ、やそすみさかに、手むけせば、すぎにし人に、盖《ケダシ・マタ》あはんかも
 
百不足 やそと云はん爲の冠句也。前にも注せり。八十隅坂、此すみ坂は大和の地名也。上代旅行の時、此神に手向をなす事ありけるか。墨坂の神は、大物主神と云傳へたり。八十すみ坂と讀める意、心得難し。これは死したる人のことを詠める歌故、神代卷大己貴、八十隈ぢにかくれますと云義によりて、八十墨とよめる歟。又幾重もの隅と、數限りの無きすみと云意歟。未v決
手向爲者 旅行などに手向をなして、往來安穩を祈る神なれば、此神に手向せば、黄泉に赴きし人にも又逢ふことのあらんかと也
過去 すぎにしと前にも讀み來れり。去はにしと讀む訓例多し。ゆきしとも讀むべけれども、字あまりて耳に立つ也。もみ(358)ぢ葉の散りにしなど讀み來れば過にしと讀むべし
盖 の字、奧にいたりて假名書にけだしと書きたれば、けだしと讀む事聞きにくけれども苦しからず。しかしふたと讀む訓あれば、またとも可v訓歟。又と云義訓もかひなかるべからんか
 
土形娘子火葬泊瀬山時柿本朝臣人麻呂作歌一首
ひぢかたのいらつこを、はつせ山にほゝむりしとき、かきのもとの朝臣人まろ、つくるうた一首
 
土形 日本紀卷第十應神紀に、大山守皇子、是土形君榛原右凡二族之始祖也。和名鈔に遠江國城飼郡士形【比知加多】見ゆ
火葬 此こと不審あり。上代は皆おさめまつる、かくしまつるとありて、ほうむるといふ語、古訓に不v見。然れば若し文武帝已後の詞にて、火葬の禮被v顯し時より、火葬の義をほゝむると云ふたる義ならんか。然れば語釋も濟安き也。さなくて凡て葬式の事をほゝむるといふ時は、語釋もむつか敷由也。先火葬の二字を合して、ほゝむるとはよみ置也。ひにほゝむると讀むべき事なれども、古訓新語は差別未v決故、先二字合せてほゝむるとは讀む也
 
428 隱口能泊瀬山之山際爾伊佐夜歴雲者妹鴨有
こもりくの、はつせの山の、やまのはに、いざよふ雲は、いもにかもあらん
 
能きこえたる歌也。死しては上天に登り、雲となり雨となるの古語もあれば、その義をもふまへて詠めるなるべし
 
溺死出雲娘子火葬吉野時柿本朝臣人麻呂作歌二首
おぼれしにたるいづものいらつこを、よしのにほうむるとき、柿本朝臣人麻呂つくるうた二首
 
429 山際從出雲兒等者霧有哉吉野霏※[雨/徽]
やまのはゆ、いづものこらは、きりなるや、よしのゝやまの、みねにたなびく
 
山際從 いづる雲とうけんと、山のはゆと詠み出でたる也。古詠の格皆如v此。ゆとはよりといふ古語也。立のぼる雲は、山(359)の端より出るごとくなるもの故、如v此は詠める也。火葬の煙などの、山の端に立のぼりたなびく景色を悲歎して、詠めるなるべし
聞えたる歌也
 
430 八雲刺出雲子等黒髪者吉野川奧名豆颯
やくもさす、いづものこらが、黒かみは、吉野の川の、おきになづそふ
 
刺 たつともさすともよむ也。雲による詞也。古事記の歌にも、八雲さすと讀める語例あれば、さすと讀むべきこと也。刺の字たつとは讀み難き也
奧名豆颯 川にも奧とよむ例の歌をはじめいくらもあり。水の深き、川の眞中といふべき處をさしていふ也。なづそふとは速やかに流れず、ゆるくたゞよひ浮きてあるをいふ也。なづむと云ふも、速かにとく行かず流れぬことをいふ也。その意と同じくなづみそふといふ義也。吉野川の水に溺れ死したると見えたり
よく聞えたる歌也
 
過勝鹿眞間娘子墓時山部宿禰赤人作歌一首并短歌
かつしかのまゝのいらつこのはかをすぐるとき、山部宿禰赤人つくるうたひとくさならびにみじかうた
 
勝鹿眞聞 下總國の地名也。和名鈔國郡部下總國葛飾郡にあり
娘子 傳不v知。眞間といふ處の女と聞えたり
 
431 古昔有家武人之倭文幡乃帶解替而廬屋立妻問爲家武勝牡鹿乃眞間之手兒名之奧槨乎此間登波聞杼眞木葉哉茂有良武松之根也遠久寸言耳毛名耳母吾者不所忘
(360)いにしへに、ありけん人の、しづはたの、おびときかへて、ふせやたて、つまとひしけん、かつしかの、まゝのてこなが、おくつきを、こゝとはきけど、まきのはや、しげりたるらん、まつがねや、とほくひさしき、ことのみも、なのみもわれは、わすらえなくに
 
倭文幡乃 しづはた、しどりはた也。いやしきものゝ著るものをしづはたと云也。よりて賤しきものをしづのめ、しづのをと云も此名よりいふ義也。日本紀神代卷の下、倭文神、此云2斯圖梨俄未1
帶解替而 下のふせや立てといはん爲の序詞也。ふせやとは、ふしふすといふ義によりて、おびときかへて、ふせやと續けたる也
廬屋 のきなどのひきく垂れたる家を云也。こゝは夫婦ふすやといふ義也
妻問爲家武 これは昔の物がたりなどにいひ傳へたる事にて、下總國勝鹿郡眞間といふ處に美人ありしを、尊卑の男子こひ慕ひて、競望して、妻にせんと爭ひしことありしと也。その事によりて空しくなりしといふ事を、古人云傳へていつの比いつの時代といふ年暦も、不v慥古事ありし也。赤人時代よりも、尚はるかに前の事なりしと見えて、發句にも、いにしへにありけんと詠み出でたれば、遠き昔のことなるべし。かれこれ爭ひ競ひて妻にせんとこひ慕ひたる事を、つまとひとは詠める也。鹿の妻を戀を、妻とふなど詠めるも同じ。第十四卷にも、此娘子かことによせて詠める歌ありて、あしやのうなひをとめの古事に等しき也
手兒名 此こと色々説あり。人の妻となりたる女を、手兒といふと云説あり。然れども兒といふは女の惣名にて、ては初語とも聞ゆる也。女の通稱又は遊女などをいふとも見えたれば、いづれとも決し難く證例未v考。さればいづれを是とも決し難き也。先こゝにては、此女の名とも聞えたり。又賤しき女の通名ともいはるべき歟。田子などといふ類にてもあるべき歟。第十四卷の歌に、てこにあらなくにと、詠めることもありて、いかにとも定め難し。名といふはをんなといふのなゝり
奧槨乎 墓所を、古語おきつきと云也。神代上卷奧津棄戸とありて、死人を奧深く埋藏所を云也。丘墓と書きて、おくつきと(361)も訓ぜり。然れば手兒名を葬りし墓所は、こゝと聞けどもといふ義也。槨和名鈔葬具部云、野王曰、槨【於保止古】周棺者也
此間登波聞杼眞木葉哉 すべて草木の茂りて、その墓どころしかともしれ難きとの意也。茂りたるらんといふは、かくはえ茂りてある、此あたりにてあるらんとの意と聞ゆるなり
松之根也遠久寸 はるかに遠き昔の事なれば、墓の上には松の年ふりて、はえ茂りたるらんと也
言耳毛名耳母吾者本所忘 此間に、一句脱あらんか。二言不v足やうに見ゆる也。遠久寸の三字、何とぞ別訓あらんか。不の字をなくにと讀むべき歟。然れば此通にても句連續する也。不はがたしともなくにとも讀める例あるべし。追而可v考。ことのみもなのみは吾はわすれぬとは、手兒名が古事上代はるかに隔たりたることなれば、はか所を過ぐるに、此ところとは聞けど、草木生しげりて昔の有樣さだかにも見えねど、そのことは古くも云傳へたれば、今過る時に望みて歎情の起れる意を、忘られなくにとは詠めるなるべし
 
反歌
 
432 吾毛見都人爾毛將告勝牡鹿之間間能手兒名之奧津城處
われもみつ、ひとにもつげん、かつしかの、まゝの手こなが、おきつきどころ
 
奧津城處 ひつぎを奧深く置ところといふの義にて、墓どころといふの義也。注釋に不v及、能聞えたる歌也
 
433 勝牡鹿乃眞々乃入江爾打靡玉藻苅兼手兒名志所念
かつしかの、まゝのいりえに、うちなびく、たまもかりけん、てこなしゝのばる
 
所念 しのばると讀むべし
不v及2注釋1歌也
 
和銅四年辛亥河邊宮人見姫島松原美人屍哀慟作歌四首
 
右の長歌第二卷にもあり。その所にくはしく注せり
 
(362)434 加麻※[白+番]夜能美保乃浦廻之白管仕見十方不怜無人念者
かまはやの、みほのうらわの、しらつゝじ、見れどもさびし、なきひとしのべは
 
加麻※[白+番]夜能 これを點にはかさばやと讀ませり。五文字假名書にしたるに、中に挾たる一字、麻の字を訓にて読むべき事心得難し。よりてかまはやとはよむ也。地名いづれの國とも難v考けれど、姫嶋は攝洲に極れば、攝津國の地名なるべし。尤三穗のうら紀州にもあるか。三穗の岩やの歌前に見えたり。地名は同名異所あまたあれば、一所に定むべからず
不怜 ※[立心偏+可]怜と書きて、面白しともうましともよむ。そのうらにて不怜と書たれば、さびしと義訓に讀む也。若しくはかなしと讀むべき歟。或説の歌にもかなしとあり
歌の意は白つゝじは面白く咲きたれども、空しき人の屍を見れば、慰む心も無きと悼みたる歌也
 
或云見者悲霜無人思丹
あるにいはく、見ればかなしも、なき人しのぶに
 
或説には、如v此書きたる本もあると見えたり
 
435 見津見津四久米能若子我伊觸家武磯之草根乃干卷惜裳
見つ/\し、くめのわくこが、いふれけん、いそのかやねの、かれまくをしも
 
此卷の前に、三穗岩やの所にも、くめのわか子の事有。みつ/\しとはくめと云はん爲のほめたる詞也。日本紀卷第三神武紀にも、みつ/\しくめの子らとありて、みつ/\しは稱美の詞也。此若子も、前の岩屋の若子と同人のことをよめる歟。前の歌みほのうらわとあるにより、博通法師紀の國の三穗石室を見て詠める歌あれば、若し混雜したる歟。此已下三首の歌、屍を見て詠める歌とも聞え難し。兎角混雜と見ゆる也。此歌の意も、若子を美人の事にして見れば、安く聞えたる歌なれど、若しくめの若子の事とせばむつか敷也。美人をほめて、女なれどもかく詠めるにやあらん。然らばその美人の袖ふれる礒の草の枯れなんこと惜しきとの意也。又は美人を草に比して詠める歟
 
(363)436 人言之繁比日玉有者手爾卷以而不戀有益雄
ひとごとの、しるきこのごろ、玉ならば、手にまきもちて、こひざらましを
 
人言之繁 人にいひさわがれて、思ふ人に會ふ事もまゝならぬとの義也。此集にあまたあり
手爾卷以而 必竟我物とせば、かく戀ひ佗ぶることはあらましをと、玉に比して云へる也。玉は手玉といふて、上代は皆身の錺にしたるなり。思ふ人の玉なれば、手玉にして常住にもてあそばんにと也。思ふ人を玉に比したる也
 
437 妹毛吾毛清之河之河岸之妻我可悔心者不持
いもゝわれも、みそぎし河の、かはぎしの、いもがくゆべき、こゝろはもたじ
 
清之 これはきよめしとか、すめりしと點せり。こは歌詞にあらざるを不v辨の説々なり。清之はみそぎし也。夫婦の約束をして、誓約の事をなしたるをみそぎしとは詠みたる也
可悔 は岸の崩れくるによせていふたる也。不實二心なる心は持たじと也
右の歌ども屍を見てよめる歌とは不v聞。是混雜と見えたり。されば左注者も歌辭相違の是非を難v別と注せり
 
右案年紀并所處及娘子屍作歌人名已見上也但歌辭相違是非難別因以累載於茲次焉
 
所處及 此及の字、乃の字に記せるは誤と見えたり
載於茲次焉 此焉の字不審。載の字呼の字ならんか。如v此ありては右注になるべからんか
 
神龜五年戊辰太宰帥大伴卿思戀故人歌三首
前略むかしひとをしたひこふうたみくさ
 
故人の歌の意を見るに、亡妻の義を慕ひ給ふ儀なり。死去わたる人故、故人とは書けるならん
 
438 愛人纏而師敷細之吾手枕乎纏人將有哉
(364)うるはしき、ひとのまきてし、しきたへの、わがたまくらを、まくひとあらんや
 
愛 神代上卷伊弉諾尊の冉尊を指して、美はしきと神勅ありし古語ありて、しかも愛の字を讀ませたり。うつくしむ、うつくしきなど讀める點あれど、古訓に從ひてうるはしきとは讀むなり。うるはしき人とは、過去し妻の事を指して云へる也
手枕 はたまくら也。手は發語也
纏人將有哉 うるはしき人はすぎさりて、又まく人あらんや。まく人無きと歎きたる歌也。能聞えたる歌也
 
右一首別去而經數旬作歌
 
此左注は、離別しての後詠める樣に聞ゆれど、死別の後の歌也。既に此集卷第八式部大輔石上堅魚朝臣の歌の左注に、大伴卿の妻長逝の事を載せたり。而れば死別の事明らけし。神龜五年に死別にて其年に詠める歌故、數旬を經と左注せる事可也
 
439 應還時者成來京師爾而誰手本乎可吾將枕
かへるべき、ときにはなりけり、みやこにて、たがたもとをか、われはまくらん
 
440 在京師荒有家爾一宿者益旅而可辛苦
みやこなる、あれたるいへに、ひとりねば、たびにまさりて、かなしかるべき
 
可辛苦 からくゝるしむと書きたれば、くるしとばかりは讀み難し。二字合せてかなしと可2義訓1也
二首とも歌の意聞えたり
 
右二首臨近向京之時作歌
みぎ二首、みやこにおもむくにのぞみ、ちかづくときつくるうた
 
これは、やがて任限果てゝ都に歸り上らんとする時の、近くなりて詠める歌との左注也
 
神龜六年己巳左大臣長屋王賜死之後倉橋部女王作歌一首
(365)前畧ひだりのおほいもうちきみながやのおほきみ、しを給ふのち倉橋部の女王つくれる哥一首
 
長屋王 此卷の前に委しく注せり
倉橋部女王 傳不v詳
 
441 天皇之命恐大荒城乃時爾波不有跡雪隱座
おほぎみの、みことかしこみ、おほあらきの、時にはあらねど、雲かくれます
 
大荒城乃 この詞難v濟。案には大あらきは墓所なるべし。天下露顯の墓所故、かく詠み給へる也。すべてきと云は墓所のことを云也。ひつぎをおさめ埋むところ故きと云。葬車をきくるまといふも、ひつぎをのせる故云也。然れば大いにあれたる墓所を、大あらきといふて、昔かくれなき墓どころなる故、その墓どころに、おさめかくす時節來りて、天命つき給はず非期の死をし給ふ故、そのきにおさむる時にはあらねどと、詠めると聞えたり。或説には、木の葉のあれて落葉するに喩へて、秋風もいたらで未ださかえ給はん身の、早くも過給ふといふ義に、時にはあらねどと詠める意に譯せるは、無理に義をつけたる意なるべし。大荒木のもりを詠ずることは、昔より用捨あることになれるも、墓所故の事なるべし。大あら木のもりの下草老ぬれはこまもすさめすかる人もなし、と詠める歌も、これ墓所故かる人も無く、馬をも不v飼と聞えたり
 
悲傷膳部王歌一首
かしはでの王を悲しみいためる歌一首
 
膳部王 膳部の二字、かしはでと訓せることは、續日本紀卷第九、元正紀に見えたり。是長屋王の御子也
左注作者不詳と記せり。何人が、かしはでの王を悼みてよめるか。歌主は不v知也。この歌を考ふるに、長屋の王の罪せられ給ふて、王等の威勢も衰へ給ふことをいためる意に聞えたり
 
442 世間者空物跡將有登曾此照月者滿闕爲家流
(366)よのなかは、むなしきものと、あらんとぞ、このてる月は、みちかけしける
 
物跡 此てには、今時のてにはには不2相合1也。古詠に如v此のてには、いくらもありし也。歌は時代によりて風躰相かはれば、今時にては世の中に空しきものにあらんとてと、詠むべき樣に覺ゆるてにをは也
歌の意、世の中は定め無き空しきものといふ理を知らしめん爲に、此圓滿の月も滿つればやがて闕くることを、あらはさせ給ふとの義、月のみちかくるを見て、世の中の定め無き、盛衰興廢のあることわりを知れよとの事也。死を悼める歌とは不v見也
 
右二首作者 未詳
 
天平元年己巳攝津國班田史生丈部龍麿自經死之時判官大伴宿禰三中作歌一首并短歌
 
前畧ふびとはせべのたつまろ、みづからくびれてしにしとき云々
 
班田 續日本紀卷十天平元年十一月癸巳、任2京内畿内班田司1。令義解卷第三田令、凡應班v田者、毎2班年1、正月卅日申2太政官1云々
史生 司中の事を一切書記す職也。日本紀卷十二履中紀四年秋八月辛卯朔戊戌、始之於2諸國1置2國司史1、記2言事1達2四方志1。今の代に云祐筆などの類也
丈部 和名妙に安房國長狹郡丈部波世豆加倍傳不v知。奧にて防人の姓に文部氏多く見えたり。此龍丸も安房國より出て史生に任じたる歟。此歌の主遠國より出身の者にや
自經 みづからくびると讀む。經は※[糸+至]の誤也
三中 傳不v詳。續日本紀卷第十三天平九年三月壬寅、遣新羅使副使正六位上大伴宿禰三中等四十人拜朝
 
443 天雲之向伏國武士登所云人者皇祖神之御門爾外重爾立侯内重爾仕奉玉葛彌遠長祖名文繼徃物與母父爾妻爾子等に語而立西日從帶乳根乃母命者齊戸乎前坐置而一手者木綿取持一手者和細布奉手間幸座與天地乃神祇乞?何在歳月日香茵花香君之牛留鳥名津匝來與立居而待監人者王之命恐押(367)光難波國爾荒玉之年經左右二白栲衣不干朝夕在鶴公者何方爾念座可鬱蝉乃惜此世乎露霜置而徃監時爾不在之天
あまぐもの、むかふすくにの、ものゝふと、いはるゝひとは、すべろぎの、神の御門に、そとのへにたちさむらひて、うちのへに、つかへまつりて、たまかづら、いやすゑ長く、おやのなも、つぎゆくものと、はゝちゝも、つまにこどもに、かたらひて、たちにし日より、たらちねの、はゝのみことはいはびべを、まへにゐおきて、ひとでには、ゆふとりもたし、ひとでには、やまとほそぬの、まつろひて、まさきくませと、あめつちの、かみにこひのみ、いかならん、としつきひにか、つゝじばな、にほへるきみが、ひくあみの、なづさひこんと、たちゐつゝ、まちけんひとは、おほきみの、みことかしこみ、おしてるや、なにはのくにゝ、あらたまの、としふるまでに、しろたへの、ころもでほさず、あさよひに、ありつるきみは、いかさまに、おもひましてか、うつせみの、をしきこのよを、つゆしもの、おきていにけむ、ときにあらずして
 
天雲之向伏國 此訓より延喜式の祝詞部にも出でたり。古來よりあまぐものむかふす國と點して、諸抄の説、遠く空を望めば天雲も地におちて向ひ伏して見ゆる故、如v此云ふとの義なれども、雲のむかふすといふ詞、如何としても連續せぬ詞なり。別訓あるべき事なれども、何と可v訓とも不v決。雲につゞく訓あるべき也。師案には、たな引くのおりゐるのといふ詞あれば向伏の二字なびけると可v訓。昔よりかな書無ければ不v決。先づむかふすと古來點しおける通りに讀みおけども、是にてはあるまじき也
所云人者 いはるゝ人は、龍丸を指して云へる也
皇祖神之 これは朝廷の義を崇尊していへる義也。すめろぎのかみと續くるは、神の通稱尊ていひたる詞也。みおやの神を(368)すべて、すめろぎと云て、こゝの意は尊稱の通語と見る也。此かみはみおやの神に限りて云ひたるにはあらず
玉葛 彌遠長とよまん爲也。遠長、すゑ長とよむべし。かづらとよみ出たれば、末とかけ長くとうくべき事也。諸抄には、かづらは遠くながくはびろこるもの故との説なれども、遠長くとは詞拙く連續もせぬ也。義はしひて違ふべからず。先祖の名を子々孫々までとほく長く傳へんことは、禁庭に仕へまつりて功をもたてずしては、先祖の名もあらはれず、名も殘らぬによりて、はる/”\の國をへだてゝも朝に仕へ奉ると云て、故郷の父母妻子をなだめすかせしことを讀める也
立西日從 本國を立ちて、京へのぼりし日より也。これより母の、龍丸無難仕官の任はてゝさきへ歸りあはん事を、神祇に祈りしことを詠める也。長歌は皆かくの如き義を、言葉に花をあらせて詠みつゞくるもの也
前坐置而 前に居おきて、祈る神の前に供し備ふる義也
和細布奉手 やまとほそぬのまつろひて、古も今も國々に絹布の名あり。此やまとほそぬの我國のぬのといふ義歟。又大和國より織らせたる布といふ義歟。不2一決1也。いづれにまれ神祭の奉り物と見るべし
間幸座與 前に注せり
何在歳月日香 いかならん年月日にか、いつの時にかといふ義を、くわしく如v此詠みたるもの也
茵花 つゝじはな、和名抄云、本草云、茵芋【因于二音、和名仁豆豆之一云乎加豆々之】
香君之 にほへるきみが、紅顔の意、たつ麿のことにいへる詞也
牛留鳥 ひくあみ義訓也。あみを引よせるは靜かに引もの故、下の名津匝といふことによせて、引あみとは詠み出たり
名津匝 は前に注せり
立居而 たちゐつゝ、此而といふ字つゝと訓也。當集には如何程もつゝと讀まねば不v叶ところ多し。諸説にはたちてゐてと讀ませたれど、それにては上の而の字不v足也。若し立而居而とある古本にてもあらばさもあるべけれど、今本の字にては、つゝとならではよまれぬ也。本國故郷の親族の龍丸を待居たる事を詠める也
衣不干 勤仕にいとなく、衣裳もしほたるゝ程につとめ仕ふるとの義也。然れども衣不干の事少難2心得1也。皆悲歎の事な(369)らば、衣不v干、袖ほさぬとはよまざる例なるに、勤仕の事に衣不v干とよめる事、外に例無2所見1事なり。然れどもこゝの意、龍丸の死して悲しみに衣不v干と云ふところにても無ければ、先勤勞の無v暇事に解き置く也。若しくは、遠國より朝に仕へて、古郷を慕ふことにころもかはかぬとの事歟
在鶴公者 龍丸をさして也
往監時爾不在之天 いにけん時にあらずして、此世を背きて何と思ひてか、くびれて非期の死をなしけんと悼みてよめる也
 
反歌
 
444 昨日社公者在然不思爾濱松之上於雲棚引
きのふこそ、きみはありしか、おもはずに、濱松の上に、くもとたなびく
 
445 何時然跡待牟妹爾玉梓乃事太爾不吉往公鴨
いつしかと、まつらん妹に、たまづさの、ことだにつげず、いにしきみかも
 
右二首ともに不v及v注。能聞えたる歌也
 
天平二年庚午冬十二月太宰帥大伴卿向京上道之時作歌五首
前畧みやこにおもむくみちたちのときつくるうたいつくさ
 
上道 みちたちと讀む也
 
446 吾妹子之見師鞆浦之天木香樹者常世有跡見之人曾奈吉
わきもこが、みしともうらの、やどり木は、とこよにあれど、見し人ぞなき
 
鞆浦 備後のともの浦なるべし。地名は同名異所あまたあれば、いづれとは決し難けれど、筑紫より京へのぼれる道の歌なれば、備後と聞ゆる也。ともの浦にて詠める歌故其地名をあらはしたれど、夫婦とも見しが今度は一人見ることの悲しみをふ(370)くめて、浦の名につけても古を偲ぶの心よりとはよみ出たるなるべし
天木香樹 これをむろの木と訓せること、何の証明ありてか所見無し。次の歌ともに室木と書きたればこれによりてさは詠めるならん。然れどもむろの木をとり出たるも心得がたし。何によりてとり出たるや、或説にはその頃鞆浦に世にかくれ無き大木にてもありし故ならんとの義也。若し然らば外にかんがへよる所無ければ決し難し。師の案には天木と書きたれば、天然自然と生じたる木の葉と聞ゆる也。然ればやどり木にてはあるまじきや。やどり木は木の股、石の上などに、自然天然に生ずる木也。然れば天木の字義をもて書けるか。やどり木は枯れやすかるべきものなるに、それは行くさに見しまゝ、かへさにもときはにあるに、共に見し妻ははか無くなりて、見し人ぞなきと思ひ歎じて詠めるならんか。如v此見ればやどり木をとり出せる歌の情、理りも可v叶らんか。世に聞えある大木故との説は、今少甘心なき也
見之人曾奈吉 過き行し妻の義をのべたる義也。ともに見し人ぞ無きと歎きたる也
 
447 鞆浦之礒之室木將見毎相見之妹者將所忘八方
ともうらの、いそのむろのき、みむごとに、あひみしいもは、わすられめやも
 
室木 如v此書たる故、天木香樹をもむろのきと點せる也。むろの木は和名鈔に※[木+聖]の字を記せり。此字も一名河柳とも訓せり。しかとむろに決し難けれど、※[木+聖]の字にて書きたらば、和名鈔をよりどころにてよむべからんか。室木は義訓をもて書けるか、また假名書に書きたるか、決しかたき也
將所忘八方 わすれんやわすられぬと也。やものもは歎息の詞古詠毎歌にある事也
 
448 磯上丹根蔓室木見之人乎何在登問者語將告可
いその上に、根はふむろのき、みしひとを、いかなりとゝはゞ、かたりつげんか
 
磯上丹 いそはいし也。岩石の上に生えたるやどり木すら、そのまゝにあるに、共に見し人の、今は無きことを悼みたる意をこめて詠める也。根はふといふにて、いよ/\やどり木の事ならん。やどり木は、木にも石にも根をまとふてゐるもの也
(371)語將告可 やどり木のかたより、何とて已前相ともに見給ふ人はいかにましますぞと問はゞ、悲しき事をあかし告げんかと、無心の木に心をあらせて、歎きの切なる情を愚かにのべたるもの也
 
右二首とも何の意も無く、能聞えたる歌也
 
右三首遇鞆浦日作歌
 
此古注者鞆浦と詠める歌によりて、注したると見えたり。理り過ぎたる左注ならんか
 
449 與妹來之敏馬能崎乎還左爾獨而見者涕具末之母
いもときし、みぬめのさきを、かへるさに、ひとりしてみれば、なみだぐましも
 
きこえたる歌也。みぬめの崎は攝津國也。前にも詠める歌なり
 
450 去左爾波二吾見之此埼乎獨過者情悲哀
ゆくさには、ふたりあがみし、このさきを、ひとりすぐれは、こゝろかなしも
 
情悲哀 古一本に喪に作れる爲v是也
 
一云見毛左可受伎濃
あるにいはく、見もさかずきぬ
 
これは二吾見之七文字を一本には如v此ありと也。さかずきぬはさけずきぬにうけて見も不v放來也
二首とも不v及v注、よく聞えたる歌也。みぬめの崎を詠めるも、妻の見えぬといふ意にもよせて詠めるならんかし
 
右二首過敏馬埼日作歌
 
還入故郷家即作歌三首
ふるさとのいへにかへりいりて、すなはちつくるうたみくさ
 
(372)451 人毛奈吉空家者草枕旅爾益而辛苦有家里
ひともなき、むなしきいへは、くさまくら、たびにまさりて、かなしかりけり
 
きこえたる歌なり
 
452 與妹爲而二作之吾山齋者木高繁成家留鴨
いもとして、ふたりつくりし、わがやまは、こだかくしげく、なりにけるかも
 
與妹爲而 太宰府にて果給ひし亡妻とふたりして、作れる山齋なるへし
吾山齋 此山齋の二字、何とぞ別訓あらんか。點本にはやまと點なせり。よつて諸抄にも作り山の義と注せり。然れども表題に家に還入とある故、山の義とも難2一決1。第二十卷屬目山齋作歌三首とありて、其歌共皆あせびの木の歌にて、あせびの木はよくしげるもの也。こゝも木高くしげくと詠めるは、作庭などの事にて、莊觀などある所の故を以て、山齋の二字を書きて歌の意を助けたる歟。師案不2一決1也
木高繁成家留鴨 夫婦共にかたらひて合て、このめる家にもし庭にもあれ、任に向ひて他境にありし間に、荒廢して草木も茂りて、ありし昔の景色もなければ、亡妻の事抔思ひ合せて詠めるなるべし。木高くしげくといふは、草木などのしげりたる事をいへる義也
歌の意聞えたる通也
 
453 吾妹之殖之梅樹毎見咽都追涕之流
わぎもこが、うゑしうめの木、見るごとに、こゝろむせつゝ、なみだしながる
 
吾妹之 亡妻のうゑさせられたる梅の木なるべし。うめと讀めるはういといふ意を、ふくみて詠めるなるべし。空しくなり給へる人のうゑさせられたる木草を見るも、今はうきものとなりたると云こゝろに詠める歌也。聞えたる通也
右の歌どもは皆大伴卿の亡妻の事を悲しみ慕ひて詠める也。大伴卿の妻、病死の事は、此集第八の左注云、神龜五年大伴卿郎(373)女遇病長逝焉、于時勅使云々。如v此ありて、筑紫にてみまかり給ふ故、歸京の時昔を慕ひて悼める歌をよめると聞えたり
 
天平三年辛未秋七月大納言大伴卿薨之時謌六首
 
454 愛八師榮之君伊座勢波昨日毛今日毛吾乎召麻之平
はしきやし、さかえしきみの、いましせば、きのふもけふも、わをめさましを
 
愛八師 前にもくわしく注せる如く、ものをほめたることを、古語にはしきやしとは云ふ也
榮之 人の繁榮の事を草木などの生しげる如きことに喩へて云たる義也。よりて此歌も木とうけたる意に君とつゞけたる歟。
よく聞えたる歌也
 
455 如是耳有家類物乎芽子花咲而有哉跡問之君波母
かくのみに、ありけるものを、はぎのはな、さきてあるやと、とひしきみはも
 
如是耳 かくのみにと讀むべし。點本かくしのみと讀めり。同じ意なれども、のみにといふては少義理むつかしき也。かくのみと讀みても同じ意なれども、義やすかるべし。大伴卿の空しくなりけることを、かくのみにと云たる義也。かく空しき身にてありける物をといふ意をも含めて也
有家類物乎 芽子はかく存在してあるに、此はぎの咲ける頃花咲きたるやといひ給ひし、大伴卿はおはしまさぬと悲しみて詠める也
君波母 これ無き人を悲歎して詠める詞也。はぎのはなの頃は、花咲きたるやと問ひ給ひしことを、おもひ出て歎きたる歌也
此卷の奧の家持、悲緒不息時の歌にも、妻の死したる後、如是耳ありけるものを妹も吾も千とせのごとくたのみたりけると、詠める歌のかくのみもこの歌と同じ
 
456 君爾戀痛毛爲便奈美蘆鶴之哭耳所泣朝夕四天
(374)きみにこひ、いともすべなみ、あしたづの、ねのみぞなかる、朝ゆふにして
 
君爾戀 きみにこひともわびとも讀むべし。古詠は皆かくの如くきみに妹にといふてには也。今時のてにはとは大に違ひたること、古詠はわけあるべし。今は君をこひ、いもをこひならでは不v詠に、古詠の格何とぞ譯あるべし。先は君によりてわびなやむといふの義と見る也。前にも注する如く戀の字はわぶとよむ也。わぶはなやみわづらふといふ義と知るべし
痛毛 切なることをいともとはいふなり。切實にわび歎くといふの意也
蘆鶴之 下のねにのみなかるといふ冠辭也。たづのなくにはあらず。わがなくといふ義也
哭耳所泣 ねにのみぞなかると讀むべし。次奧の歌にも哭耳曾とよめる也。ねにのみぞなかる也
 
457 遠長將仕物常念有之君師不座者心神毛奈思
すゑながく、つかへんものと、おもへりし、きみしまさねば、たましひもなし
 
遠長 此二字此集中數歌に書せり。所々にてとほ長くとも又すゑ長くとも讀むべし。一ぺんに定むべからず。こゝは末長くと讀みて叶ふべし。いつまでも行末長く仕へんと思ひしといふ歌の意也
 
458 若子乃匍匐多毛登保里朝夕哭耳曾吾泣君無二四天
みどりこの、はひたもとほり、あさよひに、ねのみぞわがなく、きみなしにして
 
多毛登保里 多は初語也。はひもとほり也。日本紀卷第一神代上卷伊弉諾尊〔則匍匐頭邊、匍匐脚邊而哭泣流涕焉〕悲しみ歎くことの切なる義をよめる也。聞えたる歌也
 
右五首仕人金明軍不勝犬馬之慕心中感緒作歌
 
仕人古一本資人に作可v是。令義解〔軍防令に、資人、一品一百六十人【中略】大納言一百人とあり〕大伴卿の仕人の事也
金明軍 かねのあきくさ
不勝犬馬之慕心 漢の古事あり。愚智|春智《マヽ》にしたひ歎く義也。慕の字の下に述の字を脱せる歟
 
(375)459 見禮杼不飽伊座之君我黄葉乃移伊去者悲喪有香
みれどあかず、いませしきみが、もみぢばの、うつりいゆけば、かなしくもあるか
 
見禮杼不飽 大伴卿を見れどあかぬ也
黄葉乃 もみぢに喩へて、卿の過行たることをかなしみたる也
移伊去者 伊は發語也
 
右一首 勅内禮正縣犬養宿禰人上使?護卿病而醫藥無驗逝水不留因斯悲慟即作此歌
 
内禮 古一本内膳に作。國史を可v考
 
七年乙亥大伴坂上郎女悲嘆尼理願死去作歌一首并短歌
 
天平七年也
悲歎 かなしみ歎く也
 
460 栲角之新羅國從人事乎吉跡所聞而問放流親族兄弟無國爾渡來座而太皇之敷座國爾内日指京思美彌爾里家者左波爾雖在何方爾念鷄目鴨都禮毛奈吉佐保乃山邊爾哭兒成慕來座而布細乃宅乎毛造荒玉乃年緒長久住乍座之物乎生者死云事爾不免物爾之有者憑有之人之盡草枕客有間爾佐保河乎朝川渡春日野乎背向爾見乍足氷木乃山邊乎指而晩闇跡隱益去禮將言爲便將爲須敝不知爾徘徊直獨而白細之衣袖不干嘆乍吾泣涙有間山雲居輕引雨爾零寸八
たくつのゝ、しらぎのくにゆ、人事を、よしときかれて、門放流、うからはらから、なきくにゝ、わたりきまして、すめろぎの、しきますくにゝ、うちびさす、みやこしみゝに、さといへは、さはにあれども、いかさまに、おもひけめかも、つれもなき、さほのやまべに、なくこなす、したひきまして、(376)うつたへの、いへをもつくり、あらたまの、としのをながく、すまひつゝ、いませしものを、いけるもの、しぬちふことに、まぬがれぬ、ものにしあれば、たのめりし、人乃盡、くさまくら、たびにあるまに、さほがはを、あさかはわたり、かすがのを、そがひにみつゝ、あしびきの、やまべをさして、ゆふやみと、かくれましぬれ、いはむすべ、せむすべしらに、たちどまり、たゞひとりのみ、しろたへの、ころもでほさず、なげきつゝ、わがなくなみだ、ありまやま、くもゐたなびき、あめにふりきや
 
栲角乃 たくはきぬぬのになる木也。栲は楮の字の誤り來れる也。栲の字絹布の字義なし。古來より誤り來れると見えたり栲津布といふ義にて、衣とつゞく冠辭也日本紀神代〔卷下のはじめに、栲幡千千姫、即ちたくはた千々姫とあり〕
新羅國從 日本紀等可v考事なり。しらぎのくにゆ、前にも再度注せる、ゆはよりからといふ古語也。くにゝとは讀まれまじき也
人事乎 義訓あるべし。諸抄人のいふことを聞きてといへる説にて、人言と云義と也。難2信用1不v決也。なりはひなどと云義訓あらんか。人事と書きたれば人のなす業の義に付て、別訓あらんもの也。未v決故しばらく不v作v注也
古跡所聞而 人ごとをか、なりわひかをよしとぞ聞く也。日本の國はよき國と聞きて也
問放流 とひさけると讀ませたれど、句意不v通。これはうからはらからへ、續く縁語ならではならぬ也。然ればこれも問ひさけるにてはあるまじ。やはりなれ親しむかたなり。よりてとひなるゝにてあらんと也。下にうからはらからとあるにつゞく義の詞ならでは、ならぬところ也。或抄に、とひさくるはことゝひてうれひを遠ざけ慰むる義なりといふ説あれど、歌の意を不v辨説也。歌はさやうのむつかしきことを、句つゞきに詠むものにあらず。たゞうからはらからといふ詞に縁ある義にて無ければならぬ也。さけるといふ詞に、色々理をつけて講釋をせざれば、不v通説にては正義にならざるべし。訪放音相通ず(377)るをもて、若しとひとはるゝといふか。效といふ字を放の字に書あやまれること多ければ、とひなるゝにてもあるべし。字のまゝに讀みては義不2相叶1六ケ敷也
京思美彌爾里家者左波爾雖在 京にしげくさといへはあれどもと也
都禮毛奈吉 さびしきところ、同志の人も無きところといふ義也。獨にてたへて住むなどいふ説あれど、不2信用1義也。文句つゞかず義を不v辨説也。つれも無くなどとあらば、さも可v解歟。それすら難2心得1六ケ敷義也
哭兒成 ちごのなくごとくといふ義也。下の慕ひといふへつゞけん爲の冠句也
布細乃宅 これを皆しきたへのとよみて、敷座になどいふ意と同じ義にて、家は銘々に敷おさむるとの故といふ無理なる説あり。布敷の字の義訓を不v知説なり。これはうつたへの家といふ義也。たへはとこしなへの約言にて、現在常しなへにある家といふ義にて、家を祝賞したる詞なり。うつたへの家といふ義を、しきたへの家といふ義は無きことなり。家の冠辭と見るべし
人乃盡 此盡の字不v濟。別訓あらんか。赤人の伊豫温泉のところの歌にも、國の盡といふて此字を書けり。二字一字になりたる歟。四言一句の訓ある歟。いづれにもあれ、こと/”\にてはあるまじき也。此意は理願のたのみたりし人々皆たびに行きて、留主の間にといふこと也。石川命婦の、温泉の山へ湯治のあとのことを云ふたる義也
客有間爾佐保河乎朝川渡 たびにあるまにさほかはをあさ川わたり、夕やみの對句也。理願の死行し事をいへる也。屍をかくせし時の道すぢにてあるべし
晩闇跡 かくれましぬれと云はんとてゆふやみと也。尤死事をよみぢやみぢに行くとも云ふより也
直獨而 たゞひとりのみ、而の字此集にのみとよめる事不v可v數
有間山 石川命婦温泉にありし故に云也
雲居輕引 くもゐたなびき、居の字は雲につゞきたる言也。遠く空のことを雲居と云計にてはなく、雲といふ義とも聞ゆる也。尤もはるかに隔たりたることをいふ言葉に、雲ゐといふと見えたり。こゝも大和の佐保にて泣く涙、はるかに隔たりた(378)る有間山迄、くもゐにたな引き雨とふりたるやといふ意也。ふりきやとはかくばかり泣く涙、そなたにては雲ゐ棚引きて、雨に零りにたるやらん、ふりたるやと察し問ひたる意也
 
反歌
 
461 留不得壽爾之在者敷細乃家從者出而雲隱去寸
とゞめえぬ、いのちにしあれば、うつたへの、いへをばいでて、くもがくれにき
 
敷細乃 うつたへの、此敷の字うつとよむ事は、令集解に見えたり。神祇部、敷和は宇都波多なりとあり。古訓を不v知人しき細とよめり。しきたへの家とつゞく義はなき也。しきおさむるいへといふ義にたへの字不v濟也。うつたへは現在常しなへといふ、賞美の意といふを不v辨也
從の字を をとよむ事、此集中多事也。にとよんでは議不v濟事あり。にとをとのてには、歌の意大成違ある事也。ゆともよまれぬところ、をとならでは此處は不v可v讀也。かく現在とこしなへの家をいでて、死行きしことを歎きたる事也
 
右新羅國尼曰理願也遠感王徳歸化聖朝於時寄住大納言大將軍大伴卿家既※[しんにょう+至]數紀焉惟以天平七年乙亥忽沈運病既趣泉界於是大家石川命婦依餌藥事徃有馬温泉而不會此哀但郎女獨留葬送屍柩既訖仍作此歌贈入温泉
 
右新羅國尼曰 尼の下に名といふ字を脱せり。古一本には記せり
※[しんにょう+至]數紀焉 數年をふること也
忽沈運病 天運既に絶えんとする病氣に伏臥せしこと也
大家 一説に大家は曹なりと云。曹はつぼねの事也。これは命婦姉妹ありて、姉の家をいふならん。大孃と書きたること前にあり。若しその孃の字の誤れるか。兎角兄弟の内姉の方といふ義と見えたり。然れば石川命婦は大伴卿の妻なるべし
 
十一年己卯夏六月大伴宿禰家持悲傷亡妾作歌一首
 
(379)462 從今者秋風寒將吹烏如何獨長夜乎將宿
いまよりは、あきかぜさむく、ふくらんを、いかにかひとり、ながきよをねん
 
六月に詠めるなれば、もはや六月の末ごろにてやがて秋近くなれる頃なるべし。よく聞えたる歌也
如何獨長夜乎將宿 いかにして長夜をひとりねんと也
 
弟大伴宿禰書持即和歌一首
 
463 長夜乎獨哉將宿跡君之云者過去人之所念久爾
ながきよを、ひとりやねんと、きみがいへば、すぎにし人の、しのばるらくに
 
聞えたる歌也
 
又家持見砌上瞿麥花作歌一首
またいへもち、みぎりのなでしこをみてつくるうた一首
 
464 秋去者見乍思跡妹之殖之屋前之石竹開家流香聞
あきされば、みつゝしのべと、いもがうゑし、にはのなでしこ、さきにけるかも
 
見乍思跡、見つゝ偲べと、なでしこの咲きたるにつけて、亡妻をしのべと瞿麥の咲きけるかなと詠める歌也
石竹 なでしこと讀む也
香聞 例の歎慨の詞也。かなといふと同じ意也
 
移朔而後悲歎秋風家持作歌一首
ひかずうつりてのち、あさかぜをかなしみなげきて家持つくる歌一首
 
移朔而 義訓に日數うつりてと讀む也。亡妻の死て三十日も立ちて、秋にもなりて讀めるといふ義なるべし。朔望の日數を(380)へて後との義にかく注せるならん
 
465 虚蝉之代者無常跡知物乎秋風寒思努妣都流可聞
うつせみの、よはつねなしと、しるものを、あきかぜさむく、しのびつるかも
 
代者云々 世の中は定めなきものとさとりしりたるに、漸く日數もへだたれば、また秋風の吹きて世もさびしくひやゝかなるにつけて、再び思ひ出し亡妻を慕ふとの意也。端書に移朔而後と書けるも、歌の意に再び思ひ出してしのびつることを、あらはさん爲と聞ゆる也。此かもゝかなといふ意に同じく歎の詞也
 
又家持作歌一首并短歌
 
466 吾屋前爾花曾咲有其乎見杼情毛不行愛八師妹之有世婆水鴨成二人雙居手折而毛令見麻思物乎打蝉乃借有身在者露霜乃消去之知久足日木乃山道乎指而入日成隱去可婆曾許念爾※[匈/月]己曾痛言毛不得名付毛不知跡無世間爾有者將爲須辨毛奈思
わがにはに、はなぞさきたる、それをみれど、こゝろもゆかず、よしゑやし、いもがありせば、みかもなす、ふたりならびゐ、たをりても、みせましものを、うつせみの、かりのみなれば、つゆしもの、きえゆくがごとく、あしびきの、やまぢをさして、いりひさす、かくれにしかば、そこもひに、むねこそいため、いひもえず、なづけもしらず、あともなき、よのなかなれば、せむすべもなし
 
情毛不行 不v慰也。面白からぬことを心不v行と云也
愛八師妹之有世婆 妹をほめたる詞に、はしきよしと云也
水鴨成 水鳧のはなれず、雌雄並びゐる如くにと也
借有 かりなる也。かりのやどりなどいふ意と同じ。無常物なればと也
(381)露霜乃 古一本に、此二字を記せり。霜霑の字は誤也。或抄には誤字をそのまゝ訓せる注あり。此本第四巻重覆の本にも、露霜と記せり。點にもとけしものと讀みたり。一本露霜の字にてよく聞えたる也
曾許念爾 そこもひに、かくれ行きたるその所をおもふにと也
よく聞えたる歌也
 
反歌
 
467 時者霜何時毛將有乎情哀伊去吾妹可若子乎置而
ときはしも、いつかもあらんを、こゝろうく、いゆくわぎもが、みどりこをおきて
 
時こそあらんに、このみどりこをおきて過行きし事の心うく悲しきことゝ詠める也。みどりこのありけると聞えたり
情哀 こゝろうくとよむ也。悲しきといふ意也
 
468 出行道知末世波豫妹乎將留塞毛置末思乎
いでてゆく、みちしらませば、かねてより、いもをとゞめん、せきもおかましを
 
豫 かねてよりとよむ、此集中數ケ所也
 
469 妹之見師屋前爾花咲時者經去吾泣涙未干爾
いもが見し、にはにはなさき、ときはへぬ、わがなくなみだ、まだかはかぬに
 
屋前花咲 いもとが愛し見たる花の、庭に咲ける頃もすぎて、早く光陰のとゞまらず月日のうつり行て、歎き悲しみの涙は袖にかはかぬとの意也。妹と相詠めつる花の、庭に咲きて其時節には到來すれど、慕ふ涙はかはかぬと也。庭に花咲とよめるは秋の頃庭に草の花の咲たるを見て、悲しみ慕ふ情の出でたるなるべし。亡妻の過き行しは、春夏の頃にてもやありけん、時はへぬと詠めるところ、日數のたちたる意也。時は經たれども、慕ふ涙はかはかぬと也
 
(382)悲緒未息更作歌五首
かなしみのおもひいまだやまずふたゝびつくるうた五首
 
470 如是耳有家留物乎妹毛吾毛如千歳憑有來
かくのみに、ありけるものを、いもゝわれも、ちとせのごとく、たのみたりけり
 
如是耳 かくの如く定めなき身にてありける物をと云意也。亡妻の空しき身となりたることを云たる也。いもゝわれも、いつ迄も相ともにながらへむとたのみたりしことの、はかなきと也。此歌をもて、前の長屋王の資人詠める如是耳の歌の意も同じ意と見るべし。資人の歌も、長屋王のかくの如くの身にてましますにと云の意なり
 
471 離家伊麻須吾妹乎停不得山隱都禮情神毛奈思
いへをはなれ、いますわぎもを、とゞめえず、やまがくれつれ、たましひもなし
 
離家 いへをはなれとは死行きしことをいへる義也
山隱都禮 此句とくと聞えがたし。妹のかくれつらめといふことにや。又山にかくしおさめる故、山がくれつれといへるにや。愚意不v決也。先は山にかくしつればの意と見る也。墓所に藏めしことゝ聞ゆる也。長歌にも山道とあり
情神毛奈思 これは前にも心神もなしとありて、家持のかなしみにしづみて哭之慟の意にて、心もさだかならざる程にかなしめるとの意也
 
472 世間之常如此耳跡可都知跡痛情者不忍都毛
よのなかの、つねかくのみと、かつしれど、いたきこゝろは、しのびかねつも
 
世間之常如此耳跡 亡妻のみまかりて、定めなき世の中とくわんじさとりても、悲しみ慕ふ悼ましき心はしのびかねると也
痛情 悲しみの心はといふ義也。いたみ歎く心は也
(383)可都知跡 此かつに意なし。わづかに知れと云意にて詞のかつ也
不忍 或抄得の字を脱したるかといへり。さもあるべきか。不の字計にても、此集中かねると讀めること多し
 
473 佐保山爾多奈引霞毎見妹乎思出不泣日者無
さほやまに、たなびくかすみ、見るごとに、いもをおもひで、なかぬひはなし
 
思出 おもひいでゝ也。い、ひの内を畧して讀む也。佐保山と詠みたるは此所に葬りたれば也。前の歌にも見えたり
 
474 昔許曾外爾毛見之加吾妹之奧槨常念者波之吉作寶山
むかしこそ、よそにも見しか、わぎもこが、おきつきとおもへば、はしきさほやま
 
波之吉佐寶山 妹を藏めたる所とおもへば、何心も無くよそにのみ見て、心もとまらざりしが、今はなつかしく美はしき山と見ると也
 
十六年甲申春二月安積皇子薨之時内舍人大伴家持作歌六首
 
安積皇子 聖武天皇の皇子也。追而可v考
 
475 掛卷母綾爾恐之言卷毛齋忌志伎可物吾王御子乃命萬代爾食賜麻思大日本久邇乃京者打靡春去奴禮婆山邊爾波花咲乎烏里河湍爾波年魚小狹走彌日異榮時爾逆言之枉言登加聞白細爾舍人裝束而和豆香山御輿立之而久竪乃天所知奴禮展轉泥土打雖泣將爲便毛奈思
かけまくも、あやにかしこし、いはまくも、ゆゝしきかも、わがきみの、みこのみことの、よろづよに、めしたまはまし、おほやまと、くにのみやこは、うちなびき、はるさりぬれば、やまべには、はなさきをゝり、かはせには、あゆこさばしり、いやひけに、さかゆるときに、さかごとの、まがごとゝかも、しろたへに、とねりよそひて、わづかやま、みこしたてして、ひさかたの、あめしられぬ(384)れ、こひまろび、ひぢうちなけど、せむすべもなし
 
これは前にも注せる如く、心にかけておもふも、言にかけていふもおそれ多く、いま/\しきと、至つて尊崇尊敬したる義也。掛卷の事はかけ馬來の説よりも、やはり心にかけ、言にかけのかた義安かるべしと、宗師の後案也。よりて此に注しはべる也。いはくだすかしこきゝみと、日本紀にあるも、岩木成堅き木とうけたる義なるべし。岩木にては上に、山とか坂とか無くては、不v濟詞なれはいはくだはいは木也。くだすはなす也。濁音の左はな也。然れば岩木の如く堅きとつゞけたる意なるべし。成はごとくといふ古語也。これよりしてかけまくもの事も、やはり心言葉にかけるの方ならんかと也
食賜麻思 しろしめし給はまし也。畧してめし給也
大日本久邇之京者 續日本紀を可v考。聖武紀にあり
年魚小狹走彌日異爾 是迄の歌の意、畢竟皇子のさかえ給はんことを詠める也。年十七歳にて薨れ給ふ故、その學び給はん時もいたらずして、かくれ給ふと歎く也。彌日異には、日毎といふ義也。年魚小狹走、山川のことを詞の花に讀みてつゞけたるもの也。小狹は助語也。意は無きこと也
花咲乎烏里 此集中あまたあり。花の咲きしだれたる如きのことを、をゝりとは云也。或抄にをせりと云説大成誤也。烏爲の誤字を不v辨故也
逆言之※[手偏+王]言登加聞 前にも注せり。眞實の事とも不v被v思。そらごとさかしまごとかと也
白細爾舍人裝束而 御葬送の躰の事也
天所知奴 上天して天をしらしめぬれと也
展轉 ふしまろびと讀むべし。詩經に展轉反側と記せり。ふしまろぶと點せり。ひらふしなげくなど云ふことありて、悲しみの切なることを詠める也
泥土打 ひぢはつちなり。ひぢをうちて歎くと云義也。衣などのぬれひたれてといふ義とも解せる説あり。いづれにまれ、いたりて悲しみの切なる事を、展轉泥打と書きたり。此集中に多き詞也。こゝにては、衣などのぬれひたれといふ義はつゞかず(385)ふしまろびとあれば土をうちての義也
 
反歌
 
476 吾王天所知牟登不思者於保爾曾見谿流和豆香蘇麻山
わか王、あめしるらんと、おもはねば、おほにぞ見ける、わづかそまやま
 
皇子にあめをしろしめさんとおもはざりし故、おほそに見たると也。わづかそま山、めづらしき地名也
 
477 足檜木乃山左倍光咲花乃散去如寸吾王香聞
いよやかにさかえましまさんと思ひし皇子の、かくれましたるをかく喩へたる也。よく聞えたる歌也。山さへ照りかゞやく如きさかりなる花の散れる如く、みこのかくれ給ふを喩へたる也
 
右三首二月三日作歌
 
天平十六年二月三日と也
 
478 掛卷毛文爾恐之吾王皇子之命物乃負能八十伴男乎召集聚率比賜比朝獵爾鹿猪踐起暮獵爾鶉雉履立大御馬之口抑駐御心乎見爲明米之活道山木立之繁爾咲花毛移爾家里世間者如此耳奈良之大夫之心振起劔刀腰爾取佩梓弓靱取負而天地與彌遠長爾萬代爾如此毛欲得跡憑有之皇子乃御門乃五月蠅成驟騷舍人者白栲爾服取著而常有之咲比振麻比彌日異更經見者悲召可聞
かけまくも、あやにかしこし、わがきみの、みこのみことの、ものゝふの、やそとものをゝ、めしあつめ、いさよびたまひ、あさかりに、しゝふみおこし、ゆふかりに、とりふみたゝし、おほみまの、くちおしとゞめ、みこゝろを、みせあきらめし、いくぢ山、こだちのしゝに、さくはなも、うつろひ(386)にけり、よのなかは、かくのみならし、ますらをの、こゝろふりおこし、つるぎたち、こしにとりはぎ、あづさゆみ、ゆぎとりおひて、あめつちと、いやとほながに、よろづよに、かくしもがなと、たのめりし、みこのみかどの、さばへなす、さわぐとねりは、しろたへに、ころもとりきて、つねにありし、ゑまひふるまひ、いやひけに、かはらふみれば、かなしめしかも
 
皇子之命 安積皇子を指て也
物乃負能八十件男乎 下のやといはん爲也。武士は弓矢を帶するもの故、ものゝふの矢とうけたること也。八十は數多の義まへに毎度注せり
朝獵 夕べに對して也。鹿猪 二字合せてしゝとよむ也
踐起 ふみおこし、朝ゆふに伏したるしゝを踏みおこし也
鶉雉履立 とりふみたゝし也。みこのみかりの躰を詠みたる也
御心乎見爲 此みせといふ事は、人に見せしめらるゝといふ義にてはなし。皇子のみ給ふといふの義也。四方を見わたし、み心をあきらかに晴らさせ給ふといふ義也。みかりに立給ふて御馬の口を抑へ駐め、四方を眺望し御心を晴らされしと也
活道山 此山にてみかりをさせられたりと見えたり
移爾家里 みこの空しくなり給ひ、うつりかはりたるといふ義を詠める也
如此耳奈良之 是までにて世の中の定めなきことゝいひきりて、此已下みこのましまさば、長久幾久と仕へんものをと悔ゆる歌也
丈夫之心振起 ますらをの心ふりおこし、勇猛の志をおこして也。家持内舍人の武官故、是より已下の詞に、弓箭帶劔等の事をいへり
劔刀 つるぎたちとなりとも、たちかたなとなりとも同事の詞也
(387)如此毛欲得跡憑有之 かくしもがなとたのめりし、かくのごとくましませかしと、思ひたのみしと也
皇子乃御門乃 安積皇子御座所の御門の五月のころ蠅のたちさわぐ如く、舍人共のこなたかなたと、皇子のかくれ給ふ故さわぎて也
五月蠅成は、さつきの頃の蠅の如きと云義也。日本紀神代下〔卷云、蠅聲邪神、即ちさばへなすあしき神とあり〕
白栲爾服取着而 葬喪の服を着たると也
常有之 つねにありし、皇子のましましたる時の賑ひたりし振舞は、日毎にうつりかはりて、悲しきあり樣になりたると也
更經見者 かはらふ見ればとも、かはれる見ればとも讀むべし。日々にかはり行きて悲しき由也
悲召可聞 此召の字、もしは留の字の誤、たゞ悲しみかなといふの義歟。かなしみのみをのべたる詞はめし也。然共此語例不v覺也。集中今一首もあらば、みをめしと延べたる詞ともすべし。さなくては留の字のあやまりたるかと見ゆべし
 
反歌
 
479 波之吉可聞皇子之命乃安里我欲比見之活道乃路波荒爾鶏里
 
波之吉可聞 みこをほめんとての冠辭也。皇子をほめてはしきかもとは云ふたるもの也。別の意なし
安里我欲比 御存在まし/\てといふ事也。御存在まし/\し時、み狩などをなされしいくぢ山の道も、今はたれ往來するものも無ければあれたると也
 
480 大伴之名負靱帶而萬代爾憑之心何所可將寄
 
大伴氏は武士の祖也。日本紀等可v考。よりて名負と也
憑之心何所可將寄 たのみし心いづこにかよせん、皇子をたのみにしたるに、かくれ給へば、心をよせんかたも無きと也
 
右三首三月二十四日作歌
 
悲傷死妻高橋朝臣作歌一首并短歌
 
(388)481 白細之袖指可倍※[氏/一]靡寢吾黒髪乃眞白髪爾成極新世爾共將有跡玉緒乃不絶射妹跡結而石事者不果思有之心者不遂白妙之手本矣別丹杵火爾之家從裳出而緑兒乃哭乎毛置而朝霧髣髴爲乍山代乃相樂山乃山際往過奴禮婆將云爲便將爲便不知吾妹子跡左宿之妻屋爾朝庭出立偲夕爾波入居嘆舍脇挾兒乃泣母雄自毛能負見抱見朝鳥之啼耳哭管雖戀効矣無跡辭不問物爾波在跡吾妹子之入爾之山乎因鹿跡叙念
しろたへの、そでさしかへで、なびきねし、わがくろかみの、ましらがに、なりはつるまで、あたらよに、ともにあらむと、たまのをの、たえLやいもと、ちぎりてし、ことははたさず、おもへりし、こゝろはとけず、しろたへの、たもとをわかれ、にぎひにし、いへをもいでて、みどりこの、なくをもおきて、あさぎりの、ほのかになりつゝ、やましろの、さがらのやまの、やまぎはを、ゆきすぎぬれば、いはむすべ、せむすべしらに、わぎもこと、さねしつまやに、あしたには、いでたちしのび、ゆふべには、いりゐなげくや、わきばさむ【ちごのいさつもこのいさつるも】をのこじもの、おひみいだきみ、あさどりの、ねのみなきつゝ、こふれども、しるしをなみと、ことゝはぬ、ものにはあれど、わぎもこが、いりにしやまを、よすがとぞおもふ
 
新世爾 よをほめて、目出たき代に相ともに、年老まであらんと思ひしと也
不絶射 このやは助語也
朝霧髣髴爲乍 火葬にて雲霧のごとなりて、立さりたると也。ほのかになりつゝと讀むべし。雲霧となりて山際を過ぎしと也
(389)嘆舍 なげくや也。このやも助語也。此やに意なし
脇挾 とは兒といはんとての冠辭也。少兒は脇にはさみ抱くもの故、いとけなき子のことをいふには、皆わきばさみと詠み出せる歌、此集中あまた也
雄自毛能 男ながらもといふ義也。をとこながらも女の如く、兒を負ひみいだきみ、いたましきわざをなすと也。妻なき故、物うきあり樣のことを切に述べたる也
朝鳥之 諸鳥は朝先づ音を立つるもの也。よる音を鳴くといふことを云はんとて、先づ朝どりのと詠み出たる也
辭不問 ものいはぬものなれども、相樂山をよすがとおもふとの義也
因鹿跡叙念 たよりと思ふとの意也。妹を葬りしところ故、心のよるところと云義也。形見と思ふなど云説あれど、其義は不2相叶1。たゞ心のたのみよるといふ義也。妹をなつかしく慕ふ心のよるところといふ義に、よすがとぞ思ふと也。このよすがといふ事、日本紀等にも資の字を被v記て、助となるといふの意也。たより所となる意也。然れば妹を慕ふ心の助となり、たより所となるの義に相通ふ故かく詠める也
 
反歌
 
482 打背乃世乃事爾在者外爾見之山矣耶爾者因香爾思波牟
 
うつのみの世の事也。現在したる世の中のさまなればといふ義也
山矣耶爾者 爾者、今者也。爾は今の誤也。一本には今と記せり。妹のみまかりたることは、うつせみの世の中のさまなれば、今まではよそに見し山をも、今よりは心のより所として見んと也
 
483 朝鳥之啼耳鳴六書妹子爾今亦更逢因矣無
 
音にのみ鳴かん也。畢竟妹を慕ふて、泣かんといふ事をいへる意也。泣かんと云義をいはんとて、朝鳥のねのみとよみ出たる也。死たる妹には、今更二度あふ事はならねば、たゞなき慕ふといふ事を切にのべたる也
 
(390)右三首七月廿日高橋朝臣作歌也名字未審但云奉膳之男子焉
 
天平十六年の七月なるべし。前の年號をうけて略して、七月廿日とは記せるならん
高橋朝臣 實名不v知也。此高橋氏は、内膳の職を掛る家也。安曇高橋兩家内膳正になれば、高橋奉膳安曇奉膳といふ事古實なり。他氏此正に任ずれば、何氏何家といへども、高橋安曇兩氏に限つて奉膳なり。然る《(マヽ)》に此左注難2心得1也
但云奉膳之男子 實名不v知也。高橋朝臣奉膳といはる事には無き也
 
萬葉集童蒙抄 卷第七終
 
(391)大納言從二位大伴宿禰旅人【大納言安麻呂第一男】
養老二年三月三日任中納言【不歴參議】
三年正月七日叙正四位下
五年正月七日叙從三位
神龜元年二月日叙正三位
天平二年十月一日任大納言
三年正月七日叙二位七月一日薨【在官二年】
中納言從三位大伴宿禰家持【大納言贈從二位安麻呂之孫大納言從二位旅人男】
天平七年正月叙從五位下
十八年三月任兵部大輔
天平寶字二年六月任因幡守
六年三月日任民部大輔
八年正月日任薩摩守
神護景雲元年八月日任太宰少貳
四月六日任民部少輔【日月并官不審可尋】
(392)九月日任左中弁兼中務大輔
寶龜元年十月日叙正五位下
二年十一月日叙從四位下
三年二月日兼式部權大輔
五年三月日任相模守九月日兼左京大夫上總守
六年十一月日任衛門督
七年三月日任伊勢守
八年正月日叙從四位上
九年正月十七日叙正四位下
十一年二月一日任參議同九日兼右大弁
天應元年四月十五日叙正四位上同十四日兼春宮太夫五月四日任左大弁【大夫如故】八月一日復任參議【大辨大夫如故】
十一月十三日叙從三位
延暦元年閏正月坐事除官位五月十一日兼春宮大夫六月日兼陸奧按察使二年七月十三日任中納言【春宮大夫如故】
三年二月兼持節征東將軍
四年八月日薨
(393)右大臣正二位藤原朝臣不比等【内大臣大職冠第二男子】
大寶元年三月十九日任中納言
同日停中納言叙正三位任大納言
慶雲元年正月七日叙從二位
五年五月臥重病詔賜度者二十人
和銅元年正月七日叙正二位任右大臣
養老四年八月三日薨【年六十二】
詔賜大政大臣正一位【謚曰淡海公以近江國十二郡封之】
 
萬葉集 本集卷第三終
 
〔394頁〜403頁の目次省略〕
 
(404)萬葉集|打聞《本ママヽ》 卷第八
 
相聞
 
あいきゝ前に注せり。大方戀歌をあげられたり
 
難波天皇妹奉上在山跡皇兄御歌一首
なにはのすべらぎのみいもと、やまとにますあにゝたてまつりたまふみうたひとくさ
 
難波天皇 仁徳帝の御義なり
妹 いづれの皇女と難v考
在山跡 跡の字不審。歌中の詞には跡の字書たる例あれども、標題にやまとゝいふ字に山跡の二字珍敷なり。若しくは山背の誤字歟。兄字やまとにますみあにと云ては、いづれの皇子とも難v指。仁徳帝大和へ行幸などなりし時、妹の皇女詠ませ給へるか。しからば表題の書樣、難波天皇在山跡時妹皇子御歌とあるべきことなり。在山跡皇兄としるせるは、仁徳帝の御事にはあるべからず。別の皇子の、やまとにましませるに詠て被v奉たるならん。もし又跡の字背の誤ならば、難波の天皇妹とありて、宇治稚郎子皇子に奉れる歌ならんか
 
484 一日社人母待吉長氣乎如此所待者有不得勝
ひとひこそ、人母まち吉、ながきけを、かくまたるれば、ありえたへずも
 
待吉 諸本告の字に作れり。此本吉の字に書不審。告の字ならばつげなり。吉の宇ならばまづよしとよむべきか。人もはなべての人をさしたるなり。すべての人もまちつげはつぐなり。繼の字なり。まちつゞけなり。一日などこそ誰れも待ちこたへめ。長き月日は中々待たへられぬといふの義なり
(405)長氣乎 ながき月日をといふ意なり。毎歌此詞あり。假名書に若しながきけとあらば、さ讀むべきことなり。けなれば音なり。きなれば訓なり。上をながきと讀んで下をけと音によむ事もいかゞなり。未2一決1なり。意は長き月日を待たへぬと云義なり。長氣の二字假名がきなくば、何とぞ別訓あらんか。第二卷にある氣長は、けの字初語と見えたり。たゞながきと云義なり。けながきも、ながきけも共に、たゞながきと云ふ義を、古語には如v此いひたるか。物おもひの時は、長く息のつがるゝ故など云説は、取に不v足義なり
有不得騰 勝の字諸本勝の字なり。此本は誤りたるなり。ありもえたへず、ありえたへずも兩訓によんでも義はおなじ
歌の意は、一日などこそ人も待ちたへらるれ、かく月日をへてながく待ち給ふ事は、えたへたまはぬとの義なり
 
岡本天皇御製一首并短歌
をかもとのすべらきのみこと、みつくりうたひとくさならびにみじかうた
 
岡本天皇 舒明齊明の二帝、いづれと難v決。編列の次第を見て歌の趣を考ふれば、女帝の御歌と見えたり。しかれども表題端書には、たゞ岡本天皇と記せる故、古來より不2一決1。既に左註にも未定の註を下せり。
 
485 神代從生繼來者人多國爾波滿而味村乃去來者行跡吾戀流君爾之不有者畫波日乃久流留麻弖夜者夜之明流寸食念乍寐宿難爾登阿可思通良久茂長此夜乎
かみよゝり、おひつぎくれば、ひとさはに、くにゝはみちて、あぢむらの、いさとはゆけど、わがこふる、きみにしあらねば、ひるはひの、くるゝまで、よるはよの、あくるきはみ、おもひつゝ、いもねがてにと、あかしつらくも、ながきこのよを
 
生繼 あれつぎ、おひつぎ好むところにしたがふべし。歌は耳たゝず、きゝよき詞を專とすべし。義は同事なり。天益人とも稱せられて、生々不v絶生つゞきくる此國人と云事なり
(406)味村 かもの一名、前にもしるせり。群類多くつれだちとびかふもの故、多くつらなることによそへて詠みたまへるなり
去來者行跡 いさとはゆけどなり。さりきはゆけどとか、さはぎはゆけどなどよめる説あり。しかれ共去來の二字いさと訓せる事古訓にしていざなひさそふと云義なれば、いさとはと讀む方しかるべし。あぢむらどりのいざなひつれたつことに、人多く行通ふなれども、慕ひたまふ君のましまさねば、御心のなぐさむ事の無きとの御詠なり
君爾之 此詞にて女帝の御歌と見ゆるなり。舒明天皇の御詠にて、婦女をしたひ給ふ御歌ならば、妹にしとあるべきに、君にと被v遊しは、女帝の御詠なるべし。尤歌には婦女をも君とよめること常なれども、天子の御製にはあるべからず
寐宿難爾登 いもねがてにと、此登は衍字ならんか。しかれどもいねがてにとよむ意と、いもねがてにとよむ意は意味違あれば、いもねがてにと詠ませ給へるならんか。ねがてにといふ意は、いねても/\いねがたき故、長夜をもあかし給ふとの意也
阿可思通良久茂 あかしつるとの義なり。つらきと云ふの義と云説あり。甚非なり。たゞあかしつるといふ義なり。もは歎の詞なり。あかしつるかもといふ意と同じ
 
反歌
 
486 山羽爾味村驂去奈禮騰吾者左夫思惠君二四不在者
 
出羽爾味村驂 長歌に味村によそへて人多く行き通ふことをよませ給へる故、反歌にその縁を引て、こゝは實にあぢむらの山のはにむれたつなれどと詠ませ給ふなり。あぢむらは前注せる如く群類つれとぶものにて、羽音など騷々しきもの故さわぎとなり。尤むれとぶをさわぎとよみ給ふなり。驂の字或抄本にはこまとよめる説なり。顯昭法師もこれを難ぜり。一本には騷に作れり
吾者左夫思惠 此惠の字助字ながら少心得がたし。古詠のたすけ詞の格何程もありて、尤歎の意をこめたるときの助語と見ゆるなり。然共たゞさびしきといふ事なるに、さぶしゑとあること珍敷詞なり。もし、へに通ふ例もあらんか。さびしへといふ義にてか。袖中抄にはやに通ふゑと解したり
 
(407)487 淡海路乃鳥籠之山有不知哉川氣乃己呂其侶波戀乍裳將有
あふみぢの、とこのやまなる、いさやがは、けのころごろは、こひつゝもあらむ
 
鳥籠之山 後世にては床の山と書、歌の意もねどこの事によせ詠ぜり。しかれども此にはかな書に鳥籠の二字を被v書たるは由來あらんか。御歌の意は、尤あふ寐床の義をよせてよませ給へると聞えたり。長歌並次の反歌にあぢむらの事ある故、此御歌長歌反歌に縁なき別義の御歌の躰なる故、鳥籠の字を書て反歌の意をたすけたる歟。いさや川をとり出たまふは、とこの山にある川故ならん。第十一には狗上之鳥籠山とあり。日本紀卷第廿八天武天皇〔紀元年七月條に、〕犬上川濱とありて、いさや川とも犬上川ともいへるならん。後々の集にいさゝ川、いさら川など詠めるはあやまりたるならん
氣乃己呂其侶波 此けのころころといふことは、古來よりあきらかには不v濟。先はこのころごろとかさねたる義と見るなりしかれども委しく問答しては分明には釋しがたきなり。いさや川、氣とつゞくこといかにとも不v濟。川のこふるといふ縁に、川のころごろとよませたまふものといふても、はつきりとは不v濟義なり。畢竟けのころごろは、こひつゝもあらんといふ義をよませ給はんとての序歌とは見えても、氣のころころと詠ませ給ふ譯不v通。けのは通音にてこのころごろといふ義にして見置なり。猶後案あるべし
全躰此御歌は解しがたき歌なり。先はこのごろはこひつゝもあらんつれど、かくこひては行末いかにたへんやとの意をこめてよませ給ふ歌と見るなり
 
右今案高市岳本宮後岡本宮二代二帝各有異焉但稱岡本天皇未審其指
 
古註者も聞えがたきとなり
高市岡本宮 後岡本宮といふあれば、只岡本宮との端作いづねとも決しがたきなり。御製の趣は女帝の御詠、集編の次第も婦人の歌なれば、先は齊明帝の御歌歟
 
額田王思近江天皇作歌一首
 
(408)額田王 前に注せり。或抄に額田王にてあるまじ。五世の王なる事なるべしといへり。心得がたし。額田王の事此集中を見るに、天智帝にもつかへ給ふと見えたれば、後にこそ天武の夫人とはなり給ひつらん。此歌は天智の時のなるべし
 
488 君待登吾戀居者我屋戸之簾動之秋風吹
きみまつと、われこひをれば、わかやどの、すだれうごかし、あきのかぜふく
 
此歌、六帖には簾の歌の部に載たり。上の句少違へり
秋風吹 あきの風ふくと點せり。六帖にもおなじくあきのかぜふくとしるせり。詞つまりて聞ゆれば、秋風の吹とよむべきか。秋にそふるも月にそふるも同じ事なれば、聞きのよきやうなれど第八卷に同歌をのせて、秋之風吹とあり。
歌の意は、君を待ちてこひわびて居るに、まつ君は來まさで、秋風のすをうこかし吹來るとの悲しき歌なり
 
鏡王女作歌一首、
 
此鏡王女とある女の字は皇女の格歟。鏡王は額田王の母なり。第八卷にも如v此あり。もし額田王の妹にてもあらんか。不審なり。いづれにともあれ。此の歌は前の歌の唱和の歌ときこゆるなり。さなくては風をだにとよみ出たる事不v濟なり。
或抄に風は天地の使故、君の使の事かとまつなど云説は、あまりなる入ほかなり
 
489 風乎太爾戀流波乏之風小谷將來登時待者何香將嘆
 
風乎太爾 此かぜをだにと詠めるは、これ前の秋の風ふくといふにもとづきて、風をさへまつとこふれはともしく吹來ぬをとくり返して、風をだにといへるなり。人をこひ待つはいかばかりともしく苦しきと、いはずしてふくめたるなり
將來登時待者 こんとしは、君か來んとし知れて待は、何のなげく事かあらん。こんもこざらんも知れぬ人を待つに、おそきはいかばかりなげかるゝとの意なり
 
吹黄刀自歌二首
 
第二巻に出たる婦人なり。傳不詳なり
 
(409)490 眞野之浦乃與騰乃繼橋情由毛思哉妹之伊目爾之所見
まのゝうらの、よどのつぎはし、こゝろゆも、おもふやいもが、いめにしみゆる
 
眞野之浦 攝津國なり。近江は、まのゝ入江なり。此まのとよみ出たるは全躰の歌により處ありてなり。まのとは地名なり。その地名をよみ出たるは、下の句のいめと見ゆると云ことの縁に、上の五文字よりひつぱりたる歌なり。まのはまぬなり。上古の字は皆ぬといふ詞なり。まは初語にてぬとは、ぬるといふことなり。ぬるうらの夜殿とうけたる縁語なり
與騰乃繼橋 所の名なり。よどといふ所は何方にもあり。まぬとよみ出たるから夜殿といふ詞を添たり。つぎはしとは、今も川々にあるかりに渡置はしばしつぎたるあり。そのころ定めてかなたこなたへつぎわたるのことの多き橋なるべし。よりてこゝろとうけたると聞えたり。こゝろゆもはこゝろにもといふ義にて、こゝはこゝらなどいふて多き事を云詞なり
情由毛 先の人の心にも刀自をおもふや。とじが夢にも見ゆるとなり
 
491 河上乃伊都藻之花乃何時何時來益我背子時自異目八方
かはかみの、いつものはなの、いつも/\、きませわがせこ、ときわかめやも
 
河上乃伊都藻 此河上の二字かはづらか、かばのべか不2一決1なり
伊都藻 藻をほめていつといへるなり。ゆつもおなじ。第二卷同人の歌故、いはむらとよめるにおなじかるべし。下にいつも/\といはん爲に、いつもの花とはよめるなり。藻の花をほめていつもの花とよみ出たるなり。尤も藻は四時とこなつにあるもの故、いつも/\かはらず來ませといふ意をよそへて詠めるなるべし。川上とよみ出たるは、藻といふことを詠める縁に五文字に置るなり。もの花は四季にあるものか、不v考。いづれにもあれ、藻はいつもあるものなり。よりて不v變事を詠める歌故、いつもと詠み出たるなるべし
何時々々 常住不變に來りませとなり
時自異目八方 ときわかめやも、きみのきますことのありたることは、いつと時わくこと無きまゝに、いつも時をわかず來り(410)ませとなり。自異の二字はわくと義訓によむ事可なり。ときじけめやもといふ點もあれど、義は通ふべけれど、自異の二字わくと訓せん事よろしき義訓なり
八方 といふ詞は、毎歌にありて歎の詞にて、此歌は尤君のきます事は、いつとてもあかぬといふ意をふくめたる詞と見ゆるなり
 
田部忌寸櫟子太宰時歌四首
 
たつのいみきいちゐなり。任の字を脱せり。普通の本には任の字あり。宰の字の下に官名の字脱せるなるべし
田部忌寸櫟子 傳不v知。舊一本に舍人吉年と書入の本あり。よりて後人此歌の作者を、舍人きねと注せる人もあり。しかれども書入は後人の加筆、本文田部忌寸と氏姓を被v擧たれば、此四首の歌吉年とは難v決。本文端作とかく脱字ありと見えたり。いかにとなれば、四首の歌二首宛夫婦よめる歌と聞えたり。しかれば本文端作に脱文ありと見えたり。後人舍人吉年と加筆しけるは、もし櫟子妻妾舍人氏にて、名を吉年といへる義考ふる所ありて加筆しけるや難v計
 
492 衣手爾取等騰己保里哭兒爾毛益有吾乎置而如何將爲
ころもでに、とりとゞこほり、なくこにも、まされるわれを、おきていかにせん
 
取等騰己保里 わらはべのころもにとりつき、引とゞめる如く、慕ひ歎くわれを捨起きて太宰府にゆき給はゞ、われはいかにせんとの歌なり。これ櫟子の歌とは見えず。妻妾の歌なるべし。次の歌は此歌に和へる歌なり
 
493 置而行者妹將戀可聞敷細乃黒髪布而長此夜乎
おきてゆかば、いもこひんかも、うつたへの、くろかみしきて、ながきこのよを
 
置而行者 此おきてゆかばとよみ出たるは、前の歌に和たる歌故なり。此の歌は夫の歌と聞ゆるなり
可聞 うたがひの詞にあらず。歎の詞かなとおなじ
敷細乃 此點普通には皆しきたへと點せり。しかれどもしきたへのくろかみとつゞくこといかにも心得がたし。白きとはつ(411)ゞく詞あれど、くろきとつゞくこと證例無し。敷妙の家とつゞく例にて、うつたへのくろかみとつゞけたる詞なり。髪をほめて現在とこしなへなる髪といふの意と聞えたり。いかにとしてくろきとつゞく詞あらんや。楮はしろきとこそつゞくを、くろきとは語例無きなり。下に布而などよめるごとくの縁にて、しきたへとの説あれども難2信用1。上代は髪を不v結、皆すべらし居たれば、しきぬるもの故、しきてとよまむこと上に縁無くてもよむべき事なり。くろかみを詠み出たるは、下の長と云ん縁によりてなり
長此夜乎 上に置てゆかばとよめるは、夜を起てゆかばといふ意をもこめて詠めると聞えたり。もつとも妹を置て他國へ行はの義にして、兩樣をかねて詠める意なり
 
494 吾妹兒矣相令知人乎許曾戀之益者恨三念
わぎもこを、あひしらせたる、人をこそ、こひのまされば、うらめしみおもふ
 
相令知人乎許曾 妹をしらしそめて、かくむつまじくなしたる媒の人を思ひのつのりたるあまりには、かへりてうらめしく思ふとの切なる歌なり。よく聞えたる歌なり。此二首は夫の歌なり
 
495 朝日影爾保敝流山爾照月乃不厭君乎山越爾置手
あさひかげ、にほへる山に、てるつきの、あかざる君を、山越爾置手
 
朝日影 これは殘月に君をたとへたる歌と聞ゆるなり。朝日の出づるころ迄も、ありあけの月の照れるを、あかず詠むるごとき君をと云の意也。童蒙抄の説可v然也。にほへるは日の光と月の餘光映じあひたる景色をいへるなり
不厭君乎 なれそひてもあかざる君を、わかれへたゞりて、居んことの悲しきといふ意なり。照月のあかざるとは、月のあかきとつゞけたる詞なり。あかざるといはんとて、てる月のと詠み出たる古詠の格皆如v此なり
山越爾置手 此山越の字六ケ敷なり。山越の二字別訓あらんか。置手の手は都なり。おきつといふ止なり。山越の二字は、はるかにと可v訓歟。諸抄の説點のあやまりとも不v及2論辯1事なり。此歌は妻妾の歌にして、櫟子太宰府へ往くをかなしめ(412)る歌なり。歌の意はなれそひ居てもあかぬ人を、達くはるかに隔ておくことの悲しきといふ歌なり。悲しきともさびしきとも云はずして、その意をのべたる歌と聞ゆるなり。童蒙抄には、君の字をいもと書きたり。もしいもと書本ありしや。君とは男女共にさして歌によめば、櫟子の歌と見てさは詠みなせるにや
 
柿本朝臣人麿歌四首
 
496 三熊野之浦乃濱木綿百重成心者雖念直不相鴨
 
濱木綿 芭蕉のごとくにして、葉は八重に重なりて白き花の咲けるものなり
百重成 もゝ重なすはもゝへの如くにと云義なり。幾重も/\おもひしたへどもとの義なり
心者雖念 此四字何とぞ別訓あるべし。こゝろはもへどとよみては、歌の意に首尾不v叶。にはと云言葉を添ていはねば不v濟なり。字の儘の點にてはあるべからす。此集中心者の二字いかほどもあり。何とぞ義訓あるべし。まづこゝろはもへどとよみて、心は幾重にも/\慕ひ思へどもあふことの無きと云歌と見るなり
 
497 古爾有兼人毛如吾歟妹爾戀乍宿不勝家牟
 
此いにしへにありけん人と詠めること、古詠の風躰時代の差別ケ樣のところにて知るべし。今時の歌には古の人もとよみて、有けんの詞は無用の詞なり。三卷目の歌の勝鹿の手兒名を詠める歌の、有けんとは違なり。その歌にてはありけんとも詠むべきなり。こゝの歌には無用の詞なれども、古詠の風躰の一格を如v此の類にて知るべし。心はいにしへの人もといふ義なり然るをかく丁寧に古詠はつらねしとなり
如吾歟 わがやうにかとなり
宿不勝家牟 いねがてにけんいもをこひわびつゝ、いねがてたるにてあらんと、わが今こひわびて夜をもねがてにわぶるにつけて、古人をもさこそかくあらんと察したる歌なり
 
498 今耳之行事庭不有古人曾益而哭左倍鳴四
(413)いまのみの、わざにはあらじ、いにしへの、人ぞまさりて、ねにさへなきし
 
人ぞといふことは、今時のてにはとは少替れども、古詠には皆此てにはあり。集中能考へ可v見。今の人よりもむかし人は、ましてこひしたふことに、ねにさへあらはしてなきたることなり。此歌前の歌をうけてよめる歌なり。さなくては今のみのわざと詠めるところ不v濟。此集中連續の次第此格いくらもあることなり。此歌も其例格なり
 
499 百重二物來及毳常念鴨公之使乃雖見不飽有武
 
來及毳 幾度も/\來りませかもとねがふ意なり。別訓あるべし。き及べといふ詞にては、歌詞とも不v覺。古來より讀解者なき故、きおよべかもと點ぜり。さにてはあるべからず。何とぞ工夫すべきなり
念鴨 おもふかななり。鴨は例の嘆の詞にて、疑の詞にあらず
公之使乃雖見不飽有武 武の字通本に誤りて、多く哉に作るは非也。みれど/\君の使のあかざらんと云意なり。見れどを中へ入れたる歌なり。此格いか程もあり。使のみれどといふ事は不v聞。見れども使の來る事のあかぬとなり。公とさしたるは、妹の方を云たるなり。人丸の妻妾の事を云たる公なり。如v此歌には男女をさしていへるなり
歌の意幾度も/\來りませとねがひおもふから、その使の來たるを見れどあかぬとの歌なり
 
基檀越徃伊勢國時留妻作歌一首
 
基は氏にて紀氏を字にかへて基とかける歟。檀越は谷丘か、またまゆみ緒か。紀氏故、まみゆの木の縁をもてまゆみをといふ名か。だんをつとよめるは音なり。だんをつといふ名はあるべからず
 
500 神風之伊勢乃濱荻折伏客宿也將爲荒濱邊爾
 
濱荻 葦の別名なり。あしはをぎに似たるもの故、濱邊に生ずるをもて、はまをぎともいへる歟。聞えたる歌なり
 
柿本朝臣人麿歌三首
 
(414)501 未通女等之袖振山乃水垣之久時從憶寸吾者
 
をとめとは少女とも書、未通女と書て、をとめと訓ずるは少女の意をもて、いまだ男に不v通の女といふ意にてなり。また神に使ふる女を乙女ともいふ。これも男に通ぜぬもの故、兩義をもて義訓に詠めるなり
袖振山 袖はふるといはんためなり。古山なり。石上の古山といふ地名なり。尤此歌戀故をとめらともよみ出て、歌の意をあらはせり。しかれども上の句に意は無く、たゞ袖ふるといはんためなり
水垣之久時從 此水がきの久時、古來説々まち/\なり。しかれども人丸の詠に、水垣のひさしきとつゞける義は、決して無き詞なり。垣に縁ある詞ならでは正訓になり難し。よりて古き時よりか、ふりし時よりとか讀むべし。古一本に久寸の二字あり。しかればふるきとならでは讀まれざる也
時從 此二字を、よゝよりと讀みきたれども、戀歌に代々をかけて詠まんこと不2相應1。尤夜をかねたる詞とも云ふべけれども、表の意不v濟。ふりし時よりといふは、袖をふれたる時よりといふの意なるべし。乙女が袖をふれたる時より、思ひしたふとの歌なるべし
此歌一首より後世數人の讀み誤れること多き也。ふる山をよまんとて、をとめらが袖とは詠めるなり。たゞ袖ふる川ともよめる歌、此集第十二卷にあり
 
502 夏野去小牡鹿之角乃束間毛妹之心乎忘而念哉
なつのゆく、をじかのつのゝ、つかのまも、いもがこゝろを、わすれておもへや
 
夏野去 夏至の節鹿の角脱してまた生出るよし、神紀月令に見えたり。それに本づきて、なつのゆくをじかのつのゝとよめるなり。また新に生出る角の、わづかに一束程の間も忘れておもはんやとの歌なり
妹之心 此いもの心も不v濟なり。とかく毎歌此心といふ字には別訓あるべきなり。心を忘れておもはめやといふ事不v濟妹を忘れめやといひて濟べきに、心をとよめるは、前にも注せるごとく別訓を可v考なり
(415)念哉 此詞は通例にて不v濟詞なり。おもへやといひては、先へ下知したるやうに聞ゆるなり。しかれども左樣の義にては無く奧に假名書に念倍也と書たれは、おもへやとよまねばならぬなり。いかにとなれば、おもへやはおもはめやといふことなりはめの約言へなり。よりておもへやと幾所にもあるなり
 
503 珠衣乃狹藍左謂沈家妹爾物不語來而思金津裳
 
珠衣乃 此訓點通例は如v字玉きぬとよめり。もつともきぬをほめたる詞に玉ともいふべけれど、玉ぎぬと云詞、此外の歌に不v見。難2心得1なり。うつたへのとか、あらたへのとかよむべし。うつたへもほめたる詞にて、擣衣の縁あればうつたへのかた可v然や。あらき布をさよみともいへば、もしあらたへのといふか。十四卷の歌に、ありきぬとよめるもあらきぬにて、珠は現の字のあやまりならんか。また日本紀欽明紀に百濟より貢献のものに、※[搨の旁+羽]氈《アリカモ》一領と云事あり。珍物のものなり。もしそのきぬといふ義めづらしきものに比していへる故、珠ぎぬとよみてもたからものと云意をとりて、珠ぎぬともよめる歟
狹藍 さゐはさよみと云略語に通ずるなり。さゐを約すればあになるなり。うつたへのか、あらたへのさよみとつゞけて、下のさゐを興さんための詞ならんか。さえさゐとあるはさゐをいはん迄の縁語ならん
沈家妹 此しづみいへのいもとつゞく古語の例不審なり。此歌第十四卷目にも東歌の中に重出せり。五文字安利伎奴乃とありて佐惠々々之豆美とあり。此歌に付ていかにとも此さえさゐ沈の事不v濟なり。此歌と十四卷の歌とかな違ひたれば、何と解せんやうなきなり。師案には此人丸の歌を本として、東歌には方言多々あれば、書あやまりて假名書にしてかな違ひたるか。奧の歌の意とおなじ意の歌にしては、さえさゐしづみいへのいもと云詞、いかにも解くべき案なき也。諸抄の説はきぬのおとなひさえ/\さは/\とする、そのおとの居しづまりたるいもにといふ無理おしの説也。いかんとも難2信用1、宗師案にこゝの歌は地名を云たる歌にて、さゐ川の家のいもと云義といふ字の誤ならんと也。一本淡の字に作れり。然ればいづれと雖v定けれど、所詮沈の字にてはあるまじとなり。河の字なれば、前後の歌みな地形をよめる歌の列なる故、篇集の次第も連續し歌もよく聞えるなり。然るに奧の歌のかな書にしたるは、此歌を、本とし書あやまれるにやあらんか。もし後賢の高案あらばそれに從ふべし。先此歌は何とも解釋なりがたき歌なり
(416)思金津裳 しのびかねつもなり
 
柿本朝臣人麿妻歌一首
 
504君家爾吾住坂乃家道乎毛吾者不忘命不死者
きみがいへ、われすみさかの、いへぢをも、われはわすれじ、いのちしなずば
 
吾住坂 前にある八十隅坂同所なり。人丸の家此所にありしと聞えたり。さゐ川の近所ならんか。如v此よめる歌の列を見れば、さゐ川の家のいもと人丸のよめるにてあらん
命不死者 是も字の如くにてあるべからず。義訓あるべし。まづはいのちうせずばとよむべし。いのち死なずばにてはあるまじきなり
 
安倍女郎歌二首
 
505 今更何乎可將念打靡情者君爾緑爾之物乎
いまさらに、なにをかおもはん、うちなびき、情はきみに、よりにしものを
 
何乎可將念 これは先の人の、何をか思ふらん、吾はそなたに打なびきよれるものをと詠める歌ときこゆるなり。女郎のおもはむといふにはあるべからず。次の歌の例を見て味ふべし
こゝろといふは、子らはといふ意をかねて詠めるなるべし。こらとはわれをさしてなり
兒は女の通稱なり
 
506 吾背子波物莫念事之有者火爾毛水爾毛吾莫七國
わがせこは、ものなおもひそ、ことしあらば、火にも水にも、わがならなくに
 
吾莫七國 此ならなくには、第一巻の御名部の皇女の御歌の意とは違たり。此歌の意は火にも水にもわれこそならむといふ(417)意なり。ならなくにといふは、あらなくにと云ふてにはにては無し。われならんといふ義を、ならなくにと歎の詞を添へていふたる義と見るべし。もし吾の字、君の字の誤字ならんか。第二巻の歌も君の字なれば、此歌も同意に見やうあるべし。しからば火にも水にも君ならなくては、外には無き君がためならば、火にも水にもわれならんといへる歌とも見ゆるなり。君より外はなくにといへる意と見れば、第一卷目の歌も神のさづけし君ならなくに、外には無きといふの意なるべし
 
駿河※[女+采]女歌一首
 
507 敷細乃枕從久久流涙二曾浮宿乎思家類戀乃繁爾
しきたへの、まくらをくゞる、なみだにぞ、うきねをしける、こひのしげきに
 
枕從 まくらゆと詠みては不v叶なり。從の字をとよまねば不v通處集中には多きなり。しかるをゆとも、にともよみ違ひたる歌多あるなり
浮宿乎 水にうきといふものあるをかねて、又憂とよせて詠めるなり。下の戀のしげきも水にこひといふものあるから、その縁を離れずよめるものなり
 
三方沙彌歌一首
 
508 衣手乃別今夜從妹毛吾母甚戀名相因乎奈美
ころも手の、わくこよひより、いもゝわれも、いたくこひんな、あふよしをなみ
 
衣手乃別 わかるゝと云縁に、古詠みなころも手とよめり。ころもの袖は、左右にわかれてあるものなり
戀名 こひしなとよみ來れども、此點難2心得1。已往の事をよめる歌なるに、こひしなとよみては、當然の義になるなり。こふらめとか、こひんとならではよまれざるべし。名の字をめとてにはの詞にても、こふらめとか、見つらめとかよめる例あらば、こふらめにてもあるべし。此歌は何とぞ無2是非1離別してよめるか。または他國へ行とての歌ならんか
 
丹比眞人笠麿下筑紫國時作歌一首并短歌
 
(418)前に注せり。笠麻呂の傳不v詳なり。
 
509 臣女乃匣爾乘有鏡成見津乃濱邊爾狹丹頬相紐解不離吾妹兒爾戀乍居者明晩乃旦霧隱鳴多頭乃哭耳之所哭吾戀流千重乃一隔母名草漏情毛有哉跡家當吾立見者青※[弓+其]乃葛木山爾多奈引流白雲隱天佐我留夷乃國邊爾直向淡路乎過粟島乎背爾見管朝名寸二水手之音喚暮名寸二梶之聲爲乍浪上乎五十行左具久美磐間乎射徃廻稻日都麻浦箕乎過而烏自物魚津左比去者家乃島荒礒之宇倍爾打靡四時二生有莫告我奈騰可聞妹爾不告來二計謀
 
臣女乃 此訓點不v濟也。臣の字歟、一本巨の字にもつくれるあれば、いづれとも決しがたし。何れにしても、まうとめとよむ事義不v通。まうとめは、眞乙女といふ義なれども、臣の字をまとよまんこと、當集中其外古記證例なければ讀みがたし。よりて未2一決1なり。諸抄にはまうとめとは官女の事をいふと計注して、臣女の二字をまうとめとよむ義を不v弁。推量の注解なり。宗師案は、日本紀にをみのこのと讀める古詠の例格あれば、此字やはりをみのめのと讀まんか。官女にかぎることにも有べからす。すべて賤女にあらずば、くしげに鏡をのすべきなれば、官女の事を云ふとの説も心得がたし。然れども鏡を臺にのするほどの女は、賤女にはあるべからねば、采女のあやまりなどにて、みやび女といふ事ならん、みやびは風流の義をいふなれば、みやびをする女のといふ義にもあらんか。いづれにもあれ、まうとめとはよみがたし
匣爾乘有鏡成 例のかゞみのごとくといふ義にて、下の見つといはんための序なり。海をかゞみの如くに見たてたる義なり土佐日記等にも此歌の意をとりて書ける文あり
見津乃濱邊 難波のみつなり。つくしに下るは、上代もまづ難波に到りて、それより下ると見えたり
狹丹頬經 にほへる日をうけたる詞也。此さにほへる、さにつらふ處により歌によりて、つらふと不v讀ば不v通歌、此句に付て師案あり。此歌にでは日の光のにほへることに、いひかけたる詞と聞えて、にほへるひとうけたる迄の詞なり。ひもをほめたることにはあるべからず。さにほへるさにつらふのたがひは、全篇に渡りて可v考なり
(419)紐解不離 此句はすみがたき續なり。句意は難波のみつの濱べにいたりても、打ちくつろぎて旅のつかれをやすむ心も無く、いもをこひ慕ふ心のみ止みがたきとの意なるべし。さけずは字意の通にて不v去の意也。不v下の意にてはあるべからず
明晩乃 朝夕のことにあらず。曉の事をあけくれと云なり
旦霧隱 あさぎりにこめて飛行すがたは見えねども、たづのなく音の聞ゆるごとく、ねにのみぞなくと云義なり。下の音のみしぞなくといはんとての序句なり
吾戀流 これより又言葉をおこしてよめるなり
家當 古郷の方を詠めやればといふ意なり
青※[弓+其]乃葛木山爾 此あをはたのかつらとつゞくこと少不v濟なり。尤はたの青きか、長くたな引たるか、木にかづらなどのかゝりたるやうなるものにたとへて、かつらといはんとて、青はたと詠めるにやあらん。然れども不2打着1なり。本によりて青※[弓+其]とかける本もあり。不2一決1ざれは師案には、青柳のかつらきとつゞけたるにてあるべし。然るを柳にても、楊にても、旗の字にあやまりたるより、又※[弓+其]の字に傳誤したると見えたり。青楊のかつらなれば、何の子細にも不v及つゞきなり
白雲隱 古郷のかたの雲にかくれて不v見との義なり
天佐家留 家の字、我の字に誤りたる本有。又傳誤して我に誤りて書る本あり。濁音の字にてあるべき事ならず。家の字の我にあやまり、それより我にあやまりたると見ゆるなり。扨あまさかるひなといふ事、古來より説まち/\なり。帝都は天子の居所故、雲の上といふは、天とも云はずして、その天のあめに遠ざかりたる邊鄙の國といふ義にて、あまさかるひなとはいふとの古説なれども、帝都に近き五ケ國の國をも、あまさかるひなとよめる證歌則當集にも見えたれば、遠ざかりたる國故の冠辭とは不v聞なり。これは遠くさかりたる天の日とつゞけたる詞と聞ゆるなり。ひなとは邊土の事を云。そのひなのひとつゞくまでの詞に、あまさかるとはいひ來れるならんとの師案なり。天さかるとは、さかりたる天といふの義となり。師案の説もいまだ不2落着1なり
國邊爾 此句不2雅言1。くにへとよみては卑しき歌詞なれば、もし別訓もあらんか。然れ共古風の躰なれば強ひてもいひがた(420)し。これより船中の旅行の景地をのべたるなり
直向 これをたゞむかふと點をなして、いづれの歌にても皆たゞむかふと讀ませたれども、たゞむかふにてはあるまじ。何とぞ別訓あるべきなり。まむかふるなりとも讀みたるもの、たゞむかふといふ歌詞はなるまじき詞なり。筑紫下向の船路、淡路島はまむかひに見え、阿波の國はわきめに見ゆるなり。仙覺抄に、讃岐屋嶋の北の阿波の嶋とあり
背爾 たがひにとよみ來れり。うしろざまにわきめに見ゆるとの義なり。そがひはそむきむかひといふの義なり。向の字なくても同字なり。萬葉の一格前に准じて讀むなり
水手 此二字を、かことよむ。此由來日本紀卷第十に見えたり
左具久美 行なづむ事なり。やすく行がたきことを云なり。浪の上岩の間をこぎめぐる事なれば、すぐは行きがたき躰を詠めるなり。船路の艱難の義をかく詠みたるものなり
磐間乎 いはの間をと讀みても、また四言に讀みても同事なり。いはのまをとは耳にたてば、四言にてもあるべきか
稻日津麻 これは地名にも、いなみといふところあれば、それを不v從していなむ妻といふ義によせて、下のうらみといはん爲なり。いなむ妻なれば恨むといふ義によせてなり
浦美 地名なり。そこを通てといはんために、上よりだん/\地名によせてよみ出せり
過而鳥自物 此鳥自ものといふ事不v濟なり。師案、而の字は留の字のあやまりならん。もしさもなくば、留の宇を脱したるならん。さなくては不v聞なり。留の宇なれば、留鳥と書て、前の歌にもあみじものとなつぞさびとよみたる歌あれば、こゝもその通と見ゆるなり。然るを而にあやまりたるか。留を脱したるかなるべし。稻見、浦箕、播州也。うらみはうらうみの略語にてもあらんか
家乃嶋 播州なり。八雲抄に、同嶋を別のやうにかゝせ給ふは、假名遣の御たがひより也。延喜式にも揖保郡家嶋神社とあり
四時二生有 繁く生たると云義なり
莫告我 此我の字哉のあやまりか。家の字を我に誤り、又轉じて我に誤りたるなるべし。濁音にては不v通なり。なのり(421)その事は、日本紀の歌に出て、今世に云、穗俵といふ海藻の事をいふなり。神馬藻とも書は、神の馬にはなのりそといふ義訓にて書なり
不告 點本みなつげすとあり。此不告とよまんとて、上になのりそとよみ出たるなり。然れば不告はのらずとよまでは不v叶事を、點本皆つげずとあるも拙き事どもなり
 
反歌
 
510 白妙乃袖解更而還來武月日乎數而往而來猿尾
 
解更而 ぬぎかへてとよむべし。或抄にときかへてふたりぬることをいへるとの注あり。心得がたし。無理なる注解なり。白妙の袖に意は無きなり。此上の二句は中途より、妻のかた旅行のすがたを改めて、いつのころかへりこんと云ことを、のりてきましをといふ義をよみ出たる二句の序なり。此二句は下の第四の句につゞく句と見ゆるなり
月日乎 義訓にほどと點をなせり。義はおなじ。然れども下の數の字、教といふ字の誤ならんと見る説からは、月日と字のごとくよむべきか
數而 諸抄の説ほどをかぞへてとは、いつまでありていつのころかへりこんと、行程歸路のほど、滯留の日數をかぞへてと云の説なり。師案は長歌に名のりそをよみ出て、のらずきにけんとよみ留たれば、反歌にも、のりて來ましをと讀むべきことなれば、この歌の字は勅の字のあやまりか、また教といふ字か、兩字の草も似たる字なれば、たがひならんと見ゆるなり。教勅の字ともに、のりとよむ古訓なれば、長歌に附合する説は、のりてとよまんことしかるべし
徃而來猿尾 是を諸抄の説は、筑紫へ行きて來ましをと解せり。さも聞ゆるところあれど、長歌の意をうちかへして、のらずきたる事のくやしきまゝに、中途より取てかへし、旅躰をあらためて、いつの月いつの日はかへりこんと、契りかはしてきましをと、愚かに詠める歌と聞ゆるなり。兩義いづれか是ならんか。諸抄の説にてはたゞかぞへてと讀みて、いよ/\歌の意通(422)じがたし。いづれにても、のりてとよまでは義不v可v通。一説に中途より妻の元へゆきかへるほどをかぞへて、つくしの任におもむくといひ知らせてきましをと、よめる歌とも見る説あり。しかしかへりこんは、つくしよりいつの月いつのころはかへりこんといひしらせてきましをと、詠める歌と見る説可v然なり
 
幸伊勢國時當麻麻呂大夫妻作歌一首
 
511 吾背子者何處將行己津物隱之山乎今日歟超良武
 
此歌第一卷に出て、作者も同人重複混亂と見えたり
 
草孃歌一首
 
かやのをとめ 傳不v知
 
512 秋田之穂田乃刈婆加香縁相者彼所毛加人之吾乎事將成
あきのたの、ほだのかりはか、かよりあはゞ、そこもか人の、われをことなさん
 
穂田乃苅婆加 此集中に二三首出たり。諸抄の説もとくとはすみがたき也。穗の出たる田の稻のかりしほの時をいふとの説また稻をかりもちよる所をかりといふとの説也。とくとはきゝ得がたし。然れども外に愚案も無ければ、先づ稻をかりもてあつまる所を、かりばといふとの説に從ひおくなり。師案に、加の字如の字ならんかとなり。然らばなすと訓して、かりばの如くによりあはゞとよめる意かとなり。字あまりにて耳立てども、此説は歌の意聞えやすきなり。穂田をかるかりばのごとくに人々よりあはゞ何事も無きわれを、事ありと人のいひたてんかと云歌の意に聞ゆるなり。かよりの香は助字、初語なり源氏物語等に、かよりかよれるなど多き詞なり。よりあはゞといふことなり
彼所毛加人之 そのところもといふ義、またそれもといふ義なり。かのよりあはゞそれをも事ありと人のいはんかと、穗田を苅りて、そのかり人のより合ふ事によせていへる也。かりばへ直ちにより合ふことにはあらず。その如くに、人にたゞよりあはゞことこそありと、あだ名をいひたてんかとなり。人々により合ば、われを好色人に人のしなさんかと云の意と聞ゆるなり(423)此歌全體不v應v聞なり。尚後案有べし
 
志貴皇子御歌一首
 
513 大原之此市柴乃何時鹿跡吾念妹爾今夜相有香裳
おほはらの、このいちしばの、いつしかと、わがおもふいもに、こよひあへるかも
 
大原 大和の地名なり
市柴 下のいつしかといはんための序詞なり。櫟柴のことなり。櫟をならかしはとも云なり。日本紀に歴木と有も此木と同じ。くぬぎともいひ俗にどんぐりの木とも云木なり。なら柴といふも此市柴の義なり
歌の意は明らかに聞えたる歌也。いつかあはんとこひ慕ひし妹に、今夜あふ事の嬉しき情をのべ給へる御詠也
 
阿倍女郎歌一首
 
514 吾背古之蓋世流衣之針目不落入爾家良之我情制
 
蓋世流 きせるのせは助語の格ありてきるといふ意なるべし。しかし盖の字は別訓あらんか。きませるとよみたきところなり。然れどもさは讀まれねば、何とぞ別訓あるべきなり
入爾家良之 これをいりにけらしなと文字不v足故、奈の字を添へて點をなせり。家良之とかな書に一字宛書て、なの字を添ることはならざることなり。はいりにけらしと讀むべからむか。これも別訓あるべき歟
針目不落 はりめごとにといふ義なり。一夜も不v落など前にもあり
我情制 普通の印本は、情副とあり。此本の劍は制のあやまりならん。わがこゝろさへとよませたれど、別訓あらんか。わがこゝろもといふ意と見ゆれども、別訓はかりがたし
歌の意は、夫をこひ慕ふ心のせつなるまゝに、夫のきるころものはりめごとに、心のそみ入てあるといふの意なり
 
中臣朝臣束人贈阿部女郎歌一首
 
(424)東人 傳續日本紀に見えたり。不v詳
 
515 獨宿而絶西紐緒忌見跡世武爲便不知哭耳之曾泣
ひとりねて、たえにしひもを、ゆゝしめと、せんすべしらに、ねのみしぞなく
 
絶西紐緒 ひとりぬる時、下ひものきれたるなるべし。おもふ人の中絶えんはしと忌む事也
忌見跡 ゆゝしめと讀むべし。ゆゝしめとはいめどもせん方の無ければ、悲みてねにのみなくと也。これは阿部の女郎をこひ思ふ東人なれば、その中の絶えなんしるしにやと、悲む意を述べたると聞えたり。點本には、ゆゝしみと讀めり。意不v通。みはめと讀む例多し。いめどもといふ義也
 
阿部女郎答歌                          
 
516 吾以在三相二※[手偏+差]流絲用而附手益物今曾悔寸
 
三相 みつのかたちあるものをいふたる義訓なるべし。然るをみつあひによれると點あれども心得がたし。三相は、かせか、たにの義なるべし。みつあひによれると云事難v聞儀也。かせとか、たにとかいふ義訓あるべし。かせもたにも三相のものなり。しかれば義訓に書きたるものと見ゆる也。みつあひにと云詞歌詞とも不v聞也
※[手偏+差]流 これも點本にはよれると讀ませたれど別訓あらんか。はへたると義訓すべきか。よると云詞は歌詞にあれば、歌の意強き糸をつけまし物と云意なれば、糸もより糸と云は強きものなれば、よれるとも讀みて可v叶か。後學の人尚可v案也
歌の意は、紐の緒のきれていま/\しけれども、きれたればせんかたなく悲しむとよめる答歌故、われはきるゝ事無き強き糸を持ちたるに、それをつけたらば切るゝこともあるまじければ、いま/\しきこともあるまじきに今更くやしきと、先の意を助けて詠める歌にて、下の心はそなたの紐はきれたるとも、わがもちたる糸は、なか/\切るゝことの無きといふ、心中の頼母敷ことをあらはしたる義と聞ゆる義と聞ゆる也
 
大納言兼大將軍大伴卿歌一首
 
(425)大伴安麻呂の事也
 
517 神樹爾毛手者觸云乎打細丹人妻跡云者不觸物可聞
さかきにも、手はふるといふを、うつたへに、ひとづまといへば、ふれぬものかも
 
神樹 さかきと義訓に讀める也。一種ありといへども坂木也。神木の惣名と心得べき也。神木といへども手はふるゝことのあるに、ぬし定まれる人の妻には、常住とこしなへに、手をも觸るゝことのならぬものかなと詠める歌也。大伴卿思ひかけし人の、ぬし定まれることありしを、歎きて詠めるなるべし
打細丹 うつは初語と同じく現在明らかにといふ義、細は前にも釋せる如く、とこしなへにといふ義也。此詞此集中全篇にわたりてよく可v考。たへとは皆とこしなへといふ詞也。此打細も常住不變とこしなへにきはまりたる、今日の上の法則といふの打細也
 
石川郎女歌
 
古本書入、即佐保大伴大家也とあり。佐保大伴卿の妻也
 
518 春日野之山邊道乎與曾理無通之君我不所見許呂香裳
かすがのゝ、やまべのみちを、よさりなく、かよひしきみが、みえぬころかも
 
與曾理 諸説おそりなくといふ意と注也。師案、夜去無と云なるべしと也。よさりなくとは歌詞にて、夜毎不v去通ひたる人の此頃見えねば、いかゞし給ふかと氣遣ひて詠める歌也。或抄に十四卷東歌の詞によそりと云歌あるを引、おこそとの横通の音に解して、おそれなくといふ義と釋せり。古今の、龍田山よはにや君かひとりこゆらんの歌の裏を詠みて、河内國の女の詠まんずる歌と注せり。心得がたし。東歌のよそりは方言なれば、おそれといふ事もあるべき歟。横通音にはなり難き事也。横通、竪通も通ふ詞と不v通詞の例あることを不v辨して、悉く通音すると心得たるはひが事也。東歌のよそりはよるといふ意なるべし。おそるゝといふ意にはあるべからす。師案は夜さりなくと云意に見る也
 
(426)大伴女郎歌一首
 
古本書入今城王之母也。今城王後賜姓大原眞人氏也
 
519 雨障常爲公者久堅乃咋夜雨爾將懲鴨
 
雨障 あまつゝみと讀むべきか。あまさはりと云詞心得難し。後人追加歌に、雨乍見と讀みたれば、此もあまつゝみなるべし雨の爲に身をぬれぬ樣に、衣にてつゝむを云也
常爲 いかにとも讀み難し。つねすると點本にあれども歌詞にあらず。別訓可v案
咋夜雨爾 よふべの雨にと讀ませたれど、是も心得難し。此集に昨日と書きてきそと讀める歌あれば、こゝもきそのよさめと讀むべき也。はたは又也。又は過ぎしよさめともよむべき歟。過雨の意に大雨などの事をいへるにやあらん。しからば下のこりぬらんかもと讀める意もすこしは助らんか。點本の通の読み樣にては、歌の意いかにとも通じ難し。いろ/\の詞を添へて釋せざれば聞え難き也。歌は詞を入れずによく聞ゆる樣に詠みたるものなれば、詞を添へていへば、いか樣の歌にもいひまはさるゝ也。古詠などは左樣の義あるべき事にあらず。此歌も全躰聞得難き歌也。先大概は雨を平生厭ふて、來べき夜も不v來。きのふの夜雨に來あはせたれば、今夜も來んと契りしに不v來ば、その時詠める歌かと見ゆる也。ゆふべの雨に懲りて、今夜來まさぬと云意なるべき歟。如v此詞を添へて云はざれば聞得難き歌なり
 
後人追和歌一首
 
普通の本には、和の字を同の字に書けり。古一本に和に作るを爲2正本1
 
520 久竪乃雨毛落糠雨乍見於君副而此日令晩
ひさかたの、あめもふらぬか、あまつゝみ、きみにそひつゝ、けふをくらさめ
 
雨毛落糠 雨の降らぬかな、ふれかしと願ふたる意也
雨乍見 雨を避くる着物なり
(427)副而 點本にはたぐひてと讀めり。たぐひといふ詞はことつけてと云意也。尤さそひつれてといふの意なる故、君につれてと云心に如v此讀みたるか。しかれども六ケ敷意也。雨つゝみの衣にともにそひねて、けふをくらさめといふの意と聞ゆる歌也。雨ふりて打しめりたる日ならば、雨つゝみの衣などを共に着て、君にそひてくらさめと願ふたる歌也。雨つゝみ君とつゞけたるは、つゝみものを着とうけたる也
令晩 しめんと云意にてさんと讀むと云説もあれど、さめと讀むべし。伊勢物語等にも此格あり
 
藤原宇合太夫遷任上京時常陸娘子贈歌一首
 
宇合 馬養の事也。のきあひなど讀める大なるひが事也。續日本紀に任官の事見えたり。太夫とは稱美の號也。まちぎみと讀む也
 
521 庭立麻手苅干布慕東女乎忌賜名
にはにたつ、あさたかりほし、しきし【たの】ふ、あづまをみなを、わすれたまふな
 
庭立麻手 十四卷の東歌の假名書に、にはに立つあさてこぶすまとあれば、庭に立つとも讀むべきなれど、この庭にたつ麻てといふ詞は不v濟也。何として庭にたひあさとはよみけるや。いやしき賤屋には前栽などいふものも無く麻を植うる故、庭に生たる麻をかるといふ義との説あれども六ケ敷義也。義を附くれはいか樣も附けども、何とぞ安き義あるべし。東歌に假名書あれば、先づ庭にたつと讀むべけれども、しかれば其意は、如何にども未v被v辨也。宗師案には潦淺田とつゞけたる意と見るは、庭たづみは雨など降りたるあとに、庭中などに少水のたまりたるを云て、いさゝかのたまり水にていたつて淺きものなれば、麻といはん爲の序詞に、にはたづみとは讀みたるものと見る也。麻の葉は人の手の形なるもの故、麻手といふとの説あれども、てはたにて麻の田といふことなるべし。これは手にしても、強ひて義にたがふべからねば、好む所に從ふべし
苅干布慕 下のしきしたふといはん料にかり干しとある也。麻は敷き並べて干すもの故、絶間も無く常住慕ひこがるゝといふ事を云はん爲に、干しと詠み出でたり。扨此布といふ詞は、如何したることをいふ義と不審の解き古來より不v濟詞也。ち(428)りしき重波重播しき/\になど云詞、只しげきといふ義と心得たる也。さにはあらず。これはすき間無きと云語釋也。すきの二言し也。まなきの上略き也。しげきの中略と解してあはぬ事ある也。すき間無きと云義なれば、こと/”\く合也
東女乎 をとめをと詠める意少心得難し。自稱にをとめと云事例無2覺束1也。追て類例あらんや可v考。例無くばをんなと讀むべきか。官女宮女などは自らをとめと詠むべけれど、東國の賤女の自稱にをとめと詠まんこといかゞ也
歌の意、卑しきわざを爲しても、君を常住すき間無き程に、慕ひしのぶ東女を忘れさせ給ふなと詠める也
 
京職太夫藤原太夫賜大伴郎女歌三首
 
京職大夫 右左京職を兼ねたる也。續日本紀〔卷第八元正天皇紀養老五年六月、從四位上藤原靭臣麻呂爲2左右京太夫1〕の文、右左の二字不審なりしも、此集にて晴れたる也。懷風にも京職太夫と記せるにて明らか也。風藻の万里は万呂の誤り也
藤原太夫 古本書入、卿諱曰2麻呂1也と有。太夫は前に注せる通、稱美の意にて書きたる也。賜大伴郎女の賜は贈の誤り也
 
522 ※[女+感]嬬等之珠篋有玉櫛乃神家武毛妹爾阿波受有者
をとめらが、たまくしげなる、たまぐしの、かみさびけんも、いもにあはずあれば
 
※[女+感]嬬 をとめとよむ事集中多し。細釋に不v及。以下は玉櫛といふ迄の序詞也。玉ぐしといふより下は神とうけたるもの也
神家武 神さびんと義訓に詠むべきか。神の家なればものふりたるといふの義訓にて、神さびとも讀むべし。尤髪のことを相兼ねたる義也。源氏物語若葉にも、さしながら昔を今に傳ふれば玉の小櫛ぞ神さびにけると詠めるも、此歌などを扣へにてやあらん
宗師後案、此歌玉くじけなると詠み出でたるは、日本紀崇神の卷の、玉緒の神の古事によりて詠めるか。くしげの内に小蛇となりて神のまし/\たる古事あれば、神家武三字は神すまむとか、神やどらんとか讀むべきか。久しくあはぬことを詠みたる歌なれば、神などのつきて、如v此あふ事の絶えぬるかと云意をのべたる歌ならんと也
毛 此字毳のあやまりと見えたり。普通の點にはめづらしけんもと讀めり。何と釋すべきや。毳の字なれば疑ふたる意にて(429)此歌の意濟也。神さびんかもにても又神やどらんかも、神すまんかもとよみても歌の意は通也。さなくて此歌めづらしけんもとは何といふ事ならんや。解し難き讀みやう也
妹爾阿波受有者 久しくあふことの、と絶えたることを恨みて詠める歌の意也。久しくあはざれば、髪けづる櫛も物ふりたるにてあらんといへる意か。又師案の如く神のつきたるにやあらんと疑ひたる意の歌なるべし
 
523 好渡人老年母有云乎何時間曾毛吾戀爾來
 
此好渡の二字いかんとも難v解。よく渡ると讀みては歌詞にあらず。何とぞ別訓なくては此歌一向不v濟也。愚案、このむは戀ふ意あれば、下にもこひにけると讀みたれば、こひわたると讀むべきか人の字は神と讀みて、これは七夕の事を詠める義と聞ゆる也
年母 年にもあるは、一年に一度天河をわたり、索牛織女相逢といふ世の諺の事を讀みたる義と聞ゆる也
何時間曾毛 此下の句全体聞得難し。後案すべし。若文字の違ありて如v此難v解歟。下の句一向不v濟也
 
524 蒸被奈胡也我下丹雖臥與妹不宿者肌之寒霜
むしぶすま、なこやがしたに、ふしたれど、いもとしねゝば、はだしさむしも
 
蒸被 むしぶすまと讀むべし。古事記の歌にあり。古語を不v知古事記を不v見故、あつぶすまと點を爲せり。むしぶすまとは暖かなるふすまと云義也。今もものを暖めることをむすとも云ひ、又熱きといふ事をむすと云、俗間にも云也
奈胡也 和の字をなごむと讀む古訓也。やわらかなるといふ義を、なごやと云たる也
雖臥 ふせれどもと云點は、歌詞を知らざる人の讀みなしたる也。ふしたれどと讀む也
歌の意は、隱れたる處も無く聞えたる歌也。むしぶすまもやはらかに、暖かなる下にいねぬれど、妹と寢ねゝば肌の寒きと也
右三首とも久敷相逢ことのと絶えたる事を、歎きて詠める歌也
 
大伴郎女和歌
 
(430)麿は太夫の妻也
 
525 狹穗河乃小石踐渡夜干玉之黒馬之來夜者年爾母有※[米+康]
さほがはの、さゞれふみわたり、ぬば玉の、こまのくるよは、としにもあらぬか
 
狹穗河 郎女の居所にある河故也。久敷君の不v來して不v逢事を、七夕にたとへて恨みたる歌と聞ゆる也。天の河は渡り難き河ならんが、さほ川はさのみ渡り難き程の川にもあらず。さゞれ石さゞ波のたつ淺き川なれば、舟かぢをも頼まず、馬にても渡らるゝ河なるに、君の來給ふことは、年に一度もあらぬかなと恨みたる意也
小石 さゞれ右と云。いさごなどの類、如v字ちいさき石を云。すべてさゝと云は皆小物を云。さゞいの、さゞなみ、さゞめごとなどさゝやくのと云て、ちいさきことをさして云也。こゝも不v深渡の易き河と云意に、さゞれふみ渡りとは詠めると聞えたり。其渡りやすき河をすら年に一度も來まさぬかなと也。深く恨みたる意也
夜干 からすあふぎを射干と書也。文字の音ヤカン相通ずるをもて如v此書たると見えたり。夜はぬるもの干はほすと讀む故、ほははと同音と云説は六ケ敷也。夜射音通ずるを以て書きたると見る方義安也。ぬば玉の語釋はいぬば玉と云訓也。到て黒色なるもの也。眞珠といふは玉の本にて到つて明白のもの、そのうらにて到つて黒き玉故、いぬま玉と云訓也。此類言格語いくらも有こと也。已にヒシヤシヤキは非さかきにと云義也。非2本榊1よく似たる木を云也。犬たで、犬ざんせうなど云類多也。此ぬば玉も其類也。ぬば玉はいぬば玉といふ義と知るべし。ぬば玉のははま也。ぬはいぬ也
黒馬 は、こくば也。音を訓にかりたるもの也。ばといふ詞はまといふ詞也。こくのこの一音をとりて、ばはまなる故こま也。くろを約すればこになれどもそれは六ケ敷譯也。音をかなに借りたるものと見ゆる也
來夜者 此句に兩樣の見やうあり。過去の事に見る意もあり。こしよはとも見るべき歟。下の句の讀みやうも兩樣ある也
年爾母有※[米+康] 一通は書面點本の通、としにもあらぬかと讀みて、年に一度も無き哉といふ意也。今一通は、こまのこしよはとしにもなりぬると讀む見やうもあり。君が來りし事は一年にもなりぬるかと、程久しくあはぬ事をいへる意とも聞ゆる也。有の字はなりともよむこと也。しかれども聞えやすきは、年に一度も無き哉と恨みて詠みたる歌と見る方安からんか
 
(431)526 千鳥鳴佐保乃河瀬之小浪止時毛無吾戀爾
ちとりなく、さほのかはせの、さゞなみの、やむときもなく、わがこふらくに
 
小浪 さゞれなみと點には讀ませたれど、さゞ波のと讀むべき也
戀爾 こふるにと云義也。例のるをのべたる詞也
歌の意、さゞ波のやまずよする如くに、君を戀ふると云意也。爾と云言葉は嘆の詞にて、古詠皆たんの詞に添へたる歌多也。
淺くは人をわが思はなくに、われならなくにの類也
 
527 將來云毛不來時有乎不來云乎將來常者不待不來云物乎
こんといふも、こぬときあるを、こじといふを、こんとはまたじ、こじちふものを
 
歌の意は、來んと云たる時だに來ぬことのあれば、こじといふ時はきはめて來給ふまじければ、待たじとの恨みを含めたる歌也。
 
528 千鳥鳴佐保乃河門乃瀬乎廣彌打橋渡須奈我來跡念者
ちどりなく、さほのかはどの、せをひろみ、うちはしわたす、ながくとおもへば
 
例の意無き歌也。河門水門と云も同じ。水の出合所を云也。彼方此方より流れ合ところを河門と云也
打橋 かりはしなどの類を云也。前にも注せり
奈我來跡念者 は汝が來ると思へばと云義也
 
右郎女者佐保大納言卿之女也初嫁一品穗積皇子被寵無儔而皇子薨之後時藤原麻呂大夫娉之郎女焉郎女家於取上里仍族氏號曰坂上郎女也
 
無儔 たぐひなしとよむ也。郎女也
 
(432)又大伴坂上郎女歌一首
 
529 佐保河乃涯之官能小歴木莫苅焉在乍毛張之來者立隱金
さほがはの、きしのつかさの、わかくぬぎなかりそ、ありつゝも、はるしきたらば、たちかくるかに 第三句又 しばなかりそ
 
涯之官 このきしのつかさと云詞珍らしき詞なれども、此集中に野づかさ山のつかさと詠みたれば、假名書にてつかさとあるからは、古詠には詠み來れると見えたり。官の字クハンの音なれば、キハと讀むべき義もあれど、集中に作例あればつかさと讀むべき也。然るにそのつかさといふは、いかゞしたることゝ云に、古來抄物等の説不v決。岸のつゞき、野のつゞきたる所を云との説なれども其埋不v明。師案には山守野守橋守關守といふもの有こと、古代は皆其所々を守居れり。然れば其處を守りつかさどる家居の有所を指して、岸のつかさといへるなるべし。中古に至りても防河使など云官あれば、此岸の官といふも河邊の岸堤などを、守りつかさどる者の居所をさして云へると聞ゆる也
小歴木をわかくぬぎと讀み、しばと讀む兩説あり。いづれも意は同じかるべし。ちいさきくぬぎはならしばなど云て、柴に刈り取る木也。前の歌のいちしばといふも同じ。然れども何とて此しばと云ものをとり出、なにとてくぬぎといふものをとり出でたるぞと云所以難v知也。古抄等にもそれを辨じたる説無く、君し來らば立かくるかにと云歌もあれば、そのたぐひの義に解したる説のみにて、まつ人の來りなば、此木のかげにたちかくれてあはんとの意を詠めるとの説なれども、とくとは聞得がたし。全體此歌の意何の事を詠みたるか、趣意といふ事慥に聞き分け難き也。第一の趣向は、まづこの小歴木を主本として詠み出でたる歌なれば、何とぞ趣意あるべけれとも、何とも聞明め難き也。愚案には、をくぬぎと讀むべきか。をつと女のこぬきなれども、しばらくはなかりそといふの意にて、小歴木と詠み出でたる歟。立隱と下に詠めるからは、しばなどの茂りたりとて、立かくるとはいはれまじきなれば、大木の本には立かくるといふ古實も、神武紀に見えたれはくぬぎと讀まんか。しかし刈りそといふ詞又柴に縁あれば、ちいさきくぬぎの意にかく詠みたる歟。なきりそとあれば、きはめてくぬぎと讀むべき(433)也。古人もなかりそとあるから、しばと點をつけたるか。後愚案、夫久宿木《ヲクヌキ》か。男來ぬる木にて、それ故なかりそと制して、今はあれたりとも、春の來りて君がたちかくれむかと、くぬ木によそへて詠めるか。
焉の字鳥の字に誤れり。これをかることなかれと勿れと書きて、なかりそと讀ます也。或抄のおそどりの説は非也
在乍毛 あり/\てもと云義つゝもといへり。しかれどもありつゝもと讀みては、全體の歌意ありつゝもと旋頭歌によまでも、歌の意聞え侍るべし。すべて旋頭歌に詠むといふは、五七五七七の句にて云ひ足らぬに依りて、かしらにめぐり返りて、又句を添ふるをもて旋頭歌とは云也。よりて旋頭の句をせんとするならひ也。然るにありつゝもとよみては、さのみ全體の歌のくゝりにもならざるべし。よりて在乍毛の三字は、ありつゝもと讀むべきか。今はあれたりとも春し來らばと云意と聞ゆる也
後案、在乍毛は年をふりてあるともと云義か。くぬぎは久しく繁茂するもの、年暦を經てもと云義か。此歌何とぞ古事か又詞により所ありて詠める歌なるべし。只一偏計りの事にてはあるまじき也
張之 春し來らば也。春は芽もはり草木の榮え茂るものなれば、今はかくあれたりとも、春になりたらば枝葉も茂りて、待つ人の來て、此木のかげに立ち隱るゝ事もあらんにといふの意と聞ゆる也
立隱金 來る人の立かくるゝか、又はわが立かくれてまたんと云の意か。いづれにても木かげに隱れん爲の木なる程に、刈りそと下知したる意也。かにと云はかなと云に同じく、凡て古詠に、にと詠めるは歎の意をこめたる也。此歌の意は前に引つゞきたる歌故、如v此此次に被v編たると見ゆれば、兎角夫の男の久しく來ぬ意をかねて詠めるか。又君が來て宿る木なる程に、な刈りそと詠めるか。くぬぎによそへて人を待意に詠みたる歌と見ゆる也
字句一通の意は何事も無く、たゞ佐保川の岸のほとりの木を、あまりにな刈りそ。春になりて茂りたらば、人の立ちよる爲にならんにといふ意の歌にして、底意は戀の情をもちて詠めるなるべし。それ故此歌の次につらねたると見えたり
 
天皇賜海上女王御歌一首
 
天皇は聖武天皇なるべし
 
(434)海上女王 うなかみのひめおほきみ、古本細注に志貴皇子之女也と、此次に注せり。考所ありしか。續日本紀に叙位の事は見えたり。元正紀養老七〔年正月從四位下、〕聖武紀神龜元〔年二月授2二品1と見ゆ〕
 
530 赤駒之越馬柵乃緘結師妹情者疑毛奈思
あかごまの、こゆる馬柵の、しめゆひし、いもがこゝろは、うたがひもなし
 
赤駒 すべて此集中に大かた赤駒のあかきなどと有。赤毛の馬は上足にてあがくもの故、古來かく詠めるか。日本紀應神天皇のみさゝきのはに馬も、如v龍とべるとありて赤馬とあり。若しこの古事によりて、早きことあがく事をいふにはあか馬と詠めるか。尤も下に赤きとよまん詞の縁には、赤こまともあるべきか。又こゝもあがきこまと云の意にて、赤駒と詠ませ給ふか。いづれ義あるべし。先達の賢案賢考無ければ、いづれとも難v決也。先づこゝもあがきうまと云意に、赤駒とはよめると見るべし。あがく馬なれば、垣をも越ゆる事あるべければ、越ゆるまがきとは詠めるか
馬柵 これはまをりと讀ませたり。まをりは馬を繋ぎ入る所を云。最もをりは木竹にて垣の如く、外へ不v出樣にしつらへたるものなるべし。しかれどもまをりを越ゆるとは詞不v續樣なれば、馬柵の二字は、馬がきと義訓に詠ませたるならん。畢竟はしめゆひしといふことの序詞也。天皇の領し給ふ海上女王は、外に異心あらんともおぼしめされず。吾駒としめおかせられたれば、御疑ひも無きと云の御製也
 
右今案此歌擬古之作也但以時當便賜此歌歟
 
是古注者の案注也
 
擬古之作 古風の作になぞらへて、被v爲v作たる御製也といふ義なるべし。文簡古にして辨じ難し。聖武天皇より古風体と云へば、孝徳天皇の時代此駒の御製有。かなきつけわがこふ駒はひきでせず、あがこふ駒を人見つらんかとある、御製などになぞらへさせられて詠ませ給へるとの注と見えたり
なるべし。その時に當りて、駒の義によりて何とぞたよりあるによりて、如v此の御詠を給へる歟との注也。(435)然れはこの注訓にて讀まば(以下文缺)
右今おもふに、此み歌は古になぞらへて作り給ふ也。但し時に當れる便あるをもて、此み歌を給ふかと讀むべき也。本によりて此注の文字違あり。一本には但徃當便賜此歌とある也。此注にてはそのかみ此歌を給はしむるかと讀むべし。注の意少違あり
 
海上女王奉和歌一首
 
志貴皇子の女也。古本書入如v此有也
 
531 梓弓爪引夜音之遠音爾毛君之御幸乎聞之好毛
あづさゆみ、つまひくよどの、とほねにも、きみがみゆきを、きくがうれしも
 
梓弓爪引 鳴弦のこと也。夜行隨人、宿直の武官など弦音して警衛する義をいへり。令式にも夜行宿直の武官の義見えたり。最も天皇夜のみゆきには、弦音をして邪氣を祓ひ避くる義あり。これは海上の女王のかたへ、夜のみゆきの時の義を詠めるなり
夜音 夜つるを引夜音の遠く聞ゆるといふ義也。爪引とあるにより、夜音とあるは妻引夜殿とうけたるつゞきと見ゆる也。宗師案には、爪引つるの遠音にともあるべきかと也。鶴の夜聲のことは、詩歌につらねて、おもひ深きことに云傳へ、遠音の聞ゆるものなれば、爪引は弓のつるを引ことなれば、夜音の二字は、つると義訓にも讀まれまじきにあらざる也
歌の意は、海上の女王のかたへ天皇のみゆきを、音の聞ゆる其音を聞きてもうれしきとの意也
 
大伴宿奈麻呂宿禰歌二首
 
佐保大納言第三子也。古本書入如v此考所有歟。任官叙位の事、續日本紀元明紀和銅元年、聖武紀神龜五年に見えたり
 
532 打日指宮爾行兒乎眞悲見留者若聽去者爲便無
うちびさす、みやにゆくこを、まかなしみ、とむればくるし、やればすべなし
 
(436)打日指宮 前に注せり。うちひる箕とつゞけたる冠詞也。日の光のさしかゞやく宮など云説は非也
行兒 仕官の女を指して詠める歌也。兒は女の通稱也
眞悲見 愛憐の義也。歎くかなしみの義にはあらず。歌に悲しくといふに兩樣あり。今は愛し憐む意也。眞は發語也
留者苦 とゞめ置くことはなり難ければ、それをとめるは苦しみあり。さりとて又許しやれば、いかにともせん方の無きとの意也。畢竟仕官の女を戀慕ふ歌也
聽去者 義訓にやればと讀ませたり
 
533 難波方塩干之名凝飽左右二人之見兒乎吾四乏毛
なにはがた、しほひのなごり、あくまでに、ひとのみるこか、われしともしも
 
難波方 下の鹽干の名殘と云はん爲の序なり。塩干の名殘といふは、下のあくまで人の見るといはん爲の序也。此歌は前の歌と引兼ねて見る歌也。仕官の女のことをさして詠める意也。人は名殘をあくまで見る兒なるに、われはとゞめも得で、ともしく見ることのめづらしきことを歎きたる歌也。なごり、日本紀にはなをりともあり。餘波と書きてなごりと讀めり
人之 ひとしと讀むべきか。下のわれしともしもとあれば、詞つゞきよろしき也
見兒乎 海松によせていへる也。鹽干のあとにはみるの藻などあれは、その縁によりて也。人の見ることをと讀ませたり。然れどもこれはひとし見るこかと、乎の字訓に讀む意あり。仕官の女なればわれ戀ひ慕へども、心のまゝにあくまで見ること難きに、人の見るための子、われこそ思ひしたふ身なれば、あくまで見るべきにといふ意をこめたる詞なりと讀む方意ふかし
吾四乏毛 われはともしもとあるべき句に、われしとあるは、もし四の字は也の字の誤ならんか。人のあくまで見る兒を、われはともしく珍らかに、相見るとの歌の意なり。しかるに詞不v調やうに聞ゆる也。人は見る兒とか、吾はもしもとか、人吾の内一所は、はとなくては聞えかねる歌也。しかれば也の字のあやまりにてもあらんか。也なれば者也。しかればあくまでに人見るこを、われはともしもといふ歌にて、よく聞ゆる也。正本あらは可v考也
 
(437)安貴王歌一首并短歌
 
あきの二字は、音を以て假名に借りたる也。此二字を訓に讀ませたる抄あり。あまりなる義なり
 
534 遠嬬此間不在者玉桙之道乎多遠見思空安莫國嘆虚不安物乎水空往雲爾毛欲成高飛鳥爾毛欲成明日去而於妹言問爲吾妹毛事事無爲妹吾毛事無久今裳見如副而毛欲得
 
此遠嬬の二字何とぞ別訓あるべき也。とほづまと讀みては俗言に近也。さかつめと讀むべき歟。古事記の歌に、くはしめ、さかしめと讀める古語もあれば、それをふまへて、さかつめはとほさかりたる女と云ことに読みたる歟。とほづまとは證例未v覺也
玉桙之道 前に注せり。行路のしるしに、上古ははたほこを立てられたるより、古事をもて玉桙の道とは讀む也。道は直なるものにて、玉のほこの如くなるものといふは心得難し
多遠見 多は初語也
思空安莫國嘆虚 此空に意は無き也。助語ともいひつべし。今俗語にも見る空の無き、聞く空の無きといへることあり。そこらといふ略語ならんか。たゞ妻をこひしたふものおもひに、やすき心も無きといふの義也
水空徃 水は初語也。たゞ空ゆく雲にもがなと願ふたる義也
明日去而 これまでの句聞えたる通也。安貴王の他國遠處へ被v移給ひて、本郷の方へ雲鳥にもなりたらば、飛かけり行きてと願ひ給ふ義也
爲吾妹毛事事無爲妹吾毛事無 此句は畢竟文を互ひにしたるといふ如きの意也。たゞ互の安否を聞かましものをと也。此次に一句脱落したる樣に聞ゆる也。然れども此格の歌前にもあり。古詠の一格ならんか
今裳見如 現在今見るやうに遊びても哉といふ意也
副而 此字點本古本ともにたぐひてと讀ませたれど、義同じけれどもそひつゝと讀て然るべき也。畢竟つれだちそひてがな(438)と願ふたる意也
 
反歌
 
535 敷細乃手枕不纏間置而年曾經來不相念者
しきたへの、たまくらまかず、へだておきて、としぞへにける、あはぬおもひは
 
上の句は聞えたる通也。八上釆女を遠く隔て置きて、あはぬ思ひのいく年か經ること哉と、歎きたる歌也
不相念者 あはざる思ひ年ぞふると云の意也。あはぬものおもひの、かくいく年か經ると歎きたる歌也
 
右安貴王娶因幡八上釆女焉係念極甚愛情尤盛於時勅斷不敬之罪退却本郷焉于是王意悼怛聊作此歌也
 
係念極甚 おもひをかくることの、到て切なるとの注也
於時勅斷不敬之罪 八上釆女に溺れ給ふによりての不敬の罪か。未v考
退却本郷 都に在任したるを、遠國へ被v移たるか。又處を被v替たる義なるべし。流罪までは不v及義と見ゆる也
于是王意悼怛 いたみかなしむとの義也
 
門部王戀歌一首
 
536 飫宇能海之塩干乃滷之片念爾思哉將去道之永手呼
おうのうみの、しほひのかたの、かたもひに、おもひやゆかん、みちのながてを
 
飫宇能海 出雲の地名也。左注に見えたり
片念 片もひとも片こひにとも讀むべし。此かたもひといはんとて、塩干のかたのと詠出でたる也。もひとは藻の縁、こひとはどろの縁、ひかたの處なればかたまりたる故、堅こりとも讀むべし。然ば下も亦上に從ひて、こひやゆかなんと讀むべし
(439)道之永手 たゞ長きと云義也。手はすべて助語也。
 
右門部王任出雲守時娶部内娘子也未有幾時既絶往來累月之後更起愛心仍作此歌贈致娘子
 
聞えたる注也
部内娘子 は出雲の國の内の娘子也。誰とも名不v知也
 
高田女王贈今城王歌六首
 
高田女王 追而可v考。今城王は穗積の王の御子也。前に古本傍注に、大原眞人姓を賜ふと注せり。考ふるところありてか
 
537 事清甚毛莫言一日太爾君伊之哭者痛寸取物
こときよく、いともいはじな、ひとひだに、きみいしなくば、いたきゝずそも
 
事清 とは言いさぎよく、物おもひ無きなどいはじと也
君伊之 いしともに助語也
哭者 無くは、君に一日だにそひ侍らねば痛ましきと也。心かなしきとの義也
 
538 他言乎繁言痛不相有寸心在如莫思吾背
ひとごとを、しげみこちたみ、あはざりき、こゝろあること、なおもひわがせ
 
他言 われにあらぬことゝ云意にて、他の字をひとゝは讀ませたり。此集中ひとの國よりなどいくらも格例あり
心在如 外心ありてあはぬにては無き、人言のしげきこといたましき故也との義也
 
539 吾背子師遂常云者人事者繁有登毛出而相麻志呼
わがせこし、とげんといはゞ、ひとごとは、しげくありとも、いでてあはましを
 
(440)逐常 此二字別訓あらんか。とげんといはゞとは、俗語にちかし。まづはとくといひなばと讀むべき也。とく來るといはゞと云意に見ゆる也。下に出でてあはましをと云詞にかけあふ也
歌の意は、ことゝげて夫婦とならば、人ごと、人めをもつゝまず、出でゝあはんとの意也
 
540 吾背子爾復者不相香常思墓今朝別之爲便無有都流
 
聞えたる歌別に意は無き也
 
541 現世爾波人事繁來生爾毛將相吾背子今不有十方
このよには、ひとごとしげし、こんよにも、あはんわがせこ、いまならずとも
 
此歌も別の意無く、あきらかに聞えたる歌也
 
542 常不止通之君我使不來今者不相跡絶多比奴良思
とことはに、かよひしきみが、使不來、いまはあはじと、たゆたひぬらし
 
常不止 常に止まぬなれば、とことはと義訓に讀めることしかり。萬葉集はとかく如v此義をめぐらして書きたる集なれば、字義に不v叶事も、義に叶へば訓をなせり。字の儘に讀むことばかりにては、不v通事を可v辨
君我 此我の字此本印本にも、清音に家といふ字に、誤りたるところあり。皆我の字の誤と可v知。又濁音の處に、家の字を誤りたるところもあり。是は家の字を我にあやまりたると可v知也。誤字脱字の辨無くて、此集中不v濟事、枚拳に遑無きこと也
使不來 俗言に近し。もつとも語例もあらんか。しかしつかひこずとは、俗に近き也。別訓あるべし。おとづれずと可v讀か。使來らぬなれば音信も無きこと也
今者不相跡 かく久しくおとづれだにせざれば、も早やあはじと心替りしたるにてあらんかと也
絶多此 とゞこふりやみたる事を、たゆたひと云也。ためらふ義を云。猶豫の意也。とことはに不v絶來りし人の音信さへせ(441)ぬは、もはやあふまじきとの事ならんとの意也。あふことのためらひやんであるとの義也
 
神龜元年甲子冬十月幸紀伊國之時爲贈從駕人所誂娘子笠朝臣金村作歌一首并短歌
 
此行幸の事、紀を可v考也
 
543 天皇之行幸乃隨意物部乃八十件雄與出去之愛夫者天翔哉輕路從玉田次畝火乎見管麻裳吉木道爾入立眞土山越良武公者黄葉乃散飛見乍親吾者不念草枕客乎便宜當思乍公將有跡安蘇蘇二破且者雖知之加須我仁黙然得不在者吾背子之往乃萬萬將追跡者千遍雖念手嫋女吾身之有者道守之將問答乎言將遣爲便乎不知跡立而爪衝
すめらぎの、みゆきのまゝに、ものゝふの、やそとものをと、いでゆきし、うつくしづまは、あまとぶや、かるのみちより、たまだすき、うねびをみつゝ、あさもよい、きぢにいりたち、まつちやま、こゆらむきみは、もみぢばの、ちりとぶみつゝ、むつまじき、われをおもはじ、くさまくら、たびをよすがと、おもひつゝ、きみはあらむと、あそゝには、かつはしれども、しかすがに、もだえあらねば、わがせこが、ゆきのまに/\、をはむとは、ちたびおもへど、たをやめの、わがみにしあれば、みちもりの、とはむこたへを、いひやらむ、すべをしらにと、たちてつまづく
 
愛夫 うつくしむつま也。よりてうつくしづまと讀む也。娘子の夫諸司百官の中にまじりて、みゆきの供奉せると聞えたり
天翔哉輕路從 あまとぶやかるのみちより、雁かる同物也。また別にかるの子と云鳥ありともいへり。いづれにても、空を輕くとぶ雁と云冠辭に如v此詠めり。かるとはかるきと云意をもいへるか。輕路は前にも注せるごとく、大和の地名、かるちの池などとも詠めり
王田次畝 うねとうけん爲に、玉だすきと詠む冠辭説々あり。師案は兩義の内也。大和の畝傍山を誤りて、百濟の人うねめと(442)いひて、とがめられし事紀に見えたり。よりて其後うねめといふ義を、うねびともいひて、備と濁れるみ也。みはめ也。しかれば釆女は、陪膳御湯殿の奉仕をするもの故、玉襁をかけるもの故、玉手すきうねびとうけたる詞か。今一説うねは腕也。たすきは皆うでかひなに懸くるもの故、かくうけたるか。田をすけばうねといふもの出來る故、如v此うけたるといふ説もあれど、これは信用し難き也
畝火乎見乍 うねびは地名山の名也。行幸の道筋と聞えたり
麻裳吉 此は木とうける冠辭にて何とて木とうける詞に、麻裳吉とはいへるぞ。古説に從はゞ、先五卷抄の説古説也。その説に先從ふべし。袖中抄に此冠辭の論説いろ/\見えたり。五卷抄の説は朝燃木といふ義也。しかれども此吉の字印本古本書本にもよきと訓し來れり。此吉の字よきと讀むべしとも不v被v決。えと計り讀みたるか難v計。住江のえは吉也。住吉と書きたるより、すみよしとならでは不v云也。日吉もひえ也。比叡と書きてひえ也、。それを今は皆日よしと云也。此のもえもよきといふか。又五卷抄の古説にしたがひ、あしたにもやす木と云ふ義ならば、あさもえなるべし。麻の名産をいふたるものとの説もあれど、それは裳の字不v濟也。玉もよきさぬきの例によりて、如v此云説あれども難2信用1也。玉藻よきといへば、藻の名産の國といふべけれど、紀の國は麻のよき國といふ事といはゞ、もの字衍字にていかにとも不v知事也。師一案、淺萠木葷とうけたるかと也。葷《キ》の色はもえ黄の淺き色なるもの也。いづれとも未v決
入立 いりたつと讀むべし
眞土山 紀州の地名と傳へ來れども、大和といふ説もありて上古今來不2一決1。兩國の境なるか。みゆきの道すがらのことを詠める也
散飛 ちりかふと讀むべし。ちりといふ詞は雅言ならず。散亂と書きてもちりかふと讀む也
客乎便宜常 たびをよすがと讀むべし。たよりと云點は心得がたし。たびをよきとうけたる意をこめて、よすがと讀む也。
是迄の詞、みゆきの道すがら、山路の紅葉の散かふ景色など、おもしろく見つゝ行は、むつまじきわれをしたふ心も無く、旅を心たのみに面白く、わが方の事は忘れて行き給はんと也
(443)安蘇蘇二破 此詞不v濟詞也。仙覺抄に、あそ/\と云ことは、あさな/\といふ重詞の類にて、下を略する格言、心はさぞあるらんと云意也と注せり。然れどもあそゝといふこと、何とてさぞあるらんといふ意の、譯無ければ信じ難し。古語にさぞあるらんといふ義を、あそゝと云と傳へきたらばさもすまされんか。或抄には、うす/\にと云ことゝも注せり。之はあいうえを音通ふ故さも注せるか。これも語證外に不v見ば難v決也。先はうす/\には、かつは知れどもと云方の義安く聞えんか。さぞあらんと云方は、義はよく聞ゆれども、あそゝといふ言さぞあらんとは、何として云へるぞと云義不v濟故、その注にはより難き也。義さへ通ずることあらば、さぞあらんといへる方よく聞ゆる也。古説なれば仙覺説に任せおくべきか。追而可v考事也
黙然得 もだして後あらねば也。俗にいふこたへてあられねばといふ意也
萬々 まんとはねたる、はに也。音を假名にかりたる書樣也。夫の徃くにまかせて、あとをしたひ追はんとはおもへどもと云義也
不知跡 しらにと讀むべし。此跡の字破の字の誤ならんか。字のまゝならば、すべをしらにと讀むべし。みゆきの道なれば、容易に人を徃來させざれば、夫のあとを追ひ行くとも、道を守るものゝ、何故何方へ通路の人と問ひし時、何とこたへて通らんそのすべも知らねば、とやせんかくやせんとおもひわづらひて、立ちて行かんとすればつまづくと也。心にまかせて誤りだにせぬと、切に讀める也
 
反歌
 
544 後居而戀乍不有者木國乃妹背乃山爾有益物乎
おくれゐて、こひつゝしなば、きのくにの、いもせのやまに、ならましものを
 
後居而戀乍不有者 夫の跡に殘り居て、夫をしたひわびて死なばと也。不有不在の字は前にも注せるごとく、死なばと義訓すべきこと也。諸説にあるあられずばとの義は六ケ敷也
妹背乃山 紀州也。いも山せ山とて、相向ひたる山といへり。古今の歌にても向ひたると聞えたり。いもせの名によりてかく歌に詠めること多し
(444)有益物乎 ならましもの也
歌の意は、かく夫をこひしたひつゝ思ひしに、死果てなば夫婦の名を得たるいもせの山となりて、長く相離れざらましをと也
 
545 吾背子之跡履求追去者木之關守伊將留鴨
 
木乃關守伊 紀州に上古關所ありしこと、皆古詠に見えたり。きの關守と詠める歌ありて數へがたし。此伊の字は上につけて讀むべし。下へ付く伊にても助字也。下へ付けてはいとゞめんかも、上へ付けてはとゞむらんかもと讀むべし。歌の意は別の義無し
 
二年乙丑春三幸三香原離宮之時得娘子作歌一首并短歌
 
笠朝臣金村
 
三香原 山城のみかの原也。古今の歌に、都出でゝけふみかの原いづみ川と詠めるも此處也
婦人を見そめて、こひもとめたる時詠めるなるべし。此端作目録の通にてあるべきを、書き誤れると見えたり。娘子の下に、笠朝臣金村の五宇あるべきこと也
 
546 三香之原客之屋取爾珠桙乃道能去相爾天雲之外耳見管言將問緑乃無者情耳咽乍有爾天地神祇辭因而敷細乃衣手易而自妻跡憑有今夜秋夜之百夜乃長有與宿鴨
 
みゆきの供奉の路次にて、よそながら見そめたる娘子を、こひもとめ得て、相逢夜の歌と聞えたり
天雲之外耳 天雲のよそにのみ見つゝ、始めは旅のことなれば、縁傳も無くたゞ見そめて、心にのみこひしたひたるなるべし。思ひ空しからずして、遂に娘子を手に入れて契りかはせるなるべし
天地神祇辭因而 神に誓ひて語らふ儀なるべし。辭因の二字は別訓あらんか。ちぎりとも讀まんか。今云神かけてなど誓ふ義なるべし。
有與宿鴨 あれとぬるかもと讀むべし。百夜をつぎたる程の長さにてかしと願ひてぬるとの意也。伊物に千夜を一夜(445)になせりともと詠める意に同じ
 
反歌
 
547 天雲之外從見吾妹兒爾心毛身副縁西鬼尾
あまぐもの、よそにみしより、わぎもこに、こゝろもみをも、よせにしものを
 
天雲之外 よそといはんとて、あまぐものといひ出でたる冠辭也。旅行なればしかとも知らぬ娘子なれど、よそながらも見そめしより、心も身も思ひによせたると也。點本には身副の二字を、みさへと讀ませたれど、かく讀みては義不v通也。心を身もとなりとも、心も身をもとなりとも讀むべし
 
548 今夜之早開者爲便乎無三秋百夜乎願鶴鴨
こよひの、はやくあくれば、すべをなみ、秋のもゝよを、ねがひつるかも
 
今夜之 此初句四言に讀むべきか。點本印本には、このよらのと讀ませたるはあまりなる義なり。此歌時節春にて、夜の短き節なれば、いまのよのと讀むべきか。又今夜と書きて、義訓に春の花のと讀まんか。下に秋の百夜と對したれば、春の夜のと讀まれまじきにもあらず。何とぞ今夜之の三字は別訓あらんか。今の夜と讀まば、之の字ははと讀まんか。此集中之の字はと讀までは、義不v通歌數多あれば、上古之の字をはと讀ませたる例あらんか。然れば聞えやすき歌多也。此歌も今の世とは讀めば、歌の意いよ/\やすく聞ゆる也。春の夜は明け易きものなれば、こよひはじめてかくねんと云へども、いかに共せんすべ無ければ、あはれ契りかはらず、秋の百夜を重ねていねたきと、願ふたる意と見ゆる也
歌の意は聞えたる歌也。たゞし又開者の二字を、あけなはと讀む意もあらんか。それにては過去にならざる、當然の意になる少のちがひあり。あくればと讀みては、あしたの空あけたる時の歌になる意もある也。追而可v決也
 
五年戊辰太宰少貳石川足人朝臣遷任餞于筑前國蘆城驛家歌三首
 
五年とは神龜五年也
 
(446)石川足人朝臣 四品に昇進の人故稱美して、如v此端作にも足人朝臣と書きたる也。續日本紀元明天皇和銅四年四月丙子朔壬午授2正六位下石川朝臣足人從五位下1。聖武紀〔にも見ゆ〕
筑前國蘆城 里の名也。郡郷には見ざる也
驛 和名鈔卷第十道路具部云、驛、唐令云、諸道〔須v置v驛者毎2三十里1置2一驛1〕音繹无末夜云々とあり。むまや、今云、海道筋の馬驛の事也。人馬をつなぐ處也
 
549 天地之神毛助與草枕※[羈の馬が奇]行君之至家左右
あめつちの、かみもたすけよ、くさまくら、たびゆくきみの、いへにいたるまで
 
太宰府の官人の内より、足人遷任して都へのぼるにつき、餞別に旅行のことを祝して送る歌か。志いとねんごろに切なる歌也。若しくは婦女の歌ならんか。如v此旅行の無難を神に祈る程の、志をあらはせる切實の朋友などの作者ならば、至つて殊勝の歌也
歌の意よくきこえたる歌也
 
550 大船之念憑師君之去者吾者將戀名直相左右二
おほぶねの、おもひかゝりし、きみのいなば、われはこひんな、さらにあふまでに
 
大船之 前にも毎度あり。下のおもひかゝりと詠まん爲の料也
念憑師 此三字何とぞ別訓あらん。前にも注せる通、思たのみしと讀みては、船におもひたのむといふ縁難2心得1。海上にて小船に乘りたるは、心細くたのみ無きもの、大船はたしかにてたのみあるもの故、思ひたのみと詠めるとの儀は、難2信用1説也。憑の字は日本紀に、かゝりとよませたれば、船に縁の詞なれば、先かゝりと讀むべき也。然れども念の字に何とぞ別訓あるべき也
直相左右二 此たゞにといふ詞六ケ敷也。前々の歌にいくらもありて注せる通也
歌の意は聞えたる通にて、足人に名殘を惜みて、別れて後いかばかり戀ひしたはんとの義也
 
(447)551 山跡道之嶋乃浦廻縁浪間無牟吾戀卷者
やまとぢの、しまのうらわに、よるなみの、ひまもなからん、わがこひまくは
 
山跡道之嶋乃浦廻 大和の國には嶋も浦も無けれど、諸國より大和の都へ上るによりて、つくしより、のぼる道の、嶋々浦々の義をさして、やまと路の嶋うらとは詠める也
縁浪 點本にはよするなみと讀みたれど、これは浪によそへて、よする浪の如くひま無くこひむといふ義なれば、よる浪のとのゝ字を入れて讀むべき也
間無牟 ひまも無からんと讀むべし。間も無けんとの點あれども俗言也
吾戀卷者 わがこひんはと云義也。まくといふ詞は皆助語也。いはまくきかまくなど、此集中の歌に多き詞也。たゞこひんはといふ義也
歌の意聞えたる通也。足人のぼりて後は、かへるさの道路の嶋々浦々によする浪の、ま無き如くにこひ慕はんとの、名殘を惜みたる歌也。男の歌か、女の歌か、聞き分け難し。尤古注者は不v考故、左注には作者未詳と注せり
 
右三首作者未詳
 
大伴宿禰三依歌一首
 
三依 續日本紀卷第二十二廢帝紀寶宇三年五月〔大伴宿禰御依の名見ゆ〕
此端作目録とは前後也。目録には、丹生女王の歌の標題を前に次でたり
 
552 吾君者和氣乎波死常念可毛相夜不相夜二夜良武
わがきみは、わけをばしねと、おもふかも、あふよあはぬよ、よまぜなるらん
 
和氣乎波 われをばと云義也。身を卑下して云古語を、わけといふと見えたり。第八卷に自注ありて、けぬといふことも、わ(448)れと云義也
死常念可毛 下にあふ夜もあり、あはぬ夜もあるなれば、物を思はせて、思ひ死ねとのことかとの義也。古今集に、戀ひ死ねとするわざならんなど、詠める歌もあり。此集中にも、戀しなばこひも死ねとやなどとも詠みて、思ひに死ねと思ふかとの義也
念可毛 點本には思へかもとあり。不v宜。おもふかも也。先の人のわれを死ねと思ふかもとの義也
二夜良武 普通の本には、二走と有て、ふたゆくならんと點をなせり。ふたゆくといふ義いかにとも難v解。然るに一本に、走を夜に作りてよまぜと點せり。此義正義なるべし。二夜と書きて、よまぜと義訓に讀ませたる義と見えたり。あふ夜とあはぬ夜となれば、よまぜと云義訓相叶ふ也
歌の意聞えたる歌也
 
丹生女王贈太宰帥大伴卿歌二首
 
丹生女王 孝謙紀天平勝寶二年八月〔從四位上丹生女王〕授2正四位上1云々とあり。第八卷にも秋相聞の歌に、同じ卿に贈り給ふ歌あり。六ケ敷見解し難き歌也。今の歌も誤字あらんか
 
553 天雲之遠隔乃極遠鷄跡裳情志行者戀流物可聞
あまぐもの、そぐへのきはみ、とほけども、こゝろしゆけば、こふるものかも
 
天雲乃 太宰府の遠く隔りたることをいひ出んとて、あまぐものとは詠出給ふ詞也
遠隔乃 此隔の字、障の字の誤ならんか。遠隔の二字をへだてと讀むは、遠の字あまれり。遠久弊と讀むは語例もあれば、遠隔の字にしてかくは讀む也。障の字ならば、義訓にて點の通へだてと讀むべき也。障の字に作れる異本、慥に不v考ば先そぐへとは讀む也。そぐへとは野山にてもはて末を指事也
極 きはみ遠きはてかぎりといふの意に、きはみと讀めり。いたりて隔りたるところといふ義を詠める意也
(449)遠鷄跡裳 遠かれどもといふ略語と見る也。古説皆かくの如し。不v穏説なれども、如v此證例集中にもあれば、遠けれども遠かれどもといふ義と見るべし。鷄の字音を用る例も、てには字なれば、此いくらも多き事故、音訓相交りても苦しからぬ也。何とぞ遠隔乃極遠鷄の六字誤字か。また別訓あらんか。後學の人考案あるべし
全体の歌の意は、宰府は遙に遠國にて、遠く隔たれども、心し通ひ行けば戀しさのやまず、かく戀ふるものかなと歎きたる歌也かもは例の歎息の詞也
 
554 古人乃令食有吉備能酒痛者爲便無貫簀賜牟
いにしへの、ひとのゝませる、きびのさけ、やまばすべなみ、ぬきすたまはん
 
古人乃 大伴卿をさして古の人と詠める也。むかし丹生の女王に酒をすゝめて、飲ませしといふは、丹生の女王を大伴卿の何とぞこひ慕ふことありて、いひ語らひ給ふことによせて詠み給ふ意也。大伴卿はあながちに酒を好み給ひて、第三卷に酒の歌十三首まて詠じ給ふ程の、洒このみの人故、酒のこと故よそへて詠みて贈り給ふと見えたり
令食有 食の字飲の字の誤也。或抄にのめるといふ義とあるは心得がたし。人の下知に應じて飲めるといふこと也。令の字あれば、のませるとならでは讀み難し
吉備能酒 筑前と吉備の二國は程近ければ、近國の名酒を云はんとてかく讀めるか。今も備後の三原酒などと賞する佳酒あれば、昔も名物なりしか。たゞし黍にて作る酒はすぐれたる味あり。故にかく近き國の名をとり出でゝ讀めるか。吉備の酒と詠み給へるには、何とぞ別の意あらんか。酒の氣の強き酒をいひたるものならんか。仙覺抄には黍にて作れる酒にて、性の強き酒をいふと注せり
痛者 いたむといふ字なれども、病に通ひてやまばとも讀むべき也。いたまはすべなとも讀むべきか。酒に醉ひて惱まば、せんかたも無からんと也
爲便無 すべなみとはせん方無きと也。丹生女王のみづからは、今こひ慕ふことの、せん方無きとの意をよそへて詠める也
貫簀賜牟 ぬきす賜はんとは、酒の病にて嘔吐などありてはせん方無きに、いたはり給へといふ意也。貫簀といふものは、上(450)代高貴の御方、手水などめし給ふ時、盥の上に置きて、とばしるのかゝらぬ爲に設けたるもの也。延喜主殿寮式にも、貫簀といふもの、三年に一度づゝ請よし被v載たり。伊物、うつぼ、竹とり等の物がたりにも見えたり。此歌に詠める意は、酒に醉ひて吐きやくなどをせん程に、ぬきすを賜はれといふ義也
全体の歌の意、君に強ひられて、思ひよりたれば、今たゞこひ慕ふことの、せん方無きのまゝ、この苦しみ惱むことを救ひ給へと、大伴卿の愛v酒したまふ人故、酒によそへてこひ慕ふ意を詠みて贈れる歌と聞ゆる也。賜牟は賜はらんといふ意也
 
太宰帥大伴卿贈大貳丹比縣守卿遷任民部卿歌一首
 
丹比縣守卿 民部卿に任じたる故、卿と書けり。大伴卿より縣守卿へ被v贈たる歌也
丹比縣守 たぢひのあがた守也。元明紀和銅三年三月〔從五位下多治比眞人大縣守爲2宮内卿1。又〕元正紀靈龜元年正月、聖武紀天平元年三月〔の條にも見え、〕同紀天平九年六月丙寅中納言正二位多治比眞人縣守薨、縣守左大臣正二位嶋之子也云々。如v此あれば丹比と書きても、たぢひと讀むべき證也
 
555 爲君釀之待酒安野爾獨哉將欽友無二思手
きみがため、かみしまちざけ、やすのゝに、ひとりやのまん、ともなしにして
 
爲君 縣守をさして也。宰府の同官人なれば相ともに樂しまむと、縣守を待むかへ作りてし酒といふ義也
釀之 かみし酒をつくる古語を、かもすると云也。かもはかみ也。上古は米を人々かみて、水にはき入れて酒とせし故、酒を作るをかみかむと云との、大隅風土記の説と云傳へたれど、不v可v用。かもするといふ古語より、かもはかみかむ同音通故、かんがみとも云へるから、かくの如きの説も出來る也。釀の字、玉篇云、汝帳切作v酒也とあり
待酒 人をむかへんと酒を作れるを、まち酒と云へると聞えたり。今世にてはつまりたる詞なれども、古くはかく讀めると見えたり。人を待ち得る酒を、まち酒とはいへる也
安野爾  やすのゝに筑前國に野聚郡といふ郡あり。其内にある野なるべし。元來日本紀卷第九神功皇后元年に見えたり。(451)そゝきのといひしを、皇后の御時より、安野とはいへるなるべし。我心則安との給ふよりいへる也。郡の名となりしも是よりならん。八雲御抄の説は、此歌並に神功皇后の紀を、考へさせ給はざりしか。安野を詠み出でたるに意は無き也。宰府の地名を詠める迄也。和名鈔、夜須郡とあり
獨哉將欽友無二思手 ひとりやのまんともなしにして。縣守卿と相ともに、安野にて飲まんとつくりしまちざけをも、今よりは友なふ人も無く、大伴卿ひとりのみ給はんと、名殘を惜みて詠める也。大伴卿は、酒を愛し給ふ人故、かく酒の事を詠み出給ひし也。此前に吉備の酒の歌をあげたれば、類詞をもて此處に次でたると見えたり
歌の意聞えたる通なり
 
萬葉童蒙抄 卷第八終〔補〕
 
(452)萬葉童蒙抄 卷第九
 
賀茂女王贈大伴宿禰三依謌一首
 
賀茂女王 かものひめみこ、傳不v詳。古本傍注に、故左大臣長屋王之女也とあり。又第八卷に、同傍注長屋王之女、母曰2阿部朝臣1也と注せり
大伴宿禰三依 前に出たり
 
556 筑紫船未毛不來者豫荒振公乎見之悲左
つくしぶね、いまだもこねば、あらかじめ、あらぶるきみを、見しがかなしさ
 
筑紫船 太宰府より歸京せぬ事を待佗て、かくよめる歌と聞えたり。それゆゑ筑紫船いまだもこねばとよめる也
未毛不來者 點本にまだもこざればとあり。同じ意也。然共いまだもこねばと讀むかた聞よからんか、好處にしたかふべし
豫 かねてよりと讀べしといふ説もあれど、こゝは下の句の續に、あらかじめとよまんかた然るべし。意は前かたといふ義也
荒振公乎 あらぶる公をとは、前かた心にもそみ難く、睦からざるあらびたる公に、相見しことの悲きといふ意也。前かたにも荒びたる人なれば、かく歸京の遲きは、いよ/\心に逆ふ故、つくし船の歸り來る事の遲きかと嘆く意と聞ゆる也。然ればあらかじめといふは、前かた睦まじからぬ人といふ義と知るべし
見之悲左 見しがかなしさとは、前かた相見馴し故、今かく筑紫より歸京の遲きことを、嘆くとの意と聞ゆる也。又別意の見やうあり。筑紫より未だ歸りこねば、かく戀慕ひても、久しく別れ隔たりし人の、外心もありて親しみも疎くなり、睦まじかるまじく、邊鄙のひなに馴て、荒びすさめる心になりて、我にしたしからず。なごめる振舞もなく、荒ぶるきみを見むことの、かねて悲しきとの意とも聞ゆる也。然ば見之の二字は見んかとも讀べき歟。此歌は兩義あるべし。此見之の二字を、見るが悲しさと點本に點をなせり。然共見るがとよみては、歌の意如何共聞えず。萬葉集の格にて、見るがとよむ事のならぬ歌故、はね(453)文字を不v書也。見んとか見しとかならでは、歌の意不v通所なれば、むとも、しとも助字を不v書類此集中の一格と知るべし。此歌に不v限ケ樣の類數多ある也
 
土師宿禰水通從筑紫上京海路作歌二首
はじのすくねみゆき、つくしよりみやこにのぼるふなぢにてつくるうたふたくさ
 
水通 みゆきとよむべき歟。傳不v詳
 
557 大船乎※[手偏+旁]乃進爾磐爾觸覆者覆妹爾因而者
おほふねを、こぎのすゝみに、いはにふれ、かへらばかへれ、いもによりては
 
大船乎 下にこぎの進といはん爲に、大船とよみ出たり
※[手偏+旁]乃進爾 此ことばつまりたるやうなれど、集中かな書にもあまたありて、古くよみつけたり。都にかへり、妹にあはん海上のあれしける折もいとはず、船を進めるとの意を述たる也。水上のあしきをもいとはず漕進むは、妹にあはんことを急ぐによりてとの義に、妹に因てはと詠める也。聞えたる歌也。不v及2細注1也。第十一卷にも、死にゝもしなん妹によりてはと、詠める歌の意も同じ
 
558 千磐破神之社爾我掛師幣者將賜妹爾不相國
ちはやぶる、神のやしろに、わがかけし、ぬさはたはゝん、いもにあはなくに
 
此歌は、京へ上る海路、波風の障りにて數日を數ふる故に、船のりの日、船路やすくはや都へ上りつかはさしめよと、諸神に祈をかけし幣をもかへし給はれと、恨みて詠めるか。但し海路の中おもふ人あれど、其人にあふことのかなはねば、その當然によめる歟。京へ上りての歌と見る説もあれど、はし作に不v叶は、海路にて女などに心がけしに、あふことのかなはざりし故、よめる歌と聞ゆる也
將賜 たはゝんは、たまはらん也。今卑しきものゝ詞には、たはるといふ也。これたまはるといふ義、古くはかくいひ來れる(454)と見えたり
 
太宰大監大伴宿禰百代戀歌四首
 
右傳不v詳
 
559 事毛無生來之物乎老奈美爾如此戀于毛吾者遇流香聞
こともなく、あれこしものを、おいなみに、かゝるこひにも、わはあへるかも
 
事毛無 何事もなく、これまでうまれきたりしにと也
生來之 ありこしといふ點あり。生の字ありとは訓じかたし。なりとかあれとか讀べし。尤有來の意なれども、生の字なればありとはよみ難し。在の字の誤ならんか。字形もよくまがふ字也。今迄は何の思事もなく來りしにといふ意なり。戀といふは、色慾のことに限りたる義計にてはなく、何事にても物思の事を云也
老奈美爾 なと、のと通ふ故、老の身といふ説あり。さもあらん。しかし年なみ、月なみなどいふこともあれば、老なみにてもあるべき歟
如此 かやうの物思をもする事かなと、嘆きたる意也。如是と書る一本もあり
戀于 此にの字漢文などにては于時于今、などと上に書字なれど、此集中に如v此の例あまたあり
 
560 孤悲死牟後者何爲牟生日之爲社妹乎欲見爲禮
こひしなん、のちはなにせん、いけるひの、ためこそ妹を、見まくほりすれ
 
此歌はよくきこえたる歌なれば、委注するにも不v及。いのちの内に思妹をあひ見たきと、切に戀慕ふ意也
欲見爲禮 此集中數多ある詞にて、古歌の一格、只見たきといふ事を、かく言葉を長くつらねたるもの也。見まくほしきといふこと也。そのまくほしきとしいふは、見たきといふ迄の事也。第十一巻にも此類の歌あり。すがた同じ意也
 
561 不念乎思當云者大野有三笠社之神思知三
(455)おもはぬを、おもふといはゞ、おほのなる、みかさのもりの、かみしゝるらみ
 
大野有三笠社之 筑前國の名也。倭名鈔卷第九筑前郡郷の部云、御笠郡、〔御笠、長岡〕次田、大野。怡土郡にも大野於保乃といふ郷の名あり。然れ共この大野はみかさ郡の大野と見えたり。御笠郡の内の大野といふ郷に、三笠の杜といふ社ありと見えたり。大野有とは大野にある三笠の杜といふ義なり。にあは例の約にて、な也。よりてあるといふ字をもてしらしめたり。御笠の號の初は、神功皇后記に見えたり。筑紫にての歌なれば、其國の地名をよみ出せる也
歌の意、しれたる通なり。我僞なき事は、三笠の杜の神ぞ知ろしめすらめと也
神思 此思は助字也。一本の點にかみぞと點せり。若曾の字の誤り歟。曾の字なればやすく聞ゆる也。日本紀齊明紀に、齶田浦神知矣、といふ事あり。これも契盟の詞也。これらに基きて詠める歟。常にも神のしるらんといふことは、盟の詞にいひならへり
 
562 無暇人之眉根乎徒令掻乍不相妹可聞
いとまなく、ひとのまゆねを、いたづらに、かゝしめつゝも、あはぬいもかも
 
無暇 いとまもなくと讀む説と、いとまなきといふ説とあり。心少違也。仕官のいとまなき身に、ひたもの/\眉根を掻かせつゝといふ意と、また眉根を掻くにいともなくといふ義兩説なり。先いとまなくとよむ方安かるべし
人之眉根乎 先に對してわがことを人のといひたる也。我ことをさしていひたる也
徒 いたづらにとは、まゆねをかきて詮もなき空しきことをしたるといふ義に、いたづらにとはいひたるもの也。眉かゆき時は、思ふ人來るといひならはして、昔よりかく歌にもよみ習へり。遊仙窟に、昨日|眼皮※[〓+閏]《マユメカユカリキ》今朝見2良人1といふ事ありて、古くいひ習ひたる諺也。しかるにその眉根をいとまなく掻ても、徒らごとにして思ふ人にはあはぬ事かなと、眉根をかきしも徒事にてありしと、かく古詠は心をおろかによみなせること、風雅の第一なり。夢と知りせばさめざらましをなどの意と同じき也
(456)令掻乍 かゝしめつゝも、眉のかゆかりしをもうれしく思て、おもふ妹に逢ふことの兆ならんと、ひたもの/\我からに眉をも態と掻しほどに、慕ひ思ふ義をあらはしたる意なり
 
大伴坂上郎女歌二首
 
563 黒髪二白髪交至者如是有戀庭未相爾
くろかみに、しらがまじりて、おいたれど、かゝるこひには、いまだあはなくに
 
黒髪二白髪交 くろかみにしらがみまじりおゆるまでともよめり。意同じければ好所に隨ふ也。然れども是までおいたれ共、かゝるくるしき戀にはいまだあはぬと、切なる意は、老たれどもと讀方ならんか
至耆 耆の字は、二毛を耆といふ字義を以ての上に黒白の事をよみ出たる故、かなの字にも心を得て書る歟
歌の意、何の義もなく聞えたる歌也。いかゞしたる戀にや。その事をあらはさねば知れ難けれど、たゞ思ひ事のありし時、よみたる歌なるべし。戀とは、色情の事には限らず。惣ての思あることを戀とはいふなり。此歌も、戀慕の歌にはあるべからず。二毛の身となりて、れんぼのことあるべきにもあらず。常の思ひごとありし歌なり。此奧に、沙彌滿誓の歌にても知るべし
 
564 山菅乃實不成事乎吾爾所依言禮師君者與孰可宿良牟
やますげの、みならぬことを、われにより、いはれしきみは、たれとかぬらん
 
山菅乃 和名鈔卷第廿草木部云、麥門冬、本草云、麥門冬【和名夜末須介】此山菅の事未v考。同名異物か。るり色の實なるものと云説有、心得難し。今山に生る山すげには實は生ぜぬ也。よりて此歌にも實ならぬとは詠たり。或抄には、山菅のみとばかりかけて、ならぬと云までにはかゝらぬことゝいへる説あれど、此説信用しがたし。冠字ならば一語に受ることなれど、みといふ冠字に、山すげとよめる例、語例無2所見1事也。これは實のなきものをいはんとて、やますげとはよめる歌と聞ゆる也。尚集中に、山管のみならぬと詠める歌多し。可v考也
(457)實不成事乎 これは坂上郎女によりて、人にいひ騷がれて仇名の立し人のことを年老て思出し、われによりてなき名の立ちし人は、今誰とか睦びぬらんと、いにしへを想出たる歌也
歌の全體よくきこえたれば不v及2細注1也
 
加茂女王歌一首
 
565 大伴乃見津跡者不云赤相指照有月夜爾直相在登聞
おほともの、みつとはいはじ、あかねさし、てれるつきよに、たゞにあへりとも
 
大伴乃見津跡 大とものみつといふは、攝津國の地名也。われはみつといはんためばかりに、大ともとはよみ出たり。此大伴のみつといふ事、古今説區々にて、大ともと云も地名といふ説外になき也。此歌の意は、深くしのぶ心をのべたる歌也。あからさまなる月夜にあひたりとも、みつとだにいふまじと、ふかくつゝしまんとの意也
照有月夜爾 明かなる夜に相見たりとも、みつとだにもいはじとの事をいはんとて、かくてれる月夜にとよめる也
直 このたゞにといふは前にも度々注せり。六ケ敷釋也。其まゝにといふ意にも通ふ也。代物なしにといふことを、たゞといひならはせり。なればそのまゝといふ意に通ふなり。此集中に此詞あげてかぞへかたし。古語にはかやうの詞云傳へたると見えたり。古今に、君か名も我名も立てじ難波なるみつとないひそあひきともいはじとよめる、又おなじ意也
 
太宰大監大伴宿禰百代等贈驛使歌二首
 
贈驛使歌 はゆまつかひにおくるうた。驛使とは朝廷より公用ありて、遠國の官廳所々へ使を被v遣を云也。今の代にては公傳馬使など云と同じ。諸國よりさし上すを云也。皆公用にて、驛馬をとりて徃來する類を云也。驛使の事、追而可2細注1也。
此驛使太宰府より京へ上る使の事也。奧に見えたり。京より來りたる使の歸る名殘を惜みての歌共也。古注者奧に注せり
 
566 草枕覊行君乎愛見副而曾來四鹿乃濱邊乎
くさまくら、たびゆくきみを、うつくしみ、たぐひてぞこし、しかのはまべを
 
(458)草枕羈行君乎 驛使をさしてたびゆく君と也。くさまくらたびといへることは前にあまた注せり。旅行のならひ、野に臥し山に臥して、木の根くさをも折敷て枕とすれば、かくはいひ習へり
愛見 うつくしみとは、親子兄弟の如くにしたしみむつびて、大切に思へる人といふ義也
副而 たぐひては、付添つれだちて鹿の濱邊迄來りたると也。今俗旅行の人を見立つるなど云義と同じ
鹿乃濱邊 筑前國の地名也。しかのはまべをといふてにはなれば、濱邊を連立ち付添ひ來れりといふ意也
 
右一首大塩大伴宿禰百代
 
前に注せる通古注者の文也
 
567 周防在磐國山乎將超日者手向好爲與荒其道
すはふなる、いはくにやまを、こえん日は、たむけよくせよ、あらきそのみち
 
周防在磐國山 和名抄周防國玖珂郡、音如v鵞、石國、すはふにあるいはくに山也。さかしく難儀なるみちと聞ゆる也
手向好爲與 衢の神に幣などさゝげて、恙なからんことを?りて通れと、驛便をいたはりてしめせる歌也。よくきこえたる歌なれば不v及2細注1也
荒其道 前にも出たり。つまりたるやうに聞ゆる詞なれど、第三卷にも海路の歌にあり
 
右一首少典山口忌寸若麻呂
 
以※[止/舟]天平二年庚午六月帥大伴卿忽生瘡脚疾苦枕席因此馳驛上奏望請庶弟稻公姪胡麻呂欲語遺言者 勅右兵庫助大伴宿禰稻公治部少※[丞/れっか]大伴宿禰胡麻呂兩人給驛發遣令看脚病而※[しんにょう+至]數旬幸得平復于時稻公等以病既療發府上京於是大監大伴宿禰百代少典山口忌寸若麻呂及嫡男家持等相送驛使共到夷守驛家聊飲悲別乃作此歌
 
(459)到夷守驛家 ひなもりのうまやにいたりてなり
聊飲悲v別乃作2此歌1
此注は考ふるところありて如v此注せり。所見なければ細注しがたし
 
太宰帥大伴卿被任大納言臨入京之時府官人等餞卿筑前國蘆城驛家歌四首
 
被v任2大納言1 續日本紀云。天平二年十一月廿一日任2大納言1、同三年七月辛未大納言從二位大伴宿禰旅人薨云々
府官人等 大宰府之官人也。則左に古注者記せり
 
568 三崎廻之荒磯爾縁五百重浪立毛居毛我念流吉美
みさきわの、あらいそにたてる、いほへなみ、たちてもゐても、わがおもへるきみ
 
三埼廻之 みさきといふところにして、わはあたりほとりの義なり。うらわ、くまわ、などいふに同じ。三埼といふは、金のみさきなどいふところならんか。筑前の内にある海邊の地名也
五百重浪 しげく起つ波といふ義也。下のたちてもゐてもといはん迄の序歌也
我念流吉美 念の字は、こふとも、しのぶとも讀むべければ、こふる君とよむべき歟
歌の意聞えたる通なり。名殘惜きことの深切なる歌なり。きみとは旅人卿をさしていへる也
 
右一首筑前掾門部連石足
 
傳未v考
 
569 辛人之衣染云紫之情爾染而所念鴨
から人の、こゝろもそむちふ、むらさきの、心にしみて、おもほゆるかも
 
辛人 唐人と書ける意も同じ。此歌も序歌也。下の情に染てといはん爲、かくよみ出たる也。旅人の卿を切に名殘惜く思ふとの義を詠る也。から人とよみ出たる、紫の色を最上とするは唐の法也。本邦は白を本とする也。よりて唐人とは讀出でたり
(460)染而 うはべならず、深切に慕ひ思ふとの義に、心に染てとは詠めり。かもは例の嘆の詞かなと同じ。上に染むといひて、下にしみとよめるところ歌上手といふもの也。ころも染む心にしむ同じ意也
 
570 山跡邊君之立日乃近者野立鹿毛動而曾鳴
やまとべに、きみがたつひの、ちかづけば、のにたつしかも、とよみてぞなく
 
山跡邊 大和國にみやこありしときなれば、大伴卿遷2任大納言1して京へ上り給ふ日の近づけばと也。邊といへるは助け詞と同じ
君之 旅人卿をさして也
野爾立鹿毛 しかもと云にて、我も人も名殘を惜みてなくといふ意を込たり
動而 鳴ことの夥しきといふ義にどよみてと詠めり。なりどよむなどいふて、大なることにいへり。こゝも鹿の鳴くことに詠て、わが名殘惜きことの切なることをあらはしたる歌也
 
右二首大典麻田連陽春
 
あさ田のむらじひはるやすとよまんか。又はをはるか、姓麻田故也
大典 太宰府之官人也。職員令に詳也
麻田陽春 聖武紀云、神龜元年五月辛未正E八位上※[草冠/合]本陽春賜2麻田連姓1と見ゆ。天平十一年〔春正月甲午朔丙午、正六位上麻田連陽春授2外從五位下1〕懷風藻云、外從五位下石見守麻田連陽春一首【年五十六】五言、和d近江守詠2裨叡山先考之舊禅處柳樹1之作u。近江惟帝里、裨叡寔神山、〔山靜俗塵寂、谷間眞理等、於穆我先考、獨悟闡2芳縁1、寶殿臨v空構、梵鐘入v風傳、煙雲萬古色、松柏九冬專、日月荏苒去、慈範獨依々、寂莫精苒處、俄爲2積學?1、古樹三秋落、寒草九月衰、唯餘兩楊樹、孝鳥朝夕悲。〕此詩を見れば比叡山には開基の人ありと見えたり。傳教は中興と見えたり。尚可v考也
 
571 月夜吉河音清之率此間行毛不去毛遊而將歸
(461)つきよゝし、かはおときよし、いさこゝに、ゆくもとまるも、あそびてゆかん
 
月夜吉 蘆城の驛にてはなむけして名殘を惜み、夜半に到るまで宴飲せし其夜の月もさやかに、その邊の川の音も清きを興に乘じてよめると見えたり
河音清之 かはおときよしと讀來れり。きよしといふ詞耳に立ちて聞ゆれば、河とさやけしとも讀べき歟
行毛不去毛 行は京へ登る人、とまるは殘れるをいへり。しばらくの名殘をも惜みて詠る歌なり。此歌續古今雜部に入る也
 
右一首防人佑大伴四綱
 
右一首さきもりのせう大とものよつな
 
四綱 一本に綱を繼にも作れり。しからばつぎか。傳不v詳は難v決
 
太宰帥大伴卿上京之後沙彌滿誓賜卿歌二首
 
一本賜を作v贈尤可也
 
572 眞寸鏡見不飽君爾所贈哉旦夕爾左備乍將居
まそかゞみ、みあかぬきみに、おくれてや、あしたゆふべに、さびつゝをらむ
 
眞寸鏡 は下の見といはんための冠句也。ましろの鏡との義に、まそかゞみとは云傳へたり。ましろの鏡とは、くもりなき明なる鏡といふ意也。かゞみをほめていひたる古語なり
所贈哉 都へともに得上らで、殘りおくれ居てあしたゆふべ、さびしくあらんとなげける歌也。大伴卿としたしく睦じかりしと聞えたり
左備乍將居 さびしく居らんとの義也。おきなさびなどいふさびにはあらず。徒然のさびしきかたのこと也。いたくさびしからんと、行末迄を思遣てさびつゝをらんと也。さびつゝぞ居るとありたき歌なれど、古詠の格當然のことにても、行さきのことの樣によめる歌多し
 
(462)573 野干玉之黒髪變白髪手裳痛戀庭相時有來
ぬば玉の、くろかみかはり、しらけても、いたきこひには、あふときありけり
 
野干玉 和名抄第廿草木部云、射干、一名烏扇【射音夜、和名加良須安布木】しかれば野射音通。仍て野干とも書たると見えたり。からすあふぎの實は、至りて黒きものなれば、くろきくらきといふことに、ぬば玉とはよみ來れり。語釋は犬眞珠といふ義也、ぬば玉の釋は前にくはしければ略v之
白髪手裳 年老くろかみもしらがになりても、おもひといふものはあるもの也との義なり
痛戀庭 いたきとは、心を痛ましむるほどの苦しき思にあふと也。大伴卿を深くこひしたふことをいたきとはいへり。こひとは色情戀慕の事のみにあらず。もの思ことをいへり。相聞の歌といふは、戀慕の情をあらはしたる計の事ならぬ義、これらの歌にても知るべし
歌の全體は、戀慕の情になして大伴卿をしたふ情の深切なることをよめり。前の坂上女郎の歌に同じき意によめり
 
大納言大伴卿和歌二首
 
これは京よりの答歌也
 
574 此間在而筑紫也何處白雲乃棚引山之方西有良思
こゝにありて、つくしやいづこ、しらくもの、たなびくやまの、かたにしあるらし
 
此間在而 都にありて、筑紫の事を思遣て也
方西有良思 一本方の字なき本あり。又此歌新古今に入り、下の句たな引山の西にあるらしとのせたり。何れか是ならん
歌の意はきこえたる通也。大和國よりも筑紫は西方にあたれば、にしにあるらしともいふべきか。又白雲と詠める意は、知らぬといふことを受ての意なるべし。白きは雲と云に意はあるべからず。白は金の色、西にあたるなど云説はあるべからず
 
575 草香江之入江二求食蘆鶴乃痛多豆多頭思友無二指天
(463)くさかえの、いりえにあさる、あしたづの、あなたづたづし、ともなしにして
 
草香江 河内國也。日本紀神武紀に見えたり、重而可v見
求食 あさるとは、諸鳥餌をはむには、あしにてさぐりもとむる故、あしさぐるといふ略語にて、あさるとはいへり
痛 とは嘆の詞也。打なげきたる詞也
多豆多頭思 たどると云意と同じく打つかぬ意也。このたづ/\といはん爲に、あしたづとは詠出たり。ケ樣のところを歌とはいふ也。友鶴の如く打群たりし友どちに離れて、獨さびしげにもあるといふ意にかくよめり。滿誓としたしく友なひ給ひしが、いまは京と筑紫に別れ隔りて、友もなくたづ/\しくしたふとのこたへ歌也。此歌續後撰集に入れり
 
太宰帥大伴卿上京之後筑後守葛井連大成悲嘆作歌一首
大宰帥大伴卿みやこにのぼるのち、ちくごのかみくづゐのむらじおほなり、かなしみなげきてつくるうたひとくさ
 
葛井連 續日本紀聖武紀神龜五年五月〔正六位上葛井連大成授2外從五位1云々〕元正紀養老四年五月〔壬戊改2白猪史1賜2葛井連姓1〕孝謙紀寶字二年八月〔丙寅外從五位下津史秋主等卅四人言。船、葛井、津、本是一祖別爲2三氏1。其二氏者蒙2姓津連1〕桓武紀延暦十年正月〔壬戌朔癸酉、春宮亮正五位下葛井連道依、主税大屬從六位下船津今道等言、葛井、船、津等本出2一祖別爲2三氏1云々〕
 
576 從今者城山道者不樂牟吾將通常念之物乎
いまよりは、きやまのみちは、さびしけん、わがかよはんと、おもひしものを
 
從今者 大伴卿の上京し給ふてよりはと也
城山 筑前の國にあり。太宰府の邊か。八雲に出たり。和名鈔城邊とある郷の山か。和名城邊は【木乃倍】と注せり。大伴卿の許へ、大和より通はんと思ひし道の、最早徃來もせずば、さびしからんと也
 
(464)不樂牟 不樂の二字さびしとよむ事、此集中あまたなり。面白からぬと云意にて義訓をなせるか。さびしと訓する義末v詳
さびしけんとは、さびしからんと云意也。古詠の詞也。歌の意何事もなき歌也
 
大納言大伴卿新袍贈攝津大夫高安王歌一首
 
新袍 あたらしきうへのきぬ
袍 倭名鈔卷第十二衣服類云、楊氏漢語抄云、【薄交反、宇倍乃岐沼、】一云朝服著v襴之袷衣也云云
攝津太夫 令義解云、攝津職【帶津國】大夫《カミ》一人〔掌d祠社、戸口、籍帳、字2養百姓1、勸2課農桑1、糺2察物部1、貢擧、孝義、田宅、良賤、訴訟、市廛、度量輕重、倉稟、租調、雜徭、兵士、器仗、道橋、津濟、過所、上下公使、郵驛、傳馬、闌遺雜物、檢2校舟具1、及寺僧尼名籍事u〕
高安王
追而可v考。傳不v詳
 
577 吾衣人莫著曾網引爲難波壯士乃手爾者雖觸
あかぎねを、人になきせそ、あびきする、なにはをとこの、てにはふるとも
 
吾衣 大伴卿より贈れる袍をさして也。わがともあがとも讀べし。大伴卿よりおくれるきぬなればわがきぬと也
莫著曾 一本に莫の字魚の字に作れり。まがひやすき字なれば是非辨がたし。しかし莫の字なれば下に曾の字なくても、なきせそとよめる例なれば、曾を書たるは魚の字ならんか。いづれにてもさして別義はなけれど、魚の字なとよめること知る人すくなければ注を加ふる也。又はといふ詞を、なと云事多し。またたとも云習へり。これらは音便のひゞき也。人になきせそとは、我志しておくれる衣なれば、志を受けて心に不v入とも、きたまへとしたしみていへる意なるべし
網引爲 難波にあみ引ことを詠める歌、此集中あまた也
難波壯士 高安王攝津太夫故なにはをとことさしてよめる歟。然れ共あびきするといふ者は甚いやしきものゝ業なれば、高安王をさしてはいひ難きこと也。たゞいやしきものゝ手には觸るゝとも、袍のきぬを着べき外人には著せなと、卑下の意をも(465)込めてよめる歌也
雖觸 ふれたりともといふ意を込たる歟。あ引する男は至つて賤しきもの也。それ等の手には觸るゝとも外人には著せなと制したる歌也
 
大伴宿禰三依悲別歌
 
大伴卿の上京の時の歌ならんか
 
578 天地與共久住波牟等念而有師家之庭羽裳
あめつちと、ともにひさしく、すまはんと、おもひてありし、いへのにはゝも
 
天地與共久 いつまでも相ともに居らんと思ひしといふ義を、天地に擬へて詠めり。第二卷に、日並皇子の舍人のよみにも此詞あり。此歌太宰府にての歌か。何の時のうたといふ標題なければ決し難し。或抄には大伴卿の別を惜みてよめると注せりいへの庭はもとよめるは、ともに住なれし人の家を、わかれざるときよめる歌なるべし
家之庭羽裳 詞をのこして心を含めたる歌也。これらの歌古詠實朴の格にて、詞足らぬといはんか。いへの庭も、何とかなるらんといへる意と聞ゆる也。尤家の庭と計いふて、はもはなげきの詞也。相ともに久しく住まんと思ひし家の庭も、何とかなり行と別をなげきたる意と見るべし。はやはもといふ詞みな嘆息の詞也。畢竟庭翅裳と問ふたる歌也。大伴卿と相與に久しく住まんと思へる家を出て、京へ歸り給ふ別の時の歌なるべし
 
金明軍與大伴宿禰家持歌二首【古一本云明軍者大伴卿之資人也】
 
579 奉見而未時太爾不更者如年月所念君
見まつりて、いまだときだに、かはらぬを、としつきのごと、しのばるゝ君
 
不更者 此點諸本みなかはらねばとあり、。此集中後々の集にも此てにをはの歌あまたありて、はと讀ては、如何樣にいひまは(466)しても義不v叶歌どもなり。者の字をよみ誤り來れるより、外の集にも誤を證としてまた誤り來れると見えたり。此者の字はをとか、にとかよまでは不v通也。是をにと讀む義は者の字はなりとよむ字也。其を約してにとはよませたり。此卷に中々者と書たる歌有。煮の字の誤字又爾の字の書誤りとも見るべけれど、約言の例格和書に何程もある事を考へ合せて、者はにとよむ事相叶へり。伯の字をきとよむ。佐伯さいきとよむ。是伯の聲を約したるもの也。又をと讀む義は語のあまりといふことあり。唐の置字の格なり。此集中此格を不v知ば不v濟事也
如年月 としつきをふるごとに、したひおもふといふ義也。よくきこえたる歌也
 
580 足引乃山爾生有菅根乃懃見卷欲君可聞
あしびきの、やまにおひたる、すがのねの、ねもごろ見まく、ほしききみかも
 
生有 てあの約言たなる故、おひたるとはよむ也。此歌もねもごろといはん計の趣意に、上よりかくよみ出たる也
懃 菅の根といふものは、よく絡みたるもの也。依て歌にみなすがのねのねもごろと詠む也。ねんごろとはよくしたしく見たきとの意なり。古詠の風體見紛ふべくもあらぬ歌也。後世の風と違あることを辨ふべし
 
大伴坂上家之大娘報贈大伴宿禰家持歌四首
 
大娘 姉妹ありて此をとめは姉なる故、大の字を加へたりと見えたり
 
581 生而有者見卷毛不知何如毛將死與妹常夢所見鶴
いきてあれば、見まくもしらず、なにしかも、しなんよいもと、ゆめに見えつる
 
生而有者 いのちの内には、見ることもはかりがたしと也。相見る事のなりがたきよし見えたり
何如毛 なにしかもいきてあらんや。死てあらば相見んこともあるべけれ。なにの爲いきてあらんとの義也。今俗言なんのそのなどいふ意と同じ
將死與妹常 大娘と家持としなんと、家持の云たると夢に見つると也。大娘の歌に妹とよめるは、心得がたきやうなれど、此(467)ところ歌といふものなり。しなんよせなとよみては歌の情ならず。夢に見えつるとあれば、家持のさ云たると夢に見えつるといふ所歌の情也
 
582 大夫毛如此戀家流乎幼婦之戀情爾比有目八方
ますらをも、かくこひけるを、たをやめの、こふるこゝろに、くらべらめやも
 
丈夫毛 男子の通稱也。こゝは家持をさせり
如此戀家流乎 前のうたをうけてよめる義と見ゆる也。しなんよいもとゝいひしほどに、家持もわれをこひけるをとよめる事と見ゆる也。然れ共乎の字、歟とよむべきか。しかれば如v我こひけるかと自問自答の歌とも見ゆる也。然れば如v此とよめる意やすく如v我と聞ゆる也
比有目八方 何程丈夫の戀たまふとも、女のこふ情に比類せらるべきや。我こふ心は類ふべき事にあらずとの義なり。何ほどせちに戀ひ慕ふともますらをなるものを、たをやめのかひなき心にこふるとは如何でたぐへられんや。女の情まされりと也
 
583 月草之從安久念可母我念人之事毛告不來
つきぐさの、うつろひやすく、おもふかも、わがもふひとの、こともつげこぬ
 
月草之 あをばなといふ草なり。つゆぐさと云也。うつろひやすき花也。朝咲きて夕部には移ろふほどの花故、かくうつろひ易きと也。紙布などにうつしおきて、又水にひたして物をそむるによくうつるもの也。それらを兼て歌にうつろひやすきことにたとへよめるか
念可母 家持の心の外へうつりたると也
 事毛告不來 音信の絶えたるによりて、外に心のうつりてかくおとづれもせぬかと恨たる意也
 
584 春日山朝立雲之不居日無見卷之欲寸君毛有鴨
かすがやま、あさたつくもの、ゐぬひなく、みまくのほしき、きみにもあるかも
 
(468)朝立雲 雲はあしたにはきはめて山の端にたちかゝるもの也。其雲おりゐることのなき如く、常住不斷に見まほしき君としたひたる歌なり。畢竟日毎に見まほしきといはんとて、雲の居ぬ日なくとよみ出で、こひしたはぬ日もなきといふ心をあらはせり。かもは例のかなと同じき意也
 
大伴坂上郎女歌一首
 
此郎女は妹を云歟
 
585 出而將去時之波將有乎故妻戀爲乍立而可去哉
いでゆかん、ときしはあらんを、ことさらに、つまこひしつゝ、立てゆくべしや
 
出而將去 此出でゆかんとは、たゞ打任せて何事にて出でゆかんといへることゝも知れず。夫の外國へ行しを慕ひての折によめるか。只下の妻戀して出で行くべしやといはんまでに詠いでたるか。然ればこの出でゆかん時しはとよめるわけも、何故何方へといふ義をたゞし考ふるには不v及歌也。何事にてまれ、出で行く事の時あらんに、今わざと家出するもかく妻戀するからといふ義を詠める歌と見るべし
時之波將有乎 時はあらんといひてすむべきことを、かく助字を入たるところ歌なり。時はあらんとよみては俗語只事になる也。然るを古人のしもじを入てよめる所、歌といふ義を知るべし。これ當流の秘傳、古今かやうのところに目をつけたる人なき也、歌の善惡、古詠、新歌を見分る事かやうのところにある也。後世の歌ははしかくなりて、雅情うすき也
故 ことさらにとは、出で行くべき時のあらんをも待たずして、わざと妻こひをして家出をもせんと也
立而可去哉 此立の字出の字の誤ならんか。此所に立てといふ義首尾不v叶。上に出で行かんとよみたれば、此もいでて可v去にてあるべし
可去哉 ゆくべしやとよめる、此哉は助字と見るべし。出でゆかんといふの意也
 
大伴宿禰稻公贈田村大嬢歌一首
 
(469)稻公 前に注せり。旅人の庶兄と古注者記せり
田村大孃 傳不v詳。古一本大伴宿奈麻呂卿之女也と注せり。考ふる所ありてか
 
586 不相見者不戀有益乎妹乎見而本名如此耳戀者奈何將爲
あひみずは、こひざらましを、いもをみて、もとなかくのみ、こふはいかにせん
 
本名 通例の説よしなといふ釋也。然れ共ところによりて不v合ことあり。まづこゝの意はよしなくも妹を相見しからに、如v此こふ事はいかにせんといふ意と聞ゆる也。此本名といふ義は未v決。うたがふたる訝かしきといふ意にかなふ歌ども多也。今俗に無2心元1といふことをいひならへり。此本證いかにといふことゝ不v知也。若くはこのもとなといふ古語に心を添て、こゝろもとなといひ傳へたるか
此歌の意は、よしなくも妹を見たるにより、如v此こひしたふことのあるに、見ざらましかば如v此迄に戀ふことはあるまじきと、相見そめしことを反りて恨たる歌也。相見ての後の心にくらぶればの歌も此意を詠なしたる也
 
右一首姉坂上郎女作
 
此古注不審。亂雜と見えたり。然れ共姉郎女稻公に代りてよめるといふこと歟
 
笠女郎贈大伴宿禰家持歌廿四首
 
587 吾形見見管之努波世荒珠年之緒長吾毛將思
わがかたみ、みつゝしぬばせ、あらたまの、としのをながく、われもしのばん
 
吾形見 ゆゑありて別るゝことにつきて、かたみなどとりかはしたる歟。見つゝとありて幾度も/\見てといふ義也
之努波世 しのべといふ義也。古詠の格これらににて知るべし。今時の歌はしのべよといひて、はしかくよむ也
吾毛將思 此思といふ字は、集中にしのぶと讀こと多し。此歌も上にしぬばせとよみたれば、われもしのばんにてあるべし
歌の意は、我かたみを見ていつまでも忘れず慕ひ給へ。我もいつまでも/\したひしのばんと也。忍ぶといふに色々のわけ(470)あり。心の儘にならぬことを耐へて居るを、たへしのぶといふ。こひしたふことをしのぶといひ、ものをかくしつゝむことをしのぶといふ。其の所々にて替ることあり。辨ふべし。こゝのしのばせ、しのばんはしたひしたふのしのぶ也
 
588 白鳥能飛羽山松之待乍曾吾戀度此月比乎
しらとりの、とば山まつの、まちつゝぞ、吾こひわたる、このつきころを
 
白鳥能飛羽山 山城の地名歟。鳥羽田といふ歌もあり。鳥羽山といふは外の地名歟。未v考。今の代にては鳥羽のあたりに山は無也。上代のこといかにとも難v知ければ、先山城の鳥羽のことゝ見るべき歟。十二卷の、霍公鳥飛幡の浦爾敷浪之屡君乎見んよしも鴨とよめるは、いせのことならんか。然れば此廿四首の内に、伊勢の海を詠める歌もあれば、これも伊勢の言葉ならんか。さてしらとりのとば山とよめるに意はなきことにて、鳥の飛といふことをうけん爲迄の料也。又とば山をよみ出たるには、別に意はなき也。山松のまつといはんため迄のこと也。古詠の傳こゝらの義也。鳥羽山といふ地名をよまんとて、しら鳥とよみ出て、飛ともつゞき、又鳥ともつゞき、羽ともつゞく縁ある故也。しかれば三つのつゞきありて、いづれにまれ、たゞ鳥羽といふことをいひ出ん爲に、白鳥とは置たる也。白鳥にもかぎらず、ほとゝぎすとばたともつゞけたれば、しら鳥といふこと、心あるにあらざることを知るべし
月比乎 此をの字、今時のてにはにては月比はとよむべきを也。これは年月をこひわたると云意に乎とはあるなり。かやうの格あげて數へがたし
 
589 衣手乎打廻乃里爾有吾乎不知曾人者待跡不來家留
ころもでを、うちわのさとに、あるわれを、しらでぞひとは、まてどきざりける
 
衣手乎 下のうちわのさとゝいはんためによみ出たり
打廻乃里 大和也。笠女郎の住所か。此歌の次第よく見れば、第一の歌は、わかれ隔つる歌、次の歌は待佗る歌、此歌も同じき也。うちわの里に待て居ると不v知して、人の訪ひ來ぬとうらみて詠める也
不來家留 點本にはこすけると點をなせり。意は同じけれど聞よからねばこざりけると可v讀歟。上に衣手とよみ出たれば、(471)きざりけるとよまんこと可v然歟
 
590 荒玉年之經去者今師波登勤與吾背子吾名告爲莫
あらたまの、としのへゆけば、今しはと、ゆめよわがせこ、わがなのらずに
 
荒玉年之經去者 如v此年經る迄しのび來りたれば、わか名をあらはすなとの歌也
今師波登 或抄に、今はといふ義と注せり。年の經行けばたへかねて、今はとて名をもあらはすなと云義、歌の意もやすくきこゆれど、語例句例なければさは解しがたき也。いましばしなどよめる歌どもありて、しばしといふ義によみきたれり。然れば此歌の意、これ迄包み來れるわが名を、今しばしゝのぴてあらはすなと示したる意也
勤 ものをつゝしみてあらはさぬ事を、古語にゆめといふ也。つとめよやなどいふも同じく、つゝしめといふの義なり。つとめよと下知したる義也
吾背子 家持をさして也
吾名告爲莫 わがなつげずなとよめり。歌詞とも不v聞。わが名のりすなとか、なのらすなとかよむべし。告といふ字はみなのりとよむ也
 
591 吾念乎人爾令知哉玉匣開阿氣津跡夢西所見
わがおもひを、ひとにしらすや、たまくしげ、ひらきあげつと、ゆめにしみゆる
 
令知哉 しらしむるや也。しらしたるやといふてもおなじ詞也。しるを約すればす也。櫛筥などをあくると夢に見れば、名のあらはるといふこと、古くいひ傳へたりと見えたり
 
闇夜爾嶋奈流鶴之外耳聞乍可將有相跡羽奈之爾
くらきよに、なくなるたづの、よそにのみ、きゝつゝかあらん、あふとはなしに
 
歌の意、こゑのみよそにきけど、あふことのなきといへるよく聞えたる歌也
 
(472)593 君爾戀痛毛爲便無見楢山之小松下爾立嘆鶴
きみにこひ、いともすべなみ、ならやまの、こまつがもとに、たちなげくかも
 
痛毛 いともは嘆息の詞初語とも見る也。すべなみはせんかたもなきとの義也。こひわびまちわびてせんかたなきあまりになら山の小松のもとにも立出て、もし君か來るやとまちなげくと也。小松か下とよめるは待といふ意をこめて也。なら山をよみ出たるに意はなき也。小松が下と、待といふ意を、かねていはん迄の料也
 
594 吾屋戸之暮陰草乃白露之消蟹本名所念鴨
わがやどの、ゆふかげぐさの、しらつゆの、けぬかにもとな、おもほゆるかも
 
暮陰草 一草にあらず夕陰の草也。白露をよまんとての序也。白露はきゆるかにとよまんとての序也。古詠の傳此等を可v見
消蟹 きゆるかに也。身心も消ゆるほどにこひしのばるゝかなと也
本名 前にも注せる如く、よしなくもといふ釋なれど、このもとなはいぶかしく打著かぬ意にきこゆる也。身もきゆべく覺束なきほどに思ふとの意にきこゆる也
 
595 吾命之將全幸限忘目八彌日異者念益十方
わがいのち、またけんかぎり、わすれめや、いやひごとには、おもひますとも
 
將全幸限 別訓あらんか。まづ義訓にまたけんと點の通によむ也
日異者 日にけにといふ點なれども、いづれにても同じ義にて、日にまし夜にましといふ義也
歌の意は、いのちあらんかぎりは、戀慕ふ心の忘られまじきと也。日にまして思は増となり。忘るゝ事はあらじと也
 
596 八百日徃濱之沙毛吾戀二豈不益歟奧島守
やほかゆく、はまのまさごも、わがこひに、あにまさらめや、おきつしまもり
 
(473)八百日徃 長途の濱邊といふ義也。その日數をふるほどゆくはまべのまさごの數も、吾戀にはまさらざらめやと、島守に自問の歌也。神代卷の歌に、はまつ千鳥にとひかけたまふ意と同じ。或抄に、島守は三女神の如くいへる説あれど、何の證明もなければ決し難し。たゞ島守人と見るべき也。強て島守に意なき事也。上に八百日行く濱をよみて、終に島守とよめるも、歌の首尾とゝのへるといふもの也
 
597 宇都蝉之人目乎繁見石走間近君爾戀度可聞
うつせみの、人めをしげみ、いしはしの、まぢかきゝみに、こひわたるかも
 
宇都蝉之 現の身の也。現在あらはれたる身の人といふこと也。はかなき身といふ説は非也
石走間近 此つゞきは當然の秘傳なり。石橋といふは、今石にて渡したる橋をいふにはあらず。上代のいしばしといふはみぞ川などに石をならべおきて、飛越るやうに据置たるを石橋とはいふ也。其故あひだとか、まとかつゞける冠辭に、石橋のとはおく也。また石走の甘南山とつゞけたる歌あり。此義不v濟也。師案には、いはゞしのかんなみといふ義なるべし。葛城山同國なればそのあたりなる故、地名ともなりていへる歟と也。此石ばし、間といはんための冠辭也。間近きといはん計に、いしばしのと置たる也
歌の意よく聞えたり。人目のしげき故ま近きゝみなれども、心のまゝにあひ見ることもならねば、こひわたると也。石ばしとよみ出て、こひわたると詠とちめたる也
 
598 戀爾毛曾人者死爲水瀬河下從吾痩月日異
こひにもぞ、ひとはしにする、みなせがは、そこにわれやす、よるひるごとに
 
人者死爲 こひといふものに、人の死ぬるといふがまことにさもあらん。われもそなたによりて、夜晝ごとに身もなくなりてやせ行けば、遂には死に果てんとの歌也
水瀬川 攝津國の地名、此水瀬川をよみ出たるは上にこひとある故こひは泥の事を云。その縁よりよみ出て、下の句のそこ(474)にといはん爲の料也。われやするといふことあるから、身のなきとうけたる詞也
下從 したにと點あり。此詞集中に數多ありて、しもともよみそことも讀べき處有。いづれとも決しかたし。こゝは底といふ縁を受て、先はそことさしていひたる意と見ゆれば、川とあるからは、底の縁をもて、そことはよむ也。川の縁にしたとはつゞけがたからんか。しかし集中に此詞多ければ一決しがたし。考へ合すべし。このうた底と其方故にといふ意をこめて、そことよまむこと然るべからんか。歌の連續うつせみの人目をしげみの歌の次に入たるにて、下從われやすといふ意も表にあらはしがたく、心の内にこひわびて、身もやせ命も死にはてんとの歌也
月日異 古本、印本、諸抄の點、みな月に日にけにとあれど、此ことはむつかし。義は月に日にましてことにといふ事との諸抄物の釋なれども、むつかしき義なれば、宗師の説は、義訓によるひることにとよませたり
笠女郎は至て歌の上手と聞えたり。此廿四首の歌何れもすぐれたる歌也
 
599 朝霧之欝相見之人故爾命可死戀渡鴨
あさぎりの、うつにあひみし、ひとゆゑに、いのちしぬべく、こひわたるかも
 
朝霧之 下の欝といはん料也。古詠の風雅かやうのところにあり。うつとは、うちつけまた現在のことなり。それをうつゝにとも、ほのかにとも詠出すは、あさぎりのとよみ出たるところを感すべき也
鬱 ほのにと點をなせり。しかれども朝霧のほのといふことは打つかぬ也。あさぎりの内に、ほのかにといふの義なれども、しかればうちにといふ詞を入れて釋せねば聞えざる也。よつて當流には、あさぎりのうちといふを兼てうつにと讀む。うつは、現在のことを云。うつの身などいへるうつ也。現在にみたるから、いのちもしぬべくこふとの歌也。ほのみしといふ義は面白きやうなれども義六ケ敷也。たしかにもみず、俗にいふちらとみし人なれどもと、いふやうなる説の點也。此意信用しがたし。古詠の格、うつといはん計にあさぎりとよみたる迄也。朝霧のうちに相見し故、たしかにあらねどといふやうなる深き意味を込たる義は後世の歌の格なり。うつはうちといふ義をかねたる故なり。古詠にこの格この差別多し。尤借音のよみ也。うつといふ音をかなに用ゐたる也
 
(475)600 伊勢海之礒毛動爾因流浪恐人爾戀渡鴨
いせのうみの、いそもとゞろに、よするなみ、かしこき人に、こひわたるかも
 
此歌かしこき人にこひ渡といふ迄の趣向の歌也。然るを如v此首尾をとゝのへたること上手の作也。伊勢の海と詠出たるは、いそとうけん爲也。いとうける詞の縁に、いせのうみをとはよめり。いそとは石也。そのいしも鳴り轟くほどの、おそろしき人にこふと也。戀とはなづみわづらふことを云也。それ故集中一首も人をとも、妹をともなく、人にこひ、君にこひとありて、にとばかりよみたり。をとよめること一首もなし。かしこきとは、かたきと云義、おそろしきといふ詞也。このかたきといはんとて、上に磯もとゞろにとよみたり。いそは石也。此石よりかしこきといふ縁をもとめたるもの也。兎角上代の歌ははじかく縁なき詞はよみ出ず。詞の縁につゞけてよめる也。これを歌とはいふ也。さなければつねの物語只事になる也。この差別を辨へたる人中世には一人も不v見也
動爾 うごくといふ字を書きて意をしらせたり。音の高くなりわたることを、とどろくとはいふ也。尤もものゝそのまゝになりうごきて、すさまじきことを云也。然ればあらきなみの鳴響く如き、おそろしき人といふ義也。かしこきとは、高貴の人をさしていひたる義也。われを卑下してよめる也
三首の歌きこえたる歌なれば不v加2細釋1。清書のとき書入べき也
 
 〔此間三音訓釋缺〕
 
604 劔太刀身爾取副常夢見津何如之怪曾曾毛君爾相爲
つるぎたち、みにとりそふと、ゆめにみつ、なにの怪そも、君にあはんため
 
此歌の意は、つるぎたちを身にとりそへたると見し夜は何の前表にかあらん。戀しきせなにあはんためのしるましなれと、われとわが自問自答したる歌也。上古はつるぎたちをとりそふと夢に見つれば、思ふ事の叶ふしるましと云習へるか。唐土にも我國にも、昔よりかやうのさとしは如何程もある事にて、眉根のかゆかれば待つ人の來るしるしなどいふたぐひいくらもあ(476)ること也。今の世とても同じ。女の身にてつるぎたちをとりそふと見たるも、心得ぬことなれば、何のしるしにてやあらん。これはつるぎ太刀は男子の具なれば、さては君にあはんための夢也とさとりしとの歌也
怪曾宅 點本さとしとよませたり。かなへりとも不v覺。日本紀などには、物の前表夢の告抔をしるましといへり。別訓あらんか
 
605 天地之神理無者社吾念君爾不相死爲目
あめつちの、かみの理、なくばこそ、わがこふきみに、あはずしにせめ
 
この歌の意は、あめかみ、くにつかみといふ尊きおほんかみたちのあるからは、天地神明にかけて如此はかりおもひこふ、君に不v相して死なんに、天地神明といふことなくばこそ、神といふものゝあるからは、一度君にあはでははてまじきとの歌也
理 この訓、ことわりとありてまづきこえたれ共、何とぞ別訓あらんか。しにせめは死なめと云義也
 
606 吾毛念人毛忘莫多奈和丹浦吹風之止時無有
われもおもふ、ひともわするな、おほなわた、浦ふくかぜの、やむときなかれ
 
此歌の意、われもおもふほどに、そなたにもつねにわすれずおもへとのことを、大海のうらは風のやまぬものなれば、たとへていひたる歌也。うら吹風のやまぬごとくにやまず思へと也
多奈和丹 集中此一首なにといふ義か。古來より義の説見えず。八雲には、大和と云意と注せさせ給へども、浦吹風につゞき難し。浦吹風とよみ出たる趣意に、連續のことならねば信用しがたし。宗師案は大海といふ義也。大海の浦とつゞきたる義と見るなり。此四字を大海とよむ義は多は大也。奈は乃也。大なるわたと云義也。わたはうみ也。海を綿とかきたる語例もありて、濁音にてはなき也。外に能よみなしやうもあらんか。當然の點は如v此也。とかくうらふく風のよりどころにあらざれば、信用しがたき也。風をよみたるは音信使などの意をもふくめたるか
 
607 皆人乎宿與殿金者打禮杼君乎之念者寐不勝鴨
(477)みなひとを、ねよとのかねは、うつなれど、きみをしおもへば、いねがてぬかも
 
歌の意何の事もなくきこえたる也。寢よとの鐘は夜殿のかねといふ意也。それをねよとのとかけたる也
打禮杼 うちぬれどとも、打なれどとも、助語字を入れてよむ事くるしからず。いかほどもこの格あり。打禮にてうつなれとよみて苦しからざる也
 
608 不相念人乎思者大寺之餓鬼之後爾額衝如
あひおもはぬ、人をおもふは、おほてらの、がきのしりへに、ぬかづくかごと
 
歌の意は、わればかり思慕ひても先におもひもせぬ人をこひしたふは、佛には向はで、うしろざまにしてあさましきいみきらふがきに、拜禮をする如く詮なきことゝ也
餓鬼 佛家に云る事也。人死して苦をのがれぬものをさしていへり。我國の教え事にあらぬ事なれば不v詳。その餓鬼といふものゝしりへに拜禮をする如くといふは、無益の事をするにたとへたる也。垣にも寄せていへる也
額衝 これは神佛を拜む事を云也。ひたひを地につく如くする故、拜禮をするを古語には皆ぬかづくとはいへり。祝詞祭文等にもうじものうなねつきぬきと書けり。うなねはうなぢにて額の事也。神を拜し君を拜する禮也。ひたひを地の底までもつきぬくほどに尊み敬ふ意也。額といふ語は、なづきのきは下中といふ。いづれにても、きは、なか、したの約言か也。なつの約言ぬ也。なづきとは頭上をいふ。そのきはしたといふ義也。額は頭上の下中きは也。よりてぬかとはいふ也。そのぬかを地につくと云義也。ぬかづきとも、ぬかづくとも云也
 
609 從情毛我者不念寸又更吾故郷爾將還來者
こゝろにも、わはもはざりき、またさらに、わがふるさとに、かへりこんとは
 
不念寸 點本に、あるおもはずとよみては、寸の字あまれり
又更 これは始め別れて後あひて、また二度わかれたる時の歌と聞えたり。後注にもその趣を注せり。最初に載たる歌は、故(478)ありてわかれへだゝりたるときの歌ときこゆる也。其後またあひむつみて、二度目のわかれのときの歌歟。一説、思ひもよらずたまさかにあふたることをよろこびて、よめるやうにも見たる説あれど、次のうたにて兎角わかれへだたりたる意と聞ゆる也
 
610 近有者雖不見在乎彌遠君之伊座者有不勝自
ちかくあらば、みずともあるを、いやとほく、きみがいませば、ありもたへずも
 
此歌は、近くにありては相不v見どもしのひたふべからんも、遠く立隔りてましませば、音信便も稀にならんから、いよ/\しのびかねてあるにもあられぬと云意也。たへずもといふ此もは、古詠の格、嘆きたる意を此もの字一字に込ていひたるもの也
有不勝自 この自の字決めて目の字の誤也。古本印本ともに自の字を書たり。尤自の字にてからとか、われとか讀べけれど義六ケ敷也。めとか、もとか、よみてはやすらかなれば、決めて目の字と見る也。集中其例不v少也。自を書てからわれとよめる例は不v見也
 
右二首相別後更來贈
 
右二首あひわかれてのち、またきたりておくる
 
此左注の通にはじめ相かたらひしが、故ありて遠く隔りてまた中頃思かけず立かへりし時、よみて贈りたる歌ときこゆる也。古注者も其故を知りて書けるにはあらず。歌によりて注せるなるべし
 
大伴宿禰家持和歌二首
 
611 今更妹爾將相八跡念可聞幾許吾胸欝悒將有
いまさらに、いもにあはんやと、おもふかも、こゝたわがむね、いぶせかるらん
 
此歌、末の二首の歌の内、更に古郷に歸りし時の歌の返歌に當れり。最早あふ事はあらじと思絶しか。またあはんと思からに(479)や。如何計むなぐるしく、心のうちのさだかならんと也。おもふかもとは、かく胸いぶせきは、思絶たる人に二度あはんかとおもふから、かくいぶせかるらんと、われとわが心にとひたる意也
幾許 かず/\といふ義也。員數の多き事をこゝらこゝたと云也。然ればひたもの/\思の増と云義にこゝたとはよめる也
鬱悒 いぶせしと云點あれど、此二字且此歌にいぶせしと讀ては可v叶とも不v聞也。いぶせくと云事は、ものうきといふことに近き義也。むせぶなどいふ意と同じくて、胸の内の苦しき事をいへり。いぶせくあるらんといふを約して、いぶせからんとよめり。くあの約言か也
 
612 中々者黙毛有益呼何爲跡香相見始兼不遂等
なか/\に、もだもあらましを、なにすとか、あひみそめけん、不遂等
 
此歌の意は、何の爲にか相見そめたるぞ。只そのまゝにてあらばかく物思はあらまし。つれそひはてもせぬこともとげさるものを、詮なくも相みそめたりと悔む歌也
中々者 此者の字古一本に爾に記せり。しかれば爾の字正字歟。もしくは煮の字の火を脱したるか。尤者の字にても者也とつゞく字なればなりと訓ずる故、なりを又約すればにとよむべき事也。集中に者の字を用ゐて、にとよませたる歌あまたあるを、此約言を不v知人點を加へしより、みなはとよませたり。これは點の誤にて、此所に中々者とあるを集中の語ともすべき事也。中々はといふ詞はなき事なれば、これ者の字を記してにとよむの一證ともすべき事也
不遂等 此等の字莫の字の誤歟。とげざらぬからとよむべきか未v考
 
山口|女王《ヒメミコ》贈大伴宿禰家持歌五首
 
山口女王 傳未v考
 
613 物念跡人爾不見常奈麻強常念弊利在曾金津流
ものおもふと、ひとに見せじと、なまじひに、つねにおもへり、ありぞかねつる
 
(480)此歌、そなたをこひしたふ事を色に不v出して、ふかくしのばんとつね/\心につゝしみ思しかど、さおもひしよりも反つてたへ忍がたき故、なまじひに思ひ愼む事の詮もなく、今は思堪がたければつゝしみてもありがたきと云義也。ありぞかねつるとは、人目を忍び物思ふことをつゝしみてありしも、たへかねてさはありがたきと也
 
614 不相念人君也本名白細之袖漬左右二哭耳四泣裳
あひおもはぬ、ひとをやもとな、しろたへの、そでひづまでに、ねのみしなくも
 
此歌の意は、我はかく思戀れども、そなたにつれなくおもひよせんよしもなく、かく音にまでなきておもふと也。この本名といふは、すべて物憂き事をいふたる意に聞ゆる也。うきといふ詞から、根のなき浮たることゝ云意ならんか。此歌の本名も、うきといふ意に見ゆる也。よしなきと計も不v見歌多也
 
615 吾背子者不相念跡裳敷細乃君之枕者夢爾見乞
わがせこは、あひおもはずとも、しきたへの、きみのまくらは、ゆめに見えこせ
 
此歌の意、前の歌をかねて詠めり。集中篇集の次第にわけあること一傳とはケ樣の所也。前の歌に、あひおもはぬ人をと云歌を載せたる故、わが背子はあひおもはずともと云を次にあげて次第をなせり。せことは夫君の通稱也。わが戀ふ人はあひおもはずとも、せめて枕は夢に見えよと云義也
乞 の字はなと云所もあり。又こせとよむ所も多也。こそとよむ義はなき也。こせとは願ひ乞意なる故字義相叶也
 
616 劔太刀名惜雲吾者無君爾不相而年之經去禮者
つるぎたち、なのをしけくも、われはなし、きみにあはずて、としのへぬれば
 
劔太刀 此名とつゞくる事は、刃物には皆その銘をしるすもの故、名と受けんためによめり。また凡て切れ物の類をやいばといひ、はものといふ也。婆はなゝるが故、名とうける冠句につるぎたちとはいへるか
(481)此歌の意は、これまでは名の顯れん事をもつゝしみて忍びたれど、かく年月を經てもあふ事なければ、今はよし名のあらはれてうき名の立つ事もをしまれぬとの意也。つるぎたちとつゞくるはたつ名といふ義也
 
617 從蘆邊滿來鹽乃彌益荷念歟君之忘金鶴
あしべより、みちくるしほの、いやましに、おもふかきみが、わすれかねつる
 
此歌伊勢物語に、下の句を君に心をおもひます哉とのせたり。歌の意は二義に聞きやうあり。しほの滿來る如く、あとよりいやまし/\思の増るは、君も忘れずこなたをも思ふ故か、われかくいやましに忘られぬと見る義あり。また歟はかなの意にていやましにおもふ故に、君の事がわすれられぬと云意にも聞ゆる也。師案には念歟の二字よみやうあるべしと也。此歌不2一決1歌なれば一決の見樣あるべし。猶追而可v案也
 
大神女郎贈大伴宿禰家持歌一首
 
大神 大和國城上郡大神於保無知といふ地名あれば、おほむちとよむべきか。またみわとよまんか、未v詳
 
618 狹夜中爾友喚千鳥物念跡和備居時二鳴乍本名
さよなかに、ともよぶちどり、ものおもふと、わびをるときに、なきつゝもとな
 
物念跡 此跡の字心得がたし
此歌の意さよ中に獨ものおもひをるに、友呼ぶ千鳥のなく音を聞けば、いとど物佗しく物うきといふ意と聞ゆる歌也。物おもふとゝいふてには何と解すべきや。もしくは誤字ならんか
本名 此歌にてはよしなといふ釋は少かなひがたし。ものうきといふかたにはよみかなへり
 
大伴坂上郎女怨恨歌一首并短歌
おはとも坂上のいららつめ、うらみうらむるうたひとくさならびにみじかうた
 
(482)619 押照難波乃菅之根毛許呂爾君之聞四乎年深長四云者眞十鏡磨師情乎縱手師其日之極浪之共靡珠藻乃云云意者不持大船乃憑有時丹千磐破神哉將離空蝉乃之人歟禁良武通爲君毛不來座玉梓之使母不所見成奴禮婆痛毛爲便無三夜于玉乃夜者須我良爾赤羅引日母至闇雖嘆知師乎無三雖念田付乎白二幼婦常言雲知久手小童之哭耳泣管徘徊君之使乎待八兼手六
おしてる、なにはのすげの、ねもごろに、きみがきこしを、としふかく、ながくしかくは、まそかゞみ、とぎしこゝろを、ゆるしてし、そのあけくれも、なみながら、なびくたまもの、かにかくの、こゝろはもたず、おほぶねの、かゝれるときに、ちはやぶる、かみやさけなむ、うつせみの、人やいむらむ、かよひせし、きみもきまさず、たまづさの、つかひもみえず、なりぬれば、いともすべなみ、ぬばたまの、よるはすがらに、あかもひく、ひもくるゝまで、なげけども、しるしを無三、おもへども、たづきをしらに、たをやめと、いひくもしるく、たわらべの、ねにのみなきつゝ、たちどまり、きみがつかひを、まちやかねてむ
 
押照難波 前に注せり。押てるも地名也
聞四乎 吾か來越也。郎女のかたきこしを也
年深 菅の根よりいひ出たるもの也。深切の意也
長四 ながくしも、菅の根の縁をもていひたるもの也。君が深切にいつまでも、長くとかたらひしかばと也
云者 かくはとよむべし。如v此はといふ意也。いへばといふ點心得がたし。もしは去の字のしを脱して、云の字になりたる歟。しからばながくしぬればとよむべし。四は助字にて長く寐れば也
眞十鏡 とぎしといふべき料也
(483)磨師 かゞみをとぐといふ義にいひかけたる也。わがこゝろのときことをいへる也。利心などいふて、一筋にをつとをしたひこふ心、又は外へ心をうつさせじとふせぎかまふ事をいひたる義也。その利心をも、としふかく長く通ひむつみぬれば、夫君などの外心はあるまじとゆるめたると也
其日之極 これを義訓にそのあけくれもとよむべし。日のきはまりは、明けると暮るゝとなり。よりてその旦暮とはよむ也。その日のきはめ又かぎりなど云點は、歌詞には拙し。あけくれもなきとうけて、下の波之共とよみたる也。これより我心の外へなびかぬ義をよめり
波之共 波のむたといふ點あり。波と共にといふの義也。かながきに波のむたといふ事ある故仙覺師よりよみ來れども、何として共といふ字をむたとはよめるか。釋なければ此點も難2信用1也。よりて宗師はなみながらとよむ也。前に注せり。よつて不v記。波のつれともよむべからむか。波とゝもにといふ義をとりて也。意は波の寄り來るにつれて玉藻の靡寄といふ義也。あけくれのわかちもなくたゞ外へなびく心をもゝたす、君がとひ來るをまちゐたるの意也
云々 かにかくのと讀べし。とにかくといふ點はあしゝ。かながきに、此奧のうたにも鹿煮藻闕二毛とよめり。かにかくのといふ義は、とほくなりても人次第といふ義也。其心は不v變なれば外の人にはなびかぬとの義也
憑有時丹 古本印本ともにたのめるとあり。大船のたのめるとはつゞき難し。當流にはいづかたにてもかゝると讀むなり。此歌にてもたのめるときにとよみては不v聞。かゝれる時とか、かゝりしときとか讀むべし。かくあるときにといふ義をいはんとて、大船のといひたるもの也
千磐破神哉 前に注せり。あらぶる神の事也。天神にあらず、よからぬ事をなす神をいふ義也。その神の業にて中をしさきたるかと也
將離 さけゝんと讀べし
空蝉の 人といはんとてうつせみと也。うつの身現在の身といふ義也
人歟禁良武 人やとむらんとか、いむらんにても同じ。いむも、とむも、おなじ意にてふせぎとどむるの事也。今まで通ひた(484)る人の打たえて不v來は、神のさけたるか、人のいさめとゞめたるかと也
通爲 通ひたる人のかれ/\に成て遠ざかりたると聞えたり
赤羅引 古本印本共にあからと讀ませたり。上にてあかとよみ、下にてらとよまん事心得がたく、またあからといふは何事をいふにや。よりてあかも引とよむ也。此字をもとよむは、うすものとよめば赤きうすものといはる。然れ共書面にて赤き裳と心得べし。上を衣といひ下を裳といふなれば、引とつゞく理り裳とよむ事叶へり。下の日もといはんための序詞也
無三 なしみとよむはわろし。四言によむべし
言雲知久 いひ來れるも也。いひくもしるくと讀べし。たをやめといひ來れるも、しるしといふ義也
手小童 手は初語、わらはべの如くに音にのみ泣つゝと也
哭耳 ねにのみと讀むべし。たをやめといひ來るもしるく、われながらわらべなどの泣く如く、ねにのみなきてかなたこなたとさまよひて、思ふ人の方より音信のつかひを待兼ると也
手六 此てにをは聞えざるやうなれど、わらはべの如くにと、音にのみなく事にたとへて詠める歌なれば、こゝもまちかねる如くにとよそへたる意にて、てんとよめると聞えたり。畢竟わらはべのやうにといふ意と見るべし。しかれば待かねつらんと云意也
 
反歌
 
620 從元長謂管不念恃者如是念二相益物歟
はじめより、ながくといひつゝ、たのめずは、かゝるおもひに、あはましものか
 
畏謂管 汝來といひつゝといふ意を含みてなり。そなたの來んといひしことを頼まずば也。表の意は、年ふかくながくといひかはせし事を、頼まずばと云義也
物歟 ものをといふべきてにはなれど、かと疑ふ手にはにても歌の意きこえたり。歌の意書面の通きこえたる歌也
 
(485)西海道節度使判官佐伯宿禰東人妻贈夫君歌一首
 
右追而可v考
 
621 無間戀爾可有牟草枕客有公之夢爾之所見
ひまもなく、こふるにかあらん、草まくら、たびなるきみが、ゆめにしみゆる
 
此歌の意二義あり。こふるにかあらんとは、わがひまもなくこふ故にかあらん。旅の夫のゆめに見ゆるとよみしとも聞え、また夫のわれをこふるにかあらん。吾夢に君が見ゆるはと云意にも聞ゆる也
 
佐伯宿禰東人和歌一首
 
622 草枕客爾久成宿者汝乎社念莫戀吾妹
くさまくら、たび爾久、なりぬれば、なをこそおもへ、なこひそわぎも
 
客爾久成宿者 此爾の字心得がたし。たびに久しくなると云義いかゞ也。旅の久しくなるとはいふべきが、爾といへるといかゞ。族寐久しくとよまんか。なにぬねの通へばこれらはねとよむべきか。集中に此字、にとよみては歌の意不v通ところ多し
 
池邊王宴誦歌一首
いけべのおほきみうたげにうたふうたひとくさ
 
池邊王 追而可v考
 
623 松之葉爾月者由移去黄葉乃過哉君之不相夜多鳥
まつのはに、つきはゆづりぬ、もみぢばの、あきはつや君が、ひとりねがちそ
 
又一説
 
(486)まつのはに、月はゆづりぬ、もみちばの、ちりしや君に、あはぬよおほくて
 
此歌は饗宴にうたふたるうたなれば自歌とも不v聞。宴にうたふ歌は自歌をも誦するなれば、この歌も古歌をたゞ興に乘じてうたひたるならんか。歌の意は、たゞ秋過て冬になるまでも、思ふ人にもあはでひとりのみねがちにあるらんとの意也
松之葉爾 宴に誦する歌故祝意を込めて、色かへぬ松の葉に月もうつりやどれると云意也。ゆづりぬは、うつりし月日のうつり行事をこめてよめる也
黄葉乃 はじめはもみぢに照たるに今は月たち日もふれば、松の葉に月影のうつると也。秋を經て冬にも成ぬるといふ義をいひたるもの也
過哉 古本印本共にすぎぬや、すぐすやとも點ぜり。もみぢばのすぐすやといふことば、ならびにつゞけがらも心得難し。よりて宗師義訓は、もみぢばの秋とうけて、過ぐるといふ意をはつと讀て、もみぢばのすぐるなれば秋のはつる義になる故如v此義訓せり。後學何卒別訓のよみときやうもあらばと尚後案をまつ也。あきはつやきみとは、上のうつりたるといふ意をうけて、秋のはてたるといふ義をよめり
不相夜多鳥 これはあはぬ夜多くてとよみては、書面の通にて何の風雅もなく面白からぬ讀樣なり。宗師義訓のよみやうは、あはぬ夜多きなれば獨寐勝の道理なれば、ひとりねがてぞとはよむ也。ねがてはねがち也。鳥の字は、烏の字の誤にてをそ相通也。からすをおそどりといふ故くんをとりてそとよむ也。ちりしやとよむ説は、第一卷に過去とかきて散行しとよめる例も有れば、もみぢ葉のといふをうけて也。すぐるやと讀も、紅葉ばの落葉して、早や松の葉にみるはといふの意にてよめるならん。然れ共此讀解きやうは歌詞にあらざることを味ふべし
此歌の意、秋もはてもみぢ葉の月冬の松の葉にうつるまで、君がひとりねはあきはつるやと、秋のはつる事によみなして、ひとりぬる事の年月ふることをよみなしたる歌か。然らば烏の字はをとよみて、ひとり寐がちてあきはつるやといふ義と見るべし
 
天皇思酒人女王 御製歌一首
(487)すべらきみ、さかひとのひめきみをしたひたまふみうたひとくさ
 
天皇 聖武帝歟。いづれのすべらぎとも難v考
酒人女王 傳不v詳。光仁天皇白壁王と申せし時の女王歟。しからば、續日本紀寶龜元年十一月己未朔甲子、被v叙2三品1たる女王なり。酒人氏あり。外戚の氏故、御名につけられたる歟。古一本に、女王者穗積皇子之孫女也とあり。考ふるところありて追注せる歟
 
624 道相而咲之柄爾零雪乃消者消香二戀云吾妹
みちにあひて、ゑめりしからに、ふるゆきの、きえばけぬかに、こふちふわぎも
 
此和歌の意よく聞えたれば不v及2細注1也。けぬかにはおほん身もきゆるやう戀したひ給ふとの歌也。こふちふといふもこひ給ふとの義也。けぬかにの詞は此卷前に笠女郎の歌にも出たり
道相而 天皇の御歌にも、道にあひとのこといかゞ。別訓あらんか
 
高安王※[果/衣]鮒贈娘子歌一首
たかやすのおほきみ、つゝみふなをいらつこにおくるうたひとくさ
 
高安王 續日本紀、元明紀、和銅六年春、聖武紀神龜元年二月の條を可2相考1。天平十一年四月賜2大原眞人姓1。天平十一年四月より前のうたと見えたり
 
※[果/衣]鮒 藻にてつゝみたる鮒をおくれる也。すなはちうたに聞えたり
 
625 奧幣往邊去伊麻夜爲妹吾漁有藻臥束鮒
おきべゆき、へにゆきいまや、いもがため、わがすなどれる、もふしつかふな
 
伊麻夜 此夜の字は助語、うたがひの詞にはあらず
藻臥 もにふしてある鮒といふ義也。裳伏といふ義を含めて、つかふなはちかふなどいふ意にかくしてよめり。裳伏はあひ(488)かたらひねんといふ意也。その約をちがへなといふ意をふくめてよみたるものと聞ゆる也
束鮒 つりの一振の事也。藻にふしたる一にぎりの鮒を贈りしと聞えたり。おきに行へにゆきて心を盡してすなどれると也
 
八代女王獻 天皇歌一首
 
八代女王 聖武紀天平九年二月授2無位矢代女王正五位下1。孝謙紀云、天平寶字二年十二月毀2矢代〔女王位記1とあり。〕如v此なればやつしろとはよまれず。やしろとよむべし
天皇 聖武帝也。依2孝謙紀之文1明也
 
626 君爾因言之繁乎古郷之明日香乃河爾潔身爲爾去
きみにより、ことのしげきを、ふるさとの、あすかのかはに、みそぎしにゆく
 
君爾因 天皇の御寵愛によりて也
言之繁乎 人ことのしげくねたみそねまれて、いひさはがさるゝ故、わざはひをはらひに行くと也
古郷之 奈良の都にうつりて後は飛鳥の里は古郷となれり。尤八代王の住所なりしか
明日香乃河爾 あすか河にてみそぎの例は、履仲天皇の御時由來ある事故よみ給へるなるべし。古詠にはかやうの縁をもつて詠ぜる也。何の河にてもみそぎはすべき事なれども、少にてもその縁なき事はよみ出さず。おろそかならぬ事を知るべし。みそぎとははらへをして身のあしき事を拂ふ義也。河邊のはらへなどいふは皆みそぎはらへの事也。水にそゝぎはらへる事を云也。前に注せり
 
一尾云龍田超三津之濱邊爾潔身四二由久
あるをはりにいはく、たつたこえ、みつのはまべに、みそぎしにゆく
 
異説にかくの如くありしを古注者加載たり
龍田超三津之濱邊 これは大和より難波のみ津へ、たつたをこえてみそぎに出給ふと云義也。世のそしり多かりし故、身を退(489)き給ふ事などありける折にやかくよみ給ひけん
 
娘子報贈佐伯宿禰赤麻呂歌一首
傳不v考。此いらつ子、たれともしりがたし。前に赤麻呂より歌を詠みて贈りたると見えたり
 
627 吾手本將卷跡念牟大夫者戀水定白髪生二有
わがたもと、まかんとおもはん、ますらをは、なみだにしづみ、しらがおふならん
 
此歌、前かたに赤まろより娘子をこふ歌に、白髪などの事をよみて、年を經て老なげく事などよみて遣せるか。報贈とあれば、返歌ときこえたり
吾手本將卷 袖をまきてまくらにして、打かたらふて我妻とせんと思はん人はと云義也。袂をまくとは妻にすることを云へり。よりてまかんと思はんとは、妻にせんと思ふ人はとの意也
念牟 おもふらんと云意、思ふとよむべき處なるに思はんとよめるは、別の意もあるべき樣なれど、まかんと思はんと云ても、思ふと云意也。われを卑下の意から、打つけて思ふ人はとは詠まざるか
戀水 義訓になみだとはよめり
定 しづまる、しづめると讀故しづみともよませたる歟。しづみなれば沈の字也。定の字にしづむ意をよまんこと不v可v叶。しかし訓を借りてよめる歟。又涙を止ての意にて鎭てとよめる歟。二義に見ゆるなり
二祐 ならんとよむべし。にあの約言なゝり
此歌の意は、郎女心強く人にたやすくなびかぬ意をよめる歌ときこゆる也。戀水にしづみこひしたふともわれ心強ければ、白髪生て年は老行とも、わが袖はまきかたからんといふ意にてかくよめる歌と聞ゆる也
 
佐伯宿禰赤麻呂和歌一首
 
628 白髪生流事者生不念戀水者鹿煮藻闕二毛求而將行
(490)しらがおふる、ことはおもはず、なみだをば、かにもかくにも、まきつゝゆかん
 
求而 一水求の字に作れり。しからば鎭めてゆかんとよむべき歟。まきつゝは紛はしつゝゆかんと也。借訓也。尤も妹をまきつゝといふ意に紛らかしてと云をこめて也。しづめてゆかんはとゞめての意也。ともかくもして、涙を紛はしゆかんと也
將行 こひゆかん也。白髪の生ることは思ばず。袂のまかるゝまでこひつゝゆかんとの意に、まきつゝゆかんと也
 
大伴四綱宴席歌一首
おほとものよつなうたげのむしろのうたひとくさ
 
四綱 傳不v詳
 
629 奈何鹿使之來流君乎社左右裳得難爲禮
なにがしか、つかひのきつる、きみをこそ、かにもかくにも、まちがてにすれ
 
此歌はしひて戀歌とも見えず。又戀歌に似通ひたる歌也。相聞といふ歌みなかくの如し。歌の意、宴席にかこつけて約束して待をるに、障ありて來らざるその使の來りしとき詠めると聞えたり。兎に角に君をこそ待兼るとの義也
 
佐伯宿禰赤麿歌一首
 
630 初花之可散物乎人事乃繁爾依而止息比者鴨
はつはなの、ちるべきものを、ひとごとの、しげきによりて、ゆかぬころかも
 
此歌の意は、めづらしきはつ花の咲たるを見に行かんと約せしかども、人の何かといひさわぐ事あれば、それにさへられてえゆかぬとの義也。止息の二字はゆかぬと義訓すべき也。とまるとは讀難かるべし。とまるとよまば意違ふべし
 
湯原王贈娘子歌二首 一本、湯原王志貴皇子之子地
 
湯原王 傳不v考
(491)娘子 いづれの娘子とも知難し。歌の始終、王の妻女とも不v見。外にある娘子と見えたり
 
631 宇波幣無物可聞人者然許遠家路乎令還念者
うはべなき、ものかもひとは、かくばかり、とほきいへぢを、かへすとおもへば
 
此歌の意は、娘子をしたひて王の來りたるを、むなしくかへしたるをうらみたる歌なり。はる/”\と慕ひて來りしをも、心づよくつれなくも、相かたらふ事もとげずかへせると聞えたり
宇波幣無物可聞 かくつれなき人は外に上もあるまじきと、つれなき人のうはもあるまじと娘子をさしていへる也
 
632 目二破見而手二破不所取月内之楓如妹乎奈何責
めには見て、てにはとられぬ、つきのうちの、かつらのごとき、いもをいかにせん
 
歌の意は、能きこえたり。前の歌を引合せて見るべし。あふ事のかなはで、目にのみ見ても相かたらふ事のとげがたきをなげきて、詮方もなきと也
月内之楓 古事可v考。楓はをかづら、今俗にかへでと讀は誤也。かへでの木と云は、俗にもみぢの木と云木、鷄冠木とかきてかへでの木とよむ也。或はかへるての木とも云。その葉の形鷄のとさか、蛙の手に似たるをもて文字に書訓によめる也。楓は和名抄云、兼名苑云、楓一名※[木+攝の旁]【風攝二音和名乎加豆良】桂といふは女かづらと云もの也。肉桂桂心など藥種にも用ゆる也。月の内のかつらと讀事、月のかつらとよむ事、古事をもつて也
 
娘子報贈歌二首
 
633 幾許思異目鴨敷細之枕片去夢所見來之
いかばかり、おもひけめかも、しきたへの、まくら片去、ゆめにみえ來之
 
此歌の意は、いかばかりおもひけめ、まくらさらず、王のゆめにみえ來ると云こゝろと聞ゆる也。又の意は、如何ばかり思ふらめど相かたらふ事のなり難ければ、枕さらず夢になり共見え來りませといふ意にも聞ゆる也。然らば來之の二字こせとよむ(492)べし。さしすせそは通音故、之にてもせとはよむ也。集中何程も其格あり
枕片去 かたさりといふ事心得難し。或抄に不2片去1といふ義にて、不の字を脱したると釋せり。かたは助語かたまけ片待などいへば、助語として不の字落たるべしと云説あれど、直に片の字不の字の誤字と見る方しかるべし。片去といふ事何とも解しがたく、語例もなきことばなれは、まくらさらずとよむべきこと也。尤片待片設などいふ詞あれば、かたさりにてもあらば、何とぞ義のとりやうあるべき歟。先かたさりにてはいかにとも解し難き詞也。かな書にても、かたさりといふ詞あらば、その通によむべけれど、此分計にてはかたさりとよむ義心得がたく、外に何とよまん別訓も未v案也
 
634 家二四手雖見不飽乎草枕客毛妻與有之乏左
いへにして、みれどあかぬを、くさまくら、たびにもつまと、あるがともしさ
 
此歌の意、いろ/\の説ありて一決しがたし。一説は、旅にも妻と一所にあるはめづらしくともしきと也。家にても見あかぬに、旅の心細きに相伴ふは、いよ/\夫をともしくめづらしきやうに思ふとの意に見る説あり。一説、旅行に相伴へども、心のまゝに相かたらひ交ることはなりがたきといふ義を、あるがともしさと見る説あり
宗師案は、家にして見るとも飽ざりしを、旅にて妻となることは相かたらふ事もまれにて、ともしくわびしきといふ意と也。然れば旅行の人の妻となるがともしきと見る意也
 
右之説々一決しがたけれは好所にしたがふべし
 
右二首の歌の意未v決。尚追而沈吟後案を加へ侍らんか
 
萬葉童蒙抄 卷第九終
 
(493)萬葉童蒙抄 卷第十
 
湯原王亦贈歌二首
ゆはらのおほきみまたをくるうた二くさ
 
635 草枕客者嬬者雖率有匣内之珠社所念
くさまくら、たびにもいもは、さそはめど、このうちなりし、たまとこそおもへ
 
此歌の意は、旅行にも思ふ人はいざなひ行かめども、行ことなり難き身にて、くしげの中にある玉の如くに思へば、つれ行かれぬと云義也。或説に、たびにさそひつれたれど、相かたらふことのなり難きことのありけるにや。交接する事もなり難ければはこのうちの玉の如きといふの説もあり。然れども次の歌を見てつれざる説とすべし
客者 これをたびにもと讀む事、者はものと讀む故もの一語をとるなり。此例數多也。旅へもおもふ妹はつれそひたけれどはこのうちの玉の如くなる人なれは、心にまかせぬと詠みたる歌也
雖率 いざなはめどもといふ義也。さそはめどと讀む也。いざなひたれどもといふ説は心得がたし。いへどもと讀む字なれど、どとばかりもつかふ字也。有といふ字を上へつけて、印本にはゐたれどもと點をなしたれど歌の意六ケ敷也。次の歌と意たがへば此點心得がたし。次奧の娘子復報歌の意にもあはぬ也
 
娘子復報贈歌一首
 
637 吾背子之形見之衣嬬問爾余身者不離事不問友
わがせこが、かたみのころも、つまどひに、余身はさけじ、ことゝはずとも
 
此歌の意は、前におくりしきぬを妻とおもひ、身をはなたずまとひきんと也。ことゝはずとは、きぬなればものいひかはさず(494)とも、身をはなたずまとひきんとの義也。つまとひはまどふによせて詠めり
嬬問爾
事不問友 ものをいはずともと云義也。此集にもことゝはぬ木すらいもとしと詠めり。ものいはぬ木といふこと也
 
湯原王亦贈歌一首
 
638 直一夜隔之可良爾荒玉乃月歟經去跡心遮
たゞ一夜、へだてしからに、あらたまの、つきかへぬると、おもほゆるかも
 
歌の意、たゞ一夜相見ざりしことありしを、月日も久しく經たるやうにおもふと也。なれそひてもなほ飽かぬ心故、少の間隔たりても程經しやうにおもふとの義也
心遮 此二字おもほゆるかもと讀める義、歌の意にはやすく聞えたれど、此二字おもほゆるかもと七言によむ義未v詳。字義も不v通也。こゝろさへぎるといふ義にて、おもほゆるといふ義に叶ふべしや。未v詳也。後學尚可v考也。或抄に心不遮といふ不の字をおとしたるかと也。然らばこゝろはなたずと讀まんかと也。師案はおもひもぞすると可v讀と也
 
娘子復報贈歌一首
 
639 吾背子我如是戀禮許曾夜干玉能夢所見管寐不所宿家禮
わがせこが、かくこふれこそ、ぬばたまの、ゆめに見えつゝ、いねられずけれ
 
此歌、前の直一夜の歌をうけて返歌せる也。よりて如v是こふれこそとありて、かくは前の歌をうけて詠める也。かくばかりこひ給へばこそ、まことにわれも夜の夢に見ゆるとなり。いねられずけれとは、夢に見え、さめて慕へばね難くおもひ佗ぶるとの意なり。ねざりけれどもと讀むべし。いづれも意は同じ。然れば寐一字にてもねと讀み、宿の一字にてもねと讀めば、二字書きたればいねと讀むべきか。こふれこそは、こふればこそ也。いねられずけれは、いねられざりけれ也
 
湯原壬亦贈歌一首
 
(495)640 波之家也思不遠里乎雲居爾也戀管將居月毛不經國
はしけやし、まぢかきさとを、雲ゐにや、こひつゝをらん、つきもへなくに
 
此歌の意は、相見し人の別れて里にありけるに詠みておくれる歌か。たゞし仕官などの娘子にて、互に心は通へども、相語らふことのならぬことを詠めるか。始終の歌兎角心は通へども、相かたらふことの叶はぬ事のみを詠める歌ども也。娘子を里といひなして詠める歌か。近所なれども遙かに隔つ樣におもひこふとの歌也
波之家也思 すべてほめたる詞也。こゝにはかけ相難き詞なれども愛し慕ふ心から、娘子の居る里をほめて詠めると見るべし。喜撰式にはよき女の事をはしけやしと云ふとあれど、兎角ほめたる詞と見るべし。女に限りたることゝはいひ難し
不遠里乎 ま近きと義訓に讀む也。間もさのみ隔たらぬ人を、雲ゐ遙かに隔たれるやうに慕ひおもふと也。月も不經國とは前の直一夜隔てしからの歌の意をもて詠める也
 
娘子復報贈和歌一首
 
641 絶常云者和備染責跡燒太刀乃隔付經事者幸也吾君
たゆといはゞ、わびしみせめと、やきだちの、とつかふことは、よしやわがきみ
 
此歌の意、全體これまでの贈答のくゝりと聞得る歌也。此娘子未だ王の妻とは不v成。外に仕へてあるか。何とぞ故ありて心計は通ひて、相かたらふ事のなり難き人と見えたり。此歌の意も、心の通ひも絶えんといはゞ、そなたにもわびたまはめども、心は絶えぬと也。然れども、とつぎあふことはゆるせ。なり難きとの歌と聞ゆる也
燒太刀乃 これは下の隔といはん爲の序詞也。隔とは、そとなどと云意にて、戸といふもものを隔つ物と云事にとゝ云意也。やきたちの研とつゞく義也。集中皆やき太刀と讀みては、刀とならではつゞかぬなり。とゝつゞきたる歌あまたあり。その例格をもてとつかふことゝ讀む也。とつかふことゝは、交合せんことはなり難きといふことによしやとは詠めり。然れば心は通へども、相かたらふことはゆるし給へ。よしやと打やりたる義なり。よしやといふ事は、打やりゆるしたる事を云也。よ(496)りて縱の字をも書けり。こゝは幸の字をもて義訓に讀ませたり。此燒太刀の事色々説あれども信用し難し。ものゝふの身にそふもの故、へつかふと云との説、鞘といふものありて、我身にへだてつくといふ義にとれる説々まち/\なれど、やき太刀のつとつゞきたる例も無く、へつかふといふ詞もめづらしき也。とつかふは、とつぐ、とつぎと云古語ありて、しかもやきたちと讀みては、集中皆刀とならでは不v續例をもてとつかふとは讀む也
 
湯原王歌一首
 
この一首の歌は、更に娘子へ被v贈たる歌か。たゞ詠み給へる歌か。諸抄前の歌をうけて詠めるやうに釋せり。端作に其趣も不v顯ば、たゞ戀の歌と見ゆる也。これまで贈報歌等の字を加へたれば、前の娘子へ贈れる歌ならば、又贈とあるべけれども、不v依v前贈答歌と見るべきか
 
642 吾妹兒爾戀而亂在久流部寸二懸而緑與余戀始
わぎもこに、こひつゝみだる、くるべきに、かけてよらんも、われこひそめし
 
此歌の意は、いもにこひわびてさま/\と思ひ亂るゝことは、くるべきに亂れたる糸をかけてよりあはす如くに、何とぞ遂にはおもふ人によりあはんとこひそめしとなり。くるべきのくる/\とめぐる樣に、おもひ亂るゝと云義をよそへて、何とぞたゞよりあはんとのみこひそめしと也。くるべきを詠めるは、おもひに亂れたる事を云て、かけてよらんといはん爲の料也。くるべきにしひて意は無き也
戀而 これを印本には、こひてみだるゝと讀めり。意は同じけれど、古詠は兎角第三の句は第四の句へ續くまでの事にて、しひて上へつゞく事を不v詠也。然れば其格をもて見れば、みだるとよみきりたる歌ならんか。而といふ字は此集中つゝと讀ませたる事不v知v數事也
久流部寸 糸をまきてよりあはす具なり。和名抄〔云、辨色立成云、反轉【久流閉枳】漢語鈔説同、※[糸+參]車、唐韻云【訓久流】格糸取也。〕枕草紙にいへるは今俗にいふ引うすの義なるべし
(497)戀而 このかけていふ詞毎度あり。かけておもひ、かけてしのぶといふ。こゝもくるべきにかけてといふをうけて詠める也。心をかけてといふ義と釋し來れり。凡てかけるといふことは、かれとこれとを離れぬやうに、物のつゞくことをいふ詞也
縁與 よらんとは、こふ人とより合はんとこひそめしとの意也。くるべきは、糸をかけてよりあはすものゆゑ、糸とはいはねどその縁の詞をもてよみ出たり。よしと云點は心得がたし
 
紀女郎怨恨歌三首
 
古一本に、鹿人大夫之女名曰小鹿安貴王之妻也云々。右古一本の後注考ふるところありてか
 
643 世間之女爾思有者吾渡痛背乃河乎渡金目八
よのなかの、をんなにしあれば、われわたす、あなせのかはを、わたりかねめや
 
この歌の見樣二義あるべし。わたりかねるといふとわたらんとおもふと意二義也
世間之女爾思有者 世の常の女ならば、夫のわたす川をわたりかねめや。われはよの常ならぬ身なれば、わたりがたき故ありてか、かく恨みて詠めるならし
有者 これをあらばとよむ義、又あればとよむ義二樣あるべし。あらばと讀むは右の通の意也。あればと讀みては、われも世の中の女なれば、夫の渡るべき程の川瀬を渡りかねめや。相ともにわたり行かましをといふ意にて詠めるとも聞ゆるなり。
此三首の歌は、兎角わかれを歎き恨みたる歌と聞えたり。たゞししのび妻などにて、一生夫婦となることの叶はぬ故ありて、中絶えぬることなどにて詠めるか
吾渡 われわたすといふ意はをつとの渡す也。あなせの川を夫に喩へて詠める也。われわたると讀みては意違ふ也。上の世の中の女と云意うらはらの見やうになる也。われも世の中の女なれば、いかなる深き瀬にてもあれ、わたりかねめやと云意と見ゆる也
痛背乃河 穴師といふ地名あれば、和州卷向の内にある川を詠めるなるべし。吾背によせて詠めり。あなし川は第七に、あなし川かはなみたちぬまきもくの、又まきもくのあなしの川にとあり。十二卷にも、まきもくのあなしの山とあり
 
(498)644 今昔吾羽和備曾四二結類氣乃緒爾念師君乎縱左思卷
いまはわれは、わびぞしにける、いきのをに、おもひしきみを、かにかくしのべば
 
和備曾四二結類 おもひあまりてなやみわづらふとの義なり。色にもいださず。人にも知られじとしのびおもへども、たへ難きによりて今はと切なる意をあらはせり。しにけるとはわびるといふこと也。死によせてよめるといふ義もあれどしひて不v可v好
氣乃緒爾 いきのをと云は命にといふ義なり。命のことをいきのをと云也。集中あまたありて、いのちにかけてこひしのぶ義をいきのをにと詠めり
縱左思者 古本點本共にゆるさくおもへばと讀めり。歌詞とも不v聞。集中に皆かくの如くの讀ときありて、これらのあやまりより、此集は後世の歌のやうにはあらぬ義にいひならはせり。よみときやうを知らずして、此集の法例を不v知人の誤を萬世に傳ふること也。毎度注せる如く、歌詞にあらざることを、無理に歌に詠みなして點をなせる也。ゆるさくといふ詞歌詞にあらず。然れば縱左の二字をもて、歌詞に詠ませたることを知らざる也。此縱左の二字をかにかくしのべはとよむ理は、縱横左右にしのべばといふ義をもて、左右をともかくもとも、かにかくにとも讀む故、此二字をも、かにかくとは讀むべき也。とにもかくにもこひ慕へば、今はわびなやんでたとへ難きとなり
此歌は任官などにつきて離別の時の歌か。次の歌も別れの歌也
前の歌もその意に見ゆる也
 
645 白妙乃袖可別日乎近見心爾咽飲哭耳四所流
しろたへの、そでわかるべき、ひをちかみ、こゝろにむせび、ねのみしなかる
 
所流 古一本所泣とあり。應v爲v是
袖河別 袖は左右へわかれたるものなれば、わかるゝといはん爲に、白妙の袖とはおけり。此歌の意、前にも記せる如く、旅行(499)離別の歌と聞ゆるなり。字句の通よく聞えたる歌也
 
大伴宿禰駿河麻呂歌一首
 
646 丈夫之思和備乍遍多嘆久嘆乎不負物可聞
ますらをの、おもひわびつゝ、あまたゝび、なげくなげきを、おはぬものかも
 
遍多 上下にてあるべきかと云説あり。義訓に讀めば書面の如くにて可v然也
不負物可聞 なげきといふを木に云ひなしておはぬとは讀みたり
歌の意は、丈夫のかくばかり思佗びなげくむくひの、先へは通ひたるものかと、思ひのあまりに思ふ人にむくひのあれかしと念じたる歌なり。我なげきを負ふにては無く、先の人におはぬものかなと打歎きたる歌なり。源氏伊勢物語等に、うらみおふむくひなど書けり。のろひごと、むくひなとおふと云事あり
 
大伴坂上郎女歌一首
 
647 心者忘日無久雖念人之事社繁君爾何禮
こゝろには、わするゝまなく、おもへども、ひとのことこそ、しげきゝみなれ
 
人之事社繁 こなたには忘るゝこと無く、毎日こひしたへども、人に何かといひさわがさるゝ君故に、遠ざかりたるとの意也。又こなたにはかく忘るゝ日なくおもへども、外の人のことにいとまなくて、そなたにはおもひもし給はで、たゞよその事のみしげき君なりとの意とも見ゆる也
 
大伴宿禰駿河麻呂歌一首
 
648 不相見而氣長久成奴比日者奈何好去哉言借吾妹
あひみずて、けながくなりぬ、このごろは、いかによぬるや、いぶかしわぎも
 
(500)氣長久成奴 氣長はたゞ長きといふ義也。けは初語也
好去哉 點本の通にては歌の心通じがたし。よりて當流にはいかによのよは夜によせて、ぬるは寢る事を云也。歌の意、久しく相見ねば、この頃はいかにしてか夜をもぬるや。心もと無くいぶかしきと也。いぶかしは不審の事也
 
大伴坂上郎女歌一首
 
649 夏葛之不絶使乃不通有者言下有如念鶴鴨
なつくずの、たえぬつかひの、かよはねば、ことしもあるやと、おもひつるかも
 
夏葛 くづかづらは夏はひ茂て、いつ方にても長くはひわたれば、なつくづとは詠み出たり。夏葛の二字、はふ葛とも讀むべきか。下の不v絶といはん爲に、夏葛とはよみ出たり
不通有者 或抄に、通はざればと讀むべきかとあり。ざれと云詞をねの如く辨へたる故か、通はねばと讀まんこと然るべし
言下 何とぞ故障もある如くにおぼつかなくおもふとの事也
歌の意よく聞えたり
 
右坂上郎女者佐保大納言卿女也駿河麻呂此高市大卿之孫也兩卿兄弟之家女孫姑姪之族是以題歌送答相問起居
 
佐保大納言卿 大伴安麻呂也
駿河麻呂 大伴宿禰駿河麻呂也
高市大卿 未v考。天武皇子の事か。或抄に安麻呂の弟かと也
姑姪 和名抄〔人倫部夫妻類云、〕姑、爾雅云、夫之母曰v姑【和名之宇斗女】如v此あれば姑は駿河麻呂の母か。且妻の母を指していへるか。尚可v考。
姪 同抄〔人倫部兄弟類云、〕釋名云、兄弟之女爲v姪〔【徒給反和名米飛】〕一云弟之女爲v姪
 
(501)大伴宿禰三依離復相歎歌一首
おほともすくねみよりわかれてまたあひてなげくうたひとくさ
 
三依 續日本記卷第廿二廢帝紀曰、天平寶字三年〔五月甲戌朔壬午、從五位下大伴宿禰御依爲2仁部少輔1〕
相歎 あふてよろこぶ歌と聞ゆれば、歡の字の誤りか。歎は哀樂ともあれば、嘆息の意にて書きたるか。歎の字よろこぶとは訓じ難ければ、なげくと點をなせり
 
650 吾妹兒者常世國爾住家良思昔見從變若益爾家利
わがせこは、とこよのくにゝ、すみけらし、むかしみしより、わかへましにけり
 
常世國 仙境にて不老不死の國といへり。凡見凡俗を離れたるところを云。日本紀にあまた出たり。よりて不v注v詳なり
住家良思 とこよの國に住みたるらし。昔あひみしより若がへりたりと、妹をほめて愛し賞する意を詠めり
 
大伴坂上郎女歌二首
 
651 久方乃天露霜置二家里宅有人毛待戀奴濫
ひさかたの、あめのつゆしも、おきにけり、いへなる人も、まちこひぬらん
 
此歌は、夫を家におきて妻の旅行などせし時の歌か。歌の意不v及v釋也
 
652 玉主爾珠者授而勝且毛枕與吾者率二將宿
たまもりに、たまはさづけて、かつかつも、枕とわれは、いさふたりねん
 
玉主爾 夫婦の上の歌ならば、夫をさして玉もりとはいへるなるべし。我たましゐは夫の方へわたしさづけて、旅ねなどする折故、枕とふたりねんとの意なり。前の歌、夫は家にありて妻は外にありし時詠める歌と聞ゆれば、この歌もその折の歌ならんか。若しまた第三卷めに、此郎女と駿河まろと二孃の事に付、贈答の歌などありし時の事か。然らばたま守りは駿河まろ也(502)娘をわたして郎女心ゆたかに、枕とふたりねんとか。むすめをたまに喩ふる事は、第三卷市原王の歌にも見えたり
 
大伴宿禰駿河麻呂歌三首
 
653 情者不忘物乎儻不見目數多月曾經去來
こゝろには、わすれぬものを、たま/\も、見ぬひあまたに、つきぞへにける
 
よくきこえたる歌也。不v及v注也
 
654 相見者月毛不經爾戀云者乎曾呂登吾乎於毛保寒毳
あひみしは、つきもへなくに、こふといはゞ、をそろとわれを、おもほさんかも
 
乎曾呂 仙覺説の如く俗にうそといふ義也。空言をいふとおぼさんかと也。からすをおほをそ鳥といふ。歌につきても、此集に乎曾は空言のといふ證あり。東詞に今も僞を云ふ事をおぞい言といふ義、おそろしきと云にも通ふなり。おそろしきといふおは奧のお也。詞にはよらず義は通ふと也。この歌の意は、あひ見しことは未だ間も無きに、こひ慕ふといはゞそらごとをいふとおもほしつれども、まことに一日もわすれず、こひ慕ふとの意をのべたる也
 
655 不念乎思常云者天地之神祇毛知寒邑禮左變
おもはぬを、おもふといはゞ、あめつちの、かみもしらさん、とまれかくまれ
 
不念乎 前の歌をなほ反して、こひ慕ふ心の僞りなき事をあらはせり
神毛知寒 我まことに、かく計おもふことのまことは神も遂には知らさしめん。おもはぬをおもふとはいはれぬ事と、神に誓ひていひたる義也。天地の神の知り給へば、遂にはそのまことをそなたに知らさんと也
邑禮左變 これを別點本その外古來よりの諸抄皆字のまゝに讀みて、歌にあらざる詞といふことを不v辨也。さとれさかはりといふ歌詞あるべきや。集中句例證例も無き詞也。神のさとり知れる如く、早くそなたにも心を入かへてさとれと云事など釋せるもあり。心得がたき説々なり。宗師案は邑の字誤れり。巴の字にてともゑと讀む字也。よりてともあれかくもあれと(503)いふ義を邑左變の三字にてよませたる義と見る也。もあの約言ま也。左の字はかくかくにと讀ませたれば、かくとよむ事勿論なり。變の字をかはりかはれと讀む、ばれのばはまと讀まるゝ也。此四字はとまれかくまれと讀までは歌の意通じ難き也
歌の意は、おもはぬ人をおもふとはいはず。その眞僞は天地の神も遂には知らしめん。ともあれかくもあれ、われはまことにそなたをこそおもふとの意也
 
大伴坂上郎女歌六首
 
吾耳曾君爾者戀流吾背子之戀云事波言乃名具左曾
656 われのみぞ、きみにはこふる、わがせこが、こふといふ事は、ことのなぐさぞ
 
言乃名具左曾 言のなぐさみぞといふ意也。今俗にも口慰みなど云て、眞實ならぬ事をもことのはに云ことのある、その事と同じ義也
 
657 不念常曰手師物乎翼酢色之變安寸吾意可聞
おもはじと、いひてしものを、はねずいろの、うつろひやすき、わがこゝろかも
 
聞 一本に問に作る。いづれにても、もなり
不念常 我心にておもひきりたれど、またしのびかねておもふ心を、われからうつろひやすきと戒めたる歌也
翼酢色 日本紀天武紀〔十四年秋七月己巳朔庚午、中略淨位以上並著2〕朱華1此云2波泥孺1とありて赤き色の花なり。第八家持歌も唐棣花と書けり。すべて赤色はうつろひやすきものにて、中にも此花の色うつろふ事の早き故、詠み出たるならん
 
658 雖念知僧裳無跡知物乎奈何幾許吾戀渡
おもへども、しるしもなしと、しるものを、なぞかくばかり、わがこひわたる
 
知僧裳 そふのこゑ故、そはしと同音故しと用ゐたり。日本紀にほうしといふ點をなせり。これも點にはあらざる也。僧の字の訓古より見えず。今訓せばよすてびとゝ讀むべきか
(504)よく聞えたる歌なり
 
659 豫人事繁如是有者四惠也吾背子奧裳如何荒海藻
かねてより、ひとごとしげみ、かゝりせば、しゑやわがせこ、おくもいかゞあらめ
 
豫人事繁 今よりかく人にいひさわがされては、末は尚いかゞと也
四惠也 よしやといふに同じ。打ふてたる詞也
如此有者 かくありせば也。かくしあらばの點は不v宜
奧裳 行末の事也。はし奧といふ事なり
海藻 もと點をなせれども、あらんとか、あらめとかならではよみ難し
歌の意、初からかく人ごとのしげくてはよしやおもひ絶えんか。行末もいかゞあるらめと氣の毒におもへる意也
 
660 汝乎與吾乎人曾離奈流乞吾君人之中言聞起名湯目
なをとわを、ひとぞさくなる、いでわがせ、ひとのなかごと、きゝたつなゆめ
 
汝乎與吾 なれとわれとゝいふ義也。夫君をなといふは親しみていふ義也。なを、わをのをは皆助語也
乞 いでとは、いだすてといふ義にて物をこひ願ふの意也。今物を乞ふことに、手を出してうくるやうにするこれよりいへる詞也。日本紀允恭卷の厭乞の字訓の所の義も物をこひしこと也。いでとじといひしはこふたる事也。刀自は女の通稱としにこふといふ義也。此歌の乞もこふ意也。此いでと云には、ところによりて初語にも聞ゆる也。いで/\何せんなどいふはみな初語なり。古今の、いで人はことのみぞよきと詠めるも初語なり
起名湯目 人の中ごとをいひて、きみとわが中をさくとも、そのことを聞き立ちて用ゐたまふなと示したる事也。ゆめは前にも注せるごとくつゝしめといふ義也。いめといふも同じ。ゆめつゝしめなどつゞくことは、人ごとに心をうつして中をさき給ふなど示したる義也
 
(505)661 戀々而相有時谷愛寸事盡手四長常念者
こひ/\て、あへるときだに、うつくしき、ことつくしてよ、ながくとおもへば
 
谷 とはたすけ詞也。此ところにてのだにと云ふてには、聞にくきやうなれど、助語とみれば此だには心は無き也。あへる時にと云意也
愛寸 俗にふびんがるといふ意也。親しくむつまじきことをつくしてと云義也
歌の意聞えたる通也
 
市原王歌二言
 
662 綱兒之山五百重隱有佐堤乃埼左手蠅師子之夢二四所見
あこのやま、いほへかくせる、さでのさき、さではへしこの、ゆめにしみゆる
 
網兒之山 伊勢也。第一卷にも宗師此地名の論を注せり。八雲にも伊勢とあり。此歌にあことよみ出たる地名に意あるにあらず。あこといふ詞によりて也。兒は女の通稱なれば也
左堤乃埼 下のさではへしといはんための序也。あこの山にて、五百重かくしたるところのはる/”\隔たりたれども、心にしみておもへば夢に見ゆるとの意に、五百重かくせるとは詠めり。此さきは山のさきにてあらんか
左手蠅師子之 左は初語にて、出ばへのしたる子といふこと也。今も物のはへあると云事あり。物のはつきりと目かどのありて、一きは美はしき事をいふ。こゝも出來ばへのあるうるはしき女子を見て、その人をおもひ慕ふから夢に見ゆると也。一説左手蠅は、小網をもてすなどりせし女子の夢に見ゆるとの義也。然らば此崎は水邊のさきと見ゆる也。小網はへしは、ちいさきあみをまきちらせし子といふ義と也。今も小網をさでといふ也。和名抄にも出たり。右兩説いづれか決し難し。ものをまきちらす事をいふは、ばえのかな也。打はへてなど云假名ははへ也。くずかづらなどのはふといふ時のはへもへ也
此歌の意、師説はたゞ出はへのしたる、うつくしき女子の夢に見ゆるといふ事を詠まんとて、あこの山をとり出てかくせると(506)詠みて、出はへのありし子といはん爲に、面白くよみくだしたる上手の作也。他説は小網を張つてすなどりなどをせし女の、忘れがたくて夢に見ゆるとの義也。あまの子などならばさもあらんを、たゞ女子の小網はへしといへるもいかゞあらんか。もつとも埼とよみ出たれば、そのあたりのあまの子の事にして詠めるか
 
安部宿禰年足歌一首
 
663 佐穗度吾家之上二鳴鳥之音夏可思吉愛妻之兒
さほわたり、わがへのうへに、なくとりの、こゑなつかしき、はしきつまのこ
 
作穗渡 さほと云ところよりなきわたる鳥也。佐穗は大和の地名也
音夏可思吉 此こゑなつかしきといはんために、なく鳥の序をよみ出たる也。上にこゝろはなくたゞ妻をうつくしむ心から、聲もあかずなつかしきといふ意計也。なつかしきといふ心にふたつあり。へだてさりて遠ざかりゐる人などをいふことに、なつかしきゆかしきなどいへども、此なつかしきはたゞうつくしむ心也
愛妻之兒 おもひづまのこといふ點は心得がたし。集中に愛の字、はしきともうつくしむとも讀みたれば、はしきと讀むべきなり。はしきはほめる詞也
此歌の意は妻をうつくしみたる義を詠める也
 
大伴宿禰像見歌一首
おほとものすくねかたみのうたひとくさ
 
像見 續日本紀卅五廢帝紀云、天平寶宇八年十月正E六位上大伴宿禰形見授2從五位下1。卷第二十九稱徳紀、神護景雲三年三月〔以2從五位下大伴宿禰形見1爲2左大舍人助1。〕卷第卅二、光仁紀寶龜三年正月〔大伴宿禰形見從五位上叙任の事見ゆ〕
 
664 石上零十方雨二將關哉妹似相武登言義之鬼尾
いそのかみ、ふるともあめに、さはらめや、いもにあはんと、ちぎりしものを
 
(507)石上 ふるといはん爲の序也。上代のうたの格皆かくのごとし。しかりとて當時またメッタと序詞をよむべきにあらす。縁をうけてよむべき也
歌の意よく聞えたり。妹と契りおきしからは、たとひ雨降ともたゞにはあらじと云意也。彼方より來るといひけるか。こなたよりゆかんとの意か。その意はわかち難し。妹と契りしとよみしやうに聞ゆれば、こなたよりゆかんとの意に聞ゆる也
 
安倍朝臣蟲麿歌一首
 
蟲麿 續日本紀卷第十二、聖武紀云、〔天平九年九月己亥、正七位上阿部朝臣蟲麻呂授2外從五位下1。〕孝謙紀云、〔天平勝寶四年三月甲午、中務大輔從四位下安倍朝臣虫麻呂卒〕
 
665 向座而雖見不飽吾妹子二立離往六田付不知毛
むかひゐて、見れどもあかぬ、わぎもこに、立わかれゆかん、たづきしらずも
 
田付不知毛 むかひあるほど、したしくおもふまゝなることはあらぬを、それにすらあかぬに、何とぞ故ありて任國におもむく日、別れねばなり難きによりて、立わかれなばいかばかり悲しからん。たよりもなくせんかたも知らぬと也。たづきとは何とせん方も無き事を云へり。たよるべき力もなき事といふ意なり
 
大伴坂上郎女歌二首
 
666 不相見者幾久毛不有國幾許吾者戀乍裳荒鹿
あひみねば、かくひさしくも、あらなくに、こゝたくわれは、こひつゝもあるか
 
歌の意書面の通也。あひ見ぬことは未だ久しくもあらぬに、かくばかりもわれは戀わびるもの哉と、われから心を制したる也
 
667 戀戀而相有物乎月四有者夜波隱良武須臾羽蟻待
こひ/\て、あひぬるものを、つきしあれば、よはこもるらん、しばしはありまて
 
(508)月四有者夜波隱良武 未だ月の殘りたれば、夜はふかゝらん程に、立かへるなと示したる也。夜はこもるらんとは、いまだ夜の殘りたるらんとの義也
 
右大伴坂上郎女之母石川内命婦與安倍朝臣蟲滿之母安曇外令婦同居姉妹同氣之親焉縁此郎女蟲滿相見不疎相談既密聊作戯歌以爲問答也
 
内命婦 婦人の五位に叙せられたるを云也。ひめまちぎみ、ひめとねとも讀む。日本紀の點也
外命婦 五位の人の妻を外命婦といふ
此左注の意にては、むしまろ大伴女郎との問答のうた、戀歌の情にはあらず。したしみうとからざる相聞の歌と見る也。相聞の歌は戀慕の情にかぎらざる義といふとは、前にも記せし通也
 
厚見王謌一首
 
厚見王 孝謙紀。天平勝寶元年四月〔庚午朔丁未授2無位厚見王從五位下1〕
 
668 朝爾日爾色付山乃白雲之可思過君爾不有國
あさひ/\、にほへるやまの、しらくもの、おもひすぐべき、きみにあらなくに
 
朝爾日爾 古本印本共に、朝に日にとよませたり。諸抄物にも、朝に日にとは朝ごと日毎にと釋せり。然れどもあさに日にといふ義心得がたし。朝ごとにか日ごとにかといふてすむべきを、朝に日にとは信用し難し。これは古實の書法を傳寫にあやまりて、朝々日々と書たるを、々を爾に誤りしより如v此の點も出來たるなるべし。朝々日々ならば、あさひ/\とよむべし。あさけ夕けといふことあり。このけは助語にて、あさ/\といふ義なるべし。此集にも朝日かげにほへるといふ詞もあれば、あしたごとに日かげに匂ふ山のとよみたると見えたり。語呂のつゞきはあさに日にとよむ事聞きよけれど義不v濟。古實の書法を考へ合せてあさひ/\とは讀む也
色付 諸抄の説はいろづくとよみてもみぢのことにいへり。この歌秋の景をあらはしたることも見えず、紅葉のことゝ決す(509)べき處もなし。秋にかぎりたるところいかゞなれば、宗師案には、四季をわけず、たゞいつにても朝ごとに匂へる山に、白雲のたな引すぐる樣に思ひやるべきにあらずとよめる歌と見る也。思ひすぐべきは思ひを消しやらぬといふ義也。白雲はゐると見れども消えちりて過行くものなり。その如くには思ひ過難きと也。過行くものもて過ぎざることにたとへたる、古語皆この一格あり
 
春日王歌一首
 
第三卷にある春日王とは異なるべし。此歌のつゞきみな聖武孝謙の頃の歌どもなれば、是は元正紀にある春日王なるべし。續日本紀卷第九元正紀云、養老七年正月〔に、春日王の名見ゆ。〕古一本志貴皇子之子、母曰2多紀皇女1。考ふる處ありてか
 
669 足引之山橘乃色丹出語言繼而相事毛將有
 
此歌の意、語言繼而此四字誤字あらんか。てには聞き得がたければいかんとも點なし難し。よつて除2注釋1也。追而可v加2後案1もの也。別に拔萃せり
山橘 岩根などに生ふる草は、莖葉ともに少しくあかくて、秋のころ南天の實のごとき赤き實のなるもの也。もつともときは草也。祝のことに用ゆる草也。延喜式大甞會の供物の内にも山橘子と出たり
 
湯原王歌一首
 
670 月讀之光二來益足疾乃山乎隔而不遠國
つきよみの、ひかりにきませ、あしびきの、やまをへだてゝ、とほからなくに
 
月讀 神代卷上云、〔復洗2右眼1因以生神號曰2月讀尊1中略伊弉諾尊勅任曰、月讀尊者可3以治2滄海原潮之八百重1也。〕これによりて月のことを月よみとも月人をとこともいへり
足疾乃 あし病めば引く理りをもて義訓によましたり。此集中にもあしの病をよめるにも、更にあしびきのやまひともつゞけたる歌あり。畢竟山とつゞけん爲まで也
(510)山乎隔而 山路をも隔てぬところと聞えたり。とほからなくにといふにて、山をも隔てず近きあたりの人を待ちこひて詠めるか。近きあたりなれば、月の光にうかれ出てもとひきませとの意なり
 
和歌一首
 
作者未詳と目録に注せり。古一本には不審作者と書けり。前に湯原王といづれの女郎か贈答の歌あまたあり。その女郎の和歌の内ならんか。しかし夜來れとの歌なれば、上郎へ詠みかけたりとも不v覺也
 
671 月讀之光者清雖照有惑情不堪念
つきよみの、ひかりはきよく、てらすれど、まよふ心は、たへずおもほゆ
 
此歌の心は、先より月よみの光に出こよと詠みかけられて、月よみの光をすぐにうけて答へたる也。月の光はさやかに清く照すれども、戀路に迷ふこゝろは得あきらめず。しのびかねて思ふとの義也。來り不來のことにはとりあへず、おもひのことに詠みなしたる歌なり。一抄に雖照有をてらせれどと讀むべし。てらせどもとは有の字すたるとの事なれど、てらすれどもといふを、てらせどもと讀む事苦しからず。すれをつめてはせになる也。照せどもは、照すれどもといふ義也
 
安倍朝臣蟲麿歌一首
 
672 倭文手纏數二毛不有壽持奈何幾許吾戀渡
しつたまき、かずにもあらぬ、いのちもて、などかくばかり、わがこひわたる
 
倭文 日本紀神代の下、倭文神の下に注出でたり。印本に父の字を書けり。一説に倭布を、しどりともいへば布父音通じてかけるかと云。きはめて文の字の誤字なるべし。しづ手まきは、しづのをだまきの事なるべし。をだまきは麻環也。和名抄に、卷子、へそともいふ。丸きかたちにて中に穴あれば、ほぞに似たるからへそともいふならん
數二毛不有 いやしきしづのたまきなれば、玉の數にもあらぬといふ義也。身を卑下していへり
壽持 かずもなきいのちといふ意、又數ならぬ身にてといふ意と兩義也
(511)歌の意は、數ならぬ卑しき身にて、何卒かくばかり戀ひわたるらんと、おもひの切なるあまりに身をも恨みて詠める意なり
 
大伴坂上郎女歌二首
 
673 眞寸鏡磨師心乎縱者後爾雖云驗將在八方
ますかゞみ、とぎしこゝろを、ゆるしては、のちにいふとも、しるしあらんやも
 
眞寸鏡 下のとぎしと云はん爲に、先づかく詠み出せり
磨師 といといふ意にかけたるもの也。利心疾心などいふ意也。疾心とは思ひにはやり進んで氣のせくなどいふ義也。それを鏡をとぐといふ義に云ひかけたり。またわが心に曇り無きといふ意にも詠めり
縱者 はやりすゝむ氣をゆるめて、なげやりにして後に、いかに云ふともしるしあるまじければ、とくと心をゆるめず思ふ人に逢はんとの意也
 
674 眞玉付彼此兼手言齒五十戸常相而後社悔二破有跡五十戸
まだまつく、をちこちかねて、いひはいへど、あひてのちこそ、くいにはありといへ
 
眞玉付 緒といふ詞にかけたるもの也
彼此兼手 かなた、こなたとかねていへどといふ義なり。行末今のことをかねて、かなたこなたといへどもと也
相而後社 あふて後に悔いもあらめ。かねてをちこちのことを云ふても、逢はぬさきは定まらぬ義、あふて後にこそ悔む義もあらめと云義にて、未だあはぬことを恨みたる歌の意なり。今かくかなたこなたと、行末當然の事は云ひは云へども、あひて後にこそ悔いもあるべけれと計の歌にて、さのみ深き意をこめたる歌とは聞えざる也
二破 今時の歌の風體には、心得がたき詞なり。上代の口風皆かくのごとく詞にタケをよみ入れたるは、上古はうたひたるもの故音便の短長によりて、かやうのてにはいか程もある也。唐の詩も同前也
五十戸 いはめといふ略也。はめを略すればへ也
 
(512)中臣女郎贈大伴宿禰家持歌五首
 
675 娘子部四咲澤二生流花勝見都毛不知戀裳摺可聞
をみなへし、さきさわにおふる、はなかつみ、かつてもしらぬ、こひもするかも
 
娘子部四 戀歌にてしかも女の歌故、をみなめしを詠みいでたり。何草にてもよみ出づべき事なれど、をみなへしと詠み出たるはその縁をもとめてなり
咲澤 さきさわとよむべし。埼澤といふ地名有也。和訓の内也。佐紀王などと云名も地名によつて名付けられたるもの也。さく澤と云てはおしなべての澤になる也。尤地名とおしなべての澤のたがひによる事はなけれど、先地名あればそことさすべきこと也。さなければをみなへしと詠み出たるところすまぬを、をみなへしの咲く澤に、又かつみの花といふ事を入交へては六ケ敷也。たゞ地名のさき澤に生る花かつみをいはん迄の事故、女の戀歌故をみなへしとは詠み出たるなり
花勝見 まこもの事也。澤沼などに生る草也
都毛 此點にみやこもしらぬ、かつみもしらぬといふ點あり。さは詠み難し。かつてもしらぬといふにて、上のかつみを詠み出たる歌也。かつてといふはもとよりといふ意、又すべてといふ意もあり。この歌兩方ともに通ずる也。後の歌にも、花かつみを詠みて、それにはかつみもしらぬ、かつみる人などあり。その歌の意をもてかつみといふ點はつけがたし。都の字なればかつてとならではならぬ也
歌の意は、かつて見も聞きも知らぬ人に戀もする哉といふ義也。序歌也
 
676 海底奧乎深目手吾念有君二波將相年者經十方
わだのそこ、おきをふかめて、わがおもへる、きみにはあはん、としはへぬとも
 
何のふかき意も無きよく聞えたる歌也。わたのそこ、わたつみいづれにても苦しかるまじき也
畢竟ふかめてといはん爲の序にてふかく思ふといふ義也
 
(513)677 春日山朝居雲乃欝不知人爾毛戀物香聞
かすが山、あさゐるくもの、欝、しらぬ人にも、こふるものかも
 
此歌の意全躰は、たゞ見も知らぬ人にも心迷ふものかもといふ、未だ見ぬ人をこふといふの意也。中臣女郎未だ家持を見も知らざれど、こひ慕ふと聞えて前のかつみの歌も同じ意也
欝 此點いかにとも決し難し。集中あまたありて先はおほゝしくと讀みて、その義いかにといふ事不v被v解。覆敷にてものゝおぼえたる樣にて、しかと見知らず。さだかならぬといふ義にて、おほゝしくと讀むと云説もあれど、未だ徹底せざれば訓をなさず。後案あるべき也。おぼつかなとも讀むべきか、雲のおほゝといふおほをうけて、知らぬ人をこふるはいかゞあらんやと、おぼつかなからんものなればかくも讀まんか。尚等類の歌あまたあり。引合せて可v考也
 
678 直相而見而者耳社靈剋命向吾戀止眼
たゞにあひて、みてはのみこそ、たまきはる、いのちにむかふ、わがこひやまめ
 
直相而 このたゞにあひては、いたづらにあひての意なるべし。たゞ見てのみなりとも、命にかはる程の戀をやめんとの歌なり
見而者耳社 今時の風体とは違ひたる詞なり。見てのみなりともやまんとの意なり
命向 此點いかにとも解し難し。然れ共先づ印本の點のまゝに附けおく也。命にむかふといふこといかにとも不v濟也。諸抄の説はいのち程大切なる捨てがたきものなけれども、それにむかふとは、それにあたる程の捨てがたき戀をも、見てはこそやまんとの義也と釋せり。此義難2信用1。いのちにあたるといふ義を、むかふとは外に例格あらばさもあるべけれども、いかにとも心得がたき也。よつて命向の字は注なしがたし。追而可v考
追考いのちにもかはる也。向、むかふはもかふ、むともと通ひ、ふははるを約していふ也。よりて向の字を書たる事當集の一格也
 
(514)679 不欲常云者將強哉吾背菅根之念亂而戀管母將有
いなといはゞ、しひんやわがせ、すがのねの、念亂而、こひつゝもあらん
 
此歌の意は、いなといひ給はゞ是非にともしひまじ。われのみおもひわびてあらんと也。然れども念亂而の字心得難し。すがの根の亂るゝといふ事心得ず。おもひといふ事も根によりどころなし。此三字誤字あるか。又は別訓あらん。ある抄には、はじめからいなとならば、無理にとはしひまじく、こひ亂れてあらんをと恨みたる歌と云説あれど、此始終の歌、皆いまだ見も知らぬ心の歌どもなれば、其意とも見えず。者の字は前にも注せるごとく、を、も、にとも讀むべきか
後案、念亂而の三字はこゝろ亂れてにて有べし。念の字意の字の誤か。また令の字衍畫かなるべし。すがの根は、こるとか、ころとかならでは續かぬ也。集中をかんがへ見るべし
 
大伴宿禰家持與交遊別歌三首
おほともすくねやかもち、ともどちとわかれてのうた三くさ
 
與交遊 朋友といふに同じ。しかればともどちと讀むべきか
 
680 盖毛人之中言聞可毛幾許雖待君之不來益
けだしくも、ひとのなかごと、きけるかも、こゝたまでども、きみがきまさぬ
 
盖毛 けだしくもとはうたがひの語也。何としてかといふ意に同じ。此意いかやうにか人の中言を聞きけるか。いかばかり待てど君の來り給はぬと也。幾許はかばかりともよむべし。かくばかりの略語也
歌の意注に不v可v及也
 
681 中々爾絶年云者如此許氣緒爾四而吾將戀八方
なか/\に、たえんとしいはゞ、かくばかり、いきのをにして、われこひんやも
 
(515)此歌の意は、通路をもたゆるとならばかやうにはこひ慕ふまじきを、さもなくて久しく隔りたれば、命にもかけて慕ひわぶると也
 
682 將念人爾有莫國懃情陣而戀流吾毳
おもふらん、ひとにあらなくに、ねもごろに、こゝろつくして、こふるわれかも
 
將念人爾有莫國 わがごとくおもふ人にはあらぬをといふ義也
歌の意は、われを思ふ人にはあらぬを、われはかくねんごろに心をつくしてこひ慕ふと也。かものもは例の嘆の詞なり
 
大伴坂上郎女歌七首
 
683 謂言之恐國曾紅之色莫出曾念死友
いふことの、かしこきくにぞ、くれなゐの、いろにな出そ、おもひしぬとも
 
恐國 さかなきくにと點をなせるは、歌の意は聞えたれど、恐の字さかなきと讀まんこと心得がたし。おそるゝともおそろしとも讀みたれば、おそろしきといふ心に通ふ義をもて讀ませたるか。かしこきとよみても、おそろしといふ意なれば、かしこきと讀まん方然るべからんか
歌の意、人のものいひさがなき國なる程に、色になどあらはして人にいひさわがれな。深くつゝしみてしのべと制したる歌也。拾遺集遍昭歌には、さかにくきとも詠めり。さかなきとの事也
 
684 今者吾波將死與吾背生十方吾二可緑跡言跡云莫苦荷
いまはわれは、しなんよわがせ、いけりとも、われによるべしと、いふといはなくに
 
云跡云莫苦荷 いふといはなくにとは、中だちの人のいはぬと云義なり。此句聞き得がたき句なれども、諸抄の説皆かくの如し
歌の意は、迚もこひ慕ひても、思ふ人のわれにより從ふべきとも、人傳だにもいはねば、今は思ひわびて死なんと也
 
(516)685 人事繁哉君乎二鞘之家乎隔而戀乍將座
ひとごとの、しげみやきみを、ふたさやの、いへをへだてゝ、こひつゝをらん
 
二鞘之家乎 下のへだてゝといはん爲の序也。刀を入るゝものをさやといふ。家も人の身を入る物故さやのいへとは讀める也。喩にとりて讀める也。一つ家なればへだてねど、二つの家故隔てゝとはいへる也。人ごとのしげきやのやは、助字なり。しげき故に家を隔てゝ居ると也。しげきにいふべきてにはに聞ゆる歌也。然れどもやとよめるは、歌の風躰時代によるてにはと見るべし。疑ひのやと心得ては歌の意違也。凡てこの集中かやうのてにをは多き也。心を付けて見るべし。此の二鞘といふ義に付て、日本紀に七枝刀をなゝさやかたなと點を付けたる事あり。これは七のまたある刃ものと見えたり。古今六帖にかたなの歌に、あふことのかたなさしたるなゝつこのさやかに人のこひらるゝかなとよめる歌あり。また同鞘の歌、なゝつこのさやのくちくちつとひつゝ、この二首も、日本紀の七枝刀といふをとりてよめる歌と聞えたり。二さやとよめるは、むかしはさやを二重にこしらへたるか。今も旅行には、ひきはだといふものを、皮にてこしらへさす也。上古はもし二重にさやをせし故かくよめるか。此歌の二さやは、二人別々に居て二つの家に隔てゝあるから、ふたさやとはよめると聞ゆる也。唐にては刀のさやを室ともかけり。史記荊軻の傳を可v見。又春申君傳にも見えたり。みな劍室と書けり
歌の意は、人ごとのしげければ一所にもあられねば、家を隔てゝこひ/\てをらんと也
 
686 比者千歳八往裳過與共吾哉然念欲見鴨
このごろは、ちとせやゆきも、すぎぬると、われやしかおもふ、みまくほりかも
 
千歳八徃 しばしあはざりしをも、千とせも過るやとおもはるゝは、見まくほしき故となり。かもは見まくほしきといふ意を嘆じて、かもとはとぢめたる當集の通例なり
然念 は、さおもふ也。千とせ過るやと思ふは、見まくほしき心にかく隔たりたるやうに思ふと也。毛詩に一日不v見如2三歳1兮といふ意もこれに同じ
 
(517)687 愛常吾念情速河之雖塞塞友猶哉將崩
うつくしと、わがおもふこゝろ、はや河の、せくともせくとも、なほやくづれん
 
愛常は 親しみうつくしみ慕ふこゝろ也。うつくしむともいひて、めで愛する義也。そのめでおもふこゝろをつゝみて、あらはさじとするとも、はやき川をせく如く、何程せきとめても跡よりくづるゝやうに、つゝみかねてあらはれんと也
猶哉 なほやまたといふ義也。然るにこゝの詞には、少し叶ひ難きやうなれど、くづれて又くづれ/\するといふ意にてなほやとよめる也
 
688 青山乎横※[殺の異体字]雲之灼然吾共咲爲而人二所知名
あをやまを、よこきるくもの、いちじろく、われとゑみして、ひとにしらるな
 
青山乎 あを山を雲のよこぎるは、あらはにいちじるきもの也。その如く思ふ人を見あはせて笑める顔は、知れやすきものなれば、相かまへてつゝしめと下知したる義也。よく聞えたる歌也
灼然 日本紀には尤といふ意にも通ひて、いやちこなりと讀ませたり。尤あきらかなりといふ意なるべし。字書に赧也といふ字義あれば、あきらかなる意なり
 
689 海山毛隔莫國奈何鴨目言乎谷裳幾許乏寸
うみやまも、へだたらなくに、いかにかも、見ることをだにも、こゝたともしき
 
海山毛 うみ山をも隔てず近くあるに、見ることだにもかくともしきぞと歎きたる也
目言乎谷裳 或抄に見ることをだにもとは不v可v然。日本紀に物いはぬを、まことゝはぬと讀ませたれば、まみむめもの通音にてまことをだにもとよむべしと也。然れどもこの歌上にうみ山もと詠み出でたれば、見ることをだにもと義訓に讀めること尤なるべし。このところものいふことは似つかぬ也。海山も隔てぬといふには、見るといふ義は縁あり。ものいふことの縁は無き也
(518)乏寸 は前にもいくらもありて、すくなきといふ義なり
 
大伴宿禰三依悲別歌一首
 
690 照日乎闇爾見成而哭涙衣沾津干人無二
てれるひを、やみとみなして、なくなみだ、ころもぬらしつ、ほすひとなしに
 
此歌はよく聞えたる歌なり。不v及2細注1也。ほす人なしにとはおもふ人にあたりて詠める也
 
大伴宿禰家持贈娘子歌二首
 
691 百磯城之大宮人者雖多有情爾乘而所念妹
もゝしきの、おほみや人は、おほかれど、こゝろにのりて、おもほゆるいも
 
雖多有 おほくあれども也。それをおほかれどとも讀む也
情爾乘而 此句難解詞也。先はこゝろに叶ひてといふ義、俗に氣に入てなどいふと同じ意と見る也。のりてといふ事すまぬ詞也。第二卷目にも、いもが心にのりにけるかもと詠めることあり。まづ心にかなひたるといふ義と釋して、その叶ひたるといふ義を、のりとは何とていへるぞといふ釋未v濟也
歌の意は大宮人はかず/\あれども、我心に叶ひておもふ人は妹ひとりといふの意也
 
692 得羽重無妹二毛有鴨如此許人情乎令盡念者
うはべなき、いもにもあるかも、かくばかり、人のこゝろを、つくすとおもへば
 
相羽重無 前にも注せる如く、うへなきつれなきの人といふ義也。つれなき人は、これより上はあるまじきとの義也
令盡念者 つくさしむればと云意なり。それを約してつくすとおもへばと讀む也。つくさすといふ詞を約すれば、つくすといふ詞になるなり
(519)歌の意は、つれなき事のうへもなき妹かな。かく人に心をつくさしむることをおもへばと也
 
大伴宿禰千室歌一首 未詳
 
693 如此耳戀哉將度秋津野爾多奈引雲能過跡者無二
かくのみに、こひやわたらん、あきつのに、たなびくゝもの、すぐとはなしに
 
秋津野爾 前に注せり。大和の地名雄略天皇の御時の古事ある野の名也
雲能過跡者無二 あきつ野にたな引雲は過行てちるもの也。その如くにおもひはさりやられずして、ひたもの/\跡よりはおもひのますといふ意也。過行もの故、わがおもひをけしやらぬことにいひなぞらへたる歌也。又一説雲は跡から/\過行ても、また立ちそひてたえぬといふ意に、わがおもひのやまぬことをたとへ詠める歌とも見ると也。好むところにしたがふべし
 
廣川女王歌二首
 
廣川女王 讀日本紀卷第二十四廢帝紀云。天平寶字七年正月甲辰朔、壬子、無位廣河王〔授2從五位下1。〕印本の續日本紀文字脱落多ければ、女王の女の字を脱せるか。古一本傍注に、穗積皇子之孫女上道王の女也とあり
 
694 戀草呼力車二七車積而戀良苦吾心柄
こひぐさを、ちからぐるまに、なゝぐるま、つみてこふらく、わがこゝろから
 
戀草 すべての草をさしていふとの事なれど、宗師傳にはこひ草といふ草あり。一種にはあらねど名付くるところゆゑあり集中百家の傳とす。秘傳書に注せり
力車 大車のことをいへり
七車 數多きことをいへり。大成車幾許にもつみて人をこふことの多きと也。たゞおもひの數々つもりてこふるといふ儀、つみて戀らくと也。畢竟わがこゝろからおもひのかず/\やまぬとの歌也。六帖には車の歌に載せて、下の句をつみてもあ(520)まるわが心かなと直せり。狹衣にも、なゝ車つむともつまじおもふにもいふにもあまるこひ草はこれと、此歌にもとづきてよめり
 
695 戀者今葉不有常吾羽念乎何處戀其附見繋有
こひはいまは、あらじとわれは、おもへるを、いづこのこひぞ、つかみかゝれる
 
戀其附見繋有 こひと云はどろのことなれば、このつかみかゝれるといふ義もいはるゝ也
歌の心は、戀といふこひはつくしたるわれなれば、もはやこひといふものは世にあるまじきと思へるに、かくおそろしく戀したふ事の切なるは、いづこよりか戀の出できて、熊わしなどのつかみかゝる如くに、われにこひの出來たるぞと俳諧によみなせる也。十卷目の歌にも、戀のやつこのつかみかゝりてと詠める歌あり。此意も同じ
附見 は※[爪+國]攫の字の意也。字書云、※[爪+國]、爪持也
 
石川朝臣廣成歌一首
 
古一本、後賜高圓朝臣氏也。續日本紀孝謙紀天平寶宇二年八月朔、〔從六位上石川朝臣廣成授2從五位下1〕
 
696 家人爾戀過目八方川津鳴泉之里爾年之歴去者
いへびとに、こひすぎめやも、かはづなく、いづみのさとに、としのへぬれば
 
家人 古里にのこし置たる妻をさしていへる也。家室を家童子などいへり。令條にある家人奴婢は家人にはあるべからす。尤も古郷をしたふ意なれば、いづれにても同じ意ならんか
戀過目八方 おもひ過やられぬといふ意也
泉之里 山城なり。天平十二年の冬、山城の恭仁の都へ遷都以後ならの都に妻をおき、その身泉の里にありて詠める歌なるべし。かはづ鳴くと詠めるに意はなし。下のいづみの里をいはん爲の縁まで也
 
(521)大伴宿禰像見謌三首
 
697 吾聞爾繋莫言苅薦之亂而念君之直香曾
わがきゝに、かけてないひそ、かりごもの、みだれておもふ、きみがたゞかを
 
繋莫言 わが聞くやうに云ふなどの意なり。われに聞けとものによそへていふなど云意とも聞ゆ。このかけてといふことば不v濟詞也。先これかれとッかけ合ひてといふの意、こゝからかしこへ離れぬことをかけてといふ也。集中にかけてといふ詞夥敷也。此釋未v決。前に釋たるはこゝよりかしこへかけりといふ意也。今少不v叶也
直香曾 一本に曾を乎に作れり。乎の字然るべし。句例多也。此たゞかといふ事不v濟也。假名書にたゞかをとあれば、別訓あらんとも不v覺。諸抄の説は、ありか、あたりなど云説あれど、何れも義相叶へりとも不v覺也。追而可v考。まさかと讀める歌もあり。同事の義といへる説あり。いづれも不v濟也。よりて此歌の注しがたし
 
698 春日野爾朝居雲之敷布二吾者戀益月二日二異二
かすがのに、あさゐるくもの、しき/\に、われにこひます、よひ/\ごとに
 
朝居雲之敷布二 朝ごとにある雲の絶ゆること無き如く、戀のしげくますとなり。しき/\はしげきと云ふ義、前に幾度も注せり
月二日二異二 此義いかにとも解し難き詞なり。諸抄の説月ごとに日ごとにといふ義と也。然れ共其分にてはいかにとも不v通也。月二日二は前にも注せる如く、古實の書法を誤りて二文字に書きなしたり。月は夜、日はひるの事を云たる事にて、夜日/\とは讀む也。異にといふことは、勝殊の字をけにとよむ意とは、此のけにはあはず。よりてことにとよみて、毎の字の意と見る也。尚此月二日二けにと詠める歌數多し。このところ/”\にて注すべし
歌の意はあさ毎にゐる雲の如く、しき/\にたえず夜に日に戀のますと云迄の意也
 
699 一瀬二波千遍障良比逝水之後毛將相今爾不有十方
(522)ひとせには、ちたびさはらひ、ゆくみづの、のちにもあはん、いまならずとも
 
此歌の意は、今は樣々のさはりありて、あふことの叶はずとも、末にてなりとも、とにかくあふべきといふ意なり。崇徳院の御製の瀬をはやみの御心と同じ歌也
良比 はり也。さはり也。岩にせかれものにせかれて、さはりゆく水の末は、遂にも流れあふものなれば、今こそかくさはりありてあふことならずとも、後には遂にあはんと也
 
大伴宿禰家持到娘子之門作歌一首
 
700 如此爲而哉猶八將退不近道之間乎煩參來而
かくしてや、なほやかへらん、ちかゝらぬ、みちのあひだを、なづみまうきて
 
歌の意は此まゝにや歸らん。はる/”\と遠き道をまうきて、あはで空しくかへる事を歎きたる也。端作りにかどに至てとあるにて、歌の意明か也
 
河内百枝娘子贈大伴宿禰家持歌二首
かはちのもゝえのいらつこ、おほとものすくねやかもちにおくるうたふたくさ
 
河内百枝娘子 未考
 
701 波都波都爾人乎相見而何將有何日二箇又外二將見
はつ/\に、ひとをあひ見て、いかならん、いづれのひにか、またよそにみむ
 
波都波都爾 わづかの意也。ものゝたらはぬ事をはつ/\といひ、すこしき事をはづかになどいふ意と同じ。然れども少の間あひ見たる意也
又外二將見 いつ方にてか又あひ見んと也。或説に外人にみん、はづかにあひ見てだに、おろそかには思ひ捨てられぬとの(523)意とも解したり。六ケ敷見やう也
 
702 夜干玉之其夜乃月夜至于今日吾者不忘無間苦思念者
ぬばたまの、そのよのつきよ、けふまでも、われはわすれず、まなくしおもへば
 
あひ見しその夜のことを、けふまでもおもひ出て忘られぬは、そなたをのみまなくも戀ひしたへばといふ意也。別意なき歌なり。はつ/\に相見し歌に都合する歌と聞ゆる也
 
巫部麻蘇娘子歌二首
かんなぎべのまさのいらつこうたふたくさ
 
未考
 
巫部 續日本紀文武紀に巫部宿禰博士と云者あり
 
703 吾背子乎相見之其日至于今日吾衣手者乾時毛奈志
わがせこを、あひみしそのひ、けふまでも、吾ころもでは、ひるときもなし
 
其日 その日よりけふまでもといふ意に見るべし。あふて嬉しき涙にぬれ、わかれて慕ふ涙にひぢて、けふまでも袖のひる時無しと也。よく聞えたる歌也。少し詞不v足やうなれど此格何程もあり
 
704 栲繩之永命乎欲苦波不絶而人乎欲見社
たくなはの、ながきいのちを、ほしけくば、たえずてひとを、みまほしとこそ
 
栲繩 たくの木は布絹になるもの也。たくにて糾ひたるなはを云。強きものなり。繩はたくるもの故との説は不v足v論也。栲の字前に注せり。楮の字のあやまり也。一本誤來りて數本こと/”\く同v之して萬世の誤になる也。永命といはんとてたくなはとは云いでたり
(524)欲苦淡 いのち長かれとおもひ欲するはと云義なり
不絶而 たくなはの縁ありて、命たえずまた中絶えず人を見まくほしきにこそ、命長かれとほりすると也。或説に命ながからんと願ふ人はあひも見ずたえもせずして、人をあひ見まくほしくてのみ戀ひをれとの意なりと云へり。聞き得がたし
 
大伴宿禰家持贈童女歌一首
 
705 葉根※[草冠/縵]今爲妹乎夢見而情内二戀度鴨
はねかづら、いませるいもを、いめに見て、こゝろのうちに、こひわたるかも
 
葉根※[草冠/縵] 花かづら也。なとねと通ふ也
今爲妹 童女の始めてかんざしする、そのかんざしのかざりに花をかざる也。それをいまする妹とは詠めり
歌の意聞えたる通也。歌をおくる童女の、かんざしをはじめてする姿の美はしき躰をば目に見しより、言にもいでず心の内におもひわびこひ慕ふと也
 
童女來報歌一首
 
706 葉根※[草冠/縵]今爲妹者無四乎何妹其幾許戀多類
はねむづら、いまするいもは、なかりしを、いかなるいもぞ、こゝたこひたる
 
此歌の和への意は、はなかづらをする妹を夢に見てこひ給ふとあれど、われはまだはなかづらはせぬが、その人は何の妹ならん。われにはあらじと也。夢には見たまへども、うつゝには花かづらをいまするもの無しと也
 
栗田娘子贈大伴宿禰家持歌二首
 
娘子 未v考
 
707 思遣爲便乃不知者片※[土+完]之底曾吾者戀成爾家類
(525)おもひやる、すべのしらねば、かたもひの、そこにぞわれは、こひになりにける
 
思遣 思ひをけしやるやうを知らねば也
乃 此の乃の字なと讀むべきか。のと讀みては、下の不知者の三字を、知れねばと讀まねばつゞき難き詞也。又知れねばと讀みては歌の意おだやかならず。此義不v詳也。若しなければと義訓に讀む例もあらんか
片※[土+完] かた思ひによせて、わればかり戀ひわびて、おもひをけしやるすべも知らねば、かたおもひ也。それによせて也。片※[土+完]はかた/\に口のある水など入る器物也。倭名鈔巻第十六瓦器類部云、※[怨の心が皿]、説文云、※[怨の心が皿]【烏管反、字亦作椀、辨色立成云、末利、俗云毛比】小盂。神代下卷云、持2玉鋺1汲2玉水1。延喜式第一巻、神祇一、四時祭上、供2神今食1料の條に片椀【かたもひ】とあり。此歌の意をもて考ふれば、神代卷の玉鋺の類なるべし。罐の類をいふたるものか。孟と缶と通ずる也。和名抄に※[怨の心が皿]小孟也と記したれば、とかくつるべなど同類と見ゆる也
戀成爾家類 ※[土+完]の底にたまりてどろとなりたると也。こひとは※[泥/土]の事也。かたおもひ故、そこにたまりてどろとなると字義によせて讀めり
全躰の歌の意は、思ひをけしやるべきせん方も無ければ、かた思ひの戀にしづみ果つる也
 
708 復毛將相因毛有奴可白細之我衣手二齋留目六
またもあはん、よしもあらぬか、しろたへの、わがころもでに、いはひとゞめん
 
因毛有奴可 またあふ代又夜しもあらぬかと也。あらぬかとはあれかしと願ふ也。あふ夜よしもあらばと云意也
齋留目六 いつきとゞめんか。又いはひとどめんともか。いつきのいは寐のい也。寝付とゞめむいみとゞめむなれば、又別るゝ事無き樣にいみ止めむと也。此歌は全躰鎭魂の意をふくみて仕度したる歌也。衣手にいつきとゞめんといふ事、これ人だまの飛を見て讀む歌、俗にいひならへる如く、結びとめたる下|かへ《マヽ》のつまといふ諺あり。此意をもて詠みたると見ゆる也。復の字を書たるも、これたまよはひと讀ます字也。よりて鎭魂の意をもて讀みなしたる歌と見る也
 
(526)豐前國娘子大宅女歌一首 姓氏不詳
 
第六卷にも豐前國娘子月歌一首とあり。或抄に娘子字日2大宅1とあり。傳未v考
 
709 夕闇者路多豆多頭四待月而行吾背子其間爾母將見
ゆふやみは、みちたづ/\し、つきまちて、ゆかんわがせこ、そのまにもみん
 
此歌の意、夫婦ともなひ行かんに、夕闇は道もたど/\しければ、月を待ちて出行かん。その間も吾せこをあかず見行かんと云意か。至つてむつまじき意をいひたる歌也。又行の字をゆけやと讀む説もあり。それは月の出るを待つあひだにも、相見んと云意とも聞ゆる也
 
安倍扉娘子歌一首
 
傳未v考
 
710 三空去月之光二直一目相三師人之夢西所見
みそらゆく、つきのひかりに、たゞひとめ、あひみし人の、ゆめにしみゆる
 
歌の意かくれたるところも無くさやけくも聞えたり。戀わぶるといふことを云はずしてこひ慕ふ意、おのづから知られたり
 
丹波大娘子歌三首
 
目録には大女娘子と有也。傳未v考
 
711 鴨鳥之遊此池爾木葉落而浮心吾不念國
かもどりの、あそぶこの池に、このはちりて、うきたるこゝろ、わがおもはなくに
 
此歌の意は、たゞうきたる根の無き心には、思はぬ眞實深くおもひ入りたるといふ義を、池にこの葉の散りて浮きたる如く、そことしもさだかならぬ心にては無きと、たとへにとりて詠める也。うきたると云はんまでに、かくかも鳥から云ひ出たる序歌(527)也
 
712 味酒乎三輪之祝我忌杉手觸之罪歟君二遇難寸
うまざけを、みわのはふりが、いはふすぎ、てふれしつみか、きみにあひがたき
 
味酒乎 この冠辭の事前にも注せり。土佐風土記の説古説なれども、宗師案にはさかづきをみと云ふより、うまざけをみとうけたると聞ゆる也。此乎の字乃の字にてあるべきかと云説あれど、みとうけるなれば乎にても不v苦也
忌杉 齋杉も同じ。神としていはひまつる其の神木に手を觸れたる罪咎にや、思ふ人にあひ難きと也。第七卷旋頭歌にも、いはふ杉はらと詠めり。歌の意よく聞えたり
 
713 垣穗成人辭聞而吾背子之情多由多比不合頃者
かきほなす、ひとごときゝて、わがせこが、こゝろたゆたひ、あはぬこのごろ
 
垣穗成 かきほのものを隔つる如くと云義也。なすは如くといふ古語也
情多由多比 たゞよふといふも同じ。猶豫しためらふ也。中言をいふ人ありしか、そのことを聞きて、心にうたがひをなし、相へたゞりたると聞えたり
 
大伴宿禰家持贈娘子歌七首
 
714 情爾者思渡跡緑乎無三外耳爲而嘆曾吾爲
こゝろには、おもひわたれど、はしをなみ、よそにのこして、なげきぞわかす
 
縁乎無三 よしをなみと點あれども、上におもひわたるといふ縁ありて、縁の字はしと讀む事古訓の證あり。よしとも讀むべきところもあれど先は不v可v好。殊に此所は上にわたるとあれば、はしと讀む事可v然歟。次の歌に河の事もよめり
歌の意は心にいか計おもひわたれども、いひよるべきはしもなき故、たゞよそにのみ見なして心ひとつに歎き慕ふと也
 
(528)715 千鳥鳴佐保乃河門之清瀬乎馬打和多志何時將通
ちどりなく、さほのいはどの、きよきせを、うまうちわたし、いつかゝよはむ
 
河門 水門河門瀬門などいふてつけ詞也。尤もその所ありて水のさかんに流るゝ處をさして云ひたるもの也。門に意は無くたゞ河といふまでの事なり
清瀬 いさぎよく澄める瀬にて、思ふ人にあふことの叶ひて行通ふならば、心もいさぎよく、こゝろよく來よからんと云意を含めてきよき瀬と也。その瀬をいつか馬にて打わたり通はんと、未だ戀の叶はぬことを歎きて詠める歌也
 
716 夜畫云別不知吾戀情盖夢所見寸八
よるひると、いふわきしらず、わがこふる、こゝろはけだし、ゆめにみえきや
 
此歌の意は、かく夜昼のわきも無くこひ慕ふ心の、せめてそなたに通じて夢には見えずやと也。又の説、情にと讀みてはおもふ人のわが夢に見えけるにと云儀もあり。兩説と見る也。然れば心にと云てには也
 
717 都禮毛無將有人乎獨念爾吾念者惑毛安流香
つれもなく、あるらんひとを、かたもひに、われしおもへば、わびしくもあるか
 
都禮毛無 つれなくあらんを也。もは助字、言葉をゆるやかに讀める也。そなたには何とも思はず、われのみ獨りおもひわぶるをも知らで、つれなくあらんをと也
獨念 獨り思ふなれば片おもひの義訓にて、片※[土+完]と讀みし句例もあり
惑毛安流香 まどひもあるかとの點は心得がたし。第九卷にも惑者と書てわびと點をなせり。惑の字わびと讀むこともその義不v詳ども、先その例に准じてこゝもわびしくもと讀む也。わびといふは、なやみわづらふ義なれは、此歌の意も叶ふ也
歌の意は、かくばかりわれは獨りのみ思ひ慕ふことも知らで、つれなくあらん人を片思ひに思へば、さてもわびしくもある哉と歎ける歌也
 
(529)718 不念爾妹之咲※[人偏+舞]乎夢見而心中二燎管曾呼留
おもはぬに、いもがゑまひを、いめにみて、心のうちに、もえつゝぞをる
 
不念爾 おもひもよらず也
咲※[人偏+舞] ゑめるありさまを也。まひは振舞の事にて、ゑめるをといふても同じ
燎管 思ひのもゆると云義也。おもひのひを火にとりたる也。もえるは思ひのやまずつのると云ふ義也
歌の意聞えたる通也
 
719 大夫跡念流吾乎如此許三禮二見津禮片思男責
ますらをと、おもへるわれや、かくばかり、みつれにみつれ、かたもひをせん
 
大夫跡念流吾乎 われは丈夫と思ひたれど、かく思ひに疲れて甲斐無く、片思のみして、丈夫ながら思ひきりをだにせぬと也
三禮二見津禮 身やつれ疲るゝ也。日本紀に、羸の字をみつれと點をなせり。然ればみつかれの意なり。宗師案は、みだれに/\と云義とも見ゆる也。心の亂れにといふことを、つとたと濁音相通にいひたるものかと也。然れども羸、つかれと古く讀み、日本紀にもみつれと點をなせるをよりどころとすべき也
歌の意は、われはますらをと思ひしが、かく身やつれ疲れて得おもひもきえず。片思ひをせんと也
 
720 村肝之情摧而如此許余戀良苦乎不知香安類良武
むらきもの、こゝろくだけて、かくばかり、わがこふらくを、しらずかあるらん
 
村肝之 群|木《コ》物、木とうけたる冠辭也。こはこゝらといふ意、多きと云義にて、むらきもの心とは讀みたるもの也。尤前に此注悉しくあり
戀良苦乎 戀るを也。るをのべてひく也。歌の意、かくばかり心をくだきこひわびるをも、先には何とも知らずあるらんと也ますらをの歌と引合せ見るべし。同意也
 
(530)献 天皇歌一首 古一本 大伴坂上郎女在佐保宅作也
 
右坂上郎女の注古注者の注歟。後人の傍注歟。考ふるところ無し
 
721 足引乃山二四居者風流無三吾爲類和射乎害目賜名
あしびきの、やまにしをれば、みやびなみ、わがするわざを、とがめたまふな
 
風流 第二卷に、たわれをと讀ませたる處に注せる如く、此二字はみやびとよまでは不v通。既にこゝにては、よしをなみと讀み前にては惡しき名にたはれをと讀みては、處によりて違ふべき樣なし。みやびは都ぶり等云意にて、よき振舞わざの事なり
歌の意、則足びきの山にしと讀みて、賤しき山がつの身と卑下して詠める也。山に住居れば、上つ方のよき風流の事は不2存知1。賤しきわざのみをなし侍らん程に、見きゝ許させ給へと身をおとし恐れて奉れる也。何とぞ故ありて奉りたるならん
 
大伴宿禰家持歌一首
 
722 如是許戀乍二有者石木二毛成益物乎物不思四手
かくばかり、こひつゝあらずば、いはきにも、ならましものを、ものおもはずして
 
不有者 死ばの意也。存在せずばとの意也。歌の意は、かくばかり戀ひわびて、命も終りて死なば、木にも石にもならまし。然らばかく物おもひをして、苦しきこともあらましをとの義也
 
大伴坂上郎女從跡見庄贈賜留宅女子大孃歌一首短歌
 
跡見 日本紀神武卷に烏見と有。此集中に跡見と書けるは此所なるべし。跡見赤檮氏も此地名をいへるか
 
723 常呼二跡吾行莫國小金門爾物悲良爾念有之吾兒乃刀自緒野于玉之夜昼跡不言念二思吾身者痩奴嘆丹師袖左倍沾奴如是許本名四戀者古郷爾此月期呂毛有勝益士
(531)とこよにと、わがゆかなくに、こがなどに、ものかなしらに、おもへりし、わがこのとしの、ぬばたまの、よるひるといはず、おもふにし、わがみはやせぬ、なげくにし、そでさへぬれぬ、かくばかり、もとなしこひは、ふるさとに、このつきごろも、ありがてましを
 
常呼二跡 とこよの國の事は前にも注せり。神代より不變の國也。仙境などと云べき所也。畢竟今日の世を離れ、凡見凡慮の不v及處と知るべし。方所をさしていはゞ至つて南ならんか。其故は、神代卷日本紀等の表をもて考へ知るべし。熊野の御崎などとあり。たぢ間守がよはの海をわたりてなどあり。伊勢の事にとこよのしき波よすると云ことなど引合、又垂仁天皇の時、たぢ間守が時じくの、かぐのみをとり來りし事、今きの國にみかんなど云名物の有につけても、と角南海の内にあること知らるゝ也。とこよにとわが行かなくにとは、二度あふことも無き戀愛の情も、離れたる國へ行く時は無きにと云意也
小金門 小は初語也。金門は、門戸はかねをもて餝り、くさり合するものゆゑ金とゝなり。日本紀第十三卷に、大まへの宿禰が歌にも、かねとかげと詠める也。金戸蔭也。しかれば母の郎女故ありて、とみの庄へ來りし時のわかれざまに、名殘を惜みて門戸に物わびしけに見送りたる時の有樣の、目に付くてふ心ちして忘られぬといふ義を、これより已下の句に詠みたり
物悲良爾 もの悲しう也。良はたすけ詞也。母のわかれ來し時、常よの國へも行く如く、死別のやうに女子の物悲しげにも歎きしありさまを思ひ出て、母の郎女のしたひ悲しむと也。このものかなしらは、むすめの悲みしことを云へる也。ものと云は惣躰をさして云へる也
念有之 むすめの思へりしと云義也。日本紀に、色の字を思へりと讀ませたるには別の義あらんか。歎きわびる景色の、あらはれたることを思へりといふ義ならん
刀自緒 女の通稱と聞ゆる也。老女のことをもとじといへども、此歌にて見れば通稱と聞ゆる也
念二思 母の女をしたひ思ふと也。にしは助語也
本名四 前にも注せる如く、よし無くとは解したれど未v決。先こゝもよし無くもかく戀ひぬればといふ意と見る也。かやうに戀ひわびるぞならば、やはりふるさとに此月ころもあらましをと也
(532)歌の意句釋にて聞えたる通也
 
反歌
 
724 朝髪之念亂而如是名姉之夢曾夢爾所見家留
朝髪の、おもひみだれて、かくばかり、名姉之戀曾、ゆめに見えける
 
朝髪 あさがみと讀むべきや。集中に類句無ければ別訓を可v案也。朝のかみはねくだれて亂れたるもの故、思ひみだれと云はん料におきたるとは見ゆれど、何かみとぞいふべき別訓あらんか。あさ髪とは少おだやかならぬ句也
名姉之戀曾 これを印本諸抄の點もなにのこひぞもと讀めり。心得がたし。先なにといふ義に名姉の二字を用ゐたるも珍らし。此歌ばかり也。用例外に無し。又そものもの字も無ければ、是を曾もと音の字につけ讀みはならぬと也。然ればなにの戀ぞもにてはあるべからず
名姉之戀曾 なねの戀はぞと讀むべき歟。なねは女をさして賞美して讀める意なるべし。名姉の二字を書きたるは、女をさしたる意を助けたる集格なるべし。何の戀ぞもと讀みては歌の意も聞き得がたし。後案可v有也。若しくは曾毛の毛の字を脱したらば、何の戀そもと讀むべき也。それにても戀ぞもとよみては歌の意聞えがたし
 
右歌報賜大孃進歌也
 
古一本に如v此注せり。普通の印本には無き也。衍文ならんか
 
献 天皇歌二首【古一本大伴坂上郎女在春日里作也】
 
725 二寶鳥乃潜池水情有者君爾吾戀情示左禰
にほどりの、かづくいけみづ、こゝろあらば、きみにわがこふ、こゝろしめさね
 
二寶鳥 倭名抄云、〔羽族部、鳥名、※[辟+鳥]※[遞の中+鳥]、訓、邇本杼理〕にほどりは水の底へかづき入て、深き心をも知るものなれば、わが心をこ(533)ひ奉る深き心を、心あらば君に告しらせ奉れと也。にほ鳥に下知したる歌也。一通にては、池水の情あらばと聞ゆれども、宗師は鳥に下知したると見る也。愚意未v決。池水の情とつゞくことは、すべて池、井には底にたまりたる泥のかたまりあるを心といふ也。井池にこゝろといふ事を讀むはそれ故也。こゝろはこるといふ意に讀みたる也。池井の底にはこりかたまりたる泥土のある、それをこゝろとは云也。こゝろあらばはあるならば也。しめさねはしめせよといふ意とおなじ
 
726 外居而戀乍不有者君之家乃池爾住云鴨二有益雄
よそにゐて、こひつゝあらずば、きみがへの、いけにすむちふ、かもならましを
 
不有者 死なばの意也。歌の意よく聞えたり。君にそひ奉らで如v此こひわび死なば、み池の鴨になりともなりて、君になれ奉らんをと也
 
大伴宿禰家持贈坂上家大孃歌二首 【離絶數年後會相聞徃來】
上略あまたのとしをたつといへども、またあふてゆきゝを相きゝ
 
727 萱草吾下紐爾著有跡鬼乃志許草事二思安利家理
わすれぐさ、わがしたひもに、つけたれど、鬼のしこぐさ、ことにしありけり
 
萱草 第三卷の歌に、わすれ草わが紐につくかぐ山のふりにし里を忘れぬか爲と詠めるところに注せり。おもひうれひを忘るゝ草と云傳へたり。毛萇詩傳等にも見えたり。何とぞ戀ひしたふことを忘れんと、下紐につけたれどといふ義也
鬼乃志許草 普通皆おにと讀ませ又しことも讀ませたり。おにと讀まんよりしこのかたよからんか。下のしこ草とつゞく縁に、しことも讀むべき事也。宗師案には、思の字などにてはあるまじきか。然らばもひのしこ草にて、おもひのしこり草といふ意にて、しこ草と詠めるかとなり。しことはあしきことをいへば、こゝも忘草を罵て詠めるとも聞ゆる也。しこ草はおもひこひの、猶しこるといふ意にて詠めるなるべし。扨しこ草を紫苑といへる説は、俊頼已來の説にて難2信用1也。此歌にては、(534)とかく忘草もしこ草も一種と見ねば歌の意不v通。或抄に事にしは異の字の意にて、惡草異にあると云の説は心得がたし。わすれ草といへ共かく思ひのしこり草なれば、言に云たる迄なりとの歌也。萱草をにくみて、しこのしこ草といへると見ゆる也
事二思安利家理 言ばかりなりと云意、此集中に此句數多也。異の意によみたり。歌不v覺也。ことにしとは詞にいひしばかりにて、その實は無きとの義なり
 
728 人毛無國母有粳吾妹兒與携行而副而將座
ひともなき、くにもあらぬか、わぎもこと、たづさひゆきて、たぐひてをらん
 
粳 もし糠の字の誤歟。音通る故義も兼用ゐらるゝ歟。可v考。あらぬかはかな、願ふ意にも聞ゆる也。あらばつれゆきて人に騷がれず、心のまゝにそひをらんにと、人めにせかれて心のまゝならぬ事を歎きて詠める歌也。追考、一本粳作v糠本あり。是とすべし
副而將座 たぐひは偶居の意、相そひてともに居らんと也
歌の意は、人目にせかれて心のまゝならねば、人の歎くにはあらぬか。ありなば妹とつれそひて、心のまゝにたぐひ住まんをと也。人のしげく、さまざまといひ騷がるゝことをいとひて歎きたる歌也
 
大伴坂上大孃贈大伴宿禰家持歌三首
 
729 玉有者手二母將卷乎欝膽乃世人有者手二卷難石
たまならば、てにもまかんを、うつせみの、世のひとなれは、てにまきがたし
 
歌の意、玉ならば常住手にまきもちて離るゝこと無くあらんを、人なれば人めをかくれて、さすがに心のまゝになれむつみもなり難きと、心にまかさぬことを歎ける也
 
730 將相夜者何時將有乎何如爲常香彼夕相而事之繁裳
あはんよは、いつもあらんを、なにすとか、かのよにあひて、ことのしげきも
 
(535)何時 諸本皆いつしかと點せり。二字にていつ也。しかと二言を添へてはかへつて歌の意聞えがたし。いつもにてよく聞えたる也。いつにてもあらん也
彼夕 あひたる夜をさして也。何どきもあふ時のあらんに、たま/\あひし夜のことのあらはれて、人ごとのしげきかなと歎きたる也。しげきもといふことは上代の風躰也。これ皆歎息のこと也。ことのしげきと云義也。何すとかは、何するとてか、かの夜にあひてかく人ごとのしげきぞと也
 
731 吾名者毛千名之五百名爾雖立君之名立者惜社泣
わがなはも、ちなのいほなに、たちぬとも、きみがなたてば、をしみこそなく
 
千名之五百名爾 さま/”\にいかほどたつといふとも也。わか名は惜まじ。きみの名の立つこそ惜しくて泣き悲むと也。此歌の名者毛といへるも、古詠の風躰、毛は助字也
 
又大伴宿禰家持和謌三首
 
732 今時者四名之惜雲吾者無妹丹因者千遍立十方
いまはし、なのをしけくも、われはなし、いもによりては、ちへにたつとも
 
者の字一本有に作るあり
今時者四 印本古本等みな、いましばしと點をなせり。心得がたし。今しばしといふべき處にもあらず。歌の意聞えがたし。よりて四言に讀んでたゞ今はと云義と見る也。或抄には、しばしと云しは二のし文字助語也と無理押の説あり。助語を入るゝところと不v入ところあるべきを、いかに詞にことを缺けばとて、こゝに二のしを助語には不v可v入。宗師案には者の字有と書きたる一本もあれば、これを正本とせば今はあれしと讀むべし。あれはわれ也。下にあれはなしといふことばもあれば、有の字ならば、ありあれと讀む字故、吾の字の意にてあれしと讀まんか
(536)歌の意はわが名のたつ事は、いか程に立つとも妹故にたつ名は厭はじと也
 
733 空蝉乃代也毛二行何爲跡鹿妹爾不相而吾獨將宿
うつせみの、よやもふたゆく、なにすとか、いもにあはずて、わがひとりねん
 
代也毛二行 二度は無き一度生れ出でたる代を、二度ゆきかへりする事は無きを、何をするとか、かく代を憚りて、戀したふ妹にあはず、離れてひとり寐んにと也。もはや堪かねて、名の出でんことも厭はず、代をば憚らじとの意なり
 
734 吾念如此而不有者玉二毛我眞毛妹之手二所纏牟
わがおもひ、かくてあらずば、たまにもか、まこともいもが、手にまかれなん
 
如此而不有 かやうにて死なば也。このあらずばも存在せずば也。玉にも我はかな也。濁音の字を書たるは願のかなとしるべし
よく聞えたる歌也。わが思ひのかやうにて遂に叶はずして死たらば、玉にもなりてかな。妹の手にまかれんものをと也
 
同坂上大孃贈家持歌一首
 
735 春日山霞多奈引情具久照月夜爾獨鴨念
かすがやま、かすみたな引、こゝろくゝ、てれるつきよに、ひとりかもねん
 
春日山 この山に意は無し。下の霞みといふ詞の縁に、かすが山とは詠み出たり。かやうのところ歌なり。いづこの山にても、霞たな引ものを、春日山と詠める所が歌の風情也。尤はるひ山と書きたれば、その意をもふくめるなるべし
情具久 心にくゝ也。てれる月の夜にひとりぬる事は心にくきと也。この夜あはれなるに、君と相ともにいねずひとり寐んことの心にくきと也。一説心苦しきといふ義なりともいへり。集中に此詞多し。心苦しき方にてはあはぬ歌もあり。此歌は苦しきといひても叶へるか。しかし心にくきは、君が來ることもあらんやと、心もと無くひとりかもねんと云歌と聞ゆる也
 
(537)又家持和坂上大孃歌一首
 
736 月夜爾波門爾出立夕占問足卜乎曾爲之行乎欲焉
つきよには、かどにいでたち、ゆふげとひ、あなうらをぞせし、ゆくをほりとぞ
 
歌の意、前の歌をうけて、月夜には門に出立て今宵は行かん、又行かまじきかと、うらなひをして色々と行かまほしく思ふと也
 
同大孃贈家持歌二首
 
737 云云人者雖云若狹道乃後瀬山之後毛將念君
かにかくに、ひとはいふとも、わがさちの、のよせのやまの、のちもあはん君
 
云云 とやかくにの意也。如v此々々と云義、今文にしか/\など書くも同じ意也。人にいひさわかれて、別れ隔つるとも、後々も遂には會はんとの意也
後瀬山 若狹道とあるから彼國にあるべし。未v考
將念 あはんと讀ませたり。念の字誤歟。念の字あはんとは讀み難し。わびんせと可v讀也
 
738 世間之苦物爾有家良久戀二不勝而可死念者
よのなかの、くるしきものに、ありけらく、こひにたへずて、しぬべくおもへば
 
有家良久 ありける也
歌の意、戀ほど苦しきものは無きと也。こひこがれ思ひわびて命も絶え死なんと思へばと也。不勝て、こらへかねて也
 
又家持和坂上大孃歌二首
 
739 後湍山後毛將相常念社可死物乎至今日毛生有
のちせ山、のちもあはんと、おもへこそ、しぬべくものを、けふまでもいけれ
 
(538)前の大孃より贈れる歌の後湍に答へたる也
念社 はおもふにこそとも、おもへばこそとも云意也。今かくても後には遂にあはんと思ふにこそ、死ぬべき命けふまでもながらへをれといふの意也
 
740 事耳乎後毛相跡懃吾乎會憑而不相可聞
ことのみを、のちもあはんと、ねもごろに、われをたのめて、あはざらぬかも
 
事耳乎 言のみにねんごろに、後にもあはんと云ひて、それを頼みさせてとかくあはぬかも。かくあふ事の叶はぬはと恨みたる歌也
令憑 われをたのませて也。ませの約めなり。よつてたのめてと讀む也。たのめてはたのませて也。かもはかなの意歎きたる言葉也
 
更大伴宿禰家持贈坂上大孃歌十五首
 
741 夢之相者苦有家里覺而掻探友手二毛不所觸者
ゆめ之相者、くるしかりけり、おどろきて、かきさぐれども、てにもふれねば
 
夢之 この之字不審、仁の字の誤歟。印本古本諸抄の點皆之字にて、のと讀み下をあひと讀む。夢のあひはと讀むべき歌詞とも不v覺。夢にあふはとならでは讀みがたし。之の字正本なれば夢のみはと讀むべし。夢のあひとはいかにとも詠み難し。決して仁爾の誤字と見るべし
歌の意はよく聞えたる也
 
742 一重耳妹之將結帶乎尚三重可結吾身者成
ひとへのみ、いもがむすばん、おびをすら、みへむすぶべく、わがみはなりぬ
 
(539)將結 妹に結ばせたらば、かくまで痩せ衰へず。一重に結ぶべき帶を、三重までむすぶやうに思ひに痩せたると也。古本印本諸抄の點結びしとよめり。將の字をしと讀むこと心得がたし
 
743 吾戀者千引乃石乎七許頸二將繋母神之諸伏
わがこひは、ちびきのいしを、なゝばかり、くびにかけても、かみのもろふし
 
千引乃石乎 日本紀神代卷にあり。又古事記八千矛神の古事あり。此歌は、古事記の古事を引きて詠めると聞えたり。歌の意、諸共にねんことを願ひたる意にて、畢竟千人して引石を七つもつけたる如き苦みをするとも、もろふしをせん爲ならば厭はじと也。神のもろふだのもろふしといはんとて神のといへり。社をみもろ、みむろといふから、神のもろとつゞけん爲也。尤古事記の古事を讀みたるもの故かくはつゞけたる也
 
744 暮去者屋戸開設而吾將待夢爾相見二將來云比登乎
ゆふされば、やどあけまけて、われまたん、ゆめにあひみに、こんといふひとを
 
設而 むかへてといふ義、まうけてといふ義兩義也
相見二 此言葉不v穩也。みゝしにとよまんか。夢にあひま見えに來らんといひし人をと云意歟。相見の二字別訓あらんか。先今のよみやうは、あひ見に來んと人のいひしといめに見しから、ゆふべにならば戸をあけて待ち居んとの歌と見る也
 
745 朝夕二將見時左倍也吾妹之雖見如不見由戀四家武
あさゆふに、みんときさへや、わざもこが、みれどみぬごと、なほこひしけん
 
此歌の意は、朝ゆふに見ん時さへ見あくまじきに、妹がかく見けれども見ぬ如くにすれば、猶戀しさのいやますと也
妹之 といふ之の字、乎の字の誤ならばまた意違ふべし。此歌は全體聞えがたき歌なれば、若し誤字脱字などあらんか
戀四家武 この詞も解しがたき也。先こひしきといふ意とは見れど、けんと留めたる詞解しがたし。これも武は茂の誤り歟(540)然らば戀しかもと止めてよく聞ゆれども、けんといふ詞六ケ敷也。又朝夕に見ても見ぬ如くに、わぎもが戀しきに、見ぬ時はいかばかり戀しからんといふ歌歟。隔句體に見るべきか。後考、戀しけんはせん也。せをのべたる也
 
746 生有代爾吾者未見事絶而如是※[立心偏+可]怜縫流嚢者
いけるよに、われはまだみず、ことたえて、かくもあはれに、ぬへるふくろは
 
此歌は大孃のかたより、衣裳を遣したる時の返禮の歌なるべし。次の歌にもかたみ衣をおくれるよしあれば、若し衣などを入れておくりたるふくろか。また上袍にかくぶくろと云ものあれば、衣のふくろのこと歟。令義解衣服令云、朝服條に曰、袋准2文官1
事絶而 言葉にいひ出されぬとの事也。いふべき言の葉も無き程に面白くぬへると云義也
※[立心偏+可]怜 は面白きといふ意、ほめたる義也
 
747 吾味兒之形見乃服下著而直相左右者將吾將脱八方
わぎもこが、かたみのころも、したにきて、たゞにあふまでは、われぬがめやも
 
直相左右者 一すぢにあふまではぬぐまじきと也。この歌を見れば、はじめは相かたらひむつみしが、故ありて離別したるよし聞ゆる也
 
748 戀死六其毛同曾奈何爲二人目他言辭痛吾將爲
こひしなん、それもおなじぞ、なにせんに、ひとめひとごと、こちたくわれせん
 
同曾 こひ死にたりとも人に云ひさわがされん事は同じければ、今はつゝみしのびて何せん。人目人言いたくとも打あらはして思ひをはらさんかと也。歌の意此通也
 
749 夢二谷所見者社有如此許不所見有者戀而死跡香
(541)ゆめにだに、みえばこそあらめ、かくばかり、見えずてあれば、こひてしねとか
 
此歌の意、夢にもせめて見えたらば、それをたのみに命もつゞきてあらんに、夢にさへ如v此見えて遠ざかれるは、われに死ねとの事かと也
 
750 念絶和偏西物尾中々爾奈何辛苦相見始兼
おもひたえ、わびにしものを、中々に、いかにくるしく、あひみそめん
 
此歌の意は、初はとても叶はじものと思ひたえて、思ひわびて過ぎしに、中々にあひみそめてより、いよ/\おもひのまさりて苦しめると也。あひ見ての後の心にくらぶればの歌の意也
 
751 相見而者幾日毛不經乎幾許久毛久流比爾久流必所念鴨
あひみては、いくかもへぬを、こゝたくも、くるひにくるひ、おもほゆるかも
 
久流比爾久流比 狂ひにくるひと云義と諸抄注せり。物ぐるはしき程におもひしたふ義と也。何とぞ見やうあらんか。未だ考ふる處無ければ先づ諸説にまかす
此歌の五文字あひ見てはと詠めること心得がたきやうなり。通例にはあひ見しはと讀むべき事也。然れども前の念絶の歌に次て載せられたれば、あはざる程はかく無かりしかども、相見てはいくかもへぬを、かく物苦しきやうに戀ひしたはるゝと聞ゆる歌故、印點の通に讀む也。尚後案あるべし。歌の意はよく聞え侍る也
 
752 如是許面影耳所念者何如將爲人目繁而
かくばかり、おもかげにのみ、おもほへば、いかにかもせん、ひとめしげくて
 
此歌の意、かくばかりおもかげに立ちそひて、思ふ人の見えて思ひ慕はるればいかゞせん。されども人めのしげければ、心のまゝにあひ見ることもならねばいかゞせんと也
 
(542)753 相見者須臾戀者奈木六香登雖念彌戀益來
あひみては、しばしもこひは、なぎんかと、おもへどいよゝ、こひまさりけり
 
奈木六 なぎんもなごむも同じ。俗にいはゞやはらぎ靜まるかとおもへどといふ義也。なほるかといふ意にも通ふ也。然れば戀のつのらずして、やみやむかと思へどと云義也。なごむはなだむるといふ義と同じ
彌 はいとゞともいよゝとも讀むべし。同音也。どは濁よは清音濁らぬ音故かよふ也
此歌も、相見ていとどおもひのますといふ意を述べたる也
 
754 夜之穗杼呂吾出而來者吾妹子之念有四九四面影二三湯
よのほどろ、わかでてくれば、わぎもこが、念有四九四、おもかげにみゆ
 
穩杼呂 はほど也。ろは助字也。夜のほどにいでて來れば也
四九四 この三字はいかにとも讀みとき難し。念有四九四とある故、ある抄には心におもはくの色もあらはるゝことをおもへりと云て、色の字を日本紀におもへりと讀ませたれば、心のうちにいぶかしくおもへり敷といふ義となり。いかにとも心得がたし
宗師案、念有はおもひますとよむべき歟。四九四は數をもて四十と讀みて夜色とよむ。四十を夜そと云意に讀むべきか。三十六に四をたせば四十也。然らばおもひますよぞおもかげに見ゆるとの歌かと也。おもひの益夜といふ心をもふくめて也
愚案、おもへりしこよと讀むべきか。九はこゝのつと讀むこ也。四はよつと讀むよ也。わびたりし顔おもかげに見ゆと云義歟。又こは女の通稱の兒にても同じ。しかしこといふ詞はかほといふ詞なれば、おもかげに見ゆといふ句に相かなふ也
歌の全躰は、夜深く出てくれはわぎもこが名殘をしくや思ひわびたるか、面かげにみゆると云義なり。四九四の三字未v決也
 
755 夜之穗杼呂出都追來良久遍多數成者吾胸截燒如
よのほどろ、いでつゝくらく、あまたゝび、なればわがむね、きりやくがこと
 
(543)遍多數 義訓にて讀みたれば、文字の?倒にはかゝはるまじき也
此歌の意は、妹がかたへ通ひて人めをつゝしむ故に、歸さの折もよる/\かへりくれば、その度毎にわかれを恨み、さま/”\心をいたましむること多ければ、胸をきりやくばかり痛むと也。心のまゝにかたらひ、そひたきことの意をこめて歎きし歌也。くらくとは來るといふ義也。夜をこめていでて來ることのあまたゝびになれば、きぬ/\の名殘をしさのたび毎、又さま/”\と人めをつゝむ心づくしに、胸をやきこがすばかりに苦しきと也。此歌の姿など、後世とても好むまじき也。あまたの歌の中なれば、かくの如きすがた好ましからぬもあるべき也
 
萬葉童蒙抄 卷第十終
 
(544)萬葉童蒙抄 卷第十一
 
大伴田村家之大孃贈妹坂上大孃歌四首
 
756 外居而戀者苦吾妹子乎次相見六事許爲與
よそにゐて、こふればくるし、わぎもこを、つきてあひみん、ことばかりせよ
 
事計爲與 ことをはかれよと也。れをのべたることはせよ也。集中此傳數多也
歌の意、よそに離れゐて戀しく物ぐるしき程に、一つところに相住まんことをはかれと也。姉妹むつまじく感情ある歌、これらをや歌道雅情の本ともすべけんか。當集のあひきゝと云は、戀慕の好色の輩のみにあらず。親子兄弟姉妹姨姪の互に訊問の情を相通じあひし歌とも也
 
757 遠有者和備而毛有乎里近有常聞乍不見之爲便奈沙
とをからば、わびてもあるを、さとちかく、ありときゝつゝ、みぬがすべなさ
 
歌の意、遠くへだたりたらば、思ひあきらめてあふ事も願ふまじ。思ひわびつゝもそれなりにあらんに、間ぢかくありと聞けば、かくへだたりあはぬことの詮方も無き事と、思ひきられず慕はるゝとなり
 
758 白雲之多奈引山之高々二吾念妹乎將見因毛我毛
しらくもの、たなびくやまの、たか/”\に、わがおもふいもを、見んよしもかも
 
高々二 此義古來より慥成説なき也。先は相かまへていふ詞にて、先を尊みていふ時たか/”\と云との説なれども、此歌にてさしつかふるなり。愚案には、山の如く思ひの重なりたると云意に、たか/”\と云へる義と見ゆるなり。此集中の歌皆人を待つこと、思ひの重なることに詠めり。此歌も慕ひ思ふことの山の如くに、つもり重れる妹と云義に、高々と詠めるならんか
 
(545)759 何時爾加妹乎牟具良布能穢屋戸爾入將座
いかならん、ときにかいもを、むぐらふの、あれたるやどに、いれてをらさん
 
牟具良布 和名抄草木部草類、葎草【上音、律、和名毛久良】ものに這ひかゝりて、よく茂りていといぶせく見ゆるもの也。葎の生ひたる所と云義にむぐらふとは云へり。蓬生もおなじ。その草の生しげりたるところといふ義にふとはいへり。布はそのところをさせる義と知るべし。草深くあれたる宿と卑下していへる意也
穢 古本印本ともに、けがしきやどと點をなせり。甚だ得がたし。穢の字けがれとよむは、汚穢とつゞく時ならば、けがれと讀むべけれど、葎生とあるにけがしきとは、文字の義を不v辨點也。※[草冠/歳]と穢と通じて穢蕪と連續する字、歳穢ともに田中の草生を云字義也。然れば荒蕪のかたに讀む字也。こゝにけがれのことのあるべき事ならず。よりてあれたる宿とはよむ也。むぐらの生繁りたる所の宿ならばあれたる義明也
歌の意きこえたる通、何の時にかかく草深くあれたる宿へ入れて、一つに相住をらんぞと戀ひしたひたる歌也
 
右田村大孃坂上大孃并是右大辨大伴宿奈麻呂卿之女也狹居田村里號曰田村大孃但妹坂上大孃者母居坂上里仍曰坂上大孃于時姉妹諮問以歌贈答
 
右の古注者の後注也
 
大伴坂上郎女從竹田庄贈賜女子大孃歌二首
 
竹田庄 大和。日本紀神武紀、猛田。延喜式神名帳、大和國十市郡竹田神社
 
760 打渡竹田之原爾鳴鶴之間無時無吾戀良久波
うちわたす、たけだのはらに、なくたづの、まなくときなく、わがこふらくは
 
打渡 田とうけんための冠辭也。上古は田を打つといひしなり。古事記日本紀仁徳卷の歌に、小鍬もち打ちし大根とよめる(546)歌にて知るべし。漢土にて田を耕す賤業をするを撃壤といふこともありて、田夫の賤しきわざの事をいへり。然れば田とうけん爲の詞とみる也。田面ひろ/\と見渡したるところの景色をいふたるとの説は、よりどころ無き説なり。後々の歌に、此竹田を山城と心得て詠める歌多し。所違也
鶴は諸鳥のうちにわきて子を悲む鳥なれば詠み合せたる也。古詠如v此の格ははずれぬ也。戀良久はこふると云義也
よく聞えたる歌也
 
761 早河之湍爾居鳥之縁乎奈彌念而有師吾兒羽裳※[立心偏+可]怜
はやかはの、せにゐるとりの、はしをなみ、わびてあるらし、わがこはもあはれ
 
早河之 はや河のせにゐる鳥なれば、一つ所にはあひより難ければ、かく隔たりゐることのわびしきに、思ひあはせて詠める也。早川の瀬は水たぎりて、うきゐる鳥も相ならぶことなり難し。親子の別れあることを比して也
縁乎奈彌 よしなみと讀ませたれど、鳥に縁無き詞也。鳥のとよみかけたれば、縁なき詞をよみ出すべきにあらず。縁の字此集中によしとよませたる所數多なれども、此訓心得難し。古訓は端とよむ字也。疊のへりなどいふ時此縁の字にて、物語ものなどにははしと讀ませたり。然ればはしは口ばしといふ鳥に縁ある詞也。又河にも橋といふ縁ある詞なれば、はしとは讀む也。よしとは諸説によるべ無くといふ義といへり。然れども歌のくだり、さやうに續き難き詞也。早河の瀬にゐる鳥の居るをよすがといふたるか。然らばよすがは便も無き、よりそふ方も無くといふ意に詠めるか。此詞決しがたし
有師 點本のありしとは心得難く、歌の意不v通也。あるらし也。女子が便よすが無く、われを慕ひわびてあるらしと思ひて、哀に悲しきと詠める歌也
羽裳 は例の此時代の風躰歎息の詞也
 
紀女郎贈大伴宿禰家持歌二首【女郎名曰小鹿也】
 
傳不v考
 
(547)762 神左夫跡不欲者不有八也多八如是爲而後二左夫之家牟可聞
かみさぶと、きかずばあらねばや、こゝらよゝ、かくしつゝのちに、さぶしけんかも
 
不欲 古本印本諸抄の點いなと訓せり。集中大かたいなと讀ませたり。然れども神さぶといなにはと云義つゞきがたし。神さぶるともいなにはあらじといふ心と釋せり。然らば雖の字を書べし。此集其例數多也。第八卷にもこれに同じき歌ありて不許と書きて聞かずと訓ぜり。神さぶといふなれば、きかずとはつゞきぬれば、此例をもてこゝもきかずとは讀む也。しかし古今不v續詞を不v嫌。こゝも八卷めの歌もいなと讀める歟。心得がたし。今歌詞の上にて論ずれば、神さぶといなにはとつゞけ難ければかくは讀む也
多八 おほきはこゝら也。八は四を重ねたる也。夜々の意也
如是爲而 かくしつゝ也。隱密にして也。かくしてにてもおなじ。つゝはひたもの/\毎度の意につゝとはよむ也。かくよむ歌の意、神さぶは年ふりたる事をいふ。その年ふりたると聞きたまはずや。聞きたまへばそれをかくして、夜々あふことをせば、遂にはあかれてさぶしからんと也。右宗師案也。此歌の意未v通、諸抄の説にも難2信用1。後世の賢案をまつのみ。不欲の字きかずと讀める例無く、いなと讀める例多し。然れども神さぶといなにはと云續詞いかにとも解し難く、下の八也多八の四字も不2打着1也。誤字脱字のおもひはかりも無ければたゞ後案をまつのみ
 
763 玉緒乎沫緒二搓而結有者在手後二毛不相在目八方
たまのをゝ、あわをによりて、むす【ばれ・べれ】ば、ありてのちにも、あはざらめやも
 
玉緒は いのちのをといふ義也
沫緒 あわをにて合せ緒と云ふにはあらず。あわをといふは、かひなき弱き緒の事をいへるか。あはせをと云説は假名ちがひの説也。沫をといふもの一色あると見えたり。いかなるを沫緒といふものとの釋は、古來より不v知也。此歌の表にては、沫の如く消えやすきかひなきをにも、結ばれなばあり/\て、後にはあはずばあらましとの歌と聞ゆる也
(548)結有 此よみやう三通ありて、それ/\に歌の見樣違へり。まづむすべらばと普通の點に讀ませたり。これは何をにもせよ、たがひのいのちの緒をよせよりて、結びたらば年老て後にもあはざらめや。いつまでもあはんとの意と聞ゆる也。またむすべればとよむ意あり。これは今むすべばといふの意也。むすばればは、結はるゝものならばといふ意也。水の沫もむすぶもの故、をの縁に合せていへり。とかくこの歌も、あわをといふもの一しなありて、それは強きものか、又水のあわの如きとけ易く消え易きことをいふことか。その釋不2分明1ば此意解しがたし。此二首は難義の歌として、後案をまつのみ。とかく歌全躰釋濟みせぬ也。いせ物がたりに引直して載せ、拾遺集、春くれば瀧の白糸いかなれや結べどもなほあわに見ゆらむの歌、及枕草紙、うす氷あわに結べるひもなればかざす日かけにゆるぶばかりぞと詠める歌とも、引合せて見るにも心通じ難し
愚案、幾重も/\に結びたる緒といふことに、沫をによりて結びたればと詠めるか。ありて後にもあはざらめやもといふとめは、とけやすきかたの結びやうとは不v聞也。然れども沫は消えやすきものなればかく也。後案、裝束抄にあはぢむすび、あはひむすび、あをひむすび、といふ事あり。こと/”\く不v濟事也。元來沫むすびよりいひあやまりたるか。沫はとかく消えやすきものなれば、とけやすきかたにいへる事也
 
大伴宿禰家持和歌一首
 
764 百年爾老舌出而與余牟友吾者不厭戀者益友
もゝとせに、おいしたゝみて、よゝむとも、われはいとはじ、こひはますとも
 
老舌出而 したゝみと云は、どもるやうにて、舌のまはらぬ事なり。出のては濁音故、だみと讀みてくるしかるまじ。古今六帖には、老い朽ちひそみとかきたり。老いては齒おちて口をつぼむから、舌出るものとの故、義にてかく讀ませたるか。舌出をくちひそみとは心得がたし。したゝむといふ詞は、古くいひ來れば義もかなふゆゑ、したゞみとはよむ也。おいした出でとといふ點あれど歌詞共不v聞也
與余牟友 よどむともといふ義也。諸抄の説も同じ。どとよはおなじ詞なれば、さもあらんか。よどむは、どもる樣の義にて、(549)老いては齒おちぬれば舌まはりかねて吃る樣になりて、云ふことも速かならず。よどむなればかくいへるか。尤よゝとなくなどいふて、聲のことにも云へるなり
此歌は、前の神左夫の歌に和へたる歌也。とし老て物いひよどむやうになりぬとも、われは厭はず。何ほどおもひはます事ありとも、心をたがへずあはんとの和也
右三首とも分明には聞得がたき歌也。追而考吟を可v加歌也
 
在久邇京思留寧樂宅坂上大孃大伴宿禰家持作歌一首
くにのみやこにありて、ならのいへにとまれる坂上おほをとめをおもひて、おほとものやかもちつくりうたひとくさ
 
久邇 山城〔國相樂郡也。續日本紀卷第十五聖武紀天平十五年十一月十二月の條に恭仁《クニ》宮と見ゆ〕
 
765 一隔山重成物乎月夜好見門爾出立妹可將待
ひとへやま、かさなるものを、つきよゝみ、かどにいでたち、いもかまつらん
 
一隔山 山城と大和の境にある山ならん。地跡未v考。歌の意、一重の山といへども、幾重かさなればたやすくこえ行がたきに、月のよき折は月に乘じてわれも行かんと、妹の待ちもやすらんとおもひやりて詠める也。妹可のかは清く讀むべき也
 
藤原郎女聞之即和歌一首
 
傳未v考
 
766 路遠不來常波知有物可良爾然曾將待君之目乎保利
みちとほみ、こじとはしれる、ものからに、しかぞまつらん、きみがめをほり
 
此歌は、家持の歌を外より聞きて中にたちてたがひの心を察して詠める也。しかぞはさぞ也。ならの郎女のさぞ待つらんと(550)也。君がめをほりは、家持のめを見まほしく待つらんと也。日本紀齊明紀天智天皇未だ皇子にてましましたる時の御歌の詞、こほしきからに君がめをほりと詠ませ給へる、同じ詞なり
歌の意は、みち遠く隔たれば來給はじとは知りながら、君にあひ見まほしく、さぞ待ちぬらんと、外よりおもひやりて詠める也
 
大伴宿禰家持更贈大孃歌二首
 
767 都路乎遠哉妹之比來者得飼飯而雖宿夢爾不所見來
みやこぢを、とほくやいもが、このごろは、うけひてぬれど、ゆめにみえこぬ
 
都路乎 ならよりくにのみやこへの道を遠しとや思ひて也
得飼飯而 せめて夢になりともあひ見たきと、心にうけひ祈りてぬれども、夢だに見えぬとなり。うけひは祈りて也。日本紀にも神后紀にあり。古事記にも祈狩をうけひかりと讀ませたり。これもものゝうらにするかりにて願ふ方にかゝる也。ちかふちかひ誓約の事にもうけひといふ事あれど、こゝは願ふ方の義なり。神武紀に、自祈而寢、夢有2天神1云々とあり
 
768 今所知久邇乃京爾妹二不相久成行而早見奈
今所知、くにのみやこに、いもにあはで、ひさしくなりぬ、ゆきてはやみな
 
今所知 此五文字心得がたし。今ぞ知ると詠める意は、何をもていまぞしると云理り歌に不v見。前の歌をうけて道遠き故、夢だに妹が見えこぬから、心付てまことに久しく不v相事を、思ひ出して今ぞ知と詠めるか。今しれると讀むべきか決しがたし。今しれるくにのみやこに、居所をしめてゐることを知れると詠める事か。今ぞ知るとよみ出たる義いかにも濟み難し
早見奈 はやく見なんとねがふたる詞也。第一卷に今はこぎいでなとあるも同じ
歌の心よく聞えたり
 
大伴宿禰家持報贈紀女郎歌一首
 
(551)769 久竪之雨之落日乎直獨山邊爾居者欝有來
ひさかたの、あめのふるひを、たゞひとり、やまべにをれば、いぶせかりけり
 
能聞えたる歌なり。いぶせきはものうき事也
 
大伴宿禰家持從久邇京贈坂上大孃歌五首
 
770 人眼多見不相耳曾情左倍妹乎忘而吾念莫國
ひとめおほみ、あはざるのみぞ、情左倍、妹乎忘而、吾おもはなくに
 
此歌の意は、人め多きゆゑに、行きても得あはぬのみぞ、情にあきてあはぬにては無きぞといふ義を、情さへと詠めると聞ゆるなり。此情さへは、上へ上りたるさへと聞ゆる也。倍も波も同音故、情はまことゝ讀みて、まことさわと讀まんかとの師説なり。然れども倍の字波の字のあやまりとも見らるれば、倍の字にて歌の意可v被v解ば、その通に見たきものなり。もし誤字と見れば、左は尼の誤り、倍は信の字のあやまりと見ば、こゝろにしとも見れば、歌の意やすく聞ゆる也
 
771 僞毛似付而曾爲流打布裳眞吾妹兒吾爾戀目八
いつはりも、につきでぞする、うつしくも、まことわぎもこ、われにこひめやも
 
似付而曾爲流 まことらしく、につこらしくといふ義也
打布裳 顯しく也。げに/\敷の意、現の意也。うつ敷は現敷也。まことらしく也。まことにわれを戀ふにはあるまじと也
 
772 夢爾谷將所見常吾者保杼毛友不相志思諾不所見武
ゆめにだに、みえんとわれは、ほどけども、あはじとしおもへば、うべみえざらん
 
保杼毛友 古今難義の詞也。諸抄にも正義不v見。宗師案、紐とけ共也。ひもを約してほ也。これは夜の衣をかへしてきるなど云まじなひごとありて、昔は思ふ人に見えられんとには、こなたのきぬの下紐などときてぬれば、先の夢に見えらるゝ事あ(552)りと聞えたり。それをしてぬれども、そなたにあはじとおもふ心から、夢にも見えざらんとの義と聞ゆる也
 
773 事不問木尚味狹藍諸茅等之練乃村戸二所詐來
ことゝはぬ、こがみうまさけ《マヽ》み、むろほぎとの、のりのむらこに、あざむかれけり
 
宗師案云
木尚 木神といふ義なるべし。尚の字すらと讀むこと集中にもあまたあれど、其義未v辨。こがみといふは、ことゝは云ぬと義は神代の古事にて、木の本を云ひたるものなれば、木尚と書てこがみと讀まんか。ことゝはぬはこかみの冠詞也。そのこかみは濃釀の意也
味狹藍 藍は監の字なるべし。然らばうまざかみと讀むべし
諸茅 茅ははぎと讀む字也。此集中にもあまたあり。しかればほぎ也。しかればほぎごとは祝ごとを云義也。諸の祝言也。室祝の意也。さかもりをしていはひごとをいふ如きの義也
等之 ひとの義也。諸祝言の人かといふ意也
練之 ねりは、ねぎはのみといふ詞も同じ
村戸 群詞也。大勢相あつまりて、さかもりなどして、祝言をいひし如きのたはぶれごとに、うか/\とだまされたると云義也
歌の意は、室祝言のごとき、酒もりの上のたはぶれごとにいひそやされて、實にもあらぬ事にあざむかれしと也
 
774 百千遍戀跡言友諸茅等之練乃言羽志吾波不信
もゝちたび、こふといふとも、むろほぎらの、のりのことばし、われはたのまじ
 
歌の意、上の歌にてこれまであざむかれぬることをいひたれば、この後は百千度われをこふといひても、もろほぎごとの祝言をいふやうなることはたのまじと也。大孃のこふといふともまことゝはせじと也
(553)右二首共未2決着1。尤聞き得がたし。期2後賢之案1耳
 
大伴宿禰家持贈紀女郎歌一首
 
775 鶉鳴故郷從念友何如裳妹爾相緑毛無寸
うづらなく、ふりにしさとゆ、おもへども、なにそもいもに、あふよしもなき
 
鶉鳴故郷 ふるさとは荒れはつるものなれば、鶉のすみかとなる如く物ふりたることにいへり。ふるくあれたるところは、草生しげりて鶉のねどこをしむれば、ふりにしさとゝいはん爲に、鶉なくといひ出したり。意は昔よりおもふとの義也。年久しくおもひしたへども、今にあふよしの無きと恨みたる歌也。これより後の歌共に、この歌より故郷のあれゆくことに、鶉を詠み合せたり
 
紀女郎報贈家持歌一首
 
776 事出之者誰言爾有鹿小山田之苗代水乃中與杼爾四手
ことでしは、たがことにかも、小山田の、なはしろみづの、なかよどにして
 
事出之者 詞にいひ出しはたがことにかも。初め云ひ出でしとは違ひて、中絶えたると聞えたる言にあらはし云ひたるはといふ義也
小山田 苗代水といはんため迄の事也
中與杼爾四手 苗代水は流れぬもの、田にたまりてよどみてあるものなれば、はじめは水口に流れ入事のすみやかなれど、たまりては田に淀みてあるに、中たるみのしたる語らひの、隔たりたることを比して、恨みたる歌なり
 
大伴宿禰家持更贈紀女郎歌五首
 
777 吾妹子之屋戸乃笆乎見爾往者盖從門將返却可聞
(554)わぎもこの、やどのまがきを、みにゆかば、けだしかどより、かへすらんかも
 
歌の意、まがきに事よせて、妹にあひに行くに、内へも不v入して、かどよりかへすらんと、詰りて詠みかけたる也。笆とよみ出せるに別の意は聞えざる也
 
778 打妙爾前垣乃酢竪欲見將行常云哉君乎見爾許曾
うつたへに、まがきのすがた、見まくほり、行かんといへや、君をみにこそ
 
打妙爾 うつは現在の義、常といふ心也。打妙といふことは、常にとこしなへにといふ義也。なぞらへて此歌の意にていはゞ、あながち一むきに、籬の姿を見たきといふやとの義也
前垣 和名抄云、籬【青籬字亦作※[木+籬]和名末加岐一云末世言疎離説文云拵以柴※[雍/土]v之】
云哉 いへやはいはめ也。此語を不v知は集中迷へる如し。はめの約はへ也。いへやと云ては、今時の人は先の人に下知したる詞と聞くこと大成違なり。我いはめやと云事なり。歌の意はあながちひたすらに、籬のすがたを見たきといはめや。君をこそ見まくほりすれと云意也
 
779 板盖之黒木乃屋根者山近之明日取而持將參來
いたぶきの、くろきの屋根は、やまちかし、あしたもとりて、もてまゐりこん
 
板盖之 いたぶき、上古は木のかはをも不v削、そのまゝにて屋ねをも葺きしと聞えたり。黒木とはかはつきそのまゝの木を云なり。板盖の事、續日本紀神龜元年霜月〔條、板屋の字見ゆ。〕紀女郎此折ふし家作りをかしたらん。よりてかく詠めるなるべし。畢竟深切をつくしたる義をあらはせる也。笆の歌あるより、そのたぐひの事なれば、此二首も被2撰入1たる也
歌の意は不v及v釋也。山近ければやね葺き給はゞあすもふき板をとりてまいらせん。屋根を葺く折ふしにも、心をつくせるといふ意をのべたる也
 
780 黒木取草毛刈乍仕目利勤知氣登將譽十方不在【一云仕登母】
(555)くろきとり、かやもかりつゝ、つかへめど、いめしりにきと、ほめんともなし
 
不在は なしと義訓すべし
歌の意は、女郎の家作りの折からやね木をもとり、かやなどをも刈りて心をつくして仕ふをも、いめばかりも知りたりと祝着したる詞にもあはぬと恨みたるなり。畢竟われのみ心をつくせども、そこにはさのみは思ひもせで、わが志をもかつて知らぬと恨みて詠める歌と聞ゆる也
 
781 野千玉能昨夜者令還今夜左倍吾乎還莫路之長手呼
ぬばたまの、【きそよはかへす・よべはかへせる】こよひさへ、われをかへすな、みちのながてを
 
長手の手は助語なり。行手など云も同じ
歌の意きのふの夜も行きたれど、かへる今夜も又われをかへすな。程遠き道を思ひ立ちて來りたる程にと、下知したる也
 
紀女郎※[果/衣]物贈友歌一首【女郎名曰小鹿】
 
782 風高邊者雖吹爲妹袖左倍所沾而刈流玉藻烏
かぜたかく、へにはふけども、いもがため、袖さへねれて、かれるたまもぞ
 
烏 からすといふ字なれば、からすは、をそ鳥といふ故、そといふ一語をとりてそとは讀む也。袖さへぬれて、そなたの爲に、刈取れる玉もぞといへる義也。よく聞えたる歌なり
 
大伴宿禰家待贈娘子歌三首
 
娘子 いづれのいらつこといへること知りがたし
 
783 前年之先年從至今年戀跡奈何毛妹爾相難
をとゝしの、さきつとしより、ことしまで、こふれどなぞも、いもにあひがたき
 
(556)歌の意よく聞えたり。不v及2細注1。をとゝしはこぞの前の年を云也
 
784 打乍二波更毛不得言夢谷妹之手本乎纏宿常思見者
うつゝには、さらにもいはじ、ゆめにだに、いもがたもとを、まきぬとしみば
 
打乍二波 現在には也
更毛 あらためてうつゝにあひ見たきとは云ひても、中々なり難ければいはじと也。せめて夢になりとも妹がたもとをまきて寢ると見れば、思ひをはるけんにと也
 
785 吾屋戸之草上白久置露乃壽母不有惜妹爾不相有者
わかやどの、くさのへしろく、おくつゆの、いのちもをしからず、いもにあはざれば
 
惜を情に作れるは誤り也。歌の意はこひわびてもいもにあふ事ならねば、よしや命もをしからぬと歎きたる也。不v及2注釋1歌也
 
大伴宿禰家持報贈藤原朝臣久須麻呂歌三吉
 
久須麻呂 惠美押勝の二男也。續日本紀卷第廿一孝謙紀、寶字二年八月〔藤原朝臣久須麻呂叙位。〕同八年八月乙巳、〔太師藤原惠美朝臣押勝逆謀頗泄。高野天皇遣2少約言山村王1收2中宮院鈴印1。押勝聞v之、〕令d2其男訓儒麻呂等1〔※[しんにょう+激の旁]而奪v之。天皇遣2授刀小尉坂上苅田麻呂、將曹牡鹿嶋足等1射而殺v之云々。〕久須麻呂少年の時、家持男色にめでゝ詠みかはせる歌とも聞ゆる也
 
786 春之雨者彌布落爾梅花未咲久伊等若美可聞
はるのあめは、いやしきふるに、うめのはな、いまださかなく、いとわかきかも
 
歌の意、表はたゞ梅の花の春雨にぬれてもまだ咲かなくて、待遠なる心をのべたる迄也。然れどもこれは下心には久須麻呂をおもひかけしかども、いとけなくてなさけある別ちも知りたまはぬを恨みて、思ひのしげきをもの寂しき春雨によそへ、なさけあらんわきも見えぬいはけ無きさまを、まだ咲きあへぬ梅にたとへて詠める歌と聞ゆる也
(557)彌布は をやむまも無くしげくすきま無くふるといふ義也
 
787 如夢祈念鴨愛八師君之使乃麻禰久通者
ゆめのごと、おもほゆるかも、はしきやし、きみがつかひの、まねくかよへば
 
如夢 うつゝとは更に思はれず。うれしきの意也。久須まろのかたによび使の度々來りし時、詠みておくれる歌なるべし
麻禰久 まなく也。無間也。音通ずれば也
 
788 浦若見花咲難寸梅乎殖而人之事重三念曾吾爲類
うらわかみ、はなさきがたき、うめをうゑて、ひとのことしげみ、おもひぞわがする
 
浦若見 うらは初語、又嘆の詞に用ゐると知るべし。歎きたる詞と見るなり。上末といふ説もあり。末わかみといふ説あれどうら悲し、うらさびし、の詞不v濟也。よりて初語嘆息の詞とは見るべし
此歌の意も、久須まろに思ひをかけて、まだ花さき難きとは、いはけなき心を思ひ佗びて讀ると見ゆる也。人の事しげきは、表は梅は咲きぬや、まだしきやと問はる事をいひて、下の心は久須麻呂の方へ往來の事を人に云騷がるゝ事によせたるか。若し又前の歌に使のま無く通へばとあれば、くすまろの方より梅は未v咲やと問ひこしたるにつきて、かくよめるかとも聞ゆる也
 
又家持贈藤原朝臣久須麿歌二首
 
789 情八十一所念可聞春霞輕引時二事之通者
こゝろくゝ、おもほゆるかも、はるがすみ、たなびくときに、ことのかよへば
 
情八十一 心にくゝなり。いぶかしくおもふ意也。春霞のたな引打くもりたる折から、久す丸のかたへことの通じたれは、行末何とかあらんと、おもふ心と聞ゆる也
事之通者 おもひの程をかよはし、達しられたる時なるべし。前の歌に、夢の如くとある折の歌と聞ゆる也
 
(558)790 春風之聲爾四出名者有去而不有今友君之隨意
はるかぜの、おとにしいでなば、ありゆきて、いまならずとも、きみがまに/\
 
春風之聲爾四出名者 おとにしといはん料に、春風とは出せり。聲爾四は、來れど呼ひ迎へん音信あらばといふ意なるべし
有去 古本印本諸抄の點ありゆきてとあり。このありゆきてはいかゞといふ釋なし。あり/\てまちえて後にもと云意か。また吾徃てといふ義ならんか。歌の意はいつに限らず、呼び給はゞ何時もまかんでて、ま見えたきと也。呼び給はんことは君が心のまゝに、いつにてもそなたのまゝにと云意也
 
藤原朝臣久須麻呂來報歌二首
 
791 奧山之磐影爾生流菅根乃懃吾毛不相念有哉
おくやまの、いはかげにおふる、すがのねの、ねもごろわれも、おもはざらめや
 
此歌の意は、家持の春風の聲にの歌によりて、出來り給ひてこたへたる歌也。かくねんごろにおぼし給ふを、われとてもなどかおろそかに思はざらんやと也
 
792 春雨乎待常二師有四吾屋戸之若木之梅毛未含有
はるさめを、まつとにしあらじ、わがやどの、わかきのうめも、いまだつぼめり
 
有四 この四の字清みてよむべし。濁りては歌の意聞えず。此歌は、うらわかみ花咲き難きの歌に和へたる歌と聞ゆる也。うら若き梅のまだ咲かぬは、春雨を待つにてあるらし。わが宿の梅も未だつぼめりと、挨拶したる歌なり。下心は、家持のおもひの深切なる實を見とゞけてこそ、われも心の花をも咲かさめといふ意と聞えたり。春雨を待つとにしと詠めるは心をふくみたる意に聞ゆる也。我宿の若木の梅もといへるにて、家持のうら若みの歌にこたへたる歌と聞ゆる也
 
萬葉童蒙抄 卷第十一終
                               
(559)第四卷萬葉難解記
 
669 足引之山橘乃色丹出而語言繼相〔四字傍點〕而事毛將有
 
677 春日山朝居雲乃欝〔傍點〕不知人爾毛戀物香聞
かすかやま、あさゐるくもの、おほつかな、しらぬ人にも、こふるものかも
 
欝の字、おぼつかなくとか、いぶかしくとか、いぶせくとか讀む。こゝはいぶかしくとも、おほへるなどとも讀むべし。雲のおほゝといふかと也
 
678 直相而見而者耳社靈剋命向〔傍點〕吾戀止眼
たゞにあひて、みてはのみこそ、たまきばる、いのちにもかふ、吾こひやまめ
 
向の後案、命にもかへるといふ義を、もかふとは詠む也。むともと、同音故むかふはもかふ也。かふはかへるといふ義也。へるを約すればふ也
 
679 不欲常云者將強哉吾背菅根念亂〔二字傍點〕而戀管母將有
いなといはゞ、しひんやわがせ、菅の根の、こゝろみだれて、こひつゝもあらん
 
念の字は意といふ字のあやまりならん。菅根おもひとはつゞかぬこと也。根もごろなどいふてこるとならではいはぬ事を、おもひとは心得がたし。心といふ字のあやまりか、意の字のあやまりかと見る也
 
732 今時者《一本有》四名之惜雲吾者無妹丹因者千遍立十方
 
(560)【いましはし・いまはし・いまはあれし・いまはよ】なのをしけくも、あれはなし、いもによりては、ちへにたつとも
 
741 夢之相者苦有家里覺而掻探友手二毛不所觸者
上略 くるしかりけり、おどろきて、かきさぐれども、てにもふれねば
 
744 暮去者屋戸開設而吾將待夢相見〔三字傍點〕二將來云比登乎
ゆふされば、やどあけまけて、われまたん、夢相見二、こんといふひとを
 
745 朝夕二將見時左倍也吾妹|之〔傍點〕雖見如不見由戀四家武〔四字傍點〕
あさゆふに、見んときさへや、吾妹之、見れど見ぬごと、なほこひしけん
 
此けんといふ詞は、せといふ詞をのべたる義也。せをのべてはしけ也。この歌も、なほこひせんといふ義を、こひしけんとのべたる也。通例戀しからんといふ義を、けんとゝめたるといへどもさにあらざる也
 
754 夜之穗杼呂吾出而來者吾妹子之念有四九四〔五字傍點〕面影二三湯
 
758 白雲之多奈引山之高々〔二字傍點〕二吾念乎將見因毛我母
 
762 神左夫跡不欲〔二字傍點〕者不有八毛多八〔四字傍點〕如是爲而後二左夫之家牟可聞
 
763 玉緒乎沫緒二|槎〔傍點〕而結有〔二字傍點〕者在手〔二字傍點〕後二毛不相在目八方
 
(561)768 今所知〔三字傍點〕久邇乃京爾妹二不相久成行而早見奈
 
770 人眼多見不相耳曾情左倍〔三字傍點〕妹乎忘而吾念莫國
 
772 夢爾谷將所見者〔四字傍點〕吾者保杼毛友不相志思〔八字傍點〕諾不所見
 
773 事不問木尚味狭藍諸茅〔六字傍點〕等之|練〔傍點〕乃村戸〔二字傍點〕二所詐來
 
774 百千遍戀跡云友諸茅等〔三字傍點〕之練〔傍點〕乃言羽志吾波不信
 
776 事出之者〔四字傍點〕誰言爾有鹿小山田之苗代水乃中與杼爾四手
 
萬葉童蒙抄 本集卷第四終
                〔2009年12月18日(金)午後7時、入力終了〕
                〔2020年3月14日(土)午前11時50分、校正終了〕
 
(4)萬葉童蒙抄 卷第十二
 
〔底本、官幣大社稲荷神社編集兼発行、吉川弘文館、荷田全集第三巻、1929年6月25日発行〕
 
〔目録省略〕
 
雜歌
 
第三の標題に同じ。四季相聞等の類にあらざる、くさ/”\の歌をあげられし也
 
太宰帥大伴卿報凶問歌一首
 
禍故重疊凶問累集永懷崩心之悲獨流斷腸之泣但依兩君大助傾命纔繼耳
 
大伴卿 旅人也
報凶間 旅人の妻の身まかりたる弔をえて、そのこたへ歌也。契沖抄に能被v勘たり。仍而略す。一首とある下並に序とあるべきを脱したる歟
禍故重疊凶問累集云々 諸抄に詳也。二字共わざはひの事の重りたると云義也
兩君 誰人とも不v知。稻公胡麻呂をさせる歟。しかれども弟※[女+男]に報辭不相應なれば、此兩人いづれとも知れ難し
 
793 余能奈可波牟奈之伎母之等志流等伎子伊與余麻須萬須加奈之可利家利
よのなかは、むなしきものと、しるときし、いよ/\ます/\、かなしかりけり
 
歌の意何のふかき事もなき能くきこえたる歌也。むなしきものと思ひさとりてなほ悲しきと也。悲しみにあへる時にぞ、いよ/\むなしき事を身にしみて知りつれば悲しきと也
 
神龜五年六月二十三日
 
これは凶問の報を都へ被v贈しときの日なるべし。大伴郎女の逝去は、神亀五年の夏の始の頃なるべし。その故は第八卷に式部大輔石上堅魚を勅使として喪を弔はせ給ひし時、紀夷城に上りて望遊のときの、贈答の歌を見て知るべし。しかればこの歌(5)は、勅使歸洛の後何ぞ兩卿へ被v贈たると見えたり
 
盖聞四生起滅方夢皆空三界漂流喩環不息所以維摩大士在乎方丈有懐染疾之患釋迦能仁坐於雙林無免泥※[さんずい+亘]之苦故知二聖至極不能拂力負之尋至三千世界誰能逃黒闇之捜來二鼠競爭而度目之鳥且飛四蛇爭侵而過隙之駒夕走嗟乎痛哉紅顏共三從長逝素質與四徳永滅何圖偕老違於要期獨飛生於半路蘭室屏風徒張斷腸之哀彌痛枕頭明鏡空懸染※[竹/均]之涙逾落泉門一掩無由再見嗚呼哀哉
 
この序の前に、年月作者を可v被v記事なるに普通には不v見。拾穗抄には記したり。しかれども彼本は全躰明壽院の新加の筆作あれば、證本とはし難し。目録にも序文詞あることを記さゞれば有無難v決。先此序詩歌ともに、終に山上憶良上とあれば憶良の作文とは見るべし。序文詩句の註は、契沖抄、拾穗抄にゆづりて略v之。清書の時尚可v加2考檢1也
 
愛河波浪已先滅苦海煩惱亦無結從來厭離此穢土本願託生彼淨刹 
 
此詩の意、皆佛意をもて述作たれば強て不v及2解釋1。釋大坂契沖抄に詳也。しかし此詩の趣、歌の句中を勘合するに、憶良の妻憶良をしたひて、筑紫に來らんとて海路にて身まかりたると聞ゆる也。なほ歌の句中に見えたり
 
日本挽歌一首
 
前に詩を擧たる故如v是やまと挽歌とは題せり
 
挽歌はひつぎをひく歌とよめり。前に注せり。すべて身まかりたる人を嘆き悲しむ歌也
 
794 大王能等保乃朝廷等斯良農比筑紫國爾泣子那須斯多比枳摩斯提伊企陀爾母伊摩陀夜周米受年月母伊摩他阿良禰婆許々呂由母於母波奴阿比陀爾宇知那比枳許夜斯努禮伊波牟須弊世武須弊斯良爾石木乎母刀比佐氣斯良受伊弊那良婆迦多知波阿良牟乎宇良賣斯企伊毛乃美許等能阿禮乎婆母伊可爾世與等可爾保鳥能布多利那良※[田+比]爲加多良比斯許々呂曾牟企弖伊弊社可利伊摩須
(6)おほきみの、とほのみかどと、しらぬひの、つくしのくにゝ、なくこなす、したひきまして、いきだにも、いまだやすめず、としつきも、いまだあらねば、こゝろゆも、おもはぬあひだに、うちなびきこやしぬれ、いはむすべ、せむすべしらに、いはきをも、とひさけしらず、いへならば、かたちはあらむを、うらめしき、いものみことの、あれをはも、いかにせよとか、にほどりの、ふたりならびゐかたらひし、こゝろそむきて、いへさかりいます
 
大王能等保乃朝庭 大きみは天子をさしての義、とほのみかどは遠き朝庭の義也。つくしは上古の帝都也。これによりて遠きみかどと云意にてかくよめるか。又官廳をみかどといひて、遠國のみかどといへる義とも見ゆる也。庭の字は廷のあやまりならん。庭、廷音同じき故通じて用ひたるか
斯良農比筑紫國爾 不知火のつくし也。第三卷にくはしく注せり
泣子那須 したひといはん序也。なく子の如くといふ義也
斯多比枳麻斯提 憶良を妻のしたひ來れるといふ義か。また憶良の筑紫へ任にて下りしことをかくよめるか。兩方へかけて聞ゆる也。しかしきましとあれば妻の事なるべし
伊企陀爾母伊摩陀夜周米受 これは妻の來りていきだにもやすめず、年月も經ず、空しくなりたることをいはんとての序也
許々呂由母 或抄には心強くもと注せり。他國に來りて心細く、たより無く思ふうちにと云義歟。たゞ心よくも思はぬ間にといへる義歟。いづれにもあれ。憶良の心のわづらはしき由をいへる也
宇知那比枳 つかれたる體を云たるもの也。尤下のこやしぬれといふ序也
許夜斯奴禮 かほやせねると云義也。ぬるはねる也。諸抄の説こやしと云ふ事は、ふしたることゝ云へり。日本紀推古紀の聖徳太子の御歌を引て、其已來皆こやしと云ふは、ふしねたる事を云ふとの義也。ぬれはねるなれど、こやしとはねる事にはあらず。大なる心得違也。こやしは、顔やせ也。飢人なれば顔痩せねたる也。顔を約すれば、こ也。しかれば此句は憶良の妻(7)の疲れやせて、ふしたると云ふ義也。死したる事をかくよみなせる也。師案もし、こやしの上に、ふしの二字脱したらんと也。此句つまりて聞ゆる也
石木乎母刀比佐氣斯良受 せんかたもなく岩木を問さけんすべも知らずと也。遠國なれば、いづくへたづね問ひ行くべきかたも知らず也。此句によりて見れば、海路にて身まかりたると聞ゆる也。其故いづかたへ草木をわけて、問ひゆくべき樣も無きとの意也。或抄の説は、乎母をにもと云意にて、おもひを避ける事に釋せり。心得難し
迦多知波阿良牟乎 これ海路にて死たる故、その有樣、樣子も知れぬ事状の無きと云ふ義と見ゆる也。海中などにて溺れて死したるか。前のこやしぬれとよめるは、死したる時の事を云へる也。病氣などにて死したる樣子にも、歌のうちに聞えねば、船中などにて死したるならん
爾保鳥能布多刊那良※[田+比]爲加多良比斯 雌雄水上に、柏双居鳥を、夫婦むつまじく語らひし如きのことにたとへたり。にほどりは、今俗に云ふかいつぶりといふもの也。和名抄卷第八鳥部云、郭璞方言註云、※[辟+鳥]※[遞の中+鳥]、野鳧、小而好没2水中1也〔野王按※[辟+鳥]※[遞の中+鳥]其膏可3以瑩2刀劔1者也〕和名邇保
許々呂曾牟企※[氏/一] ちぎりかはし、本意もなく身まかりて永く離れ別れしと也
伊弊社可利伊麻須 死行きし事を云へり。さかりは、遠ざかり此世をへだていますと云ふ義也
 
反歌
 
795 伊蔽爾由伎弖伊可爾可阿我世武摩久良豆久都摩夜佐夫斯久於母保由倍斯母
いへにゆきて、いかにかあがせん、まくらづく、つまやさぶしく、おもほゆべしも
 
摩久良豆久都摩夜 まくらづくは妻やといふ冠辭也。妻は夫に枕をつきてねるもの故、まくらづくつまやとは詠めり。つくは、まくらを並ぶるの意、續くるの意也。歌の意は、都へ歸りて家に行きたらばいかにかもせん、ひとりのみ空しくなりし妻を戀ひ佗びて、淋しからんと今よりおもひやりて嘆きたる歌也
 
(8)796 伴之伎與之加久之未可良爾之多比己之伊毛我己許呂乃須別毛須別那左
はしきよし、かくのみからに、したひこし、いもがこゝろの、すべもすべなさ
 
伴之伎與之 いもにかゝりたる詞、妹をほめたる意也。集中皆如v此詞、ほめたる事に云へると聞ゆれ共、ところによりては憐れみ歎きたる事にも云へるか。此歌にても、俗に云はゞふぴんなるかな、あはれ悲しきなど云ふ意にも通ふ也。いもがかく慕ひ來りてはかなくなりしは、さてもふびんなる事やと云ふ、歎慨してはしきよしと詠み出したると聞ゆる也
加久之未可良爾 如v是なるべき故に、われを慕ひ來し心せん方もなき悲しさといふ歌也。長歌の意をもうけて、ふたり並び居と詠める意をもとりて、かくの事のみありしから、慕ひ來しとよめるとも聞ゆる也。或説には、むなしくならん故に、慕ひ來し心のせんかたもなき事と悲める歌と釋せり
須別毛須別那左 重詞によみて、悲しき心のせつなるを云へり。何ともすべきやう無きと云ふ義也
 
797 久夜斯可母可久斯良摩世婆阿乎爾與斯久奴知許等其等美世摩斯母乃乎
くやしかも、かくしらませば、あをによし、くぬちことごと、見せましものを
 
久夜斯可母 くやしきかな也。もは皆歎の詞、歎息の詞也
阿乎爾與斯久奴 このあをによしくぬとうけたる事、前にも注せるかと覺ゆ。くぬ木はならの木と一種なればかくはよめる也。青瓊吉也。どう栗の木といふこの木也。あをによしとは前にも注せる如く種々説々あれども、たゞ青き玉のよき木とほめたる義也。ならの木と云は、このくぬぎの事也。古今に所謂岡玉の木のこと也。こゝのくぬとよめるは國内也。にうの約ぬ也。然れどもくぬ木と云木の名あるにより、あをによしとはおける也。くぬちこと/\、國のうちこと/”\く見せまし物をと也。大和にありし時、相ともなひて名所古跡をも悉くに見せましと、過にしかたの事迄おもひ出て、慕ひ歎ける實情の歌也
 
798 伊毛何美斯阿布知乃波那知利奴陪斯和何那久那美多伊摩陀飛那久爾
いもがみし、あふちのはなは、ちりぬべし、わがなくなみだ、いまだひなくに
 
(9)阿布知乃波那  四月の頃むらさきのはな咲く也。俗にせんだんの木と云ふ。また樗の字をあふちとよます、心得がたき事也。
倭名抄卷第廿木部云、楝、玉篇云、楝、其子如2榴類1、白辭黏可2以浣1v衣者也、音練、本草云、阿布智。同云、陸詞切、韻云、樗、勅居反、和名本草云、沼天、惡木也、辨色立成云、白膠木和名同上。歌の意は、あふちの花の咲きし頃は、まだ妻ありて其花をも見つらんに、其花はもはや散りはてつべし。わがいもを慕ひて、泣く涙はなか/\未だひる時も無きと也。この歌をよめるは六七月の頃なるべし。妻の死たるは四五月の事と聞ゆる也
 
799 大野山紀利多知和多流和何那宜久於伎蘇乃可是爾紀利多知和多流
おほのやま、きりたちわたる、わがなげく、おきそのかぜに、きりたちわたる
 
大野山 筑前國御笠郡にあり。又怡土郡にもあり。これは御笠の大野也
於伎蘇乃 おきは息也。いきともおきともいふ。わがなげくおきそとはいきそ也。おきと云はんとて、わが歎くとは云へり。意は海の奧礒の風にて、大野山まで霧のぼりて欝蒙と晴やらぬ體を云へり。我歎の息の風にて霧を吹き立て大野の山迄も及ぼすと云ふ義にて、歎の大なる事を云ひたるもの也。息を霧によみよせる歌、集中にも數多あり。日本紀神代卷にも見えたり。
吹棄氣※[口+賣]之狹霧とあり。物をおもひ歎く時は、ためいきをつくといふ事ありて、ながき息をつくもの也。此歌も其息霧となりて、大野山迄もたちわたると歎たる歌也
 
神龜五年七月廿一日筑前國守山上憶良上
 
これは都の人へ送りたるか、また國府にて大伴卿などに見せらるゝとき如v此書たるか
 
令反惑情歌一首
まどへるこゝろをかへさしむるうた
 
これは序文にある如きの人へ、をしへしめしたる歌也
 
或有人知敬父母忘於侍餘不顧妻子輕於脱履自稱畏俗先生意氣雖揚青雲之上身體猶在塵俗之中(10)未驗修行得道之聖蓋是亡命山澤之民所以指示三綱更開五教遺之以歌令反其惑歌曰
 
注解追而可v加v之也。諸抄に見えたれば不v及2細注1
 
800 父母乎美禮婆多布斗斯妻子美禮婆米具斯宇都久志余能奈迦波加久叙許等和理母智騰利乃可可良波志母與由久弊斯良禰婆宇既具都遠奴伎都流其等久布美奴伎提由久智布比等波伊波紀欲利奈利提志比等迦奈何名能良佐禰阿米弊由迦婆奈何麻爾麻爾都智奈良婆大王伊麻周許能提羅周日月能斯多波阿麻久毛能牟迦夫周伎波美多爾具久能佐和多流伎波美企許斯遠周久爾能麻保良叙可爾迦久爾保志伎麻爾麻爾斯可爾波阿羅慈迦
ちゝはゝを、みればたふとし、めこみれば、めぐしうつくし、よのなかは、かくぞことわり、もちどりの、かゝらはしもよ、ゆくへしらねば、うきぐつを、ぬぎつるごとく、ふみねぎて、ゆくちふひとは、いはきより、なりてしひとか、ながなのらさね、あめへゆかば、ながまにまに、つちならば、おほきみいます、このてらす、ひつぎのしたは、あまぐもの、むかふすきはみ、たにくゞの、さわたるきはみ、きこしをす、くにのまほらぞ、かにかくに、ほしきまに/\、しかにはあらじか
 
米具斯宇都久志 めぐしうつくしは、皆めであいする義也。神代紀にも、めぐしとおほすみこゝろをとありて、いたはりめぐむ義を云ふ也。此集中には、愍の字をも用ひたり。憐愍と云ふもおなじ意、あはれみめぐむと云ふ意也
加久叙許等和理 世の中は如v此する筈の理と也。父母を尊み仕へて孝行を盡し、妻子をあはれみ愛するこそ、今日人道の常當然の道理と也。序の不顧妻子と云ふに合へり
母智騰利乃 下のかゝらはしと云はん爲の序也。もちには鳥のかゝるものなれば、かゝらはしと云はん爲也。此集中に此詞猶これあり
(11)可々良波志母與 かくあらしもよと也。もはしめ也。常道の如くあらしめよと也。母の字、女の字、毎の字の誤りたるか。母にても女なれば誤字と見ずても苦しからず
由久蔽斯良禰婆 此句解しがたし。決めて此上に一句脱したると聞ゆる也。尤下の句へつゞけたる五文字とも聞ゆる也。行方知らずも、世をふりすてゝ出行人はとよめる句とも見るべし
宇既具都遠奴伎都流其等久布美奴伎提 序文に、脱履よりも輕くすと云へるにあたりて、うきたるくつをぬぎすつるよりも、身を捨つることを、かろく心安くする人はと也。うきぐつとは、紐をも結ばず。かりそめにはきたるくつをいふか。うきぐつ共の一品ありと聞えたり。今は珍らしき名目也。雨※[泥/土]の時用ふるくつか。うきとは濁水を云。今淺沓と云ふ類か
由久智布比等波 行といふ人は也。父母妻子をも振捨てゝ世をも家をも捨てゝ出行人はと也。とひのかへしなれば、といふと云詞を、ちふと約めて云ふ也。此詞轉じて、てふとも、とふとも云へり。本語はちふ也
奈何名能良佐禰 かく人道の常を忘れて、身を心の儘にふるまふ人は、いは木の中よりなり出たる人か。其名を名のれと也。人間の道を離れたる人なれは、其理の名を名のれとせめたる意也。漢の古事佛書抔引合せて云はゞ、幾許も相叶ふ事あらんずれど、長文無益の事なれば略v之
阿米蔽由迦婆奈何麻爾麻爾 あめへゆくならば汝が心の儘と也。神通をも得て此國を去り、空天へもあがらばながまゝと也。國土にあるからは人道の常を行へと示せる也。史記曰、黄帝釆2首山銅1鑄v鼎。〔鼎成有v龍。垂2胡髯1下迎v帝騎v龍上v天云々〕
都智奈良婆大王伊麻周 つちにあらば、おほきみいますからは、おのがまゝにはなるまじきとの始終の意也
許能提羅周日月能斯多波 此照す也。日月の光のいたる限りはと云ふ意也
阿麻久毛能牟迦夫周伎波美 諸説天雲の向伏きはみといへり。此釋かなへりとも聞えず。むかひふすと云ふ義、いかにともすみがたき也。延喜式八、祈年祭祝詞〔白雲能墜坐向伏限、しらくものおりゐむかふすかぎり〕第三卷にもありて注せり
多爾具久能 この詞も第三卷目に注せり。かへるの如く云ひ傳へたり、。然しかやぐきといふ鳥ありて、かやをくゞる鳥の小鳥なるものあり。これによりておもへば、谷くゞも、いづこの山の奧谷の底にも、くゞり通ふ鳥の事にもやあらん。かへるの(12)さわたるかぎりと云ふ事、地のはてを云ふ事にはすこしかなひがたき也。尤蛙はぐくと鳴くもの故、ぐゝとも云ふなれど、ぐくはくゞると云ふ事にて、此集中にも木の間たちくゞなどよめり。神代紀には、漏の字をくきと讀ませたり。もれくゞる事をくゞとは云ふ也。當集に、上には蝦蟆の字を書きて、此には假名書にくゞと書きたれば、かへるの事にてあるべき也。くものむかふすは、廣く大なる事をいひ、たにぐくのわたる限りとは、いたつて小のところ、せまき溝河までもと云ふ意にて云へる義と聞え侍る也
伎波美 いづれもかぎり極りたるはてと云ふ義也。雲のおほひなびくかぎり、としむしにもあれ行き通ふかぎりはと云義也。
企許斯遠周 きこしめす也。天子のしろしめすかぎりと云ふ義也
久爾能麻保良叙 國の眞洞也。諸説まはらと云へり。日本紀應神紀にも、まほとあれば又まほらまとよませたまへる日本紀の歌あれば、はらにてはなき事を知るべし。まほらのまは間の義也。神武紀に、親王の書せ給へる墺※[土+區]の字の意とおなじくて國のま中、も中と云ふ義也。天ぐものむかふすきはみ、たにぐくのさわたるきはみとあるは、皆はてかぎりの事、まほらとはありとある帝都、もなかの地、みな大王のみこゝろのまゝなれば、其地のかぎりに住居すべくば、人道をはなれてはなるまじきとの意也
可邇迦久爾保志伎麻爾麻爾 とにもかくにも、我ほしきまゝにはなるまじきとの示したる意と聞ゆる也。下の句にて此句をむすぴたる詞と見ゆる也。尤上に、まほらそかにかくに大王のほしきまゝになれば、國のうちにすむからは臣として我まゝにはなるまじきと云へる歟
斯可爾波阿羅慈迦 しかはさ也。左樣にはあらじかと也。異俗先生と云はるゝ如く人倫の道を離れて、我まゝに高まん高ぶりのふるまひは、此普天の下にすみゐるからは、さはあるまじきぞと諫めたる意也
歌の意句釋にて聞えたり。とかく人道を守り、我ほしきまゝに世の中の事業をも棄て、父母妻子をもわすれて、身を塵芥より輕くする事はあるまじき事と、諫めてまどへる心をかへさしむる歌也
 
反歌
 
(13)801 比佐迦多能阿麻遲波等保斯奈保奈保爾伊弊爾可弊利提奈利乎斯麻佐爾
ひさかたの、あまぢはとほし、なほ/\に、いへにかへりて、なりをしまさに
 
阿摩遲波等保斯 天路地。長歌にいへる天にゆかばと云ふ義を、ふたゝびかへして詠める也。地のかぎり國の内にありては心のまゝにはなるまじきほどに、あめへのぼり行んは汝かまゝなれども、天路は高※[しんにょう+貌]なれば、入えざるものなれば、たゞすなほに家にかへりて、人道のつとむべき常行をつとめよと也。高遠なる異行をやめて、人道の常をまもれとの教となるべき歌也
奈保奈保爾 すなほに正道の道をまもれとの義也。なほくすなほにと云ふ義に重ねて云へり
奈利乎斯摩佐爾 業の字をなりとよませ、わざともよむ也。人のなすわざの事也。なりわひと云ふも同じ。人道のつとむるわざをしまさねと也。爾と云ふも禰と云ふも同じ詞にて、身分にそなはりたるわざをつとめよと下知し、しめしたる歌也
此歌などをもて、今日我國の教をもしめすべき也。神道の教のはしともなるべきはかやうの歌也。畢竟人道の常を守れよと示せる歌也
 
思子等歌一首
こどもをおもふうたひとくさ
 
これも憶良の歌也
 
釋遡如來金口正説等思衆生如羅※[目+候]羅又説愛無過子至極大聖尚有愛子之心况乎世間蒼生誰不愛子乎
 
金口は佛の口を尊んで云へる也。注釋諸抄に見えたり
 
802 宇利婆米婆胡藤母意母保由久利波米婆摩斯提斯農波由伊豆久欲利枳多利新物能曾麻奈迦比爾母等奈可可利提夜周伊斯奈佐農
(14)うりはめば、こどもおもほゆ、くりはめば、ましてしのばゆ、いづくより、きたりしものぞ、まなかひに、もとなかゝりて、やすいしなさぬ
 
宇利婆米婆 この婆は下の婆に混じたる也。波の字也。くりはめばに用ひたるにて知るべし。上の婆は波をあやまれり。うりはむにつけ、くりはむ折に付いて、都の子等を思ひ出でしたはるゝと也。うりと云ひ、くりと云ふ義に別に意はなき事也
斯農波由 しのばる也。つくしにてよめる歌故、都に殘せる子どもをしたふ也
伊豆久欲利枳多利新物能曾 この意は、かくうつくしみ思ひ慕ふは、何處より來る子ぞと思ふ意か。また下のまなかひとは、眼邊にと云ふ意ならば、遠き都をいづくより來りて、かくまなこにさへぎるぞと云へる意と聞ゆる也
麻奈迦比爾 下のかゝりてといふ詞のうつりによみ出たる詞也。やすいしなさぬと、下に云ひたれば、眼邊にと云ふ義なるべし。かもこも同音也。比は邊と同じ。都ひなとよむ詞也。しかれば、何處より來りて眼のほとり去らずかゝりて、よしなくも夜をだにやすく寢させぬぞと也。もとなとは、よしなと云ふ議と先は釋しつ。いぶかしく、心もとなきと云ふ義にも聞ゆる也。歌の意句釋にて能く聞えたり
 
反歌
 
803 銀母金母玉母奈爾世武爾麻佐禮留多可良古爾斯迦米夜母
しろがねも、こがねもたまも、なにせんに、まされるたから、こにしかめやも
 
能く聞えたる歌にて、親の恩惠おろそかならぬ事を、子たるものはおもひかしこまり、つゝしみつかふまつりぬべき手本の歌也
 
哀世間難住歌
よのなかのすみがたきをかなしむうた
 
此標題の意は、世中に住うろことはたやすくとげがたきものにて、人一生のうちには樣々無量の哀樂ありて、やすらかには世(15)へることの難きと也。即ち歌の中に苦しくよみ出せり
 
易集難排八大辛苦難遂易盡百年賞樂古人所歎今亦及之所以因作一章之歌 以撥二毛之歎其歌曰
くるしみいたむ事はあつまりやすくして、はらひ捨つることはかたきものなりと也
 
804 世間能周弊奈伎物能波年月波奈何流流其等斯等利都都伎意比久留母能波毛毛久佐爾勢米余利伎多流遠等※[口+羊]良何遠等※[口+羊]佐備周等可羅多摩乎多母等爾麻可志【或有此句云之路多倍乃袖布利可佯之久禮奈爲乃阿可毛須蘇毘伎】余知古良等手多豆左波利提阿蘇比家武等伎能佐迦利乎等等尾迦禰周具斯野利都禮美奈乃和多迦具漏伎可美爾伊都乃麻可斯毛乃布利家武久禮奈爲能【一云爾能保奈酒】意母提乃字倍爾伊豆久由可斯和何伎多利斯【一云都禰奈利之惠麻比麻欲毘伎散久伴奈能宇都呂比爾家利余之奈可伴可久乃未奈良之】麻周羅遠乃古佐備周等都流岐多智許志爾刀利波枳佐都由美乎多爾伎利物知提阿迦胡麻爾志都久良宇知意伎波比能利提阿蘇比阿留伎斯余乃奈迦野都禰爾阿利家留遠等※[口+羊]良何佐那周伊多斗乎意斯比良伎伊多度利與利提摩多麻提乃多麻提佐斯加閉佐禰斯欲能伊久※[こざと+施の旁]母阿羅禰婆多都可豆惠許志爾多何禰提可久由既婆比等爾伊等波延可久由既婆比等爾邇久麻延意余斯遠波迦久能尾奈良志多摩枳波流伊能知遠志家騰世武周弊母奈斯
よのなかの、すべなきものは、としつきは、ながるゝごとし、とりつゞき、おひくるものは、もゝぐさに、せめよりきたる、をとめらが、をとめさびすと、からたまを、たもとにまかし、よちこらと、てたづさはりて、あそびけむ、ときのさかりを、とゞみかね、すぐしやりつれ、みなのわた、かぐろ(16)きかみに、いつのまか、しものふりけむ、くれなゐの、おもてのうへに、いづくゆか、しわかきたりし、ますらをの、をとこさびすと、つるぎたち、こしにとりはぎ、さつゆみを、たにきりもちて、あかごまに、しづくらうちおき、はひのりて、あそびあるきし、よのなかの、つねにありける、をとめらが、さなすいたどを、おしひらき、いたとりよりで、またまでの、たまでさしかへ、さねしよの、いくたもあらねば、たづがつゑ、こしにたかねて、かくゆきは、ひとにいとはえ、かくゆきは、ひとにゝくまえ、およしをば、かくのみならし、たまきばる、いのちをしけど、せむすべもなし
 
周蔽奈伎物能波 せんかたもなきものは也。何とすべきやうなきものは、これより已下に云へる事ども也
年月波奈何流々其等斯 年月のゆきくるゝを、流水にたとへたる事、本邦も異國も同じく古語數多ありてあげてかぞへ難し。如v矢疾く過行にたとへたり
等利都々伎 とりは、すべて初語助語に云へり。年月はとゞまらず早く過ぎ行て、なすこと/”\は日にましよにまし絶ゆることもなく、引續き重り來ると、行と來る事をたゝかはして對によみ出でたるなり。つゞきは、ひたもの/\絶えざる意を云へり
意比久留母能波 生來也。追來にても同じ。然れども下にもゝ草とあれば、百種の事ながら生來るとはよみて、兩方をかねたる義也
毛々久佐爾勢米余利伎多流 百草の生ひ茂りかさなる如く、色々樣々の事のいやかさなり身をせめきたる如く、忽忙と過ることを云へり。もゝ草には、かず/\にと云ふ意也。此せめより來ると云ふ迄、この歌の序に云へる、あつまり易くしてはらひ難きは八大辛苦といへる惣結也。これより已下一生の有樣を云へり。先わらはべの時の事を云ひ出せり
遠等※[口+羊]良何 いとけなきときの、をとめらと打まじはりし事をのべたるはじめ也
速等※[口+羊]佐備周等 をとめぶりなり。をとめ、をきなさびといふ事は前々にも注せり。をとめだてをすると云ふと同じ。畢竟ふりはふるまひをすると云ふ義也。さは助語とも見る也
(17)可羅多麻乎 上代は身の飾りに玉をまきたる也。からたまとは、もろこしより來れる色々の名ある玉をよそほひたる事を、言葉の餘情にかくよめり。まくとは、まとふ事なり。身の餝に玉をせしことは、神代紀よりはじめ日本紀等に其證不v及v擧也。こゝの歌のことばは、天武天皇の吉野の瀧の宮に御幸の時、天女の降り舞妓をなせし時の御歌をうつしたる也
   をとめ子がをとめさびすとからたまをたもとにまきてをとめさびすも
全くこの御歌の御言葉をかれる也
古注或説を加て
或有此句云 あるひとこの句ありといふ
袖布利可伴之久禮奈爲乃阿加毛須蘇毘伎 一本に伴を※[口+羊]に作れるは誤也。互に袖を振り交して、むれつれだちたると云ふ義也。くれなゐのあかもすそひきは女の躰をいひたる裝束の事也
余知古良等 奴等也。よちはやち也。やちもやつも同じ。日本紀神功紀に、熊之凝の歌の、うまひとはうま人とちやいとこはもいとことち、といへるやいとこもやちと云ふ義也。しかればこゝも、よちこはやちこにて、やつこと同じ
手多豆佐波利提 手を携て也。童女童男打まじはりて、何心もなく遊びし折のありしと也
周具斯野利都禮 年月は流るゝ如くと云へる通、いつともなくその程も過ゆきて、思はずも年たけたる事を云ひ出せり
美奈乃和多迦具漏伎可美爾 みなのわたは黒きもの故、黒きと云はんための序也。此のみなと云ふものは蜷と云ふ河にある小貝を云ふと也。此説古來より云傳たる義也。然れ共※[魚+生]の背腸をみなわたと云へば、その義と云ふ説もありて、※[魚+生]の腸も至て黒きもの故、髪の黒きと云ふ冠辭に云ひ來ると也。いかさま蜷と云ふ貝は至て小貝なれば、腸などのあるべきものとも思はれず、※[魚+生]のわたの説しかるべからんか。和名抄〔本朝式云、年魚氷頭背腸、さけのひつのみなわた。年魚者鮭魚也。氷頭者比豆也。背腸者美奈和多也。或説云、謂v管爲v皆誤也。延喜式〔二十四、主計上、凡中男一人輸作物中畧鮭|骨觴《セワタ》各一斤八兩。〕如v此あれば鮭のわたなるべし。此已下集中此句多し
伊都乃麻可斯毛乃布利家武 これより年老て、かしらの髪も白くなりし事を云へり。いつのまにとは、心によるとも思はず、(18)年のよりにし事を云へり
久禮奈爲能 男女ともに、年若きときの紅顔美麗のうるはしかりし時の義を、詞のはなに云ひたり
一云爾能保奈酒 にかほなす也。には紅き色を云ふ。穗とはあらはれ出たる義を云。なすはごとくと云ふ義也。にの色のあらはれてみゆる如くと云ふ義也。紅顔と云ふ義と同じ。一本には、紅のと云ふ句、にのほなすとありしを、古注者或説に記し加へたり
意母提乃宇倍爾 顔面の事也。紅顔の上に也
伊豆久由可 いづくよりか也
新和何伎多利斯 皺也。倭名抄卷第三、肌肉類部出。※[峻の旁+皮]、唐韻云、※[峻の旁+皮]、七倫反、和名、之和、皮細起也。うるはしかりし紅顔に、いづくよりか來りけん、いつともなく、しわのよりたると也。是迄はをとめらがことを云ひしと聞ゆる也。或抄に皺掻垂しと釋せり。上にいづくゆかとあるにこの釋は心得がたし。來りしと云ふ義也
一云都禰奈利之惠麻比麻欲毘伎 此ある説は、しはかきたりしつねなりしとつゞけたる句ありと見ゆる也。本文に、紅のにのほなすなどあり。ゑまひまよひきなど一説にあれば、をとめのさかりのありさまを云へると聞ゆる也。さて此次に、またますらをのとよみ出て、男子のさかりの事を云へり
麻周羅遠乃遠刀古佐備周等 これより男子のさかりを云へり
佐都由美乎 得物弓也。神代下卷、山幸彦より起りたる義にて、ものをかり取弓矢を、さち弓、さつ矢とは云へり。至て上代よりの古語也
多爾伎利物知提 多は初語他。然れ共、手にきると云ふ意をかねて也。總て今時の歌にても、初語をおくにかやうのうつりの縁をかけておくに習あること也。此初語などよくかなへりと聞ゆる也
志都久良 諸抄の説、※[革+薦]と釋せり。下鞍計にてのらるべきものならず、下枝をしづえと云ふ事あるから、しづは下と解したるならんずれど此下くら心得難し。倭文くらなるべし。しどりにてかこみたる、そさうなる鞍を云ふたると聞ゆる也。古代(19)は素朴なれば、如2只今1美麗をつくさず。しづなどにてまきかためたるくらありて、それを用ひたる故かく云へるか。またいやしきものゝ乘鞍は、一品ありて、しづくらと云へる歟。和名抄に、下くらの事は見えたれど、下くら計にて乘らるべきよしなし。尚古制を考へ見るべし。しづくらの一種あるべき也。しづまきの胡床にたゝしなどいへる古語もあれば也。古事記雄略の卷の歌に見えたり。今昔物語、源頼信名馬を盗人取て※[しんにょう+外]しを、子息義家追掛ルとて馬やにて馬引出し、賤のくらありけるをおきて打乘りとあり。いやしきものゝ乘るくら一品ありける歟
波比能利提 たゞ乘りたる也。乘り遊ぶ躰を云ひたるもの也。はせのるなど云ふ説あれどその義にあらず
余乃奈迦野都禰爾阿利家留 如v此遊び歩ける事の世の常にある事と也。一説下のをとめらにつゞく句とも見ゆると也。つねの紅顔のまだ年たけぬをとめらをと云ふ事に、世の中のつねにありけるとは云へると也。好ところにしたがふべし
佐那周伊多斗乎 兩説あり。さす板戸ともいひ、ならす板戸とも云へり。先は日本紀古事記等の歌にてもならす義にとれば鳴すと見る也。をとめらがとひ來て、ならす戸をおし開き手とり引入てかたらふ有樣を云へり
伊多度利與利提 伊は初語にして、たどりより也。たどりもたより也。然ればいたの二字とも初語とも見るべし。たどりよりと云ふ意少しすまひてよる躰を云ひたる歟。たゞよりそふてと云ふ義と見るべし。かやうの長歌には、詞の縁にてとくと義にあたらぬことも、句つゞきにはよめる事多ければ、強てつまびらかに釋するにも及ぶまじきか。しのびわざなれば、しづかにひそやかによりそふ意にて、たどりともよめる歟。或説にいは發語にて、手をとりよりてとも釋せり。此説もいかゞ
摩多麻提乃 言葉のはなによめり。たゞ玉手と云ふ義也。玉手といふも言葉のはな也。雅言にかくはよめり
佐斯迦閉佐禰斯欲能 互に手をさし交しいねしと他。日本紀の歌等に、手をまかしなどよめる事多し。たゞむき不v卷などもよめり
伊久※[こざと+施の旁]母阿羅禰婆 いくたびもあらねばの意、とかくもあらぬの意にて、とかく多くもあらざるにと云ふ義也。このあらねばと云ふてには今時の心得と少違たり。いつまでもかくのごとくさかりのことのあらねばと云ふ義也。生とし老せず、かくする事のあらねばとの意にて、ねばとはよめり。此歌のつゞきにては、あらぬにと云ふべきところと見ゆる也
(20)多都可豆惠 手束杖也。手につかねる杖と云ふ義也。また手につく杖と云ふ義、また握といふ字をつかともよめり。然れば手につかねる杖の意なるべし。これより年老て、人にもきらはれ、にくまるゝありさまを云へり
多何禰提 これもたとつと通ずれば、腰につかねて也。腰につかねてとは、腰にあてゝ休息する事をいへるなるべし
伊等波延 人にいとはれ也。きらはるゝ也。下のいとはえも同じ。年老てはおのづから若きともがらは、よけさけてまじらはねば也
意余斯遠波 およそをば也。世の中皆かくの如くなりと也
遠志家騰 いのちをしけれど、世の中のならひ、かくいつともなく年よりて、遂にはいのちもかぎりあるべければ、せんかたもなくはかなきものと也
 
反歌
 
805 等伎波奈周迦久斯母何母等意母閉騰母余能許等奈禮婆等登尾可禰都母
ときはなす、かくしもかもと、おもへども、よのことなれば、とゞみかねつも
 
等伎波奈周 ときはのごとくしもとねがふ義也。年老ずいつも不v變にあれかしと也
余能許等奈禮姿 世の中のならひなれば、老行年もとゞめかねつると也。とゞめかねると云へば、とゞまるべきにもあるかと聞ゆるやうなれど、さにはあらず。これらを歌の風情といふべし。とゞめられぬ事を、かねつもとよめる所雅情也
等登尾 とゞみなるに尾の字を書きて、みとよまする事、古語皆かくの如く音の通ふたる事を知るべし。毘とにごりたる音はみ也。とゞびと云ひては義不v通。みとよまでは不v叶。然らばみの字をかくべき事なるに、上古は音通ふ事つねなる故、尾を書てもみのことゝ知れたれば也
 
神龜五年七月二十一日於嘉摩郡撰定筑前國守山上憶良
 
嘉麻郡 筑前の郡の内にあり
(21)撰定 古注者の考歟。憶良の筆記せるか。此哀世間難住の序文歌を記せる事を、如v此記したるか。またこれまでの詩歌にも悉く此年月に、此所にて憶良撰定られたるを万葉にそのまゝにのせたる歟。此文段不2分明1也
 
伏辱來書具承芳旨忽成隔漢之戀復傷抱梁之意唯羨去留無恙遂待披雲耳
 
これは太宰帥大伴旅人より、何方へぞ被v贈たる書通と歌との返翰返歌也。此伏辱來書と書たるは、先達而何方よりぞ來書ありと聞ゆる也。但し返翰の文かいづれとも分明には見分がたし。歌詞の下に、小書に大伴卿と記せるも後人の筆ならんか。先此序文は旅人の文と見る也。諸抄に大伴淡等の返翰とみるは、心得難し。奧に淡等とある故か。奧の淡等日本琴に付たる序の端書則和名抄にも載たり。此文は誰とも難v知也。但し憶良の文歟
 
歌詞兩首【太宰帥大伴卿】
 
806 多都能馬母伊麻勿愛弖之可阿遠爾與志奈良乃美夜古爾由吉帝己牟丹米
たつのまも、いまもえてしか、あをによし、ならのみやこに、ゆきてこんため
 
多都能馬 龍馬也。たつの馬は、能馬と云ふ義也。龍馬の事諸抄にくわし。引書を不v記。追可v加v之也。日本紀雄略紀にも見えたり。六帖にも欽明紀の馬の事をとりて、よめる歌をのせたり
愛弖之可 得てしかな也。龍馬をも得度きかな。はるけき奈良のみやこまでも、飛びかけらしてゆきて來んにと也。なり難き事をかくよみなせる處歌の風雅也。歌の意よくきこえたる歌也
 
807 宇豆都仁波安布余志勿奈子奴波多麻能用流能伊昧仁越都伎提美延許曾
うつゝには、あふよしもなし、ぬばたまの、夜のいめにを、つぎて見えこそ
 
いめにをのをは助語也。つきてはつゞきて也。幾度もの意也。許曾おこせ也。さしすせ通音にて、せなれどおこそを約したるもの也。あふよしもなしの余、夜にかけて由もなき也
歌の意きこえたる通也
 
(22)答歌二首
 
大伴淡等の返歌也
 
808 多都乃麻乎阿禮波毛等米牟阿遠爾與志奈良乃美夜古邇許牟比等乃多仁
たつのまを、あればもとめん、あをによし、ならのみやこに、こんひとのため
 
仁 一本作v女を正本とすべし
此歌の意は、たつの馬をわれこそもとめて、ならの都へ來りなんと云人をむかへんと也。先の歌を能く引受てよめる返歌也
 
809 多陀爾阿波須阿良久毛於保久志岐多閉乃麻久良佐良受提伊米爾之美延牟
たゞにあはず、あらくもおほく、しきたへの、まくらさらずて、いめにしみえん
 
多陀爾阿波須 ひたすらにあはぬ也
阿良久毛於保久 あるも多也。あはざる事のあるも多きと也。此おほくの詞少心得がたし。たゞにあはずにのみあるも、安否おぼつかなく思へばと云義歟。おほくは、おぼつかなくか。それゆゑまくらさらずて、ゆめに見えんと返したるか。いめにし見えんは、先のみえこその返し也
 
大伴淡等謹状
 
大伴淡等、傳不v詳。集中にも此外に不v見也。淡等は名か。是は左の梧桐日本琴を房前へ奉れる書翰の序也。和名抄に載たり。然るに目録には、帥大伴綱梧桐日本琴云々とあり。不審也
 
梧桐日本琴一面【對馬結石山孫枝】
きりのやまとことひとおもて
 
梧桐 倭名抄卷第二十木類部云、〔陶隱居曰、桐有2四種1、青桐、梧桐、崗桐、椅桐、梧桐者色白、有v子者、椅桐者白桐讐、三月花紫亦〕堪v作2琴瑟1者是也
(23)日本琴 倭名抄卷第四、琴瑟類部云、日本琴、萬葉集云、梧桐日本琴一面、注云、天平元年十月七日大伴淡等、附使監贈2中將衛督房前卿1之書所v記也。對似v筝而短小、有2六絃1、俗用2倭琴二字1、夜萬止古止。大歌所有2鴟尾琴1。止比乃乎古止。倭琴首造2鴟尾之形1也。延喜式卷第二十一、雅樂寮式云、凡樂器絃※[米+斤]絲和琴一面、長六尺二寸、※[米+斤]絲新二兩云々とあり。日本紀に、燒木をもて琴につくられしことをはじめ、あまた見えたり。上古よりありし物と知られたり。鴨長明無名抄に、弓六張をならべて引けるを後に和琴とはなせるよし書たれど、いつのころ作りはじめし年月も不v記ば、その元始もおぼつかなし
注にある、對馬結石山孫枝、此文不2分明1文也。右の琴は、對馬の結石山の梧桐孫枝をもて作れるといふ事と見ゆる也
結石山 對馬のある山の名なるべし。無2併見1
孫枝 琴の事に用たることからの書に多し。※[(禾+尤)/山]康琴賦〔に乃劉2孫枝1准2量所1v任とあり。〕又白氏文集〔に梧桐老去長2孫株1。〕十八家持橘歌に、はるされば孫枝毛伊都追保斗等藝須云々とある長歌あり。孫枝とかきて、ひこばえともよめり。此歌の點に當集は、まごえと點をなせり。文選銑注曰、孫枝側壁枝也
 
此琴夢化娘子曰余託根遙島之崇巒晞幹九陽之休光長帶烟霞逍遙山川之阿 遠望風波出入鴈木之間 唯恐百年之後空朽溝壑偶遭良匠散爲小琴不顧質麁音少恒希君子左琴即歌曰
 
此文は文選※[(禾+尤)/山]康琴賦をうつして書たり。注解諸抄にゆづる也
 
810 伊可爾安良武日能等伎爾可母許惠之良武比等能比射乃倍和我摩久良可武
いかならんひの、ときにかも、こゑしらん、ひとのひざのへ、わがまくらせん
 
伊可爾安良武日能等伎爾可母 いかならんひの、如v此よむべし。いかならん日のとよむ義は、日のときにかもといふ歌詞はつまりたる詞也。日を上につけてよむかたしかるべき也
許惠之良武 琴の雅聲を聞しらん人のと云義也。列子曰、〔伯牙善鼓v琴、鐘子期善聽云々。〕及蒙求等の事を考ふべし
比射乃倍 ひざのうへ也。一説膝の邊ともいへり。然るべからず。まくらせんとあるからは、ひざの上なるべし。當集第七(24)にも、ふすたまのを琴のとよめり
和我摩久良可武 この可の字をせとよませたる事は、和書のならひ也。すべしとよむ字故、下知の詞に用る字なればせとよむ習也。此傳を不v知人は、誤字或はかんとよむべしと釋せり。當集此習いくらもありて、常應の字をべしともよみせともよむ也。和書にて皆かくの如し。當集は和書の法を守りて被v書たる事故、斯樣の古實を存せる事數多也。拾穗抄には、世の字に直したり。古實を不v知は論にたるべからず
歌の意は、いかならん時にか、わが鋤響雅音のたぐひなき事を聞きしらん人にあひてもてあそばれん。あはれわが音を聞き知れる人にもてあそばれて、その人の膝にいつか枕せんと也。これ琴の精靈、大伴淡が夢に見えてよめる歌と傳へり。實は淡がよめるを如v此作れるか。上古の時は人の心質素にして人慾少き故、かやうの事も數多ありけるならんか
 
僕報歌詠曰
 
この題目の文も不2分明1也。もし詠曰の二字は衍字か、誤字歟と疑はるゝ也。疑は報夢歌曰と云を誤れる歟
僕報 このやつがれとは、大伴の淡みづからの詞也。夢のうちによめるか
 
811 許等等波奴樹爾波安里等母宇流波之吉伎美我手奈禮能許等爾之安流倍志
ことゝはぬ、きにはありとも、うるはしき、きみがたなれの、ことにしあるべし
 
梧桐にて作れる琴なれば、ことゝはぬ木にはと也
宇流波之吉伎美我 うるはしきとは、ほめたる詞也。徳功あるきみと云ふ意也。よき人のもてあそばん琴ならんと也
手奈禮能 手にふれなるゝことにてあるべしと、娘子への挨拶のうた也。聲しらん人のとよめるにこたへて、よく聲をも聞知り、徳あるうま人の手なるゝ琴なるべしとほめたる也
 
琴娘子答曰
 
夢にまた琴の娘子右の歌を聞きて、悦びてこたへしと也
 
(25)敬奉徳音 幸甚幸甚
 
毛詩谷風云、徳音莫v違、及v爾同v死。季少卿答2蘇武1書尾云。時因2北風1復惠徳音幸甚。この外追而可2引合1也。これまで琴の娘子の夢に答し詞也
 
片時覺即感於夢言慨然不得黙止故附公使聊以進御耳 謹状不具
 
これより夢さめて、娘子の夢中に告し語を歎息し、あはれと思ひて、そのおもむきをおほやけの使にことづけて、申おくれる事をのべたる序也
慨然 なげきてあはれとおもふ義也
不得黙止 そのまゝにやめおきがたきと也
附公使 太宰府より公用に付て、都へ登す使にことづてゝ、房前のかたへおくれると也。太宰大監大伴宿禰百代なるべし
進御耳 先を尊敬してすゝめたてまつると云ふ義也。進御の二字出所追而可v考
 
天平元年十月七日附使進上
 
謹通、中衛高明閣下謹空
 
此謹空の二字、或説紀室の誤かと云へり。通例の本言空に作れり。一本作v言を正とす。記室と見るも奧の例に準じては尤可也
中衛 今の近衛也
高明 高貴の人を尊稱して書たる歟。房前の家臣などを云へる歟。是迄淡の文也。至て尊敬の文也
 
跋承芳音嘉懽交深乃知龍門之恩復厚蓬身之上戀望念常心百倍謹和白雲之什以奏野鄙之歌房前謹状
 
これより房前公の返事の文なり。芳音は志の音問をうけて悦との義也
 
(26)嘉情交深 善事珍説を聞てよろこぶ事、相ともにまじりてふかきと也
知龍門之思復厚蓬身之上 古事あり。追而可2考記1也
奏野鄙之歌房前謹状 謙退卑下の詞也
房前 はぜと讀べきを、天下擧而ふさゞきとよめり。此時代の人の名につきては、別に傳あることにて、此名もはぜと見ゆる也。魚の名を以て名付けられたる也。淡海公、不比等第二の子也。懷風には總前と書せり。これも誤りて書たるか。またかへつて古語を知りて書けるか。ふさを約すればは也。然ればともにはぜとよむべき也。ふさとよむ字故、はと用たると見えたり。古書の例皆此古實を存せり。房前の傳續日本紀に詳也。追而可v記。伯の字きとよむ。當集に大伯皇女の名、おほきのひめみことよむ類を以て、ふさをはとよむ事を辨ふべし。伯はかみとよむ故約してき也
 
812 許等騰波奴紀爾茂安理等毛和何世古我多那禮乃美巨騰都地爾意加米移母
ことゝはぬ、きにもありとも、わがせこが、たなれのみこと、つちにおかめやも
 
和何世古我 此ことばすまぬ義也。先は先をあがまへて、淡等をさしてのたまへることゝ見るべし。婦人の歌なればかくあるべきも、房前公のうたにしては心得難けれど、昔は先を敬ふ事に男女にかぎらず、男をさしてはあがせとも云し事、第一卷に注せる如く、君士の稱と見るべし。此集中吾君を、あがせと男の歌にもよめる事多し。日本紀雄略紀にあせとよめる、君をさして男子のよめる也
美巨騰都地爾意加米移母 美は初語と見るべし。つちにおかめやもとは下にはおかれしと也。琴を賞して也
移母 此移の字、野の字の誤りと見ゆる也。然るにやゐゆゑおの通音にていもやも通ふと云ひ、日本紀の神功紀にある※[人偏+兼]人爾汝移と有、移の字普通の點本には、野と傍注したるを證として、移をやとよむとも云説有。心得難し。野の字の傍注は、公望の日本紀私記の事ならんか。私記には移の字野の字に作りたるとの義なるべし。さればこそ無點の日本紀には、その傍注もなき也。日本紀の點も私記に、移を野と記したるを見て、やと假名を後人つけ誤りたるか。やといと通ふこと外に例をしらず。(27)もし強ひて云はんには、やとゆと通ふ、ゆとうと通ふ例あれば、いとうと通ふ道理もあらんか。然れども外に古語の證例を知らざれば決し難し。野の字の誤と見る方義安かるべし。字形もまた誤やすき也。欽明紀のみやけの事後案すべし。
 
十一月八日附還使大監
 
還使 太宰府よりのぼりし先のつかひ此時かへるによりて、ことづけて返翰あると也。附とはことづくると云ふ義也
大監 大宰大監也。大伴宿禰百代此時の大監也。然れば百代公用に付徃來せしなるべし
 
謹通 尊門 記室
 
尊門は先を敬ひての義也。これによりてこれを見れば、前の高明も人名にはあらで先榮尊したる詞か。尊高貴明の意にて至て尊敬の意に高明とは記せしか
記室 これは其家の文書の事を掌る所をさして云也。たとへば祐筆などの如し。これも先へ直にあてず、文書を掌る人へさして通すと云ふ敬ふたる意也。事物紀元曰、漢書云、皆有2ニ記室1、掌v草2表書記1
 
筑前國怡土郡深江村子負原臨海丘上有二石大者長一尺二寸六分圍一尺八寸六分重十八斤五兩小者長一尺一寸圍一尺八寸重十六斤十兩並皆墮圓状如鷄子其美好者不可勝論所謂徑尺壁是也【或云此二石者肥前國彼杵郡平敷之石當占而取之】去深江驛家二十許里近在路頭公私徃來莫不下馬跪拜 古老相傳曰徃者息長足日女命征討新羅國之時用茲兩石挿著御袖之中以爲鎭懷【實是御裳中矣】所以行人敬拜此石乃作歌曰
つくしのみちのくにいとのこほりふかえむら也。ふおふのはら云々
 
怡土郡 日本紀第八仲袁紀云、筑紫伊覩縣主祖、五十迹手云々。倭名鈔卷第五國郡部云、筑前國 筑紫乃三知乃久知 怡土以企
長一尺 令義解第十雜令云、〔凡度十分爲v寸【注略】十寸爲v尺一尺云々〕
重一尺二寸 同云、〔一尺二寸爲2大尺一尺1云々〕
皆墮圓 形丸き石と也。即ちとりのこの如しとあるは、卵の如くに丸きと也。墮とは〔以下記注ナシ〕
(28)徑尺壁 大成玉と云ふ意也
或云此二石者 本文の二石也
肥前國彼杵郡平敷《ヒノミチノクチノクニソノキコホリヒラフ》之石當v占取v之 倭名鈔卷第五國郡部云、肥前國彼杵郡【曾乃木】右は神功皇后の御時、此所にてうらなはしめて、とらさしめたまふとの義也
息長足日女命 おきながたらしひめのみこと、神功皇后の御事也
征討新羅 日本紀卷第九〔に、既而皇后中畧躬欲2西征1、于v時也適當2皇后之開胎1、皇后則取v石挿v腰祈v之曰、事竟還日産2於茲土1、其石今在2于伊覩縣道邊1
爲鎭懷の下の注に、實是御裳中矣。此實の字は疑ふらくは懷の宇也。懷とは御ものうちと云の注と見ゆる也。此注不審故諸抄にも釋を不v加也
 
813 可既麻久波阿夜爾可斯故斯多良志比※[口+羊]可尾能彌許等可良久爾遠武氣多比良宜弖彌許々呂遠斯豆迷多麻布等伊刀良斯弖伊波比多麻比斯麻多麻奈須布多都能伊斯乎世人爾斯※[口+羊]斯多麻比弖余呂豆余爾伊比都具可禰等和多能曾許意枳都布可延乃宇奈可美乃故布乃波良爾美弖豆加良意可志多麻比弖可武奈何良可武佐備伊麻須久志美多麻伊麻能遠都豆爾多布刀伎呂可※[人偏+舞]
かけまくも、あやにかしこし、たらしひめ、かみのみこと、からくにを、むけたひらげて、みこゝろを、しづめたまふと、いとらして、いはひたまひし、まだまなす、ふたつのいしを、よのひとに、しめしたまひて、よろづよに、いひつぐかねと、わたのそこ、おきつふかえの、うなかみの、こふのはらに、みてづから、をかしたまひて、かむながら、かむさびいます、くしみたま、いまのをつゞに、たふときろかも
 
(29)可既麻久波 前に注せる如く至而尊而云ふ詞也。かけまくとはあやといはん序也。綾はものにかけて卷ものなれば也。そのまたあやは、あやしきばかりにおそろしく尊きといふの意也。
可尾能彌許等 あやしきとよめるにて、則神功皇后はおほん神と云ふの意也
可良久爾遠 新羅を攻めたひらげ給ふ事をいへり
武氣多比良宜弖 したがへおさめさせられて也
彌許々呂遠斯豆迷多麻布等 御心をしづめ給はんとて、かの二つの石をもて、ちかひ祈らせ給ひて、皇子のうむが月をのべたまふ也。天に祈り神に祈らせ給ふも、まことの至極をつくせば、如v此しるしのありけることをも感じてよめる也
伊刀良斯 伊は初語也。とらしめられて也
伊波比多麻比斯 神靈ともなして、いはひあがめたまひて也。齋の字の意祝の字の意とは違也
斯※[口+羊]斯多麻比弖 しらしめて也。をしへ給ふの意にもかなふ也。かくあやしき事のありし義を、万世迄も知らしめをしへさせられてと也
伊比都具可禰等 いひつがね、と也。いひつげよと云ふ意也
意枳津 下の深江を云はん爲の序詞也
宇奈可美 海のほとりと云ふ義か。海上と云ふ地名歟。此のつゞきはふかえ、うなかみ、こふともに、一所の地名と聞ゆる也
意可志多麻比弖 爲v置給て也
久志美多麻 二石をほめて、あやしき玉と也。くしは賞讃の詞也。神代紀の奇魂の意とは違也
伊麻能遠都豆爾 今の現也。あいうえを通音おつゝと書たれば通じ難けれど、古書假名を不v違は斯樣のところにて見るべし
伎呂可※[人偏+舞] 呂は助語也
歌の意きこえたる通地。神功皇后の神徳をほめ、奇石の由來をのべたる歌也
 
814 阿米都知能等母爾比佐斯久伊都夏等許能久斯美多麻志加志家良斯母
(30)あめつちの、ともにひさしく、いひつげと、このくしみたま、しかしけらしも
 
あめつちのと此のゝ字は、とゝあるべきやうなれど、あめつちのひさしきとゝもの意にかくは詠めるならん。右の歌は山上憶良のよめる也
志可志家良斯母 如v此なしけらしもと也。けらしもはける也。かの奇石を此所に敷置せ給ひけるならんとの意とも見るべし。しかしは如v此といふ意と、敷しとしいふと両説あり
 
右事傳言那珂郡伊知郷蓑嶋人蓑部牛麻呂是也
 
那珂郡 筑前國の郡の名也
伊知郷 所の名也
蓑部牛麻呂是也 何人といふ事を不v考。右二石の事を傳へ言ひし人は、此人と憶良の文と見ゆる也
 
梅花歌三十二首
 
天平二年正月十三日萃于帥老之宅申宴會也于時初春令月氣淑風和梅披鏡前之粉蘭薫珮後之香加以曙嶺移雲松掛羅而傾盖夕岫結霧鳥對※[穀の左の禾が米+炎]而迷林庭舞新蝶空歸故鴈於是盖天坐地促膝飛觴忘言一室之裏開衿煙霞之外淡然自放快然自足若非翰苑何以※[手偏+慮]情請紀落梅之篇古今夫何異矣宜賦園梅聊成短詠
 
萃は聚と云字注ありて、帥の家に人々集まりて、うたげをなせる也
帥老 太宰帥旅人を云へり。老とは尊稱して云へる詞也
于時初春令月云々 序文の公事等追而考合すべし。此序文は旅人の作文歟。先達も不v考也
 
815 武都紀多知波流能吉多良婆可久斯許曾烏梅乎乎利都都多努之岐乎倍米 大貳紀郷
(31)むつきたち、はるのきたらば、かくしこそ、うめををりつゝ、たのしきをへめ
武都紀多知 むつきは正月の事也。正月になりたらばと云ふ義也。正月になり、春の來りたらば也。かくしこそと云ふにて、この後のとしごとの義を云へり。毎年如v此して樂しみを經んと也。古今集大歌所御歌に、新しき年の初にかくしこそ千歳をかねて樂しきをつめとよめるも、此歌の下の句におなじ。つめたのしきとよみ給へる故、木をつむの意をうけてかくあるか、若しつめ、へめ假名に書く時まがひ易き字なれば、右の御歌もへめにてやあらんかし
大貳紀卿 未v考。太宰大貳也。此以下皆如v比。小字にて記せり
 
816 烏梅能波奈伊麻佐家留期等知利須蒙受和我覇能官能爾阿利己世奴加毛 小貳小野大夫
うめのはな、いまさけるごと、ちりすぎず、わがへのそのに、ありこせぬかも
 
蒙の字は義の字の誤也
此歌の意は、かくさかりの梅をこのまゝにわが宿にうつし度との義也。ありこせぬかもは.わが家の園に來らぬかと願ひし意也。わがへは我家也
此作者小貳小野大夫 未v考。第三小野老といふあり。是なるべし
 
817 烏梅能波奈佐吉多流僧能能阿遠也疑波可豆良爾須倍久奈利爾家良受夜 【少貳粟田大夫】
うめのはな、さきたるそのゝ、あをやぎは、かづらにすべく、なりにけらずや
 
此歌の意、梅の花はかくおもしろくさきしが、あをやぎはまだかづらにする様にはならぬかと問ひし歌也。なりけるにあらずやと云義也
小貳粟田太夫 未v考
 
818 波流佐禮婆麻豆佐久耶登能烏梅能波奈比等利美都都夜波比流久良佐武 筑前守山上太夫
(32)はるされば、まづさくやどの、うめのはな、ひとりみつゝや、はるひくらさん
 
筑前守山上太夫 これは憶良なり。五位なる故太夫と書る歟
 
819 余能奈可波古飛斯宜志惠夜加久之阿良婆烏梅能波奈爾母奈良麻之勿能怨 豐後守大伴大夫
よのなかは、こひしげしゑや、かくしあらば、うめのはなにも、ならましものを
 
豐後守大伴太夫也。伴を※[口+羊]に作は誤也
古飛斯宜志惠夜 古本印本諸抄の點も、皆こひしきしゑやとあり。宜の字は濁音の字なれば、げと讀まではなりがたし。しかれば歌の意、世の中はいろ/\の事ありて思ひわぶる戀のしげければ、よしやかくあらば、人々にもてはやされて、めでらるゝ梅の花にもなりたきとの義也。惠夜は、よしゑやしの略語にて、よしやの意也。豐後守大伴太夫は三依にあらんか
 
820 烏梅能波奈伊麻佐可利奈理意母布度知加射之爾斯弖奈伊麻佐可利奈理 筑後守葛井太夫
うめのはな、いまさかりなり、おもふどち、かざしにしてな、いまさかりなり
 
斯弖奈 おもふどちかざしにせんと云義也。すべて、なとよめる詞は、それとおさへたる詞也。かざしにせんと云意也。
筑後守葛井太夫 未v考。くず井か、かづら井か、追而可v勘也。第四卷の大成の事歟
 
821 阿乎夜奈義烏梅等能波奈乎遠理可射之能彌弖能能知波知利奴得母與斯 笠沙彌
あをやなぎ、うめとのはなを、をりかざし、のみてのゝちは、ちりぬともよし
 
あをやなぎとも讀めり。あをやぎと讀めるに同じ。うめとの花、古詠の風體他。青柳と梅との花を也。のみてのゝちは、さかもりせしの後也。酒を飲ての後也
笠沙彌 滿誓歟
 
822 和何則能爾宇米能波奈知流比佐可多能阿米欲里由吉能那何列久流加母
(33)わがそのに、うめのはなちる、ひさかたの、あめよりゆきの、ながれくるかも
 
あめよりゆきのながれくる、めづらしき詞なり。後世よくおほせがたき詞也。きこえたる歌也。
主人 大伴旅人の事なるべし。歌の詞もわがそのゝ梅の花散ると詠める、あるじならではよみがたき不挨拶の歌也。あるじにてかへつて卑下の歌ともなるべし
 
823 烏梅能波奈知良久波伊豆久志可須我爾許能紀能夜麻爾由企波布理都々 【大監大伴氏百代】
うめのはな、ちらくはいづこ、しかすがに、このきの山に、ゆきはふりつゝ
 
ちらくはちるは也。るをのべたる詞前に注せり。しかすが、さすがに也。このきの山は、此城の山也。筑前國にある城山をさして、さすがに城山に雪の降る樣なると、梅花の散るを見立てほめたる歌也
百代 公使にのぼりし大監大伴百代也
 
824 烏梅乃波奈知良麻久怨之美和家曾乃乃多氣乃波也之爾于具比須奈久母 【小監阿氏奧島】
うめのはな、ちらまくをしみ、わがそのゝ、たけのはやしに、うぐひすなくも
 
此歌の意は、梅の花の散りなば、竹の林に鳴くうぐひすの音やみぬべければ、梅の花あらばこそ園の竹の林にも鶯もなけと、梅花とゝもにをしみたる歌也。古詠の格如v此鳴くもと計とめて心をこめたる也。もの字皆嘆息の詞にして、此歌の格集中數多也。或抄に梅の散をうぐひすのをしみて鳴くといふ歌とも云へり
阿氏奧嶋 未v考
 
825 烏梅能波奈佐岐多流曾能能阿乎夜疑遠加豆良爾志都都阿素※[田+比]久良佐奈 【小監土氏百村】
うめのはな、さきたるそのゝ、あをやぎを、かづらにしつゝ、あそびくらさな
 
くらさなは、くらさなん也。きこえたる歌也。梅とあをやぎとを賞したる迄の歌也
(34)土氏 心得がたき氏也。土師の師を脱したる歟。奧には土師氏御通と記せり。百村、未v考
 
826 有知奈※[田+比]久波流能也奈宜等和家夜度能烏梅能波奈等遠伊加爾可和可武 【大典史氏大原】
うちなびく、はるのやなぎと、わがやどの、うめのはなとを、いかにかわかん
 
うちなびくは柳のうちなびく也。うちは初語也。此歌も青柳の亂れなびく體と、梅の花の咲き匂ふえならぬ薫にあかぬ心はいづれおとりまさりてめでなんと、二色ともに賞愛したる歌也。大典は太宰の大典なるべし
史氏大原未v考
 
827 波流佐禮婆許奴禮我久利弖宇具比須曾奈岐弖伊奴奈流烏梅我志豆延爾 【小典山氏若麻呂】
はるされば、こねれがくりて、うぐひすぞ、なきていぬなり、うめがしづえに
 
はるさればは、はるになれば也。夕されば秋されば皆夕部になれば、秋になればと云ふ義也。春の過去事などに見る説あり。心得違なり。歌によりて、さもよめる事あらんか。その歌にて辨ふべき也。此歌は春になればといふ義也
許奴禮 梢也。奴禮もすえも音同じ、和名抄こむれと云ふ字を出せり。※[木+越]の字也。纂要云、木枝相交下陰曰v※[木+越]、音越、和名古無良、此義なるべし。ぬれもむらも音通ふ也。梢と云ふても同じ意也
我久利弖 かくれて也。我と濁れるは上に引れて音便濁る也
伊奴奈流 寢也。うめがしづ枝は下枝也。春になれば、梅か枝のしげり交りたる下陰の下枝に、いろ香に染めて、うぐひす老いぬる事をうらやみて、梅を賞しうぐひすを愛して詠める歌也
山氏若麻呂未v考
 
828 比等期等爾乎理加射之都都阿蘇倍等母伊夜米豆良之岐烏梅能波奈加母 【大判事舟氏麻呂】
ひとごとに、をりかざしつゝ、あそべども、いやめづらしき、うめのはなかも
 
よくきこえたる歌也
(35)大判事 太宰府の官名也。令義解〔職員令太宰府の條に出づ〕
 
829 烏梅能波奈佐企弖知理奈波佐久良婆那都伎弖佐久倍久奈利爾弖阿良受也 【藥師張氏福子】
うめのはな、さきてちりなば、さくらばな、つきてさくべく、なりにてあらずや
 
佐久良波奈 普通の本には佐の字を脱せり。古一本にはあり。つきてはつゞきて也。梅ちりなばまた櫻の花つゞきて咲くにてあらんと、春を樂しめる歌也。なりにてのには助字也。つゞきてさくにてあらふとの義也。なりてあらずや也
藥師 太宰府の官人也。醫師の義なるべし。未v孝
 
830 萬世爾得之波岐布得母烏梅能波奈多由流己等奈久佐吉和多流倍子 【筑前介佐氏子首】
 
萬世爾得之波岐布得母 きふともは、來經共也。きふるとも也だ 此歌一首萬世の二字を書たりけん。三十二首共皆一字がき也。祝言をあらはさん爲か
佐氏子首 未v考
 
831 波流奈例婆宇倍母佐枳多流烏梅能波奈岐美乎於母布得用伊母禰奈久爾 【壹岐守板氏安麻呂】
 
うべもは尤と云ふ意に同じ。春になれば理にもさける梅の花と云意也
岐美乎於母布得 梅を君と云ひたる也。梅が咲きたるにめでゝ、夜をもやすくは寢ぬと云ふ義也。唐の詩にも、竹を君と云ひ月を君と云ふ事もあれば、その例をもて梅をも君とよめるなるべし
壹岐守板氏安麻呂 未v考
 
832 烏梅能波奈乎利弖加射世留母呂比得波家布能阿比太波多努斯久阿流倍斯 【神司荒氏稻布】
 
よく聞えたる歌也
神司荒氏稻布 未v考。神司は主神の事也。太宰府の官人也
 
(36)833 得意能波爾波流能伎多良婆可久斯己曾烏梅乎加射之弖多努志久能麻米 【大令史野氏宿奈麻呂】
としのはに、はるのきたらば、かくしこそ、うめをかざして、たのしくのまめ
 
年のはは毎年の事也。此集中に則自注あり。一説としのはじめと云ふとあれど此歌にはかなはず。春の來る年毎にと云ふ義也。たのしくのまめは、飲酒の今日の如き宴會をせんと也
太令史 太宰府の官也。野氏宿奈麻呂、未v考
 
834 烏梅能波奈伊麻佐加利奈利毛毛等利能己惠能古保志枳波流岐多流良斯 【少令史田氏肥人】
うめのはな、いまさかりなり、もゝどりの、こゑのこほしき、はるきたるらし
 
毛毛等利 百鳥他。諸鳥の義也
己惠能古保志枳 聲のこひしき也。齊明紀に、天智帝未だ太子にてましませし時、きみのめのこほしきからにと詠ませ給へるも、こひしきからに也。上古の風體如v此也
良斯 春の來れるは知れたる事なれど、如v此不2打付1によめる事雅情の一格、如v此の類あまたある事也
小令史田氏肥人 夫v考
 
835 波流佐良婆阿波武等母比之烏梅能波奈家布能阿素※[田+比]爾阿比美都流可母 【藥師高氏義通】
 
はるにならばあはんとおもひしうめのはな也
藥師高氏義通 又藥師を擧たる事不審未v考也
 
836 鳥梅能波奈多乎利加射志弖阿蘇倍等母阿岐太良奴比波家布爾志阿利家利 【陰陽師礒氏法麻呂】
 
よく聞えたる歌也
陰陽師礒氏法麻呂 未v考。官は府の官名也
 
(37)837 波流能努爾奈久夜※[さんずい+于]隅比須奈都氣牟得和何弊能曾能爾※[さんずい+于]米何波奈佐久 【竿師志氏大道】
 
春の野になくうぐひすをなつけんとてや、我家の園に梅の花さきしと也
竿師志氏大道 末v考。官名は皆府の宮名也
 
838 烏梅能波奈知利麻我比多流乎加肥爾波宇具比須奈久母波流加多麻氣弖 【大隅目榎氏鉢麻呂】
 
まがひたるは、ちりあひたるの意、亂るゝの意、花の散りまじれる岡邊と云ふ義也。をかひは、をかべ也。うぐひすなくもは、たゞ鳴くと云計の意、もは嘆の詞也。はるかたまけて、かたと云事は六ケ敷也。まづは片の意にて、不全の義と云へり。然れども此歌には不v合也。たゞ春をむかへてと云ふ義と見る也。かたは初語とも聞ゆる也。片設と書きたるところもあり。假名書のところもありて此詞一決しがたし。かたは、かつと云ふ義とも見ゆ。此歌の意も、春になりぬれば、梅の花の散り亂れたる岡邊にはまだ鶯來鳴きあへると云ふ意と見るべし
大隅目榎氏鉢麻呂 未v考。筑前太宰府は西海の惣官所故、近國の官人寄集する故、如v此近國の官人の名をあげたるは、此時宴會に集りしと見えたり
 
839 波流能能爾紀利多知和多利布流由岐得比得能美流麻提烏梅能波奈知流 【筑前目田氏眞人】
 
春も霧をよむ事此集中に數多あり。霧の中に梅の花の散らば、雪の降るかとうたがはるべき也。聞えたる歌也
筑前目田氏眞人 未v考
 
840 波流楊那宜可豆良爾乎利志烏梅能波奈多禮可有可倍志佐加豆岐能倍爾 【壹岐目村氏彼方】
 
有可倍志 此可の字普通には脱せり。よりて或抄に、誰か植しさかづきのへにと心得たる説も有也。古本に可の字あり。あるべき筈也。此歌の意は、青柳と梅とを折りてかづらにせしが、その梅の花さかづきの上に浮めるを見て、たが浮べしぞとよめる也。柳も梅も折りてかづらにせしと也
(38)壹岐目村氏彼方 未v孝
 
841 于遇比須能於登企久奈倍爾烏梅能波奈和企弊能曾能爾佐伎弖知留美由 【對馬目高氏老】
 
おときくは聲音を聞くになり。なべにと云ふは、そのまゝすなはちと云ふ意也。先はからにと云ふ意に見る也。このなべにと云ふ語濟み難き語也。わぎへは我家也
對馬目高氏老未v考
 
842 和家夜度能烏梅能之豆延爾阿蘇※[田+比]都都宇具比須奈久毛知良麻久乎之美 【薩摩目高氏海人】
 
うめのしづえは梅の枝なるべし。下枝の義にはあるべからず。家は我の誤也。うぐひすなくものもは、例の嘆の詞也。梅は咲き鶯は鳴きて春の泉色の面白きを云ひて、梅の花の散らまくをゝしむとの歌也。鶯のをしみて鳴くと云ふ樣に聞ゆれど、をしみは我をしむの意なるべし
薩摩目高氏海人 未v考。海人は、あまと云ふ名なるべし
 
843 宇梅能波奈乎理加射之都都毛呂比登能阿蘇夫遠美禮婆彌夜古之叙毛布 【土師氏御通】
うめのはな、をりかざしつゝ、もろびとの、あそぶをみれば、みやこしぞおもふ
 
太宰府にて官人のうち集り飲宴をするすら、かく面白きに、都にてはいかばかりにやあらんと、故郷の都をしたふ心さもありぬべし
土師氏御通 未v考。みゆきと云ふ名歟。第四卷に水通とあると同人歟
 
844 伊母我陛邇由岐可母不流登彌流麻提爾許許陀母麻我不烏梅能波奈可毛 【小野氏國堅】
 
こゝたもは、前に注せる如く、いくばくも、いかばかりもと云ふ義、多き事也。はなかものもは例の嘆の詞也。かなの意也
小野氏國堅 末v孝。無官の人にて、奧にも此氏無官にて此宴に相加はれり。最初第二番目にある小貳小野大矢の類族故歟
 
(39)845 宇具比須能麻知迦弖爾勢斯宇米我波奈知良須阿利許曾意母布故我多米 【筑前掾門氏石足】
うぐひすの、まちがてにせし、うめがはな、ちらずありこそ、おもふこがため
 
まちがてには、まちかねたる也。我待ちしを鶯におほせて詠みなせり。まちかねし梅の花咲きぬれば、その花散らずもあれかし。おもふ子のみはやさん爲にて惜める意也。おもふ子の爲とは思ふ人をさせるか。ことは女の通稱なれば、戀ひ慕ふ女などありてそれを待心にや。いづれにもあれ、たゞ梅の花の散らず、このまゝにもあれかしと願ふ歌也。ありこそはあれこそ也。こそは、ありおこせと云ふ義にも通ふ也
門氏石足 未v考
 
846 可須美多都那我岐波流卑乎可謝勢例杼伊野那都可子岐烏梅能波那可毛 【小野氏淡理】
かすみたつ、ながきはるひを、かざせれど、いやなつかしき、うめのはなかも
 
能聞えたる歌也。不v及2注釋1
小野氏淡理 未v考。太宰少貳小野太夫と前に出たる人の類族故、此宴會にもあへる歟
 
員外思故郷歌兩首
かずのほかふるさとをおもふうたふたくさ
 
員外 これは三十二首の外に、憶良の詠める歌と云ふ事なるべしと釋せる説あり。心得難し。此員外の字不v明也。然れども先右の通に見置は、諸抄の説也。宗師云、員外は旅人の事なるべし。太宰權帥なるべし。よりて唯員外郎と云ふ意に如v此記せるならん
 
847 和我佐可理伊多久久多知奴久毛爾得夫久須利波武等母麻多遠知米也母
わがさかり、いたくゝだちぬ、くもにとぶ、くすりはむとも、またをちめやも
 
(40)和我佐可理 我壯年のさかんなるもと云義也
久多知奴 降と云ふ字をもくだちぬと讀まして年のたけたる義、としふけ、くだりたると云ふ義也。よのふける事に、よくだちてなど詠めり。いたくは甚の意にて、年もいたくふけたればといふ義也
追考。師云。此二首の歌をちのかな心得難し。遠の字二首ともにかきたらば、意の誤とも見るべけれども、速越の字をわけてかきたれば、誤字とも決し難し。よりて此字のまゝに見るやうは、遠知は惜の義なるべし。知の字、しとよませる事集中にいくらもあり。然ればをしめやもは、をしまめやもといふ義と見て、歌の見やう違也。此案はいかゞ。愚案、故郷をしたふ歌なれば、落の字の意のかたに見れば安也。然れども越遠の字のたがひ何とも心得難し
久毛爾得夫久須利 仙術のくすり也。前の序文にありし如く、神仙傳、准南王割安の仙藥のうすにのこりしを、犬鷄のなめて雲にのぼりし事ありしその古事を云へる歌也。その藥をはみたりとも、勢力もおとろへくだちたれば地に落ちんと也。仙藥をのみて雲に飛ぶ通力自在を得ずしては、中々都にかへりのぼる事もなるまじけれど、今は年くだちぬれば、その藥を飲みたりともまたかへつて地におちんと也
遠知米 この遠の字誤宇と見えたり。意の字の誤りたるなるべし。落の字のおちは於也。遠ををちといふをははしのを也。こゝの假名には不v合。決めて意の字の誤と見るべし。落の字の意ならでは、此歌の意はいかにとも濟み難し。おちめやもといへる落ちるにてあらんとの意也。今時のてにはの意にては、おちまじきといふ意なれども、この歌の意はさにあらず。落ちんとの意也。思2故郷1といふ歌の意はきこえねど、次の歌にて相かねて聞えたる也
 
848 久毛爾得失久須利波牟用波美也古彌婆伊夜之吉阿何微麻多越知奴倍之
くもにとぶ、くすりはむよは、みやこみば、いやしきあがみ、またおちぬべし
 
久須利波牟用波 仙術のくすりをはむ世にはと云ふ意也。下のまたと云ふ詞をうけて見るべし。此用波のてには少打つかねども、世にはと云ふ意ならでは聞き得難し。波の字もし母の字の誤りならんか。字形もよく似たれば也
(41)美也古彌婆 藥をはむ世には、都を見たならば、かくこひ慕ふ凡情のいやしき心から、仙術通力も墮落して、折角雲に登りたりとも地に落ちぬべしと也。或説、用波はよりはと云ふ義と云へり。心得難し。よりはと云ふ意にては、此歌の意いかにとも聞き得難く六ケ敷説になる也。此歌にて都を慕ふ心あらはれたり。作者老年にて、遠國の任をとげず居たる義をなげきて詠めるなるべし。右二首共述懷の意を詠める歌なれば、旅人員外郎にてよめると聞ゆる也。をりぬべしの越は於の字の誤か
 
後追和梅歌四首
 
誰人の追和とも不分明也。或説前後の次第を見るに、憶良の追和と云へり。さもあらんか。然れども作者を不v記ば决し難く其上三十二首の歌の中に、憶良も人數に入て詠みたれば、外人の追和ならんか。思故郷歌に次て被v載たれば、これも旅人の歌ならんか。歌の意もわが宿抔よみて大伴卿の歌に聞ゆる也
 
849 能許利多流由棄仁末自列留烏梅能半奈半也久奈知利曾由吉波氣奴等勿
850 由苫能伊呂遠有婆比弖佐家流有米能波奈伊麻左加利奈利彌牟必登母我聞
851 和我夜度爾左加里爾散家留牟梅能波衆知流倍久奈利奴美牟必登聞我母
 
右三首の歌聞えたる也。不v及v注也
 
852 烏梅能波奈伊米爾加多良久美也備多流波奈等阿例母布左氣爾于可倍許曾
うめのはな、いめにかたらく、みやびたる、はなとあれもふ、さけにうかべこそ
 
いめにかたらくは 夢に相かたらふ也。かたると云ふるをらくと延べていへり
みやびたる 風流の二字をもみやびと読み、閑麗の二字をもよむ。いづれもうるはしく風雅なることに云ふ也。都びたると云ふ意也。然れば花のうるはしくよき姿と云ふ意也
あれもふは 我思也。これは梅花の夢に、云へる如くと聞ゆる也。然れども、いめにかたらくと云ふまでにて、梅の花の女子などになりて、梅にあひ語りしか。まことにみやびやかなる麗はしき花にてあれば、酒に浮めて今飲みなんと云へる歟。少し(42)聞え難き歌也
うかべこそ はうかべんと願ふ詞也。また花のうかめてと云ひたるか。詞不v足歌のやうなれば决し難し。先は作者の盃に浮めんと願ふ歌と見ゆる也。一説の歌の下の句なればよく聞ゆる也
 
一云伊多豆良爾阿例乎知良須奈左氣爾干可倍己曾
 
此一説は、本書のいめにかたらくの次をいたづらにあれをちらすな云々と詠める也。此下の句本書のかたより勝りて聞よき也。是にては全く終の句まで、梅花の夢に語りし詞首尾連續して聞ゆる也。本書の歌にては、梅花自身にみやびたる花とあれもふとは心得かたき詞なれど、夢中の言の事なれば道理を索むべきにもあらざる歟。さけにうかべこそは、盃にうかべて賞愛せよと也
 
遊於松浦河序
 
余以暫徃松浦之縣逍遥聊臨玉島之潭遊覽忽値釣魚女子等也花容無雙光儀無匹開柳葉於眉中發桃花於頬上意氣凌雲風流絶世僕問曰誰郷誰家兒等若疑神仙者乎娘等皆咲答曰兒等者漁夫之舍兒草庵之微者無郷無家何足稱云唯性便水復心樂山或臨洛浦而徒羨王魚乍臥巫峡以空望煙霞今以邂逅相遇貴客不勝感應輙陳歎曲而今而後豈可非偕老哉下官對曰唯々敬奉芳命于時日落山西驪馬將去遂申懷抱因贈詠歌曰
 
松浦河肥前國也。日本紀第九神功皇后紀に見えたり。和名抄卷第五國郡部、肥前國松浦【萬豆良】此郡の内にある也
序文追而可v考。諸抄にゆづり置也
 
853 阿佐里須流阿末能古等母等比得波伊倍騰美流爾之良延奴有麻必等能古等
あさりする、あまのこどもと、ひとはいへど、みるにしらえぬ、うまびとのこと
 
(43)あさりする 海邊にて、貝藻を海人の子のとりひろふ事也。あさりあしさぐる也。いさりとも云。すなどりなどするを云也。
しらえぬ みるにしられぬる也
うまびとのこ よき人の子としらるゝ也。うま人とは、名人貴人等をさして云へる也。神功皇后紀熊之凝の歌にも、うま人はうま人どちと詠めるよきひとゞち也。序文に、娘等皆咲答曰兒等者漁夫之舍兒云々と云へる詞につきて、あさりする海人の子とは云へど、容貌美麗にしてよしある人と見ゆれば、さやうの卑しき人にはあらじと也
見るにと云ふは、見るからに、そのまゝの意也
 
答待曰
 
待は詩の誤也。詩と云ふ字にても、こたへ歌に云ふとよむべき也
 
854 多麻之末能許能可波加美爾伊返波阿禮騰吉美乎夜佐之美阿良波佐受阿利吉
たましまの、このかはかみに、いへはあれど、きみをやさしみ、あらはさずありき
 
たましま 松浦川とも、玉嶋川とも云へり。日本紀卷第九神功皇后紀に、松浦縣に至て、進食於玉嶋里小河之側云々とあり。松浦川と同所也
きみをやさしみ 君をはづかしくて也。今俗語にやさしきと云とは、うるはしの意也。此集中にも世の中をうしとやさしとよみて、はづかしきといふ意也。古今の歌にも、なにをして身のいたづらにおいぬらん年のおもはん事ぞやさしきと詠めるはづかしき也。其外物語にも、はづかしきといふ事を、皆やさしとは書けり
 
蓬容等更贈歌三首
 
容は客の誤也
蓬客等 蓬莱の客といふ意にて、松浦川の娘子は仙女と見て、蓬莱宮に來りし意を以て、仙境の客と云義に如v此書けるなるべし。憶良自身の事をいへるから、等の字を被v書たると見えたり
(44)更贈 はじめ一首の歌を被v贈て返歌ありしに、また三首被v贈故更と也。更は再びの意也》
 
855 麻都良河波可波能世比可利阿由都流等多多勢流伊毛河毛能須蘇奴例奴 
まつらがは、かはのせひかり、あゆつると、たゝせるいもが、ものすそぬれぬ
 
松浦川にて、あゆつる起りは、日本紀卷第九神功紀に見えたり。何事も無きよく聞えたる歌也。あゆは和名抄云、本草云、年魚〔上音夷、蘇敬注云、一名鮎魚、上、奴兼反、阿由、漢語抄云、銀口魚、又云、細鱗魚、崔禹食經云、貌似v鱒而小有2白皮1無v鱗。春生夏長秋衰冬死、故名2年魚1也。〕日本紀神功皇后紀、細鱗魚
 
856 麻都良家流多麻之麻河波爾阿由都流等多多世流古良何伊弊遲斯良受毛
まつらなる、たましまがはに、あゆつると、たゝせるこらが、いへぢしらずも
 
能きこえたり
 
857 等富都比等末都良能加波爾和可由都流伊毛我多毛等乎和禮許曾末加米
とほつびと、まつらのかはに、わかゆつる、いもがたもとを、われこそまかめ
 
等富都比等 へだたりさりたる旅行の人を待つといふ意に、下のまつらとうけん爲とほつ人とは詠み出たり
わかゆつる は若あゆつる也
われこそまかめ はおもひをかけし意也。わが妻ともせんとの意也
 
娘等更報歌三首
 
松浦川に魚を釣し娘子共也
 
858 和可由都流麻都良能可波能可波奈美能奈美邇之母波婆和禮故飛米夜母
わかゆつる、まつらのかはの、かはなみの、なみにしもはゞ、われこひめやも
 
(45)なみにしもはゞ 並々におもはゞ也。河なみのなみにうけて、並々に思はゞわれこひめや。なみ/\にはおもはぬからこふとの意也
 
859 波流佐禮婆和伎覇能佐刀能加波度爾波阿由故佐婆斯留吉美麻知我弖爾
はるされば、わぎへのさとの、かはどには、あゆこさばしる、きみまちがてに
 
加波度 瀬戸水戸などいふに同じ。鳴門などいふも同じく川に添たる所あり。たとへば水の早き所などを云也
あゆこ あゆの子也。さばしるははしる也。さは初語也。第三卷には小狹走ともあればこさともに初語歟
まちがてに まちかねての意也。まちかねてこなたかなたと立はしると云義を、あゆこによせて云へると聞えたり。またまちがてにと云ふ意にも見ゆる也。好所に可v隨也。一説、あゆこさばしるを見せましものをと、君をまちかねるの意とも聞ゆる也
 
860 麻都良我波奈奈勢能與騰波與等武等毛和禮波與騰麻受吉美遠志麻多武
まつらがは、なゝせのよどは、よどむとも、われはよどまず、きみをしまたむ
 
なゝせのよど 大河故七の瀬ありといひたり。さもあるまじけれど詞の花にかくはよめり。よどは水のたまりのところ也。
早き瀬の上下にはきはめて水のよどみたまりある也。その如く河瀬はよどみたるみありとも、君を思ふ心はたゆまず待たんと也
 
後人追和之詩三首都帥老
 
當集撰者の詞なれば、如v此もあるべき。然れども大伴卿と憶良同時の人を後人と書ける事不審也。此標題不審也。後人追加と書きて、下に都帥老とある義心得難き也。拾穗には追和歌三首と直したる書を證本としてのせたれど、これも彼明壽院の差略の本故正本とは心得難し。古本印本悉後人追加と記したり。いかさま誤字歟、衍字あるべし。目録には帥大伴卿追和歌三首とあり。これを可v取歟。拾穗はこれによれり
(46)都帥老 大伴旅人といひ傳へり。都は太宰府も九州もひなの都といふものなれば、太宰府のかみ故知v此記せる歟。菅家の詩に、都府棲唯看風色と作り給ふ事もあり。然れども古一本に都の字なき本もあり。然れば奧の歌の所に都の字一字脱したればこゝは衍字なるべし。上の後人追加の二字も衍字歟、後人の傍注歟なるべし。此端作全体心得がたし。目録には後人の二字なき也
 
861 麻都良河波河波能世波夜美久禮奈爲能母能須蘇奴例弖阿由可都流良武
まつらがは、かはのせはやみ、くれなゐの、ものすそぬれて、あゆかつるらん
 
阿由可都流良武 あゆかのかは助語也。あゆをつるらんと也
 
862 比等未奈能美良武麻都良能多病志未乎美受弖夜和禮波故飛都々乎良武
ひとみなの、みらんまつらの、たましまを、みずてやわれは、こひつゝをらむ
 
ひとみなのは此集中に數多ある詞にて、今時はみな人のとよむ詞に同じ。みらんはみるらん也。歌の意は不v及v注。能聞えたり
 
863 麻都良河波多麻斯麻能有良爾和可由都流伊毛良遠美良牟比等能等母斯佐
まつらがは、たましまのうらに、わかゆつる、いもらをみらん、ひとのともしさ
 
いもらをみらん人のともしさ いもらを見し人の少きと、見たる人をほめたる歌也。わが見ぬから見し人の少きかなといひて、見し人をうらやみし意もかねたり
 
宜啓伏奉四月六日賜書跪開對凾拜讀芳藻心神聞朗似懷泰初之月鄙懷除私若披樂廣之天至若※[羈の馬が奇]旅邊城懷古舊而傷志年矢不停憶平生而落涙但達人安排君子無悶伏冀朝宣懷※[擢の旁]之化暮存放龜之術架張趙於百代追松喬於十齡耳兼春垂示梅花芳席群英擒藻松浦玉潭仙暖贈答類杏檀各言之作(47)疑衡皐税駕之篇耽讀吟諷戚謝歡怡宜戀主之誠誠逾犬馬仰徳之心心同葵※[草がんむり/霍]而碧海分地白雲隔天徒積傾延何慰勞緒孟秋膺節伏願萬祐日新今因相撲部領使謹付片紙宜謹啓不次
 
これは吉田連|宜《ヨロシ》が憶良への返事也
 
宜 氏吉田、姓連世。續日本紀卷第壹文武紀及元明聖武紀に見えたり。追而可2書加1。懷風藻云、正五位下圖書頭吉田連宜【二首年六十】
封凾云々 序文の注解淨書の時可v加也。畢竟帥老宅にて、宴會の事と松浦川にて仙女に逢しことの返翰也
 
奉和諸人梅花歌一首
 
諸人はこの宴會の時の三十二人の人をさしていへり
 
864 於久禮爲天那我古飛世殊波彌曾能不乃乎梅能波奈爾母奈良麻之母能乎
おくれゐて、ながこひせずば、みそのふの、うめのはなにも、ならましものを
 
於久禮爲天 宜か都にのこりゐて、宴會にあはざりし事をいへり
那我古飛世殊波 この句六ケ敷也。諸抄の説は、梅の花が宜をのこし置きて、殘多とて宜をこひせずばといふ意也。然れども殊の字清音の字也。しかれば受と濁音には読みがたし。崇神紀のやまと奈殊の殊も、大物主の神の作りなし給ふ大和國といふことにてなすといふ清音也。また神さび世殊と、此集中にも毎度詠めるも、神さびをするといふ義也。よりて宗師案は、汝がといふはもろ人をさしていへる義、こひせずは梅の花にもろ人のこひをするは、さても梅の花こそめでたきものなれば、かくおくれゐてその宴會などをうらやまんより、大伴卿のみその生の、その梅の花にもならましをと云歌と見るべしと也。然れども今少歌の意くだつきたるやうなれば、いづれとも意難v决。殊の字清音なれども、清音音便にて濁る事此梅の歌の内にもあげて數へ難ければ一决しがたし。尚沈吟の人可v加2後案1也。ながこびせずはといふ事は聞得難し。せずはさすといふ詞なれども、汝がといふ詞をもろ人にかけてはてには聞えず。汝にこひせずならばさもあらんか。また梅のこひをもろ人に(48)さすといふ義にても通じ難く六ケ敷也。もし誤字などありて一字の違にてかく聞まがふ事もあらん。安く聞ゆるは汝かは梅にかけておくれゐて、かく宴會の事をわれにうらやましこひさするはといふ意也。かく戀さするはみその生の梅になりたきといふ意也。諸人にもてはやされ、おくれゐるわれにも、かく汝が戀すれば梅の花になりたきとの意にも聞ゆる也
 
和松浦仙媛歌一首
まつらのやまひめにこたふるうた一首
 
865 伎彌乎麻都麻都良乃于良能越等賣良波等己與能久爾能阿麻越等賣可忘
きみをまつ、まつらのうらの、をとめらは、とこよのくにの、あまをとめかも
 
この歌は、前に松浦川の娘子更にこたふる歌二首の和歌也。右の二首に、きみまちがてにきみをしまたんと詠めるを直にうけて、きみをまつまつらとつゞけたる也
とこよのくには 仙人のすむ國といひ傳へたれば、世の常の人にはあるまじ。とこよの國の仙女のあまならんと也
 
思君未盡重題二首
 
これも吉田連宜憶良へ被v贈也
 
866 波漏波漏爾於忘方由流可母志良久毛能智弊仁邊多天留都久紫能君仁波
はる/”\に、おもほゆるかも、しらくもの、ちへにへだてる、つくしのくには
 
はるかに遠くへだてしことを詠めり。おもひ慕ふ事の限りなく盡きせぬ意をふくめて也
 
867 枳美可由伎氣那我久奈理奴奈良遲那留志滿乃己太知母可牟佐飛仁家理
きみがゆき、けながくなりぬ、ならぢなる、しまのこだちも、かんさびにけり
 
きみがゆきは前に注せり。行の字を書たる所あれば、たびとも讀むべきかと前に注せしかども、假名書あればきはめてゆき也
(49)つまりたる詞のやうなれど古語なれば用べし。憶良の太宰府へ行きし事の久しくなりたると也。
氣永久は けは初語也。たゞ永く久しくなりたる事を嘆きて詠める也
ならちなるは 大和路のしま/”\くま/”\などよめる意に同じきやうに聞ゆる也。もし嶋は所の名か。憶良の居所などにや共見ゆる也
神さびにけりは 太宰府に年久ゐたまへば、故郷のみちすがらの木立も古びたると也
 
天平二年七月十日
 
返翰月日付也
 
憶良誠惶頓首謹啓
 
これは國巡見ありしに、憶良は障ありて巡見せざりし故、その殘念を歌にあらはして都へ上せたる序の文也
 
憶良聞方岳諸侯都督判史並依典法巡行部下察其風俗意内多端口外難出謹以三首之雛歌欲寫五藏之欝結其歌曰
 
拾穗抄にくわし。よりて不v釋。尚清書の時可v加2再考1也
 
868 麻都良我多佐欲比賣能故何比列布利斯夜麻能名乃美夜伎々都々遠良武
まつらがた、さよひめのこが、ひれふりし、やまのなのみや、きゝつゝをらむ
 
麻都良我多 松浦なるといふ義也。難波がた、あかしがたなど詠めるも同じ。かたとは鹽のひかたをもいひたる事にて、すべて海路に付きたる所をいふとの説あれども、それに限るべきにもあらず。そこの國そこの浦といふ義なるべし。方の字の意にて、音便だくにて、我と濁ると聞えたり
さよひめのこ こは女の通稱也。たゞ左欲姫といふ義也。松浦の事は、前に注せる如く肥前の國也。さよひめの事は奧に委しくあり
(50)名のみやきゝつゝをらん 巡見に行かずして殘り居りたれば、得見ずて名のみ聞きてやをらんと殘念がりし意也
 
869 多良志比賣可尾能美許等能奈都良須等美多多志世利斯伊志遠多禮美吉
たらしひめ、かみのみことの、なつらすと、みたゝしせりし、いしをたれみき
 
たらしひめは 息長足姫命神功皇后の御事也。前に注せり。三韓御退治の時、玉嶋川にて年魚を釣らせ給ふ事也
なつらす なは魚也。日本紀神功皇后紀に、自注を被v擧たり。なつらすとは、魚をつり給ふとて立せ給ふ石はたれ見きと也。われはえ見ざる故にたれ見きと疑ひて詠めり。神功皇后の釣をさせられたる事は日本紀第九に詳也。その古事の石を詠める也
 
一云阿由都流等
 
本文なつらすといふ句を一本に如v此有と也
 
870 毛毛可斯母由加奴麻都良遲家布由伎弖阿須波吉奈武遠奈爾可佐夜禮留
もゝかしも、ゆかぬまつらぢ、けふゆきて、あすはきなむを、なにかさやれる
 
もゝかしもの斯は助語也。百日ゆかぬとは、近きといふ義也。太宰府より松浦までは、けふ行きてあすかへらるゝ一宿の行程なるにといふ義也
きなんは かへりなん也。かへりを約すればき也
さやれるはさはれる也。はとやと通ふ例多し。何の故障ありてかわれは巡見に洩れしと恨みたる意也。たゞし何かとさはりありてえ不v行といへる意とも聞ゆる也。何のさはりありてかといふ意にては、自分の歌にして聞きにくき所あり
 
天平二年七月十一日筑前國司山上憶良謹上
 
(51)大伴佐提比古郎子特被朝命奉使藩國艤棹言歸稍赴蒼波妾也松浦【佐用嬪面】嗟此別易歎彼會難即登高山之嶺遥望離去之船悵然斷肝黯然銷魂 遂脱領巾麾之傍者莫不流涕因號此山曰領巾麾之嶺也乃作歌曰
 
日本紀第十八宣化紀同第十九欽明紀等に、狭手彦の事委し。序文古事引書等追而可v孝
松浦佐用嬪面 肥前風土記には乙等比賣とあり
領巾 女のかしらをつゝむ服とあり。日本紀等に見えたり。ひれのはしにつゝみてなど云事見えたり。天武紀、又續日本紀文武天皇慶雲二年夏四月丙寅、是〔諸國釆女肩巾田依v令停v之、至v是復v舊焉云々。〕遊仙窟注曰、〔領巾袂曰2※[巾+皮]子1、春著2領巾1秋著2※[巾+皮]子1、皆婦人頭上巾也云々
乃作歌曰 如v此あるに拾穗抄にはすべて序の前にも作者の名を擧げ、又歌の前にも名を記せり。此集の格を不v辨後作也。當集は第二巻より悉作者の名は最初にあらはして、山上憶良何歌三首如v此ある也。しかるを後世の撰集の趣に擬へて歌三首と記し、其下に名を記せる事後作の證とすべし。此處のみに限らず。第一第二巻にても相違の事多し。然而此序文ともすべて後人後に附會したるにやあらん。作者の次第文義不審多也
 
871 得保都必等麻通良佐用比米都麻胡非爾比例布利之用利於返流夜麻能奈
とほつびと、まつらさよひめ、つまごひに、ひれふりしより、おへるやまの名
 
とほつびと まつとうけん爲也。尤さよひめは上古の事也。よつて遠き昔の人といふ意をもかねて也。まつは待といふ詞にかけて也。ひれふりの山と名づけたるは、このおこりよりとの義也
 
後人追加
 
憶良のよめる右の歌に追而和へたる也。作者たれとも知れず
 
872 夜麻能奈等伊賓都夏等可母佐用比賣何許能野麻能閉仁必例遠布利家無
(52)やまのなと、いひつげとかも、さよひめが、このやまのへに、ひれをふりけん
 
このやまのへは 山の上也。邊の意にも通ふ也
歌の意聞えたる通也。後の世までも山の名にのこりていひ傳へよとてか、此ひれふりの山の上にひれをふりけんと也
 
最後人追加
 
後人の又その後の人也。しかれば後人追加の歌にまたこたへたるといふ義也
 
873 余呂豆余爾可多利都夏等之許能多氣仁比例布利家良之麻通羅佐用嬪面
よろづよに、かたりつげとし、このたけに、ひれふりけらし、まつらさよひめ
 
このたけには ひれふるの嶺をさして也、。和名抄云、嶽、蒋魴切、韻曰、嶽、高山名也。五角反。〔宇亦作v岳訓與v丘同、未v詳。漢語抄云、美太介。〕或説に山上に池あるを獄といふと也。たけのたは清濁不v决也。此嶺に沼あり。肥前國風土記云。〔松浦縣之東三十里、有2※[巾+皮]搖岑1【※[巾+皮]搖此云2比禮府離1】最頂有v沼計可2半街1、俗傳云、昔者檜前天皇之世、遣2大伴紗手比古1領2任那國1。于時奉v命經2過此墟1。於v是篠原村【篠資農也】有2娘子1、名曰1乙等比賣1、容貌端正孤爲2國色1、紗手比古便娉成v婚、離別之曰乙等比賣登2此峯1擧v※[巾+皮]招、因以爲v名、藩國三韓之於2我朝1猶v有3家之有2藩屏1也。〕古は多氣、陀氣とも通じて清濁相かねていへる歟。和名の假名も濁音にあらず。和語には、初の音を濁る事少しと云へる説あり。一概にはいひがたし。大方は下につく詞を濁る也。からの音にいふ詞は、かしらから濁音多き也。らりるれろの詞と、濁音を頭におく事はまれなる也
 
最最後追和二首
 
古一本に後の字の下に人の字あり。三度めの追加の歌也。作者いづれとも不v知也
 
874 字奈波良能意吉由久布禰遠可弊禮等加比禮布良斯家武麻都良佐欲比賣
 
ひれふらしけんは 人にふらせしやうに聞ゆれどふりけんといふ義也。詞をゆがめて詠みたる迄也
 
(53)875 由久布禰遠布利等騰尾加禰伊加婆加利故保斯苦阿利家武麻都良佐欲比賣
ゆくふねを、ふりとゞみかね、いかばかり、こほしくありけん、まつらさよひめ
 
とゞみかねは とゞめかね也。尾と云濁音はみ也。みはめ也。
故保斯苦は こひしく也
 
書殿餞酒日倭歌四首
ふとのにうまのはなむけの酒もりの日云々
 
これは天平二年十二月大伴旅人大納言に任じ給ふとき、憶良書院にて餞別の宴を設けし日といふ義也
書殿 今の客殿の如き所也。書院とも今日云也。もしくは太宰府の書殿歟。國府には諸文書を集納の所ありて、文殿書殿といふものある也。諸抄の説は憶良の亭の書殿といひなせり
餞 説文云、送去也。玉篇云、自剪切、送v行設v宴也
 
876 阿摩等夫夜等利爾母賀母夜美夜故摩提意久利摩遠志弖等比可弊流母能
あまとぶや、とりにもかもや、みやこまで、おくりまをして、とびかへるもの
 
あまとぶや 鳥は天をとぶもの故、古詠にかく詠める歌數ふべからす。あまとぶやかるともかりともつゞきて、とりといふ冠辭に詠める也
とりにもかもやは とりにもなりたきかなと云意也。かもは皆願ふ詞也
とびかへるもの 此ものと止めたる義、とりにかへりたるてには也。畢竟かへらんものといふ意也。とりはとびかへるもの、鳥にもかもと願ふたる歌也
 
877 比等母禰能事良夫禮遠留爾多都多都夜麻美麻知可豆加婆和周良志奈牟迦
(54)ひともねの、うらぶれをるに、たつたやま、みまちかづかば、わすらしなんか
 
ひともね 人のむね也。或説に人皆のと云義と云へり。然れば皆は五音通ずれども、皆のといへる事は心得がたし。人皆はとあるべき也。人のむねの内は、名殘を惜みて悲しくなやみをるといふ意也
うらぶれ この詞毎度ある詞なり。うらは初語にもいへり。また心といふ義にもいへり。心惱といふ義をうらぶれと云と聞えたり。おもひありて、心の惱みある事をうらぶれをるとは云へり。もろとも思ひに惱むなれば恨むる意もおのづからこもれり。古今の、秋萩にうらぶれをればの詞も、とくとは濟みたる説なき也。先物を思ひ惱みゐる事と心得べし。然れば此歌の意も、太宰府に殘り止れる人々のむねの内には、名殘を惜みて慕ひわび思ひ惱みをるにと云義也
みまちかづかばとは 御馬近づかば也。立田山は故郷也。その邊に馬近かば、かくこなたには慕ひなやみをるに、そなたにはもはやこなたの事は忘れたまはんかと也。わすらしなんかのしは助語と同じ。忘れさせられんと云意也
 
878 伊比都々母能知許曾斯良米等乃斯久母佐夫斯計米夜母吉美伊麻佐受斯弖
いひつゝも、のちこそしらめ、とのしくも、さぶしけめやも、きみいまさずして
 
いひつゝもは 君のましませし事を跡までもいひ出しての義也。いひ出して慕ふの意也。よりてとのしくもと詠めり。わかれて後こそおもひ知らめと也
とのしくもは 乏敷も也。さむしくものゝたらはぬ意也。珍らしき事、ほめたる事にも乏敷といふ事あれど、こゝはものゝ足らぬ方のともしき也。ものゝさびしき意也。則下にさぶしけめやもとあり。やもは例の嘆の詞也。此歌はいまだ別れざる前の歌也。立別れたらん後をおもひやりて悲みたる歌也
 
879 余呂豆余爾伊麻志多麻比提阿米能志多麻乎志多麻波禰美加度佐良受弖
よろづよに、いましたまひて、あめのした、まをしたまはね、みかどさらずて
 
いましは まし/\て也。いは初語也
(55)あめのしたまをしたまはね 天下の政を上へ奏上の事を下へのべ給ひてと也。大納言に任じて歸京なれば、大ものまをすつかともよばるゝ官なるによりて、かくも詠めるならん
みかどさらずて 朝廷をさらずして也。幾久しく君朝に仕へたまへと、祝して詠める也
 
聊布私懷歌三首
いさゝかわたくしのおもひをのぶうた二くさ
 
拾穗抄に御の字敢と作り、聊に作る本もありと釋せる心得難し。當集の端作り大方聊述心緒などとありて、敢の字書きたるは珍らし。これも明壽院の筆作ならんか。憶良の述懷の意をあらはしたる歌也
 
880 阿麻社迦留比奈爾伊都等世周麻比都都美夜故能提夫利和周良延爾家利
あまさかる、ひなにいつとせ、すまひつゝ、みやこのてぶり、わすらえにけり
 
あまさかるひなとは 前に注せり。天は遠くさかりたるものなれば、そこにます日といふ義をうけたる詞也
比奈爾 ひなの事前に注せり。都の外をひなと云也。つくしに下り居る故ひなにと也
伊都等世 筑前守にて、五年の間は太宰府に被v勤し也。令條の年限はすべて任官の交替六年を被v限也。然れども續日本紀を考ふるに、寶字二年の詔に、國司交替以2四年1爲v限ともあり。憶良老年にて、延任といふものにてや。受領にゐらるゝ事の長を述懷の意に聞ゆる也。六年の年限の内故、いつとせとよまれたるなるべし
みやこのてぶり ては初語也。都の風俗振舞也。神代卷の歌の後注にひなぶりなどあるも同じ。古今集に、くに/”\の歌を、そのくにぶり、かのくにぶりとあるも同事也
わすらえは 例の通れ也。わすられに也
 
881 加久能未夜伊吉豆伎遠良牟阿良多麻能吉倍由久等志乃可伎利斯良受提
かくのみや、いきつきをらん、あらたまの、きへゆくとしの、かぎりしらずて
 
(56)いきつきをらん 都を慕ひ苦しみをらんと也。すだくなどいふと同意にて、物おもひなどある時は、ひたとゝいきをつくなどいふと同じ
吉倍由久 來經ゆく也。消の字の意にはあらず。諸抄の説は、古事記のみやすひめの歌、月は消ゆくと有を、作例に引ていへるは假名を不v辨故也。消のかなはきえ、こゝはき倍なれば、來りへるの義也。もし倍の宇延の字などの誤字ならば、消の字の意なるべし。いづれにても歌の意は同じき也。いつを限りとも無くかく計り遠國の受領にて、年月を過ぎ行く事かと、いきつきといひて、苦しみながら世を過ぐるとの述懷の歌也
後按、十五卷目の葛井連子老作挽歌、天地等中略安良多麻能月日毛伎倍奴可理我禰母、如v此あればこゝの吉倍由久も來徃也。消の事にはあらざる也
 
882 阿我農斯能美多麻多麻比弖波流佐良婆奈良能美夜故爾※[口+羊]佐宜多藤波禰
あがぬしの、みたまたまひて、はるさらば、ならのみやこに、めさけたまはね
 
あかぬしの みかどをさしてか、又は旅人をさしてか、とかく先を尊稱して也。あが主君といふ意也。天子をさし奉るははゞかりあれば、旅人をあがまへての義なるべし
みたまたまひて みことのりをといふ説もあれど、心をつけたまひてとの義と聞ゆる也。惠の心をもて何とぞ遷任をもなさゝしめて、都へめし上させ給へと願ひの意也。五年とありて春になりたらばとあるなれば、春の縣めしの除目に轉任させられて、めし上さゝしめ給へとの歌也
めさけは めしあげ也。たまはねはたまへといふ意にもかよひ、たまはれと云義にも通ふ也。いづれにても意同じ
 
天平二年十二月六日筑前國司山上憶良謹上
 
右は旅人へ被v贈し也
 
三島王後追和松浦佐用殯面歌一首
(57)みしまのおほきみの、のちにおふてこたふるまつらさよひめのうた一首
 
三嶋王 傳未v詳。續日本紀光仁紀〔寶龜二年七月〕從四位下三嶋王之女河邊王葛王〔配2伊豆國1至v是皆復2屬籍1〕
 
883 於登爾吉岐目爾波伊麻太見受佐容比賣我必禮布理伎等敷吉民萬通良楊滿
おとにきゝ、めにはいまだみず、さよひめが、ひれふりきとふ、きみまつらやま
 
ひれふりきとふ ひれふりきといふ也。第十四に、からすとふといふも、からすといふと云義也
 
大伴君熊凝歌二首【大典麻田陽春作】
 
これはくまごり天平三年六月に、相撲使なにがしに從ひて肥前國より都へのぼる時、安藝國佐伯郡にて煩出でゝ死けるを、後にいたみてよめる歌也と諸抄の説也。未v決。此歌麻田陽春と下に作者を記せる不審也。此集中の書法とかく作者を上に記したり。此歌熊凝の自身の歌にはあらざる歟。奧の歌は全自歌と見ゆれども、諸抄の説作者の名に心付て、陽春熊凝になりて詠める抔と釋せり。愚意難v定也。奧に詳也。大伴は氏、君は姓也
大典麻田陽春作
此作者付雄2心得1。後人の傍注ならんか
 
884 國遠伎路乃長手遠意保保斯久許布夜須疑南己等騰比母奈久
くにとほき、みちのながてを、おほゝしく、こふやすぎなん、ことゝひもなく
 
國遠伎 肥前より都へ上る路の事をいふにはあるべからず。黄泉の義なるべし。奧の憶良の歌にも、みちの長手をかれ/\とゝありて、黄泉の歌也
おほゝしく 欝の字也。うつもうと蔽ひたる如くおぼつかなき心也。迷途黄泉の路、いと遙かなりと傳へたれは、いか計おぼつかなくやおもひ侍らんよし、肥前より都への道路にもあれ、はるけき行程なれば、かくあるべき也
(58)許布夜 一本計に作るからけふやといふ説あり。けふと限るべきやう心得難し。こふやは、こひやにてあるべし。故郷をこふにて、程遠き旅行心細くて故郷をこひ慕ふ事尤ならんかし。過なんは戀ひつゝ行くならんとの意也
ことゝひもなく 事問ひともなく也。安否問ふ人もなく、心細くおぼつかなく行過ぎんと也。全く黄泉の遠行を詠める意と聞ゆる也。自歌にもあれ陽春が歌にもあれ、意は同じき也
 
885 朝露乃既夜須伎我身比等國爾須疑加弖奴可母意夜能目遠保利
あさづゆの、けやすきわがみ、ひとくにゝ、すぎがてぬかも、おやのめをほり
 
けやすき 消やすき也。きえやすきといはん爲に朝露とはおけり。人の身のはかなき事をいへり。すでに熊凝死にのぞめるはかなき當然をさして也
我身 諸抄熊凝になりてと注せり。他人の歌と見るから也。自歌と見る證は此詞也。此歌二首とも自歌にして、死にのぞめる時の歌と見ゆる也。奧の憶良の和歌も、熊凝に和ふる歌と聞ゆる也
比等國爾 肥前の事を此集中にひとくにと云へり。人の國と云意也。我住む國にあらぬと云意にて、かくいへるならん。此意は黄泉をさしていへるならん
すぎがてぬ 過行かねる也。前の歌の意を引合て詠める也。みちの長手を戀ひつゝ、おぼつかなくも行過ぎかぬる也。その過かぬるは兩親に二度あひまみえたく、戀ひ慕ふ心のまよひも晴れやらで行過かぬるとの意也
めをほり 前に注せる如く、相見る事を願ふ事をめをほりとは云へり。ほしきといふも皆願ふ事也。ほしといふ詞を上代は皆ほりといへり
 
筑前國司守山上憶良敬和爲熊凝述其志歌六首
 
一本司の字なし。是ならんか
やまのへのおくらつゝしんでこたふ、くまこりがためにそのごゝろざしをのぶるうたむくさ
 
(59)大伴君熊凝者肥後國益城郡人也年十八歳以天平三年六月十七日爲相撲使國司官位姓名從人参向京都爲天不幸在路獲疾即於安藝國佐伯郡高庭驛家身故也臨終之時長歎息曰傳聞假合之身易滅泡沫之命難駐所以千聖已去百賢不留况乎凡愚微者何能逃避但我老親並在菴室侍我過日自有傷心之恨望我違時必致喪明之泣哀哉我父痛哉我母不患一身向死之途唯悲二親在生之苦今日長別何世得覲乃作歌六首而死其歌曰
 
益城郡 和名抄卷第五國郡部云、肥國益城、萬志岐、國府。後に肥後國へ附たるから此序の語也
相撲使 ことりづかひと讀む。すまふつかひ也。前に注せり。すまふとは互ひにすまひて、倒さん倒れじとするもの故いへる名也。ためらふ事を云也。伊物にもめもいやしければ、すまふちからなしと書けり
拾遺集〔後拾遺集〕に、前律師慶暹の歌に
 秋風にをれしとすまふをみなへしいくたびのべにおきふしぬらんと詠めるもためらひすまふ義也。たゞすまゐなど云詞は同じ詞のやうなれど、住居の事にて異なる義也
佐伯郡 おこり景行紀に見えたり。其後仁徳紀の佐伯郡の某も、安藝國ぬたに遠ざけられし事あれば、これらの因縁にて佐伯郡あると見えたり
身故 物故するといふ義、前に注せり。物の字脱したるか。但し身故とも書る例あるか。物故は物は無也。故は事也。死てはなすことなきといふ義にて、人の死を物故と云也。こゝにてはみしぬとよむべき歟。序文追而可v考
乃作歌六首而死其歌曰 如v此序文なれば、此六首の歌は熊凝になりて憶良の詠める也
 
萬葉童蒙抄 卷第十二終
 
(60)萬葉童蒙抄 卷第十三
 
886 宇知比佐受宮弊能保留等多羅知斯夜波波何手波奈例常斯良奴國乃意久迦袁百重山越弖須疑由伎伊都斯可母京師乎美武等意母比都々迦多良比遠禮騰意乃何身志伊多波斯計禮婆玉桙乃道乃久麻尾爾久佐太袁利志婆刀利志伎提等許自母能宇知許伊布志提意母比都々奈宜伎布勢良久國爾阿良婆父刀利美麻之家爾阿良婆母刀利美麻志世間波迦久乃尾奈良志伊奴時母能道爾布斯弖夜伊能知周疑南 一云和何余須疑奈牟
うちびさす、みやへのぼると、たらちしや、はゝがてはなれ、つねしらぬ、くにのおくかを、もゝへやま、こえてすぎゆき、いつしかも、みやこをみむと、おもひつゝ、かたらひをれど、おのがみし、いたはしければ、たまぼこの、みちのくまひに、くさたをり、しばとりしきて、とけじもの、うちこひふして、おもひつゝ、なげきふせらく、くにゝあらば、ちゝとりみまし、いへにあらば、はゝとりみまし、よのなかは、かくのみならし、いぬじもの、みちにふしてや、いのちすぎなむ
 
字知比佐受 前にも注せり。打ひぬ箕とつゞく詞也。うちびさつ、うちびさす、うちびさぬともあり。さすとあるは皆受也。
此に受の字を書たるにて、悉清書に書きたるしも濁音と知れり。濁音の受はぬ也。ぬはるに通ふ事例ありて、さと初語を間に入る古語いくらもあり。よりてうちひる箕とうけたる詞也。日のさすみやと云ふ説いかにとも義不v通こと也
宮弊能保留等 みやこへのぼると也。ことり使に相從ふて都へのぼるとて也
たらちしやはゝ ちしは父の事也。,父母に離れ別れて、常にしらぬ國の奧をもすぎてと也
(61)おくか くにのおくありかといふ義也。遠くへだてたるところと云ふ義を、おくかといへり。此詞とくとは濟み難き也。まづくにの奧、ありかをと見る也。
かたらひをれど 相伴ふ人々と、いつか都見んなどかたらふて也
いたはし 病吉になやめる也
くまびに 隈邊也。道の邊也。これより路頭にて病ふしたるあはれなる樣子をいへり
等計自もの 一本許に作れるを正とす。床じもの也。床のやうにと云義也。自ものといふは、そのものゝやうにと云古語前に注せり。草たをりしはとりしきて、床のやうにしてうちふしたると也
うちこい うちは初語、すべての冠辭にいへる詞也。こいはころびいねふすといふ義也。こいといふ義ねることをいへり。いはいねいぬるのいと聞ゆる也。此外こいふしといふ歌いくらも集中に見えたり
おもひつゝは 心の内にいろ/\のおもひをして也
よのなかはかくのみならし 世の有樣はいろ/\の事のあるならひなれば、如v此のみならんとさとり嘆じたる也
いぬじもの 犬などのやうに也。犬は道路にふし身をも終るもの也。その如くにと歎きたる也。前の床じものも、此犬じものにて、いよ/\あきらかなり。解霜などいふ説は仙覺のあやまり也。祝詞の辭などにも、うじものなどいふて古語ある事也
いのちすぎなんは いのちしなんと云義也
 
一云和何余須疑奈牟 一本には、いのちすぎなんを、わがよすぎなんともありと也
 
887 多良知遲能波波何目美受提意保々斯久伊豆知武伎提可阿我和可留良武
たらちゝの、はゝがめみずて、おほゝしく、いづちむきてか、あがわかるらん
 
たらちゝのはゝが ちゝはゝの事也。たゞはゝ計のやうに聞ゆれど、たらちゝのといふを下ののを、がにかへたる也。がはの也
(62)目美受提 對面せずしてといふ義也。人のおもてを見るは先目にあるより、相見ともいひて目を先とする故、古語皆目の事を專と云へり。めをほりなど詠める也
おほゝしく おぼつかなく也。いづかたに親のますらんとも知れねば、今黄泉におもむく長き別路、いづかたへむかひてか行かんと也。又いづかたへ向ひて親に別れを惜まんとの意とも見るべし
 
888 都禰斯良農道乃長手袁久禮久禮等伊可爾可由迦牟可利弖波奈斯爾 一云可例比波奈之爾
つねしらぬ、みちのながてを、くれ/\と、いかにかゆかむ、かりてはなしに
 
くれ/”\と 繰返し/\といふ意、來り來れと也。繰返し/\といふ意なれば、後のくは濁る也。すべてかさね詞は、後を濁る如く讀み癖也。たゞ遠くはるかなる事をいへる義也。糸をくると云はてし無く、きりのなき事をいふて、ものゝ長き事にいへるも、糸を繰り繰るといふ事よりいひ初たるにもやあらん
可利弖波奈斯爾 これは旅行の宿をかるあたひは無しにと云義也。弖と云はものゝ直の事也。ものゝ代物かはりの事を云也
いま物のあたひをねといふもこの詞より也。おもひてにせんなど古今の歌のてもね也。おもひのかはりにせんと云義也。くつてと云に菅家萬葉に沓代と書かせ給ふもその意也。宿料を用意なき迷途黄泉なれば、いかにして行くべきと也。此歌どもをめいどの事にあらざるとの説あり。心得がたし
 
一云可例比波奈之爾 餉はなしに也
 
889 家爾阿利弖波波何刀利美婆奈具佐牟流許許呂波阿良麻志斯奈婆斯農等母 一云能知波志奴等母
いへにありて、はゝがとりみば、なぐさむる、こゝろはあらまし、しなばしぬとも
 
とりみば 母がとりあつかはゝれなば也。たとへ死ぬるとも、命あるかぎりはなぐさむべきにと也
 
一云、のちはしぬとも
 
890 出弖由伎斯日乎可俗閇都都家布家布等阿袁麻多周良武知知波波良波母 一云波波我迦奈斯佐
(63)いでてゆきし、ひをかぞへつゝ、けふ/\と、あをまたすらん、ちゝはゝらはも
 
いでてゆきし は國を出し時の日をかぞへ、いつ頃かへり來んと待らんと也
あをは あれを也。われを待つらん也
ちゝはゝらはも 父母たちのといふ義也。はもといふ詞、例の歎息の意也
 
891 一世爾波二遍美延農知知波波袁意伎弖夜奈何久阿我和加禮南 一云相別南
ひとよには、ふたゝびみえぬ、ちゝはゝを、おきてやながく、あがわかれなん
 
一度此世をはなれてはあふことならぬ也。人の一生涯を、一世といひたるもの也
意伎弖夜奈何久 父母を此世におきてや也。ながくとは、死別の義也
右六首とも熊凝が身になりて詠める也。よく心を得てよみし也
 
貧窮問答歌一首短歌
 
まづしく、ともしく、くるしむのとひこたへをする歌也。まづしく困窮の至極の事を詠める也
 
貧窮問答歌一首
 
892 風雜雨布流欲乃雨雜雪布流欲波爲部母奈久寒之安禮婆堅鹽乎取都豆之呂比糟湯酒宇知須須呂比弖之可夫可比鼻※[田+比]之※[田+比]之爾志可登阿良農比宜可伎撫而安禮乎於伎弖人者安良自等冨己呂倍騰寒之安禮波麻被引可賀布利布可多衣安里能許等其等伎曾倍騰毛寒夜須良乎和禮欲利母貧人乃父母波飢寒良牟妻子等波乞乞泣良牟此時者伊可爾之都都可汝代者和多流天地者比呂之等伊倍杼安我多米者狹也奈理奴流日月波安可之等伊倍騰安我多米波照哉多麻波奴人皆可吾耳也之可流和久良波爾比等等波安流乎比等奈美爾安禮母作乎綿毛奈伎布可多衣乃美留乃其等和和氣佐我禮流可可(64)布能尾肩爾打懸布勢伊保能麻宜伊保乃内爾直土爾藁解敷而父母者枕乃加多爾妻子等母波足乃方爾圃居而憂吟可麻度柔播火氣布伎多弖受許之伎爾波久毛能須可伎弖飯炊事毛和須禮提奴延鳥乃能杼與比居爾伊等乃伎提短物乎端伎流等云之如林取五十戸良我許惠波寢屋度麻※[人偏+弖]來立呼比奴可久婆可里須部奈伎物能可世間乃道
かぜまぜに、あめのふるよの、あめまぜに、雪のふるよは、すべもなく、さむくしあれば、かたしほを、とりつゝしろひ、かすゆざけ、うちすゝろひて、しかふかひ、はなひしひしに、しかとあらぬ、ひげかきなでて、あれをおきて、ひとはあらじと、ほころへど、さむくしあれば、あさぶすま、ひきかゝぶり、ぬのかたぎぬ、ありのこと/”\、きそへども、さむきよすらも、われよりも、まづしきひとの、ちゝはゝは、うゑさむからむ、めこどもはこひ/\なくらむ、このときは、いかにしつゝか、ながよはわたる、あめつちは、ひろしといへど、あがためは、せばくやなりぬる、ひつきは、あかしといへど、あがためは、てりやたまはぬ、ひとみなが、われのみやしかる、わくらはに、ひとゝはあるを、ひとなみに、あれもつくるを、わたもなき、ぬのかたぎぬの、みるのごと、わゝけさがれる、かゞふのみ、かたにうちかけ、ふせいほの、まきいほのうちに、ひたつちに、わらときしきて、ちゝはゝは、まくらのかたに、めこどもは、あとなるかたに、かこみゐて、うれへさまよひ、かまどにはけぶりふきたて、すこしきには、くものすかきて、いひかしぐ、こともわすれて、ぬえどりの、のどよひをるに、いとのきて、みじかきものを、はしきると、いへるがごとく、いためとる、さとおさがこゑは、ねやとまで、きたてよばひぬ、かくばかり、すべなきものか、よのなかのみち
 
(65)物うき事の至極をいひ出たる也。風ふき雨ふりて、雪までまじりてふる夜のものさわがしく寒き體をいへり
すべもなく はいかに凌がんたよりも無く也。まづしければ、ものさびしく寒氣の防ぎかねる體也
堅鹽乎 和名抄卷第十六鹽梅類云、又有2黒鹽1〔余廉反、之保、日本紀私記云、堅鹽、岐多之。〕延喜式大膳上云、釋典祭料|石鹽《カタシホ》大顆和名抄と式の點とは違あり。いかゞ。壺に入て燒たる鹽を、堅鹽と云か。古代の事分明にわかち難し
とりつゝしろひ 此とりは初語也。惣ての詞の頭に置詞也。つゝしろひは、口をつぼみて鹽をなめる事をいふと聞えたり。堅き鹽故つゝきくふといふ義歟。つゝしりといふ事を、つしろひとは云たる詞也。りをのべてろひと云たる也。今ものをつむといふ事あり。また鳥のつゝくと云ふ事あり。然ればこのつゝしろひも、口をつぼめてくふ事を、古語につゝしりといふたると聞えたり。一説に、取しろひてと云義、取あへるの心也と云へり。つゝしろひの詞の義不v濟也
糟湯酒 さけのかすを、湯にたてゝのむ義也
須須呂比 すゝり也
之可夫可比 貝の名なるべし。しがみがほといふ義とも聞ゆれど、人の顔のしがみたるやうなる貝の事をいへると聞えたり。下にはなひし/\にとありて、鹽をなめかすゆ酒をすゝりて、鼻にひしぎたるやうに、顔をしかめたる體をいひたるもの也。しかふかひもしかみ顔とも聞ゆる也
可登阿良農 ひしひしにして、かとあらぬとうけて、かとあらぬは才學の無きといふ義をいひたる也。下の句にて明也
ひげかきなでて 自慢らしき顔をして、寒苦貧窮をも苦にせぬ體にかまへ居るをいへり
ほころへと ほこり居と也。然れども寒ければ堪へかねて、ありとしあらゆる布かたびらの類をとり出てかぶると也
ありのごと/\ ありたけ也
こひ/\なくらん 衣食を乞々て也
人皆可 人ごとにかくの如くか。われのみしかあるかと問ひたる也。如v此の句あるにより端作に問答と記せり
和久良婆爾 たま/\まれに人とは生れてあるをと也
(66)人なみにあれもつくるを 綿をも人なみにわれもつくれども、まづしきからその綿も無くて、布かたぎぬのやぶれさけたるを着るとの義也
美留乃其等 海藻の海松のごとく、はなれ/”\にやぶれそゝげたると也
和和氣 やぶれさかりたる事をいふとの説あり。又私の字の誤にて、そゝげと云義と釋せり。いづれとも難v決けれど、わゝけはわかれ/\にてやぶれ離れたる義なるべし。そゝけも義はおなじ事なれば、とかくいづれにもあれ、やぶれはなれてつゞかぬ布かたびらの、いたりてあさましきをいひたる義也
佐我禮流 下る也
可可布能尾 かゝふのみといふ點あり。かゝぬのをといふ點もあり。何の事とも不v被v決。八雲御抄の説、かゝふはつゞれの事をいふとあれば、まづその御説に從ふ也。外に思ひよるべき事なし
肩爾打懸 つゞれ布をのみ着てといふ義也。すそまでも及ばぬ肩ばかりに着たる體也
布勢伊保能 軒のひきくふせ屋などいふねぢまげたる如き、至つてあさましくいぶせき家のことを、ふせいほのまきいほとなり
直土爾 土間にすぐにといふ事を、ひたつちにと也。たゞちにといふ義に同じ。つち間に直に藁を敷て也。又ひぢつちにといふ義とも聞ゆる也。土を重ねていへる詞也。皆同音也
足乃方爾 あとのかたにとも、あとなるかたとも讀むべし。畢竟かしらと足方也
憂吟 聲をたてゝうめく如き苦しむと也
許之伎爾波久毛能須可伎弖 ものむす具也。その道具を用る事無ければ、くもの巣をかけて也
ぬえどりの能杼與比 ぬえどりのなく聲ひゆ/\となく故、のどよひとはいふ也。うらなきなどいひて、のどの内にてなく樣なる故、のどよひと也。俗にひい/\と鳴くなどいへる心也。至つてものわびしく、ひだるき體をいへり
いとのきて 集中に數多ありて、難解の言葉也。先はいとゞしくといふ義と釋せり。
(67)楚取 いためとる也。いばらとよむ字也。よりていためとると云義に用たり。若しくはしもとゝるとも讀むか。またすはえとるとも讀まんか。いためとるといふ義は、しもとなどをもちて、年貢或は出錢などをいだせとせめはたる義を云たる也。貧窮至極の上に※[土+力]なきものゝせん方もなき事をいひたるもの也
五十戸良我 これいとらとよめる點は、如何したる事にや。古來より諸抄此點を不v考なり。鷹のとるうづらなど釋せるは木に竹をつげる説也。當流秘事の訓也。これはさとおさがと讀む也。五十戸を里とよむ義訓は令條の戸令を見て知るべし。五十戸を爲v里といふ事あり。良は良民の良にて里の長也。今の代名主などの類也。もし又良の字長の字の誤りたるか。何れにてもさとおさとよむべし。これ出錢年貢などを、早く出せと責めはたるの義なり。よりていためとる也。此義古今不v濟事也。宗師數年の考案也。如v此の釋ならでは、外に此釋いかにとも可v解樣なき也
來立呼此奴 立を弖に作る一本あり。可v然歟。きたりてよばひぬ也。立の字なれば、きだちよばひぬ也。不v穩也。高聲を出し物をいだせと、未明よりも責かけるとの義也
かくばかり、すべなきものか、よのなかのみち かくの如くせん方もなきものは、世の中のならひとて是非なきものかなと、世の有樣を云つゞけたる也。まづしき事の限りを言ひて、世の有樣をしめせる歌也
 
893 世間乎宇之等夜佐之等於母倍杼母飛立可禰都鳥爾之安良禰
よのなかを、うしとやさしと、おもへども、とびたちかねつ、とりにしあらねば
 
うしとは 憂也。いとふと云意ともいへり。やさしとは、やつ/\しと云説あり。貧無v禮云v窶との意とも釋せる説あれどこれもはづかしとおもへどと云意なるべし。やつ/\しとおもへどもといふ義も同じ義也。すべき事をも闕き禮を失ふははづかしき也。物うくはづかしくおもへども、いづ方へとびたち行べきやうも、鳥にあらざればなり難きと也。せん方のなき至極難儀の體を詠める也。論語に邦有v道貪且賤恥也とある語によりて、やさしと詠めるか
 
山上憶良頓首謹上
 
(68)好去好來歌一首反歌二首
よしされよしきたれ。別訓あらんか
 
好來は よくかへれと云ふ意なり。これは遣唐使へおくらのよみて被v贈らるゝ也。天平五年に多治比眞人廣成遣唐使の時といへり
 
894 神代欲理云傳介良久虚見通倭國者皇神能伊都久志吉國言靈能佐吉播布國等加多利繼伊比都賀比計理今世能人母許等期等目前爾見在知在人佐播爾滿弖播阿禮等母高光日御朝庭神奈我良愛能盛爾天下奏多麻志比家子等撰多麻比天勅旨【反云大命】載持弖唐能遠境爾都加播佐禮麻加利伊麻勢宇奈原能邊爾母奧爾母神豆麻利宇志播吉伊麻須諸能大御神等船舳爾【反云布奈能聞爾】道引麻志遠天地能大御神等倭大國靈久竪能阿麻能見虚喩阿麻賀氣利見渡多麻比事了還日者又更大御神等船舳爾御手打掛弖墨繩袁播倍多留期等久阿庭可遠志智可能岫欲利大伴御津濱備爾多大泊爾美船播將泊都都美無久佐伎久伊麻志弖速歸坐勢
かみよゝり、いひつてけらく、そらにみつ、やまとのくには、すべかみの、いつくしきくに、ことだまの、さきはふくにと、かたりつぎ、いひつがひけり、いまのよの、ひともことごと、めのまへに、みましゝります、ひとさはに、みちてはあれども、たかてらす、ひのみかどには、かみながら、めぐみのさかりに、あめのした、まうしたまひし、いへのこと、えらびたまひて、おほみこと、のせもたしめて、もろこしの、とほきさかひに、つかはされ、まかりいませ、うなばらの、へにもおきにも、かみつまり、うしはきいます、もろ/\の、おほみかみたち、ふなのへに、みちひかましを、あめつ(69)ちの、おほみかみたち、やまとなる、おほくにみたま、ひさかたの、あまのみそらゆ、あまがけり、みわたしたまひ、ことをへて、かへらむひには、またさらに、おほみかみたち、ふなのへに、みてうちかけて、すみなはを、はへたるごとく、あてかをし、ちかのくきより、おほともの、みつのはまべに、たゞはてに、みふねはゝてむ、つゝみなく、さきくいまして、はやかへりませ
 
いひつてけらく いひ傳へける事也
虚見通 そらみつ也。空にみつると云點はわろし
伊都久志吉國 嚴の字の意いつくしきとは、いつ/\しきと云て、ほめたる詞よき國と云義也。皇神とは、みおやの神たちのおさめしづめ給ふ神のくにといふ義也
言靈能 師説は木魂といふ義と也。又は異靈といふ義か。大己貴の幸魂奇靈の國にて、幸ある國といふ義とも聞ゆる也。奇異靈妙の國といふ事にことだまと詠める歟。木だまと見る意は下のさきはふと云義、先はよばふとの事と聞ゆる故也。こだまは先によばふものなれば、いひつぎといふ義に、先々へよばふと詠めるか。然らばことは、木のおとたまといふ意にて、ことだまといへると見る也。大鏡に、いはひつることだまならば百とせの後もつきせぬ月を社見め、此御製の意も言靈の事に聞ゆる也。又たゞことはものいふ義にて、ものいふも皆神靈のなすところなれば、その言靈のまし/\て、先々までよばふ國故、かたりつゞくるとの事とも聞ゆる也。三説のうち尚追而後案して一決すべし。先は下のかたりつぎといふ義にかゝる事と見るべし
いひつかひ いひつぎ也。かひはき也
今のよの人もこと/”\ 今現在の人こと/”\、見聞知れる通のめでたき國と也
人佐播爾滿弖播阿禮等母 これより丹治比眞人の事を賞美していへる也。いくらの人々みちてはあれどもその中にといふ義也
御朝庭 集中みかどゝ云に庭の字を書けり。廷庭音通ずる故に書たるか。一所誤り來りしより、集中悉く基板梓を用たるか。尤此は御朝といふ二字をみかどと訓じ、庭はてには字に用たる也。日のみかどとあるは尊稱していへる也
(70)神奈我良 神なるからといふ義、神にてます故といふ義也
愛能盛爾 天子の御心にもかなひて、おほんめぐみも他に異なるさかりと也。繁榮の時といふ意也
天下奏多麻比志家子等 天の下のまつり事を奏聞し、とり行ふ由來ある臣下といふ義にいへの子といへり。丹治比は眞人廣成を稱讃して也。廣成は文武紀云、大寶元年七月壬辰左大臣正二位〔多治比〕眞人〔嶋〕薨。此左大臣の子か孫なるべし。懷風云、從三位中納言丹?眞人廣威三首
勅肯 みことのりとも讀むべし
反云大命 反の字亦の字の誤り歟。或云と云義なり。又の字の誤なるべし。綸旨勅書の類をもたしめて也
麻加利伊弖麻勢 弖の字脱したる本あり。然れ共一本に弖の字あり。唐國へ出ませ也
邊爾母 海邊磯邊をさして也
神豆麻利 神集り也
字志播吉伊麻次 此詞古來より難v解義也。延喜式也。崇神遷宮の祝詞の文に出たり。此集中にも亦見えたり。古説播磨の牛※[窗/心]の説あり。神功皇后の三韓御退治の時、大牛來て御船をくつがへさんとせしを、住吉の御神投倒給ふ事のおこりより、うしはきいます神と云事ありと傳へたれど、實證の記を不v見は難2信用1。兎角惡しきもの、禍をなすものをはらひのぞき給ひて、諸神等の守ります義と見るべし。詞の解は如何にとも無2證明1故解し難き也。尤牛星の事は前にも注せり。第二十卷目の長歌に、久方の中畧まつろはぬひとをもやはし波吉伎欲米都可倍まつりて云々とある詞によれば、うつる時といふの義か。式祝詞の文には宇【須波岐】坐【世止】知v此あれば、式の詞はうつくしきとも不v見、尚可v考
道引麻志遠 みちびかせられんと察して詠めり
天地能大御神等 天神地祇を指して也
倭大國靈 帝都の地主のおほん神三輪明神の御事なれば、別而守りを加へ給へとの意也。天上空中をもかけりて見そなはし守らせ給ひて、事をゝへしめて、歸朝の時もまた諸神等船の邊に神力を添給ひてと也。天かけりは延喜式祝詞卷の文にも見え(71)たり。天翔國翔とあり。又同詞、遠國は八十綱打掛ともあり
墨繩 工匠の引すみなはの義也。枉曲を直し物を直にするもの也。和名抄卷第十五工匠部云、繩墨、内典云、端直不v曲、喩如2繩墨1【涅槃經文也、繩墨和名須美奈波】此集第十一にも出たり。雄畧紀にも工匠の歌に、あたら〔しきゐなめのたくみかけし〕すみなはと詠めり。眞直にとゝこふらず、たゞ一ずぢにといふの意也
播延多留期等久 わたし打のばしたる如くに也。大工のすみなはを引る如く眞直にさはり無く、とゞこふらずといふ義也。引わたす事をば古くは、はえるとも云ひしと見えたり
阿庭可遠志 庭一本遲に作る、此詞不v濟義也。諸抄の説は、あてかはしといふ義にて、木の本末に墨繩を當し歌也と注せり。義不v濟也。類語無ければ、如何にとも難v釋也。あは初語にて、手かぢをしてといふ義にて、諸神の手づからかぢをなされてといふ事ならんか。これも打つかぬ説也。此句一向解し難し。後賢の釋を待つのみ
知可能岫欲利 肥前の國ちかの嶋のくきなるべし。くは山のほらさし出たる所を云也。和名抄第一地部云。岫、陸詞云、岫似祐反【和名久木】山穴似v袖也。日本紀仲哀紀には洞此云2久岐1とあり。續日本紀、聖武紀〔天平十二年十一月丙戌、〕大將軍東人等〔進士无位阿部朝臣黒麿以2今月二十三日丙子1捕2獲逆賊廣嗣於肥前國松浦郡値嘉嶋長野村1。〕貞觀式追儺祭文云、〔穢久惡伎疫鬼能所々村々爾藏里隱布流乎波千里之外四方之堺東方陸奧西方遠値嘉南方土佐北方佐渡與里乎知能所乎奈牟多知疫鬼之住加登定賜行賜弖云々。たゞしくきの海といふは筑前にありと聞て、もし國近ければ、海つゞきにて、ちかの嶋へもちかき故かく詠める歟。昔は遣唐使肥前より渡り肥前國へ歸著し、それよりまた乘り出したると聞えたり
大伴御津濱爾 攝津の難波のみつへ也。肥前のちかの島よりたゞ一すぢに直ちに着き給へと也
たゞはてに たゞちに船はかへりつきはせんと也
つゝみなく わざはひさはりなく、何のつゝしむ事なくと也。惡しきさはりあれば、何事もつゝしむ故、無事安穩の事をつゝみなくとはいふ也。さきくといふもあしき事なく、幸ありて行先とゞこふらぬ事をさきくといふ也
伊麻志弖 伊は初語ましまして也。何事もなくまし/\て、早くかへりませと祝賀して詠める也
 
(72)反歌
 
895 大伴御津松原可吉掃弖和禮立待速歸坐勢
おほともの、みつのまつはら、かきはきて、われたちまたん、はやかへりませ
 
可吉掃弖 かきはらひて也
 
896 難波津爾美船泊農等吉許延許婆紐解佐氣弖多知婆志利勢武
なにはづに、みふねはてぬと、きこえこば、ひもときさけて、たちはしりせん
 
紐解佐氣弖 ひもあげてとも云説あり。あげてもさけても、ひもをもせず、とりあえず急ぎはしり出んと云意也。今俗に帶とりひろげなどいふにおなじ
たちはしり 立走也。急ぎてむかひまつらんと、喜びて奔走せんと也。日本紀景行紀日本武尊欲v往2上総1望v梅高言曰、是小海耳、可2立跳渡1。この意とは違ひたれど、たちはしりと云言葉を引也
右の歌は山上憶良筑前守を遷任して、京都へ上り居られたる時と聞えたり。天平三四年の内遷任ありしか。續日本紀を考ふべし
 
天平五年三月一日良宅對面獻三日山上憶良 謹上
大唐大使卿記室
 
良宅 此字不審。憶良の宅にして對面との事歟。よりて良の一字を記せるか。難2心得1文なり。良辰のあやまりならんか。
獻三日 此歌をよみて被v贈たる日三日といふ事なるべし
大唐大使 古一本に大使の二字脱せる本あり
卿 丹治比眞人廣成をさして也
(73)記室 前に注せり。先を尊敬して直に言はず。書翰の役所をさしていふたる義也
 
沈痾自哀文 山上憶良作
やまひにしづみてみづからかなしむふみ
 
痾 おもき病を云也。病の浸深を痾といふ也。憶良病にしづんで、自哀しみて文を作り歌をも詠ぜらるべき事なるに、何とて脱したるや。歌をのせざるに文計を此集にのせられたる事不審也。奧の靈剋の歌にてかねたる歟
 
竊以朝佃食山野者猶無災害而得度世【謂常執弓箭不避六齋所眉禽獣不論大小孕及不孕並皆殺食以此爲業者也】晝夜釣漁河海者尚有慶福而全經俗【謂漁夫潜女各有所勤男者手把竹竿能釣波浪之上女者腰帶監龕潜採深潭之底者也】况乎我從胎生迄于今日自有修善之志曾無作惡之心【謂聞諸惡莫作諸善奉行之教也】所以禮拜三寶無日不勤【毎日誦經發露懺悔也】敬重百神鮮夜有闕【謂敬拜天地諸神等也】嗟乎※[女+鬼]哉我犯何罪遭此重疾【謂未知過去所造之罪若是現前所犯之過無犯罪過何獲此病乎】初沈痾已來年月稍多【謂經十餘年也】是時年七十有四鬢髪斑白筋力※[瓦+壬]羸不但年老復加斯病諺曰痛瘡灌鹽短材截端此之謂也四支不動百節皆疼身體太重猶負釣石【二十四銖爲一兩十六兩爲一斤三十斤爲四釣爲一石合一百二十斤】懸布欲立如折翼之鳥倚杖且歩比跛足之驢吾以身已穿俗心思累塵欲知禍之所伏祟之所隱龜卜之門巫祝之室無不在問若實若妄隨其所教奉幣帛無不祈?然而彌有増苦曾無減差吾聞前代多良醫救療瘡生病患至若楡樹扁鵲華他秦和緩葛稚川陶隱居張仲景等皆是在世良醫無不除愈也扁鵲【姓秦字越人勃海郡人也割※[匈/月]探心腸而置之投以神藥即寤如平也】華他【字無他沛國※[言+焦]人也若有病結積沈重者在内者刳腸取病繼縫復摩膏四五日差之】追望件醫非敢所及若逢聖醫神藥者仰願割刳五藏抄探百病尋達膏肓之※[こざと+奧]處【※[隔の旁]隔也心下爲膏攻之不可達之不及藥不至焉】欲顯二竪之逃匿【謂晉景公疾秦醫緩視而還者可謂爲鬼所殺也】命根既盡終其天年尚爲哀【聖人賢者一切含靈誰免此道乎】何况生録未半爲鬼枉殺顔色壯年爲病横困者乎在世大患孰甚于此
(74)恠記志云廣平前太守北海徐立方之女年十八歳而死其靈謂馮馬子曰案我生録當壽八十餘歳今爲妖鬼所枉殺己經四年此過馮馬子乃得更活是也内教云膽浮洲人壽百二十歳謹案此數非必不得過此故壽延經云有比丘名曰難達臨命終時詣佛請壽則延十八年但善爲者天地相畢其壽夭者業報所招隨其修短而爲半也未盈斯竿而※[しんにょう+端の旁]死去故曰未半也任微君曰病徒口入故君子節其飲食由斯言之人遇疾病不必妖鬼夫醫方諸家之廣説飲食禁忌之厚訓知微行難之鈍情三者盈目滿耳由來久矣抱朴子曰人但不知其當死之日故不憂耳若誠知羽※[隔の旁+羽]可得延期者必將爲之以此而觀乃知我病蓋斯飲食所招而不能自治者乎
帛公略説曰伏思自※[蠣の旁]以斯長生生可貪也死可畏也天地之大徳曰生故死人不及生鼠雖爲王侯一日絶氣積金如山誰爲冨哉威勢如海誰爲貴哉遊仙窟曰九泉下人一餞不直孔子曰受之於天不可變易者形也受之於命不可請益者壽也【見鬼谷先生相人書】故知生之極貴命之至重欲言言窮何以言之欲慮慮絶何由慮之惟以人無賢愚世無古今咸悉嗟歎歳月競流晝夜不息【曾子曰往而不反老年也宣尼臨川之嘆亦是矣也】老疾相催朝夕侵動一代歡樂未盡席前【魏文惜時賢詩曰未盡西花夜劇作北望塵也】千年愁苦更繼坐後【古詩云人生不滿百何懷千年憂矣】若夫群生品類莫不皆以有盡之身並求無窮之命所以道人方士自負丹經入於名山而合樂之者養性怡神以求長生抱朴子曰神農云百病不愈安得長生帛公又目生好物也死惡物也若不幸而不得長生者猶以生涯無病患者爲福大哉今吾爲病見惱不得臥坐向東向西莫知所爲無福至甚惣集于我人願天從如有實者仰顧頓除此病頼得如平以鼠爲喩豈不愧乎【已見上也】
 
(75)竊以朝佃食山野者云々
此文追而注すべし。長文の故除2注釋1。尤諸抄に詳也
朝 此下に夕暮の字脱したる歟。あしたと計は心得難き文也
志恠記曰云々 此文も憶良の自注歟。古注者の加へたる注とも見ゆる也。古一本に小字二行に記せるあり。正本たるべきか。然らば古注者の後注なるべし
帛公略説曰云々 是より又木文歟
以鼠爲喩豈不愧乎【已見上也】 これまで沈痾哀文也。此次に歌あるべき事なるに、文ばかりを被v載たるは不審也
 
悲歎俗道假合即離易去難留詩一首
ひとのみちかりにあひ、すなはちわかれさりやすく、とゞまりがたきをかなしみなげくからうたひとぐさ
 
俗道 拾穗抄には悲の字と此二字とを除く。諸抄にはこれあり。俗道の字難2心得1故、明壽院の被v除たる歟。全体無常佛意を述たる序文也。奧の詩の發句に俗道と書出せり。然れば此の俗道の字もあるべき筈也。拾穗には奧の俗道の字も世道とあり
 
竊以釋慈之示教【謂釋氏慈氏】先開三歸【謂歸依佛法僧】五戒而化法界【謂一不殺生二不偸盗三邪淫四不妄語五不飲酒也】周孔之垂訓前張三綱【謂君臣父子夫婦】五教以齊濟郡國【謂父義母慈兄友弟順子孝】故知引導雖二得悟惟一也但以世无恒質所以陵谷更變人无定期所以壽夭不同撃目之間百齡已盡申臂之項千代亦空旦作席上之主夕爲泉下之客白馬走來黄泉何及隴上青松空懸信劍野中白楊但吹悲風是知世俗本無隱遁之室原野唯有長夜之臺先聖已去後賢不留如有贖而可免(76)者古人誰無價金乎未聞獨存遂見世終者所以維摩大士疾玉體于方丈釋迦能仁掩金容乎雙樹内教曰不欲黒闇之後來莫入徳天之先至【徳天者生也黒闇者死也】故知生必有死死若不欲不知不生況乎縱覺始終之恒數何慮存亡之大期者也
 
竊以釋慈之示教中略但以世无2恒質1云々
 
但以 拾穂抄の本はこれ迄の文を除けり
無恒質 拾穂には是より發端として書たり。注釋從2諸抄1依不v注也
 
俗道變化猶撃目、人事經紀如申臂、空與浮雲行大虚、心力共盡無所寄
 
これおくらの詩也。世の中のうつりかはる事、年月の過行人の身のおとろへをはる事、浮き雲の空を過る如く、定めなき事共をいひたる七言絶句也。詩情委敷不v及v注
 
老身重病經年辛苦及思兒等歌七首【長一首短六首】
おいたるみやまひおもくとしをへてくるしむ事およびこらをおもふうた七くさ
 
長一首短六酋 此小注は後人の傍注なるべし。此標題は、憶良の身の上の事をいへる也。前の沈痾の文の前のうり波米婆の思子等歌、次の戀男子名古日の歌等を見て、此文の意をしるべし。憶良は名達文才ありて歌も達人なりしが、一生難苦に被v責たる人と聞えたり
 
897 靈剋内限者【謂瞻州人壽一百二十年也】平氣久安久母阿良牟遠事母無裳無母阿良牟遠世間能宇計久都良計久伊等能伎提痛伎瘡爾波鹹鹽遠灌知布何其等久益益母重馬荷爾表荷打等伊布許等能其等老爾弖阿留我身上爾病遠等加弖阿禮婆晝波母歎加比久良志夜波母息豆伎阿可志年長久夜美志渡禮婆月累憂吟比許等許等波斯奈奈等思騰五月蠅奈周佐和久兒等遠宇都弖弖波死波不知見乍阿禮婆心波母延農可(77)爾可久爾思和豆良比禰能尾志奈可由
たまきはる、うちのかぎりは、たひらけく、やすくもあらむを、こともなく、もなくもあらむを、よのなかの、うけくつらけく、いとのきて、いたきゝずには、からしほを、そゝぐちふがごとく、ます/\も、おもきうまにゝ、うはにうつと、いふことのごと、おいにてある、わがみのうへに、やまひをと、くはへてあれば、ひるはも、なげかひくらし、よるはも、いきつきあかし、としながく、やみしわたれば、つきかさね、うれへさまよひ、ことごとは、しなゝとおもへど、さばへなす、さわぐこどもを、うつてゝは、しなむはしらず、みつゝあれば、こゝろはもえぬ、かにかくに、おもひわづらひ、ねのみしなかゆ
 
靈剋内限者 此たまきはる内のかぎりと云ことにつきて、諸抄の説誤り來れり。たましひのかぎりのうちと心得て、下の傍注者の誤りを例證とせる也。畢竟此下の注より後人も見あやまりし也。たまきはるの事は、前に委しく注せる如く、玉き春、打といふ義也。此も内は現の義也。今日在の迄の限りはといふ事也。うつとうけん爲のたまきはると詠み出したる也。大坂契沖ほどの萬葉者なれど、此本説を見ひらかずして、此歌にて此詞明也と注せり。是も下の後人の傍注になづみたると見えたり
謂瞻州人壽一百二十年也 これ後人の傍注也。此注より世擧てたまきはるといふ事を、たまきはまるといふ事と釋し來れり。命とつゞく歌多き故、たまきはまるいのちといふ事との釋なれども、たまきはると云ふ事、いかにともあるべき事にあらず。元來の詞不v濟事也。玉き春、射、春、うつ、うちといふ義ならでは六ケ敷也。十節の説尤可也
瞻浮州 とは此世界の事をいひたる也。佛經より出たる語也。膽浮、膽部、閻浮みな同事にて、新譯舊譯の違あり。閻浮提或は南淵浮洲など云て、皆佛家より此世界の事を云たる義也。前の志恠記の文にも見えたり。たまきはるうつのかぎりとは、此世にある現在のかぎりはといふ義也。うつとは現在の事を云たる也。世上の説の如く、たまきはまるうちの限りはといふ義、(78)あるべき事とも心得ぬ也
事母無裳無母 此もなくもと云事諸抄の説は喪の字の義にて、わざはひもなくといふ義と釋せり。尤此集第十五葛井連子老が挽歌に、わたつみのかしこきみちをやすけくももなくなやみきていまだにも毛奈久ゆかんと詠み、伊物にわれさへもなくなど詠めることあるを證としていへり。さもあるべき歟。宗師案は、事もなくもなくと重ね詞にてあらんやと也。好む所にしたがふ也。如v此現在の世に住む限りは、たゞ何事にもやすくたひらかに、何のわざはひもなくあらんものをと、安穩ならん事を願ふたる意也。然るに、うきつらき事のありて、その上にと嘆じ詠み出せり。うけくつらけくは うくつらく也。古今集に、よの中のうけくにあきぬおくやまのこのはにふれる雪やけなまし
伊等能伎提 前にも注せる如く、いとどしくといふ義と釋せり。いとぬきんでてと云意か。此詞不v決也
いたきゝずには 今俗にも、いたの上のはりなどいふ意におなじ。いたきゝずには、から鹽をもてそゝぐ事あり。さなければきずいえざる也。その如くの世のありさまと云義也
灌知布何其等久 そゝぐと詠みたれど、つくらふと讀みてもよき也。しかればことば餘らざる也
重馬荷爾表荷打等 今俗に重荷に小付などいふ意也。いやが上に事のかさなる義をいひたる也
老爾弖阿留 老たる也。老衰したる上に也。後撰、太政大臣貞信公へ御返し、今上の御製、年のかずつまんとすなる重荷にはいとゞ小附をこりもそへなん
病遠等 やまひをらとよみて、をはてにをは、らは助語とも見ゆる也。然れども茂の字の誤りなどにてはあるまじきか。たゞし等の字は、ともがらもとも讀むなれば、等にてもとよむべき歟。をもといふてにはなれば、何の事も無く老衰したる上におもき病をも加へたればと云義也
なげかひは なげき也
息豆伎阿可志 物を思ひあるひは病に苦みて、いもねられねば、といきのみつくこと、今の世の人の上に知られたり
年長久 端書にある重病經年といふ所此義也
(79)憂吟比 苦しみて、聲をもたてゝ泣く如くに、此方彼方と惱む義也。さまよふと云事は、聲をいだし苦しむ事をいふ也。俗にうめくなどいふ也。西國にてはこれをにおふとも云也。うめく事をにほふといふは西國の言葉也
許等許等波 如v此はといふ意也。或説に異事はといふ釋あれど心得難し。六ケ敷釋也。かくのごとくにてはといふ意その事々にてはの意也。事のごとくはと云意にも通ふ也。かくの如くのくるしみにては、しなんとおもへどといふ義也
五月蠅奈周 夏のはへの如くといふ義也。なすといふ詞は、如といふ義也。神代下卷に、晝者如五月蠅〔而沸騰之〕。畢竟さわぐといはん序詞也
佐和久兒等遠 夏の青蠅のむらがり飛まじり、聲もやかましきまで飛びかふごとに、子供のなきわめき、また遊びたわむれてさわぐ體を云はんとて也
宇都弖弖波 うちすてゝは也。ちすの約つ也
死波不知 一向打すてゝ死なんは知らず。さなくては愛情の心はなれ難く、うつくしみふびんに思ふと也
見つゝあればこゝろはもえぬ つらく子供の有樣を見れば也。心はもえぬ、おもひにもゆる也。身は老衰したる上に、病にしづみ朝暮もしらぬ身なれば、いろ/\心のうちに、おもひわづらふ事のおもひにもゆると也
かにかくにおもひわづらひ いたりて苦しみ難義なる體を詠める也。端作にある如く、とし老てその上に重き病をうけなやみしづみて、子供の有樣を見ておもひつゞけて、兎にも角にもおもひわづらふ由也
なかゆ はなかる也。にごらぬ音相ともに横通する也
 
反歌
 
898 奈具佐牟留心波奈之爾雲隱鳴徃鳥乃禰能尾志奈可由
なぐさむる、こゝろはなしに、くもがくれ、なきゆくとりの、ねのみしなかゆ
 
何の意も無き歌也。たゞ下のねのみしなかゆといふ序に、雲がくれ云々と詠める也。わが身既に、死にのぞめる折故、くもがく(80)れなき行鳥とも詠めるか。鳥をわれにして詠める也
 
899 周弊母奈久苦志久阿禮婆出波之利伊奈々等思騰許良爾佐夜利奴
すべもなく、くるしくあれば、いではしり、いなゝとおもへど、こらにさやりぬ
 
せんかたもなくくるしければと也
出波之利 出ていづかたへもはしり行んとおもへどもと也。前の歌に立はしりともありて、古詠にはかくの如き詞をもよめり。いなゝはいなゝんと云意也
許良爾夜佐利奴 子供にさへられて。いづちへ出はしり行事もしがたきと也
 
900 富人能家能子等能伎留身奈美久多志須都良牟※[糸+包]綿良波母
とみひとの、いへのこどもの、きるみなみ、くだしすつらん、きぬわたらはも
 
伎留身奈美 此身の字心得難けれど、先はきるものなきと云義と見る也。きるみのなきといふ義少不v濟詞也。然れども富家の人の子は、よごれそこねたるものは着る身もなく、朽ちすたらんきぬわたもがな。我子等に着せんをと嘆き願ふたる歌也
※[糸+包]綿良波母 きぬわたらはもといふて、きぬわたらもがなといふ意也。良は助語、はもは例の歎息の詞にして、此は願ふ意を兼ねたる也
※[糸+包]の字 古葉略要に絶に作るを正とすべし。※[糸+包]の字きぬとよむこと未v考
 
901 麁妙能布衣遠※[こざと+施の旁]爾伎世難爾可久夜歎敢世牟周弊遠無美
あらたへの、ぬのきぬをだに、きせがてに、かくやなげかん、せんすべをなみ
 
あらたへは、あらきぬのきぬの事也。たへとはきぬ布の惣名栲の字と同じ。古語拾遺には織布を、古語、阿良多陪、祝詞の文等にも、毎にあらたへ、にぎたへの事あり。あらきぬのゝ着物をだにえきせぬとなげきたる也。前の歌の餘意をのべたるもの也。集中の連續に此例多事也
(81)伎世難爾 子どもといふ言葉もあらはれねども、此着せがてにといふをもて、子等をおもふ歌の意を知るべし。着せがてはえきせざる也
せんすべをなみ せんかたもなきと也
 
902 水沫奈須微命母栲縄能千尋爾母何等慕久良志都
みなはなす、もろきいのちも、たくなはの、ちひろにもがと、ねがひくらしつ
 
みなはなすは、水の泡の如くもろきいのちと也。水の泡はあえなきもの、消えやすき事、いはんかたなきもの也。のあの約言なゝり。よりてみなわと也
千尋爾母何等 いつまでもながかれと願ふ也。何等とは、がなと願ふたる義也
慕久良志都 慕ふと云字を願ふとよませたるは、義をもつて訓じたるか。冀の字の誤りならんか。慕ふと云意も願ふ意に通ふなれば、かくよませたるか。此歌の意慕ふと云ては意不v合也。憶良の老身病衰の、夕も知らぬ命も、一日なりともながかれと願ふとの、人情の實意をのべたる歌也
 
903 倭父手纏數母不在身爾波在等千年爾母何等意母保由留加母【去神龜二年作之但以類故更載於茲】
しつたまき、かずにもあらぬ、みにはあれど、ちとせにもかと、おもほゆるかも
 
しつたまき數にもあらぬ身にはあれど 前にも出たる義也。前にはいのちなれどとよめり。前の歌には壽の字を書きたり、その歌も身とよみたきところなれど、壽の字故いのちとよみおきし也。此例をもちてはみともよむべき歟。この歌も身を卑下して數ならぬ身といふ義也。いやしきものゝ環は、珠の數にはあらぬと云義也。一説しづの緒だまきの事をいへるとの説あり。心得がたし
父の字は文の字のあやまりなり。父布音通ふ故かといふ説は心得難し
歌の意よくきこえたる歌也
(82)去神龜二年作之但以類故更載於茲 此注古注者の加筆歟。憶良の記せる歟。不分明也。惣而如v此細字の注は後人の傍注と見ゆる事多し。これも後人の加筆ならんか。長一首短何首などかけるは、皆後人の傍注にて、古注者の筆にてもなき也。すでに此次の歌の細注にても明也。此注は倭文手まき一首の注と見ゆる也。然れども心得がたき注也
 
天平五年六月丙申朔三日戊戌作
 
右は老身重病云々の此六首の歌を詠ぜる年月を詠ぜる也。是は古注者の筆歟。考ふるところありてか。但し憶良の記し置たるを直に編集の時、如v此是迄の通書載せられたる歟。此注書分明に難v決也
 
戀男子名古日歌三首【長一首短二首】
をの子のなふるひをこふうたみくさ
 
これは憶良の子、古日といふ子煩ひにて死したるを慕ひ歎く歌也
 
904 世人之貴慕七種之寶毛我波何爲和我中能産禮出有白玉之吾子古日者明星之開朝者敷多倍乃登許能邊佐良受立禮杼毛居禮杼毛登母爾戯禮夕星乃由布弊爾奈禮婆伊射禰余登手乎多豆佐波里父母毛表者奈佐我利三枝之中爾乎禰牟登愛久志我可多良倍婆何時可毛比等等奈理伊弖天安志家口毛與家久母見牟登大船乃於毛比多能無爾於毛波奴爾横風乃爾母布敷可爾布敷可爾覆來禮婆世武須便乃多杼伎乎之良爾志路多倍乃多須吉乎可氣麻蘇鏡弖爾登利毛知弖天神阿布藝許比乃美地祇布之弖額拜可加良受母可賀利毛神乃末爾麻仁等立阿射里我例乞能米登須臾毛余家久波奈之爾漸漸可多知都久保里朝朝伊布許登夜美靈剋伊乃知多延奴禮立乎杼利足須里佐家婢伏仰武禰宇知奈氣吉手爾持流安我古登婆之都世間之道
(83)よのひとの、たふとびねがふ、なゝぐさの、たからもわれは、なにかせむ、わがなかの、むまれいでたる、しらたまの、わがこふるひは、あかぼしの、あくるあしたは、しきたへの、とこのへさらず、たてれども、をれども、ともにたはぶれ、ゆふぼしの、ゆふべになれば、いさねよと、てをたづさはり、ちゝはゝも、おもはなさかり、さきぐさの、なかにをねむと、うつくしく、しかゝたらへば、いつしかも、ひとゝなりいでて、あしけくも、よけくもみむと、おほぶねの、おもひたのむに、おもはぬに、よこかぜの、爾母しく/\ばかりに、ふきくれば、せむすべの、たどきをしらに、しろたへのたすきをかけ、まそかゞみ、てにとりもちて、あまつかみ、あふぎこひのみ、くにつかみ、ふしてぬかづき、かゝらずも、かゝりもかみの、まに/\と、たちあさりわれ、こひのめど、しばらくも、よけくはなしに、やうやくに、かたちつくぼり、あさな/\、いふことやみ、たまきはる、いのちたえぬれ、たちをどり、あしずりさけび、ふしあふぎ、むねうちなげき、てにもてる、あがことばしつ、よのなかのみち
 
七種の寶 金、銀、瑠璃、※[石+車]※[石+渠]、瑪瑙、珊瑚、琥珀也。或説には替りあり。委不v及v注。先通例この七寶を云也。これ人の願ふところ此外なきもの也。然れどもそれも何せんにと也。此卷の初に、白がねもこがねも玉もなにせんにとよめる同じ意也。則此歌の主也
われはなにかせん 七寶も望ましからず、たゞ子を寶とも思ふ意也
和我中能 此句の前に一句落ちたるか。和我の二字も心得がたし。尤假名書なれど、七言不v足やうなり。然れども如v此の躰集中に何程もあれば、古詠此一格ありとも見えたり。わがなかのは夫婦の間のと云へる義也。とかく上に何とぞいふ句なくては、此わが中のと云ふ事縁なく出たる句なれば、脱字落句などあらんか
(84)うまれ出たる白玉の わが子を自讃してしら玉のといへり。子を玉とよめる事集中にも多し。源氏物語桐壺に、玉のをのこみこさへとよめり。これはをの子といはん爲の玉の緒といひたるものなれど、源氏の君をほめて、玉の男みことも云たり
吾子古日者 憶良の子の名也。下にあかぼしとよまんとて、ふる日とよみ出たり。またあくる朝とよまん爲あかぼしとよみ出たり。古詠の連續如v此縁を不v難事をよく考ふべし
明星之 あくるあしたと云はん爲の序也。あかぼしは、あかつき方に東にあらはれて、光衆星にすぐれて明也。夜の明けんとする時出る星也。爾雅云、明星謂2之啓明1、注云、太白星也。晨見2東方1爲2啓明1、昏見2西方1、爲2太白1。和名抄卷第一、天部云、明星、兼名苑云、歳屋、一名明星、此間云2阿加保之1。古今六帖星の歌にも、月かげにみかくれにけりあかほしのあかぬ心にいでてくやしき。みなあかと云詞をつゞけん爲也。此あかぼしもあくる朝と云はん料也
とこのへさらずは ゆかのほとりをさらず也。なれそひ愛する意を、これより以下だん/\とのべたるもの也
たてれども 立にも居にも、たちてもゐても、たはむれなつきたる有樣をいへり。居れどもといふ迄にて句をきるべし
夕星乃 第二に、人まろ明日香皇女のみまかり給ふをいためる歌のところに注せり。太白星ともいひ長庚ともいへり。夕暮にはやく西方にあらはるゝ星也。これも夕といはんとての序詞也
由布弊爾奈禮婆伊射禰余登手乎多豆佐波里 あくればあしたより父母のゆかのへさらず、立つにも居るにもたはぶれなつき、夕になればいざねんと父母にすがりなづむとの義也
父母毛表者奈佐我利 ちゝはゝもおもはなさかりとよむべし。表は面はの意也。顔は子を愛して寢さかりて、顔を下げていねばとすがる體をいひたるものと見ゆる也。顔鼻などに手をかけて、子供のねすがる有樣をいへる義也。此詞諸抄の説まち/\にして、義くわしからず。然れども父母の面をねさかりと見る義よくかなふべき也。なさかりはねさかり也。又なさかりにても同じ意也。なといふ詞は、はなれ、なづみたる事をいふなれば、父母によりそひなづめる體をいふたる義也。何れにもあれ、愛らしくすがりなじみて、父母の中に共にねんといふ有樣を詠める義也
三枝之中爾乎禰牟登 さゐぐさとは、古事記令義解等に出でて三つのえだをいへり。枝三ツならび出たるをいふ也。前に注(85)せり。中といはん冠辭也。父母の中にねんと也。にをの乎は助詞也。
愛久 うつくしく也。うつくしとは俗に云愛らしくかはいげなるなど云に同じ。愛らしくと云に近し。おもはしくといふ點心得難し。或抄には心にかなふ事を、おもはしくといふとの義なり。愛の字を書きてその意は不v可v合。此意は俗に云あいらしくといふ意安也。めであいする事をうつくしむといふなれば、うつくしくにてよく聞え侍る也
志我可多良倍婆 しかとは古日をさして也。佐我ともしやがともいひて、汝がといふにおなじ。小さきわらはべの親になづみし、なつかしくする有樣をいへり
何時可毛比等等奈理伊弖天 右の如く愛らしくなれむつみて語らへば、早く成長をもしたらんには、人となりの善惡をもいはず、生行さきを見まほしくこのみおもひしと也
大船乃於毛比多能無爾 この大船のおもひたのむといふ事、諸説蒼海にては心ぼそきものなれど、大船はたのみあるものにて水上海上にてはたのもしきものといふ意と釋せり。少入ほかなる義也。尤船中にての人情もさもあるものなれど、しかと打つかぬ説也。宗師案は、おもひたのみと假名書にあれば、馮の字かゝりとよむ説も立難し。これはおもひたのむは、重荷たのむといふ義にて、古詠にかくはよみ來れると見えたり。重荷は大船ならではたのむべきもの無し。ひとにとは通音なるから、おもひたのみとはよめると見る也。さなくてはおもひたのむといふ所打つかぬ也。おもひたのむといふ義をいはんとて、きはめて大船とよみ出たる古詠多し。此の義はおもひたのみてありしにといふ義也
横風乃 よこしま風の也。病などに古日冐されて死なんとする由をのべたり。是より已下の句解し難し。衍字誤字等ありと見えたり
爾母 この二字いかによみたる意か心得がたし。脱字誤字の案をつけていはゞ、爾の字の上に卒の字か俄の字を脱したるか。また爾の字は卒の字の誤りか。然らばにはかにもとよむべし。よこしま風の俄にも吹き來りてといふ義なるべし
布敷可爾 これはしく/\ばかりにとよむべし。おもひもよらぬよこしま風の、にはかにすきまもなく吹くと云義なるべし。可爾の二字はばかりにと讀まるゝ也。下の布敷可爾、慥に衍字なるべし。古一本には此四字欠けるをもて正とすべし
(86)覆來禮婆 ふきくれば也。風邪などに冐されて病める事をいへる義と見ゆる也。此句の上下に何とぞ一句あるべき樣なり。前にも斯樣の所ありて不審也。猶餘の卷にも如v比の體いかほどもあれば、是も古詠の一格ありしか。覆の字は音を訓にかりてよめる也。病のにはかに重來れば、せん方もなく嘆き憂へる體を、此以下に詠みつゞけり
志路多倍乃多須吉乎可氣 これより神祇に祈をなす有樣を詠めり。しろたへのたすきをかけ、まそかゞみなど手にもちて、神祇にこひのみ申よし、古實の體おのづからあらはれたり
天神阿布藝 天神は上天にむかひて祈るよし也
許比乃美 請祈也。請は願義、祈はいのりのみといふて願ひ事を神へ申すこと也
地神布之弖 地神なれば地にふして祈る也。天地と對に云たる也
額拜 拜禮の事を云てかうべ地に至を云也。地に頭額をすりつけてねぎのみこと也
可加良受毛可加利毛 如v此あるもあらぬもといふ義か。又諸説は神の惠にかゝらずもかゝるもといふ義と也。源氏物語須磨の卷にも
   うみにます神のめぐみにかゝらずばしほのやほあひにさすらへなまし
と詠める事もあらば、惠みにかゝりもかゝらずもといふ事にもやあらん。それにてはめぐみと云詞を入れて不v解ばきこえぬ故、詞のまゝに解せんにはかくあらずもありともと見るべきか
立阿射里 たちあせりと云義也。心さためずあせりさわぐ躰を云へり
しばらくも 少しもしるしなくよからぬと也
漸々 ぜん/\にといふ今の俗語の通也。次第/\にすがたかたちも衰へつくぼると也
都久保利 やせすぼる體をつくぼるといひたる也。つくぼりといふ詞いかにも解しがたけれど、先はしほ/\つゝぼりなどいふとおなじ義にて、かたちのすくみつぼみたる義をいへりと見る也
いふことやみ 次第に元氣もおとろへて、ものもいはず、とひこたへもやみしと也
(87)いのちたえぬれ 古日死たると也。絶えぬれはいのち終りしと云義也
立乎杼利 立といふ字は、すべてものゝ切なる時の初語にいふ也。前にも既にたちあさりなどいひて、こゝの立おとりも、至つて驚き歎く切なる體をいはんとてたちおとりと也
あしずりさけび 至つて悲しみなげく有樣を云へり。當集第九、浦島子をよめるにも、こひまろびあしずりしつゝたちまちになど詠めり。伊物、源氏物語にも、切に嘆き悲む事にあしずりをしてと書けり
さけび 大に泣くを云也。聲をあらはしなげく體也
むねうちなげき 悲しみのあまり泣き叫ぶ時は、せきあげてむねもふたがるやうなれば、われとむねを叩きて嘆く也。今もこの有樣ある事也
手爾持流 今俗にも、手なるものをもがれたるなどいふ如く、鷹などすゑたるに、そらしとばしたる體にたとへて、せんかたもなき世の中の悲しき事の至極をいへり
世間之道 如v此悲しき事のあるも世の中の樣、いかにといふべき言の葉もなきとの意也
 
反歌
 
905 和可家禮婆道行之良士末比波世武之多敝乃使於比弖登保良世
わかければ、みちゆきしらじ、まひはせん、したべのつかひ、おひてとほらせ
 
わかければ 死したりし古日いまだいとけなしと聞えたり。黄泉の道行知らじとなり。悲しみのあまりに、死てよもぢに行道のことまでを思ひ嘆く也
まひはせん まひなひをせんと也。幣禮の義也。日本紀等にもこの詞あり。仲哀紀に、八年秋九月に其祭v之以2天皇之御船及〔穴門直踐立所獻之水田名〕大田1是等物|爲v筋也《マヒナヒタマヘ》。また神託などにもあり。幣物を遣さんほどにといふ義也
之多敞乃使 下邊の使也。黄泉の使といふ意也
(88)於比弖登保良世 負て通せ也。幼稚にて冥途の道も知るまじき程に、幣物を贈らんまゝおひて通しやれと也。とほらせはとほせ也。續日本紀光仁紀藤原永手の薨じ給ふ時の宣命の文にも、幸 久 罷【止富良須倍之】とあり
 
906 布施於吉弖吾波許比能武阿射無加受多太爾率去弖阿麻治思良之米
ふしおきて、あれはこひのむ、あざむかず、たゞにゐゆきて、あまぢしらしめ
 
ふしおきては 伏起て也。仰v天伏v地也。前の歌の詞に詠める意也。こひのむいのり願ふ義也。前の歌の下邊の使へ頼み願ふ意也
あざむかず 不v欺也。幼稚のものをだまさずと也
たゞにゐゆきて すなほに直にひきゐゆきてと也
あまぢしらしめ 歸天の道を古日の靈魂に知らしめよと也。少し云足らぬ樣なれど、古詠の格みなかくのごとし。此歌は憶良の歌にはあらざるよしなれど、前の歌の意と同じければ、こゝにのせたるよし左注に見えたり。然れば本集には無きを撰集後に加へたる歟。古注はすべて撰者の注にあらざれば、此注も疑はしき也
 
右一首作者未詳但以裁歌之體似於山上之操載此次焉
 
此注は後注者の筆なれば、此歌は後に書きのせたるか
操 吟詠の曲節を云也。程拍子節のことを操といふ也。節操と云字注あり。風調を操といふともあり
 
萬葉童蒙抄 卷第十三終
 
(89)第五巻難解記
 
日本挽歌
794 大王能中略斯良農比。《のの字を脱せり》筑紫國爾中略石木乎母刀比佐氣斯良受〔石木〜傍點〕伊弊那良婆迦多知波阿良牟乎
石木乎母の乎はをとよむべきや。石木かもと讀まんや
 
哀世間難住歌
804 世間能周弊奈伎物能波年月波中畧意余斯遠波〔五字傍點〕迦久能尾奈良志以下畧
およそをばと釋し來れり。集中類句なければ決し難けれど、まづ諸抄の説に從ふ也
 
員外思故郷歌
847 和我佐可理伊多久久多知奴久毛爾得夫久須利波武等母麻多遠〔傍點〕知米也母
久毛爾得夫久須利波牟用波〔二字傍點〕美也古彌婆伊夜之吉阿何微麻多越〔傍點〕知奴倍之
 
886 常斯良奴國乃意久迦表〔四字傍點〕百重山以下畧
 
貧窮問答歌
892 風雜雨布流欲乃中畧寒之安禮婆堅鹽乎取都豆之呂比〔五字傍點〕糟湯酒宇知須須呂比弖之可夫可比〔五字傍點〕鼻※[田+比]之※[田+比]之爾可登阿良農中畧私私《和イ》氣佐我禮流可可布能尾〔五字傍點〕肩爾打懸中畧伊等乃伎提〔五字傍點〕短物乎端伎流等云之如楚(90)取五十戸良〔六字傍點〕我許恵波以下略
 
894 好去好來〔四字傍點〕歌
神代欲理云傳介良久中略言靈能佐吉播布〔七字傍點〕國等中略邊爾母奧爾母神豆麻利宇志播吉〔八字傍點〕伊麻須中略
 
又更大御神等船舳爾御手打掛弖墨繩袁播倍多留期等久阿|庭《遲イ》可遠志〔五字傍點〕知可能岫以下略
 
900 富人能家能子等能伎留身〔傍點〕奈美久多志須都良牟絶綿良母
 
戀男子名古日歌
 
904 世人之中略由布弊爾奈禮婆伊射禰余登手乎多豆佐波里父母毛表者奈佐我利三枝之中〔十字傍點〕爾乎禰牟登愛久中略於母波奴爾横風乃爾母布敷可爾布爾布敷可爾覆來禮婆〔横風〜傍點〕世武須便乃中略地祇布之弖額拜可加良受毛可賀利〔八字傍點〕毛神乃末爾麻仁等中畧可多知都久保里〔四字傍點〕朝々伊布許登夜美以下畧
 
萬葉童蒙抄 本集卷第五終
             〔2010年1月31日(日)午後6時35分、巻五入力終了。2020年4月25日(土)、午前10時30分、校正終了〕
 
(91)萬葉集卷第六
 
雜歌
 
養老七年癸亥夏五月幸于芳野離宮時笠朝臣金村作歌一首短歌
 或本三首
 車持朝臣千年作歌一首短歌
 或本二首
神龜元年甲子冬十月幸于紀伊國時山部宿禰赤人作歌一首短歌
二年乙丑夏五月幸于芳野離宮時笠朝臣金村作歌一首短歌
 山部宿禰赤人作歌二首短歌
 冬十月幸于難波宮時笠朝臣金村歌一首短歌
 車持朝臣千年歌一首短歌
 山部宿禰赤人作歌一首短歌
三年丙寅秋九月十五日幸于播磨國印南野時笠朝臣金村作歌一首短歌
 山部宿禰赤人作歌一首短歌
〔92〜97、目次省略〕
(98)讃久邇新京歌二首短歌
春日悲傷三香原荒墟作歌一首短歌
難波宮作歌一首短歌
過敏馬浦時作歌一首短歌
 
(99)萬葉童蒙抄 卷第十四
 
雜歌
 
養老七年癸亥夏五月幸于芳野離宮時笠朝臣金村作歌一首短歌
 
元正紀、養老七年夏五月癸酉、行2幸芳野宮1。丁丑、車駕還v宮云々。此時の事なるべし
 
907 瀧上之御舟乃山爾水枝指四時爾生有刀我乃樹能彌繼嗣爾萬代如是二二知三三芳野之蜻蛉乃宮者神柄香貴將有國柄鹿見欲將有山川乎清清諾之神代從定家良思母.
たきのへの、みふねのやまに、水枝さし、しゝにおひたる、とげのきの、いやつぎ/\に、よろづよに【かく/\しらみ・かくしゝるらみ】みよしのゝ、あきつのみやは、かみがらか、たふとかるらむ、くにがらか、みまほしからむ、やまかはを、【きよくきよらか・きよくさやかに】うべしかみよゆ、きだめけらしも
 
水枝 みえだともみづえともよむべし。たきの上の御舟山とある故、みづえともよみ、又瑞枝の意にて祝賞してよめるとも聞えたり。み枝といふ時も、水の意をうけてよめるなるべし。しかれどもみえだといふときは初語と見る也。水の意をこめて發語とすべし
四時爾 前に注せる如くしげりおひたる事也。生有はてあの約た也。よりておひたるとよむ也
刀我乃樹 前に注せり。下のいやつぎ/\といはん詞の縁に、つかの木ともよみ出たる也。しかるを栂の木の事にてとがと點を加へ、とがと讀み來れるに、色々説を添ていふなれど、都我の木と書きたる所ありて、下につぎ/\とうける詞を讀みたれば、此處もつがにて有べき也。都の字古來とゝ讀むことまれにして、尤集中みなつとならでは不v通。こゝに刀の字を書たれ(100)ば、となるべしといふ義は心得がたし。ツとトとは同音なれば、通じて讀まるべき也。しからば都の字をも、とゝ讀むべしといふ論あれど、此集中にとゝ讀ませたることまれなり。扨此つがの木は、よく茂りて枝葉榮えるもの也。よつていやつぎ/\にとも讀めり。今材木に用ふる栂の事にや。又ツゲといふて、よくしげりこもれる立花の前などに立つもの有、此事にや。和名には都我の木は不v見也
私云、つがの木のいやつぎ/\は祝言なれども、墳にかよふ故、つげの木のと讀むべし。惣じて歌の詞は人の耳立あしく、不祝言の事よむはあしゝ
如是二二知三 是はかく/\しらみと讀むのと、又かくしゝるらみと兩説也。二二なれば四也。此集中此例格數多也。奧にいたりて重二と書きて、しと讀ませたり。いやつぎ/\萬代まで、かくしげらめといふ義也。御代を祝ひ離宮を譽めていふ也
神柄香 かみがらかといひて、あきつの宮を尊賞したる詞也。神力のなし給ふからといふ意也。尤も君を神と尊賞し奉ること前々にも注せり。天子の御座所なるからといふの意也
貴將有 たふとかるらん、くあの約か也。神なるからかくたふとかるらんと也
国柄鹿 くにがらか、上の神がらに對していへり。よきくにがらかといふ義、所がらかもなどよめる意也
見欲將有 みまほしからん、かくよき風景の國所がらか、かやうに見まほしからんと也
山川を 山と川と二つ也。しかれば川をすみてよむべき也。すべて音便濁はかさね詞の下、又は物をふたつ合せいふ時は濁る也
清清 きよくきよらか、きよくさやかにとも讀む也。此次に一句落ちたるやう也。しかれども諸本如v此にて、集中かやうの所あまたあれば、前にも注せるごとく一格なるべし
諾之 誤りて、※[言+塔の旁]の字に作る本あり。不v可v用也。諾之は、ウベシにて尤もといふ義也
神代從 かみよゆさだめけらしも、ゆとはよりといふこと也
歌意 瀧の上の御舟山、川の流、他に異なる景色をほめて祝讃したる也
 
(101)反歌
 
908 毎年如是裳見牡鹿三吉野乃清河内之多藝津白浪
としごとに、かくもみてしか、みよしのゝ、きよきながれの、たきつしらなみ
 
見牡鹿 見てしかはねがふ意にて、見てかな也。しは助語也。見て哉也
清河内《キヨキナガレ》 口傳也。第一卷に注せるごとく、流《ナガレ》と義訓に讀むべき也
 
909 山高三白木綿花落多藝追瀧之河内者雖見不飽香聞
やまたかみ、しらゆふはなの、おちたきつ、たきのながれは、みれどあかぬかも
 
歌意 高きみねより瀧のしろく落つるけしきを、白ゆふはなに見なして、見ても/\あかぬおもしろき景色ぞと詠めり
 
或本反歌曰
 
前にいふごとく後人の加筆也。可v削
 
910 神柄加見欲賀藍三吉野乃瀧河内者雖見不飽鴨
かみがらか、見まほしからん、みよしのゝ、たきのながれは、みれどあかぬかも
 
神がらとは、瀧の流の絶妙なるけしきの、あやしきまでに見ゆるを賞美していへる也
 
911 三芳野之秋津乃川之萬世爾斷事無又還將見
みましのゝ、あきつのかはの、よろづよに、たゆることなく、またかへりみん
 
此歌は所の景色をほめて御代をも祝して、御幸の絶えず萬代もありて、いくめぐりも此面白きところを見んと也
 
912 泊瀬女造木綿花三吉野瀧乃水沫開來受屋
はつせめの、つくるゆふはな、みよしのゝ、たきのみなわに、さきにけらずや
 
(102)泊瀕女 はつせ女とは難波女と同じ。その所の人をさしていひたるものなれど、此はつせ女、なには女などいふは、いにしへの遊女のことをいへり。このはつせ女もそれなるべし。はつせ女と詠み出たるは、それをあらはしたるまでにて別の意は無き也
造木綿花 花をつくるにはあらず。はつせめの造る木綿のはな也。みよしのとうけたるも、見るによきといふ意をこめたる也
水沫 みなわと讀む、水淡也。ツアの約言ナ也。たぎりておつる水のあわは、初瀬女の造る木綿の花にひとしきと也。咲きにけらずやはさかずやさきたると也。瀧の水沫の白くきよらにすゞしく、いさぎよきを、白木綿花に見なしてほめたる歌也。
此集中に、波のたつを花の咲くに見たてたること數多也
右三首は或本の反歌也。後注者所見ありて如v此のせられたると見えたり
 
車持朝臣千年作歌一首并短歌
くるまもちあそんちとせつくるうたひとくさならびにみじかうた
 
車持千年、傳未v詳。車持は續日本紀聖武紀云、從五位下車持朝臣益、天平九年正月辛酉正八位下車持〔君長谷、賜2朝臣姓1。〕延喜式第七大嘗會式、車持朝臣一人執2菅蓋1云々
私云、菅蓋 (原本頭註)  〔菅蓋の図省略〕
錦蓋は日和の時用、菅蓋は雨義の日用。右錦蓋は加茂の御影祭に神馬の上へさしかけて行く也。むかしは神事に神馬を用ゆ。神輿は坂本山王祭より初て用ゆ
 
913 味凍綾丹乏敷鳴神乃音耳聞師三芳野之眞木立山湯見降者川之瀬毎開來者朝霧立夕去者川津鳴奈(103)拝辨詳不解客爾之有者吾耳爲而清川原乎見良久之惜蒙
うまごりの、あやにともしく、なるかみの、おとのみきゝし、みよしのゝ、まきたつ山ゆ、見降者、川の瀬ごとに、あけくれば、あさぎりたちて、ゆふされば、かはづなくなめと、ひもとかね、たびにしあれば、われのみにして、きよきかはらを、みらくしをしも
 
味凍 うまごりはうまおり、うまとはよきといふ詞ほめたる義也。おりは織也。綾をほめてうまおりのあやとつゞけたる冠辭地。諸抄みなあぢこりと點をなせり。あぢといふ詞心得がたし。畢竟あやにともしきといはんための序にて、此已下三芳野のといふまでは、みな詞のつゞきをうけて序歌に詠み出せり
 私云(原本頭註)ウマゴリ、オリ、ゴリ同音也。錦織《ニシゴリ》殿といふ堂上あり。同意なり。この味織もウマオリ也。ウマイ/\と今の世、小歌淨るりなどをほめていふも同じ
綾丹乏 あやにといはんとてうまごりといひ、ともしきといはんとてあやにとよめり。みな序歌の詞也。ともしきとはめづらしきといふ義也。よしのゝ御舟山をほめたる序詞也
音耳聞師 おとにのみ聞し也。是迄は音にのみ聞しが、このたび御幸の供奉にてはじめて此佳景を見て詠めるならん
山湯 やまゆ山より也
見降 見くだせば、見おろせばとも讀むべきか。遊仙窟に、眞下を見おろしと點あり
開來者 あけくれば也。下の夕さればの對句也
夕去者 夕べなれば也
奈辨 なべ也。なめ也。へはメ也。古葉略要には奈利とあり。利なれば何の意もなくよくきこえたり。しかれどもなべといふて、辨の字を書きたれば別に義有。一本には詳の字を書きたり。此集中奈倍と書所多し。しかれども辨の字をこゝに書きたれば、すべて倍は皆濁る倍と聞えたり。濁音のへはめ也。已に一本に詳に作るもめ也。※[口+羊]の字なるべし。なべといふ詞い(104)かにも解しがたき也。辨なればめなる故別に詞の義ある也。先なべといふ詞は故からといふ義に解し來れり。それにては語釋不v濟也。先一通は故からと心得べき也。朝には霧立、夕には蛙の鳴風景の面白といふたる也
紐不解 ひもとかぬたびにしあればとは、旅なれば心のうちとけぬと也。ひもとかずたびにしあれば、われにしてとは心得がたき點也
菩耳爲而 われのみにしてとよむべし。こゝも上に何とも一句あるべきやうなるつゞき也。旅なればおもふ人をつれず、唯我のみ見ることのをしきと也
惜蒙 普通の印本情の字に誤れり。古本には如v此、正とすべし
 
反歌一首
 
914 瀧上乃三船之山者雖畏思忘時毛日毛無
たきのへの、みふねのやまは、かしこけれど、おもひわするゝ、ときもひもなし
 
かしこけれどは恐れ多けれどと云意也。天子の離宮所なれば、おそれ多くおもへども絶景の勝地なれば忘られぬと也
 
或本反歌曰
 
915 千鳥鳴三吉野川之川音成止時梨二所思公
ちどりなく、みよしのがはの、かはとなす、やむときなしに、しのばるゝきみ
 
ちどりなく よしの川といはん爲までの序也。千鳥に別の意は無き也
川音成 此三字諸本まち/\にして不2一決1也。川の脱したるもあり。如v此川之川音とある本もあり。しかれども成の字も茂の字に作れる本もあり。まち/\にして決しがたけれども、歌の意をいはゞ、川音のしげきといふこといはれぬこと也。木、草、人事のしげきとは云べき、おとのしげきといふ事作例未v考也。しかれば成の字しげみとよまれまじ。如といふ意にてなすとよむべき也。歌の意それにてはよくきこえ侍らんか。よりて宗師點はかはどなすとよめり。川音のやまぬごとく、した(105)はるゝきみとよめると聞ゆる也
所思公 このきみとさしたるは、天子をしたひ奉れるの意にて、御幸のことをしたふ心にや。いづれのきみをさせるとも決しがたし
 
916 茜刺日不並二吾戀吉野之河乃霧丹立乍
あかねさす、日不並二吾戀、よしのゝかはの、きりにたちつゝ
 
印本古本の點云、あかねさすひをもへなくにわかこふるよしのゝかはのきりにたちつゝ
日不並二 これをひをもへなくにと、點をなしたれど、集中に比奈良倍弖と書る歌あれば、ひならべずにとも讀むべきか。又別訓あらんか。下の、わがこふるよしのゝかはのきりにたちつゝも、きゝ得がたければ、いかにとも決しがたし。わがこひはよしのゝ河のきりにたちつゝとよまんか。それにても全體の歌の意首尾不2相調1ば、日不並二の四字にて、何とぞ全體の歌の意首尾不2相調1ば、日不並二の四字にて打つゞきて聞ゆる別訓あらんか。後賢の案をまつのみ
或説に日をへて見てだにあくまじき吉野河を、日をもへぬに霧に立かくしつゝ見せぬ心をよめると也。一説旅の内なれば、故郷をこひてなげく息の、きりに立てる意に見る義と也。詞たらぬ歌にして見ば後の説を取るべきか。しかれば千鳥なくの歌も故郷をしたふ歌と見るべきか
 
右年月不審但以歌類載於此次焉或本云養老七年五月幸于芳野離宮之時作
 
右後注者の文也。作者も不審なるべし
 
神亀元年甲子冬十月五日幸于紀伊國時山部宿禰赤人作歌一首并短歌
 
續日本紀第九云、神龜元年冬十月丁亥朔〔辛卯、天皇幸2紀伊國1、癸巳、行至2紀伊國那賀郡玉垣勾頓宮1〕
 
917 安見知之和期大王之常宮等仕奉流左日鹿野由背上爾所見奧島清波瀲爾風吹者白浪左和伎潮干者王藻苅管神代從然曾尊吉玉津島夜麻
(106)やすみしゝ、わがおほきみの、とこみやと、つかひまつれる、さひがのゆ、そがひにみゆる、おきつしま、きよきなぎさに、かぜふけば、しらなみさわざ、しほひれば、たまもかりつゝ、かみよゝり、しかぞたふとき、たまつしまやま
 
安見知之 休獅子也。前に注せり
常宮等 ときはの宮也。祝していへる也
左日鹿野由 さひがのゆ、由はより也。さひがのは紀州にある地名也。御幸の時、此左日鹿野に行宮をたてられしと聞ゆる也。そのところより見やりたる景色のことを詠める也
背上爾 前に毎度注せり。うしろざまに見る體也。背向にとも書てみなそがひと讀めり。眞向に見ぬことをいへる也
清波瀲爾 きよきなぎさに、波打ぎはなどいふところ也。港のはた也。神代下卷、彦波瀲武〔※[盧+鳥]※[茲+鳥]草茸不合尊〕神號にもよませたり
玉津島夜麻 續日本紀第九、聖武天皇神龜〔元年冬十月甲午、至2海部郡玉津島頓宮1。留十有餘日。至2離宮於岡東1。是日從v駕百寮六位已下至2于伊部1、賜v禄各有v差云云。則此御幸のとき詔ありて、改2弱濱名1爲2明光浦1、〔宜d置2守戸1勿uv令2荒穢1。〕春秋二時、差2遣官人1奠2祭玉津島之明光涌之靈1云々。此續日本紀の文を見あやまりしより、玉津島の神を衣通姫といひふらし、世擧て大成異説を立つる也。追而續日本紀の文を引て其誤を可v明也。如v此紀にも玉津島之神とあるより見れば、上古より神靈を祭りし靈地故、此時の歌にも、神代よりしかぞたふときとは詠めるなるべし。右紀の文の事も則此歌の事を詠みし時の御幸の折也
 
918 奧嶋荒磯之玉藻潮干滿伊隱去者所念武香聞
おきつしま、あらいその玉藻、しほみちて、いがくれゆかば、おもほへむかも
 
潮干滿 干の字衍字なるべし。ひみちといふ詞あるべき歌詞とも不v覺。あまり急なる詞也
(107)歌の意何の事もなくたゞしほみちて玉藻のかくれ行くは、からましと思ひし名殘をしまれんと云ふ意を、おもほへんかもと詠める也。ひみちと見るから、いろ/\むつかしき意をそへて注せる説あり
 
919 若浦爾鹽滿來者滷乎無美※[草がんむり/壽]邊乎指天多頭鳴渡
わかのうらに、しほみちくれば、かたをなみ、あしべをさして、たづなきわたる
 
若浦 紀州の人の知り傳へたる地名也。然るに此地名につきては宗師秘説の案あり。前に注せる續日本紀聖武紀云、改2弱濱名1爲2明光浦1あり。しかれば古名和可の浦にてあるべからず。明光と被v改由來いかにとも心得がたし。わかといふ詞に明光の字何の縁なし。弱の字は余波とよむなれば、夜半の浦といふより、改名をも明光の字をもて、あかてりの浦とはつけられたる義と聞ゆる也。しかるに此集に若の字を記せるは、弱、若、音通ふ故用たるなるべし。日本紀たぢまもりが常世の國へ渡りしにも、弱の海を渡りとあり。尤仙境に入るとかきなして、弱海といふは凡俗のゆきいたらぬところの事に、あなたの書にもある事なれど、これらを引合せて考ふるに、常世のくにと云ふも南海の中に一嶋ありときこゆる也。たぢまもりがときじくの香菓をとり來しも、とかく紀の國の方角よりと見ゆる也。すでにいま紀の國みかんと名物になりて賞翫せらるるも、橘の類也。伊勢の事に日本紀に、とこよのくにのしきなみとあるも、伊勢は紀州に近し。南海の中にとこよの國あるから、如v此の辭もありと聞ゆる也
かたをなみ 潟を無み也。片男波など云俗説とるにもたらざること也。近世の歌學先達専男波女波など云、取りどころもなき説をいへり。此萬葉のこゝのうたの滷の字をしらざるか。又此集中に、かたをなみ浦をなみといへること、いくらもあり。なみはなきといふ事也。波の事にはあらず。この歌の意、若の浦にしほみちくれば、ひかたなくなる故、磯のかたあしべをさして鶴のなきわたる景色を詠める也
※[草がんむり/壽]は何ぞの字の誤也
 
右年月不記但※[人偏+稱の旁]從駕玉津島也因今?注行幸年月以載之焉
 
(108)此後注は若浦一首の注と聞えたり。此歌の年月を不v記ども、玉つ嶋の行幸の供奉にしたがふと云ふことありし故、年月を?合せて載v之との義也。後注者の文也。前の歌はすでに端作りに、神龜〔元年甲子冬十月五日〕幸于紀伊國時山部〔宿禰赤人作歌と有。〕しかれば若浦の一首の注と見ゆる也。たゞし端作の年月も後注者の筆か。此文不審也
 
神龜二年乙丑夏五月幸于芳野離宮時笠朝臣金村作歌一首并短歌
 
聖武紀に不v載v之也。史の脱文か
 
920 足引之御山毛清落多藝都芳野河之河瀬乃淨乎見者上邊者千鳥數鳴下邊者河津都麻喚百磯城乃大宮人毛越乞爾思自仁思有者毎見文丹乏玉葛絶事無萬代爾如是霜願跡天地之神乎曾?恐有等毛
あしひきの、みやまもさやに、おちたぎつ、よしのゝかはの、かはのせの、きよきをみれば、かみべには、ちどりしばなき、しもべには、かはづつまよぶ、もゝしきの、おほみびとも、をちこちに、しゞにしあれば、みるごとに、あやにともしみ、たまかづら、たゆることなく、よろづよに、かくしもがなと、あめつちの、かみをぞいのる、かしこけれども
 
みやまもさやに みは初語也。さやはさやかに也。ものゝ音をさやけといふ。さやげり、さやぐなどいひて音聲のことをいへり。此處もたきのおつる音をさして也。音もさやかになどいへるにて知るべし。いさぎよき事をもさやけと云ふ也
越乞爾 をちこちにとは、こゝかしこにみゆきの供奉にて遊びてあるをいへり
思自仁思 すさび/\といふ義也。心々にこゝかしこ遊びゐると云義をかくいへり。此しゞといふことは、おのが寺師ともありて濟み難き語也。此にしゞと上を清て書きたれば、すさみ/\と云ことゝ聞ゆる也。すさの約し也。寺も漢音は志也
毎見 見ること/”\に、かなたこなたとあそびてあれば、見ること/”\に珍らしきおもしろきとの義也。幾年も不v絶、みゆきもあれかしと神祇に祈ること也
 
(109)反歌二首
 
921 萬代見友將飽八三吉野乃多藝都河内乃大宮所
よろづ代に、見るともあかんや、みよしのゝ、たぎつかうちの、おほみやどころ
 
よくきこえたる歌也
 
922 人皆乃壽毛吾母三吉野乃多吉能床磐乃常有沼鴨
ひとみなの、いのちもわれも、みよしのゝ、たきのとこはの、とこならぬかも
 
人皆乃 一本皆人とあり。此集かな書に人皆のとあれば、ひとみなのにてもあるべし。同意の事也。みな人の命もわが命もといふ義也
床磐 ときは也。きもこも同音也
常有奴鴨 とこならぬかも、つねならぬとよめるはあしゝ。上にとこはとよみたれば下にとことうけんため也。人の身はときはならぬかも、この瀧の常磐なるに、人は變化ありて、ときはに見ることのならぬ事を惜みて、常磐にあれかしと願ふ意也
 
山部宿禰赤人作歌二首并短歌
 
923 八隅知之和期大王乃高知爲芳野離者立名附青墻隱河次乃清河内曾春部者花咲乎遠里秋去者霧立渡其山之彌益々爾此河之絶事無百石木能大宮人者常將通
やすみしゝ、わがおほきみの、たかしらす、よしのゝみやは、たゝなづく、あをだてこもり、かはなみの、きよきながれぞ、はるべには、はなさきをゝり、あきされば、きりたちわたり、そのやまの、いやます/\に、このかはの、たゆることなく、もゝしきの、おほみやびとは、つねにかよはむ
 
高知爲 たかしらすとも、たかしれるとも
(110)立名付 楯並附也。下の青垣といふ序也。楯はつくといふ也。衝の字をつくとよむ也。たてをならべつきたる如く青山のめぐれると也
青垣隱 垣はたて也。へだてとなる物故楯に比していへり。前にも、たゝなづく、たゝなはるにこはたなどよめること、たゝなはるにこはたすゝなどいふ意はまた別也。此處はたての事也
はなさきをゝり をゝりは重なりいやが上にしげりたることを云ふ也
歌の意、吉野宮を祝讃して、大宮人も御幸の供奉していつまでも不v絶通はんと也
 
反歌二首
 
924 三吉野乃象山際乃木末爾波幾許毛散和口鳥之聲可聞
みよしのゝ、きさやまのはの、こずゑには、こゝたもさわぐ、とりのこゑかも
 
象山 名所、山のかたち象に似たる所か、若しまた上古象の渡りしをはなたれしより、負し山の名か。きさ川といふもあり。おなじところ也
よくきこえたる歌也。白鳥のさへづりてゆたかなるけしきを詠めり
 
925 烏玉之夜乃深去者久木生留清河原爾知鳥數鳴
ぬばたまの、よのふけゆけば、久木おふる、きよきかはらに、ちどりしばなく
 
久木生留 此句いかにとも難2心得1。何とて久木生留とはよめるぞ。諸抄の説歌の意を不v辨故、ひさ木生ると計よみて、ひさ木をよみ出したるは、何故よめると云ふ義を不v釋。杉にても松にても桐にても同じかるべし。しかればひさ木をとり出したるは何とぞ故あるべし。これよりおこりて楸の事にいひなし、又濱ひさしの説出來たり。久木の二字を用ひたるから、ひさ木とは讀み來れるなるべけれど、宗師案は久木の二字は何とぞ別訓あるべしと也。集中の歌みな不v濟ば此計にては難v解也
 
926 安見知之和期大王波見芳野乃飽津之小野笶野上者跡見居置而御山者射固立渡朝獵爾十六履起之(111)夕狩爾十里※[足+搨の旁]立馬並而御※[獣偏+葛]曾立爲春之茂野爾
やすみしゝ、わがおほきみは、みよしのゝ、あきつのをのゝ、のがみには、とみすゑおきて、みやまには、せこたちわたり、あさかりに、しゝふみおこし、ゆふかりに、とりふみたてゝ、うまなめて、みかりぞたてる、はるのしげのに
 
野上には のがみとも野べとも讀むべきか。邊の字の意か。上は小高き處を云ふ
跡見居置而 とみすゑおきて也。鳥見か、又はしゝけものゝ往來のあと見か。いづれにてもとみと讀むべし。たかゞりのときあること也。あとみといふ點はあしき也
立爲 たてると讀むべし。たゝすとも、いづれにてもみかりぞたゝせる也。春の若草しげる頃、みかりをなさしめらるゝその體を詠めり
 
反歌一首
 
927 足引之山毛野毛御※[獣偏+葛]人得物矢手挾散動而有所見
あしびきの、やまにものにも、みかりびと、さつやたばさみ、みだれたるみゆ
 
得物矢 さつや前に注せり
散動而有 みだれたると讀むべし
よくきこえたる歌也
 
右不審先後但以便故載於此次
 
金村の歌は端作に夏五月とあり。此歌は春のしげのとあり。前後不審也。赤人の歌は年月不v知故、以v類こゝにのすると後注者の注也。便の字類の誤か。此次一本に歟に作れり。いづれか是ならんや決しがたし
 
(112)冬十月幸于難波宮時笠朝臣金村作歌一首并短歌
 
神龜二年冬十月なるべし。聖武紀云、冬十月庚申天皇幸2難波宮1云々
 
928 忍照難波乃國者葦垣乃古郷跡人皆之念息而都禮母無有之間爾續麻成長柄之宮爾眞木柱太高敷而食國乎收賜者奧鳥味經乃原爾物部乃八十伴雄者廬爲而都成有旅者安禮十方
おしてる、なにはのくには、あしがきの、ふりにしさとゝ、ひとみなの、思息而、つれもなく、ありしあひだに、うみをなす、ながらのみやに、まきばしら、ふとたかしきて、おしくにを、おさめたまへば、おきつどり、あぢふのはらに、ものゝふの、やそとものをは、いほりして、みやことなせり、たびにはあれども
 
難波の國 むかしは郡郷をもくにといへる也。初瀬小國、吉野の國などいへるに同じ
葦垣乃 ふりふるとうけんための序詞也。前にも注せる如く、垣はふるといふ也。かきを結を上古はふるといひしと見えたり。瑞垣乃久時とよめるも、みづかきのふりにしといふ義と、こゝの歌にて彌證明あり。葦は難波の名物故、あしかきと讀むべし。或説に葦垣は物ふりたるふるさとめきたるもの故、かくよめるとは心得がたし
思息而 此詞この處にては決しがたし。諸抄の説おもひおこたりてといふ義と見る也。或は繁花の念もなくてと解せり。兩義いづれにかあらん。短歌にあらのらになどよめる意を見れば、あれはてたりとて、誰思ひつきて取立べきと、おもひよる人もなきといふ意にてかくよめるか。おもひやすみてとよめる意解しがたし。たゞし御幸の供奉して、しばらく先此所にかりずまゐのことをいへるか
都禮母無有之間爾 なさけもなきといふと同意にて、誰とひ來る人もなく、物さびたる處にも心強くありしあひだといふ義なるべし。第三につれもなき佐保の山べとあり。十三巻にも、つれもなき城の上の宮に大殿をつかへ云々とありて、ともなふかたもなき、ものをわびたることをいふ詞也。今俗に心強きものをつれなき人といふも、しのびたへ難きことをこたへて、か(113)んにんせる處をいふたると聞ゆる也。すげなきなどいふも同じ意也
うみをなす 長といはん爲の序也。うみをの如く長きと續けたり。うみをは長く續くものなれば也。續の字、第一卷に注せる如く、績の字なるべきを、義をもて日本紀等に從つて書けるならん
長柄宮 孝徳天皇の時都をうつされし、その跡に離宮を立てられて、折々御幸をもせさせ給ふ也
食國乎 長柄の宮に離宮をたてられて如v此御幸もあるを、天の下をおさめさせ給ふ義にいへり。おしくにとは天子のしろしめす國と云ふ義也。天子の領し給ひて御食ものとなさるゝ國といふ義にて、け國おし國などいへり
味經乃原 長柄、味經みな地名也。あぢとは水鳥の名也。よりて奧津島と冠辭を居たり。あぢ村と云ふ鳥也。味經此前にも詠めり。味原また鯵生とも書けり。日本紀延喜式等にも見えたり。和名抄云、攝津國東生郡味原とあり
都成有 御幸の間の都なれば、旅の内ながら都となせる也
 
反歌二首
 
929 荒野等丹里者雖有大王之敷座時者京師跡成宿
あらのらに、さとはあれども、おほきみの、しきますときは、みやことなりぬ
 
あらの 和名抄、曠野、日本紀私記ヲ引キテ〔安良乃良。〕さとはあらのになりたれどといふ義也
敷座時者 御徳のしき及びますときは也。しろしめせばといふ意也
 
930 海未通女棚無小舟※[手偏+旁]出良之客乃屋取爾梶音所聞
あまをとめ、たなゝしをぶね、こぎいづらし、たびのやどりに、かぢをときこゆ
 
あま 海士、海女と書きて、あまと讀せたり。しかるに海の字一字に書きたるは、もし女の字を脱せるか。義を通じて略せるならん
(114)未通女 小女は男女交合の道を未通といふ義をもて、をとめとは讀む也
棚無小舟 たなとは、ひろき板を舟の脇に打を船だなといふ。兩方を通るために打坂也。又やかた舟などいふて上に板をわたし置也。小船はそのなき船也。海士の乘る船なればみな小船也。ちいさき船をいはんとてたなゝし小船と也。日本紀崇神紀、人の名に板擧といふあり。自注※[手偏+它]儺
歌の意、何の事もなき書面の通り聞えたる也
 
車持朝臣千年作歌一首并短歌
 
931 鯨魚取濱邊乎清三打靡生玉藻爾朝名寸爾千重液縁夕菜寸二五百重波因邊津浪之益敷布爾月二異二日日雖見今耳二秋足目八方四良名美乃五十開回有住吉能濱
いさなとり、はまべをきよみ、うちなびき、おふるたまもに、あさなぎに、ちへになみより、ゆふなぎに、いほへなみよる、へつなみの、いやしく/\に、つきにけに、ひゞにみれども、いまのみに、あきたらめやも、しらなみの、いさきめぐれる、すみのえのはま
 
いさなとり うみと續く詞也。是先の歌皆いさなとりうとつゞけたり。しかるに濱べとつゞけるはうみと續ける詞なる故、海の事なれば濱とも讀めり。海の轉語と通る也。はまと續く義はなけれど、濱は海にそふたるもの故、かくの如きの例多事也。ぬばたまのくろきと續く詞を轉じて、夜ともいとも續けるが如し
浪縁 なみよりなり。あさなぎ、夕なぎの事は前にいくらも注せり。海部に添たる詞也
益敷布爾 いやしく/\に也。すきまなく不v絶にと云ふ義也
月二異二 宗帥案、月二の二衍字ならん。若くは異の字衍か。月月二日日と書きて、月ごとに日ごとにと讀むべきと也。月にけにと云ふ義はあるまじ、義も不v濟也。此異二の詞不v濟義也。集中に朝二異爾、日爾食爾などあり。又月爾日爾ともあり。此等は古書の書法を知りて濟也。あさけ/\と書くを、朝爾異爾と書て、爾の字朝の字略して同じきといふ字を用ひたるを(115)轉寫に誤りて爾の字としたる也。月爾日爾もおなじ義也。月々日々はよひ/\と讀む。日爾食爾は日々食々と書きたる也。ひけ/\と讀む也。あさけ/\日け/\といふ義は、あさ/\ひゝといふ義にて、けはたすけ詞也。あさな/\といふに同じしかるにこの月二異二と云ふ義いかにとも不v濟也。月け/\日びにみれどもと讀みても、月け/\といふ詞心得がたき也。
歌の意は月ごとに日ごとにと云ふ義と、諸抄の通りに釋し置かばすむべけれど、それを何とてけにとはいへるぞといふ義不v通也。先解べくは、月々は月ごとに、日々は日ごとに、見れどあかぬとの義に解する也。千五百重の波のよる如く、すきまもなく日々見れどもあかぬとの意也。その處の景色をほめたること也
今耳二 今にかぎりてあるべきや、月に日々に見てもあくまじきと也
五十開廻有 白波の立をもさくといふたると聞えたり。五十は初語にて、咲きめぐると云義也。日本紀神代下卷、其於秀起浪穗之上云々とあり。こゝもこれらの古語にもとづきて、五十さきと讀めるか。波のたちめぐりたる景色の面白き體をいへり
 
反歌一首
 
932 白浪之千重來緑流住吉能岸乃黄土粉二寶比天由香名
しらなみの、ちへにきよする、すみのえの、きしのはにふに、にほひてゆかな
 
黄土粉 萩部也。土屋のことにはあらず。住吉は萩の名物也。よりてきしの萩原に吟詠をなして遊びゆかんと也。粉の字の下に、にの字あるべくと不審の人あり。はね字をにと讀む傳を知らざる也。ふんの音故ふに也
にほひてゆかな 萩部故、匂ふといふ縁をもてよめり。にほふといふは吟詠をして遊ぶことを云ふ。今うたひまふてはなぐさむごとくの義也。聲をこもらせて歌ふことを吟といふ也。それを昔はにはふともによふとも云古語也。この古語を知らざれば、このにほひてゆかなといふ事不v濟。第一に清江娘子の處にも注せり。ゆかなはゆかん也
 
山部宿禰赤人作歌一首并短歌
 
933 天地之遠我如日月之長我如臨照難波乃宮爾和期大王國所知良之御食都國日之御調等淡路乃野島(116)之海子乃海底奧津伊久利二鰒珠左盤爾潜出船並而仕奉之貴見禮者
あめつちの、とほきがごとく、日つぎの、ながきがごとく、おしてるや、なにはのみやに、わがきみの、くにしらすらし、みけつくに、ひゞのみつぎと、あはぢの、のじまのあまの、わたのそこ、おきついぐりに、あはびたま、さはにかづきて、ふねなめて、つかへまつりし、かしこみければ
 
御代を祝賞して也
臨照難波宮 おしてる、地名也。難波の宮はおし出したる處など云ふ説不v足v取。しほの光にて照すなどいふもなき事也。すべてケ樣の義はみな地名をつゞけていへること也。にほてるといふも近江の地名也。湖江の邊にある、にほてるといふ處也。こゝもおしてるといふ地名にて、則日本紀等におしてるの宮といふ事あり。追而考可v出。これはなにはのかりみやに御幸の時を、かく國しらすなど詠めると聞えたり
御食都國 御食國といふ義也
淡路乃 四音に讀むべし。無理に五音を合せんとあはみちと讀めるはあやまり也
野嶋之海子乃 日本紀履中紀云、〔自2龍田山1踰之時、有2數十人執v兵追來者1、太子遠望之曰、其彼來者誰人也。何歩行急之。若賊人手。因隱2山中1而待之。近則遣2一人1問云、曷人、且何處往矣。對曰淡路野嶋之海人、阿曇連濱子爲2仲皇子1令v追2太子1。於v是出2伏兵1圍v之悉捕v之云々〕
伊久利二 石をいぐりとは云ふ也。あはびと云ふものは石にとりつきあるもの也。それをはものにてこぢはなちてとる由也。それ故おきついぐりにとはよめり
船並而 さはにかづき出て、海子どものわれも/\と船をならべてと也
貴見禮婆 かしこみければと讀むべし。大王をたうとみ恐れ奉れば、如v此みつぎものを奉ると云ふ意也。かしこみつればとも讀べし
 
(117)反歌一首
 
934 朝名寸二梶音所聞三食津國野嶋乃海子乃船二四有良信
あさなぎに、かぢおときこゆ、みけつくに、のじまのあまの、ふねにしあるらし
 
何事もなき歌也
 
三年丙寅秋九月十五日幸於播磨印南野時笠朝臣金村作歌一首并短歌
 
聖武紀云、神龜三年九月〔壬寅、以2正四位上六人部王藤原朝臣麿正五位下巨勢朝臣眞人從五位下縣犬養宿禰石次大神朝乃道守等二十七人1爲2裝束司1、以2從四位下門部王正五位下多治比眞人廣足縱五位下村國連志比我麿等一十八人1爲2造頓宮司1、爲v將v幸2播磨國印南野1也。〕
 
935 名寸隅乃船瀬從所見淡路島松帆乃浦爾朝名藝爾玉藻苅管暮菜寸二藻鹽燒乍海未通女有跡者雖聞見爾將去餘四能無者大夫之情者梨荷手弱女乃念多和美手徘徊吾者衣戀流船梶雄名三
なきすみの、ふなせゆみゆる、あはぢしま、まつほのうらに、あさなぎに、たまもかりつゝ、ゆふなぎに、もしほやきつゝ、あまをとめ、ありとはきけど、みにゆかむ、よしのなければ、ますらをの、こゝろはなしに、たわやめの、おもひたわみて、たちどまり、あれはぞこふる、ふなかぢをなみ
 
名寸隅乃 播磨の地名と云ひ傳り。なきすみは本朝文粹第一、三善清行意見封事之文に、播磨國魚住泊云々とある、此所の事にやあらん。魚は日本紀等、なと讀ませてあれば、國郡郷の字嘉字の二字に被v改て後、此なきすみの三字を魚住と被v改、きを付讀みにしたるか、此例多事也。此名寸隅の地名外に無2所見1也。船瀬より淡路島の景氣よく見ゆる所と聞えたり
松帆乃浦爾 定家卿の、松ほのうらの夕なぎにと詠み給へるも此浦の事也。詞も此歌の詞をとり給へる也
手弱女之念多和美手 をの子心はなくて、女のやうに思ひたわみて、甲斐無く思ひきりも無くてと云ふ意也
(118)徘徊 たちどまりとも、たちもとりとも讀むべし。たゝずみてながめやる體をいへり。のり行くべき船かぢもなければ、たゞ呆然とたちどまりこひしたひ思ふとの意也
 
反歌二首
 
936 玉藻苅海未通女等見爾將去船梶毛欲得浪高友
たまもかる、あまをとめらを、みにゆかん、ふなかぢもがな、なみたかくとも
 
欲得 かなと讀む事前々にもある通の義訓也
 
937 往還雖見將飽八名寸隅乃船瀬之濱爾四寸流思良名美
ゆきかへり、見るともあかん、なきすみの、ふなせのはまに、四寸流しらなみ
 
四寸流 しきると點あれども、上下に音を用ひて中に訓を交ること心得がたく、又しきるといふ詞もいかゞ也。よすると讀めば義安けれど、三言を下二言音を用ひたる例おぼつかなし。追而可v考。師云、集中此格多し。しきると云ふ歌詞あるべきとも不v覺。極めてよするとの義也
 
山部宿禰赤人作歌一首并短歌
 
938 八隅知之吾大王乃神隨高所知流稻見野能大海乃原笶荒妙藤井乃浦爾鮪釣等海人船散動鹽燒等人曾左波爾有浦乎吉美宇倍毛釣者爲濱乎吉美諾毛鹽燒蟻往來御覽母知師清白濱
やすみしゝ、わがおほきみの、かみからに、たかくしらせる、いなみのゝ、おほうみのはらの、あらたへの、ふぢゐのうらに、しびつると、あまぶねどよみ、しほやくと、ひとぞさはにある、うらをよみ、うべもつりはす、はまをよみ、うべもしほやく、ありかよひ、みらんもしるし、さよきしらはま
 
神隨 神のまゝといふ點あり。前にも注せる如く神なるからと言ふ點しかるべし。わが大王は神にてましますから、たかく(119)此國土をしろしめすとの義にて大王を尊賞し奉りし義也
荒妙 ふぢとつゞく冠辭也。今もふぢぬのと言ふものあり。もとよりあらき布をふぢごろもと言ふ也。たへとは、きぬ、ぬのゝ通稱也。和名抄播磨國〔明石郡葛江 布知衣〕
海人船散動 あまぶねどよみと讀むべし。しかし散動の字前にはみだれと讀ませたれば、みだれともまたさわぎとも、讀んか。次の反歌にふねぞどよめると讀めるあれば、どよむと讀む方よからんか
宇倍毛 もつともつりをなす事のよきと也。下の諾もしほやくと言ふ對也
蟻徃來 いくたびも行き通ひて也。ありかよひはいつまでも存在して也
御覽 みゝんもと讀む、又みらんもと讀む、又おほみと讀むべきと云ふ説あり。みらんのかた義安かるべし。今よりいくたびもあり通ひ來て、あかず見んもしるしと也
 
反歌三首
 
939 奧浪邊波安美射去爲登藤江乃浦爾船曾動流
おきつなみ、へなみしつけみ、いさりすと、ふぢえのうらに、ふねぞどよめる
 
安美 義をもてしづけみと讀むか。おきの波も邊つ波も靜かなるにより、海人共のいさりをするとて、船をよぴかはしどよむと也
いさり は魚をとり貝拾ふ事を言ふ。あさりも同じ。定家卿の、さわらびあさるとよみ給へるはいかなる義にや。その譯知れず心得難し
 
940 不欲見野乃淺茅押靡左宿夜之気長在者家之小篠生
いなみのゝ、あさぢおしなみ、さぬるよの、けながくあれば、いへしゝのぶる
 
おしなみ はおしなびけ也。旅行故野に宿ると也
(120)小篠生 しのぶる也。日本紀神代卷には、篠の一字をしのと讀ませたり。生はおふると讀む故ふるとは讀ませたり
 
941 明方潮干乃道乎從明日者下咲異六家近附者
あかしがた、しほひのみちを、あすよりは、したゑみしけん、いへちかづけば
 
不咲異六 したゑみしけん、このしけんといふ詞集中にあまたあり。こひしけんはといふ處もあり。延言の傳を知らざれば不v濟事也。せをのべたる詞也。しけをつゞむればせ也。せをのべてしけ也。こゝも下ゑみせんと言ふ義也
歌の意は、御幸の供奉にもあれ、都にかへるに、やがて都近くなりて家にも近づけば、心の中に喜びゑめるとの義也。あかしがた、はりまがたなどいふは、海邊の通路の國を言ふ也
 
過辛荷嶋時山部宿禰赤人作歌一首并短歌
からにのしまをすぐるとき云々
 
辛荷嶋 播磨國風土記云、〔韓荷島、韓人破v船、所v漂就2於此島1故云2韓荷島1云々〕仙覺抄に見えたり。本朝文粹、善相公請v修2復播磨國魚住泊1文に、自2韓泊1指2輪田泊1云々。此からのとまりと云も、からにの嶋の事歟。昔は韓荷とも書きたりと見えて風土記に記せり。からかとも讀む事心得難し。後撰雅經のうた、清輔奧義抄にもからかと書けり。風土記の説に從ふべし。或抄に室の西にあたりて、からみ嶋と云ありといへり。にもみも同音なれば此嶋なるべきかといへり。しかれども歌の詞に、いなづまからにと讀みたれば、御幸の間日數なければ、室の西まではいたるまじ。いなみ郡にある嶋ならんか
 
942 味澤相妹目不數見而敷細乃枕毛不卷櫻皮纏作流舟二眞梶貫吾榜來者淡路乃野島毛過伊奈美嬬辛荷乃島之島際從吾宅乎見者青山乃曾許十方不見白雲毛千重成來沼許伎多武流浦乃盡徃隱島乃埼埼隅毛不置憶曾吾來客乃気長彌
あぢさはふ、いもがめしばみずて、しきたへの、まくらもまかず、かにはまき、つくれるふねに、ま(121)かぢぬき、わがこぎくれば、あはぢの、のじまもすぎぬ、いなみづま、からにのしまの、しまゝより、わがやどをみれば、あをやまの、そこともみえず、しらくもゝ、ちへになりきぬ、こきたむる、うらのこと/”\、ゆきがくれ、しまのさき/”\、くまもおかず、おもひぞわがこし、たびのけながみ、
 
味澤相 此詞未v考、たゞいもをほめたる詞と見おく也。いかにといふ義不v辨也
妹目 いもがめといふ。此目は、前にも後にも、目をほり、目みずてなど讀めり。いかにとなれば人の精神は目にある也。よりてまづめによらねば何事もわからず。人の生死も目にて見わくる也。よりて歌にもかくの如くよめる也
枕毛不卷 妹とまくらせぬ義也
櫻皮纏 かにははかは也。如v字さくらの木の皮也。和名抄云、樺〔和名、加波、又云、加仁波、今櫻皮有v之〕
伊奈美嬬 いなみづまも名所、からにの嶋同所か。いなみ妻の事は第四に注せり
吾宅 大和のかたを見やりたるか。跡を見やりたるか。印南郡より大和などを見やりたらんに、何とて見え侍らんや。青山乃云々と詠めり。しかれども詞のつゞき、跡のかたを見やりたるやうに聞ゆれば、赤人は明石などの生國にや、歌にあかしがたの歌にも不審あり
青山乃 地名か。播磨にあるよし聞たれど、所見なければ不v決。十月のことなれば、青山のめぐるといふにも叶ひ難し。紅葉も落葉してかれ山の時節なれば、とかく地名ならんか。いづれにもあれ、へだてゝ不v見義をいへり
白雲毛千重爾成來沼 此詞大和のかたへ上るには、わがいへとよめるなれば、跡になりたる樣に聞ゆる也
浦乃盡 浦のこと/”\と讀むべし。はてまでといふ點はいかゞ也
隅毛不置 くまものこさず也。第一卷にはくまもおちずと讀ませたまへり。隅の字は隈の誤りか。義をもてかけるか
憶曾吾來 おもひぞわが來とは、旅路故わが家をしひ思ふとの事か。又徃めぐりし浦々、島のさき/\の事を思ひつゞけて來るとの事か。二義をかねて見るべき也
(122)客乃氣長彌 氣は初語也。語のたすけともいふべし。旅のながきといふまで也。
行幸の供奉にて詠める歌か。諸抄は皆その通りに解したり。しかれども十月辛酉に御幸ありて、癸亥に難波宮へ還御なればたゞ三日のことなるに、如v此詠めること心得難し
 
反歌三首
 
943 玉藻苅辛荷乃島爾島廻爲流水鳥二四毛有哉不念有六
たまもかる、からにのしまに、あさりする、うにしもあるや、家おもはざらん
 
水鳥 鵜也。爾雅注云、※[盧+鳥]※[茲+鳥]は水鳥也。當集第十九卷、贈水鳥越前判官大伴宿禰池主とも有。古點はかもとありしを、仙覺以來うとは讀める事仙覺抄に見ゆ
有哉 諸抄共にあれやと讀めり。義はあればやといふ意と釋せり。それより直にあるやと讀みてうにて無きゆゑ、故郷の家をもしたひ思ふとの意と見るべし。鵜にてもあらば家を思ふこともあるまじきを、人情の常なれば家をも忘れずしたふとの義也
 
944 島隱吾※[手偏+旁]來者乏毳倭邊上眞熊野之船
しまがくれ、わがこぎくれば、ともしかも、倭邊のぼる、みくまのゝふね
 
乏毳 此ともしかも、とぼしき哉也。此ともしと言ふ事、こゝにては珍らしきといふ意にはあるまじ。少くさびしき方をいへると聞ゆる也。惣じて此ともしと云詞、遣所によりて意の違事あり。すくなくさびしきことをいふ。すくなきといふ意より、めづらしきとほめたる事に用たる事もあり。歌によりて分別あり
みくまのゝふね、これはくまうらを通路の事にはあるまじ。船の名をいふたる義と聞ゆる也。熊野山の木にて作りたる船を言ふとの説もあり。神代下卷にも、熊野のもろたふねとあり。且伊豫風土記にも、野間郡有2三船1名曰2熊野1。〔後化爲v石、葢此類也。諸手言2數多水手操1v舟也〕よし纂疏に引かれたり。此奧にても家持歌、伊勢へ行幸の時も、みけつ國しまのあまなら(123)しみくまのゝ小船にのりて沖へこぐ見ゆ。第十二卷にも見えたり。皆船の名なり。熊野船といへば、風波の難なく、とく走る船といふ事に、船名にいへるよし云傳へたり。
 
945 風吹者浪可將立跡伺候爾都太乃細江爾浦隱居
かぜふけば、なみかたゝんと、まつほどに、つたのほそえに、うらがくれゐぬ
 
伺候爾 別訓あらんか。まつ程にといふ爾の字、下の爾にさし合てきこゆれば若し誤字なるにや
つたの細江 播州か。八雲御抄に播磨とあり。うらがくれゐぬ、風吹故海のあるゝをかしこみて、つたの細江といふ内海の樣なる所に、見合てかくれゐるとの義也。うらかくれのうらはうちなど云ふ意か。拾穗は助詞と注せり。細江といひてうらがくれとある故なるべし。浦は惣名とも見ゆれば助語とも難v決也
居 諸本徃の字也。古一本には居の字也。拾穗も居也。居の字正たるべし。しかればいぬといふ點はゐると云意也。去の字の意にはあらず。徃の字の意にはあらず、徃の字の本を以て釋せる抄等は違なり
 
過敏馬浦時山部宿禰赤人作歌一首并短歌
 
946 御食向淡路乃島二直向三犬女乃浦能奧部庭深海松採浦回庭名告藻苅深見流乃見卷欲跡莫告藻之己名惜三間使裳不遣而吾者生友奈重二
みけ向、あはぢのしまに、たゞむかふ、みぬめのうらの、おきべには、ふかみるつみ、うらわには、なのりそをかり、ふかみるの、みまくほしみと、なのりその、おのがなをしみ、まづかひも、やらずてわれは、いけりともなし
 
みけ向の事前に注せり。物の字誤なるべし
直向三犬女 みぬめの嶋浦、前に注しき。こゝの意は、みぬめの浦とあはぢの嶋とは眞むかひて、直に見ゆると聞えたり。よ(124)りてたゞむかふとよめり
深見流乃 下の見まくといふ詞へうつらんとて、だん/\に詞の縁をうけてよみくだせり。此歌の意は、旅行にて故郷の妻をしたひてよめる歌と聞ゆる也。それ故はじめにみぬめの浦のとよみ出でたる、全體の趣意をこめたると聞ゆる也。不v見妻の意也
名惜 御行の供奉などにておのが名をあらはして、妻のかたへ使など出したてん事も、外聞のあしければえせぬとの意也
間使 まは初語也。あひだの使など心得ん事にはあるべからず
いけりともなしとは、こひ慕ふことの切なる事をいへり
重二 二二ノ四といふ義にて、しとはよませたり
 
反歌一首
 
947 爲間乃海人之鹽燒衣乃奈禮名者香一日母君乎忘而將念
すまのあまの、しほやきゞぬの、なれなばか、ひとひもきみを、わすれておもはん
 
なれなばか なれたらば、せめて一日も君を忘れて思はんづれとも、未だあひなれぬからかく慕ふと也。このなれなばかといへるは、つれともなひたらばといふ意よりよめるか。たゞし旅行にて見そめし人をこひ慕ふ歌か。しからば長歌の意にみるべし。故郷の妻をしたふにはあらず。旅行にておもひそめし人をこふ歌なるべし。諸抄には行幸の供奉にての歌と釋したれど、左注にも年月不詳の旨記したれば、供奉の歌とも決し難し。供奉にてなきとも決し難き也
 
右作歌年月未詳也但以類故載於此次
 
四年丁卯
春正月勅親王諸臣子等散禁於授刀寮時作歌一首并短歌
 
神龜四年也。左注に詳也。續日本紀には此事見えねど、三月に勅制あれば、此義によりてなるべし。此文とは正月と三月の違(125)あり
散禁於授刀寮 續日本紀、令式等可2考合1
 
948 眞葛延春日之山者打靡春去徃跡山上丹霞田名引高圓爾※[(貝+貝)/鳥]鳴沼物部乃八十友能壯者折木四哭之來繼皆石此續常丹有背者友名目而遊物尾馬名目而往益里乎待難丹吾爲春乎决卷毛綾爾恐言卷毛湯湯敷有跡豫兼而知者千鳥鳴其佐保川丹石二生菅根取而之努布草解除而益乎往水丹潔而益乎天皇之御命恐百礒城之大宮人之玉桙之道毛不出戀比日
まくづはふ、かすがのやまは、うちなびき、はるさりゆくと、やまのべに、かすみたなびき、たかまどに、うぐひすなきぬ、ものゝふの、やそとものをは、をりふしも、ゆきかよひせし、このつきの、つねにありせば、ともなめて、あそびしものを、うまなめて、ゆかましさとを、まちがてに、わがするはるを、かけまくも、あやにかしこく、いはまくも、ゆゝしくありと、あらかじめ、かねてしりせば、ちどりなく、そのさほがはに、いそにおふる、すがのねとりて、しのぶぐさ、はらへてましを、ゆくみづに、みそぎてましを、すめろぎの、みことかしこみ、もゝしきの、おほみやびとの、たまぼこの、みちにもいでず、こふるこのごろ
 
まくづはふかすがの山 歌の序詞也。全體の歌の意にかゝはる事にはあらねど、かく詠み出したるもの也。惣じてくづかづらは山にはびこりしげりて、大和の國の名産なるものから、かくよみ出たると見えたり
うちなびき、おしなべての意、詞のはじめにいふ義也
春去徃跡 はるになり行くと也
うぐひすなきぬ これまで、春になりぬれば野山の景色のどかに、鳥の聲々も豐かに春めきて、おもしろきといふ義をいひた(126)る也
折木四喪之來繼皆石此續 此十一宇いかにとも讀難し。諸抄の説無理讀みに讀みたれども、歌詞にあらず、義も不v通也。折一本に柳に作る也。木、一本に不に作る也。喪、通例哭に作る。集中哭の字皆もと讀めり。喪にはかなしみなくもの故、義を通じてもと讀ますと云説あれど、决めて喪の字の誤りたる也。一所誤りしより、数ケ所にそれを傳へたるなるべし。此十一字宗帥讀解傳追而可v注
宗帥案云、折不四哭、をりふしも、之來繼皆石、ゆきかよひせし、來繼は通ふ也。皆は背の誤か。又ゆきゝたえずなし、なはみなのな也。折木四哭、雁自物か。雁の友どちつれだちて來る如くにと云ふ意か。此續は此月也。訓は濁音を清音に讀める例あり。しかれば物部のやそとものをの折ふしも、ゆきかよひせしこの月の常にありせばと續くか。常にありせばは、前に遊びし如くならばと云義也
友名目而 馬なめてなどいふ意に同じく、つれだちならびて也。列の字の意也
遊物尾 あそびしものを也。前のことを思ひ出て慕ふ也
待難丹吾爲春乎 馬なめて友どち打むれ行ましと、春の來るを待ちかねたりしにと云ふ意也
かけまくも 此以下は、勅の義をかしこみおそれていへる詞ども、みな前に注しき
湯々敷有跡 ゆゝしくありと也。かくいみつゝしむ如きの勅のありと、かねてしりたらば前かたにそのわざはひの無き樣にはらへをせんものをと悔いたる也。これより以下祓の事をのべたる也
兼而知者 かねてしりなばとか、しれらばとかよむべし
其佐保川丹 みそぎをせん、そのさほ川に生るといふ意にてそのと也
石二生 磯の字と同じ。川邊の縁をいへる意也
菅根取而 すがのねとりつゝともよまんか。畢竟すがは祓の意に用ふるもの也
之奴布草 篠といふものは神祭の具に用ひて、このしのぶ草も、しのゝかやといふ義にてはあるまじきや。漢土にても、三月(127)上巳に蘭草をもて祓2不祥1といふ義あれど、此歌の外、しのぶ草を祭具に用ふること未v聞ば、かやは、のすゝといふて神代より用ひ來れり。先こゝはすがとしのぶ草とを取りてあがなひものにして、わざはひをはらはんものと也
御命恐 散禁の勅命をおそれて、道路へ出づることもならぬと歎ける也
 
反歌一首
 
949 梅柳過良久惜佐保乃内爾遊事乎宮動々爾
うめやなぎ、すぐらくをしみ、さほのうちに、あそびしものを、みやもとゞろに
 
梅もちり、柳もたけて春の面白き心も過なん事のをしきと也
佐保乃内 かの諸人の遊し處をさして也。かすがのさほ川のあたりにて、打毬をなす遊宴してたのしみし處也
遊事乎 これをことをと字の通點をなせり。しかれども物事通じて義訓に事の字ものとよみ、物の字ことゝ讀み來りて、こゝはものと讀までは聞えがたし。よりてものとよむべき也
宮動々爾 群集して、宮殿もなりどよめく程にさわぎ遊びしと也。雷にて宮もとゞろになりたるに、侍衛の人なきより、此散禁の勅命出でたると悔いたる意に、宮もとゞろにといふたる歌との説あり。入ほかの意なるべし
 
右神龜四年正月數王子諸臣子等集於春日野而作打毬之樂其日忽天陰雨雷電此時宮中無侍從及侍衛 勅行刑罸皆散禁於授刀寮而妄不得出道路于時悒憤即作斯歌 作者未詳
 
打毬 まりうちといふて初春にはもて遊びしことあり。今俗、童きてうといふものをもて、玉をうつなぐさみごとあり。是此遺風也。打毬の事は、唐土の出所本邦の古事等、日本紀和名抄等可2考合1。侍從及侍衛。令、式、日本紀等追而可2書出1
授刀寮。同斷
 
五年戊辰
(128)幸于難波宮作歌四首
 
時の字脱か。目録には時の字あり。作者も千年と記せり。月日未v考。紀に脱したるか
 
950 大王之界賜跡山守居守云山爾不入者不止
おほきみの、さかひたまふと、やまもりすゑ、もるちふやまに、いらずばやまじ
 
界賜 この説諸抄の意は、大王の境をわけ置給ふて、山守の守り居との義にとれり。さ様の意にては、集中の歌にさしつかゆる歌どもありて不v濟也。みさか賜てといふ事もあり。國方を見さし賜てなど節度使の歌にありて、これは御免を賜て心のまゝに見るといふ義也。そこの境かしこの境を賜りてといふ義也。しかれば境を賜といふて、行幸の供奉なれば山守を居て、人を禁ずる山々へも不v入ばやまじとの歌也
山寺居云山爾 無點本は如v此あり。これにては言葉あまらずよまるゝ也。山守の居ちふ山にとよみても義は同じ
此歌の意、行幸の供奉なれば、やまとより難波へ越來る道すがらの山々をも、御免をうけ給りたれは、心のまゝにいらずばやまじといふ意也。しかれども何とぞ戀の情になぞらへてよめる意あらんか。此歌は行幸の道すがらの歌也
 
951 見渡者近物可良石隱加我欲布珠乎不取不已
見わたせば、ちかきものから、いそがくれ、かゞよふたまを、とらずばやまじ
 
ちかきものから は石がくれにかゞよふ玉を見るに近く見ゆればといふ意也。いそがくれ、眞珠といふものは鰒にもあり。それらの意もこめてか
かゞよふ かゞやく意也。玉の光のほのめくをいふ也。この歌の意は難波はひな故、ま近く見ゆる光ある玉も、とる人なきとわびてよめるとも聞ゆる也。次の歌にて引合見るべし
やまじ 前の歌もこの歌もやまじと云とめには、何とぞ思ふ人ありて、その思をとげずばやまじといふ意を、かくよそへてよめる歌かと聞ゆる也。ある抄には、奉公の勞をいとはぬ意をよめると言へり。これも推量の意也。此歌は難波に來ての(129)來りての歌也
 
952 韓衣服楢乃里之島待爾玉乎師付牟好人欲得
から衣、きならのさとの、しまゝつに、玉をしつけん、好人もかな
 
からごろも きなるゝとかけて、ならの里といはんための冠也。十二卷目に、こひ衣きならの山ともよめり。きならといふ所をいへるか。たゞならといふ義か。いづれにもあれ、から衣には意なし
嶋侍爾 嶋松也。此島も地名と聞ゆる也。第五卷にも、なら路なる嶋の木だちとあり。此ならぢなる嶋のとよめるをもて思へば、きならの里はたゞならのさとゝいふ義なるべし。きは衣につきたる義なるべし
玉をしつけん しは助語也。松に玉をつけん也。松にも玉をつけて見ん風流の人もがな。ならの里は都なれば.みやびたる人多かれば、この難波のひなびたるを見て、みやびをしたふ意也。前のかゞよふ玉をといふ意を引合せて見るべし。松に咲く玉をつけてもあそばん樣の、みや人の此難波にもあれかしとの意也
好人 よきひとゝある點は心得難し。美人を好人とも書ることおはえたれど不v慥。追而可v考。若し然らばみやひめもがなとよむべし。みやびをなす人もがなといふ意也。すべて此四首の歌の意とくと不v通也。四首を前後引合せて聞えさせたる歌か
 
953 竿牡鹿之鳴奈流山乎越將去日谷八君當不相將有
さをしかの、なくなるやまを、こえゆかん、ひだにやきみが、あたり見ざらん
 
宗師の見樣は、さをしかのなくとよみたれば、山などさしていへるならん。難波よりかへりいなん時の事をよみて、なにはにある思ふ人をしたふ意をよめる歌にて、山を越ゆるまでは見かへり見やらんを、越えていなん日には、君があたりを見ざらんとの義と也
愚案、さをしかのなくなるとよみ出たるは、鹿は妻こひになくものなれば、われも妻をしたふ心を、鹿によそへてあらはさん(130)爲によみ出せるならん。越えていなんといふべきか。難波より供奉にて大和へかへらば、山をこゆる事勿論なるべし。よりて妻こふ鹿のなく如く、われもおもふ人をこひつゝ山を越えてかへりたりとも、そのまゝあふ事はあらざらんと歎きて、歎息の詞をはたといひて、切なる意をあらはしよめるにやあらん。尤も難波にて大和の事を慕ひおもひてよめるか。日だにやとよめる意をとくと考ふべき也
 
右笠朝臣金村之歌中出也或吉事持朝臣千年作之也
 
千年作之也 この後注によりて、目録には千年の歌と決して記せるか
 
膳王歌一首
 
第三に注せり。長屋王の子也
 
954 朝波海邊爾安左里爲暮去者倭部越鴈四乏母
あしたには、うなひにあさり、ゆふされば、山とびこゆる、かりしともしも
 
暮去者 無點本には去の字なし。なくてもゆふべにはとよまるゝ也。上も朝波とあれば、下も暮者にてもあるべきか。點本には去の字を加へたり。よりてゆふべになればと言ふ意に見る也
倭部越 山飛びこゆる也。大和へ越ゆると心得ては違也。上に朝には云々とありて大和へこゆるとは不v續也。朝には海、夕には山と對してよめる歌世。第三にも山飛び越ゆるとよみ、第十にも山とぴこゆると云に山跡部と書けり。部はび也。如v此書く事當集の一格也
かりしともしも これはめづらしきといふ計の意にあらず。さびしき意をこめたる乏しも也。前に注せる如く、このともしといふ義、大かたさびしき意をかねたる事あり
 
右作歌之年不審也但以歌類便載此次
 
如v此あるに、目録には同幸時膳王作歌と記せり。何を證とせんか
 
(131)大宰少貳石川朝臣足人歌一首
 
前に注せり
 
955 刺竹之大宮人乃家跡住佐保能山乎者思哉毛君
さすたけの、おほみやびとの、いへとすむ、さほのやまをば、おもふやもきみ
 
刺竹之大宮人 このさすたけの事諸説まち/\也。當流の説は、比2君徳1して宮殿をほめていへる事と釋したれど、宗師又後案、竹の古訓たか也。高く尊きとほめたる冠辭ならんと也。さすはしぬとも云竹の名によりていへるならん。さはし、すは濁音にてぬなるべし。又すもさなればさゝ竹ならんか。篠竹なるべし。さす竹の舍人とよめる歌あり。これもみやといふより轉じてよめるなるべし。君とよめる歌日本紀にありて、これさす竹のはじめ也。これも高き君、尊き君といふ義に、冠辭に用ひたるなるべし。さゝ竹にてあるべき證は、此集第十一巻に、刺竹の齒隱有わがせこか云々といふ歌あれば、此齒の字先は、はとよむべき也。葉がくれにてあるべし。しかればさゝ竹の葉とうけたる也。尤もよはひこもれるともよむべけれと、それにてもさゝ竹なるべし。さす竹といふ事心得難し。定家はさゝ竹に決しられて、さゝ竹のとよみ給へる歌あり。或抄には、さゝ竹の生ふとつゞく爲に、大宮といふとの義也。さゝの多くしげり生は、繁昌の意にもことよせていへるとの説あれど心得難し。さす竹のみことばかりつゞけたる歌もあり。兎角君徳に比したるか。又高き尊きと尊んでいふ義、たかといはん爲の義と見ゆる也。竹取翁の歌の、さす竹のとねりとよめるは、みやのとねりと云みやを略したると見るべし
歌の意は何の事もなく、故郷のさほ山を慕ひ給ふやとの義迄也
 
帥大伴卿和歌一首
 
956 八隅知之吾大王乃御食國者日本毛此間毛同登曾念
やすみしゝ、わがおほきみの、みけくには、やまともこゝも、おなじとぞおもふ
 
(132)この歌の意は、大王の御徳化いたらぬ國もなきといふ意をあらはして、君徳のみかげをかたじけなく思ふ意をよめると聞えたり
御食國 無點本には御の字無し。しからばおしくにと讀むべき也。いづれにても天子の御食物の國といふ義也。食に足りたる豐饒の國といふことにて、みけつくに御食國などいへる也
 
冬十一月太宰官人等奉拜香椎廟訖退歸之時馬駐于香椎浦各述懷作歌
 
右何年の事か未v考
香椎廟 筑前國也。日本紀仲哀紀神功皇后紀等可v考。延喜式同斷。和名抄追而可v考
 
帥大伴卿歌一首
 
957 去來兒等香椎乃滷爾白妙之袖左倍所沾而朝菜採手六
いさやこら、かしひのかたに、しろたへの、そでさへぬれて、あさなつみてむ
 
いさやこら 帥大伴卿に附屬の官人等をさして也
朝菜 一種あるにあらず。詞の縁に朝菜とも夕菜ともよめり。歌の意能きこえたり
 
大貳小野老朝臣歌一首
 
五卷目の梅歌の作者を引合考ふるに、任官等相違、何年の事にや、追而可v考。此大貳も、次の豐前守も、梅の歌の作者とは官違へり。梅の歌は天平二年正月也。此卷のこゝの歌は天平二年より前か。天平二年正月には此老は小貳小野大夫と記せり。心得難し。右梅の作者後人の筆か。不審多也
 
958 時風應吹成奴香椎滷潮干※[さんずい+内]爾玉藻苅而名
ときつかぜ、吹べくなりぬ、かしひがた、しほひのきはに、たまもかりてな
 
時風 疾つ風也。はげしき風のこと也。しかるを今の時つかぜとよむは、代のおだやかなることによめり。此集此歌などの(133)意とは違也。すでに頃も霜月なれば、海風はげしからん折也。前の歌に朝菜つみてんとありて、朝なぎの比もやがてすぐべきなれば、風立ぬあひだに早く玉もをからんとの義也
※[さんずい+内]《ゼイ》 字書注に、小水入2大水1、爾雅云、水※[涯の旁]也とあり。しかればきはとよめるも理り也。かたともよむべきか。しほの干かたをも※[さんずい+内]といふべき也。又※[草がんむり/内]と通ふよしも字書に見えたり
 
豐前守宇努首男人歌一首
 
傳未v考
 
959 往還常爾我見之香椎滷從明日後爾波見緑母奈思
ゆきかへり、つねにわがみし、かしひがた、あすよりのちには、見るよしもなし
 
歌の意何の義もなし。若し此人任はてゝ上京などするか。あすより後には見まじきよしをいへり
 
帥大伴卿遙思芳野離宮作歌一首
 
大伴卿太宰にありて、吉野の瀧宮のことを遙かに思ひしたひ給ひて也
 
960 隼人乃湍門乃磐母年魚走芳野之瀧爾尚不及家里
はや人の、せとのいはほも、あゆはしる、よし野の瀧に、なほしかずけり
 
隼人乃 薩摩の瀬戸の事也。第二卷に、隼人のさつまのせとゝよめる同じ所也。はる/”\遠所を引合て思ひ出でられたり。景色少し吉野離宮の瀧に似たるより、かく思ひ出たまへるならん
しかずけり 及ばぬと也。離宮の瀧の景色ことに勝れたりと也
 
帥大伴卿宿吹田温泉聞鶴喧作歌一首
前略すぎたのでゆにやどるとき、たづのなくをきゝてつくる歌一くさ
 
(134)次田 和名抄、御笠郡次田。今の和名抄には訓を不v被v記也。次の字古訓すぎ、すぐとよめり。つぎとはたま/\に讀めり。ゆき、すき、玉だすき等みな次の字也
 
961 湯原爾鳴蘆多頭者如吾妹爾戀哉時不定鳴
ゆのはらに、なくあしたづの、わがごとく、いもにこふるや、時わかずなく
 
不定 わかずとよむは義訓叶ふべし。歌の意何の事もなくよく聞えたり
 
天平二年庚午
勅遣擢駿馬使大伴道足宿禰時歌一首
みことのりしてときうまをひくつかひに大とものみちたり云々
 
擢駿馬 よき馬をえらびひかるゝ使也。諸國の牧へみことのりありて使を被v遣事、續日本紀、聖武紀、天平三年〔八月の條を〕可v考。擢は玉篇引也と注せり。駿は馬のとくはやきよき馬といふ美稱也
大伴道足 傳、續日本紀を可v考。此時は民部大輔にて四品か。道足の宿禰とあり
 
962 奧山之磐爾蘿生恐毛問賜鴨念不堪國
おく山の、いはにこけおひ、かしこみも、とひたまふかも、おもひたへなくに
 
おくやまのいはにこけおひ 下のかしこみといはん迄の序也。かしこみとはかたきといふ義にて、かしこみはかたじけなくもといふ義也。よりてかたきといふ縁にいはにとよみたり
念不堪國 廣成身を卑下して歌などにたへたるものにてはなきに、かたじけなくも詠吟をせよとの事は、中々思ひたへぬ不相應の義と也
とひたまふかも とは歌を詠吟せよといひ給ふとの義也
 
(135)右勅使大伴道足宿禰饗于帥家此日會集衆諸相誘驛使葛井連廣成言須作歌詞登時廣成應聲即吟此歌
前略かつらゐのむらじひろなりをあひいざなふて、うたのことばをつくるべしといふときに、こゑにしたがひてすなはちこのうたをうたふ
 
右古注者考ふる處ありて如v此注せるならん
葛井連廣成 績日本紀可v考。始は白猪史氏〔改めて葛井連の姓を賜ふ也。〕懷風藻云、〔正五位下中宮少輔葛井連廣成二首〕
 
冬十一月大伴坂上郎女發帥家上道超筑前國宗形郡名兒山之時作歌一首
 
上道 みちたちすとよむ也。上道、上路と書きていづれもみちたちとよむ也。諸抄の點に、ほとりのみちよりなどあるは、みちにたちとよむ古記を不v見なるべし。大伴坂上郎女は旅人卿の妹也。太宰府へ見舞のため下り給ふなるべし
 
宗形郡和名抄〔筑前國宗像【牟奈加多】〕
 
963 大汝小彦名能神社者名著始?目名耳乎名兒山跡負而吾戀之千重之一重裳奈具佐末七國
おほなむち、すくなひこなの、かみこそは、名づけそめけめ、なのみを、なごやまとおもひて、わがこひの、ちへのひとへも、なぐさまなくに
 
大汝小彦名能神 日本紀神代卷上云、夫大己貴命與2少彦名命1戮v力一v心經2營天下1。此くには如v此二神のつくりなし給ふ故、そのときなづけゝめと也。畢竟なご山といふに、わが戀の少もなごまずなぐさまぬと言ふ意の歌也
 
同坂上郎女向京海路見濱貝作歌一首
 
964 吾背子爾戀者苦暇有者拾而將去戀忘貝
わがせこに、こふるはくるし、いとまあらば、ひろひてゆかん、こひわすれがひ
 
(136)こひわすれ貝といふを趣向にて詠める也。よくきこえて別の意無き也
 
冬十二月太宰帥大伴脚上京時娘子作歌二首
 
965 凡有者左毛右毛將爲乎恐跡振痛袖乎忍而有香聞
おほならば、かもかくもせんを、かしこしと、ふりたきそでを、しのびてあるかも
 
凡有者 大かたならば也。よのつねならば袖をもふりて、まねきかへさまほしく思へども、高貴の人故、おそれかしこみてふりたき袖をもこらへて居ると也
 
966 倭道者雲隱有雖然余振袖乎無禮登母布奈
やまとぢは、くもがくれたり、しかれども、わがふるそでを、なめしともふな
 
無禮登 これをなかれと云ふ點をなせり。無禮の事を古語になめしといふ。よりてこゝにも義訓に被v書たるを、なかれといふ點は誤れる也。或抄にはなめしの古語はしりながら、これはなかれと讀むとの義、歌詞を不v辨の義也。大和道は山をもへだて雲井にかくれたれど、しのびかねて、今は袖をふりて慕ひまつる程に、無禮を允したまへ。侮りていやなくし侍るにはなき、唯別れのしのび難きから、かくふる袖をなめしとおぼしめし給ふなと也。もふなは思ふな也
 
右太宰帥大伴卿兼任大納言向京上道此日馬駐水城顧望府家于時送卿府吏之中有遊行女婦其字曰兒島也於此娘子傷此易別嘆彼難會拭涕自吟振袖之歌
 
府吏は太宰府の官人をさしていへり。下司之事也
水城 天智紀云、是年【三年】〔於2對馬壹岐嶋筑紫國等1置2防與烽1。〕又於2筑紫1大堤1貯b水名曰2水城1。續日本紀天平神護元年二月〔辛丑太宰大貳從四位下作伯宿禰今毛人爲d築2怡土城1專知官u。少貳從五位下采女朝臣淨庭爲D修2理水城1專知官u〕和名抄云、下座郡三城【美都木】
遊行女婦 あそび女也
 
(137)大納言大伴卿和歌二首
 
967 日本道乃吉備乃兒嶋乎過而行者筑紫乃子島所念香聞
やまとぢの、きびのこじまを、すぎてゆかば、つくしのこじま、おもはれんかも
 
やまとぢ 前に注せり。大和の都の時なれば、諸國よりのぼる道皆大和路也
吉備乃兒島 日本紀神代紀等可v考
つくしの子じま かの袖ふりし娘子の名也。八雲に名所になし給へるは、よく考へさせ給はざりしか。筑紫に兒島ある事無2所見1也。此歌は水城にてよめる歌也
 
968 大夫跡念在吾哉水莖之水城之上爾泣將拭
ますらをと、おもへるわれや、みづぐきの、みづきのうへに、なみだぬぐはん
 
ますらをと云々 ますらをと思ひしに、かく別れの悲しきに、心よわくて涙をとゞめかねてぬぐふと也
水ぐきの 地名、水ぐきのをかのみなと也。第七卷によめるも同じ。前の歌は子島に別ををしめる歌、これは府吏の人々にも名殘を惜む意をこめてよめるなるべし
上爾 ほとりの事と見る也。丘の字の誤などにはあらざらんか
 
三年辛未
大納言大伴卿在寧樂家思故郷歌二首
 
大伴卿の故さとは神名火と聞えたり
 
969 須臾去而見牡鹿神名火乃淵者淺而瀬二香成良武
しばらくも、ゆきて見てしか、かみなみの、ふちはあせつゝ、せにかなるらん
 
(138)見牡鹿 見てしがな也。願ふ意也
淺而 あさびてといふ點あり。さいふ歌詞をきかず。而の字はつゝとよむ。か樣の處につゝとよまねば不v叶ことを知るべし。よりてあせつゝとはよむ也。あせはあれる也。ふちのあせたればあさく瀬にかなるらんと也
 
970 指進乃栗栖乃小野之茅花將落時爾之行而手向六
さすゝみの、くりすのをのゝ、はぎのはな、ちらんときにし、ゆきてたむけん
 
指進乃 此詞古來より正義不v决。さしすみの、またますらをのなどよめり。義を不v解。一説は栗はいがといふものゝ中にあり。いがを栖にして生るもの故、いがにさはればむしの螫ごとくいたき也。よりてさす栖の實の栗といふ義と也。さすゝみのみはぎ也。よつてさす杉といふ義ともいへり。杉の葉はいたくさす樣なるもの故との義也。又ますらをは軍場にて不v退もの故、精進の二字義訓にますらをとよむともいへり。まち/\にして一向義を不v辨。すみのくりとつゞけたるは、若しその義もあらんか。日本紀應神紀、ひしからのさしけくとよめる歌もあれば、菱の穀も針ありていたきもの也。此詞いかにとも決し難し
愚案には工匠の墨尺を引く時、糸を繰り出してさすもの也。若し此義を言ひたるか。さすゝみのくると續けたるは、と角くり出すものなれば少より所あり
栗栖乃小野 和州也。山州にもあり。和州の内くるす原といふ處は別か。古事記雄畧帝の御歌の栗栖原は、泊瀬にてよませ給ひて城上郡也。和名抄云、忍海郡栗栖。大伴卿の住所近所也。神南備飛鳥の邊なるべし
將落時爾之 此卿今年七月に薨じ給へば、八九月の頃にも休息して、故郷を見てもがなど思ひ給ひしなるべし。手向六は神南備杜に奉らんとの義なるべし。式には見えねど、神なびの杜には祭れる神のあるべければ也
 
四年壬申
藤原宇合卿遣西海道節度使之時高橋連蟲麻呂作歌一首并短歌
 
(139)續日本紀聖武紀天平四年八月〔丁亥云々、從三位藤原朝臣宇合爲2西海道節度使1〕
懷風云、往歳東山〔役、今年西海行、行人一生裏、〕幾度倦遷兵
宇合 前に注せり
節度使 天子よりしるしを給はりて、國々の有樣民間の苦樂を巡見の使、又征罸の事に被v遣也。節刀とも書く。令條に委し
 
971 白雲乃龍田山乃露霜爾色附時丹打超而客行公者五百隔山伊去割見賊守筑紫爾至山乃曾伎野之衣寸見世常伴部乎班遣之山彦乃將應極谷潜乃狹渡極國方乎見之賜而冬木成春去行者飛鳥乃早御來龍田道之岳邊乃路爾丹管土乃將薫時能櫻花將開時爾山多頭能迎參出六公之來益者
しらくもの、たつたのやまの、つゆしもに、いろづくときに、うちこえて、たびゆくきみは、いほへ山、いゆきさくみて、あだまもる、つくしにいたり、やまのそぎ、のゝそぎみよと、とものをゝ、わかちつかはし、やまびこの、こたへむきはみ、たにぐくの、さわたるきはみ、くにかたを、みましたまひて、ふゆごもり、はるさりゆけば、とぶとりの、はやくみきたれ、たつたちの、をかべのみちに、につゝじの、にほはむときの、さくらばな、さきなむときに、やまたづの、むかへまゐいでむ、きみがきませば
 
色附時丹 八月に發遣故也
五百隔山 いくへもの山也
賊守筑紫、西海異國の偏鄙の夷賊を守太宰府ある故、あだまもるつくしと也。あだ守るはつくしの冠辭とも見るべし。太宰府ある故也
山乃曾伎 前也。はての意也。そきもさきも同音也
(140)見世常 見よと也。今の世の國巡見などの義又制道の義、第一征罸の事に被v遣事多し
伴部乎 とものをゝ、ものゝふといふと同じ事ながら、武勇のいはれあるともがらの事に限るにては無し。朝に仕へ奉るともがら共といふ義に、とものをとはいへり。とものべと云はわろし。をとよむべし。をとはどもと云ふ義也。横通の音習あり
山彦 こだまのこと也
國方乎 くに/”\を也
見之賜 見ましたまひてと讀むべし
飛鳥乃 はやくといはんための序也
早御來 はやくみきたれは、見來れの意也。國々を早く巡覽して來れと也
龍田道 發遣の時越行し道なれば、歸り來らん時の道筋の折の事をよめり。已下の句皆前に注せる句ども也
 
反歌一首
 
972 千萬乃軍奈利友言擧不爲取而可來男常曾念
ちよろづの、いくさなりとも、ことあげせず、とりてきぬべき、をのことぞおもふ
 
千 誤りて干の字に書そこばくと點せり。千の字なれば、そこばくとも數多の事にいふべけれど、千萬の字をそこばくとは不v被v讀也
ことあげせず 一ことをいひ出すことも無く、我名をよび立ておどしおびやかす事もなく、むかふ處悉く慕ひ服するといふ義に、ことあげせずと也。ことあげといふ事は日本紀神代紀に數多出でたり。畢竟無道のあだ共、一言のことをも不v答したがふと也
男常曾念 諸抄の點、たけを、ますらをなど有。男の字ますらをとはよむべきが、たけをとは文字足らざれば心得難し。をのこ、をとことよめること古訓なれば、しひて外の訓をもとむべき事にあらず。尤も天皇の御製にも、ますらをとよませたれば(141)こゝもますらをとよむべきか
 
右?於補任文八月十七日任東山山陰西海節度使
 
右續日本紀聖武紀を可2考合1。古一本に聖武之御製、如v此傍注あり
 
天皇賜酒節度使卿等御歌一首并短歌
 
此すべらきは聖武帝なるべし。左注者太上天皇と或説を注せり
 
973 食國遠乃御朝庭爾汝等之如是退去者平久吾者將遊手抱而我者將御在天皇朕宇頭乃御手以掻撫曾禰宜賜打撫曾禰宜賜將還來日相飲酒曾此豐御酒者
をしくにの、とほのみかどに、いましらが、かくいでゆかば、たひらけく、われはあそばむ、たむだきて、われはいまさむ、すめらあが、うづのみてもて、かきなでそ、ねぎたまはりて、うちなでそ、ねぎたまはりて、かへりこむひに、あひのまむさけぞ、このとよみきは
 
食國乃遠朝庭爾 右前に注せる詞也。天子の御歌にもかく遠のみかどとよませ給へり。國々の舘廳をさしてとほのみかどとよませ給へるか
汝等之 いましらが。如是退去者、かくいでゆかば
手抱而 たむだきて也。拱手といふの意と同じ。天子の御手をもやすめて御心安くまし/\てと也。書武成云、惇v信明v義〔崇v徳推v功垂拱而天下治。〕蔡注曰。垂v衣拱v手而天下自治。此意をとらせ給へるか。日本紀雄略紀には、むたかへてとよませたり
宇頭乃 現在のみ手と云ふ義、うづとはほめたる詞、御みづからの詞にはあるまじきことの樣なれど、これらが歌の雅情雅言也。神代卷には、珍の字を自注に宇圖と讀ませ給へり。日本紀第三、珍彦と云人の名もあり。祝詞にもうづのみてぐらなどあり。皆ほめたること也
(142)かきなでそ み惠み深き體を言ふ也。御親み深くなさしめ給ひてとの事也
ねぎ給りて 祈らせ給ひてといふにはあらず、ねぎのみ祈る皆ひとつ詞なれど、使の卿等をねんごろにいたはらせ給ひてといふ義也。勞問の意なるべし。よりてかきなでと有。ねぎらふといふてねんごろにみ詞を被v下たる義也
かへりこんひに相のまんさけそ 今御酒給りて、やがてかへり來らん日に、又賜はらんと祝なされてのみ詞也
此豐御酒者 豐みきとは酒をほめ祝はせられて也。みきとは神に奉るばかりをいふにあらず。みは初語にもいひ、また尊んでもいふ詞也。きとは酒の事也
 
反歌一首
 
974 大夫之去跡云道曾凡可爾念而行勿大夫之伴
ますらをの、ゆくちふみちぞ、およそかに、おもひてゆくな、ますらをのとも
 
凡可爾 おろそかに也。おほよそに思ひて、事を誤るぞ、よくつゝしめとしめさせ給ふ也
伴 ともがらとの義也。御使の官人共と云ふ義也
 
右御歌者或云太上天皇御製也
 
古注者所見ありてか。太上天皇は元正天皇也
 
中納言安倍廣庭卿歌一首
 
975 如是爲管在久乎好叙靈剋短命乎長欲爲流
かくしつゝ、あらくをよしぞ、たまきはる、みじかきいのちを、ながくほりする
 
在久乎 あるをよしぞ也。らくとは、るをのべたる也。かく蒙2王命1て誠忠をつくせるこそよけれ、短き命をながくとねがふも、か樣の御用を奉りて仕へまつらん爲にこそあれとの歌也。御酒を賜ふときの間の歌也
 
(143)超草香山時神社忌寸老麻呂作歌二首
 
草香山 河内也。日本紀〔神武卷云、三月丁卯朔丙子、遡流而上徑至2河内國草香邑青雲白肩之津1〕
神社 これをみわもり又かみこそなど云點有。故實を不v傳故也。すべて上古神を祭りたる處は杜といふて、土を高くし木を植ゑて神を祭れり。唐土にても同じ。本邦勿論の事也。杜といふ字をもりとよます事、字義には曾而無v之事にて、本朝にて義訓に訓したり。木と土とを合せたる字故もりとは訓せり。そのもりとはみな神のますところ也。しかれば神社と書きては上古の姓氏に稱するときは、杜の字の意にてもりとよむべき事義訓の正義也。神籬といふもみもりといふ義、神社をみもろと云ふ。神を祭ることをみもろすゑなど當集によめるをもて、上代の古實を存すべし。ひもろぎと云ふもひはみ也。ろきは里也。これみもりみもろといふ古語也。此神社も、もりとかみもりと訓すべき也
老麿 傳不v詳。續日本紀孝徳紀元明紀等、此姓氏の福草、河内などいふもの見えたる迄也
 
976 難波方潮干乃奈凝委曲見在家妹之待將問多米
なにはがた、しほひのなごり、あかずみん、いへなるいもが、まちとはむため
 
奈凝 第四にもあり。しほのひたる跡の景色也
委曲見 諸抄の點まぐはしみんと有。別訓あらんか。つばらみん、またくみんとよむべきか、未v决。
集中可2考合1也。あかずみんともよまんか。第四に、しほひのなごりあくまでにとあり。しかればあかずみんとよむべし。前の縁あれば也
此歌は難波よりならへ歸るに、草香山を越える道ありと聞えたり。それより難波の海を見ゆる景色もよろしき處ときこえたり。第四卷にては、しほひのなごりあくまでに人の見るこをとよめり。よりてこゝもあかず見んとよまんか。なごりとは余波と書きたれば、ところ/”\たまりたる瀬などのある景色のことをいふならん
 
977 直越乃此徑爾師弖押照哉難波乃海跡名附家良思裳
たゞごしの、このみちにして、おしてるや、なにはのうみと、なづけゝらしも
 
(144)直越 古事記雄略卷云、初太后坐日下之時、自2日下之直越道1幸2行河内1云々。草香山を越ゆるみちを、たゞ越の道といふときこえたり。草香山の内にある地名か。今も大坂越山中越などいふに同じ。此所より難波を見る景色よき處故、定めて上古おしてる難波と名付けたるも、此處の景色より云そめたるならんといへる歌也。押照なにはといふにわけありて名づけたる樣に聞ゆれど、たゞ見やる處の景色のおもしろきによりてかくよめる迄の事なるべし
押照難波 宗師の説、おし、あし同音也。しかればあしたてる難波といふ義なるべし。あしがちるなにはと直によめる歌もあれば、あしがちるなにはを、おしてるともよめる、てるはちる也。あしちる難波か。とかく蘆は難波の名物なれば、なにはに付きていへる義也。尤も難波の海おしてる宮とよめる歌第廿卷目にあり。しかれば地名か。諸抄の説一向理屈まち/\也。抄物の説にては難波にかぎりていへる義不v濟也。とかく難波にかぎりたる義にてあらざれば、此おしてるの義は不v濟事と知るべし
 
山上臣憶良沈痾之時歌一首
 
左注によまれし時の事を記せり。第五に沈痾自哀文あり。歌はなかりしが、若し此歌抔その時によめるか。年齡七十有餘にて卒せられたる樣子なり。此歌をよめる時みまかられけるにや
 
978 士也母空應有萬代爾語續可名者不立之而
をのこやも、むなしかるべき、よろづよに、かたりつぐべき、なはたゝずして
 
士也母 古點印點などに、ひとなれば、ますらやもなどよめり。心得難し。ますらをやもとはよむべけれど、それは言葉あまれり。士は男子の通稱なれば、をのこやもとよむべし。此歌の意は、われをのこなるに何の功名もなくて、空しくかく病におかされて、死行かん事の非2本意1となげきてよめる也。擧名もなくてむなしくならんことを歎じたる也。第十九に家持此歌に和したる歌二首あり。そこの左注に見えたり。可2引合1也
 
右一首山上憶良臣沈痾之時藤原朝臣八束使河邊朝臣東人令問所疾之状於是憶良臣報語已畢有(145)須拭涕悲嘆口吟此歌
 
河邊朝臣東人 稱徳紀云、神〔護景〕雲元年正月〔己未云々、正六位上佐伯宿禰家主川邊朝臣東人吉備朝臣直事、笠朝臣麻呂並從五位下。〕光仁紀寶龜元年十月〔辛亥云々、從五位下川邊朝臣東人爲2石見守1〕
報語已畢有須云々 こたふることをはりしばらくありて、なみだのごふてかなしみなげきて此歌をいふ。有須、或人云、須は項の誤りか
 
大伴坂上郎女與姪家持從佐保還歸西宅歌一首
大伴坂上郎女、おひやかもちとさほよりにしのいへにかへるときのうた
 
979 吾背子我著衣薄佐保風者疾莫吹及家左右
わがせこが、きるきぬうすし、さほかぜは、いたくなふきそ、いへにいたるまで
 
吾背子 男子をさして賞美の詞にいへり。すでに家持はおいなれども、郎女かくよめるをもてしるべし。此歌は郎女の歌也
 
安倍朝臣蟲麻呂月歌一首
 
980 雨隱三笠乃山乎高御香裳月乃不出來夜者更降管
あまごもる、みかさの山を、たかみかも、月のいでこぬ、よはふけにつゝ
 
爾隱 雨ふれば笠の下にかくれこもるもの故に、あまごもるみかさとつゞけたる也。歌の意は、みかさの山の高き故か月のいでこぬと也。月の出來るやとまつ程に夜のふけぬと也
 
大伴坂上郎女月歌三首
 
981 ※[獣偏+葛]高乃高圓山乎高彌鴨出來月乃遲將光
かるたかの、たかまどやまを、たかみかも、いでくるつきの、おそくてるらん
 
(146)※[獣偏+葛]高、高圓山 みな大和の名所にして、高きといふことをいひつゞけたり。歌の意別義なし
 
982 鳥玉乃夜霧立而不清照有月夜乃見者悲沙
ぬばたまの、よぎりのたちて、おぼろにも、てれる月夜を、見ればかなしさ
 
よぎりのたちて、かくよむ事例あり
不清 おぼろにもとよむべし
月夜乃 此乃の字決て乎の字の誤なるべし。月夜の見ればといふ詞のつゞきはなき事也。諸抄に此差別をしらざる故、字の如くに點をなせり
かなしさ かんじたる義也。歎き悲むの義にはあらず、歎息のかなしさ也。おもしろきといふ意也
 
983 山葉左佐良榎壯子天原門度光見良久之好藻
やまのはに、さゝらえをのこ、あまのはら、とわたるひかり、見らくしよしも
 
山葉に この點をやまのはのとも、山のはをともいへる本あり。しかれども下にとわたる光とあるからは、にとよむべし。山の端にみるがよきといふ義なれば、をはりの句までつらぬくてには也
左佐良榎 月の名と也。左注に記せり。天上にさゝらのをのといふ名もあり。さゝらえをのことは何故名付たると云事は不v傳也
門度光 とは助語也
 
右一首歌或云月別名曰佐散良衣壯士也緑此辭作此歌
 
當集廿卷目の奧に、桑門寂印の歌をかき置るに、左佐良之光と書きて、月の光とよませたる也。此別名によりて直に月の光とはよませたりと聞えたり
 
(147)豐前國娘子月歌一首【娘子字曰大宅姓氏未詳也】
 
第四巻にも此娘子あり
 
984 雲隱去方乎無跡吾戀月哉君之欲見爲流
くもがくれ、ゆくへをなみと、わがこふる、月をやきみが、見まくほりする
 
月の雲に入りて行方も知られずこふる月を、わがこひしたふ君もわが如く見まほしく思ふやと也。源信明の、こひしさはの歌と同じ意也
 
湯原王月歌二首
 
985 天爾座月讀壯子幣者將爲今夜乃長者五百夜繼許曾
あめにます、つきよみおとこ、まひはせん、こよひのながさ、いほよつぎこそ
 
幣者將爲 まひはせんともよむ。まへにもまひはせんとよめり。幣禮をせん程に、此夜を長く五百夜つぎたる程にと願ふたる也
許曾 皆ねがひ乞ひたる言葉也
 
986 愛也思不遠里乃君來跡大能備爾鴨月之照有
はしきやし、不遠里の、きみきぬと、大能備にかも、つきのてらせる
 
はしきやし は、ほめたる詞、君とさす人をほめて云たる詞也。尤全體の月にかけてもほめたる意か
不遠里 これをまぢかきとよみたれど、まは初語、助語なるを實言に訓すること証例はかり難し。たゞ不遠の二字なれば、ちかしとは云べきなれど詞不v足。しかれば文字の如くとほからぬ里とよむべしや。もし義訓せば、となりの里とよむべし。前にも些三字まぢかきとよませたり。初語をも實語に用ひたる証例あらは可v用
(148)大能備爾鴨 此詞いかにとも解し難く、語例句例もなければ何といふ義か難v解也。諸抄の説にては義いかにとも不v通。又句例語例もなければ無理解といふもの也。ゆるやかに月のてらせるといふ義とはいかにとも義不v通也。後の賢案を待のみ。
因v此歌之全體難v解也。追而可2考案1也
 
藤原朝臣八束朝臣月歌一首
 
前に憶良の病をとひに使せし人也
 
987 得難爾余爲月者妹之著三笠山爾隱而有來
まちがてに、わがするつきは、いもがきる、みかさのやまに、かくれてありけり
 
きこえたる歌也
 
市原王宴?父安貴王歌一首
いちはらの王、うたげしてちゝあきの王をいのる歌一首
 
988 春草者後波落易巖成常磐爾座貴吾君
わかぐさは、のちはふりやすし、いほほなす、ときはにいませ、かしこきわが君
 
春草 義をもてよむべし
落易 わか草も後は年ふりやすき物なればと也。落はみな降といふ字に通じて、こゝは古びるの意を含みて也
歌の意は、わか草は一端は美しく盛なるものなれど、終には古葉ともなりおとろふるものなり。たゞ常磐竪磐變らぬいはほの如く、堅固に何時迄も不2相變1ましませと?り祝したる也。巖を嚴に作り磐を盤に作れるは誤也
 
湯原王|打酒歌《ウツサケノウタ》一首
 
打酒 さけを賞して云ひたる詞に打と也。珍の字の意也
 
(149)989 燒刀之加度打放大夫之擣豐御酒爾吾醉爾家里
やきたちの、かどうちはなす、ますらをし、うつおほみきに、われゑひにけり
 
やきたちの 刀のかどをも打はなつ程の猛勇のものなれど、此うつの酒にはゑひたると也
擣 ?につくるは誤也。尤ものむといふ飲の字の意にて書きたるとも見ゆれど、上にかど打はなつとあるは、下の擣大みきといはんはしに、打はなつとはよみ出したる也。しかれども題にも打酒とあれば、きはめて擣の字の方正字なるべし
歌の意、燒太刀のかどをもうちはなつ程のますらをなれども、うつの酒にはゑひたると酒を賞讃の詞世
 
紀朝臣鹿人見茂崗之松樹歌一首
きのあそむかひと、しげをかのまつのきを見てよめる歌一首
 
鹿人 傳不v詳。續日本紀聖武紀天平九年〔九月己亥云々。正六位上爲奈眞人馬養朝臣鹿人云々並外從五位下〕十二年十一月〔外從五位上〕十三年八月〔丁亥云々外從五位上紀朝臣鹿人爲〕大炊頭
茂岡 八雲に紀伊國とあり
 
990 茂岡爾神佐備立而榮有千代松樹乃歳之不知久
しげをかに、かみさびたちで、さかえたる、ちよまつのきの、としのしらなく
 
よくきこえたる歌也
 
同鹿人至泊瀬河邊作歌一首
 
991 石走多藝千流留泊瀬河絶事無亦毛來而將見
いしばしり、たぎちながるゝ、はつせがは、たゆることなく、またもきてみむ
 
たぎちは たぎりながるゝ也。又たきつながるゝとも云ふ意也。瀧の如く水のきほひ流るゝ體をいへり
 
(150)大伴坂上郎女|詠元興寺之里歌《アスカノサトヲヨメルウタ》一首
 
元興寺 あすかでらといふ也。始は法興寺といふ。崇峻紀云〔蘇我馬子宿禰壞2飛鳥衣縫造祖樹葉之家1始作2法興寺1。此地名2飛鳥眞神原1。亦名2飛鳥苫田1。〕上古の飛鳥の里は高市郡也。ならのあすかは元正紀靈龜二年五月〔辛卯云々、始徙2建元興寺于左京六條四坊1。〕添上郡也
 
992 古郷之飛鳥者雖有青丹吉平城之明日香乎見樂思好裳
ふるさとの、あすかはあれど、あをによし、ならのあすかを、見らくしよしも
 
古郷之飛鳥者 古郷と書きたれば、ふるさとのにてあるべし。しかれば郎女の出生の所か。但し此飛鳥は高市都の義なれば飛鳥淨原のみかどの時分の都なりしを、今はならの都にてあれば、古さとのあすかはあれどとよめるなるべし。都の跡をすべてふるさとゝよめり
 
同坂上郎女初月歌一首
 
初月は三日月の事也。今も題詠に初月とあるには、みな三日月の事を詠ずる也
 
993 月立而直三日月之眉根掻氣長戀之君爾相有鴨
つきたちて、たゞみかづきの、まゆねかき、けながくこひし、きみにあへるかも
 
此歌の意は、三日月の月は女の眉の如くなるもの故、月のまゆねといひかけて、さて眉根のかゆきは、思ふ人にあふ前表といふ事ある故、その眉根をかきて、久しくこひわびし君にあへると、三日月を見しことをよろこびてよめる也。君とは三日月をさしていへり
月立而 日本紀にも月生二日といふことあり。追而可2考出1。古語あれば如v此の詞もよみ出でたり
直三日月之 下の長くこひしといふにかけ合て、たゞみか月之とはよみたり。三日月には一月を不v經ばあひがたし。よりてけながくとはよみたり。けは初語たゞ長きといふ義也。長息などいふ説不v可v用也。
(151)眉根掻 月を眉に見たてたること、和漢詩歌あげて數ふべからず。娟々如2蛾眉1など詩にも作り、月のまゆ引など毎詠古歌に見えたり。又月を君といひしこと李白の詩にも覺えたり
 
大伴宿禰家持初月歌一首
 
994 振仰而若月見者一目見之人乃眉引所念可聞
ふりさけて、みかづきみれば、ひとめみし、ひとのまゆひき、おもほゆるかも
 
振仰而 ふりとは振舞わざのことを云ふ。こゝもかしらをふり仰ぎて、月を見る躰をいへり。仰の字をさけてとよめる義末v考。はるかに遠きを見上るをいふ也
若月 みかづきとよむ義、月たちてたゞ三日といふ意にて、月のわかきといふ意をもてよませるか。未v考
眉引 眉のことをいへり。※[目+碌の旁]の字を日本紀仲哀紀によませり。麻用弭枳
歌の意、三日月のうるはしくほそき光の影、女の眉を引きたるにさも似たるから、一目見し人の事をも難v忘おもひ出しと也
 
大伴坂上郎女宴親族歌一首
 
995 如是爲乍遊飲與草木尚春者生管秋者落去
かくしつゝ、あそびのまんよ、くさきすら、はるはもえつゝ、あきはちりゆく
 
かくしつゝ 如v此打寄たのしみなぐさまんと也
あそびのまんよ 此詞いかにとも心得難し。遊飲の二字別訓あらんか
草木尚云々 この意は、草木といへども盛衰の變化あれば、いはんや人の上はかりがたき世の習なれば、かく親族無事安穩の折に、打あつまりあそびたのしまんと也。草木すらといへる詞、少解しがたけれど、この外の見やう思ひよられねば、如v此見侍る也。後賢の異見あらばしたがふべし
 
六年甲戌
(152)海犬養宿禰岡麻呂應詔歌一首
 
海犬養宿禰犬養 傳不詳
 
996 御民吾生有驗在天地之榮時爾相樂念者
みたみわれ、いけるしるしあり、あめつちの、さかえし時に、あへるを思へば あふらくおもへば、同意也
 
御民吾生 みたからのわれいけるともよめり。意は同じ事なれど、詞あまりて聞きよからねば、みたみわれと五言によみ、いけるしるしありと下へつゞけてよめり。いづれにても意は同じ。日本紀等に人民をひと草とよまし、百姓をおほんたからとよませり。勿論たみとよめる事は、童子もしれることなればかくはよみ侍る也
天地之榮時爾相樂念者 かく目出度御代に生れあひ、天地も祥瑞を出し、國民豐饒の時にあへることは、今にもいけるしるしありと、時代奉2祝讃1、樂み心に足れることをあらはしたるよき歌也。人は今日のやすきをよろこび、身の分限をおもひさとりことたりたのしみを專に奢らず、むさぼらす、身をへりくだり、時代をかたじけなく思ひたれるこそ、人道の常行道徳の本意此所ならんかし
 
春三月幸于難波宮之時歌六首
 
聖武紀云、天平六年春三月〔辛未、〕行2幸難波宮1。〔戊寅車駕發v自2難波1〕宿2竹原井〔頓〕宮1
 
997 住吉乃粉濱之四時美開藻不見隱耳哉戀度南
すみよしの、こはまのしゞみ、あけもみず、しのびてのみや、こひわたりなん
 
此歌古點諸抄の點右の通によみ來れり。しかれども歌の意いかにとも解し難し。諸抄の説はしゞみは蜆の事也。至而小貝口あく事なき故、あけも不v見と也。しのびてのみといはんための序に、口あかぬ蜆をいひて、あけも不v見とよめる也。若し蜆口あかぬものにて、常に隱りゐるといふことによみなせる例格もあらば、此説にしたがふべきか。或説に粉濱をこすとよみ四時美をとこなつとよみ、開をさくとよめる點あり。定家卿は此義につきたまひて、よみ給ふと見えたる歌其歌集愚草に見え(153)たり。濱の字すとよまんこと心得難し。若し洲といふ字に書る證本ありしを、濱に傳寫しあやまりたるか。洲の字の誤ならば、四時美の三字はとこなつともよむべきことなれば、此説もしかるべからんか。いづれも證明を不v考ば決しがたき也。よつて暫註解を除けり
 
右一首作者未詳
 
998 如眉雲居爾所見阿波乃山懸而※[手偏+旁]榜舟泊不知毛
まゆのごと、くもゐに見ゆる、あはの山、かけてこぐふね、とまりしらずも
 
如眉云々 遠くはるかに眺望するに、うす/\と山の海上にみゆるは、まことに女の黛の如くなる景色といへり。山を眉に見立たてたること詩文章古詠あまたの事也。引本擧ぐるに遑なければ略v之。雲居とは遠くはるかなることをいへり。遠く遙に見ゆるといふ意也。雲井にといふも同じ意にて、くもゐといふは雲の惣名と見るべし。空のことにいひ來れども、空をかぎりていふ事とも不v見。雲は空にあるものなれば、空をはなれていふにはあるまじけれど、そらを雲居といふとは決し難き也。空につゞきて、遠く隔たりて遙なる義をいふと心得べし
あはの山 津の國なにはの海より、眺望に見ゆる所ありと見えたり
懸而※[手偏+旁]舟 そこと目あてにしてこぎ行給と也。かけてと云義、すべてむかふに一つ目あてをしてなす事とかけてと云。こゝよりかしこにかけて、春より夏へかけ、宵より曉にかけてといひて、こゝとかしこと二つにかゝりたることをいふ也。かけてしのびつなどいふ詞も同じ義也
泊不知毛 雲ゐはるかにあはの山を目にかけ、こぎゆく船なれば、いづこにとまりぬべきかたも見えぬ景色をよめり
 
右一首船王作
 
聖武紀神龜四年正月〔甲戌朔庚子無位船王授2從四位下1。〕天平十五年五月〔從四位上、十八年四月彈正尹、天平〕寶字元年五月〔正四位下、〕二年八月〔朔從三位。〕廢帝紀三年六月〔詔兄弟姉妹爲2親王1、船王授2三品1。〕六年正月〔三品、〕八年十月〔壬甲、稱徳(154)天皇詔曰船親王〔中略〕親王※[氏/一]詔王※[氏/一]隱岐國流賜
 
999 從千沼囘雨曾零來四八津之泉郎網手綱乾有沾將堪香聞
ちぬわより、あめぞふり來る、しはつのあま、網手綱ほせり、ぬれたへんかも
 
千沼回 茅渟といふ所なり。回はめぐりきわの事をばわと云ふ也
網手綱 無點本には細平綱と書けり。誤字か。又この三字にて何とぞ別訓あらんか。細く平なるあみと書きて叶ふ義あらば可v考也
四八津之泉郎 これをしはつのあまと上にあまをつけてよまんか。又しはつのとよみて下にあまをよまんか。四八津とかきたれば、八ははつともはと計もよまるれば、兩樣のよみやうあらんか。日本紀卷第十四、雄略紀、十四年春正月〔丙寅朔戊寅〕身狹村主青等〔共2呉國使1將2呉所v献手末才伎漢織呉織及衣縫兄媛弟媛等1泊2於住吉津1。〕是月爲2呉客道1通2磯齒津路1名2呉坂1
千沼回四八津 みな攝津國也。左注を見れば四八津は住吉と難波との間と聞えたり、
網手綱 あみてなはとよみ來れり。綱のおほづなを云との説ありて、あみたづなとよみて網子と書きてあこともよめは、あだづなとか、あでなはともよむべきか。宗師云、三字を義訓にたくなはとよまんかと也。しかれどもあまのたくなはといふは、水練するとき海士ども腰に付けて、海底へ潜入繩をいふと見えたれば、此三字には相叶ふまじきか。尤もあみの手繩も強きため、栲にてつくるべければたくなはの義訓もあらんか
沾將堪香聞 これを諸抄の説は、雨にぬれて用ゆるにたへんかもとの義に釋せり。心得難し。ぬれはつるの意にてぬれんといふ義也
 
右一首遊覽住吉濱還宮之時道上守部王應詔作歌
 
(155)還宮 難波のかり宮に還御なるべし
守部王 聖武紀天平十二年正月〔庚子云々無位奈良王守部王從四位下〕
 
1000 兒等之有者二人將聞乎奧渚爾鳴成多頭乃曉之聲
こらしあらば、ふたりきかんを、おきつすに、なくなるたづの、あかつきのこゑ
 
こらしあらば 妻の事をよめるか。夜の鶴は子を思ふことによめば子のことにや
歌の意よくきこえたる通也
 
右一首守部王作
 
1001 大夫者御※[獣偏+葛]爾立之未通女等者赤裳須索引清濱備乎
ますらをは、みかりにたゝし、をとめらは、あかもすそひく、きよきはまびを
 
御ゆきの供奉にてをのこらはみかりにたち、官女のともがらは、めかり貝ひらふ海べを、遊びめぐれるとの義也。清きはまべを遊びめぐる故あかもすそひくと也
 
右一首山部宿禰赤人作
 
1002 馬之歩押止駐余住吉之岸乃黄土爾保比而將去
うまのあゆみ、おしてとゞめよ、すみのえの、きしのはにふに、にほひてゆかん
 
此歌前に車持千年が歌にも注せる如く、住吉は萩の名所なれば、萩の花の咲きたる所に立とゞまりて、うたひ遊びてゆかんと云ふ義也。はにもはぎも同意也。義といふ濁音は仁といふ詞也。はぎふ也。ふとは萩の生ずる處を云ふ也。原の字もふとよむ也。黄土の二字をはにとよます事は、和名抄云、釋名云、土黄而細密曰v埴、常織反【和名波爾】
 
右一首安倍朝臣豐繼作
 
(156)豐繼 聖武紀天平九年二月〔戊午云々、外從五位下佐伯宿禰淨麻呂阿倍朝臣豐繼下道朝臣眞備並從五位下、〕
右是まで以上六首也
 
筑後守外從五位下葛井連大成遙見海人釣船作歌一首
 
1003 海※[女+感]嬬玉求良之奧浪恐海爾船出爲利所見
あまをとめ、たまもとむらし、おきつなみ、かしこきうみに、ふなでするみゆ
 
奧浪恐海爾 千尋の海の奧に、波のたつ上に船出するは、おそろしきものなればかしこき海と也
爲利所見 せりみゆといふ詞は無き也。類とあるべきことなるに利の字を書きたるは、りの通音故用ひたるか。利はかゞとよむ字なれば、すがとよみて、訓書にしたるかとも見ゆる故如v此よむ也。すがはするが見ゆると云ふ義也
 
按作村主益人歌一首
 
1004 不所念來座君乎佐保川乃河蝦不令聞還都流香聞
おもほえず、きませるきみを、さほがはの、かはづきかせず、かへしつるかも
 
右歌の意は左注に見えたり
 
右内匠寮大屬按作村主益人聊設飲饌以饗長官佐爲王未及日斜王既還歸於時益人怜惜不厭之歸仍作此歌
 
作爲王 葛城王の弟也。大和の國の地名にさゐといふ所あり。それをもて名とし給ふなるべし。後人すけためなど點を付けたるは古實を不v考故也
怜惜不厭之歸 あはれみ惜みて名殘ををしく、したひての意也。怜はかなしむともよみ、又おもしろきことゝ云ふ意にも用ふる也。此はかなしむ方の意也。飲宴することにあかずして、かへせることを、悲み惜める歌といふ義也
 
(157)八年丙子
夏六月幸于芳野離宮之時山部宿禰赤人應詔作歌一首并短歌
 
聖武紀云六月乙亥〔幸2于芳野1云々〕
 
1005 八隅知之我大王之見給芳野宮者山高雲曾輕引河速彌湍之聲曾清寸神佐備而見者貴久宜名倍見者清之此山乃盡者耳社此河乃絶者耳社百師紀能大宮所止時裳有目
やすみしゝ、わがおほきみの、見せ給ふ、よしのゝみやは、やまたかみ、くもぞたなびく、かはゝやみ、せのおとぞきよき、かみさびて、みればたふとく、よろしなべ、みればさやけし、このやまの、つきばのみこそ、このかはの、たえばのみこそ、もゝしきの、おほみやどころ、やむときもあらめ
 
見給 見せたまふとは見させたまふと云ふ義也。集中毎度見せ給ふとよませたり
宜名倍 よろしなべ也。よろしくうべといふ義也。うべはことわり也といふ意、俗にその筈といふ義也。尤といふに同じ。なべはからといふ義と釋し來れども、からといふを何とてなべとはいふと云ふ時不v濟也。うべといふ義をなべといふは〔以下記注無シ〕
盡者耳社 つきばのみこそ、つきばこそ也。のみは助詞也。山もつき、川もたえたらん時は不v知、山川のあらんかきりは此大宮所のみゆきのやむことのあらん。いつまでも絶える事無く、大宮所はあらんと祝讃賞美してよめる也
 
1006 自神代芳野宮爾蟻通高所知者山河乎吉三
かみよゝり、よしのゝみやに、ありかよひ、たかくしれるは、やまかはをよみ
 
蟻通 そのかみいつよりとも不v知。神代より存在してある、この芳野の山川の清き靈地と高くしられたると也。みゆきの(158)不v絶あるといふ意をもふくみて、あり通ひといへると聞えたり。山川清靜にて能き景地故、神代よりも芳野の宮と名高く被v知たるによりて、川を清てよむ也
 
市原王悲獨子歌一首
 
第三卷、いたなきにきすめる玉はふたつなしといふ歌の所に注せり。此ひとり子といふこと、身分の事をよませ給ふたるか。又御子五百井女王一人ばかりにて、御子のなき事をなげける歌か決し難し。いもとせといふ時は、妹と兄と兄弟の事にもきこえ、又夫婦の事にも云ふ詞也。しかれども獨子と子の字を加へたるは、只一人の息女をかなしみ給ふかとも聞ゆる也
 
1007 不言問木尚妹與兄有云乎直獨子爾有之苦者
ことゝはぬ、きすらいもとせ、ありといふを、たゞひとりごに、あるがくるしさ
 
歌の意は、ものいはね木草にも夫婦と云ふものゝあるに、われひとり子にあるは苦しきとの義にて、此歌の意、自身のことか、子を悲める歌か、兩樣にきこゆる也。妻女をもち給はぬはじめの歌か。子といふ事のあれば、ひとりの子計にて、兄弟もなきを歎き給ふとも聞ゆる也。木にも枝生、根より芽生ずるなれば、先に生、後生、若木枝、孫枝抔云事あれば、たとへていへるか。第九の長歌に、かごしものわがひとり子の草まくら云々ともあれば、子の事とも聞ゆ也
 
忌部首黒麿恨友※[貝+余]來歌一首
いんべのおふとくろまろ、とものおそくきたるをうらむるうた一首
 
忌部首黒麿 孝謙紀、寶字二年八月〔朔、正六位上忌部首黒麿授2外從五位下1、〕廢帝紀寶字三年十二月〔忌部首黒麿等七十四人〕賜2姓連1。六年正月〔爲2内史局助1〕如v此あれば此歌は未だ首の姓の時也
※[貝+余] 遲緩云v※[貝+余]
 
1008 山之葉爾不知世經月乃將出香常我待君之夜者更降管
(159)やまのはに、いざよふつきの、いでんかと、我まつきみの、よはふけにつゝ
 
此歌の意は待友を月に比してよめる也。君之夜とはつゞかぬ詞也。しかれども此君は月をいひたるものゆゑ、月の夜とつゞけたる也。月を君といふたるゆゑ不v苦也。いさよふはものゝとゞこふりよどむことをいふ也。月の可v出していまだ出でぬをいへり。十六夜をいざよひと云ふも、月のすこしためらひ出づる故也
 
冬十一凡左大臣葛城王等賜姓橘氏之時御製歌一首
 
天平八年冬十一月也。八年までは此左大臣葛城王と奉v號し也。母の橘三千代の姓を願ひ請て賜り、後に宿禰を改めて朝臣を賜へり。諱を諸兄と申し奉りしかど、此集中には尊稱して諱は不v書也。此左大臣葛城王と書きたるは難2心得1。左大臣の時は橘宿禰也。左大臣は天平十五年に被v任たる也。天平八年は左大辨の時也。然れども後より尊びて如v此注せるか
 
御製歌一首
 
古一本傍注肩書に聖武天皇と注せり
 
1009 橘花者實左倍花左倍其葉左倍枝爾霜雖降益常葉之樹
たちばなは、みさへはなさへ、そのはさへ、えだにしもおけど、いやときはのき
 
橘花者 橘の一字にてもたちばなゝれど、かくの如くも書也。橘の事は、垂仁天皇の御時田道間守常世より取り來るもの也。前に注せり。不v被v侵2霜雪1ときはなるものなれば、かくの如く實も花も葉も枝もと、のこりなくほめさせ給ひて、諸兄公の姓となせるは、君に忠功をつくし、子孫繁昌あるべきとの事によせさせ給ふ御祝言にてありがたき御歌也
枝爾霜雖降 枝に霜おけどと讀み來れり。降の字義訓におけともよまん事さもあらんか。しかれども霜ふれどともよみたき也。枝も年ふれどといふ意にて、星霜を經てもいやます/\ときはに榮る木と祝はせ給ふ御製と聞ゆる也。枝に霜おけどましとよめる人もありけるにや、中世已來の歌或ひは連歌等に、とまし常磐木といへる事を詠める歌あり。あまりに心得難きこ(160)と也。とまし常磐といふ歌詞あるべきとも不v覺。此點本のよみ誤りよりかく誤を傳へたるならんかし
 
萬葉童蒙抄 卷第十四終
 
(161)萬葉童蒙抄 卷第十五
 
右冬十一月九日從三位葛城王從四位上佐爲王等辭皇族之高名賜外家之橘姓已訖於時太上天皇皇后共在于皇后宮以爲肆宴而即御製賀橘之歌並賜御酒宿禰等也或云此歌一首太上天皇御歌但天皇々后御歌各有一首者其歌遺落未得探求爲今檢案内八年十一月九日葛城王等願橘宿禰之姓上表以十七日依表乞賜橘宿禰
 
葛城王 續日本紀元明紀云、和銅三年春正月戊午授2無位葛木王從五位下1。これより已下昇進の年暦續日本紀可v考略v之。清書の時可v記v之
辭皇族之高名 續日本紀卷第十二云、天平八年十一月丙戌、從三位葛城王、從四位上佐爲王等上v表曰。臣葛城等言。〔去天平五年、故知太政官事一品舍人親王、大將軍一品新田部親王宣v勅曰。聞道諸王等願d賜2臣連姓1供c奉朝廷u。是故召2王等1令v問2其状1者。臣葛城等、本懷2此情1無v由2上達1。幸遇2恩勅1昧死以聞。昔者輕堺原大宮御宇天皇曾孫建内宿禰、盡2事v君之忠1、致2人臣之節1、創爲2八氏祖1、永遺2萬代之基1。自v此以來賜v姓命v氏、或眞人或朝臣。源生2王家1、流生2王家1、流終2臣民1。飛鳥淨御原大宮御2大八洲1天皇、徳覆2四海1威震2八荒1、欽明文思、經v天緯v地。太上天皇、内修2四徳1、外撫2萬民1、化及2翼鱗1澤被2草木1。復太上天皇、無v改2先軌1、守而不v違、卒立2清淨1、民以寧一。于v時也葛城親母贈從一位縣犬養橘宿禰、上歴2淨御原朝廷1、下逮2藤原大宮1、事v君致v命、移v孝爲v忠、夙夜忘v勞、累代竭v力。和銅元年十一月二十一日、供2奉擧國大甞1。二十五日御宴、天皇譽2忠誠之至1賜2浮杯之橘1。勅曰。橘者菓子之長上、人所v好、樹凌2霜雪1而繁茂、葉經2寒暑1不v彫。與2珠玉1共競v光、交2金銀1以逾美。是以汝姓者、賜2橘宿禰1也。而今無2繼副者1恐失2明詔1。伏惟皇帝陛下、光2宅天下1、充2塞八挺1、紀被2海路之所1v通、徳蓋2陸道之所1v極、方船之貢、府無2空時1、河圖之靈、史不v絶v紀。四民安v業、萬姓謌v衢。臣葛城幸蒙2遭時之恩1、濫接2九卿之(162)末1、進以2可否1、志在v盡v忠。身隆降v闕、妻子康v家。夫王賜v姓定v氏、由來遠矣。是以臣葛城等、願賜2橘宿禰之姓1、戴2先帝之原命1、流2橘氏之殊名1、萬歳無v窮、千葉相傳。壬辰、詔曰。省2從三位葛城王等表1、因知2意趣1。王等、情深2謙讓1、志在v顯v親、辭2皇族之高名1、請2外家之橘姓1。尋2志所1v執、誠得2時宜1。一〕依v表、令v賜2橘宿禰1、千秋萬歳、相繼無v窮
外家之橘姓 諸兄公の親母は贈從一位縣犬養橘宿禰三千代也。此三千代は淡海公の室なり。初は美奴王に嫁し給ひて葛木佐爲二人の王を産めり。美奴王薨去の後、不比等公の室とはなり給へると見えたり
太上天皇皇后云々 此文不審也。無點本には天皇の下に太上皇后とあり。これは太上天皇天皇とあるを皇后に誤りたるか。下に共在2于皇后宮1とあれば、上の皇后は衍文ならんか。太上天皇は元正天皇也
以爲2肆宴1而即御製賀橘之歌 右の御製也
或云此歌一首太上天皇御歌 元正天皇の御製といふ或説あると也
但天皇々后御歌各有一首者 聖武天皇皇后の御歌別に一首づつ有v之との或説をあげたる也。然れども其歌遺落して不v知との古注者の斷り也
者 この字を、ていればとかなをつけたる本あり。此ていればといふこと後世の事にて上代の文に不v見事也。此注も各一首あるなりといふ意にて、切字を用ひたる者の字を如v此ていればと後人點を加へり。中世已來者の字ていればと多く被v書也。ていればといふ義はといへればといふ義也。然者このところの文義にはとくと不2和合1也。こゝは者也の切字の意にてよくきこえたり。然れどもといふべきところに、といへればといふ義は不v合也
其歌遺落未v得2探求1焉 尋求むれども不v知と也
焉 點本には爲の字に誤りたり。無點本には焉の字を記せるを證とす
今檢案内 此文和書の古文也。案内を考ふるとは、文案の内を考ふるにといふ義なるべし。令集解等此文多也。こゝにいふは葛木王等の表の文案の内を考ふるといふ義也
上表 表は明也。又標也。如2物之標表1。言標2著事序1、使2v之明白1也。以曉2主上1得v盡2其忠1曰v表。史記文選禮記等の注(163)を可v考也
以十七日 九月に奉られたる依2上表1十七日に賜2橘宿禰1と也。續日本紀に詳也
 
橘宿禰奈良麿應詔歌一首
たちばなのすくねならまろみことのりにこたへ奉る歌
 
奈良麻呂 諸兄公の男也。聖武紀天平十二年五月〔乙未幸2右大臣相樂別業1、宴飲酣暢授2大臣男無位奈良麻呂從五位下1。〕續日本紀可v考
 
1010 奧山之眞木葉凌零雪乃零者雖益地爾落目八方
おくやまの、まきのはしのぎ、ふるゆきの、ふりはますとも、つちにおちめやも
 
おくやまの 眞木といはんまでの序也。奧山に意は無し
眞木葉凌 此しのぎといふ詞解し難し。意はしなへる義、雪のふれば葉しだるゝ義也。諸抄におかすといふ義といへり。おかすは葉の上に物を置きてかくす意をいふ也。義は相通也。とかく葉のしなへしだるゝを云ふと心得べし
地爾落目八方 橘をとこしなへなるに、氏の人らの忠節を盡し朝勤せんことになぞらへていへる歌と聞ゆる也。たとひ霜雪降り積りて、葉をおかし埋むとも、色を變じて地に落ちる如く、誠忠の意を變じて不忠の意には墮落せまじきと、忠節の意を專らにあらはしたる歌也
 
冬十二月十二日歌※[人偏+舞]所之諸王臣子等集葛井連廣成家歌二首
 
歌※[人偏+舞]所 詠曲(カ)支樂等のことを司る官舍也。其所を預り支配する官人等を指して諸王諸臣と也。歌※[人偏+舞]所の事委は追而可v考
葛井連尋成 聖武紀云、天平十二年八月〔車駕幸2散位從五位上葛井連廣成之宅1、延2群臣1宴飲。日暮留宿。明日授2廣成及其室從五位下縣犬養宿禰八重並正五位上1。〕
 
比來古※[人偏+舞]盛與古歳漸晩理宜共盡古情同唱此歌故擬此趣輙獻古曲二節風流意氣之士儻有此集之(164)中爭發念心々和古體
 
古※[人偏+舞]盛與 其節歌舞の古風被2取行1しと也
古歳漸晩 十二月十二日なれば、年すでに暮るゝと也
共盡2古情1 集會の人相共に情を慰めて吟詠せよと也。古情といふは年末の心を盡してといふ義、たゞ心を盡しと云ふ義也
唱此歌 左の二首の歌を唱吟せよと也
故擬此趣 かれこのおもむきになぞらへて、如v此序詞にいふ心ばへになぞらへて也
輙獻古典二節 即ち昔ぶりの二ふしを奉る。左の二首の曲節吟詠の風體古きふしなりといふ義也。古の歌はみな發聲にて歌ひたる故、古曲二節と也
風流意氣《ミヤヒタルキサシ》之士儻 風雅やさしききざしの人といふ義也
有2此集之中1このつとひのうちにあらばと也
爭發念心々和古體 たれ/”\もあらそひて心の中の雅情を發して、心々に古き姿の歌を和へてうたひかなでよと也
 
1011 我家戸之梅咲有跡告遣者來云似有散去十方吉
わがやどの、うめさきたりと、つげやらば、こてふにゝたり、ちりぬともよし
 
こてふにゝたり こいといふに似たりと也。梅咲きたる程に、來たれと招くに似たれば、待人のこずて花は散りぬともよしといふ意也。梅咲きたりと告げやらば、來れと待つこゝろざしは通じたれば、花散りぬとも心は達したればよしとの意なるべし
或抄には先の人のこんといふに似たりといひて、むつかしく入ほかなる釋ありて心得難し。古今の、月よゝしの歌も此體をならひたる也。まことに古風の句體といひつべし
 
1012 春去者乎呼理爾乎呼里鴬之鳴吾嶋曾不息通爲
はるさらば、をゝりにをゝり、うぐひすの、なくわがしまぞ、やまずかよわせ
 
(165)乎呼理爾 此詞六ケ敷詞也。花などの咲には、いやがうへに咲かさなれるを、花咲をゝりなど集中にも毎度よめる、うぐひすのをゝりにをゝりとはいかにしたる義ならんか。釋し難し。一説にのぼりに/\といふ義にて、うぐひすは花の枝の下枝より、次第/\に上りうつるものにて、遷喬といふこともあれば、木の下枝よりのぼりにのぼりて鳴くといふ義也。詩にも出v自2幽谷1遷2于喬木1と作る事もあれば、この仙覺の説さもあるべきか。外のをゝりに/\といふと、歌どもの意同じ樣に通ずれば、詞の釋もかよふ語なれば、此説にしたがふべし。全篇の歌の意とくと不v考ば決し難し。追而可v考
鳴吾嶋 此詞もつまりたる句なれども、古體の風格には如v此の句もある也。わがしまは庭の作り嶋、池中などにある嶋をいへると聞えたり
やまずかよはせ 此集會の人々春になりたりとも、不v絶來り給へと、挨拶の歌と聞ゆる也
 
九年丁丑
春正月橘少卿并諸大夫等集彈正尹門部王家宴歌二首
 
橘少卿、橘宿禰作爲也。諸太夫等、四位五位の諸官人をさして云ふ也。彈正尹門部王、前に注せり
 
1013 豫公來座武跡知麻世婆門爾屋戸爾毛珠敷益乎
かねてより、きみきまさんと、しらませば、かどにやどにも、たましかましを
 
歌の意は今日の宴會思ひがけなき事故、何の風流のもてなしもなく、おろそかなりと謙退の意をのべたる也。客を尊稱して、玉をもしきて美麗をもつくさましをと也
 
右一首主人門部王【後賜姓大原眞人氏也】
 
後賜姓大原眞人氏也。後人の傍注也。文段不v濟義也。大原眞人姓氏をたまふとならば聞えたり。姓大原眞人氏也とは心得難き文段也
 
1014 前日毛昨日毛今日毛雖見明日左倍見卷欲寸君香聞
(166)をとつひも、きのふもけふも、みつれども、あすさへみまく、ほしききみかも
 
前日 をちつ日也。遠の意也。をとゝせもをちつせ也。日をへだて遠ざかりたる日といふ意也
歌の意は、主人を賞讃したる挨拶の意をのべたる也
 
右一首橘宿禰文成即少卿之子也
 
文成 あやなりと讀むべきか。訓書を不v見。佐爲の子と也。後人傍注あり。目録には文明とあり。誤ならん。孝謙紀天平勝寶三年正月、賜2文成王甘南備眞人姓1とあるは此人にやあらん。當集第二十にも甘南備伊香眞人といふ人あり。此人の子か
 
榎井王後追和歌一首
えのゐのおほきみのちにおふてこたふるうた一首
 
志貴親王之子也。古一本に如v此あり。考所あらん
榎井王 廢帝紀天平寶字六年正月〔庚辰朔癸未、授2無位榎井王從四位下1、五月戊辰散位從四位下榎井王卒。〕志貴親王の御子と古本傍注あり。紀に無位より被v叙2四位1とあれば、志貴王の御子にて光仁帝の御弟にもあるべきか
 
1015 玉敷而待益欲利者多鷄蘇香仁來有今夜四樂所念
たましきて、またましよりは、たけそかに、來有こよひし、たのしくおもほゆ
 
此歌、客のよめるか、主人の歌にして見るか、二義ありて不v决。和へ歌なれば主人門部王の、門にやどにもたましかましの和へ歌なれば客の歌也。歌の體は主人の句體にも聞ゆれば、いづれとも決し難き也。またましよりはといふ詞、主人の詞にきこゆ。然れども玉しかましをといふ歌にこたへたりと聞ゆれば客の歌也。下の來有の二字もきますともよむべければ、きたるとの點あれどこれも決し難し。此點者は客の歌にして見たるか。もつとも主人の句にても來たるともよまんか。しかし少無禮の詞也
(167)玉しきて 用意をして、取つくろひて待たんよりはと也
たけそかに 此詞解し難き詞也。先全體の意は、卒爾俄に何の支度用意もなく、ことおろそかにして來れる、こよひし樂しくおもほゆるとの意也。たくはへおろそかにといふ意か。くへを約してけけ也。何の用意も無くして、おもかげなく來る事かへつて樂しくおもふとの事也。たけといふ事すべて宴會のこと言ふ言也。日本紀等にも、相伴の人をあひたけの人といひ宴の字をうたげといふ事あれば、何とぞ宴會の事に付別義あらんか。延喜式ゆきすきの神供の事に、ためつ物といふ事あり。此儀いかにとも不v濟詞也。しかるめといふ詞は、むけといふ詞を約すれば、めなり。よりてこれもたむけものといふ義なるべし。手向といふは自身手づからみけものをそなふる事をいふと聞えたり。すべて手向といふは、みづから直に神にもあれ、君にもあれ、人にもあれ奉り備ふることを手むけとはいふ也。なればこゝのたけそかにと言ふも、たむけをおろそかにといふ義をも云たるものか。今すこし慥成證例語例を不v考ば决し難き也。先大意は右の趣に心得べき也。一説にたけすがきにきたると云義ともいへり。香の字、我とにごる事もいかゞにて、惣體の句體六ケ敷解なれば難2信用1。外に例詞もあらば可v用か。先の客の歌と見ゆる也。門部王への和へ歌と見るべし
 
春二月諸大夫等集左少辨巨勢宿奈麻呂朝臣家宴歌一首
 
巨勢朝臣宿奈麻呂 聖武紀云。神龜五年五月〔丙辰、正六位下〕巨勢朝臣少麿等〔授2外從五位下1。天平元年三月從五位下。五年三月從五位上。〕孝謙紀云。勝寶三年二月〔己卯、典膳正六位下雀部朝臣眞人等言。磐余玉穗宮勾金崎宮御宇天皇御世雀部朝臣男人爲2大臣1供奉。而誤紀2巨勢男人大臣1。眞人等先祖巨勢男柄宿禰男有2三人1。星川建日子者雀部朝臣等祖也。伊刀宿禰者輕部朝臣等祖也。乎利宿禰者巨勢朝臣等祖也。淨御原朝廷定2八姓1之時、被v賜2雀部朝臣姓1。然則巨勢雀部雖2元同姓1而別姓之後被v任2大臣1。當今聖運不v得2改正1遂絶2骨名之緒1永爲2無v源之氏1。望請改2巨勢大臣1爲2雀部大臣1陳2名長代1示2榮後胤1。大納言從二位巨勢朝臣奈※[氏/一]麻呂亦證2明其事1。於v是下2知治部1依v請改2正之1〕
 
1016 海原之遠渡乎遊士之遊乎將見登莫津左比曾來之
(168)うなばらの、とほきわたりを、みやびとの、あそぶをみんと、なつさひぞこし
 
此歌は左注の題云と、仙媛の詠みたる歌にして見るべし
うなばらの 海路を經て來れる處にはあらぬをかくよめるは、心得難き樣なれど、仙女蓬莱宮より遠き處の海を渡りてきたるといふ意也。左注の意をもて歌の意を知るべき也
遊士 たはむれにあそぶをのこといふ義と心得てかくよみきたれども、大宮人のあそぶをみんと、仙女の海をもわたりて來れるとよみたれば、前にも注せる如くみや人と讀むべし
なつさひぞこし 第二卷に、よしのゝ川のおきになつそふといふ歌に注せる如く、なづみたゞよふことを云也。ゆる/\として速かならぬことを、なづそふといふなれば、上に海ばらの遠わたりとあるをうけて、海を渡る義によせてよめる也。遠きわたり故、なづみたゞよふて來りたるとの義也。畢竟蓬莱宮より來りたるとの意なれば、はる/”\と波にゆられたゞよひて來る意也
 
右一首書白紙懸著屋壁也題云蓬莱仙媛所嚢蘰爲風流秀才之士矣斯凡客不所望見哉
 
これ古注者の文也。如v此のことありしを古注者は所見せし故、かく注せるならん
蓬莱仙媛所嚢蘰 みやびをなす詩人、歌才ある人、見よとつけおきたるものと聞ゆる也。必竟たわむれのあまりに書付けたる義にて、仙女かしらをつゝむかづらは、風客の見る爲にあらず、風流秀才の人の見んために、かしらをもかざりつゝむかづらなりと云義也。此歌は蓬莱の仙媛のよみたると見るべしとの奧書也。大宮人の集宴する故、常世の國より仙女の見物に來れるとよみたる歌也。此注歌の見樣諸抄とは甚違也。可v秘々々
 
夏四月大伴坂上郡安奉拜賀茂神社之時使超相坂山望見近江海而晩頭還來作歌一首
 
賀茂神社 山城國の一宮也。神名帳云。山城國愛宕郡賀茂別雷神社亦若雷【名神大、相甞、新甞、月次】賀茂御祖神社二座【並名神大、月次、相甞、新甞】
超相坂山 日本紀神功皇后紀云。〔忍熊王知v被v欺謂2倉見別五十狹茅宿禰1曰、吾既被v欺。今無2儲兵1豈可v得v戰乎。曳v兵(169)稍退。武内宿禰出2精兵1而追v之。適過2于逢坂1以破。〕故號2其處1曰2逢坂1也。昔は大和より山城への通路、宇治川をさかのぼり、あふみ路へかけて來れると見えたり。日本紀等を見るに、今の往來筋とは違たり。相坂山は山城と近江との境なり。地は近江に附か
望見近江海 あふみはあはうみにて淡海也。湖ある國故國の名とせる也。和名集近江 知加津阿不三ちかつあはうみといふ義也。近江の二字をあふみとよますは、淡海の義訓にして遠江に對して也。近江とは書也。遠江は和名には止保太阿不三と書れり。尤も此集にはとへたあふみとも書きたり。遠州は都に遠ざかり、近州は大和山城の帝都の時いづれも近き故、遠近の二字をわけて書かれたると見えたり。然るに近江はちかつと云詞を略して、あふみとばかりいひ習へり。和名抄によればちかつといふべき事なり。然れども和名より已前に、たゞあふみとばかりいひたれば、遠江は近江に對して書きたるとも見えたり。順は近江の字を注したる也。近の字は帝都に近きといふより書きて、遠江は近江に對したる也
晩頃 くれの頃也。たゞくれといふ義也
還來 大和の國へ歸る也
 
1017 木綿疊手向乃山乎今日越而何野邊爾廬將爲子等
ゆふだたみ、たむけのやまを、けふこえて、いづれのゝべに、やどりせんこら
 
ゆふだたみ 此詞不v濟義也。尤下の手向とうけん序詞に上にすゑたる也。此木綿疊といふは何の事といふ義か。不v濟也。諸説木綿は神に手向るものなる故、手向の詞をおこさんとてゆふとはいへりと也。その義は聞えたるに、たゝみと云は何とていへるや。木綿たむけ山とはあらば、諸抄の説の如くにて可v濟。ゆふだゝみと云たゝみの詞諸抄の説にては不v濟。是は木綿たゝみといふもの一色神具にあると聞えたり。手にかけて神を拜する時敷もの也。手にかけゐるもの故、手とうけん爲の義にて、ゆふだたみとはいふたる也。ゆふをたゝんで手向るといふ事は濟難き詞也。第十二卷にも此句あり。又ゆふだたみたな上山といふ歌もあり。とかく手と受けたる迄也
(170)宗師案云、上古は旅行の時神社を拜する爲に、木綿にて敷物を用意せしか。それを敷きておがみたるならん。それをゆふ疊とはいひたると見えたり。今、順禮者肩敷といふものを腰に付て、廻國するは此木綿疊の遺風ならんかと也。しかれば神に手向をする時は、きはめて神をぬかづくなれば、木綿疊を敷きて手向するといふ義にもかくつゞけたるか。今出家の方にはけつくざゝといふて手にかけて持あるく也
手向之山 相坂山を云ふ也。端作の文にても明也。旅行するとき行程無難をいのる事は、何國にてもあるべき也。大和にもあるべし。すでに古今集にはならの手向山ともあり。序にいひたるは違ある事也。古來より古今の序相坂山にいたりてたむけをいのりとあるより、手向山は相坂にかぎり、相坂山にたむけをいのりたる樣に心得たり。かの古今の序は一字誤りありてかくの如く、數百年來のあやまりを傳ふる基とはなれり。古今の序の相坂山にいたりは離別の事也。離別の歌に此詞あるから、離別の目録をいはんための序の詞也。しかるを此萬葉集こゝの歌にもとづき、相坂山に手向をいのると古今の序をも心得たることは、數百年來の誤也。相坂山を手向山と名づけたる由來は、いかにといへることか不v知也。第十二に、ゆふだたみ手向の山を明日かこえゆかんとよめるも、大和山城の内か難v決也
手向之山 手向山を越え行は旅行の意也。此の意はたびだちそめての意と聞ゆる也。よりて下の句にもいづれの野邊とかきて、今日旅だちの手向の山を越えて、またいかなる野邊に宿りをすべきやと也。山を越えて野に宿りをせんとかけ合せたるところ歌の情深き也
廬將爲子等 いほりせんとよみては意少叶難し。旅行なればかりいほにやどるといふ義にて、いほりせんとよめると言ふ説あれど六ケ敷説ならん。家、舍、宿、廬、同意の字なれば、やどりと義訓にせんことしかるべし。いほりもやどるも同じ事なれども、家を作るをいほりするともいふなれば、やどりとよむべき也。子等とはともなふ人また自身のことをもいへる也
 
十年戊寅
元興寺之僧自嘆歌一首
 
(171)1018 白珠者人爾不所知不知友縱雖不知吾之知有者不知友任意
しらたまは、ひとにしられず、しらずともよし、双本われしゝれらば、しらずともよし
 
白珠 我才の世に不v顯をなげきてよめる歌也。卞和の玉の埋れたる意にて玉に比すか
縱 まゝよといふ意なり。よしやといふ意も同じ。ゆるすともほしいまゝとも讀める也。意通ふ也。下の任意といふ義も同じ。よりて義をもてよませたり
此歌の意は左注にある通り、我才學あれども人不v知してあなどらるゝことをなげきてよめる也。人は知らずとも我さへ事理を辨へ知りたればよしと打すてゝ、下の心には知られぬ事をなげきたる也。第三句を七言によむこと習也。濱成和歌式、双本といふ事あり。本を双ぶるといふ義也。常の歌は五言也。せん頭歌は本をならぶるといふなれば七言によむが習也。然者この歌もよしを上へつけてよむべき也。此双本といふ事を不v辨故、古今の旋頭歌のよみ樣當時皆違へり
 
右一首或云元興寺僧獨覺多智未有顯聞衆諸押侮因此僧作此歌自嘆身才也
 
獨覺 僧の名のやうなれど、さにはあるべからず。ひとりさとり知慧多きものなれど、その學才世にあらはれざるといふ義なるべし。此集を萬葉と名づけたるもケ樣の歌迄、その時節人のいひふれたるよろづの言の葉を集めたる義と見ゆる也。撰集といふにはあらで、時代に有としある詞を不v撰2善惡1集められたりと見ゆる也
 
石上乙麻呂卿配土佐國之時歌三首并短歌
 
乙麻呂 左大臣石上麻呂第三の子也。續日本紀聖武紀神龜元年二月〔正六位下石上朝臣乙麻呂等授2從五位下1、〕天平四年〔正月從五位上、〕孝謙紀天平勝寶元年七月中納言三年九月〔丙戌朔中納言從三位兼中務卿石上朝臣乙麻呂薨、左大臣贈從一位麻呂之子也。〕懷風にも見えたり。追而可2考出1也
配土佐國 久米連若女にしのび通ひ給ふ事上に聞えて、若女と共に流されたりしこと讀日本紀に見えたり。前に注出せり。懷風にも飄寓南荒と書けり。南荒は土佐の事也。延喜式追儺祭文に南方土佐とあり
 
(172)1019 石上振乃尊者弱女乃惑爾縁而馬自物繩取附肉白物弓笶圍而王命恐天離夷部爾退古衣又打山從還來奴香聞
いそのかみ、ふるのみことは、たをやめの、まどひによりで、むまじもの、なはとりつけて、しゝじもの、ゆみやかこみて、おほきみの、みことかしこみ、あまさかる、ひなべにまかり、ふるごろも、まつちやまより、かへりこぬかも
 
石上振 地名也。乙麻呂の氏石上といふ故に尊んでふるのみことゝはつゞけたり。ふるといふも石上にそひたる地名故、大方石上とよめばふるとつゞくる也。石上はもと物部氏なり。饒速日命の裔也。後に石上と朴井兩氏にわかれたり。その住所の地名をもて、稱號氏ともせられたると聞えたり。重代の居家ふるといふ所にありし故、尊稱してふるのみことゝはよめる也
弱女乃 久米連若女の事によりて也
馬自物繩取付 馬には手繩口縄手綱などいふもの付るものなれば、馬の樣にからめられてといふ義也。さもあるべけれど科ある人故、かくよみたる也。とりはなたぬ樣に用心したる義をかくはよみたるもの也
肉自物 しゝのやうに也。御狩の時しゝをとりかこめる如く、ものゝふどもとりまきてと也
退 土佐へさすらへたると也
古衣又打山 古きころもは洗ひて再びうつものから、又うちといふ詞にかけたり。まつち山は紀州也。大和の通ひみち也。
かへりきぬかもは歸參をせぬかと也。此歌は乙麻呂の家人などのよめると聞えたり
 
1020 王命恐見刺並之國爾出座耶吾背乃公矣
おほきみの、みことかしこみ、さすらへし、くにゝでますや、わがせのきみを
 
刺並之 さしなみしとよみ來れり。さしなみしといふ詞いかにしたる義にや。これは被v配ことをさすらへると云ふ古語也。並と云字を書きたるは惣而らりるれろの字は無き故、訓に用ゆる時すべて字を借りて用ふる也。例へば、る、りと云詞に有(173)の字を書きしことあり。あるとよむ字故、その一語をとりて訓字に用ひたるもの也。此並の字此義をもて知るべし。ならべならぶとよむ字故、らへのかなに用ひたり。此格を不v辨人さしなみとは點をつけたる也。さすらへしは流さるゝ國へいでますやと云ふ也
吾背乃公矣 乙麻呂をさして也。妻子か家臣などの歌と聞ゆる也。是より以下乙麻呂を無難に何とぞ二度歸參させしめ給へと、住吉の神に祈り申す事をよみたり。此歌反歌にてあるべきか、心得難し。或抄には反歌と見し也
 
1021 繋卷裳湯湯石恐石住吉乃荒人神船舳爾牛吐賜付賜將島之埼前依賜將礒乃埼前荒浪風爾不令遇草管見身疾不有急令變賜根本國部爾
かけまくも、ゆゝしかしこし、すみのえの、あらひとがみの、ふなのへに、うしはきたまはむ、つきたまはむ、しまのさき/”\、よりたまはむ、いそのさき/”\、あらなみの、かぜにあはせず、くさつゝみ、やまひあらせず、すみやかに、かへりたまはね、もとのくにべに
 
繋卷裳湯湯石恐石 かけまくもゆゝしかしこし、これは住吉の神を尊みおそれていひたる詞也
住吉 日本紀續日本紀等可2引合1。追而可2考出1也
荒人神 あらぶる神といふ義にはあらず。靈驗あらはれたまふ神とほめたる詞也。あしき神をあらひと神ともいへど、こゝはさにあらず。現在に尊き神徳をあらはし給ふ神といふ義也。和名抄云、現人神【和名、安良比止加美】
牛吐賜 あらぶるあしきものをはらひのけ給ひといふ義也。うしはきの事は前に注せる如く不v決義也
付賜將 乙麻呂の着給んしま/”\さき/\と也
草管見 あらき波風に不v中やうに、旅行なれば草にて身をも包みて不v煩樣にとの義也。この事つゝみといふ義色々ありて、無v恙といふこともこれよりいふとの説などあり。義六ケ敷也。一説旅行には邪氣病をのぞくために、藥草をつゝみて持つこと古代のならひ故、草つゝみとはよめると也。此説はさもあらんか。安き義也。しかれども全體海路の歌なれば、波風にあた(174)らぬやうに草などに身をつゝみ用心してと、かるく見る方よき也。草居のつゝしみをしてなどいへる説は、入組みて六ケ敷也。海路一すぢの事に見るべし
令賜 かへり給はねとねがふたる也。すみのえの神にもいのりて、乙麻呂の歸參をすみやかになさしめ給へと願ふ歌にて、すみやかに歸り給ふらんといふ意もきこゆる也。かへり給はねとあれば、かへり給ふにてあらむと云ふ意也
 
1022 父公爾吾者眞名子叙妣刀自爾吾者愛兒叙參昇八十氏人之乃手向爲等恐乃坂爾幣奉吾者叙追遠杵土左道矣
ちゝぎみに、われはまなこぞ、はゝとじに、われはまなこぞ、まうのぼり、やそうちびとの、たむけすと、かしこのさかに、ぬさまつり、われはぞおへる、遠きとさぢを
 
父公爾 これはちゝぎみのためにわれは愛せられし子ぞと云ふ義也。下のはゝとじにも同事の義也
妣刀自 とじとは女の通稱老女をも云ふ詞也。はゝのために、われはうつくしみめぐまれたるまな兒ぞと也。愛兒とかきて語意をあらはしたり。うつくしまるゝ子ぞといふ義也
參昇ル 越行坂路にのぼる事也
恐乃坂 諸抄には日本紀にある懼坂のことに釋したれど、さにはあるべからず。たゞ險難のおそろしき坂路といふ意なるべし。八十もろ人はのぼり來るに手向をしていのり、何事なく行くべきやうにと、こはき坂路にはぬさをも手向けて、あらきかしこき道へ、我は追ひ下さるゝと也。恐乃、との字を書きたれは地名にはあるまじきか
吾者叙追 われはぞおはる也。乙麻呂の自歌と聞ゆる也。おへると云ふ點はあし。おひやらるゝといふ義也。しかればおはるとよむべし。これら隔句體の歌といふものなり。遠き土佐路をわれはぞおはると云ふ義也
 
反歌一首
 
1023 大埼乃神之小濱者雖小百船純毛過迹云莫國
(175)おほさきの、かみのをばまは、せまけれど、もゝふなかみも、すぐといはなくに
 
大埼乃神 土佐なるべし。尤も八雲に土佐としるさせ給へり。しかれども外に不v見ば決し難けれど、先八雲の御説にまかせすでに土佐への配流の歌なれば土佐と見る方義安き也。或抄には紀州の事にいへれど入組みて六ケ敷也
船純毛 これをもゝふなびとゝよませたり。純一とつゞく字義をかりて、一の字をひとつよよむ語をかりて、その外に人とよむべき義心得難し。神とよむ義は精也といふ字義あれば、百船の精靈といふ義、又上にも神の小濱出たるなれば神とよまんこと理相かなふべし。此卷の奧にも、百船純とありて、これも神とよまでは通じ難き歌なれば、神とよませたると見ゆる也。おさともよむべきか、百ふなおさとよみても義は同じかるべけれど、神の小はまとある故、百ふねの神も、此濱をへて泊つくべしとはいはなくにと也。土佐の國へさすらへられたる故、百船神も此處へはよりつきて、畢竟世の外へ我も來りたるといふ意をもて、よまれたると聞ゆる也
過迹云莫國 此小濱をすぎて外へゆかんとはいはぬと也
 
秋八月二十日宴右大臣橘家歌四首
 
諸兄公の事也。聖武紀云、十年正月庚午朔授2正三位1拜2右大臣1
 
1024 長門有奧津借島奧眞經而吾念君者千歳爾母我毛
ながとなる、おきつかりしま、おきまへて、わがおもふきみは、ちとせにもかも
 
ながとなるは ながとにある也
おきつかりしま 長門の地名也。作者長門守故、その國の地名をよみ出でたり。おきつかりしまは下のおきまへてといはんための序也。如v此の所歌也
奧眞經而 沖をへての意也。おきを深めてなどよめる此歌よりなるべし。遠く深くおもふとの義也。長門守がはる/”\と遠國よりも深切に思ふ君はといふ義也。かく深く思ふ君は長く久しく榮えたまひて、幾千年もましませよとねがふたる歌にて、(176)右大臣を祝賀したる歌、初五文字も長く久しきと祝ふ意を含みて也
 
右一首長門守巨曾倍對馬朝臣
 
聖武紀云、天平四年八月〔丁酉、山陰道節度使判官〕巨曾津島〔授2外從五位下1。〕
 
1025 奧眞經而吾乎念流吾背子者千年五百歳有巨勢奴香聞
おきまへて、われをおもへる、わがせこは、ちとせいほとせ、ありこせぬかも
 
おきまへて 和歌故前のおきまへておもふと云ふ意をうけて也。遠く深く不v淺思ふ人はと也
吾背子 男子の通稱にして先をあがめ賞する詞也。君長の稱と心得べし
千年五百歳 返歌故千歳を上を増してこたへられたる也。日本紀神代卷に諾尊の神勅の義にかよへり
有こせぬかも われを千歳にもと祝したまはるそなたは、千五百年ありこさぬか、ありこすにてこそあれといふ意也。我をいはひてよめる詞に、増して祝ひかへし給ふ也
 
右一首右大臣和歌
 
諸兄公の返歌也
 
1026 百磯城乃大宮人者今日毛鴨暇無跡里爾不去將有
もゝしきの、おほみやびとは、けふもかも、いとまをなみと、さとにゆかざらん
 
いとまをなみと里にゆかざらん 右大臣家の宴會に行きて、里へは公勤の暇なしとてゆかずあらんと也
 
右一首右大臣傳云故豐嶋釆女歌
 
此左注を心得違ひて、諸兄王の家持へつたへたまふと釋せる説あり。此集家持の撰と定めたる見解よりの説也。此集家持の撰と云事何の證明も無き事也。これは後人の注なれば難2信用1事多也。尤此注は諸兄の傳にいはくといふ義也。諸兄公の傳(177)を書きたる記ありて、その傳記には、故豐嶋釆女と記しあるを、古注者の見て如v此紀したる義也。左注者を家持と心得、且左注も萬葉集の本注と心得たるは大成誤也。古萬葉といふは、この或本歌云といふ義、如v此の左注なき萬葉集をいひたる義と見ゆる也
 
1027 橘本爾道履八衢爾物乎曾念人爾不所知
たちばなの、もとにみちふみ、やちまたに、ものをぞおもふ、ひとにしられず
 
橘本 これは橘本と云ふ地名あるか。すでに第二卷にも三方沙彌贈答の歌に、此歌と同じやうなる歌あり。そこには古事などあらんかと注したれど、とかくこれは地名ありと見えたり。たちばな寺などいふ所ありと見るべし。そのところは四方八方へ通路の道すぢあるところと聞えたり。もし又橘はいくまたもありて小枝しげく榮ゆるものなれば、その枝の八支といふ義をとりて、みちのやちまたの事によそへいひたるか。必竟の意は、樣々に物を思ふといふことを言はんとて也。そのやちまたといはんとて、橘の本とはいひ出でたるものながら、地名なくては橘をよみ出づべき事にあらず
人にしられず 我思ふ心を先にしられずして、さま/”\にものおもふと也。何とぞ宴會のときにこひしたふ人などを見そめて、釆女のよみたるか。また左注の如く時の興にうたひたるか。とかく歌は戀歌と聞ゆる也
 
右一首右大辨高橋安麿卿語云故豐島釆女之作也但或本云三方沙彌戀妻苑臣作歌也然則豐島釆女當時當所口吟此歌歟
 
是も古注者の文也。高橋安まろ卿語りしと也
高橋安麿卿 時代等追而可2考合1
或本云三方沙彌云々 これは第二卷に此歌と同じ歌ありて少違あり。似たる歌故或説を加へたるか
苑臣 古は女の氏をいへり。苑臣は氏姓也。二卷めには苑臣生羽之女とあり。こゝにも脱せるか。女にも皆氏をいひたれば、女氏にてもあるべし
(178)當時當所 橘家にての宴會の時節に相叶ひたる歌の詞故、興に乘じて歌ひたるかとの注也。しかれば歌は三方の沙彌が歌なるを、此義釆女が吟詠せしかと也。さもあるべきか
 
十一年己卯
天皇遊※[獣偏+葛]高圓野之時小獣泄走堵里之中於是適値勇士生而見獲即以此獣獻上御在所副歌一首【獣名俗曰牟射佐妣】
 
生而見獲 いきながらえられたり
御在所 みましのところ
 
1028 大夫之高圓山爾迫有者里爾下來流牟射佐妣曾此
ますらをの、たかまどやまに、せめたれば、さとにおりくる、むさゝびぞこれ
 
きこえたる歌也
 
右一首大伴坂上郎女作之也但未※[しんにょう+至]奏而小獣死斃因此獻歌停之
 
古注者所見ありて注せるなるべし
 
十二年庚辰
冬十月依太宰府少貳藤原朝臣廣嗣謀反發軍幸于伊勢國之時河口行宮内舍人大伴宿禰家持作歌一首
 
聖武紀云。天平九年九月己亥從六位〔上藤原朝臣廣嗣授2從五位下1。十年四月爲2大養徳守1。式部少輔如v故。同十二月丁卯爲2太宰少貳1。〕十二年〔八月癸未太宰少貳從五位下藤原朝臣廣嗣上v表、指2時政之得失1陳2天地之災異1。因以v除2僧正玄ム法師右衛士督從五位下下道朝臣眞備1爲v言。〕九月丁亥廣嗣〔遂起v兵反。勅以2從四位上大野朝臣東人1爲2大將軍1、從五位上紀(179)朝臣飯麻呂爲2副將軍1、軍監軍曹各四人徴2發東海東山山陰山陽南海五道軍一萬七千人1委2東人等1持v節討v之。十一月丙戌大將軍東人等言。進士無位安倍朝臣黒麻呂以2十月二十三日丙子1、捕2獲賊廣嗣於肥前國松浦郡値嘉嶋長野村1。戊子、大將軍東人等言、以2今月一日1於2肥前國松浦郡1斬2廣嗣綱手1已訖〕
廣嗣 式部卿馬養之第一子也。
幸于伊勢國時 聖武紀云、天平十二年冬十月壬申、任d造2伊勢國行宮1司u。丙子、任2次第司1云々。壬午行2幸伊勢國1。是日到2山邊郡竹谿村堀越頓宮1。癸未車駕到2伊賀國名張郡1。十一月甲申朔、到2伊賀阿保頓宮1宿。大雨途泥人馬疲煩。乙酉到2伊勢國壹志郡河口頓宮1也。謂2之關宮1也。丙戌、遣2少納言從五位下大井王並中臣忌部等1、奉2幣帛於太神宮1、車駕停御2關宮1十箇日。丁亥、遊2獵于和遲野1、免2當國今年租1。乙未從2河口1發到2壹志郡宿1。丁酉、進至2鈴鹿郡赤坂頓宮1〕
河口 紀文の通壹志郡にあり。せきのみやと云ふと也
内舍人大伴宿禰家持 家持此時内舍人にて供奉と聞えたり
 
1029 河口之野邊爾廬而夜乃歴者妹之手本師所念鴨
かはぐちの、のべにやどりて、よのふれば、いもがたもとし、しのばるゝかも
 
手本師 袂のことにもまた手は初語にて、いもがもとのしたはるゝといふ義とも聞ゆる也。よくきこえたる歌也
 
天皇御製歌一首
 
1030 妹爾戀吾乃松原見渡者潮干乃潟爾多頭鳴渡
いもねわび、あがのまつはら、みわたせば、しほひのかたに、たづなきわたる
 
此歌の意諸抄説は、いもにこひわがとうけたるとの説也。吾の松原、三重郡にあるとの義、名所抄等を引きて釋せり。また名所にはあらで、たゞいもにこふあがと請けたる詞ともいへり。第十七卷にも我せこをあが松原とよめり。第十にもわが松原(180)とよめる歌ありて、右二首はつくしにての歌と聞ゆれば、つくしにも吾松原といふ地名あるか。此御歌、河口のかりみやにてよませ給ふと決したる説あれども心得難し。家持歌はさもあるべし。此御歌に端づくりも無ければ、たゞ御幸の時、伊勢にてよませ給ふ歌と見るべし。しかれば吾松原はあこの松原か。此歌の意は、いもねわびといふ義なるべし。夜も御寢わびさせられて、曉方に夜もあくるやとおぼしめして、御寢所よりあこの松原など、御らんじわたされたるときの御製なるべし。御旅行のかりみや故、いもねわびさせられたるとの義に、いもねわびと被v遊しなるべし。さなくては御歌の意、何の御趣向もなき御製なり。いもにこひわがまつとも被v遊まじきにもあらねど、いもねのかた義やすく聞ゆる也。惣而此集中に爾の字をねとよみたる歌數多あれど、皆にとよみ來れり。にとよみては意不v叶歌多し。此御歌もねと讀ませたる歌と見ゆる也。諸抄の説も極めてあたらざるにはあらず。見わたせばとあるは、ひるの御製とも聞ゆる也
 
右一古今案吾松原在三重郡相去河口行宮遠矣若疑御在朝明行宮之時所製御歌傳者誤之歟
 
此注は、河口の行宮にての御製と決したるからの左注也。此注にて左注の文家持にあらざることを知るべし。家持供奉にてすでに河口にての歌あれば、如v此傳者誤歟といふ文あるべきや。とかく古注者も河口にての御製と見るから、いろ/\の注を被v加たり。たゞ伊勢へ御幸の時の御歌にて、吾松原を御覽被v成たる時の御歌と見るべし
朝明行宮 聖武紀天平十二年十一月丙午從2赤坂1發到2朝明郡
 
丹比屋主眞人歌一首
 
元正紀云、養老七年九月〔乙卯、出羽國司正六位上〕多治比眞人家主言云々、〔聖武紀云、〕神龜元年二月、〔從五位下。孝謙紀云。〕天平勝寶元年閏五月〔爲2左大舍人頭1、廢帝紀云、〕天平寶字四年三月癸亥、〔散位從四位下多治比眞人家主卒〕
 
1031 後爾之人乎思久四泥能埼木綿取之泥而將住跡其念
おくれにし、ひとをしのばく、しでのさき、ゆふとりしでて、ゆかんとぞおもふ
 
おくれにし人を みやこにのこしおきたる人をいへる也。おもはくとはよむべからす。下にしでのさきとよめればそのうつ(181)りに、しのばくとよみたり。しのばくにてあらねば、歌の意も不v通也。旅行故したひしのぶの意也
しでのさき 前にはさでのさきさではえしこよと詠めり。その所と同所なるべし。但別所か。しでさで同しければ同所ならんか。これは下のしでてといはんための縁に、しでのさきをよみ出したるときこえたり
木綿とりしでて 旅行にて路頭の神にぬさなど奉りて、古郷の人を無事ならしめ給へと、祈申をして行と也
取之泥而 木綿篠榊などに懸けて神に奉るを、取しでてと云ふ也。木綿をものにかけしだるゝを、しでてとは云ふ也。今四手をかけなど云ふも、しだるゝといふ義よりいふたる也。日本紀神代卷上云、中臣連遠津祖天兒屋根尊忌部遠祖太玉命、〔堀2天香山之五百箇眞坂樹1而上枝懸2八坂瓊之五百箇御統1中枝懸2八咫鏡1、一云眞經津鏡。下枝懸2青和幣1【和幣此云2尼枳底1】白和幣相與致2〕其祈?1焉
將住 是は往の字の誤ならん。しかるを諸抄にも住の字と見ていろ/\の理をそへて釋せり。これらはうたがふべくもあらぬ往の字の誤也
 
右案此歌者不有此行宮之作乎所以然言之勅大夫從河口行宮還京勿令從駕焉何有詠思沼埼作歌哉
 
此注前にも此趣を記せり。然共一概には難v決。丹治比眞人は、御ともにしたがひしも知れぬ義也。既に續日本紀此時の行幸の紀を考ふるに、此注の趣とは違ありて、屋主眞人赤坂頓宮にて從五位下を授けられし事あれば、此左注難2信用1文也
 
狹殘行宮大伴宿禰家持作歌二首
 
此さゝのかりみやのこと紀に脱落あり。然共紀文にあやまりの趣見えたり。追而可v考
 
1032 天皇之行幸之隨吾妹子之手枕不卷月曾歴去家留
すめらぎの、みゆきのまゝに、わぎもこが、たまくらまかず、つきぞへにける
 
きこえたる歌也。
 
(182)1033 御食國志麻乃海部有之眞熊野之小船爾乘而奧部※[手偏+旁]所見
みけくにの、しまのあまならし、まくまのゝ、をぶねにのりて、おきべこぐみゆ
 
御食國 行幸の時御食物を奉る國に、さゝれたるしまのくにのあまにあるらしと也。御けものを奉るしまのくになるらしと云ふ義也
眞熊野之小船 船の名也。此くまのゝふねといふ事、神代紀にもありて、船の名とせられたることは、熊の字を神代紀にわにと訓したり。これは海獣のおぢおそれて害を去るために、船の名とはなしたるか。くまの山の木をもて作れる船、自然と風波の難をさけるといふ事ありて、名付けたるとの説もあれど、正説いづれと決し難し。さゝのかりみやは、しまのくにの海邊に近かりしところなるべし
奧部※[手偏+旁] 奧をこぐ船のみゆると也
 
美濃國多藝行宮大伴宿禰東人作歌一首
 
多藝行宮 聖武紀云、己酉到2美濃國當伎郡1云々
東人 廢帝紀云、天平寶宇五年十月、〔爲2兵部少輔1。〕七年〔正月甲辰朔壬子、以2從五位下大伴宿禰東人1〕爲2少納言1。光仁紀云寶龜元年〔八月、爲2周防守1。五年三月、彈正弼。〕
 
1034 從古人之言來流老人之變若云水曾名爾負瀧之瀬
むかしより、人のいひくる、おいびとの、わかゆてふ水ぞ、なにおふたきのせ
 
むかしより 古來より養老の瀧と、云傳へ來りし名におふ瀧かなと、養老の瀧をほめたる也。唐土にも菊水などいふて、靈水ありて長壽をうる所あり。それ等のことを思ひ合せてよめるなるべし
わかゆ はわかやぐといふ俗の意也。やくはゆ也。尤もわかゞりともよむべし。養老の瀧の事。元正紀云。養老元年八月〔甲戌、遣2從五位下多治比眞人廣足於美濃國1、造2行宮1。九月丁未。天皇行2幸美濃國1。甲寅、至2美濃國1。丙辰、幸2當耆郡多度(183)山美泉1。戊午、賜2從駕主典已上及美濃國司等物1有v差。十一月丁酉朔癸丑、天皇臨v軒詔曰。朕以2今年九月1到2美濃國不破行宮1、留連數日、因覽2當耆郡多度山美泉1。自盥2手面1、皮膚如v滑。亦洗2痛處1、無v不2除愈1。在2朕之躬1其驗。又就而飮浴v之者、或白髪反v黒、或頽髪更生。或闇目如v明。自餘痼疾、咸皆平愈。昔聞、後漢光武時、醴泉出。飮v之者痼疾皆愈。符瑞書曰。醴泉者美泉。可2以養1v老。葢水之精也。寔惟美泉、即合2大瑞1。朕雖v痛v虚、何違2天※[貝+兄]1。可3大2赦天下1。〕改2靈龜三年1、爲2養老元年1
 
大伴宿禰家持作歌一首
 
1035 田跡河之瀧乎清美香從古宮仕兼多藝乃野之上爾
たとがはの、たきをきよみか、むかしより、みやつかへけん、たきの野のへに
 
田跡河 元正紀養老元年九月〔丙辰〕幸2當耆郡多度山美泉1云々。此瀧川也
從古 元正天皇の御幸の時より、于v今至りて此瀧の宮につかふると也。天皇の御手水となりしことなどを、みやつかへとはいへるなるべし。天子の御遊覽なさるゝも此瀧のみやつかへ也
 
不破行宮大伴宿禰家持作歌一首
 
右同時の行幸也。紀を可v考
 
1036 關無者還爾谷藻打行而妹之手枕卷手宿益乎
關なくば、かへりにだにも、うちゆきて、いもがたまくら、まきでねましを
 
關無者 不破の關なくば也。關の事日本紀を可v考。日本三關の一也。行幸の御供ならば關に被v障迄もなく、心のまゝにはなりがたき事なれど、所の地跡によせてよめる也
かへりにだにも 今俗に立かへりにと云ふ意也。かへるさにもと見る意もあれど、此句意不2相合1。これはゆきてそのまゝかへる事を、かへりにだにもとよめると聞ゆる也
(184)打ゆき うちは發語の詞也。ゆきはいもが方へ行きて也
手枕 たゞまくらの義也。よくきこえたる歌也
 
十五年癸來
秋八月十六日内舍人大伴宿禰家持讃久邇京作歌一首
 
讃久邇京 聖武紀云。天平十三年十一月戊辰、右大臣橘宿禰諸兄奏。〔此間朝廷以2何名號1傳2於萬代1。天皇勅曰。〕號爲2大養徳恭仁大宮1也
 
1037 今造久邇乃王都者山河之清見者宇倍所知良之
いまつくる、くにのみやこは、やまかはの、きよきをみれば、うべしらるらし
 
今造 別訓あらんか。尤も此時分、山背國相樂郡恭仁郷に新都を造營したまふ故、かくいまつくるとはよめり
宇倍所知良之 かく山河ともに、おだやかにきよらなる佳勝の地なれば、世にたかく知られ、あらはれんも理りなりとの義也。うべは尤も理りかなといふ古語也。俗にいかにもなどいふ義に同じ。達2叡聞1かく帝都ともなりし事、又この行末世に廣く高く知らるらしと也
 
高丘河内連歌二首
 
高丘元は樂浪といへり。元明紀云、〔和銅五年〕七月甲申、播磨國大目從八位上樂浪〔河内、勤建2正倉1。能効2功績1。進2位一階1、賜2※[糸+施の旁]一疋、布三十端1。〕元正紀云。養老五年正月〔戊申朔庚午、詔2從五位上佐爲王、正六位下樂浪河内等1、退朝之令v侍2東宮1焉。同月甲戌、詔賜2※[糸+施の旁]十五疋、絲十五※[糸+句]、布三十端、鍬二十口1。〕聖武紀云。神龜元年〔五月辛未、〕正六位下樂浪河内、賜2高丘連1
 
1038 故郷者遠毛不有一重山越我可良爾念曾吾世思
(185)ふるさとは、とほくもあらず、ひとへやま、こゆわれからに、おもひぞわがせし
 
一重山 前にも見えたり。山城の内にある地名也。しかるを不v遠たゞ一重なる山といふ義によせてよみ出でたり
歌の意は、ならの故郷は日を經て行通ふ程の所にしもあらず。たゞ一重山を越計の程なれど、こひしたふ我心から、百里もへだたりたる如く、遠ざかれると思ひしたふと也。一重山にても隔て居るからに、かく遠くへだたれる樣に思をするとの義也。此歌は夫婦別れて居たりし時の事を、今一所になりし時によめると聞ゆる也。わがせしとよみとめたるは、過去の義をいへる歌也。次の歌にて一所により合ひたる歌と聞ゆる也
後案、山を越ゆる時思をせしといふ歌にて山を越えてならのさとへ行く時の歌ならんか。しからば一所の時の歌とも不v見也
 
1039 吾背子與二人之居者山高里爾者月波不曜十方余思
わがせこと、ふたりしをれば、やまたかみ、さとにはつきは、てらずともよし
 
わがせこと 夫婦一所に居れば、物思も無きの意、山高くて月をへだてゝ里はてらさでも、月に慰むまでもなく、夫婦相語らへば月の出來るをもまたずて、よし月はてらさでも、二人しあれば物思も無きとの義也。ならの里に行きてよめるか。又久邇の都へ一所により合ひての歌か、そのわけは考へ難し。いづれにもあれ、思ふ人と一所にありし歌とは見ゆれど、居者の二字のよみ樣にて、二人あらんことを願ふ歌にもやと聞ゆる也。二人之をらばとよみては、いまだ一所には不v居歌なるべし。前の歌も山を越から思をせしと、越來る時思をせしといふ歌とも聞ゆる也。此我せことよめるは、河内が妻をさしてよめる樣なれど、妻をせことよめるには論あることにて、※[女+夫]と妹との違より傳寫の誤りとも見ゆる故、此歌も妻の事なるべし。作者を不v擧して、夫婦よめる事集中に例格ある事也
 
安積親王《アサカノミコ》宴左少辨藤原八束朝臣家之日内舍人大伴宿禰家持作歌一首
 
1040 久方乃雨者零敷念子之屋戸爾今夜者明而將去
ひさかたの、あめのふりしく、おもふこの、やどにこよひは、あかしていなん
 
(186)零敷 ゆきあられならでもふりしくともよむべし。雨のしきりてすき間もなく降しきるといふ也。別の意なくよく聞えたる歌也。八束の家に遊びあかしていなんとの義也
 
十六年甲申
春正月五日諸卿大夫集安倍蟲麿朝臣家宴歌一首 作者未審
 
安倍蟲麻呂朝臣 前に注せり
 
1041 吾屋戸乃君松樹爾零雪乃行者不去待西將待
わがやどの、きみまつのきに、ふるゆきの、ゆきにはゆかじ、まつにしまたん
 
君松樹 人をまつと云かけたり。作者不v知歌なれど、主人蟲麿の歌なるべし。此歌は全體言葉の縁をとりてつゞけられたる歌、君まつの木とよみ、ふる零のゆきには行かじとよみ、また下にまつにしと、始終縁語をつゞけたる也。此一格有事也
待西 一本にかく有故記v之。普通には而の字也。しかれども上に松樹とよみ出たれば、まつにしとよみたるにてあらんと見る也。而の字なればまちつゝとよむべし。第二卷にも此下の句と同じ歌あり。そこには待ちにかとも、待ちにはともあり
 
同月十一日登活道岡集一株松下飲歌二首
 
活道岡 第三にもあり。久邇都の近所なるべし。第三にては山とよめり。點本にはいくみぢと假名をつけたり。心得難し
一株 一本の木なるべし。株はかぶとよむ
 
1042 一松幾代可歴流吹風乃聲之清者年深香聞
ひとつまつ、いくよかへぬる、ふくかぜの、こゑのすめるは、としふかきかも
 
一松 一株の松故ひとつまつともよめり。景行紀云。昔日本武尊向v東〔之歳停2尾津濱1而進食。是時解2一釼1置2於松下1遂忘而去。今到2於此1釼猶存。故歌曰。烏波利珥、多陀珥霧伽幣流、比苔菟麻菟《ヒトツマツ》、阿波例比等菟麻菟、比苔珥阿利勢磨、岐農岐勢(187)摩之遠、多知波開摩之塢〕
(187)聲之清 松風の音のさやかに聞ゆるは、老木の松のしるしかもと賞讃したる也
 
右一首市原王作
 
1043 霊剋壽者不知松之枝結情者長等曾念
たまきはる、いのちはしらず、まつがえを、むすぷこゝろは、ながくとぞおもふ
 
いのちは限りあるものなれば知らねども、松の千年に契りをかはして、ながかれと結ぶ也
 
右一首大伴宿禰家持作
 
傷惜寧樂京荒墟作歌三首 作者不審
 
1044 紅爾深染西情可母寧樂乃京師爾年之歴去倍吉
くれなゐに、ふかくそめにし、こゝろかも、ならのみやこに、としのふりぬべき
 
紅爾 ふかくといはん序也。かつ年のふりたるといはん爲、くれなゐとはよみ出でたり。すべて紅とよめば、大かたふりぬるといふ詞を結ぶと心得べし。此歌の意は、ならの都に深くそみし心かも、かく年月の、さのみへぬに、かやうに荒はてたる樣に心に思ふは、此ならの都に心の深くそみし故かといふ歌也。ならの都計りに、かく年のふりぬべき樣はなきにといふ意也。可母といへるは、此ふりぬべきと云止めにて味ふべし
 
1045 世間乎常無物跡今曾知平城京師之移徒見者
よのなかを、つねなきものと、いまぞしる、ならのみやこの、うつらふみれば
 
世の中の變化定めなき理りを、今ならの都のうつり替りて、さしも賑ひ榮えし帝都の荒はつるを見て、歎慨せし也。うつらふは例の延言也。るを延べたる也
 
(188)1046 石綱乃又變著若反青丹吉奈良乃都乎又將見鴨
いはづなの、またわかゞへり、あをによし、ならのみやこを、またもみんかも
 
石綱 岩に生る草也。俗にいはひばと云ふ也。檜の葉の如くにて、炎天のころ日にあひて枯萎みても、水を注けば忽ち青やぎかへりて美しきもの也。よりて石綱の若がへりとはよめり。何程かれしぼみても、跡より若やぎいき/\と生ずるもの也
歌の意はかく荒はてたりとも、うつり變る習ひなれば、石綱の生かへる如く、此ならの都も昔に立かへり、都にもならんかと也。和名抄云、本草云、絡石云々。或抄に此は蔦の事なりと云たれど、石綱とは別種ならんか
 
悲寧樂故京郷作歌一首并短歌
 
此端作りは目録と違へり。京故郷とあり。此義しかるべし。京故轉倒と見えたり
 
1047 八隅知之吾大王乃高敷爲日本國者皇祖乃神之御代自敷座流國爾之有者阿禮將座御子之嗣繼天下所知座跡八百萬千年矣兼而定家牟平城京師者炎乃春爾之成者春日山御笠之野邊爾櫻花木晩※[穴/干]貌鳥者間無數鳴露霜乃秋去來者射鉤山飛火賀塊丹芽乃枝乎石辛見散之狹男牡鹿者妻呼令動山見者山裳見貌石里見者里裳住吉物負之八十伴緒乃打經而思並敷者天地乃依會限萬世丹榮將往迹思煎石大宮尚矣恃有名良乃京矣新世乃事爾之有者皇之引乃眞爾眞荷春花乃遷日易村鳥乃旦立往者刺竹之大宮人能蹈平之通之道者馬裳不行人裳往莫者荒爾異類香聞
やすみしゝ、わがおほきみの、たかしける、やまとのくには、すめろぎの、かきのみよゝり、しきませる、くにゝしあれば、あれまさむ、みこのつき/”\、あめのした、しらしめませと、やほよろづ、ちとせをかねて、さだめけむ、ならのみやこは、かげろふの、はるにしなれば、かすがやま、みかさのゝべに、さくらばな、このくれがくれ、かほどりは、まなくしばなく、つゆしもの、あきさりくれ(189)ば、やつりやま、とぶひがくれに、はぎのえを、しがらみちらし、さをしかは、つまよびどよめ、やまみれば、やまもみかほし、さとみれば、さともすみよし、ものゝふの、やそとものをの、うちはへて、さとなみしけば、あめつちの、よりあはむかぎり、よろづよに、さかえゆかむと、おもひにし、おほみやすらを、たのめりし、ならのみやこを、あたらよの、ことにしあれば、すねろぎの、ひきのまに/\、はるはなの、うつろひやすく、むらどりの、あさたちゆけば、さすたけの、おほみやびとの、ふみならし、かよひしみちは、うまもゆかず、ひともゆかねば、あれにけるかも
 
高しける 高くしきおさめ給ふと也
炎 陽炎の義、今云糸遊の事也。かける火也。いとゆふは火ぴか/\とかける如きもの也。虫に蜻蛉と云ふものをかげろふと云ふ也。それにはあらず。この虫も飛かふ樣かける火の如くなるものから、名づけたるもの也
木晩 前の注に同じ。木末といふと同じ。春夏にかけて、木の梢茂りて暗くなる如き陰を云ふ也。木の下暗など云もこの故也
貌鳥 前に注せり。いづれの鳥といふ事不v决
射釣山 やつり山なるべし。釣は駒のあやまりと見るから、こま山とも點をなせれども、矢釣川といふ地名もあり。その上第二卷にも此まがひあり。伊駒山は河内國也。こゝは全く大和の國ならの都の事をよめるなれば、いこま山にはあるべからず。射駒山に蜂火をおかれし事、國史には不v見也
飛火賀塊 八雲に塊を隈とかゝせ給へり。是を證本とすべし。飛火はのろしの事、烽火の事也。日本紀天智紀三年に見えたり。續日本紀元明紀和銅五年正月壬〔辰、癈2河内國高安烽1、始置2高見烽及大倭國春日烽1以通2平城1也。〕亦延暦十五年山城大和兩國相共便所置2彼烽燧1
飛火 地名なるべし。烽火を置ける處なる故、その處のくまと云義也。古今集にも飛火の野守とよみたり。これは上代とぶ(190)火をおかれし野を、後に飛火野とは呼べるならんか。なれどもこゝも兎角地名也。烽火を置所は如2小山1土を高くもり上おく由也。然ればそのかげといふ義を隈とはよめるか
石辛見散之 鹿の踏しだき折伏せたる樣を云ふ也。川にゐせきにするしがらみの樣に、萩の入まじり折ふしたるを云ふ也
見貌石 見まほしの義也。前にもありし詞也
思並敷者 此句いかにとも難v解。一本思を作v里、是正本なるべし。然れば諸官人の打列りて、家居ならべしきてあればと云ふ義也。打經ては列りたるといふに同じ
大宮尚矣 頼みし大宮をも、久邇の都へ引うつされたると也。隔句體に見る也
新世乃 あたらしき世の事なればと也。その時の世をさしてほめたる詞也
皇乃引乃眞爾眞荷 この引乃と云ふ事、第十九卷にもありて、そこにはますらをの比支乃まに/\とあり。この詞古今釋違へり。これはひきゐのまゝにと云ふ義也。率ゐつれさせられてと云ふ義也。まに/\はすべらぎのみいづのまゝに、率ゐつれ給ひてといふ義也
村鳥 朝たちといはん爲の序也。朝たちゆけばは、ならの都より恭仁の都へ立ゆけば、あとは通ふ人もなく、荒はてたる事を悲みていへる也
 
反歌二官
 
1048 立易古京跡成者道之志婆草長生爾異利
たちかはり、ふるきみやこと、なりぬれば、みちのしばくさ、ながくおひにけり
 
1049 名付西奈良乃京之荒行者出立毎爾嘆思益
なづきにし、ならのみやこの、あれゆけば、いでたつごとに、なげきしますも
 
なづきにし なじみしと云に同じ。ならの都と名づけにしと云ふ意との一説有。難2心得1
(191)出立毎爾 故郷へ往來して出たつ毎に也。二首ともよく聞えたる歌也
 
讃久邇新京歌二首并短歌
 
1050 明津神吾皇之天下八島之中爾國者霜多雖有里者霜澤爾雖有山並之宜國跡川次之立合郷跡山代乃鹿背山際爾宮柱太敷奉高知爲布當乃宮者河近見湍音叙清山近見鳥賀鳴慟秋去者山裳動響爾左男鹿者妻呼令響春去者 岡邊裳繁爾巖者花開乎呼理痛※[立心偏+可]怜布當乃原甚貴大宮處諾己曾吾大王者君之隨所聞賜而刺竹乃大宮此跡定異等霜
あきつかみ、わがすめらぎの、あめのした、やしまのなかに、くにはしも、おほくあれども、さとはしも、さはにあれども、やまなみの、よろしきくにと、かはなみの、たちあふさとゝ、やましろの、かせやまのまに、みやばしら、ふとしきたてゝ、たかしらす、ふたいのみやは、かはちかみ、せおとぞきよき、やまちかみ、とりがね慟、あきされば、やまもとゞろに、さをしかは、つまよびどよめ、はるされば、をかべもしゞに、いはほには、はなさきをゝり、いとあはれ、ふたいのはらに、いとたかき、おほみやどころ、うべしこそ、わがおほきみは、きみなるから、きかしたまひて、さすたけの、おほみやこゝと、さだめせらしも
 
明津神 秋津州の神といふ義なるべし。あきらかなる神といふ意にはあらず。津の字を入れたるは、明の意にあらざる證也。しかれば國史の宣命等にある、明神とあめのしたしろしめすとあるも、秋津神とゝいふ義にてあるべし
八嶋之中爾 大八嶋の中也。日本國の中に也
鳥賀音慟 いたみとあれき、鳥がねどよむなるべし。若しくはさわぐとよまんか
乎呼理 をゝりとは下よりだん/\に上りたるといふ意也。をゝりはのぼりといふ詞に同じ
(192)君之隨 きみなるからとよむ。君がまゝとよみても義は同じ。君なるからみ心まゝに、萬事をきこしめされてと云義也
刺竹乃大宮 高く大なる宮といふ意にて、さす竹とほめたる也。竹はたかといふ詞也。さすは、さゝ又しぬ竹と云事とも聞ゆる也。高く大成と宮殿を讃美したる義也
 
反歌二首
 
1051 三日原布當乃野邊清見社大宮處定異等霜
みかのはら、ふたいのゝべを、清見社、おほみやどころ、さだめけらしも
 
三日原布當之野邊 皆山城の久邇の都の地名也
清見社 清くこそ也。清くよろしき處と定めさせ給ふと也
一云此跡標刺 都を定め大宮をかく立て、その地をしめさせられしと也
さだめけらしも 清床宜所なればこそ、如v此都とは定めさせられたらめと也
 
1052 弓高來川乃湍清石百世左右神之味將往大宮所、
やまたかく、かはのせきよし、もゝよまで、かみしみゆかん、おほみやどころ
 
弓高來 やまたかくとよむ事心得難けれど、古點かくの如くにて、外に讀解べき義もなければ、古點にしたがふ。丘の字などの誤にて、山とよませたるか。※[山+穹、※[山/咢]、※[山+(雨/咢)]此字等の上を脱したるか。尤もゆみやま五音と同音なれども、外に用ひたる例なければ、同音通りにて書きたるとも定め難し。又高來と書きたるも不審なれど、下の河の瀬清しにも石の字を添へたれば、たかくとよませたること明也
神之味 神は天皇をさして稱し奉る也。之味はしげりといふ義にて、榮えまさんと云ふ義也。諸抄にしみはさびと同事といへり。音通じてもさにはなりがたし。第一巻藤原御井を詠ぜる歌に、春山之美佐備とよみたり。然ればしみとさびとは一義也。しみはしげり榮ゆるの義、さびは物ふりたる義を云ふ也
 
(193)1053 吾皇神乃命乃高所知布當乃宮者百樹成山者木高之落多藝都湍音毛清之※[(貝+貝)/鳥]乃來鳴春部者巖者山下耀錦成花咲乎呼里左壯鹿乃妻呼秋者天霧合之具禮乎疾狹丹頬歴黄葉散乍八千年爾安禮衝之乍天下所知食跡百代爾母不可易大宮處
わがきみの、かみのみことの、たかしらす、ふたいのみやは、もゝきなす、やまはこだかし、おちたぎつ、せおともきよし、うぐひすの、きなくはるべは、いほほには、やましたひかり、にしきなす、はなさきをゝり、さをしかの、つまよぶあきは、くもりあふ、しぐれをはやみ、さにつらふ、もみぢちりつゝ、やちとせに、あれつきしつゝ、あめのした、しらしめさむと、もゝよにも、かはるべからぬ、おほみやどころ
 
わがきみのかみの命 天皇をさし奉る也
百木成 百千の木の榮ゆるごとくと云ふ義也。山のしげりたるを云ふ也
花咲乎呼里 すべて山は麓より花咲き、だん/\に奧の峯々と咲上るもの也
天霧合 宗師傳は此字格皆曇るとよむ也
之具禮乎疾 しぐれをはやみ、秋はしぐれにてそめ/\しもみぢもちりつゝと、春秋のかはる/”\年をへる事をいへり
狹丹頬歴 さにほへるは色のこと也。さは初語にて、にほへる紅葉とは赤くてりたるといふ義也
安禮衝 生次也。あれつきまして幾代も不v令v絶天子の日つぎのつゞかせられて、天の下をしろしめさん大宮所と奉2祝賛1也
 
反歌五首
 
1054 泉川往瀬乃水之絶者許曾大宮地遷往目
(194)いづみかは、ゆくせのみづの、たえばこそ、おほみやどころ、うつりもゆかめ
 
1055 布當山山並見者百代爾毛不可易大宮處
ふたいやま、やまなみゝれば、もゝよにも、かはるべからず、おほみやどころ
 
1056 ※[女+感]嬬等之續麻繋云鹿背之山時之往者京師跡成宿
をとめらが、うみをかくちふ、かせの山、ときにしゆけば、みやことなりぬ
 
右三首ともよくきこえて不v及v釋歌也。うみをかくかせとうけてよみたり。延喜式大神宮式云。〔金銅多々利二基、金銅麻笥二合〕金銅賀世比〔二枚、又同式に※[木+峠の旁]の字もかけり〕
 
1057 鹿背之山樹立矣繁三朝不去寸鳴響爲※[(貝+貝)/鳥]之音
かせのやま、こだちをしげみ、あさゝらず、きなきどよます、うぐひすのこゑ
 
1058 狛山爾鳴霍公鳥泉河渡乎遠見此間爾不通【一云渡遠哉不通有武】
こまやまに、なくほとゝぎす、いづみかは、わたりをとほみ、こゝにかよはず
 
狛山相樂郡にあり。和名抄第五國郡部云、相樂郡大狛、下狛【之毛都古末】此貳ケ所の内狛山なるべし。泉川を隔てたる故、久邇都へはわたりを遠みとよめるなるべし。こゝに通はぬはくにの京へ不v來とのことなるべし。泉川も同郡也
 
春日悲傷三香原荒墟作歌一首并短歌
 
荒墟 節一卷に注せり。續日本紀卷第十五聖武紀云、天平六年正月丙申朔〔二月乙末遣2少納言從五位上茨田王子恭仁宮1〕取2驛鈴内外印1、又遣2〔諸司及朝集使等於難波宮1〕庚申、〔左大臣宣v勅云〕今以2難波宮1定爲2皇都1、宜知〔此城京戸百姓、任意往來〕
 
1059 三香原久邇乃京師者山高河之瀬清在吉迹人者雖云在吉跡吾者雖念故去之里爾四有者國見跡人毛(195)不通里見者家裳荒有波之異耶如此在家留可三諸著鹿背山際爾開花之色目列敷百鳥之音名束敷在果石住吉里乃荒榮苦惜哭
みかのはら、くにのみやこは、やまたかみ、かはのせきよし、ありよしと、ひとはいへども、ありよしと、われはおもへど、ふりゆきし、さとにしあれば、くにみれど、ひともかよはず、さとみれば、いへもあれたり、はしけやし、かくありけるか、みもろつく、かせやまのまに、さくはなの、いろめづらしく、もゝどりの、こゑなつかしく、ありはてし、すみよしのさとの、あれらくをしも
 
故去之 ふりゆきし也。ふるされしとはいかゞ。ふるされしとはよまんか。古くなりしといふ義也
波之異耶 はしけやし也。こゝにてはほめたる詞とは不v聞、哀なるかたに聞ゆる也。嘆息の詞故兩方へ通ふか
三諸著鹿脊山際爾 みもろつくかと請けたるは、みもろは神もり也。神社を築くといふ義にて、神とうけたる也。かみの一語にうけたる義也。冠辭を一語にうける例いくらもあり。一語に不v請ばならぬ歌共證例集中に多し。已にとりがなくあづまと云もあと計うけたる義也。しながどりゐとうけたる義、又あとうけたる詞もあり。これはみさごの義に付て、日本紀の由來よりあはとうけたるといふ説あれど、これも附會の説也。しなが鳥あつまると云義にて、あと計うけたるとも聞ゆる也。先このみもろつく、かとうけたるは、神社築神と云ふ義のうけと見るべし。一語にうける冠辭の語集中數多也。第八の歌、たまくしげあしきの河をけふ見ればよろづ代までにわすられんたゞ、この玉くしげあしとつゞけたるも、あしと云あの一語にうけたる也
在果石 ありはてし也。杲に誤るを正本と心得、ありかほしといふ點あれど杲は果の誤也。下に住吉里のとあれば、ありはてし昔ありたりし、住よき里のあれたるをかなしめる歌也
 
反歌三首
 
(196)1060 三香原久邇乃京者荒去家里大宮人乃遷去禮者
みかのはら、くにのみやこは、あれにけり、おほみやびとの、うつりいぬれば
 
1061 咲花乃色者不易百石城乃大宮人叙立易去流
さくはなの、いろはかはらず、もゝしきの、おほみやびとぞ、たちかへりぬる
 
右二首ともよく聞えたる歌也
 
難波宮作歌一首并短歌
 
1062 安見知之吾大王乃在通名庭乃宮者不知魚取海片就而玉拾濱邊乎近見朝羽振浪之聲※[足+參]夕薙丹擢合之聲所聆暁之寐覺爾聞者海石之鹽干乃共納渚爾波千鳥妻呼葭部爾波鶴鳴動視人乃語丹爲者聞人之視卷欲爲御食向味原宮者雖見不飽香聞
やすみしゝ、わがおほきみの、ありかよふ、なにはのみやは、いさなとり、うみかたづきて、たまひろふ、はまべをちかみ、あさはふり、なみのおとさわぎ、ゆふなぎに、かゞひのおときこゆ、あかつきの、ねざめにきけば、うないしの、しほひなるから、納渚には、ちどりつまよび、あしべには、たづがねどよみ、みるひとの、かたりにすれば、きくひとの、みまくほりして、みけものゝ、あぢふのみやは、みれどあかぬかも
 
海片就 俗に云ふかたよりてと同じ。磯邊のかたにつきての意なり。山かたづき谷かたづきてなどよめる、必竟海邊にかたよりて也。乃ち玉ひらふ濱邊とある下の詞へ通也。濱邊にかたよりて玉を拾ふと也
あさはふり 第二巻に注せる如く、磯ぶりなどといひて風のことなり。朝風の吹によりて浪の音のさわぐと也
(197)擢合之聲 これはかゞひの音と點をつけたり。第九巻※[女+耀の旁]歌會と云ことありて、その所の左注に東俗辭に賀我比と注せり。しかるに此にまたかゞひと點をなせること、擢は※[女+耀の旁]の誤りと見てよめるか。心得がたし。かゞひとは卑しきものゝ云來りたれど、それはつくば根のかゞひの事より云たるならんか。此の釋には叶ふべくもあらず。擢合はかぢとよむべきか。又さをとよまんか。兩義の内なるべし。
後考、文選左太仲魏都賦曰、或|明發而《アケホノマデニ》※[女+耀の旁]歌或浮泳而卒歳云々。※[女+耀の旁]歌は□《不明》にかけ合うて歌ふもの故、今船うたなどの如くうたへることを、※[女+耀の旁]を擢に誤りてかけるか。音通じて用ふるか。合といふ字かぢさをの義に少叶ひ難し
海石之鹽 海中の石の事か、また地名か。あまいしといふ點は心得難し。うないしとよまんか
乃共 なるからとよむべきか。しほひと共の意也。ひとつ事といふ義なり。むたと云ふ詞もあれど、語の釋しかと不v決也
納渚 此二字心得難し。尤も入江といふ事あるからかくよませたるか。語例句例あらば、納の字のまゝにてもあるべし
御食向 向は前に注せる物の字ならんかし
味原宮 鳥魚の名なる故、みけものゝあぢふとうけたる也。あぢふは前にもあり
歌の意は難波の宮を讃美したる也
 
反歌二首
 
1063 有通難波乃宮者海近見漁童女等之乘船所見
ありかよふ、なにはのみやは、うみちかみ、あまをとめらが、のれるふねみゆ
 
有通 前にもありて難波の宮へみゆきなりて、諸官人の往來通ふ宮といふ義をこめて、存在してある當前現在のみやといふ義也。聞えたる歌也
 
1064 鹽干者葦邊爾※[足+參]白鶴乃妻呼音者宮毛動響二
しほひれば、あしべにさわぐ、あしたづの、つまよぶこゑは、みやもとゞろに
 
(198)白鶴 これをあしたづとよむこと所以未v考。馬の毛づけをいふに葦毛馬といふは、足の白馬をいふと覺えたり。定而此由來あるべき事也。二首ともよく聞えたる歌也
 
過敏馬浦時作歌一首并短歌
みぬめのうらをすぐるときつくるうたひとぐさならびにみじかうた
 
此浦のこと前に毎度注せり
 
1065 八千桙之神之御世自百船之泊停跡八島國百船純乃走而師三犬女乃浦者朝風爾浦浪左和寸夕浪爾玉藻者來依白沙清濱部者去還雖見不飽諾石社見人毎爾語嗣偲家良思吉百世歴而所偲將徃清白濱
やちほこの、かみのみよゝり、もゝふねの、はつるとまりと、やしまぐに、もゝふなかみの、さだめてし、みぬめのうらは、あさかぜに、うらなみさわぎ、ゆふなみに、たまもはきよる、しらまなご、きよきはまべは、ゆきかへり、みれどもあかず、うべしこそ、みるひとごとに、かたりつぎ、しのびけらしき、もゝよへて、しのばれゆかむ、きよきしらはま
 
八千桙之神 大己貴命の事也。日本紀神代上卷云、〔大國主神亦名大物主神、亦號2國作大己貴命1、亦曰2葦原醜男1亦曰2八千戈神1、云々〕
百船純 もゝふなびとゝよむこと心得難し。純一といふ字注の意をもて、一はひとつとよむ故ひとゝはよみたるか。前にも注せり。神とよむ義は精也といふ字義あり。又神の字の注に純也とありしと覺えたり。然れば船の神の定めしと云ふ義也。日本國の船の神の此みぬめの浦を泊り處と定めてしと也
清白濱 清き白濱と、みぬめの浦をほめたる歌也
 
反歌二首
 
(199)1066 眞十鏡見宿女乃浦者百船過而可往濱有七國
ますかゞみ、みぬめのうらは、もゝぶねの、すぎてゆくべき、はまならなくに
 
眞十鏡 まそかゞみ、みと一語にうけたる也。不v見に請けたるにはあらず、これら一語に請たるの證也。すぎて不v往は、此處の景色もよき濱故、百船の船も皆此濱に泊ると所をほめたる也
 
1067 濱清浦愛見神世自千船湊大和太乃濱
はまきよみ、うらうつくしみ、かみよゝり、ちぶねのとまる、おほわだの濱
 
浦愛見 浦うつくしみはよき浦故、諸人の愛する處といふ意なるべし。なつかしみともよめり。意は同じ。然れどもなつかしとよめる例心得難し
神世より 今にはじめぬ事にて、遠き昔より千船百船のよりあつまる義をかねて、みぬめの浦を讃美したる詞の縁に、かく大わだの濱とはよみ出て、則大わた地名也。播磨にも攝津國にもよめる也。同名異所なるべし
湊 みなとゝよむ字也。然れども和名抄にも説文を引きて、水上入所v會也とあり。此字義によりてとまるとはよませたらんか。契沖抄には泊と書きて、和名集云、〔唐韻云、泊、傍各反、和名〕度末利也。と記したり。通例印本和名抄には不v見、心得難し。さて泊の字も通例の萬葉集には湊の字なり。契沖所持の本は泊の字に作りしか。不審也
 
右二十一首田邊福麿之歌集中出也
 
これは古注者福麿の家集を所見したると見えたり。福麿自作か、いづれとも知れ難し。悲傷寧樂京郷作歌と云より廿一首也
田邊福麻呂 雄略紀河内國飛鳥戸郡人田邊史伯孫。聖武紀云。天平十一年四月〔正六位上〕田邊史難波〔授2外從五位下1。〕此難波の子なるべし。越中守なりし時、諸兄公使に被v遣しことあり
 
萬葉集童蒙抄 卷第十五 終
 
(200)第六卷難解歌 (校訂者補)
 
916 茜刺日不並二〔四字傍点〕吾戀吉野之河乃霧丹立乍
 
925 烏玉之夜乃深去者久木生留〔四字傍点〕清河原爾知鳥數鳴
 久木別訓あらんか
 
931 鯨魚取 云々 益|敷布〔二字傍点〕《しく/”\と読むべし》爾月二里二月日〔六字傍点〕《・十七卷の歌を證とす》雖見今耳二
 卷第十七の歌云、夜麻未枳波比爾比爾佐伎奴宇流波之等安我毛布伎美波思久思久於毛保由
 
942 味澤相妹目不數見而〔九字傍点〕 云々
 
卷第九哀弟死去長歌云、春鳥能啼耳鳴乍味澤相〔三字傍点〕霄晝不云 云々
 
948 眞葛延〔三字傍点〕春日之山者打靡 云々
まくずはふかすがとつゞく事
 
(201)八十友能壯者折木《不イ》四哭之來繼皆石此續〔折木〜傍点〕常丹有脊者 云々
 
976 難波方潮干乃奈凝委曲〔二字傍点〕見在家妹之待將問多米
 
986 愛也思不遠里〔三字傍点〕乃君來跡大能備爾鴨〔五字傍点〕月之照有
 
997 住吉乃粉濱之四時○《美》開藻不見隱耳哉〔粉濱〜傍点〕戀度南
 
999 從千沼回雨曾零來四八津之泉郎網手綱〔三字傍点〕乾有沾將堪香聞
 
1015 玉敷而待益欲利者多鷄蘇香仁〔五字傍点〕來有今夜四樂祈念
 
1030 妹爾戀吾〔四字傍点〕乃松原見渡者潮干乃潟爾多頭鳴渡
 
1047 八十件緒乃打經而思《里イ》並敷者〔四字傍点〕天地乃 云々
 
(202)1062 前略 潮羽根浪之聲※[足+參]夕薙丹擢合之聲〔七字傍点〕所聆 中略 寢覺爾聞者海石〔二字傍点〕之鹽干乃共納渚〔四字傍点〕爾波 云々
 
1067 濱清浦愛〔傍点〕見神世自千湊〔傍点〕大和太乃濱
 
萬葉童蒙抄 本集卷第六終