貝原益軒、和州巡覧記(国書データベース)〔推定判読はその字の右に?を付した、漢字の新旧字体の不明なものは新字体にした。〕
大和めくりの記
(3コマ)和州巡覽記《ヤマトメクリノキ》
〔題の右に〕遊(フ)2和州(ニ)1者《ヒト》持(スル)2此書(ヲ)1則靈地遺跡行程里数不(シテ)v假《カラ》2郷導(ヲ)1而|足《タレリ》矣
〔題の左に〕書林柳枝軒茨城方英謹識
大和廻
京より吉埜へ徃來の路をしるす玉水より藪の渡をこえ奈良《なら》の西を見西の京より先|奈良《なら》へ行きそれより郡山《かうりやま》へ出吉埜へ行《ゆき》帰《かへり》に又奈良を過《すき》笠置へ上り京にかへる道すちをしるす
京五条の橋
東福寺 五条橋より十三町東福寺の南(4コマ)太子|堂《たう》の前に石橋あり此所まて京|兆尹《てうのいん》知《しる》v之《これを》是より南は伏見所司の處分也
稲荷《いなり》 東福寺より是まて十一町|七瀬川《なゝせかわ》橋有|筋違橋《すぢかひはし》とも云
伏見藤杜《ふしみふぢのもり》 伏見の城|址《あと》山上に天守《てんしゆ》の址《あと》有山上山下|甚《はなはた》廣《ひろ》し山下|桃《もゝ》の木多し春は美観《ひくはん》をきはむ
豊後《ふんこ》橋 秀吉公の時豊後の國主大友氏はしめて此橋をかけられし故名つけり昔《むかし》は此道なくして奈良へ行くには宇治を通りて行しなり秀吉公おくら堤《つゝみ》をつかせ此橋をかけさせ此道をひらき給ふ五条橋より二里一条札の辻より伏見京橋まて三里豊後橋へは三里に少近し向嶋は豊後橋を越て西南也|豊臣太閤《とよとみたいかう》伏見在城の時向嶋に源(5コマ)君の御宅あり其御跡今に残れりまはりは沼《ぬま》也
巨椋《をぐら》の茶屋 豊後橋より五十町あり其間小倉|堤《つゝみ》なり堤上に民家二所有皆|槇島《まきのしま》より作り出たる店《てん》也|巨椋《をくら》の入江萬葉に哥あり名所なり
新田《しんてん》村 里人おくら新田と云町長し淀領也
狼《おほかみ》茶屋
久世《くせ》の茶屋 凡《およそ》宇治橋の西より此邊まて皆久世郡也
長池《なかいけ》 久世郡なり伏見より三里あり茶|店《てん》あり旅《りよ》人の宿驛《しゆくゑき》也町の北に長池の跡とて田地の廻りに堤あり今の町も古の池の跡也と云此里に當歸《たうき》を多くうゆ山城當歸とて名産《めいさん》也又山城大|根《こん》とて大(6コマ)|莱菔《たいこん》あり此里の西南に登《と》埜と云里|地黄《ちわう》紫蘇《しそ》薄荷《はくか》荊芥《けいかひ》白芷《ひやくし》等をうゑて利とす又其北に寺田|枇杷《ひは》(ノ)庄川下にみづしなと云所にも茶草を多くうゆると云長池より田原の郷《かう》にゆく道有又玉水よりもゆく長池より田原の郷の入口|郷《かう》の口と云所迄一里半はかり有田原は山中にありて深幽《しんゆう》なる里なり十六村あり郷の口に町あり冨《ふ》人多しこれより勢田へも紫香楽《しからき》へも又宇治へも出る郷《かう》の口より鷲峯山《しゆふせん》へ一里半|麓《ふもと》を大道寺《たいだうし》と云それより鷲峯山まて二十餘町有高山也山上に弥勒堂《みろくたう》有|僧舍《そうしや》五坊有|白鳳《はくほう》四年|役行者《ゑんのきやうしや》初て開《ひら》けり真言宗也山上より近國よく見えて佳景《かけい》なり田原は綴㐂《つゞき》の郡にして鷲峯山は相楽《さから》郡|和束《わつか》の郷に(7コマ)属《そく》せり和束も田原の如くかくれたる郷なり是又十五村山中にあり笠置《かさき》の方に近し宇治より田原にゆけは栗子山《くりこやま》國《くに》見たうげなとをすぐ其間左右はふかきがけにて路せはくあやうき所なり宇治より三里に近し田原と云所大和にも河内にもありて皆《みな》深《しん》山の内にありまきらはしとて俗《そく》に此所を宇治田原と云宇治に近けれはなり
玉水 綴㐂《つゝき》郡なり長池より五十町有此所|昔《むかし》は人家なし近世立たる里也井手の玉水有し所なる故町を玉水と云今は宿驛也玉水は町の北の入口|艮《うしとら》の方京よりゆけは左半町はかりに高四尺長三四間なる石垣《いさいがき》あり其|岸《きし》の下に深田《ふけた》あり其中にありしと(8コマ)云是ひが事なり信ずべからず町の北の入口の西の方なる道のほとりにも井あり是を玉水と云人あれとひか事也玉の井は町より艮《うしとら》京よりゆけは左の方二町はかりひきゝ山の下に玉井寺とて律《リツ》宗の寺あり其佛堂の前にきよく浅き井あり水わき出つ古哥によめる玉の井是なり玉水と玉井とは別《ヘツ》所に非ず一也證文多(シ)昔は今の玉水の町より通る道はなくて此寺の邊山きはに奈良にゆく大道有しと云玉川は玉水の町を奈良の方にゆく南の出口にあり東より西に流るゝ小川なり玉水玉の井玉川此所に玉の字をつけたる名所三あり井手の里は玉井の上の方なる岡の上にある里也天神の社有井手左大臣|諸兄公《もろゑこう》の舊宅《きうたく》は此里の東観音寺と云(9コマ)寺の南三町|許《はかり》山の麓《ふもと》に在北大|塚《つか》南大|塚《つか》と云田間に泉水|築《つく》山の跡《アト》今少々残れり又|岩《いは》の松中嶋なと云田地の字《あざな》有と云井手の山吹は此おくの谷|高堤《たかつゝみ》と云所にありと云花はひとへ也他所に移《うつ》し植《うゆ》れは枯《か》るゝと云へりされとも玉川にも玉井にも玉水にも皆山吹をよみたれは一所にはかきるへからす此里にすへて昔は山吹おほかりしにや今は見えす井手の蛙《かはづ》はふろのやぶ【本名|御園《ミソノ》浦】といふ處にありといへと是又一所にかきるへからす他所の蛙の聲《こゑ》にかはりて其なく聲おもしろしと云山中には所によりおもしろき音《ね》してなくかはつあれはさも有なん他所の蛙多く喧《かまびすし》き所に此蛙をひとつはなては衆|蛙《あ》なきやむといへり
薮《やふ》の渡《わたり》 玉水より近し是より木津へは堤《ツヽミ》を直《すぐ》に行《ゆく》なり川を越れは郡山へ行道也堤の上渡(10コマ)し場《は》にある民家を鳥井村と云|紙幡《かばた》村の支《ゑた》村也是より二町はかり東に光明山の鳥居の跡あり治承《ぢせう》の乱《らん》に高倉の宮御|最後《さいこ》の地也光明山の寺の跡はかばた村の上の茂《シゲ》りたる山の東|側《がは》にあり昔は大寺有しと云鳥井有しは神も有しにや
祝園《はふその》 玉水より一里なり茶|店《や》有|馬驛《むまつぎ》にあらす里の入口左に柞杜《はゝそのもり》あり名所なり日本紀に羽振苑《はふりその》とあり是なるへし森の中に春日明神の社有大社也此迄は薮の渡りをこえて來れる道也
吐師《ハゼ》 祝園より一里有茶|店《や》有馬|驛《つぎ》にあらす是より十町餘行て山城大和の境《さかい》あり大なる松ある所より南に溝《みそ》有是をかきりとす
歌姫《大和・うたひめ》 吐師より一里半是より大和の内也凡大和路三あり上津道は東に在て奈良より長谷の大道也中津道は哥姫《うたひめ》より吉埜の通路也(11コマ)下津道は今の大道也玉林抄に見えたり
○神功皇后《じんぐくわうぐう》の御陵《みさゞき》哥姫の町なかより坤《ひつしさる》の方五町|許《はかり》に在《アリ》邑《さと》人|御陵山《これうやま》と称し又大宮と云小山也老松|茂《しげ》れり是日本紀に所謂《いはゆる》狹城盾列《さきのたてなみ》の池上の陵なりまはりからほり有北の方よりのほる路有又石|塚《ツカ》とて神功皇后の陵の西に大なる陵有小松少々生たり其西南に村ありみさゞき村と云(12コマ)本多氏天子の御陵なる事をしりもとのことく土を封《ふう》すへしと命《めい》せらる
(33コマ)河内に属《そく》せり婦《ふ》人は此山に上る事をゆるさす大和の方のふもとより一里有河内の方のふもと水|分《わけ》の社より六十六町あり或説に日本四番の高山なりと云此山に登《のほ》れは大和河内攝津其外諸國|眼下《がんか》に見ゆ
高間山《たかまやま》 ふもとに高間寺有山の腹《はら》に朝原寺有
八木(やき) 町あり郡山よりすぐにこれに通る中道あり四里半道其間に田原本と云町あり郡山より田原本へ三里田原本より八木へ一里半有|馬驛《むまや》也是より今井へ八町あり八木の町中より大坂へ行道有八木より高田※〔田に濁点〕へ一里高田より立田へ行也又八木より土佐へゆくは吉埜への大道也
今井 廣《ひろ》き町也|冨《ふ》人多し大和の國中にて豊饒《ふによう》なる所也道の西五町にあり千家有と云是より大坂へ行道あり
(34コマ)畝傍山《うねひやま》 今井八木の南道の四五町西にあり里人は持明寺山と云山の巽《たつみ》にうねひ村|橿《かし》原村あり神武帝《じんむてい》の橿《かし》原の都《みやこ》(ノ)地此邊なり一説山の東大久保と云所|橿《かし》原の都のあとなりといへり日本紀に神武天皇長|髓彦《すねひこ》をうち天下を定《さた》め給ひ畝傍《うねひ》山の東南|橿《かし》原の地國のもなかなる故都を作り給ふと見えたり神武の陵《みさゝき》はうねひ山の艮《うしとら》に在今はわつかに残れり田の中に有里人は神武田《じぶでん》と云大久保村四條村の邊なり又うねひ山の西の麓《ふもと》に神武天皇の御社有又|安寧《あんねい》天皇の陵はうねひ山の南に有き日本紀に見えたり帝王編年には片|塩《シホ》の浮|穴《アナ》の宮|畝傍《うねひ》山の北に在又曰今の四条村の北皇居の跡也安寧《あんねい》天皇の都也○乾《いぬい》の方に鳥田の陵有是|綏靖《すいせい》天皇の御陵也(36コマ)坤《ひつしさる》の方に御|蔭《かげ》の陵有是安|寧《ねい》の御陵也|巽《たつみ》の方に小谷の陵有是|懿徳帝《いとくてい》の御陵也凡郡山より此間大和の國中也平原の地にて碁盤《こはん》の表のことし
久米《くめ》寺 久米の仙人建立本尊薬師也|來目《くめ》の邑《さと》はうねひ山の西の川邊に在由日本紀に見えたり此邊に芋洗《いもあらい》の芝《しは》と云有久米仙人の見し女の物洗ひし所と徒然草に見えたり久米《くめ》寺の邊|花出山《はなてやま》と云|際《きは》に益田《ますた》の池の跡《あと》かすかに残れり性靈集《しやうりやうしう》に空海のけける碑銘《ひのめい》あり其碑今はなし又琴引原《ことひきはら》白鳥の陵も益田の池の西に在益田の池名所なり嵯峨帝《さがてい》の御時ほらせらる久米の巽《たつみ》にごぼうと云所町あり
輕《かる》 久米村の艮《うしとら》にあり名所なり
耳無《みゝなし》山 名所也俗には天神山と云八木の町よ(37コマ)り五町許東に在|天香《あまのかく》山の北也此邊に鬘児《かつらこ》の池有万葉十六卷に哥有八木よりうねひ山久米の方にゆく又此道に帰りて安部|飛鳥《あすか》の邊を通りて吉埜の方に行はまはりなれ共名所古跡を多く見んため也此大道は耳無山の南に在此道は八木より桜井へゆき長谷《はせ》へ通《とほ》る路《みち》也|横《よこ》大|路《ち》と云|姿《すかた》の池も耳無山《みゝなしやま》のかたはらに在と云
吉備《きび》村 道の少南に在吉備公の生れ給ひし處と云|石塔《せきたふ》有吉備公の墓《はか》と云北に大|佛供《ぶぐ》村有大なる邑《さと》也|推古天皇《すいこてんわう》の都|小墾田《をはりたの》宮の所也吉備村より東へ行《ゆく》事四町許|戒重《かいヂウ》と云町有此所は敏達《びたつ》帝の皇居|磐余譯語田《いははれをさだ》の宮在し地也
天《あま》の香《かく》山 ひきゝ山也|麓《ふもと》の村を膳夫村と云吉備村より南に在道は香山の東を行也萬(38コマ)葉亦風土記にうねひ山|耳《みヽ》梨山香山を大和の三山と云國中には此三山の外に山なし吉埜の方より來れは蘆原峠《あしわらたうげ》より北に三山一目に見ゆ
阿|倍《べ》 文殊有|岩窟《いわや》有其内に不動有仲丸清明此里の人と云仲丸か墓《はか》とて田の中に在但此人は唐にて死せり眞《まこと》の墓にてはあるへからす雷《らい》の岡も此邊に在是より桜井へ半里許有
飛鳥《あすか》の里 飛鳥井は町口に在南に飛鳥川あり一説にきのふのふちそけふの瀬となるとよ見し飛鳥川は河内に在|沙《すな》川にて渕瀬《ふちせ》のかはりやすき川也此川は渕瀬かはらすと云此邊は允恭《いんげう》天皇の都の地也|難波《なには》の堀《ほり》江と云所も此地に在今は池也|豊浦《とよら》村の内に有豊浦寺の東飛鳥川の西|難波《なには》堀江也是(39コマ)|守《もり》屋大臣佛|像《さう》をやきてすて給ひし所なり今かすかにのこると玉林抄にも見えたり
岡 町あり此里は舒明《しよめい》天皇のみやこ崗本の宮の跡也又|斎明《さいめい》帝天武帝も崗本の宮に住給ふ東の方の高き所に觀音堂あり順礼の札うつ所也崗寺と云天智天皇建立し給ふと云此處|逝回《ゆきき》の崗と云飛鳥川にちかし藻塩《もしほ》草に出たり
橘《たちはな》寺 崗の町より五町はかり西にあり其道に飛鳥川あり厩戸皇子|勝鬘《しようまん》經を講せられし寺也此邊|安閑《あんかん》天皇橘の宮の跡也と云
土佐《とさ》町 高取山の西のふもとなり長き町也
高取《たかとり》山 土佐町の東に在山上に城有山上より吉埜よく見えて佳景《かけい》なる地(?)きこゆ高山の上に城あるは當世|稀《まれ》なり山の北に檜隈《ひのくま》村有|宣化《せんくわ》天皇の都の地なり檜隈《ひのくま》川有名所なり
(40コマ)壷坂《つほさか》 土佐の町を出て吉埜の方へ数町ゆけは清《し》水谷と云町有是より東にわかれて十町はかり行けは山上に壷《つほ》坂の觀音堂有順礼の札所也寺を号(ス)2南《みなみ》法華寺(ト)1是より比蘇寺《ひそし》を經《へ》て吉埜にこゆる道有此外四の坂あり
比蘇寺《ひそし》 聖徳太子の建立のよし元亨釈書に見えたり
蘆原嶺《あしはらたうげ》 大和の中道八木かい道より吉埜へ越る道なり坂有ひきし坂を南の方へこして村あり芦原村と云凡大和の國中より吉埜へ越に四の坂あり多武《たふ》の嶺《みね》より越《こす》を細嶺《ほそたうけ》と云高くけはし嶺《たうげ》より吉埜山見ゆる是東より第一に在《あり》次に崗の町より高取山の東を廻りて越を芋《いも》が嶺《たうげ》と云吉埜山よく見ゆる是亦|高嶮《かうけん》なり上市へ出る次に芦原嶺《あしはらたう》也吉埜山見えす次に車坂是芦原嶺(41コマ)の西にあり是もひきし是は當麻の道より越坂也右の外に又紀州より越を宇野|嶺《たうげ》と云五條より一里北なり伊勢より越を高見|嶺《たう》と云高山也高見嶺に吉埜より七里有
土田《つちた》 町有土佐より二里有伊勢より紀州へ通る道也馬|驛《つき》なり吉埜の麓《ふもと》より十町はかり河下にあり河より北也土田より十町はかり河邊を上りて河むかひにこせバ六田也又土田より下にひがい本と云町あり東谷本と書それより二三町下に下渕《しもふち》と云町有是當麻の方より下市へ行《ゆく》道也土田より下淵へ十町有下淵より紀州へゆく下淵の河むかひは即下市也橋をわたる下市は冨人多し民家千|軒《けん》有と云是は紀州へ行道にはあらす天《てん》の川十津川へ行道あり兩所皆吉埜郡也天の川へ七里有下市に毎月六度市有吉埜川の南に(42コマ)所あり吉埜河の源《みなかみ》はおばか峯《みね》より出る上市より八里上るなり大臺《おほたい》か原と云或曰大臺か原に巴《ともゑ》か渕《ふち》とてふかき水あり吉埜川熊野川伊勢の宮川此三大河の水上有と云但是は虚説《きよせつ》なりといへり但おはか峯《みね》には巴《ともゑ》かふちとてふかき水有と云吉|野《の》川その水上を尋れはむぐらのしつく荻の下露とよめる哥のことく源は一所には有へからす(43コマ)〔この辺脱文あるか、入力者〕高し山間に渕多し此河の末《すへ》は紀の川也紀州和哥の浦へ出る紀伊の湊《みなと》と云六田を過てやがて吉埜山の坂に上るを一の坂と云一の坂を上りゆけは山口に四手《しで》掛の明神在左四五町に水分山有一の坂より吉埜の町まて五十町の間左右は皆|並《なみ》木の桜なり兩三方の山にも谷にも桜多し坂口より奥の院まては百町有|子守《こもり》明神の前の坂の下(43コマ)まては山高からす長く出たる山の尾の上の背を通る六田は其尾崎なり故に吉埜山に上るには六田より入か本道なり吉埜へ行人は必先此道より入へし飯貝《いがひ》の方よりも吉埜町へ上るそれはわき道なり本道にもわき道にも童《わらへ》共桜の木高二尺はかりなるを多くうる唐※〔金+華〕《たうくは》をもちてうゆる徃來《わうらい》の人是をかひてうへさせて通る
吉埜町 町の入口より子守明神の坂の下まて左右民家つゝきて千餘軒有町の入口の少前左の山の傍《かた》に有桜を日本が花と云此所桜尤多し日本か花の南より銅の鳥居まてを関《せき》屋の花と云鳥居より東に御《み》船山あり名所也鳥居の高二丈五尺|柱《はしら》のめぐり一丈一尺と云鳥居より少西に殿井坂有|義經《よしつね》の妾《せふ》静《しつか》を吉埜法師|等《ら》生捕《いけとり》し所也と云(44コマ)凡此地は金峯山《きんふせん》の尾の長く出たる高岡の背《せな》の上に民家有故に左右共にかけ作りにて三|階《かい》の屋也|但《たゝし》上の第三|級《きふ》の客舍《やと》は道なみにて常の平屋のことし三|階《かい》の閣《かく》とは見えす其次の第二級は主《あるし》の居《をる》室《しつ》也かまどあり上の座敷より主《あるし》の居る所に下る其口は穴《あな》に入かことく梯《かけはし》より下る是は二|階《かい》なり其下に又|梯《かけはし》より下れは土座の屋有是は雜物|薪《た木ゝ》等を積置所也|浴《ゆあみ》所|厠《かはや》もこゝに有|客舍《きやくやと》は左右みな谷上に望めり東方の客|舍《やと》に景《けい》好《よき》所多し此町にてうる土産多し
葛《くす》 榧《かや》 烟草《たはこ》 紙【くずとてあつき紙有又杦原有薄紙あり】 漆《うるし》 塗《ぬり》物【椀折敷まげ物小樽等色々多し】 燧《ひうち》 ※〔魚+條〕《あゆ》 瓶鮨《つるべすし》 柿 山折敷 松|蕈《たけ》 香蕈《しいたけ》 花籠 造《つくり》花 【鳥花 花扇 等多しみな小児《こども》の戯弄物なり】 頭巾《づきん》 法螺《ほら》の貝 蔵王《ざわう》堂は高き所に有|後《うしろ》の三門北に向ひ堂(45コマ)は南にむかへり大殿也前に四本桜ありこの堂は町の半より前にあり
実城寺《ぢつじやうし》 蔵王堂の乾《いぬい》の方三町ほとに有寺産三百石つけり里民は御《を》屋敷と云|後醍醐《こたいこ》後村上二帝五十六年住給ふ皇居の地是也其時の皇居の殿を其まゝ模《うつ》して作り改めし家と云家作り甚|美《ひ》好也|華飾《かざり》なし眞《マコト》に皇居と云つへし常の御座有遠山見えて景よし都たにさひしかりしを雲はれぬ吉埜のおくの五月雨の空と後醍醐帝の詠《ゑい》し給ひしも此所にてなるへし彼《かの》帝《みかと》御遊の時の大|鼓《こ》笙《せう》今に此寺にあり
吉《よし》水院 蔵王道の少先の町より左に二町はかり下る寺なり古寺也文治元年源の義經|大物《たいもつ》の浦より風波の難《なん》をのかれ此山にのほり夜に入ひそかに此寺に入る吉埜法師等義經(46コマ)をうたんとせし故此寺を出中院谷に隠(レ)しに僧徒跡を求め來りけれは佐藤忠信を残して防矢《ふせきや》を射《い》させ静《しつか》を捨《すて》置て多武の峯を經《へ》て南院の内藤室(ノ)十字坊へ入られしと也又後醍醐帝京都を逃《のが》れさせ給ひ此寺に潜《せん》幸ありし時先此院へ行幸ありて行《かり》宮とし後に実城寺に移り給ふ此院の床を枕として讀給ひし御哥に花にねてよしや吉埜のよし水の枕の下に石はしる音
近世豊臣太閤も吉埜の花見の時此寺に留り給ふ要害によき地なり義經のとゝまり居られしも後醍醐天皇のしばし皇居とし給しも即今の家にていまた作りかへすと云甚ふるき家にて屋作ひきし
稻荷明神 蔵王堂より一町
朝の原 東に在【哥によめるは片岡の朝の原也】
(47コマ)燈籠《とうろう》の辻
桜本 當山の山伏の先達大峯修業の寺也
勝手《かつての》明神 右にあり大宮若宮二社也北向也此神前にて静《しつか》法楽の舞《まひ》を舞し装束《しやうそく》并義經の鎧《よろひ》寶蔵にありしか正保の比|火災《くわさひ》にやけ失《うせ》ぬ
御影《みかけ》山 勝手の右にあり
袖振《そてふり》山 名所なり古哥有勝手明神の上道の側に在|昔《むかし》天武天皇此所にて琴《こと》を弾《たん》し給し時天女下り羽衣の袖を五度ひる返し舞哥ひし故袖|振《ふり》山と云由云傳へたり人丸定家家隆京極|良經《よしつね》袖振山の哥有又大|伴《トモノ》王從(フ)2駕(ニ)吉埜(ノ)宮(ニ)1詩有
夢違《ゆめたかへ》観音 獏《ばく》の観音とも云道の右に有此先の東の谷に瀧桜雲井桜有雲井桜は高峯に見ゆ瀧桜は谷閒に見ゆ是子守(48コマ)の社の下の谷なり
禅定《せんちやう》寺 禅宗にて今|黄檗派《わうばくは》の寺なり。
大将軍(ノ)社 本道筋也其上に辻堂あり其西を中院谷と云
花|矢倉《やくら》 辻堂の少し上なり忠信《たゝのふ》か防矢《ふせきや》射《い》たる所也横川の禅師覚|範《はん》のうたれし所は此右の谷なり
辰《たつ》の尾《お》 花矢倉の上なり民家あり道の左右を布引の桜と云
世尊寺 此所に大なる鐘有元亨釈書に日本木像のはしめなるよし見えたり
子守《こもり》明神 西向に立てり社殿甚|美麗《ひれい》也御子守の神と古哥によみしは此神なるへし秀頼《ひてより》公|再興《さいこう》せり小峯の上にあり是より上には町屋なし平地を行也此社を少し過行て牛頭天王の叢祠《ほこら》あり西の方に大(49コマ)杦殿とて大なる杦あり魔《ま》所と云此谷を桜谷と云右にあり
高城《たかき》山 万葉集に詠す俗に城山と云此邊つゝしか岡有太平記にかきし大塔の宮のこもり給ふ城あと也或曰大塔の宮の城は青|峯《ね》か嶽《たけ》なり敵は上《かみ》の宮瀧の谷より寄たりと云り宮瀧は此下に在其末は即夏箕《なつみ》河也|忠信《たゝのふ》か偽て自殺《ぢさつ》したるまねしたる所も此地なり
はるかの谷 つゝしか岡の下なる道の左の谷也如意輪寺の谷とは山の尾を隔《へた》てて南に在遠く見ゆる谷なる故に名つけたるか桜多し。
岩倉谷《いわくらたに》 はるかの谷の西也はるかの谷と左右に對せりはるかの谷は左にあり此谷は路より右にあり桜多し
(50コマ)金性《こんしやう》大明神 是吉埜山の鎮守也此所より奥の院まて下乗なり
蹴《け》ぬけの塔 金性大明神の左の奥少坂を下りて行く此あたりを隠家《かくれか》と云此塔は飛|騨《だ》の匠《たくみ》か立しと云古塔也義經此塔の内に隠れ居て逃《のがれ》て下の谷へ入即上の宮瀧なりそれより西河《にしかう》へ落行と云俗に義經のけぬけし塔と云
青|峯《ね》 けぬけの塔の南の上なる高山なり名所なり古哥多し此下に龍《りう》か谷とて有義經馬を捨られし所と云此東の谷に義經の落行し時竹をたはめて向へわたられし處有
奥院の茶屋 坂を上りつくして上に在
安禅寺 飯高山と云伽藍なり右に多寶の塔有本堂は蔵王也役《ゑんの》行者自作と云(51コマ)僧寺を又寶塔院といふ
四方正面堂 おくの院是也安禅寺より三町はかり奥に在秘佛の堂なり観音不動愛染地蔵其わきに蔵王堂有おくの院の山は高き山なれ共吉埜山の絶頂《ぜつちやう》にはあらす絶頂は山|上《濁点あり》とて猶五里あり
西行の庵室 四方正面堂より西北にあたる堂の後より路あり山の岨《そは》を二町程行て下る其間に小川あり小瀧あり苔の清水と云菴室に西行か繪像あり西行此所にての詠哥多し此所に三年住けるとなん人遠く閑寂《かんせき》なる所也
青折《あをり》の嶽《たけ》 安禅寺の前の茶屋より直にゆけは大峯へ入細道有其先に青折かたけ有此所に道左右二筋にわかる左は西河《にしかう》へ行き右は大峯へ入道也是より山上まて五里餘山上よ(52コマ)り一里の小篠《をざゝ》にて山伏|護摩《こま》を修する毎年六月朔日より同七日まて諸人|潔斎《けつさい》して上る毎年七八月に本山當山の山伏の先達入峯す峯入の道に三百八十餘のいはや有りと云蟷螂《トウラウ》が窟《いはや》、聖天※〔濁点あり〕の窟菊の窟|蝙蝠《カウモリ》の窟笙の窟なと尤大なり蟷螂か窟深き事二町餘穴の廣さ四尺はかり高さは所によりて高下有おくに池有菊の窟は其岩|悉《こと/\く》菊花の紋をなせりとそ其外山伏の秘所なれは見る事なし凡吉埜山を金峯《キンぶ》山とも金《かね》の御|嶽《だけ》とも國軸山とも云清少納言か枕草子にはみたけと書り 是より以下奥の院より瀧へ行道をしるす
清明か瀧 青折か嵩より一里有此瀧は岩間より漲《みなきり》落る瀧也十二間許もあらんか甚見事なる瀧也瀧の上岩の間に淵有此下の邊|蜻蛉《かげろふ》の小野とて名所なりしからは蜻(53コマ)螟《せいめい》か瀧なるへきをあやまりて清明か瀧と書なるへし瀧の上なる山を琵琶《ひわ》山と云此瀧の末を音無《おとなし》河と云【名所のおとなし川にあらす】
西河《にじかう》の瀧 是吉埜川の上也大瀧とも云う村の名をも大瀧と云。清明か瀧より五町はかり有此瀧は只|急流《きうりう》にて大水岩間を漲落る也。よのつねの瀧のことく高き所より流落にはあらす岩間の漲きり沸《わく》事甚見事也近く寄て見るへし遠く見ては不v堪《タヘ》v賞(スルニ)是より山を越て北に行(ケ)ば又村有是又|西河《にじかう》と云此河を音無《おとなし》河と云清明か瀧の流なり此河は上半月は下流に水なし下半月は上流に水なし是|奇異《きい》の事也訛言《クハコン》に非す西河のおくに所々村里あり義經西河へ落行し時宿の主《あるし》に給し太刀今に有青江國次二尺六寸有
國栖《くす》 大瀧より一里此里は宮瀧と西河との間(54コマ)にあり七村有と云應神天皇十九年吉埜の宮に幸《ミユキ》し給し時|國栖《くす》人來り醴酒《ひとよさけ》を献し哥をうたひし事日本紀に見えたり公事根源《クシコンケン》(ニ)曰國栖の奏とて哥をうたひ笛を吹ならすは吉埜より年始《ねんし》に参たりと云意也又清見原天皇此所に入せ給ふ天皇の御哥有此里に人家多し此邊紙を多く漉《すく》所也國栖紙と云厚き紙あり此下に樫の尾|樋《ひ》口と云所有
夏箕《なつみ》 河むかへにある村也西河より夏箕へ出るに佛か峯とて一里の坂ありて上下す其峯の北の方左に蝉が瀧とて段々に落る瀧有上の瀧蝉の形に似たり少下に樫尾の茶屋有それより三町はかり行けは夏箕也夏箕川は名所也吉埜河の上也萬葉にふなばりの夏箕の上に時雨ふるらしとよめり(55コマ)家持の哥にも吉魚張《ふなばり》夏見の山とよめり然れは夏箕の上の山を吉魚張と云なるへし
宮瀧 村は川むかひに有夏箕より三町程行(ケ)ば宮瀧有西河より此地まて一里餘あり山谷めくれり宮瀧は瀧にあらす両旁に大岩有其間を吉埜河流るゝ也両岸は大なる岩なり岩の高き五間許屏風を立たるかことし両岸の間川の廣さ三間許せはき所に橋あり大河こゝに至てせはき故河水甚ふかし其景甚妙なる所也宮瀧は後撰集山家集新選六帖等に哥あり名所也紀の男人藤原の萬里の詩あり里人岩飛とて岸の上より水底へ飛入て川下におよき出て人に見せ銭を取也飛時(ハ)両手を身にそへ両足をあはせて飛入水中に一丈許入て両手をはれは浮(ミ)出(56コマ)ると云又是より東に清き河原又日くらし埜と云名所有又大河の邊《べ》形《かたち》の小埜なといへる名所ありといへとも其所未詳何も古哥有宮瀧の下に御園村有川よりこなた也いもせ山に近し其下は上市なり故に此地よりすくに龍門の原屋〔河原屋のことか〕上市へも出る
桜木(ノ)宮 宮瀧より五町はかり芳埜へ帰る道|傍《ばた》也左の方に橋をみて行けは小山有村あり其内に小社あり是桜木(ノ)宮なり其前に流るゝ水を象《きさ》の小川と云名所也古哥多し橋を外象《ときさ》の橋と云それより先に象《きざ》谷と云村あり桜木の宮より十町許ゆけは坂有高瀧とて瀧あり其上の山を象山と云名所也萬葉にも夫木にも象の中山をよめりけしやうの窟《いはや》と云所有其先に行て山を上れは桜多し是より如意輪寺へ行道也
如意輪寺 勝手の社より八町はかり東に有谷のむかひなり今は浄土宗なり山寺なり後醍醐(57コマ)帝を葬りし御寺也御陵は後《うしろ》の山に在(リ)寺より近し大なる陵なり寺に後醍醐帝の自きざみ給ふ御自身の木像あり衣冠し給ふ其|御厨《みづ》子のとびらの内に吉埜より熊埜まての畫圖有|巨勢《こせ》の金岡か書しと云其上に後醍醐帝の晨翰にて御讃の詩四首あり何れも七言四句也平|仄《そく》律《りつ》にかなひ韻《ゐん》をふめり真書也又御手馴し硯箱有
吉野町より西河宮瀧桜木宮なと遊観して徃來六里有路險なる故に早朝に出て申の時帰る此間の景他山にすくれて美なる事言語を絶す山高く峯々ひいて川流いさきよく林木うるはしく諸山こと/\く甚高|峻《しゆん》なり山中谷底に榧《かや》の木多き事幾千万株と云事をしらす
凡《およそ》此山は六田の方の麓より奥の院まて百餘町(58コマ)の間民家なき所は左右皆|並《なみ》木の桜也又左右の傍《かたはら》も下の谷も左右のかげなる所々の谷々にも皆桜多しまれに杦有二三月は花の世界と云つへし榧《かや》は谷底に多くして山にはなし春は麓より先花|開初《さきそめ》てやうやく山に咲のほりて奥の院にておはる麓の花|盛《さかり》過て中の花盛《さかり》になる中の花盛過て上の花盛に開く其間大やう三十日許有又|晩《をそ》桜は麓にも所々に在て春の季奥の院の花盛の比盛に開く有初桜は高き所にあるも早く咲也凡此山の桜は皆一重なり八重桜は山中及民家僧坊に一株もなし空風はけしき年或風雨久しく續けは花の容色あしく故に年に寄て好否あり山僧の曰此四十年以前は今よりも此山に桜多し今は昔より少(ナ)し山僧又曰凡此山の花上中下一時に不開といへとも(59コマ)大やう立春より六十五日に當る比を盛の最中とす又里人数人に問《とう》にも皆如此いへり但年の寒温《カンウン》によりて遅速《チソク》あり是町より前の桜多き所のさかりにあたる吉埜の町より少前東の方に山のさし出たる所有桜のさかり此あたりより左右谷の内まへよりむかひ左より右およそ方二千町はかりたゝ一目に見えて皆花の林なりおもしろき事たとへていはんかたなし雪《ゆき》のあけぼのはたゞひたしろにてわいだめなし此所花のところ/\にさきほころひたるよそほひうき世の外の物にやとあやしまるおよそ桜は雲すきに見えたるはあやなし山のかたほとり又谷そこにありてむかひにすき間なき所にあるを見たるがよき也此所の花は四邊の山のかたはら谷のそこにあるをたかき所よりのそみ見てたとへは大なる盌《ほとぎ》(60コマ)なとの内を見るやうにそ侍かうやうのめてたき見ものはやまとには云におよはすおそらくは見ぬもろこしにもあらしとそ思ふ其外のあだし國はさら也|子守《こもり》より上の花はおそし此山にて桜を切事を甚禁す桜木を薪《た木ゝ》にせず故に樵夫《きこり》桜を賣らず若薪の内に桜あれは里人是をゑらびすつ是里人の偏《ひとへに》に桜を愛《あい》するにもあらす蔵王権現の神木にて惜《をし》み給ふと云つたへて神の祟《たゝり》を畏《おそ》るゝ故なり
蔵王権現に領地五百石|実《しつ》城寺に三百石子守勝手の明神に各二百石又僧寺に千石附く凡此山の寺は真言天台両宗也其中に真言七十坊天台三十坊凡百坊有古は寺領多といへとも中比乱世に悉《こと/\く》没収《もつしゆ》せらる豊臣《とよとみ》太|閤《かう》此山に登りて知行を寄附し(61コマ)給ふ今に相傳はる事右にしるすかことし
○詞林采葉抄曰吉埜の宮何の時初て建られたりと云事をしらす神武天皇日向の國より御船にて難波につき河内を過て生駒《いこま》山を越給ひしに長髓彦《なかすねひこ》防《ふせ》き奉りしかは葛城《かつらき》をこえて吉埜に入ますと云々篤信案に日本紀應神帝十九年吉埜宮に行幸あり天武帝も吉埜へ入らせ給ふ持統天皇は毎年吉埜へ幸《みゆき》し給ふ事幾度といふ事をしらす文武帝も臨幸有又詞林采葉抄に曰元正天皇養老七年五月吉埜の離宮に幸し給ひし時|笠《カサノ》朝臣金村哥に曰 神代より吉埜の宮のありかよひたかくしれるは山川をよめ此哥吉埜の宮神世よりありしと見えたりいふかし但神武帝|畝傍《うねひ》の橿《かし》原の宮におはしましゝ時此(62コマ)所に離宮《りきう》を構《かま》へて臨幸ありけるにより神世とは神武の御時をさして云へるか聖武天皇も神龜元年三月吉埜に幸し給ふ事日本紀に見えたり
○丹生《にふ》の社は勝手明神と佐投明神の間の谷を南の方へゆく其道をさい谷と云廣橋長谷なと云所を通る嶺《たうけ》もあり吉埜より四里はかり有此社は二十二社の一にて名社なり丹生山|丹生《にふ》川あり下市の方よりもゆくなり賀名生《かなふ》も丹生の半里はかり西にあり
○鳥|棲《せい》山に鳳閣寺《ほうかくし》といふ寺てらあり聖寶僧正のすめりし所と云
○吉埜の巽《たつみの》の方は伊勢也|坤《ひつしさる》は大和より紀州につゝけり西南山多く至りて其遠き事|幾許《いくはく》と云事をしらす又此西に十津《とつ》川とて温泉《ゆ》の出る里多く吉埜より十六里おく也吉埜の東(63コマ)西南方は皆山遠くつゞけり只北方は桜井まて山中六里有て山猶浅し誠に比類なき深《シン》山|幽谷《ゆうこく》なれは人跡|絶《たへ》てあるましき所なれ共花の時は云に及はす常に遊観の人又は奥の院蔵王へ参詣の男女|絡驛《らくゑき》してたゆる時なく遠客の來る事甚多し籃輿《らんよ》も亦多し故に客舍《やと》も多し客舍《やと》の風景|好《よ》く屋作りも潔《いさきよ》し又客舍の食|器《き》他所よりよし漆器《ウルシノウツハ》多故なるへし主《あるし》の饗《まうけ》も他|驛《ゑき》よりいさきよし山中なる故に里俗|淳朴《シユンほく》に見えて館主又は山僧の客を接《せつ》する事薄からす市の價《あたひ》も大やう不v貳《ふたつにせ》真に類すくなき名|區《く》なるへし金|峯《ぶ》山の事は義楚六帖第二十一巻にも見えたり然れはもろこしまても聞えたる處也
○吉埜より天《てん》の川へ四里|泥《とろ》川へ四里|小篠《をざゝ》へ七(64コマ)里大峯へ六里京へ二十二里大坂へ十六里奈良へ十一里多武峯へ四里紀州和哥山へ十七里高埜山へ十一里伊勢山田へ二十五里有
○是より以下吉埜より帰路をしるす
七曲(リ)坂 吉埜町金の鳥居より北へ帰れは町中(カ)より右に別《ワカレ》路有是多武(ノ)峯の方へ行路にて吉埜の傍蹊《わきみち》なり此下の坂を七曲(リ)と云此坂にて村童共多く桜|苗《なへ》をうりて即唐|※〔金+華〕《ぐわ》を持て植《うゆ》る下の谷を桜田と云名所也下れは左の山の傍の桜を俗に日本か花と云此所に桜花多し日本か花のむかひに花|薗《その》山有|御《み》舟山あり皆名所なり古哥あり左に隠れ松とて大木あり其左の高き所に山の井あり名所也|基俊《モトトシ》の哥あり
丹治《たんぢ》 七|曲《まかり》の坂を下りて谷にある村なり
飯貝《いがひ》 丹治を過て吉埜河の西(南か)岸に在里也(65コマ)町有萬葉集にも猪養《いがひ》の山をよめる哥あり此河の渡りを桜の渡と云藤原の宇合遊2吉埜河(ニ)1十二句の排律《はいりつ》の詩有此邊にての事なるへし
上(ミ)市 吉埜河の北岸に在町也飯貝のむかひにあり船にて渡る上市よりも大和の國ならにこゆる道ありて山谷へ入是は芋《いも》が嶺《たうけ》に行道也右に行は龍門の谷の内に入此地の河邊の両|旁《かたはら》に河を隔て妹背《いもセ》山とて両山有飯貝の方にあるを背《セ》山と云西也古城の形《かたち》見ゆる龍門の方にあるを妹《いも》山と云東也是は茂《しげ》山なり妹山背山二ともに高からす同し大さなる山也川をへたてゝ両山相むかへり両山の間を吉埜河流る古今集の哥に流(レ)ては妹背の山の中に落る吉埜の河のよしや世中とよめり妹背《いもセ》山は名所なり古哥多し大伴首(王か)か詩有然るに古哥に吉埜によめる哥も紀(66コマ)伊によめる哥もあり故に顕昭《ケンジヤウ》か袖中抄又名寄等には妹背山は紀州にありと見えたり吉埜川の下にありと云然れ共紀州にあるは川中にある嶋なり背山と云妹山といふへき山其あたりに見えす日本紀孝徳帝紀にも紀伊(ノ)兄《セの》山とかけり是妹背山にはあらす古人名所の有所の國をとりちかへたる事おほし吉埜の妹背山は古今の哥によくかなへり紀州の兄の山は古今の哥にあはす續後拾遺行家哥になかれてもうき瀬なみせそ吉埜なるいもせの山の仲河の水とよみ侍れは此所にある妹背山を是とすへし是より外には吉埜川の末紀伊の湊《みなと》まての間に河をへたてゝ二ならべる山なし妹背山と称しかたし此道は龍門の谷にて伊勢へも紀州へも通る大道也行人多し龍門の谷長し(67コマ)凡二十一村ありと云両山高くして谷|迫《せま》れり妹背山より宮瀧へ行道も有河上なり
龍門の茶屋 町有此南(北か)の上に龍門の嶽《たけ》とて高山有|頂《ちやう》上に石二見ゆる山なり此山遠方より能ゆる其山下に龍門の瀧有此茶屋より左に行|別《わかれ》(レ)路あり多武の峯へ通る道也直に右に行けは龍門の谷中にて伊勢へ行道也多武の峯の方にゆけは別に谷あり其谷中を西北へ行里にも大なる榧《かや》の木多し村民其|子《み》を収《おさ》め賣て利とす凡|榧《かや》の木一株に数|斛《こく》実《み》のると云吉埜の里民其冨をかそふるには榧《かや》の木の数を以てす子にゆつるにも他所の冨商《ふしやう》の金銀を譲与《ゆづりあた》ふるかことく榧《かや》の数を以てかそへ分つと云此さきに杣《そま》木を取|茂山《しけり》有凡此邊の山に北國杣人來りて材木を取(68コマ)て和哥山又南都の方へ出す里人も亦しかり又此山中より小《すこし》なる庭木を種々掘(リ)て秣籠《まくさかご》のことくなるかごに入て持出桜井の市なとにてうる
西谷 左右材木多し
細嶺《ほそたうげ》 龍門の茶屋より一里上下共に峻《けはしき》坂なり是より南山を顧《かへり》み望めは衆山重畳して幾重幾里と云事をしらす諸山皆高し就中大峯釈迦か嶽《たけ》尤高し其|頂《いたゝき》西に傾《かたふ》きて見ゆる世俗に高山の次第を一富士二釈迦と云りことに富士に次たる高山なるへし此|嶺《たうげ》より吉埜山は坤の方に見ゆ花の時は山白く見ゆる山背《サンセキ》の町屋つゝきて見ゆ就中蔵王堂能見ゆる細嶺を北へ下れは谷中に入此地所々民家多し又|深《シン》山|幽谷《ユウコク》なり
(69コマ)多武《たふ》の峯《みね》 談《かたらひ》山とも云吉埜より四里餘細嶺より一里北に在|細嶺《ほそたうげ》より北へ流るゝ谷は桜井の方へ下る又道の傍《かたはら》に西より流出る横|溪《たに》有是多武の峯の入口なり橋ありそれより西へ六町ゆけは多武の峯大職冠鎌足公の神|廟《べう》有右の峯の下の傍高所に在南面也峯頭にはあらす廟堂門|廡《ぶ》皆|美麗《ひれい》を極む甚|儼然たり社領三千石附(ケ)り廟前に澗《たに》水流る廟後は青山美景也向ひにも青山有両山の間近し神廟の西に十三重の小塔あり名誉の塔也此下に職冠鎌足公の遺骨《ゆいこつ》を其長子|定慧《ぢやうゑ》和尚摂津國|阿威《あい》山よりこゝに改葬《かいさう》せらる此事元亨釈書第九巻定|慧《ゑ》傳に見えたり右に書たる十三重の塔は唐より取來りし材《き》なり此事又釈書に見えたり定慧は淡海公《たんかいこう》の兄《あに》なり廟の左(70コマ)右とむかひは皆僧坊なり睿《ゑい》山の末寺也多武の峯を出て東の道に付て北へ少下れは町屋有是より麓《ふもと》まての道は峻《けは》しからす両山の間の谷|岨《そは》を漸々に下る道の傍に村里多し多武の峯より五十町下れは多武の峯の鳥居のあと有今は鳥居なし是より多武の峯にて毎町に石表をを立て町数を刻む鳥居の跡より桜井の宿迄十六町有
倉《くら》橋村 是用明帝|崇峻《しゆじゆん》帝の都の地なり陵あり
外山《とび》村 道の東にあり昔の名長|須根《すね》村是長|髓《すね》彦の住し所と云り日本紀神武紀に云長|髓は是|邑《むら》の本号なりよつて人の名とす鵄《とび》の瑞あるに依て時の人とび村と号すといへり是より巽《たつみ》の方山間に道有宇多へ行道有十町許過て忍《をし》坂村有それより二十(71コマ)町許行て埴《はに》坂と云嶺あり是宇多へ行道なり是より東は宇多郡也宇多は山中なり町有
長門《ながと》村 小山のふもとにあり是用明天皇の都池邊の列槻《つらつき》の宮と云し所なり是より阿部の文殊近し又此邊に上宮村有是上宮太子の居給ひし所なり桜井より南六七町にあり
桜井の宿 多武の峯より是まて六十六町有一里半十二町なり町有|頗《スコフル》廣《ヒロ》し冨人有毎月六度の市たつ所なり故に民家|饒《にき》はし是より八木今井吉埜當麻|長谷《はせ》三輪諸方へ道有通|衢《く》なり客舍《やと》多し旅客の多く止宿する所也桜井を出て初瀬へゆけは昔の椿《つば》市の跡有かなや村より四町許東なり近き比観音堂を立たる所なり左に(72コマ)佐埜の渡有
人丸墓 哥塚と云又人丸の墓は奈良より一里餘南|櫟《いちゐ》本と云所にも有
磯城《しき》嶋 桜井三輪の方より長谷《はせ》へゆけは慈|恩《をん》寺村あり其先道より北に芝原あり是しき嶋の地なり南の傍に田あり字《アザナ》を雲の上と云是|欽明《キンメイ》天皇の都金|刺《さし》の宮なり玉林抄に云金刺の宮は河むかひに竹原有其内に小松ありと云當世は田畠に成て前嶋の名ありと云
高|圓《まと》山 三輪の崎より巽《たつみ》龍谷に有名所也
初瀨《はつせ》 迫(泊か)瀬とも書又|長谷《はせ》とも云此地三輪より先(キ)は両山|澗《たに》水を夾《はさ》んて谷中長き故に長谷と書なるへし隠口《こもりく》のはつせと云も山の口かくれこもりておくふかけれはいへるなり桜井より是まて一里半有麓の町民屋(73コマ)多し長谷《はせ》寺は元正天皇養老五年に創立又文武天皇の御時徳道上人これを造立すとも云本堂は八|棟《むね》作り十一面の観音高一丈六尺也二王門は南に向へりふもとより上まて瓦ぶきの長廊ありて其屋下に石階あり寺へ登《ノホ》る路なり北へ上り東へ轉《テン》し又北へ上る山上に僧坊多く学寮多し寺領五百石此内に小池三百石六坊二百石真言の学僧集まる所也小池坊むかしは紀州|根來寺《ねころし》にありしに天正十三年秀吉公根來寺破却の後寺僧諸國に流浪し智積院は京都に寺を立小池坊は此地に寺を立て今に其處をかへず山上の景尤美也桜も少有初瀬山秋冬は紅葉甚うるはし旅客諸人の多く遊観|造《サウ》詣する所也向に小き長き山あり八塩《やしほ》の岡と云長谷の川上に(74コマ)二本の杦あり古川埜邊あり
笠荒《かさのくはう》神 長谷より一里はかり山のおくなり霊|鷲《じゆ》山竹林寺といふ善無畏三蔵の笠とて有俗説なり
是より帰り路をしるし
三輪か崎 三輪山の南の尾さきなり佐埜渡も此河と云へり
三輪 初瀬より一里半社は道より北の方山のふもとに有社の下に三輪町あり是より奈良へも長谷へも桜井にも通す社に廟堂はなし拜殿の上にひきゝ山ありて杦多し参詣の人是に向て拜す後(ロ)は大なる茂山也社の前大御輪寺平等寺といふ寺あり山の北のおくを檜《ひ》原と云又山かげに玄賓僧都の住し跡有岩陰也三輪の町に索麺《さうめん》を多くうる名産なり
(75コマ)穴師《あなし》山 巻|向《むく》山とも云或曰穴師山と巻向山とは二也ならびて近き山なりと云穴師山の上に十市《とをち》常陸(遠長の官位)か城あと有此山は三輪より丹波市にゆけは右に有高山なり又湯|槻《づき》かだけ有穴師の里有巻向の珠珠(城か)《たまき》の宮垂仁帝の都也此邊に緒環《をたまき》塚あり岩田村のあたりに巻向川あり道にあり
箸《はしの》御墓 大道の西のほとりに小山有箸中村に在崇神帝(ノ)御おば倭迹々百襲姫命《やまとゝもゝそひめノみこと》を葬《ほうむり》し墓《はか》也日本紀崇神天皇紀に見えたり
柳本 町有柳本と丹波市の間に大和《やまと》大明神あり二十二社の内なり
釜口寺 山号は長岳山と云弘法大師の開基也
中山寺 聖徳太子建立にて十一面観音なり
山邊郡・丹波市 三輪より二里半柳本より一里八町いにしへの海柘榴《つば》市は右にしるすことく三輪の近所(76コマ)にあり其後此所につは市をうつしたるなるへしつば市たんば市は相ちかし此町旅客の止《し》宿する驛《むまや》也凡吉埜より長池まての道|籃輿《かご》多くして馬すくなし
内山 丹波市と石上《いそのかみ》の間大道より東へ行山ぎはの里也永久寺とて鳥羽院の創立し給ふ真言寺有大寺也寺領千石附と云後醍醐帝笠置の城を落てこゝに入御し給ふ大塔宮のかくれ給ひし處もこれなり
紀の有常の宅のあと 石の上の町より四五町南に別所と云村有其東北のはたけの中に有常田とて有井の形今に残れり即井筒の井也今側に柿《かき》の木あり
石上《いそのかみ》 丹波市より一里有町あり馬驛《うまつき》には非す
布留《ふる》 石上の東の山きはに在里の名也名所也万葉に哥有其里に布留大明神の社有(77コマ)石上より六七町有素性法師此所に住めり
有原寺 石(ノ)上の少北なり東北方道|傍《かたはら》に在古墓有
桃《もゝ》の尾の瀧 布留より北の山に有布留の瀧と云名所也其山のうへに龍福寺あり義渕《ギヱン》僧正の開基《カイキ》なり内山布留桃の尾はいつれも道よりはるかに東にあり三所は同しつゝき也おひとき地蔵は道のはた也
菩提《ほたい》山 僧坊多し大道より一里はかり東の山の中なりかへるさの道に高井の虚空蔵あり道よりちかし
奈良 平城《・なら》とも寧楽《・なら》とも書今の北都に對して南都とも云元明天皇より桓武天皇まて七代此所に都し給ふ今の町にはあらす昔の都の跡は興福寺の西二条村にあり右にしるせり今の町に丹波市より三里有町廣し(78コマ)此邊|舊跡《きうせき》多して不v可2勝(テ)計(フ)1也此地の名産は 刀 剃刀 小刀 酒 晒布《さらし》 墨 團扇 法論《ほろ》味噌 鎧《よろひ》 風爐【今は西の京と云處在下手也】 饅頭《まんちう》 草履《そうり》等也昔塩瀬(始祖林浄因が三河に移住して塩瀬と称したらしい)と云者唐に渡りてまんぢうの製法を傳來て此地にて初て作ると云其後京都諸所に遍《あまね》く作り習ひし也初て作り出せる故今も此地に饅頭多く作る又此地の民つねに茶粥《ちやかゆ》を食す其法他郷より容易《ようい・たやすし》也|天井《てんしやう》は丸き小竹をよくあらひてならべ其上に薦《こも》を敷土を以て上をぬる又た大竹を打ひしぎてならへたるも有大和國中皆かくのことし布は國中より織いだすを當地般若寺近所又は菅原村の近邊疋田と云所にて多くさらす也
般若《はんにや・十六》寺 聖武帝の御草創也本堂は文殊也大安寺の縁起此寺に有是|菅丞相《かんしやうせう》の筆跡也
(79コマ)般若寺坂《十五》 佐保川の北也此邊北山十八間戸に癩《らい》人の屋あり道の傍《かたはら》に圓《まろ》石多し是に踞《こしかく》れは癩人とも其|堂に入るゝと云
奈良坂《十四・ならさか》 般若《はんにや》寺の北にあり是南都北の口也一説に今の奈良坂は古哥によめるなら坂にあらす今南都の西にある日蓮宗㐂見院の前の坂古のなら坂也其所を今も坂と云是古に所謂《いはゆる》なら坂也豊臣秀吉公豊後橋をかけ巨椋《をぐら》堤を築《つき》給ひしより今の般若寺の北の坂を通る其昔は㐂見院の前より柞《はゝそ》の森を過|薮《やふ》の渡を越し也奈良と木津との間に大和山城の境有
木津《山城相楽(ノ)郡・十三》 奈良より五十町あり町より二町許北に木津川有是泉川の下也大河也舟にて渡る沙川也此川の源は是より十三里ばかり有伊賀の國山田郡阿和(阿波のこと)と云所より出是伊(80コマ)賀の東のはてなり阿惠郡をすぎ笠置《かさき》へ出てこゝに流る伊賀半國の水この川に流る是より淀《よと》の大橋へ出る木津の東に鹿背《かせ》山と云所あり名所也|久尓《くに》の都も鹿背山の邊なるへし今は都の跡をしる人なし恭仁《くに》(ノ)宮も同事也|布當《ふたい》も同所也河の北に狛《こま》の里あり三村あり名所は上狛《かみこま》也此所昔は瓜作りし故古哥に瓜をよめり今は瓜を作らす狛の里山埜渡皆名所也狛の渡は木津河也又古哥にこつ河ともよめり
是より笠置《かさき》へ行《ゆく》道をしるす奈良《なら》より笠置へ行には木津へ行かすして般若寺《はんにやし》町より北に出て梅《むめ》谷【奈良より艮《うしとら》の方一里山城の内也奈良と梅谷の間に大和山城の境有】高向村なとをへて賀茂へ出れは道近し
賀茂 木津より二里有賀茂に六郷有川(81コマ)はたに在を里村と云賀茂明神あり此河は木津川の上|泉《いつみ》川也|茶店《ちやや》有|旅《たひ》人の宿驛《やと》也川の北は瓶原《みかのはら》也賀茂より笠置へ二里有是より笠置まて皆山城國|相郎《さがら》の郡也
鉄(銭?)司《でづ》 川の北にあり近村より薪なとを此所へ出し川舟にて淀伏見へうる是より淀まて舟路七里有此所|橘《みかん》多し北に山あり南に向へる里にてあたゝかなる故橘よく産す
小屋村 川の北也銭司より十町許河上也
草畠の渡 泉川のほとり也南より北へ舟にて渡る是より笠置へ十二町有
桐《きり》山村 山の半|腹《ふく》に有南をうけたり廣き也|蜜橘《みつかん》多し
北|笠置《かさき》 人家多し馬驛なり南笠置とは河をへたつ是より京へ十三里餘木津へ四里柳生へ一里大川原へ一里半【大川原は伊勢道の驛也大坂よ(82コマ)りくらがり嶺《とうげ》越奈良へ出梅谷を通り賀茂笠置をへて大川原より伊賀に越伊勢山田に行又関地蔵へも行なり】凡川舟笠置より川上へ遠くは上らす此邊三四里の間の村々より米薪等の物を笠置へ持出又伊賀より米大豆を笠置まて馬にて出し川舟にて淀伏見へ下す北笠置の前より舟にて上れは両山の間|景《けい》よく北の方に岩岸《いはきし》有尤うるはし
南|笠置《かさき》 北笠置より舟にて渡る人家頗多く富商あり此所は川むかひにありて徃來の馬驛《うまや》にあらす是より笠置寺まて八町の坂を上る毎町石表を立たり笠置寺大ならす五坊有今二坊は空寺となり三坊に住僧あり領主藤堂泉州太守より寺領十五石附薬師石文殊石|弥勒《みろく》石|虚空蔵《こくうそう》石なと云有皆高五六間八九間の大石にて佛像を彫《ゑり》たり諸堂炎上の時石もやけ(84コマ)て今は佛像見えす虚空蔵石のみ今に佛像見ゆ其北に石門あり門上の大石長二十間餘もあるへし凡此山大|岩《いわ》奇石《きせき》多し此寺|解脱《けだつ》上人開祖たり解脱自筆の講式一巻縁起一軸塔頭福壽院に在解脱の墓《はか》は寺の東の山上に在縁起の説に天武天皇の御子大伴皇子或時此山に入て鹿を狩《かり》玉ふに雷雨《らいう》暴《にはか》に來りけるに虚空蔵出現して其難をすくひける皇子悦ひ其所のしるしに笠《かさ》をぬきて置玉ふ故に笠置と称《しやう》す又山に鹿《しか》多く嶺に鷺《さき》あつまる故に鹿鷺《かろ》山と号すといへり後醍醐《こたいこ》天皇の城|址《あと》は弥勒《みろく》石の上の山に本丸二の丸の跡有甚|狹《けはし》し足《あ》助(ノ)二郎遠矢を射たりし所は西北の坂半に在|陶《す》山小見山は北の谷より夜付(打か)せしと云是より東北に有市《あち》(85コマ)大川原なと云村目の下に在|飛鳥路《あすかち》村見ゆ柳生《やきふ》谷は笠置の東南に在山谷の内也春日山の東三四里にあり大柳生|小《こ》柳生とて二所あり領主柳生氏は小柳生に住居其川は飛鳥路と南笠置の間に流れ出つ
○是より京に帰る道をしるす笠置より川にそふて賀茂へ帰り舟にて川の北に渡る
瓶原《みかのはら》 大|郷《かう》也九村有と云此村の前より木津の境まてを泉川と云みかの原の北の山を海住山《かいちうせん》と云寺有東に向へりみかの原の十町許下川南に補闕《ほけつ》埜村有|瓶《みかの》原の内也近世前村となる是より木津へ半里許有補闕埜の北の川はたより嶮難《けんなん》の山路を經《へ》る事二十餘町にして神|童《とう》寺村に出る此路を神童寺越と云木津へ行には神童寺にゆかすして泉川のはたを直に行也
(86コマ)神童寺村 蔵王権現の社并子守勝手の両社有此地を北吉埜と云とかや
平尾村 玉臺寺に弘法大師柞の辨《へん》才天并十六善神の像あり
紙幡《かばた》村 蟹満《かいまん》寺あり本尊釈迦は行基《きやうき》所作也此寺の事元亨釋書にのせたり以上賀茂より笠置此邊皆山城國|相良郡《さからこほり》なり
宇治 橋より東|興《かう》正寺おち方の邊は宇治郡也橋より西茶師の居れる町は久世郡也
平等院 朝日山と号す宇治関白頼道公|創《そう》立|舊《もと》源(ノ)融公の別荘《べつしやう》也扇の芝《しは》門前に在|釣殿は本堂の後《うしろ》の廊《らう》也堂の南の高き所にいにしへの寶蔵の跡有或云宇治関白の宅のあと也|鐘楼《しゆろう》あり是三井寺の鐘《かね》と一双也朝鮮より來る凡此鐘の摸形《もきやう》世上の鐘にまさると云此寺初は真言宗也近世浄土(86コマ)宗となる
槙《まき》の嶋 宇治の西北川の西也昔は宇治の河嶋也今は陸《りく》につくり布を多く晒す所也
宇治橋 孝《かう》徳天皇|大化《たいくわ》二年|釋《しやく》道|昭《せう》始て此橋を作る橋姫の社は橋の西に有通圓の茶屋は橋の東の傍に在|彼方《おちかた》町は橋の北也山吹の瀬は今其處しれす或云宇治橋の川下岡の如き所也|橘《たちはな》の小嶋か崎は橋より下に在しか昔《むかし》洪《こう》水に流て今はなし塔?の嶋十二(三か)重の石塔河中の嶋に在(リ)思圓《しゑん》上人殺生を禁し網代《あしろ》をやめさせたる事をしるしたる塔也宇治橋は東西にかゝれり宇治川の南北の岸と云はあやまれり
惠心院 興聖寺の西北にあり惠心僧都の住せし處也
興聖寺《こうしやうし》 号《かうす》2佛徳山1曹洞《さうとう》宗也此寺もとは(87コマ)深《ふか》草に在久敷寺|絶《たへ》たりしを永井信斎淀の城主たりし時此地に再興せらる塔頭東禅院より宇治河を望む最勝?景也東禅院の前川はたにある小菴を観流|亭《てい》と云|奇石《きせき》多し東禅院の東に薬師堂有宇治の北の出口に浮船《うきふね》の社有事好む者これを立たるなるへし大|鳳《ほう》寺村宇治の東北にあり町あり富商《ふしやう》多し茶を多くうゆる所也三室戸は興聖寺の北山谷の内十町許に有観音堂あり順礼の祠?る所也
黄檗《わうはく》山萬福寺 五ケ庄に在唐僧隠元和尚永應の比創立す大|伽藍《からん》也開山堂に隠元像有又|霊堂《れいとう》有隠元和尚墓の上に六角の小堂を立たり塔頭萬壽院は木菴和尚隠居所也木菴像有是亦墓の上に堂を立たり双鶴亭《そうくわくてい》本堂の後《うしろ》の(88コマ)高き所にあり隠元別荘也こゝに惟《ゆい》一|道人《とうにん》住《す》めり又|華厳經《ケコンキヤウ》を血書す惟一の木像有門外に獅子林《しゝりん》海眼院あり獨湛《とくたん》和尚隠居所也門内の南のおくに子院多し最《もつとも》おくに一切經の板をほり紙に磨《すり》出す所有黄檗山の数町西に西方寺とて阿弥陀堂有俗に弥陀二郎と云近世|淀《よと》の二郎と云し者の網《あみ》にかゝりてあかりたる佛なり木幡《こはた》村に柳大明神の社あり
櫃《ひつ》川の橋 沢田川 木幡(ノ)里 木幡山 岡の屋|等《とう》皆此間にあり名所なり亀谷をのほれは矢嶋|嶺《たうげ》の上に古《フル》御香の宮あり其邊に唐僧高泉禅師の寺有佛國寺といふ
日野法界寺 柳大明神より十餘町|艮《うしとら》の方なり傳教大師の開基今は真言宗也日埜大納言殿の屋敷のあと有平家の重衡(89コマ)の妻のすみける跡有山の上に鴨《かも》の長明かすみける方丈石の跡あり
六地蔵 地蔵堂有法雲山大善寺と号す始少納言入道信西地蔵六躰を作て此所に安置《あんち》せし故六地蔵と云後に平|清盛《きよもり》分《わけ》て洛外六所に安置せらる此地随一たり
元禄九年上元日 貝原篤信記