底本、濱田耕作著作集 第一巻 日本古文化、 344頁、9000円、1988.4.10. 濱田耕作先生著作集刊行委員会編、同朋舍出版 〔入力者によって旧字体のままになっているところを新字体になおしたり、明らかな誤植を修正したりした部分がある。〕
日本文明の黎明
考古学上より見たる大和
埴輪に関する二三の考察
日本文明の起原
日本最大の巨石墳墓の研究――大和島ノ庄石舞台古墳の発掘――
日本原始文化
日本文化の源泉
大和島ノ庄石舞台古墳第二回の調査に就いて
朝鮮に於ける考古学的調査研究と日本考古学
日本の民族・言語・国民性及文化的生活の歴史的発展
(143) 日本文明の黎明
一
私は本日諸君の前に斯の様な広汎、否な茫漠たる題を掲げまして、而かも極く短い時間のうちに話を終り度いと思ふのでありますが、之に就いて別に新しい研究を発表すると云ふのでもなく、たゞ単に我々考古学者――否な私自身が此の日本文明の黎明に就いて、如何なる見方を有してゐるかを、簡明に其の要領を申し述べ度いと思ってゐるのであります。
さて、人類の文化が考古学上利器の主要材料から、石器時代、青銅時代、鉄器時代の三階段を経て発展して行ったことは、世界の各地方各民族に就いて、殆ど普遍的の現象であり、又た此のうち石器時代は其の継続の年代が他の二時代に比べて非常に長く、之を旧石器時代、新石器時代の二つに分つ可きものであることも、今更私が諸君の前に説明する迄もなく、先刻御承知のことゝ存じます。それで私も今ま日本の文明が、如何にして此のアジヤの東海に其の曙光を輝かし初めたか、其の状態は何うであったかと云ふことを御話致す際に於きまして、勢ひ先づ此の石器時代のこと、而かも旧石器時代のことから話し出さなければなりません。然らば日本に於いては旧石器時代の文明が存在して居つた証拠はあるか何うか。
此の問に向つては、私共に現在「否」と云ふ答を与へる外はないのであります。実は日本に於いてのみなら(144)ず、極く近年までは東亜地方に於いては、全く旧石器時代の人類の遺物が発見せられなかったのであります。然るに先づ露領シベリヤはエニセイ河の上流地方に於いて、サヴェンコフ、ド・ベイ両氏などが一八八六年以来旧石器と称するものを採集しましたが、其の地層と共存動物の状態とを明かにし、確実に之を証明し得たのは、一九二〇年メルハルト氏の研究を待つてからのことであります。次いで支那に於いては陝西省の北部オルドス地方に於いて、一九二三年仏国の学者リサン、シャルダン両師が、始めて確実なる旧象などの遺骨と共にムスチエー期若しくはオリニヤック初期の形式に属する石器を発見せられたのは、頗る重大なる事件であります(私は最近天津の北疆博物院に於いて其の遺物を実見する機会を得ました)。又たアンドリウス探検隊のネルソン氏が蒙古ゴビ沙漠に於いて、旧石器的のものを得られました。斯の如くアジヤの東部これ等の地方に於いて、少くとも旧石器時代の後半期に於いて、人類が住息して居つたことが最早疑ひを容れぬことになつたのであります。併し日本に於きましては、従来マンロー氏などが旧石器として其の疑問のあるものを採集報告せられてある外には、何等確実なる遺物を未だ発見されて居ないので、前申した通り、旧石器時代の文明に就いては、現在日本に其の存在をば証することが出来ないと答へる外はないのでありますが、已に東亜の大陸に彼等が棲息してゐた証拠が挙つた以上、又た彼等の居た頃の同じ種類の獣類が日本にも居つたことが明かである以上、日本に於いて彼等が住まなかつたとは予断する訳には参りません。寧ろ私は将来の発見に向つて多くの希望を持つてゐるものであります。
二
併しながら右の如き予想は別と致し、日本に於ける人類住居の確実なる証拠は、新石器時代から始まつてゐるのでありまして日本文明の黎明はこゝに其の曙光を放ち出したのでありますが、是れ亦今更事新しく申すものも可(145)笑しい位のことでありませう。たゞ此の日本の新石器時代の文明なるものは、成る程日本の国土の上に存在した文明ではあるが、それは後の我々日本人の文明とは無関係のものであり、殊に其の人種上の聯絡は全く無いものであると云ふ様な考へ方が、従前多く行はれて居たのでありますが、今日に於きまして少くとも私共は左様に考へては居ないのであります。即ち此の石器時代の人民は其の人種上にも、亦た文化上にも後の日本人と聯絡があり、密接なる関係を其の間に認む可きものであると信ずるのであります。
そこで此の日本の新石器時代の文化は、近年の研究に由り、少くとも其の文化の「フェーズ」に、二つの主要なる区別或いは順序があることが明かにせられました。それは石器の方は別と致して、土器に於いて二つの種類が認められるのでありまして、一は大体黝黒色の縄蓆紋のある所謂縄紋土器、他は赤褐色の無紋若しくは幾何学的紋様のある所謂弥生式土器の二つであります。此のうち前者を出す遺跡は大体に於いて古く、後者の新しいものであることは、随処に於ける層位的所見によつて証明せられ、学者の問に最早異論のない処であります。而して又た少くとも後者の一部は其の文化の性質に於いて、後の金属時代に直接に連続し、所謂金石併用期とも謂ふ可き過渡期に属するものであることは欧州の新石器時代と青銅器時代との関係に酷似して居るのでありまして、此の弥生式土器を標職とする石器時代文化の所産者が、人種上に於いても我々日本人祖先の「メイン・ストック」主斡をなしたものであると云ふ考へも、一般学界の承認する所であります。
処が、これよりも古い「フェーズ」たる縄紋土器を作つた石器時代の民族は、果して如何なる人種に属するかと云ふ問題になりますと、かなり面倒な議論が紛起してゐるのであります。以前には或いは「コロボックル」なるエスキモー類似のものであると云ふ説も行はれましたが、近年に至つて或いは之を以て国史に見えてゐる蝦夷、即ち現今のアイヌの祖先であるとし、或いはアイヌに近い性質を有する民族であるが、直にアイヌの祖先と云ふ可きものではないと云ふ様な説が専ら勢力を得るに至りました。併し輓《ばん》近此の石器時代の人民の墓地が各地に於いて発掘(146)せられ、其の人骨が多数に出現し、之が専門学者に由つて研究せられて参つた結果、已に彼等は各地方に於いて体質上若干の相違を示して居り、アイヌ的の特質もあるが、又た我々日本人に近い性質もあると云ふことが明かになり、直にアイヌの祖先と云ふ風な簡単な見解から余程進んで参つたのでありまして、少くとも弥生式土器文明所産者との間に、民族上の血縁関係をも認めるのが穏当であるやうになつたかと思ふのであります。尤もこれは中々容易に片付けられない大きな、且つ精密な問題でありますが、茲には極く簡単に私自身の採つてゐる見方を述べたのでありますから、左様御承知を願ひます。それで此の見方に由りますと、石器時代の二つの文化上の違つた「フェーズ」の間にも密接なる聯絡があり、其の間に何等「ヒヤツス」はないことになるのでありまして、大体古い縄紋土器製作者の上に、其の後新なる人種的文化的の要素が加つて、次の弥生式土器製作者の文明が出来、更に又た之に若干の新しいものが加つて、遂に今日の我々「日本人」が形成せられるに至つたものであると考へられるのであります。斯の如く時々刻々今日なほ多少とも新しい要素を文化人種上に加へつゝ「創造的発展」をなしつゝある次第は、誰人も否定し得ざる事実であります。併し次の弥生式土器の所有者は、已に今日の「日本人」に余程近い性質を有して居つたと考へられるので、私は之を「原日本人《ブロト・ヂヤパニース》」と名づけたのでありました。
三
さて此の日本の新石器時代文化は、成程利器としては石器を使用し、未だ金属を知らない時代のことであるから、大層野蛮な時代であるに違ひないと、一概に御考へになる方が多いかも知れません。併しそれは必しもさうではないのであります。例へばこの鉄器を知つて居つた始めのギリシャ人に比べて青銅器時代のミケーネ文化の所有者の方が、どれ程高い文化を有して居つたか分らないのでありまして、利器の材料其者のみによつて、直に石器使(147)用者は野蛮、金属使用者は文明、金属に於いても青銅使用者よりも鉄使用者の方が開けて居つたなどと云ふことは出来ないのであります。即ち日本石器時代の古い方の縄紋土器製作の「フェーズ」に於きまして、就中関東奥羽地方、例へば陸奥亀ケ岡遺跡を代表とする文化の如きは、世界中に於いても新石器時代の文明として、頗る高度の域に発達して居つたと推測せられるのであります。石器の製作に於いても、エヂプトの石刀の場合を除いて、日本の石鏃ほど多数に又た織巧な作は少ないのであり、磨製石斧其他に於きましても余程優秀な技術を示して居るのであります。殊に土器に於きましては、其の器形の変化、紋様の豊富な点に於いて、世界中新石器時代のものとしては、アメリカを除いて他に類例を求むることが出来ないと謂つて差支へはありませぬ。其の外土偶の如き形像的のものをも製作し、珠玉の如き装身具を使用した点に於いても然りでありまして、此等の遺物を本として当代の文化を復原致しますると、決して一概に野蛮の社会であつたなどは申されないのみならず、新石器時代の文明として、殆ど其の極致に達して居つたとも云ふ可きであらうと思ふのであります。
此の石器時代の文化は、固より日本の如き島国に於いて「アウトクトン」のものでないことは申す迄もありませぬ。理論上必ずやアジヤ大陸から渡つた文化の流れに相違ないのでありますが、さて其の径路は北の方樺太、千島の方からであるか、或いは又た南の方琉球、台湾の方からであるか、或いは又た中間の朝鮮、九州の方からであるかと云ふ問題が起つて参ります。この重要な問題に関しては、しかし今日未だ充分に其の研究が成されて居ないと申す外はないのでありますが、南の方は台湾の石器時代文化は寧ろ支那大陸と聯絡して、琉球とは継がらず、琉球は又た九州よりも新しいので、此の方面の径路は考へられないのであります。朝鮮方面は何うかと申しますと、九州には弥生式土器も多く又古い縄紋式土器文化の「サブストラツム」が確に存在してゐるに関らず、朝鮮に於いては弥生式土器文化との聯絡はあるが、末だ縄紋式土器との聯路は証明せられて居りませぬ。然らば北方樺太、千島の方面は何うかと申しますると、是れ亦た東北地方と共に縄紋土器文化の中でも新しい方のもののみが明かであつ(148)て、古いものが未だ注意せられて居ないのであります。斯くの如く三方とも道が通じて居ないのでありますが、日本で自発的に出来たものでない以上、矢張り此の中三つの口の何れかから這入って来たものに相違ないのであります。私が敢て想像を廻らしますならば、此の北方と朝鮮方面との何れかに、今日は発見せられてゐないが、将来其の証拠が現はれて来るだろうかと思ふのでありまして、とにかく日本の石器時代は北方アジヤと聯絡す可きものであろうと推察するを禁じ得ないのであります。之に関しては鳥居博士がシベリヤを旅行せられて、ハバロフスク博物館で日本の縄紋土器と全く同じ破片を注意せられたことは頗る重要な事柄であります(博士は之を以て日本から交通に由って得たものと解せられました)。北方アジヤから南|露西亜《ロシア》にかけての大平原は、未だ此等石器時代の文化の系統を明かにする材料が充分に分つて居りませんが、私は東北ヨーロッパなどに於ける新石器時代の土器の我が縄紋土器と類似してゐる事実を見るにつけ、一つの想像説を描くに至つたのであります。即ち日本の新石器時代文化は遠く東北ヨーロッパから北アジヤへ拡がつて移動した人種の産出したものであつて、此等大陸の地方に於いては、其の後金属時代の文化――スキタイ文化、支那周漢文化等――が流入して早く青銅器時代に入つたので、新石器時代の文化としては高度に発展しないで終つたのであらう。然るに其の一部族が海東日本の島に渡つてから、こゝに平和なる楽士を発見し、而かも暫くの間大陸からの金属文化影響を受けなかつたので、遂に其の新石器時代の文化を極端まで発展せしめたことが、前に述べた通りであつたらうと推測を逞しくするのであります。これは又たアイヌ人が原北方人種《プロト・ノルジツクス》の最も早く分離したものであらうと云ふ説とも相俟つて、此の空想を可能ならしめるのでありますが、今日に於きましては固より積極的の証拠のない空想たるに止まるのであります(なほアメリカの石器時代も亦た此の北方アジヤと聯絡して考ふ可きものでありませう)。
(149) 四
次に石器時代の第二の「フェーズ」である弥生式土器を出す文化でありますが、此の文化の所産者は已に申しました通り、我々の直接の祖先とも云ふ可き「原日本人」であるのでありますが、実際の骨格上の研究は、其の材料が不充分でありまして、却つて前の縄紋式土器民族のそれの如くではありませぬ。併し他の文化上の性質から斯の如く推定し得られるのであります。即ち此の弥生式土器は其の手法形態などに於いて、後の日本人の使用した土器とも類似して居るので、此の土器のみからしても、人種文化上の親縁を原史時代の日本人との間に求め得可きでありまして、恐らくは同一民族であらうと推測せられるのであり、又た之と同時に此の土器の或ものは縄紋土器に相似た点もあるので、前にも申した如く縄紋土器所産者とも人種上文化上無関係であると云ふことは出来なくなるのであります。そこで我々は縄紋土器文化の所有者が已にをつた処へ、新しい人種の波が日本へ這入つて来て、これが新しい弥生式土器製作の技術を始めたものであり、在来の民族とコンタクトをなし人種上にも文化上にも混融するに至つたと見るのが、最も自然的な考へ方であると信ずるのであります。此の新来民族は土器の製作の如き技術に於いては、稍々進歩した窯を所有し、已に工業的性質を有してをりましたが、却つて美術的意匠などの点に於いては、先住者に比して遥に劣つてをつたのでありますから、此の新民族が優勢となるに従つて、当時の日本の文化は一時的に却つて暗黒となり、退歩したかの如き観を呈したことゝ想像せられます。それは恰もギリシャに於ける所謂ドーリヤ人が在来のミケーネ文化所有者の間に侵入して参つた時と同様の壮勢を呈したとでも申しましやうか。併し又た一方には縄紋土器文化は、已に其れ自身発展の極度に達し、最早行詰りになつて居たと見られるのでありまして、向後の発展は文化の点に於いては当時は劣つては居りながら、生々溌々の元気を内に包蔵して居つた(150)新民族の血液と文化の輸入によつて始めて救済せられ、将来の活路を茲に開くことが出来る運命に在つたとも見られるのであります。
然らば此の新民族は何処から渡来したかと申しますと、これは朝鮮半島から通じて参つたものであることが、此の文化の特に九州から西日本に著しく跡付けられてゐる事実や、朝鮮に於ける考古学上の所見から推測せられるのであります。そして此の文化民族の波動は必しも一回に止まつたものではなく、屡々繰り返へして行はれたものとも想像せられるのであります。而して当初のものは未だ石器時代末期の文化を有して居つたのでしやうが、後にやつて来たものは已に金石併用期に入つて居り金属をも齎して来たことゝ推察せられるのであります。此の金属の輸入は実に日本文明の黎明期に於ける最も重要なる事件でありまして、茲に始めて新しい日本の文明が発足するに至つたことは申迄もないことであります。それで私は次に此の金属渡来の事情に就いて述べなくてはなりませぬ。
五
只今申しました如く弥生式土器製作者である朝鮮半島を経て渡来した新しい民族が、遂に金属文化を日本に将来したと推測せられるのでありますが、然らば如何にして彼等は其の金属の知識を得たのであるか。之に就いては我々は東亜に於ける先進文明国であつた支那が、直ぐ近隣に存在してゐる事実からして、此の支那から之を伝承したものであらうと云ふことを、容易に想像するのでありまして、それは又た考古学上の証拠に由つて確められてゐると云ふことも、寧ろ極めて平凡且つ広く知られてゐる事実であります。支那は御存じの通り、早くも殷代――或いは周以前と漠然と申す方が却つて適当かも知れませぬ――に於いて、少くとも其の中心部は石器時代から金石併用(151)期に入り、周代には青銅文化の極盛に達して居つたのであります(此の支那の太古に就いては昨年以来殷墟に於ける支那北京中央研究院の李済氏等の発掘が、画期的の結果を齎しつゝあるのであります)。此の優秀なる青銅文化は水の低きに流るゝ如く、中心から四方に波及せずには居りませんでした。況や漢民族の自然的膨張又た周末の国内の政治的不安などに本づく移住に由つて、彼等は其の民族的「エキスパンション」をやつたのでありまして、此の運動に付随して、金属文化即ち先づ青銅文化が近隣の後進民族国土の上に波及したのは最も自然的の現象であります。斯の如くにして山東から遼東半島に、更に朝鮮の北部に至るまで、周末已に支那文化が其の民族と共に流入し、在来の石器時代文明が漸く金石併用期、次いで金属時代に這入つたことは、南満州各地から発見せられる遺物、即ち支那式石器と共に若干の青銅品が明刀、布泉などの銭貨と共に出土する事実に由つて確実に証明せられて居るのであります。
処が周の極く末期、秦から漢初の頃になりましては、此の支那民族の人種的文化的波動が更に大仕掛に東方に及ぶことになりました。かの漢の武帝の時の大拡勢は、其の最も著しいものであつて、これは洵に東亜の歴史上最も重大なる事件であると私は信ずるものであります。此の大「エキスパンション」も決して此の武帝の時突然に起つたものでなく、前に申した周末或いは其れ以前からの漢民族の人種文化上の拡勢を基礎として、始めて行はれ、且つ成功したものに違ひない。処が漢代の支那は最早青銅器から鉄器の時代にも這入つて居りましたので、此の結果遼東から北鮮は全く青銅から鉄器時代の文化に浴することになつたのであります。此の漢代の文化が更に朝鮮の沿海を経て日本の西南部に波及し、遂に日本も石器時代から金石併用期に這入つたのでありますが、已に申した如く、漢代は既に鉄器の行はれて居つた時代なので、此等の地方、特に日本に於きましては銅の次ぎに殆ど相接して直に鉄が行はれ、特に青銅器時代と云ふ一時期を画する暇なく、早くも鉄器時代に移つて行つたのであります。此等の状勢を証明する考古学上の事実に就きましては、私も屡々述べたことであり、諸君も多くは御承知のことであ(152)り、且つ時間も乏しいので詳しくは申し上げないことに致します。
以上申し上げた様な状勢に由つて、日本は遂に漢文化の影響に由つて、西紀一世紀前後に於いて、石器時代の長夢から醒めて、新しい文化史上の立役者として歴史時代の舞台に現れることになつたのであります。勿論、日本の各地方が同時に此の文化に光被せられたのではありませぬ。東北地方の如きは今後数世紀、或いはそれ以上もなほ石器時代の旧文明に彷徨して居つたのであり、否な石器時代の古い方の縄紋土器の「フェーズ」さへ残つて居つた処もあるのであります。それ等の取り残された民族文化に対する民族運動、文化運動の「プロセス」が、即ち日本民族の国土経営の歴史であつたのであります。而して此の漢文化(其要素の一として北アジヤのスキタイ文化をも混じて居ることは注意す可きことであります)に次いで其の継続たる六朝の文化が這入り、更らに唐宋の文化が流入し、日本の文明は数世紀を経ないうちに、其の文化の母国と肩を並べて進み行くことが出来る様になり、曾ては石器時代の文化が此の国土に特殊の発達を遂げたと同じ事情の下に、此等の文化要素も日本に於いて特殊の発展をなした次第に就いては、今更詳しく申し上げる迄もない著明な事象であります。 私は之を以て此の粗末なる講演を終ります。たゞ以上私は極めて平凡周知の事実と見解とを述べ来つたに過ぎませぬが、若しも私の特に強調し度い処がありとすれば、日本文明の黎明を論ずるものは、決して石器時代の文明を別物として切り離すことなく、是が其の後の文化史上に重要なる関係を有して居ることを明にし、而かも其の文化の頗る高度なる発達をなして居つたこと、又た石器時代の二つの「フェーズ」の文化的民族的に互に聯絡があり、更にそれが亦た原史時代の日本と不断の連続をなしてゐると云ふ見解であります。而してこれが私の此の講演の眼目であるのであります。
(昭和四年十二月) 〔初出、『史学雑誌』第四十編第十二号掲載、昭和四年。〕
(153) 考古学上より見たる大和
一
考古学上から大和を考察することは、洵に此の古い国にとつて、他の如何なる見方よりも応はしいことでありまして、其の興味もまた甚大でありますが、こゝでは固より其の委曲を尽すことは不可能でありますので、私はたゞほんの其の荒筋に就て申し述べるに止める外はありませぬ。
大和と申しましても、其の南方吉野郡に属する大部分は、今日と雖も文化関係が頗る少く且つ単純でありますが、私がいま取扱ひまする奈良朝以前の時代に於きましては、殊に其の感が深いのでありまして、所謂先史時代と原史時代の人類の活動は、全く北半の平原地方を舞台として行はれたのであります。而して此の地方に於ては、日本に於ける人類最古の遣物たる新石器時代の遺物が、少からず発見せられるのであります。これは今から十数年前までは余りに注意せられずに居りましたが、近年学者の注意が向けられるに従ひ、続々と現れて来たのであります。併し其の遺物、また之を出す遺跡も、関東・東北地方などに比べて、稍々其の趣を異にしてゐるのでありまして、第一此の海もなく湖もない国のことでありますから、貝塚と云ふ様なものはありませぬ。土器遺物を包含する所謂包含層が若干ある位であり、其の他は石鏃の類が少数地上に散在してゐるとか、土器の破片が散布してゐるとかと云ふ状態に過ぎないのであります。併し其の分布の広さはかなり大きく、高市郡新沢、磯城郡唐古などの著名(154)なる遺跡を中心として、北は生駒・添上の丘陵地、東は宇陀・磯城郡の台地、南は吉野川の北岸、西は葛城郡の丘陵地に及んでゐるのみならず、全くの平地たる飛鳥川の沖積地の上などにもあることは頗る注意す可きことでありまして、現に私自身が今春この高市郡の丘陵地から平地を歩きながら、三、四の新しい石續発見地を加へ得た位であります。
二
扨て、日本の石器時代は御承知の通り、之を其の石器と伴出する土器の種類により、二つに区別することが出来るのであります。即ち一は縄紋土器、他は弥生式土器の二つでありまして、此の二つのうち前の方が稍々古い「フェーズ」であり、後の方が新しい「フェーズ」のものたることが一般に承認せられて居るのであります。然るに此の大和の石器時代の文化の「フェーズ」は其のうち何れに属するかと申しますと、極く少数の縄紋土器が、例へば神武天皇陵の付近其他二、三ケ所に於いて出てゐるのみでありまして(1)、大部分は新しい方の弥生式土器の時期に属するのであります。此の事実は果して何を我々に語ってゐるかと云ふに、大和に於いて石器時代の人民は其の文化の後の「フェーズ」に於いて著しい発展をなし、新沢、唐古の遺跡の如きものが代表してゐるかなり大きな聚落が、已に長い間占居せられて居つたことを知るに足るのであります。而かも当代に居いては決して此等の聚落のみではなく、なほ多く同様な聚落があつたに違ひないが、其れはかの飛鳥川などの自然的河川が横行して、此等の遺跡が覆没してしまつたと共に、また其後引きつづき同じ舞台に人類の大なる活動があつた為め、破壊湮滅せられてしまつたので、今日我々が此処彼処に石器が散在し、土器の破片が空しく散布するのを注意し得ると云ふ有様になつたのであります。また縄紋土器の「フェーズ」の石器時代の遺跡の非常に少いのも、亦必しも石器時代の(155)前期に於いて大和平野に人類が居住しなかつたと云ふ証拠にす可きではなく、弥生式の時期に此べて勿論遥かに少かつただらうが、矢張り相当の分布をなし、此の後期石器時代文化の基層「サブストラツム」をなして居つたと想像せられるのであり、たゞ此の「フェーズ」は近畿地方に於いては東北、関東などの如く充分なる発展をなさずして、次の弥生式土器の時期に移つたものであると考ふ可きであります。また人種上に於いても此の両「フェーズ」の文化の産出者間に何等根本的の相違があるわけでなく、前の時期のものが依然基礎をなして、其の上に若干新しい要素が付け加はつたものであると私は信じて居ります。而して縄紋土器石器時代の民族は、今日のアイヌ人に似た特質を多分に有して居つた古|亜細亜《アジア》人(Palaeo‐Asiatic race)とも云ふ可きもので、後に加はつた新しいものは蒙古人的の要素が確かに其の主なるものゝ一つであつたと推測せられるのであります。而して此の弥生式石器時代に於いて、私は今日の日本人なるものが大体成立して居り、之を原日本人(Proto‐Japanese)だと申して宜しいと思ふのであります。
三
斯くの如き新石器時代後期の文化が、大和平原に栄えた時代は果して何時頃から何時頃までゞあつたか、其の精細なる年代を知り度いのは、諸君に於いても、また私共に於いても同様甚だ切なるものがあるのでありますが、どうも今日に於いて、否な此の時代の研究の性質上、何年と云ふ様な数字を以て申し上げることは甚だ困難であり、また申上げますと、往々誤解を生ずるので我々は成る可く之を避けるのでありますが、要するに国史の伝説にある神武天皇御建国の以前の長い時代から、其の頃まで継続して居つたと考へて宜しいのであります。即ち大和朝廷なるものは、此の石器時代文化を有してゐる人類を征服、否な同化して其の上に建立せられたのに外ならないの(156)であり、今日誰人と雖も此の石器時代人を全部駆逐して、其のあとへ日本人が移住したなどと考へる人はありますまい。従つて日本民族の歴史、大和朝廷の歴史の考察に際して、此の石器時代人の研究を無視することの出来ないのは云ふ迄もないことであります。
此の大和に於ける石器時代文化と大体同様なものが、西日本全体に広く行はれて居つたことは、同様の遺跡遣物の分布によつて明かに知ることが出来るのでありますが、隣接の近畿地方に其の酷似のものを認めるのも、固より当然のことでありますが、就中、我々は其の西に接する南河内に於いて、其の顕著なるものを発見致しました。即ち道明寺付近の国府の地であります。此処では数十体の遺骨を出した当代の墓地が出現し、無数の石器が採集せられてありますが、土器は弥生式を主体とし、其の基層は縄紋土器であります。なほ国府の北方高安、南方喜志其他隣接地にも同じ型の遺跡が発見せられて居りますが、南河内では此の国府を以て代表的の「ステーション」と致して差支へはありませぬ。処が何故に此の地――若しくは地方が斯く主要なる石器時代の遺跡を遺すに至つたかと申しますると、其の理由の一は、実は此の遺跡の東方一里半許り、丁度大和との国境、かの大来《おほく》皇女が「二上山を妹背と我が見む」(万葉、二)などと歌(2)はれた大津皇子の御墓のある二上山から、石器の材料として近畿地方に広く使用せられてゐる安山岩《アンデサイト》の一種「サヌカイト」(讃岐石)若しくは「フタゴナイト」(二子石)など今日の鉄にも相当する適当な原料――が産出せられる為であります。そこで此の手近な原料を取り来つて、こゝに石器の大なる製造所が発達し、また其の原料の侭地方へ移出する市場が現出したと考へられるのであります。
それ故此の大和河内国境の山を中心として、西側南河内に於けると同様、東側に於ても同じく石器時代の聚落が盛んに発達し、国府の様な「ステーション」があり得るのであります。唐古の如き新沢の如き、或いは其の一かも知れませんが、私は北葛城郡の何処か更に他の重要なものが湮滅してゐるではないか、或いは早く其後の文化の発達と共に破壊せられてしまつたのではないかと思ふのであります。それはとにかく、此の石器時代後期の文化は二(157)上山を中心として大和・河内の両平野に跨つて、一の文化区域を形成して居つたのであります。而して更に西方和泉、西北摂津等へつながつて居るのでありますが、山城の方へは連絡して居ないことは、其の遺物の性質上から明かでありまして、是は頗る重要な事柄であります。
四
扨て、時代は進んで金属の利器を使用することになりました。而かも其の初めは銅、青銅の器物を使用し、次に鉄器を用ゐることになつたのでありますが、此の文化上の進展も亦支那大陸の影響に依つたものであります。支那では古く殷周の頃から已に石器時代を脱し青銅の使用に進んだのでありますが、当時支部と東方日本などとの交通は未だ充分に行はれて居なかつたので、此の金属文化は未だ東漸しなかつたのであります。処が周末漢初に於いて支那人の拡勢と共に、金属文化が遼東半島から朝鮮半島・西日本へと波及したのであります。是は地勢上九州地方から始まつて、漸次東方に及んだのでありまして、此の点に於いて近畿地方――我が大和も亦幾分九州北部などよりは後進地方であつたのでありますが、其の東漸の時間は必しも長くかゝつたのでなく、恐らくは数十年に足らぬ間に全く同一程度の文化に達したものと想像せられるのであります。それで従来学者間の大問題となつて居る耶馬台国とか、女王卑弥呼の国と云ふものは、私は此の畿内の大和を指したものであると信ずるのであります。併し支那大陸との交通に際して、九州地方が或いは大和の一部として取扱はれ、或いは土地の豪族などが左様に称したこともあつたと思はれます。例へば希臘《ギリシア》本島に対し伊大利《イタリア》南部の希臘植民地を却つて「大希臘《マグナ・ゲレキヤ》」と呼んだのと類似の趣であります。
処が日本に波及した支那の金属文化は周末漢初のもので、彼国では既に青銅器時代から鉄器時代に移りつゝある(158)時であつたのでありました。それ故純粋の青銅文化の影響は極めて短い時期に限られ、直に鉄器時代に入つてしまひました。而かも九州では青銅器の使用は少し長かつたが、近畿地方に於ては青銅の武器は殆ど全く使用せられずして、利器としては直に石器から鉄器に移行した感がある。――即ち九州などに多く発見せられる銅剣、銅鉾の類が殆ど発見せられないことは頗る注意を要する現象でありますと同時に、利器に非ざる青銅の器物たる銅鐸なるものが、九州には全く発見せられずして、却つて近畿及其の以東に多く発見せられるのでありまして、頗る奇態な現象であります。加之《しかのみならず》、此の銅鐸なるものは近来頗る研究が進歩して参りましたが、今以て甚だ不可解な器物であります。それで色々学者間に議論の一致しない点があり、此の銅鐸の方が銅剣の方よりも古いものであらうと云ふ人もありますが、私はどうしても斯かる楽器の形式を有する非実用の器物は、実用の利器よりも後出のものであるから、若し之が外国から輸入せられたとするならば、同時に銅利器が輸入せらる可きであり、また日本で作られたにしても同時に或いはより早く銅利器が作られなければならぬ。然るに其れが発見せられぬと云ふことは、其処に何等かの理由がなければならないのであります。武器だけは石器で満足して居つたなどとは到底考へられない。何を措いても真先に武器だけは金属器に移り行くが自然であります。これは銅鐸が銅剣、銅鉾類とは別の門戸から日本中部へ這入つて来たと考へる場合に於ても、同様に逢着す可き問題であります。
そこで私は斯う考へては何うかと思ふのであります。即ち九州地方へは早く石器時代に銅鐸類が伝はり、また凡て銅の材料は武器として鋳られることになつたが、間もなく鉄器が現れることゝなつて、此の優秀なる利器は、銅利器が入り込まない間に、直ちに近畿地方をも風靡したのであり、銅器使用の暇がなかつた為め、其の遺物を見ないのである。処がなほ輸入せられつゝあつた銅材は――銅鐸が其の原料型式と見る西洋人の説もある――、此の利器以外の形に作られたのでは無からうかと云ふ説であります。併し是も私がいま仮に提出した一臆説に過ぎないので、更に適当なる解釈が追々出ることを信じて疑はないのであります。
(159) さて大和では今迄五ケ所ばかりから銅鐸が発見せられて居りますが(3)、就中吐田郷からは、多紐細線鋸歯紋鏡と称する最も古式な鏡を伴出して居りますので、是は何うしても前漢の初葉、即ち紀元前二世紀頃に溯る可きものと見られるので、我々は之を一の根拠として、日本の石器時代の終末の時代が何時であるかを想像することが出来るのであります。
五
次に来るのは鉄器を用ゐた時代でありまして、此頃から始めて歴史に書いたものが現はれ来るのでありますが、未だ確かなる歴史と云ふことが出来ないので我々は之を原史時代と申して居ります。それは何時頃迄を含めるかに就いては意見の相違もあるであらうが、先づ仏教渡来頃までを含めて差支へはありますまい。此の原史時代になりますと、文学上にも記紀の歌謡もあり、其の歴史も時代の下るに従ひ、朝鮮との交渉も頻繁となり、次第に確実性を加へて参りますが、考古学上の資料としても、非常に豊富な遺物遺跡があります。即ちそれは御承知の古墳、高塚と其内部に包蔵せられる各種の品物であります。
私はいまこの古墳や其の内容の遺物に関して、詳しく説明する時間を有しませぬが、日本に於いて高塚として最も特殊壮大なる前方後円の塚――崇神以来応神・仁徳帝陵などを以て代表とする――が、此の大和地方に於いて最も顕著なる発達をなしてゐることは云ふ迄もありませぬ。また其の内部にある石棺、さらに此の高塚の後期に於いて出現した石室墓の各種の形式の如きも、大和地方に於いて充分なる発達変化を示して居るのでありまして、是は即ち大和朝廷の勢力の消長と並行して解釈せられるものたることも申す迄もないことゝ思ひます。たゞ此の際申して置かなければならぬことは、この高塚古墳の発達も、石器時代の聚落と同じく二上山を中心として、河内と大(160)和とに著しく分布してゐることでありまして、南河内に於ける仲哀・応神以下の帝陵に見る壮大なる高塚は、大和地方のそれに比して優るとも決して劣らないのであります。当時帝都は勿論主として南大和飛鳥地方にあつたので、墓地だけが河内に営まれた有様でありましたが、要するに飛鳥地方と南河内地方とは葛城山脈を以て必しも隔絶せられず、一の文化圏とも云ふ可き状態であつたのであります。斯くの如く石器時代の繁栄と原史時代の繁栄とは其の地域を一にして居り、而かも其の間の年代の中心が数百年を隔てゝあるに過ぎない処を見ましても、恐らくは是は大体同一人種が引き続き住居し、たとへ其の治者の階級の相違があつたにせよ、或いは多少新しい文化的人種的要素が加はつたにせよ、それ等は同化せられつゝあつたもので、何等民族文化上に「ヒヤツス」があつたものではないことが想像せられるのでありまして、石器時代文化の「サブストラツム」上に原史時代の文化が建設せられたものであることを知るに足ると思ふのであります。此の歴史上の連絡「コンチニユイチー」を考へることは、私は最も大切な見解であると信ずるのであり、私のいつもながら提言する処の持論であるのであります。
さて、此の高塚古墳におきましては、円形から前方後円の複合形式が生じ、更に又一方に方墳が支那の影響に依つて現はれたのでありますが、それ等の実例は一々挙げる迄もなく御承知のことゝ思ひます。たゞ方形墳は割合に少く、南河内二上山麓にある用明、推古両帝陵は其代表的のものであり、大和に於いては、舒明帝陵(上円下方)、帯解の黄金塚などがあります。石棺は古くは石室の構造なく、所謂堅壙に入れてあり、後には石室に納められてゐることもあります。例へば吉野口駅付近の水泥古墳、葛村権現堂の古墳、畝傍町五条野の菖蒲塚などのものは其の二、三であります。また石室に於きましては、越の岩屋山古墳、阿部文殊の古墳の如きは整正なる切石を以て作つた美しい例(4)である。岡寺付近島の圧の石舞台の如きは、実に西洋人の所謂巨石記念物にも数ふ可き偉大なものである。日本に於ける此等巨石的遺物は西洋のそれに比して、一時期を遅れて其の発達の極に達して居ると云ふことが出来るのであります。
(161) 六
此の原史時代の文化的生活、殊に工芸美術の造詣に就いては、此等古墳の内容遺物を証拠として知ることが出来るのでありますが、其の詳しい叙述は略することゝ致しまして、我々は其の遺物だけを見ますると、大陸文化の影響を受けてゐるものが大多数を占めてゐることに驚かされるのであります。已に申しました如く、古墳に石室を営むこと其れ自身が支那あたりの墳墓の構造を伝えたものでありますが、甲胃・刀剣・馬具・装身具等殆ど皆支那六朝頃のもの、或いは其の模造品であり、中には北方亜細亜の文化と聯絡するものもあります。殊に鏡の如きに至つては彼地の輸入品として疑ふ可からざるものが多数に、殊に石室以前の古墳に包蔵せられて居ります。例へば佐味田の古墳の如きは、一の古墳に数十面の鏡を入れて居つたのであります。之に反して日本人固有の文化を示すものは比較的少く、勾玉・管玉等の珠玉、刀剣の或者、例へば頭椎の大刀、或いは埴輪などがある位であります(それにも已に若干の支那文化がトレースせられるかも知れない)。
然らば此等の遺物のみから考察するならば、当時の日本人は殆ど全く支那的の文化生活を営んで居つたとしか考へられないかも知れませぬ。併しそれは大きな誤りであります。我々は当時の文化を考察するに決して斯かる考古学上の遺物を資料とするのみならず、幸に他に文献上の資料がある場合、それをも重要なる基礎としなければならないのであります。私は此の方面の研究に於いては素人なるを白状する外はありませぬが、『古事記』、『日本書紀』の如き歴史をはじめ、『万葉集』の如き歌集を繙き、当時の人類の思想感情或いは生活の状態を考察致しますと、勿論その間に若干支那の影響を認む可き点がないではありませんが、大体に於いて全く日本的のものが依然其の基本をなしてゐることを気付かずには居られませぬ。成程朝廷や上流社会の表面的儀礼其の他に於いて、支那の影響(162)はあつたでありませうが、此等の社会に於いても、其の内的生活――一例を申しますならば食物の如き――は依然として在来のものを保存して居つたに違ひはありませぬ。況んや其他中流以下庶民階級の大多数は、大部分に於いて従来のまゝの生活を継続して居つたとする外はないのでありまして、是は今日西洋文明が非常な勢力を以て風靡してゐる現代の日本に於いて、私はなほ国民の多数大部分の生活が在来のものを踏襲してゐるのを見ても想像するに足ると思ふのであります。『古事記』の如き漢字を以て書いてありますが、其の内容は全く日本文であり、『万葉集』の如きも勿論其の長歌の様式に漢詩の影響があり、また内容に仏教や儒教の分子も少しは這入つて居りますが、其の大体に於いて、之を純粋の日本国民の詩歌とするに誰人が異存を懐きませうか。私は奈良朝以後の日本文明に於いては兎に角、其の以前に於いて此の観察は決して誤りのないことを信ずるのであります。
七
石器時代には既に申しました如く、二上山を中心とする大和・河内に跨る文化圏が形成せられて居り、而かも河内の方に其の重心が偏して居つた感がありました。次の原史時代になりますと、其の重心は大和平原三山地方即ち飛鳥地方に移りましたが、依然として其の前代の文化の「サブストラツム」の上に立つて、同じ地域の上に彷徨して居りました。然るに此の伝統を打ち切つて、大和に於いても従来最も文化の素地の少い新しい土地に首都を移し、大々的に支那文化の移植を行ふことになつたのが実に奈良朝であつたのであります。此の以後(或いは以前)に於いても屡々遷都が企図せられ、いつも此較的文化の伝統のない土地が選ばれ、遂に久しく低湿の沼地として生活に適せぬ地として石器時代に於いて淋しく、而かも大和河内のそれの如く石器時代の後期にも見捨てられて居つたかの如き山城の平地に帝都が遷されたのであります。斯くの如く日本に於ける首都の移動、或いは文化の進展が、(163)(颱風と同じく東北の方向を取つて居ることは)文化の開けた大陸を西南に有してゐる為めで、日本群島の方向(亜細亜の東方)も亦此の傾向と一致してゐることゝ共に、大自然が人文に及ぼす、限りなき力の一現象と見ることも出来るかと思ふのであります。
奈良朝前後に於ける考古学的遺物は古への平城を中心として、其の東西から各地方に散布して居ります。其の寺院の昔ながらの建築、或いはまた其の空しき礎石と古瓦、寺院に蔵せられる仏像仏画、更に比類なき正倉院の宝庫、此等の美術考古学的資料に依つて、当代を復原すれば、恐らく全く支那の一植民地としか思はれますまい。併し已に申しました如く、『万葉集』などから当代の思想感情を考察致しますると、如何にもなほ純粋の日本的分子が物質的文化の以外に根強く保存せられてゐることを認めなくてはならないのです。但し、我々は或いは文学の方面からのみ観察し、或いは考古学の方面のみから観察し、偏見に陥ることは、楯の半面を見て、他の半面を忘れるの類であります。史的観察は最も公平なることを要するのでありまして、此の偏見からお互に脱しなくてはなりませぬ。考古学的大和の考察は、此の奈良朝以後に至つては、自から別の興味ある題目であり、また別の機会に致す可きでありますから、之を以て此の稿を終ることゝ致します。
〔註〕(1) 縄紋式土器発見地は、宇陀郡三本松村大野、高市郡畝傍町桜川、吉野郡大淀町下淵、磯城郡三輪町薬師堂等。
(2) 『万葉集』に見えてゐる二上山の歌は、巻第二に「移葬大津皇子屍於葛城二上山之時、大来皇女哀傷御作歌二首」と題する一に「うつそみの人なる我や明日よりは二上山を妹背と我が見む」が見られます。なほ、巻第十四に「大阪を我が越え来れば二上に紅葉ば流る時雨降りつゝ」といふのがあります。
(3) 銅鐸発見地は、生駒郡秋篠、山辺郡丹波市、宇陀郡長岡野(続紀)、宇智郡阪合、南葛城吐田郷。
(4) 古墳の石室即ち石城を詠み入れてゐる歌の二、三に『万葉集』巻第三、太宰府にて河内王薨去の時手持女王の御歌に「岩戸破る手力もがな手弱き女にしあれは術の知らなくに」又巻第十六に「事しあらば小泊瀬山の石城にも隠らば共にな思ひ我が背」などとあります。 (昭和五年十二月) 〔初出、『奈良文化論叢』第一編所収、奈良市、竹田書店、昭和五年。〕
(164) 埴輪に関する二三の考察
一
唯今は後藤君の有益な御話がありましたが、私にも埴輪に就いて何か話すようにとの事で京都から推参致したのでありますが、別に新しい研究もないので甚だ恐縮する次第であります。たゞ従来私が既に発表した処に、近頃考へてゐる処を若干付け加へて御清聴を煩はし度いと存じます。
さて我国原史時代の遺物の数々ある中に、私自身、否な恐らくは諸君の大多数もさうであらうと推察致しますが、特に我々を惹き付け、親愛の念を起さしめるものは、あの勾玉と此の埴輪とであります。勾玉のことは只今申し上げませぬが、埴輪なるものが何故に我々を惹き付けるかと申しますと、其の理由の一は確かに『日本書紀』に挙げられてゐる野見宿禰が、殉死に代へる為めに造つたと云ふ伝説があるからでありませう。勿論此の伝説に対して色々の批評解釈があり、其の内容を疑ふ人も今日決して鮮くはないのでありますが、兎に角斯かる伝説が付会せられてゐると云ふこと丈けでも、我々をして埴輪に対して親愛の念を起さしめるに足るに充分であるのであります。
埴輪の起源に就いては、御承知の通り、『古事記』にはたゞ比婆須此売命の時、石祝作を定め、又土師部を定められたとあるに過ぎないが、『書紀』には、垂仁天皇の御時、かの皇弟倭彦命薨去の時殉死の悲惨に気付かれた(165)天皇が、其後日葉酢媛皇后の崩御に際して、野見宿禰の進言を嘉納せられて、人馬や種々の物形を作らしめられたと見えてゐるのであります。然るに此の『書紀』の記事を其の侭信ずる人は別として、之に対して種々の批評見解を加へようとする学者が明治以来特に多く現れて参りました。或いは之を以て土師部が祖先の功績を誇らんが為めに作為した説話に過ぎないと云ひ、或いは埴輪の起源は土留の円筒にあつて、それから後に人馬の形像が出来たのであるから、前の様な伝説は信を措くに足らぬと云ひ、遂に之を破壊し去らうとするのであります。私は勿論此等の批評や見解には頗る穿つた所があり、如何にも尤もらしく考へさせる点があると思ふのでありますが、斯の如き論拠だけでは依然として野見宿禰の伝説は破壊せられないものであると信ずるのであります。即ち土師部が祖先の功績を頌はさんが為めに作為したのであらうと云ふことの如きは、さう云ふことはたとへ有りがちの事にせよ、此の特殊の場合に之を作為したと云ふ証拠は全くなく、たゞ一つの推察に過ぎないと云ふ外はありませぬ。又人馬の形像の作られた以前から円筒が存在して居つても、それは野見宿禰がはじめて此等の形像を作つて、殉死に代へる新案を出したとするに、何等差支へはないのであります。又埴輪の人馬のある塚に殉葬の陪塚《ばいちよう》があつても構ひはありませぬ。法律規則が厳重に行はれぬ例は何時の世にも極めて有りがちのことではありませんか。
それで右申しました如く、野見宿禰の伝説を疑ふ人があるにせよ、多くの学者は埴輪の像が上古に於ける陵墓の完成期に入らんとした頃、西洋紀元で申さば第四、五世紀から、一般に行はれたものであることを信じてゐるのであります。私も其の一人でありまして、其の上、野見宿禰の伝説も、たゞ伝説として之を残して置く分には何等差支へのない程度の真実さを有してゐるものなることを信ずるものであります。併しながら野見宿禰の創案であると伝へられてゐる埴輪人馬の形像は、全く自発的に日本に於いて生れたものであるか、或いは又宿禰若くは宿禰の名を以て代表せられたる土師の人が、何等か他国の思想風習の影響を受けて之を案出したものであるかと云ふ様な推測は、右の伝説を伝説として保存して置きながらも、別に試み得ることであるのであります。
(166) 二
此の事に就いて直に思ひ合はされることは、当時東亜の先進国なる隣邦支那に於ける喪葬の風習であります。彼国に就いては秦漢以来已に墳墓の外部に石人、石獣の如き石造物を並列し、棺槨の内部には塗車芻霊即ち人馬器用の※[泥/土]像を副葬する風習があり、六朝唐代に※[しんにょう+台]《およ》んで益々盛んに行はれて居つたのでありまして、今日も其れ等の石物が陵墓の前に並列して居る原状が処々に見られるのであり、又※[泥/土]像の類は近時発掘せられて、世界到る処の博物館や蒐集家の手に渡つて居ることは先刻御承知の通りであります。此の石物と※[泥/土]像とは共に喪葬に使用せられた形像ではありますが、※[泥/土]像の方は棺槨に容れる像で、多くは形体も小さいので、我が埴輪が墳墓の外側に並列せられるのと其の意義用途が稍々違つて居るのであります。右の※[泥/土]像を無学な骨董屋などが「支那の埴輪」などと呼んでゐいるのは、それ故甚だ面白くない称呼であります。之に反して墳墓の外側に立てる石人石馬の類は、其の形も大きく用途に於いても我が埴輪と似てゐるのでありまして、此のものに関する知識風習が支那文化と共に東漸して参り、遂に日本の土器作りの土師部が殉死の代用と云ふ意味などを以て、人馬の形像を作るに至つたと云ふことは、当時の情勢からして最も有り得べきことゝ思ふのであります(尤も之に対して自発的に日本で案出せられたものであると考へるのも一説であります)。而かも我が祖先は此の墳墓の外側の儀飾品をも、支那に於ける墳墓の内部に副葬する明器と同じく、土製の仮器として作つたのでありまして、たゞかの北九州などにある石人石馬の類だけは、凝灰岩の如き彫刻に都合のよい石材の産出地たる関係から、之が又石に翻訳せられた特例を示すものと見る可きでありませう。私は右の様な臆説を十数年前に唱へたことがありましたが、今以て大体に於いてさように信じて居るのであります。而して野見宿禰の伝説に関しては、可憐なる伝説は其の侭伝説として残して行く可きもので(167)あつて、之を初めから厳格なる史実を記載したものとして取扱ひ、近代人の想像を以て、無慈悲に破壊し去らんとする学者の態度は、恰も子供の手をネヂ上げると同断のことゝして採らないのであります。
三
私は只今埴輪の形像の製作は或いは支那陵墓の石造物の影響に由つて出来たものであらうと申したのでありますが、併し埴輪の円筒は前にも述べた様に、人馬の形像の製作以前から夙に存在して居つたとするのは至極尤もなことで、又実際に於いて人馬の形像がない場合にも、此の円筒だけが古墳の封土を繞《めぐ》つてゐることが非常に多いのでありまして、私は埴輪と云ふ言葉は埴製の立物が輪状に置かれたから「ハニワ」と云ふのではなく、埴製の輪形のもの即ち円筒を「ハニワ」と言つたとするか、或いは又円筒を輪形に並べた処から出た名称とする方が穏当であらうと思ふのであります。それはさて、此の埴輪土物の焼方を見ますると、かの縄紋土器の次の時期に現れた我が国の古代土器なる所謂弥生式土器と全く同一系統のものであるとは、誰人も直に気の付かれる所でありませう。即ち其の外貌の茶褐色を呈してゐること、吸湿性の多い柔い焼き方であること、最も屡々表面に刷毛目の如き筋が付いてゐることなどが其の類似点であります。
然るに此の弥生式土器なるものは、日本の新石器時代後期若しくは金石併用期に出現した土器でありまして、其の美術的価値は縄紋式土器に或いは一籌を輸するかも知れませぬが、其の窯法に至つては前者が開放せられた殆ど無設備の窯で焼かれて、黒い煙にくすぶり、焼成の火度も甚だ弱いのに反して、是は確かに閉塞せられた窯のうちに於いて、更に高い火度を以て焼成せられた工業的に見れば一段と進んだ土器に相違はありませぬ。斯の如き窯業上の進歩は勿論一国内に於いても自然的に出来ることもありますが、我々は東亜に於ける文化一般の情勢からし(168)て、是れ亦た恐らくは朝鮮半島を通じて東漸した大陸文化の影響に本づくものであらうと想像するのであります。其の証拠は矢張り此の弥生式土器が先づ九州に於いて現はれ、其の最も古いものを此等大陸に近接し、其の文化の影響を最も受け易い地方に於いて見られると云ふことなどを以ても分かると思ひます。而して又此の土器の技術が特に九州北部に於いて異常なる進歩発達を呈したことは、かの合口甕棺なるものゝ存在に依つても想像することが出来るでありませう。
さてこの甕棺なるものは御承知の通り、九州福岡の南方|須玖《すぐ》を中心とする地方其他などに於いて盛んに掘り出されるのであり、其の中から漢式の銅剣や、漢鏡などの遺物が発見せられるのでありまして、其の製作せられた時代は略ぼ西紀前一、二世紀頃と推定せられるのであります。此等の鏡や剣などは大陸からの輸入品が大部分を占めて居るのでありますが、甕棺其者に至つては二つ合せて高さ六尺位にも達する大甕があり、到底輸入せられ得べきものではなく、勿論此の土地で作られたものであつて、たゞ其の製作の技術が彼国から伝はつたとする外はないのであります。斯る大形の而かも形の整斉な土器を作ることは、今日でさへ必しも容易ではないのでありまして、それを訳もなく沢山作つて之を喪葬に用ゐたと云ふことは、之を作るに適当な稍々発達した陶車と、又之を焼くに立派な焼窯が存在して居つたことを証するに余りあるのであります。
此の甕棺なるものは併し其の行はれた地方も九州北部などの一局処に限られ、其の時期も極く短い間に限られてゐるのでありまして、元来日常使用の甕の大きなのを、小児の棺に利用することから起り、それが次第に大人にも及び、後には特に甕棺として大きな土器を作るに至つたのでありませう。斯る葬法は即ち或る程度まで土器の製作
(169) 第1図 甕棺及埴輪円筒 1.筑前須玖遺跡の甕棺 2.埴輪円筒の囲繞―上野国箕輪町の上芝古墳 〔写真省略〕
(170)術が発達した後でなけれは現れないのでありますると同時に、又此の葬法の流行に由つて製陶法が刺戟せられ其の発達が促進せられたことも必然の勢であります。処が何分にも斯る大甕の製作の面倒なことや、取扱の不便が多かつたことなどから致して、此の甕棺はやがて廃絶に帰してしまひ、已に其の以前から多少用ゐられて居つた石板を組合せて棺とした所謂箱式組合石棺が漸次之に代つて行はれることになり、此の方はその時期も長く分布も広く見出されることは如何にも無理のない次第であります。而して向後日本に於ける墓制の発達は此の箱式石棺の更に発達した家形石棺などを収めた大墳壟の出現と、又大陸の影響に本づく石室の構造の発達の歴史に外ならないのであります。併しながら、件の甕棺に依つて発達を促進せられた弥生式風製陶法の進歩は、全く無用に帰したのではありませぬ。これが再び他の形に於いて喪葬法に役立つに至つたのでありまして、其れが即ち古墳の封土を保護し、且つ装飾の用にも役立つた処の埴輪円筒の製作に外ならぬのであります。而して又此の円筒から進んで、遂に人馬の形像の製作が出て来たのであります。以上は私共の考へでありますが、これには支那思想の影響を想像し得ることは前に申した通りであります(第1図)。
五
以上の様に見て参りますと、埴輪なるものも決して突如として考古学上に現れたものではなく、更に古い時代に其の技術製作上の連絡を発見することが出来るのでありまして、凡ての文化現象が忽然として起るものでないと云ふことの一証ともなるのであります。即ち原史時代の産物たる埴輪も、先史時代の甕棺、又弥生式土器の系統に属する土製品の一種であつて、たゞ其の用途目的が聊か方向を転じたに過ぎませぬ。従つて其の以前に於ける此等の土器甕棺などが発達して居なかつたならば、決して後の埴輪もあの通りには起らなかつたのであると見ること(171)が出来るのであります。而してなほ埴輪が行はれなくなつてから後も、スッパリ其の技術が影を潜めてしまつたのではなく、稍々後世の産物である陶棺なるものも、畢竟同じ技術が更に別の形となつて、一時的に随処に現れたものであると見ることに於いて、我々は愈々深い興味と意義とを認めるのであります。
さて甕柑の技術が一転して埴輪円筒となり、稍々後の時代に現はれたものであると申しましたが、あの甕棺にある胴部の帯の如きも、同じ保強の必要から埴輪円筒の上にも全く同様に施されて居るのでありまして、其の窯法製作の上から両者の間に親縁あることは誰人と雖も否定出来ないのであります。埴輪円筒には高さ三、四尺に達するものもありまして、甕に比べて製作は多少容易でありますが、矢張り可成の技術が要するのみならず、大きな墳丘の上を二重三重に取り巻いてゐる場合などは、其の数量は非常なものであるのであります。例へば応神・仁徳両帝陵の如き前方後円の大塚に於ては、実に数千箇に上る多数でありました。試に陸地測量部の地形図に依つて、仁徳天皇の御陵に三重の埴輪円筒を繰らしてあるとすれば、其の全長千六百二十間、一間毎に四箇とすれば合計六千四百八十箇となり、外堤にも同様一重だけ繞つてあつたとしても、之がザッと千二百間で四千八百箇、総計一万一千二百八十箇となるのであります。是は最大の古墳の場合でありますが、中等位のものでも数千を要し、極く小さい円塚の場合に於いても、少くとも百箇以上は必要とするのでありますから、此等の需要に応ずる土師部の仕事は随分忙しいものであつたと想像せられます。即ち一日一人で二十箇の円筒を作り得たとしても、仁徳天皇陵に於いては約六百日、十人がかりで六十日、五十人では十二日を要することになるのであります。それ故此の埴輪円筒製作のこと丈けでも、如何に我が国の製陶術に大なる関係を有し、其の工業的発達を齎したかを想像するに足りるのであります。従つて又此の埴輪樹立の風習が廃つて来た場合は、土師部に取つてそれは非常な大事件であつて、彼等は失業もし、転業を余儀なくせられたことゝ思はれますが、ひとり埴輪のみならず日常使用の土器陶器までが漸次木器や漆器又金属器に圧倒せられる奈良朝以後の形勢となりましては、土師部の首長たる人は、埴輪発明の祖先(172)の功を誇るどころか、喪葬に携はると云ふ縁起の悪い姓を改めて菅原氏と改姓することを願ふに至つたのは無理のないことであります。
六
さて已に述べました如く、埴輪のうちで第一に起つたものは円筒であり、それは甕製作の技術の継続であると同時に、此の埴輪に於ける円筒の位置は常に其の基本的のものたることを知らなければなりませぬ。即ち埴輪のうちに於いて我々の特に興味を惹きまする人馬などの形像も、畢竟此の円筒を基本として派出変化したものであると云ふことが認められるのであります。諸君も御存知の通り、埴輪人形の脚部は大抵両脚が游離せず、円筒風になり横に穿つた孔も普通の円筒の通りに作られて、たゞ上半身のみが人形にモデリングせられて居るのであります。甚しいのに至つては、円筒に目と口などを現はしただけのもの(山城八幡町発見)すらあるのであります。又時に両脚が明かに分離して現はされてゐる場合も、其の下部に更に円筒が附着せられてゐるのでありまして、如何に其の円筒の伝統が強く残つてゐるかゞ想像せられます。
斯くの如く円筒が埴輪の基本的性質を規定してゐることには、更に根本的なものがあることを注意しなくてはなりませぬ。即ち人馬等動物の形像を作る際にも、彼等は主として轆轤(原始的な)の上に於いて粘土をモデリング・アツプしたか、或いは又輪積みの法を用ゐたにしても、円筒に於ける製作法があくまで強く残つてゐるのであります。かの人物・動物等の形像も皆な内部は円筒と同じく空洞となつて居るのでありまして、彼等は多くの場合円筒状のものを作り、之を躯幹として若干の変形を加へ、之に別に造つた肢体頭部などを附加したものと思はれるのであります。牛馬等の動物像の場合に於いても其の四肢は多く小円筒の製作法を以て作つて之を聯絡したのであ(173)ります。陶車の使用法に馴れた工人が、平板を作る際にも之を使用するを便としたことは、支那漢代の瓦竈の表などに、其の手法を残存してゐるのでも分かるのでありまして、此の円筒が基本をなすと云ふことは、吹硝子の製法が管状のものを吹いて有ゆる形を作り出し、飴細工屋が之を吹いて基本的の形を作ると同じ趣きであるとも云へま
す。而して之に対して祝部土器製作者の作つた形像の方は、寧ろ※[米+參]粉《しんこ》細工的のものであると譬へることが出来ませう。併しながら人馬の形像以外の家屋形の様なものは、轆轤をもって製作の基本とすることは出来ませぬ。従つて此等のものは人馬の次の階段に現はれたものとす可きでありませう。是は或いは墳丘の頂上によくある円筒の変形なる笠形のものが、遂に家屋形になつたと考へてよいかも知れませぬ。
七
斯くの如く埴輪の人馬の形像は、壷甕などの容器や、円筒の如き工芸品を作つた土師部の工人が、葬祭の儀礼の変化と共に彫塑の方面にも進出した結果に過ぎないのでありますから、固より美術として其の造詣に多大なる期待をかけることは出来ないのであります。併しながら時には彼等のうちにも此の方面に特別なる天才を有する工人も交つて居り、又次第に技術の方面にも熟達して参つた為め、可成り見る可きものをも作り出したこともあるのでせうが、それはあくまでアフエクテーシヨンのない素朴な作品であつて、たゞ彼等が自然に所有して居つた無邪気な人間、動物に関する観察が、無意識に其の簡単なる技術の上に表現せられたのに外ならないのであります。其の手法は写実的ではなく寧ろ表徴的であつて、あらゆる細部の表現を捨て、極く大体を把まうとしてゐるのであります。而かも今日我々は精巧な技術や気取つた嫌味のある作品には飽き果てゝしまひ、斯くの如き古朴天真な作品の上に却つて多大の芸術的価値を認めんとするのであります。中にも人馬の形像のプロポーシヨンが大なる失敗をな(174)して居ない作品に於いて、最も障害なく之を認め得るのであります。あの鎌倉の釆女塚の女体の如き、武蔵比企郡大谷村の男像の如き、上野新田郡世良田の武装男像の如き、武蔵埼玉郡中条村の馬像の如き、河内応神天皇陵の水鳥の如きは、我々が小児の芸術、野蛮人の芸術に於て見る無邪気さと真摯さとが遺憾なく発揮せられて居つて、言ひ知れぬ親しみを其の間に感じるではありませんか(第2及第3図)。而かも是は畢竟円筒の伝統が始終伴つてゐる工芸家の芸術に過ぎないのであつて、かの祝部土器系統の作家が時に試みた形像飾付土器(殊に新羅慶州皇南里の土器等に其の顕著なる発現を見る)に於きましては、其の内部は空洞をなさず、容器に附着して居る場合に於いて、独立の彫塑術として発達せんとする形勢を示してゐるのに比べて、遙かに工芸的性質を保存して居りながら、却つて其処に衒《てら》はざる真率さが漲《みなぎ》つて居るのであります。
要するに埴輪は我が祖先が不用意に表現した当代の彫塑の最も古い作品たることは云ふ迄もありませぬ。而して斯る無邪気な偏癖のない芸術の上に輸入せられた仏教美術は、其の基礎の上に何等の癖もない自由なる自然的発達を遂げ得たのであります。若しもかの繩紋式石器時代の土偶製作者の如く、一種の特徴偏癖ある発達をなした技術の上に仏教彫刻が伝へられたとしたならば、必ずや飛鳥奈良朝に於けるが如き、殆ど支那直写の、而かも朗かにして癖のない美術の自由なる移植と発展とは見ることが出来なかつたに違ひないと私は信ずるのであります。斯くの如く観察することに依つて、埴輪が其の風俗史上などに資料として有する重大なる価値以外に、其の間に潜んでゐる更に深い意味――消極的意義――を発見し得るではありませんか。而して又古墳其者にとつても、埴輪の存在が如何に賑かな親しみを我々に与へ、封土外部の「ベヤーネス」と内部棺槨の包蔵物との中間を連絡する精神的意義を与へてゐるかは、埴輪のない古墳と比較して非常な相違を感ずることであり、是が亦た当時の墳墓築造者に取つて重大なる意義を有して居つたものに相違はないのであります。但し、之と同時に築造当時に於いて赤チャケた新しい封土の上に、赤褐色の埴輪円筒が列をなして並んで居り、その間に人馬の形像などが立つて
(175)第2図 埴輪女像例
(上) 相模鎌倉の釆女塚出土品
(京都帝国大学蔵)
(下) 上野佐波郡の赤掘出土品
(東京帝室博物館蔵) 〔写真省略〕
(176) 第3図 埴輪武装男像 上野国新田郡の世良田発見品(和田千吉氏蒐集品)〔写真省略〕
(177)居つて、緑の樹木が一本も生えて居ない古墳を想像致しますと、如何にも殺風景な光景をも呈して居つたと思はれます。斯る無遠慮な想像を廻らすことも矢張り古代を正しく了解する上に大切なことでありますから、茲に一寸付け加へて置きます。
なほ色々と申し述べ度いこともありますが、之を以て私の埴輪に関する考察の一端を終ることゝし、甚だ未熟な点は諸君の腹蔵なき御批評を煩はす次第であります。
(昭和六年十月) 〔初出、『東京帝室博物館講演集』第十一冊所収、東京、東京帝室博物館、昭和六年。〕
(181) 日本文明の起原
只今御紹介になりました通り、私は北野中学に五年間在学いたしましたが、実はいろんな事情で卒業にはならなかつたのであります。併し殆ど中学の課程全部を北野中学でやつたといふところから、立派な出身者諸君並に、私も本日この席に呼出されましたことは、非常に光栄に存ずる次第であります。私は先ほど井岡博士が申された通り、母校が明治十四年に創立されたといふその明治十四年の生れでありまして、自分の年を考へると、北野中学の創立の年がすぐにわかる。即ち今年五十三歳になります。母校の歴史をしのぶ上に大変にちようほうであります。その後二、三年して校舎の位置が変つた、その時から、恰度今年が五十周年に当ることになるとの事であります。昔話はおきまして扨これから私の講演の本題にとりかゝりますが、本日は多数の方々が各々専門の御話をなされるにつきましては、時間も甚だ乏しいことでありますので、私の日本文明の起原といふやうな大きな問題を提《ひつさ》げて、こゝに僅か三十分ばかりのうちに、これを十分にのべさせて貰ふといふことは到底不可能のことであります。また私の学問の立場からいたしまして、それをこまかく説明するには、いろ/\写真とか、或いは実物とか、さういふものを沢山お目にかけてやるのが本当でありますが、今日はその設備も整ひませんので、甚だ粗雑なお話を三十分ばかりやらせていたゞきまして、私の責をふさぎたいと思ふのであります。
さて、日本の文明の起原、これは日本ばかりではない世界中どこの国におきましても、その文明の起原を遡つて(182)調べるにつきましては、いろ/\の方面から研究出来るのであります。大抵昔の人は――敢て昔の人に限りませんが――かういふことを調べる場合、書物にさういふことが書いてあるだらう、書物をまづ見るといふ具合でありますが、書物には実はそんなことは滅多に書いてあるものではありません。もし書いてあれば大抵それは嘘つぱちであります。例へば人類の創まりといふやうなことを書いてある本をさがしてみますると、基督教の『旧約聖書』などをみても、アダム、イヴがどうのかうのと伝説が書いてありますが、今日の世界の文明人は、かういふことをまともに信ずる人は誰もありません。支那の歴史の中にもこれに類した三皇五帝などといふものが出てをります。そんな話も今日その通り信ずることは遺憾ながら出来得ない。日本の古典につきましても『古事記』や『日本書紀』にあるところの文句を、そのまゝ文字通り今日信ずることが出来れば、それは甚だ幸ひでありますが、不幸にして我々は今日の知識において、それは出来ない。たゞその古典の中にあるところの伝統の精神、それを私共も今日体得し得るものでありますが、その国土成立の伝説をそのまゝ信ずることは出来ないのであります。要するに書物の上からはさういふ古代文明の起原などを知ることはむつかしいのであります。それは恰も木によつて魚を求めるの類であります。然らばどういふ方法によつて文明の起原を知るかといふに、それは手前味噌ではありませんが、私共が研究してをるところの考古学とか、或いは人類学、人種学その他言語学といつた、さういふやうな学問の研究によつてから知ることが出来るのであります。但し、さうした学問によつて知り得るところの結果は、一見書物に書いてあるやうにはつきりしたものではありません。何といふ人が天から天降つて来た、何といふ人が何日かゝつて世界を創つたといふやうなことは書物にあるが、さういふことは全く分らないので、モツと茫漠たる知識でありますが、併しその漠然たるもの自身は少くとも現代の科学的根拠ある知識であるのであります。学術的に証明の出来る知識であり、学説であります。私はさう信じてをります。それで今日私の研究してをるところの考古学といふ方面から主として日本の文明はどんな起原をもつてをるものであるかといふところまで遡りまして、お話したいと思ふのであります。
(183) さて、分明の起原を知るに際しまして、我々はまづ現在の分明から遡つて考へてみたいと思ひます。今日の文明といふものを分析して見ますると、あなた方が御覧の通りで、その内容において日本のものもあれば西洋のものもある。同じ日本のものゝうちにも、古いものもあれば新らしいものも無論ある。その古いものゝ要素を更に調べてみますると、支那から直接に来たもの、或いは朝鮮を経由して来た支那或いは他のアジア諸国のもの、またオランダ、スペインなど西洋からのものもあります。なほその一つ/\のものゝ中にも、多くの要素が含まれてゐるのでありまして、さういふ風に多くのものがこんがらがつて、ごつた返しに集まつて、今日の日本の文明がなりたつてをるのであります。しかもそれらのものが化学的の化合状態ではなくして殆んど物理学的の混合状態になつて、滅茶苦茶に存在してゐるものが少くないのであります。恰も私が洋服を着てゐるかと思ふと扇を持つてをる。或いは私が外国語を喋るかと思ふと、頭はなか/\古臭いところのものを持つてをるといふやうな有様であります。併し、それらのものをだん/\と分析してゆくうちに、東洋的のもの、西洋的のもの、西洋的のものでもヨーロッパのもの、或いはアメリカのもの、東洋的のものゝ中でも日本のもの、支那のもの、朝鮮のもの、或いは北方|亜細亜《アジア》のもの、さういふものに分類されてゆく。斯の如くに次第に遡つてゆきますといふと、分析してゆきますといふと、結局日本固有のものは殆んどなくなつてしまひます。皆外国のものである。支那のものか、朝鮮のもの、或いは西洋のものといふ風になつてしまふのであります。併しこれは未だ決して失望するにあたらんです。
まづ現代のものはさういふやうに多種多様、外国の要素が多いのでありますが、それでは古い時代の文化を調べて見ればどうか。日本固有のものがありさうであると、だん/\研究して見ましても、やはり今日の有様と同じく、恰かも自分の影をいくら追つても先きへ行くのと同様であります。徳川時代から足利時代、南北朝、鎌倉時代、平安時代と遡つても、殆んど同じ有様でありますが、例へば奈良朝は何うかといふに、この時代になると、却つて支那のものが沢山あります。支那の唐朝のものが沢山入つてをります。またその以前の飛鳥朝にゆきまして(184)も、今度は支那の六朝のものが多く入つてをる。斯の如く次第にさかのぼつてゆきますといふと、所謂古墳時代の普通に日本で最も古い、純日本的の品物と思はれる古墳や御陵など古い墓から出て来ます品物について、それが果して純粋の日本固有のものであつたらうかどうかについて、よく/\調べてみますと、それもやはり大抵は支那か朝鮮のものであるのであります。例へば鏡でありますが、それは大抵支那から輸入したものである。支那の漢時代のもの、または六朝のもの、その頃の輸入品であるか、それを模造したものであるのであります。それでは剣はどうであるか。日本刀などいつて日本人が誇つたところの刀は、これまた実は大抵が支那から来たものであることがわかるのであります。また勾玉といふものがある。これは支那にはありません。支那にもないところの珍らしい純日本的のものと思はれるが、この勾玉が今日では朝鮮から出て来る。朝鮮の南方古の新羅の地方から沢山出て来ます。但しこれは当時日本文化の勢力が其処まで及んでゐたといふ風に考へられぬこともないではありませんが、しかしこの勾玉を造つた材料たる所謂翡翠、琅※[王+干]といふ硬玉はこれまた支那大陸から来たものでありまして、ビルマやチベット辺りから出る石をもつて造られてをるのであります。次にまた焼物即ち土器を調べてみましても、これらの古墳から出る焼物は朝鮮辺りから出る焼物と殆んど変らない。朝鮮人が日本に来て造つた所謂「イハヒベ」土器であるのであります。斯く煎じつめれば、日本の古い古墳から出るところの品物も、やはり外国の要素が多いものばかりと云つて宜いのであります。
それではもう少し遡りました古い時代、我々考古学者が申してをりますところの青銅時代、即ち青銅で造つたところの器物を用ひた、ブロンズの時代を調べてみますると、銅でこさへた銅鐸と称する大きな釣鐘様のもの、銅の剣や鉾、また銅の矢の根などがあります。この銅鐸中には相当日本的の分子もあるが、銅鐸そのものゝ形は、やはり支那的のものであり、また銅の剣、これは全く支那式のものである。銅の鉾《ほこ》、これも支那の影響によつて大体出来てをるといふ外はなく、実はこれらの青銅の材料そのものが大陸から伝はつたものであるのであります。斯の如(185)く古墳時代、それから青銅時代におきましても、日本の文明の遺物といふものは、大半は支那大陸から来たものである。少くとも今日残つてをる遺物から見ますると、さうであるのであります。それではもう少し古く遡つて見ませう。今度は金属の器物を全く知らない所謂「石器時代」になります。石の器物をつかつた時代であります。石で出来たところの矢の根或いは斧、庖丁、かういつたものを調べてみると、これまた支那大陸、朝鮮辺りから出るものと大部分は同じものである。またその時代の土器をみましても、或るものはまた朝鮮辺りのと似てをるものがある。それで日本の石器時代の文明も、支那大陸から日本に来たものと推定するほかはありません。要するに日本といふやうな大陸に接近した島国におきましては、天から人間が天降つて、さうして文明が開けたとかいふやうなことを信じない以上は、原則として大陸に近い島国は総ての場合常に大陸からの影響によつて文明も築かれ、人間も移つて来たのであるといふ外はないのであります。そしてこれはひとり日本ばかりではなく、世界中どこの国も皆な同じことなのであります。なほ石器時代の話にかへりますが、前申した日本の石器時代は、石器時代のうちでも土器もあり、磨いた石器もある、新しい方の石器時代でありまして、それよりもズーツと古い旧石器時代といふ時代になりますと、これは支那の西北からシベリア辺では近年発見されて来ましたが、日本にはまださういふ古い石器時代のものは出てをりません。それで今日においては日本の国の開けたのは、石器時代のうちでも新石器時代においてはじめてこの日本に人間が住み出したと考へておくのが穏当であります。それでありますから、支那大陸の文明に比べると日本のそれは古さにおいても余程新らしいのであります。
以上の如く申して参りますと、あなた方はそんなら君の話のやうであるならば、日本の古代文明の特色は一体どこにあるか、いかなるところに日本固有の文明があるか。日本の古代文明が殆んど皆なその要素は外国のものばかりである。またその文明の古さにおいてもはるかに支那に及ばないことになる。これでは何一つ日本文明の誇るべきところは見当らんではないか、君は今までの日本文明のいゝところを打ち壊してしまふのであらうと、心外に思(186)はれるかも知れません。御尤もであります。しかし私共の研究してをる学問の範囲においては、以上のやうに申すほかはないのであります。だからといつて私は少しもこのことを悲しまない。のみならずその事実をあなた方の前に告白するのは私共の義務でさへある.と考へるのであります。だが皆さん決して悲観するには及びません。以上私の申したことは、それはたゞ機械的に日本文化の要素を分析した結果であつたのであります。人間の身体を分析したなら窒素とか水素とか炭素とかいろんな元素にわかれる、つまり元素若干に帰してしまふ。そしてこれは馬でも然り、犬でも然りであります。またダイヤモンドは純粋の炭素であります。そして石墨も炭素である。木炭これまた純粋の炭素でダイヤモンドと変りはありません。それは分析してみた結果がさうであるといふことは、中学で教はつたことでありますが、その元素の組合せ方により、同じ生物体でも馬にもなり、牛にもなるのであり、原子の組合せ方によつてダイヤモンドともなり、木炭ともなるのではありませんか。一国の文明の要素は他の国のものと同じであるが、その組合せの具合が一々同じではなく、又これらのものがいかなる経過歴史を辿《たど》つて来たか、いかなる具合に変つて来たかといふところに、終に金剛石ともなり、木炭ともなると同様に、異つたものとして現れるのであります。尤も実をいひますると、前に申した外国の要素なるも、一度日本の国に這入り、日本の文明中のものとなつた時には、已にそれは外国のものではなく、日本的のものとなつてしまつてゐるのであります。また今日世界の文明各国において、純一な人種的要素を持つてゐる処は一つもないのであつて、皆な多くの外国の要素を混合融合してをるのであり、またそれによつてこそ始めて国民の永い生命が維持せられ、文明の生命が続いてをるのであります。我が日本も全くさうでありまして、いろ/\の文明の要素が混合状態、化合状態に無数に織込まれつゝあつた経過の間に、即ち日本文明の生命と、その特色があるのであります。それで日本文明の誇るべきところは、今いふやうに決して、決して、起原の古いところにあるのではありません。古さにおいては支那にも負ける。ユヂプト、ペルシヤにも劣る。だがたゞ古いのを無精に喜ぶのは骨董屋位のものでありませう。それは何も誇るに(187)足らない。国は新らしくてもよろしい。つまり我々日本人として成立したのは老大国に比べては割合に新らしいかも知れない。また文明の要素は外国のエレメントばかりで出来てゐても一向に差支へはない。たゞその取り入れた要素の組合せ、その文明の発展した径路において特色を有して誇るべきものがあればそれでよいのであります。今日でも現に我日本は多くの西洋の文明や思想をも取り入れてをるのであります。それ等を取り入れて、さうして立派に日本固有の特色あるものにするところに日本民族の価値があり、日本民族の立派な文明があり、特色が発見されると思ふのであります。よく日本は非常に古い国であるかの如く考へてゐるものもありますが、むしろ日本はさういふ風に大して古い国でないところに、洋々たる将来があることを喜びたいと思ふのであります。世界の古い国々は大抵已に滅亡してゐるか、今日残つてゐても甚だ振はないのでありまして、新しい要素を加へて文明がだんだんと変化してゆくところに真に一つの国民、一つの国家の生命があり、亡びざる長い生命があると思ふのであります。日本文明の特色を一言に申し上げますならば、その文明を形成してゐるエレメントではなくして、このエレメントの結合、組合せ方、又だんだんと新らしいものを加へて、それを同化して己れのものとして来たところ、また行くところにある。その歴史の発展上にあるのでありまして、溌剌とした動的のところにあるのであります。静的に文明の要素を考へるならば、どこの国も大した変りはないかも知れません。人間の身体も、豚も、牛も皆な同じ元素からなりたつてゐるが如く、たゞその組合せ取合せと動き方に、それ/”\異つたところが出て来るのであります。この点をよく御諒解願ひたいと思ふのであります。私が申し上げ度いところは其処にあるのでありまして、只今一つ/\の事柄について詳しく説明する暇はなく、日本文明の起原といふ題からは、少々脱線してしまつたやうでありますが、たゞこれだけのことを茲に申し上げ、さうしてこの講演を終ることに致し度いと思ひます。 (昭和八年十一月) 〔初出、『創立五十周年記念大講演会』所収、大阪、大阪府立北野中学校六稜同窓会、昭和八年。〕
(188) 日本最大の巨石墳墓の研究
――大和島ノ庄石舞台古墳の発掘――
一、は し が き
昭和八年十一月初句から丁度一箇月に亘《わた》って行ほれた大和島ノ庄石舞台古墳の発掘は、畿内地方の考古学的調査中、かの大正年間に於ける河内国府の石器時代遺跡発掘以来大衆のセンセーションを惹起した事件であつた。固より是には新聞の競争的報道や電車の宣伝などが、一般の興味を煽り立てるに大きな原因をなしたに相違なく、之に依り真面目な学術的事業が、直接間接に迷惑を蒙つたことも少くはないが、一方また之が為め一般人士が我々の事業を了解し、又た我邦上代の巨石墳墓に関して、多大な知識を得たことも疑ひのない利益であらう。元来この古墳は新たに発見せられたものではなく、二十年前既に喜田博士が精々詳密な研究を発表せられてあるのであつて、副葬の遺物を発見するのが目的ではなく、たゞ巨石墳墓の構造を闡明《せんめい》するのを以て主要な目的としたのであるが、比較的多大の労力と費用とを要し、而かも遺物の発見を予期し得ない此種の調査事業は、学術上頗る重要にして且興味ある事柄たるに関らず、従来多く実現するの機会を得なかつたのである。処が幸ひ今回は日本学術振興会から調査費用の援助を受けることゝなつたので、我々京都帝国大学文学部の考古学教室は、奈良県の史蹟調査事業と相提携して 遂に之を石舞台古墳に向つて行ふことを得たのは喜ばしい次第である。私は今次にこの石舞台古墳の発(189)掘と其の結果の大略を記す前に、先づ発掘以前の状態に就いて述べなくてはならぬ。
二、発掘前の石舞台
大和平原の南部神武天皇の御陵や橿原神宮のある処から、東南へ一里ばかり(電車ならは吉野線の岡寺駅の東二十町)古への飛鳥の京の皇居が置かれた地方、有名な岡寺の南方多武蜂への街道筋を登つて行くと、右手に当つて山間の稍々広い谿谷の田圃《たんぼ》の上に、紫黒色の巨石が十数塊、怪物の如く累々として相重なつてゐるのを誰人も見|遁《のが》さぬであらう。これが即ち私の今述べようとする石舞台なるものである。之に近づいて打ち仰げば、巨石は高さ約二間、三段ばかり積上げられ、其の頂上の二石の一は畳三、四枚も敷ける位の大さである。それ故一寸花見遊山の小宴も此処で張ることが出来るし、踊りや茶番などもやれる余地もある。それで誰云ふとなく「石舞台」と名付けたものであらうと思はわれる。併し比等の大きな石は外観如何にも不規則に置かれた様に見えるが、実は他の石塊と共に組み立てられた直方形の大きな石室の天井石であつて、石塊の間から内部を覗くと、其のうちに広い部屋のあることが分かるのみならず、若しも東北の隅にある大きな隙間からもぐり込むならば、我々は高さ十尺広さ八畳敷ばかりもある整然たる大きな部屋の中の人となることに驚くであらう。否、此の部屋はこれでなほ数尺以上も埋まつて居るのであり、又其の南の方に長い入口即ち羨道が付いて居つたことは、南壁の巨石の下にある空隙から透かして見ても想像し得られるのである。
此の一見不思議な石の部屋は、さて何に使はれたものであらうか。之と同じ様なものは、他の地方では或いは「鬼の窟《いはや》」などと呼ばれ、或いは古代の人間の住居であるとも考へる人がある。或いは又要塞の如きものである(実際此度の発掘中、見物人のうちで要塞説をしきりに説いて居つた人があつた)などと思ふ人もあるかも知れな
(190) 第一図 大和石舞台古墳の実測図〔省略〕
(191)いが、日本各地に於ける他の類例や、更には世界各国の同様の構築によつて、比等が凡て上代人の築造した墳墓であることは疑ひのない処である。我々は此の類のものを「石室古墳」(corridor・tomb)と名づけてゐるのであるが、欧州諸国に於いては、その極く原始的のもの、或いは時に露出してあるものを凡て「ドルメン」(dolmen)と呼び、その稍々発達したものを「石室古墳」(独 Ganggrab 仏 allee couverte)などと名づけ、所謂「巨石紀念物」(megalithic monuments)の中に列して居るのである。但し、欧州辺では此の「ドルメン」に始めから土を被うてないものもあつたらしく云はれてゐるが、我邦では左様なものはなく、凡て此等の石室古墳は土饅頭即ち盛土(封土)の中に隠れて居つたものであつたと考へられる。それで此の島ノ圧の石舞台の如きも、元は今見る様に石塊が裸に露出して居つたのではなく、之に相当する大きな盛土の中にあつたに違ひない。それが長い年月の間に土が失はれてしまつて裸になつてしまつたのである。我々は此の石舞台と類似同種の石室古墳を、大和地方をはじめ日本の各地に於いて沢山見るのであるが、之に使用した石材の巨大さに於いて、又其の規模の広大さに於いて、これほどのものを他に殆んど見たことがないのである。勿論、今なほ土を被つてある古墳に於いては、石室の石材の全形を知ることが出来ないから、或いは之に勝る大さのものもないとは断じ難いが、我々は幸ひにして此の石舞台の露出石室に於いて、まざ/”\と其の石材の巨大さを見ることが出来るのであり、又之を発掘して石室の全貌を明かにし、其の構造を究明するに最も都合の好いものなることを認めたのであつて、このことが今回発掘を遂行するに至つた一因ともなつたのである。
三、石舞台の発掘
此の発掘に於いて、京都帝国大学側では、私自身の外、梅原助教授之を監督し、現場の主任としては考古学教
(192) 第2図 大和島ノ庄石舞台
1.調査前の石舞台の景観 2.石舞台第一回の調査(航空写真)〔いずれも省略〕
(193) 第3図 大和石舞台石室羨道部の開通〔省略〕
室員末永雅雄君之に当り禰津、斎藤両文学士等之を助け、一同古墳から数町西方にある橘寺に宿泊し、京都と毎夕長距離電話を以て連絡を取ることにしたのであるが、奈良県側では岸熊吉技師及び稲森技手が主として全体の地形及び石室の測量に従事せられることゝなった。十一月五日先づ慣例に依つて仏式の慰霊式を行ひ、翌日は雨天で妨げられ、七日から愈々発掘に着手したが、我々は石室の南方羨道部が今なほ全体芝地となつて残り、其南端に大きな露出石材があることからして、多分羨道は完全に天井石を保存してあること/\想像して、之を掘り進んで石室内に達しようとしたのである。然るに発掘後一両日にして先の南端の大石材は天井石の落下したものであり、羨道部は凡て天井石を原状に遺存せず、土石に埋められて多くは失はれて居ることを発見した。之が為め発掘工事は予定よりも困難となり、其の進行も遅々たるものがあつたが、「トロ」を使用して土砂を運搬して、大に其の効果を挙げることを得た。而して此の羨道部のうちから古墳築造時代の祝部土器の破片と共に、遥かに後世の土器の破片や、永楽通宝の如き銭貨を発見(194)した。
羨道と玄室との境、丁度大きな南側壁の石の下部あたりは、内部からも見えて居た如く、二、三寸乃至四、五寸の割粟石《わりぐりいし》の様な石塊を以て、数尺の深さを埋めてゐたのは、自然に石室内に這入り込んだ石塊が比の部分に集積したものか、或いは後世此の部分を閉塞する為めに特に斯かる設備をしたものか、之は断定することが出来なかつた。
玄室の下部も右の如き割粟石がかなり多数粘土と混じて埋もれて居たが、我々をはじめ特に世間一般が期待して居つた石棺には遂に掘り当らず、遂に天井石の下約十五尺五寸にして石室の底に到達したのは、若干の失望を与へたことであつた。併し比の石室の底部の構造は亦た頗る珍らしいものであつて、周壁約一尺四寸位の間は小石を詰めた低い水はけの溝を残して、其他の部分は不規則な大小の割石を敷きつめて、平な床を作つてあり、其の壁周に溜つた水は奥壁の方に流下し、それが亦奥壁の中央から床を一直線に羨道の中心線に出で、羨道の全長に亘つて中央に割石を以つて作つた幅一尺四寸位の水路が走つてゐる事実が明かにせられるに至つたことは、従来殆ど知られなかつた石室内の行届いた排水設備であつた。なほ此の玄室内に於いても、羨道部と同様の赤焼や黝黒色の土器破片が随所に発見せられ、中には平安朝頃のものと鑑せられる高四寸位の花瓶の如きものもあり、更には永楽、元豊、寛永の諸古銭も若干出土したが、副葬遺物の残りと見らる可きものは全く出てこなかつた。斯くて外部に於ける封土の状態を知る目的を以て、東西北の三方の畠に若干の溝を試掘した後、石室の精密な実測等を向後の仕事に残し、神式の祭典を以て発掘の段落を告げたのは丁度一箇月目の十二月五日である。
(195) 四、石室の構造と封土の現状
さて石舞台古墳の石室の構造に関しては、既に発掘の事を述べた際に言及したことであつたが、更に其の全体を通観して見ると、玄室は略ぼ南北に主軸を置いたもので、其の長さ約二十五尺五寸、幅約十一尺三寸の直方形の平面を有し、天井の高さは底面から約十五尺五寸を測り、発掘を完了した石室の内に這入つて之を仰げば、実に宏壮高大の感に打たれる外はないのである。而も天井は二石からなり、北方の石は長十八尺に及び、南方の石は長十二、三尺ではあるが、その厚さは却つて前者より大きく、比の両者はその体積から推算して、少くとも百二十噸《トン》以上の重量を有するものと見られる。又奥壁は今二つに破れてゐるが、元来は一石であつたらしく、東西両壁は三段に積み、下段の石は割合に薄く、中段の石は厚く、その上に前に述べた大きな天井石が載ることになるので、この天井石の垂直に下る重圧に由つて側壁は全く安定することになる。而も側壁の石は床下なほ二、三尺ばかり深く、殆ど地山に接して樹てられて居ることは石室西南隅などの試掘に由つて明かにし得た。 南壁の下部は即ち羨道が開口してゐる処であつて、其の上部の石は石室南方の側壁と同時に羨道の天井石とを兼ねることになるのである。此の石は亦頗る巨大のもので、厚八尺、長十三尺、幅八尺に達してゐる。更に羨道は長凡そ三十八尺、幅・高共に約八尺、側壁は東西多くは一段の大石を以て構成して居るが、天井石は今殆ど皆喪失して、僅に最南方に落下して居る一巨石を認め得るのみである。此の石は果して羨道入口の天井石であつたか、また他の部分の天井石であつたか、今之を明かにすることが出来ない。なほ、此等石室と羨道の石材は、凡て比の付近に産出する角閃花崗岩であつて、石室の天井石の如きは殆ど自然の岩塊を其の儘用ひたかの如き観はあるが、其他の側壁、殊に羨道部の石材に至つては、可成加工して其の一面或いは側面を平にしてゐることを認めるのである。
(196) 第4図 大和島ノ庄石舞台 1.石室後部外側頂上 2.石室後部外側〔いずれも写真省略〕
(197) 然らば此の巨大なる石室建築を被覆して居た封土は、果して如何なる形状と如何なる大きさを有して居つたものであらうか。是は今日全然封土を喪失した此古墳に於いて、之を復原することは頗る興味あることであると同時に、又最も困難な問題である。しかし元来斯の様な石室を有する古墳は、他の幾多の類例から推して、矢張り円形の封土であつたと想定するのを最も安全とするのみならず、周囲の地形からしても長い前方後円の墳形を考へることは寧ろ困難である。但し、石室の外部に於ける我々の試掘は未だ充分に封土の限界を定むるだけの資料を提供せず、石室の東方約八十尺に於いて、地下数尺から発見した三段ばかりの傾斜した丸石積の構造は、或いは円墳の底周を繞らした護石かとも思はれる頗る面白いものであるが、之を確言するにはなほ将来の研究を要する。併し一方には円墳ではなく前方後円墳であつたかも知れぬと云ふ説もないではない。殊に大阪毎日新聞社の好意に依つて撮影提供された此古墳の空中写真を見ると、石室付近の田圃の残畦境界線などからして、多武峰街道を越えて北方に延びた前方後円墳であつて、石室は後円部の後方に羨道の口を開いてゐるものではないかとの疑ひを起さしめるものがないではないが、我々は実際の地形から見て、此古墳は矢張北方から延びた丘陵の一端を利用して、其の南端に石室を設け、之に円形の封土を築造した円墳であると考へるのを最も穏当な見解と信ずる。
五、古墳の時代と蘇我馬子桃原墓説
今度の発掘に於いて石室の内部から、石棺その他何等築造当時の遺物を発見しなかつた為め、それ等の証拠に依つて古墳の時代を推定することを得なかつたのを遺憾とするのであるが、さて是は何故に斯くの如く全く遺物を残留してゐないのであるか。之に就いては封土の無いことゝ共に、或いは此の古墳が未完成のまゝ打棄てられた結果であらうと論ずる人もあるが、左様に例外的の事情を考慮に入れることは我々の賛し得ない処である。矢張り或時(198)代に内部にあつた遣物――恐らくは一箇或いは二箇位の石棺又は木棺――を盗掠し、之を破壊或いは他に移搬したのみならず、遂には封土をも漸次除き去つたものと見る外はない。而して羨道などにあつた祝部土器の破片は元来副葬の遺物の残りであらうが、稍々後世のものと見るべき土器などは、盗掠後石室内が清掃せられて、或いは何か神仏の祭祀が行はれ、或いは浮浪民の住居となつた時以来の遺物と見る可きであらう。而して此の盗掠せられた時代は何時頃かと云ふに、平安朝位の土器のある点などからして、少くとも其頃にあつたと想像せられるのである。又宋銭、明銭乃至は寛永銭の出現からして、石室の内部は足利・徳川の時代を通じて、殆ど下底まで空洞のままになつて居つたことが推測せられ、従つて最近発掘前の如く、内部に数尺以上の土砂が堆積したのは、恐らくは徳川時代の末以後のことゝ思はれる。
さて次に此の石舞台古墳の築造せられた年代は何時頃であるか。又如何なる人を葬つたのであるかと云ふ問題になると、茲に精しく論証する暇のないことを遺憾とするのみならず、既に喜田博士の論文「蘇我馬子桃原墓の推定――稀有の大石槨島の庄石舞台の研究」(『歴史地理』第十九巻第四号、明治四十五年)に、其の大体を尽されてゐるので、今省略することにするが、要するに斯かる構造の石室古墳は、現在の考古学上の知識に於いて、我々は之を飛鳥朝前後即ち西紀六、七世紀頃に置くのを穏当とするのである。併し古く谷川士清が『日本書紀通証』に、之を以て蘇我馬子の桃原墓に擬せんとし、
第5図 古代の巨石運搬法(ショアシー氏に拠る)〔図省略、図の解説、入力者、巨石をテコで持ち上げ空いた空間に土を入れ徐々に高みに持ち上げる。その後出来た斜面を利用して前方に転がり落とす、そこで再び先ほどのようにして持ち上げる、此をくり返して移動させながら、徐々に丘の上に運び上げる。〕
(199)喜田博士の之を賛して馬子の墓に推定されたのは、其時代観に於いて敢て不都合はないにしても、又島の大臣馬子の邸を、此の飛鳥川上流島ノ庄村に求むることは異論がないとしても、一の古墳を斯くの如き歴史上の特定人物の墓に擬定することは、更に積極的の証拠のない限り、我々考古学者の敢てし得ぬ処である。
六、後 語
此の石舞台古墳を蘇我馬子の墓とすることには躊躇するにしても、併しながら斯の如き稀有の大石室墳墓を造り得たものは、当時に在つて皇家の主長でなくば、大権勢を有する氏族、例へば蘇我氏の如きものでなくてはならぬことは云ふ迄もない。たゞそれにしても斯かる巨石は此の島ノ庄付近の地に求め、否、最初から斯かる石材の手近に存在してゐる地点を択んで墳墓を経営したものに違ひなからうと思はれる。而かも百二十|噸《トン》以上もある巨石をはじめ、その総重量八百噸乃至一千噸(岸技師の推算に拠る)に及ぶ巨大な石材数十箇を少くとも数町の距離に運搬し之を石室に構築することは実に非常の労力である。其の技術の困難は今日進歩したる器械力を応用する時代に於いてさへ、実に想察するに足るものがある。恐らくは数百の牛畜、数万の人力を累積し、其の間少なからぬ人命の犠牲をも払つたことであらうと想像せられる。たゞ古代人は能く微細なる力を集めて結束し長時間の忍耐を以て、斯かる難工事を完成し得たのに違ひないが、彼等は或いは巨石を運搬する緩傾斜のスロープを作り、或いはテコ、コロなどの簡単な器械を応用したこと、かのショアジー(CHOISY)、ストーン(STONE)氏等がエヂプト或いは欧州の上代巨石運搬法に推測した処と、略ぼ同様の方法を駆使したものとする外はないのである。欧州の学者の多数は斯かる巨石建造物は殆ど皆な新石器時代乃至青銅器時代頃の産物であり、又世界中一源に出でてゐると考へるものもあるが、私は数年前英国の解剖学者にして且つ此の方面の研究者であるエリオット・スミス教授(ELLIOT(200)SMITH)を親しく此の石舞台に案内して、日本に於いては之が紀元後七世紀位の歴史時代のものと考へられることを説明した処、氏はたゞ唖然として驚嘆されたが、氏は更に大阪城を訪問して、第十七世紀時代の巨石建造物に驚かれたか否かは知らない。今日石室の内部を清掃し終つて高十五尺の天井を仰ぎ得る時に当つて、再び同氏やピート(PEET)氏の如き欧州学者を此処に招待して之を見せたならばと思ふ次第である。なは此の世界的巨石墳墓石舞台の詳細なる研究は末永・禰津・岸・稲森等諸君の労苦の結果を綜合して、他の類似古墳とも比較し、其の構造と築造の工程とを復原し、近く『京都帝国大学文学部考古学研究報告』の一冊として出版し度いと思つてゐる。 (昭和九年二月) 〔初出、『科学知識』第十四巻第二号掲載、東京、科学知識普及会、昭和九年。〕
編者註 − 後語にある通り、本古墳の調査研究の成果は、濱田耕作『大和島庄石舞台の巨石古墳』(『京都帝国大学文学部考古学研究報告』第十四冊)として昭和十二年、京都で刊行された。
(201) 日本原始文化
一、緒 言
日本の原始文化に就いて述べる前に、「日本」と云ふ言葉と、「原始」と云ふ言葉に就いて、其の意義を定めて置かなくてはならぬ。私は元来斯かる命題の意義を詮議することに、多くの興味を持たない部類の人間であるが、此の場合に於いては、それは特別に重要な意義を有するのであつて、私の議論と見解とは、此の言葉の含む意味に悉く包含せられ得るかと感ずるからである。即ち「日本」と云ふのは、固より地理的に主として本州・九州・四国を含んだ旧日本を指すのであるが、之と同時に琉球・北海道・樺太・朝鮮・台湾などの新領土をも含め、更には文化的に関係ある隣接地域を随時頭のうちに入れるのである。それは決して此等隣接地方を、帝国主義的に、日本の領土と見做《みな》さうと云ふのでなく、却つて日本は文化的には此等隣接地方と一団のものとして、大陸の一の付属島嶼として取扱はなければならないことを痛感する場合が多いからである。
然らば此の地理的日本の上に発展せられた原始文化を論述する際に、所謂我々「日本人」の渡来以前或いは成立以前の文化なるものは、如何に取扱ふのであるか。それは日本人以外の文化として、別扱ひとするのであるかと云ふ様な質問が起るであらう。併し私は以下次第に論述して行く様に、此の日本国土に存在した、過去あらゆる文化或いは人種は、凡て後の「日本人」の文化人種の原流をなすのであり、その成立の要素をなすものであると見るが(202)故に、私には事実日本国土に於ける日本人「以外」の原始文化なるものを認めることが出来ないのである。それ故或る学者が全く日本人と関係のない、日本人以外の文化と見る上代の文化をも、私は直に「日本人」の文化とは見ない迄も、日本人の文化と切り離すことの出来ない、日本の文化として取扱ふのである。この点私は日本の石器時代文化を以て、単なる先住民の文化として日本人の文化と深い関係のないものゝ如く取扱ふ人々とは、全く異つた見解を持するのである。
さて次に「原始」なる意義は如何に解釈するかと云ふに、之も以上の見解からして、其の上限は苟《いやしく》も日本国土に存在した、最も古い時代の文化に溯るのであるが、其の下限は何時まで降るかと云ふに、是は全く便宜的に決めて置く外はないのである。元来ならば、真に日本的とも云ふ可き文化が成立するに至る迄を論述す可きであるが、さて其の日本的文化なるものゝ成立の時期を画することは、容易ならぬ、或いは全く不可能の事である。或いは又所謂有史以前と云ふ目安を設けて時代を画するのも一つの方法であらうが、是れ亦実際何時を以て歴史の始まる時期とするかゞ問題であり、所詮は便宜的に決めて置く外はないのである。それ故私は今私の講題と関聯する「遣物遺跡より見たる上代の文化」の筆者梅原末治君と協定して、私は日本に於ける青銅文化の渡来の頃までを論述し、其の以後は梅原君にやつて貰ふことにしたのである。併しながら、此の単なる便宜上の区画も、或る程度まで合理的であることは、梅原君や私の記述を読まれる際に、読者諸君が自から了解せられることゝ思ふ。
なほ又私自身の「日本原始文化」の論述は、主として考古学的研究の結果にもとづくものであることを記憶して貰ひ度い。勿論、私も随時人類学的研究その他の研究を参考して議論を進めるのであるが、其の基礎は全く考古学的研究にあるのである。考古学は言ふ迄もなく、人類の遺した物質的遣物を資料として、過去の文化を研究する学問的方法であるから、物質的遺物の無い時代、或いは無い場合の事は、我々の研究し得る範囲以外の事である。併し物質的遺物が無くとも、他の遺物がある場合がある。例へば言語伝承の如きそれである。文学の如きそれである。此等(203)に由つて物質的遺物の無い場合の文化をも考察し得るのである。尤も原始時代の文化を研究する場合に、此等のものは発言権を有することが少ないけれども、古代文化の研究に於いて考古学的研究を以て、仮令《たとい》それは最も重要なる研究の方面ではあるにしても、唯一の研究方法であると誤解してはならないのである。併しながら私共は自らの専門の立場から、独立に日本の原始文化を研究し、その研究の過程に於いては、何等他の方面の研究法に由つて得た結果と妥協することなく、たゞ其の研究の結果を他の研究の結果と対比し、或いは他の研究と聯関せしむることがあるだけである。斯の如くにして始めて考古学的研究の独自の権威と価値とが発揮せられるのであり、他の文献的研究方法に於いてもまた同様であらねばならぬと思ふ。
二、旧石器時代問題
考古学者は人類の遺した物質的遺物を資料として研究する建前から、人類文化発達の段階を石器、青銅器、鉄器の三時代に順序するのを常としてゐることは、今更事新しく述べる迄もないことである。此のうち民族に由り国土により青銅器時代を経過せずして、石器から直ちに鉄器に進む場合もないではないが、多くの場合この三つの段階を経過して行くのであり、而かも其の最も古い時代が石器使用の文化の段階にあることは全く例外のないことである。而かも学者は此の石器時代を更に旧石器と新石器の二つに分つてゐるのであるが、従前は此の旧石器時代を以て、現在の人類と全く種《スペシス》を異にする古人類の文化として、新石器時代のそれとの間に深い間隙《ヒアトス》のあることを信ずるものが多かつた。併し近年に至つては此の両者の中間に或る場合中石器時代の段階を置く学者も多く、旧石器時代の間に人種上又文化上に連絡のあることを考へる人が鮮くなくなつて来た。更に新石器時代と次の青銅器時代とは、欧州に於いては全く同一人種の継続発展せる文化と信ぜられてゐるのである。とにかく以上の如くであるか(204)ら、我々は日本の原始文化、或いは東亜古代の文化を考察する際に於いても、旧石器時代に関する研究を全く度外視せず、一応は之に就いて考へ及ばなくてはならないのである。
さて然らば我が日本に於いて、此の人類最古の文化の段階である旧石器時代乃至は其の次ぎの中石器時代と称す可き時代の遺物は発見せられてゐるかと云ふに、現在までに於いては我々は其の確実なるものを全く有してゐないと云ふ外はないのである。古くドニケル氏の書物に述べてゐるものゝ如きは、固より信ずることは出来ず、ゴルドン・マンロー氏は相模早川の河岸で、旧石器に似たものを得たことを記してゐるが、決して其の確証のないものであることは氏自ら述べてゐる通りである。また両三年前、播磨明石の海岸で直良信夫氏の発見せられた人骨の一部及び石器らしいものも、私達その他多くの学者は之を承認し得ないのである。元来旧石器時代の遺物であることを証明するには、単に器物の外貌が旧石器に似てゐると云ふだけでなく、――これは偶然の相似が屡々あり得るからである――其の発見の地層と伴出の動物遺骨等の相関的研究に俟つ外はないのである。そして我国に於いては現在に至るまで曾て斯の如き証明を経た確実なる遺物を知らないのである。たゞ新石器時代の石器でありながら、旧石器の形状を保有するものが往々にしてあるに過ぎない。
然らば将来に於いても日本には旧石器時代の文化遺物を発見する望はあるか何うかと云ふ問題が起つて来る。之に対する見解は学者に由つて各意見も異なることであらうし、又容易に確信を以て答へることの出来ない問題であるのみならず、斯の如き問題は地質学者、或いは旧石器時代に関する研究を専門にやつてゐる学者の取扱ふ可きものであつて、之に関しては寧ろ素人に過ぎない私の如きは、妄に喙《くちばし》を挿む可き筋ではないかも知れない。併しながら、文一方には素人であるが為め、大胆な予察をやることが出来る強味もあると云ふ訳である。とにかく此の問題を諭ずる前に、我々は日本に近接する大陸に於ける旧石器時代の文化に就いて観察する必要が起つて来る。若しも日本に近接する大陸に於いて全く左様な文化が存在して居た証拠がなかつたならば、独り日本の島に之を求めよう(205)とするのも畢竟無駄なことであらうし、若しも亦近接大陸に其の遺物が出るとすれは、自然日本の島にも之を発見する望みが繋《つな》げられることになるのである。
亜細亜《アジア》大陸に於いては其の南部前|印度《インド》地方に於いて、旧石器時代の遺物は、稍々以前から発見せられて居つたが、これは日本とは少し縁遠いから別として、北部に於いては先づシベリヤの中央南部ミヌシンスク地方に於いての発見が報道せられた。併し支那に於いては久しい間聞くことがなかつたが、此の十数年前に至つて始めて其の存在が仏国の学者によつて証明せられたのである。それは北支那黄河の上流オルドス地方であつて、人類の加工品が旧世界の動物の骨と共に出土し、欧州に於ける旧石器後期マデレーヌ期或いは其の以後の型式に属するものゝ如くである。又近時日露の学者に由つて北満州に於いても旧石器時代の遺物が調査せられたものがある。なほ蒙古地方に於いても旧石器時代のもの、或いは中石器時代のものと思はれる遺物が発見せられてゐるのである。而かも数年以前には北京の西方周口店に於いて、世界に於ける最も古い人類の遺骨と考へられる「シナントロプス」の発見があり、之と共に石器らしいものも注意せられた。
斯くの如く支那の北方から東北方にかけて、極古くから人類の棲息が証明せられ旧石器時代の文化の存在が明かとなつて来たのであるから、第三紀以後日本群島が現在の如く存在し、或いは又或る一部が大陸と接続して居つたと考へられ、ステゴドン其他旧石器時代に繁栄した動物の化石が、続々と発見せられてゐる処から見るならば、当然人類の文化が更に一歩東して日本群島に跡を留め得なかつたとは誰が断言し得ようか。私は此等の点からして日本に於ける旧石器時代文化の必無を断言するよりは、発見の可能を信ずる方が穏当であることを思ふものである。
然らばそれは如何なる場所に存在するであらうか。洞穴のうちか、河岸の深い地層の下であるか、とにかく我々は従来の新石器時代の遺物を追求するとは異つた方法を以て、欧州に於ける旧石器時代遺跡と遺物に関する知識を充分に参考して熱心に之を探求しつゝ、而かも偶然の出現に期待することは出来ると思ふのである。
(206) 三、新石器時代研究の歴史
日本に於ける旧石器時代の問題の大体は以上述べた通りであるが、さて次の新石器時代の文化に至つては、是は世界中に於いても最も顕著な遺物と遺跡とがあるのであつて、我が日本文化の最も古い時代の資料は此処に見出されるのである。私は之に就いて稍々|詳《つまぴら》かに論述しなければならぬのであるが、それに先立つて此の日本に於ける新石器文化の研究が如何にして起つて、之に関する知識は如何にして構成せられて来たつたか、それに就いて少しく述べて見たいと思ふ。
我々日本人自身の間に、金属器以前の石器の使用に関する何等の記憶も残つてゐない。神話伝説などのうちにも此の記憶の片影らしいものは、はつきり探し出すことは出来ない。併し我々の祖先は此の日本群島に於ける過去の長い生活の間に、他の各国民のそれと同じく、偶然発見せられる新石器時代の遺物や遺跡を注意し出した。之に関して我々は既にかなり古い時代の記録を持つてゐるのである。即ち奈良朝時代に於いても『常陸風土記』には石器時代の住居址たる貝殻の堆積地、即ち我々の所謂貝塚なるものが、常陸の一地方に於いて注意せられた事を記してゐる。また平安朝の初半に於いては、『続日本後紀』、『文徳実録』、『三代実録』などに、日本海沿岸の砂丘地帯に於ける石器の発見などが、屡々報道せられてゐる。勿論此等のものに対しては、やはり他の国に於けると同様、自分等の祖先の使用したものとは考へず、また自分等以前或いは以外の異人種の残したものとも思はず、例の通り神変の作為に帰し、超人間的の存在其他の手に成るものとして居つたのである。そして斯の様な考へ方は割合近世に至る迄続いてゐたらしい。
然るに徳川時代の中葉以後になつて、始めて合理的に此等の品物を考へる様になつて来たと云ふのは、長い平和の時代は自から学問の発達を促し、殊には支那の本草博物の学や其他考証の学の影響があつて、合理的の考察が行(207)はれる様になつた為めである。而して一方には此等の石器などを奇石として蒐集した木内石亭一派の弄石家が輩出すると共に、他方には新井白石の如く、孔子の云つた粛慎の石※[奴/石]から類推して、日本で発見される石器は、古く日本まで来て居つた粛慎族の遺物であると説く人さへも現れて来た。これは実に当時に在つては非常な卓見と云ふ可きであつて、日本の考古学史上長く記憶せらる可きことゝ思ふのである。而かも徳川末期に至つては和蘭関係の学者、殊には当時已に欧州の丁抹《デンマーク》や其他の北欧に於いて起つてゐた石器時代の研究の影響を受けたシーボルトなどの来朝によつて、日本の石器が始めて学術的に取扱はれ、之を以て先住アイヌ人の遺物であらうとの考説さへ唱へられることになつたのである。而かも此の西洋学の方面からの研究が、次第に移植せられて遂に今日の如き日本の先史考古学が発達する基礎が置かれるに至つたのである。
之に関して我々の永久に記憶しなければならぬ西洋の学者は、米人ジョン・モールスである。彼は明治十二年東京大学の教授として聘せられて横浜へ到着し、汽車で東京へ行く途中早くも大森の貝塚を発見し、遂に之を発掘研究するに至つたのは、実に我国に於ける石器時代の遺物の科学的発掘と研究の暁鐘であつた。彼の研究は其後遂に東京帝国大学の人類学教室の設立者たる故坪井正五郎博士を生み、坪井博士を中心とする同教室と其影響を受けた多くの学者が相集つて、日本に於ける先史考古学研究の陣容を完成したのである。私は其の以後に於ける研究に関しては、今多く之を述べることを故《ことさ》らに省略するが、京都帝国大学に於ける考古学教室が明治の末年に設立せられて以来、従来関東を中心とする研究以外に近畿関西の研究が大に起つて、先史時代文化の研究の上に、確かに新しい生面を開いたことを確信すると共に、日本の国運の進展と共に朝鮮、満州その他東亜諸地方の研究と、其の知識とが此較綜合せられて、遂に日本を東亜の一員として考察すると云ふ、大きなる視野からの考察が、大正以後漸く盛に行はれ来つたことを欣ぶ外はないのである。
(208) 四、石器時代の遺跡
私は前節に於いて日本に於ける先史時代の研究が如何にして起つたか、其の歴史に就いて極く大体を述べたのであるが、さて斯の如くにして起つた我国の原始時代文化の研究は、世界に於いても此種の研究中最も目ざましいものゝ一つとなつたのである。その調査の広汎且つ精細なる点に於いて、之に興味を有する学者の数に於いて、決して他国のそれに劣らないのである。併しながら、其の調査の成果を如何に取扱ふかと云ふ点に於いては、必しも他国に優れてゐるとは誇り得ないのは遺憾である。即ち其の資料の取扱ひに際して、或いはたゞ煩瑣《はんさ》な分類記載を行ひ、之を綜合洞察することを怠る場合が多く、或いはまた旧式の歴史研究家の取扱ひに任じ、或いはそれを学んで、自から考古学者、先史学者の研究的態度を捨てゝしまつて顧みないものが鮮くないのである。――併し此等の事に就いて今議論をする可き時ではない。私は従来学者の調査研究の結果に由つて得られた原始文化の資料に就いて叙説しなければならない。
さて日本に於ける最も古い人類文化である新石器時代に於いて、其の存在を証明する資料は如何なるものであるかと云ふに、それは云ふ迄もなく其の当時の人類の手に由つて残された各種の遺物である。それには彼等が器具として加工した各種の品物もあり、また彼等の生活行動の結果に由つて生じた各種の証跡がある。此の後者のものを我々は通常遺跡と名づけるのであるが、此等の遣物遺跡なるものは、当時の人類の生活行動を今日に伝へる片影に過ぎないのであつて、我々の有する遺物以外に、朽滅し易いものは既に滅び、また地下或いは水中に隠れて、今日我々の資料として利用し得ない遺物が、なは幾層倍あるかも知れないのである。それ故我々の研究には常に之を考へに入れて、多くの留保を以て推測を試みるの外はないのである。
人類の棲息を証する最も重要なる遺跡は、云ふ迄もなく其の生存時に於ける住居と、死後に於ける住居即ち墓所(209)であることは、石器時代に於いても固より今日と敢て異らない。併しながら今日よりも遥かに簡単なる生活を営んで居つた我国の先史時代の民衆にあつては、其の残した此等の遺跡も亦、簡単なるものに過ぎない。併し彼等は決して獣類の如き自然にのみ依拠する生活をして居たのではない。既に雨露を凌ぐ小屋を有して居たのである。之を実証する遺跡としては石を畳んだ炉址を中心とする円形或いは其の他の形に適つた柱穴が、石器を出す遺跡、特に関東地方の遺跡の数々から発見せられてゐる。此は炉を中心とする此等の形を有する草葺等の小屋の存在を証するものである。また此等の小屋は平面の地上に作られた場合の外、稍々深く掘り窪めた穴の上に作られることもあつた。此の種の穴の跡の残つてゐるものを竪穴と呼ぶのであるが、固より其の上に屋根掛があつたに違ひなく、而かも此の竪穴が群集して存在してゐる処から見ても、彼等の住居が多少の聚落をなして居つたことが分かるのである。寒い時季或いは寒い地方には此の室《むろ》的の住居が多く行はれて居つたことは想像に難くない。また彼等は時に天然の洞穴を利用して其処を住居としたこともあつた。越中永見大境の如きは其の顕著なる一例であつて、此処では落盤其他の為めに出来た地層に由つて、年代を異にする遺物が明かにせられてゐるのは面白いことである。
以上の如き住居其者の遺跡と云ふよりも、住居と関聯した重要な遺跡に、所謂貝塚なるものがある。是は石器時代の人間が其の住居の近傍に、彼等が食余の獣骨魚貝の残物や、生活の為に出来た各種の破残物を捨てた塵芥の捨場である。此等の破残品中に於いて、貝殻は特に長く其侭保存せられ、色が白く目立つ処から貝塚と云ふのであり、又塚と云つても現在は必しも塚状をなしてゐるのではない。其の広袤《こうぼう》も大小種々あり、広く拡がつてゐるのは聚落の大きかつたこと、厚く残つてゐるのは一ケ処に長く住まつてゐたことを語る場合が多い。次にまた石器殊に半成の品や石屑などが多く散布してゐる処がある。これは当時石器を製作した工場であつたらうと想像せられる。其他完全な石鏃などが沢山発見せられる場所は、戦争が行はれた処かも知れないが、これは固より想像に止まる。たゞ此等の住居地に何故に完全な器什を残してゐるのであるかと云ふことは、我々に考へさせられる問題である。(210)或いは他部族の襲撃を蒙つて急に逃亡したのであるか、或いは流行病などの為め住民が死に絶えたのであるか、或いは迷信などの為め家を捨てゝ他に移つたのであるか、恐らくは此等種々の原因が共に作用をしてゐるものと思はれるのである。
以上の外になほ一つ重要な遺跡は、彼等の死後の住居である墓地である。これは洞穴と共に日本に於いては最も遅く注意せられた遺跡であるが、東海道から畿内・中国・九州に於いて顕著なる実例が知られて居り、当代の文化を知る上に最も重要なる価値を有するものである。或いは数体或いは百数十に至る多数の屍体が略々一定の方式を以て葬られ、之に副葬せられた遺物が発見せられたのであつて、之に由つて我々は始めて当代の人種の特質、宗教儀礼などに就いて、確実な知識が供給せられるに至つた。それで日本石器時代の研究は此の墓地と其の遺物の発見に由つて、一大飛躍を試みるに至つたと云ふことが出来るのである。
五、石器時代の遺物
以上述べ来つた各種の遺跡から発見せられる遣物は、固よりそれ自身に多くを語る処があるけれども、其の遺跡に於ける存在状態、特に伴出の他の遺物との関係に於いて最も肝要なる事柄を我々に告げ知らすのである。併し今此等の遣物には如何なる品種があるかを少しく述べて見よう。
先づ第一には石器時代の特徴を示す利器として石器を挙げなくてはならぬ。之には打裂に由つてのみ作られた所謂打製石器もあるけれども、之と共に磨研したものも発見せられることは、即ち日本の石器時代が新石器時代に属することを示す一の証拠である。そして此等の石器は其の用途に従つて、各分化した各種の形式に発達してゐる。打撃と切断との用を兼ねた石器の基本形式である石斧も、既に整美した蛤刃の磨製品を出し、之が盛んに行はれ、(211)又|鑿《のみ》形刳り入りの斧も作られてゐる。かくて切截の目的に向つて半月形の磨製石庖丁の類が作られ、刺通の目的に向つては石槍・石鏃・石錐の類があり、其等の形式は東亜諸国其他の新石器時代のものと殆ど大なる変りはなく、最も普通の形式を示してゐる。併し其の製作は頗る精巧のものがあり、此の点に於いては世界中に於いても余り匹敵するものが多くない程であると云つて差支へはない。そして石斧の多いことは、彼等が農耕定住の生活をなして居つたことを推察せしめ、石鏃の多いことは彼等が狩猟を盛んにして居つたことを思はしめる。石器の外に骨角器がある。これは石製の利器よりも強靭で、皮革を縫ひ、漁撈の具として必需のものであるが、骨製の銛、鉤、錐の類を多く発見することも、彼等は一方に於いて漁人であつたことを示すものである。なほ日常の器具ではないが、石製骨製、時には土製貝殻製の各種の装身具も出てゐる。
石器の類と共に最も重要な遺物は土器である。土器は旧石器時代には全く作られず、何処に於いても新石器時代に至つて現出したと考へられてゐる。人類の生活史上最も肝要な器物である土器の発明は、人類に食物を調理し、之を貯蔵せしむるに大なる便宜を与へ、人類に食物の追求以外に其の精力を向けることを得しめ、此処に文化の進歩が大なる歩みを踏み出すことゝなつたのである。此の点に於いて日本の石器時代の遺跡は、到る処最も豊富に遺物を出すことに由つて、彼等が如何に平和に定住生活を楽しみ、文化を発展せしめて行つたかを想像するに難くはない。また我々は石器に於いては寧ろ人類器具の形式の普遍性を見、各民族各時代の変化を認めることが困難であるのに反し、土器に於いては此の民族年代に於ける変化相違を明敏に感得することが出来るのである。それは土器の形状と紋様とに於いて主として表現せられてゐるのであつて、其処には地方的の差違があり、年代的の変化もある。今日多くの学者は此の差違の研究に従事し、其の分類は頗る微細に入つてゐるが、未だ確定的なものであるとは云ひ得ない憾がある。
併し我々は日本に於いて石器と伴うて発見せられる土器に二つの大きな種類があると云ふことが出来る。其の一(212)は縄紋式土器で、他の一は所謂弥生式土器である。前者は不完全な窯で焼かれた黒味がかつた土器であつて、其の表面には縄蓆紋其他の曲線模様が器形と重要なる聯関を以て適用せられてゐるに反して、後者は稍々完全な窯に於いて焼かれた茶褐色の土器であつて、表面には模様の附せられない場合が多く、時に適用せられた場合に於いても、それは幾何学的の而かも全く附飾的のものである。此の二つの種類の土器に於いて、縄紋式の方が弥生式に比して古い時期のものであることは、同一遺跡に於いて前者が下層に、後者が上層に位して発見せられる層位的事実に由つて明かである。斯の如く縄文式は古くて其の焼成は不完全であるに拘らず、其の形状意匠の点に至つては、頗る豊富多様であつて、壷、鉢の類の外、土瓶形、香炉形その他各種のものがある。之に附せられた模様と共に当代の技術家が之に其の美術的思想を凝集してゐる観があり一々の器は、一々異なつた形状と紋様とを有してゐる位に、変化を極めてゐる。之に反して弥生式土器は其の焼成の技術は進歩し、陶車の発達と共に均整を得た形式を有してゐるけれども、其の形式は互に相一致し、壷、鉢、高杯など単純なものを常とし、全く工業的多量生産の作品たることを思はしめるのである。我々は此の両種の土器と之を伴ふ石器時代の文化の相違に就いては、後章改めて言及しなければならぬ。
六、石器時代の文化的段階
前章遺物の話の際に述べた如く、日本の石器時代の遺物中、土器に在つては縄紋式と弥生式との二つの種類の違つたものがあり、遺跡に於ける層位的発見の告ぐる所に由つて、前者の方は古く、後者の方は其れよりも新しいものであることが知られるのである。而して之に伴つて発見せられる石器其他の遺物に於いては、其の差違甚だ明瞭を欠くのであるが、石棒なるものが前者と伴出するに反して後者には其の事なく、抉《えぐ》り入り石斧・石庖丁の類が後(213)者に多く伴出すると云ふ様な事もある。又石器の製作から云ふと一般に寧ろ前者の方が多量であり、且つ優秀であつて、或る意味から云はゞ石器時代の文化としては縄紋式土器を伴ふ文化階級の方が隆盛期であつたとする外はないのである。而して弥生式土器を伴ふ文化段階は寧ろ其の衰頽時期であり、次の金属文化に移行する時期、或いは既に其の萌芽の始りつゝあつた過渡時代と見ることが出来る。否な事実弥生式土器と伴つて、金属器が発見せられることが鮮くないのである。而して又縄紋式土器伴出の石器時代文化――我々は以後之を石器時代本期と呼び、弥生式土器伴出のそれを後期と称する――の遺跡遺物は、南は沖縄・九州から北は奥羽・北海道まで普《あまね》く残つて居り、旧日本全体に此の文化が栄えて居つたことを示してゐるのであるが、西日本に於いては其の遺跡遺物が東北関東地方に比して稍々貧弱であり、之に反して東北日本に於いて貧弱である弥生式土器伴出の石器時代文化の遺跡と遺物とが、顕著に存在してゐることは、西日本に於いては此の石器時代本期の文化が充分なる発展を遂げないうちに、早くも後期の文化が起つて来たことを物語るものであらう。思ふに日本は西に大陸を控へてゐる地理的環境からして、常に文化は西方から入り込んで来るのであり、縄紋式本期の文化も最も古いものは矢張り西日本に存在し、それが漸次東北に伝播して行つたが、やがて西日本には次の新しい大陸文化が渡来して、其の感化に由つて新しい文化の時期に這入つた為め、縄紋式文化を発展せしめた時期が比較的短く、遂に其の爛熟の域に達するに至らなかつた。然るに之に反して、東北日本は此の新文化の影響が遅かつた為、却つて能く此の石器時代本期の文化を極端まで発展せしめたのである。それで此の石器時代本期の文化は西日本に於いては歴史年代の何時頃に当るかと云ふに、それは少くとも西暦紀元前に溯ることが出来、関東地方に於ける其の繁栄期は少くとも西紀三、四世紀頃以前と見る可きであらうが、東北地方に於いては遥かに遅く、それよりも二、三世紀も後にも及び、なほ此の文化の余蘖《よげつ》は西紀十世紀以後即ち鎌倉時代にも残喘《ざんぜん》を保つて居つたらしいことは、陸奥是川村の遺跡などに由つて推察することが出来るのである。
(214) 斯の如く日本石器時代文化なるものは、之を本期と後期の二つの時期に分つ可きであり、また其の各時期の文化も各地方的に其の歴史年代を異にするのであるが、其の間に於いても同年代の遺跡に於いて、地方的に各特色を発揮するものであつて、其の差違の存する点から見れば、頗る多様であること、恰も現在に於ける各地方の文化相の相違と少しも異らないのである。併しながら此等の各地方的文化の相違をネグレクトして考へるならば、本期即ち縄紋式土器を伴ふ石器時代の文化は、関東から東北地方にかけて此の文化が最も大なる発展を遂げ、之に反して弥生式土器を伴ふ石器時代の文化は、西日本から近畿地方に於いて、繁栄を示したといふことに於いて何等の異論はない。そこで近年我国の学者は石器時代遺物中、年代的又地方的差違を最も顕著に示す処の土器の研究に没頭して、或いは之を厚手式、薄手式と大別し、或いは顕著なる遺物を出す場所《ステーシヨン》を代表する各種の型式に分類するに至つた。此等の分類中には単に地方的の僅かな相違を示すに過ぎないものもあり、又大きな文化的中心を示すものもあるので、それ等は漸次整理綜合せらる可きである。斯かる分類は文化の変遷、移動の径路などを明かにすることに於いて、始めて其の重要なる意義を有すると云ふことを忘れてはならぬ。たゞ此等のうち縄紋式土器文化に在つては、陸奥に於ける亀ケ岡は一つの顕著なる文化の中心的「ステーション」と見ることが出来、此の地に於ける土器の顕著なる発達は、日本々土に於ける本期文化の最後の一中心であつたと見ることが出来る。又関東地方に於ける本期文化の広汎且つ高度の発達は、大森や陸平《をかだひら》などの土器を標幟として綜合せらる可く、相模の諸磯式土器は東海地方に於ける此の文化の古い段階を代表し、それが近畿、中国とを系統づける連鎖となるであらうし、近畿地方に在つては河内の国府は此の地方に於ける代表的「ステーション」と見ることが出来る。其他中国に於ける津雲、九州に於ける阿高の如き、亦それ/”\の地方を代表するに足る本期文化の代表的「ステーション」とす可きであらう。なほ後期即ち弥生式土器の文化に於ける諸中心も、盛んに研究せられ、例へば九州北部に於ける遠賀川《をんががは》式なるものは、一種の模様を愛用する集群であり、日向、大隅地方にも顕著なる出土品がある。近畿地方に在つては大和、河(214)内に於ける各地の遺品が自ら一系統をなしてゐる。殊に近江滋賀の壮麗なる作品は、尾張熱田の同様の遺物と相並んで、各特殊の「ステーション」を構成し、伊勢湾を中心とする此の文化の発達を物語るかの如くである。而して此等の研究は将来一方に於いて愈々詳細綿密に行はれ行くと共に、其の小異は之を大同に綜合し、諸「ステーション」を中心として、其相互間の関係を考察して、それが果して年代的の違ひから説明す可きであるか、将た又同時代の地方的相違として取扱ふ可きであるかを明かにすることに由つて、始めて此の分類の意義が達せられるであらう。而かも就中重要なる「ステーション」は其の一種の土器中紋様型式を異にするものが、成層的に上下に出土する遺跡であり、更には又両様の土器が同地点に於いて層序を異にして出現する遺跡である。是は文化の移動変遷を明かにする上に、最も重要なる資料を供給するものであることは云ふ迄もなく、其の文化を形成した民族、人種に関する見解をも引き出すに足るものである。之に就いては後章更に言及する機会があるであらう。
七、石器時代の文化概観
以上、私は日本石器時代の文化に就いて、主として土器を基準として本期と後期との二期に分ち、又地方的にも各「ステーション」を中心として多様の特殊性を発揮してゐることを述べたのであるが、次に今私の所謂「日本石器時代本期」を主として、各地を通じての文化相を窺つて見度いと思ふ。 彼等は其の遺物の示すが如く、石製の槍・鏃などを以て山野に狩猟し、当時今日よりも更に豊富であつた猪、鹿などの山幸を獲て之を食料とし、又衣服の材料とした狩猟者《ハンター》であつたことは、他の諸国の石器時代人と略々同様であると同時に、海国である日本の国柄からして、海岸に近い人民は骨製の銛・鉤などを以て、又た土錘や網の型の付いた遺物の示してゐるが如く、網を以て海幸を近海に漁る漁人《フイシヤマン》でもあつた。殊に最も捕り易い貝類が、彼等に豊(216)富なる食料を与へたことは云ふ迄もない処であつて、全国に亙る一千にも近い貝塚は之を雄弁に証して余ある。併しながら、少くとも石器時代の後期に近い頃には、彼等の間に若干の農業が行はれ、米其他の穀物を植ゑたらしいことは、土器に付着してゐる籾その他の証拠からも推察せられるのであるが、牧畜に至つては我国の地勢上発達しなかつたらしい。たゞ後期に近くなつて犬、牛、馬などの家畜を飼養して居たことは、其等の動物の遺骨の発見に由つて知ることが出来るのである。
彼等の住居は已に述べた通り、多くは小屋掛の家屋であり、又寒地に於いては特に冬期は室《むろ》的の住居を作つたことは、遺跡の実際と我国の気候とから想像せられるのであるが、屋内には炉を設け、之に土製の器物などを懸けて食物を調理し、又暖を取つたものゝ多かつたことも、炉の遺址から推察せられる。此の炉を中心として彼等は家庭の団|欒《らん》を楽しみ、男子は武器や漁具の手入れをなし、女子は編物、織物などに従事して居つた光景をも描き出し得ることであるが、何分にも燈器の不完全な所から推察すれば、夜は暗くなると共に寝ね、朝は日の明くなると共に起き出づると云ふ、自然人の生活状態の範囲を出でなかつたことは勿論である。
狩猟と漁撈とに由る食物の獲得に、殆ど全勢力を費した男子達は、其の暇々に或いは天候の恵まれぬ折には、此等の用に供する器具の製作と修理に忙しかつたであらう。即ち石器と骨角器の製作などは彼等に取つて、其の重大なる準備作業であつたに違ひない。石器類は其の材料や技術などの関係からして、各個人の家庭に於いて製作するよりも、寧ろ各地方、各部落などに、その製造の中心、或いは工場と云ふ様なものがあると考へられる。そして黒曜石、サヌカイトの如き石器の原石は之を其の産地から輸入し、また製品としても輸入せられたのみならず、石鏃其他の石器は、或いは時に交易の媒介物となつたかも知れない。とにかく我が石器時代人の石器製作の技術は、古代エヂプトなどを除いては、世界に於いても最も優秀なる部類に属し、我国人の手工に巧なることは、古く石器時代に源を発してゐると云つても差支へはない。土器の製作は他の民族に普通に見る様に、凡て女子の手に委せられた(217)か何うかは疑はしい。少くとも其の或者は専門の男子の手になつたものであることを想像し度い。何となれば、其の意匠に創意的の変化が頗る豊富である所から、到底女子ばかりの製作と考へられぬからである。此の土器に於いても我が石器時代人は、遥かに他国のそれを凌駕し、我国が古くから「陶工《ケラミスト》」の国であることを語つてゐることは、後に言及する通りである。 併し遺物や織物は固より女子の職業であつたに違ひなく、此等の手工品の存在は、土器の上に印捺せられた処に由つて知ることが出来る。衣服の制は詳しくは分らないが、細い袖の袴を有する|寒地向きの衣服《アークチツク・クロズ》の系統に属して居つたことは、土偶の表現などに由つて推察せられるのであり、石製や骨製の身体装飾品、例へば※[王+決の旁]《けつ》状耳飾、鼓形耳飾、貝製腕輪、小玉頸飾、骨製腰飾の如き−をも佩用して居つたことは遺物の告ぐる処である。而して黥《げい》身の有無は土偶などに由つて遽《にわか》に断じ難いにせよ、成年期を表徴する風習としての抜歯が行はれたことも、遺骨に由つて証せられてゐる。
同族同志殊には他部族との闘争は、固より彼等の間に行はれたに違ひないが、さりとて頗る好戦的の人間であつた証拠はない。而して彼等の間に人肉を食した風習のあつたことは、大森貝塚に於ける数寸に切断した下肢骨に由つて推測せられたが、是は必しも常習的のものであつたとは思はれない。否な彼等は一方に於いて死者に対して礼を厚くして葬つたことは、其の墓地に於ける状態に由つても明かである。殊に陸前松島に於いて発見せられた老祖母と幼孫と相抱いた骨格の如きは、如何にもタッチングな愛情を千古に残してゐるものであるのみならず、乳小児の如きは甕に容れて葬るのが常であつた。而して埋葬に当つて一定の儀礼のあつたことは、其の多数が屈蹲《コントラクテツト》の姿勢《ベリアル》を以て埋葬せられてゐることに由つて知られるのであるが、是は欧州に於いても旧石器時代以後新石器時代に行はれ、其他古今東西の野蛮民族の間に拡がつてゐた死霊の出現を懼《おそ》れる結果から来た葬法と考へられる。彼等の宗教の本質に就いては、固より詳にし難いが、一種の「フェチシズム」、「アニミズム」の類であつて、女神が生産の(218)神として崇拝せられたらしいことは、女形の土偶の多数に存在することに由つて想像せられるのである。而して彼等が既に或る程度の集団的生活をなし、其の間に酋長的のものがあつて、若干の統制ある社会的生活を営むで居つたことも、固より推測に難くないのである。
彼等が石器や土器の製作に優れた技巧を有して居つたことは既に述べた通りであるが、特に土器の形状や模様の上に発揮せられた意匠は、頗る見る可きものがある。但し其の性質は矢張り濠州人等の木器などに表現せられた野蛮模様《サウエジオーナメント》の範疇に属し、凡てが著しく模様化せられ、清楚な処はなく、繁縟の嫌がないではない。又自由写生の芸術は彼等の間に多く発達して居なかつたらしく、土偶の如きものは写生的ではなく、寧ろ形式化せられ象徴的なものであつて、未だ曾て絵画的の作品の片影をも発見しない。たゞ稀には熊などの動物を表現した土製品には、侮り難い写実的手腕を示してゐることもある。所詮彼等は単なる生存を続ける生活以上に、永い年月の間に発達した社会的規律と宗教的芸術的生活をも併有して居つた社会人であつたことを肯定しなくてはならぬ。 以上所謂本期に属する我が石器時代文化に就いて概観を試みたのであるが、次に後期即ち弥生式土器の時期の文化は何うであるかと云ふに、此の時期は次に来る金属文化の時代に至る過渡期であつて、定型的のものを知ることが困難である。殊に此の時期に属する遺物は、弥生式土器を除いて他のものは本期のそれと区別することが六ケ敷く、本期に見た様な墓地の発見が明かにせられてゐないので、我々は未だ多くを云ふことが出来ないのを遺憾とする。思ふに大体の生活状態は本期のそれを継承して、猟漁を中心としてゐるが、一層農業的に進み、弥生式土器なる進歩した窯法の土器は、恐らくは朝鮮半島を通じて輸入せられ、縄紋式土器の如く美術的個人的作品の代りに、今や工業的多量的に生産せられ、其の形式は実際の用途に応ずる単純洗練せられたものになつて行つた。是は一面社会的集団、統制集団の益々強く且つ広くなり、殆ど面目を一新する程度のものであることを推察せしめるのである。思ふに此の土器の最初の輸入は、必しも金属器を伴つたものではなかつたらうが、相次いで波及した同じ(219)文化的影響に由つて、遂に大陸から青銅文化が伝へられるに至つては、石器の製作は退化し此の利器の変化に基づく画期的変化が各方面に起り、我国の文明は茲に新しい時代に進むことゝなつたと思はれる。なほ之に関しては我々は本編の最後に再び言及するであらう。
八、日本石器時代文化の系統
さて以上私は日本石器時代の文化に就いて之を概観したのであるが、然らば斯くの如き文化は何処に起原し、如何にして我国に渡来したか、又之を産出した人間は如何なる人種民族に属するものであるかと云ふ問題が、次に省察せられなければならぬ。併し此等の問題は最も重要且つ興味あるものであると同時に、其の明確なる解決は頗る困難であり、現在に於いては未だ充分なる解答を与へることが出来ない大問題であると云ふ外はない。
我々は先づ此の日本石器時代の文化なるものが、朝鮮、支那、シベリヤ、台湾、印度支那等日本に接近する大陸、否な他世界の諸地方の執れに於いても、未だ曾て見たことない大なる繁栄を以て発展した驚く可き新石器時代の文化相であることを知らなくてはならぬ。而して此の文化は旧日本の全体に亙つて、普く同様の文化の分布してゐる処から見て、――地方的な小さな相違はあるにしても、――是は日本の国土に於いて充分なる発展を見、且つ若干の長い年月継続して居つたものであることを思はねはならぬ。さうでなくては、短い年月の間に到底斯くの如く西南の端から東北の端まで普く行き亙ることは出来ないのである。即ち此の文化の源流は何処にあるにしても、これは我国土に渡来して後、此の国土に於いて特殊な発展をなしたものとする外はないのである。
併しながら、此の日本の石器時代文化なるものは、斯かる島国に於いて「アウトクトーン」のものと考へることの出来ない以上、必ずや大陸の他の地方から這入つて来たものでなくてはならぬ。然らば我々は其の源流を何処に(220)求む可きであらうか。不幸にして今に至るまで、東亜各地に於ける此の方面の研究が、甚だ不充分である為め、之に関して判然としたことは到底云ふことが出来ないので、今はたゞ大胆な臆測を試みる外はないのである。
さて日本石器時代特に本期と関係ある遺物は、南の方沖縄本島には及んでゐるが、台湾は全く別種の石器時代の文化を以て、寧ろ南支那、印度支那方面と聯絡してゐる処から見て、先づ南方との縁故は少いとする外はなく、沖縄へは九州方面から日本石器時代の文化の支流が稍々遅い時期に流入したものとす可きであらう。次に朝鮮半島方面との聯路は何うかと考へると、是は歴史以後の情勢からも推測せられるが如く、最も密接なるものがあることを予想せられるのである。たゞ今日まで朝鮮の石器時代には、我が縄紋式土器と全く同種と見做す可き土器は未だ見当らぬのであるが、之と併せ考察す可き所謂|櫛文土器《カム・ケラミーク》とも称す可きものが、南鮮から北鮮へかけて発見せられ、是が北九州の古い弥生式土器所謂「遠賀川式」と類似してゐる所からも、少くとも石器時代後期の文化との深緑を暗示するものがあるのである。
元来此の櫛文土器なるものは、西洋に於いても東欧諸国の新石器時代の特徴ある土器と認められるものであるが、又遠く離れた北米の石器時代中にも類似のものを見出され、要するに原始土器模様として最も自然的な発生と思はれる。それ故是のみを以て直に文化的或いは人類的関係を揣摩す可きではないが、朝鮮と九州との地理的接近の事情は此の場合之を以て偶然の一致として看過し去ることを許さしめない。唯だ此の朝鮮及北九州などに於いて発見せられる土器の櫛目文は、其の時代も稍々遅く、寧ろ我々の未だ知らない原始的櫛文或いは縄紋の系統を引いた堕落的の産物と見ることが出来る。思ふに亜細亜大陸の北方から朝鮮半島へ、原始的櫛文土器の文化が入り込み、それが日本へも渡来したとすれば朝鮮に於いては其後相次いで大陸から侵入して来た新文化などの為めに、或いは漢文化の移植などとなり文化の主潮は其れ自身充分に発達を見ずして、たゞ旧文化は主流から取残された地方に残喘を保ち、不充分な発達をなし、或いは萎縮堕落してしまつたと考へられ、それが朝鮮の櫛文土器と見られるのである。(221)之に反して我が日本は島国の性質上、大陸から新しい文化の流入は半島国のように早くなく、寧ろ暫くの間其の影響を杜絶《とぜつ》せられて居た状態にあつたので、其の間に我国文化の主流をなした石器時代人は、平和なる生活を此の東瀛《とうえい》の群島に楽しんで、遂に石器時代の文化を世界の何処にも殆ど見ることが出来ない程極端まで発展せしむる機会を得て、土器に於いても原始的なる櫛文の類から縄文へと進み、其の豊富なる意匠を其の人種的特質によつて発揮すると共に、石器に於いても亦非常に精巧なる技術を習熟するに至つたものであると解釈し得ると思ふのである。
以上は主として縄紋式土器を中心としての大胆なる考察の一端を述べたに過ぎない。実際議論は斯くの如く簡単に済むものではなく、土器だけに就いても、種々複雑な問題があるのみならず、更に石器時代文化の全体に亙つて、一々考察しなくてはならぬのであるが、今多少とも之に論及することゝなれば、議論が甚しく煩雑に陥る虞《おそ》れがあるので、此の小篇の性質上凡て省略して置く次第である。たゞ此処で頭に入れて置かなければならぬことは、日本へ此の原始的櫛文若しくは原始的縄紋式土器の文化が影響を与へる以前に、此の文化の所産者とは寧ろ違つた人種文化に依つて、我国の最も古い石器時代が基礎づけられて居つたと考へられることである。そして此の基礎的人種文化と次に入り込んだ文化人種と混融して、遂に前に述べた様な特殊の発達が日本に於いてなされたのであると考へられるのである。
なほ最後に日本と大陸との接近点たる北方との関係は、これ亦決して無関係とは云ふことが出来ないが、此の方面の研究も不充分である為め、確言することは六ケ敷いのである。併し私は現在に於いては我が石器時代文化の主流が此の方面から日本へ這入つて来たと云ふ考へには賛成することの代りに、此の方面に於いては、却つて日本の石器時代文化が大陸の方へ影響を与へたことが有り得るのではないかと思つてゐる。
(222) 九、日本石器時代の人種民族
日本石器時代文化の系統と聯関して、切り離すことの出来ない問題は、此の文化を形成した人間が如何なる民族人種に属して居つたかの問題であり、また其の人種が現在日本人との如何なる関係になるかと云ふ問題も相関的に考へられなければならぬのである。私は前章に於いて日本石器時代文化の系統に就いて述べる際、その文化の源流をば朝鮮半島を通じて亜細亜大陸に求めることが最も穏当であることを申したのであるが、此の文化の源流なるものは少しも人種民族とは一致せず、相離れても考へ得ると同時に、又文化の影響は人種的影響に依つて惹起される場合が普通であることをも思はねばならぬ。
日本国土の地理的位置が亜細亜大陸の東部に在つて、北から南に長く相連り、北は北海道、樺太を以てシベリヤと接触し、南は琉球、台湾に於いて南支那と相近づき、而かも中央に於いては九州方面が朝鮮半島と接近してゐる事実は、あらゆる日本の事物、即ち地質界をはじめ其の動物《フソウナ》界、植物《フロ−ラ》界、歴史の発展等を規定して居ることは、今更云ふ迄もないことであつて、前節に述べた石器時代文化の系統に於いても、其の考察は常に此の基礎の上になされたのであつた。而かも今我々が取扱はんとしてゐる人種の問題も、亦同様の立場に於いてなさる可きである。已に我国の植物界と動物界とが、北方からは北亜細亜の寒帯的のものが入り込み、南方からは南亜細亜或いは南洋方面の熱帯的のものが渡来し、中央部に於ける温帯のものと、本州中部あたりに於いて相交錯してゐると云ふ事実は、之を動物界の一員たる日本の人種に於いても、大体論として承認しなくてはならぬであらう。
併し問題は斯くの如き漠然たる議論では満足せられない。又近年我国各地の石器時代の墓地に於いて発見せられた、千体にも近い当代人の遺骨の研究は、漸次専門学者の手に依つて行はれ、其の成果は頗る重要なるものがある。我々は之に依つて彼等が現在の日本人と如何なる点に於いて異なり、又似通つてゐるか、其等の特徴を明かにする(223)ことを得た。例へば、脛骨や大腿骨は我々よりも扁平であるとか、頭骨は稍々狭頭のものが多いとか、と云ふが如き形態上の特徴である。併し我々は是だけではやはり満足が出来ぬので、之を現在の日本人のそれと比較すると同時に、また隣接の他の民族とも比較して、其の相違と其の類似とを求め、彼等の民族的人種的位置と源流とを推測し虔くなるのである。たゞ実際に於いて此の比較の困難なることは、石器時代の間にも、各地方に於いて既に地方的の差違を有することであり、日本人に在つては古代の古墳人との比較を試みる若干の材料はあるけれども、近接諸民族に在つては凡て現代人の不充分な材料のみであることである。勿論我々は肉や皮のない骨格はかりで細かい民族の区別をなし得るものでないことを知つてゐる。併しながら従来多くの学者は、日本石器時代人の骨格を比較するに当つて、日本人以外に於いては其の先住民――後に述ぶるが如く一部の学者に依つて日本石器時代人と考へられてゐるアイヌ人との比較を試みるだけであつて、他の近接諸民族、殊に朝鮮人、ツングース、支那人、蒙古人などと比較しようとする関心さへ無かつたのは、今日に於いて我々の頗る遺憾とする処である。已に述べた如く、日本石器時代文化が朝鮮半島を通じて大陸との関係を有するものと推測するに於いては、我々は広く視野を拡大して此の東亜諸地方の人種的縁故を追求しなければならぬのであり、将来益々此の方面の比較研究を切望する次第である。
それは扨て、従来日本石器時代人の如何なる人種民族であつたかと云ふ問題に就いては、古く小金井博士が当時未だ不充分な材料に依る骨学上の見地から論議せられた外には、近年清野、長谷部両博士等の墓地発見の豊富なる資料に依る研究以前に於いては、主として歴史、伝説、風俗などの方面を根拠として、議論を上下するに過ぎなかつた。それで彼等石器時代人を日本人の祖先と見ようとする学説は、殆ど「アプリオリ」に度外視せられ、直ちに之を現存の他民族と比定しようとし、而かも史伝の上から日本の先住民或いは土着人と思はれて居るアイヌ人(蝦夷)に之を充てようとしたのは、シーボルト以来の最も古い学説であり、又最も自然の見方であつて、小金井博士(224)は其の骨学上の研究其他からも之を裏書するものがあるとせられた。之に対して坪井(正五郎)博士は北海道のアイヌ自身の伝説其他の理由からして、彼等はアイヌよりも前に居つたコロボックルなる小人であるとし、而かもコロボックルと極北のエスキモーとの関係をも指摩せられ、一時は坪井博士の説が学界を風靡する観があつた。
然るに比のコロボックル説は、其後鳥居博士が千島アイヌが曾て石器を使用し、アイヌも亦土器を作つたことが証明せられるに及んで、先づ此の一角から崩壊し、当時私自身もアイヌの祖先が日本に占居してゐた古代には、石器を使用してゐたとすれば、其の遣物がなければならぬこと、また装飾模様の類似等の点からアイヌ説を支持し、此処に再びアイヌ説が台頭するに至つたのは明治の末年に近い頃の事であつた。
併し其後大正年間に於ける学術の進歩、殊には各地に於ける石器時代墓地の発掘に依る多数人骨の発見は、此の日本石器時代人種の研究に躍進的の進歩を致さしめたのであつた。一方、各地に於ける石器時代人の地方的差違は当時已に彼等が混血人種であつて、各地方によつて地方色を有して居つたこと恰も現在の日本人の如くであつたことも注意せられると同時に、現在のアイヌと雖も、旧態を存してゐるとは云へ、古代の蝦夷と直に同一視せられず、其後日本人其他の混血に由つて変化してゐるものであるから、石器時代人を以て簡単に現在のアイヌの祖先に比定して、其の関係を説くのは危険であり、余程の考慮を要することが意識せられるに至つたのは、学説の立て方に於いて大なる進歩と云はなければならぬ。斯くてコロボックル説は覆へつてしまつたと同時に、ナイヴなアイヌ説は大に訂正せられなければならなくなり、或る意味に於いては、所謂アイヌ説自身も破滅に帰したと云つて差支へはない。
そこで大正以後清野、長谷部、松本等の諸博士に依つて唱道せられた学説は、従来の所説と頗る其の面目を新にし、其の考察が複雑となつて来たのである。即ち長谷部、松本両博士は石器時代人を直ちにアイヌの祖先とはせず、或いはアイヌ的なアイノイドとも呼ぶ可き人種、或いは汎《パン》アイヌとも名付く可きアイヌの祖先をも包括する人種に(225)帰しようとせられ、又た清野博士は彼等の体質には現在のアイヌに似た特質をも具へてゐるが、現在の日本人に近い点をも有し、彼等とアイヌとの距離は日本人との間よりも時に大きなものが認められると述べられてゐるが如きそれである。思ふに日本石器時代人の本質を究むるに当つて、其の遺骨が我々に告ぐる処は、必しも詳密ではないが、我々は其れを根拠とし、其れを度外しては考察せられることを許されないのである。それで私は今他の諸学者の学説を批評することをせずして、此等諸学者研究の結果を基礎として、日本石器時代人の成立の次第に関する私の臆説を述べて見ることにする。
日本石器時代人に現在アイヌ的の特徴を有する事実は、即ちアイヌ的であるアイノイド或いは汎アイヌとも呼ばる可き人種が亜細亜の東端から其の付属島嶼などに来住し、日本群島にも最も早い渡来者として入り込み、遂に今後に於ける日本人成立の基層《サブストラタム》をなしてゐることを語るものである。そして彼等は西方に於いては北欧地方に拡がつた「プロト・ノルヂックス」と共同祖先から派生した人類であると考へられよう(但し此の最初とも云ふ可き日本への人種的波動も、単に一回であつたか、それ以上に亙つたかは到底分らない)。然るに其後稍々時を隔てゝ大陸から人種的波動が日本の島へ相次いで影響したのであるが、今度のはアイヌ的の人類ではなく、北亜細亜の満州蒙古人的のものであり、それが朝鮮半島を経て渡来したものと考へられる。これも決して一回の波動ではなく、大小度々に亙つて行はれたに違ひなく、それは文化的に(又恐らくは多少人種的にも)支那的のものを混じて居り、これに依つて我が国の文化が大なる発展を見るに至つたのである。なほ又南方からも馬来《マレー》的の人種の渡来がないとは云へないであらう。而して斯くの如き人種的影響は、石器時代以後歴史時代に至るまで屡々繰返された処であつたと思はれるのであつて、斯くの如くして遂に現在の日本人なるものが成立したのであらう。それ故彼等石器時代人殊に後期に近づくに及んでは一方に於いてアイヌ的なると共に、又現在の日本人に似た処もあるのは当然であり、此の現在の日本人に近いものが出来上つた頃の日本人を以て「原日本人」と呼ぶのである。
(226) 一〇、金属文明の黎明――結語
以上私は日本の原始文化に就いて、主として石器時代の文化を論述して来たのであるが、此の文化は可成り長い間日本の国土に発展せられ、少くとも数世紀乃至十世紀にも近く続いて居つたらしいことは既に述べた通りである。然るに此の文化の終末を告ぐる晩鐘と、新しい金属文明の黎明を報ずる暁鐘とは先づ日本の西陲九州に鳴り始めたのであつた。それは西紀一世紀前後の頃であつて、東亜文明の一淵叢なる支那に於いて、已に数世紀も早く周代に其の極盛を誇つた青銅文化の余波が、南満州から朝鮮の沿岸づたひに伝播したものであつた。この事は明刀、布泉など、当代の銭貨が石器時代の遺物と共に発見せられることに依つて証せられるが、引き続いて前漢から王葬の時代に起りつゝあつた漢代の鉄器文化も、間もなく此等の地に波及したことは、五銖其他の貨泉などが、青銅器、鉄器及び石器と出土する遺跡の存在することに依つて明かである。伴しながら、日本に於いては末だ此のうち周末の銭貨を出だした例を聞かず、従来貨泉の出土のみを報ぜられてゐる処から見て、南満州朝鮮などよりは少し時期が遅れて居つたと思はれるのも地理的状態からして無理からぬことである。かくて此の金属文明の影響は次第に濃厚となり、銅剣、銅鉾などの武器が輸入せられ、之が又模造変化せられたが、之と同時に鑑鏡の如き装飾若しくは儀礼用の品物も渡来したことは、九州其他の地方に於ける多くの事例が雄弁に語る処である。併し其の初めの頃は、未だ石器は全部青銅器に代つてしまふ程度に至らずして、石器の使用も未だ残存して居り、両々並行して行はれると云ふ所謂|金石併用期《エネオリシツク・ペリオツド》の状態にあつたことは想像に難からぬ処である。而かも我国に於いては、此の石器が全部青銅器に代つてしまつた真の青銅器時代なるものは遂に其の出現を見ない間に、已に支那に於いて隆昌を見るに至りつゝあつた鉄器が渡来し、石器が全部鉄器に代つて鉄器の時代を成立せしめることゝなつたのは、恰も我が原史時代の高塚古墳の発生する時代の事である。此等に関しては已に私の論題とする範囲以外に亙るから、此処(227)には詳に述べることを省略して置く。
併しながら、日本が此の石器時代から金石併用期、更には純然たる金属器(即ち鉄器)時代に進展して居つた間に於いて、此等の文化を産出した民族人種なるものは、朝鮮方面などから入り込んだ新しい部族は多少あつたにしても、大体に於いては其の性質を変へず、依然として前代から継続して居つたものであることを知らなければならぬ。否な此の人種民族の著しい変動を思はしむる材料はなく、前後文化の間に於ける密接なる聯絡は、人種民族の不変を推察せしめるのである。私は今人種民族の上に大なる変化を見ないと言つたが、勿論其れは大体としての議論であつて、或る意味から我々日本人は、現在と雖も大なり小なり時々刻々の小変化をなして、而かも全体として未だ変つたものとなるに至らないと云ふ事である。殊に石器時代の本期と後期との間には、他の時期よりも種々大きな変動があり、また其の後金石併用期に於いても、歴史以後には見なかつた程度の変化はあつたかも知れないが、なほ其の間に人種民族上に画然たる大変動があつたとは、私の信じ得ぬ処である。それで私は従前往々一部の学者の考へた如く、日本文化史の舞台に現はれた役者は、一幕毎に別の役者であつて、新しい民族が渡来して古い民族を滅ぼしてしまつたなどと、幕毎に役者の入り替りを信ずる説には賛成することが出来ない。否な舞台の幕が変つても、役者は大体に於いて同一であつて、たゞ新しい衣裳を着け扮装を変へたものに過ぎず、同一の民族人種の根幹に若干の民族的分子を加へつゝ、混融を重ねて遂に今日に至つたものであることを確信するものである。而して斯くの如き平凡なる見解が、過去に於いて往々顧みられなかつたことを寧ろ不思議とするのである。これ即ち私が本篇の緒言に於いて、日本の国土に存在した原始文化に、「日本人」以外のものは無く、有史以前から現在に至る凡ての時代の文化は皆な日本人のものであるとなした所以であり、又この不断の連続中に何時までを「原始文化」と確然と区別することの出来ないことを述べた所以であつた。而して私は此の絶えざる連続、不断の創造に、歴史に於ける不滅の生命を観ずるのであつて、太古も古代も、あらゆる過去の凡ての総和が即ち現在であり、是が(228)又永遠の未来に続くものなることを認めて、其の間に歴史の限りなき興趣を覚ゆるのである。
附記 本篇は簡明概括を旨として起稿したものであるから、一々の事実の説明や、参考の文献などは、一切省略に付したが、著者の旧著『東亜文明の黎明』、特に其の付録として掲げた『日本文明の黎明』の一篇を参照せらるれば、なほ幾分詳しきに亙つてゐる所を発見せられるであらう。又た遺跡遺物の詳細に関しては、高橋健自博士の『考古学』、後藤守一君『日本考古学』、中谷治宇二郎君『日本石器時代提要』、大場磐雄君『日本考古学』等の書を参照せられ、なほ東亜諸地方の考古学に就いては、駒井和愛、江上波夫両君の『世界歴史大系』(第二巻)中に記された所を、朝鮮の原始文化に就いては、本講座中にある藤田亮策君『朝鮮古代文化』を参考せられんことを望む。又日本民族の人種的考察に関しては『東洋思潮』講座中に於ける清野謙次博士の所説は最も参考に資す可きものと信ずる。 (昭和十年一月)
〔初出、『岩波講座日本歴史』所収、東京、岩波書店、昭和十年。〕
(229) 日本文化の源泉
一、端 が き
日本文化と云へば、固より現在日本の領域内に包含せられてゐるあらゆる地域のそれを総括す可きで、例へば朝鮮、台湾、樺太などをも度外す可きではなく、また年代的にも決して古代とか中古とかに限る可きではなく、現在にまで論及す可き筈であります。併しながら実際問題として、其の様な広汎な題目を、私自身が取扱ひ得る資格もなく、また其の準備もないのであり、読者に於いても私の如きものに対して、それを期待せられてゐるとも思はれません。それで私は今日本文化の諸相、諸要素中、特に主要なるものに就いて、而かも考古学者として始終取扱つてゐる物質的遺物の上から考察し得る種類の文化に就いて、主として旧日本の地域内に関するものを論述し、それもなほ中世以後流入した諸要素に関しては、之が叙述を省略することに致し、その代りに古代に於いてコンタクトを有した文化の諸要素に就いては、それが比較的重要でなく、また間接的のものでありましても、之を指摘し度いと思ふのであります。
それには私の信ずる理由があるのであります。外国の文化の大きな流れ、特にそれとの密接なる交渉に由つて、一国内に大きな文化的影響を齎し、それが長く継承せられることは言ふまでもないことでありますが、その外国文化が如何に目立たぬものであり、且つ其の交渉が如何に短時間且つ軽微なものであつても、或る場合には其の影響(230)が頗る大きく現れ、また其の影響は如何に小さなものであつても、何等かの形に於いて一国文化の何処かに潜在して、不滅のものであると私は信じてゐるのであります。即ち「文化不滅」の理とでも申しませうか、とにかくそれが潜勢力の形として、何時までも残つてゐるものであると信ずるのであります。例へば幼児の時に受けた外傷或いは種痘の痕の如きは如何に成長した後と雖も、それは薄くはなるにしても、決して消失するものでなく、一度でも男性と交渉した女性は、結婚後と雖もその以前の結果が永久に残るものであると云ふが如きものであります。即ち我々の有してゐる文化なるものは、過去に於いて受け入れた大小一切の文化的諸要素の総和《トータル・サム》でありまして、それが如何に微細なる要素分量であつても、若しそれを取り去るならば、此の総和の価値現状を変ずるものであります。それ故此の意義に於きまして、現在我々の所有する文化なるものは、時間的に過去一切の文化と相関するものであり、空間的にも実際全世界の文化と絶対的に無関係ではあり得ないのであります。例へば此処に或る建築にエヂプト若しくはギリシヤ式の細部が応用せられてゐるならば、それは数千年前のエヂプト或いはギリシヤ文化との間接的交渉を認めなければならず、又アフリカの野蛮人の模様が織物に用ゐられてゐるならば、やはり其の源流をアフリカの端にまで求めなければならぬことゝなるのであります。それ故我々は常に此の文化の連帯性、相関性或いは連続性とでも云ふ可きことを認識してゐなければならないのであります。此の意味に於いて私は古代日本に於いて稍々間接的にコンタクトを有した文化に関しても論及するのであり、極く古い時代の或いは遠い外国の文化も、現在我々の文化と、関係あるものと感じ、其の研究は恰も現在の事物を研究すると同じ心持で研究してゐるのであります。それと同時に、此の短篇に於いて論述する所は、洵に九牛の一毛に過ぎぬ一小部分、而かも私自身が偶然興味を感ずる部分に止まつてゐると云ふことをも、直に了解せられることゝ存じます。
(231) 二、日本民族成立時代の基礎的文化
さて我々が現在有してゐる「日本文化」なるものゝ源流を詮索して行くならば、今申した如く、空間的には地球の隅々にまで突き進んで行かねばならず、なほ太陽や月や其の他の星とも関係することとなるのであり、また時間的に於いても此の日本の島々に諸方から人種の波が相次いで押し寄せて、次第に日本民族なるものが出来た時代、更には其の諸人種一々の始め、人類の起源にまで溯つて行かねばならぬと云ふ大変なことにもなるのであります。併しさう考へ出しては最早一種の神経衰弱と云ふ外はありませぬから、先づ此の日本の土地に日本民族と云ふものが大体出来上つた時代の文化を、仮りに日本の基礎的文化と称することとし、それを簡単に述べることに致しませう。然るにまた此の「日本民族成立の時代」と云ふことが、実際なか/\六ケ敷い問題となるのであります。之に就いては私は既に岩波講座『日本歴史』に「日本原始文化」−前出−を書かされた時にも述べて置きましたが、或る意味に於いては日本民族はなほ成立しつゝあり、また変化しつゝあるのでありまして、決して過去の或る一時代に成立したなどとは云ふことの出来ないものであります。併し便宜上考古学上から云へば、我が石器時代の終り、大陸から青銅文物が輸入せられ出した頃、所謂「弥生式土器」の盛んに行はれた頃を以て、大体日本民族が成立した時代と見て宜しからうと思ふのであります。そして是は丁度西暦紀元一世紀頃であることは、王莽の鋳造した貨泉と云ふ銭貨が、其等の遺物と伴出するので証せられ、また歴史家の研究に由つて考証せられた、我が建国の年代とも大体に於いて相一致し、且つ西暦第一世紀と云へば、大変きまりが宜いので、之に従ふことが一番都合が好いのであります。
さて其の頃に於いて日本民族が大体成立したと云ふのは、一体どう云ふことか、又其の頃の文化は如何なるものかと申しますると、其の以前に古くから日本の島に渡来して、所謂「縄紋土器」を伴ふ石器時代の文化を発展せし(232)めて居つた人間、それは頗る今日のアイヌに近い人種である様に思はれるもので(此の人間の渡来以前にも、更に別のものが渡来して居つたかも知れませんが)、とにかく之を以て日本へ最初に渡来して、日本民族の基層《サプストラタム》をなしたものであると考へて宜いのでありまして、従つて此の人間の文化が、日本文化の基層をなしたものと云はねばなりません。それで此の人間は如何なるもので、何処から来たものであるか、また其の文化の如何なるものであるか、その性質を述べなくてはならぬのでありますが、最初の二つの問に対しては、固よりはつきりした答をすることは困難であり、此等に関しては已に「日本原始文化」にも記したことでありますから、此処では極く簡単に述べて置くことに止めます。
此の今日のアイヌに似たる人種は、アイヌを古代亜細亜人種《パレオアジアチツク》と呼ぶ学者がある様に、極めて古く成立した人種でありまして、或いは北欧に拡がつてゐる北人《ノルヂツクス》などと共に、共同の原始北人《ブロトノルヂツクス》から分かれたものであらうと云はれる位、北欧の人種とも関係のあるものであり、之が恐らくは悠久の昔新石器時代の始め頃に、亜細亜の大陸から日本の島へ渡つて参り、遂に日本民族の基層をなすに至つたものと思はれます。そして彼等は此の島に於いて長い間平和な生活をつゞけ、石器の製作に於いても土器の製作に於いても頗る長じて居つたのであります。これと同様の新石器文化は、亜細亜の北部其の他の地方にも拡がつたのですが、それ等の地方では一は後から新しい文化がどしどしと這入つて来て、新石器文化として充分なる発達を遂げないうちに、金属文化の方へ進んで行つたのであります。之に反して海を以て繞らされてゐる日本の島に於いては、他の民族の襲撃をも蒙らず、新しい文化の影響もさう早くは受けることなくして、新石器文化を其のまゝ極端まで発展せしめることが出来ました。それは恰も北欧に於いては南欧の如く、鉄文化が早く伝播せられず、其の以前の青銅文化を思ふ存分発展せしめ、遂に其の繁盛時代《プリユーテ・ツアイト》を現出したのと、同じ趣であると考へられます。そして此の状勢は今後日本に於ける文化の発展史上、屡々繰返されることになるのでありまして、例へば唐代の文化が奈良朝に流入して、それが本国では却つて早く変化したの(233)に拘らず、日本に於いては長く残つて日本化せられ、平安朝の文化を醸成したと云ふ様に、此の外国文化の影響を始終受けながらも、而かも或る時には姑《しばら》く之と絶縁して同化作用が行はれると云ふことは、日本のみならず、凡て大陸に接近する島嶼に於ける文化発達の一特質と思はれます。
さて此の日本に於ける最初の基礎的文化は、如何なる性質のものであつたかと申しますると、それは今日我々は僅かに遣存する物質的材料を以て、其の極く一斑を想像する外はないのであります。要するに彼等は主として狩猟者、漁人の生活をやつて其の日を送つて居つた人間に過ぎず、従つて敢て特殊の文化を有して居つたとは云ふことが出来ませぬが、併しながら彼等は金属器こそは持つては居なかつたものゝ、石器時代人としては寧ろ驚く可き程の技術文化を所有して居つたと云つても差支へはないかと思はれます(恰も古代エヂプト人は主として青銅器しか持たなかつたに拘らず高度の文化を有して居つた様に)。それで石器に於いては大小種々の立派な磨製石斧があり、各種の形を具へた精巧な打製石斧があり、その他磨製のものには石庖丁、石剣、石棒の類、打製のものには石錐、石槍の類があつて、単に実用の器具たるに止まらず、審美的の要求に応ずるものも多く作られて居り、其の技術の精巧さは世界中他に比類少ないほどであります。たゞ此等の石器類は大体に於いて欧州地方のものと、其の製作の手法から形式に至る迄大きな差違はないのでありますが、――それは同一の材料と製作法から来る必然的一致と云ふことの外に、此の文化の根源が一であると云ふことにも基づくかと思ふのであります。――それに引きかへ土器類に至つては、元来最も早く新しい形式を生じ、変化を示し易いものでありますから、頗る特徴ある品物を作り出して居るのであります。其の器形に於いても壷、皿、鉢の如き基本的形式のものに於ける各種の変化は固よりのこと、其の他土瓶形、香炉形などの複雑なものに及び、其の多様多趣なることは却つて後の時代の土器にも勝つて居り、なほその上に施された文様に至つては、元来は世界各国に共通な原始縄紋から出ては居りますが、其の極端なる発達を遂げて、種々の曲線の「フレーム」となり、而かもそれが器形と融合し、それを支配してゐる具合(234)は、支那周代の青銅器にも似て居るのでありまして、其の趣味は頗る繁縟に陥つては居りますが、之を欧州の新石器時代乃至青銅器時代の土器に比べて、非常に発達したものであります。また彼等は同じ陶技を以て、器物以外に土偶の類をも作つて居りますが、是は多くは写実的ではなく寧ろ模様的に便化せられたものでありまして、たゞ動物像などの中には頗る面白く其の特徴を捉へてゐるものもあります。新の如く彼等は単なる「ベヤー・エキジステンス」以上に、幾分芸術的方面にも造詣を示してゐるものもあり、或いは其の葬法、或いは其の宗教的儀礼等に於いても、已に一定の規律を有し、社会的にも或る程度の統制を示して居り、決して野蛮極まるものではなかつたのであります。而かも彼等が土器石器などに発揮した優れた技工は、私は考へるのでありますが、此の基礎文化時代の人間の血を矢張り基礎としてゐる歴史時代の日本人が、美術の上にも其の特殊な長所を示すに至る其の根本的素質であると云ふことが出来るのではないかと思ふのであります。これは恰も旧石器時代フランスのドルドーニュ地方の洞穴などに、素晴しい絵画を残したクロマニヨン人の血が、今もなほフランス人に伝はつて居つて、現在のフランスをも美術に秀でしめてゐるのであると云ひ、或いは古へのエトルスキ人の美術的伝統が伝はつて、文芸復興期に中部イタリヤに大芸術家が輩出したのであると云ふ学者のあるのと同じことであります。
三、朝鮮半島を通じての支那文化の影響
今申しました如く、日本に於ける所謂「基礎的文化」なるものも、畢竟は主として朝鮮半島の橋梁を通じて亜細亜大陸から這入つて来た人種によつて作られたものでありますが、今後とも始終この大陸からの文化的人種的影響が、大なり小なり同じ径路を経て日本へ及ぼされるのであります。その最も早い影響はたゞ今述べました石器時代文化の上に与へたものでありまして、それが土器の製作の上に認められるのであります。即ち其の影響によつて土(235)器が一変してしまふのであります。
我が石器時代に所謂「縄紋式土器」があつて、それが非常な発達を為して居つたことは、已に述べた通りでありますが、それは色から云へば黒味を帯び、縄蓆紋や曲線文を付したものでありました。然るにそれが次第に、或いは稍々急激に変化して、弥生式土器と云ふものとなつてしまひました。此の弥生式土器と云ふものは、大体素文或いは簡単な幾何学的文様のある赤味を帯びた土器でありまして、其の形式装飾は前者に此べて寧ろ単純すぎるものでありますが、其の形態は洗練せられ、余程進んだ窯中に於いて焼成せられた実用的工業的産物であります。斯の様な技術的に進歩し、而かも形式の変つた土器が、我国に於いて縄文式土器から自然に、さう突如として発生するものではありません。必ずや高度の文化を有した人種、或いは文化との接触による結果と見る外はなく、之を朝鮮や南満州などの土器と併せ考へまして、これは朝鮮を経て這入つて来た所の文化の影響に基づくものと信ずる外はないのであります。そして此の土器の形式手法は、一方前の縄紋式土器にも影響すると同時に、遂には凡て此の土器を征服してしまつたのであります。此の土器と石器とが相伴ふ時期を、私共は前の縄紋式土器の時期を日本石器時代の本期と呼ぶに対して、其の後期と名づけて居るのであります。
然るに此の弥生式土器に於いて現れました大陸文化の影響は、やがては支那に於いて発達した金属文化の輸入を伴ふことになりました。支那では殷代頃已に中央部は石器時代から金石併用期に入り、周代に於いては青銅文化の極盛を見、次いで周末秦を経て前漢代に至つて鉄器時代となるのでありますが、此の周末から漢初に於ける支那民族即ち漢民族の人種的又文化的拡勢が、支那の中央部から四隣辺疆の地に次第に及ぼされ、支那の周囲に於ける諸民族が追々と石器時代の文化から金属文化の黎明に入つたのでありまして、是は実に東亜文明史上の一大時期と云ふ可きであります。そして此の金属文化の波動が南満州から朝鮮半島、それから日本の島へ波及せられたのでありますが、それは中心から遠くなるに従つて多少時期が遅れるのでありまして、即ち南満州や北朝鮮では明刀銭や布(236)泉の出土が示す如く早く周末に溯り、南朝鮮や西日本に於いては出土の貨泉の語る如く、主として前漢末に至つて著しくなつて来てゐるのであります。此等の事実を証する考古学的発見に就いては今一々之を挙げることを省略致しますが、藤田亮策君の先頃書かれました「朝鮮原始文化」(岩波講座『日本歴史』)中に委しく見えて居る通りでありまして、銅剣其の他の漢式銅製品が朝鮮の北から南の処々に現はれ、それが前に記した様な銭貨を伴出してゐるのであります。此の支那文化の移植、支那民族の拡勢が次第に高潮に達し、遂に東方に於ける一大中心・策源地を形作るに至つたのが、即ち北鮮の楽浪でありまして、今に其の地方に残つてゐる幾多の遺跡、遺物殊に無数の古墳に於いて其の記念物を認むることが出来ます。日本に於いては地理上から申しても、先づ西日本が此の新文化の影響を受けるのが自然でありまして、実際の遺物も亦之を裏書してゐるのでありますが、先づ始めは支那製品の銅剣なるものが現はれ、やがては之を模造したもの、又多少変化したものが現れることになります。処が此の模造変化の品の却つて南朝鮮などに於いて見当らぬことは、文化的活動が日本に比して微弱であつたことゝ、その時期が稍々短かかつたことなどが原因であると思はれます。そして遂にはまた支那前漢の鏡までが這入つて来るのでありますが、而かも南朝鮮に於きまして一向この鏡の発見せられない処を見ますると、それは南鮮の人間が鏡を古墳に埋めなかつたと云ふことの外に、この漢代の文化は朝鮮半島を経由したものばかりでなく、他方には直接に日本と南支那との交通が行はれて居つたことを推察せしめるのでありまして、支那三国の時代に日本朝廷の書面が行つてゐることが向ふの文献に見えてゐるのも、洵に故あることであると思ひます。
さて此の支那の青銅器文化の初めて東方に流入した頃は、青銅器は満州や朝鮮或いは日本に於いては、極く一部の人々の間に尊重せられたに過ぎず、一般の社会はなほ石器を主用して居つたに違ひありません。――斯の如き時期を我々は金石併用期と呼んで居ります。――のみならず支那は漢代から鉄器が追々に主用せらるゝに至つたのでありますから、此等東方に運ばれた青銅器は、当時本場では流行遅れの品を田舎に売出したと云ふ様な訳かとも見(237)られるのであります。それはさて鉄器の使用は遂には田舎にも伝はらないでは措きませぬ。間もなく鉄器文化が東方に拡がり、其の地方地方でも之を作る様になりましたので、青銅文化の流伝は極く短い時期の間で止み、間もなく東方諸国も本格的の鉄器時代になつてしまつたのであります。それ故我々は、日本には青銅器の流入製作はあつたにしても、一つの青銅器時代を画すると云ふことを普通はしないのであります。
四、支那南北朝文化の輸入
朝鮮に於いては今申しました通り、楽浪と云ふ支那文化拡勢の大中心が出来て漢の四郡の中心をなし、日本への宣伝も此処から行はれると云ふ有様でありました。併しながら南朝鮮や日本が全然支那文化に浴すると云ふ様な大変化を見るに至りましたのは、後漢の次ぎ三国から南北朝になつてから後であります。殊に南北朝の北魏は北支那の民族から国を起し、その勢力は北支那に於いて特に発展す可き条件を具へて居り、また其の国に行はれました印度《インド》伝来の仏教と云ふ宗教文化と支那文化とが合体して宣伝せられたので、それが非常に有力に働くことになつたのであります。
朝鮮では漢代文化の影響によつて、民族の自覚が起り、遂に所謂三国即ち高句麗・百済・新羅と云ふ様な団結が出来ましたが、此等の国々特に南方にある後の二国との交渉は、神功皇后の半島征伐と云ふ伝説を以て代表せられてゐる時期以後益々密接になり、これ等の国を通じて支那文化は急速に日本へ流入して参り、それが先づ応神天皇の朝に於ける漢文学儒教の輸入と云ふ形を以て現れました。此の新文化採用の中心人物として代表せられてゐるのが、即ち菟道稚郎子皇子であり、大鷦鷯命即ち仁徳天皇は当時の保守派を代表せられてゐるのかも知れません。――恰も近江朝の大友皇子と大海人皇子との対立の如く、――併し新文化の勢力は到底拒むことは出来ないのであ(238)りまして、日本は次第に其の浸潤を受け、次に来る朝鮮に於ける三国が仏教化した結果、遂に仏教なる宗教と合体した更に濃厚にして而かも活力ある支那の文化に接触することになつたのであります。それが即ち継体天皇の朝以後欽明天皇の朝に起つた仏教の渡来と名づけられる大事件であります。此の際これを受け入れる準備は已に両三世紀以来次第に出来つゝあつたのであり、また先の稚郎子皇子に相応する新文明謳歌者、その熱心なる帰依者は聖徳太子及び蘇我氏でありました。此の時之に対する反対運動の中心人物物部氏は遂に時勢に抗することが出来ず、没落してしまひました次第などに就いては今更繰返すまでもありますまい。
さて此の仏教と合体した支那文化の我国の文化の上に及ぼした影響の偉大なことは、嚮《さき》の漢文学儒教その他小さな工芸の上に於ける如きものではありませんでした。殊に小野妹子が隋に使することゝなり、直接支那本土との接触が本格的に行はれることゝなりましては、精神的にも大なる影響が現はれ、上流社会を中心とする階級の宗教的思想を変改し、道徳的思想をも改善したのでありまして、遂には所謂聖徳太子の憲法と云ふ様なものも出来る事となつたのであります。当時は未だ此の支那文化の影響は文学の上には著しく現れるに至らず、それは一世紀後の奈良朝時代に至つて其の果を結ぶのでありますが、造形美術に於いては当時已に著々として其の感化輸入の跡が見られるのであります。それで此等精神的文化の方面の事は私の専門にも遠いことでありますから、今は主として造形美術に就いて話して見度いと思ひます。
先づ建築でありますが、これは我国の気候風土の夏季高温且つ湿気があること、従つて木材の豊富なることなどによつて、自然木造建築としての顕著なる発達を遂ぐべき運命をもつて居ります。それで現在に至るまで我々の住宅建築は、根本的には此の自然に発達した建築の性質を失はず、たゞ其の細部に於いてのみ支那建築の影響を受けてゐるのであります。そして住宅建築を其の侭壮麗にした神社建築は、矢張り此の自然的に発達した日本建築の様式を、宗教的儀礼の上から一層よく保存してゐることも怪しむに足らないのであります。特に我国の祖廟たる伊勢(239)神宮などに於きましては、所謂「唯一神明造」の形式が今日に至るまで伝へられてゐることは頗る注目を要する事象でありますが、たゞ追々支那文化、仏教美術の勢力が強くなるに従つて、其の他の神社には著しく支那建築や仏寺建築の影響が這入つて行つたことは已むを得ぬことであります。斯の如く一方外国文化の影響が非常に顕著であつたのに対し、他方神社建築の如く、在来固有の様式を長く伝承してゐると云ふ事実は、ひとり建築のみならず他のあらゆる文化現象、例へば墳墓の築造の如きものゝうちにも存在するのでありまして、斯くの如く眼を以て見ることが出来ない精神的要素の上にも、必ずや同様なことの存在するのを思はねばなりますまい。
それはさて住宅や神社以外の公共的生活に必要な建築、殊には新しく渡来した仏教といふ宗教に関係する建築に於いては、在来の建築は不適当でありますから、此の新宗教を持つて来た国の建築を襲用模倣することになりました。即ち百済とか新羅とか朝鮮の国々に行はれた建築でありますが、是は云ふ迄もなく此等の国も矢張り其の宗教や文物などと共に、支那即ち南北朝(特に北朝)のそれを襲用しておつたのでありますから、此の支那南北朝頃の建築が、先づ我国の宗教建築公式建築に影響を与へ、それが模倣せられることゝなつたのであります。そして遂に今日我々の珍重する法隆寺伽藍の如き、所謂推古式とか飛鳥式とか呼ばれる建築が造られたのでありました(但し、此の京畿附近に於ける影響の主流以外或いは以前に、九州などの地方に支那的建築の影響が絶無であつたとは云へませぬ。例へば肥後石貫の横穴古墳内部の瓦葺を示した構造の如き、或いは此の側流の影響に帰すべきものかも知れないと思ひます)。此等の委しいことは此処に述べることは出来ませんが、此の支那南北朝の建築様式は固より漢代のそれから継承せられたもので、其の特殊の※[木+斗]※[木+共]《とうきよう》なども漢代に発達した空想的形式《フワンシー・フォーム》の遺|蘖《げつ》に外ならぬと云ふことを注意して置き度いと思ひます。仏寺以外の宮殿及び内裏の制などに如何なる程度の支那的影響があつたかは明かでありませんが、固より可成大きなものがあつたことゝ想像せられるのであります。
次には彫刻の方面のことでありますが、従来我国固有の宗教に於いては、偶像の必要はなく、従つて此方面の発(240)達を促すものがなかつたのでありますから、たゞ喪葬の際に用ゐる形象埴輪の類が作られたに過ぎません。此の埴輪なるものは、併し所謂葬儀用の仮器でありますから、真に美術的作品とは云ひかねるものでありますが、他に何等の作品が残つて居りませんので、之を以て支那、朝鮮から這入つて来た仏教美術以前に於ける日本の造形美術の性質を窺ふ外はないのであります。処が此の埴輪のうちにある男女人間の像は、種々の服装をして居りますが、その手法は如何にも古拙素朴で、其の面貌の表現は無邪気そのものであり、姿勢態度も平静そのもので、其の間に何等のケレンもなく何等の癖もないのであります。これが仏教美術以前の日本人の技術と感情とを示したものであることは、記紀や万葉にある当時の詩歌文学の上にも、其の「パラレル」を発見するのであります。然るに此の癖のない邪気のない素地の上に移植せられたのが、支那南北朝の彫塑でありましたから、それは何等の変化をも受けず極く素直に発達することが出来、殆ど手本その侭の写しが出来ることになつたのであります。私は推古・飛鳥時代の仏像彫刻は即ちこれであると思ふのでありまして、この素直の基礎の上に将来の自然的な自由な発展が約束せられ得たことを信ずるのであります。若しもそれが石器時代の土偶の如き稍々強い癖のある技術精神の上に移植せられたのならば、其の後の発達は決してあの様なものではなかつたと思ふのであります。
此の時代の様式を示してゐる仏像彫刻は、大和の法隆寺などを始め奈良地方の寺院などに比較的多数に残つて居りますが、其の多数は金銅仏でありまして而かも小形のものが大部分を占めて居ります。次には木造のものが少数ありますが、石彫のものは絶無であることは、此の彫刻の源流たる支那に於いて石像が頗る多く、朝鮮に於いても絶無でないのとは大に趣を異にしてゐるのであります。是は全く我国に於いて彫刻に適当なる石材が乏しかつた為めかと思はれます。また右に述べました多数の金銅仏のうち、果して其の幾何が渡来品で、幾何が日本で作られたものであるかも厳密には区別し難いのでありますが、日本に於いて作られたとしても、其の技術家は当時凡て三韓渡来の人若しくは近い子孫でありましたから、区別の出来ないのが当り前でありませう。併し兎に角我が国土に於(241いて、小形の金銅仏を「モデル」として、之を拡大して法隆寺金堂の両三尊像の様に大形のものも出来るに至つたのでありまして、是が次の時代に於いて遂に薬師寺金堂や東大寺の大仏の如きものを作るまでに、急速な進歩を遂げたのであります。なほ、此の時代の仏像の様式の如何なるものであるかに就いては、詳しく説明する暇もないのでありますが、その古拙の様式はギリシヤに於けるミュロン以前西暦第六世紀前後のそれと趣を同くし、未熟の技術の間にも横溢してゐる真率なる精神はなか/\に掬《きく》す可きものがあり、近年支那朝鮮に於ける此の時代の彫像の知識が非常に豊富となつたに拘らず、我々は支那のものに比して遙かに少数の遺品のうちにも、不思議なほど優秀なる作品が多いことに驚くのでありまして、当時の将来品が特に選り抜きの品であつたことを思はしめるのであります。
次の絵画のことに関しては、共通品が非常に少く、且つ其の状勢は彫刻と全く同じでありますから述べることを省略致します。また諸種の工芸品になりますと、寺院などに伝はつてゐるものゝ外、我々は古墳の副葬品中にも馬具、刀剣其の他の金工品などに、支那の南北朝や朝鮮の三国時代と全く同一の様式製作を示してゐるものを多数に見るのでありまして、其の間に全く区別がつかない程であります。之に関しては特に近年朝鮮の古新羅、任那などの古墳の調査が行はれた結果、我々の知見を非常に豊富にしたのでありますが、其の詳しいことは一々述べる遑《いとま》がないのを遺憾と致します。
また古墳の築造に関しましては、元来日本に於いては、朝鮮の南部、即ち新羅地方と非常に似通つてゐるのでありますが、高塚を築き其の上に竪穴を穿ち石棺を埋めると云ふ風に、支那の周漢などとは異つた一種特別のものでありました。そして古墳の外形に於いて前方後円といふ世界の何の国にも見ることの出来ない形を案出してゐるのであります。然るにやがて支那の影響が朝鮮を通じて這入つて来て、横口の石室を作ることが始まつたのでありました。そして其のうちに石棺を容れたのでありましたが、やがては石棺も木漆の棺と変り、其の他方形墳などと云ふ(242)支那周漢の墓制も模倣せられ、遂には仏教の火葬までも取り入れられ、非常に大きな変化を見るのでありますが、これは墳墓の築造と云ふ様な古い風習が非常に重んぜられる方面の事にまで、如何に支那文化の影響が強くあつたかを語るものでありませう。
五、北方亜細亜スキタイ文化の要素
支那南北朝の文化が我国に伝へられたことに関しては、以上その大体を述べたのでありますが、さて此の南北朝の文化なるものは、在来の漢民族の文化の外に、諸外国の文化の要素が沢山這入つて居り、それが支那に於いて混融せられたものでありまして、純粋の漢文化の要素よりも、却つて外国要素の方が多い位の方面もあるのであります。勿論日本へ渡来した場合に於いて、其の外国的要素が別に離れて這入つたのではないので、之を南北朝文化と呼ぶに勿論何の不都合もないのでありますが、此の支那南北朝、或いは溯つて漢代の文化に就いて、其の内容を分析して其のうちにある外国文化の要素を考察するのは頗る興味あることゝ思ふのであります。而して此の支那南北朝及び漢代文化のうちに、我々は二つの方面からの外国文化を見出すことが出来るのであります。即ち其の一は北方亜細亜の文化であり、その二は西方亜細亜或いは西域文化の要素であります。
此の北方亜細亜の文化なるものは、近頃八釜しく言はれてゐる所謂スキタイ文化と称するものなどを指すものでありまして、是は主として仏教とは離れた世俗的《プロフエーン》な品物に見られるのであります。支那では已に周末から北|秋《てき》などとの接触から其の影響が現はれ、それが南北朝にも及んでゐるのでありまして、遂に朝鮮を経て更に日本の方へも這入つたのであります。スキタイ文化の名は実は漠然たる名称で、寧ろ北亜細亜シベリヤ文化と云つた方が、適当であるかも知れないのでありますが、此は要するに西方南ロシヤ地方、ギリシヤ人の所謂スキタイ人の間に起り、サ(243)ルマテ人が受けついだ一種の文化で、それが亜細亜の北部シベリヤ地方の遊牧民の間にも拡がつたものであります。この文化が支那の方へも周末から漢代に少からず影響したことが、近年次第に明かにせられて来たのであります。而かもそれが支那の漢、南北朝を経て、日本にも伝へられてゐるのを見ることは、当然とは云ひながら頗る我々の興味を惹くことであります。元来朝鮮に於きましては、支那の中心部よりは一層親密なる関係を、亜細亜の北部と有つて居つたらしく思はれるのであり、支那に於いて見られない北方系統のものも往々存するのでありまして、それが又日本にも影響を有してゐるのが少くないのであります。その中には真にスキタイ文化とは申し難いものもあり、寧ろ漠然と北亜細亜的と云ふのがよいものも多いのであります。次に此の北亜細亜或いはスキタイ文化と関係があると考へられるものを並べて見ることに致しませう。
先づ其の時代の最も古いものは、所謂「多紐細文鏡」と云はれる一種の鏡であります。是は日本に於いては、大和、河内、長門に於いて、或いは銅鐸或いは銅剣などと伴出したのでありますが、朝鮮に在つては慶北(入室里)や平南(大宝面)などから、矢張り銅剣などと一緒に発見せられ、近くは其の粗製品の鏡笵が平南(孟山)から出たのであります。そして之と同様のものが露領ニコリスクからも現れて居るに拘らず、支那内地からは今日まで全く其の発見例を聞かないのであります。此の鏡の時代は大体前漢頃に属するかと思はれるのでありますが、其の精良なる技巧質材等には、固より支那文化が之を基礎づけては居るにしても、已に故高橋博士なども云はれた通り、其の「モチーフ」などには北亜細亜民族の特殊性が現れて居り、当時の漢民族の正統的作品とは到底見難いのであります。然るに此の鏡が日本にも極く古く来て居るのは何と面白いことではありませんか。
次には朝鮮新羅の古墳などから多く発見せられる立梁のある黄金或いは金銅の冠であります。あの慶州から出た様な美しい立派な黄金宝冠は日本に於いては未だ出て居りませんが、金銅のものは上野(上陽村)からも出て居り、なほ同一系統に属する他の形の冠は、肥後(江田)、近江(水尾)などからも発見せられてゐるのでありまして、(244)朝鮮ではなほ高句麗に於いても同系統の冠のあつたことは、古墳の壁画などによつて証することが出来るのであります。此の様な冠は支那に於いては却つて一向見当らないのであります。然るに南露(アレキサンドロポール)に於いては、之と類似のものがあるのであり、近頃ヘンツェ氏は慶州の宝冠にある立梁形は、シベリヤの民族の「世界の樹《ウエルトボイメ》」であり、是は鹿の角を以て表はされることが多く、其の例はエニセイのシヤーマン教徒の冠などにも見られること、また慶州発見の各種の佩物を繋げた※[金+誇の旁]帯もまた同じくアルタイ地方の民族と関係あることを述べてゐるのであります。その細かい部分の所説はともかくも、私共がかね/”\考へて居つた所とも一致し、朝鮮新羅から日本に於いて発見せられる宝冠や、また※[金+誇の旁]帯の類が、北亜細亜の文化と関係のあることは疑ふ可きではないと思ほれるのであります。
なほ右の宝冠と同様に、朝鮮慶州から多く出土する垂飾付の美しい耳飾の類も、支那には却つて見られないものであり、何となく北亜細亜と関係あるものらしく思はれますが、更にはまた支那にも出るのでありますが、北亜細亜或いは今少し適切にスキタイ人の文化と関係があると思はれるものは、所謂環頭の刀であります。此の環頭の内側には御承知の如く龍鳳その他の動物の形が付けられてあるのでありまして、これは全くスキタイ系のものに相違ないでせう。併し後に再び改めて言及する積でありますが、此の亜細亜系統の環頭の刀剣は奈良朝に於いては狛剣《こまつるぎ》即ち朝鮮系統のものと称せられてゐるのでありまして、よく其の系統を物語つてゐるのでありますが、此の環頭の刀と共に、同時になほ各種の刀剣が使用せられて居つた事実をも見遁がすことは出来ませぬ。例へば圭頭その他の支那系統のもの、更には鹿角装具や頭槌《くぶつち》の如き日本式のものでありまして、此等のものが互に共在して居つた事実こそ、実に興味ある現象と云ふ可きであります。なほ日本や南鮮の古墳から出る金属製の馬具即ち杏葉とか轡《くつわ》とかさう云ふものは、凡て北亜細亜民族の文化を受けついだものでありまして、此等のものは大体に於いて北方系統のものであると云へるかと思ひます。以上はスキタイ文化と云ふよりも、寧ろ広く北亜細亜の文化と関係あるものに就(245)いて、私達が常々思ひ付いてゐる所を述べたのに過ぎないのでありますが、なほいろいろと詮索を重ねるならば、更に多くの北亜細亜系統のものが明かにせられることゝ信ずるのでありまして、此の北亜細亜またはスキタイ系統の文化の要素が、日本にも認められることは甚だ注意す可きことであります。
六、西域ガンダーラ美術の要素
北方亜細亜系統の文化は今申し述べました通り、多くは古墳の発見品などに於いて見受けられ、先づもつて「プロフェーン《profane》」な生活の方面に関するのでありますが、第二の西域ガンダーラ美術の要素なるものは、仏教と共に輸入せられた美術と一緒になつてゐるものでありまして、宗教的生活の方面に属するものに於いて、之を認めることが出来るのであります。云ふ迄もなく仏教そのものは印度から中央亜細亜を経て這入つて来たものでありますから、それに印度や中亜の諸国の色彩を帯びてゐることは、始めから予想せられる所でありますが、仏教と関係ある建築は、前にも申しました如く、それは教義上多少の変化は試みられた所はあつても、大体に於いては周、漢以来の支那建築でありまして、塔婆の如き特殊の建築に於きましても、始めは燉煌の石窟寺に見られる如く、印度或いは西域の要素が多かつたのでありますが、南北朝時代には已に全く支那的の楼閣建築となり、それに相輪が付せられてあると云ふに過ぎないのでありまして、此の支那的のものが朝鮮から日本へ輸入せられたのでありました。之に反して堂塔の内部に容れられる仏像類やそれに付随した装飾模様の類に於きましては、其の侭彼地のものを将来することも出来、また之を在来のものに付加することも出来たのでありまして、我々は此の方面に印度や西蔵《チベツト》地方文化の要素を見出すことが出来るのであります。
さて日本へ這入つて来た印度仏教美術の性質を考へて見ますると、元来仏教の起つた初めの間は、仏陀の遺物を(246)納めた卒塔婆《スツーパ》即ち塔婆を中心として、招提即ち祭堂と僧房などを一群とした伽藍があつたのみで、仏像と云ふものは作られなかつたのでありますが、それが遂に人間的の形像を以て表はされるに至つたのは、全く此の方面の天才と云ひませうか、或いは此の方面に多分の経験を有して居つたギリシヤ人の技術家の手に由つたのでありました。此のギリシヤ人が印度の北西パンジャップ地方、即ちガンダーラ(※[牛+建]駄羅)に這入つて参つたのは、かのアレキサンダー大王遠征の結果に外ならないのであります。そこで彼等ギリシヤ人はガンダーラ地方に於いて、仏教を信ずる月氏の朝廷に仕へ其の需要に応じて、彼等が故国の神話の表現に示した伎両を以て仏教の説話を表現し、アポローンやアテーナなどを表はす遣り方を以て、仏陀などの像を作つたのでありまして、之がかのインドに於けるガンダーラ美術、或いは印度・希臘《ギリシヤ》美術などと云はれるものゝ起原でありました。そして近年フランス学者の探検によつて、この美術は印度の西北方のみならず、アフガニスタン地方にも及んで居つたことが分かり、巨大な仏像の彫刻や石窟の壁画なども知られて来たのであります。尤も此のガンダーラ美術に於きましても、其の盛時のものは仏像の面貌や衣紋なども、頗るギリシヤ古典美術のそれに似て居りますが、稍々後の時代のものになりますと、次第に形式化し且つ追々と印度的になつて居るのであります。たゞ此のガンダーラ美術が果して仏教美術として其の精神的方面の造詣が充分であるかどうか、美術としての価値が中印度のグプタ式仏教美術などに比べて何うであるかと云ふことになりますと、今私の主として関する所ではありませんから申さぬことに致しますが、中印度のダプタ式などの純印度式仏教彫刻にしても、其の仏像を人間の形を以て表はすと云ふことになりますと、それは已にガンダーラ美術から来てゐるのでありまして、其の他の点に於いてもガンダーラ美術から無関係とは決して申されぬのであります。
支那へ這入りました仏教は月氏の仏教でありますから、此のガンダーラ美術の母国から来たのでありますが、支那の仏教は後漢の時代頃に盛んに這入つたとすれば、その頃月氏の国に於いてもガンダーラ美術は稍々衰勢を示し(247)て居つたとも思はれるのみならず、已に中央亜細亜に流入して其処で地方化せられた美術が、支那へ齎されたものとも想像せられるのでありますから、最早純粋なガンダーラ美術と云ふことも六ケ敷いかも知れません。併しとにかくガンダーラの仏教美術に起原を溯る可き仏教美術であると云つて、決して差支へはないと思ひます。なほ此のガンダーラ美術の性質の詳細は、已にグリゅンウェーデル、フーシェー両氏により述べられて居り、更に中央亜細亜の諸地方に支那の南北朝時代から唐代頃に行はれた仏教美術の性質の詳しい話になりますと、此等は近年欧洲や日本の学者、例へば、グリュンウェーデル、ルコック、カズロフ、大谷光瑞氏などの探検や研究によつて、其の材料は非常に豊富となつてゐるのでありますが、それは羽田博士の『西域文明史概論』と云ふ様な、便利な書物に譲ることに致します。たゞ此等中亜地方に如何にガンダーラ美術的なものが確かに流入して居つたかを証する材料として、スタイン氏が発見した新疆のミラーンの仏堂にあつた翼のある天人などの人物の壁画を挙げることが出来ませう。此の画は私自身その実物を先年大英博物館で見たことがありますが、如何にも朗かな西洋風な絵でありまして、従来ガンダーラ美術と云へば主として彫刻に限られた様に思つて居り、また彫刻に於いては他の流派と区別し難い所もあるに反し、これは如何にも明白な西洋風な技術であることを思はしめるものであります。而かも是が支那の西域地方に来てゐることは、実に意味深いことを感ぜしめるのであります。普通の彫刻に於けるガンダーラ的要素のあるものは、中亜到る処に其の例があるのでありまして、いま一々取り出す煩に堪へないのであります。
支那に於きましては、仏教流伝の入り口とも申す可き甘粛あたりには、此の印度ガンダーラ美術の影響を示す好例がある筈でありますが、かの沙州燉煌の石窟寺にはペリオ、スタイン両氏等の探究の結果、その六朝から唐・五代の彫刻や壁画に之を認めることが出来るのであります。併しながらそれよりも更に著しいのは、却つて山西雲崗にある石窟寺でありまして、先年わが伊東博士によつて此の石窟寺の彫刻的装飾に、ギリシヤのイオニヤ、(248)コリントなどの式のものがあり、彫刻にも印度ガンダーラ式に属す可きものゝあることが明かにせられたのでありまして、私も曾て此の石窟を一見致して、つく/”\と左様に感じた次第であります。その外単独の彫像や何かにも之を証するに足るものが鮮くないことは言ふまでもありませぬ。 此の系統の仏教美術が、即ち北魏から朝鮮の三国時代を経て日本へ渡つたのであります。それ故雲崗の石窟寺などにある種々の特徴は、勿論日本の奈良朝以前の仏教美術に認められるのであり(例へは天蓋の如き)、またガンダーラ的分子も詮索すれはだん/\出て来るのでありますが、何分にも中亜から遥々と支那それから朝鮮をも通過したのでありますから、其の間に次第に特色が目立たぬ様になり、また或いは支那化せられたり、或いは其の後の印度グプタ式の要素が這入つたりして、素人目には確かにそれであると判る様な所が、寧ろ少くなつてしまつた感があるのであります。併しながら今その一、二を申しますならば、仏像の様式に於いて衣紋が両肩を被覆してゐるもの、例へば法隆寺橘夫人厨子や弥陀三尊の中尊や新薬師寺の香薬師の立像などの如きは、此のガンダーラ式を伝へてゐる好例と云ふことが出来ませう。また装飾文様に於きましては随分と沢山にあるのでありますが、例へば法隆寺金堂の玉虫厨子にある通|※[木+垂]木《たるき》の忍冬唐草の如きは、非常によい例と云ふことが出来るのでありまして、所謂推古から白鳳期のものに是が一番よく現れて居るのであります。斯の如く其の系統を辿り源流に溯れば、日本の仏教美術には印度に於ける後の中印度グプタ式もあるのでありますが、其の以前のガンダーラ式のものがあり、それが根蔕をなしてゐることが判るのであります。併しながら、これは系統論、源流考に於いて左様になると云ふ訳でありまして、それよりも支那に於いて成立した北魏式、或いは南北朝式が日本へ流伝したと云ふ方が適当でありませう。たゞその源流を詮索し、其の要素を分析するならば、ガンダーラ式に溯ることが出来、その分子も発見し得ると云ふのであることを御承知願ひます。
(249) 七、唐朝以後の支那文化其の他の影響
以上は、日本文化の源流に及ぼした支那の漢以後南北朝の影響を述べ、且つ其のうちに含んでゐる北方亜細亜や西方亜細亜諸文化の要素に就いて話したのでありましたが、さて次の時代になりますと御承知の如く、日本と支那唐との直接の交通が盛んに行はれることになり、今迄の如く朝鮮半島を経由すると云ふ様な生温いものではなく、支那のあらゆる文化が非常なる勢を以て流入したのでありました。それで法律制度の改革は、遂に大化の改新、近江朝の律令と云ふ様な形で以て現れ、帝都の奠定は滋賀京や藤原京から、終には平城京即ち寧楽の都となり、最後には京都の平安京となつて確立したのでありまして、文学には『懐風藻』と云ふ支那流の詩集も出来、漢字を以て写した国詩の纂集である『万葉集』なども現れると云ふ風に、社会生活の万事に支那の影響が濃厚に現れてゐるのであります。殊に美術に於きましては、以前の支那南北朝の影響に代つて、今や唐の新様式が移植せられ、建築、彫刻、絵画から工芸の末に至るまで、悉く其の感化を蒙つたことは、今日各地に残つてゐる遺品、殊には奈良の諸大寺や正倉院の御物が如実に之を物語つてゐるのでありまして、今更詳しく申し述べる必要もないことであります。而かも此の唐の文化なるものは、元来頗る「コスモポリタン」の性質を具へたものでありまして、其のうちに外国的要素を含んでゐることの多いことは、恐らく南北朝の文化以上であるのであります。已に前に申しました北方亜細亜スキタイ的文化の要素をも包括してゐる上に、今度は中央亜細亜に於いて印度や西域の諸分子と合体し、遂には其の地方地方の特色を発揮しました処の各地の文化を悉く摂取収容してゐるのであります。そして此等のものが凡て支那文化と共に、唐の鎔炉のうちに投げ入れられて、其処に一つのものとなつてしまつたのでありまして、それは独り造形美術の上のみならず、音楽、舞踊その他のものにも窺はれると云ふ大きな「スケール」であつたのであります。宗教に例を取るならば、ペルシヤの※[示+夭]教、摩尼教の如きも流入し、基督教の古い一派であるネ(250)ストル派、即ち景教の如きものさへ伝はつてゐると云ふことは寧ろ驚く可きことでありますが、当時大食、大秦などの名をもつて、アラビヤ・シリヤ等の羅馬《ローマ》帝国領とも交通し、大秦王安敦即ち羅馬のマルクス・アウレリウス帝とも交渉のあつたことを考ふれは敢て不思議ではありません。実に当時世界に存在してゐたあらゆる国、あらゆる民族の文化の要素が、東方に於いて此の唐朝に集合した「コスモポリタン」の状勢は、恰も西方に於ける羅馬帝国のそれに於ける同様の情勢と相対立するのは偉観であつたのであります。
此の真の「大唐」の文化は、斯の如くあらゆる外国的要素を摂容し、世界的の性質を有して居つただけ、それだけ此の世界的の性質は地方にはまたこれを其の四方の国々民族に拡布するに便利なのでありまして、已に漢以後南北朝時代に於きましても、支那の文化は文化の「レヴェル」の低い四隣の国々へ流出したのでありますが、此の唐の文化ほど広い範囲に且つ強い勢を以て拡布せられたことは、古代に於いては殆ど無かつたのであります。勿論、朝鮮や日本も固より其の例には漏れないのでありまして、前に申しました如く、奈良朝前後の日本は一面に於いては全く支那唐文化の一員となつてしまつた様な観を呈したのでありました。此等の情勢の詳しい事に関しましては、今一々叙述する遑もなく、且つは私自身深く研究したことのない分野も鮮くないことでありますから、これだけにして置く外はありません。実は今までゞも已に私の如き考古学者が話をする範囲をとつくに逸出してゐるのでありますから、余り饒舌に陥らない方が宜いかと思ひますが、話の結末をつける為めに、今少しく申述べることを許してもらひ度いと存じます。
唐以後の文化が日本に影響を及ぼした次第は、或いは唐代の如く顕著ではなかつたかも知れませんが、宋の文物は平安朝の後葉から鎌倉時代にかけて流入し、宋元の文物は遂に禅宗と云ふ仏教の新宗派により、足利時代を通じて日本の思想界、美術界を風靡致しました。次の明、清の文化も同様に足利の末から徳川時代に種々の影響を及ぼしたのでありますが、特に太閤秀吉の朝鮮征伐は、朝鮮に於ける工芸などを日本に輸入した効果の大なるものであ(251)りました。此の如く支那文化の次ぎ/”\の波浪は、常に東|瀛《えい》の島帝国の岸を洗つたのでありますが、茲にまた足利時代の末から、一つ新らしい文化の波が遠くから押し寄せて参つたのであります。それは即ち西欧の文化でありました。
此の西欧の文化は、始めは基督教と共に這入つたのでありまして、先づポルトガル、スペインなどのラテン諸国の文化、次いではイギリス、オランダなどの文化がやつて来たのでありましたが、要するに文芸復興期《ルネサソス》後期「リフォーメーション」時代のそれでありました。此の時分には基督教も随分広く且つ根強く弘通《ぐつう》し、その精神的方面に及ぼした影響も大きく、絵画等の芸術品にも其の結果が現れたのであります。併し禁教令が峻厳に行はれて一世紀も経つか経たないうちに、此の文化の影響も表面から一掃せられることになり、かの天正の青年使節の涙ぐましい話も、之に次ぐ支倉常長の渡欧の如き事件も、遂に大きな果実を結はずに終つてしまひ、西欧との交通は徳川時代に於けるオランダ人の通商に由る一縷の命脈をつなぎながら、遂に再び幕末明治以後の欧米諸国との本格的交通文化の輸入となりました次第は、今更詳しく申し述べる必要もないことでありまして、斯くて支那文化の摂取に由る日本文化樹立の大きな時期は過ぎ去つて、茲に欧米文化包容に由る新しい日本文化確立の大きな時代となつたのであります。その上今日では東西の文化を此の島帝国に於いて渾然融合して、世界文明史上新しい紀元を画せんとする第三の大きな時代に入りつゝある情勢を見るに至つたのであります。翻つて之を支那の文化中に流入してゐた僅少の西方文化を、虫眼鏡を以て探し出した奈良朝前後の時代や、或いは偏《ひと》へに支那文化を摂受した徳川時代以前の時代などに比べて見ますと、実に全く異つた世界に住んでゐるかの感をするのであり、殊にはまた外来文化の諸源流を統一融合して、新しい日本文化を積極的に確立しようとする能動的の態度を示すに至つた現時の情勢を、ただ単に受動的に外国文化を取り入れることに腐心した過去の各時代に較べますると、実に驚く可き大なる変化をなしたものであると言はなければなりません。
(252) 八、後語――外来文化と其の日本化
以上私は、日本文化の成立の道程に於いて、我国に影響を及ぼした外国文化の諸源流に就いて、私の立場上特に古い時代の事に就いて詳しく述べたのでありましたが、之に由つても現在の日本文化なるものが出来上がるに就いては、如何に支那文化、また西洋文化が大なる寄与をなして居るかゞ分かるのであります。然らば此の外国文化の影響だけで、日本文化が出来たのであるかと云へば、それは決してさうではないのであります。此の外国文化が植付けられた母胎は飽くまで日本民族、日本国土であり、この母胎の中に外来文化が移植せられて発育したのに過ぎないのであります。それ故之を美しい花や佳《よ》い実の成る木が、台木の上に接ぎ木をせられた様なものであると譬へる人もありませうが、此の場合台木の善悪は接ぎ木の将来に必しも無関係ではないのでありますが、それは甚だ微弱なものでありますから、それよりも寧ろ苗木を畠に植ゑる場合に似てゐると申した方が宜いかも知れません。此の場合には畠の土質の善悪は、非常に大なる影響を有してゐるのでありまして、折角の良い苗木も畠が悪くては、到底立派なものとはなり得ないのであります。日本へ這入つたと殆ど同じ文化が、他の地方にも植付けられた結果と比較して見れば直ぐに判ることでありまして、其処に非常に大きな相違が現はれてゐるのであります。例へば朝鮮に於いてどうであったか、安南交趾などではどうであったか、更には最近発掘せられた渤海の旧都などではどうであつたか、此等は茲に説明する迄もないことゝ思ふのでありまして、実は日本に於いて支那の文化は、其の本国に於けると同様少しも見劣りがしないのみならず、却つて往々にして本家よりも此の出店の方が勝れてゐると云ふ場合も少くないのであります。例へば奈良朝の彫刻などに於いて私は之を痛切に感ずる次第であります。
私は只今外国の文化が日本へ這入つて来たことを、畠に苗木を植ゑることに譬を取つたのでありますが、実は此の譬も適切でない様に思はれるのであります。それは畠と云へばいかにも何の文化もない土地を指す嫌ひがあるの(253)でありますが、日本へ支那の文化が始めて入り込んだ時はたとへ未だ発展しない低い文化にせよ、とにかく已に一種の日本文化があつたことは、最初にも述べた通りでありますから、寧ろ白粉花の白い花に紅の花を交配すると云ふ様な場合を譬に取る方が宜いかと思ひます。この場合御承知の通り二代目には丁度桃色の中間色のものを生じ、三代目には中間色のものの外、紅色のものや白色のものも出ると云ふことは、メンデルの遺伝研究の実験が、詳しく其の数字と共に我々に教へてゐる所であり、なほ天竺鼠や其の他の動物の実験もあるので、素人の私などがやたらに申し述べる迄もないのでありますが、外国文化が一国に這入つて来た場合、在来の文化と結合して、次の代には新しい中間のものが生ずると同時に、更に次々の代には最初の在来の文化或いは外国文化が其の侭の形、或いはそれに近い形を以て現はれると云ふことも考へられるのであります。勿論此の間に優性《ドミナント》の文化と劣性《リセツシープ》のものとがあり、また実際一国の文化の融合と云ふ様な場合は、其の文化の要素は至極複雑なもので、其の間に人の意志も加はり、中々以て草花や動物の実験に於けるが如き簡単な方式を以て表現することは出来ないのであります。実際人間個体に於ける肉体や精神の遺伝と云ふことさへ、中々以て学問の上からは説明出来ない今日、文化の遺伝とか文化の混合とかに就いて、的確なる理論を構成することの無理であることは申す迄もありません。併しながらなほ我々に対して先に述べた様な遺伝学の実験と相似た現象が起る可きこと等に関し、幾多の示唆を与へると云ふことだけは否定することが出来ません。
日本人は外国文化を善く消化し之を同化するものであると云ふことは、屡々聞くことでありまして、私自身も左様に信ずるのでありますが、これは即ち白い花と紅い花との交配に於いて、其の結果桃色の花が出来ることに譬ふべきでありまして、日本の国民が同化力に富むと云ふこと、よく外国の文化を消化すると云ふことは、例へば其の紅い花の性質が優性であつて、桃色の花と紅い花とが段々多く現れ、而かも此の桃色の花が非常に美しいと云ふことになるかと思ひます。外国文化が日本化される例は今更一々挙げる迄もないことでありまして、奈良朝に於ける(254)唐文化が、如何に日本化せられて平安朝の文化となり、また宋元の文化が同化せられて鎌倉・室町時代の文化となつたか、また明、清の文化が長い泰平の徳川時代に於いて、如何に同化せられて江戸時代の文物の華を開かせたか等々、実際日本文化史の発展過程は一面から見れば、外国文化の日本化の過程とも云ふ可きでありませう。而かも其の日本化せられたものが、また大なる価値を有してゐる所が非常に面白いのであります。之を朝鮮の例に較べますと、同国では外来文化が末だ全く同化せられない間が善いのであつて、同化せられてしまふと寧ろ堕落的性質を多く帯びて来るのとは頗る趣を異にしてゐるのであります。
私は支那南北朝の文化が我国に輸入せられた時、刀剣の類には支那風の圭頭や朝鮮或いは北亜細亜風の環頭の刀剣が大いに行はれた。併しながら之と同時に、日本在来の鹿角製の装具を有する刀剣も存在して居つたと云ふことを述べました。これは白い花と紅い花とが交配せられた後にも、桃色の花の外に白や紅の花が現れると云ふ例に当るかも知れません。さう云ふ事実は実際一つの古墳の内容物に其の例を見ることでありまして、如何に外国文化の勢力が強い様でも、それよりも根底に流れてゐる固有文化の潜勢力は到底如何とも出来ないのであつて、それが一方に長く並行して存在するか或いは一時形を隠しても、再び或る時期に現れて来るのであります。
次にまた我々は奈良朝以前の古墳から発見せられる鏡、馬具、武器などを見て、それが殆ど全部支那風のもの大陸風のものである処からして、其の時代の日本人の文化生活は全く支那化せられたものであると思ふならは、それは大きな誤りでありませう。何故ならば右の様な品物を出す処の古墳は、先づ以て当時の上流社会、富者の階級に属するものでありまして、成るほど其等の社会階級には支那文化が多大なる影響を及ぼして居つた事実は否むことが出来ないのでありますが、普通一般大多数の民衆はやはり主として在来文化を基礎とする生活を営んで居つたに違ひはありません。たゞ彼等の生活を示す考古学的遣物がめぼしい形に於いて今日に残つてゐないと云ふに過ぎないのであります。否な更に深く考へますならは、右の様な支那風の品物を使用して居つた社会階級の人々も、実際(255)の内的生活、例へば食物、住宅の如きに至つては、私は決して大部分は支那化して居つたとは信じ得ないのであります。況んや其等の人々の言語、思想までもが支那化してゐたなどとは思はれないことは、今日我々自身如何に屡々洋服を着け、時々洋食を契し、或いは洋風の家に出入しても、なほ其の私的生活の大部分は其の寝食に於いて、其の言語、嗜好に於いて、其の居住に於いて、大多数のものは到底日本化の範囲を出でないものであるかを自分でよく知つてゐるのであります。実際過去に於いても全く之と同じであつたとする外はないのでありまして、例へば奈良朝の如き唐代文化を殆ど直写したと云はれる時代に於いても、上流社会を除き否な上流社会も其の私的生活に於いては、大体は依然として前から引きつゞいた日本的のものであつたとすべきであります。たとひ壮麗な仏寺伽藍があり、仏像が作られても、立派な宮殿邸宅は営まれ、衣冠装飾は用ゐられても、其の実生活は依然として昔と大差がなかつたらうと思はれることは、一部の『万葉集』を見ても想像せられることであり、今日我々が朝鮮に於ける状態を見ても歴然と知られることであります。
以上の如く観じて来ますと、外来文化の影響なるものは如何に大きく見えましても、実際に於いて在来文化の根強い底力には勝つことの出来ないものであることが判かるのであり、特に日本の場合に於いて此の固有文化の勢力が頗る優性である様に思はれるのであります。これは果して日本の為に幸福であるか不幸であるかを知りませんが、とにかく此の事実は如何ともし得ない処であり、私は之を以て自ら幸福にすることが出来、また其処に我々日本文化の世界に於ける使命を見出すことも出来る感がするのであります。私は最後に呉々《くれぐれ》も繰返し度いのは、事実を先づ正しく公平に認識することであります。即ち日本文化の源流を穿鑿《せんさく》して、支那その他諸外国の文化の要素を求め得ることは、本篇に於いて叙し来つた処でありまして、一方に於いては外国文化が如何に軽微なる影響感化と雖も、それは或る形に於いて、或る分量に於いて内部に潜在し、決して消滅しないものであることを知ると同時に、他方に於いては同じ理由によつて、一民族の有して居つた文化特質は更に根強く存在して、それが飽くまで付(256)き纏ふものである事を忘れてはならぬと云ふことであります。是は一見頗る平凡なる見解でありまするが、往々にして其の一方が忘却せられ、他方のみが高調せられるのであります。さう云ふことは為政家とか教育者とかに於いて或いは許されるかも知れませんが、歴史の学問をする我々には到底許されることの出来ない偏見であります。 (昭和十年五月)
〔初出、『岩波講座東洋思潮』所収、昭和十年。〕
(257) 大和島ノ庄石舞台古墳第二回の調査に就いて
一、昭和八・九年の発掘
大和国高市郡高市村島ノ庄にある石舞台と称せられる本邦稀有の巨石古墳は如何なるものであるか、また昭和八年から九年にかけて、我が京都帝国大学文学部考古学教室が日本学術振興会の援助によつて、其の石室の清掃を行ひ、高さ十五尺五寸の大石室が如何に完全なる排水溝の設備を有するか等、其の構造の全貌を明かにし得たるかに就いては、当時現場主任であつた末永雅雄君はじめ、禰津正志君等の書かれたものなどに依つても知られ、私自身も雑誌『科学知識』(第十四巻第二号)の需に応じて「我国最大巨石墳墓の研究」と題して、其の概要を記したことであつて(本書一八八頁以下)、今更之を繰返す迄もないことであらう。
併しながら此の昭和八、九年度の発掘は時間、費用等の関係から、此の古墳に関する研究、特に其の外部の構築に関する調査の将来に俟つものゝ多かつたことは、私が『科学知識』誌上にも、
但し石室の外部に於ける我々の試掘は、未だ充分に封土の限界を定むるだけの資料を提供せず、石室の東方約八十尺に於いて、地下数尺の処から発見した三段ばかりの傾斜した丸石積の構造は、或いは円墳の底周を繞らした護石かとも思はれる頗る面白いものであるが、之を確言するには、なほ将来の研究を要する。
と書いて置いたことである。実際此の丸石積の存在の知られたのは、石舞台古墳清掃事業の後仕舞にかゝつた終了(258)の前一日のことであつて、我々は其の発掘を継続することが出来ない事情にあり、之を後の機会に期する外なかつたが、此の一事は、石舞台古墳研究の上に残された最も重大な謎として、爾来我々関係者の頭脳にこびりついてゐた。処が幸ひ本年度となつて、奈良県史蹟調査の事業として、之を遂行することが出来、四月六日から六月二日に至る約二ケ月の発掘に依り、我々が予期しなかつた事実を明かにし、該古墳は普通の円墳に非ずして、外濠を有する上円下方墳である確証を発見し、我が古墳発達史上最も重要なる資料を供給するに至つたことは、私の最も欣快とする所であり、現場主任の末永君をはじめ、禰津君、また奈良県当局者、航空写真の撮影(第1図)を行はれた大阪朝日新聞社等に向つて深甚なる謝意を表する次第である。それで石舞台古墳将来の保存等の問題に直面しつゝある今日、私は此の本年度に於ける石舞台古墳外部の構築に関する発掘の結果に就いて、其の概要を述べて見度いと思ふ。
二、調査の次第経過
前に述べた通り、石舞台古墳外部の構築に関しては、前回の調査に於いても、我々は関心を以て、之に臨んだのであつたが、何分にも石室内清掃の事業に暇取り、此の方面の調査は後廻しにした為め、遂に充分なる時間の余裕を有しなくなつたのを遺憾とする。当時我々は羨道部を除き、石室の南、西、北の三方に於いて、石室の中心点より各四十尺の地点付近を試掘し、封土の限界を明かにせんとしたのであるが、其の結果は消極的であつて、何等の確証を得るに至らなかつた。併し、私は此の時現場に居らず京都に居つて、此の試掘の未だ不充分であつたことを感じ、電話を以て末永君に向つて、石室の東方更に約八十尺の辺を発掘することを依頼した。既に発掘事業終了の前日であつたにも拘らず、末永君等はよく此の事に当られ、発掘の結果は意外にも地下約一尺余にして、上部内方に
(259) 第1図 大和島ノ庄石舞台 1.石舞台付近(航空写真) 2.石舞台周辺の発掘(航空写真)〔いずれの写真も省略〕
(260) 第2図 大和島ノ庄石舞台 羨道前端より玄室を望む〔写真省略〕
(261)傾斜せる人頭大の貼石列を発見せられ、是は疑ひもなく封土の外域の設備であることを知り得たのである。当時は僅かに長六尺許りを発掘し、更にそれを延長することが出来ずして仕事を終つた為め、我々は寧ろ之を円墳の弧周の一部であらうと考へ、方墳の一辺とは想像しなかつたのであつた。併し此の貼石は実に東側下方部の張石の一部であつたことは後述の如くである。
処が他方前回の調査に於いて、石室羨道の南方に接して、ゴロ石の平たく並列してゐるものが発見せられ、これ亦封土南側の設備が流動せるものと考へられるものがあつたので、本年度の調査を開始するに方つて、末永君は此の南側のゴロ石列が東側の張石と如何なる円弧に連続す可きかを追究せんと欲し、南側の石敷に沿うて東方に掘り試みたのであつた。然るに此の石敷は掘るに従つて東方に延長せられ、遂に羨道部から東約八十五尺の処に於いて此の石敷は直角に折れて北方に向ふことが明かとなり、我々は此の古墳封土の下部は円形に非ずして方形なる可きことを知り、之よりして容易に他の各辺と其の隅角の位置を考定することが出来るに至つたのである。かくて我々は、次に東北隅角を発掘し、更に西北隅に及び、再び南側の西部等を究むることを得たのである。
三、下方部の貼石積
石舞台古墳封土の下部方形の貼石積は前に述べた如く、先づ東側の一小部分から注意せられたのであるが、其後南側に於ける羨道部東方の一線と、其の東南隅角の発見によつて、正方形一辺約百七十尺を有するものなることを推定し、之を基礎として、漸次各隅角、或いは各辺の一部を発掘することが出来たのである。今、次に、各側の貼石積に就いて其の発見の状態を記述して見よう。先づ、
〔東側〔二字右・〕〕 に於いては、前年発掘の箇所を再び露出し、之を精査した。これは石室の東辺から約七十尺、地表下約(262)二尺位の処から現れ、貼石の傾斜は約三十度、その面幅約十尺、人頭大、或いは以上の石塊を十数列一重に並べた丸石積或いは玉石積の壁(boulder wall)をなしてゐる。この東側はその後南北両隅角を明かに検出し得たので、如上の小部分即ち長約十二尺許りと、その北方約五十尺の部分を検出したのみで、全線に亙つて之をトレースすることをしなかつた。
〔東南隅〔三字右・〕〕 これは既に述べた如く、南側線を東方にトレースして発見した最初の隅角である。其の構造頗るよく保存せられ、隅角の傾斜は約五十五度、此の線に当る部分は特に大形の、且つ天然に稜角のある石塊を択んで使用してゐる。そして、此の事は他の隅角に於いて全く同じである。但し、東南隅角部に於いては面幅僅かに五、六尺を遺すに過ぎなかつた。
〔南側〔二字右・〕〕 羨道の東方約八十五尺、東南隅に至る全部及び羨道の西方部約三分の一、約二十五尺を残存し、これが悉く露出せられたのであるから、見る人をして感嘆の声を放たしめるに充分である(第3図上)。就中、東南隅角を距る二十五尺位の処に於いては面幅十尺以上に及んでゐる。羨道の西部は、遺存の程度少く、其の西南隅の付近は、少しく発掘を試みたが、畔道を保存する必要上遂に貼石の遺構を究めることが出来なかつた。
〔東北隅〔三字右・〕〕 東南隅角の検出から、正方形の一辺の長さを知り得た我々は、次に東南隅の北方百七十尺の地点に、東北隅角を検出し得可き期待を抱いた。然るに、此の地点は恰も多武峰街道の北方に近く、而かも地形稍々高い為め、発掘に困難を感じたのみならず、掘るに従ひ水が湧出し、作業は容易に進捗《しんちよく》しなかつたが、遂に予期の如く隅角部の完存するものを発見することを得て、我々をして其の推歩の誤らざるを喜ばしめた。隅角部の構築は東南のそれと同じく、其の保存も頗る良好であつた(第3図下)。
〔西北隅〔三字右・〕〕 北側は前述の如く多武峰街道に接近し、殆ど之と並行してゐるので、我々は之をトレースすることを止め、東北隅から西方百七十尺の地点に、西北隅角の検出に着手した。然るに、我々は始め此の地点を測定する
(263) 第3図 大和島ノ庄石舞台(上) 下方部南側の貼石(西方より撮影) (下)下方部東北隅の貼石〔いずれの写真も省略〕
(264) 第4図 大和島ノ庄石舞台 1.下方部西側貼石の一部 2.土塁(外堤)東南隅内側の貼石〔いすれの写真も省略〕
(265)際、多少正鵠を失して居つた為め、少しく西北方を発掘し、予期の深さに於いて貼石積を発見し得ず、大に焦慮したが、遂に稍々東南方恰も正確なる地点に於いて、完存せる西北隅角を発見したばかりでなく、その外方にある空濠と外堤の設備を有することを知り得たのは意外の賚《たまもの》である。之に就いては次節改めて説くことにする。
〔西側〔二字右・〕〕 西側の略ぼ中央部即ち西北隅から約八十五尺の地点に於いて、貼石を発見したが、其の面幅約十四尺に及び、頗る整然たるものがあつた(第4図1)。其底部よりは湧水多く、底は其のうちに没した。なほ此の部分に接して封土上部の貼石の流下したものゝ多く検出せられたことは後述の如くである。
四、外堤の貼石積み
下方部貼石積の外方に、更に空濠があり、其の外堤の存することは、東側及び南側下方貼石検出の際に、用明天皇御陵の構造などから考へて末永君等の推測した処であつたが、其等空濠と外堤の貼石積に逢着せず、確信を得なかつた。然るに前述の如く下方部西北隅角発掘の際に、誤つて稍々西北方を発掘した為め、偶然此の構築を掘り当てた次第である、
〔西北隅〔三字右・〕〕 即ち此の部分に於いて、西北隅角の基底から北方へ約十七尺を距てゝ、更に別の稍々簡粗なる張石(面幅約三、四尺)が出現し、而かもそれは約五十余度の角を以て外方に傾斜してゐることが明かとなつた。そして此の張石も下方部西北隅角の西北約三十尺の処に於いて、南方に屈折してゐることが知られたので、我々はこれは外堤に非ずやとの疑ひを起し、更に西北を発掘し続けて、約三十五尺の処に於いて、内方に懐斜せる貼石の隅角を発見し、茲に始めて外堤の幅員が約二十五尺あることを確実に知り得たのである。
〔南側〔二字右・〕〕 斯くして此の外堤の構築を明かにせんが為め、南側に於いて発掘を試みた処、下方部貼石より約三十尺(266)の南方に於いて、長さ約百二十尺に亙る内側貼石列を検出し得たのみならず、外堤の上面約二十三尺の外方に、外側の貼石の存することを、羨道部の南方地点に於いて検出することを得た。但し、其他の部分に於いては田地の区画、其他後世の切取りがあって、是等の構築の遺存するものを多く発見し得なかった(第4図2)。
〔東側〔二字右・〕及北側〔二字右・〕〕 東側に於いては下方部貼石を発見した部分の東方に接して、小玉石を二列溝状に並べたもの数尺を発見したが、これは其の性質明かでなく、中央部より少しく南方に於いて、外堤内外の貼石少し許りを検出し、濠幅は南側に比して稍々狭く約二十五尺、外堤幅約二十七尺を測り得た。北側に於いては、中央部より稍々西方に於いて外堤内側の貼石少し許りを検出して、現在石並四列、面幅五尺を測り得た。なほ、上部に二列の貼石があつた痕跡を認めたから、面幅七尺を超える部分があつたと思はれる。また此の部分に大きな平石の存するのを発見し、之を調査したけれども、此の石は当初から故意に置かれたものか否かを明かにすることが出来なかつた。なほ、北側外堤の東北隅は丘陵の裾に入り込んでゐるので、或いは当初から築造しなかつたかとも思はれる。
五、封土上部の貼石積
封土下部の形状は以上述べた如く、正方形であつたことが、貼石積の存在に依つて明確に知るを得たが、封土上部は果して如何なる形状を有して居つたか、矢張り方形を繰返したものであるか、或いは円形であつたか、是は新に追求しなければならぬ問題である。併し、此の部分に、既に石室の石材が全部暴露して少しの封土をも残存しない本古墳に於ては、石積の多くが原状のまゝ地下に埋没してゐるとも思はれず、従つて調査の結果に初めより多くの期待をかけ得ないものがあつたのは致し方もない。
石室の西方下方部西側の中央の近い処に、下方部の貼石に接し、上部の石積の流下してゐるものを多く認めたこ(267)とは、既に述べた通りである。併し、これは其の形状の方形であるか円形であるかに就いて、何等語る処はない。我々は是より先き、封土上部の各部に於いて、数個所の縦溝《トレソチ》を穿つて、石積の有無及び其の形状を探求したが、西北、西南、東南等の各部に若干の玉石の集団を見ることが出来た。併し、是等は其の数量に於いても、其の性質に於いても、或いは封土の葺石であつたとも考へられ、或いは一歩譲つて貼石の存在を暗示し得るとしても、其の形状を確定するに有力ではなかつた、たゞ西北部〔三字右・〕に於いては、大形の石があり、其の数も多く、不規則ではあるが稍々円形に連続し得るものがあつて、之により我々は本古墳の封土上部が、或いは円形に築成せられ、其の基底が下方部と同じく貼石積を有して居つたであらうと想像することが出来ないことはない。而して、此の場合上円部の基底は、大体直径百十尺内外と測ることが穏当であらう。
六、発掘の遺物
前年石室を清掃した際に、その内部から素焼の土器多数、及び稍々後世の祝部風土器、其他、永楽通宝・元豊通宝・寛永通宝等の古銭を発見し、是等の或者は石舞台古墳築造当時副葬せられたものであり、或者は後世石室開口後、或いは内部に神仏を祭祀し、或いは民人の出入居住す
第5図 大和石舞台発見の遺物〔写真省略〕
(268) 第6図 大和石舞台西北の古墳〔写真省略〕
るものがあって残されたものと推測せられたが、今次の発掘に際しても、濠内其他の部分から土器はじめ各種の遣物が若干出土した。而して、是等の多数は古墳築造以前、若しくは、当時使用されたものが、封土中に混入したものであり、中には或いは古墳築造に従事した人の使用したものがあるかも知れぬ。
祝部風或いは素焼土器の大小破片は、封土の到る処に於いても発見したが、就中、下方部西北隅角の付近に於いて、祝部及び土師器の破片が木炭焼灰と共に存在したのが注意せられ、なほ、二、三の馬歯をも伴出した。土器の復原し得るものには高杯、鍋などがある。また、此の部分に於いて第5図右に示した小形の鍍金尾錠一箇を検出した。更に此の西北隅角の土堤上に於いて石棺の破片と覚しき(松香石の)破片を多数に発見したが、本古墳の石室の内部からも、前年同じ石の破片を獲てゐるから、本古墳石室内にもと存在せし石棺のものであるかも知れないが、或いは又本古墳付近の他の古墳の石棺に属するものかも知れない。
以上の外、土堤東南隅角の部分に於いて鍍金菱菊形座金具一個(第5図左)、鍍金革金具一箇を得たが(第5図中央)、是等は前の尾錠と共に、其の大体の時代は齟齬《そご》してゐないにしても、本古墳の副葬品であったか否か、之を決定することは困難である。
(269) 七、石舞台西北の小古墳
我々は前年発掘に従事してゐた際、本古墳の付近に、数十年前石棺様のものを発見し、其の儘埋没したことを耳にして居たが、今年度、封土調査に方つて、比の石棺なるものは、或いは石舞台古墳より搬出したるものに非ずとしても、何等か本古墳と関係を有するものであるかを疑ひ、右の石棺発見に関する記憶を有する中井寅蔵翁を訪ね、なほ、二、三古老の同行を請ひ、遂に略ぼ其の地点を明かにして、之を発掘した。それは即ち石舞台古墳西側外堤の西北方に近接する一地点である。
此の発掘は五月五日から二日間を以て終了したが、其の結果、これは小さい石室の内部に、大きな松香石の石棺身部を遺存するものであることを明かにした。石室は既に其の西側と天井石をはじめ羨道の大部分を失ってゐるが、室の長約十一尺余、幅六尺五寸許り、羨道部の幅約五尺、石棺は長七尺七寸余、幅四尺一寸、刳抜部の縁二寸許りを残してゐたのみである(第6図)。封土は今や全く喪失してゐるが、石室の底面は石舞台の穴濠と略ぼ同一水平線上にあり、直径約三十尺前後と推定せられ、其の外周は石舞台古墳に接触してゐるので、両古墳間に何等かの親縁を有することを推察せしめるものがある。併し、本古墳の石室及び石棺の長軸は略ぼ正南に向ひ、石舞台のそれが南西西(約三十四度)に向つてゐるのとは一致してゐない。若しも此の古墳が石舞台の陪塚《ばいちよう》的のものならば、正に石舞台の石室と同一方向を取る可きである。殊に外堤線に接近してゐる本古墳に於いて、其の石室の方向を誤る可き筈がないのである。それ故私は之を以て石舞台の陪塚的存在と考へるよりは、寧ろ石舞台以前に築造せられたもので、石舞台の被葬者と縁故のある等の理由によって其の儘保存せられたものであると見るのが穏当であると思ふのである。併し一方には、此の石室の方向の不一致は却って陪塚であることを語るものであらうと云ふ説もある。即ち此の小古墳の石室は東に振って石舞台に向ひ、なほ石舞台の東方約半町にある一古墳のは西に向ひ、両者
(271) 第7図 大和島ノ庄石舞台 石舞台古墳復元図(小林行雄君製図)〔図省略〕
は共に其の石室を主墳の方に向はしめた陪塚であると云ふので、是は発掘者末永君の主張であることを茲に付記して置く。
八、石舞台古墳の復原
以上、私は石舞台古墳本年度の発掘調査の結果に就いて其の概要を記したのであるが、此の調査に際してもなほ其の古墳の全地域に亙って、貼石積を暴露したわけではなく、たゞ其の形状構造等を考察するに足る可き要所要所を突留めたに過ぎないから、若し将来全部を徹底的に発掘し得る機会があるならば、更に我々の知見を増補訂正する所があるに違ひないと思ふ。併しながら、それにしても我々は、前年度及び本年度の調査に依つて、本石舞台古墳内外の構造に関する或程度までの、略ぼ確実なる見解を把握し得たことゝ信ずるのである。既に前数節の記述に於いて、随処に指摘した所であるが、今再び石舞台古墳の構築に関して、其の大体のプリンシプルを繰返して見よう(第7図)。
石舞台古墳は現在高市村小学校の南方を流れる細谷川の北方にある花崗岩の流下した崩落層上に計画せられた方形の大古墳であつて、元来の地形は東より西に、又北より南に傾斜してゐる。従つて、是が築造に際しては、先づ東方と北方とは多少之を削平し、西方と南方とは多少之に盛土をしたものと推測せられる。その中央に西南に長三十八尺の羨道を有する、長約二十五尺、幅約十一尺、高十五尺五寸の内法を測る巨大なる石室を、半ば天然の土壌中に掘り込めて築造したのである。之に使用した石塊は出来る丈付近の山間平地に求めたに違ひなく、之が運搬には多大の人畜の力を集積し、また臨時のスロープをも作つたと想像せられることは曾つて述べた通りである。
石室の築造後、之を中心として、一辺約百八十尺の正方形の封土下部を設計し、更に其の外方に約三十尺幅の空(272)濠を設けたが、地形が北に狭く、且つ北は背面に当るので、此の側のみは十八尺とした。但し、其の外部を繞らすに凡て幅約二十五尺の土堤を以てし、右の内外側、殊に封土下部は玉石壁を以て固め、其の崩壊を防いだ。玉石壁は人頭大の玉石を約三十度前後の傾斜に積み(外堤に於いては四十五度乃至五十五度)、前に記した如く、特に其の隅角部には大なる石の稜角あるものを並べて築成し、其の構造頗る厳重なるものがある。但し、玉石積の下方は何等特殊の保強法を行ってゐない。
石室の天井は、石室台底より最大高約二十五尺に達するから、之を半ば露出せしめざる以上、之を被覆するに足る封土は、他の古墳の実例から推考して、少くとも高三十尺位あつたとす可きであらう。而して右の封土は下方部の相似形である方形とするよりも、此の場合寧ろ円形と考へるのが穏当であり、其の基底は、直径約百十尺、或いは二十尺と推察せられ、其の貼石と思はれる玉石が随所に存在する。之にしても封土は他の古墳のそれに較べて割合に小さい方であらう。葺石は封土の全面に置かれたと想像す可く、羨道南方の口は此の円形封土の限界線に於いて開かれて居つたと見る可きであらう。埴輪円筒の配列は毫も之を想定する材料を有してゐない。
九、結 語
石舞台古墳に於いて、我々が二回の調査に於いて、安全に復原し得る凡ては以上の如くである。斯くの如く復原せられた古墳は、現在その巨大なる石室の殆ど全部を田圃上に露出して、恰も巨人が其の躯幹を裸にして、益々其の大なるを感ぜしめるが如くであるのに対して、其の躯幹は寧ろ平凡なる封土中に被はれてしまふであらう。併しながら、此の封土は決して平凡なるものではなかつた。其の下部は、未だ曾て見なかつた様な堅固なる玉石積を以て繞らされた正方形であつて、更に其の外囲には玉石を以て堅くせられたる土堤を以て荘厳せられたものであるこ(273)とが明かとなつては、今や此の巨人は更に美麗なる服装を着けた、大きさと美しさをば併有して居つたものであり、其の堂々たる偉容が細谷川を前にして屹然として南面して居つた光景を想像せよ。それは、さながら桃山の御陵などに近いものがあつたに違ひない。実にや本邦に数多い古墳中には、方形の封土を残してゐるものや、或いは上円下方のプランを示してゐるものも無いではない。併し、此の石舞台古墳の如く其の封土の基底を玉石積にし、或いは玉石積の外堤を繞らしたものは洵に稀有である。或いは用明天皇、舒明天皇、天智天皇の御陵などに於いて、方形の封土に一段或いは数段の石積の構造を見ると云ふが、是等の御陵は古来より少くともある期間尊崇が続けられた為め、それ等の造築が後世の修補に属する場合がないとも考へられないのである。従つて或いは之を以つて直ちに当代の構築と決定するのは早計であるかも知れぬ。然るに石舞台古墳は或る早い時代――少くとも平安朝或いはそれ以前――に於いて既に見捨てられ、遂には石室上の封土を全く喪失し、また封土下方部と外堤とは、其後東方と北方から流下する砂土其の他によりて漸次埋没し、却つて当初の儘に其の構築が地下に保存せられることゝなつた。それ故、我々は此の石舞台の構築によつて、却つて前に挙げた御陵に於ける構築が、其の当初よりの施設であつたことを知り得るのである。
石舞台古墳が、谷川士清氏、次いでは喜田博士が唱道せられる様に、蘇我馬子の桃原台に擬定せらる可きものであるか否かに就いて、私は今茲に論ずる暇がない。所詮斯る擬定は仮令《たとい》若干の根拠はあつても、学術上からは一箇の想定に終る外はない。併し、此の古墳の築造年代は前に『科学知識』誌上にも記した通り、殊には方形の封土を明かにした今日、誰人も考へる様に、大体推古天皇時代前後、蘇我氏の隆盛の時代であつた頃のものとするに異論はない。
而して学術上最も必要なのは、之を誰人の墓と定めるよりは、此の古墳のあらゆる構築――殊には其の方形の封土と基底の玉石積等々――が、我国古墳研究上の最も重要なる一基準をなすといふことである。その点に於いて我(274)我は石舞台に比す可きものを余り多く数へることは出来ないのである。私は信じ、且つ希望する。末永君等の不撓の努力と偶然の幸運とによつて顕現せられたる石舞台古墳の構築が、其の儘或いはそれ以上に明かにせられて、永く学界の貴重なる研究資料として保存せられんことを。
付記 なほ石舞台古墳の詳細なる研究報告は、近き将来に於いて京都帝国大学文学部考古学研究報告の一貫として出版する用意を有する。本篇は其の予報的のものに過ぎず、調査の材料は主として末永雅雄君によりて提供せられ、図面は小林行雄君の手に成り、航空写真は大阪朝日新聞社のプスモス機(飯沼飛行士、奥野写真部員)によつて撮影せられたるものなることを明かにし、深謝の意を表する。 (昭和十年八月)
〔初出『科学知識』第十四巻第二号掲載、東京、科学知識普及会、昭和九年。〕
(277) 朝鮮に於ける考古学的調査研究と日本考古学
一、 調査研究の方法
明治の中頃、日清戦争の前までの日本の地位、国力は、今日から想像出来ない程貧弱なものであつて、政治的、経済的の発展の如きも、朝鮮半島や支那に於いて阻まれ勝ちであつた。従つて此等の発展に追従して、常に其の後について行く学術的研究の如きも、其頃までは唯だ日本内地に跼蹐して、此等隣接地に進出すると云ふ態度の殆ど見られなかつたことは止むを得ない。考古学の研究も亦其の一つで、日本の研究は日本の資料だけでやつて行き、朝鮮や支那の事などは比較する必要をすら、余り感じなかつた風であつた。然るに此の日清戦争の結果は東亜に於ける日本の地位を向上せしめ、朝鮮に日本の勢力が確立するやうになり、この政治的発展につれて、朝鮮に於ける考古学的研究が着手せられるに至つたのである。
併し此の研究は先づ歴史時代、特に建築を中心とする美術工芸の方面から始められた。即ち関野貞博士が明治三十五年に東京帝国大学の命に依つて、半島の古建築、彫刻、工芸品などを調査する為め、当時交通旅行の不便を冒して慶尚南・北道や京畿道をエキスプロアーせられたのであつた。その後十年、日露戦争の結果、日本の勢力が更に大なる躍進をなし、南満州に於ける我が利権が確立せられて、鳥居龍蔵博士等に依る同地方の考古学的調査となり、茲に我々の視野は一層拡大せられ、此較研究の範囲は益々広くなつたのであるが、此の関野博士の韓国に於け(278)る調査は、実に日本の考古学的研究が始めて国外に進出し、其の範囲を外国にまで拡大した最初の事件として、永久に記憶せらる可き事と思ふのである。斯くて今日に於いては、日本の考古学を研究するに、誰人と雖も日本内地のみの資料に満足するものはなく、朝鮮、満州は固より、支那その他東亜の諸地方までを渾然たる一つのものとして、比較研究することが普通となつたのである。
斯くの如く日本考古学が其の調査研究の範囲を地域的に拡大する第一歩をなした関野博士の調査は(別に主として人類学方面に於ける鳥居博士等の台湾方面の調査はあるが)、其の後明治四十二年から韓国政府の委嘱の下に、谷井済一、栗山俊一両氏と共に全道に亙る古蹟の一般調査が開かれることゝなり、次いで其の継続とも云ふべき、朝鮮総督府に於ける古蹟調査事業と云ふ余程組織的なものに発達し、其の調査は古美術品以外の歴史的遺物、乃至は上代の古墳と其の出土品にも及び、其の活発なる調査と整頓した組織は、日本に於いても見ることが出来ない程であつた。而かも関野博士の如き建築学者が其の幹部として調査に当られ、建築物の如き科学的精密な実測を要する品物を始終取扱はれた関係上、更には又朝鮮の如く、後世の建造物や設備の妨害が少く、而かも官憲の手に由つて、事業が遂行せられ易い土地に於いて、日本に在つて到底期待せられない程度の組織を以て、精密に実測、製図、其他の方法が応用せられることになつたのは非常な幸である。そして是が『朝鮮古蹟図譜』其他の出版物に依つて公にせられるに及んで、却つて母国に於ける考古学的調査研究の範をなすに至つたことは敢て訝《いぶか》しむを須ゐない。特に私達自身の場合に於いても、従来日本の貝塚や古墳の発掘調査に在つては、単に一本の「テープ」、一箇の物差や磁石の如きものを以て、実測用具の全部として使用して居たのが普通であつたのに、朝鮮の古蹟調査事業の嘱託を受けて、半島各地を旅行するに及んでは、必ず測量の技術家を同伴することゝなつたのである。而して此の間に於いて獲たる経験と習得は、其の後日本内地に於ける調査に於いても、何うしても精密なる測量製図を行はなければならないことを痛感せしめ、是が遂に我々自身の日本に於ける考古学的調査の革新進歩を齎したのであ(279)る。此の事は或いは私共だけの事かも知れないが、恐らくは日本の斯学界全体に於ける事象と云つても差支へないであらう。
それにつけても想起されるのは、大正七年の秋、梅原君と私とが南鮮任那の古墳を発掘に行つた時の事である。当時私達と同行した測量の技手は林漢韶君であつたが、一月半に亙つて慶南星州の古墳を発掘し、次いで高霊、昌寧の古墳や山城址を調査した。私の如き文科出身のものは、此時まで「プレーン・テーブル」の使用すら未だ其の実際を知らなかつたのであるが、今や日々林君の測量する処を見、それを監督する必要上、遂に其の使用方法の一般をも覚えたのであつた。それで此の時若しも私共が少しも監督を要しない、老練な技術家が同行して居たならば、却つて私達は其の人に一任して、此の測量の技術を学習する機会を失つたかも知れない。此点、林君の如き年若き技手を我々が同伴したことに感謝す可きであらう。我々が此の年朝鮮から京都へ帰つて、早速平面測図板を購入したことは云ふ迄もなく、其の後日本の発掘調査に方つて、荷物の嵩ばることを嘆じながらも、調査旅行に際して何時も此の測量器具を離すことが出来なくなつたのである。是は大正七年以後の我が京都帝国大学文学部の考古学研究報告と、それ以前のものとに就いて、図面を此較せらるれば、誰人も直に認められる処であらう。
斯くの如く朝鮮に於ける調査研究は、其の結果内容が日本の考古学に大なる関係影響を有する以外に、其の研究法の上に於いて最も重要な影響を与へたことは、寧ろ我々の意外とする処であるが、実は別に不思議とするには足らないことであつて、西洋に於いても、英、仏、伊其他の欧州の古い文明国に於いては、却つて大仕掛な発掘や調査の方法が応用出来なかつたのに反して、挨及《エジプト》・希臘《ギリシヤ》などの後進国に於いて行はれ、そこで発達した科学的方法が、後に却つて欧州本国に輸入応用せられたことゝ、全く其の規を一にして居るのである。
(280) 二、石器時代の問題
朝鮮に於ける先史即ち石器時代の遺跡と遺物の調査研究は、前にも云つた通り他の種類の遺物遺跡のそれよりも稍々遅れて着手せられた。即ち関野博士の最初の韓国建築調査には、全く此の時代の遺物には触れられなかつたが、其の後明治四十年故今西龍博士が朝鮮を旅行せられた際、氏は日本に於ける石器時代の遺物に興味をもつて居られたことから、金海に於いて貝塚を発見せられ、其の遣物を採集せられた。これが半島に於ける此の方面の研究の権輿《けんよ》をなしたものである。その後間もなく小田省吾氏は朝鮮に於ける歴史教科書の編纂の必要から、有史以前の遺物の調査にも注意せられ、明治の末年から鳥居博士に嘱して朝鮮に於ける石器発見地を探査せられることゝなり、関野博士等の調査と並行して史前時代遺跡の組織的調査が実現せられることゝなつた。是は他方、李王職に居られた八木奘三郎氏の調査等と共に、やはり東京帝国大学人類学教室の坪井正五郎博士の影響が此処にも現れたものと見ることが出来よう。そして年を逐うて咸北雄基の貝塚、平南美林里の遺跡などの重要な「ステーション」も鳥居氏に依つて指摘せられることゝなり、石器時代の遺跡は全鮮各地に亙つて、其の存在が確められることゝなつたが、就中、大正十三年洪水によつて偶然土器石器類の発見せられた京畿道岩寺里の如きは、総督府博物館の手で稍々精しい調査の行はれた遺跡と云ふ可きであらう。併し石器を豊富に包蔵する遺跡(後述の金石併用期の金海貝塚を別として)の学術的発掘は、昭和四年から六年まで行はれた藤田亮策氏等の雄基貝塚の発掘を以て、殆ど其の唯一の事例とする事が出来る(第1図)。尤も此の雄基の貝塚も純石器時代のものではなく、少量ながら鉄器を伴出してゐるのであるが、多数の磨製石器、殊に一種の彩文土器を蔵し、北朝鮮に於ける最も重要な先史時代の遺跡であるが、不幸にして未だ其の詳細なる調査報告の出版を見ない。たゞ此の北鮮の文化は、満銹方面の先史時代と聯関して考察す可きものが頗る多いが、其の地理的関係上、日本の石器時代の研究には、やゝ間接的意義を有してゐる
(281) 第1図 雄基及金海貝塚の発掘 1.咸鏡北道雄基貝塚の発掘(昭和5年)
2.慶尚南道金海貝塚の発掘(大正9年) 〔いずれも写真省略〕
(282)に過ぎないと予想せられる。
之に反して南鮮に於ける遺跡は、日本の考古学と最も密接なる関係のある事は云ふ迄もない。釜山附近の牛疫検査所構内の小貝塚は、早く故望月博士によつて紹介せられたこともあるが、近年釜山考古学会の諸君の熱心な活動に依つて、東莱付近の貝塚や、牧ノ島各処の遺跡が踏査せられ、時には小規模の発掘も行はれて、南鮮の先史時代の事が余程明かとなつて来たのは喜ばしい限りである。それで南鮮一般に豊富に発見せられる磨製石器、殊には刳入石斧や石庖丁の如き我国の遺物と親縁あるものは勿論のこと、近時喧称せられる所謂「櫛目文土器」なるものは、一面我が九州遠賀川流域発見の弥生式土器との関係を揣摩せしめるものがあると共に、また繩紋式土器と類似の存するものがある。之に就ては既に横山将三郎氏などの研究が発表せられてゐるが、近時我が学界に於いて、森本六爾氏や小林行雄氏等一派の新進気鋭の学者が、盛んに問題として研究してゐられる弥生式土器の編年の如きも、今や従来の如く我国の遣物のみを以て立論することは許されず、必ずや朝鮮、特に南鮮の先史時代の研究の結果と綜合比較しなければ、到底正鵠なる見解を得られないのである。否な私は信ずる、日本の石器時代の文化は、其の最も古い「フエーズ」に属する縄紋土器の時代以降、何時も此の半島を経由して、大陸から移植されたものであるから、日本石器時代文化の源流を究むるには、どうしても朝鮮の石器時代を――更に満州、支那等のそれも――調査しなければならぬのである(『日本歴史講座』拙稿「日本原始文化」参照)。それにしても現在日本の新進学者が此の方面に対する関心が割合に冷淡である様に見受けられることは寧ろ不思議であると同時に、朝鮮に於ける専門研究家が、たとへ一方に楽浪の漢文化其他の研究に多忙であるにせよ、此の方面に於ける従来の調査を整頓発表し、益々綜合的研究を試み、新に各地に於ける重要なる遺跡の組織的発掘を行はれんことを希望して已まない。斯くのごとくにして朝鮮に於ける三、四の代表的「ステーション」の研究が出来上るならば、如何ばかり日本の先史研究に大なる躍進を見るであらうか、実に想像に足るものがあるのである。此の点に於いて藤田教授が最近発表せられた「朝鮮古代文(283)化」(『日本歴史講座』)は短篇であるが、我々に取つて頗る有益なる示唆を与へるものであると信ずる。
三、金石併用期と其の年代
現在知られてゐる朝鮮に於ける石器時代の遺跡は、多くは純粋の石器時代のものではなく、已に金属器の使用が始まつて居つた所謂「金石併用期」のものに属するのであるから、特に切り離して論ず可きではないが、こゝに便宜上金石併用期の文化相の方面から見るならば、此の期の文化を代表する遺跡としては、南鮮に於ける古への任那の首府と伝へられる金海の貝塚がある。これに就いては上述の如く、早く今西博士が調査せられ、鳥居龍蔵博士、黒板勝美博士等も大正三年、同六年に発掘を行ひ、其の六年には丘陵の下に於いて小石棺も発見せられたとのことであるが、稍々大なる発掘は大正九年の秋、梅原末治君と私自身とに依つて行はれた。此の貝塚では骨角器が豊富に発見せられ、その或者は鉄の小刀の柄に使用せられたものであつて、既に金属器の使用時代に入つてゐることを物語つてゐる。そして斯かる文化状態は慶南梁山の貝塚など、南鮮の他の地方に於いても同様であるが、此の文化の実年代が何時頃であるかを推察せしめる重要な資料が、偶然にも私達の発掘に際して出現したと云ふのは、貝塚の内部から王莽の貨泉が一枚現れたことである。私は此の古銭の発見された瞬間を今なほ歴然と心頭に浮べるのであるが、それは丁度私自身が見下してゐた採掘部に於いて、ザク/\と掘り出された白い貝殻の間に、一つの青いものが眼についたので、朝鮮人の人夫に「それは何か」と尋ねると「これは自分等が子供の時に使つてゐた銭であつて、何も珍らしいものでない」と云つて、捨てゝしまはうとした。私は「いや其れを見せて呉れ」と、私の手の上にのせさせると、青銹で被はれてゐる部分も多いが、疑ひもなく王莽の貨泉である。実に此の青銹の一文銭の発見は、一週間に亙る金海貝塚の発掘をして、東亜考古学史上、永遠に記憶せらる可きものたらしめたのであるが、今(284)思つても此の天佑とも云ふ可き偶然の発見に感謝する念を禁じ得ないのである(例へば満州貔子窩に於ける刀布などの古泉の発見は、始めから多少の期待を持つてゐたが、金海に於いては全く預期しなかつた)。私達も数日に亙つて、たゞ貝殻と土器片、骨角器しか出て来ない此の貝塚の発掘に、幾分退屈気味で、時には風景の「スケッチ」などに時間を費したこともあつたのである。それでなくても若しもあの青い物が現れた瞬間、用便にでも行つて居つたならば、それこそ此の南鮮金石併用期の年代を証明する殆どユニークな資料は、人夫達によつて捨てられてしまひ、何時の時まで新なる出現を待たなければならなかつたかも知れないのである。
私達は此の時たゞ丘陵の西方傾斜面を掘つたのであつて、丘陵の頂上平たい処は石が露はれ、貝殻の露出も少なく発掘が面倒なので手を着けなかつたが、此の部分に更に驚く可き遺物が我々を嘲笑するものゝ如く隠れてゐたとは、昨年の冬偶然の発見によつて現れる迄は、神ならぬ身の知る由もなかつた。それは此の丘陵上に所謂支石塚があり、又一種の石壁様のものがあつて、それに組合石棺状のものが附築せられ、其の或ものに磨製石鏃と土器とが存在してゐたのみならず、なほまた三個の甕棺が発見せられ、その一個に細形鋼剣と管玉とがあつたとの事である。そして見ると此等は皆貝塚と同じ時代のもので、其の年代も貸泉が語る如く西暦一世紀頃とす可きであり、九州に於ける甕棺、銅剣など伴出遣物の全体の時代が、存在の古鏡から推定せられてゐたのを、一層確めることゝなり、実に愉快な発見と云はなければならない。
なほ此の金海発見の甕棺と同様なものは、同じ慶南の東莱からも発見せられ、それが又わが九州のものと全く同性質であるが、金海の細形銅剣も九州出土のものと同じく、恐らくは支那の製品の輸入せられたものと見られるのである。此の銅剣類は近時全鮮各地から出土して、其の分布の濃密さに於いて、北九州に比して劣らないものゝあるのは、漢文化の浸潤の已に此の時代にある事を物語つてゐる。更にまた此の銅剣は慶南の慶州入室里、平南大宝面等に於いて、多紐細文鏡と共存して居り、同様の鏡は日本に於いて一種の銅鐸や同じく銅剣と伴出してゐるので
(285) 第2図 星州及慶州古墳の発掘 1.慶尚北道星州古墳の発掘(大正7年)
2.慶州飾履塚の発掘(大正13年) 〔いずれも写真省略〕
(286)あつて、見方によつては、金海の貨泉一個は、あらゆる此等の品物の年代と聯繋を有してゐるのである。加之《しかのみならず》、日本に於ける筑前や丹後の貨泉と一緒に、石鏃、鉄鏃、鉄滓、銅鏃などを出だす遺跡の年代も、皆之と姉妹的関係を有することゝなり、もつれた糸は此の一つの緒から解けて来るかの感を抱かしめるのである。
此等の遺跡遺物と共に、今一つ朝鮮各地にある所謂「ドルメン」なる巨石墳墓が、其の内部から時々石剣、銅剣などを出だし、鳥居博士によつて、早く石器時代のものと考へられて居つたが、此の「ドルメン」の年代もまた前に述べた銅剣、石剣と甕棺との関係からして、新たに其の時代を推察し得ることになつた、此等の事実を見ても、如何に朝鮮に於ける調査の結果が、我国の考古学と重要緊密な聯関を有するかゞ分るであらう。そしてなほ此の「ドルメン」は南満州各地にも分布してゐることは、其の方面との連絡をも考へしめるのである。
四、朝鮮の古墳と日本の古墳
金石併用期に於ける日本と朝鮮との密接な関係は、以上述べた通りであるが、次の時代即ち日本の高塚古墳の時代になつても、此の両者の関係は益々緊密の度を加へるけれども、それと同時に此の時代になると、両者が各特殊の地方的発達をなして来た跡が、次第に明瞭に認められるやうになつて来た。即ち互に相似て同じ処もあるが、また違つてゐる処もあるのであつて、此の事はだん/\時代が降つて歴史時代に入るに従ひ、愈々其の感を深くするのである。
さて朝鮮の古墳は、全鮮を通じて其の最も古いものは、今述べた「ドルメン」であるが、其の後支那周漢、南北朝の墓制の感化により、一方各地方により大なり小なり是が影響を受けると同時に、他方各地方地方の特殊的発達を遂げて居ることは、高句麗、百済、新羅などの古墳の調査によつて知られて来た。かの支那文化移植の中心であつ(287)た楽浪地方などに於いては、殆ど純正な支那式木槨や甎室の墳墓が営まれてゐる事は姑《しばら》く措き、高句麗では漢式の方墳から段築の積石塚が現れ、また甎瓦の代りに石材を以て築いた横口式石室が盛行し、後には之に絵画の装飾が応用せられて来たのが、かの江西などの古墳である。次に南鮮新羅、任那地方では、「ドルメン」の行はれてゐた後へ、支那的影響が入り込み、木棺積石塚制が発生し、遂にはやはり横口式石室が専ら営まれることゝなつた。而して中鮮百済では楽浪と高句麗若しくは新羅の文化を併有してゐるかの如く、甎瓦と石材とを用ゐた墳墓が現れた。此等の事実は関野博士以来総督府の古蹟調査に従事した人々の、多年の努力に依つて明かにせられた処であるが、今次に日本と最も関係の深い南鮮新羅、任那の古墳に就いて少しく述べよう。
新羅古墳の研究は、北鮮に於ける楽浪古墳と相対して、近時並行的の大躍進をなした。殊にかの大正十年の秋慶州に於いて図らず出現した金冠塚の遺宝の発見を一画期として、次いでは梅原氏等に依る金鈴塚、飾履塚、藤田・沢・小泉氏等の瑞鳳塚の調査となり、此の間に目眩しき三つの黄金宝冠が、其他の黄金装身具などと共に学界に提出せられたことは、さながらシュリーマンのトロヤ、ミケーネの大発見にも似た考古学上の大事件である。その後も引き続いて新に設立せられた朝鮮古蹟研究会の手で、有光・斎藤両氏の精密不屈の調査が同地の古墳に施されて、金冠の如くには世間の眼を眩惑しないが、地味な学術的効果は続々と挙げられてゐる外に、その以前の梁山古墳に於ける馬場・小川両氏の発掘、最近では大邱達城古墳に於ける野守氏等の調査と相俟つて、慶州以外に於ける新羅古墳の全貌が明かにせられ、明治末年の関野博士に依つて始めて発掘せられた慶州の夫婦塚、大正七年黒板・原田両氏の調査に依る普門里古墳などの知見にのみ依拠した曩時の我々の知識とは、日を同じうして語る可からざるものがある(第2図)。
また所謂任那地方の古墳は、早く関野・谷井《やつゐ》両氏の全般的調査、特に谷井氏の昌寧以下金海、高霊、成安、星州等の諸地方に於ける、今西博士の成安、善山に於ける、梅原氏と私の星州、高霊等に於ける発掘調査等に依つて、(288)其の構造と内容遣物等、新羅のものと多く変る処なく、両者の間に取り立てた差別を認めることが出来ないことが判つた。そして又此等新羅、任那古墳の包蔵してゐるあらゆる遺物、即ち土器を始めとして装身具、馬具、武器などは、其の性質種類等我が日本内地の古墳のそれと、大体に於いて同じであることも、愈々明瞭になると同時に、両者の間に多少地方的の差違のあることも認識せられるに至つた。中にも金属冠の如き、垂飾付耳飾の如きものは、日本に於いても往々発見せられるが、新羅に於いては一層の豪華を示し、又従来我国特有のものと考へられて居つた勾玉の如きは、慶州に於いては更に多量に、且つ立派なものが出土するのであるが、此等の相違の外、特に注意す可きことは、我が内地古墳に豊富に発見せられる鏡が新羅に於いて頗る稀少である事実である。なは古墳それ自身の構造に在つては、我が前方後円の外形に対し、彼は瓢墳と円塚のみであることや、我が石棺に対し、彼は木棺と云ふ具合に、両者稍々趣を異にしてゐるのであるが、後の横口式石室に於いては、両者共通する処が多く、日本の石室は半島から伝つたものであると考へられるに至つた。
斯くの如く南鮮の古墳と其の遺物、換言すれば其の古代文化と日本のそれとが原史時代に於いては全く姉妹的の関係にあつて、我国の文化は大体に於いて半島から輸入せられたものと見る外はないが、之と同時に直に斯く解釈し去ることの出来ない、否な其の反対に、日本から彼地へ伝へられたものであらうとの仮説を立せしめる勾玉の如きものがあるのである。又全羅南道潘南面に於ける谷井氏発掘の特殊の大甕棺と埴輪類品の如きは、頗る日本的趣味の著しいものであつて、格段の考慮を払ふ必要があり、将来此の地方の調査を大に進める可きであると思ふ。そして又此等半島から輸入せられた文化は、其の主要素が支那的であるとは云へ、多少は半島に於いて変化が試みられ、中には冠などの如く、頗る北方¥亜細亜《アジア》的の要素の存するものもある様に思はれる。要するに日本原史時代の文化、特に古墳と其の遺物との研究は、此等南鮮のそれと此較し、其の相似類同を明かにすると共に、其の相違変化を詳かにし、是が綜合的研究を行ふに非ざれは、到底真相を把握することが出来ないのである。
(289) 以上私は朝鮮に於ける考古学的調査の結果が、如何に緊密なる関係を、日本の考古学的研究に有するかに就いて、其の大体を叙し来つたのであるが、私は此の際如何なる問題が如何にして提供せられたかを述べることを主眼とし、それに関する議論見解に至つては、寧ろ努めて之に言及しないことにした。今や日本の考古学的研究は、それ自身の範囲に立て籠つては、到底其の目的を達することが出来ない時代であつて、朝鮮半島の研究――否な更には東亜全体のそれを打つて一丸として、比較綜合することに依つてのみ企及し得ることは、今更私が取り立てゝ云ふ迄もない常識であり、斯の様になつたことに就いては、私はたゞ此の二、三十年間に於ける学界の進歩に驚かされる次第である。(昭和十年一月) (昭和十一年十一月) 〔初出、『日本民族』所収、東京、東京人類学会、昭和十一年。〕
(290) 日本の民族・言語・国民性及文化的生活の歴史的発展
日本人の人間的基礎
日本国民をして其の特殊の文化を発展するに至らしめた二つの主なる事情のうち、其の外的事情とも云ふ可き自然の制約若しくは環境に関しては、已に地理、地質、気候等の項目の下に別に述べられたのでありますが(付記参照)、たとへ同じ自然の環境のうちに影響され、また之を征服して来た人間が、若しも現在の日本民族でなかつたならば、若しも違つた民族であつたならば、決して現在と同じ文化が形成せられるには至らなかつたのであります。而かも又同じ民族が同じ環境に置かれても、其の経過した歴史的発展が違つてゐたならば、固より同様の文化は生れて来なかつたのであります。勿論自然の環境なるものも、決して静止してゐるものでなく、常に変化を重ねつゝあるものでありまして、殊に日本の国土は所謂天変地変なるものが非常に多いのでありますが、是等は或る意味からは、国民の歴史的発展の一部分と見ても差支へがないかも知れません。而かも亦一方には歴史的発展なるものも、畢竟日本の国土が地理的に現在の如く規定せられてゐる処からして、其の近接の他国民との文化的接触に由つて大なる影響を受ける場合が最も多いのでありますから、自然的事情とも云へないことはありません。畢竟、自然と人間との相関から起つて来る結果でありまして、自然を離れて人間なく、人間のうちに自然があると云ふことになり、常に両者を連関して考察しなければならぬ事になるのであります。それで是から日本文化の自然的基礎に次いで、人間的(291)基礎を述べるに際して、先づ第一に現在の日本人は如何なる人種民族に属するものであるか、又如何にして成立したものであるかを見なければならぬのであります。併しながら、此の問題は今日に於いても未だ確定的な解決を見ないものであり、又学術的に詳細に述べることは、我々の今の目的とする所ではなく、徒に煩瑣《はんさ》に陥るばかりでありますから、こゝでは唯だ従来研究の結果一般に信ぜられてゐる処に、私自身の見解を加へて、簡約に之を述べることに致します。而して、次にはこの人種民族と最も密接なる関係を有する日本の言語に関して述べ、それより所謂日本人の国民性なるものを論じ、最後に日本人の文化生活の歴史的発展に関し、其の概観を試み度いと思ふのであります。
(イ) 日本の民族
今日、日本帝国の版図内に包括せられてゐる国民は、人種的民族的には、決して単一なるものではありません。極く少数なもの、例へば Oroke の如きは別としても、北から数へて北海道、樺太などにゐるアイヌ人、それから日本諸島に広く居住してゐる所謂日本人(或いは大和民族とも云はれる)、朝鮮半島に住んでゐる朝鮮人、それから台湾島を中心としてゐる支那人(漢民族)と所謂高砂族(台湾生蕃)などがあるのであります。併しながら、我々は今此等の諸民族の一々に就いて精しく述べる暇はなく、読者の聴かんとする処の興味も亦、主として其のうちの日本人の問題に繋がつてゐることゝ信じますから、其れに就いて多くを語らうと思ひます。さりながら、此の日本人以外のアイヌ人、朝鮮人、高砂族なども、古くから日本民族の周囲に住んでゐた民族でありまして、実は日本民族の成立に就いて深い関係を有する民族であることを忘れることは出来ません。それ故此等に就いても時々言及しなければならず、又言及するのが自然のことでありませう。
(292)(a) 日本人の諸要素
古い伝説史話を其の侭に信用し、或いは言語風俗その他の点から、日本民族が或る一地方、例へば朝鮮とか南洋とかから渡来した単純な民族であると考へたり、或いは又この国土に始めから発生居住してゐたものであると云ふ Autochthon の説の如きは、今日に於いて最早学界一般が到底認容することの出来ない説でありまして、日本の如き大陸に接近する島国に於いては、一般の動物界、植物界に於けると同様、否な人類も一の動物である以上、其の大陸或いは其他の処から、屡々の移住の波に由つて来着したものが混成して出来たものであることは、世界何処に於いても(例へば英帝国の如き)見られる処であります。又現在日本諸島に住んでゐる所謂日本人なるものは、成る程大体としては一つの民族としての共通の体質性格を具へてゐるとも云へるのでありますが、仔細に之を観察致しますれば、恰かも日本語のうちに各地に方言《ヂレクト》が存在するが如く、地方的にも階級的にも多くの相違が存するのであります。此の地方的相違に関しては、末だ充分なる基礎的調査が行はれてゐないのでありますが、それは我々日本人が古くから常識的に認めてゐる処であり、稍々之を学術的に取扱つた学者もあるのであります。
さて此の日本人間の地方的(或いは其他の)相違なるものは果して何に由つて起つたのでありませうか。其の居住地の自然の環境、生活の様式などからの結果も固よりあるでありませうが、それ以上に本来成立の「エレメント」の相違、或いは其の「エレメント」の分量的相違に帰す可きものが多いと考へられるのであります。斯くてかの故ベルツ博士の如きは、日本人中上流社会などに多く見る所の("fine type" を以て満州・朝鮮的の「タイプ」、又下層社会に多く見る所の "coarse type" を以て馬来《マレー》人的「タイプ」とし、主として此の二つの要素の混成によつて現在の日本人が成立してゐるものであると云つてゐるのであります。而かも此の二種の要素の外に、更にアイヌ「タイプ」を主要なる混成要素となし、なほ其外に支那、朝鮮その他の民族の要素をも認めなければならぬと云はれたのは故沼田頼輔博士その他の人々であります。又鳥居龍蔵博士は蒙古系、馬来系の二要素の外に、インドシ(293)ナ、インドネシア人などの混血をも見るけれども、現在の日本人の根幹をなす処の氏の所謂「固有日本人」なるものを形成したのは、朝鮮、沿海州方面から来る処の北方民族であらうと云はれてゐるのであります。此の外諸学者の説に多少の相違はありますが、之を要するに、主としてアイヌ的の人種、北方満州朝鮮系の人種、及び南方馬来系の人種の三つが主として混融して出来たのが、即ち今日の日本人であり、此等諸要素の混合の分量的相違なるものが畢竟現在の日本人に於ける地方的或いは相互の相違の主なる原因をなすものであると云ふ説は、今日未だ充分なる科学的調査の基礎がないにしても、種々の点からして一般に承認せられてゐる見解であらうと思ふのであります。而して此等諸人種の要素の混成に由つて現在の日本人なるものが出来たものであらうと云ふ説は、日本国土の地理的位置、歴史的発展の具合、又現在近接諸地方に於ける人種的分布の状態から推察しても、如何にも穏当な考へであると我々は思ふのであります。
併しながら、此等の人種的諸要素が、同時に此の国土に殺到して来たものでない以上は、其の何れかゞ先、何れかゞ後に来たものであり、其の分量上にも多少の相違があつたと考へなければなりませぬ。それでは何の要素が最も最初にやつて来たのでありませうか。勿論、一番最初と云つても、其の以前は絶対的に無人の島であつたと云ふわけではありません。或いは更に其の以前にも人類が棲息して居つたかも知れませんが、とにかく今日我々が考察し得る範囲に於ける最も古い移住者と云ふ意義であります。従つて此の意味からして、日本人の「サブストラータム」と云ひ得べきものでありますが、私はじめ今日多くの学者の信ずる所によれば、それは即ち日本に於ける石器時代の古い時期の住民であるのであります。そして其れは現在のアイヌもそれから出て来てゐる処の共同祖先たる汎アイヌ、或いはアイノイドとでも名づく可き一の古い民族であつたのであります(尤もそれにも已に多少の混血はあつたとしても)。日本の石器時代人民に就いては、其の人類学的、考古学的研究は此の十数年来非常な進歩を示し、其の遺骨の各地に於いて発掘せられたもの数百体の多数に及び、之に関する人類学的研究は小金井良精博士(294)以来、殊には近年清野謙次博士等に由つて、最も精密に行はれつゝあるのでありまして、其の結果はひとり石器時代の古代のみならず、現在の日本人の起原の問題に向つて多大の貢献をなすものであります(不幸にして石器時代以後、原史時代などの日本人の遺骨は却つて其の発見の非常に少いのを研究上遺憾と致します)。
此の人骨研究の結果に由りますると、始めにアイヌ的特徴を有する基層の上に、次第に後期になるにつれて、他人種、他民族の混血が著しくなつて来た様に見えるのでありまして、それは後に見る様に満州・朝鮮系の民族の混入であつたとして、此等の民族の移入は、アジア大陸に於ける人種の移動――それは恐くは気候の変化等に原因を有するtの波の寄せ来つて、此の島国の岸辺を洗つたものでありませう。そして此のアジアに於ける人種の移動は有史以前から屡々繰返へされたであらうことは、歴史以後に於いて繰返へされた同様の事実からしても容易に想像せられる所であります。而かも此の大陸からの人種的移入は、勿論同時に文化的影響をも伴ふ可きものたるは云ふ迄もなく、日本が石器時代から次第に金石併用期に入り、次いで金属時代の文化に這入つたのも、全く此の大陸からの人種的文化的移入に由るものと考へられるのでありますが、右の人種的影響の最も顕著なるものが、この石器時代の末期頃に起つたものであらうと想像することが出来るのであります。而してこの移入の径路は地理的関係からして、主として朝鮮半島を経由して来たものであらうことは、其後の日本の歴史に於いても之を実証してゐるのでありまして、前に述べました日本人の「サブストラータム」をなすアイヌ的人種の移住も、矢張り此の朝鮮半島の径路であつたか(或いはまた樺太、北海道の path であつたか)と想像せられるのであります。
次に南方の所謂馬来的人種の渡来でありますが、之は現在の馬来人と云ふよりも、寧ろ原馬来人と云ふ方が適当でありませうが、九州から南に続く西南諸島、琉球、台湾などの「チェイン」と、黒潮との関係が、自然の基礎として、やつて来たことを容易に想像せしめるのであります。そして彼等は前に申しました満州・朝鮮系の人種よりも或いは早く、アイヌ的基本人種に次いで日本に渡来したものかも知れませんが、其の文化の上に於いては満鮮系(295)のものに比して劣つて居り、従つて混成せられて行つた際にも、常に被征服者たる土人と云ふ様な状態に置かれたことが多かつたのではなからうかと思ふのであります。そして此の馬来系人種の渡来も、必しも一時期でなく屡次繰返へされたと見て差支へはないでせう。支那人、朝鮮人(後の)などの渡来混入のことは、已に有史以前にもあつたでありませうが、歴史以後にも更に屡々行はれたことは、文献上の証拠もあることでありまして、之を拒否することは出来ません。
(b) 日本人の成立
以上申し述べました様な各人種的要素は次々に此のアジア東岸の島嶼日本に移住して参り、遂に此の国土を一の熔炉として混融され、――否な今日と雖も時々刻々新しい要素を少しづつ加へてゐる――遂に現在の日本人なるものが形成せられたのであります。即ち日本人の人種的「サブストラータム」をなしたものはカウカサス系人種と親縁のあるアイヌ的人種であり、其上に満州朝鮮系の人類(HAODON 氏の所謂 Pareveans)の渡来合成があり、これが頗る優性であつたと見え、其の体質外貌は全く変化せられP arevean 的となり、其の上になほ馬来人的の人類が加つて、遂に大体今日見る所の日本人が形成せられたのでありますが、さて此の満州・朝鮮系人種の渡来した時期は何時頃からと申しますると、これは大体に於いて新石器時代の後期頃とすべきものでありませう。それ故此の頃の混成人種を呼ぶに私は「原日本人」の称を以てするのが適当かと思ふのであります。そしてその後と雖も人種的 accretion を重ねて行つて、遂に歴史時代に入り、始めて真に「日本人」或いは「大和民族」と云うて差支へないものになつたのであります。然らば此の「日本人」の出来上つた年代は大体何時頃であるかと申しますと、固より確然と云ふことは困難でありますが、一部の歴史家などが神武天皇即位紀元「建国」の意義と「日本人の成立」とを混同して、三千年前後の昔と考へるものがあるのでありますが、我々はそれよりも更に古く、今より少くとも数千年(296)以前に、已に今の「原日本人」が出来上り、引つゞき真の「日本人」となりつゝあつたことを思はざるを得ないのであります。されば日本人を形成する人種的諸要素は、大陸方面其他から来たものであるけれども、「日本人」その者は此の日本国土に於いて始めて、しかも悠久なる昔に於いて形成せられたものであると云ふ可きであります。そして従来の学者が多く石器時代の人民を以て、或いは先住民として取扱ひ、後の日本人と寧ろ無関係なる別民族の如く考へ、又日本人の成立(彼等は之を日本人の渡来と云ふ)を以て比較的新らしい原史時代或いは歴史時代に置くことは、輓近に於ける考古学的研究の進歩、人類学的調査の発達によつて、最早信じられなくなつたことであると言はなければなりません。
さて、斯くして出来上つた現在の日本人の体質的特徴なるものは如何なるものでありませうか。実際屡々云はれてゐる通り、日本人ほど相互間の相違のあるものは少くないのでありまして、之を要言することは困難でありますが、其の身長は欧州人に比し、又支那人などに比しても低く、女子は又男子に此して低く(男子平均一六一・九八|糎《センメートル》、女子一四九・九二糎)、頭髪は黒くして直く(時に curly hair あるも)、身体各部の比例は欧州人に比して稍々異り、即ち胴部長く足短く、頭型は広頭の下位(平均指数八〇−八一)にあり、眼の色は大多数 dark brown にして、両眼の距離稍々広く、蒙古|皺襞《しわ》を有す。鼻は低き方にて頬骨は稍々高し。皮膚の色は種々相違あり(殊に男女の間に於いて)、時に quite fair のものあるも、通常 yellowish brown の方である云々とでも申しませうか。併し斯の如き抽象的の文句を並べただけでは、隣援の支那人、朝鮮人などとの間に何等の区別がないやうになりますが、実に其間に delicate な区別があつて、外国人と雖も暫く立つと之を区別することが困難ではありません。
(C) アイヌ人・朝鮮人・高砂族
最後に我々は「日本人」を形成する要素に重要なる意義を有して居つた人種民族と親縁を有する三、四の人種民(297)族に就いて簡単に述べなくてはなりません。その第一は即ちアイヌ人であります。彼等は現に北海道の一部などに「人種の孤島」として少数残存してゐるに過ぎないのでありますが、日本の歴史に於いては蝦夷と称せられ、古くは全日本に拡がつて居つたのでありますが、漸次一方に征服せられ、他方に同化せられ、又北退せしめられたのであります。但し現在のアイヌ人は古代の蝦夷と全然同じであるとは申されません。著しく日本人その他の混血であると云はなくてはなりません。彼等は頗る hairy の人種であることは有名であり、眼窩は深く、頭型は長頭であり、一見欧州人の如き外貌を呈してゐるのでありまして、多くの学者は彼等を以つて欧州に拡がつた Nordics と親縁を有するもので、其の祖先たる Prot0‐Nordics と兄弟的の関係にある Caucasic race の「レムナント《remnant》」であると考へられ、Tungus 其他極東に居る古アジア人に比して黄色人の血を交へてゐること最も少い Proto Nordics 的の人類であると云はれてゐるのであります。此の点からして此のアイヌ人と日本人との人種関係のみならず、彼等自身世界の人類学界に最も興味ある古人種の残物であると云はなければなりません。それで嘗て GORDON MUNRO氏は、日本人の成立に此のアイヌ的要素が多いことを述べ、従つて日本人は米国《アメリカ》人の所謂黄色人種とは違ふなどと論ぜられた位であります。
次に述ぶ可きは朝鮮人でありますが、これは南部と北部とで大きな相違があるのでありまして、北部に於いては後の満州人、支那人の混血が甚だ著しく、頭型は広頭の方で、其の身長は全体として日本人よりも高く、殊に北方に於いてさうであります。S.M.SHIROKOGOROFF 氏は、朝鮮人を以て古アジア人のうちに入れ、土耳古《トルコ》人、蒙古人などの侵入から取残された民族であると云つてゐますが、日本に於ける満州・朝鮮系人種の影響なるものは、畢竟今の朝鮮人を作つた所の昔の朝鮮人の渡来と見る可きであります。
最後に台湾に於いては、其の西半は歴史以後に於ける南方支那人の植民に由つて占拠せられ、もと全島に拡がつて居つた土着人は東半部の山地に追ひやられ(支那化したものを熟蕃と云ひ)、生蕃又は今高砂族と呼ばれてゐる(298)のであります。元来非常に野蛮な民族であつたが、今は日本政府の文化政策に浴して頗る其の面目を改めたのであります。彼等は馬来人の系統でありますが、古く日本に渡来して混血した処の馬来系の民族と彼等とは、恐らく兄弟位の関係にあつたものと思はれるのであります。但し、琉球諸島は台湾に近くありますが、其の住民は台湾とは関係なく、古い時代に日本から南下したものであることは、その体質、言語などが明かに之を証明してゐるのであります。とにかく此の台湾の高砂族なるものも、北海道に於けるアイヌ人、朝鮮に於ける朝鮮人と同じく、我々日本人を形成した処の要素である人種の面影を想察せしむる民族であるのであります。
〔参考書〕 日本人に関する研究に就いては、内外の文献頗る多数にして、却つて其の要を得るに困難なるも、小金井良精、足立文太郎、清野謙次、長谷部言人、鳥居龍蔵、松村瞭等諸博士の学術的業績の外に、一般的著作としては早く出版せられたる沼田頼輔博士の『日本人種新論』等を注意す可く、最近の著述としては清野・金関両博士の『日本民族』(東京人類学会、昭和十年)中に記されたる「日本石器時代人種論の変遷」はよく其の要領を※[立+曷]せるものなり。又清野博士「日本石器時代人類」(岩波『生物学講座』)、金関博士「日本人の人種学」(同上)等をも挙ぐ可し。西人の著作中には BOELZ 博士の『開國五十年史』中に記されたるもの簡明なるが、L.H.DADLEY BUXON.The People of Asia(London.1925)は、内外学者の文献をも録し、頗る便利なるものゝ一なり。
(ロ) 日本の言語
(8) 日本語の系統位置
言語の系統論は必しも直ちに人種民族の系統論とすることは出来ないのでありますが、日本語の場合におきましては、寧ろ日本語の有する特異な性質は、よく日本民族の起原或いは其の成立の状態を語るものがある様に思はれる位であります。
日本語は現在に於きましては勿論多くの語彙を欧州語から借り来つてゐるのであります(古くから若干の梵語が(299)這入り、十六世紀以来|葡萄牙《ポルトガル》、西班牙《スペイン》語などが這入つたのを始めとして)。其の根本的性質に於いては、このinflexive なるIndo‐European(Aryan)系統の言語とは全く異つてゐることは云ふ迄もありません。また同じ様に否な更に非常に多くの語彙を古くから支那語より輸入し、其の文字さへも支那文字を其の侭借用してゐるのでありますから、書いたものを一見すると、深く究めない人々にとつては、日本語其者と支那語との間に非常に親しい関係がある様に思ふかも知れませんが、実は日本語は支那語の如きmonosyllabic な isolating な言語とは、其の語法其他に於いて全く違つてゐるのであります。例へば次の如く、
(日本語) 私《わたくし》は 水《みづ》を 飲《の》みます。
watakushi‐wa midzu‐wo nomimasu
(I) (water) (drink)
(支那語) 我(的) 飲 水。
wo(ti) yin shui
(l) (drink)(water)
日本語は一々母音を有する綴音より成り、「主語−客語−述語」の順序、之に反して支那語は単綴語から成り、「主語−述語−客語」の順序に置かれるのであります。
然るに日本語の類似を近接諸地方のそれに求める人々の中には、人種論に於いてもある様に、日本語の起原を主として南方の言語に求めようとするものもあるのでありますが、是は到底信用することが出来ないのでありまして、今日に於いてなほ我々の傾聴し得べき説は、かの KLAPROTH 氏などが唱へ出した日本語を以て Ural‐Altaic 語系統のものであると云ふ説、即ち北東アジア大陸の諸言語と縁をつないでゐると云ふ学説でありませう。
一体、日本語と南方の言語との関係を云々する学者は独り日本人のみならず、外国の人々のうちにもあるのでありますが、其の考察は多く語彙の上から試みられるのでありまして、その大部分は牽強付会の域を出でず、又実際縁故のある語彙があるにしても、それは日本語とアジア大陸の言語間に認められる数例よりも遥かに少いのでありま(300)す。況んや其の語法に於いては南方諸語は接頭語法に由つて語法を作り、寧ろ欧州語系統に近く、その発音や文法の原理、言語の配列は日本語とは全然異なつてゐるのであります。我々も已に述べた如く、馬来系の人類が日本人中に混入し、或いは其の土俗(民間信仰、祭事等)に若干南方的のものが移入せられてゐることは認め得るのであり、或いは海や航海や魚類に関する名祢などには、南方的要素が日本語中に発見せられたことはあり得るにしても(それも実は今迄多く見出されてゐない)、言語の根本的系統を南方に求めることは到底出来ないのであります。
次に日本民族の成立にも深い関係のあつた北方アイヌ人の言語と、日本語との関係を見なければなりません。CHAMBERLAIN、BATCHELOR 氏等が出でゝ、一時はアイヌ語と日本語との親しい関係を語彙の上から説く学説も盛んでありましたが、此の説は近時甚だ微弱になつてしまひ、両語に於ける近似は寧ろアイヌ語を日本語で以て説く方が穏当であると云ふことが認められるに至りました。尤も自然、地理、動植物の名称の如きものに於いて、両者間に親縁はないにしても、文化的方面の事柄に於いては、日本語が寧ろアイヌ語の方に影響した点の多かつたことは、固より歴史的状勢からしても自然のことであります。又文章法に於いてはアイヌ語と日本語とは似てゐる所があるが、文法の原理などは根本的に異なり、アイヌ語は寧ろ欧州語の文法の原則を有してゐる位で、漆著法の処もあるが、日本語に見ることのない動詞の屈曲法(主格の単複に由る)さへ其の痕跡を存してゐるのでありまして、此の点から考へると、彼等がカウカサス人種と関係があると云ふ人類学者の説は、言語の性質からも思ひ当るのであります。そして以上申しました事は、前に申し述べました人種上の関係とも必しも抵触してゐないと思ひます。今一寸アイヌ語の例を挙げて見ませう。
Ku・kor kuyopo ku・nukan rusue.
(my)(brother)(l meet)(wish) (I wish to meet my brother.)
Umma Kamui orowa a‐raille.
(horse)(bear)(by)(was killed) (The horse was killed by a bear.)
(301) 然らば次に最も勢力のあり且つ最も穏当な説とせられてゐるアジア大陸との関係を認めんとする所謂ウラル・アルタイ説に就いて少しく吟味して見ませう。
先づ其の語彙に関しては従来日本の言語学者、東洋史家などに依り、特に朝鮮語との親縁が説かれたのでありますが、比較言語学上の正しい方法に由る研究法から見ますと、其の一致は存外多く認めることが困難なのであります。例へば朝鮮語に於きましては、かの ASTON 氏以来幾多の学者が出でゝ比較を試み、その若干は首肯することが出来ますが、存外その一致が少いことは寧ろ意外と感ずる位であります。まして朝鮮語に較べては満州語、豪古語などに至つては、其の一致近似は一層少いことは云ふ迄もありません。併しながら文法の原理におきましては、日本語は朝鮮語、蒙古語、トルコ語などのウラル・アルタイ語と全く相一致してゐるのでありまして、接尾式或いは漆著法を用ゐるのであります。たゞ不思議なのは、接尾の助動詞、助辞(ケリ、タリ、テニヲハ等)は、朝鮮、満州、蒙古諸語と相一致するものが殆ど見出されず、其の殆ど大部分が違つてゐることであります。文章法においては日本語、朝鮮語ともに「主語−客語−述語」と云ふ順序で、両者全く相一致してゐるのであります。一例を挙ぐれは次の如くであります。
ニョピョンネガサンエソナムルウルハヨ〔ハングルの読みをを仮名で表記した、入力者注〕
女が山で野菜を採つて居ります
以上諸点の外に、なほ発音の方から見ますると、発音の様式習癖などは、朝鮮、満州などの語と似てゐる処が多いのでありまして、例へばr音が言葉の始めに来ない点などは、日鮮共通の現象であります。それで日本語では外来語でrを以て始まる語をyに変へて発音する(例之、硫黄をユオウ)、朝鮮でも斯る場合rをuに発音するのであります。又満州語ではlが語頭に来てもrは来ないのであります。その他所謂清音と濁音との関係に就きましても、欧州や支那では両者明かに分化して各独自の進路を進んでゐるのでありますが、日本語、朝鮮語などでは両者(302)互に融通し、連濁の現象さへも行はれてゐるのであり、朝鮮では普通濁音が全く出来ないと云ふ有様、これ等の発音上の諸点は日本語と此等アジア語とは頗る類似してゐることを示して居ります。
以上諸方面の考察を綜合しますると、之を要するに、日本語が朝鮮、満州、蒙古等のウラル・アルタイ系の言語と頗る密接なる関係を有してゐることは、之を拒否することは出来ないのでありますが、斯く文法、発音、文章法などに於いて其の原則が共通であるにも拘らず、其の単語、語法形式の一致が非常に少ないのは、寧ろ不思議とす可きでありまして、是は即ち日本語が大陸の言語から分離した年代が非常に古く、又は分離してから後、この島国に於いて独自の発達変化を遂げたものであるか(例之、形容詞の活用の如き)、或いは又その間に他民族の言語の要素を取り入れた為め、斯の如くなつたのであらうかと、考へる外はないのであります。それで我々は日本語とウラル・アルタイ系語との親縁の存在は固より認めるのでありますが、今日厳密なる言語分類学者の見方から云ひますと、言語に於いてはどうしても文法、文章法、語彙、発音等の諸点が適当に相一致するに非ざれは、其の所属位置を確定することが出来ないのでありますから、今日直ちに日本語を以てウラル・アルタイ語中に入れることは穏当でない。それとは親縁はあるが、寧ろ所属不明若しくは特殊の言語として独立させて置く方が宜しいと云ふのが、近頃の独、匈《ハンガリー》などの学者の意見でありまして、我々も之に賛成するのであります。そしてこの考へは、我々が嚮きに述べました所の日本民族成立に関する考へ方と、互に相応ずるものがあることを読者は容易に発見せられることゝ信じます。
(b) 日本語の発音・文法
日本語の特徴は其の音が短い Syllble の平板な羅列で出来てゐることであり、普通何等「アクセンチュエーション」がなく、之を連ねて語、句、文章が出来てゐるので、頗る単調な感を与へることは、外国人が之を耳にして(303)も直ちに感ずる所でありませう。固より此の事は古代からさうであり、古くから文化の中心であつた近畿地方の方言に於いて特に著しく保存せられて居ります。詩歌に於いてもアクセントは無関係で、韻律は「シラブル」、或いは語数で構成せられるのでありまして、五七、五七七、五七五、七七、等の形式をとり、五と七との組合せが韻律を作るのであります。例へば、
Kimiga‐yo‐wa Chi‐yo‐ni‐ya‐chi‐yo‐ni Sa‐za‐re‐(i)、shi‐no
きみがよは、ちよにやちよに、さざれいしの、
I‐wa‐ho‐to‐na‐ri‐te Ko‐ke‐no‐mu‐su‐ma‐de
いははとなりて、こけのむすまで。
又散文に於きましても、接尾語形を用ゐ、述語が最後に来る為め、述語である形容詞、動詞、助動詞の語尾が、いつもルリ等の「シラブル」で繰返へすことになるので、愈々平板単調を加へることになるのであります。
日本語本来の単調性は以上の如くでありますが、漢語、漢文が輸入せられてからは、たとへそれ自身が若干日本化せられたとは云へ、語法原則の異つた雄健な「シラブル」を有する支那語の発音が、日本語中に加へられることとなり、此の日本語の単調性を少からず破ることが出来たのであります。これは一方日本語の純粋性を傷つけた点はあるにしても、他方その欠点を匡正した功は頗る大なるものがあるのであります。例へば、次の簡単な例を見ても直ぐ分かるでありませう。
(純日本語) きのふはあめふりでした。
(漢語交り) 昨日は雨天でした。
実際今日我々が日本語として使用してゐる支那語起原の語彙は、殆ど全語彙の半数にも達してゐるのでありまして、例へば英語のうちに於けるラテン語以上に重要なる意義を有してゐるのであります。なほ注意す可きは、奈良朝及び其れ以前はH音はP音であり(例之、原《ハラ》は原《パラ》)、中古中世紀にかけてはH音となり、H音は十七世紀頃迄は(304)標準語に於いてF音であつたことであります(例之、母《ハハ》は母《フアフア》)。
次に文体のことでありますが、これも漢文の影響が頗る大なるものがあります。一体平安朝以前は男子が文章を作ると云へば、漢文を作ることでありましたが、それも次第に日本式の和臭のある漢文が書かれることゝなりました。之に反して女子は早くから国文国詩を作り、大体口語に近い文体を用ゐたのでありましたが、此の女子の間に行はれた国文体の散文が遂に漢文から独立して、男子も之を用ゐる様になつたのは平安朝以後のことであります。但し詩歌の類は漢詩が若干行はれたにせよ、古来厳然として我国本来のものが優勢であり、男女に関らず之を用ゐたことは、『古事記』、『日本書紀』の歌、『万葉集』以来の歌がこれを雄弁に証してゐるのであります。
又面白いことは訓を読むに所謂訓点をつけて読む方法が起つて来たことで、それが今日なほ行はれてゐることであります。例へば、
天皇即(キ)2帝位(ニ)於橿原宮(ニ)1是(ノ)歳(ヲ)為(ス)2天皇元年(ト)1(訓点) 天皇帝位に橿原宮に即き、是の歳を天皇の元年と為す(読み下し)
の如く、これは語系の全く異なる文章を読む方法として頗る奇抜な方法と云はなければなりません。明治時代に行はれた英語の直訳なるものも幾分この流儀であります。この特殊の方法によつて漢文を其侭保存し、而かも其の意味を取ることに成功したのであり、而かも其の幾分生硬なる読方が、却つて国文に影響したことを忘れることが出来ません。恰も英語の直訳体が現代の文章に影響したと同じ様に。かくして漢文直訳体の文体の発生は却つて日本語の冗長単調な欠点を救つたことは、現今に於いて英語等の直訳体が動詞の「テンス」其他に於ける日本語の不正確を補つたと同様、国語文体の発達上認めなくてはならぬ処であります。そして今日では此の漢文直訳体から出た文体が普通一般に行はれてゐるのであります。
(305)(C) 日本語を写す文字
漢文学と漢字が第四世紀頃に日本へ輸入せられるまでは、日本には国語を写す真の文字なるものはありませんでした。世間往々神代文字などと称するものを伝へて居りますが、あれは今日に於いては皆な信用することの出来ないものであります。さて漢字を知つた日本人は、如何にして之を以つて国語を写さうかと種々の試みを致しましたが、遂にはその一法として所謂「万葉仮名」なる漢字を以て国語の発音を写すことをやり出しました(例之、意柴沙加宮《ヲシサカノミヤ》)。其の写音の漢字が一定しなかつたのが、やがてはほゞ一定して来て、最後には其の漢字を省略変形して片仮名なるものが先づ現れたのは第十世紀頃であり、やがては漢字の草体から出た平仮名なるものが出で、之を漢字と交へ又はこれのみを以て国語を写すに至りました。殊に平仮名に於きましては、漢字の草体とよく調和し、支那に於いても見ることが出来ない美術的方面の発達を遂げるに至つたのであります。元来漢字の影響を受けた支那四隣の国々は、種々之を変化して新しい文字を作り出しました。例へば西夏文字、契丹文字、女真文字の如きはそれでありますが、漢字よりも往々複雑な形を呈して居り、不便であります。又朝鮮では吏読《リトウ》、諺文《オンモン》なる一種の仮名が発明せられ、これは文字としては日本の仮名よりも便利に出来てゐる様でありますが、其国の文学の発達が著しくなく、常に漢文学の為めに圧迫せられ、此の諺文も多くは漢字の付属的文字としてのみ存在した感があつたのであります。然るに日本の仮名は平安朝以来の女流文学、また近代に於ける平民文学の発達と共に、独立に全く仮名のみを以て文章殊に詩歌を写すことも行はれるに至つたのであります。そして此の簡単な仮名、特に平仮名といふ速記的につゞけて書き得る文字が、如何に日本文学の発達に寄与したかは、我々の忘れることの出来ない所でありまして、又この仮名の整頓発達に梵語の知識を以てした仏僧などの貢献も記憶しなければならぬ所と思ひます。近時ローマ字を以て日本語を写し、漢字を廃さうとする運動が起つて居りますが、此の仮名が既に存在して千年に近い長い歴史を有してゐる日本に於いては、到底一朝一夕に成功するとは思へないのであります。なほ、此等文体等に(306)関することは、別に日本の文学が述べられる際に必ずや論及せられることゝ信じます《(付記参照)》から、これ位で措くことに致します。
片 仮 名 (五十音図)
ア《a》(阿) イ《i》(伊) ウ《u》(宇) エ《e》(江) オ《o》(於)
カ《ka》(加) キ《ki》(幾) ク《ku》(久) ケ《ke》(介) コ《ko》(己)
サ《sa》(艸) シ《shi》(之) ス《su》(須) セ《se》(世) ソ《so》(曾)
タ《ta》(多) チ《chi》(千) ツ《tsu》(川) テ《te》(天) ト《to》(止)
ナ《na》(奈) ニ《ni》(二) ヌ《nu》(奴) ネ《ne》(禰) ノ《no》(乃)
ハ《ha》(八) ヒ《he》(比) フ《hu(fu)》(不) へ《he》(部) ホ《ho》(保)
マ《ma》(万) ミ《mi》(三) ム《mu》(牟) メ《me》(女) モ《mo》(毛)
ヤ《ya》(也) (イ)《(yi)》 ユ《yu》(由) (エ)《(ye)》 ヨ《yo》(与)
ラ《ra》(良) リ《ri》(利) ル《ru》(流) レ《re》(礼) ロ《ro》(呂)
ワ《wa》(和) ヰ《wi》(井) ウ《(wu)》 ヱ《(we)》(慧) ヲ《wo》(乎) ン《o(n)》(无)
(307) 平 仮 名 (いろは歌四十七字)
い《i》(以) ろ《ro》(呂) は《ha》(波) に《ni》(仁) ほ《ho》(保) へ《he》(部) と《to》(止) ち《chi》(知) り《ri》(利) ぬ《nu》(奴) る《ru》(留) を《wo》(遠) わ《wa》(和) か《カ》(加) よ《yo》(与) た《ta》(太) れ《re》(礼) そ《so》(曾) つ《tsu》(川) ね《ネ》(禰) な《na》(奈) ら《ra》(良) む《mu》(武) う《u》(宇) ゐ《i(wi)》(為) の《no》(乃) お《o》(於) く《ku》(久) や《ya》(也) ま《ma》(末) け《ke》(計) ふ《hu(fu)》(不) こ《ko》(己) え《e》(衣) て《te》(天)あ《a》(安) さ《sa》(佐) き《ki》(幾) ゆ《yu》(由) め《me》(女) み《mi》(美) し《shi》(之)ゑ《e》(恵) ひ《hi》(比) も《mo》(毛) せ《se》(世) す《su》(寸) ん《o(n)》(无)
〔参考書〕 本章に関しては、筆者は主として文学博士新村出氏の教を受けたことを特記し、又禰津正志君の助けを得たることに感謝の意を表する。なほ之に就きては大隅伯爵編『開国五十年史』(明治四十一年)に収められたる故藤岡勝二博士の「国語略史」等を参照せり。日本語と朝鮮語との関係に就きては金沢庄三郎博士『日鮮同祖論』、『日鮮古代地名の研究』、白鳥庫吾博士「日本書紀に見えたる韓語の解釈」(『史学雑誌』第八巻第四、六、七号)、故宮崎道三郎博士「日本法制史研究上に於ける朝鮮語の価値」(『史学雑誌』第十五巻第七号)、「日韓両国語の比較研究」(同上、第十七巻より第十九巻までの諸号)等を見る可く、アイヌ語に関しては BASHL HALLL CHAMBERLAIN.Language、 Mytholoy and Geograpical Nomenclature 、of Japan viewed in the Light of Ainu Studies and Aino Fairy‐tales (1895);JOHN BATCHELOR.the Ainu and their Folk‐lore(1901).故永田方正『北海道蝦夷地名解』、金田一京助博士『ユーカラの研究』其他を見た。現代日本語の手引としては次の一、二の書を挙ぐ可し。(308)NOSS CHRISTOPHER、A Text Book of Colloquial Japanese based on the Lehrbuch des Japanischen Umbangssprache by Rudolf Langue(1935):OJIMA KIKUE Handbooks on the National Language Reader of Japan(1929〜1934).
(ハ) 日本人の国民的特性
一つの国民が自らの国民性を、公平に考察し之を記述することは、容易に似て実は非常に困難なる事柄と云はなければなりませぬ。如何に公平無私、学者的態度を取らうとしても、或いは知らず識らずの間に、其の長所のみを認めて、国自慢の弊に陥ることもあり、或いは又その反対に、短所を矯正せんとする念慮から、其の欠点を誇張して感ずることもあり、或いは又其の特質が馴れてしまつて目につかぬといふこともあるのであります。この点に於いては却つて外国人、或いは通りがかりの外国旅行者の方が一国民の特性を巧妙に把捉することがあるのでありますが、私は自国人としては出来得るだけ公平に、国自慢の態度を離れ、時には外国人の観察をも参考して、日本人の国民性なるものを叙述し度いと思ひます。
已に日本の人種、民族の事を述べる際に申した通り、日本人は大陸から来る処の色々な人種の混合から出来上つてゐるのでありますから、それ等の人種的要素が各々保持して居つた性格上の特質を併せ有してゐる訳でありますが、古くアマルガメートせられて今日に於いて其等を区別して取り出すことは不可能であるのみならず、此等各人種的要素が此の日本国の風土中に於いて相融和し、其の環境のうちに長く棲息してその歴史的生活を発展させてゐる間に出来上つた所の性情の方が重きをなしてゐる様に思はれるのであり、又は現代の如く急激なる社会生活の変動が行はれつゝある際に於いては、恐らく現在日本国民の特性と考へられてゐることも、其の社会生活の変動と共に、数十百年の後には、全く別に考へなくてはならぬこともありませう。それは兎に角、私は現在の日本人が持つ(309てゐる国民的特性なるものを抽出して述べる心算でありますが、なほ一つ此処に注意して置き度いことは、一つ頭著なる性格上の特質なるものは、これが一面長所であると同時に、他面に於いては其れが一つの欠点である場合が多いことを知らなければなりません(鹿の角の様に)。それで私が次に挙げる日本人の特性に就いても、長所として述べた所に、たとへ欠点を挙げなくとも、それが伴つてゐる場合が多いことを御了解願ひたいのであります。
我々は先づ日本人の極く大体の性格が、例へば欧州に於ける英国人を代表とする北欧的のものであるか、また伊太利《イタリア》人を代表とする南欧的のものであるか、どちらに近いかと云ふならば、日本の国土が長く、南から北に連つて居り、其の動物界、植物界に於いても南の方は熱帯的、北の方は寒帯的であり、その両者が日本の中央部に於いて相錯綜してゐるが如く、此の風土の影響が其の住民の性格上に及ぼす結果を推測しますると、寒熱即ち南北両方のものが併存してゐると見なければならぬのですが、実際日本の風土気候は、其の中央部に於いてさへ、寒さは烈しく暑さは激しいと云ふ頗る特殊的のものでありますから、欧州などに於けるが如く、簡単に南方的、北方的と片付けることが六ケ敷いと思ふのであります。併しながら、他方に於いて日本人の住居、衣服、食物などが、大体に於いて熱帯的であり、凡て寒冽に対しては甚だ不適当なものが多い処から見ますると、どちらの傾向に近いかと申すならば、寧ろ南方的、熱帯的であつて、北欧的の英国人などの如く冷静な意志的な方面よりも、南欧の仏伊人の如く熱烈な感情的な性格を多く持つて居り、従つて此の性質の有してゐる長所短所をば併有してゐる様に思はれます(この事は近時血液型の調査の結果も之を証してゐる)。そして是は又日本人が次第に西南の方から東北の方に進み、高度の文化が常に西南から輸入せられ、西南から来た人が社会上あらゆる点に於いて優越であつた為め、此の西南方の人々の性情が支配的のものになつたことを認めなくてはならぬと思ひます。但し、実際地方的に見ますると、西南日本人は敏捷熱情的、之に反して東北日本人は鈍重意志的であると云ふ区別はあるのであります。
とにかく以上の如く、日本人は大体に於いて頗る熱情的であり、殊に其の歴史的生活の間に涵養せられたる忠君(310)愛国と云ふ旗幟の下に於いて、特殊なる現象を示すと云ふことになり、従つて或る場合に於いては好戦的であるとの誤解を受けることにもなるのであります。併しながら已に申した様に、同時に多分に北方的寒帯的な性情が存在してゐる為めに、はじめは此の方が暫く抑圧せられて表面に現れないが、やがてはそれが現れ来て、国民全体としては感情のbalanceが取られることに成る。それ故日本人は国民として個人としての行動が、存外極端にまで走らずして早く中正に帰する傾がある。――従つて物事が徹底的に行かぬと云ふ憾みも往々ある――のは、即ち此の両方の性情がやはり根本に於いて併立してゐる為めでありませうか。
日本人はよくこせ/\として豁達《かつたつ》大度な処がないと云はれますが、是は或る程度まで認めなくてはならぬかと思ひます。已に日本の国土なるものが小さい島国であつて、大きな平野はなく、山は小さくして此較的嶮しく、川は短くして急に、斯かる国土に住する人間が、かの茫漠たる大陸的の山河の間に人となつてゐる人間に此べて、気宇が小さくなるのは致し方もないことであります。併しながら、之と同時に小さい処まで気の付く、細部に注意が行届くと云ふ様な性質が馴致せられ、之と聯関して日本人は、体格が小さく手指も細く、手工に器用であることゝ共に、小さな美術工芸品などの製作に長じてゐることにもなるのであります。又日本人は自然に親しみ之を愛すると云ふことも、屡々其の特性として挙げられてゐることでありまして、これまた大陸的な大きな自然に寧ろ圧迫せられ、征服せられてゐる所の大陸に住む人間の到底持ち得ない性質であり、日本人の如く、小さな山、奇麗な川、美しい森が、いつもその環境に存在し、鳴く虫、歌ふ鳥が、いつも其の目の前に往来すると云ふ国土に於いてのみ、始めて自ら養はれる性質でありませう。そして此の性情は日本の文学美術に於いても著しく発現せられてゐる処であります。
日本人は又清潔を愛すると云はれますが、これも大部分は風土から来てゐることゝ思はれます。湿気の多い日本では汗が出て皮膚に塵挨が付着することが相当に多い。この不快を去る為めには、常に水を以て洗ひ拭はなければ(311)ならぬのであり、而かも日本は到る処水は非常に豊富であつて、容易に此の要求に応ずることが出来るのであります。日本人が沐浴を好み、其の他清潔を愛すると云ふ習性も、主として斯くの如くにして出て来たと思はれるのでありまして、大陸に於いては塵挨が多くても此較的乾燥してゐる為めに身体の不快は余りに甚しくなく、又たとひ不快があるにしても、水が豊富でない為めにどうしても日本人が有する様な清潔に対する方法は起つて来ないのであります。尤もこれは衛生思想とは全く別なことであると御承知を願ひ度い。なほ以上の如く日本の風土が主として影響したものゝ外に、やはり此の風土の関係から起つた処の住居、食物、衣服などの生活様式から間接的に日本人の性格に影響し、之が前に申した風土直接の影響を更に助長し、また種々の特性、習俗を派出したことも多いのでありますが、此等に就いて今一々細かに述べる暇はありません。
次にやはり根本的に此の風土との関係は勿論あるにしても、それよりも寧ろ主として其の歴史的社会的生活から長い間に馴致せられたと見るべき幾多の特性を数へることが出来ます。日本人は石器時代の昔こそは主として狩猟漁撈に依存して生活して居つたのでありますが、世界の多くの民族が一度は経過した牧畜生活は国土の関係などからして遂に経過せず、国初以来今日に至るまで此の国土に於いて、主として農耕民の生活を営んで来たと云ふことは、日本人の性格を作り上げる上に於いて特に重要視しなければならぬ処かと思ひます。勿論この農業をやると云ふことは、過去に於いては日本の風土に最も適当した生活様式であり、国民の大部分がそれを長く継続してやつて来たと云ふことは、日本人をして困苦に堪へ、粗衣粗食に甘んじ、服従心に富み、あきらめのよいと云ふ様な所謂農耕民共通の諸性質を作り出したに相違ありません。
実際、農耕民ほど自然に支配せられ、雨風乾湿など凡て自然の命ずるまゝに、殆ど絶対的服従を要求せられるものはないのであります。殊に日本は「モンスーン」の吹く東亜の海中であり、颱風と之に伴ふ洪水は、殆ど毎年何回となく襲つて来て、之を避けることの出来ない運命にあるのでありまして、殊に以前に於きましては、此の自然(312)の暴威には地震同様、たゞ唯々諾々屈従する外はなく、艱苦して農耕した結果は一朝にして奪ひ去られても、文句を云つて行く先はないので、たゞ服従、諦めといふことになるのであります。その上、封建制度の時代に於ける社会制度は、農民はその他商工民と共に、「泣く子と地頭には叶はぬ」と云ふ俗諺の如く、たゞ領主、武人に絶対的に服従して行くことを要求せられてゐたので、愈々以て此の農耕民的性情を助長して行つたのであります。
又農耕民ほど一定の土地に定着して異動せず、土地に親しみの執着を有するものはないので、彼等の間には異常なる愛郷心があるのを常と致します。日本人が愛国心に富むと云ふことは、其の国土の住居の好適であることゝ相俟つて、此の農耕民生活の間に愈々助長せられた様に思はれますが、一方に於いて其の弊として外国へ移住し植民すると云ふことに不適当な性質を醸したのであります。また農民ほど朝早くから日の暮れまで、炎暑と寒冷とに堪へて苦しい労働に勤めなければならぬものは少いのでありまして、其の間に自から困苦に堪へ、忍耐をすると云ふ特性が養成せられて来たのであります。又交通の不便なる前代に於いては、特に彼等農民はたゞ主として自ら生産する処の食物、衣服に依拠して生活し、都会の住民の如く歓楽を得る道がなかつたので、我々から見て粗衣粗食に甘んずる様になつたのであらうと思ひます。その上徳川氏の勤倹主義の政治は益々之に拍車をかけたのであります。此のあきらめ主義に就いて特に仏教が深い関係を有するが如く考へる人もありますが、私はそれは関係する処甚だ少ない様に思ふのであります。なほ以上申しました性情は、ひとり日本人のみならず、支那に於いても、其他に於いても、農耕を主とする国民間には、或る程度まで共通なるものでありまして、固より之を以て日本人のみの特性とは考へることは出来ないと思ひます。
処がこゝに此の農耕民の生活と共に考へる必要があるものは漁民の生活であります。日本の国土は云ふ迄もなく四面海を繞らし、古代から漁業を以て生活する人民は比例上非常に多いのでありまして、此の点支那などの大陸国とは頗る趣を異にしてゐるのであります。一体漁民なるものは、農民などとは違つて自然に屈従するよりも寧ろ常(313)に暴風怒涛の自然と戦つて行かねはならぬhard life をやつてゐるものであります。それ故彼等は自然と戦ふと云ふ勇壮果敢なる性質を要求せられるのであり、最後にはやはり諦めに止まらざるを得ないのでありますが、日本人が一面或る一部に非常に勇気に富み、果敢なる性質を有するといふことは、此の漁民生活に於いて養はれた処が多いと思ふのでありまして、彼等が板子一枚の生活に、たゞ現在を楽しみ、深く将来を顧みないと云ふ処の性質、これ亦我が日本人中に少なからず認められる処であります。
以上の如く農耕漁撈の生活から馴致せられた性格の外に、今一つ重要なるものは鎌倉時代以後特に徳川時代に於ける支配階級であつた武士《サムラヒ》の生活から起つて来た処のものが、現在迄の日本人の性格に頗る重要なるものをなしてゐるのでありまして、欧州の中世に発達した騎士道とも幾分似てゐる処もありますが、其の宗教的要素は殆どなく、女性崇拝といふ処のない点など大分違つてゐるのであります。元来武士なるものも、鎌倉時代頃までは、大多数は平生は郷里に帰農してゐた半農半武士でありましたから、根本的には農民と共通の性質を持つてゐたのでありますが、やがて彼等は領主から俸禄を給せられる専門の武士となり、領主との主従関係は愈々緊密切実を加へ、これが世襲となるに従つて、遂に身命を捧げて主人に忠節を尽すと云ふ所謂武士道なるものが生れて来たのであります。そして此の忠節の為めには時に人情をも犠牲にしなければならぬ、名誉の為めには生命や家族をも捨てなくてはならぬと云ふ信条が出来て来たのであります。そしてこの武士道精神が武士階級以外にも一般に及ぼされて行つたのでありますが、かう云ふ処から義理と人情との葛藤なるものが生じ、此の葛藤に際して人情も義理も一層美しく現れる。それを叙述した処の劇曲、小説などが、実に数多く徳川時代に産出し、社会の鑑賞を博したのであります。又武士は食禄を世襲的にしてゐるから、金銭財産に超越し得る状態にあり、社会の階級上最も下位にあつた商人とは正反対に、金銭財宝に無関心であることを得意とする風が生じました。日本婦人が家庭にあつて夫に従順であると云ふ優しい気風も、此の封建時代武士階級の道徳に負ふ処が多いことゝ思ひます。そして此等の性格気風が(314)今日に至る迄なほ日本人の特殊性をなしてゐることは否むわけには行きません。又此の反面には商人なるものは金銭利益を重んじて宜しい。それが為めには虚言をついても致し方がない。どうせ彼等は低い階級のものであるからと云ふ観念があつたのでありますが、この事が今日なほ日本の商人の或者に残つてゐるならば、それは甚だ遺憾なことであります。併しながら所詮は農耕民の間に発生した性情、武士の問に起つた道徳と云ふものも、畢竟過去に属する社会的歴史的生活の結果の産物でありまして、風土その者から直接規定せられてゐるものとは違つて、社会的生活の変化と共に、たとひ無くなることはないにしても、次第に薄められて行く傾向を有することは疑ひを容れませぬ。
日本人は又外国文化を模倣し、之を同化することが巧いと云はれます。併しながら世界中今日に於いては殊に其の独自の文化のみを以てやつて行く国はないのであつて、日本人のみ斯かる特質を有してゐるとは思はれませんが、日本に於いては古来支那から、又近世に於いては欧米から高度の文化が海を越えて渡来する処から、特に此の外来文化と云ふ感が強いかも知れず、又これを同化して日本の国情、日本人の性情に適したものに modify すると云ふ経過は常に取られ、その必要を痛感し来つたのでありまして、或いは自然之れに長ずる様になつて来たかも知れません。併しながら、私は寧ろ日本人の特徴は斯かる外来文化を輸入する際に、本来あるものをも捨てずに、之と相併行せしめ、或いは相調和せしめて行く処にあるのではないかと思ひます。例へば仏教が這入つて来ても、その仏教に多少日本化すると同時に、神道なるものと相変らず存立する。西洋風の生活が行はれても日本風のそれも決して滅びない、といふ処に日本人の特長がある様に感ずるのであります。但し、日本人は originality に富んでゐるとは遺憾ながら今迄の処申されないと思ひます。
日本人の社会的歴史的生活のうちから馴致せられた性格を述べる場合に、日本に行はれた儒教、仏教といふ様な宗教、また之を基調としての教育の影響が、国民の性格に及ぼした結果も決して軽視することは出来ません。その(315)うち祖先崇拝とか親考行とかいふことなども、時に日本人の特徴の如く云はれますが、これは寧ろ支那思想の影響が多く働き、それに封建時代の社会生活に由つて助長せられた処が少くないかと思ふのであり、且つ此等の道徳は日本に於いてよりも、支那に於いて却つて顕著なるものがあるのであります。その他儒教的道徳の「ノルム」が形式化して行はれてゐるものもあるのでありますが、斯くの如きことは却つて日本人の性格とは相容れないものであると、私自身は感ずるのであります。次に仏教、特に禅宗などの影響、これも本来は日本人の性格とは相合致しないものであつたのでありますが、それが次第に日本化せられ深刻味を失ひ、至極 easy なものとなつて日常生活と結合するに至り、こゝに謂ゆる渋み〔二字傍点〕、さび〔二字傍点〕などと云ふ印度《インド》や支那にも見られない趣味となつたのであると思ひます。そしてこれ等の趣味と合致した処の芸道即ち茶の湯、生花などといふものも起つたので、そこが頗る日本的であるのであります。要するに日本人は本来幽玄深刻とか、哲学的とか、瞑想的とか云ふ方の人間ではなく、至極明朗快活、瀟洒《しようしや》なる趣味傾向を有する国民であると私は信ずるのであります。
斯く観察して来ますと、我々日本人の特殊な性格なるものは実に種々雑多であつて、中には互に相矛盾してゐる様なものも存してゐるかの如く見えるのでありますが、斯かる矛盾的のものが併存してゐると云ふ処に、日本人の国民性があると云つて宜しいかと思ふのでありまして、元来種々の人種的要素が混融して日本人が出来てゐる処に、また其の社会的生活の過程の間に、種々相異なるものがあつたので、さう云ふ風になつたのは寧ろ当り前のことであります。個人に於いても同様でありますが、元来一つの国民の性格を、野蛮人などはいざ知らず、長い間の文化的生活をなし来つた国民に於いて、至極簡単に二、三の特性に帰して説明し得ると思ふのが間違ひで、種々雑多な相反する様な性質が倶《とも》に併存してゐると云ふ処に、又その複雑性の「ニュアンス」、各種性格の混合の具合のうちにこそ、真に一国民の特性が現れてゐると謂ふ可きでありませう。而かもその中でも日本人の如きは全体として、他の国民に比して一層複雑なる性格を有してゐるものかと私は思ふのであります。なほ、此等日本人の特性(316)がらの産物としての、文学美術といふ様なものに関しては、別に叙述せられることゝ信じ、この国民性の概論に於いては多く触れないことに致しました。
〔参考書〕 ラフカヂオ・ハーンの如く欧米人の著書中に日本人の国民性を明かにしたるは別として、日本人自身で国民性を特に論じたものは、稍々古く芳賀矢一博士の『国民性十講』(明治四十年)があるが、戸田海市博士の『日本の社会』(明治四十四年)中にも之に関して優れた見解が示されてゐる。又武士道に関しては新渡戸稲造博士の『武士道』は、特記す可き参考書たることは云ふ迄もなく、津田左右吉博士の『文学に現はれたる我が国民思想の研究』の諸篇も亦頗る見る可きものである。最近には和辻哲郎博士の『風土』の如き卓見に富んだ書も現れてゐるが、本篇は此等諸家の所説を参考するよりも、寧ろ著者の一家言を主として記述したものである。なほ本篇の起稿に際し、西堀一三、山根徳太郎両君の助けを得たるものあることを茲に付記して置く。
(ニ) 国民の文化的生活の歴史的発展
(a) 有史以前の日本
従来日本人の文化史を説くものは、有史以前石器時代の文化を以て、先住民の文化として、後の日本人の文化と切り離して考察することを常としたのでありますが、既に日本の人種民族を述べた際に明かにして置いた通り、私達は我々日本人の人種としての血液は、この石器時代の住民以来連綿として伝つてゐるのであり、其後種々の accretion があつて遂に今日に至つたものであると信ずるのでありますから、日本人の文化的生活の歴史を回顧するに当つても、我々は有史以前石器時代の昔に溯らなければならぬのであります。そして此の方面の知識は十九世紀以後、特に近年に至つて、考古学研究の進歩に由つて、始めて明かになつて来たのであります。
(317) さて日本に於ける石器時代の文化は、新石器時代のものに属するのでありまして、それ以前の旧石器時代のものは、支那にはありますが、日本には未だ発見せられて居りません。それで今日に於いては我々は、既に新石器時代の文化に進んで居つた民族が、此の島嶼国に這入つて来たとして置く外はありません。そして彼等は此の国土に於いて最も幸福なる居住地を発見し、平和なる生活を過ごすことを得たのでありまして、少くとも数世紀間大陸から大きな人種的又文化的侵略を受けることなくして――これは島国に於いてのみ享け得ることである――、最も自由に出来得るだけ其の文化を発達せしめることが出来たのであります。それで日本の石器時代の文化なるものは、近接の大陸は固より、世界中に於いても優れたる石器の製作、土器の技術を示すに至つたのであります。後世日本人が陶技に長じ、手工に秀でてゐると云ふ特徴は、或いは既に此の有史以前に其の萠芽を認めることが出来ると云つても、差支へはないでせう。併しながら、彼等は固より金属器を知らず、漁人として、猟人として、小さい小屋に住み、冬季もしくは寒い地方では室《むろ》的の場所に住んでゐるのであります。但し、彼等も死者を厚く葬つたことは、屈葬の墓地の多く発見せられたことに由つて知ることが出来、そのなかには年老いたる祖母が其の孫を抱いたまゝ葬られてゐたと云ふ様な可憐な例もあるのであります。
日本の新石器時代の文化を、稍々精しく区別するならば、二つの phases に分かつことが出来ます。即ち第一の古い方は黒い縄紋式土器を伴ふ時期であり、第二の新しい方は弥生式土器を伴ふものであります。後者は褐色多くは無紋のものであつて、土器としての美術的価値は前者の模様に富み形状の変化の多いのには及びませんが、其の実用的・工業的価値は遙かに優れてゐるのであります。斯く進歩した土器の製作法が現れたのは、恐らくは石器時代の末期に当つて、大陸方面から文化的・人種的の新しい波動が伝つた結果であらうと思ふのでありまして、遂には金属の知識も輸入せらるゝことゝなつたのであります。なほ、此の弥生式土器の行はれた phase に至りましては、農業も亦行はれ出した証跡があり、彼等の間に経済的生活の大きなる変化も生じたことゝ想像せられるのであ(318)ります。
金属の知識は何処から這入つて来たかと云ふに、云ふまでもなく支那からであります。支那は早く夏、殿の頃石器時代から脱して金石併用期に入り、周代に至つては青銅器文化の極盛に達し、漢代には已に鉄器時代に進みましたが、此の金属文化は周末から漢初に於ける支那人(漢民族)の expansion と共に、支那の四隣の諸民族の間に伝播せられたのであります。東方に於いては先づ遼東半島から朝鮮半島へ、そして其れから遂に西日本へも青銅文化が伝へられ、間もなく鉄の文化も這入つて来たことは、近年東亜に於ける考古学的調査の結果明かになつて参りました。就中、西日本へ此の青銅文化が這入つた時期が、丁度西紀一世紀前後の頃にあつたことは、王莽の時に鋳造せられた「貸泉」といふ貨幣などが、他の遺物と共に発見せられたことに由つて知ることが出来ます。併しながら、当時支那は青銅時代、否な已に鉄の文化時代に這入つてゐたのでありましたから、引きつゞき鉄が日本へ這入つて来ることになり、日本では青銅時代になる一時期を殆ど画する遑《いとま》なく、直ちに鉄時代に進んだことも考古学的発見が之を証してゐるのであります。これは恰も西洋に於いても、南欧諸国は東方から青銅文化を伝へ、又間もなく鉄文化が這入つた為め、青銅時代が北欧に比して短かかつたのと同じ趣であります。但し日本に青銅文化の輸入せられた短い期間の記念物としては、銅鐸なる特殊のものが銅剣などの外に残つてゐることを注意しなければなりません。斯くして支那の金属文化の影響によつて、日本の島々の住民も石器時代の長夢を醒されたのでありましたが、此の新文化は先づ西日本から光被し、漸次東北に及ぼされたのでありますから、東北地方はなほ長く旧文化のうちに残されて居つた処もあるのであります。
(b) 日本の政治的統一――朝鮮の経営
この頃から日本人は已に西九州から近畿地方、関東地方の一部辺まで拡がつてゐたのでありますが、其の間に未(319)だ政治的統一といふものがなかつたのであります。然るに大陸渡来の新文化に浴したる九州に居つた日本人は、我が皇室の祖先に率ゐられ近畿地方へ進出し、此の consolidation を企てられたのが、神武天皇の東征でありまして、当時近畿地方にも日本人の居つたことは、饒速日《にぎはやひ》命の一族の居られた伝説によつて知られると同時に、土蜘蛛《つちぐも》、国栖《くず》などの名によつて残つて居た、日本人に同化しきられないものも住んでゐたことが伝へられてゐます。斯くて大和を中心として出来た「大和朝廷」なるものは、愈々此の統一を強固にし、一方九州地方に残つてゐる熊襲と、関東東北を占拠してゐる蝦夷を征服しなければならなかつたのであります。この東西経略の過程に於いて、我々は国史の上に稀なる血あり涙ある詩人的英雄である日本式尊の物語を有してゐるのでありますが、斯くして数世紀を経ない西紀四、五世紀頃に至つて、大和朝廷の威力は確立せられ、強大なものになつたことは、応神・仁徳両天皇前後の山陵が、如何に宏大なる前方後円形の高塚であるか、それを見るだけでも之を推察することが出来るのであります。
大和朝廷に於いて国内の統一と共に、今一つ大きな問題は、朝鮮半島との関係であります。これは固より有史以前から最も密接なる交渉のある日本との連絡線でありますが、熊襲と云ふ奴が大和朝廷に屈服しないのは、其の背後に朝鮮の新羅《シラギ》が之を尻押してゐるからであることが明かになり、こゝに仲哀天皇の西征、神功皇后の新羅征伐といふことが起つて来たのであります。而して其の結果は新羅をはじめ高句麗、百済と半島の諸国は、日本の勢力を認め、遂に服属関係もしくは友好関係を結ぶことゝなり、半島の南端にはやがて任那《ミマナ》といふ日本植民地が設けられることゝなつたのであります。これは実に内部に於いて統一を完くしつゝあつた日本をして、更に一段と文化的に向上せしめるに至らしめたものでありまして、支那の文化を日本よりも早くから摂取して居つた朝鮮諸国を通じて、支那の精神的文化と物質的文化とが急速に日本へ流入することになつたのであります。その中でも特に注意を要することは、日本へ文字、文学の伝つたのも此の結果でありまして、之が其後二千年後の今日に至るまで、我々は(320)漢字を使用す可き運命を負ふに至らしめたのであります。従つて又孔子の教も日本へ這入つて来て、かの稚郎子《わきいらつこ》皇子が御兄仁徳天皇と皇位を譲り合はれたといふ様な詰も生じ、暫らくの間在来の旧思想と新思想との衝突と云ふことが胚胎し、それが次の機会に爆発するのですが、各種の工芸其他に於いて支那、朝鮮のものが次第に日本に伝つて、将来日本が朝鮮とは固よりのこと、支那とも対等の位置に立つ準備時代をなしたのであります。
(C) 仏教及隋唐文化の輸入
朝鮮との密接なる交渉によつて、其の結果、はじめは単に profane の文化の輸入に止まつて居りましたが、やがては印度に起り、西域を経て支那に伝はつた仏教が朝鮮にも伝はり、それから更に日本に輸入せられることになりました。そして其の文化史上の意義は、前の支那文化のみの場合よりも一層重要なものがあつたのです。支那文学輸入の場合に於ける其の保護者《パトロン》・稚郎子皇子の如く、今度の仏教及び其れと付属する文化を渇仰し、之によつて新しい日本を作らうとされた運動の代表者は、実に聖徳太子その人でありました。斯くて仏教は皇室をはじめ上流社会の間に盛んに宣布せられ、之と付随する文化と美術は、熱烈なる讃仰を以つて、移植せられることになりましたが、今日も存在する大和の法隆寺こそは、その大きなる「モニユメント」であります。支那南北朝風の建築、彫刻、絵画あらゆる技術は、この新宗教に付随して移植せられたのみならず、支那文化も以前よりは一層の精確と熱心とを以て模倣せられ、例へば冠位、憲法などの如きも出来、今までの単純なる祭政一致の政治は、時勢の進運と共に法制に基く政治に向つて進むことゝなつたのであります。併しながら、斯かる急進主義の際に於いても、なほ官位の名称などに日本の名称を取り入れるなど(例之、大徳と云ふ官を麻卑兜吉寐《まひときみ》と読みます)、我々の寧ろ意外とする日本化の努力を認めるのであります。
併しながら、斯かる新文化輸入の際に、旧守派の人々の反対のあることは已むを得ないのでありまして、反仏教(321)の旗幟の下に物部氏一派が猛烈なる反対運動を起しましたが、之は時代の要求に添はず、遂に抑圧せられ、進歩派の蘇我氏も専横を極めて、遂に中臣氏即ち藤原氏に倒されると云ふ様な政治的変動を経て、漸く進取の国是が確立せられ、遂に大化の大改革(西紀七世紀の中葉)が成就致しましたのは、我が日本に於いては建国以来の一大変革であつたのであり、この事に努力せられたる中大兄《なかのおほえ》皇子(即ち後の天智天皇)及び藤原氏の祖なる鎌足等の功績は頗る大なるものであります。斯くて古来よりの氏族制度は廃せられ、唐制に倣つた大宝の律令なる code が制定せられ(これは第十九世紀西洋法典が輸入せられる迄は日本法典の基礎をなしたのである)、社会上にも政治上にも、日本は全く支那の先進国と肩を並べて行くことが出来る様になつたのであります。そして此の新文化輸入の結果がほゞ完成して、燦爛たる華の咲き乱れた光景を呈するに至つたのが、実に奈良朝の文化であります。当時我国に於いては、唐のあらゆる文物の精髄を輸入し、之を模倣し、短時間のうちに支那本国のそれと大なる軒輊を見ない迄に至つたことは寧ろ驚くべきでありまして、之には前代からの朝鮮、支那などの帰化人と其の子孫の手に由るものが一部分はあつたにしても、大部分は我が国人のなし遂げた処であります。又それには癖のある在来の文化が存在せず其の学習を妨げなかつたこともありますが、己を空うして高度の文化を受入れると云ふ日本人の態度――これは今後西洋文明摂取の場合に於いても見られる――が遺憾なく発揮せられたものと云ふ可きでありませう。実際奈良朝当時に作られた宗教美術の作品を見ますると、如何にも支那本国唐朝のものと見劣りのしない、或いは之に優るほどのものを産出してゐるのに驚くのでありまして、あらゆる方面に於いて日本よりも早くから支那の文化を輸入して居つた朝鮮に比べて更に秀れてゐる処のあることを認めざるを得ないのであります。例へば都城の制に於いても、奈良の平城京、京都の平安京の如き、国家の相違に基づくかも知れませんが、朝鮮に於いては斯かる都市計画は決して移し入れられなかつたのであります。そして又此処にも注意す可きことは支那文化の輸入模倣の最中にも、在来の文化が決して根絶せられたのでなく之と並行して保存せられて居たことでありまして、其の最大の「モ(322)ニユメント」は国文学の為めに千古に気を吐いてある『万葉集』であります。之を見ても其他の社会的生活の一般を考察することが出来ませう。
(d) 支那文化の日本化
併しながら、以上述べ来つた聖徳太子の時代頃から奈良朝に至る間、更には又都が今の京都に移された時代(A.D.794)頃に至る二世紀ほどの間は、日本人が急激に高度なる支那文化に接触して、如何に速かに之を摂取しようかと焦慮した時代でありますが(この際に於ける遣唐使、留学生、留学僧などの、生命の危険を冒して之に尽力した功績は非常なものである)、それが為め遂に二、三世紀を出でずして殆ど之を摂取し尽したかの如き観を呈せしむるに至つたのは、寧ろ驚く可き次第であります。併しながら、此の次に来る可き時代は此の興奮に次いで来る沈静の時代であり、此の模倣の次に来る醇化時代でなければなりません。又一方に於いてよく考ふ可きことは、斯かる高度の支那文化が、当時貴族上流等の特殊社会以外に、国民のあらゆる階級に、如何なる程度まで行き亙つて居つたかと云ふことです。私は思ふのでありますが、其れは実際に於いて極く一局部に偏在してゐたものに過ぎず、国民の大部分はやはり上代から継承して居た在来の文化を保存して居つたものと見る外はないのであります。併し此の不平衡のうちに将来の動乱進発の萌芽があるのであり、また日本特有の文化が根強く保存せられて行つた理由が見出されるのであります。
此の支那文化輸入の杜絶に一つの大きな機会を与へたのは遣唐使の廃止であります。それは西暦第十世紀に至つて、かの有名な学者的政治家菅原道真が其の命を蒙つた時、彼は当時唐の内乱の理由と、最早彼国より学ぶ可き処多からざる理由とを以て、其の中止を進言しましたので、こゝで日本と支那との公けの交通は数世紀間なくなることになつたのであります。此の事は已に支那から輸入せられた文化を咀嚼し、且つ之を意識的、無意識的に日本化(323)するに最も善い機会が与へられたのであります。而かも此の支那文化の日本化に就いて重要視しなければならぬのは、当時の上流社会の婦女子の使命でありまして、男子は直接支那文化の影響を受けたのであるに反して、女子は男子を通じ、また宮廷生活を通じて、間接に支那文化によつて illuminate せられたのであります。そして彼女達は非常な教養を示し、男子が漢文学に携はつてゐるに反して、彼女等は従来から国文学に携つてゐた処から、遂に此の国文学上に一大基礎を据ゑた大事業を完成したのであります。云ふ迄もなくかの紫式部の『源氏物語』を始めとし、数々の文学的作品は此の十一世紀頃に産出せられ、燦然として光を放つてゐるのであります。そして此の文学の方面以外の造形美術に於きましても、日本化と共に、凡てが著しく女性的な優しい気格を示し、当時に於いて実に上流宮廷の女子社会が時代の好尚を作り、且つ之を反映して居つたかの様に見えるのは、日本の歴史上にも珍らしい時代であります。
併しながら、所詮此の平安朝の時代は、支那唐朝の文化が日本化せられても、そのenjoyせられたcircle は、ただ上流宮廷の狭い社会に止まつて、日本国民全体は寧ろ「我不関焉」といふ有様であつたと見る外はありません。斯かる不健全の状態は勿論永続すべくもなく、やがては改善せらる可きであり、又其の時期が次第に近づいて来たつたのであります。それに至る径路として院政なる一種変則的の政治が起り、藤原氏を中心とする宮人達が、京都に於いて栄華の夢を貪り、其の美的生活に耽溺しつゝある間に、地方に於ける武士、農民を背景とする国民的運動が起つて来て、その危険は漸次京都へ迫つて来たのであります。武人平氏は或いは此の時代の要求に応ずるかの如く見えましたが、彼等は宮人藤原氏の真似をして、遂に時代の流産児として悲惨なる没落を見、之に代つて出て来たものは、即ち平氏を仆《たお》した処の源氏であり、源氏に由つて日本の社会は救済せられるに至りました。
(324)(e) 武家政治の確立
唐朝文化の模倣時代である奈良朝は固より、其の文化の日本化の時代である平安朝と雖も、畢竟外国文化を基調とする時代であつたのでありますが、今や天皇の委託を受け征夷大将軍として、militaryr resime の基を聞いた源氏の統領頼朝は、其の政治の根底を一般の国民、否な少くとも中流社会に置き、形式的の政治を斥けて、新時代に応ずる実際的の政治を開いたのであります。彼は従来から外国文化、上流社会の文化の伝統の強い京都の地を離れて、遠く関東の鎌倉に其の政治の中心なる幕府を開きましたが、これに由つて日本の社会的混乱は救はれ、国民は始めて安堵致し、健全なる国民生活は新しい軌道の上に進むことになつたのであります(これは武家政治の反対者である十四世紀の歴史家北畠親房が其著『神皇正統記』に之を認めてゐる処です)。而かも京都は依然として帝都として残つて居つたことは、却つて旧文化を保存するに都合が宜かつたと云ふことが出来ます。源氏に続いて実際上鎌倉に於いて政権を握つたのは北条氏である。相変らず国民の利福を旨とする実際的政治を行つて居つたのであります。然るに此の時に方つて戦慄すべき外国の侵入が始めて我国に加へられたのであります。それはかの蒙古人の襲来でありまして、支那全土を手中に入れ、やがて欧亜に跨る世界的大帝国を建立した所の忽必烈《クビライ》の軍が日本征服を企てたのであります。これが若し百年以前の国家混乱の時代であつたならばどうでせうか。幸にも北条氏の善政の下に国民生活が安定して居た際であり、北条時宗の果断なる処置と、国民上下一致の協力と、それに加へて暴風なる天佑を得て、蒙古の艦隊は覆没し、日本は世界中蒙古人の征服を免れた殆ど唯一の国民たる幸を得たのであります。当時は日本人が此の蒙古の如何なるものかを知らなかつた為め、却つて其の危険感が少かつたのでありますが、これこそ実に日本歴史始まつて以来の、最大の危険にさらされた大事件であつたのです。併し日本が此の危機を免れたことは、主として日本が大陸から海を以て離れてゐる島国であると云ふ国土の地理的環境に負ふところにあると思ふのでありまして、此の点英国が西班牙《スベイン》のInvincible Armada を覆滅し、又NAPOLEONの征服から(325)も免れたのと甚だ相似たるものがあり、此の国土の自然的利福が日本歴史の発展上に最も大なる意義を有してゐることを、今更ながら感ずるのであります。
併しながら、此の国民の味方であつた北条氏も右の元寇の際の恩賞問題、苛税問題などから次第に人心を失つて来たのに乗じて、政権を朝廷に復さうとする運動が後醍醐天皇に由つて企てられ、一時は成功したのでありますが、やはり時代の要求は簡易なる武家政治にあつたので、暫くにして再び源氏の一族である足利尊氏によつて創始せられたる武家政治が確立し、而かもこれが二世紀半以上も長く継続せられることになりました。而かも今度は源氏、北条が東国(鎌倉)を中心として、京都に其の代理者(探題)を置いてゐるのに反対に、中心を京都に置き、関東には代理者(管領)を置き、自ら朝廷を監視したことは、政治上から云へば確かに成功でありましたが、同時に又足利氏はじめ武家自身が在来の京都風の文化に馴染み、武人にして公家《くげ》の性質を帯ぶることになつたのであります。併しながら、これは一方から見れば、従来最上層の間に限られて居つた文化教養が、中流社会にも益々普及するに至つたことを意味し、武家の間に行はれた禅宗なる仏教の一派は、よく在来の文化と融合し、これに一種の文化生活が生まれて参りました。かの茶ノ湯、庭園などの発達し出したのも、皆な此の時代であることを記憶しなければなりません。
元来この時代は、万事につけて所謂「下剋上」の時代で、上のものゝ威権が下に及ばず、実力が下にあると云ふ時代であつたのですが、遂に十五世紀の中葉に「応仁の乱」といふ一大内乱が、将軍家の相続問題と、権臣の勢力争ひから発生し、十一年も継続し、それが京都の市街を中心に行はれた為め、市街戦の結果京都は全く deserted の有様となり、国家社会の統制は全く解体せんとするに至つたのであります。それで京都は最早政治上にも市民生活の上にも日本の中心たる資格を失つてしまひ、各権臣は自己保存を図る為め各地方地方にある自己の領地に帰ることになりました。併しながら此の事は一方に於いては、従来京都及び特殊の土地を除いては、都会と云ふ都会が殆(326)どなかつた日本に於いて、将来各地方地方に次第に大なる都会が出来るに至る原因になつたことは寧ろ喜ぶ可き事と云はなくてはなりません。それはさて此の各地方地方に占拠した所の権臣(大名)なるものは、これより互に相争ひ相戦ひ、それが為め遂に十六世紀の前半に於いて所謂「戦国時代」なるものが出現したのであり、外面から見れば日本の歴史上最も不幸なる時代の如くに見えますが、内面的には地方の開発、商業の発生なども此の時に萌してゐるのであつて、新しい健全なる社会的生活、より〔二字傍点〕適当なる国家の統制機構が出来る為めの予備工作の時代であつたのであります。
此の戦国の混乱時代に丁度欧州人が始めて日本に渡来し、基督教も亦伝へられたのでありました。即ち一五四三年ポルトガル船が種子島に漂着し、はじめて鉄砲なる戦国時代に最も歓迎せられる銃器を伝へ、一五四九年 Jesuit の大布教者たる FRANCISCO XAVIER が鹿児島に来着し、京都へは戦乱後で行けなかつたが、腐敗した仏教に飽き果てゝ居つた時代に新宗教を齎したので、忽ちにして民衆の間に莫大なる帰依者を得たのでありました。
(f) 近世日本の出現
暗黒の夜の裏には必ず光明の昼が来る如く、長い間撹乱せられたる混沌たる解体の時代に次いで、統制の時代は来るのであります。先づ各地方地方の小さい統一から次第に大きな統一となり、結晶が出来るが如く日本の大統制が出来て来ました。織田信長なる武将に由つて半ば成功しかけた統一は、遂に豊臣秀吉なる不世出の英雄に由つて大成せられたのでありますが、茲に注意す可きことは、此等の統一者は、いつも国初から永続して居つた皇室を自分の味方とし、それを統一の中核として試みることに由つて成功したことでありました。其れが甚しく他国の場合と違つてゐる点かと思ひます。又皇室が鎌倉幕府以来政治の実権を武家に委任せられ、実際上の責任者たる位置から離れられたことは、恰も立憲政治下に於ける責任内閣の存立の如く、却つて神聖なる位置を安全に保存せられる(327)所以であつた様に見えるのであります。
さて秀吉は時代の産児として、極く身分の賎しい農民の子から出世をして、遂に日本全体の支配権を握るに至つたのでありますが、彼は最早前代以来各地に発達した武人の勢力と、又都会とを無視することが出来ません。この状態を其侭容認しながら、中央に於いて之を鞏固に統一する外にないので、こゝに諸国に大名を封じてやつて行く所謂封建制度なるものを採用するの外はなく、是は実に前代以来の状勢から必然起つて来なければならなかつた政治の機構であつたのです。そして秀吉は足利氏と同じく京都、或いは其の付近(大阪、伏見)に居城を占めて居つたので、在来の文化を摂取し、之に彼自身と彼の時代の精神好尚を発揮せしめて、其の建築に装飾にその他の美術に、所謂桃山時代なる頗る特色あるものを作り出したのであります。勿論ある点に於いては武人の粗野なる趣味を反映してゐるのでありますが、又その放胆、雄大、且つ明朗なる時代精神が横溢してゐる処を認めなければなりません。
彼は日本国内を統一してから後、その大陸政策の実現を企図したのであります。これは千数百年前神功皇后が成功せられて以来、朝鮮半島は長く日本と密接なる関係を持続して居りましたが、その後新羅が唐と同盟して日本に抗する様になつたので、遂に天智天皇の時放擲せられましたので、或る意味から云へばかの元寇の復讐戦でもあり、又或る意味から云へば足利時代を通じて行はれた倭寇=即ち九州辺の武士などが海賊的に朝鮮半島から支那沿岸を慄掠し、彼国人をして非常に恐怖せしめたもの=なる小仕掛の invasion を更に大なる組織を以て試みられたものとも云ふ可く、其が即ち秀吉の朝鮮征伐であります。而かも彼の企図する処は単に朝鮮を己れの勢力の下に置くばかりでなく、支那帝国を席捲し、北京の都に日本の皇室を動座し、更に天竺即ち印度をも経略せんとする空想的大抱負であつたことは驚く可きことであります。固より是れは実際上何等周密なる計画準備があつた訳ではなく、一つの空想に過ぎなかつたのでありますが、それにしても朝鮮半島を南から北の端まで、一時的に進軍したの(328)でありました。
斯かる大抱負を有する秀吉が、海外諸国との交通貿易に大なる関心を持つ可きは最も自然のことでありますが、そこに一つの「ヂレンマ」があつたと云ふのは、基督教の問題であります。海外と交通すれば自然基督教の布教をも認めなければならぬ。然るに是は秀吉より前の信長の時には、仏教徒抑圧政策の必要もあり、大に歓迎許容の方針に出でたのでありましたが、其後外国人の日本布教には領土的野心があると云ふ疑ひもあつて、秀吉も漸次基督教禁圧の方針を取るに至つたのであります。併しなほ頗る寛容なものでありましたが、十九世紀の中頃、徹底的弾圧が加へられるに至るまで、前後一世紀間は、日本人が海外に雄飛発展し、大に国際的活動をした溌剌たる時代であつたのです。我国人が政府の許可、即ち所謂「御朱印」を得て南海諸島、即ちフィリピンから後印度地方まで盛んに通商航海をやつたことは目ざましいものがあるのでありまして、末吉船の如きは其の著しきものゝ一であり、或いは原田孫七郎なるものが秀吉の使としてフィリピンへ赴いたこと、或いは濱田彌兵衛なるものが台湾へ赴き、和蘭《オランダ》人を懲らしめたこと、或いは山田長政が暹羅《シャム》へ赴き、功を樹てたことなどは、其の間に残された episode の二、三であります。若しかゝる状態がなほ長く継続したならば、日本の歴史はかなり違つた方向に進んだに違ひありません。
欧州諸国へは日本の船が出かけたことはありませんでした。併し当時盛に海外へ通商航海をした国々、ポルトガル、スペイン、次いではオランダ、イギリスは何れも其の東洋に於ける根拠地を印度地方に設け、そこから出かけて日本と通商を行ひ、平戸或いは長崎に商館を設け活躍をしたのであります。たゞ此の間に記憶す可きは、日本人が欧州人の船で二回ばかり彼地へ出かけたことであります。其の第一回は即ち一五八二年九州の三人の Christian Daimyos (大友、有馬、大村の三侯)は、耶蘇会の VALIGNANI 師の勧告に従ひ、使節をローマの教皇廷に出したことであります。使徒達は伊藤マンチヨ、千々岩《チヂワ》ミカエル等四人、何れも十数歳のいたいけな青年で、(329)印度から喜望峰を経て欧州に至り、スペインのフイリップ二世の court から、ローマの教皇の court(POPE GREGORIUS XV & SIXTUS V)へ使し、伊大利各地を巡歴し、非常な歓迎を受け、八年目に漸く帰朝したのであります。彼等は固より宗教上の篤信から出かけたのでありますが、よく使命を辱めず、日本人を始めて西洋諸国に最も善く紹介したものでありました。不幸にして彼等が帰朝の日は吉利支丹に対する禁圧がはじまり、其の見聞視察から得た処は殆ど利用することなくして終つたのでありますが、日本に於ける西洋流の活版術は、彼等一行帰朝の際携へ来つたものになされたものであります(此の時の印刷物 Jesuit Mission Press として欧文、日本文欧字、日本文のもの十数種、天草其他にて発行せらる)。次に第二回目は一六一三年伊達政宗の使として出発した支倉常長で、これは Franciscon の僧 SOTELO と共に、メキシコ廻りで出かけ、そこまでは日本で作つた船に乗つたのであります。スペインからローマに赴き Pope PAULO V に謁したのでありますが、此の使節の目的は宗教上よりも寧ろ通商貿易にあつたけれども、帰朝の日はやはり鎖国の政策下の日本であつた為め、其の結果は何等見ることが出来ませんでした。
(g) 鎖国の日本
この十六世紀から十七世紀の初めにかけての日本人の海外発展の機運は間もなく政策的に阻止せられてしまひ、日本の歴史は暫くの間別の方向に進まなければならなくなりました。それは即ち吉利支丹宗の徹底的禁圧が国策上絶対的必要と認められ、あらゆる利益を犠牲として絶対的に之を行ふことになつたからであります。即ち海外諸国との交通は支那とオランダ両国に限り、長崎なる一つの港に於いて非常なる制限の下に許され、長崎は支那及び西洋文化流入の唯一の窓口でありました。そして外国人は他の場処には来ることは出来ず、日本人も一切海外に出ることが禁ぜられたのみならず、終には蘭人以外の外国人が日本に残した家族(日本人及混血児)をも海外に追放し、(330)已に海外に在る日本人の帰国をも許さぬと云ふ非常に峻烈なる法律が出されることになりましたのは、十七世紀の中頃、かの島原に於ける耶蘇教徒の反乱の後であります。之を其の以前の活発なる、明朗なる時代に比べては、何たる急激の変化で、一朝にして沈欝陰惨な空気が日本中に漂つたことでせう。その結果幾多の個人的悲劇が起つて、日本の婦人にして空しく故郷の天を仰ぎ、その纏綿たる望郷の情を一片の文章に託して送つたものが、今なほ「ジャガタラ文」といはれて残つてゐるのであります(平戸地方に数通残存す。又『長崎夜話草』なる書中にも載せられたり)。又一方には国内に於ける禁教の手段は非常に厳唆を極め、遂には踏絵《ふみゑ》とて銅版に耶蘇の像などを刻したるものを踏ましめ之を検したのでありますが、此の禁教時代に耶蘇教徒の多くは熱烈なる信仰を発揮し、死を以て改宗を拒み、遂に相当多数の殉教者を出したのであります。我々は其の史実を読んで、これ程熱烈なる信仰を示したものは世界の基督教史上にも殆ど其の例を見ないと信ずるのでありまして、或いは之を以て当時の武士道的精神が基督教の精神と相一致し、それを通じて発現せられたものであらうとするものであります。なほ一方には此の厳圧の下に窃かに信仰をつゞけて、相伝へて三百年後明治の初めに至つたものが多数あつたことも驚く可き事実であります。
国内に於いては此の間に政治的変動があり、秀吉は第二回目の朝鮮征伐の最中に死し、其の遺孤秀頼はやがて秀吉の重臣であつた徳川家康に滅ぼされました。家康は其の性格に於いて秀吉とは全くコントラストを示す思慮深く賢明にして地味なる政治家であり、彼及び其の子孫は頗る巧妙なる手腕を以て、大体は秀吉の時の大名制度、即ち封建制度を採用し、更に之を整頓改善し、三百の諸侯をして互に相牽制し、反乱を起すことなからしめ、遂に三百年の長い時代即ち徳川の Shogunate を保つに至つたのであります。而かも此の間を通じて、基督教禁圧の為め海外貿易の利益をも犠牲に供して鎖国政策が継続せられたので、遂に日本人は進取発展の精神を失ひ、退|嬰《えい》的となり、島国に蟄居《ちつきよ》する風習を持つことゝなつたのは、一面非常に不幸なる次第でありますが、他面また外国との面倒(331)な交渉を遮断して、一意専心国内だけで自給自足、国内を発展せしむる機会を得たのでありました。実際この三百年間は国内に於いても殆ど戦乱はなく、真に Glorious Peace の時代を出現したことは、世界の近世史にも其の例稀なることゝ思ひます。この平和時代に於いて各種の文化は最も深く地中に其の根をおろし、外国の影響なくして思ふまゝの発展を遂げ、最も特色ある純日本の文化が醇醸せられたこと斯の如きは、前後を通じて全く他の時代に之を認めることは出来ないのであります。斯く観じ来りますると、徳川氏三百年の鎖国なるものは、必しも日本の発展を阻害したとして詛《のろ》ふ可きではなく、寧ろ其の内容を深めた点に於て、大に意義あるものとして感謝す可きであるとも云へるのであります。
徳川氏は足利氏などが京都に居つて、遂に在来の文化の擒《とりこ》となり惰弱となつてしまつたことに鑑み、源氏の主義に戻り、遠く関東に其の幕府を置くことに致しました。即ち江戸、今日の東京の地であります。かくて関東に居つて地味な堅実な気風を養つて居ましたが、長い間に此の江戸を中心とする特色ある文化が非常に発達し、京都のそれと相対立して、日本は今や楕円の如く二個の文化的中心を有するに至つたのであります。そしてまた封建制度の永続と共に、各地方の開発、地方都会の発達といふものは急テンポを以て認められるに至つたのであります。今迄は都《みやこ》の外には特殊の土地、例へば九州の太宰府、近畿に於ける兵庫、堺、関東に於ける鎌倉などの如き処を除いては、都会といふものゝ発展は頗る微々たるものでありましたが、足利時代から秀吉の時代を通じて徳川時代となり、封建制が確立せられ、各地方の大名が世襲的に長く城を中心として占拠するに至つては、其の城下町は次第に繁栄を致して大なる都会となり、又各大名は互に競つて其の領内の産業を起し富を致さうとしたのでありますから、こゝに急速に地方の発展と、都会の発達を見るに至つたのでありました。今日我々日本に於いて有する処の地方的大都会なるものゝ大多数が、或いは当時の城廓の天主閣、或いは石塁を残し、此時代に出来たものであることを知るに於いては、これ丈けからでも、徳川時代なるものは近世日本を形成する先駆であることを切実に感ずるの(332)であります。
大阪の如きが堺に代つて関西地方の物資集散の商業都市として重きをなすに至つたのも全く此の時代であります。各地方地方に特色ある産業、例へば漆器、陶器、織物などが領主の奨励に由つて発達し、今日日本の特産物としてなお余勢を保つに至つたのも此の時代に始つたのであります。又徳川氏の制度として、各大名の家族を江戸に滞在せしめ、大名自ら其の領国より江戸に来らしめるといふ所謂参勤交替なるものを行なはしめたので、東海道をはじめ全国の各街道は発達整頓し、其の沿道の旅舎(本陣等)の発達も大に見る可きものがあつたので、国民生活の内容は益々充実せられて来たのであり、かの広重の『東海道名所図絵』などの如き美術的作品の出現は、即ち此間の消息を語つてゐるのであります。
此の時代に於いては、封建制度の確立と共に社会人民は確然と士、農、工、商の四階級に分たれ、そのうち士は武人として又文事にも携はり、禄を食んで悠々其の職を尽すことを得、鎌倉時代以後漸次馴致せられつゝあつた所謂武士道なる一種のサムライ道徳は、此の時代に入つて其の完成を見たのでありますが、同時に幾分形式的に陥つた感もあります(赤穂四十七士の如きは道徳を遺憾なく発揮した好例である)。農、工両階級は物資の生産者として士の次に置かれましたが、商は生産者でなく「コムミシヨン」を取つて生活するものとして、最下位に置かれたのは已むを得ないことです。それ故、当代の精神文化は主として士によつて維持せられてゐた形でありますが、平和の時代が永くつゞいて、士が戦争から遠ざかつて其の必要が認められなくなり、他方に於いては富は次第に士よりも他の階級、特に商民の間に蓄積せられ、其の実力は士の階級をも動かすに至つたのであります。経済上に於いては云ふに及ばず、彼等の間に起り、彼等を鑑賞者とした芸術の如きも、始めは賎しむ可きものとして取扱はれて居たのでありますが、いつしか却つて貴族武士階級の趣味をも支配するに至つたのであります。
かの元禄時代(十七世紀後葉)なる美的生活の時代は、昔の藤原時代のそれを思ひ起さしめるものであります(333)が、藤原時代が上流貴族社会を中心とするに反して、元禄時代は全く市民社会を中心として起つたものであります。そして此の間に起つた文化こそ皮相的な外国文化の模倣から脱し、真に国民の要求から起つた日本文化であつたのです。例へば絵画に於いては狩野派の如き、支那の糟粕を嘗めたる形式的のものは、僅に貴族武士の affected taste に合するに過ぎず、真に人心の琴線に触れる絵画として浮世絵の如きものが盛んに起こり、又それが版画となつて一般に普及せられることゝなつたのであります。音楽、演劇などの方面では能楽の如き古典的のものゝ外に、新に歌舞伎、浄瑠璃の類が発達し、その他の文学に於いても稗史小説類が一代の趣味に投じ、全く平民社会の文化が上流社会をリードする形勢に立ち至りました。尤もその反対に上流社会のものが却つて富を有する商人社会に鑑賞せられることになつたのもありますが、とにかく貴族武士階級と農工商階級との文化は、徳川時代の中頃以後に於いては、対立的であるよりは寧ろ融通的となり、此の文化が爛熟の極に達すると共に、これを容れてゐた不合理な社会、政治の組織は、それ自身内部から解体の已むなきに至るのは当然であつたのであります。此の解体に関して、大なる動機を与へたものは此の平和時代に発達した学問、特に歴史の研究によつて、武家政治に対する疑惑が生じ、京都に隠退的な位置に居られる皇室と、徳川幕府との比較によつて、遂に勤王の思想が現れ来つたのでありましたが、是れだけでは未だ直に反幕府運動とはならなかつた。然るに之に更に爆発の口火を与へたものは外国問題であつたのであります。即ち今迄無理を重ねて僅かに維持して来た処の不自然なる鎖国政策の破綻であります。
(h) 開放せられたる新日本
「太平の眠をさます蒸気船(上喜撰)、たつた四杯で夜もねられず」といふ狂歌が最もよく云つてゐる様に、表面には平和に見える長夜の眠を醒した tea cup となつたのは、一八五三年北米合衆国のコンマンドル・ペルリの率ゐ(334)た四隻の艦隊が、江戸附近の浦賀に現れて、通商交通を要求したことでありました。尤もそれ以前からロシアの軍艦などが北海道辺に来たこともあり、斯かる形勢の早晩来る可きことは予期せられないではなかつたのですが、一向その用意をしなかつた処へ、幕府の首都近くに斯かる艦隊が突然として出現したことは、恰も帝都近くに敵の爆撃機が空襲して来て、今にも戦争が始まる如く、国の上下を通じて驚愕したのは無理もありません。当時わが国に於いてはオランダの学問をやり若干世界の形勢に通じて、開国の已むを得ないことを感じてゐた人もあつたのでせう。併し幕府はやはり出来るならば事なかれ主義に鎖国政策を維持したいと思つたのでありますが、さて之を遂行するには、万一の場合武力に訴へる必要を考へると、到底成算がないので、其場遁れの遷延策を講じたが、遂には心にもあらず和親条約を結ぶ外はなかつたのです(1854)。米国についで英仏その他の国が之に倣ふことゝなり、遂に三百年間固守して居つた鎖国の鉄策をやめることになつたのは、世界の形勢上已むを得ない次第です。然るに海外の事情を弁《わきま》へず、国力を知らざる空想的の愛国者派は、武家政治の我国政体の本質的のものでなく、政権は皇室に帰し奉る可きものであるといふ勤王論と結合し、討幕運動は各処に起り、国内は騒然として大混乱のうちに陥り、十数年の間政治的に非常なる紆余曲折を極めた末、幕府も遂に此の難局を乗り切ることが出来ず、一八六七年遂に徳川氏は三百年来把握して来た処の政権を朝廷に還し、鎌倉幕府以来六百年に亙つた武家政治はこゝに終局を告げることになつたのであります。而かも幕府を倒すまでは尊皇撰夷と外国を排撃する旗印をかゝげて居つた人々も、実際王政復古となつては、最早此の主義を維持することの不可能且つ不可なることを察知し、いつしか幕府の執つて居つた開国主義に転向したことは、幕府が自己の政権を保持する為めに、外国の援助を借ることをせず、挙国一致この難局に当ると云ふことになつたことゝ共に、洵に賢明なる処置でありまして、是は我が日本の国民が古来其の歴史的生活の間に屡々繰返して来た処であります。
此の王政復古と共に行はれたことは、封建制度の廃止、即ち三百諸侯が其の領地を凡て朝廷に返還すると云ふ大(335)変革で、これも至極平穏裡に遂行せられ、郡県政治の大化改新の古へに帰つたのでありますが、是は欧州諸国に於いても中世以来封建政治から脱却し、凡そ近世的政治形態を取るに至つたことゝ相応じた世界の政治的機構と相一致する所以であつたのです。此の大改革即ち我々の所謂「明治維新」なるものを一契機として、開放せられたる新日本は之より幾多の著しい経験を重ね、試練のうちに投ぜられるのでありますが、明治大帝を首とする幾多の政治家、朝野国民の懸命なる大努力により、日清戦争、日露戦争を経て欧州大戦にも参加し、僅か半世紀ばかりの間に、會て MARCO POLO が十三世紀に、“Jipangu” の名の下に始めて此の島国を西欧に紹介して以来、長い間ただ支那の東海中に偏在する不思議な小国とのみ考へてゐた処のものが、東洋諸国が殆ど凡て欧米の勢力の下に圧服せられてゐた際に、忽然として其の頭をもちあげ、やがては欧米諸国と肩を並べて其の仲間入をし、遂には東洋の一強国世界の大 powers の一として認められることになり、東洋の平和の責任は一にかゝつて我が日本の双肩にあるに至つたことは、寧ろ世界の歴史上の大なる驚異であります。
併しながら「羅馬《ローマ》は一日にして成らず」と云はれるが如く、現在の日本は決して此の明治維新前後半世紀或いは一世紀のうちに成就せられたと思ふのは大なる間違ひであります。我々が此の日本国民の文化生活の発展を、有史以前の石器時代から見て来た様に、連綿たる五千年或いは三千年の歴史生活の間に、常に大陸から高度の文化を輸入しては之を咀嚼同化して日本的のものとする過程を繰返へし/\、印度、支那の文化の精髄を殆ど余す処なく摂取した処へ、更に西洋諸国の文化を輸入して、之を東洋文化の場合と同じく咀嚼同化し、其の自然の結果として、正に東西文化の融合が最も都合よく此の島国に於いて行はれんとしつゝあるのでありまして、今日の日本を解するには過去の背景なくしては了解せられないのであります。否な過去の歴史的生活の一切を一括綜合した処に今日の日本を認め得るものであることを記憶しなくてはなりません。
(336)〔参考書〕 日本文化の歴史的発展を知るには其の著書少からざるも、一々之を枚挙するに遑あらず。筆者は此等を参考するよりも、自己の見解によつて記述せんとするに努めたり。たゞ三、四の参考書を挙ぐれは左の如し。
○濱田耕作『東亜文明の黎明』(東京、刀江書院、昭和五年)。
○西田直二郎博士『日本文化史序説』(東京、改造社、昭和七年)。
○木代修一氏『日本文化史図録』(東京、四海書房、昭和九年)。
○HARA.KATSURO、An Introduction to the History of Japan(New York.1920).
一々の史実史論に就いては煩を厭ひて参考書を挙げず。
(昭和十三年六月〜十二月)〔初出、『考古学論叢』第七〜九輯連載、京都、考古学研究会、昭和十三年。〕
〔附 記〕 此の一文は故博士が国際文化振興会刊行の『日本文化叢書』の一編として欧文で発表せられるものゝ邦文原稿である。末尾に記した様に其の全文は嚮に『考古学論叢』誌上に公にされたが、こゝに収録したものは故人の遺された自筆の原稿に拠つたので、うちに二、三の出入があるかも知れない。此の『日本文化叢書』は諸学者に嘱して、それぞれの専門の立場から日本文化の諸相を概観したものをば順次に刊行し、もって欧米人士の其の我が邦の理解に資せんとしたものに外ならぬ。博士の此の一編は言はゞ其の総論に当るものである。これが文中に往々(第290頁・第306頁・第316頁)特殊の題目について「別に述べられたのでありますが」とか、或いは「必ずや論及されることゝ信じます」など記されてゐる所以である。なほ欧文のそれには多数の図版を加へて本文の理解に資されたが、こゝには故あつてそれを収めることが出来なかつた。特志の士は同書を参照せられたい。(梅原末治)
潰田耕作著作集 第一巻 日本古文化
昭和六十三年四月一日 初版第一刷印刷
昭和六十三年四月一〇日 初版第一刷発行
定価 9000円
編集者――濱田耕作先生著作集刊行委員会