定本佐藤春夫全集第21巻 評論・随筆3、臨川書店、446頁、1999.5.10
 
〔東京市の空を渡つてゐた雁〕
(6)たらうかよほどの大群で一時あたりが暗くなるのを感じた程であつたが、その時、不思議と故知らず涙が催されるのを覚えた。全くその何故であるかはその時も解らなかつた。今もなほ解らない。しかしこの壮観に対して涙の催される思ひのあつたのは、正当な理由の有無に拘はらぬ事実であつた。単に僕の神経衰弱に因るものであつたかも知れぬ。その涙の催されるやうな心持と彼等が過ぎ去つた後の空が何やら掃き清められでもしたかのやうに爽やかに眺められたのとを今も忘れ難いものにおぼえてゐる。
 
   再び上田秋成を語る
       ――その人生観、詩歌論など――
 
     はしがき
 
 先日秋成に就て些か語つたところ幸に諸家の一粲を博し得たので、この機会に乗じてかの稿には紙数や時日の関係上書き残して置いた事どものうち二三を語り足して置きたい。尤も初期の二長編、就中「世間狙」やそれの成長し枯れ切つたものとも見らるべき「胆大小心録」や「癇癖談」などはまだ読破し得たとの自信がないからまたの日を期したい。実は彼の全集中から彼が自らを語つてゐる部分ばかりを編纂して別に「自ら語れる上田秋成」といふ稿を志し既に筆を起してみたが、これもまだ直ぐ完成されさうにもない。この稿では副題の如く彼の人生観と詩歌論などに触れるつもりであるが、主として「背振翁伝」と「鴛鴦行」との解説になるのだから羊頭狗肉の誹を受けなければ幸である。然し二篇とも言は短いが意は永く形が小さいからと云つて決して閑却し難い点はともに「ますらを物語」に劣らぬものがあり、殊に「背振翁伝」は彼が人生観を寓したものとして自信のある作と認めるべき根拠もあり、「鴛鴦行」には明に歌に就て語つた一節があり、作そのものも詩情の横溢した心にくい二篇だからこの解説徒爾でない上に、副題亦必ずしも牽強附会でないつもりである。また彼の人生観と詩歌論とのたとひ人を驚かすものが無いにしても、この閑却されてゐる二篇は秋成研究者や愛好者から現在よりもつと注目されていいと思ふから、事の序にその所以を明にして見たいといふつもりである。両篇とも首尾は具へてゐるがほんの断篇ともいふべき長さのものだから研究者や愛好者が重視しないのも無理はないかも知れないが、かの詩人作家の詩的特色の濃厚なのを珍重し珠玉の如きとは正にかういふ作をこそ呼ぶべきものと平常愛読して措かないものだから、先日の稿でも、序にあつさり片づけてしまふのを惜しむあまり、わざと書き残して置いたわけであつた。先づ
 
    背振翁伝
 
 を言はう。国書刊行会本の全集には背振翁物語とある。僕は紫影博士編の遺文の方に従つて背振翁伝として置く。それとも(7)秋成自身の呼んだ一名に従つて茶神の物語とするのがいゝかも知れない。――いややはり茶神の物語は一名で背振翁伝がよからう。一名はともあれ、物語といふよりは伝といふべき体であらう。全集の編者岩橋氏によれば七十三歳の時の作であるといふ。遺文は七十九歳の自筆稿に?つてゐる。文詞に幾分の異同があるがそれは問題ではない。僕が遺文に?るのはこの自筆稿本の篇末に記された述懐と消息とを併せ見るの便があるからである。述懐には
  老弱きより愚に物狂はしきさがにて、万にすゞろにのみ有りし。世に落はふれ十年余りこなたは、それにつきてほれ/”\と憂事のみなるを、歌や文や拙き言にまぎらはされしかど、やゝ心つきてかくて終らん事の悲しさに、此一巻に心をやりぬるも、譌言ながらになん〔やゝ心〜右○〕。(傍点引用者)
 とある以て彼が一家の人生観を寓した一篇であることを知り得るわけである。なほ述懐をつづけて――
  著書満弁註解若干編ことごと庭の古井にしづめて快しとす、咨々《あゝ》。(下略)
 とあるから、この一篇のみはその時にも古井にしづめなかつたばかりか、それをわざ/\自ら筆写して金二百疋に代へる料としてゐるのが次の寒酸な消息で知れる。
  此頃いと貧しきに、来る月の十五日には先考の五十年に瑚lが十三年をくはへて祭らんと思ふ香花何くれ供養の物もとむべきたより無此茶神の物語〔五字右○〕、この比の手習也、金二百疋にかへて賜はらばや。ゆめ/\大沢【門人なりとぞ】にな告げたまひそ。あなかしこ。
 とたとひ註釈書の類にもせよ古井にしづめた人がわざ/\筆写して金に代へようといふのだから自信のある作であつたと考へて間違なからうと思ふ。
 それでこの寓話といふのは、よき師を筑紫に求めようと雲水に出た僧が春の山かげの道で渇がはげしくなつたので岩に滴る水を掌に受けてゐるとうしろからも少し進めばいゝ泉があると教へて案内をした六十位な一翁についていゝ泉のそばへ行くと簡素な一屋がある。翁は兎毫の白き?――白磁の浅い茶碗(?)を取出して貸し与へた上、いかに清くとも水は害があるからと茶を烹てくれた。色も香りもよくあまりうまかつたので僧は三碗を重ねた。その色黒く目鼻あざやかに達者げな翁と僧との問答が一篇の主旨である。
 「かう人里を離れたところに心のどかに住んでゐられるのはまことに有難い」
 「住みついて幾久しくなるので人間を恋しいとも思はなくなつてしまった。時たま里人が来て物を言ひかけるが答へないから?じやと指さして笑つて帰る。山も深くはないから木立もあまり茂らず、小石まじりの土地には荒い石といふ程のものもなく日当りがいゝので家のまはりに茶の木が生えたのを、毎年春になると退屈しのぎに摘む。今進ぜたのは去年の分です」
 「何時の年、何所のお方が、こゝがお気に召して住居を定められたものやら」
 「山中には暦もなく、鳥の声草の木の萌え出すので時は知れも(8)するが別に数へてみる用もないから忘れてしまつた。わが生れた土地は遠く海の向ふであるが、この国の高僧につれられてこゝに来た。宋といふ時代の事であつたが、わが祖先は葉氏といふ者で帝に仕へて一度は用ゐられたが間で一度退けられて、おしまひにまた上げ用ゐられた。自分をつれて帰られた高僧はこゝで一休みして又都とやらへ行かれた。その時自分の兄弟たちも高僧につれられて行つて、後に便りで聞けば思ひの外世間に重んぜられ今こそ祖先の名を上げるべき時節である、早く出て来いと言つて来たけれども、人の世の名誉といふものはそれに牽きまはされてうるさいものだと聞いてゐるから返事もしてやらなかつた」
 「それでは唐土の方が意外にもこゝに住んで居られたのか。どうぞめづらしいお話をお聞かせ下さい」
 「いや向ふにゐたころにもあまり世間に出なかつたのでお話するほどの事もありません」
 「まことに尊い事ではある。儒仏何れの道に入られてそんな悟りを開かれたのかどうぞ幾分なりとお教へ下さい」
 とかく背振翁の口を藉りて秋成は言ふ――
  仏といふは本師の旨を今はさまざまに説きて千またに分れしとや、あな煩はし、儒も亦智略文史理数任侠の心々と聞くには、吾は道徳の儒を修したらんといひし人もありとや、さる人の名、後にかたりも伝へず、一条ならぬ道々を底なき耳に聴きて何せん、ただ此門の岩井に心澄まされて生きんとも死なんとも思はねば、寒くも熱くもあらず、
 とある。儒も亦以下のあたり何やら故事でもありさうなが寡聞には思ひ当るところもない。かたがたこゝらが内容的に最も重要らしいと思つたので原文のままで引いて置いた。さて前の如く聞かされた僧は頭を地につけて手をすり合せ九拝して「仏とは寔にあなたの事でございましたらう。世に名高い師も、これ程有難い事は仰せられなかつた。お膝もとにお仕へして修業を致したいものです。しばらくお許し下さい。」
 「いや/\無用だ。今言つた外は別に深い心もない。足を休めたら早く出て行くがいゝ」
 「はい。畏りました」
 と僧は心を残して出た。
 その後再びこゝへ尋ねて来てみると、以前の泉の水は湧きかへつてゐたが、庵のあつた跡には茶の木の花が今を盛りと咲いてゐる外には何物もなかつた。さてはあの翁が茶神であつたのだ。さう言へば昔栄西禅師が宋から帰朝の折茶の実を多く持ち帰つて先づ背振山といふところに植ゑた。あそこがその山であつた。都に持ち帰つたのは嵯峨帝のおんあとに従うて主として山城近江の二国に植ゑられたのを兄弟の名誉と言つたらしい。甚だめづらしい事だと話したといふのを聞くがまゝに書きとゞめた。といふのが話の底を割つたところである。植物の精の話は和漢に古来多いし、再び行つて見ても見つからぬとかその跡が空しいとかいふのもこの種の話の型であるが、泉の水が湧きかへり茶の花ざかりといふのが趣深く覚える。「土のうへに山菅のむしろ二枚しきのべ、茶竈ひとつつきたる外には物も見え(9)ず翁小柴折くべくゆらす」などゝあるあたり南禅寺常林庵後園にあつたと聞く鶉居の有様などを写したものか。また兎毫のしろき?といふのは白磁の?といつて果して当るかどうかよくは知らないが、茶人としての秋成が「西土明世の製造白磁なるもの宜し」と記してゐるのをも見る。何れにせよ、彼自ら文中の茶神を以て自任せぬまでも、この一篇にはその趣味を説き更に自己が人生観を寓してゐたことは前記の自筆稿本篇尾の述懐に明かであつた。且つ儒仏何れの道にも囚はれず悠々自適して隠逸の生涯を茶を友として楽しんだ彼でもあつた。その抱懐する人生観は必ずしも高遠なものではなく、老荘の思想に近い当時の隠逸文人の型の通りのものではあつたが、或る程度まではそれを生活で実現して見せてゐたところのものを、この一篇に寓してゐるのを僕は奇とする者である。文品のその思想を盛るにふさはしいのを喜ぶのは更めて説くまでもない。つゞいて
 
    鴛鴦行
 
 の一篇を見る。背振翁伝を秋成が支那趣味を発揮した作とすれば、この方は歌人としての余斎のみくにぶりの古典趣味を豊富に示したものである。
  いにしへの人に我あれやさゝ浪のあれたるみやこ見ればかなしも
 さゝなみの国のみ神のうらさびてあれたる宮こ見ればかなしもの作者高市|黒人《くろうづ》がこの咏をなした時の旅を記したものである。黒人を壬申の乱に敗れた大友皇子の麾下に亡んだ一族とし、彼が公の御使して近江美濃尾張を歴て遠江の国へ行く時愛妻の小弁にせがまれてそれを男装させ途中から引きかへす時の用意にと老僕をひとり従へて行つて三河の二見といふところで夫婦が別れに臨んで彼は
  妹もわれも一つなるかも参河なる二見の道に別れかねつる。
 と咏むと妻も
  参河なる二見の道に別るればわがせも我もひとりかも行かん
 と歌をかへして別れを惜しむところまでを記したといふだけの単純なものではあるが、父の戦死の場所を訪ひ父の仕へた、さうして今はその敵の朝廷に仕へてはゐるが彼もひそかに心をよせてゐるらしい大友皇子の宮居の跡の荒れ果てたのを見て一歌では足らで二首までも悲歌するといふところ、さては夫の父や夫の常日頃敬慕してやまぬ朝廷を弔ひたさに男装して夫の旅に従ふ妻、この妻も才長けて吟味をよくして夫に応酬しまた夫に歌を問ふなどの趣に秋成のロマンテイシズムを窺ふべきものの内蔵せられてゐるところが甚だ多い。この一見平板な架空的紀行文が内部に屈折するところの効果によつて好個の短篇を成してゐるのである。単に廃都といふだけでも詩情をそゝるものがあるのに、これは父がその都のために力を尽して終に命を堵した戦場だといふのだから哀切の情は更に深いわけ。また夫妻相携へての旅路だけでも興味があるのに公務を帯びた夫に従うての忍びの旅は、水に臨んだ廃都に夫の父を弔ひ度い志から出てゐる。その上に彼等は詩人である。老僕の彼等に従うて彼等(10)の語るのを聞いては「相思ひ相離れぬ中らひには、うらなく心ゆく物かな」と歎じてゐる者がゐる。かくの如く仔細にこれを点検して来ると平板ななかに層々相倚つて趣を添へる事甚だ緊密な構想を知つて作者の手法の非凡を知るであらう。寔に哀切優婉なこの一篇に
  あはれ/\昔の人は心にうらなく誠の限りもてつかへしものぞ、おほやけの御使ならぬには男もわたくしざまには旅ゆきせず。さるは出で立つ毎に面白き所に来ては、此浦山のたゝずまひを父母妻子に見せましなど打歎きてよめるは誠の限りなり。
 の尚古的感慨から更に筆を転じて現代の風俗に及び治れる御世の民草らが云々とそのつもりさへあらば夫妻相携へて好き勝手なところをも歩きまはれる恭けなさをのべまた三度筆を転じて「誰も若からんにはと身におはぬはかな言をぞ打出づる、かへりては人のわら|へ《ママ》にこそあれ」と結んでゐるのは、この篇が作者の老後のありのすさびと思へば一面今は世になき妻を率て或は嵯峨に或は城崎の湯に遊んだころなどの思ひ出でもあらうかと笑ましいが、無論これ等の結末はこの一篇では何等重要なものではなく中心点は一篇の中段をなすあたりにある、海路を尾張の国へ越ゆる時の
  桜田へたづ鳴き渡るあゆち潟汐千の方にたづ鳴きわたる
 と黒人《くろうづ》が咏ひ出でたのに小弁が聖武帝の御製
  吾妹子にあごの松原見渡せば汐千の方に田鶴なき渡る
 や赤人の
  和歌の浦に汐満ち来れば潟をなみ蘆べをさしてたづ鳴き渡る
 やまた読み人の知られぬ
  難波潟汐千に立ちて見渡せば淡路の島にたづ鳴き渡る
 などのを思ひ出して夫の今の咏も「一つ心のなかめ草と承るはおろかなるにや、そと教へ給へ」と云つたのに夫の黒人は答へて
 「さればよ歌は物に臨み時に当りておのがあはれと思ふ事を声永く歌ひ出《い》づれば同じながめ同じ有様のあるべきを、さきに誰かく言ひしかば我は少し引きかへてなど思ふは心せばしや。千くさの花の色、鳥の声はいつも変らぬを人の心のさかしきに曲り撓みつゝ思ひを深め我勝らんとする程にはて/”\よからぬ巧みをさへなし、人をおとしめ我もおひつきて亡ぶことの悲しさよ」
 といひ、更に語をつゞけて
 「歌はしか(万の事を精細に述べる)のみならず、ことわりだに立ちなば歌ふに永くも高くも聞く人の心をなごせるは、しらべのよろしき也、言ひすくめて我さかしからんには田長山賤のなまさかしきたぐひに成りもてゆかんうたてし」
 と教へさとし、なほその上にも「ひと歌に心ゆかねばいかばかりも歌よみたらめ」と連作をも認め――その一例は既に篇中で黒人自身が「いにしへの人にわれあれや」と「さゞなみの国のみ神の」との場合によつて示してゐる等の奇法《トリツク》によつて試みた歌論――それはごく素朴な自然発生的なものに過ぎぬが、景(11)を得て情を言ひ、更に理を以て、門生に等するが如く妻を教へて「物言はんと思はゞこのことわりを忘るな」と懇に歌の本旨を説いてゐるあたりをこの篇の頂と見ようとするのである。さうして
  秋の雲風にたゞよひ行くみれば大はた小幡いもが栲《た》く領布
 といふ自作を『さてよいといふたは古言にて等類がないと思ふたのと、調が高いといふたのじや、「秋風吹白雲飛」といふ句を面白く味つけたのみじや』と放言して憚らぬ秋成の詩歌論は「金砂」や「秋の雲」「つゞらぶみ」其の他の諸巻にも無論多く散見してゐるがそれを最も懇に端的に述べてゐるのは鴛鴦行の黒人が妻の小弁に教へてゐる言に尽きてゐるかと思ふのである。げに作中の面白いところで面白い人達によつて詩歌を語らせたと心憎い極みである。
 それにしても多くは高市黒人の伝は不詳とされてゐるのに、秋成は何によつてこの物語を構へたか。万葉の集に見かける歌を主にしてその他は心ゆくまゝに妄りに想を馳せたのであらうか。一かどの万葉学者たる秋成としては一とほり根拠を持つてゐさうに思ふがこれ亦寡聞にして明にし得ない。たゞ秋成自身の万葉評釈の書たる「金砂」(四)には黒人とその妻との「妹も我も」とそのこたへの「三河なる」の歌とを併せ上げたところには「公事にてや〔右○〕くだりけん〔二字右○〕」とどこまでも推測の体で「女をみそかにこゝまで具したれど、みそか事なれば先都にかへしつべく、別れによめる。」と何やら自分の物語を逆に根拠としさうな言葉つきである。尤も同じ書の(五)では近江の荒都や大友の皇子の事などは甚だ興を覚えたげに必要以上に長々と書いてゐる。或はこの時の感興が溢れて「鴛鴦行」一篇となつたのではあるまいか。もしさうだとすればこの篇も「金砂」と同じく文化元年彼が七十一歳の折の作であらうか。近江の廃都や大友の皇子は正しく彼をして一篇を搆へさせるに絶好の話柄であるのにこの側面描写的な一短篇ですませてしまつたのは憚るところがあつたか或は彼も老来懶かつたのでもあらうか否か。
 
    春雨物語の製作年代の一憶測
 
 筆の序に「目一つの神」の製作年代に関する一つの憶測を逞しくしてみよう。「目一つの神」は彼が自らそれに擬したげな筆つきの一篇であつたが、或は隻眼の明を失つたのを自ら憫み嘲つて己をかく呼んだものではなからうか。然らば心理的に見て一眼の失明からさう年を経てからではあるまいから彼が左明を失つたと云はれる寛政二年彼が五十七歳の頃の作ではあるまいか。偶、「楢の杣」のうちに「足曳の病に繋かれて天にます神の目一つ〔五字右○〕さへ云々」の語のあるのを見てこの語が「目一つの神」と関係ありさうに思へたので、「楢の杣」の執筆年代を見てみたが、「寛政庚申の夏の初め云々」とある。寛政庚申は十二年に当り、秋成六十七歳である。もつと考へを確めて、せめてこの一篇だけでも明になると、春雨物語の製作年代を推定する上の参考にもならうか。
 
(12)    「つたなし、あさまし、」と秋成申す
 
 余斎――上田秋成の歌論の大要とも見るべきものがその老後の一作鴛鴦行のなかに見えてゐることは先に早稲田文学で紹介して置いたがそののち胆大小心録の下の巻の一節にもほゞ同じことを述べてゐるのを見た。別に独創的な論といふではないがさすがにおもしろい節はあると思ふからうつしてお目にかける。果して現代の作歌者の参考になるかどうかは知らないが、現代の歌人も時たまにはちと古人の言説を見るのも無駄ではあるまいとの老婆心と兼ねて徴せられた拙文が間に合はぬので責をふせがせて頂かうといふつもりである。
秋成曰……
 国風も三十一字に必と定まりての後は秀歌少きは、あし曳の山鳥の尾のしだりをのと文装を加へてながながし夜の独りねのなげきの意をくはしくはつくさずありし、五百年来はただ心をつくして思ふかぎりを言はんとす、賤奴の物語り聞くにひとしく、いとくだくだしくうたてし、情の思ひたえずして長きは幾百言にもあれ、短さは我家の方に雲のたちくもといひて、心やりはせられたり、孔子立2川上1、悠哉々々、逝者如此、不v舎2晝夜1、と申されしを、しらずよみに、人丸のいさよふ波のゆくへしらずもといひて思情を尽しぬ、国語言多きにもかく云て夫子の字数より少くてわづらひなし、文字の少きを長はへていふは、詠曲の興にありて、今の歌よむ人はえいはぬよ、つたなし、あさまし、
 春夫蛇に足をそへて申す、秋成の言は要するに三十一文字全部分に意味を押し込まではやまぬ詠みぶりを風情にとぼしいものと誡めてゐるのである。秋成は同時代の歌人たちをこの点から一口に「今の歌よむ人はえいはぬよ、つたなし、あさまし」と片づけてしまつた。果して我等が「今の歌よむ人は」はいかがにやあるらむ。
 
   蘇曼殊とはいかなる人ぞ
 
 先月号本誌座談会記事の末節に見えた蘇曼殊に関する記事は、一片の座談の(それも忙中で十分加筆し得なかつたものとは云へ)我ながらいかにもいいかげん千万なもので読者諸氏に相済まぬ。この機会を逸しては再び彼を語るに適当な機もあるまい。かくては永久に誤を伝へる惧があると、急ぎ一文を草して前号談片の不備を補ひ誤謬を訂正致させて下さい。何分にもあまりはつきりしない彼が身の上だけに今後とてもどんな新発見によつて訂正を要する事実が発生しないとも保し兼ねるが当分は間に合ふ程度に紹介して置きたいものである。
 蘇曼殊の名が我国で喧伝されるに至つたのほほんの昨今です(13)し、支那に於いてもその名が一般読書界のものとなつたのは一九二七年その全集五巻――別册一巻――の出版があつて以後の事と思ふが、自分はその全集の出る二三年程前に、当時東京の高等師範の英文科に留学中であつた田漢から一夕漢英三昧集を示されて、その著者蘇曼殊は日本人で近世支那文学史上の一彗星として近ごろ益々名声を加へ近く全集刊行の企てもあると聞かされた。その時、もつと詳細を知りたいと思つたのに田漢もあまり詳しくは教へてくれなかつた。最後に実はよく知らないのだと白状して、折角珍らしくも神田で手に入れ得たといふその黄色な表紙の三六版の薄手な册子を贈られた。同時に、彼に関しては支那に於いてと同様――或はそれ以上日本に於いて知り得るところがある筈だと思ふから注意して置いてくれとの言葉もあつた。それ以来僕は彼の名を注意し、後に全集をも註文して置いたが、全集はまだ出来てゐなかつたのかそれとも取次店の都合からか、数年後まで手に入らなかつた。やつと手に入つた全集も最初に目を通した限りではその文才に服する程度で魅了されるといふところまで行かなかつたので代表作と聞く「断鴻零雁記」をさへ貧弱な読書力を傾けて通読するといふにも至らなかつた折から友人の増田渉が東京帝大の漢文科を出て上海に游ぶと紹介状などを求めに来た時の話の序に手もとにあつた蘇曼殊の著作を示し、一日本人とのみ聞いてゐるが全集巻頭の小伝などを一読しても少々腑に落ち兼ねるところもあり彼の地に遊んで機会を得たならば彼についても調べて置いて貰ひたい。何しろ田漢から聞いた位では日本で調べる手がかりにも何にもならないのだからとこれを委託して彼を上海に送つた。彼は彼地で魯迅の知遇を得て蘇曼殊に関しても多少魯迅から聞き知つたところもあるが一向まとまつた材料ではない。ただ彼に関して知りたければ寧ろその全集に就いて見るがいいと魯迅がわざわざ新らしく買つてくれた全集を旅中のつれづれに愛読したとこの篤学の士は専門家らしい熱心でその読後感などを述べて一時忘れてゐた蘇曼殊全集を再び自分に思ひ出させたものである。今度必要があつて、当時の話をもう一度聞きたいと恰も帰郷中の彼に手紙で照会すると、蘇曼殊に関する一綴り数葉のノートを送つてよこして先年の報告に代へるといふことであつた。一読すると簡単ながら要領のいいもので、就中、陳独秀と曼殊との対比論や章太炎と曼殊との関係、魯迅の語つた曼殊など面白い節が多かつた。しかし伝記的事実の殆んど全部は全集巻頭の柳亜子の「蘇玄瑛新伝」や柳無忌の「蘇曼殊年表」を骨子としてそれに著作中の文字を傍証的に引用したものであつた。従つて柳父子の研究が一新した今日では通用せぬ部分も間々あつた。自分は甚だ幸ひにも熱心な研究家池田孝氏の好意によつて柳亜子の重訂蘇曼殊年表を参考して増田氏の説を訂正し多少の私見を蛇足としてこの一文を編み得る次第である。先づ記して前記諸氏に負ふところの甚大を明かにする。但、悲しむべき事には時日は切迫してゐるし既に大半の編輯の終つたところへ割込むのだから紙数にも制限があるから、今は蘇曼殊の身の上を主として述べ、幸ひにアンコールのあるまではその著作の方面には多く渉らない予定である。尤もその代表作で自叙
 
〔文学の目的〕
(80)して普遍性を蹂躙してゐる代物ではなく、寧ろ普遍性のなかに
包括されようと努めてもそのなかからどうしてもはみ出してしまふ類のもので好んで異を樹てなければ個性のかゞやきのおぼつかないやうなのは個性といふには足りない程のものであらう。国民性にしてもさうである。簡単に国際化しきつてしまふ憂のある程の国民性ならば別にさう大して尊重するに足りないものではあるまいか。同じやうに文学の反抗精神とても、反抗のために気を負ふのではなく寧ろ、その順応に努めてみてもどうしてもそのなかに溶解しきれないで、その時代や社会に孤立した精神こそ大きいので、さういふ精神の齎した現実の歪曲だけが本当の大文学なのであらう。さうして僕が既に述べたやうな好んで時代や社会に挑戦してかかつてゐる文学は、そこに軽んずべからざるものの幾分は見ることが出来るとしても、やはり時代や社会から逆に作用されてゐるものといふ矮小さを否むことが出来ないであらう。
 
 ともあれ文学の目的は日常生活に即してそれに取材しながら日常生活とは一見似ても似つかぬものを、人間生活に没頭してそれに取材しながら人間生活とは似ても似つかぬものを、創造するにあるのではないだらうか。この超現実の喜びは芸の神わざである。人間が共有する夢であらう。この夢は人々をして忘れてゐた各の生活を考へ直させた結果、その日常生活をその人間性の活動を新鮮に洗濯して生活に喜びを与へ、更生を思はせるであらう。文学に美術にこの作用がなかつたならば芸術は遂に卓上の新らしい一茎の花よりも無意義で無価値な遊びにしか過ぎないであらう。
 文学を罪のない品のいい遊びと考へられないでもない。しかしこの遊びはその面白さのために人間を人生の試験管のなかへ誘ひ込むものである。文学者はその試験管のなかからもう一度でも二度でも、逃げ出して更に新らしい遊びの種を思ひつく。それは毬に或は自分の尻尾にじやれつく猫の遊びの一種のやうなものとも考へられるが、これを文学の目的と決めてしまふと、文学があまりに小乗に堕してしまふ。所謂大衆文学のやうにではなく、人々とともに文学を楽しみ、一切の功利主義の見地から放れて文学といふものを人生に有用なものであらせたいといふのがこの頃の自分の願ではあるが、この真意を人みなに伝へることも力及ばぬし、それを作品の上で具現することは更に及ばぬ。日暮れて途遠しの感に堪へぬ。
 
 文学そのものの目的ではなく、文学を一般人に普く喜び味はせたいといふ自分の希望の目的に就て最後に一言を加へれば、文学の愛好は香水の愛好よりも人を匂やかにすると思ふ。尤も安香水の愛用は人格をやすつぽくするやうに品劣つた文学の愛好もその愛好家を品劣らせると思ふ。そこで自分は古典の愛読を人々に勧誘してゐるが、その別世界に親しむだけの根気なしに飽きてしまふらしい。(古典の読み方に就ても管見はあるが今はその説には及ばない。)
 
(81)   椿巻煙草
 
 我郷熊野人は昔から女でも盛んに煙草を燻したと聞く。勿論、山中であるから俗に「ブト」といふ虫がゐて、それに刺されると赤い斑点が出来非常に痒い。山中の此虫の多い処に行くと目の前を飛び廻つて小うるさいものだが、煙草を吸ひながら行くとそれが来ないといふのである。こんな事から考へると莨といふものは本来かういふ実用から前人が用ひ創めたものではなかつたらうか。
 
 四五十年前までは男女共かういふわけで当今の人達より煙草を多く用ひたものであつた。それは自家で自由に栽培することが出来たのと、又山野が今ほど開発されてゐなかつたので、防虫の必要も切実であつたためであらう。自分がまだ十歳かそこらの頃、裏庭の荒地の片隅に偶然莨が生えたのを見た事があつた。父が発見してこつそりと教へてくれたが当時は無論煙草が政府の専売になつてゐたころであつたので、勝手に庭などに栽培することは許されてゐなかつたものである。父は不思議がりながらも極秘にしてゐた。それでも抜いてもしまはないで残して置いたのは、花を見たいと思つたのではあるまいか。尤も父は自身煙草を口にする人ではなし、花を見たいからといつてわざわざ国法を犯すほどの勇気のある徹底した風流人でもないから、この煙草は風に運ばれて来た種でも偶然ここに落ちて発生したものと考へるが、父が病院を経営してゐた当時の事で病室には山奥から来て入院してゐる患者やそれの附添人が絶えない頃であつたから、それ等山間の民で国法をまだ心得ないのが居て裏庭の寸地を利用したのであつたかも知れない。原因は不明だつたが一尺か一尺五寸位にのびた莨を見た事とそれを人に語ることを禁じられてゐた記憶とは確に残つてゐる。しかしその花を見た覚えはないから、私達父子が発見すると間もなく草は見えなくなつてしまつたものらしい。
 ここに熊野人独特の方法として煙草は新鮮な椿の葉で捲く。葉柄を短くつまみ切つて、それを中軸にして捲いた円錐形の尖端に刻み煙草をつめるのである。これを郷人は柴巻と呼んでゐる。この奇習は今も中年以上の熊野人の間に尚残つてゐるからきつと旅行者を驚かせる事と思ふが、一旦この習慣を得た者は煙管や紙巻などに代へる気にならないといふのである。椿の葉の焼け焦げる香が莨と雑つて特有の香気を発する上に、適度な熱さがその味を助けるといふ事である。
 郷土には古くからこんな狂歌がある。
  熊野人みんな平家の公達か
    青葉くはへて口はあつ盛
 柿園主人加納諸平大人の熊野雑詠にも
  山がつが煙草吸ひけん跡ならし
    椿の巻葉霜に氷れる
(82)といふのがある。
 ここまで書いて気がついた事だけれど、柴巻の煙草は、この歌でみてもわかるとほり山中で捨ててもその中だけが燃えて外の椿の葉は人が吸はなくなると、燃えないで残るものらしい。してみると古来山林の多いわが熊野の地方で柴巻煙草が行はれ出したのも無論その味や趣を好んだのではなく寧ろこの実用からの考案に相違ない。すべて習慣は決して故なくしては生じない。単に一片の趣味や嗜好から生じたものは一時の流行にはなつても習慣にはなるまい。習慣のなかで後に第一義的な意味を失つてその趣味や嗜好だけしか残らなくなつたものは当然消失する運命にある習慣であらう。しかしこれも煙草位になると、新に第二の必要が生じて捨て去られなくなる。今日煙草の必要とは何か、それは昔日の如く害虫を防ぐのではなく心の害虫ともいふべき退屈を防ぐもので、久しい習慣が既に一種の心理的必要品となつてゐると見るべきものであらう。話が理に陥ちてしまつたが、先年家大人が茶後の思ひ出話に、六十年ばかり前隣家におこうといふ婆さんがゐて、陸蒸気といふニックネームが通り名であつた。道を行くにも大きな柴巻をくはへて盛んに煙を吐きつつ往くからださうである。それからずつと後年の事であるが同じく郷土の某女の甥が米国から帰るといふので横浜まで迎へに出た。その序に東京を見物させて貰つたのはよかつたが、さあ東京へ来て柴巻が吸ひたくてならないが椿の葉が得られない、公園に連れられて行つて見廻したが椿らしい樹は見当らない。下草の八ツ手を見つけてせめてはそれでも代用してみたらと思つて採らうとするとアメリカ帰りの甥が以ての外と制するので、どんなご馳走より柴巻が一服吸ひたいからと訴へても公園の樹木を傷けるやうなことは決してなりませんと聞かないので、やつとお廻さんにお願してみて貰ふと、何にするのかと問はれた。甥坊もまさか煙草を吸ふためといふのもきまりが悪かつたと見え、実は私の叔母ですが「ヒステリー」でこれを発しますと木の葉で莨を捲いて吸はなければ治らぬので用意は致して来ましたのに已に尽きましたと申して許され八ツ手の葉をもらつてやつと一服したといふ事であつた。
 又郷人で関西きつての大富豪の総支配人になつた人がゐる。その母堂が晩年大阪へ移られ、子息の孝養で結構に過された。申すまでもなく名にし負ふ天下の富豪の総支配人の北堂何一つご不自由のあらう筈もない。と人が羨むにつけても旧里からたまに大阪へ母堂のご機嫌を伺ひに出る親戚故旧等はそのおみやげに智慧を絞り枯した。すると或る煙草好きの老人が考へた。この人自分が以前大阪に居住した折椿の葉がほしくて困つた覚えがあつたとかで、一つあれをと用意して贈つた。処が御母堂が大変喜ばれて、能うまあ気がついて下された。こればかりは大丸にも高島屋にも売つてゐない。さりとて庭園の椿の葉をもいで煙草を吸ふやうなはしたない事も出来ない不自由。又まさか椿の葉を小包で送れと国元へいつてやるのもどうかなり、と案に違はず頗るのご満悦であつたと老人帰郷して鼻をうごめかしての土産話であつた。
 熊野では菓物や駄菓子を売る店では椿の生葉で、大形の若葉(83)でもなく、又古くもない、言はば年ごろなのをよつて、十枚か二十枚(まさか一ダースといふわけではない)づつをそろへて藁で束ねて売つて居る。他郷では到底見られぬ商品である。自分が七つ八つの頃には五厘位と思つてゐたが今では弐銭位でもあらうか。
 
   徳島見聞記
 
     モラエス小伝
 
 葡萄牙文壇の最も異色のある名家(文豪といふ語は近ごろ安つぽいから)ウエンセスロウ・デ・モラエス(Wenceslau de Moraes)を追慕し、日本とその精神とを国外に理解せしめたその文徳を頌揚感謝するための催しが、その埋骨の地徳島市に催されるといふので、僕も、文芸懇話会の松本氏の勧誘により列席と決め、故人の代表的著述『日本精神』の訳者花野富蔵氏といふ絶好の同行者を得て急遽出発した。
 既に岡本良知氏その他の紹介によってモラエスの名ぐらゐは知つてゐたが悲哉、その語に暗いために著述はまだ見るに及ばず従つて小泉八雲同等或は以上に日本精神を体得し国外に紹介した外人との評判の真意を知るよしもなかつたのは我ながらもどかしい事であつた。乃ちこれを好機に徳島に行つて故人に関する見聞を博め、且つは追々に訳出されると聞くその著を通読したならば、せめては幾分かこの埋もれた連城の美玉の真価を発見するよすがともならう。彼が居住の地、埋骨の地たる徳島に順礼して之が記を作らうとするに先だつて、せめて予備知識の一端にもと与へられた徳島県学務部の湯本二郎氏の著や少年時代から故人に親炙してゐたといふ花野氏の訳著――就中、本文は旅窓の友として残し先づそのあとがきを成すモラエス伝などを参照して彼の生涯の輪郭だけを明かにしたから、細部は事にふれて補ふ機会を待つとして不取敢簡略極る小伝を掲げて徳島見聞記の序に代へて置かう。
 
 一八五四年(わが安政元年)五月三十日ポルトガル国リスボン市に生れた彼は十七歳で歩兵第五聯隊一年志願兵として八月二十五日に入隊した。彼は一ケ月後の九月二十五日に特別士官候補生に任命された。翌七十三年リスボン高等工業学校で海軍兵学校の予科を修了し更に七十五年七月二日二十一歳で兵学校を卒業し十月二十一日少尉を拝命し一八八六年四月卅日に大尉に任官されてゐる。この間に彼は東アフリカモサンビツケに赴任して二年半足らずをその地で過し、リスボンに帰還後再度モサンビツケに赴任し同地を経て南洋葡領チモール島に赴任この地に二年ばかりゐて本国に帰還後三度モサンビツケに赴任して今度は約一年でリスボンに帰り、一八八八年二月海軍輸送船インデア号にて始めて支那に来航、二三年滞在してゐる。彼は年三十三四歳に及び、我国は明治元年になつてゐた。一八九一年(明治二十四年)八月軍艦テジヨ号の艦長としてリスボンに
 
〔日本文学雑感〕
(102)たい事はもう書けませぬが拝眉の機を期しませう。多くの事どもを考へさせてくれ、また時をり再三の繙読を以て慰めしめるものを与へられた貴君に感謝し尚ほ『日本夜話』や『おヨネと小春』『茶の湯』などをも早く見せて下さいとお願ひいたします。不尽、
 
   法然上人像は描き難し
 
 拙作、掬水譚に関して何か書けといふ御下命ではあるが、自作に就て吹聴がましい事を記すのは好ましくないし、註釈や弁解になるのも同様に面白くない。しかし書けば何れそのうちのどれかになる。いや多分三つを兼ねるやうなことになるであらう。これはやはり何も言はないで置くのがいいといふのもあまり自信がないために相違ない。それ故自分の事はやめて拙作には過ぎもののあの立派な挿画をして下さった小杉放菴が法然上人の御肖像が描きにくいと話してゐた事でも記して見よう。
 放菴の曰く、「上人の御肖像といふものは画に描きにくいね。今までの絵巻やなどを参考にしたり文章で見たりしても、なかなか上人らしくならない。高僧とか、哲人学者とかいふ型の相貌ではない。悪くすると平凡な田舎の大地主だの政治家などに似たやうな顔になつてしまひさうでむづかしい。頭の形はまづいいとして、目が金色の光を放つてゐたと聞かされてもこれはどうも絵にならない……」
 と、ほんの一場の笑ひ話であるが、悪くすれば平凡田舎の大地主や政治家などの相貌になつてしまひさうだといふ放菴の言葉には頷けるものがある。といふのは所謂学者や哲人などのやうな特殊な風貌ではなくて平々凡々たる相貌でゐて、その間に一種粗野ならぬ気魄と権威との光輝が発せられてゐたので、目に金色の光があるといふのも頭の異相といふのも要はこの曰く言ひ難い精神力の表現に外ならぬもので、これはやがて先方の精神からこちらの精神に通じて来る電波の一種のやうなものではなかつたらうか。さうしてこれが無かつたなら、或は放菴の申す如く、上人は一見田舎の大地主のやうなゆつたりとした長閑なところや政治家などに見かける太つ腹な動じないといふ泰然たる一面などが確かに感ぜられるからである。それ等のものが円満に抜きさしならないやうに溶け合つて気品と霊光とを発散してゐたらうといふ風に自分にも感ぜられるのである。それをほんの外面的な絵画に写すのはいかにも至難であらうと察せられる。そこへ行くと文学といふものは不確かなだけにこんな場合にも目は黄金の光を放つなどと記して読者の想像に任せて置くといふ便宜が多いところに多少絵よりはやさしいところはあるが、しかし性格として上人のやうなのが最も描きにくいといふ点では正しく放菴と同歎を発せざるを得ない。自分は殆んど上人に就ては何も描かなかつた。その周囲を少しづつ描いて中央にあるものを暗示するより方法がないと思つた。卑怯の誹はあらうがこれが唯一の方法と思へたからである。旧く伝へら(103)れてゐる頭光踏蓮《とうくわうたうれん》の事なども皆この描きにくい曰く言い難い霊的な発散物を伝へようとする手段であつたと思へる。あの顔の神秘的な伝へを十分に生かして上人伝を描く事が出来たら定めし面白からうに自分は力の及ばぬのを痛感した。十六門記にはこの霊光が幾分かあると思ふ。それを、自分が書き直してゐるうちに失はれてしまつた。放菴は古来の絵巻にも、推服すべきものはなかつた。ただ大和絵同好会複製の何とか(はつきり覚えない今度十分に聞いて置かう)はまだしも幾分よかつたがといふ話であつた。
 十六門記が上人の霊的な発散物を伝へてゐるといふのも筆者が上人に親炙してその発散物に打たれた事があるおかげであらうかと思ふ。
 掬水譚は原稿紙にして二百五十枚位なものだけれど自分の不敏のために、設計を誤つて間口を広げすぎてあの枚数に納まり切れなくなつてしまつた。あれだけに納めるには他の人物は一切やめて月の輪殿と上人とだけを描いたら或は効果が上つたであらうと途中から気がつきはじめた。或は熊谷や津戸やもつと非智識的な阿波介や、耳四郎のやうな弟子ばかりを主として聖フランシスの「小ささ花」のやうな手法で上人を伝へるのも一方法であらうか。何も言はないつもりでゐながらやつぱり語つてしまつた。この二つの方法に気がついた位が拙作を試みた失敗の賜物であつたかと思ふ。
 放菴の談を伝へて真意を誤つてゐなければいいがと心配しながら筆を擱く。
 
   秋花七種
 
 秋の随筆をとの求めに応じて題を探つてゐると、偶々日日紙上の新七草の賦のうち辻永氏の秋海棠が出てゐるのが目についてこれに就て書いて見たくなつた。日日紙のこの企はそれが伝はり聞えた最初から興味を抱いてゐた。それは必ずしも気の利いたプランだからといふばかりでなく自分の花痴に近い性情のためであつたらう。時雨女史が雁来紅を挙げたと聞いて、自分は先づ心ひそかにコスモスをと思ひ、次いで曼珠沙華を逸したくないと考へた。コスモスの方は支持者が多からうから、これは必ず何人かが選ぶだらうと安心してゐたのを、果して入れてゐるのが菊池氏であったのも成程時代の好尚を知るに敏なる哉の感があつて頷ける。それよりも必ずと力瘤を入れながら少々心細いものに思つてゐた曼珠沙華が斎藤茂吉氏によつて加へられてゐたのは寧ろ意想外の喜びであつた。尤もその人が斎藤氏や北原白秋であつて見れば一向意想外な事もない筈だけれど、最初新七草を選ぶ人のなかに斎藤氏が入つてゐるとは知らなかつたからである。その外与謝野さんのおしろい草、さては牧野博士の菊などみなとりどりに選ばれた花にも選んだ人にも同感された。もつと野趣の横溢したものをと思つてゐると、それではと言はぬばかりに赤のまんまが一枚加はつてゐる。選んだ人(104)はと見ると虚子である。流石に俳人の自然に対する(同時に新聞人の人間に対する)眼界の広いのに益々満悦である。牧野博士の菊ははじめ少々平凡な気がしないでもなかつたが、かういふところにこの平凡なやつを落さないのこそ重厚な心がけ、さすがはその道の学者だけに花に対する趣味までが客観的になつてゐると考へた。此花開後更無花がために花中偏に愛す可きのみか、国花といふのだから、これを加へるのが寧ろ当然過ぎる程当然であらう。さう思ふとこれが一枚加はつたために新七草に急に貫禄がついたやうな気がして来た。況んや菊とだけでつい直ぐには思ひ出さなかつたが野菊もあつたのに思ひ及んで見ると、秋の植物界に於ける菊科の地位は或は春のそれに於ける薔薇科に相応するものではあるまいか。さうして牧野博士はそこに着目したのではなかつたらうかなどとも当推量してみる。
 おしろいの花の沈静で内気らしいうちにも盛りの久しくまた逞しく、節くれ立つた赤い茎の奔放なまでの野趣など、可憐ながらに味の複雑な花、与謝野さんが気に入るのも判るやうな気がする。それに幼時後園の石垣に沿うて秋の花らしくもなく旺盛に繁茂してゐたのもそぞろに幻に浮んで来るなつかしさ。さては冷艶愛すべく嫣然一笑した秋海棠――荷風先生が往年こころあつて庭に植ゑられた断腸花の幽愁を帯びて媚態の卑俗ならぬものが選に洩れなかつたのもうれしい。生れは争はれぬもので、どこやらに清楚ながら唐様の奥行がある。それが断腸花の異名で呼ばれる時最もふさはしいものを覚えるもの。窓前にあつて我等が幽人の病間を慰めるに適したのも故があると思ふ。両三日前、この稿の半で好晴に乗じてぶらりと偏奇館を訪ふと、主人も散歩に出たと見えて不在であつたが、往年の断腸亭畔から移し植ゑたかと思はれるこの花が幽居の階前に二坪ばかり、繁茂し叢生してゐるのを心ゆくまで見て主人と閑談するに劣らぬ思ひがしたものであつた。雁来紅の錦  繍色鮮やかに燃ゆるが如き豊富な野趣のうちに故もなきさびしさを内にひそめたのは、流石に秋にふさはしい華麗で、時雨女史のこれを捨てぬも宜なるを覚える。我等も更けまさる秋のあはれを庭前にそへよう、梧桐に配してその幹の青さと対して一しほの画趣を増すと思つたので、小園の門側に古木の梧桐のあるのを幸、その下に種を下したものであつたが、植木屋の所謂木雨に打たれて育たぬと知つて失望したのは昨年の事であつた。今年の種は昨年に懲りて木雨は避けたつもりであつたが、小園のせせつこましさに日の当りが悪いのと土質が適しないのかやはり成績が悪い。今年も望を空しくした。あきらめて毎年種を貰つて来る近隣の羨しくも垣根から二三尺も頂を現はして露地の外まで明るくしてゐるのがあるから、秋晴のそぞろ歩きに例年のとほり、あの門に立ちつくす事にしよう。年ごろの令嬢も新夫人もゐない家だから花に見とれるにはもつけの幸である。花にも縁のあるのと無いのとがあると見える。さうして縁なくてなかなかに忘れ難いのも亦人の情であらうか。雁来紅は一体が都市の庭のものではなく田園に適するものであらう。コスモスや雁来紅さては向日葵などは由来、軽羅細腰と同じく脊の高いのでないとつまらない。コスモスの我等が丈よりも高いのが杜のやうに簇つたのが(105)嵐に吹き倒されたのが、素直に折れたあたりにまた新しく根を生じて弓なりに起き直つて花を多く咲き誇つてゐるのなどは一段とあはれの深いものである。秋桜子とふさはしい文字まで与へられて、今日では異国の花とも見えず辺鄙の農家の垣根にもありふれるほどに早くも風土に化して、そのしをらしいいぢらしいところが生れながら大和島根の花らしいのが寧ろ不可思議なばかりである。それが新七草には女人によつて選ばれないで反つて男子によつて選ばれたのも、当然といへば当然面白いと思へば面白い現象。選んだのが最も大衆の好みを心得た作家であるのも面白い。尤もその作風から言へば菊池氏より久米氏のものに近い花であらう。唐土から、また西欧から来て日本化した秋海棠やコスモスに対比してみて、この国に生れながらいかにも西洋臭いこの意味で現代日本の趣のあるのが斎藤氏の近代的な感覚によつて選ばれた曼珠沙華である。今日の日本にならなければ認められない運命を負うてゐた華に相違ない。今までは死人花だの狐花だのと卑しめられてゐる所以である。これ等の妖艶の態を現はしてはゐても軽んぜられてゐる呼び方に比べるといくらか抹香くさいが彼岸花や曼珠沙華は悪い呼び方でない。この花に限つて華の字がふさはしいのもその花の形態を思ひ出すからであらう。俗称のなかでは関西人一般がひろくこの花をかがりと呼んでゐるのがおもしろい呼び方だと思ふ。日本人のうちでは比較的に妖艶濃厚な趣味を解する関西人がこの花を余り卑しめなかつたのも偶然でないかも知れない。先年パブロヴァ夫人が来朝して踊つて見せた時この花籠を贈られたのを喜んで舞台へ捧げ持つて出た事があつたと聞いた。喜ぶのも道理甚だ見事であつたといふ。神戸や横浜あたりの花屋ではこれを売つてゐるといふ話であるが、さう聞けば先年、紀州から渡米した人でこの花の球根を輸入して巨万の富を成したといふ人の噂を郷里で聞いた事があつた。ともあれ、おらんだ華と異名を取らなかつたのが寧ろ不思議な程日本の花中の異色あるものであらう。さる老耄の病人が十二年間身動きのならぬ病床の窓から稍遠くの屋上にほした赤い色の蒲団を見て、妙なところへ彼岸花が咲いたなあとたは言を言つたといふ話も聞いたがこれ等もたは言にふさはしい実感がある。一葉もつけないではだかの茎の上にぢかに花を露はしたのが一時に簇つて咲いて一時にあと方もなく消えてしまふのも、諸行無常を悟らぬまでも一種の趣を感ぜざるを得ない。かがりの異名の出た理由であらうか。さういへば?頭の花の日に日に衰へてしまひには追々と花のみじめな小さな種類ばかりになつて行くのなども秋が燃え尽したといふ感じがあるものである。燃えるといへば、秋の花は黄や紅は大方葉や実の方に譲つてしまつたからか、花には紅いものが乏しい。もし稀にあつても犬蓼(赤のまんま)秋海棠やおしろい、木では山茶花のやうに淡彩で春花のやうな華麗なのは花としてはどこまでも異端の曼珠沙華ばかりである。秋の野の花といへば多く紅の代りに紫になつてゐる。それも淡彩が多い。黄や赤は洋種の外にはあまり思ひ出さない。やつと見つけたと思ふと水引草のやうな小粒かさもなくばえび茶の系統である。春の紅、梅雨季の黄、盛夏の白、秋は淡紫と花の色の基調がほ(106)ぼきまつてゐるのも自然の色彩を考へる上で重要な鍵がありさうな気がする。春夏のは濃く、秋のは淡いのも意味ありげである。
 新七草に対して女学生の好みの投票といふものが発表された。これによると五百人のうち一八五票を占めて第一位の高点が菊花で、一五九票のコスモスが次点であつた。曼珠沙華の五票、赤のまんまが僅に一票であつた。尤も菊花のうち多くは野菊らしく、またその理由には国花だからといふ特別のイデオロギイをも含まれてゐるが、ともかく新七草では菊花が第一位、コスモスが第二位であつた。コスモスに対して曼珠沙華の人気の乏しいのは、現代のもしくは一般の日本人の趣味を論ずる上で大に参考とすべきであらう。しかし曼珠沙華に一票を投じた程の者は菊やコスモスの党の大同小異なのと違つて一とほりの理由を述べてその美を或る程度ながら理解してゐた。赤のまんまの賛成者も田舎の女学校ならもつと多数にありさうに思ふ。都会の少女では親しまないものだらうから。その一人も「いつまでも子供の時代を思ひ出し懐しい感じ」と述べてゐるのを見るともしや田舎で育つたことのある子でなければ少々茶人趣味に偏した子に相違ない。まあコスモス野菊あたりの平凡な賛成者の方が自然のやうだ。それにしても在来の七草の中で桔梗が四十二票もあるのは判るやうな判らぬ気持だ。葛の賛成者が絶無なのは或は見た事がないのではあるまいか。僕自身は桔梗のやうな味のない花より葛の方がずつと好きだ。子供の時からである。もとの七草のなかでは、僕は尾花を第一等に推したい。萩よりもこの方を推賞する。万葉にも同感の士があるのは何となく心丈夫である。
  人みなは萩を秋といふ、よし我は尾花が末《うれ》を秋とは言はむ
 と巻十に見えてゐる。世界的日本の意識を力説するらしい新七草にこの枯淡閑寂を排斥したのは当然とは思ひながらも尾花が無いために本当の秋のもののやうな気がしない程である。これは我等が古い趣味に偏つた側の人物で、罪は新七草とその選者とになく、我等自身にあるらしく、到底新人物でない所以らしい。
 七名家がそれぞれに一つづつ持ち寄りの七種が集つてこの時代にふさはしい新七草が出来、それが世界的な趣味を示しながらも根柢的にはやはり日本的なものになつたのは当然の事ながら大に我意を得たところである。無理に日本がらないで隠微の間に本当の日本が現れたのを喜ぶのである。支那をも西洋をも消化しつくした上に、その基調に於て一味自ら或は幽雅、或は哀艶なうちに無邪気に意気の旺んな美しいものならなるべく多く理解して摂取しようとしてゐる趣のあるのが新七草たる所以であり、また七人がかりの集団的選定の効でもあらう。さうして秋海棠といひコスモスと言つても我等の風土が既に異国のものを我等の鑑賞より先に日本風に消化してしまつてゐるらしいと思へるのである。或はそれを輸入する時にも十分な民族的な選択も行はれて来て居るのであらう。かう考へて来ると、新七草のうちでは在来の日本で重んぜられてゐなかつた卑しい花たる曼珠沙華の発見が第一の手柄らしいが、それが僅に女学生に(107)五百人中五人の賛成者しかないのは幾分もの足りない気がする。
 ともあれ新七草は新七草としてその組み合せも甚だ賛成だけれど多分七草の起りかと思はれる山上憶良が旋頭歌で数へた、
     萩が花尾花葛花撫子の花
     女郎花また藤袴朝顔の花
 といふ古来の七草も亦捨て難い。わけても尾花の捨て難い事はもう書いた。この朝顔といふのを桔梗だと説く人もあるが我等は語はよく知らないながら趣の上からは末枯れて小さく咲く普通の朝顔と見てもよくはないかと思つてゐる側である。
 それはそれとして、ひとりの人間が一個の好みから、七様の変化と調和とを見せた好みに執した七草の選択もあつてよからうと思ふ。我等は先づ隗より始めて見ようかと、都市のわけても本年の秋霖に悩まされた陰鬱な景物を惡んで、思ひを好晴の山村水郭に駛せて柿紅葉を思ひ萩花を偲んで幻に赤とんぼを呼んだ果は、夢を山林に飛ばせて秋の七草を試みに野趣を主とした間から求めてみた。近ごろ健忘になりまさる自分の備忘のために韻語の記憶に便なものによつた。序に記して一粲に供しよう。
     からすうり
     ひよどり上戸
     あかまんま
     かがり、つりがね
     のぎく、みづひき
 からすうりなどをまづ数へるところに一介の山家の趣味を存した所以と一笑されたい。必ずしも花のみと限らず秋の山野に七種の美を求めたのである。ひよどり上戸はその実物を知つて名称を知らぬ人や、或は名を知つて実を知らぬ人も或は多からうか。花はごく微小な白花が仄かに群れて晩秋に咲く蔓草である。花が散ると直ぐ後から青い小さな実をつけやがてその実が赤くなつて雪の降る頃には紅い実になる。雪中で南天よりも美しい。この実を賞するとすれば秋のものではなく当然冬のものである。冬も極く後まで落ちないで実が残つてゐるので好んでひよどりが集つて来る。先年亡友神代種亮がその茎の拇指程もある太いものを附近の分譲地になつてゐるところで見つけたからと小園に植ゑてくれた。窓前に朝夕これを眺めて自分はその花から赤い実になるまでの趣や雪中鵯の訪ねて来るのまで飽かず眺め楽しんだ。この実のおかげで小園にも二三年は鵯の訪れがあつた。そのほのかな花の幽韻の目に清香のやうなのを愛した。愛好のあまりもつとよく見えるやうにしたいと植木屋に命じたところがもう老木になつてゐた上に、野生の蔓草の人の手を好まぬ性に逆つたために遂に枯らしてしまつた。しかしその美は永く忘れぬから、いづれは公認を求めぬ一家の趣味に偏るのは承知の上でこれを数へた。あかのまんまの犬蓼の花は、既に虚子宗匠が新七草にもあつたが自分は別に避ける理由もないから加へて置く。これもなるべく大柄で葉は虫が蝕つてゐる位がいい。
 野菊、これは菊をそのまま山野の自生のものに求めたわけで、女学生諸嬢と偶々好みの一致するのも敢て病むところではない。(108)春のよめ菜に摘み残されて秋は野菊の花ざかりと花街に来て酔へば必ず歌ふ老人がゐたと聞いたが、何れは若くして妻に死別し老来の孤独を遊里に慰めてゐた人であらうかと人は知らぬながらに哀れが催される。歌は老人の自作だか古来からあるものだか明かでない。
 水引(金線花といふのであらう)紅白いづれも単色なのがいい。秋もまだ立つたばかりの頃など水のほとりなどにあつてにくくないものである。少々神経質なもので到底新日本の新七草には入れられまいが一家の好みに終始する場合は認めて戴かねばならないものである。
 かがりは既に説べ尽したから再説しない。
 つりがね。りんだうや桔梗などに似て味にもつと荒涼なそれでゐて妙に品位のあるところを喜ぶのである。亦尾花も捨てかねる一家の趣味である。
 葛も入れたかつたけれどこれは古来のものだから加へずからすうりをこれに代へた。
 数へ直してみるとみな故園の秋に見慣れたものばかりを多く語つてゐるのも、秋夕、末だ眠らざるの夢に既に故園を夢みてゐるのであらう。
 故園老母あり病み給ふと伝ふ。更も闌けて来た。折からの秋雨に古人が所謂、一穂残燈夜雨情を催して来た。故園今如何。感傷の多く人の哂を估ふを惧れて倉皇として擱筆消燈する。
 
   年少子女のために古典を説く
 
 友人西村伊作君の文化学院女学校の一年では国語教育の目的で教科書として方丈記を読んでゐるといふ話を聞いた。抜き書きの所謂教科書を排したのは頗るいい。ただその選択がいづれは教へる人の好みに随つたのであらうが、読ませられる方では退屈しはしないだらうか。何しろ女学部の一年といへばまだ十五にもならない少女なのだから、あの閑寂を旨とした書が果して理解されるだらうかと聊か不賛成らしい口吻を漏す人もあるし、併し、文章としてはごくすなほなもので、現代人にも親しめる文体だから初心の人に読ませるものとしては適当だといふ論者も出てここに緒を発した青年に読ませるに適した古典とか更に青年と古典とかいふのが一夕の話題となつた。
 方丈記は国文のなかに漢字の自由で適当な駆使を試みて成功した妙文。古典中でも癖のないものだけにこれの愛読者は数へ切れない。寧ろこの文を好まぬといふ人の方が珍らしいかと思ふばかりである。それに古文といふよりも寧ろ現代文の萌芽を示したものといふ意味で、これを国文の教科書に使用するのは一個の卓見ではあるが、閑寂を旨としたその内答が青春の子女に解せられまいと案ずるのも一応尤もな節がないではない。方丈記必ずしも不可ではないがもつと適当なものがないでもある(109)まいと云ふと、早速例へばと、実例を求められた。ありさうなものと思つたものの、実例の用意までしてゐなかつたので聊か思案を要したが、まあ、仮りに『更科日記』などは少くも、方丈記よりは内容から見ても幾分少年少女にも同感されるものであらう、言はばむかしの文学少女の夢多き手記とでもいふべきものだからとあつさり説明して、自分は更に説きつづけた。それに文章だつてごくすなほな質のいいものではないか。あそこらがまづ少年少女に最適な日本文学の古典と断定しても間違ひはなからう。いつぞや堀辰雄君と日本文学を語つた時、同君も更科日記の愛読者であると云つてゐた事なども思ひ出されたものであつた。それでもう一つと考へてみると、どれも更科ほど適当と思ふものも見つからない。すると『更科日記』が随一といふわけである。だから、もし自分をして、少年少女のために日本文学を講ぜしめるとしたら取敢へず最初に『更科』を読む事にするであらう。内容も複雑な世情に関はらず、古郷である都を思慕する心や、当時流行の大作源氏物語に対する憧憬やその外のまだ知らぬさまざまな物語の類を読破したいといふ希望などいかにも若々しくほほ笑ましいものなのも方丈記やなどよりは理解され同情されるに相違ないし、所謂教育者のとかく好まぬらしい恋愛の感情以前のもので、この点も先づ無難であらうとひとりで意気込んで、はてはこれを初年級の女学生のために選んでやらない国語教師が間の抜けた人のやうな気持さへして来るのであつた。序にこの勢に乗じて第二学年級のための教科書を選定して見る。どうも『更科』ほど適切なものが直ぐには思ひ浮ばない。文章として、方丈記あたりのところが程度ではあらうが、やはり内容的には、もつとふさはしいものがあらう。それよりはまだしも『土佐日記』あたりがいいかも知れない。尤もこれは今日の言葉で言へばユーモア文学に属するものだから講義をする方で幾分気の利いた読み方をしてやらなければなるまい。任を果して都へ帰るにつけて任に赴く時につれて来た愛児の亡きを偲ぶ思に得堪へぬ心持を冷たく客観は出来ないが幾分自嘲にまぎらすといふ気分で例の「男もすなる日記といふものを」とわざと女めかして書き出したところから少々ひねくれた書きざま、全篇がすべてこれである。これを忘れて率然と読んだのではつまらぬ。この面白さを会得させるのに幾分手がかかるかとは思ふものの、まづここらのも悪くはなからう。男の学生なら『保元物語』などは内容も文章も先づ動かぬところであらう。いや、女にも男の世界を見せるつもりで『保元物語』を選んで見るのも一つの方法ではなからうか。あまりに悲しすぎる物語ではあるがこのためにそそぐ涙は決してさう安つぽいものではなからう、やつぱり近代の少女小説などで泣きたがる連中をこんなので泣かせるのも教育には相違あるまい。さうさう『竹取物語』なども、古の少女小説か童話を読ませるつもりで読ませるには適当なものであらう。『つれづれ草』なども悪くはあるまいが。これもやはり本当の面白味は少年少女ではわからぬ側のものであらう。『方丈記』とは別の意味である。いや方丈記の一本気な方が、『つれづれ』の「ものわかりのよさ」より少年少女に適する位かも知れない。して見ると、『方
 
〔尊重すべき困つた代物
    ――太宰治に就て――〕
(160)性の中毒症まで加はつてゐたのでまづこの病気の方を癒すのが急務だらうと思つた自分は愚弟の医学を修めた者と相談して彼の中毒症を最近治療することを勧告し、この治療は既に成功した筈である。併し生れながらの性格は中毒症よりも困つたもので、彼の周囲の人々を、さうして就中、最も彼自身を悩してゐるに相違ない。しかしこれが彼の芸術を形成してゐる重要なものなのだから我々は多少の迷惑を忍んでこれを寛容する傍、彼を励ましてこの才能を完成せしめる事を努めようではないか。彼の才能は我等の寛容に十分値する尊重すべきものだからである。この機を利用して自分は太宰の自重大成を祈ると同時に彼の周囲の人々が彼を遇するの道をも明かにして置く者である。――彼を知る芸術的血族の一人として。
 
   熊野路
 
     熊野路
 
  熊野国の彊域は北の方木の国に連り、南に走りて本州の最南岬角潮岬を形成し更に東北に迂廻して大和の吉野を包繞し、延びて錦山坂(後世荷坂峠と呼ぶ)となりて伊勢に界し、東南は熊野灘に面し、西は紀州水道に臨み、その広袤東西約三十五里、南北約十二三里、海岸線は延長七十五里に及び居れりと称せらる。
               ――小野翁遺稿「熊野史」第三頁
 
 わが故郷熊野地方といふのは現代の地方行政区劃で云へば和歌山県下の東、西の両牟婁郡と三重県に属する南、北の牟婁郡を総括するものと考へて大過ないであらう。だから日本地図の中部地方をひろげてみて和歌山県の田辺から三重県の尾鷲(ヲワセ)といふあたりの――刻下は紀勢鉄道と称する省線の新線が工事を急いでゐるから未成鉄道の標記でつながれてゐる辺――近年市制を布いた新宮を中心に各約二十里程南北へ延びてゐる海岸線に沿うて、大和の山並が太平洋に接してゐる所に纔にある土地である。厳密にはもと上古高倉下命の裔が世々領し給うたのを後に成務帝の御世に其地を熊野国と称して国造を置かれたのが後世は熊野三山の社領となつた土地でもあつたか。いづれは時代とともにその彊域にも消長はあったらうし、郷土の史に暗い自分はこれを直ぐには明示することも出来ない。地が広いから自づと二分して東の方を奥熊野、西の方を口熊野と区分されてゐる。太田川の辺を境とする。
 大台原を中心とする大山嶽の裾の大きな襞が延びて半島を形成してゐるその尖端の地方である。大海と大山とが相迫つてゐるといふところにこの地方の第一の特色がある。地名熊野のクマもコモルのコモと同じ言義で樹木の繁茂といふより地勢の複雑なところを意味するといふ説さへある程である。熊野川のやうな相当な河もありながら、その流域もただ山ばかり、下流に(161)到つても平野といふ程のものもない。岩の多い山腹でなければ、砂礫ばかりの海浜である。住宅を営むに足る極く狭い平地を除いては耕作する田畑などあらう道理もない。山腹に段々畑が開けても労ばかり多くて一向農作には適しない。そのくせ気候の温和な土地には神代の昔から人が居る。地は貧しく人は多い。人々は海を探り、山を分けて生活を求めた。更に大洋を渡つてアメリカへの出稼をさへ志した。
 自分は処女作の或る部分にこれ等の意味をこめたつもりで己が故郷の地方を語つて、『ずつと南方の或る半島の突端に生れた彼は、荒い海と嶮しい山とが激しく咬み合ふその自然の胸の間で人間が微少にしかし賢明に生きてゐる小市街の傍を、大きな急流の川が、その上に筏を長長と浮べさせて押合ひながら荒荒しい海の方へ犇き合つて流れて行く彼の故郷のクライマツクスの多い戯曲的な風景に比べて(武蔵野の一隅の)この丘つづき、空と雑木原と、田と、畑と、雲雀との村は実に小さな散文詩であつた。』と辿々しくひとり合点な筆つきで記した、殆んど同じ意味の事を
 『熊野路は、海と山とを引受けて漁夫は鯛つる鰹つる。杣は樵《きこ》りてたつきとも、五穀なければ春秋の花や果《このみ》の畑主……』と浄瑠璃の作者は、さすがに一筆で鮮かに、確実にこの地方の特色を描破してゐる。
 自分が自分の故郷の地方の生活を語らうとするに当つて漁者と樵者との生活を主としてこの地方の自然と人生とを見ようとする理由はも早これ以上に縷説する要もなささうである。
 もとより自分が択んだこの角度より外にはこの地方を語るに適切な話題がないといふつもりは少しもない。それどころか神武の帝が御東征の古代から、さては牟婁の湯へ帝が?鸞輿を進められた万葉集などに見えてゐる熊野やさてはこの地の水軍が大に振うたと伝へられてゐる源平の時代、仏教の盛大と同時に熊野三山に朝廷の御帰依が浅くなかつた頃、さては吉野朝と熊野の事などを考へて、史的方面から熊野を見、語る事も必ずや有意義であり、趣味の深いものに相違ないとは思ふが、自分は己が分に応じて人間が自然と闘ひながらも特別の恩寵を受けて生きてゐるこの地方の有様を述べようと漁者と樵者とを見るのである。
 彼等は真に熊野の人間らしい生活をしてゐる生活者である。直接に海と山とのただ中に生きたこの人々の生活にこそ熊野の地の特色が最も多くうかがはれ従つて他の地方と異る生活相も彼等によつて代表されるわけである。熊野の民を仮りに四分して、その各の一を、漁者、樵者、郷外移住者(この一半は都会、一半は海外)、さうしてその他のすべての人々が残りの四分の一を占めてゐると言つたら、統計表としての間違ひはたとひあらうとも、感銘を重んずる詩的な表現として決して大過ないつもりである。否、熊野には猿と権現様の御使の烏との外は漁者樵者あるのみと言ふも過言ではあるまい。
 
(162)     漁者樵者
 
   秋風や酒肆に詩うたふ漁者樵者     蕪村
 
       一 木挽長歌
 
 ここに木挽長歌といふ一篇は慶応乙丑に作られたまま作者の篋底と作者が孫の脳底とに残されたまま久しく世に埋もれてゐたものであるが、熊野地方の樵者とその生活とを知る上には逸する事の出来ない一文献である。
 
  木の国の 熊野の人は かし粉くて このみ/\の 山ずま居 今はむかしとなりはひも うらやす/\と浦々は 魚《な》つり あみひき 勇魚とり あこととのふる あまが子も 声いさましくあしびきの 山は炭やき 松ゑんのかまど賑ふそま人は 福がめぐりて きのえねの よき年がらと打|集《つど》ひ 噂山々 さき山は 斧をかたげて 山人し 大《おほ》木を 伏せてきりさばき 五けん十間 ひく板は 挽賃けんに三百|文《もん》 きりさべともに八九ふん 束《たバ》ね三ぷん 浦べでは こつぱ一把が二十四もん もちも平《ひら》だもねがあがり おあしお金はつかみどり こんな時せつは あらがねの 土ほぜりより玉くしげ 二つどりなら 山かせぎ 木挽々々とひきつれて 二百目米を 日に壱升 杭のかしらに つむ雪と もりくらべたる わつぱ飯《めし》 七日七日の山まつり 百に身鯨六十目 貫八百の磯魚も 歯ぼしたゝぬと 言ひもせず 三百五十の酒を酌み 一寸先はやみくもと かせぐおかげで このやうな栄耀《ええう》するこそ 楽しけれ しかはあれども 此ごろは 京の伊右衛門の前挽《まへびき》も 三分のあたひ 二両二分 やすりかすがひ 二朱づゝと 二百五十の 上村の 煙草のけぶり 吹きちらし かたるおやぢを けぶたがる 若い同志は 馬が合ひ 近所隣へ かけかまひ 内証ばなしも きさんじに 声高々と 夜もすがら 天狗の鼻を もてあまし ひるは終日《ひねもす》ひきくらし 骨を粉にした もうけ金 腰にまとひて 我宿へ かへりきのとの 丑の春 はや春風が ふくりんの はやりの帯を しめのうち 千とせを契る 松の門 お竹お梅が花の香の 金もて来いの 恋ひ風に まき散らしたる坊が灰 元のはだかで 百貫の男一匹 千匹の鼻かけ猿が笑ふとも もうけた銭をいたづらに つかはざるのがまさるぢやと そまのかしらが 独りごと むかしの人は樫粉《かしこ》くて あはれこのみは あさもよし 木をくうて 世を渡るむしかも
     返歌
   過ぎたるはなほ及ばざるがごとしと言はん杣木挽 金をもうけの過ぎたるはなほ
 
 作者懸泉堂椿山翁は筆者が曾祖父である。歌は翁が反覆して自ら口吟しっつ口授したものが筆者の父の四歳の記憶に残つてゐたものが、後に故翁の篋底から未定の初稿の発見せられしも(163)のや他人の手になった浄書の決定稿などの発見によつて確実になつたものである。
 初稿には題も長うた狂歌木挽をうたへるとあるとほり常談めかした掛け言葉や悪意のない笑のうちに時人を諷諭せんとするこの戯味に現れた作者の意嚮の一目瞭然たるものはともかくとして、元治甲子から慶応乙丑にかけての明治維新直前の不安な空気が仙界に近い熊野の山中にも漂ひ来て、当時六十六歳の田舎翁を前代未聞と驚かせ憂へさせた経済的事情の真相をはじめ熊野の地の固有の風俗習慣や当年の樵者の生活状態の一般など、必ずしも注釈を要しないまでも、注釈があった方が面白さは加はるものと思はれる。一篇の戯咏に対して果してそれほどの必要があらうか、また注釈を必要とする幾多の句に対しそれがどの程度まで真意を明かにし得るか、我ながらおぼつかなさを覚えるが、不完全ながらにもこれの注釈が故郷の地を、その漁者樵者を語るよすがとなる一事は、この話題に就て漫然と断片的な興味の多くは抱いてゐるのにその根幹となるものを見出し兼ねてゐた筆者にとって杖を得た思ひをさせた。早速これに縋つて談興を進めよう。これも祖先が遺徳のおかげの一つである。それに以下の解の殆んど大部分も家大人梟睡先生の垂教の賜である。
 かくて椿山翁が口伝の遺稿は世を距てて七十年の後にその孫と曽孫とによって小解を加へられて世に出たわけである。一家の私事ではあるが亦多少の奇である。敢てこれらの私事を吹聴するのをも人の子の情として笑つて寛恕されたい。この情はやがて禿筆を呵して郷土を語らうとする情と相似たものだからである。
 
       二 木挽長歌小解
 
【木の国の熊野の人は】
 紀伊の国はもともと木の国である。紀は木の当字である。キをキ|イ〔傍点〕と語尾を引くのは関西人一帯のくせである。妃殿下などの語でさへヒ|イ〔傍点〕デンカと読むのは現代の関西の婦人などの通癖で、他の地方の人には奇異に感ぜられるところである。昔からこの風があつたものと見える。那智山を呼ぶのにもナチ|イ〔傍点〕サンと呼び慣はしてゐるのもこの類であらう。自分では気づかぬが紀州人にもこの癖があるらしい。かういふ次第で木の国が紀になりやがて和銅年間各国名を二字に統一するに当り紀伊の国となつたものらしい。熊野といふ地名の「クマ」は言語学的になかなか面倒なものらしく諸説がある。クマを熊羆とする説、木葉などの立茂りてコモリたるを云ふ蓊鬱説――隠野《コモリヌ》の変転とする説。さてはコモリヌの変化したものではあるが、そのコモリといふのは樹木の蓊鬱ではなく、山河のコモリたる野といふ意味と説いて地形の変化に富む地とする説など、その他、先住民アイヌ語のクマネ(山背)に関係があるとする説、同じくアイヌ語のクマヌ(響く野)とも説いて那智の滝の水音の聞える範囲の地とするなどの異説等もあるやうだ、けれども、識見のない筆者は何れに従ふべきかを知らない。ともあれ上古は木の国と熊野とはもと各各一国であつたのが後に熊野が木の国に合併され一国と成つたのである。
 
(164)【かしこくてこのみ/\の山住ひ】
 かしこくては賢くてと樫粉食てとを掛けたものである。このみの好みと木の実とも同様である。熊野山中の民は、古来、樫や橡の実などを、拾つて皮を去り肉を渓流に浸すこと十日ばかり、渋を去り乾燥して粉末として貯へ、餅として食用にしたものであるといふ。加納諸平が藩命で紀伊国続風土記の撰修のため熊野の地を三たび踏破した時その山水や風俗を歌つた詠草のなかに、
  山かつがもちひにせんと木の実つきひたす小川を又やわたらむ
  大かたは秋とも知らぬ山かつが笥に盛る飯は木の実なりけリ
とあるのはこの風俗を詠じたものである。また諸平が、
  山かつがまとふつづりの古衣さしもおもはずよそにききしを
と歌つたのは、木挽長歌の時代より幾分ふるい時代の事であらうが、山間の民の聞きしにまさる酸苦の生活状態をまのあたりにしてはさすがに心を動かされたものと見える。諸平は熊野の人ではないが前後三回の熊野踏破中に得た数十首の秀歌によつて熊野の郷土詩人であるかの観がある。書中頻々と彼が作を引用紹介する所以である。彼のやうな天分のある作家が紀藩に仕へてゐたために文学が藩中に大に興つて、梅山翁などもこの風に刺戟されたものと思ふ。椿山翁その室米子刀自及び娘百子等の歌道の師は熊代繁里といふ本宮の神官で後に南部《みなべ》に移つた人、諸平が社中の同人であったらしい。
 木の実を粉末として食用に供するのはひとり、熊野の地方ばかりではなく、信州辺の山間にもこの事があつて今日もその風が遺り伝はつてゐると聞く。熊野にも橡の実の餅が今も山中で行はれてゐるといふが、普通|乾粉《ほしご》の餅といふのはさつま芋のきりぼしを粉にして餅に雑へたものが多いやうである。
 
【今はむかしとなりはひもうらやす/\と》
 諸平が目を驚かせた山賤の笥に盛る飯は木の実であつたといふ事実も今日は昔となりなつて、生活も豊かになつて来たとこれがこの長歌の破題であるが、うらやす/\との語を受けて、
 
【浦々は魚《な》つり】
 と句は一転して以下海浜の事に及んでゐる。山を出ると直ぐ海に接してゐる熊野の地勢を知る者にとつては、このなだらかに急劇な話題の開展は地勢の自然の変化をさながらに摸したものとうなづけるであらう。翁の筆力の侮るべからざるを覚える所以である。
 熊野の海村の魚釣は大きなものは鮪つりである。これは大洋へ漕ぎ出して何百尺といふ麻苧の縄に釣針をつけそれに烏賊を餌として壱斗樽のやうな樽を浮標として大海へ投げ込み数時間の後引き上げて、三十貫、七八十貫といふ巨大なのを釣り上げる。堅魚《かつを》は数人の漁夫が舟に乗つて各各釣竿を持つて釣る。串本節の俚謡にも、
  儂《わし》のしよらさん〔五字傍点〕(情人の意)岬の沖で波にゆられて堅魚《かつを》(165)釣る
と歌つてゐる。餌は鰯が普通である。小さな鰯を近海で網で引いたのを生けたままで籠に飼つて置いたのを毎日漁船の出る時にすくひ取り、船の一部に潮を汲み入れて生かしたまゝ黒潮の流れまで出て釣るものである。巧拙のあるものと見えて三輪崎(古のみわがさき現に土称ミヤザキ)の浜で子供が板片を堅魚程の大きさにしたものを釣竿の糸の端につけて稽古してゐるのを見かけた事があるが、釣り上げると直ぐ左の脇に置いて抱へるのを面白いと思つた。ただの遊戯ではなく将来の職業を練習してゐる真剣なものであつた。
 小がつを(東京でいふ惣太鰹)も鰯を好んで追うもので海面に群をなす鰯は小がつをに四方から追ひ迫られて遁げ場を失うて我勝ちに水面に逃れようとする結果互に縒《よ》りもつれ合つて堆く海面に盛り上って棒のやうに立つ事があるものである。こんな時には小がつをも夢中になるから漁夫はそれを見すまして牛角で作った魚型にひつかける。魚型と云っても決して魚の形をしてゐるものではなく牛角の棒の尖に鈎《はり》の五つ六つついたもので、井戸釣瓶を拾ふいかり〔三字傍点〕を極く小さくしたやうなものである。鰯が棒立ちになつたところを見つけて魚型《うをがた》を沈めると五十や六十の小がつをは見るまに引つかかつて来る。こんな時には素人の少年の手でもとれるものである。熊野の海ではあらゆる種類の魚が得られるけれども就中堅魚はその品質といひ、漁獲高と言ひ、熊野の漁場の横綱であらう。尤も後に縷説する鯨に至つては別格の王者であるから論外である。
  あすよりは堅魚つるべく牟弁婁の海の南の風に松の花散る
                         熊代繁里
 熊野灘は堅魚の漁場としては海内無比の処であると見えて時節が到来すると、土地の漁夫や隣国の土佐や伊勢は申すまでもなく遠州さては房州あたりからさへ発動機船を仕立てて那智山下を目ざして遠征し、勝浦の漁港は甚だ賑ふ。
 堅魚といへば、天下にその名を知られてゐるわが郷の堅魚節が近来土佐のものよりも品質が劣るやうに思へてならないところへ二三の友人からも同じ意見を聞かされたので帰省の節にこれを郷人に語つて一考を促したところが、彼等は異口同音にこれをきつぱりと否定して、その材料は土佐と同一物、といふのは土佐節の多くも紀州の海から持つて行つた鰹であるし、その上、その製造法まで全然同一であるどころか時に相場によつては土佐から紀州のものを買ひ入れに来る程であるから、土佐と紀州とが仮りに同じ物であることがあらうとも、土佐の方が優れてゐよう道理はないと主張するのであった。自分がそれでもと事実を楯に抗論すると、彼等は不承不承にそれでも最後には、果してそんな事実があらうか、万一さういふ事があるとしたならばわが郷の業者が資力の欠乏のために品を売り急いで十分に品を枯らすだけの期間、商品を寝かせて置く事が出来ないためではなからうかと弁解をしながらも憂色を帯びて、県当局が適当に保護し、対策を講ずる能力のないのを非難しはじめた事があつた。主要な海産物だからである。
 三十三間堂の作者も熊野路の漁業として漁夫は鯛つる鰹つる(166)と、鰹を上げたのは事実を重んじたからである。ただ鯛を第一に数へたのは魚とさへ言へば鯛を代表として思ひ浮べるわが国人の習慣によるものであらう。尤も熊野の海とて鯛が絶無な筈もない。それ故
  小鯛ひくあみのうけ縄より来めりうれしわざある潮崎の浦
                         西行法師
といふのは決して絵そら事ではない。潮崎の浦といふのは思ふに周参見《すさみ》、串本などの湾に相当するものと考へられる。さもなくば荒荒しい|潮の岬(シホノミサキ)の附近に浦と呼び、又この歌の趣にふさはしいところはありさうに思へないからである。串本ならば、その地の豪家某氏が附近の漁夫に命じて小鯛ならぬ見事な大鯛を得させて、土地に来遊中交を訂した画家永沢蘆雪に贈つて、その返礼に大鯛を抱へた福神の図の傑作をせしめたといふ話(拙著閑談半日所収「熊野と応挙」参照)も残つてゐるから、熊野の灘では漁場としては串本附近が比較的、鯛の――それも寧ろ、巨大なものが獲れるらしい。筆者も先年帰省中、串本辺で得たといふすバらしい大鯛を賞味した記憶がある。目の下幾何尺あつたやらおぼえぬが、目方は確か四貫幾百目とやらで、大皿を埋めたその頭部だけで一家五人(食慾の旺盛な我等兄弟の二壮夫も加はつて)を満足させて余りがあつたのを覚えてゐる。
 鮪や鰹などは日中に釣るものであるが烏賊や鯖や鰺などは夜釣りと称して夜船で火をたいて釣る。漁火である。亦、海上の一美観である。
 シビ――東京でいふ鮪は今でこそ大部分大敷といふ網で獲るが以前は前述の如く重に釣つたもので、筆の軸位の太さの綱に処々鈎鈎をつけてそれへ餌として烏賊をさして大海へ投げ込んで置き、目標には小さな標を浮けて置き、樽に旗を立てて其旗の動きによつて魚のかかつたのを知つて引き上げる。これを縄《ナワ》ハエ(普通シビナワ)と云つてゐる。東京では総称的にマグロといつてシビはそのうちの特殊なものになつてゐるのに、紀州ではそのシビで代表して総称的にはシビと呼んでマグロはその一種とされてゐる。この関係はまるで逆であるがどんな理由によるか、まだ考へても見ない。
 
【網《あみ》曳き勇魚《いさな》とり】
 鮪を大敷といふ網で獲る事は前述したが、これはこの木挽長歌の作られたころにはなかつた方法だからここでいふ網曳きのうちではなく寧ろ前の魚《な》つりであらうが、この頃の網曳さといへば先づ秋刀魚《さんま》(熊野では俗にサエラ又サイレといひ和歌山人はサヨリといふ)であらう。以前――といふのは木挽長歌に歌はれた頃は三艘の船を一組としてゐた。これ等の船は後に述べる鯨船も同じであるが、細形の軽快なもので側面にはベニガラやとの粉群青などで花模様などを描き彩色してあつたものであるが今はもう見られない。案ずるにサイレ船は捕鯨期に先立つて捕鯨船を検したり、兼ねて船の操縦を練習したりする目的を以て捕鯨家が副業としたものではなかつたらうか。これ等の彩色した一組の船の三艘のうち、二艘は幾百丈もある大きな網の(167)両端を引きまはして綱を張ると一艘は予めどつさり用意の礫《こいし》を海中へつぶてに打ちつづけて魚を網のなかへ迫ひ込んだものであるといふ。今はこの漁法も全く変つてしまつたといふ。他の地方の漁夫が多く集るのや、石油発動機船の発達などの結果、簡単に効果の挙がる方法に従つて進歩して、同時に地方色を失つたのであらうが、どういふ風に変つたのだか明かにしない。紀州の秋刀魚は東京のものと似てゐるが幾分違ふところがある。その漁期も東京のよりは一二ケ月も遅れてゐるし、形も幾分細く東京のものの様に惡くあぶら切らない、それでゐてさつぱりしたうちに特有の滋味のあるものである。荒海を遠く泳いで来る間に変質したものか、それとも全然別種のものであらうか、県の水産課でも研究してゐるといふ事はいつぞや地方の新聞で見たが、その結果がどうであつたかはつひ見ないでしまつた。先日――十一月下旬遠州の浜松に旅行して友人の宅で秋刀魚の御馳走になつたが、それの味が、郷里の方のものと同じであつた。遠州の漁夫が近年よく紀州へ荒しにくると紀州の漁夫がこぼしてゐた事があるから、あの秋刀魚は必ず紀州の海のものであつたに違ひない。さうとはつきり断言していい程東京方面のものと熊野のものとは相違してゐる。
 海老も以前は磯に網を置いて捕獲したものであつた。今日も無論その方法によるのではあらうが、近年では捕獲したものを磯に貯蔵して飼つて置いて必要に応じてそれを上げて来るだけである。不漁の時の値上りを見越して用意して置くのである。現在ではその竹籠さへ、亜鉛の針金でつくつた箱であるといふ。かう聞くと何やら海老の味も減じたやうな気がしていけない。海老は普通に伊勢海老と呼ばれてゐるが、あれは決して伊勢の海に産するのではなく、往昔、熊野で捕つた海老を伊勢の大神宮に奉仕する御師が生きたままで運べるのが珍らしいといふ思ひつきで京都へよくお土産に持つて行つたのが吉例になり、それが海を見たこともない都人に珍重されるあまり、伊勢人の土産ものといふので伊勢海老、伊勢海老と呼ばれるに至つただけのもので産地はやはり熊野であると熊野では言つてゐる。伊勢では伊勢の産を主張しさうである。誰か海老の産地を知らんやである。これはどうしたつて角ふり分けよ伊勢熊野と海老に聞いてみるより外はあるまい。
 磯には味噌汁の実として熊野人が喜ぶウツボといふ奇態な魚がある。虎に似た斑のある鋭い歯と機敏な活動性とを具へた喧嘩好きの魚で時には人間にさへ噛みつくといふ奴であるが網で取つたり釣つたりカナツキで突いて獲つたりする。同じく磯に棲んでウツボの好敵手と呼ばれてゐる蛸入道は鮪壺で捕へられたりヒシで突かれたりする。ヒシはカナツキと同じものの別称で長い柄のある三叉である。これを用ゐる者は一種の眼鏡を工夫して海底をのぞきながら突く。筆者は十二三歳のころ磯に遊んで岩凹の間に半透明な細長い海草のやうなものが流れてゐるのを見つけてそれを拾つて見ようと手を差し出すと、突然奇妙な感覚に襲はれて狼狽し、これを振り捨てようとあせつた。相手が何者とも正体が知れないうちにこんなことになつたので驚き恐れたのである。僕のうろたへてゐるのを見つけた一友人で(168)漁村に成長した者が笑ひながら近づいて「頭をひつくりかへせばいい」と教へてくれたがどうしていいのだかわからずにゐると彼はもどかしげに近づいて自分で取計らつてくれた。外套の頭巾のやうになつてゐる頭部をくるりとひつくりかへしてしまつたら怪物の力はみるみる衰へた。この怪物は外ならぬ鮹のうちの柳鮹といふ小さな種類であつた。店頭でばかり見て鮹といふものの生きたものを見てゐなかつた僕が捕へようとした手を鮹に吸ひつかれて気味悪がつたのであった。しかし、そのおかげでこの日磯で変つた獲物と話柄とを残した筆頭は僕であった。「柳鮹なんて食つたつてしようがない」と海村育ちの友達は一笑に附してゐたけれど、有毒といふわけでもないと確めたので、僕はその日帰宅して夕餉にはその怪物を食つた。不味くはなかつたやうにおぼえてゐる。鮹やウツボなどはほんの一例で磯には幾多特有の小魚が多いが後段に改めて説く機会が来る。
 海鷹《みさご》鮓と呼ばれるものが時には見つかると云はれてゐるのは熊野のこんな磯の岩間である。海鷹鮓の事はたしか弓張月に琉球の磯の事として出てゐたやうにおぼえてゐるが熊野でも実物は見ないが話でならよく聞いてゐる。その鮓といふのは多分満潮の時岩凹のなかにゐたのが引潮にのこされる乾上つた後にその塩魚がひとりでに偶然に?酵したものか何かで海鷹のつくつた鮓でもあるまいが、ここでいふ鮓はなれ鮓と称して熊野地方には今も行はれてゐる。魚と飯とに?酵菌を寄生させたもの。チーズに似た美味である。新鮮な魚を開いて塩蔵したもののなかに飯をつめて、これを小判形の桶の中に並べて石で押して水気を去り、桶のなかに前年発生したままで残つてゐた菌(多分チーズの菌などと同種類)が飯や魚に寄生するのを待つて食ふ。鮓の出来るまで三週間ぐらゐかかるものであるが、なかなかいいものである。執筆に夜を更して偶この鮓のことを書いてゐると季節柄食指の甚だ動くのを覚えて来た。俳諧にいふ鮓の石鮓の桶といふものはみなこの鮓のことである。ひとり熊野にあるだけでなく各地に類似のものもあり以前は全国にあつたものであらうが、熊野には今も残つてゐる所謂なれ鮓である。俳諧では夏の季のものらしいが、事実として我等は熊野でも東京でも寒中に漬けて居る。但し海鷹はいつ漬けるやら知らない。
 山には樹の虚洞《うろ》に醸された猿酒といふものがあると聞くが、海鷹鮓を肴にして猿酒を一献参つたらと考へて見たら上戸ならぬ我等も悪くなかりさうな気がして来た。尤も仙人でもないのに無闇とそんな珍味をせしめると腹痛でも催さぬとも限るまい。とかく口は禍の門。分を知つて慎む可さであらうか。
 海鷹鮓は咄に聞くだけであるが海鷹なら熊野の磯にめづらしくはない。先年筆者が南部《みなべ》の香嶋の磯で見た海鷹の巣はまるで王冠のやうな形に海中の高い岩の頂に営まれてゐた。みさごは荒磯に居る即ち人を恐るるによりてなりといふ方丈記の文の意味を目前《まのあたり》に知つた事であつた。
 磯で特殊な網が行はれる外に浜では地引網がよく見られる。七里御浜の至るところ、例へば新宮の王子浜、木の本の浜、阿田和の浜などで見かける。春の海がおだやかに長閑な日などひる前から引廻して置いたらしいのを午後半日がかりで引き上げ(169)る時には浜に近いあたりの老若男女はもとより、通りがかりの見物までが散歩の杖を砂原に投げすてて手を貸し、夕雲の下に引き上げたのを見るとおもちやのやうな鮹、烏賊、蟹から、鯛、平目、さては河豚、鰯に太刀魚など鱗族の四民平等、一切同災の観がある。鰯の多くかかる日は空にうろこ雲が現れてゐるとか、七里御浜に太刀魚の多くかかつた日は天気が雨になる模様があるなど、岸に近づいてゐる魚族と天候と密接な関係があるのも当然と言へば当然ではあるが海近く住んでみてはじめて知る面白い事の一つであらう。いつぞや絵をよくする友人を伴うて熊野に遊んだ時彼が即興に漁婦を画いて賛をせよといふので臆面もなく悪筆を揮つて、
  海彦をいろせに持ちて夕な夕な落葉のごとく拾ふ鱗族《うろくづ》
といふ似而非歌を題したのを思ひ出したから筆の序に記して置く。
 熊野の海は琉球の沖とともに世界でも貝類の産地として知られたところであるとかで、浜辺にはさまざまな貝がらが多く得られる。大海で小さな生を営んでゐたものの残骸だけに貝殻といふものを面白いものに思ふのは自分の趣味ばかりでもないらしい。モラエスの遺品のなかに、少年時代からその足跡を印した海浜で拾ひ集めたといふ各地の大小雑多な貝殻の蒐集を見て海軍士官出身の心理的詩人のものにふさはしいいい蒐集品だと妬ましく思つた事であつた。
 
   十月十六日巴嶽にのぼるとて多宇具良といふ谷の雪の上にかり庵つくらすとて大木をきらせけるにたをるる音山にどよみぬ
  みやま木のもときりたつと斧とれば空もとどろに山風吹くなり
                        ――柿園詠草
 
   浦は…………
       (熊野の風景美に就て)
  浦はそとの浜吹上の浜長浜打での浜諸寄の浜千里の浜こそひろう思ひやらるれ――枕の草紙
 
 まだ木挽長歌の小解の途中ではあるが、海浜の話になつてふと清少納言が枕の草紙に浦はと言ひ出して、浜や浦や滝や川などを挙げてゐるのが思ひ出されたから今才媛が顰に倣つて熊野のうちから「浜は」をやってみるとしよう。
 浜は 七里御浜 白菊の浜、しららの浜と聞くさへ眼すずしくおぼゆるに、
 浦は 玉の浦 離れ小島は名さへあはれにさびしさいやまさる折から、
 磯は 鬼が城と聞くにこころ落居ず、
 滝は こればかりは枕の草紙の一部をそのまま「那智の滝はくま野にありと聞くがあはれなるなり」を引用して置かう。
 白菊の浜は新宮市外の御手洗(ミタラヒ)からやや三輪崎に(170)寄つたあたり今は汽車の線路に沿うてゐる。旧街道の猿茶屋と呼ばれた茶屋のあつた峠の下のあたりである。やや大形の丸く白色の石のほぼ粒の揃つたものばかり選んだやうに集つてゐる浜である。波のやや荒いところだから自然と石のつぶが揃うたのであらう。浪の引く時に石の周囲に泡が立つてなるほど白菊の花を見るやうな趣はある。幾分荒つぽくて歌枕風の景色ではないが特色のある風変りな浜である。
 しららの浜は催馬楽に歌はれてゐるからその名は夙に世に知られて地方的なものではなくなつてゐる。西牟婁郡田辺町の附近の白浜であるといふ事になつてゐるが、自分はもしや東牟婁郡下里町の粉白(コノシロ)の浜ではあるまいかといふ一家の見解を持つてゐる。もし愚見が通用するものとすればしららの浜は次に述べようとする玉の浦と同じ場所の別名、或は玉の浦の一部分といふわけである。
 玉の浦ならつい一両年前、県当局や我等の反対にも不拘、鉄道省の暴挙によつて申しわけにその名残だけはあるが、秀麗温雅なうちに哀愁を帯びたわが古典文学の趣をさながらの風致はむざんに破壊されてしまつた。象潟の名とその歴史とが幾多のあはれ知る越路の旅人が旅愁を深めるに劣らず、玉の浦はこの後永久に心ある熊野路の旅客をして俗吏の暴挙を痛憤せしめる記念の地となるであらう。この地の海岸は円形黒質で滑沢のある玉石と称する「球状の含燐結核を含むもの」を産した。「大きさは梅の美大を普通とするが稀には人頭大に達する者もあつて色分成立は全く母岩(泥板岩)と等しきも只其硬度優れる球塊に外ならざるもの」(山崎直方佐藤伝蔵共著「大日本地誌」中「玉の浦の玉石」の条に憑る)。この奇事がある上に、このあたりにつづく砂の色が特別に白く到底白浜などの比ではない。米の粉のやうにこまやかにきららかな光沢を帯びてゐる浜であるのに、湾外の程近い海上にささやかな小嶋が白い浪に包まれて横はつてゐる。これが離れ小嶋である。この三者が一体になつて一つの歌枕をなしてゐた。しららの浜をこの地とするのは筆者独自の意見だからこれは暫く措くとしても、このあたり玉の浦は玉の浦として既に世にかくれもない歌枕で、瀬戸内の同名の地と久しくその真偽を争うたがこの地に離れ小嶋の具はつてゐるだけに近時識者から更に認められつつあつたものである。それを鉄道が風景の真只中を横切つて突堤を築きその上に鉄路を走らせる工事を遂行したので、玉の浦を破壊したばかりか離れ小嶋との美的聯絡を切断し、而も多くの旅客をして車窓から名勝を明かに見物させるに好都合であらうなどと当局はうそぶきほざいてゐるのだから憤ろしいよりも寧ろあきれ返つた沙汰である。何がよく見えるかは知らないが、風致はすつかり失はれてしまつた。今は無き名勝はただ幾多の古歌をそのかたみに持つばかりであるから、今は纔にこれによつてありし日を思《しの》ぶより外にすべもない。
 
  荒磯よもまして思へや玉の浦のはなれ小嶋の夢にし見ゆる
                         万葉集七巻
  我が恋ふる妹はあはさず玉の浦にころもかたしき独りかも(171)ねむ                           同九巻
  汐風やとほよる千鳥玉の浦のはなれ小嶋に友さそふなり
                         権僧正公朝
  玉の浦名に立つものは秋の夜の月にみがける光なりけり
                           為家卿
  霞にもはなれ小嶋にあらはれてまたうつもるる沖つ遠山
                            正徹
  小夜ふけて月かげ寒み玉の浦のはなれ小嶋に千鳥なくなり
                           平忠度
  船出して今こそ見つれ玉の浦はなれ小嶋の秋の夜の月
                            忠家
  ぬれて干す沖の鴎の毛衣にまたうちかへる玉の浦浪
                         伝西行法師
  ながめやる海のはてなる山ぞなきうかべる雲のはなれ小嶋に                                 柏玉集 後柏原院
  古里をはなれ小嶋による浪よ立ちかへるべきしるべともなれ                                千首 羇中旅 耕雲
 まだ少くはないが居ながらにして名所を知つたかと思へるのやあまり名前の一般でない作者のは引かなかつた。最後の一首は筆者の故郷がこの地に近いので出京の度毎に口吟して特に記憶に残つたわけである。はなれ小嶋を主題にしたものとしては柏玉集の「浮べる雲のはなれ小嶋」が最も実景に近い。湾外の程近い水平線上に白波につつまれて細長く浮いてゐる小嶋だから。それにしても、あまり秀歌のないのがもの足りない。
  玉の浦のおきつ白玉ひろへどもまたぞ置きつる見る人を無み
 は前述の如くこの浦からは白玉ではなく色は黒いが質の硬い形は人工にまがふばかりの球形の石が出る事実から見て閑却出来ないものである。この海中から白玉は言葉のあやとしても、玉石が出る事実と、今現に地名を粉白(コノシロ)と呼ばれてゐる程、粉末の如く特別に純白で光沢のなめらかにきららなこの浦を、自分は催馬楽にいふ紀伊州の白良の浜に擬するものである。試みに催馬楽を読んで見よう。
       紀伊州《きのくに》
     紀伊州《きのくに》の白良《しらら》が浜《はま》に
     真白良《ましらら》の浜《はま》に
     来《き》てゐる鴎《かもめ》 はれ
     其《そ》の玉《たま》持《も》て来《こ》
 
     風《かぜ》しも吹《ふ》いたれば
     余波《なごり》しも立《た》てれば
     水底《みなそこ》霧《き》りて はれ
     其《そ》の玉《たま》見《み》えず。
 「風しも吹いたれば余波しも立てれば水底霧りて」といふのも直接外海ではなく湾内奥深い実情にもかなふところではあり、自分は催馬楽の真白良の浜を東牟婁郡高芝町字粉白の浜と玉の浦とを合せたものと考へて、「おきつ白玉拾へどもまたぞ置きつる見る人をなみ」と催馬楽を踏まへた歌の上の五字に玉の浦(172)を読み込んでゐるのを見て、古昔は玉の浦と白良の浜と二つの名を持った同一の地であったかを思ふ。尠くもさう思つてゐた時代もあつた事の証としたい。実状に鑑みて在来の定説をも顧みず敢て私説を公表する所以である。――田辺町の白浜が白良の浜であるといふ宣伝のすでに一般化されたのは認め且つ古来この浦を白良が浜と見做して咏じた古歌も多く、続風土記でも認めてはゐるしまたその確証を田辺町の人々が握つてゐることとは信ずるが。
 玉の浦の玉石は追追と少くなりつつはあつても現時でも時々海中から出て来るものである。附近の茶屋や土地の土産物屋の店頭などで旅客もよく見かけるであらう。
 熊野の海の海岸一帯の荒荒しい風景のなかのところどころに、玉の浦や、狭野の渡附近などのやうな、たをや女ぶりの典雅優艶、小じんまりとまとまつた風景に出会ふのはその思ひがけない変化と対照との上から特に珍重なために歌枕に選ばれたものであらう。外に那智山下勝浦湾内の湯川などもこの類の風景である。和歌の浦にしても遠江の伊奈佐細江にしても歌枕の地にはみな一脈共通のなごやかな美がある。つまり日本の古典文学の典型的な美が風景に具現されたものであらう。日本文学の精神――やがては国民性である――を手つ取り早く知る妙手段は歌枕を一見するに如くはあるまい。国民が美的情操の伝統を平気で破壊しつづけて何が地方の開発であらうか。目前一時の利の(それさへ政党の勢力獲得上の)ために、国家百年の計を誤るものではないかと我等風情でさへ寒心の至りである。尤もこんな理を説いて聞かせて判る程なら、最初から我利我利政治屋や俗吏ではない道理だから、彼が盲人でない限りは美景に心を打たれてはじめからこんな暴挙に及ぶわけもなかつたらう。何しろ鉄道当局と来たらこの地方にまだ鉄道のなかつた四五年前ころには、東海道線の車中に掲げられた日本中部地図のうちに天下の霊山として一時は上下の信仰の中心地であり、現に日本一の称のある滝のある那智山の記入が鉄道に関係がなかつたからといふ理由からか、平然と無視してゐる驚くべき非常識を発揮したお役所であつた。それが名所旧跡などに気を配つてゐては地方の開発(開発の意味を果して知つてゐるのか?)は不可能だ風景美などは産業の発達上何の意義があるか、工事を急げ急げとばかりえも磐代《いはしろ》の結ぶ松の跡(史蹟であつて無二の文学名所!)をレエルの下敷にしたり玉の浦を真二つにたち割つたり、懐古的感情などは無視した革新的な英断ぶりは我等とは傾向は違ふが確にこれも一態度と見上げつつも(それにしても現在の熊野に何の産業があるのかと怪しんでゐたら)鉄道の完成に近づくに従つて、今度は訝しやそろそろと、破壊の手から偶然残つてゐた名勝旧蹟を、そればかりでは足りないかいかがはしい新名所までも売り物の案内書などをつくつて旅客を誘引しようと策するのだから、矛盾も亦夥しいものである。熊野の鉄道布設事業によつて近頃これ等の実情の委曲を知悉して以来、我等は日本地図をひろげて鉄道線路標記を見る毎に、既に風景と史蹟との破壊された地方また地方の悪政客と奸悪な俗吏の自己の栄達を求めて汲汲たる輩とが相結んで土地開発国家事業の(173)美名の下に、純樸に平和な地方人の民心を傷けた戦慄すべき事実の標記として目を覆ひたくなるのを禁じ得ない。
 玉の浦などの温和な飽くまで歌枕風な景色は熊野では珍らしい。それ故例外として尊重しなければならないのに対して三重県南牟婁郡木の本町の東北端海岸の鬼ケ城の巨巌自らに屋宇の如く波蝕洞窟を成し怒涛澎湃と巌礁を撃つ所、眼界は茫茫たる太平洋に直面する雄大奇絶な景は東牟婁の潮岬の眺望|等《など》とともに豪宕な熊野海岸風景の典型であらう。
 雄大といへば那智の滝を説く事を忘れてはなるまい。那智山上の絶壁に直下四十四丈余(華厳は三十三丈)壮観無比宇内第一の称のあるのも空しくない。那智四十八滝のうちの一の滝と称するものである。大瀑布でありながら一直線にかかつてすんなりと水煙を籠めた所は天女の織る機を切つて風になびかせたとでも言はうか、いや、やはり橘南谿が美人の羅衣を纏ひて立てるが如しと評した適切なのには及ばない。
 壮観は或は華厳に一籌を輸するかも知れないが美麗は恐らく天下の如何なる滝も那智の敵ではあるまい。大雲取、小雲取の嶮山を奥にひかへてゐるから水量も豊かに何時も涸れる事がないと謂はれてゐたものであるが、近年山林の濫伐に禍されて水量は昔日の比でないと云はれる。古来名歌に乏しくないが諸平の三首が嶄然頭角を現はしてゐる。――
  壁たてるいはほとほりて天地にとどろきわたる滝の音かな
  高機をいはほにたてて天つ日の影さへ織れる唐にしきかな
と実景を詠じた上に更にその水源を空想して
  あしたづの翅のうへに玉しきて神やますらむ滝のみなかみ
と想像を馳せたものも実景を見た人には実感のある詩的空想として承認されるものに違ひない。最後にわが椿山翁が戯詠を一つ思ひ出した。
  竜門の鯉はものかはいすくはし鯨ものぼる那智の大滝
といふのである。もとより滝を詠じたのではなく大滝に事よせて往年の那智山上の僧徒が放縦を諷したものと察せられる。多くの名歌を無視して敢てこの狂歌をここに上げるのも、木挽長歌の小解を中絶しその重要な話題を語り残してゐる気がかりの一端がここに現れ出たものである。
 
     勇魚とり
 
      三国一ぢや
   今宵夢見た目出度ものを座頭枕に子持を前に旦那盃さすを見た。たんに立つたる茜はちまき誰ぢや。お礼ぢや。覚右衛門様羽ざし座頭掛けに来た。漕ぎに来た。旦那百までわしや九十九までともに白髪のはへるまで。
   ――太地鯨方出初其外祝競の節網勢子羽指共酒給ひ候節の歌
 
 勇魚とり――捕鯨の事業に至つては海の幸の筆頭であらう。熊野の捕鯨は古来海内にその名を知られたものである。神武天皇が御東征の御砌、「いすくはし鯨さやる」の御製を遊ばされ(174)たのも御東征の御道筋に当る熊野灘を御通過の御時に御覧になつたのをありのままに仰せいだされたかとも拝察し奉るけれど、この問題はただ想像にとどめるだけである。何しろ、御東征の御道筋に関しては先進の諸大家にさまざま研究の発表があるやうだけれどそれもどれに従つてよいかすらも判断出来ない。ただ新宮市外の御手洗(ミタライ)は御東征の御砌、帝が丹敷の余党を三輪崎に平げ給うた御手を洗ひ清めさせ給うたところと土俗が相伝へてゐる事だけ位を記すにとどめて、七里御浜といふのはこの御手洗を南端として前述の鬼ケ城に終るあたりまでの間の松原つづきの浜のある、熊野にはめづらしい長汀であると補記して置く。この沖を黒潮に乗つて出没する鯨は旧暦九月の末から冬の終までを東から西に浮び出るこれを上り鯨といふ。西の海で子を産んだものが子を連れて再び西から東に向ふのは旧暦の三月一杯位である。それが下り鯨である。捕鯨は多く冬中の上り鯨を獲るのである。往年は一年に大てい七八十頭、少い年はこの半分位と言はれたものであるが現今はこれを得ることが甚だ稀である。
 九州の五島の海や、土佐其他にもこの事はありながら、捕鯨とさへ言へば必ず先づ熊野を思ひ出す程で、漁獲が稀になつた近年でさへも熊野と捕鯨との聯想は永年の伝統からまだ消えない。それ程であるから、筆者もこの話題に関しては紙数を惜しむわけにゆくまい。
 濫獲の結果往年の盛況はなく殆んど廃業の観があるけれども、それでも大正六年の東牟婁郡(熊野捕鯨の本場)の捕鯨高表といふのがあるから引用する――
   種別  頭数   価格
   長鬚   七   二八、一一五円
   白長鬚  四   二三、二七六
   末鰛  四四   三九、九三九
   能曾   一    二、八三一
   合計  五六   九四、一六一円
 座頭や背美などの古来珍重したものは一頭もなく徒らに長大なだけで油を得る料にしかならないといふので昔はわざと獲らなかつた長鬚の数や末鰛などやつと物の数に加はるといふだけのものばかりと思ふのに、それでもその総価格は相当に上つてゐてなか/\馬鹿にならない。
 それでは鯨のうちどんな種類のものが何故珍重されるか、古来熊野六鯨と謂はれてゐるものを左に数へて見る。
  座頭鯨《ざとうくぢら》 この鯨は背に植鰭があつて琵琶鰭と名づけてゐる。この鰭を負うた形が座頭に似てゐるところから名づけたといふ。長さ三尋位から八尋位に及び味美し。
  背美鯨《せみくぢら》 鯨中の最上種で背の肉が殊に美味なところから「せみ」の名がある。長さ四尋位から十一二尋に及ぶ。
  末鰛鯨《まつこうくぢら》 又音に従つて抹香鯨とも字を当てる。長さ一二尋から十五六尋まで。油を採る方を主とし、食用には適せぬ。歯は印材に用ゐられる。千筋は唐弓の絃となる。千筋の本即ち膜を「トコ」と呼んで食用に供す。この鯨にのみあるものである。
(175)  児鯨《こくぢら》 六鯨中の最小なもの故にこの名がある。長さ三尋位から五六尋位。
  堅魚鯨《かつをくぢら》 又は鰯鯨とも呼ぶ。堅魚や鰯の群を追つて来るからこの名がある。長さ三尋位から五六尋位。
  長鬚鯨《ながすくぢら》 六鯨中特に長大なので名づけた。長さ十二三尋から二十尋のものさへある。しかし不味なので昔時はあまり獲らず獲つても搾つて油を採り、又肥料としたものであるといふ。
 これで見ても大正六年の漁などはどんな貧弱なものであつたかがわかる。それでゐて利得は尠少でない。現代よりももつと珍重された時代にいい種類のものが七八十頭も獲れた頃の盛況も推察するに難くないわけである。昔日は藩侯をさへ羨望させたものと見えて、はじめは民間の事業者に保護を与へるといふ名でこれに渡りをつけてゐたのが和歌山で追追と本式に自分で事業に乗り出して古座を本拠とすると新宮藩でも三輪崎に本拠地を置いてこれに従事した程であつた。さればこそ西鶴が日本永代蔵の巻二に「天狗は家名の風車――紀伊国に隠れなき鯨ゑびす」といふ成金話があるわけである。それに紀路《きのぢ》大湊|泰地《たいぢ》といふ里とあるのは考へるまでもなく紀州の太地《たいぢ》浦――現に東牟婁郡屈指の盛大な漁港太地町の事に相違ないと思ひ当るのである。この地こそ熊野捕鯨の中心地だからである。此浦に鯨突の羽指(鯨船の指揮者の意)の上手に「天狗の源内といへる人」とあるのは「近年工夫して鯨網を拵」などの句によつて鯨を網によつて捕獲する事を創案完成した土地の大庄屋役和田覚右衛門頼治が事に?つたに相違ないと思ふ。事実、彼は熊野捕鯨業の中興の祖ともいふべき人物で、その鯨網の創案は延宝五年で、永代蔵の成つた元禄元年から十二三年前に当る延宝五年以後年々の工夫によつてそれが大成したのは天和三年であつた。元禄元年を去る四年前に当るから「近年工夫して鯨網を拵」の文句にも適ふわけである。彼の鯨網発明は、そのころ背美鯨、児鯨などの銛では捕獲し難い種類のもののみ多く出没して従来の銛突きの方法が殆んど無用に帰したのに対応する必要から出た新工夫であつたと伝はつてゐるが、その創案の延宝四年以来年々の試みが重つて大成するに従ひ、彼の発明の恩恵によつて頓に発達した熊野の捕鯨は天和三年癸亥の暮から翌甲子の春に至る一年の間に同地方の捕鯨高が座頭鯨九拾壱頭、背美鯨弐頭に上つたと伝へられてゐる。これを前記の大正六年の捕鯨高表と併せ見ると思ひ半、往年の盛大に転た一驚を喫するものがある。否平均七八拾頭、少い年はその半数といふ昔時の平均から見ても正に例外の大漁であつた。これ等九拾参頭が殆んど皆前年度まで逸してゐた種類のやうであるから、数年分を一度に捕獲したやうなわけではあるが新方法の効果百パーセントを事実で示して発明者の名誉が大に四方に喧伝されたのも尤もな次第。西鶴もこの噂を四年後の元禄元年上梓の永代蔵に書いた事になる。
 抑も熊野の捕鯨の起源は秦の始皇帝の暴政を逃れて三千の童男童女を伴つて蓬莱に不老不死の仙薬を求めると、熊野地方に漂着した方士徐福がその法を伝へたとかで、その捕鯨の歌とい(176)ふものに
  大島原からよせくるつち(槌鯨)を二十余艘秦氏がさしてとる
といふのがある。秦氏とあるは徐福のつもりらしい。徐福又はその從へた童男童女の裔といはれて秦氏を姓としてゐる家族は熊野で時々見かけるところである。また秦徐福の墓と伝へるものが新宮市にあつてその附近は今徐福を町名としてゐる筈である――近年彼地に行かないから伝聞するだけで不確だけれども。筆者が雅印に家在徐福墓畔の文を用ゐるのも亦これに由來してゐる。
 徐福から熊野の捕鯨がはじまるまではその由来の古い表現にはなつても寧ろ神話に類するからせめては伝説あたりまででもと辿つて見ると、和田義盛の一族といふ太地の郷士和田頼元が慶長十一年、泉州堺の浪人伊右衛門、尾州師崎の漁師伝次の両人と謀つて銛を用ゐて捕獲する事に成功したのを以て剏始とするといふ。その後和田一族が栄えて分家八戸に及んだうちから前記覚右衛門頼治が出て網を以て鯨を捕へる法を発明して中興の祖となつたわけである。
 この一族を和田義盛の裔として村人一同が御一家と敬称してゐる次第を彼等一族の古記録によつて見ると「三浦大助の男義盛(和田坂に住して和田姓を名告つた)の三男、朝比奈三郎義秀建平三年五月の戦――義盛が北条義時を除かんとして敗れしもの世に謂ふ和田合戦の末、逃れて太地に来り住し海岸の洞窟に蟄居して世を忍び、道通と号した。道通と号した義秀が蟄居の跡は今も太地に和田の岩屋と呼ばれて存してゐる。道通は土民の女によつて一子を得たまま去つて後行く所を不知。此一子頼秀姓は祖父を継いで和田氏を名告る。太地の和田、所謂御一家の祖である。一族中後に豊臣氏に仕へて征韓役に陣歿した勘之丞頼国の弟忠兵衛頼之の孫忠兵衛頼元は官を辞して郷士となつた者で、和田氏の捕鯨業はこの人に始まるといふ。勇士朝比奈三郎が志を得ずに南海の地に逃れ漂ふ間に昔日の北畠師房の故智に倣つて熊野海賊を糾合し――自ら水軍の将帥となつてゐた者の後が一類を統率して捕鯨業を興すとなると大衆小説めくが、法螺の音勇しく隊伍堂堂と各厳重に部署を守つて業務に従事する熊野の捕鯨はもと熊野海賊が命がけの内職であつたらうといふ想像の成立はそれが徐福伝来といふ神話めくものよりは幾分現実性があるつもりである。なほ朝比奈に就て云へばこれも大衆小説的人物だが普通和田合戦後千葉にゐてから後がわからなくなつてゐるのを我々は太地の岩屋で再び見出す次第であるが、由来房州辺と熊野とは潮流の関係で交渉の深い地方といふことになつてゐる。房州の勝浦は紀州勝浦の漁民が何かの機会で移住した土地でもあらうか漁法や風俗習慣など奇妙に相似てゐるところがあると、紀州勝浦の人が言つてゐるのを聞いた事があるのを真偽は保し難いが記して置く。
 中興の祖覚右衛門頼治が出て網を用ゐて鯨を捕獲する法を得た一方に、漁船も改良、一層完備し業務は利益の多いものとなるにつれてこれに倣ふ者が追追と多く、捕獲事業は三輪崎、古座、阿多和、二木島方面等南北牟婁や西牟婁さては土佐等にま(177)で及んで西國一帯の鯨方十一組の多きに及び、それが皆頼治を元締と仰いだ。
 頼治は隱居して総右衛門と名告り、その子覚右衛門に家督を譲つたが、二代目の覚右衛門が初代に劣らぬ傑物であつたから子孫は世世所謂、覚右衛門組、太地組鯨方の綜元締を世襲して覚右衛門を名告り明治に至るまで地方有数の長者として尊敬された。地方の俗謡にも、
     太地覚右衛門大金持よ、
     せどで餅つく
     座敷で碁うつ
     沖のとなかで鯨うつ
と謡ひ伝へてゐる程である。漁法が後年大砲に変つた今日鯨うつのうつは撃つと誤解されさうだけれども、銛は突くとも打つとも言はれたものらしい。熊野地方で幼年者の持つてゐる皿の菓子などの美味なのを卷き上げる時に狡児は、戯れて鯨を獲る話を教へようと誘ひ出して、目的物に、「そうら一のモーリ(鈷)二のモーリ(銛)」などと拍子面白くもちかけて箸や火箸を打ち込んで見せて、その興味に釣り込まれ果てたころを見すまして、ソーラ三の銛、鯨がトレタトレタなどと目的物を箸と一緒に持ち上げて來てしまふのであつた。質の悪い遊戯だけれど郷土色があるところがをかしい。あみだくじの残り物の一つなどは大ていかうして飛んだ覚右衛門殿にせしめられるのが普通である。
 西鶴の所謂天狗源内の初代覚右衛門は申すまでもないが、二代目もよほどの智者であつたと見えて、自己一身の繁栄を謀らず、これを一村に施して法の宜しきを得たので当時二百五十余戸に過ぎなかつた一寒村の太地は一躍數百戸の有福な邑となつた。俗謡が永く覚右衛門を讃美してゐるのもこの有徳に酬ゆる気かも知れない。藩主は特に和田氏に太地姓を賜ひ、鯨肉を命ぜられる光栄にも浴した。紀州側の伝へによると土佐の捕鯨も元禄年間土佐国津呂の人奥宮氏が故あつて久しく太地に寄寓中遂に捕鯨網漁法を伝習し彼地で行つたのが濫觴であると言つてゐる。太地鯨方は、寛政年間七代目の覚右衛門に至つて一時殆んど廃業の有様に瀕してゐたのを和歌山の藩主が保護後援して再興継続せしめてゐたのが後に再び和田氏の独力の事業になつてゐたのに嘉永三年稀有の不漁に引続いて安政元年冬地方に前代未聞の大地震に伴ふ海嘯のために本宅から倉庫一切を洗ひ去られる悲運につづいて捕獲も乏しく衰運に赴いて昔日の盛大は俗謡に伝はるばかりとなつて明治に及んだ。その十一年十二月二十四日夕方「夢にも見るな」とさへ戒められてゐるほど勢猛き「背美の子持」を獲ようとして遭難し全員二百人(普通は五百人を要すると云はれてゐるのにこの時は二百人程であつたと見える)のうち生還したもの十三人といふ悲惨事などもあつて業は一大打撃を受けたのでその後の十年間は全く苦境に陥ち断続的に転々と種種の人によつて経営されてゐたのを、二十二年からは東京の人平松氏の手に移つたのも二十五年に一時中止となつた。三十三年熊野捕鯨株式会社の設立を見たがこれ亦不結果に終つてゐたのに、三十八年下関の東洋漁業会社が新式の捕(178)鯨船を熊野に送つて、この一年間に百六十八頭を捕獲し、当時至極低廉な値段でありながら参拾八万といふ奇利を占めたので、我国各地の捕鯨会社が一時に熊野に着目したのが、みな不結果で追追と引き上げてしまつて現代は殆んど廃業の状態である。新式の漁法は北欧の式で、紅毛の砲手に師導されて大砲を以て射殺するものであるが採油にはともかく、食用としては味を傷けると、昔をなつかしがつてゐる人が多かつた。捕獲法の罪ばかりではなく、食用に適するものが先づ獲り尽されて後、他種も追追と絶滅に瀕してゐるのであらう。往年の濫獲の結果に相違ない。すると西鶴の所謂天狗源内の時代が熊野捕鯨の全盛期に相当するものである。
 最旧式の銛で突く捕鯨法に用ゐた船は一般に七挺櫓を具へた堅舟であつたのを寛文四年以後は熊野諸手船に倣つた丹塗の船にし延宝五年の鯨網の創製とともに銛と網とを併用する船隊の組織なども大仕掛なものとなつた。突き船、網船、引船と大別する捕鯨船のうち突き船は九艘を一隊とし、各船は十五人乗八挺櫓を貝へてゐた。船毎に羽指(ハダン)と称する総官が一人、長柄のある銛を擁して船首に立つた。網船は一隊に八艘、各十二三人乗、船毎に網十八緞を積み込み、鯨を追ひ廻して遠巻に網を置いて「眼おとし」をする。この網は太さ井戸綱程で、壱反分は最大のもの参拾五尋のその節数は四十五尋から成つてゐた(太地覚右衛門氏伝襲の鯨網仕立方といふものによつて明細は知ることが出来る)。引船は各船皆十一人乗。船は何れも鯨油で溶いたベンガラを用ゐた丹塗に輪廓や模様の稲妻形の区劃など黒く線を引いたなかに松の葉の模様や花形などの五彩あざやかなものを船腹に描き出してゐた。悉く旗を立てて軍船のやうな趣がある。蕪村が句の、
  既に得し鯨は逃げて月ひとつ
は前記のやうな船やそれが各部署についてゐるところとを想像した上で味ふべきであらう。同じく蕪村の
  山颪一二の銛ののぼりかな
は捕獲に成功してその殊勲を現はす船が一の銛二の銛の名誉を示す幟を立てて意気揚々と凱旋するところである。その他蕪村には鯨に関する句が多い。特に熊野浦と指してゐるのは
  十六夜や鯨来そめし熊野浦
だけであるがこれは上り鯨の事であり、
  菜の花や鯨もよらず海暮れぬ
は熊野の下り鯨を指してゐるかと思ふ。その他、蕪村の鯨の句は、その時代を考へてみて熊野の捕鯨がまだ全盛の時機だから皆熊野を想像したものと思つてよからう。蛇性の婬で熊野小説を書いてゐる秋成に捕鯨の小説を書かせたかつた。彼には適当な題材だからである。
 前述の捕鯨の船隊はみな陸の山上から遠眼鏡で遠望してゐる老漁によつて信号で指揮されてゐたものである。近きは貝、貝の及ばぬところは三品の采配、采配の及ばぬ場合は三品の旗を用ゐ、旗でもおぼつかない時には?火を挙げた。鯨の大洋を通遊するものは一日の内夥いが、これを漁するには海岸四里以内のものでなければ困難としたので、海に近い山上の望楼で終日(179)見張つてゐて、螺貝や、?火で鯨の寄つたのを報じたものである。この合図に接すると一村はさながら非常召集の命を受けたも同然で大正初期でさへ阿田和あたりは為めに小学校も業を休み児童迄が浜に集るといふ程であつたと同村で代用教員をしてゐた事のある友人の話であつた。
 紀州出身の将軍吉宗が熊野の捕鯨船に範をとつたものを江戸に用意させて水難救護の事に従はせ世に好評のあつたのは史上に顕著である。慶応二年長州征伐の際にも熊野捕鯨船は徴発されて神戸まで航行した事もあつたといふ。
  いさなとる海辺を見ればさにぬりの神代の御舟今もうかべり
                         長沢伴雄
や、筆者が師与謝野寛大人熊野詠草のなかに見えた
  丹ぬり舟いかり帆の綱ふかの鰭にほふ日向に浜木桶の咲く
にいふ丹塗舟や神代の御舟の捕鯨船は、筆者が少年時代にはまだ新宮の王子浜や三輪崎の浜などでよく見かけたものであつた。図案や彩色の一例は挿画によつて示すつもりであるが、その模様のゲテものらしく素樸で端的な表現を持つた菊や椿の花や重ね松葉などの豪壮に美しいのが色褪せながら、鮮やかに見られたものであつた。旧新宮藩の三輪崎鯨方に属したものであつたらう。その色彩や図案の古雅な印象は今も眼底にあつてなつかしい。たゞの装飾といふよりも油を雑へた塗料が水をはじいて滑走をいやが上に軽快にした工夫と聞く。尚これらの模様や番号は各船の部署を明かにした目じるしであつたらう。昔日の船は多く、既に朽ちてしまつたらうし、新しく造営されることもあるまいから、現時ではもうあの目もあやな細い船を旅客はもとより地元の少年等も見かける事はあるまい。明治三十年代の中ごろはじめて熊野へ遊ばれたかと記憶してゐる故先生は多分あれを三輪崎湾外の孔《く》島か鈴島あたりで注目されたのではあるまいか、あの辺には浜木綿《はまゆふ》が人影を没するほどの丈によく茂つてゐたものだ。いかり帆の綱などもあの辺を思はせる景物である。三熊野の浦の浜木桶に関しては別に鄙稿があるからここには書かぬ。丹塗船や保護植物になりながらも年年減少する浜木綿や熊野の風物も大方はなくなつた。熊野の遊覧は一日も早かれと誘ふ所以である。
 鯨は羽指等が我がちに打ち込だ銛の傷によつて出血して疲労が激しくなつた頃合を見はからつて、利刀を携へて海中に身を投じて其背に穴を穿ち大綱を通し左右の船に繋ぎ数艘を連ねて海岸を指して曳き帰るのである。背に穴を穿ち大綱を通すことを「手形を取る」と云ふ、この仕事は、もし時期の見計ひを誤つて早過ぎれば鯨の勢が猛くて近付くものに死闘を挑むから船も人も遭難を生ずる惧があるし、遅い時は鯨は既に死して海底に没し去つて曳く事が出来なくなるから、死生の界を見極めて手形を取るのを老漁の作業とし、この業は世襲になつてゐるといふ至難なものである。思ふに綱は手形を取りそこねた鯨の逸走を防ぐ場合などに有効であつたのではあるまいか。初代だか二代だかの覚右衛門が夢に岬参りをするのを予め知つてその途を擁した大きな背美の為に曳船が全部却つて鯨に曳かれたまま流れ去つたといふ伝へもある。しかし熊野捕鯨史上の最大の遭(180)難はやはり明治十一年十二月のものであらう。午後五時頃に発見した子持の背美で、到底日中に捕獲は不可能だから見逃さうといふ意見もあつたが、みすみす万金を逸したくないといふので遂に捕獲にかかつたのが翌日の朝に及ぶも獲る事が出来ないで力尽きたところ常に軽快を重んじて僅に一日分の用意しか積まない米と水との不足を来たしたのでこれを求めて一艘が帰つてゐる間に折からの西風に流されて船の行方は知れなくなつてしまつて、諸方の高峯に人を派して行方を捜したが知れない。遠州沖の方まで流されてしまったものなどもあって、寒気や饑餓で死し或は激浪に奪はれた行方不明者が多く、二百人のうち生還者は十三人であつたといふ事件は比較的新しいから文献の詳しいものもあるが今は説かない。
 また捕鯨に関する詩文の見るべきものも多数あるが、他は略するとして、新宮藩の儒臣で藩黌育英館の督学であつた湯川麑洞の作になる捕鯨行を採録しよう。新宮の人で太地に近い地に居住した事もあつて、実景をよく見てゐるから特別に面白いが秘稿は多く世に知られて居ないと思ふからである――
     捕鯨行
  熊野之灣九十九  東西沿海路半千
  痩土磽角耕不足  舟?爲家海爲田
  泰地古座三輪崎  三邑各發捕鯨船
  侯臺拂雲倚崔嵬  螺聲吼風?號烟
  怒濤如馬船如箭  冒険奮進競着鞭
  分隊整伍圍漸急  鯨身已被巨網纏
  牛空忽閃逆鬚槍  建幟表功誰是先
  一人口釼躍投海  直跨鯨背没深淵
  剃刀其腹縛以索  雙舟夾之衆力牽
  人皆裸?汗交汗  一般八櫓肩摩肩
  日光慘憺射波面  彩船相映更燦然
  侯吏來報鯨已至  螺聲再動暮汀邊
  汀邊水淺挽不上  宰夫蟻聚磨刀?
  割皮屠肉肉成林  骨節如臼車可專
  舟運陸輸初上市  叫賣一聲人流※[さんずい+廷]
  可羮可炙又可膾  一壓倒萬鱗鮮
  鯨魚一頭潤七邑  此語俗間謾相傳
  不知大利存大害  可惜民命爲利捐
  南海渺茫無際涯  不比薄田限陌阡
  雖然海利非可必  一擧先費幾百錢
  萬錢費盡網未結  徒睨走蒼波奮空拳
  主人何知漁人苦  安坐只貪海利權
  君不見人海世故亦險惡  有時鯨鯢起其前
  民間願無勞役事  蓄將全力戴堯天
 
 平易な文字だからその必要もあるまいが老婆心から書き直して置く、
  熊野ノ灣九十九 東西沿海路半千。
  痩土磽角耕スルニ足ラズ 舟?ハ家ヲ爲シ海ハ田ヲ爲ス。
  泰地古座三輪崎 三邑各捕鯨船ヲ發ス。
(181)  侯臺雲ヲ拂ツテ崔嵬ニ倚ル 螺聲風ニ吼エテ號烟ヲ?グ。
  怒濤馬ノ如ク船箭ノ如シ 險ヲ冒シテ奮ヒ進ミ競ツテ鞭ヲ着ク。
  隊ヲ分チ伍ヲ整ヘテ圍漸ク急ナリ 鯨身已に巨網ヲ纏ハル。
  半空忽チ閃キ鬚槍逆ツ 幟ヲ建テ功ヲ表ス誰カ是レ先。
  一人劍ヲ口ニシテ躍ツテ海ニ投ズ 直ニ鯨背ニ跨ツテ深淵ニ没ス。
  刀ヲ其腹に刺シ縛スルニ索ヲ以テシ 雙舟之ヲ夾ミ衆力メテ牽ク。
  人皆裸?汗交モ汗シ 一般八櫓肩ハ肩ニ摩ス。
  日光慘憺波面ヲ射 彩船相映ジテ更ニ燦然タリ。
  侯吏來リ鯨已至ルト報ズ 螺聲再ビ暮汀ノ邊ヲ動カス。
  汀邊水淺ク挽ケドモ上ラズ 宰夫蟻聚シテ刀?ヲ磨ク。
  皮ヲ割キ肉ヲ屠リ肉林ヲ成ス 骨節臼ノ如ク車專ラス可シ。
  舟運ビ陸輸シテ初メテ市ニ上ル 叫ビ賣ル一聲人流※[さんずい+廷]ス。
  羮ニス可ク炙ス可ク又膾トス可シ 一萬鱗ノ鮮ヲ壓倒ス。
  鯨魚一頭ハ七邑ヲ潤ス 此語俗間謾ニ相傳フ。
  大利ニ大害ノ存スルヲ知ラズ 惜ム可キノ民命利ノ爲ニ捐ツ。
  南海渺茫際涯無シ 比セズ薄田ノ陌阡ヲ限ルニ。
  然リト雖海利ハ必トス可キニ非ズ 一擧先ヅ幾百錢ヲ費ス。
  萬錢費シ盡シテ網未ダ結バズ 徒ラニ滄波ヲ睨ンデ空拳ヲ奮フ。
  主人何ゾ漁人ノ苦ヲ知ラン 安坐シテ只海利ノ権ヲ貪ル。
  君見ズヤ人海世波亦険惡 時有リテ鯨鯢其前ニ起ツ。
  民間願ハクバ勞役ノ事無カレ 蓄フルニ全力ヲモツテシテ堯天ヲ戴カン。
 
 熊野捕鯨の中心地たる太地は勝浦湾外の一小港である。勝浦港の附近は潮流の関係か、さまざまな魚類の集るところで、曾祖母の話として伝はるところによると嘗て勝浦湾内で身の赤い魚が漁れたことがあつて、人肉か何かのやうで不気味であったから珍らしがつたが何人も食用にしなかつたといふのは、多分北方から鮭のやうなものでも迷つて来たのであつたらう。また大正の初年ごろにこの附近で人魚を捕獲したものがあつた。別に鄙稿がある。奇聞だが、改めて書く事もないから就いて見られたい。捕鯨の事も地の利に因ることは無論であるが、ただそればかりではなくこの地の人が進取的で活動を愛する気風に富むためでもあらう。太地町出身者にもアメリカ移民が多いが、大たいとして刻苦労働に堪へて郷里への送金も乏しくないので熊野地方としては稀に見る新興の気に満ちた小邑である。大体として山間の熊野よりは海岸の熊野の方が勃興しつつあるうちでもこの町などは新興熊野として注目すべき地であらう。この町は新興の気と対照して面白い事に、前述の朝比奈三郎の事をはじめ伝説に富んだところで平維盛が入水した山成島も近く、入水と見せかけて再び陸地に這ひ上ったのもこの地の身濯浦であるといふ。彼はこの地に上陸してこの地の山奥の色川村に潜行してかくれ住んでゐたといふ事で色川には維盛の遺品を蔵し(182)た家もある。維盛や新宮十郎蔵人行家、さては田辺闘?神の別当湛快及びその子と伝ふる弁慶などを主要人物として熊野と源平時代にも一夕の話柄はあるが説き及ぼさぬ。
 
    足引きの山は…………
       (続々木挽長歌小解)
 
     奥山に木伐るや翁《をぢ》
     木やは削る
     真木やは削る
     木削る翁
          ――催馬楽
 
【あこととのふるあまが子も声勇ましく足引きの山は……】
 網子調ふる海人が子もといふのは引網の人々に号令する漁者の声勇ましきにつれて網引くものも力を励して足を引くと山のまくら言葉を呼び出して再び山はと海人が子の声勇ましく山彦する山の方へ話題を転じてゐる。
 
【炭焼、松煙のかまど賑ふ……】
 木材の産地として知られた熊野はまた地方の雑木を利用して有名な炭の産地である。さうして樵者と炭焼とは深山の懐に抱かれた兄弟ともいふべき山中の隣同士である。
  けぶり立つ峯のすみやき宿《やどり》かせ夕日のおくに猿《ましら》なくなり                             加納諸平
 熊野炭は所謂白炭といふ堅い木炭で、尽きるに従って灰を被つて白く見ゆるものである。最上の品は馬目樫(ウマベ或はマベ又はバベなど呼ぶ)や郡内樫で焼いた備長と呼ばれる物である。備長(ビン)の尤なるものが丸ビン、角ビン(或は半月)がこれに次《つ》ぐ。劣等の品をアサと呼び、椎桜櫨芋木(東京でいふかくれ簑)等のアサ木(雑木)を焼いたものである。新宮藩主第十世で歴代中の英主として知られた水野土佐守忠央朝臣はその妹広子の方といふのが頗る容色があって、十四代将軍に仕へて、その間に竹之助君といふ一男さへあつて寵を恣にしてゐたので、この勢を利用して忠央朝臣も井伊直弼と相結んでこれを大老に推し、頗る羽振りがよかつた頃、郷土でかねて奨励してゐた物産で自家の独占的事業として財源にしてゐる物でもあつただけに販路を自己が勢力下の江戸に求めるに急であつたために政敵からは炭屋炭屋と嘲られてゐたと聞くが、そのおかげで熊野を主産地とする紀州炭の関東市場に於ける声価が頓に昂つて今日に及んでゐる。炭ばかりではなく後年紀州材が新建設の首都東京に進出してその名声が宇内に喧伝されたのも侯の遺徳に負ふところが多かつたに相違ない。侯の勢力下で江戸深川の木場に活動してゐた紀州材木商が尠くなかつたからである。紀州炭の価値は今に衰へないのに、往年の大名炭屋、忠央朝臣は井伊掃郡頭の没落と同時に志を失つてさすがの英才の進歩的な政策も行ふによしなく後年は空しく居城丹鶴城に引籠つて鶴(183)峯人黄菊寿園と号して風月に嘯吟して悠悠晩年を丹鶴叢書の刊行等に韜晦したが政敵たる吉田松陰をしてさへ亦一代豪也と言はせた程の英才を世に用ゐる時が来なかつたのは火力無比の備長が水を帯びてしまつたやうな運命の残酷を思はせるものである。
 紀州炭の関東市場に於ける勢力は今日と雖大したもので、堅実を旨として古風を尊重する菓子商、かまぼこ商、せんべい屋、一流の旗亭の板場などは、備長の火力旺盛なものでなければ到底用ゐるに足りないとしてその高値を顧ぬ向も尠くない程である。この備長炭の発明は元禄年間、田辺町の備前屋長右衛門といふ者が新年の餅を製する時竈中の余燼を処置しようと灰でこれを掩ひ埋めて置いた時図らずも良炭を得たのに端を発して業者を刺戟したので炭にこの名があると聞いてゐる。尤も一説には元禄年間、田辺の人が偶然法を得たのではなく万治年間日方郡の津川村の大津屋某の創製に係るともいふ。創製何人であれ何時であれ、それに偉大な市場価値を生じさせたのは土佐守忠央朝臣の力であつたのは争ふ者もあるまいが、さても一代の英傑が遂に一郷の炭の宣伝家にしか役立たなかつた運命も亦悲しく皮肉なものではないか。古座川筋、大田川筋から産生するものが品質最も良好として知られてゐる。その素材たる馬目樫などの生長繁茂がこの地方の特有の風土と地味とに最適なためであらう。先年大田川筋から東京に移住してゐる某氏が郷土の樹木を愛するあまり、遙ばる故山から馬目を一株庭前に移植した(葉の細かな枝に曲折の多い一種南画風の趣のある樹だから熊野では庭木として珍重してゐる)のに、東京で数年育つうちにこの樹は本来の面目を一新して普通の樫(?)に似たやうな奇態な樹になつてしまつたといふ話を聞き及んで、風土の勢力の偉なのに驚嘆するにつけて、我国現代の一切の外来文化も早くかうあらせたいものだと語つた事があつた。
 松煙は松の古木の透明に赤く見えるテレピン油を多く含有したものを焚いてその煤煙を得て塗料とし、更に精製して筆硯用の墨とするのである。亦山中の生業の一端をなすもの。予め杉皮で造つた小屋の四壁や天井に蓄めたり或は手軽にわざと特別に粗質の紙でつくつた紙帳のなかで焚きいぶしたり最も簡略には屋内で直接これを行つて障子の桟に蓄積した煤煙を掻き集めるといふが、塗料も他に多く考へられ墨の用途の乏しくなつた今日は以前ほど盛大ではあるまいが往時は熊野諸地方の山間で盛んに行はれたものらしい。現に日高郡の山地や熊野川奥の山間では以前ほどではないまでもまだ行はれてゐる様子である。製墨の名工も田辺に幕末以来極く近年までゐた筈である。野田笛浦が清国の漂流者と筆談した時の泰得船筆記といふ写本を見た時、本邦では紀州田辺に名墨を産出すると笛浦がいふのに対して清人は何を以て名墨たるを証するかと反問する、笛浦は田辺産の名墨を未だ用ゐた事がなかつたと見えて、世人が皆さう伝へてゐるとだけ答へてゐるのを見た覚えがある。
 
【かまど賑ふ杣人は福がめぐりてきのえ子《ね》のよき年がらと打ちつどひ》
 「山里のあさ木《ぎ》のはしら朝よひにたつとはすれどほそき煙や」(184)と諸平をして歌はしめたのは往年の事、今は煤をとる目的でくすべる松煙ほどかまど賑ふ好況のめぐり合せて来のえねの(木《き》の好値《えね》の意をもかくしてゐる好きをええ、場合によってはつづめてえ〔傍点〕といふのは熊野の方言である)。この甲子《きのえね》の年は元治元年(正月二十五日に改元されてただ一年切りの年号ではあるが元年には相違ない。西暦一八六四年)である。長州征伐の軍が発した年である。その結果による幕府の威信失墜は後年でなければまだ暴露されなかつたが、それでも世態の不安を増した上に、年来濫発の惡貨幣の積害が物価の騰貴といふよりも通貨の著しい低落を誘発した結果は諸物価の暴騰を喚起した年で、その一般の米価や、熊野の木挽に関する諸賃銀、用具の価などに影響した事実は以下の句によつて知られる。諸色の高直は忘れて労働賃金の暴騰に眩惑された山間の民の生活の膨脹などが当年六十六歳の椿山翁を驚かせ且つ憂へさせて、これが実情を後世に伝へようといふのが動機となつて木挽長歌が成つたものと見られる。従つてこの長歌はこれからが本題であらう。然るに註釈者は経済史に関しては全くの無知なところへ幕末も天保以後、ちやうど元治あたりから徳川政府の最後の苦闘がありありと経済状態に現れはじめ、たとへば死床の不正乱調な脈搏をさながらに最もメチヤメチヤになつて来てゐるらしいので、急に見当違ひな方面の参考書を一二種のぞいて見たぐらゐではさつぱり要領を得にくい。さうして何故にこの時期にこの現象を生じたかを断定する知識も史眼もないのは我ながら情ない。読者の寛恕と識者の叱正とを予めお願ひして置かう。
 それにしても世外に悠悠自適した山間の老翁が当時の急激な時代の潮流を見通す眼力を欠いて、これらの事象を次代全国的な大変乱の前兆と知ることもなく、従つて何の不安をも感ぜずほんの地方的な一時の現象位に考へてゐたらしいのは是非もないが、後世明治維新といふ事実を史上で知り、このきのえね〔四字傍点〕の年が維新前僅に四年であつたのを知る者には椿山翁がこの狂歌体の風俗詩も頗る天下泰平に過ぎるのをおぼえるであらう。しかし我等は後世に生れて来たおかげで事のなり行を悉く見てこれを客観し得たからに過ぎぬ。もしそれ当代に関する殆んど同様の事態に就ては何人も椿山翁に劣らず盲目であらう。実《げ》に時務を知る者は俊傑である。
 
【噂やまやまさき山は斧をかたげて山入し】
 それでも何しろ思ひがけない好景気につけても、口口に長州征伐の軍などよもやまの噂さまざまに喋り交して先山《さきやま》は斧をかたげて好景気の職場の宝の山に入る。先山といふのは山稼ぎの先達で棟梁である。これは木挽職人より先に山に分け入つて立樹を木材とするために検分し準備して置く職人である。
 
【大木《おほき》を伏《ふ》せてきりさばき五間十けん挽《ひ》く板《いた》はひきちん間《けん》に三|百文《びやくもん》】
 まづ山入りした先山は大木を伐り倒して切り捌き、さて木挽等がそれを五間十間と挽く。板一間といふのは六尺平方である。即ち長さ一間のもの幅一尺の坂ならば六枚、六寸の板ならば十(185)枚といふわけである。それ等の挽き賃が一間に対して賃金三百文であるといふ。三百文を一口に今の三銭といつたのではあまり大ざつぱで、換算にも何もならないが、心持から云つて仮りにさう言つて置いてもよからうか。これでも好況で賃金が上つたといふのだから、その以前が思ひやられる。木挽職人一日の仕事は板二間半を挽く者を最も上手な職人としたといふから、熟練工の最高賃銀がまあ七銭五厘であつたらしい。熊野の木挽唄に
  木挽乞食《こびきこじき》は一字の違ひ一字ちがうたらみな乞食
といふ自嘲の寒酸な諧謔があり、諸平に既に上げた
  山かつがまとふつづりの古衣さしも思はずよそに聞きしを
  山里のあさ木《ぎ》のはしら朝よひに立つとはすれどほそき煙や
の詠があつたわけでもある。
 
【きりさべともに八九|分《ふん》】
 先山が山に入るや大木を伐り倒して先づこれを板に挽くべき六尺幾寸の丈けに「切り」、更に斧を揮つてこれが枝をおろしたり周囲をはらひ去つてほぼ四角にこしらへて置く――この仕事を「さべる」といひ名詞にして「さべ」といふ。この「切り」「さべ」はともに杣の頭(八人か十人位を一組とする木挽職人の統率者)の仕事である。その「きり」「さべ」の賃金がともに八九分といふ、一分といふのは三毛であつたと思ふといふ老母の意見もあるがあまり微少であるために今日の幾何に当るかは一向分明でない。
 先山は総元締で、きりさべをする杣の頭がこれにつづくものであらうか。立木を伐るのが杣人《そまと》で杣の伐つた木を材にするのが木挽である。木挽よりは杣が上で、更に一等上の職人が先山であるらしい。と想像されるのは、木挽歌に――
  木挽きアひけ/\杣人《そまと》ははつれ、わしのとのごはさきやまぢや
とあるのを見てもわかる。なほ俗謡に女の口吻を以てするのはよくある手法だが、山中異性に乏しい木挽歌の場合は特にあはれの深いのをおぼえる。
 
【たばね三分浦べではコッパ一|把《は》が二十四|文《もん》】
 たばねは一間の板を一束として藁縄で上下二個所をくくりたばねる作業。この賃銀が三分――九毛(文久銅一枚にも足りない)、しかし、コッパ一把が浦方へ運んで出て二十四文になる。これは先山の所得になる慣習であつたと聞く。当時のコッパ一把の大きさも知る必要があるのに今はわからない。現在はほんの一つかみ程であるといふだけはわかつたがこれは価の方がわからない始末である――いやはや。
 
【持ちも平田も値があがり】
 持ちはかちもち〔四字傍点〕ととなへて山の板製造場から川端の川船場まで肩で持ち出す運送の仕事である。
  いただきに杣板のせてくだる子がうしろ手さむき那智の山かぜ
(186)  うちおける板目にきれし黒髪をゆゆしと見つつせこやなげかむ
のいみじき歌咏は例の諸平のもので、この持ちの作業に従事してゐる杣や木挽の妻を咏じたものである。いただきとあるのは肩や背ではなく頭の上にのせて戴いて運んでゐる様で、この風は熊野には海岸でも見られたもので以前は三輪崎の漁婦は大きなたらひのやうなはんぎり〔四字傍点〕といふものに魚を入れて、それを戴いて新宮に販ぎに出たものであった。彼女等を町の人々はいただきと呼んでゐた。その後、肩で運ぶやうになつてゐたから今は三輪崎のいただきももうあるまい。
 平田は川船の名、ここではそれを山の稼人等の術語に用ゐてゐる。持ちが運んだものを港に近い問屋場まで積んで下る平田船の賃銀の謂である。これ等の諸賃銀も上つた。
 
【おあしお金《かね》はつかみどり こんな時節はあらがねの 土ほぜりより 玉くしげ 二つどりなら山かせぎ】
 金銭がまるでつかみどりともいふべきこの未曾有の好時節、荒金の土ほぜりといふと鉱山事業のやうに聞えるが、熊野地方にも銀や銅などの小鉱坑は無かつたでもないけれど温泉の豊富にも似ず一帯にこの方面ではあまり恵まれぬ地方だつたから、この句はつかみどりを受けながら事実の背景がないためにあまり働きがないわけである。寧ろ、あら金をただ土の枕詞として以外に意味のないものに見て、土ほぜりよりを農業と解して見よう。
  つみとるもあはれ  石角《そね》田のやせ稲穂手に充《み》つばかりあらばこそあらめ
と諸平をして歌はせた如く、この地方では平素からあまり酬いられないこの田園の労働者が山稼ぎの人々を羨望するのも道理である。あら金、土につづけて今度も縁語の玉くしげと言葉のあやを見せた枕詞のあとに二つどりなら山稼ぎといふのは賃銀がよくなつた上に役徳の木皮《こつぱ》も上値、余業ともいふべき運搬の賃までが上つて二重の利得のある山稼ぎの謂ひであらう。
 先の「きのえね」のやうな二重三重の掛け言葉や、このあたりの縁語などは古来からある句法でありながら近代は言葉の遊戯として排斥されてゐる修辞法であるが、とかく単調に平面的な日本文にこの手法のあるのは決して偶然ではない。この篇のやうな狂体でなくともこれ等の手法は現代でも採用されていい修辞ではあるまいか。西洋にないからといふので一がいに排斥するのは故のない事であらう。仮りにまじめな文章の間でもかけ言葉の一はうれしい意味を表し、半面には悲しい意味を持つてゐるやうな事があったら、奇妙に複雑なペーソスを表現するに役立ちさうに思ふ。西洋でもE・Aポーなどにそんな修辞の例も乏しくなかつたとおぼえてゐる。
 
【木挽々々とひきつれて……】
 真面目に農をしてゐた連中も今日此頃の稼ぎは木挽きに限るといふのでみなひきつれて山に志し、木挽の生活に赴く。木挽の仲間はこの文句の如く、大勢づれで山に行くのが恒で、その(187)荷物といへば一方に柳|骨折《こをり》と大鋸前挽の類、片方に味噌、漬物小桶、さてはその日一日の弁当の用意のわつぱを網袋に入れたものなど、皆申し合せたやうに同じ荷物で勢揃ひして、目ざし行くところは小挽唄にある如く――
  木挽きやァいとしや千丈の谷で半畳むしろの小屋住ひ
である。これ等の木挽は山の仕事場から仕事場を追うていつも半年や一年は里には帰らないで稼いでゐるものである。
 
【二百目米を日に一升】
 山の小屋に赴いた連中の山中の生活振を歌はうとしてまづこの句がある。二百目米の句が我等をなかなかなやましたものである。しかし諸賃銀を述べた後で、物価の標準となるべき米価を言つてゐるのだから、この用意に対しても軽軽しく迂濶に読みすごしてはなるまいと再三沈思し及ばずながらも当年の米価なども取調べてみた結果どうやら見当だけをつけて、「二百目米」とは一石銀二百匁台に上った相場の高い米の謂であらうと判じたのである。竹越氏の日本経済史の第七巻八巻あたりの物価表によると元治元年には、米価は石、百六十二匁五分から三百二十五匁であつた事を大日本租税志を引用して証してゐる。なほ竹越氏の同書の米価表に拠ると同年の米価は一月に銀百六十四匁五分八月には銀二百九匁――と二百匁台に上つたものが九月には更に銀二百五十二匁、十月には更に三百二十五匁と上りつめたのが十二月にはまた二百二十七匁に落ちついたことを知つた。米価が二百匁台に上つたのは甲子年の八月が初めてのやうである。六十六翁の椿山先生の記憶にもなかつたであらう。二百目米の称のある所以であらうか。尤も元治の暴騰を幕開として以下米価は天井知らずに上つた。翌年の乙丑慶応元年の如きは年内に二百八十一匁から五百十三匁にさへ狂ひ出してゐる(越後西脇家古文書に依る)。椿山翁の所謂二百目米はやがて三百目米から五百目米にさへなつて、この後三四年間に遂に徳川幕府の断末魔となり世直しが来たものであつたらしい。この長歌に咏まれたきのえねの変調を幕府衰亡の最初の先駆症状と見る所以である。
 それにしても銀二百匁は今日の幾何になるかこれが一層の難問題であるが、竹越氏によつて開港当時の米貨との両替条件といふものを参考にして考へてみると二百匁は米貨の十二弗五仙に相当したらしい。米貨一弗はその後久しく日本貨の約倍額、今日は約三倍になつてゐることは諸君の知るところであらう。
 なほ同じ両替条件によつて見ると壱両は一分銀四個である。
 貨幣制度の如きも通貨其物が実質を異にしてゐてめちやめちやなので通貨の値を呼ばずに直接実質的に銀何匁の称呼を以てしたものと見える。
 尚、元治元年のは不明だが、安政六年の金銀貨の各一両に対する純分の含有量が判つてゐるから示して置くと次の如くである
 正字金は    銀一、三六三二匁強
 安政一分銀は  銀八、二二五九匁弱
 大形二朱銀は  銀二四、五四八二匁弱
(188)など少数以下十位ぐらゐまで明記してあるがそれまでの必要もなからうし、筆者にももう何が何やらわからないから恐らく大多数の読者も同様と思ふ。従つて二百目米とは石につき銀二百匁台に上つた高値の米の意とだけ説明し、なほ銀二百匁は当時米貨十二弗五仙に相当とだけで満足していただきたい。なほ多少の疑念もあるがもう力が及ばない。
 この未曾有に高値な米を木挽等は平気で日に一升食ふといふのである。尤も木挽の労働といふものは特に力を費す事の激しいもので食料も他の労働者より美食を多量に摂るのが必要条件であるらしい。例の木挽唄にも――
  木挽米の飯、炭焼|や〔傍点〕茶粥、百姓男は麦の飯
とあつて、木挽は粥や麦飯では働けないことを暗示してゐる。なほ木挽唄をもう一つ――
  木挽や米の飯糠味噌そへて斧《よき》ではつるよな糞たれた
といふのもある。以上の二つの卑俗な唄の文句のなかにあつたや〔傍点〕は「は」とか「が」とかを意味するテニヲハの熊野訛で、必ずしも唄とはかぎらず、日常の会話にもこれがいつも用ゐられてゐる。それ故「は」と「が」との厳密な意味は区別なく一つのや〔傍点〕で間に合つてゐる。少年時代からこれに慣れた筆者が文中テニヲハの「は」と「が」との使用の区別の無自覚な原因はそもそもこれに由来してゐる。
 茲に特記して置かなければならない事は「日に一升」の一升である。一升飯といふ言葉はどこにもあるが、熊野だけでなく旧紀州藩の地でいふ一升は世間一般からいふ八合にしか相当しないといふ一事である。八ばんと称へ又小ますとも呼んで八合を升とたて、八斗を一石としてあつた。それ故この地方は今でも旧習が染みてゐて、米一俵は世間並みの五斗ではなく四斗入である。曾て土地の古老に聞いたところであるが、紀州藩は面積が広く、石高が少い。為めに南紀徳川家の封禄は他の諸侯とつり合はないのでこの地の一里を五十町として面積は狭め、八斗を一石として石高を多くしたものであつたと説いてゐた。記憶も怪しいし説の根拠も知らないが、理由の如何にかかはらず事実紀州の一里は五十町、一石は八斗といふ特別の習慣が定められてゐたものである。
 
【杭のかしらに積む雪と盛りくらべたるわつぱめし】
 木の切株の上に積む白雪をたとへて木挽連が麦飯ならぬ白い二百目米をわつぱに盛り上げた様を述べたものである。わつぱは檜を薄くそいでわげたものを桜の皮でとぢてわがねた上に生漆《きうるし》を施した弁当用の食器である。一般にめんつうとかめつぱとか呼ぶものの方言である。丸い径三四寸の食器に盛り上げた白い飯を、木の切株に降り積んだ白雪と見たてたのはごく自然な比喩であらう。紀州は南国、就中、熊野はその南端の地方、黒潮の影響を受けて古くから牟婁《むろ》(温室の意といふ)といふ名称で呼ばれてゐる気候温暖の地で、浜木棉《はまゆふ》や大谷わたりなどのやうな亞熱帯植物が繁茂して天然紀念物の指定を受けてゐる程の土地柄。海に沿うた地方では積雪はおろか纔に地に敷くほどの降雪も絶無ではないがごく稀に見る程度の土地だけれども、(189)山深く入つて黒潮の恩恵に遠ざかると雪の積ることも無論珍らしくはあるまい。冬も二月一杯はさすがに海岸の地方でも思ひがけない寒風に吹かれることがあつて、奥(川奥の意)は雪ぢやと身ぶるひする日も時たまはあるのだから。
 
【七日々々の山祭】
 木挽等は荒い労働の骨休めとしてまた団体労働者の親睦の目的を兼ねて七日目七日目に山神を祭つて酒宴を楽しむ習慣がある。人里を離れた山間の生活ではこれぐらゐがせめてもの楽みなのであらう。尚、当時は博奕の盛んな時代であつたから、山中でも必ず流行したに相違ないが長歌の作者は平素痛くこの事を憎悪して子弟にも切に訓戒してゐたからわざと一言もこの事に言及してゐないのであると聞く。
 
【百に身鯨六十目 貫八百の磯魚も歯ぼし立たぬと言ひもせず三百五十の酒をくみ】
 身鯨は鯨肉の事で、それの六十匁が百文であつたと見える。板一間の挽賃の三分の一に相当する。当今では鯨肉百目が三十銭といふ相場と聞くが、割合にしては今の方が安いわけである。尤も牛肉も豚肉もなかつた往時としては鯨肉は飛び切りに珍重な食味であつた。和歌山からは太地鯨方へ新宮からは三輪崎へそれぞれ毎度献納方の下命があつたらしく、和歌山屋敷詰の諸役人宛で赤身十一貫皮幾何百尋何貫など度々納入の記録が今も残つてゐるから、これによつても鯨肉の食味としての格式は判る。当時の鯨肉は平民の食料ではなかつたものである。普通炙肉にするには赤身をみりんと醤油とをまぜたものに一二夜ぐらゐ漬けた鎌倉漬けと称するものを金網にかけて炭火で焼くのである。もしすき焼にする場合は必ず壬生菜《みぶな》(土地の人は千筋と呼ぶ)と一緒に煮るに限られてゐる。百尋といふ大腸小腸の佳味や、かぶら骨といふ軟骨の料理など賞味すべきものが甚だ多いが、背美や座頭の赤身を生食するのが最上の味だと思ふ。併し我等土地の生れの者はとにかくとして他郷の人は躊躇するであらう。磯魚といふのは荒磯に棲息する魚である。今熊野の海岸の磯魚を思ひ浮ぶままに雑然と数へ上げてみる――あづできます。あたがし(又の名かさご〔三字傍点〕)。べら。白はぎ。黒はぎ。サン印はぎ。こすこべ。赤おこぜ。も鮫。もぶし。かいぐれ。ともしげ。かねひら。しもつ。島あぢ〔三字傍点〕。まさき。たかのは。いち。さざゑつり鮫。ひよわ鮫。をしを。うつぼ。磯はぜ。します。くちび。ちぬ。ねこ鮫。炭やき。くちじろ。わさなべなど奇妙な名ばかりである。中には源平藤橘の何氏に属するかと思はれるともしげ、かねひらのやうなのがあるかと思ふとサン印、といふ商標づさもある。ヽをつけて置いたのは東京でも見かけるものである。印の外にもまだありさうに思ふ。うつぼの事は、前にも述べたが、おこぜなどとともに味噌汁の実に最もよろこばれるものである。炭やきといふのは黒石の磯の底によく見かける魚だが、なるほど黒く煤けた魚である。磯魚にはめづらしく焼魚にしていい。他は多く煮魚だけれども新鮮なものはよく酢味噌で生食する。荒磯で活?な運動をしてゐるから、しこし(190)こする歯ごたへと磯の海藻や小貝などを食餌としてゐるらしく磯の香がしてゐる。この美味は清渓を走り藻を常食する鮎や山べなどの味が喜ばれるのと共通の理由がありさうに思ふ。種類の豊富なのは本来は同一種類のものが周囲に応じて大同のうちに保護色などの関係から小異を生じたのに因るものではなからうか。
 その値の高いのは人に喜ばれる上に、漁夫自身が低廉に売る位なら自ら食ふといふ傾があり、獲るに網でせずに釣り上げるから時間がかかる上に、小魚だから貫といふと相当な多数に上るに違ひないと思ふが、それにしても、貫八百文はいい値であるのに、そんな高直の磯魚でも美味でさへあれば山祭の木挽連は歯ぼし立たぬ(手がとどかぬ)とも言はずに、三百五十の酒の肴にするといふ豪勢ぶりは、「半畳むしろの山住ひ」のなかの酒盛りとは受け取り兼ねるばかりである。
 
【一寸さきは やみくもと かせぐおかげで このやうな栄耀《ええう》するこそ楽しけれ】
 一心不乱無我夢中で稼ぐおかげでこのやうな贅沢が出来るのも愉快であると木挽等は山祭の酔心地もこの上なしに暢気である。尤も、やみくもといふ語の前に一寸さきはとつけたところさすがに作者の世相に対する不安を幾分はにほはせてゐるやうな気もする。
 
【しかはあれども このごろは 京の伊右衛門の前挽きも 三分のあたひ 二両二分】
 衆皆、有頂天ななかに、偶それを押へて分別臭い年輩なのがゐる。諸賃金は上る、持ちも平田も木皮《こつぱ》の値までいいのは有難いが、一方飜つて思ふに、この頃、仕事の元手たる諸道具一式はどうだ。京の伊右衛門が店の前挽(木挽専用の大鋸)も三分のものの値は二両二分になつたではないか。前挽きは大鋸の一種である。伐木用のものは二人挽きであるが、これは主として製板用の一人両手を用ひて上方前後に挽くものである。それの三分といふのは不明であるが、前挽は普通は径尺五寸を定めとしてゐるがその定めをたつぷりとして五寸の上三分のゆとりのある最高級品であらうといふ説に従ふ。何れにせよ大鋸の特に三分と言ひ出したところを見ると就中高値のものと見えるが、それが二両二分。
 
【鑪《やすり》かすがひ二朱づゝと】
 大鋸の目立てに使ふ鑪、挽く木材を定着して置くために使ふかすがひ。これらの附属用具が各二朱づつではないかと。
 
【二百五十の上村の煙草のけぶり吹きちらし】
 分別臭い事をいふその口が、これ亦決して安くない、二百五十文の上村の煙草を吹きちらしてゐる。上村の煙草といふのは熊野川の上流の笹尾(ささび)が煙草の産地でそこの上村といふのが熊野では国分煙草のやうに珍重されたもの。百匁玉と称して丸くわげたのを紙で包んだ一玉が二百五十であつたものか。(191)なほ熊野のたばこに「ほねぎり」と呼ばれてこれは茎まで葉と同様に吸へるもので、その丈七八寸の矮性で葉の多い、上質のものであつたと聞く。この一種特別な逸品は例の方士徐福が渡来の時齎らされたこの地方特有のものと伝へられて敷屋村あたりで作られてゐたのが官営以来影をひそめたといふ。笹尾(ささび)は敷屋村と九重村との中間に位する一部落だから、上村の煙草といふのも「ほねぎり」ではなかつたらうか、一度古老に就て確める必要がある。
 分別者ながらこの男も贅沢に慣れて地方最上の煙草を吹きちらしてゐる。特に説明もないがこの煙草は申すまでもなく熊野特有の椿葉巻《しばまき》に相違ない。椿の葉の固きに過ぎず軟かきにすぎぬ手ごろのものを円錐形に巻いてその太い方に煙草をつめて吸ふものである。その味は椿の葉の焼ける匂と煙草とが合致して無上と土地の人々は讃美してゐるが思ふにもともとそんな嗜好から出たものではなく、山林の火事を惧れてすひがらの火の用心であらう。水気の多い厚ぼつたい椿の葉につつまれた吸ひがらは椿の葉を焼き尽す間には自然と火力もおとろへるし、椿の葉に巻き込まれてゐる吸ひがらはやや重いから路傍から林野の奥遠くへ吹きとばされることもないからである。山へ行く人々は我れも彼も皆きまつてこれを用ゐる習慣であつた。一度これに慣れると他の煙草は無味であるといふので喫煙者は日常椿の葉を特に用意して屋内でもみなこれに限つてゐた。ここでも煙草とだけで椿葉巻《しばまき》と合点して間違ひない。
  山かつがけぶり吹きけむあとならし椿の巻葉霜にこほれり
                         加納諸平
 熊野山中の路傍でよく見かける実景である。
 椿葉巻《しばまき》は我等少年の頃までほ新宮の町でさへ行ぼれてゐたものだけれども、今日は新宮では見られまい。山の中へ行けば、実用上まだ残つてゐさうにも思ふがこれも疑はしいものである。新流行の紙巻煙草にお株を奪はれて祖先が折角工夫して置いた椿葉巻などの用意を忘れてしまはなければよいが。
 
【語るおやぢを けぶたがり 若い同志は……】
 ここのおやぢは単に一般の年長者であらうか。それとも乃父の意であらうか。どちらにも解ける。父子揃つて山稼ぎを業とする者も平素から決して珍らしくないのに、誰も彼も山稼ぎの時節だといふから。ともあれ煙草のけむりふき散らすおやぢの分別顔な話をけむたがりながらも若い同志は――
 
【馬が合ひ 近所隣へ かけかまひ 内証ばなしも きさんじに 声高々とよもすがら……】
 近所隣と言つたところでやはり木挽小屋か炭焼小屋、梟の巣猿の宿ぐらゐなものではあらうがさすがに内証ばなしは気がねし乍らも、若い者同志は意気投合して大声も元気よくと、終夜おもしろをかしげな内証話は、何の事やら内証だからわからないが、近所隣へ かけかまひ 内証ばなしといふあたりは かけかまひ、につづく内証ばなしの内はまづかけかまい 「無い」とうけて、それからもう一度内証ばなしの内と重複して読むつ(192)もりでないと通じない。そんな句法はここでは毎度の事であるが近来はとんとなく、もしあれば人が見とがめるものだけに、老婆深切で説明して置く。きさんじは鬱気散じである。
 
【天狗の鼻を もてあまし ひるは終日《ひねもす》 ひきくらし……】
 天狗の鼻なども解を要しないとも限らないがそこまでの深切は発揮しないで置く。――別に熊野や鞍間に特有の物でもないらしいから。尤も山深い熊野地方には天狗を姓とする家族もあり、天狗の咄もくさぐさあるにはあるが、ここの天狗とは関係がないから省略する。
 
【骨を粉にした もうけ金 腰にまとひて 我宿へ かへりきのとの丑の春はや春風がふくりんの はやりの帯をしめのうち……】
 切株にわつぱ飯の雪の積る冬、山祭の鯨肉に舌鼓打つ冬も押迫り、さのえ子の年も暮れ乙丑《きのとうし》の春が来る。山稼ぎの人々も骨を粉にして一期なり半期なりを稼ぎ終ると、さすがにわが宿恋しく稼ぎ蓄めた金を腰にまとうて里にかへれば、里は乙丑のお正月気分にはや春風が吹き、里の人々は流行といふので競つてふくりんの帯を締めてゐる。ふくりんといふのは呉絽と云つた舶来のものらしく、今はそのころの流行のかたみの破片でもあらうか垢すりなどによく使はれてゐるのを見かけるが、地の極く厚いアルパカ見たいなものと思へばいい。このごろ男女ともに帯として愛用したとか。男の大人は黒小児は青竹又は紫、婦人は紫茶など少女は赤、紫、青竹など、が多かつたといふ。家大人も青竹色のふくりんの帯を与へられたが、それがきらひで困つたといふ話である。その後絹ふくりんといふものが流行してこれは羽織として同じく男女とも愛用したとの事。絹ふくりんは呉絽よりももつとアルパカに似て横糸だけが毛であつたらしい。この方は明治二十年ごろまでも着てゐる人があつたやうに思ふと云ふ。当年七十四歳の家厳は十四五の頃絹ふくりんの羽織を着用した記憶があると、これ等もすべて家厳の談に?る。里に下りて来てこの流行を見た木挽の若い衆、金のあるのにまかせて早速最新流行で高価なふくりんの帯を買ひ入れると、早速締めて意気揚揚とくぐり入るのは、折から松の内注連を飾つた里の家。
 
【千とせを契る 松の門 お竹お梅が 花の香の金もて来いの恋風に まきちらしたる坊が灰】
 折角骨を粉にして儲けた金を、がんぜない子供が灰を撒きちらすやうにばら撒くところは松かざりの門に、お竹お梅などが、情は空花の香をお白粉ににほはせて、佐渡で出るのがきき目てきめんの惚れ薬、金もて来いと春風よりも生ぬるい恋風を吹かせる処である。熊野ではこの種の女のことをさんやれ〔四字傍点〕と呼んでゐる。熊野で売笑の婦をさんやれと呼ぶ理由を、先年沖野岩三郎氏がアメリカで研究して来て発表したところによると、例の串本節の元唄といふのが
  障子開くれば島や〔傍点〕は一目|何故《なぜ》に佐吉は山のかげ
(193)といふ島や〔傍点〕の「や」は例の主格を表はす方言的テニヲハ、佐吉といふのは串本町の対岸大島にはじめて妓楼を開設して自分の名をそのまま楼の名にした伊勢人(?)とかで、蕩児が串本町から障子をあけて大島を望めば大島は一望指呼の間にありながら、外海に面して島の外側なる佐吉楼(彼女の住する)は山のかげで見るべくもないといふ意味の歌詞につづいて「やれやれお茶やれさんやれ」といふ自嘲と歎息とを意味するらしいはやし言葉がつづいてゐたといふ。沖野氏が郷土の俗謡の根原をアメリカ三界で知つたといふのはアメリカ出稼の串本人にめぐり合つたからであるといふが何しろコロンブス以来の大発見であつた。――白拍子を舞ふから白拍子、「さんやれ」と囃す唄を歌ふ女だから「さんやれ」と呼ばれたわけらしい。
 この所謂さんやれ連中は山で惚れ薬をしこたまつかみどりして来た木挽の若い衆が、山祭の時より一層調子づいて
  何の因果で木挽を習うた花のさかりを山でする
などと歌ふのを聞きおぼえて、いつもの「さんやれ」を早速木挽唄にかへて
  色の白いを見込んでほれた木挽さんとは知らなんだ
とか
  木挽きァひけ/\杣人ははつれ、わしのとのごはさきやまぢや
などときげんを取つてゐる。色の白いをといふのは漁夫にくらべては潮風にふかれない山稼ぎの方が或は本当に色が白いのであらうが、見込んで惚れたのは腰纏の妙薬に目をつけたのに相違ない。そこで佐渡の惚れ薬もいよいよ極量まで投薬されたと見た頃には、
  いやぢやきらひぢや木挽の嫁は仲のよい木をひきわける
と木挽唄の文句も代つて来てしまふ。折から太地で背美の子持でも獲《と》れたとなつたら、お竹お梅ら今度は羽指しの太夫どの相手に何と歌ふやら聞きたいものである。序に新宮の方言では情人のことをケンシ、ケンシュなどと言つてゐる。思ふに懸思の訛であらうか。香気が高くて種のない温州みかんを李夫人と名づけ、江戸本所にあつた別館に波瀲館と名づけた新宮藩十世の主水野土佐守忠央朝臣は一面なかなかの美丈夫で粋者であつたと聞くから、ケンシなどもこの殿様の漢土趣味の用語が民間に訛伝したのではなからうかと考へる事どもである。
 
【元のはだかで 百貫の 男一疋 千びきの 鼻かけざるが笑ふとも もふけた銭をいたづらに使はざるのが まさるぢやとそまの頭がひとり言】
 襟もとにお白粉怪しげな女どもに入れ上げて、折角骨を粉にひきくらしてためた金をもとも子も無くした本来の裸一貫の男一匹、たとひ、千匹の鼻かけ猿どもが鼻のある一匹を晒はうとも儲けた金は無駄に費はないのが真猿《まざる》ぢやと、例の分別顔の杣の頭のひとり言である。千匹の鼻かけ猿が鼻の満足な猿を晒ふといふたとへ話は仏典から出たか漢籍に由来するか、それとも本邦の俗間に発生したものか無学でよく判らないが、ここに猿を引合ひに出したのは熊野人は山間の民であるといふので、よ(194)く他地方の人から熊野猿と呼ばれ慣れてゐるからであらう。それ故ここで真猿ぢやといふうちにはたのもしき熊野人の意をも寓して置いたものか。まさるぢやのぢやは熊野人慣用の語尾ぢや。我等も少年時から使ひ慣れたものぢや。
 山間の民を猿と呼ぶのは熊野人のみには限らぬと見えて「丹波ささ山山家の猿が」とデカンシヨ節が唄ひ、竹の里人も
  世の人は四国猿とぞ笑ふなる四国の猿の子猿ぞわれは
と歌つてゐる。然らば我等も竹の里人に倣つて熊野の猿の子猿ぞと歌はずばなるまい――
 
【昔の人は樫粉くて あはれこのみは あさもよし木をくうて世を渡るむしかも】
 木挽長歌の作者も最後に杣の頭のひとり言に同感して、木を食つて世を渡る虫と身を観じた古人の質朴と謙譲とを改めて讃美し、老翁にふさはしく世相の華美浮薄を長歎した返歌は――
 
【過ぎたるはなほ及ばざるがごとしと言はん杣木挽《そまこびき》金をもうけの過ぎたるはなほ】
 維新後の好況に乗じて濫伐する一方で、当座は植林を忘れてゐたらしい熊野の山の現状や、明治二十二年東京の人が熊野へはじめて木挽器械を北海道から持ち込んで以来機械工場になつて後の木挽などをはじめ熊野に就てはなほ語るべき多くを持つてゐるが、木挽長歌の小解を終つたのを一段落として筆硯を洗はう。
 
  なほ椿山翁の室米子刀自中西氏が父維順翁に水丘斎文丸と戯号して下婢長歌の作――浪華新町に女中奉公に出て身を持ちくづした果は春雨にきるかさといふものを患うた女を歌つた長うた狂歌の風俗詩があつてそれが木挽長歌の先駆をしてゐるかとも思ふが、然るべきところに書き漏してゐるのに気づいたから一言追記して置く。維順翁は懸泉堂一族の文学の祖である。
 
  ふるさとの女性
 
 十九の春故郷を出て以来、その後、時偶《ときたま》帰省せぬでもないが滞在の期間もあまり久しくないし、特別に郷里の女性に就て観察するところもない自分である。妻は他郷の者だからこの方の縁故も故郷の女性には遠い。それにつけて思ふが、優生学上の論は知らず人情としてはやはり少年時から顔見知りの所謂筒井筒ふりわけ髪同志の山川草木みな同一のものを見慣れて成長し風習なども相似たのが自然話題も豊富で面白からうと思ふが、果してどんなものであらうか。
 閑話休題《それはさておき》、十九ではいかに早熟な吾輩でも女性に関してただ十分な観察を持ち得なかつたのは当然かと思ふ。故郷の和歌山県新宮市は当時まだ町ではあつたが城下町で、熊野川の河口に(195)位する都邑、木材の集散地として天下に知られただけに田舎町としては寧ろ華美な土地柄であつたから今日追想して見ても別段に郷土色といふ程のものが土地の女性の生活に著しく現はれてゐたやうにも覚えない。強いて言へば、田舎の町としては婦女風俗なども早く都会化してゐたといふその点をでも先づ郷土色と呼べば呼ばれない事もあるまいが、それでも町から少々離れた山里や漁師町などにはまだ幾分の特色があつたものである。一例としては、新宮の町の南方一里半ばかりの土地にある三輪崎といふ漁村(現在は新宮市内)から魚介類を町へ行商に来た婦女たち――町の人々が一般に「いただき」と呼んだ彼女等である。その顱頂に「はんぎり」といふ盥形の浅い大桶をいただいて商品を運搬してゐたからこの称があつたものと見える。彼女等は三々五々から数十人も群をなして早朝村を出て一日中町内を売り歩いて夕刻家路に帰るものであつた。夏期などは魚の持越を危ぶんで誘ひ合つて夕刻から出て来る者もあつた。京の大原女を磯臭くしたやうな風俗や、そのけなげに素朴な商ひ振りをおぼろげながら思ひ出す。
 「不器量な子ぢやけれど、気立のよい愛嬌者ぢや。正直で品物も安くてよい」
 と母がそれの来るのを待ち受けて外の女からは買はないやうにしてゐるのもゐた。布子の膝を魚の鱗で光らせてゐる女たちのひとりである。
 頭でものを運ぶ風習は追々と廃れて肩で運ぶやうになつたのは自分の出郷後間もなく新宮勝浦間の軽便鉄道が出来て、この行商女たちも汽車を利用するやうになつてから車室出入口よりも大きなはんぎりが乗車に不便なため止むなく肩で前後に荷負ふ籠に改めたものらしいが、彼女等は其後も当分は旧習を慕うて「はんぎり」の便利重宝を讃美してゐた。
 自分は郷里の山村の地方は殆んど知らないから目撃した事もないが、柿園詠草で
  いただきに杣板のせてくだる子がうしろ手寒き那智の山かぜ
  うちかける板目に切れし黒髪を由々しと見つつせこやなげかむ
 とあるのを見て、いただきの風習は漁村三輪崎ばかりではなく山地でも同様であつたことも判り、熊野の女性が山地でも海辺でも男子を助けてよく労働する美風のあつたのを知つた。
 旅行家は?々熊野の女性を美人系であるといふ。海を渡つて山中に来た旅行家達がさう感ずるのは必ずしも不自然ではあるまいがそれは恐らく専ら彼等の旅情のためであらう。自分は故郷の女性の不きげんを憚らず真実を申し述べるが、わが郷の男性はいざ知らず、女性は残念ながら美人系とは信ぜられない。その容貌の点よりは寧ろ彼女等の取柄としては気質に南国的な快活な面白いところがあるのではあるまいかと考へても見る。無論必ずしも美人を絶無と申すつもりではない。明治の初年柳橋で名妓の名を一代に謳はれた小さんはわが郷の出身であると聞いてゐる。
 土地が狭いから男子の他郷へ出稼に出る者が多いのを見倣つ(196)た結果かも知れないが熊野の女性は以前から郷関を出ることを好むものが多い。前述の小さんが柳橋で嬌名を天下に馳せたのも明治もまだ十八年の頃といふから、以て熊野女性の都会への進出が早かつた一例とすることが出来ると思ふ。一族の中西維順翁に婢女長歌といふ長篇の狂歌があつて、大阪に出て女中奉公の末に身を持ちくづした女を詠じたものがあるのなども都門を憧れる郷党の女子を戒める料にしたものであつたらうかと察せられるにつけて土地の女子一般に郷関を出て京大阪などに奉公することを喜んだ風潮が多かつたものとも考へられる。現今では濠洲や米国などへ飛び出して行つてゐる女性は相当に多い。尤もこれは女性だけではなく男子の亜米利加出稼は日本でも屈指の地方だから女性が自然その中に雑つたり、或は単独に志を立てて遠く故郷を離れる気になるのも不思議はないわけである。これ等の女性の郷里に帰つた者は時々他郷からの旅行者を?々驚かせるものである。往年浜本浩が帰省中の自分を郷里に訪うてくれた時潮岬附近で年増の女性でコーヒーの入れ方を喋々と論じてゐるものを見て感心してゐた。愚妻も郷里の荒物屋でポスターを見てゐた一婦人が
 「まあこれやチャイナガドレス着てゐるのぢやのし」
と語つてゐるのを聞いて来ておどろいてゐたが、これ等は皆亜米利加三界で生活して来た婦人連であつた。日本中でパパママを恐らく最初に用ゐ始めたのもこの地方であつたらう。――一向お国自慢にもならないが。
 かういふ地方だけに男子の在米の留守をしてゐる妻女も尠くない。土地では彼女等を仮りに名づけて亜米利加後家と称してゐるが、これ等もこの地方の女性を視る場合に、地方色を現した婦人として注目するに足るものであらう。
 これ等の事情も一種の刺戟となつて、熊野地方の女性は辺陲の地の割合には井の中の蛙の諺を割合に早く脱れ得て居たやうに思ふ。
 すべての中央集権主義の結果か、たとひ「故郷の女性」などといふ好もしい題目を見つけても何人の故郷もどの地方も今では多分大差のない流行婦人雑誌型の女性ばかりになつてしまひつつあるのではあるまいか、今日の時代に地方色を尊重することは不可能なそれだけに地方色のあるものが珍らしがられるのでもあらうか。我等の熊野地方は今日までは幸に交通の便があまりよくなかつたので人情にも風俗にも多少とも地方色のある地方として残存してゐたが、紀勢鉄道の完成と同時にさなくとも進出好きの熊野女性が他地方へ盛んに流出して、近代文明を郷土に移入し地方的都邑としての自尊心と品位とを保持してゐた新宮市の女性などは先づ第一に婦人雑誌型女性の典型となつて場違ひの東京女性となり、この同じ事がもう一度この地方一般に行はれるのであらう。これを地方の開発と呼び、文明の滲潤と呼ぶか。
 
(197)   日露戦争文献としての「歌日記」
      ――植村清二氏の示教によりて――
 
 「歌日記」に関しては既に拙著「陣中の竪琴」があつて、従来無理解に閑却され勝ちであつた森鴎外の詩歌の一般、就中、その最も高潮したものを示す歌日記の真価に就ては九尺梯子は九尺だけのものではあるが、ともあれ幾分かは開明し得たつもりであるが、日露戦争文献としてどれだけの興味があるかの一事に関しては原来史に暗い上に日露戟史にかけてはほんの少年時の記憶位より外に持ち合せた知識もなく、参考文献の適当なものをさへ知らない情けなさは、歌日記そのものを同時に戦史的文献として役立てつつ少年時代の不確かな記憶で補つて読む程の無謀を冒してゐたからこの方面の不備は定めし多からう。それにしてもその詩歌としての価値だけでも一般の注意を喚起して置いて多くの不備はこれを補ふ機会を後日に得たいといふつもりであつた。
 自分の虞れてゐたところと冀つてゐたところとが思ひがけなくも同時に現れたのはあの拙著を世に問うてからまだ一月かそこらしか経ぬ七月六日の日附で植村清二氏が松山から長文の尺牘を寄せてかの一書を評され、多くの示教を垂れられた時であつた。植村氏は蒙古史を専攻の史家であると聞くが、氏は先づ明治以来我国に戦争の文学の乏しい事実を挙げられ『殊に国民的活動の高潮に達した日露戦役などに関して見るべきものが殆んどないのを一つの不思議』と呼び『某軍人等の某々の著作などは小生にはあまりに価値のないものだといふ風に考へて居ります。さういふ中で?外先生の「うた日記」一巻は……』と拙著のこれを鑑賞しその趣を宣揚したのに対して先づ賛意を示してくれてゐるが、これはやがて現れやうとする非難のために用意した社交的修辞であることは読みつづけて自ら分明であつた。
 植村氏の手紙は、果して拙著が戦争そのものの記述に不備なために興味が浅いことを指摘された上で、陣中の森?外を言ふためには、日露戦役に於ける日本軍の行動殊に第二軍の行動が最も関心事でなければなるまいと、まことに痛いところを痛撃してさて懇切を極めた高教を示し賜はつてゐる。田山花袋の「東京の三十年」に見えてゐる花袋の従軍の一節に宇品で?外先生と会見するところ営口で仏語の小説二册を獲て?外先生に贈る事など世に知られた事実が記されてゐる外に、別に「第二軍従征日記」の著があって前記周知の事実以外の事が詳しく書かれてゐる。花袋は?外先生と足跡を同じくしてゐるから御参考になる点が多からうこの書も今は世に稀になりつつあるからもし一読する気があつて本がないなら当方に所持のものを送らぬでもないがといふ程親切な申出もある。この書は氏の好意に甘えて拝受した。さうしてこの書から得たところや、またこの手紙で新しく了解し得たところに従つて重版の時に訂正したいと楽しんでゐたのに拙著は終にその機を得ずにしまつた。今日
 
〔かの一夏の記〕
(228)後、懶惰な自分は十年余を費して、やつとこれを遂行し得た。かの旅は放浪自適、実にわが青年時代のなごりであり、この集は能く曾遊を記してわが壮年期の記念と成つた。集は作の年代にはよらない。旅程に従つて南方から北部に及んでゐる。
 この書は梅原氏の好意によつて過分に立派な本に出来上つて喜ばしいにつけても、この旅行中言ひ尽し難い程お世話になつた丙牛先生は既に道山に帰して年久しくなつたのを思うて事新しく追慕の念に堪へない。
 書の将に成らんとするを聞いて慌しく禿筆を呵してかの一夏の記を作り、以てとぢめがきに代へる。
 
   山水おぼえ帳
 
○山水の事に関しては、題目が題目だけに是非とも言はねばならないといふ程のものがあるではないが、そぞろに語り出でたいものがあるのを多くおぼえるのに、いざと筆を執つて見ると何を言ひたかつたものやら遂によくわからない。まことにおぼつかない話である。
○煙霞の癖といふ語がある。自分にも確にこの癖だけはあるのに、それを満足させるだけの時間も金もない。否、自分の浅薄な性としてこの癖もほんの軽い趣味の程度を出ないものらしいので、それに沈湎するほどの熱情もなく遂に山水に放浪をする機を失つてしまつたらしい。四十年を徒らに齷齪と都塵に埋れて、不文を売つてゐるのも思へば悪業であらう。先日客が水野葉舟氏の近況を語つて、氏が十五年来三里塚の奥に鬱蒼たる果樹に囲まれて日常の天候や草木の観察などを録した明細な日記を心ゆくまで書き蓄めて悠然と老いてゐるといふ話を聞いて、この感が深かつたので記して置く。
○自分がはじめて山水を見てよろこんだのは無論少年時故郷の地に於てであつた。丹鶴城址に立つて熊野川口の白い浪や、鵜殿の村落に落陽の照り映えてつるべ落しの秋の日の慌しく暮れるのに恐れを抱きながら花芒の間を山路を駆け下りたのを忘れもしない。毎日、もつと早いうちに山を下りなければと思ひながら、海の明るさにだまされて、夕暮までまだ間があると思ひながら、山かげの道が急に暮れてしまふのにおびえたものである。この山上の眺望は後年石井柏亭がこれを描いて天下に知られる風景となつた。あの城址の浅茅原に群れてゐた赤とんぼなどこれは別のおぼえ帳に記入せずばなるまい。
○わが郷の熊野は山紫水明の地として古来天下に喧伝されてゐる。その虚名でないことは和田三造氏も近ごろ裏書きされた程だのに、自分は弱冠で郷里を出てしまつたので、この故郷の山水にさへ辜負した。今日後悔するところはこれである。あのころ都門に出る代りに、一册の雑記帳を懐中して郷里の山川の間を放浪して、風景や禽獣草木や山間の民の生活などを知つて置く事が芸術の修業に学校生活よりどれだけ有意義か気づかなかつたのが腹立しいのである。
(229)○それでも十三か四のころ中学校の同級にその地の出身者があつたのを幸に夏期休暇の数日を靜八丁に遊んだ事があつた。三十年前の話であるから、まだプロペラ舟などといふ便利重宝なものはなかつた。川舟なら、曳舟で溯らなければならなかつた。この川舟だけが当時の金で二十円位もかかるといふので、我々は陸行した。七里御浜に沿うた新宮木(ノ)本間のすばらしい井田の松原を中途から山の方へ折れて尾呂志の方へ抜けたと思ふが、何しろ昔の事でうろおぼえである。また郷土のやかましい先生方から文句があるとうるさいから、何もかもうろおぼえの点を特にお断りして置く。草いきれの蒸せ暑い百合の多い山路であつた。途々あたりの村々から出て来てゐる仲間の連中の噂話や、この辺の盆おどりの話などに耽つてゐた。友達にその心もなかつたから十数里の山路に「夏山や」とも蝉時雨とも一句もなしに、登つたり降りさては目の前に大迂回をして見えてゐる山裾の道をもどかしがつたり、遠雷の昔に夕立を気づかつたり、汗みどろの一日は峠の杉林の梢に鳴きしきるかなかなの音に暮れて、それでも峠を越して林を出て見るとまだ暮れ切つてもゐない。友の家はすぐ山の下であつたから、軒に盆提灯をともしたきりでランプもつけない座敷のなかへ通さうとして埃まみれの足に気づいた友は、両手に二足の下駄を持ち出して家の下を流れてゐる小川のほとりへ案内した。先づ小川で足をそそぐと友は、そこに据ゑられてあつた風呂桶の蓋をとつて釜の火の燃えさしであたりを照して自分をこの川ぞひの野天の風呂に入れた。一日の汗と埃とを流しつつ河鹿とかいふ者の音にきき惚れて、浴後は小川の岸に立つたまま風呂桶に沈んでゐる友と明日の打合せをしてゐた。日中随分気をもませたまま遂に夕立にもならなかつた遠雷がまだ稲光をつづけてゐる。友の家は後に聞けば小学校の校長さんとかで、場所柄、季節柄、鮎の塩焼をそへた夕餉の膳を出してくれた。橡側は青田を見渡して涼しく小高く家居してゐた。翌日早朝と相談して置いたのがやはり八時頃になつて舟に乗り込んだ。日ぐらしのゐた峠を友の家とは反対の方へ半丁ほど下りさへすればすぐ舟はあつた。三角形に小石の集つてゐる小さな川原に繋がれた舟が岸を離れて流れてゐるとも見えない水を溯ると、もう直ぐ瀞の入口であつた。あまりあつけないほど近かつた。峡の幅はどれ位あつたやらはつきりおぼえないが、予想したより狭いやうに感じた。両岸の岩が高かつたからかも知れない。十時頃の太陽は向ふ側の崖の頂の方にだけ強烈に照つてゐて水はこちらの山のかげになつてゐたのがやがて正午になつたのか東岸の山の形のせゐか水の上にも日が照つて来た。水は思ひの外深いばかりかうす気味の悪いほど澄み切つてゐる。試みにのぞき込んで見ると、日の光がゆらゆらとコップの底に沈む砂糖のやうに溶けながら沈み込んで行く底の石の上に小魚が身をひそめてゐる。こいつを驚かして活躍させて見たいと舟底を蹴つても舷をたたいて見ても一向感じないらしいのを友達が気を利かして舟の棹をとつて水をかきまはしたら、魚は稲妻よりも早く逃げてしまつた。やまめかはやであらう。鮎はもつと上の方でよくとれるといふ話であつた。水はまるで流れてゐないも同然だから、友が今棹を振りまはして掻(230)き乱した波紋が先づこちらの岸にそれからしばらくして向ふの岸にまで伝はつて行く程であつた。舟はあちらの岸こちらの岸を縫うて進んだ。ところどころに名のある石があつたのでその下を通つて見せようといふ舟人の心づかひであつたらう。咲きのこりのさつきがところどころ花芒などに雑つて岩かげに見えてゐたある巨大な岩の傍に小さな川原が出来てゐるところへ舟をつけた。わざわざその岩の上へのぼつて茶碗に注いだ茶を受取るのに不自由しながら岩の上で用意の弁当を食べた。その大岩の後背の山の断崖に大きな泉だか小さな滝だかがあつて歯朶や垂れ下つた苔見たいなものなどが茂つて洞のやうになつてゐた。それは舟のなかからは見えなかつたのが岩の上にのぼつてはじめて見えて来たものであつた。弁当を終つてから岩を下りて洞の中へ入つて見た。小さな奇妙な蛙が沢山ゐると思つたら、それが昨晩風呂のなかで音を聴いた河鹿といふものであると友は教へてくれた。この洞のなかは寒いほど涼しかつた。帰つてから新学期早々の作文の時間に暑中休暇の日記二三日分といふ題が出たので瀞の紀行を書いて、この洞のところで少年雑誌か何かで見おぼえてゐた「天下の涼風この処に起る」とかいふ文句をそつくり借用して置いたら、二重圏点がついてゐたのは恐縮した。後年李太白といふ拙作をした時は水中の景にも清渓の空想にもいつもこの半日の遊が念頭に浮んでゐた。その後文徴明の法帖に江上秋色浄可憐とか何とか句を見た時も、浄として憐む可しといふ三字によつて靜八丁の風景が直ぐ脳裡に浮んだ。自分はその後、機会は幾度もあつたが、この少年時代の曾遊の印象を尊重するあまり一度も再遊を企てない。帰路は半日かかりで小さな山を一つ越して川湯温泉といふのへ一泊した。朝も晩もかんぴようや高野豆腐とあぶり鮎の※[者/火]びたしを食べさせられて何故生の鮎の塩焼でないか不平であつた。何れ二十銭か二十五銭の宿銭で、去年から貯蔵の鮎を早く片づけてしまはうといふのであつたらうが、そんなところへ気がつかないのだから無邪気なものである。出会から熊野川を下つて家に帰つた。僅に半日で下つて来たが、いつも川口を見慣れてゐるこの川の中流を珍らしく、うれしいものに思つた。後年木曽川の犬山附近(俗に忌はしくも日本ラインとかいふ)に遊んだ時も故郷の川の方がよつぽどいいと思つた。木曽川はずつと上から下つて山間から平野の方へ出て来る変化の途中にあそこがあるのでいいに違いない。それをただあそこだけ見るのでは面白くない道理だと知りながらもついお国びいきが出るのがをかしい。
○和田三造氏は先年その地に遊んで以来熊野の風景は山あり川あり、海あり、何もかも道具立が揃つてゐるのと、小ざつばりしてゐるのがいいとよく言つて居たが、この間は、古座の一枚岩を激賞してその雄大壮厳を華厳の滝と併称してゐたが、自分はまだ見てゐなかつたので残念であつた。その時、自分は木の本海岸の鬼が城を挙げたら南風の製作者は異議なくこの男性的な風景に賛成した。序に潮の岬をも挙げたい。あそこの広場に牛を放牧してゐるのものどかな牛と騒々しい波の対照など面白み増すものであらう。あそこはゴルフ場などになつて、長い棒をもつたスマートな紳士などが飛びまはるより、やはり短い角(231)ののんきな牛が居眠りしてゐる方が本当だと思ふ。
○串本の向ひの大島の外海に面したところがいいといふ事も聞いたが、自分は海の風景を元来あまり好まないのでわざわざ見にも行かなかつた。
○自分は海以外の水がすきである。湖畔が一番気に入る。湖畔といふ言葉でさへ魅力を感じてゐるそのくせあまり多くは知らない。日月潭、大沼などは湖畔といふより沼沢であらうが自分の性に合ふところがある。就中、日月潭がいいあすこで半月ほどゐて日記でも書けばよかつた。
○やはり台湾だが高雄とその向ふの旗役との間にある入江も静かでいい。あそこに浮んでゐる多彩なジャンクやサンパンなどそれから旗役の砲台の廃墟など忘れない場所である。旗役の海岸で海に落ちる入日を見てから月光を慕うて砲台にのぼつて、下の部落から洩れて来た絃(ヒエン)の昔を聴いたのなどは山水といふより寧ろ旅情のなつかしさであるかも知れないが。
○那智の滝は天下一といつても大きさから言つたら、高さや水量などの数字は知らないこと、感じから言つて、到底華厳の敵ではないが、さすがに幽麗な趣にかけてはどこに出しても決して恥しいものではあるまい。先年の早春にこの山中に半月ほど籠つて日夕この滝を見てゐたが晴好雨奇、朝に夕に趣が頗る変化するのを知つて益々美しいと思つたにつけて、ひとりこの滝ばかりではなくいい山水は尠くも二三日位は見なければ真の美しさはわからないし、四時の眺めなどにも通じなければ語る資格がないと感じた事であつた。
○いつぞや松島で宿泊した時、時雨に逢つて、雨ばかりか雨後の月を飽かず眺めた旅情も忘れ難い。尤も松島の忘れ難い事では、その前に遊んだ時は塩釜から舟で渡るのに、舟に乗り込む時慌てて小便を忘れたために、それを我慢するので風景どころの沙汰でなかつた苦しさをも忘れ難い。最後には船頭に頼んで八百八島のうちの一つに舟を着けてもらつてそこに上つて放尿した。松島の島嶼へわざわざ小便をしにのぼつた風流人はさう沢山ゐないであらう。松島は縁があつて度々見るが格別の事もないと思ふ。尤も山の高いところから鳥瞰するのが本当だといふのを、これはまだ一度も果した事がない。ともあれ日本の海岸によく見かける風景の一つの典型を大規模にしたものだから、代表的風景には相違なからう。
○平泉も好きだけれど山水としては残山余水に過ぎぬからあれは史蹟で「夏草や」の一句で尽きるものであらう。平蕪の地が雑草の下に歴史を埋めてゐるのがうれしいのだから。ここにも苦々しい思ひ出があるが事が山水以外だから別のおぼえ帳にする。
○北の方へ来てしまつた序に一つ蝦夷が島まで押し渡つて見ようか。この地は十勝に「しるよしして」両三度行つたがいつも用事だから見物は殆んどしてゐない。ただ狩勝峠だけは新緑も秋色も知つてゐる。駒ケ嶽をぐるとまはる線路やその山裾の沼沢地帯(大沼)などは大陸風の変つた風景と思ふ。今度は一度阿寒なども見たいものだ。夏や秋は知つてゐるから冬出かけて見よう。見物はしてゐないが、やはり十四五のころこの地で一(232)夏を暮した事がある。月見草に埋れた川原へ馬を洗いに行つてそれに乗つて帰つたりしたから風景よりは生活の方がまだしも少しは知つてゐる。先日老父母が十勝の弟を訪うといふので土産に弟に色紙でもやつたらといふから出まかせを書いてやつた。
  木がらしや開墾小屋の豆ランプ
  秋ぐさの北海道となりにけり
  長き夜のアイヌ部落を思ひ見よ
 ここにもお笑草に書き添へて置く。
○風景にも縁のないのがある。九州へは三度行つたがどこも殆んど見てゐない。鳴門も見ずにしまつた宮島も広島まで行つて見ないでしまつた。東京の附近は日光、箱根、伊豆の一部分位より知らない。何故か自分は関東の風景をあまり好まない。やはり大和の山などの方がなつかしみがある。
○引佐細江(いなさほそえ)は偶然に見てひどく気に入つた。小さな丘やその丘々相応な曲浦の繰り返しなどせせつこましく小うるさいと云へば小うるさいやうなものの巧緻で七五調見たいな流麗な感じがいい。
  旅にして誰とかたらむ遠江引佐細江の春のあけぼの
 といふ石川依平の歌も実景を見てから好きになつた。この歌から来る感じが引佐細江の景色そのものに似てゐるからである。
○今はむかしとはよほど地勢も変つてゐるからわからないけれど三輪ケ崎狭野の狭野のあたりも引佐細江の類の風景ではなかつたらうかと想像される節がある。
○和歌浦は蕪坂の筆捨の松のあたりから瞰下してはじめて美しい風景だとうなづける。
○自分は養老が好きである。滝はつまらないが、ちよつとひつこんだだけでわり合ひに山の深い田舎の趣があるのがいいのである。妙なところがすきな男だと思ふ人も定めしあらうとは思ふが。
○町ではやはり長崎の町などいいと思ふ。松江もきつと好きになるところであらうと空想してゐる。
○少し遠方になるが廈門の鷺江がなかなかいい。西湖よりもいいと言つてゐる方もゐたが自分も後に西湖を見て見方によつては鷺江の方を上に置くに賛成出来ると思つた。鷺江の事は南方紀行に記して置いたから今は多く筆を費さぬ。
○長明の方丈の跡を見て、これも地勢も変つたらうし周囲の樹木などで眺望も妨げられてゐるとは思ひながら、方丈記にあるやうな風景のいい場所とは思へなかつた。あれにくらべると徳島のモラエスの家の山を前にした窓の方がまだ幾分同感が出来る。
○能高山から花蓮港の方を見渡した風景も雑然ととりとめがないながらに妙に感じが豊かで印象に残つてゐる。
○安平の荒涼たる風景は全く無類と思ふ。女誡扇綺譚の冒頭に記したから今は詳かには言はない。
○一草花、一鳴禽のために特に忘れ難い印象をとどめてゐる風景もあるものである。
 
(233)   露台夜話
 
     一、五貫目の暑さ
 
 自分はもともと暑さには決してめげないたちであつた。生れて四十年間暑さといふものは知らないで過ぎて来た。暑さを感じないのでは無い。暑さを苦しく思はなかつたのである。苦しいどころか暑ければ暑いほど活気が溢れて楽しかつた。昆虫や落葉樹と同様に冬はひどくまゐつた代りに夏こそ自分の世界といふ気がしてゐた。汗一つ流れないで気分も健やかであつた。暑さに適する体質だと自分で信じ込んでゐた。体重はいつも十二貫五百以上になつた事もなかつた。
 汗をたらしながら気短に扇子をバタバタ使つてゐた瀧田樗陰などを見ると、自分は気の毒よりもをかしい位なものであつた。
 もし自分の生涯が四十年で終つてゐたら、自分は蝉のやうに暑さを讃美して生涯を終つたであらうと思ふ。それが四十を過ぎてから人並みに暑さが厭はしくなつたと思つたら、一年増しに苦しくなつて来てしまつて、今年などは最もひどい。試みに先夜不忍池畔で一銭を投じて自働体重計ではかつて見たら、十七貫あつた。その翌日の午後の暑さには、五貫目の暑さはかうもひどいものであらうかと流れる汗とともにつくづく今昔の感に堪へたものであつた。
 四十年苦熱を知らないで済んでゐたものに今更何の要があつて暑さを教へたものやら凡慮に及ばないながら、永年暑さを馬鹿にしてゐたゞけに今更とんと銷夏の策もない。尤も四十年間この苦しさを知らないでゐたのだと思へば有難いのだから、不足をいふ筋はないのに人間の身勝手は暑苦しさにこんなめちやも言ふのである。扇子を持つた習慣がないから、このごろ持つて出ても置き忘れて来さうでいけない。それに昔瀧田樗陰ををかしがつた手前、あまりバタバタやりたくもない。別荘といふ身分でもないから、何がないい方法をと考へて見る。午睡が出来さへすれば、これこそ分相応で一番いいのになあと思ふのに、午睡どころか睡眠と来たら夜分でもとんと人並みにはまゐらない。夜分睡らない程なら昼間は眠れさうなものと思ふ人もあらうが、そんなのが俗にいふ素人考へと申すのである。明るいところでなどは絶対に眠れるものではない。それでも自分にも何かのはずみで午睡の経験も今までに三度や五度はありさうである。ざつと十年に一度の割合である。読みさした本の字がぼやけて来たと思ふと、本を持つてゐる手が自づとだるくなつて顔の上へ開かれたまゝの本が落ちて来るころの気分は恍たり惚たり何とも言へず有難いものであると覚えて居る。しかし自分はこんな機会にはめつたにめぐまれない種族である。天の恵みのないものを人工で企てても到底力及ぶべくもないので、午睡は自分にはさながら神輿のやうに尊く、而も神輿のやうに得難い。
 
〔腹ふくるゝわざ〕
(320)が、これもお心からなら致し方もあるまいともう一行憎まれ口を云爾。
 
   熊野雑記
 
     (一)
 
 雑誌「東陽」編輯部の牧野吉晴が熊野へ旅行したいといふ。同席の尾崎士郎、富沢有為男、なども同意を表す。時期さへ決定すれば東道の役目は何時でも承はるといふと、時期は何時がよからうかといふ相談であるが、自分には何時とは決めてすすめられない。その四季皆愛すべきを覚えるからである。温かいのを愛して冬出かけるのもよからうし、春ならば熊野とは限らずどこへ旅行したつて楽しいし、さうだ。熊野の旅はやはり新緑の候がよからう晩春から首夏にかけてと答へて置いたが、今年の夏は一身上の都合でどうやら故郷で夏を送ることになりさうな模様である。それなら自然東陽編輯部の諸君を夏季に迎へる都合になることであらう。さう思つてゐると珍らしく吉井勇君が牧野君同伴で来訪されて同じく熊野がなつかしいといふ。同君は三十年ほど以前に一度与謝野先生や北原、茅野両氏などと熊野に遊んだ事があつた筈である。自分は中学へ登校の途上で諸氏の後姿を遠望した記憶がある。吉井氏は熊野がなつかしいのではなく、或はただ往時が追慕されるのではあるまいか。熊野も三十年前まではまだ郷土色が多かつたが近ごろはそれも失はれてゐるらしいから或は吉井氏を失望させるかとも思はぬではなかつたが、序に誘うて置いた。
 四五日経つて保田与重郎が来たので、所蔵の熊野檜扇を見せて、速玉神社の宝物にはこんなのが十枚あるし、外にも櫛笥十一合、その他品々の国宝を吹聴すると、以前からその風景に憧憬してゐたといふ彼も夏になると熊野に行つて見てもいいような口ぶりであつた。
 そのうちに郷土に関して何か書いて見よといふこの註文である。ここのところ天下の興味が悉く熊野に集中してゐるかの観がある。多分は鉄道が殆ど落成したので、今まで交通不便のため意を果さなかつた向が皆熊野への旅を希望或は空想するものらしい。この稿も編者がそんな読者に幾分の興味を与へようといふつもりであらうか。
 さて熊野の何を書かうかと考へてゐるうちに、先づ思ひ浮んだのは、やはり速玉神社に関する思ひ出である。中学三四年の頃、朝十時から十一時頃の数学か何かの時間をサボツテその境内の石塔籠と桜花とを水彩で写生した事があつた。久しく忘れてゐたのを、近ごろ絵に熱中しはじめた折柄、殆んど毎日郷土の話が出るし、やがて春にならうといふ気分も働いて、殆ど埋没し去つてゐた記憶が発掘されたものらしい。よろしい。何も因縁である。これを思ひ浮んだのを幸に、熊野三山に関して知るところを書いて置かう。今までまだ一度も書いたことがない。実は書かうにもあまりよく知らなかつたからである。三山のう(321)ちでも那智、新宮なら一とほりは知らぬではないが本宮となると一度も参拝した事がないので、拙著「熊野路」のなかにも三山の事は一向出てゐないのである。
 一口に熊野十二権現だの熊野三山だのといふが、九十九王子を数へるなどは問題でないとしてもせめて三山の祭神ぐらゐは確実に知つてゐるだらうかと自問して見ると、おぼつかない、これではならないとうろたへて参考書を繰つてみると、これがまた詳しすぎて反て要領を得にくい。紀記から見直してかからねばならない始末につくづく自分の無知に愛憎がつきる。
 
     (二)
 
 無知と言へば、先夜も増田が三山行幸に要した日子及び道程などを問ふのだが、即答が出来ない。これは時々人に問はれる事柄だから、いつぞやも大略は調べて見た事があつたのに、もう忘れてしまつてゐるのであつた。しかしうろ覚えながら里程は大方八十里、これに要する日子は三週間か四週間位であつたやうに思ふ。道は田辺までは海岸づたひ田辺の切目から左折して中辺路の山中を抜けて本宮に出て、本宮からは川船で新宮に下つたとか聞いてゐる。
 後鳥羽上皇が建仁元年十月の御幸は供奉の定家卿によつて明月記に詳記されてゐるがこの時は、御日数二十二日を、宇多法皇御幸は二十七日を要せられた模様で三四週間といふ自分の記憶も幸に大過なかつたらしい。尚行幸の際の御装束なども知れぬではないが今は云はない。
 三山の祭神に就ても旧師小野翁が遺稿「熊野史」(現存の郷土史中信用の置ける)のここぞと思ふあたりを片つぱしからひろげて見て、
 「熊野権現は十二社権現といふて広く知られてゐるが、天神七代地神五代、十二柱の大神を祀り添へたのは、ズツと後世鎌倉時代からのことで、御祭神は熊野|牟須美《むすび》大神(結又は夫須美とも書く伊弉册尊《いざなみのみこと》の御事)、熊野家津御子大神(素盞嗚尊の御事)御子速玉大神の三大神であり、その御中にて本宮は家都御子大神を御本社とし、新宮は速玉大神を御本社とし、那智は、結大神を御本社として居る。」
 と大分事は明瞭になりはじめたが、それでも新宮の速玉大神といふのがまだあまり明確にならないので、再び書斎へ駆け込んで新宮町郷土誌を持ち出した。それで見ると、
 速玉大神は御子速玉大神とあつて「御子とは伊弉那美尊《いざなみのみこと》の御子に坐由也」と栗田寛博士の説を引き更に紀の第十を足引の尾の長々しく引用してゐるのに困却するが幸ひ最後に「以上引用せるところを綜合繹ね考ふれば」と要約してゐるうちから一節を引いて見る――
 「伊弉册尊(結大神)三貴神を生ませ拾ひし御後有馬の邑産田のほとりにて軻過突智《かぐつち》神(火の神)を産ませ給ひしが御産の御熱の為に終に神去りまししかば今の花窟の地に葬《かく》しまつりしに伊弉諾《いざなぎ》大神思慕の御余り御|殯斂《もがり》の処に追ひ到らせられしかばその切なる御情感通じ伊弉册大神甦りたまひて御見え申されそ(322)の御時生れさせられしは御子速玉大神にましまし(男)父大神の筑紫に別れ行かれたまひし後もそのままこの熊野に留まらせられ母大神の御傍を離れ給はず、母大神も生れ出でらるるや直に父大神に別れ給ひしこの御子の神を一入あはれに思召されたるは固よりの御事にてありかくてこの御子速玉大神は御兄素盞嗚大神と共に御力を協されて此地方を御開発御経営遊ばされし大なる恵を施したまへるよりこの三柱の大神を熊野の三所大神と称へ奉り本宮新宮那智の三山に斎き祀ることにてあり結大神と御子速玉大神とは必ず一宇中の社に合せ祀り奉るもかかる御由あるためにて、かつ花窟の花祭も御子大神の春に秋にその折折の花を供へ祭られしに本づくにはあらざるかと想ひ奉りて一入畏くありがたく感じ奉るなり」
 引用は少し長すぎたが、これで三山の祭神とその由来とは大に要を得たつもり。古来三山に対する皇室の尊崇の篤い所以も自づと明かであらう。これからこれらの神社の古風に特色の多いお祭の事を記したい。
 
     (三)
 
 何しろ、神代の事ではあり、学者にも諸説がある模様ではあるが、出雲と熊野とは関係がよほど深かつたらしい。言はゞ出雲の殖民地ともいふべきものが熊野にあつて、それの統治をして居られたのが熊野の三大神で、その鎮まり坐したところが所謂熊野神邑である。御三神は皆深く民を愛し給ひ、就中家津御子大神と称へ奉つた素盞嗚尊は韓国から数多の樹種を将来し給うて殖林の事を教へ給うた。家津御子の御称も「木《け》つ御子」の義であるとか。かくて木の国は出来、わけて熊野はその南方に位して樹木の繁茂に適した。熊野の熊は古茂累の義で樹木蓊欝の義であらうといふ。土民の永く三神を敬慕し奉るも亦故ありと謂つべきであらう。神武天皇の御東征に当つて熊野がその上陸地点となり建国の御事関聯の多いのも、亦前述の三大神の威徳を慕ふ土民がゐたからであつたらう。
 三大神は一説には、後に説く神の倉に天降つて、阿須賀《あすか》、有馬、などに鎮まり坐した後、暫らくは石淵の谷に鎮坐せられたらしい。何れも神宮から程遠からぬ辺である。石淵の谷から三神を本宮へ祭り奉つたのは崇神天皇の御宇であつた。新宮は景行天皇の御代に創祀された。本宮、新宮の称はその創祀の時期によつて呼ばれるのでやがてそれが地名にまで転じたものらしい。三山のうちでは那智がやや遅れて仁徳天皇の朝に海内第一と称せられる大濠布が発見されると同時にここにも同じ三神を祀り奉つた。那智の勃興によつて当時は新宮本宮をも凌駕する勢を示してゐたとか。
 花の窟は同じく熊野のうち三重県に属する南牟婁郡有馬村(木の本町付近)にあるが、自分はまだ参詣した事はないが、聞くところでは聳立する巨巌の高さ百七十尺に及ぶ下に拝所の設があつて、祭は毎年春秋二期、二月と十月との二日に、五色の菊の造花を巌頭に懸け渡した注連縄に挿み飾つて祭るので、花祭の称があると聞く。
  神祭る花の時にやなりぬらん
(323)    有馬のむらにかくる
      木綿幣《ゆふぬさ》(夫木抄)        光俊
 ここに祀られた伊弉册尊が火の神を産んでために神去られた場所といふ産《うぶ》田神社も奥有馬にあると聞くが自分は未だ知らない。
 
 自分のよく知つてゐるのは、新宮の速玉神社のお祭である。これを語るとなると、どうしても幼少年時代の呼び方に従つて「権現さまのお祭」と呼びたくなる。このお祭は旧暦の九月十六日、我々が知るやうになつてからは新暦の十月十六日であつた。あの地方ではまだ幾分暑いのに夕方の冷気を惧れてお祭には大ていはじめて秋の袷を着る。この日のお祭はみふね祭と呼ばれて水上のお祭である。この前日の十月十五日には速玉神社の摂社で「おあすかさま」と呼び慣はしてゐる阿須賀神社のお祭があつて、これは御舟祭に対してお馬祭と云つたかと思ふ。何でも「おあすかさま」はその翌日の御舟祭のためにお留守になる権現さまのお留守番にお出かけになるのをお馬が迎へて来るのであるといふ俗間の伝である。
 巨巌の頂にある注連縄に花を飾るといひ、お祭の間、別の神がお留守番に御座られるなどもすべて甚だ古雅で掬すべき趣ではないか。お祭がまたそれにふさはしく有難いのだ。
 
     (四)
 
 阿須賀神社は新宮市の上熊野地にある。社名は飛鳥川の南の崖にあるからその名をとつたものと思はれる。祀神は速玉男命と事代主命とであるといふ。事代主命は武勇は優れた神であつたから武勇を以て速玉大神を助け奉つた事もあつたので、お祭のお留守をも承るものかと思ふ。因みに都下の飛鳥山も熊野の飛鳥山がもとであることは柳北の碑文でも明かである。
 十五日の午の下刻、速玉神社の神馬……奥州産の白馬を飾り、馬背には徐福が献納したと伝へてゐる神宝の壺鐙を懸け、宮司以下の面々が整列して神馬に従ひ阿須賀神社に向ふ。かくて酉の中刻今度は速玉の神が神馬を召されて市の外れにある新飯山のお旅所へ神幸され檜葉で造られた仮殿に入られる。庭燎《ていりよう》を焚き神楽を奏し宮司は庭燎の光で祝詞を奏し禰宜《ねぎ》主典《しゆてん》等は手を連ねて左へ廻る事三度にして退く。次に火上(ほあげ)と称して火を減じて式が終り還幸は戌の下刻である。御旅所の祭儀は極めて素朴古雅、何事のをはしますかと森厳にさびしい趣きのものであると聞いてゐる。それ故女子供は当日こんな場所でこんな祭儀があることなどは多く知らない。実は我等も後年これを聞知した位なもので、十六日の御舟祭の方ばかりが一般には知られてゐる。
 十六日の祭礼は前日とはうつて変つた賑やかなもので付近の町村からも見物が殺到する。
 この日申の刻、足利義満寄進といふ神輿を三十六人の壮丁が御輿舁ぎに奉仕して、御幸町通を通つて熊野川の岸に到り、神霊を朱塗の竜頭の神船に還すと、神船は二艘の諸手船《もろたふね》に曳かれ(324)て熊野川を沂ること数町で御船島に到る。島を左から三度徐々に廻る儀式がある。島の上には神供酒にそへて三掛の魚を切つて供へる式がある。(魚は大島村から献上するのが古例であるとか。)これより先に神船が御船島に到るのに供奉して、別に九隻の早舟がある、この九隻が神船が島を廻る前と後とに先を争うて島を漕ぎ廻る儀式がある。この壮観を見るために当日人々が集まるのである。もとはこの時の競漕の結果の順番に従つて熊野川口から江戸に炭船を出す優先権が新宮城主から与へられてあつたもので早舟も悉く舟町の船持衆から出したものであつた。現今ではこの権利も消滅し、早舟も市中の各町区から出してゐる。この御舟の式は、太古出雲から霊神が諸手船で渡来して遷座し給うた古実を伝へるものであらうといふ。古例として当日諸人を出す対岸の鵜殿村は出雲からお供して来た者共が嘗て住んだと語り伝へられてゐるし、御舟祭は出雲の美穂神社の「国譲りの祭」にも似てゐるといふ話である。
 尚当日のお祭には二つの奇異なものが、御舟祭の供奉の八人の諸人のうちに、赤い衣に黒い帯をしめ、後に折れて垂れた長い黒頭巾をかぶつて、女装した一人がゐて小さな櫂をあやつりながら「ハリハリハリツイセ」と節おかしく歌を唱へて、さながら波を叱り制するやうな有様を示す踊をするのと、もう一つは神輿の渡御に先だつて飾り立てた神馬の背上に置かれてゐる神幸に列する少女の人形である。金襴の狩衣に綾藺笠を冠り、萱の穂十二本に熊野午王の神符十二枚挟んだものを腰に挿てゐる。俗に正政(しやうまん)の一物(ひとつもの)と呼んでゐる。
 これは出雲から遷り来られた御途次、御道しるべ申上げた草刈少女に擬した人形で、さればこそ神輿に先頭してゐるのであるといふ。
 尚神倉神社の燈祭や、及び同じく速玉神社の夏祭や夫よりも那智の扇祭など何れも御舟祭に劣らぬものを記すつもりであつたが紙が尽きたから次の機会にしよう。
 
   愛書家及び失はれた本
 
 亡友帚葉山人は世人周知の愛書家であつた。同時に人の知る如く清貪に甘じてゐた人物である。没後遺族の嘱によつてその蔵書を一とほり調べて見たが、目ぼしい本といふものは中に数へる程しかなかつた。その筈である。無けなしの金でがらくた本を拾ひ出して来たのが偶然集つたのだから大したものがあらう道理もなかつた。それに気の利いた掘り出しものをするにしては彼は十分な学識もなかつたやうだから目が利いて金があつて、その上にひまにあかしてでなくては出来ない蒐集事業で、既に重要な二条件を欠いてゐる彼が満足な物を持つてゐやう筈がないのは寧ろ当然であつた。その代り彼にはひまだけは可なりあつたし、それに足にまかせて古本屋や古書展覧会などをほ(325)つゝき歩く趣味は随分あるし、その時期も相応長く、各方面に知友も多かつたから永い年月の間には自然耳学問で覚えた事や偶然の機会に目にふれたもので彼のお歯に合ふやうなものを手当り次第に貪り集めたのが壁のある限り並べた一間の書棚に五つか六つかと外に六畳の座敷に山と積み上げるほどあつた。当然とは言へ、平素の言葉にも似ずあまり何も無さすぎるので駄法螺を吹いてゐたかとも思つたが、さうばかりとも思へなかつたのに、追々と事情が判明したのによると晩年に目ぼしいものだけはこつそり持出して片づけてしまつたものらしい。それに彼が本を買ひ入れる時は放蕩息子が版の古い立派な辞書などを持ち込んでおやぢさんから上前へをはねる流儀で妻君の手前をよろしくやつてゐた点も幾分はあるものか、細君はしきりに買つた時の値段や定価などばかり主張してゐるし、もつと嵩の少いのを数倍高価に払つた事があるといふやうな考へで本屋のつけた相応の値段で納得しにくかつたものである。尤も商売人が良心的に買つたといつても勿論利益を相当には計算してゐたらうと思ふから細君の申し分の方が正しかつたかも知れないが、自分の今言はうとするのは決してその問題ではなく、帚葉山人の文庫そのものゝ話である。成るほど金目のものは殆どなかつた。しかしさすがはどこか知らに見どころのない本はなかつた。文学史的に幾分意味のある著作や雑誌とか、或は厚さと大きさとの関係が微妙に面白いとか、皮背の皮が手持がよく光る上に見返しのマアブルが美しいとか、さては挿画の版が精巧に出来てゐて本文との釣合がいゝとか、何等かの意味で一くせあるものであつた。生前こんな自慢話めいた説明を聞いてゐなかつたら自分もつい気がつかなかつたらうと思ふが、本としての面白さを解き聞かせて置いてくれたものゝ実例が二三あつたので、その他のものも幾分理解して、一册/\彼がどんな風に有難がり楽しんだかを想像することが出来たが、タイトルペーヂ一葉が気に入つても、奥附の印が面白くても、身にかなふ価ならば惜しまずに買つたらしいのだから、この紙くづ同様のガラクタの一つ/\に故人の何等かの愛着があつたらうとは推察するに難くないものであつた。面白いのは彼が全く読む事も出来なかつた露西亜語や仏蘭西語などの書物も幾分雑つてゐた事である。こんなのは一般向の本でないだけに値が安かつたのであらう。仏蘭西原本のドオデーが「アルルの女」は手ごろな袖珍本で挿画が面白いといふので持つてゐたらしい。或は題名ぐらゐわかつてゐたのであらう。ともあれ彼にとつて本はたゞ読むだけの品物ではなく、もつとさま/”\に愛玩すべきものであつたことが知れる。思ふに一般に愛書家といふのはそんなものではないのであらうか。名家の手沢本であつたといふやうなのは愛書家としてはわかりのいい方の理由であらうが、もつとさまざまな些細な理由がそれぞれにあるのでこれが一般人に通じない場合も随分あらう。無論商人の間に市価があらう筈などはなからう。
 自分の田舎の方の言葉に「ヤシラもない」といふ言葉がある。何等の取柄がない弄具などにくつつける形容詞であるが語原は知らない。その 「ヤシラもない」本を帚葉山人が多く持つてゐ
 
〔ベランダ清閑〕
(378)も異存なく受けて置く、絵の批評ほど人さま/”\なものもないので、全く十人十説である。心細いほどであるが、それだけに十人の人がそれ/”\の意見でほめてくれた部分だけを集めると、どこも悪いところがなくなるような有難い結果にもなる。
 すでに文学によつて分不相応な名聞を得て飽和状態にある自分はこの毀誉からは出来るだけ脱れて自分勝手に遊び楽しみたいものである。余技といふ意味ではない。たゞ童心をもつてこれを行ひたいといふつもりである。童児の如く真剣に、無邪気に、満足し謙虚に、といふつもりである。
 一昨日偏奇館の先生へ暑中見舞に参上したら前栽に鈴懸の樹下の百合が満開で絢爛を極めてゐた。位置も自分のおぼえたより左手に寄つてゐるし花も白ではなく赤かつたから、念のために伺つてみたが白い花はないとのお話で、やはり食べる百合根の残つたのをいけたのだと仰言つてをられた。その帰途いゝ風景を見つけたが、まだ写しには出かけない。明日にでも写しに行きたいものである。炎天の二時、三時ごろに面白い明暗を見せてゐたが、幸ひ日蔭のあるいゝ足場である。たゞ十五号ぐらゐの大きさを要するのが少々重荷らしい。でも二三日通へば曲りなりには出来るだらう。そのうち紀州へ帰つたら海でも山でも描き放題だから子供を老父母のところへ初旅につれて行く序に存分に描いて来よう。尤もその前に納税の事を果しまづ旅費や絵具代などを拵へてかゝらなければならない。
 一つ進軍歌でも作つて当てたいものだて。そんな事を思ひ出したら急に暑くなつちやつた。もうペンを持つてゐるのもいやになつた。どうれ庭に打水でもしてやらうか。
 
   帰郷雑記
 
 暑気と無聊とに堪え兼ねて、今日も六兵衛小父の舟を貸り出して橋の下かげできのふのつづさを描くことにした。何しろきのふは夕方の光線の変る最中に無理にはじめて少し興が乗り出すと夕方になつてしまつたのだから、もう一度丹念に筆を入れなくてはなるまい、寧ろ新らしく描き直した方がいいかも知れない。同じ場所を二度描くのは愚だし興味も乏しいが、荷厄介にして画架を持つて来なかつたおかげで新宮へ行つてそれを貸りられるまでは、対象よりも足場のいい所ばかり捜してかからなければならない。それで或は掛茶屋の窓とか、人の家の涼み台などを利用する始末である、自家の窓に適当な風景があると申分なしだが、生憎とどちらを向いても何もない。最後に思ひついたのは舟を物影へ乗り出して風景を求むる策であるが、これも条件を具へたのは少いから自然同じところを繰返すやうな仕儀になる。この風景は河の堤にある一本の老松とその影の古びた小屋、さうして梢遠くにもう一本これは手前のものよりずつと若木らしい枝ぶりの松ともう一度その下に二三の家、この二軒の小家をつなぐ河の土堤の上の路――石垣の上にあつて夏草に埋つてゐる。秋が立つたとはいへこの暑さに夏草に相違あ(379)るまいのに、何だか白つちやけて生気がない。枯れかかつた秋の草みたいだ。ひよつとすると穂が出て花みたいなものでもつけてゐるのであらう。正面は海とこの川とを堺した砂丘である。つまり川口がつまつてゐる。沼のやうに静かな水の上に倒影が浮んでゐる古風に静かなあまりまとまりすぎた景色ではあるが、砂丘の上に防波堤の一角が現れ出てゐるところに幾分の見どころがあると思つたから描きはじめたものである。それに斜陽《はすひ》を受けて一帯に絢爛でよかつたがあんな光線は三十分とつづくものではないから描かうといふのが無理であつた。直さうと思つて持つて来たのは妙にいぢけてゐてものにならない。新しい画布を思ひきつて使ふ事にする。八号風景で、これが今度持つて来た四枚のうちの最後のものだから容易に使つてしまひたくないのだけれど致し方もない。それに新宮まで出れば売つてゐるのだからそのうちに用意して置けばよいわけである。帰着して今日で五日目、さうして画架の用意が無いの何の言ひながらもう四枚描いた。描かない日は到着の日だけなのだ。きのふのは第一老松のデツサンが間違つてゐたので主要な樹がせせつこましく序に全体がいぢけてしまつたのである。対象を見つめてゐるうちに舟が動いてしまつたのか座り直さなければならない事になつた。序に海水帽も邪魔だから脱ぎ捨てた。座り直し帽子を捨ててやりはじめたらデツサンだけは先づ片づいたらしい。それはいいが帽子を脱いだせいか、日がかんかん照りつけてかなはぬ。気がついて見ると舟は上げ潮に押されて橋の影よりずつと上へ押され出てしまつてゐる、竿を取つて無性だから腰を下したまま舟をもとの通りに直さうとしてゐると六兵衛小父は岸から見てゐたものか
 「橋抗い〔右△〕結へつけて置かんし〔右△〕。縄ぎれや〔右△〕あつたぢやれ!?」
 と呼びかけた。言葉がよく聞きとれないのでまごついてゐると
 「見えんけ〔右△〕。どうれ、わしや一つ行つてあげるに」
 小父は流れ木を薪に割つてゐる仕事を捨てて来てくれようとするのを辞退して、幸目の前に見つかつた棕櫚縄の切れで舟を橋杭へ結へつけた。
 さうして立つた序に舟をうまく影へ寄せて置く。おかげでもう舟は動かない。涼しくなつた。暫く専念に描きつづけてゐる。ちよつと境遇を忘れてゐると、ポチヤリと水音がして見るとイナか何か小魚が水中で跳ね上つたものらしい。うれしい気分である。また日が射して来た。大分時が経つたから日ざしが廻つて来たのであらう。帽子を冠つて描きつづける。なるほど老松などは大分きのふの光線に近くなつて来た。防波堤の垣根に日の射すのはまだ大分間があらうが。
 「あれや下地の松け〔右△〕。そぢやの〔右△〕」
 「そうぢやの〔右△〕、浜の方まで描いてあるげ〔右△〕」
 「今描いたあの丸い白いものは何ぢやら〔右△〕?」
 「あれかい。あれや、だあ〔右△△〕、堤防ぢやれ〔右△〕」
 不意にそんな諸声がして来た。自分の絵に就いて言つてゐる。あたりを見まはすが誰もゐない。一体この地は自分の父祖の地ではあるが自分の生れ故郷ではない。土地の言葉も大たいは判(380)るが耳に熟しないものもある。近頃は小学校などで方言をなるべくやめさせる方針のやうであるが、方言のなかにはただ耳なれて懐しいばかりでなく伝統のある言法が多いのだから、一途に禁止するよりも寧ろその根本を明かにして、国語の統一は将来自然の陶冶に待つのはどういふものであらうか。何も東京の方言だけが立派なわけではあるまい。あれは三河訛りと関東の方言の組み合せで粗野な近代語である。便利ではあらうが、ニユアンスに乏しいあまりいい言葉とも思はれない。寧ろこの地方の方言などの方にいい日本語があるのか知れたものではない。熊野の地は古来上つ方のお成りの機会が多かつたせいか思ひがけない句法が多い。新宮川の上流地方には「下さい」の意味を一々「たもれ」と言つてゐるところがある。説くまでもなく賜はれの約である。また貴様といふ意味でよくアゼと言ふもとは「吾兄」に相違ない。「あれや何じやら〔右△〕」「あれはだあ〔右△△〕」などは新宮方面でも言ふが内容はない言葉で、ただ言勢に抑揚を与へる点で文語の「いざ」に似てゐる。もしやそんなところから出たのでもあらうか。また頻りに水音がする。魚の跳ねた音とも違ふ。あたりを見まはすが何もゐない。ばらばらと橋の上から投げた石つぶてが水の上に落ちて静かに水面を波紋でみだす。さつきの水音もこれであつたと見える。ぐる/\見まはしてゐると、橋の上から堪えかねたといふ風な忍び笑が洩れて来た。成る程さうかと見上げると、十二三の腕白が二人欄干に身を乗り出して橋の上から舟の中を見下してゐる。気がついて見ると舟は再び押し上げられて橋の下からはみ出してゐる。舳を結ひつけられた舟は艪だけ廻つて出てゐるのである。橋の詰にある家の二階からも娘らしいのがのぞき込んでゐたが、こちらで気がつくと直ぐ首をひつこめてしまつた。もう一度、竿を取つて舟を橋の下かげへ追ひ込むあと一息といふところで仕上げである。沖の方に凝り集つてゐる雲の暗さと遠さとが容易に現れない。一工夫なからざるべからずと努めてゐると、
 「父《ちやん》、父や。どこにゐるの? お婆さん、父を見ておいでと言つた」
 と先づ自分を呼んでから話しかけるものがある。方哉が橋の上に来たのである。この子はその好みで私を「父、父や」とひとりで呼び慣はしたのである。母の事は何故か「やあやん」と呼ぶ、聞けば母の地方の方言であるといふが誰も教へもしない聞いたことのない言葉を自分で言ひ出したのが不思議である。
 自分は竿を取つて今度は橋の影から舟を外へ出して
 「方や、父は今直ぐおうちへ帰るよ。お婆さんに父はおとなしくひとりで絵を描いてゐたと教へてあげて下さい、そのうち父も直ぐかへりますつて」
 お婆さんはやはり心配して見に来させたと見える。今日は六兵衛小父は忙しいから舟は貸せるが操つてやれない。といふのをつい橋の下ぐらゐ、人に頼む事はない汀からほんの五六間、といふのに、ひとりでは危いと心配するのを潮が来てもせいぜい背の立つところといふのに老婆心はまだ休まらなかつたものと見える。もう五十に手のとどささうな子供を今でも方哉並みに思つてゐてくれるのであらう。をかしくありがたい。
(381) 方哉は得心して帰り際に
 「今度の絵は気に入つて出来たか」
 と言つて行つた。きつとつれて来たやあやんの言葉の取つぎであらう。
 今度の絵もやはりどうも気に入つて出来ない。小さくまとまつて月並な絵ハガキ風の風景で駄目である。荷風先生は大洋の旅のなかで紀州海岸の遠望を記して「荒涼たる」といふ形容詞を与へた。火成岩から成つた山に接したこの海岸は正に荒涼たる海岸に相違ない、自分は遠望したことはないけれど遠くになる程その印象が一層荒涼たるものになりさうに思へる。荒涼たる海岸のところどころに思ひがけなく女性的に優美な曲浦を蔵してゐるのが紀州海岸の一特色であらう。和歌浦をその最たるものとして、玉の浦、宇久井の浜、湯川湾(自分が近年ゆかし潟と名づけた)などがそれである。かういふ都雅なのは全く日本絵風の風景でそれはまたそれでいいとしても、この下里の町は太田川畔にあつて川奥には大して深い山もないし川も川口がつまつてゐる。明治以前は材木木炭などの集散地の一つとして地方に知られた邑であつたが近年益々振はなくなつてしまつてゐる。風景も残山余水ばかりでとんと見るに足りない。自分の今夏の旅は先日東京で病んだ老母が郷里で健康を回復しつつある状をまのあたり見ることと、その老母の孫に初旅をさせるためであるから先づこの地に足を停めてゐるが、もし南紀の風景を描くのが目的なら自分は大島の外海に面した方面――まだ噂に聞くだけで見た事はないが――を第一に踏んだ筈であるし、自分の生ひ立つたところを方哉に見せるつもりなら新宮市へ行かなければなるまい。古座、潮岬、串本、大島、新宮などは、富沢や保田などが来たら案内をして行きたいと待つてゐたが、今になつても見えず何の便りもないのはもう来る機会を逸したのであらう。自分も老母の健康は寧ろ旧に倍したのを見て安心したし、残山余水などと憎まれ口を利きながらもここで、持ち合せの画布はみな使つてしまつたから、この稿を終り次第、先づ鍾愛の地湯川をふり出しに新宮へ行つて画布を調へたり、見物したりしなければなるまい。権現さま城山など幼なじみの山水を妻子に紹介するのも楽しみだが殆んど二十年近く見たことのない土地がもう故人も乏しいがその間に市制を敷き鉄道も出来てどれほど変化したかを知るのも一興に相違ない。靜峡や木の本方面はもう帰京の期の迫つてゐる今日、今度は見物しないでしまふかも知れない。木の本は鬼が城をまた見たいだけである。靜峡はまたの機もあらう。今度は途中で長良川の上流に遊んだし、さすがに昨今もう涼気を生じて来たから瀞峡は割愛して惜しくない気になつた。あすこは方哉がもう少し大きくなつたら或は盛夏の候、或は杜鵑花の節でも改めて出直すだけの値があるからである。もう十年経たなければ方哉には山水の美は判るまい、汽車や汽船に乗せて旅行といふのはどんな事やら知らせるだけならもう相当に効果は挙つた筈である。此奴がまた乗り物好きと来てゐるので二三日で飽きるかと思つたのになかなかもう帰らうとは言ひ出さない。いつまでも田舎にゐると満足してゐる。尤もまた船や汽車に乗るのだからと言へば、明日にで(382)も喜んで動くに相違ないからしまつはいい。
 
 ……何やら書きつづけようと考へてゐるところを汽車の通過に妨げられて思索の糸を切られてしまつた。この汽車といふのは屋後一メートルばかりのところを通りぬけて園内を両断して行くのである。自分のゐる部屋は線路から最も遠い別棟だからまだ屋をゆるがすといふ程の勢でもない慣れると気にならなくなるのかも知れないが日が浅いので二時間毎に悩まされる。走り去るばかりか直ぐトンネルに入るといふので一声汽笛を鳴らすから我慢しにくい。車中からよく鉄路の屋後や庭隅に接した住居を見かけて定めし迷惑な事であらうと察してゐたが、それが後年わが身の上にならうとは夢にも思はなかつた。汽車の件を書き出したら不愉快になつてしまつた。汽車の音もやかましいよりこの不愉快を事新らしく思ひ出させるのである。邸内を鉄路の通貫する  顛末はもう拙稿「ふるさと」(木がらしと合せて一篇)に記して悲憤の一端を洩したからここには言はない。唯、老人の話では轟音におどろかされる庭園には山の小鳥も来なくなつて木々の枝には小蜘蛛の巣が一面にかかつてゐるとか。自分は暑さに閉口してまだ庭内は点検してみないが、夕方涼しくなつて歩いてみると小さな蝶が湧いたやうに木かげに群れてゐた。よく灯を慕うて集る拇指の爪ほどの黒い翅に金の粉のまぶれた奴に相違ない。きのふの夕方も白芙蓉のしべのぐるりを花びらのやうに取囲んで集つてゐるのを見た。これなども何れ、毛虫を取つて食ふ小鳥が来ないのと、雨の少い今年の気候のせいで蕃殖したのであらう。この汚い蝶の多いのにひきくらべて烏はとんと見かけない。鳶は川の上で二三羽見かけた。烏は権現様のお使と言はれてその護王の神符(例の起請を書くあれである)の面にも烏の図案がついてゐるのだが、その名物の烏、自分たち子供の頃には毎日夕方は空の黒くなる程群れてゐるのを見かけたものを今度はこのあたりではまだ一度も見かけない。この烏は日露戦争の時も皇軍に従うて遠征したから一羽もゐなくなつたと言はれてゐたが、今度も当然腐肉の多い北支の事変の地域へでも飛んで行つたものか、それともやはり鉄道のせいであらうか烏だけではなく雀も少くなつたといふからやはり鉄道の轟音で安住の地を失つたのであらう。我等と同じ身の上と気の毒である。以前は裏山でもよく見かけた猿や狐など汽船の定期航路が出来て以後ばつたり影を見せない。皆奥山へ退去したのであらうと言はれてゐるから、二時間毎に通る汽車が鳥を驚かして移植させないとは言へまい。人間の狡智を存分に瀰漫させてその外のものを一切おつ払ふのが文明ならこの地も正に文明に近づきつつあるわけである。まあいいや、濁らば以てわが足を洗ふべしとか聞いてゐる。いやな土地になつたらもう二度と見に来ないだけの事ですむ。
 
 八月に入つたら直ぐにもと思つた帰省が一日一日と延びてしまつて用意の旅費を税金にしてしまつたので、改めて旅費の調達にとりかかり、外に方法もないから短篇を一つ草してゐるうちに二十日になつてしまつた。それでも画家で旅行家を兼ねた(383)ウヰルヘルム・ハイネの日本紀行の、それも祖父が手沢の写本が材料になつて、故郷へ帰省の費用の拈出に役立つたのも有難い奇縁であつた。
 旅費の調達が出来た頃富沢有為男君が来ての話に、水谷清君が郷里へ帰るのについて行くつもりだから、都合では一緒に出発しようと誘うてくれた。水谷氏の郷里といふのは岐阜県下とだけでどこだとも知らなかつたが聞けば県下もずつと山の中で飛騨に近い郡上郡の八幡といふ町であるといふ所謂五箇の庄までは行かなくともその附近らしい。富沢君も青年時代、上京前にこの地にゐた事があつたので水谷君について思ひ出を新にしに行くつもりである。都合では同道してはと、水谷君も言つてくれると聞くと、同勢親子づれ三人ではと躊躇しないではなかつたが、場所柄だけにまた用事もなささうな所、機会を逸したくないのと東道の主、も同伴の友も好ましいのに、名物の鮎が好李といふ餌までついてゐるのに引かれて厚かましくついて行く事にした。二十日の夜十一時四十分出発の列車が名古屋岐阜あたりへつく時刻が好都合にあつて、その列車でさまざまの軍歌や万歳声裡に都を放れた。
 はじめて乗つた汽車の内部とこの窓外の絶叫とに方哉は只あつけにとられてきよとんとしてゐる。第一印象を幾らかでもはつきり受取るやうにとおそ生れながら数へ年六歳の今日までわざとどんな近いところへも乗せてやらなかつたので、汽車といふものは絵本で見る外は人を見送りに行つた序に見ただけで、乗つてみるのははじめである。動き出すと黙つてはゐるが満足の状がありありと顔の上に現れて両親馬鹿を頗る喜ばせる。自分は寝ないつもりであるが方哉は母親に預けて寝台に入れた。大ぶん昂奮してゐたから果してよく眠るかどうか疑はしいと、一時間ほどして行つてみるともうぐつすり眠入つてゐた。家では容易に寝つかないのだが、車上の方が反つてぐあいがいいのかも知れない。自分にもその癖はある。水谷氏は座席の上でぐつすり眠つてゐるらしい。富沢君は自分の用意に持つて来たらしい荷物を特に僕の背に当てがつてくれたり枕代りにと肘かけの上に新しいタオルまで敷いてくれる深切に自分も身を横へたが、一向睡むくはない。富沢氏は自分を退屈させまいとさまざまの話題を提供してくれる。君はおつきあひのお伽であつたと見えて小さな富士山を見て後夜明け方になるとだんだん話も少くなつて、自づと眠つたらしい。自分は駅々の万歳を一つも聞き洩さないでゐた。その夜の富士山はまことに小さなしかしくつきりしたシユレツトであつた。灰色の夜の曇天のなかに薄墨で描き出されてゐた。その単純な色彩のせいか、大きな夜空より外に比較するものが見えなかつたからか、掌の上にのせて見たい程不思議と小さなものであつた。自分は東海道なら数十回往復してゐるがこんなのははじめて見る。丹那トンネルをぬける事になつて富士山の眺望が悪くなつたとか聞くのは、遠望で小さくなつたの謂かと思はれる、それなら車中は夜の富士に限るわけであらう。何しろ可愛らしく美しかつた。朝になつて海を見せてやりたいと寝台へ行つて起してやつたがぐづぐづしてゐるうちに海は蒲郡の一端でちよつとのぞき出しただけで大部(384)分夜中に過ぎてしまつた。尤も海は紀州へ行きさへすれば日々いやといふ程見られるからよからう。名古屋で下りて犬山の方からまはつて帰途を岐阜へ出たらといふ予定であつたが、水谷氏はやはり岐阜から入つて自働車といふ案に変更した。但、自働事案は自働車屋にいい運転手が居合さぬといふ理由で取やめになつてやつぱり汽車の便によつたがその汽車を待つ二時間を駅前の宿屋で朝飯をとつた。膳上には早速塩焼の鮎がついてゐて富沢君を煩悶させてゐる。といふのは折角、郡上八幡へ行く途中でつまらぬ鮎は口にしないといふ立前で夜前も沼津の鮎ずしをやめた君であつた。もう本場とはいへ、本場の本場ともいふ八幡までは一尾も口にしないで行きたいに違ひない。しかしこの食膳から鮎をやめるとすると、殆んど食べるものはなくなるであらうから、君の煩悶も察せられるのである。自分は夜前も既に沼津の鮎ずしを食べて追々と佳境に入るといふ方針であつたからこの点甚だ好都合であつた。鮎といへば水谷君の今度の帰心も一つにこの郷味にかかつてゐるといふ。君は東京の某割烹店で偶々四国の鮎といふものを口にしてこんなハゼ見たいなものを鮎などと称して食つてゐるのはなさけないと発憤したものであるといふ。
 飛騨線を木曽川の左岸に沿うて太田で越美南線に乗りかへると三つか四つ目の駅が八幡であつた。山の中の小さな汽車のなかで一難事が生じた、方哉が水をのみたいといひ出したのである。日常一刻も水なしでは生きてゐられないほど愛用してゐる水である。お湯やお茶やその外の呑み物ではならないといふ我儘である。はじめ一度は怪しげなアイスクリームの冷たさでごまかして置いたが、二度目はどうしても水でなくてはならないといふ。車中には飲用水の用意もない。どんな水だかこころもとないが車中の役員に頼んで水を求めるとやつと大やかんに一杯水をくれた、言ひ出してから半時間もかかつたかも知れない。汽車のなかには水があるかといふ事は旅行前から再三念を押してゐたところであつた。大丈夫あると引受けて水筒の用意をしてやらなかつたのは正に手落であつたと親馬鹿ども八幡で何よりも第一に水筒を求めた事であつた。八幡では水谷君の「おにいさま」の水野伊兵衛さんが宅では気兼ねをすると悪いといふので宿をとつて待つてゐて下さつた。水野氏は柳人と号して彩管をも巧みに操り、地方の民芸品の大蒐集を持つてゐるといふ旦那衆で、清君の理解あるパトロンでもある。風来者の礼に嫻はぬ野人を遇して到れり尽せりの好意を示された。或は自宅或は涼しい旗亭に招かれる外には豪雨のなかを車を駆つて近くの絶景に案内されたなど、感謝に絶えないものが多い。景は二里程川上に遡つたところにある祐天峡とかいふ名であつた。名称の記憶はおぼつかないが、好景は今も眼前にある。向への小山の中腹から見おろすと下に大きな洞穴のある巨巌の洞のあたりは深碧の潭になつてゐる。その巌の隣に末が二本に別れた小さな瀑布が落ちてゐるとよりは傾斜のさほど急でない岩の上を走つてゐるのである。奇抜な構図と変化とを示した面白い見ものであつた。その上にもう一つ瀑があるといふが、この方は割愛して帰つた。ここへの往路で近い山の裾まで低くかかつたあざ(385)やかな虹を見た。方哉は虹を見るのもはじめてだからこの上なしのおまけであつたに違ひない。岐阜を出て神戸に出る途中、汽車の窓の煤よけの小さな戸で指をはさんだり、神戸でいつもの扁桃腺炎で八度七分の熱を出したなどの騒ぎもあつたが方哉の初旅は多幸な思ひ出の多いものに違ひない。あらゆる乗り物を利用したなかでも或は酔ひはしないかと内心案じてゐた汽船が最も乗り心地のよいものといふので好評である。その船室の窓から海を見渡していつまで見ていても見飽きないといふあたり、こいつも将来旅行好きになること疑ひなしの代物である。
 戦死者の英霊と遺骸とを乗せてお線香の匂を漲らせた那智丸の一夜は友が島の向ふに十七日ぐらゐかと思はれる赤い月の出を見てから、月下の涼風に波もなく更けて行く甲板上のありさまは、同郷、同窓の青年男女が偶然乗り合せて久濶の情からやがて恋愛を囁かうと用意してゐるらしいのや、その他は紙も尽きたし、改めてスケツチでも書くことにしよう。眠れないままにそのつもりで気をつけて見て置いたところが多いのだから。
 
   「腕くらべ」解説
 
 荷風先生は明治四十一年八月帰朝後、早くその途上から独自の文明を故国に求めて遂に現代に絶望した末、江戸時代に対する追慕の結末は、往時の生活、文芸、美術、音楽、演芸に寄せる熱情となり、つづいてこの熱情の趨くところは、これ等過去の文明を綜合統一して残存しこれを生活化してゐる花柳界に対する興味となつて、この日頃、先生は新橋の歌吹海に在つた。『新帰朝者の日記』『冷笑』『紅茶の後』『すみだ川』『江戸芸術論』『柳さくら』さては『新橋夜話』などのある所以である。
 『新橋夜話』はいはばかの温柔郷の見聞録とも言ふべき短篇集であつたが、先づ中篇『夏すがた』の試作の後、程なくこれらの集大成とも見るべき創作の雄篇をものされた。即ちこの『腕くらべ』である。
 大正五年八月、当時先生が主宰して居られた雑誌「文明」第五号に起稿されて以後、十四号、十八号を欠くのみで、翌六年十月第十九号に至るまで続稿完結されたものを、後更に朱筆を加へて排印されたのは大正六年十二月であつたが翌大正七年二月に至つて市に現はれた。大正七年は先生が不惑に達せられた年である。先生が筆は将に枯淡の境に達せんとして先づ凄艶流麗の名残を惜しむかとばかりその極致を示した。先生はこの一篇には扉に特に花柳小説の四字を銘し、また巻首の署名に荷風小史戯著と記された。これが版元は十里香館であつた。多分先生がお宅を時に臨んでかう呼ばれたので、つまりは私家版なのである。この十里香館本には五十部を限つた別冊があつて、先生は特に知友にこれを頒たれた。筆者は亡友神代帚葉が遺族に請うてこれを譲り受け、秘蔵してゐるが、別冊本は通行本には見るべからざる文字が到る所にあるが、就中、「ほたる草」「菊
 
〔伊奈佐保層江〕
(396)であるから、旅にしてといつたところでせい/”\数日のものであつたに相違ない。詩人が常套の誇張的感傷の感もしないのではない。それにしてもこの詠の美は境にのぞんで真に理解し得るであらう。
 その平淡温雅な歌の趣と風景の趣とが真に一致してゐるのを見るからである。旅にして誰と語らんといふ程の甘美な感傷の幾分もある風景である。太古は外海に沿うた沙丘であつたらうかとも思はれて小丘の裾を浸す浜名の湖水は自ら小曲浦の連続で兼ねて長汀の趣もある。弓形をした長汀の弦は東南に当つて打開けてゐるから、春暁の静かな空が紅を水に映じたさまはさぞかしと思はれる。依平も恐らくは実境によつて得たものであらう。地形を見てこの感が深かつた。それはともかくとしても、面白いのは依平が歌の微妙なしらべである。
 日本の詩歌の韻律は頭韻脚韻などの如き大づかみなものではなく、もつと効果の微妙なもので五十音の行と段とに渉つて細やかに働いてゐるといふ自分の説がこの一首では好個の実例を示してゐるやうに思ふ。便宜上羅馬字に直して見る。
      Ta bi ni shi te
      ta reto kataran
      Totsu O mi Inasa ho so e no
      Ha ru no Ake bo no〔ゴシック、イタリック、斜体が複雑にまじり、煩雑すぎるので、そういうのはすべて省略、入力者〕
 右のうちイタリツクのところばかりを細心に注視されたい。前半のiの働きや後半の O のそれ。さうして i の基調が O のそれに推移して行く途中の有様、さては冒頭のタ行が終始頻出する状、ところ/”\に句拍子を切つた如く働く a や、各音が交互に助け合つてみな突如として起らず不意に消えずそれぞれ嫋々たる余韻をにほはせてゐるあたり、到底文字では説き尽し得ぬ微妙なものを示してゐるのを各自に会得されたい。恐らく日本語の音楽美に就て多少の暗示を得られるであらう。尤も作者はそんな理論で歌詞をとゝのへるものでもなければとゝのへ得る筈もない。無意識に自づからな佳調をなすのであらう。亦、それが尊いのでもあるが、これらの音調美の理も一応は心得て置いて害はあるまい。別にこの歌とは限らぬ、各自の佳調と思ふものを皆この理で考へて見られると得心が早からうか。
 
   紀南の冬
 
 山紫水明といふ形容詞をそのまゝの自然を具へて、海青く、空青く太陽は温かに、食べものにも海幸山幸の多いわが故郷紀南の地は四時いつの気候につけても事毎に恋しくない時はないけれども、東京に雪の気を帯びたから風のはじまるころには、わけても望郷の思の切ないものがある。郷関を出でて二十数年になるが、今だに他郷の冬に慣れる事の出来ないのは困つたものである。誰やらも言つたごとく故郷の人情は更になつかしくないのに、どうして故郷の山河がかう慕はしいやら、二十七年住みなれた都よりも、僅に十八年間生活した田舎の方が好いの(397)だからいかにも不思議である。身長五尺五寸で、体重は十二貫に足らぬ皮からすぐ骨といふ体質では、暑さなどものの数ではないが、寒さは直ぐ骨に徹るから大禁物なのにもわけがあつた。それが今は十七貫に近い肥満なのに、それでもやはり冬は参る。先づ不眠症が秋冷と一しよにはじまる。
     秋※[巾+厨]失睡人將老《あきがやにいねがてのひとおいんとす》
と、既に冬の威に怯やかされはじめるといふのも、冬に対抗する訓練が幼時から一向出来てゐなかつたためであらう。思へば故郷で育つた十八年間に降雪なら二三度ぐらゐは見たおぼえもあらうが、積雪といふものはついぞ一度も知らない。ちらちらと落ちて来る雪片は殆んどそのまゝ地上で消えるか、それでなくても地上に足あともつかないほど落ちると、それきりだから積雪が見られないのも道理であらう。せいぜい寒かつた思ひ出といへば、中学校への行きかへりに新宮市中の川風の通る道すじの町々や、千穂が峯颪のふきつけるところぐらゐ。それも駆け足で通りすぎると、二三丁目で息の切れるころには汗を催すといふ程度だから、冬の感じはどこにもない筈である。新宮中学校では外套は無用なおしやれとして生徒等に一切禁止してゐたのは当を得た処置である。新宮は川ぞひのせゐか紀南では幾分寒い方であらう。それでも或る人が東海道三保の曖かさを讃美してゐるのを聞くとせいぜい新宮程度らしかつた。僕の知つてゐるところでは伊豆の熱海がまあ紀南と近い温かさであらう。冬は知らないが初夏の頃から推察して別府あたりも紀南位であらうか。併し九州も長崎や鹿児島は到底紀南程温い冬ではない。土佐は知らないから比較にならない。熱海の冬ばかりではなく、一帯が紀州と伊豆では地勢の関係から、類似点が多いやうである。僕は東京の人に紀南の紹介をする場合は多く伊豆半島を例に挙げる。両地とも先づ日本の伊太利ともいひ度いところである。ミニヨンのやうな美少女は見かけないとしてもレモンの花は咲く。惜しむらくは、新宮権現の速玉神社の国宝の数々と、応挙、蘆雪などを数点見るだけで、美術といふ点では遠く伊太利には及ばないらしい。それでも伊豆が唐人お吉まで土地の売り物にしなければならないのに比べるとまだしもわが郷土の方が芸術に名所旧蹟に恵まれた所が夥しいと、ついお国自慢が出る。
 紀南と言つても美術や旧蹟でなく、単に冬をいふ場合にはどうしても潮の岬を廻つてしまはないでは本当ではあるまい。しかし新宮まで行つたのでは少し行きすぎる。尤も新宮でも川風さへ当らない場所なら申し分はない。自分の育つたのは丹鶴城下の、北に山を負うた山懐に、真南に一間の窓を持つて入り際まで日の当る一室で、まるで温室であつた。冬も無論日中は火鉢を用意しないですんだ。室外でも外套が無駄だから、この室では尚更火鉢は空気を悪化するだけの費であつた。牟婁の名にそむかないわけである。一たい郡の名『牟婁』は温室のむろの意をとつた当て字であるとか、ないとか学問的には異説もあらうが、しかし事実としてなら更にこぢつけにはならない。
  紀の国のむろの郡にありながら君とふすまのなきぞかなしき
とかいふ古歌があつたが、集の名も作者も今はうろおぼえであ(398)る。
 紀南の冬なら、まづ那智山下を中心にして話したらよからうか。つまり勝浦まで行つてその附近で好適なところを物色したらといふのである。勝浦の町内でも港外の太地やその附近のどこでも温かさや食味には事欠くまい。宿の親切さへ見つければ。
 何しろこのあたりでは十一月に水仙の花が咲く。先年故郷――下里町高芝で冬を過した時、亡友芥川に南国通信と題して、
 その一に――
     炉開きと申す言葉は知らずそろ
 その二に――
     残菊に水仙いけて紅茶かな
 とありのまゝを駄句つて一粲を博した事があつた。老父の友人で画を好くする仙台の人某氏が、偶々紀南に遊んで風光の明媚を愛するあまり思はず?を新宮にとゞめて久しく滞在し、十一月に咲く水仙を見て、この辺の水仙はまことに晩い、自分の地方では水仙は二月三月? に咲く花であると、語つたといふのが、わが家の語り草になつてゐる。たとへば円形の競争場であまり早すぎるのが、優に一周だけ衆を抜いて、晩すぎるのと接近して一見どちらが早いかわからなくなつたやうなものであらう。それを仙台の衆が飽くまで自分の郷を中心にして語つてゐるのが愉快ではないか。熊野では十一月に咲く水仙を仙台ではその翌年の二月か三月かに咲くと気がつかなかつたのである。菊が咲き尽さないうちに水仙が咲く、相ついで梅が蕾む、山椿などはいつしかもう盛がすぎて来る。朔風を待たずに追々と春になるありさまは、秋と春とがくつついてしまつて冬なしである。事実、石垣のすみれなどは十二月、一月によく見かける。それ故、紀南の冬とは題したけれど、実は紀南には冬なしであると言はねばなるまい。暦の上ばかりでなく、事実として年の内に春に逢ひたい人は紀州熊野へおじやれと申すわけである。
     春かすみ家は徐福墓畔に在り
 といふのは別に句のつもりではない「家在徐福墓畔」といふ印文に春霞と冠せて見ただけのものである。
 紀州みかんも牟婁まで来てしまつては場違ひになる。牟婁は夏みかんの地である。それでもところどころに柑橘園はある。老父は以前、仏手柑を栽培して鉄斎に贈つて喜ばれた事もあるが、仏手柑の栽培はさすがの熊野でもあまり楽ではなかつたらしい。一体に霜を厭ふ柑橘の属のなかでも、仏手柑が最もそれが著しいらしい。霜を厭ふ柑橘の園は常に最も暖い場所に選れてゐるから、その樹下に腰をおろして、梢に熟し切つたみかんの残りものを貪りながら、枯れ尽さぬ草の間に余生の夢を日向に歌つてゐる虫の音に耳を傾ける。そのかすかな声の断へ間に程近い海岸の波濤を聞き入りながら身の閑散を愛し、日向ぼつこをしたならば、他郷の人もそぞろにこの地を仙郷と信じて、むかしむかしそのむかし、三千の童男童女を従へた秦の方士が移住したといふ伝説を、なるほどと感ずるに相違あるまい。先年支那に遊んで、西湖の湖畔にさる老人と久仰。先生今次来遊目的。とか専在風光、艶羨先生詩酒生涯などと、怪しげな筆談をしてゐるうちに、先生郷国と問はれて、家住蓬莱山下徐福墓(399)畔地と記すと、大きくうなづいて、自分ももと山東の産だから、多分祖先は同一であらう、といふ意を記したので奇異に感じたが、支那人は伝説によつて、日本人を山東の移民の末孫と信じてゐる人が多いといふ事は後に聞き知つた。まさか日本人全体を徐福の従へて来た三千の童男童女の末裔と心得てゐるわけでもあるまいが。それにしても紀州の捕鯨の法は徐福の党が伝へたものだといふのは支那ならぬ紀州に於ての伝へである。
 捕鯨で思ひ出したのはわが郷の冬の食味である。秋刀魚を塩壺のなかへ切り込んで貯蔵して、焼くと燻製のやうな赤い色を呈するものなどは佳味ではあるが、本来惣菜だから客人に供するものではないので、他郷の人は生涯その珍味を知らないで終るであらう。一たい地方の宿屋で、地方的な食味を無視して材料の関係も考へないで、まづい東京流の料理を食はせて得意、食ふ方でも満悦してゐるのは双方共不見識千万な話である。木曽山中で色の変つた鮪のさしみなどを出されるのは閉口。木曾はよろしく岩魚やつぐみであるべく、熊野などもせめて鯨ぐらゐは客膳に供してほしい。尤も近年は鯨の美好なものも得がたいかも知れないが、蕪骨をさんまの腸につけたのなどは用意して置けない事もあるまい。東京でも蕪骨のある家があつたが、折角の珍味が酢味噌か何かであつたので甚だ失望したといふのは下村悦夫の談であつた。尤も折角苦心して出しても客が真価を味へないで、へんなものを食はせると箸を取らないでも困りものだが――。思ひ出すのは二十年程前、長崎の宿で五島鯨の赤みのところを御馳走になつて、非常に喜ばしかつたので、お代りを註文して驚かれた時の事、鯨を喜んでお代りまで求める客はめづらしいと、主人も非常に満足であつた。自分が生国を打明けたので一切明白になつて主客楽しみ笑つたものであつた。この宿には年末年始の二十日ばかりゐてお正月には特有の長崎のお雑煮やら、手軽ながら、しつぽく料理のふるまひもうけた。このささやかな宿を今だに印象あざやかに思ひ出すのは、ただ僕が食ひ意地が張つてゐるためばかりではあるまい。
 太地なら鯨も本場だから、勝浦、太地あたりで、獲れさへすれば種々な鯨料理を命ずるのも一興であらう。これも紀南の冬のものである。
 或る時、当時勝浦に別荘を持つてゐた一友人の離れの二階で、午後を談笑しながら南受けの、あまりの温さについうとうとと睡気がさして無実の罪を疑はれた事もあつたが、科は偏に温い太陽のせゐであつた。こんな温度が僕には好適この上なしだが、のぼせ性の体質や血圧の高い人には温かすぎるといふ非難がないとも限るまい。それならそれで北向の部屋を選ぶべきである。これでも障子に破れさへなければ、火鉢の火が絶えても懐手だけで大丈夫である。手を突き込んだその懐にふくらんだ財布を握る諸君は、或は湾内の七湯を巡つて日を消すとも、或は熊野の主都新宮市をさして、柳暗花明の一郷に佐渡の土の絶えぬ間を、別に温柔郷を求めようと何分よろしくやりたまへである。
 それはともかくとして、苟も教養を欲する人士が、時の冬たると春たるとを問はず、熊野の地に遊んだ機会には必ず見逃してならないものは、速玉神社の国宝の数々である。願事のほど(400)は知らないが数百年前の上臈が黒髪を切つて願をかけた、その黒髪の幾束が、国宝になつて保存されてゐるのもロマンチツクであるし、それ等の同じ時代に同じく貴婦人達に愛用されたらしい数々の檜扇や、装束、さては櫛笥など、その持主の見ぬ面影を徒らにろうたけてしのばせるよすがとなるばかりでなく、それ自体がその持主にもをさをさ劣らず美しく、史上有数の美術品である。これあるがために紀南を国内の伊太利と称するも不可なしとするのである。十年程前、自分が帰省中、熊野の美術を見学のためにわざわざ来た美術研究者を案内して、その意見を聞いた事があつたが、檜扇櫛笥など、皆聞きしにまさる逸品で目を驚かすと絶讃してゐた。就中櫛笥(もと十二個あつたらしいのが今は十一個ある)の蒔絵の図案を推賞してゐた。櫛笥は鏡台や手鏡の匣、さては櫛など結髪用品や頭の飾など一式、大小各品を皆同一の題材で統一的に取揃へて装飾されてゐるのである。例へば柑橘が笥の図案になつて、その大粒のものが見事な螺鈿で浮き出してゐたのなど、今も記憶に新らしい。これ等の図案一式は頗る異色のあるもので、平安末期と室町初期との中間に位して、写実と様式化との中庸を得た調和の、独特の美を発揮したものは他に類例もないので、仮りに新宮式とも呼ばゞ呼ぶべき宇内の珍、世界の至宝といふ感激的な呼び方がその道の人の批評であつた。
 これ等の品々は雨天でない限り拝観できる筈である。紀南の冬は総じて晴天つづきである、この点も好都合であらう。たゞ有志の人士は心して午も少し早目に出かけるやうにでもしない事には、品数の多いところへ、山かげの神倉はさなきだに暮れやすい。冬の日は早くかげるから落ちついて拝観することも出来まいかと思ふ。
 
   曾遊南京
 
 思ひ出してみる。自分が南京に遊んだのももうかれこれ一昔にはならう。さうだ、ちやうど十年か。昭和二年。芥川の亡くなつた年であつた。自分は芥川が自決の悲報を上海の客舎で耳にして、その感動のまだ癒えないうちに南京に向つたのを忘れないから、その年の八月上旬であつたらう。その頃南京は旧い姿は殆んど滅びかかつて、新らしい形を整へつつある最中であつた。
 自ら進んで案内を引き受けた田が約束を無視していつまでも迎へに来てくれないので、空しく待ちつづけて出発がおくれたおかげで帰りを急いでほんの三四日の滞在であつた。それ故、十分知つてゐるとは言へない。曾遊の南京は、また一瞥の南京である。更にまたうろおぼえの南京である。
 停車場から市街まで頗る遠いところといふのが南京の第一印象であつた。そこに宿つた田の寓居は政庁に近く市の中央部にあつたが、駅からそこまでは自動車で三十分以上かかつたやうにおぼえてゐる。その途中がまためづらしい。道の左右は畑み(401)たいなところであつた。桃の花の季節には菜の花も咲いて荒廃の古都に野趣とも雅致とも知れぬ美をそへるだらうと感じたのは、誰かの書いたものに見たせゐであつたやら、その畑みたいな土地にそんな空想を誘ふ桃林なり菜種の畑らしいものがあつたのやら記憶はもう確でない。おぼつかない話であるが、これは年月のせゐばかりではなく南京はその時から、そんなとりとめのない土地柄であつた。車上で見渡した稍遠方には古墳か何か土の盛り上りが見えて砂埃の多い道の左右は荒れて石ころの多い畑であつた。下関の停車場から城中に入るこの田舎のやうな道の印象は深いものなのに、その後地図の上で捜すがそれらしい道はどうも見つからない。この不思議な路を過ぎてやつと市街に入つたが、それでも格別立派な家並でもなく、道も石だたみながら凸凹の多いもので、とんとわが国の街道筋の幾分大きな宿場町へ入つた感じであつた。何等大都会の風格を示さないところに廃都らしい面目のなつかしむべきものがあるとは思つたが、とんと狐につままれたやうな感じのする街であつた。
 田は自分を彼の仮寓で一服させてから国民政府の政庁へひつぱつて行つて、そこの新聞班の編輯室に導いた。編輯同人――といふのもつまり役人である――が、田の友人であつたからであらう。田は自分を彼等に紹介して置いて、彼自身は建物のなかの程近いところにある自分の室に公務の簡単な打合はせがあると出て行つた。田自身も役人で当時は宣伝映画の製作に従事してゐた。田は二三十分で用をすませて来て、新聞班の連中に自分を?介石に面会させるやうに計らへと談じ込んだが、新聞の連中ははじめ?は不在だと言つてゐた。田がそんな筈がないと詰つたので、やつと本音を吐いて?は近頃訪客を喜ばず、特に日本人にはあまり会はない方針らしいと言つてゐた。彼等は皆相当に上手な日本語を操つてゐた。外の連中も皆田同様に日本留学生出身であるかどうか確めて見なかつたが。後に上海の人々が南京政府の秘密会議は日本語で行はれてゐると噂してゐるのを聞いて成程と思つた事どもであつた。彼等は皆?を親日家であると言つてゐた。しかし?は日本人に面会することを好まぬと自分が南京で聞いた事実もある。或はこの頃、旧い南京が新らしい南京にならうとしてゐると同時に親日家?介石が抗日家?介石になりかかつてゐた時期であつたらうか。どうか。
 彼が留学時代に交を結んだ劇作家田は当時南京政府の役人になつて宣伝映画の製作に従事してゐた。自分を早く上海へ迎へに来なかつたのは、その公務の多忙のためであると申し開きに努めてゐた。決してこれを信じないわけではないが、自分は彼が家庭内で紛糾を生じてゐたのではないかと思はれる節を多多発見した。或は映画製作中に監督者たる彼が主役女優と何かあつたのではないかといふのが小説作者としてのほんの空想である。何はともあれ、自分が南京到着の当夜は、偶然であつたか、それともその日に行くことを田が注文したのであつたか今はもうおぼえないが、その晩、田の第一製作が官庁の庭で公開された。庭は官民の公衆で埋まつてゐた。役人達は当時文武の別なくみな軍装であつたとおぼえてゐる。田もたしか大尉相当宮とやらで軍服を着用して意気揚々としてゐた。女の軍人もゐたも
 
(404)から鎮江に去り、江を横切つて揚州に渡つて上海に帰つた。
 記憶の全く磨滅してしまつた今日、これ以上に南京を語ることは不可能である。これをもつと知りたいと思ふ読者は前述の井上氏の著書の 「麻雀日記」と「夢の南京」の二文を読まれたがいいと思ふ。寡聞の限りでは南京の風物と生活とを描いた文献の中一番よく南京の生活と趣味とを伝へたものと思はれるからである。自分の近作南京雨花台の女の雨花台の描写なども実は同書に負ふものである、序に記して井上氏に感謝する。
 
   紀南風景の美と複雑性と
 
 東京の人で紀南の風景を問ふ人があると、自分はいつも伊豆に似てゐると答へて置く。先年紀南に遊んだ事のある、三好達治もこれを承認して、しかし、紀州と伊豆とではまるでスケールが違ふといふ。それは申すまでもなく、天城山と大峰山との割合がそつくりそのまゝ紀州の風景と伊豆のそれとの比例であらう。三好は紀州に遊んで以来久しく愛してゐた伊豆の風景を独立した風景とより、ただ紀州の雛形のやうに思へて気に入らなくなつてしまつたといふ。いつぞや浜本浩が来て紀州を郷里の土佐に似てゐると話してゐた。さもあらうと思ふが自分は土佐を知らない。
 或る時、日本の風景美を語る座談会で、和田三造画伯が紀南の風景を激賞して、曾遊の地のうち先づ指を屈すべき所としてゐた。その理由として、海あり、山あり、渓谷あり、河川あり、瀑布あり、紀南には備はらぬものなく、備はるものは皆雄大と言つてゐた。それならば紀南の熊野地方の風景のうち最も印象の深いのはといふ問に対して、和田氏はやはり瀞八丁、潮の岬、古座の渓の一枚岩、それから木ノ本の鬼ケ城を加へると、これも不賛成ではなかつた。自分も他のものに異存がないうちで、たゞ古座渓の一枚岩だけはまだ見たことがなかつた。和田氏はこれを憫れみ、次の機会には必ず一見せよといふ。一枚岩の名は実を表現し足りないが、一個の巨岩がそつくりそのまゝ一つの山になつてゐると言つたら一番早判りであらう。驚くべき壮んな風景であると語に力を入れた。偶この夏帰省中、和田氏の談を思ひ出したので行つて見た。以前は古座川を遡つて可なり不便な個所であつたらしいが、今は古座川から自動車で平坦な路を往復二時間かそこらの道程である。途中古座川の両岸も南画風の奇岩が応接に遑がなかつた。時間さへあれば往は車、帰りは川舟が理想的だらうかと思つた。一枚岩は和田氏の説明の通り、一山が一巨岩から成つたものであつた。巨石高さは八十丈とか、幅もこれに相応したものである。頂きに小さな樹木を見せる外、ところどころに蔦かづらや岩松の簇生してゐる、雨の日は藩布のやうに流れるのか、岩の面に水の流れる痕が見えてゐるが、岩の皺見たいなもの一つない。脚下には古座川上流の瀬が走つてゐる。岩と相対してこちらの川原には中硯はどの方形の石が多い。思ふにこの流域の岩石は細い条目のあるのが(405)自然と割れて、板のやうになつたものが幾つかに折れて四方が丸くなつたものであらう。那智黒石程ではないが、相当に質の堅いものだから自然の形のまゝで硯にすることも出来ようかと一つ二つ拾つて帰つた。単純で刻々に変化するものも凝視する所もないから遂に久しく賞する風景ではないが、その雄大壮重には和田氏ならず、僕ならずとも皆一目して一驚を喫するであらう。正に天下の風景には相違ない。一体紀南の風景は鬼ケ城、潮の岬などにしても男性的な、豪快とか鉄宕とかいふ風な趣のものが多い。その筈である。あの荒海に対峙して立つためには可なりな強い火山岩でなければ、疾くに消えてしまつてゐたであらう。石英粗面岩位なものなら鬼ケ城のやうにすつかり虫食ひにされてしまふ。紀州南端の風景美は、つまり堅い大きな岩石と外洋の荒濤との不断の肉迫戦の天然記念碑である。この点、潮岬に隣りした大島樫野の風景が傑出してゐると聞くがまだ知らない。紀南の風景が女子供などを恐怖させるものゝあるのは決して偶然ではない。
 これ等の男性的な風景のところどころに思ひがけなく巧緻に優美な庭園式、新古今風とも言ひたい風景が在る。注意してみると、これが何も気まぐれにあるわけではなく、きつと岬のかげの深く食ひ込んだ入江の奥や、大きからず小さからぬ頃合ひな川の口などに限つて出来てゐるのである。例へば大里町粉白海岸や浦神、湯川温泉のゆかし潟などの類である。これ等の単純だが優雅な風景は前記の男性的なものとは全く別の順序で出来たものらしい。荒海から運ばれた砂丘と急流が流し出した、土壌とで自づと出来た陸地を基礎にして成つたものらしい。現にその順序をまのあたりに見せてゐるものもある。例へば下里町の太田川の川口など、防波堤を埋める程の砂丘に川口は埋められて川の流は沼のやうになり、砂丘はまだ生々しく、一帯は荒廃してゐるが、後年にはやがて宇久井や新宮川口に近い鵜殿などのやうに、澄明に平和な風景になるものと思ふ。現に今でも稍年を経た部分はこの面目を呈してゐる。砂浜の上に築かれた風景が柔和な相貌を具へてゐるのは、岩石の上の風景のいかめしいのに比べて当然のやうに思はれる。地質学上もつといゝ説明があるのであらうが浅学で及ばぬ。ともあれこの地のこの種の女性的な風景は、自然の発作的な熱情のために急激に出来たのでもなく、山と海との破壊的闘争の結末でもなく、荒海と急流とが争ひながらも、本来同じ水のせゐが争ひながらも、最後にはいつしか協力しつゝ建設したとも言ひ得るものであらう。土地の隆起に伴うて化粧されるやうに発生した、これ等の風景は柔和で凡庸な箱庭風なものには相違ないが、それが偶例の男性的な風景の間にはさまつてゐるために、両々相待つて各の趣を発揮し合つてゐる。こゝに熊野風景の一つの特長がある。那智の滝が雄大でありながら「美人の羅衣を纒うて立てるが如き」嫋々たる美を示したのは、やがて熊野風景の一シンボルであらう。空が青い。海が青い。雨量が多いから縁は一しほに青い。南国の日は明るい。色彩が特別に鮮明である。熊野の山の美を見るには田辺から本宮に抜ける道が万事に一番要領がいゝらしい。古の熊野行幸の御道筋である。末だ通つた事がないの(406)で海岸の方を主にした。一帯に落葉樹に乏しく霜も烈しくないから、紅葉の候より必ず新緑の候がよからうと思ふ。杉檜などの造林の新緑はまた格別である。また一帯に羊歯が多いのも美しい。
 二百二十日以後は平和な晩秋につゞいて早くももう浅春の感じで、梅や椿など南枝は綻び、土坡の南面は菫が咲き、海辺の日向には野生の水仙が簇つて松の木かげに自らなお正月の床飾をしてゐる。これが紀南の冬である。思へばわが郷熊野には雪景と平原美とだけがない。
 
   情熱を沈潜させて
      坦々と生活を探究する小説
 
    島木健作著「生活の探求」
 
 自分が作家島木氏に対して相当な敬意を抱いてゐることは今ここに更めて言明するまでもあるまい。「再建」は遂に一読の機を失つたが、今この書にありついて、久しぶりに島木氏の力作を見るのは自分の喜びである。但、生憎と「新日本」創刊の事務やら年末の計などに逐はれて十分ゆつくり鑑賞玩味することの出来ないのは作者に対して申わけがないとともに自分でも頗る不満である。
 実はまだ前半の外は忠実に読破しないのに〆切がさし迫つたため無理に筆を執るのである。近視の上に近ごろ老眼のせいで読書力が全く衰へてしまつてゐるのも僅に一册のこの書を一週間以上枕もとから放さないでまだ読み上げ得ない理由の一つである。はじめ丹羽氏の「豹の女」を与へられた時、わざわざこの作ととりかへてもらつたのがこの結果なのだから筆者の不本意をも容せられて切に寛恕を先づ作者次に読者諸君及編輯者に願ひ申して置く。改めて熟読の上で再び執筆の機を得られるものと思ふから今は責を塞ぎ約を果したいだけの心から書く。島木氏が良心的な作家だけにこれを気にして内情を打ちあけるのである。
 「生活の探求」は知識階級の一青年が机上の生活を放擲して真の生活を求めるといふテーマである。必ずしも新しい題目ではない。併し時代に痛切なものではあり、幾度取扱はれてもいい題目と先づこの点に好意を寄せる事が出来る。況んや作者がこの点を篤と考察してゐるのは志村克彦の意見となつて篇中に現れてゐる。さうして全篇坦々たる他奇のないしかしじつくりと腰をすゑた筆致で進んで行くところも大に好い。
 意識の分裂したり過剰になつたりするやうなせせつこましい文学でない健康な文学がそれらしい清新さを持つてゐるのを喜ぶのである。努めて熱情を沈潜させようとするらしい態度も賛成していい。しかしその熱度が一頁ごとに加はつて行く力の乏しさは慊焉たるばかりか、作者が企ててゐるらしい数百頁の大作を果してどれだけに効果のあるものにすることが出来るかと(407)いふ不安を多少抱かせないではない。この作の重要な一頁である自然の観察や描写などにも申し分なく?剌たるところがあると言ひ切れないのも難であらう。関東地方の或る地方位の感じはあるが、格別の地方色らしいものもないのも不用意と言はなければなるまい。せめては田山花袋が描いた位な地方色が出るところまでは努めて見る必要がありはしなかつたらうか。
 あまりに平面的なさうして些か抑揚の乏しいこの作はもつと写生の筆によつて重厚なものとなつたであらうにと、読み切らないながらにこの憾がある。尤も時間を得次第霞がちな視力を使つても必ず読み通して見たい読み通させる位の効果も味もあると好意を持たせるところにこの人の値打も認めなければならない。
 或は島木氏は優秀な中篇作家ではあつても長篇作家でないのではあるまいか、といふ感じを持つて自分はこの未完読の作品に対する批評の結びにしよう。たとひ成功ではないにしても好意の持てる作品、自分が期待した甲斐はあつたといふものである。
 
   廈門のはなし
 
 時節がら強つて引つばり出されるが、事はふるい。それに一度書いた事があるから二番煎じである。大方忘れてゐたが、この際、思ひ出して見ると自分には幾分面白く思ひ当るふしぶしがある。支那といふ国の真相を知る上に多少役立つらしい。読者も大方忘れたらう、以前書いたのをさう誰も彼も読むだらうといふ自惚れもない。もう一度書いて見る気になつた。あれかと思ひ当る向はもう読まないこと。
 自分の彼地に遊んだのは忘れもせぬ尼港虐殺の事があつた年だから年表を繰つて見ると大正九年。その七月中旬から八月上旬にかけての十数日間、台湾からふらりと対岸へ渡つて見た。毎度の事で、あの時は何が動機になつてゐたやら思ひ出しもしないが、排日気分の濃厚な折で特に福建地方が甚しく、廈門はあれでも開港場だからさほどでもなかつたが、福州、泉州などは到底安心して旅行出来ない事が廈門で判つたので引返した事であつた。さうだ、何か福州で事件があつた後であつたらしい。廈門の市なら半日廈門の島なら一日、その附近を一とほりならほんの四五日で事足りる位のところだから、旅費もなかつたが永滞留をしても仕方がなかつたのだ。廈門といふのは先づざつとさういふ地方である。
 排日の気分もまるで無かつたわけではない。市中で支那人の酔つぱらひが「こいつ日本人奴」とどなつて体当りを食はす。帰つて見ると旅社のボーイがベツドの上に茣蓙の下へ牛の背骨を敷いて置いてくれてあるといふ歓待ぶりである。行くさきざきの町角には十分には読めないながら日貨排斥のビラが所狭く貼りつけてあつた。不潔で不愉快なこの一本筋の港街はまるで見るところも遊ぶ場所もないと判つたので、共同租界になつて