佐藤春夫全集第八巻、講談社、640頁、2900円、1968年7月15日発行
(260) 山上憶良
この一篇は虚虚實實の史的幻想による觀念小説と見られたい。(作者)
一
大伴氏は古來の名門で、物部氏と並んで朝廷に兵馬の權を把つた豪族である。物部氏が亡んで後も舊來の勢を保ち、時には大政にも參與して、天子をして大伴の叔父と信頼させたほどの人物も出てゐないではなかつたが、本來が兵家の性格の家系だけに政治的の才幹には惠まれなかつたものか、この方面では年久しく終に勢力を布《し》くには至らなかつた。これに反して新興の藤原氏は大政治家の素質を具へた一族で鎌足以來、大伴の一族は常に藤原氏の下風に立たざるを得なかつた。
しかし壬申《じんしん》の亂《らん》は武門大伴氏をして武勲を遂げさせる好機會となつたから、亂後は功臣として大伴の一族は朝廷に重んぜられ、就中《なかんづく》、御行、安麻呂等が最も榮達した。とは云へ、天武、持統、文武の三代にわたつて仕上げられた新政の途上にあつて、大化の革新に藤原氏が興つたやうな機運を開くことのできなかつたのは、國家の機構が既に整つてゐたためとは云へ、やはり大伴氏に政治家がゐなかつたがためであらう。この頃藤原氏には不比等《ふひと》と云ふ鎌足以來の大才が出現してゐて、その女《むすめ》を宮中に入れるなどの工作にも成功したから、大伴氏は依然として藤原氏の敵ではなかつた。
しかし安麻呂の子|旅人《たびと》が現はれるに至つて大伴氏は不比等の遺兒武智麻呂、房前《ふささき》ら四人の藤原氏とほぼ雁行するに近い形勢になつた。
東夷と呼ばれてゐたアイヌ、西蠻と呼ばれてゐた隼人などが、東邊及び西陲《せいすゐ》に反亂するなどの事件が多くて武門の活動を待つ事が多かつたこの頃、旅人は父安麻呂の遺コによるばかりではなく、將に將たる器量をそなへたうへに、大伴氏としては珍らしく政治的才幹をそなへた文化人であつた。
藤原氏は後年、一族の勢力を維持するためには自家を凌駕する可能性のある名門豪族を得意の權謀術數によつて順次に滅亡に導いて行つたが、その最初の犠牲が實に大伴氏であつた。
旅人を中心とする大伴氏は、今や藤原氏にとつて輕んずべからざる敵であつた。しかし還暦を越えた旅人を中央政府から遠く筑紫に行かせたのが、たとひ藤原氏の工作に出たとしても、決して左遷と云ふものではなかつたであらう。地は西陲ではあ(261)るが乃父以來、恩威をともに施してゐる土地で、彼自身も征隼人大將軍としての威風を思ふ存分に吹かせて來たばかりの土地に、父の跡を踏んで、大宰帥征隼人大將軍の任地に就くのである。地方官と云へども旅人は不平を云ふはずもなからう。實に巧妙な任官である。さうして内官たる藤原のおん曹司たちの官途はどんどん旅人を凌いで昇進して行く。
しかし、そんな事が何であらうか。旅人は心利いた信頼すべき一人だけを情報兼連絡係として都にとどめた外は、一族を擧げて筑紫の任に赴いた。
はじめ旅人が大宰帥となつて、それも遙任ではなく現地に下向すると知れた時、人々の彼が地方官となるのを慰める者があると、彼は西蠻の地は父の代からゆかりの土地だけに自身には故郷に歸るやうな思ひさへあると云ひ、赴任したら日本一の美酒を釀させるやうに奨勵しようと思つてゐると笑つて答へたものであつた。
人々は旅人が心中の不滿を笑ひに紛らしてゐるものと思つたが、これは旅人を知る者ではなかつた。旅人は中央政府にも京洛の地にも決してそれほど戀戀たる者ではなかつた。彼は一族を統率して乃父の勢を養つて置いた筑紫に自ら進んで下り、ここに中央政府に優るとも劣らない政廳を開かうといふ鬱勃たる雄志を心の底に抱いてゐたのである。地は廣く物は裕である。勇猛な隼人らは父子二代の恩威に心服してゐる。この地の物も人も彼の思ひのままどのやうにでも動かすことができる。と云つて、旅人は勿論、朝廷に對して不軌を謀らうなどと異志を抱く者ではなかつた。唯何人からも干渉されないで思ひのままにできる政廳を持つ事を喜んで地の邊鄙は敢て意に介しななかつたのであるい。
當年の大宰府は西部日本の政治及兵馬の府であるとともに半島及大陸との折衝の門戸でもあつた。管内の普通の政治のほかに隼人や外國に對する武備、蕃客との應接、歸化人の處理など多事多端な政廳で、その長官の職掌の重要は中央政府に劣るものではなかつた。ここに善政を布《し》くことが出來たならば、中央政府はもとより三韓にも唐土にも國威をかがやかすであらう。彼の志といふのはここにあつた。彼はその言葉を知らなかつたから、善政を布くとか日本一の美酒を釀させるとか云つたが、心中には一個の文化的政治の中心をもくろみ中央政府に一歩を先んじようと夢みてゐたのであつた。
征隼人大將軍は軍事にかけては滿滿たる自信を持つて隼人の内亂は勿論、外寇をもおそれなかつたが、身に外國と折衝するに必要な學の無い事は自らよく知つてゐた。自分ばかりではなく、一族の誰彼を考へてみてもその人に乏しく、藤原氏が不比等をはじめその子、武智麻呂、房前、宇合《うまかひ》、麻呂の四人もみな學才に秀でてゐるのにくらべるまでもなく、甚しく憾みとしてゐるうちに、一族でこそなけれ、起用してその任を委ねるに適當な一人が旅人の意中に思ひ浮んだ。意中の人とは外ならぬ山上|憶良《おくら》であつた。
二
旅人がその帷幕《ゐばく》に迎へ入れたいと思ひ立つた山上憶良の名は(262)知つてゐたが、まだ親しくはその人を知らないのである。旅人と憶良とではまるで月を抱く雲とすつぽんを住はせる泥との如く世界が遠く違つてそれまでは相逢ふ機會もなかつたからである。それをひよつくり思ひ浮べたといふのは、久しくその大才の評判されるのを知り、またその不當な不遇にも聞き及んでゐたからである。
姓《かばね》は臣《おみ》で八姓のうちでも下位から二番目。出自の低いことは明かである。學問も獨學といふから大學寮に入學する資格も無かつたのであらう。父が五位以上の貴族や官吏の子弟に限つて大學寮に學ぶ資格があつたのである。憶良はその資格がなくて獨學したに違ひない。しかし無位で拔擢されて遣唐少録に採用されたのは若くて實力のある有用の材であることが證據立てられてゐる。唐に滯在の二年間にも專ら彼の土の學藝文物に意を留めて大に學業を進めたと思へる。心がけのよい努力の士と見える。近年|碩學《せきがく》の間に加はつて東宮の侍讀となつたのはこの人の努力が酬いられたものでその人格と學識との裏書にならう。それでゐながら官は伯耆守《はうきのかみ》が最後といふからせいぜい從五位下かそこらであらう。東宮にお仕へしても他の學者たちのやうに大擧頭にも博士にもなる模樣もないのは學者としてもやはり不遇と云ふべきであらうが、獨學では、ともかくもこれ以上は望めないところへは達したと云ふものであらうか。既に老病を得て居るとも聞くからはるばる筑紫まで下るだけの體力があるものかどうか。おぼつかないはなしだが、ともかくも先方の内意だけでもと、さぐらせてみると、
彼は三四年前から時をり下半身のところどころに場所を定めぬ疼痛があつて寢たり起きたりはしてゐるが、まだ歩行の自由を失つてゐるわけではないから、最後のご奉公に老 躯を勵まして知遇に酬いたいと云つてゐた、と使者に立つた百代がさう報告して最後に百代は、彼が巷間から聞き傳へたところをも參考にと、
「ですが、世間の評判では、とても癇癖の強いつき合ひにくい人だと云ふことです。」
さう云ひ添へると、旅人は、
「世間の評判を聞いて來いと誰が云つたのか。」
と不機嫌になつて「だから出世をしないでゐるのだ、そんな事ぐらゐは聞かなくとも知つてゐるぞ。駻馬《かんば》と云はれる馬にも乘つて見たが、乘りこなして見ると駿馬であつたおぼえもあるわ。かんぺきの強いぐらゐの人物でなくては、ものの役には立たないのだ。」
大將軍は既に憶良を駻馬と知つて御する氣でゐたものだが、年は思つたよりも老いて六十七歳と聞いて、わが身よりは五つの年長と知り、癇癖よりはこの方が少々取り扱ひにくい氣がしたが、その高齡で病?を西陲まで運ばうといふ氣力を有難いものに思ひ、できる限り禮を厚くしてこの人を迎へようと決心した。大宰府をして重からしめる人材なのだから。
三
かういふ次第で、憶良と旅人とはほとんど相前後して筑紫に入つた。億良は筑前の守《かみ》に任じられたのであつた。同じ守でも(263)伯耆よりは筑前の方がいくらか上國ではあつたし、守ならば?口であつて、牛後ではない。旅人にはさういふ心づかひがあつたし、憶良には地の温暖なのが病?によろこばしく、また寒酸な一身にまだ見ぬ南國の風物を憬れる情もあつた。
同じ地方官でも帥《そつ》ともなれば妻を伴つて赴任することもできたが、守《かみ》ではまだその資格もないから憶良はひとりで任地に赴かなければならない。憶良の老妻は病身な老人をひとりで旅に出すのを心細がつて若妻のやうに泣いてゐるのを、憶良は途上は樂しく好きな船旅だし、行き着く先は温い土地だからと老妻を慰めなだめつつ船に乘り移つた。――青雲を夢みつつ唐土に渡つた若い日の事を思ひ出しながら。
名うての愛妻家で、外面《そとづら》は甚だ惡いが家庭内ではまことに温く快活な人なのだから、家族からはこの人が世間で氣むづかしい人物のやうにけむたがられてゐるのが反つて奇異に思はれた。しかし世間に親しまれないからこそ、憶良はその人なつつこさを家庭の人々に注ぎ鍾《あつ》めてゐたのであらう。見かけは剛情で妥協を許さぬ理窟つぽいこの人ではあつたが、衷《うち》には醇乎たる心情を湛へ漲らせて居た人なのである。剛情も妥協の無いのも專らこの心情を濁らせたくないためであつた。
土地が性に合つたものか憶良の身には病氣も起らず、暇があると近くの海べや山ふところにも出かけて土地の漁村や農村の人々を見てはその風景と都に遠い人情の自然とを樂しみ、政務に恪勵して、忘れるともなく家への消息を怠つてゐるところへ、思ひがけなくも、老妻が筑紫まで出かけて來た。
憶良の妻は、老夫の健康と周圍の人々との調和とを氣づかつて元來旅の好きな彼女はぢつとしてゐられなかつたといふのである。それはよかつたがお互に無事息災を喜んだのも束の間で、彼女は長い草枕の疲れが出たものか、それとも永年の榮養失調の結果がこの機會に現れたのか、夫にすすめられて病床に就いた彼女が、ほんのかりそめのやうに云つてゐたのが、そのまま再起しなかつた。さながらに永の別れのためにはるばると西下したかのやうに。
愛妻家憶良は妻の來た喜びが大きかつただけに、この悲しみも非常であつた。それも無理ではない。彼を慕ひその病身を案じて見舞に來た元氣な彼女があつけなく亡くなつたのであるから。憶良は悲しみの極みむしろ腹立たしく、彼をこんな思ひのなかにひとり取り殘して亡き愛兒|古日《ふるひ》のところへ行つた妻が恨めしいばかりで、野邊の送りをすましてわが家とも思へないうつろな家に歸つてはただ呆然自失して爲すところもなく、せめてもの心やりにと挽歌を作つてみても、なかなかに心ゆかず、悲しみは悲しみを呼んで反歌も一うたやふた歌では足りない。彼女が西下の道すがらに見たといふ山川のありさまを語つてひとり旅でなかつたなら、なほよかつたらうと云つた言葉を思ひ出しては、かういふ事と知つたら妻もわが身もまだ若く元氣のあつた頃、どうして國中を心ゆくまで見せて歩いて置かなかつたらうか、などとかへらぬ愚痴になる心を轉じようと庭前に目をやると、妻が枕から力なく頭をもたげ、眺めやつては喜んでゐた楝《あふち》のうす紫の花ははや盛りが過ぎて、風もないのに、目にまぶしい夕日ざしのなかであぢけなくこぼれ散つてゐるのであつた。その盛りの時を見てゐた妻の病みやつれた横顔が目に浮(264)んで來て、またしても涙をさそふ。戸外の明るさを求めて庭に下り立つても悲しみはまぎらすすべもない。いつも目を喜ばす大野山の緑も今は黒ずんで、見渡せばうす雲のやうな夕霧が山腹を散らばひ這ひまつはりわが溜息のまにまにそこから四方へ散らばつて行くのかと憶良には見えた。
偶然の事に、帥旅人の正室|大伴郎女《おほとものいらつめ》が夫の任地大宰府で逝去したのも、憶良の妻が身まかつたのとは、あまり歳月をへだてない時期であつたから、同じやうな老齡で遙かに都から離れた任地で鰥《やもめ》となつた旅人と憶良とは、ここに形影相弔ふやうな親しみを生じた。
四
旅人は憶良のやうな神經質な人ではなく、それほどの愛妻家といふのではなくとも、丈夫《ますらを》と思へる彼も旅先で鰥となつた憂愁の無いはずは勿論無かつたから、同じ憂の憶良の影響もあつて、それまではあまり熱心でもなかつた讀書や作歌に憂き身をやつし、また近いあたりの山水の間に逍遥して心を遊ばせたり、里の子とも見えぬ美少女を見つけて喜んだり、今まで以上に酒もたしなみ、それもひとりでは理に落ちて面白くないので、或は新春の賀を兼ねて庭前にさかりの梅花を賞するとか、七夕の星を祭るとか機會を求めては時々、一族(といふのは多く大宰府の役に就任してゐたが)や、一族以外でも役所の連中を館の書殿《ふみどの》に呼び集めて詩酒に興を遣る日も多かつた。人々が筑紫娘子と呼び慣はした遊行婦の兒島はその才貌によつて主人の帥の氣に入つてゐたので、?々來て宴席を斡旋するのであつた。
憶良は體質的に酒量がなかつたから、酒のためよりは詩のために集つたが、本來人の多く集る場所を好まなかつた彼も相客がみな顔なじみのうへ、主人の親しんでゐる年長者として人々が彼を遇するのにも今は慣れてくつろぎ、むかし役所の宴會で人々が上役の威風に慴伏《せうふく》してお髭の塵を拂ひながらおづおづとお流を頂いてゐる腹立たしさにこんな馬鹿々々しいところよりは家庭の團欒が増しだとはつきり宣言し名乘りを上げて退出したおかげで上役にはにくまれ、同僚には奇人扱ひされた頃の客氣もなければ、家にはも早待つてゐる妻もなく、子供たちも母の實家に殘されて父にはかかはりも無くなつてゐても、憶良には依然としてかういふ宴席には溶け込めないものがあつた。
民たちが塗炭の苦しみの日日を送つてゐる今の世に、爲政者がかうして宴樂を恣にしてゐていいものであらうか。往年の客氣は押へてもかういふ落着かない氣分のかういふ席上でうごめくことは老いてもなほやまなかつた。むらむらと雷雲のやうに湧き上る不滿ではない。干潟の泥のやうにすつかり沈潜して發散するにすべのないものである。爲政の上の根本的な意見は既に進言して傾聽してもらつてはゐるが終に實現される期もあるまい。大伴卿の云ふよい政廳といふのもせいぜいは下役をいたはるこの程度のものであつたのか。軍陣の勞は知つてゐても渡世の苦は味ははない名門の貴公子の出であつてみれば、これとても無理のない事であらう。いつぞや進言に添へて差上げた貧窮問答なども果してどの程度に理解されたものやら。憶良は旅(265)人の優遇と友情とに對しては感謝しながらも一抹の不滿と反抗の氣は失せなかつた。その生ひ立ちのために不滿と抗争爭の氣とは憶良の醇乎たる心に永年錆びついてその身心を不幸にしてゐるものであつた。
五
「八政始食」さういふ言葉が果して唐土にあるかどうか、あつてもよささうなとは思ふが、よくも知らない。本朝にはもとより無い。多分、憶良がはじめて考へた事だから、この言葉も今までは無かつたかと思はれる。言葉は珍らしいが、その内容は文字どほり殆んど説明の要もないほど單純なもので、要はただ政治の根幹は民に食を與へるにあるといふだけの事。一家の主婦が朝な朝な朝飯を夕べには夕餉を夫や子のために調達するやうに、よき政治の民に對するは家庭のよき主婦の夫や子に對するやうでなくてはならない。それ以外のさまざまな事項は枝葉にしか過ぎないものであつて、根幹がしつかりと樹立すれば他はおのづと成り立つといふものである。
野の鳥と云はず山の獣と云はず、すべての生きものにはみなそれぞれに天與の食餌がある。食ふことは命ある者に與へた天の權利である。それを、人間にだけは食ふものが無いと云ふのは自然の理法に叶はない。この單純な天の理法が人間の世界では人間の私から行はれなくなつてしまつてゐる。それを天に代つて行ふのがよい政治である。これに對抗するむつかしい理窟は無用の長物でなければ、人間の私を守らうとして私の上に更に私を築くものにしかすぎない。まして百姓《おほみたから》などと云はれてただ貢を責めはたられるだけで、自分の作つた米さへ食へない今の世の有樣では天下に亂民も充滿する道理である。
政務の多端はみな民の負擔だから、政治はできる限り簡約に民に日日の食を必ず與へるといふ一點にだけ力を注ぎ集めて、他の瑣末《さまつ》な點はすべて民自身の判斷に任せてよい。食が足りさへすれば民にも先づ間違ひはないものと信じてもよい。
――憶良の旅人に進言して置いたといふのはあらましかういふ事であつた。
六
或る日、役所で近來特に多いやうに思はれた浮浪の民の一人を捕へて取調べようとしてゐると、生意氣な若者で自ら異俗先生と名告る者がゐて、昂然と下つ端の小役人などには何も答へないが、ここの守《かみ》はいくらかもののわかつた人物のやうに聞いてゐるから、長官にならば會つて話さうと云ひ出したのを、その旨おそるおそる傳へると、
これを聞いた憶良は取調べの部屋には出ないで、その者を庭に出して置けと云ふので下役人は、意のあるところを測り兼ねて躊躇してゐると、
「おれに會ひたいと申し、おれが會ふ氣になつたなら、おれの賓客だが、まさかこの部屋にも通せない。庭で立ちばなしでもするとしよう。」
といふので下役人が異俗先生といふ者を庭前に出すと、それ(266)を見てゐた長官も直ぐ出て來て、自分は先づ木かげの石の上に腰をかけ、さて件《くだん》の若者をさし招き、あたりにあつたもう一つの石を指して彼をもかけさせた。若者はいささか勝手ちがひの、照れた樣子で口ごもりながら、身の上を語るのを聞くと、都に近い農家の若者で、兩親も健在、妻もあり幼兒もあるといふが、未來には何の希望もなく、現在の平平凡凡な生活の小うるさい單調にあいそをつかして、兩親はまださほどの高齡でもなく、家に多少の蓄へのあるのを幸、乞食の群に投じて國々を巡り、途すがら耳にした名僧や學者などから道を聞いて世の中と人の道とを知らうとしてゐるだけで、餓ゑては他家に食を乞ひ、または時々畑のものを取つて食ふくらゐで、それ以上夜盗などの道に外れた業は一切しないから役人に調べられるおぼえもないと云ふのを、一々言葉どほりに聞き流してゐた憶良は口を挾んで、
「それ以上道に外れた事をしないと云つても、格別の目的もなく他郷をうろつき歩いて、兩親に心配をかけたり、愛《いと》しかるべき妻や子は顧みないでゐる。その事が既に道にはづれてゐるとは氣がつかないのか。親あれば遠く遊ばずといふ教もあるぞ。人間といふものは、お前のやうなものではない。親にはよく仕へ妻子をいたはつてゆかりの人々と慰め合ひ、田畑はよく實らせ、或は海にすなどり、又は山に樹を植ゑるなど何らかの方法で人間の世に盡すべきものだ。名僧でも學者でもこの人倫の外に教を云ふものはみな間違ひだ。俗に異ふのはやさしいが、俗に順《したが》つて生きるのこそ困難で大事なことである。おれも君ぐらゐな年ごろでは君と同じやうに人間の世を値のないもののやうに思ひ做し、吉野の山中に踏み入つて、役《えん》の行者《ぎやうじや》の弟子にならうかと思つた日もあつたが、思ひかへして人なみに本を讀んだぞ。人間は普通の人間以外の事を志すべきものではない。世の中の通り一ぺんの人間の平平凡凡な生涯が一番尊く、一番幸福なのだと知るのがよい。世の中はつまらない、人間はばかげたものだとは思つても、人間は人間の世界の外へはのがれ出しては行けないぞ。――人間は鳥のやうには飛べないのだから。わかつたか。では一日も早く家にかへり、心配をかけた事を詫びて父母に仕へるのだ。」
と諄諄と説かれて異俗先生はこの平凡なお談義よりは役所の取調部屋から出して庭の隅の石に腰かけさせたこのやり方と熱心な話しぶりに籠る熱意に心服した樣子であつた。
異俗先生を感心させたこのやり方は、しかし、帥の耳に一つの奇行として傳はつて官人の威嚴を損じたものとされた。たとひ威嚴は損じようとも目的は達したではないか。この人まで役人の威嚴などを口にするのかと憶良は不平であつた。
旅人が府内の諸役人を從へて管内を巡行視察し、松浦縣《まつらあがた》を遊覧したと聞いた時には、憶良の積り積つてゐた不平が終に爆發した。勿論仲間はづれにされたのを憾んだのではない。憶良が筑前守で肥前の國の視察には關係がないからといふ旅人の杓子定規が腹立しかつたのである。
百日《ももひ》しも行かぬ松浦路《まつらぢ》今日行きて昨日は來なむを何か障《さや》れる
といふその時、憶良が旅人に贈つた歌は百日かかる旅程ではない、ほんのただ一泊の小旅行を何でさうせせつこましく親定(267)に拘泥するのだらうといふ意味の抗議であつた。
帥は尊敬すべき人柄で、その友情はありがたい。しかし憶良にはどうしても同調しにくい何ものかがある。相手に對する敬愛の情を失はず、また自己の實感はどこまでも矯《た》めたくない。この氣持の表現はいつも婉曲に發散された。
旅人が美しい神仙譚好みの幻想を歌ふ時、憶良は寒酸な現實の相をあばき出した。旅人の反省を促すかのやうに。
旅人が讃酒歌十三首のうちに
いはんすべ爲《せ》むすべ知らず極まりて貴き物は酒にしあるらし
と歌ふ時、その説を修正しようとするかの如くに、
銀《しろがね》も金《くがね》も玉も何せむにまされる寶子にしかめやも
と憶良は歌ふ。
七
お互にどこかしつくり反《そり》の合はないところは感じ合つてゐた。それでゐて心の底では相許す莫逆の友なのであつた。それ故、天平二年十月、旅人が大納言に遷任されて京に入らうとする時、憶良は帥の館の書殿《ふみどの》で催された遂別宴の席上で、筑前守としての儀禮的な二首を詠んだ外に、敢て私懷《おもひ》をのぶる歌三首をも詠んでゐる。――
天ざかる鄙に五年《いつとせ》住まひつつ都の手ぶり忘らえにけり
かくのみや息づきをらんあらたまの來經《きへ》ゆく年の限り知らずて
吾が主のみたま賜ひて春さらば奈良の都に召上《めさげ》給はね
これは眞情を囁いてねんごろに京への呼び戻しの盡力を旅人に哀願してゐるのである。
憶良のやうな純粋な性格にあつては、心から信頼する人物に對してでなくては、輕々しくものを頼むやうな事はなかつたであらうと思ふ。
頼まれた旅人の方でも、この囁きを聞き流すやうな事はなく、老病孤愁の身を既に五年も異郷に置いた友人が、このさき目當もなく田舍暮しに埋もれて行く不安は十分に察して、都に着くと直ぐ彼を呼びもどす工作をした。さもなければ船旅にも堪へないほどに老衰してしまふ懸念もあつた。
憶良は早速、都に呼び歸された。さうしてその後任には不比等の三男、宇合が赴任した。かうして大伴氏の勢力の地に追々と藤原氏の勢力が移植される橋頭堡《けうとうほ》ができた。
都に歸つて來た憶良は數年來の宿痾《しゆくあ》のため今では病床に就いたきり老衰は日に加はり、死の不安と、生きて甲斐のない身を、既に母を失つてゐる年少の子供らが孤兒となるのを憐れんで、ひたすらに生への執着に沈吟する日日であつた。しかし病勢は衰へず、病苦は募る一方で、悶悶の彼には解脱《げだつ》の微光もなかつた。
天平五年の或る日、藤原不比等の次男房前の第三子|八束《やつか》が河邊朝臣|東人《あづまびと》を使者として山上臣憶良の病床を見舞はせたのは、八束が一時憶良に就いて學を受けた事があつたからである。東人が八束からの見舞の言葉を傳へ終ると、憔悴した病人は涙を拭ひながら、しばらく思ひに沈んであたが、やがて、
(268) 士《をのこ》やも空しかるべき萬代に語りつぐべき名は立てずして
と口ずさんだ。
天平五年といへば、前年の八月には、單に國内の治安のためばかりではなく、多分は新羅《しらぎ》の來寇にそなへて、東海、東山、山陰、西海の四道に節度使が置かれ、出雲や隱岐には烽《のろし》の増設と軍用品の貯藏とが命ぜられ、また食糧の分散を計畫するなど非常態勢にあつた國情をよそに、不甲斐なくも瀕死の病床に呻吟する老?を思ふにつけて、この嘆を發したには相違ないが、今更一身の榮達の好機を逸したのを悲しむのではなく、軍備擴張や外寇防衛戰によつて生じる民の負擔を察し、殊に彼の前任地あたりが戰場になる場合も思はれ、民の辛苦を思ふにつけて、終に人間の世に實現の期のない八政始食の理想を思ひ、寒酸な自己の一生をふりかへつて、憂國の涙のなかに聊かは自らを弔ふ涙をまじへたとは誰も知らない。
東人が歸つて事の次第を八束に報告すると、剛情我慢な山上臣が人の前で涙を拭ふなどは稀有の事と云つておろかにも彼からの見舞をそれほどに喜んだかに解釋して、それにしても士《をのこ》やもの沈痛を極めた一首は千古に傳へるべき絶唱だと彼等は語り合つた。
八政始食の志は埋もれて、たまたま五臓の鬱結が口を通して發散された一時の吟詠が、ひとりこの瀕死の床の一首のみでなく、みなそれぞれに絶唱として人の心を打ち、その作者として語りつぐべきわが名とならうとは考へてもみなかつた山上憶良であつたらう。
◎入力者注、
百日《ももひ》しも行かぬ松浦路《まつらぢ》今日行きて昨日は來なむを何か障《さや》れる
とある引用歌の「昨日」は原歌では一字一音しきで「あす」とあるから、明らかに「明日《あす》」の間違いだが、誤植かどうか分からないのでそのままにしておいた。「百日」というのも原歌では一字一音式で「ももか」とあるから「ももひ」は間違いである。全体に万葉集をなぞっただけの作品である。しかし文章にはやはり佐藤春夫らしさが出ている。