橋本進吉著 橋本進吉博士著作集 第二册 國語法研究 岩波書店刊行、253頁、1948.1.20 120円
 
     凡例
 
一、本書は、橋本進吉博士著作集の第二册として、「國語法要説」「國語の形容動詞について」「助動詞の分類について」「『切符の切らない方』の解釋」の四篇を收めた。
一、「國語法要説」は、「國語科學講座」(明治書院)の中の一篇として、昭和九年十二月に刊行されたものである。今、自筆で書入れられた校訂本を底本とした。
一、「國語の形容動詞について」は「【藤岡博士功績記念】言語學論文集」(昭和十年十月刊行)に掲載されたものである。今、自筆で書入れられた校訂本を底本とした。
一、「助動詞の分類について」は、「國語と國文學」第十三卷第十號「國文法と國語教育」特輯號(昭和十一年十月刊行)に掲載されたものである。今、自筆で書入れられた校訂本を底本とした。
一、「『切符の切らない方』の解釋」は、もと金田一京助博士の記念論文集のために、昭和十七年八月に執筆されたものであるが、昭和十八年九月二十八日一橋講堂に於ける三省堂主催の國語學講座に於いてこの題目で講演された。本篇の第七章は、この講演の際に増補されたものである。金田一京助博士の記念論文集は、まだ刊行に至らないが、ここにこの篇を收めることが出來たのは、ひ(2)とへに金田一博士の御好意によるものである。この一篇は、自筆の原稿を底本とした。
一、本巻の解説は岩淵悦太郎が執筆し、校正は同人及び林大が擔當した。
 
(1)     目次
國語法要説
 (一) 文と語と「文節」………………………………………二
一 文…(二) 二 文節…(五) 三 語…(一一) 四 語の構成要素としての語及び接辭と語根…(一五) 五 獨立せぬ語と接辭…(二〇)
 (二) 語の活用……………………… ………………………二五
一 活用と活用形…(二五) 二 活用形の用法…(二九) 三 活用形と語形變化…(三二) 四 活用の種類(獨立する語の活用・獨立せぬ言語單位の活用)…(三七)
 (三) 品詞の分類………………………………………………五〇
一 品詞分類の標準…(五〇) 二 詞と辭…(五三) 三 文節の斷續…(五四) 四 詞の分類…(五六) 五 辭の分類…(六七) 六 品詞の概念と語の性質…(八三) 七 辭と接辭(助詞と接辭・助動詞と接辭)…(八五)
國語の形容動詞について
 一 文語の形容動詞……………………………………………九八
 二 口語に於ける第一種の形容動詞と形容詞……………一一四
(2) 三 口語に於ける第二種形容動詞……………………一一六
 四 口語に於ける第三種形容動詞………………………一二七
 五 口語に於ける形容動詞の取扱………………………一二八
助動詞の分類について
 一 意味による分類………………………………………一三二
 二 活用による分類………………………………………一四二
 三 接續による分類………………………………………一七六
「切符の切らない方」の解釋………………………………一八七
解説(岩淵悦太郎)…………………………………………二〇九
 
國語法要説
 
(2)   國語の文法組織の眞實の相を明にする爲に、多年の努力を積まれた眞摯な學者の業績が、近年追々世にあらはれた事は、甚慶ぶべき事であつて、それ等は何れも有益なもので、中にも山田孝雄・松下大三郎兩氏の大著の如きは、最傾聽すべき考説に富んでゐるが、しかし、概して言へば、從來の研究は、言語の意義の方面が主となつてゐるのであつて、言語の形に就いては、猶觀察の足りない所が少くないやうに思はれる。かやうな方面の研究によつて、從來の説を補ひ又訂すのも必要であらうと思ふ。この篇はかやうな意圖の下に成されたものであるが、なほ研究が不十分であり、その上、一身上の都合で、多くの時間を充てる事が出來なかつた爲、比較的根本的な問題に關する私考の一端を開陳するに止まり、各方面に十分展開させる事が出來なかつたのは遺憾であるが、もし少しでも斯學の研究に從事せられる方々の參考に資する事が出來るならば、望外の幸である。
 
一 文と語と「文節」
 
 一 文
 言語は、一定の音聲に一定の意義が結合したもので、人々が自己の思想を發表し、他人に知らせる爲の手段として用ゐるものである。さうして、之を實際に用ゐる場合には、文として之を用ゐる。即ち、人々が、自分の見聞した事や、考へたり想像したりした事や、感じ又は欲する事を言語によつて(3)他人に傳へようとする時は、文の形として之を表現し、聽者は、この文の形になつた言語によつて、その人が何を傳へようとするかを理會するのである。
 一つの文は、その内容(意義)から見れば、それだけで或事を言ひ表はしたもので、一つの纏まつた完いものである。勿論、一つの文で人がその時言ひ表はさうとした事柄の全部を盡さない事はある。しかし、一つの文は、少くとも、言ひ表はさうとした事の、或一段だけは表はし盡してゐるのであつて、猶、表はすべき事があれば、また別の文によつて、續けて言ひ表はすのである。さやうな意味で、文は纏まつた完い思想を表はすものであるといふ事が出來る。
 以上は思想内容から見た文の性質であるが、文は言語上の形である以上は、唯思想上ばかりでなく、外形上の特徴があるべき筈である。然らば、文の外形上の特質は何かといふに、文は音の連續である。「あゝ。」「おゝ。」の如く、唯一つの單音(音聲上の最小さな單位)から出來てゐる場合もあるが、多くは二つ以上の單音(又は音節)が結合してそれらが續けて發音せられる。さうして、その前と後とには必ず音の切れ目がある。即ち、文の初に音がはじまり、最後にいたつて音が斷止して文が終る。もつとも、場合によつては、文の中間で一時音が切れる事もあるが、その斷止は必然的のものでなく、或場合には斷止し、或る場合には斷止しない。(「今日もよいお天氣です。」の「今日も」の次に切れ目を置く場合もあるが、又切れ目を置かないで下へ續ける場合もある)。然るに文の前と後とには、どん(4)な場合にも必ず音の切れ目がある。文を文字で書く時には、文の終に※[小さい○]を附けるのが普通であるが、この※[小さい○]は音の斷止を代表するものと見る事が出來る。(但し實際に於ては、音の斷止しない處に※[小さい○]を附けた例も多少はあるが)。
 猶この外に、文の終の部分には特殊な音調(イントネーシヨン)が伴ふものと考へられる。例へば、「今日もよいお天氣です。」の最後の音の終の部分は、急に音の調子が低くなつて斷止する。もし文の中途で、例へば「今日も」の終で音が斷止する事があつても、その音の終の部分は、文の最後のやうに調子が下らず、それが爲に、猶、次の語に續く事が知られる。かやうに、文の終は、單に音が斷止するのみならず、その部分に特殊な音調が加はつて、それによつて、文が終止した事が知られるのである。
 勿論、文の終に加はる音調は決して一種類には限らず、いろ/\ある。同じ「來た」といふ語で終る文であつても、唯、人が來たといふ事實を傳へるだけの場合の音調と、來たかと尋ねる場合の音調と、「さあ來た。」のやうに命令の意味を表はす場合の音調とは、明かにその形が違つてゐる。その音調には、どれだけの種類があるかは、今後の精査を要するが、とにかく、文の終に如何なる語が來ても、いかなる音が來ても、右のやうな色々の場合に應じて、それぞれ一定の音があらはる事は事實であらうと思はれる。さすればこの音調によつて文が終つたか否かを判斷する事が出來るであらう。
(5)  文に伴ふ音調の研究は我が日本語ではまだ殆ど出來てゐない(東京語についての佐久間鼎氏の研究(「日本音聲學」)がある位のものである)。多分、方言の違ふに隨つて、多少の相違はあらう。個人による差もあるかも知れないが、同一の方言に於ては大概一樣であらうと思はれる。これを研究するには、いろ/\の場合をよく區別して考へる必要があるのであつて、同じ疑問の意味を有する文であつても、疑問を表はす特別の語(代名詞や副詞や助詞など)のある場合と、これ等の語なく、唯音調のみによつて疑問を表はす場合とでは、音調を異にするやうな事があらうと思はれる。
 以上、文の外形上の特徴としては、
一、文は音の連續である。
二、文の前後には必ず音の切れ目がある。
三、文の終には特殊の音調が加はる。
 文は以上のやうな内容と外形とを有する一種の言語上の單位である。さうして、人々が言語によつて自己の思想を傳達する場合には、いつも之を文の形として用ゐのであつて、一つの文だけで目的を達しないお場合にも、文を幾つも重ねるだけで、文以外のものを用ゐるのでないから、文は文法の取扱ふ言語單位の最大きなものであり、之を分解すれば、更に小さい言語單位が見出されるのである。
 
 二 文節
 文には實際の言語として、どうしてもそれ以上句切つて言ふことが出來ないものがある。「行け。」(6)「いらつしやい。」「お早う。」などはその例である。これ等は、無論意味をもたない音として見れば、「ユ・ケ」「イ・ラッ・シャ・イ」など句切る事が出來、又、「お早う」などは、それ/”\意味をもつてゐる「お」と「早う」との二つの部分に分つ事が出來るけれども、實際の言語に於ては決してかやうに句切つて言ふことはない(句切つて言ふとは、音の切れ目をつける事、即ち音を斷止する事である)。
 しかしながら、かやうに、それ以上句切る事が出來ない文は實際に於ては比較的少數であつて、多くの文はいくつかに句切つて言ふ事が出來る。「今日もよいお天氣です。」といふ文は、「今日も」で句切り、又「よい」で句切つてもよいのである。勿論、句切らずに、全部一つゞきに發音してもよいのであるが、また右の如く句切つて、その間に少し音を休止して發音しても、實際の言語として不自然ではない。しかし、右の文は 「今日も|よい|お天氣です」と三つまでに句切つてもよいが、實際の言語としてはそれ以上に句切る事は無い。即ち、實際の言語では、「今日は」「いゝ」「お天氣です」の各は、いつも續けて發音するのである。同樣に、
私は|昨日|友人と|二人で|丸善へ|本を|買ひに|行きました。
の文は、右の如く八つに句切る事が出來るが、實際の言語としてはそれ以上に句切る事はない。かやうに、文を實際の言語として出來るだけ多く句切つた最短い一句切を私は假に文節と名づけてゐる(7)(神保格氏の言語學概論には、之を句と名づけ、松下大三郎氏の標準日本文法には、初め之を念詞と名づけ、後に詞と改めたが、句といふ名は、英語の clause の譯語として用ゐられる事多く、詞は單語の一種類の名として用ゐられる場合が多いから、これ等と紛れない爲に新しい名稱を用ゐたのである。文節の名は必しも適當であるとは考へないが、その性質が音節に似た點が少くないのでかく名づけたのである)。
 右のやうに、いくつかに句切る事が出來る文は、二つ以上の文節が合して出來たものである。又、前に擧げたそれ以上に句切る事が出來ない文は、文節唯一つから出來たものである。それは、これと全く同じ語が、他の文に於て、その一文節となつてゐるのによつて明かである。
行け〔二字傍線〕。(一文一文節) あちらへ|行け〔二字傍線〕。(一文二文節)
いらつしやい〔六字傍線〕。(一文一文節) こちらへ|いらつしやい。〔六字傍線〕。(一文二文節)
お早う〔三字傍線〕。(一文一文節) お早う〔三字傍線〕|ございます。(一文二文節)
 さすれば、文節は、文を構成する單位であつて、文は一つ又は二つ以上の文節から成立つものである。
 文節は、それ/”\一定の形をもち、且つ一定の意味を表はしてゐる。あらゆる文は、文節に分解出來るのであるが、それらの文節は、すべて違つたものかといふに決してさうでは無い。同じ文節が、(8)違つた文に於ても亦その構成要素として用ゐられるのである。例へば、
  今日も|いい|お天氣です。
の文を構成する文節「今日も」は、
  今日も|人が|出盛りませう。
あの|子供は|今日も|こゝへ|來た。
などの文に於てもその構成要素として用ゐられ、「お天氣です」は、
毎日|いやな|お天氣です。
などの文に於ても、その構成要素の一つとなつてゐる。あうして、文節はこれ等の場合を通じて、同じ意味を持ち同じ形を保つてゐるのである。
 さて、文節は、何れも一定の意味をもつてゐるが、その形の上から見れば、次のやうな特徴をもつてゐる。
一、一定の音節(これは無論一つ又は二つ以上の單音から出來たものである)が一  定の順序に並んで、それだけはいつも續けて發音せられる(その中間に音の斷  止がない)。
二、文節を構成する各音節の音の高低の關係(即ちアクセント)が定まつてゐる。  例へば、東京語では、「今日も」は「キョオモ」のキョの部分が高く、オとモの  部分を低くいつも發音し、(9)「いい(好)」は初のイを高く次のイを低く發音  するなど。
  三、實際の言語に於ては、その前と後とに音の切目をおく事が出來る。
四、最初に來る音とその他の音、又は最後に來る音とその他の音との間には、それ  に用ゐる音にそれ/”\違つた制限がある事がある。例へば、東京語では、ガ  行音(〔g〕で初まる音節)は最初には用ゐられるが、それ以外の位置には用ゐ  られず、鼻音のガ行音(〔〓〕で初まる音節)は、最初には用ゐられず、それ以  外の位置にのみ用ゐられる。又、〔N〕(假名では「ん」と書かれる)以外の子音  は最後には用ゐられない(文節の最初の音又は最後の音に關する右のやうなき  まりを頭音又は尾音の規則といふ)。
 文節は、文を分解して最初に得られる單位であつて、直接に文を構成する成分(組成要素)である。從來の文法家は、主語述語修飾語等を文の成分と認めてゐるのであるが、例へば「日は東から出る」の文を「日は」「東から」「出る」の三つの成文から出來たものとしてゐる點に於て、文を文節から成ると見るのと一致するのであつて(この文を文節に分てば、三つとなる)、殊に右の「日は」の如きは、意味から見れば、「日」が主語であるべきであるのに、之に附屬した「は」までも併せて「日は」を主語と取扱つて居るのは、暗々裡に、文節を文構成の單位とする事を認めてゐるとも見られるであらう(但し、從來文の成分と認めた主語述語其他は、必しも常に文節と一致するのではない。(10)しかし多くの場合は、一つの文節か、さもなければ、いくつかの文節の結合したものに一致する)。從來の文法家で明に文節を文構成の單位として認めたものは松下大三郎氏であるが、氏は之を念詞又は詞と名づけ、「詞は斷句の成文であつて、自分だけの力で觀念を表すものである」(改撰標準日本文法一九頁。斷句といふのは、普通いふ「文」にあたる)、又は「詞とはその語が自力を以て或る觀念を表すものである」(標準日本口語法一一頁)と定義してゐるが、これは主として意味の方面から見たものであつて、その外形(音)の方面からの觀察が缺けてゐる爲に、明瞭で的確な概念を得られない虞がある。文節は、前述の如く、實際の言語に於て、いつでも續けて發音せられる最短い一句切であつて、そのアクセントが一定してゐる。實際、アクセントは、文節を單位として考察した場合に一定した形を示すものであつて、同じ語でも、それだけで一文節になる場合と、助詞をつけて一文節となる場合とで、アクセントが、かはる事があるが、その文節としては、いつも定まつた形を示すのである(例へば「きみ(君)」は、それだけで一文節の場合は、最初の「き」がやゝ低いだけであるが、「きみこそ」となれば、「み」と「こ」の部分が著しく高くなつて、その場合の「きみ」の部分は、單獨の場合とはアクセントを異にする。しかし「きみ」及び「きみこそ」といふそれ/”\の文節としては、そのアクセントの形は定まつてゐる)。
 又、文を文節に分つのは、日本人の言語意識として決して不自然でないことは、全く文法の知識の(11)無いものに、實際の文を分解させて見ても、大體之を文節に分ち得るのによつても明かである。
前に松下氏の所謂詞を文節にあたるものとしたが、實はこれは十分正確ではない。氏は詞の中に單詞と連詞との別を立ててゐるが、その單詞が正に文節にあたるのであり、連詞は二つ以上の文節の結合したものにあたる。しかし、それでも、前に述べた私の批評は妥當である。
 
 三 語
 文節は更に意味を有する言語單位に分解する事が出來る。即ち文節は語(單語)から成立つてゐる。それ以上分解出來ない文節もあるが、それは、唯一つの語から出來たものである。即ち、
「山」「川」「行く」「思ふ」「白い」「淋しい」「重く」「ちつと」「そして」「あゝ」(一語一文節)
「山|の」「川|を」「行く|と」「思つ|た」「行か|ない」「白く|て」「淋しけれ|ば」「ちつと|も」(二語一文節)
  「山|に|は」「川|さへ|も」「思ふ|ばかり|が」「行か|う|けれども」「思は  |れ|よう」「思は|せ|たい」(三語一文節)
  「山|に|だけ|は」「行か|れ|なかつ|た」「川|で|せう|か」「取ら|せ|ま  す|まい」(四語一文節)
「思は|れ|ませ|ん|でせ|う|よ」(七語一文節)
     〔入力者注、傍線で示してあった語の切れ目を縦線にした。〕
これ等は皆一文節として用ゐられるもので、一つ又は二つ以上の語から成立つてゐる。
(12) それでは語とはどんなものであるか。語はそれぞれ意味をもつてゐる。それ故、意味を有する言語の單位の一種であつて、文節を構成するものである。これは二種に分つて考へなければならない。第一種は、それ自らで一文節をなし得べき語である。前に擧げた「山」「川」「行く」「思ふ」など(「一語一文節」と標したもの)は、之に屬する。第二種は、「の」「を」「と」「て」「さへ」「が」「だけ」「た」「たい」「です」「う」「よう」など(助詞助動詞)の類で、それ自らで一文節を形づくる事なく、常に第一種の語に伴ひ、之と共に文節を作るものである。もし語が第一種のものばかりであるとしたならば、語は即ち文節であつて、語と文節とを區別する必要はないであらう。然るに第二種の語があつて、第一種のものと共に一文節を構成するのである。その場合には、第一種の語も第二種の語も、文節の一部分となつて、その間に切れ目をおく事なく一つゞきに發音せられる。第一種の語がそれだけで一文節をなす場合には、實際の言語に於てその語の前と後とに切れ目をおいて發音する事が出來るのであつて、前後に切れ目をおいて、それだけ切り離して發音することを、形の上から見て獨立したものであるとするならば、第一種の語がそれだけで文節を作る事が出來るのは、それが獨立し得るものであるからであつて、第一種の語は獨立する事が出來る語であるといつてよいのである。然るに、第二種の語は、いつも第一種の語と共に文節を作り、それだけで文節を作る事が無い故、その前後に切れ目をおいて發音することが出來ず、從つて、獨立しない語であるといふべきである。さうして第(13)一種の語も、第二種の語と共に文節を作つた場合には、第二種の語と一つゞきに發音し、その前と後とに切れ目をおく事が無い故に、獨立を失つた事となるのである。即ち
一、第一種の語は、形の上からいつて獨立し得る語であるが、又獨立しない場合が  ある。
  二、第二種の語は、獨立し得ぬ語であつて、いつも獨立し得べき語と共に用ゐられる。
 第一種の語が、それだけで文節をなす場合には、文節と同じく、その外形が一定してゐる。即ち、きまつた音節が一定の順に結合して一つゞきに發音され、そのアクセントも一定してゐる。さうして、その最初の音及び最後の音には頭音尾音の規則が正しく行はれてゐる。しかるに、それが第二種の語と共に文節を成して獨立を失なつた場合には、時としてアクセントが變じ、又その語尾が變ずる事がある。例へば、「花」は單獨で一文節をなす場合には第二の音節が高く「ハ|ナ〔傍線〕」といふが、助詞「の」を附けて「花の」で一文節をなす場合には、第二音節が低くなつて、「ハナノ」となる(片假名の右にある線は、その部分が高い事を示す。以下同じ)。「君」は單獨の場合には特に高い所なく「キミ」であるが、「君さへ」「君など」の文節では「キ|ミ〔傍線〕サ〔傍線〕エ」「キ|ミ〔傍線〕ナ〔傍線〕ド」と「ミ」の部分が高くなる。又「本」(ホン)は單獨では〔honN〕と發音して、ンの部分は〔N〕音であるが、「本が」「本の」「本も」の文節は、それぞれ〔ho〓〓a〕〔honno〕〔hommo〕と發音し、ンの部分が〔〓〕〔n〕〔m〕と變化する。これは、ホンがそれだけで文節をなす場合には、ンが文節の終の音であるから、〔N〕以外の音が來る事が許されぬ(14)のであるが、助詞を附ければンが文節の中の音になつて、尾音としては許されぬ〔N〕以外の音があらはれるのである(以上のアクセントや音の變化は意味には關係しないものである)。
 第二種の語は、第一種の語と共に文節をなし、しかも常にその下に附くから、その語の最初の音は、文節の最初に來る事がない。それ故、頭音の規則には從はない。かやうにして、助詞「が」「ぐらゐ」は、東京語では文節の最初に來る事の無い〔〓a〕音〔〓u〕音ではじまる。又、「は」「へ」は文節の初ではワ・エと讀む事が無いのに、助詞「は」「へ」をワ・エと讀むのも、之に似た現象である。又、第二種の語はその附く第一種の語のアクセントによつて、時にそのアクセントを變ずる事がある。例へば、「まで」は「體まで」の時はカラダマ〔三字傍線〕デとなり、「心まで」の時はコ|コ〔傍線〕ロマデとなつて、前者の場合にはマが高く、後の場合にはマが低くなつてゐる。「其でも」(ソレデ〔二字傍線〕モ)と「後でも」(ノ|チ〔傍線〕デモ)との「でも」(デ〔傍線〕モとデモ)、「我々より」(ワレワレヨ〔四字傍線〕リ)と「君等より」(キ|ミ〔傍線〕ラヨリ)の「より」(ヨ〔傍線〕リとヨリ)も亦同樣である。要するに、アクセントは、文節全體として定まつてゐるのであつて、語が文節の一部分となつた場合には、その語のアクセントは、變ずる事があるのである。
 以上第一種及び第二種の語を通じて、あらゆる語の性質としては、
一、語は文節を構成する單位である。
二、語は各一定の意味をもつてゐる。
(15)  三、一の語の形を構成する諸音節及びそのアクセントは、普通一定してゐるが、    他の語と共に文節を作る場合には、多少變化する事がある。
  四、一語は常に一續きに發音せられるが、又、他の語と共に一續きに發音せられるものもある。(第二種の語は常に他の語と一續きに發音せられる。)
五、語が他の語と共に文節を作る場合には、語の最初又は最後の音は、頭音又は尾  音の規則に從はない。
 
 四 語の構成要素としての語及び接辭と語根
 語(單語)は、更にそれよりも小さい、意味を有する言語單位に分解する事が出來るかどうかといふに、「やま」(山)「かは」(川)「おもふ」(思)「ゆく」(行く)「あゝ」(嗚呼)などの語は、これ以上分解できない。かやうなものは甚多いのであるが、語の中には、また分解出來るものもある。「さあだる」(酒樽)「あまがさ」(雨傘)「ほんばこ」(本箱)「ひつぱる」(曳張る)「きんどけい」(金時計)「はげあたま」(禿頭)「あかおに」(赤鬼)などの語は、それ/”\「さけ」と「たる」、「あめ」と「かさ」、「ほん」と「はこ」、「ひき」と「はる」、「きん」と「とけい」、「はげ」と「あたま」、「あか」と「おに」のやうに、いくつかの語が合して出來たもので、之を複合語又は複合詞と稱するが、これ等は、いづれも、それ/”\意味をもつてゐる部分に分解出來るものである。これ等は何れも獨立し得(16)べき單語が合して出來たものであるが、既に合して一語となつた以上は、もとの語はその獨立を失ひ、新な語の部分を成すに過ぎないものである。それは次の事によつて證明せられる。
  一、これ等の語は、いつも全體が一つゞきに發音せられ、その各成分(もとの語)の    間に、音の切れ目をおく事がない。もし、その成分が各獨立し得べき語ならば、    その間に切れ目を置く事が出來る筈である。これによつて、成分が獨立を失なつ    た事が明かである。 
  二、これ等の語の各成分は、もとの語とその形が違つてゐるものがある。「さかだる」    の「さか〔右○〕」は「さけ〔右○〕」と違ひ、「だ〔右○〕る」は「た〔右○〕    る」と違つてゐる。その形(「さか」や「だる」)は決して獨立して用ゐられな    い。
  三、アクセントは、語全体として定まつてゐる。それはその成分となつたもとの語の    アクセントとは一致しないものが多い。「はげあたま」のアクセントはハゲア〔二    字傍線〕タマであるが、單獨の語としては「はげ」と「あたま」のアクセントは、    ハ〔傍線〕ゲ、アタマ〔二字傍線〕である。「あかおに」はアカオニであるが、    「あか」はア〔傍線〕カ(「あかい」はアカイ)「おに」はオ|ニ〔傍線〕であ    る。かやうに二つ(又は二つ以上)の語が合して(多くの場合にそのアクセント    が變つて)全體としてのアクセントが定まつて、はじめて全部が一體として感ぜ    られる。
   四、意味に於ても、複合語の意味は、もとの語の意味が加はつただけでなく、それが結合して新(17)な意味が加はつて全體として一つの意味を表はす。「あまがさ」は「雨」と「傘」だけでなく、「雨のふる時用ゐる〔七字右○〕傘」の義であり、「ほんばこ」は「本を入れる〔四字右○〕箱」であり、「はげあたま」は「禿げた〔右○〕頭」であり、「あかおに」は「赤い〔右○〕鬼」である。
 語が合して複合語になつた場合に、もとの語は獨立を失つてゐることは、これ等のこと實によつて明かである。しかし、獨立し得べき單語が獨立を失ふのは、新な語の成分となつた場合のみならず、他の語と共に文節となつた場合にも起るのであるから、右の如く語が合して出來た複合語を、文節と認めずして語と認めるのは、猶他に理由がなければならない。
 語は文節を構成する單位である。複合語を語と認めるのはそれが單獨で又は他の語と共に文節を構成する場合に、それ以上分解する事が出來ない單純な語と全く同一の方法をとるのであつて、この點に於て語と性質を同じくするからである。例へば「雨傘」は、單獨で文節となり、又助詞助動詞が附いて、「雨傘が〔右○〕」「雨傘の〔右○〕」「雨傘さへ〔二字右○〕」「雨傘だ〔右○〕」「雨傘でせう〔三字右○〕」などの文節を作るが、これは單純な「傘」といふ語が、或は單獨で文節を作り、或は「傘が〔右○〕」「傘の〔右○〕」「傘さへ〔二字右○〕」「傘だ〔右○〕」「傘でせう〔三字右○〕」などの文節を作ると全く同樣である。「曳張る」は、「曳張る」「曳張ると〔右○〕」「曳張るけれども〔四字右○〕」「曳張るのは」「曳張らない〔二字右○〕」「曳張られました〔四字右○〕」などの文節を作ること、單純な「張る」の語が、「張る」「張ると〔右○〕」「張るけれども〔四字右○〕」「張るのは〔二字右○〕」「張らない〔二字右○〕」「張られました〔四字右○〕」などの文節を作るのと同じである。(18)それ故、これ等の複合語を語と認めるのである。
 次に、「お寺」「御本《ごほん》」「み堂」「子ども」「私たち」「春めく」「動かす」「赤める」「白《シラ》む」などの諸語も、亦意味を有する單位に分解出來るもので、獨立し得べき語「寺」「本」「堂」「子」「私」「春」「動く」「赤」「白」などに、それ/”\「お」「御」「み」「ども」「たち」「めく」「す」「める」「む」などが附いて出來たものである。この「お」「御」「み」以下のものは、決して、語の如く單獨にあらはれる事なく、常に他の語に附着して、之に或意味を附加するものである。之を接辭と云ひ、他の前に附くのを接頭辭、後に附くのを接尾辭といふ。接辭は一定の形をもつてゐるが、何時も他のものに伴つてあらはれ、それと一續きに發音されるもので、決して獨立しないものである。從つて或語に接辭が附いた場合には、その語と接辭とか一つゞきに發音され、その語は獨立を失ふのである(その際、語の音の一部が變る事がある。「し|ろ〔傍線〕(白)」が「し|ら〔傍線〕む」となるなど)。かやうにして出來た語は、一定のアクセントを有するが、接辭と、それの附いた語とのアクセントの關係は、接辭によつて樣々であつて、接辭の部分のアクセントは、どんな語に附いても變らない場合が多いが、又變るものもあり、語のアクセントは接辭が附いた爲に變る事が多い(佐久間鼎氏「日本音聲學」五一四頁以下參照)。さうして、かやうに語に接辭が附いて出來たものを、やはり語と認めるのは、それの文節構造上に於ける性質が、單純なる(分解出來ない)語と同樣であつて、單純なる語が構成すると同樣な種々の文(19)節を構成するからである。
 次に、「ほのめく」「しづめる(鎭)」のやうに、接尾辭が、「ほの」「しづ」のやうな、獨立する事が無い形に附いたものがある。この「ほの」「しづ」は、また、「ほのかに」「しづかに」「ほのぐらい」「しづ心」「ほの/”\」「しづしづ」のやうに、或は他の接尾辭(「かに」)を附け、或は他の語(「くらい」「心」)と合し、或は自身で重なつて、語を作るものであつて、その有する意味は、接辭のやうな附屬的の意味ではなく、これ等の諸語の中心となる意味をあらはしてゐる。かやうなものを語根といふ。「ひらち(平地)」「ひらたい(平)」「ひらに(平)」「まつぴら(眞平)」「たひらかに(平)」の「ひら」も亦語根であるが、その形は「ヒラ」が「まつぴら」ではピラとなり、「たひらかに」ではイラとなつてゐる。かやうに語根の形は時として幾分變ずる事があるのである。
 語根はそれ自身決して獨立する事のないものである。それが獨立しない接辭や他の語根と合し、又は獨立し得る語と合して(この場合には、獨立し得べき語もその獨立を失なふ事、複合語の場合と同樣である)、全體として一定の形を取り(全體の音の形がきまり、一定のアクセントが附いて)、獨立し得べき言語單位を作るのである。さうして、これ等の言語單位が、語と認められるのは、やはり、これ等が單純な(それ以上分解出來ない)語と同樣な文節を作るもので、その文節構成上の性質が、單純な語と同一であるからである(文節は、語から成立つもので、文節には必ず獨立し得べき語を含ん(20)でゐる。獨立し得ぬ語根と接辭とから出來た單位が文節でない事は、この點からでも明かである。しかし、語根と語とから出來たものは、なほ文節か語かが問題になる)。
 以上、語の更に小さい言語單位に分解し得べきものは、(一)語が合して出來たもの、(二)語に接辭が附いて出來たもの、(三)語根に接辭が附いて出來たもの、(四)語根と語が合して出來たもの、(五)語根が重なつて出來たものなど種々のものがある事を見たのであるが、接辭や語根は語の構成要素であつて、更にそれ以上に分解する事が出來ない最小の意味を有する單位である。
 かやうにして、文は文節より成り、文節は語より成るものであつて、語の或るものは、更に他の語や、語根や接辭から構成せられるものである事が明かになつた。
 
 五、獨立せぬ語と接辭
 以上、意味を有する言語單位としては、大小種々のものがある事を見たのであるが、その中、形の上から見て獨立する單位又は獨立し得べき單位としては、文及び文節があり、獨立しない單位としては、語根及び接辭がある。しかるに、語は、或るもの(第一種の語)は獨立し得るが、或るもの(第二種の語)は獨立しない。獨立し得る語が單獨で一文節となつた場合には、それは文節と等しくなるが、獨立しない語(助詞助動詞)は、常に他の獨立し得べき語と共に、獨立し得べき言語單位(文節)を作るのである。然るに、接辭は獨立せぬ單位であつて、これは獨立せぬ單位なる語根に附く事がある(21)が、また獨立し得べき語に附いて、獨立し得べき言語單位(語)を作るのである。かやうに、第二種の語も接辭も、共に獨立しない單位である點、及びそれが獨立し得べき語に附いて、獨立し得べき單位を構成する點に於て、兩者は、全く同じ性質を有するが、第二種の語が附いて出來た單位を文節とし、接辭の附いて出來た單位を語として之を區別するのは何に基づくのであらうか。
 前に述べたやうに、接辭が附いて出來た單位を文節と認めず語と認めるのは、その單位が文節を構成する上に於て、語と全く同樣であつて、語が構成すると同樣の種々の文節を形づくるからである。それでは、第二種の語が附いて出來た單位はどうであるかいふに、例へば「山が」「山は」「山から」「山だけは」「山か」のやうに、助詞が附いて出來たものは、さらにそれだけが一單位となり、その上に種々の語が附いて、語が形づくると同樣な種々の文節を形づくる事は無い(勿論、「山に」に更に「は」が附いて「山には」といふ文節が出來るが、これは他の語に「は」のついた「花は」と同等な文節ではない)。それ故、之を文節そのものと認めて、文節を構成する語とは認めないのである。しかるに、「行かない」「行きます」「行つた」「行かう」「山だ」のやうに、助動詞の附いたものは、「行く」が、それだけで一文節となり、又、「行くけれども」「行くが」「行くのは」のやうな文節を構成すると同樣に、それだけで一文節となり、又、「行くけれども」「行くが」「行くのは」のやうな文節を構成すると同樣に、それだけで一文節を作り、又、「行かないけれども」「行かないが」「行かないのは」「行きますけれども」「行きますが」「行きますのは」などの文節を構成する(但し、「行かう」「山だ」は「行かう(22)けれども」「山だけれども」「行かうが」「山だが」の文節を作るが、「行かうのは」の如き文節は作らないやうに、助動詞によつて、いくらか差異のあるものもある)。この點に於て「行く」といふ語と同樣であるから、かやうな單位は文節でなく、むしろ語と認むべきである。さすれば、右のやうな助動詞は、語に附いて語を作る獨立しない單位であり、他の語に附屬的の意味を加へ るものであるから、語ではなく、むしろ接辭(他の語の下に附く故、接尾辭)と認むべきである。山田孝雄氏が、助動詞を用言の複語尾として、用言に助動詞の附いたものを一語と認めたのも、かやうな點から見れば合理的であるといふべきである(同氏は複語尾と名づけたが、複語尾も獨立しない單位が加はつて一語となるもので、接尾辭と同種のものである)。但し山田氏は、「山だ〔傍線〕」の如く、用言以外のものにも附く助動詞は複語尾と認めず、之を一語とした。實際、用言に附く助動詞はすべて接尾辭とするとしても、用言以外のものに附く助動詞はむしろ一語と認むべき理由は別にあるのである(山田氏は之を用言とし、獨立する語と同樣に取扱つたが、私は、やはり助動詞と認めるがよいと思ふ。こ事については別に論じない)。
 以上考究した所によれば、第二種の語、即ち獨立しない語の中、助詞はやはり語と認むべきであるが、助動詞はその性質が接尾辭と區別し難く、むしろ接尾辭に收むべきである。但し、用言以外のものに附く助動詞は語と認むべきである)。
(23) 接尾辭は語根に附くものもあるが、第二種の語は常に語に附いて語根には附かない。助動詞を接尾辭と認めるとしても、これは語根には附く事はない。しかし、接尾辭にも語に附くものがあり、その方が接尾辭として我々の意識に上る事が多い。それ故、助動詞が語に附いて語根に附かない事を以て助動詞と接尾辭とを區別することは出來ない。
 右のやうな見解は十分合理的であると考へる。しかし、第二種の語と接辭との差異をなほ他の點に求める事も出來る。即ち接辭は、必しも唯一つの語だけではなく、いろ/\違つた語にも附くが、それは、慣用ある語に限られて、どんな語にも附くのではない。然るに、第二種の語(助詞助動詞)は一般に多くの語に附く。あらゆる語には附かないにしても、或種類の語(例へば體言とか用言とか)には原則として、どんな語にも附く。その附き方が自由であり、規則的である。アクセントから見ても、或語に接辭が附いた爲に生ずるその語のアクセントの變化(又は不變化)は、語によつて異り、一般的に論ずる事が出來ないに反して、或語に助詞や助動詞の附いた爲に生ずるその語のアクセントの變化は、語のアクセントが同形式であるものには皆同樣にあらはれ、規則として述べる事が出來る。へば、助詞「に」が附けば、語はその語はそのアクセントに變化を來さない(「鼻」ハナ「鼻に」ハナニ、「花」ハ|ナ〔傍線〕「花に」ハ|ナ〔傍線〕ニ、「秋」ア〔傍線〕キ「秋に」ア〔傍線〕キニ)。「の」がつけば、後高のアクセントを有する語は、高い部分が低くなつて助詞と同じ高さになる(「花」ハ|ナ〔傍線〕「花の」ハナノ、「頭」アタマ〔二字傍線〕「頭(24)の」アタマノ)。助動詞も同樣に多くの語に自由に規則的に附く故、やはり接辭と區別する事が出來る(アクセントの點も助詞と同樣である)。さすれば、語に附いて之に附屬的の意味を加へる獨立しない單位の中、多くの語に自由に規則的に附くものを語(第二種の)とし、或限られた、慣用のある語のみに附くものを接辭として、兩者を區別することとなるのである。しかしながら、さうすれば、接辭の中で、多くの語に一般的に附く接頭語「お」や「ご(御)」、接尾辭「さん(樣)」なども、亦第二種の語と見なければならなくなるのである(但し「お」は、それの附く語のアクセントを變へる場合が多いが、その變化は語によつて異り、十分規則的ではない)。
 從來の文法では、助動詞も助詞と共に語と認めてゐる(それ故、この稿にに於ても、それに從つて、助動詞の附いたものをも文節と見ておいたのである。)もし、語と接辭との區別を今述べたやうな見地から立てるとすれば、その結果は、從來の語をそのまゝ語と認める事となり、唯、從來接辭と認められてゐたものの中の少數を語とすればよい事となる。實際、自由に規則的に他の語に附くと、慣用あるものだけに限つて附くとの差は文法上大切な事であるから、かやうな見方もも亦理由がある。
 しかしながら、文節構成上、單純な語と性質を同じうするか否かによつて、語と然らざるものとを分けるのは、語が文節を構成する單位である點から見て重要な事と考へられる故、純理の上から云へば、この方が正當であるやうに思はれる。この見方によれば、助動詞は接尾辭の中に入るのであるが、(25)しかし助動詞は、その附き方が自由で規則的である點は、慣用ある語にしか附かない他の接尾辭と違つてゐる故、之を接尾辭として取扱つても、他の接尾辭と多少區別する方が穩當でもあり便利でもあらう。山田氏が助動詞を語の一部分と認めながら、之を接尾辭とせず、複語尾として取扱はれたのは、その結果に於て右の取扱ひに近いものである(之と違ふ所は複語尾を接尾辭の一種としなかつたことである)。
 獨立し得ぬ語(第二種の語)と接辭との區別は何處にあるかの問題は、關係する所が廣く、以上述べただけではまだ盡きてゐないのである。以下、活用や品詞分類を論ずる際にも、この問題に觸れるであらう。
 かやうに、第二種の語と接辭との區別が問題になるのは、兩者の別が根本的のものでなく、むしろ程度の差に過ぎないからである。
 
     二 語の活用
 一 活用と活用形
 語の活用といふのは、同じ語が種々の違つた形をとる事であつて、その形の違ひは主として語の後の部分にある故、語尾變化といはれてゐる。その語形の違ひは、「書か〔傍線〕」「書き〔傍線〕」「書く〔傍線〕」「書け〔傍線〕」の如(26)く、最後の音が入れかはつて出來たものもあり、又「起き〔傍線〕」「起きる〔二字傍線〕」「起きれ〔二字傍線〕」のやうに或は「る」或は「れ」の音が加はり、或はこれ等の音が加はらない爲に生じたものもあり、又、「こ〔傍線〕」「き〔傍線〕」「くる〔二字傍線〕」「くれ〔二字傍線〕」(來)、「せ〔傍線〕」「し〔傍線〕」「する〔二字傍線〕」「すれ〔二字傍線〕」(爲)、「白く〔傍線〕」「白い〔傍線〕」「白けれ〔二字傍線〕」のやうに、音自身が入れかはると共にその或ものに「る」「れ」の音が加はつて出來たものもある。一音節の語は、假名で書いた形では、語尾だけでなく、語全部が變化するやうに見えるけれども、實際變化するのは、その音節の母音以下であつて、最初の子音は變化しないのが常である(「見る」は、mi miru mire で最初の「m」は變化しない)。唯、「える」(得)及び「いる」(射・鑄)だけは音節の最初子音が無い故に、語全體が變化すると見なければならない(現代の發音では「ゐる(居)」もこの類である)。それ故、活用を語|尾〔右○〕變化といふのは、嚴格にいへば正しくなく、語|形〔右○〕變化といふべきである。
 一つの語が幾つの違つた形をとるかは、語によつて同じくない。文語に於ては三つ(例へば「見」の「み」「みる」「みれ」)から六つまで(例へば「死」の「死な」「死に」「死ぬる」「死ぬれ」「死ね」)、口語では三つから普通四つまで(しかし、委しく見れば六つまで)ある(所謂形容動詞を入れればもつと多くなるが、これは別に考へたい)。。もつとも、助動詞になると口語文語とももつと少いのがあり、極端になると、只一つの形しかないもの、即ち語形變化のないものもある。變化しないものをどうして活用と認めるかは、後に論じたい。
(27) 前述の如く語の活用は、語の形の變化、ことに語尾變化である。然らば、語形の變化、語尾變化は、すべて活用であるかといふに、さうではない。一昨日といふ意味の「おととひ」といふ語と「おとつひ」といふ語が同じ言語に行はれてゐるとしても、その|と〔傍線〕と|つ〔傍線〕との音の入れかはりを活用とはいはない。又、「さ|け〔傍線〕(酒)」が「さかだる(酒樽)」の時は、「さ|か〔傍線〕」となり、「う|へ〔傍線〕(上)」が「うはぎ(上着)」の時「う|は〔〔傍線〕」となり、「し|ろ(白)」が「しらほ(白帆)」の時「し|ら〔傍線〕」となり、「ふろ(風呂)」「か〔傍線〕き(垣)」が「あさぶろ(朝風呂」)」「いしがき(石垣)」に於て、「ぶ〔傍線〕ろ」「が〔傍線〕き」となるのも語形の變化であり、或ものは語尾の變化であるが、これ等も活用とはいはない。「おち」「おちる」(落)、「おり」「おりる」(下)、「および」「およぶ」(及)、「きゝ」「きく」(聞)、「あけ」「あける」(明)、「ふけ」「ふける」(深)と活用する語でさへも、、「おと〔二字傍線〕す」「おろ〔二字傍線〕す」「およ〔二字傍線〕ぼす」「きこ〔二字傍線〕える」「あか〔二字傍線〕す」「ふか〔二字傍線〕す」と變化したものは之を活用の中に數へない。さすれば活用といふのは、單に語の外形のみに關するものではない事が知れる。今、活用する語の、それ/”\の違つた形が如何なる用をなすかと考へてみるに、例へば、「行く〔傍線〕」といふ形は、「私が行く。」のやうに文がそこで終止する事をあらはし、「行き」といふ形は、「君も行き、僕も行行く。」のやうに、一寸中止して、之と同等の資格の語に續く事を示し、「行け〔傍線〕」といふ形は、人に命ずる意味を持つて、そこで文が終止する事を表はしてゐる。又、「行か〔傍線〕」は「行か〔傍線〕ない」「行か〔傍線〕う」「行か〔傍線〕せる」など「ない」「う」「せる」などの語を附ける場合に用(28)ゐ、「行け〔傍線〕」は「行け〔傍線〕ば」のやうに「ば」を附ける場合に用ゐる。かやうに、語の意味のきれつゞきを示し、又種々の語に續く爲に、同じ語の形の變化するのを活用といふのである。かやうな、活用する語の種々の違つた形を活用形といひ、各活用形が意味の切れつゞきを示し又は種々の違つた語に續く事を活用形の用法と呼ばう。
 活用する語は、その意味は種々樣々で互に同じくないが、その活用形は、それ/”\右のやうな用法をもつてゐる。違つた語の各活用形を互に較べてみると、その活用する部分の形が全く同じものもあり「行か〔傍線〕」「行き〔傍線〕」「行く〔傍線〕」「行け〔傍線〕」と「み」「みる」「みれ」の類)、樣々であるが、その用法を見ると互に同一なものがある。さうして、用法を同じくする活用形は、必しも、その形を同じくしない。例へば、「行く」といふ語の「行か〔傍線〕」といふ形は「ない」「う」などにつゞくが、「見る」といふ語は「み」といふ形が之と同じ用法を有する。さうして「行か〔傍線〕」と「み〔傍線〕」とは形としては全く違つたものである。又、用法から見ると、一の語の二つの違つた活用形の有するいろ/\の用法を、他の語では一つの形で兼ねてゐるものがある。例へば「行く」は「ない」「う」につゞくには「行か〔傍線〕」の形を取り、中止法の時、又は「ます」につゞくには「行き〔傍線〕」の形を取るが、「見る」はこれ等の場合を通じて、「み」の形を取る。即ち「行か〔傍線〕」「行き〔傍線〕」の二つの形の用法を「み」の形が兼ねてゐるのであつて、(29)「み〔傍線〕」の形は用法上「行か」「行き」の二つの形に對應する。前に述べた通り一つの語の活用して變化する形の數は語によつて多少があるが、右の如く、その用法を比較して、他の語の二つの形に對應するものは、たとひ同じ形であつても、二つの形と見做すとすれば、活用する語は、一語であつて最多くの形を有するものに準じて、すべて文語では六つ、口語では普通四つの活用形を有することとなる。普通の文法に認められた、未然・連用・終止・連體・已然・命令の六活用形は、かやうにして文語から得たものであつて、同名の活用形は、その用法を同じうするものである。口語の活用形を六つにするのは、文語のを口語にあてはめたもので、口語では實際は普通四つの違つた形しかない(但し、委しく見れば非常に多くなつて、八つにもなる。これは下に論ずる。又所謂形容動詞の活用については別に論ずる)。
 
 二 活用形の用法
 各の活用形は、それ/”\獨自の用法を有する。その用法に就いて考へて見るに、之を二種に大別する事が出來る。一は、活用形がそれだけで或意味を表はすもの、二は他語に續いて、それと共に或意味を表はすものである。
 第一の用法は、活用形が、他の語の力を借りず、それだけで或意味を表はすもので、例へば、「私が行く。」の場合に、「行く」といふ終止形が、こゝで文が終止することを表はし、「行け。」の場合にその(30)命令形が、人に命令する意味と同時に、こゝで文が終止する事を表はす類である。この場合には、その語は單獨で用ゐられる事が多いが、また助詞の類を附ける事がある。「私も行く|よ〔傍線〕」「行け|よ〔傍線〕」しかし、その語の活用形の表はす所の意味は、助詞が有つても無くても同じことである。かやうな用法は、口語では未然形及び假定形にはなく、文語では未然形に無い。即ち左の通りである。
  一、連用形
    (1) ことばを中止し、下の語に對等の關係で續ける。「君も行き〔二字傍線〕、僕も行く。」
    (2) 用言に續いて、その意味を修飾し又は補足し、又は意味上結合する。「烈しく〔三字傍線〕照る」「暖く〔二字傍線〕なる」「取り〔二字傍線〕きめる」「行き〔二字傍線〕すぎる」(形容詞の場合は規則的。動詞の場合は稍局せり)
    (3) 連用形に助詞「に」をつけて或動作の目的たる事を表はす      。「演説を聞き〔二字傍線〕に行く。」この「聞き」は「東京見物に行く」の「東京見物」と同じく、體言の資格をもつものと認められる。(動詞だけ)
  二、終止形
    文がそこで終止する事を示す。
  三、連體形(口語では終止形と同形)
    (1) 體言に續いてその意味を修飾する。「流れる〔三字傍線〕水」「赤い〔二字傍線〕花」
(31)  (2) 文語では、「ぞ」「なん」「や」「か」を受けた時、文の終止する事を示す。
    (3) 文語に於て、「事」「者」のやうな意味が加はつて體言の資格を附與せられた事を示す。「まして雨などの降る〔二字傍線〕いとわびし」「言ふ〔二字傍線〕は易く、行ふ〔二字傍線〕は難し」など。口語でも、「さう言ふ〔二字傍線〕はよいが」などと稀に用ゐる。
  四、已然形(口語では「假定形」といふ)
    口語では、單獨で用ゐない。文語では助詞「こそ」を受けた時、文の終する事を示す。「春こそ樂しけれ」猶上代語には、下に助詞「ば」を附けたやうな意味で用ゐられた事がある。「さよばひにありたゝし、よばひにありかよはせ〔四字傍線〕、たちがをもいまだとかずて――」「思へ〔二字傍線〕かも胸やすからぬ戀ふれ〔三字傍線〕かも心の痛き」
  五、命令形
    命令の意味を表はして文を終止する。
 以上第一の用法は、その語の形や意味如何にかゝはらず、同じ活用形を有するものは、その語の意味に附帶して右のやうな意味を有するのである。
 第二の用法は、助詞や助動詞に附く爲の形として用ゐられるものであつて、これ等のものが附いて、はじめて或意味が附帶するのであつて、活用形それだけとしては意味を表はさないものである。例へ(32)ば、「行かない」といふ場合に、「行か」の形は、「ない」に附く爲に用ゐられるもので、「行かない」全體としては「行く」といふ意味に打消の意味が加はつたものである事明かでであるが、この場合に「行か」といふ活用形(未然形)それ自身は何を表はすか明かでない。唯、習慣的に、「ない」には、未然形から續くといふだけである。さうして、「ない」に打消の意味があるやうに普通は考へてゐるけれども、「ない」はいつも未然形に附く故、未然形と「ない」とが合して打消の意味を表はすものかも知れないのである。即ち、かやうな場合は活用形さけ取出しても、無意義である。勿論これ等の場合に、下に附く助動詞助詞の類は、決して單獨に用ゐられる事なく、常に他の語に伴つて、その語に或意味を添加するのである故、その際用ゐられる活用形は、その語に或附屬的の意味を添へる爲の〔二字右○〕ものであるとはいはれるけれども、第一の用法のやうに、それ自らで或意味を添へるのではない。これが第一の用法と根本的に違ふ點である。然るに活用形が、かやうに用ゐられる事は甚多いのあつて、命令形を除くあらゆる活用形にその用法があり、殊に口語文語の未然形及び口語の假定形には、第一の用法は全く無くして、專ら第二の用法の場合にのみ用ゐられる(いかなる活用形にいかなる助詞助動詞が附くかは、どの文法書にも説いてあるから、今こゝに擧げる必要は無い)。
 
 三 活用と語形變化
 第一の用法に於ける活用形はそれ/”\意味をもつてゐる故、その活用形を有する語は單獨で一文節(33)を作る事が出來る。即ち獨立し得るのである。又、之に助詞の類を附けて一文節を作る事が出來る。その場合には、その語は獨立を失つたのであるが、それでも活用形自身の意味は失はれないので(「演説を聞きに行く」の「聞き」はいつも「に」を伴ふが、「聞き」の連用形が名詞のやうな性質を示してゐるのは、「東京見物〔四字傍線〕に行く」とくらべて明かである)。第二の用法に於ける活用形は、助詞助動詞に續く爲の形として用ゐられたもので、その場合には、活用する語は常に助詞助動詞を附けて用ゐられ、之と共に文節を作る。即ち、その場合には、その活用する語は初から獨立しないのである。たとひこの語の形(活用形)は第一の用法のものと同一であつても(例へば「行きます」の「行き」と、中止法の「行き」のやうに)、一方には意味が無く、一方には意味があつて、決して同一でないばかりでなく、或場合には、そのアクセントまでも違ふ事がある。例へば、「立つ」の連用形は、中止法の時(第一の用法)は「タ〔傍線〕チ」であるが、助動詞の「たい」につゞけば(第二の用法)タチタ〔二字傍線〕イとなる。「坐る」の終止形も、文の終止としては(第一の用法)、「スワル」であるが、助詞「の」につゞけば(第二の用法)、「スワル〔二字傍線〕ノ」となる。これによつても、この二種の用法の混同する事が出來ない事が明かである。まして、未然形の語や口語の假定形の語は、決して獨立しては用ゐられず、常に助動詞又は助詞と共に文節を作るのである。かやうに第二の用法に於ける活用形をもつた語は、いつも獨立する事がないとすれば、之を一語と認める事が出來るかどうかが疑問になる。もし之を一語と認める(34)事が出來ないとすれば、之に伴ふ助詞助動詞は、一語とは認める事が出來ず、接辭としなくてはならなくなるのである(こゝにも亦、獨立し得ぬ語と接辭との區別如何の問題があらはれて來る)。
 實際、第二の用法に於ける活用形を有する語、中にも未然形や口語の假定形の語(「行か」「建てれ」など)が、決して獨立しないのは事實である。しかし、獨立し得べき語も、助詞や助動詞を附ける時、その獨立を失ひ、同時に、アクセントが變る事があるばかりでなく、また音自身のかはる事がある事は既に述べた通りである。さすれば、「行かない」は「行く」といふ獨立し得べき語に「ない」といふ助動詞が附いて「行く〔傍線〕」が「行か〔傍線〕」と變化してその獨立を失つたものと考へる事が出來る。「行か」「行き」「行く」「行け」は、互に形の違つたものであるのに、之を別々の語と見ず、一つの語の變形と見るのは、その語としての意味が同じく、その形も大部分同じであるからである。それ故、第二の用法の語を語と認めるのは、決して不合理でなく、また實際我々の言語意識に背いたものでもない。
 以上の考察によつて明かにする事が出來た活用の性質は次の通りである。
  一、活用とは、語に或意味を添加する爲の語形變化である。
  二、その添加せられる意味は、(甲)或場合には語形變化自身によつてあらはされ、(乙)或場合には、助詞助動詞を加へてあらはされるが、後の場合に於ては活用形は、助詞助動詞を附加する爲の形として用ゐられ、それ自身いかなる意味を表はすか明かでない。
(35) おなじ語形變化であつても、前に掲げた「おと|つ〔傍線〕ひ」「おと|と〔傍線〕ひ」のやうな語形變化は語の意義には全く關係が無いから、活用でない事がは〔一〕に照して明かである。又「さ|け〔傍線〕(酒)」「う|へ〔傍線〕(上)」が「さかだる(酒樽)」「うはぎ(上着)」に於て「さ|か〔傍線〕」「う|は〔傍線〕」となり、「ふろ(風呂)」「かき(垣)」が、「あさぶろ(朝風呂)」「いしがき(石垣)」に於て、「ぶ〔傍線〕ろ」「が〔傍線〕き」となるやうな語形變化は、語が他の語と共に新しい語(複合語)を作る場合にあらはれるものであつて、その語形變化によつて、もとの語が獨立を失ひ、他の語との結合が固くなるが、しかし、意味の上から見れば、かやうな音變化なくしても、同樣な複合語が出來る例が多いのであつて、音變化がある爲に、或特別の關係(意味上の)で結合するといふのでもないから、音變化によつて或特別な意味が表はされてゐるとは考へられない。それ故これも亦〔一〕に照して活用でない事明かである。たゞ「お|と〔傍線〕す〔右○〕」「お|ろ〔傍線〕す〔右○〕」「およ|ぼ〔傍線〕す〔右○〕」「き|こ〔傍線〕える〔二字右○〕」「あ|か〔傍線〕す〔右○〕」「ふ|か〔傍線〕す〔右○〕」など接尾辭に接する場合は、もとの語に附屬的な意味を添加する爲に音變化が生じたのであつて、その點に於て活用と同樣であり、その變化した形は獨立しては用ゐられる事なく、その音變化はそれ自身どんな意味をあらはすか不明な點に於て、活用形形が助詞助動詞に附く爲に用ゐられた場合と同樣であつて、その間に區別が無いやうに見える(尤も、この場合は接尾辭が附くのであつて、活用形に助詞助動詞が附くのとは別であると考へれば、區別は明瞭であるやうであるが、接尾辭と助詞助動詞のやうな獨立しない語との分界は十分明かでなく、普通に助動詞と見做され(36)てゐるものも、實は接尾辭と見得るものがあるとすれば、この區別も十分明瞭であるとはいはれない)。實際、この間には根本的の區別は無いやうである。たゞ、活用する語に助詞助動詞が附く場合には、原則として、どんな語にも附き、又、それ/”\の助詞助動詞がどんな活用形に就くかがきまつてゐる(口語では「ば」は假定形に、「が」「と」「けれども」は終止形連體形に、「ない」は未然形に附く)。即ちその附き方が自由で規則的である。之に反して接尾辭は、語によつて附くのも附かないのもあり、又同じ接尾辭でもそれの附く語の活用形は一定せず、いろ/\の形に附く。例へば「す」は「動か〔傍線〕す」「湧か〔傍線〕す」「靡か〔傍線〕す」のやうに未然形に附くと共に、「明か〔傍線〕す」「深か〔傍線〕す」「燃や〔傍線〕す」「費や〔傍線〕す」「及ぼ〔傍線〕す」「催ほ〔傍線〕す」のやうに、普通の活用形以外の形からも附く。「る」は、「塞が〔傍線〕る「と|が〔傍線〕る」のやうに、未然形に附くと共に、「懸か〔傍線〕る」「助か〔傍線〕る」「當《あ》た〔傍線〕る」のやうに、普通の活用形以外からも附く。或接尾辭がどんな語に附き、どんな形に附くかは、一般的に論ずる事は出來ない。かやうに、接尾辭は附き方が限られて規則的でない。この點が兩者の間の大きな差異である。
 前に、語に附く獨立し得ぬ言語單位としての、獨立せぬ語(第二種の語)と接辭とを區別する方法の一として、種々の語に自由に規則的に附くと、慣用あるものに限つて附くとの相違によるものがある事を述べたが、今見た所によれば、助詞助動詞の如き、獨立し得ぬ語は、多くの語の一定の活用形に規則的に附き、接辭は、語によつてそれの附く形が異り、全體としては一定しない。それ故、右の(37)如き方法によつて、獨立せぬ語と接辭とを區別するとすれば、畢竟、活用は、次の如く考へる事が出來る。
  活用とは、語に附屬的の意味を添加し、又は、語に獨立し得ぬ語を附けて、或意味を添加するための語形變化である。
 もし、助動詞を語と認めず、接尾辭の一種と見るとすれば、右の「獨立し得ぬ語」の中には、助動詞を含まぬ事になる故、これを含ませる爲に、その下に「他に自由に附く接尾辭」といふ語か又は山田氏の語を借りて「複語尾」の語を加へればよい。
 
 四 活用の種類
 【獨立する語の活用】 活用は、獨立する語にもあり、獨立し得ぬ語及び接尾辭にもある。まづ獨立する語の活用について考へて見るに、もし、活用形の用法を考へず、各語にについてそのあらゆる活用した形を集めて、その變化する部分の形だけを考へて、活用の形式が幾種あるかを見ると、文語に於ては、
  (1) a i u e と四つに變化するもの(「書く」「行く」「あり」など)。
  (2) a i u e uru ure と六つに變化するもの(「死ぬ」「去ぬ」など)。
  (3) i u e uru ure と五つに變化するもの(「爲《ス》」)。     
(38)  (4) i u o uru ure と五つに變化するもの(「來《ク》」)。
  (5) i u uru ure と四つに變化するもの(「起く」「下《オ》る」など)。
  (6) i iru ire と三つに變化するもの(「着る」「見る」など)。
  (7) e u uru ure と四つに變化するもの(「受く」「捨つ」など)。
  (8) e e eru ere と三つに變化するもの(「蹴る」)。
  (9) ku ki kere shi と四つに變化するもの(「白し」「良し」など)。
  (10) iku iki ike -re i と四つに變化するもの(「「苦し」「樂し」など)。
 以上十種類を得る(これは普通の文法にある文語の動詞形容詞の活用と大抵一致するが、唯、四段とラ變とが一つになつてゐる爲に一種類だけ少い)。この形を見ると、(1)から(8)までは、變化する部分は、母音であるか又は母音ではじまつてゐる。これに反して、(9)は變化する部分が子音ではじまつてゐる。この事は何を意味するかといふに、(1)乃至(8)の變化する部分(之を語尾といはう)は母音であるか又は母音ではじまるのであるが、この母音は單獨に一音節を構成せず、その語の變化しない部分(之を語幹といはう)の終の子音と合して音節を構成してゐる(「書く」の語尾 aiue は語幹 kak )の最後の子音 k と合して kakikuke の音節となつてゐる)。然るに、日本語の發音法としては、右の如き音節の子音と母音とを離して發音すする事は決して無い故に、これ等の語は、實際の言語としては、(39)語幹の部分と變化する部分即ち語尾とを明かに分離する事が出來ないものである。音節を單音に分解すれば分離する事は出來るが、これでは實際の音としては用ゐられない形になる(それ故、これまでの文法では、最後の子音を除いたものを語幹とし、その最後の子音と語尾の母音との合した音節又はそれ以後の部分を語尾としてゐるのである。しかし、これは語幹と語尾との眞の分界に一致しないものである事はいふまでもない)。又、中には「え・う・うる・うれ」(得)のやうに變化する母音(eu)だけで音節をなしてゐるものもあるけれども、この類のものは語幹にあたる部分が無いのであつて、語尾だけで語幹のない語は認めにくいから、これは、語幹が語尾の中に含まれてゐると見なければならない。さすれば、これ等の語でも、語幹と語尾とを分離する事が出來ないものであるといつてよい。然るに(9)は、語尾が子音ではじまつて、語幹の部分はそれだけで音節が終り、語尾の部分は、そこから別の音節となつてゐるのであつて、語幹と語尾とを發音上分離する事が出來る(「黒し」が kuro-ku kuro-shi kuro-ki kuro-kere と分離する事が出來る類。もつとも實際の言語としては、その間に切れ目をつけて發音しないけれども、音としては、切れ目をつけて發音する事が出來、さう發音しても、日本語の發音上の習慣に背かない。それ故、この類は、從來も語幹と語尾との分界をあやまらなかつた)。即ち前者は日本語の發音法では語幹と語尾とを分離する事が出來ないものであり、後者は兩者を分離し得るものである。(9)はかやうな點で、(1)乃至(8)と區別せられる。
(40) 最後の(10)は語尾の部分が母音ではじまり、その母音は語幹の終の子音と合して音節を作り、語幹と語尾とが實際の發音上分離する事が出來ない點で(1)乃至(8)と同樣である。然るに、この種のものは、(1)乃至(8)に比して他の點に於て特異な點がある。即ち、(1)乃至(8)に於ては、語尾は母音だけであるか、さもなければ母音に ru re のやうなラ行音の附いたものであるのに、(10)は母音だけのものもあるが(i)、更に母音に ku ki kere のやうなカ行音が附いたものがあつて、この點に於て(1)乃至(8)と異なり、かへつて、幾分(9)に近い所がある。即ち、(10)は(1)乃至(8)に近いが、また(9)に似た點もあるのである。
 以上は活用する部分の形だけについて見たのであつて、その意味用法に就いては考へなかつたのであるが、今活用形の用法について考へて見るに、語はその意味や形はどんなであつても、その活用形式が同じものであれば、その各活用形の用法は全く同じである。但し、前に擧げた(1)の形式に屬する語の中、「書く」「行く」「取る」などと「あり」とは、共に aiueの四つに變化するが、その i と u との形は、その用法に於て互に異る所がある。「書く」「行く」の類では u の形を文を終止する場合や助詞「とも」につゞく場合に用ゐるが(「行く〔傍線〕。」「書く〔傍線〕。」「行く〔傍線〕とも」「書く〔傍線〕とも」)、「あり」では u の形にかやうな用法なく、かやうな場合には i の形を用ゐる(「あ|り〔傍線〕。」「あ|り〔傍線〕とも」)。かやうに用法上違つた點があるから、この類は更に二種に分けなければならない(これが即ち四段とラ變との別になる)。
(41) 又、活用形式の違つた語であつても、用法の上から見れば、一つの活用形式中の一活用形の用法は、他の活用形式中の或活用形の用法と同じであり、又は一の活用形式中の一活用形の用法が、他の活用形式中の二つの活用形の用法と同樣であつて、同じ用法を有する活用形を同じ活用形と見るならば、あらゆる活用形式を通じて同じ活用形が見出され、その數もあらゆる活用形式を通じて最多くの活用形を有するものと同數(文語では六つ)の活用形あるものと見る事が出來る事は既に説いた通りである(未然形・連用形・終止形・連體形・已然形・命令形等の活用形はかやうにして認められたものである)。
 しかし乍ら、文語に於て完全に六つの活用形があると見得べきものは、前に擧げた(1)から(8)までの八種であつて、(9)及び(10)の二種には、(2)の e の形(命令形)と同用法の形は全く見出す事が出來ない。即ち、この二種は他の種のものよりも一つだけ活用形が少い。又、前に一つの活用形式の中の一つの活用形の用法が、他の活用形式中の或活用形の用法に同じといつたが、これも略完全にあてはまるのは(1)から(8)までの諸形式であつて、(9)と(10)とには完全には該當しない。即ち、前に述べたやうに、一つの活用形は、唯一の用法だけでなく、多くの用法をもつてゐるのが常である。各活用形のもつてゐる種々の用法に於て互に略完全に一致するのは(1)から(8)までの諸形式であつて(無論、或ものは、二つの違つた活用形の諸用法を一つの形に兼ねてゐる)、(9)(10)の二種は、その諸活用形の有する用法は、(42)大概他の種の形式の活用形に於て之に一致するものを見る事が出來るけれども、他の種の形式の諸活用形の有する用法中の或ものは、(9)(10)の二種の活用形には見出されない。その著しいのは助動詞に續く用法であつて、他の種の諸形式の諸活用形は、いろ/\の助動詞に續く爲に用ゐられるが、(9)(10)の二種は、或特殊の助動詞の外、一般に助動詞に附く事が無い。即ち、この二種の活用形は、その用法が他の種のものに比して局限せられてゐるのである。前に述べたやうに、形の上から見て、(9)は(1)乃至(8)とよほど違つた點があつて、之と區別せられ、(10)は、(1)乃至(8)と同樣な點があると共に、また(9)に近い所もあるのであるが、用法の上から見れば、(9)が(1)乃至(8)と區別せられるのみならず、(10)も(9)と同樣であつて、(1)乃至(8)とは趣を異にし、(9)及び(10)の二種は(1)乃至(8)と相對立するのである。
 かやうに、右に擧げた諸種の活用形式は最後の二つと他のものとの間に互に違た點があつて、全體が二種に大別されるのであるが、最後に二つの活用形式をゆうする語は所謂形容詞であり、他の諸形式に活用する語は動詞である。それ故、之を形容詞の活用及び動詞の活用と呼ぶことが出來る。動詞及び形容詞の活用の中には、それ/”\種々の活用形式があるが、その諸形式の間の違ひは、單に形の上だけの事であつて、用法には違ひは無いのである。
 次に口語に於ては、純粹に形のみから見た活用の諸形式は
  (1) a i u e o と五つに變化するもの。「行く」「ある」「死ぬ」「思ふ」「立つ」の類。
(43)    o は「行かう」「あらう」の類の發音 iko(長音記号有り),aro(長音記号有り) の o(長音記号有り) を oo と見て、助動詞「う」(o)につゞく形として取扱つたのであるなほ、外に、「書い〔傍線〕て」「取つ〔傍線〕て」「あ|つ〔傍線〕た」「飛ん〔傍線〕だ」のやうな所謂穏便の形がある。
  (2) i e uru ure と五つに活用するもの。「する」(爲)の類。
      a は「さ〔傍線〕れる」「さ〔傍線〕せる」と用ゐられるもの、e は「せ〔傍線〕ぬ」「せ〔傍線〕よ」と用ゐられるもの。
  (3) i o uru ure と四つに活用するもの。「くる(來)」
  (4) i iru ire と三つに活用するもの。「見る」「着る」「起きる」「下りる」の類。
  (5) e eru ere と三つに活用するもの。「える」「消える」「述べる」の類。
  (6) i ku kereと三つに活用するもの。「好い」「白い」「苦しい」「淋しい」の類。
 以上六種である(これは普通の文法に於ける口語動詞及び形容詞の活用の種類と一致する。口語の形容詞の活用を二種とするものもあるが、口語だけとして見れば不當である)。これ等の中(1)乃至(5)はこれ等の語尾がすべて母音であるか又は母音ではじまるが、この母音は語幹の終の子音と合して音節をなし、日本語の發音法では語幹と語尾とを分離する事が出來ない(但し(4)の中の「報い〔傍線〕る」「悔い〔傍線〕る」「用ゐ〔傍線〕る」、(5)の中の「變へ〔傍線〕る」「教へ〔傍線〕る」「据ゑ〔傍線〕る」「植ゑ|る」「越え〔傍線〕る」「燃え〔傍線〕る」などの i e は、それだけで獨立した音節を作る。これだけは例外である)。又、(1)の類には、助詞「て」助動詞「た」につくには所謂音便になつた形が常に用ゐられるが、これは、他の活用形と比べて見れば、
(44)  行く i-ka i-ki i-ku i-ke i-ko i|t〔傍線〕(-ta)
  立つ tata tat(sh)-i tat(s)-u tat-e tat-o ta|t〔傍線〕(-ta)
  飛ぶ tob-a tob-bi tob-u tob-e tob-o to|n〔傍線〕(-da)
  書く kak-a kak-i kak-u kak-e kak-o ka|i〔傍線〕()-ta
のやうに、語幹の最後の子音と、語尾とが融合して區別し難くなつたもので、これもやはり語幹と語尾とを分離する事が出來ないものである。之に反して(6)の類の語尾には、子音で初まるものがあり(母音ではじまるものもあるが)、その語尾は何れもそれだけで音節を構成して、語幹の部分と發音上分離する事が出來る。かやうな點で、(6)の類は他の種のものと區別せられる。
 次に各活用形の用法を考へて見るに、同じ活用形式に屬する語の諸活用形は、その用法に於ても一致する。違つた種類の活用の活用形を互に比較すると、用法を同じくするものがあるのであつて、一つの活用形で、他の種の活用形式の二つの活用形の用法を兼ねてゐるものを、同じ形ながら、假に二つの活用形と見做せば、あらゆる形式を通じて同數の活用形があると見得ることは、文語と同樣である。活用形の數は、右に擧げた表によれば、(2)の形式が最多いが、その用法の上から見れば、(1)の a は(2)の a i e の三つの用法を兼ね、e は i(又は e )と ure との用法を兼ねてゐるので、三つの活用形が加はつて八となり、更に(1)の類に於て、「て」に續く時の音便の形が擧げてない故、之をも加へれ(45)ば九つとなる筈である。即ち、各活用形をその主な代表的な用法によつて擧げれば、
  (一) 打消の「ない」に續く形――未然形(第一)
  (二) 打消の「ん」に續く形――未然形(第二)
  (三) 受身の「れる」「られる」使役の「せる」「させる」に續く形――未然形(第三)
  (四) 中止法の形――連用形
  (五) 文を終止する形――終止形・連體形
  (六) 「ば」に續く形――假定形
  (七) 未來の「う」「よう」に續く形――未然形(第四)
  (八) 命令の意味を以て終止する形――命令形
  (九) 「て」に續く形――(――)
 右のやうに、從來の未然形が四つに分れ、終止形と連體形とが一つになり、命令形はなくなり、別に新な活用形(四段活用では音便になるものにあたる活用形)が加はるのである。
  右のやうな活用形の立て方については異論もあらう。今、なるべく形の違つたものを多く取つて、文語に於けると同樣の方法で活用形を立てて見れば右の如くなるのである。實用的の取扱としては、もつと便宜な方法もあらう。
 口語の活用の諸形式に於て、右の諸活用形と用法上同等と認められるものを略完全に具備してゐる(46)のは(1)から(5)までであつて、(6)だけは(一)から(三)までにあたる活用形なく、(九)の中の過去の助動詞「た」につゞく用法、及び(七)即ち未來の助動詞「う」につゞく用法を有する本來の活用形も無い(この場合には所謂形容動詞を用ゐる)。又、(八)即ち命令形も無い。これは、つまりこの活用形式の語(即ち形容詞)は助動詞の大部分には直接連續しないからである。又「取りに行く」の「取り」にあたる用法が無く、又動詞に無い修飾語又は補語になる用法がある(「よくなる」「よくいふ」。など)。ゴザイマスにつゞく音便の形がある。語幹が用ゐられる事がある。かやうな點でも、(6)の活用形式は他と違つた點があるのである。さうして、(6)の活用形式を有する語は所謂形容詞にあたり、(6)以外の活用形式を有する語は動詞にあたる。それ故、口語の活用の諸形式は之を形容詞活用と動詞活用との二つに大別する事が出來る。
 以上の觀察によれば、活用する語の活用形式は、純粹な形の上からと、各活用形の用法の上から見て、文語では十一種、口語では六種あるのであつて、その中、文語では二種、口語では一種だけは、その形の上からも用法の上からも他の種のものに比して著しい相違があるのである。さうして、この相違は、即ち、動詞と形容詞との活用の相違である。さうして、動詞又は形容詞の活用中での種々の形式の違ひは、たゞ形の上だけの違ひであつて、用法上の相違では無い。
 【獨立せぬ言語單位の活用】次に、獨立し得ぬ言語單位で活用するものは、助動詞及び接尾辭であ(47)る。活用する接尾辭が附いて出來た獨立し得る言語單位は即ち活用する語(動詞形容詞)であつて、その活用は、獨立する語と同じことである。之に反して助動詞は、活用に於て多少特別なものがある。
 まづ活用の形については、助動詞の活用は、前に擧げた獨立する語の活用形式の何れかと全く同一なものと、さうでないものとある。
 獨立する語と活用形式が全く同一でないものには、獨立する語の活用形式と同じ形式で、たゞその中の或活用形が缺けてゐるものと、或獨特な形式を有するものとがあり、又、唯一つの形しかないものもあるが、これ等は、唯、形のみを考へたのでは正しく判斷する事が出來ないのであつて、是非、各の活用形の方法を考へなければならない。
 助動詞の各活用形の用法は、助動詞によつて樣々であつて、使役や受身の助動詞のやうなものは、その活用形式も、獨立する語のと全く同一であり、各活用形の用法も、之と略一致するが、他の助動詞は、その活用形の用法が狹くして獨立する語の各活用形の有する用法の中の一部分だけしかもつてゐないものが少くない(文語完了の助動詞「ぬ」の連用形「に」は、中止法には用ゐられず、口語打消の連用形「ず」は助詞「て」に續かないなど)。又、獨立する語の或活用形の用法と部分的にでも一致する活用形が全く見出されないものもある。
 獨立する語の活用形の用法の一部分だけにしか一致しなくとも、ともかく一致する活用形があれば、(48)之を同じ活用形と見なし、一致する用法を有する活用形が全く無い場合にその活用形が缺けたものとして、助動詞の活用形を獨立する語の活用形式の一々の活用形と比較すれば、はじめて、獨立する語の或活用形式と全く同一であるか、その或活用形が缺けてゐるか、又は獨立する語にない新しい活用形式であるかが明かになるのである。  助動詞の中には、只一つの形しかもつてゐないものがある。文語の「じ」「らし」、口語の「う「よう」「まい」など。これ等は語形變化の無いものであるから、活用の無いものとして、助動詞とせず助詞と見る文法學者さへあるのである。なるほど、かやうな考方は形だけから見れば尤である。しかし用法について考へて見れば、文語の「じ」は文を終止する場合に用ゐる外に、「いくよしもあら|じ〔傍線〕わが身」の如く、體言に續く爲にも用ゐられて、その用法上、獨立する語の活用形式、例へば前に擧げた(2)の u と uru との二つの形(終止形と連體形)に相當するものと認められ、「らし」も終止に用ゐられれる外に、「雪消の水ぞ〔右○〕今まさるらし〔二字傍線〕」と「ぞ」を受けて文を終止する場合に用ゐ、又「ぬき亂る人こそ〔二字右○〕あるらし〔二字傍線〕」のやうに「こそ」を受けて文を終止する場合にも用ゐられて、その用法上、獨立する語の活用形式、(2)の u と uru と ure の三つの形(終止形・連體形・已然形)に相當するものと認められる故、形は一つであつても、用法上二つ又は三つの活用形があるものと見做すべきであり、その他の活用形は無いが、助動詞には活用形の缺けたものが少くないから、やはり、これ等も活用があるものと見る(49)べきである。
 口語の「う」「よう」「まい」は、これも一つの形しか無いが、その用法は、文の終止として用ゐられれる外に、「あら|う〔傍線〕事かあるまい〔二字傍線〕事か」「何か言は|う〔傍線〕ものなら」「承知しよう〔二字傍線〕筈が無い」の如く體言につゞく場合にも用ゐられ、「しよう〔二字傍線〕けれども〔四字右○〕「あるまい〔二字傍線〕が〔右○〕」「私も行かう〔二字傍線〕し〔右○〕」「そんな事もあるまいから〔二字右○〕」のやうに「ども」「が」「し」「から」などのやうな用言にのみ附く助詞にもつゞくのであつて、これ等は用法上、口語の獨立する語の活用形中の一つ(終止連體形)に相當するものであり、助詞には、文の終止に用ゐるものはあつても、その外にかやうな用法を具へてゐるものはないから、これは助詞ではなく、やはり、或活用形式中の一つの活用形と認むべく、その他の活用形は缺けたものと見るべきである。
 つまり活用といふのは、語に種々の附屬的意味を添加し、又種々の助詞助動詞への接續を示す爲の語形變化であつて、一々の形は、その語に加はる種々の附屬的の意味やその語から種々の助詞助動詞への接續の一部分をそれ/”\分擔してゐるもので、その分擔は活用形式の相違にかゝはらず、あらゆる活用形式を通じて一定し、整然たる體系をなしてゐる。それ故、或種の活用形式の中、或形が缺けて全部整はない事があつても、その形の用法を見れば、いかなる部分を分擔してゐるものが存し、いかなるものが缺けてゐるかが、全體の體系から推して知られるのである。それ故、只一つの形しか無(50)く、以て區別するのを語形による分類と考へてゐるやうであるが、前に述べたやうに、活用は單なる語の形の變化ではなく、語の意味に關係したものである。決して純粹に形だけのものではない。
 次に職能といふのは、語が或役目をする事であつて、通常、主語になるとか述語になるとか、客語或は補語になるとか、修飾語になるとかいふやうな事をいふ。主語になるとか述語になるとかいふやうな事は、その語が他の語に對してその意味上或關係に立つことであつて、言語の意味に關した事である。しかし意味といつても、普通一々の語の意味といはれてゐるものとは幾分違つた性質のものであつて、他の語と結合するうえの意味で、一々の語の意味に附隨する附屬的の意味である。かやうな附屬的の意味は、違つた語にも同樣に附隨すると共に(「山」「私」「それ」などが、共に主語となり共に客語となるなど)、同じ語に種々の違つた意味が附隨する事がある。(「山」が主語になると共に客語にも修飾語にもなる類)。さうして、かやうな意味は、或場合には特別な語を加へて(「山が〔傍線〕高い」「山を〔傍線〕見る」「山の〔傍線〕頂」のやうに)、或場合には活用形によつて(「廣い〔傍線〕河」「廣く〔傍線〕見えるなど」)、或場合には語の順序によつて(花〔傍線〕咲く〔二字傍線〕のやうに)表はされるのであつて、之を表す手段は樣々であるが、とにかく言語の形の上にあらはれて、外から感知し得べきものである。
 主語・述語・客語・補語・修飾語などは、文の成分といはれてゐるものであるから、職能の違ひによつて語をわけるのは、文構成上に於ける語の性質の相違によつて分類する事となるのである。
(53) 語が直に文を構成すると見るのが正しいかどうかは問題であるとしても、語と語とが結合して語よりも大きな單位を構成する場合に於ける語の性質の相違は、文法上甚だ大切なことであから、右のやうな分類は、文法上必要なことといはなければならない。
 
 二 詞と辭
 語が結合して、語より大きな言語單位を構成する場合について考へて見るに、前述の如く、語は文節を構成する單位である。その場合に、一つの語で文節を構成する事と、二つ以上の語で文節を構成する事とがある。
 前に述べた如く、語には、單獨で文節を構成するものと、常に他の語に伴ひ之と共に文節を作るものとある。單獨で文節を作るものは、それだけで獨立し得べき語であつて、前に第一種の語と名づたものであり、常に他の語に伴つて文節を作るものは獨立し得ぬ語であつて、前に第二種の語と名づけたもの(助詞助動詞)である。この二種の別は、從來の文法家も大概之を認めてゐるのであつて、詞と辭、又は獨立詞と附屬辭(三矢氏の高等日本文法)などの名によつてこれを區別してゐる。しかし、これまでは、多くはその意味を主としてこの區別をみとめてゐるのであるが、前述の如く、第一種第二種の別は、それだけで前後にに切れ目をおいて發音する事が出來るか(即ち獨立するか)否かによつて定まるのであつて、形の上からも明瞭に區別出來るのである。今、第一種の語を詞、第二(54)種の語を辭と名づけよう。
 さて文節は、一つの又は二つの以上の語で構成せられるが、一つで文節を構成し得るのは詞であつて、辭は決して單獨で文節を構成しない。二つ以上の語で文節を構成する場合には、必ず詞に辭が附くのである(辭は二つ以上重なつて附く事がある)。即ち、詞は文節の構成には常に必要であつて、文節の中心があり根幹となる意味をあらはし、辭は之に附屬的の意味を附け加へるのである。
 右の如く、文節構成上の性質の違ひによつて、語は詞と辭とにわかれる。詞は單獨で文節を構成し得べきものであり、辭は常に詞に伴つて文節を構成するものである。
 
 三 文節の斷續
 文は一つ又は二つ以上の文節から成る文は前後に音の切れ目があるが、我が國語では、最後が言ひ切りとなるのが常である。それ故、正常の文に於ては、一の文を構成する文節の中、最後のものは、言ひ切り(斷止)の文節であつて、意味がそこで切れ止まつて他に續かない。
 二つ以上の文節から成る文に於ては、その文節相互の間には必意味上の連關があるもので、それでこそ、それ等の文節の意味がすべて一つに纏まつて、文になるのであるが、しかし、それ等の諸文節の間の關係は、必しも一樣でなく、一の文節の意味が直接に他の文節につゞいてその文節の意味と結合するものと、他の文節とは唯間接にしか續かないものとがある。例へば、
(55)  私は|昨日|友人と|丸善へ|本を|買ひに|行きました。〔入力者注、縦棒で句切ってあるが、見にくいので斜線にした。〕
私は→行きました、昨日→行きました、友人と→行きました、丸善へ→行きました、本を→買ひに、買ひに→行きました〔入力者注、横に傍線が引いてあるが、面倒なので懸かり受けを→で示した。〕
の例に於て「私は」「昨日」「友人と」「丸善へ」「買ひに」の各文節は、それ/”\直接「行きました」に續くが、それ等相互の間は直接に續く事はない。しかし皆「行きました」につゞくが故に、間接には聯關がある。又、「本を」は「買ひに」に直接に續くが、その他の文節とは直接に續かない。しかし、「買ひに」は「行きました」に續く故、「行きました」と間接に續き、隨つて「行きました」に續く諸文節との間にも間接の聯關がある。かやうにして、すべての文節の意味が結合して一つになるのである。
 今、甲の文節が乙の文節に直接に連續して、兩者の意味の結合する場合に、甲が乙に續くと云ひ、乙が甲を「承ける」と名づける事とすれば、一つの文を構成する文節は、言ひ切りになるか又は續くかのどちらかであつて、言ひ切りの文節は他に續かないのが普通である。
 直接に連續する二つの文節の間の「續く」「承ける」の關係は、その意味の上から見て種々のものがあり、その違ひが言語の形の上にあらはされてゐる。「山が〔傍線〕|高い」「山を〔傍線〕|見る」「廣い〔傍線〕|野」「廣懼〔傍線〕|見える」などその例であつて、主語と述語、客語と述語、修飾語と被修飾語などの名は、これ等の(56)承接の意味の違ひを區別して言ひあらはしたものである。
 かやうに、或る文を構成する文節には、意味の切れるものと續くものとあり、續くものの中にもその承接の關係は種々樣々のものがあるが、かやうな文節の斷續や種々の承接が、いかにして言語に表はされてゐるかといふに、これには二種の別がある。
  一、文節それ自身には之を示すべきしるしが無く、その文節の文中に於ける位置とか、他の文節に對する順序とか、又はその文節に加へられた特殊の音調といふやうな、外的手段によつて表はされ、或は、たゞ、その文節と他の文節との意味から推して間接に知られるに過ぎないもの。
  二、文節自身に之を示すべきしるしがあるもの。そのしるしは、「山が〔傍線〕|高い」の「山が〔傍線〕」の如く、特別の語が加はつたものもあり語形の變化によるものもあつて一樣でない。
 
 四 詞の分類
 今、右のやうな文節の斷續と種々の承接關係が、その文節を構成する語といかに聯關してゐるかを見るに、
 〔一〕 「行く」「思ふ」「走る」「白い」などの語は、活用する語であつて、種々の語形を有史、單獨(57)で文節を作る場合言にも、その何れかの活用形を有するのであつて、それによつて斷續を示すのである。これ等は、また「が」「と」「けれども」「ば」などの辭を加へて、種々の關係を示すことも出來る。
 〔二〕 「山」「川」「私」「これ」「一つ」などの語は、それ自身斷續を示すべきしるしをもたないもので、單獨で文節を成す場合には、その斷續は外的手段によつて示される。これ等も「が」「に」「を」「から」「より」「は」「も」等の辭を加へれば、斷續や種々の關係が示され、他の語に對して種々の關係に立ち得るのである。しかし、それ自身としては斷續を示さない。
 〔三〕 「きつと」「多分」「丁度」「大變」「もつと」などの語は、それ自身には特別のしるしをもたないが、しかし、いつも意味が他に續く場合に用ひられるのであつて、それだけで文節を構成した場合にも、いつも續く事を示してゐる。「並に」「及び」「さうして」「だから」なども、亦それと同じく、いつも讀く事を示してゐる。
 〔四〕 「あゝ」「おゝ」「おや」「はい」「いゝえ」などは、それ自身には斷續示す特別のしるしをもたないが、單獨で文節を作る場合には、それだけで意味が斷止して、一つの文となる事が出來るものである。もつとも、「あゝ|驚いた」「おゝ|さうか」「はい|さうです」「いゝえ|違ひます」などに於ては、「あゝ」「おゝ」「はい」「いゝえ」はその意味が下の語に續くけれども、その續きやうは極めて漠然たるものであつて、「非常に|驚いた」「きつと|さうか」などの「非常に」「きつと」の續き(58)方とは非常な相違があり、却つて、「あゝ。驚いた」「おゝ。さうか」「はい。さうです」「いゝえ。ちがひます」といふやうな二つの文とみてもよいほどである。それ故、この種の語は意味のきれる事を以てその特徴と見てよいとおもはれる。
 以上はすべて詞に屬ずる語である。その中に、斷續の關係から見れば、上に述べたやうな種々のものがあるのである。即ち、
  〔一〕 種々の斷續の關係を自らの形によつて示すもの
  〔二〕 自らでは斷續を示さないもの
  〔三〕 續くもの
  〔四〕 切れるもの
 〔一〕は、所謂用言に屬する諸語であり、〔二〕は體言に屬する諸語である。〔三〕は副詞接續詞に屬する諸語であり、〔四〕は感動詞に屬する諸語である。これ等の諸品詞に屬する語には、何れも、右のやうな性質をもつてゐるのであつて、これによつて詞を四つに分ける事が出來るのである。
 この中〔一〕〔二〕〔四〕は、從來の名稱によつて、それ/”\用言・體言・感動詞と呼び、〔三〕だけは之にあたる普通の名がない故、之を副用言と呼ばう(副用言の名は鶴田常吉氏の日本口語法、安田喜代門氏の國語法概説に見えてゐる)。
(59) 以上のやうな語の分類は、文節の構造や、文節の斷續を考へるに當つて大切なものであるが、しかしながら、實際に於ては、分類の標準として取つた、語の斷續の意味が、幾分漠然として據り難いやうな感がないでもない。それは、その語の有する種々の職能から抽象せられたものであるからである。
 文法上で職能といふのは、或役目をするといふ意味であるからして、語が文節の斷續や、種々の承接上の關係を示す事をすべて職能と名づけるとすれば(無論その中には、主語や述語や修飾語などになる場合を含んでゐる)、或る一つの語は、或一つの文の文節構成の要素として用ゐられた場合には、或一つのきまつた職能をもつばかりであるけれども、同じ語が、又他の文に用ゐられた場合には、又違つた職能をもつ事があつて、一つの語のいろ/\の場合に有ち得る職能は、かなり多い事がある(「山」は主語となり補語となり修飾語となるなど)。それを示す手段は前述の如くいろ/\あつて、その爲に他の語(助詞助動詞など)を附ける事もあるが、かやうな場合をも通じて、いつもその語に伴ふ斷續の意味如何によつて語を分類したのが、右に掲げたものである。しかし、もし、それがあまり抽象に過ぎるとするならば、もつと具體的に一々の語が有するすべての職能を明かにして、その異同によつて語を分類すべきである。
 かやうな方法で分類するに當つて、據るべき原則は大體次の如くである。
  一、いろ/\の場合に於ける種々の職能が同じものは同類とする。種々の職能の全部が一致しな(60)くとも、大部分一致して、他の類の語の職能と區別し得べきものも同類とする。
  一、右の如き種々の職能が全部一致しないもの、又は一部分だけしか一致しないものは異類とする。
  一、或類の語は他類の語の有する種々の職能の中の或一部分を有するのみであつて、その他の職能を有せぬ事がある。その場合には、或職能を有せぬ事が、類別の標識となる。
  一、或類の語と他類の語と、各その有する種々の職能の中、或る部分が一致するものがある。その場合には、その類にはあつて、他の  
  一、語が單獨で文節を成す場合に有する職能と、他の語と共に文節を構成した場合に有する職能とは區別して考ふべきである。
  一、同じ職能を有する語でも、之をあらはす手段が違つてゐるものは區別して取扱ふべきである。
 さて、前掲の分類の結果をこの標準に照して各類の特徴を求めれば、
  〔一〕の類の語(用言)は、語單獨で種々の職能をを有し、それが、活用によつて示される。之に對して、他類の語は、活用なく、種々の職能を有するものでも、それ自らで之を示すべきしるしが無い。猶この類の語の特徴と見るべき職能は、單獨で述語となり得る事であらう。他の種の語でも辭の助をかりて述語となるものはあるが、單獨で述語となり得るのはこの類のみである。
(61)  〔二〕の類の語(體言)は種々の職能をを有するが、他類に無くしてこの類にのみあるものは主語となる事である(その場合に、口語では特別の助詞を加へるのが常であるが文語では單獨で主語となる事が多い)。但し、〔一〕の類の語即ち用言も、主語になる事があるが、用言には活用があり、體言には活用が無い故、この點で區別せられる。
  〔三〕の類の語(副詞・接續詞)は、主語になる事なく、他の語を修飾し又は接續する。
  〔四〕の類の語(感動詞)は、それだけで文となり得るものであつて、主語になる事なく、他の語を修飾し又は接續する事もない。又他の語によつて修飾接續せられる事も無い。
 かやうにして、分類の標準は前よりは一層具體的になつたのであるが、之を組織立てて表にすれば次の如くなるであらう。
    活用するもの−單獨で述語となるもの――用言
  詞        主語となるもの――體言
    
    活用せぬもの          修飾接續するもの――副用言
           主語とならぬもの
                    修飾接續せぬもの――感動詞
 之を從來普通に行はれた品詞別と比較するに、(一)用言は動詞及び形容しにあたり、(二)體言は名詞代名詞數詞にあたり、(三)副用言は副詞接續詞にあたり、(四)感動詞は感動詞にあたる。即ち(62)從來の品詞は、この類別を更に細別したものにあたる。かやうな區別は、文法上必要であるかといふに、まづ用言がその活用形式上、動詞と形容詞との二種に大別し得べき事は既に述べた通りであるが、この活用形式は、單に語の形だけの事でなく、その形のあらはす意義に關する事であつて、動詞には命令をあらはす形があるに對して、形容詞にはそれが無く、動詞には各種の助動詞が附くに對して、形容詞には或特種の助動詞の外は附かないのであつて、これ等はその語の職能の差といふべきであるから、職能からみてこの二種の別が認められる。次に體言にあたり名詞と代名詞と數詞とは、その別は、單に語義の相違に基づくものであつて、その職能に於ては互に區別がない事は、既に諸家も論じた所であつて、之を區別する必要はない。次に副用言に屬する副詞と接續詞との間の差異は、一は修飾し、一は接續するといふ點にある。接續するとは、前の文、又は語の意味を承けて、之を後に來る語や文に續けるのであつて、これによつて、前の文や語と後の文や語とがどんな關係でつながるかを示すものである。かやうな職能は、活用形(たとへば、中止法の如きは、その用言の意味が下の語に對すて對等の關係でつながることを示す)や辭(體言につく「と」、用言につく「ば」「けれども」「が」など)にはあるけれども、詞には他にないのである。接續詞はかやうな接續を示すもので、しかも、その爲にのみ一つの文節として加はるのは、その特異な點である。それ故、副用言の中、副詞と接續詞との區別は認めなければならない。次に感動しは普通の品詞の感動詞にあたるものである。
(63) 以上從來普通行はれる諸品詞と比較したのであるが、こゝに問題となるのは從來の諸品詞であらゆる語の品詞分類が盡されてゐるかといふことである。換言すれば、從來の諸品詞の何れにも入れる事が出來ない語が殘されてゐないかの問題である。その一つとして所謂形容動詞がある。これについては、形容動詞を一語として取扱ふべきか、又は分界して二語と見るべきかが問題になり、もし一語であるとすれば、無論用言に入れるべきであるが、用言の中、動詞と見るべきか、形容詞と見るべきか、又は動詞形容詞以外の新な品詞と見るべきかが問題となる。この事については別に論ずることゝして、こゝには委しく述べないが、私見によれば、所謂形容動詞は一語と見るべきであり、文語に於ては、動詞形容詞と對立するものと見てもよいが、現代口語に於ては、「白からう」「白かつた」の類は形容詞の活用形と見て、形容詞の活用形式に入るべく、「靜かだ」「靜かな」の類は、特殊の活用を有するが、その活用形の用法や助動詞との接續など職能の上に形容詞と特徴を同じうする所が多いから、特殊の形容詞と見る方がよからうかとおもふ。
 次に、「この」「その」「あの」「かの」「どの」などは、「こ」「そ」「あ」「か」「ど」に、助詞「の」の附いたものであるが、「こ」「そ」「あ」「か」「ど」は、口語に於ては決してそれだけで文節を構成することなく、獨立しない語である。それ故、これを單語と認めることは出來ない。さすれば之に「の」のついた「この」「その」「かの」「あの」「その」を一語と見なければならない。又、「ある」(或)(64)は、もと動詞「有る」の連體形であつたが、後にその意味が特殊化して「或」の義となり、その意味では「ある」の形だけが用ゐられて、他の活用形は用ゐられない。「いはゆる」「あらゆる」は、それ/”\「言ふ」「有る」に古い受身の助動詞「ゆ」の連體形「ゆる」がついたものであるが、後には「ゆ」といふ助動詞が用ゐられなくなつてその原義が忘れられ、「いはゆる」「あらゆる」の形以外は用ゐられず、活用があつた事もわすれられ、「あら」「ゆる」、「いは」「ゆる」の二語の合したものとも感ぜられなくなつた。これ等も當然一語と取扱はるべきである。
 かやうに、以上の諸語は、少くとも現代の口語に於ては一語と見るべきものであるが、しからば、いかなる品詞に屬するかといふに、これ等は何れも、何時も他に續く語である。その職能は常に修飾語として用ゐられ、主語として用ゐられる事が無い。かやうに、連續の關係から見ても、職能から見ても、共に副用言に屬すべきものである。然らば副用言中如何なる位置を占めるかといふに、この種の語は常に他の語を修飾するもので、接續するものでない故、この點に於て副詞と同種であつて、接續詞とは性質を異にする。しかるに、從來の品詞としての副詞は用言を修飾するのがその特質であつて(勿論、他の副詞を修飾するものもあり、又、時として「すこし前」「やゝ右」のやうに體言を修飾するものもあるが、それは副詞中の或る一種、即ち程度をあらはす副詞の特質であつて、副詞全部に通ずる特質ではない。さうしてこれ等の副詞も、用言を修飾し得る事は他の副詞と同樣である)、こ(65)の種の語がいつも體言を修飾するのと性質を異にする。さすればこの種のものは、從來の品詞には何處にも入れる事が出來ないのであつて、ここにこれ等を以て一品詞を立てなければならない。今、松下氏の説によつて、之を副體詞と名づけよう。この副體詞は、右の如く、副用言の中の一種であつて、他を修飾するといふ點で副詞と同じく、副詞が用言を修飾するに對して、常に體言を修飾する點で副詞と相並ぶべきものである。
 かやうに、從來行はれた諸品詞の大部分は、之に副體詞を加へて、品詞の細別として用ゐうべきものである。
 かやうにして詞に屬する語の品詞は次のやうになる。
                   
  活用するもの―單獨で述語となるもの―用言
                       命令形あるもの―動詞
                       命令形なきもの―形容詞
          主語となるもの―體言−(名詞)(代名詞)(數詞)
  活用せぬもの
                修飾接續するもの−副用言−修飾するもの
                          用言を修飾するもの−副詞
                          體言を修飾するもの−副體言
          主語とならぬもの  接續するもの−接續詞
                    接續せぬもの−感動詞
 以上の詞の品詞分類は、所謂語義によらずして、職能によつたものである。そこで、以上の如く分類せられた各品詞の語義について考へて見よう。         
(66) まづ體言に屬する諸語は何れも事物を表はすものである。その内容は、實體もあれば屬性もあり、又關係などもあるが、すべて、事物として考へられたものを表はす。その名づけやうは、或る個體を、その有するあらゆる個性と共通性とをひつくるめて一つにしてあらはし、從つて他の個體に通用出來ないものもあり(所謂固有名詞)、或種に屬する各個體の通有性に對して名づけたものもあり(普通名詞)、又、その實質如何を問はず、話者の立場から之を指して名づけたものもあり(所謂代名詞)、又、數といふ點から見て名づけたもの(所謂數詞)もある。しかし、かやうな區別は、之を表はす言語の上に對應すべき差別がないのであるから、文法上必要のないものである。
 次に用言に屬する諸語は、屬性をあらはしたものであるが、唯屬性だけをあらはしたのでなく、その屬性がある〔二字右○〕といふ事、又は或物がその屬性を有する〔三字右○〕といふ事を示すものである。用言に敍述性があるといはれるのは、この事をさすのである。用言の中、動詞は、時間的に變化する屬性を或時有する事を示し、形容詞は時間的に變化しない常在的の屬性を有する事を示すのが普通であるが、しかし、動詞の中にも「ある」の如く、その意味から見れば形容詞と區別出來ないものもある。又形容動詞は、その意味は、形容詞と同一である。
 副用言に屬する諸語は、何れも、屬性又は關係を表すものであるが、常に他の語を豫想し、その意味に依存するものである。その中、副詞は用言を、副體詞は體言を豫想し、その意味に依存する。(67)接續詞は、前の文又は語の意味を承けて後の文又は語に續けるもので、その間の關係を示すものである。
 感動詞は、感動の情を表し、又は應答を表はすものであつて、その内容を分析せずして、綜合せられたまゝに言ひ表すものである(例へば「はい」は「それはその通りです」「いゝえ」は「さうではありません」「おや」は「これは變だ」のやうな意味をそのまゝ分析せずして表はす)。
 かやうに語義から見ても、大體に於て各品詞の特徴はわかれてをり、又、それ/”\の品詞が、種々の職能を有して、他の語に對して種々の關係に立ち得るのも、根本に於てはその語義に基づくのであるが、しかしながら、時として品詞の分類は必しも語義の區別に一致しない事があり、事實上の取扱から見ても、語義を標準とする時は、曖昧であつて不確實な事も少くない。これはつまり語義の類別は、心中に存する事實であつて、他から之を直接に知り難い爲でもあり、又言語は傳統的のものであつて、必しも論理的でない爲でもある。それよりも、形の上にあらはれた職能による方が明瞭であり正確である。
 
 五 辭の分類
 辭(附屬辭)は獨立し得ぬ語であつて、常に他の語(即ち詞)に附屬して之と共に文節を構成し、その語形又は意味を以て文節の斷續に關與する。
(68) 辭は常に詞に伴つて文節を構成するのであるが、その場合に、辭が如何なる詞に伴ふかを見るに、辭には、(甲)或種類の詞にのみ附いて他の種の詞には附かないものと、(乙)色々の種類の詞に附くものとある。(甲)には
 (一) 體言にのみ附くもの――口語では「が」「を」「に」「へ」「と」「から」「より」「で」など。但し、この種の辭は、用言の連體形に附く事がある。「行く〔二字右○〕が〔傍線〕よい」「思ふ〔二字右○〕に〔傍線〕任せぬ」「聞く〔二字右○〕と〔傍線〕見る〔二字右○〕と〔傍線〕は非常にちがふ」「家を出る〔二字右○〕から〔二字傍線〕歸るまで」「行く〔二字右○〕より〔二字傍線〕仕方がない」など。又「行く|の〔右○〕が〔傍線〕困難だ」「行く|の〔右○〕を〔傍線〕見た」の如く、他の助詞を受ける事もある。しかし、これ等の場合も、その活用形又は助詞に體言のやうな意味があるのであるから、體言に附く場合と同等のものと見てよい。
 (二) 用言にのみ附くもの――口語では、「ば」「と」「ても」「けれども」「が」「のに」「し」「て」「ながら」など。これ等も、「行かなけれ〔三字右○〕ば〔傍線〕」「行かせる〔二字右○〕と〔傍線〕」「行きまし〔二字右○〕ても〔二字傍線〕」の如く、辭に附く事もあるが、これ等の辭は、用言に附いて全體が一つの用言と同等の資格をもつののであるから、やはり用言に附くものと同等と見る事が出來る。
 (三) 用言の中、動詞にのみ附くもの――口語では「れる」「られる」「せる」「させる」「ない」「ぬ」「まい」「たい」「ます」など(助動詞の大部分)及び「な」(禁止)など。これ等も、「行か|せ〔二字右○〕ら(69)れる〔三字傍線〕」「取ら|れ〔右○〕ない〔二字傍線〕」「取りま|す〔右○〕まい〔二字傍線〕」の如く他の辭に附く事があるが、これ等の辭は、動詞に附いて全體が一つの動詞と同樣なものになるのであるから、動詞に附くと同樣に見てよい。
 以上のやうな種々の性質のものがある  
 かやうな點から分類するのは、比較的たしかではあるけれども、それ以上の下位分類をする場合に實際上不便な點があるから、之を第一之分類とせず、下位分類の場合の標準とする方がよい。
 そこで、詞を分類したと同樣の方法によつて、辭が意味の斷續をいかに示すかによつて分類したならば、どうなるかといふに、辭は常に詞に伴つて文節を構成するものであるが、その際、辭が一つ用ゐられる事もあり、又他の辭と重ねて用ゐられる事もあるが、これ等のあらゆる場合を通じて、その辭に伴ふ斷續の關係を見るに
 〔一〕 一つの辭が或場合には言ひ切りとなり、或場合には種々の關係で他に續き、その斷續を、それ自身の形によつて表はすもの。(助動詞の類が之に屬し、その語形變化によつて斷續を示す)
 〔二〕 他に對して種々の關係に立ち得るが、それ自身としては斷續の意味を持たないもの(「ばかり」「だけ」「など」などの類)
 〔三〕 自らに特別のしるしはないが、常に他に續くもの(口語では「が」「を」「に」「より」「から」「で」「ば」「と」「ても」「けれども」「のに」「が」「は」「も」「こそ」「さへ」「でも」など)。
(70) 〔四〕 特別のしるしは無いが、いつもそこで意味が切れるもの(口語の「ぞ」「よ」「な」「ね」「さ」など)。
以上、四種の別がある。これは斷續の關係からいへば、詞の四種の別、即ち(一)用言、(二)體言、(三)副用言、(四)感動詞の四つに相當するものである。さうして、現今普通の品詞から見れば、(一)は助動詞にあたり、(二)乃至(四)は助詞にあたる。
 さて、以上の斷續による分類を、更に具體的な、辭の職能亦は用法の點から見ればどうであるかといふに、この場合には、その各を更に一層細分しなければならない。即ち次の通りである。
 〔一〕に屬する諸語(助動詞にあたる)は何れも活用のあるものである。活用によつて斷續や、他に對する種々の連續上の關係をしめすこと用言と同樣であるばかりでなく、この種の語には、前に擧げた、用言にのみ附く辭が附き得る事も用言と趣を同じくする。これは二種にわかれる。
  (1) 動詞にのみ附くもの。口語では「せる」「させる」「れる」「られる」「ない」「ぬ」「まい」「たい」の類。これ等は動詞の一定の活用形に附き、動詞に附屬的の意味を  うして、この種の辭の附いたもの全體が用言と同じ資格で文節構造に用ゐられる。(この種のものを山田氏は複語尾と認めた)
  (2) 種々の語に附くもの。口語では「だ」「です」「らしい」の類。この類の辭は、種々の語に附(71)いて、全體が用言と同等の資格を得て、文節構成上用言と同樣に用ゐられる。(この種のものを山田氏は一種の用言と認めた)
右の如く辭を加へて用言と同じ資格のものを作る事を、用言に準ぜられたものとするならば、この類の辭は、用言に準ぜられたものを作る辭である。
 〔二〕以下のものは、活用の無いもので、所謂助詞である。その中〔二〕に屬する諸語は、斷續の意味を持たないものであつて、この點は詞における體言と同等である。又實際前にあげた、體言にのみ附く辭が、この種の辭に附くのである。「あなたばかり〔三字傍線〕が〔右○〕たよりです」誰か〔傍線〕を〔右○〕使にやりませう」「君など〔二字傍線〕に〔右○〕はわからない」「私だけ〔二字傍線〕で〔右○〕出來ます」「進むばかり〔三字傍線〕が〔右○〕能でもあるまい」「歸るの〔傍線〕が〔右○〕遲すぎた」「來る|の〔傍線〕を〔右○〕待つてゐる」「行つてから〔二字傍線〕が〔右○〕心配だ」「學校の〔傍線〕を〔右○〕借りて來ませう」。
 その他の辭の附き方も亦體言とほゞ同樣である。「行くだけ〔二字傍線〕の〔右○〕暇」「言つて見たまで〔二字傍線〕だ〔右○〕」「見るの〔傍線〕も〔右○〕よいが」「今度ばかり〔三字右○〕は〔傍線〕行かない」の如く、「の」「だ」「も」「は」のやうな、體言に附き得る辭に附く事が出來る。
 以上の如き、他の辭の附き方に於て、この種の助詞はすべて體言と性質を同じくするが、その他の點に於ては、互に性質を異にする所があつて、更に二種に細分せられる。
  (1) 「だけ」「まで」「ばかり」「など」「ぐらゐ」「か」「やら」の類――これ等は次のやうに意味(72)の續く語(詞或は辭)に附く事がある。「私に〔右○〕だけ〔二字傍線〕知らせて來た」「何處へ〔右○〕か〔傍線〕行つた」大阪から〔二字右○〕ぐらゐ〔三字傍線〕は來られるだらう」「何と〔右○〕やら〔二字傍線〕言つた」「さう〔二字右○〕ばかり〔三字傍線〕も考へられぬ」「立派に〔三字右○〕など〔二字傍線〕は出來ないが」。この場合にこの類の辭の附く語は、いつでも用言又は用言に準ずべき語(用言と同資格で用ゐられる語)に續く語で、連用語と名づくべきものであるが、これ等の辭は、之に加はつて、或意味を添へるだけで、たとひこの辭がなくとも、その連續關係は少しもかはらないのである。この種のものは、山田氏の日本口語法講義に、副助詞と名づけたものである。
  (2) 「の」(「私の〔傍線〕が」「行く|の〔傍線〕を」のやうに「のもの」又は「もの」「こと」の意味に用ゐられるもの)、「ぞ」(「誰ぞ」「何ぞ」のやうに、疑問の語について「或人」「或物」の義を表はすもの)、「から」(「三百斤から〔二字傍線〕の重さ」「さうなつたから〔二字傍線〕は」「向ふへ着いてから〔二字傍線〕が心配だ」のやうに「以上」「以後」の意味のもの)、「ほど」(三つほど〔二字傍線〕が丁度好い」「買つておくほど〔二字傍線〕でもない」「心配したほど〔二字傍線〕の事もない」「今までほど〔二字傍線〕勉強しない」のやうに程度を表はすもの)の類――これらは、單に體言と同じ資格を有するだけで、(1)のやうに連用語に附く事は無い。この種のものは、他の語に附いて或意味を加へて、全體として體言と同じ職能をもつたものを作るもので、準體助詞とも名づくべきものである。
  (3) に屬する諸語は、いつも他に續く意味をもつてゐるものである。この點で、詞の中では、副(73)用言に對比すべきものであるが、副用言のもつ連續の意味は、唯、修飾と接續だけであつたが、この種の辭の示す關係は更に廣いのであつて、「が」のやうな、主語を示すものもあり、「を」「に」のやうな、客語補語を示すものもあり、「から」「へ」「で」「より」のやうな、副詞的修飾語を示すものもあり、「の」のやうな、形容詞的修飾語を示すものもあり、「ば」「と」「けれども」「のに」「から」「し」「て」や「と」「や」の如く、接續を示すものもある。又「は」「も」「こそ」「さへ」の如く連續關係を修飾するものもある。
 この多樣な連續の意味は、理論的には種々に分類する事が出來るが、實際に適した分類としては、まづ接續を示すものと接續以外の連續關係を示すものとに分ち、接續以外のものは、更にいかなるものに連續するかによつて、體言に續くものと用言(又は之に準ずるもの)に續くものに分つべきであある。體言につゞくものは、形容詞的修飾語をあらはすものであり、用言(又は之に準ずるもの)に續くものは、主語・客語・補語・副詞的修飾語等をあらはすものである。つまるところ、(1)接續するもの、(2)體言に續くもの、(3)用言に續くものの三つに分つ事となるが、更にいかなる語に附くかによつて之を細分する。
  (1) 接續するものは、(a)用言にのみ附くものと、(b)種々の語に附くものとに分れる。
   (a)用言にのみ附くもの――「ば」「と」「ても」「けれども」「のに」「が」「から」「ので」「し」(74)「て」など。これは前にも擧げたものであるが、既に述べた如く、用言だけではなく、、助動詞が附いて用言と同等の職能を有するものにも附くのである。これ等は用言(多くの場合には節の述語として用ゐられたもの)に附いて、その意味を下に來る用言又は用言に準ずべきものに續けるのであつて、「さうして」「さうだけれども」「それでも」「それでも」「さすれば」等の如き接續詞と同等の接續關係を表はすものである。但し、接續關係ではあるが、之を承けるのは用言又は之に準ずべきものに限られてゐるから、連用的接續關係といふべきである。この種のものは、山田氏の接續助詞にあたるものである。
   (b) 種々の語に附くもの――「と」「や」「やら」「に」「か」「なり」「だの」の類で、「あれ|と〔傍線〕これ|と〔傍線〕」「酒や〔傍線〕びーる|や〔傍線〕」「酒に〔傍線〕ビール」の如く、對等の關係に立つ語を接續せしめるものである。即ち、對等の關係で上の語が下の語に連續する事を示すのであるが、唯、その最後の語に附いたものだけは、對等關係で上の語を承ける〔三字右○〕事を示すばかりで、下へは連續しない。この種の辭は體言に附く事が多いが、また、「西から〔三字右○〕と〔傍線〕東から〔三字右○〕と〔傍線〕出て來た」「君に〔二字右○〕なり〔二字傍線〕僕に〔二字右○〕なり〔二字傍線〕言つて來さうなものだ」のやうに、體言に助詞の附いたものや、「どう〔二字右○〕やら〔二字傍線〕かう〔二字右○〕やら〔二字傍線〕やつて行く」「あゝ〔二字右○〕だの〔二字傍線〕かう〔二字右○〕だの〔二字傍線〕言つて來る」のやうに副詞にも附く事がある。これを、詞と對比すると、接續詞の中の「並に」「及び」「或は」のやうな語と同等の接續關係を示すものである。(75)この種のものは、まだ名が無いやうである。並立助詞又は對立助詞とでも名づけたがよpからう。
  (2) 體言に連續するもの。――これは「の」の一語である。「の」は體言に附くのが普通であるが、また、「一寸〔二字右○〕の〔傍線〕闇」「かねて〔三字右○〕の〔傍線〕約束」「學校から〔四字右○〕の〔傍線〕歸り道」「見て〔二字右○〕の〔傍線〕上」「行けと〔三字右○〕の〔傍線〕命令」「書くだけ〔四字右○〕の〔傍線〕手紙」のやうに、副詞や、他の語に種々の助詞が附いたものに附く。さうして、體言につゞいて之を修飾する。即ち連體關係で連續するのである。詞の中で常に體言を修飾するするのは副用言中の副體詞であるから、「の」は副體詞と同樣の資格のものと見て、之を準副體助詞と呼んでよからうと思ふ。
  (3) 用言又は之に準ずるものに連續するもの。前に掲げた接續助詞も用言に連續するが、それは接續するのであつた。こゝに擧げるのは接續以外の關係で用言又は之に準ずるものに連續するものである。之をその辭が如何なる語に附くかによつて更に細分する。
   (a) 體言にのみ附くもの――「が」「を」「に」「へ」「と」「から」「より」「で」の類。これは既に擧げたもので、實は體言のみならず、用言の連體形や、前にあげた準體助詞の如き、と同等の資格を有するものには附くのである。
   この類は、體言(又は之に準ずる語)の、他の語に對する種々の連續關係を示すものであつ(76)て、主語・客語・補語・副詞的修飾語等の關係に立つ事を示すものである。さうして之を唱ける語は、すべて用言又はこれと同等の資格を有する語である。かやうに、用言又は之と同等のものに連續してその意味の結合する事を連用關係とするならば、この種のものは皆連用關係をあらはすものといふべきである。この種のものは、山田氏の所謂格助詞にあたるものであるが、唯、山田氏のよりも「の」だけが少い。「の」は體言又は之に準ずるもののみでなく、他の種々の品詞にも附くものである故、之を除いたのである。
   (b) 種々の語に附くもの――「は」「も」「こそ」「さへ」「でも」「なりと」「しか」「ほか」の類。これ等は主語・客語・補語・副詞的修飾語など種々の關係に立つ語を、それ/”\自己の表はす特殊の關係の意味を以て、下に來る用言又は用言に準ずべき語に結合させるものである。この類は山田氏が日本口語法講義で係助詞と名づけたものに相當する。
   この類は、副助詞と似た所があるけれども、副助詞には斷續の意味が伴はないのに對して、係助詞には連續する意味がある事は、體言のやうな斷續の意味が伴はない語に附いた場合を互に比較しても明かであり(副助詞「私ばかり〔三字右○〕」「これだけ〔二字右○〕には必しも連續の意味なく、係助詞「私は〔右○〕」「これさへ〔二字右○〕」には連續の意味が伴ふ)、又、副助詞は助動詞「だ」を附けることが珍しくないに反して、係助詞は「だ」を附けると異樣に聞えるのを見ても明かである(「私(77)ばかりだ」「これだけだ」は常に用ゐるが「私はだ」「これさへだ」は普通には用ゐられない)。
 〔四〕に屬する述語は、何れもそこで言ひ切るものであるが、これに二種ある。
  (1)は言ひ切りの文節の終にあるもので、そこで文の意味が終止するものである。「ぜ」「ぞ」「とも」「て」(以上何れも確かめる意味)、「な」(禁止)「な」(「なさい」の義)、「わ」(「さうですわ」の「わ」)、「か」(問ひ)、「や」(「行かう|や〔傍線〕」の類)、「よ」「い」(「さうだ|い〔傍線〕」「さうか|い〔傍線〕」の「い」)などであつて、もし更に分つならば、用言又は之に準ずるものにのみ附くもの(「ぜ」から「わ」まで)、及び種々の語に附くもの(「か(「か」以下)とに分つことが出來る。この種のものは山田氏が終助詞と名づけたものに相當する。
  (2)は文節の終に來るものである。「ね」「な」「さ」の類であつて、續く文節にも言ひ切りの文節にも附く。「それが|ね〔傍線〕……」「きれいだ|ね〔傍線〕。」「さうして|さ〔傍線〕……」「歸つたの|さ〔傍線〕」。續く文節に附いた場合には、その文節の意味はやはり續くのであるが、この種の辭の意味はそこで切れ、のみならず、その後に音の斷止がある。この場合にはいつも音の斷止がある故、形から見れば、そこまでで文が終つたやうであり、從つて、この助詞は文(ノ)集に用ゐられると考へなければならないやうであるが、しかし、之に伴ふ音調(イントネーシヨン)は、文の中にある文節の終で切れた場合と同一で、文の終止の場合とは違つてゐる故に、いつもその後に音の斷止があつ(78)ても、必しも常にそこで文が終止するものと見なくともよいのである。
   この種の語は山田氏は之を間投助詞の中に收めた。文節の終ならばどの文節にも附き得る點で間投の名は適當であるから、間投助詞と名づけて
よからうとおもふ。(但し山田氏の間投助詞は、その定義から見ても、之と同じくなく、範圍もこれよりも廣い)。
 以上は職能(又は用法)を主とした分類であつて、各種の辭のもつ職能の中、他と區別すべきもののみを以て分類の標準としたので、必ずしもその種の辭の有するあらゆる職能をつくしたものではない。
 以上の分類を總括して示せば次の通りである。
 
 斷續を示すしるしあるもの(活用あるもの)==(一)助動詞――(1)動詞にのみ附く (2)種々の語に附く
(79) 斷續を示すしるしなきもの(活用なきもの)=助詞
                       (二)斷續の意味なきもの(1)連用語にも附く――(種々の語に附く)――副助詞 (2)連用語には附かない――(種々の語に附く)――準體助詞
                       (三)續くもの(1)接續するもの――(a)用言にのみ附く――接續助詞 (b)種々の語に附く――並立助詞 接續以外で續くもの(2)體言に續く――(種々の語に附く)――準副體助詞 (3)用言に續く(a)體言にのみ附く――格助詞 (b)種々の語に附く――係助詞
                        (四)切れるもの(1)文を終止する――終助詞(2)文節の終に來る――間投助詞
 
 以上擧げた各種の辭の中で、助動詞・準體助詞及び準副體助詞の三つは、それ/”\用言・體言及び副體詞の三品詞と、その斷續及び他語への連續を等しうするもので、或語にこれ等の辭が附けば、その語本來の品詞や斷續の關係如何に拘らず、これ等の辭と合せて、文節構成上、上述の諸品詞と同一の性質を有するものとなる。それ故、これ等の辭は、かやうな品詞の資格を附與するものと見るべきである。語が或品詞の資格を得て、その品詞と同等に用ゐられる事をその品詞に準用せられたものと見るならば、その資格を與へるこれ等の各種の辭を準用辭又は準用助辭と總稱してよからうと思ふ。
 その他の各種の辭の中、接續助詞・並立助詞・格助詞・係助詞及び副助詞は、何れも種々の語に附いて、その詞と他の詞との關係を示し、又は、その關係に種々の度合や色合を加へるものであるから、これを關係辭又は關係助辭と名づけ、終助詞と間投助詞は、文又は文節の斷止する所に用ゐる故、これを斷止辭又は斷止助辭と名づけてよからうと思ふ。
(80) さて、以上の辭の分類は、意味の斷續と、その種類と、いかなる品詞に附くかによつたのであるが、辭の分類には、以上の外に猶一つの觀點がある。それは、二つ以上の辭が重なつて詞に附く時の辭の順序である。山田氏は、助詞の分類にこの事を考慮に入れて、其勝れた結果得られたのである。今、この點から考へて見るに、大體左の通りである。
 まづ、辭を、上述の如く、準用辭・關係辭・斷止辭の三つに大別するとすれば、それ等が重なる時の順序は、
     準用辭  關係辭  斷止辭
となる。但し、準用辭は、直接に詞に附かずして、詞に他の辭が附いたものに附く事があるが、その場合だけは例外である。(但しその場合でも、準用辭を除いた他の助詞は右の順序による)。
  準用辭に於ては
   一、助動詞は互に重なる事があり、又準體助詞の上に來る事がある。
   一、準體助詞は、助動詞・接續助詞・副助詞・準副體助詞の下に附く事がある。
   一、準副體助詞(「の」)は、副助詞・格助詞・並立助詞・接續助詞の下に附く事がある。
  關係辭に於ては
   一、並立助詞は、副助詞の直前又は格助詞の直前或は直後に來る。同種のものは重ならない。
(81)   一、副助詞は、並立助詞又は格助詞の直前又は直後に來る。又、接續助詞の直後に來る事がある。同種のものが重なる事がある。
   一、格助詞は、副助詞又は並立助詞の直前又は直後に來る。同種のものが重なる事はない。
   一、係助詞は、並立助詞・副助詞・格助詞、又は接續助詞の直後に來る。同種のものが重なる事がある。
   一、接續助詞は、副助詞又は係助詞の直前に來る。又、助動詞・準副體助詞・準體助詞が次に、附く事がある。同種のものは重ならない。  
  斷止辭に於ては
   一、終助詞は、間投助詞の前に、他の辭の後に來る。同種のものが重なる事がある。
   一、間投助詞はあらゆる助詞の後に來る。同種のものが重なる事がある。
 かやうに、辭が重なる場合にも、各種の辭は、それ/”\その位置を異にするのであつて、これによつても以上の分類の妥當である事が知られるのであるが、語の順序の如きは、明かに外部から知り得べきものであるから、これを以て、辭の分類の一つの據所とする事も出來るのである。
 上述の辭の分類は、專ら現代の口語に基づいたものであつて、文語や古代語に於ても妥當であるかどうかは、別に考究すべき問題であるが、私見によれば、文語や古代語にも大體適合するものと認め(82)られる。
 從來の助詞の分類の中、最優れたものといふべき山田氏の説は、日本文法論に於ては、專ら文語の考察によつて、格助詞・接續助詞・係助詞・副助詞・終助詞及び間投助詞の六種とし、後に日本口語法講義に於て、現代の口語に於ても、やはり右の六種を認められたのであつて、研究の順序の於ては逆になつてゐるが、その結果に於ては、現代口語に基づく前述の分類と一致する所が多い。即ち、山田氏の右の六種は、前述の分類中の同名の六種と實質に於ては大概一致し、唯、並立助詞・準體助詞・準副體助詞の三つが山田氏のには缺けてゐるだけである。但し、間投助詞は、山田氏のにもあるが、その見方は多少一致しない所があつて、爲に山田氏の間投助詞は、多くの語を含んでゐるが、私見によれば、山田氏の間投助詞には、他の種のものとして取扱はるべき語があるのであつて、例へば、「や」は終助詞と並立助詞に、「ぞ」は終助詞と準體助詞に、「がな」は係助詞に分類する事が出來るもので、これ等を除いた方が、間投助詞の特質が明瞭になり、之に對する確實な概念を得る事が出來るのである。
 山田氏のに見えない三種の中、並立助詞は山田氏は格助詞・副助詞及び間投助詞の中に收めてゐるのであるが、此等は對等關係の語を接續するもので、かやうな點で他の各種の助詞の何れとも異なり(もつとも接續助詞の中には對等關係を示すものがあるが、これは何れも用言に附くものである點で、(83)並立助詞と區別せられる)、助詞が重なる時も、特別の位置があり、ことに「と」の如きは、格助詞とすると、格助詞は互に重ならないのが原則であるのに、他の格助詞と重なる事がある(「東と西と〔傍線〕に〔右○〕別れる」「右から〔二字右○〕と〔傍線〕左から〔二字右○〕と〔傍線〕出て來た」)。それ故むしろ別種のものとして取扱つた方が都合がよい。又、準體助詞(「の」「から」「ほど」「ぞ」など)は、格助詞その他に同じ語があるけれども、この場合はその意味も他の語との接續の有樣も違ふ故、これを別にするのが當然である。準副體助詞(「の」)は、山田氏は格助詞に收めたが、これは體言以外の種々の語にも附き、又格助詞と重ねて用ゐられる故(「父から〔二字右○〕の〔傍線〕手紙」「こゝ|で〔右○〕の〔傍線〕相談」など)、格助詞とは別にした方がよい。これは常に體言に連續し、この點で副體助詞と性質を同じうする所から、準副體助詞と名づけたが、場合によつて副體詞と關係せしめず、單に連體助詞と名づけてもよい。以上のやうな理由によつて、並立助詞以下の種類を立てたのである。
 
 六 品詞の概念と語の性質
 以上の品詞分類は、普通言ふ語の意義によつたものでなく、職能に據つたものである。即ち、語が、文節の斷續や連接上の種々の關係を如何に擔ひ如何に表はすかによつて分類したものである。從つて、或語が、或品詞に屬するとは、その語が、幾つかの一定の職能をもち、それを或一定の手段によつて表はす事を意味するのである。それ故、品詞とは、語の文節構成上(並に間接には文構成上)の資格(84)であるといふ事が出來る。一定の資格は、一定の能力によつて認められ、その資格あるものはその能力をもつものであるが、品詞は、語のもつ種々の職能によつて認められ、その品詞に屬する語は、一定の職能をもつのである。
 一定の時期に於ける一定の言語は、かやうな文節構成上の資格の一定數を區別し、あらゆる語は、その中のどれかの資格を有つてゐる。新にその言語に加はる語があれば、やはり、その中のどれかの資格を與へられるのである。その資格の種類の數や内容は、時と共に變化する事もあり、又同じ國語の中でも、違つた種類の言語に於ては 大抵一定してゐる。
 所謂品詞の轉成とは、或語が、そのもつてゐた或職能を失ひ、又は、これまでもたなかつた新な職能をもつやうになつて、一の品詞の資格を失ひ、他の品詞の資格を得る事である。又、語が他の語と複合し、又は接辭を附けて、新な語となつた場合には、もと語としてもつてゐた品詞の資格如何に拘らず、新に出來た語は、或品詞の資格を得て、その品詞特有の一定の職能をもつのである。
 こゝにいたつて、我々は、語の一つの大切な性質を明らめ得たのである。即ち、我々は語の性質として、既に擧げた諸項の外に、更に左の一項を加へなければならない。
  語は、それ/”\一定數の品詞の一に屬し、その品詞特有の資格を以て、諸種の文節を構成するも(85)のである。
 
 七 辭と接辭
 〔助詞と接辭〕 我々が、前に接辭と獨立し得ぬ語即ち辭(附屬辭)との區別について論じた時、接辭はそれが附いて出來た語は、文節構成上、單純な語と全く性質を同じうし、單純な語が作ると同樣な文節を作るに反して、辭は、それが附いたものは、單純な語と同樣な文節を作らない故、この點で兩者を區別し得ることを述べ、しかし、さうすれば、助動詞の類は、これが附いたものは、或種類の語(用言)と同樣なものとなる故、むしろ接辭と見なければならないと論じておいた。然るに、辭の分類の條に述べたやうに、辭の中にも、準用辭は、これが附いたものは、單獨で又は種々の辭を附けて、或品詞に屬する語が構成すると同樣な文節を構成するのであるから、この點で接辭と區別がないのであつて、從つて、助動詞のみならず他の準用辭、即ち、準體助詞及び準副體助詞と接辭との區別も亦問題となるのである。
 接辭には接頭辭と接尾辭と二種の別があるが、どちらもそれが附いて出來たものは、或單純な語と同じく、或品詞の資格をもつてゐる。即ち、或品詞に屬する語と全く同じ手段によつて、或は單獨で、或は一定の辭を附けて、その語が作ると同樣の文節を作る。例へば、「暑い」に接頭辭「お」の附いた「お暑い」は、單純な語「暑い」「寒い」などが「暑い」「寒い」又は「暑いのに〔二字右○〕」「寒いのに〔二字右○〕」「暑(86)い|と〔右○〕」「寒い|と〔右○〕」のやうな文節を作ると同樣に「お暑い」又は「お暑いのに〔二字右○〕」「お暑い|と〔二字右○〕」の文節を作り、「春」に接尾辭「めく」の附いた「春めく」は、「進む」「行く」が、「進む|が〔右○〕」「進むけれども〔四字右○〕」「進むだけ〔二字右○〕」「行く|が〔右○〕」「行くけれども〔四字右○〕」「行くだけ〔右○〕」の如き文節を作ると同樣に、「春めく|が〔右○〕」「春めくけれども〔四字右○〕」「春めくだけ〔二字右○〕」のやうな文節を作る。かやうに、接頭辭接於辭の附いたものは、文節構成の上に於て、或單純な語(或品詞)と全く同性質であるが、かやうな一致は、單に文節構成上のみに止まらないのであつて、かやうにして作られた文節の、他の文節への續きやう、及び他の文節からの續きやうも、亦單純な語で作られた文節と同一であつて、その單純な語で作られた文節が承けると同樣の文節を承け、續くと同種の文節に續くのである。例へば、「暑い」が「大層|暑い|天氣」のやうに、「大層」を承け、「天氣」に續くと同樣に、「お暑い」は「大層|お暑い|天氣」といふ事が出來、「進む」が「も」を附けて「あまり|進み|も〔右○〕|しない」と「あまり」を承け、「しない」に續くと同樣に、「春めく」は「あまり|春めき|も〔右○〕|しない」といふ事が出來るのである。
 かやうに、接辭の附いたものは、文節構成上のみならず、前後の文節との連接上の關係も、或單純な語と全く同一であつて、完全に或品詞の資格を有する。しかるに、準體助詞や準副體助詞は、例へば、準體助詞「の」は、「行く」に附いて「行く|の〔傍線〕は〔右○〕」「行く|の〔傍線〕が〔右○〕」「行く|の〔傍線〕を〔右○〕」「行く|の〔傍線〕だ〔右○〕」黨の文節を作ること、體言「花」が「花は〔右○〕」「花が〔右○〕」「花を〔右○〕」「花だ〔右○〕」の文節を作ると同樣であり、これ等の文節(87)が他の文節につゞいて、或は主語、客語などになり、或は、そこで言ひ切りとなる事も、全く同樣であるが、しかし、他の文節を承ける場合には、「行く|の〔傍線〕は」「行く|の〔傍線〕が」「行く|の〔傍線〕を」「行く|の〔傍線〕だ」等は、「そこへ」「私が」等を承けるが、「花は」「花が」「花を」「花だ」等は、これ等の文節を承ける事なく、かへつて、「行くのは」等の承けない、「この」「赤い」などの文節を承けるのである。即ち、準體助詞の附いたものは、文節構成及び他の文節への連續に於體言と同じ資格を有するが、他の文節を承ける場合には體言以外の資格をもつのである。又、準體副助詞「の」の場合も、例へば、「花の〔右○〕」は、副體詞「この」「あらゆる」などと同じく、單獨で文節を作り、所謂形容詞的修飾語として、他の文節中の體言を修飾するが、「花の」は「きれいな」「庭の」のやうな文節を承ける事が出來るに反して、「この」「あらゆる」の類は、この種の文節を承ける事が無い。即ち、準副體助詞の附いたものは、他の文節へのつゞきやうは副體詞と同樣であるが、他の文節を承ける場合にはこれとは違つた資格を有するのである。
 かやうに、接辭は或品詞の資格を完全に有するものを作るに反して、準體助詞及び準副體助詞の附いたものは、文節の構成及び他の文節へへの連續の關係に於ては或品詞と同樣の資格を有するが、しかし、他の文節を承ける關係に於ては、必しも、之と同等の資格を有せぬのである。
 それでは、語にかやうな助詞の附いたものは、如何なる文節を承けるかといふに、それは、その語(88)が單獨で用ゐられた場合に、他の文節を承けると同樣な文節を承けるのである。例へば、準體助詞「の」が附いた「見る|の〔傍線〕」は「本を|見るのは」「私が|見るのは」「よく|見るのは」のやうに、「本を」「私が」「よく」などの文節を承ける事、「見る」が單獨で文節を構成した場合と同樣である。即ち、準體助詞は、他の文節を承ける關係に於てはそれの附く語の品詞の資格をかへ又は奪はないのである。準副體助詞「の」も同樣であつて、「春」に「の」のついた「春の」は「樂しい|春の」「今年の|春の」「暮れる|春の」のやうに「樂しい」「今年の」「暮れる」など所謂形容詞的修飾語を承けること、「春」が單獨で文節を構成した場合とかはらない。即ち準體副助詞は、それの附く「春」の體言としての資格をかへ又は奪ふ事がないのである。準體助詞・準副體助詞に於て見られるかやうな性質は、關係辭及び斷止辭に屬するあらゆる助詞に於ても亦同等であつて、それ等の助詞が或語に附いても、それが爲にその語の品詞としての資格はかはり又は失はれる事は無い。然るに、前述の如く、「春」に接辭「めく」の附いた「春めく」は、文節構成上、及び、他の文節へつゞく關係に於いて一箇の用言と同等になるばかりでなく、他の文節を承ける關係に於ても用言と同等であつて、「春」の體言として他の語を承ける資格は全く失はれてしまふのである。かやうな點に於て、助詞と接辭との間に區別があるのであつて、接辭は、それが附いて單一な品詞を作るに反して、助詞は、それが附いた爲に或品詞の資格を與へる事があつても、その助詞を附けた語は、もとの品詞の資格を失ふことは無いのであ(89)る。
 しかしながら、右のやうな點で助詞と區別し得るのは接辭の中の接尾辭であつて、接頭辭に於ては、或語にそれが附いたからとて、その語はもとの品詞の資格を失ふことがない。(「おうつくしい」は「うつくしい」と同じく、「非常に」「あの人より」「もつと」などの文節を承け、「人」「方」などの文節に續く事が出來る)。しかし、接頭辭の附いて出來たものは、全體として單一な品詞の資格を有するものであつて(「おうつくしい」は「うつくしい」と同じくあらゆる點に於て形容詞である)、準體助詞や準副體助詞の附いたものが、承ける關係と、續く關係とによつて、品詞の資格を異にするのとは違つてゐる。もつとも、準體助詞をつけた「弟の〔傍線〕」(「弟のもの」の義)が、全體として體言と同樣の資格を得て、「弟の|が〔右○〕」「弟の|だ〔右○〕」「弟の|に〔右○〕」など用ひられると共に、體言につゞくべき「私の」「小さい」などの文節を承ける事が出來て、他の文節を承ける關係に於てもやはり體言と同樣であるやうな例もあるけれども、この場合に、文節構成上及び他の文節へつゞく關係に於て體言と同等であるのは、準體助詞を附けた「弟の」であるに對して、「私の」「小さい」等の文節を承けるのは、「弟の」でなく、「弟」だけであり、「弟」がこれ等の文節を承けるのは、それが本來體言であるからであつて、「の」の力でない。それ故、接辭を附けたものとの區別はこの場合にも明瞭である。
 以上述べ來つた所によつて、接辭と、準體助詞・準副體助詞及びその他の助詞、即ち一切の助詞と(90)の間に次の如き差異がある事が明かになつた。
 一、或語に接辭の附いたものは、あらゆる點に於て或一つの品詞の資格をもつ。從つてその語は他の文節を承ける關係に於て、その語本來の品詞としての資格を失ふことがある。
 一、或語に助詞の附いたものは、文節構成に於て、及び他の文節への連續に於て、或品詞と同等の資格をもつ事があるが、その場合にも、その語は他の文節を承ける關係に於ては、自身の品詞の資格を失はない。
 前に述べた如く語は必ず或品詞の資格をもち、その品詞に特有な種々の職能を有するものであるとするならば、接辭が附いて出來たものは完全な語であつて、隨つて接辭は語構成の要素であり、これに對して、助詞は、語に附いても、その語は、少くとも他の文節を承ける關係に於てその品詞たる資格を失はず、やはりその品詞特有の職能を保有するものとすれば、その語は、やはり、語たる性質を失つたものではないのであつて、隨つて、之に助詞の附いたものは一語ででなく、文節であるから、助詞は文節構成の單位であつて、即ち語の一種(辭)と見るべきである。かやうにして、接辭と助詞とは互に區別する事が出來るのである。
  他の文節を承ける事を職能と名づけるについては、多少の疑義があるかも知れないが、他の文節に續いて、主語となり、客語となり、補語となり、修飾語となり得るななどを職能といふならば、是等の文節を承けて、主語に對して述語となり、客語(91)補語に對して補足せられる語となり、修飾語に對して修飾せられる語となるなども職能といつて差支ないことゝ思ふ。
 【助動詞と接辭】 以上、他の文節を承ける關係から見て、あらゆる助詞は、接辭とは異り、語の一種なる辭と見るべきである事が明かになつたのであるが、更に助動詞について見るに、助動詞は、それが他の語に附いたものは、全體として一の用言と同じ資格で文節を作るものである。助動詞には、種々の語に附くものと、用言にのみ附くものとの區別があるが、その中、種々の語に附く助動詞は、これが或語に附いた場合にも、その語は、他の文節を承ける關係に於て、その品詞の資格を失ふ事はない。例へば、「だ」は「學生だ〔右○〕」の文節を作るが、この文節は、「大學の」「若い」「活?な」等の文節を承ける事、單獨の「學生」と變らず、「學生」は、體言たる資格を失ふ事はない。それ故、これ等の助動詞は、接辭ではなく、辭と見るべきである。
 次に、用言にのみ附く助動詞に於ても、同樣である。例へば、「見る」は動詞として、「私は」「よく」「本を」などの文節を受ける事が出來るが、「見る」に助動詞「よう」「まい」「た」「ない」などの附いた「見よう」「見まい」「見た」「見ない」なども亦右の諸文節を承ける事が出來る。たゞ、問題になるのは、受身及び使役の助動詞の附いたものであつて、動詞「捕る」は「猫が」「鼠を」を承けて「猫が鼠を捕る」といふ事が出來、之に受身の「れる」を附けた「捕られる」も同樣の文節を承けて、「猫が鼠を捕られる」といふ事が出來るが、しかし、その場合の「猫が」と「捕られる」との關係は、(92)「猫が捕る」の關係とは全く異つてゐる。使役の「せる」を附けたものも同樣で、「猫が鼠を捕らせる」の「猫が」と「捕らせる」との關係は「猫が捕る」とは全く趣を異にする。
 しかしながら、このやうに、單獨の語と受身又は使役の助動詞を附けたものとが、同じ文節を承けながらその意味上の關係を異にするのは、主語を承ける場合だけであつて、他の種の文節を承ける場合には、かやうな相違のないのを常とする。例へば、「烈しく打つ」に於ける「烈しく」と「打つ」の關係は「烈しく打たれる」「烈しく打たせる」に於ける「烈しく」と「打つ」との關係と少しもかはらない(「烈しく打たれる」は烈しく打つ事を受け被るので、受け被る事が烈しいのでなく、「烈しく打たせる」は烈しく打つ事をさせるので、そのさせやうが烈しいのではない)。「途中で取る」と「途中で取られる」「途中で取らせる」「筆で書く」と「筆で書かれる」「筆で書かせる」、「壁にかける」と「壁にかけられる」「壁にかけさせる」、「袋から出す」と「袋から出される」「袋から出させる」、「酒を飲む」と「酒を飲まれる」「酒を飲ませる」などに於ても、亦同樣である。
 それでは、何故に主語を承ける場合に限つて、受身使役の助動詞を附けたものと附けないものとの間に、前述の如き相違があるかといふに、受身又は使役に於ては、動詞の表はす動作をなすものと、その動作を承け被り又はなさしめるものとは、常に違つたものであつて、前者は、その動詞が單獨にあらはれた場合にはその主語になるが、動詞に助動詞を附けて、受け被る事又はなさしめる事を述べ(93)る場合には、前者は主語の位置を退いて後者が主語となるのである(たとへば、「猫が捕る〔二字傍線〕」に於ては「猫」が主語であるが、「捕ら〔二字傍線〕れる〔二字右○〕」となると、猫が主語となる事なく、例へば「鼠」が主語となつて「鼠が捕ら〔二字傍線〕れる〔二字右○〕」となる)。隨つて同じ主語であつても、その動詞に對する關係は、動詞だけの場合と動詞に受身使役の助動詞を附けた場合とで同一である事は出來ないのである。さすれば、これは受身又は使役といふ思想そのものの中から、必然的に生ずる結果である。
 同樣な現象は、猶他の場合にもある。「れる」「られる」は、可能及び自發(おのづからさうなる)の意味に用ゐられる事があるが、「書く」は「字を〔右○〕書く」といふ事が出來るに反して、「書く」に可能の「れる」の附いた「書かれる〔二字傍線〕」は「字を〔右○〕書かれる〔二字傍線〕」とはいはず、「思ひ出す」は「昔を思ひ出す」といふ事が出來るに反して、之に自發の「れる」を附けた「思ひ出される〔二字傍線〕」は「昔を〔右○〕思ひ出される〔二字傍線〕」とはいはない。又、希望の助動詞「たい」の場合にも、例へば、「飲む」は「茶を飲む」といふ事が出來るが、「飲みたい〔二字右○〕」になると、「茶を飲み」といふよりも「茶が飲みたい」の方がむしろ普通のやうである。これ等に於ては、單獨の動詞の場合には承ける事が出來た客語(「――を」で表はすもの)を、助動詞を附けた場合には全く承ける事が出來なくなるか、又は承ける事がふつうでなくなるのである。しかし、これ等の助動詞に於ても、右の如き客語以外のものは、助動詞の有無によつて、その承ける關係を異にする事はない(「ふと〔二字傍線〕昔を思ひ出す」と共に「ふと〔二字傍線〕昔が思ひ出される」が可能であり、(94)「茶を一杯〔二字傍線〕飲む」と共に「茶が一杯〔二字傍線〕飲みたい」が可能である)。これ等も、そ助動詞の性質によつて、動詞の承け得べき諸種の文節の中の或特殊のものだけが變動を來すのであつて、その他のものには影響する所は無い。隨つて、かやうなものは、或特殊の助動詞に於ける特例と見てもよいものである。しかし、とにかくこの種の助動詞に於てはそれの附く語の承け得べき文節に、多少の制限を加へるもののある事は認めなければならない。
 一方、接辭は、それが附いて出來たものは、あらゆる點に於て一箇の品詞の資格を有するものであつて、それは接辭の附いた語の品詞如何に拘らないのであるから、隨つて、或文節を承けることが出來た語も、接辭が附いた以上は、その品詞の資格を失ひ、その文節を承ける事が出來なくなる事があるのは常である。然るに、助動詞に最も似た接辭、即ち動詞に附いてやはり動詞を作る接尾辭に於ては、必しもさうでないものがある。例へば、「轉ぶ」は「ころ/\」を承けて、「ころ/\轉ぶ」といふ事が出來るが、「轉ぶ」に接尾辭「す」が附いた「轉ば|す〔傍線〕」も、やはり「ころ/\轉ばす」といふ事が出來、「出る」は「部屋から」を承けて「部屋から出る」といふ事が出來るが、「出る」に接辭の附いた「だ|す〔傍線〕」も、「部屋から出す〔二字傍線〕」といふ事が出來る。「うづめる」は「地中に」を承けて、「地中にうづめる」といふ事が出來ると共に、「うづめる」に接尾辭の附いた「うづもれる」も亦「地中にうづもれる〔二字傍線〕」といふ事が出來る。
(95) しかし、これ等の接尾辭も、それが附いた語の他の文節を承ける關係を、いつも變へないのではない。例へば「轉ぶ」は「子供が」を承けて「子供が轉ぶ」といふ事が出來ると共に、接尾辭の附いた「轉ばす」も「子供が轉ばす」といふ事が出來るけれども、「子供が轉ぶ」に於ける「子供が」と「轉ぶ」の關係は、「子供が轉ばす」に於ける「子供が」と「轉ばす」との關係とは決して同一でない(前のは「轉ぶ」のが子供であるに對して後のは「轉ばす」のが子供であつて、「轉ぶ」のが子供でない)。「私が出る」と「私が出す〔傍線〕」との間及び「氷がうづめる」と「氷がうづも|る〔傍線〕」との間にも右と同樣の相違がある。又「池をうづめる」とはいふが「池をうづもる」とはいはれない。かやうに接尾辭の有無によつて、承ける文節との關係がかはるのは、一般に接尾辭に於ては珍しくない事であつて、之に對して、多くの助動詞に於ては、それが附いた爲に、附いた語の他の文節を承ける關係を更へる事無く、この點で、接尾辭と助動詞とを區別する事が出來るのであるが、たゞ使役・受身(可能・自發)及び希望の助動詞に於ては、今述べたやうに、之を附けた爲に他の文節を承ける關係に變動を及ぼす場合がある事、接尾辭とほゞ同樣であつて、右のやうな點から、助動詞を接尾辭區別する事は困難である。
 かやうに、それの附いた語の他の文節を承ける資格に變動を及ぼす事が有るか無いかによつて、接尾辭と助動詞とを判然と辨別する事は、或種の助動詞に於ては不可能であり、隨つて、之を標準とし(96)て、接辭と辭とを區別するとすれば、この種の助動詞は辭とは認めがたく、むしろ接辭の類に入れなければならないのである。
 かやうな結果に到達したとしても、理論上當然の歸着であるとすれば、勿論避くべきでないが、しかし、他の標準(どんな語にも自由に規則的に附くかどうかといふやうなもの)によれば、助動詞と接辭とを區別し得る事は前述の如くであり、且つ右の標準も、或種のものを除いて、助動詞の大部分に於て適用せられるのみならず、助詞に於ても有效であるから、語と接辭との限界に就いて攻究する時、かやうな點から考察する事も大切であり又有益であるといつてよいのである。
 
  以上述べた所も委曲を盡さず、猶論ずべき問題も殘つてをるが、既に豫定の紙數を遙に超過した上に時間の餘裕もない故、ここに筆を止める事にした。是非載せたいと考へてゐた形容動詞の論は、近く別に發表する機會があらうとおもふ。
〔2017年9月29日(金)午前12時、入力終了〕