上代語の研究、橋本進吉、岩波書店、346頁、560圓、1951.10.10
 
(1)     凡例
一、本書は、橋本進吉博士著作集の第五冊として、上代語に關する既發表の論文十五篇と未定稿一篇とを收めた。
一、「語義の解釋と文意の解釋」は、「國語と國文學」(第百六十號、昭和十二年八月刊行)に發表せられたものである。
一、「萬葉集の語釋と漢文の古訓點」は、佐佐木信綱博士還暦記念論文集「日本文學論纂」に收められたものである。今、自筆校訂本を底本とした。
一、「萬葉集は支那人が書いたか」は、「國語と國文學」(第百五十三號、昭和十二年一月刊行)に發表せられたものである。
一、「萬葉集と仙覺 仙覺新點の歌」は、「心の花」第二萬葉號(第十九卷第六號、大正四年六月刊行)に發表せられたものである。今、自筆校訂本を底本とした。
一、「『がてぬ』『がてまし』考」は、「國學院雜誌」(第十六卷第九、十、十一號、明治四十三年九、十、十一月刊行)に發表せられたものである。今、自筆校訂本を底本とした。
(2)一、「萬葉時代の『まじ』」は、「心の花」第四萬葉號(第二十四卷第七號、大正九年七月刊行)に「萬葉時代に於ける『まじ』と『ましじ』」として發表せられたものである。今、自筆の訂正稿によつた。
一、「萬葉集語解三則」は、「心の花」第五萬葉號(第二十五卷第十一號、大正十年十一月刊行)に發表せられたものである。今、自筆校訂本を底本とした。
一、「奈良朝語法研究の中から」は、「國語と國文學」(第二卷第一號、大正十四年一月刊行)に發表せられたものである。
一、「『とほしろし』考」は、「奈良文化」(第六號、大正十四年五月刊行)に發表せられたものである。今、自筆校訂本を底本とした。
一、「辭書さま/”\『とほしろし』考餘談」は、「國語と國文學」(第九卷第八號、昭和七年八月刊行)に發表せられたものである。
一、「允恭紀の歌の一つについて」は、「早稻田文學」(第二百六十三號、昭和二年十二月刊行)に發表せられたものである。
一、「上代に於ける波行上一段活用に就いて」は、「國語・國文」(創刊號、昭和六年十月刊行)に發表せられたものである。今、自筆校訂本を底本とした。
一、「『ことさけば』の『こと』と如の『ごと』」は、「國語と國文學」(第百九十八號、昭和十五年十月刊(3)行)に發表せられたものである。
一、「『ことさけば』の『こと』の語義について」は、「國語と國文學」(第二百十一、二百十二號、昭和十六年十一、十二月刊行)に發表せられたものである。今、自筆校訂本を底本とした。
一、「上代の國語に於ける一種の『ずは』について」は、未定校の一つである。今、自筆の草稿を底本とした。
一、本卷の解説は林大が執筆し、校正には同人並びに大野晋があたつた。
 
(1)     目次
 
上代語の研究
 
語義の解釋と文意の解釋……………………………三
萬葉集の語釋と漢文の古訓點………………………九
「萬葉集は支那人が書いたか」……………………三二
萬葉集と仙覺 仙覺新點の歌………………………三九
「がてぬ」「がてまし」考…………………………四五
萬葉時代の「まじ」………………………………一〇一
萬葉集語解三則……………………………………一二二
奈良朝語法研究の中から…………………………一三八
(2)「とほしろし」考……………………………一五七
辭書さま/”\ 「とほしろし」考餘談………一六八
允恭紀の歌の一つについて………………………一七四
上代に於ける波行上一段活用に就いて……………一八五
「ことさけば」の「こと」と如の「ごと」………二〇五
「ことさけば」の「こと」の語義について………二三七
上代の國語に於ける一種の「ずは」について……三〇一
解説(林大)…………………………………………三二五
 
上代語の研究
 
(3)     語義の解釋と文意の解釋
 
 私は、萬葉集に屡見えてゐる−種の「ずば」(例へば「かくばかり戀ひつゝあらずば高山の磐根し枕きて死なましものを」の類)を、本居宣長の詞玉緒以來「んよりは」の意味と解してゐたのを誤であるとし、それは語形に於ては「ずば」でなくて「ずは」であり、打消の助動詞「ず」の連用形に助詞の「は」が附いたもので、「ずして」といふやうな意味で下に續いて行くものである事を論じて本誌に載せた事がある。(大正十四年一月號所載「奈良朝語法研究の中から」)この私の説は、その後多くの萬葉研究家や國語學者に採用せられる榮を得たが、しかし、猶舊説を棄てかねてゐられる方々もあるやうである。それは、宣長の解がいかにも巧みであつて、あらゆる場合に適切にあてはまるからであらうと思はれる。私はかねてかやうな事があるかも知れないと考へたので、前掲の論文中に、宣長の説は、歌全體の意趣を示すものとしては必しも捨て難い點があるにも拘らず、「ずば」といふ語に「んよりは」の意味があるとするのは斷じて誤である事を説いておいたのである。
 かやうに、宣長の説は「ずば」の語釋としては許す事が出來ないに拘らず、なほ、文全體の意味の解説としては採るべき點があるのは、どうしたわけであらうか。
(4) 一つの文の意味は、文中の個々の語(及び文法形式)の意味に基づいて解釋せらるべきものである故、まづ個々の語の意味が明にせらるべきは言ふまでもない。尤も、一つの文は或一つの事柄を言ひ表はしてゐるものであり、文中の語は、その中の或部分を表現してゐるものである故に、文中に於ける語の意味は文全體の意味に制せられて多少の變化を示してゐる事は事實であるが、しかし、語にはその語固有の一般的意味があつて、それが根幹となり、場合に應じて、之に多少の具體化や特殊化が加はつて、種々の文に於て用ゐられるのである。普通、語義といふのは、かやうなその語固有の一般的意味をさしていふのである。それ故、語義を明かにするには、或一つの文、又は同種の文に於てその語が如何なる意味を表はすかを見るだけでなく、ひろく種々の文に於ける用例からしてその語の根幹たる意味を歸納しなければならないのである。さうでなければ、その一つの文、又はその或種の文に於けるその語の特殊化した意味又は偶有的意味の加はつた意味を以て、その語固有の一般的意味と誤解する虞があるからである。
 實際、文獻によつて過去の言語を研究するに當つては、語の實例が乏しい爲に、まづその語を含む文全體の意味を推測して、それからして語の意味を考へなければならない場合も少くないが、これはかなり危險を含む方法であつて、たとひ文全體としての意味の把捉が大體正しい場合でも、それから導かれた語義の解釋は時として誤を含む事がある事は避け難い事である。
(5) 或る文の意味は、之を構成する語及び文法形式の意味によつてきまるものではあるが、實際に於ては、その中の一つや二つの語の意味が不明であつても、全體の意味が推察出來ないとは限らない事は、我々の日常經驗する所である。殊に前述の「ずは」の例の如く、「ずは」の前後の語句の意味が明かであり、しかも同樣な例が多くあつて、前と後との語句の間の意味上の關係が何れも同樣であると考へられるやうな場合には、全文の大體の意味を推察する事はさほど困難でない。宣長が右の諸例に於て「……せんよりは」又は「寧」といふやうな意味があると考へたのは、多分右のやうな經路によつたのであらう。しかしながら、かやうな方法は、主として研究者の直觀に基づくものであつて、必ずしも常に正しい結果を得るとは限らないものであり、かやうにして得た思考は新な討究の途を發くものとはなり得ようが、直に研究の結論とはなし難いものである。宣長が推定した上述の意味は、嚴格に言へば正しくなかつたけれども、それでも歌全體の意趣を明かにした所があつて、文意の解釋としては採るべき點があるのは、主として宣長の勝れた直覺の力によるのである。しかし、かやうな意味は、文中前後の語句の關係からして自然にあらはれて來たものであつたのを、宣長は直に「ずば」の意味であると解し、「ずば」の語形及び語義を檢討して、「ずば」にかやうな意味があると解する事が果して可能であるかどうかをたしかめなかつた所に、宣長説の缺陷があつたのである。
 右の「ずは」については他日もう少し委しく論じたいとおもつてゐるが、語義の解釋と文意の解釋(6)との違ひについて、之に似た猶一つの例を、やはり宣長の詞玉緒から擧げておきたい。
 同書卷四、「何」の條の中(三十八丁裏)に、「一つの何」と標して、左の例が出てゐる。
 古十四 みちのくの忍ぶもぢずりたれ〔二字傍線〕ゆゑにみだれんと思ふ我ならなくに
 同   津の國のなに〔二字傍線〕は〔右○〕おもはず山しろのとはに逢見んことをのみこそ
 同二十 みちのくはいづく〔三字傍線〕は〔右○〕あれど鹽がまの浦こぐ船のつなでかなしも
 萬八  いづく〔三字傍線〕には〔右○〕なきもしにけん郭公わぎへの里にけふのみぞなく
 同十七 梅花いつ〔二字傍線〕は〔右○〕をらじといとはねどさきのさかりは惜き物なり
之について左の説明がある。
  此格は、そのさしていふ物に對へて、それならぬ他の物を何〔傍線〕といふ也。古今十四の哥は、思ふ人に對へて、其他の人をたれ〔二字傍線〕といへり。君をおきて他の人故にみだれんと思ふ我ならなくに也。又なには思はずは、とはに逢見ん事をのみこそ思へ、其他の事は思はず也。いづくはあれどは、他の所はあれどなり。いづくにはなきもしにけんは、他の所にはなきもしにけん也。いつはをらじと思はねどは、他の時はをらじと思はねどなり。
 これは「何」即ち疑問詞の一種の用法として擧げたものであるが、これ等の歌の「たれ」「なに」「いづく」「いつ」の類を、さしていふ物に對して、それ以外のものをいふと釋してゐるのである。さ(7)うして、一々の歌の解を見るに、何れも當つてゐるのであつて、非難すべき餘地はないやうである。しかしながら、それは、これ等の歌全體としての解釋であつて、もし、「たれ」といふ語に「他の人」の義があり、「なに」に「其他の事」、「いづく」に「他の所」、「いつ」に「他の時」といふ意味があると解するのであるならば、即ちこれ等の諸語の語義の問題であるならば、右の解は誤であるといはなければならない。それでは、これを如何に解釋すべきかといふに、口語で、「誰も〔右○〕來ない」「何も〔右○〕思はない」「何處でも〔二字右○〕ある」「何時でも〔二字右○〕來る」又は「誰か〔右○〕來る」「何か〔右○〕ある」「何處か〔右○〕にゐる」「何時か〔右○〕知れる」のやうに疑問詞に「も」「でも」又は「か」の助詞を附けて不定の意味に用ゐる事があるが、古代語では、かやうな助詞を附けないでも不定の意味に用ゐた事は、宣長も、玉緒の前掲の條のすぐ前に「も〔傍線〕と受る意にても〔傍線〕もじなき格」と題して、「今いくか〔三字傍線〕(モ)春しなければ」「いつ〔二字傍線〕とくべしと(モ)見えぬ君かな」「何〔傍線〕のつみ(モ)なき世をや恨みん」其他の例を擧げてゐる通りである。問題の諸例も、亦この類に屬するものであつて、「みちのくの」は「誰故にも〔右○〕亂れようと思ふ私ではない(君故にのみ亂れるのだ)」の意、「津の國の」は「何も〔右○〕思ひはしない。唯永久に逢ひ見る事をのみおもふ」の意、「みちのくは」は「陸奥は何處でも〔二字右○〕」(面白い所は)ありはするが」の意、「いづくには」は「何處か〔右○〕には鳴きもしたらう」の意、「梅花」は「何時も〔右○〕は折るまいといつて厭ふことはしないが」の意である。即ちこれ等の疑問詞の用法及び意義は」これ等の歌にのみ限られたものではなく、その他のものと同樣(8)である。唯、これ等の歌に於ては、この疑問詞を用ゐた句又は文は、或一事を強調する手段として用ゐられたものである爲に、自然に「他の人」「其他の物」などと解してもよいやうになつてゐるだけである。それ故、宣長の解釋は、歌全體の意味を明かにする爲には許してもよく、場合によつては適切な解釋であるともいはれようが、もし、語の解釋とするならば、斷じて許すことは出來ないのである。
 かやうに語義の解釋と文意の解釋との間には區別があるのであるが、この二つの合致する所に正確にして信憑するに足る解釋が生れるのである。
 
(9)     萬葉集の語釋と漢文の古訓點
 
       一
 
 過去一千年の久しきに亙つて、數多の學者の研究の對象となつて來た萬葉集は、今日に於ても猶我々に多くの問題を提供してゐる。從來の學者の研究が及ばなかつた方面は言ふに及ばず、古くから幾多の學者が心力を盡した語釋の方面に於ても、今日の立場から仔細に觀察すれば、猶缺陷多く、解決を今後の攻究に俟つべきものが少くない事を見出すのである。
 語釋の方面に於ける從來の研究の著しい缺陷は、一は語釋に直接關係ある事項、例へば用字法假名遣語法などの研究がまだ十分發達しなかつた爲に、當然顧慮すべき條件を顧慮しなかつた事と、一は語釋研究の基礎とし又は參考とすべき資料が乏しく、勢、臆斷に陷らざるを得なかつた事とにあるのである。
 かやうな事は、その當時の事情としては、誠に已むを得なかつた事であるから、我々は之を以て從來の學者を責めようとするのではない。たゞ、今日に於ては、これ等の點に於て昔時と大に事情を異(10)にするものがある事を述べて、既に殆ど開拓し盡されたかの觀ある語釋の方面に於ても、猶攻究すべき餘地の多い事を明かにしたいと思ふのである。
 
       二
 
 まづ語釋に直接關係ある事項の研究について見るに、假名遣については、イエオとヰヱヲ、ハ行の假名とワ行の假名、ジズとヂヅ等の區別が古代の文獻に儼存した事は、契沖以來の萬葉學者の熟知してゐた所であるが、石塚龍麿が發見して、その著假名遣奧山路に説いた、上代の文獻に存する特殊の假名遣、即ちエキケコソトヌヒヘミメヨロの十三の假名の各に於ける兩類の區別の如き、又、奧村榮實が古言衣延辨に説いた、平安朝初期以前の文獻に存するア行のエとヤ行のエの區別の如きは、共に上代文獻の語釋並に本文批判の一の規準たるべきものであるに拘らず、その眞價は近來に至つてやうやく認められるにいたつたもので、萬葉集研究には、まだ殆ど利用せられてゐないのである。
 又古代語の語法の研究は、本居宣長富士谷成章によつてその基礎が出來、本居春庭、東條義門、鹿持雅澄などの時代によほど進歩したが、明治に入つて、山田孝雄博士の研究にいたつて面目を改め、その後も部分的に次第に開拓されて行つてゐるのであるが、江戸時代の萬葉學者は、春庭義門の時代までの研究を利用したに止まる。今後この方面の研究の進展と共に、語釋の方面に於ても何等かの影(11)響を受くべき事は疑ない。
 其他、近年益精細になつて行く用字法の研究に伴つて語釋の方面もまた進歩を見るであらう。
 
       三
 
 次に研究資料の方面に於ては、上代乃至古代の文獻は大體その數が限られてゐるのであつて、その主なものは大概江戸時代の萬葉研究者が利用してゐるが、江戸時代末期から今日にいたるまでの間に新に見出されたものも、かなりの數に上るのであつて、これ等は、まだ全く語釋の研究に利用せられないか、少くともまだ十分利用せられてはゐないのである。
 まづ、萬葉集の異本では、江戸時代の學者が見る事が出來たのは、古葉略類聚鈔と元暦本とであるが、幕末から明治にかけて木村正辭博士が諸本を蒐集せられ、明治の後期以後、佐佐木信綱博士の異常なる熱心によつて、多くの有力なる異本が發見され、且、同博士の盡瘁によつて、諸本の異同を一覽し得べき校本萬葉集の編纂刊行も遂行せられたのみならず、異本中の特に價値多きものは複製せられて、自由に之を用ゐる事が出來るやうになつたのであつて、これによつて語釋上に新しい光を投じたものも少くない。
 又、上代の歌謠を收めた琴歌譜や歌經標式の如き者の發見もあり、風土記や日本紀などの古鈔本も(12)見出されて、語釋の上に有力な參考資料を加へ、正倉院文書も、次第に刊行せられて、萬葉集の言語研究に新しい資料を、供してゐる。
 かやうな新資料は、何れもまだ十分利用されてはゐないのであつて、今後の討究によつて、語釋研究の上にもその價値を發揮し得べきものである。しかしながら、今こゝに特に述べたいと思ふのは、漢文の訓點に關する種々の資料である。
 
       四
 
 漢文漢字のよみ方として今日までも傳はつてゐる訓讀の語は、和歌の詞や平安朝の假名文に比べて、後世の口語に近い點が多いにも拘らず、平安朝の歌文には既に用ゐられなかつたやうな上代の語や語法を混じてゐることは、周知の事實である(「けだし」(蓋)「あに」(豈)「べけむ〔二字傍線〕や」などその例である)。これは、漢文訓讀の由來が甚古い爲であつて、上代に於て、漢文漢字の譯語として用ゐた、當時の口語に於ける語や語法が、既に口語として用ゐられなくなつた時代に於ても、猶漢字の訓として漢文訓讀の場合に襲用せられた爲である。中にも、日本紀や文選遊仙窟などは、かなり古代の訓點が後世までも殘つてゐて、中に上代の語を存してゐる爲に、契沖の如きは代匠記中に屡之を引用して萬葉集の語義を釋してゐる。
(13) 實際、比較對照すべき資料に乏しい上代の文獻に於ては、その語義を明かにするに屡困難を感ずるが、もしその語が漢文漢字の訓として見出されたならば、その漢文漢字の意義によつて、容易にその語の意味を解する事が出來るのであるから、漢文漢字の古訓を知るべき諸種の資料は、語釋の上には極めて大切なものであるといはなければならない。
 それでは、かやうな資料としてはどんな種類のものがあるかといふに、その重なるものは凡そ三種ある。一は漢字漢語の辭書であり、一は佛典の註釋書たる音義の類であり、一は漢文に訓點を附した所謂點本である。
 漢字漢語の辭書として現存せる最古のものは、空海の篆隷萬象名義であるが、これは漢文で漢字の發音と意義とを註しただけで、訓を擧げてゐない。ついで寛平昌泰の頃、僧昌住の撰した新撰字鏡がある。主として漢文で各字の音義を註したが、これには處々萬葉假名で訓が加へてあり、又、漢字の熟語を集めて訓を附した部分もある。全部十二卷であるが、この中から訓のある字のみを拔萃した略本がある。
 承平年中の作と認められる源順の和名類聚鈔(和名抄)は、分類體の漢語辭書といふべきもので、各種の物名を漢字で出して漢文の註を加へ、萬葉假名でその和名を示したものである。殆ど名詞ばかりであつて、其他の語は極めて稀である。
(14) 新撰字鏡に似て、一層廣く古訓をあつめたものは類聚名義抄である。院政時代に佛家の手に成つたものらしく、音は反切で註し、意義は漢文で註した所もあるが、それは稀で、主として片假名で訓をあげてゐる。その訓は甚豐富であつて、實に和訓の集大成である。
 又平安朝末に橘忠兼の編した色葉字類抄は、音又は訓から漢字を檢出するやうにした伊呂波引の辭書で、漢字とその訓とを知る事が出來るものであるが、訓は、類聚名義抄などに比すれば、あまり多いといふ事は出來ない。二卷本三卷本十卷本と、三種の異本があり、二卷本と三卷本は原著者の作であるが、十卷本は後世の増補である。
 以上は何れも平安朝のものであつて、その著作年代が古く、古訓を知るに恰好の資料であるが、中にも類衆名義抄は收むる所最廣く、古訓の寶庫ともいふべきである。
 次に音義の類は、主として或佛典中の難讀難解の語を抄出してその發音と意味とを註したもので、既に奈良朝から作られ、初は、支那に於ける一切經音義などと同じく、漢文で註したが、次第に訓を加へるやうになり、遂には、假名で音訓を註するのみのものも出來た。語は、佛典の本文にあらはれた順序で排列してある故、檢索には不便であるが、古くから作られただけに古語を傳へてゐる。今日までに知られた和訓のある音義書で、時代の古いものは、八十卷花嚴輕音義(奈良朝書寫)、大般若經音義(石山寺藏)、秘音義(空海作)、金光明最勝王經音義(承暦二年成)、花嚴經音義(天治本一切經(15)音義と合册)、法華經單字(保延二年書寫)などがある。佛典ではないが、宇多天皇御筆の周易抄なども、これと同種のものである。
 次に、漢文に訓點を加へた諸書即ち點本は、江戸時代に刊行せられたものだけでも夥しい數に上るのであつて、中に古訓を存するものがあり、殊に、因明唯識の如き、奈良の諸宗に於て古くから講ぜられた佛典には、甚古風な訓が附いてゐるものもあるが、概して後世に訓點を改めたもの多く、古代の點本にくらべれば、古訓が失はれたものが少くない。古代の點本は、寺院や名家に秘藏せられて、まだ世に知れないものが多いが、既に知られてゐるものでも、かなりあり、現存するものは、隨分多數に上るやうである。中に、平安朝のもの、ことにその初期のものも相應にあつて、これ等を調査すれば、多くの古訓を見出す事が出來るであらう。
 
       五
 
 以上各種の資料は、古代語の語義研究には缺くべからざるものであるが、これらの資料が萬葉集の語釋に、どれほど利用せられたかといふに、辭書の類では、和名抄は古くから流布して、契沖はじめ江戸時代の註家も之を盛に用ゐて居り、新撰字鏡は、その略本が眞淵の時代にいたつてはじめて國學者の間に知られ、後享和三年に刊行されて、それより次第に利用されるに至つた。しかし十二卷本は、(16)安政の頃はじめて鈴鹿連胤が見出したのであつて、その訓は異本とは出入異同があるから、必參照すべきものであるが、傳寫本が極めて少く容易に得がたいものであつた。類聚名義抄は、伴信友がはじめて東寺觀智院の本を寫し、異本を以て校合を加へてから世に知らるゝにいたつたが、これも流布するものが少なかつた。色葉字類抄は、元禄十三年今井似閑が中院家の十卷本を寫してから、多少世に傳はつたが、三卷本は、黒川春村が之を見出してはじめて世にある事が知られたもので、二三の轉寫本があるに過ぎず、前田侯爵家の三卷本(但し中卷を缺く)や二卷本が世に知られたのは明治以後の事である。
 かやうに和名抄以外の諸書は、江戸時代になつて次第に見出されたもので、しかも、略本の新撰字鏡の外は、殆皆江戸末期の發見に係り、且、傳本も極めて稀であつた爲、江戸時代の萬葉學者に利用されなかつたのみならず、明治以後もあまり用ゐられてゐないのであつて、唯、近藤芳樹の萬葉集註疏に處々に類聚名義抄や色葉字類抄を引用してゐるのを異とする位である。
 しかしながら、この種の資料の發見が、いかに語釋の上に新しい光を投ずるかは、次の一二の例によつても推測する事が出來よう。
 萬葉卷十七にある、大伴家持が飼養した鷹の逸し去つたのを惜んでゐる時、夢に、少女があらはれて近く歸つて來る由を告げたので、歡んで作つた長歌の反歌の一つである
(17)  情爾波由流布許等奈久須加能夜麻須加奈久能未也孤悲和多利奈牟《コヽロニハユルフコトナクスガノヤマスガナクノミヤコヒワタリナム》(卷十七、四〇一五)
の「須可奈久」を代匠記には「すきなくにて透間なく鷹をこひおもふなり」(初稿本)又「スカナクハ透ナクナリ」(精撰本)と解し、略解には「無因所《ヨスガナク》の略語なるべし」と解したが、古義にいたつて、はじめて新撰字鏡に「※[口+喜]※[口+羅]、心中不2悦樂1※[白/ハ]、坐歎※[白/ハ]、須加奈加留佐久佐久志」とあるを得て、その眞義を明かにする事が出來たのである。(この新撰字鏡は略本によつたもので、十二卷本には「※[口+婁]※[口+羅]、獨坐不樂皀須加奈志乎佐奈志又佐久々志」とある。)
 又、大伴池主が家持に戯に贈つた四首の歌の一つなる、
  芳理夫久路等利安宜麻敝爾於吉可邊佐倍波於能等母於能夜宇良毛都藝多利《ハリブクロトリアゲマヘニオキカヘサヘバオノトモオノヤウラモツギタリ》(卷十八、四一二九)
の「於能等母於能夜」を、代匠記には「おのれが袋ともおのれが袋ともやとなり」(以上初稿本。精撰本も同説)と解し、略解には「オノトモは、能と母と相通へば、オモテモと言ふ心ならん。(中略)裏返して見れば、表も表よ、裏さへに綴りて惡ろき袋かなと言へるなるべし」と釋し、古義は「岡部氏(ノ)説に表も表よとなりといへり。(中略)表も表にて、裏さへも種々の絹を繼(ギ)交へてうるはしく宜しく縫(ヒ)製らせて賜へりと、美(メ)たるなるべし」と説き、近く井上通泰博士の新考には、「オノシトモオノシヤの二つのシを省けるにて、當時オノシといふ俗語又は方言の形容詞ありしならむ。そのオノシはオドシの訛にて驚くべしといふことにや」と説かれてゐるが、何れも、根據のない臆測の説に過ぎない。(18)然るに木村正辭博士は好古雜誌第九號(明治十五年三月發行)に「於能といふ詞の考」を載せて、この於能を新撰字鏡に「吁、虚于反疑怪之辭於乃」とあるによつて解し「こは池主より家持卿へ針袋をぬひてたまはらんことを乞て、それが料の絹布などをおくりたるに、家持卿そのおこせたる本物を貿易して、よき絹布してぬひてあたへたるによりて、池主のそを見てうたがひあやしみおどろきたるよしなり」と説いたのであつて、こゝにはじめて根據ある正しい解釋が得られたのである。吁は説文に驚語也と註し、玉篇に疑怪之辭也驚語也とあつて、新撰字鏡の話は玉篇から出たものと思はれる。このオノの語は、類聚名義抄に吁の字の訓にオフと誤寫されて出て居り、又書經の訓に吁をみなオンノとよみ、以呂波字類抄にも「吁オン(ノ)凝怪之辭也」と見えてゐる事を木村博士は指摘してゐる。かやうに、オノは、漢文の訓點として、すこし變化したオンノの形で近世まで殘つてゐたのである。(寛永五年刊行の安昌點の五經には、書經堯典大禹謨等の吁を皆ヲンノと訓してゐる。)
 これ等の二一の例を以てしても、古訓を蒐集した辭書類が、いかに萬葉集の語釋に用立つかを見ることが出來ようと思ふ。しかるに從來の諸家が用ゐたのは、新撰字鏡と和名抄であつて、古訓の寶庫ともいふべき類聚名義抄や色葉字類抄の如きはまだ殆ど利用されてゐないのであるから、今後この方面の討究を進めれば必得る所少くないであらう。
 
(19)       六
 
 次に音義の類は、八十卷花嚴經音義、金光明最勝王經音義などが、幕末から明治初年に二三の學者に知られてゐた外、大概近來になつて見出されたものであつて、今日にいたるまで殆ど萬葉集研究に利用せられてゐないのであるが、これ等の中には、萬葉集に極めて近い時代のものもあつて、今後の研究に有力なる資料となるであらう。
 更に佛典漢籍の點本については、既に契沖が、日本紀や文選遊仙窟などの訓點を萬葉の語釋研究に用ゐてゐるけれども、これは江戸時代の版本に存する訓點によつたものである。一層古い時代の訓點を見るべき古鈔の點本にいたつては、極めて少數は江戸時代に見出されて、模刻までされたものもあるが、主として、明治以後、假名や古代國語の研究者が之に注目して探索してから世に知られたもので、探るに隨つて見出され、今後見出されるものも多數に上る事と思はれるが、中には奈良朝に接する時代のものまで現存して、當時の訓を傳へてゐる。勿論これ等の古點本に存する訓は、必しも全部新奇なものでなく、古辭書類に見えるものが大部分を占めるが、しかし間々容易に他に見出されぬものもあり、さなくとも辭書と相俟つて難解の語の解釋に根據となり參考となるものもあるのである。今左に私自身が見出した一二の例を擧げて之を明かにしたいと思ふ。
 
(20)       七
 
 萬葉集の中に「とりみる」といふ語がある。そのあらゆる用例は次の通りである。
 (一) 國爾阿良波父刀利美麻之家爾阿良婆母刀利美麻志世間波迦久乃尾奈艮志伊奴時母能道爾布斯弖夜伊能知周疑南《クニニアラバチチトリミマシイヘニアラバハハトリミマシヨノナカハカクノミナラシイヌジモノミチニフシテヤイノチスギナム》(卷五、廿八オ、八八六。筑前國司守山上憶良敬和爲熊凝述其志歌六首并序)
 (二) 家爾阿利弖波波何刀利美婆奈具佐牟流許許呂波阿良麻志斯奈婆斯農等母《イヘニアリテハハガトリミバナグサムルココロハアラマシシナバシヌトモ》(卷五、廿八ウ、八八九。同前)
 (三) 今年去新島守之麻衣肩乃間亂者許誰取見《コトシユクニヒサキモリガアサコロモカタノマヨヒハタレカトリミム》(卷七、廿五オ、一二六五、雜謌、臨時)
 (四) 棚機之五百機立而織布之秋去衣孰取見《タナハタノイホハタタテテオルヌノノアキサリコロモタレカトリミム》(卷十、廿八オ、二〇三四、秋雜歌)
 (五) 都流伎多知身爾素布伊母乎等里見我禰哭乎曾奈伎都流手兒爾安良奈久爾《ツルギタチミニソフイモヲトリミガネネヲソナキツルタゴニアラナクニ》(卷十四、廿三ウ、三四八五、相聞)
 これ等のトリミルに關する諸家の説を見るに、代匠記には、(一)及(二)のを「執看まし」で「取まかなひて看病せまし」の意であるとし、(三)を「麻衣の肩のまよひてやるゝをも誰かをぎぬふ人あらむと防人の行を見てあはれびてよめるなるべし」、と解し、(四)を「孰取見とは彦星こそ取見めの意なり」とし、(五)を「身にそふ妹は面影なり依て見かねと云へり」としてゐる。即ち(一)乃至(21)(三)では「取りまかなふ」の義とし(四)(五)では「取つて見る」の義としたやうである。略解は(一)(二)を「とりあげ見る」であるとし、(三)を「誰とりあげんといふ也」とし、(四)を「彦星ならで誰か着ても見んといふ也」と解し、(五)を「身に添ふべき妹を見難くて」と解した。即ち、これは、すべてを「取つて見る」の義としたやうである。古義には特に「取見る」の語義を釋した所はなく、(二)については、「家にあつて母親がいかにぞと云て吾を取見ば慰むる意はあらましものを」と解し、(三)は「誰あつてか取見て穢垢《ケガレアカヅ》けば洗ひ、綻《ホコロ》び破るればぬひなどせむ」であるとし、(四)は「彦星ならで孰か取見て服むぞ」と云つたのであらうとし、(五)は「身に親く取り見る事を得ざるよしなり」とした。大體「取つて見る」の義に解したらしいが、(一)乃至(三)は、いくらか違つたやうにも見える。井上博士の新考には、(一)に「トリミルは世話する事なり」と釋し、(三)も「世話する事にて、ここにては繕ふ事なり」とし、(四)も同義とし「今ハ秋ニナレバ彦星ヲ待ツトテ他事ヲ顧ミネバ機ノ世話ハ誰ガスルダラウといへるなり」と解した。たゞ(五)だけは「トリ見のトリはたゞ輕く添へたるなり。さればこゝのトリ見は世話介抱などいふ意にあらず」として別義とした。武田祐吉氏の新解には(三)の歌を收めたが、これにはトリミルは保護修繕の意とした。契沖の説に近いが、その他の歌の解がない故、他の場合もすべてさうであるかどうか不明である。鴻巣氏の全釋は、(一)(二)ともに「手に執つて(病氣を)見る」の意とし、(三)は「誰が手にとつて繕つてやるだ(22)らうか」の義とした。其他の歌は、未刊の部に屬する故、何と解せられるかわからない。
 從來の諸説は、大體に於て、トリミルを「取りまかなつてする」或は「世話する」の義とするものと、「取つて見る」とするものと二つあつて、前者の義とするものも、或は(一)(二)(三)の場合にかぎり(代匠記)、或は(一)(二)(三)(四)にかぎつて(新考)、全部をさう解するのではない。之に反して、後者の義とするのは、あらゆる例に及ぶものがあり(略解)、又は(四)(五)或は(五)だけをさう解するのである。然るに、松岡靜雄氏は、「民族學より見たる東歌と防人歌」に於て(五)の歌を
  妻に死に別かれたのを悲しむ歌である。トリミは今の語のミトリと同じく介抱の意。連そふ女房の介抱もなし得ないで子供のやうに哭くといふことである。
と解せられた。之を新考の説に合せればあらゆる場合のトリミルを右の如く「世話する」(病氣ならば「介抱する」)の義とする事も出來るのである。
 以上のやうな種々の説があるが、これ等は何れも、前後の關係から推測して得た解釋であつて、他に確實な根據があるのではない。實際「世話する」又は「介抱する」など解するのは、少くとも(一)(二)の例には極めて適切な解釋のやうではあるが、果して許さるべきであるかどうか。疑問であるといはなければならない。
(23) しかるに、先年私が高楠博士に隨つて高野山で古書の調査をなした時、永仁五年書寫の喫茶養生記を見出したが、その訓にトリミルの語がある事に心づいた。即ち序文の中に、
  寔(ニ)印土(ノ)耆婆徃(テ)而二千餘年末世(ノ)之血脈誰(カ)診《トリミム》乎漢家(ノ)神農隱(レテ)而三千餘歳近代之藥味※[言+巨](カ)埋《コトハラム》乎
とあつて、診の字をトリミルと訓してゐるのである。喫茶養生記は榮西輝師の著であり、この寫本は永仁五年の書寫で訓も同筆であるからこの訓は鎌倉時代のものてあるが、それは決してその時分にはじまつたものでない事は、この訓が類聚名義抄に見えてゐるのによつて明かである。即ち、同書、法上、言の部に、
  ※[言+尓] 除刃反又音※[車+尓]又陳、驗也 トフ トム 候也 ミル タツヌ ウラナフ トリミル ハカリコト ワサハヒ スチ コヽロミル
とあるのである。(※[言+尓]は診の俗字である。こゝに引用した文は、印刷の便宜上、略字や異體の假名は皆普通の體に改めた。)この書は院政時代のもので從來の字訓を類聚したものであるから、この訓は平安朝には行はれたものといふ事が出來る。
 今これによつて萬菓集のトリミルを考へて見るに、(一)(二)の歌は、熊凝が旅行中に疾にかゝつて、故郷の父母の事をおもひつゝ死んだ時の心を憶良が詠じたものであるから、「國にあらば父とりみまし家にあらば母とりみまし」といひ「家にありて母がとりみば」といふトリミルを診の義に解すれ(24)ば、大概該當するやうである。診は支那の古代の辭書に視也とも候也とも驗也とも註して診察するといふ意味が主であるが、多分昔は、診察と看護とを分離しては考へなかつたであらうから、トリミルも樣子を見、保護を加へる事、即ち看病の意味に用ゐたとしてよからうと考へる。少くとも、診をトリミルと訓した事によつて、トリミルが、只「取つて見る」といふだけでなく、もつと特殊化した意味を有する場合がある事が明かになつたであらうとおもふ。かやうに考へれば、トリミルを介抱すると解する説が、はじめてかなりの確實性を得るのである。(三)の防人の「肩のまよひは誰かとりみむ」のトリミルは、勿論「診」の義とは直接關係がない。しかしながら、これも只「取つて見る」だけでは適切でなく、やはり「世話する」とする方がよいやうに思はれるが、「世話する」といふ意味は(一)(二)に於けるトリミルの看護の意味と共通な點があつて、看護も世話する一つの場合である。診をトリミルと訓したのも、トリミルの」の場合として診の義にあたるものがある爲であらう。かやうにトリミルに世話するといふ義があるものとすれば、(四)の「秋去衣たれかとりみむ」も新考の説をとり、(五)の「身に添ふ妹をとりみかね」も松岡氏の説に隨つて(歌全體の解はもつと違つた説も可能であるが)、共に世話する義に解するのがよくはあるまいか。しかし、これは人によつて意見が分れるであらう。
 要するに、診をトリミルと訓した實例は、萬葉集に於けるトリミルの意義をすべての場合に亙つて(25)解法する事は出來ないにしてもその中の二三の例に對しては、その意味を決定すべき一方の根據とする事は出來るであらう。(右の永仁書寫の喫茶養生記は、東京帝國大學に借用中、大正十二年の震災で燒失した事と思ふが、本文及び訓は大日本佛教全書の遊方傳中に收めて刊行されてゐる。)
 
       八
 
 猶一例を擧げよう。
 萬葉集卷五、貧窮問答歌の中に、「のどよふ」といふ語がある。
  布勢伊保能麻宜伊保乃内爾直士爾藁解敷而父母波枕乃可多爾妻子等母波足乃方爾圍居而憂吟可麻度柔播火氣布伎多弖受許之伎爾波久毛能須可伎弖飯炊事毛和須禮提奴延鳥乃能杼與比居爾《フセイホノマゲイホノウチニヒタツチニワラトキシキテチヽハヽハマクラノカタニメコドモハアトノカタニカクミヰテウレヘサマヨヒカマドニハケブリフキタテズコシキニハクモノスカキテイヒカシグコトモワスレテヌエトリノノドヨヒヲルニ》 (卷五、三十オ−ウ、八九二)
このノドヨヒの意義は、代匠記に「ヌエノ喉聲ニ鳴コトク貧シキ事ヲ打ウメキテ嘆クヲ……」と釋し、其他の主なる諸註も殆ど異説無く、皆「喉喚ぶ」と解して居る。唯、岸本由豆流の考證には「此歌は貧しきに思ひ屈する事なく清貧を樂しめる意もて詠れしなれば、こゝもその意にて、飯炊く事をもわするゝばかり貧しけれど、それにも屈する事なく、長閑に呼かはし居るにの意なるべし」といつて、「のど」を「長閑」の義と解してゐる。しかし、この解は、前に「憂へ吟ひ」などあるのに調和しな(26)いのであつて、甚疑はしく、今日では、「喉喚ぶ」が定説の如くなつてゐるが、この語は他に全く所見なく、唯「ノドヨヒ」の語をその形から「喉喚び」と解しただけで、何等の根據があるものではない。その上、咽喉は、和名抄に「能无度」とあり、又同書に※[口+亢]を「能无度布江」とあつて、平安朝初期にはノムドといつてゐたのであり、漢文の訓點には、後までもノンドと呼んでゐる。奈良朝には、まだ假名で書いた例を發見しないから明かでないが、果して當時ノドといつてゐたかどうかは疑問である。猶又、奈良朝にはヨの假名に二類の別があつて、與・余・餘の類と欲・用の類とは大概區別して用ゐられて居り、「喚」「呼」のヨブのヨには欲の類を用ゐるのが常であるから、「能杼與比」の「與比」を「喚」の義のヨブと解する事も果して妥當であるか、甚疑はしい (萬葉集中一個所だけ、ヨブのヨに「與」とあてた例があるから、絶對に否定する事は出來ないが)。
 かやうに從來の説は猶疑を容れる餘地を存するのであるが、幸に、近く古點本中に「ノトヨフ」の實例を見出すことが出來た。それは黒板勝美博士が昭和四年頃入手せられて私に示された古鈔本金剛波若經集驗記(唐、孟獻忠撰)の裏面に施された朱訓の中にあるのであつて、楊州高郵縣丞李丘一が死して五道大神の府に到つたが、金剛般若輕を書寫した功徳によつて送り返され眞黒な坑の中に落され、驚き怕れて眼を開けば棺の内にあり、困憊して久しく物いふ事が出來なかつたが、男女の哭する聲が聞えたので、細々とした聲で、「哭するな、今活きかへつた」と告げた事を敍する文に
(28)  策推v之落2黒坑中1驚怕眼開乃在2棺内1因而久不v能v語聞2男女哭聲1細々聲報云莫v哭我今得v活(因の字、續日本大藏經本には困とある。恐らくは正しからう)
とあつて、その「細々聲」の文字の裏面に古體の假名でノトヨフコヱと朱書してあるのである。これは、この本の一般の例から見れば、「細々聲」の訓である事疑ない。さすれば、ノトヨフは細々とした力なき聲を發する事とおもはれる。今これを萬葉集の「のどよひ」に宛てて考へてみるに、「竈には烟吹き立てず甑には蜘蛛の巣かきて飯炊ぐ事も忘れて」と、久しく飯炊ぐ事もなく、食ふものも食はないで、餓ゑ疲れてゐるのであるから、物言ふにも力なく細々とした聲を發するといふ意味で「鵺鳥ののどよひ居るに」といつたと解して正しく適合すると思はれる。恐らくはこの解が當を得たものであらう。(「のどよふ」が果して「喉喚ぶ」から出たものかどうかは、まだ定め難いが、それは語源の詮索であつて、語源は、意義が明かになつてから考へるのが正當であり、逆に語源を推測してそれから意義を説くのは屡危險を伴ふことは、我々の經駿が教へる所である。)
 右の金剛波若經集驗記は、平安朝初頭の書寫本(卷子一軸)であつて、全文に、主として裏面に委しい朱訓が施してある。その假名は字體甚古風で平安朝初期又は之に近い時代のものと思はれ、「欲似尚未」の「未」の傍に「イマタシクアルヘラナリ」とあつて、古今集の歌に屡見える「ベラ」の形が見えてゐるなど、訓そのものも、平安朝初期のものを傳へたと見られるのであつて、和名抄や新撰(29)字鏡などと大體同時代のものらしく、萬葉集の研究資料として有力なものといふべきである。猶本書には、「流澤滂霑」の「滂霑」にホヒコリと訓してある。これも萬葉にある語であつて、その語釋の參考に供する事が出來る。
 以上は、私が偶寓目した少數の古點本の中から見出した一二の例に過ぎないが、これによつても、古代の點本が、萬葉集の語釋研究の資料として價値あるものである事が知られるであらう。かやうな古點本は、從來の萬葉學者には殆ど利用せられて居ないものであつて、その數もかなり多く、今後も追々に見出されるべき見込があり、既に知られてゐるものでも、多くはまだ精査されてゐないのであるから、今後この種の資料によつて研究を進めれば、必ず得る所が少くないであらう。
 
       九
 
 以上述べた所は甚多岐に亙つて、盡さないものが多いが、古來の萬葉集研究中、最開拓された部面である語義の解釋に於ても、猶將來研究すべき餘地多く、その研究には漢文の古訓、殊に古代の點本が有力なる資料である事を明かにするのがこの篇の目的である。猶、かやうな漢文の古訓は、萬葉集の歌を訓するについても重要な資料である事いふまでもない。 (昭和七年二月八日稿)
 
(30)       追記
 
 この文脱稿後、黒坂博士の金剛波若經集驗記古鈔本を寫眞撮影の爲再び拜借して再査する機會を得たが、これは、大矢透氏が假名遣及假名字體沿革史料に載録せられた石山寺所藏の金剛般若集驗記と同一の本で、黒板博士の本から脱落した上卷の大部分と、下卷中の小部分とが、二軸の卷子本として石山寺に現存するものと考へられる。(石山本は卷初が缺けて題目が無い。大矢氏は上中二卷とせられたけれども、上と下との各一部づつが、それ/”\一軸となつたものであらう。)大矢氏は、石山本を或は唐人の書寫であらうとせられ、又本文に白墨の訓點があるが、剥落して見えにくいのを、裏面にある朱訓によつて推讀して、その訓及び假名を研究せられ、ア行のエとヤ行のエとの區別がある事によつて、その訓を天安以往天長承和に近きものとせられた。黒板本を精査するに、やはり表面に白墨の訓點のあつた痕跡があり、處々その字形の髣髴として窺ひうべき所がある。その假名の字形は、大抵裏面の朱訓と同一なやうである。表面の白墨が剥落し易い爲に、その訓點を加へた人、又は之に近い時代の人が、裏面に朱を以て訓を附したものとおもはれる。ノトヨフコヱの條も、裏面の朱訓と同じ字體の白墨の訓が本文の傍にほのかに見える。
(31)刊行医員附記 底本とした自筆訂正のある拔刷には、雅言通載抄に「とりみる 視養《トリミル》」とある條を寫した紙片が插みこまれてゐる。
 
(32)     「萬葉集は支部人が書いたか」
 
 三十餘年前のことであるが、或高等學校の文科の學生であつた某氏が、國語の時間に萬葉集は支那人が書いたものかといふ奇問を發したといふ話を聞いた事がある。この話は、その人の人がらを知るべき一話柄として語られたのであるが、今にしておもへば、この質問は、その道の學者でもどうかすると閑却しがちな萬葉集の一面を我々に思ひ起さしめるものとして、寧、意味深長なものがあるのではあるまいか。
 右の某氏は、萬葉集が漢字で書いてあるのを見てこのやうな質問を發したのであらうが、勿論萬葉集が支那人の著でない事は疑ふ餘地が無い。しかし當時の日本人は、文字としては漢字の外に知らなかつたのであつて、この點に於て支那人と同樣であつたばかりでなく、又當時は正式な文としては漢文の外になかつたのである。苟も文字あるものは多少漢籍又は佛典を學び、文を書く場合には未熟であつても漢文を書いたのである。英文が英語の文であると同じく、漢文は支那語の文である。たとひ日本人が書いたものであつても、必ず支那人が書いたものと同樣に、支那人には理解せらるべきものである。當時我國で漢文をどんなによんでゐたかは未だ確かにはわからないが、もし全部音讀したと(33)すればそれは言語としては支那語であり(發音の正しくない爲、支那人が聞いてはわからない所があつたかも知れないが)、もし現代に於ける如く、音讀せずして訓讀ばかりしてゐたとしても、日本人が書いた漢文を支那人が讀めば、立派に支那語になるべきものである。たとひ未熟な爲に破格な文となつて支那人にわからない所が出來たとしても、ブロークンでも英語は英語であると同じく、漢文はやはり支那語の文であつて、決して日本語を寫した日本の文ではない。
 萬葉集の時代は、かやうな漢文が正式な文として認められ、一般に用ゐられてゐた時代である。教養ある人々は漢語漢文に熟達し、立派な漢文を書く能力をもつてゐたのである。さうして日本人であつても、かやうに、支那の文字たる漢字を用ゐ支那語の文たる漢文を書く限りに於て文字文章の點に於ては支那人と同感であつたと見てよいのである。
 勿論當時の日本人は日本語を書く方法を知らなかつたのではない。否、相當巧に又自由に漢字を使ひ、又宣命書の如き記法をも工夫して日本語を寫してゐる。しかしこれはむしろ已むを得ない場合にのみ用ゐたのである。即ち神名とか人名とか、その他特に日本語を用ゐる必要のある場合に限つて、かやうな記法を用ゐたのであつて、さもない所はすべて漢文である。古くは聖徳太子の三經義疏をはじめ、律令、日本書紀、風土記の類、歌經標式の如きことごとくさうである。古事記は、稗田阿禮の傳誦せる語を寫すのが目的で、これこそ純粹の國語の文、即ち國文であるけれども、なほ漢文式の記(34)法を棄てる事が出來なかつた。古文書の如き實用の文も、また殆ど全部漢文であつて、國文と見るべきものは、數百卷、幾千通の文書の中、僅に二三十通に過ぎないやうであり、その内容も宣命の如き特に古語を存する必要のあるものの外は、大概は重大なものではなく、不用意に書いたものか又は文筆に熟せざるものの書いたと覺しいものばかりである。
 萬葉集は歌集であつて國文學書である。漢文ではなく國文で書かれてゐると普通に考へられてゐるやうである。しかし、右に述べたやうに、漢文が正式な文として一般に用ゐられ、文といへば漢文と解せられたらうと思はれる時代に編まれた萬葉集が、歌集であるが故に、獨り漢文の勢力を免れ得たであらうか。
 なるほど萬葉集の歌は漢文ではない。一字一音の假名で書かれたものはもとより、「雖言《イヘド》」「思者《オモヘバ》」「金風《アキカゼ》」の如く、箇々の語句に於て漢語又は漢文式の記法を用ゐたものでも、一首としては漢文でない。しかしながら、歌以外の部分はすべて漢文である。まづ萬葉集の名そのものが既に立派な漢語である事は、近來殆ど定説になつたといつてよからうし、雜、譬喩、挽歌の如き歌の部類の名も漢文に用ゐる語であり、とかく疑問のあつた相聞の語も亦支那に用例がある事山田孝雄氏の研究によつて明かになつた。歌の題詞や左註もすべて漢文である。集中に收めた歌や詩の序や書翰などが漢文である事はいふまでもない。これ等は皆支那人にもわかる語であり文である。その中の地名人名神名其他の(35)固有名詞と我國にのみ存する事物の名とは支那の文には見えないが、これは當然のことで、たとひ支那人が書いたとしても、同樣な結果になる事は疑ない。歌の部分が漢文でないのは、歌である爲であつて、歌としては單に意味のみならず、形も大切であつて、國語をそのまゝに寫すべき必要があるからである。概していへば、萬葉集は漢文の題目や序や左註の間に日本語の歌が插まれてゐるのである。それ故、唯漫然、萬葉集は國文で書いたものであると考へるならば、それは少くとも不正確であつて、一方から見れば、萬葉集は漢文で書かれてゐるといふ事も出來るのである。勿論萬葉集は歌集である。歌はその眼目であり生命である。題目や序や左註は歌あつてはじめて意義があるのである。分量から見ても、歌は全卷の大部分を占めてゐる。しかしながら、もし題目や序や左註が無いとしたならば、歌の作者や作られた時や、當時の事情などがわかちず、歌を理解し味讀するに困難を生ずる事があるばかりでなく、萬葉集そのものが、書として體裁を成さなくなるであらう。かやうな部分が支那の文たる漢文で書かれてをり、唯歌の本文のみが日本風に書かれてゐるのである。それ故、假に支那人が日本の歌集を編したとしても、やはりかやうな體裁のものになり得べきわけである。かやうに考へて來れば、萬葉集は支那人の著かといふ質問も誠に尤であつて、萬葉集の漢文性について我々の注意をうながすべき有意義なる質問であるといふ事が出來る。
 しかしながら、もし我々が我々の考察をこゝで止めたならば、我々はこの質問をして十分に効力を(36)發揮せしめたものとはいはれない。我々は更に一歩を進めて、もし支那人が萬葉集の如き日本歌集を編したならば、歌をばどう書いたらうと考へて見るべきである。
 單に歌の意味だけを示すならば之を漢譯すればよい。さすればそれは純然たる漢文となる。しかしそれでは原歌の形は全く失はれてしまふ。歌には形が大切である。それでは歌の形をそのまゝに示さうとする場合には、どんな方法を取つたであらうか。
 歌は勿論日本語である。日本語は支那語に對しては外國語である。かやうな外國語の歌を萬葉集の如く漢文の中に置くには支那人は如何なる方法を以てしたであらうか。これは、漢譯佛典中の梵語の例を見ればほゞ推察する事が出來る。
 漢譯佛典は、梵語を漢語に譯したもので、勿論漢文で書いたものであるが、人名地名其他、譯し難い語や大切な名目は飜譯せず、たゞ漢字によつて原語の音を寫したまゝで漢文の中に收めてある(「阿羅漢」「舍利弗」「菩薩」「文殊師利」など)。但し、これ等は単語であつて日本の歌の如く文を成した語でないが、歌に最近いのは陀羅尼即ち呪文であつて、般若心經、法華經、金光明最勝王經其他の諸經にその例が極めて多い。これも漢字で原語の音を寫したもので、その漢字を支那語に於ける如く讀めば、梵語に近い音となるのであつて、之を音譯といつてゐる。法華經陀雁尼品から一例を擧げれば(漢文の部分も擧げておく)
(37)  爾時※[田+比]沙門天王護世者、白佛言、世尊我亦爲愍念衆生、擁護此法師故、説是陀羅尼、即説呪曰|阿〓那〓〓那〓阿那盧那履拘那履《アリナリトナリアナロナビクナビ》
かやうな記法は、實に漢文中に外國語の語又は文を插入する正式な方法である。それ故、もし支那人が、萬葉集の如く漢文を用ゐて支那式に作られた書に日本語の歌を入れるとすれば、必ず梵語の場合と同樣に、漢字の音を以て日本語を寫したであらうと思はれる。
 然るに我國に於て、歌をしるすにすべて漢字の音を以てしたものがあるが、それは正に支那に於ける梵語音譯と同一の方法によつたものである。日本書紀の歌謡の如きその代表的の例であつて、漢文中に歌を插んでその音を漢字の音を以て寫してゐるばかりでなく、之に用ゐた漢字までも梵語の音譯に用ゐた文字を襲用したものが多いと私は見てゐるのである。さうしてかやうな、歌の記法は萬葉集にも少くなく、卷玉や卷十五の歌の大部分の如き、この類に屬し、卷十四、卷十七、十八、二十の各卷の歌の多くも、多少不純な所があるけれども、やはりこの種のものと見るべきである。萬葉集の歌はすべて日本式の記法によるものであると考へられてゐるにも拘はらず、その中のかなり多くの部分は、右の如く支那人が漢文中に外國語を插む場合と同樣な方法によつたものであるとすれば、萬葉集に於ける漢文の勢力はたゞに題目や題詞や序や左註にのみ止まらない事が知られるのである。
 右のやうな記法以外の萬葉集の歌は、大概一首の中に漢字の正用と假用とをまじへた萬葉假名まじ(38)りのものであつて、その中、正用の漢字は概して漢文に於ける用法と一致し、支那人にもわかるけれども、それは唯一つ一つの語や句だけであつて、一首全體としては漢字でありながら支那人が讀んでも意味がわからず、又日本語にもならないのである。即ちかやうな記法は、純粋に、日本語を寫して日本人に讀ませる爲のものであつて、日本獨特のものである。かやうな記法による歌が集中の多くの部分を占めてをり、且つ一首全部が漢文になるやうに書かれたものが無い故に、萬葉集の歌はすべて日本式の記法によつたもののやうに解せられるのであるが、この考方が必ずしも正當でない事は既に述べた通りである。
 以上は、萬葉集の體裁及び記法の上に見られるその漢文性の一斑である。これはもとより漢文の立場から見た萬葉集の一面觀であつて、なほ他の立場からの觀察も必要であるが、それでもかやうな見方によつて、從來觀過せられ易かつた萬葉集の一面が明かになつたと思ふ。近來萬葉集の研究は非常に盛になつたが、漢文の方面からの研究はまだ不十分であつて、集中の漢文の解釋すら未だしい所があるやうに感せられる。或は今後、かやうな方面からの研究によつて、各種の問題に新な光が投やられるのではあるまいか。
 かやうに考へ來れば、がの某氏の問は、必ずしも愚問として棄て去るべきでは無い。之を愚問とするのも賢問とするのも聞く者の心がけ一つである。
 
(39)     萬葉集と仙覺
          仙覺新點の歌
 
 萬葉集仙覺本は權律師仙覺の校定本である。仙覺は、藤原忠兼其の他の人々が種々の異本を以て校合した源親行の本を底本とし、寛元四年から文永二年に至る二十年の間に、所謂三箇の證本を始め十一種の異本を以て交合し、諸本の宜しい所を採つて新に交定本を作つたのであるから、仙覺本は、從來の諸本の謬を改めて原本の舊に復した處甚多く、概して完備の域に近いものとなつたのである。かくの如く、仙覺は、萬葉集の本文に改訂を施したと同時に、其の訓點に於ても、古來の諸説を選擇して、其の好いものを採り、謬れるを改め、且、從來訓の缺けて居たものには、新に之を補ひ加へたのである。抑、萬葉集の訓は、天暦の頃、梨壺の五人が始めて附けたのであるが(之を古點といふ)、其の時、附け漏した歌があつたのを、後の人々が追々讀み加へたけれども(之を次點といふ)、此等の歌は、多くは難解であつて訓を下す事が出來なかつた爲、仙覺の時に至つても、猶讀み殘されて居たものが少くなかつたのである。仙覺は、此等無訓の歌を悉く讀み解いて、之に訓を加へたのであつて、萬葉集は仙覺本に至つて始めて全部に一首も殘らず訓が附いたのである。されば、仙覺本は仙覺の正(40)訓本であると共に、最初の全訓本である。
 仙覺新點の歌とは、仙覺が始めて訓を附けた歌をいふのであるが、其の數すべて百五十二首であつた事は、仙覺の萬葉集註釋(仙覺抄)卷一上「ゆふつきのあふぎてとひし」の歌の註に、「これは愚老新點の歌のはじめの歌也、彼新點の歌百五十二首はへるなかに」云々とあるに依つて明である。併しながら、此の百五十二首は、果して萬葉集中何れの歌であるかといふことに至つては、未だ嘗て之を明に説いたものなく、彼の仙覺が萬葉集中無點の歌百五十二首を抄出して推點を加へたもの(此の事は、仙覺抄卷廿防人歌の註の終に見えて居る)も既に散逸に歸したから、容易に知る事が出來ないけれども、幸に、仙覺本の古寫本に、墨藍朱の三點を分つたものがあるに依つて、之を明にする事が出來る。
 文永三年の仙覺本萬葉集卷一の奧書によれば、文永二年及び文永三年の仙覺本には、訓に墨藍朱の三種の別があつたのであつて、墨の訓は古點又は次點を其の儘採つたもの、藍の訓は古點又は次點を仙覺が改めたもの、朱の訓は古點次點共に無かつたのを仙覺が新に附けたものである。されば未の訓は總て仙覺の新點であるけれども、一首中に於て朱の訓に墨又は藍の訓が混じて居るものは、既に古點又は次點のあつたものであつて、仙覺新點の歌と云ふことは出來ない。故に、仙覺新點の歌は、必、歌全部に朱訓あるものでなければならぬ。
 自分が見る事を得た仙覺本の古寫本中、墨藍朱の三點を具備して、略文永の仙覺本の面目を存する(41)ものと認められるものは、西本願寺舊藏本、大矢透氏所藏本、京都帝國大學所藏慶長年間書寫本、木村博士遺藏の官本、及び飛鳥井雅章書寫本の五種であるが、此等の諸本に就いて、全部に朱訓を施した歌を數へて見るに、西本願寺本は百五十一首、官本は百五十六首であつて、仙覺抄に擧げた新點の歌の總數に比して幾分の相違があるけれども、大矢本と慶長本とに於ては共に百五十二首であつて、正に之に一致する(飛鳥井本だけは、未だ精密に調査しないから之を除く)。今、其の歌を一々擧ぐれば次の如くである(歌は本文を略して國歌大觀の番號だけを擧げる事とした)。
 
  卷一  一首(短歌)
     九
  卷二  一首(短歌)
     一五六
  卷三  六首(短歌二首 長歌四首)
     二四九 三二二 三八五 三八八 四三一 四四三
  卷五  一首(長歌)
     八九七
  卷六  一首(長歌)
     九六三
  卷七  二首(短歌)
(42)     一一一三 一一六九
  卷九  三首(短歌)
     一六八九 一七一八 一七三一
  卷十  三首(短歌)
     一八九〇 一九九六 二〇一二
  卷十一 十首(短歌九首 旋頭歌一首)
     二三五一 二三八四 二三八七 二四〇〇 二四〇七 二四五七 二四八一 二五二二 二五五五 二六四七
  卷十二 八首(短歌)
     二八四二 二八五三 二八五九 二八七六 二八七七 二九三四 二九九六 三一三二
  卷十三 六十七首(短歌四首 長歌六十三首)
     三二二一 三二二二 三二二三 三二二七 三二三〇 三二三二 三二三四 三二三六 三二三七 三二三九 三二四〇 三二四二 三二四三 三二四五 三二四七 三二五〇 三二五三 三二五五 三二五八 三二六〇 三二六三 三二六六 三二六八 三二七〇 三二七二 三二七四 三二七六 三二七八 三二八〇 三二八一 三二八四 三二八六 三二八八 三二八九 三二九一 三二九三 三二九五 三二九七 三二九九 三三〇〇 三三〇一 三三〇二 三三〇三 三三〇五 三三〇六 三三〇七 三三〇九 三三一〇 三三一二 三三一四 三三二三 三三二四 三三二六 三三二七 三三二九 三三三〇 三三三一 三三三二 三三三三 三三三五 二三三六 三三三九 三三四一 三三四二 三三四三 三三四四 三三四六
  卷十六 十首(短歌二首 長歌八首)
     三七九一 三八二 三八四六 三八四七 三八七五 三八七八 三八七九 三八八〇 三八八五 三八八六
(43)  卷十七 十五首(短歌一首 長歌十四首)
     三九〇七 三九五七 三九五八 三九六二 三九六九 三九七三 三九七八 三九八五 三九九一 三九九三 四〇〇〇 四〇〇三 四〇〇六 四〇〇八 四〇一一
  卷十八 十首(長歌)
     四〇八九 四〇九四 四〇九八 四一〇一 四一〇六 四二一四一一三 四一一六 四一二二 四一二五
  卷十九 七首(短歌二首 長歌五首)
     四一六〇 四一六四 四一九二 四二〇五 四二三六 四二三九 四二四五
  卷二十 七首(短歌一首 長歌六首)
     四三三一 四三六〇 四三七二 四三九八 四四〇八 四四六五 四五一四
以上合計百五十二首(短歌三十九首、旋頭歌一首、長歌百十二首)
以上は、大矢本と慶長本とに依つて調査した結果であるが、西本願寺本に於ては、卷十一の二三五一、即
  新室壁草苅邇御座給根草如依逢未通女者公隨《ニヒムロノカヘクサカリニミマシタマハネクサノコトヨリアフヲトメハキミカマニ/\》
の最初のニヒムロの四字が墨になつて居るだけで、他は全く之に一致する。想ふに、此のニヒムロの四字も、原本には朱であつたのを、書寫の際誤つて脱し、後に之を補ふ時、墨を以てした爲、原本と違ふやうになつたのであらう。官本に於ては以上の百五十二首の外、猶、
  卷三、三〇八 常盤成石室者今毛安里家禮騰住家類人曾常無里家留《トキハナスイハヤハイマモアリケレトスミケルヒトソツネナカリケル》
(44)  卷四、五七〇 山跡邊君之立日之近付者野立鹿毛動而曾鳴《ヤマトヘニキミカタツヒノチカツケハノニタツシカモトヨミテソナク》
  卷五、八〇六 多都能馬母伊麻勿愛弖之可阿遠爾與志奈良乃美夜古爾由吉帝己牟丹米《タツノマモイマモエテシカアヲニヨシナラノミヤコニユキテコムタメ》
  卷五、八〇七 宇豆都仁波安布余志勿奈子奴波多麻能用流能伊昧仁越都伎提美延許曾《ウツツニハアフヨシモナシヌハタマノヨルノイメニヲツキテミエコソ》
の四首にも全部朱訓があるけれども、此の四首は、慶長本には代赭の訓があり(此の本の代赭の書入はすべて他本によつて補入したものである)、大矢本並に通行本(寛永二十年刊本)には全く訓なく(但大矢本には、三〇八の歌だけは「成」の字の傍に藍の「ス」の字がある)、西本願寺本にはすべて墨の訓(但三〇八の歌の「ス」の一字だけは藍)があるのを以て見れば、本來は墨の訓があつたのを誤つて脱し、後に補つた時、朱を以てしたのであつて、此等の歌に朱訓のあるのは仙覺本本來の面目では無いのである。
 かやうに考へ來れば、西本願寺本及び官本の大矢本及び慶長本に一致しない點は、すべて後に生じた誤であつて、其の本源に溯れば全く一致するのであるから、此等諸本の原本たる文永の仙覺本に於ても全部朱訓を施した歌は、右の百五十二首であつたと認められる。さうして此等の歌は、其の總數に於てのみならず、其の種類に於ても、仙覺抄(卷廿、防人の歌の註の終)に「長歌短歌旋頭歌合て百五十二首」とあるのに一致するのであつて、是即仙覺新點の歌である事凝無い。
 
(45)     「がてぬ」「がてまし」孝
 
       一 從來の祈究
 
 萬葉集に「過ぎがてぬ」「行きがてぬかも」など「がてぬ」といふ語があると共に「有りがてましも」「よりがてましを」など「がてまし」といふ語があつて、「がてぬ」と同じ意味に用ゐられて居ることは、皆人の知る所である。「がてぬ」は不勝とも書かれて居て、否定形のやうに見えるが、それと同じ意味を有する「がてまし」は、明に肯定の形であつて、同じ語の否定と肯定とが同じ意味を有することゝなるのは甚奇異な現象である。
 是については、本居宣長も
  加弖《カテ》を不勝と書るは、多閉受《タヘズ》と云意を取れるなるべし、多聞奴《タヘヌ》は難きと同意なればなり、然るを其(ノ)不(ノ)字を省きて、勝《カテ》とのみ書るは、いさゝか意得がたけれど、萬葉二に、後心乎知勝奴鴨《ノチノコヽロヲシリカテヌカモ》、大寸御門乎入不勝鴨《オホキミカドヲイリカテヌカモ》、又|宿不勝鴨《イネカテヌカモ》、七に宿不難爾《イネカテナクニ》などある、加弖奴《カテヌ》は、加弖《カテ》の反對《ウラ》なる詞なるを、同意によめり、さて其(ノ)字も、加弖《カテ》にも不勝と書るに、又|加弖奴《カテヌ》にも不勝と書(ケ)れば、不勝を勝と(46)のみ書かも、所以《ユヱ》あるにや、又|宿不難爾《イネカテナクニ》とあるは、言も字も宿《イネ》がたからぬと云ことに聞ゆれども、猶いねかてと同くて、いねがたき意なり、されば是(レ)も、不《ナクノ》字あると無きと同意におつめり、(古事記傳十二廿二丁、全集本六七〇頁)
と云つたばかりで、何等の説明をも與へて居ない。これの解釋を試みた學者の説は、大凡三種にわけることが出來る。第一は、「がてぬ」の「がて」と「がてまし」の「がて」とは同じ語でないといふ説で、契沖の主張して居るものである。即、代匠記に
  アリガテマシモは、がて〔二字右○〕はかね〔二字右○〕なり、て〔右○〕とな〔右○〕は同韻の字にて通ぜり、後に、ありがてぬなどよめるは、ありてえ堪ねにて意かはれり、(卷二上一六頁)
と云ひ、又
  知りガテヌは知りあへぬなり、不勝と書きて不堪と同じやうに詩文に用ゆる意なり、かてね〔三字右○〕はかたぬ〔三字右○〕なり、相撲《スマヒ》などにも力に堪ざる者負くる、其意同じ(卷二上二〇頁)
と云つて居る通り、「がてぬ」の「かて」は「勝つ」といふ語に、「がてまし」の「かて」は「かね」といふ語に關係あるものと説くのである。猶、和訓栞、雅言集覽増補、及、脚結抄増補(此の二書は保田光則の薯)に、「がて」に難の意義のものと、勝(即「堪ふ」)の意義のものとがあると説いて居るのも、之に類した説である。
(47) 第二の説は、「けしかる」を「けしからぬ」「はした」を「はしたなき」といふやうに、否定詞が有つても無くても意味の變らない言ひ方があつたので、「がてぬ」と「がてまし」との同義なのも其の一だといふ説である。之は本居宣長の考と見えて、槻落葉、下、草枕※[羈の馬が奇]宿爾誰嬬可國忘有家待莫國の歌の注に
  本居氏云、卷(ノ)十四に、をつくばのしげき木の間に立鳥の、めゆかなをみん、さね射良奈久爾《ザラナクニ》、卷(ノ)十五に、おもはずも、まことありえんや、さぬる夜の、夢にも妹が、みえ射良奈久爾《ザラナクニ》、卷(ノ)十七に、庭にふる、雪は千重しく、しかのみに、おもひて君を、あが麻多奈久爾《マタナクニ》、これらは、さねざるに、見えざるに、待んにといふ意なり、かて〔二字二重傍線〕といふも、かてぬ〔三字二重傍線〕といふも同じ意なるがごとし、中昔のもの語などにも、此格あり、おぼろげならぬを、おぼろとのみもいへり、また後世の語にも例あり怪しかるといふべきを、けしからぬ、はしたといふべきを、はしたなしといへり、と云へり、(二十八丁)
といつて居る。略解もこの説を採つて居り(卷二九丁ウ、梓弓引者隨意依目友の歌の注參照)、蘚の露(中村尚輔著)にも同樣の説が載つて居る(上卷廿一「なくに、ぬ不 附なし」の條)。
 第三の説は、「がてぬ」の「ぬ」は否定の「ぬ」ではなく、「了」の意味の「ぬ」であるといふので、之は鹿持雅澄(古義卷二廿六丁以下、及、鍼嚢下六十八丁オ)、岡本保孝(難波江卷三上「奈行の言を添へてかゝ(48)ざる例」百家説林本六五七頁)、木村正辭(美夫君志卷二別記一頁以下)の諸家が一致して説いて居る所である。「かてぬかも」など連體に「ぬ」を用ゐるのは、萬葉に「伊伎豆久伊毛乎於伎※[氏/一]伎奴可母《イキヅクイモヲオキテキヌカモ》」(卷十四)など例があると説くのである。
 以上三説の外富士谷御杖は
  もとがてとは、かたれのつゞまれるにて、被勝の心なり、されば「出がて「過がてなどいふは、出る事過る事よりまさりて、出るわざすぐるわざのせられぬ事あるをいふ也、萬葉のがてぬ〔三字傍線〕とよめるは不v被v勝の心にて、猶それも同じくその事のせられぬ心也、此故にがて〔二字傍線〕はそのすぐれたるかたの事をいひ、がてぬ〔三字傍線〕はそのかたれざる方の事をいふまでのわかれ也(俳諧天爾波抄六卅五オ、)
と説いて居る。之は一つの原義から二つにわかれ出たものと解釋して居るのらしいが、文意が不分明であつて説明を理會する事が出來ないから、今之を度外におく。
 
       二 從來の學説の批評 一
 
 今右に擧げた諸説について考へて見るに、先、第一の「かてぬ」の「かて」は「勝つ」であり、「かてまし」の「かて」は「かね」であるといふ説の不當なることは、今日では、誰も疑ふものは有るまいから、別に批評する必要は無からうと思ふ。第二の、否定詞があつても無くても意義の同じい一種(49)の言ひ方があるといふ説は、證據として擧げられてゐる實例があるから、少しく考へて見る必要がある。まづ、その例として擧げられて居るものゝうち、「はしたなし」「うしろめたなし」「あらけなし」などの「なし」は果して無の意味を有して居るかどうかは疑問である。大槻博士は「痛し」「甚し」の意義を有するものだと説いて居られるが(廣日本文典、四七〇節參照)、吾々はこの説に從ひたいとおもふ。且、此等の「なし」は語根又は語幹に接して一の語を形成するものであつて、「がてぬ」「がてなく」などのやうに、語と語との聯續したものとは、其の趣を異にしてゐるのであるから、之と一樣に論ずることは出來ない。「けしき」は萬葉集に見えて居て、「けしうはあらぬ」「けしうはあらじ」「けしう」など、平安朝の物語に見える「けしう」は、之と同樣の意味に用ゐられて居る。たゞ「けしからぬ」のみが意味が違つて居るやうに見えるが、これは果して「けしき」「けしう」といふ語と同じ語であるか、又は全く違つた語であるかは疑問である。「おぼろげに」「おぼろげの」などは
  このものどもたちこみたればおぼろげの鳥けだものならずば出で給はんことかたし(榮花、浦々のわかれ) この世はかりそめにあぢきなきものとおぼしてありてふ人は知らまはしげにもおぼしたらずおぼろげならざらん事に御目をも耳をもとゞめたまふべうもあらねば(狹衣一上)
のやうに、「おぼろげならず」「おぼろげならぬ」の意味に用ゐられて居る例がある。これは何か或特殊の場合から起つたものであらうと思はれるが、未、その徑路を明にすることが出來ない。
(50) 以上は平安朝或はその後にあらはれて居る例であるが、その多くは疑はしいものであることは上述の通りである。然らば、萬葉集の時代に於てはどうであるか。
 從來の學者が例としてあげて居るのは左の歌である、
  (一) 吾大王物莫御念須賣神乃嗣而賜流吾莫勿久爾《ワガミカドモノナオモホシソスメガミノツギテタマヘルワレナラナクニ》(萬一)
  (二) 吾背子波物莫念事之有者火爾毛水爾毛吾莫七國《ワガセコハモノナオモヒソコトシアラバヒニモミヅニモワレナラナクニ》(萬四)
 此の二首の「われならなくに」を「吾なるに」の意味に解釋して、代匠記及略解に引いて居るが(略解卷十七庭爾敷流雪波知敝之久の歌の注及代匠記卷一下、五一頁參照)、此の訓點はよくないので、考以後の諸註に改めたやうに、「われなけなくに」と讀むべきである。さすれば「なく」は普通の否定であつて、此の例とすることは出來ない。
  (三) 草枕※[羈の馬が奇]宿爾誰嬬可國忘有家待莫國《クサマクラタビノヤドリニタガツマカクニワスレタルイヘマタナクニ》(萬三)
  (四) 今谷毛目莫令乏不相見而將戀年月久家莫國《イマダニモメナトモシメソアヒミズテコヒムトシツキヒサシケナクニ》(萬十一)
この(三)の家待莫國の莫の字は、校異本及槻落葉によれば、異本に眞に作つてあるさうであり、古葉略類聚抄にも眞に作つてある。宣長は異本に、眞とあるのを知りながら、やはり莫の方を正しいとし、「またなく」が「まつ」の意味だと説き(略解による)、略解古義共に之に從つて居るが、之は眞淵や久老の説の如く、眞とある方が正しく、「家またまく」であると解釋する方が穩當であると思はれ(51)る。(四)の久家莫國の莫も異本には眞と作つてあつて(校異本、槻落葉(三)の歌の注、大矢透氏所藏古寫本萬葉集による)、考も略解も古義も、眞とあるのを正しいとして、「ひさしけまくに」と訓して居る。唯、宣長は莫をとつて、「ひさしけなく」で「ひさしけむ」の意味だとして居るやうに見える(略解三下三十一丁裏)。けれども、これは恐らく誤であらう。さすれば、この二首も例とすることは出來ない。
  (五) 庭爾敷流雪波知敝之久思加乃未爾於母比底伎美乎安我麻多奈久爾《ニハニフルユキハチヘシクシカノミニオモヒテアガマタナクニ》(萬十七)
 代匠記及略解などにはこの「またなくに」も「まつに」の意味であると説いて居る。然るに、考に「待ほどもなくはやくかへりこしとよろこべるなり」と云つて居るのば、「またなくに」を否定の意味に解したものと見える。古義にもやはり否定だとして、「雪はもろくはかなきものなればかやうに降り重りたるもやがて跡方なく消失るものなり吾はその雪の如く時として思ふのみにて待はせずいつと云定もなく戀しく思ひ居しことなるをそのかひありて此度君が京より本任に歸來て逢るが懽しき」といふ意だと説いて居る。今、考へて見るに、考の説も古義の説も、共に不完全ではあるが、「またなくに」を否定であるとするのは正しいといはなければならぬ。吾々の解釋によれば、「またなくに」の「なく」は「待つ」を打消したのではなく、「しかのみ」を打消したので、さうして「しかのみ」の「しか」は「千重」をさして居るのである。即、歌の意は「降る雪は千重も降り積る。しかし、我が(52)君を待つ思はたゞ千重ぐらゐではない」「わが君を待つ思にくらべては千重ふり積る雪も深からず」といふ意味であらうと思ふのである。さうだとすれば、此も例とすることは出來ない。
  (六) 今更君者伊不往春雨之情乎人之不知有名國《イマサラニキミハイユカジハルサメノコヽロヲヒトノシラザラナクニ》(萬十)
 宣長は「君」を「吾」の誤だとし「不知有名國」を「しらざるに」の意味だと説いて居る(略解による)。略解や古義も之に從つて居るが、代匠記や考には、やはり「知らざるにあらず」の意味だとして居る。此の歌は難解であつて、どちらが好いか判然しない。
  (七) 乎都久波乃之氣吉許能麻欲多都登利能目由可汝乎見牟左禰射良奈久爾《ヲツクバノシゲキコノマヨタツトリノメユカナヲミムサネザラナクニ》(萬十四)
  (八) 於毛波受母麻許等安里衣牟也左奴流欲能伊米爾毛伊母我美延射良奈久爾《オモハズモマコトアリエムヤサヌルヨノイメニモイモガミエザラナクニ》(萬十五)
 此の二つの歌の最後の句は、考には、射を「や」とよんで、「さねやらなくに」「みえやらなくに」の意味であると説いて居るが、代匠記略解古義などは、皆「さねざらなく」「みえざらなく」と讀んで、「さねざるに」「みえざるに」の意味と解して居る。射を「や」とよむのは穩でないから、訓は後の方が好いとしなければならぬ。意義は、(七)は、やはり普通の否定として解することも出來るやうに思はれるし、(八)も、普通の否定として、「思はずにはどうして居られようか、思ひつゝ寐れば、夜の夢になりとも妹が見えないことは無いから」即「思ひつゝ寐ればこそ夢になりとも妹に會はれることもあるのであるから、どうして思はずに居られようか」の意であると解せられないことも無いやうに(53)思はれる。假に、此の解釋が誤であつて、確に「さねざるに」「みえざるに」の意味であるとしても、此等が何れも「ざらなく」といふ形であることは注意すべきことで或は、「ざる」といふ否定の意味を強める爲に、更に、「なく」といふ否定の詞を重ねたのではあるまいかとも考へられる。かやうな否定重複は印歐語などにも例のあることである。果して然らば、否定の重なるといふことが重要な條件であつて、單純に、否定詞があつても、否定の意味にならないといふ例には爲し難いのである。
 從來學者の擧げて居る實例は以上で盡きて居り、又實際、他に例も無いやうである。今之を通覽するに、(一)(二)は訓點の誤から、(三)(四)は異本を採らなかつたから、(五)は解釋の誤から、何れも、さう見えたので、いづれも證とするに足りないのである。(六)(七)(八)の三例の内、(六)は意味が不明瞭であり、(七)(八)は普通の否定と解することが出來るかも知れないのであるが、假令、さうでないとしても、否定重複であるとすれば、否定詞があつても否定の意味とならないといふのとは、意味がちがふのである。かくの如く、奈良朝及其の以前に於ては、否定詞が、有つても無くても同意義である一種の言ひ方があつたといふ確證は一つも發見せられないのであるから、從つて、「がてぬ」と「がてまし」とを、此の種のものであるとするのも、甚疑はしくなるのである。平安朝以後に一二の例があるからと云つても、其の本性もまだ説明せられて居ないのであるから、「がてぬ」「がてまし」を之と同類だと説明した所で、一の疑問を解くに他の疑問を以てしたもので、十分の説(54)明といふ事は出來ないのである。故に吾々は此の説に安んずることは出來ない。
 
       三 從來の學説の批評 二
 
 第三の説、即「がてぬ」の「ぬ」は了の意味であるといふ説の可否を檢するには、先「ぬ」の活用を調べて見なければならぬ。今「ぬ」の活用を知るに足るべき例を列擧すれば、
      ぬ
  (一) 梓弓引者隨意依目友後心乎知勝奴鴨《アヅサユミヒカバマニマニヨラメドモノチノコヽロナシリガテヌカモ》(萬二)
 
  (二) 多知波奈能美衣利乃佐刀爾父乎於伎弖道乃長道波由伎加弖努加毛《タチバナノミエリノサトニチヽヲオキテミチノナガヂハユキカテヌカモ》(萬廿)
  (三) 朝露乃既夜須伎我身比等國爾須疑加弖奴可母意夜能目遠保利《アサツユノケヤスキワガミヒトクニニスギカテヌカモおやのめをホリ》(萬五)
  (四) 可美都氣努伊可抱乃禰呂爾布路與伎能遊吉須宜可提奴伊毛賀伊敞乃安多里《カミツケヌイカホノネロニフロヨキノユキスギカテヌイモガイヘノアタリ》(萬十四)
      ね
  (五) 鳴鷄者彌及鳴杼落雪之千重爾積許曾吾等立可※[氏/一]禰《ナクトリハイヤシキナケドフルユキノチヘニツメコソワレタチカテネ》(萬十九)
      に
  (六) 筑波禰乃禰呂爾可須美爲須宜可提爾伊伎豆久伎美乎爲禰※[氏/一]夜良佐禰《ツクバネノネロニカスミヰスギガテニイキヅクキミヲヰネテヤラサネ》(萬十四)
  (七) 群良乃伊※[泥/土]多知加弖爾等騰己保里可弊里美之都々《ムラトリノイデデタチカテニトヾコホリカヘリミシツヽ》(萬二十)
(55)  (八) 波流佐禮婆和伎覇能佐刀能加波度爾波阿由故佐婆斯留吉美麻知我弖爾《ハルサレバワギヘノサトノカハドニハアユコサバシルキミマチガテニ》(萬五)
  (九) 安比見※[氏/一]波千等世夜伊奴流伊奈乎加母安禮也思加毛布伎美未知我※[氏/一]爾《アヒミテハチトセヤイヌルイナヲカモアレヤシカモフキミマチガテニ》(萬十四)
  (十) 宇具比須能麻知迦弖爾勢斯宇米我波奈知良須阿利許曾意母布故我多米《ウグヒスノマチカテニセシウメガハナチラズアリコソオモフコガタメ》(萬五)
  (十一) 安可胡麻我可度※[氏/一]乎思都都伊※[氏/一]可天爾世之乎見多※[氏/一]思伊敝能兒良波母《アカゴマガカドデヲシツヽイデガテニセシヲミタテシイヘノコラハモ》(萬十四)
  (十二) 之路多倍乃蘇※[泥/土]奈伎奴良之多豆佐波里和可禮加弖爾等比伎等騰米之多比之毛能乎《シロタヘノソデナキヌラシタヅサハリワカレカテニトヒキトドメシタヒシモノヲ》(萬廿)
 以上の例によつて、「ぬ」「ね」「に」の三つの形が有つた事が明にわかるのである。猶、訓點をも採れば
  (十三) 吾兄子爾戀跡二四有四小兒之夜哭乎爲乍宿不勝苦者《ワガセコニコフトニシアラシミドリゴノヨナキヲシツヽイネガテナクハ》(萬十二)
の如く「なく」といふ形もある。今此等の諸例について、「ぬ」「に」「ね」「なく」などを、了の意味と解する方が都合が好いか、やはり不の意味と解する方が都合が好いかを考へて見よう。
 (一)(二)(三)の例は「ぬかも」と續いたものであつて、此は了の「ぬ」にも
  於吉爾須毛乎加毛乃母己呂也左可杼利伊伎豆久久伊毛乎於伎※[氏/一]伎努可母《オキニスモヲカモノモコロヤサカドリイキヅクイモヲオキテキヌカモ》(萬十四)
など例があるが(鍼嚢下、六十七丁以下參照)また不の「ぬ」としても少しも差支ないのである。(四)の例は、古義には、是こそ了の「ぬ」である確證であつて、若し不の意味ならば「ゆきすぎがてず」と無くてほならないとやうに云つて居る(古義、卷二上廿八丁裏)。之で見れば、雅澄は「行き過ぎかてぬ」(56)を終止だと考へたのであらうが、此は必ずしも終止と見るに及ばない。連體として「妹が家のあたり」につゞくものと見て差支無い。否、當時の歌としては、さう見た方が却つて穩當であらうと思はれる。さすれば、、此も了の「ぬ」だといふ確證とはならないのである。
 (五)は「ね」が「こそ」の結として用ゐられた例である。又訓點によれば、
  何時鴨此夜乃將明跡待從爾寢乃不勝宿者瀧上乃淺野之雉開去歳立動良之《イツシカモコノヨノアケムトサモラフニイノネカテネバタキノウヘノアサノノキヾシアケヌトシタチトヨムラシ》(萬三)
の如く「ね」から「ば」に續くものもある。此の樣に已然形が「ね」であるのは不の意味のものに限られ、了の意味のものには例が無い。若し之を了の意味のものと説かうとすれば、連體形の「ぬる」を「ぬ」ともいふ例があるから推測して、已然の「ぬれ」を「ね」といふ例もあつたであらうといふより外に仕方が無いのである。
 (六)(七)(八)(九)は「に」から用言に續く例であるが、かやうな事は、了の「に」には絶えて其の例なく、唯不の意味の「に」にのみあることである。たゞ、(八)(九)のやうに「に」を文の最後に置くことは不の意味の「に」にも、未、例を發見しないが、了の「に」にも、勿論、此の樣な例は無い。また、有りさうにも思はれない。
 (十)(十一)は「がてにせし」といふ例であるが、此のやうに「に」から「爲」といふ詞につゞくのは、了の「に」には決して例なく、たゞ不の意味の「に」にのみ例がある。即
(57) 烏梅乃花美夜萬等之美爾安里登母也如此乃未君波見禮登安可爾勢牟《ウメノハナミヤモシミニアリトモヤカクノミキミハミレドアカヌカモ》(萬十七)
(此の勢の字は、寛永本には氣になつて居るが、「けむ」の「け」に氣の字を用ゐたのは萬葉集中他に例が無いから、元暦本や官本にある通り勢の字の方が正しいと認める)
 (十二)は「がてにと」の例である。「に」から「と」と續くのは、不の「に」には、
  宇奈比河波伎欲吉勢其等爾宇加波多知可由吉加久遊岐見都禮騰母曾許母安加爾等布勢能宇彌爾布禰宇氣須惠底於伎弊許藝邊爾己伎見禮婆《ウナビガハキヨキセゴトニウカハタチカユキカクユキミツレドモソコモアカニトフセノウミニフネウケスヱテオキヘコギヘニコギミレバ》(萬十七)
のやうに例が有るが、了の「に」には一つも例が無いのである。以上の「かてに」の外、猶、訓點によれば
  古爾有兼人毛如吾歟妹爾戀乍宿不勝家牟《イニシヘニアリケムヒトモワガゴトカイモニコヒツヽイネガテニケム》(萬四)
の如く「かてにけむ」といふ例があつて、美夫君志には、この樣に「に」と活用するに依つて了の「ぬ」であることが明であると説いてあるが(同書卷二別記二頁)、今の刊本の萬葉集の訓に誤の多いのは明な事實であるから、この訓點も必しも信用出來ない。或は契沖の説の如く(代匠記四上一四頁)「いねがてずけむ」と讀むべきものであるかもしれない。何れにしても假名書になつて居ないから、確な證據とすることは出來ないのである。
 茲に附け加へて述べて置くべきは、「がてに」の「に」を助動詞の活用形と見ないで、天爾遠波と見(58)る考である。此の説は保田光則の外には、未、明に主張したものは無いやうであるが、古來の學者が、多く、「かて」を難の意味だと説き、「に」に關しては、何等の説明をも與へて居ないのを以て見れば、恐らく「に」を普通の天爾遠波と解して居たのであらう(光則の説は雅言集覽増補卷六上に見えて居る)。今、此の説について考へて見るに、「がて」は「ぬ」「ね」「まし」など助動詞に續いて居るのであるから、必、動詞か助動詞かでなければならぬ。天爾遠波の「に」が軌詞又は助動詞に連つて、「がてに」の諸例に於て見るやうな風に用ゐられた例は一も發見することが出來ないから、「がてに」の「に」を天爾還波だとするのは無理だといはなければならぬ。
 (十三)の「がてなく」の例は、假名書きでないから、十分確とは云はれないが、多分、この形は有つたものであらう。かやうな「なく」は不の意味のものには、最普通にあるが、了の意味のものには一も例を發見することは出來ない。
 木村博士は、此の「なく」は「はしたなく」「いはけなき」などの「なく」「なき」で、其の意を強く云はむ爲に添へていふ語であるとし(美夫君志別記卷二、四頁)「がてぬ」「がてに」の「ぬ」「に」とは別のものの樣に説いて居られるが、「がてなくに」の「なく」は「はしたなく」などの「なく」とは全く文法上の性質の違つたものである事から見ても、此の説は信ずることが出來ない。
 以上述べ來つた所に由れば「がてぬ」の「ぬ」及び、その活用形なる「ね」「に」「なく」は、其の(59)活用及用法から見て、了の意味のものとするよりは、不の意味のものとする方が穩であつて、説明に無理が無いと云はなければならぬ。
 猶、其の外に、「ぬ」を了の意味のものと説くのを不穩當らしく思はせる事情がある。其は、了の意味の助動詞「ぬ」の連體に「ぬ」を用ゐるのは、東國語に限られて居るやうに思はれることである。即、連體に「ぬ」を用ゐた例は、萬葉集卷十四の東歌及卷二十の防人歌に見えて居るばかりで、其の外には、唯一つ
  耆矣奴吾身一爾七重花佐久八重花生跡白賞尼白賞尼《オイハテヌワガミヒトツニナヽヘハナサクヤヘハナサクトマウシハヤサネマウシハヤサネ》(萬十六、乞食者詠)
の例があるばかりである。此の耆矣奴も、正倉院文書中の戸籍に耆奴といふ語があるから見れば、或はオイタルヤツコと訓すべきものであるかも知れず、又、乞食者の歌つた歌であるから、或は、東國又は其他の田舍の訛がはいつて居るのかも知れない。兎も角、「ぬる」の代りに「ぬ」を用ゐるのは、東國方言の特徴であつて、大和地方では殆ど無かつたと云つて好いのである。是は鹿持雅澄も認めて居ることである(鍼嚢下、六十八丁表)。さすれば、當時大和で盛に用ゐられて居た「がてぬ」の「ぬ」を了の意味だと説くのは猶一層不安心になるのである。
 以上述べた如く、「がてぬ」の「ぬ」を了の意味だとするのは不穩當であるとすれば、此の第三説も容易に信ずることは出來ないのである。
(60) 要するに、從來の解釋は、何れも滿足すべきもので無いと云はなければならぬ。
 
       四 「かてまし」
 
 吾人は前節に於て「かてぬ」「かてに」「かてね」「かてなく」の「ぬ」「に」「ね」「なく」は不の意味と見る方が穩當であることを説いた。然らば「かてまし」の方はどう説くべきか。吾々は先第一に、あらゆる「かてまし」の實例について吟味して見なければならぬ。
 
     かてましも
  (一)古 大野跡状不知印結有不得吾眷《オホノラニタヅキモシラズシメユヒテアリカテマシモワガカヘリミバ・オホノラノアトカタシラズシメユヒテアリトモエメヤワガカヘリミム・オホノラニタヅキモシラズシメユヒテアリゾカネツルアガコフラクハ》(萬十一)
  (二)古 飛鳥川水往増彌日具戀乃増者在勝申目《アスカガハミヅユキマサリイヤヒケニコヒノマサラバアリカテマシモ・アスカガハミヅユキマサリイヤヒケニコヒノマサレバアリカテヌカモ》(萬十一)
  (三)古 玉匣將見圓山乃狹名葛佐不寐者遂爾有勝麻之目《タマクシゲミムロノヤマノサナカツラサネズバツヒニアリカテマシモ・タマクシゲミムロトヤマノサネカツラサネズバツヰニアリカテマシモ》(萬二)
  (四)古 近有者雖不見在乎彌遠君之伊座者有不勝自《チカクアレバミレドモアルヲイヤトホクキミガイマサバアリカテマシモ・チカクアレバミネドモアルヲイヤトホニ|キミイマシナバアリテモタヘズ《・代キミガイマセバアリカテズモ》》(萬四)
  (五)古 阿良多麻能伎倍乃波也之爾奈乎多※[氏/一]天由伎可都麻思自移乎佐伎太多尼《アラタマノキヘノハヤシニナヲタテテユキカツマシモイモサキタヽネ・アラタマノキヘノハヤシニナヲタテヽユキカツマシヽイヲサキタヽニ》(萬十四)
     かてましを
(91)  (六)古 如是許本名四戀者古郷爾此月期呂毛有勝益土《カクバカリモトナシコヒバフルサトニコノツキゴロモアリカテマシヲ・カクバカリモトナシコヒバフルサトニコノツキコロモアリカテマシヲ》(萬四)
  (七)古 吾情湯谷絶谷浮蓴邊毛奥毛依勝益士《ワガコヽロユタニタユタニウキヌナハヘニモオキニモヨリカテマシヲ・ワカコヽロユタニタユタニウキヌナハヘニモオキニモヨリカタマシヲ》(萬七)
 
 「かてまし」の例は是で盡きて居る。本文の左の訓點は寛永本ので、右のは後に改めた讀方で主として古義により、略解のも採つた。此等と違つた訓點で注目すべきものは、更に左の方へ擧げて置いた。此の樣にいろ/\異つた讀方のあるのは「かてまし」といふ語は古風な語であるため、讀みにくかつたのにも依らうけれども、重な原因は、一つは、(五)の例の外は皆音訓混へ用ゐてあつて一字一音の假名書になつて居ないのと、一つは、本によつて字の違つて居る處があつて人によつて其の取捨を異にするとに依るのであらうと思はれる。今此等の事に注意して、右に擧げた「かてまし」の例を一々調べて見よう。
 (一)は、有不得を「ありかてましも」と讀むのであるが、此は古義には「ありぞかねつる」と讀んで居る。何れも「不得」の意味に依つて下した訓であつて、その意味にさへ叶つて居れば何と讀んでも好いのであるから、「かてましも」の確な例とすることは出來ない。
 (二)の在勝申目を寛永本に「ありかてぬかも」と訓して居るのは、恐らく一本に申を甲に作つてあるのに依つたのであらう(拾穗抄、大矢透氏所藏古寫本所引の一本に甲に作つてある。美夫君志卷(62)二別記一頁にも載せてある)。けれども勝の字を「かてぬ」と訓した例もなく、甲をカの假名に用ゐたのもカヒとつゞく場合の外には例がないから、これは申の方が正しからうと思ふ。目は諸本皆目となつてゐるから、これは確に「かてましも」と讀むべきもののやうに見える。
 (三)の有勝麻之目も、このまゝでは「かてましも」と讀まなければならないが、元暦本及び類聚古集(卷八)には目を自と作つてあり、又拾穗抄によれば一本に乎とあるさうであるから、直に「かてましも」であるときめてしまふ事は出來ない。
 (四)の有不勝自は、いろ/\の讀方があるが、代匠記以後の諸註釋家は自を目の誤であるとし、略解も古義も「ありかてましも」と讀んで居る。けれども代匠記、校異本などに依るに諸本何れも自に作り、目に作つたものは一つも無いのである。
 (五)の歌は稍難解であつて、いろ/\の解釋が出て居る。由吉可都麻思自の一句についても代匠記には「雪が積《ツ》ましゝ」であると云つて居るが、萬葉考には自を目の誤として「ゆきかつましも」と訓し「雪が積りし」の意味であると説いて居る。本居宣長は、やはり自を目の誤として、「行きがてましも」の意味だと解して居る(略解所載)。さうして略解、古義共にこの説に從つて居る。代匠記や考の説の從ひがたきは勿論であるが、宣長の説も何故「かて〔二重傍線〕ましも」が「かつ〔二重傍線〕ましも」となつて居るかを説明して居ないから、不完全であるが、これは東國語であるからと解釋することも出來るから、こ(63)の説は全體の意味から見て當つて居ると考へるのである。處が、こゝにも「かつましも」の「も」に當る字が自となつて居り、管見の及ぶ所では目に作つた本は一つも無いのは注意すべき事である。
 以上「かてましも」の例のうち、(一)は何と讀んでも好いので證とするに足りないから之を除き、(二)以下の例を通覽するに、「ましも」の「も」に當る部分が目となつて居るものと、自となつて居るものとがある。即(二)は目とあり、(三)は通行本には目とあるが異本には自となつて居る(乎となつて居る本もあるが)。(四)と(五)とは何れも自となつて居る。さうすれば、目と書いてあるものと、自と書いてあるものとが、全く關係の無い違つた語であると云ふことが出來ない以上は、目とある方が正しいか自とある方が正しいかといふ問題が起つて來る筈である。
 從來の學者は一般に目の方を正しいとし、自を誤寫であるとして、「ましも」と訓したのである。然るに、右に述べたやうに、確に目とあるのは(二)の例一つだけであるのに、自と書いた確な例は(四)と(五)と二つある。勿論此の樣な場合に數の多少のみに依つて正否を定めることは出來ないけれども、兎に角、數の上から言へば自と書いた方が優勢である。此を捨てゝ彼を採らうとするには充分の理由が無くてはならぬ。少くとも、若し自の方を正しいと假定したならばどうなるであらうかを一應考察して見る必要がある。從來の學者のやうに、此等の事を顧みず、自を見れば直ちに目の誤だとするのは、甚輕率な、危險なやり方と云はねはならぬ。
(64) 茲にまた、自も目も共に正しいといふ説がある。其は萬葉集文字辨證に見える木村博士の説であつて、博士は自は目にノを添へたもので此の樣にノ畫を増すのは古の一の書法であらうと云つて居られる(下卷四十八頁以下)。若し此の説を眞だとすれば自は即目であつてそのまゝ「も」と讀むことが出來、目も自も共に正しいと云ふべきである。けれども、此の説は疑はしいと云はなければならぬ、ノ畫の加はつた例として博士の擧げて居られる吉之作告、枚之作牧、丹之作舟、十之作千などに關しても、吾々は必しも博士と見解を一にしないのであるけれども、此等は他書にも例のあることであるから、姑く之を認めて置くことゝしても、此の目を自に作るに至つては、博士も認めて居られるやうに、他書に徴なく、萬葉集中でも外には卷一に寐毛宿良自八方の例があるばかりで、これも一本に目に作つてあるとすれば大に疑はしいとしなければならぬ。又、假に、此の説を確實であるとしても、自は常に目の一體であるといふのでは無く、もとよりの自として解釋する場合もあるのであるから今此の場合に於て、自を目の一體とすべきか、もとよりの自とすべきかは、他の事實に依つて定めなければならないのである。木村博士は(二)(三)の例に依つて自を目の一體と解せられたのであらうけれども、已に述べた如く、自と書いた方が數に於て優勢なばかりでなく、「かてましも」と讀んでも、「かてぬ」などとの關係を説明するに困難であつて、十分滿足な讀み方といふことは出來ないから、やはり、若し自が、もとよりの自であつたならば、どうであるかを見て、然る後、何れの解を取るべきか(65)を定めなければならぬ。
 何れにしても、吾々は自を正しいとしたならばどうなるかを考察しなければならぬ。
 (二)の申目の目は諸本共に目とあるから、其の儘では自と關係あるものと説明することは出來ない。(三)の申目の目は異本に自とあるのを正しいとすれば「ましゞ」と讀む事が出來る。(四)の有不勝自は從來は自は目の誤として「ありかてましも」と讀んで居たのであるから、自を誤でないとすれば、此もやはり「ましゞ」と讀まれる筈である。(五)の麻思自は、其の儘に「ましゞ」と讀まれる。此の樣に、これまで「かてましも」の例として居たものは(二)の例のほかは皆「ましも」を「ましじ」と讀み改めることが出來る。
 進んで「がてましを」の例(六)及(七)を調べて見るに、此は何れも勝益士と書いてある。この益士を「ましを」と讀み來つたのであるが、士を「じ」の假名に用ゐるのは普通の事であるから、此も、「ましゞ」と讀むことが出來る。出來るのみならず士を「を」の假名に用ゐたのは、萬葉集中他に例が無いやうであるから、却つて、さう讀む方が穩當のやうに思はれる。
 此のやうに、自を正しいと假定して「ましゞ」と讀むとすれば、「がてまし」の例として居たものは只一つ、即(二)の例を除くの外、悉、かやうに讀み改めることが出來るのである。
 然らば「ましゞ」といふ語は有るか、どうか。
 
(66)       五 「ましゞ」
 
 「ましゞ」といふ語は續日本紀の宣命にある。
  乾政官大臣仁方敢天仕奉倍岐人無時波空久置弖在官爾阿利然今大保方 必可仕奉之止所念坐世多能遍重天勅止毛敢末之時止爲弖辭備申豆良久可受賜物奈利世波祖父仕奉天麻自《ケムジヤウクワムノオホオミニハアヘテツカヘマツルベキヒトナキトキハムナシクオキテアルツカサニアリシカルニイマダイホウハカナラズツカヘマツルベシトオモホシマセアマタノタビカサネテノリタマヘトモアフマシジトシテイナビマヲシツラクウケタマハルベキモノナリセバオホヂツカヘマツリテマシ》(續紀廿二卷天平寶字四年正月)〔入力者注、宣名の小字は普通の大きさにした、以下同じ。〕
  朕波汝乃志乎波暫久乃間毛忘得末之自美奈毛悲備賜比之乃比賜比大御泣哭川川大坐麻須《アレハミマシノコヽロザシヲバシマラクノマモワスレウマシジミナモカナシビタマヒシノビタマヒオホミネナカシツツオホマシマス》(續紀卅六卷天應元年二月)
 以上の如く「ましゞ」「ましゞみ」といふ二つの形が見えて居る。猶
  繼天方是太子乎助奉侍禮朕我教給布御命爾不順之天王等波己我待麻之岐帝乃尊岐寶位乎望求米《ツギテハコノヒツギノミコヲタスケツカヘマツレアガヲシヘタマフミコトニシタガハズシテオホキミタチハオノガウマジキミカドノタフトキミクラヰヲノゾミモトメ》(績紀卅卷神護景雲三年十月)
の得麻之岐を一本に得麻之字岐に作つてある(歴朝詔詞解に依る《*》)。此も、既に詔詞解に云つてあるやうに、強ち麻之岐の方が正しいとも定められないのであるから、若し麻之字岐を正しいとすれば「ましヾき」といふ形も有ることゝなる。
 右の「ましゞ」「ましゞみ」(及「ましゞき」)の形から見れば、「ましゞ」は形容詞的の活用を有す(67)るものであらうと考へられる。さうして常に動詞を承けて其の説述の意味を修飾するもので「ざるべし」「まじ」といふやうな意味を有して居る。即否定推量の助動詞である。
 此の詞は從來は續紀宣命以外のものには發見せられなかつたのであるが、物集博士は日本大辭林の「ましゞ」の條に
  あらたまのきへのはやしになをたてゝゆきかつ麻思自《マシジ》いをさきだゝに(萬葉十四)
をも例に引いて居られる。此の歌は今問題として居るものであるから姑く措くとしても、猶よく索めて見れば、他にも例があるのである。日本紀に
  耶麻古曳底于瀰倭※[柁の木が手偏]留騰母於母之樓枳伊麻紀能禹知播倭須羅※[まだれ/臾]《ヤマコエテウミワタルトモオモシロキイマキノウチハワスラユ》麻旨珥(齊明紀)
とある。この麻旨珥の旨は一本に自とあるから古來の註釋家は皆「わすらゆまじに」と讀んで、わすらるまじきにの義だと説いて居る。この旨の字は寛文版本には百に作つてあるが、原は旨の字で、これが一方百に誤られ一方自に誤られたと見るのが最穩當である。旨は日本紀では清音の假名にのみ用ゐられ、濁音に用ゐられた例は無いから麻旨は「まし」とよむが至當である。珥は紀には多くは「に」の假名に使つてあるが、また「じ」の假名に用ゐたと認められる例もある。
  飫企都ケ利軻茂豆句志磨爾和我謂禰志伊茂播和素邏《オキツドリカモドクシマニワガヰネシイモハワスラ》珥|譽能據ケ馭ケ母《ヨノコトゴトモ》(神代紀下)
 この「和素邏珥」を古事記には「和須禮士」と書いてあるので、珥は「じ」と讀んだと推測せられ(68)る。さうすれば、麻旨珥は「ましゞ」と讀むことが出來るのである。「ましゞ」は「まじ」の意味であるから、全文の意味は從來の解釋と變りが無いことになり、少しも不都合を生じないばかりでなく、却つて此の方が語法にも叶ふのである。即當時に於ても「まじ」を連體形として用ゐた例は無いから「に」に接するには必「まじきに」といふべく、「まじに」とは云はない筈である。此の樣に文字の用ゐ方から見ても當時の語法から云つても麻旨珥は「ましゞ」と讀むべきものと思はれる。さすれば「ましゞ」は日本紀にも例があると云はなければならぬ。
 萬葉集の中では
  保里延故要等保伎佐刀麻弖於久利家流伎美我許己呂波和須良由《ホリエコエトホキサトマデオクリケルキミガココロハワスラユ》麻之目(卷廿)
 此の最後の句は、古來「わすらゆまじも」と讀んで居る。然るに、後に論ずるが如く、目の字は元暦本には自に作つてあり、又、目を「も」の假名に用ゐた確な例は奈良朝の文獻には殆んど無いのであるから、此の目は恐らく自の誤であらうと推測せられる。さうすれば麻之目は麻之自の誤で、當に「ましゞ」と讀むべきものである。果して然らば、此も亦、「ましゞ」の例となるのである。
 此の樣に、「ましゞ」といふ語は續紀宣命ばかりでなく、日本紀や萬葉集にもあるのであつて、其の意味は、何れの場合に於ても、「まじ」と同じく否定推量である。
 然らば、前節に述べた如く、「かてまし」の諸例に於て、「ましも」「ましを」を「ましゞ」と讀み改(69)め、其の「ましゞ」が、此處に擧げた「ましゞ」と同じ語であるとしたならば、どうであらうか。
 「がてましも」「がてましを」は何れも肯定の形であつて、而もその意味は、「がてぬ」「がてに」など否定形のものと同樣であるから説明に困難を感じたのである。然るに今「ましも」「ましを」を「ましゞ」と讀み改めたならば、此も「がてぬ」「がてに」などと同じく、否定の形になるから、此等と同樣の意味を有することは、何等の困難もなく説明することが出來るのである。此に由つて見れば、「ましゞ」と讀む方が、「ましも」「ましを」と讀むよりも數等優れた讀方であると云はなければならぬ。
 
       六 目と自
 
 既に述べた如く、從來「かてまし」の例として擧げられて居たものは、殆んど皆、「ましを」「ましも」を「ましゞ」と讀み改めることが出來るのであるが、唯一つ、さう讀み改めることの出來ない例がある、其は前に擧げた(二)の例、即
  飛鳥川水往増彌日異戀乃増者《アスカガハミヅユキマサリイヤヒケニコヒノマサレバ》在勝申目(萬葉十一)
であつて、此の目の字は諸本皆目に作つてあるから、比の儘では「マシヾ」と讀むことは出來ない。此はどう解釋すべきであらうか。
 在勝申目の申の字は異本には甲に作つてあり(校異本及大矢透氏所藏本に依る)寛永本には「アリカテ(70)ヌカモ」と訓してある。木村博士は、此の訓を正しいとして、申は誤であらうと云つて居られる(美夫君志卷二別記一頁)。若し此の説に從ふとすれば、此は「がてぬ」の例であつて「がてまし」の例の中には入らないのであるから、「がてまし」の例は悉く「ましゞ」と讀み改めることが出來ると云つて好いのである。併しながら、甲をカの假名に使つたのは、古事記目本紀萬葉など奈良朝の文獻にはカヒとつゞいた場合の外には例の無いことであるから、此の説は必ずしも信ずることは出來ない。
 今、奈良朝及其の以前の文獻について、目の字を假名に用ゐた例を調査して見るに、之をメの假名に用ゐるのが最普通であつて、猶高|目《ムク》卷目《マキムク》などムクの假名に用ゐた例も少しはあるが、モの假名に用ゐたものは、極めて少いばかりでなく、何れも確實な例と云ふことは出來ないのである。先、萬葉集中で目をモと讀む例を列記すれば
  (一) 玉匣將見圓山乃狹名葛佐不寐者遂爾有勝麻之目《タマクシゲミムロノヤマノサナカヅラサネズバツヒニアリカテマシモ》(卷二)
       目は元暦本には自とある。
  (二) 夜光玉跡言十方酒飲而情乎遣爾豈若目八方《ヨルヒカルタマトイフトモサケノミテコヽロヲヤルニアニシカメヤモ》(卷三)
       大矢氏所藏本には八目の目を方に作つて、一云八方の四字は無い。
  (三) 荒玉之年緒長如此戀者信吾命全有目八目《アラタマノトシノヲナガクカクコヒバマコトワガイノチマタカラメヤモ》(卷十二)
       代匠記に八目の目を幽齋本には面に作ると書いてあり、大矢氏所藏本も面になつて居る。
(71)  (四) 老目不爲死不爲而《オイモセズシニモセズシテ》(卷九)
       老目は、古活字本、及佐佐木信綱氏所藏古寫本には、耆に作つてある。代匠記には校本老目作耆とある。
  (五) 保里延故要等保伎佐刀麻弖於久利家流伎美我許己呂波和須良由麻之目《ホリエコエトホキサトマデオクリケルキミガコヽロハワスラユマシモ》(卷二十)
       元暦本には目を自に作り、其の右旁に小さく目と書いてある。
 (一)の目は、元暦本に從つて自を採つた方が好いことは、上述の通りである。(二)は、一云八方といふ注が一本に無いことから考へて見ると、此の注は後人の書入れで、もとは、八目と書いた本と八方と書いた本とがあつたのであらう。(三)の目は異本には面とある。ヤモに八方、八面をあてるのは、萬菓集には例の多いことであり、(二)も(三)も「若目八目」「全有目八目」のやうに、すぐ上に、また目の字がある事から見れば、もと八方、八面とあつたのを、後世轉寫の際、上の目の字に同化されて下のモにも目を書いたものらしく思はれるから、八万、八面とある方が原形を存して居るものであらう。(四)の老目は古い本には皆耆に作つてある。此の字は、耆の異體であつて干禄字書にも見えて居り、正倉院文書中の戸籍に見えたる耆老耆女耆妻耆妾耆奴耆婢などの耆の字、桂萬葉の黒髪二白髪交至耆の耆の字、慶長活字本及大矢氏所藏の古寫本萬葉集卷十六の中の耆矣奴吾身一爾の耆の字など、皆この形になつて居り、猶天正十八年版の節用集にも
(72)  耆娑《ギバ》【天竺醫師】
と見えて居る。以て、其の由來の古く、且久しいことを知るべきである。さうであるから、この「老目不爲《オイモセズ》」は「耆不爲《オイモセズ》」の誤寫であつて、目をモに宛てたのでは無からうと思はれる。
 (五)の麻之目の目は元暦本には自となつて居て、其の右の方に小さく目の字が書いてある。此は初、自と書いたが、後に誤である事を發見して、目と訂正したのかとも思はれるが、其の樣な場合には、皆もとの字の左に二點をうつて削除したしるしにしてあるのであるのに、此の場合には、そんなしるしが無い。想ふに、是は、一本には目とあるといふしるしか、或は、訓に「ましも」とあるから見れば、本來自とあるが、之に訓を付ける時、自は誤で正しくは目であるべきだと考へて「も」と訓し、旁に目の字を書いて置いたものかであらう。果してさうであるとすれば、此の目も、少くとも、或本には自と書いてあると云ふことが出來るのである。今、自の方を採つて、「わすらゆましゞ」と讀むこととすれば、意味は從來の訓と變りなく、且、「之」の字を濁音に讀む必要も無くなつて、却つて都合が好いのであるから、目とあるのは、恐らく自の誤寫であらう。
 以上述べ來つた所にして誤が無いとすれば、萬葉集中には目をモの假名に用ゐた例は無いと云はなければならぬ。少くも確な例は無いと云ふ事が出來るのである。
 更に萬葉集以外のものに就いて調査するに、古事記、日本紀を始め佛足石歌、法王帝説、續紀宣命(73)及歌、八十華嚴經音義、播磨、出雲、豐後、肥前の風土記などには一つも例が無い。常陸風土記には、只一つ
  志漏止利乃芳我都都彌乎都都矣止母安良布麻目右疑古叡□(二十一丁ウ)
の例があるが、此の歌は、脱落などがあつて意味が不明であるから、果して目がモの假名に用ゐられて居るのか、又は、他の字の誤であるかわからない。大日本古文書一から七までについて見るに、普通名詞を萬葉假名で書いたものには目をモとよむ例は無い。人名地名等では、目を「め」とよむか「ま」とよむか將、「も」と讀むか不明なものが多いが、必「モ」と讀まなければならない例は、一つも發見せられないのである。
 かくの如く、當時の文獻にも、また萬葉集中にも目をモの假名にした確な例が無いとすれば、先に擧げた萬葉卷十一の在勝申目の目をモの假名だとすることは、疑はしくなるのである。さうして、此の目はそのまゝに、「め」又は「ま」とも讀まれるけれども、さう讀んでは意味の解釋が出來ないから、恐らく字形の酷似してゐる自の字の誤寫であらうと思はれる。果して然らば、申自即「ましゞ」であつて、他の多くの「ましゞ」の例の中に入る事となり、意味も安らかに解釋出來ることゝなる。
 此の樣な理由によつて、在勝申目の目は自の誤であらうと推測するのである。
 以上論じ來つた所に據つて、從來「がてましも」と訓して居た諸例の、「も」に當る文字は、目とあ(74)るのは恐らく誤寫であつて、自とあるのが正しく、すべて「ましゞ」と讀むべきものであり、「かてましを」の例も、「益士」を「ましを」と讀むのは誤で、宜しく「ましゞ」と讀むべきものであると推定するのである。かくの如くにして、始めて、從來の難關であつた「がてぬ」「かてに」などとの關係も、容易に説明することが出來るのである。
 
       七 「かて」か「かつ」か
 
 上述の如く、從來「かてましも」「かてましを」の例として居たものは、皆訓の誤であつて、「ましも」「ましを」を「ましゞ」と讀み改むべきものであるとすれば、次に考ふべきは、「がて」も、之に伴つて讀み改める必要は無いかといふことである。云ふまでもなく、助動詞は、、それ/”\或一定の活用形を承けるものであつて、其の承ける活用形は、助動詞によつて違つて居る。若し「まし」ならば、將然形を承けるのであるから、「がてぬ」の例によつて「がてまし」と訓して好いのであるが、之を「ましゞ」と改めた場合にも「がて」といふ形から續くかどうか、考へて見なければならぬ。
 前に「かてまし」の例として擧げたものゝうち、一字一音の假名書きになつて居るのは
  阿良多麻能伎倍乃波也之爾奈乎多※[氏/一]天由吉可都麻思自移乎佐伎太多尼《アラタマノキヘノハヤシニナヲタテヽユキカツマシミイヲサキダタネ》(萬拾四)
だけであつて、之には「かつましゞ」となつて居る。其の他は、「在勝申冒」「有勝麻之目」「有不勝(75)自」「有勝益士」「依勝益士」など勝とあるばかりで、「かた」と讀むか、「かて」と讀むか、將「かつ」とよむか分からない。此等も第十四卷の例によつて「ありかつましゞ」「よりかつましゞ」と讀むべきであらうか、どうか。
 此の第十四卷の歌は東歌である。東歌には往々語法上の特例があつて大和詞と違つた所があるから、直に大和詞の歌の語法の證とし難いこともある。故に此の場合に於ては、「がて」が如何なる活用を有して居るかといふ事と、「ましゞ」は如何なる活用形を承けるかといふ事とを調査して、其の結果から推論する方が安全である。
 先、「がて」の活用を調べて見るに、不の意味の「ぬ」「に」「ね」には、「がて」から續くことは、已に擧げた例で明である。其他には、
  飫朋佐介珥菟藝廼煩例屡伊辭務羅塢多誤辭珥固佐麼固辭介※[氏/一]務介茂《オホサカニツギノボレルイシムラヲタゴシニコサバコシガテムカモ》(崇神紀)
の例があつて、未來の「む」にも「がて」から續くことがわかる。否定の「ぬ」「に」「ね」も、未來の「む」も、共に將然形を承けるものであるから、明に、「がて」が將然形であることを知ることが出來る。しかし將然以外の活用形は、まだ發見せられないから、どう活用したか十分明でない。たゞ一般の例から推測するに、將然形が「て」であるのは、下二段式の活用に限るから、多分、「がて」は、下二段式に「かて」「かつ」「かつる」「かつれ」と活用したものであらう。
(76) 次に、「ましゞ」は、どんな活用形を承けるかといふに、宣長は宣命にある「敢未之時」「得末之自美」を「あふ〔傍線〕ましゞ」「う〔傍線〕ましゞ」と讀み、猶
  歌は常にはアヘテとのみ訓めば、こゝもアヘマジと訓べく思ふ人も有べけれど、そは俗言の格なり。こは閇《ヘ》は下へのつゞきによりて、布と活《ハタラ》くこと、堪《タフ》と同格の言なれば、こゝは阿布《アフ》と訓べきなり。(詔詞解、四、第廿六詔の註)
と云つて居る。此は、明言はして居ないが、「ましゞ」は終止形を承けると考へたのである。けれども宣長は證據を出して居ない。實際、當時は證據を發見しなかつたのであらう。然るに前にも述べた如く
  耶麻古曳底于瀰倭※[柁の木が手偏]留騰母於母之樓枳伊麻紀能禹知播倭須羅※[まだれ/臾]麻旨珥《ヤマコエテウミワタルトモオモシロキイマキノウチハワスラユマシヽ》(齊明紀)
の最後の一句は當に「わすらゆましゞ」と讀むべきもので
  保里延故要等保伎佐刀麻弖於久利家流伎美我許己呂波和須良由麻之目《ホリエコエトホキサトマデオクリケルキミガコヽロハワスラユマシモ》(萬廿)
の最後の目も、恐らく、異本に自とあるのが正しいので、之も「わすらゆましゞ」と讀むのであらうと考へられる。此等は「ましゞ」が終止形を承ける確證である。
 かやうに「ましゞ」が終止形を承けるとすれば、「がて」の場合に於ても、其の終止形から續く筈である。「がて」の終止形は、前に推定した所によれば、「がつ」であるから、當に「かつましゞ」とな(77)るべきである。此を第十四卷の「由吉可都麻思自《ユキカツマシジ》」に較べて見ると、正に符合するのである。かやうにして、此の十四卷の例は、東國に特有な云ひ方では無く、大和詞にも共通せる當時の語法であつた事を知るべく、また逆に、此の例によつて、彼の推定の謬らざるを知るべきである。
 以上の理由によつて、吾々は、從來「ありがてましも」「ありがてましを」「よりかてましを」と訓して居た者は、悉皆「ありかつましゞ」「よりかつましゞ」と讀み改むべきものであると推定するのである。
 
       八 「かて」「かつ」の意義
 
 「がてぬ」と「がつましゞ」とが、共に、同じ語「がて」「がつ」の否定形であつて、何れも、「難し」「かぬ」「たへず」「あへず」といふやうな意味を有して居るとすれば、「がて」「がつ」の意味も自ら明である。即これは「堪ふ」「敢ふ」又は「得」といふやうな意義を有して居たに相違ないのである。契沖も代匠記に
  知りガテヌは知りあへぬなり(卷二上二〇頁)
  入りガテヌは入アヘズなり(卷二中四五頁)
など云つて居るので見れば、やはり「がて」を「敢へ」の意味だと考へて居たのであらう。さうして此(78)の解釋が「がて」「がつ」の否定の場合のみならず、その肯定の場合にも宛てはまることは、日本紀の
  飫朋佐介珥菟藝廼煩例屡伊辭務羅塢多誤辭珥固佐麼固辭介※[氏/一]務介茂《オホサカニツギノボレルイシムラヲタゴシニコサバコシガテムカモ》(崇神紀)
の注に荒木田久老が
  介※[氏/一]務は得んといふに同じ(目本紀歌解卷上、廿六丁ウ)
と云つて居るのを見ても明である。
 然るに宣長が
  加弖は消難《キエカテ》行難《ユキカテ》などゝ同くて難《カタ》き意なり、又|加泥《カネ》と云にも通ひて聞ゆ(古事記傳十二、廿二丁オ、全集本六七〇頁)
と説いてから、略解、古義、美夫君志など皆此の説に從つて居るが、これは「かつましゞ」を、謬つて「かてまし」と訓したのと、「がてに」の「に」の解釋を誤つたのとから起つた謬説である。宣長はまた、契沖の説を評して
  契沖は、加弖《カテ》てふ語を阿閉奴《アヘヌ》と云意に見たり、此説は、加弖牟加毛《カテムカモ》、又|加弖奴《カテヌ》加弖那久《カテナク》などあるには叶へるに似たれども、加弖麻志《カテマシ》とあるにかなはずなむ、(古事記傳十二、二十二丁裏、全集本六七〇頁)
と云つて居るが(此處に、契沖が加弖をあへぬの意味にとつたといふのは、事實とも違ひ、且、古事(79)記傳の下文とも合はないから、宣長は「契沖は加弖てふ語を阿閉と云意に見たり」と書いた積であつたものとして解する)、此の「かてまし」は誤訓であつて、實は「かつましゞ」であるとすれば、契沖の説は、是にも叶ふのである。
 已に「かて」「かつ」の意味が明になつたから、進んで、之に宛てた文字について研究して見よう。
 
       (一) 勝
 
  梓弓引者隨意依目友後心乎知勝奴鴨《アヅサユミヒカバマニ/\ヨラメドモノチノコヽロヲシリガテヌカモ》(萬、二)
  稻日野毛去過勝爾思有者心戀敷可古能島所見《イナビヌモユキスギガテニオモヘレバコヽロコヒシキカコノシマミユ》(萬、二)
  春山者散過去鞆三和山者未含君待勝爾《ハルヤマハチリスギユケドモミワヤマハイマダフヽメリキミマチガテニ》(萬、九)
  玉匣將見圓山乃狹名葛佐不寐者遂爾有勝麻之目《タマクシゲミムロノヤマノサナカツラサネズバツヒニアリカツマシヾ》(萬、二)
  吾情湯谷絶谷浮蓴邊毛奧毛依勝益士《ワガコヽロユタニタユタニウキヌナハヘニモオキニモヨリカツマシヾ》(萬、七)
 以上は明に勝を「かて」「かつ」に宛てた例である。
  往而見而來戀敷朝香方山越置代宿不勝鴨《ユキテミテキテモコヒシキアサカガタヤマゴシニオキテイネカテヌカモ》(萬、十一)
  黄葉之過不勝兒乎人妻跡見乍哉將有戀敷物乎《モミヂバノスギカテヌコヲヒトツマトミツヽヤアラムコヒシキモノヲ》(萬、十)
  隕出寸津走井水之清有者度者吾者去不勝可聞《オチタキツハシリヰミヅノキヨクアレバワタレバワレハユキカテヌカモ》(萬、七)
  石金之凝木敷山爾入始而山名付染出不勝可聞《イハガネノコゴシキヤマニイリソメテヤマナツカシミイデカテヌカモ》(萬、七)
(80)  蟋蟀之吾床隔爾鳴乍本名起居管君爾戀爾宿不勝爾《コホロギノワガトコノヘニナキツヽモトナナキヰツヽキミニコフルニイネガテナクニ》(萬、十)
  吾兄子爾戀跡二四有四小兒之夜哭乎爲乍宿不勝苦者《ワガセコニコフトニシアラシミドリゴノヨナキヲシツヽイネガテナクハ》(萬、十二)
  夕去者公來座跡待夜之名凝衣今宿不勝爲《ユフサレバキミキマサムトマチシヨノナゴリゾイマモイネガテニスル》(萬十一)
  何時鴨此夜乃將明跡待從爾寢乃不勝宿者瀧上乃淺野之雉開去歳立動良之《イツシカモコノヨノアケムトサモラフニイノネカテネバタキノウヘノアサノヽキヾシアケヌトシタチトヨムラシ》(萬、三)
此等は不勝を「がてぬ」「がてに」「がてなく」「がてね」に宛てたのであるが、これも、勝が「がて」に當り、不が「ぬ」「に」「なく」「ね」に當るのである。然るに從來の學者は「かて」を難の意と見、之に不勝を宛てたと考へたから、「がて」に勝の字をあてたのを説明するに困難を感じて、不勝とかくのは其の意味により、勝とかくのは、其の訓を借りたのだと説かなければならなくなつたのである(古義卷二上廿六丁裏以下、美夫君志卷二別記一頁以下、難波江三上「奈行の言を添へてかゝざる例」參照)。之は全く事實を誤つたものであつて、不勝を「がて」「がつ」に宛てた例は一つも無いのである。(但「かてぬ」のぬを了の意味と解すれば「かてぬ」に不勝を宛てた例は、皆、不勝を「かて」に宛て、「ぬ」は前後の關係から讀み附けたものと解することが出來るが、この解釋の不當なることは既に論じた通である。)たゞ、
  近有者雖不見在乎彌遠君之伊座者有不勝自《チカクアレバミネドモアルヲイヤトホニキミガイマサバアリカツマシヾ》(萬、四)
の有不勝自を「ありかつましゞ」と訓するのは、不勝を「かつ」に宛てたやうに見えるが、これは、(81)不勝だけで「かつましゞ」と讀むことが出來るのを、之を「がてぬ」などと讀み誤ることなく、確に「かつましゞ」と讀まさんが爲、「ましヾ」の最後の一音だけを書いたので、猶、所偲で「しぬばゆ」と讀まれるのに、更に由の字を添へて所偲由とかき、「不知」で「しらに」であるのに、更に、「爾」の字を加へて、不知爾と書く如きものであらう。さすれば、之も「がて」に勝を宛てたものであつて、不勝を宛てたのでは無い。
  古爾有兼人毛如吾歟妹爾戀乍宿《イニシヘニアリケムヒトモワガゴトカイモニコヒツヽイネ》不勝家牟(萬、四)
この不勝家牟は寛永本には「ガテニケム」とあり後の學者も大抵之に從つて居るが、否定の「に」から「けむ」につゞく例はまだ發見せられないから、契沖の説に從つて、「がてずけむ」とよんだ方が安全ではあるまいかと思はれる。「ず」から「けむ」につゞくのは、例のあることである。又
  磯之浦爾來依白波反乍過《イソノウラニキヨルシラナミカヘリツツスギ》不勝者|堆爾絶多倍《キシニタユタヘ》(萬、七)
の過不勝者は寛永本の訓にはスキカテヌレハとあるが、これは意味から見て不當である。契沖はスギシカテズバと讀み、略解にはスギガテナクハと讀んで居るが、これも、どちらも穩でない。「がて」と、その上に來る動詞との間に、てにをはを挾んだ例もなく、「なくは」を「ずば」の意味に用ゐた例もないからである。之は不勝を「かぬ」とよむならば「すぎしかぬれば」又は「すぎかねぬれば」と讀むべきであらう。さうでなければ、「すぎがてずあらば」と讀まなければならないであらうと思はれる。(82)此等の場合の勝の字の用法も前述のものと少しも違つた處は無い。
 然らば、右の如く「がて」「、がつ」に勝の字を宛てたのは何に因つてゞあらうか。義門のいふ如く(活語雜話第三篇卅丁オ)勝の字の訓を借りたので(即、借訓で)、勝の字の意味には少しも關係の無いものであらうか。或は契沖のいふ如く(代匠記二上、二〇頁)其の意味に依つて宛てたもの(即、正訓)であらうか。此の説はどちらも理由のあることであるが吾々は主として、其の意味に依つたものであらうと考へるのである。勝の字を「堪ふ」といふ意味に用ゐることは漢文では珍しくない事であり、且萬葉集中にも「戀二不勝而《コヒニタヘズテ》」(卷四)、「神爾不勝者《カミニタヘネバ》」(卷二)など例がある。又、不勝を「留不勝都毛《トヾミカネツモ》」(卷八)「超不勝而《コエカネテ》」(卷三)など「カネ」と訓するのも、
  一日社人母待告長氣乎如此所待者有不得勝《ヒトヒコソヒトモマチツゲナガキケヲカクマタルレバアリカテナクモ》(卷四)
の得勝をカヲと訓するのも(或は、不得勝をカツマシヾと訓すべきかもしれないが、それでも得勝をカツと訓することゝなるから同樣である)、明に勝の字の意義に依つたものである。殊に前にあげてある「不勝宿者《ネガテネバ》」(卷三)の如く宿の字を下に書いたのは、どうしても「寢るに堪へず」の意味であらうと思はれるから、勝の字に「堪ふ」の意味があるからして、之を「がて」「がつ」に宛てたのであらうと考へられる。併しながら、吾々は、勝の字の「捷」といふ意義に對して「かて」「かつ」といふ訓のあることが、この字を「がて」「がつ」に宛てた事に全然無關係であつたとは主張しないのであつ(83)て、勝の事の盛に用ゐられたのは、此の字に、他に「かつ」「かて」など同音の訓があることも大に與つて力のあつた事であらうと思ふのである。
 
       (二) 得
 
  大野跡状不知印結《オホヌラニタツキモシラズシメユヒテ》有不得|吾眷《ワガカヘリミバ》(萬、十一)
 此の有不得を「ありぞかねつる」と訓したのもあり(古義十一中四十四丁)、「ありがてましも」と訓したのもある。「ありかてましも」は誤訓であつて「ありかつましゞ」と改むべきであるが、もし、この訓を採るとすれば、得が「かつ」にあたることゝなる。此は得の字の意義に據つたものであることは明である。
 
       (三) 難
 
 此の字の用ゐ方は少しく複雜である。
  奈何鹿使之來流君乎社左右裳得難爲禮《ナニストカツカヒノキタルキミヲコソトニモカクニモマチカテニスレ》(萬、四)
  千早人氏川浪乎清可毛旅去人之立難爲《チハヤビトウヂカハナミヲキヨミカモタビユクヒトノタチカテニスル》(萬、七)
 以上は難を直に「がてに」と讀む例である。
  佐保河爾小驟千鳥夜三更而爾音聞者宿不難爾《サホカハニアソフチドリサヨフケテソノコヱキケバイネカテナクニ》(萬、七)
  得難丹吾爲春乎《マチガテニワガセシハルヲ》(萬、六)
(84)  待難爾余爲月者妹之著三笠山爾隱而有來《マチカテニワガスルツキハイモガキルミカサノヤマニカクレテアリケリ》(萬、七)
  寢宿難爾登阿可思通良久茂長此夜乎《イモネカテニトアカシツラクモナガキコノヨヲ》(萬、四)
  敷栲之衣手離而玉藻成靡可宿濫和乎待難爾《シキタヘノコロモテカレテタマモモナスナビキカヌラムワヲマチカテニ》(萬、十一)
  吾者毛也安見兒得有皆人之得難爾爲云安見兒衣多利《ワレハモヤヤスミコエタリヒトミナノエカテニストイフヤスミコエタリ》(萬、二)
  麁妙能布衣遠陀爾伎世難爾可久夜歎敢世牟周弊遠奈美《アラタヘノヌノキヌヲダニキセガテニカクヤナゲカムセムスベヲナミ》(萬、五)
 此等は、何れも、「かてなく」「がてに」の「なく」「に」にあたる部分を別に書きあらはしてあるから、難が「がて」にあたるやうに見える例である。
 難の字を「がて」に宛てるのは、その正訓であるといふ考は、多くの學者の懷いて居た所であるが、これは、「がて」の意義を誤解して居たから起つた謬見であつて、若し難の字の正訓を用ゐたとすれば、之を「がてぬ」「がてに」と讀まなければならないのである。
 しかしながら、こゝに一つ考へて見なければならないのは、難の字を用ゐるのは、たゞその訓を借りただけであつて、その字の意味には關係無いものだと説明することも出來ることである。しかし、難の訓「かた」をとつて其とは音の少し變つた「がて」に宛てるのは、絶對に類例の無いことでは無いけれども、あまり穩當でないやうに思はれるし、且、若しさうだとすれば、「難爾」「難丹」など、「に」の假名のある例は解することが出來るが「待難爲禮」「立難爲」など、「に」の假名の無い例は(85)説明が出來ないから、やはり 難の字は、その意義によつて、「がてに」「がてなく」に宛てたものと認められる。難だけで、已に「がてに」「がてなく」と讀むことが出來るのに、更に「爾」「丹」又は「不」の字を書いた例のあるのはどうかといふと、之は、確に「がてに」「がてなく」と讀むべき事を示す爲に附け加へたので、「しぬばゆ」を所偲由とかき、「しらに」を不知爾と書くのと同種のものであらう。さうすれば、難の字も、その意義によつて「がてに」「がてなく」に宛てたものと云ふことが出來る。
 
       九 「がて」「がつ」の用法
 
 「がて」「がつ」といふ語は、其の活用に於て不完全なばかりでなく、其の用法に於ても限られて居る。即、殆ど、常に、他の動詞の下にのみ用ゐられて、其の連用形に接して居る。たゞ、古今集にある
  あは雪のたまればかてにくだけつゝ我が物思のしげき頃かな(卷十一)
の「たまればがてに」は「たまれば得堪へず」の意味であるから、「がて」が獨立して用ゐられた例であるが、平安朝に於ても、奈良朝及其の以前に於ても、他にこのやうな例の無い事から考へて見れば、之は恐らく古い時代の用法が特殊の場合に殘つて居るものであつて、當時普通一般の用法では無かつたらうと思はれる。
(86) 吾々は、これまで、普通の讀方に從つて、「かて」「かつ」の語頭音を濁音に讀んで來たが、此の音の清濁については、從來學者間に議論があるので、本居宣長は「かて」と清音に讀むべしと云ひ(古事記傳卷十二、二十二丁表、全集本六七〇頁)中島廣足は「がて」と濁るべしと説いて居る(玉霰窓小篠前篇下三十七丁表)。宣長は書紀に介※[氏/一]務とあるのから推定したのであり、廣足は、萬葉に「吉美麻知我弖爾」とあるのを證として居るのである。吾々は、奈良朝に於ては既に濁音であつたらうが、本來は濁音でなく「かて」「かつ」といふ語であつたのであらうと考へるのである。それが、濁るやうになつたのは、此の語が他の動詞の下に來て、其の意味を助けるものとなつたため、之と複合して連濁を起したのであらう。
 「がて」「がつ」は、その上に來る語の種類が限られて居たばかりでなく、其の下に來る語も大に限られて居たのである。即「がて」「がつ」が肯定に用ゐられたのは、日本紀に只一つ
  飫朋佐介珥菟藝廼煩例屡伊辭務羅塢多誤辭珥固佐麼固辭介※[氏/一]務介茂《オホサカニツギノボレルイシムラヲタゴシニコサバコシガテムカモ》(崇神紀)
の例があるばかりで、其の他は、すべて、「ぬ」「ね」「に」「なく」「ましゞ」など否定の助動詞にのみ續いて居る。さうして「かて」「かつ」に接する否定助動詞も、其の用法等に於て、他の一般の動詞に接した場合と幾分か違つて居るやうに見える、例へば否定の「に」は、奈良朝に例は有るけれども、其の用法甚狹く、一般には「ず」を用ゐて居るのであるが、「がて」に接するのは、殆ど皆、「に」であ(87)つて、「ず」には確な例は無い(萬葉集卷四の「宿不勝家牟」を「いねがてずけむ」と讀み、卷七の「過不勝者」を「すぎがてずあらば」と讀むとすれば、「がてず」の例となるのであるが、假名書の例でないから確でない)。
 此等の事實は、「がて」「がつ」に接する否定助動詞の發達變遷が、一般の動詞に接する否定助動詞とは、多少、其の趣を異にして居た事を示すものである。かくの如く、「がて」「がつ」に接する否定助動詞ばかりが、其の發達變遷を異にするのは、「がて」「がつ」と否定助動詞との關係が、他の一般の動詞と否定助動詞との關係よりも一層親密であつて、兩者が分離し難い一團となつて居たから起つたものと認められる。
 殊に「がてに」には
  波流佐禮波和伎覇能佐刀能加波度爾波阿由故佐婆斯留吉美麻知我弖爾《ハルサレバワギヘノサトノカハトニハアユコサバシルキミマチガテニ》(萬、五)
  安比見※[氏/一]波千等世夜伊奴流伊奈乎加母安禮也思加毛布伎美未知我※[氏/一]爾《アヒミハチトセヤイヌルイナヲカモアレヤシカモフキミマチガテニ》(萬、十四)
の如く、倒置せられて文の終に來て居るものがあるが、此は否定の「に」には他に例の無いことである。此の如き用法は、「がてに」に意味の類似してゐる他の語(例へば「かね」など)に類推して起つたものか、又は、以前は一般に行はれて居たのであつて、奈良朝に到つては、唯「がてに」の場合にのみ殘り、其の他には消滅して居たものか、今明にしがたいが、何れにしても、「かて」と「に」とが(88)奈良朝以前から互に親密な關係を有し、離し難いものとなつて居たことは明である。
 平安に到つては、「がて」「がつ」の肯定形は勿論、否定形も、他のものは皆滅びてしまひ、唯「がてに」だけが殘つて居る。
  夜や遲き道やまどへる郭公我が宿をしも過ぎがてになく(古今集卷三)
  うき世には門させりとも見えなくになどか我が身の出でがてにする(古今集卷十八)
  山崎より神なびのもりまでおくりに人々まかりてかへりがてにしてわかれをしみけるによめる(古今集卷八)
  過ぎがてにやすらひ給ふ(源氏、花散里)
  出がてに御手をとらへてやすらひ給へるいみじうなつかし(源氏、榊)
  あしひきの山べの道はいかなれやゆくと見れども過がてにする(躬恒集)
以上の如く、其の用法は殆ど奈良朝のものと變らないのであるが、唯、倒置して「がてに」を文の終に置いたものと、「がてに」から「と」につゞいたものとが無いから、稍範圍が狹くなつたと云はれる。又此の時代に、「がてになる」といふ新しい用例が見えて居るが、之については後に述べることゝする。
 此の「がてに」は、鎌倉時代以後に於ても、歌には見えるけれども、普通の語としては、平安朝の末から鎌倉時代の初には、既に滅びて居たと見えて、顯昭の古今集註にも、其の意味が説明してあり、(89)八雲御抄卷四にも、其の語釋が出て居る。
 鎌倉時代以後になつては、「がてに」の外に、「がての」及「がてを」といふ形があらはれて來た。
   建保二年内裏の秋の十首の歌合に、秋風 參高雅經
  今よりは萩の下葉もいかならむ先いねがての歌風ぞ吹く(績後撰卷五、秋上)
  消がての雪とも見えず櫻花つもればはらふ庭のあらしに(草庵集)
   譬喩品           花山院前内大臣
  めぐりきて猶ふるさとの出がてを誘ふもうれし三のを車(新拾遺卷十七、釋教)
 此等の「がての」「がてを」は、明に「がて」を「難し」又は「かぬ」の意味に用ゐたものであつて、「がて」の本來の意義にくらべて見れば、正反對になるのである。この樣な意義の變化は何時起つたのであらうか。
 萬葉集に、「がてに」に「難爾」「難丹」を宛てた例のあるのを見て、奈良朝に於て、既に「がて」を難の義に解して居たと主張する人があるかも知れない。しかしながら、また一方に、「がてに」に「難」の字を宛てた例もあり、また「がて」に勝の字を宛てた例があるから見れば、當時は、まだ「がて」と「に」とが、もとの意味を失つて居なかつたと云はなければならぬ。たゞ「がて」は常に否定詞と共に用ゐられ、單獨に、又は否定でない助動詞と共に、用ゐられたことは殆ど無かつたから、(90)「がて」單獨の意味は、或は十分明亮に意識されて居なかつたかも知れない。けれども之を誤解するまでには至らなかつたと思はれる。
 平安朝に到つては、「がて」の他の用例は皆滅びてしまひ、「がてに」だけが孤立して存して居たのである。さうして、否定の「に」も、この時代の初に於て、既に極めて稀であり、つゞいて滅びてしまつたのであるから、「がてに」といふ形はもとの通りに存し、其の意義も昔のまゝであつても、遂に「に」が天爾遠波であると解せられ、從つて、「がて」が、もとの「がてに」全體の有して居た意味を有するやうに考へられるのは、自然の勢である。かやうにして、「がて」が「難し」の意味だと解せられるやうになるのである。
 この樣な意義の變遷は、外形に變化なくして起り得るものであるから、その何時頃に起つたものであるかを知るのは極めて困難である。中務集に
  いねがてになり行ころの風の音は萩の葉ならぬ身にもしみけり(歌仙歌集による。群書類從本には「なり行ころの」を「なるべき君が」に作つてあり、猶下の句にも違つた所がある)のやうに「がてになる」といふ例があるが、此の樣なことは、以前には例のないことである。之は「がてにする」などに類推して出來たものか、又は「がてに」の「に」を「さかりになる」などの「に」と解して「なる」に續けたものか、今、明でないが、若し後の場合だとすれば、「がて」を「難(91)し」の意味と解して居たものとしなければならないから、「がて」の意義は、平安朝の半に於て既に變遷して居たと云はなければならぬ。けれども之は確證とすることは出來ない。
 顧昭の古今集注に
  キエガテハ難v消也(卷二「サクラチルハナノトコロハ」の歌の注、續々群書類從本十四頁)
  スギガテトハ難過ト云也(卷三「ヨヤクラキミヤマドヘル」の歌の注、續々類從本廿二頁)
とある。是は、「かて」を難の意味と解して居た明證であつて、之に由て、平安朝の末には、既にもとの意義が失はれて居たと斷言することが出來る。
 八雲御抄卷四にも「がて」を「かたき心也」と説いてある。
 以上述べた所によれば、「がて」は、奈良朝に於ては、もとの意義を存して居り、平安朝の末に於ては、既に之を失つて居たのであるから、この意義變化は平安朝に於て起つたとしなければならぬ。「がて」を難の意と解するのは、かくの如く、由來の遠く久しいものである。後の學者が、奈良朝に於ける「がて」をも、此の意だと誤解して、「がてぬ」「がてなく」などを解くに困難を感じながら、猶其の誤を覺らなかつたのも其の一つの原因は、此の邊にあらうと思はれる。
 「がつましゞ」に至つては、「かつ」も「ましじ」も、平安朝に入つては全く滅びてしまつたので、「がつましゞ」といふ語があつても解釋することが出來なくなり、「がつましじ」と訓すべき處も、勝(92)を「がてに」「がてぬ」の例によつて「がて」と訓し、「麻之目」「申目」の目の字の誤も正すことが出來ないばかりでなく、之を「ましも」とよめば、とにかくに語を成すものであるから、却つて自とあるのを誤だと考へるやうになり、一度誤つた自の字も遂に正すに由なくなつたのであらう。かやうにして幾多の學者を苦しめた難關が生じたのである。
 
       十 「がて」「がつ」の語源
 
 吾々は、既に、歴史時代に於ける「がて」「がつ」の意義及用法を見其の變遷の跡をたづねたから、更に進んで、其の語源について考へて見よう。
 此の語の語源に關しては古來種々の説がある。
 契沖は或處では「がて」は「かね」であると云つて居るが(代匠記卷二上十六頁)、此の考は「がて」の意義を誤解して居たから起つたものであつて、「がて」と「かね」とはほとんど正反對の意味を有するものであることがわかつた以上は成立し難いのである。又或處ではこれを捷の意味の「かつ」に關係あるものと見て居るが(代匠記卷二上二〇頁)、支那で勝の字を「捷つ」の義にも、「堪ふ」の意にも用ゐて居る事から考へて見れば、此の説は全く否定することも出來ないかもしれぬ。しかしながらこの説を立てるには、「がて」「がつ」の活用と「捷つ」の活用との間に差異がある(前者は下二段後者は(93)四段である)のを何とか説明しなければならないのであるが、これは少しく困難であらう。
 富士谷御杖が俳諧天爾波抄(卷六、三十四五丁)に「かて」を「被勝」の心だと説いて居るのも、之に似た考である。
 谷川士清は和訓栞に「がて」は「かたげ」の約だと云つて居るが、勿論とるに足らぬ説である。本居宣長は古事記傳(卷二十八、十六丁オ全集本一六八三)に、
  宇倍那宇倍那岐美麻知賀多爾和賀祁勢流意須比能須蘇爾都紀多多那牟余《ウベナウベナキミマチガタニワガケセルオスヒノスソニツキタタナムヨ》(景行記)
の岐美麻知賀多爾を釋して
  君待難《キミマチガタ》になり、常には待賀弖爾《マチガテニ》と云ふを、(萬葉假字書(キ)なるも、皆かくあり、賀《ガ》は濁音にも、清音にも書たり)、古(ヘ)は如此《カク》も云しなるべし(慥《タシカ》なる例は見あたらず)萬葉十四(十六丁)に許己波故賀多爾《ココハコガタニ》とあるも、此處《コヽ》へは來難《コガタ》にと云るならむか」
と云つて、「かたに」が「がてに」に關係あるものかもしれないといふ考を述べて居る。宣長のいふやうに、「かたに」の「かた」が難しの「かた」であるとすれば、意味が、「かて」と正反對になるから、此の説は成立しがたいのであるが、猶、別の方面から、「かたに」が、「がてに」に關係あるものと考へられない事も無い。
 「かて」「かつ」は前に述べた如く下二段活と推定せられるのであるが、下二段の動詞は古くは四段(94)に活用した事もあるから、この「かつ」も古くは四段活であつたとすれば、その將然は「かた」であるから、これから否定の「に」に續いた「かたに」といふ形が有つたと考へられないことはない。これが即「きみ待ちかたに」の「かたに」であるとすれば、「かたに」は「かてに」の古い形であると云ふことが出來るのである。しかしながら、よし、此の説明が當つて居るとしても、その語源に至つてはやはり不明である。
 春登の萬葉用字格には、「かて」を「かたく」の約であると説いてあるが(同書八丁オ)、これは意味から見て不合理である。
 以上述ぶる所の如く、從來の説は多くは不合理であつて、稍顧るに足るものは「捷つ」に關係があるといふもののみである。
 以上の諸説の外、茲に猶一つ考へ得べき説がある。今、「がて」「がつ」と外形及び活用の等しいものを索めて見れば、「混ず」「加ふ」の意味を有する動詞「かつ」(「ひるつきかてゝ鯛ねがふ」「かてゝ加へて」などの「かて」)がある。一寸見た所では、此の語は、外形が「がて」「がつ」に等しいだけで、意味は之と關係がなささうに思はれるけれども、若し、「敢ふ」といふ詞が「合ふ」(下二段活の)と同源であるといふことが出來るならば、「敢ふ」に意味の似たる「かて」「かつ」も、「合ふ」に意味の似たる「かつ」(「混ず」「合はす」の意)と同源であると云はれるかもしれない。
(95) とにかく「かて」「かつ」の語源に關しては、まだ確なことはわからないのである。
 
       十一 結論
 
 以上論じ來つた所を概括すれば
一、「がてぬ」「がてに」「がてなく」などの「ぬ」「に」「なく」は、本來、否定の助動詞である。
一、從來「がてまし」と讀んで居たのは誤訓であつて、すべて「がつましゞ」と讀むべきものである。
一、「がて」「がつ」は本來「堪ふ」「敢ふ」「得」のやうな思味である。「不勝」又は「難」の義といふ説は誤である。
一、「がて」「がつ」の用法は、奈良朝及其の以前から、既に甚限られて居たのであるが、平安朝以後に到つては、「がてに」だけが孤立して存し、其の他の形は滅びてしまつた。さうして「がて」も平安朝に於て其の原義を失つて「難し」の義となり、鎌倉時代以後になつては「がての」「がてを」などの形もあらはれて來た。
一、「かて」「かつ」の語源は、まだ十分明でない。
 以上の如く、分てば多岐に亘るのであるが、其の根本となるのは「かつましゞ」の説であつて、他は、大概、之から導き來ることの出來るものである。此の説は、從來幾多の學者が解釋に苦んだ「が(96)てぬ」との關係を容易に説明するものであつて、數百年來失はれて居た「がて」「かつ」の原義を闡明し、傍、宣命にしか發見せられて居なかつた「ましゞ」の例を、書紀及萬葉にも發見することの出來たのは、我が喜とする所である。
 
       「がてぬ」」がてまし」考補遺
 
 一、「ざらなく」について
 前に「がてぬ」「がてまし」に關する從來の學説を批評した所で、萬葉卷十四の「を筑波の茂き木の間よ立つ鳥の目ゆか汝を見む左禰射良奈久爾《サネザラナクニ》」と同卷十五の「思はずも誠あり得むやさぬる夜の夢にも妹が美延射良奈久爾《ミエザラナクニ》」との「ざらなく」を「ざるにあらず」の意味と解釋することも出來ようといふ考を述べて置いたが〔五二頁〕、其の後、之に關する本居春庭の説を知る事を得た。東京帝國大學文科大學國語研究室に、本居氏所藏の萬葉集にある書入を、其の儘寫して書き入れた寛永版萬葉集があるが、その第十四卷「をつくばの茂き木の間よ」の歌の所に符箋があつて、次の如く書いてある。
  春庭云サネサラナクニハサネヌニテモナクサヌルコトモアル中ナリト云意ナリサネスアルハサネヌニテ、ソレニナクヲソヘテイヘルナレハ、サヌル也、十五卷オモハスモ云々ミエサラナクニ是モ(97)右ニテヨクキコエタリ一卷三卷四卷ハコヽトハ別ナリ
 之に依つて見れば、此の二首の解釋については、春庭も吾々と同じ考を有して居たのである。
 二、「がてましを」
  直相者《タヾニアハヾ》相不勝|石川爾雲立渡禮見乍將偲《イシカハニクモタチワタレミツヽシヌバム》(萬二)
 此の歌の相不勝を萬葉考には「あひかてましを」と讀んで居るが、略解及古義は「あひもかねてむ」と正して居る。「あひかてましを」は誤であるが、之を「あひもかねてむ」と改めるよりも「あひかつましゞ」と改めた方が寧穩當では無からうか。
 三、耆の字
 耆の異體なる※[耆の日が目]の字は既に擧げた諸書の外、猶、類聚名義抄(觀智院本による)佛中、目の部、伊呂波字類抄(帝國圖書館所藏三卷本による)のオキナの條及平他字類抄(東京文科大學國語研究室所藏古寫本による)のヲキナの條にも見えて居る。
 又、萬葉卷九の「老目不爲死不爲而」の句の校異に代匠記を引いて校本老目作耆と載せて置いたが(〔七一頁〕)、此は活版本の代匠記**に據つたのである。今度東京帝國大學圖書館所藏の寫本を見た處がこれには校本老目作※[耆の日が目]となつて居る。活版本に作耆とあるのは恐らく誤寫か誤植かであらう。
 四、「かたぬ」
(98)  水良王五百都集乎解毛不見《シラタマノイホツツドヒヲトキモミズ》吾者干可太奴|相日待爾《アハムヒマツニ》(萬十)
 此の歌の「吾者干可太奴」を寛永本にはワレハカヽタヌと訓し、代匠記にはカヽタヌのカは接頭語カタヌは「結ぶ」の義とし、日本大辭林もこれを採つて居るが、略解はワレハホシカタヌと訓し、古義は干を在の誤であるとしてアハアリカタヌと訓し、共にカタヌがガテヌの義であると説いて居る。若し此の説を正しいとすれば、かの景行記の「岐美麻知賀多爾《キミマチガタニ》」の「がたに」が「がてに」の古形とも考へられるやうに、此の「がたぬ」も「がてぬ」の古形と見ることも出來、從つて「がつ」が古くは四段に活用した事もあらうといふ推測を確める例とする事も出來よう。たゞ説明に困難なのは「がたぬ」がこゝでは終止に用ゐられて居る事であつて、本論で述べたやうに「がてぬ」の「ぬ」が否定であるとすれば「がたぬ」の「ぬ」も否定であるから、終止形は「ず」であつて、「がてず」とあるべきであるのに、こゝでは「がたぬ」といふ形になつて居る。もし、この「ぬ」を了の意味のものであるとすれば、終止が「ぬ」であることは容易に解する事が出來るけれども、「かた」といふ形から「ぬ」につゞくことは説明することが出來ない。了の「ぬ」は連用形を承けるもので、連用形の語尾にア列音を有して居るものは一もないからである。さうであるから「かたぬ」を「かてぬ」の義と解するならば、「ぬ」はやはり否定であつて、其が終止に用ゐられて居るのは連體|止《ドメ》であるとするか、又は古くは「ぬ」を終止形として用ゐて居たので、後になつては、終止には一般に「ず」を用ゐるやうになつ(99)たが、此のやうな特殊な語句にのみ古い形を存して居たものとするか、どちらかでなければならぬ。自分は、「がて」「がつ」につゞく否定助動詞の形及用法が他の一般の場合に於けるよりも違つたものがある事から見て、後の方の説を採りたいと思ふ。けれども「干可太奴」に關する從來の解釋は何れも穩當と認めにくいから、他の適當な解釋を得たいと思ふのであるけれども、未好い考案を得ないから姑く疑を存して置く。
 五、「かて」「かつ」の語源について
 本論で述べたやうに、「がつ」が古く四段に活用したと見ることが出來るとすれば、この「かつ」は外形に於ても活用に於ても、捷の意味の「かつ」と少しも違はなくなるのである。さうなれば、「堪」の意味の「かつ」と捷の意味の「かつ」との同源説(契沖の説)もよほど注目すべきものとなつて來る。しかしながら、此の説を主張するには、猶、此の語の意義についての研究をしなければならぬ。其については、支那に於て、勝の字が「堪」と「捷」との兩義を有する由來をも、共に研究して見れば、互に相發明する所があるであらう。
 六、參考書について
 此の論を書くに當つて參考に供した書の名は、隨所に掲げて置いたから、今改めて擧げる必要は無い。たゞ平安朝以後に於ける「がて」の用法の變遷を論じた所に擧げた例は、自ら當時の文献につい(100)て捜り求めたのでなく、古來の學者が蒐集したものから採つたのであるから、その參考書を掲げて置く。
  【増補語林】和訓栞 増補雅言集覽 作例類語 詞のみをつくし 類聚名物考 國歌大觀
 
  刊行委員附記  底本とした國學院雜誌には、次の二葉の插みこみがある。
   がてとがてぬとを別語とする説は萬葉集檜嬬手卷四(一四九頁)一日者千遍參入之の歌の註にもみえたり、「がて」は難、「がてぬ」は不勝、不堪の義とせり
 これは第一節乃至第二節に關するものである。
   仁徳紀に「豫屡麻志枳《ヨルマジキ》」トアルヲ釋紀にも前田本日本紀にも志ノ下ニ士アリテヨルマシヾキトアリ、コレ宜シカランカ
 これは第五節に關するものである。
 なほ、この論文では、「がてまし」「かてまし」の清濁に關して不統一のところがあるが、底本のままにしておいた。
   註*(六六頁) 得麻之岐 博士は歴朝詔詞解から一本を引かれたが、新訂増補國史大系本の續日本紀(底本は宮内省圖書寮藏谷森氏舊藏本)は、得麻之字岐とし、蓬左文庫藏金澤文庫本も同樣である。
    **(九七頁) 活版本の代匠紀 これは、明治三十九年刊行早稻田大學藏版のものをさす。
 
(101)     萬葉時代の「まじ」
 
 奈良朝の文獻に「まじ」といふ否定推量の助動詞がある事は從來の學者の等しく認めた所であつて、何人も之に疑を插むものは無かつた。然るに自分は奈良朝文獻の本文研究の結果、此の事實に誤ある事を發見すると共に、「まじ」の語源についても聊明め得た所があるので、左に之を開陳して識者の批判を仰ぎたいとおもふ。
 
       一
 
 まづ奈良朝の文獻に「まじ」といふ語の見えて居るのは次の諸例である。
 (一) 日本書紀卷十一仁徳三十年十一月天皇御製
 
     兎怒瑳破赴以破能臂謎餓飫朋呂伽珥枳許瑳怒于羅愚破能紀豫屡麻志枳箇破能區莽愚莽豫呂朋譬喩玖伽茂于羅愚破能紀《ツヌサハフイハノヒメガオホロカニキコサヌウラグハノキヨルマジキカハノクマグマヨロボヒユクカモウラグハノキ》
 (二) 日本書紀卷二十六 齊明四年十月天皇御製
     耶麻古曳底于瀰倭〓留騰母於母之樓枳伊麻紀能禹知播倭須羅〓麻旨珥《ヤマコエテウミワタルトモオモシロキイマキノウチハワスラユマジニ》
(102) (三) 萬葉集卷二十 藤原朝臣執弓作
     保里延故要等保伎佐刀麻弖於久利家流伎美裁許己呂波和須良由麻之目《ホリエコエトホキサトマデオクリケルキミガココロハワスラユマジモ》
 (四) 續日本紀卷三十 稱徳神護景雲三年十月朔詔
     王等波|己我得麻之岐《オノガウマジキ》帝乃尊岐寶位乎望求米
此等は何れも一字一音の假名書になつて居る最明確な例であつて、これには、「まじ」といふ終止形と「まじき」といふ連體形とが見えて居る。猶此の外にも歴朝詔詞解の著者は、
 (五) 續日本紀卷二十四 天平寶字六年六月庚戌詔
     不言伎辭母言奴不爲伎行母爲奴
 (六) 同卷十七 天平勝寶元年七月甲午詔
     挂良近江大津乃宮爾御宇之天皇乃不改自常典等初賜比定賜【都流】法隨
 (七) 同卷四 慶雲四年七月壬申詔
     近江大津宮御宇大倭根子天皇乃與天地共長與日月共遠不改常典止立賜比敷賜【覇留】法乎受被賜坐而
 (八) 同卷四 同前
     又天地之共長遠不改常典止立願【覇留】食國法母
 (九) 同卷九 神龜元年二月甲午詔
(103)     挂畏淡海大津宮御宇倭根子天皇乃萬世爾不改常典止立賜敷賜【閇留】隨法
此等の語例に於ける「不言伎」「不爲伎」をイフマジキ、スマジキと讀み、「不改自」「不改」を何れもアラタムマジキと訓して居り(「不改自」は「不改自伎」の誤として)、萬葉集の訓者は既に平安期の頃から(例へば元暦本などに)
 (十) 萬葉集卷七 寄哩木、作者不詳
     眞〓特弓削河原之埋木之《マカナモチユゲノカハラノウモレギノ》不可顯|事等不有國《コトトアラナクニ》
の「不可顯」をアラハルマジキとよみ、仙覺以下の學者も亦此の訓にしたがつて居る。
 自分の調査した所では奈良朝の文獻に存する「まじ」の例は以上で竭きて居るのであるが、此等の例によつて觀れば、「まじ」はシク活の形容詞と同じ活用を有し動詞の終止形を承けるものと認められる。
 然るに此の時代の文獻に其の意義用法のみならず、語形までも「まじ」に類似した語があるのである。それは即ち「ましじ」である。「ましじ」は續紀宣命の中に見えてゐる。
  (1) 續日本紀卷二十二 天平寶字四年正月丙寅詔
     乾政官大臣【仁方】敢天仕奉【倍岐】人無暗波空久置弖在官【爾阿利】然今大保方必可仕奉【之止】所念坐世多能遍重天勅【止毛】敢末之時止爲弖辭備申豆良久
  (2) 續日本紀卷三十六 天應元年二月丙午詔
(104)     朕波汝乃志【乎波】暫【久乃】間毛忘|得末之自美《ウマシジミ》奈毛悲備賜比之乃比賜比大御泣哭【川川】大坐【麻須】
此等の例によれば、終止形が「ましじ」、ミ形が「ましじみ」であるから、「ましじ」は「まじ」と同じく、「ましじ」「ましじき」と活用した事が推測出來るのであつて、其の意義も「まじ」と同じく否定推量である。これに連接する動詞の活用形は以上の例では明でないけれども、物集博士の日本大辭林には萬葉集卷十四(相聞、遠江國歌の内)の
 (3) 阿良多麻能伎倍乃波也之爾奈乎多底天由吉可都《アラタマノキヘノハヤシニナヲタテテユキカツ》麻思自|移乎佐伎太多尼《イヲサキダタネ》
を「ましじ」の例に擧げて居るのであつて、此の麻思自を「ましじ」と解すれば、「由吉可都」は「行きがてぬかも」などの「行きがて」の活用したものと見るべく、「かて」は「かて」「かて」「かつ」「かつる」「かつれ」と下二段式に活用したものと推測せられるから、「由吉可都麻思自」の可都《カツ》は終止形であつて、「ましじ」は「まじ」と同じく終止形を承けるものといふべきである。さすれば「ましじ」は其の意義及び活用に於て「まじ」に等しいばかりでなく、動詞に接する形式に於ても亦「まじ」と同樣である。
 從來「ましじ」の例として認められて居たものは以上の三つだけであるが、自分の研究した所では「ましじ」の例は唯これのみに止まらず猶他にもあるのである。それは從來「がてましも」及び「がてましを」と訓せられて居る萬葉集中の左の諸例である。
(105) (い) 玉匣將見圓山乃狹名葛佐不寐者遂爾有勝麻之目《タマクシゲミムロノヤマノサナカツラサネズハツヒニアリカテマシモ》(萬葉集卷二)
 (ろ) 近有者雖不見在乎彌遠君之伊座者有不勝自《チカクアレバミネドモアルヲイヤトホニキミガイマサバアリカテマシモ》(同卷四)
 (は) 如是許本名四戀者古郷爾此月期呂毛有勝益士《カクバカリモトナシコヒバフルサトニコノツキゴロモアリガテマシヲ》(同卷四)
 (に) 吾情湯谷絶谷浮蓴邊毛奧毛依勝益士《ワガココロユタニタユタニウキヌナハヘニモオキニモヨリガテマシヲ》(同卷七)
 (ほ) 飛鳥川水往増彌日異戀乃増者在勝申目《アスカガハミヅユキマサリイヤヒケニコヒノマサラバアリガテマシモ》(同卷十一)
此等が「がてましも」及び「がてましを」の全例であるが其の内(い)の「有勝麻之目」は元暦本及び類聚古集(卷八)には「有勝麻之自」とあつて之によればアリカツマシジとよまれ、(ろ)の「有不勝自」と(は)の「有勝益士」と(に)の「依勝益士」とは其の儘アリカツマシジ、ヨリカツマシジとよまれ、(ほ)の「在勝申目」も、「在勝申自」の誤とみれば、亦アリカツマシジとよまれる。さうして此等の諸例を舊説の如くガテマシモ、ガテマシヲと訓すれば、ガテマシは肯定形であるのに、ガテヌ、ガテニの如き否定形のものと同義である事を説明するに困難を感ずるのであつて、從來の學者が之に對して下して居る解釋は一も滿足すべきものが無いのである。然るに之をガツマシジとよみ改める事とすれば、これも否定形となるのであるから、ガテヌ、ガテニと同意義である事も直に理會する事が出來、多くの學者を苦しめた難關も容易に除き去る事が出來るのである(此の事に就いては國學院雜誌第十六卷第九號乃至十一號併載の拙稿「がてぬ」「がてまし」考に委しく論じて置いた)。さ(106)れば舊訓は恐らく誤であつて、此等は悉く「かつましじ」と訓すべきものと考へられる。さすれば此等も亦「ましじ」の例に算ふべきものであつて、奈良朝の文獻に存する「ましじ」の實例はこれまで考へられて居たよりもよほど多くなるのである。
 
       二
 
 前に述べたやうに「まじ」と「ましじ」は其意義に於ても活用に於ても、動詞に連接する形式に於ても全く相同じく、唯其の語の形態に於て「し」の一音があると無いとの相違があるに過ぎない。是に於て自ら起るべき問題は兩者の間の語源上の關係如何の問題である。元來、同樣の意味を表はすのに、二つ以上の違つた形式を用ゐるのは言語上の現象として決して珍らしくない事であるから、唯意味用法が同一であるからと云つて直に兩語が同源のものであると斷定する事は出來ないけれども、「まじ」と「ましじ」の場合に於ける如く、あらゆる點に於て相類似し、たゞ形態の上に小異があるに過ぎないやうなものは、特別の事情がない限り語源上關係あるものと認めるのが至當であつて、之を無關係のものと説くのは寧困難である。唯其の際必要な事は形態上の相違を生じた理由に就いて十分合理的な説明を與へる事だけである。
 「まじ」と「ましじ」とが語源上關係あるものとすれば、(一)「まじ」から「ましじ」が出たか、(107)(二)「ましじ」から「まじ」が出たか、(三)「まじ」でも「ましじ」でもないものから、此の兩者が分れ出たか、此の三つの場合の内の一つでなければならない。若し(一)の如く「まじ」から「ましじ」が出たとすれば、「し」音が「まじ」の中間に插入せられたとしなければならないのであるが、かやうな事は到底普通の音變化としては説明出來ない。若し、意義用法など「まじ」に類似し、其の外形が「ましじ」に近い語が他にあれば、之に類推して「まじ」が「ましじ」となつたと説明する事も出來るけれども、そのやうな語を見出す事は實際に於て不可能である。之に反して(二)の如く、「ましじ」が「まじ」になつたとすれば、「じ」音の上の「し」音が略されたのであつて、かやうに同音又は類似音が重なる場合にその一つが略されるのは他に類例のある事である(「かははら」が「かはら」となり「たびびと」が「たびと」となるなど其の例である)。(三)の「まじ」と「ましじ」とが、共に他の同じ語から分れ出たものとするのは、此の兩者の根源たるべき語形を案出するのが困難であつて、到底成立し難い。
 かくの如く觀來れば、「まじ」と「ましじ」との關係に就いては、「ましじ」の「し」が略されて「まじ」になつたと説くのが最合理的な解釋と認められる。さうして此の説は、ただ理論上正當と考へられるばかりでなく、歴史上の事實にも背馳する所がないのであつて「ましじ」は奈良朝の文獻に存するのみで、以後のものには全く見えないに反して、「まじ」は平安朝以後多く用ゐられ、其の後身たる(108)「まい」は今日までも盛に行はれて居るのであるからして、「まじ」「ましじ」兩語の消長の歴史から觀ても、此の説は首肯する事が出來ようと想ふ。さうしてかやうな見解は自分一箇の私見ばかりではなく、辭格考の著者物集高世も亦之に類した考を述べて居る(辭格考抄本卷下、十四丁表に「マジといふ辭はこのマシヾのつゞまりていできたるなめり」とある)。
 
       三
 
 かやうに「まじ」は「ましじ」の變じた形であるとすれば、「まじ」の初めてあらはれたのは何時であるか、「ましじ」から「まじ」への推移は如何なる時代に起つたか。
 前に實例を擧げたやうに、奈良朝の文獻には「まじ」と「ましじ」の二つが共に見えて居る。すべて、一つの語形が他の新しい語形に移り行く場合に、其の過渡時代に於て新舊兩形が並び行はれる事は言語史上普通に見る現象であるからして、「ましじ」が變じて「まじ」となつたとすれば、「ましじ」のみが用ゐられて居た時代から、「まじ」のみが用ゐられる時代に移る中間に、「まじ」と「ましじ」とが並び用ゐられた時代があつたと考へられるのであつて、奈良朝の文獻に此の二つが共にあらはれて居るのは、兩者を併用した過渡時代の状態を表はすものと觀る事が出來る。即ち、當時は「まじ」の形が既に生じた後であつて、「まじ」はかなり行はれたけれども、未だ全く「ましじ」を斥けて之に(109)代るまでの勢力を得なかつた時代であると考へる事が出來る。かやうに、我々が有する最古の史料たる奈良朝の文獻が、「まじ」と「ましじ」の消長の歴史に就いて我々に傳へて居るのは「まじ」の形が未だあらほれなかつた「ましじ」專用時代の状態ではなく、「まじ」の形が既にあらはれて「ましじ」と並び行はれて居た時代の状態であるとすれば、「まじ」發生の時期や「ましじ」專用の時代は文獻に徴する事が出來ない遠い上代に在つた筈であつて、其の年代や其の當時の状態は之を想像し又は推定する事は出來ても、之を事實に證明する事は出來ないものと觀なければならない。
 「ましじ」から「まじ」への推移の年代に關する以上の考察は奈良朝の文獻に存する事實に基づくものであつて、從來認められて居た「まじ」と「ましじ」の實例を基礎として推究すれば、おのづから上の如き結論に到達するのであるが、今一歩を進めて奈良朝の文獻について異本の研究を試み「まじ」の語例に嚴密なる本文批判を加へる時は、根本の事實に誤認ある事を發見するのであつて、結論も隨つて變ぜざるを得ないのである。
 
       四
 
 奈良朝の文獻にあらはれて居る「まじ」の實例は此の篇の最初に擧げた十例で竭きて居る。其の内、(一)日本書紀卷十一の「豫屡麻志枳《ヨルマジキ》」は釋日本紀(卷廿五、和歌三)には「豫屡麻志士枳〔四字右○〕」とあつて、(110)これによればヨルマシジキとなる。(二)日本書紀卷廿六の「倭須羅〓麻旨珥《ワスラユマジニ》」は珥をジとよむ例があるから(後に出す)其の儘ワスラユマシジとよまれ、(三)萬葉集卷二十の「和須良由麻之目《ワスラユマジモ》」は元暦本によれば「和須良由麻之自」とあつて、即ワスラユマシジである。(四)續紀宣命の「得麻之岐《ウマジキ》」は歴朝詔詞解所引の一本には「得麻之字岐」とあつて即ウマシジキである。以上の諸例は異本を採り又は假名のよみ方を少し改めれば皆マシジとよむ事が出來るのである。(五)の「不言伎《イフマジキ》」及び「不爲伎伎《スマジキ》」と(六)の「不改自《アラタムマジキ》」とは、またマシジキともよまれ、(七)(八)(九)の「不改《アラタムマジキ》」及び(十)の「不可顯《アラハルマジキ》」は、またマシジキと改めても差支ない。かくの如く從來「まじ」の例として認められて居たものは一つも殘らず「ましじ」とよみ改める事が出來るとすれば、果して此等の例によつて「まじ」の存在を主張する事が出來るかどうか疑問であるといはなければならない。
 我々は奈良朝の文獻に存する「まじ」の諸例が、見やうによつては悉く「ましじ」となり得る事を知つた。しかしながら、此等の諸例に於て果して「まじ」が正しいかはた「ましじ」が正しいか、語を換へて言へば、奈良朝の原本に於て此等の諸例が「まじ」であつたか又は「ましじ」であつたかといふ問題に就いては未だ考究を試みなかつたのである。しかも此の問題を解決しない以上は奈良朝に於ける「まじ」の在否を決定する事が出來ないから、我々は進んで「まじ」の諸例に嚴重な本文批判を加へ、其の一つ一つに就いて「まじ」と「ましじ」とどちらが正しいかを檢べなければならない。
(111) 先づ(一)日本紀卷十一の「豫屡麻志枳〔三字右○〕」は既に擧げた釋日本紀のみならず、此の卷の最古の寫本なる前田家本(傳藤原能信筆)や應永三十四年書寫の伊勢本(無窮會所藏影寫本による)及び藤波氏所藏古寫本(東京帝國大學國語研究室所藏の久米幹文の校本による)など有力な古本には皆「麻志士枳」となつて居る。日本紀の假名の用法から觀ても「志」を濁音として麻志枳《マジキ》とよむのは異例であつて、「志」を清音に「士」を濁音に麻志士枳《マシジキ》とよむ方が一般の例に叶ふのであるから(日本紀には志は清音、士は濁音にのみ用ゐる)、麻志士枳が原形で麻志枳は誤脱と考へられる。即ち「ましじき」であつて「まじき」ではない。次に(二)日本紀卷廿六の「倭須羅〓|麻旨珥《マジニ》」の「旨」の字は通行本には百とあり一本には自とあるさうであるが(國史大系による)、北野本(平安朝末期の寫本)伊勢本(應永三十四年寫本)釋日本紀及び古活字本には旨とあるから、それが原形で、百又は自とあるのは旨の古體字を誤つたものと想はれる。旨は日本紀には美簸旨羅《ミハシラ》(卷一)旨屡倶《シルク》(卷二十六)など清音にのみ用ゐてあるから、「麻旨」はマジと濁るよりもマシと清む方が正當である。珥の字(一本には耳とある)は日本紀ではニの假名に用ゐた方が多いけれども神代紀下の「伊茂播和素邏《イモハワスラ》珥」を古事記に「和須禮士《ワスレジ》」と記したのを觀れば之をジ音に宛てた事もあるのであるから、ジとよんでも少しも不合理でない(日本紀には爾貳などもジとニの兩音に用ゐて居る)。さすれば麻旨珥はマジニよりもマシジとよむ方が妥當である。しかのみならず天爾乎波のニは連體形を承ける例であつてマジといふ形は連體形として用(112)ゐた例なく、又ありさうにもないから(若し連體形があるとすれば多分マジキであらう)マジニといふ形は語法上果して許さるべきものかどうか疑はしい。されば語法から觀ても假名の用法から觀ても麻旨珥はマシジと讀むのが正當である。(三)萬葉集卷二十の「和須良由《ワスラユ》麻之目」は元暦本萬葉集(平安朝末期の寫本)には麻之目が麻之自となつて居る(但し自の字の傍に目の字があるけれども、これは字體も墨色も本文とは異り、明に後世の加筆である)。「之」の字は萬葉集には濁音によむ事もあるからマジモとよまれない事もないけれども、シと讀んでも少しも差支なく、その方が寧普通である。目の字は、類聚古集にも目とあり、元暦本にも「わすらゆましも〔右○〕」と訓して居るから、元暦本に自とあるのは誤寫かとの疑も無いではないが、奈良朝の文獻に於て目をモの假名に用ゐたのは「ましじ」の例として前に擧げた萬葉集卷十一の在勝申目《アリカテマシモ》を除いては他に例なく(國學院雜誌第十六卷第十號所載拙稿「がてぬ」「がてまし」考、六參照)しかも、この在勝申目の「目」も多分「自」の誤寫であるべき事前述の如くであるから、「麻之目」の「目」も甚疑はしく、やはり自の方が原形であらうと想はれる。さすればこれも「ましじ」であつて「まじも」ではない。(四)續紀宣命の「得麻之岐」を歴朝詔詞解所引の續紀一本に「得麻之字岐」としたのは、徳川侯爵所藏の金澤文庫舊藏本の如き有力なる古寫本にも一致する(同書には「得方之字支」とあつて文字に小異はあるけれども發音は同一である。但し「方」の字は「万」の誤寫である)。假名の用法から觀ても、「之」を濁音に用ゐたのは、續紀宣命では卷二十二天(113)平寶字三年六月庚戌の詔なる「不忘賜之止《ワスレタマハジト》宣」の外には例の無い事であるから「麻之」はマジよりもマシと讀む方が穩當である。「字」をジの假名としたのは他に例が無いけれども、宣命には他に用例の無い假名を使つた例もあるから(例へば「時」をジに宛てたなど)、必しも疑ふを要せぬのであつて、「字」の字の音から考へても之をジの假名に用ゐたと解するのは至當である。されば「麻之岐」をマジキと讀むのは必しも不可能ではないけれども、それよりも「麻之字岐」をマシジキと讀む方が一層穩當である。しかのみならず、此等の古典は「ましじ」が既に滅びて「まじ」のみが盛に行はれた時代に書寫せられたものであるから、轉寫の際に誤が生じたとすれば「まじ」を「ましじ」と誤るよりも「ましじ」を「まじ」と誤る方が普通であつたと思はれる。此等の事情から觀ても、「麻之岐」は「麻之字岐」の誤脱らしく考へられる。さすればこれも寧マシジキの例と看るべきである。
 以上の四例は「まじ」の語例中最明確なものと認められるものであるが、其の内、初の三例は假名の用法や語法上の關係から觀て「ましじ」と解するのが正しく、從來之を「まじ」と解したのは誤寫又は誤讀に基づくものと認められるのであり、終の一つは「まじ」とも解せられるけれども、それよりも「ましじ」と解した方が妥當らしく、勿論これによつて「まじ」の存在を證する事は出來ない。さうして其の他の諸例に至つては、(五)の「不言伎」「不爲伎」及び(六)の「不改自(伎)」の如き唯語の最後の部分がキ又はジキである事が明なのみで「まじき」であつたか「ましじき」であつたか明(114)でないものや(七)(八)(九)の「不改」及び(十)の「不可顯」の如き「まじき」であつたか、「ましじき」であつたか、はた「べからぬ」であつたか全く知る事が出來ないものばかりであつて、「まじ」か「ましじ」かの問題を決定する資料としては何れも價値の無いものである。
 「まじ」の諸例について我々の研究した結果は以上の如くであつて、奈良朝の文獻の中には「まじ」の存在を證すべき資料は一も發見せられないのであるからして、奈良朝當時「まじ」が行はれて居たといふ從來の説は全く信ずることが出來ないのである。さうして當時「まじ」の代りに用ゐられたのは「ましじ」であつて」「まじ」の確實な例と認められて居たものも實は「ましじ」であつたとすれば、奈良朝には「ましじ」のみが專ら用ゐられて居たとしなければならない。
 
       五
 
 我々は前に「まじ」と「ましじ」との關係を考へ、此の二つは語源上關係あるべきものであつて、「まじ」は「ましじ」から出たものであらうと推定した。然るに今奈良朝時代の「まじ」の諸例は實は「まじ」ではなく「ましじ」である事を明にし、「まじ」を奈良朝からあつたと認める從來の説は何等の根據なき事をたしかめた。そこで、「まじ」と「ましじ」との關係に對する上述の見解は、此の新事實の發見せられた後も、猶正當であるかどうか、しらべて見なければならない。
(115) 奈良朝の文獻に存する「まじ」の諸例は一も信ずる事が出來ないとすれば、「まじ」の實例は平安朝以後の文獻に求めなければならない。「まじ」は平安朝では伊勢物語に二つ、竹取物語に七つ、土佐日記に二つあるを最古として、其の後の物語日記、草子などに多くあらはれて居る。さうして「ましじ」は自分の調査した範圍では奈良朝の文獻にあるばかりであつて、平安朝以後のものには全く見出されない。かやうに「ましじ」は奈良朝を限りとし、「まじ」は平安朝に初まるとすれば、奈良朝の「ましじ」が平安朝の「まじ」となつたとするのは年代の上から觀て容易に許される事であつて、「まじ」を「ましじ」から出たとする我々の推定は此の歴史上の事實に照して少しも不合理な點が無いのみならず、却つて此の新事實によつて容易に證明する事が出來るやうになつたのである。
 次に平安朝に於ける最古の「まじ」の諸例を「ましじ」と比較するに、意義用法も相同じく、用言の終止形を承ける事も同樣である。活用は「まじ」には
  まじ  (竹取)こゝにおはするかくや姫は重き病をし給へばおはしますまじと申せば
  まじく (土佐) かの國の人きゝしるまじくおぼえたれど
  まじう (伊勢)昔男おもひかけたる女のえうまじう〔三字右○〕なりての世に
  まじき (土佐)かならずしもあるまじき〔三字右○〕わざなり
      (竹取)まからむ道も安くあるまじき〔三字右○〕に
(116)  まじけれ (竹取)えとゞむまじけれ〔四字右○〕ばたゞさし仰ぎて泣き居り
  まじかり (伊勢)昔男ありけり女のえうまじかり〔四字右○〕けるを年經てよばひわたりけるを
の如く、多くの活用形があるに反して、「ましじ」は「ましじ」「ましじき」「ましじみ」の三つだけであつて、兩者の一致するのは終止と連體の形だけであるが、「まじう」の如き形容詞のウ形は平安朝に特有なもの、「ましじみ」の如きミ形は奈良朝に特有なもので互に一致しがたいものであるから之を除けば一致しないものは比較的少く、しかも、活用の形式はいづれもシク活形容詞と同樣とみとめられる。さすれば、「まじ」と「ましじ」との相違はやはり唯「シ」音の有無だけであつて、かやうなものは語源上關係あるものと見るのが至當な事は前に述べた通りである。此の二つを同源とすれば前に論じたやうな理由によつても、又兩者の年代の順序から觀ても「ましじ」の「し」が脱落して「まじ」となつたとしなければならないのである。かやうな音變化は前述の如く類例ある事であるが、「ましじ」の場合には殊に起り得べき特別の事情がある。それは「ましじ」の語形が他の助動詞に比して長い事である。即ち古代の助動詞は殆皆一音節又は二音節であつて、三音節以上のものは此の「ましじ」の外には無かつたのである。助動詞は必他の用言に伴ひ、これと連續して發音せられるものであるから、「ましじ」のやうな語形の長い助動詞は之に用言を加へて發音すれば、自然多くの音を一息に發する事となつて、一音の發音の速度が早くなり、隨つて發音器官の運動が不完全になり易く、其の結果、(117)音の變化や脱落を生じ易い。殊に類似音の連續した場合には其の傾向が一層甚しい。おもふに「ましじ」はかやうな原因からシ音がおちて「まじ」になつたのであらう。
 かやうに考へ來れば、「まじ」と「ましじ」の關係に關する前述の見解は「まじ」の年代についての從來の説が誤謬である事が明になつた後も少しも變更する必要が無いばかりでなく、却つて事實の上に根據を得たといふべきである。
 かやうに「まじ」は「ましじ」の變じたものであるとすれば、「まじ」が初めて出來たのは何時であるか、「ましじ」から「まじ」への推移はいかなる時代に起つたか。
 奈良朝には「まじ」の存在を證すべきものなく、「ましじ」のみが專ら行はれたと想はれる。平安朝の文獻には「まじ」のみあつて「ましじ」は見えない。即ち「まじ」專用の時代である。しかし「まじ」の見えてゐる最古の文獻たる竹取伊勢土佐日記なども平安朝極初のものではなく平安朝に入つてから少くも數十年を經てはじめてあらはれたものである。さすれば「まじ」が初めてあらはれたのは恐らく平安朝最初の數十年の内であらう。さうして奈良朝に於ける「ましじ」專用時代から平安朝に於ける「まじ」專用時代へ移る中間に兩者併用の時期があつたであらうが、それは文獻の上にはあらはれて居ない。これは文獻の缺乏が其の原因であるに相違ないが、又其の期間が甚短かかつたからであらうと想像せられる。
(118) かやうに「まじ」の發生も「ましじ」から「まじ」への推移も皆歴史時代の事であつて、最古い「ましじ」專用時代も文獻に徴する事が出來ない遠い上代の事でなく、明に歴史の上に其の跡を遺して居るのである。
 
       六
 
 「まじ」の特性として殊に我々の注意を牽くのは其の使用範圍に特別な制限のあつた事である。即ち「まじ」は平安朝では物語草子日記など散文には多く用ゐられて居るが、歌には用例極めて少く、勅撰集では、三代集及び後拾遺集には一つも見えず、唯、金葉集に二例及び詞花集に一例あるばかりである。其の理由については詞玉緒には「此辭はいやしく聞よからぬもの也さる故に古の歌文にはこれらの外はをさ/\見えず」(卷六、十九丁裏)とあつて、卑しいからと説いて居るが、散文には屡見えて、さほど卑しいと考へて居たとも見えない。おもふに、これは助辭本義一覽に「今京こなたひたぶるに歌の言えりせる世となりて平言めかんかやとて斟酌しそめし故なるべし」(同書下卷九十二丁)とあるのが當つて居るのであつて、「まじ」は多分俗語と感ぜられて居たので、それが爲、歌には用ゐられなかつたのであらう。平安朝に於ては和歌に用語の選擇をした事は確實であつて、言語の雅俗を區別し俗語は普通和歌には用ゐなかつたやうである。其の俗語といふのは主として平安朝に入つてから語(119)形の變化したもの又は新に生じたものであつて、かの係詞として用ゐる天爾乎波「なむ」の如きも奈良朝に於ける「なも」の形が平安朝に入つてから「なむ」と變じたもので、口語には盛に用ゐられたが歌には殆使はれなかつた。「まじ」も多分平安朝の初に「ましじ」が變じて出來たもので、平安朝に於て行はれた助動詞中最起源の新しいものであつた爲、「なむ」と同じ理由で歌には用ゐられなかつたのであらう。果してさうであるならば、我々が奈良朝には未だ「まじ」があらはれなかつたと斷定したのは正確であつたのであつて、從來の説の如く奈良朝又は其以前から「まじ」があつたとしたならば、平安朝に於ける「まじ」の使用範圍に特殊の制限のあつた理由は竟に説明する事が出來なくなるのである。
 かやうに、「まじ」と「ましじ」との關係及び兩者の推移の年代に關する我々の研究の結果は、平安朝に於ける「まじ」の歴史に照して少しも矛盾する所が無いばかりでなく、「まじ」の使用上に特殊の現象の生じた理由をも闡明する事が出來るのである。
 
       七
 
 上に述べた如く、奈良朝の文獻に存する「まじ」の諸例はすべて誤認から出たもので、奈良朝には「まじ」のあつた證據が無いとすれば、萬葉集其他の古典の訓に「まじ」を用ゐるのは謬であつて、(120)此等は皆他の語に改めなければならないのである。又奈良朝には「まじ」の前身たる「ましじ」が用ゐられてゐたので、其の用例は從來考へられて居たよりも餘程多く、かなり廣く行はれたものと見えるから、從來他の訓を附せられて居たもので實は「ましじ」と訓ずべきものもあるかも知れない。例へば萬葉葉卷六の讃久邇新京歌と其の反歌の一首との終にある「百代爾母不可易大宮處」の句の内、「不可易」の一句は、從來「カハルベカラヌ」と訓ぜられて居るけれども、それよりも寧「カハルマシジキ」とよむ方が正しいのではあるまいかと自分は考へて居るのである。
 
  刊行委員附記 この論文は、心の花第二十四卷第七號(第四萬葉號)に掲げられた『萬葉時代に於ける「まじ」と「ましじ」』を、原本の題號の傍の插込みに、「別に此の篇の補訂を草しおけり、それにより補訂すべし」とあるに從つて、草稿『萬葉時代に於ける「まし」と「ましじ」補訂』を以つて改訂したものである。その改められた箇所は次の如くである。
   題號及び最初の一節、及び
   一〇三頁一〇行の「然るに……見えて居る。」
   一一四頁八行の「奈良朝には……ならない。」
   一一四頁以下「五」の全部
  なほ、「六の一節は猶精査を要す。「まじ」「ましじ」考(舊稿をも參輝すべし)」とあり、また「今後の研究」と題して、次の如く記されてゐる。
   一、日本紀の訓について「ましじ」をしらべる事 古事記の訓も
(121)   一、歌集のことば書について「まじ」の例をしらべる事
   一、平安朝の歌語と口語の差についてしらべる事
    平安朝に入つて始めて出來た文法上の形
       で=ずて         かし
       いかが=いかにか     かな
       いかで
       なむ
 
(122)     萬葉集語解三則
 
 萬葉集を幾度か通讀した際特に注意を惹いた此處彼處の語句について、討究を試みた結果、多少新しい考説を得たものの中から、三箇條を拔き出したものである。國語學を專攻して居る關係上、自然、語法に關する論議が多く、專門家以外のものには興味に乏しいかも知れないが、由來、語法に關する知識の不充分なのは、多くの萬葉集註釋家の通弊であるから、此の方面の研究によつて、少しでも從來の誤を訂すことが出來れば幸と考へて、敢て之を公にすることとしたのである。
 
       一 いもかここりはあよくなめかも
 
 萬葉集卷二十、下總國防人の歌の内に
  牟浪他麻乃久留爾久枳作之加多米等之以母加去去里波阿用久奈米加母《ムラタマノクルニクキサシカタメトシイモガコヽリハアヨクナメカモ》
   右一首※[獣偏+爰]島郡刑部志加磨(寛水本、三十一丁ウ)
といふのがある。「牟浪他麻乃久留爾久枳作之」については、下河邊長流の萬葉集管見や契沖の代匠記には、「久枳」を莖とみて「群玉に緒をさし通して」と解して居るが、「牟浪他麻乃」を枕詞とし、「久(123)留爾久枳作之」を仙覺抄にしたがつて「樞《クルル》に釘をさして」と釋した略解及び古義の説の方が好いやうである。「加多米等之以母加去去里波」が「固めてし妹が心は」である事は古來異説が無い。最後の「阿用久奈米加母」については、仙覺抄にはアユクナミカモ(異本には「あるくなみかも」とある)であるとし「ヲトコハサキモリニタチヌレバ、クルニクギサシカタメテ、イモガ心ハシヅカニテ、アルキタカフコトモナクナリナントヨメル也」と説いて居るが、後の諸註書には「阿用久」を「危く」と解し「奈米加母」を「無みかも」(管見、代匠記及び古義の説)又は「無けめかも」(考の説)、「無くあらむかも」(考に載せた狛諸成の説)など解して、何れも「危くあらじ」の義と釋いて居る(略解もさうである)。かやうに此の最後の一句の解釋は諸家の説殆皆一致して居るが、自分はまだ大に疑ふべき點があると思ふのである。まづ第一に、「あやふく」が「あよく」となつたとすれば、「やふ」といふ二音節が「よ」といふ一音節になつたとしなければならないが、かやうな音變化は平安朝以後ならばとにかく、奈良朝以往に於ては殆例の無い事である(平安朝以後に於ては、一語中のヤウ、ヤフは、特別の場合の外は皆次第にヨー音の方へ移り行いたのであるが、しかも今日のやうなヨー音になつたのは足利末以後らしい。今日謠曲で危くをアヨークと發音するのはかやうな音變化の結果である。奈良朝以前では「やふ」は yau ではなく yafu 又は yapu と發音したと認められるから、ヨと變ずるのは困難である)。我々は簡単に「也宇《ヤウ》の約|由《ユ》なるを與《ヨ》に通はせるなり」(考)と説き去つて安(124)心する事は出來ない。勿論、此の歌は防人の詠んだもので、防人の歌には東國の方言的音轉訛はあるけれども、いかに東國方言でも、かほどの違があらうとは信ぜられない。現に同じ東國の歌に、
  安受乃宇敝爾古馬乎都奈伎※[氏/一]安夜抱可等比登麻都古呂乎伊吉爾和我須流《アズノウヘニコマヲツナギテアヤホカドヒトマツコロヲイキニワガスル》(萬葉卷十四、三十一丁オ)
とあつて、「あやふし」は「あやほし」となつて居るが、その「やふ」にあたる部分は「やほ」で、やはり二音節を保つて居る。
 次に從來の説では「あよくなめかも」の「なめ」を「無」の義に解して、此の一句を「危からじ」の義と釋するのであるが、「無し」といふ形容詞が、他の形容詞の副詞形(「好く」「危く」など)に接して打消をあらはすのは、後世の語法であつて、奈良朝以前には決して無い事である(奈良朝以前には「好けく〔二字右○〕もぞ無き」とは言ふけれども「好く〔右○〕もぞ無き」とは言はない。「好けく」は「好い事の意味で、ク形名詞法とも名づくべきものである)。それ故「あよく」を危くと解すれば、「なめ」を無しの義と解する事が出來ず、「なめ」を無しの義とすれば「あよく」を危くと解する事が出來ない筈である。
 猶又、奈良朝に於ては、「無からむ」を「無けむ」「無けめ」とは云つたが、「なむ」「なめ」といつた例は全く無い。語法上から觀ても、「な」のやうな形容詞の語幹が、すぐ「む」「め」のやうな助動詞につゞくのは異例である。
 かやうに、從來の解釋は種々の難點をもつて居るのであつて、我々は之に滿足する事は出來ないの(125)である。
 そこで他の解釋をもとめて見るに、黒川春村の碩鼠漫筆の中に、此の歌に次の如き訓を下して居る。
  牟浪他麻乃久留爾久枳作之加多米等之以母加去々里波阿用久奈米加母《モロトモニクラニクギサシカタメテシイモガココロハアヨギナメカモ》【此鮎は僻案に任せて施したるなり。諸共に契り固めたれば、妹が心は動搖じといひて、庫に鑰さしを固むるの序とせしなり。諸字の音の異なるどもは、音韻考證に就て其徴あるを見るべし】(碩鼠漫筆卷之八、「うらびれといふ語づかひ」の條)
此の訓は假名のよみ方が非常に奇怪であつて、全部信ずる事は出來ないが、從來危くの義として居た「阿用久」を動搖の義と解したのは卓見であつて、此の一句の異義を闡くべき鍵を與へるものといつてよい。「あよぐ」といふ語に動搖の義がある事は、出雲風土記、大原郡阿用郷の條に
  阿用郷、郡家東南一十三里八十歩、古老傳云、昔或人此處山田佃而守之、爾時目一鬼來而食佃人之男、爾時男之父母竹原中隱而居之時竹葉|動之《アヨケリ》、爾時所食男云|動々《アヨアヨ》、故云阿欲【神龜三年改2字阿用1】(刊本、八十二丁ウ)
とあるので知る事が出來る。此の語は平安朝に入つては「あゆぐ」となつて、諸書に散見して居る。
  雲まよひ星のあゆぐと見えつるは螢の空に飛ぶにぞありける(拾遺集卷八雜上)
  きえぬべき露の我が身はもののみぞあゆぐ草葉に悲しかりける(和泉式部集第五)
「あゆぐ」は四段活用の動詞で、「あよぐ」も多分同じ活用であらうから、連用形を承ける助動詞「なむ」につゞく時は「あよぎ〔右○〕なむ」となるべき筈である。春村が「阿用久奈米加母」の「久」をキとよ(126)んだのは、此の理由に基くのである。けれども、奈良朝當時の東國語には連用形を承ける「なむ」の外に、終止形を承ける「なむ」がある。それは
  多知婆奈乃古婆乃波奈里我於毛布奈牟己許呂宇都久思伊※[氏/一]安禮波伊可奈《タチバナノコバノハナリガオモフナムココロウツクシイデアレハイカナ》(萬葉集卷十四、二十五丁オ)
  麻可奈思美佐禰爾和波由久可麻久良能美奈能瀬河泊尓思保美都奈武賀《マガナシミサネニワハユクカマクラノミナノセガハニシホミツナムカ》(同、卷十四、六丁オ、相模歌)
の如く、大和詞の「らむ」と同義であつて、用法及び活用も之と全く同一なものである。「なめかも」の「なめ」が此の「なむ」の活用形であるとすれば、「阿用久奈米加母」は其のまゝ「あよぐなめかも」とよんで、「動搖《あよ》ぐらんかも」の義と解する事が出來るのである。さうして此の「なむ」は、卷十四の相模歌、卷廿の上總國防人歌に見えて居るのみならず、右の「牟浪他麻」の歌のすぐ次にあつて、同じ下總國の防人の作なる
  久爾具爾乃夜之呂乃加美爾奴佐麻都理阿加古比須奈牟伊母賀加奈志作《クニグニノヤシロノカミニヌサマツリアガコヒスナムイモガカナシサ》
   右一首結城郡忍海部五百磨(卷二十、三十二丁オ)
といふ歌にも用ゐられて居るのであるからして、「あよくなめかも」の「なめ」を此の「なむ」と解して少しも不自然な點は無いのである。我々は此の解釋が當を得たものと信ずる。
 
(127)       二 あすきせさめやいざせをどこに
 
 萬葉集卷十四の相聞往來歌のうちに
  安左乎良乎遠家爾布須左爾宇麻受登毛安須伎西佐米也伊射西乎騰許爾《アサヲラヲヲケニフスサニウマストモアスキセサメヤイザセヲドコニ》(同卷、廿三丁ウ)
といふのがある。その第三句までの解釋は從來の諸註ほゞ一致して「麻苧を桶に多く績まずとも」の義であるとして居る。第四第五の兩句については、種々の説があるのであつて、管見には「明日着せざらめや、勇める男に」の義とし、代匠記には「明日着せざらめや、小男《イササヲトコ》に」と釋し、考には「麻衣《アサソ》を着せざらめや伊射西(地名)の男に」と説いて居る。略解は初に考の説を引いて「されど穩ならず」と評し、次に本居宣長の説を擧げて居る。
  宣長云、四の句は明日《アス》來《キ》せざらめや也。明日來といふは、すべて月日の事を來歴《キヘ》ゆくといひて、明日の日の來る事也。結句は、率《イザ》せ小床《ヲドコ》に也。中古の言に、人をさそひたつるにいざゝせたまへといへるに同じ。一首の意は、夜の業に女の麻を績居る所へ男の來てよめるにて、早く寐んと女を誘《イザナ》ふ哥也。今宵さのみ麻を多くうまずとも有べし。明日も來らざらんや。あすの日もあれば、明日又うみたまへ。こよひは其業をやめていざ早く小床に入て寐んと也といへり(略解、卷十四下十丁ウ)
(128)古義は全く宣長の説にしたがつて居る。
 かやうに樣々の説がある中にも、「安須伎西佐米也」の「佐米也」を「ざらめや」の義と解する事だけは諸説皆一致して居るが、「ざらむ」「ざらめ」を「ざむ」「ざめ」といつた例は他に無く、其の類例も容易に見出す事が出來ないからして、我々はたやすく之を信ずる事は出來ないのである。或は其の類例として、「よからば」「よかれど」を「よかば」(又「よけば」)「よかど」(又「よけど」)といつた事を擧げるかも知れないけれども、「よかば」「よかど」が、「よからば」「よかれど」から出たといふのも猶疑ふ餘地があつて、確説とはし難いのであるから、類例としてもあまり有力なものではない。
 今、別の解釋を試るに、「伎西佐米也《キセサメヤ》」の「米《メ》」を從來の説の如く助動詞「む」の已然形とすれば、之に接するものは用言又は助動詞の將然形でなければならぬ。故に假に「伎西佐」を將然形と定めて、其の終止形をもとめるに、用言の活用の形式から推せば「きせす」であるべき筈である。然らば「きせす」といふ語はあるかどうかといふに、かやうな一語はないけれども、「せす」といふ語は萬葉集の時代にはあつたのである。それは、
  安見知之吾大王神長柄神佐備世須登《ヤスミシシワガオホキミノカムナガラカムサビセスト》(萬葉一、十九丁オ)
  八隅知之吾大王高照日之皇子神長柄神佐備世須登《ヤスミシシワガオホキミノタカテラスヒノミコカムナガラカムサビセスト》(萬葉一、廿一丁オ)
  旗須爲寸四能乎押靡草枕多日夜取世須古昔念而《ハタスヽキシノヲオシナミクサマクラタヒヤトリセスイニシヘオモヒテ》(萬葉一、廿一丁ウ)
(129)の如く、爲《す》といふ語の敬語の形である。其の語尾活用は
  等母爾倍爾眞可伊繁貫伊許藝都追國看之勢志※[氏/一]安母里麻之掃平《トモニヘニマカイシジヌキイコギツヽクニミシセシテアモリマシハラヒタヒラゲ》(萬葉十九、三十九丁オ)
の例に見える「せし」といふ連用形の外、實例を得ないけれども、從來知られて居る各種の活用の形式によれば、佐行變格か、さなくば四段活用と推定せられる。若し、佐行變格とすれば、助動詞「め」につゞいた形は「せせめ」であるべきであるが、四段とすれば、當に「せさめ」となるべき筈である。此の「せさめ」は「伎西佐米也」の「西佐米」と全然一致するのである。されば、「せす」は四段活用であつて、「西佐米《セサメ》」は其の將然形に、助動詞「む」の已然形「め」が結合したものと觀る事が出來る。(「立つ」「執る」「見る」「着る」などの敬語の形「立たす」「執らす」「めす」「けす」などが皆佐行四段活用であるのを觀ても、「せす」を四段活用と推定するのは道理ある事である。)
 然らば「安須伎西佐米也」の「安須伎」は何であるかといふに、「せす」は「神さびせす」「旅やどりせす」「國見しせして」の如く、動詞の連用形に接するのが例であるから、「あすき」も動詞の連用形として解釋するのが妥當である。しかし「あすき」といふ一語は見當らないからして、「あす」は明日の義、「き」は「着る」又は「來《ク》」の連用形と解釋しなければならない。かやうにして、此の一句は「明日來給はんやは」又は「明日着給はんやは」の義となる。(宣長は「き」を來と解して、明日の日が來ると説いて居るが、「きせさめや」を來給はんやはと解すれば、「明日着せさめや」と解した場合(130)と同じく、副詞的に用ゐられたものとしなければならない。もし明日の日が來るといふのならば、「來せさ〔二字右○〕めや」と、敬語を用ゐる必要がないからである。)
 此の一句にかやうな解を下して、更に全歌について考へてみるに、若し宣長の説の如く、男が女に對して詠んだものとすれば、「麻苧を今そんなに多く績まないでも好い。たとひ今績んでも、明日之を着物にして着給ふ事は出來ないのであるから、早く臥床へ行かう」の義と解する事が出來る。此の歌の第三句「宇麻受登毛」の「受」は通常濁音の假名として用ゐられて居るから、諸註に此の句をウマズトモとよんだのは至當であるけれども、また宇知比佐受宮弊能保留等《ウチヒサスミヤヘノボルト》(萬葉集卷五、二十七丁ウ)のやうに受を清音に用ゐた例もあるから、之をウマストモとよんで「績み給ふとも」の義とし、「麻苧を今多く績み給ふとも、どうして明日之を着物にして着給ふ事が出來ようぞ。そんな事をしようより、さあ早く臥床に入らう」と解すれば更に穩當なやうである。又、第五句「伊射西乎騰許爾《イザセヲドコニ》」の西《セ》を「爲《ス》る」といふ語の命令形と見ないで、「いもせ」の「せ」と同語で、女が男を呼びかけていふ語とすれば、女が男に對して、「君は明日また來給ふ事が出來ようか、明日は來給ふ事が出來ないのであるから、今宵は苧などを績まずとも、さあ、夫の君、早く臥床に行かう」と詠みかけたのであると説く事も出來る。かやうに種々の解釋が可能であつて、其の内どれが最好いかを決定する事は困難であるけれども、「せさめや」の「せさ」が「せす」の將然形であつて、「し給ふ」の義を有するものである事は略疑無(131)い事と信ずる。
 
       三 まてどまちかねいでてこし
 
 萬葉集卷十九、大伴家持の作歌の中に
  立而居而待登待可禰伊泥※[氏/一]來之君爾於是相插頭都流波疑《タチテヰテマテドマチカネイデテコシキミニココニアヒカザシツルハギ》(卷十九、三十八丁ウ)
といふのがある。これは天平勝寶三年七月、家持が越中守から少納言に轉任して、翌八月國府を發して京へ上る途中、越前國※[手偏+丞]大伴池主の邸に於て、偶、正税使として上京して居た越中國※[手偏+丞]久米廣繩が事畢つて任地に歸るのに出會つて、共に酒飲み樂んだ席上、廣繩が芽子の花を見て
  君之家爾殖有芽子之始花乎折而插頭奈客別度知《キミノイヘニウヱタルハギノハツハナヲヲリテカザサナタビワカルドチ》
と詠んだのに和して、家持が作つた歌である。
 此の歌は一つも難解な語がなく、大體の意味は捉へる事が出來るが、しかもどこかに落着かない點があるやうに感ぜられる。それは、「立ちて居て待てど待ちかね出でて來し」といふのは家持のした事と解せられるのに、「いでて來し君に此處に會ひ」といふ言葉續の上からは廣繩のした事のやうに見えるからである。それは如何に説明すべきであらうか。
 契沖は「家持も遷任して上らるれども、広繩が歸るを待かねて跡を尋に出たるやうに云ひなすなり。(132)出て來し君とつゞくるにあらず」(代匠記十九下、三四頁)と説いて居るが、「出でて來し」で文が終つて居るといふ意味か、又は「出でて來し君」とつゞくとすれば、廣繩が出て來たやうに聞えるが、さうでは無いといふ意味か、甚不明瞭である。略解には「廣繩が家持卿を待ちかねて池主の館まで出來りて共にはぎをかざしつるといふ也」(卷十九下、十五丁ウ)とあつて、「立ちて居て」云々をすべて「君」即ち廣繩の行爲として居る。かやうに觀れば語脈の上からの解釋は無難であるが、虚心に此の歌を讀み味つてみれば、決してさう解釋する事は出來ない。古義に此の説を評して「人にさしむかひて其(ノ)人のうへのことを立而居而《タチテヰテ》云々とは云べき理にあらぬをや。熟、心をとゞめて味(フ)べし」(卷十九、中、八十四丁ウ)といつて居るのは至當である。しかのみならず、事實の上から觀ても、廣繩は公務が果てゝ歸任する途で偶然家持に出會つたので、家持を待てど待ちかねて出て來たのではない。然るに家持は、七月十七日少納言に轉任し八月五日國府をたつたが、廣繩は未だ京から歸著しなかつた爲、家持は廣繩に會はないで出發したのであるが、家持が如何に之を遺憾としたかは、その出發の前日、態々廣繩の留守宅へ離別の歌を貽して年の緒長く相睦んだ心の忘れ難きを述べ「岩瀬野に秋芽子しぬぎ馬並めて始鷹獵《はつとがり》だにせずや別れむ」と歎じたのによつても想見する事が出來る。おもふに、廣繩は家持の下僚として常に之に接して居たのみならず、共に遊行宴樂し、屡歌の贈答をもしたのであるからして、家持は殊に親しみを持つて居たであらう。されば、「まてど待ちかね出でてこし」を家持の事とし、家(133)特が廣繩の歸つて來るのを今か/\と待つて居たが、自身の出發の日が迫つて、遂に待ちつける事が出來ず、已むを得ず上京の途に上つたと解して、少しも事實に背馳するところはないのである(代匠記に「家持も遷任して上らるれども、廣繩が歸るを待ちかねて跡を尋ねに出たるやうに云ひなすなり」とあり、古義にも「わざとをかしく廣繩を待ちかねて出來しごとくにいはれたり」とあるが、自分は、「いでて來し」は越中を出發して上京の途についたといふだけで、廣繩に會はん、が爲に出て來たといふのであるまいと思ふ。されば、實際の事實を述べたので、わざと言ひなしたのではない)。かやうな譯で略解の説は到底信ずる事が出來ない。古義は「伊泥※[氏/一]來之は今按(フ)に之(ノ)字は弖の誤にて、イデヽキテなるべし」(卷十九、中、八十四丁オ)と説いて居るが、「之」の字は現存の諸本皆「之」であつて、弖とあるものは一つも無いから、此の説も容易に信じ難い。要するに從來の諸説は一つも滿足すべきものが無いのである。
 前に述べたやうに「立ちて居て待てど待ちかね出でて來し」は、事實の上から觀て家持の事としなければならないのに、廣繩をさして云ふ「君」といふ語につゞいて居て、語の形式の上からは廣繩が家持を待ちかねて出て來たやうに解せられ、事實からの解釋と言語からの解釋とが相扞格するのであるが、自分の見る所によれば、これは語法上の討究の至らぬ爲であつて、廣く類例をもとめて考究すれば、此の疑問は容易に解決する事が出來るのである。
(134) すべて「流るる水〔四字右○〕」「吾が思へる妹〔四字右○〕」などの如く、用言が體言に連接して其の體言の有する意味に變更を加へ又は之を限定する時、語法上では其の用言を修飾語と名づけ、其の體言を被修飾語と稱するのであるが、或用言が、或體言の修飾語となるには、其の用言と體言との間に意義上何かの關係が無ければならない。例へば「流るる水」といふ語句では、「流るる」と「水」との間に「水流る」といふ關係が成立するから、「流るる」が「水」の修飾語となり、「吾が思へる妹」に於ては、「思へる」と「妹」との間に「吾、妹を思ふ」といふ關係が成立する故「思へる」が「妹」の修飾語となるのである。若し両者の間に意義上何の關係も無ければ、互に修飾語となり被修飾語となる事は出來ない筈である。然るにその修飾語たる用言が、唯一語でなく、他の用言に接して連語又は句のやうな組立になって居る場合には、幾分趣を異にするものがある。例へば、萬葉集卷十九の家持の長歌の中に左の如き句がある。
  和我勢故等手携而曉來者出立向暮去者振放見都追念暢見奈疑之山爾《ワガセコトテタヅサハリテアケクレバイデタチムカヒユフサレバフリサケミツツオモヒノベミナギシヤマニ》(卷十九、十八丁オ)
 此の「見奈疑之山」は「見て我等が心を慰めた山」の義であって、「山」は「見る」といふ語に對しては意義上連絡があるけれども(「山を見る」といふ關係が成立する)、「なぎし」に對しては何等直接の關係が無い。しかも、「なぎし」が「山」の修飾語になって居るのは、「見」といふ語に接して居るからである。又、同じ歌の内に、(135)
  宇良悲春之過者霍公鳥伊也之伎喧奴獨耳聞婆不怜毛君與吾隔而戀流利波山飛超去而《ウラガナシハルシスグレバホトトギスイヤシキナキヌヒトリノミキケバサブシモキミトワレヘダテテコフルトナミヤマトビコエユキテ》(中略)鳴等余米安寢不令宿君乎奈夜麻勢《ナキトヨメヤスイシナサズキミヲナヤマセ》(同十八丁オ)
とあつて、其の「君與吾隔而戀流利波山《キミトワレヘダテテコフルトナミヤマ》」の一句は、一寸みれば、利波山を戀うて居るやうに聞えるが、さうではない。此の歌は、大伴家持が越中國から越前國に居る大伴池主の處へ贈つたもので、利波山(礪波山)は越中と越前の間にあるのであるから、「君と我とが利波山を隔てゝわかれ住んで、互に戀しく思つて居る、その利波山を」の義であって、「利波山」は「隔てて」には繋るが、「戀ふる」には關係が無い。しかも、「戀ふる利波山」とつづくのは「戀ふる」が「隔てて」に接して居るからで、「隔てて戀ふる利波山」とつゞいて、始めて意味を成すのである。又
  多都多夜麻見都都古要許之佐久良波奈知利加須疑奈牟和我可敝流刀禰《タツタヤマミツツコエコシサクラハナチリカスギナムワガカヘルトニ》(萬葉集卷二十、三十三丁オ。但し、「刀禰」は「刀爾」の誤である)
に於ける「見つゝ越え來し櫻花」も、ふと見れば、櫻花が越えて來たか、または櫻花を越えて來たかのやうに思はれるが、これは「自分が眺めながら山路を越えて來た、あの龍田山の櫻花は」又は「龍田山を越えて來る道すがら見たあの櫻花は」の義であって、「越え來し」は「櫻花」と直接關係があるのでなく、唯「見つゝ越え來し」とつゞいて居る爲「櫻花」の修飾語となつたまでで、意味上「櫻花」と關係を有するものは「見つ〜」だけである。
(136) かやうに、體言の修飾語が、唯一つの用言でなく、二つ以上の用言から成り立つて、連語又は句の形になつて居る場合には、其の體言の意味の繋るところは、之に直に接してゐる用言ではなく、其の用言に連接せる他の用言であつて、體言に直に接して居る用言は、其の體言とは意味上全く連絡なく、唯、文構成上の形式として修飾語の形をとつて居るに過ぎない事が間々あるのである。
 かやうな事實を認めて、再、問題の歌
  立ちて居て待てど待ちかね出でて來し君に此處に會ひかざしつる芽子花
について考へて見るに、前にも述べたやうに、「出でて來し」は家持であつて、「君」即ち廣繩ではない。「出でて來し君」とつゞいて居ても、「出でて來し」と「君」との間には意味上何の連絡も無い。「君」の繋るところは實に「待てど待ちかね」の一句にある。君(廣繩)を待てど待ちかねて(家持が)出て來たのである。此の句につゞいて居ればこそ家持の行爲なる「出でて來し」が、廣繩をさす「君」といふ語に連續し、其の修飾語となる事が出來るのである。たゞ「出でて來し君」だけでは全く意味を成さない。かやうに觀來れば、「まてど待ちかね出でて來し」と「君」との關係は、前に擧げた諸例に於ける修飾語と被修飾語との關係と全く同一であつて、少しも違つた點が無いのである。然るに、同種の他の諸例に於て其の解釋をあやまらなかつた萬葉集の諸註家が、此の歌に限つて解釋に苦み又は誤解を來したのは寧ろ不思議な位である。想ふに、これは語と語との相關に關する研究か不(137)充分であつた爲であつて、畢竟、語法の知識の不確實不精密に因るのであらう。
 「出でて來し君」とつゞく理由を右の如く説明すれば此の歌は「君に會つて別れたいと思つて、立つたり居たりして君の歸りを待つて居たけれども、自分の出發すべき時が迫つて、遂に待ちおほせる事が出來ず、越中國を立つて來たが、それほど自分が會ひたいとおもつて待つた君に偶然此處で會ふ事が出來て、共に芽子花をかざして酒飲み遊ぶは誠にうれしい事である」といふ意になつて、「出でて來し」や「君」の解釋も一つも事實に背く事なく、また言語の上からも何等の矛盾なく解釋する事が出來るのである。
 
(138)     奈良朝語法研究の中から
 
       一
 
 本居宣長の詞玉緒卷七古風の部は、奈良朝の言語が平安朝の言語に對して有する語法上の特異な點を多くの實例を擧げて説明したものであつて、奈良朝語法研究の基を開いたものとして注目すべきものであるが、中に、「ずば」といふ語の一種の用法が擧げてある。それは、
  斯くばかり戀ひつゝあらずば〔二字右○〕高山の磐根し枕《ま》きて死なましものを(萬葉卷二)
  後れ居て戀ひつゝあらずば〔二字右○〕追ひ及《し》かむ路の隈廻《くまわ》に標《しめ》結《ゆ》へ吾兄《わがせ》(同)
  驗《しるし》なき物を思はずば〔二字右○〕一|杯《つき》の濁れる酒を飲むべくあるらし(萬葉菜卷三)
  なか/\に人とあらずば〔二字右○〕酒壺になりにてしがも酒に染みなむ(同)
のやうなもので、助動詞「ず」に助詞「ば」のついたものと思はれるけれども、普通の「ずば」の意に解しては歌全體の意味が通じにくいもので、宣長は之を「んよりは」の意と解してゐる。即、「戀ひつゝあらずば」は「戀ひつゝあらんよりは」の義「物を思はずば」は「物を思はんよりは」の義「人(139)とあらずば」は「人とあらんよりは」の義となるのである。宣長がその實例として玉緒に擧げたのは萬葉集の歌二十四首であるが、かやうな例は古事記及日本紀の歌謠にも見られる。忍熊王が建振熊命の謀計にかゝつて戰敗れて近江の湖に浮び將に入水しようとする時詠ぜられたといふ
  いざ吾君《あぎ》振熊《ふるくま》が痛手負はずば〔二字右○〕鳰鳥の淡海《あふみ》の海に潜《かづき》せな吾《わ》(古事記卷中、仲哀記)
の歌の「ずば」が即これであつて(日本紀のもこれと同じ歌であるが、すこし語句に相違がある。しかし「負はずば」の句は同じことである)宣長は之をも「んよりは」の義に釋してゐる(古事記傳卷三十一)。猶伊勢物語の
  なか/\に戀に死なずば桑子にぞなるべかりける玉の緒ばかり
の「死なずば」も同種の例であるが、これは萬葉集卷十二に殆同一の歌があるから、恐らく萬葉集から出たもので、平安朝の文獻には他に例を見ないから、かやうな「ずば」の用法は奈良朝語法の特徴の一つといつて好いやうに考へられる。
 今奈良朝の文獻に存するかやうな「ずば」の實例をことごとく擧げれば次の通りである(原文はすべて漢字ばかりであるが、讀みやすいやうに漢字と假名とをまじへて書く。但「ずば」の部分だけは原文のまゝにした。「萬」は萬葉集で、その下の數字は卷名、更にその下にある數字は國歌大觀に於ける歌の番號である。)
(140) (1) いざ吾君《あぎ》振熊《ふるくま》が伊多弖淤波受波《いたでおはずば》鳰鳥《にほどり》の淡海《あふみ》の海に潜《かづき》せな吾《わ》(古事記、仲哀記)
 (2) いざ吾君《あぎ》五十狹茅宿禰《いさちすくね》玉《たま》きはる内《うち》の朝臣《あそ》が頭槌《くぶつち》の伊多※[氏/一]於破孺破《いたでおはずば》鳰鳥《にほどり》の潜《かづき》せな(日本書紀卷九、神功紀)
 (3) 斯くばかり戀ひつゝ不有者《あらずば》高山の磐根し枕《ま》きて死なまし物を(萬葉集卷二、八六)
 (4) 後《おく》れ居て戀ひつゝ不有者《あらずば》追ひ及《し》かむ道の隈廻《くまみ》に標《しめ》結《ゆ》へ吾《わ》が兄《せ》(萬二、一一五)
 (5) 吾妹兒《わぎもこ》に戀ひつゝ不有者《あらずば》秋萩の咲きて散りぬる花にあらましを(萬二、一二〇)
 (6) 驗《しるし》なき物を不念者《おもはずば》一杯《ひとつき》の濁れる酒を飲むべくあるらし(萬三、三三八)
 (7) 中々《なか/\》に人と不有者《あらずば》酒壺になりにてしがも酒に染《し》みなむ(萬三、三四三)
 (8) 後れ居て戀ひつゝ不有者《あらずば》紀の國の妹背の山にあらましものを(萬四、五四四)
 (9) 斯くばかり戀ひつゝ不有者《あらずぱ》岩木にもならましものを物思はずして(萬四、七二二)
 (10) 外《よそ》に居て戀ひつゝ不有者《あらずば》君が家の池に住むとふ鴨にあらましを(萬四、七二六)
 (11) 吾が念《おもひ》斯くて不有者《あらずば》玉にもが眞《まこと》も妹が手に纏《ま》かれなむ(萬四、七三四)
 (12) 後れ居て汝が戀《こひ》世殊波《せずば》御園生《みそのふ》の梅の花にもならましものを(萬五、八六四)
 (13) 言《こと》繁《しげ》き里に不住者《すまずば》今朝鳴きし雁にたぐひて去《い》なまし物を(萬八、一五一五)
 (14) 秋芽子《あきはぎ》の上に置きたる白露の消かもしなまし戀ひつゝ不有者《あらずば》(萬八、一六〇八)
(141) (15) 秋芽子《あきはぎ》の上に置きたる白露の消かも死なまし戀爾不有者《こひつゝあらずば》(萬十、二二五四)
 (16) 秋の穗をしねに押し靡《な》み置く露の消《け》かも死なまし戀乍不有者《こひつゝあらずば》(萬十、二二五六)
 (17) 秋芽子の枝もとををに置く露の消《け》かも死なまし戀ひつゝ不有者 《あらずば》(萬十、二二五八)
 (18) 長き夜を君に戀ひつゝ不生者《いけらずば》咲きて散りにし花にあらましを(萬十、二二八二)
 (19) 劍刀《つるぎたち》諸刃《もろは》の上に行き觸れてしせかも死なむ戀ひつゝ不有者《あらずば》(萬十一、二六三六)
 (20) 住吉《すみのえ》の津守網引《つもりあびき》の浮《うけ》の緒のうかれか行かむ戀ひつゝ不有者《あらずば》(萬十一、二六四六)
 (21) 斯くばかり戀ひつゝ不有者《あらずば》朝に日に妹が履むらむ地《つち》にあらましを(萬十一、二六九三)
 (22) 吾妹子《わぎもこ》に戀ひつゝ不有者《あらずば》苅薦《かりごも》の思ひ亂れて死ぬべき物を(萬十一、二七六五)
 (23) 白浪の來線《きよ》する島の荒磯《ありそ》にもあらましものを戀ひつゝ不有者《あらずば》(萬十一、二七三三)
 (24) 中々に君に不戀者《こひずば》牧《ひら》の浦の海士《あま》ならましを玉藻刈りつゝ
    或本歌曰中々に君に不戀者《こひずば》留鳥浦《あみのうら》の海士《あま》にあらましを玉藻かる/\(萬十一、二七四三)
 (25) 吾妹子《わぎもこ》に戀ひつゝ不有者《あらずば》苅薦の思ひ亂れて死ぬべきものを(萬十一、二七六五)
 (26) 何時までに生かむ命ぞ凡《おほよそ》は戀ひつゝ不有者《あらずば》死ぬるまされり(萬十二、二九一三)
 (27) 中々に人と不有者《あらずば》桑子《くはこ》にもならましものを玉の緒ばかり(卷十二、三〇八六)
 (28) 後れ居て戀ひつゝ不有者《あらずば》田籠《たご》の浦の海士《あま》ならましを玉藻刈る/\(卷十二、三二〇五)
(142) (29) 家にして戀ひつゝ安良受波《あらずば》汝《な》が佩《は》ける刀《たち》になりても齋《いは》ひてしがも(萬二十、四三四七)
 宣長は以上の諸例に於ける「ずば」を悉く「んよりは」の意と釋してゐる。この解釋は宣長が創めたもので、以前は、「戀ひつゝあらずば」を「戀ひつゝあられずば」(仙覺の萬葉集註釋卷二上)「戀ふるかひの無くば」(契沖の萬葉代匠記初稿本卷二上)又、は「こひこひつゝも終にかひあらざらん事と知らば」(眞淵の萬葉考卷二別記)と釋き、例(6)の「物を思はずば」を「物を思はじとならば」(代匠記初稿本卷二上)と釋いて居たのであるが、かやうに「ずば」を普通の意味に解さうとすれば、勢、場合場合に應じていろ/\違つた意味を附け加へなければならないのであつて、あらゆる場合を通じて一貫した解釋を下すことが出來なかつたのである。宣長が之を「んよりは」と釋したのは、或は契沖の代匠記初稿本卷二上「かくばかりこひつゝあらずば」の歌の註に「君をこひこひて戀ふるかひなく物おもひてあらんよりは〔六字右○〕死にたらんがまさらんとなり」とあるに暗示《ヒント》を得たものかも知れないが、代匠記は、この歌の註の最初に「此こひつゝあらずばといふ詞集の中におほし、こひてもこふるかひのなくばといふこゝろなり」とある通り、「ずば」を直に「んよりは」の意に解したのではない。宣長にいたつて此等の諸例を悉く「んよりは」の意に解して、はじめてあらゆる場合にあてはまる解釋が出來たのである。その手際は頗鮮で、人を服せしむるに充分であつたので、その後に出た有力な萬葉註釋書は、荒木田久老の槻落葉、橘千蔭の略解、鹿持雅澄の古義、桶守部の檜※[木+爪]から、木村正辭氏の美夫君志及井(143)上通泰氏の新考のやうな近來の著にいたるまで、皆この説に從つてゐる。又古事記及日本紀の「痛手負はずば」の例も、宣長の古事記傳、荒木田久老の日本紀歌解以後專らこの説により、伊勢物語の「戀に死なずば」も藤井高尚の伊勢物語新釋以來この解釋をとつて居る。
 かやうに今日では、これらの「ずば」を「んよりは」の意に解するのは、殆定説のやうになつて居るのであるが、これは果して當を得たものであらうか。なるほど右の如く解すれば、あらゆる場合を通じて穩に解釋出來るのであるけれども、さすればこの「ずば」の意味は普通の「ずば」とは全く違つたものとなる。勿論言語の變遷は同一の語から全然相反する意義を分化せしめる事もあり、もと無かつた意味を附加する事もあり、又、本來全く別な語に同一の形をとらせる事もある。それ故「ずば」に全くちがつた二つの意味があつたとしても、必しも怪しむに足りないかも知れないが、その由來について根據ある説明が出來ない以上は到底論議の餘地なき定論とする事は出來ない。しかも、かやうな説明はまだ試みられず、たゞ、さう解すれば全體の意味が無理なく穩に解けるといふだけであるとすれば、宣長の説も、まだ常識的解釋の域を脱せざるものであつて、確論として認容するには猶距あるものとしなければならない。
 
       二
 
(144) 上述の如く、奈良朝に於ける「ずば」の一種の用法に對する宣長の解釋が、まだ研究の餘地あるものとすれば、我々はまづ之に對する異説をさぐつて考察しなければならない。
 問題の「ずば」を宣長以前の諸家が普通の「ずば」の意に解した事は既に述べたが、宣長以後に於ても之に似た説を提起したものがある。それは僧義門である。義門の玉緒繰分は詞の玉緒の研究を補訂したものであるが、同書にはこの「ずば」を「んよりは」と解する説を「妙解と云べし、仰ぐべし」と賞讃しながら、「又思ふにずば〔二字傍点〕のまゝにてきこゆるやうに復《はた》おぼゆるやうを云はゞ」といつて、「かくばかり戀ひつゝあらずば高山の」(前掲の實例(3))の歌を「戀ひつゝあるによりて岩根まきて死にもせぬ」と解き、「後れ居で戀ひつゝあらずば追ひ及かむ」(例(4))の歌を「戀ひつゝあるによりておひしかぬなり、急におひしかぬ故にしめゆひてよ」の意とし、「吾妹子に戀ひつゝあらずば秋萩のさきて散りぬる花にあらましを」を「秋萩のちりぬる花ならであるは戀ひつゝあるによりてなり」の意とし「中々に人とあらずば酒つぼに」(例(7))の歌を「なまじひに人とあるゆゑ酒つぼにならず酒にしまれぬ」の意とし「長き夜を君に戀ひつゝいけらずばさきて散りぬる花にあらましを」(例(18)を「君に戀ひつゝ生けりをるゆゑにさきてちりにし花ならでうき世にうくもあるぞ」の義と解して、「すべてのうらへ返しみれば、いづれも同《ひとつ》につらぬきて一首々々の趣はた穩ならずとはなく明にきこゆるなり」といつて居る(玉緒繰分、波卷、四十三丁)。いかにもかやうに解釋すれば言語上の解釋は少しも無理はないけれ(145)ども、一首全體の意味から見て簡素率直の趣なく、奈良朝の歌として不自然であるとの感を免れ難い。殊に例(4)の歌を「戀ひつゝあるによりて追ひ及かぬ」と解する如き、どうしても附會の説としか考へられず、また古事記の思熊王の歌の如きも「痛手を負うたから入水しない」の義になつて、道理から考へても、又入水せられる時の歌であると傳へられてゐる點から見ても當を得たものとはおもはれない。要するにこの義門の説は歌全體の意味から觀て承認しがたいのであつて、この點に於ては宣長の解釋の方が數等優れて居るといはなければならない。義門も宣長の説を排するのではなく「素よりそはいとかしこきときざまと思ふうへに又斯ても解せずはあらぬぞといひ試みるのみなるぞかし」といつて居る。おもふに義門は宣長の説の巧なるに服しながらも、殊に語學者として、語學上の説明の出來ないのに不安を感じて別の解釋を試みたのであらうが、それにも充分滿足する事が出來なかつたのであらう。
 
       三
 
 以上の諸説は、いづれも前掲の「ずば」の語例を皆「ずば〔右○〕」と認めて少しも疑はなかつたのであるが、それは「ずば〔右○〕」ではなく「ずは〔右○〕」であるとするものがある。その一つは萬葉集古義の著者なる鹿持雅澄の鍼嚢であつて、同書(上、百七丁表)に「ずは」と標し傍に「んよりはノ意」と註して、萬葉(146)集及古事記に於ける諸例を擧げて居る(古義の本文にもズハと訓して居る)。しかし何故に「ずは」と讀んだか、また「ずは」がどうして「んよりは」の意になるかといふ點については何等の説明をも加へて居ない。
 鍼嚢は唯「ずば」を「ずは」としただけで、その意味については宣長と同じく「んよりは」の意と解したのであるが、こゝにまたその意味についても別の解釋をとつたものがある。それは香川景樹の萬葉集※[手偏+君]解にあげた熊谷直好の説であつて、同書「かくばかり戀ひつゝ不有者《あらずは》高山の」の歌の註に「直好云」として「コハ戀ツヽアラズ高山ノト云バカリノ詞ニテ者ハ例ノ輕ク見ルノ也」とあるもの即是である。これによれば「ずは」は「ず」に輕く「は」を添へただけで、たゞ「ず」といふとほゞ同じ意味になる。これは直好の説であるが、景樹も之に賛し、宣長の説を斥けて「コノ不有者ノ詞ヲアランヨリハト云言也ト云ルハアラズサテハ不ノ字ノ意聞ユズ」といつてゐる。
 これと同じ説は語學書の中にも見えるのであつて、黒澤翁滿の言靈のしるべ中篇下(四十八丁以下)「ずは」の條に「ずは〔二字右○〕はず〔右○〕には〔右○〕の添《ソヒ》たるにては〔右○〕はいと輕し故にのぞき去《サリ》ても心にさまたげなし、然るにずば〔二字傍点〕とずは〔二字傍点〕とをまがへ誤りてよく分つ人稀なり」と説き、
  今日來ずば〔二字傍点〕明日は雪とぞふりなまし消えずは〔二字傍点〕ありとも花と見ましや
の歌をあげて「ずば」と「ずは」との區別を示し、猶「ずは」の例として
(147)  たちしなふ君が姿を忘れずは〔二字傍点〕世の限にや戀ひわたりなん(萬葉卷二十)
  死ねとてかとりもあへずは〔二字傍点〕やらはるゝいといきがたき心ちこそすれ(大和物語)
の二首をあげ、次に萬葉卷二の「おくれ居て戀ひつゝあらずは〔二字傍点〕追ひしかん道のくまわにしめゆへわがせ」以下、宣長が「んよりは」の意の「ずば」の例とした歌を列擧して、「此類を昔より誰も/\ずば〔二字傍点〕とよみて種々の説をなせども皆あたらず、つら/\考ふるに集中に此辭いといと多かるを大方は者〔右○〕の字を書《カケ》り又たま/\假名書なるも波〔右○〕の字を書きたれば必清て訓《ヨム》べくして濁るべき理なし、又濁る時は其心もおだやがならず、清《スム》時はいづれの歌も貫きて心明らかに聞ゆ、いづれもかの消《キエ》ずは〔二字傍点〕有《アリ》とも花と見ましやのずは〔二字傍点〕と一にしては〔右○〕はいと輕く添たるものなり、さればは〔右○〕文字をのぞき去て見ればいよゝ聞え安《ヤス》し」と説いてゐる。又、物集高世の辭格考抄本下「不の活辭」の條下(二丁以下)にも、まづ「んよりは」と解する宣長の説をあげて「意はさにて聞ゆれどさやうにいふズバの格心得がたし」と評し、次に前に掲げた繰分の説を出して「ひとわたりきこえたるやうなれどもさはいひがたきものあればひがこと也」と斥け、さて自説を出して『されば考ふるに古事記中の「いざあぎふるくまがいたで淤波受波〔二字傍点〕にほ鳥のあふみの海にかづきせなわ」の歌も萬葉のともはらおなじよみやうなれどもハ〔右○〕をばすみてズバとはにごりたらず書紀なるも孺破とあるにてしるべし(こゝに次のやうな割註がある「波〔右○〕も破〔右○〕も清音の字也但濁音のはすみてはよむまじけれど清音のはにごりてもよむべきあるおほかたの例はさ(148)りながらこはそのかぎりにはあらずかし」)されば上のズバどもゝこれに准へてバをばすみてよむべし(割註に「萬葉のもおほく清音の字をかきたるなり」)そはこゝの連用のズの三段辭の一の〔二字□で囲む〕ハにかゝれるのと心得て也、さ心得ればいづれの歌も何のむつかしきこともなくやすらかに聞ゆるをや、さるは「見ず〔右○〕あれど」「きかず〔右○〕あらめや」を「ミズハ〔二字右○〕アレド」「キカズハ〔二字右○〕アラメヤ」などいふたぐひにてハはかろくそへたるなれば假にのぞきて「かくばかりこひつゝあらず高山の云々」「しるしなきもの思はず一杯の云々」「おくれゐてこひつゝあらず〔右○〕おひしかん云々」「ふるくまがいたでおはずにほ鳥の云々」とよみて心得べし』と説いて居る。連用のズとは「絶えず〔右○〕行く」「思はず〔右○〕聲を擧ぐ」のやうに打消の助動詞「ず」が下の用言につゞくものを言ひ、一のハ〔三字傍点〕とは助詞の「は」をいふのである。
 以上の諸説のうち、※[手偏+君]解にある直好の説は至て簡單で唯結論を述べただけであるが、言靈のしるべ及辭格考抄本の説は説明の順序方法に多少の相違はあるが、共に文字の用法からして「ずば」の「は」を清と斷じ、傍例によつて「は」がただ輕く添へられ之を除き去つても意味に重大な變化を來さゞるものある事を證して、「痛手負はずは」「戀ひつゝあらずは」を單に「痛手負はず」「戀ひつゝあらず」の意味であると論じたのである。この解釋は語學上の説明も容易に出來、一首全體の意味も穩當であつて、宣長の説よりも一層すぐれたものと認められる。さうして自分がこれらの説と關係なく全く獨立に研究を試みた結果も亦同じところに歸著したのである。
 
(149)       四
 
 自分は前からこの種の「ずば」を語法上の一疑問として、その性質を明にしたいと望んで居たのであるが、今より十數年前(明治四十二年頃)專ら奈良朝語法の研究に從事して居た時、たま/\萬葉集中に左の如き「ずば」の例を發見した。
  たちしなふ君が姿を和須禮受波《わすれずば》世の限りにや戀ひわたりなむ(萬二十、四四四一)
これは上總國朝集使大原眞人今城が京に向つて出發する時、郡司の妻女等が餞に詠んだ歌であるが、萬菓集古義などにはこの「和須禮受波」を「わすれずば」とよみ「忘れなかつたならば」の義に解して居る。しかしながら「一生の間戀しく思ひつゞける事でせう」と別を惜む詞に「もしあなたの御姿を忘れなかつたならば」と條件をつけるものが何處にあらうぞ。この解釋の不穩當である事は何人も疑はないであらう。しからば誤は何處にあるかといふに「たちしなふ君が姿を忘れず」の句も「世の限にや戀ひわたりなむ」の句も共にその意義明白であつて、他の解釋を容れる餘地がない。もし誤があるとすれば「たちしなふ君の姿を忘れず」を假定的のものとして、「世の限にや戀ひわたりなむ」の條件とした點、即「ずば」といふ語形式の解釋に在るに違ひない。しかるに、この「ずば」は普通の意味に解すれば古義の如く解釋するの外なく、又宣長が一種の「ずば」を解したやうに「んよりは」(150)の義とすれば全然意味を成さなくなる。そこで原文を檢するに、このところは「和須禮受波」とあつて、文字から見れば必しも「忘れずば〔二字右○〕」と讀まなければならないのでなく「忘れずは〔二字右○〕」と讀む事も出來るのである。萬葉集に於ける文字の用法からすれば、「波」は清音に用ゐるのが常であつて、唯、濁音に讀まなければ意味が通じない場合に限つて濁音に讀むのであるから、之を濁音によんで解釋に苦しむ今のやうな場合には、清音によむ方が寧合理的である。清音とすれば「忘れずは」とよまなければならないが、それでは、この「忘れずは」は何と解すべきであらうか。
 「忘れずは」の「は」はどうしても助詞と解するの外ない。「ず」は奈良朝に於ても連用形かさもなければ終止形であるが、助詞「は」は如何なる場合にも終止形についた例が無いから、「ず」は必連用形でなければならない。さうして、連用形の用言又は助動詞に「は」がついた場合は、たゞ「は」の意味が附け加はるだけで、連用形それ自身の意味職能は少しも變化せず、隨つて連用形をとつて居る用言又は助動詞の他の語に對する關係は「は」があつても無くても何等の相違を來さないのが常である。例へば「過ぎは〔三字右○〕行けども」「善くは〔三字右○〕あらず」「願ふべくは〔三字右○〕あれど」、等に於て、「は」は「過ぎ〔二字右○〕行けども」「善く〔二字右○〕あらず」「賜ふべく〔二字右○〕あれど」と下の用言につゞくべき用言又は助動詞の連用形についたもので、「は」を省いても「過ぎ」「善く」「賜ふべく」等の意味職能は少しも變化を受けないのである。右の諸例は下の用言に直につゞくものばかりであるが、他の語を隔てゝ用言に續く場合にも亦同樣であ(151)る事は次の例によつても知られよう。
  見ずもあらず見もせぬ人の戀しくは〔四字右○〕あやなく今日やながめくらさむ(伊勢物語)
これは「見もせぬ人の戀しく、ながめくらさむ」とつゞく「戀しく」に「は」がついたもので、その「戀しくは」は「あやなくけふや」の語をへだてゝ「ながめくらさむ」につゞいて行くのである。この場合に假に「は」を省いても「戀しく」の意味及下の語に對する關係は少しもかはらない。
 「ずは」の性質がかやうなものであるとすれば「忘れずは」は「忘れず」と大體同じ意味になる。否、他の語句に對する關係に於ては「忘れず」と全然同じことになる。さすれば、かの歌は大體「あなたの御姿を忘れず〔右○〕(又は忘れずして〔三字右○〕)一生の間戀しく思ひつゞける事でせう」の義となつて、人を送る歌としては極めて適切なものとなるのである。こゝに於て、「忘れずば〔二字右○〕」が誤訓であつて「忘れずは〔二字右○〕」と解するのが正當である事、明瞭であつて少しも疑を容れない。
 かくの如く、從來「ずば」と解せられてゐたものの中に、實は「すば」でなく「ずは」であつて、「ず」又は「ずして」の義と釋かなければならない例があるとすれば、宣長が「んよりは」の義に解した一種の「ずば」の諸例も亦かやうに解する事が出來ないであらうか。
 まづ、前に掲げたこの種の「ずば」のあらゆる實例について「ずば」にあてた文字を見るに古事記には「受波」とあり日本紀には「孺破」とあり萬葉集には卷五に「殊波」、卷二十に「受波」とあり、(152)他はいづれも「不――者」とある。古事記では「波」は專ら清音に用ゐ、日本紀でも「破」は清音に用ゐる。萬葉集では「波」は多く清音であり、「者」は清音が多いが濁音にも用ゐる。古事記は清濁の別が嚴重であり、日本紀も大概清濁をわかつて居る。萬葉集は清音の假名を濁音に用ゐる事もあるから一概に論ずる事は出來ないが、右の「ずば」の諸例に於ては必濁音によまなければならない文字は一つもないのであるから、紀記の例に準じて清音とすべきである。さすれば「ずは」と讀むのが正當であつて、「ずば」とよむのは寧違例である。
 かやうに前掲の諸例皆「ずは」であるとすれば、その外形は「忘れずは」の「ずは」と全く同一になるのであるが、それではその意味も之と同じく「ず」又は「ずして」の義と解したならばどうなるか。前に擧げた諸例について檢するに、(1)及(2)は「痛手を負はずして淡海の海に入水しよう」の義となり、(3)は「これ程戀ひ/\て居ないで(自分も同じ旅路に出立ち險しい山路に行きたふれて)岩を枕にして死なうものを」の義となり、(4)は「遺つて居て戀ひ/\て居ないで後を追うて行かう。路の角々に目標をしておいて下さい」の義、(5)は「吾妹子に戀ひ/\て居ないで、咲いて散つてしまふ萩の花のやうに死んでしまつたがよからうものを」の義、(6)は「甲斐のない物思ひをしないで濁酒の一杯も飲むがよささうだ」の義、(7)は「なまなか人間となつてゐないで酒壺になりたいものだ。さすればいつも酒ぴたりになつて居られよう」の義となり、其他の諸例も皆同樣であつて、一首一首の意味(153)が少しも無理なく穩に解せられるのである。この解釋は語學上の説明にも困難を感ぜず、歌全體の上から見ても附會の厭なく趣を損ふ處もない。どの方面から見ても穩當であつて、まさしく正鵠を得たものと思はれる。
 かやうにして宣長が「んよりは」の意と解した一種の「ずば」は實は「ずは」であつて、「ず」又は「ずして」の義と解すべきものである事が明かになつた。されば、宣長の解釋は勿論誤であるが、しかも宣長の説が語學上の説明はともかく、意義の解釋に於ては甚だ適切であつて當を得たもののやうに見えるのは何故であるかといふに、これは同じやうな思想をあらはす相似た二つの表現法があるからである。
  (甲) 汽車で行かないで船で行くがよい
  (乙) 汽車で行くより船で行くがよい
 この二つはつまり同じ事を言つたのであるが、違つた表現法を用ゐたもので、言語としては同じではなく、「行かないで」が「行くより」の意味を有するのではない。問題の「ずば」の諸例は(甲)の表現法を用ゐたものであるが、(乙)の表現法を用ゐたものも亦萬葉集中に存するのであつて、
  玉きはる命にむかひ戀ひむゆは君が御船の梶柄にもが(萬八、一四五五)
の如き正に是である。宣長が詞玉緒(卷七、三十一丁)にこの歌をあげて
(154)  此「戀んゆはと「戀つゝあらずはと同じ意にて一首の趣もずば〔二字傍点〕とよめる右の歌どもと全く同じきを思ふべし
といつて居るのは、此の二つを混同して、(甲)を(乙)の意味に解釋したのであつて、言語の解釋としては失敗であるけれども、一首全體の意味は、略同じ處に歸着するのであるから、その説が正當なものとして多くの學者に認容されたのである。さうして我々も亦歌全體の解釋としては宣長の説にも採るべき點がある事を認める。即、宣長が「ずば」を「んよりは」の義と釋したのは、此等の歌に、二つの場合を比較して彼よりも寧此を選ぶといふやうな意味がある事を認めたのであつて、かやうな趣は、たしかにこれ等の歌の思想中に存するのである。それ故「ずは」を我々の説の如く解釋する場合にも、「寧」といふ語を加へて「痛手を負はずして寧〔右○〕入水しよう」「戀ひ/\て居ないで寧〔右○〕後を追つて行かう」と釋いた方が一層適切に感ぜられる。しかしかやうな比較選擇の意味は(乙)の如き文では「より」又は「ゆ」のやうな比較を示す助詞を用ゐて、一を抑へて他を揚げるといふ方法によつてあらはしてゐるのに對して、(甲)の如き文に於ては「ずして」又は「ずは」の如き打消をあらはす語を用ゐて、一を捨てて他を採るといふ方法によつてあらはしてゐるのである。それ故「ずは」はどこまでも「ず」又は「ずして」の義であつて、「よりは」又は「寧」といふやうな比較選擇の意味は全然無い。ただ「寧」といふ語を添へて解釋すれば、歌全體の思想に存する、一方を斥けて他を擇ぶ意趣を十分(155)に明にして、一層適切な解釋が得られるといふまでである。
 
       五
 
 以上は自分が十數年前に試みた獨自の研究の結果であつて、何等他人に負ふ所無いものである。しかるに其後言靈のしるべ及辭格考抄本を閲して、既に兩書に同じ説がある事を知り、自分の考が此等の獨創に富んだ先覺者の見解と一致するのをよろこんだが、自分の研究はその資料に於てもその結果に於ても、此等の人々殊に黒澤翁滿のと甚しく違つた所がないのを見て、事新しく自分の説を發表するには及ばないと考へて敢て之を公にしなかつたのである。然るに、そののち世にあらはれた山田孝雄氏の奈良朝文法史にも、宣長の説を否定しながら、猶「ずば」が「ずは」の誤である事に心づかず、之を普通の「ずば」(否定の假設條件をあらはすもの)として釋するのを適切であるとし、
 云々の事を今現に云爲す。若し、出來得べくば之と反對に、即之を否定して次にいふ云々の事を云爲すべきを
といふやうな思想上の徑路を經たものと主張して居り、世間一般には今以て宣長の説が行はれ、言靈のしるべ等の説はあるとも知られないやうな有樣であるので、之に關する從來の諸説と自分の研究の結果とを述べて、言靈のしるべ等の解釋の正當な所以を説いたのである。これによつて奈良朝語法の(156)一疑問たる一種の「ずば」の本體が明になり、その正しい意味が世に認められるやうになれば幸である。
 
(157)     「とほしろし」考
 
 「とほしろし」といふ語は萬葉集に見える語であつて、集中左の二箇處にあらはれてゐる。
 卷三、登神岳山部宿禰赤人作歌一首並短歌
   明日香能舊京師者山高三河登保志呂之春日者山四見容之秋夜者河四清之《あすかのふるきみやこはやまたかみかはとほしろしはるのひはやましみがほしあきのよはかはしきやけし》
 卷十七、思放逸鷹夢見感悦作歌一首並短歌
   大王乃等保能美可度曾美雪落越登名爾於弊流安麻射可流比奈爾之安禮婆山高美河登保之呂思野乎比呂美久佐許曾之既吉《おほきみのとほのみかどぞみゆきふるこしとなにおへるあまざかるひなにしあればやまたかみかはとほしろしのをひろみくさこそしげき》
この語の意義については、契沖は「おほきなるをいふ」(代匠記初稿本卷三上)又は「大きにゆたけき意なり」(同精撰本卷三上、七三頁)と説き、萬葉考にも「何にても大きなる事」(卷十四、全集本二千七百八十一頁)と説いて居るが、宣長にいたつて「あざやかなることなり」(玉小琴、全集本六二四頁)と解し、荒木田久老も亦「さやけしといふに同じ」(萬葉考槻落葉、三十八丁オ)と釋してから、後の註釋書は大概之に隨ひ、略解には「いちしろくあざやかに見ゆる事をいへり」(卷三上、三十八丁オ)と説き、古義には「清淨なるを云」(三卷上、百五十七丁ウ)と説いて、宣長と久老の説を引いて居る。要するに從來の(158)註釋家の説は
 一、「大なり」の義とするもの
 二、「あざやかなり」「さやけし」の義とするもの
の二つにわける事が出來るのである。さうして現今では、略解や古義が廣く行はれて居る結果、第二の説が一般に信ぜられて居るやうである。しかるに近年井上通泰博士は萬葉集新考に於て、第二の説を捨てて第一の説をとり、雄大の義と解せられた。自分は大體博士と意見を同じうするものであるが、一二博士の考證を補ふべきものがあり、又多少所見を異にする點もないでもないから、左に愚見を開陳してみたいとおもふ。
 まづ宣長や久老が、「とほしろし」を「あざやか」又は「さやけし」の義に解した理由を考ふるに、主として之を「いちじろし」又は「しろし」と關係あるものと考へたによるのである。即、宣長は
  とほしろしはあざやかなることなり。凡てあざやかなることをしろしと云。いちしろきも是也。又御火しろくたけと云もあざやかに也。續世繼に其大納言の御車のもむこそきらゝかにとほしろく侍りけれと有。中頃までもいひし言にて、古の意と同じ。歌に遠白妙と云も、物あざやかなるを云り。(玉小琴卷三、全集本六二四頁)
と説いて居るのであつて、「しろし」に「あざやか」の義があるから「いちしろし」にもまた「とほし(159)ろし」にも同じ意味があると考へたのである。
 さすれば宣長は「とほしろし」の後半「しろし」を、顯著の義を有する「しろし」と同形であるところから、之と同語と考へたものと見なければならないが、然らばその前半「とほ」はどんな意味を有し、いかなる役目をしてゐるか。すべて、一の語に他の語又は接頭語が加はつて一語を成す場合には、それだけ意義が加はる筈であるのに、「しろし」に「とほ」の加はつた「とほしろし」は、「しろし」とどれだけ意味の相違があるか。かやうな疑問に對して適當な解答を與へる事が出來ない以上は、この説も唯漫然と語の一半の意義を以て全體の意義を臆測したに過ぎないのであつて、我々は容易に之を信ずる事は出來ない。しかるに宣長はこの點について何の説明をも與へて居ないのである。久老は、「とほしろし」を「いちしろし」と對比して
  灼然をいちしろしといふをむかへて此とほしろの言を考るに、いちととほとはその意相近し。いちとはあるが中にぬき出ていふ言にて、俗にいつち至つてなどいふ言にて、至のたりを約めていちとはいふなるべし。さては、とほも達《とほる》の意にて、達と至とはやゝ近し。いづれ白きはあざやかなるをいへば、さやけしといふにおなじ(槻落葉、三十八丁オ)
と説き、「とほ」は「達《とほる》」の「とほ」で、至つての義に近いと説明して居るが果して「とほ」にそんな意義用法があるであらうか。他に適切な類例でもないかぎり、たやすくこの説明に滿足する事は出來(160)ない。
 宣長及久老の説は以上の如き難點があるのであるが、姑く之を問はないとしても、自分としては、猶他の重大なる點に於てこの説に對する根本的の疑をもつてゐるのである。それは、「とほしろし」の「しろし」を、白又は顯著の意を有する「しろし」及、それから出たと覺しい「いちじろし」の「しろし」と同語と認めるのは果して許さるべきかどうかといふ疑である。萬葉集に於ては、「とほしろし」の「ろ」には呂の字を宛て、「しろし」(白)又は「いちじろし」の「ろ」には路の字を宛てて居るが、元來萬葉時代には「ろ」の假名は概して二類にわかれて居たのであつて、呂と路とは別の類に屬し、少數の例外はあるが殆ど混用する事なく、隨つて、當時その發音を異にしたものらしく考へられる。さすれば「とほしろし」の「しろし」と「しろし」(白)及び「いちしろし」の「しろし」とは同音でなく、隨つて、之を同語と認める事は容易に許されないのである。かやうな點から觀ても宣長久老等の説は甚疑はしいといはなければならない。(「ろ」の假名に二類の別がある事はまだ一般に認容せられないが、既に石塚龍麿が假名遣奧山路に於て論じて居り、自分も獨立に研究した結果之を是認する事が出來たのである)。
 すべて古語の意義を明にするのに、最初からその語源を考へ、語を箇々の成分に分析して、各の成分の意義から全體の意義を推定するのは甚危險であつて、普通の場合に用ゐるべき方法ではない。必、(161)出來るだけ多くの實例をあつめ、それから歸納して正しい意義をもとめなければならないのである。それも他に實例が無い場合にはやむを得ないが、「とほしろし」の例は奈良朝以前のものとしては、萬葉集中の二例だけであるけれども、後世のものとしては、從來の諸書に擧げられてゐるだけでも二三にとゞまらない。まづ契沖があげたのは、日本紀卷二(神代下)の訓に見えるものであつて、契沖が「とほしろし」を「大なり」又は「大きにゆたけきなり」と釋した根據は實にこゝにあるのである。
  集《ツトヘテ》2大小之魚《トヲシロクヒキイヲトモヲ》1
これは寛文版の日本紀にある訓であるが、鷹永年間書寫の奥書のある日本紀私記にも
  大小之【止乎之呂久知比左岐】
とあつて、古くからかやうな訓があつた事が知られる。又、大矢透氏の編せられた假名遣及假名字體沿革史料によれば、石山寺所藏大唐西域記の訓點(長寛元年に附したもの)に
  人|骸偉大《ホネトヲシロシ》
とある。これも亦同樣な例である。これらによれば、「とをしろ」といふ語に大又は偉大の義がある事明である。この「とを〔右○〕しろし」は萬葉集中の「とほ〔右○〕しろし」と假名のちがひがあるので直に同語とする事は出來ないが、以上の諸書には假名遣の違ひが少くないのであつて、當時の發音は「とほ」も「とを」も全く同一であつたと認められるから、之を同語とみとめても誤ではなからうとおもふ(契(162)沖は日本紀の例をトホ〔右○〕シロクと假名まで改めて引用してゐる)。
 漢文の訓點以外に於ては、宣長は屬世繼(今鏡)の例と、歌の一體としての遠白體(遠白妙とあるのは誤である)とを擧げて居り、古義には長明無名抄の例を引いて居るが、雅言集覽になると、その外に愚管抄や悦目抄からの例をもあげて居る。宣長の擧げた遠白體の名は古くは愚秘抄に見えてゐるが、この愚秘抄の文は「遠白」といふ語の意味を知るに有力な資料である。
  抑歌の體一境にあらず。(中略)先、十體とてふるくもさだめをきて侍り。かの十體を本基として、猶風姿あまたまじはるべきにや。いはゆる十八體なり。その體といふは、遠白、秀逸、物哀、強力、存直、一興、拔群、花麗、行雲、廻雪、理世、撫民、至極、松體、竹體、高山、澄海、不明、これらのすがたなるべし。(中略)十八體をもとの十體によせあはせて心詞の位品をたて侍るべし。もしあふべきやらん。幽玄【行雲廻雪】 長高【高山遠白】 有心【物哀、不明、理世、撫民】 麗體【存直花體】 事可然【秀逸拔群】 面白【一興】 挫鬼【強力】 至極鰹、松體、竹體、澄海體、此四は更によせがたくこそ(下略)
この文によれば、遠白體は和歌十八體中の一つであつて、十八體を古來の十體に配當すれば、遠白體は、高山體(十八體の一)と共に長高體(十體の一)に當るといふのである。遠白體とは遠白き體であつて、これが高山體と並んで、長《たけ》高き體に攝する事が出來るとすれば、「高山」が「長高き」と似よつた意味を有すると同じく、「遠白き」は「長高き」と相類した意義を有するものと考へられるのであ(163)るから、宣長の如く之を「あざやか」又「鮮麗」と解するのは穩當でなく、契沖の如く「大きなり」又は「雄大」「偉大」と解してはじめて妥當なるを覺えるのである。
 「とほしろき」が「たけたかき」と相類した思想をあらはすものである事は猶他の例によつても見られる。長明無名抄下、俊惠定歌體事の條に、匡房の「白雲と見ゆるにしるしみ吉野の吉野の山の花ざかりかも」の歌を評して
  これこそよき哥の本とはおぼえ侍れ。秀句もなく、かざれることばもなけれど、すがたうるはしくきよげにいひくだして、たけたかくとをしろきなり。
といつてゐるが、「姿うるはしくきよげに」と相似た事を並べあげ、次に「たけたかくとをしろきなり」とあるのであるから、「たけたかく」と「とをしろき」とは、やはり相似た思想でなければならない。もし「とをしろき」が、「あざやか」又は「さやか」の義であるとすれば、むしろ「姿うるはしくきよげに」といふに近く、「たけたかく」と伴ふには不適當である。宜しく雄大偉大の義とすべきである。かやうに「たけたかくとをしろき」とつゞいた例は、また悦目抄にも見えて居る。
    風吹けば沖津白波龍田山夜半にや君が獨越ゆらむ
  是はおぼろけの歌ならんには、貫之が新撰隨腦に哥の本とすべしと信をとるべしや。大かた哥をよむべき有樣、彼隨腦にもるゝ事なき也。あまたの躰さま/\にしるせり。その中にたけたかく(164)とをしろき〔十字右○〕を第一とすべし。よく/\心得わくべきなり。
 猶、無名抄には、右に引用した文の數行後に「心あらむ人に見せばや津の國のなにはあたりの春のけしきを」の歌をあげて
  これははじめの哥のやうにかぎりなくとをしろ〔四字右○〕くなどはあらねど、いうにたをやかなり。
と評し、更に「よそにのみ見てややみなん葛城や高間の山の峯の白雪」を
  すがたきよげにとをしろ〔四字右○〕ければ、たかまの山ことにかなひてきこゆ。
と評してゐる。これらの例も、雄大の義と解すべきこと、井上博士が説かれた通りである(萬葉集新考卷三上、百頁參照。猶博士は擧げられなかつたが、悦目抄の「心あれど詞かざらざれば歌おもてめでたしとも聞えず。詞まさりたれどもさせるふしなければよしとも覺えず。めでたきふしあれどもいふなる心詞具せねば又わろし。けたかくとをしろき〔五字右○〕はひとつことにすべし。是をぐしたる哥は末代にはおぼろけの人よむべからず」の例も亦同樣に解する事が出來る)。然るに博士は、今鏡及愚管抄に於ける次の二例だけは宣長等と同じく顯著の義と解すべきものと認め、古くは雄大の義であつたが、後に之を遠く著しい義と誤解して用ゐたのであるが、なほ本來の意義に用ゐたものもあつたのであると説明せられた。
  又楊梅の大納言顯雅とて六條のおほい殿の御子おはしき。その末いとおはせぬなるべし。御むす(165)めぞ鳥羽の女院の皇后宮の時、みくしげ殿とておはせし。女院の御せうとの肥後の前司ときこえしは、大納言の聟におはせしかばなるべし。大納言の御車の紋こそきらゝかにとをしろく〔五字右○〕侍りけれ。大かたばみの古き繪に、弘高金岡などかきたりけるにや、それをみてせられけるとぞ。今は乘り給ふ人もおはせずやあらん。(今鏡下、むさしのの草)
  元年十一月七日頼朝ノ卿ハ京ヘ上リニケリ。(中略)七日入ケルヤウハ、三騎/\ナラベテ武士ウタセテ、我ヨリ先ニタシカニ七百餘騎アリケリ。後ニ三百餘騎ハウチコミテ有ケリ。コムアヲニノウラ水干ニ夏毛ノムカバキ、マコトニトヲ白ク〔四字右○〕テ、黒キ馬ニゾノリタリケル。(愚管抄卷六、建久元年の條)
しかしながら、自分の考では、これ等の例もやはり偉大雄大の義に解すべきもので、今鏡のは、すぐ後に「大かたばみの」云々とあるから、車の紋の大きな事を云つたものであり、愚管抄のも、鹿毛の行縢の大きくして風采堂々たるを述べたものと思はれる。果してさうであをならば、萬葉集以後の諸例はことごとく偉大雄大の義であつて、「あざやか」又は「顯著」の義と解しなければならないものは一つも見出されないのである。
 然らば萬葉集の「とほしろし」はどうであるかといふに、何れも「山高み川とほしろし」とあるのであるから、之を「山が高く、隨つて川も大きい」と解して意義上少しも支障がない。たゞ、こゝに(166)考慮を要するのは、萬葉集の「とほしろし」と、後世の語例との間の假名の相違である。上にあげた諸例は、これまでの學者が「とほしろし」の例として擧げて居るものであるが(但、今新に補つたものも二三ある)、仔細に之を見ると、「遠白」と書いたものと「とをしろし」と書いたものとがあつて、「遠〔右○〕白」とあるのは萬葉集の「登保〔二字右○〕志呂之」又は「登保〔二字右○〕之呂思」と假名が同じであるけれども、「とを〔二字右○〕しろし」とあるのは之と假名がちがつてゐるから、萬葉集の「とほ〔二字右○〕しろし」と同語と認めてよいかどうかといふ疑問が起るのである(前にも述べた通り、萬葉集時代には、白の「しろ」と「とほしろし」の「しろ」とは假名に區別があつたのであるけれども、この區別は平安朝に入れば既になくなつて居るから、「とほしろし」を後世に遠白〔右○〕と書いたとて之を同語と認めるには少しも差支ない)。しかしながら「とほ」と「とを」とは平安朝中期以後には既に同音に歸し、兩者の假名の混同したものが少くなく、定家假名遣に於ては「遠」も「とを」と書くべき事になつて居るのであるから、平安朝末期以後の諸書に於て、「とほしろし」を「とをしろし」と書いたとしても少しもあやしむに足らぬのである。まして、我々が見る事を得た諸例は、いづれも轉寫を經たものであるからして、「とほしろし」の「とほ」を「遠」と解して定家假名遣によつて「とを」と改書したものもあるかも知れないのである。さうであるから、假名のちがひは、殆問題とするには及ばないのであつて、從來の學者のなした如く後世の「とをしろし」を萬葉集の「とほしろし」と同じものと觀ても誤はあるまいとおもふ。さすれ(167)ば萬葉集の「とほしろし」も、亦當然後世の諸例の如く「大」の義に解すべきである。
 
(168)     辭書さま/”\
       「とほしろし考」餘談
 
 文學大辭典第二卷の刊行を前に控へて、それだけでさへ手に餘るのに、前から約束の原稿もあつて、身も心も忙しい折柄、本誌の百號記念號に何か書けとの事、迷惑千萬な事であるが、創刊以來編輯に與つてゐる身で、唯一人仲間はづれになるもいかゞと思ひ迷つて居る時、最近刊行の萬葉集論考を奈良の辰巳氏から贈られたので、その中の拙稿「とほしろし考」を讀んでゐる中に、ふと思ひ出した事があるので、それでも書いて責をふさぐ事としよう。
 右の「とほしろし考」は、萬葉集に見えてゐる「とほしろし」といふ語の意義について論じたもので、萬葉の諸註には、契沖眞淵の「大」の義とする説と、宣長久老及び之を承けた千蔭雅澄等の「あざやかなり」「さやけし」「清淨なり」の義とする説とあつて、後説の方が多く行はれてゐるが、實は前説が正しく、且つ、この語は鎌倉時代までも萬葉集に於けると同じ意味で用ゐられた事を論證したものである。
 この研究に從事したのは、かなり古くの事であるが、その際蒐集した資料によると、右に述べた諸(169)註釋書の説の外に、辭書の類には猶ちがつた説があつたのであるが、それは結局誤解に出たものである事がわかつたので、右の論文には載せないでおいたのであつた。しかし、どうしてその誤解が生じたか、又その誤つた説が、後の辭書類にどんなに影響してゐるかを見るのは、多少の興味がないでもなく、また何かの參考にならないでもない。
 私が、はじめて右の研究に手をつけたのは、大日本國語辭典がまだ出來てゐなかつた時分と記憶するが、まづ「とほしろし」の意義を手近の辭書にもとめて、言海には「遠ク著シ。氣高ク鮮ナリ」とあり、辭林には(一)遠くより白く見ゆ「とほしろくさき魚」(二)氣高く鮮かに見ゆ「山高み川――」とあるのを知つた。主な註釋書や辭書と比較した結果、言海の解釋は、雅言集覽に「いちじるくあざやかなる意也」とあるのから出て、多少の修補を加へたもので、辭林の(二)の解も之と同種のものである事がわかつたが、雅言集覽の説は萬葉略解に「いちしろくあざやかに見ゆる事をいへり」とあるに基づくもので、結局萬葉註釋番から出たものである。處が、辭林の(一)の解釋は、言海の「遠ク著シ」とあるに似てゐるやうではあるけれども、實は全く別のもので、註釋書の類には見出す事が出來ない説である。但し、そこにひかれた「とほしろくさき魚」は、契沖も代匠記に引用してゐる日本書紀卷二の「集《ツドヘテ》2大小之魚《トヲシロクヒキイヲドモヲ》1」の訓トヲシロクヒキイヲらしく思はれるが、契沖はこの日本紀の訓を根據として、「とはしろし」を「大」の義と解してゐるのである。
(170) それでは、どうして、この日本紀の訓から辭林の(二)のやうな解釋が出たかが疑問になるが、これは、幸に谷川士清の倭訓栞によつて解く事が出來た。即ち、同書には、萬葉集無名抄等から「とほしろし」の例を引いた後に「神代紀に大小之魚をとほしろくひきいをともと訓せり。網曳の魚を遠く望めば白くみゆるをいふ成べし」とある。士清はヒキイヲを網引の魚と解し、「とほしろく」を「遠白く」の義として、遠く望めば白く見ゆると解したのである。これが辭林の「遠くより白く見ゆ」といふ解釋の根源になつたと考へられる。
 しかし、この解釋はいかにも不思議である。神代紀のこの條は、海神が彦穗出見尊の失はれた鈎を捜す爲に魚を集めて尋ねた事を述べた處であるが、士清の解釋にしたがへば、引網でひきよせて魚どもを集めたやうに見えるが、もしそんな意味であるならば、「集大小之魚」など書く筈はない。「大小之魚」の訓トヲシロクヒキイヲドモは、あらゆる漢文の訓と同じく原文と語々相當る訓でなければならない。ところが、この訓は、實は少々不完全で、又少し誤のある訓であつた。即ち、トヲシロクは「大」の訓で、萬葉の「とほしろし」と同語であるが、ヒキは「小」の訓チヒサキの終の部分サキにあたるもので、ヒはサの古體字※[七のような字]を誤つたものである(日本紀私記には「知比左岐」とある)。士清はヒキのサキである事に心づかず、之を曳《ヒキ》と解して曳網の魚を聯想し、それに基いて「とほしろく」の意味を考へたのである。かやうにして、倭訓栞の説は一顧の價値もないもので、契沖の説が正しい事(171)がわかるのであるが、しかし萬葉集の解釋には契沖の説が用ゐられず、宣長久老の説が永く行はれたと同じく、辭書に於ては、倭訓栞の説が、宣長久老の説及び之に多少の修補を加へた説と相並んで明治以後までも勢力を保ち來つたのは不思議といへば不思議である。
 明治以後の辭書で、和訓栞の説をはじめて採用したのは何であつたかまだ確めないが、私の知る範圍で最古いのは、山田美妙の日本大辭書(明治二十六年刊)である。その「とほしろし」の條に、(一)遠ク白ク見エル(二)氣高ク鮮カニ見エルの二つの釋義を擧げてゐる。(一)は倭訓栞の説から出たものであり、(二)は多分言海から出たものであらう。ついで、藤井草野兩氏の帝國大辭典(明治二十九年刊)、棚橋林兩氏の日本新辭林(明治三十年刊)から辭林(明治四十年刊)に至るまで、三省堂出版の辭典には何れも右の二義が並び擧げられてゐる。その中、帝國大辭典には(一)の例として萬葉集の「やまたかみかはとほしろし」を載せたが、辭林には前述の如く「とほしろくさき魚」を擧げてゐる(辭林は多分和訓栞を參照してこの例を擧げたのであらう。しかし「ひ〔右○〕き魚」が「さ〔右○〕き魚」となつてゐるのは、その誤を訂したのである)。辭林の後に出た最學問的な辭書である大日本國語辭典も、亦、二つの意義を出して、その「一」に「遠く隔たりて白く見ゆ」の解を擧げてゐるが、これも亦直接間接に和訓栞の説を承けたものらしい(その「二」には多くの實例を擧げてゐるが、「一」には一つも例を擧げてゐない)。
(172) 言泉の初版は明治三十二年に出て、辭林以前のものであるが、これには「氣だかく鮮かなり」「遠くしるし」の譯をあげただけで、和訓栞の説の影響は見えない。處が、増修版(昭和二年刊)には「遠くより白くきらきらと見ゆ。はるかに鮮かなり」とあつて、その前半に和訓栞又は大日本國語辭典の影響が見えるやうになつた。かやうに、もと/\誤解から出た和訓栞の説は、近年になつても辭書の上にその勢力を失はないばかりか、益その範圍を廣くしたやうな形勢さへ見えるのである。ただ異とすべきは、古く(私の知る限りでは最古く)和訓栞の説を採り入れた山田美砂が、舊著日本大辭林に大増訂を施して新に刊行した「大辭典」(明治四十五年青木嵩山堂刊)に於てはこの説を棄てて、唯「離レテ鮮カデアル」と解した事である。
 物集博士の日本大辭林(明治二十七年刊)は、はじめから和訓栞の説は採らず「みわたしひろ/”\とうちひらけたり。みわたしあざやかなり」と解した。この解釋は、宣長や千蔭の説と通ずる所はあるが、また大分違つた點もあつて、一の新解と見る事が出來るが、しかし確實な根據のあるものではなく、又あまり他に影響を及ぼさなかつたやうである。
 かやうにして、「とほしろし」の語釋に關しては、明治以後の主な辭書に於ては、和訓栞の説が一方に勢力を保つてゐると共に、宣長久老以下の註釋家の説及び之から展開した多少の異説が用ゐられて、契沖が提唱し、眞淵が祖述し、近く井上博士が萬葉集新考中に主張せられ、私も研究の結果これ以外(173)に「とほしろし」の眞義はないと信ずるにいたつた「大」の義とする説は、全く見出されないといふ事になるのである。
 辭書編纂は非常な難事である。博捜は勿論必要であるが、採擇に十分の意を用ゐなければ却つて誤を添へる結果になる。一度採られた説は容易に改め難く、先出の書に於ける誤が永く踏襲せられがちである事は、この「とほしろし」の例を見ても明かである。實際一々の語の解釋に於て、確實な斬新な知識を以て全卷を埋める事は、一書の註釋に於ても容易になし難いものである。まして一般辭書に於ては殆ど望み難い事であらう。私は、尊敬する先哲の書の瑕瑾を指摘したやうな結果になつたが、徒に疵を求めて快とするものではない。否、さやうな心持は、現に辭書の編纂に携はつてゐる私にとつては最遠いものである。唯聊か前者の覆轍を省みて自他の警めとしようとするまでである。
 
(174)     允恭紀の歌の一つについて
 
 日本書紀卷十三、雄朝津間稚子宿禰天皇(允恭天皇)の十一年の條に、衣通郎姫の
  とこしへに君も逢へやも勇魚取《イサナトリ》海の濱藻の寄る時時を
といふ歌を載せてゐる。この歌は箇々の語としては特に難解なものもなく、その意味については別に疑問も起りさうに見えないが、しかも從來の解釋はいづれも首肯し難い點があるやうに想はれるので、一の新しい釋義を提出してみたいとおもふのである。
 それについては、この歌の作られた前後の事情を明にして置く必要があるのであつて、勢、允恭天皇が衣通姫をはじめて召された時から説き起さなければならない。
 衣通姫は、允恭天皇の皇后忍坂火中姫命の妹で、絶世の美人であつたので、天皇は、皇后の好み給はぬのを、策を設けて皇后をして之を奉らしめ給うたのであるが、衣通姫は、姉君の嫉を懼れて度々の天皇の御召にも應じなかつたが、遂に已むを得ず命に隨ひ奉つた。併し天皇は皇后を憚り、別殿を藤原に造つて居らしめ給うた。その翌年、即、天皇即位の八年二月、天皇が藤原に幸して、密に衣通姫の樣子を御覽になつてゐると、姫は天皇の御出になつたのを知らず、つれ/”\と獨居て天皇を戀ひ(175)奉つて、
  吾がせこが來べき宵なりさゝがねの蜘蛛の行ひ今宵しるしも
と口ずさまれたので、天皇もその眞情に感じて、
  さゝらがた錦の紐を解き放《サ》けて數多は寢ずに唯一夜のみ
とお歌ひになつた。あくる朝、天皇は、井の傍の櫻を御覽になるにつけても、
  花くはし櫻の愛でこと愛でば早くは愛でず我が愛づる子ら
と歌つて、相見る事の遲かつたのを嘆じ、深い御いつくしみの情を示された。然るに、皇后は之を聞いていたく恨まれたので、衣通姫は、皇宮に近く居て日夜天顔に咫尺し奉りたいが、吾が姉なる皇后が自分の故に天皇を恨み奉るは甚心苦しいから、皇居を離れて遠くに居りたいと御願ひしたので、天皇は河内の茅渟《チヌ》に宮を築いて衣通姫を居らしめ、それより後は屡和泉國日根野に遊獵に出で立たれ、途すがら茅渟宮に御立寄りになり、衣通姫にお會ひになつたのである。かくて、翌九年には、二月八月十月と三度も茅渟宮に行幸になつた。
 然るに、その翌年(十年)正月又もや茅渟宮に行幸あらせられたので、皇后は、自分は露ばかりも妹を嫉むのではないが、度々行幸になれば百姓の苦となる故、願くはあまり屡御出ましにならぬやうとお諫めになつたから、それより後は行幸も稀になつた。その翌年(十一年)三月にいたつて茅渟宮(176)に行幸があつた時、衣通姫が歌はれたのが、即最初に掲げた「常しへに君も逢へやも」の歌であつて、天皇は之を聞いて、この歌は他人に聽かせてはならない。もし皇后の耳にはひつたならば、必ひどく恨むだらうと仰せられた。それで、その時の人が濱藻を「なのりそ」と名づけたと傳へて居る。
 右の歌の由來に關して書紀の傳ふる所は右の通りであるが、今この歌を原本の形のまゝに録すれは、次の如くである。
  等虚辭陪邇枳彌母阿閉椰毛異舍儺等利宇彌能波摩毛能余留等枳等枳弘
「とこしへ」が「とこしなへ」と同じく常住不斷の義であり、「きみもあへやも」が「君も逢へやも」で、君も逢ひ給へかしと願望する義であり、「いさなとり」が海の枕詞であり、「うみのはまものよるとき/\を」が「海の濱藻の寄る時々を」の義である事は、古來の諸註の一致する所である。しかるに、この歌全體の旨趣については諸家の説必しも一致しない。契沖は「濱藻ノイツトナク來依ル如ク常ニ我方ニ依來テ逢タマヘトナリ」と説いてゐる(厚顔抄中、契沖全集第五卷三四頁)。即、海の濱藻の時々に來寄るのを常に〔二字右○〕天皇が御出になるのに喩へたものと考へたのである。谷川士清は全くこの説を襲踏してゐる(日本書紀通證第十八、八丁)。荒木田久老は最後の句に註して「依時々也。濱藻の海邊に來依るが如く、時々われに來依てあひ給へといふ意也」といつてゐる。(日本紀歌解中、二十四丁表)「時々」は「折々」の意味であらうが、前に「とこしへにきみにあへやも」即、常に〔二字右○〕あひ給へと言ひながら、ま(177)た時々〔二字右○〕逢ひ給へといふのは、前後撞着するではないか。もしさうでないといふならば、その理由を説明しなければならない。然るに久老は之に對して何等の説明をも加へて居ない。然るに橘守部は、この點について明な解釋を與へて居る。稜威言別卷七(十六丁、全集本第三、二百九十四頁)に
  一首の意は、行末長く見すて給はず、君もあひ給へかし。此(ノ)茅渟《チヌ》の海に西風ふきて、稀々濱藻のより來る如く【あまりに滋からず】たゞをりふしごとにとなり。
と説き、更にその後段にいたつて、
  抑衣通姫の然か詔ひしは自身《ワガミ》弟《オト》として姉(ノ)皇后の御念《ミオモヒ》を痛めては、姉妹の間にしてあるまじき事とおぼして和泉(ノ)國まで遠そき給ひたるに、猶あまり屡問給ふがうたてさに如此《カク》しげ/\問せたまはすな、海の濱藻のたまさかに依來る如くに只時々に訪《トヒ》來給ひて、皇后の御恨みを休め長く常《トコ》しくに相變らず逢給へと詔るにて、今(ノ)俗言に、ほそく長く逢給へと云ほどの意にこそあれ
と説明してゐる。即、「とこしへに」は逢ふ事の何時までも斷絶しないのを言ひ、「時々を」はあまり度々でない事を望んだと言ふのである。
 守部のこの説は、上に擧げた難點を巧に解決したもののやうに思はれるのであつて、今も一般に用ゐられてゐるが、これは果して正鵠を得たものであらうか。
 若し此の歌を、右のやうに解すれば、この歌は、極めて微温的な、至つて穩當なさしさはりの無い(178)ものであつて、たとひ皇后の御耳にはひつても少しも差支なく、天皇が「この歌他人に聽かしむべからず、皇后聞かば大に恨みむ」と懼れ給うた理由が理會し難くなるのである。天皇が斯く仰せられたのは、必、この歌に、もつと強い思慕の情が含まれて居るからであらうと考へられる。かやうな點からすれば、むしろ契沖のやうに「常に依り來て逢ひ給へ」と解した方が適切なやうに思はれる。現に飯田武郷も
  一首の意、常住《トコシヘ》に離《カル》る時なく、いかで君も行幸してあへ玉へかし。此茅渟の海に常に西風吹きて濱藻のより來る如く時々ことに、二六時中にいつも/\かはらず見ましとなり。此(レ)後文に是歌
  不v可v聆2他人1云々と憚りたまへるなり。守部の解は宜しからず(日本書紀通釋第四、二二七〇頁)
と言つて居る。
 それでは、我々は契沖及飯田氏の説で滿足出來るがといふに必しもさうでない。契沖は「海の濱藻の寄る時々を」を「濱藻ノイツトナク來依ル如ク」と解してゐるのを觀れば、「時々」を「イツトナク」即、「常に」と解したのである。飯田氏も亦、「時々ことに、二六時中にいつも/\」と解してゐる。これは果して正しい解釋であらうか。
 上代の文獻にあら捜れてゐる「とき」といふ語について調べてみると、上代の日本人は「とき」は決して常住不變のものとは考へず、常に變轉するものと考へてゐた事が知られる。「時つ風」「時の花」(179)「時しあれば」「時毎にいやめづらしく」「時毎にさかむ花をば」「時ぞともなし吾が戀ふらくは」「ひぐらしは時となけども」「時ならず過ぎにし子ら」「雲にしもあれや時をしまたむ」などの如く、「とき」は、或一定の限られた時間をさすのであつて、常住不斷の意味には却つて「時無し」といつたのである。
  三吉野の耳我の嶺に時無曾《トキナクゾ》雪は降りける(萬葉、卷一)
  伊香保風吹く日吹かぬ日ありと云へど吾《ア》が戀のみし等伎奈可里家利《トキナカリケリ》(萬葉、卷十四)
又、「時々」と重ね用ゐたものも、
  等伎騰吉乃《トキトキノ》花は咲けども何すれそ母といふ花の咲き出《デ》來ずけむ(萬葉、卷二十)
の如く、決して「常に」の意味ではない。されば「時々」を「イツトナク」又は「二六時中いつもいつも」と解するのは不當である。その上、海濱に藻の寄つて來るのは、風や潮の工合によるものであつて、決して何時でも寄るものではないから、この點からみても穩當とは想はれない。
 かやうに考へ來れば、「時々」はやはり守部の説の如く折々の義であつて「とこしへ」とは反對の意味となり、隨つて「海の濱藻の寄る時々を」は常しへに逢ふ事の譬に引いたものとは解せられなくなるのである。さすれば、契沖や飯田氏の説は到底認容する事は出來ないのである。
 かやうに、守部の説は前後の事情にそぐはぬ所があり、契沖などの説も語句の解釋に不合理な點が(180)あるのであるが、これは、從來の學者がいづれもあまり注意しなかつた何處かの語句に誤解がある爲ではなからうか。
 そこで、この歌の語句に、從來の説とはちがつた解釋を下し得べきものが無いかと見るに、必しも無いではない。それは第二句「君も逢へやも」である。從來の註釋家は之を「君も逢ひ給へかし」の義と解して誰一人も疑つて居ない。それは「逢へ」を「逢ふ」の命令形と認めたのであつて、命令の意味の「逢へ」に「やも」の添加する事は、日本紀歌之解以後の諸註に指摘して居るやうに、萬葉集などに例がある。併しながら、「あへやも」の形は、かやうにして構成せられたものばかりかと云ふに、決してさうではない。逢ふの已然形(既然形)に「やも」がついてもやはり「あへやも」となる。かやうな、動詞又は助動詞の已然形に「や」又は「やも」がついて文を終止する例が上代の日本語にあつた事は、次の諸例によつて明である。
  たるひめの浦を漕ぐ舟板間にも奈良のわぎへを忘れて於毛倍也《オモヘヤ》(萬葉、卷十七)
  なぐさむる心しなくは天さかる鄙に一日もあるべくも安禮也《アレヤ》(萬葉、卷十八)
  ちゝの實の父の尊はゝそ葉の母の尊おほろかに心盡して念ふらむ其子奈禮夜母《ソノコナレヤモ》(萬葉、卷十九)
  海原のねやはり小菅數多あれば君は忘らす我和須流禮夜《ワレワスルレヤ》(萬葉、卷十四)
  さゆり花ゆりもあはむとしたはふる心し無くは今日も倍米夜母《ヘメヤモ》(萬葉、卷十八)
(181)此等の諸例に於て、「や」は常に疑問の意味を有し、しかも大概皆反語になつて反對の意味をあらはす。即、「思へや」は「思ふか、否、思はず」、「在るべくもあれや」は「在るべくもあらうか、否、在るべくもなし」の義となる。それ故、かの「とこしへに君も逢へやも」の「逢へやも」も、右の諸例と同樣とすれば、「逢ふのか、否逢ふのではない」と解する事が出來る。さすれば、がの歌は
  常始終、君は(私に)お逢ひになるのでもない。あの海の濱藻の時々寄つて來るやうに、唯時々しか御逢ひにならないのであるものを
の義となつて、たまの御出であるから、御ゆるりと歡を盡して御いで下さるやうにといふ意味を含めたものと解する事が出來るのである。元來、衣通姫が、みづから請うて遠地に遷つたのは、姉君なる皇后の嫉を懼れた爲であつて、姫が衷心天皇を戀ひ慕ひ奉つて居た事は、「わがせこが來べき宵なり」の歌によつても明である。然るに、茅渟宮に遷つてからも、初のうちは、天皇は遊獵に事よせて度々衣通姫の許に御出でになつたが、十年正月の行幸の後、皇后が民の煩になるとの理由で屡次の行幸を諫止せられてからは、御出も稀になり、十一年三月にいたつて、甫めて茅渟宮へ行幸になつたので、その間一年以上の月日を隔つてゐる。獨り茅渟宮に居て、久しく御出でのない天皇を戀ひわびて居た衣通姫は、この久方ぶりの行幸を迎へて、必、永く相見ざりしを慨み、たま/會ふを歡ぶの情に堪へなかつたであらう。この感懷が外に發して、この歌となつたとするのは最自然な解釋である。いか(182)に皇后を憚り懼れたにしても、この場合にさう度々御出でにならないで末永く折々御出で下さるやうにと歌つたとするのは、どうしても人情に遠いといはなければならない。かやうな歌であつたればこそ、天皇は、皇后が聞いて大いに恨まれる事を憂ひて、この歌他人に聞かしむべからずと仰せられたのである。
 かやうに考へ來れば、右の解釋は、語句の釋義にも不合理な點なく、前後の事情にも適切であつて、恐らくは當を得たものであらうと考へられる。
 以上、我々は、「君も逢へやも」の「逢へ」が從來命令形と解せられてゐたのを、また已然形とも解し得る事を認めて別の解釋を試み、この新解釋が、この歌の作られた前後の状勢に照して最妥當なものである事を説いたのである。併しながら、この「逢へ」が、右の如く已然形と解せられると共に、また命令形とも解し得る以上は、從來の説でも、守部の説の如きは、語句の解釋には缺點なく、唯斯く解すれば前後の事情に適合し難い所があるといふばかりであるから、この説もあながち誤謬として斥け難いといふ者があるかも知れない。この點については、自分は猶一歩進んで、「逢へやも」の「逢へ」は必已然形と解すべきもので、之を舊來の諸説の如く、命令形とするのは全然誤であると信ずるのである。それは書紀の原文にこの「逢へやも」の「へ」に閉の字を宛てて居るからである。奈良朝以前の文獻には「へ」に用ゐた假字は二類に分れ、同じ「へ」の假字でも幣覇陛弊蔽敞返遍平〔八字傍点〕等は互(183)に通じて用ゐ、閉背俳杯沛珮〔六字傍点〕などは又互に通用するが、幣の類と閇の類とは決して互に通ずる事なく、その何れの類の假字を用ゐるかは、語によつて一定して居るのである。例へば邊《ヘ》、家《イヘ》、歸《カヘル》の「へ」には幣の類を用ゐて閉の類を用ゐず、上《ウヘ》、妙《タヘ》、贅《ニヘ》の「ヘ」には閉の類を用ゐて幣の類を用ゐたものはない。動詞の活用語尾ではハ行下二段の經《ヘ》、敢《アヘ》、集《ツドヘ》などは將然形でも連用形でも共に閉の類を用ゐるが、ハ行四段は已然と命令とは別の假字を用ゐるのであつて、已然は閉の類を用ゐ、命令は幣の類を用ゐて、決して互に混同する事がない。それ故、ハ行四段動詞の語尾「ヘ」が已然形であるか命令形であるかは、その假字が何れの類に屬するかを見れば明に知る事が出來るのである。右の「逢へやも」は阿閉椰毛とあつて閉の假字が用ゐてあるから、已然形である事明であつて、決して之を命令形とする事は出來ないのである。さすれば、「逢へやも」を「逢へかし」の義と解するのは全く誤であつて、守部の説も到底成立する事は出來ない。
 「へ」の假字に二類の別ある事は、本居宣長の弟子石塚龍麿が、奈良朝の文獻について精査した結果發見したのであつて、龍麿はその著、假字遣奧山路(寫本三卷)の中にその事を述べてゐるが、後の學者の注意を惹かなかつた。自分は、獨立に萬葉假名の用法を研究して龍麿と略同じ結果に到達したのである。さうして自分が右の歌の解釋に疑を插むにいたつたのも、亦その假字の用法を調査して、命令形と解せられてゐる「逢へやも」の「へ」に閉の假字を用ゐたのを見出して不審に感じたからで(184)ある。若し「へ」の假字に右の區別がある事さへ認容されれば、この歌に關する舊來の諸註の信じ難い事は決定的になるのである。併しながら、龍麿の研究にもまだ不完全な點が多く、自身の研究も之を公にして學界の批判を仰ぐには猶年月を要するであらうから、今日に於ては、まだ一般に認容せられない説と見るべきで、之を根據として下した論斷は、あながちに主張すべきでない。それ故、この篇に於ても、出來るだけこの間題を前提として論述する事を避け、先づ他の方面から考察して、一新説を提出し、その頗有理なるをたしかめ、然る後、假字の用法の問題に論及して最後の決定的の斷案を下す事にしたのである。それ故、假に「へ」の假字の用法に關する我々の説が全然謬であるとしても、猶、この歌に對する我々の新解釋は成立し得べきものであり、且從來のどの説よりも一層妥當なものである事だけは主張する事が出來るのである。
 
(185)     上代に於ける波行上一段活用に就いて
 
       一 序言
 
 奈良朝以往の上代日本語を研究しようとする時、その資料とすべき文獻は、量に於ては必しも少くはないが、漢字の意義をとつて日本語を寫した部分が多く、日本語の音を示した假名書きの部分は存外少い。それ故、語の外形に關する問題については、實例の乏しいのに困しむことが屡ある。殊に動詞の如きは、一語であつてそのあらゆる活用形の確實な實例を具へたものは甚少數で、多くは他の類例から推定するか、又は後世の例によつて補ふの外無いのである。動詞の活用の形式やその種類も、平安朝の言語から得たものを基準として、之を上代の文獻に見える不充分な實例に照して見て、矛盾する所が見出されなければ、上代語に於ても同樣であつたとし、もし違ふ所があれば、之に補訂を加へるといふ有樣である。隨つて、上代語の動詞の活用に關しては、精査するに從つて疑を容れ得べきものを見出すのである。今こゝに述べようとするハ行上一段動詞の活用の如きは、その一例である。
 
(186)       二 ハ行上一段の動詞
 
 古くからハ行上一段活用であつた動詞は「乾」の義及び「放」或は「嚔」の義のヒルであるとせられてゐる。この二つの語は無論上代の文獻に見えるのであつて、その語形を確實に知り待べき例は、次の通りである。
  「乾」(將然形) 伊摩陀飛那久爾《イマダヒナクニ》(萬葉五、六オ)
           之保能波夜悲波《シホノハヤヒバ》(萬葉十八、六オ)
     (連用形) 之保非奈波《シホヒナバ》(萬葉十五、二十八ウ)
           之保悲思保美知《シホヒシホミチ》(萬葉十七、七ウ)
           ※[漢のさんずいが火](ハ)干也、此云(フ)v備(ト)(日本書紀卷一、二十七オ)
  「嚔」(連用形) 鼻火紐解《ハナヒヒモトケ》(萬葉十一、四十四オ)
           鼻之鼻之火《ハナシハナシヒ》(萬葉十一、四十四オ)
其他「干時」「乾時」をヒルトキと訓し、「干者」をヒレバと訓したものはあるけれども、確證とする事は出來ない。
 我々は右の諸例によつて、「乾」の將然形と連用形とがヒであり、「嚔」の連用形がヒである事がわ(187)かるが、其他の活用形については、全く知る事が出來ない。將然と連用がヒであるものは、上一段ばかりでなく上二段活用の動詞にもあり、連用がヒであるものは四段や上二段の動詞にもある。然るに、之を上一段活用と認めたのは、平安朝に於て、此等の語が上一段に活用し、こゝにあらはれた活用形が、上一段の語尾として何等抵觸する所がないと考へたからである。しかし我々は、今日に於ても、猶、この説に安んずる事が出來るかどうか。
 
       三 上代文獻に存する特殊の假名遣
 
 本居宣長の弟子石塚龍麿が、上代の文獻に於ける假名の用法を調査して、當時の文獻に、後世のものには見られない一種の假名遣がある事を見出した。即ち、ユキケ以下十三種の假名に於て、同音の萬葉假名が各二類にわかれ、類毎に之を用ゐる語が定まつて居て、同語に兩類の假名を混用する事なく、兩類の別が儼然として存するといふのである。この事については、私自身も亦獨立に研究して、大體に於て龍麿の説を是認する事が出來たのである。この特殊の假名遣は、用言の活用語尾にも認められるのであるが、活用語尾に關係があるのは、十三種の中、ユキケコヒヘミメの八種の假名であつてこれ等の假名に於ける二類の別は、大體次の如くである。
(188)エ
衣の類 愛哀埃衣依
延の類 延曳叡要
伎の類 伎岐吉棄藝枳企耆祇祁※[嗜の口が山]儀蟻支
紀の類 紀幾貴疑氣基機奇擬寄綺騎宜義己
祁の類 祁下牙計鷄稽家啓霓奚價雅
氣の類 氣宜開階慨概戒該凱礙※[導の道が旦]※[白+豈]既
古の類 古胡故高姑固枯孤顧呉誤庫後
許の類 許去碁其據居虚己擧苣渠悟吾語馭御巨期
比の類 比卑毘避臂譬辟妣彌寐※[田+比]鼻必賓嬪婢
非の類 肥備被彼非悲斐眉媚縻
幣の類 幣平辨覇陛弊蔽※[革+卑]謎※[鼓/卑]返遍平辨便別
閉の類 閉倍珮背俳杯沛陪毎
美の類 美彌瀰弭民
微の類 微味未尾
(189)メ
賣の類 賣※[口+羊]謎綿馬面
米の類 米毎梅妹迷昧晩※[王+毒]
 
       四 動詞の活用語尾の假名遣
 
 以上の假名の區別が動詞の活用語尾にどうあらはれてゐるかといふに、カ行ハ行マ行に活用する動詞に於て、四段の連用形語尾キヒミは伎比美の類を用ゐて紀斐微の類を用ゐず、已然形語尾ケヘメは氣閉米の類を用ゐて祁幣賣の類を用ゐず、命令形語尾ケヘメは之と反對に祁幣賣の類を用ゐて氣閉米の類を用ゐない。上二段の將然形及び連用形語尾キヒミは、紀斐微の類を用ゐて、四段連用に伎比美を用ゐるのと對比をなし、下二段の將然形及び連用形語尾ケヘメは氣閉米の類を用ゐて、四段已然形語尾と一致し、四段命令形の祁幣賣とは對比をなしてゐる。
 カ行變格の將然形及び命令形の語尾コには許の類を用ゐて古の類を用ゐず、連用形語尾キには伎の類を用ゐて紀の類を用ゐない**。又ア行下二段の將然連用形は衣の類を用ゐて延の類を用ゐず、ヤ行下
二段の將然連用形は延の類を用ゐて衣の類を用ゐない。但し、このエの假名の二類、衣と延とは、ア行のeとヤ行のyeとの區別であつて、活用に於ても行を異にしてゐるが、其他の假名の區別は同行の中での區別とおぼしく、活用に於ても同じ行に屬してゐる(例へば、キの二類、伎と紀とは、一は四(190)段、一は上二段と、活用はちがつても、「カ、伎、ク、ケ」「紀、ク、クル、クレ」と同じくカ行に活用し、ケの二類、祁と氣とは、四段では「カ、キ、ク、氣、祁」と同じくカ行に活用し、下二段では「氣、ク、クル、クレ」と氣が他の加行音に轉ずる)さすればエの假名の二類だけは、他の假名に於ける區別とは性質の違つたものと認められる。
 次に上一段活用について見るに、力行の將然、連用、命令の語尾キ、連體の語尾キルのキは共に伎の類であり(其他の活用形は假名書きの例がない故未詳)、マ行の將然、連用の語尾ミ、連體の語尾ミル、已然の語尾ミレのミは皆美の類である(其他の活用形では不明)。ハ行上一段は前述の如く、「乾《ヒ》る」「嚔《ヒ》る」の二語が之に屬すると認められ、「乾る」は將然連用の語尾ヒ、「嚔る」は連用の語尾ヒしかわからないが、これらは何れも斐の類である(上に引いた實例に、飛悲非備火などの假名があてゝあるが、これ等は何れも斐の類に屬する)。猶、「乾」の字を假名として用ゐた例に「朝露爾咲酢左乾垂鴨頭草之」(萬葉卷十、五十五オ)とあつて、「すさぶ」といふ動詞の連用形語尾にあてゝあるが、この動詞の上代語に於ける活用は不明であつて、中古には、四段と上二段と兩種の活用があつたやうで、どちらかと云ふと、上二段の方が古かつたかとおもはれるが(源氏朝顔に「のたまひすさふるを」とあり)、上代に於て四段であつたとすれば、連用の語尾ヒの假名は、比の類であるべきであつて、前の諸例に於ける「乾る」のヒが斐の類であるのと一致せず、もし上二段であつたとすれば、連用の語尾(191)は斐の類であつて、「乾る」のヒの假名と合致する。多分上代には上二段であつたので、その連用に「乾」の假名をあてたのであらう(「すさび」と關係がありさうに見える「勝佐備《カチサビ》」の「佐備」のヒの假名が、「乾る」のヒと同類であるのも注意すべきである)。又、旱の字をヒの假名に用ゐたものが萬葉集に二つ見える。
  不相思公者在良思黒玉夢不見受旱宿跡《アヒオモハズキミハアルラシヌバタマノユメニモミエズウケヒテヌレド》(萬葉集卷十一、二十一ウ)
  打蝉之命乎長有社等留吾者五十羽旱將待《ウツセミノイノチヲナガクアリコソトトヾマルワレハイハヒテマタム》(萬葉集卷十三、二十オ)
初のは旱をウケフの連用形の語尾に、後のはイハフの連用形の語尾に用ゐてあるが、ウケフ、イハフは、共に上代には四段活用で、連用形語尾は比の類の假名を用ゐる確證があるからして、これ等の例によると、「ヒル」のヒは比の類であつて、前に擧げた「乾る」の「ヒ」の諸例に合はない。然るに、前の歌の「旱」は、細井本、温故堂本、大矢本、活字無訓本等の異本には「早」となつて居るが、袖中抄に引用したのには、「受日手宿跡」となつて居る(校本萬葉集參照)。さうして宣長以下の學者も「旱」は「日手」の誤寫であると説いてゐる。受日手であるとすれば、日は比の類の假名を用ゐる語であるから、四段の連用形語尾ヒに宛てたとして少しも問題はないのである。後の歌の「旱」は、大矢本で「早」となつてゐるのをまた「旱」に改めてゐる外、異本による相異はないが、これも古義には、前の例に准じて、「日手」の誤としてゐる。日とすれば、これも假名遣上の疑は無くなるのであ(192)る。恐らく、此等の説が正しいのであらう。さすれば旱は比の類の假名として用ゐたのでなく、「ヒル」の將然連用形はすべて斐の類の假名であるといふ事が出來る。
  右の二つの歌に於ける旱は、卑の字であるまいかとも考へられる。卑の字が旱の形になつた實例は通行本萬葉集の最後にある成俊の跋にも見えて居るのであつて、「尋八雲之跡之輩高旱伺其趣者歟」とある「高旱」は「高卑」に外ならぬ。又大矢本などには婢の字の旁の卑を旱の形にしたものは決して珍しくない。もし旱が卑であるとすれば、これは萬葉集にもヒの假名として用ゐられ、ヒの中の比類に屬するものであるから、問題は起らない。しかしながら、日手の誤とする説は、袖中抄に證があり、且つ、ウケヒテ〔二字傍線〕、イハヒテ〔二字傍線〕とテ〔傍線〕をつけて讀むのにも適當であるから、卑の誤とするより一層妥當であらうと思ふ。
 かくの如く、活用の種類と活用形の違ひとによつて、活用語尾に用ゐる假名の種類がきまつてゐるとすれば、只一つの活用形だけしかわからない動詞でも、その語尾にあてた假名によつて、何れの活用に屬するかゞ明かになる場合があるのであつて、例へば、連用の語尾キに紀の類の假名が用ゐてあれば上二段活用であり、將然の語尾キに伎類の假名があれば上一段、紀類の假名があれば上二段である。命令の語尾ケが祁類であれば四段、氣類であれば下二段と知られる。
 
(193)       五 同種の活用語尾に於ける異種の假名
 
 以上述べた所によつて、或一つの種類の活用の或一つの活用形には、同じ假名の兩類中の或一類がいつもきまつて用ゐられる事が明かになつたが、たゞそればかりでなく、違つた假名であつても、同種の活用の同じ活用形に於ては、それ/”\の假名の兩類中の或きまつた一類のみが、常に相伴つてあらはれるといふきまりがある事が知られるのである。即ち、四段の連用の語尾には、キは伎の類、「ヒは比の類、ミは美の類が用ゐられて、伎と比と美とが相伴つてあらはれるが、上二段の將然連用兩形の語尾には、同じキヒミでも、他の類の紀斐微が相伴つてあらはれる。同樣に、四段已然の語尾には、ケヘメに、氣と閉と米とが用ゐられ、下二段の將然にも連用にも、命令にも、やはりこの氣閉米が相伴つてあらはれる。四段の命令形語尾のケヘメには、その已然形とは別類の祁幣賣が用ゐられ、四段から助動詞「リ」につく形(ユケ〔傍線〕リ、オモヘ〔傍線〕リ、スメ〔傍線〕リのケヘメ)にも、同じく祁幣賣が相伴つてあらはれる。かやうに、違つた假名に於ける兩類中の一つが、同じやうな場合に相伴つてあらはれる事は、語構成の際の轉音に於てもかなり明かに見られるのであつて、相伴つてあらはれるこれ等の一類のものは、その發音の上に共通點をもつて居たらうとおもはれる。(さうして、他と相伴つてあらはれるのは、常に同じ假名の二類中の一類だけであつて、同じ假名の兩類が相伴ふことはない。但し、エ(194)の二類だけは例外で、互に相伴つてあらはれる。これだけは別種のものであるから、除外して、別に取扱ふべきである)。
 然るに、上一段に於ては、カ行とマ行の語尾キ・ミは、四段連用と同じく伎、美の類を用ゐ、伎と美とは相伴つてゐるが、ハ行のヒだけは斐の類であつて、他の場合には常に伎美に伴ふ比とは別類の假名である。これは他の活用には見られない異例であるが、上一段だけは例外とすべきであらうか。
 上代語に於ける上一段活用には、往々他の活用とは違つた例がある事は周知の事實である(「見らし」「見らむ」の承接など)。これもその一つと見るべきであるかも知れない。しかしながら、それは、ハ行上一段の動詞が、當時、たしかに上一段に活用したといふ事を認めてからの事である。我々はまづこの間題を攻究しなければならない。
 
       六 上代語に於けるハ行上一段動詞の活用
 
 前に述べた通り、ハ行上一段の動詞は「乾」及び「嚔」の意味のヒルであるが、「乾る」は將然と連用がヒで、共に斐の假名、「嚔る」は連用がヒで、これも斐の假名である事が確かなだけで、その他の活用形は明かでない。それ故、これだけの事實からしては、上代に於て上一段活用であつたといふ積極的の憑據はないのである。かやうな場合に、「乾る」「嚔る」の平安朝に於ける活用に基づいて、之(195)を上一段と定めるのは、いかにも穩當なやうであるけれども、それは、さう定めて、他に矛盾衝突を生じない場合に限る。上に述べた、上一段活用に於ける假名の用法上の異例は、これ等の語を上一段活用と定めたが爲に起つた矛盾又は衝突ではなからうか。我々は、一應これ等の語が上一段以外の活用でなかつたかを考へて見なければならない。
 「乾る」の將然連用の語尾は斐であり、「嚔る」の連用は「斐」である。かやうな形式の活用を上一段以外にもとめると、上二段の外に無い。上二段ならば、
  〔戀〕 斐《ヒ》 斐《ヒ》 フ フル フレ
のやうに活用する(命令は「斐ヨ」であらうが、まだ實證を得ない)。それでは「乾る」「嚔る」にフ、フル、フレといふやうな活用形があつた證據又は痕跡はないであらうかといふに、この語を正しい意味で用ゐたものには、無論かやうな形はない。しかし、假名として用ゐた漢字の中に、その痕跡と見るべきものが見出されるのである。
 日本書紀卷七、景行天皇十二年熊襲征討の條(八丁オ)に
  兄曰2市乾鹿文《イチフガヤ》1【乾此云v賦】
とあつて、「乾」の字をフの假名に用ゐてゐる。「乾」が上一段に活用したとすれば、どの活用形にもフといふ形はない。乾の訓ヒを轉じてフの音として用ゐたといふ解釋も絶對に否む事は出來ないにし(196)ても、假名として用ゐるのに、そんな普通でないよみ方をしたとは考へにくい。それよりも乾が古く上二段に活用し、その終止形がフであつて、之をフと讀むのは普通であつた爲、之をフの假名に用ゐたとする方が、よほど自然である。(動詞の終止形を取つた假名は、經津主《フツヌシ》、大來米《オホクメ》など他に例がある)。それでは何故に日本紀に特によみ方を示したかといふに、乾は「ヒ」ともよむ事が出來る故、誤讀せしめない爲であつたらう。
 「乾る」が上二段に活用した形跡を示す猶一つの例は、萬葉集卷十一の
  我背見爾吾戀居者吾屋戸之草佐倍思《ワガセコニワガコヒヲレバワガヤドノクササヘオモヒ》浦乾來(卷十一、十ウ)
の歌に於ける乾の字の用法である。この歌の末句は、昔からウラガレニケリと訓まれてゐる。この訓に隨へば、乾は、その本來の意義によつて、カレといふ語を示してゐるのであつて、ヒルとは全く關係がない。しかし私はこの訓が果して當を得たものであるかを疑ふものである。
 まづ第一に、ウラガレといふ語は、「末枯れ」の義である故、
  志良登保布乎爾比多夜麻乃毛流夜麻能宇良賀禮勢那奈登許波爾毛我母《シラトホフヲニヒタヤマノモルヤマノウラカレセナナトコハニモガモ》(萬葉集卷十四、十六ウ)
の如く、男女の中らひの末遂げぬ事を樹木のウラガレルに譬へるならば尤であるけれども、この歌の如く、來ぬ人を思うて戀ひ憂へる心の有樣を、草木の末葉の枯れるに比するのは、どう考へても適切でない。次に、第四句と第五句とは、「草さへ思ひうらがれにけり」とあつて、「思ひうらがれ」とつゞ(197)いてゐるが、かやうな言葉つゞきは實際あつたであらうか。今擧げた十四卷の歌では、ウラガレは、表では木の先の枯れるを言ひ、裏では、末絶える事を指してゐるが、木の先の枯れるのに、「思ひ」とつかないは勿論、中絶えるにしても「思ひ」とつく筈は無い。譬喩的に用ゐて心の有樣を言つたものとして、「思ひがうらがれる」と解しても「心の中にうらがれる」と解しても、ほとんど意味をなさない。我々は、井上通泰博士が萬葉集新考に、「オモヒウラガルといふ語あるべくもあらず」といはれたのに賛成せざるを得ない。契沖は、草が思草であつた爲に、「思ひうらがれ」と云つたと説き、後の學者も之に隨つてゐるが、それでも、「思ひうらがれ」といふ言葉つゞきが可能でなければ、かやうにつゞける事は出來ない筈である。そこで井上博士は、「思」の字を第四句の最初に移して、「思草佐倍《オモヒグササヘ》ウラガレニケリ」と改められたが、之は文獻上に何等の根據もなく、又、これで言葉つゞきはよくなつたとしても、ウラガルは、人を待ち戀ふる情をあらはすに適當な語でないとの非難はまだ免れ得ない。私は、乾の訓をフレと改め、「浦乾來」をウラブレニケリと訓むべきであると考へる。
 「乾る」の語が、もし上一段活用であるならば、之をフレとよむ事は出來ないけれども、上述の如く、上二段活用と見る事が出來るとすれば、その已然形はフレである筈である。このフレといふ訓によつて乾の字を假名に用ゐたとすれば、「浦乾來」はウラブレニケリと讀む事が出來る。(動詞の已然形を假名に用ゐた事は、萬葉集十一、六ウに「浦經居《ウラブレヲレバ》」のやうな例がある)。然らば、意味の方はどう(198)かといふに、ウラブレといふ語は萬葉集に多く用ゐられ、
  比等母禰能宇良夫禮遠留爾多都多《ヒトモネノウラブレヲルニタツタ》都《□で囲む》夜麻美麻知可豆加婆和周良志奈牟迦《ヤマミマチカヅカバワスラシナムカ》(萬葉五、二十五ウ)
の歌に、鹿持雅澄が註したやうに「心の裏にうれひうなだれをる」義であつて(古義卷五下、四十三ウ)
  於君戀裏觸居者敷野之秋芽子※[陵のこざとがさんずい]左牡鹿鳴裳《キミニコヒウラブレヲレバシキノヌノアキハギシヌキサヲシカナクモ》(萬葉集卷十、三十九オ)
  於君戀之奈要浦觸吾居者秋風吹而月斜焉《キミニコヒシナエウラブレワガヲレバアキカゼフキテツキカタブキヌ》(同卷十、五十七オ)
  君戀浦經居悔我裏紐結手徒《キミニコヒウラブレヲレバクヤシクモワガシタヒモヲムスビテタヾニ》(同十一、六ウ)
  青丹吉奈良乃吾家爾奴要烏能宇良奈氣之都追思多戀爾於毛比宇良夫禮《アヲニヨシナラノワギヘニヌエトリノウラナケシツツシタゴヒニオモヒウラブレ》(同十七、三十二ウ)
のやうに、戀ふるによつてうらぶれるのは常の事であり、その上
  往川之過去人之不手折者裏觸立三和之檜原者《ユクカハノスギユクヒトノタヲラネバウラブレタテリミワノヒハラハ》(同七、九オ)
  山萵苣白露重浦經心深吾戀不止《ヤマチサノシラツユオモミウラブレテココロニフカクワガコヒヤマズ》(同十一、十ウ)
のやうに、草木の枝葉のうなだれるにかけて言つた例もあるから、かの「我背兒爾」の歌も、末句をウラブレニケリと訓ずれば、
  わが背兒に吾が戀ひ居れば我が宿の草さへ思ひうらぶれにけり
となつて、「來ぬ人を待ち戀うて心に憂へ歎いて居ると、吾が家の草までもうなだれてゐる」と解する事が出來て、ウラガレニケリとよむよりも一層すぐれた適切な解釋が得られるのである。さうして、(199)前の句に對しては、「思ひうらぶれ」とつゞくのであるが、かやうな言ひ方は、前掲萬葉十七の長歌に「思多戀爾於毛比宇良夫禮《シタコヒニオモヒウラブレ》」とある如く、例のある事で、言葉つゞきも無難になるのである。
 かやうに、この歌の末句の乾をブレと訓めば、歌全體の意味も言葉つゞきも、適切で穩當なものになるとすれば、この訓は恐らく當を得たものといふことが出來よう。さすれば、我々は、こゝに「乾」がブレと活用した一つの例を得るのであつて、之を以て、「乾る」が古く上二段活用であつた證據とする事が出來るのである。さうして、かやうに乾をフレの假名に用ゐたのは、乾をフレとよむのがむしろ普通であつたからであつて、特に珍らしいよみ方をとつたものとは思はれないから、その普通の活用は上二段であつたと見てよからうと思はれる。
 しかし、こゝに一つ考へなければならないのは、ウラブレは古今集などにはウラビレとある故、「浦乾來」もウラビレニケリと訓すべきであつて、乾はフレでなくヒレの假名として用ゐたもので、これは却つて「乾」が上一段に活用した證であると説明する事も出來るといふ事である。しかしながら、ウラビレの形の見えるのは平安朝のもので、奈良朝には、「宇良夫禮」「浦經」「浦觸」「裏觸」などウラブレの形しか見えないから、「ウラブレニケリ」とよむのが正しいと考へられる。
 かやうに、「乾」を假名として用ゐたものから、乾が、フ、フレと活用した例證と見るべきものが見出されるのであつて、「乾る」は上代に於ては、上一段に活用したといふよりも、上二段に活用したと(200)見る方が有力である。
 猶一つ別の方面から考へて見るに、動詞に接尾辭「す」を附けて他動詞を作る時、その接尾辭に接する動詞の語尾音は樣々であるが、大體に於て、動詞の活用の種類の違ひによつて、或音を多くとるといふ傾向があるのであつて、四段動詞はア段音になる事多く、又間々オ段音になる(「あか〔傍線〕す」「かはか〔傍線〕す」「いか〔傍線〕す」「ちら〔傍線〕す」「おほ〔傍線〕す」「とゞろこ〔傍線〕す」)。上二段はオ段又はウ段になるものが多く(「おこ〔傍線〕す」「おと〔傍線〕す」「すぐ〔傍線〕す」「つく〔傍線〕す」)、下二段はア段音になるものが多い(「いだ〔傍線〕す」「あや〔傍線〕す」)。さうして上一段に於ては、イ段音が普通であつて、キ〔傍線〕ス(着)、ニ〔傍線〕ス(似)、ミ〔傍線〕ス(見)などの形になるが(その中、キミは、伎美で、動詞の語尾と同類の假名を用ゐる)、ハ行にかぎつてホ〔傍線〕ス(乾)となつてオ段音をとる(「嚔る」は他動詞を作らない)。然るに、オ段音になるのは、上二段に於ては寧ろ普通の形である。かやうな點から見ても、「乾る」は上二段の性質を帶び、上一段とは違つてゐるのである。
 かやうに考へて來れば、「乾る」は上代に於ては、上一段とすべき確實な根據なく、むしろ上二段であつたと見得べき例があり、又さう見る方が、假名の用例からしても、語構成上の轉音の例からしても、自然である。恐らくは上二段に活用したのであらう。
 「嚔」の義のヒルについては、連用形の外、實例なく、其他の活用形を知るべき手がかりもない。しかし連用形に斐類の假名を用ゐた點からしてみれば、乾と同じく、上一段とするよりも、上二段と(201)した方が自然であつて、何等の不都合も生じない。これも上二段活用と見るべきであらう。
 かくの如く、ハ行上一段動詞と考へられてゐたものが、皆ハ行上二段であつたとすれば、上代に於ては、上一段はハ行にはない事となる。少くとも、積極的に有つたと主張する事が出來ないのである。さすれば、上一段の活用語尾で、上代に於ける特殊の假名遣に關係あるのは、カ行マ行のキミだけであつて、キには伎、ミには美を用ゐてあるが、これ等は四段連用の語尾にも相伴つて現はれるものであるから、前にあげた、「同種の動詞の同じ活用形に於ては、違つた假名でも、その中の或一類がいつも伴つてあらはれる」といふ原則は、上一段活用にも適合し、一の除外例も無い事となるのである。かやうな點から見ても、ハ行上一段と認められてゐたものは、實はハ行上二段であつたとする方が妥當であらう。
 
       七 ハ行上一段活用の發生
 
 以上討究した所によれば、ハ行上一段の動詞は上代には上二段で、ヒ、ヒ、フ、フル、フレと活用したと考へられるのであるが、これらは、平安朝に於ては上一段であつた事は、當代の諸文獻によつて明かである。これは、上二段が上一段に變化したのであるが、さやうな傾向が他の上二段の動詞にも既に平安朝初期からあらはれてゐたことは、奈良朝に於てハ行上二段に活用した「荒ぶ」が續日本紀(202)卷四十、延暦八年九月戊午の宣命に「陸奥國荒備流蝦夷等乎」となつてゐるによつても明かである。ただ、上代に於てハ行上二段に活用した動詞の中、ヒルだけが、平安朝に於て完金に上一段に變化して、上二段であつた名殘を留めないのは何故かといふに、多分これ等が一音節の語であつた爲であらうとおもはれる。一音節の語が、同種の活用の他の語に比して早く變化する事は、下二段活用の經《フ》が、既に平安朝末期から一段化してヘルとなつたのによつても知る事が出來る。
 かやうに、ハ行上一段といふ活用形式は、ハ行上二段が變じてはじめて出來たものと思はれるが、その發生の時期如何の問題になると、かなり困難である。我々が上代に於ける「乾」「嚔」の活用を上二段と推定したのは、甚乏しい實例と、假名の用法や語構成の上の一般的のきまりとに基づいたものであるから、實際に於ては、奈良朝に於て既に一段に變じたものもあつたかも知れない。かの「居」(ヰル)といふ語は、「枳謂屡箇皚比謎《キヰルカゲヒメ》」(日本紀、卷十六、二ウ)「爲流多豆乃《ヰルタヅノ》」(萬葉十四、廿八ウ)などに見られる通り、奈良朝に於ては上一段に活用したが、日本書紀卷五、崇神天皇十年の條(八ウ)に「急居此云2蒐岐于1」とあつて上一段にはないウといふ形があるから、更に古く、ヰ、ウ、ウル、ウレと上二段に活用した時代があつたのかも知れないのであつて、それが後に上一段になつたとすれば、上二段から上一段への變化は、「ヒル」の場合よりも早く、奈良朝には既に完成して居たかと思はれる。(尤も、種々の活用形式の分化し一定しない以前に、種々の違つた形が同じ場合に用ゐられた時代が(203)あつたのであつて、ウのやうなのはその時代の名殘をとゞめてゐるものとも見られるが)。實際、言語の歴史は複雜であるのに、我々の用ゐる事が出來る資料は甚限られてゐる。幸にして、變遷の大體の方向はわかるにしても、推移の跡をもとめて一々年代を定めるのは甚困難である。現に前に述べた、上代文獻に存する特殊の假名遣でも、一つの例外もないのではなく、少數の異例はあるのであつて、その例外の數も、假名によつて多少の差がある。我々は、奈良朝に於ては、この假名遣が大體正しく行はれたが、時には混亂があつたとしなければならないのである。(それ故、活用語尾に於ける假名の區別も、大抵は正しいが、二三の例外はないでもない)。さうして、その混亂は、平安朝に於て、これ等の假名の區別が全くなくなる先驅と見るべきである(東國語では、奈良朝に於て既に混亂して居たらしい)。かやうな變遷の大勢は知る事が出來るけれども、一々の假名について、その混亂の生じた年代を考へるのは極めて困難で、或は不可能であるかも知れない。ハ行上一段動詞の變遷についても、我々は、甚乏しい資料からして、奈良朝に於ては上二段であつたらしい事を知り得たのであるが、當時既に上一段になつたものもあつたか、又は、平安朝に入つてから上一段になつたかなどのやゝ精細な問題になると、未だ解決する事が出來ないのである。
 
 附記
  私が以上の説を發表するのはこれが初であるが、數年前安田喜代門氏が來訪せられた時、同氏に語つたのを、そ(204)の著「國語法概説」(昭和三年刊)に載せられたから、多少世にしられてゐるであらう。猶、上代に於ける特殊の假名遣と、之に關係ある語法上の事項とについては、本年九月發行、雜誌、國語と國文學所載の拙稿「上代の文獻に存する特殊の假名遣と當時の語法」の中にその一般を説明しておいた。
 
  刊行委員附記
   * (一八八頁)國語國文ではコとヒとの間に次の項がある。
    ヌ
      怒努弩
      奴濃農
   ** (一八九頁)國語國文では「紀の類を用ゐない。」の下に次の字句がある。
    ナ行下二段の終止、連體、已然に於けるヌ、ヌル、ヌレのヌには奴の類を用ゐて、怒の類を用ゐず、ナ變終止連體已然のヌも亦同じく奴の類を用ゐる。
 右は、自筆訂正本によつて削除した。著作集第三卷一九〇頁の刊行委員附記參照。
 
(205)     「ことさけば」の「こと」と如の「ごと」
 
       一
 
 萬葉時代に、「ごとし」(如)といふ語があつて、「ごとく」「ごとし」「ごとき」と活用したと共に、活用語尾無き語幹の形「ごと」が屡「ごとく」と同じく連用的に、又稀に「ごとし」と同じく述語的に用ゐられた事は周知の事實である。然るに、古く一種の「こと」といふ語があつて、「こと〔二字右○〕愛《め》でば早くは愛でず」(允恭紀)、「こと〔二字右○〕放《さ》けば沖ゆ放けなむ」(萬葉卷七)「こと〔二字右○〕降らば袖さへ沾れて通るべく降りなむ雪の空に消につゝ」(萬葉卷十)「こと〔二字右○〕ならば咲かずやはあらぬ櫻花」(古今卷二)「かきくらしこと〔二字右○〕はふらなむ」(古今卷八)のやうに用ゐられてゐるが、この「こと」を彼の「ごと」(如)と關係づけて解釋する説が有力である。しかしながら、この一種の「こと」の意義については古來諸説があつて、まだ十分決定したものとは認めがたいと考へるので、こゝにその攻究を試みたいと思ふ。
 
       二
 
(206) まづ實例を擧げる。
 奈良朝のものとしては、日本書紀の歌に一例、萬葉集の歌に四例を見るだけである。
 (1)日本書紀卷第十三、雄朝津間稚子宿禰天皇(允恭天皇)の條
   八年春二月藤原に幸して密に衣通姫の消息を察し給ふ。是夕衣通姫、天皇を戀ひ奉りて獨居り。其の天皇の臨《いでま》すを知らずして歌ひて曰く
   我がせこが來べき宵なりさゝがにの蜘蛛の行ひ今宵しるしも
  天皇是歌を聆きたまひ則ち感情有りて歌ひて曰く
   さゝらがた錦の紐を解き放《さ》けて數多は寢ずにただ一夜のみ
  明旦天皇井の傍の櫻の華を見て歌ひて曰く
   波那具波辭佐區羅能梅涅許等梅涅麼波椰區波梅涅孺和我梅豆留古羅《ハナグハシサクラノメデコト〔二字右○〕メデバハヤクハメデズワガメヅルコラ》
  皇后之を聞きて且大に恨み給ふ。
 (2)萬葉集卷七、譬喩歌、寄船(四首の中)
   殊放者奧從酒甞湊自邊着經時爾可放鬼香《コト〔二字右○〕サケバオキユサケナムミナトヨリヘツカフトキニサクベキモノカ》 (一四〇二)
 (3)萬葉集卷十、冬雜歌
コト〔二字右○〕フラバソデサヘヌレテトホルベクフリナムユキノソラニケニツツ
   殊落者袖副沾而可通將落雪之空爾消二管 (二三一七)
(207) (4)萬葉集卷十三、挽歌
   欲見者雲井所見愛十羽能松原少子等率新出將見琴酒者國丹放甞別避者宅仁雖南乾坤之神志恨之草枕此羈之氣爾妻應離哉《ミガホレバクモヰニミユルウルハシキトバノマツハラワラハドモイサワイデミムコト〔二字右○〕サケバクニニサケナムコト〔二字右○〕サケバイヘニサケナムアメツチノカミシウラメシクサマクラコノタビノケニツマサクベシヤ》 (三三四六)
以上奈良朝の例は、すべて「ことめでば」「ことふらば」「ことさけば」の如く動詞(未然形に「ば」のついた假定條件をあらはすもの)の上に在つて、之に連るものである。
 平安朝の例は
 (5)新撰萬葉集卷下、戀二十首の中
   戀詫沼景緒谷不見芝玉桂殊者旅佐倍丹堀手捐店《コヒワビヌカゲヲダニミジタマカツラコト〔二字右○〕ハネサヘニホリテステテム》
 (6)古今集卷第二、春歌下
       さくらの花のちりけるをよめる  つらゆき
   こと〔二字右○〕ならばさかずやはあらぬ櫻花見るわれさへにしづこゝろなし (八二)
 (7)古今集卷第八、離別歌
                      幽仙法師
   こと〔二字右○〕ならば君とまるべく匂はなんかへすは花のうきにやはあらぬ (三九五)
 (8)古今集卷第八、離別歌
(208)   かきくらしこと〔二字右○〕はふらなん春雨にぬれぎぬきせて君をとゞめん(四〇二)
 (9)古今集卷第十六、哀傷歌
     これたかのみこのちゝの侍けんときによめりけん歌ともとこひければかきておくりけるおくによみてかけりける
                      とものり
   こと〔二字右○〕ならばことのはさへも消えなゝん見ればなみだのたぎまさりけり(八五四)
 (10)古今集卷十九、雜體、俳諧歌
   こと〔二字右○〕ならばおもはずとやはいひ果てぬなぞよのなかのたまだすきなる(一〇三七)
 (11)後撰集卷第一、春歌上
   こと〔二字右○〕ならばをりつくしてんうめの花我がまつ人のきても見なくに(二四)
 (12)拾遺集卷第十三
       月あかき夜人をまちて
   こと〔二字右○〕ならばやみにぞあらまし秋のよのなぞ月かげのひとだのめなる(七九六)
 (13)大和物語
    同じ人(かいせうといふ人)かの父の兵衛佐うせける年の秋家にこれかれ集りて宵より酒飲み(209)などす。いますからぬことの哀なる事をまらうどどもあるじも戀ひけり。朝ぼらけに霧立ち渡れりけり。客人
   朝霧の中に君ますものならば晴るゝまにまにうれしからまし
 といひけり。かいせうかへし
   こと〔二字右○〕ならば晴れずもあらなむあき霧のまぎれに見えぬ君と思はむ
 まらうどは貫之友則などになむありける。
 (14)源氏物語、柏木
    かしは木とかへでとの、ものよりけにわかやかなる色して枝さしかはしたるを、いかなる契りにかすゑあへるたのもしさよなどの給て、しのびやかにさしよりてこと〔二字右○〕ならばならしの枝にならさなん葉守の神のゆるしありきと
 みすのとのへだてあるほどこそうらめしけれとてなげしによりゐ給へり。
 (15)源氏物語、横笛
    すこしね入給へる夢に、かの衛門かみ、たゞありしさまのうちきすがたにて、かたはらにゐて、このふえをとりてみる。夢のうちにもなき人のわづらはしう、このこゑをたづねてきたると思ふに
(210)   笛竹にふきよる風のこと〔二字右○〕ならば末のよながきねにつたへなん
    思ふかたことに侍りきといふを、とはんと思ふ程に若君のねおびれてなき給ふ御聲にさめ給ひぬ。
なほ「ことならば」の例は以後の歌にも時々見えてゐる。
 以上平安朝の例は、奈良朝のやうに「こと」から直に動詞につゞくものは無く、「なり」に接して「ことならば」となつたものか、さもなければ助詞「は」に接して「ことは」となつて動詞に連るもののみであるが、契沖をはじめとして以後の學者は、多くは之を奈良朝の「こと」と同じ語と見てゐる。
 
       三
 
 右のやうな「こと」の語義に關する從來の諸説は大體次の通りである。
 (一)「異」又は「殊」の義とするもの
  釋日本紀に「ことめでは」を「他目出也」と話したのは、「こと」を「異」の義として「他」と解したのであらう。毘沙門堂藏古鈔本古今集注に「ことならば」を「異ならば」と釋してゐる(これは鎌倉又は吉野時代のものと思はれる)。下河邊長流の萬葉集管見には「殊に」「ことさ(211)らに」と註し、契沖は厚顔抄では「異」としたが、代匠記、古今餘材抄、源語拾遺には「殊に」と解した。眞淵も場合により「異」とも「殊」とも説いた。加藤千蔭の萬葉集略解には「殊に」「ことさらに」と釋した。
 (二)「同じく」とするもの
  願昭の古今集注に「ことならば」「ことは」を共に「同じくは」と釋してゐる。
 (三)「此の如く」とするもの
  定家の顯註密勘に自分の傳受した説として「ことならば」を「此の如く」と釋してゐる(僻案抄にも)。毘沙門堂古今集注に「如此也二條義也」とある通り、この説が定家の子孫二條家相傳の説として行はれたらしい。近世に於ては鹿持雅澄の萬葉集古義にこの説を採つてゐる。
 (四)「かく」(斯)とするもの
  荒木田久老の日本紀歌廼解に「かく(如是)」の義と解し、桶守部の稜威言別も同説である。香川景樹は古今集正義に「ことならば」及び「ことめでば」を「かくとならば」「かくとめでば」の約まつたものとし、「ことは」を「ことならば」の省略と説いてゐる。清水濱臣の説も大體之と同一である(眞淵の大和物語直解の濱臣書入に見えてゐる)。猶、藤井高尚の古今集新釋に「ことならば」を釋して、「かゝる事ならば」を略したものといつてゐるのは、語としては「こ(212)と」を事と見たものであるが、意味としては「かゝる」云々の義としたのであるから、語義説では、この類にいれてよからうと思はれる。
 前の「此の如く」とする説とこの「かく」とする説とは、實際に於ては殆ど同じであって、特に區別する必要はないかも知れない。
 (五)「期と」とするもの
  古今集卷二の「ことならば」を勝命が「期《ご》とならば」と解した事が毘沙門堂の古今集注に見えてゐる。但し他の場合もさう解したかどうか不明である。
 (六)「悉く」とするもの
  仙覺の萬葉集註釋に、萬葉卷十の「こと降らば」の「こと」を「こと/”\く」と註してゐる。他の「こと」をどう解したかは不明である。
 (七)「事」又は「言」とするもの
  北村季吟の萬葉集拾穗抄に「ことさけば」の「こと」を「事」としてゐる。但し「ことふらば」の「こと」は「殊に」としてゐる。羽倉信名の萬葉童蒙抄に卷七の「ことさけば」を「言避けば」の意とし、卷十六の「ことさけば」を「事避けば」としてゐる。
 (八)「トテモ」とするもの
(213)  本居宣長の古今集遠鏡に「ことならば咲かずやはあらぬ」を「トヲモ此ヤウニ早ウチルクラヰナラバ一向ニシヨテカラサカヌガヨイニ」と譯し、その他の「ことならば」と「ことは」の場合は、「トテモ……スルクラヰ(又はホド)ナラバ」と譯してゐる。この書は歌の釋義を主としたものであるから、「トテモ……」は、歌全體の意味から自然にあらはれて來る趣を示したもので、必ずしも「こと」の語義であると考へたのでないかも知れないが、(「トテモ此ヤウニ」とあるから、或は宣長は「こと」の意味としては「此の如く」と考へてゐたのかも知れない)假にここへ加へて置く。
 以上の諸説の消長を見るに、平安末期から鎌倉時代にかけて種々の説があらはれたが、日本紀では「異」と解する説が後までも傳へられ、萬葉集に於ては、或例は「悉く」と解し或例は事と解して統一ある解釋を下すに至らなかつたが、古今集については、定家の「此の如く」とする説がその子孫なる二條家の正説となり、花鳥餘情以下の源氏の註釋にもこの説が用ゐられた。然るに近世に入つて、長流が、はじめて萬葉集の「こと」をすべて「殊」の意と解し、契沖は之を承けて、日本紀萬葉古今後撰源氏菅家萬葉等に於ける諸例を盡く「殊」(又は「異」)の義を以て解釋して、奈良朝平安朝に亙つて一貫した「こと」の語義説を樹てたのである。この契沖の説は、賀茂眞淵に受け繼がれ、萬葉集略解まで傳はつてゐる。之に對して、荒木田久老は新に「かく(如是)」と解する説を唱へ、後、鹿持(214)雅澄は萬葉集古義に於て「此の如く」とする説を主張したが、この兩説はその内容に於ては殆ど同一のものである。橘守部は「かく」とする説を採り、香川景樹は「かくと」とする説を提唱したが、これも「こと」の語義解釋に於ては前兩説と略同一のものである。かやうにして、「此の如く」又「かく」と解する説が次第に勢を得て、遂に定説のやうになり、現代に於ても井上通泰博士の萬葉集新考をはじめ日本書紀、萬葉集、古今集等の諸註釋書は大概この説に從つてゐる。
 この説は、契沖以前にも久しく行はれ、その説を採らなかつた契沖でさへ、「まことにいづれもしか心得れば通ずれど」(初稿本代匠記卷二)と云つてゐるやうに、すべての場合に妥當な解釋のやうに思はれ、近年に至るまで誰も異義を稱へるものが無かつたやうである。然るに私は十數年前、「ごと」(如)及び「ごとし」(如)の語源の問題から、自然、この「こと」の語義及び語性の問題に及び、「こと」を「此の如く」(又は「かく」)と解する説の根據について疑を懷くに至り、遂には之とは違つた新しい語義説に到達したのである。その時私の得た説は、「こと」を口語の「同じ」の義と解するものであつて、今から見れば、古今集注に見える顯昭の説(「同じく」とするもの)と偶然一致するものであつたのである。
 私は、此の説を東京帝國大學に於ける講義で述べた以外にはまだ公にした事は無いのであるが、澤瀉久孝博士は何處からか傳聞せられたと見えて、昭和六年三月刊行の萬葉集新釋(上卷「こと放けば(215)沖ゆ放なむ」の歌の條)の中に私の説として擧げ、その説によつて解釋を下してゐられる。又鴻巣盛廣氏は昭和六年十月刊行の萬葉集全釋第二册中の卷七の「ことさけば」をはじめ、第三册及び第四册の「こと降らば」「ことさけば」をそれ/”\「トウセ同シコト遠ザケヨウトイフナラバ」「どうせ同じこと降るならば」「ドウセ同ジコト妻ト死別ヲシヨウトナラバ」と譯し又は説明して居られるのであつて、これも私の説と同じ解釋をとつてゐられるのである。
 かやうに私の説はその歸結は全然新奇なものではなく、既に最近の有力な著書にもあらはれてゐるのではあるけれども、之に關する委しい考説は公にせられてをらず、まだ一般に認められるには到つてゐないと思はれるから、こゝに少しく論證を試み、かやうな結論に到達した徑路を明かにしたいと思ふ。
 
       四
 
 自説を述べる前に從來の諸説中有力なものについて一應檢討するのが順序であらう。
 まづ、「こと」を「殊」又は「異」の義とする説について考へて見るに、萬葉の「ことさけば」「こと降らば」については、契沖は「殊の字にて心得べし」と云ひ、「常に殊して」「すぐれてことに」「ことさらに」と釋し、長流は「ことに」「ことさらに」と註してゐる。即ち、「普通とちがつて」「特別に」(216)「特に」の義とするのであるが、前に掲げた實例の(1)即ち允恭紀の「ことめでば」については、契沖は「異感で」であつて、櫻以外のものを愛づるのであると説明してゐる。然るに「殊」と「異」とは國語としては元來は同語であつたらうけれども、意味は必しも同一でない。「こと」を右の如く「殊」の意味と解する以上、かやうな解釋は無理である。併しながら、契沖は原文に「許等梅涅麼」とあるのを「ことめでは」と讀み、「ことめで」を名詞と見たのであるが、麼は日本紀では清音「は」でなく、いつも濁音「ば」に用ゐられてゐるから、これは當然「ことめでば」と讀んで「めで」を動詞と見るべきで、さすれば萬葉の例と同種のものとなつて、「殊に愛でるならば」と解し得るが、さて、此等の諸例をさう解して、他の語句との意味上の關係はどうなるか。
 (1)の歌は、允恭天皇が始めて衣通姫に御逢ひになつた翌朝、井の傍の櫻を御覽になつて櫻花に寄せて「花細《はなくは》し櫻のめで、こと愛《め》でば早くは愛でず」とお歌ひになつたので、之を「特別に〔三字右○〕愛でるならば、もつと早くは愛でずして、今になつてはじめて愛でた」とお惜しみになつたものと解するとして考へてみるに、その意味からは、唯「愛でるなら」だけで充分であつて、何にくらべて「殊に〔二字右○〕愛でる」と仰せられたか不明であり、何の必要があつて「殊に」といふ意味を加へられたか、理解し難い。(2)の萬葉七の歌は、將に成就しさうであつた戀がさかれたのを船に寄せて、「ことさけば沖ゆさけなむ」といつたもので、之を「特別に(又はことさらに)遠ざけるならば、沖に離れてゐる中に遠ざけてほし(217)いものだ」の意と解し、(4)の萬葉卷十三の歌は、旅行中に妻に死別したのを歎いて、「ことさけば國にさけなむ、ことさけば家にさけなむ」と歌つたもので、之を「特別に妻を遠ざけるならば國に居る時に遠ざけてほしいものだ」云々と解したとしても、これらは何れも人又は神が他の物又は他の人を遠ざけるのであるから、「特別に」又は「こと更に」遠ざけるといつたものと解せられないでもないが、(3)の萬葉十の歌は、雪がちらつくばかりで地にも積らないのを見て「こと降らば袖さへぬれて透るべく降りなむ雪の空に消につつ」といつたので、この際、「特別に〔三字右○〕降るならば袖までも濡れ透るほど降るがよいものを」と言つたと解するのは不自然なところがあつて、「特別に〔三字右○〕」といふ必要はなささうに思はれる(「降るなら特別に〔三字右○〕袖もぬれ透るほど降るがよい」といふなら自然であるが)。
 併しながら、少し見方をかへて、例へば、全然遠放ける事をしない場合の事を考へて、之と比較して遠ざける事を特に〔二字右○〕遠ざけると考へたと解して、「ことさけば」を「全然遠放けないならばともかく、特に、遠ざけるのであるならば」と解釋する事が出來るとするならば、(1)の「ことめでば」も「全く愛でない場合は、とにかく、特に〔二字右○〕愛でるのならば」となり、(3)の「こと降らば」も「降らないならばともかく、特に〔二字右○〕降るのであるならば」の意味となつて、どの場合も一樣に解釋出來て一通り意味は通るが、果してそれが正當な解釋かどうかについては猶疑なきを得ない。尤も契沖は萬葉集に「殊放者」「殊落者」とあり、菅家萬葉集に「殊者」とあつて、「殊」の字を宛てた事を以て一の論據としてゐる(218)が、これ等の書は訓を假りた假名が多いから確證とはならない。
 古今集以下の「ことならば」及び「ことは」については、契沖は「諺にちがはばとせんかうせんなどいふに似たる詞なり」(古今餘材抄卷二)又は「俗にちがはゞ何とせんといふちがはゞに似たり」(源註拾遺、柏木「ことならはならしの枝」の歌の註)といつてゐるが、それ以上の説明はなく、十分に理解しがたい。眞淵は古今集打聽に(6)の歌には「かく殊ざまにとくちらんものならば」と註し(7)には「世に異にすぐれたる花ならば」と註し(10)には「思ふ物ならば逢べきに思と云ながらあふゆるしなきは思ふと云に異ならばの意なり」と説明してゐるのであつて、「こと」を異なる意味に解してゐるやうであるが、歌毎に多少解釋を異にしすべての場合を通じて一貫した明瞭なる意味を把み待てゐないやうである。さうして(8)の「ことは」は「殊にも降れかし」と「殊」の意味に解してゐて、前後統一しない。それでは、今、これを「殊」又は「異」と解して、前後矛盾なき解釋をしようとするにはどうすればよいか。
 想ふに「ことならば」は、奈良朝に於て「こと降ら〔二字右○〕ば袖さへぬれてとほるべく降り〔二字右○〕なむ雨の」「ことめで〔二字右○〕ば早くはめで〔二字右○〕ず」「ことさけ〔二字右○〕ば沖ゆさけ〔二字右○〕なむ」のやうに、「こと」の直下の動詞を更に後の方に繰返して用ゐたのを、重複をさけて「ことならば……降りなむ雪の」「ことならば早くはめでず」「ことならば沖ゆさけなむ」といふ風に言つたものであらう。「ことは」は「こと降らば」のやうな「こと」(219)の下に「は」の助詞を添へたものであつて、之を「ことならば」と同義と見るものが多く、さすれば「ことは降らなむ」は「こと降らば降らなむ」の義となるが、これには疑を容れる餘地があるけれども、假にこの解釋に隨へば、「ことならば」も「ことは」も共に奈良朝の例と同樣に解すべきであつて、例へば(7)の「ことならば君とまるべくにほはなむかへすは花のうきにやはあらぬ」も初句は「ことにほはゞ」と同義で、「全く匂はないならばとにかく、特に、匂ふのであるならば」と解する事が出來、他の例も同樣に解釋出來る。但しこの時代には、「こと」の下に來べき動詞が必しも下の方にあらはれないものがある。例へば(6)の「ことならば咲かずやはあらぬ櫻花見る我さへにしづ心なし」の如きは全歌の意趣からして「散る」といふ意味が含まれてゐるものとして、「ことならば」を「こと散らば」の義に解して「散らないならばとにかく、特に散るのならば」と釋するより外ない。かやうなものも少くない。
 右のやうに解釋すれば平安朝の諸例に於ても一通りの釋義は出來るけれども、一々の歌について見ると必しも動かす事の出來ない適切な解釋とも思はれないものもあり、少くともこれが最上の説であるかどうかは疑はしく、猶他の説と比較して見なければならない。
 
       五
                      、
(220) 次に「こと」を「かくの如く」又は「かく」と解する説について見るに、かやうに解釋すれば、奈良朝及び平安朝の諸例を通じて大概歌の意味は通じる。例へば(1)の「ことめでば」は「かやうに〔四字右○〕愛でるならばもつと早く愛でなかつたのが殘念だ」の義となり(2)の「ことさかば」は「かやうに〔四字右○〕遠ざけるならば、沖に居るうちに遠ざけてほしいものだ」の義となり、(4)の「ことふらば」は「かやうに降るとならば、袖もぬれ透るほど降ればよいのに」の義となり、(6)の「ことならばさかずやはあらぬ」は「かやうなら(即ちかやうに早く散るのなら)、いつそ咲いてくれぬがよい」(7)の「ことならば君とまるべく匂はなむ」は「こんななら(即ちこんなに咲きにほふなら)あなたを引き留めて置く程にほうてほしいものだ」の義となつて、大體矛盾もなく解釋する事が出來るのである。かやうな理由から、この説がこれまで一般に信せられたのであらうと思はれる。
 しかしながら、問題になるのは「ことは」の例であつて、之を「ことならば」と同樣に解釋してよいならば(8)の「かきくらしことは降らなむ」は、「かやうなら(即ち、かやうに降るならば)空もまつくらに降つてほしい」の義となり(5)の新撰萬葉の
  戀ひわびぬ影をだに見じ玉かづらことは根さへに掘りてすててむ
の「ことは」は「こんななら(即ちこんなに絶えて來ぬならば)玉葛の旅までも掘りすててしまはう」の義となつて、意味は一應通じるが、「こと」を「かくの如く」即ち「このやうに」「こんなに」又は(221)「かく」即ち「かう」と解するとすれば、之に助詞「は」の加はつた「ことは」は、「このやうには」「こんなには」又は「かうは」となる筈であつて、之を「ことならば」と同樣に「このやうなら」「こんななら」「かうなら」の意味に解するのは果して正當であるかどうかは疑はしく、多分無理であらうと思はれる。それ故、藤井高尚は、「ことならば」を「かくとならば」と解しながら(8)の歌の「ことは」は「殊に」の義であるとし「かきくらして一とほりならず殊にいたくふれよかし」と釋してゐる(古今集新釋卷九)。これは「ことは」だけを他の「こと」とは別のものにしたのであるが、しかし、「殊」は「ことに」「ことなり」「ことには」とはいふが「ことは」といふかどうかは疑問である上に、この高尚の説によれば、新撰萬葉の(5)の歌は「……玉葛の影さべも見まい。殊に根までも掘り捨てよう」といふ事になるのであつて、それではどうしても妥當な解釋といふ事は出來ない。さればといつて、他に「ことは」の適當な釋義もまだ提出されてゐないのである。
 かやうに、「こと」を「かくの如く」又は「かく」と解する説は、一應は妥當なやうでありながら、なほ「ことは」にいたつて適當な解釋を得難いのは、猶どこかに不當な所があるらしく思はれる。
 そこで、根本に溯つて、かやうな説が提唱された起因に就いて考へて見るに、これは「こと」を「如」の意味の「ごと」と同語と觀たからであると考へられる。「こと」を「ごと」と同語であると明言してゐるのは鹿持雅澄が最初であるやうであるが、古く「此の如く」と解する定家の説を傳へた二(222)條家の流に於て「こと」を「ごと」と讀んでゐるによつてもこの説がかやうな考から出たものである事が推察せられるのである(毘沙門堂藏古鈔本古今集卷二の「コトナラバ」のコの右に濁點をさして、「如此也二條義也」とあり、堯孝の傳授を筆記した古今聲句相傳聞書にも古今卷二卷八及び卷十六の「ことならば」の「こ」に濁點が加へてある。之に對して定家と解釋を異にする顯昭の古今集注には卷二のコトナラハと卷八のコトナラハのコトに何れも一點を加へて清音に讀むべき事を示してゐる)。
 次に「こと」を「かく」と解する説は、右の説から更に轉化したものと思はれる。「かくの如く」は「この樣に」であり「この樣に」は畢竟「かく」であると考へて直に「かく」と解するにいたつたのであらう。久老が「ことならば」を「如是《カク》ならば」といふ言であるといつて「この樣なことならば」「コンナコトナラ」であると解釋してゐるによつてもその間の消息を窺ふことが出來よう。勿論一方には「こと」をそれと語形の近い「かく」に聯關せしめて説かうといふ意識もあつたであらう。それを更に推し進めたのが「かくと」とする説であつて、「かくと」といふ語の音が約まり轉じて「こと」となつたとしてゐるのである。かやうに、「かく」と解する説は「かくの如く」とする説から出たもので、もし、そんな説が以前に無かつたならば、恐らくは生じなかつたであらうと思はれる。さすれば、この説は、その根源に溯れば「此の如く」とする説に歸するのである。
 さて、「此の如く」とする説は、前述の如く「こと」を「ごと」と同語と認めて、そこから「こと」(223)の意味を「かくの如く」と解したのであるが、その説の當否を判斷しようとするに當つてまづ我々は次の二つの點を考へなければならない。
  (一)「こと」と「ごと」とを同語とする事は果して可能であるか。
  (二)「こと」と「ごと」とが同語であるとしても、果して「ごと」の意味からして「こと」の意味を「かくの如く」であると推定してよいかどうか。
 (一)の問題については、二つの語を比較してその語形と意味との兩方面の一致又は類同をもとめなければならないが、「こと」の意味は今不明であるから、意味の比較は不可能である。語形については、まづ「こと」と「ごと」と清濁の相違がある。「こと」は日本紀では「許等」とあり萬葉集では「殊」「琴」「別」の字を宛ててゐるが、「許《コ》」も清音「殊」「琴」「別」の「こと」も皆清音である。但し清音の字も時として濁音に用ゐる事があり、コトとよむ語も連濁によつて濁音になる事があるが、この場合の「こと」は日本紀萬葉集に於ていつも文の最初に用ゐられてゐるから清音と判斷すべきである。之に對して「ごと(如)」は濁音であるが、これはいつも他の語の下にのみ用ゐられる故、もと「こと」と同語であつたとしても、慣用の久しき、遂に濁音になつたと考へる事が出來る。
 次に「こと」と「ごと」とは、假名で書いた形から見ればその音はコの清濁の違ひだけで、それ以上の違ひは無いやうに見える。實際平安朝の發音では、假名の示す通り清濁以外の差異はなかつたで(224)あらう。然るに奈良朝以前の國語には平安朝よりも、もつと多くの音があつたのであつて、奈良朝から平安朝に及ぶ間の國語の音變化の結果、奈良朝以前において互に區別せられてゐた二つの別々の音が、その區別を失つて同音に歸したものがあつて、爲に平安朝(及び以後)に於ては音の數が減じたのである。普通の假名は、平安朝に入つて出來、當時あつた一つ一つの音を表はすものである故に、奈良朝以前に於ては二つの違つた音であつたものも平安朝で同一の音になつたものは、同じ假名で表はされてゐるのであつて、かやうな場合には、奈良朝に於ける二つの違つた音がどちらも同じ假名で書かれてゐる爲に、假名の形によつては、奈良朝以前に、二つの音のどちらに屬したものであるかは知る事が出來ない。かやうに奈良朝以前の音には、假名で書き表はす事が出來ない區別があつたのであるから、その時代の發音を知るには、當時の萬葉假名で書いたものによるより外ないのであるが、幸に、當時の二つの音が平安朝に於ては一つになつて一つの假名で書かれてゐる故、その假名を、例へば甲、乙と二つに區別すれば、奈良朝に於ける二つの音の區別を假名を用ゐて示す事が出來るのである。
 問題の二語「こと」と「ごと」とに含まれた「こ」「ご」「と」の示す音は、何れも奈良朝に於ける二つの別々の音が平安朝に於て一つになつたもので、奈良朝以前では、コの甲類、コの乙類、ゴの甲類、ゴの乙類、トの甲類、トの乙類と分れて各發音を異にしてゐたのであるから、その當時「こと」(225)のコとトは何類に屬し、「ごと」のゴとトは何類に屬したかを確めて、然る後、兩者の語形が清濁以外は全く同一であつたかどうかを確めなければならない。
 「こと」は奈良朝では、前述の如く萬葉假名で「許等」と書かれ、又、「殊」「琴」「別」の文字で書かれてゐるから「殊」「別」の意味の「こと」、「琴」の意味の「こと」と同音であつた事がわかる。「殊」「別」の意味の「こと」は一音一字の萬葉假名で書かれた例はないが、「殊更に」を「事〔右○〕更爾」と書いた例があるから、事の「こと」と同音であり、事の「こと」は、當時「己等」「許登」「許等」と書かれてゐる故、問題の「こと」は、かやうに書かれたものと同音であり、又「こと」にあてた「琴」は「許等」「巨騰」とも書かれてゐるから、「こと」はこれ等の文字で書かれた音と同音である。かやうにして、問題の「こと」の音は
   コは「許」「己」「巨」によつて表はされ
   トは「等」「登」「騰」によつて表はされてゐる。
奈良朝以前の萬葉假名の研究から得た結果によれば、「許」「己」「巨」等によつて表はされる音は、コの乙類の音であり、「等」「登」「騰」等によつて表はされる音はトの乙類の音である。即ち、「こと」のコもトも何れも乙類に屬する。
 次に「ごと」は「碁等」「御等」「期止」「其等」「其登」「期等」「其騰」などの萬葉假名で書かれて(226)をるのであつて、即ち「ごと」の音は
   ゴは「碁」「御」「期」「其」によつて表はされ
   トは「等」「止」「登」「騰」によつて表はされてゐる。
「碁」「御」「期」「其」などの表はす音はゴの乙類であり、「等」「止」「登」「騰」などの表はす音はトの乙類である。即ち「ごと」のゴもトも共に乙類に屬する。さうして前に擧げたコの乙類とこのゴの乙類とは、例へば「事」のコトと「何事」のナニゴトとの、コとゴの違ひのやうに、只清濁だけの差異で、其他の點は全く一致するものと認められるものである。さすれば、「こと」と「ごと」との音の相違は清濁の差のみで、それ以外は全く同一であつたと認められるから、語形の點からは、この二つはもと同一の語であつたと考へて少しも差支ない。
 猶、「こと」は「ことめでば」「ことさけば」の如く、動詞に連るが、「ごと」も亦動詞に連るのが普通であり、隨つて「ことは降らなむ」の如く、助詞「は」を附ける事も可能であり、又「ことならば」のやうに「なり」に接する事も、多分可能であつたらうと思はれる。これ等の點から見ても、「こと」と「ごと」とを、もと同語であつたと見る事は妨げない。
 かやうにして「こと」と「ごと」とを本來同語であつたと見る事は可能である。この點から見て、從來の説は不當であるとはいはれない。
(227) 次に(二)の問題、即ち、「こと」と「ごと」とを同語と見て、「ごと」の意味から推して「こと」を「此の如く」と解する事は果して正當であらうかどうかについて見るに、「こと」は普通は連用的(副詞的)に (「如く」と同じく)、時々は述語的に(「如し」と同じく)用ゐられる。或事或物を他の事物に比べて、それと「同樣に」又は「同樣だ」といふ事を表はすのが、その根本の意味である。さうして、決してそれだけ離して用ゐる事なく、いつも、比較に用ゐられる事物を表はす語がその上に附いて、「−のごと」「−がごと」と用ゐられる事、現代文語の「如く」「如し」及び口語の「やうに」「やうだ」と同樣である。
 さて、從來「こと」を「此の如く」の義と解したのは、「こと」と「ごと」とを同語と考へ、「ごと」によつて「こと」の意味を解明しようとしたのであらうが、「ごと」は單獨に用ゐられる事なく、常に他の語に伴つてあらはれる故、「ごと」だけの意味を獨立して考へる事が困難であつた爲に、どんな場合にも適用する語として「かく」といふ指示副詞を加へて「かくのごと」として考へ、「かくの如く」を以て「こと」の意味に擬して解釋を試みたところ、大概適合する故、之を「こと」の意味と決定するに至つたものと考へられる(萬葉集古義にも、「こと」を「如なり」と言ひながら、直に「かくの如く」と解釋してゐる)。
 然るに、「かくの如く」は決して「ごと」の意味だけでなく、「かく」と、或状態をさしていふ意味(228)が之に加はつてゐるもので、その状態の如くといふ意味をもつてゐる。かやうに「ごと」の意味に更に他の餘分の意味が加はつた「此の如く」を以て、「ごと」と同語である「こと」の意味と解する事は、果して正當な方法として許さるべきであらうか。
 勿論、或場合には、一の語の意味を理解するのに他の語を加へて差支ないばかりでなく、却つて適當な事もあるが、それはその語の本義を歪める事なく、寧、之を發揮すべき場合に限るのである。それではこの「ごと」の語義の解釋に於てはどうか。
 「かくの如く」といふ語は、本來は、「かく」と指されたその状態と同樣にといふ意味を有するものであるが、「かく」も樣子有樣を示す語であり、「如く」も樣子有樣をいふ語であつて、しかも、何かと同樣な〔三字右○〕樣子有樣をいふのであるから、之を合せた「かくの如く」は全體として「このやうに」「こんなに」の義として用ゐられる事多く、寧、それが普通の用法になつてゐる。かうなれば、「かくの如く」は、その意味に於て「かく」と略同一となり(唯それよりも幾分漠然とさしていふだけの違ひで)、本來あつた「如く」の意味は殆ど失はれてしまふのである。「こと」を「かくの如く」と解した説から「かく」と解する説が導き出されたのはかやうな理由によるのであり、「此の如く」とする説を採つてゐる諸註に於ても、實際の解釋を見ると、やはり「かく」のやうな意味にのみ解して、「ごと」の意味(即ち「如く」)は忘れ去つたかのやうである。かやうにして「ごと」の意味に置き換へられた「此の(229)如く」は、いつしか「かく」に取り換へられ、「ごと」の意味に加へられた「かく」といふ語は、「ごと」の意味を發揮せしめるどころか、逆にその影を薄くし或は消滅せしめる役目をなすに過ぎなかつた。
 かやうにして我々は、「ごと」の意味を「此の如く」と解したのは重大な誤であつたと斷定する。それから導き出された、「こと」を「此の如く」の義とする説は到*底信ずる事は出來ない。
 
       六
 
 「こと」を「ごと」と結びつけて「ごと」の意味から「こと」の意味を推定しようといふ考は、確によい着眼である。然るに、從前の説では、「こと」を直に「ごと」と比較せずして「ごと」の代りに「此の如く」をもつて來た爲に第一歩を誤り邪路に陷つた。我々はもう一度最初から出直して眞直に研究の歩を進めなければならない。
 「ごと」は文語では「如く」「如し」にあたり、口語では「やうに」「やうだ」にあたる。この語は、いつも他の語と共に用ゐられ單獨に用ゐられない故、それ自身の意味は一寸明かにし難いやうであるが、これは或事或物を他の事物と比べてそれと「同樣に」又は「同樣だ」といふ意味を表はす語である。もし問題の「こと」が之と本來同一の語であつて、從つて之と同一又は類似の意味をもつもので(230)あるとするならば、「こと」は當然、「同樣」「同じ樣」又は之に近い意味を有すべき筈である。それでは「こと」の意味をかやうに解して果してあらゆる實例を適當に解釋する事が出來るかどうか。
 まづ(1)の「ことめでば」は、「同樣に〔三字右○〕愛でるならば」「同じ樣に〔四字右○〕愛でるならば」とするのはあまり適當で無いが、「同じ〔二字右○〕愛でるならば」「同じ事〔三字右○〕愛でるならば」、又は「何れ〔二字右○〕愛でるならば」と解すれば、之に續く「早くは愛でず」即ち「もつと早く愛でず(今になつてはじめて愛でた)」といふ句の意味に恰も適合する。「こと」をかやうに解すれば(2)の「ことさけば」は「同じ〔二字右○〕遠ざけるなら沖に居る中に遠ざけてほしいものだ。岸に近づいた時に遠ざけるといふ事があるものか」となり、(3)の「こと降らば」は「同じ降るなら袖までぬれ透るほど降ればよいのに雪が宙できえてしまふのはつ**まらない」となり、(4)の「ことさけば」は「同じ遠放けるなら國に居る時に遠放けてほしいものだ」となつて、何れも無理の無い解釋が出來る。
 「ことならば」も「同じなら」「同じ事なら」(文語では「同じくは」)と解する事となり、(6)は「同じ事なら咲いてくれないがよい」、(7)は「同じ事なら(同じ咲くなら)あなたをひき留めておくやうに立派に咲いてほしい」、(9)は「同じ事なら、書いておいた言葉までも消えてもらひたい」、(10)は「同じ事なら(同じ思はぬならば)思はないと言ひきつてくれないか」、(11)は「同じ事なら皆折つてしまつてやらう」、(12)は「同じ事なら闇であつたがよからう」、(13)は「同じ事なら(霧が)晴れないでほしい」、(231)(14)は「同じ事ならならしの枝のやうに馴れ睦ばせてほしいものだ」、(15)は「同じ事なら末の世まで永く傳へてほしい」の意と解釋せられて、少しもさし障りがない。
 「ことは」の例は、口語の「同樣には」「同じには」の義としては適合しないが、口語の「同じ事には」文語の「同じくは」にあたるものとすれば(8)の「かきくらしことは降らなむ」は「同じ事には空一面まつ黒になつて降つてもらひたい。春雨を言ひぐさにしてあなたを留めませう」の意となり、(5)の「戀ひわびぬ」の歌も、「玉葛の影さへも見まい。同じ事には根までも掘つて棄ててしまはう」となつて、妥當な解釋が得られるのである。この「ことは」は「同じ事には」に當り、隨つて「同じ事なら」の義にも解せられる。さすれば「ことならば」と同じ意味になるのであるが、文語では「ことは」と共に「ことならば」も「同じくは」にあたるのである(かやうに「−は」と「−ならば」とが同じやうな意味になるのは、ごく特別な語に限り、どんな語でもさうなるのではない)。
 我々は從來の説と同じ所から出發して、これとは違つた「こと」の意味を推定し、之を實例にあてはめて見た處が、適當な無理の無い解釋が得られ、「こと」のあらゆる用法を通じて一貫した説明が出來る事を知り得たのである。さうして、之を從來の諸説に比するに、「こと」を「殊」又は「異」の義と解する説は、歌全體の意味といかに聯關せしむべきかに可なりの困難があり、「かくの如く」又は「かく」と解する説は、「ことは」の場合の説明に支障を來す上に、その根本に於て誤つた推論の上に(232)樹てられたものである。これ等に對して、我々の説が、あらゆる場合を通じて同一の意味で解釋する事が出來るばかりでなく、一々の歌の釋義に於ても最適切なものである事は、同じ歌をこれ等の種々の説によつて解釋して比較してみれば自ら明であらう。さすればこの我々の説を以て「こと」の正しい語義と認めて少しも支障が無いのである。
 以上我々の到達した「こと」の語義説は、「同じ」「同じ事」「同じく」の義であるとするものである。然るに、「こと」の研究史から見ると、この説は決して新しいものではなく、既に顯昭の古今集注に見えてゐると同一のものである。即ち顯昭は同書卷二コトナラハサカズヤハアラヌの註に「コトナラハトハオナシクハト云詞也」と云ひ、卷八カキクラシコトハフラナムの註に「コトハトハオナシクハト云心也」と云つて「ことならば」「ことは」を「同じくは」と解してゐるのである。顯昭のこの解釋は、當時かやうな語が普通の言語に用ゐられてゐて、その意義は誰にもわかつてゐたのでなく、當時既に古語となつて普通には用ゐられなかつたのを、顯昭が古歌の語として研究した結果得たものである事は、當時既に定家其他に種々の異る解釋があつたのによつても明かである。かやうにして、我々の研究の到達した所は偶然にも顯昭の研究の結果と一致するのを見るのである。
 又、本居宣長は、古今集遠鏡に於て、「ことならば」を常に
   トテモ……ヌルクラヰ(又はホド)ナラバ
(233)と口譯してゐるが、宣長は、「こと」そのものの意味を何と解したかまだ不明であつて、この譯は歌全體の旨趣を明かにするのを主としたものであるから、「こと」をトテモと譯したと斷言する事は出來ないが、丁度「こと」に當るところへトテモを置いた事は注意すべきである。トテモといふ語の意味は多少漠然としてゐるが、大體トテモカクテモの義と見てよく(勿論それよりも力は弱いが)、さうすれば「同じ……するなら」の「同じ」と近い意味のものであるから、この宣長の解釋によれば歌全體の意味は、我々のやうに「こと」を「同じ」と見た場合と、大體趣を一にするといつてよい。かやうに、我々の語義説が、歌全體の旨趣を明かにするを目的とした宣長の口譯と矛盾しないばかりでなく、大體に於て同一に歸する事は、我々の説が誤でない事を裏書するものである。かう言ふのが決して牽強附會でない事は宣長が源氏柏木の「ことならば」の歌の意を
   柏木君の遺言も有つれば、ゆるし有し事とおほして落葉宮を同しくは此庭の柏木かへでの枝かはせることに我にならし給へかしといふなり(玉小櫛、八)
と説明し、「ことならば」に當る所に明かに「同じくは」といふ語を用ゐてゐるのによつても明かである。
 
       七
 
(234) 以上述べたやうに、我々は、從來廣く行はれてゐた「こと」の語義説を排して、これまで全く無いではなかつたが全く顧みられなかつた「同じく」「同じ」「同じ事」と解する説を新に正しいものと認めた。さすれば、これまで他の意味に解せられてゐた「こと」といふ語で、實は右のやうな意味のものがあるのではなからうか。
 かやうに考へて來てまづ思ひあたるのは、「ことこと」といふ語である。萬葉葉卷五、憶良の老身重病經年辛苦及思兒等歌七首の中の長歌(八九七)に
  年長久夜美志渡禮婆月累憂吟比許等許等波斯奈奈等思騰五月蠅奈周佐和久兒等遠宇都弖弖波死波不知見乍阿禮婆心波母延農《トシマネクヤミシワタレバツキカサネウレヒサマヨヒコトコトハシナナトモヘドサバヘナスサワクコドモヲウツテテハシニハシラズミツツアレバココロハモエヌ》
この「ことこと」は契沖が「異事なり。悉にはあらす。いときなき子をのこしおくほかの事は辛苦のあまりにしなんとおもへどの心なり」と註して以來、諸家ほとんど皆之に從つてゐる。然るに、近く井上通泰博士はこれを古今集の「ことは」と同じものとし、カクノ如クナラバといふ意に解してゐられる(萬菓集新考)。これは「こと」を「かくの如く」とする説に據つたものでそのまゝ之に隨ふ事は出來ないが、この「ことこと」の上の「こと」は上述の「こと」であり、下の「こと」は事であるとすれば「同じ事」の義となり、「ことことは死ななと思へど」は「同じ事には(同じ事なら)死なうと思ふが」の義となつて、意味もなだらかに通じるのである。多分この解釋が當を得たものであらうと
(235)思はれる。
 猶井上博士は萬葉集の左の諸歌に於ける「事」を「ごと」と讀んで、「如」の意に解してゐられる。
  卷八  足日木乃山下響鳴鹿之事乏可母吾情都末《アシヒキノヤマシタトヨミナクシカノコトトモシカモワガココロヅマ》(一六一一)
  卷十一 是川水阿和逆纏行水事不反思始爲《コノカハノミナワサカマキユクミヅノコトカヘサズゾオモヒソメテシ》(二四三〇)
猶左の歌も「先立之」の「之」を「弖」の誤として、事を「如」の意としてゐられる。
  卷十  春去者先鳴鳥乃※[(貝+貝)/鳥]之事先立之君乎之將待《ハルサレバマヅナクトリノウグヒスノコトサキダテシキミヲシマタム》(一九三五)
この説は、卷十の例はとにかく、少くとも初の二例に於ては道理があつて注目すべきものである。井上博士は「事」を「ごと」(如)に假り用ゐたについて、
  如に事を借りたるを思へば、いにしへ之の下の如はコトと清みて唱へしか。コトサケバ、コトナラバなど辭の初なるコトは清みて唱ふる事人の知れる所なり
と説いて居られるが、「ごと」は前に述べたやうに萬葉時代には濁音であつたと思はれるから、この考は成立しない。右の「事乏」「事不反」の「事」は句の初にあつて清音と認めた方がよく、「事」も、複合語となつて他の語の下に附かぬ限り清音であるから、これはやはり清音で、「ごと」(如)ではなく、「ことさけば」「ことふらば」の「こと」と同じものであるまいか。この「こと」は、他の場合は上の語を承ける例はないが、時として「……の」を承ける事があつたのかも知れない。或は又、「の」(236)はそれだけで「の如く」の意味に用ゐられる故、「鳴く鹿の」で「鳴く鹿の如く」と一寸きれて、更に「(それと)同樣に」の意味で「こと〔二字右○〕乏しかも」といつたのかも知れない。まだ疑問は殘るが、ともかく注意すべき例である。
 以上の外にも、猶よく調査すれば、この種の「こと」は、もつと見出されるかも知れない。
 猶我々は、前に「こと」と「ごと」とがもと同語であつたと假定して、「こと」の意義を考へたのであるが、かやうな假定から導き出された「こと」の意義がすべての實例に適合して正當なことが明かになつた以上、さきの假定は事實によつて認證せられたのであつて、「こと」と「ごと」とが本來同語であつた事は決定的となり、「ごと(如)」の語源説に一道の光明を投ずる事になつたのであるが、「ごと」の語源に關しては猶述ぶべき事が少くないから之を他日に讓り、「こと」の語義に就いて述べるに止めた。    (昭和十五年八月稿)
 
  刊行委員附記
   * (二二九頁) 次の論文二五九頁で「到底」を「容易に」と訂正された。底本の自筆書入れもさうである。
   ** (二三〇頁) 次の論文二六四頁で「つまらない」を「惜しいことだ」と訂正された。底本の自筆書入れは、「殘念だ」としてある。
 
(237)     「ことさけば」の「こと」の語義について
 
       一 「こと」に關する野村北條兩氏の新説
 
 昨年十月發行の本誌萬葉研究號に發表した「「ことさけば」の「こと」と如の「ごと」」と題する拙稿に對して、北條忠雄氏は雜誌「文化」の三月號(「ことさけば」「ことならば」の「こと」と「ことは」の考察)に於て、又野村宗朔氏は本誌七月號(「ことならば」の「こと」)に於て、それ/”\「こと」の本性に關する新見解を發表すると共に鄙説を批評せられたのは私の光榮とする所である。私は、萬葉集の「こと避けば沖ゆさけなむ」の類の「こと」及び古今集の「ことならばさかずやはあらぬ」の類の「ことならば」、並に「かきくらしことはふらなむ」の類の「ことは」の「こと」を、從來多くは「如」の「ごと」と聯關したものと考へながら、之を「かくの如く」の義と解したのを誤であるとし、之を「如」と同源のものとして口語の「同じ」又は「同樣に」文語の「同じく」の義と解すれば最妥當な解釋が得られるによつて、さういふ意味と解するのが正當であると主張したのに對して、兩氏は、「こと」は代名詞「こ」(此)に助詞「と」の加はつたものてあると解し、それによつて歌の意(238)味が正當に解釋し得られると説かれるのである。さうして、北條氏は主として「こと」の語性の解明に力を注ぎ、野村氏は主として全歌の旨趣の解説に力を盡されたといふ相違はあるものゝ、「こと」の語としての性質に關しては、兩氏の説は期せずして合致してゐるのである。これはたしかに新説といふべきである。しかし、その語義に關しては、「かく(斯く)」とほゞ同樣とせられるのであつて、從來あつた「かくの如く」と解するものと殆どかはりは見られないやうである(尤も、野村氏の歌の解釋は、從來のものとは違つたものがあるが、それは歌の中の他の語――例へば「しづ心なし」――の解釋が從來のものと異るか、又は個々の語の解釋は從來と同じであつても歌全體の意味に對する見解がちがつてゐるのであつて、「こと」の意味そのものは、從來の説と大差ない)。
 以上兩氏の説に對する私の見解としては、「こと」を代名詞「こ(此)」に助詞「と」が附いたものとする新説に關しては、
  (一) コ、ソ、カ、ナニのやうな指示代名詞に助詞「と」がついて副詞的に用ゐられたものは、奈良朝の文献に於ては「なにと」の例しか見えない故、代名詞「こ」に「と」が附き得たかどうか疑はしい事。
  (二)一般に體言に助詞「と」の附いたものは、奈良朝に於ては「言ふ」「聞く」「告ぐ」「成る」「名附く」「思ふ」「成す」「見る」「告《の》る」「知る」「問ふ」「名に負ふ」のやうな限られた動詞に連(239)る場合を除き自由に種々の用言に連る副詞的修飾語としては
  (a)「として」又は「となつて」の意味(「瑞山と〔傍線〕しみさびいます」「枕と〔傍線〕まく」「家と〔傍線〕住む」「雪と〔傍線〕降りけむ」など)
  (b)「と云つて」の意味(「君が御言と〔傍線〕玉梓の使も來ねば」「ひぐらしは時と〔傍線〕なけども」など)
  (c)「と共に」の意味(「妻と〔傍線〕たぐひて」「古にいもと〔傍線〕吾が見しぬば玉の黒牛潟を見ればさぶしも」)
  以上のやうな場合の外には殆ど用ゐず、代名詞「なに」に「と」が附いた「なにと」もやはり「何として」の意味(即ち(a))であつて、以上の範圍を出ないから、「こ(此)」に「と」が附いたものがあつたとすれば、それも亦さうであらうと思はれるのに、「こと」の「と」はそんな意味に用ゐたものは見えず、隨つて助詞「と」と同一のものとは認め難い事。
 以上の如き理由からして之を妥當とは認め難いのであり、又歌全體の意味も、既に前稿に述べた通り、「こと」を「同じ」又は「同樣」又は「同じく」の義として適當に解釋せられるのであつて、むしろ、この方が一層適切な解釋であるとする考を、今猶棄てる事が出來ないのである。
 かやうに私は、不幸にして兩氏の説に賛同する事が出來ないのであるが、しかし私としては、既に私の説の根據と研究の徑路とを明かにした以上は、その當否の斷定は公平な學界の判斷に任せておけばよいのであつて、今更之について喋々する必要はないやうであるが、今回兩氏の論文を讀み且つ再(240)びこの問題に就いて攻究した結果、前回の拙稿に擧げた「こと」の例に脱漏があつた事を知り、之に關する説明を補足追加する必要を感じたと共に、前稿を再讀してその説明があまり簡單に過ぎた爲、私の眞意が理解せられなかつた點や、語句に不適當なものがあつた爲、誤解を招いた所があるのを見出したので、前稿の不備を補ふ意味で再び筆を執つた次第である。
 
       二 「こと」の諸例の補遺とその釋義
 
 前稿に述べた通り、私が右の「こと」といふ語に注意するに至つたのは、「ごと」の語源を考へたに起因する。隨つて、なるべく古い時代に於ける「こと」の語形と意義と用法とが注意の焦點となつてゐたのである。文獻に存する最古い例は日本書紀及び萬葉集所見のものであつて、「こと愛でば」「こと避けば」「こと降らは」の如く、「こと」が直に動詞に連るものばかりである。然るに平安朝に入つて古今集其他の歌に「ことならば」「ことは」の形があつて、これらも奈良朝の「こと」と關係あるものと思はれる故、之をも併せて研究するに至つたのであるが、主とする所は古形古義古用法に在つた故、平安朝では大體その半頃までを限りとしそれ以後のものは採らないのを原則とした。然るに野村氏の論文を見るに新に和泉式部集から引用された二首の歌があつて、その中、帥宮の和泉式部に向つて詠ませられた連歌の中の「ことは」は、他の諸例とは多少趣を異にし、私の提出した説によつて解(241)釋出來るかどうかゞ問題となるものである事に心着いた。それ故、更に平安朝中期までの諸例を捜索したところ、前稿に漏れたものがある事を見出したので、之を左に掲げる。
 (1)古今和歌六帖第一 夏の月
   こと〔二字右○〕ならば暗にもあらなむ夏夜の照月影ぞ入頼めなる
 (2)同 第五  人をまつ
   こと〔二字右○〕ならば闇にもあらなむ夏夜は照月影ぞ人頼めなる
 (3)同 第三  水
   こと〔二字右○〕ならば山下水となりなゝん人め茂きの中も行くべく
 (4)天徳四年内裡歌合  十八番(戀)
         右     中務
   こと〔二字右○〕ならば雲井の月となりななむ戀しき影や空に見ゆると
 (5)曾丹集  九月中
   こと〔二字右○〕ならば山とも早く成なゝむこゝらの紅葉散積りつゝ
 (6)和泉式部集第一
       まゆみの木のおいたるを見せ給ひて
(242)   こと〔二字右○〕はふかくもなりにけるかな
     とのたまはすれば
   しら露のはかなくおくと見しほどに
 (7)同  第五
      まつにふぢかゝりたる所人々おほくよりて見る
   こと〔二字右○〕は藤散らで千年を過さなむ松の常盤にきつゝ見るべく
 以上の七例が私の知り得たすべてであつて、(1)から(5)までの五例は「ことならば」とあり(6)(7)の二例は「ことは」となつてゐる。その中「ことならば」の諸例は何れも私案の如く、「同じ事なら」(「同じ……なら」)又は「同じくは」の義に解すれば(1)及(2)は「同じ事なら、即ち同じ來ないなら闇夜であつてほしい」(3)は「同じ事なら、即ち、同じ忍ぶなら(この身が)山下水となつてほしい」(4)は「同じ事なら、即ち同じ逢へないならば空の月となつてほしい」(5)は「同じ事なら即ち同じ散り積るなら早く散り積つて山となつてほしい」と解せられて妥當な解釋が得られるのである。もつともこれらの諸例も、「こと」を「かく」の義として「こんななら」「こんな事なら」と解しても一應意味は通ることは既に前稿に掲げた諸例について述べた通りである。しかし、私案の如く解しても十分解せられるばかりでなく、それが爲に歌としての趣を損ずる事は決してないものと信ずる。
(243) 次に「ことは」の例は、(7)は私案の如く、「同じ事には」の義として、「同じ事には(同じくは)この美しい藤の花が散らないで千年もそのまゝ咲いてゐてほしい。この松の緑の如くいつ來ても見られるやうに」と解すれば妥當な解釋が得られるのである。然るに(6)の
  ことはふかくもなりにけるかな
の「ことは」は、私案のやうに「同じ事には」の意としては妥當でなく、むしろ、普通の説(及び兩氏の説)の如く、檀の木の紅葉したのをお見せになつて「かやうに〔四字右○〕(色)深くなつたなア」と仰せられたと解するのが無難なやうに見える。それでは私の「こと」の語釋は全然成立しないかといふに、私はさうとは思はない。
 まづ右の和泉式部集の本文は果して右の歌の作られた時のものを誤無く、そのまま傳へてゐるかといふ點に問題がある。和泉式部集の諸本を調査せられた池田龜鑑氏の報告によるに、同集の普通本系統の諸本は皆「ことは……」となつてゐるが、これ等は傳來の比較的新しいものばかりであつて、傳後醍醐院宸筆本などを含む、相當傳來の古い異本系統の諸本は皆この條を缺いてをる。又この歌は和泉式部日記にも出てゐるが、それには
  ことのは〔四字右○〕ふかくなりにけるかな
とあつて、「ことは」とはない。この日記の諸本は三つの系統にわかれ、中には應永二十一年書寫の奧(244)書あるものもあり、かなり古い時代まで溯る事が出來るのであつて、もと/\和泉式部集の古本に據つて作つたものと思はれるが、それには右の如く諸本皆「ことのは」とあり、又前述の如く集には「ことは」とあるけれども、然るべき古本には見えない所をみると、「ことは」と「ことのは」とどちらが原形であるか、原本にはどうなつてゐたかは斷言出來ないとの事である。さすれば、流布本和泉式部集の本文は果して原歌の面目をそのまま傳へてゐるかどうかについて疑を插む餘地があり、或は誤寫があるかも知れないとも考へられる。
 猶、右の歌に誤寫があるのでないかと疑はせる他の事情がある。それは北條氏も指摘せられたやうに、「こと」「ことならば」「ことは」は、「こと愛でば早くはめでず〔右○〕」「こと避けば沖ゆさけなむ〔二字右○〕」「ことならば咲かずやはあらぬ〔右○〕」「ことならば君とまるべく匂はなむ〔二字右○〕」「ことは根さへに掘りてすててむ〔右○〕」の如く、打消、希望、意志、假想をあらはす助動詞又は助詞で結んだ、願望、意欲、推想などを表はす文中に用ゐるのが常例であつて、事實を敍述する文に用ゐたものは殆ど無い事である。この事は、前稿に擧げた十五例、及びこの稿に増補した六例、並びに私が見及んだ、それ以後の時代の諸例(久安六年御百首の内、上西門院兵衛の歌一首、基俊家集上の内一首、爲忠朝臣家百首の内一首、林葉和歌集一の内一首、同三の内一首、後葉和歌集卷十一の内一首、寶治百首の内一首。何れも「ことならば」の例)を通じて、唯一首の外、總ての場合に適合するのであつて、今問題としてゐる和泉式部集(245)の歌に「ことはふかくもなりにけるかな〔四字右○〕」と斷言した言ひ方で結んであるのはその唯一の例外である。この歌は、野村氏のやうに「ことは」を「かくは」の意味に解すれば意味は通るのであり、其他の「こと」の諸例も大抵はさう解して意味が理解出來るから、この一例を基礎にして私の語釋を全面的に否定する事も出來ようけれども、他の見方からすれば、これを除いては一つの例外も無いのであるから、それだけでもこの處の本文に何か誤があるのではなからうかを疑はしめる一つの理由となると思はれる。まして、同じ疑は前述の如く、その本文研究の方からも可能であるに於ては、猶更のことである。(猶又、野村氏の如く、この歌を「こんなに色深くなつた」と解すれば、あまり平凡で曲がないともいへるが、これは主觀的な判斷になる故必しも強くは主張しない)
 しかしながら、右のやうな本文の純眞性に關する疑は唯疑に過ぎず、今の處、確に誤である事を證明し得ないのであるから、右の本文には誤無く、原歌のまゝであるかも知れない。その場合にはどう解釋するかといふに、色々の場合が考へられる。
 第一は、この歌の「ことは」は今問題にしてゐる「こと」ではなく、別の語であるとするのである。例へば、「ことは」を「言葉」であるとして、「言葉深くもなりにけるかな」と解する。「言葉」を木の葉にかけて言つた例は古歌に屡見る所であるから、宮が檀の木のおいたるを見せ給うて式部に詠みかけられた御歌の詞として、「ことば」と解するのは決して不適當ではない。しかし、「言葉深くなる」(246)といふ言ひ方があつたかどうかは疑問であるから、もとより之を確説とする事は出來ないであらう、(尤も、和泉式部日記に「ことのは〔四字右○〕深くなりにけるかな」となつてゐるが、もし、かやうな言ひ方が平安朝にあつたとすれば右の説も許されるかも知れないが)
 第二には、右の歌の「ことは」は、やはり他の場合と同じく、「こと」が「同じく」「同じ樣に」の義であつて、「は」は意味を強め語調を調へる爲に添はつたものとするのである。即ち、「同じやうに深くなつたな」と仰せられたと解するのである。和泉式部日記によれば、この歌を宮が詠ませられたのは、和泉式部が宮に見え奉つてから、まだあまり多くの月日を經ず、宮の御いつくしみが漸く深くなり出した頃で、式部も宮の御心持に對して幾分の不安があつたものと思はれるので、それ故、宮は式部に檀の木の紅葉ぢたのを御見せになり、(この紅葉の色も宮の御愛情と)同じやうに〔五字右○〕深くなつた事かなと仰せられ、宮が式部を深く御愛しになる事をお示しになつたと解する事が出來よう。さすれば、式部が答へ奉つた「しら露のはかなく置くと見し程に」の句も活きて來るやうに思はれる。かやうな意味は「こと」だけで十分現はれるので「は」を加へる必要はないけれども、古くそんな場合に「は」を用ゐる例はあるのである。
  憂き身をも慰めつるに櫻花如何にせよとか斯く〔二字傍線〕は〔右○〕散るらむ(能因法師)
  戀しさはつらさにかへてやみにしを何の殘りてかく〔二字傍線〕は〔右○〕悲しき(辨乳母)
(247) この歌の「ことは」にかやうな用法があるものとすれば、同じ集の和泉式部の歌(前掲(7))も亦之と同樣なものとして解する事が出來る。即ち、
  ことは藤散らで千年を過さなむ松の常盤に來つゝ見るべく
の歌であつて、その「ことは」は、私が其處で釋した通り、「同じ事には」、即ち「同じくは」としても解釋出來るのであるが、今之を右の(6)の歌と同樣に「同じく」「同じ樣に」の義とすれば、この歌は「(この松と)同じやうに〔五字右○〕、この(きれいに咲いた)藤の花が散らないで千年も過してほしい。松の緑のかはらぬ如くいつ來ても見られるやうに」の意味になるのである。さすれば、松に藤のかゝつた所に多くの人々が寄つて見てゐる繪に題した歌として適切なものとなる。むしろこの解釋が妥當なものではあるまいか。(これについては猶後に再説する)
 もつとも、右の歌の「ことは」をかやうに解すれば、「ことは」の他の諸例、即ち前稿に擧げた菅家萬葉及び古今集の歌((5)(8))に見えるものとは、すこし意味を異にすることとなる。どちらの場合も「こと」の意味はかはらないが、他の「ことは」は「同じ事には」の意味で、畢竟「同じ事なら」と同じやうな意味に解せられるのであるが、この和泉式部集の「ことは」は、単に「同じく」又は「同じやうに」の義となるのであつて、「同じ事には」としては適合しない。さういふ點に於て、私の説が正しいかどうか疑問であるとも考へられる。しかし、前にも述べたやうに、和泉式部集の例は、これ(248)まで私が知り得た「ことは」の諸例中、最新しいもので、前二書の歌からは九十年或はそれ以上も後のものであり、又當時は口語に用ゐられたものではなく、歌詞としてのみ用ゐられたものと考へられる。(今まで知られた所では、「ことは」のみならず、「こと」も「ことならば」もすべて歌にのみ見えて、散文には見えない。遲くとも、假名文學の起つた頃には歌詞となつてゐたもので口語には用ゐられなかつたであらう)さうして「ことは」は古歌に用例は多くないが、「ことならば」は古今以下の有名な歌にも用ゐられて、その場合に「こと」が「同樣」とか「同じ」とかいふやうな意味に用ゐられる事を知つてゐたとすれば、「こと」を「同じく」又「同樣に」の意味で、副詞的に用ゐ、之に「は」をつけて「ことは」とする用法が新に出來たとしても決して不自然ではない。つまり時代に伴ふ歌詞の用法の變遷として見る事が出來るのである。
 以上のやうに種々の場合が考へられるが、もし誤寫であるか、又は全く別の語である場合には「こと」の語義には全然關係の無いものである。又、果して問題の「こと」と同語であるとしても、さういふ新用法が生じたものと解する事は、この例が比較的新しいものであつて、私が最初限つた年代の最終の時期に屬するものである事から考へれば、決して不可能でない。もし新用法と解する事が認められゝば、「こと」の語義に關する限り私の説はそのまゝ適合するのである。
 とにかく、右の和泉式部集の例は、私の説の成立にとつては看過すべからざる重要なものであつた(249)のを、見落したのは私の疎漏であつた。殊にそれは、雅言集覽にも採録せられて容易に知り得るものであつたのに、檢索を怠つたのは汗顔の至である。
 しかしながら、幸に、右の例は、稍後のものであつて、その本文にも幾分疑があり、よし本文が正しいとしても、他に解釋の餘地があつて、私の最初の目的であつた、「こと」の古義を闡明するについては必ずしも支障とならず、私はなほ私の主張を改める必要を認めないのである。
 
       三 「こと」と「ごと」との關係
 
 以上述べたやうな新しい諸例が見出された後も「こと」の語義に關する私の説は、
 (一) 「こと」を口語の「同じ」「同じ事」文語の「同じく」の意味と解すれば、唯一例を除いてすべての場合を通じて妥當な解釋が得られる。その唯一の例外も比較的後のものであり、本文にも疑があり、たとひ本文が正しいとしても種々の解釋が可能であつて、私の説によつても解釋出來るものであるから、少くとも古い時代の語義は右の如くであつたと考へられる。
 (二) 右の語義説は、「こと」と同源の語と認められる「ごと」の意味によつても支持せられる。
 以上のやうであつて、よし從來の諸説及び野村北條兩氏の説が、語義説として成立し得べきものであるとしても、それよりもむしろ一層妥當であり且つ根據あるものであると考へるのである。
(250) 兩氏の説は、既に述べた通り、「こと」の語釋に關する限りに於ては、定家以來の「如是」とする説とほとんど同一である。定家以來の説は、「こと」を「ごと(如)」と關係あるものとみとめて、「如」の意味から「こと」の意味を推定し、之によつて歌の意味を解釋し、それがすべての場合に適合すると認めて之を正しいと考へてゐたのである。然るに、「ごと」の意味から出發して「こと」を「かくの如く」又は「かく」と解する事の誤である事は既に私の前稿に指摘した所であつて、この説はその根據を失つたのである。勿論、語釋の目的はその語の正しい意味を見出すに在つて、何を手がかりとして之を求めたにしても、畢竟正しい意味さへ見出されればよいのである。それ故、たとひ「如」との關係からして求めた事は誤であつたとしても、それから得られた語義は正しい場合もあり得べきである。しかし、その場合には、その語義が果して正しいか正しくないかを判斷すべき基準は、歌全體の意味がそれで差障りなく解釋出來るかどうかだけである。私は、前稿に述べた通り從來の、「こと」を「かく」又は「かくの如く」と解く説によつて、この語を有するあらゆる歌の意味を妥當に適切に解釋する事が出來るかどうかを疑ふのであつて、殊に「ことは」の例の如きは、少くとも可なり困難であると考へるのであるが、假にさうでないとしても、かやうな説は、之と同じく、あらゆる例に亙つて適合する語義説が別にあらはれた場合には、之と較べてどちらが一層妥當であり自然であるかといふ事以外に、自己を主張すべき根據は無いのである。然るに兩氏は、この説を補強すべき根據として(251)新に「こと」を「こ(此)」に助詞「と」の加はつたものと解する説を提出せられ、「こ」と「と」との語性及び語義を基礎として説明しようと試みられた。しかるに、上述の如く、私の見る所では、この説は「と」の古代語に於ける用法から見て認容しがたく根據とするに不十分である。
 私の語義説は、少くとも「こと」の古い時代の用例にはすべて適合する上に、また「こと」と同源と考へられる「ごと」の意味からも支持せられるのであつて、それだけ根據があるものといつてよいと愚考する。
 然るに、右の「こと」と「ごと」との間の關聯を認める事に對して野村北條兩氏共に之を難ぜられた。野村氏は、「こと」と「ごと」との間に清濁の相違のあるのを、萬葉集古義に「其は上より連ぬる音便にて、本は清音にて首に許登云々と云ときは清む例なり」と説明してゐるに對して、「連濁の説明も妥當でない。春霞朝霧など熟する場合に連濁はあるが、春の霞朝の霧と助詞を間にして連濁といふこともない筈である」といふ理由からして「こと」は「如」であるといふ古義の説を否定してをられる。私は、「こと」は即ち「如」であるといふのでなく、「こと」と「ごと」とは同じ根源から分れ出たものであらうとするのであつて(前稿に「もと〔二字右○〕同語であつた」といつたのは、かやうな意味である)、萬葉時代に於て同一の語であつたといふのではない。さうして、「ごと」が濁音になつてゐる事も、連濁といふ語が、今普通用ゐられてゐるやうに、單語と單語とが複合して一の單語を作る場合にのみ限(252)つて用ゐられるならば、「ごと」は連濁でないと認めてよい。しかし、「ごと」の如き附屬的に用ゐられる語には、「が」「ぞ」「ば」「ばかり」「だけ」「ぐらゐ」「ど」「がも」「べし」など濁音ではじまるものが少くない。その中「ぞ」は代名詞及び助詞の「そ」、「ば」は助詞の「は」、「ばかり」は名詞「はかり」、「ぐらゐ」は名詞「くらゐ」と同源のものであるべき事は、多くの學者の異論なき所であらう。それ故、奈良朝時代に於て附屬的にのみ用ゐられた「ごと」が濁音であるのは、同じ時代に清音であつたと認められる「こと」と同源の語であつた事を否定するものではなく、同源であつたと考へても決して無理ではないと信ずる。
 北條氏は、「こと」が獨立し得る語であり、「ごと」が附屬的に用ゐられる語である事を指摘して、之を同語とするのは不合理であるとせられるやうであるが、前にも述べた通り、私は之を同語と考へるのではない。歴史時代に於ては別の語であつた事を認めるが、語源的にこの兩語が同じ根源から出たものである事を認めようとするのである。それ故、日本紀萬葉に見える「こと」が直に「ごと」になつたといふのではない。假に「ごと」といふ形が「こと」といふ形から出たとしても、「こ」が濁音に變化したのは有史以前のことであり、又「こと」といふ獨立語がその用法を變じて今見る「ごと」の如き附屬語になつたとしても、それはすべて有史以前に起つた事實であつて、一々例證を擧げてその變化を跡づける事は何人にも不可能な事である。勿論明確に跡づける事は出來なくとも、推測によ(253)つて説を立てる事の出來る場合もあるが、かやうな事は語源研究に屬するものであつて前稿に於ては立入らなかつた問題である。前稿には、「こと」の語義ことにその文獻にあらはれた最古の時代の意義を主として研究したのであつて、それの爲に、「ごと」を「こと」と同源の語と認めて、「ごと」の意味から「こと」の意味を推定せんと試みたのである。それは同源の語は、その意味に於て互に一致するか類似するか、少くとも互に關聯するものを有する場合が多いからである。(同源の語であつても、分れてから各語それ/”\意味變化を重ねれば、遂に兩語の意味上の關聯が失はれてしまふ事がある。かやうな場合には右の方法は成功しない)さうして「こと」と「ごと」とが、同源で互に聯關を有した語であつた事を推定するに當つては、まづ語形と用法との上から兩者の異同を檢して、その間に類同する點多く、相違する點も同一の根源から分れたものとして説明し得べき性質のものである事を認め、これ等の點からはこの兩語を同源のものと推定して支障なき事を知り、更に意味の方面に及び、「こと」を「ごと」と類同した意味を有するものと假定して、「こと」の實例について一々檢討した結果、それがあらゆる例に適合するものである事を確めたので、曩の假定を事實によつて認證せられたものとし、「こと」と「ごと」とは同源であり、互に類同した意味を有するものである事を推定するに至つたのである。
 かやうに語義の闡明の爲には、「こと」と「ごと」とが互に關聯を有する同源のものであり、その結(254)果互に同一又は類似した意味又は互に連絡ある意味を保有する事が大切なのであつて、「こと」から「ごと」が出たか、「ごと」から「こと」が出たか、又は「こと」「ごと」以外のものから分れて「こと」と「ごと」になつたか、獨立語的のものから附屬語的のものになつたか、附屬語的のものから獨立語的のものになつたか、名詞から副詞になつたか、副詞から名詞になつたかなど語源研究に關する事は、この場合深く問題とする必要はない。唯、何等かの徑路によつて同一の根源から、奈良朝時代に見るやうな「こと」と「ごと」との二つの語が出來る可能性が認められゝばよいのである。
 かやうな譯であるから、「こと」と「ごと」とが同源の語であるといふのも勿論推定説であつて、歴史的事實によつて説明せられたものではない。かやうな事はそれ以上遡る事が出來ない歴史時代の最古の時期に於て既成の事實として存する事實に基づいて建てられたこの種の學説の總てに於て免れ得ない運命であつて、もつと古い時代の資料が新に發見されるか、又は日本語と古く手を分つた日本語以外の同系の言語が見出されて比較研究が出來るやうになつた場合の外は何ともしやうのない事である。唯、右のやうな事情の下に於ける同源語の認定は、出來るだけの手續と考慮をつくし、國語のみならず一般言語に於ける言語状態と言語變化を支配する種々の原則と條件とを顧みてなさるべきであつて、これらの點から見て比較的に可能性の多いものを以て眞實を得るに近いものと認める外ないのである。さういふ意味に於て「こと」と「ごと」との聯關性は、私見によれば、比較的可能性の多い(255)ものと思はれるけれども、固より確實動かすべからざるものと言ふことは出來ない。然るに北條氏は私が前稿に「「こと」と「ごと」とがもと同語であつた事は決定的となるのである」と書いたのを、客觀的に確實にして動かすべからざるものであると云ふ意味に取られたのであるが、これは誤解である(「もと同語であつた」又は「元來同語であつた」といつたのも「同源の語であつた」といふ意味である)。前稿に於ける私の論はまづ實例をあつめて之を整理し、その中から結論を導き出すといふ方法によらず、まづ「こと」と「ごと」とが元來同語であつた事、即ち同じ根源から出たものである事を假定〔二字右○〕して、之から「こと」の意味を推定し之を諸例に宛てはめて檢した結果、それが事實に適合する事を認め、これによつて、最初の假定の正しかつた事を認證したのである。かやうに、まづ假定を立て、之を事實によつて證明して確定した説とする方法を執つた爲、或は、假定から出發したものである故どこまでも假定に過ぎないと誤解するものゝある事を恐れて、私の説が論證によつて確定し「決定的のものとなつた」と述べたのである。これは論理的にはどこまでも私の推定説の決定であつて、私としては事實を得たものと信ずるが、果してさうであるかどうかは、勿論學界の批判にまたねばならない。
 次に「ごと」の意味について、北條氏は「ごと」を口語の「樣」に宛てゝ、私が前稿に「ごと」を「同樣に」「同席だ」の意味とし、それから「こと」の意味を導いて「こと」を口語の「同じ」と譯し(256)「ことならば」を、「同じ事なら」と譯したのを見て、「樣」の意味を「同じ」に置き換へたと非難せられた。私が口語をあてたのは、「ごと」又は「こと」の意味を明かにする爲で、口語の語源や意味の變遷を論ずる爲でないから、言及しなかつたのであるが、私は「ごと」の語義としては「同樣」又は「同じ」といふやうな等同性〔三字右○〕を表はすのがその中心であると信じる。「花のごと」は「花と同樣に(同樣だ)」「花と同じく(同じ)」「花と等しく(等し)」の意味であり、少くとも、それが根源の意味であつたと考へる。「ごと」は又類似〔二字右○〕の意味にも用ゐられ、「花に似て」「花に似たり」に近い意味になつたものもあらうが、それは等同〔二字右○〕の意味から少し轉じたものと見ることが出來る。口語の「花の樣に」の「樣」はもと「樣子」の意味を有する語であつた故、「花の樣に」は「花の樣子に」の義であつたに對して「花のごと」「花のごとし」は「花と同じく」「花と同じ」といふ意味であつたが、それはいつも性質状態等、ものの樣子についていふのであるから、「花のごとく」は「(樣子が)花と同じく」の義で、從つて「花の樣子に」を意味する「花の樣に」とほゞ同一の意味になる處から後には遂に「花の樣に」が「花の如く」に代つて用ゐられる事になつたものと思はれる。さすれば、「ごと」「ごとし」の古義は斷じて「樣」ではない。「ごと」の意味の中心たる等同の意味は、奈良朝に於てはじめてこの語に生じたのではなく、前の時代から受けついで來たのであらうが、奈良朝に於ては既に別の語となつてゐたに拘らず本源に於ては「ごと」と同語であつたらうと考へられる「こと」に於ても、やはり(257)この等同の意味が保存せられ、「ごと」に於けるよりもむしろ一層明瞭にあらはれてゐたことは、「こと」を口語の「同じ」の意味に解すれば、當時のあらゆる例に適合して、少しの不自然も支障もない事によつて證明せられる。
 又私が、萬葉集卷五の憶良の歌の「許等許等波死ななと思へど」の「ことこと」を、問題の「こと」と「事」との合した語と考へたに對して北條氏は「こと」の語性を問題とし、それが副詞ならば、「事」といふ體言と複合するのは解し難いとせられるもののやうである。「こと」は、日本紀萬葉ではすべて動詞の直前にある故、副詞といふべきであらうが、この時代に於て副詞の名詞と複合した例は或は無いかも知れない。(尤も、いかなるものを副詞と認めるかが先決問題であるが)しかし、右の語はこの時代にはじめて出來たのでなく、もつと古い時代から存在したとすれば、初めてこの複合語が作られた時には別の品詞であつたかも知れず、又その時代には品詞の別は後の時代とは違つてゐたかも知れ
ない。それはとにかく、よしこの語に關する私の説が誤であるとしても、私の「こと」の語義説はこの例を少しも根據としてゐないのであるから、それによつて私の説の決してくづれない事は、前稿を讀まれた方々の承認せられる所であらうと思ふ。(私がこの例を重んじてゐるやうにいはれたのは北條氏の誤解である)私は「こと」といふ形を有するあらゆる語の意味を研究してゐるのでなく、そのうちの特別な語の意味を考へただけであるから、その意味で解せられる限りは同語と認めるが、さう(258)でないものは他語と認める外ない。その他にもいろ/\疑問の「こと」があつて、これを兩氏共に自説によつて解かうと試みてゐられるが、その説は必ずしも承服しがたい。實際、最古の時代の文獻を一語殘らず明確に解釋する事は恐らくは不可能であらう。
 
       四 「こと」の語義
 
 以上のやうな、「ごと」と「こと」とを同源の語とする私の推定が誤で無いとしたならば、私の「こと」の語義説は「ごと」の語義に支持せられて有力となるのである。しかし、もし假にこの推定が誤であつたとしても、私の語義説は必しも力を失はないのである。前にも述べた通り、私は實際には「ごと」の意味を手がかりとして「こと」の意味を考へたのであるが、その「こと」の意味が少くとも古い時代の「こと」の實例に一つ殘らず適合するといふ事實は極めて大切なことであつて、その手がかだとなつた推定がよし誤つてゐたとしても、右のやうな事實は決して看過し難く、私の語義説は少くとも一説として殘る筈である。それは、たとひ確實な、根據ある語源説に基づき、それから演繹せられた語義説であつても、もし實際の諸例の解釋に適合しないものであつたなら、語義説としては全く價値が無いのと同じわけである。(兩氏は、かやうな點を看過し、「ごと」との關係を否定すれば私の「こと」の語義説は全面的に否定し得ると考へられてゐるのではあるまいか。私が「こと」を(259)「此と」と解する兩氏の説を認めないに拘らず、猶兩氏の語釋を問題にするのは右のやうな理由によるのである。隨つて私が前稿に、舊來の説が、「ごと」を「此の如く」と解した誤を指摘し、次に「それから導き出された「こと」を「此の如く」の義とする説は到底〔二字右○〕信ずる事は出來ない」と記したのは行き過ぎであつて、最後の句は、「容易に〔三字右○〕信ずる事は出來ない」と訂正しなければならない)
 處が兩氏は「こと」を「かく」と同樣な意味として、それであらゆる例が完全に解釋出來ると主張せられる。又實際多くの例はそれでも意味は通じる。又、前稿に述べた通り、契沖以下の「こと」を「殊」と解する説でも、一通りの釋義は出來るのである。私はまた、私の語義説が、他の諸説に劣らずあらゆる例を矛盾なく解釋し、且つその事によつて「こと」と「ごと」との同源の語である事も確められて、「ごと」の意味からも私の説が支持せられると主張するのである。かうなれば、これ等の語義説を一々の例に宛てはめて、どれが最もよく作者の眞情を表はし眞意を傳へるものであるかを判定しなければならないのである。これはかなりむづかしい問題であつて、個人の主觀が混じやすく、ことに自説を持つてゐる人々はやゝもすれば、之に引かれて公平な判斷を下し難いものであるから、むしろ多くの方々の批判に俟つのが正當であらう。しかし、それが爲には、私としてほ自説が誤なく正しく理解せられる事が必要であるが、前稿は紙數の制限があつた爲説明が不十分であり、又「こと」の語義を主眼とした爲歌全體の解釋には言及しなかつたものが多く、野村氏なども私の眞意を誤解せ(260)られた所があるやうに見える故、かやうな缺陷を補ふ爲に、以下少しく解説を加へたいと思ふ。
 
       五 奈良朝の「こと」
 
 最古い時代の「こと」は動詞の上に直に接するものばかりである。
 
  (1) 花|細《ぐは》し櫻の愛《めで》、こと〔二字右○〕愛《め》でば早くは愛でず、我が愛づる子ら(日本紀十三、允恭天皇御製)
  (2) こと放《さ》けば沖ゆ放けなむ湊より邊着かふ時に放くべきものか(萬葉七、寄船、一四〇二番)
  (3) こと降らば袖さへ沾れて透るべく降りなむ雪の空に消《け》につつ(萬葉十、冬雜歌、二三一七番)
  (4) こと放《さ》けば國に放けなむこと放けば家に放けなむ 天地の神し恨めし 草枕此の旅のけに妻放くべしや(萬葉十三、挽歌、三三四六番)
 この「こと」を私は口語の「同じ」「同じ事」或は「何れ」の意に解するのであつて、「こと愛でば」は「同じ愛でるなら」「同じ事愛でるなら」或は「何れ愛でるなら」、「こと放けば」は「同じ遠ざけるなら」「同じ事遠ざけるなら」「何れ遠ざけるなら」と解すれば歌の意味が矛盾なく理解せられると主張するのである。例へば(2)の歌は、將に成就せんとする間際になつて戀人から引離された男が、その痛恨の情を船に寄せて訴へたもので、私の解釋によると、「同じ遠ざけるなら、沖にゐるうちに遠ざけてもらひたい。湊にはひつて岸に着くといふ時になつて遠ざけるといふ事があるものか(同じ引離す(261)なら、せめて親しくならない内に引離してもらひたいものだ。將に成就しようとする時になつて引離すといふ事があるものか)」といつた事になる。これで立派に意味が通じるのである。野村氏はこの私の解釋に對して、
  岸でも沖でもどうせ同じこと遠ざけるならといふやうな、なま温い氣持ではない。
と批難してゐられるが、「岸でも沖でもどうせ同じ事遠ざけるなら」と解するのは私の眞意を得たものでない。私は「沖で遠ざけるのも湊に入つて岸に着かうとする時遠ざけるのも同じ遠ざけるのである。同じ遠ざけるなら沖にゐる内に遠ざけてもらひたい」と解するのである。さう解すれば、戀人との中を、本人の心からでなく他人(多分女の親であらう)から割かれた男が、引離された事は苦痛であるが、それは運命とあきらめるとしても、今一歩といふ所で引離されたのはどうしてもあきらめ切れない痛恨である。同じ引離すにしても、せめてこんなに近づかない内に引離してくれたなら、かほどの苦みもあるまいにと、悲み恨んで歌つた歌として、その悲痛な、やるせない心情が十分に表はれてゐると思ふ。
 この歌の表現は、例へば、愛兒に死別した母親が、
  同じ死ぬなら、赤ん坊の内に死んでくれたらよかつたに。こんなに大きくなつて死ぬなんてといふのと同じもので、現在の事態を避け得ぬ事と考へても、猶現在の場合と同じ條件の下にありな(262)がら、それよりもつと悲みの輕かるべき場合がある事を想起して、それと比較し、その方を希ひ望む旨を述べて、現在の悲みの至大なる事を表現するのであつて、決してなまぬるい心情の表現ではない。かやうに考へれば、私の「こと」の語義説は、單に前後の意味を滯なく流通するばかりでなく、歌全體の旨趣に正しく適合した適切な解釋を可能ならしめるものであるといふ事が出來ようと思ふ。
 私が「こと」の意味を口語の「同じ」「同じ事」「何れ」といふ語で説明したのは、前にあげた「同じ〔二字右○〕死ぬなら」のやうな場合に、また「同じ事〔三字右○〕死ぬなら」「何れ〔二字右○〕死ぬなら」といつても、ほゞ同一の意味があらはれるからである(その場合の「同じ」「同じ事」は副詞的に用ゐられてゐる)。勿論それ等の語の間には經急其他多少色合の違ひがあるのであるから、その中最適當なものを選ぶとすれば「同じ」といふ語であらう(即ち「こと――ば」は「同じ――なら」である)。
 (4)の例もこれと全く同一であつて、旅行中に妻に死別した夫が、之を悲しみ、「同じ(妻を)遠ざけるならば、國で遠ざけてもらひたい。同じ遠ざけるならば、家で遠ざけてもらひたい。この旅の間に妻を遠ざけるといふことがあるものか。こんな目にあはせた天地の神が恨めしい。」といふので、旅行中に死別するのも家國にゐる時に死別するのも、死別は同じ死別である。同じ死別するなら家國にゐる時に死別させてもらひたい。さすれば幾らか悲しさも少からうに、旅行中に死別させるといふ事があるものかと、人の生死を司る天地の神を恨み、同じ死別の悲しみにしても現在の如き事情の下に(263)ある死別の悲しみの耐へ難いことを訴へるのである。
 以上の二首が悲しみを述べたものであるに對して(3)は歡喜の情を述べたものである。雪が降つたが地にも積らず空で消えるのを見て「同じ降るなら袖も沾れ透るほど降るべきであるのに、(折角降りながら)宙で消えて行く(惜しい事だ)」といつたのである。これは一寸見ると雪が少ししか降らないに對して不平を言つてゐるやうであるがさうではない。雪が降つたのを歡んでゐるのである。雪が降つて面白いが、降るなら、少しふつても澤山降つても同じ降るのであるから、同じ降るならもつと澤山袖もびしよ/\になるほど降ればよいのに、降つても空できえるとはといつて、少ししか降らないのを惜み、澤山降る事を望んで、雪を歡ぶ情の深い事を表はしてゐるのである。野村氏は「同じ降るなら、どうせ降るならといふと降らなければどうでもよい事になる」と評されたが、これはやはり誤解である。雪の降るのを見て興ずる心は、雪に心を奪はれて、雪の降らない場合などを考へる餘地は無い筈である。又野村氏は「こと」を「此と」と解する立場から、「此」は雪の美しい降りやうを指していふものとして、「こと降らば」を「雪の降るのがこんなに美しく面白いのなら」と解し、
  「こと降らば」はこんな(美しく面白く)でなければ袖濡れる程降る必要はないのである
とも
  降る降らぬの問題でなく降つてゐるその状態が問題なのである
(264)とも言つてゐられるが、大和地方は降雪のまれな地方であるから、雪に興味を感じ、四五寸も積れば、大臣納言以下朝廷に出でて宮中の雪を除き、了つて酒肴を賜はつた事など萬葉集(卷十七)に見えてゐる事をおもへば、野村氏の解は甚疑はしくなるのである。これは唯雪の降つたのを歡ぶ情の厚い事を述べるのが主意であると思はれる。(猶、私が前稿にこの歌を解して「雪が宙できえてしまふのはつまらない〔五字右○〕」としたのは誤解を來し易い言葉であつた。「つまらない」を「惜しい事だ」と訂正する)
 (1)もこれとほゞ同樣で、允恭天皇が衣通姫を御召しになり都近くへ置かせられたが、或事情に妨げられて久しく御會ひになる事が出來なかつた後、遂にその家に幸してはじめて衣通姫を御覽になり一夜御宿りになつた翌朝、井の邊の櫻の咲いてゐるのを御覽になり、櫻によそへて衣通姫を御歎美になつた御製である。私の解によれば、「花の立派な櫻を愛《め》でるやうに、自分が愛づる子を、同じ愛でるなら、もつと早く愛でないで(殘念な事をした)」と仰せられたのである。つまり、今愛でても、もつと早く愛でても、結局愛でるのは同じ愛でるのである。同じ愛でるなら、もつと早く愛でればよかつたのに、今になつて始めて愛でるのは殘念だといふ意味で、いかに深くお愛《め》でになり、御滿悦であらせられたかゞよくあらはれてゐる。これは、上述の(3)の歌と共に現在の歡びの大なる所から、更に一層歡びの多かるべき場合(この御製ではもつと早く衣通姫に會ふ事、(3)の歌では袖もぬれ通るほど雪の降る事)を想像して、それが實現し得ないのを遺憾とする心持を述べたのであるが、しかし、さうい(265)ふやうな場合は、只想像し得べきだけで實現出來ないものである故、結局現在の歡びの大なる事を強調する事になるのである。かやうに解すれば、この御製は決して野村氏のいはれるやうな「どうでも良いやうな弛んだ御氣色での御製」とはならないのである。
 以上の諸例は何れも強い感動の情を表現したもので、現在の悲しみ又は歡びの感動の強さから、現在の境遇と同一條件の下にありながら、それよりも一層悲しみ少く或は歡び多かるべき別の境遇を假想して、或は之をこひねがひ、或はその實現出來ないのを遺憾とし、以て現在の悲喜の情の激しさをあらはしてゐるのである。さうして、現在の境遇から別の境遇を假想する契磯となつた同一條件を表はすのが「こと――ば」の句であつて、「こと」といふ語は實にその條件の同一である事を標示するものである。かやうに考へれば、「こと」を等同性を表はす語と解して歌全體の旨趣に正しく適合する所以が明かに説明せられるのである。
 從來の諸説でも歌全體の釋義としては大抵右と同樣であつて、誤つたものはむしろ少い。それは、現在の實際の境遇も、假想した境遇も歌の語句の中に示されてをり、ことに實際の境遇とは別な境遇を想定する事も「こと――ば」といふ句の動詞の假定條件を表はす形(「さけば」「ふらば」「めでば」など)によつて示されてゐるのであつて、これ等の諸點から推測すれば正當な解釋に達する事が出來たからである。處が「こと――ば」の句は、現在の實際の境遇からして、他の違つた境遇を想定する(266)にいたる徑路にあたる大切な一句である。その句の「こと」を私の説の如く、「同じ」の意味だとすれば、例へば(2)の歌に於て、岸に近づいた時に遠ざけた〔四字右○〕といふ實際の事實から、「遠ざける」といふ事だけをぬき出して、それの同一である事から沖にゐる時に遠ざける〔四字右○〕といふ別の場合を想定するに至つた徑路が「ことさけば」の「こと」といふ語によつて明示せられてゐる事になるのである。
 「こと」を「此の如く」又は「かく」と解する説によつても意味が通るのは、現在の實際の事實が歌の中の語句から理解せられるし、作者としては實際體驗した事實であるから、それを指していつたものとすれば一通り解釋せられたのである。しかし、「此の如く」「かく」のやうな意味だとすれば、どんなものでも指す事が出來、ことに作者が直接に自己の心情を指していつた場合には自分にはわかつても人にはわからない事もあり得べきであり、又現に人によつて解釋を異にする事は、同じ語義説をもつてゐながら一々の歌の釋義が野村氏と北條氏とで違つてゐるものがある事によつても明かである。さうして北條氏の如きは、「こと」といつたのは現在の事實をさしていふ爲であると説明してゐられるが、例へば(2)の例では、現在の事實は岸に近づいてから遠ざけたのであつて、唯遠ざけたのではない。それをさして「ことさけば」といつたとすれば、舊來の説のやうに「岸に近づいてから遠ざけるなら」の意味にとるのが普通であり自然であつて、北條氏の如く唯、「遠ざけるならば」だけの意味にとるのは、不可能でないまでも幾分無理がある。(現在の状態を「岸に近づいてから遠ざけた」と見るか唯(267)「遠ざけた」と見るかは作者の自由であるから、唯「遠ざけた」とも見得る可能性があるのであるが、それは讀者にはわからない事であるから、必ずさう理解させようとするに無理があるのである。又、論理的に言へば「遠ざける」事だけなら既に「ことさけば」の「さけば」で表はされてゐるから、「こと」とさす事は不必要だともいへる)むしろ舊來の解釋に從つて「岸に近づいてから遠ざけるならば、沖に居る中に遠ざけてほしい。岸に近づいてから遠ざけるといふ事があるものか」とつゞいたものとして見るに、もとより意味はわかるが、前後の連絡に、しつくりしない、そぐはない所があるやうに感ぜられる。それよりも、「同じ遠ざけるなら沖に居る中に遠ざけてほしい。岸に近づいてから遠ざけるといふ事があるものか」と解せば、「ことさけば」の句は、直に「沖ゆ放けなむ」の句につゞいて、之を導き出した所以を明かにすると共に(同じ放けるのであるから「沖ゆ放けなむ」と希望するのである)、一方「湊より邊つかふ時にさくべきものか」の句を意味上の聯關を以て呼び起すのであつて(邊つかふ時に放けたのであるから同じ放けるならと考へたのである)、「ことさけば」の句、ことに「こと」といふ語を紐帶として「沖ゆさけなむ」と「湊より邊つかふ時に放くべきものか」との前後の句が有機的なつながりをもつ事となり、(どちらも同じ〔二字右○〕(「こと」)放けるである)、歌の全句の連繋が緊密になるのである。
 野村氏は、「こと」はその時の當事者の心持、感情、状態などを直接にさしたものとして、例へば(2)(268)の歌なら「ことさけば」は「かくも殘酷に無情に遠ざけるなら」と解し又、「間を割かれた心の痛手を心にしめて「此と」と強く言表してゐる」とも説明してゐられるが、それならば前に述べた「ことさけば」を「かやうに岸に近づいてから遠ざけるならば」と解する舊來の説と同樣であつて、たゞ、野村氏はその事實を表面の事實として見ず當事者の心情を主として見たばかりの違ひであるが、それでも、下の語句との連繋の緊密でない事は前の場合と同樣である。(右の歌の解にしても、野村氏の如く「かくも殘酷に無情に遠ざけるなら」と解するならば「いつその事殺してもらひたい」とでもいふのなら適合するが、「いつその事、沖で遠放けてほしい」では、そぐはないやうに思ふが、どうであらうか)
 又、契沖以下の説の如く、「こと」を「殊に」又は「ことさらに」と解するならば、前稿に述べた通り、「もしさうしなければとにかく、特に――るするならば」(例へば「ことめでば」は「、愛でないならばとにかく、わざ/\愛でるならば」)といふ意味としなければ、あらゆる例に亙つて一貫した解を下すことが出來ないのであつて、それこそ、強い感情の表現としては不適當であり、歌の旨趣を得たものとはいはれまいと思ふ。
 かやうに考へて來ると、少くとも「こと」の最古の時代の諸例に於ては、私の語義説は現在知られてゐるどの説よりも一層歌全體の意味に適合したものであるといつてよからうと思ふ。
 
(269)       六 「ことならば」第一類
 
 奈良朝に於ける「こと」はすべて動詞の直前に用ゐたものばかりであるが、平安朝に入つては、「こと」のかやうな用法は全く影を消し、「ことならば」と「ことは」の形があらはれて來る。
 「ことならば」の例は、この稿で贈補したものを加へて、平安朝半頃までのものはすべて十四例ある。この形は、多分奈良朝に於ける「こと」の用法、例へば、「ことさけ〔二字右○〕ば沖ゆさけ〔二字右○〕なむ」「こと降ら〔二字右○〕ば袖さへぬれて透るべく降り〔二字右○〕なむ雨の」のやうに、動詞の直前に「こと」を用ゐ、その動詞を更に下文で繰返して用ゐる表現から出たもので、かやうな表現法は率直で力強くはあるが、優雅でない故、平安朝に入つて、たとへば右の例を「ことなら〔二字右○〕ば沖ゆさけ〔二字右○〕なむ」とし、「ことなら〔二字右○〕ば袖さへぬれて透るべく降り〔二字右○〕なむ雪の」として動詞の重複を避けた技巧的表現であらうと思はれる。さすれば「ことならば」の「ならば」は動詞に假定の「ば」を加へた形(「さけば」「降らば」など)でおきかへられるもので、その動詞は同じ文の下方に出てゐると同じ動詞であるべきである。それ故、「ことならば」の意味は、言葉通りには前稿に述べた如く、「同じ事なら」「同じなら」の意であるが、一々の歌の釋義の場合には、下の文から適當な動詞を補つて「同じ――(動詞)なら」と譯せば一層はつきりした意味があらはれるのが常である。さうして、多分右のやうな種類のものが奈良朝の用例に最も近いものであ(270)らうと考へられる。
 「ことならば」の諸例の中、明に右の如き種類に屬するものは、前稿に掲げた(7)(9)(10)の三例である。即ち、
  (7) ことならば君とまるべく匂は〔二字右○〕なんかへすは花のうきにやはあらぬ(古今八、離別、三九五)
  (9) ことならばことの葉さへも消え〔二字右○〕ななん見ればなみだのたぎまさりけり(古今十六、哀傷、八五四)
  (10) ことならばおもはず〔四字右○〕とやはいひはてぬなぞよのなかのたまだすきなる(古今十九、雜、誹諧歌、一〇三七)
 (7)は「雲林院のみこの舍利會に山にのぼりて歸りけるに櫻の花の下に寄りて詠」んだ幽仙法師の歌で私は「同じ事なら親王をお引留めするほど匂うてほしい。お引留め出來ないでは花の爲につらい事ではないか」といふ意味に解するのであるが、それよりも下文から「匂ふ」といふ語を補つて「向じ匂ふならば親王をお引留めするほど匂うてほしい」と解すれば、「さき匂うて君をお引留めしても、さき匂うてお引留め出來なくとも、匂ふは同じ匂ふである。同じ匂ふならお引留めするほど匂うてほしい。お引留め出來ないでお歸ししたとあつては、花よ、お前の爲にもつらいではないか」といふ心持が一層よくあらはれるのである。
(271) (9)は、紀友則が、親のなくなつた後に、親の書き遺した歌を書寫して惟喬親王に奉つた時に詠んだもので、これも「同じ事なら書き遺した言葉までも消えてほしい」でわかるけれども、下文から「消える」といふ語を補つて、「同じ消えてしまふならば書き遺した言葉までも消えうせてほしい。書き遺したものを見ると一層涙が流れて來る」とした方がもつと明かになる。「言葉を殘して消えてしまふも、殘さないで消えてしまふも同じ消えてしまふのであるから、同じ消えてしまふなら」といふのである。
 (10)も同樣で下文の「思はず」を補つて、「同じ思はないならば思はないとはつきり言ひ切つてくれないか。云々」の意味で、「思はないといつて思はないのも、思はないと言はないで思はないのも同じ思はないのであるから、同じ思はないならば、思はないとはつきり言つてくれるがよい」といふのである。
 
       七 「ことならば」第二類
 
 以上は「ことならば」の「ならば」にあたる動詞が下文の中に在つて、之をそのまま補ひ得るものであつたが、第二の種類としては、「ならば」にあたる動詞は下文中にある事はあるが「ことならば」と同じ文の中には無く他の語句の中にあるものである。左の諸例が之に屬する。
(272)  (6) ことならば咲かずやはあらぬ桜花見る我さへに靜心なし(古今二、春下、八二)
櫻花の散るのを見て詠んだ歌で、多少難解であるが、櫻の花は慌しく咲き慌しく散るものであるから、それを靜心なし(心が落着かず氣忙しい)と見て、「咲いても氣忙しく咲き、散つても氣忙しく散る。同じ氣忙しいなら、櫻よ、(いつそ)咲かないでゐないか。咲いたかと思へば氣忙しく散つて行くので、見る自分までも氣忙しく心が落着かない」と解すべきであらう。さすれば、「ことならば」は前と同じく「同じ靜心ない〔四字右○〕ならば」の義となるのであるが、「ならば」に補ふべき語はすぐ下の「咲かずやはあらぬ」の文中にはなく、その次の「見る我さへに靜心なし〔四字右○〕」の文の中にあるのである。奈良朝の「こと−ば」の諸例は、「こと」の下の動詞は必ずそれと同じ文の下の方に現れてゐるのであるから、その「こと」の下の動詞を言ひ表はさないで「ことならば」、といつたとすれば、それはいつも同じ文の中の下方にある動詞によつて補へる筈であるのに、同じ歌の中でも、それ以外の部分から補はなければならないのは、前に擧げた種類のものよりも一層奈良朝の用法から遠ざかつたものである。これと同種類のものとしては次の諸歌がある。
  (11) ことならば折り盡してむ梅の花我が待つ人の來ても見なくに(後撰一、春上、二四)
これは、「梅が咲いても人が見に來ない。咲かなくても無論見に來ない。同じ見に來ないなら、いつそ、すつかり折つてやらう。梅が咲いても自分の待つ人は見にも來ないから」といてて、人を待つ心の切(273)な情を表はしたものであるが「ならば」に補ふべき「來ても見なくに」といふ語は「ことならば折り盡してむ」といふ文の中には無く、その後に加へられた句の中にある事、前の歌と同樣である。
  (13) ことならば晴れずもあらなむあき霧のまぎれに見えぬ君と思はむ(大和物語)
これは「かいせう」といふ人の、父の死を悼んで人の詠んだ歌に對する返しであるが、「ことならば」は「同じ見えぬならば」の意味で、父が死んだのであるから父の姿は、霧があつても見えず、霧がはれても見えない。同じ見えないならば霧がはれない方がよい。さすれば霧にまぎれて見えないのだと思ふ事が出來るからといふので、これも「ならば」に補ふべき「見えぬ」といふ語は、「ことならばはれずもあらなむ」といふ文の中でなく、下の「あき霧のまぎれに見えぬ〔三字右○〕君と思はむ」の中に在るのである。
 猶、本稿で補つた例では
  補(5) ことならば山とも早く成りなゝむここらの紅葉散り積りつつ(曾丹集)
の歌も、「ことならば」の意味を、最後の句に見える「散り積る」によつて補つて、「同じ散り積るなら」と解すれば、「紅葉が澤山散り積つて誠にうつくしい。(しかし散り積るのは、どれほど散り積つても、同じ散り積るであるから)、同じ散り積るなら、(もつと澤山積つて)、早く山のやうになつてほしい。(そしたらどんなに奇麗だらう)」の義となつて、散り積る紅葉のうつくしさがよくあらはれる(274)事になる。
 
       八 「ことならば」第三類
 
 次に第三の種類として「ことならば」の「ならば」に補ふべき語が文中には全く見えず、唯前後の語句から推測して補はなければならないものがある。これは前の種類から更に一歩を進めたものである。前稿に擧げた例では
  (12) ことならば闇にぞあらまし秋のよのなぞ月かげの人頼めなる(拾遺、十三、七九六)
の歌が之に屬し、この稿で補つた例では、その(1)(2)(3)(4)の四首であるが(1)と(2)とは右の(12)の拾遺の歌と二三の語句の違ひのみで、殆ど同歌である故、(3)と(4)だけを補へばよい。即ち、
  補(3) ことならば山下水となりななん人目茂きの中も行くべく(古今和歌六帖、三、水)
  補(4) ことならば雲井の月となりななむ戀しき影や空に見ゆると(天徳歌合、十八番)
これらの歌は「ことならば」を「同じ事なら」の義と解すれば、意味が通るのであつて、別に不自然な感はないが、進んで何と何とが同じであるかを明かにしようとする場合には、前後の關係から判斷して補はなければならない故、時としては困難であり又人によつて所見を異にする事もあらうが、私(275)見によれば、
 (12)の歌は、「ことならば」は「同じ來ぬなら」で、「闇なら人は來ない。月がよくても人が來ない。同じ來ないなら闇であつたとしたらよからう。なまじに月がよいばかりに人が來るかと待たれる」といふのである。
 補(3)は人目を忍ぶ戀の歌であるから、「ことならば」を、「同じ忍ぶ〔二字右○〕なら」と解すれば、「忍ぶのは、どんなにして忍ぶのも同じ忍ぶであるから、同じ忍ぶならいつそこの身が山下水になつてくれればよい。そしたら木の繁つた中(人目の多い中)でも隱れて行けるから」の義となつて忍ぶ戀の苦しさがよくあらはれる。
 補(4)も戀の歌で、「ことならば」を「同じ逢へない〔四字右○〕ならば」と解し、「同じ逢へないならば、自分の思ふ人は大空の月となつて欲しい。さすれば親しく逢ふことは出來ないながらも、姿だけは空に見る事が出來(戀しさもいくらか慰められ)ようかと思ふから」と釋すれば適當な解釋が得られる。「同じ」といふのは、思ふ人は月になれば親しく逢ふことは出來ぬが、さうでなくとも逢ふ事が出來ない故、同じ逢へないのである。
 
       九 「ことならば」第四類
 
(276) 次に第四の種類としては(14)(15)の二例がある。
  (14) ことならばならしの枝にならさなん葉守の神のゆるしありきと(源氏、柏木)
  (15) 笛竹に吹きよる風のことならば未の世ながき音につたへなん(源氏、横笛)
 (14)は夕霧が親友柏木の死後、相木から後事を頼まれてゐた、柏木の奥方であつた落葉宮を訪れた時、簀子に座を與へられて、柏木と楓との若々しい色をして枝を交してゐるのを見て「いかなる契りにか末あへるたのもしさよ」など獨言して、そつとさしよつて御母御息所にさし上げた歌である。この「ことならば」は「同じ事なら」の義と解して歌の意味は通るのであり、又前の諸例と同じく、「同じならす〔三字右○〕(馴れ睦ばせる)なら、(落葉宮)を私に馴れ睦ばせて下さい。葉守の神たる故柏木の許しがあつたとして(私には柏木の遺言もあつた事ですから)」と言ひlかへても、別に不自然を感じない。しかし、何と何とが「同じ〔二字右○〕ならす」であるかを考へて見ると、之をはつきり示すことは困難であり、強ひていへば、「他の人〔三字右○〕にならすのも、私に〔二字右○〕ならすのも同じならすのであるから、同じならすなら私に」と解するの外なく、前の諸例とは違つた所がある事を感ずる。それは何故であらうか。
 既に述べた通り、奈良朝に於て「こと−ば」で始まる文は、希望、打消、推想等を表はす助動詞で結んであるのであつて、現在に於て經驗した事實、遭遇した境遇に對する作者の感動の激しさの爲に、その事實境遇と同一條件の下にありながら、それとは一層感動の多かるべき、又は少かるべき別の事(277)實又は境遇を想像し假想して述べてゐるのであるが、しかし作者は、その願望や推想が實際に實現せられる事を期してゐるのではない。否、むしろその實現せられない事を知りながら、さやうな事實境遇を願望し推想する事によつて、現在の事實境遇に對する感動の激しさ深さを力強く表現してゐるのである。結局「こと−ば」云々の文は、その歌の主眼とし目的とする所のものを表はしてゐるのでなく、之を一層有効適切に表現せん爲の手段に過ぎない。
 奈良朝に於ける右のやうな「こと−ば」の形から轉化したと考へられる平安朝の「ことならば」の例に於ても、前掲の諸例は皆之と同樣であつて、「ことならば」で初まる文の表はす願望、否定、假想等は、決して實現を期したものではなく、又歌の主眼とする所でもない。(例へば(9)の「ことならばことのはさへも消えななん見れば涙のたぎまさりけり」の、「ことのはさへも消えななん」は、言葉までも消え失せる事を希望してゐるのではあるが、實際その希望が達し得べきであると考へていふのではない。むしろさういふ無理な事まで希望するのは父にわかれた悲しみを力強く表現する爲であり、この歌の主眼とする所はその悲しみの深さを表はすにある)
 然るにこの(14)の歌に於ては、「ことならばならしの枝にならさなん」の「ならしてもらひたい」といふ希望は、之を單なる假想空想と考へてゐるのでなく實現を期してゐるのであり、且つ、他の目的の爲の手段でなく實に歌の主意のある所である。かやうな點に於て前の諸例と根本的にちがつてゐ(278)るのである。
 それでは何故にこんな語句を添へたかといふに、これは現代の口語に用ゐる「おなじ事なら」と同じく、人に對して自己の願望を述べる場合に言葉を和らげる爲のものであらうと思はれる。これによつて願望の力は幾分弱くなつたやうに見えるけれども、その爲に言ひ方が丁寧になり、對手に對する禮讓の心持を表はす事となつて、願望を達する爲には却つて有効な手段となる。かやうな場合に文語では「同じくば」を用ゐる故、私は「ことならば」に「同じくば」をも宛てたのであるが、北條氏は「ことならば」と「同じくば」との相違を論じて「ことならば」は現前の事實に基づいていふ場合に用ゐるが「同じくば」は必ずしも現前の事實に基づく事を本質としないといつてゐられる。「こと−ば」及び「ことならば」の用ゐられてゐる歌の大部分が現前の既定の事實境遇に基づき、之に對する作者の感動を表現するを主眼としてゐる事は疑無いが、私の解釋によれば、此の歌は單に希求願望を表はすだけであつて、現前の事實には基づいてゐないのである(尤も、「ならしの枝に」は目前の柏木と楓とが枝をかはしてゐるところから來たのではあるが、それと「ことならば」とは直接關係は無い)。北條氏が此の歌を解して「お互は此のかしは木とかへでの技さしかはしてゐる樣に親しい間柄である。こんな間柄なのなら」云々と釋せられたが、これは事實に反してゐる。夕霧と宮とは、まだそんな親しい間柄ではない。それ故、私は北條氏の此の歌の解釋に同意する事は出來ないのである。(279)但し右の北條氏の論に關聯して述べておきたいのは、これまで擧げた「ことならば」の諸例に於ては、前に説明した奈良朝の「こと−ば」の諸例に於けると同じく、現前の確定した事實境遇(例へば(9)では父が實際に消え失せた即ち死んだ事)と、それに基づいて想像した假想の事實境遇((9)では父の書いて置いた言葉も一緒に消え失せる事)との二つを「ことならば」で結合してゐるのであるが、この歌に於ては、かやうな現前の確定した事實境遇は一つも無いのであつて、もし「ことならば」によつて結合さるべき二つのものを求めるとすれば、落葉宮を他人にならす事と、宮を自分にならす事との二つとする外ないのである。それは、どちらも作者が勝手に思ひ浮べた考であつて、現前の事實ではない。この點がこの歌の他の諸例と甚しく趣を典にした點である。
 「こと−ば」及び「ことならば」の諸例の大部分が、かやうな現前の事實に基づいてゐるといふ點が、「こと」を「かく」又は「此の如く」と解する説の成立し得る根據をなすものである。即ち、かやうな現前の事實を直接にさして、「此の如くならば」といふ意味で「こと−ば」「ことならば」といふ語を用ゐ、これによつて現前の事實に基づいて想像された假想の事實を導き出したものと解すれば、それで一通りの意味は通るのである。
 然るに、この歌の如く、「ならしの枝にならさなん」といふ假想を導き出すべき現前の事實が見出されない場合に於ては、「こと」を「かく」「かくの如く」の義と解する説は、その指すべきもの(280)を失つて適當な解釋を得る事が出來なくなるのである。
 全體、「こと」は私の解澤によると「同じ」といふ意味を有する語である故、「こと−ば」「ことならば」は二つの事が同じである事を表はしてゐるのである。それは、「こと−ば」の諸例及び以上擧げた「ことならば」の諸例に於ては、一つは當面の既定の事實境遇であり、一つは想像し假想した別の事實境遇である。この二つの間に共通した點が存在する事を指摘して、當面の事實境遇に基づいて想像した別の事實境遇を導き出し、之に就いて述べる契機をなすのが「こと−ば」「ことならば」の句である。
 然るに、歌の表面に現れた所では、右の假想した事實境遇について述べるのが主となつてゐるのであつて、「こと−ば」「ことならば」で初まる文はいかなる歌にも無いものは無いが、之と對照すべき當面の現實の事實境遇は、之を直接に敍述したものは少く、多くは他の事を述べた語句の中に暗示せられてゐるのみである。(例(1)の「花細し櫻のめで〔四字右○〕」(3)の「降りなむ雪の空に消につつ〔八字右○〕」(11)の「我が待つ人の來ても見なくに」補(5)の「こゝらの紅葉散り積りつつ」は之を直接に敍述したものであるが、其他の諸例はすべて暗示したものである。例へば、(2)は「湊より邊着かふ時に放くべきものか」の句により實際湊に入つて岸に着かうとする時遠ざけた事を暗示し、(7)は「かへすは花のうきにやはあらぬ」の句で、親王が、花を見すててお歸りになる事を暗示し、(12)は「秋の夜の(281)なぞ月影の人だのめなる」によつて秋の月の夜人を待つ事を暗示してゐる)奈良朝の「こと−ば」の諸例に於ては、現在の事實境遇の明示せられてゐるものはまだ比較的多く、四首中二首まであるが、平安朝の「ことならば」の諸例に於ては、明示せられてゐるものは十四首中二首に過ぎず、他の十二首はすべて暗示せられてゐるものである。かやうに單に暗示せられてゐるものに於ては、讀者は歌に示されてゐる假想の事實境遇に關する敍述に基づき、「こと−ば」「ことならば」の語句の示唆する所の現在の事實境遇のいかなるものであるかを推察する外無いのであるが、現在の事實境遇の暗示せられてゐるものも、奈良朝のものは、容易に之を知り得べきものばかりであるが、平安朝のものでは、暗示の程度は樣々であつて、中には、歌全體の語句や當時の一般の事情などから推測してやうやく推知し得るものもある(補(3)の「人目茂きの中も行くべく」によつて忍ぶ戀を暗示し、補(4)の「戀しき影や空に見ゆると」によつて不逢戀を暗示した如き)。かやうなものは想を凝した題詠に多いやうで、隨つて幾分後に發逢した發想法と思はれる。以上は讀者の側から見たのである。作者としては、現在の事實境遇は作者自身の現に親しく經驗してゐるものである故、作者にはよくわかつてゐるのであるけれども、しかし、それがあまり身に近いだけに、之をはつきり言語に言ひ表はす必要の無い限り、特に之に注意を向けず、唯、それから導かれた假想の事實境遇について述べるに專ら力をつくし、「ことならば」が二つのものを比較していふ語である事は意識してをり、又實際に於て、現在(282)の事實境遇と比較して假想の事實境遇を導き出す爲に此の語を用ゐたのではあるけれども、その基づく現在の事實境遇の何なるかについてははつきりした自覺を持たない場合もあつたであらうと想はれる。
 又、一方に於て、「こと」は二つの事が同じである事を表はし、當面の實際の事實境遇と想像假想した事實境遇との間に共通した點が、ある事を認めて用ゐたのであるが、その共通した同じ事實が何であるかに關しては、「こと−ば」の如き例に於ては「こと」の直下の動詞によつて明瞭に示されてゐるが、「ことならば」の諸例に於ては、直接には示されず、前後の關係からして補つて了解しなければならないのである。それも、第一類第二類の諸例の如く同じ文又は同じ歌の中に、之を示し又は示唆すべき語がある場合には比較的に容易であるが、さうでない第三類の如きものになればかなり不明瞭な場合があつて、前後の事情、その場の情勢などをよく考へなければ見出し難い場合が少くない。想ふに、これは單に讀者ばかりの事ではなく、作者自身に於ても同樣な事情があらうと思はれる。奈良朝に於ける如く、「こと−ば」といつて、何が一致するかを必ず言語に表示しなければならない表現しか無かつた場合には、いかなる點に於て一致するかは、作者に明瞭に意識せられて、少しの曖昧をもゆるさないのであるが、平安朝に入つて「ことならば」といふやうな表現を用ゐることになれば、言語の上には只同じである事が示されてゐるだけで、何が一致するかを明示しないのであるから、作者も(283)必しも何が一致するかを明瞭に意識せず、唯漠然と、一致した處があると感じてこの表現を用ゐた場合も必ずあつたであらう。さういふ例に於ては、作者自身の意識があまり明瞭でないのであるから、之を明かに指摘するに困難を感ずる事があるのは當然である。これは口語の「同じ〔二字右○〕行くなら〔二字右○〕」「同じ〔二字右○〕勉強するなら〔二字右○〕」などを用ゐた例について考へても理解せられる事である。(それ故、私は上來「ことならば」の諸例について、いかなる點の一致をみとめて「こと」(同じ)と言つたかを指摘して來たが、作者自身は、そんなに明瞭に意識しなかつたかも知れない)
 以上、「こと」は「同じ」といふ意味に用ゐられてゐても、「ことならば」の場合では、一方、何と同じであるがといふ事と、一方、如何なる點が同じであるかといふ事とが之を言語に明瞭に表はす必要のない處から、作者の心中に十分明瞭に意識せられない傾向のあり得べき事を考察したのである。しかしながら、それは作者の主觀的事實の問題であつて、外部からは容易に知り難く、唯、その意識の不明瞭化の結果として以前とは違つた用法を生ずる所にまで到達すれば、はじめて外部からも之を明かに知る事が出來るやうになるのである。これまで擧げた諸例は、外部から見た種々の條件が古來のものと同一であつて、作者の主觀に於て、上述の如き意識の不明瞭化が生じてゐたとしても、之を明確に察知する事は出來ず、唯、之を讀んでいかなる實際の事情境遇に基づくか、いかなる點に一致が存するかを容易に知り難い場合がある所から、さういふ事があり得た事を推察するに過ぎないので(284)ある。
 然るに「ことならば」は、上に擧げた諸例に於て、希望の助詞「なむ」で終る文か、さなくとも「暗にぞあらまし」「咲かずやはあらぬ」のやうな、希望に近い意味を表はす語といつも伴つて現はれるのであるから、おのづから希望文を喚び起す語と考へられるやうになり、「ことならば」の、語としての意味は元のまゝであつても、何とくらべて、又は、どんな點の一致を認めて「こと」(同じ)といふかに關する意識が十分明瞭でない場合があつたとすれば、それは、漫然と何か同じ所があるやうに感ぜられる場合に用ゐて希望の意味に或色合をつける事、現代口語の「同じ事なら」と同樣のものの如く考へられるやうになり得べき事は、前に擧げた補(5)の「ことならば山とも早く成りななん」や補(3)の「ことならば山下水となりななん」や補(4)の「ことならば雲井の月となりななむ」などの「ことならば」が、そのやうなもの(口語の「同じ事なら來て下さい」の「同じ事なら」と同樣のもの)としても理解出來る事によつても明かであらう。
 「ことならば」が、かやうなものと考へられるやうになれば、自然、その用ゐる範圍がひろまつて、希望の文にはどんなものにも用ゐ得る事となり、それが元來或現實の事實境遇に基づきそれから假想のものを導き出す場合に限つて用ゐられた事が忘れられ、二つの事を比較する意識はなほ失はれなくとも、その一つは必ず現在の事實境遇であるとは限らなくなり、單に作者が心中に浮べた二つの假想(285)を互に比べていふ場合にも用ゐるやうになるのは自然の順序である。これがこの(14)に於ける「ことならば」の用法であらうと考へられる。
 「ことならば」にかやうな用法が生ずるに至れば、それはもはや多少慣用語句化したものであつて、口語の「同じ事なら」文語の「同じくは」の或場合の用法と類似した性質のものとなるのである。
 これと同じやうな慣用語句化は「同じくは」に於ても見られる。
  わび渡る我が身は露を同じくは君が垣根の草に消えなむ(後撰卷十、貫之)
  あたら夜の月と花とを同じくは心しれらむ人に見せばや(後撰卷三、源信明)
 これらの「同じくは」は、「同じ消える〔三字右○〕なら」「同じ見せる〔三字右○〕なら」である。更にいへば「君が垣根の草に消えるのも、他の處できえるのも同じ消えるのである故、同じ消えるなら」であり、「心知つた人に見せるのも、心知らない人に見せるのも同じ見せるであるから、同じ見せるなら」である。然るに、
  伊勢の海士と君しなりなば同じくは戀しきほどにみるめからせよ(後撰卷十三)
になると、「同じ」といふのは何と何とが同じいのであるか、どんな點で同じいのであるかはかなり不明瞭である。強ひていへば、「誰に刈らせるのも同じ刈らせるである故同じ刈らせるなら」とでも説明するのであらう。これは、よほど慣用語句化したものである。「ことならば」の慣用語句化も、かやう(286)にして生じたものであらう。
 (15)は、相木の死後、その遺愛の笛を贈られた夕霧の夢に柏木の姿があらはれて詠んだ歌で、其の言を薫に傳へたい意を述べたものと解せられてゐる。「笛竹に吹きよる風の」についてはまだ定説が無いやうであるが、下の「傳へなん」といふ語を呼び起す爲のものと見てよからうと思ふ。さうして「末の世長きねに傳へなん」は「(薫に傳へて)末の世まで永く傳へてほしい」といふ意味か、又は「生ひ先きの永い薫に傳へてほしい」といふ意味かであらう。「ことならば」は同じ事ならの意と解すれば、その意味は「末の世永き」云々に續いて少しも矛盾する所がない。さすれば「同じ傳へるなら薫に傳へてほしい」の意味になるが、それでは何と何とが同じであるかと考へると、多少漠然としてゐるが、強ひていへば「餘人に傳へるのも薫に傳へるのも同じ傳へるのであるから、同じ傳へるなら薫に傳へてほしい」と説明する外はない。(作者は明瞭にかう意識してゐたかどうかはわからないが)。これも丁度(14)の場合と同一であつて、「世に傳へなん」と希ひ求めるのが、この歌の主眼であり目的であり、「ことならば」が何と何とを比較して言つてゐるかはかなり漠然としてゐるのであつて、多分語氣を和げて言葉を丁寧にする爲に加へたものであらう。又「ことならば」の示唆する對照比較も、右に述べた通り餘人に笛を傳へる事と薫に笛をつたへる事との二つを比較していつたものとすれば、それは共に作者が胸中に浮べた考であつて、どちらも現實の事實でない事も(14)の場合と同一であ(287)る。
 以上(14)(15)の二例は、上述の如き諸點で他の諸例とは違つてゐるのであるが、「ことならば」自身の意味は、他の場合と同樣であり、又、その意味を明かにする爲に、同じ文中の下方にある動詞を補へば補ひ得る點に於て第二類のものと同樣である。唯、その意味が幾分稀薄になり一般化して、用法が廣くなつた點にその特徴があるのであるが、これも他の用法から展開して生じたものと説明し得べき事上述の如くである。さうして、かやうな用法は、奈良朝のものとくらべて最之に遠いものである事は疑ない。
 猶、以上述べたやうに、私は第四類に屬する「ことならば」を多少慣用語句化したものとし、その意味を今日の口語の「同じ事なら」文語の「おなじくば」を希望を表はす文に用ゐた場合と同樣なものと解したのであるが、それは、「こと」が「同じ」といふ意味を有し、「ことならば」と「同じくは」とが、意味からも形からも極めて類似したものである所から來たものである。私は、前稿を草した時は以上のやうに考へてゐたのであるが、今回之について再び攻究した結果、また少し違つた解釋が可能である事に想到した。「こと−ば」及び「ことならば」の第四類以外の諸例を見るに、これ等の語句から下の語句へ續く場合に、いつも〔三字右○〕「いつそ」「いつその事」「寧」といふやうな意味が附隨してあらはれて來る。例へば(2)の「ことさけば沖ゆさけなむ」は「同じ遠放けるなら(いつそ)沖にゐる(288)時に遠ざけてほしい」(12)の「ことならば闇にぞあらまし」は「同じ來ないなら(いつそ)闇であつたらよからうに」と解せられる。これは前後の關係から自然に生ずるもので「ことならば」の本來持つてゐるものではないが、「ことならば」が用ゐられる度毎に、かやうな意味が必ず附隨して來るとすれば、おのづから、かやうな意味が「ことならば」と共に連想せられ、前述の如く、「ことならば」が本來二つのものを較べていふ語であつたとしても、何と較べていふかの意識が薄れて來れば、この「ことならば」の本來の意味よりも、寧、之に伴つた「いつそ」「寧」といふ意味の方が主になり、さういふ意味を附け加へる爲に、以前に用ゐられた限界をこえて願望決意等を言ひ表はす場合に一般に「ことならば」を用ゐるやうになつたとも考へられる。もしさうであれば(14)の歌の「ことならばならしの枝にならさなん」は「いつそ〔三字右○〕ならしの枝のやうにならして下さい」といふ位の意味になり、(15)の「ことならば末の世永き音に傳へなん」は「いつそ〔三字右○〕薫に傳へて末の世まで長く傳へてほしい」又は「いつそ〔三字右○〕生先の長い薫に傳へてほしい」といふやうな意味になるのである。「いつそ」も「寧」もやはり二つのものをくらべて、「他のものよりもこちらを」といふ意味を表はすのであつて、「ことならば」「同じくは」「同じ事なら」などと本質的にちがつたものでは無い。ただその較べるものが、一方はいつも特定のものであるが、他の一方は或特定のものではなく、他のもの〔四字右○〕一般である爲に、漠然たる感じを與へるだけである。「ことならば」がかやうな意味を表はすものと考へられて慣用語句化(289)し、以前よりも廣く用ゐられたとするのは最自然な考へ方であつて、或はこの方が當を得たものかも知れない。
 「ことならば」が今日の「同じ事なら」「同じくば」の意味に用ゐられたとすれば語氣が幾分和かになり、人に向つて願意を述べる場合には之を丁寧に言ひ表はす事になるのであるが、右のやうに只「いつそ」「むしろ」の意味であつたとすれば、語氣は幾分強くなり、必ずしも人に向つて願望を表はす文に限らず用ゐられてもよい筈であるが、我々の知り得る例は、何れも人に向つて願望を表はすものであり、從つて丁寧な言ひ方としても解し得るものである故、前説とどちらが適當であるかは容易に決定し難い。但し、前にも一言した通り、第二類に屬する補(2)の「ことならば山とも早くなりななん」や第三類に屬する補(3)の「ことならば山下水となりななん」や補(4)の「ことならば雲井の月となりななん」なども、慣用語句化した「同じ事なら」「同じくば」の意味としても解せられるが、また同時にこゝに述べたやうな「いつそ」「寧」の意味としても解せられるのであつて、これ等の諸例に於ては「同じ事なら」と解すれば語氣が和かになり、自然弱くなる傾向があるに對して、「いつそ」の意味に解すれば、語氣がつよくなり願望の意を強める事となつて却つて適當であるやうにも考へられる(これ等の歌は人に對して願意を述べるのでない故、丁寧に言ふ必要はない。但し神に祈願するやうな心持を表はしたものとすれば、それでも説明は出來るが)。もし、かやうな意味で慣用語(290)句化したとすれば、さやうな意味は既に奈良朝の「こと−ば」の諸例にも附隨してゐたと考へられる故、その慣用語句化の傾向は存外早くからあつたかも知れないのであつて、第四類の諸例は既に多少慣用語句化してゐたと考へなければ解釋に困難を感ずるのであるが、他の類に屬するものでも、それは外部から明かに認める事が出來ないだけで、實は既に慣用語句化してゐたか、又は少くともその傾向をもつてゐたものがあり、それが甚しぐなつて第四類のやうな場合を生じたと見る方が自然であるから、こゝに擧げた三例の如きは、他類の諸例中、右のやうな慣用語句化の傾向の比較的顯著なものであつたと見る事も出來るのである(實は、その他にも之に類するものがあつたかも知れない)。かやうに、「いつそ」の意味をとるにいたつたとする方が、慣用語句化の説明には幾分都合のよい點がある所から見れば、或はこの説の方が實を得たものであるかも知れない。
 何れにしても、「ことならば」が慣用語句化した事を認める點では同一であつて、只、どんな意味で用ゐたかについて説が岐れるだけである。さうして、慣用語句化したとしても、それは「ことならば」のもとの意味用法から出たものであつて、「こと」は本來「同じ」といふ意味であつたとして説明し得るのである。又慣用語句化した後も、「こと」の本來の意味に對する意識が必ずしも全く失はれない事は、口語の「同じ事なら」や、文語の「おなじくば」の例によつても知られる。
 「ことならば」の諸例を以上の如く四種類に分けて考察して來たのであるが、それは奈良朝の用例(291)から出發して、之に近いと思はれるものから次第に遠いものに及んだのである。之を諸例の年代順に配列してみると、
  第一類 古今集(三首)
  第二類 古今集(一首)後撰集(一首)大和物語(一首)曾丹集(一首)
  第三類 天徳歌合(一首)古今和歌六帖(四首)拾遺集(一首)
  第四類 源氏物語(二首)
 第一類は古今集のみで以後には無く、第二類は古今集から曾丹集までに見え、第三類は後撰集時代から拾遺集に及び、第四類は源氏にのみ見えてゐて、大體に於て奈良朝の用例を距る事遠いものほど後の時代に用ゐられるもの多く、殊に之を去る事最遠い第四類が源氏になつてはじめて現れてゐるのは必ずしも偶然でないやうに思はれる。
 
       十 「ことは」
 
 「ことは」の例は四つしか見えないが、その中の二つは前稿に擧げたもので、時代が古い。即ち、
  (5) 戀ひわびぬ影をだに見じ玉葛ことは〔三字右○〕根さへに掘りて棄ててむ(新撰萬葉、下、戀)
  (8) かきくらしことは〔三字右○〕降らなむ春雨に濡衣きせて君を留めん(古今八、離別、四〇二)
(292)前稿に述べた如く、この「ことは」は「同じ事には」と解して、(5)を「來るか/\と待つてゐたが今になつても來ず、戀しさに心も盡きてしまつた。もう、あきらめて來るといふゆかりの玉葛は、影までもみまい。同じ事には〔五字右○〕根までも掘つて棄ててしまはう」と釋し、又(8)を、「同じ事〔三字右○〕には、空一面暗くなつて大降りになつてくれればよい。さすれば雨にかこつけてあなたを引留めませうに」と釋すれば、よく意味も通じ情もあらはれるのである。「同じ事には」といふのは、(5)では、玉葛を植ゑておいても來ず、植ゑないでも來ない故、「同じ來ないなら」であり、(8)では、春雨は今のやうに少し降つても、又もつと烈しく降つても、同じ降るのであるから、「同じ降るなら」である。
 奈良朝に於ける「こと」は動詞に附いて副詞的に用ゐられた語であるから、「同じ事に」といふやうな口語の副詞的修飾語に當るものとし、之に「は」のついた「ことは」が「同じ事には」に當るものと考へる事が出來れば都合がよいのであるが、口語では例へば、
  同じ事には赤ん坊の時死んでくれればよいのに
  同じ事なら赤ん坊の時――
  同じ死ぬなら赤ん坊の時――
以上の三つが同じやうに用ゐられて、「同じ事には」が結局、「同じ事なら」「同じ−なら」のやうな意味になり、即ち「ことならば」「こと−ば」と同樣のものとなる。さすれば「ことは」を「同じ事に(293)は」と譯することは、結局「ことならば」(又は「こと−ば」)とほゞ同一のものと認める事になる(少々意味の違ひはあるかも知れないが)。又、實際「ことは」の右の二例も、「ことは」を「ことならば」とほゞ同樣の意味をもつものとすれば、あらゆる點に於て、(5)は、前述の「ことならば」の第三類(「ことならば」の「ならば」の意味を前後の關係から補ふもの)に等しく(こゝでは「來ぬ」を補つて「同じ來ぬ〔二字右○〕なら」の意味となる)、(8)は、第一類(「ことならば」と同じ文中の下方にある語を補ふもの)と同樣である故(こゝでは、「ことは降ら〔二字右○〕なむ」の「降る」を補つて「同じ降る〔二字右○〕なら」となる)もし右のやうに説明する事が出來るとしたならば「ことは」の「こと」を他の場合と同じ意味に解して、歌全體にわたつて、自然な解釋が得られる事となるのである。そこで問題になるのは、「ことは」を「ことならば」と同じ樣な意味に解する事が許されるかどうかである。
 「こと」のやうな副詞的のものに助詞「は」をつけて、假定條件又は之に類した意味を表はす事は、他に類例をもとめる事はかなり困難であらう。北條氏が擧げられた
  忘るるかいざさは〔二字右○〕我も忘れなむ人にしたがふ心とならば(拾遺集十五)
  わがためはたなゐの清水ぬるけれどなほかきやらむさては〔三字右○〕》すむやと(拾遺集十二)
の如きは副詞的の語に「は」の加はつたものに右のやうな可能性のある事を示すものであらう。(右の「さは」は今普通「さば」と讀まれてゐるが、必ずしも「さば」とも斷定しがたい)しかし、かや(294)うな可能性があるとしても、それは副詞又は副詞的用法の語全般にわたるものではなく、或特殊の語に限られたものであらうと思はれるが私は「こと」には特にかやうな可能性があらうと考へる。それは、「おなじくは」との關係からである。「こと」は私の解する所によれば「同じ」といふ意味をもち、副詞的に用ゐられたので、その意味用法ともに「おなじく」と同樣である。さうして「こと」は古くからいつも「こと−ば」「ことならば」のやうに、動詞に假定條件をあらはす助詞「ば」と共に用ゐられたが、「おなじく」に「は」の附いた「おなじくは」も古くは假定條件をあらはしたのである。
 假定條件をあらはすには、動詞の場合には古くから未然形に「ば」を附けたが、形容詞の場合には古くは「ば」でなく、「は」を附けたのである。その「は」は係助詞の「は」と同じく、後にワと發音せられるやうになつて室町時代までは口語にも文語にも用ゐられた。江戸時代に入つても、少くとも歌のよみ方としては、ずつと後までもさうであつた事は富士谷成章の脚結抄によつて明かである。
 さすれば、この「こと」に「は」を附けた「ことは」が「おなじくは」との聯想から「こと−ば」又は「ことならば」のやうな意味に用ゐられたとしても不自然ではあるまいと思はれる。
 尤も、以上の説明は、「こと」の意味を私見の如く解した上での事である。もしそこに多少の困難が見られるとすれば當然こゝに起るべき問題はそれは私の語義説が誤つてゐるからであるまいかといふ(295)疑である。そこで、從來の説によつて、「ことは」を「かくは」又は「かくの如くは」の義として見ても、意味が他の語に連繋しないのであつて、強ひて連續させようとすれば、やはり之を「かくの如くならば」又は「かくあらば」の意味と解するの外なく、さすればどうしてそんな意味になり得るかの説明に困難がある事は同樣である。その上に、「ことは」をそんな意味に解すれば(8)の「かきくらしことは降らなん」は、「こんなに、かきくらして降つてほしい」となつて、現在大雨が降つてゐるやうに見えて事實に反し、又現在大雨が降つてゐるとすれば、大雨の降る事を望むのが無意義になる。そこで北條氏は、「ことは」を「ことならば」と同じやうな意味に解して、「ことは」に、そんな意味の生じ得べき可能性のある事を例を擧げて論じてゐられる事前に述べた通りであるが、その例證としては前文に引用したものの外にはやはり私と同じく「おなじくは」の例を引證してゐられる。しかし、私の見る所では、「おなじくは」との關係は寧ろ私の語義説によつた方が一層都合よく、少くとも北條氏の語義説によつて困難が一層少くなるとは思はれない。野村氏は「ことは」を單に「こんなに」の義として、(5)では、「根を掘つた有樣で、すつかり跡もなくといふ程の状態を假想して云つたのである」とし、(8)では「春雨の降りやうを心中に畫いて、春雨の理由で戀人が歸れない程の降りやうを假想したのである」とし、又「現に春雨が降つてゐての詠であらうけれど、歌の表では現に降つてゐないのでもよい」と説明し從來の諸註を誤だとしてゐられる。さすれば、語脈上の説明は無難であ(296)るが、意味の解釋は果してこれでよいであらうか。これでは作者は自己の心中の想念を、勝手に「こと」と指してゐる事となり、獨合點に墮して、讀者から誤解せられても抗議のしやうが無くなりはしないであらうか。もし、指すならば、舊來の説の如く又北條氏の如く現前の事實又は既定の事實を指したとすべきであり、さすれば、依然として(8)の歌の場合に不合理を生ずる事上に指摘した通りである。又野村北條兩氏のやうに、「こと」を「此と」と解して、その語の性質から者へても、「此とは」といふ形に「このやうであるなら」のやうな意味がある事を説明する困難は更に大きくなるであらう。又、「こと」を「殊」の義とする説も、既に前稿に述べた通り歌の意味から見てもかなり困難である上に、「殊には」の「に」を省いて「ことは」といふ事があり得たかどうかも極めて疑はしい。
 かやうに、私の説も「ことは」が「ことならば」のやうな息味に用ゐられる事を説明するについては多少の困難はあるけれども、さやうに解すれば全歌の意味に適合した解釋が得られる上に、その困難も上の如き説明によつて一應解決し得るのであり、たとひ他の説を取つても、それ以上困難を除去する事が出來るのでない以上、少くとも從來の諸説に比して劣らないものといふ事が出來ようと思ふ。
 「ことは」の例の中、上述以外の二つは即ち本稿の初に増補した(6)(7)で、第二例よりは時代の下つたものである。その中、(6)即ち
  ことは深くもなりにけるかな(和泉式部集)
(297)は既に述べた通り、その本文の純眞性に疑問があるけれど、もし本文が正しいものとすれば、前掲二例の「ことは」とは性質を異にしたもので「同じ事には」「同じ−なら」としては解することが出來ず、「同じく」「同じ樣に」「同樣に」と解してはじめて意味の疎通するものである。又その文の形も「ことは」の他の諸例及び「こと−ば」及び「ことならば」のあらゆる例が、否定推想願望意欲等を現はす語で結んであるのに反してこれは「なりにけるかな」とあつて、事實を述べた斷言の語で結んでゐる。多分かやうな用法は、「こと」が「同じく」といふ意味で副詞的に用ゐられてゐる所から來たもので、後になつて新しく出來た用法であらう事も既に述べた通りである。
 禰(7)の例は、
  ことは藤散らで千年を過さなむ松のときはに來つつみるべく(和泉式部集)
 これは「同じ事には」又は「同じ事なら」の義としても、意味は疏通するが、「ことならば」の例に準じて其處に補ふべき動詞をもとめてみるに、強ひて補へば補はれないでもないが(「同じ咲く〔二字右○〕なら」など)あまり適當でなく、寧ろ希望を表はす場合に附け加へる慣用語句化したものと見なければならないが、そんな用法は、この歌の「ことは」と同樣に「同じ事には」「同じ事なら」の意と解し得られる前掲二例の「ことは」には見當らないのであり、又この例は時代の下つたもので、補(6)と同時代のものであるから、補(6)の「ことは」と同例とし「同じ樣に」の意に解する方が妥當であらう。
(298) かやうに考へれば「ことは」の用例は二種類にわかれ、一は(5)(8)の如く「同じ事には」又は「同じ事なら」の意味に用ゐられ、一は補(6)(7)の如く唯「同樣に」「同じ樣に」の意味に用ゐられるものである。この二つは時代の上から見て古いものと新しいものとに分れてゐるのであつて、前者は、奈良朝の「こと−ば」平安朝の「ことならば」とほゞ同樣のものであり、後者は、後に生じた新用法と思はれる。さうして「こと」そのものの意味は、やはり「同じ」であり、その性質も副詞的のものである事は兩者共に同一である。
 
       十一 結語
 
 以上私の語義説をあらゆる實例について一々點檢し、すべての場合に亙つて適合する事を明かにした。又「こと」の種々の用法も「こと」の古い意義及び用法から次第に展開したものと考へ得べき事を説明し、その間に多少困難な點はあるにしても、その困難は、他の諸説によつても必ずしも除去し難いものである事を見た。さうして歌全體の意味も他の諸説によるよりも、私の語義説による方がむしろ優れた、趣ある解釋を得る場合が多いと私には思はれるのである。
 以上の考が幸にして誤でないとすれば、私の語義説は事實によつて實證せられた事になり、少くとも他の諸説と相並んで有力なものとなるのであるが、又同時に、私の語義説の出發點とした「こと」(299)と「ごと」との同源説も確實性を加へたものとなり、私の語義説は「ごと」の語義からも支持せられて根據あるものになつたのである。
 既に述べた通り、本稿は、前稿の脱漏を補ふと共に、説明が不充分であつたのを補足して誤解を防ぐのを主意としたものであるから、野村北條兩氏の説に對しては、以上の趣旨に關する限りに於て之に言及したに過ぎない。隨つて兩氏の鄙説に對する批評の答辯としても、又兩氏の主張に對する批評としても盡さない所が多い。私は不幸にして兩氏の「こと」に關する語性説及び語義説に賛同する事が出來ないばかりでなく、解釋と文法との關係や文法そのものに對する觀念、語源研究の方法、古代文獻の訓釋の方法、例證の價値利斷等に關しても兩氏と見解を異にする點の少くないのを感ずるが、今はそれ等に及ぶ暇がない。しかのみならず、兩氏の説と私の説とは、決して二者選一の關係にあるものではないのであつて、隨つて兩氏の説が成立しなければ必ず私の説が成立するのでもなく私の説が成立しなければ必ず兩氏の説が成立するのでもなく、他の第三第四の説もあり得べきである故、私としては、有理と考へる自説を學界に提出しておけばよいのであつて、自説の成立の爲には他説を詳細に批評する必要はないと考へるのである。兩氏の文も、私の説の批評はその主なる目的でなく、自説を主張するのが主であつたやうに見受けられるのてあつて、私の説を正しく理解せられなかつた理由も一半はそこにあるのではあるまいかと思はれる。しかし、誤解の責の一半は拙稿の中にもあつた(300)のであり、誤解は必ずしも兩氏のみに止らないであらう故、こゝに再び説明を補足した次第である。もとより私の説にも多少の誤もあらうし不穩當な所もあらう。ことに歌の解釋に於ては改善の餘地もあらう。廣く識者の教を請ひたい。
 終に臨んで、私の説を批評し、私に、前稿の脱漏を補ひ、自説を再檢討する機會を與へられた兩氏に深い感謝の意を表すると共に、もし言非禮にわたつた所があつたなら、兩氏の寛容をお願ひしたい。 (昭和十六年九月稿)
 
(301)       上代の國語に於ける一種の「ずは」について
 
 今こゝに問題とするのは奈良時代の文獻に見えてゐる一種の「ずは」といふ語であつて、例へば、萬葉集卷二の
  斯くばかり戀ひつゝ不有者高山の岩根し枕きて死なましものを(八六番)
や、古事記卷中、仲哀天皇の條の
  いざ吾君振熊がいたで淤波受波鳰鳥の淡海《あふみ》の海に潜《かづき》せな吾《あ》
の如き「ずは」である。かやうな例は古事記に一例、萬葉集に二十九例あつて、古來之を「ずば」と讀み打消の假定をあらはすものと解してゐたのであるが、それではあらゆる場合に適當な一貫した解釋を下す事が出來なかつたのを、本居宣長が詞玉緒に於て之を「むよりは」の義であるとし、「戀ひつゝあらずは」は「戀ひつゝあらむよりは」「いたでおはずは」は「痛手負はむよりは」の義と解して、こゝにはじめてすべての場合に適合する解釋が得られたのであつて、その後の學者は大概この説に據り、之を疑ふものは殆どなかつたのである。然るに私は、この説は一つの歌全體の意味からは如何にも適切な解釋のやうではあるが、「ずは」といふ語形が、いかにしてかやうな意味をもち得るかについ(302)ては適當な説明が出來ないのに疑念を懷いてゐたのであるが、奈良時代の文獻から文法研究の資料を蒐集してゐる中にたま/\萬葉集卷二十の
  たちしなふ君が姿を和須禮受波世の限にや戀ひわたりなむ(四四四一番)
といふ歌に於て「忘れずは」の「ずは」が假定條件をあらはす「ずば」としても、又「んよりは」の意味の「ずば」としても妥當でなく、どうしても、「ずは」と讀んで「ず」の連用形に助詞「は」の附屬したものとして「ずしては」の義と解するの外なき事を見、「むよりは」の「ずば」の全例について檢討した結果、これらの例に於てもその語形は「ずば」でなく「ずは」であつて」ずを打消の助動詞「ず」の連用形として「ずして」の意味で下の用言につゞくものと解して、「戀ひつゝあらずは」は「戀ひつゝあらずして(は)岩根まきて死なまし」の義であり、「痛手負はずは」は「痛手負はずして(は)淡海の海におぼれよう」の義であると解する事が出來、これによつて、あらゆる場合に一貫し、又歌の意味にも適當な解釋が得られる事を知り得たのである。さうして、その後、黒澤翁滿の言靈指南及び物集高世の辭格考抄本にも既に同樣な説がある事を知つたが、それによつてます/\自身の説の謬らざる事を信ずるに至つたのである。
 この私の説は大正十四年一月發行雜誌「國語と國文學」(第二卷第一號)に「奈良朝語法研究の中から」と題して發表したが、その後、井上通泰博士をはじめかなり多くの學者の支持を得て、古事記や萬葉(303)集の註釋に採用せられる榮を得たが、しかし又今日までに私の見聞した處でも、之を否定せられ又は之に對して異説を提唱せられた研究者も二三にとゞまらないのであり、又否定しないまでも積極的に支持するに躊躇せられる學者も存外少くないのでなからうかと思はれる。
 私の説を否定せられたのは小山龍之助氏並に糸井善太郎氏であるが、兩氏は何れも右の「ずは」を「ずば」と解して否定の假定形とするものであつて、この説の妥當を缺く事は既に前稿に論じた通りである。異説を提唱されたのは、一つは豐田八十代氏であつて、氏は語形を「ずは」とし、その「ず」を「ずして」の義に解するまでは私の説を肯定されるのであるが、「は」に關しては、「それは」の義として〔註一〕、
と解せられるのであるが、係助詞「は」は連用語として下の用言的のものに續く語に附屬するもので、「ずは」はその一つの場合であるが、その場合に果して右のやうな意味に解すべき例があるであらうか。無いとすれば獨斷といふの外はない。又異説の一つは〔註二〕
氏の説であつて氏は〔註三〕
 
 以上述べた如くこれまで世にあらはれた否定説又は異説は私の承服しがたいものであるが、しかし、翻つて考へるに、かやうな否定説又は異説のあらはれるのは、私の説になほ不備な點があつて、人をして之を認容するに躊躇せしめるからではあるまいか。かやうに考へて思ひあたるのは、前稿に私が(304)述べた處では、「ずは」の「ず」の意味用法については明瞭な解釋が出來たのであるが、「は」の意味用法についての解明にはまだ至らぬ不十分な所があつて、こゝに「は」の用ゐられた必然性を納得せしめる事が出來なかつた事を感ずるのである。さうして私に先だつて私と同じ説を立てた黒澤翁滿も「ずははず〔右○〕》には〔右○〕の添たるにては〔右○〕はいと輕し故にのぞき去ても心にさまたげなし」と云ひ、物集高世も「ズをうけたるは〔右○〕にはすむべきとにごるべきとあるを」と云つてゐるだけであつて、まだ充分滿足すべき解明を與へてゐるとはいはれないのである。この稿の目的とする所は實にこの點を明かにしようとするのである。
 實は私自分自身に於ても、前稿を草した際に、まだ不明瞭ながらも多少右のやうな事を漠然と感じないでもなかつたので、その後も之に關係ありと思はれる事の考察を怠らず、打消の假定條件を表はす「ズバ」の諸例を廣く研討を進めるに隨つて、この假定條件の「ずば」も、實は古くは「ずは」の形であつて、その「は」は後世の音韻變化の結果「ワ」の音となり、それが、室町時代の口語を西洋人が羅馬字でうつしたものにあらはれる zuua(ズワ)及び今でも平曲の語り方や謠曲の謠ひ方に於ける「ズワ」といふ形に繼承せられるものである事を知り得たのであり、それより延いて、古代に於て「ずは」が打消の假定條件を示すのも、本來は問題の「ずは」の諸例に於けると同じく「ずして」の意味の「ず」の連用形に係助詞「は」の附屬した「ずしては」の意味であつたのを、かやうな「ずは」(305)が否定の文の中に現はれる場合には、例へば「戀忘貝とらずは止まじ」が本來「取らずしては止むまい」の意味であつたのを、それがまた「取らなかつたら止むまい」と解し得る如く、打消の假定條件として解し得るところから、遂に打消の假定條件を表はす形式となり、否定以外の文にも用ゐられるに至つた事を推定するに至つたのである。(この事については猶委しい論證と説明とを要するが、それは他日を期したい。この説は、私は昭和六年十一月國學院大學國文學會講演會で「國語語法史上の一疑問」と題して發表したばかりで、まだ文獻によつては發表してゐないが、之と同じ説が昭和十四年十月發行の國學院雜誌に此島正年氏が發表せられた「形容詞及形容詞的助動詞の順態假設條件法」に見えてゐる。同氏は獨自の研究によつて私と同じ結論に到達されたものと思はれる)。さすれば、問題の諸例に於ける「ずは」と、否定の假定條件を表はす「ずは」とは本來は同一根源から出たものであつて、「ずは」の「は」も決して別種のものではなく、相關聯し相通ずるものであつて、之を互に對照して考察すれば、一層よくその本性を明かにする事が出來るのである。
 
 問題の「ずは」の「ず」を私の考へるやうに助動詞「ず」の連用形であつて、「ずして」又は口語の「ずに」「ないで」の意味を表はすものと解釋するならば、「ず」は、それの附屬する語と共に、述語に連續して之を修飾し連用(副詞的)修飾語をなすものである。即ち、問題の歌に於て、「ず」によつ(306)て導かれた語句、例へば「戀ひつゝあらず」は「死なましものを」を修飾し、「痛手負はず」は「潜きせな」を修飾する事「たえず流る」「あかず別るる」などの「たえず」「あかず」と同樣であり、又この點に於て、現代の口語の
  ひどくは〔四字傍線〕いたまない。
  成功しないでは〔七字傍線〕歸るまい。
  手術しないでは〔七字傍線〕直らない。
の如き文に於ける「ひどく」「成功しないで」「手術しないで」とも同樣である。下の語句の意味を限定し之に條件をつけるものである。即ち、「ひどくはいたまない」は、無條件に「痛まない」のでなく、「ひどく痛むのでない」ので「ひどく」といふ條件のついた「痛む」といふ事を否定するのであり、「成功しないでは歸るまい」「手術しないでは直らない」は無條件に「歸るまい」又は「直らない」といふのではなく「成功しないで」又「手術しないで」といふ條件で限定せられた「歸る」「直る」といふ事を否定するのである。之と同樣に、「死なまし」と假想するのは、無條件に假想するではなく「戀ひつゝ在らずして」といふ條件の下に於ける「死」を假想し、「潜きせな」と意圖するのは無條件に入水しようとするのでなく、「痛手を負はずして」といふ條件の下に於ける「入水」を意圖するのである。さうして、「ず」に加へられた「は」はこの場合どんな役目をするかといふに、その條件たる修飾句の(307)意味を特に提示して聞手をして特に之に注意せしめ、それを下の用言又は用言連語によつて示された斷定、假想(「まし」)、意圖(「む」「な」)、願望(「しがも」)等種々の陳述の態度に連續せしめ、その斷定、假想、意圖、願望等が修飾語に示された事項を大切な缺くべからざる條件とするものである事を明瞭にする爲のものである。それは「ひどくはいたまない」に於て「ひどくは」の「は」が「ひどく」を特に提示して「いたまない」といふ打消の意味に連續せしめ、打消の意味のかゝる所が「痛む」よりもむしろ「ひどく〔三字傍線〕」といふ條件に在る事を示すと同樣である。勿論、この場合に「は」は絶對に必要なものではなく、「は」がなくとも、かやうな意味を示しうる事は「ひどくはいたまない」をまた「ひどくいたまない」と言ふ事から見ても明かであるが、しかし「は」を加へた方が一層明瞭であり又有力である事は「ひどくいたまない」と「ひどくはいたまない」とを比較しても明かであるから、恐らくその爲に「は」を加へたものと考へられる。しかしながら、猶その外に、「ず」の場合に限つて「は」を加へた方が一層適當であると考へられる事情がある。それは「ず」は連用形と終止形とが同形である爲に、「は」を加へなければそこで終止したものと誤られるおそれがある事、又連用の「ず」には、修飾語として用言にかゝりその意味を限定する場合と、中止法として用言と對立する場合とがあるが、「は」の加はるのは修飾語として用ゐた場合だけであつて、中止法としては「は」を加へる事がない故、「は」が加はれば修飾語として條件を示すものである事が明瞭に感知せられるのである。こ(308)れが「ずは」の形が常に用ゐられるに至つた理由であらうと考へられる。
 
 右の如く解すれば、〔打消の助動詞「ず」の連用形が他の語に附屬して連用修飾語を作る事は普通の事であり、助詞「は」は用言に連續する(係る)語に附屬してその意味を提示すると共に、之をそれを受ける用言の種々の陳述の意味に係ける事もその特性として認められてゐる事であつて、〕問題の「ずは」は、「ず」に「は」の附屬したものとしてその用法及び意味に於て他と異る所なく、全然問題となるべき點が無い筈である。しかるに、古來その解釋に苦しみ、種々の異説が出たのは何故であらうか。
 それは一つには、古來「ずは」を「ずば」と讀みなれてゐた爲、之にひかれて、語形について徹底した考察を行はず、その上、「ずば」と讀んで假定條件の意味に解しても、何とか解釋の出來る歌のある事なども傍困となつて、「ずば」でなくして「ずは」である事に心づかず、隨つて、「ずは」といふ語形に基づいてその解釋に工夫をこらす事がなかつたからでもあらうが、また一つには、これらの歌に於て「ず」で導かれた修飾語自身に於てたやすく之を修飾語と認めしめ難い事情があつたのであらうと思はれる〔註四〕。それは、助動詞「ず」の連用形は、あらゆる動詞形容詞と同じく連用修飾語としての用法(「絶えず〔傍線〕流るゝ」)と共に又中止法としての用法があるのであつて(「朝庭に出で立ちならし暮庭(309)に踏み平げず佐保の内の里を往き過ぎ」)、この兩者は「ず」の形の上からは區別が出來ない。それ故、問題の諸歌に於て、「ずは」の形が、「ず」であつたとすれば、その「ず」は中止法としても解し得るのであつて、(「こひつつあらずいはねしまきて死なましものを」)それでも全體の意味には大した差異はないのであるが、中止法の「ず」にはいかなる助詞も之に附屬する事が出來ないのであるから、「ずは」と「は」の助詞が附屬する以上は、連用修飾語としなければならないのである。然るに一般的に言へば「は」は連用修飾語に附き得るものであるけれども、實際に於てはどんな場合にも附き得るのでなく、その場合は相當限られてゐるのであつて〔註五〕、たとへば同じ用言を修飾する場合にも、「絶えずは流るれど」の場合には「は」が用ゐられるが、「絶えずは流る」といふ事は絶無でないまでも極めて稀であらう。「は」は一般にことに、後世に於ては「ども」「とも」など反戻の意味の接續助詞に接するか、又は打消の助動詞につらなる用言に對する修飾語に附屬するのが常であつて(「絶えずは流るれども」、「絶えずは流れず」)、その他の場合に用ゐるのは甚稀であるが、問題の諸例に於ては、「ず」を受ける用言は、願望、假想、意圖などを表はす助詞助動詞を伴ふものであつて、かやうな場合に修飾語に「は」を附ける事は後世の國語に於てはめつたに例のない事である爲に、我々の語感からしては之を修飾語として認める事は困難であつて、容易に想ひ至らない事實である。かやうな事情が「ずは」の眞義を我々の目から蔽うた大なる原因であつたらうと思はれる。實際我々は打消の文に於て(310)は、
  苦勞をせずに金はまうけられない。
と共に、
  苦勞をせずには〔右○〕金はまうけられない。
といつて、「苦勞をせず」といふ條件を特に印象ぶかくする事が出來るが、
  苦勞をせずに金をまうけたい。
の如き希望を表はす文に於ては
  苦勞をせずには〔右○〕金をもうけたい。
といつて「苦勞をせず」といふ條件を特にきはだたせる事は出來ないのである。しかるに問題の歌の「は」は、後の例に於ける「は」と同等の用法であつて、古代に於てはかやうな場合にも打消の場合と同等に「は」が用ゐられたものと見られるのである。「苦勞をせずに」が「金をまうける」に對する修飾語として條件をあらはす事は同等であり、又、さういふ條件の下に金儲けをしたいと希望する(金を儲けたいが苦勞はしたくないのである)のは、さういふ條件の下に金儲をする事を不可能と否定する(金儲けするには苦勞をしなければならないといふのである)のとは、正に相對するものであり、その條件を特に取あげて希望し又は否定する爲に「は」を用ゐる事も正に同樣である。古代に於(311)てはかやうな言ひ方があつたのが、後世には否定の場合にだけ普通の言ひ方として殘つたものとおもはれる。かやうに問題の諸歌に於ける「ずは」の「は」の用法が後世の國語に於けると一致せず、後世の國語と對照して直に理解し得る便宜がなかつた事が、その解釋を困難ならしめた大なる原因であつたらうと思はれるのである。
 
 次に本居宣長が問題の「ずは」を「んよりは」の義と解したのは、語義の解釋としては誤であつて私の賛し難い所であるが、しかし歌全體の意味としては當らずと雖遠からざる程度にその眞義に逼つてゐるのはどうした事であらうかといふに、これ等の歌はその表現といふ點から見れば皆同樣な發想法に從つてゐるのであつて、「ずは」で導かれた語句は、何れも自己の苦しく耐へ難いものと觀ずる現在に於ける現實の身心の境遇から脱却する事を條件として擧げてゐるのであり、(「ずは」と否定するのは上に述べた現實から脱却するのである)、之につづく下の語句は以上の條件の下にその現在の境遇に代るべき他の境遇を心中に畫いて或は之を假想し或は之を願望し或は其の實現を意欲する旨を述べてゐるのであるが、その心中に畫く境遇たるや、或は命をすてるとか、或は跡を追うて苦しい旅に出るとか、一杯の酒をのんで滿足するとか、酒壺になるとか玉になるとか、賤しい海士の身でゐるとかいふやうな、決して願はしいものではなぐ、普通の場合には寧ろ遁れ避くべきものであるが、現在(312)の厭はしい境遇を脱する爲ならば、それさへもむしろ取るべきものとして假想し願望し、その實現を意欲する旨を述べて、現在の懊惱の耐へ難さを印象ふかく表現してゐるのである。かやうにこれらの歌は、現在の實際の境遇と空想せる假の境遇との對比選擇の上に成り立つてゐるものであるが故に、俊敏なる宣長は、歌全體の上からこの旨趣を觀取し、この二つを比較して、むしろ空想の境遇を選ぶべき事を述べたものと解して、「ずは」に「んよりは」の意味があると考へたのであつて、さう解いても大意に於ては、甚しい相違を生ずるに至らなかつたものと解せられる。我々は宣長のすぐれた直觀力に敬服すると共に、更に一歩を進めて「ずは」の語義を明かにし、言語に即した解釋にまで進まなかつたのを遺憾とするものである。
 かやうな次第である故に、宣長の解釋は、右のやうな發想法による歌に於ては適切なやうに見えるけれども、言語としては之と同じ「ずは」であつても、歌としての構成のちがつた卷二十の「たちしなふ」の歌の如きにいたると、忽ちその缺陷を露呈するのである。即ちこの歌に於ては「ずは」に導かれた語句「たちしなふ君が姿をわすれずは」は、現在に於ける自己の境遇を述べて之を脱却しようとするのではなく、單に本來に於ける事實を豫想して述べたのであつて、之を受ける句もまだ今後に於ける事實を豫想したのであり、「ずは」に導かれた句は、むしろ以下の句の意味の原因となるのであつて、「ずは」の「は」は、その原因を特に著しく提示して、「戀ひわたりなむ」といふ豫想に結合(313)させるものである。「ずは」に導かれるのは修飾語ではあるが、この場合には條件よりはむしろ原因を示すものである(「雨ふつて地かたまる」)。その場合には、「ずは」を「んよりは」と解しては全く意味をなさぬ事になるのである。
 
 以上述ぶる如く、問題の「ずは」はあらゆる例に於てすべて「ず」に「は」の加はつたものとして解し得べく、その場合の「ず」及び「は」はその意味及び用法に於て特に他と異る點がないとすれば、之を特殊のものとして取扱ふべき理由は少しもないのである。ただ、この時代の歌に於て「ずは」の用例が多いので、自ら一類をなすものと見てもよいやうであるが、それはこの時代にかやうな發想法が好まれたからであつて、歌の上には大切であつても言語又は文法の上からは問題とすべきではない。(前述の如く修飾語に附屬する場合に「は」を用ゐるかどうかについては後世と少しの異點があるとしても、これは「は」の用法の問題であつて、「ずは」の問題ではない)
 然るに、同じ「ずは」であつても、假定條件をあらはすものにあつては之と趣を異にする。前にも一寸述べたやうに、假定條件の「ずは」は、否定の意味の文に於ては、多くは「ずしては」の意味に解せられるのであつて、その場合「ず」に導かれるのは連用修飾語として下の述語にかかり、「ず」に附屬する「は」は修飾語を特に提示して、述語に附屬する否定の助動詞や、表面の意味は疑問であつ(314)ても究極は否定と區別の無い反語の形の示す否定の意味に結合せしめて、之に修飾せられた述語に含まれた否定の意味が、この修飾語にまで及ぶことを示すものと見られるのである。私見によれば「ずは」が假定條件をあらはすのは、それが否定の文に於て、かやうな「ずしては」の意味として用ゐられたものが本源であつて、それが、他方より「――しなければ」の如き假定條件の意味に解せられて遂に假定條件を表はす形式と化したものと推定せられるのである。然るにこの時代のものには〔註六〕、  の如く、「ずは」の形が假定條件をあらはすが、しかしそれは否定文以外にも用ゐられて、もはや「ずしては」の意味としては解する事が出來ないものがかなりあるのである。さすれば、これらは根源に於ては「ずしては」の義であつたとしても、この時代には既に假定條件を表はす形式と化してゐたのであつて、「ズハ」には本來の「ズシテハ」の意味の外に、假定條件を表はす別種のものがあつたとしなければならないのである。しかるに問題の「ずは」には「ずしては」の意味として解する事が出來ないものは一つもないとすれば、この類の「ずは」は、一の別の形式として普通の「ずは」から區別する必要がないばかりでなく、之を別にするのは解釋上の便宜の方法としてはとにかく、言語乃至文法上の問題としては、むしろ不合理といふべきである。
 
 抑、修飾語は、必ずしもあらゆる文に存するものでなく、その意味もすべての文に於てその意味内(315)容として之を含まねばならないものでもない。又修飾語があらはれる場合には常に他の語句に從屬し、その意味は常に他の觀念に隨伴し依存するものである。それ故、修飾語は文の構成要素としては第二次的のものとして取扱はれてゐるのであつて、隨つて動もすればあまり重要なものでないと考へられがちである。しかるに個々の文の意味内容から觀る時、修飾語が甚重要なる働きをなしてゐる事が屡あつて、もし之を缺く時は、話手の意圖に背いた別の意味になり、その文の存在の理由を失ふ事も少くない。例へば「あつい〔三字傍線〕茶が呑みたい」「雨はひどくも〔四字傍線〕降らなかつた」に於て、もし「あつい」「ひどく」の修飾語を缺くとすれば、全文はその主眼とする所を失つて、ほとんど無意味に歸するのである。實際、「熱い茶が呑みたい」といつた時、「呑みたい」と希望するのは「熱い〔二字傍線〕茶」であつて、もし「ぬるい〔三字傍線〕茶」又は「冷い〔二字傍線〕茶」ならば希望しないかもしれないのであり、又「雨はひどくもふらなかつた」と述べるのは、雨の降りやうが「ひどく」なかつた事を述べるのが主眼であつて、もし「ひどく」といふ語が無いとすれば、話手のおもひもよらぬ全く違つた事實の敍述となる。これ等の例によつても、修飾語が話手の意圖を傳へる上に極めて重要な役割をつとめてゐる場合のある事が明白である。之を言語に即して見れば、話手の意圖を傳へるのは、通常、述語の活用形や、他の語に附屬して述語を構成する助動詞助詞によつて示される斷定、否定、推測、假想、願望、命令、疑問、咏歎等種々の陳述を中心とするのであるが、修飾語はその意味上、直接又は間接に述語に連繋して述語の示す種々の陳(316)述に條件を附する場合があり、甚しきに至つては修飾語の示す條件なくしては、その陳述の成功しない事さへあるのである。殊に直接述語に連繋する連用修飾語に於ては、かやうな場合が少くない。
 
 次に問題の「ずは」の「は」を私は所謂係助詞の「は」と解するのであるが、「は」「も」「こそ」「ぞ」のやうな係助詞は、主語、補語、連用修飾語の如き述語に連續する語に附屬し、これ等の語を特に指示して、述語に結合せしめ、それが述語の表はす種々の陳述に對して如何なる(性質又は程度の)價値を有するかを明かにするものである。前述の如く「ずは」の「ず」によつて導かれた語句が連用修飾語であるとすれば、之に係助詞「は」の附屬し得べき事は何等の問題もない。唯問題とすべきは、この「は」が文法上並に意義上、如何なる働きをなし、何の必要があつて連用修飾語たる「ず」に導かれた語句に加はつてゐるかといふ事だけである。
 係助詞「は」はそれの附屬する語句の表はす事物を他の事物から區別して之を提示し、その語句の繋る述語に特に結合せしめ、その自然の結果として述語の示す陳述が、その附屬せる語句にまで係るものである事を特に示すものである。他のものから、區別し特に提示して陳述に連繋せしめるところから、主語に附屬してその性質種類などを説明する斷定の文に用ゐるのが常であり、述語に打消の語や助動詞や禁止の助詞を有する打消の文(「さうではない」「さうは言はなかつた」「あそこへは行くな」(317)など)、又は述語に逆態接續の意味の接續助詞の附屬した連用修飾節(「さうではあるが」「さうではあつても」「雨は降らなかつたけれども」「天は晴れたれども」「さはいふとも」など)に用ゐられる事が多いけれども、その他の種類の文に於ても用ゐられる(「お茶は飲みたい」「二階までは上れる」)。
 
 以上は「は」の一般的性質であるが、當面の問題に特に重要なのは、「は」が連用修飾語に附屬する場合である。前にも述べたやうに、修飾語が或文に於て話手が人に傳へようと意圖する陳述に對して甚重要なる役割をつとめ、その存在がその陳述の缺くべからざる條件となり、その存否がその文の命脈を支配するやうな場合に於て、その修飾語がその陳述を表はす述語に直接に繋る連用修飾語である時には、之に係助詞「は」を加へれば、「は」はよくその特性を發揮して、その修飾語を特に提示して用言の示す述語の陳述に結合せしめ、その陳述がその修飾語にも係るものである事を明瞭に表現し、その修飾語の重要性を明かにするが故に、かやうな手段は實際に於て最も多く用ゐられるのである。例へば、
  雨もひどくは降らなかつた。
  休まずには働けない。
  苦勞しないでは金儲は出來ない。
(318)に於て、話手が人に傳へようと意圖するのは、「雨は降つたがひどくはなかつた」事、「働くには休養が必要である」事、「金儲は苦勞せずしては出來まいと推測する」事である。「降らなかつた」と否定して敍述するのは、唯、無條件に「降つた」事を否定するのではなく、「ひどく降つた」事、即ち、「ひどく」といふ條件を伴ふ「降つた」を否定するのであつて、もし、この條件を伴はなければ決して「降らなかつた」と打消の表現を用ゐないであらう。「休まずには働けない」の「休まずに」及び「苦勞しないでは金儲は出來まい」の「苦勞しないで」もまた同樣に「働けない」と否定的に斷定し、「金儲は出來まい」と否定的に推測するについての缺くべからざる條件をなすものである。さうして以上の如き大切な條件は、文としては連用修飾語として表はされてゐるのであるが、これに加へられた「は」はこれ等の條件たるべき事柄を取り出して特に述語に結合せしめ、「降らなか〔二字傍線〕つた」「働けない〔二字傍線〕」「出來まい〔二字傍線〕」といふ否定的の敍述、斷定又は推測の陳述が、單に述語のみでなく之につらなる修飾語にまで及ぶことを明かにして、それがかやうな陳述の成立に缺くべからざる大切な條件である事を明示するものである。
 勿論、連用修飾語が以上のやうな性質のものである場合にも、「は」を加へる事なくして同樣の意味を示す事が出來ないのてはない。即ち上掲の例文に於て
  雨もひどく降らなかつた。
(319)  休まずに働けない。
  苦勞しないで金儲は出來ない。
といつても同樣の意味はあらはれる。しかしながら、之に「は」を加へれば、その修飾語の重要さは、一層紛れなく、一層力強く表現されるのである。又、口頭語に於ては、この修飾語を他の語よりも強く發音する事によつて同樣の目的を達する事も出來るが、しかしそれは口頭語に限る事であつて、記述語に於ては、「は」を加へる事が最確實にして有効な手段である。これが右のやうな場合に「は」の多く用ゐられる主なる原因であらうと思はれる。
 
 係助詞「は」が文法上並に意義上以上の如き特性を有するものであるとすれば、問題の「ずは」の「は」も係助詞「は」として明白に解明する事が出來るのである。
 前掲の「斯くばかり戀ひつゝあらずは」の歌に於て、「岩根しまきて死なましものを」と死ぬ事を假想するのは、唯無條件に「死んでしまつたとしたら」と假想するのでない。「戀しいと思ひつゝ家に居ずに死んでしまつたとしたら」といふのであつて、「戀ひつゝあらず」といふ事を條件として「死なましものを」と假想するのである。もし戀ひつゝある苦しさを遁れる爲でないならば決して「死なましものを」と假想する事はなかつたであらう。即ち「戀ひつゝあらず」(「……あらずして」、「……居ら(320)ずに」「……居ないで」の意味)といふ連用修飾語は「死なましものを」といふ述語の表はす假想の陳述が成立する爲の必須條件をなすものであつて、この歌の主眼はむしろ此處にある事、前に掲げた「雨もひどくは降らなかつた」の文に於ける「ひどく」と同樣である。さうして「ずは」の「は」は、右の如く重要な「戀ひつゝあらず」の修飾語を特に提示して述語の假想の意味に結合せしめ、その假想が單に述語だけの範圍に止まらず述語に繋る修飾語にまでも及ぶものなる事を明かにするものである。かやうにこの歌は單に死を假想したものでなく、戀ひつゝあらざる死を假想したものである。むしろ、死にかへて戀ひつゝあらざらん事を假想したものである。
 又「いざあぎ」の歌も、痛手を負ふ事必定であると豫見して、痛手負はずに近江の海に溺れて命を棄てようと決意せられるのであつて、唯、無條件に「淡海の海に潜きせな」といふのでなく、「頭椎の痛手負はず」といふ事を條件だして痛手を負はざらんが爲に「淡海の海に潜きせな」と自ら水に溺れようとの決意を述べたもので、もしその爲でなければ、水に溺れようとはせられなかつたであらう。「痛手負はず」は「近江の海に潜きせな」といふ決意の成立の爲の缺くべからざる條件であり、「潜きせな」といふ述語に於ける「な」の示す決意は、單に「潜きする」事だけにかゝるのでなく、之に聯繋する修飾語「いたでおはず」までにも及んでゐるのである。さうしてかやうに重要な「いたでおはず」を特に取り出してそれが述語に示された決意の陳述にかゝつて行く事を明かに示す爲に、「は」が(321)加へられたものである事は、前の例と同樣である。
 以上の如く見て來れば、「ずは」の「ず」はそれの附屬する語句と共に連用修飾語を構成して下の述語に密に連繋してゐるのであり、「は」も本來の性質に從つて、この修飾語を特に提示して下の述語に結合せしめ、その陳述が修飾語にまでも及ぶことを明かにして、その修飾語の重要さを印象せしめ、以て文の構造並に表現の上に十分の効果を發揮してゐるのである。然るに、「は」の存在を輕視して、「ず」を「ずして」の義と解しながら、之を中止法として用ゐた場合と同樣な意味に解して、それが修飾語として下の述語に從屬して之に大切な條件を附するものである事を觀過し、又「は」は輕く添はつたものであると説明して、それが述語の陳述の及ぶ所を明かにしてそこに重要なる意味の存する事を指示するものである事を無視する如きは、語學的解釋としては不徹底なものといはなければならない。
 
 猶こゝに一つの問題がある。右の「ずは」の「ず」によつて導かれた語句が、述語の表はす陳述の大切な條件となり主たる目的となり得るのは、それが修飾語として述語に連るからであつて、その爲には必ずしも「は」の助詞を加へるを要しない事は前に一言した通りである。然るに問題の諸歌に於てはすべて「ずは」の形であつて、「は」を加へないものの無いのは何故であるかといふ問題である。
(322) それは、「は」を加へれば、「は」はその本性によつて、其の修飾語を特に提示して之に注意を向けしめる爲にその重要なる事を明瞭に了解せしめるからであつて、これと同樣な手段は修飾語以外の場合にも多く用ゐられる事は既に述べた通りであり、この場合も同樣の理由によるものであらう。しかしまた、「ず」に導かれた修飾語に於ては特にそれを必要とする事情があるやうに思はれる。「ず」は終止形と連用形とが同形であつて、しかも、終止形を用ゐて終止するものと連用形を用ゐて中止するものとが普通に多く用ゐられ、連用形を連用修飾語として用ゐるものはあまり多くない。これらの「ず」は形の上からは區別しがたく(ことに書いた言語ではさうである)、大概は前後の意味から判斷し得るのみであるが、その中「は」のやうな係助詞に接し得るのは修飾語として用ゐたものに限る故に、「は」を加へれば、それが修飾語である事が明瞭に判斷せられるのである。これが、前述の理由と相俟つて、問題の「ずは」が常に「は」を伴つた形としてあらはれる一つの原因であらうと思はれる。
 
  刊行委員附記
   註一(三〇三頁〕 ここは、草稿に一行餘りの空白になつてゐる。豐田氏の説は、「萬葉集總釋第十」に見える。
   註二 (三〇三頁〕 誰を指すか不明。岡澤鉦治氏か森本治吉氏であらう。
(323)   註三 (三〇三頁) 原稿に一行餘りの空白になつてゐる。岡澤氏ならば、その説は上代日本文學講座第三卷「上代國文法概説」に見えてをり、森本氏ならば、その説は「萬葉集新見」に見えてゐる。森本氏のは、異説とするには當らないかも知れない。また豐田、岡澤兩氏のも、博士のこの稿の以下の論旨には直接關係するところは少いと思はれるので、その説をここに紹介することを略く。
   註四(三〇八頁) 原稿の上部欄外に次の書き加へがある。
   「ず」の附屬した語句は古代に於て、終止に用ゐられること多く、中止法も少くないが、連用修飾語としての用法は甚少いこと。
   註五 (三〇九頁) 原稿の上部欄外に次のやうな例の書き加へがある。
        暫くは〔傍点〕待つてもよい。  少しは〔傍点〕見たい。
   註六(三一四頁) 原稿に二行餘りの空白になつてゐる。ここに掲げられる例は、次のやうなものであらう。
        衣柚にあらしの吹きて寒き夜を君來まさずは獨りかも寢む(三二八二)
        佛造る眞朱足らずは水たまる池田のあそが鼻の上をほれ(三八四一)
 
 昭和二十六年十月十日 第一刷發行 上代語の研究 定價 五百六拾圓
著者 橋本進吉《はしもとしんきち》
東京都千代田區神田一ツ橋二丁目三番地
發行者  岩波 雄二郎
東京都青梅市根ケ布三八五番地
 印刷者  山田 一輝
發行所 東京都千代田區神田一ツ橋二ノ三 株式会社 岩波書店