国語音韻の研究、橋本進吉、岩波書店、1950.8.25(1956.11.30.6p)
 
(1)     凡例
 
一、本書は、橋本進吉博士著作集の第四册として、「國語に於ける鼻母音」「國語史研究史料としての聲明」『「盛者必衰」』「波行子音の變遷について」「駒のいななき」「國語音韻の變遷」「古代國語の音韻に就いて」「國語の音節構造と母音の特性」「國語の音節構造の特質について」「國語音韻變化の一傾向」の十扁を收め、附録として、日本文學大辭典に執筆された解説の中、国語音韻に関係ある十九項を載せた。
一、「國語に於ける鼻母音」は、雑誌「方言」第二卷第一號(昭和七年一月刊行)に掲載されたものである。
一、「國語史研究史料としての聲明」は、雜誌「密教研究」第三十二號(昭和四年三月刊行)に掲載されたものである。
一、『「盛者必衰」』は、雜誌「洋光」(東洋大學國文學會編)第二號(昭和十年八月刊行)に掲載されたものである。
一、「波行子音の變遷について」は、「岡倉先生記念論文集」(昭和三年五月刊行)の中の一篇として(2)寄稿されたものである。同書では横組で印刷されたのを、今は縱組に改めた。
一、「駒のいななき」は、(昭和十九年十一月刊行)日本文學報國會編「國文學叢話」の中の一篇として掲載されたものである。
一、「國語音韻の變遷」は、雜誌「國語と國文學」第十五卷第十號「國語の變遷」特輯號(昭和十三年十月刊行)に、「國語變遷の概觀」の第一篇として、掲載されたものである。
  以上のうち「駒のいななき」を除く五篇は、自筆の訂正が加へられてゐるのによつた。
一、「古代國語の音韻に就いて」は、昭和十二年五月内務省主催第二囘神職講習會に於ける講議の速記に手を加へられたもので、昭和十六年三月に神祇院で印行し、更に同十七年三月に明世堂から公刊された。今、昭和十八年發行の明世堂再版の本によつた。
一、 「國語の音節構造と母音の特性」は、雜誌「國語と國文學」第十九卷第二號(昭和十七年二月刊行)に掲載されたもので、今自筆の訂正に從つた。なほ、この論文の骨子は、昭和十六年六月二十日、日本諸學振興委員會第二囘國語國文學會の席上、同題で發表され、その速記は、「日本諸學振興委員會研究報告」第十二篇(國語國文學)(同年十一月刊行)に掲げられてゐる。
一、 「國語の音節構造の特質について」は、雜誌「國語學」(國語學會編)創刊號に掲載するために執筆されたものである。今、別に草稿として保存された「補遺」を加へて掲げることとした。
(3)一、 「國語音韻變化の一傾向」は、昭和十七年十月二十四日、東京帝國大學國文學會主催の上田萬年博士記念國語學講演會(東大法文經三十番教室)に於ける講演の草稿である。
一、本書の解説は龜井孝が執筆し、校正は同人及び林大があたつた。
  昭和二十三年一月三十日
             橋本進吉博士著作集刊行委員會
 
(1)     目次
 
國語音韻の研究
 國語に於ける鼻母音…………………………………………………一
 國語史研究史料としての聲明…………………………………………一一
 「盛者必衰」……………………………………………………………二三
 波行子音の變遷について………………………………………………二九
 駒のいななき……………………………………………………………四七
 國語音韻の變遷…………………………………………………………五一
 古代國語の音韻に就いて……………………………………………一〇五
 國語の音節構造と母音の特性………………………………………二〇一
 國語の音節構造の特質について……………………………………二二九
 國語音韻變化の一傾向………………………………………………二六一
(2)附録
 五十音圖……(二七四) 清音……(二八〇) 濁音……(二八二)
 半濁音……(二八三)  拗音……(二八三) 促音……(二八六)
 撥音……(二八七)   音便……(二八九) 連聲……(二九一)
 開合‥…(二九三) アクセント……(二九三) 字音……(二九七)
 韻‥…(三〇七)    四聲‥…(三〇八) 反切……(三一三)
 延言……(三二一)   約言……(三二二) 通音……(三二三)
 略音……(三二六)   韻學……(三二七)
解説(龜井孝)………………………………………………三四五
 
(1)   國語に於ける鼻母音
 
(2) 東北方言の著しい特徴の一つとして世に知られてゐるのは、音が鼻にかゝるといふ事である。鼻にかゝるといふのは、素人の常識的な觀察に過ぎないが、近年方言研究の進歩によつて、その本質が闡明せられ、いかなる場合にこの現象が起るかも知られるやうになつた。即ち、これは母音の鼻音化(母音を發音する際に、氣息を口の方へ出すと同時に鼻の方へも出して音を鼻へも響かせる事)であつて、濁音の前に來る母音に現はれるのが通則である。東北方言では他の多くの方言に於ける清音を濁音に發音する事があるが、さやうな濁音の前には現はれず、他の方言に於ても濁音に發音するものの前に現はれるのである。かやうな鼻音化した母音即ち鼻母音は、土佐方言にもあるのであつて、土佐では、ガ行音とダ行音との前に規則的に現はれる(音聲學協會々報第二十三號、服部四郎氏「土佐方言の發音について」參照)。東北地方の鼻母音は、ガ行ダ行のみならず、ザ行バ行の前にもあらはれ、時として次に來るべき濁音を清音化する事さへもあり、又、土佐方言のガ行子音は、東京語の語頭にあらはれるやうなg音であり、東北地方のガ行子音は、東京語の語中語尾にあらはれるやうな鼻音の〓(ng)であつて、多少その條件に相違があり、且つ土佐の鼻母音は東北ほど鼻音化が甚しくないやうであるが、東北と土佐とのやうな、相隔たつた地方に、大體相似た條件の下に同樣の現象があ(3)らはれるのは甚不思議な事であつて、古い時代に於て廣い範圍に行はれた現象が、たま/\遠隔の地に殘存するのではないかを疑はしめる。
 しかるに、室町末期に我が國に在留した耶蘇會教父の一人なるロドリゲス Jo〓ao Rodriguez の作つた日本語典(Arte da lingoa de Iapan. 一六〇四−八年長崎版)を見ると「或特別の音節を如何に發音すべきかの方法について」と題する章(同書一七七丁裏)の中に第三則として(DDzG の前の母音について」と標して
  DDzG の前のあらゆる母音は、常に、半分の til(葡萄牙語に於ける鼻音化の符號である〜)あるもの、又は、til に幾分近い、鼻の中で作られる sosonante(反語《アイロニー》をあらはす演説上の調子)の如く發音する。例、m〓da、m〓d〓,m〓adoi,ndame,n〓dete,n〓do,n〓dzu,〓giuai,〓guru,〓gaqu,c〓ga,f〓naf〓da,f〓gama,等
とあつて、DDzG の前の母音の鼻音化する事を擧げてゐるが、DDzG ではじまる音節は、ダヂヅデド、ガギグゲゴ及びヂャヂユヂョギャギュギョゲウ等であつて、ことごとくカ行タ行の濁音である。又右の文に引續いて
  この同じ規則は、主としてFが重つてBに準じた場合に於て、Bの前の母音Aにも時にあてはまる。しかしこれは一般的ではない。例、Mairi sorofaba.
(4)とあつて、Bの前の母音にも時として鼻音化が生ずる等を述べてゐる。
 右の鼻音化は、あまり著しくなかつた事は、半分の〔三字右○〕 til と言つてゐる事でも知られるが、同書中の「アクセント及び發音の誤」と題して西洋人が日本語を發音する際、特に注意すべき事項を述べた條(一七二丁裏)の中にも
  又、下に發音法の條に述べるやうに、或語は必要な半分の til 又はsosonante の代りに、N 又は明瞭な til を置いてはならない。例へば、T〓ga varer〓ga,N〓gasaqui の代りに Tonga,Vareranga,Nagasaqui, など言ふやうに。
とあるによつて明かである。さうして、この鼻音化の符號は、常時の葡萄牙の耶蘇會士の間に用ゐられた日本語の羅馬字綴には、全く附せられて居ない。それほど、この現象は規則的であつたのである。
 ロドリゲスの語典に説く所の母音鼻音化の現象は、その音の性質に於ても、そのあらはれる場合に於ても、現今の土佐方言に於けると殆全く同一である。しかも、ロドリゲスの語典に説く所の發音は、決して一地方の方言的發音ではなく、主として都の發音に基づく當時の標準的發音であつた事は、ロ氏が日本語に精通してゐた事、語典中に發音は都及び近畿地方のものを以て模範とすべき事を説き、方言的發音及び語法を特に擧げて、之を避くべき事を説いてゐるによつても推知する事が出來る。さうしてこの發音は、近畿地方のみならず、他の諸國にも行はれてゐたらしく、同書に、備前の方言に(5)ついて特に次の如く述べてゐる。
  半分の til を以て發音する g の前の母音を發音するのに、之(til)を捨てゝ粗く發音する。例へば、T〓ga のかはりに Toga,Soregaxi などいふ。さうして、この發音によつて、備前の人々は世に知られてゐる。(一七〇丁裏、「或國々に固有な言葉と發音の誤謬について」の章の中、備前の條)
 これによつて觀れば、當時我が國に來た歐洲人が、長崎を Na〓gasaqui 平戸を Fira〓do 關白殿を Quambacu〓dono と書いたのも偶然でない事が知られる。
 濁音の前の母音鼻音化の現象が、古く我が國に存した事は、右の西洋人の記録以外にはまだ見出されず、假名で日本語を書いたものにも全くあらはれて居ない。けれども、それ故、古くはこの音が無かつたとは決して斷定する事は出來ない。假名による寫語法は、かなり便宜的なものであつて、定まつた條件の下にあらはれる音の變異の如きは、書き表はさないのが常であるからである。我々は、右のロ氏の語典を根據として、室町末期に近畿、其他の國々に右のやうな鼻母音があつた事を信じてよからうと思ふ。さすれば、その音は、何時からあらはれたか、又その後どうなつて行つたかゞ國語音聲史上の一問題となるのであるが、上代に於て、ユミケ(弓削)がユゲとなり、ユミツカ(弓束)がユヅカとなり、ユミツル(弓弦)がユヅルとなり、カミサシ(挿頭)がカザシとなり、シモツエ(下(6)つ枝)がシヅエとなつたやうな例は、ミやモのやうな鼻音を含む音節が無くなつて、下の音が濁音になつたとするよりも、yumike→yumuke→yumuge→y〓ge の如く、鼻音の要素が、次の音を有聲化して濁音とすると共に、その前の母音を鼻音化させたと解する方が自然であり、また、平安朝以後に存する打消の「で」(「行かで」「思はで」などの「で」)も、その前の母音に鼻音化があつたとすれば、もと、そこに打消の助動詞「な」「に」「ぬ」「ね」などに存するn音を含むものがあつた事を想定するに都合がよいから、この鼻母音の存在は或は存外古いものかも知れない。又、平曲の語り方にタヾイマ(唯今)をタンダイマと發音し、フダン(不斷)をフンダンと發音する事のあるのも、ダの前の母音が鼻音化してゐたとすれば、容易く説明せられるのであり、又語中語尾のガ行子音が方言によつて鼻音になつてゐるのも、その前の母音の鼻音化の影響を受けたものと解してよいかも知れない。
 この鼻母音が室町時代以後どうなつたかは、まだ不明であつて、今後の研究に俟たなければならないが、有賀長伯の説を筆記した以敬齋口語聞書(寫本一冊、帝國圖書館藏)に、「ず」「づ」「じ」「ぢ」の發音の區別を説いた條に、
  すつしちの假名を濁るに、つとちとはつめて出し鼻へかけて濁る。しとすとは、つめず鼻へかけずして濁る也。たとへば藤はふぢのかななるゆへ、下のちをつめて鼻へかけて濁れば、ふんちと出しはねるやうに聞ゆる也。富士はふじのかなにて、となへは同じやうなれども、下はしなるゆ(7)へ、つめず鼻へもかけず、常のごとくに濁る也。水はみづのかななるゆへ、下のつをつめて鼻へかけ濁れば、みんつと出しはねるやうに聞ゆる也。不見はみずのかなにて、となへは同じやうなれども、下はすなるゆへ、つめず鼻へかけず、常のごとくに濁る也。何にても、すつしちのかなをにごる時は、惣じて此格例に心得べし。
とあつて、「ち」「つ」の濁音を、つめて鼻へかけると説いて居る。「つめる」とは舌の先を上顎にあてゝ閉鎖を作る事であつて、「ち」「つ」の最初の子音dの發音の説明としては至當であるが、鼻へかけるといふのは、濁音の前の母音が鼻音化する習慣があつた爲ではあるまいかとも考へられるのであつて、元禄享保頃の京都方言に、猶鼻母音があつたかを疑はせる一資料である。
 更に、記録の上にあらはれてゐる昔の鼻母音と現代方言との關係について見るに、上述の如くこの鼻母音が室町末期に於てかなり廣く諸方に行はれてゐたものであるとすれば、種々の條件に於て室町末期のものと合致する土佐方言に於ける鼻母音は勿論、それよりも用ゐられる場合のもつと廣い東北方言の鼻母音も、決してこれとは無關係のものでなく、共に古い時代の國語の發音を存してゐるものらしく、或は東北方言の方が、一層古い時代の状態を多く殘してゐるものかも知れない。それはともかく、室町末期まで、近畿方言ばかりでなく、他の多くの地方にもあつたとおもはれるこの鼻母音が、果して今日土佐方言及び東北方言にのみ存するのであらうか。猶他の地方にもあるのではあるまいか。(8)室町末期に、京畿地方は固より、關東を除く多くの地方を通じて「せ」「ぜ」の仮名の標準的發音であつたシェジェの音は、當時の耶蘇會士の書いた羅馬字綴に常に xe je と書かれて居り、寶生流の謠曲や大藏流の狂言の發音に今日までも嚴重に守られてゐるばかりでなく、現代の方言に於ても九州や東北や出雲に行はれ、猶よく注意すれば近畿地方にも、時に耳にする事があるが、動もすれば、我々の注意を逸しようとする虞がある。右の母音の鼻音化もその著しくないものは、鋭敏で熟練した耳でなければ之を捉へる事が出來ない場合が少くない。土佐や東北以外の方言に於て、かやうな鼻母音の存する事を聞かないのは、實際無いのではなく、研究者の注意を逸してゐるのではあるまいか。とにかく、濁音の前の鼻母音の問題は國語音聲史上の興味ある研究問題であると共に、現代方言の研究調査の上にも特に心を用ゐなければならない事項であつて、或はこの方面から歴史的研究に新しい光を投ずる事があるかも知れない。
 
 追記
 江戸時代の濁音の前の鼻母音に關する參考資料として以敬齋口語聞書を引いておいたが、蜆縮凉鼓集(元禄八年成同年刊)の凡例にも同樣なことが見えてゐる。
 此四音(ジヂズヅ)を言習ふべき呼法の事、齒音のさしすせそ、是は舌頭中に居て上顎に付《つか》ず。舌音のたちつてと、是は舌頭を上顎に付てよぶ也。先これを能心得て味はふべし。扨濁るといふも、其氣息の始を鼻へ洩すばか(9)りにて齒と舌とに替る事はなき也。故に此音を濁る時にも亦前のごとくに呼ぶべし。即じぢとずづとの別るゝ事は、自だでどとざぜぞの異なるがごとくに言分らるゝ也。次にはぬる音には、必舌の本を喉の奧上顎の根に付、息をつめ聲を鼻へ泄す也。
とある。この書の著者は、發音法については、かなり正しい觀察をしてゐるのであるから、濁音は氣息の始を鼻へ洩すといつてゐるのは、實際の言語に於て、濁音が語中又は語尾にある時、その前の母音が鼻音化して氣息を鼻へ漏すから來たのではあるまいかとおもはれる。
 
(11)   國語史研究史料としての聲明
 
(12) 國語史は日本語の發達變遷の歴史である。世には往々國語史と國語學史とを混同するものがあるが國語史は日本語そのものゝ沿革を説くものであり、國語學史は、日本語に關する研究の發達變遷を説くものであつて、その間に根本的な差異があるのである。さて日本語は、我々日本民族が先祖以來意志交換の手段として一日も缺く事が出來なかつた言語であり、今日の言語は過去幾千年の變遷を經て出來上つたものであるから、いかなる種類の學問を問はず、苟も日本文化の展開を詳にしようとするには過去の言語の正確なる知識を要し、叉現在の日本語の由來する所を明にして、之を徹底的に理解するにも、亦國語の歴史を顧みなければならないのである。
 かやうに國語史は、種々の方面から觀て大切であつて、國文學史よりもむしろその關係する所が廣いのであるが、現今專門教育や高等普通教育に於ても、國文學史は之を講ぜない所はないにも拘らず國語史は殆ど之を授けるものなく、僅に國語學史を説いて能事了れりとしてゐるやうな有樣であつて高等の教育を受けたものでさへ、國語史の名をも聞かずその當に存在すべきものである事すら知らないものゝ多いのは甚遺憾であるといはなければならない。
 しかしながら、これには又已むを得ない事情があるのであつて、明治以前の國語研究は、主として(13)歌學者又は國學者の手にあつた爲、最初から古代の言語を對象とし、その方面に於ては賞讃すべき業績を遺したが、專ら古代語を模範的のものとし後世の言語は、總て墮落し頽廢したものと考へたからして、その研究は中古以前の言語に限られ後世のものには及ばなかつた。明治以後、西洋の言語學が輸入されて、言語に歴史的研究の必要な事を學び知つたけれども、上下千數百年の間の國語の變遷を研究するのは非常なる時間と努力とを要する事である上に、世間一般に西洋の學術の輸入應用にこれ日も足らず、日本固有の事物の研究に從事するものは甚寥々たる有樣であつたから、國語の史的研究も遲々として進まず、近年になつて、やうやく部分的の研究があらはれたのみで、西洋諸國に見るやうな、國語史や歴史的文典や語源辭書の如きものはまだ一つとして編せられるまでに進んで居ないのであつて、國語變遷の大要を學び知らうとするにも適當な書物もないやうな状態にある。我々斯學の學徒は今他日の大成を目標として、國語の史的研究に專念し、國語史の知識が國民の常識となる日の一日も近くなるやうにと努力して居るのである。
 過去の日本の言語が實際どんなであつたかを明にするのは誠に容易でない。千三百年以上の昔から今日に至るまで、各時代の言語を文字で寫した書籍や文書や金石文が傳はつて居て、大體は一通りわかるけれども、文字に書かれた言語と實際人々の口に話された言語との間にどれほどの差異があつたか、又地方により、社會の階級、職業、男女の別、年齡の相違などによつて、どれだけ言語の異同が(14)存したかなどの問題になると、解決がよほど困難である。文字に書かれた言語の意味は、多くの實例に徴して大概明かになるとしても、當時の人々が、一つ一つの言葉に對して持つて居た特別な感じや類義語の間の微妙な意味の差別などは、なか/\わかり難いものである。中にも最困難を感ずるのは言語の音聲の問題である。我が國で古くから用ゐ來つた漢字は、普通の場合には意義によつて言葉を寫して、その發音を寫さない爲、漢字に書いたものによつて、その言葉の音を知る事は困難である。假名や萬葉假名で書いたものは、言葉を音によつて寫したものであるけれども、それでさへ、文字と發音とが全く一致したものと速斷し難い事は、今日我々が「は」「ひ」「ふ」をワイウと讀み、「かう」「さう」と書きながらコーソーと發音する車があるのを觀ても、直に理解出來るであらう。
 過去の國語の發音は到底直接に知る事は出來ないもので、及ぶ限り多くの違つた種類の資料を捜り索め、出來るだけ多くの違つた方面から觀察して、それから得た結果を綜合して判斷を下すより外方法が無い。かやうな研究の根本となるべき資料として最大切なものは、言ふまでもなく、當時の言語を文字に寫したものであるが、此の種の資料から我々が直接に知り得るものは、耳に聞える音聲ではなく、唯目に見える文字だけである。その文字の用法を調査すれば、當時の人々が、どれだけの音を違つた音として言ひわけ聞きわけて居たかを知る車は出來るにしても、その一々の音が何と發音せられたかは、別の方面からして考察しなければならない。かやうな場合に、當時の實際の發音を推定す(15)る一方の基礎となるべきものは、現代の口語であり、殊に各地の方言である。元來各地の方言はもと同一の言語から出たもので、各特異な變遷を經てそれ/”\の方言になつたのであるから、他の地方では既に滅びた古代の發音を或地には今に殘して居る事もあり、又一の音が徐々に變化して遂に他の音になつてしまふまでの間の種々の段階を、それ/”\異つたいくつかの現代の方言に見る事が出來る場合がある。それ故、諸方言を互に比較して研究すれば、音聲の變遷推移の跡を明にし得べき場合が少くないのであつて、之を文字に書いた資料から得た結果と對照して、はじめて過去の國語音聲の状態を推定し、その音變化の生じ又擴まつた年代と場所とを知る車が出來るのである。
 かやうに現代の口語は、過去の言語の音聲研究に有力なる資料となるのであるが、こゝに、今日猶口で唱へられてゐるもので、現代口語よりも一層よく過去の言語の發音を傳へて居るものがある。語物《かたりもの》、謠物《うたひもの》、誦言《となへごと》の類が是である。
 例へば、今日行はれて居る淨瑠璃の義太夫節に於て、ンで終る語の下に「を」といふ手爾遠波が來る時は「を」をノと發音し、「は」が來る時は之をナと發音する。(「御縁を切られ」「難をつけ」を「ゴエンノキラレ」「ナンノツケ」と云ひ、「兩人は暫く次へ」「時分はよしと」を「リヨーニンナシバラクツギエ」「ジブンナヨシト」といふ)。狂言の詞に於ては、同樣の現象がある上に「今日は」をコンニツタといふ事もある。謠曲にいたつては、ンの下のアヤワ三行の音は、殆すべてナニヌネノと(16)發音し、入聲のツは、アヤワ三行の音の前では促音となつて、同時に下の音もタチツテトとなり、濁音及び鼻音(ガダザバの四行及びナマの二行の音)の前では一種の鼻的破裂音となる(かやうに發音するのを「のむ」と稱する。「末代《まつだい》」「決定《けつぢやう》」などの「ツ」の音をさう發音する)。平家琵琶の語り方に於ても、大體謠曲と同じやうな音變化がある。かやうな發音は我々の耳には甚奇異に聞えるのであつて、此等のものが特殊の音曲である爲、聲調の都合上、普通の言語にはなかつた特別の發音をしたかとも疑はれ、又或名人の個人的發音が模範的のものとなつて後世に傳はつたものかともおもはれるが、慶長九年長崎の耶蘇會學林で出版した、同會教父ロドリゲース所編の日本語典に、當時の日本語の發音を説明した所によれば狂言に於ける如き發音は普通の口語の場合にも一般に行はれたのである。謠曲及平曲に見る如き、入聲のツが次に來る音の相違によつて、或は促音となり或は鼻的破裂音となる事については、ロ氏の語典は、只てにをは「は」の前に促音化して同時に「は」がタとなる(「差別は」「今日は」が「シャベツタ」「コンニツタ」となる)事だけを述べてゐるが、この語典に説いたのは室町末期の發音で(狂言のことばと略同時代)、謠曲や平曲はそれより時代が古いから、その時代にはかやうな發音が一般に行はれたが、後には次第に消滅したものと考へられる。(「差別タ」「今日タ」の如きはその名殘が後までも殘つてゐたものとおもはれる)。さすれば、右のやうないろ/\の發音は、語物や謠物にのみ存する特殊な發音ではなく、一般口語にあつたものが、語物や謠物の中に(17)殘つて、現今までも傳はつてゐるのである。
 右のやうな語物や謠物の類の、我々の研究資料として最尊ぶべき所は、口語としては遠い昔に滅び去つた過去の遺音を今に傳へて、親しく我々の耳に聞かしめる點にある。文字に書いたものは、意味を傳へるのが目的であるから、その發音は、時代々々の口語の音に任せて、古い時代の發音を傳へない。しかるに、語物謠物の類は、最初から口から耳へと傳へ來つたものである。勿論、語本《かたりぼん》や謠本の如く之を文字に書いたものもあるけれども、師匠が教へ弟子が學ぶのは、抑揚長短強弱等の曲節であり、開合清濁等の發音である。つまり音聲そのものである。文字や墨譜は之を忘れない爲の方便に過ぎない。一流一派が新に興つた當時は知らず、その流派が確立して詞章が一定してからは、一言一句も之に違ふ事を許されないのであり、その言語は音曲の要素として曲節と離るべからざる結合をなして居るのであるからして、口語の變遷にもかゝはらず、もとのまゝに傳はり、當時の發音を數百年の後にも聞く事が出來るのである。これは他の種類のものに於ては、求める事が出來ない特異の點である。
 といつても、今行はれてゐる謠物語物等の發音は、ことごとく過去の言語の發音をそのまゝ傳へてゐるといふのではない。中には、音曲であるが爲に特殊の發音をしたものも無いでもあるまいし、又後世の口語の影響を受けて變化した所もあるであらう。これ等は、他の方面からの資料と比較して研(18)究した上でなければ斷定出來ない事である。ことに後世受けた變化については、明な證據のあるものもある。今日の謠曲では、ジとヂ、ズとヅ、及びアウカウサウの類とオウコウソウの類とを發音上區別しないが、元禄享保頃の謠曲書によれば、その頃までは、これ等を區別して發音したのである。さうして、此等の區別が、室町時代には平生の言葉にも存した事は、前掲ロ氏の日本語典によつて明瞭である。平曲も、今日ではジヂズヅの區別をしないが、江戸時代の或語本に記された歌に「シチツスの濁りを分てハヒフヘホ細く吹きだせ當れトタカを」とあつて、ジヂズヅを區別する事となつて居つたのみならず、ハヒフヘホも、フアフイフフエフオと發音して居たのであつて、ロドリゲース氏の語典及び當時の西洋人が羅馬字で日本語を書いたものに、ハ行音は皆 fafifufefo で寫して居るのによれば、これ亦室町時代の言語一般の發音であつたのである。それ故、謠物語物等に關する古書の檢討も亦國語史研究上重要であるが、しかしその場合にも、現に實演せられる場合の發音に照して、はじめて眞の理解に達し得られるのである。
 右にあげた平曲其他の謠物讀物の類は、既に滅びた過去の國語の發音が特殊な事情の下に今日までも傳はつたものとして國語音聲史研究上獨特の價値をもつものであるが、それが果して何時頃の國語の發音を殘してゐるものであるかといふ問題になると、またいろ/\の方面からの考究を要するのであるが、しばらく、それらの音曲又は戯曲の創始の年代について見ると、義太夫節は元禄以前には溯(19)りがたく、狂言は室町中期以後のものであらうし、謠曲は室町初期のものである。平曲は或は鎌倉時代まで溯れようが、今まで傳はつてゐる諸流派は、その祖を南北朝時代に置いてゐる。さすれば、これ等のものゝ中には南北朝以後(或は鎌倉中期以後)の代々の發音は殘つてゐるであらうが、それ以前のものはもとめる事は出來ないのである。それでは、これ等のもの以外にこれと同種の資料がないかと考へる時、我々の想起するを禁ずる能はざるものは、佛教中に傳はつてゐる聲明である。
 我々は、この方面には、まだ研鑽をつんだのでなく、その道の方々の教を仰ぎたいとおもつて居るのであるが、これまで我々の見聞に觸れたゞけの事實について觀ても、佛數の聲明の中には、謠曲や平曲に見るが如き特殊の發音が常に行はれてゐる。親鸞上人の和讃や蓮如上人の御文の如き、明惠上人の講式の如きに於て、前に述べたやうなン音や入聲のツ音の場合に起る種々の連聲上の音變化は、いつも規則正しく行はれてゐる。眞言宗や天台宗所傳の和讃や講式論議の類、並に漢語讃等に於て聞かれる種々の發音は、必しも、こと/”\く昔時普通の言語に用ゐられた發音でないかもしれないが、さやうな古音を傳へたものも少くないであらう事は、充分推察し得られるのであつて、過去の國語の發音を考へるに當つては有力なる參考資料となるものであり、且、その傳來の久しい點に於ては、平曲以下に比して遙に勝れてゐるのであつて、我々の狹い見聞を以てしても、他のものよりは一層古い時代の發音を殘してゐるとおもはれるものも、一二にとゞまらない。たとへば「妙」「勝」の類を(20)明に「メウ」「セウ」と發音する如きは、平曲以下にはない事で、これが古代の正しい發音であつた事は、假名に書いた材料に對照して明に證する事が出來るのである。我々は文字にかゝれた資料によつては只假名にあらはれた形で見るばかりであるが、聲明に於ては、今なほ之を親しく耳に聞く事が出來るのである。又天台宗所傳の法華讃歎の歌に於て「法華經を我か得し事は〔右◎〕」の「は」を現在明にフアと發音するのを聞くが、これも、今日多くの國語學者に信ぜられてゐる、國語の「は」「ひ」「ふ」「へ」「ほ」の音は、古く、フアフイフフエフオと發音せられたといふ説に對して、生きた證據を提供するものである。其他、平上去入の四聲の區別、講式等に於ける日本語の音調なども、古代日本語のアクセントを攻究するにあたつて缺くべからざる重要な資料である。我々はこの方面の討究によつて、他の種の資料によつては得られないやうな新しい國語音聲史上の研究が開けて來る事を期待し得るのである。
 前にも述べた如く、この種の資料は甚貴重なものであるが、しかし、それだけで直に過去の日本語の發音を推定する事は出來ないのであつて、出來るだけ多くの、ちがつた種類の資料と比較對照しなければならない。それには文字で書いたものゝ如く、全然これとは性質の違つた資料から得た結果と對照する事が必要であるが、また、同じ性質の他の資料、たとへば平曲以下のものと比較するのも亦有益である。しかし、同じ謠曲でも流派によつて發音上多少の差異があつて、一の流派に於ては既に(21)滅びてしまつた古音を、他の流派には今に存してゐる如き例もあるから(寶生流のみセゼをシエジエと發音する如き)、聲明でも、諸宗諸派に行はれてゐるものを互に對照して研究するのが必要である。又、かやうなものは、口語に比しては變遷は少いとはいへ、猶永い年月の間には、もとその中に存した古音が遂に失はれてしまつた事もあるべき事は、前に述べた謠曲の例によつても推想されるから、聲明目身の古來の變遷をも調査する事が必要である。この點からして古來の聲明書の研究が是非必要になるのであつて、昨夏高野山に催された聲明書の展覧會の如きは最當を得たものと考へられる。
 かうは云ふものゝ、一宗一派の聲明でさへ通達する事は容易でないやうである。まして諸宗諸派にわたつて通曉するのは非常に困難である。それを、また種類の全くちがつた他の資料と比較して、過去に於ける國語發音の實際を考定するのは誠に容易ならぬ事業であつて、多くの人々の協力を要するのみならず、又かなり多くの年月を費さなければならない。しかし、これは、必ずしも成し遂げられない事ではないが、唯、我々の虞るる所は、その間に、この貴重なる資料が滅びてしまひはしまいかといふ事である。昔から、悉曇聲明は愚僧の役といふ諺もあつて、聲明はとかく輕んぜられ勝であつたらしい。近年、佛教界に於ても思想精神の研究は盛であるが、形式方面は輕視せられ、古來の法儀格式は次第に簡路化せられ廢減に歸さうとする傾向があるやうに見受けられる。聲明は佛教の會式に缺くべからざるものであるから、佛教の存するかぎり永劫絶える事はあるまいけれども、當今の社會(22)の風潮から見れば、遂には時代に適應する爲に現代化し、又は改作せられる時が來はしないかとおもはれる。もしさうだとすれば、數百年の間師資相承けて折角今日まで口づから傳へ來つた古代の遺音は遂に地を拂ひ、學問上他に比類なき貴重なる資料は全く湮滅に歸するのである。口誦の音は、一たびその傳を絶てば永久に失はれたものであつて、後に、いかほど之を再興しようとしても出來るものではない。我々の憂は實にこの點にある。我々は各宗各派の本山又は學林に於て、今日まで傳はつた聲明をそのまゝに永遠に保有する車に特別の顧慮をせらるゝと共に、普通の音樂及音聲學の知識あるものには理解し得られる完全な聲明書を作り、現に傳はつて居るあらゆる聲明を集成して、口に誦へられて居る通りの曲調と發音とを示した譜を新に作つて、一般の初學者に便じ、且、萬一湮滅に歸した後も、その譜によつて大概を髣髴し得られるやうにせられん事を切望せざるを得ぬ。
 千數百年の歴史を有し、國民の生活と深い結合をなして來た日本の佛教は、各方面の日本文化研究者にとつて缺くべからざる幾多の貴重なる資料を包戴してゐる。もし佛數家自身が、その價値を知らなければ、遂に散佚せしめ絶滅に歸せしめてしまふ虞がある。今私が自己の專攻せる學問の立場から現存せる聲明の國語史研究資料としての價値を説いたのは、幸にも我々の時代まで口誦の上に傳はつた昔時の遺音を失墜せしめず、永久に學界の至寶たらしめたいからである。
 
(23)   「盛者必衰」
 
(24) 平家物語を、平曲の譜本である語り本で讀んでみると、我々が普通に文字によつて讀んでゐるものと讀み方の違ふものが少くない事を見出すのであつて、殊に音の清濁の異るものが多い。今一例として、誰でも知つてゐる祇園精舍の初の文「舍羅雙樹の花の色盛者必衰の理をあらはす」の中の「盛者」の讀み方について述べて見たいとおもふ。
 この語は、我々は普通シャウジヤと讀んでゐる。内海氏の平家物語評釋や有朋堂文庫本のやうな手近な本や、御橋悳言氏の平家物語略解や石村貞吉氏の新註平家物語のやうな勝れた註釋書にも皆「しやうじや」と假名を附けてゐる。しかるに、譜本によると、前田流の平家正節にジヤウシヤとあつて上のシを濁り下のシを清んで、その清濁が反對になつてゐる。これは或は書寫の誤ではないかと二三の寫本をしらべて見たが、やはり同樣である。譜本でなく、漢字に假名を附け假名に濁點を附けた萬治二年刊行の片假名整版本もやはり「盛」にジヤウの假名が附いてゐて、この點で語り本と一致する(この本には「者」には假名が無い)。
 それでは、盛の字にジヤウの音があるかどうかと調べて見るに、この字は廣韻では去聲勁韻に屬し、反切は承正切とあり(又別音として平聲清韻の部に是征切とあるが、この場合はモルといふ意味でサ(25)カンといふ意味ではない)。韻鏡には外轉第三十開、去聲禅母三等にあつて、何れも漢音セイ呉音ジヤウであるべきである。かやうに理論上盛の呉音がジヤウであつた事が知られるが、保延二年三月十八日書寫の法花經單字(序品)に
  盛《サカリ モル イタル イル・ジヤウ〔三字傍線〕》自《・..》令《‘》
とあり、平安朝末に出來た色葉字類抄(三卷本)シ部に、
  盛《”》シヤウスイ
とあつて、古くから「盛」にジヤウの音があつた事がわかる。(どちらも、假名には「シヤウ」とあるが、「盛」の字及び反切の上の字「自」に點を二つ附けたのは濁音である事を示す符號であるから、ジヤウであつた事明かである)又、後のものながら、快倫の法華經文字聲韻音訓篇(中、四十四丁表)に「シヤウ」の部に「盛《”・。》【サカンナリ モル】」とあり、慶證の淨土三經字音考に「盛《”・。》【是《“》征】」とあつて、盛の呉音がジヤウであり、これが法華經及び淨土三部經を讀誦する場合に用ゐられてゐた事が知られるのである。
 これらの例によつて、盛〔傍点〕は佛經ではジヤウと讀まれてゐた事が推察されるのであるが、更に右の平家物語の盛者必衰の句の出所なる仁王經に於てはどうであつたかを見るに、宗淵が校訂して、聲點及び假名を附して刊行した山家本仁王經によるに、右の句は
  盛《”ジヤウ》者《・.》必《。ヒツ》衰《・.スイ》
(26)とあつて、盛者を明かにジヤウシヤと讀んだ車を示してゐる。この山家本は、宗淵が古來の傳統的の讀誦法を傳へる爲に印行したものであるから、この讀み方は、古くから天台宗に傳はつて來たものである事明かである。さすればこの仁王經の句を出典とする平家物語のよみ方が之に一致するのは當然であつて、こゝに於て語り本のジヤウシヤといふ讀み方が典據あるものである事疑ひ無きにいたつたのである。(昭和八年山田孝雄氏の校訂刊行せられた平家物語の本文には「じやうしや」とあるが、同書の卷頭寫眞として掲げられた寫本覺一別本には、盛者に「ジヤウジヤ」と假名が附いてゐて、下の「者」までも濁つてゐるのは不審である。この字は語り本其他にも皆濁點なく、山家本仁王經にも清音の點を附してゐるから、これは清音の方が正しからうと思はれる。覺一別本のは多分誤寫であらう)。
 それでは、盛者をシャウジヤと讀んだのは何時頃からであらうかといふに、これはあまり古い時代には見當らないやうであつて、現在までに知り得たところでは、元緑十一年の平假名整版本に「しやうじや」と假名を附したのが最古いが、この本はその前に出版せられた平假名版本の假名に勝手に濁點を加へたものらしく(寛文十一年刊本や延寶五年刊本にはたゞ「しやうしや」と假名があつて濁點はない)、その清濁は、語り本のみならず、濁點を附した 以前の版本にも一致しないものが少くないのであつて、據處とする事の出來ないものである。かやうにシャウジヤといふ讀み方は、後になつ(27)て起つたものと認められるが、それではどうしてこんなに讀むやうになつたかといふに、これは多分、「盛者必衰」をその意味及び語形の類似から「生者必滅」と混同し「盛者」(ジヤウシヤ)を「生者」(シヤウジヤ)と同じものゝやうに考へて、之をシヤウジヤと讀むにいたつたものであらう。
 全體我が國では漢字で書いた語の讀み方が確かでないものが多く、假名で書いたものでも、その清濁が不明なものが少くない。この點が語源や語史の研究者や辭書編纂者の遭遇する難關の一つとなつてゐる。平家の語り本は、古代語の讀み方を保有してゐるものが多く、かやうな點で有益な資料といふべきである。右に擧げたのは、その一例に過ぎない。
 
(29)   波行子音の變遷について
 
(30) 國語の波行子音、即ちハヒフヘホの最初の子音は、現在に於てはh音又は之に近い音であるが、古くはF音であり、更に古くはp音であつたらうといふ事は、Hoffman,Edkins,Satow,Chamberlain,上田萬年博士、大島正健博士、岡倉由三郎氏、金澤庄三郎博士、伊波普猷氏、安藤正次氏など、内外の學者の討究によづて、ほゞ明かになつた。しかるに、pからFへ、Fからhへと轉化したのは果して何時であつたかといふ年代上の問題になると、今猶明かでない點が多いのである。そのうち、Fからhへの推移については、前には Hoffmann の外國人の書いた資料に基づく提案があり(一)、近頃また新村出博士の國内の文獻による研究があつて(二)、室町時代の標準的發音はFであり、Fからhに遷つたのは主として江戸時代に在つた事が知られるにいたつたが、pからFへの推移の年代については、上田博士は奈良朝以前にありとせらるるやうであり(三)、安藤氏は奈良朝を以てその轉換期であらうかと説かれて居るが(四)、まだ定説とする事は出來ないやうにおもはれる。それは、それぞれの時代に於て、たしかにF又はpと發音した事を證明すべき確實な根據がまだ提出せられて居ないからである。
 
 註 (一) J.Hoffmann;A Japanese Grammar.Leiden,1868.Introduction P.15−,
   (二) 破行輕唇音沿革孝(雜誌國語國文の研究、昭和三年一月號)
(31)  (三) 國語のため第二(明治三十六年刊)p音考
   (四) 古代國語の研究(大正十三年刊)一六二頁以下
 
 平安朝に於ける波行子音の發音がFであつた憑據として安藤氏が擧げられたのは、平安朝初期から中期にかけて波行音が和行吾に變化した事である。和行子音wは兩唇の間をせばめて發する摩擦音であつて、兩唇を閉ぢて發する破裂音であるpよりも、兩唇をせばめて發する摩擦音なるFによほど近いのであつて、pが直にwに變じたとするよりもFがwに變じたとする方がよほど自然であるから、この點からして波行子音がFであつた事を主張するのは甚有力である。しかしながら、波行音が一般に和行音に變じたのは、「はる」「ひと」「ふね」「へた」「ほね」のやうに語の最初に在る場合でなく、「かはる」「こひ」「おもふ」「かへる」「かほ」の如く、語の中又は終にある場合であつて、音の變遷は、語頭音の場合と語中又は語尾音の場合と、必ずしも同樣でない事は、東西古今の言語史に於て屡遭遇する事實であるから、この二つの場合は、別々に考察するのが當然である。
 語中語尾の波行音が和行音と同音になつてしまつたのは、平安朝中期以前であらうが、そのなり初めたのはかなり古く、奈良朝に於て既にその痕跡が見られるのである。萬葉集に、「かほ鳥」を「杲鳥」と書いてある如きが即ちそれであつて、この例によれば、カホが、少くとも或場合にカヲと發音せられたものと解さなければならないのである。さうして、かやうにホがヲと同音になつたのは、當(32)時の波行子音がFであつたからであるとすれば、波行子音は、語中及び語尾に於ては、奈良朝時代に既にF音であつたと考へなければならない。それが奈良朝から平安朝に入るに隨つて、段々w音に變化し、平安朝の半頃には、すべて和行音と區別がないやうになつたものと思はれる。現に今日まで天台宗に傳はつて誦へられてゐる古代の仏教讃歌の一なる法華讀歎に
  法華經を我が得し事は薪樵り菜摘み水汲み仕へてぞ得し
とある「事は」の「は」を明にFaと誦へる事となつてゐるが、この歌は、平安朝の中頃(永觀年中、西紀九八三年頃)に源爲憲の作つた三寶繪詞の中に、光明皇后作或は行基菩薩作として載せられ、その用語及び形式からしても奈良朝のものとも見得るものであり、又上のやうな「は」は、天台の聲明でも他の場合にはワと誦へるのに、この歌ばかりにFaと發音するのは、よほど古い時代の發音を傳へたものと考へられるのであつて、奈良朝の發音でないまでも、平安朝初期の發音をそのまま傳へてゐるのであらうかと思はれる。果してさうであるとするならば、これも語中語尾の波行子音が平安朝初期又はそれ以前に於てF音であつた事を證するものと觀る事が出來よう。
 次に語の最初に於ける波行音はどうかといふに、既に安藤氏も指摘して居られるやうに、この場合にも波行音が和行昔に轉じたと見られる例がある。「はつか」と「わづか」(共に僅の意味)、「はしる」と「わしる」(走の義)などがそれである。「はつか」「わづか」は共に平安朝以後のものに見え(33)てゐる語であり、「はしる」は奈良朝以前からあるが、「わしる」は平安朝以後にはじめて見える語である。しかし、古事記及び日本書紀の木梨輕皇子の御歌の「あしびきのやまだをつくり、やまたかみしたびをわしせ」の「わしせ」を「走らせ」の義に解してゐるによれば、「わしる」も奈良朝以前からある事となるのである。この「はつか」及び「はしる」が單なる音特化によつて「わづか」及び「わしる」となつたものであるならば、これ等の「は」が平安朝初期又は奈良朝(或はそれ以前)に於てFaと發音せられたと考へる事が出來るのであるが、かやうな例は、語中及び語尾の波行音がことごとく和行音と同音となつたのとはちがつて、唯二三の例しか見出されないのであるから、果して單純な音變化によるものか、類推其他心理的要素の加はつて出來たものか、又は全く語源を異にした類義語で偶然語形が類似してゐるだけのものか、たしかでない。それ故、語頭に於ける波行子音の發音を推定する根據としては、まだ不十分であるといはなければならない。
 それでは、語頭の波行音の發音を知るべき資料は他に無いかといふに、必ずしもさうでない。まづ近古から溯つて行くに、室町時代の標準的發音に於て語頭の波行子音がFであつた事は耶蘇會士が日本で出版した教養書語學書等に於ける日本語の羅馬字綴、支那人の作つた日本語學書や日本關係書中の日本語の寫しやう、新村博士が見出された後奈良院御撰の何曾などによつて明である。南北朝頃のものでは、元未明初(日本の南北朝頃)の人である陶宗儀が著した書史會要卷八に、日本の伊呂波を(34)あげて、漢字で、その發音を註したものがある。宗儀が親しく日本僧克全(字は大用)に會つて聞いたもので、その當時の發音を寫したものとおもはれるが、その中波行の假名に關するものは次の通りである。
  は 法平聲近排
  ほ 波又近婆
  へ 別平聲又近奚
  ふ 蒲又近夫
  ひ 非
 當時の支那語の發音は明でないけれども、現代の發音から推せば、大體、法はfa、排はp‘ai、波はpo、婆はp‘o、別はpieh、奚はhi、蒲はp‘u、夫はfu、非はfeiらしく、波行子音を、或はf或はp或p‘(ph)或はhで寫してゐるのであつて、その間に統一が無いやうであるが、一々の假名についてみれば、一つの假名を、同じ子音ではじまる二つの漢字で寫したものは無く、いつもfとp‘、又はp‘とp、又はpとhのやうに、ちがつた子音を有する漢字で寫して居るのである。これは、多分、日本の波行子音が兩唇音のFであつて、齒唇音である支部のf音とも正しくは一致せず、兩唇音のpやp‘とは、違ひはあるが、また却つて性質の似た點もあるので、いろいろ違つた漢字の音を併せ擧げて日本のFの發音をあ(35)らはさうと企てたのであらう。又ホヘの如きは、漢字では之に近い發音のものが見當らない爲、やむを得ずpo又はp‘o、pieh又はhiのやうな、やゝ遠い音を有する漢字を之に宛てたので、やはり波行子音はFであつたらうと思はれる。
 次に鎌倉時代に溯ると、宋の羅大經が日本僧安覺から聞いた日本語を、其の著鶴林玉露の中に擧げてゐるが、そのうち、語頭の波行音はフデ(筆)を「分直」と書いたものしか見えないが、この「分」もfではじまる語である。安覺は良祐と稱し、榮西禅師の俗弟で、在宋十餘年、建保二年(西紀一二一四年)歸朝した。平安朝末期から鎌倉初期に世に在つた人である(寛喜三年寂、壽七十三)。
 かやうに、支那に存する資料からして、語頭の波行子音が鎌倉初期から南北朝にかけてF音であつた事が推定せられるが、更に溯つて平安朝に入れば、我が國にも有力な資料が見出される。その一つは、平安朝末の悉曇學者、東禅院心蓮(治承五年寂)の口傳を記した悉曇口傳である。この書は大矢透博士が醍醐三寶院から見出されて、古い五十音圖を知るべき資料の一つとして、音圖及手習詞歌考の中に、梵字口傳の名で引用して居られる。原本は鎌倉時代の中期建長元年に、醍醐寺の僧深賢の書寫したものである。(その書名は悉曇口傳であつて、悉曇の二字を梵字で書いたのが、蟲損の爲大部分失はれて、字形が明でない爲に、大矢博士は之を梵字口傳と名づけられたのである。)この書の初に母音及び五十音の各行について、その發音法を説明してゐるが、單に從來の説を襲蹈したものでなく、(36)發音器官の運動を實際に觀察した結果と見えて、今日の音聲學の知識から觀てもほゞ正鵠を得たと思はれるものが多いのであつて、たとへば加行音を
  以舌根付※[月+咢]、呼〓(a)而終開之、則成〓(Ka)音、呼〓(i)〓(u)〓(e)〓(o)則キクケコヲ成也
と説き、サ行音を
  以舌左右(ノ)端付上※[月+咢]、開中呼〓(a)、而終開之、則成サ音、自餘如上
と説いてゐる如き、よくそれぞれの音の調音部位と發音法とを明にして居る。さうして波行音の發音について、この書の説く所は次の如くである。
  以膚内分(ヲ)上下合之呼〓(a)、而終開之、則成ハ(ノ)音、自餘如上
 これによれば、波行子言は疑もなく兩唇音である。しかも上下之を合すといふのであるから、p音であるかのやうに思はれる。もし完全に唇の間を密閉するならば、必p音でなければならない。しかしながら、この書に麻行音の發音について、
  以脣(ノ)外分、上下合之呼〓(a)、而終開之、則成マ(ノ)音、自餘如上
と説いて居るを見れば、波行子音と麻行子音との差異は、唇の内方を合せるのと、その外方を合せるのとだけに存するのである。然るに、波行子音をp音であるとすれば、その上下の唇を合せる場所は、m音の場合とさほど差異があるとは考へられない。されば、波行子音は、やはり兩唇音のFであつた(37)のであらうとおもはれる。F音の場合は、mよりも、もつと内側(後方)で唇を合はせるのが常であるからである。勿論、Fの場合は、mの如く上下の唇を全部密着せしめる事なく、中央にすこしの間隙を剰すけれども、やはり上下の唇を合せるのであるから、「上下合之」と云つても決して事實に背かない。ただ説明が精密でないだけである。
 かやうに考へれば、平安朝末に於ける語頭の波行子音はF音であつたのであつて、かの鶴林玉露によつて推定した、平安朝末鎌倉初期の發音とも一致して、少しも不自然な感がないばかりでなく、また、もつと古い時代の資料の示す所に照しても矛盾する所がないのである。その資料といふのは、慈覺大師の在唐記に存する梵字の發音の説明である。
 この在唐記は、慈覺大師(名は圓仁、平安朝初期の人で、天台宗延暦寺の座主となり、貞觀六年、西紀八八二年、七十一歳で寂した)が入唐中(承和五年から同十四年まで、西紀八三八年から八四七年)諸師に就いて學び得た教法の事を集録したものであるが、中に寶月三藏から學んだ梵字の發音を記録したものがあつて、これによつて、梵語と當時の支那及び日本の發音とを對照出來るものがあるのである。そのうち、今の問題に關係のあるのは下の文である。
 〓(pa) 唇音、以本郷波字音呼之、下字亦然、皆加唇音
 〓(pha) 波、斷氣呼之
(38) かやうに、梵字のpa及びpha共に本郷即ち日本の波の字の音に呼ぶと説いてゐるのであるから(一)、波を當時日本でpaと發音して居たかのやうに思はれるが、しかし、こゝに注意すべきは、その下にある「皆唇音を加ふ」といふ一句であつて、特にかやうな注意を加へなければならないのは、日本の波字の音がpaでなくFaであつた爲であつて、輕い兩唇音Fを重くしてp音に發音させる爲に、この一句を加へる必要があつたものと考へられる。この推定をたしかめるのは、こゝに引用した文にすぐ續く次の文である。
  〓(ba) 以本郷婆字音呼之、下字亦然
  〓(bha) 婆、斷氣呼之
 ba、bha共に日本の婆の字の音に呼ぶといふのであるが、この婆は何と發音したかといふに、梵字vaの條に
  〓(Va) 以本郷婆字音呼之、向前婆字是重、今此婆字是輕
とあつて、vaの場合の婆はbaの場合の婆に比して輕いといふのであるから、婆の日本の發音は、後世と同じくbaであつたと見るべきである。さうしてpaの場合には、波と呼ぶと云ひながら、特に「唇音を加ふ」と註し、baの場合には婆字の音に呼ぶとばかりで、何等の註をも加へてゐないのを以て見れば、日本の婆は正しく梵字baの吉に相當するが、波は梵字paの音とは幾分の相違があるのであつて、(39)婆がbaであるに對して、波はFaであつたと認められる。かやうにして、語頭の波行子音は、平安朝初期に於てもやはりFであつたと推定せられるのである。
 
 註(一) 斷氣といふのはaspirated(有氣、帶氣)の意味である。
 
 以上述べた所によつて、語頭に於ける波行子音をFと發音した時代は、平安朝初期まで溯る事が出來たと信ずる。更に一歩を進めて奈良朝に於ける波行子音の發音はどうであつたかといふに、之を斷定すべき資料は、殆ど全く見出されない。當時の萬葉假名について見ても、波行音に宛てた漢字の支那音は、重唇音(p系統の音)と輕唇音(f系統の音)とが混同して居つて、F音を寫したものか、p音を寫したものか全く不明である。しかしながら、平安朝初期に於て既に語頭の波行子音がFであり、且つ上に述べた如く語中語尾に於ては奈良朝に於てもFと發音せられた形跡があるとすれば、奈良朝に於ては波行子音は語頭でも語中語尾でもF音であつたのではあるまいかと思はれる。少くともpからFへの變遷は、遲くとも奈良朝に於ては既に始まつて居たと云ふことは出來るであらう。
 奈良朝よりもつと古い時代になると、國語音のを漢字で寫した實例は極めて少くなるが、推古時代の金石文などにも、波行音に宛てた漢字は、支那に於て重唇音(p)に發音するものと輕唇音(f)に發音するものとが混じ用ゐられてゐるのであつて、これらは、共にF音を寫したものとも、又共にp音を寫したものとも考へられる。もつとも、支那の輕唇音は重唇音から出たもので(一)、輕唇音の出來たのは隋(40)代又は初唐であつて、それまではすべて重唇音ばかりであつたとの説もあり(二)、又日本に漢字音を傳へた朝鮮人は、p音ばかりで、f又はF音を用ゐないのであるから、推古時代の波行音を寫した文字も、その原音は皆pであつたかとおもはれるが、日本の漢字音は、その傳來古く、十分日本化したものであつたらうから、これによつて日本の波行子音はFでなくpであつたといふ事は出來ない。魏志倭人傳以來初唐までの支那の史籍に、日本の波行音を「卑」「巴」「比」などp音ではじまる文字で寫したものも、波行子音吉の發音を決定する據とするには不十分である。支那古代に輕唇音がなかつたとすれば、日本の波行子音がFであつても、之をpで寫したであらうからである。
 
 註 (一) 錢大※[日+斤]、十駕齋養新録卷五、古無輕唇音の條
   (二) 滿田新造博士、支那音韻斷 四頁
 
 其他、日本語と朝鮮語とに於て意義及び外形の相類似した諸語に於て、日本語の波行子音が朝鮮語に於てはp音に當る事、アイヌ語に入つた日本語に於て、波行子音がp音になつてゐる事なども、朝鮮語はp音のみあつてF音なく、アイヌ語はF音もあるが常にuの前にのみ用ゐられて、用法が甚だ限られてゐるのであるから、此等の事實も、唯古代日本語の波行音が唇音であつた事を示すだけであつて、p音であつたかF音であつたかを決定する根據とする事は出來ないのである。又支那語の入馨のp(語尾音p)を波行音に宛てた例を以て、波行子音がpであつた事を證明しようとするものがあ(41)る。いかにも、志摩の郡名タフシを「答志」と書き、近江の地名カフカを「甲賀」と書き、佐渡のサハタに「雜太」を宛て、大隅のアヒラに「姶羅」を宛てたなど、皆字音のtap。kap、sap、apを、タフ、カフ、サハ、アヒに宛てたものであるけれども、此等の漢字をかやうに用ゐた時代に、入聲のpを果して原音通りpと發音して居たかは疑問であつて、恐らく當時の漢字音は、よほど日本化したものであつたらうからして、入聲音のpもその次に母音を加へて普通の波行音と同じく發音したであらう事は、平安朝に於ける梵字の發音を觀ても推測せられるのであるから、これも波行子音がp音であつた證とするには足らないのである。
 かやうに考へて來ると、波行子音が最初にp音であつた確實な證據と見るべきものは、あまり多くない。その一つは、日本語と同系統の言語として疑なく、日本の方言とも見られる琉球諸島の言語に於て、殊に交通の不便な邊鄙の地に依て、今猶波行音にpを用ゐてゐる事であり、一つは、「ひとび〔傍線〕と」「いしば〔傍線〕し」の如く所謂連濁の場合に於て、波行子音が、b音になる事である。猶、ヤハリがヤッパリとなり、アハレがアッパレとなる如く、波行子音がpになる事があるのも、また波行音がpであつた時代の發音の名殘と見るべきであらう。
 これ等の事は、從來屡説かれてゐるのであつて、今更説明を加へるまでもないが、只一二注意すべき點のみを擧ぐれば、琉球に於て、波行子音を一般にpに發音する地方でも、之をpに發音するのは、(42)語頭にある場合だけであつて、語中語尾の波行音は、今日の日本語と同じやうに、和行音と混同し、地方によつては、更にその前の母音と合體して一の長母音となつてゐる處もあるのである(例へば、アヒは※[−/e]、アフは※[−/o])。しかしながら、語頭のp音が古音を殘して居るものであるべき事は、琉球の諸方言の比較からも、日本語に於ける波行子音の歴史からも推測せられる。
 次に、波行音が連濁によつてバ行音となるが、バ行子音はbであるから、之に對する清音としては、hでもFでもなく、P音であるべきであるといふのは、甚有力な論證であるが、ここに觀過する事が出來ないのは、バ行子音は古代に於てもやはりb音であつたかどうかといふ問題である。もし知り得る限りの古い時代に於て、バ行子音がb音でなかつたとすれば、この論證は根柢から覆らなければならない。しかるに、古代のバ行子音の發音は、さほど容易に知る事は出來ないのである。奈良朝及それ以前の萬葉假名では、重唇音(p、b)及び輕唇音(f、v)を語頭に有する漢字でバ行音を寫して居るのであつて、當時のバ行子音は果してbであつたか、又はv(もし日本にあつたとすれば、兩唇音の〓であらう)であつたかを定める事が出來ない。しかしながら、バ行子音が室町時代に於てbであつた事は、耶蘇會士刊行書に之をbで寫して居る事、當時支那人の書いた日本語に、波行清音の子音は或はf、h或はp、p‘で寫してゐるに拘はらず、波行濁音の子音は殆んどいつもp、b又はp‘を語頭に有する文字で寫して、f、hを有する文字を用ゐない事によつて明かであり、又、鶴林玉(43)露(前出)にも「御坊」を「黄榜」と寫して居るのを觀れば(榜は音pang)、平安朝末鎌倉初期でもやはりb音であつたと考へられ(猶、この時代に「まもる」を「まぼる」といふやうに、語中語尾の麻行音でバ行音に變じたものが少くない事も參照すべきである)、前に述べた如く慈覺大師の在唐記に梵字のbaに婆をあて、vaには婆をあてながらその婆は輕く發音すべき等を注意してゐるのも、亦平安朝初期に於てバ行子音がbであつた事を證するものと見る事が出來よう。さすれば奈良朝に於てもやはりb音であつたらしく考へられるのであつて、もし奈良朝に於て、v音又は之に類する音であつたとすれば、平安朝以後に於てb音になつたのは、之を發音する時、唇を合せる度が強くなつたわけであるが、一方奈良朝から平安朝にかけて語中語尾の波行音が和行音と同音になつたのであつて、これは波行子音fがwに變じたので、前の場合とは正反對に、唇を合せる度合が少くなり、唇の運動が弱くなつたのである。かやうな性質の全く相反した音變化が、同じ時代又は近い時代に行はれたとは信ずる事が出來ないし、國語音聲史の上から觀ても、我國の音變化は、Fからhへ、kwからkへ(kwa、kwi、kweがka、ki、keとなる)、wi we woからi e oへと、唇の運動を輕くし又は無くする方へ進んでゐるのであるから、古いv音が平安朝以後b音に變じたのではなく、バ行子音は古くからbであつたらうと考へられる。さすれば、之に對する清音はpであるべきであつて、隨つて波行子音は最初はp音であつたと認められる。さうして、このpに對する濁音としてbがあつたが、p音が變化した後も、b音はその(44)まま傳はり、波行音に對する濁音として今日に及んでゐるものと見るべきである。又波行子音がpであつた時代に、之を強めていふ場合に、たとへば、アハレ即ちpareがappareとなつたが、波行子音gapでなくなつた後も、かやうな場合にのみ、孤立して、もとのp音が傳はつたものと見られるのである。
 かやうにして、波行子音が元來p音であつた事は賂疑無い事とおもはれるが、之を一般にpと發音してゐたのは何時頃であつたかといふ問題になると、まだ全く不明である。このpが、語頭の波行音ではFに變じ、後更にhに變じ、語中語尾の波行音ではFに變じて更にwに變じたのであるが、そのpからFへ變じた時代も明瞭でない。しかしながら、平安朝初期に於ては、語頭の波行音では既にFとなつて居り、語中語尾ではFから更にwに轉じて、平安朝の半以前に全く和行子音と混同し、之と同じ音變化を受けたのであつて、當時語頭では專らFのみ用ゐられたらしく、語中語尾ではF音から更に轉化の歩を進めて居たのであり、奈良朝に於ては、語頭の場合はわからないが、語中語尾に於ては既にF音になつて、w音と混同する傾向さへ生じて居たらしく、語頭に於ても既にF音はあらはれて居たであらうと考へられるから、pからFへの轉訛は、遲くも奈良朝の終頃までには大體完了したのであるまいかとおもはれる。しかし、これは、pからFへの轉換期をなるべく遲く見た場合であつて、實際に於ては、この變化は奈良朝よりも前に既に終つて、奈良朝には、語頭にも語中語尾にもすべてFのみ用ゐられて居たかも知れない。さうして、このF音は、語中語尾の波行音では、和行音と(45)混同して、平安朝の半頃には大體今日の標準語と同じやうな有樣になつたが、語頭に於ては室町時代までもそのまま殘つて居たのであつて、それがh音に變つたのは主として江戸時代に入つてからであらうと思はれる。
 要するに、波行子音にp音が專ら用ゐられた時代については、まだ全く確める事が出來ず、p音がF音に遷り行つた時代については、奈良朝又はそれ以前であらうといふだけで、十分確實な年代をきめる事は出來ないが、唯、F音の用ゐられた時代、殊にどの時代まで溯つてF音の存在を證明出來るかといふ問題については、これまで擧げられて居ない資料に基づく考察によつて、或程度まで之を明め得たと信ずる。
 
 追記
 此の稿に引用した慈覺大師の在唐記は、典據とすべき古本が傳はつて居るかどうか明かでないが、梵字の發音に關する部分だけは、かなり古い時代の寫が今に殘つてゐる。その中最も古いのは、石山寺の座主淳祐(菅原道眞の孫、天暦七年、即西紀九五三年寂、齡六十四)の手書した悉曇字母と題する卷子本(石山寺藏)の中にあるもので、その終に「圓仁記」と明記してある。東寺觀智院には鎌倉時代の寫本を藏してゐるが、表紙に在唐記と題してある。又院政時代の悉曇學者明覺の悉曇印信(四家悉曇記)には慈覺大師在唐記として引用してゐる。この書が慈覺大師の著である事は信じてよいと思ふ。
 
駒のいななき(四七)
國語音韻の變遷(五一)
古代國語の音韻に就いて(一〇五)
〔この三篇は、青空文庫に、岩波文庫を底本としたものがあるので、省略する〕
 
(201)   國語の音節構造と母音の特性
 
(202)     一 國語の音節構造
 
 現代の標準語に於ける諸音節は、
 (一) 母音一つから成り立つもの(ア、イ、ウ、エ、オ)
 (二) 子音と母音との結合したもの(カ、シ、モ、ロ、ヤ、ワ、拗音キャ、シュ、リョなど。何れも一つ又は二つの子音が母音の前に結合する)
 (三) 「ン」音から成り立つもの(「ン」音は、單音としては鼻音又は鼻母音である。コン〔傍線〕ナ、サン〔傍線〕バイ、サン〔傍線〕カク。テン〔傍線〕、サン〔傍線〕エン、カン〔傍線〕オン)
 (四) 無聲子音一つで成り立つもの(マッ〔傍線〕カ、キッ〔傍線〕プ、マッ〔傍線〕チ、ザッ〔傍線〕シ、イッ〔傍線〕スン)
 以上四踵とする事が出來る。東京語ではその外に、無聲子音と無聲母音とから成り立つもの(キ〔右△〕ク、ク〔右△〕チ、シ〔右△〕タ、ス〔右△〕ソ)があるが、これは母音がiuである場合であつて、その上、無聲子音ではじまる音節の前に來る時に限られてゐるもので、特殊の條件のもとに規則正しくあらはれる現象であるから、子音と母音の結合したものの或特別な場合としてその中に含めてよいものと考へられる。
 以上四種の音節の中、(一)と(二)は共に母音が中心となつて音節を組立ててゐるものであり、(203)(三)と(四)は子音又は子音に準ずるものが音節を組立ててゐるのである故、之を二つに大別する事が出來るが、その中、子音が音節を構成するものは、後になつて出來たもので、ずつと古い時代には無かつたものと認められる。勿論、古い時代にも、實際の音としてはン音や促音は全然無かつたのでなく、擬音や強調する場合や外國語の場合には用ゐる事があつたであらうが、國語の正常な音としては認められなかつたものと考へられる。即ち、音韻と音聲とを區別する見方からすれば、音聲としてはあつたであらうが、音韻としては無かつたであらう。それ故、國語として古代からあつたのは、母音を中心とした音節のみであつたと思はれる。これは決して珍らしい考ではなく、古來の國學者もさう信じてゐたのであるが、明治以後、之を疑ふやうな説もあらはれたが、私はむしろ古來の説を支持しようと思ふ。
 さすれば、國語本來の音節の構造は、必ず母音があり、又母音の前に子音が結合する事はあるが、その後に子音の來る事はなかつた。即ち國語の音節はすべて開音節であつたのである。
 
     二 母音音節の特異性 一
 
 右に述べたやうに母音は古代語の音節構成には缺くべからざるものであるが、母音一つだけで出來た音節は種々の特異性があつて、普通のものとは見難く、古代からの國語の音節構造の最基本的な形(204)式としては、母音の前に子音が結合したものであつたと考へられる。
 それでは母音一つだけの音節にはどんな特異性があるかといふに、
 第一に、母音一つの音節――以後これを母音音節と呼ぶことにする――は、古代國語に於ては、音結合體の最初以外に用ゐられないのが原則である。音結合體といふのは、語のやうに、或意味をもつてゐる言語單位の外形として、一體をなして、その中間に切目をおく事なく、それだけはいつもつゞけて發音するものである。語の形と見てもよいのであるけれど、助詞助動詞の如き語は、いつも他の語と結合し、それと一體として一つゞきに發音するのであつてそれだけ離して發音する車無く、それだけでは音結合體を形づくらない。かやうに、語と音結合體とは多少違ひがある故、特に音結合體といふ名を用ゐるのである。他の語に助詞助動詞の結合したものを私は文節と名づけてゐるが、今いふ音結合體は、文節を音の側から見て名づけたものである。猶實際の言語に於ては、右のやうな音結合體の二つ以上連つたもの(文法でいふ連語)を一續きに發音する事があり、殊に歌に於ては、少くもその一句をなす諸語はいつも中間に切目をおかず續けて發音するのが常である。これらは音結合體に準ずるものと見るべきである(但し、便宜上、語頭語中語尾といふ語をも用ゐるが、これは音結合體の最初中間最後といふ意味である)。
 さて右のやうな音結合體は、一つ又は二つ以上の音節から成り立つものであるが、古代國語に於て(205)は母音音節はその最初に來るばかりで、その中又は終には來ないのが原則であつたのである。この原則が例外なく守られてゐるのはア及びオの音節であつて、この事は契沖以來の學者も既にみとめてゐる所である(倭字正濫鈔卷五、四十二オ、語意考、十二ウ)。エ音節については、まだかやうな説は稱へられてゐないけれども、それは、古代國語に於てア行のエとヤ行のエ、即ち母音eの音節とyeの音節とが區別せられて、假名にも書き分けられてゐた事がまだ一般に知られず、兩者を混同してゐた爲であつて、この區別を認めた上で奈良朝の文献について調べてみると、母音のエ音節は
  得《エ》 可愛《エ》 榎《エ》 荏《エ》 蒲萄《エビ》 夷《エミシ》 棧《エツリ》
の如く、語の最初にのみ用ゐられ、それ以外に用ゐられたものは無いといつてよいのである。もつとも、萬葉集卷六に月の異名であるササラエヲトコを「佐佐良榎壯士」又は「佐散良衣壯士」と書いたものがあつて「榎」も「衣」も共にア行のエの假名であるが、この語は、「ささら」と「え」(可愛)と「をとこ」の三語が合して出來たもので、かやうな場合には必ずしも右の原則に拘らない事はエ以外の母音音節にも例のある事である。唯萬葉集卷十八に「也末古衣野由伎《ヤマコエヌユキ》」(四一一六番)とあつて「越え」の「え」にア行のエの假名「衣」を當てたのは異例であるが、「越え」といふ語は日本紀萬葉集にも多く現はれてゐて、その「え」には「曳」「延」「要」などヤ行のエの假名をのみ用ゐてゐるのであつて、右の萬葉卷十八にア行の假名を用ゐたのが唯一の例外をなしてゐるのであり、又一方萬(206)葉十八の卷は、この外にも上古の假名遣の上で問題となるものがいくつかあるのであつて、後の改書か又は誤寫があるのではないかと疑はれる點があるのであるから、此の例も、元來はヤ行のエの假名で書いてあつたのを後に改め又は誤つたものでなからうかとの疑ひが極めて濃厚である。
 猶、萬葉卷二十の歌(四三四一番)に「美衣利乃佐刀」とあつて母音のエ(衣)が語の中に用ゐられてゐるが、この「衣」の字は、元暦本には「表」に近い字となり、西本願寺本神田本には「表」の字となり、類聚古集、古葉略類聚鈔、大矢本及び京都帝國大學本には「遠」に近い字になつてゐて、根據とすべき古本に「衣」となつてゐるものは一つも無い故、普通本のは多分「袁」の字の誤寫であらう。
 かやうに例外はあつても、それは疑はしいものか又は誤寫と認められるもので、其の他の母音音節エはすべて語の最初にあるもののみである。
 平安朝に入つても初の間はア行のエとヤ行のエとの區別が保たれたのであつて、さうして母音のエは語頭にのみ用ゐられる事奈良朝に於けると同樣である。即ち、
  得《エ》 荏《エ》 榎《エ》 夷《エビス》 棧《エツリ》 鰕《エビ》 ※[魚+遙の旁]《エヒ》 鼠姑《エメムシ》 疫《エヤミ》 選《エラブ》
など皆母音のエ音である。さうしてヤ行のエは、語頭にも語中語尾にも用ゐられるのが常であるが、醍醐天皇延喜年間の著である本草和名には、ア行のエを語中語尾に用ゐたものが三つだけ見えてゐる。
  一、尨蹄子  和名世衣(卷下廿七オ)
(207)  二、 和名久須加都良乃波衣(卷上四十四り)
    三、鹿※[草がんむり+霍]【陶景注云葛根之苗】 和名久須加都良乃波衣(卷上四十四ウ)
  三、鵯  和名比衣止利(卷下十二オ)
 一の「世衣《セエ》」は萬葉集に「石花」をセと讀んで假名に用ゐてあるのと同じ語であつて(萬葉集卷三に「石花海《セノウミ》」卷十二に「馬聲蜂音石花蜘※[虫+厨]《イブセクモ》」)、倭名類聚鈔卷八にも「勢《セ》」とあるのを見れば、元來はセであつたのを、母音を長く呼んでセエとなつたものと思はれる。かやうな場合には母音音節を用ゐるのが例であつて、紀伊《キイ》國や大隅國の※[口+贈]唹《ソオ》郡、三河國の寶飫《ホオ》郡、薩摩國の頴娃《エエ》郷などは、元來キ、ソ、ホ、エであるのを、漢字二字で書くやうに定められたので、母音を延ばしてイ、オ、エなどの母音音節を表はす文字を添へたものである。又、琴歌譜の如き、音節中の母音を長く延ばして歌ふのを示したものには、その延ばした部分は、阿(又は安)伊宇衣(又は亞)於の如き母音音節を表はす文字で書いてある(神樂催馬樂譜でも同樣である)。さすれば、セを延ばしたセエのエは母音エであつて、「衣」と書くのは當然である。
 二の「久須加都良乃波衣《クズカヅラノハエ》」は注に「葛根之苗」とあるによれば、「苗」を「波衣《ハエ》」と云つたのかと思はれるが、そんな語は他に所見なく不明である。しかし、とにかく、母音エを表はす「衣」の假名が語の終にあるのであるが、花山天皇永觀二年に丹波康頼が選んだ醫心方卷一の終の諸藥和名の部に「鹿※[草がんむり+霍]」に「和名久須加都良乃波江」とあつて、この書と同じ和名が載せてあり、それには「波衣」(208)が「波江」となつてゐる。醫心方の諸藥和名の部は主として本草和名に據つたものらしく、その和名も、和名に用ゐた假名も、本草和名と一致する所が多いのであるから、右の「鹿※[草がんむり+霍]」の條も本草和名から出たもので、さうして、それに「波江」とあるのは本草和名の古本をそのまゝ寫したものであり、今我々が見る事が出來る本章和名の刊本に「波衣」とあるのは、後の誤寫であるかも知れない。もしさうであるならば、「波江」の「江」はヤ行のエ音を表はすものである故、母音のエが語頭以外に用ゐられた例とはならないのである。
 三の鵯の和名「比衣止利《ヒエトリ》」は、後の「ヒヨドリ」である(「ひよどり」の形は院政時代以後のものには見えてゐる)。ヒエ〔傍線〕がヒヨ〔傍線〕となつたとすれば、エは母音であつたとするよりもヤ行のエ(ye)であつたとする方が合理的である。それ故、本草和名の「比衣止利」の「衣」は後の誤寫か改書で、本來はヤ行のエの假名であつたのではなからうか。もしさうだとすれば、これも母音エが語頭以外に用ゐられた例ではない。
 しかしまた他の方面から考へれば、本草和名の出來たのは醍醐天皇の延喜年間である。平安朝初期に保たれてゐたア行エ音とヤ行エ吾との區別は、その頃になると混同する傾向のあつた事は、宇多天皇の寛平年間に一旦稿成り、醍醐天皇の昌泰年間に完成した昌住の新撰字鏡に「エメムシ」といふ蟲の名を或る處では「衣女蟲《エメムシ》と書き或處では「江女蟲《エメムシ》」と書いてゐるによつても知る事が出來る(209)(「衣」はア行、「江」はヤ行)。さすれば、この時代には「衣」も「江」も少くとも時として同じ音を表はす事があつたのである故、本草和名の「比衣止利」及び「波衣」の「衣」も當時の實際の音としては必ずしもア行のエとは限らず、ヤ行のエであつたかも知れない。
 とにかく、右の諸例は疑問であるとしても、それは平安朝に入つてから百年ばかりを經た醍醐天皇時代のものであつて、それまでは、エ母音が語頭以外に來たものは見出されないのであるから、母音音節エは本來音結合體の最初にしか用ゐないのを原則としたといふことは認めなければならない。
 然るに、アオエ以外の母音音節イウは、古くから音結合體の最初以外に用ゐられたものがある。例へば「イ」は「カイ」(※[木+堯])のやうな名詞にも又「クイ(悔)」「オイ(老)」「コイ(臥)」のやうな活用語の語尾にも、又「イ」のやうな助詞にも用ゐられ、「ウ」は「マウケ(儲)」「マウス(申)」のやうな動詞や、「ウウ(植)」のやうな活用語尾にも用ゐられてゐる。しかしながら、語頭に用ゐられてゐるものに比べればその數は非常に少く、之を用ゐた語も、活用語尾を除けば右に擧げた二三の語に過ぎず、例外的のものと見るべきで、やはり語頭に用ゐるのが原則であるといふ事が出來る。
 以上述べたやうに、古代國語に於ては母音音節は音結合體の最初に立つのが原則であつて、その中又は終に來る事は全く無かつたか、又は例外的な場合の外は無かつたのである。これが母音音節の第一の特異性である。
 
(210)     三 母音音節の特異性 二
 
 母音音節の第二の特異性は、語頭に母音音節を有する語が、他の語の後に結合して複合語を構成する時、又は連語を作る時、(1)その母音音節が脱落するか、又は(2)その直前の音節の母音が脱落して、その音節を構成した子音と次の母音音節の母音とが結合して新なる音節を構成する事である。これは古代語には常に見る所であって、(1)の例としては、
  ナガア〔傍線〕メ(長雨)――ナガメ ワカア〔傍線〕ユ(若鮎)――ワカユ カリイ〔傍線〕ホ(假廬)――カリホ コキイ〔傍線〕レ(扱入)――コキレ トホオ〔傍線〕ト(遠音)――トホト カタオ〔傍線〕モヒ(片思)――カタモヒ サザレイ〔傍線〕シ(細石)――サザレシ ハナレイ〔傍線〕ソ(離石)――ハナレソ ナミ(浪)ノオ〔傍線〕ト(音)――ナミノト イロ(色)ニイ〔傍線〕ヅ(出)――イロニヅ イモ(妹)ガイ〔傍線〕ヘ(家)――イモガヘ タツ(龍)ノウ〔傍線〕マ(馬)――タツノマ
(2)の例としては
  トイフ(云)――トフ アライ〔二字傍線〕ソ(荒磯)――アリ〔傍線〕ソ カハウ〔二字傍線〕チ(河内)――カフ〔傍線〕チ アラウ〔二字傍線〕ミ(荒海)――アル〔傍線〕ミ クニウ〔二字傍線〕チ(國内)――クヌ〔二字傍線〕チ ズア〔二字傍線〕リ――ザ〔傍線〕リ
  トイ〔二字傍線〕フ(云)――チ〔傍線〕フ ニア〔二字傍線〕リ――ナ〔傍線〕リ ゾア〔二字傍線〕リケル――ザ〔傍線〕リケル 多クア〔二字傍線〕リ――多カ〔傍線〕リ (211) クレ(呉)ノア〔二字傍線〕ヰ(藍)――クレナ〔傍線〕ヰ ワ(我)ガイ〔二字傍線〕モ(妹)――ワギ〔傍線〕モ
 これらは、例へば「アライソ」の「ラ」の母音が脱落して次の母音「イ」と合して「リ」の音節を作ったものである(rai→ri)。
 何れの場合にしても、一音節を減じて母音音節が無くなるのである。これは一つの音結合體又は之に準ずるものの内部に於て二つの母音が直接に接觸してあらはれる場合にどちらかが脱落してその接觸を避けたのであつて、前に擧げた母音音節の特異性、即ち、母音音節は語頭以外に用ゐられない事と同一の傾向のあらはれである(母音音節が語中語尾にあれば、その前の音節の母音と接觸する)。さうしてかやうな現象は、あらゆる場合に現はれるのではないけれども、古代語に於ては屡見る所であつて、古い時代ほど著しい。
 母音音節の第三の特異性は字餘りの歌に於て見られる。古代の歌では、字餘りの句には必ず母音音節があるのを例とする。この事は本居宣長がはじめて見出したのであって、宣長は
  歌ニ五モジ七モジノ句ヲ一モジ餘シテ六モジ八モジニヨムコトアル是レ必|中《ナカラ》ニ右ノあいうおノ音ノアル句ニ限レルコト也【えノ音ノ例ナキハイカナル理ニカアラム未v考】古今集ヨリ金葉詞花集ナドマデハ此格ニハヅレタル歌ハ見エズ自然ノコトナル故ナリ【萬葉以往ノ歌モヨク見レバ此格也千載新古今ノコロヨリシテ此格ノ亂レタル歌ヲリ/\見ユ西行ナド殊ニ是ヲ犯セル歌多シ】(字音假字用格九丁オ、おを所屬辨)
(212)と云つてゐる。その母音音節は句の初にあるのではなく、母音音節ではじまる語が他の語の下に連つて句を成した場合であつて、隨つてその一句を詠ずる時は、その母音音節は前の語の最後の音節を構成する母音の直後に續いて之と接觸する事となるのである。さすれば、前項に擧げた、接觸する二つの母音の一つが脱落を起す場合と同じ修件の下にあるのである。富士谷成章は字餘りについて
  それにはかならず反切の字あるべきなり。反切とはあいうえお〔五字傍線〕の字ありて、こと字をうくるをいふなり。たとへば
          此二音ツツマリテぬトナルなりコレヲ反切ト云下準之
    六もじ としのう〔二字右○〕ちに 反切 ぬ としぬ〔右○〕ちに
    あふなあ〔二字右○〕ふな 反切 な あふな〔右○〕ふな
    月やあ〔二字右○〕らぬ  反切 や 月や〔右○〕らぬ
    七もじ さもあ〔二字右○〕らばあ〔二字右○〕れ 反切 ま さま〔右○〕らば〔右○〕れ
  これらはつゞまりて五もじになるなり。又 へわきも子がへ 戀すちふ(中略)などは、いにしへより反切のまゝにたゞちにかきたれば、それらは文字あまりなる事を人しらぬなり(下略)(北邊隨筆「反切」の條)
といつてゐるのを見れば、字餘りは、母音音節とその前の音節とを合せて一音節に讀むものと考へてゐたもののやうである。もし果して、成章の言ふ通りであつたとしたならば字餘りは前項に述べたも(213)のと全然一になるのであるがこの説の當否は容易に斷じ難い。しかしとにかく母音音節が句の内部にあれば、六音又は八音の句でも五音又は七音の句と同等に取扱はれたといふ事は、母音音節が前の音節の母音に接してあらはれる場合には一つの音節として十分の重みをもつてゐなかつた事を示すものであるといつてよい。
 母音音節の中でもエだけは字餘りの句にあらはれない。本居宣長は之に注意し、その理由については「未v考」といつてゐるが、古く「え」はア行のエとヤ行のエとに分れてゐて、字餘りに關係のあるのは母音即ちア行のエであるべきであるが、ア行のエを有する語は非常に少數である故、字餘りに用ゐられた例が見出されないのであらうし、又、後にア行のエとヤ行のエとが同音に歸したのであるが、その時、これ等の音は、すべて、ア行のエでなくヤ行のエになつたと考へられる事、後述の如くである故、それ以後は猶更エ音が字餘りに用ゐられなかつたのであらう。もつとも西行の「富士の煙の空に消えて」の「え」はヤ行のエであらうが、この時代になると例外がある事は宣長のいふ通りである。
 
     四 音節構造に於ける母音の特性
 
 古代國語に於て、母音音節は以上のヤうな種々の特異性を有するのであるが、これ等の特異性は決(214)して別々のものではなく、同一のものが種々の違つた條件の下に幾分趣を異にして現はれたものと思はれる。一つの音結合體又は之に準ずるものの中で、その組成要素の結合の緊密度は、(1)語を構成する諸音韻の結合、(2)複合語を構成する單語と單語との結合、(3)連語を構成する單語と單語との結合の順序で次第にその度合を減ずるのであるが、この緊密度に對應して、母音音節が音結合體の最初以外に立つ事は、(1)語に於ては原則として許されず、(2)複合語に於ては許されるが脱落する事が多く、(3)連語に於ては許されるが時としては脱落する事があり、中にも歌の一句をなす連語では常に許され、それが爲に字餘りになる事をも厭はないが、しかしその場合にはその音節は定數外のものとして特別扱ひにせられるのである。これは畢竟國語の音節構造に於ける母音の特性から來たものと思はれる。即ち國語の母音は、その前に子音を附けて、始めてしつかりした自立性ある音節を作るのであつて、單獨の母音は、音結合體の最初にあつて、前に連る音が無い場合には一つの獨立した音節を形づくるけれども、前に他の音節があつて、その音節を構成する母音に直接に接觸する場合には不安定な状態に在り、やゝもすれば自身が脱落するか、又は直前の母音を排除し、その音節中の子音と結合して、安定した音節を作らうとする傾向があつたのである。
 この事は又左の事實によつても確められる。
 漢字の原音(古代支那語の音)に於ける、−ai−au−euのやうな二重母音は、日本の漢字音に於てはアイ、(215)アウ、エウのやうに、i uがイ、ウの母音音節となるのが常であるが、中には古くe、oの音になつてゐるものがある。これはiuから轉じたのであるから、純粹の母音音節エ、オとなるべき筈であるのに、實際はエはすべてヤ行のエ(ye)、オはすべてワ行のヲ(wo)になつてゐる。
  采 雙六乃左叡《(サエ〕》(萬葉集卷十六)(叡はヤ行のエ)
  珮 波江《(ハエ)》反(空海著、一字頂輪王儀軌音義)(江はヤ行のエ)
  昊 カ乎(知恩院藏古鈔本玄奘三藏法師表啓)
  芭蕉 波世乎《(ハセヲ〕》波(本草和名 和名抄にも「波勢乎波」)
  簫 世乎《(セヲ)》乃不江(新撰字鏡)
  襖子 阿乎《(アヲ)》之(和名抄)
 但し、奈良朝の寫本と認められる八十卷花嚴經音義卷上「階陛」の條に「陛」の音を「邊亞反」と註してあるが、この邊亞反は支那の正式な反切でなく、萬葉假名で音を示したものらしく、さすれば「亞」は萬葉假名として母音エを示す文字である故、この例では字音の末尾に母音音節が用ゐられた事となつて、上に述べた原則に背くのみならず、「陛」の原音はb‘iei又は之に近い膏であつたであらうから、それが我が國に於て「邊亞」といふ音になつたとすれば、eiのiが我が國で母音音節エとなつた事となり、前禍の諸例に於て原音iが我が國でe音になつた場合に、母音音節エとならずしてyeと(216)なつたのと合致しないやうに見える。しかしながら、これは多分iの前の母音がeであつた爲であつて、原音に於けるeiのiが、我が國に於て前の母音eに同化せられてeになつたと同時に之と合體してeの長音となり、爲に「陛」がヘーと發音されたか、或は又、「陛」の字が日本紀及び萬葉集に於てへの假名として用ゐられてゐるのを想へば、「陛」の字音は、我が國では古くはヘであつたのであつて、それが長音化してヘーと發音せられたのであらう(單音節の語が時として長音に發音せられた事は、右の華嚴經音義の中に、「蚊蚋」に「加安《(カア)》」と註してあるのによつても知られ、字音にも屡見える事は、春日政治博士が「文學研究」第二輯所載「古訓漫談」中に古訓點の例を擧げて「一音節の字音を長呼する事は殆ど通則と見てもよい位である」と述べてゐられる通りである)。長音を表はす場合に母音音節を示す文字が加へられる事は、前に例を擧げた如くであるから、「邊亞」の「亞」は「ヘー」の長音を示す爲に添へられたものと見る事が出來る。さすれば、右の「陛」の音「邊亞」は、母音音節を語尾に用ゐる特例の一つの場合であつて原音iが語尾音としてeに轉じた場合に母音音節eとならずしてyeとなるといふ原則を破つたものではないのである。
 右に述べた通り、支那の原音からすれば純粹の母音であるべきものが、我が國でyewoとなつたのは、これ等の音節が語頭に立たず、その直前に母音がある爲に、母音音節を保つ事が困難であつたからであらうが、それがye及びwoになつて、その他の音にならなかつたのは、e oに類似した音で初に子音(217)を有するye及びwoの音節が國語にあつた故、之を代用して前の母音との接觸を避けたものと考へられる。それでは、アイ、アウ、エウなどの場合は、何故にイウが母音音節を保つたかといふに、i uに於ては、eとye,oとwoのやうに、之に發音の類似した音節で、子音を有するものが無かつたからであらう。理論上の音としては、ヤ行のイはyiであり、ワ行のウはwuであるべきであるが、これ等の音は、國語では古くからア行のイ及びウと國別せられなかつたのである。
 しかし又一方から考へると、實際の發音としては、イウは、語頭では母音のi uであつたであらうが、語中語尾では字音の場合のみならず純粹の國語に於ても、yi wuのやうに發音せられてゐたかも知れない。イウの音が活用語尾として用ゐられたものは、「イ、イル」(射)「ウ、ウル」(得)「ウ」(居《ヰ》ルの古活用)のやうに語頭に來るものの外は、すべてイはヤ行に活用し、ウはワ行に活用して、ア行に活用するものは一つも無い事も、亦この事を證明するものと見る車も出來る。例へば
  老《オ》イ 悔《ク》イ 報《ムク》イ 臥《コ》イ 萠《モ》イ(すべてヤ行活用)
  植《ウ》ウ 餓《ウ》ウ 据《ス》ウ 蹶《ク》ウ(すべてワ行活用)
 (エは、ア行のエもヤ行のエも共に活用語尾として用ゐられたが、しかし、ア行のエの例は「得」だけでこれは語頭に來るものである。語頭以外の活用語尾エはすべてヤ行のエであつて、ユ、ユルとヤ行に活用した。)
(218) 勿論、イウを語頭ではiu、語中語尾では、yiwuと發音したとしても、それは實際の發音としての違ひであつて、當時の人々はその相違については明瞭な意識なく、同一の音と考へてゐたであらう。その相違が文字(萬葉假名)の上にあらはれないのはその爲であらう。
 右のイウの場合は單なる臆測に過ぎない故之を度外に置くとしても、前掲の諸例に於て見られる如く、外國語から輸入した諸語に於ても、母音が他の母音の後に續く場合は、之をそのまゝ一音節とせず、國語の音韻組織の許す限りに於て、前に子音を有する音節を以て之に代へた事は、當時の國語に於て、母音は音結合體の初頭に立つ場合の外は、獨立した一音節として存續するに適せず、子音を附してはじめて安定した音節となる事を示すものと見てよいのである。
 
     五 母音音節の變遷
 
 母音音節として古くからあつたのはアイウエオの五つであり、現代の標準語及び多くの方言に於ても亦さうである。もつとも、現代語の母音音節はアを除くの外は、古代の種々の音節から轉じたものが混じてゐるのであつて、イは古代のイ(i)の外にワ行のヰ(wi)及び語頭以外のハ行のヒ(Fi)が一つになつたものであり、ウは古代のウ(u)に語頭以外のハ行のフ(Fu)が合したものであり、エは、古代のア行のエ(e)とヤ行のエ(ye)とワ行のヱ(we)と語頭以外のハ行のヘ(Fe)の合し(219)たもの、オは古代のオ(o)とワ行のヲ(wo)と語頭以外のハ行のホ(Fo)其他の合したものであるが、とにかく、古代語のアイウエオの音節は、現代のアイウエオに正しく對應するのであるから、その間に何等の變化もなかつたやうに見える。然るに、室町末期の標準的日本語に於ては、母音音節はアイウの三つだけであつて、現代の母音音節エとオとに對應するものは、yeとwoとであつたのである。この事は吉利支丹教徒のローマ字書きの日本語及び日本文典によつて明かであるが、更に四百餘年を溯つた平安朝末、院政時代に於ても同樣であつた事は、當時の悉曇學者東禅院心蓮の悉曇口傳によつて知られるのである。
  心蓮の悉曇口傳には初に五十音の發音について説いてゐるが、その中、ア行のエの發音法については
  エ(ト)者以2〓(梵字i)穴1呼v〓而終(ニ)垂2舌端1則成2エ(ノ)音1也
  とあるのであつて、初にイの音を發し、後、舌端を下げればエとなるといふのであるから、エは即ちieである。
  又ヤ行の(エ)については、ヤ行をイに母音の加はつたものと解してゐるのであつて、そのエの發音法を
   イエ者以2イ穴(ヲ)1呼vア(ヲ)成2イ(ノ)音1開2舌端1則成2エ(ノ)音1此イエノ穴ト本韻(ノ)エ(ノ)穴(ト)全同故彼此(220)同エ((ノ))音也
 と説明してゐる。之をア行のエの發音法と比べて見れば殆ど全く同一であるばかりでなく、心蓮自らも兩者の全同である事を明言してゐるのである(本韻といふのはア行音のことである)。さすれば、當時のエの發音はア行のもヤ行のも同樣に、ie即ちyeであつたのである。
 又、オについては、ア行のヲ(心蓮はア行のオにヲの字を用ゐてゐる)の發音法について、
  ヲ者以2ウ穴1呼vウ(ヲ)而終(ニ)開v唇則成2ヲノ音1也
 と説いて、まづウの音を發し、後、唇を開けばヲとなるといつてゐるから、ヲはuoと發音した事明かであるが、ワ行のヲ(心蓮はワ行のヲにもヲを用ゐてゐる)については、ヤ行のイエが本韻即ちア行のイエに全く同一である事を説いた後に、
  ワヰウヱヲ(ノ)五音(ノ)中(ノ)ウヲ又同上也
 と云つて、ワ行のヲがア行のヲと同一である事を述べてゐる。これによつて、當時は、ア行のオとワ行のヲが同音であり、共にuo即ちwoと發音せられた事を知る事が出來る。さうして、これは五十音の説明であるから、これ等の音がもし語頭と語中語尾とで發音を異にしてゐたとすれば、これは語頭に於ける發音であつたと認められる。
さすれば、古代の母音音節エ及びオは、平安朝に於てそれ/”\他の諸音節を合せてye及びwoの音と(221)なり、更に江戸時代に於て再びエ及びオになつたとしなければならない。これは一見、甚不思議な現象のやうであるが、これは前に述べた母音音節の特性から考察すれば解明し得るものであると信ずる。
 
     六 母音音節の變遷と母音の特性
 
 まづエ音節について見るに、國語には古くから母音音節エ、即ちア行のエ音と共に、ヤ行のエ、即ちye音があつて、互に言ひわけ聞きわけ書きわけられてゐたが、この二音が平安朝初期の末頃から次第にその區別を失つて遂に同音となつた。その時どんな音になつたかといふに、前に述べた通り、母音のeは本來語頭にしかなく、ヤ行のyeは語頭にも語中語尾にも用ゐられたから、語頭にはeとyeとがあつたが、語中語尾ではye音だけしか無かつたのである。それ故、eとyeとが同音に歸した場合に、もし假に、eもyeも共にeになつたとしたならば、語中語尾のye音はその子音を失つて母音音節となり、その前の音節の母音と接觸する事となつて、前に述べた母音音節の特異性に反する事となる。それよりも本來の音を保存したとする方が國語の發音上の慣習から見て自然である。それ故、少くとも語頭以外に於ては、ye音はそのままで、變化しなかつたであらうと思はれる。それでは語頭に於てはどうかといふに、eが語頭に立つ事は古代國語の慣習に背かない故、本來のeもyeも共に語頭ではeになつたと考へる事も出來るが、しかし以前から、ye音を有する語はe音を有する語よりも數多く、(222)且つ平生いつも用ゐる語が多い爲、實際の言語に於てye音を使用する頻度はe音に比して遙に大であつたと思はれる故、語頭に於てもやはりye音になつたであらうと推定せられる。
 かやうにして平安朝初期を過ぎると、本來のeもyeも共にye音に歸し母音音節としてのエは消滅したのであるが、平安朝の中頃には、語中語尾の「ヘ」音(多分Feであらう)が次第に變じてweとなり、本來のワ行のヱ音(we)と合流したが、このwe音が院政時代になると、前に述べた、本來のe音とye音との合體して出來たye音と同音になつたのである。これはwe音の子音が消失した爲であるが、we音が子音を失つたとすればeとなるべきであつてyeとなる事は無ささうに思はれるが、本來のwe音は以前から語頭にも語中語尾にも用ゐられてをり、ヘ音から轉じたwe音はすべて語中語尾に在るものであつた爲、もしそのweがeとなつたとすれば、母音音節エが語中語尾にも現はれる事となり、隨つて直前の音節中の母音と接觸を來す事となる。そればかりでなく、當時は、母音音節エが既に消滅してゐて國語音韻の中に存在しなかつたのであつて、當時の人々はかやうな音を言語の正常な音として用ゐる事がなかつたであらう。從つてwe音は子音を失つてもe音となる車は出來ないで之に近い音として當時の國語の中に存したye音に轉じたのであらう。
 かやうに古代國語の音節構造上に於ける母音の特性を顧慮する事無くしては、eyewe等の諸音が、e吾でなく、ye音に歸一した理由は到底解明し得られないであらう。
(223) 次にオ音節に於ても略同樣であつて、古くは母音音節オ(o)と、ワ行のヲ(wo)と、ハ行のホ(Fo)とが、それ/”\別の吾としてあつたのであるが、平安朝の中頃に語頭以外のホ(Fo)の子音が變じてwoとなつた爲、本來のヲ(wo)と同音となり、次いで、そのwoが本來のオ音(o)と同音になつて區別が失はれたのである。その場合に、oとwoとが共にoになつたかwoになつたかが問題となるのであるが、オは元來語頭にのみあつて語中語尾にはなく、ヲは語頭にも語中語尾にも用ゐられたが、ホがヲと同音になつたのは語中語尾の場合に限られてゐる。それ故、oとwoとが同音に歸するすぐ前の段階に於ては、語頭ではoとwoとがあつたが語中語尾ではすべてwoばかりであつた筈である。今假にoとwoとが同音になつた時、共にo音になつたとすれば、語中語尾のwoはすべて子音を失つて母音音節となりその前の音節の母音と接觸する事となる。かやうな事は前に述べた母音音節の特性に合致しないのであつて、出來るだけ之を避けたであらうと考へられる、それ故、少くとも語頭以外に於てはwoはそのままに子音wを保つてゐたらうと考へられる。語頭に於ては、oを用ゐる語はwoを用ゐる語よりも多數である故、oもwoもoになつたとも考へられるけれども、前に述べたやうに、東禅院心蓮の悉曇口傳によつて窺はれる院政時代の發音は、ア行のオもワ行のヲと共にuo即woであり、しかも語頭に於ける發音がさうであつたと推測せられる故、やはり、。owo共にwo音に歸したと見るべきである。思ふに、元來wo音は語頭に於てこそ、o音節に比べて少數の語にしか用ゐられなかつたが、語中(224)語尾に用ゐられたものは、ホ音から轉じたものをも併せて甚だ多數に上つた故、wo音の實際に用ゐられる頻度はo音に比して甚だ高く、遂にoを壓倒して之に代るに至つたのであらう。
 以上述べ來つたやうに、古代國語に於て、母音音節エがヤ行のエ其他の音節と同音になり、母音音節オがワ行のラ其他の音節と同音になつた時、母音エ及びオとはならずしてye及びをwoとなつた理由は、古代語に於ける母音音節の特性によつて最自然に説明せられるのである。
 エオの母音音節が平安朝に於てyewoとなつて消滅したのに對して、イ音節は、平安朝に於てまづヒ音(Fi)が語中語尾に於て、wi音に變じて本來のワ行のヰ音(wi)と混同し、ついでその、wi音が子音を脱して、iとなり、本來のイ音と混同するに至つた。又、ウ音節も、語中語尾のフ音(Fu)がその子音Fに起つた音變化の結果wuになるべきであつたが、當時の國語の音節にはwu音はなかつた爲に之に近いu音に變じて本來のウ音節と混同した。又一方この時代には音便といはれる音變化の爲、語中語尾の種々の音節がイ又はウに變じて、イ、ウの音節が語中語尾にあらはれる事が多くなつた。かやうにしてイウの場合には、母音音節が語頭以外には用ゐられないといふ原則が破れる事になつたが、これは前にも述べた通りイウの場合には子音を有する音節を代用して母音音節の語頭以外に來るのを避けるやうな方法がなかつた爲、やむを得ず許されたのであつて、少數の語に於ては既に奈良朝にも例があるが、平安朝に於ては多數の語に於て行はれるやうになつたのである(これは一方に於て漢語の(225)影響もあつた事であらう)。
 以上のやうな次第で、平安朝の末、院政時代以後は母音音節としてはアイウの三つだけとなつたが、しかし單音としての母音はやはりaiueoの五つがあつたのである。そして、母音が母音音節としては語頭以外に立たないといふ原則は、iuの場合の外は依然として守られてゐたのである。
  前に述べた通り、「尨蹄子」(或は「石花」)の和名は本草和名には「世衣」となつてゐるのであるが、その後のものには、和名抄下總本に「世伊」とあるを初とし、類聚名義抄(法、下、子部「子」の條)、源俊頼の歌(散木奇歌集卷九、恨躬耻運雜歌百首の中「荒磯にさき出づるせゐの」の歌)、三卷本色葉字類抄卷下(世部、動物門)の如き院政時代のものから撮壤集(卷中魚部貝類)伊京集(セ部畜類門)の如き室町時代のものに至るまで皆セイとなつてゐる。「世衣」の「衣《エ》」は「世」の母音を延べて生じた母音であるべき事上述の如くであるが、それが早くもi音に轉じたのはかやうな特殊な條件によつて生じたe音さへ、音結合體の末尾の音節としてはそのまゝ永く存し難く、i音に轉じてはじめて安定を得たのであつて、e音に於てはなほ前述の原則が行はれてゐた事を示すものである。
 然るに、江戸時代に於ける音變化の席果、yewoの音節がすべてeoとなつた爲、母音音節は再びアイウエオの五つとなり、且つ語頭以外にも自由に用ゐられるやうになつたのであつて、こゝに於ては(226)じめて母音音節は語頭にしか用ゐないといふ古來の原則が全く破れるに至つたのである。
 
     七 各時代の音變化と母音の特性
 
 以上述べたやうに、語頭音に關する母音音節の特異性は、古代に於て最著しく、その後、時の遷ると共に徐々に失はれて行つたのであるけれども、その特異性の基づく所である母音の特性は、なほ樣々の形で平安朝以後も各時代の音變化の上にあらはれてゐる。
 その一つは所謂連聲の現象である。それは母音音節ではじまる字音語が、m又はnで終る字音語の後に結合して熟語を形づくる時、その母音音節がマ行又はナ行の音節となり、又、入聲のツで終る字音語の後に結合して熟語を形成する時は、タ行の音節となるのをいふのである。
  浸淫瘡  シム−イ〔傍線〕ン−サウ シムミ〔傍線〕サウ
  任 意  シム−イ〔傍線〕     シムミ〔傍線〕
  因 縁  イン−エ〔傍線〕ン    インネ〔傍線〕ン
  觀 音  クワン−オ〔傍線〕ン   クワンノ〔傍線〕ン
  瞋 恚  シン−イ〔傍線〕     シンニ〔傍線〕
  恩 愛  オン−ア〔傍線〕イ    オンナ〔傍線〕イ
(227)  闕 腋  ケツ−エ〔傍線〕キ  ケツテ〔傍線〕キ
  發 意  ホツ−イ〔傍線〕     ホツチ〔傍線〕
  八 音  ハツ−イ〔傍線〕ン    ハツチ〔傍線〕ン
 かやうな現象は平安朝以來見えるもので、現在でも佛經讀誦の場合に行はれてゐる。古代國語では、現代語に於ける如く或特別の語に限つたものではなく、あらゆる場合に規則的に行はれたのであるが、これも母音音節が語中語尾にあらはれるのを避けたものである。(母音音節のみならず、輪廻リン〔傍線〕ヱ−リンネ〔傍線〕、三位サムヰ〔傍線〕−サンミ〔傍線〕、陰陽師ヲムヤ〔傍線〕ウシ−ヲムミ〔傍線〕ヤウジのやうに、ワ行ヤ行の音節の場合にも行はれてゐるが、それはワ行ヤ行の子音wyが母音uiに音が近かつた爲である。)
 又、ウ音節が他の音節の次にある場合に、例へばカウがコーとなり、ケウがキョーとなり、キウがキューとなり、コウがコーとなつた類も、亦、語頭以外の母音音節が獨立を保ちにくく、他の音と結合しようとする傾向のあらはれである。
 又「ヨリア〔傍線〕ウ」(寄合ふ)「デア〔傍線〕ウ」(出合ふ)が「ヨリヤ〔傍線〕ウ」「デヤ〔傍線〕ウ」となる類は室町時代以來常に見る所であるが、これも母音音節の前に子音が加はつて安定性を増したのである。
 母音音節が音結合體の初頭以外に立つ場合に、之を避ける爲に古く好んで用ゐられた母音脱落は、時代が下ると共にあまり行はれなくなつたが、拗音が多く用ゐられる時代になると、そんな場合に拗(228)音化が行はれた。それは母音音節の前の音節中の母音が子音化して、之に續く母音音節の母音と合體し、母音音節が子音を有する音節になるのである。例へば、「−デアル」の「デ」の音節中の母音eが子音化してyとなると共に次の「ア」音節と合體して「ヂャ」となり、「ヂャル」又は「ヂャ」といふ形になる類である。「トリ(取)アレ」が「トリャレ」となり、「オイリ(入)アル」が「オリャル」となり、「オデ(出)アル」が「オヂャル」、「オオセ(仰)アル」が「オシャル」となつたのも此の類であり、「ソレ(其)デワ」が「ソレヂャ」となり「見テワ」が「見チャ」となり、「見タレバ」が「見タリャ」となり、「取レバ」が「取リャ」となるのもこれに近い音變化である(「ワ」「バ」は母音音節ではないけれども、ぞんざいな發音では、「ア」に近い音となる)。
 
 要するに國語の母音は、子音と結合するか又は音結合體の最初に立たない限り、十分の獨立性ある音節を構成しにくいといふ性質があつたのであつて、この性質は古い時代ほど顯著であつて、母音單獨の音節は語頭以外にあらはれないのを原則としたが、時代の下ると共にこの原則は次第に行はれなくなつたとはいふものの、なほその根本たる國語母音の特性は全く失はれる事なく、各時代の音變化の上に種々の姿であらはれてゐるのであつて、かなり根強いものがあるといふべきである。                       (昭和十六年八月稿)
 
(229)   國語の音節構造の特質について
 
(230)       一
 
 現代國語の音節は、その構造から見れば、
 (一) 唯一つの母音から成るもの(「ア」「イ」「ウ」「エ」「オ」)
 (二) 一つの子音の後に一つの母音が結合したもの(「カ」「キ」「ク」「ケ」「コ」、「サ」「シ」「ス」「セ」「ソ」、「タ」「テ」「ト」、「ガ」「ギ」「グ」「ゲ」「ゴ」、「パ」「ピ」「プ」「ペ」「ポ」等)
 (三) 二つの子音の後に一つの母音が結合したもの(「チ」「ツ」「キャ」「キュ」「キョ」「チャ」「チェ」「チョ」「ヒャ」「ヒュ」「ヒョ」等)
 (四) 撥音一つから成るもの(「ン」)
 (五) 促音一つから成るもの(「ッ」)
 以上の五種類であるが、その中(四)と(五)は特殊なものであつて、その實際の音聲は次に續く音によつて樣々であるのを同一の音と意識してゐるのであり、又、(一)乃至(三)の各種の音節がそれだけ單獨で獨立して用ゐ得るのに對して、これ等の音節は單獨に用ゐられる事なく必ず他の音節と結合して用ゐられるといふ特性を有する例外的のものである。さすれば現代國語の音節は、(一)(231)乃至(三)に見られるやうに、一つの母音か、又はその前に一つ又は二つの子音が結合したものから出來てゐるのが常であつて、これが現代國語の音節構造に於ける特質であるといふことが出來る。
 かやうな特質は現代語に於て見られるばかりでなく、國語の歴史時代の最初から見られるのであつて、寧ろ、古代に溯れば溯るほど顯著であつたものと想はれる。即ち、現代語に於て例外的存在である撥音及び促音から成る音節は、平安時代以後にはじめて國語の正常な音韻と認められたであらうといふ事は、平安初期の作と思はれる「あめつち」の誦文や、その後之に代るべきものとして作られた大爲爾歌や伊呂波歌の中にこれらの音節が無いばかりでなく、假名ばかりで日本語の諸音節を自由に寫す事が出來るやうになつた時代に於て、これ等の音節を寫すべき假名が無く、かなり後までも假名書きの場合にこれ等の音節を書き表はさなかつた事によつても明かである。さすれば、これ等の音節は、平安初期以前に於ては國語の音韻としては存在しなかつたのであつて、當時の音節はすべて一つの母音か又はその前に子音の結合したものから成立してゐたのである。
 單にそればかりでない。二つの子音が重なつて母音に結合したものも亦極めて古い時代にはなく、後になつて生じたもののやうである。現代語に於ても、二つの子音の重なるものは、「チ」〔t∫i〕「ツ」〔tsu〕の外には所謂拗音(キャ〔kja〕キュ〔kju〕リョ〔rjo〕など原則として第二の子音にjを有するもの)に限られ、一つの子音の場合にはどんな子音でも自由に母音に結合するのに比して其の種類が甚少いのであるが、(232)「チ」「ツ」は古くは〔ti〕〔tu〕であつて二つの子音が重なつたものでなく、又拗音は多分漢語(即ち古く渡來した支那語)の音から來たもので、古くは外國語式の音としては存在しても、まだ國語の正常な音とは認められなかつたであらう。さすれば、國語の歴史が溯り得る限りに於ては、母音の前には唯一つの子音があるのが普通であつて、その外には、一つの子音をも結合せず母音のみから成る音節があるだけであつたのである。しかも母音一つのみの音節は、子音と結合したものに較べてその數が少いばかりでなく、常に連續して發音する、音の統一體(語又は語に助詞又は助動詞の結合したもので、私が文節と名づけたもの)の最初にのみ用ゐられ、他の音節に比して使用範圍にも制限があつたのである。
 以上述べ來つた所によれば、國語の音節構造は、一つの母音の前に一つの子音が結合したものが典型的なものであつて、その子音の無いものは古くからあつたけれども、かやうな音節はその使用範圍に制限があつて幾分特異なものであり、二つの子音が重なつて母音の前に附いたものは後になつて生じたものであつてその種類も相當限られてゐる。又、母音がなく、鼻音又は鼻母音一つから成る撥音節、及び無聲子音一つから成る促音節も後世の發生に屬し、今日に至るまでむしろ例外的な存在である。
 以上述べた國語の音節構造を概括して言へば
(233) (一) 國語の音節には原則として一つの母音が核心となつてゐる。但し例外的に一つの子音から成るものもある。
 (二) 母音の前には一つの子音が附くのが常であつて、二つの子音が重なつて附く事もあるが、それは限られた種類のものであり、三つ以上の子音が附く事はない。
 (三) 母音の後に子音の結合する事は無い。
 以上が古今を通ずる國語の音節構造上の特質として一般に認められてゐる事であつて、この特質は古代に溯るほど顯著であつて例外を見ないのである。
 
       二
 
 國語の音節構造上の特質として以上の諸點を擧げるのは勿論誤ではない。併しながら、猶よく考へて見るに、かやうな見方は國語の音節構造を部分部分について觀察したもので、全體として一貫性を缺き、音節を一體として見て、その構造上如何なる特質を有するかを十分に闡明し得ない憾がある。且又、古代に於て甚明瞭であつたこれ等の特質に對して後世に至つて例外となるやうな事實があらはれたのは、單に古來の國語に存した特質が時の經過に伴つて部分的に失はれたとのみ見るべきか、又は、かやうな例外的事實の發生にも拘らず、或はその發生そのものの中に、なほ昔ながらの特質のあ(234)らはれが見られるのではなからうかといふ點については、まだ考察が成されてゐないやうに思はれる。
 かやうに考へて來れば、我々は國語の音節構造上の特質について猶一度考へて見る必要があるのを感ずるのである。
 まづ音節を一體として考へる時、之を構成する諸單音は、一聯の音連鎖中の一環として最初のものから順次に發音せられる。それ故、音節構造上の特質は、之を構成する諸單音の連續的發音の進行の中に現はれ得る筈であるが、その場合に二つの見方がある。一つは發せられた音そのものの性質からであり、一つは發音する場合の發音器官の働きからである。今、國語の音節構造の典型的のものである、一つの子音の後に一つの母音が結合したものについて見るに、概して子音はその響きが徴弱で、聞えがわるく、母音は之に比して響きが強大で聞えがよい。それ故、子音の次に母音が來るのは、微弱な音から強大な音へ、聞えのわるい音から聞えのよい音へと進むのである。次に發音器官の働きについて見るに、子音を發する爲に必要な、呼氣の通路に於ける閉鎖又は狹窄は、いかなる母音に比べても一層狹いのであつて、子音から母音に移る場合には、その閉鎖を開き又は狹窄を廣くしなければならない。即ち呼氣の通路を開いて行く運動が必要である。かやうに、我が國語の典型的な音節に於ては、發音器官の働きとしては音の進行と共に呼氣の通路を開いて行くのがその特徴であるといふ事が出來るのである。
(235) 以上二つの見方の中、何れを重んずべきかは問題であり、兩者は互に關係のあるものであるから、一方のみを取つて他を全然棄てて顧みないのは不當であるが、音として見た場合には、子音は概して母音より微弱であつて聞えがわるいけれども、∫の如き、母音イ又はウよりも却つて聞えがよいものもあり、又發音法によつては子音の方がよく響く場合もあつて、聞えのわるい音から聞えのよい音へ進むといふ原則は時として保たれない事があるに反して、發音器官の運動として、呼氣の通路を開いて行くといふ原則は、いかなる場合にも行はれてゐるのである故、むしろ、この方を重んずべきである。のみならず、我が國語の音節に於ては、音節の最初に於て、發音に關與するあらゆる筋肉の張力が最強く、終に近づくに隨つて漸減するといふ他の特性を有してゐるのであるから、發音器官の働きを重んずるのは決して不當でないと信ずる。(どれだけを一つの音節と認めたかといふ問題についても、聞えのよい音を中心とし聞えのわるい音を境とするといふ、音そのものを基準とする説よりも、一囘の筋肉の緊張によつて發せられるとする、發音器官の働きに基く説の方が近來有力になつて來た。有坂秀世氏音韻論九七頁以下參照)
 音節の最初の音から次の音に進むに從つて呼氣の通路を開き廣くするといふ原則は、図語に於ては、唯に一つの子音が母音の前に結合した音節に於て見られるばかりでなく、二つの子音が重なつて母音に結合した音節に於ても見られるのであつて、「チ」〔t∫i〕「ツ」〔tsu〕に於ては、完全な閉鎖を破つて(236)發するt音から、狹窄を作つて發する∫又はS音に移り、更にこれらの子音から一層廣い通路を要する母音i又はuに移るのであり、「キャ」〔kja〕「ニャ」〔nja〕「リャ」〔rja〕の如き拗音に於ても、knrの如きその發音に閉鎖を必要とする子音からはじまり、次にjの如き狹窄を作つて發する子音を經て、更に一層ひろい通路を要する母音に移るのである。さすれば、國語の音節は、二つ以上の單音から成つてゐるものに於ては、閉鎖から又は開きの狹いものから、開きの廣いものに進んで行くといふ發音器官の繼起的運動があらゆる場合を通じて行はれてゐるといふ事が出來るのである。
 一つの音節を發音する場合の發音器官の働きとしては、右に述べたものの外に、まづ音節最初の音を發音する爲に閉鎖又は狹窄を作る事が必要である。しかしながら、國語の音節に於ては、普通の場合は、右の閉鎖又は狹窄を作る爲の發音器官の運動があつても、それは、その音を發する爲の準備の働きであつて、之と同時に音が發せられるのでなく、これによつて發音器官が一定の形をとつてからはじめて音を發するのである。しかのみならず、「アンナ」〔anna〕「ハンタイ」〔hantai〕「カッパ」〔kappa〕のナ・タ・パのやうに、撥音又は促音に續く場合には、音節の初頭に於て新に閉鎖を作る事なく、前の音節を發音する爲に作つた閉鎖をそのままにして音節最初の音を發するのである。それ故、音節を發音するに先立つて閉鎖又は狹窄を作る爲の發音器官の運動は、發音の爲には重要であり、音節から音節への連續を考へる場合には必ず考慮しなければならないが、國語の個々の音節について(237)その全體の構造を考へる場合には普通の場合は考慮の外に置いて差支ない。(但し、促音の場合には、發音器官の一定の部位に閉鎖又は狹窄を作つて、前の音節の母音の饗を急にせき留めるのであつて、閉鎖又は狹窄を作る運動そのものが前音節の音を變化せしめてそこから直に新な音節が初まるのであるから、その運動が大切なものとなる。しかし、かやうなものは國語では促音の場合だけであつて、むしろ異例に屬する。)
 さて、以上述べ來つた國語の音節構造を國語以外の諸國語に於けるものと比較するに、他の諸國語に於ても母音が音節構造の核心となるのが常であつて、lrnmのやうな子音が核心となるものも無いではないが、それは限られた範圍に屬し、寧ろ例外的のものである事は國語に於けると同樣である。又、母音の前に子音が結合するのも常であつて、その子音は一つの場合も二つ以上の場合もあるが、國語の音節は三つ以上の子音が重なつて附く事の無いのがその特徴である。さうして音節最初の子音から音節の核心をなす母音へと進むに隨つて、次第に開きの少いものから多いものへと移つて行く事も、諸外國語でも多くの場合に見られるのであるが、しかし二つの子音が重なる場合に、時として最初の子音が第二のものよりも開きの多いものである事がある(英語stand,street,speech,spring の最初のsとt、sとp、獨逸語 strasse,sprache の初の∫とt,∫とp との關係の如き)。國語にはかやうなものは決して無く、常に閉鎖又は開きの狹いものから廣いものへの列序が守られてゐる。
(238) 又、外國語の音節には、その核心たる母音で終るものと共に、母音の次に更に子音が結合して子音で終るものがある。前者を開音節、後者を閉音節と名づけて之を區別してゐる。この見方からすれば、國語の音節は開音節を常とし、閉音節は全く無いといふ事が出來る(撥音及び促音の音節は子音一つから成立してゐるもので、開音節でも閉音節でもないといふべきであらう)。この點がまた國語音節構造の一つの特質と見られてゐるのであるが、閉音節の構造を見るに、英語の it,up,ask,am,のやうな、母音で初まる音節に於ては、諸音の列序は、開きの多いものから次第に開きの少いもの又は全く閉ぢたものへと進むのであつて、國語の音節に於けると正に反對の方向をとるのであり、eat,soft,task,block,treat,の如く子音で初まる音節に於ては、母音までは次第に開きの多いものへと進み、母音から後は次第に開きの少いものへと進むのであつて、前半は國語の音節に於けると一致するが、後半は之と反對の方向をとるのである。外國語の音節構造に於て、音節を構成せる諸音の繼起の列序に右のやうな種々の種類がある事を詳かにして、然る後、國語の音節に於て諸音の列序が專ら開きの狹いものから廣いものへの原則に從ふのを見れば、實にこれが我が國語の音節構造に於ける著しい特質である事が明かに知られるのである。
 右のやうな見方からすれば、國語では外國語に存する au ou ai ei の如き二重母音の存在を許さず、音節を構成する母音は唯一つであるのを原則とし、もし右のやうな母音の結合が現はれる場合には、之(239)を二つの音節に分屬せしめるのも、右のやうな二つの母音は開きの多いものから少いものへと進むのであつて、國語の音節に於ける音の列序と逆の方向に向ひ、前述の音節構造上の原則に合はないからであらうと想はれる。然るに、近來、國語のヤ行音及びワ行音の子音j及びwをその音の性質上子音ではなくして母音i及びuであるとし、又「キャ」「ミャ」「リョ」などの拗音の第二の子音jをも母音iであるとする考が有力な音聲學者の間に力を得るに至つた。もしこの考が當を得たものであるとするならば、これらの音節には二重母音があるといふ事になる。しかし、さうであるとしても、これらの二重母音は前掲の au ou ai ei などとは異り、開きの少い母音i又はuから開きの大きな母音に進んで行くのであつて、その進行の方向は國語の音節に於ける一般の方向と合致し、決して之と背馳するものではないのであるから、この場合にもかの一般原則は依然として行はれてゐるのである。
 以上述べ來つた國語の音節構造に關する原則は、單に現代語に於て見られるばかりでなく、また過去の國語に於ても見られるのであつて、嘗て國語には存したが現在では全く滅び、或は僅に方言にのみ存する種々の音節、例へば、「クヮ」「クヰ」「クヱ」「グヮ」「グヰ」「グヱ」の拗音節や、古代語のdi(ヂ)du(ヅ)から轉化したd〓i dzu の音節も、その構造に於ては右の原則に背かない。さすれば、この原則は古今を問はず各時代の國語に於て例外なく行はれてゐるといふ事が出來るのである。
 
(240)       三
 
 右の原則は、一つの音節の内部に於て、之を構成する諸單音の結合の順序に關するものであるからして、唯一つの單音から成る音節に於て見られないのは當然である。しかしながら、この原則は國語の古今を通じて守られて來た根強い傳統を有するものであるとすれば、單に音節の内部構造についてのみならず、之に類した他の音韻現象の上にも何かの聯關をもち、之に何かの影響を及ぼした事は無かつたかといふ事は當然考へなければならない問題である。さうして私はかやうな點からして、單音一つのみから成る音節も、亦右の原則に多少の聯關をもつと考へ得べき事例を見出す事が出來ると信ずるものである。
 單音一つから成る音節で、極めて古い時代から國語に用ゐられたのは母音一つの音節(之を母音音節と名附ける)であるが、これは前にも述べた通り本來、語(正確には「文節」)の最初にのみ用ゐられ、語の中又は終に立つ事なく、その用法が限られてゐたのであつて、奈良時代にも、語の中又は終にあるのは、活用語尾の外には「かい」(櫂)「まうく」(設)「まうす」(申)など二三の語にのみ限られてゐるのである。然るに古代に於ては、母音音節で初まる語が他の語の次に來て複合語を作るか又は連語を作る場合に、時としてその母音音節が脱落するか又はその直前の音節中の母音が脱落(241)して之に結合してゐた子音がその母音音節の母音と結合して新な音節を作ることがある。ハナレ−イ〔右○〕ソ=ハナレソ(離磯)ヤマ−ノ−ウ〔右○〕ヘ=ヤマノヘ(山上)ワガイ〔二字右○〕ヘ=ワギ〔右○〕ヘ(吾家)コト〔右○〕−イ〔右○〕タシ=コチタシ(言痛)の類である。これは我が國語に於て、母音が直に他の母音と連接してあらはれるのを厭つて、之を避ける爲に一方を脱落せしめる傾向があつたものと解せられるが、母音音節の母音と、その直前の音節中の母音との中、如何なるものがいかなる條件の下に脱落するかについては從來組織的な研究はなかつたのである。然るに近來初めて岸田武夫氏の精密な調査の結果が公にせられた(昭和十七年八月發行「國語と國文學」所載「上古の國語に於ける母音音節の脱落」)。同氏はまづ語頭の母音音節の脱落に關して左の法則を見出された。
  第一 連音中に於て、下の語の語頭の母音音節が上の語の語尾の尾母音よりも狹い母音である時に、この語頭の母音音節は一般に脱落する可能性を持つ。
  第二 連音中に於て、下の語の語頭の母音音節が前母音であり、上の語の語尾の尾母音が奧母音である時に、この語頭の母音音節は一般に脱落する可能性を持つ。
  第三 連音中に於て、下の語の語頭の母音音節と上の語の語尾の尾母音とが同じ母音である時には、それが一つになる可能性を持つ。
  第四 連音中に於て、前三項に該當しない場合か或はその母音音節が連音の始に現れる時には、(242)次の音節の頭音がその母音音節と類似の音であるか、又は次の音節に同じ母音を尾母音として含む場合に限つて、それが脱落する可能性を持つ(但し、この場合には各母音音節の間に出入がある)。
 即ち、母音音節の脱落は以上の四つの場合にのみ可能であつて、其他の場合には決して起らないのである。次に上の語の最後の母音の脱落については
  各尾母音は、連音中に於て母音音節と接觸する限りに於て、連音關係如何に拘らず脱落する可能性を持つ
と斷定し、最後に
  かくして兩者を綜合しての解答は、次の如く與へられようかと思ふ。
   第一に連音中に於て、尾母音と母音音節が接觸して現れる時、その母音音節に對する連音關係が、先の四項に該當しない場合には、上の尾母音の脱落する形のみを生ずる。即ちクニウ〔二字傍線〕チ(國内)・イヘ(家)ニア〔二字傍線〕ル(在)・カ(斯)クア〔二字傍線〕リ・ヒメ(姫)ノア〔二字傍線〕ソビ(遊)等がクヌ〔傍線〕チ・イヘナ〔二字傍線〕ル・カカ〔傍線〕リ・ヒメナ〔傍線〕ソビとなることはあつても、その母音音節の脱落することはないのである。
   之に對して、第二に、同じく連音中に於て、尾母音と母音音節が接觸して現れる時、その母音音節に對する連音關係が、先の四項に該當する場合には、尾母音の脱落するものと、母音音節の脱(243)落するものとの二重の形をも生じ得る。即ちワ(我)ガイヘ(家)はワギヘともワガヘ〔二字傍線〕ともなり、コトイタシ(言痛)はコチ〔傍線〕タシともコト〔傍線〕タシともなり、ハナレイソ(離磯)はハナリ〔傍線〕ソともハナレソ〔二字傍線〕ともなり、トイフ(と云)はチ〔傍線〕フともト〔傍線〕フともなり得るのである(但し、第三項は何れの脱落とも考へられるものであり、第四項に該當する場合は、母音音節の脱落するのが普通である)。
といふ結論に達してゐる。
 以上の研究によれば、下の語の語頭の母音音節の脱落は、連音上、一定の條件を具へた場合にのみ生ずるのであつて、その範圍が狹いのに對して、上の語の語尾の母音の脱落は何等の條件なくして起り得るのであつて、その範圍が廣いのである故、私の見る所では兩者に通じてのきまりとしては、寧、語尾の母音の場合を一般的法則とし、母音音節の場合を之に對する除外例とするのが至當であり、母音音節脱落の法則四項は、この除外例の範圍を規定したものと見るべきである。即ち、岸田氏の研究から得られる歸結は次のやうである。
  上の語の語尾の母音と下の語の語頭の母音音節とが接觸してその一つが脱落する場合には、語尾の母音が脱落するのが原則である。但し、次の四項に相當する場合に限り母音音節が脱落する事がある。
 第一、(以下、岸田氏の擧げられた項目を列擧する)
(244) 以上は、岸田氏の結論をそのまゝ認めて之を一般法則化したものであるが、同氏が母音音節脱落の法則として擧げられた四項の中には猶議すべきものがある。
 まづ第四項は、寧ろ個々の語に關するものであり(その一つ一つについては猶研究を要するものもある)、又必ずしも母音音節で初まる語が他の語の次に結合して之と一聯に發音せられる場合に限らず、それだけ單獨に發音する場合に脱落するものもある故、例外的のものと見るべきで、一般的法則乃至傾向を考へる場合には姑く除外しておいてよい。第三項は同音の重なる場合で、これはどちらの脱落と見ても結果は同一である故、これも除外してよい。第二項、即ち下の語の母音音節が前母音であり上の語の語尾の母音が奥母音である場合は、母音音節が脱落する可能性をもつといふ事は、一般的のきまりで大切なものであるが、これはかなり疑はしい。この第二項に該當するものとして岸田氏の擧げられたのは、uの後のiが脱落する例だけであるが、しかし實例について見ると、「イヒニヱテ」(飯に餓《ウ》ゑて)「ヌキツルゴトク」(脱き棄《ウ》つる如く)「ミマ」(御馬《ミウマ》)の如くiの後のuが脱落するものもあるのである(岸田氏は、これ等を第四項の法則によるものとして説明してゐられるが)。想ふに、前母音、奧母音といふやうな發音部位の前後の關係は決定的のものではなく、第一項の如き母音の廣狹の關係が大切なので、iとuとは口の開きが大體同樣であるところから、互に脱落する事があるのであらうと思はれる。iとuとの外に、前母音と奧母音との關係はeとoの間にも成立する(245)が、母音音節エがoの後に來る場合に脱落した例は無いので、この場合に第二項の法則が行はれてゐると斷言する事は出來ない。無論、逆にオの前のeが脱落した例も無い故、oとeとが互に脱落すると主張する事も出來ず、又一般に母音音節エが腕落した例は見出されないのであるが、これは母音eが國語の中に用ゐられる事少く、且つ母音音節エを有する語が極めて少數である上に、一音節の語が多くて二音節以上の語は少く且つ大抵は稀にしか用ゐられぬものであるなどの特殊の理由によるのであつて、畢竟eとoとの關係については何等の法則を立てる事も出來ないのであらう。さすれば、第二項の法則は果して成立するかどうか、極めて疑はしいといはなければならない。
 かやうに檢討して來ると、母音脱落の法則として岸田氏の擧げられた四項の中、確實であつてこの場合に用ゐ得べきものは第一項のみとなる。隨つて、前掲の一般的原則の中、除外例に關する部分、即ち「但し」以下は、次の如く改訂すべきである。
  但し母音音節が上の語の語尾の母音よりも狹い音である場合に限り、母音音節が脱落する事がある。
 上代の國語に於て一つの語が他の語と結合して複合語又は連語を作る時、その後の語が母音音節で初まるものであれば、その音節の母音と、前の語の音節の終の母音との間に生じ得べき母音の脱落には以上の如き原則が行はれてゐたと考へられるのであるが、どうしてかやうな原則が行はれたかを解(246)明するのは極めて困難であるが、我が國語の音節は母音の前に子音を有するのが普通であり、殊に語の如き、常に連續して發音し中途で斷止する事無き音結合體の初頭以外の位置に於ては子音を有する音節の外用ゐる事がない故に、母音音節で初まる語が複合語又は連續をなして前の語と一聯に發せられる場合には母音音節は、語中に於けると同じく、その一聯の音の中途にあらはれる事となつて多少不安定なものとなり、丁寧な發音に於ては前の音節とは別の音節として發音せられたであらうが、日常の不注意な發音に於ては直前の音節と共に一つの音節のやうに發音せられたが、國語の音節では母音二つが一つの音節を作るといふ事がない故に、前の音節の母音が弱まり省かれて、之に結合した子音が母音音節と結合して新な音節を作つてはじめて安定した音節となつたものであらう。その際、何故に相並ぶ二つの母音の中、前の語の最後の音節の母音が省かれて、後の語の最初の母音が殘るかといふに、前にも述べたやうに、國語の音節は、發音に於てもその初頭に力を込め終に近づくに隨つて力を滅ずるのが常であり、之を聞くものにとつても、その最初が大切であつて、そこで如何なる音であるかを識別するのであつて、母音の最後の部分は比較的重要でないのであるが、語全體として見れば、最後の音節の最後の部分は輕く發音される傾向があり、殊に二音節以上の語に於ては最後の母音は多少曖昧であつても、その意味を解するに支障を生じない事が多い。之に反して、語の最初の部分は比較的注意して發音せられ、且つそこが明かでないと語形が不明になつてその語の意味を解し難い(247)のが常である。これが、前の語の語尾の母音が股落し、後の語の最初の母音が保存せられる所以であらうかと思はれる。(かやうに考へれば、前の語の最後の母音に脱落の起るのは、いつもその語が二音節以上から出來たものである理由も説明出來る。)
 以上のやうな一般の法則は、前に述べた國語音節構造上の原則とは直接の關係が無いやうであるが、之と聯關があらうかと思はれるのは、その除外例の場合である。即ち、一般の法則としては母音音節は脱落しないのが常であるが、その前の母音が母音音節の母音よりも開きの廣いものである場合に限つて母音音節の脱落が生じ得る事がある。この場合に於ては、母音音節がその前の音節と合して一音節のやうに發音せられるに際して、その音の進行は、廣い音から狹い音に進む事となつて、國語音節に於ける音の進行の方向とは正反對になり、國語の音節構造の一般原則に背く故、後の母音音節を除き去るのではあるまいかと思はれる。勿論これは除外例としてのきまりであつて、一方同樣な場合に母音音節の母音を保存し前の音節の母音が脱落する事もあり得るのであるから、これが唯一の原因ではないかも知れないが、しかし、母音音節の前の母音が母音音節の母音よりも開きが狹く、音の進行が狹いものより廣いものへ進むといふ一般原則に一致する場合には右のやうな除外例が全く無いといふ事實を顧る時、右の除外例を音節構造上の原則との聯關に於て解明しても必ずしも不當ではあるまいと思ふ。
 
(248)       四
 
 上述の原則は一つの音節の内部に於て之を構成する語單音繼起の順序に關するものであるからして、唯一つの單音から成る音節に於ては見られないのは當然である。しかしながら、この原則は國語の古今を通じて守られて來た根強い傳統を有するものであるとすれば、それは單に音節の内部構造を明かにするのみならず、國語音韻史の上に於て、その動向を定め種々の現象を惹起せしむる要因として働いてゐるのではあるまいかといふ事は、容易に我々の腦裡に浮び得べき想念である。私はかやうな點からして、單音一つのみから成る音節も亦右の原則と無關係ではなく、むしろ相當緊密な關聯を有するものと見得る事例を見出すことが出來ると信ずるものである。
 單音一つから成る音節で、極めて古い時代から國語に用ゐられたのは母音一つの音節(之を私は母音音節と名づけてゐる)であるが、これは本來專ら語(正確には「文節」)の最初にのみ用ゐられて、その中又は終に立つ事なく、その用法が限られてゐたのであつて、奈良時代に於ても語中語尾に用ゐられたものはイウだけで、それも二三の例外的の場合に過ぎなかつた。然るに支那語に於ては、母音i uを最後の要素とした二重(又は三重)母音を有する音節があつた(「解」kai「來」lai「帝」 tiei「灰」huai「高」kau「毛」mau「料」lieuなど)。之を輸入した我が國の漢語に於ては、そのi及び(249)uがイ及びウとなつたが、しかし國語には二つ以上の母音で一つの音節を構成するものはなかつた故、支那語に於けるが如く之を一音節中の一部とはせず、それだけを一つの音節(母音音節)としたのである。かやうにして漢語には一語の中又は終に母音音節イウを有するものが甚多くなつたのであるが、初の中は、かやうな音節の連續は外國語式の發音と感ぜられたであらうが、時を經て漢語の使用が頻繁になるに隨つてかやうな發音に慣れ、平安時代に於ては本來の國語に於ても音便其他の音韻變化によつて種々の音節がイ又はウに變じ、發音音節の語中語尾にあらはれるものが多くなつた。然るにその後更に年を重ねる間に、これ等の音節の母音uiが、その直前の音節中の母音と合體して遂に一つの長音節となつたのである(「カウ」「コウ」が「コー」となり、「ケウ」が「キョー」となり、「ケイ」が「ケー」となつた)。この音變化は、普通、相並ぶ二つの母音の間の同化作用として説明されてをり、それは決して誤ではないけれども、更に一層考察を進めて、如何にしてかやうな同化作用を生ずるに至つたかを檢討する時、我々は前に擧げた國語の音節構造に於ける一般原則に想到せざるを得ないのである。
 元來支那語に於ける、iuを最後の要素とする二重(又は三重)母音が輸入された時、そのiuだけをはなして別の音節としたのは、國語の音節は母音一つを核心としたもののみであつた爲、國語の音節構造に合致せしめる爲であつて、かやうにして支那語の發音の國語化は一應遂げられたのである(250)が、これは半面に於て、母音音節は語中語尾に用ゐないといふ從來の慣習に違反するものである。しかしそれも永い年月を經る中に次第に慣れて異樣に感ぜられなくなつたであらうが、かやうな母音音節がいつも前の音節に績いて現はれて來るのであるから、日常の言語に於てこの二つの音節を一つの音節のやうに發音する事が多くなると、前音節の母音からイウの音節への音の進行が開きの多いものから少いものへと向ひ、一般國語の音節内に於ける音の進行とは逆な方向をとるものである故に、おのづからその不自然さが感ぜられて、二つの母音の間の開きの相違を少くし又は無くして、少しでも國語の音節構造の一般原則に近づけようとする努力が暗々裡になされたのであつて、その結果として、−auが−aoを經て更に−ooとなり、−ouが−ooとなり、−ueが−eoを經て−ioo−jooとなり、−ei−eeとなつて、國語に新に長音節の發生を見るに至つたものと思はれる。勿論右の音變化は、一方から見れば音の同化であつて、發音器官の運動の簡易化であり、又長音節は「キウ」「リウ」の如く二つの母音の間の開きの差が著しくない場合にも起つたのであるから、之を以て長音節發生の唯一の原因とする事は出來ないであらうが、少くともその原因の一つとして、又はその發生を助けた要因として右の音節構造上の一般原則を擧げてよいものと考へられる。
 この事はまた拗音の場合と對照して考へる時、更に一層その可能性を増すものと思はれる。
 前にも述べたやうに、國語の拗音は、元來外國語の音から導かれたものと考へられる(古代國語の(251)音韻の中には、今日の拗音と同じ發音のものが多少はあつたかも知れないが、今日拗音といはれてゐるものはその音韻の後身ではなく、外國語の音から來たものと認められる)。即ち支那語に於てはi又はuで初まる二重(又は三重)母音があつた(「香」hia〓「略」liak「逆」〓iak「花」hua「歸」kuiなど)。これを國語に取入れる時、最初のi及びuをそれ/”\イ段及びウ段音節とし、次の第二の母音をそれ/”\別の音節として國語化したが(もつとも、國語の中に類似した音節のあるものは第二の母音までを一つの音節としたであらう)、このiuは輕く發音せられた爲に、最初のイ段及びウ段音節中の母草iuは之に近い子音j及wとなつて次の音節の母音と合體して一音節をなし、「キャ」「キョ」「クク」「クヰ」などの拗音となつたのである。これも初の中は外國語式の音と感ぜられたであらうが、年を經るに隨つて之に慣れ、國語の正常な音として後には本來の國語にも用ゐられ、「書きある」「取りある」が「カキャル」「トリャル」となつたやうに、母音音節が前の音節と合して一音節を作る場合にも拗音が用ゐられるやうになり、以て今曰に及んでゐる。
 右の拗音の場合は、もとの支那語の二重母音に於ける最初のi又はuから次の母音への音の達續が、開きの狹いものから廣いものへと進行して、國語の音節内に於ける單音の進行の方向と一致するものであり、之から生じた拗音は母音iuが一層開きの狹い子音jwとなつて、次の母音に連り、且つもと二音節が一音節に變じて、その構造が國語音節構造の一般原則に合致するものとなつた爲、本來(252)は外國語から出たものであるに拘らず、その後更に變化を生ずる事なく、そのまま今日まで存續してゐるのである。之に對して前に擧げたiuを最後の要素とせる支那語の二重(又は三重)母音は、之を別の音節とする事によつて一應國語化を遂げたとはいふものの、猶國語の音節構造の一般原則に合致しない點があつた爲、遂には第二次或は第三次の變化を生ずるに至つたものといふ事が出來ようと思ふ。
 
       五
 
 以上、古代支那語に於ける二重母音(又は三重母音)の國語化に際して、國語の音節構造上の原則がいかに働いたかについて考察を試みたのであるが、それはまた、イウの如き、國語では本來語頭以外に用ゐられなかつた母音音節が語中語尾にも用ゐられるやうになり、又拗音のやうな、從來國語にはなかつた、二つの子音で初まる音節が發生するに至つた事由をも解明する事となつたのである。さうして、私の見る所によれば、本來國語に無かつた撥音及び促音の如き子音一つから成る音節が國語の音韻に加はるに至つたのも亦同樣の事情に因由するものと思はれる。
 まづ撥音について見るに、かやうな音が元來國語に於ては正常な音としては存在しなかつたであらうといふ事は既に上に述べた通りである。然るに、古代支那語に於てはnm〓の如き鼻音で終る音節(253)があつた(「散」san「天」tien「粉」f’un「三」sam「點」tiem「南」nam「香」hia〓「當」ta〓「芳」p‘ua〓)。かやうな音節は國語には存在せず、その音節内に於ける音の進行も、母音から更に一層開きの狹い音に移るのであつて、國語の音節の一般構造と一致しない爲に、我が國に於ては最後の子音に母音iuを加へて、ニ・ム又はギ・グの如き別の一音節とするか、時には全く子音を省き去つて母音で終る音節として之を取入れたのである。
 しかしながら、外國語としては、その正しい發音も學習せられて知識階級の間には用ゐられ、かやうな外國語としての發音は、平安初期に於ける漢語の正音奨勵によつて正しい音として重んぜられたので、次第に行はれて世人の耳に熟するにいたつたものと考へられるのであつて、平安時代に於ては遂に本來の國語の音節でさへも所謂音便の一つとして、かやうな音に變ずるやうになり、國語の正常な音の一つとして認められたのである。但し、その際、支那語の〓はu又はi(或はその鼻音化した鼻母音※[〜/i]又は※[〜/u])となつて國語化し、それだけで一つの母音音節となつたが、mとnとは、mが後に變じてnとなり、本來のnと混同しながらも、なほ子音nの音を保つてゐたと思はれる。しかし、かやうな子音を音節の終に有する事は、國語音節構造の一般原則に背馳するので、これだけを前の音節から切り離して一つの別の音節とし、こゝに子音nから成る新しい音節が成立する事となつたのである。さうして現代の撥音(「ン」)は、この子音nから出て、之に續く音節の最初の音に同化し、そ(254)の音の違ひに從つて發音部位が變つたものであらうと推察せられる。さすれば、撥音の音節は、鼻音で終る支那語の閉音節を國語の音節構造の原則に適合させる爲に新に生じたものであるといふ事が出來る。
 
       六
 
 次に促音も亦本來の國語に於て正常な音としては存在しなかつたものと思はれる。然るに古代支那語に於ては子音ptkで終る音節があつた。入聲音といはれるものが是である。入聲音に於けるこれらの子音は、patakaに於けるが如き、呼氣の通路に閉鎖を作つて置き、強い息を以て急にこの閉鎖を破る時に發する音(外破音 explosive)でなく、前の母音を發しなから急に閉鎖を作つて呼氣を阻止する時に聞える幽かな音(内破音 implosive)であつて、その母音と同じ音節に屬し、之を閉ぢて閉音節を作るものであつたのである。この種の音節は古代國語にはなく、母音からptkの如き閉鎖音に移る音の進行も國語音節の一般構造に一致しないものであつて、日本人には發音困難なものてあつた爲、之を國語化するに當つて最後の子音の後にiuなどの母音を加へて、pをフ、tをチ又はツ、kをキ又はクと發音して別の一音節とするか、或はこの子吾を省き去つて母音で終る音節としたのである。(塔をタフ、匝をサフ、一をイチ、越をヲチ、乞をコチ、鬱をウツ、薩をサツ、色・式をシキ、(255)樂・落をラク、各をカク、福をフクとしたのは前者の例であり、吉をキ、憶をオ、結をケ、賊をソ、得をト、副をフ、末をマの假名とした如きは後者の例である。)
 しかしながら入聲音のかやうな發音は、支那語としては不正な音であつて、正式な支那語としては正しい支那式の發音を學んだであらうから、有識者の間には正しい字音としてはかやうな外國語式の發音が用ゐられ、ことに平安初期唐との交通が頻繁になり漢學の隆盛であつた時代には次第に世に廣まり餘風は後代までも及んだものと思はれる。即ち、日本の漢字音としては、pで終る入聲の末尾がフとなり(ついで國語ハ行音の一般的音變化に伴つてウとなつた)kで終る入聲の末尾がキ又はクとなつて國語化した發音が行はれて子音で終る支那式の發音は比較的に早く滅びたやうであるが、tで終るものだけは、特異な外図語式の音が後世までも行はれたのである(それも早くチとなつたものはそのまま行はれたやうであるが)。それは室町末期に日本に來た西洋人が、羅馬字で日本語を寫す場合にtの字を以て寫した音であつて、taixet(大切)jixet(時節)x〓bat(賞罰)taicut(退屈)のやうに書かれてゐる。これらのtは、現代語ではツの音にあたり、又假名では「つ」「ツ」の字で書かれてゐるが、當時の西洋人は日本の普通のツの音はt〓uの字で書いてゐるのに對して、かやうな場合に限つてtで寫してゐるのは、ツとは違つた音であつたからと認められる。その實際の發音についてはロドリゲスの日本文典(西紀千六百四−八年長崎版)に(256)このTの字は或音節の終に來る時は日本ではツの字である。之をツメ字と呼ぶ。かくてguatと書く爲には「グワツ」と書く。Tのみの字が無いからである。(同書五十八丁裏面)
とあるのによれば、當時はトの音であつたやうに見える。しかしながら、室町時代の言語の發音を今日までも多分に傳へてゐる謠曲の謠ひ方では、今日に於てもこれらの音を一種の鼻的破裂音(Faukallaut)に發音する(tを發音する場合の如く、舌尖を上※[齒+斤]にあてて閉鎖を作り、急に咽頭から鼻への通路を開き息を鼻へ押し出して發する破裂音)。かやうな音は單に謠曲のみならず、佛教の聲明に於ても同樣な場合に用ゐられ今日まで傳はつてゐるのである故、古くはかやうな音ではなかつたかと考へられる。以上は入聲が語尾に在る場合であるが、「必定」(fitgi〓)「殺害」(xetgai)「佛名」(butmi〓「絶滅」(jetmet)の如く、入聲が語中に在る時も、それが濁音又は鼻音に連續する場合にはやはり謠曲に於て右の如き音に發音する。さうしてこの音は、現代語では語尾にあるものも語中にあるものも皆純粋なツの音となつてゐるのであるが、入聲が語中にあつてカ行サ行タ行ハ行清音の直前に在る場合には、室町末期に於て既に今日と同じく促音に發音した事は、當時の西洋人の羅馬字書きによつて知られる。
  ficqio(畢竟) qecc〓(結構) issai(一切) xuxx〓(拭世) ittai(一體) xitto(嫉妬) ippenn(一遍) fippu(匹夫)
(257) tで終る入聲のみならず、p及びkで終る入聲も、語中にあるものは、その直後に連續する音によつて促音になつた事は、現代語に於けると同樣である。
  teccocu(敵國) juccon(昵懇)  beccacu(別格) caxxen(合哉) rixx〓(立秋) gattai(合體) ricca(立夏) xexxu(攝取)
 これらの促音は古く入聲の子音が、我が國に於てなほ支那語式に發音せられた時代の名殘を留めてゐるものであつて、支那語に於ける入聲のptkの子音は前述の如く閉鎖を破つて發する外破音でなく、閉鎖を作る時の幽かな音即ち内破音であるが、國語の促音も之と同樣の内破音である事が明瞭に之を證明してゐる。唯、支那語に於てはその閉鎖を作る部位が語によつて定まり、同じ語はいつもpかtかkか何れかにきまつてゐるが、國語に於ては、直後に來る音の發音部位の違ひによつて同じ語でも種々の部位で發音するだけの相違があるが、これは幾分後の變化であらう。
 かやうにして漢語が國語の中に取入れられるに伴つて、國語の音と共に用ゐられた促音は遂に本來の國語にも及び、所謂音便の一種として國語の種々の音節がこの音に變ずるに至り、國語の音韻として後世に傳はつたのである。
 以上述べたやうに、支那語の入聲音を根源として國語に入聲のt及び促音が用ゐられるに至つたのであるが、國語としてこれ等の音をいかに取扱つたかといふに、多分それだけを一つの音節としたの(258)であらうと思はれる。現代語に於て促音が一つの音節と認めらるべき事は略定説となつてをり、その音も、内破音たる點は支那語に於けると同樣であるけれども、支那語に於ては閉鎖を作る時の音だけが必要であるに對して、我が國では内破音を發した後にもその閉鎖又は狹窄を、一音節を發する時間だけ持續する事を必要とするのであつて、この點がこの音自身で一つの音節を作らないか作るかの差異を示してゐるのである。古代に於てはどうであつたかといふに、促音を假名で書き表はさないものもあるが、これは適當な假名表記法が見出されなかつた爲であつて、それが一つの音節と見られた事は、古代の歌謠に於て一つの假名で書かれる音節と同樣に取扱はれた事によつても明かである。又、入聲のtも例へば「實」の字音ジツ(jit)を「實否」の場合には「ジップ」と發音し、「故實を以つて」の場合には古く「コジットモッテ」と發音したやうに、他の語に接する場合にすべて一音節として取扱つたとすれば、他の語に接しない場合にもやはりそれだけが一音節として意識せられたと考へて決して不自然ではない。その上、上に述べたやうに、そのt音が支那に於けるが如き純粹な内破音でなく、一種の鼻的破裂音であつたとすれば、それは内破音に比してよほど聞えのよい音であつて、一つの音節を成すに適當である(鼻的破裂音は、之を發する爲の鼻への通路を開いた後、そのまま息の出るのを止めずにおけば鼻音nとなつて更に聞えがよくなる。かやうな發音が佛教の聲明に於て用ゐられるのを聞いた事がある)。入聲tをかやうな音に發音したとするならば、それは聞えをよくして(259)之に一音節としての價値を保たせる爲であつたと解してよからうと思はれる。
 前にも述べた通り、入聲音は支那語に於ては閉音節であつて子音ptkが前の母音を承けて音節を閉ぢるのであるが、かやうな音の連續は國語音節構造の一般法則に一致しないものである故に、之を國語に取入れるに當つては最後の子音の部分を切り離して一音節とし、以て音節構造の原則に背かないやうにしたものと認められる。その結果として、t音又は促音の如き、子音一つから成る音節が國語の音節に加はるにいたつたのである。
 以上のやうに考へて來れば、撥音や促音や入聲のtの如き、母音を核心としない音節の存在は、國語の音節構造から見れば異樣であるけれども、その發生の根源に溯つて見れば、前述の如き音節構造上の一般法則が働いてゐる事が知られ、それが國語の古今を通ずる音節構造上の著しい特質である事が認められるのである。
 
       七
 
 一國語の著しい特質は他の國語との比較によつて容易に見出され、その音韻上の特性は他國語の音をその國語に取入れた場合に明瞭に現はれるものである。我が國語の音節構造の特質は、近く西洋諸國語から攝取した外來語に於ても見られるのであるが(例へば原語に於て st tr bl str spr の如き二重又は(260)三重子音で初まる音節をその一つ一つの子音の後に母音を加へて二音節又は三音節とし、二重又は三重母音を含む音節を、その一つ一つの母音をそれ/”\一音節として二音節又は三音節とし、子音で終る音節の後に母音を加へて最後の子音を一音節として獨立させるなど)、古く我が國に取入れた支那語である漢語及び漢字音に於ては最顯著であつて、支那語に於て鼻音や無聲子音で終る音節や、二重母音より成る音節の如き、國語本來の音節構造に合致しないものは、之を二つの音節としたのであつて、その爲に、撥音や促音などのやうな新な音節が出來、又本來語頭以外には立たなかつた母音音節が語中語尾にもあらはれる事となつて、國語の音韻組織や音節結合の法則に部分的變革を來すに至つたが、しかし、前述の音節構造上の根本原則は堅く守られ、國語の音韻體系に對する他國語の影響を最少限度に止め得たのである。
 
  刊行委員附記 この論文の一、二、四、五、六、七の各節はそれぞれ、一、二、三、四、五、六として、昭和十九年中に刊行を豫定されてゐた雜誌「國語學」創刊號のために執筆されたものである。ここに收めた三は、別に「補遺」として保存されたもので、その表紙には次のやうに記されてある。
     コレヲ「三」トシテ挿入スル場合ニハ、本論文ノ「三」以下ヲ順次ニ「四」以下トシ、其ノ「三」ノ最初ノ文句ヲ改訂スベシ。
     ○コノ稿ヲ補訂シテ獨立論文トシテモ宜シ。
    今これをそのまま三として挿入するに當つて、もとの三以下の節の番號を改めたほかには、手を加へた所はない。
 
(261)   國語音韻變化の一傾向
 
(262) 上田先生が歐洲で言語學を研究して歸朝せられて以來、雜誌や講演に於て發表せられた國語に關する論説はかなりの數に上るが、その中で、純粹に國語學に關する新研究として當時の學界を驚かしたものはp音考である。これは明治三十一年一月の雜誌「帝國文學」に發表せられた「語學創見」の中にあるものであつて、今日のハヒフヘホの音が古くはパピプペポであつたといふ説である。これまでの國學者の考では、日本の音は五十音にあるものだけが古くからあつた正しい音であつて、その他のものは鳥獣萬物の聲に近い溷雜不正の音であるとしてゐたのであつて、パピプペボの如きは殊に不正鄙俗の音で、我が國の古言には無かつたものと考へてゐたのであるから、この新説は學界に多大の衝動を與へて、之を反駁するものや、さなくとも之を信じないものが多かつたのである。博士の論據は、
 一、ハヒフヘホの濁音はバビブベボであるが、ハビブベボに對する清音は音の性質から見れば。パピプペポであるべきであつて、ハヒフヘホではない。パピプペポは清音であつて、半濁音といふのは世人をまどはすものである。
 一、古來ハヒフヘホを唇音といつてゐるが、今のハヒフヘホは喉音であつて唇音でない。パピプペポこそ唇音である。
(263) 一、古代國語にはハヒフヘホの音は無かつた。古く梵漢二國語のp音が日本のハヒフヘホで書かれ、そのh音はカキクケコで書いてある事によつて知られる。
 一、古くアイヌ語に入つた日本語が。ハ行音になつてゐる。又、三世紀の支那音で日本のヒメコを寫したのに卑の字があててある。
 一、熟語的促音及び方言にp音があるのは上古の音の名殘である。
 一、今日もハヒフヘホのフがfuでf音になり、又方言にもf音があるのは、上古のp音から今日のh音にいたる中間の段階にph又はf音があつた證據である。
 この説は誠に卓見といふべきであつて、今日に於ては、多少の異見をさしはさむ人もないではないが、一まづ學界の定説となつてゐるのである。さうしてその證據として擧げられたものも、中には多少薄弱と見られるものも混じてゐるけれども、なほ今日に於ても、これ以上加ふべきものはあまり無いのである。
 かやうにハ行の發音は、もとパ行音であり、それがファ行音となり後更にハ行音となつたのであるが、そのパ行音がファ行にうつつた時代については、先生は奈良朝以前であらうとしてゐられるが、ファ行音からハ行音にうつつた時代については何事も説いてゐられない。しかるにこの問題については後に新村博士の研究によつて江戸時代の半頃にはハ行音になつてゐた事が明かになり、更に岩淵悦(264)太郎、有坂秀世兩氏の研究によつてそれは江戸時代初期、多分元禄よりいくらか前であらうといふ説が有力になつた。
 以上のやうに、ハ行音が。ハ行からファ行に更にハ行にかはつたのは、語頭におけるものであるが、語中語尾のハ行音は、パ行からファ行にかはつた後、更にワ行音になり、もとからのワ行音と同音になつたのである。これは、今日の假名遣の上に見られる通りである。「カハル」 −「かへる」あは=あわ あひ=あゐ さを=
  これは何時頃からかといふに、大體平安朝の中頃であらうと考へられる(大矢透氏など)。
 さてp→F→hの變化はいかなる性質の音變化かといふに、pFは共に唇音であり、そのうちpは閉鎖音でありFは摩擦音である。それゆゑ、pからFへの變化は唇の合せ方が少くなつたのである。hは喉音で、唇には關係がない。それ故F→hの變化は、唇を合せたのが後には唇を全く合せなくなつたのである。即ちpでは唇を全く合せて閉ぢたのを、Fにいたつて、合せ方が少くなつてその間に間隙をのこし、hに至つては全く合せる事をしなくなつたので、つまり、唇の運動が追々減退したことゝなるのである。又、Fからwにうつつたのは、これはどちらも唇音で、Fの場合には唇の開き方が少く、wの方はそれよりも多いので、唇の合せ方が少くなつたのである。これも、前にのべたと同じく唇を合せる運動が減退したのである。
(265) かやうにハ行音の變遷に於て見られる音變化は、唇音のよわまり、減退、退化といふ傾向をたどつてゐるものといふべきである。
 さうして、右のやうな音變化の起つた時代について見ると、p→Fは多分奈良朝より以前に起つたものであらうし、F→hは江戸初期のものと思はれる。又語中語尾のF→wの變化は平安朝中頃に起つたもので、これらの變化は決して一時に起つたものでなく、國語の歴史の中のいろ/\の時期に起つてゐるのである。しかもその方向は何れも唇音退化といふ同一方向をたどつてゐるのである。さうして、これと同種の變化はハ行音ばかりでなく、クヮ音のカ音といふ音變化にも見られるのである。即ちクヮシ、クヮジが、カシ、カジになつたもので、クヮがカになつたのはこれは京都の言語に於ては江戸末期から明治にかけて起つたものである。それ故、これは國語の音韻變化の上に於ける一つの著しい傾向で、あると見る事が出來るのである。私が講演の題目としてかゝげた「國語音韻變化の一傾向」といふのは、これをさしたものである。
 むかしからの國語の音變化にかやうな傾向があるといふ事は、專門學者の間にはよく知られてゐる事で、私が事新しく申すまでもない事であるが、今日特にこの事について申上げたいとおもふのは、これについて多少新しい考が浮んだからで、それはワ行音の變遷に關してである。國語のワ行音は古くはwa、wl u we woであつて、その中uだけは非常に古くからア行のウと區別がなかつたのである。これ(266)は多分、wといふ子音がuと非常によく似てゐる音であつて、wuとuuとが甚ちかかつた爲であらうと思はれる。ウ以外の音は、すべてwの子音をもつてゐたのであるが、それが今日に於てはwaiueoとなつて、ワ行以外はア行のiueoと同音になつた。これは、どんな音變化かといふに、wは唇をすぼめて發する音である。それがなくなつたのであるから、これはやはり唇音退化の傾向の一つのあらはれと見るべきであつて、もとより國語の音變化の一般的傾向にそむくものではない。
 かやうな音變化がおこつたのは何時かといふに、大體平安朝中頃から末期にうつる頃かとおもはれるのであつて、前にのべたハ行音の語中語尾にあるものがワ行音になつたよりすこし後である。即ちハ行音がファ行に發音したのが、平安朝中期頃にワ行音になつて、もとからのワ行音と同音になり、その後之を去る遠からぬ時代にこのハ行から轉じたワ行音と共にワ行音が、ワの外はア行のイエオと同音になつてwaiueoと發音されるやうになつたのである。かやうに從來考へられてゐたのであるが、私の研究によれば、この時變化したのは、wiweの二つの音だけであつて、ヲの音はワの音と共にwを保存し、wo音であつたのである(ア行のoもwoとなつた)。
 (この事については、まだ委しい研究は發表しないが、本年二月の「國語と國文學」に「國語の音節構造と母音の特性」の中に要點だけを擧げておいた。即ち平安朝末期の心蓮の悉曇口傳と室町時代の未の吉利支丹のローマ字書きとによる。)
(267) さすれば、この時起つた音變化は、ワ行音のうち、wiweはw音を失ひ(weはyeとなつたと考へられるが、wの消失した事は同樣である)、ワ、ヲは之を保有したのである。
  wa (w)i  (w)e wo
  ワ ヰ   ヱ  ヲ
 さすれば、この變化は、w音の消失であつて、やはり唇音退化の方向にあるものではあつたが、單純にして一樣なものではなく、次に來る母音の相違によつて、變化したものとしないものとがあるのである。さすれば、その相違は何に基づくかといふに、それは母音の性質によるものである。この前の唇音を失つた母音ieと保存したaoとの性質を見るに、之を發する時の舌の位置から見れば、eは前母音でありaoは中母音及び奥母音である。しかし、右の現象は、この點からは説明が出來ない。之を發する時の唇の形を見るとaは唇を開き、oは唇をすぼめてまろくする。之に對してiとeは唇を平かにする。然るに子音wは唇をすぼめて發する音である。さすればwaの時はまづ唇をすぼめて、次に之をゆるめてひらく、woの時は唇をすぼめて、それをすこしゆるめる。wiの時はまづ唇をすぼめて次に之をゆるめると共に唇を更に左右にひいて平かにする。weの時もまづ唇をすぼめて、次に之をゆるめると共に唇を左右にひく、即ち、wawoに於ては、wからaoにうつる時の運動は自然であつて容易である。之に對して、wiweの時は、wからieにうつる時一旦すぼめた唇を更に左右にひらか(268)なければならないのでその唇の運動は二重になつて、多くの努力を要する。かやうな複雜な唇の運動を單純にし、二重の努力を一度にした爲に、wiがiとなり、weがe(實はye)となつたのである。しかるに、wawoの場合は唇の連動は比較的簡單で多くの努力を要せぬ故、wをそのまゝ保有したものと解せられる。さすれば、この時起つた音變化は、唇の運動の退滅ではあるけれども、p→Fへ、Fからhへ、又語中語尾のFからwの場合の如く無條件のものではなく條件附のものであつたのである。右に述べた通り、ワ行音は、平安朝末にはワwaiイuウyeエwoヲとなつたのであつて、今日のワ行音waiueo。とくらべると、ヲがまだw音を保つてゐる點がちがつてゐる。一それでは何時woがoになつたかといふと、室町末の標準的發音ではまだwoであつたらしい事は、吉利支丹文學の綴字にuoとなつてゐる事によつてほゞ明かである。それが、今日では母音のoである故、江戸時代に於て變化したと思はれる。江戸時代では何時かといふに、享保年間にかいた謠の發音を示す音曲玉淵集にはオをウヲ〔二字傍線〕ととなへるのはわるいとある故、この時代には母音のオであつたと考へられる。
 を〓〔二字□で囲むの假名ウヲ〔二字傍線〕と拗音に唱ふ車惡
又本居宣長の漢字三音考によつても、その時代には既にoになつてゐたと考へてよいやうである。しかし、それではwoがoになつたのは江戸時代の初から享保乃至天明にいたる百二三十年乃至百七八十年の内といふ事になつてあまりに漠然としてゐる。
(269) ところが、この音變化は前にも述べたやうに、wが脱落したのであつて、唇音退化の一つの場合で、唇をすぼめるのが弱くなり遂には全く唇をもちゐなくなつたのであるが、一方、これと大體似た時代即ち江戸時代前期に、これとよく似た音變化が起つてゐるのである。それは前にのべた語頭に於けるF音のh音への轉化である。これは室町時代まではハヒフヘホがファフィフフェフォであつたのが江戸初期の標準語に於てハヒフヘホになつたので、唇の運動から見れば、すぼめるのが弱くなり遂に全く唇をつかはなくなつたのである。その變化はwoに於けるwの脱落と同じことである。〔その上、Fがhに變じたとしても、その他の諸音と同一になるのでなく、從つて他の語と形が同じくなつて之と混同するおそれのないことも、woがoにかはつた場合と全く同一でぁる。〕かやうな同じやうな音變化が、同じやうな時代に起つたとすれば、これは全然關係ないものではなく、むしろ兩者並行して同じ時代に起つたものと考へて不合理ではないではあるまいか。さすれば、Fからhへの變化が前述の如く江戸初期にあつたとすれば、woのwの脱落もやはり江戸初期頃に起つたのであらうかと考へられる。これは理論から事實を推定したものであるから、十分確實ではないが、確實な證據があらはれるまではさう推定しておいてもよいのではあるまいかと思ふ。
 猶一つこゝに問題となるのは、右のやうにしてwoが初の子音wを無くしていつたのに、之と同じ子音を有する「ワ」音も之と同じくw音を失はずして今日にいたつてゐるのは何故かといふ問題である。(270)これは困難な問題で、まだ明確な結論を得るには至らないけれども、wo音とwa音とではすこしちがつた事情がある事は否まれない。即ち、wo音はo音に變じても他の音と同じ音になる事なく、從つてwo音をもつてゐた語が新に他の語とまぎれる事は全然ないのである。賂るにwa音がwをおとせばa音となつて、もとからのア音と同音となるものがあるのであつて、たとへば、「ワカイ」が「アカイ」となつて、もとからの「赤い」と混じ、「わし」がアシとなれば「足《アシ》」と混じ、「ワキ」がアキとなれば「秋」と混じる。かやうな例は相當多數に上る。これでは言語使用上不便が少くない。又、アといふ音は、むかしから語頭には用ゐられたが、語中語尾に用ゐる事はなかつた。複合語で語の中にあらはれるものも、他の音になる傾向がある。「見合《ミヤイ》」「繪合《ヱヤワセ》せ」「具合《グワイ》」。ワ音がすべてア音になつたとすれば、ア音が語中語尾にあらはれる事になる。これは我が國語の音結合の慣習の上からは願はしくない事である。かやうな事が原因になつて、ワだけが、今日までもw音を保つてゐるのではあるまいか。
 以上のやうに見てくると、唇音の退化又は退滅といふ事は、きはめて古い古から引つゞいて我が國語の音變化の上に見られる顯しい傾向であつて、いろ/\ちがつた時代にいろ/\の音變化を起してゐるのであるが、しかし、そのあらはれは、必しもいつも同樣でなく、その場合の状勢によつて、いろいろちがつたすがたをとつてゐる事がわかるのである。
 補遺(一)P→F シカシbは變化セザリシ理由
(271)  (二)クヮクヰクヱノ變化(時代)、「クヲ」ノ問題
 以上私の講演は、あまり專門に渉つて專門家以外には興味なく又難解であつたかをおそれる。ことに私自身の未熟な新しい説をも申上げましたが、かやうな事はこのやうな一般の講演等でなく專門の學會にでも發表して專門家の御批判を仰ぎ更に一層考を錬つた上でなければ不適當であつたかも知れませぬ。しかしながら、私としては、上田先生のお教を受けた私どもが、先生の卓拔なる御研究の後をたどつて、今日までにどの邊まで研究をすゝめる事が出來たかの一端をこゝに披れきして、新しい國語學を打ちたてて我々に正しい研究の道を示し、我々をお導き下さいました先生に御禮を申上げて先生を記念したいといふ心もちから出た事でございます。皆樣の御寛容を仰ぎたいとおもひます。
 
 刊行委員附記 この稿は、講演の際の手控へであるため、文體に不統一の點があり、二六四頁六行目のごとく用例を書きさしにされた部分もあるが、すべてもとのままにした。なほ二七〇頁十行目にあたる部分の欄外に、「カワ、カアル、キアマル」の書きこみがある。
 
   附録
 
日本文學大辭典執筆解説
(274)五十音圖【ごじふおんづ】 國語學
 【名稱】 古くは五音圖といつた。反音圖・假名反《かながへし》の圖・對馬《つしま》以呂波・五十字文・「いつらのこゑ」ともいふ。
 【解説】 假名を左の如く五字づつ十行に列ねた圖をいふ。
    ア イ ウ エ オ
    カ キ ク ケ コ
    サ シ ス セ ソ
    タ チ ツ テ ト
    ナ ニ ヌ ネ ノ
    ハ ヒ フ ヘ ホ
    マ ミ ム メ モ
    ヤ イ ユ エ ヨ
    ラ リ ル レ ロ
    ワ ヰ ウ エ ヲ
縱の各行を「行」と云ひ、その最初の假名によつてそれ/”\ア行・カ行・サ行などいふ。横の各列を「段」又は「列」(275)と云ひ、その最初のア行の假名によつて、それ/”\ア段・イ段・ウ段など又はア列・イ列・ウ列などいふ。一々の假名は必ず一定の行の一定の段に位する。行及び段は一行又は一段づつ連ねて呼ぶのが常である。五十音圖は、古くは萬葉假名で書いたものもあるが、早くから片假名で書いたものがあり、後にはそれが例となつた。それ故、片假名と五十音圖とを混同する事もあつた(片假名參照)。しかし近來は平假名で書く事も多くなつた。又五十音圖には、あらゆる發音を異にする假名が含まれ、それが一定の順序に排列せられてゐるために、假名で書いた語を排列する時には五十音の順による事が多い。
 【五十音と假名の發音】 五十音圖は、原則として、一々の假名の示す音節を二つに分解して、初めの子音の部分の同じものを同行に、終りの母音の部分の同じものを同段に置いたものである。それ故、五十の音は、悉く互に違つた音であるべきであるのに、ア行のイとヤ行のイ、ア行のエとヤ行のエ、ア行のウとワ行のウは全く同じ假名であつて、假名としては發音上區別がない。それ故、一方に別の字を置いて(例へばヤ行のイに「※[イを倒立させたもの]」を、ア行のエに「※[変体仮名]」又はヤ行のエに「※[エの一画目をノにしたもの]」を、ワ行のウに「于」を置いて)音の相違を明かにしようとしたものもある(古く萬葉假名で書いた五十音圖には、これ等を區別したものがある)。この中、ア行のエとヤ行のエとは、古く發音にも假名にも區別があつたが、後に同音となり假名も一つになつたのである。又、ワ行のヰ・ヱ・ヲは、今はア行のイ・エ・オと同音であるが、これも古代には發音上區別があり、同音になつた後も、假名としては、別々のものと考へられてゐる。又、サ行のシ、タ行のチ・ツは、理論から云へば、・si・ti・tuであるべきであるが、今はshi(∫i)、chi(t∫i)tsuとなつて、例に合はないが、古くはチ・ツは、tituと發音した(「シ」の古音は、siかshiかまだ明かでない)。かやうに古代の假名(276)の發音によれば、五十音圖は大抵規則正しいものとなり、當時の國語の音をその異同によつて組織的に排列した音聲表と見られるが、なほヤ行のイ、ワ行のウの如き、古代國語に無かつた音を加へてゐる。さうして後世、國語の音聲變化に伴ふ假名の發音の變化と共に、五十音圖は音聲表としては正しくない部分が生じたが(タ行がtachitsutetoとなり、ワ行がwaiueoとなつたなど)、それにも拘らず、國語の音相通又は音轉換等を示す圖としては、そのまゝ用ひる事が出來る。(例へば、「こゑ〔二字右○〕」−「こわ〔二字右○〕いろ」に於ける「ゑ」と「わ」との轉換は、「ゑ」の發音がweからeに變化した後も、やはりワ行のエ段とア段との轉換である)。
 【五十音圖の異同】 古代からの文獻に五十音圖の全部又は一部が見えてゐるものを集めて見ると、その行及び段の順序に異同あるものが少くない。段の順序に於ては今の五十音圖の如くアイウエオの順序であるものの外に、古くイオアエウ、アエオウイ又はアウイオエと次第するものがあり、行の順序は、今の五十音圖に普通であるアカサタナハマヤラワの順序と多少の差あるものが非常に多く、今の順序のまゝのものは平安朝にはなく、鎌倉時代にもあまり多くない。しかし吉野時代頃からは次第に多くなり、室町時代に於ては大概これに一定したやうである。現存最古の五十音圖に屬する明覺の「反音作法」及び「梵字形音義」に見えるものは、萬葉假名を用ひ、ア行は阿伊烏衣於、ヤ行は夜以由江與、ワ行は和爲于惠遠とあつて、片假名で區別なき音まで區別してゐる。又、明覺の書にある片假名の五十音圖でも、當時同音になつてゐたとおもはるゝイエオとヰヱヲとの位置も正しくなつてゐる。然るに平安朝終りから鎌倉時代に入つては、ア行のオとワ行のヲとの位置を誤つて、ヲをア行にオをワ行に置いたもの、又は、ア行、ワ行共にヲとしたものが出來、それが次第に普通となり、更に、エとヱ、イとヰの屬する行を誤るものさへも出た。然(277)るに江戸時代に入つて、契沖の擧げた五十音圖は、ア行のオとワ行のヲとの位置が入れかはり、その他は正しくなつてゐたが、本居宣長にいたつて、その誤りを訂して、古代のまゝの正しい圖が行はれるに至つた。
 【五十音圖に關する最古の文獻】 現存最古の五十音圖として年代の明かなものは、悉曇學者僧明覺の著なる寛治七年の「反音作法」、承徳二年の「梵字形音義」及び康和三年以後の作なる「悉曇要訣」に見えるものである。なほ古いのは、大矢透氏が寛弘より萬壽年間迄のものと推定せられた醍醐三寶院所藏古寫本「孔雀經音義」の卷末に七行だけあるものと、承暦三年に出來た「金光明最勝王經音義」に濁音の行を擧げたものとがある。なほ天台座主良源から道命に傳へたと稱する「五韻次第」の中にもあるが、この書は早くも平安朝の終り、多分は鎌倉時代のものと思はれる。
 【五十音圖成立の由來】 五十音圖は國語の音聲表のやうに見えるけれども、元來國語のために作られたものでなく、外國語學、殊に漢字音の反切(別項)のために作られたものらしく思はれる。國語には區別なく、漢字音(及び梵語梵字)では區別があるア行のイとヤ行のイ、ア行のウとワ行のウとを區別したのも、漢字の音を反切で示した「孔雀經音義」の末尾に最古の五十音圖の一つが見出されるのも、僧明覺が最も古く五十音圖を擧げて假名による反切法を説いてゐるのも(反音作法)、後世までも五十音圖が反切に用ひられて、反音圖とも假名反の圖とも名づけられたのも、右の如く考へれば最も自然に解せられる。反切のためには、各行の假名が皆同樣の順序に並んでゐる事だけが必要なのであつて、行と行との順序も、行中の假名の順序もどんなでもよいのである。又實際用ひる場合には、反切の上字と下字とに關係ある二行だけあればよい。古代の五十音圖に、行や段の順序がさま/”\になつてゐるのも、又古書に(278)二三の行だけ見えて全部揃はないものがあるのも、かやうな理由による。尤も支那語の音聲は日本語より複雜であつて、日本語に無い音が少くない故、正確な漢字音は假名では寫し盡せない譯であり、梵語も亦同樣であるが、支那との交通が盛んであつた時代には、正確な支那語又は梵語の發音が傳はつてゐたであらうが、間もなく日本化した事と思はれるから、漢字音も梵字の發音もすべて假名で示し得る事となつたのであらう。その時代に同じ子音ではじまる音を連呼して反切をなす事となつて、五十音圖の個々の行が出來、それが纏まつて五十音圖となつたのであらう。
 【五十音圖と悉曇】 同じ子音を有する音を連呼する事は、悉曇に於てあり、悉曇章の各行は皆同子音ではじまる音節である(悉曇參照)。その順序はa ※[−/a] i ※[−/i] u ※[−/u] e ai o au a〓ahであつて、日本の假名に無いものを除けばアイウエオの順となる。又子音は悉曇字母に於けるものの中、日本語に無いものを除けば、カサタナハマヤラワの順序となる。これによれば、現今の五十音圖は悉曇に基づくものであること疑ない。古代の五十音圖は、段の順序に於ては、明覺以後アイウエオの順のものが最も多く、悉曇の影響が明かであるが、しかし「孔雀經音義」の末尾や、教長の「古今集註」や、顯昭の「日本紀和歌註」、凉金の「管絃音義」の如き古い時代のものには、これとも違ひ、又相互にも同じくないものがある。これ等は、或は悉曇とは關係なく、漢學者、その他から出たものかも知れない。又行の順序は、悉曇に一致するものは、鎌倉時代以後のものであつて、それ以前には見えないやうである。これはその順序があまり大切でなかつたためでもあり、又學者が自分の考で、音の性質の類似したものを近くに置いたりしたためでもあるらしい。しかし、遂に今日の如き順序にきまるやうになつたのは、悉曇の影響であることは疑ない。
 【五十音圖の成立年代及び作者】 現存文獻の示す所では、五十音圖は院政時代には既にあり、平安朝半頃にも多分(279)あつたらうと考へられる。その作者については、藤原長親(耕雲明魏)の「倭片假名反切義解」には、吉備眞備を片假名及び五十音圖の作者としてゐるが信じ難い。眞備は支那に留學して、當時の支那語に精通してゐたのであるから、漢字音のために作つたとすれば、五十音では、漢字音を寫すに不足であり、又國語のために作つたとしても、奈良朝に於ては、國語の音節の種類は少くも六十ほどあつて、五十音ではやはり不足であるからである。又江戸時代の國學者には、既に神代からあつたと考へたものもあつたが(眞淵の「語意考」、篤胤の「古史本辭經」など)、これは一層成立し難い。大矢透氏は、萬葉假名で書いた最古の五十音圖及びその系統のものに於て、ア行のエとヤ行のエとを區別した事、及びこれに用ひた文字が、弘仁より天暦までの有樣に一致し、且つその母音を寫した文字が「慈覺大師在唐記」中の悉曇字母の音註に類似した點がある事と、萬葉假名の五十音圖を有する「五韻次第」が良源の傳本といはれてゐる事からして、天台の慈覺大師圓仁の流派から出たものであることを主張された(音圖及手習詞歌考)。しかしながら、現存最古の五十音圖が、果して原始的の形を殘してゐるものかどうかは疑問であり、假にさうであるとしても、これはア行・ヤ行・ワ行のあらゆる音をすべて區別してゐるのであるから、ア行のエとヤ行のエとの別ある事のみを標準として時代を論ずるのは、當を得たものとは思はれない。又大矢氏は、五十音圖が最初から悉曇と關係あるものとして説を立てたのであるが、その他の系統のものが無かつたとも斷定出來ない(前出)。されば大矢氏の論は、まだ根據薄弱であると言はなければならない。今日の處では、五十音圖は平安朝の前半の中に出來たもののやうであつて、悉疊學者即ち僧侶がこれと深い關係があつた事は否めないが、果してそれが最初の又唯一の作者であるかどうかは未だ決し難い。
(280) 【五十音圖と國語研究】 五十音圖は主として反切のために作られたもののやうであつて、後までも反切に用ひられ、韻學に必要なものとせられたが、又國語の音聲表とも見られ、國語の音の性質を説明するに便宜であり、殊に假名のやうな、音節文字を用ひる國語に於て、音節中の單音の變化又は轉換を示すには必要であるところから、國語研究にも利用せられ、語釋語源の説明からはじめて、假名遣、てにをは、活用の研究にいたるまで、間接直接に影響を與へたのであつて、國語研究には缺く事の出來ないものとして重んぜられた。
 【參考】 音圖及手習詞歌考 大矢透 ○音圖及手習詞歌考を読む 吉澤義則(國語國文の研究) ○五十音考 佐藤誠實(國文論纂) ○五十音圖に就いて 金澤庄三郎(國語の研究)
 
清音【せいおん】 國語學・漢語學
 【解説】 音の種類の一つで、濁音(別項)及び半濁音(別項)に對立する。ア・カ・サなどの如く、假名文字に何等の符號を添加する事なくして書き表はす音節を清音といふ。これに對してガ・ザ・ダなどの如く、假名文字に「い」の符號(濁音符)を加へて書き表はすものを濁音といふ。又パピの如く「。」符(半濁音符)を添加して表はすものを半濁音といふ。清音に發音するを「すむ」といひ、濁音に發音するを「にごる」といふ。
 【清音と濁音との差異】 これ等の差異は、音節を構成する母音に在らずして、音節の最初の子音に在る。即ち現代の發音によれば、(一)カ行サ行タ行ハ行の假名の如く、清音とこれに對應する濁音(ガ行ザ行ダ行バ行)とが並び有するものに於ては、清音の初めの子音は、k・s・∫・t・t∫・t∫・h・Fなど、すべて無聲音(聲帶の振動によつて(281)發する「こゑ」を伴はざる音)であり、これに反して、濁音の初めの子音は、g(※[ngの発音記号])・z・※[zの発音記号]・d・bなど、すべて有聲音(「こゑ」を伴ふ音)である。(二)ア行ナ行マ行ヤ行ラ行ワ行の假名の如く、清音のみあつて、これに對立する濁音が無いものに於ては、清音の初めの子音は全く無いか(ア行の假名)さもなければ有聲音である。(三)ハ行の假名は、清音・濁音の外になほ半濁音があるが、半濁音の初めの子音pは、無聲音である。かやうにして清音・濁音等の區別は、無聲音と有聲音との別に似てゐるが、これと全く一致するものではない。又同じ假名の清音と濁音との差異も、力行のkとガ行のg、サ行のs・∫とザ行のz・※[zの発音記号]、タ行のトとダ行のdの如きは、有聲と無聲とが異なるだけで、その他の點では全く同一であるが、カ行のkとガ行の鼻音の※[ngの発音記号]、ハ行のh・Fとバ行のbの如きは、有聲無聲の相異以外に、音の性質が違つて居り、殊にバ行のbの如きは、これに正しく對應する無聲音はその清音の子音ではなく、半濁音の子音pである。かやうに、清音濁音等の區別は、主として假名に現はれた形によつたもので、音聲學上の區別とは必ずしも合致しないのであるが、併しこの區別は日本語の構成を説明する場合には必要なもので、「は」(葉)が「かれば」(枯葉)とする時に起る音變化(h→b)の如きは、單に音聲學に於ていふ有聲化だけでは説明出來ず、清音「は」が濁音「ば」となつたものとして説明しなければならない。
 【由來】 言語の音に清音と獨音とを區別するのは、漢字音に始まつたものらしく、平安朝に行はれた反切法の頌文にも「輕重清濁依2上字1平上去入依2下字1」といつてゐる。韻鏡の如き等韻學に於ては、漢字音の最初の子音(聲といひ、これを三十六字母にわかつ)を、清・次清・濁・清濁の四種に分つてゐるが、清は無聲子音・次清は無聲有氣音、濁は有聲破裂音又は有聲摩擦音、清濁は、鼻音及び〓・〓の如き特殊の有聲音である。かやうにして、漢字の音(282)そのものについて清濁といつたのが、遂に漢字音や日本語を假名に書いたものについてもいふやうになり、その後、假名の發音が變化しても、その稱を改めなかつたもののやうである。(漢字音に於ける右のやうな清濁の考は、多分梵語學から來たものであらうと思はれるが、まだ明らかでない。)
 【參考】 清濁音 上田萬年(帝國文學一ノ六) ○國語音聲學 神保格 ○濁點源流考 吉澤義則(國語説鈴所收〕
 
濁音【だくおん】 國語學・漢語學
 【解説】 音の種類の一つで、清音に對立する。假名文字では、ガザの如く「い」符(濁音符)を附して書き表はす音節。その初めの子音は、凡て有聲音である(併し有聲の子音で始まる音節は、凡て濁音であるのではない)。濁音は、ガ行ザ行ダ行バ行の如く、これに對する清音のある音節にのみ存する。日本語では古くは濁音で始まる語はなかつたやうであり、また複合語に於ては、語の最初の清音が濁音になる事がある(「かさ」が「ひがさ」となる類)。かやうな點からして、日本語には本來濁音がなかつたものとし、甚しきは延喜・天暦の頃までも、清音のみであつたと説くものもあるが(金石音主の古言本音考など)、容易に信じ難く、少くとも歴史時代に於ては、濁音の存在を否定する事は出來ない。
 【本燭と新濁及び連濁】 古く漢字音に於て、本來濁音である音を本濁と云ひ、本來清音である音が、他音との連結上、濁音となつたものを新濁と言つた。新濁は又連聲濁とも云ひ、連濁ともいふ。純粹の國語に於ても、同樣の現象がある。「は〔傍線〕し」(箸)が「ひばし」(火箸)となり、「た〔傍線〕る」(樽)が「さかだる」(酒樽)となる類である。これをも(283)連濁といふ。
 【參考】清濁音 上田萬年(帝國文學一ノ六) ○國語音聲學 神保格 ○達濁音の發生 山田孝雄(國學院雜誌一〇ノ八) ライマン氏の連濁論 小倉進平(國學院雜誌一六ノ七・八) ○濁點源流考 吉澤義則(國語説鈴所收)
 
半濁音【はんだくおん】 國語學
 【解説】 音の種類の一つで、假名に。符(半濁音符)を添加して書き表はす音節。パピプペボの類で、ハ行以外にはない。その音節の最初の子音はpで無聲音である。この音が特に注意して他と書きわけられるやうになつたのは、江戸時代かららしい。江戸時代の國學者は、この種の音は、漢語その他の外來語か、又は後世轉訛した語にのみあつて本來の日本語にはなかつたものと考へたが、明治以後、ハヒフヘホの音は、甚だ古い時代にはpapipupepoであつた事が明かになつた。但し遲くも平安朝に於ては、ハ行音は既にパ行音でなくなつてゐたものと考へられるから、それ以後のパ行音は、古い時代の發音が特殊の場合に殘つたものか、さもなければ外國語から輸入せられたものである。
 【參考】 國語音聲學 神保格 ○漢字三音考 本居宣長 ○P音考 上田萬年(國語のため所收「語學創見」の中)
 
拗音【えうおん】 國語學
 【解説】 音の種類の一つ。「きゃ」「きゅ」「きょ」「しゃ」「ちゅ」「ちょ」「みょ」「ぎゃ」「ぴょ」又は「くゎ」「ぐゎ」の如く、ヤ行又はワ行の假名を他の假名の下に添へて表はす一音節の音をいふ。假名一字で表はし得る一音節の音を直《ちよく》(284)音《おん》といふのに對する名稱である。ヤ行の假名を添へて表はすものをヤ行拗音、ワ行の假名を以てするものをワ行拗音といふ。拗音は清音にも濁音にも有する。現代語で普通に用ひられる拗音は、キャ、ギャ、※[ギの濁点一つ少ない]、シャ、ジャ、チャ、ヂャ、ニャ、ヒヤ、ビャ、ピャ、ミャ、リャの各行とクヮ、グヮ、※[グの濁点一つ少ない]ヮとであつて、ヤ行ではヤ・ユ・ヨ、ワ行ではワを添へて表はすもののみが行はれてゐるが、(「しぇ」「ちぇ」の如くエを添へて表はすものも時に用ひられる)、古くは「くゐ」「くゑ」の如くヰ・ヱを添へて表はす拗音もあつた。拗音と云はれてゐるものの中には、次の三つの異つた種類の音節が一括されてゐる。
 (一) 最初の子音の次に〔j〕(ヤ行音の子音)がある音節(キャkja、ニュnju、ヒョhjo等)。(二)最初の子音の次に〔w〕(ワ行音の子音)がある音節(クヮkwa等)。(三)〔∫〔t∫〕〔※[zの発音記号]〕〔d※[zの発音記号]〕で始まる音節シャ∫a、チャt∫a、ジュ※[zの発音記号]u、ヂョd※[zの発音記号]o等)。(一)(二)は、共に子音二つと母音とより成つたものであるが、(三)はこの子音は直音(「シ」「ヂ」)の子音と同じである。しかし(一)と(三)とは「口蓋的」であると云ふ點で一致する。(「口蓋的」なものとしては他にヤ行の子音があるが、これは普通拗音のなかには入れない)。
 【國語史上の拗音】 本來の日本語に於て、拗音があつたかどうかは不明である。もし上代のサ行音が、シャ・シ・シュ・シェ・ショ又はチャ・チ・チュ・チェ・チョと發音せられてゐたとすれば、勿論拗音であり、又奈良朝以往の文獻に於けるキケコ以下十二の假名の兩類のうちの一類が、二重母音又は※[oウムラウト]の如き母音を有するものであつたとすれば、これも拗音又はその類似音であるが、これ等は少くとも後には直音となつたか、さなくとも直音と考へられてゐた。漢字音には古くから各種のヤ行拗音やクヮ・クヰ、クヱなどのワ行拗音があつて、漢字の正式の發音としてのみならず、(285)日本譜中に入つた漢語にも、その音が保存せられた。のみならず、平安朝以後に起つた、iueuの長母音化によつて、字音のkiuriukeureu等がkyuryukyoryo※[uoに長音記号あり]と拗音になつたと共に、純粹の國語の音も拗音化したものがある。「けふ」(今日)がキョーとなり、「めをと」(夫婦)がミョートとなつたなどその例である。また近來、西洋語の輸入によつて、これまで普通に用ひられなかつた拗音が用ひられるやうになつたものもある(「ツェッペリン」「シェクスピヤ」など)。かやうに、ヤ行拗音は、後世にいたつてむしろ勢力をましたに反して、ワ行拗音は、次第に直音に化する傾向があるのであつて、クヰ・クエが室町時代に至つては全く滅びてキ・ケとなり、クヮは江戸時代から、次第にカとなり、現代に於ては、多數の方言に於て既に滅びてしまつた。
 【拗音の表記法】 拗音を表記するのに、古くから、普通の場合には「きや」「くわ」の如く、「や」「わ」を上の「き」「く」と同大に書いて各々の假名をそれ/”\一音節に發音するものと區別がないが、特に拗音であることを明かにするため、「きゃ」「くゎ」の如く「ヤ」「わ」を小書きしたり、又は「きや※[)]」「くわ※[)]」・「きゃ〔二字傍線〕」「くゎ〔二字傍線〕」等の如く記號を附したりすることが行はれてゐる。又【ヤユヨキシチ】等と書く方式を唱へたものもある。(新井白石の東音譜など)。極めて古くはヤ行の假名のかはりにア行の假名を用ひて「シア」「キア」の如く表記したこともある。(「文學研究」第二輯所載春日政治氏古訓漫談參照)
 【備考】 橘成員の「倭字古今通例全書」では、直音を、五十音圖の縱の相通、すなはち同じ段の中の相通(五吾相通といはれる)とし、拗音を、五十音圖の横の相通、すなはち同じ列の中の相通と解したが、それは誤用であつて從ふべきでない。
(286) 【參考】 國語音聲學 神保格 ○國語音聲學 同上(國語科學講座) ○日本音聲學 佐久間鼎 ○和事正濫通妨抄 契沖(契沖全集第七卷) ○音韻史上より見たる「カ」「クヮ」の混同 新村出(東方言語史叢考)
 
促音【そくおん】 國語學
 【解説】 音の種類の一つ。「セック」(節句)「キップ」(切符)「ザッシ」(雜誌)などに於て「ツ」の字で表はされる音。現代國語では、促音は、その次に來る音節の最初の音と同一の子音であつて、音の長さから言へば、音節一つの長さを占めてゐる。その子音はk・t・p又はS・∫で何れも無聲子音である。それ故、促音は次の音節の初めの子音と同一の無聲子音で、一音節(日本に於ける獨特の意味の音節)をなすものであるといふ事が出來る。この促音は次の音節の最初の子音と共に一個の長子音であると見る事が出來るものである。即ちp・t・kを發するためには唇又は舌で呼氣の通路を閉ぢ、s・∫を發するためには舌の前部と上顎との間で呼氣の通路を狹めるのであるが、普通の場合は、すぐこれを開くが、促音の時は、閉ぢ又は狹めてゐる時間を特に長くし、一音節の長さに延ばしたのであつて、これを開く時に發する音、又は持續した音の最後の部分が次の音節の最初の子音となると見る事が出來る。さうしてp・t・kの促音の場合には、音は全く聞えず、s・∫の場合には、純粋の子音のみが持續する。促音は、語の初めにも終りにもあらはれない。(但し、特殊の場合には終りにあらはれる事がある)。又促音は、無聲子音にのみあるが、方言によつては、有聲子音(濁音の前)にもあらはれる。古く純粹の日本語に促音があつたかどうかは不明である。奈良朝に「モテ」「モタリ」といふ語があつて「モチテ」「モチタリ」の義であるが、もし「モテ」を「モツ(287)テ」「モタリ」を「モツタリ」とよんだとすれば促音があつた事となるが、しかしさうであつたとしても、その促音が一音節だけの長さを占めてはゐなかつたと考へられる故、後世の促音とは同じものとは言ひ難い。然るに、漢字音に於ては人聲音がp・t・kで終つたので、その次に清音が來る場合には、促音のやうな現象が起つたものと考へられる。(「日記」nit-ki→nikki「雜記」zap-ki→zakki「節供」set-ku→sekkuなど)。これに伴つて、純粹の國語に於ても、平安朝以後普通の音節が特殊の場合に促音に變じ(これを促音便といふ。「たふとし」が「たつとし」「たちて」が「たつて」「いひし」が「いつし」となる類)、促音が多く用ひられるに至つた。
 【促音の記法】 促音を示す特別の符號、又は文字は久しくなかつた。それ故、これを省いて書き表はさないものが多かつた(ニッキを「にき」、タツトブを「たとぶ」の類)。後、擬聲語などの場合から始まつて、これを「つ」の字で書き表はすことが次第に多くなり、遂に一般の風となつた。「つ」は入聲音の場合に促音となる事が多いからである。
 【參考】 促音考 上田萬年(國語のため第二所收) ○國語音聲學 神保格 ○日本語の音節に就て特に促音の研究 金田一京助(國學院雜誌一九ノ八) ○國語音韻論 同上 ○日本音符考 吉澤義則(國語國文の研究所收)
 
撥音【はつおん】 國語學
 【名稱】 「はねかな」「はね字」とも、又鼻聲とも。
 【解説】 國語に用ひられる音の一種で「ん」「ン」を以てあらはす音。現代の標準語では、その實際の發音は、(288)(一)語尾にある場合は※[ng]又は※[Nに似た字](※[ng]よりもつと後の方で、軟口蓋のずつと後の方と舌の後の方とを合せて發する鼻音)。アン〔傍線〕(餡)ホン〔傍線〕(本)バン〔傍線〕(晩)サン〔傍線〕(三)等。(二)pbm(パ行バ行マ行)の前ではm。サン〔傍線〕バ(産婆)アン〔傍線〕マ(按摩)サン〔傍線〕ポ(散歩)。(三)dn(タ行ダ行ザ行ナ行)の前ではn。テン〔傍線〕ト(天幕)アン〔傍線〕ド(安堵)カン〔傍線〕ナ(鉋)。(四)k※[ng](カ行ガ行)の前では※[ng]。テン〔傍線〕キ(天氣)ナン〔傍線〕ギ(難儀)。(五)aouw(アオウ及びワ行)の前では大體※[〜/u](やゝオに近いウ吾の鼻音化したもの)。カン〔傍線〕オン(漢音)テン〔傍線〕ウン(天運)ケン〔傍線〕アク(險惡)。(六)iej∫(シ・ヤ・ユ・ヨ及びシヤ行)の前では大體※[〜i](やゝエに近いイ音の鼻音化したもの)。カン〔傍線〕イ(簡易)シン〔傍線〕ヱン(神苑)ハン〔傍線〕シ(半紙)。(七)S(サ行)の前では※[wに近い字](唇をすぼめないウの吾の鼻音化したもの)。シン〔傍線〕セツ(親切)タン〔傍線〕ス(箪笥)。(八)r(ラ行)の前では大體nに近い音。ハン〔傍線〕ラン(叛亂)。「ん」「ン」は語の最初には用ひられない。それ故、「う〔傍線〕ま」(馬)「う〔傍線〕め」(梅)の最初の音節はmであつても、これを撥音とは呼ばない。故に撥音は、鼻音又は鼻母音が語頭以外にあつて、一音節を形づくるものといふべきである。
 【沿革】 撥音は、漢語その他の外來語にはあるが、純粹の日本語では、音便又は擬聲語(テンチンドンドンなど)の外にはあらはれない。それゆゑ、本來日本語には無かつたものと考へられる。但し古く鼻母音のやうなものがあつたかとの疑ひもあるが、あつたとしても、今日のやうに一音節をなしたものではなかつたであらうと思はれる。然るに支那語にはmnng(※[ng])で終る音節があり、これが漢字音として日本に輸入された。極めて古い時代のことは不明であるが、推古朝以後支那と直接に交通した時代には、漢字音にはこの發音が用ひられ、大體平安朝までも正しい字音としてはなほ殘つてゐたやうであつて、mには「ム」の假名を、nには「ン」の假名をあててmとnとを區別し、(289)ngはウ・イの假名をあてて、本來のウ・イと文字の上には區別がなかつたが、※[レのような字]又※[升形のような字]のやうな特別の文字を以てこれを區別したものもあつた。然るに平安朝末期からmはnと混同し、ngは本來のウ・イと同音となつて、鎌倉時代以後は大體これ等の區別がなくなつたもののやうである。一方純粹の國語に於ても、平安朝に入つてから、音便によつてミムニヌビ等の音節が撥音に變じ、以後國語にも多く撥音が用ひらるゝに至つた。これ等の撥音は、初めは語中にあるものは文字に書かないことが多く、語尾のものは、「う」であらはすこともあつたが、中世以後、次第に「ン」「ん」を以て書きあらはすやうになり、遂に今日に及んでゐる。
 【參考】 「ン」に就いて 服部四郎(音聲の研究第三輯所載)○國語の撥音に就て 平田鬼丸(同、第四輯所載)○「ン」音辯 石黒魯平(同上) ○國語撥音の歴史的觀察 小倉進平(國學院雜誌一四ノ八−二)○字音尾ngnmの沿革 日下部重太郎(音聲の研究第三輯所載) ○日本音聲學 佐久間鼎(一六二頁以下)○片假名ワとンとの字源説附言吉澤義則(日本文學論纂) ○國語音聲學 神保格(七二頁及び一一四頁) ○字音假字用格 本居宣長 ○男信 東條義門 ○漢異音圖 大田方 ○音韻假字用例 白井寛蔭
 
音便【おんびん】 國語學
 【解説】 單語の音節が變化して、イ・ウ・ン又は促音になつたもの。もと音便又は言便と云つて、發音の便宜に任せて、もとの音と違つた音に發音する事をさして言つたのであつて、「いへ」を「イエ〔傍線〕」と發音するやうなのも含めたが、現今では、上述のもののみをさす事となつた。これ等は、もとの音如何に拘らず、假名では音の通り書き改め(290)るのが例である。音便は語頭音にはあらはれない。
 【種類】 音便になつた音の違ひによつて區別するのが普通である。(一)イ音便。キ・ギ・シ、稀にリから生ずる。「すい〔傍線〕がい〔傍線〕」(透垣「すき〔傍線〕がき〔傍線〕」から)、「つい〔傍線〕まつ」(續松「つぎ〔傍線〕まつ」から)、「しろい〔傍線〕もの」(白粉「しろき〔傍線〕もの」から)、「まい〔傍線〕て」(況「まし〔傍線〕て」から)、「ござい〔傍線〕ます」(「ござり〔傍線〕ます」から)。(二)ウ音便。ク・グ・ヒ・ビ・ミから生ずる。「しろう〔傍線〕」(「しろく〔傍線〕」から)、「したうづ〔傍線〕」(韈「したぐ〔傍線〕つ」から)、「戰う〔傍線〕て」(「戰ひ〔傍線〕て」から)、「飛う〔傍線〕で」(「飛び〔傍線〕て」から)、「頼う〔傍線〕だ」(「頼み〔傍線〕たる」から)、「等しう〔傍線〕す」(「等しく〔傍線〕す」から)。(三)撥音便(ンになるもの)。ニ・ビ・ミ・リから生ずる。「死ん〔傍線〕で」(「死に〔傍線〕て」から)、「飛んで」(「飛び〔傍線〕て」から)」「踏ん〔傍線〕で」(「踏み〔傍線〕て」から)、「くだん〔傍線〕の」(件「くだり〔傍線〕の」から)、「なん〔傍線〕ぬ」(「なり〔傍線〕ぬ」から)、「やす〔傍線〕んず」(「安み〔傍線〕す」から)、(四)促音便(促音になるもの)。チ・ヒ・リから生ずる。「勝つ〔傍線〕て」(「勝ち〔傍線〕て」から)、「戰つ〔傍線〕て」(「戰ひ〔傍線〕て」から)、「取つ〔傍線〕て」(「取り〔傍線〕て」から)。
 本居宣長は、右の外、ンの次に、ハ行音がパ行音になるもの(烟波「えんぱ」の如き)を一類としたけれども、今はこれを別類としないのが常である。
 以上の分類は甚だ明白であるが、音便の生ずるのは、次に來る音、又は語に依る場合が多い故、その方面から考察して分類する事も大切である。山田孝雄氏の「平家物語の語法」中の音便の條には、左樣な試みがある。
 【史的觀察】 音便のあらはれたのは主として平安朝の初期からであつたらしく、歌には音便を用ひず、歌集の端書や散文中には少くないのを觀れば、口語に於て生じ、初は口語に於て專ら用ひられたもののやうである。漢文の訓點に多いのも平安朝の口語に多く用ひられた爲めであらう。初はもとの形と音便の形とが並び行はれたであらうが、年(291)代が下ると共に、口語では、音便の形のみが用ひられ、もとの形は用ひられないやうになつた。音便が起つた原因については、漢語の影響であるとする説が有力である。
 【參考】 漢字三音考 本居宣長 ○雅言成法 鹿持雅澄 ○平家物語の語法 山田孝雄 ○國語史概説 吉澤義則
 
連聲【れんじやう】 國語學
 【解説】 或る音が、その前又は後に來る音と連續するために變化するものをいふ。普通に連聲として認められるものは、「えんい〔傍線〕ん」(延引)をエンニ〔傍線〕ン、「いんえ〔傍線〕ん」(因縁)をインネ〔傍線〕ン、「さんよ〔傍線〕う」(算用)をサンニョ〔二字傍線〕ウ、「しんわ〔傍線〕う」(親王)をシンノ〔二字傍線〕ウ、「さんゐ〔傍線〕」(三位)をサンミ〔傍線〕、「せついん」(雪隱)をセツチ〔傍線〕ン、「くつわく」(屈惑)をクッタ〔傍線〕クと發音する如く、漢語の複合語に於て、上の成分がン又は入聲のツで終り、下の成分がア行ヤ行又はワ行の音で始まる時、下の成分の初めがナ行音・マ行音・又はタ行音(又はそれ等のヤ行拗音)となり、入聲のツが同時に促音となるものをいふ。右の場合には、前の音の影響によつて下の成分の最初にn・m又はtの子音が加はつたものである。これ等の場合に於ては、假名はもとの假名を用ひ、ただ讀み方に於てのみ右の如く發音するものである(但し、現今では、發音の通り書き改める事もある)。右の現象は、現代に於ては、少數の慣用ある語にのみあらはれるのであつて、一般の規則としては行はれない。
 【異説】 連聲の名は、もつと廣い意味にも用ひられた。すなはち上記のものの外に、ガッカウ(學校)ヒッパル(引張)の如く、入聲のクが力行音の前で促音になるものをも含ませたもの(大槻文彦「廣日本文典」)、カンパ(看破)イツ(292)パ(一派)の如く、撥音及び入聲音の次に來るハ行音が、半濁音になるものや(貝原益軒「點例」」、フウフ(夫婦)・シイトク(至徳)の如く長音になるものをも含ませたもの(曰尾荊山「訓點復古」)、撥音の次に來る音の濁音化を含ませたもの(文雄「和字大觀鈔」)等がある。
 【國語史上の連聲】 連聲が何時から行はれたかは詳かでないが、「和名類聚鈔」に「浸淫瘡」を「心美佐宇《シンミサウ》」と記し、嘉保二年書寫本「反音作法」(明覺著)の紙背に「任意」をシムミ、「濫惡」をラムマク、「瞋恚」をシンニ、「攀縁」をヘンネンと讀む例を擧げ、三卷本色葉字類抄に「任意」をジミと訓してあるのによれば、既に平安朝に存したことが知られる。この時代は漢字音の終りの撥音にmとnとの區別が存してゐたので、從つてmの次ではマ行音に、nの次ではナ行音に發音された。また入聲音の連聲も既にこの時代に存したと思はれる。而して後世までも傳へられた佛典や漢籍の讀み方から觀れば、連聲は漢語の複合詞にあつては、規則的に行はれたものと思はれる。その後、撥音m・nの區別が失はれるに及んで、撥音の次には常にナ行音に發音されるやうになつたが、オムミヤウジ(陰陽師)サムミ(三位)の如き少數の語には、前代の發音が讀癖として後世まで傳はつた。又鎌倉室町時代に於ては、漢語の複合詞だけに限らず、ン又は入聲のツで終る語が助詞の「は」(ワと發音された)「を」に連る場合にも、「は」「を」を「ナ」「ノ」又は「タ」「ト」と發音し、その外「大|音《オンナ》あげ」「御有《オンナリ》樣」の如き場合にもこの連聲の法則が適用された。江戸時代に入つては、その適用される範圍は限定されたが、なほ中期頃までは幾分殘つてゐた。現在では、少數の漢語の複合詞に於て讀癖として傳へられてゐるだけで、一般には連聲は行はれない。但し方言の中には、撥音につづく助詞「は」「を」を、ナ・ノと發音する習慣が、今なほ殘つてゐるものがある。
(293) 【參考】 廣日本文典 大槻文彦 ○訓點復古是荊山 ○點例 見原益軒 ○音曲玉淵集 三浦康妥 ○謠開合假名遣 ○名目抄 中院實煕 ○和字正濫通妨抄等(契沖全集第七卷) ○【文禄元年天草版】吉利支丹教義の研究 橋本進吉 ○音韻變化作用の消長 新村出
 
開合【かいがふ】 漢語學・國語學
 【解説】 これに二種ある。
 【韻鏡の開合】 韻鏡その他等韻學(韻學參照)に於ける開合については「韻鏡」を見よ。
 【國語の音聲に於ける開合】 室町時代の國語にあつた母音オの長音の二種を區別する名目。室町時代には古い時代のアウ・カウ・サウの類から轉化したオの長音は、現代標準語のオーよりも口を開いて發音し、オウ・コウ・ソウの類、及びエウ・ケウ・セウの類から轉化したオの長音は、ほぼ今日のオーの如く發音した。當時前者を開とし、後者を合としてこれを區別した。開はまた「ひらく」と云ひ、合は「すばる」又は「すぼる」と云つた。この兩音の區別は、今日新潟縣の或る地方の言語には殘存してゐる。
 
アクセント 音聲學
 【國語のアクセント】 現代日本語のアクセントは、東京語・京都語などで調査した所では音の高低によるものである。東京語に關する佐久間鼎氏の研究によれば、高低關係は上中下の三段の區別があり、一音節の語に於ては、(一)(294)上(二)下の二種、二音節の語に於ては、(一)第一音節上第二音節中へこれを上中と書す。以下これに同じ)(二)下上(三)下中の三種あり、以下三音節の語には四種、四音節の語には五種、五音節の語には六種ある。
  一音節   二音節   三音節   四音節   五音節
   上    上中    上中中   上中中中  上中中中中
   下    下中    下中中   下中中中  下中中中中
        下上    下上中   下上中中  下上中中中
              下上上   下上上中  下上上中中
                    下上上上  下上上上中
                          下上上上上
 佐久間氏は單語に於けるアクセントの形式をアクセントの型(かた)と名づけ、型の似たものを合して式(しき)と名づけて、上中型、下中中型など呼び、下中中の如き「上」のなきものを平板式とし、「上」あるものを起伏式とした。單語のアクセントは、助詞を加へる場合には多くは變化しないが、活用や品詞の轉換等によつて變化する事がある。併し多くの場合には全體として型又は式を保有し、もとのアクセントと同型又は同式になる傾向がある。アクセントは方言によつて異り、京都の方言では、東京語より多くの種顆があるやうであるが、同一の方言内では定つたものである。
 【國語アクセント研究史】〔明治以前〕 我が國でアクセントに注意したのは、漢語に接してそのアクセント、即ち(295)平上去入の四聲を學んだに始まる。これより、日本語のアクセントを觀察して、上、去などの文字でこれを示すことが奈良朝に始まつた(古事記「宇比地邇上神」「須比智邇去神」など)。平安朝に入つては、漢字音の平上去入の別を漢字の四邊に點をつけて示すやうになつたが、國語についても、日本書紀の如き漢文の國書中の萬葉假名文は承暦三年に出來た金光明最勝王經音義の如き萬葉假名で訓を示したものに聲點をつけて、語のアクセントを示したのみならず、漢文の訓を示す爲めに用ひた片假名にも點をつけてアクセントを示すやうになり、これが平安朝に出來た類聚名義抄や色葉字類抄の如き辭書を初め、その後もこの系統を引いた辭書の訓に行はれてゐる。又「古今集」の歌の難讀の所に、聲點を附したものが、「古今集」の寫本や、註釋書(顯昭の「古今集註」の如き)にある。さうして顯昭や仙覺の如きはアクセントが語義によつて變り、又複合語に於て變化する事を注意してゐる(袖中抄・萬葉集抄)。室町時代には、能樂師がアクセントに注意し、複合語の場合に變化するのみならず、又方言の差によつて相違がある故、田舍訛を注意すべき事を述べてゐる(禅竹集)。この書には、アクセントを謠曲の譜で示してゐるが、元禄八年の「蜆縮凉鼓集」にも、同じ方法で、地方によるアクセントの差を擧げてゐる。一方佛教聲明の側で、漢語の四聲をつたへて正式に漢語のアクセントを區別して發音し、講式のやうな、訓讀して諷唱するものは國語の傍にも墨譜(博士)を加へてその高低抑揚を示し、自然そのアクセントに注意するやうになつたが、江戸時代には、論議等に用ひられる語をいろは順にあつめて、聲明のフシハカセでアクセントを示したアクセント辭書ともいふべきものが出來た(根來寺出版の「開合名目抄」、觀應の「補忘記」など)。これ等は比較的進歩したもので、漢字の四聲をもフシハカセで分解して示し、日本語は音節毎に音の高低を示してゐる。契沖が日本語に平上去の三聲ある事をとき、又複合語に於て、(296)アクセントの變動ある事を指摘したのも(倭字正濫抄卷五〕この種の知識に基づくものと考へられる。又江戸時代の支那語所謂唐音の流行によつて、その時代の支那語に於ける四聲を學び、これによつて日本語のアクセントを考察し、平上去の三聲ある事を指摘したものもある(文雄の倭字大觀抄など)。
 【明治以後】 明治以後、西洋の語學が輸入せられると共にアクセントといふ事を學んだが、山田美妙齋は、日本語のアクセントについて考察し、その著日本大辭典(明治二十六年刊)に於て所收の一々の語にそのアクセントを註したのみならず、その附録に日本音調論を發表して、東京語に、全平・一上・二上等の型がある事を明かにし、活用する語のアクセントをも考へて、一定の法則ある事を論じた。これは獨創に富んだ觀察であつて、全平は平平、一上は上平、二上は平上であるから、つまりアクセントに上と平との二種の別ある事をみとめたのである。外國では、マイヤー氏(A、Meyer)がウプサラ大學で、アクセントによつて意義を區別する同音の日本語について、機械による實驗を行ひ、日本語のアクセントは音の高低の差によるものである事を明かにしたが、我が國でも神保格氏が東京語のアクセントが高低關係によるもので、高低に三段の區別がある事を明かにし、佐久間鼎氏は機械によつて東京語のアクセントを調査して、高低の差がある事と、これに三段の區別がある事を證明した(大正四年雜誌「心理研究」所載、「日本語のアクセント」)。大正三年及び四年に露國人ポリヴァノフ氏(Polivanof)來朝し、機械によつて實驗し、東京語のアクセントの二段階あることを明かにし、山田美妙齋の説を賛した。その研究は一九一五年ペトロゲラーどの學士院紀要に發表せられた。井上奧本氏は、近畿方言の研究によつて、各音のアクセントに上聲と下聲と節(ふし)の三つを認めた(これを●○▼で現はす)。節とは一短音の時間内に調子の急降するもので、その次に來る助詞が下聲にな(297)るものである。これによつて、語のアクセントの種類が増加する。即ち二音節では(一)●●(二)●▼(三)●○の三種、三音節では(一)●●●(二)●●○(三)●○○(四)●●▼の四種となり、一語は皆同じ高さか、又は高い部分とそれよりも低い部分との二つの部分から成る事となる。井上氏はこれを框《かまち》式と名づけ、佐久間氏等のを起伏式と名づけてこれと區別した。同氏は過去の文獻に見えるアクセントをも研究し、同氏の式にょつて説明した(大正五年國學院雜誌所載、語調原理序論)。佐久間氏は、品詞轉換や複合詞等に於けるアクセントの變化をも觀察して、アクセントの型保存、式保存等に研究をすゝめた。最近方言のアクセントにも注意するやうになり、アクセントによる方言區劃の考察の試みなどもあらはれるにいたつた。
 【參考】 國語音聲學 神保格 ○日本音聲學 佐久間鼎 ○日本のアクセント研究史 東條操(國語教育大正七ノ七) ○東京語のアクセントに關する外國人の研究 東條操(國語教育大正五ノ九) ○日本語調學小史 井上奥本(音聲の研究第二輯) ○日本語調學年表 同上(同上)
 
字音【じおん】 國語學・漢語學
 【名稱】 漢字音とも、單に音とも。古く「こゑ」とも。「もじごゑ」とも。
 【解説】 日本に於ける漢字の、讀み方の一種で、支那に於ける漢字の讀み方を傳へたもの。訓に對する。廣義では、支那に於ける漢字の讀み方、及び他の諸國(例へば朝鮮・安南・日本など)に於て、支那に於ける漢字の讀み方を學んで傳へたもの。漢字は支那の言語を寫すために作られ用ひられたもので、その支那に於ける讀み方は、即ち支那語(298)の音である。然るに他國人がこれを學んだ場合には、その國語に化せられて、もとの音とは變化するのが常であり、學び傳へてから多くの年代を經れば、更に一層の變化を來すものである。それ故、日本の字音も、決して支那の音とは同じでなく、かなりの變化を經てゐる。しかし、古代の支那語の發音から源を發してゐるものであるために、古代支那語の研究には、一の有力なる資料を供するものである。我が國では、漢文を全部字音で讀む事は古く絶えたらしく、訓讀の際必要な語のみ字音で讀む事になつてゐる。しかし佛經は全部字音で讀む習慣が殘つてゐる。字音で讀む語は、即ち漢語であるが、これが漢文訓讀語から日本の文語口語に入つて、日本の外來語の大部分を占めてゐる。又、漢字の音に基づいて日本で作つた漢語もある。
 【字音の構造】 個々の漢字の字音は、通例支那語の一單語に相當するもので、一音節から出來てゐる。これは聲と韻との二つの部分から出來てゐると見る事が出來る。聲は韻の前に附く部分で、子音一つか又は二つ複合したものである。但し時には全然ないこともある。韻は音節の本體をなす部分で、母音一つ又は二つ、或はその後に子音の附いたものから出來てゐる。韻は必ず平上去入の四聲の一つをもってゐる。これをその漢字の有する四聲として、平聲の字、入聲の字など呼ぶ事がある。同じ漢字に、いくつかの異なる字音がある事があるが、又同音でありながら、意味の違ひに隨つて、四聲のうち二つ又は三つをもつてゐるものもある。
 【字音の種類】 日本の字音には、普通呉音・漢音・唐音の三種あつて、同じ字に三種の違つた讀み方がある事がある(例、「行」呉音ギヤウ、漢音カウ、唐音アン。「下」呉音ゲ、漢音カ、唐音ア)。漢語は熟字(熟語)の場合には、上の字も下の字も同じ種類の字音で讀むのが原則であるが(例「神祇」ジンギ共に呉音、「神妙」シンベウ共に漢音)、(299)必ずしもさうでなく、殊に通俗化したもの、又は日本で作つたものに例外が少くない。
 〔呉音〕 古く對馬《つしま》音ともいひ、平安朝に正音(即ち漢音)に對して和音ともいつた。最も古く傳へた字音で、支那と直接交通しない前に、朝鮮から支那南方の音を傳へたものらしい。佛經は呉音で讀むのが普通であり、漢語も、古くから日本語の中に用ひられて日本化したものには呉音が多い。普通の字書類に見える呉音は、佛經讀誦の音と少し違った點がある(其・欺・棊を佛經ではゴと讀むが、字書にはキとあるなど)。これは佛經の方が由來が古いのであらう。
 〔漢音〕 平安朝に正音ともいつたもので、支那と國交が開けてから、隋唐時代の正しい發音として傳へたもの、支那北方音に基づく標準的發音であつたらしく、隋以來の支那の韻書に一致する。後世までも漢文を讀む時の正しい音として用ひられた。
 〔唐音〕 宋以後、時々傳はつたもので、古くは宋音といつたが、室町・江戸時代に明清の音を傳へてからは唐音といふ事になつた。概して支那南方音を傳へたものである。今日では、禅宗で或る經文を讀む時に用ひる外は、特殊の漢語の讀み方として用ひるに過ぎない。
 〔その他の字音〕 推古時代の萬葉假名として用ひられた漢字の音や、天台・眞言で讀誦する或る種の經文等の音などには、今日の呉音・漢音、何れにも一致しないものがある。又、日本で作つた漢字を字音で讀む事があるが(「働」をドウ、「※[木+觀]」をクワンなど)、これは字音に擬して作つたもので、純粹の字音即ち支那語の音ではない。
 【呉音・漢音と支那の字音】 呉音と漢音は、幾分系統を異にするが、共に支那古代音から出たものであるから、こ(300)れに近いと考へられる隋唐時代の韻書に於ける支那語の音と比較すると、大體次の通りである。
(一) 聲、即ち初の子音
  k k‘ h               カ行音
  ※[ng] g              漢音力行音、呉音ガ行音
  ※[ng]                ガ行音
  t t‘ t・ t‘・            タ行音
  d d・                 漢音タ行音、呉音ダ行音
  n n・                 漢音ダ行音、呉音ナ行音
  p p‘ f f‘             ハ行音
  b v                  漢音バ行音、呉音バ行音
  m ※[mの最後が曲がる]       漢音バ行音、異音マ行音
  ts ts‘ t∫ t∫‘ s ∫          サ行音
  dz d※[zの発音記号]z ※[zの発音記号]漢音サ行音、呉音ザ行音
  j                    ヤ行音
  w                    ワ行音
  l                    ラ行音
(301)  〓※[zの発音記号]         漢音ザ行音、呉音ナ行音
 (無)                  ア行音、ヤ行音、ワ行音
(二) 語尾の子音(韻の最後にあるもの)
  ※[ng]                漢音ウ・イ、呉音ウ
  n                    ン
  m                    ム(後にン)
  k                    ク・キ
  t                    漢音ツ、呉音ツ・チ
  p                    フ
(三) 韻。同一の韻に屬する文字必ずしも全部同一でなく、上の子音その他によつて異る場合が少くない。又字によつては例に合はないのもある。支那古代語の韻の發達については容易に定め難いものが少くない故、韻の名のみを擧げる。(平聲の韻のみを擧げ、他は類推に任せる。)−の下のアイウエオは五十音の段を代表する(例へば「−ウ」はウ段の音)、又ヤ行の假名は、各段のヤ行拗音を代表する。(例へば「−ヨ」は「キヨ」「シヨ」「チヨ」等)
  東・冬      漢音−オウ、呉音−ウ(或は−オ)
  鍾        漢音−ヨウ、呉音−ウ(或は−ユ)
  江        −アウ
(302)  支・脂・之  −イ
  微        漢音−イ、呉音−イ(或は−エ)
  魚        漢音−ヨ、呉音−オ
  虞        −ウ
  模        漢音−オ、呉音−オ(或は−ウ)
  齊        漢音−エイ、呉音−アイ(又は−エイ)
  佳・灰      漢音−アイ、呉音−アイ、−エイ(或は−エ)
  皆・※[口+台] 漢音−アイ、呉音−アイ(又は−エ)
  眞・臻      −イン
  諄        漢音−イン(又は−ユン)、呉音−イン、−ユン、−オン
  文        −ウン(又は−オン)
  欣        漢音−イン、呉音−オン(又は−イン)
  元        漢音−エン、−ワン(又は−アン)、呉音−オン(又は−ワン)
  魂・痕      −オン
  寒・桓      −アン
  刪        漢音−アン、呉音−アン(或は−エン)
(303)  山      漢音−アン、呉音−エン
  先・仙      −エン
  蕭・宵      −エウ
  肴        漢音−アウ、呉音−エウ
  豪        漢音−アウ、呉音−オウ
  歌        −ア
  戈        −ア(又は−ワ)
  麻        漢音−ア、呉音−エ
  陽        −ヤウ(又は−アウ)
  唐        −アウ
  庚・耕      漢音−アウ、呉音−ヤウ
  清・青      漢音−エイ、呉音−ヤウ
  蒸        漢音−ヨウ、呉音−ヨウ(或は−オウ)
  登        −オウ
  侯        漢音−オウ、呉音−ウ
  尤・幽      漢音−イウ、呉音−ウ・−ユ
(304)  侵      漢音−イム、呉音−オム・−イム
  ※[譚の旁]   漢音−アム、呉音−オム(或は−アム)
  淡・咸・銜    −アム
  鹽・添      −エム
  嚴        漢音−エム、呉音−オム(又は−エム)
  凡        漢音−アム(或は−エム)、呉音−オム(又は−エム)
(四) 四聲。漢音は韻書の四聲と一致するが、呉音は多くは一致しない。呉音の平聲は漢音の上聲去聲に當り、呉音の上去は漢音の平聲に當る事が多い。但し入聲は相違がない。
 【日本漢字音の傳來及び沿革】〔最古の字音〕 我が國に漢文が傳はつたのは應神天皇の時、「論語」と「千字文」とを百濟から奉つたのが歴史に見える最初である。その時百濟の阿直岐や王仁がこれを讀む事を教へたのであり、その後、我が國で文筆の事を司つたのは、阿直岐や王仁の子孫なる文氏であつた。それ故最も古く傳へた漢字の讀み方即ち字音は、主として百濟に行はれたものであつたらうと考へられるが、百濟は支那の南朝と交通し、その文化を傳へた故、その發音は主として支那の南方音に基づくものと思はれる。この音は、今日の呉音の系統に屬するものである事は、推古時代の人名・地名を寫すに用ひた萬葉假名や、「古事記」などの萬葉假名が、大概呉音に一致し又はこれに近いのによつて知られる。但し推古時代の假名に、奇をカ、居をケ、已をヨ、止をトなどに用ひて、後の漢音にも呉音にも一致せぬもののあるのは、永く用ひられてゐる間に、新古を混じ、又多少他の系統のものをも交へたから(305)でもあらうし、又今の呉音は、多分やゝ後になつて定まつたもので、太古のものとは多少の相違を生じたのでもあらう。その發音は逆濟に入つても多少變じ、更に日本に入り多くの年月を經たので、一層變化したであらう。
 〔漢音の傳來〕 推古天皇の時、支那との國交が始まり、以後、鋭意支那の文物を輸入するにいたつて、古來の字音とは系統を異にする、支那北方音に基づく隋唐時代の標準的發音が輸入せられ、朝廷でも音博士を置いて正しい發音を教授させた。これが即ち漢音であつたが、しかし、因襲久しき古來の呉音系統の音は容易に改まらなかつたと見えて、平安朝の初めには、屡々令を出して明經の學徒や僧侶に正音即ち漢音を學ばしめられた。かくて、漢文の正式の讀方としては漢音を用ひることと定まつたのであるが、その漢音も、後、漢文が漸く衰へ、支那との交通が絶えるに從つて、次第に日本化したものと考へられる。
 〔一種の漢音の傳來〕 平安朝の初、支那から傳はつた天台宗及び眞言宗に於ては、現代までも、日常讀誦する法文や經典に一種の漢音を用ひてゐるが、これは、當時支那に於て讀誦してゐたのをそのまゝ習ひ覺えて傳へたものと覺しく、その發音に於て、普通の漢音よりも、支那語に近いものがある。それ故、これこそ眞の漢音であると唱へるものもあるけれども、當時は唐の末期であつて、支那語の音が漸く變化した時代であるから、韻書の音とは違つた點があるやうである。(勝・乘・稱・昇をシ、億・臆をイクと讀むなど)。
 〔呉音の勢力〕 漢音が用ひられた後にも呉音はなほ勢力を失はず、和音と稱して普通に行はれ、殊に佛經は古くから呉音を用ひて讀誦し諳誦したため、これを改めることは不可能であつて、ために今日に至るまで呉音を用ひる事となつたのであらう。これ等の漢字音は、次第に日本化したけれども、正しい發音としては、平安朝末期までも語尾の(306)mn※[ng]を區別し、クヰ・クヱの音を存し、四聲を區別するなど、なほ原音に近い點を存してゐた。
 〔宋音の傳來〕 平安朝初期、支那との國交は絶えたが、その後も日本の僧侶や宋の商人の來往絶えず、ために宋以後の新しい音を學ぶ機會は多くあつた。殊に鎌倉時代に於ては禅宗が盛んであつて、日本僧が支那に渡つて禅堂生活をして歸るもの多く、支那僧の日本に來るものもあつて、宋元の支那音が傳はつた。當時これを宋音といつた。
 〔唐音の傳來〕 室町時代には、幕府と支那との交はりが回復し、幕府の使節として、或は求法のために禅僧の渡明するものあり、江戸時代の初めには、明が亡びて僧侶儒者などが日本に歸化して、當時の韻學者は唐韻に注意し、漢呉音との比較を試み、その間に音轉換の規則を作つたりしたが、その規則によつて、實際にない唐音を作るものさへあつた。江戸時代の半以後、漸く唐音を學ぶもの多く、殊に江戸では荻生徂徠などの提唱によつて世に流行し、種々の支那語學書も出て、一時甚だ盛んであつた。宋元以來日本人の往來したのは揚子江下流地方であり、江戸時代に於ても南京官話・杭州・福州・※[さんずい+章]州等の音を傳へたのであるから、宋音・唐音はすべて南方音である。
 〔字音傳來後の音變化〕 日本の漢字音は勿論多少日本化したものであるが、一旦日本化したものが、後に更に變化したものもある。遲くも平安朝末期にはあつた密雲を「ミッツン」、觀音を「クヮンノン」といふ如き所謂連聲の現象は、果してこの中に入れてよいか不明であるが、「心」シムがシンとなり「歸」クヰがキとなり、「孝」カウと「功」コウとが同音となり、「京」キヤウと「共」キヨウと「教」ケウとが同音となつた如きは、明かに後世の變化である。
 【備考】 呉音を對馬《つしま》音といふのは、金禮信といふ人が對馬に來て初めて呉音を傳へたといふ説から出たのであらう。これに對して表信公といふものが筑紫に來て漢音を傳へたといふ説がある(共に安然の「悉曇藏」に見えてゐる)。(307)家信公は奈良朝の音博士、唐人〓晉卿の誤かといふ。
 【參考】 漢字三音考 本居宣長 ○漢音正辨 素眞 ○三音正譌 文雄 ○字音 萩野由之(國文論纂所收) ○字音假字用格 本居宣長 ○漢字の形音義 岡井愼吾 ○漢字音韻提要 佐藤仁之助 ○假名源流考 國語調査委員會 ○文藝類纂 榊原芳野 ○古事類苑(文學部) ○鎭西漢學史論 武藤長平(西南文獻史論) ○鎭西に於ける支那語學研究 武藤長平(同上) ○唐音考 中村久四郎(史學雜誌) ○磨光韻鏡 文雄 ○漢呉音圖 太田全齋 ○韻鏡考 大矢透 ○支那音韻斷 滿田新造 ○中國聲韻學概要 張世禄 ○日臺大辭典 臺灣總督府 Z.Volpicelli,Chinese phonology.Shanghai 1896.‖S.H.Schaank,ancient Chinese Phonetics.(T'oung pao [.\.)|H.Maspero.Le dialecte de Tch'ang-ngan sous les T'ang.Bulletin de l'Ecole fran〓aise d'Extr〓me Orient.]].1920.
 
韻【ゐん】
 【解説】 漢詩及び漢語學上の名目。個々の漢字の字音(支那語の單語に當る)の中、語頭の子音を除き去つた部分。一個又は二個の母音より成るものもあり、これに更に子音の附いたものもある(前者を無尾韻、後者を有尾韻と名づける事がある)。韻の部分の相同じき、又は相似たる漢字を同韻の字とする。詩又は律語に於て、句尾に同韻の字を用ひて、音律を整へるが、これを押韻又は「韻をふむ」といふ。作詩又は作文の上に於て、幾何の字を同韻と認めるかは、時代により、また律語の種類によつて違ひがある。
(308) 【韻の分類・順序】 あらゆる漢字を韻の異同によつて分類し、これを一定の順序に列したものを韻書といふ。支那語には、語の音調が重んぜられ、同じ音から成立つ語でも、音調の違ふものは意義が異なり、別の語となる事が屡々あり、押韻に於ても、音調の同じものでなければ同韻と認められないのであるが、六朝時代から音調に注意するやうになり、これに四種ある事を見出し、四聲と名づけ、平聲・上聲・去聲・入聲の四つに區別した。それ以來あらゆる韻を四聲によつて大別して平上去入の順に列ね、同聲の韻の中で、各種の韻を一定の順に列ねるに至つたが、同聲の諸韻の順序は、平聲に於ける順序を標準として、聲が違ふだけで平聲の韻と音が同じもの、或はこれに對應するもの(例へば kang に對する入聲 kak,kan に對する入聲 kat,kam に對する入聲 kap の如き)を平聲の部に於ける順序に倣つて列ねた。さうして同韻に屬する諸字は、その中の一つを代表的のものとして、その字の名によつて、その韻を呼ぶやうになつた(「東韻」「冬韻」など)。又韻書に於けるその韻の番號の數字を前につけて呼ぶ事もある(「一東」は平聲の部上の第一の東韻の義である)。かやうにして、あらゆる韻の順序が定まつたので、字書・索引の類に文字をその韻の順序に隨つて排列するやうになり、發音引の字書が支那にあらはれるにいたつた。(〔韻の分類の變遷〕は西澤道寛氏の執筆)
 
四聲【しせい】 漢語學・國語學
 【名稱】 「ししやう」とも。又單に聲《しやう》ともいつた。
 【解説】 漢字音に於ける一種の音調。支那語には同音の語でも、音調の差によつて意義が異り、一の語は必ず一定(309)の音調をもつてゐる。從つて漢字の音には字毎に必ず一定の音調があり、同じ漢字でも意味の相異に應じて二つ三つのちがつた音調をもつてゐるものもある。その音調は、普通の字音(隋唐時代の切韻に基づくもの)に於ては、平聲・上聲・去聲・入聲の四種に分つ。それ故これを四聲といふ。これを平聲と他の三聲とに大別して、平聲と仄聲とし、併せて平仄といふ事がある(古く我が國では、これを平聲・他聲とし、併せて平他といつた)。漢詩を作るには、この二つの區別が大切である。四聲は、漢字音では韻(別項)に屬する事である。韻の部分が同音でも四聲が違つてゐれば別の韻とする。漢字を字音によつて分類する場合には、まづ四聲によつて分ち、次に韻の異同によつて分つのが普通である。これが韻書、及び韻によつて引く字書・索引の類の普通の體裁である。然るに平聲に屬する韻及び漢字の數が多い故、韻書では平聲を上下二卷に分ち、上去入の三聲を各々一卷として、全部五卷に分つことが多いので、平聲の韻を上平・下平の二つに分ける事がある(これは、今の支那語に存する上平・下平とは全然別のものである)。
 【四聲の本質】 四聲はアクセントの一種と見ることが出來るが(西洋人はtoneと譯してゐる)、單純な音の高低又は強弱の關係に基づくものではなく、高低(調子)と長短との複合したものである。現代支那語の發音(これは、平聲が陰陽二種にわかれてゐる)によると、
  陰平 音やゝ高く、初から終りまであまり高さが變らない。「陰」「高」など。
  陽平  最初は低いが、やがて高くなつて持續する。音の長さは、陰平よりも長い。「陽」「揚」など。
  上聲 最初低く續き、後、次第に高くなり、最も高くなつて止む。音の長さはほぼ陽平と同じである。「賞」「起」など。
(310)  去聲  最初高く後低くなる。音の長さは、陽平や上聲よりも短い。「去」「降」など。
  入聲  陰平とほぼ同じ高さで、甚だ短く急である。「入」「促」など。
 以上五種の別がある。
 【支那に於ける四聲の沿革】 先秦時代に平上去入の四聲の區別があつたかどうかは學者の説が一定しない。しかし、少くとも平聲と入聲との區別があつた事は認められてゐる。漢魏の際には、既に四聲を具備してゐたと考へられ、四聲の名も晉代からあつた。永明の頃、沈約が四聲譜を作つて、文辭の聲律を論じてから、四聲が世人の注意を喚起し、韻文にも四聲を亂るものなきに至り、隋の陸法言の切韻以下、唐宋の韻書も亦平上去入を分つのが常になつた。さうして唐時代から漢字の四聲を示すために、その四隅に點又は圏を加へる事が起つた。平聲は左下、上聲は左上、去聲は右上、入聲は右下ときまつた。唐代以後、支那の音聲が漸く變化し、その北方音に於ては、濁音が變じて清音となつたが、平聲に於ては、元來の清音と、濁音から清音になつたものとの間に音調の差異を生じた。元時代には前者を陰平、後者を陽平と名づけて區別した。又入聲はその語尾の子音を失つて、平上去と異なる所なきに至つた。即ち今日の北京官話に於ける如く、陰平(上平)・陽平(下平)・上聲・去馨の四聲となつたのである。然るに南方音に於ては、濁音及び入聲の語尾の子音が消失しないものがあり、且つ語頭の子音の清濁によつて、平上去入に幾分の相異を生じたので、四種以上の種類が出來たが、その數は方言によつて必ずしも同一でない。即ち現代の廣東には、九聲(清平・清上・清去・濁平・濁上・濁去・清入・中入・濁入で、清入は入清平、中入は入清去、濁入は入濁去である)、浙江には八聲(清平・清上・清去・清入・濁平・濁上・濁去・濁入)、江蘇は七聲(濁上と濁去の區別が失はれた)、(311)西南は五聲(陰平・陽平・上・去・入)である。廣東以外の入聲は、語尾の子音を失つたので、音の形の上からは平上去と區別がなく、音調のみの違ひとなつた。
 【日本漢字音の四聲】 日本に傳はつた漢字音は、呉音でも漢音でも平上去入の四聲を傳へて、漢文や佛典を讀誦する時には四聲を正しくしたので、古寫本や古刊本には、四聲を區別する符號即ち聲點を附したものがある。しかし後世には次第に發音上に四聲を區別する事は絶えたが、佛家に於ては、特殊のものの朗讀法として、今なほこれを傳へてゐる。
 〔四聲、六聲、八聲の點の図があるが省略〕
 呉音・漢音共に四聲を具へてゐるが、同じ漢字でも呉音と漢音とによつて四聲を異にする場合が多く、漢音のは廣韻の如き切韻系統の韻書に一致するが、呉音のはこれと大に異なり、大體に於て呉音で平聲の文字は漢音では上聲去聲となり、呉音の上聲去聲の文字は漢音では平聲となる。普通の漢字辭書の類にあるのは漢音の四聲であつて、呉音の四聲は「法華經音義」の如き佛典の辭書、又は聲點を附した佛經などにあるのみである。
(312) 我が國には、平上去入の四聲の外に、これに輕重を區別して、平重・平輕・去・入重・入輕の六聲ありとする説、平上去入に各輕重を分つ八聲など古く傳つてゐて、これを圖の如き點によつて表示した。
 「和名類聚鈔」に上聲之重、上聲之輕、去聲之重など註したのも、當時八聲の存在を證するものである。右の外、八聲の圖の中央に一點を加へて九聲ありとする説、平上去入に、その各々の輕と重とを加へて十二聲ありとする説などもあるが、これは多分臆測に出たものであらう。實際漢文に聲點を加へたものを見ると、四聲を分つのが常であつて、時に六聲まで區別したものは見受けるが、八聲まで別つたものはまだ見當らない。これは上聲の重は去聲に渉り、去聲の重は上聲に渉つて、その區別が早く亡びたのであらう(「作文大體」にその趣が見える)。いまでも眞言宗で傳へてゐるところでは、やはり平入だけ輕重を區別した六聲であつて、その發音は、平聲の重は平かで低く、平聲の輕は、初高く後低く、上聲は高く平かで、去聲は初低く後高く、入聲の重は平聲の重に、入聲の輕は平聲の輕に同じである。但し、入聲は漢呉音に於ては、語尾にフ・ツ・ク・チ・キの音がある故、平聲と區別せられる。入聲の中、「法《はふ》師」の「法」の如く、入聲でありながら、發音上入聲の特徴を具へぬものを「フ入聲」と唱へて、文字の下邊中央に聲點をつけてこれを示す。又、文字の上邊中央に點を附けたものは、毘富羅聲といひ、上聲と同じく高く唱へるが、これは眞言宗では用ひず、天台法相にのみあると傳へられてゐる。多分上聲の重の名殘であらう。かやうにして實際は六聲であるが、圖には八聲を區別してゐる。〔図省略〕
(313) 以上の輕重の別は、古代支那語に於ける發音の區別に基づいたものと考へられるのであつて、現代支那諸方言に於ける九聲・八聲・五聲等の區別と根本に於て相通ずるものがあるやうである。江戸時代に行はれた支那語學(唐音《たういん》といつた)に於ては、支那南方の近世音を傳へて、その四聲の發音を學んだが、これは古く傳はつた漢字音の四聲とは違つた所があつたやうである。
 【國語の四聲】 支那の四聲を學んでから、追々これを標準として國語のアクセントを考へ、平上去等の文字、又は四聲の符號(聲點)を附して國語のアクセントを標するやうになり、又國語には平上去の三聲のみあつて入聲がないことや、國語のアクセントが種々の場合に應じて變化することなどをも觀察するに至つた。
 【參考】 中國聲韻學概要 張世禄 ○國語發音學 汪怡 ○四聲實驗之一例 劉復 ○本朝四聲考 佐藤寛(國文論纂) ○和名抄の音註に見ゆる某聲の輕又は重といふ事 岩橋小彌太(國學院雜誌一九ノ一一) ○和讃に於ける呉音の四聲につきて 内記龍舟(無盡燈一八ノ五) ○四聲輕重考 金澤庄三郎(東洋學研究創刊號) ○法華經音義 ○補忘記 觀應 ○開合名目鈔 ‖B.Karlgren:Etudes sur la phonologie chinoise.Upsala.1915-1924.
 
反切【はんせつ】 漢語學・國語學
 【異稱】 翻切・反語・反音又は單に反とも切とも、又日本では「かへし」とも。
 【解説】 支那で漢字の音を示すために用ひた方法の一つで、他の二字の音に基いて、その字の音を知らしめるもの。例へば「東」の音(tong)を「徳」(tok)「紅」(hong)の二字を用ひて、「徳紅(ノ)反」又は「徳紅(ノ)切」として示す(314)類であつて、上の「徳」の字からはその初頭の子音(これを韻字では「聲」又は「紐」といふ)tを採り、下の「紅」の字からは、その韻-ongを採り、これを合せてtOngのonを得、これによつて、「東」字の音を示すもの。かやうに反切には必ず二字を要する。上の字は、求むる字と同紐(初頭の子音が同じもの)の字であり、下の字は求むる字と同韻の字である。この上字を父字又は切と云ひ、下字を母字又は韻といふ。この兩字から得た結果を歸納字(歸納音とも)又は歸字といふ。反切は、單音を示すべき文字なき支那に於て、漢字の音を示す便利な方法として注釋書・辭書等に一般に用ひられ、漢字音の研究には、缺くべからざるものである。我が國にも、古く反切を傳へ、その方法を學んだが、後には五十音圖にょる所謂假名反の法が出來、更にこれを國語の語釋や語源の説明に適用して、國語研究上の一原則となすに至つた。
 【反切法】 〔助紐を用ひる方法〕 反切によつて字音をもとめるには、上字(父字)から、その初めの子音の部分(紐)を游離せしめて、これを下字(母字)の韻に結合させなければならない。そのために支那では古く「助紐」を用ひた。助紐は漢字の音の初めにあらはれるあらゆる子音の種類(即ち三十六字母)について、各々その子音を有する漢字二字づつを選んで定めたもので、反切の上字の下に、これと同じ子音を有する助紐を附けて連呼し、その子音を游離せしめて下字の韻と結合するに便じたものである。例へば「徳紅(ノ)反」の場合には、上字「徳」に助紐〔丁顛〕を附けて〔徳丁顛〕(tok-ting-tien)と連呼して、子音tが下字「紅」の韻と結合してtongの音を得るやうにしたのである。かやうにして音を得るのを「三折一律」といふ。助紐に用ひる字は、多少の異説はあるが、大體定まつてゐた。この方法は、支那ではずつと後までも用ひられたのであつて、我が國ではこれを唐人反《たうじんがへし》と呼んだ。
(315) 【朝鏡による法】 支那の音圖である韻鏡に基づくものであつて、まづ韻鏡四十三圖(これを四十三轉といふ)の中に、反切の上字及び下字がある圖をもとめ(その字が圖中にない場合には、韻書によつて、その字と同音の字で、圖中にあるものをもとめて、これをその字と同樣に取扱ふ)、圖中に於けるその字の位置をたしかめ、上字の圖中に於ける位置と全く同一の位置を、下字のある圖中に求めて、その位置の屬する行と下字の存する段との出會ふ位置にある文字を求める。この字の音が即ち求むるところの音である。例へば「徳」は韻鏡第四十二轉舌音第一行、入聲第一段にあり、「紅」は「洪」と同音で「洪」は韻鏡第一轉喉音第三行平聲第一段にある故、「徳」の第四十二轉に於けると同じ位置を第一轉に求むれば、その舌音第一行入聲第一段に「※[殻の几が豕]」の字がある。この字のある行(舌音第一行)と「洪」のある段との交るところ(即ち第一轉舌音第一行平聲第一段)に「東」の字がある。この「東」の音が求むる字の音である。然るに古書に存する反切に基づいて音を求めるに、最後に求め得た位置に文字が無いことがある。また韻鏡の體製上、求め得た位置にある文字の音が正當なる音でない事がある。その場合には、更に他の位置にもとめなければならない。かやうにして反切によつて音を求むる方法にいろ/\の種類が生ずる。これを反切門法《はんせつもんばふ》といふ。この門法には諸説があつて、その數も、その内容も必ずしも一致しない。少いものは二門乃至四門から、多いものは二十門に及び、音和、類隔、互用、往還(又往來とも)、雙聲、疊韻、憑切、憑韻、廣通、偏狹、寄聲、寄韻などが普通認められてゐるものである(詳しくは磨光韻鏡の翻切門法及び切韻指南等を見よ)。
 〔五十音圖による法〕 我が國では、漢字音を假名で表はす故に、假名に基づき、五十音圖を用ひて反切を行ふ法が、古くから用ひられた。これを假名反《かながへし》といふ。即ち五十音圖の中で、上字の最初の假名と同じ行に屬する假名のうち、(316)下字の最初の假名と同じ段にあるものを求めて、これを下字の假名の最初の一字の代りに置けば、求むる音を得るのである。例へば、「徳紅(ノ)反」は「徳《トク》」の初めの假名トの屬する行なるタチツテトの中、「紅《コウ》」の初めの假名コの屬するオ段の假名、即ちトをとり、「紅」の音コウのコの代りに入れて、トウの音を得るの類である。但しこの場合にも、その得た音が日本の漢字音にない音となり、又は正しい音とならないことがある。その場合には、得た字音の假名に修正を加へて、或は上の二つの假名を再び反切して一字となし(ツワ〔二字傍線〕ンをタ〔傍線〕ンとする類。これを二重反といふ)、或は、第二の假名を略し(リユ〔二字傍線〕ンをリ〔傍線〕ンとする類。これを中略反といふ)、或は、同行又は同段の假名にかへ(モ〔傍線〕ンをム〔傍線〕ンとするなど。これを相通といふ)、或は直音を拗音にかへる(シ〔傍線〕をスヰ〔二字傍線〕とし、ズ〔傍線〕をジュ〔二字傍線〕とする類。これを拗音反切といふ)。かやうにして、假名反にもいろ/\の場合を區別するに至り、横本《わうほん》の反又は對座反《たいざがへし》、竪末《じゆまつ》又は雙聲反《さうせいかへし》また上下反、紐聲反《ちうせいかへし》又は角行反、二重《にぢゆう》反、中略《ちゆうりやく》反、即座反、各種の相通、拗音反切などいろ/\の名目が出來た。
 〔ローマ字を用ひるもの〕 近くは漢字音をローマ字に寫して、上字の初めの子音の部分と、下字の韻の部分とを合して反切を行ふ法が出來た。「徳紅反」をtok,hongと書いて、上字のtに下字のongを附けてtongの音を得る類である。
 【支那に於ける反切】 〔反切の起源〕 訓詁の學が初めて盛んに起つた漢代に於て、難讀の字の音を示すには、これと同じ音又は類似した音の文字を以て、「讀與−同」又は「讀若−」と註したが、後漢に至つて反切を用ひる事がはじまつたらしい。反切の起源については、顔之推の「家訓」に「孫叔然創2爾雅音義1、是漢末人獨知2反語1、至2於魏世1此事大行、」とあるによつて、魏の孫炎の「爾雅音義」に初まるとの説が永く行はれたが、近く章炳麟は、孫炎と(317)同時の人で、その論敵であつた王肅の「周易音」や、「漢書」(地理志)の應劭(漢末の人)の註に反切がある事を指摘して、反切が漢未に初まる事を説き(章炳麟の「音理論」)、我が國の大矢透博士は、唐初の武玄之の「韻詮」に、「反音例云、服虔始作2反音1、亦不2詰定1、臣謹以2口聲1爲v證」(安然の「悉曇藏」所引)とあるを見出し、又「經典釋文」に後漢の鄭衆・許愼・服虔・鄭玄・李巡・〓光などの反切を載せたのを證として、反切が既に後漢に行はれたことを論じた(「韻鏡考」)。その起因については、支那語に於ては、古くから雙聲・疊韻の語が多く用ひられ、又二字の語を合呼して生じた語があつたのであつて、反切の上字が歸字と雙聲をなし、下字が歸字と疊韻をなし、上下の二字を合呼して一字の音とするのは、これと趣を同じくする故に、その根元は支那にあつたと考へ得るが、漢代に儒教が渡來して梵語の經典を漢文に譯することが起り、儒士にして佛法を談ずるものが多く、梵音に通ずるものも少くなかつた故、その影響を受けて、反切が次第に世に行はれるに至つたものであらうとする説が有力である。
 〔反切の流布〕 かやうにして漢未に起つた反切は、魏に至つて漸く廣く行はれたが、六朝時代に及んでは、詩文の上に音聲韻律の事が重んぜられて、韻書の類が續々あらはれたが、その音を示すには反切が用ひられたらしく、隋の陸法言の「切韻」にも、專ら反切によつて發音を示して居り、梁の顧野王の「玉篇」の如き辭書にも唐初の陸徳明の「經典釋文」の如き註釋書にも亦反切を以て字音を註してゐる。又梵字の發音を示すにも反切を用ひる事が多かつた。かやうにして反切は字音を示す最も普通な方法となつて、後世までも沿用せられた。
 〔韻學と反切〕 唐代に出來た韻學の書である神※[王+共]の「五音四聲九弄反紐圖」や、「元和新聲韻譜」なども反切の事を載せて居り、宋代以後盛んになつた等韻學に於ても等韻學の立場から反切法を説いてゐる。また反切のための助紐(318)(前出)もこの頃から定まつたやうである(韻鏡序例に見えてゐる)。宋以後になると、唐代以來の支那語の音聲變化の結果として、もと同音であつた文字の異音となつたものが生じた爲め、古書にある反切の文字をその時代の音で讀んで反切を行つても、正しい音が得られず、更に種々の手續で修正を施さなければならない場合が出來、こゝに反切によつて正しい音を得るまでの手續の相違を區別する必要が生じて、所謂反切門法(前出)が説かれるやうになつた。その門法も初めは音和・類隔の二つ、又はこれに互用・往還を加へた四つなどで、種類が少かつたが、後にはその數が多くなつて甚だ煩瑣になつた。
 〔反切の缺點とその改良案〕 かやうに、反切は字音を示す便法として永く用ひられ來つたのであるが、これに用ひる文字が不統一で、同一の音が種々の違つた文字で書かれること、反切の二字を連續して、上字から韻を捨て、下字から紐(初めの子音)を捨てて、上下の音を結合させるのに困難があることなどの缺點があるために、これに改良を施さうとの試みがあらはれた。清の潘耒の「類音」及び李光地等の「音韻闡微」に於ては、上字に支・微・魚・虞・麻・歌の如き母音で終る字を用ひ、下字には影母及び喩母の字(即ち母吾、又は母音に近い子音ではじまる字)を用ひて、上下兩字の連續を容易にし、近く黄侃は「音略」に於て、同紐・同韻の文字は、各一字を定めて反切の上字下字に用ふべきことを主張した。しかしながら、これ等の改良を以てしても、なほ不便を全く除くことは出來ず、殊に反切に用ひられた字の發音が土地により時代によつて一定せず、從つて正しい音が得られない故に、現時は字音を示す實用的方法としては反切を用ひず、ローマ字及び假名に倣つて、漢字に基づく一種の音字を作つて注音字母と名づけ、これを綴り合せて字音を標示する事とした。
(319) 【我が國に於ける反切】 〔反切の輸入と流布〕 太古のことは知り難いが、我が國が隋・唐と交通してその文物を輸入してからは、漢文の經籍を學び、漢譯の佛典を讀み、詩賦をさへ作つたのであるから、當時支那に行はれた反切を知り、これによつて字音をもとめる方法を學んだ事は勿論であつて、遂には萬葉假名を以て文字の讀み方を示す場合にまで「反」といふ語を用ひるに至つた(萬葉卷十六に「田〓者多夫世反〔右○〕」、空海の秘音義に「〓婆句反〔右○〕とある類)。平安朝の初め、天台・眞言の名僧が入唐して、盛んに梵字・梵語を傳へたが、その發音は、主として漢字により反切を用ひて説明したので、儒家ばかりでなく、佛家に於ても反切の知識が普及した。當時反切法として「輕重清濁依2上字1平上去入依2下字1」といふ文が行はれた。
 〔五十音と日本式反切〕 支那との國交が斷えてからは、漢字音も、漸く日本化した發音が行はるゝやうになつたと思はれるが、この時に當つて、日本式發音による字音の反切に便ずるがために、五十音圖(別項)が生れたものと推察せられる。さうして堀河天皇の時、悉曇學者明覺が、「反音作法」を作り、五十音圖を利用して日本式の反切法を説いてから五十音圖は反切に缺くべからざるものとなり、反切に便ずるために、五十音圖の各字の下又は傍らに、拗音を加へるに至つた。(「カ【キヤクワ】キ【キイクイ】ク【キユクウ】ケ【キヱクヱ】コ【キヨクヲ】」のやうに。)かヤうにして日本に於ける反切は謂はゆる假名反(前出)による事となつたのである。その假名反の方法としては、「上(ノ)父字(ハ)行(キ)v竪(ニ)、下(ノ)母字(ハ)行(ク)v横(ニ)、其(ノ)隅生(ズ)2子字(ヲ)1」「横行(ハ)歸(ス)2父字(ニ)1、竪行(ハ)歸(ス)2母宇(ニ)1其(ノ)歸生(ス)2子字(ヲ)1」といふ口訣まで出來て世に行はれた(耕雲明魏の「倭片假字反切義解」に見えてゐる)。
 〔日本の韻學と反切〕 鎌倉時代に韻鏡が輸入されて、悉曇學者信範によつてその研究の緒が開かれてから以後、江(320)戸時代に至るまで、韻鏡は我が國に於ける韻學の中心となつたが、その結果、「韻鏡序例」に見える音圖による反切法を學び、また韻鏡以後支那にあらはれたこれと同系統の韻書類も續々渡來して、種々の反切門法等も講究せられるやうになり、江戸時代には人名等を反切して吉凶を判ずる事まで行はれて、反切が韻學の上では最も大切な事となり、韻鏡も反切のために存するもののやうにさへ考へらるゝに至つた。しかしかやうに韻鏡による反切を學んだとはいふものの、古來の假名反は反切の入門又は基礎としてこれと共に行はれて、その反切法の上にも反切門法と同樣に、種々の種類が認められるやうになつた。
 〔ローマ字と反切〕 明治以後、我が國にローマ字の知識が廣まつたと共に、西洋人が支那語をローマ字で書いたものに接して、ローマ字を以て反切を行ふ事がはじまつた。大島正健氏の「翻切要略」の如きは、主としてこの方法にまつてゐる。
 〔反切と國語學〕 反切の國語學に及ぼした影響として注目すべきは、五十音圖による反切法が、國語の語義又は語源の解釋に應用せられたことである。仙覺の「萬葉集註釋」に「みことにされば」を「みことにしあれば」の「し」「あ」を引合せたものと説いてゐる如きも、多分反切から得來つた考と思はれるが、江戸時代に至つて、見原益軒の「日本釋名」には、明かに反語即ち假名反を以て和語を釋く八訣の一つとしてゐる。賀茂眞淵及びその末流の學者は、これを約言〔二字右・〕と名づけて、盛んに語釋の上に應用し、往々濫用の域にまで達した。かやうにして、漢字音を示さんがための人爲的方法であつた反切法が、國語の語義語源の解釋上の一原則として用ひられるに至つたのである。
 【參考】 中國聲韻學概要 張世禄 ○韻鏡考 大矢透 ○麿光韻鏡 文雄 ○翻切要略 大島正健 ○韻鏡開〓 自等庵宥(321)朔 ○韻鏡諸鈔大成 馬場信武 ○韻鏡秘事大全 小龜益英 ○切韻考 清 陳※[さんずい+豊] ○切韻指掌圖 宋 司馬光 ○經史正音切韻指南 元 劉鑑 ○切字肆考 清 張※[田+井]
 
延言【えんげん】 國語學
 【名稱】 「のべこと」又は舒言・延音ともいふ。
 【解説】 「つく」を「つかふ」、「とる」(取)を「とらふ」、「みる」(見)を「みらく」、「おもふ」(思)を「おもはく」、「ゆく」(行)を「ゆかす」といふ如く、語の音を延べていふもの。賀茂眞淵が語意考に於て、古代日本語に於ける法則の一として擧げ、語釋や語源の説明に應用してから、これに倣ふものが多かつたが、眞淵は、「見まし」「行かまし」を「見む」「行かむ」の延言とするなど、これを濫用した嫌ひがあつた。鹿持雅澄に至つて、これ等はただ音を延べたばかりでなく、意味の違ひがあるものとし、これを三種に分つた。即ち、音が延びてハ行に活用するもの(「つく」→「つかふ」の類)は、動作のつゞく意味を表はし、サ行に活用するもの(「ゆく」→「ゆかす」の類)は、尊敬する意味をあらはすもの、「く」のつくもの(「見る」→「見らく」、「思ふ」→「思はく」の類)は「…する事」「…する樣」の意味を表はすものとした。實際これ等は、語尾又は接尾辭の加はつたものと見るべきである。唯漠然と延言といふのは正確でない。
 【參考】 語意考 賀茂眞淵 ○通略延約辨 大國隆正 ○舒言三轉例 鹿持雅澄 ○雅言成法 同上 ○延言考 金澤庄三郎(國語の研究)
 
(322)約言【やくげん】 國語學
 【名稱】 「つづめこと」「約音《やくおん》」、又は「反語《はんご》」「反音《はんおん》」ともいふ。
 【解説】 「さしあぐ」(差上)を「ささぐ」(捧)、「てあらひ」(手洗)を「たらひ」(盥)、「わがいも」(我妹)を「わぎも」、「あはうみ」(淡海)を「あふみ」、「はたおり」(機織)を「はとり」(服部)、「あめにあるや」(在天)を「あめなるや」といふ如く、語中の相連る二音節がつづまつて一音節になるもの。かやうな現象は、上代日本語の複合語に於て下の語が母音で初まる場合に屡々起つた現象であり、上の語の最後の音節の母音が弱まり除かれて、殘つた子音が下の語の最初の母音と合して新たなる音節を構成するものである。かやうに二音節が合して一音節となるのは、漢字音の反切(別項)と趣を同じくする故に、古く仙覺もこれを反切(「かへし」)に關係させて考へ(仙覺抄)、契沖もこれを假名反と説明した。但し契沖は古代語に於ける實例に基づいて、母音が下にあつて上より續く時に起るものであるとしたのであるが(「和字正濫鈔卷五」)、見原益軒は、「日本釋名」に於いて語源解釋の原則の一として反語(即ち「かながへし」)を擧げ、無制限にこれを應用して語源を釋いてゐる(「ひら」が「は(葉)」となり、「やすくきゆる」が「ゆき(雪)」となつたとする如き)。賀茂眞淵に至つては、つづめると共に一方延べるものがあるとし、前者を約言、後者を延言と名づけ、古代日本語に於ける法則として語源の説明や語釋に適用した。その末流に至つては、この方法を濫用して附會の説を出すもの多く、その弊にたへなかつたので、鹿持雅澄や大國隆正の如き、約言の行はれる範圍や場合を考へて、その法則に限度あることを力説するものも出て來た。今日に於ては約言説を無條件に信ず(323)るものはない。
 【參考】 語意考 賀茂眞淵 ○和字大觀鈔 文雄 ○日本釋名 貝原益軒 ○東雅 新井白石 ○五十音辨誤 村田春海 ○通略延約辨 大國隆正 ○雅言成法 鹿持雅澄 ○古典に現れた語學的方法 時枝誠記(日本文化叢考)
 
通音【つうおん】 國語學
 【解説】 同じ語と認められる語の或る部分の音が多少違つて、同じ語が二つの違つた形であらはれる時、この相異る音は相通じて用ひられ、場合によつて轉換し得るものとしてこれを通音といふ。これを廣義に解すれば、音便(別項)も活用の語尾變化も、すべて通音の中に含まれるが、これを狹義に解すれば、(一)五十音圖中にある音節であつて、その上、同行又は同列中での轉換に限る。それ故撥音「ん」や促音の如き、五十音中にない音との轉換や、又「思ひて」が「思うて」となる如き、同行同列中での轉換でないものは、これを通音とは認めない。(二)音の轉換によつて、意味の變化を來さないものに限る。それ故、「戀《こ》ひ〔傍線〕しき」と「戀《こ》ほ〔傍線〕しき」は通音であるが、「戀ふ〔傍線〕」「戀ひ〔傍線〕」などの如き、活用の語尾變化は通音でない。(三)時代的音變化によつて起つたものは、通音とは認めない。それ故、「かぞふ」(算)と「かず〔傍線〕ふ」、「いづ〔傍線〕く」(何處)と「いど〔傍線〕こ」の如きは、通音とは認めない。但しその起因は、時代的變化に在つても、その結果、同時代の同一の言語の中で、共に差別なく用ひられるものは、これを通音とする。(四)「ふね〔傍線〕」(船)が「ふなびと」(船人)となり、「たけ」(竹)が、「たか〔傍線〕ばやし」(竹林)となる如き、複合語を作る際の音轉換も、これを通音と認めない。
(324) 【種類】 通音は、五十音圖に基づいて説明するのが常である。その種類としては(一)同行中での相通。同じ行の音節が互に轉換するをいふ。これは音節中の母音が轉換するのである。これを同音相通、同紐相通、五音相通、音相通、又は音通などいつた。その中に初五相通(初後相通とも。同行中の最初の字と第五の字とが通ずるもの、即ち母音aとoとの轉換)、二四相通(第二字と第四字との相通、即ちiとeとの轉換)、三五相通(第三字と第五字との相通、即ちuとoとの轉換)などを區別したものがある。(二)同列(段)中での相通。同前相通とも云ひ、同じ列の音節が互に轉換するをいふ。即ち音節の初めの子音が轉換するのである。その中で、五十音圖に於て相隣接する行の、子音の相轉換するところから、親類相通と云ひ、又同じ調音部位の子音が轉換するのを同内相通と稱し、アカヤの諸行(共に喉内の普)、サタラナの諸行(共に舌内の音)及びハマワの諸行(共に唇内の音)の内に於ける相通を、それぞれ喉内相通、舌内相通及び唇内相通と稱した。
 【音相通説】 同じ語が相異る二つの形で現はれる時、その異る部分の音を相通ずるとする考は、何時から始まつたか明かでないが、古く我が國の悉曇學者の間には在つたのであつて、院政時代の悉曇學者明覺は、その著「悉曇要訣」に梵語に於けるかやうな現象を音の相通とし、これは梵語のみならず漢語及び日本語にも存するものであり、その相通は主として同紐(五十音圖の同行)、同韻(五十音圖の同列)に於て通ずるものであるとし、支那語及び日本語に於ける例を擧げて、梵語の例を證明してゐる。かやうにして多分漢字音の反切のために作られたであらうと考へられる五十音圖が、梵・漢・倭三國語を通じて音相通の原則とせらるゝに至つた。さうして古く朝廷に於ける「日本書紀」の講筵から起つて、鎌倉時代以後の神道家に繼承せられた「日本紀」の註釋に於ても、又平安朝に於ける歌學の中から(325)起つた古語の研究に於ても、院政時代以後には、語義又は語源を説明するに當つて、五十音圖による同音相通、同韻相通を説くやうになつたが、これは恐らくは悉曇學者の説を承けたものであらう。鎌倉時代に於ては、悉曇學者の間に相通説が次第に委しくなり、同音相通の中に初五相通、二四相通、三五相通等を分ち、又同韻相通にも三内の相通を分つやうになつた。さうしてこれ等が韻鏡等の知識と合して、室町時代を經て江戸時代にまでも及んだが、その間、相通説はやはり語義・語源の説明に用ひられたと共に、又假名遣にも應用せられて、互に關係ある語の假名遣を定め又は知る原則の一として用ひられ、(假名遣參照)、延いては、動詞の活用にまで及んだ。さうして、初めは種々の種類のものをすべて通音としたのであるが、後には次第にこれを區別して、音便その他の如く、時代的變化によるもの、活用の如く音の違ふに隨つてその意味や用法の異るもの、複合語に於けるが如く、音の變化が、語を復合せしむる手段となるもの、又方言による音の轉換などを通音から除外する傾向が生じて、遂には、意味が全く同じくして音が通ずると見るべきものはないと主張するものさへ出るやうになつた(野之口隆正の通略延約辨など)。明治以後、日本語をローマ字で書くことを學び、又西洋の言語學や音聲學が輸入せられて、國語の音節を單音に分解して觀察し、又各音の性質に關する正確な知識を得るやうになつて、從來の五十音圖に基づく通音の説は、根本的に變化せざるを得なくなつた。
 【參考】 和字解 貝原益軒 ○語意考 賀茂眞淵 ○雅言成法 鹿持雅澄 ○通略延約辨 野之口隆正 ○音韻啓蒙 敷田年治
 
(326)略言【りやくげん】 國語學
 【名稱】 略語、又は略言ともいふ。
 【解説】 「あさあけ」(朝明)を「あさけ」、「いへ」(家)を「へ」、「うら/\」を「うらら」、「あめ」(天)を「あ」といふ如く、一語中の音を省略して出來た語をいふ。賀茂眞淵が「語意考」でこれを古代日本語に於ける法則の一として擧げ、語釋や語源の解釋に應用してから、一般に用ひられるやうになつた。併しこの思想はずつと古くからあるので顯昭の諸註釋書などにも見られ、仙覺の「仙覺抄」や、卜部兼方の「釋日本紀」等に於ても同樣に音の省略といふ事を認めてゐる。下つて松永貞徳の「和句解」では語源解釋にこれを頻りに用ひ(上略・中略・下略と言つてゐる)、貞徳の影響を多く受けたと思はれる貝原益軒は、「日本釋名」で、語源解釋の原則としてこれを擧げ、略語と名付けた。契沖も語釋にこれを用ひた(「略す」「省く」と稱してゐる)。益軒の説に對してはすでに新井白石が批判を加へたが(東雅)、眞淵やその末流に至つて略言を濫用した嫌ひがあつたので、略言と云はれるものの性質を改めて檢討しようとする人々が出て來た。即ち大國隆正は、略言と言はれてゐるもののうち、「いひにうゑて〔二字右○〕」を「いひにゑて〔右○〕」、「なをおき〔二字右○〕て」を「なをき〔右○〕て」といふ類は、一種の用言の格で、略される音は母音に限られ、「のりたまふ」を「のたまふ」といふ類は、合語(複合詞)の一格であるとした。而して「たかくらし〔右○〕」(高倉下)の「し」は、「しも」(下)の「も」が略されたものではなく、かへつて「し」に「も」を添へて出來たもの(かゝるものを添語と名付けてゐる)が「しも」であるのであつて、世間で添語と略言とを顛倒して考へてゐることが多いと言つてゐる(通略延約辨)。(327)また鹿持雅澄は、梵語の「佛陀」「菩提薩※[土+垂]」を支那で「佛」「菩薩」とした如きものがいはゆる略言であるが、これは、ことさらに省略したものであつて、古代語にはかやうな意味の略言はないとし、古代語に於て略言に近似したものとしては、假略・非略・訛略の三が見られると論じた。假略とは、「かりいほし(借廬)を「かりほ」、「わがいへ」(我家)を「わがへ」といふ如く、連語上(複合詞をも含む)一語中の母音が省かれるもので、姑く略言といふべく、非略とは「いや」(彌)・「ぬし」(主)・「やなぎ」(柳)・「みづ」(水)・「ごとく」(如)に對して「や〔右○〕へ」(彌重)・「とじ〔右○〕」(戸主)・「あをやぎ〔二字右○〕」(青柳)・「み〔右○〕を」(水脈)・「ごと〔二字右○〕」といふ語がある類であつて、これ等はそれ/”\別箇のもので、一方から一方が出たと言ふやうなものではなく、訛略とは、「いまだ」を「まだ」、「あづまびと」を「あづまど」といふ如く、時代を經ると共に轉訛して生じたものであるとした。
 【參考】 日本釋名 貝原益軒 ○東雅 新井白石 ○和字大觀鈔 文雄 ○語意考 賀茂眞淵 ○通略延約辨 大國隆正 ○雅言成法 鹿持雅澄 ○音韻啓蒙 敷田年治 ○古典註釋に現れた語學的方法 時枝誠記(日本文化叢考) ○國語音韻論 金田一京助
 
韻學【ゐんがく】
 【名稱】 音韻學とも(支那では聲韻學とも)いふ。
 【解説】 支那に發達し、我が國に傳はつた支那語の音聲(漢字音)に關する學問。
 【支那に於ける韻學】 〔先秦時代〕に、語を聯ねるのに雙聲疊韻によるもの少からず、又律語の類は皆押韻した。(328)雙聲は、聲即ち語の最初の子音の同じものをならべる事であり、疊韻は、韻即ち語の母音以下の部分の同じものを並べる事である。又押韻は句の末に韻の同じ語をおく事である。さすれば、當時既に語の音の部分的一致について意識してゐたことは確かである。しかし、言語の音聲について特に考察することはなかつた。
 〔漢・魏・六朝時代〕 漢時代に古典の攷究が起るに及び、文字の發音を示す場合に、これと發音の同じ文字又は發音の近い文字を用ひて「音某」、又は「讀若v某」と記したが、漢末に至つて、反語即ち反切を用ひる事が始まつた(漢未の孫炎の爾雅音義が最初と傳はつてゐる)。これは一字の音を示すに二字を用ひ、上の字からは語頭の子音をとり、下の字からは韻をとり、兩者を合せてその字の音を示す方法であつて、雙聲疊韻から發達し、一方佛教と共に輸入せられた梵語の音聲の知識の影響を受けて起つたものであらうといふ。この反切は魏の代から大に行はれて、以後多く韻書が作られたが、李登の「聲類」が最も古く晉の呂靜の「韻集」など次いで現はれた。これ等は同音の字をあつめたものと考へられるが、「聲類」は五聲を以て字に命じ、「韻集」は五卷に分れて宮商角徴羽を各一篇となしたとあるのは、つまり四聲によつて分類したものと考へられる(宮と商とは、平聲を二つに分つたものであらう)。四聲は齊・梁の代の沈約《しんやく》の「四聲譜」、周※[禺+頁]の「四聲切韻」に始まると傳へられるが、四聲の韻書はこの前からあつた(晉の張諒に「四聲韻林」二十八卷の著がある)。沈約の「四聲譜」は、四聲を詩文の音律に關係させて平仄の法を論じたもので、この時代から四聲が一般に世の注意をひいたものであらう。四聲はあらゆる語の音調(アクセント)を平上去入の四種に分けたもので、かく四聲を區別するに至つたのは進歩であるといはなければならない。六朝時代に出來た韻書はなほ數種あるが、前述の諸書と共に悉く亡びて傳はらない。
(329) 〔隋・唐時代〕 隋に至つて陸法言が友人數名と謀り、古今南北の音を參酌して「切韻」五卷を作つた。これは今存せぬが、これに文字を漸次に増加したばかりで、大體に於て原《もと》の體裁を失はないと認められてゐる「廣韻」〔後出)によると、あらゆる文字を先づその韻の四聲によつて平上去入の四つに大別し、次に韻の異同によつて小分して總て二百六種に分つた。即ち一々の文字が、二百六韻の中の何れに屬するかを定めたのである。各韻の中では、同音の文字を一所に集めて、反切によつてその發音を示してゐる。この反切の文字を仔細に調査すれば、語頭の子音は四十一類に分れ、二百六韻も、同韻中二類三類に分れるものがあつて、すべて三百十一類に分れるが(陳※[さんずい+豊]の切韻考による)、これは反切の文字で區別せられてゐるだけで、發音上の區別は明示せられてゐない。二百六韻の區別は、發音の古今と地方的の相違をも考慮に入れたもので、必ずしもその當時の或地方の發音に、これ等を悉く區別したのではないやうである。又これは詩の押韻に用ひるのであるから、同韻の文字のあまりに少ないのは不便である故、似たものを併合して一韻としたものもあるであらう。さうしてこの切韻の韻の分け方は、大體に於て齊・梁の頃、沈約等の詩賦に用ひたものと一致する。即ち以前からの習慣に基き、これに多少の整理を加へたものである。陸法言の「切韻」が出てから、これに多少の増補を加へたものが多く現れたが(郭知玄・關亮・薛※[山+旬]・王仁〓・祝尚丘・嚴寶文・裴務齊・陳道固等の切韻がある)、孫※[立心偏+面]がこれ等を合せて文字を増加し、「唐韻」五卷を作つた。これ等の「切韻」も「唐韻」も今は逸書となつたが、近年敦煌から「切韻」の殘缺三種が發見され、又唐寫本と稱する唐韻の殘卷や、切韻の殘缺本が刊行された。これ等によれば、韻の數は二百六よりも少かつたやうである。宋の眞宗の時、陳彭年等が「唐韻」を増補して作つた「廣韻」五卷に二百六韻となつてゐるのは、或は後の改訂であらう。これ等の韻は、古今南北の音(330)を包括するもので、實際に於ては同音のものがあつたのである。そこで、唐の許敬宗が奏して、他と通用するものと獨用するものとを定めた。これは「廣韻」に見えてゐる。
 〔宋以後〕 宋の眞宗の時、陳彭年等をして「廣韻」五卷を作らしめたが、又丁度等に勅して、「廣韻」の略本を作らしめ、「韻略」と名づけて頒行した。これは仁宗の時名を「禮都韻略」と改めた。又「集韻」十卷を勅撰して大に字數を増した。韻の種類は改めなかつたが、「廣韻」に獨用としたものを、新に通用する事を許したもの十三箇處に及んだ。宋の理宗の時、平水の劉淵が、「廣韻」及び「集韻」の同用通用のものを一韻として、二百六韻を一百七韻とし、「壬子新刊禮部韻略」と名づけて刊行した。世にこれを平水韻といふ。後、元にいたり、陰時夫が「韻府群玉」を作つたが、この時、上聲の拯を〓に併せて、一百六韻とした。こゝに於て、隋・唐以來の韻の分類が大に改まつた。明の「洪武正韻」は、更に韻の併合を行つて七十六韻としたが、明・清以後の文人は、陰時夫の「韻府群玉」の百六韻を用ひた。かやうに韻の種類の少くなつたのは、實際の發音上區別がなくなつた爲めである。又、發音の時代的變化の爲め、隋・唐以來の反切に示された音が、實際の發音と合致しないやうになつた爲め、宋以來、反切に種々の法則(門法)を設けて、これを説明することになつた。(反切參照)
 〔等韻學の發達〕 以上述べたのは、音聲の實用的方面に關するものであるが、唐未から宋にかけて、音聲の觀察や理論がよほど進歩を來した。まづ語の最初の子音(所謂「聲」に三十六種の別ある事を認めて三十六字母をたて、これを七音に總括した。これは悉曇に基くもので、悉曇では子音で始まる文字はこれを五種に分ち、五音と名づけたのであつて、「玉篇」卷末に載せた神※[王+共]の「四聲五音九弄反紐圖」の五音、東方喉聲、西方舌聲、南方齒聲、北方唇聲、(331)中央牙聲の別の如きは、これから來たものである。これに半舌半齒を加へて七音としたのである。その上、唇音に輕重を分ち、舌音に舌頭舌上をわかち、齒音に齒頭と正齒を分つた。また同類の子音の中では、全清・次清・全濁・不清不濁(清濁とも)に分つたのも、また悉曇に得來つたものと考へられる。後、明・清の學者は發聲・送氣・收聲と分つに至つた。清末の勞乃宜の「等韻一得」には、戞透轢捺の四類となし、字母に四類ある事、韻に四等あるが如しと説いてゐるが、まだ音の性質を説明し盡さぬ憾みがある。併し、とにかく聲に於ても、段々とその性質が明かになつて行つたのである。又、韻についてはこれまで二百六韻を立て、これを統ぶるに平上去入の四聲を以てしたが、これでは異なる韻相互の關係はわからない。又同じ字母で始まる同韻の語でも、實際の發音の同じくないものもある(反切の文字では區別せられてゐる)。これ等を明かにする爲めに、開音合音を分ち、又四等を分つた。かやうにして韻書中のあらゆる異音の字を、聲の部分が同じものは同行に、語頭子音以外の部分が全く同じものは同段に收めて音聲表を製作するに至つた。韻鏡及び「七音略」がこれであつて、何れも四十三枚の圖から成つて居る。かやうにして聲及び韻に關する考察が精しくなり、これまでは唯反切の文字で區別せられるばかりであつた音の相異が、その音の性質から説明せられるやうになり、從來の主として反切によつたものに對して、自ら別家の學をなすに至つた。これを等韻學と稱する。この派の研究は更に一歩を進めて、諸韻をその發音の大部分の類似によつて概括し、これを十六類に統括するに至つた。これを十六通攝といふ。元の劉鑑の「切韻指南」に見えて、以後、踏襲せられたものである(「切韻指掌圖」にも見えるが、これは僞書といふ説がある)、宋元に於ては開合を分ち、これに各四等ありとしたのであるが、その四等は母音の高低の差で、一等より四等に至り、次第に高くなつたもののやうである(高元氏國音學の(332)説による)。然るに明・清等に至ると、四等の中に併合が行はれ、その標準がかはつて母音を發する時の唇の運動によることゝなり、潘來の類音に至つて、開口(脣を自然にひらく)、齊齒(脣を平にする)、合口(脣を圓くして前方で發音するu)、撮口(脣を圓くして後部で發するy)の別をするやうになつた。
 〔口語の聲韻の研究〕 以上は隋唐以來の韻書の研究であるが、これ等の音は、時代と共に變じて口語と益々一致しなくなり、たゞ紙上に保存せらるゝのみとなつた。口語では、唐・宋が北方に都した爲め、北方音が次第に勢ひを得、遂に俗文學にも用ひられるに至つたが、これは詩韻とは違つた點が多い。そこでこれに關する研究が起つた。宋・元の際に起つた北曲の韻書として作られた元の周徳清の「中原音韻」がその初めであつて、これは平聲を陰陽二切に分ち(今の上平、下平にあたる)入聲は語尾音を失つたので、その實際の發音の儘に平上去に分ち收め、韻を總て十九部に分つた。明の樂韻鳳等の「洪武正韻」もまた北方音に依つて、二百六韻を七十六韻とし、平上去の三聲を合せて二十二切とした。明の蘭廷秀の「韻略易通」も二十部とし、大體「中原音韻」の體である。以上の諸書も、なほ幾分か舊來の韻書の説に引かれて、當時存在しなかつた語尾のmnの別を存したなどの事があつたが、畢拱辰の「韻略匯通」に至つてはこれ等を除いて十六部とした。清の樊騰鳳の「五方元音」に至つては遂に十二部とした。また語頭音も三十六字母が實際の發音に適しない故、蘭廷秀の「韻略易通」、及び清の樊騰鳳の「五方元音」に至つては、これを二十種とした。かやうにして近世口語の音聲の研究も追々進歩して行つたのである。
 〔清代の古韻研究〕 清以來、古韻の學が盛んに起つた。周・秦・漢の古書に於ける音が、隋・唐以來の韻書の音と同じくないことは、その押韻を見て知られるが、魏・晉以來、韻學が漸く起つた時代に、古代の韻の當時のものと一(333)致しないものがあれば、協句・協韻・合韻などと説明した。下つて宋代に顧亭林が古韻に注意し、又鄭※[まだれ/羊]が「古音辨」を作つて古韻の分野を試みたが、陸法言の韻を併合したに過ぎなかつた。その後は叶韻として解釋する説が有力であつた。清代に入つて、陳弟がまづ第一に叶韻というのは、實は古人の本音である事を論じたが、顧炎武に至つて、秦・漢以上の押韻の實例と説文の諧聲字とから歸納して唐韻の分類に關係なく、古韻の通用するものと否とを分つて、始めて古韻に十部及び入聲四部の區別ある事を論斷した。それより、江永(古韻標準)・段玉裁(六書音韻表)・戴震(聲類表)・孔廣森(詩聲類)・嚴可均(説文聲類)・江有浩(江氏音學十書)・王念孫(經義述聞)等の學者が、諸種の資料から討究し、顧氏の説を増損して種々の部類を立て、陽聲(韻の終りに子音あるもの)、陰聲(韻が母音で終るもの)との相對を考へるなど研究は次第に詳しくなつた。併し古代語の聲、即ち語頭の子音に至つては、始めは古今の相違に注意するものがなかつたが、錢大※[日+斤]に至つて、魏・晉・南北朝の人の反切を「廣韻」と此較し、古は舌上音の知徹澄の三母は舌端音の端透定の三母と區別なく、輕脣音の非・敷・奉・微の四母は重脣音の幇・滂・並・明の四母と區別がない事を發見し、古は以上の七母がなかつた事を明かにした。近く章炳麟は、舌上音の娘母、半舌半齒の日母は古く舌頭の泥母に入つてゐた事、牙音の喩母が古くは影母に入り、齒頭音の精清從心邪は、正齒音の照穿牀審禅に入つてゐた事を明かにした(小學略説紐目表)。黄侃は「廣韻」を新しい見方で研究して以上錢・章二氏の説を證明した。但し、齒頭音と正齒音とでは、章氏と違つて齒頭音があつて正齒音がなかつた事を明かにし、その上、喉聲に于なく、牙聲に羣母なく、齒聲に莊初牀山斜がない事を見出した。又、黄氏は韻に於ても、廿八部(陰聲八・陽聲十・入聲十)説に到達した(音略)。この聲母十九部、韻母廿八部が今日に於ては定説となつた。又、研究は單に古韻のみでなく、(334)「廣韻」にまでも及んだが、「廣韻」の反切の字から「廣韻」は聲に四十一類、韻に三百十二類ある事を明かにした味※[さんずい+豊]「切韻考」の如きは、最も出色の著である。
 〔現代〕 以上の如く、支那の韻學は次第に進歩して來たが、近年西洋の音聲學が輸入せられ、一方國語統一の爲めに、注音字母を制定し、民國七年教育部から頒布し、發音を示す文字として次第に廣く用ひられるやうになつたので、音聲に就てはこの注音字母を用ひ、韻の如きも音素に分解して、音聲學の所説に從つて説明しようとするに至り、各時代の音の性質もよほど科學的に明瞭にせられて來たのであつて、今後この方面の研究はいよ/\進歩するであらう。
 【日本に於ける韻學】 〔平安朝まで〕支那と直接交通するやうになつた推古朝以來、奈良朝・平安朝にかけて、漢學が甚だ盛であつて、詩文を作るものも多く、字書や韻書の類も輸入し使用せられたのであつて、從つて當時は、韻や四聲や韻の分類や反切などについて、十分の知識をもつて居た事が推測せられる。その時代に日本人の作つた音義の類や字書の類は、皆反切を以て音を示して居り、又「東宮切韻」三十卷(菅原是善作)の如き、韻で引く字書も作られた。又支那の影響を受けて作詩作文の上にも音聲の事に重きをおいたので、空海の「文鏡秘府論」や、某氏の「作文大體」等にも、その方面の事が論ぜられてゐる。平安朝初期には入唐した僧侶が、密教と共に梵字梵語(所謂悉曇)の學を傳へたのであるが、梵語の發吾を説明するに當つては、漢字を用ひ、漢字音を基礎とするのが常であつたから、この方面の學者が支那の韻學にも精しく、悉曇學の中で韻學が講ぜられるやうになつた。安然の「悉曇藏」の如きは、その著しい例である。さうして後には反切の作法の如きも、僧侶の手で攷究せられるに至つた。五十音圖も反切の爲めに作られたものと考へられるのであつて、明覺の「反音作法」の如きは、この假名にょる反切法を述べ(335)て居り、それが簡便である爲めに廣く行はれたのである。さうして一般には(恐らく漢學者の間でさへ)漢字の正しい發音が失はれたと考へられる時代になつても、僧侶の間では四聲を正し、字音の語尾のン音に於いてmnの區別のみならず、ngの音までも正しく發音してゐたらしい。
 〔鎌倉室町時代〕 唐宋の僧神※[王+共]が作つた「四聲五音九弄反紐圖」は、反切の爲めに作つたもので、かなり古く我が國に傳はつたが、平安朝末期から鎌倉時代にかけて數種の註釋書が出來た(教尋の「九弄圖私記」、信範の「九弄十經圖私釋」、教遍の「九弄十紐圖聞書」、及び「九弄圖見聞」など)。鎌倉時代に韻鏡(指微韻鑑)の刊本(張麟之刊)が傳はつたが、明了房信範が始めてこれに訓點を附けた。これは南北朝頃から用ひられ(杲寶の「悉曇創學鈔」に引用せられてゐる)、その序例(張麟之の記したもの)の注釋が出來た(「韻鏡字相傳口授」、「指微韻鏡私抄略」、印融の「韻鏡抄」など)。韻鏡は元來支那の音聲表であるが、序例にはこれを反切に關係させて説明し、反切の種々の方法(門法)に就て説いて居るのであつて、我が國の註釋書も、やはり反切を主として説いて居る。反切は我が國では五十音圖に關係させて説いて居り、又韻鏡自身の組織が、五十音圖と同じく、初の子音の同じものは同じ段においてあるのであつて、兩者相對應する所から、韻鏡も五十音と關係させて説明した。反切に就いては、鎌倉時代に承澄の「反音鈔」が出來、これが後には韻鏡研究と合同したのである。又支那の韻書類も出來るに從つて傳はつたが、鎌倉時代には禅僧の往來が盛であつて、新しい學問が傳はり、それから室町時代になると、「禮部韻略」「古今韻會擧要」「韻府群玉」などが用ひられ、我が國でも飜刻されるやうになつた。さうして我が國では、虎關師錬が新に「聚分韻略」を作つて、同韻の文字を更に意味によつて分類して檢索に便にした爲め、世に行はれ、後、文明年中、平上去三聲の韻を三段に(336)上下にかさね、同音異聲のものを同處にあつめたので、更に便利になり、益々弘く行はれて屡々版を重ねた。
 〔江戸時代〕 この時代に於てもまた韻鏡が盛に行はれたのであつて、慶長頃に覆刻せられたのを初めとして、寛永五年には、初に五十音圖を添へたものが刊行せられ、その後も度々刊刻せられたが、註釋書の類も甚だ多く作られた。「韻鏡切要鈔」一卷(寛永三年刊)は恐らくその最初のものであらうが、これはまだ大體に於て前代のものを承けたのであるが、「切韻指掌圖」を以て韻鏡を訂正してゐる。宥朔の「韻鏡開〓」(寛永四年刊)は、韻鏡に關する種々の問題に觸れ、やゝ研究書としての體を具へてゐるのであつて、後の諸註書の根源となつた。これは反切の正證に備へん爲め、「廣韻」及び「切韻指掌圖」によつて韻鏡を訂したもので、反切の具とする立場から韻鏡を批判したものである。更に反切の門法として十二種を立て、これを詳細に説明してゐる。又人名の文字を反切する事に就ても説いて居る。なほ引續いて澤山の註書が出たが、多くはこれ等の説を敷衍したもので、研究として見るべきものは殆どない。偶々異なつたものがあつても、益々邪路に迷ふばかりで、人名年號などを反切して吉凶を卜ふまでになつたのである。偶々河野通清の「韻鑑古義標註」二卷「同補遺」一卷及び「改點韻鑑」一卷は、時流を脱した著であつて、音聲には時代による差異があるので、從來の如く、韻鏡の一圖に於て新舊の音を同一ならしめようとするのは不合理であるとし、人名の反切を韻鏡について云ふのは無益であると斷じてゐる。然るに僧文雄の「磨光韻鏡」が出るに及んで、韻鏡研究は一時期を劃するに至つた。文雄は、唐音(當時の支那語の發音)に通じてゐたが、唐音の音の區別が、韻鏡に於ける音の區別と一致するのを見て、韻鏡は音韻の譜、即ち音圖であつて、音韻を正す爲めのものである事を始めて明かにし、反切の爲めのものとする從來の説の誤を訂し、且つ圖中の文字に一々漢音呉音唐音を附し、「廣韻」「集韻」(337)等によつて反切を註した。その外、後篇、餘論、九弄辨等に於て、韻鏡上の名目や反切その他の問題を縱横に解説し論評した。さうして文雄は韻鏡によつて日本の字音の正否をも論じ、漢呉音の性質を考へて唐音を古來の中原の正音とし、漢音呉音共に支那の或る一地方の音であらうとした。文雄の漢呉音の諭に對して、本居宣長は、日本の漢字音が、支那の古代の正音を存することを主張した(漢字三音考)。宣長は、字音の假名遣を定める爲めに、萬葉假名として用ひた漢字と韻鏡とを對照させて、ア行とワ行との別を音の輕重の別とし、これを韻鏡に於ける開合の違ひに宛てたものとし、これによつて韻鏡の各圖の開合が諸本に異同あるものの正否を判定し、又漢音と呉音とで開合の變るもののある事を擧げて、韻鏡は漢音によつたものである事を明かにした。かやうに宣長は、韻鏡を以て日本の漢字音の假名遣を定める基礎としたと共に、日本の假名としての漢字の用法からして、韻鏡自身の研究にまで入つたのである。又宣長は、日本の假名遣の研究によつて、後世の韻書の誤を訂し得るものある事を主張した。我が國に於ける韻鏡の研究は、太田全齋(方)の「漢呉音圖」(文化十二年刊)に至つて、また一轉機に臨んだ。全齋は韻鏡は音韻の原である故これに通ずべきであるが、我が國では漢呉音を用ひてゐる故、韻圖によつて漢呉兩音の國字譯(カナツケ)を檢する事に通曉すれば十分であるとし、それが爲めに、韻鏡の文字の漢呉音を考定して、これを附したものを作つて「漢呉音圖」と名づけた。これによつて反切法によらずして漢字音を知る事が出來るやうになつたのである。韻鏡に假名を附したものは、「磨光韻鏡」があるが、同じ段の假名でも、音によつて異なり統一しない所があつたが、全齋は全部に亙り統一した組織を求めたのであつて、爲めに漢呉音共に、原音・次音の二種を立てて、同字に種々の音のあるものを説明しようと企てた。又ヤ行の假名で始まる字音の韻鏡中に於ける位置が不統一であつたのを、影母と喩母と(338)の第四等にあるものは常にヤ行であると定めた。字音の終りのンは、日本字音では區別ないものと考へられ、宣長は總てこれをムであるとしたが、全齋はンとムと二種の別があつて、韻によつて定まるものである事を明かにした。日本でオの假名にあてられた「於」は、韻鏡によれば合音であつてヲとなるべき筈である。これは宣長も説明に窮したが、これは「於」の屬する第十一轉を合としたのは誤で、正しくは開とすべきである事を明かにした。右の説の中、原音、次音を立てる事や、影母四等をヤ行と定める事などは甚だ疑はしいが、從來の誤りを訂した處も少くない。これは古今の漢籍に造詣深かつた事、唐音や朝鮮に於ける字音にも通じた事と共に、我が國に於ける漢字の用法、殊に假名としての用法についての知識が基礎となつて出來たものである。かやうに全齋の研究は、主として日本の漢呉音の爲めの研究で、純粹な支那字音の研究としては、多少傍系に入つた感があるが、併し韻鏡自身の研究としても、從來より數歩を進めた事は疑ひない。全齋は日本の字音は日本化したものであるが、大體に於て古代支那音をそのまゝ傳へたものと考へてゐるのであるから、漢呉音の標準としてこれを採つたのである。併し日本の字音とても決して單純なものでない。時代により地方によつて差異あるべき字音を、總て韻鏡によつて律しようとしたのは、當を得たものかどうか疑はしいと言ふべきである。「漢呉音圖」は長所もあるが缺點も少くないものである。その考證が該博であり、また融通がきくところから、當時及び後の學者に尊信せられて、白井寛蔭・黒川寒村・木村正辭などの韻學の基礎となり、これによつて字音の假名遣を定め(白井寛蔭の「音韻假名用例」)、古今にわたる種々の異音を説明し(黒川春村の「音韻考證」)、萬葉假名に普通と異なる訓を下す(木村正辭の萬葉集字音辨證)など、その影響が甚大である。
 〔明治以後〕 支那現代語を學ぶに至つたが、その方面では、學問的研究はない。たゞ臺灣において、所謂臺灣語(339)(支那の方言)に接し、その音聲を研究して假名を以てこれを現はすべき方式を總督府で工夫した事(日臺大辭典にこれを用ひた)は注目すべきである。支那古代音に就ては、大島正健氏が韻鏡の研究に力を用ひ、更に支那歴代の音聲の變遷を調査して「支那古韻考」を始め、「韻鏡音韻考」「支那古韻史」等を著はされ、大矢透氏は、日本の假名の研究から、推古時代の假名として用ひた漢字の音が、先秦の音に一致するものがある所から、先秦音を研究して「周代古音考」及び「周代古音徴」を著はし、又漢呉音の研究から、韻鏡を研究して「韻鏡考」を著はされ、滿田新造氏が、支那歴代の文獻に於ける押韻・反切・梵語音譯・日本及び朝鮮の字音及びジャイルス氏の「漢英辭典」に載せられた支那諸方言の發音及び各時代の韻書等によつて、支那語の音聲史を研究して「支那音韻斷」その他の論文を著はされたのと、石山福治氏が、「中原音韻」を元曲に於ける押韻の實例に比較し、元時代の發音について考證して、「考定中原音韻」を著はされたのが著しいものである。これ等のものは、各時代に於ける實際の發音についても論じてゐるが、概して一般音聲學及び現代支那諸方言の音聲に關する知識がまだ十分でなく、比較研究の效果を十分に收める事が出來ないのを遺憾とする。(韻・韻鏡・漢字音・四聲參照)
 【參考】 中國聲韻學概要 張世禄 ○中國古音學同上 ○切顧考外篇 陳※[さんずい+豊] ○韻鏡經緯 龍音慧雲 ○磨光韻鏡餘篇 文雄
 
 刊行委員追記 日本文學大辭典の執筆は昭和六七年の頃であつたから、ここに解説された項目についてその後の研究の進展してゐるものが少くない。それらのうち、參考となる著書、論文を次に抄録しておく。
  ○五十音圖の歴史 山田孝雄 ○五十音圖といろは歌 岩淵悦太郎(朝日國語文化講座) ○契沖と五十音圖 戸田吉郎(國語學(340)論集) ○濁音考 三宅武郎(音聲の研究第五輯) ○濁點の成立について 星加宗一(國語と國文學九卷十二號) ○國語の頭音節における濁音について 朝山信彌(國語と國文學二十卷四號) ○日本書紀の字音假名に於ける清濁表記に就いて 大野晋(國語と國文學二十四卷十一號、二十五卷一號)
○いはゆる音便について 湯澤幸吉郎(音聲の研究第四輯) ○上古和音の舌内撥音尾と唇内撥音尾 龜井孝(國語と國文學二十卷四號) ○促音沿革考 濱田敦(國誤國文十四卷十號) ○ハ行動詞の音便形の沿革 金兒祝夫(國語と國文學二十四卷七號) ○促音と撥音 濱田敦(人文研究一卷一號、二號) ○上代國語における所謂約音について 岸田武夫(國語と國文學二十五卷十二號)
○全日本アクセントの諸相 平山輝男 ○國語アクセントの地方的分布 金田一春彦(標準語と國語教育) ○國語アクセントの話 日本方言學會 ○日本語のアクセント 日本方言學會(アクセントに関する論考は音聲學協會々報、國語研究、音聲の研究などの諸誌に極めて多い。)
○國語音韻論 菊澤季生 ○【新訂増補】國語音韻論 金田一京助 ○音韻論 有坂秀世 ○国語音韻史の研究 有坂秀世
○日本漢字學史 岡井愼悟 ○支那言語學概論 カールグレン魚返岩村譯 ○北京語の發音 カールグレン魚返善雄譯 ○Grammata Serica Karlgren 1940 ○Shi king researches Karlgren 1932 ○The poetical parts in Lao−Tsi Karlgren 1932 ○中國吾音韵學研究 カールグレン趙元任 羅常培 李方桂譯 ○東洋語の聲調 ヂョーヂグリアスン魚返譯 ○廣東語の發吾 ダニエルジョーンズ魚返善雄譯 ○粤音韻彙索引 黄錫凌 ○湖北方言調査報告 趙元任等 ○古音説略 陸志韋 ○上古音韵表稿 黄同〓(史語集刊第十八本) ○説平伏 周清高(史語集刊第十八本)
 
(341)   解説
 
     故橋本進吉博士の學問像と國語音韻の研究
                      龜井孝
 
(342)       一
 
 故橋本進吉博士は、すでに、わが國語學のうへにおける、もつとも偉大な古典的存在である。しかし、それゆゑに、また同時に、この一すぢにつながらうとする後進のわたくしにとつて、その存在は、そのまゝ、たゞちに靈感である。この感激を、あへて、かたらうとすれば、それは、魅せられたるたましひの告白にふさはしく、これを表現するほかない。しかし、かゝる文章は、恩師の意に、そむくものとならう。さりとて、個々の研究を羅列して、單に、「橋本博士の音韻研究」となすのは、ほいないわざである。かくて、本稿の標題を、上記のごとくにえらんだのは、研究の道程と成果とを聯關的にとらへて、人間像の統一のもとに、綜合的に、その學問を理解したいためである。その結果が、どこまで客觀的な把握となりうるかは、ひとへに、わたくしの解釋の能力にかゝつてゐる。おそらくは、それが、はなはだしく、あやまつたものと、ならぬことを。
 なほ、この執筆をわたくしに義務づけたものは、この著作集の編纂計畫であつて、この點、本稿の起草は、かならずしも、わたくしの十分に自發的な意志にでたものとはいひがたい。けれども、つとにものすべきでありながら、つたなさをおぢるこゝろのたゆたひのまゝに、ふでをすてゝきた追悼の論文は、もとより、こゝろゆくまでのものをつくりうるなど、いつのことか、おぼつかないから、やはり、この機會に、一往、これを、それに擬したい。
(343) かさねていふ、故橋本博士は、すでに、わが國語學のうへにおける、もつとも偉大な古典的存在である。博士のあゆまれたあしあとは、ふかく國語學史に、きざみこまれてゐる。もし國語學にこゝろざすものにして、このあとを、しつかりと、たどりしたつてゆくならば、はるかなみちも、ふみまよふことなく、やがては、ひとりたびをつゞけうるであらう。
 さて、しかし、その業蹟のおほくが、音韻論ないし音韻史に、ふかい關係をもつものであることは、博士の學問のいちじるしい特徴である。これは、研究の成果を、たんに平面的に分類してならべてみたときに、量のうへにうかゞはれることがらなのではない。どの研究さへもが、日本語の音韻論的認識を根柢とすることによつて、獨自の構成をしめしてあるところに、博士の學問の決定的な性格と、その歴史的な意義とがあるのである。音韻論こそは、すぐれて博士の學問をつらぬくところの契機なのである。もとより、國語學のうへに博士の印せられた足跡が、この學問の諸領域に、あまねくおよんでゐることは、博士について、かたるところのひとの、たれしもが、まづ、とくところであり、この遍歴を記念するいくたの業蹟が、博士の深さとともに、廣さをも、しめすものであることについても、これまた、たれしもの一致するところであるし、博士が、つねに、わか/\しい發展をつゞけて、晩年にいたるも、その生長をやめることのなかつた點、いな、まことに驚嘆すべき飛躍をとげつゝ、しかし、かなしいかな、つひに、精神は肉體にかちえなかつた現實、それは、われわれの、ぢかに、これをみたところの事實である。しかしながら、かかる學問が、空間的なひろがりについても、時間的な展開についても、その全體的統一の聯關において、一個の秩序のもとに、とらへえられるならば、それは、博士の學問をくりひろげて、おほいなる調和をかなでるところの契機が、(344)まづ、そこにあつたがゆゑでなければならない。すべてのものがとは、いへずとも、國語學者としての博士の、その本質的な勞作は、たしかに、そのひとつびとつ、歸するところは、いづれも音韻論的認識による、いくつかの主題の展開に、ほかならなかつたのである。
 たゞし、かくいへばとて、たまたま、みづからのうけもちとして、この第四卷を課されたがゆゑに、この卷の價値なり意義なりをば、とくに強調してみようとの、したごころをもつて、あへて、事實をしひた解釋を、もてあそばうとしてゐるのでは、いささかもない。なほ、それとともに、こゝに注意しておきたいとおもふこと、ひとつ。すなはち、この一卷によつて、音韻に關する博士の論文がつきてゐるものとおもふひとがあるならば、それは、あやまりである。音韻についての研究をもつぱらとした論文が、もつともおほく、ここにあつまつてゐることだけは事實にしても、かかる論文集の編纂にあたつては、論文の收拾配列が、おほかれすくなかれ、便宜にまたざるをえないこと、これは、やむをえないところだからである。だから、編成のうへだけでいへば、どのみち、個個の論文のよりあひでしかないかもしれない。さうみる方が、ある意味では、ほんとでもあらう。
 しかしながら、なほかつ、これらをもつて、この一卷となすとき、ここに、これら全體をつらぬいて、その根柢によこたはるところの統一が、この編成においてもまた、この編成なりには、やはり、おのづからに、うかがはれるのを、われわれは、みのがしえないであらう。だから、博士の本質へわけいるふもとのみちこそ、決して、ひとつではなく、いかなる勞作にも、これをもとめはしえよう。しかし、どのみち、窮極の問題としてみれば、かゝる本質そのものは、自己の學問への思索と反省とを、つねに、おこたることのなかつた博士の人間性が、國語學者としての研究(345)の實踐、つまり、ほかならぬ音韻論へのふかい認識を、なかんづく、重要な契機として、その巨大な統一像に凝結したところの精神に、これを、もとめるほかはない。先天的資質が、その強靱な意志の自己錬磨によつて、ます/\、獨自の發展をとげた、人間・橋本進吉の、その學問上のいきかたは、つまり、いふまでもなく、およそ、才にまかせての行動とは、縁のとほい、それとは反對のみちをたどるいきかたであつたのである、ひとへに、ふかくほりさげていつて、うむことをしらないといつたところの。つまりは、音韻の研究も、もとより、かゝる精神に、おほはれてゐるのである、そして、かゝる精神を展開せしめたものが、すぐれて、音韻論の主題であつたのである。
 博士は、筆になじむひとびとのうちにみられがちな、變通自在の才の發揮をしめされなどはしなかつたのであつた。それは、いはゞ、はで〔二字傍点〕をいとはれること、ハの字〔三字傍点〕にさへおよんだといはうか、臆病なまでに、つゝしみぶかい性格だつたのである。だから、たんに視角がひろかつたといふだけでは、これまた、博士の學問をいひあらはすには、不十分である。視野そのものがすみとほつてゐて、およそ、國語學の問題とあらば、するどく、的確に、これを把握せられたのである。博士自身は、視野のかなめにたつて、みちは、そこから八通してゐたのである。しぼれば、たぐりよせうる用意をもつて、しつかり、もとをおさへつゝ、個々の問題の所在に對して、それ/”\に、よくゆきとゞいた、みとほしをつけてをられたのである。
 この、博士の、研究對象への認識の態度は、つまり、言語を把握するに、終始、一貫して、意味のがはよりせず、形態のがはよりしようとするものであつた。それは、きはめて、意識的であつた。かくて、形態論的な言語の把握のみちは、まづ、形態のになひてとしての音韻に關する諸考察に、はじまり、ついで、認識のふかまるにつれ、形態の(346)概念が、次第に明確になつていつたのである。こゝに、われわれは、橋本國語學の體系における、音韻論と文法論との聯關を、うかがひうるであらう。これには、博士を刺戟した影響があるにはあつた。形態論的方法を主張する立場から、言語を、その機能的價値について考察しようとする方向を、もつぱら強調しはじめた言語學界のあたらしい動向に對して、つまり、具體的にいへば、ド・ソシュール(de Saussure)によつて、まづ、文法論を中心に理論づけられ、トルベツコイ(Trubetzkoy)によつて、音韻論のうへに、その獨自の解釋をもつて實演せられたところの構造主義に對して、博士は、これを理解せんとの、をしみない努力をはらつてをられる。そして、おいをしらぬかの、わかわかしさとするどさ、また、理解のしなやかさが、こゝに、しめされてゐる。それは、時代とともに進歩したところの、博士自身の發展であつたのである。たゞし、たんなる感覺のするどさ、反應のわか/\しさによつて、時代の尖端をきることのできるやうな性格では、むろん全然ない博士である。だから、わか/\しさとはいつても、それは、流行をおふところのわかさではなく、眞におとろへをみせぬ精神の、その永遠のわかさであつたのである。つまり、受容すべきものは、これを受容しつゝも、その根柢において、博士は、博士自身の思索のみちをたどつて、自己の學問を完成していつたのである。
 たゞし、かゝるたびぢの日程が、はたして、どこをめざして、くまれてゐたものか。くはしくは、さらにのちにふれるところにゆづることゝして、こゝには、たゞ一言しておかう。すなはち、博士が、あらゆる問題を、それ自身一個の目的として〔それ〜傍点〕追究されたことは、むしろ、その學問のいちじるしい性格なのである。が、かく、それ/”\を價値ある自己目的として認識しえた根柢には、橋本國語學の體系に對する博士自身の構想があつて、それによつて、個々の(347)研究は、さゝへられるのである。うへにのべるごとく、實證は、つねに音韻論的な問題を契機として、はこんでゐるのであるが、獨自の體系を構築する形式的統一としては、さらに、形態論をもつて踪合するところの、日本語の把握がめざされてゐるのである。いま、こゝでは、その體系を理想像としてかいまみるまへに、現實に具體的に展開されたいくたの研究を實質においてつらぬくところのものとして、そのかぎりにおける統一を、音韻の問題にもとめたいのである、かゝる把握こそ、博士の學問の具體的認識として、まづ、その内容にふれるものであるから。
 とはいへ、所詮、われ/\にとつての直接の所與は、いまや、のこされた個々の業蹟のほかにはない。これをわれ/\がどう概括しようとも、そのひとつびとつは、いづれも、眞に内奧から形成せられた、たふとい勞作であり、一旦、博士の手をはなれるや、たゞちに、當代國語學の金字塔として、それ/”\に仰望せられたものである。だから、その記念碑的價値については、國語學の傳統を具體的にこころえてゐるひとならば、さながらに理解しうるところであらう。われ/\は、現代を表徴するこの學問的遺産の眞に歴史的なゆゑんを、さらにふかく、さとるべきなのである。博士における學問の發展を、國學以來の〔五字傍点〕、日本語の研究の展開にそつて、十分にひろい視野からながめてみるならば、その發表せられるところは、なほながく、舊思想のくすぶつてゐるなかで、つねに、もつともあたらしい研究の發展段階をしめす里程標でも、また、あつたのである。博士のあとをおつて、國語學にたびだつわれ/\は、いかにして、けはしいみちが、一歩一歩、きりひらかれたかを、おもはねばならない。
 國語學は、博士によつて、はじめて、博士以前のいかなる先人によつてよりふかく、その研究の對象および方法を自覺的に認識せられ、したがつて、眞に方法を自覺した研究は、博士によつて、はじめて十分の實踐にうつされきた(348)つたのである。これは、みづからを生きてゐたその世代において、もつとも近代的な言語學徒で博士はあつたといふことに、ほかならない。かかる存在としての博士が、眞の學者であることによつて、同時に、もつともすぐれた意味での國語學の啓蒙をはたしえたといふことは、その影響がなほながくのこるであらうことによつて、しめされるであらう。
 かかる啓蒙は、もとより、國語學の全領域におよぶものではある。けれども、時代になげかけた直接の影響〔二字傍点〕といふ面においても、ユニークなのは、これまた、やつぱり、なんといつても、音韻論的研究の領域であつたのとみとめもるべきである。それは、この方面における博士の業蹟が、實質的に偉大なものであつたといふことを別にして、日本語の言語學的研究として、もつとも缺如してゐたのは、音韻論的考察であつたからである。つまり、かかる趨勢に對して、ひとり、博士の業蹟は、そのきはめておほくのものが、音韻論または音韻史の研究に、ふかい關係をもつてゐるわけなのである。その具體例には、じつさい、なにをあげてもいいにはいいのだが、なかでも、そのいちじるしい一例、文節〔二字傍点〕の概念がいかにしてかちえられたか、それは、この概念の設定に對してほどこされてゐる説明そのもののうちに、すなはち、あきらかである。(著作集第一、國語學概論 參照)もつと、ひろく、かんがへてみるならば、その文法理論をささへてゐるあしばも、所詮は、音韻論のうへにくまれてゐる。
 さて、いやしくも、國語學を多少とものぞいてみたほどのひとならば、いはゆる上代特殊假字遣の研究をしらぬひとはあるまい。そして、この上代特殊假字遣となづけるかたちにおいて、萬葉がなの資料のうへに反映してゐる、奈良時代以前の日本語の音韻組織の特異性をば、全面的にあきらかにしたいといふのが、その念願であつたことも、博(349)士の畢生の業のなんであつたかをしるほどのものにむかつては、これまた、わざわざ、とくまでもないところである。(上代特殊假字遣の事實と、その解釋とについては、第三卷ならびに、それにそへられた解説をみよ)。しかしながら、この偉大な劃期的研究において、眞に偉大なのは、たんにそれが事實の發見にとどまるものではなく、問題の本質をただしくとらへて、ここから派生しきたるいろいろの問題に、ゆたかなみのりをばあらしめたことである。ただ、しかし、方法のふむべきその手順のきびしさを、あまりにもはつきりと自覺することによつて、この、方法そのものへの反省が、研究の實踐をば、いやがうへにも愼重たらしめたのであつた。その點、博士の風〓は、そのすばらしい研究の成果よりも、もつとおほきな教訓であつたし、そのおもかげは、いまや、なほ、くつきりと、對象化されてゆくであらう。
 ここにおいて、ひとつの、あきらかな、逆説的眞實について、かたつておきたい、それは、この第四卷そのものを理解するうへに、十分の暗示となるであらうから。といふのは、研究の成果としては、音韻史個有の研究のかたちにおいては、のこしてゆかれなかつた、あの假字遣の問題のうちに、博士自身は、ふかくきびしく、音韻史の問題をみつめてをられたにちがひないといふことである。比較的に斷片的なかたちでもらされたにすぎない、いくつかの音韻論的解釋をのぞけば、全體としては、博士は、上代特殊假字遣をば、文獻上の事實として、これを嚴密にあとづけるために、あへて、もつぱら、かなづかひの問題としてのみ、とりあげられた。それは、眞實には音韻の問題であるがゆゑにこそ、文字のうへにあらはれたところの事實を、精密にあきらめておかねばならなかつたのである。とかくおぼろげになりがちな文字と音韻とのあひだの嚴密な區別を、まづよく認識してかからねばならぬといふ反省のはげし(350)さのために、かへつて、具體的には、音韻の問題を、いまだ研究の中心にまでおしすすめるいとまがなかつたのである。かくてこそ、われわれは、國語學史上におけるもつともすぐれた音韻史のとりあつかひの實例を、まさに、ここにおいて、まなぶのである。かく、みきたれば、この第四卷にをさめるところが、博士の音韻史の構想のわづかに片鱗でしかないであらうといふことは、もはや、くだくだしく、とくまでもないであらう。
 
       二
 
 博士は、その生涯をつらぬいて、日本語の音韻論的研究に一身をさゝげた學者である。そして、晩年におよぶにつれ、その關心は、ます/\ふかまり、その考察は、ます/\獨自なすがたをもつて、くりひろげられてゆくのである。これについては、おつて、その作品をあげて、解説をする。しかも、決して多作ではなかつた。そこに、われわれのあふぐのは、單に技術家にとゞまるところの、ひとりの專門家ではなく、たぐひまれなる眞理探求の使徒のすがたである。だから、親炙したものは、まづ第一に、その學問的態度の敬虔さにうたれたものであつた。この敬虔な態度は、博士の謙抑な性格がうんだ、學問實踐における、倫理的自覺にほかならない。この人格のゆかしさをしのぶがゆゑに、わたくしも、また、せいぜい、譬喩や抽象的辭句をもつて、博士を修飾的に説明することをさくべきは、十分に承知してゐる。いかに表現したら、もつとも適確に博士のすがたをつたへうべきかと、みづからをせめざるをえない。しかしながら、博士をもつともよくしるものは、やはり、直接の弟子であつたとおもふのである。
 博士は、單に既成の方法原理にかりたてられてゆく馬車うまの、自己のみちについては、なんの自覺もしないやう(351)な學問の奴隷となるには、あまりにも、貴族的であつた。あしは實證のほそみちへ、ふかくふみいれて、たゞしく處女地をきりひらいたのは、みひらいたまなこのめざす理想たかく、かつ、とほかつたからである。かゝる精神の理解へ努力をはらはずには、われ/\は、博士の神隨にふれることはできない。
 博士の目標が、一往、日本語の音韻史の開明にあつたことは、學風からみても、また、ここにをさめた諸論文だけをもつてしても、容易にうかがひうるところである。しかし、その最後の目的は、日本語の歴史の全貌をあきらかにしようとするところにあつたものであつて、その意味において、窮極的に、博士は、國語史家であり、また、意識的にさうであらうとせられもしたものとおもはれる。しからば、なにゆゑに、かく、音韻論的研究に、つまり、音韻史の研究に、まづ、その重點がおかれることとなつたのであるか。
 そもそも、從來の國學の傳統にながれをくむ國語學には、眞に音韻の研究とみなしうべきものに、はなはだとぼしかつた。それは、音韻そのものを、研究の對象として、自覺すること、つまり、音韻論といふ分野の存在に對する認識にかけてゐたからである。かゝる情勢に對する博士の研究の意義だけは、うへにも一言したところであるが、こゝに、もつと注意すべきは、その音韻研究をうんだもの、それこそ、博士自身による、かゝる情況の自覺的判斷にほかならなかつたと、おもはれる點である。博士のばあひにおいてもまた、最初の國語學へのたびだちは、文法現象への關心からであつた。しかし、あたかも、博士が言語學にこころざされた時代において、當時、ドイツを中心に、ヨーロッパの言語學界をにぎははしてゐたのは、かのいはゆる比絞文法の諸業蹟と、その作業假設たるところの音韻法則をめぐる諸論争と、いづれにしても、問題の中心は音韻の部面であり、いかなる言語史の記述も、音韻の研究に基礎(352)をおいて、こゝからすすめられたのであつたから、博士も、また、あたらしい言語學の學徒として、當然、その刺戟はうけられ、したがつて、この方面をあらたに開拓すべき必要は、これを、おほいに感ぜられたにちがひない。
 しかしながら、かくいへばとて、たんに、これだけの事情をもつて、博士自身の主體的な展開を説明しさらうとおもふものでは、毫もない。ただ、博士が、行動的に愼重であつたといふ點に、まなこをうばはれて、受容力のおほきく、かつ、さとかつた面を、みのがしてはならないのである。博士が、いかにして、音韻の問題に著目するにいたつたかの必然的經過は、おそらく、かうである。まづ、第一に、初期においてえらんだ主題からみるならば、動機的には〔五字傍点〕、文法の問題から出發して、音韻の問題にゆきあたつたのであつた。そして、なにごともゆるがせにできないその性格は、結果的に〔四字傍点〕、音韻の問題へ、ふかくこころをひそめることとなつたのであつた。
 すなはち、一旦、音韻の問題を研究對象としてとりあげるや、あくまで、對象の自律性においてこれを追求してみなければ、その精神は、滿足しえなかつたのである。博士が、その思索のみちすがら、ゑがいてをられたであらうところの、國語史全體の構想のうちにおいて、自身、音韻史の闡明にいかなる意義を賦與せられてゐたかは、もとより、今日からしては、もはや、直接には、これを、たゞしえようもないが、しかし、かゝる國語史の全構築における客觀的な研究題目に、その列序を附することが、これら各題目に對し、その對象的自律性を侵犯するものとなつてはならないといふこと、すなはち、いかなる事象も、科學的研究の對象としての價値には、その輕重がないといふこと、これは、科學の本質に對する根本的な信條であつた。要するに、文法研究が動機となつたといふことは、音韻研究が獨自の対象にえらばれるにいたつたといふことと、矛盾するものではない。
(353) さて、音韻論的研究の由來〔二字傍点〕については、このやうにいへるとおもふのであるが、また、博士は、對象の客觀的自律性の認識と同時に、國語學における音韻論的研究の意義〔二字傍点〕をも、十分に直觀してをられたものと、かんがへられる。この直觀が、その音韻史研究を、さらに積極的な意圖へとみちびいたのである。すなはち、博士が、研究を、いつも、一歩一歩、もつとも基礎的な段階からすすめてゆかれたのは、自分一己の研究としてのみ、さういふ態度にでられたのではなくして、あらたに誕生したわかい國語學が、これから、ひとりあるきをしてゆくについては、それをそだててゆくに、つまり、一定の順序があるものとかんがへてをられたからにほかならない。博士は、國語學が、いかにすれば、健全な發展をとげるかを、とほくさきざきまでみとほして、みづからの學的使命を自覺してをられたのである。かくして、國語學に殉じた博士は、おそらく、ほんとにじぶんのしたいところのことはせずに、このよをさつてしまはれたかもしれない。博士が音韻の研究にちからをそそがれたのは、ひとつには、あきらかに、現代における國語學の發展段階に對する認識、したがつてその將來に對する自己の使命の自覺、にねざすものといはねばならないであらう。
 かくてまた、博士は、國語學自體の研究にさきだつて、――したがつて、音韻の史的研究にあたつても――、まづ、資料の蒐集と批判とに、はなはだ、おほくの精力をかたむけられた。これ、すなはち、あへて、えんのしたのちからもちと、なられたのである。博士が、つねに、古文獻の嚴密な原典批判を強調し、國語學の研究法の基礎として、これをといてをられることは、ひとのしるところである。
 そこで、つぎに、博士が、とくに著目して利用せられたところの研究資料に關して、およびそのとりあつかひかたに關しての、もつとも代表的な例とおもはれるものを、一つ、あげてみたい。それは、のちに博士論文となつた「文(354)禄元年吉利支丹教義の研究」(東洋文庫論叢第九、昭和二年)である。
 さて、わが近世史をひもとくものは、かの、彗星のごとき光芒をはなつて、あとをたつてしまつた、カトリックの傳道をしつてゐるであらう。かれらは、その傳道上の必要から、宗門書の飜譯のほか、日本語の文典、辭書など、各種の文獻を、當時舶載した印刷機をもつて、出版したのであつた。「吉利支丹狭義(Doctrina Christ〓o)」も、このうちのひとつであつて、すなはち、博士は、これをえらばれたのである。この書は、その本文においては、さしてひらきのない、ローマ字版と、國字版とあるのであるが、博士は、ローマ字版によつて、その飜譯文の、まづ精確な解讀〔二字傍点〕にかかられたのである。あへて、解讀とよぶのは、それが、たんなる飜字〔二字傍点〕(Transliteration)ではないからである。いな、この解讀されたテクストこそは、眞に科學的な飜字の、模範的なみほん〔眞〜傍点〕である。この解讀は、ローマ字の用法の嚴密な分析によつて、まづ、みごとに遂行されたのであつた。しかし、とくに、この「教義」がえらばれたのは、なほ、ふかいおもんぱかりにもとづくものがあるとおもはれる。それは、その解讀を、一方では、國字版の參照によつて、ゆるぎなく、たしかめることができ、必要あらば、譯文を原文にただしてみることも、また可能だからである。すなはち、文獻の解讀にあたつて、このやうな本文の平行例が存在するといふことは、きはめて、きづよいことであり、ばあひによつては、それが、唯一のかぎとなつた先例もおほいからである。
 さて、解讀とは、本文の決定、ひいては、その意味の確立のいひにほかならない。それによつて、ローマ字の文が、いかなる日本語に對應するかがあきらかになり、そこから、いかなる日本語がいかやうにローマ字であらはされてゐるかといふことが、逆にあきらかになつてゆく。かくして、意味の理解が成立しえて、はじめて、これを媒介に、テ(355)クストを、文字から音韻へ還元する、ただしいみちは通ずるのである。博士は、文獻の解讀から、その言語の研究へとすすんでゆく、文獻學的言語學的研究の典型的な實踐を、ここに、こころみられたのである。あて推量の音讀から、きまぐれに、例をあつめて、ただちに音韻史の記述にはしるといふやうなみちは、もとより、博士のえらぶところではなかつた。
 しかしながら、「吉利支丹教義の研究」の成果の中心〔五字傍点〕は、室町時代末期の日本語の音韻のありさまを、種々、推定して、ゑがきだした點にもとめられる。この推定にあたつては、傍證として、また、いろいろの文獻が援引されてゐるが、そのなかには、ロドリーゲスの日本文典(Rodriguez:Arte da Lingua de Jap〓o.1604)や、ドミニック派の僧、コリアド(Collado)の日本文典(Ars Grammaticae Japonicae.1632,Roma)のごとき、外國人の手になつた貴重な資料も、かぞへられる。 つぎに、本著作集に、をさめるところのものについて、解説する。
 「國語に於ける鼻母音」は、みぎの、ロドリ―ゲスの文典にみえる記事をてがかりとして、濁音にさきだつ音節の母音が、古くは、鼻音化をともなつたものではないかといふことを推定したものである。
 みぎの論文は、音韻史の研究にさいして、現代方言の研究調査にも、こころをもちゐるべき點、とくに一般の注意をうながしてゐるが、かゝる點からは、また、一方、ふるくより、保守的にうけつがれてきたところの、――特殊な口語といふか、方言といふか――くちづたへの傳統の價値にも、つとに眞重な注意をむけてゐる。その一端は、すなはち、「國語史研究資料としての聲明」に、うかがはれる。ここにおいて、博士は、天台宗所傳の法華讃歎の一節(356)「法華經をわがえしことは〔二重傍線〕」の「は」を、現在もあきらかに「ファ」とうたつてゐることを紹介し、これをもつて、ハ行音の古音推定の有力な材料に擬せられた。と同時に、この論文は、聲明以外のかたりもの、うたひものの類の資料的價値にもふれてゐる。
 直接のくちづたへの傳統は、すでにたえてしまつたけれども、かたりもののかたりかたを、ぢかに、かきとめた特殊な文獻として、平曲の譜本がある。博士のこれに對する注意は、大學の演習において、平家物語を二囘とりあつかはれたことから、うかがはれる。ただ、それについてふでをとつたものとしては、わづかに「盛者必衰」の一篇があるばかりである。しかうして、ここでも、表面は、たんに一個の事實について、つげてゐるがごとくみえながら、じつは、例をもつて、資料の價値をかたつてゐるのである。以上、ここにのべきたつた、三つの小論文は、おしなべて、とくに、こい啓蒙のいろをおびてゐるのが、また、その特徴である。(かずのうへにおいてこそ、よにとはれたもののかならずしもおほくない博士ではあるが、ひとたび、ものせらるるにあたつては、いつも、相應の啓蒙の用意をもつて、むかつてをられること、あへて、この三篇にかぎらない點も、注意しておきたい。それについては、また、博士が、すぐれた學者であつたとともに、きはめて、よき教師であつたことを、おもひおこすべきである。このことは、なにら、直接、音韻史にかかはる問題なわけではないけれども、やはり、ついでに、かきそへておかうとおもふ)。
 さて、「波行子音の變遷について」は、いままで、たれも、ふれることのなかつたえがたい資料をひろくさぐりもとめて、これを注意ぶかくつかひこなしつゝ、みがきあげた所の、結晶である。ハ行子音の變遷は、國語音韻史上における興味ある問題であるが、この一篇によつて、平安時代より室町時代におよぶ期間のハ行子音の音價は、つひに、(357)決定せられた。しかし、ここでも、われわれは、事實のゆるぎない證明のうちに、これをささへてゐるところの方法のすきのなさを、まなぶであらう。それは、一見、きはめて、かるくよみうるやうにとりあつかはれたところの「駒のいななき」においても、うかがはれる。これは、ゆきずりののべのくさから、ひとのきづかぬひともとの可隣なはなをつみとつて、そのふかいあぢはひをしめしたやうな、うつくしい文章である。
 さて、「國語に於ける鼻母音」以下、ここにあげた數篇は、本卷にをさめるところのものとしては、いづれかといへば、斷片的な作品であつた。そして、ことに、そのうちのいくつかは、研究資料をとく點に、共通したものをみとめる。しかしながら、體系的な點、綜合的な點、したがつて、また、いつそうふかい解釋をふくんでゐる點で、つぎにのべる諸篇は、博士の、音韻史研究にいたされた寄與としては、さらに重要なものである。
 そのうち、「國語音韻の變遷」は、生前において、ひろく世間に發表された唯一の國語音韻史の概觀といふべきもの、わづかの量のうちに、あざやかに、國語音韻史が凝縮されてゐる。また、「古代國語の音韻に就いて」は、もと、講演録であつたものを上梓したものであるが、その懇切な説明、透徹したはこび、たれにも、わかるやうにときすゝめながら、みづからの學問的な姿勢をくづさぬ調子のたかさ、したがつて全體をつらぬいて、にじみでゝゐるふかいあぢはひは、げにも、かゝる形式のうへにおいても、典型的な模範として、にくにくしい完成をしめしてゐる。まして、これらの内容について、いまさら、蛇足をくはへる愚はさけたい。たゞこゝに、この二篇をてがゝりとして、なほ、いさゝか、博士の音韻史の方法を、のぞいておく。
 國語音韻史の記述をすすめるにあたつての一つの問題として、博士は、その時代區劃を、いかにすべきかを、とう(358)てをられる。それによれば、まづ、全體を三期にわける。すなはち、奈良時代以前を第一期、平安時代から室町時代までを第二期、江戸時代から現代までを第三期とする。かやうにわけたのは、各期の下限をなす三つの時代、すなはち、奈良時代と望町末期と現代とが、他の時代との關係なくして、それだけで比較的明かに、その音韻組織をしることのできる時代〔その〜傍点〕であつて、これをたがひに比較すれば、そのあひだに生じた音韻變化の大綱を推知しえられ、しかも、これにつづく時代との間には、かなり音韻状態の相違がみとめられるので、ここで時期を劃するのを、便宜〔二字傍点〕とかんがへたからである。しかし、「もとより、これは便宜から出たものである〔便〜傍点〕」と、かさねて、はつきり、ことわつてをられる(圏點筆者)。これは、現在もとめうる資料の、偶然の制約にしたがつて、さしあたり、むりのない記述をまつたうしたいといふ謙虚な學問態度を、しのばしめるものである。そして、かかる態度こそ、現在の段階として、もつとも事態に客觀的なものであり、その背後には、すでに指摘した、國語學の發達の現状に對する博士の主體的認識が存するわけである。
 さて、各時代の音韻状態をしるには、どれだけの種類の音韻が、現實に、その時代の言語制度として、みとめられてゐたかといふ觀點から、まづ、その音韻組織の構造〔そ〜傍点〕を全體的にあきらかにしなければならない。そのうへで、この組織を構成する〔この〜傍点〕各項の、實際の音價をあきらかにしてゆくといふ、二段のかまへを、博士は、つねに嚴密にまもられた。かの上代特殊假字遣なる事實の闡明は、この方法の第一段階を、すなはち、この、文字の用法の組合的な檢討から、當時の音韻の、推定可能な總數を決定する方法を、上代文獻のうへに、精密に實演した結果である。「古代國語の音韻に就いて」においては、國語學史上の諸業蹟から、この方法を批判的に再構してしめしてゐる。これは、博士(359)が、自己のきびしい方法的反省から、過去の研究史をも、方法論の論理の展開として、解釋學的に秩序づけてみたものである。
 上代特殊假字遣の本質を解釋しえなかつたところに、しかしながら、國學の認識の限界は、あつたのである。かくて博士は、上代特殊假字遣としてみとめられた、この注目すべき萬葉假字の用法については、單にはやくこれを發見してゐたばかりでなく、最初から、その性質については、察知してゐたのである。しかも、その音價推定については、きはめて愼重な態度をとり、おほくのひとが、博士の發表にもとづいて、いろいろの試案を提出したにもかゝはらず、自身は、容易に、みづからの解釋をしめされなかつた。わづかに、上記の二論文における假説の提示があるのみである。しかし、くはしい論證過程をはぶいてあるのは、論文の性質上、やむをえないだけに、いまとなつては、遺憾なことである。
 その間において注意すべきものゝひとつは、二類のかなづかひにおいて、「の」に二類をまうけられた點である。すなはち、「しの(篠)」「しのぶ(偲)」「たのし(樂)」などの語を、その萬葉がなの用法にしたがつて、これらにかぎり、本居宣長たちの時代以來、復古的に、「しぬ」「しぬぶ」「たぬし」などと訓じきたつた、この「ぬ」の一群を、「の」の一類とせられたことである。その理由については、べつに、どのほかの論文においても、これといつての説明はくはへてをられないが、その眞意は、つぎのごときものと解せられる。すなはち、いはゆる音韻法則を音韻對應の圖式〔音韻法〜傍点〕として解するならば、「こ」の二類とか、「そ」の二類とかいふよびかたをもつてよばれるところの、二種の音節の後世に對する關係は、これを一般的に圖示するとき、つぎのやうにあらはしうるであらう。
(360)  (奈良時代)《・yx>》(平安時代)《・α》
 そこで、もし、このαに「こ」を代入すれば、xおよびyは、萬葉がなでは、「古」および「許」の各類に、それ/”\相當する。圖式の意味は、これだけのことであつて、xおよびyの音價が、どうあらうと、それは、みぎの事實の存立を直接に左右するものではないのである。「ぬ」の場合も、この見地からすれば、後世の「の」に對應するものが、奈良時代において二類にわかれてゐる點では、「こ」や「そ」の二類と、その對應の形式において、ことなるところはないのであるから、これも、「の」の二類とよぶ方が、一貫したよびかたであるにすぎないのである。(もとより、これは、論理的整合をもつて、音韻史の記述を處理するための概念〔二字傍点〕であり、術語〔二字傍点〕である。後世のうたよみが、表現の效果のうへから、依然、「しぬぶ」のかたちに執着をもつて、この方をもちゐたいならば、それは、それでもよい。これは、またこれで、韻文において、このんでとりもちゐられるあの擬古趣味の一端のあらはれにすぎない。だから、このばあひは、「しぬぶ」といつたところで、それが、なにも、そのまゝで、奈良時代の發音に、いつそう忠實なものでありうるわけではないだけのこと。たゞ、皮相の誤解をおそれて、老婆心までに注意しておきたいことは、「ぬ」の二類といふよびかたが、「の」の二類とあらためられたことをもつて、それが、なにか、音價の實體に關する論議ででもあるかのごとくうけとるひとがあるならば、それは、あやまりだといふことである)。
 それならば、なぜ、しばらくは、自身も、「ぬ」の二類といふよびかたをもちゐられたかといふに、これこそ、博士らしいところなので、國學者たちによつてすでに固定せられたところの復古的訓法と、石塚龍麿のとつた先輩としての分類とに、最初は、あへて、異をだてずにおかれたものにちがひない、作歌のうへにおいて現代を有力に支配す(361)る萬葉調の擬古趣味に對しても、おそらくは、それ相應の顧慮をしつゝ。ここにも、くりかへしのべるやうに、博士みづからのつつましさと、また、啓蒙的態度とが、ともにうかがはれる。その啓蒙的たるや、一般の理解が混亂に陷らぬやう、十分に機の熟するのをまつて、おもむろに、より適正な解釋と立場へ、ひとびとをみちびかうとして、すぐには、みづからの見解をあらはにせられなかつたのである。それに、當面の問題のばあひには、「ぬ」の二類としておいても、その性質上、實質的な點で、あまり、ひとをあやまることがないから、とくに、ことあげをせられなかつたものとおもふ。一般的にいふならば、すでにあきらかに過去のものとなつてしまつてゐるとおもはれるところの學説に對しても、それが過去においてかちえてゐた意義を尊重するのみならず、その社會的な啓蒙的價値をみとめることによつて、けつして急激にそれをしりぞけることを、博士は、どんなばあひにも、せられなかつたのである。
 以上のやうな態度は、音聲史ならびに、音韻史なる命名についても、いひうるのではないかとおもふ。いまに、たのしいおもひでとなつてゐる、わたくしの大學生活の第一年(昭和七年)の特殊講義は、あたかも、「國語音聲史の研究」と題せられた。しかし、退官をひかへての最後の特殊講義において、ふたたびとりあげられたときには、それは、國語音韻史〔五字傍点〕となつてゐる。この音韻史の名の採用は、かのプラーグ(Prague,Praha)の言語學團(Cercle Linguistique de Prague)のphonologie の説に對する理解〔二字傍点〕によつて、決定的となつたものとおもはれる。ただし、博士は、なにも、プラーグ學派を、そのまゝ受容されたのでもなければ、phonologie と phonetique との問題をつとにしつてをられぬわけでもなかつたはず。ゆゑに、名稱の變更は、學問の實質的展開の、もつとも最後にやうやくこころみられたものにほかなるまい。しかしながら、また、音聲史といふよびかたから、音韻史にうつつたといふことは、(362)かういふ點について、なかなかにものがたい博士であるだけに、逆に、その學問のわかわかしい飛躍を反映するものである。晩年まで、博士の思索そのものは、柔軟性にとんで、たくましいまでの受容力さへうしなはれなかつたから、pgneme の概念をも、また、よく、こなされたのであつた。音韻史の名がとられたのは、すなはち、その結果である。
 博士は、わたくしの所持してゐた Travaux de Cercle Lijguistique de Prague(それは第四輯および第六韓であつた)を、しばらくかしてほしいと、借用をまうしこまれた。これは、私事にわたることのやうであるけれども、プラーグ學派の説に、ぢかに接せられたことを、あきらかにしておきたいので、あへて、一言、かきとめておくのである。
 晩年にいたつて、はじめて、構造論的研究にむかつたことは、その學問の展開における、いちじるしい特徴である。いそがず、あせらず、つひに、こゝに到達したのである。もとより、それは、一面、よき意味において、新時代の學問思潮に、敏感な反應をしめしたものであり、現代に生きる學者としての主體性の自覺のうへに、その研究をすゝめることにより、いつも、現代の科學精神を身につけてゐたのである。博士が眞に敬虔な學徒として、學問をまもつたヒューマニストであつたことは、あの險峻な時勢において、端然としてのべられた、引退の挨拶状にいまも彷彿たるものがある。世俗の風潮におもねることなく、時代の關心をふかく察して、これをたゞしくとりあげ、きびしくとりあつかひえたのは、視野が世界的であつたからである。博士の教養の内容は、日本の傳統に對するゆたかな理解によつて、いかにも重厚さをおぴてゐたが、博士を、學者橋本進吉として本質的に形成するところの、その教養の學問的(363)なかをりは、教養の名にふさはしい人類的なものであつたのである。とりもなほさず、博士は、自己の學問のうちに、すなはち、學問の實踐において、學問の自律をまもりぬくことにより、そのまゝ、ここに倫理の問題を直觀してをられたのである。
 そこには、本來、山田孝雄の激情は缺けてゐる。山田孝雄には、橋本進吉のあそんだ學問の自由の世界は、無用のものであつたのであらう。しかし、この偉大な二存在の對照は、個人の性格の問題として興味があるのではなく、將來の國語學史が、おそらくは、ふたりの學問から現代を論ずるであらう可能性を考へて、いさゝか反省せられるのである。つまり、ふたりは、それ/”\に、われ/\の、もつとも感謝すべき、現代國語學への功勞者ではあるが、學者としては、まつたく異つたあひ對立する時代精神の型〔六字傍点〕を代表してゐる。あの三面六臂の山田博士に、音韻論的考察のないのも、偶然ではあるまい。
 しかしながら、學者としての職業倫理に對する峻嚴な反省によつて、みづからを持した人間橋本進吉、この博士が客觀的な記述主義をその學問のうへにまもりとほしたのも、偶然ではない。けだし、そと、學問に對する政治の導入を峻拒しつゝ ふかくうちへむけられたまなこは、學問構成の問題としての、記述に對する解釋の優位をば、はつきりとしつてゐたのである。かるがゆゑにこそ、解釋に對しては、いとも/\、愼重であつたのだ。しかし、あくまで客觀的な記述の立場をつらぬいてきた博士も、やうやく老境に達して、自信をもつて、解釋的な立場をあらはにしはじめたのであつた。かくて、嚴肅な資料への奉仕に出發したひとつのたましひには、つひに眞の自由の瞬間がおとづれんとしつゝあつたのである。それは、さうたやすく、たれしもが到達しうる境地ではない。しかし、かゝるときに、(364)そのたましひは永遠に歸してしまつたのである。
 博士が音韻史の問題を、日本語の音韻組織の根柢にやどる構造特質から解釋せんとしたまづ第一の論考は、「國語の音節構造と母音の特性」である。こゝには、いろ/\の問題が、とりあげられてゐるが、かくいろ/\と、とりあつかつた問題のうち、すでに紙幅のうへについてのみいつても、おほくをさいてゐるところの、單純母音音節「エ」の問題は、もつとも、あざやかな解決ぶりをしめしてゐる。そして、e→yeとo→woなる變遷は、音韻組織の構造に對する聯關的な把握から、同時的に、いともたくみに、ときさられたのである。この、音節構造への考察は、「國語の音節構造の特質について」において、さらに一般的にくりひろげられた。(本稿は、晩年の博士が、第一代の會長に推された國語學會の機關誌の創刊號をかざる豫定のものだつたのであるが、時勢に阻まれて會誌の發行をみぬまゝに、つひに、本著作集においてはじめて、發表されることゝなつたもの)。
 さて、最後に、一定の分節運動のうへに、一時代をこえてたどられる傾向をば、聯關的にとらへて、一群の音韻史上の現象を綜合的に説明したのが、草稿としてのこつた「國語音韻變化の一傾向」である。いままでも、唇音退化の現象は、全然、説かれぬではなかつたけれども、こゝに博士は、分節運動を支配してゐる傾向の、いろいろな顯現を、方法のうへで、いままでより、はるかにふかく把握してみせられたのである。(これは、本來、講演用の手稿で、印刷に附するとあらば、表現の細部においては、さらに、手をくはふべき餘地の、なは、おそらくは、のこつてゐるものでもあらう、あの博士の性格をおもへば。しかし、恩師、上田萬年博士に對する追慕の情のこもつた一文として、また、滋味掬すべきものである)。
(365) しかし、これら、最後の三篇のうち、もつとも雄篇ではあるが、したがつて、また、もつとも根本的な問題にふれてゆく點で、もつとも問題となるのは、「國語の音節構造の特質について」であらう。そこにくりひろげられたところの分節運動を主とするみかたは、所詮、構成論的にかたむき、眞の構造論には、ならない。たゞし、構造論とはなにかといふ、構造論そのものへの解釋と、また、かりに、體系づけられたものとして、これをかんがへるも、かゝる構造論の限界いかんといふ批判と、それに、博士自身の展開された具體的なたちばと、これらすべてを、にらみあはせて論評することは、こゝには、さしひかへたい。それは、問題が、あまりにおほきすぎるといふばかりでなく、さういふ論評そのものが、どこまで客觀性をかちうるかの論定については、これまた、のちの批判を、またねばならないからである。本稿は、さういふかたちにおいて、博士のたちばとの對決など、つゆ、めざしてゐるものではない。いな、その最後にあゆまれたみちを、たゞに、おひもとめてみてゐるにすぎないのである。しかし、とにかく、方向は、構造論へとむいてゐるといふこと、これは、まちがひないであらう。しからば、構造論をつきつめてゆく立場としてみれば、母音と子音とを、さらにはつきりと、相關的に、――つまり、たとへば、ドイツ語が、傳來のお國ことばによるいひかへに際して、きまじめに Selbstlant とMitlant との表現にょつてしめしてゐるやうな聯關を、價値的な對立および統一として――、あらたに、把握しなほさなければならない。さうなると、また、じつは、まづ、音節の概念が問題となつてこなくてはならない。けれども、事實は、それについての格別な規定や考察なしに、既成概念から出發して、それに終始してしまつてゐる。これは、あるひは、便宜のため、意識してしたことだつたかもしれないけれども、いづれにせよ、問題は、やつばり將來へのこされたこととなる。(「國語の音節構造と母音の特性」な(366)る題目も、じつは、「國語の音節構造の特性と、母音」としてとらへらるべきものではなからうか。さしあたり、この論文の結語の表現だけでも、みぎの修正の線にそつて、われわれは、よみあらためたい。その方が博士の學問の本質を、そのたゞしい發展において理解したところのよみかたとなると信ずる)。
 とにかく、博士は、その飛躍的展開の、あたかも、未完成の一段階において、世を去つたのである。それといふのは、――上述したごとく、たちいつた論評は、こゝには、さしひかへるが――、要するに、言語における形態の概念の把握を契機として、その方法の展開をながめてみるとき、一般の、したがつて、また、大體においては、從來の博士の立場でもあつたところの、形態を、素材的實體的存在として、素朴に把握する立場と、これに對して、晩年にそのふかい關心をよせつゝあつたところの、形態を、もつぱら形式的機能的價値として解釋する立場との、兩者の矛盾が、うらむらくは、在世の最後の瞬間において、そのまゝ、解決されずにしまつたのであつた。博士の學問を理念的に統一する窮極の形式が形態論の立場であるといふ點には、異論がないものとするも、形態論そのものの本質を、いかにとらふべきかは、結局、さきに、一言、指摘した構造論の問題となるのであり、この點、博士自身の理論的反省は、その最後の段階において、いまだ記述的研究の進展に、十分、對應しうるだけの客觀的なかたちにまで、受胎してゐなかつたやうにおもふのである。もと/\、理論だけを展開される博士ではなかつたけれども、いままでは、記述のうちに、これをおしすゝめるところの論理のさゝへとして、うつくしい體系の秩序が、つねに、のぞみえられたのに、あたかも、その最後の成果から、われ/\のとらへるところのものは、みづからがみづからを、おひぬかうとする瞬間における博士のすがただつたのである。
(367) ゆゑに、博士は、その性格として、一點のゆるぎないまでにねりあげたものでなければ發表せられなかつた面においては、たしかに、まれにみる古典的完成のみほんともいふべきであるが、主體的には、最後まで自己發展をつゞけ、問題の把握をあらたにしつゝ、それをのこしていつたのであつて、それが、晩年になるほど、その學問のがらをおほきくしていつたのである。いまさら、いかともしがたい命數をくやんでみても、これは、致し方もないことで、所詮、われわれは、博士の精神を、肉體的生命をこえて無限の延長へ展開するところの、眞の生命として、直觀するほかない。されば、その學問の進展を形態論的思想の必然的展開として限定するのも、もとより、わたくしの、橋本解釋にとゞまるものである。博士が、みづからのことを、ロマンティストだと、かたつてをられたのは、勞作に即して、その完成の面のみを、ひとがみるのをば、いとはれたものであらう、元來、本質的に完成せられざる大きな未完成をうちに孕んで、自身は、一歩さきへ、そのあゆみをつゞけてゐたのであるから。そして、晩年の論作にいたつて、いまや大膽に、その大きな歩幅そのまゝが、うごきのうちにしめされたのである。
 すくなくとも、晩年の論作は、問題の解決であるより、いつそ、發展性を有する問題の提示だ。かくいつたら、あへて奇をたてる見解と難ぜられるであらうか。しかし、わたくし自身また、このやうに、問題を提示しておかう。さう一義的に把握しおほせるほど、その學問像を單純にかんがへることこそ、問題だし、さうこれを固定してかんがへることは、そこに内在するあらたな發展の契機をば、みのがしてしまふことゝなると、おもふのである。
 
 かく、かききたつて、こゝにふでをおき、しづかに、瞑目してみると、うちに無量の感慨のこみあげてくるのを、(368)いまや、いかんともしがたい。かゝる主觀の複合は、そのまゝでは、つたへるすべもなければ、まして、本稿の形式においては、もはや、あへて、これをつたへる要なんぞないものでもあらう。さはあれ、さだかならぬ感情のくまどりをおびて搖曳する、この、同時的ないろ/\の印象と記憶の錯綜のなかから、しかしながらも、いま、この瞬間において、ます/\はつきりと、うかびあがるところの博士は、――これを、なにゝたとへようといふのではない――たゞ、おのづからに、くめどもくめども、ふきこぼれ、わきほどばしるところの無限のいづみのやうに、おもはれてくるのである。むべなるかな、精神は、つまり、眞の生命は、永遠にかれることはないからである。いはゞ、われわれは、このみづをくんでいきてゐる。といふのは、學問的理性を信ずることによつてのみ、いつも、かつ/”\、まもりいとほしんでゐるわがうつしみの vita brevia これを、きのふもけふも、ほこりをもつて、たのしみうるとすれば、それは、われわれが、かゝるもろ/\の精神的類縁につながれてゐるといふ安心に、内部からさゝへられてゐるからである。(敗戰三囘めの正月をむかへて)
 
 附記 本稿は、昭和二十二年二月にもよほされたところの、橋本博士追悼講演會にさいして用意した手記に、くはへられるだけは、てをくはへて、このたび、みぎのやうに、どうやら、かきあらためてみたものである。つまり、はつきりといつてしまへば、かの講演の手記こそ、もと/\、本著作集への解説をものすべく依囑をうけてゐたをりから、その草案として、ふでをおこしたものだつたのである。しかし、もし本稿と齟齬するのではないかとおもはれるやうな言説が、多少とも、あのときに、かたられてゐたとすれば、それは、菲才、十分に、當時はいまだ意のあるところを、のべつくしえなかつたためにほかならない。したがつて、さういふ疑點については、本稿にとくかたちをもつて、わたくしの意見とせられたい。
 
(369)   橋本進吉博士著作集の刊行について
 
 橋本先生が、國語學者として一代の碩學であつたことは多言を要しないであらう。それにも拘らず、生前公にされた著書の少いのは、先生の謙虚な性格によるものであるが、また十全を斯せられる學問的嚴格さの故であつた。
 しかし、雜誌講座等に發表された論文の數は、かなりの數に上り、これらを纏めた論文集の公刊は、久しく學界の待望するところであつた。論文中の或るものは、岩波書店の熱意を傾けての懇請の結果、二三の論文集として刊行することに、先生は承諾を與へてをられたのであるが、既發表のものを新しく公にするには補訂を加へたい、補訂を加へる暇があれば新しい問題の研究に從ひたいといふ御考へから、容易にその實現を見ない中に、先生は昭和二十年一月長逝されたのであつた。
 なくなられる直前まで筆をとつてをられた先生の机上や筐底には、未發表の論文がいくつか殘された。また東京帝國大學等に於ける講義案も少くない。これらの遺稿が公刊されることは、もはや先生の膝下に親しぐ教を乞ふことの出來ない門下生にとつて、唯一つの願である。先生の一年祭にあたつて、先生が三十數年の久しい間研鑽の場所とされた、ゆかりふかい國語研究室に追憶の會を開いた折にも、門下生の語り合つたのは、まさにこの一事であつた。しかし、先生の書き殘されたものを全面的に公刊するといふやうな計畫は、先生の御意思に背くものではないであらうか。平生の御口吻から察すると、たしかにかやうなことは、先生の望まれるところではなかつたやうである。この問題をふかく恐れながら、しかも門下生の意見が公刊に一決したのは、ひとへに、廣く學界の同志と共に、先生の業績(370)の中に指針を仰いで、今後の圖語學の進展に微力を盡したいといふ念願からである。
 ここに、御遺族の許諾を得て、橋本進吉博士著作刊行委員會が成り、久松潜一・時枝誠記兩教授を中心に、かつて國語研究室の助手副手として先生の下にあつた數名が主になつて、編纂刊行に着手するに至つた。遺稿は幸にこの度の戰災を免れてゐる。既發表、未發表の論文、大學その他に於ける講義講演から、既刊單行のものをも含めて、先生のすべての述作は、この著作集に網羅される筈である。委員會では、これらを部門によつて分類編次し、一冊ごとに解説を附して、次々に上梓する方針で、今日まづその第一冊を世に送らうとするのである。
 この著作集が岩波書店から印行されるのは、前に述べた、先生御存命中からの因縁によるものである。困難な出版事情にも拘らず、この刊行を引受けられた同書店の好意に、あつく感謝の意を表すると共に、この刊行が最後まで遂げられることを、學問の爲にふかくこひねがふ次第である。
   昭和二十一年五月
                橋本進吉博士著作集刊行委員會
 
昭和二十五年八 月二十五日 第一刷發行
昭和三十一年十一月三十日 第六刷發行
國語音韻の研究 定價四百三十圓
著者 橋本進吉
岩波書店