(1)      萬葉集僻案抄解説
 
 萬葉集僻案抄の著者荷田春滿は、寛文九年正月三日山城稲荷山の祠官の家に生れた。幼年の時から俊才であつて、九歳の時詠んだ歌が遺つてゐる。荷田の家は稲荷神社鎭座以來の舊家であり、その祖が後陽成院の御傳を給はつて其流を稱してゐた歌學の家なので、幼時から自重するところがあつたと思はれる。殊に九歳の時の歌があるほどの人だから、早くも國體を鮮かに解き明さうと云ふ考へがまとまつたのであらう。獨學で國史律令格式等の書に精通したのである。二十九歳の時歌道のことで靈元天皇の皇子妙法院宮の御學問所に侍し、二年後辭して江戸に出たのは元禄十二年であつた。門人を教へて居た中に享保になつて、將軍吉宗の命により官の人々が有職故實を尋ねた。つづいて幕府の文庫の舊記和書殘らずを取調らべ、書籍檢閲の特權をあたへられて大に信用が厚かつた。この時『出雲風土記考』『偽類聚三代格考』が出來た。
 春滿の學識の卓越を見ぬいて、幕府ではながく留めようとしたが、辭して再び郷里の伏見に歸つた。やがて幕府に京都東山の地を賜はつて國學校を創建せんと上請した。「謹請d蒙2鴻慈1創c造國學校u啓」の大文章である。悲哉先儒之無識、事3一及2皇國之學1、痛矣後學之鹵莽、誰能歎2古道之※[こざとへん+貴]1、是故異數如v彼盛矣、街談巷議無v所v不v至、吾道如v此衰矣云々と云ひ、臣之至愚何之知、所v不2敢自讓1者語釋也、國字之多2紕繆1、後世猶有2知v之者1、典籍猶存、古語之少2解繹1、振古不v聞2通v之者1、文獻不v足、國学之(2)不v講、實六百年矣、と嘆き、古語不v通、則古義不v明焉、古義不v明、則古事不v復焉、先王之風拂v迹、前賢之意近v荒一由v不v講2語學1、とむすんでゐる。當時の官の學であつた漢學を異教と叫《さけ》んで、自國の學問即ち國學と稱擧したのは大した雄詰《をたけび》であつた。春満が神代紀と萬葉集とに特に獨創の見があつた事もやはり此文中に三代格の次に萬葉集者國風純粹、學焉則無2面牆之譏1、とあげてある。不幸にも此學校が建たないうちに病歿して中止となつたが、此一文に春滿の面目が永久に傳はつてゐる。
 春滿は六十二歳に中風症が發つて漸次囘復したものの、六十八歳に再發して天文元年七月二日に歿した。此病氣のやや治つてゐた六十五歳の時に賀茂眞淵が來つて入門した。まことに際どい時であつたが、道むなしからず遺志を繼いて眞淵が國學の爲につくしたのみか、其門人に本居宣長が生れ、宣長の後に平田篤胤が生れて、今日國學の四大人とうやまはれる事になつた。
 春滿は病中著述の草稿を燒き捨てしめたと傳へられてゐる。平田篤胤は『玉襷』に其著述が自身の意にも適はぬものであるから、世に傳へなば後學を誤らむと思はれてであらうと評してゐる。それはとにかくに今日なほ著書が殘つて居るのは大幸である。
 著書の現存してゐるものの中で萬葉集にこ關しては、
    萬葉集童蒙抄   寫本 八十卷
    萬葉集僻案抄   寫本  三卷
    萬葉集問答    寫本  八卷
(3)   萬葉集童子問    寫本《・(殘缺)》  四卷
    萬葉集和假名訓  寫本《・(殘缺)》  五卷
    萬葉集訓釋    寫本《・(殘缺)》  一卷
    萬葉集改訓抄   寫本《・(殘缺)》  三卷
    萬葉集歌人録   寫本《・(殘缺)》  一卷
等がある。(大貫眞浦氏著『荷田東麿翁』に據る)
 この『萬葉集僻案抄」は卷一の註釋である。眞淵が『萬葉考』に數箇處引用して開卷第一の御製歌の首《はじめ》の「四句の事は荷田東麻呂大人のよみ初めたるなり、かくしも上つ代の心ことばに通り至にけり」と云ひ、「莫囂圓隣之」を「きのくにの山越てゆけ」と訓んて「これ荷田大人のひめ歌なり(中略)荷田大人の功も徒に成なんと我友皆いへればしるしつ」と師説を尊重してことばを添へてゐる。其他「綜麻形乃、林始乃」の歌を、「三輪山のしげきがもとの云云」と訓みしをはじめ、創見とすべきものが少なくないのである。
 契冲の『代匠記』も早く活字本に成り、眞淵宣長千蔭などの著書も世に弘く行はれる今日、未完本のゆゑか一度も版本にならなかつた此本を、島木赤彦氏が萬葉集叢書の第二輯に撰んだ。校正其他すべてが嚴密に同氏の手に成つてゐるのは第一輯のとほりである。後學のわれわれの手もとにまた一冊萬葉集の良書がふえたのは、誠によろこばしい事である。
  大正十二年一月十五日        岡    麓
 
       凡  例
〇本書復刻は、上野圖書館藏寫本三卷を底本とした
○體裁なるべく底本の樣式を存せしめるやうに努めた。只、解説文の通讀に便せんために、任意、句讀點と濁點とを施した。
○寫本の筆者は、書紀を書記と書き誤る程度に古學歌學に觸れたことのない人であるらしい。從つて誤寫が頗る多い。其の著しいものは之れを書き改め、或は括弧を施して補正を試み、其の下に記號?を附した。このために意外の時間を要した。假名遣ひはすべて底本に從つた。引用文は成るべく本據によつて訂正した。
○本書印刷校正は、再校まで校訂者が之れに當り、必底本と照合した。第三校以後は古今書院編輯部が之れに當つた。
 
(1)萬葉集僻案抄卷之一
                  荷 田 春 満 著
 
萬葉はよろづの言の葉の義也。千々の數を極めて云にはあらず。千世萬代など云萬づと義同じ。葉は言のはの義也。詞花言葉など云葉と義おなじ。集は其言葉のちり/\なるをかきあつめたる義也。
或問云。一説に、萬葉はよろづの言の葉の義にはあらず。萬代の義也といへり。此説は非歟。
答云。非也。累世萬世などゝ云事を奕葉萬葉などとかける例あれば、萬葉の二字のみならばさも云べし。集とあれば、さはいひがたし。集とは言の葉をあつめたるにてこそいへ。哥の字もなければ何を集めたることゝせんや。萬世を集たりと云べきや。且、古今集より後、代々の集皆和歌集とあり。唯此集のみ歌の字なきは、萬づの言の葉は歌のことなればなり。紀貫之、古今集の序に、やまと歌は一心を種として萬葉とぞなれりける。とかけるも、此集の萬葉にもとづきて、よろづのことの葉とぞなれりとはかけるなるべし。されば、萬葉集を萬づのことの葉のあつめとする説は貫之が意にもかなふべし。よりて萬世集と云説はとらず。
 
雜 歌
 
(2)雜歌はくさ/”\のうたとよむべし。雜は種々の字の訓と義同じ。一志(?)ならず、さま/”\の歌をまじへ戴たるを云。古今和歌集には、まづ、春の季の歌を初として四季の次第をたて、戀・雜の部をもつ(お?)かれしより、後代、こ(?)の撰集皆古今和歌集にもとづけり。當集は、一卷々々、天皇の御代の次第を似て集めおかれて、四季の歌の次第にかゝはらざれは雜歌としるされたり。是古集の體也。雜歌は、此一卷の標題なれども、おのづから當集全部にも通ふべし。
 
泊瀬朝倉宮御宇天皇代【太泊瀬稚武天皇謚曰雄略天皇】
 
泊瀬朝倉宮は、大和(ノ)國城上郡磐坂谷是也と、古本に朱にて傍註あり。朱書せるは泊(舊?)注と差別のためなるべし。泊瀬朝倉のみやの地名・宮號の義は、雄略天皇の御代に、諸の泰氏、八丈の大倉を宮の側に構て貢物を納めしよりかく名付たるよし。古記にみへたり。猶、日本紀・新撰姓氏録等を見てしるべし。其文長ければ、つぶさにしるさず。
御宇は、貞觀政要の註に、御宇統御宇内也とあり。あめのしたしろしめすとよむによくかなへり。天皇は雄略天皇也。諱も謚もあらはさずして、泊瀬朝倉宮御宇天皇とかけるは、至りて尊める書法なり。
代は此集の歌の時代を見せん爲也。これによりて此集を學ぶときは、歌の時代あきらかにして、前後の作者時世の風體おのづからしるし。古今和歌集より後代々集は、四季・戀・雜の部類を專として集められたれば、詞の異同、歌の巧拙を見はかつ爲にはよろしけれども、歌の時代の前後み(3)へがたし。よりて近世古今集以下の集のみを學びて、此集にうとき人々、古體新體を見わろ(ろ〔右○〕はかつ〔二字右○〕等の誤寫?)ことあたはずして、後代の歌を上世の歌とあやまれる事あげてかぞふべからず。唯此集をよく學びては、歌詞の舊新をしり、風體の今昔をみること、雪と墨とをわかつがごとくなるべし。
【太泊瀬稚武天皇謚曰雄略天皇】
此十三字は、此集撰者の自註にはあらず。後人の註なり。古本には此註二行に書て小字也。印本には大字に書て、謚曰雄略天皇六字なし。いま古本にしたがふ。下皆こゝにならへ。此註は本文に天皇の御名をあらはさぬ故に、諱と謚とをしるせる也。
天皇御製歌.
天皇は雄略天皇也。天皇は允恭天皇第五子也。母皇太后忍坂大中姫命稚渟毛二伎皇子之女也。日本紀に見へたり。
御製歌。此三字を仙覺註釋に、みつくりのみうたとよめるあし。よみたまへるみうたとよむべし亦はおほみうたとよむ。
 
籠毛與。美籠母乳。布久思毛與。美夫君志持。此岳爾。莱採須兒。家吉閑。名告沙(4)根。虚見津。山跡乃國者。押奈戸手。吾許曾居師。告名倍手。吾己曾座。我許者。皆(背?)歯告目。家乎毛名雄母。
 
かたまも。よみかたまもち。ふくしも。よみふくしもち。このをかに。なつむすこ。いへきかむ。なのりさね。そらみつ。やまとのくには。おしなべて。われこそをらし。のりなへて。われこそをらし。われをこそ。せなとしさ(さ〔右○〕はの〔右○〕の誤寫?)らめ。いへをもなをも。
 
籠毛與美籠母乳とは、かたまは菜を採て盛る器を云。竹籠を古語にはかたまと云。五音通じてかたみとも云。與美とはよきとほむる詞也。二句いふ意はよきかたまを手に持也。
布久思毛與美夫君志持とは、ふくしは菜を採とき其根をきし(?)きる物を云。金にて作る串也。これをふくしと云は、ほる串の義也。ほるの二言を約めてふと云古語のならひ也。俗に云金へら也。二句いふ意は、よき掘串を持也。二つの毛の字は、物と物と相兼て云助語辭也。
此岳爾とは、天皇見そなはします岡をさしてのたまふ也。
菜採須兒とは、兒の字濁ていふべし。古語也。凡ことは男女に通じていへども、おほくは女を指て子とよぶ也。此須兒も女子也。すことは賤女の處女をよぶ詞也。此集の中幾所にもみえたり。
家吉閑名告沙根とは、彼をとめのすむ家をも、をとめの名をもきかまし。おほせは(?)、家も名も告とのたまふ詞也。告とは、つげしらすことを古語にのりと云。沙根とは、沙は發語辭也。根(5)とは命令する辭也。すべてエケセテネヘメエレの九言は命令の言としるべし。國語の傳也。
虚見津山跡乃。國者とは、饒速日命の時よりおこれる大和國の古名也。日本紀にみゆ。日本書紀卷第三云。及v至d饒速日命乗2天磐船1而翔行天虚u也。睨是卿而降之故因目之曰虚見日本國矣。押奈戸手とは、界もかぎりもなく、いづくも同じきを云。
吾許曾居師とは、吾とは、天皇みづからの給ふみことば也。居師は御座所とし給ふべしと也。
告名倍手とは、押なべての對句也。告はみことのり也。何所にも天皇の命令を、のべしきてと云義也。
吾己曾座とは、上におなじ。此對句の意は、日本の國の内は天皇の御座所なれば、命令をほどとして、何所にましますべきも、叡慮まゝなるよしをのたまひて、須兒に天皇なりとしらせ給へる也。
我許者背歯告自家乎毛名雄母とは、背とは、古語に若(?)長をせと云。よりて兄をもせと云、せなとも云。夫をもせと云、せなとも云。なは相親む辭にて、上にも下にもそへて、なせとも、せなともよぶ也。此結句の意は、天皇を汝のせなとよ(よ〔右○〕はな〔右○〕等の誤寫?)して、汝が家汝が名をも告しらせと、上に家きかん、なのりさねとの給へる句をむすぴて、須兒にの給へる詞也。
此御製歌は、天皇岡邊に出ませる時、竹籠金串をたづさへて、菜を採をとめを御覧じ給ひて、その家その名をきこしめさん爲に、天下をしろしめす天皇が、此日本の國は皆天皇の御座所にて、(6)何所の家も皆天皇の家なれば、みことのりしきほどこして、御心にかなふ所には、いづこにましますべきも、天皇の叡慮まゝなるよしを、かのをとめにきかせたまひて、かけまくもかしこき天皇を、汝賤女がせなとして、家をも申せ、名をも申せと詠給へる御歌ときこへたり。は(は〔右○〕誤寫?)のをとめの家、をとめの名をとはせ給へるは、幸給はんの御心有るべし。僻案、此天皇の大御歌日本書紀・古事記等にあまた載られたれども、此御製はみへず。あまた有中に、此御製のみを此集にあらはせるは、正紀にもれたるを惜みてしかるなるべし。秀逸を撰めるとはみへず。何者、すべて國史に載たる歌は此集にみへざれば也。又案ずるに、此御製は天皇吉野の宮に幸行ありし時、吉野川のほとりに、形姿美麗のをとめあるを見給ひて、かのをとめに婚し給ひしことあり。その後更に吉野に幸行ありて、かのをとめの家に留り給ひし事古事記にみへたり。蓋此ときの御製歌なるべし。ことのさま相似たり。古事記を見て僻案の可不を辨へたまへ。
籠毛與美。これを仙覺、こもよみとよめり。義は同じけれとも、今かたまもよみとよむは、かたまは古語也。日本書紀第二、神代下卷に、無目堅間といふことありて、其釋に所謂堅間是今之竹籠也とみへたり。此集の歌はみな古詞なれば、籠の字かたまの訓を用ゆ。且國語釋傳ありて、竹籠をこといひかたまと云に差別あり。竹器の總名によぶときはこと云。菜花等を盛る物の名によぶときはかたまと云。花かたみなど云是也。こは一言、かたまは三言なれば、ふくしの三言の對語にもこにはまさるべし。よりて今かたまの訓を用也。
(7)家吉閑名告沙根。これを古本印本共に、いへきかなつけさねとよめり。此訓は上四字を一句とし、下三字を一句としたりとみへたり。しかれば名の字は助語辭とみて、家きかなん告さねと云義なるべし。しからずして、名の字を字の如に見て、下につらねば、上はいへきかになる也。いへきかといふ詞、いかでか有べき。今上三字を一句とし、下四字を一句として、家きかん名のりさねとよむは、結句に家をも名をもと有にかけ合せてみれば、此二句は詞を互に通じて、家も名もきかん、家も名ものりねと云義を、いへきかん名のりさねとよみ給へるとみれば也。告の字をのりとよむ例證あげてかぞふべし(し〔右○〕はから〔二字右○〕の誤寫?)す。
虚見津山跡。これは古句也。柿本朝巨人麿過2近江荒郡1時の歌に、天爾滿倭と書たれば、慮見津の三字をそらにみつと五言によむべき證あれども、此天皇の御製歌の中に、四言に蘇羅瀰豆野摩等能矩※[人偏+爾]とよみ給へる句、日本書紀にみへたれば、助語辭をくはへがたし。よりておもへば古語はそらみつやまとなるを、人麻呂助語辭を加へて、はじめて五言によめるなるべし。四言は中古以來用ゐざれば、今の世に此古名を詠ときは、人麻呂の歌を證とし、そらにみつやまとの國とよむべし。されば人麻呂より前の古歌は皆そらみつやまとゝしるべし。我許者。此三字を古本印本共に、われよりはとよめり、許の一字をこそとはよまれず。今我許者の三字をわれをこそとよむは、我の一字にわれをと助語辭を加へて三言にはよまるれば也。許者の二字をこそとよむは、者の字は曾の字のあやまりとみれば也。しからずして本より者の字なら(8)ば、者はその濁音に用ゆる字なれば、清音のそふも此集に用ゐざるなるべし。曾の字清濁兩音に此集に用ゐざ(た歟?)るを證とすべし。猶すゑに其證を云べし。
背齒告目。これを古印兩本共に、せなにはつけめとよめり。此訓にては句意きこら(ら〔右○〕はえ〔右○〕の誤寫?)す。今せなとしのらめとよむは、齒の字はよはひとよめば、年齒の義訓をかりて、としとよみて、てにをはを合すれば也。猶此御製歌の文字の訓、吾許曾より、告目にいたるまで、異訓の僻案あれども、此集全篇の古詞・古訓にうとくて、みん人の爲にはことすくなに書加へば、かへりてうたがひ有べく、さりとて古詞・古訓の證歌・證例をひき出さば、ことくだ/\しきにわたるべければもらしつ。もし此御製の文字、一字にてもことなる古本を見る人ありて、うたがひ出來て問人あらば、僻案の異訓異義を云べし。今は大概流布の音訓にしたがひて釋する也。
 
高市岡本官御宇天皇代【息長足日廣額天皇。謚曰舒明天皇】
 
高市は大和國の郡名。岡本宮とは、此宮高市郡飛鳥の岡の本にあり。よりて岡本の宮と云。日本紀にみへたり。
 
日本書紀卷第二十二【舒明天皇】二年冬十月壬辰朔癸卯天皇遷2于飛鳥岡傍1是謂2岡本宮1云云。天皇は舒明天皇也。
(9)【息長足日廣額天皇。謚曰舒明天皇】
此古注、義は上にいふに准へてしるべし。此天皇は敏達天皇孫、彦人大兄皇子之子也。母曰糠手姫皇女。日本紀にみへたり。
 
天皇登香具山望國之時御製歌
 
天皇は舒明帝也。香具山は大和國の山なり。望國は、帝王高山に登りまして、國の状を見めぐらし給ふこと也。神武天皇、※[口+兼]間丘に登りまして、國のかたちを廻り(り〔右○〕は望〔右○〕歟?)し給ひしは、人皇の國見のはじめなり。一國の主の、その國/\の有さまを廻望するをも國見といふ也。古語也。
 
山常庭。村山有等。取與呂布。天乃香具山。騰立。國見乎爲者。國原波。煙立龍。海原波。加萬目立多都。可怜國曾。蜻島。八間跡能國者。
 
やまとには。むらやまありと。とりよろふ。あまのかくやま。のほりたち。くにみをすれは。くにはらは。けふりたちたつ。うなはらは。かまめたちたつ。おもしろきくにそ。あきつしま。やまとのくには。
 
山常庭村山有等取與呂布とは、村山は、山の名にはあらず。山のあまた有を云。取は發語辭也與呂布は、よるとおなじ。とりよろふは、たよると云ふがごとし。此三句の意は、大和には群山あ(10)りと、しろしめすから、登りまして、國見をせんとたより給ふよし也。
天乃香具山騰立とは、群山の中に國見の爲に便りよろしき山なれば、天の香具山も、登り立て國見をし給ふなるべし。
國原浪煙立龍とは、原はひろく大なるを云詞。天原野原川原など云類皆おなじ。煙立龍とは、煙は民戸の炊煙也。立龍は、絶ざるを云。此二句の意は、國内の民戸の賑へる状の見ゆるを云。彼仁徳帝の煙を望み給ひて、朕すでに富りとの給ひし故事をおもひ合すべし。海原波加萬目立多都とは、煙立龍の句の對也。加萬目は水鳥の名鴎也。五音通じてかもめともかまめとも云。此二句の意は水鳥も所を得て遊ぶさまを云。
可怜國曾蜻島八間跡能國者とは、民戸の炊煙たへず、水鳥の群遊もつきずして、人物おの/\その所を得たるを見そなはし給ひて、やまとの國はおもしろき國ぞと、ほめ給へるみかどのみこゝろめでたき御製歌なり。蜻島は大和の國の一名也。神武市(市〔右○〕は帝〔右○〕の誤寫?)やまとの國の状を※[口+兼]間丘より廻望し給ひて、蜻蛉のとなめせる如なりとの給ひしより、蜻島の名は出來たり。日本紀神武天皇の卷にみへたり。よりて、やまとの國を秋津島とのみもいひ、蜻島やまとの國ともいひ、大日本豐秋津洲とも云なり。されば、もとは大和國一國に限りたる號なるを、押ひろめて天下の惣號に、蜻島とも日本も(も〔右○〕の上と〔右○〕一字脱?)いふ。通世(?)は古學をせざる人に、日本の二字を、むかしは大和の一國に用ゐたる事をしらずして、ひのもとゝいひ、日本と音によびては天(11)下の惣號としりて、やまとゝいへば一國の名と心得たるもあり。よりて日本國の三字を、今の大和一國のことゝしる人まれなり。かの神武天皇の日本の國のかたちを、蜻蛉のとなめせる如との給ひしも、此御製歌に、蜻島八間跡能國者と詠給へるも、今の大和一國のこと也。
此御製歌。首には、日本にはあまたの山有としろしめせば、高山に登りて、國見をし給はんとおほしめし立より、國見の爲にたよりよろしき山とかやきこしめされけむ、天の香具山に登り立給ひて、國中を廻望し給ふよしをの給ひ、中には、見わたし給ふ國原には、民戸賑ひて炊煙立つゞき海原には水鳥所を得てむれ遊ぶさまを顯(?)はし給ひ、尾には、民も時を得、物も所を得たりと見給へる故に、大和國をおもしろき國ぞとほめよろこび給ふ叡慮を述給へり。首句に、やまとにはとおこし給ひて、尾句に、やまとの國はと、むすび給へる。首尾相ととのひ、中には累(景?)物あらはれ、對句そなはりて、かけたることなくすぐれたり(り〔右○〕はる〔右○〕?)長歌也。まことに長歌の本ともすべき御製なり。
村山。一説に、山の名にして大和國にありといへり。訛也。たとひ今村山と名付る山ありとも、それは後人の所爲なるぺし。此御製歌の村山は山の名にあらず。衆多の山を云。
煙立龍。これを古本印本共に、けぶりたちこめとよめり。此訓は諸家の本、龍を籠に作り、よりてさはよめるなるべし。一古本に龍に作り、仙覺注釋にも、けぶりたちたつとあり。しかれば仙覺所持の本も龍の字としられたり。義もたちたつにあらざればやすからず。立たつとかさねての(12)たまへるにて、炊烟つゞきて絶ざる有さまみへたり。立こめにては國原みへざるべし。よりて今一古本の字にしたがひて、龍の字を用也。
海原波加萬目立多都。これを或問云。此海原心得がたし。大和は本より海なき國なり。もし、天のかく山高山なれば、攝津國などの海を見給へるにや。たとひ海はみゆるとも、鴎のたちたつさまいかでか見ゆべき。一説に、天皇は日本の主にてましますから、海内も掌の中にして、鴎は海に有物なれば、煙などの對によみ給へりといへり。此説しかるべき歟。
答云。しからず。いにしへの歌は皆實のみにて、少も虚はなし。今の世の歌に見もせぬさかひをよみ、ありもせぬ景物をよむ類にはあらず。ことに天皇の國見は、一國の盛衰をもしろしめすべきたすけにもなし給ふべきに、みへもせぬ海原を見ゆるさまによみなし給ひ、在もせぬ水鳥を在如に詠なし給ひて、おもしろき國ぞとはいかでの給ふべき。此集の全篇にわたらぬ人の説なるべし。此海原は大池を海原とよみ給へり。いにしへに池をも海と歌にはよめり。柿本人麻呂も、あら山中に海をなすかもとよめるは獵路の池のこと也。此集卷の第三にみへたり。且天のかぐ山に大池有ことも、此集第三卷に、鴨君足人の香具山の歌あるを見てしるべし。
又問云。しからば此海原は大池なるべし。猶疑しきは鴎也。鴎は海にのみありて、池にはすまぬ鳥ならずや。但此御製歌のかまめは、水鳥の惣名によみ給へるにや。
答云。しからず。香具山の池には鴎すめり。其證はかの足人の香具山の歌に、奥邊にはかもめ喚(13)と有を見てもしるべし。且かもめは海にのみありて池にはすまずとは、鴎に種類有ことをしらざるなるべし。海にのみすむを海鴎といひ、河池にすむを江鴎といふ。海鴎のみをしりて、江鴎有ことをしらずして御製をうたがふべからず。
可怜。此二字を古本には、怜阿に作せり。印本には怜※[立心偏+可]に作せり。僻案、兩本共にあやまりとす。此集の中、怜の字は幾所にも出せり。勿論※[立心偏+可]怜とあまた出たり。遊仙窟にも※[立心偏+可]怜の字あり。日本紀卷第十五にも※[立心偏+可]怜の字みへたり。しかれば怜※[立心偏+可]は、轉寫の時、僞て※[立心偏+可]怜を顛倒して怜※[立心偏+可]になせるなるべし。※[立心偏+可]怜を又訛りて怜阿に作る歟。煩(※[立心偏+可]?)の字音義みへず。蓋、可の字を訛りて※[立心偏+可]となせるなるべし。其證日本紀神代下卷に、可怜の二字三所にみへたり。よりて日本紀にしたがひて、今可怜に作。猶後賢、※[立心偏+可]怜・怜※[立心偏+可]・怜阿等の出處所見あらば僻案の可不を正し給へ。
 
天皇遊獵内野之時、中皇命使間人連老獻歌。
 
天皇は舒明帝也、内野は大和國宇智郡の野也。中皇命は未詳。歌の詞によりて見れば、皇女の中なるべし。
間人連老は、間人は氏、連はかばね、老は名也。
八隅知之。我大王乃。朝庭。取撫賜。夕庭。伊縁立之御執乃。梓弓之。奈加弭乃。音(14)爲奈利。朝獵爾。今立須良思。暮獵に。今田他渚良之。御執。梓能弓之。奈加弭乃。音爲奈里。
 
やすみしし。わかおほきみの。あしたには。とりなてたまひ。ゆふへには。いよせたてゝし。みとらしの。あつさのゆみの。なかはすの。おとすなり。あさかりに。いまたゝすらし。ゆふかりに。いまたゝすらし。みとらしの。あつさのゆみの。なかはすの。おとすなり。
 
八隅知之とは、我大王といはんとて、先此語をかしらにおく。これ本邦の歌謡・文章の一風也。此たぐひあまたあり。八十といはんとては、まづ、百不足と云語を首に置。天といはんとては、久方のと云たぐひ、こと/”\く出すにいとまあらず。これをちかき世より枕詞と名付ていへり。首をおく義をとれるなるべし。今此釋には、皆此たぐひを冠辭としるす。下こゝにならへ。八隅知之は、字義にはよらず、音訓かり用るのみ也。訓をかるを借訓とし、音をかるを僧(借?)音とす。下皆こゝにならへ。されば八隅は、借訓にて息の義なり。知之は借音にて鹿の義也。息鹿と云義は、むかし崇神天皇なら山にみかりし給ひし時、鹿ありて天皇の前にふして天皇を拜し奉りければ、天皇かの鹿をあはれとおぼしめして、遂に射ころし給はざりしよしを古説に傳へたり。此こと古事記にも、日本紀にもみへねども、かゝるたぐひの故事、國史にもれて俗説に傳へたるをも、あまた歌にはよみならはせる事あり。柿本朝臣人麿の歌にも、此故事をよめる句あれば、古(15)記にはみへたるなるべし。されば、やすみしる(る〔右○〕はし〔右○〕?)は、我君をふし拜みうやまふ意の詞にて、我大王と云時の冠辭也。
朝庭取撫賜とは、天皇弓を愛たまひて翫びたまふを云。
夕庭伊縁立之とは、是も愛翫びたまふ心に、みだりに捨置給はず、立おき給ふを云。弓は物によせ立ておく物なればさはいへり。伊縁の伊は發語辭也。此四句は對句なり。
御執乃梓弓之とは、弓は梓の木にて造れば、梓弓と云。御執とは、みは敬語辭。とらしは、もとたらし也。五音通じてとらしとも云。たらしとはならしの義也。弓は手にてひきならせば、なる物故に此名あり。
奈加弭乃音爲奈利とは、弓に、本はず・うらはずの名あり。末をうらはずと云、亦長はずとも云。その形本はずより長ければさいふ也。長はずの音すなりとは、弦音はうら弭に有故に、長はずの音すなりといへり。
朝獵爾今立須良思暮獵爾今他田渚良之とは、上の句に朝庭・夕庭と有をうけて、朝獵・暮獵と對句に詠たまへり。句の意は、梓弓の音するにて、天皇の御狩に立給ふをしりておもひやり給ふ也。獵は一日の内、朝と暮とをよき時にすれば、朝かりにや、夕かりにや、今弓づるの音するは、天皇の御狩に立給ふなるべしとおしはかり給ふ詞也。此弓の音は御狩場の弦音にはあらず。天皇御狩に出御の時鳴弦する故實あれば、出御のしるしの弦音也。
(16)御執梓能弓之奈加弭乃音爲奈里とは、義上におなじ。上の句を打返して二度よむは古歌の一體也。
歌の意は、かくれたる所なく、弓弦のなる音のきこゆれば、今や天皇の御狩に立たまふならしとおしはかり給へる御うた也。八隅知之。此四字を古來よみあやまりて、やすみしるとよみ、又はやすみしりしとよみ、又はやすみちのとよみ、又はくにしるしとよみ、又はやしましるとよみ、又はあめしりしなどよみて、其説まち/\なる、仙覺ひとり日本紀續日本紀等を引て、やすみしゝとよめるは、よく古詞をしれるなり。しかれども八隅を借訓としらずして、八洲と心得て、やすみしゝとよみて、八洲をしる義也といへり。仙覺古詞はしれども、古義はしらざる故なるべし。大八島をしろしめす天皇のみに、八隅知之といはゞその義もかなふべけれども、皇子を釋る詞にも、八隅知之我大王とよめる歌あれば、八島しるの説は誤りなること明か也。かの古式にいへる、息鹿の説はおろかにあやしきに似たれども、上古のことはかゝるたぐひにかへりて實説おほし。今の世の人の道理をきはめ盡して、おろかならずきこゆる説にはかへりて虚説おほし。がの崇神天皇の故事より今にいたりて、奈良山の鹿はからざるも古説の一證たるべし。
御執乃。此三字を古本印本共に、みとらしのとよめり。一古本にみたらしのとよめり。古語にひとりをひたりともいふにて、とらし・たらしおなじことなり。仙覺はたらしを用ゐたりとみへて、註釋に或説を引て云。弓をたらしと云は天竺の多羅葉其長七尺五寸、弓の長又七尺五寸也 故に是(17)を多羅子と云也とかけり。是牽合傅會(牽強附會)なり。古の弓のたけ七尺七寸にかぎることなし。又一説に弓はいにしへたゝ(ら?)の木にて作りし故に、たらしと云といへり。しからば此歌にも、みたらしの弓とこそ有べけれ。みたらしの梓の弓とあれば、みたらしは木の名にあらざる事明也。又一説には、弓は神功皇后三韓の軍のとき作り給ふ故に、たらしと名付る也。たらしは神功皇后の御名なれば也といへり。是も牽合傅會の説也。弓は神代よりあり。人皇のはじめ神武天皇の軍の時もあり。日本書紀をも見ぬ人の説なるべし。或説に、弓は天皇の御手に取翫びたまふ物故に、弓を見とらしと云。天皇の御手に取翫ひ給ふ物、弓のみにかぎらねども、弓劔と對して弓をみとらし、太刀を見はかしと云。天皇のはき給ふ物、太刀のみにかぎらねども、太刀をみはかしといひならはせるは、器物の内手に持、身に帶る物弓劔にまさる寶はなし。よりて此二種の物をみとらし・みはかしと云ならはせりといへり。此説はやすらかなる義にきこゆれども、此歌の外に弓をとらしといふことなし。皆たらしとありて、しかもたの字濁りてもいひならはせり。此歌は御執の二字なれば弓の名にみずして、御手に執給ひし梓弓といふ説、しからじともいひがたし。されども、たらしは、ならしと云故實の例證おほし。手にならす物、弓にかぎらねども、弓には鳴弦とて、邪氣をしりぞけ、暴惡をおとすわざも有。鴟尾琴の名をたらしと云も、弓の名と相通じていへり。鴟尾琴はもと弓六張をならべて造れり(り〔右○〕はる〔右○〕の誤寫?)物なり。よりて弓と同名にたらしと云。琴を弾ずるをもひくと云は、弓の弦をひくと云によりて、しかいふ也。此外古實の證有也。
(18)奈加弭乃音。これは仙覺註釋には、中弭の音といへり。中弭と云こと所見なし。
 
反 歌。
 
反歌は三十一言の歌也。よりてこれをみじか歌とよむべし。反の字をかけるは、長歌に並てよむ短歌は、おなじことをくりかへし打かへしてよむこと有故に反歌と書たり。所詮短歌・反歌おなじこと也。よりて反歌とのみかゝず。長哥にそへる歌を短歌とかける所おほし。目録には皆並短歌と有にてもしるべし。國史にも長歌にそはざる短歌を反歌とり(か?)ける所あり。古今和歌集の眞名序にも、有三十一字詠今反歌の作也とかけるも短歌の意也。
 
玉刻春。内乃大野爾。馬數而。朝布麻須等六。其草深野。
 
たまきはる。うちのおほのに。こまなへて。あさふますらん。に(に〔右○〕はま〔右○〕の誤寫?後段參照)くさふかきの。
 
玉刻春とは、打の冠辭なり。内と打とは同詞なれば、相通じて此冠辭を用る也。字義にはよらず。只うちとかうつとかいふ詞には、皆此冠辭を用ゆべし。現の冠辭にも用たる證歌有。玉き春の説古來まち/\なれども、皆證記なき憶説也。唯十節録の説古義にかなへば、是を一證とすべし。倭漢共に年のはじめに、邪氣を逐歳事に玉きを打也。玉きといふはまことの珠玉にはあらず。玉の(19)かたちを造りたるを玉きと云ふ。是は冠の頭をかたどりて、年の始に打也。これより打といはむとては、玉き春打とつゞけたる也。
馬數而とは、こまは小馬を云義にはあらず。こは發語辭也。こ(う?)まをこまと云は歌詞なり。なべてはならべて也。御狩の歌なれば、馬數の二字をかきて義をたすけたり。此集の字格也。
朝布麻須等六とは、獵には草むらにわけ入て、鳥獣をふみたつればかくよみ給へり。此集第六卷に赤人の歌にも、朝かりにしゝふみおこし、夕かりに鳥ふみたら(た?)しとよめり。
歌の意は、天皇の初狩なれば、供奉の人々あまた馬をのりならべて、た(さ?)しもの大野も所せきまでかり入給ふべきさまをおしはかり奉るは、男子の歌ならば、うらやましき意によめるなるべしとも見かへけれども、中皇命は婦人とみへたれば、結句の草深野と有詞に趣意歌はれて、草ふかき野を朝にわけ入給ふべきよしを、いたはりてよみて奉れる歌とみへたり。
其草深野。此四字を古本印本共に、そのくさふけのとよめり。そのとは上にいへる内野大野を指てよくきこへたれども、深草の二字を、ふけのとよむは歌詞例なければいかゞ也。ふかのとよむともきゝよからず。よりて一僻案に、其は箕の訛りにて、箕草深野歟。しからば、みくさふかきのなるべしとおもひぬ。しかども箕草の二字此集に例なし。よりて又案に、此卷の人麿の歌にも、眞草の二字出たれば、其は眞のあやまりとしられたれば、まくさふかきのとよむ也。猶後の人所見あらば正したまへ。
(20)或問云。此長歌・短歌二首共に、間人連老の歌とする説あり。非歟。
答云非也。此説は標題に歌の一字有て、御歌となき故に老の歌ら(と?)するなるなるべし。老は使とし給ふ也。使の字有にてもしるべし。御字なきは轉寫のとき脱せる歟。但天皇に献り給ふ故に、献御歌とはかゝざる歟なるべし。其うへ、前後皆天皇皇子諸王の歌にて、臣下の歌みへず。中皇命も皇女の中なるべければ、たやすく天皇に歌を献給へるなるべし。間人連老、もし、人麿赤人如き歌人の名譽もあらば、さることも有べき歟。老歌人ともみへず。學才などは有ける人にや。孝徳天皇白雉五年二月遣唐使九人の中の一人なることは日本紀にみへたれども、歌人歌人(二字重複?)の所見なし。且此長歌短歌二首ともに、體といひ、情といひ、婦人の歌とみへたれば、中皇命の歌、うたがふべくもあらず。朝庭とりなで給ひ、夕にはいよせ立しなどのことは、中皇命の作なべし。歌のさまをもしり、ことの意をも得たらん人はあやまるべからず。
又問云。此老をおいとよむ説あり。又おきなとよむ説あり。いづれをか是とせんや。
答云。皆非也。此老はおゆとよむべし。其證日本紀にみへたり。此老にかぎらず。古記にみへたる人の名を、文字の音訓のみをしりて、人名傳の故實もしらざる輩、よみあやまれることおほし。王仁をわうにんといひ、鎌子をかまこといひ、宇合をのきあひと云類か。はらいたきことあげてかぞふべからず。
 
幸讃岐國安益郡之時、軍王見山作歌。
 
(21)幸は舒明天皇の行幸也。讃岐國に行幸の事、日本紀にみへねども、伊豫に行幸の時、讃岐へも行幸し給へるかと、古註にいへるまことにしかるべし。此集に此歌殘れば行幸にうたがひ有べからず。紀にを(も?)れたることをしむべし。軍王も紀にみへず。これ又をしむべし。
 
霞立。長春日乃。晩家流。利豆肝之良受。村肝乃。心乎痛見。奴要子鳥。卜歎居者。珠手次。懸乃宜久。遠神。吾大王乃。行幸能。山越風乃。獨座。吾衣手爾。朝夕爾。還比奴體婆。大夫登。念有我母。草枕。客爾之有者。思遣。鶴寸乎白土。綱能浦之。海處女等之。燒鹽乃。念曾所燒。吾下惜。(情の誤?)
 
かすみたつ。なかきはるひの。くれにける。わつきもしらす。むらきもの。こゝろをいたみ。ぬえことり。うらなきをれは。たまたすき。かくなかしこく。とほつかみ。わかおほきみの。いてましの。やまこしかせの。ひとりをる。わかころもてに。あさゆうわ。(ふに〔二字右○〕の誤寫?)かへらひぬれは。ますらをと。おもへるわれも。くさまくら。たひねしたれは。おもひやる。たつきをしらに。つなのうらのあまをとらめらか。やくしほの。もひにそこかる。わかしたこゝろ。
 
霞立は、春日の冠辭也。長の冠辭にはあらず。句をへだて、詞をへだてゝ、冠辭をおく例あまたあり。
長春日乃晩家流とは、長き春日といへる詞に、くらしわびたる情おのづからそなはれり。
(22)和豆肝之良受とは、わかちもしらぬを云詞也。霞たちわたる春の日は、くれかゝる空のきはもわかぬをいふ。時節の景色に旅懷のはれぬ意をこめていへり。
村肝乃心乎痛見とは、村肝は、むらがり物といふ義ま(に?)て心の冠辭也。物おほきことをこゝらといふに、木々等をも兼たり。群木物ともかゝず。村肝のとかけり。借訓にてかへりてよみやすければ也。すべて借訓の字を書は、よみやすき爲をしらずして、正訓とおもひたがへたる説にあやまりおほきなり。心乎痛見とは、旅のおもひに、軍王の心をいさ(た?)むよし也。
奴要子島歎居者とは、奴要子鳥は、うらなし(し〔右○〕はく〔右○〕の誤寫?)の冠辭也。此時ぬへこ鳥のなくにはあらず。鵺は喉聲に鳴て、人をよぶこゑも聞ゆれば、人をこひしのびてなげき居を、ぬへこ鳥うらなき居とはよむ也。此集の中にも、又すゑにみへたり。喚子鳥と云も此鳥の也。古今和歌集の傳とて、二十餘卷の書※[草冠/悲]切紙とて、大事なり(る〔右○〕?)秘事なりとして、傳へきたれる書あり。それには喚子鳥をつゝ鳥也といへり。しかれども古記の明證なし。彼傳書も、すべて、牽合傅會の説のみにて、とるにもたらす、論ずるにも及ばざる事のみおほければ、喚鶏島の説もうけがたし。或説に、鵺は、をとり、峰にて子となけば、女とり、谷にてひとゝ鳴なり。よりて山人は名づけて來人と云といへり。順か倭名類聚抄には、唐韻を引て、※[空+鳥]の字を出したり。卜歎とは、下なくと同じ。おもてにあらはさずしてなくを下なくと云。なげくをなくともいひならはせば、意をたすけて歎の字はかけるなるべし。もと、うらと云詞は歎辭也。うらめづらしき・うらなくなどいふ類(23)皆同じ。それをゑ(し?)のびになくをかねて、うらなくとよめり。木梨太子の歌に、鳩の下位になくとよみ給へるにおなじ。軍王供奉のことなれば、本郷をこひしたふも、おもてにあらはさず心の裏になげくさまを※[空+鳥]子鳥うらなきをればとよめり。山をみておもひを述たる歌なれば、※[空+鳥]子鳥をとり出せるも、折にかなひたる冠辭にて、ことにあはれふかき也。
珠手次懸乃宜久遠神とは、珠手次は、懸の冠辭也。たすきは肩にかくる物なれば也。懸乃宜久とは神の冠辭也。かけまくもかしこき神などいふにおなじ。懸は借訓、義は如斯也。なかしこくとは、遠神といふ名、かしこく也。かしこくはおそれうやまふを云辭也。遠神とは、大王の冠辭なり。大神皇神などいふにおなじ。天皇を尊稱する辭也。
獨座とは、旅館のさまなり。此詞にて、本郷の妻をこひしのぶ情みへたり。
還比奴禮婆とは、山風の時となく、旅衣の袖に吹かよふにつけて、旅懷をそふる心也。還た(た〔右○〕は比〔右○〕?)はかへり也。吹かへりぬればを略していへり。一古本に、還比の二字をかへりきぬればとよめり。これは詞もよく、意もいひかなへりと聞ゆれども、比の字をきとよむべき例なし。もし喜の字を草に〓とかけば、比は喜の字の誤りにや。猶異本を見て正すべし。
大夫登念有我母とは、われは女子少人などの懷はなさじと、志をはげみてみづからたけきをのこなりとおもひしも、此旅の愁情におもひくづをれたるよしをいへり。
草枕客爾之有者とは、草枕は旅寢の冠辭なり。旅には山野にふして草を枕ともするか(こ?)とあ(24)れば軍王此時草枕哲し給ふべくもあらねども、歌詞の例にならひてかくはよめり。此集旅寢を客爾と書。其例あげてかぞふべからす。
思遣鶴寸乎白土とは、おもひやると云詞は、歌によりて義ことなり。常には見聞に及ばぬ所をおしはかるを云。此歌の思遣は、胸にふさがるおもひをけしやるを云。鶴寸乎白土とは、彼おもひをすてやる道もしらねば、せんかたなきよしを云詞也。
網能浦之海處女等之燒鹽乃とは、網能浦は、讃岐國鵜足郡につなといふ地名あればこの浦なるべし。海處女等など取出せるは、妹をおもふたよりに、もひには所燒といふ冠辭によめる也。
念曾所燒吾下情とは、念を藻火によせ、情を凝によせて、鹽もつよくやけば、底のしほはこがれてこりかたまること(こと〔二字右○〕はも〔右○〕の誤寫?)のなれば、おもてにあらはさずして、下なげきをすることのはなはだしき物思ひに、身もこがれ命も失ひぬべく思ふよし也。
歌の意は、我心に愁有ときは、時節の景物も、皆愁をそふる中だちとなれば、霞たつ春の日は長閑にてめかてぬべき(め以下誤字あるか?)空の氣しきを、愁有心には、わつきもしらずといひ、心をいたみ歎居などいひて、此たびはかけまくもかしこき皇神のみゆきに供奉したれば、婦人女子の如くに本土をしのびなげくべき事にあらねば、をゝしき心をはげまして、愁る思ひを色にも出さず、みづから我ますらをなりとしのべども、打ながむる山を吹過る風の時の間にも、又立かへりて、獨ゐる旅の衣手にふるれば、それにまた思ひもそふ心ちして、をゝしき心も心よはくなりて、(25)思ひの氣胸く(も歟)ふさがれば、いかにしてか此おもひをけしやらんとすれども、其道をしらねばます/\おもひつのれども、さすがに表に形はすべきことにあらねば、心の底にしのぶにそへてつなの浦にあま人のやく鹽の底にこがるゝ如くに、わが身も思ひにこがるゝよしなり。
和豆之良受を、仙覺註釋に、佗しきもしらず也といへるは誤也。一説に、たつきもしらずとおなじといへるは、音義相かよへばさもいふべし。
村肝乃心乎痛見を、仙覺註釋に、村肝とは、餘事を忘れて一向思ひ歎とは肝胸の間にこれ留也といへり。(參照。仙覺註釋曰、村肝者忘餘事一向思歎其肝凝胸間也)詞林採要には思ひ切なる時は肝寸々に切るを云也といへり。兩説共に、肝の字につきて臆説をなせり。論ずるにもたらぬ説也。心の冠辭によめる歌此集にあまた見へたり。白土を一古本に、しらすとよめり。義はしらずの意なれども、土字をすとはよまれず。しらにとよむは、にはぬにかよひて、ねはての濁音とおなじければ、しらで也。土をはにとも、はねともよめば、借訓の字也。直にしらねともよむべし。鋼能浦を古本印本ともに、網能浦になして、あみのうらとよめり。よりて、名所抄等に、あみの浦、讃岐の浦の名として出せり。しかれども、名所抄は後人此集の歌のかなをみて、文字の眞僞も正さず、名所の有無もしらずして、みだりに名所をのせたることあまたあれは、しるしとするにたらざることおほし。讃岐國にあみといふ地名古記所見なし。つなといふ地名は、倭名類聚抄にも見へたれば、網は綱のあやまりにて、つなの浦なるべし。よりて今本文も綱になせり。猶後の人所見の證りしたかひて正し給へ。
 
(26)反 歌。
 
山越乃。風乎時自具。寢夜不落。家在妹乎。懸而小竹櫃。
 
やまこしの。かせをときしく。ぬるよおちにて(にて〔二字右○〕はす〔右○〕の誤寫なること明か也)。いへなるいもを。かけてしぬひっ。
 
風乎時自具とは、風の常に不絶吹を云古語なり。長歌に朝夕爾といへると同じ意也。此卷の天武天皇の御製歌に、時自久曾とよみ給へるもおなじ詞也。日本紀に、非時と書給へるも此詞也。俗語に時ならずと云も是なり。
寢夜不落とは、毎夜の意也。不落とはもらさず、わすれず、かけずなこと(こと〔二字右○〕はと〔右○〕の誤寫?)云意を、古歌にはおちずとよめり。古事記の歌にも此詞みへたり。
懸而小竹櫃とは、或説に、おもひをわたすを、古歌にはかけてとよめり。一所に交りゐてとふ(?)を云詞にはあらず。遠く離れゐて、こゝより彼所へおもひをかけわたす義也。よりて及ら(ら〔右○〕はば〔右○〕の誤寫?)ぬ意有詞也といへり。此説もし正義ならば、此歌も、はるかなる旅ねより、家の妹をおもふ故に、かけてしぬびつとはよめるなるべし。しぬびはこひわひるを云なり。今はしのびといひて、しぬびといはず。五音通用なれば也。
歌の意は、山越風の朝夕に不絶吹來りて、獨ねのわびしきおもひもそふからに、ぬる夜こゝ(ご(27)と?)に、ふる里の妹をはるかにおもひをかけてこひしのぶよし也。
時自具。此具の字を、古本印本共に見に作て、ときじみとよめり。時しみといひても義は同じかるべけれども、古詞の證例見へず。時しくと云詞は、古記にも古歌にもあまたあれば、見は具をあやまれるなるべし。よりて今本文具に作。
 
右檢2日本書紀1無v幸2於讃岐國1亦軍王未詳也但山上憶良大夫類聚歌休曰天皇十一年己亥冬十二月己巳朔壬午幸于伊豫温湯宮云々一書云是時宮前在二樹木此之二樹斑鳩此米二鳥大集時勅多掛稻穂而養之乃作歌云々若疑從此便幸之歟。
 
記曰とは、日本書紀也。記當作v紀。天皇は舒明天皇也。宮前在二樹木とは、在當v作v有。仙覺注釋に、伊豫國風土記を引て、二木は一者椋木、一者臣木といへり。臣木はもみの木と仙覺いへり。いまだ伊豫風土記の正禮(?)を見ざれば、可不をいひがたし。班鳩此米二鳥とは、此米を一古本に、比米に作せり。此米は※[旨+鳥]也。比米は※[今+鳥]也。共に小鳥なれども、此米は誤なるべし。何者當集第十三卷の長歌に、花橘を、末枝にもちひきかけ、中枝にいかり(いかり〔三字右○〕はいかるが〔四字右○〕の誤寫か?)かけ、下枝に比米をかけと、班鳩と比米とを對句によめる歌あり。かの十三卷の長歌も、印本には此米とかけり。然れども古本比米とかけば、一證なるべし、そのうへ漢語抄に、※[今+鳥]のかなを比米とかき、※[旨+鳥]のかなを之女とかきたれば、比米の二字には澄あり。此米の二字には證なければ也。しかれば此は誤なるべし。當作比(米の一字脱歟?)二鳥を(此米の二字脱?)二鳥とかけゑ(28)(ゑ〔右○〕はる〔右○〕の誤寫歟?)印本の誤也。班鳩は倭名類聚紗に、崔禹錫食經を引て、鵤(ノ)字を出せり。貌似※[合+鳥]而白啄者也とあり。比米は同沙(鈔?)に孫〓切韻を引て、※[旨+鳥]字を出せり。小青雀也とあり。
 
明日香川原宮御宇天皇代【天豐財重日足姫天皇。謚曰皇極天皇。】
 
明日香川原宮は、古本朱書傍注に、大和國高市岡本宮同地也とあり。
天皇は、女帝皇極天皇也。敏達天皇曾孫押坂彦人大兄皇子孫茅渟王女也。日本紀にみへたり。
 
額田王歌 未詳
 
額田王は鏡王女也。天武天皇の夫人となりて十市皇女を生給へり。日本紀にみへたり。
未詳とは、此歌類聚歌林には、大御歌とあれば、此集と歌林と作者異なれば、歌の作者未詳と注せるなるべし。未詳の二字、古本には、小字の(に歟?)かけり。印本には天(大歟?)字にかけり。今古本にしたがふ。
 
金野乃。美幸苅葺。屋杼禮里之。免道乃宮子能。借五百磯所念。
 
あきのゝの。みくさかりふき。やとれりし。うちのみやこの。かりほししぬはる。
 
金野のとは、地名にはあらず。秋の野也。此集秋風を金風とかけり。義詞(訓?)の字也。
美草苅葺とは、美草は、美は發語辭也。眞草とおなじ。苅葺は兎道の假廬にふけるを云。
借五百とは、かりそめの庵也。かりいほとかけ(き?)て、かりほとよむは古語の訓傳也。
(29)歌の意は、かくれたる所もなく明らか也。宇治の宮こに、かりそめのいほりして、やどり給ひし時のことを、後におもひ出でしのばるゝよし也。宇治の行幸紀にみへねば、此かり庵は行宮のことゝもきはめていひがたし。しかれども、第三句にて、額田王ひとりやどれるにはあらず。つきしたがひてやどれるとみへたれば、天皇行幸あらずは、皇居の時行啓歟、又は天武天皇皇子の時などにしたがひて、宇治にかり庵をむすび給ひし事有て、その時のことをしのび給ふ歌にや。
美草。此二字を此歌にては、をはなとよむ説と、みくさとよむ説と古來兩説なり。定家卿はをはなの訓を執給ふとみへて、新勅撰和歌集卷第八※[羈の馬が奇]旅歌に此歌を載給ひて、「秋の野に尾花かりふきやとれりしうちの都のかりほしそ思」とあり。仙覺はみくさの訓を用ゐたり。彼注釋に、みくさとはすゝき也と云て、此歌にみくさと點せる殊宜也。み草と云は、もろ/\の草の中に高くをゝしき草なるが故に、眞草の義にて、み草といふべしとかけり。仙覺、み草とよむ説にしたがへるは是也。み草はすゝき也といへるは非也。み草と云は一種の草の名にはあらず。惣名にいへば、すゝきもその中には有べし。しかるを薄をみ草といふは、高くをゝしき草なるが故などかけるは何ことぞや。しかのみならず。かの注釋に、古の賢者、殊(に一字脱?)秋の花すゝきを賞せりなどいひて、柿本朝臣人麻呂の、尾花か末を秋とはいはむと云歌を引て證とせり。此等の義は此美草の證にはなりがたし。古賢達の花薄のみを賞せる證もなし。かのひける人丸の歌にも、人皆者萩を秋と云とあれば、古賢は秋萩を賞せりとは云べし。人丸は尾(30)花を賞せるよし歌にみへたれども、人丸の歌は此歌より後の事也。後を以て前の證には成がたし。定家卿の尾花の訓を執給ふはみ草と云よりは、尾花といへる歌のすがたうるはしくきこゆるによりてなるべし。しかれども時代の風體と、此集の字路によれば尾花とはよみがたし。古詞にくらき輩、み草といへば水草とのみ心得、ま草といべば馬にかふ草とのみ心得て、みもまも發語辭といふ事をしらざるより、異訓と(も?)出來れるなるべし。仙覺はま草をまことの草と傅會して、眞草はすゝき也。すゝきはまことの草なる故也。などかけり。まことの草といふことやはある。いとかたはらいたきこと也。
所念。此二字を、そおもふとよみ來たれども、此集にては歌によりて、念思戀の三字こふとも、おもふともしのぶとも、わぶともよむ也。よりて此歌の所念を、しのばるとよむ。おもふといひてはことたらぬことなるを、おもふと云。内にはこふ心も、しのぶ心もこもりて、心ふかきなどいふ説あり。よりて、船をしぞ思ふ、旅をしぞおもふを證とせり。これらも船をしゝのはる、旅をしわぶるやらんもしらず。心さへたがはずば、いづれにても所好にしたがふべし。されども語釋にいたりては、皆差別有ことなれば、しる人はしるべし。
 
右※[てへん+僉]山上憶良太夫類聚歌林曰。一書曰。戊申年幸比良宮大御歌但紀曰五年春正月巳卯朔辛巳天皇至自紀温湯三月戊寅朔天皇幸吉野宮肆宴焉庚辰天皇幸近江也平浦。
 
大御歌とは、天皇の御製歌を云。これ、此集と大に異なる事也。註者、類聚歌林をひけるは、所見の(31)ひろき故に、此集と相違をあらはせるはさも有べき事也。しかれども天皇の御製歌歟、額田王の歌歟を辨へずして、只異説をひけるのみは、かへりて後人疑をなすべし。いま歌の體と、歌の詞につきて見れば、此歌はきはめて天皇の大御歌にてはあらざるべし。何者第三句の、やどれりしと云詞は、みづからやどりたるを云詞にあらず。やどりたる人を外よりいふ詞なれば、天皇の大御歌ならば、此詞有べからず。額田王の歌にきはまれり。しかれば、これ、類聚歌林の説は誤りなり。しかるを註者歌の詞を辨へずして、かへりて比良宮に幸ありしことを、日本紀を引て記せるは、無益の註なるべし。そのうへ、類聚歌林にひける一書の説に、戊申年は皇極天皇の御宇にはなし。皇極天皇の御宇は、元年壬寅にはじまりて、四年乙巳に終れり。これをも註者不辨。たゞ比良宮の行幸をいはんとて、皇極天皇の重祚齋明天皇の紀をひけり。かれといひ、これといひ、相違のこと也。只此集にしたがひて、類聚歌林の異説にしたがふべからず。
紀曰とは、日本書紀第二十六齋明天皇の紀なり。庚辰天皇幸近江之平浦辰の字の下、印本には日の字あり。衍字也。判ずべし。
或問云。新勅撰には、此歌の詞書に、あすかゞはゝ(あすかゞはら?)の御時、あふみにみゆき侍けるに讀侍ける額田王とかゝれたり。しかれば、定家卿も、此集にしたがひて額田王の歌としたまへるは是歟。
答云。非也。あふみにみゆきの時の歌とすれば、類聚歌林の説也。此集には額田王歌とのみあれ(32)ば、近江の行幸のことにをよばず。しかるを新勅撰に作者は額田王として此集にしたがひ、よめる所は、類聚歌林の説にしたがひて、近江にみゆき侍けるにと、のせられたる、これを是也といはんや。それも皇極帝の御宇に「近江に行幸のことあらば、しひてもいふべし。近江のみゆきは、齋明天皇の御宇なれば、後のをかもとの宮の御時ともあらば、國史にしたがひ給ふともいふべきに、あすかゞはらの御時にては、國史とも時代違ひなり。先史たちも、此集にうとき事は、かずもしられぬほどあれば、これらのことはしひて論ずるにもたらず。
又問云。兎道への行幸は、齋明帝の御宇にもなきや。
答云。皇極の御宇にも、重祚齋明の御宇にも、兎道に行幸の事紀にはみへず。よりて古註、齋明紀をひきて平浦に幸のことを出せるに、吉野宮に幸のことまでをかけるは、吉野宮より平浦に幸給ふ時、兎道は幸の道なれば、山城の宇治に行宮有て、やどり給ひしことも有しにやとおもひて、宇治の行宮のことを、比良の宮にてよみ給へる歌と心得たるなるべし。是類聚歌林の説より牽合する説なるべし。比良宮に幸ならば、近江のことをとり詠給ふべきこと也。兎道のかりほのことを所念、そのゆゑなくては心得と(ら歟?)れず。とにかく、近江の比良宮の歌とはみへず。明日香川原宮にて宇治の借庵のことを所念歌なるべし。
 
後岡本宮御宇天皇 【天豐財重日足姫天皇位後即2位後岡本宮1】
(33)此小字十七字は古注也。宮の字の下に、古本には朱にて前岡本宮同地也と書加へたり。い(こ歟)れは古注にあらず。後人の筆也。御宇天皇の傍注も朱にて、齋明天皇は皇極天皇の重祚也。天智・天武間人皇女の女也(校訂者曰、仙覺本この朱書あり。女は母の衍也。妄なること明也)と書加へたり。如此朱書傍注のことを、いふはくだ/\しきに似たれど、近世流布の一本に、古本の朱書の文字を加へて、本注と傍注とを混合して、一家の本となせるものあり。よりて古新の注の差別もみえがたければ、後人大にあやまること有べし。此差別は數家の古本を見し人ならではしるべからず。よりて後見む人の爲にかくはいふ也。古注も前後の例によれば、足姫天皇の下に、謚曰齋明天皇の六字有べきを、古本も印本も此六字なきは、もとよりかゝざる歟。もし轉寫の時脱せる歟。蓋重祚のことをしるせば、謚をもらせるか。猶後人正し給へ。
天皇位後即位後岡本宮此古注も委しからぬ注也。何者日本紀卷二十六云。齋明天皇元年春正月壬申朔甲戌皇祖母尊即天皇位於飛鳥板蓋宮とあり。皇祖母尊は齋明天皇のこと也。飛鳥板蓋宮とあれば、即位後岡本宮とはくはしからぬ也。後岡本宮は同紀九月の文に、是歳於2飛鳥岡本宮更定宮地時高麗百済新羅並遣使進調爲張2※[糸+耳]幕於此宮地1而饗焉遂起2宮室1天皇の遷號曰2後飛鳥岡本宮1とあれば、即位は元年正月也。此宮の起は二年九月以後の事とみへたり。後飛鳥岡本とは、前の岡本宮は舒明天皇の皇居也。齋明天皇はもと舒明天皇の皇居なれば、舊都を慕ひ給ひて、更に此地に大宮を造給ふなるべし。
 
額田王歌。
 
(34)熟田津爾。船乘世武登。月待者。潮毛可奈比沼。今者許藝乞菜。
 
にきたつに。ふなのりせんと。つきまては。しほもかなひぬ。いまはこきいてな。
 
熟由津は、伊豫の國の津の名也。
 
潮毛可奈比沼には、船に乘には潮のみちひを相はかる事也。今、かなひぬとあれば、潮時もおもひにかなふ也。もと有詞にて、第三句に月まてばとある、月も願ひにかなひて、出潮もおもひにかなふて滿たるなるべし。潮は月の盈虚にしたがへばさも有べし。意は、船のりすべき潮時もよろしくなりたるを云。
今者許藝乞菜は、今とは、潮時よく成たる時を指て、船をこぎ出なんと欲する心也。なは願ふ心の詞也。いてなを略して、てなとよむべし。訓傳也。
歌の意は、句注にて明かなるべし。齋明天皇、伊豫熟田津にましませる事、日本紀にみへたれば此時の歌にうたがひなし。熟田津爾とある、この爾は、よりの心に云辭也。船乘には月の夜頃のよろしきをまち給ふに、潮も船乘すべき時に相かなへば、今は船こぎ出なんと、供奉の人々もすゝめ給へる歌なるべし。熟田津を、古來あやまりてなりたつとよみ、又むまたつなどよめり。しかるに仙覺注釋に日本紀を引て、熟田津此云2※[人偏+爾]枳佗豆1注を證據として、にぎたつとよめるまことにしかり。今者許藝乞菜を、古本印本共に、いまはこきこなとよめり。乞菜の二字を、こなとよみては句意きこへず。顯(35)昭はこけ・こきともよめる事也。といへり。是もあやまり也。藝の字を、けの濁音のかなに用ることは古記になし。日本紀並此集、皆、きの濁音のかなに用ゐたり。よりてほとゝぎすのきに、藝の字をおほく出たるにてもしるべし。いま乞菜をいてなとよむ。乞字日本紀並此集いで、ことに(ことに〔三字右○〕はとよ〔二字右○〕の字の誤寫歟?)みたる、例證あきらか也。
右※[てへん+僉]山上憶良大夫類聚歌休曰。飛鳥岡本宮御宇天皇元年巳丑九年丁酉十二月己巳朔壬午天皇大后幸2于伊豫湯宮後岡本宮馭宇天皇七年辛酉春正月丁酉朔壬寅御船西征始就于海路庚戌御船泊于伊豫熟田津石湯行宮天皇御覧昔日猶存之物當時忽起感愛之情所以因製歌詠爲之哀傷也即比歌者天皇御製焉但額田王歌者別有四首。
 
此注は、齋明天皇は、伊豫の温湯に二度おはしませることを、類聚歌林を引てあかせり。はじめ齋明帝皇后にておはしましける時、舒明天皇の湯の行幸にしたがひておはしましける。是を類聚歌林に、飛鳥岡本宮御宇天皇子云云天皇太后幸于伊豫湯宮とあり。歌林に九年丁酉とかけるは誤也。日本紀を見れば十一年己亥なり。御船西征、此西の字を、印本には而の字に作は訛也。天皇御覧昔日猶存之物とは、舒明天皇行幸の時見そなはし給へる物に、今猶存してありけるを御覧じて、感愛の情を起したまふ義なるべし。文字の違も有歟。かの宮所の二樹なども昔日の物の中なるべし。即此歌者とは即と書より下に注者の文也。傷也の字までは、類聚歌林の文とみへたり。此歌とは今の熟田津の歌を云。しかれば、類聚歌林には、此歌を齋明天皇の御製にして載て、額田王の(36)歌は別に四首ありて、此歌は額田王の歌にあらざるよし也。此注も類聚歌林所見のみをあげて、注者此集と歌林との可不を辨へざるはかひなき注なり。今歌の詞によりてた(お歟?)もへば此歌は齋明天皇の御製にても有べし。そのより所は結句なり。今者許藝乞菜の詞、天皇の御製の詞にかなへり。船乘に月を待給ふも、天皇にあらずして諸王諸臣の私に乘船を留べきにあらず。そのうへ、額田王の歌外に四首歌林にのせたれば、これは歌林の説にしたがふべき歟。しかれども、予はいまだ類聚歌林を見ざればしひていひがたし。先此集にしたがふのみ。猶後の人詳にし給へ。
 
幸于紀温泉之時、額田王作歌。
 
幸は齋明天皇の幸也。古本例の朱書傍注に、奉天武天皇歌也と有て、額田王の傍注には、天武天皇夫人也。十市皇女母額田姫王是歟或鏡王又鏡王女とあり。これ後人の傍注にて、鏡歟等の文義分明ならざれば、くだ/\しく是を書べきにあらねども、奉天武天皇歌也とある傍注、此歌を釋する證據ともなる説なれば、古本の朱書を皆しるしおく也。
齋明天皇の幸は天皇四年の事也。冬十月紀温湯に幸し給ひて、五年の春正月還御なり。此行幸のおこりも、有馬皇子より事おこりし也。事は日本紀卷第二十六齋明天皇の紀にみへたり。その文長ければこゝにのせず。
 
莫囂圓隣之。大相七兄瓜謁氣。吾瀬子之。射立爲兼。五可新何本。
 
(37)此歌の文字、古よりよみおほせたる人もなければにや、仙覺はじめてよみたるよしをいへり。その訓には、
 
ゆふつきの。あふきてとひし。わかせこか。いたゝせるかね。いつかあはなん。
 
かくよみてより、諸家の本皆此よみをつけて、此訓の是非をいへる説もみへず。かの注釋云。ゆふつぎとは十三四日の夕べの月也。いたゝせるかねといへるは、いは發語の詞。よめる心は、夕月の如くあふぎてとひしわがせこが、たちてやあるらん。いつかあはんと、よそへよめる也。これは愚老(仙覺?)新點の歌のはじめの歌也。彼新點の歌百五十二首侍るなかに、これは委しく尺を書そへて侍る歌也。くはしきむねをしらんと思はん人は、可爲披見彼尺也とあり。しかれば此集の歌、仙覺新點百五十二首の尺別にかけりとしられたれども、予いまた彼尺を見ざれば、可不を辨へがたし。右の文字の上につきて右の訓點をつけられたるはさるゆゑこそありつらめ。たとひ訓證訓義ありとても、第一句より第二句のつゞき、かくよみては、歌といふものにてはなし。夕月のあふぎてとひしとはつゞかぬ詞也。此句つゞくつゞかぬさかひは、歌をしる人にあらざればいはれず。後しる人わきまへしるべし。予が僻案の訓は、此歌の文字古本一樣ならずして、諸家の古本文字相違あれば、一定なしがたきによりて異字につゞきて異訓をもなして、いまだ一訓に決せず。若正本正字の古本を見ることあらば、その時一訓にきはむべし。僻案三訓あり、其訓の一には。
 
ゆふくれの。やまやついゆき。わかせこか。いたたせりけん。いつかしかもと。
 
(38)ゆふくれは夕暮也。やまやつは山谷也。いゆきは、いは發語辭也。ゆきは行也。わがは我うへなり。せこは夫君を指辭。古本の傍注に、奉天武天皇歌也とあれば、天武天皇を指て云。額田王は天武天皇の夫人なれば、わがせことは云へり。天武天皇皇子にてまします時、此行幸の供奉し給ふなるべし。よりて額田王都に留りて、天皇へ奉れる歌とみへたり。いたゝせりけんとは、いは發語辭。たゝせりけんは、立せ給ふらんとおしはかりおもひやり給ふ意也。いつかし(が脱歟?)もととは、古語に此句あり。日本紀にみへたり。それは嚴橿之本なり。此句は嚴※[判読不能]本の義にて、きびし岩ほのもとなどに立やすらひ給ら也(らん〔二字傍点〕の誤寫歟?)とおもひやるを云。歌の意は、山路はさらでだに越がたきに、まして夕暮のみ山谷かげなどの旅行は、いとくるしかるべければ、けはしき岩ほのもとにもつかれて立やすらひ給ふらんと、いたはりてよみて奉れる歌とみへたり。此歌の文字をかくまむより所は左にしるしぬ。
莫囂圓隣之。これを一古本に、莫囂國隣之とかきで、ナナクリノと片かなを付たり。しかれば圓隣は、國憐をあやまれる歟。國燐の二字はくれとよむべし。國はくとよむ例おほし。憐はあはれとよむ字なれば、下の一音をとりてれとよむべし。音もレンなれば、音をかりては上をとり、訓をかりては下をとりて、いづれにてもれとよむべし。莫囂の二字をゆふとよむは、一古本に莫は奠に作を見し也。又古葉略要集に、此歌の文字二字略(異?)にして、囂を器に作たり。よりて莫囂は、奠器をあやまれるとしりぬ。奠器なればゆふとよむべし。本朝の故實神祭の具には、必木棉(39)あり。木棉の義訓に奠器と書たるを、夕の訓に用ゆるは借訓也。仙覺のゆふとよめるもも、若此意歟。故に奠器國燐之の五字につきて、夕ぐれのとよむ也。
大相七兄。これをやまやつとよむは、大相は大なるすがたなれば、山の義訓にかける歟。七兄は七歳の兄は八歳なれば、やつの義にかけるよりかりて、やつは谷の古語なれば、山谷とす。
爪謁氣。これをいゆきとよむは、一古本に、爪を瓜に作を見ていとよむ也。瓜なればうり也。うりの約言はいなれば也。謁氣をゆきとよむは、古葉略要集には、謁を湯に作たり。よりて爪湯氣の三字につきていゆきとよむ也。吾瀬子より下は、音訓常に用る字なれば、わがせこがいたゝせりけん、いづかしがもとゝよむには、うたがひ有べからぬは、しひていふにをよばす。今ひく古葉略要集は見る人すくなかるべし。此書はこの廿とせあまりのさき、春日若宮神主大中臣祐宗朝臣やつがれがもとに物まなびに來りしこと有。その頃比集のことにをよびて、彼家に傳へし古葉略要集を、祐宗朝臣もち來りて見せ侍し時、此集の文字のたがひとも校合せしなり。古葉略要集いまに彼家に有べし。
又僻案訓二には。
 
ゆふきりの。そらかきくれて。わがせこか。いたゝせりけん。いつかしかもと。
 
莫囂圓隣之。これをゆふきりのとよむは、前にしるす如く、奠器國隣としてよむ也。奠器は前にいふがごとし。國隣をきりとよむは、くにの約言き也。隣はとなりの下のりをとれば也。凡(40)國語にラリルレロの五音を上にいふことなし。よりて此五音のかなを訓に云ときは、皆下の音をとり用るならひなれば、隣の字を里とよみ、隣(憐?)の字をれとよむなり。大相七兄爪謁氣、これをそらかきくれてとよむは、前には大相の字を山とよめども、天ともよむべし。大相の義訓は、山よりも天の訓その義まさるべき歟。七兄爪をかきとよむは、一古本に七の字なき本もあり。又七兄の二字を一字に七兄とかける古本をもみければ、七兄は虎の字歟。轉寫※[言+爲]に七兄と二字になせる歟。もし虎の字なれば、虎爪の二字はかきとよむべし。義訓の借訓也、謁氣の二字をくれてとよむは謁は靄と通用て、陰晦也と云字注と(も?)あれば、謁氣はくらしとも、くれてともよむべし。下の句は前のにおなじ。上の句は訓異なれども、意は前の歌にことならず。天武天皇に奉給ふ歌にて、湯の山の夕暮の旅行をいたはり、山氣ふかゝるべきことなどおもひやり給ふ意なるべし。此外に僻案の訓猶一つあれども、上の句の文字いづれを正字とも決がたければ、あまりにくだ/\しくいはんもいかゞなれば、もらして先二訓のみをかき付ぬ。かさねて異本異字を見ることあらば、その時又いふべし。仙覺の新點と予の僻訓との是非は、文字の正しき古本を見る人辨へ給ふべし。
 
中皇命往于紀伊温泉之時御歌。
 
中皇命は、いまた考へ行(得歟?)す。前にも云ごとく、皇女の中なるべし。命の字も此一人にかぎりて付たるも心得がたし。もし皇女の女を訛りて命に作るにや。中皇の二字をナカラシとかたかなをつけたり。これもうたがひなきにあらず。皇の字をらしともよめる例もなし。皇女の中な(41)る歟と云は、此集皇子・皇女の歌には皆御歌とかけり。今此歌も御歌とあるを以て也。皇子にはあらず。皇女なるべきは、吾勢子波の發句あり。そのうへ歌のすがた皆婦人の作とみへて、男子の歌の體にあらず。よりてしかゆふ也。
 
君之齒母。吾代毛所知武。磐代乃。岡之草根乎。去来結手名。
 
きみは(か〔右○〕の誤寫?)よも。わかよもしられん。いはしろの。をかのくさねを。いさむすひてな。
 
君之齒母とは、君とは齋明天皇を指さるべし。齒は代也。よはひの上の一言を、かなにかり用ゐたる也。吾代毛。この詞皇女などにあらずして、君が代、吾代と對してよむべき人有べからず。人臣の歌とはみへず。
所知武とは、後の人にしられんとよみ給へり。草根を結びおきてその根かれずば、いつの代、いつの時、誰人のよくむすびおける根と傳へなば、天皇の行幸の代も、むすび給ふ中皇命も、後見む人にしられんとの意なるべし。磐代の岡は紀伊國にあり。かの有馬皇子の松枝を結びて、磐白の濱松之枝乎引結とよみ給ひし所也。
草根とは、草をむすびては枯やすければ、根をむすばんとよみ給へり。枝葉はかれても、根はかれぬ草もあればなり。
去來結手名とは、もろともに結ばんと云義に、いざとよみ給ふとみへたり。
(42)歌の意、しひていはずとも句釋にてきこゆべし。磐代といふには朽ちぬ心をこめて、此岡の草根を結びて、君が代吾代のしるしとせんとよみ給ふなるべし。磐代の岡には心有べし。
所知武。これを古本印本共に、武を哉に作て、しれやとよめり。しれやといひては、てにをは違なり。いま、しられんとよむは、一古本に哉を武に作るによれば、句意明かなれば也。
 
吾勢子波。倍廬作良須。草無者。小松下乃。草乎苅核。
 
わかせこは。かりほつくらす。かやなくは。こまつかしたの。かやをかりさね。
 
吾勢子波とは、夫を指て云詞なれば、中皇命は皇女なるべしと前にいふも、此歌の此詞によりて也。中皇命もいづれの皇女としりかたければ、此勢子と指給ふ、誰人とも指がたし。定めて供奉の中に加り給へる中皇命の夫あるべし。
僧廬作良須とは、天皇の行宮のごとくはみへず。中皇命の夫君の旅館を作らせ給ふときこえたり。
草無者小松下乃草乎苅核とは、此かり庵は急かなることゝみへたり。よりて草無者、いま草をかれとよみ給へるにて、私の廬とはしられたり。核とはさは發語辭、ねは下知する辭也。此集巻頭の御製歌の、告沙根とおなじ詞也。天皇の行宮なれば、必先行幸の行宮を兼て造れることなれば此歌の詞かなはず。私の旅廬なる故に、かれざる草とてもかりて用ゐよとよみ給へる、事の急卒なればなるべし。又公用を費さざる意にてよ見給へる歟。歌の意は、大かた句釋にてきこゆべけ(43)ればしひて釋をかさねず。右の釋は齋明天皇の行幸の時の歌と爲が故に、中皇命はいづれの皇女ともしりがたけれども、歌の詞につきて釋をなしぬ。しかれども、右二首の歌につきては、大にうたがはしき所あり。その疑ふ所とは、中皇命舒明天皇の内野に遊獵し給ふ時、歌を献り給ふこと前にあり。其歌のさまによりてみれば、人臣の女子婦人にはあらざること明けし。そのうちへの字命をそへて、尊稱するほどの皇女、日本紀にもれたること。是疑の一也。又命の字此中皇に限れる、さるゆゑ有べし。これ疑の二也。又すでに幸2于温泉1之時、額田王作歌と前にあれば、此幸の時ならば、中皇命御歌とのみも有べきに、別に中皇命往2于紀伊温泉1之時御歌とある事、これ疑の三也。又往の字によれば、中皇命行幸の時ならず。私に温泉に往給へるとみへたり。しかるに、吾勢子波かりほ作らすと云詞あれば、此時中皇命夫君と相共に、温泉に往給ふ事明けし。しからば其夫君の名をこそあらはすべき事なるに、中皇命のみ名をあらはせる事、是疑の四也。此外歌の詞につきで其疑すくなからす。よりて僻案には、此中皇命は有馬皇子の妻なるべし。有馬皇子牟婁温湯に往給ふ時、中皇命も共に往給ひけるなるべし。此歌も彼有馬皇子の松枝を結び給へる歌と同時の詠なるべし。此集にのせたるは、撰者しりてのせたる歟。しらずしてのせたる歟。はかりがたし。日本紀に有馬皇子の所にも、往の字を書給へり。此集にも往の字をかけるも符合したり。もと齋明天皇の紀伊温泉に幸のおこりも、有馬皇子の謀反の下意にて、行幸をすゝめ給へる事とみへたり。かの有馬皇子の紀の湯に往給ふも、齋明天皇の御世の事なれば、此集此處に中皇命の御歌(44)をのせたるなるべし。中皇命の傳、日本紀にも闕たるは、有馬皇子彼誅戮の時、中皇命も亡給へる歟。よりて紀にも闕たるなるべし。今二首の歌、有馬皇子の妻の歌とみれば、歌の詞の疑なし。しからば君之齒母とよみ給へるは、有馬皇子を指て、歌の意も明也。かの磐代の松を有馬皇子結び給ふ同時の歌とみれば、去來結乎名と有詞もよくかなへり。皇子と共に磐代の岡の松が枝と草根とを結びて誓ひ給ふ歌としられたり。次の歌の、吾勢子波と有も、皇子を指ての詞とみれば歌の全體もよくきこえ、詞のうたがひもなし。此僻案、古記の證明なければ、しひていひがたき事ゆゑ、先舒明天皇の幸の時の歌として前に釋をなし侍る。しかれども、君之齒母吾代毛の詞、吾勢子波借廬作良須等の詞、たれかこれをうたがはざらんや。後の人僻案の可不を正し給へ。
 
吾欲之。野島波見世追。底深岐。阿胡根能浦乃。珠曾不拾。 拾一本作v捨非。
 
わかほりし。ぬしまはみせつ。そこふかき。あこねのうらの。たまそひろはね。
 
吾欲之とは、古語にねがふことをほりと云也。よりて音通じてほしとも云也。
野島波見世追とは、野嶋は紀伊國にあり。見世追は見つ(に一字脱歟?)て、世は助語辭也。
底深岐阿胡根能浦乃珠曾不拾とは、底深岐は海浦等の冠辭也。あこねのうらは紀伊國にあり。紀伊國の海よりは名玉出とみへて、玉出嶋の名もあれば、あこねの浦の國も、すぐれたる珠のきこへ有とみへたり。歌の意は、野嶋を見まほしくねがひしに、いま願ひかなひて、野嶋に見つ。此(45)うへはあこねの浦の珠を、ひろはまほしき願ひときこえたり。底深きと云ふ詞は、あこねの浦の珠は得がたき意を含めるなるべし。紀伊國の名所あまた有中に、野嶋のみをみせつと有は、あこねの浦の珠にかけ合せて野嶋を詠給へるなるべし。野嶋のぬは玉を云古語也。瓊の字をぬとも、にともよむ也。これは野嶋は瓊嶋の詞にかよへば、ぬ嶋はみせつといひて、結句に珠ぞひろはぬとよみ給ふかけ合たる首尾なるべし。野嶋を古本印本共に、のじまとよめり。のもぬも五音通へども、野の字は古訓おほくはぬ也。美野玉をかな書に美ぬ玉とかけるたぐひあまたあり。よりて古語古訓にしたがひて、いまもぬしまとよむ也。
或頭云。吾欲子鳥(島の誤寫歟?)羽見遠。
  わがほりし。しまは見つるを。
これは第二句のかはりをしるせり。しかれども本文の野嶋は首尾かなひてきこゆ。第二句にしまは見つるをとは俗言にちかし。もし吾欲の二字をわがほりしとよみて、子の字は嶋に連ねてこしまはとよみ給へるか。いづれにても、本集の第二句まさるべし。
吾欲之。これを古本には、わがおもひしとよめり。しかれども、おもひしにては、何とおもひたることやらん、意不通。わがよひ(よひ〔二字右○〕はこひ〔二字右○〕歟?)しなどゝはよむべし。第二句或説の子島などにつゞけんには、わがこひしを發句とすべき歟。しかれども、ほりしは古語なれば、印本の訓にしたがふ也。
 
右※[てへん+僉]山上憶良大夫類聚歌林曰。天皇御製歌云云。
 
(46)此注は、吾歌(欲の誤寫歟?)之の歌一首の事なるべし。しからば、右一首者と有べきを、右とのみあれば、三首ともに天皇御製として、類聚歌林に載たる歟。轉寫の時一首等の字を脱したるなるべし。君之歯・吾勢子等の詞あれば、天皇の御製歌にあらざることはいちじるし。右一首の歌は、歌林にしたがひて、御製歌とも見まほし。何者、前の二首は磐代の岡の歌にて、松草等を詠給へり。此歌は玉のことにて、詠物もことなれば也。同時同作にては有べからず。
 
中大兄 近江宮御宇天皇。 三山歌一首。
 
中大兄は天智天皇皇子の時の御名也。此御歌は、皇子の時よみ給へる故に、中大兄と御名をかけるなるべし。近江宮御宇天皇の七字は古注也。古本小字に二行にかけり。印本は大字にかけり。しかるべからず。中大兄。古本例の朱書傍注に、皇極天皇天豐財重日足姫四年六月譲2位於輕太子1以2中大兄爲2皇太子1天智天皇是也とあり。又一古本紫書傍注には、號2葛城皇子1又名2中大兄王1後名2天智天皇1母皇后寶皇女今稱2皇極天皇1是也とあり。
三山歌古本朱書傍注に、三山者畝火香山耳梨山也、見2風土記1とあり。
歌は中大兄皇子の御歌也。此集諸皇子の歌を皆御歌とかけるに、中大兄の御歌に御の字なく、歌とのみかける、しかるべからず。轉寫の時御の字を失へるなるべし。
 
高山波。雲根火雄男志等。耳梨與。相諍競伎。神代從。如此爾有良之。古昔母。然爾(47)有許曾。虚蝉毛嬬乎。相※[手偏+各]良思吉。
 
かくやまは。うねひをゝしと。みゝなしと。あひたゝかひき。かみよゝり。かゝるなるらし。いにしへも。しかなれはこそ。うつせみもつまを。ともにからしき。
 
高山は、天の香山也。
雲根火雄男志等は、うねひは、山の名、畝火山也。
雄男志とは、勇みつよきを云古語也。此歌にては、俗にたけ/”\しなど云詞と見るべし。
耳梨與相諍競伎とは、うねび山と、耳なし山と相闘ひしを云。これは神世の故事なり。耳梨も山名也。香山は女山、畝火山と耳梨山とは男山にて、香山を、うねび山も、耳なし山も、たがひにめとらんとせし事ありし時、香山、うねび山はをゝしときらひて、うねび山にしたがはずして耳なし山にあひしより、畝火山と、耳梨山と、相たゝかひけると、神世の故事に傳へて、これを三山のたゝかひといふ也。今その故事を詠給へる也。かゝるたぐひ、神世の故事にはあまた有こと也。山を女山・男山といふは山神を云也。神代卷に山を生、海を生と有も、皆山祇海童(?)のこと也。國土萬物皆その主宰の靈神あれば、諸山おの/\其山の精神ある故に、香山の神は女神、畝火・耳梨の兩山の神は男神と傳へて、すでに男女の神あれば、交會の事もあり、爭奪のことも有故事を傳來れり。香山畝火山の神をゝしとてきらへるは、女神の本情なれば也。雄男志と云詞は、男子勇士の上にてはほむる古語也。よりて古記に勇士を稱美する辭には皆をゝしとあり。しかるに今(48)香山は、畝火をゝしときらへるは常に異也。是則婦人女子の情也。婦人女子は男子の情と異にして、かへりて、をゝしきをきらひ、柔弱をこのめり。是神人共に女子の通情なれば也。
神代柔如此爾有良之とは、男女の欲情には愛情ありて、道理をも失ひ、爭奪も出來て、はて/\は闘戰にもをよぶこと、神世の山神の上にもありけるよしをのたまへり。
古昔母然爾有許曾とは、古昔母と有も、神世の事也。二度上の句の意をうち返して云へり。これ長歌の一體也。
虚蝉毛嬬乎相※[手偏+各]良思吉とは、虚蝉母とは、今日の顯身もと云詞也。虚蝉の二字は借訓也。うつの身・うつし身・うつせ身・うつそ身皆同じ古語にて、此集の歌にあまたみへたり。現在の身を云古語也。日本紀にうつし國と云語に、郡國の二字を書給へるにてもしるべし。相とは、萬人皆と云意也。※[手偏+各]良思吉とは、古語に、女をもとむるを、かりとも、かるとも云也。妹かりゆけばなどよめるたぐひあまたあり。この結句の意は、今日うつゝの世にすむ身は、たれも/\妻を求むるも、又妻を求むるにつきて、爭奪闘戰等の出來るもことわりなり。神世にも、山神の妻をかるよりことおこりて、三山のたゝかひも有けると、人の世の男女の間のことに、さま/”\のこと出來るをたすけ給ふ御歌とみへたり。
此長歌の意、句釋の上に見ゆべければ、更にいふにをよばす。僻案に、此御歌虚蝉毛の句の上に五言の一句あらば、誦やすかるべき也。もとは一句ありたれども、脱失したる歟。此集の長歌に(49)一句脱失したる歟と見ゆる所あまたあり。猶其所にていふべし。
高山。此二字を古本には、たかやまとよめり。印本には、かぐやまとよめり。仙覺、高の字をかぐとよむ證據をあげて、かぐやまといへり。風土記の證明なれば、かぐやまとよむ説しかるべし。たかやまといひては山の名にならず。三山の故事なれば、香山を高とかけるうたがふべからず。
相諍競伎。此四字を、古本印本共に、あひあらそひきとよめり。あらそひとよむには、諍にても競にても、一字にてよまるべし。諍競の二字を、あらそひとよみては、一字あまれるに似たり。よりて今、あひたたかひとよむ。是風土記の文に、三山相闘を證とするなり。
如此爾有良之。此六字を古本印本共に、かゝるにあらしとよめり。今、かゝるなるらしとよむ。義はおなじ。約言の訓傳なれば也。
然爾有許曾。此五字を印古兩本ともに、しかにあれこそとよめり。不可也。あれこそと云詞例なし。今しかなればこそとよむ。是亦約言の訓傳なれば也。
嬬乎。これを古本には、をとめをとよめり。嬬の字は、つまとも、いもとも、めとも、歌により句によりて、いづれも通じよむ常のこと也。嬬の字のみにあらず。妹の字もしかり。歌によるといふは、草にことよせていへば、つまとよみ、藻によせていへば、いもとよむ類也。句によるといふは、一言を用るときは、めとよむ。二言には、いもともつまともよむ。三言にはをとめとよむべし。四言にはたをやめともよむべし。是を句によるといふ也。今此歌一句脱失したるとみへた(50)れば、虚蝉毛嬬乎の五字を、七言八言までの一句によむべし。古本のごとくに、嬬乎の二字を、をとめをと四言によみては、九言になりて誦がたし。よりて印本の訓にしたがふ也。
相※[手偏+各]良思吉。此五字を印古兩本共に、あひうつらしきとよめり。此訓意不通。或説に、今此身も妻をあひうつくしむらしと云詞と釋せり。しかれども、うつといひて、うつくしむ義に用ゆべき語例なし。※[手偏+各]の字はうつともよむべけれど、らしきといふ詞をそへては、いかなる義とも心得られず。今ともにからしきとよむは、相は共也と※[幼の左]字注もあれば、ともにとよむ。※[手偏+各]良思吉四字は借音にてかりけりと云詞におなじ。らしは約言り也。けりは約言き也。よりてからしは、かりといふと同じ。きはけりにて決辭也。句の意は、相互に妻を求むるなりと云義也。
 
反歌。
 
高山與。耳梨山與。相之時。立見爾來之。伊奈美國波良。
 
かくやまと。みゝなしやまと。あひしとき。たちてみにこし。
いなみくにはら。
 
相之時とは、高山、耳なし山にしたがひて交りしを云。此短歌の相の詞を兼て、長歌に相たゝかひきと詠給ふとみへたり。短歌にて、高山と、耳梨山と相也。長歌にては畝火山と、耳梨山と相戰也。
立見爾來之伊奈美國波良とは、出雲國の大神、此三山の相たゝかふよしをきゝて、戰をしづめむ(51)爲に、出雲國を立て、播磨の國の伊奈美といふ所まで、見に來れる故事をかくよみ給へるならし。伊奈美は播磨國の地名也。むかしは郡・縣・邑をも歌にはくにと詠り。よりて國はらとも詠給へり。此故事仙覺の注釋に播磨風土記を引けり。まことに證とすべし。
播磨風土記云。出雲國阿菩大神聞大和國畝火香山耳梨三山相闘以此欲諌止上來到2於此處1乃聞闘止1覆2其所v乘之船1而坐之故號2神集之形覆1此風土記にて、此長歌短歌の故事はしられたり。歌の意は句釋と此風土記との文との上にみへたれば更にいはず。
 
渡津海乃。豐旗雲爾。伊理比禰之。今夜乃月夜。清明己曾。
 
わたつみの。とよはたくもに。いりひねし。こよひのつきよ。さやけしとこそ。
 
豐旗雲とは、古本の朱書傍注に、豐旗雲は古語、曰2海雲1也當2夕日1雲赤色似幡也入日能時者月光清也とあり。袖中抄に云。古語曰とよはた雲とは、海の雲の古語也。瑞應圖曰豐旗雲者瑞雲也。帝徳至時出現雲也。雲勢者以旗云云とあり。しかれば豐はた雲は兩説なり。瑞應圖の説は、瑞雲にて海雲とはみへず。此歌の詞によれば、海雲の説かなへり。海雲にあらずしては此發句有べからず。
伊理比禰之とは、夕日の雲にかくれていりしを云。ねしとは去の字の意にて、いにしとも、いねしともいひて、かくれたるを云詞也。
歌の意は、海雲に夕日のかくれて、其雲赤旗の如くに見ゆる時は、其夜必清明なるよし云傳へ來(52)たれば、さる夕陽の雲のけしきを見給ひて、こよひの月夜、さやけかるらんことをめで給ふ心なるべし。さやけしとこそと云てにをはは、上の句へかへるてにをは也。さやけしとこそ、豐はた雲に入日ねしと云一格也。
伊理比禰之。此禰の字を印本には抄に作て、いりひさしとよめり。仙覺注釋に、此歌中五文字つねには入日さしと點す。二條院御本に、入日ねしと點ず。漢字すでに禰也〔右○〕。(也の下一字不明)入日ねしと點ずべしといへり。しかれば、此句入日さし、入日ねし古來兩説なり。禰の字を草にかけば※[草假名の禰]也。沙と字形相似たれば.點寫※[言+爲]より兩説出來たるべし。今は入日ねしにしたがふは、結句の己曾とあるてにをはに合せては、ねしと云はかなへば也。されども旗と云詞に、入日さしは相かなひてきこゆれば、入日さしにても有べき歟。字にしたがひ、所好にしたがふべし。清明己曾此四字を印古兩本共に、すみあ(あ〔右○〕の下か〔右○〕一字脱歟?)くこそとよめり。清をすみ、明をあかくとよむは、常のことなれども、すみあかくといひては歌詞にならず。歌は俗言をさけて、雅言を用ゆるは古今ともに同じ。此集の歌には古語あまたありて、耳なれぬ詞あれば、古語をしらざる輩は、其古語を雅言とも俚言ともわきまへずして、常の歌詞にことなるを、萬葉集の詞とおもへるより、此一句をも、すみあかくこそとよみても、うたがひをなす人もなし。すみあかくといふ詞、歌詞に例なきのみならず俗言にてもなし。すみあかといふ器の名はあれども、詞にすみあかくと連續してはきかず。よりて今清明己曾の四字を、さやけしとこそとよむ。こよひの月夜と上にあ(53)れは、月にも夜にもさやけしは通ふ詞也。歌は歌の道ありて、詞の連續常談俗話とは異也。
 
右一首歌今案不似反歌也但舊本以此歌載於反歌故今猶載此歟亦紀曰天豐財重日足姫天皇先四年乙巳立天皇爲皇太子。
 
右一首歌云云は、豐旗雲の歌は、まことに三山御歌の反歌とはみへた(ざ?)るべし。しかれども、此集三山の御歌の次に載たるは、さるゆゑ有べし。よりて此反歌につきて僻案あり。右三山の長歌も反歌も、大和國にてよみ給へる御歌にては有べからず。播磨國にて詠給ふ歌なるべし。しからざれば前の反歌の詞に、伊奈美國波良とある句心得られず。天智天皇皇太子にておはしける時、齋明天皇にしたがひ給ひて、伊豫土佐までも渡らせ給ふ事、國史に著明也。されば、播磨國を經給ふ時、伊奈美國原などの本縁をしろしめし、三山の歌をも、阿菩大神の故事より、播磨國にてよみ給へる長歌なるべし。よりて伊奈美國原の御歌は、其地本縁故事のみをよみ給へる歟。長歌の趣意をかへして、詠給ふ御歌とはみへざるなり。此長歌短歌、播磨の國の風土記と符号するにてをもふべし。されば此豐旗雲の御歌も、其時その地の御歌なるべし。海路にての御詠故に、渡津海の豐旗雲などの詞も有なるべし。大和國にて海雲を詠給ふべき道理なし。同時の御歌なれば、同列に書しるしたるを見て、萬葉撰者反歌としるせる歟。反歌は短歌なれば、長歌に屬たる短歌もあり、長歌に屬せぬ短歌もあり。其證下にみへたり。萬葉撰者は反歌も短歌とおなじ義にかけるを、注者反歌は長歌に屬たるに限りて反歌といひ、屬せぬをたゞ短歌といふと心得たる歟。よりて(54)不v似反歌也とかけるなるべし。只反歌は短歌とみて、此短歌は長歌に屬せぬ同時の御歌とみるはうたがひ有べからず。
故今猶載此歟。この歟字は焉の字の誤なるべし。この下の注にも故以猶載焉と有をみてしるべし。立天皇この立の字の下、印本爲の字あるは衍也。剛(削歟?)去べし。
 
近江大津宮御宇天皇代。【天命開別天皇・謚曰天智天皇】
 
古本朱書傍注に、志賀郡大津是也とあり。
 
天皇詔内大臣藤原朝臣競憐春山萬花之艶秋山千葉之彩時額田王以v歌判之歌。
 
天皇は天智天皇也。内大臣藤原朝臣は、鎌子公也。古本例の朱書傍注に、内大臣大織冠鎌足朝臣。天皇八年授大織冠於内大臣賜姓藤原とあり。此鎌子公のことを藤原内大臣と書べきことを、内大臣藤原朝臣とかけるは、鎌子公を尊稱してかける成べし。しかれば、此朝臣の二字は藤原氏につくかばねの朝臣とはみるべからず。上古は稱語に朝臣とよびし也。仁徳天皇の武内宿禰をさして、内のあそと呼び給ひしことあり。今此朝臣も其類にかける歟。しからずば朝臣の字藤原内大臣にはつけがたし。鎌子公には藤原氏を給はりて、朝臣のかばねは鎌子公の不比等に給へり。されば藤原内大臣の時は、いまだ朝臣の姓はなし。日本書紀新撰姓氏録等を見てしるべし。
日本書紀卷第二十七【天智天皇】八年冬十月丙午云云。庚申天皇遣東宮天皇弟於藤原内大臣家授大織冠(55)與2大臣位1仍賜v姓爲2藤原氏1自v此以後通曰2藤原大臣1辛西藤原内大臣薨。新撰姓氏録第二帖左京神別上云。藤原朝臣。出v自2津速魂命三世孫天兒屋根命(也一字脱歟?)二十三世孫内大臣大織冠中臣連鎌子古記曰鎌足云云(云々二字竄入歟?)天命開別天皇謚天智八年賜2藤原氏1男正一位贈大政大臣不比等天渟中原瀛眞人天皇謚天武十三年賜朝臣姓。
額田王以歌判之歌とは、天智天皇と藤原内大臣と、花の春の山と紅葉の秋の山とおもひくらべていづれをも捨がたく愛憐給ふ時、額田王に勝劣を歌にてわけて、春山よりは秋山あはれまさるよしをよめる歌也。
 
冬木成(戌の誤寫歟?)。春去來者。不喧有之。鳥毛來鳴奴。不開有之。花毛佐家禮杼。山乎茂。入而毛不取。草深。執手母木見。秋山乃。木葉乎見而者。黄葉乎婆。取而曾思奴布。青乎者。置而曾歎久。曾許之恨之。秋山吾者。
 
ふゆこもり。はるさりけれは。なかさりし。とりもきなきぬ。さかさりし。はなもさけれと。やましけみ。いりてもからす。くさをふかみ。たをりてもみす。あきやまの。このはをみては。そめしをは。かりてそしぬふ。そめぬをは。おきてそなけく。そこしうらみす。あきやまをわれは。
 
冬木成(戌歟?)は、春の冠辭也。春去來者は、春になりければと云詞也。夕になればを、夕され(56)ばとよむにおなじ。不喧有之鳥毛來鳴奴とは、鳥は百鳥を云。一鳥をさしてはいはず。冬の内はなかでありし諸鳥も、春になりて囀るさま也。
不開有之花毛佐家禮杼とは、花は草木を云。一木をさしてはいはず。冬の内はさかでありし諸木も、春になりて花さくよし也。佐家禮杼とは、この濁音は反語辭なれば、花鳥の句を合せて見るべし。冬の内は花鳥も、色香をあらはさゞりしに、春になりては鳥も囀り、花もさきて、愛憐すべき時なれどもと云心也。
山乎茂入而毛不取とは、これより愛憐すべきは春山なれども、春の山は諸木の枝葉しげりて、花を見ることの心にまかせねば、わけ入てもからずといへり。かるといふは、花を求むるを云古語也。櫻がり紅葉がりなど今もいふ是也。
草深執手母不見とは、是は上の對句なれば、詞を互にしてよめると見るべし。春山は諸木の枝葉しげきのみならず。草もふかく生さ(ず歟)れば、花さきてもわけ入がたければ、花の枝を手折もえぬよし也。春山の草木生じげればとて、わけ入がたきほどのことにも有べからねども、額田王、婦人の身にしては此情もさも有べきこと也。
秋山乃木葉乎見而者とは、これより秋山は春山よりあはれまされるよしをいへり。春山は草木枝葉しげき故に入がたきよしあれども、秋山には入がたきよしをもいはずして、はじめより、この葉を見てはとあり。心をつくべし。
(57)黄葉乎婆取而曾思奴布は、秋山は黄葉をこひしぬぶ心にまかせかるよし也。秋は葉おち草かれて山路のさまたげなく、春山にことなれば也。
青乎者置而曾歎久とは、青乎者とは、いまだ黄葉せぬ枝はさしおきてたをらぬよし也。歎久はかり入て見るとき、染殘したることをなげく也。
曾許之恨之秋山吾者とは、曾許とは、青乎者置而曾歎久と有句を指て其所といへり。之は助語辭也。恨之とは、秋山に恨る所はなけれども、かり入て見る時、いまだ染あへぬ所を恨みしと也。春山は花あれども、かることをえねば恨おほし。秋山は黄葉をかりてのうへに、そめざる枝を置てなげゝば、その所の恨みのみといひて、秋山をさ(わ歟?)れはとはいひ殘して、標題の競燐の判なれば、われは春山よりは秋山を憐む心なるべし。
歌の意は、始に、先、萬物冬ごもりして見聞に賞愛すべき景物もなきことを發句にこめて、春になりては、鳥も音を出し花も色を形はして、春山のおもしろく愛すべきことをいひたてられたれども、額田王婦人の身なれば、春山は草木しげゝれば、萬花ありてもわけ入て見ることも、手折ことも得ざれば、春の山には恨みおほき意をあらはし、中には、秋の山は草木もかれにつけば、千葉の黄葉するをこひしぬびて、わけ入てみやすく、手折やすきよしをよみて、秋の山は、春の山の恨みおほきとはことなることをのべたり。終りには、秋山に恨みたへてなきにはあらねども、春の山の恨みは、花あれども見ることをえず、手折こともえぬうらみ也。秋の山の恨みは、心の(58)まゝにかり入て、黄葉をみもし、手折もすれども、そめあへぬ枝あれば手をらずしてさしおくうらみにして、恨みすくなければ、秋やまを見(わ歟?)れはといひて、春山は(に歟?)まさりて、秋山を憐む心をいひ殘したるおもしろき歌也。ことに此判の心ばへ、俗情のをよばぬ風雅の情の至也。いかにとなれば、春山萬花の艶、秋山千葉の彩におとるべきにあらず。しかるを、秋山をわれはといひて、春山より秋山に心をよせられたるは、婦人の身なれば春山はかり得がたし。秋山はかり得やすきうへにて、恨みのおほきと、恨みのすくなきとをくらべて、花もみぢのおとり増りをいはずして、山路の難易に勝劣を判ぜられたるを、俗情の及ぶべき判の歌にあらんや。たゞうらむらくは、此長歌、置而曾歎久の下、五言の一句あらば詞やすかるべし。もし五言の一句脱失したるにや。前の三山御歌にも五言の一句たらざるに似たれば、脱失のうたがひをいひし也。すゑにも此たぐひあれば、もしは、長歌の一體如此なる歟。
冬木戌、この戌の字を諸本成に作て、此發句をふゆこなりと古來よみ來れり。然れ共、此詞春の冠辭とはみへても、なりといひては義解やすからず。諸家の説まち/\なれども、皆臆説ときこえて例證なし。僻案には成は戌の字をあやまれりとす。戌はまもるとも、もるともよめば、ふゆこもりとす。
春去來者。此四字を古本印本共に、はるさりくればとよめり。しかれども、去來の字は借訓の字とみへたれば、約言の訓傳にて、はるさりければとよむ也。
(59)山乎茂入而毛不取。此八字は印古兩本共に、やまをしみいりてもとらずとよめり。茂の字をしげみしげしなどよむは常のこと也。しげみをしみとのみよむ義やすからず。取の字は常にとるとのみよめども、此集にては、歌により、かりとよむ所おはし。此歌にては、とりとよむよりは、かりとよむかたまされり。
執手母不見。此五字を印古兩本共に、とりてもみへずとよめり。不所見とあらばみへずともよむべし。不見をみへずとはよみがたし。義もやすからず。よりて執手の二字義訓を用ゐて、五字をたをりてもみずとよむ也。
青乎者。此青の字を諸本、あをきとよむ。しかれども、あをきとよみては常言なれば、義訓を用ゐて、そめぬをばとはよむ。よりて上の黄葉の二字をも義訓にそめしとよむ。皆歌詞なれば也。しかれども、これは所好にしたがふべし。
或問云。取の字をとりとよむは常のこと也。かりとよむは常のこと也(此一句中誤寫ある歟?)。意おなじくば、むかしより訓きたれるにしたがひて、とりとよむかた増るべき歟。よろづのこと常にしたがふは道なり。常にことなるは道にあらざれば也。
答云。常にしたがふをよしとも(し歟?)、常にことなるをあしとするは、人道常行の教也。歌はしからず。歌は詞に工拙を辨じ、情に邪正を論じて、俗意をさけ俗情はなまゝ(俗情をはなるゝ歟?)をよしとす。五七五七七の句をつらねても、その詞俗言歟、基意俗情ならば、歌にはあらず。(60)三十一言をさへつらぬれば、歌とのみおもへる人は、俗言俗情をわくことさへかたかるべし。歌は歌の道有て、俚俗の詞をきらひ、風雅の情をこのむ。これ常の事也。本よりこと葉に善惡あらざれども、つゞけがらによりて工拙有也。されば、とるといふ詞あと(し歟?)きにあらず。かるといふ詞よきにあらず。歌により句によりて、とるといへば俗にちかく、かりといへば俗に遠きこともあり。すべて物により、ことによりて詞に用捨あり。器物につきては、とりといふことをかるといふべくもあらず。山につき草木につきては、とるといふことをかるとよむは歌の道の詞也。それも例なければいはず。櫻がり紅葉がりなどいひて、櫻とり紅葉とりとはいはず。自餘はおしてしるべし。さはいへども俗言も歌也。俗情も歌也とおもふ人は、好む所にしたがふべし。
 
額田王下2近江國1時作歌井戸王即和歌。
 
下2近江國1時 とは大和國より近江國志賀郡に遷都し給ふ時なり。歌の詞にて著明也。
井戸王は未詳。歌の詞によりてみれば、蓋額田王の妹なる歟。
味酒。三輪乃山。青丹吉。奈良能山乃。山際。伊隱萬代。道隈。伊積流萬代爾。委曲毛。見管行武雄。數々毛。見放武八萬雄。情無雲乃。隱障倍之也。
 
うまさけ。みわのやま。あをによし。ならのやまの。やまのかひ。いかへ(く歟?)るゝまて。みちのくま。 いさかるまてに。いくたひも。みつゝゆかんを。しは/\そ。見やらんやまを。こゝろなくく(61)もの。かくさふへしや。
 
味酒三輪とは、味酒は三輪の冠辭也。うまは物をほむる古語也。うましをはま・うましみち・うまへ(へ〔右○〕は人〔右○〕の誤寫?)などいふたぐひ是也。されば酒を稱美てうまざけとは云也。三輪の冠辭とするは、崇神天皇の御宇に活日といふ人を三輪大神を祭る掌酒としたまひし時、活日神酒を釀して、大神を祭り、其神酒を天皇に奉りし時、宴ありて、諸大夫の歌に、うまざけみわのとののとよめり。天皇も、うまざけみわのとのゝとよみ給へり。これ濫觴となりて、うまざけと云詞を三輪の冠辭とする也。神酒をすべてみわともいふ。これそのことのもと也。猶日本紀崇神天皇の卷をみてしるべし。其文其歌長ければしるさず。
青丹吉奈良とは、青丹吉は、平城の冠辭なり。此冠辭につきて古來説々おほし。皆丹の字になづみていへり。其説信用にたらず。丹は助語辭にて、たゞ青きいろをよしと稱する辭と見るべし。ならは、木の名の楢の冠辭也。地名の義にはよらず。楢の木は、その葉ひろく、見る色うるはしきを稱する義なり。一傳に音(青歟?)瓊と云義有。これはより所ある説なれども、いまだ證明の記を 見ざれば可不をいひがたし。先右の説を用べし。
山際伊隱萬代とは、山際は山と山との間を云。伊隱は伊は發語辭也。
道隈伊積流萬代爾とは、道隈とは、道のめぐり入てみへがたき所を云。伊積流は、伊は發語辭也。さかるは、へたゝるを云。
(62)歌の意は、大和國より近江國へ遷都の時故、景となるべき名殘を惜みて、三輪山なら山常にめでむかはれしを、今遷都より後はみること有まじきと、名殘をしむ心に、せめてかへりみらるゝかぎりは、いく度も見つゝしば/\も見やらんとするを、心もなく、雲の立かくして、みせぬをうらみて、無情の雲を有情りものゝやうにいひなして、かく雲のかくすべしや、かくすまじきことなるに、心もなきことゝ雲を恨みたる歌也。すべて歌はかくはかなきさまによむがあはれふかしと、先進もいひおかれし也。ことに女王の情、遷都の時、山にさへ名殘をゝしめる情さも有べき歌也。
味酒。此二字古本には、あぢさけ、又むまさけとよめり。あやまり也。印本に、うまた(さ歟?)かとよめり。これも誤也。日本紀の歌のかなに、宇麻佐開とあれば、古本印本兩訓ともに非なることをしるべし。仙覺注釋には日本紀を引ながら、男聲女聲と云こと有とて、味酒をうまさかといふべき也といへり。梵語はしらねばさにこそ有らめ。國語はしからず。上にいふときは、さかづき・さかな・さかゝめなどいへども、下によぶとき、何さかといふ語例なし。日本紀の歌に、宇麻佐階とも書たるを見てさいへるなるべし。階の字も日本紀のかなは、けに用ゐたるを仙覺しらざる故也。
山際。此二字を古本には、やまきはとよめり。印本には、山のはにとよめり。僻案には、道隈の對句なれば助語辭なしに、やまのかひとよむ。義はいづれにても異なるべからず。
伊積流。此三字を印古兩本共に、いつもるとよめり。僻案に隈のつもるといふこといかゞなれば、いさかるとよむ。積の字をさる(さかる歟?)とよむは、安積山をあさかやまとよむを證とす。
(63)委曲毛。此三字を、古本には、くはしくもとよめり。印本には、まくはしもとよめり。僻案に、くはしくもは俗言にちかし。まくはしもは發語辭をそへたれば俗言ならぬ(ね歟?)とも、まくはしくもといはた(さ歟?)れば、妙美の二字の古訓まくはしなれば、こと葉まぎらはし。よりて義訓を用ていくたびもとよむ。幾度は、しば/\といふ句の對にかなひ、且いかくる・いさかるなどの詞をうけていくたびの訓まさるべし。
見放武。此三字を古本にては、見はなたんとよめり。これは詞長し。印本にはみさけんとよめり。これは語例なし。よりてみやらんとよむ。
情無雲。此三字を印本には、こゝろなきくもとよめり。雲はもとより無情なるはそのを(此所不明。無情なるものを等歟?)心なき雲とよみては勿論也。無情の雲を有情のやうにいひなして、うらむる歌なれば、こゝろなく雲のとよむ也。此句の上にも、五言の一句あらまつ(ほ歟?)し。脱たる歟。是長歌の一體歟。三山御歌、判之歌、此歌等一句たらざるに似たり。よりてさいふ也
隱障倍之也。此句を、一説に、雲のかくしさへるをいふといへり。僻案はしからず。障の字につきてはさも見ゆれども、文字にて意をたすけたることは此集の字格也。障の字は備(借歟?)訓なるべし。ただかくすべしやとみるべし。すといふ一言をさふといひ、るといふ一言をち(ら歟?)ふといふ類、古語の通例也。
 
反歌。
 
(64)三輪山乎。然毛隱賀。雲谷裳。情有南武。可苦佐布倍思哉。
 
みわやまを。かくもかくすか。くもたにも。こゝろあらなむ。かくさふへしや。
 
然毛隱賀とは、今見る時に、雲の立かくすをうらみなげく意にいふ句也。この賀は歎辭也。疑辭の歟にはあらず。
雲谷裳とは、此谷はねがふ詞にて、俗に雲なりともなど云詞也。無情の雲を有情のやうにうらみて、せめて雲なりとも心あらなんと、はかなくなげく意なり。
歌の意は、三輪山をしば/\も見やらんとするに、雲の立かくすをうらみて、かくも雲の立かくすかなとなげきて、せめて雲なりとも心あらなん。かくすべしや。かくすは心なき雲かなと、うらみたる心をよめり。此反歌などは長歌に屬して、長歌の心をくり返しよみたる歌也。
然毛隱賀。此四字古本印本、(校訂者曰日、こゝしかもかく〔五字右○〕五字脱せるなるべし)すかとよみ來れり。貫之も、三輪山をしかもかくすか春霞とよめるは、此歌の詞をとりてよめるとみへたり。しかもとは、さもとおなじ。かくも・さも・かくしも・さしもなど皆おなじ詞にて、尚然を云詞也。いづれも義は異ならねども、歌により、句によりて用捨もすれば、此歌にては、しかもといふよりは、かくもとよむかたまさるべし。かくもかくすか雲といひて、に(此字誤寫歟?)かくさふべしやなどつゞけたる詞、古風の一體とみへたり。
有南武。此武字を諸本皆畝に作。一古本には武に作。武・畝二字相似たれば轉寫いづれをあやまり(65)たるにや。はかりがたし。然かれども、此集南武・奈武とかける例あまたあれば、一古本にしたふ也。
 
右二首歌山上憶良大夫類聚歌林曰遷都近江國時御三輪山御歌焉日本書紀曰六年丙寅春三月辛酉朔己卯遷都于近江。
 
御歌は御製歌なるべし。轉寫の時製の字を脱せるなるべし。僻案には、此歌御製歌にては有べからず。何者歌の體、歌の情、額田王の歌に疑ひなし。如比まで大和の名山等の名殘ををしみ給ふ御心にて、遷都をおぼしめし立給は、歌と叡慮と相違也。もし、百官百姓等遷都を願ふ旨ありて、叡慮をまげて遷都したまふことならば、此歌の情も相かなふべし。此遷都は天下百姓ねがはざりし遷都也。そのおもむきは日本紀にみへたり。注者日本紀を引て、遷都の年月はしるされたれども、歌の可不を辨へずして、類聚歌林をひけるのみは無益の注なるべし。
日本書紀卷第二十七【天智】天皇六年三月辛酉朔已卯遷都于近江是時天下百姓不願遷都諷諫者多童謡亦衆云云この文を見て辨へしるべし。
 
綜麻形乃。林始乃。狹野榛能。衣爾著成。目爾都久和我勢。
 
右一首歌今案不似和歌但舊本載于此故以猶載焉。
 
今案は注者の案也。此注者誰人ともしらねども、歌をしりたる人とはみへず。此歌を和歌に不似(66)といへるは、後世の唱和の格に異なる故にさいへること歟。但此歌の文字義訓としらざる故か。舊本に載于此歟故以猶載焉とかけるは、注者歌の意を得ざれども、舊本にしたがへるのみにて可不の辨なし。長歌の標題に井戸王即和歌とあれば、和歌にうたがひなし。和歌なる所を古來見付たる人もなきにや。此歌の文字の訓はなはだ心得ず。諸家の本皆おなじ。其訓には、
 
そまかたの。はやしはしめの。さのはきの。ころもにきなし。めにつくわかせ。
 
かくよめる歌ならば、まことに和歌に似ざるべし。古注者の時よりもかくよめるにや。おぼつかなし。仙覺注釋に、そまかたのといへれば、林のしげくして杣山などの形のごとく、はやし初むる心也といへり。一説に、木のしげき所は杣の入山のかたちに似たれば、杣形とは云也といへり。或説に、此歌の心は杣山の形の如く、はやしはしめし野邊の萩の衣をよく著なして、我せこの目につくとの心なるべしといへり。此等の説にては、和歌になるべき道理なし。唱歌にても、そまかたのはやしはしめなどつゞけては、中古以來之序歌にもなるべからず。そのうへ杣かたといふ古詞みへず。はやしはしめなどもけしからぬ詞也。此度の杣かたの説などをやより所にしけん。曾禰好忠の歌に、
なけやなけ蓬か杣の蛬過行秋はげにぞかなしき
とよめるを長能きゝて、狂惑のやつ也。蓬か杣と云事やはあるといへり。長能の難しかるべし。しかるに蓬が杣といふことをよめる歌を、撰集にも載られたれば、長能が難もむなしくなりにた(67)り。此歌はそまかたとよみては和歌になるまじければ、井戸王即和歌とかける此集の撰者の文むなしくなりにたり。やつがれは、此集の文字にしたがひて和歌とす。その僻案の義訓左のことし。
みわやまの。しけきかもとの。さぬはりの。きぬにつきなす。めにつくわかせ。
 
歌の意は、額田王の目に三輪山のつきてはなれぬは、かのさぬはりのきぬにつくがごとくに、こころ三輪山にしみて、わかせの目につくとよめるとみへたれば、和歌にかなへり。和我勢とは、額田王を尊て井戸王のよめるなり。勢とは君父尊長を稱する辭にて、相通じて兄なも夫をもせとよぶは尊びて也。井戸王はもし額田王の妹なるにや。しからば兄をさしてせといへる(ぼ?)婦姉?)をさしてわかせとよめる歟。妹をさしておとうとも(と歟?)いへることもあれば、通用の古語とみへたり。めにつくといはんとて、さぬはりの衣につく如に、目につくといへるは、婦人の歌の和にはさも有べきこと也。しかも、そのさぬはりを三輪山のしげきがもとのさぬはりとつゞけたる歌のさまもしかるべし。かくても和歌に似ずといはれば力をよばず。僻案むなしかるべし。
綜麻形乃。此四字をみわやまのとよむは、三翰山の名はもと、綜麻の三※[營の呂が糸]遣りて(て〔右○〕誤入歟?)たる形より名付たる由來、古記の證すくなからず。
土佐國風土記云。倭迹迹媛皇女爲2三輪大神婦1毎夜有2壯士1密來暁歸皇女思奇以2綜麻1貫針反2(及歟?)壯士之曉去1也以針貫v襴及旦也着v之唯有2三輪遺v器者1故時人稱爲2三輪村1社名亦然云々。綜麻の二字此記も一澄なるべし。よりて綜麻形の三字を三輪山の義にかけりとす。
(68)林始乃。此三字をしけきかもとのとよむ。是亦義訓也。林は木のしげきをいへば、林の字をしげきとよむべし。始ははじめなれば、もとゝもよむべし。よりてしげきがもとゝはよむ也。はやしはしめと云古語はみへす。しげきがもとゝいふ古語は、大祓祝詞にも彼方之繋木本乎と云古語あり。延喜卷第八祝詞式にみへたり。三輪山は神山なれば、古來木をきらねば、繋木がもとのさぬはりも理相かなへり。
狭野榛能。此四字をさぬはりとよむは古訓也。榛ははきともはりとも古來よむ也。字も蓁榛通也。さのはぎのとよみても義はおなじ。榛に二種あり。山榛あり。野榛あり。山榛は皮を以て衣服に染と云説あり。しかれどもいまだ皮にてそむる所見なし。衣服にすりつけるは野蓁なり。これを蓁摺衣と云也。葉をも摺つけ花をもすりつくる也。花をすりつけるを蓁の花椙(摺歟?)衣と云。むかしは草木の花も葉も皆すりつけたる也。しのぶずりと云も、しのぶと云草をすりつけたるを、奥州しのぶの郡より此すり出るなど傅會の説をなすことあり。山あゐの衣など云は、山藍にて紋をすりつけたるを云也。されば狹野榛とは、狹は發語辭也。物によりて小少の義を兼ていふことも有。只發語のみに云も有。この狹は小少の義をも兼、又狹野と云地名三輪にあれば、その(れ?)をも兼ねたるなるべし。
衣爾著成。此四字をきぬと(に歟?)つきなすとよむは、かの野蓁の衣につきたる如くにと云義なり。これは三輪山の額田王の目にしみつけるをいはん爲に、此詞をまうけたり。成の字をなすと(69)よみて、如くと云義に古語には用ゐたり。此集に玉藻成・鏡成・雲居奈須などといふたぐひ、皆、如の義也。成の字は借訓也。日本紀神代下卷に、さはへなすといふ古語に、如五月蝿と書て、如の字をなすとよめり。されば此歌の成も如の義也。此なすの詞、此集の歌によめる其例かぞふるにいとまあらず。此等の古語によりて、此歌を、僻案には、和歌にかなへりとするは、古注をもどくに似て短才愚智の身として、はゞかりなきにしもあらねども、いはずしては後の高才賢慮の批判もうけがたければ、後の嘲りをもかへり見ず書附侍る。
 
(71)萬葉集僻案抄卷二
 
天皇遊獵蒲生野時額田王作歌。
 
天皇は天智天皇也。遊獵は此獵は鳥獣をかり給ふにてはなし。案(藥歟?以下同)獵也。案獵は五月五日に百草をとるを案猟と云。本朝にては推古天皇の御宇はしめて紀に見えたり。蒲生野は近江國蒲生郡にある野也。
 
茜草指。武良前野遊。標野行。野守者不見哉。君之袖布流。
 
あかねさす。むらさきのかり。しめのかり。のもりはみすや。せこかそてふる。
 
茜草指とは、紫の冠辭也。紫草は根赤ければ、あか根さす紫とつゝける詞也。
紫野標野は、蒲生郡にある野の名也。
野守者不見哉とは、野守は蒲生野をまもる人を指。不見哉とは、とがめてうたがふ辭にて、見なるべしといふ詞のてにをは也。君とは、皇太子を指。天皇を指にあらず。此歌、天皇の爲に作る歌にあらず。皇太子の爲に作る歌なれば也。其證には、皇太子答御歌あり。よりて歌の意も、贈答の格にて解べし。
歌の意は、皇太子の紫野標野を、かなたこなたにかりあるき給ふさまを、野守は見ずやといひて(72)定めて、見奉りて、いやしき野守の目をおどろかすらんと、皇太子の御有さまのすぐれてうるはしきをほむる歌ときこへたり。古來此歌を、あかねさすむらさきのゆきしめのゆきのもりはみずやきみがそでふるとよめり。此歌みこの(?)たゞこと歌とみれば、さよみてもきこゆれども、皇皇太子のうへ太子の答御歌によれば、たゞごと歌とはみへず。よりて僻案には、此歌は、かり詞になずらへて、皇太子のうへをそへて詠る歌とす。故に行遊二字共にかりとよみ、君の字をせことよむ。これ皆かりの時の詞なれば也。されば紫野かり、標野かりも、かりは、妹がりなどの、かりになずらへ、紫野標野をあまたの供奉の宮女になずらへ、野守はその宮女をあづかり守る人になずらへ、皇太子の袖ふりはへたまふさまをかり子のふるまひになずらへたりとす。そのそへ歌の意は、御狩場にて皇太子のあまたの宮女に心をかけて、此方彼方にたはふれたまうるさまを、かの宮女等をまもる人見ずやあらぬと、下になげく意を含める歌と見へたり。額田王は姫王にて、皇太子の妾女なれば此歌有歟。
茜草指。此發句を一説にみかどをば日にたとへ奉れば、みゆきなれるをあかねさすと云也といへり。穿ちたる説とすべし。發句はすべて第二句の爲におきて、第三句までにはわたらず。右の説にては、此發句第三句の標野と云までにもかゝる也。
紫野標野一説に、紫野は山城なり。標野は大和也。かの御獵の間、紫野標野をもみゆきめぐり給ふといへり。此説甚非也。題に遊獵于蒲生野時とあれば、山城の紫野ならず。大和の標野ならざ(73)ること明白也。
或問云。或説に此紫野標野ともに名所にあらず。此の歌天智天皇の蒲生野に、御かりの時の歌なれば、野をほめて紫野とはよめり。名所の紫野にあらず。標野も名所にあらず。此蒲生野を君の御かり野にしめおける心なりといへり。しかるべしや。
答云。しかるべからず。紫といひて野をほむる詞となる證もなし。義もなし。此の説は此遊獵を鳥かり獣かりと心得、遠く藥獵といふことをしらざるより出來たる説なるべし。紫は近江の名産也。近江の紫すぐれたるきこへあるも、此歌並に此集第三卷の歌にも、つくま野に勢(勢〔右○〕は生ふる〔三字右○〕の誤寫歟?)紫などよめるにてしるべし。蒲生野に好紫生る故、紫野の名付るなるべし。標野の名義そのことのもとはしらねども、禁野などいふ題にても有べし。大江匡房卿の歌にも、蒲生野のしめのの原の女郎花野守に見すな妹が袖ふり。とよめるは、此歌を本歌とせられたるとみへたり。標野を蒲生野のしめのとよめるしらるべし。八雲御抄にも、紫野標野等を近江に載させ給へり。
又問云。野守は見ずやと云は、或る説に、此野遊びありく女どもの體は見るやとよめり。行幸供奉の女ども也といへり。此説は非歟。
答云非也。額田王、遊ありく女どもを指ていかでか君と云べき。此君の皇太子を指ずして、誰をか指と云べき。皇太子答御歌あることをもわきまへざる説也。
 
皇太子答御歌。 明日香宮御宇天皇。
 
(74)皇太子は天智天皇同母弟天武天皇也。
明日香宮御字天皇八字は古注也。印本大字にかけるは不可也。古本には字の下に、謚曰天武天皇云字あり。又なき本も有。前の中大兄の古注にも、近江宮御宇天皇とのみ注したれば、謚なき本しかるべし。謚は明日香宮御宇天皇代とある下の注にあれば也。
 
紫草能。爾保敝類妹乎。爾苦久有者。人嬬故爾。吾戀目八方。
むらさきの。にはへるつまを。にくからは。ひとつまからに。わけからめやも。
 
紫草能爾保敞類妹とは、前の歌に紫野かりと云詞をうけて、百草の中に紫を賞翫して、かり給ふよしを答へ給へる也。爾保敞類妹とは、紫草のうるはしきを稱美して云詞也。後世女を稱美して紫に比するは、此歌よりをこれり。紫草は官服の染草染色の宕(最歟?)上ともすれば也。
爾苦久有者とは、にくむ心あらば也。此句は尾句の八方とあるてにをはにてしるべし。畢竟にお(ほ?この種の誤一々正さず)へるつまのにくまれぬよし也。
人妻故爾とは、人妻は人の正妻と定りたるをかぎりて云にはあらず。古歌には、吾が妻にあらざる女を人妻とも、亦人の子ともよみならはせり。人とはひろく他をさしていふ也。他國を人のくにと云ふがごとし。故爾とは、俗になるにと云かごとく、人妻なるに也。故の字は借訓なり。濁りよむべし。ゆゑにとよみて、からと云同義にこも用ゆる也。
御歌の意は、藥かりなれば、百草をかり給ふ中に、わけて紫草を愛給ふは、にほへるつまなれば(75)あかずめでゝ、こなたかなたに求め給ふよし也。もし、にほへるつまをめづる心なく、かへりてにくむ心あらば、紫草一もとのつまの爲に、かくさく(さく〔二字右○〕はここ〔二字右○〕の誤舍歟?)かしことわけかり※[一字不明]めんやと、とがめたまへるこたへ歌也。これは藥かりのたゞごと歌の意也。なずらへ歌の意は、紫草の匂へるつまとは、宮女の容顔うるはしきを、紫草のつまになずらへ、彼宮女は天皇供奉の宮女なれば、他妻として紫草へのつまになずらへ、皇太子みづから求めたまふよしを、雜草をわけて刈取になずらへて、容姿うるはしきみやびめをにくむべき樣有べきにあらねば、われにはしたがはぬ多妹なれども、見ましほしさにわけ入てかり給ふと也。
もし、うるはしき女をもめでずして、これをにくむ心あらば、いかでかかく戀求めんや。もと愛べきは愛、にくむべきはにくむべき情を以て、こたへたまふなずらへ歌と見へたり。よりて妹の字をつまとよみ、故の字をからとよみ、吾の字をわけとよみ、戀の字をからとよむは、なずらへ歌の御答とみるが故也。もし此歌たゞごと歌ならば、紫のにほへるつまをにくからばひとづまゆゑにわれこひめやも。とよみても義はたかふべからず。僻案のなずらへ歌とする訓は、此集全篇にわたりて古訓の例をしり、天武天皇の御製の一體をもしる人にあらずば、可不はわきまへかたかるべし。
紫草。此の二字を古本にてはむらさきとよめり。印本にてはあきはぎとよめり。今古本の訓にしたがふ。
(76)爾苦久有者。此の五字をニクヽアラハとかなをつけても、にくからばとよむは約言の訓傳也。義は異ならず。
或問云。紫草二字むらさきとよまんよりは、印本にあきはぎとよめるかたまさるべき歟。何者、むらさきとよまば、紫の一字にてたりぬべし。草の字あまれるに似たり。あきはぎとよむは義訓にて、紫草の二字あたらずや。非歟。
答云非也。此遊猟は五月五日に限りたる事也。秋はぎも時節相違也。そのうへ、紫の字のみをいふ時は、紫の一字を用ゐ、草を云ときは紫草の二字を用る例のこと也。しかのみならず、前の歌に秋はぎの詞みへねば、贈答の例にもたがへり。かた/\あきはぎの訓は誤也。前の茜草二字の訓にてしるべし。あかねは茜の一字にてもたりぬべし。しかるを、これも茜草とかけるは、此遊猟藥獵なれば、撰者草の字を加へて意をたすけたる也。此集の字格也。
紀曰。七年丁卯夏五月五日縱獵於蒲生野于時天皇弟諸王内臣及群臣皆悉從焉。
紀は、日本書紀卷第二十七也。天皇は天智天皇、獵は藥獵なる故に、五月五日とは書給へり。此藥獵の事は、推古天皇十九年夏五月五日、兎田野に藥獵ありし事、日本紀卷第二十二にみへたり。これ濫觴なるべし。推古天皇二十年二十二年、右合せて三度まで紀にみへたり。女帝の御獵には、鳥獣をかり給ふにあらずして、百草をかり給ふは、似合敷御かりなるべし。天智天皇の藥獵も、七年八年兩年つゞきて紀にみへたり。推古帝の十九年にはじまりて、天智天皇まで以上藥獵五度なり。
(77)大皇弟。此大の字を印本天に作るは誤也。日本紀正本大也。日本紀に東宮大皇弟ともかける所あれば、大當作太なり。
或間云。藥獵と云も獣の獵也。百草を獵ことにてはなしといふ説あり。非歟。
答云非也。五月五日藥獵は百草を※[門/死]する事也。釋日本紀にも、荊楚歳時記をひけり。かの歳時記を見ても百(百〔右○〕の下一二字不明)をしるべし。
 
明日香清御原宮御宇天皇代。【天渟中原瀛眞人・天皇謚曰天武天皇】
 
明日香清御原宮は、古本朱書傍注に、大和國高市郡今島宮正東地是也とあり。
日本紀卷第二十八云。【天武天皇】元年九月己丑朔丙申車駕還2宿伊勢桑名1丁酉宿2鈴鹿1戊戌宿2阿閉1己亥宿2名張1庚子詣2于倭1而御2島宮1癸卯自島宮移岡本宮是歳營2宮室於岡本宮南1即冬遷以居是謂2飛鳥浄御原宮1。
天渟中原瀛眞人は、天武天皇の諱也。幼ときは大海人皇子と申せし也。
 
十市皇女参2赴於伊勢神宮1時見2波多横山巌1吹黄刀自作歌。
 
十市皇女は天武天皇の皇女、母は額田姫王也。參赴於伊勢神宮時は、天武天皇四年春二月十市皇女と阿閇皇女と參給ふこと、日本紀に見へたり。しかるに此集には、十市皇女のみ載せたるは、吹黄刀自は十市皇女に從へる女にて、此歌も十市皇女の爲めによめるなるべし。よりて阿倍皇女は書載ざるとみへたり。
(78)波多横山は、伊勢國壹志郡に在山の名也。
 
河上乃。湯都磐村二。草武左受。常丹毛異(冀歟?)名。常處女煮手。
 
かはつらの。ゆついはむらに。くさむさす。つなにもかもな。つなをとめにて
 
河上とは、湯都磐村といはん爲の發句とみるべし。此集卷第四にも、吹黄刀自の歌に、河上の伊都藻之花の何時何時とよめり。日本紀神代上に天安河邊所在五百箇磐村といふ古語もあれば、これによれる歟。
湯都磐村とは、湯都は伊頭とも、宇都とも言通じ用ひて、物をほむる詞也。今は巖をほめて云。磐村は巖のあまた有を云古語也。草むら、木むら、竹むらの類也。
草武左受とは、草の生ざるを云。苔の生を苔むすといふにてもしるべし。此句の意は、巖のすがたかはらず、物にけがれぬをほむる詞なるべし。草は榮枯常ならねば、榮枯する草も生ざる巖の、常磐なるを稱美する義也。
歌の意は、波多横山の巖草もむさず、けがれぬすがたにて、常にたてるをめでゝ、此のいはほのごとくに、此十市皇女も、御歌(命歟?)長く、いつまでもすがたかはらずましまさなんことをねがへる意に、常にもがもな常をとめにて。とはよめるなるべし。日本紀のおもむき、十市皇女は齋宮に立給ふべきみ心よせも、あるさまにみへたり。よりて吹黄刀自の歌もその意ありて、よめる意の歌と見へたり。
(79)河上。此二字を古本印本共に、かはかみとよめり。しかれども、いづれの河とも、名をあらはさずしては、河上といふべくもあらず。上の字はほとりの義に用る字なれば、かはのへともよむべし。日本紀には河邊と書ても、河上と書いても、かは/\(へ歟?)とよめり。上の字をかみとよめば、下に對して、水かみにかぎり、前後左右にわたらず、よりて今かはつらとよみて、ほとりの義に通じ用ゆ。
湯都磐村。此四字を古本印本共に、ゆつはのむらとよめり。よりて村の名と心得たがへる説あまたあり。壬生二位は、河上のゆつはの村の薄もみち下草かけて露やそむらん。とよまれたるは、けしからぬ誤也。標題に巖の字有をも、先賢見られざるにや。磐石を湯都磐村といふ古語をしられざる故なるべし。湯都磐村は古語也。古き祝詞の中にもあまたあり。御門祭祝詞に、櫛磐〓豐磐〓命【登】御名【乎】由事【波】四方内外御門【爾】如2湯津磐村1【久】塞坐【※[氏/一]】云云。又道饗祭祝詞にも、天八阿衢【爾】湯津磐村之知【久】塞坐皇神等之前申久云去。又神甞祭祝詞にも、天皇我御命【爾】坐御壽【乎】手長【乃】御壽【止】湯津如磐村常磐堅磐【爾】云云。此外祈年祭祝詞六月十二月月次祝詞にも此古語あり。共に延喜式第八祝詞の卷にみへたり。
常丹毛翼名常處女煮手。此句の常の字を、古本印本共に、上はつねとよみ、下はとことよめり。僻案に、一首の中同字を上下に出してよみかふべくもおぼへず。上下同訓なるべし。上をつねとよまば、下もつねとよむべし。今つなとよむは、五音通音のみならず、磐にはつなと云詞、古歌のより所あれば也。且鎌倉右大臣の歌に、世の中は常にもかもなとよみたまへるは、もしつなに(80)もかもなにや、下句につなてかなしもとあれば、此歌の詞にもとづき給へるなるべし。
 
吹黄刀自未詳也。但紀曰。天皇四年乙亥春二月乙亥朔丁亥十市皇女阿閇皇女參赴於伊勢神宮。
 
吹黄刀自の吹黄は名なるべし。刀自は老女の稱也。未詳とは吹黄の傳みへざる也。古註者の時さへしかり。今猶考ふる所なし。
紀は日本書紀卷第二十九也。天皇四年は、天武天皇四年也。十市皇女は、天武天皇の皇女也。阿閇皇女は、天智天皇の皇女也。後元明天皇と申是也.阿閇阿倍通じ用ゆ。兩皇女の事、日本紀にみへたり。
日本書紀卷第二十七云。【天智天皇】七年云云。有2遠智娘1弟曰2姪娘1生2御名部與阿倍皇女1及(テ)v有2天下1居2藤原宮1後移2都于乃樂1云云。
同紀卷第二十九【天武天皇】云云。天皇初娶2鏡王女額田姫王1生2十市皇女1云云。
同七年云云。夏四月丁亥欲v幸2齋宮1卜之癸巳食v卜仍取2平旦時1警蹕既動百寮成v列乘輿命v蓋以未v及2出行1十市皇女卒然病撥薨2於宮中1。由此鹵簿既停不v得2幸行1遂不v祭2神祇1矣云云庚子葬十市皇女於赤穂天皇臨之降恩以發哀云云。
 
麻績王統於伊勢國伊良虞島之時人哀傷作歌。
 
麻績は王の名也。二字ををうみとよまずして、をみと中略してよむは略語の訓傳あり。績を印本には續に作、日本紀令式等も續(績歟?)の 奉るべき所に、皆續の字をかけるは轉寫訛なるべし。(81)もし古來續の字をうむと用ひたる歟。糸をつ(む脱歟?)くをうむといへば、續の字にても義は通ども、一古本績の字あれば、それにしたがふ。下皆倣此。
 
打麻乎。麻績王。白水郎有哉。射等籠何四間乃。珠藻苅麻須。
 
うつのをゝ。をみのおほきみ。あまなるや。いらこかしまの。たまもかります。
 
打麻乎は、麻績の冠辭也。
白水郎有哉は、あまにてあるやと、あやしみうたがふ詞也。白水郎は、海士也。白水は、波の色白ければ義を取てかけり。
射等籠は、麻績王のながされし島の名也。
殊藻苅麻須は、珠は物をほむる辭也。此歌にては、あながち、藻をほむべき義にあらねども、たゞ藻とのみいへば俗言也。珠藻といへば歌詞になる也。俗言と歌詞との差別をしるべし。苅麻須は藻をかりて席として、それに坐と云義にはあらず。藻をかると云までの詞也。島人、王をあがめてかりますと詠めり。かり給ふなどいふにおなじ。
歌の意は、麻績王はいまだ臣下の列にさへ下り給はず。王とこそ聞へしに、今島のいとなみに藻をかりますをわ(見歟?)れば、あまのしわざをしたまへる麻績王は海士にてあるやと、うたがひて、あまにてはなく、王なるものをと、あはれみいためる意也。
打麻乎。此の三字を、古本印本ともに、うつあさをとよめり。然れども上に云ごとく、一首の中同(82)字を上下訓を異にする事しかるべからず。そのうへ此集第十二卷の歌に、打麻懸の三字をうつをかけとよみたれば、うつをゝと四言一句にもよむべけれど、うつの何と、のゝ助語辭を加へたる語例あまたあれば、今うつのををと五言によむ也。又一古本にはうてるをゝとよめり。麻を打といふことはあれども、うてるをを、うみとつゞくるは、ことはり過て、かへりてことたゝざるに似たり、又一本には、うめるをゝとよめり。打の字をうめるとよむべき義もなく、證もなし、只打の字は借訓にて、打酒(?)打※[人偏+考](栲?)の類としるべし。發語辭のみに用ひて、稱美の意なきときは、うつとはいはず。たゞうちと云。打きく、打見る、打出などの類也。
有哉。これを古本なれやとよみ來れり。しかれども語義たがへり。よりて今なるやとよむ。中古以來の歌、なるやとよむべき所を皆なれやとよみて、なるやとよめるはみへざれば、近代の歌ます/\しかり。しかれども有哉の二字、なれやとよむに限るべき證もなし。歌によりてなるやとも、なれやともよむべきなり。先覺の説も此集にうとく、古語にも委しからざる故にや。此集の本文にはよらずして、かなつけを證據とせられたる事、おほければ信用しがたきことおほし。
 
麻績王聞之感傷和歌。
 
和歌はこたへ歌也。やまとうたとよむべからず。此焦より後の集は故實をうしなひて、たゞ歌とのみ云べき所にも、やまとうたといひて、和歌の二字を用ひたるは、此集とことなる也。
 
空蝉之。命乎惜美。浪爾研濕。伊良虞能島之。玉藻苅食。
 
(83)うつせみの、いのちををしみ、なみにぬれ。いらこのしまの。たまもからしき。
 
空蝉之命とは、此空蝉も上に見へたる、三山の歌の虚蝉と同じく借訓にて、蟲の名にあらず。現在の身をうつし身といふを、うつせみとも、助語の音を通じていへり。うつせみとも云也。
玉藻苅食とは、玉藻かりきと云詞也。らしは約言り也。かりけりといふに同じ。
歌の意は、王配流の身なれば、ながらへてもかひなき身を、すてもはてずして、はかなく浪にぬれて、いらこが島のあまのあまのしわざとひとしく、藻を苅て命をつなぐよしを、みづからはぢいたむ意のこたへ也。
惜美。此二字を印本には、情美に作るは誤也。今古本にしたがふ。
所濕。此二字を印本にはひてとよめり。古本にはひちとよめり。又一本にはぬれとよめり。三訓共に義は異ならねども、所の字あればぬれとよむべし。濕の一字なく(ら?)ばぬるとよまれて、ぬれとはよみがたければ也。
苅食。此二字を印本にては、かりますとよめり。古本にては、かりはむ、かりしく兩訓也。顯眼(昭歟?)はかりしくを用ひて、かりしくとは、かりし也とて、く文字はたすけ詞也といへり。しかれども、しくといひて、此のくの字たすけ辭とはいひがたし。今からしきとよむは、語例も音例もあれば也。
 
右案。日本紀曰天皇四年乙亥夏四月戊戌朔乙卯三品麻績王有v罪流2于因幡1一子流2伊豆島1一子流2血(84)鹿島1也是云v配2于伊勢國伊良虞1者若疑後人縁歌辭而誤記乎。
 
日本紀は卷第二十九也。天皇は天武天皇也。乙卯乙當v作v辛。日本紀正本作辛卯也。三品は當v作2三位1。日本紀正本作三位也。
血鹿島は肥前國也。後人縁歌辭而誤乎とは古註者の案也。麻績王の配所を日本紀に因幡と有を證として、此集に伊勢國としるせるをうたがへる、まことに此麻績王、配所を伊勢國としるせるにはしたがひがたし。一古本には、此配所の傍註に、常陸國風土記を引て云、常陸國風土紀云行方郡經此往南十里板來村近※[さんずい+(戀の心を田)]2海濱1安置2驛家1此謂2板來之驛1其西榎木成林飛鳥清御原天皇之世遣流麻績王之居處其海燒鹽藻海松白貝辛螺蛤多生云云とあり。此風土記によれば、麻績王の配流の国は常陸也。此集にては伊勢國とあり。日本紀は因幡也。三書おなじからず。しかれども麻績王の配流舍人親王の父帝の御世の事なれば、時代いくばくへだゝれるにあらず。されば親王配流の国を誤り給ふべきことあらねば、因幡國正説なるべし。もしうたがふらくは、麻績王の配所を後にうつしかへられたる歟。それにしても伊勢常陸兩國うたがひ殘れり。もと日本紀に一子流伊豆島とある。伊豆と伊勢と轉寫偽りて、王と王の子と混雜したる歟。猶後に詳にすべし。
 
天皇御製歌。
 
天皇は天武天皇也。
 
三吉野之。耳我嶺爾。時無曾。雪者落家留。間無曾。雨者零計類。其雪乃。時無如。(85)其雨乃。間無如。隈毛不落。思乍叙來。其山道乎。
 
みよしのゝ。みゝかのみねに。ときなくそ。ゆきはふりける。ひまなくそ。あめはふりける。そのゆきの。ときなきかことく。そのあめの。ひまなきかこと。くまもおちす。おもひつゝそこし。そのやまみちを。
 
時無曾雪者落家流とは、雪の止時なくふる(と脱歟?)云詞にはあらず。雪のふるべき時にあらねどもふるを云也。耳我嶺高き故、いつともわかず雪のふる心也。
隈毛不落とは、くまは入まがりてかくれたる所を云。不落は殘さずといはんかもし(が如し歟?)前の軍王の歌に寢夜不落とよめると同じ。
歌の意は、吉野山をすぐれたる山ときこしめしたれば、はるかにいたり給ふ道のくま/\も殘さず、御心にかけておぼしめすことは、かの山の雨雪の間斷なくふる如くに、しばらくもすてわすれ給はず思つゞけて、その山道をいたり給ひしよし也。
此御製歌は、句とゝのひ、體そなはりて、首尾も滯る所なく、長歌の本とすべくすぐれたる御歌也。すべて此天皇は長歌短歌一體をおこし給へる絶妙の御製あれども、古來此集の歌の是非を見わくる人もなかりしにや。天智天皇をのみすぐれたることにいひ傳へたれども、此天皇の御製は、天智天皇の御製よりはおほくまされり。
僻案に、此御製歌は、徒に吉野山の景氣風色をめでゝしたひ給へるには有べからず。別におもひ(86)めぐらし給ふこと有を、山の雨雪に詞をよせて、表裏を具給ふ御歌なるべし。思乍叙來の一句に趣意顯はれたれば、此御製は安まろのはかりごとにて、東宮を辭し給ひ、出家し給ひて、はじめて吉野山に入たまへる時の御歌とみへたり。故に山道につきて、隈もおちずなど、天下の治亂をも心にかけたまへるなるべし。然れども此御製を天皇の御代の歌に載せたれば、此集撰者の意は僻案の如くならず。只吉野の山を愛給へるまでの歌とおもへるなるべし。もししかれば思乍叙來の字はこひとよむべし。おもひつゝとあれば、何ことをおもひ給へることゝもしりがたければ也。次の短歌も別に御こゝろ有御製とみへたり。天皇東宮を空辭し給ひて、吉野に入たまひしことは、日本紀に見へたり。
 
日本書紀卷第二十七云。【天智天皇】十年九月天皇寢疾不豫云云。冬十月甲子朔庚辰天皇疾病彌留勅喚2東宮1引2臥内1詔曰朕疾甚以2後事1屬汝云云於是再拜稱疾固辭不受由請奉洪業付屬大后令大友皇子奉宣諸政臣請願奉2爲天皇1出家脩道天皇許焉東宮起而再拜使向於内裏佛殿之南踞坐胡床剃除鬢髪爲2沙門1於是天皇遣次田生磐送袈裟壬午東宮見天皇請之吉野脩行佛道天皇許焉東宮即入於吉野大臣等侍送至兎道而還。
同紀卷第二十八云。【天武天皇】天命開別天皇六年立爲東宮十年冬十月庚辰天皇臥病以痛之甚矣於是遣2蘇賀臣安麻侶1召2東宮1引入大殿時安摩侶素東宮所好密領東宮曰有意而言矣東宮於是疑有隱謀而慎之天皇勅東宮授鴻業乃辭讓之曰臣之不幸元多病何能保社稷願陛下擧天下皇后仍立大友皇子宜爲儲君(87)臣今日出家爲陛下欲修功徳天皇聽之即日出家法服因以收私兵器悉納於司壬午入吉野宮時左大臣蘇賀赤兄臣右大臣中臣金連及大納言蘇賀果安臣等送之自免道返或曰虎著翼放之是夕御島宮癸未至吉野而居之是時聚諸舍人謂之曰我今入道修行故隨欲脩道者留之若仕欲成名者還仕於司然無退者更※[耿/衣]舍人而詔如前是以舍人等半留半退。
 
耳我嶺。此三字古本印本ともに、みゝかのみねとよめり。然れども耳我の山嶺此御製の外所見なし。もし我は梨のあやまれる歟。字形も相似たり。且日本紀延喜式等には、耳成と云ひたれば、我と成とも字形似たり。轉寫のあやまりいづれともはかりがたし。みゝかの訓うたがひなきにあらねば、しかいふ也。しかれども古記所見にしたがふべし。
思乍叙來。此四字を古本印本ともに、おもひつゝそくるとよめり。さよみては此御歌は山路にての御歌となる也。結句に其山道乎とあれば、山路の間の御製にてはなく、いたり給ひて後の御製とみへたれば、來の字をこしとはよむ也。猶思來の二字の訓しる人はしるべし。
 
或本歌。
 
或本とは、此集の異本と見るべし。此三字は此集撰者の詞にあらず。古注者の詞也。
 
三芳野之。耳我山爾。時自久曾。雪者落等言。無間曾。雨者落等言。共(其歟?)雪不時如。其雨無間如。隈毛不堕。思乍叙來。其山道乎。
 
みよしのゝ。みゝかのやまに。ときしくそ。ゆきはふるて(ち?)ふ。ひまなくそ。あめはふるちふ。(88)そのゆきの。ときならぬこと。も(そ歟?)のあめの。ひまなきかこと。くまもおちす。おもひつゝこし。そのやまみちを。
 
耳我山。定本の歌には、耳我嶺とあり。されば、山の名と嶺の名とのたがひ也。外に證記なければいづれを可と爲べくもあらねど、嶺はことわりにはかなへり。いかにとなれば、高山は嶺と(?)陰晴ことなるものなれば也。
時自久曾。此の一句定本の歌にては、時なくぞといへり。詞異なれども義はおなじ。一説に、時自久は時しけくと云也。といへるは誤也。時自久は古語にて、いづれの時もひとしきをいふ詞也。日本紀に非時香菓といへるにてしるべし。此集第三赤人不盡山を詠歌に、時自久曾雪者落家留と詠るも、此御製の詞にもとづける歟。
雪者落等言。此一句定本にては、雪者落家留とあり。句は少しかはれども、畢竟留(雨歟?)雪に意有にあらず。其雪の如く、其の雨の如くといはん爲に、また(う歟?)けられたる也。しかれども、定本と異本との句を論ぜば、異本の落等言と有はことはりにかなふべし。いかにとなれば、定本の落家留の句にては、天皇此山に入給ふ時、雪もふり、雨もふりけるときこへたり。異本の句にては、此時雨雪のふるにはあらず。古來ふるといひ傳へたる、その雪、其雨の如くとたとへにかりて詠給ふと聞へたれば、天皇はじめて吉野に入たまふ時の御歌とみる證ともなれば也。
等言。此二字を印本古本共に、といふとよめり。今ちふとよむは約言、古訓の傳也。義はことな(89)らず。中古以來てふとよむ詞也。
右句句相摸(換?)因此重載焉。
これは古注者の文也。此集撰者の自注にはあらず。句々同じからざる故に、同歌なれども載たると云注也。只恨らくは、句々の異固(同歟?)いづれか是、いづれ非と辨へざる也。定本の句にても、異本の句にても、御製歌の意はことならず。
 
天皇幸于吉野宮時御製歌。
 
天皇は天武天皇也。吉野宮は此天皇初て此宮を造給ふにあらず。上古より吉野山に離宮ありと見へて、應神天皇・雄略天皇も吉野宮に幸したまひし也。古事記日本紀等に見へたり。此集第六卷神龜帝芳野離宮に幸の時、山部宿禰赤人應詔作歌に、神代より芳野の宮にありかよひ。とよめるをみてもしるべし。
 
淑人乃。良跡吉見而。好常言師。芳野吉見與。良人四來三。
 
よきひとの。よしとよくみて、よしといひし。よしのよくみよ。よしとよくみつ。
 
淑人乃とは、上古の人を稱て、よき人とのたまへり。
芳野吉見與とは、あまねく衆人に教へ給ふ詞也。御歌の意は、上古の賢人此地をよし野と名付しは、よく見たるもの也。まことによしと名におふほどの地なれば、今も猶此吉野をよく見よと、諸人に示し給ふ也。結句に良人四來三とは、よしとよくみたることを二たびかへして、讃美給ふ(90)也。此短歌は重語重句の一體の本なるべし。
僻案に、此御製歌は、吉野の住境を讃美給ふのみには有べからず。ふかきむねある大御歌なるべし。標題にも前の御製歌は、幸の時ともなく、天皇御製歌ともかゝざるは、東宮を辭給ひて、はじめて吉野に入給へる時の御歌故なるべし。此御製歌は、幸の時とあれば、天下をしろしめされての御製歌なればなるべし。されば、かの安摩侶が有意而言と申せしより、一たび東宮を辭給ひて此吉野山にのがれたまひし故に、終に天下をしろしめすにいたれば、此御製歌有歟。もししからば淑人とは安摩侶を指て、山の名の濫觴にことよせて、表裏を具給へる御歌なるべし。よくみよと教へ給へるも、皇后をはじめ諸皇子に示し給ふ御意有べし。
淑人乃。此發句を、清輔奥義抄にも、濱成の和歌式を用ゐてみよし野をとあり。淑人の三字を、濱成、みよしのをとはいかでよむべき。蓋濱成の所見の書には、第一句此集と異なるを、式には入たるなるべし。此集印古兩本共に、淑人の三字をよきひとのとよめり。今此の訓にしたがふは、裏には安摩侶を指て詠給へる發句と見るか故也。もししからずして、裏の意なき御製歌ならば、第一句淑人の三字をよくひとのとよみ、第五句の良人四來三の五字をも、よくひとよくみつとよむべし。
良人四來三。此五字を印古兩本共に、よきひとよきみとよみ來れり。しかれども、よきみと云句意釋やすからず。かの奥義抄には、此結句をよきとよくみよを用ゐたり。これは句意釋やすけれ(91)ども、三の一字をみよとはよみがたし。よりて今(よ歟?)しとよくみつとよみて、二度よしとよくみたることを美給ふ結句とす。猶よきひとよくみつともよむべし。
 
紀曰八年巳卯五月庚辰朔甲申幸于吉野宮。
 
紀は、日本書紀卷第二十九也。天皇即位の後、吉野宮に幸の事、はじめて八年の紀にみへたるを證として注せり。此幸の時、吉野宮にて皇后及諸皇子と倶に盟をなし給ふ事あり。此時の御製歌なるべし。
 
藤原宮御宇天皇【高天原廣野姫天皇元年丁亥十一年讓位輕太子尊號曰太上天皇】
 
藤原宮に、古本朱書傍注に、大和國高市郡也。高天原大和國也とあり。高天原以下の細字は古注の文也。太上天皇の尊號、此持統天皇より始まれり。
 
天皇御製歌。
 
天皇は持統天皇也。皇を印本作v良は誤也。
持統天皇は、少名※[盧+鳥]野讃良皇女と也(云?)。天智天皇第二女也。母は遠智娘也。初天武天皇の妃となり給ひて、天皇をたすけ給ひて、天下を定めたまひし也。ことは日本紀にみへたり。
 
春過而。夏來良之。白妙能。衣乾有。天之香來山。
 
はるすきて。なつきにけ(たる歟?)らし。しろたへの。ころもほしたる。あまのかこやま。
 
春過而は、夏來の序也。此集卷第十九にも、春過而夏來向者とよみ、又弟十卷に、寒過暖來良思(92)などよめり。是皆古歌の一格也。中古以來は此格をはなれてよめり。古薪の句格時代の風體をわきまへしらざれば、此御製のすぐれたる所もしりがたかるべし。
白妙能衣乾有とは、白妙は衣の冠辭也。夏は衣をほすならひ常のことなれば、天皇此香山に幸の時、白妙の衣のほしたるを見そなはし給ふ當然の御製也。香山の景物もおほかるべき中に、衣乾有のみ叡慮にかゝるも女帝の御製なれば、衣服によりて詠吟なし給ふ情の至なるべし。御歌の意は、衣のほしたるを見そしなはし給ふより、一首全體衣服にて仕立給ふる也。されば春と云も、衣ははるといふこと有に通じ、夏來も、夏の着たるならしといふに通じて、天香山は、神代の由來も有神山なれば、白妙の衣のほしたるは、夏の着たるにて有らしと、時節のうつりかはれるを相かねて詠給へる也。此御製に本づきて、後世春のきるかすみの衣なども詠るなるべし。
夏來良之。此四字を古本印本ともに、なつきにけらしとよみたり。さはよまれぬ文字也。來の一字をきにとまではよむべし、けとよむべき字なし。又來良之の三字を、けらしとはよまるれども、さよみては、きにとよむべき二言の字なし。此集の末に十字十一字に出たるを、三十一言の歌によむは格別の傳ありて略字を用ゐたり。今第一卷の歌に、末の例を引て文字を略すべきにあらず。先賢も此集の字格にもうとく、文字の有無の沙汰にもをよばず、みだりによみきゝ(?)ぬるなるべし。一古本の訓並古來風體抄には、なつそきぬらしとあり。此訓は可也。しかれども濁音の曾は重き助語辭なれば、そへやすからす。よりて今は字のまゝに、なつきたるらしとよむ也。
(93)白妙能衣。一説に白妙とは、白きことのいたりてしろきをほむる詞にたとへと(て歟?)云也。絶妙の義也といへり。此説は文字にすがりて傅会したる説也。妙の字は借訓也。たへと云は、絹布の古語に(?)、荒妙といへば布也。和妙といへば絹なり。白妙と云は、たへをほむる詞に、白と云なり。白をほむる詞にたへと云にはあらず。明妙照妙など云古語はあれども、青妙黒妙黄妙といふことなきにてもしるべし。白栲と書てしろたへとよむ。栲の字の事は下に云べし。
乾有。此の二字を古本印本等には、さらせりとよめり。しかれども、上に夏來を、夏着るにかよはしたれば、ほしたるとはいふべし。さらすこ(こ※[手偏+讒の旁]入歟?)とは云べからず。いかにとなれば、一度きたる衣服をほすといふことをきけども、さらすといふはいまだきかざれば也。又一の訓には、衣かはかすとよめり。これも義はおなじかるべけれども、有の字はラリルレロの五音に假借する字格あれば、かはけるなどはよむとも、かはかすとはよむべからず。又一本には、ほすてふとよめり。是は甚しき誤也。有の字をてふとよむべき義もなし。又證もなし。此集にうとく、古詞新詞をしらざる人の所爲なるべし。古詞にてふといふことはなし。といふの三言を、約言にちふといふことはあり。てふといふことは新詞也。されば乾有の二字は、ほすてふとよまれぬのみならず。時代の詞にもかなはぬ也。しかるを新古今和歌集にも、此御製を、夏來にけらし衣ほすてふと書て載せられたるは歎しき事也。由阿詞林採要には、天香山に衣をほすと云事は、甘橿の明神としておはするは、人のとがの虚實をたゞし給神にて、其衣を神水にぬらしてほすと云傳たる、(94)然れども是正義をしらずとかけり。これは正記所見なければ信用しがたし。只白衣をほしたるを見そなはし給ひて詠給へる御歌と見るより外有べからず。新古今和歌集の夏卷三に入たるにつきて、更衣の歌と見、天のかく山、春過ぬれば、霞も散して、此山の明白に見ゆるを、白妙の衣ほすとは云へるなりと云説あり。論ずるにもたらざることなり。
 
過近江荒都時柿本朝臣人麻呂作歌。
 
近江荒都は、天智天皇まし/\し志賀の都、いくばくの年も經ずして荒廢たるを云。
柿本朝臣人麻呂は、父祖いまだ詳ならず。柿本は氏也。朝臣はかばね也。はじめのかばねは臣也。天武天皇十三年冬十月迄(乙歟?)卯朔詔ありで、更に諸氏の族姓を改めて、八色之姓を作。十一月戊申朔に五十二氏に朝臣の姓を給へる事、日本記にみへたる(り歟?)。柿本もその五十二氏の一つ也。これよりこのかた柿本氏は朝臣のかはねをつぐ也。柿本氏の祖は、大春日朝臣同祖天足彦國押人命之後也。敏達天皇御世、家門に柿樹ありしによりて柿本氏と爲とし、新撰姓氏録にみへたり。柿下とも柿本とも通用也。人麻呂傳此集の外所見なし。官位もたしかならず。下位なるよしは證據あり。正三位などゝいふ説は後人のいつはり也。
 
玉手次。畝火之山乃。橿原乃。日知之御世從。【或云自宮】阿禮座師。神之書。樛木乃。彌繼嗣爾。天下。所知食之乎。【或云食來】天爾滿。倭乎置而。青丹吉。平山乎越。【或云虚見倭乎置青丹吉平山越而】何方。御念食可。【或云所念計米可】天離。夷者雖有。石走。淡海國乃。樂浪乃。大津宮爾。天下。所知食兼。(95)天皇乃。神之御言能。大宮者。此間等雖聞。大殿者。此間等雖云。春草之。茂生有。霞立。春日之霧流。【或云霞立春日香霧流夏草香繁成奴留】百磯城之。大宮處。見者悲毛。【或云見者左夫思母】
 
たまたすき。うねひのやまの。かしはらの。ひしりのみよゆ。【或云みやより】あれましゝ。かみのみことの。つかのきの。いやつきつきに。あめのした。しろしめししを。【或云めしける】そらにみつ。やまとをおきて。あをによし。ならやまをこえ。【或云そらみつやまとをおきてあをによしならやまこえて】いかさまに。おほしめしてか。【或云おほされけめは?】あまさかる。ひなにはあれと。いははしる。あふみのくにの。さゝなみの。おほつのみやに。あめのした。しろしめしけん。すめらきの。かみのみことの。おほみやは。こゝときけとも。おほとのは。こゝといへとも。わかくさの。しけくおひたる。かすみたつ。はるひのくもる。【或云かすみたつはるひかくもる なつくさは(一宇※[手偏+纔の旁]入?)かしけくなりぬる】もゝしきの。おほみやところ。みれはかなしも。【或云みればさふしも】
 
玉手次畝火之山とは、玉手次は、玉をかざりにつけたる手襁を云。此手すきは、官女のかける手すきにして、賤女のかくるたすきにはあらず。よりてうね美の冠辭とす。うねひは釆女と音かよへばいふ也。釆女のたすきをかくることは日本紀に見へたり。
日知之御世從【或云|自宮《ミヤヨリ》】とは、神武天皇の御世をさして、ひじりの御世とは詠り。從とは、よりといふことを古詞にゆといへり。或云とは、或本云の義也。前に或本歌と有を證とすべし。自宮《ミヤヨリ》とは、一本には御世從の三字を、自宮の二字に加へたりと云古註也。詞は少し加はりても、意はおなじ。しひて優劣有べからず。神武天皇はじめて、日本の國に皇居を定め給ひしことは、日本書紀を見(96)てしるべし。
 
日本書紀卷第三云、觀夫畝傍山東南橿原地者蓋國之墺區乎可治之是月即命有司經始帝宅云云辛酉年春正月庚辰初天皇即帝位於橿原宮是歳爲天皇元年云云。
 
阿禮座師は、うまれまししと云語也。生の一宇をも、あれますとよむ也。
神之書とは、帝皇を尊びて神と稱、みことと稱也。此集の歌にあまたみへたり。
樛木乃彌繼嗣爾とは、樛木はいやつき/\の冠辭也。つかの木に意あるにあらず。
天下所知食之乎【或云食來】は、定本と異本との句義はおなじけれども、定本の句に乎といへるに、歎の意を含めば、定本の句優なるべし。此句までの意は、神武天皇はじめて大和國に帝宅をしめたまひてより、世々のみかど大和國にて天下を治め給ひしよしをいへり。
天爾滿倭乎置而とは、天爾滿は、倭の序也。此五言一句のこと、すでに上にしるしぬ。置而とは、さしおきて・すておきてなど云たぐひにて、用ゐざる義也。
青丹吉平山乎越【或云虚見倭乎置丹吉平山越而】とは、青丹吉は前に釋しぬ。或云。虚見倭乎置の定本の天爾滿の字は借訓也。異本の虚見は正訓の字也。異本にしたがへば、虚見二字を四言一句によむべし。四言は古語なれども助語辭を加へて定本にしたがひ、五言一句によむかたまされり。平山の一句は定本異本優劣有べからず。
何方御念食可。【或云所念計米可】この句は遷都をおぼしめし立ける叡慮を、はかりがたくあやしみたる也。(97)異本の句も意は異ならねども、定本の句にはおとれり。
天難夷者雖有とは、天離はひなの冠辭也。夷は俗にゐなかと云に同じ。皇都をはなれたる邊鄙の地を云詞也。此冠辭は、日本紀神代下の歌におこれり。天上は天神のまします尊き所、地は下天に對しては鄙しき所なれば、天さかるひなつめと、謙退の詞によめるよりならひ來りて、今とても皇居を天に比し、雲上ともいへは、あまさかるとは、皇都にさかる義也。さかるははなれて近からぬを云詞也。雖有とは反語の辭なれば、此一句下の天下しろしめしけんと云句にかけてみるべし。近江國※[しんにょう+千]都は、前は田舍にてありけれども、大津の宮に天下しろしめしゝ時は、一度都となりてひなの名をのがれて、さかへしことを含みで、ひなにはあれどよめり。
石走淡海國乃樂浪とは、石走淡海の冠辭也。釋下にあり。樂浪は地名也。
天皇之神之御言」は、天智天皇をあがめて、神のみことといへり。
大宮者此間等雖聞大殿者此間等雖云とは、大宮大殿此間ときゝ、此間と云、皆詞をたがひにしてみるべし。對句によめり。長歌にはかならず對句をよむ。是古體の一格也。ことに人麻呂の長歌には對句おほし。
春草之茂生者とは、大宮大殿は絶て、その跡たゞ春草のみ生たるさま也。
霞立春日之霧流とは、春日のかすみにくもるは、時節の景氣なれども、大宮御殿絶たれば、臺宇樓閣の目にかゞやけるもなくて、春天の榮色のみ殘れるさま也。或本の句に、香霧流・香繁といへ(98)る香は共に發語辭也。定本の句と異本の句とを優劣を辨へば、定本の句まさるべし。いかにとなれば、標題に過近江荒都時とあれば、過の字によるに、一時の感慨によめる歌とみへたり。しかれば定本の句に、春草・春日など云句にて、人麻呂春の比過て作歌なるべし。しかるに、春日と夏草との句對二季の景色いかゞとみゆれば也。
百磯城之大宮處見者悲毛【或云見者左夫思母】とは、百磯城は大宮の冠辭也。大宮は皇居を云。皇居を百磯城と云は百城の義也。百は十十の數を極めて云にあらず。百密百姓の百と義おなじ。磯は石なれば、石城の義にて、堅固なる城とも見ゆれども、磯は助語辭として、百城の大宮と稱する詞と見るべし、百官の座をしかるゝ義也と云説あり。古語にかなはぬ釋也。大宮處見者悲毛とは、大宮は絶て、その處の名のみ殘りて、荒たるを人麻呂見て悲嘆するよし也。悲毛のこの毛の辭は疑の辭にもあらず、兼辭にてもなし。歎意ありて句の終りによむ辭也。此集の歌にあまたあり。よりて此後句終辭としるすは皆倣v此。或本の見者左夫思母の結句の意は、天智天皇御在世の繁榮を(と歟?)引かへて、群臣諸民も新都に移りて、すむ人まれに、大宮はその跡のみのこりて、春草生へたるをみてさびしもといふ義也。意は異ならねども、定本の悲毛悲歎あらはれて感慨ふかくきこゆべし。
此歌はじめには、神武天皇のひじりの徳ましましける叡慮に、倭國を皇居の地とはじめて定め給ひし時より、相つぎ/\て、久しき帝都の國なりし倭をすてゝ、近江國に※[しんにょう+千]都し給ふことを、はかりがたきよしにいへり。これたゞ表には帝都の元由をいひつゞけたるのみに聞ゆれども、裏には(99)神武帝の徳を釋美して、皇都の國久しく相つゞきたるに、天智帝の志賀都のわづかに御一代にて荒廢したれば、※[しんにょう+千]都の叡慮を少諷刺したる意有るべし。其情句體の上におのづからそなはれり。もと此遷都は天下の百姓不願して諷諫の者多。童謡もおほかりしよし、日本紀にみへたれば、紀文と此歌の詞とを引合せて眼をつくべし。されば表には※[しんにょう+千]都を思召立けるは、凡慮のはかりがたく、さるゆゑこそあるらめとおもふよしに詠り。次には、近江國、天さかるひなにて有けれども※[しんにょう+千]都已後は大宮大殿相そなはりて、天下をしろしめしたれば、一度都とにぎはひさかへし意を含みて詠り。しかれども、終りには、天智天皇御一代にて、皇都うつりかわりて、大宮大殿も皆絶はてゝ、其所の名のみのこりて、春の草おひしげり、皇居の跡ともみへず。只春日のおぼろけなるを大宮所のあとに見れば、感慨堪がたくて、悲もと、悲嘆したる意也。此長歌、句の相とゝのひ、首尾かけ合て、一首の中に、盛衰荒廢まのあたりにあらはれて、感慨の情きはまりなき也。
玉手次畝火之山。仙覺註釋に、軍王見山作歌の詞の中に、珠手次懸乃宜久などよめるは、人のかくるたすきときこへたり。今の歌の玉手次はことば同じけれども、しかにはあらず。これは耕田詞也。畝火の山を出さん爲に、たまだすきとはかける也。田に畝有る故也といへり。此説たすきはきこへても、玉といへる詞きこへず。或説に玉たすきは田をほめて玉といへるもいかゞ。玉松玉棒玉くしげなどいふたぐひにはきこへず。とにかくに、人のかくる手すきによらずして、義をなすはうがちたる説なるべし。
(100)神之書。此三字を印本には、かみのあらはすとよめり。これは仙覺の新訓也。かの註釋に玉篇を引て、書者著也。と云字注を證として、あらはすとよめり。古本にはかみのしるせるとよめり。右兩訓とも句意やすからず。一古本には、書を盡に作れり。盡の字にてはます/\句解がたし。よりて異本異字異訓あるにつきておもへば、書盡ともに轉寫誤なるべし。僻案には、書は言の字の訛にて、言の字の上、御の字有しを脱せるとす。よりて神之書三字を今かみのみことのとはよむ也。言の一字に發語助語辭をそへて、みことのともよむとも、よみがたきにはあらねども、この下の句に、神の御言能とあるを證とすれば、御の字脱せるかとは云也。書は尊とも字形相似たれば尊の字の訛かともうたがふべけれども、人麻呂の歌なれば、尊の字にては有べからざる故實あれば、御言の二字を轉寫の時御の字を失へるか。もし三言とかける二字を、轉寫の誤之(之〔右○〕はにて〔二字右○〕等歟?)書の一字に混作したる歟。異本あまた見し人は、可否を辨へ給ふべし。
樛木。此二字を印本には、とかのきとよめり。これは仙覺が訓なるべし。かの注釋に、神は人のおかしあやまちをとかめ給ふものなれば、神のあらはすとかのきのこ(一字※[手偏+讒の旁]入歟?)とは、よそへつゞくる也といへり。且、樛の字を、とかとよむ義は、詩經爾雅廣韻説文等を引て、木下曲と有を證として、和語を釋してとかといふは、もとのまかれるといふこと也。とゝいふは、もと、かといふはかゝまれる義也。などいへり。此等の説は歌の道をもしらず、國語の理にもくらき邪説也。一古本に、樛木をつげのきとよめり。しかるを、仙覺は樛字つげと和せん事、未v知傍例と(101)いへり。僻案には一古本のつげのきとよむはかへりて正訓なるべくおぼゆる也。本邦櫛の材をつげの木といひて、黄楊の二字を古來用ひ來れり。樛も黄楊の類歟。黄楊の類に、枝曲て、梳の材にもならぬ木あり。これを俗にひんからすと云。梳の用にたらざる故也。字書に樛は惡木也。といへるにかなへり。惡木は良木ならざる義なるべし。此ひんからすといふ木枝より枝生てしけりやすく、葉も色かへぬ常磐木なれば、つげのきのいやつぎ/\にといふにもかなへり。樛もし黄楊の類にあらずとも、此の木をつがとよむべき證據は、此集第三卷に山部宿禰赤人の歌に、神名備山爾五百枝刺繁生有都賀乃樹乃彌繼嗣爾とよめる正訓なるべし。といふは、つがとつげとは五音通用常のことなればなり。しかるを、仙覺、樛木をつがともつげともよまずして、とがとよみて、牽合傅會の説をなすのみならず。かの注釋に、勘傍例者、此集の中に、とがのきのいやつきつきに、とよめる歌兩三首有は、傍例明白歟といへり。その兩三首有之といへるは皆つがのきとよめるを、かへりて、とがのきとよめる證とせる(り歟?)。されば今僻案の證據としてひく赤人の歌の都賀の木をも、仙覺はとがとよめるなるべし。都の字は此集のみならず、日本紀をはじめ、國史風土記等の明證とする古記には、皆つのかなに用ひて、とのかなには用ゐた(ざ歟?)ることを仙覺しらざる故也。
天離夷。或説にひなとは都に遠きいやしき國を云。遠く空をのぞめば、天もひきく成て、地に落ちたるやうに見ゆれば、天さかるひなとはいふ也。といへり。是日本紀の傳をしらざる説也。(102)日本紀の歌は、かなの清濁正しからて(正しうして歟?)、濁音のかなに清音の字を書給はず。清音のかなに濁音の字もなし。よりて古語の義も清濁正しければ、眞僞おのづから分明也。かのあまさかるひなの詞も、濁音の字なく、阿磨佐箇屡避奈とあれば、箇の字にごらざる也とをしるべし。ひなとは遠き國を云とある説は、もと遠き國にあらずは、あまさかるひなといふべからずと、顯昭いひしこと也。これも誤也。大倭國と近江國とは近(?)國ともいふべからず。畿内にあづかれり。しかるを人麻呂、天離夷にはあれどゝよめるは、人麻呂あやまれるにや。只天離はひなの冠辭と見て、國の遠近にかゝはるべからず。
石走淡海國乃樂浪乃。此石走と云詞につき、説々あれども、いづれを正義ともいまだ決がたし。一説に、水の淡のうかびて石の上をはしる物なれば、かくつゞけたり。近江國もと淡海國とかければ也。といへり。此説は誤也。水のあわは抹泡等の字也。あふみの國は水のあわの名にはあらず。淡水の海の義にあはうみの國とはいふ。歌にもしほならぬ海とよむ。是の故也。淡の字を泡沫等の字と同じく心得たるはいとけしからぬこと也。その上、淡の字の訓はあは也。沫の字泡の字の訓はあわなり。かなも違へり。近世古語をしらず、かなをもしらざる輩、沫雪を淡雪とかけり。此集並日本紀等に淡雪とかけることなし。順の倭名類聚鈔にも、沫雪【阿和由岐】其弱如2水沫1とかけるをみても辨へしるべし。或説に石はしる近江とつゞけるは、水海の水終に勢多より出て、田上を過て、宇治になかれ下る。石をはしりてなかれ行は、かくはよめるにこそといへり。此説はより所(103)有ことなれば、しばらく此説にしたがふ。猶正義有歟。
 
反歌。
 
樂浪之。思賀乃辛崎。雖幸有。大宮人之。船麻知兼津。
 
さゝなみの。しかのからさき。さきはあれと。おほみやひとの。ふねまちかねつ。
 
樂浪は近江の地名也。地名と知らざる人、たゞに波のこととのみおもへる説あるは非也。曰本紀を見て地名なることはしるべし。
思賀乃辛崎は、思賀は、近江國の郡名也。辛崎は地名也。
待美津とは、其人をまちてもまち得ずしてはてたるを云古詞也。今はとも/\(?)來ることのおそければ、まち堪られぬをまちかねつと云意は相かよへども、歌によりて少たがひあるべし。歌の意は、しがの辛崎は、天智帝御在世の時とかはらずあれども、大宮人の船をよすること絶はてたるを歎きて、船よけ(せ歟?)んことを待かねたると云意也。待といへるは、大津の大宮人、飛鳥の里へうつり行し故に、立歸りこんことを待心にていへるなるべし。
雖幸有。此三字を古本印本ともに、さきくあれどゝよめり。尤、幸の字は無恙の二字と同訓に、さきくとよむ古證あれば、から崎といふをかけて、さきくとつゞけて、無恙義をかねてよめると見るも、あしきにもあらねど、無恙までにをよばず。幸は借訓のみにて、崎はあれどとよみて辛崎はあれどもと云までの義や生(?)かるべし。
(104)或問云。此集客第十三の長歌に、樂浪乃志我能韓崎幸有者又反見と云句あり。これ韓崎つゝがなくあらばと云義に、さきくあらばとよめるも、幸の字をかけるを證として、此歌もさきくあれどとよむ説まさらずや。
答云。しからず。かの十三卷の長歌も、からさきの無恙あらばといふ義にてはあらず。又反見んと云人の無恙あらばの意を、しかのからさきをうけて、さきくあらばとよみたる、猶その反歌をみるもしるべし。
又問云。船麻知兼津とは、人麻呂のまち兼けるにや。或説に辛崎の待兼る心といへり。しかりや。
答云。しからず。辛崎情有て待と云べからず。まつは志賀津の人、大宮人の船を待也。
 
左散難彌乃。志我能【一云比良乃】大和太。與杼六友。昔人二。亦母相目八毛。【一云將會跡母戸八】
 
さゝなみの。しかの【一云ひらの】おはわた。よとむとも。むかしのひとに。またもあはめやも。【一云あはむともへや】
 
志我能【一云比良乃】は、志我も比良も、昔今、近江の地名なれば、意ことならねども、定本の志我まさるべし。
大和太與杼六友は、大和太は、大うみといふに同じ。海をわたともいふは常の事也。與杼六友は、よどむはながれざるを云詞也。志我の海は、谷(田歟?)上川をすぎて、宇治に流れ出て、よどまぬ水海なればかくよめり。
 
相目八毛は、あはめやは。あはれじと云てには也。毛は句終辭也。異本の將會跡母戸八はあはむ(105)とおり也めや(おもはめや?)と云詞にて、あはんとおもはれぬと云義になる詞也。定本の句、てにをはよくかなひてまされり。
歌の意は、しがの大海はよどまぬ湖水なれども、これはよどむ世はありとも、過行しむかしの人に二たぴあふことはあらじとなげく意也。
 
高市古人感傷近江舊都作歌。【或書云高市連黒人】
 
高市古人は、古注に或書を引て、黒人とあるは正字なるべし。或書とは、此集の一本なるべし。前に或本歌と云。或云などかけるも皆おなじかるべし。此集第三卷にも、高市連黒人近江舊都歌とある一證也。
舊都を、諸本舊堵に作るは誤なるべし。一古本舊都に作にしたがふ。
 
古。人爾和禮有哉。樂浪乃。故京乎。見者悲寸。
 
いにしへの、ひとにわれあるや。さゝなみの。ふるきみやこを。みれはかなしき。
 
歌の意は、近江の舊都を見れば、悲しきは、いにしへの人にてわれは有かと、みづからうたがふ心なり。いにしへの人ならば新都のさるべき有さまを見なれて、今舊都となりてあれたる有さまの、むかしにかはれるをいたみかなしむもことわりなるを、我はむかしの人にもあらねども、舊都のさまを見ればかなしみに堪かたき故にかくよめる也。
古人爾和禮有哉。此七字を印本には、ふるひとにこわれありめや(われあるらめや?)とよめり。よ(106)りて一説に、作者のみづからの名をよみ入たると云一義あり。しかれども有哉の二字を、あるらめやは、文字不足してよみがたし。もしみづからの名をよみ入れたる歌ならば、七字を、ふるひとにわれはあるかなとよまば義かなふべし。しかれども、和禮の二字吾なれば、助語辭そへがたく、そのうへ或書には黒人とあるよしを古注にいへれば、古人の名もたしかならず。古本には右七字を、いにしへのひとにわれあれやとよめり。よりてこれにしたかふ。これも有哉の二字を、あれやとよめるは例のことにて、今あるやとよむ。くはしく前のいらこが島の歌にしるしぬ。
 
樂浪乃。國都美神乃。浦佐備而。荒有京。見者悲毛。
 
さゝなみの。くにつみかみの。うらさひて。あれたるみやこ。見れはかなしも。
 
樂浪乃國都とは、樂浪は地名なれば、あふみの國といふにおなじ。都は助語辭也。志賀津などいふ津にてはなし。美神とつけん爲に用ひたる助語辭也。
美神乃浦とは、美神も近江の地名也。三上とも書。御上とも書。延喜式には御上と書、倭名類聚鈔には三上とかけり。三上山といひて、遠く望めば富士の姿に似たる山あり。これ則御上の神まします山也。近世の歌人、この三上山を鏡山と歌によむはあやまりなり。延喜式卷第十神名下云。近江國野州群御上神社【名神大月次新嘗】とある是也。志賀の浦とも、美神の浦とも、平浦とも皆歌によむ。おなじこと也。
浦佐備而とは、浦ふりてといふ詞也。佐備は、佐は發語辭也。備はふりと云詞を約めて備と云。(107)古語のならひ也。
歌の意は、さゝ浪の志賀の都全盛の時振(賑歟?)はしかりし浦も、故京となりたる今は、浦も物ふりて人すくなく、地あれたるを見れば、いたみかなしむよしをいへり。ふりゆくさまをいはんとて國津美神の浦さびてとはつゞけたり。すべて神ます所は人の居處とことに、ふりゆくは神々しければ、かへる(る〔右○〕はな〔右○〕歟猶可考)して、國津み神の浦めきて、繁榮なりし帝宅の地は、あれゆくをかなしめる意も有べし。悲毛の毛は例の句終辭也。
或問云。浦佐備而と云浦は心也。うらかなし、うらめつらしなどの類なりと云説あり。しからんや。
答云。しかるべからす。うらかなし、うらめつらしなどのうらは、皆發語辭也。連續の詞にいふ例はなし。此の歌は、美神の浦さびてとつゞければ、浦と釋せずして、心と釋せんこといとけしからぬ説なり。乃字有をわすれたる説なるべし。
 
幸于紀伊國時川島皇子御歌。【或云山上臣憶良作】
 
川島皇子は、天智天皇之皇子也。
日本書紀卷第二十七【天智天皇】七年云々。有宮人生男女者四人有忍海造小龍女曰色夫古娘生一男二女其一曰大江皇女其二曰川島皇子其三曰泉皇女。
同紀卷第三十云。【持統天皇】五年九月巳巳朔下丑淨大參皇子川島薨。
(108)御歌を、諸本御作歌とかく、皇子皇女の歌は前後皆御歌とあれば、作の字衍字なるべし。よりて今御歌とす。
或云山上臣億良作。此の注は、此集第九に山上歌一首とありて、白那彌之濱松之木乃手酬草幾世左右二箇年薄經濫とあるを以て、古注者或云とかける歟。かの第九卷の歌の左には、右一首或云河島皇子御作歌と注せり。此所と表裏せり。しかれば此集に此歌二所に載て、歌主異なれば、もとより作者分明ならざるうへ、濱成式には、此歌を角沙彌紀濱歌云とかけり。可否いづれと辨がたし。
白浪乃。濱松之枝乃。手向草。幾代左右二賀。年乃經去良武。【一云年者經爾計武】
 
しらなみの。はままつかえの。たむけくさ。いくよまてにか。としのへぬらん。
 
白浪乃濱松とは、濱の冠辭に白浪山とおける歟。しからば、波よするとか、浪かゝるなども有べきを、白浪のと詠ては、ことたらぬ難有べし。これは浪(白浪歟?)の濱と云地名なるべし。
手向草とは、古松の枝にかゝる蘿也。これを松蘿と云。古今和歌集の物名にさかりこけと云是也。白髪のごとくにして、幾すじともなく枝にかゝりて、さがるものなり。これを手向草と名付るは松が枝に垂たるさま、さかきか枝にしらがつけと詠る如くに垂に似たれば手向草とはいふ也。其色白くして、濱松にかゝりたるは、波のかゝれるとみゆるが故に、白浪の濱松が枝乃手向草とよめる歟。此歌は專手向草を詠る歌と見ゆれば也。
(109)歌の意は、手向草は、よく/\年ふりたる松が枝ならでは生ぜぬ蘿なる故に、今紀の濱松が枝に、手向草のかゝりたるをめでて、今まで年ふりたるほどもしられず、猶行すゑも幾世までにや年のへぬらんと也。此年は松が枝の手向草とあれば、松と手向草とをかねて見るべし。
手向草一説に、結松などを例として、手向草とは松を云といへり。此説は甚非也。松を草といふべからず。もし松をも草といふ例は、さき草といふ草を檜也といへる、古今和歌集の序傳に邪説あるを見たる人の説歟。又は藏玉といふものと、齋宮花盡に、松の異名を手向草としるして、山里のふるき軒はの手向草花はよそなるなごりとぞ見る。といふ歌をのせたるをみたる人、藏玉を據として、さはいへるなるべし。齋宮花盡の異名、此集の證歌にはなるべからず。そのうへ、松が枝の手向草とあれば、枝にかゝる手向草とならではみへざるを、松を手向草といふ説は、乃の字を見ざる歟。忘れたる歟なるべし。
或問云。一説に神に奉る物を、松枝にかけ置きたるを、濱松が枝の手向草と云といへり。此説も非歟。
答云。非也。神に奉るは、その神はいづれの神にや。奉るものとはその物何物にや。
又問云。一説に、草はそへたる詞にて、只手向と云まで也。神は熊野の大神に手向るといへり。これにても非歟。
答云。非也.助語辭などをこそ、そへたる辭ともいはめ。手向草と云句を手向のみをとりて、草(110)をそへたりとて、すつべき道理もなし。證據もなし。且神は熊野の神とは、紀伊國に幸の時と有故に、熊野の神といへるなるべし。題にも、歌の詞にもみへざれば、此説論ずるにもたらざる牽合傅會の説とすべし。
或問云。幾代左右二賀といふてには、少心得がたく聞ゆる也。もし經去良武といふ詞は、經ゆくらんといふ義にあらずや。しからば幾代までにかのてにはもかなふべし。いかにや。
答云。此うたがひことわりいやら(ら〔右○〕はち〔右○〕歟?)こ也。よりて經去良武を、へゆくらんの義に見ね(れ?)ば、までにか〔四字傍点〕のてにをはには相かなへども、語例とはいひがたし。そのうへ、一云年者經爾計武ともあれば、今までとしのへたるをいふ詞にて、すゑをかくる詞にあらず。よりて此幾代左右二賀の一句には僻案あり。此集左右の二字をまでと云詞に用ひたる所あまたみへたるうへ、此歌を濱成式にのせたるにも、此一句を伊倶與麻弖爾可とかきたれば、古來此訓とみへたり。されば此一句をうたがふ人もなくて、てにはの合不合を沙汰せしこともなくうけ來れる故に、今も古訓にしたがひて、いくよまでにかとはしるしぬ。しかれどもてにをはやすからぬは、僻案に、此左右の二字をともにと訓たり。しかれば幾代ともにか年のへぬらんと、松と羅と相ともに年へたるをめでたる歌にて、義もやすくてにをはもかなへり。左右の二字をまでと訓も義訓、ともとよむも義訓なれば、此集にそむくにはあらねども、濱成式にはそむくに似たり。かの濱成式も、此歌にかぎらす、うけがたきこともあまたあれば、必ずしたがふべくもあらず。猶後人の(111)賢評をまつべし。
 
日本紀曰。朱鳥四年庚寅秋九月天皇幸紀伊國。
 
日本紀は卷第三十也。朱鳥二字刪去べし。天皇は持統天皇也。此注は紀伊國に幸の年月を日本紀にて引てあらはすまで也。
 
越勢能山時、阿閉皇女御作歌。
 
勢能山は紀伊國にあり。
日本書紀卷第二十五云。【孝謙天皇】二年詔凡畿内東自2名墾横河1以來南自2紀伊兄山1以來【兄此云制】西自2赤石櫛淵1以來北自2近江狹々波合坂山1以來爲2畿内國1。
阿閇皇女は天智天皇の皇女、文武天皇の母、後に元明天皇と申是也
續日本紀卷第四云。日本根子天津御代豐國成姫天皇小名阿閇皇女天命開別天皇之第四皇女也。母曰宗我嬪蘇我山田石川麻呂大臣之女也。適2日並知皇子尊1生2天之眞宗豐祖父天皇1云云。
御作歌。前に云ごとく、此集皇子皇女の時の歌は皆御歌とあれば、これも作の字は衍字なるべし。但此皇女は元明天皇なれば、撰者御作歌とかける歟。
 
此也是能。倭爾四手者。我戀流。木跡(路歟?)爾有云。名二負勢能山。
 
これやこの。やまとにしては。わかこふる。きちにありちふ。なにあふせのやま。
 
此也是能とは、これやとは兄の山を指て云也。是能とは第二句のやまといふ詞に、したしく連ね(112)てみるべし。句の意は、常に戀給へる兄と名におふ山の紀の國にありときこしめしける山は、これや此山とつゞけ給へる義に、やまとにしてはと詠給へる絶妙之句也。
御歌の意は、せの山を夫の名にかけて、常にこひしたひ給へる山を、今こへ給ふことをよろこび給ふ心に、これや此のせの山と、山をめでゝ詠給へり。阿閇皇女は草壁太子の妃にてましまししかば、我戀るせとは草壁太子と見るべし。山の名に兄の字あれば、阿閇皇女の兄の皇子をこひ給ふとも見るべけれども、いづれの兄をわきてこひ給ふべき由來もなければ、草壁太子をこひ給ふなるべし。兄は夫君に通しよぶ古語の通例也。
此也是能。此四字を一古本に、これぞこのとよめる。也の字をそとよむは古訓なればしかるべくもきこゆれども、此御歌は、兄の山に夫君をよせてよみ給へるとみへたれば、これやこのとよむ義かなふべし。いかにとなれば、そは決辭やは疑辭なれば、これやと少うたがふ意有べし。
倭爾四手者。此者の字也の字とおなじく、そとよむ古訓也。よりて決辭に、者の字にても、也の字にてもかけるを、ぞとよみならはしたり。今の御歌の者の字も、そとよみてよくてにをはも合べし。
有云。此二字を古本に、あるてふとよめり。前にもいひしごとく、てふといふ詞は中古以來の詞也。古歌には、といふの三言を約めて、ちふとよめり。よりて、今も有云の二字をありちふとはよむ。下皆倣此。
 
(113)幸于吉野宮之時柿本朝臣人麻呂作。
 
作。此作の字の下に、歌の字有べし。轉寫の時脱せるなるべし。或集歌と云、成作歌と云もの、樣一定ならざれども、作歌とかけると歌とのみかけるとには、撰者少意有とぞみへたる。轉寫あやまりて混雜したるなるべし。
 
八隅知之。吾大王之。所聞食。天下爾。國者思毛。澤二雖有。山川之。清河内跡。御心乎。吉野乃國之。花散相。秋津乃野邊爾。宮柱。大敷座浪(波?)。百磯城乃。大宮人者。般並※[氏/一]。旦川渡。舟競。夕河渡。此川乃。絶事奈久。此山乃彌高良之。珠水激。瀧之宮子波。見禮跡不飽可聞。
 
やすみしし。わかおほきみの。きこしめす。おはやしまくにゝ。くにはしも。さはにあれとも。やまかはの。きよきなかれと。みこころを。よしのゝくにの。みゆきふる。あきつののへに。みやはしら。ふとしきませは。ももしきの。おほみやひとは。ふねなへて。あさかはわたり。ふなくらへ。ゆふかはわたり。このかはの。たゆることなく。このやまの。いやたかからし。いく(は?)なみの。たきのみやと(こ?)は。みれとあかぬかも。
 
所聞食は、しろしめすにおなじ。天皇は天下のことをこ/”\く奏せれば、しろしめすとも、きこしめすともいふ也。
國者思毛澤二雖有とは、國者とは、いにしへは郡縣等をも、皆くにとよみならはしたれば、今の(114)國郡村里の名分定りてよぶ國にはあらず。思毛は助語辭也。澤二雖有とは、澤は多きをいふ古語なり。
山川之清河内跡とは、吉野はむかしより、音にきこへ、名にながれたる山川なればかくよめり。
御心乎吉野乃國之とは、御こゝろよしとうけたる詞也。神功皇后他(紀?)に御心乎廣田國とある古語と同類の句つゞき也。
花散相とは、秋津乃冠辭也。吉野山は時じく雪のふる所なれば、此冠辭に御幸〓(?)義をかねてよめるなるべし。花散相の三字は、雪のふる貌を義を取てかけるとみへたり。吉野に御幸ありし事は神武天皇を初として、代々の天皇みゆきし給ひし地なれば、離宮もとよりありと見えて、日本紀古事記等に吉野宮に幸をあまたしるされたり。
宮柱太敷座波とは、大宮をうごきなく造り奉るをほむる古語に、宮柱太敷立といへば、此詞も宮柱ふとしく立て、その宮にましますを、太敷座とはつゞけたり。敷座といふも古語なれば、相かねて詠り。
船並※[氏/一]とは、船をならべてと云詞也。駒なべてなどいふ詞とおなじ。舟競と云對句也。
夕河渡は、旦川渡の對句也。人麿の長歌にはおほく對句をよめり。古體の一格なり。此次の句も山と川とを對句にいへり。
此川乃絶事奈久とは、此川は吉野川也。行末長く遠く、川水の絶ることなからんごとく、大宮の(115)長久なるべきことを兼て詠り。
此山乃彌高良之とは、此山は吉野山也。彌高良之とは、年月を重ねるほど、ます/\高く成て、崩ることなからんことを、大宮の廢絶せずして、いよ/\さかえんことを兼て詠り。
珠水激瀧之宮子波とは、珠水激は瀧の冠辭也。瀧の宮古は吉野宮の名也。宮子とは宮どころの義也。いにしへは離宮の有し所をみやこといひし也。天皇暫時もその所にましませば、暫時の都也。一月ましませば一月の京也。よりて離宮ある所を古歌にはみやこと詠めり。前に兎道の宮子能とよめるも此義也。
見禮跡不飽可聞は、みれども/\みたらぬ心を云。可聞は句終辭也。
此歌はじめには、大王のきこしめす天下には、名所おほけれども、此吉野を山川もすぐれていさざよき地とおぼしめす大君の御心を吉野の國といひて、叡慮と土地とを兼擧て、御幸も絶せず、代々をへし秋津のの邊の宮に、その宮柱の太き如くに、動きなくまします天皇なればと、山川の清き、叡慮のよき、宮殿のたくましきを述つらねたり。次には供奉の大宮人も、船をならべくらべて、旦川夕川を渡りて、われおとらじとつかへ奉るさまをいひて、群臣の君にしたがひて、そむかざるよしをほめたり。終には、初にいへる山川清きのみならず、川はいよ/\流れたへず、山はます/\高からんことをいひて、宮所の長久を賀けめ。此人物景物兼そなはりたる瀧の宮所なれば見れども/\あく時なき趣意を結句にあらはせり。
(116)此歌拾遺和歌集卷第九雜下に載られたるには、長歌、よしのゝ宮にたてまつる歌人まろと言て、發句を先かへて、ちはやふるとあり。けしからぬこと也。八隅知之の四字を、いかに義訓によめばとて、ちはやぶるとはよむべき道理なし。且ちはやぶる吾大王とつゞくべき證歌も證文もなし。たとひあればとで、歌のひじりと尊稱する人麿の歌を、後人句を引きあらため直さば、人麿ををかしなみする也。いかなる所を歌のひしりとはいふべき。若し此發句のみならば、異本の文字のたがひともいふべけれども、此長歌大方句ごとに改められたり。もしうせたる人、心あらば、人まろこれをよろこび給はんや。それも人麿の句拙なきにきはまりて、後人改め直せる句絶ぬ(妙?)なるにかへなば、私なき神靈には、などかうけ給はざるべき。さりとても歌聖ををかす罪のがるべからず。いはんや拾遺集に添削せられたる句、一句も是とはみへざるをや。かくいへば集を難する罪またのがれがたし。しかれども集は撰者もたしかならず、草稿のまゝにて世にひろまりたるにや。此歌にかぎらず、此集の歌あまた載られたるに、皆ひがごとおほし。先賢これを見あらためられざる歟。たゞし見あらためても、撰集を難ずるはばかり有て口をとぢられたる歟。しかるを今憚りをかへりみず、みだりにかくいふは、只人まろの歌のひじりをあがめ尊ぶ意にまかせて、罪名をのがるゝに意なければ也。
所聞食。此の三字を一古本には、しろしめすとよめり。義はことならねども、聞の字あればきこしめすとよむかたしかるべし。拾遺集にもきこめすとあり。
(117)天下爾。此三字を、印本に、あめのしたにはとよみたり。天下波とあらばさもよむべけれども、爾の字をにはとはよみがたし。もし天下爾波とありしを、波の字を失ひたる歟。一古本には、みそらのしたにとよめり。これはよまれぬにあらねども、あめのしたは通語也。みそらのした通語ならず。そのうへ天の一字はみそらともよむべし。天下の二字にて語例もなければ、したがひがたし。古歌には五七の句法にかぎらず。四言六言の句も相まじりたる例すくなからねば、あめのしたにと六言一句にても有べし。今は義訓を用ゐて、おほやしまくにとよむは、天下のことを、大八州國といふ古語の例のあまたあれば、それにしたがひて、五七の句法に合すれば也。是此歌發句の古語の外は皆、五七の句とゝのひたるに、此句のみ六言にては誦がたければ、七言の古語の義訓を用る也。しかれども義におきてはいづれにてもわづらひなければ、このむ所にしたがふべし。又拾遺集にはあめのしたなるとあり。爾の一字をなるとよむ義もなし。證もなし。
國者思毛。此一句を集にはくさのはもとあり。國者の二字を、音訓ましへてくさとはよみもしつべし。思毛の二字を、のみ(は?)もとはいかでかよむべき。これはくにはしもさはにあれどもと、連續の古句の格をしられざるよりよみあやまれるなるべし。此集第三卷の赤人歌の詞の中にも、湯者霜左波爾雖在と有をみてもしるべし。
澤二雖有。此句を拾遺集には、うるひにたりと(と一字脱歟?)あり。これは國者を、草とよみたるに、又あやまりをかさねて、澤の字を、閏(潤?)澤恩澤のことゝみて、澤二をうるひにとよめるなる(118)べし。澤の字は、借訓と云こともしらず、さはと云詞を、多の字の義ともしらざるよりあやまれるとみへたり。澤二の兩字は、うるひとはよみもしつべし。雖有の二字を、たりと(と一字脱?)はいかでかよむべき。
清河内跡。此四字を古本印本共に、きよきかふちと(と一字脱?)よめり。しかれども、此句さよみては義やすからず。次の句の花散相の三字も、義を取てかけるとみへたれば、此句も義訓の字なるべし。よりて河内は水のながるゝ所なれば、きよきながれとよむは僻案の訓也。可否はしる人しるべし。
花散相。此三字を古本には、はなちりあふとよみ、印本にははなちり(ら?)ふとよめり。拾遺集にはなさかりとあり。三訓ともに秋津の冠辭になるべき訓にあらず。歌聖と尊稱する人磨、かゝる上下に連續せぬ句をいかでか詠給ふべきや。花散相の三字は、きはめて義訓の字にかけると見へたれども、人麿の歌の域にいたらざる故に、見る人のちからほどの訓をなすなるべし。僻案に、みゆきふるとよむは、人磨、秋野の歌に、三雪落秋乃大野爾とよめる句、下にみへたれば、冠辭のより所もあり、雪落貌は、花散相の三字相かなふべき、此集義訓の字格なればさはよむ也。されども猶人麿の域にもちかづく人の異訓あらば、それにしたがふべし。花さかり、はなちらふなどの句はきはめて人磨の風とはきこえず。後の人磨あらば可否はわきまへ給ふべし。
船並※[氏/一]。此句を拾遺集にはふねならへとあり。※[氏/一]の字をすてたり。
(119)舟競。此二字を印本には、ふなきほひとよめり。古本並に拾遺集には、ふなくらへとあり。此集の歌の中に布奈藝保布といふ古詞あれば、ふなきほひの句例證あれども、船並※[氏/一]乃對句にはふなくらべまさるべし。競馬と云てくらべうまとよめば、古本等の訓にしたがふ。
珠水激瀧之宮子波。此八字を古本印本共に、たまみつのたきのみやこはとよめり。たまみつと云詞心得がたし。瀧の一字をたきとよむ常のこと也。激瀧の二字をたれ(き歟?)とよみては、激の字あまれるに似たり。拾遺集には、たまみつのたきつのみやことあり。之の字をつとよめるもめづらしく、そのうへ波の字をすてたり。よりて右二訓ともにしたがひがたし。僻案には、珠水激の三字を二句とみて、義訓にいはなみとはよむ也。流水の岩にあたれる貌を、義訓にかきたる文字とみたれば也。
 
反歌。
雖見飽奴。吉野乃河之。常滑乃。絶事無久。復還見牟。
 
みれとあかぬ。よしのゝかはの。いはなみの。たゆることなく。またかへりみん。
 
此短歌は、長歌に屬たる反歌にて、一體の本ともなるべき反歌也。何者、長歌の結句を發句にすゑて、吉野川の岩波のとよめるは、長歌の詞を反復して、長歌に詠殘したる意を、下の句に強ることなく、またかへりみんとつらねられたる絶妙の反歌なるべし。しかれば、此反歌は、反覆餘意を兼備へたる短歌といふべし。よりて反歌一體の本ともなるべしとは云也。歌の意は、別に釋(120)するにをよばず。かくれたることもなく明か也。
常滑。此の二字を古本印本共に、とこなめとよめり。よりて仙覺注釋に、とこなめとはつねになめらかなるいはほ也といへり。陰地の苔路なども常になめらかなるものなれは、とこなめといひて岩ほにかぎるべき證もなし。たとひ證明あればとて、とこなめといふ詞歌詞とはきこへず。歌聖の人麿かゝるつたなき詞を詠出すべきにあらず。拾遺集には、此句をながれてはとあり。これはよしのの川のとつゞけ、たゆることなくとうけたれば、歌詞にして連續もよろしき也。しかれども、常滑の二字の義にかなはず。しかのみならず、乃字を、てはと云助語辭によむべき例なし。よりてしたがひがたし。僻案に常滑の二字をいはなみとよむは、磐と書くに常の字を書くは義そむくべからず。常磐と云常のこと也、或はときはの略語に、常の一字をとはとも用ゆれば、いはとよむとも難有べからず。滑はなめとよめば、なみと通音常のことなれば也。そのうへ長歌の珠水激乃三字を岩波と義訓すれば、長歌・短歌詞も意も相かよふべし。しかれども珠水激も、岩波にあらず。たまみつをこのみ、常滑もいはなみならず、とこなめをよしといはれば、僻案むなしかるべし。歌といふものをしれらん人は、わきまへしらるべし。猶常滑の二字をしきなみともよむべき僻例(案?)もあれども、此長歌短歌は詞を合せて見る方まさるべくおぼゆれば、いは波にこゝろ打つきぬ。
 
安見知之。吾大王。神長柄。神佐備世須登。芳野川。多藝津河内爾。高殿乎。高知座而。上立。國見乎爲波。畳有。青垣山。山神乃。奉御調等。春部者。花柿(挿?)頭持。(121)秋立者。黄葉頭刺理。【一云黄葉加射之】遊副川之。神母大御食爾。仕奉等。上瀬爾。鵜川乎立。下瀬爾。小網刺渡。山川母。依※[氏/一]奉流。神乃御代鴨。
 
やすみしし。わかおほきみの。かみなから。かみよ(さ?)ひせすと。よしのかは。たきつなかれに。たかとのを。たかしりまして。のほりたち。くにみをすれは。たゝなある。あをかきやまの。やまつみの。まつるみつきと。はるへには。はなかさしもち。あきたては。もみちかさせり。【一云もみちはかさし】ゆふかはの。かみもおほみけに。つかへまつると。かみつせに。うかはをたゝし。しもつせに。さてさしわたし。やまかはも。よりてつかふる。かみのみよかも。
 
神長柄とは、神なるからと云詞也。日本紀巻第二十五に、惟神の二字をかみながらとよみ傳へたり。其注に、惟神者謂d随2神道1亦而有c神道uとあるをみて、此古語の意をしるべし。此ながらは俗にさりながらなどいふ詞にはあらず。よりて國史並此集に、随神神随等の二字を、かみながらとよむ一傳也。
神佐備世須登とは、常に神さび浦さびなどゝ云詞とはこと也。おなじこと葉に似たれども、常にいふ神さびは、神社などの年久しくふりたるを尊稱する詞也。此神とは天皇を尊て稱する詞にて、俗にふるまひと云詞にかよひ、すさびあそびなど云詞也。神あそびすといふがごとし。をとめさびすもなどゝおなじ。世須とは、爲をいふ也。不爲といふ濁音の義にてはなし。世は助語辭也。前に野島波見世追と云句の、世とおなじ。
(122)高殿乎とは、仙覺注釋に、高殿と云は樓閣なり。かさならずしてたゞ大きにつくれるをば、大殿とはいへども、高殿とはいふべからずといへり。さも有べき歟。
高知座而とは、古語也。亦は高敷ともいふ。五音相通すれば也、句意は、高殿をたかく造てといふ義也。知の字座の一字は借訓としるべし。日本紀に、たかまのはらにちきたかしりてといふ古語に峻侍※[手偏+專]風於高天原と書給ふにてもしるべし。
疊有とは、縱の名あるといふ詞也。借訓の字也。青垣山の冠辭也。青垣山は、皇居の東にあたりたる山なればかく云也。東西を爲2日縱1南北を爲2日横1ことは、成務天皇の五年にはじめて定め給へり、事は日本紀卷第十にみへたり。此集の中に、田立名附青垣山とよめるも同義也。
山神乃奉御調とは、山神も天皇の徳に感じて、春秋のみつぎを奉るよしをいへり。奉は献る也。
春部者花挿頭持とは、春部は俗に春のうちはといふ意に見るべし。花挿頭持は、山神のかざしもつにはあらず。行幸供奉の群臣のかざしにするを云。春部に花の咲は人の者(?)わざにあらず。山神此行幸の時の爲にと、色をあらはすは民の調を奉るにひとしければ、まつるみつきと上にいへり。等といふ詞にてわきまへしるべし。
秋立者黄葉頭刺理【一云黄葉加射之】は春の花の句の對也。義は前の句に准へてしるべし。異本のもみぢばかざし、定本の句と優劣あるべからず。
遊副川神母とは、前の長歌に、旦川夕川の句あれば、此遊副川も夕川とみへたり。僻案に此句の(123)上に五言の一句有べし。脱せるべし。句つづきにてしるべし。しからざれば句連續せず。
大御食爾とは、天皇のきこしめす朝膳夕膳を云。
仕奉等とは、これ山神のみつぎに奉るよし也。上にまつるみつぎと云詞につゞきてみるべし。此句の等の字、義前におなじ。
上瀬爾鵜川乎立下瀬爾小網刺渡とは、これは川神の、天皇行幸の時の大御膳の爲にと、旦川夕川に、魚を生しめ給ひて、吉野の土俗鵜をつかひ、鋼(網?)をわたして、魚をとるよしをいへり。上瀬下瀬は詞をたがひにしてみるべし。鵜川乎立とは鵜をはなつを云。たゝしは、川瀬におり立て鵜をつかへばいふなり。小網(網?)刺渡は、山川の魚をとるあみにさでといふものあり。刺渡は其小綱(網)をつかふさまを云詞也。
山川母。依※[氏/一]奉流神乃御代鴨とは、山神も、河伯も、此天皇の徳にしたがひて、山の物、川の物を調として奉りつかふるよし也。神の御代鴨とは、持統天皇を神と尊稱して、人の御代とはいひがたし。山神河伯もしたがひて仕へ奉れば、今の御代は神の御代かもと稱嘆したる結句也。山祇河伯さへつかふるからは、人民のあふぎ尊ぶことは.いふにやはをよぶと云意おのづからそなはれり。
歌の意は、此天皇は神皇におはしまして、おのづから神の道ます神なるから、神あそびし給はんとて、よしの川のたぎつながれに、高殿を造りまして、その高殿にのぼりて國見し給へば、青山よもにめぐれるといへる古語の如くに、大宮の垣となる山ありて、其宮の鎭めとなるのみならず(124)その山神、天皇につかへ給ふしるしには、行幸の春秋に、折をたかへず、花をかざし、紅葉をそめて、時々の色を顯はす故に、之れ山神の天皇に奉れる山のみつぎ物として、群臣、花紅葉を折にしたがひてかざしとする也。しかのみならず。行幸の時の大御食の爲と、旦川夕川に時/\の魚を生しむるを、是則河伯の奉るみつぎ物なりと、上瀬下瀬に、鵜をはなち、鋼(網)をわたして、吉野の土俗、御膳乃爲の魚をとるをみそなはしては、山川の神祇も心をよせてつかへ奉ると、天皇もしろしめすべく、人まろもこれをみて、如此なる御代は人代とはいふべからず。まことに神の御代なるかもと、帝徳を讃嘆してよめる長歌の意也。
疊有。此二字を古本印本共に、たゝなはるとよめり、一古本には、かさなれるとよみたり。よりて仙覺注釋に、たゝなはるは、かさなれると云也。山似2屏風1などいふ山也。屏風のごとくにたゝなはれる也といへり。しかれども、青垣山にかぎりてかく云べき理なく、語例も所見なし。僻案にたたなあるとよむは、此卷の藤原宮御井歌にも、日本乃青香具山者日經乃と詠る句も有。又此集に、田立名附青垣山などよめる證歌あれば也。猶うたがふらくは、有の字は着の字をあやまりたるならんか。しからばたゝなつくとよむべし。
青垣山。一説に名所にあらずと云義あり。これもその理あれども、田立名附青垣山といふ古句によれば、山の名と見る義まさるべし。猶證記にまかすべし。
山神。此二字を古本にはやまかみとよめり。印本にはやまつみとよめり。印本の訓は仙覺の訓と(125)みへたり。日本紀神代上に、山神等號山祇とあれば、印本の訓しかるべし。よりてこれにしたがふ。
遊副川之。此句を古本朱にて句切を付たるには、此四句を五言一句としたる(り?)。僻案には、下の神之二字を連ねて七言一句と見るなり。されば此句の上に五言の一句有べし。轉寫失へるなるべし。窃におもふに、失たる一句はもし阿佐川也の一句にても有べき歟。前の長歌に、且川渡り夕川渡乃對句あれば也。しからずしては、夕川とのみは無端ことにきこゆる也。もしまた遊副川の冠辭となるべき注(?)句有べき歟。とにかくに五言の一句は脱せるなるべし。
 
反歌。
 
山川毛。因而奉流。神長柄。多藝津河内爾。船出爲加母。
 
やまかはも。よりてつかふる。かみなから。たきつなかれに。ふなてするかも。
 
山川毛とは、山の神も、川の神もといふ義なり。それを山とのみいひ、川とのみいひても、山神川神になる證は、日本紀神代卷にみへたり。
神長柄とは、此神は持統天皇を尊稱して神と云也。
歌の意は、山祇河伯も相よりてつかへ奉る神皇なるから、吉野川のみなぎりたぎりてながるゝ所も、何のあやぶみなく、天皇も群臣も船出すると、帝徳の至れる意を含みて稱歎せられたり。
 
右日本紀曰。三年巳丑正月天皇幸吉吉野宮八月幸吉野宮四年庚寅二月幸吉野宮五月幸吉野宮五年幸卯(126)正月幸吉野宮四月幸吉野宮者未詳如何月從駕作歌。
 
日本紀は卷第三十也。三年は持統天皇也。此注には五年までをひけり。六年七年八年九年十年十一年にいたるまで、毎年吉野宮に行幸。曰本紀に載られたり。しかるに此注に五年までを引て、六年以後をひかれざるは、文の略歟。くはしからざる注也。
 
幸于伊勢國時留v京柿本朝臣人麻呂作歌。
 
幸は持統天皇六年の幸也。
 
嶋呼見(兒?)乃浦爾。舶乘爲良武。※[女+感]嬬等之。珠裳乃須十二。四寶三都良武香。
 
あこのうらに。ふなのりすらん。をとめらか。たまものすそに。しほみつらんか。
 
喝呼見(兒)乃浦は、伊勢の名所也。
※[女+感]嬬等は、持統天皇の從駕の官女を云。
珠裳は、官女のきる裳を云、海藻に便り有詞也、
歌の意は、人麻呂京よりおもひやりて、官女等の浦邊の景色をめでゝかへるさも忘れ、玉裳のすそに潮のみち來らんをもしらずして、あやうからんことなどおもひやる意也。すゑの歌に、荒島廻乎とよめる心おもひ合すべし。
或問云。船に乘るに裳のすそに潮のみつべきことはりなし。もし此歌はあこのうらの潮干など見(127)に行とて、はじめ船に乘て改(後歟?)、官女等潮干の海におり立て、裳のすそに潮みつらんかとよめる意にや。
答云。官女の潮干など見に行とおもひよりがたし。さることあらじと、きはめてもいひがたけれども、歌はさまでむづかしく見ることにあらず。上の句は、たゞ伊勢の行幸の供奉の官女等をいはむとて、伊勢の名所なれば、あこの浦にふなのりすらんとよめるなるべし。あらき浦に船のりするをも、おぼつかなくおもひやる心をも有べし。下の句は、あこの浦にあそぶ時のことのおもひやれるとみへたり。船にのりしその日、その官女の裳のすそに潮のみつらんなどまでは、おもひよるべからず、
鳴呼見乃浦爾。此發句を古本には、をみのうらにとよめり。印本には、あみのうらにとよめり。拾遺集には此歌、をふのうらにとあり。玉葉集には、をみのうらとあり。是皆何の明證もなくみだりによめるなるべし。印本にあみのうらとよめるは、仙覺の訓とみへたり。さればにや、かの注釋に、此集十五卷の歌に、安美能宇良とかけるを證據とせり。此かな書の證明有うへは、たれかは疑ふべき。拾遺集に、をふの浦とあるは、鳴呼の二字ををゝとよみたるを、後にをふと言あやまれる歟、但、呼はよぶとよめば、下のふをとりてをふとよめる歟。いづれにても見の字あまれり。玉葉集に、をみの浦にとあるは、鳴見の二字よまれても呼の字すたれり。八雲御抄にも、をみのうらを用ゐさせ給へり。皆此集の文字によらず、臆説の訓なれば論ずるにもたらず。たゞあみのうら(128)の訓は、仙覺此集の全篇にわたりて、十五卷の歌を證とせられたれば、あやまりとはいひがたし。しかれども、やつがれが僻案はこれにも異也。此集第十五卷當時誦詠古歌に、安胡乃宇艮爾とあれば、これを證として今の歌を、あこのうらにとよむ也。嗚呼見の三字をあことよむは、嗚呼の二字は歎辭と字書にみへたれば、二字をあとよむ也。國語の歎字あとよべば也。見の字は兒の字を書あやまれるとみへたり。見兒の二字字形相似て、轉寫の誤り常のことなり。且、かの十五卷に當時誦詠古歌の中に、安胡乃宇良爾布奈能里須良牟(乎一字脱?)等女良我安可毛能須素爾之保美都良武賀。とある歌はすなはち此人磨の歌也。しかるを左注に柿本朝臣人麿歌曰。安美能須素爾(安美能宇良?)と異句をあらはせり。しかれば古注者の時も此集の本文兒を見に作れる歟、但古注者人麿の家集を見て、異句をひける歟。此集此所の歌を引用ゐば、嗚呼見乃浦爾と書べし。又曰。球裳乃須十二とも書べきを、安美能宇良とかき、多麻母能須素爾とかけるは、人麻呂家集の文字とみへたり。もししからば家集の文字あやまれる歟。美と呉と字形相似たれば、もとは安呉とかきたるを安美とあやまれる歟。とにかくにあみの浦はあやまりなるべし。伊勢國の地名に、あみと云古記の證明所見なし。志摩國の郡名阿呉あれば、伊勢と志摩と名所通用る證歌はあまたあり。安胡の地名、古記の證あきらかなれば、僻案あこのうら也。
※[女+感]嬬等。此三字を古本には、つまともよめり。玉葉集も同じ。拾遺集には、わきもことあり。皆此集の始末をも考へずして、みだりに心/\よめるとみへたり。印本に、をとめらとよめろは仙覺(129)があらためたる訓なるべし。かの第十五卷に、乎等毎良我とかきたれば、訓證あきらかなり。よりて※[女+感]嬬等の三字を今もをとめらとよむ。
 
劔著。乎(手)節乃崎二。今毛可毛。大宮人之。玉藻苅良武。
 
くしろつく。たふしのさきに。いまもかも。おほみやひとの。たまもかるらん。
 
釧著とは、くしろはひちまきといふ物也。臂※[金+環の旁]也。いにしへは男女共に飾に用ひたり。されば手節の冠辭とする也。
手節乃崎は、志摩國の郡名也。古記に答志の二字を用。八雲御抄にはたふしのさき、伊勢にのせ給ふは、此歌によらせ給ふなるべし。手節は志摩なれども、上にいふごとく、伊勢と志摩とは名所通用すれば也。
歌の意は、大宮人の海邊をめづらしくおもひて、よ(手?)すさみに藻をかるあまのしわざもやしつらんとおもひやる意也。前後の歌によれば、これもあやうきをおもへるなるべし。
釧著。古本印本共に釧を劍に作りて、たちはきとよめり。よりて、仙覺注釋に、たふしといふは、たはことばの助け、ふしはものゝふしと云詞也。ものゝふしはあしきともがらを降伏すれば、ものゝふしと云なるべし。ものゝふといふも同じ事也。ものゝふは帶劍の器なれば.太刀はきのたふしとつゞくる也。といへり、又或説には、太刀をば手にとりはく物なれば、たちはく手とつゞけ、さて手には節のあれば、たふしとはそへよめる也。といへり。右仙覺説は、手節の節といふ詞に(130)すがりて手をそへたり。或説の義は、手にすがりて節をそへたり。共に證明なければしたがひがたし。そのうへ、劍の字古訓はつるぎ也。たちとはよまず。よりて劍太刀といふ句あまたありて、劍と太刀とはこと也。太刀はきならば、舍人などゝこそはつゞくべけれ。太刀をはくは腰にはけば、腰とはつゞくべき歟。手とも、ふしともつゞくべき理なし。僻案は此集中に釧を劍にあやまり或は劍を訓とあやまれるたぐひあまたあれば、此歌も釧を劍にあやまりしより、たちはきとよみたるとみへたり。古本文字のたがひも校へずして、訛のまゝに訓をつけて、あらぬ傳言の義をなせる説その數を知らず。作者のなげきなるべし。よりて、今、劍の字は釧の誤と見て、くしろつくとよむ也。くしろは臂の上にある鐶なれば、手節の冠辭かなへり。もし、しからずして、鐶の字を誤て劍に作りたらば、たまきつくと訓べし。とにかくに劍の字にては有るべからず。
 
潮左爲二。五十等兒乃鳥(島?)邊。※[手偏+旁]船荷。妹來(乘)良六鹿。荒鳥(島)囘乎。
 
しほさゐに。いらこかしまへ。こくふねに。いものるらんか。あらきしまわを。
 
潮左爲とは、潮さわぎにて、潮のさし來る時海の鳴を云。
五十等兒乃島は、あこの島と同島なるべし。
妹乘良六鹿は、妹は人麻呂の妹、此供奉乃中に在歟。しからば姉妹の妹なるべし。しかれども古は女子の通稱に妹ともいへるなれば、官女等を指て詠るとみるべし。
荒島回とは、波あらき島也。島囘とは、島問(間?)といはんがごとし。音通底。
(131)歌の意は、下句にあらき島わをと有にて意あらはなるべし。潮さゐは浪あらき故、此集第三卷の歌にも、潮さゐの浪をかしこみとよめれば、あらき島囘を船乘すらんと、妹をあやうくおもひやれる意なるべし。
潮左爲は、仙覺注釋に、一義云。海のしはさしみちてゐたるを云也。一義云。潮さき也云々。きとゐとは同韻相通の義歟。もとより兩義也といへども、今の歌の心にては、しはさしみちたらんは、船のりせん事たよりなるべし。心くるしく思ひやるべきにあらず。しはさきをしほさゐといはん事は、此歌の心におきあひ(?)てきこゆ。鹽さゐは浪あらきことによめる事、此集の中に傍例一にあらずといひて、第三卷第十一卷第十五卷の歌をあげて、これらを以ておもひ合すべきなりといへり。尤證とするにたれり。しかれども、此集のかな、左爲或は左猪とも云たれば、さきとは通用し(か脱?)たき也。五音横道も通用不通用差別あること也。これは國語の釋にくはしからずしては、辨へがたかるべし。よりて潮左爲は潮さわぎと解する也。國語の音義通へる也。
 
當麻眞人麻呂妻作歌。
 
吾勢枯波。何所行良武。己津物。隱乃山乎。今日香越等六。
 
わかせこは。いつちいくらん。おきつもの。かくれのやまを。けふかこゆらん。
 
(232)吾勢枯とは、妻より夫をさして云詞なり。
己津物は、隱の冠辭也。
歌の意は、夫の麻呂行幸の供奉の旅行のほどをおもひやりたる也。伊勢路あまたの山有なるに、隱の山をけふか越らんと詠る此歌の凡心也。凡したしき人の旅行をおもひやるには、きのふはいかなる所を過、明日はいかなる所にいたれると、毎日/\その日にあたる所をおもふは、殘り留れる婦人母(女?)子の通情なり。されば、かくれの山は其名の惡ければ、行程をはかりてけふかこゆらんと、おもひやりていたはれる意なるべし。
己津物。此三字古本には、おのつものとよのり。仙覺は此集の第十一卷の歌に、奥藻隱障浪とあるを證として、おきつものとよめり。此訓尤可也。しかれども、己の字をおきと訓る釋に、算術の書の中に己算畢とかけるを證としていへるは不可也。己の字は借訓にて、おきとも、おくともよむこと有を、仙覺しらざる故なるべし。古本におのつものとよめるは、論ずるにもたらず。或説に沖にある藻の浪にかくれたるによりてかくつゞけたりといへり。此説は第十一卷の歌を本として釋をつけたるなるべし。彼十一卷の歌は此意を本としてよめるなるべし。本末みだれたるに似たり。此歌にては、海の沖のこともより所なく、波といふ詞もみへねば、藻の義はうけられず。奥といふは海にかぎりていふ詞にもあらず。あらはにみへざる所をいふ詞也。よりてかくれといはん爲に、興津物といへり。津は助語辭也。人の身まかりてかくしたる所を、奥津城所と云古語などお(233)もひ合すべし。隱山は、伊勢路に在山とは、此歌にてもみへたれども、いまだいづれの郡に在ことを考へず。後詳にすべし。
 
石上大臣從駕作歌。
 
石上大臣は、古本朱書傍注に、石上朝臣麻呂者大臣也。靈龜元年正月任左大臣養老元年薨年七十八。右大臣從二位石上朝臣麻呂卿物部宇麻呂男也。慶雲元年正月任右大臣文武元明元正三代大臣也とあり。續日本紀卷第三云。慶雲元年春正月丁亥朔癸巳 詔以2大納言從二位石上朝臣麻呂1爲右大臣とみへたれば、持統天皇の時にはいまだ大臣にてはなし。しかるを石上大臣と後の官をかけるは、撰者麻呂を尊てなるべし。
 
吾妹子乎。去來見乃山平。高三香裳。日本能不所見。國遠見可聞。
 
わきもこを。いさみのやまを。たかみかも。やまとのみへぬ。くにとほみかも。
 
吾妹子とは、わがいもと云詞にて、妻を云古語なり。日本書紀卷第十四雄略天皇の卷に、吾妹【稱妻爲v妹蓋古之俗乎】とあり。わぎもこのきもんじ濁ていふべし。古語の習也。
去來見乃山は、八雲御抄其外諸抄皆伊勢といへるは、此歌を證とせられたるなるべし。僻案に、去來見といふ詞、山の名とは心得られず。見の山といへる山の名にて、吾妹をいさみの山とつゞけてよめるなるべし。去來見の山此歌の外所見なし。見の山も何れの郡に有にや。此歌にて伊勢歟、(134)伊勢路の山とは見へたり。もと伊勢國度會郡に有歟。箕曲と云地名、度會郡にみへたれば、箕曲はむらの名、箕山と云山の名有歟。猶後に詳にすべし。
歌の意は、都に殘り留れる妻子をこひて、おもふどち、いさみの山とつゞけて、やまとの山をかへり見すれども、國のみへざるは、見の山高くしてへだつるにや。但、見の山は高からねども、境はるかにきたりたる故に、古郷のやまとの見えざるかと。おろかによみなせる歌也。歌はかくおろかによめる、かへりてたくみに道理をつめていへるよりは、情あまりありてよき也。
 
右日本紀曰。朱鳥六年壬辰春三月丙寅朔戊辰以淨廣肆廣瀬王等爲留守官於是中納言三輪朝臣高市麻呂脱其冠位フ上於朝重諫曰農作之前車駕未可以動辛未天皇不從諌遂幸伊勢五月乙丑朔庚午御阿朗行宮。
 
紀は卷第三十也。朱鳥六年は持統天皇六年也。朱鳥の二字は去べし。日本紀には六年とのみありて、朱鳥の二字なし。注者加へたるは非也。
淨廣肆は、位の名也。肆を印本に、津に作るは非也。廣瀬王の下日本紀には直廣參當麻眞人智徳直廣肆記朝臣弓張十七字あり。注者略てかけり。淨廣直廣等は、天武天皇十四年に更に改められたる爵位の號也。くはしくは天武紀にみへたり。重諫とは、高市麻呂前月二月丁未に上表て、此行幸農時に妨あるよしを直言諫爭せられし事紀にみへたり。よりて重諫とはあり。農作之前此前の字は誤なるべし。日本紀正本に節の字に作。車駕此二字すめらみことゝよむべし。儀制令云。車駕行幸所稱とありて、天皇車駕乘與などゝ文によりて書かへれども、國語は文字によらず。皆、すめ(135)らみことゝよむ。この字濁てよむつて也。
 
輕皇子宿子(于)安騎野時柿本朝臣人麻呂作歌。
 
輕皇子は、文武天皇のいまだ皇子と稱せし時の御名也。古本朱書の傍注に、輕皇子天武天皇の孫草壁皇子弟二子文武天皇是也。母天智天皇第四女阿閇皇女元明天皇也とあり。安騎野は大和國にあり。
 
八隅知之。吾大王。高照。日之皇子。神長柄。神佐備世須登。太敷爲。京乎置而。隱口乃。泊瀬山者。眞木立。荒山道乎。石根禁。樹押靡。坂鳥乃。朝越座而。玉限。夕去來者。三雪落。阿騎乃大野爾。旗須爲寸。四能乎押靡。草枕。多日夜取世須。古昔念而。
 
やすみしゝ。わかおほきみ。たかひかる。ひのみこ。かみなから。かみさひせすと。ふとしきし。みやこをおきて。こもりくの。はつせのやまは。まきのたつ。あらやまみちを。いはねせく。こたちおしふせ。さかとりの。あさこへまして。かけらふの。ゆふさりけれは。みゆきふる。あきのおほのに。はたすゝき。しのをおしふせ。くさまくら。たひやとりせす。むかししぬひて。
 
八隅知之吾大王の釋は、上にしるしぬ。
(136)高照日之皇子とは、輕皇子を尊稱する詞也。萬物日よりあきらかなるはなく、日より尊きはなし。故に日を尊稱の辭とす。
太敷爲京平置而とは、太敷爲は宮を稱する辭。京乎置而は、淨見原の宮所をさしおきて也。
隱口は、泊瀬の冠辭。泊瀬山は大和國城上郡に在。眞木立は眞は發語、諸木の立を言。山を稱する辭也。荒山の冠辭也。
荒山道乎石根禁とは、荒山道は、人のきりひらきもせず、山のまゝなるを云。荒金などいふ詞にてしるべし。石根禁とは、荒山道なれば、大木小木生木枯木に道ふさがりて通ひがたきを云。
樹押靡とは、道通りがたき故に、木だちをおしふせて通り給ふを云。
坂鳥乃朝越座而とは、坂鳥は朝越の冠辭也。泊瀬山を朝にとく越給ふを云。
玉限夕去來者とは、玉限は、夕の冠辭也。去來者は、夕になりければと云詞也。
三雪落阿騎乃大野とは、仙覺注釋も、よし野山のかたにあき野ありといへり。しからば蜻蛉野を秋野とも云なるべし。大野といひ、三雪落と云冠辭等によれば、あきつ野とみへたり。吉野山は時じく雪のふると云地なれば、秋野にも此冠辭を詠るなるべし。三雪落は、幸經を兼てきこへたり。あきつ野の行幸は世々のためしすくなからねば、此冠辭古今をかねて詠るなるべし。
旗須爲寸四能乎押靡とは、旗須爲寸は、四能の冠辭也。四能は、をのゝしの原など云しの也。す(137)ゝきの一名也。篠の字をかきて小竹をもいふ。これは俗にしのへ(?)と云種類おほし。すゝのしのやなどいふも小竹也。しのすゝきと云もの今の四能也。よりて旗須爲寸を冠辭とす。押靡は、上の樹押靡と同じ。上には木立をおしふせといひ、こゝにはしのをおしふせといひて、草木に道ふさがりたるをおしわけ、おしふせてこへ給ふさまを云。
草枕多日夜取世須とは、草枕は、旅やどりの冠辭也。今は旅とのみいふ冠僻にも用ゆれども、むかしは旅ね旅やどりの冠辭なり。古詞の實あることをしるべし。夜取世須は、世は助語辭、世須は、ますといふがごとし。
昔念而は、昔とは、日並知皇子の此野に御かりし給ひしいにしへをしたひ給ひて、如此あら野に旅やどりをし給ふよし也。
歌の意は、文武天皇まだ皇子にておはしましゝ時より、神なるからに神あそぴし給ふとて、都をはなれて、人もかよひえぬ荒山道の、岩根木立ふさがりて通るべき道もなきを、草木おしふせふみわけて、たゞ人の越がたき坂路をも、鳥の飛越る如くになづみ給はず、とく朝に越たまひて、三雪さへふるあき野に草枕をむすびて、旅やどりし給ふは、みおやのむかしをこひしたひ給ふ御心からなり。これ輕皇子の孝心をめでゝよめる也。よりて山野の旅行やすからぬことを述つゞけられたる詞といひ、義といひ、首尾とゝのひすぐれて感情ふかき長歌なり。
吾大王高照日之皇子。此九字を古本印本共に、わがおほぎみのたかてらすひのわかみことよめり。(138)五七の句とゝのひて、詞やすけれども、古事記、美夜受比賣の歌に、多迦比加流比能美古夜須美斯志和賀意富岐美と、かながき有て、古語なれば、訓をあらためがたし。そのうへ皇子の二字を、わかみことよむ古證なし。皇女をひめみこ、皇子をひこみことは古訓あれば、ひこみこなどゝはよむべけれども、連續の古語はかへがたければ新訓をとらず。
隱口。此二字を古來、かくしくとよめり。しかるを仙覺此集並日本紀の歌を證として、こもりくとよむべきよしをいへり。古句を知れりと云べし。しかれども隱口の二字になづみて、脱(憶?)説をなせること、かの注釋にみへたるはとるにたらず。其外諸抄の説まち/\なり。おほくは隱口の二字にすがり、又は此集に、籠國とかける所ある字につきて義をなせり。皆證記なき説なればうけられず。僻案は、隱口籠國等は皆借訓にて、字義によらず。たゞ地名とす。泊瀬の名は、雄畧天皇の御世より記れば、上古の名にあらず。されば、此地の舊名をこもりくといへるなるべし。古歌におほく舊名を冠辭とする例證あれば也。
眞木立。此三字を古本印本共に、まきたてるとよめり。今まきのたつとよむは、此集卷第三に人麻呂の歌に、眞木之立荒山中とあるを證とす。眞木を一説に※[木+皮]と心得て、深山なれば※[木+皮]立といへり。眞は發語辭なることをしらざる故なるべし。
或問云。※[木+皮]は深山幽谷ならではなきものなれば、歌の題にも谷槇あり。荒山ならば※[木+皮]立説も害なかるべき歟。眞木立山乃秋の夕暮などの歌も、上古の歌にはあらねども、深山の景色をよめるに(139)あらずや。
答云。眞木立山の秋の夕暮又は眞木の葉に霧立のぼるなどよめるほどの作者、※[木+皮]立とはいかでか心得違べき。深山※[木+皮]一木のみ立べきや、木を眞木といひ、草を眞草、日をま金、土をまつちといふたぐひ、皆發語辭をそへていふ歌詞也。眞木の屋、眞木の戸、眞木柱もたゞ木をいふ古語なるを、※[木+皮]にて造る屋、※[木+皮]にて作る戸、※[木+皮]にてつくる柱をいふや。※[木+皮]は棺槨に用ゆる木とこそはきけ宮室の材といふことをしらず。古語故實にくらき人の説なるべし。
石根禁樹押靡。此六字を古本印本ともに、いはねのふせきおしなみとよめり。よりて或説に、岩ねの横たはり柴の生ならびて、道をふさぐ山なれども、皇子供奉の兵おほくて、岩木をもおしなびけとほるといふ義也といへり。此説いはれざるにあらねども、ふせきと云古語いまだ見およばず。故に僻訓に、石根禁の三字を一句とみて、いはねせくとよみ、樹押靡の三字を一句とみて、こだちおしふせとよむ。こだちは立木をいふ。上に眞木と有。それをおしふせて通り給ふ也。靡は繼(繼字不明。偃・僵等の誤歟?)也。と字書にもあればふせとはよむ也。
坂鳥。仙覺注釋に、坂鳥とは、坂の上より、朝にとりのわたるを、あみをはりてとるを坂鳥と云と云へり。しかれども此義は俗説なるべし。坂鳥とは、山坂をこへゆく鳥を坂鳥と云。山鳥といへば山にすむ鳥を云。坂鳥は、山を越行鳥なれば、野鳥も水鳥も皆云詞に坂鳥と云。よりて朝越の冠辭也。
(140)三雪落阿騎乃大野。仙覺注釋には、必しもその時に雪のふりたりけるにあらず。あきといふ言葉のあかきにかよひたれば、雪のふりぬれば、あきらかなるによそへて、みゆきふるあきの大野とはよめる也。といへり。此説は非也。短歌に御獵立師斯時者來向とあれば、かりは冬のことなれば、此時雪ふるべき時節也。もし秋津野ならば、雪ふらずとも、冠辭とのみ見てもよろしけれども、雪のふればあきらかなるよし、あきの大野といふ義はとるにたらず。三雪はふかき雪を云と説(諸歟?)抄にいへるは非也。みは發語辭也。み空み冬等の類也。
阿騎乃大野。此集巻第二に、日並知皇子の兎田野大野に行啓有し事、歌にみへたれば、此阿騎乃大野は、宇田の大野と同歟。延喜式卷第九神名上宇陀郡十七座の中阿紀神社あれば、宇陀郡に阿紀野有歟。しかれども、御獵野は幾所にも有べければ、第二卷にみゆきせしうたの大野とよみしは、此野と別なるにや。三雪落の冠辭はあきつ野により所あれば、愚意は秋津野にひかれぬ。猶後に詳にすべし。
旗須爲寸。或説に、穗に出たるすゝきのなびくすがた旗に似たれば、はたすゝきとも云といへり。僻案は穗に出ぬすゝきを云。日本紀に幡すゝき穗に出しと云神證あり。穗に出たるすゝきをいはゞ、幡すゝき穗に出しとは云べからず。はたすゝきの説、童蒙抄、袖中抄等にもみへて、古來まち/\なり。此集の歌にあまたあり。よく考へて辨へしるべし。
念而。此二字古印兩本ともに、おもひてとよめり。しかれどもしぬびてとよむ方まさるべし。念(241)思・戀等の字は、歌によりておもふとも、こふとも、しのぶともよむ也。すでに此事前にもしるしぬ。後皆准へてしるべし。
 
短歌。
 
此集長歌にそへる短歌は、おほくは反歌と書たれば、短歌は反歌をあやまれるかと見る人有べけれども、目録には反歌といふことなく、並短歌と皆書。此所のみならず。すゑにも短歌とあれば反歌とも短歌とも書て、同じく三十一言の歌としるべし。後世長歌をあやまりて、短歌とかけるは蒙昧のいたり也。此集三十一言の歌を、短歌とかけることをもしられざるなるべし。
阿騎乃爾。宿旅人。打靡。寢毛宿良目八方。古部念爾。
 
あきのに。やとるたひひと。うちふして。いもねらめやも。いにしへしのふに。
 
宿旅人とは、輕皇子を指。人麻呂とつら(此所不明)をも兼て詠るなるべし。
寢毛宿良目八方とは、いもねられめや。いもねられじといふ詞也。ねるを、いといへば、ねてもねられめやといふに同じ。毛は句終辭也。
歌の意は、前の長歌をうけて、あき野にやどり給ふかと(二字不明)のよしをみるべし。荒山道をふみ分て、あき野にやどり給はゞ、旅のつかれに前後もわきまへられず打ふし給ひて、いきたなかるべきを、さはなくてむかしをこひしぬび給ふ身の旅ねなれば、打ふしてもいねられぬと云て(142)にをはの歌也。
阿騎乃爾。此四宇を古本印本共に、あきのゝにとよめり。しかれども此かな書五言にはよみがたき字格也。もし、もとは、阿騎乃野爾と五字なるを野の字を失へる歟。しからずは四言の發句なるべし。此集にかぎらず。日本紀古事記等の歌、四言一句例證あまたあり。よりて今四言の發句とす。打靡。此二字印古兩本ともに、うちなひきとよめり。よりて仙覺注釋に、うちなびきはぬるをいへる也。といへり。しかれども雲烟の便にいふ歟。又は草木などにつきていふ時は、なびくとよみても義通ふべし。端もなく便もなく、打なびきといひてぬることにはなりがたし。直にうちふしてとよむべし。靡はふすとよむ字なれば也。長歌に押靡の二字を、おしなみとよめるをおしなびかしと云約言と釋すればいはれざるにあらねど、長歌短歌同字は、同訓を用ゆべきことなれば、長歌の押靡の二字の訓も、おしふせを用。義はおなじ。
 
眞草苅。荒野者雖有。葉。過去君之。形見跡曾來師。
 
まくさかる。あらのにはあれと。もみちはの。すきにしきみか。かたみとそこし。
 
眞草苅とは、荒野といはん爲のみ也。眞草苅に意有にあらず。或説に、馬に飼ふ爲にかるをま草苅と云は、歌によりてさることも有べけれども、牛に飼ふ爲にかる草も有べければ、それはうし草かると云べきや。たゞ眞は發語辭としるべし。
(143)葉は、過去といはん爲のみ也。葉に意有にあらず。
歌の意は、草かる者ならでは、誰かよふともみへぬ荒野なれども、日並知皇子の御狩野なれば、此野をみおやのかたみとおぼしめして、したひ來り給ふ意也。
眞草苅、此三字を印本に、みくさかるとよめり。是仙覺が訓也。仙覺、長歌に合せて、み草苅とはすゝきと心得て、眞草をみ草とよめり。みくさ・まくさは、五音通じて同じことなれども、眞草とかきてみくさとはよまれず。たとひよまるればとて、かの注釋に、すゝきをみ草と云議用ゐられず。古本にはまくさかるとよめり。尤是也。よりてこれにしたがふ。
葉過去君之形見跡曾來師。此十一字を古本印本共に、上三字を一句とし、中四字を一句とし、下四字を一句として、はすきゆく、きみがかたみの、あとよりそこし。とよめり。よりて仙覺注釋に、葉過去といへるは、そらことのみ也といへり。心得られぬ事也。僻案は、葉の字の上黄の字有しを、轉寫の時失へるなるべし。此集第二卷人麻呂の長歌にも、黄葉乃過去等と云句あり。又第九卷の挽歌の中にも、黄葉之過去子等ともあり。第十三卷にも、黄葉之過行跡ともあり、是皆過去し人のことをいはんとて、黄葉は散はつるもの故に、過去の冠辭によめり。此等の別證あれば、此歌も黄葉の二字なるべしとはいふ也。端もなら(く?)葉過ゆくと云詞を、人麻呂詠給ふべきにあらず、もし葉は世に用る例あれば、世過にしとよまば、は過ゆくよりはまさるべけれども、跡曾の二字をあとよりとはよむべき義もなく、例もなし。よりて葉を一句として、もみちはのと(144)訓、過去君之四字を一句として、すきにしきみがとよみ。形見跡曾來師六字を一句として、かたみとぞこしとよむ也。可否はしる人しるべし。
 
東。野炎立。所見而。反見爲者。月西度。
 
あけかたに。け(ふ脱?)りのたてる。ところみて。かへりみすれは。つきかたふきぬ。
 
此歌の意は、夜もすがらむかしを念ふから、いもねられずながめあかせるに、夜も明がたにけふり立所をみて、夜もあけ行としりて、かへりみれば、月もすでにかたぶきぬるよし也。此けぶりは野火のけぶりとみへたり。前後の歌にて冬の比としられたれば、多野は必燒もの也。冬野の眺望雲烟ならでは、めにかゝるべき物有べからず。此夜月の夜とみへたれば、あくるもしらず打ながめたるに、烟をみて明がたをしりて、かへり見せられたるさまあはれかぎりなし。
東野炎。此三字を古本印本共に、あつまののけふりとよめり。よりて或説に、あつま野は、吉野に在。あづま坂と云も有よしをいへり。又一説に、あつま野は、吉野安騎野の内に有ともいへり。是皆此歌をあつまのとよみならはしたるより、吉野の名所とするなるべし。古記の明證あらばしたがふべし。明證なくばうけがたし、僻案に東の字をあけがたとよむは、日の出る方なれば、東は夜のあくるかたの義をとる。此歌の結句に、月西渡とかけるを、つきかたふきぬと義訓を用ゐたれば、發句も義訓に東の字をかけるなるべし。そのうへ、炎の一字をけふりとはよみがたし。よりて一僻訓に、東野の二字を、はるひのことも(はるひのの〔五字傍点〕とも歟?)よみ侍る。しからば炎の(145)字も、發句にひかれて、けぶりともよみつべし。今一僻訓をすてゝ、あけがたの訓を用ゐるは、長歌短歌皆阿騎野の歌なれば、春日野を詠ん事いかゞともおほゆれば也。且野炎の二字はけふりとも用ゆべき此集の字格也。
 
日雙斯。皇子命乃。馬副面(而歟?)。御獵立師斯。時者來向。
 
ひなめしの。みこのみことの。こまなへて。みかりたゝしゝ、ときはきたりぬ、
 
日雙斯皇子は、草壁大子の少名也、文武天皇の父也。後に追尊て、岡宮天皇と稱せし是也。
王子枝別記云文武天皇少名阿溜皇子天武天皇皇太子草壁皇子尊之子也 持統天皇十一年春二月丁卯朔壬午立爲皇太子云云。
日本書紀卷第三十云。【持統天皇】三年夏四月癸未朔乙未皇子草壁皇子尊薨。
續日本紀卷第一云。天眞宗豐祖父。天皇天渟中原瀛眞人之孫日並知皇子尊之第二子也。【日並知皇子尊者寶字三年有勅追崇尊號稱岡宮御宇天皇也】此反歌にて、長歌の意まであらはれたる、輕皇子の安騎野にいたりてやどりたまへるも、みおやの獵野なれば、むかしのあとをしたひて、はる/”\とあきのに來りてやどり給ふは、孝心の至りを含みて詠る歌也。獵は春秋もすれども、冬を狩の時とすれば、時は來向とある時は、冬なるべし。長歌に夕去來者三雪落と云句おもひ合すべし。
日雙斯。此三字を古本に、ひなみせしとよみ、又一本には、ひならひしとよめり。これは皇子の(146)御名としらすして、よみたるなるべし。皇子の御名としらば、いかでか助語辭を加へではよむべき。いにしへは、皇子の御名も、皆義ありてつかせ給へることをしらずして、文字につきて、さま/”\によみなせるあやまりすくながらず。舎人親王を、いへひとの親王とよみ、又は、やとの親王などよむたぐひ、あげてかぞふべからず。すべて古人の名には訓傳有事也。此皇子の御名はひなめしといふ名義故實あり。
時者來向。此一句を古本には、ときはきむきぬとよめり。印本には、ときはこむかふとよめり。此兩訓歌詞ともきこへず。義もやすからず。よりて今、ときはきたりぬとよむ。向の字はまうくとも、いたるともよめば、時のきたりいたる詞也。
 
(147)萬葉集僻案抄卷三
 
藤原宮之役民作歌
 
古本朱書傍註に、藤原宮大和國高市郡とあり。役民作歌とは、藤原宮を經營の時、課役之民の中に此歌を作りてうたひたるべし。作者の名闕たる、をしむべし。
 
八隅知之。吾大王。高照。日之皇子。荒妙乃。藤原我宇倍爾。食國乎。賣之賜牟登。都宮者。高所知武等。神長柄。所念奈戸二。天地毛。縁而有許曾。磐走。淡海乃國之。衣手能。田上山之。眞木佐苦。檜乃嬬手乎。物乃布能。八十氏河爾。玉藻成。浮倍流禮。其乎取登。散和久御民毛。家忘。身毛多奈不知。鴨自物。水爾浮居而。吾作。日之御門爾。不知國依。巨勢道從。我国者。常世爾成牟。圖負留。神龜毛。新代登。泉乃河爾。持越流。眞木乃都麻手乎。百不足。五十日太爾作。沂須良牟。伊蘇波久見者。神隨爾有之。
 
やすみしゝ。わかおほきみ。たかひかる。ひのみこ。あらたへの。ふちはらかうへに。をしくにを。めしたまはんと。おほみやは。たかしられんと。かみなから。おほせるなへに。あめつちも。よりた(148)れはこそ。いはゝしる。あふみのくにの。ころもての。たなかみやまの。まきさく。ひのつまてを。ものゝふの。やそうちかはに。たまもなす。うかへなかせれ。そをとると。さわくみたみも。いへわすれ。みもたなしらす。かもしもの。みつにうきゐて。わかつくる。ひのみかとに。しらぬくにより。こせちより。わかくには。とこよにならん。ふみおへる。あやしきかめも。わいのよ(にひみよ歟?)と。いつみのかはに。もちこせる。まきのつまてを。もゝたらぬ。いかたにつくり。のほすらん。いそはくみるは。かみなからならし。
 
八隅知之《やすみしし》より、皇子までの十三字の釋、前にしるしぬ。此歌にては持統天皇をそねみ(尊稱之?)辭なり。前の人麻呂の歌にては輕皇子を尊稱せし也。天皇をも皇子をも稱する古語た(な?)り。
荒妙乃藤原我宇倍《あらたへのふぢはらかうへ》とは、荒妙《あらたへ》は藤の冠辭也。妙《たへ》は衣服の名也。荒妙《あらたへ》・和妙《にぎたへ》の事前にしるしぬ。荒妙《あらたへ》は布の總名也。藤にて織る布を藤布といふ。その布の衣を藤衣といひて、あらき物なれば藤の冠辭にあらたへとはいふ也。此集にあらたへの藤とつゞけたる歌あまたあり。藤原は地名、大和國高市郡にあり。宇倍《うへ》とは地上の義也。
食園《をしくに》とは、我國の總名也。瑞穗國といふよりおこりて、萬國にすぐれ萬民食にたる國なれば、此嘉名あり。
賣之賜牟登《めしたまはんと》とは、賣之は召也。天下の人民を呼入たまはん爲の意也。
都宮者高所知武當《おほみやはたかしられんと》とは、天下の人民皇都をあふぎのぞみて、かくれなき大宮としられむための意也。
(149)神長柄所念奈戸二《かんながらおほせるなへに》とは、如此はたゞ人のおもひかくべきことにあらず。大王も、神にてまします大王なるから、如此たぽせると也。奈戸二《なへに》とは、すなはちといふ詞と、義相り(か歟?)よふ古詞也。
天地毛縁而有許宮《あめつちもよりたれはこそ》(曾?)とは、人麻呂の歌に、山川毛依※[氏/一]奉流神長柄《やまかはもよりてつかふるかみなから》とよめると意同じく、當代の帝徳を天神地祇も感應まし/\て、冥助あればこそといふ義也。
衣手能田上山《ころもてのたなかみやま》とは、衣手能《ころもての》は、田の冠辭也。田は借訓にて、義は手《た》とつゞけん爲也。衣は形をかくす爲也。しかるに手は袖口より出て用をなせば、衣出の手とうけたる義也。衣手とは袖を言也。
眞木佐苦檜乃嬬手《まきさくひのつまて》とは、眞木《まき》の釋は前にしるしね。佐苦《さく》は割也。木を割切は刃なれば、刃の冠辭に眞木佐苦《まきさく》と云。刃の古語をひといふ。今は通音にて、身と云。刃《ひ》と檜《ひ》と同音なれば、眞木さくを檜の冠僻とす。日本紀の歌に、莽紀佐倶避能伊陀圖嗚《マキサクヒノイタトヲ》とあり。古事記にも、三重《みへ》の釆女の歌に、麻紀佐久比能美加度爾《マキサクヒノミカトニ》とよめり。檜《ひ》の嬬手《つまて》とは、檜木を釋美していふ古語也。我國に宮殿を造る良材に、檜を最上とすることは、神代に、素盞嗚尊《スサノヲノミコト》の神勅あり。日本書紀神代上にみへたり。
物乃布能八十氏河《ものゝふのやそうちかは》とは、物乃布《ものゝふ》とは、弓箭をおひ兵杖を帶する輩を云。よりて八十氏河の冠辭とす。八は、矢と同音なれば、物乃布《ものゝふ》の矢とつゞけたる也。八十氏河とは、宇治河は大河にて、湍《せ》のかずかず有を以て、八湍宇治河と稱する義也。十《ソ》と湍《セ》とは、五音相通は(ふ?)也。
玉藻成浮倍流禮《たまもなすうかべながせれ》とは、成《なす》はかう(如く歟?)といふ古語にて、玉藻のごとく水にうかべるを云義也。流禮《ながせれ》とは、かく宮木の檜の妻手を、近江の國田上山より切出して、宇治河に浮べながせるを云也。
(150)其乎取登散和久御民毛《そをとるとさわくみたみも》とは、其は宮木を指辭。御民《みたみ》は宮木をひく役民を云。われおくれじとはたらくを散和久《さわく》と詠り。
家忘身毛多奈不知《いへわすれみもたなしらず》とは、役民のおのが家をも身をもかへり見ず、なみ/\ならぬ八瀬うぢ川に入て宮木をとりあぐるを云。多奈《たな》は發語辭。多奈不知《たなしらす》は、たゞしらずといふにおなじ。
鴨自物水爾浮居而《かもしものみつにうかめゐて》(振假名誤字。本文と照合すべし)とは、鴨自物《かもしもの》は、鴨のごとくも(と歟?)いふに同じ。自物《しもの》といふ語例、此集にあまた有。かの役民の水に浮居るは、鴨とおなじ物の様なるを云也。自の字は濁りを(て歟?)よむべし。
吾作日之御門爾《わかつくるひのみかとに》とは、皇居を天上に比すれば、朝庭を日の御門と云。
不知國依巨勢道從《しらぬくによりこせちより》とは、名もしらぬ國よりも、當帝の風化をしたひて、大營造をきゝつたへ、良材を奉るよしを幾(畿)内の名所に詞をかけつゞけて、持こせる意を、巨勢道よりとよめるなるべし。巨勢は大和の高市郡の地名也。一僻案には、越路を巨勢道と返(通歟?)音にてよめる歟。越の國に常世の國ありといにしへより云傳へて、雁の歌によみならはせり。しからば不知國の三字別訓有べし。
我國者常世爾成牟《わがくにはとこよにならん》とは、是より當世を尊祝して詠り。常世《とこよ》とは不變不易の世といふ義にて、神仙の國を云。神仙の國は、俗人傳へきくのみにして、至る所にあらざれども、當代より我國神仙の國とならんと也。そのしるしの大陽(瑞?)あらはるゝよしを下にいへり。
圖負留神龜毛新代登泉乃河爾《ふみおへるあややしきかめもにひみよといつみのかはに》とは、圖負留神龜《ふみおへるあやしきかめ》の出しは、當帝の御おやの天智天皇九年六月、背に(151)書2申字1上黄下玄長六十|許《はかり》の龜出たること日本紀にみへたり。これをふまへ、異國の俗書の故事をふくみて詠り。新代とは、當代より常世となる始の御代とて、大瑞あらはるゝさまに、龜の出るといふ詞につゞけて、泉乃河にとはいへり。此泉の川に(は歟?)河内の泉州なるべし。今の和泉國はもと河内國の郡名なり。元正天皇靈龜二年に河内國を割て和泉國はおかせしなり。
眞木乃都麻手乎《まきのつまてを》とは、上にいへる檜乃嬬手《ひのつまて》とおなじ。上には檜一種をいひ、下には諸木を云と、わかちてもみるべし。
百不足五十太爾作沂須良牟《もゝたらぬいかたにつくりのほすらん》とは、百不足は、五十《い》の冠辭なり。五十と書て、いそとよまず、いとのみよむは日本紀以來のこと也。百不足の語は、八十にも、五十にも、三十にも、皆用ひで冠辭とす。もと百の數にたらぬをいふ語なれど、音のかよふにつきて、筏にも、池にも、百不足とよむ也。
伊蘇波久見者《いそはくみるは》とは、いくぱくとも、そくぱくとも、又はいそぱくともいひて、物のかず多きを云詞也。かの眞木の嬬手をかずかぎりもなく、大宮造營の爲に、諸國より運送するを見ることは、なみ/\の帝特にてはかくは有べかず。當帝神なるから如此なるべし。と、持統天皇を尊稱して結局に趣意を顯はせり。
神隨爾有之《かみなからならし》とは、前にいふごとく、神隨は惟神の義にて、神なるからかゝるにて有らしといふ句也。
歌の意は、凡新都の經營は、世によりて役民のよろこばざること、異域・本邦その例あまたあり。しかるに此歌は、新都經營の課役を憂へずして、當世の天皇を稱讃し奉りて、先大造營をおぼしめし(152)たつも、天皇神にてましますからなれば、天神地祇も經營をたすけ給ふしるしに、造營の此時に合ふ良材をあらはし給ふよしを始に擧たり。中には、良材の出たる山は、近江國の田上山としらせ、その宮木を流すは(は一字※[手偏+讒の旁]入?)河は、山城國の宇治川といふことをのべて、そのながせる宮木をとりあぐるとて課民のわれ先にとあつまりさわざて、身命を忘れて、水鳥の水にうかべるごとくに河水に浮居て、とりあげたる木を、藤原におくりて、大宮造給よしを詠り。終には、たゞ近江國の宮木のみにあらず、名もしらぬ國より、此時の造營に仕へた(奉歟?)らん。と良材を運送し奉るを、大和の巨勢・河内の泉の川より、筏に作りて泝すさまを詠て、畢竟、常世の帝王神特まします故に、萬國の民も、風化にしたがひ、山川の神も、大瑞をあらはすよしをのべて、此新都經營の爲の良材、萬國よりかずかぎりもなくつどふをみれば、おのづから當帝神聖にます故としられたりと讃稱し奉る結句に、神ながらならしとよめり。都營(宮?)者。此三字、古本・印本共にみやこにはとよめり。てにをはも合はず。宮の字もあまれるに似たり。よりて今おほみやはとよむ也。義はことならず。
高所知武等。此五字を印・古兩本、たかしるらんとよめり。てにをは心得がたし。よりて、たかしられんとよむ。
所念。此二字、印・古兩本、おもほすとよめり。今、おほせるとよむ。義はことならずとも、所の字はおほくはラリルレロの訓に用ゆれば也。
(153)縁而有許曾。此五字を印・古兩本、よりてあれこそとよめり。今、よりたればこそとよむは、約言の訓傳也。義はことならず。
眞木佐苦檜乃嬬手乎《まきさくひのつまてを》。此句義・仙覺註釋に、檜の木は木の中にことに良木なれば、宮造の材木に取もちゐらるれば、眞木のさいはふ木といふ也。嬬手とは、つまといふはつゞくと云詞、又つむと云心をもかねたり。手はながら(し?)といふ詞なり。心は、宮木の材木をいかだにつみてながせるを云なりといへり。是仙覺古詞をしらざる臆説也。
嬬手。此二字を古本には、わきもこかて、とよみ、又はたをやめかてとよめり。共に訛なり。下の句にも、眞木乃都麻手《まきのつまて》とあるをみざるにや。印本には、つまてとよめり。これ仙覺が訓なるべし。尤是也。仙覺は此集全篇にわたりたる訓をつけて、おほく古訓にまされり。しかれども句釋にいたりては、鑿説おほくてとるにたらず。
或問云。眞木佐苦《まきさく》とは、宮造の良材をきりこなげて、柱に作りなすをさくとは云也。嬬手《つまて》と云は、木のふし立る所もなく白くうつくしきをほめていふと言説あり。し(か脱?)らずや。
答て云。眞木さくの説は、しかりともいふべし。しかれども、ひとつゞく義、嬬手等の説はしかるべからず。つま木こるとよむ歌は、いかにし(て脱?)か解すべき。諸木をつま手ともいふ也。檜の木のふしもなく白くうつくしきのみをいふ古語にてはなし。諸木をつまと云ことは、もと木種《こたね》の神を抓津姫命《ツマツヒメノミコト》といへば、木の神名より呼來れる也。
(154)不知國依巨勢道從。此不知國の三字を、古本には、しらぬくにとよめるを、仙覺あらためて、いその國とよめり。印本の訓是也。かの仙覺註釋に、男聲女聲同内(?)相通などことひろくいひて不知をいそとよみ、いそのくには、大和國磯上郡のことゝいへり。此説はいその國よりこせちよりとつゞけたる句は、さもきこゆれども、我國者、といへる句つゞきによれば、しらぬ國は、異域を云説まさるべくおぼゆれば、古本の訓にしたがひて釋をなす也。いその國・しらぬ國・巨勢道・越路の説、好む所にまかすべし。
新代。此二字を古本も印本もあたらよとよめり。勿論新の字の訓のあたらしきを略して、あたらとよむこと非にはあらざれども、惜《をし》む古語をあたらといへば、あたらよは禁句に似たれば、新代の二字は、にひのよとか、にひみよとかよむ方まさるべし。新の字古訓にひ也。新甞をにひなめとよむにてもしるべし。
泉乃川。此泉乃川は、山城と河内と兩義なり。かの仙覺説に、不知國をいそのくにとよむ義にしたがはゞ、山城の泉川と見るべし。しからば眞木乃都麻手《まきのとまて》といへるに、上の句の檜乃嬬手《ひのつまて》にして、田上山の宮木とみて、宇治川にうかべ流し、淀川にくだし、それより泉州に泝して、大和の藤原にいたらしむるなるべし。しかれ共、近江・山城・大和・河内の畿内の名所をあげ、名もしらぬ國よりも、造宮の良材を奉りおくるに、意先ひかれたれば、泉の川をも河内の泉とは釋しぬ。もと山城の泉川、名は輪韓《ワカラ》河なり。崇神天皇の御世に、埴安彦《ハニヤスヒコ》の軍の時、河を挾て相いどみしより、挑河《イトミカハ》と名づけたる(155)を、後あやまりて泉河といふよし日本紀にみえたる(れ?)ば、泉河は正名にあらず。よりて河内の正名の泉川に宮木をひくに愚意ひかれたり。且此集第十一卷の寄物陳思歌の中に、宮材引泉之追馬喚犬二立民乃《みやきひりくいつみのそまにたつたみの》息時無《やむときもなく・いこふときなく》戀渡可聞《こひわたるかも》とよめる歌あり。此歌の前後攝津の歌なれば、此宮材引泉も河内の泉とみえたれば、山城の泉川の説にしたがはざりき。しかれども又僻案の越路の説をとらば、山城の泉川にしたがふべし。
神隨爾有之。此五字を、古本。印本共に、かみのまゝにあらしとよめり。此訓にては、かの宮木をはこぶ民數おほく見ゆれば、天皇のおぼしめすまゝに、宮造に不日に成んと云意にもみゆる也。此義もしかるべけれども、神隨の二字は、かみながらとよむ古訓なれば、其意少たがへり。作者の意はしりがたけれども、上の句に、神長柄所念奈戸二《かみながらおほせるなへに》と有に首尾を合せて見れば、かみながらならしとよむ方まさるべし。爾有之の三字を、ならしとよむは約言の訓傳也。
 
右日本紀曰、朱鳥七年癸己秋八月幸藤原宮地八年甲午春正月幸藤原宮冬十二月庚成朔乙卯遷居藤原宮
 
日本紀は卷第三十也.朱鳥は天武天皇の年號也。持統天皇の年號にあらず。刪去べし。七年は持統天皇七年也。古註者此日本紀をひける意は、天皇七年までは大宮ならざりしことをしらんとて、宮地に幸と有文を引、すでに八年正月には新宮なりぬることをあかさんとて、藤原宮に幸の文を引、その年の十二月には遷都ありける文を引て註せるなるべし。
 
從明日香宮遷藤頂宮之後志貴皇子御作歌。
 
(156)明日香宮も、藤原宮も、同じく高市郡にありし也。書紀に、藤原宮在2高市郡鷺栖坂北地1と見えたり。志貴皇子は天智天皇の皇子之。施基皇子と有も同じ。續日本紀卷第七云、【元正】天皇靈龜二年八月甲寅二品志貴親王薨。從四位下六人部王正五位下縣犬養宿禰筑紫監護喪事親王天智天皇第七之皇子也。寶龜元年迄追尊稱御春日宮天皇。
御作歌。前にも云ごとく、諸皇子の歌は此集におほくは御歌と書たれば、作の字は去べき歟。但後に春日天皇と申せば、阿閇皇女の歌を御作歌とかける類にて、撰者き(?)ありてかける歟。さらば作の字去べからず。
 
※[女+采]女乃。袖吹反。明日香風。京都乎遠見。無用爾布久。
 
みやひめの。そてふきまきし。あすかかせ。みやこをとほみ。いたつらにふく。
 
※[女+采]女《みやひめ》とは官女を云。宮姫の義を風流女《みやひめ》といふことを兼てよみ給へり。
明日香風《あすかかせ》は、明日香は地名也。その地その地に吹風を皆その地の名を呼で、何風といふは常のことなれど、明日香の地名は、もと履中天皇の御宇より起りて、甚うつりかわる故事有名なれば、此歌もうつりかはる心を含みて、明日香風と詠給へる歟。後々の歌に淵瀬かはるごとに、あすか川をよみならはすも、明日香の名によること也。歌の意は、明日香の地、都にて有し時は、あまたのみやひめの袖をふき返して、風も興有しに、今藤原の地に遷都の後は吹風かひなきよし也。
※[女+采]女。此二字を、古本印本共に、たをやめとよめり。たをやめは女子の總名なれば、婦人女子等の(157)二字にはあたるべからず。そのうへ、たをやめは貴賤の差別もなく、婦人の稱なれば、舊都に婦人なかるべきにあらず。しかれば歌の意も得がたし。よりて僻案の訓に、※[女+采]女の二字をみやひめとよむ。みやひめは官女をいへば、あすかの地今舊都となりては、官女も有べからず。おのづから風流女と(も?)舊都には有まじければ也。
或問云。※[女+采]女の二字たをやめの訓は、まことにあたるべからず。みやびめの訓かなふべき義有や。
答云。僻案に※[女+采]女は釆女の二字なるべし。釆女は官女なること更にいふにをよぶべからず。眞木の二字を槙に作、田鳥の二字を鴫と作類にて、釆女とも※[女+采]ともかけるを、轉寫僞りて※[女+采]女に作りたるなるべし。今にては女の衍れるに似たり。
吹久(反?)。此二字、古本印本共に、ふきかへすとよめり。しかれどもふきかへしなどやうに、過去のしの助辭をそへざればてにをは全からず。よりてふきまきしとよむ。此歌※[女+采]女も義訓の字、無用の字も義訓なれば、吹反も片義訓を用る也。此集の中、二字の内一字を義訓する例あまたあり。これを片義訓としるす。下背效(做?)此。
 
藤原宮御井歌。
 
御井は大宮造營の時掘たる井にはあらず。上古より有し井也。朝廷に用ひらるゝ故に御井とは云也。
 
八隅知之。和期大王。高照。日之皇子。麁妙乃。藤井我原爾。大御門。始賜而。埴安(158)乃。堤上爾。在立之。見之賜者。日本乃。青香具山者。日經乃。大御門爾。春山跡。之美佐備立有。畝火乃。此美豆山者。日緯能。大御門爾。彌豆山跡。山佐備伊座。耳高之。青菅山者。背友乃。大御門爾。宜名倍。神佐備立有。名細。吉野乃山者。影友乃。大御門從。雲居爾曾。遠久有家留。高知也。天之御蔭。天知也。日御影乃。水許曾波。當(常?)爾有米。御井之清氷。
 
やすみしゝ。わかおほきみ。たかひかる。ひのみこ。あらたへの。ふちゐかはらに。おほみかと。はしめたまひて。はにやすの。つゝみのうへに。ありたゝし。みやりたまへは。やまとの。あをかくやまは。ひたゝしの。おほきみかとに。はるやまと。しみさひたてり。うねひの。このみつやまは。ひよこしの。おほきみかとに。みつやまと。やまさひいまし。みゝたかの。あをすけやまは。そともの。おほきみかとに。お(か歟?)しこなへう(か歟?)みさひたてり。なくはし。よしののやまは。かけともの。おほきみかとに。くもゐにそ。とほくありける。たかしるや。あめのみかけ。あめしるや。ひのみかけの。みつこそは。ときはなるらめ。みゐのしみつは。
 
藤井我原《ふぢゐかはら》は、藤原也。此原にむかしより名井有が故に、藤井が原とも云。ことに此歌は御井を詠る歌なれば、藤腹を藤井が原とはよめる也。
埴安乃堤上《はにやすのつゝみのうへ》とは、埴安の名は、神武天皇の御時より起れり。事は日本紀卷第三にみへたり。堤上と(159)は、埴安の池あればその池の堤の上なるべし。
在立《ありたたし》とは、在は發語辭也。存在の義にて、祝稱の意を兼て用ゆる所おほし。
見之賜者《みやりたまへは》。賜の辭、後と(世?)は、高貴の人の言行につけていふ詞にかぎれども、むかしは貴族にかぎらずみづからの言行にもそへていひしなり。されば、此句に賜の詞あれども、御井歌の作者のみやればといふ義也。しかれども、もし天皇もみそなはし給ふ節を兼て詠る古歌の一格にや。人麻呂の歌に此類のことあり。
青香具山《あをかぐやま》は、青垣山也。かくとかきとは國音相通なり。
日經乃《ひたゝしの》とは、成務天皇の御時より、東西を日縱《ヒタゝシ》と名付。これら也。よりて、此歌には東方を日經とよめりとみゆれば、青垣山は御門の東にあたるか(一字※[手偏+讒の旁]入歟?)なるべし。
春山跡之美佐備立有《はるやまとしみさひたてり》とは、御門の東方にあたりたる山なれば、春山といへり。之美とは、草木のしげりたるを云古語也。佐備とは、ふりたるをいふ古語也。されば、おひしげりてふりたるを、しみさびとはいふ也。立有とは、山のすがたを稱する詞也。
此美豆山《このみつやま》とは、美豆は稱美也(之?)辭也。瑞籬といひ、瑞のみあらかなどいふ類也。畝火山をほめて此瑞山と詠めり。
日緯能《ひよこしの》とは、成務天皇の御時、南北を日横《ヒヨコシ》と定められたれば、上の句に日經といへるに對して、南方を日緯とよめりと見ゆれば、畝火山は御門の南にあたれるなるべし。
(160)彌豆山跡山佐備伊座《みつやまとやまさびいまし》とは、畝火山を瑞山と稱して、年ふりたるを山佐備伊座とはよめり。山佐備は、神さびと義おなじ。
背友《そとも》とは、是も成務の御時、山陰を背面《そとも》と名付られたれば、青菅山は御門の背にあたれるを云なるべし。
宜名倍《かしこなへ》とは、神さびといはん爲の序なり。かしこはおそれうやまふ辭也。名倍は助語辭也。とこしなへの義も有べし。
名細《なくはし》とは、吉といふ山の名を稱美していへり。衣通姫の歌には、なくはしさくらとよみ給へるに准へてしるべし。香ぐはし・眞ぐはしなどの類にて、ほむる詞にあまたよめり。
影友乃《かけともの》とは、是も成務の御宇に、山瑞(陽?)を影面と定められたれば、吉野山は御門の正面にあたれる山なるべし。
雲居爾曾《くもゐにそ》とは、遠の冠辭也。
遠久有家留《とをくありける》とは、吉野山御門の面(南歟?)にむかへて、程遠くたてるをかくよめり。
高知也天之御影《たかしるやあめのみかげ》とは、此清水は上一人より、下萬人にしらるゝ清水なれば、高天にもしらるらんと也。さればにや、天のみかげも此水にうつると云義を、高知也天乃御蔭とよめり。
天知也日御影《あめしるやひのみかげ》とは、天にしらるゝ水なれば、日にもしらるゝしるしには、日のみかげもうつるといふ義にかくよめり。
(161)常爾有米御井之清水《ときはなるらめみゐのしみつは》とは、此藤原の井は天地にしらるる清水なれば、不變不易に盡る期もなく、天皇の爲に用ゐらるべき御井の清水なるべしと、井を稱し、御門を稱してよめる結句也。
此歌は、藤原宮の御井を題してよめるは、初に藤井我原に大御門始賜而《おほみかどはじめたまひて》とよみて、此井のもとより有て、地名にもよぶことをあらはし、しかもその名井有地に皇居と定め給へば、此井の嘉名天下に及ぶ清水の徳を顯はし、中にはその藤井我原の四面鎭護の山をめぐらして、御門のかためとなる地なれば、此井の有地は、皇居の地に相かなふことわりを述たり。終には此井上一人より、下萬人にしらるゝのみならず。天にしられ、日にしられて、天蔭日蔭のうつる井なれば、萬世不易の井なるらめと祝稱したる也。
日之皇子。此四字を一古本に、ひしりのみことよめり。印本に、ひのわかみことよめれ(る?)さへ古訓ならざるに、ひしりのみことは、何を證としてさはよむべきや。みだりなる臆訓なるべし。
埴安。此二字を八雲御抄には、た(う?)ゑやすと載させたまへり。埴と植と字形相似たれば、あやまらせ給ふにや。もし院の御本書あやまりて、植安と作たるを御覧じ給ひて、字のまゝによませ給へる歟。埴安の事も、日本書紀卷第一、神代上一書曰土神號埴安神とあり。同卷第三云。【神武】天皇以2前年《イニシトシノ》秋九月1潜《ヒソカニ》取天香山之塊土以造2八十平※[公/瓦]1躬自《ミツカラ》齋戒祭2諸神1遂得3安2定《ヤスタシタマフコトヲ》區宇《アメノシタヲ》1故號取土之處曰埴安とあり。
見之賜者。此四字を古本印本共に、みしたまへればとよめり。しは助語辭に用る常のことなれば見(162)給へればと云義なれども、しの助辭は句によりて好惡あり。みし給へなどゝいふしは惡し。四字をみそなはすればと歟、見やりたまへるなどよむべし。
日本。此二字、古本には、ひのもとのとよめり。尤五音によまれてよろしとすべけれども、故實にたがふことあれば、印本に、やまとのと四言によめるしかるべし。
青香具山。一説に天のかく山のことゝいへり。しからば、疊有青垣山とよめる人麻呂の歌も天香山とすべし。しかれども、此集あまた青垣山とみえたれば、天香山にては有べからず。八室御抄にも天香山の外に青かく山と載させ給へり。勿論八雲御抄には名所のたがひあまたあれば、御抄を證明とはしがたけれども、僻案のみにあらざる一證に引也。もし具の字は其の字のあやまりにや。五音相通じて垣山を香具山とはいふべけれ共、香山を垣山とはいふべくもあらず。日本紀の註に、香山此云介遇夜麼とありて、濁音なれども、此集には清濁の文字くはしからざる所あまたあれば、しひていひ(が脱?)たければ、可否猶後に詳かにすべし。
日經乃。此三字を古本には、ひのたてのと五言によめり。印本には、ひたてのと四言によめり。しかるを、今、ひたゝしの。とよむは日本紀に、日縱の二字を、ひたゝしとよみきたれば、日本紀の古訓にしたがへば也。
春山跡。此跡の字諸本路に作りて、はるやまぢとよめり。僻案に、路は跡の字を書あやまれりと見たり。しからざれば句意安からず。且下の句に、彌豆山跡《みつやまと》あれば、きはめて跡の字なるべし。より(163)て諸本の寫にも訓にもしたがはず。はるやまととはなす也。後しる人しるべし。
此美豆山者《このみつやまは》。一説に三山を云といへり。非也。いかにとなれば、上の句に三山ともに出たらば、此三つ山といふべし。畝火山一つ出して此三つ山とはいひがたし。その上、豆の字は此集にも濁音に用ゐたれば、三の字の訓のかなには見がたし。陽(瑞?)の字の訓のかなまぎるべくもあらざれば也
日緯能。此の三字を古本には、ひのぬきのと五言によめり。印本には、ひぬきのと四言によめり。しかるを、今、ひよこしとよむは、日本紀に、日横と書て、ひよこしとよみきたれば、これ亦日本紀の本訓にしたがへる也。
名細。此二字を古本には、なくはしきとよめり。これは上の日本の・日經の・日緯能等の句をも皆五言によめる類にて、句をとゝのへたる訓なるべし。一古本には、なたへなるとよめり。此集に白細此二字を、しろたへと訓たるを證としたる訓なるべし。しかるを、今、印本になくはしと四言によみたるにしたがふ。古詞の例なればなり。
清水。此二字を印古兩本ともに、きよみつとよめり。しかれども、きよみづはつまりて俗言にちかし。今、しみづはと助語辭を加へてよむ。是非はしる人しるべし。
 
短歌
 
此所に反歌とかゝず、短歌とかけること前に釋しぬ。
 
藤原之。大宮都加倍。安禮衝哉。處女之友者。之吉乃(召?)賀聞。
 
(164)ふちはらの。おほみやつかへ。あれせめや。をとめかとちは。しきめさるかも。
 
安禮衝哉《あれせめや》とは、安禮は我也。われをあれといふは古語也。衝哉とは、なさめや也。たれも/\宮仕へせめやとねがふを云也。
處女之友者《をとめかとちは》とは、處女は未嫁少女をいふ也。友とは輩といふがごとし。友どち・おもふどちなどいふ類也。
之吉召賀聞《しきめさるかも》とは、ひとしくめさるゝをいふ詞也。ひき/\によらず、おしなべてその人にあればめしつかはるゝ帝徳を讃稱する意に、しきめさるかもとは詠る也。
歌の意は、藤原の大宮のつかへは、われも/\せまほしくねがふ意を上句に述べて、下句にて、しかるゆゑを、をとめかともはしきめさるかもとよめり。當今女帝にてましませば、をとめがどちをしきめさるとよめり。されば、此歌の作者は處女とみへたり。持統天皇女帝にて、歌主も女にて、道相かなへり。男帝の御宇の歌ならば、此下句いかゞともいふべし。
安禮衝哉。此一句を古本と(も?)印本も、あれやせんやとよめり。しかれども、せんやとよみては、てにをは合ひがたし。よりて今、せめやとよむ也。衝の字せんとも訓例、此歌の外所見なけれども、衝は當也といふ字註あれば、せんとも、せめとも義訓するに難有べからず。此集第六卷、讃久邇新京長歌に、安禮衝之乍といふ句ありて、此歌と同三字あり。その句にては衝の字をつきとめより。もし此歌と同訓に用ひたる歟。しからば哉の字は、武の字の訛なるべし。安禮衝武の(165)四字にて、あれつかんとよむべし。安禮衝の三字連續の例もあれば、此句も、あれつかむとよむ義も有べくおぼゆれども、先諸本の訓義のやすきにしたがひ、てにをはを合せてあれせめやとよむ也。
處女之友者。此友の字を諸本、ともとよめり。義はことならねども、朋友にまざらはしければ、とちとよむ也。
之吉召。此三字を仙覺、しきりめすとよみて、かの註釋云。之吉の二字如古點者しきてめすかも云云。是その心はおなじかるべしといへども、吉をきとよむべきにあらず。今しきりと點せるは、吉文字のちとりとは同類相通也。されば、千手陀羅尼の悉吉多伊蒙をば、しきりたいもうとよむ、この心なりといへり。然れども此集の證據に千手陀羅尼はなりがたし。國書に吉の字をきりと用ひたる例所見なし。そのうへ吉をきとよむべきにあらずと云へるは、國書のかな書の例を仙覺しらざる説也。凡國書のかな書は、皆上の一音をかりて、吉の字なればきの音のみをとりて、下の音をとらざる也。是古今通例也。よりて今しきりの訓はし(と?)らず。之吉召の三字を、しきめさるとよむ也。古訓に、しきてめすと點せると(は?)、註釋にいへるしきりにはまされども、之吉の二字に、ての助語辭もそへがたければ、したがひがたし。今しきめさるとよむ。句意も二義有べし。一義は上にしるしぬ。今一義は重ねめさるゝ義有べし。古語にいふ重浪《シキナミ》・重播《シキマキ》種子等のしきとも見へたり。此一義は上句|安禮衝武《あれつかん》とみる句に相應ふべし。安禮衝武《あれせめや》といふ句には、處女はおしなべてめ(166)さるる説かなふべければ、上に一義のみをしるしぬ。
 
右歌作者未詳。
 
是撰者の文にあらず。古註者の文也。右歌とは長歌短歌二首を云なるべし。僻案には、長歌の作者は男女わかちがたし。短歌はきわめて女子の作なるべし。その語句中にそなはれり。もし親子の兩作歟。女子の一作歟。作者の名みえざればしひていふべきにあらねども、御井歌に有標題に、此短歌はかなひがたければ、長歌と短歌と、男女兩作にても有べきか。若此御井の清水を供奉するに、宮女のあづかるゆゑありて此詠有歟。此所に反歌とかゝず。短歌とかけるは長歌に屬せぬ意有て、撰者、短歌とかけるなるべし。反歌・短歌の辯はすでに上にしるしぬ。此短歌おもひ合すべし。
 
大寶元年辛丑秋九月。太上天皇幸于紀伊國時歌。
 
大寶は文武天皇の年號也。文武天皇五年三月に對馬島より、金を貢りたるによりて、年號を大寶とし給へり。事は續曰本紀卷第二にみえたり。前の例にては此所に藤原宮御宇天皇代とあるべきを、大寶元年に年號のみをしるせるは、藤原御宇とありては、持統天皇の御宇に混雜する故に、年號を以て差別したるとみへたり。年號の始は、孝徳天皇の御宇大化にて、其後白雉朱鳥等の年號あれども皆中絶せり。此大寶より今にいたるまで、相つゞきて年號絶ざれば、今故實に年號のはじめとするも、年號連綿の始なれば也。此標題に大寶元年としるし、次には慶雲三年などゝかけるも、此後年號を以て、御宇天皇代にかへたるとみえたり。
(167)太上天皇は、古本朱書傍註に持統天皇女帝也。太上天皇尊號從此始とあり。
幸于紀伊國は、續日本紀卷第二云。大寶元年九月丁亥天皇幸紀伊國冬十月丁未車駕至武漏温泉。とありて、太上天皇の幸を不載。此集と紀とおなじからず。僻案に、是は此集正説なるべし。いかにとなれば、太上天皇之性臨幸を好ませ給ひて、諸方に幸し給ふ事、日本紀・續曰本紀等にみへたれば、此時のみ行幸まし/\て、太上天皇殘りとゞまらせ給ふべきにあらず。うたがふらくは、續日本紀の天皇は太上天皇なるを、轉寫の時、太上の二字を脱失したる歟。但天皇・太上天皇幸紀伊國と紀文にありしを。太上天皇の四字を脱失せる歟にて有べし。
 
巨勢山乃。列列椿。都良都良爾。見乍思奈、許湍乃春野乎。
 
こせやまの。つらつらつはき。つらつらに。みつゝおもふな。こせのはるのを。
 
巨勢山《こせやま》は大和國葛上郡にあり。此葛上の巨勢山を詠たらば、此歌は行幸の路にてよめるなるべし。
列列椿《つらつらつばき》とは、巨勢山に生ひつらなれる椿なるや。しからば此椿は※[木+貞]なるべし。※[木+貞]はひめつばき、または、つらつばきといへば、生ひつらなれる義をよせて、つらつばきをつら/\つばきとよめるとみえたり。※[木+貞]は冬月青翠なら故に、一名冬青ともいへば、此幸の時節、此歌に相かなひ(ふ?)とみゆる也。
列列見乍思奈《つらつらにみつヽおもふな》とは、つら椿と云詞をうけかさねて、つら/\見乍とはよめり。めかれずしてみるをつらつらみると云。思奈とは、おもひなしと云義にはあらず。此奈はおもふかなと云奈なり。巨勢の春野を思ふかなとかへるてにをはの句也。
(168)歌の意は、此幸九月のすゑなれば、草木黄落する頃に、巨勢山と女貞相《つらつはき》つらなりおひて、露霜にも葉かへせねこと、つら/\見る/\あかねども、春にいたりて、此椿花さかむ時は、猶いかならんと、春の頃の山野をおもふよしの歌ときこえたり。
右のごとく釋をなして、歌の意得られたれども、此情此體此集時代にかなはず。よりて此歌に一僻案あり。先巨勢山うたがひあり。紀伊國に幸の時なれば、紀伊の山野をこそ詠べけれ、幸の路なればとて、京都の國の大和の巨勢山を詠べきにあらず。次には見乍思奈の句もうたがひあり。當時の景物を專らと賞愛せずして、來春のことをおもふ情は、古人の詠歌の情にかなはず。後々の人の詠歌の情のおもむき也。且、終句に、巨勢の春野乎といへる、此春の字時節の春にては詞つまるのみならず、發句に巨勢山といひて、尾句に春野と詠るぞ、尾停滯のうたがひあり。よりておもふに、此巨勢山は大和の葛上の巨勢山にては有べからず。紀伊國にこせ山こせ野有べし。しからずば、もし紀伊國の兄山《せやま》を小兄山《こせやま》と詠るなるべし。大比叡小比叡の類にて、一山にも嶺をわかちて、大山小山を稱する例いづくにもあれば、大兄山小兄山有歟。巨《こ》は發語辭なれば、兄山をこせ山と詠て、夫《せ》山を兼たる歟。椿は妻木にて、妻によせて夫山に相つらなれる妻木を兼たる辭とみへたり。されば春野も時節の春とはみえず。野の名とみえたれば、兄山につゞきたる春野といふ野なるべし。榛の木有原ははり原なるを、はる原ともよぶ類にて、榛野を春野ともいへる歟。しからば、椿は一種の女貞にもかぎらず。草木に假俗(借?)して椿の字をかける歟。此集此卷に吾松椿といふ句有も、われ(169)を待妻といふ意によせたる也。おもひ合すべし。諸木を都麻木《ツマキ》或は都摩手《ツマテ》などいふは、木種の神の都麻都比賣《ツマツヒメ》の名よりよぶよし前にもしるしぬ。その都麻都比賣は紀伊國に鎭座の神也。紀伊國の名も、もと、木の國にて、みきあらかの地名の故事もあれば、專ら木を稱する國也。されば、せ山に都麻木の生つらなれるを詠る歌なるぺし。次の歌に、朝毛吉木人の歌を類し(ひ?)ても見るべし。右の句釋にては歌の意異也。椿一種のことにあらず、こせ山より春野まで生つらなれるつま木の有を見つゝ、殘り留れる妻手(?)をこひおもふ歌なるべし。されば思奈の二字も、こひしなどよみて、都麻木を妻によせて詠るとみえたり。およそ旅行には、家なる妻子を思ふは古今の人情の常也。よりて此思奈はこせの春野を思奈にはあらず。こせ山こせ野を見つゝ妻をこひしを(?)とみるべし。是は新古の詠格を差別する僻案なれば、時代の風體をしる人は可否をしるべし。しらざる人はきはめて此僻案にはしたがふべからじ。よりて本釋にしるさず。
 
右一首坂門人足。
 
これは古註也。古註者所見ありて作者をしるせるなるべし。
 
朝毛吉。木人乏母。亦打山。行來跡見良武。樹人友師母。
 
あさもよし。きひとともしも。まつちやま。つらきとみらん。きひとともしも。
 
朝毛吉《あさもよし》は、木の冠辭也。
木人乏母《きひとともしも》とは、紀伊國人をかねて、樵夫を(校訂者曰。この間脱字あるべし)乏母《ともしも》とは、紀人共と云(170)義也。しもは助語辭也。乏母《ともしも》にめづらしきをかねたり。
亦打山《まつちやま》は、大和と紀伊との境に在山也。待と云義を兼たり。
行來跡見良武《つらく(き?)とみらん》とは、行幸の行列來と待みるらんの意也。
歌の意は、衾(表歟?)は樵夫の乏しくて來るを待心に、亦打山を詠て、木人のおそきを、つらきと亦打山を見るらんといふ義を兼て、來人は君人によせ、乏はめづらしきによせ、亦打山を待内山によせ、行來《つらき》を陣(行?)列の來れ(る脱?)によせて、天皇の行幸を、紀伊國人共の待のぞみて、行列の來をめづらしく見るらんとよめる歌ときこえたり。結句に二度|樹人友師母《きひとともしも》とよめるは、ふかく嘆ずる意有。古歌の一體也。
朝毛吉。これ木の冠辭といふことは諸抄同じ。その義にいたりては、まち/\の説ありて、一決しがたし。袖中抄に顯照萬葉五卷抄の序を引て、石川卿の説をいへり。其説云。朝炊v飯謂2之朝毛吉1也紀薪也以燒v之因v是將v曰紀伊國發言以爲2朝毛吉1耳とあり。此説道理至極にもきこえず。容易淺近の義にきこゆれば、かへりて正説なるべし。冠辭の古説は其義ふかゝらず。後世の至理を極めたる説とはこと也。萬葉五卷抄は名のみきゝて、いまだその抄を見ざれば、眞僞を知らねども、古説の致にきこゆれば、しばらくそにしたがふ。しかれども、吉の字をよひとかけるは、轉寫僞なるべし。吉の字はよしとか、よきとかはいふべし。よひとは云べからず。今あさもよしとよむは、吉野はふかくはえし野といふごとく、あさもえし、あさもやしなど音義相通ば也。そのうへ冠辭に、青(171)によし、又はやほによしなど云語例も有也。
行來。此二字を古本印本共に、ゆきくとよめり。今つらきとよむは行列の來るに義をとり、前後の歌につら/\つは木の詞の類したるを以て也。諸抄の説には紀人を行來と見るらんと釋せれども、見らんは見るらんなれば、たれをさしてしかいふやらん。句意やすからず。
 
或本歌。
 
此或本といふも、此集の異本なるべし。此歌は前の歌に、第一句第四句かはりたるのみにて、大概同歌と見ゆれば、前の巨勢山の歌の次に、或本歌としるして載べきを、朝毛吉の歌を一首へだててしるしたるは、此集一本には、此所に又此河上の歌を載たるを以てしかるなるべし。定本に此歌をのせた(ざ?)るは、同歌と心得て省きたる歟。定本に脱失したるを、註者補遺の意にて、此河上の歌をしるせる歟。所見あればこそ作者をも書加へたるべし。若同歌の異句ならば、此河上の歌義やすくきこえて、前の歌にまさるべし。
 
河上乃。列列椿。都良都良爾。雖見安可受。巨勢能春野者。
 
かはつらの。つらつらつばき。つらつらに。みれともあかす。こせのはるのは。
 
河上《かはつら》とは、河邊とおなじ。こせ河・こせ野をかけて、生つらなれる妻木をよめり。
歌の意、異なる義なし。こせ川の邊をかけて、立つらなれる妻木を、見ても/\見あかぬ當時の風情也。此歌にて巨勢能春野は、野の名なることいちじるし。時節の春ならば、行幸の時の歌にあら(172)ず。此歌を證として、前の歌の義も、春は野名なるべしとはいふ也。しる人しるべし。
河上。此二字を古本印本共に、かはかみとよめり。上の字をかみとよめば、上下に對する詞なれば、句意やすからず。川上河邊等の二字を日本紀に、かはらともよめば、片義訓に今かはつらとよむこと列列の詞重ねたる一體の歌なれば也。
 
右一首春日藏首老。
 
此註は所見ありて、作者をあらはせるなるべし。これによりておもへば、右の歌は前の巨勢山の歌の異説にては有べからず。一首隔てゝ載たるに眼をつくべし。古今同時同歌の例さへあれば、五句の中二句相かはり作者もことなれば、同時同類の歌とすべし。
 
二年壬寅太上天皇幸于參河國時歌。
 
古本朱書傍註に、大寶二年壬寅十二月十日甲寅太上天皇崩【持統】葬大内陵天武天皇同陵十月幸三河國十一月還宮十二月十日崩とあり。
續日本紀卷第二云。大寶二年冬十月乙未朔丁酉鎭祭諸神爲v將幸2參河國也甲辰太上天皇幸參河國令3諸國無v出2今年田租1云云。
 
引馬野爾仁保布榛原。入乱。衣爾保波勢。多鼻能知師爾。
 
ひくまのに。にほふはきはら。いりみたれ。ころもにほはせ。たひのしるしに。
 
引馬野は、參河國に有野の名也。
(173)榛原は、榛のおほく引馬野に生たる所をいふ。しの原・さゝ原などいふ類也。
歌の意は、行幸供奉の人々、にほふ榛原の中へ入て、旅衣をにほはせと詠り。さらば、引馬野にいたり、榛原のかひもありて、旅のしるしも殘りて興有べき意也。引馬野といふ野に、行幸の折にあひたる名もきこえ、太上天皇女帝なれば、供奉の宮女あまた有べければ、入みだれ衣にほはせなどゝ宮女等にすゝめたる風情さへ有べき也。
引馬野。或問云。此名今遠江國にありて參河國にはなし。もし參河遠江は隣國なれば地名混じたる歟。名所抄には遠江国に引馬野を載たり。非歟。答云非也。名所抄はおほくは後人の所爲にて古記にあらず。引馬野を遠江國としるせるは、蓁原は遠江國の郡名にあるによりて、何の考へもなく引馬野遠江とあやまれるなるべし。遠江國長上郡にひきぬまといふ地名あり。是を約言にひくまといへば、引馬と同名になる故に、混雜してあやまれるなるべし。此歌の蓁原は地名にあらず。遠江國の蓁原も、本は蓁おほく生たる原より名付たるにても有べけれども、續日本紀に太上天皇參河國幸、此集と符合すれば、此集此歌を證據とせずして、後人の説を證據とはしがたし。諸國の名所おほくは、古歌を以て後に名付たることおほければ誤すくなからず。
仁保布榛原。或問云。此榛は或説に萩にてはなし。はりと云木也。常にはんの木といふ。此木の皮を以て衣をそむる其色黄なり。よりて衣にほはせとは讀りとはいへり。まことに秋萩にては時節相(174)違せり。此幸十月のことなれば、萩の花は有べからず。されば此説しかるべき歟。
答云。榛をはりとも、はぎとも、いふは通音なれば也。榛蓁通用の字にて、衣にすり着るは野蓁也。古は萩の字をもちひたることなし。後に萩の字を用ひたるは、野蓁とみへたり。しかれば萩のことにあらずともいひがたし。行幸十月なれば、萩の花は有べからずといふはくはしからぬ説なるべし。歌ににほふ榛原とあるを、花と心得たる誤なるべし。衣にするは葉をも摺つけ、花をもすりつければ、榛※[手偏+皆](摺?)衣花にかぎらず。にほふといふこと、葉花にかぎりていふにあらず。色をいふ詞なれば、花過ても匂ふ萩原といふべし。はんの木の皮を以て衣を染れば、衣にほはせといふ説は心得られず。蓁原の中に入みだれて衣を榛すりににほはせとよみたるとみえたり。此時皮にて染る意有べからず。又しひていはゞ、なべては十月には花も過葉もかれにつゝ(る歟?〜)萩の、此引馬野には花も殘り葉もうるはしくてにほふが故に、かくよめりと見るとも難有べからず。草木は氣蓮により、例にたがひ、土地により、遲速有こと常のことなり。しからば一入めづらしき心ちもすべければ、衣にほはせなどゝよめると釋したりとも、非也ともいひがたかるべし。わきまへしるべし。
入亂。此二字を古本印本共に、いりみたるとよめり。しかれども、下の句に衣にほはせとあれば、いりみだれとよまずしてはてにをは合ず。
 
右一首長忌寸奥麻呂。
 
是も撰者の文にあらず。古註者所見ありて、作者をあらはせるなるべし。此集第二卷に意吉麻呂と(175)云同人也。
 
何所爾可。船泊爲良武。安禮乃崎。※[手偏+旁]多味行之。棚無小舟。
いづこにか。ふなはてすらん。あれのさき。(こ脱?)きたみゆきし。たなゝしをふね。
 
船泊《ふなはて》とは、船の岸につくを云。船はつる、船はてゝなども詠也。
安禮乃崎《あれのさき》は、參河國にありとみへたり。此崎をよめるは、安禮は指示辭なれば、打むかふ崎の名につきて也。すべて名所の詞によりて、一首の歌をもしたつるは歌のならひ也。その所にいたればとて、其名所のゆゑもなくよみ出すはせんなきことにする也。前の歌に引馬野など幸の時の名にかなへるをおもひ合すべし。
榜多味《こぎたみ》とは、こぎつれ、こぎならびなど云詞也。たの字濁りてよむべし。
棚無小舟《たなゝしをぶね》とは、大船には船の左右に棚と云物あり。これを船だなと云、せかいともいふ也。小舟には此棚なき也。よりて小舟を歌に棚無小舟とはよむ也。
歌の意は、小舟のこぎつれてあれの崎を行をながめやりて、いかなる所にかこぎはてつらんと、おぼつかなくおもひやるさま、旅行の情あはれあまりある海邊の眺望也。
船泊《ふなはて》。此二字を古本には、ふなとめとよめり。意はおなじけれども、ふなはては古語也。泊瀬の冠辭にも船をよむにてもしるべし。印本の訓ふなはてとあり。しかるべし。
榜多味《こきたみ》。或説に榜めぐるを云といへり。此歌のかなを證として、おほくは囘の字をたみとよめり。(176)意はさもきこゆれども、か(め歟?)くるを多味といふ語釋心得られず。
 
右一首高市連黒人。
 
釋あ(前歟?)に准知すべし。
 
譽謝女王作歌。
 
續日本紀卷第三云。文武天皇慶雲三年六月癸酉朔丙申從四位下與射女王卒。
 
流經。妻吹風之。寒夜爾。吾勢能君者。獨香宿良武。
 
みゆきふる。つまふくかせの。さむきよに。わかせのきみは。ひとりかぬらん。
 
流經《みゆきふる》とは、妻といはん爲に、時節の寒天を幸經《みゆきふる》によせて、み雪ふるとよめるなるべし。
妻吹《つまふき(く?)》とは、夫を衣服のつまによせて、地名をよめるときこえたり。妻は地名とみえたり。しからずしては妻吹などよむべきことにあらず。此歌の前後も皆地名をよみて、御幸の時の歌とはきこえたれば、此歌一首地名をよまずしては有べからず。
歌の意は、此度の幸は十月より霜月までの寒天の節なれば、日數久しき御旅行を雪ふる時節をかねて、雪ふり風ふく夜の旅宿はさこそさむからんと、獨ねの失意をおもひやりいたはれる也。夫の旅行に殘り留れる婦人の情さも有べし。
流經。此二字を古本印本共に、ながらふるとよめり。流の字はながれ、ながるゝなどよめども、ながらとよむ(こ脱歟?)といかゞときこゆ。加之つとつゞくべき句意やすからず。よりて片義訓にみ(177)ゆきふるとはよむ也。流は水行と云字註ありで、水行はみゆきとよまるれば也。
 
長皇子御歌。
 
長皇子は天武天皇第四皇子也。此所に古本朱書傍註あれども、訛字おほく、薨をしるせる事、年月のあやまれることあれば、省てしるさず。日本書紀卷第二十九、天武紀下云次妃大江皇女生長皇子與弓削皇子云云。
 
暮相而。朝面無美。隱爾加。氣長妹之。廬利爲里計武。
 
よひにまきて。あしたおもはち。かくれにか。けなかくいもか。いほりせりけん。
 
此歌第一二句は、隱れといはん爲にまうけたる也。暮《よひ》に相《まき》て朝面《あさのおも》を耻るは婦人の通情なれば、かくれしのぶ意よりかくつゞけたり。此第一二句は此集第八卷にも隱野のとつゞけてよめり。隱爾加《かくれにか》とは、隱は伊勢の地名也。隱山隱野(以下全文脱)氣長妹とは、氣は發語辭也。長皇子の妹、此時從駕なる長旅をおもひやりてよみ給へる也。
歌の意は、長皇子の妹幸の御ともにて有しをおもひやり給ふに、隱れといふ地名を趣意にてしたて給ふる也。かくれといふ名もあしければ、旅のやどりほどふることをいたはり給ふ意に、隱にかと心つかひしてよみたまへるなるべし。
暮相而。此三字を古本印本共に、よひにあひてとよめり。句義は同じけれども、まくといふは古語なれば、よひにあ(ま?)きてとよむ也。
(178)朝面無美。此四字を古本には、あしたおもなみとよめり。印本には、あさかはなしみとよめり共にあやまり也。此第八卷に、縁達師謌に、暮相而朝面羞隱野のとあれば、羞と無美と書かへて、義訓させたれ(り?)とみえたれば、今、あしたおもはちとはよむ也。古本の、おもなみといへる句義きこへず。印本の訓は仙覺の説とみえたり。朝面を、あさかほとよめるは可也。無美の二字を、なしみとよめるは語例なきこと也。
廬利爲里計武。此六字を一古本には、ふせりせりけん。とよめり。曰(田歟?)廬の二字を此集にたに(ふ歟?)せとよめるは語例なきにあらねども、に(ふ?)せりは俗言なれば用ゐがたし。印本いほりせりけんとよめるは、仙覺例(訓?)とみえたり。かの註釋に、いほりは、いをねたがると云也。ほりといふはねがふ詞、見まくほりなどいふがごとし。といへり。此義鑿説に似たれども、いは寢寐の字の訓、ほりは欲の字の訓常のことなれば、上の句の意に首尾を合せては、寢欲《いほり》の義をかねてよめるともみるべし。雅言によらば、やどりたりけんにても有べき歟なれども、古體の口風はいほりせりけんなるべし。よりて印本の訓にしたがふ。
 
舍人娘子從駕作歌。
 
此標題に從駕作歌と有にて、前の二首は從駕にて作歌にあらず。京都に留りて從駕の人をおもひやりてよめるとしられたり。歌の意もさはきこへたり。
 
丈夫之。得物矢手挿。立向。射流圓方波。見爾清潔之。
 
(179)ますらをか。さつやたはさみ。たちむかひ。いるまとかたは。みるにさやけし。
 
丈夫《ますらを》とは、勇士を稱ていふ詞也。たをやめと云に對していへば、男子の通稱に呼也。
得物矢手挿《も(さ?)つやたはさみ》とは、得物矢は矢の名也。もとは獵に用る矢をさつ矢と云。今は的央獵矢ことなれども、いにしへは通用したり。手挿は、手は發語辭也。しかれども、的射る時は手の指間にさしはさみてむかひ立ものなれば、その意をかねてもみるべしと云説あり。
圓方《まとかた》は、伊勢の地名也。仙覺伊勢國風土記を引て尤珍重すべし。今の世風土記の全書まれに殘れり。世に傳ふる風土記殘冊といふもの數十筒國にもあれども皆僞書也。仙覺の時代までは正記ありとみへて、此集の註釋にあまた引用ゐて、地名の證をあらはせり。かの註釋歌の意を釋することは、鑿説のみおほくてとるにたらざる説あまたみゆれども、證明に風土記をひける所は、珍重すべきことおほし。
仙覺祈(所歟?)引之伊勢風土記云的形浦者此浦地形似弱(的?)故以爲名也今已跡絶成江湖也天皇行濱邊歌曰|麻須良遠能佐都夜多波佐美牟加比多知伊流夜麻度加多波磨乃佐夜氣佐《マスラヲノサツヤタハサミムカヒタチイルヤマトカタハマノサヤケサ》
右の文にては、天皇の御製歌ともみえて、歌句も少たがひあれども、大概おなじければ、此集此歌と同意なるべし。風土記と此集との違ひ少は有べし。專ら此集の歌の證據には用ゆべし、しひて可否優劣を論辨するには及ぶべからず。
謌の意は、立向ふてまとかたの浦のくまなく見わたさるゝを賞嘆して、見るにさやけしと、結句に(180)よめる此歌の水(詠?)心なり。上の句はまとかたをいはん爲にまうけたる也。かゝる體を中古以來序歌と名付ていへり。古歌にも此體あまたあり。前の長皇子の歌も同體也。是皆地名を稱美してよむ一體としるべし。
清潔之《さやけし》とは、隈もなくあきらかに見ゆるを云古語也。さるから古記に分明の二字を書てさやけしといふに用ゐたり。
丈夫。此丈の字を古本印本共に大の字に作て、大夫の訓ますらをと心得たる説あるは誤也。大夫の訓はまうちぎみ也。丈夫の訓ますらをなり。混ずべからず。
得物矢。此三字を印古兩本共に、ともやとよめり。よりて仙覺註釋に、ともやとは弓いるには二人立むかひているに矢をこしにはさみている也。そのはさみたる矢をとも矢と云也。といへり。しかれども、とも矢といふ矢の名古語所見なし。もろ矢などいふことを、共矢といふともいはるまじきにはあらねども、伊勢風土記に此歌の句佐都夜多波佐美とみえたれば、得物の二字は義訓にかけるなるべし。さつ弓さつ矢は元由ある古語にて、此集に山のさつをなどよめるも同義也。よりて今さつやとよむ。或説にとも矢とよみて狩に物を得る矢といへるは、是に似て非也。故實をしらずしては辨へがたかるべし。猶第三卷の山乃佐都雄《やまのさつを》の下にていふべし。
 
三野連【名闕】入唐時春日藏首老作歌
 
三野連。古本朱書傍註に國史云大寶元年正月遣唐使民部卿粟田眞人朝臣己下百六十人乘船五隻小商(181)監從七位下中宮少進美奴連岡麻呂云云とあり。
右の傍註にては、此三野連は岡麻呂なるべし。然れども所引の國史は何の國史にや。いまだみあたらず。大寶元年正月に粟田眞人以下遣唐使を定められて、其年筑紫より海に入しかども、風波暴險して渡海することを得ずして、大寶二年六月に發して、慶雲元年秋七月に遣唐使歸朝の事は續日本紀に見えたれども、三奴岡麻呂の事をのせず。但續日本紀にはもれたれども、釋辨正朝慶朝元等も、大寶年中遣學唐國よし懷風藻にみえたれば、三野連入唐は此時のことなるべし。傍註者所見ありてかけるなるべし。猶後に詳にすべし。
名闕の二字は古註者加へたるなるべし。印本大字に書たるは不可也。古本小字に書たる可なるべし。よりて今古本の體にしたがふ。
續日本紀卷第二云大寶元年正月乙亥朔丁酉以守民部尚書直大貳粟田朝臣眞人爲遣唐執節使左大辨直廣參高橋朝臣笠間爲2大使1右兵衛卒直廣肆坂合部宿禰大分爲2副使1參河守務大肆許勢朝臣祖父爲2大位刑部判事進大壹鴨朝臣吉備麻呂爲2中位1山代國相樂郡令追廣肆掃守宿禰阿賀流爲2小位1進大參錦部連道麻呂爲2大録1進大肆白猪史阿麻留无位山於億良爲2少録1とみえたれども三野連姓名なし。
 
在根良。對馬乃渡。渡中爾。幣取向而。早還許年。
 
ましねよく。つしまのわたの。わたなかに。みぬさたむけて。とくかへりこね。
 
在根良《ましねよく》とは、三野連を指て老のいふ詞なり。在とは汝といふ古語也。いましともましとも云也。根(182)は尊長を稱する辭也。大兄《オホネ》宿禰《スクネ》阿婦《アネ》など云類にてしるべし。良とは教示辭にて、結句に早かへりこねといふにかけ合たる詞也。されば此發句は汝三野連よくといふ心也。
對島乃渡《つしまのわた》は、渡は海を云。済りの義にあらず。此時入唐對馬より渡海するなるべし。よりて對馬の海をよめり。
歌の意は、もろこしにいたるには、はるかなる海路にて、風波の難まぬかれがたければ、海神によく手向して、無事に早歸朝あれと、いにし(?)を述たり。
在根良。此三字を古本印本共に、ありねよしとよめる。よりて一説に在根良は峰の面白意也といへり。是歌の道をしらざる説也。又或説に對馬はもろこしにわたる船路に、此島の有に舟を着て、日よりをも待故に、此島をよしとほめたる也。つしまの高ねとて山のあれば、有根よしとはつゞけたりといへり。此説にては在根はある峰と云詞と解たる歟。是は歌の詞をしらざる説也。
或問云。或説に在根はあらき峰と云詞也といへり。此説も非歟。
答云。在根をあらき峰といふ説は、しかるべくもきこゆれども、良をよしと訓ては、てにをは合ひがたく、海中に幣取向而と有にかけあはず。可否は歌のてにはをしる人しるべし。
 
山上臣憶良在2大唐1時憶2本郷1歌。
 
山上臣憶良。古本朱書傍註に、大寶元年正月遣唐使粟田眞人高橋笠間等云云。憶良在其中歟。可尋慶雲元年七月歸朝とあり。
 
(183)右傍註に、大寶元年の遣唐使を略記しながら、憶良在2其中1歟可尋とは、傍註者續日本紀を考へ合せざるとみえたり。續日本紀に憶良も遣唐使の中にて、少録なるよしみえたり。前にしるしぬ。但可尋とかけるは續日本紀に无位山於憶良爲2少録1とありて、山上臣となき故に疑へる歟。上に於とは古記通用してかく例をしらざる歟。
 
去來子等。早日本邊。大伴乃。御津乃濱松。待戀奴良武。
 
いさましら。はやくやまし(と?)へ。おほともの。みつのはままつ。まちわひぬらん。
 
去來子等《いさましら》とは、去來は人をさをひすゝめる詞也。子《まし》とは前の歌の在《まし》とおなじく汝といふ古語也。此時同在唐の人々を稱していへり。等と有にて一人を指にあらざる事しられたり。前の歌には三野連一人をさしていへる(ば歟?)ましねとよめり。
大伴乃御津乃濱松《おほとものみつのはままつ》とは、大伴乃御津は攝津の地名也。歸朝の船つく所なればよめり。濱松をよめるは本郷の人の待こかぬらんとつゞけむとて松待戀とはよめり。濱松に意有にあらず。
歌の意は、題に憶本郷と有にて明らか也。憶良唐に在て本郷をおもふより、本郷の人も歸朝をまちわびぬらんとおしはかりて、おなじく在唐の人々をいさみ(?)すゝめて、歸朝をいそぐ心也。
去來子等。此四字を古本印本共に、いさことゝ(ことも歟?)とよめり。新古今和歌集卷第十にも、羈旅歌山上憶良としろされて、此歌をのせられたるにも、發句をいさこともとあり。僻案にいさ子ともとは、あまり俗言にして、しかも私の詞にきこゆれば、在唐の時よむべき詞ともおぼえず。憶良此(184)時は无位にて少録になりて遣唐使の數に加はれること國史にみえたれば、執節使大使等以下を、去來こどもとよむべきにあらず。憶良は大概文字をもしりたる人とみえて、少録にも任たれば、子者人之嘉稱なることをしりて、ましと云ことに子の字を書たるなるべし。しかるを後人子の字はことならではよまれぬことも(と歟?)おぼえたる輩、子等の二字を、こどもとよめるをまことゝして、新古今集にもいざことゝ(こども歟?)と書のせられたるにやあらん。ましは汝と同古語なれば、汝といふ所に子の字を用ひたる例かぞふるにいとまあらず。しかも、前の歌にあひならびてあれば、子等の二字ましらとよむことは、いま(と?)たやすかるべきを、古詞にうときともがらは、ましらをあやしきことゝすべし。さはいへど、もし此歌作者子等をこどもとよめるに決する證あらば、又一僻案あり。憶良兒息あまたありしよしは、此集の歌の中にもみえたれば、もし入唐の時子弟等相具しいたりて去來子等の句有歟。しからば日太(本?)邊の邊の字濁りてよむべし。一義あり。(校者曰、此所誤寫分明ならず)しかれども前説にてはおほやけに及ぼすべき歌也。いざこどもとよみては、私の義にはかなふとも、雅詠にならねばよろしからず。
或問云。去來子等の四字をいざやこらとよむ説あり。これは雅言にもきこゆれば、いざこどもよりはまさるべし。しからずや。
答云、これはこどもといふ辭を、拙劣なりとおもへる人さはよめるなるべし。しかれども、ことよみては、嘉稱にはならず。そのうへ去來の二字は、いざと訓常の事也。いざやとやの字をそへるもい(185)かゞ也。
早日本邊。此四字を、印本には、はやひのもとへとよめり。新古今集に(も?)これにおなじ。しかれども、日本の二字をひのもとゝよむは故實にかなはず。やまとゝよむは古訓古義也。一古本の例にも、はやくやまとへとあればこれにしたがふ。
待戀。此二字を古本も印本も、まちこひとよめり。新古今もしかなり。しかれども、戀の字は此集歌によりて其訓ことなること前にもしるしぬ。まちこひとつゞく詞優ならず。まちわびとつゞくれば心詞ともに相かなひきこゆれば、今まちわびとよむ也。しかれども、旬義ことなるにもあらねば、このむ所にしたがふべし。
或問云。御津乃濱松待戀とあれば、濱松戀るにや。故郷人のまち戀るにて有べくおぼゆれども、その詞なければ、濱松の心有て待樣にきこえたり。しからずや。
答云。無情の松、たれをまち戀ることあらんや。大伴乃と云詞はその意ありてよめるなるべし。古歌を見るならひ、すべて此傳有こと也。
 
慶雲三年丙午幸于難波宮時志貴皇子作歌。
 
續日本紀卷第三云。慶雲三年九月丙寅行幸難波冬十月壬午還宮とあり。此集と符合する也。
志貴皇子。古本朱書傍註に施基皇子天智天皇子母伊良都賣叙2二位1靈龜二年八月薨追稱御春日宮又號田原天皇靈龜二年葬田原西陵光仁天皇父也践祚之後追置2國忌山陵1也今不廢務但省除由不v見也(186)とあり。
御作歌。前にも志貴皇子の御歌を御作歌とかけり。僻案其所にしるしぬ。
葦邊行。鴨之羽我比爾。霜零而。寒暮夕。和之所念。
 
あしへゆく。かものはかひに。しもふりて。さえくるゝよひは。やまとししのはる。
 
葦邊行《あしへゆく》とは、難波宮に行幸の時なれば、當所當時の景色によりておもひを述たまへり。鴨は芦邊にすむ鳥、芦は難波江の景物なれば也。
鴨之羽我比《かものはかひ》とは、鴨の羽の上といはんがごとし、人のかひなといふに同じく、鳥の手は羽なれば、羽がひといひて、羽のうへをかねてよみ給へり。
歌の意は、なには江の旅ねのさむき夜に、大和をこひしのび給ふは、寒夜の獨ね故に、大和に殘れる妃などをこひしのび給ふ意有なるべし。
寒暮夕。此三字を古本印本共に、さむきゆふべはとよめり。僻案に暮夕の二字をゆふべとよみては一字あまるに似たり。よりて、さえくるゝよひはとよむ。寒の字を、さえとよみ、夕の字を、よひとよむ例此集にあれば也。
 
長皇子御歌。
 
志貴皇子と相ならべて載たるに、長皇子には御歌とかき、志貴皇子には御作歌とかけるは、撰者意有とみえたり。前後おもひ合すべし。
 
(187)霞打。安良禮松原。住吉之。弟日娘與。見禮常不飽香聞。
 
あられうつ。あられまつはら。すみのえの。おとひをとめと。みれとあかぬかも。
 
安良禮松原《あられまつはら》は地名也。日本紀神功皇后の卷の歌に、鴉智簡多能阿邏邏摩菟麼邏《オチカタノアララマッハラ》とよめる句あり。此所なるべし。
住吉之弟日娘《すみのえのおとひをとめ》とは、此娘住吉にすめるとみえたり。此證此集此卷の下にあり。弟日は娘の名なるべし。
歌の意は、あられ松原ときけば、名さへおだやかならぬ心ちするに、あられうちふる嚴冬の氣色ははげしかるべきに、おとひをとめとともに見給へばおもしろきよし也。すべて時節の風物も、見る人の憂喜の情によりて、おもしろくも、はかなくもおもひなさるゝもの也。かの隼別皇子の雌鳥皇女をつれて、素珥山を越給ひし時の歌に、はしたてのさかしき山もわきもことふたりこゆればやすむしろかも。とよみ給へるも、こゝとことのさまはことなれど、その情のおもむきはひとつ也。
霰打。此二字を古本には、みそれふりとよめり。印本には、あられふるとよめり。印本の例(訓?)は仙覺が説也。かの註釋に、玉篇竝東宮切韻等を引て、霰字はみぞれ・あられ本より兩訓あるよしをあげ、且四條大納言公任卿の和漢朗詠集の中に、あられに用ゐられしを證として、あられふりとよめり。尤しかるべし。此集にては、霞はあられに用ゐたるとみえたり。其證第四卷の歌にあり。打の字を義訓して、ふりとよめるはしかるべからず。正訓に、あられうつ。とよむべし。いかにと(188)なれば、雨も窓うつ雨などよみて、風情おもしろきこともあれば、あられうつといふ詞は俗言ならず。そのうへあられ松原とつゞけて、弟日といへる名も、古語のよせあることにて、嚴冬のはげしき気色も、おのづから打といふ詞にもそなはれり。よりて今、あられうつとよむ也。ふるくは、みぞれふる。とよめるとみえて、八雲御抄にも、原部にあられ松攝、万、すみよしみぞれふるとのせさせ給へり。みぞれふるは古訓にあらず。
住吉之。此三字を古本には、すみよしとよめり。印本には、すみのえとよめり。是亦仙覺の訓なり。彼註釋に攝津國風土記を引て證とせり。尤可なり。古記には吉の字おほくは、えと云辭に用ゐたり。住江を住吉と書のみにあらず。日吉もひえなるを、あやまりてひよしとはいへり。字につきて古語をうしなへり。此たぐひあげてかぞふべからず。言語に用ゐては、通音なればさまたげなきこともあれども、地名などによみあやまりては義そむけり。此歌の住吉もすみよしにあらず。すみのえなる證には、奥の左註に清江娘にもかけり。此集に墨江とかける所有にてもしるべし。日吉もひえなるが故に、日枝とも書、比叡とも書也。古の字はよしとも、よきとも、えとも、えしともよめども、江枝等の字を、よしとも、よきともよまれぬにて、地名の義たがふことをしるべし。
弟日娘。此三字を古本はおとひむすめとよめり。印本におとひをとめとよめり。是亦仙覺が訓なるべし。尤可也。今印本の訓にしたがふ。
 
(189)太上天皇幸于難波時歌。
 
太上天皇は、大寶二年十二月に崩じ給へば、此幸慶雲の年號のまへに載べきを、慶雲三年文武天皇の難波宮に行幸の次に載たるは此集の謬歟。但選者幸の前後によらず、難波宮にての歌故に、此所に次てたるにや。よりて太上天皇の幸の年月をしるさるゝ歟。太上天皇の難波宮に幸の事も、續日本紀にみえず。文武天皇三年正月に難波宮に幸ありて、二月丁未車駕難波宮より至給ふ事、續日本紀にみえたれば、若此の前三年の幸を慶雲三年と謬り、天皇を太上天皇とあやまりて、此集に如此載たるにや。末に大行天皇于難波宮時歌と載たるも、年月未審おもひ合すべし。
 
大伴乃。高師能濱乃。松之根乎。枕宿杼。家之所偲由。
 
おほともの。たかしのはまの。まつかねを。まくらにすれと。いへししのはゆ。
 
大伴乃高師能濱《おほとものたかしのはま》は、攝津國にあり。後には和泉國と心得てよみたる歌あり。あやまるべからず。
歌の意は、音にのみ高しの濱の名をきゝしに、今幸の御ともにて高師の濱を見るのみならず。海ちかきやどりには、濱松の音をも枕にしてねる夜は、めづらしかるべき心ちもすべきを、なれね旅宿の獨ねの物うきに、家人のことなどおもひ出てこひしのぶは旅客の通情也。直に松根を枕にしたるさまには見ゆれども、松の音にかよはしてよめるなるべし。これ古風の一格有事也。
枕宿杼。此三字を印本には、まくらねぬとかとよめり。これ誤也。杼の字をとかとよむ例もなし。義もなし。古本には、まくらにぬれととよめり。しかるを仙覺註釋に此訓を難して云。此歌下の句ま(190)くらにぬれどいへししのばゆと點ず。松が根をまくらにぬれどいへししのばゆと云べきにあらず。松がねを枕にしてねたらんは、尤家をしのびぬべきことにこそはべりぬべければ、まくらにねぬといへししのばゆと和(訓?)すべき也といへり。此釋は尤一義あり。しかれども、杼の字は此集濁音に用ひたり。此歌にかぎりて清音に用ゆべからず。よりて古本の濁音に用たる訓にしたがひて、今釋はなしぬ。されど、枕にぬれぬどは、少ことたらぬ詞に似たれば、まくらにすれどとはよむ也。義はおなじ。
或問云。松根を枕にするは安かるまじき事なれば、仙覺が釋しかるべくきこゆる也。若枕宿杼の三字異例は有まじきや。
答云。別に一僻訓なきにあらず。しかれども高師濱といふ名濱、此歌の肝心とみえたれば、古本の訓にしたがひて先右の釋はなしぬ。古來身の安逸のことに枕を高くするといふ古語あり。所も萬師の濱松が根、枕は高きをいひて、身のやすき意をふくめるなるべし。しからざれば杼の字、濁音のてにをはやすからず。
又問云。枕宿杼の三字をまくらにすれどもは、古本の訓よりは義やすくきこゆれども、宿の字をすれどはよみがたからずや。
答云。此集は全編古語をしり、約言をしりて云(書?)たれば、しる人はよみやすく、しらざる人はよみがたかるべし。ニスレの約言ぬれ也。ぬれの詞に宿の字をかけるとみえたり。此字格此集の中(191)例あり。猶その下にていふべし。
 
右一首置始東人。
 
旅爾之而。物戀之伎乃。鳴事毛、不所聞有世者。孤戀而死萬思。
 
たひにして。ものこひしきの。なくことも。きこえさりせは。こひてしなまし。
 
旅爾之而《たびにして》とは、旅寢して也。此集の歌に、爾はねにかよはし用ゐたる例あまたあり。
物戀之伎《ものこひしき》とは、物とは一事一物にかぎらず云義に物戀し、物かなし、物わびしなどいふ類也。之伎《しき》は田鳥の名を物戀しきとよみつづけたる也。之伎の二字も日本紀によれり。日本紀に鷸曰2之伎1とあり。すべて此集の文字音訓ともに日本紀に基づけり。眼を付べし。
歌の意は、藤原の都より難波までの御幸は、さのみ旅といふべきほどのことにしもあらねど、一よも旅ねは萬こゝろにまかせずわびしき物故に、そのことゝなく物こひしき意を、田鳥によみかけてせめて此鳥のなくこゑになぐさまるゝよしなり。餘情有歌なるべし。
 
右−首高安大島。
 
大伴乃。美津能濱爾有。忘貝。家爾有妹乎。忘而念哉。
 
おほともの。みつのはまなる。わすれかひ。いへなるいもを。わすれておもへや。
 
忘貝《わすれて(かひ?)》は、貝の名也。
此歌は、忘貝の名よりしたてたる也。忘と云詞のみにあらず。う(か?)ひと云詞を兼て心得ざれば、(192)意得やすかるまじき也。いふ意は、みつの濱にわすれ貝あれば、われも此貝の名にならひて、家なる妹を忘れんとおもへどもわすられねば、忘がひ有にてもなし。わすれ貝なきよしをいへり。わすられぬ證據には、家なる妹をおもふと也。おもふはわすれぬ故也。此意をわすれておもへやとはよめるてにをは也。おもへやといふ詞は、おもはめやといふ詞也。約言の傳を以てしるべし。わすられぬからおもへば、わすれがひの名をとがめてかひなきよしをよめる歌也。
 
右一首身入部王。
 
草枕。客去君跡。知麻世婆。岸之埴布爾。仁寶播散麻思乎。(訓脱)
 
岸之埴布《きしのはにふ》とは、是は住吉の岸にかぎりたること也。埴は借訓にて榛也。むかしは榛をはりとも、はにともいへり。五音通ずれば也。布も借音也。其地を云古語也。蓬生淺茅生の生是也。日本紀にあはふに粟田と書、まめふに豆田と書たるにてもしるべし。
仁寶播散麻思乎《にほはさましを》とは、これは住吉の岸の榛生の故事有こと也。むかし此榛生に郷里の男女つどひて野遊せしことあり。これを住吉のをへら(?)と云て歌うたひ遊樂せし也。これ竹取翁の九人の神女に逢し故事より起れりとみえたり。古語に吟詠することをにほふと云也。今はによぶと云。音通也。されば岸のはに生には遊樂を催して、吟詠の興をもよふさましをといふ義也。仁奉播《にほは》すは此歌の肝心也。埴布《はこふ》ゆゑ有詞也。
歌の意は、長皇子の難波の旅ねし給ふと聞て、清江娘子よみて奉れる歌なれば、客去君とは長皇子(193)を指て、かゝる旅ねし給ふことを兼てしりもせば、清江の岸野の榛生に、吟詠の遊興をもよほすべきを、にはかにきゝて催しがたきよしをなげく意をあらはせる歌。
客去君跡。此四字を古本印本ともに、たびゆくきみとよめり。是は字のまゝに訓て、此歌の趣意も、ことの由をも辨へざる訓也。此所の四首の歌は皆難波宮に幸の時の歌にて、難波の旅宿に思を述たる歌也。しかるを旅ゆくきみとよみては、又いづかたへ旅行とすべきや。おもはざることの甚しき訓也。發句に草枕とあれば、古詠は皆たびねとか、旅やどりとかよみならはして、草枕旅ゆくとよめる證歌なし。よりて僻訓に右の四字を。たびねするきみとよむ。客去の二字をたびねするとよむ例證は、前の歌の枕宿杼の三字を、まくらにすれどゝよむ格例にて、ネスルの三言は約言ぬる也。よりて去の字をかけるとみえたり。是等の字格は此集全編に通じ、國語の釋をしる人にあらずしては可否を辨へがたかるべし。
或問云。埴は、順、倭名類聚抄に釋名を引て、土黄而細密曰埴とあれば、黄土の事也。すなはち此集の中に黄土とも赤土とも書て、はにとよみたり。されば住吉の岸に此黄土生じたる故、きしの黄土生と歌によむといふ説あり。今榛生也といふ説は未曾有のこと也。はぎ・はに五音は通たれども、猶住吉の岸に榛生の證歌ありや。
答云。あり。此集第六卷の歌に、馬之歩押而止駐餘住吉之岸乃黄土爾保比而將去とよめる歌も、榛生よりにほひを兼てよめり。土ににほひてとよみ、にほはさんなどよむ義は、空燒などとにほはす(194)べきや。おもひわくべし。しかのみならず。第十六卷竹取翁の神女に逢時の和歌に、墨之江之岸野之榛丹丹穗所經迹丹穗葉寐我八丹穗氷而將居とよめる歌には、埴は榛の字を書たり。此等證歌ならずや。
 
右一首清江娘子進長皇子。【妹氏未詳】
 
清江娘子は、前に弟日娘と書たる同人也。姓氏未詳とは、清江娘子誰人の子といふ事古註者考へ得がたきを云註也。此姓氏未詳四字を印本大字に作りて長皇子の下にかけるはいかゞ也。娘子の下に有べき註なり。古本には小字に作れり。今これにしたがふ。
 
太上天皇幸于吉野宮時高市連黒人作歌。
 
此幸の年月をしるさゞるは、此列皆幸の時の歌をのせて撰者(撰ば?)幸の先後にかゝはらざるとみえたり脱※[尸/徙](?)に前吉野宮に幸の事あげてかぞふべからず。太上天皇の尊號以後の吉野の幸年月未審、もし御在位の時の幸を後にしるすが故に太上天皇幸と記せる歟。次に大行天皇幸とかけるを以ておもふべし。
 
倭爾者。鳴而歟來良武。呼兒鳥。象乃中山。呼曾越奈流。
 
やまとには。なきてかくらん。よふことり。きさのなかやま。よひそこゆなる。
 
倭雨者《やまとには》。倭嶺也。爾は助語辭の爾ならず。五音通じてねにかよふ所に此集おはく爾の字をかけり。前の歌にたびねしてといふ發句を、旅爾之而とかけるをも證とすべし。此外此集の中あまた例あり。
(195)象乃中山《きさのなかやま》は、吉野山の内に有山の名也。
歌の意は、呼兒鳥といふ名につきて感情をおこして、うしなへる子をたづぬるにや、今中山をよびこゆるは、倭嶺はとくなきてや來ぬらんとあはれむ心也。倭嶺といふ嶺をなきて來たりて、今中山にうつり、又中山をよぴこすにて、嶺も尾もたづね殘さぬさま、おのづから句中にそなはれり。
或問云。或説に、倭爾者とは、藤原都を指と云義あり。しかるべからずや。
答云。しかるべからず。他國にてよめる歌ならば、藤原都を指て倭ともいふべし。同じ一國の内の吉野にて、藤原を倭とは詠べからず。もと(し?)證歌ありとても此歌にては首尾相とゝのはず。
又問云。しからば倭嶺とは、いづれの嶺をさしていふべきや。
答云。倭の名は、もと山より起れば、倭一國にある嶺は、皆倭ねともいふべけれども、先はその國の大山をいへば、すなはもこの吉野嶺を指て詠るなるべし。甲斐がね、津島根のたぐひおもひ合すべし。
 
大行天皇幸于難波宮時歌。
 
大行天皇は、古本朱書傍註に、文武天皇也。號持統者謬也とあり。文武天皇を大行天皇とかけるは天皇崩じ給ひて、いまだ謚をつけ奉らざる間は皆大行天皇と書故實也。訓は太上天皇にても、大行天皇にても、さきのすべらみこと也。文武天皇崩御の後、大行天皇とかきたること有しを以て、撰者(196)かくしるして、太上天皇と差別したるなるべし。文武天皇難波宮に幸の事は、續日本紀に、大寶の先三年の正月にみえたり。此行幸のことを後にしるせるが故に、大行天皇幸とはかける歟。風俗通に、天子新崩未v有2謚號1故總其名曰大行皇帝也。とみえたり。天武天皇崩御の後、大行天皇と日本紀にかき給へるにてもしるべし。
 
倭戀。寐之不所宿爾。情無。此渚崎爾。多津鳴倍思哉。
 
やまとこひ。いのねられぬに。こゝろなく。ここのすさきに。たつなくへしや。
 
寐之不所宿爾《いのねられねに》とは、いはねるをいふ古語也。よりて寐寢等の字をいと訓也。ねてもねられぬなどいふことを、いのねられぬとは歌にはよむ也。
多津は鶴也。鶴は田におり居る鳥なれば歌詞にたづとよむ也。田之鶴の義也。言を略してたづといふ也。
歌の意は、大和と難波との程は、さのみはるかなる旅にもあらねども、旅ねといへば物かなしき故に、藤原都は常の住所なれば、やまとをこひしのびていもねられね夜に、すさきの田鶴の聲きこゆるに、哀も堪がたければ、田鶴のなかでもあれかしと思ふよしをよめり。鶴は夜鳴鳥なれば、妻をこひ子をおもふ鳥にいひならはして、夜の鶴の子をおもふなどいへば、旅ねのおもひをそふるから、こゝのす崎にたづなくべしやとは、なくべきことにはあらずと、旅懷に鶴をうらみていへり。情なくといふ詞にてきこえたり。乙麻呂の旅ねを鶴のしりたることにはあらねども、わがおもひの切(197)なるまゝに、鶴のしりてなくさまにうらめる也。かくはかなきさまによむは古歌の道也。
 
右一首忍坂部乙麻呂。
 
忍坂部はおさかべとよむべし。乙麻呂はおとまろとよむべし。
 
玉藻苅。奥敝波不※[手偏+旁]。敷妙之。枕之邊。忘可禰津藻
 
たまもかる。おきへはこかし。しきたへの。まくらのほとり。わすれみ(か?)ねつも。
 
玉藻刈《たまもかる》とは、玉藻の釋は上にしるしぬ。此詞たゞ藻をかるのみに用る所もあり、歌によりて、妹をもとむる義を兼ていふ所もあり。此歌衾(表歟?)は海藻なれども、裏には妹を求る意もかねたりとみえたり。下の句に枕之邊忘かねつもと有首尾をおもふべし。藻を女によするは、藻と裳と同言なれば裳は女の着る物故也といふ説あれ共、もとめとは五音通ずれば也。たゞちにいもともいへば、裳の義までにもをよばず。かるとは求むるを云古語也。いもがり行などよむこと前にもしるしぬ。
敷妙之枕《しきたへのまくら》とは、枕には用る物によりてその名をよぶ也。蒋にてするをこも枕といひ、黄楊にてするをつげの枕といひ。楮にてするを數妙の枕とはいふ也。敷は稱美之辭也。今の歌の敷妙は枕の冠辭也。
枕之邊《まくらのほとり》とは、枕は難波の地名とみえたり。手枕野などよめる歌あり。同所歟。難波に伏見といふ所もあり。夢といふ所もありとみえたり。伏見枕夢等の名皆その邊なるべし。されば此歌地名を閨の枕によせてよめるとみえたり。しからざれば枕之邊といふ句きこえず。もしは此地名住吉のちかき(198)あたりに有歟。猶後詳にすべし。
歌の意は、難波江の枕といふ名所のほとりの心にわすれがたくおもへば、枕の邊をはなれて、はるかに難波の海の沖へはこきゆかじと詠り。船といはずして、只こかじといひても、船をこかじときこえたり。こぐといふ詞、船にかぎりていふ詞なれば、まぎるべくもあらず。藻苅船あ(な?)れば、發句に玉藻苅奥敞とはつゞけられたり。おきは海中の遠くはるかなる所をいふ也。
敷妙之枕《しきたへのまくら》。一説に、枕はかしらにしきてねる物なればかくはいふ。妙とは、あらたへ・白妙と云如くくはしき心也。常に枕をしきなるゝ故也といへり。此説は論ずるにもたらざる義也。皆敷妙の字につきて古語をしらざる説なり。敷妙は二字ともに借訓の字也。敷妙と書てうつたへともよむ。うつたへも、しきたへにおなじく、たへをほむる詞也。妙は絹布の名也。上古は蒋を絹布にて包みて枕にせし也。その蒋につきてはこれをこも枕といひ、その絹布につきてはこれをたへの枕と云也。故實をしらざる輩は、昔にしく(?)義をなせり。
 
右−首式部卿藤原宇合
 
宇合は、うがふとよむべし。のきあひとよむ説あり。いとかたはらいたきこと也。
續日本紀卷第十二云。聖武天皇天平九年八月丙午參議式部卿兼大宰帥正三位藤原宇合薨。贈太政大臣不比等之第三子也。
 
長皇子御歌。
 
(199)吾妹子乎。早見濱風。倭有。吾松椿。不吹有勿勤。
 
わきもこを。つとみはまかせ。やまし(と?)なる。あれまつつはき。すさますなゆめ。
 
早見濱《はや(つと?)みはま》は、難波の濱の名なるべし。
倭有吾松椿《やまとなるあ(わ?)れまつつばき》とは、倭は藤原都を指て云。松椿は長皇子の園地に在木を、われを待妻とよせてよみ給へり。
不吹有勿勤《すさますなゆめ》とは、あるゝことをすさむと云。風のつよく吹を風すさむともいへば、濱風倭まですさむことなかれといふ意也。風すさめば樹木をあらす故に、松椿をすさますなと、濱風にはかなくあつらへ給ふ心也。勤《ゆめ》とは古語につとめよ/\などいふことを、ゆめとのみいひて制する古語也。よりて勤の字をも努の字をも用る也。
歌の意は、濱邊は常に風つよき故に、此濱風すさみて、大和なる松椿をも吹あらすらんかといとふ心に、ゆめ/\風にすさむなよと、はかなく御し給ふ心也。發句はつとみ濱といはんとて、妹子も早見たき心におけり。松椿を二木いへるは待と妻とを兼たり。
早見濱。此三字を古本印本共に、はやみはまとよめり。難波にはやみと云濱所見なし。津門《ツト》と云地名古記にみえたれば、この所なるべし。早の字ははやとも、つとゝもよめども、正訓はつと也。そのうへ、此歌にかぎりては、つとゝよむべき義もあり。津門《ツト》の詞より山門《ヤマト》なるの詞つゞきも古歌の一格也。よりて今つとみはまとはよむ也。
(200)吾松椿。此三字を、わがまつつばきと説(諸?)本によめり。此訓にては皇子の植置給へる園地の松椿とのみきこえて、雅言にあらず。あれまつつま木とよめば、荒松抓木によせて、吾を待妻木とうけらるゝ也。椿をつま木といふも、都婆幾といふもおなじこと也。濁音の傳をしる人はしるべし。
不吹有勿勤。此句を古本印本ともに、ふかさるなゆめとよめり。是は文字のまゝの訓なれど、さよみては句意もきこえず。今すさますなゆめとよむ。ゆめも夢にかよはして詠るともきこゆれば、さますなの義も有べし。わきもこをつとみと有詞も、皇子旅宿のおもひねに、故郷にまちわぶる妹子を夢に見給ふを、濱風あらくておどろかすなとよみ給へる歌ともみる義は有べし。宇合の歌の枕之邊忘かねつもの歌にならびたれば心おもひ合すべし。
 
大行天皇幸于吉野宮時歌。
 
大行天皇の事、まへに准へてしるべし。
 
見吉野乃。山下風之。寒久爾。爲當也今夜毛。我獨宿牟。
 
みよしのゝ。やまのあらしの。さえゆくに。はたやこよひも。われひとりねん。
 
爲當也《はたや》とは、又やといふに同じ。歎意ありて云詞也。あゝまたといふがごとし。
歌の意は、吉野宮に幸の供奉して、山下風のさえゆく比歎(?)夜の旅宿の獨ねをわびてよめる意あきらか也。
(201)山下風之寒久爾。此七字を古本印本ともに、やましたかぜのさむけくにとよめり。しかれども、山風のさゆると詠べきを、山下かぜといへる義やすからず。且さむけきにといふべきを、さむけくにとよめるもいかがなれば、今やまのあらしのさえゆくにとよむ。此集に、下風の二字を、あらしとよむ例證もあれば、したかぜにはあらで、あらしなるべし。かつ、寒久爾はさえゆくにとよみててにをは合へば也。しかれども、歌の趣意はさのみたがひもなければ、このむ所にしたがふべし。
 
右一首或云天皇御製
 
此註は、右の一首の歌定本には作者みえざるを、一本には、天皇御製歌とのせたるとなり。しかれば、天皇は文武天皇なるべし。前に慶雲三年の年號をあげてより、此次の一首までは文武天皇の御代の歌をのせたれば也。しかるに。新勅撰和歌集卷第八覊旅歌に、芳野宮にみゆき侍ける時、持統天皇御製も(と?)ありて、みよしのゝ山下風のさむけくにはたやこよひもわれひとりねん。とのせられたり。これは此集に大行天皇とあるを、持統天皇と決せられたるゆゑなるべし。此集に大行天皇とあるは、持統天皇に決すべき證記あらばこれにしたがふべし。もし大行天皇文武天皇の御ことならば新勅撰の持統天皇はあやまりなるべし。此集の前後の歌をわきまへ、且歌のおもむきをもしる人は新勅撰の是非をしるべし。くはしく論ずるに及ばず。
 
宇治間山。朝風寒之。旅爾師手。衣應借。妹毛有勿久爾。
 
(202)うちまやま。あさかせさむし。たひにして。ころもかすへき。いもゝあらなくに。
 
宇治間山《うぢまやま》は、吉野の内に在山なるべし。攝津國に宇治とかける地名あれども、大和には宇治とかける地名所見なし。後に詳にすべし。
旅爾師手《たひにして》は、旅寐して也。前に旅爾之而の發句の歌も旅寢して也といひしこと此歌にてもしるべし。
有勿久爾。此詞の爾文字、通例はかへるてにをはなれど、歌によりて、上の句へかへるてにをはならず。句終辭のみに用ひたる例あまたあり。此句も、有勿久といふまでにて、爾文字は句終辭と見るべし。句終辭は皆歎意有辭としるべし。
歌の意は、妹もなき旅ねして、宇治間山の朝風の寒きをわびてなげく心也。吉野山といはず、宇治間山を發句に出たるは、憂にかよふことばなれば也。
 
右一首長屋王
 
古本朱書傍註に、長屋王左大臣也。天武天皇孫高市王子也。元正聖武二代大臣也。養老五年正月任大臣云云。天平元年二月、辛未年末、謀反伏被誅。年四十六。とあり。猶長屋王の事續日本紀にみえたり。その文長ければしるさず。
 
和銅元年戊申天皇御製歌。
 
和銅は元明天皇の年號也。慶雲五年正月乙己武藏國秩父郡より和銅を獻しによりて、慶雲五年を改(203)めて和銅元年とし給へることは、續日本紀卷第四にみえたり。
天皇は元明天皇也。これよりは元明天皇の御代の歌を載たり。此所寧樂宮御宇天皇代と有べきを、和銅元年とかけるは、其辨すでに大寶元年の下にしるしぬ。准へてしるべし。
 
丈夫之。鞆乃音爲奈利。物部乃。大臣。楯立良思母。
 
ますらおの。とものおとすなり。ものゝへの。おほまうちきみ。たてたつらしも。
 
鞆乃音爲奈利《とものおとすなり》とは、鞆は弓の具也。弦をさくる爲也。左の手にまきて着るもの也。今の世には鞆を著た(ざ?)れば、其制圖をさへしる人まれになりて其用をも失へり。其圖は、吉部(野?)秘訓抄に載られたる尤古圖也。延喜式の鞆の條と符合せり。倭名類聚抄には※[卑+皮]の字を書せり。しかれども、古來圖書は皆鞆の字を用ひたり。鞆は三名あり。上古はほむたといひ、又はからとも(と脱り?)いへる也。今はともとのみいふ也。矢を發つとき弦この鞆にあたりて鳴もの也。よりて鞆の音すとはよみ給へり。しかれども、今の御製歌は、矢をはなつかとうたかひ給ふなるべし。矢をはなたずしても鳴弦の時必鞆のおとするを、女帝にてましませば、弓弦のことはくはしくしろしめすまじければ、あやしみ給ふなるべし。
物部乃大臣《ものゝへのおほまうちきみ》とは、石上朝臣麻呂をさして詠給へり。石上朝臣麻呂公は文武天皇の御世右大臣、元明天皇の御時左大臣也。此石上氏は物部氏のわかれなり。よりて物部乃大臣とはのたまへり。
楯立良思母《たてたつらしも》とは、大臣みづから楯を立給ふにはあらず。楯を立るは物部のわざ也。其物部を率るは(204)石上氏なれば、石上大臣下知して、み門に楯を立らしとよみ給へり。
此御製歌は、文武天皇の御遺詔によりて、元明天皇即位し給へども、隱謀の事などきこしめされしことありて、おそれつゝしみ給ふこともありとみえたり。さればにや、鞆の音するをきこしめして女帝なれば、おどろき給ひてかくはよみ給へるなるべし。此御時おそれつゝしませ給ふべきことも、國史にはみえざれば、大甞會の時、御門に楯を立る古儀あれば、それにつきてかくよま給せへるかとも見ゆれども、御名部皇女の和歌に、吾大王物莫御念などの句につきてみれば、非常のそなへをよませ給へるなるべし。
 
御名部皇女奉和歌。
 
御名部皇女は、天智天皇の皇女、持統天皇の妹、元明天皇の姉也。
日本書紀天智天皇卷云。【上略】次有2遠智娘弟日姪娘1。生3御名部皇女與2阿倍皇女1。
 
吾大王。物莫御念。須賣神乃。嗣而賜流。吾莫勿久爾。
 
わかおほきみ。ものなおほしそ。すめかみの。つきてたまへる。われならなくに。
 
須賣神《すめかみ》とは、諸神を尊稱してもいひ、天皇をも稱也。此歌にては、天照大神より文武天皇までの皇統の祖神を兼てみるべし。
吾莫勿久爾《われならなくに》とは、此句は歌によりて義ことなることあり。此歌にては、われにあらなくにと云詞也。此集第四卷の歌に、火爾毛水爾毛吾莫七國《ひにもみつにもわれならなくに》と有句は、火にも水にもわれならんとよめる義に見えた(205)り。されば歌によりて義ことなるとはいふ也。勿久爾の爾文字は、かへるてにをはによめる歌と(も?)あり。又心は上にかへりて、句終辭に歎意をふくみてよめるもあり。歌によりて分別すべし。此歌の爾も、心上の句にかへりて句終の歎辭とみえたり。
此和の歌の意は、元明天皇の御製に、あやしびおそれ給ふ所有おもむきにきこゆれば、叡慮をなぐさめやすめ奉り給ふ和に、吾大王物なおほしそと詠給ひて、今上の天津日づきをうけつぎ給ふことは、人力のおよぶことにあらず。天照大神よりこのかた、代々の皇神のさづけ給へる一統の道ありて、つぎもしさづけもし給ひて、すこしも私のことにあらざる意を下句に述給へり。されば、須賣神乃嗣而賜流《すめかみのつぎてたまへる》とは皇神の天位をさづけ給へる義也。吾とは、御名部皇女一人の吾にあらず。吾々の略也。すべて吾大王・吾大國などいふ吾は、一己人にかぎらず、吾輩の義にいふ也。此吾も、君一人の外、我々などに皇統をつぎて給へるにてはなく、帝位にそなはり給ふべき正統の道も徳もまし/\て、大王ひつぎしろしめすからは、少しも帝位をあやうくも外(?)におそれ給ふ事なかれとよみたまへる歌ときこえたり。まことに此和歌のごとく、本邦の帝位は、異域の殺奪して暴を以て暴にかふる類の君位にはあらず。國常立尊より今上皇帝にいたるまで他姓にうつらず、皇統相傳り給ふ神道あり、神教あれば、人力を以て奪ふ事あたはず。此後萬世にいたるまでも猶如此し。若日月地に落る世ありて、湯武の類ひありとても、それは逆臣とこそいふべけれ。聖とはいふべからず。我國の神教よりいへる(ば歟?)伯夷叔齊は道をしれる人とはいふべし。湯武は道をしれる人ともい(206)ふべからず。いはんや聖の名をや。かの天照大神勅(ス)皇孫《スメマゴ》曰。葦原千五百秋之瑞穂國是吾子孫可王之地也《チイホアキノミヅホノクニハコレワガミコノキミタルヘキクニナリ》。
 
宜|爾皇孫就而治《イマシスメミマユイテシラス》焉。行矣。寶祚之隆《アマツヒツギノサカヘンコト》當d與2天壌無窮者《アメツチヘシルキハマリ》矣。と神代紀にみえたる神勅今日にいたりてもむなしからざること、此御名部皇女の和歌につきておもひ合すべし。
吾大王。此三字を、古本には、わがきみはとよめり。印本には、わがみかどとよめり。詞ことなれども義は同じ。しかれども、物なおぼしそとつゞけ給へば、みかどにては有べからず。古本のきみはとよめるも、大の字あまりに似たれば、わがおほぎみとよむべし。
 
和銅三年。庚戌春二月。從藤原宮遷于寧樂宮時。御輿停2長屋原1※[しんにょう+向]望古郷御作歌
 
御作歌。此作の字は製の字の誤なるべし。此集天皇の御歌は皆御製歌とかければ、例にたがへり。
 
一書曰、太上天皇御製。
 
此六字、印本には大字にかけり。古本には小字にかけり。是古註者の文なれば、古本の小書しかるべし。此集に或本とかけるは此集の異本とみえ、一書とかけるは別記とみえたり。
太上天皇は、持統天皇也。此歌持統天皇の御製としるせる説にては、持統天皇の藤原宮にうつり給ふ時の御製とみえたり。しからば、明日香能里とは明日香清御原宮を指て詠給へるとみるべし。君之當者とある君は、天武天皇を指て、大内山陵の邊などなるべし。しかれども、一書と有て正記の名もみえざれば、此集にしたがひて、此御製歌は元明天皇の御製と見るべし。
 新古今和歌集卷第十にも、覊旅歌に入事(て?)、和銅三年三月藤原の宮よりならの宮にうつらせ給(207)ける時元明天皇御取とて、此御製歌をのせられたれば、一書の太上天皇御製とあるにはしたがひがたし。
 
飛鳥。明日香能里乎。置而伊奈婆。君之當者。不所見香聞安良武。【一云君之當乎。不(見而二字脱?)香毛安良牟。】
 
とふとりの。あすかのさとを。おきていなは。きみかあたりは。みえすかもあらむ【一云きみかあたりをみすてかもあらん】
 
飛鳥とは、明日香の冠辭也。はがひのかすがの類也。明日香の地名は、履中天皇の御代におこれることは古事記にみえたり。その文長ければ引のせず。
君之當《きみがあたり》とは、持統天皇も、文武天皇も、共に飛鳥岡に火葬し奉れば、明日香岡を指て君があたりとのたまふなるべし。續日本紀卷第三云。慶雲三(四?)年十一月丙午、從四位上當麻眞人智徳率2誄人1謚曰倭根子豐祖父天皇即日火葬於飛鳥岡奉葬2於檜隈安古山陵云云。
御製歌の意は、遷都をおぼしめし立給ひしより、つひに大宮出きて、今うつり給ふ日にいたりてはさすがに、持統文武を火葬し奉りし飛鳥岡はるかにへだゝるべきことをおぼして、名殘をしみ給ふよし也。女帝の叡慮さも有べし。
一云、君之當乎不見而香毛安良牟《きみがあたりをみすてかもあらん》とは、此異本異句の義にては、遷都已後は、はるかに程へだゝりて、見給ふことも有まじきと詠給ふ心ときこゆる也。是道理におきてやすからず。定本の歌にては、ならの宮より飛鳥の里のみゆるもみえざるも、いまだしろしめさゞる故に、みえずかもあらんとうたがひ給へるみ情《こゝろ》感慨あまり有べし。
 
(208)或本從藤原京遷于寧樂宮時歌。
 
或本。此二字は、古註者、此集修禰の時書き加へたるなるべし。しからば、定本の萬葉集には此長短二首は載ざりしを、此修補の時、一本に載たるを見て禰載したる故、或本の二字を書添たるべし。
 
天皇乃。御命畏美。柔備爾之。家乎釋。隱國乃。泊瀬乃川爾、※[舟+共]浮手。吾行河乃。川隈之。八十阿不落。萬段。願爲乍。玉桙乃。道行晩。青丹吉。楢乃京師乃。佐保川爾。伊去至而。我宿有。衣乃上從。朝月夜。清爾見者。拷乃穂爾。夜之霜落。磐床等。川之水疑。(凝?)冷夜乎息言無久。通乍。作家爾。千代二手。來(座脱?)多公與。吾毛通武。
 
すめろきの。みことかしこみ。にきひにし。みやこをおきて。こもりくの。はつせのかはに。み(を?)ふねうけて。わかゆくかはの。かはくまの。やそくまおちす。よろつたひ。かへりみしつゝ。たまほこの。みちゆきし(く?)らし。わかねたる。ころものうへに。あさつくよ。さやかにみれは。たへのほに。よるのしもふり。いはとこと。かはのこほりて。さゆるよを。いこふことなく。かよひつゝ。つくるみやこに。ちちよまて。きませおほきみ(と脱?)。われと(も?)かよはむ。
 
天皇乃御命畏美《すめろぎのみことかしこみ》とは、天皇は元明天皇なり。御命畏美は、みことのりをおそるゝを云。此命は遷都をおぼしめし立て營構の詔命なり。今の歌は、寧樂宮造營をはりてうつり給ふ時の歌なれども長歌には營構のはじめよりのこと述つゞけたるなり。
(209)續日本紀卷四云。和銅元年三(二?)月戊寅詔曰云云。方今平城之地四禽叶圖三山作鎭龜筮並從宜建都邑宜其營構とあれば、此寧樂宮は、和銅元年より營構ありて同三年の春遷り給ふなり。
柔備爾之家乎釋《にきびにしみやこをおきて》とは、にぎはひしといふことを、約言ににきびにしとよめり。家乎釋とは、藤原の京ををしむ心也。遷都をおぼしめし立せ給へる天皇さへ、立わかれ給ふ時は、あすかの里をおきていなばと、名殘りをおぼしめされたれば、下民の中には 舊里となることをかなしむべきこと也。ことに此歌の作者は藤原に殘り留れる人と、歌の詞にみえたれば、此遷都を心に願はざるとみえたり。されば命かしこみ、家乎釋て等の句有なるべし。
萬段顧爲乍《よろづたびかへりみしつゝ》とは、彼宮造りに藤原里をはなれ出て寧樂に行時、藤原の方を幾度も/\かへり見しつつ名殘をおしむよし也。
玉桙乃道行晩《たまぼこのみちゆきくらし》とは、玉桙は道の冠辭也。釋下にしるすべし。道行晩とは泊瀬川より佐保川まで船に乘ていたれるとみえたり。
伊去至而《いゆきいたりて》とは、伊は發語辭なり。
衣上從朝月夜《ころものうへにあさつくよ》とは、此句にて※[舟+共]に寢たるとみえて、あらはなる旅ねのさま、やすからぬ意しられたり。朝月夜は有明の月夜のこと也。朝まで殘れる月夜を朝月夜と云、よひの内に入る月夜を、夕月夜といふ也。
栲乃穂爾夜之霜落《たへのほによるのしもふり》とは、栲はたくともたへとも云、一木二名也。たへはもと衣服の名也。栲木の皮(210)を布に織也(而?)衣服にしたる也。よりて栲をたへともいふ也。此栲布はその色至りて白ければ、白栲と云、栲衾《タクフスマ》と云て、白きと云冠辭に用る是也。藤の皮にて織たる布を藤布といひ、その布を衣服にしたるは麁きもの故にあらたへと云。藤布を下布とも(し?)栲布を上布とす。今栲乃穂爾といふは白栲の如くにといふ古語也。
磐床等《いはどこと》とは、磐床のごとくといふ義也。
息言無久通乍《いこふことなくかよひつゝ》とは、造營の役に休息することなきを云。寒夜の川上の旅寢に、衾は霜を重ね、床は磐の如くに氷を敷る故に、いもねてもねられぬをかねて、いこふことなくとはつゞけたるなるべし。通乍は、藤原より此ならへかよひつ/\して都邑を造れるを云。此等の句有にて見れば、此作者は役民の中に有べし。
來座多公與《きませおほきみと》とは、來座は藤原より移り座を云。此多公は天皇を申にてはなし。此歌の作者さす人有ておほぎみと稱て詠るなるべし。よりて大王ともかゝず、多公とかける、此集の字格也。多公與ある、此與の字は共にといふ詞にはあらず。君としてと云てにをはのこと也。
吾毛通武《われもかよはむ》とは、吾一人にかぎらず、萬國より京へはかよふ故に、百姓と共にかよはんと云義にわれもかよはんとはよめり。
此歌は、標題に、從2藤原京1遷2于寧樂宮1時歌とあるを以て、藤原より奈良へうつりてすむ人の歌かとみあやまるべからず。藤原の京に殘り留る人の、ならの京にうつりてすむ人によみておくる歌(211)也。その證は、長短二首の尾句を見てしるべし。歌の意は、初には當世の天皇の詔命のおそれおほき故に、にぎはひし藤原の京をすて置て、ならの都邑營構の課役に、泊瀬川に船をうけて行たびごとに、藤原の都の名殘をおもふから、八十阿ごとも、藤原の都のかくるゝやと、かへりみしつゝ、漸くとならのさほ川に、いたることをつらね、中には、かの佐保川の上に、あらはなる旅ねせし夜の堪がたく寒かりしよしを、霜を衾にし、氷を床にしたるさまをあらはして、いをやすくねることもなく、造營の役に、いとまなくかよひたることをのべ、終りには、すでに營造おはりて、藤原宮より來りまします諸公を、千歳までもますべき君とことぶきて、われも君にひかれて、なかく久しく、藤原よりならの宮こへかよはんとよめる意也。
家乎釋。此三字を、古本印本共に、いへをえらぴて、とよめり。この訓は、釋の字を、諸本擇に作れる故に、僻案に擇の字にては句義かなはず、擇釋の字の訛とみえたり。人麻呂の長歌にも、倭乎置而《やまとをおきて》とも、又は京乎置而《みやこをおきて》ともよめる句あれば、例證とすべし。釋は置也といふ字書の註あり。よりていへをおきてとよむべし。しかれども、此家は都邑の義訓に書たるとみえたれば、今みやここをおきてとよむ也。これかの倭乎置而京乎置而等の句に准據すれば也。
※[舟+共]浮而。此三字を、古本印本共に、ふねうけてとよめり。然れども、舟船等の字をかゝずして、※[舟+共]の字をかけるは、小舟としらさん爲の字格とみえたり。※[舟+共]は釋名に、艇小而深者曰※[舟+共]と有。さればをぶねうけて、とよむべき歟。
(212)川之氷凝。此四字を、印本には、かはのひこりて、とよめり。古本もしかよめり。しかれども、ひもこほりのことなれば、ひこりては言重れり。古語の例證もなし。一古本の訓に、かはのこほりてとあり。これによりておもへば、氷の字は水の字をあやまれるとみえたり。水凝の二字にて、こほりの義訓相かなふべし。氷凝の二字にては凝の字衍れり。よりて一古本の訓にしたがふ。
息言無久。此四字は、印古兩本共に、やすむことなく、とよめり。今、いこふことなく、とよむは義はおなじけれども、いの言は寢にかよふを以て也。
作家爾。此三字の訓、上句の家乎釋の三字を、みやこをおきてとよむが故に、今、つくるみやこにとはよむ也。もし家乎釋を、いへをおきて、と四言によまば、此作家爾の三字も、つくりしいへにとよむべし。このむ所にしたがふべし。
千代二手。此四字を印古兩本ともに、ちよまでに、とよめり。にの助辭を加へては、句義少さまたげあれば、今、ちゝよまで、とよむ。千の一字をちゝとよむ古訓義あり。千千の義にはあらず。
 
 反歌
 
青丹吉。寧樂乃家爾者。萬代爾。吾丹(母?)將通。忘跡念勿。
 
あをによし。ならのみやこには。よろつよに。われもかよはむ。わするとおもふな。
 
此反歌は、長歌の結句の趣意をくり返して短歌によめる也。意は、此ならの都をことぶきて、萬代もかはらず、萬民と共に吾も藤原よりかよはむと也。此作者藤原に住む身とは、此反歌にてみえた(213)り。身は藤原にすみても、ならのみやこをわするゝことはあらじ。といふ意をわするとおもふなとはよめり。此歌をきく人に對していふ詞に、念勿《おもふな》とはよめり。念勿の二字おもふな也。それをもふなとよむは訓傳あれば也(校訂者曰、然らば本文訓「もふな」歟?)
家爾者。此三字、古本印本共に、いへにはとよめり。今、みやこにはとよむは、長歌の家の字と同訓を用れば也。此反歌の句、いへにはとよまば、長歌の家の字皆いへとよむべし。いへとよみても義は民戸一家のことにあらず。都邑のことなればその義はかよへども、その詞かよはざれば、みやこの訓を用ゆ。しかれども、此反歌の家爾者の三字を、みやこにはとよめば、一言誦口にあまるに似たり。又長歌の家乎釋の三字を、いへをおきてとよめば一言誦口にたらざるに似たり。古歌は五七の句とゝのはざる例あげてかぞふべからず。されば、義にさまたげなくば、句の長短にかゝはるべからず。誦吟の傳有ことなれば、好む所にしたがふべし。
 
右歌作主未詳
 
古註者の時さへ、作主未詳なれば、今猶考ふべき所なし。只歌の詞につきていへば、寧樂宮營構の民の歌とはみえたり。
 
和銅五年壬子夏四月。遣長田王于伊勢齋宮時。山邊御井作歌。
 
長田王は、續日本紀卷第十二、聖武天皇天平九年六月甲辰朔辛酉散位正四位下長田王卒と有此王也。王伊勢齋宮に勅使の事、續日本紀にみえず。しかれども此集に如此載たれば、國史にもれてもさる(214)こと有べし。山邊御井は齋宮の井とみえたり。御井とあるを證とすべし。山邊は地名なるべし。
 
山邊乃。御井乎見我※[氏/一]利。神風乃。伊勢處女乎。相見鶴鴨。
 
やまのへの。みゐをみかてり。かみかせの。いせのをとめを。あひみつるかも。
 
見我※[氏/一]利《みかてり》とは、見かてにといふ詞也。利と爾と相通は常のこと也。見かてには、見るつてになり。見かてらといふとは少こと也。
神風乃《かみかせの》は伊勢の冠辭也。仙覺註釋に伊勢風土記をひけり。是古記なり。用ゆべし。その文長ければこゝにひきのせず。
歌の意は、山の邊の御井を見るつてによりて、みがたきをとめをあひみつることをよろこべる歌ときこえたり。
 
浦佐夫流。情佐麻彌之。久堅乃。天之四具禮能。流相見者。
 
うらさふる。こゝろさまみし。ひさかたの。あめのしくれの。ふらまくみれは。
 
浦佐夫流とは伊勢浦にほどふるを云。佐は助語辭也。長田王此時伊勢に滯留し給ふなるべし。次の歌にても、故郷を憶へる情みえたり。標題に四月と有に、此歌しぐれの流相見者《ふらまくみれは》と云句によれば秋までもさるゆゑありて滯留ありけるなるべし。
情佐麻彌之《こころさまみし》とは情さびしといふ句に麻の助語辭を入たり。一句の中に、助語辭を入たる古句例あり。
(215)久堅乃《ひさかたの》は天の冠辭也。堅の字は借訓なり。久方の義也。
流相見者《ふらまくみれは》とはしぐれのふりぬべく空のみゆればといふ義也。
歌の意は、伊勢浦に久しく月日ふれば心さびしきに、しぐれさへふり來ぬべくそらのけしきみゆれば、その所のさびしきと、おほく(?)さびしきとを兼て、情さびしとはよめり。
流相。此二字を古本印本共に、ながれあふとよめり。しぐれのながれあふとは歌詞ともきこえず。今ふらまくとよむは流は流歴の義にふるとよむ。相はまくとよむ例此集にあまたあれば也。
 
海底。奥津白浪。立田山。何時鹿越奈武。妹之當見武。
 
わたつみの、おきつしらなみ。たつたやま。いつかこえなん。いもかあたりみん。
 
海底奥津白浪立田山《わだつみのおきつしらなみたつたやま》とは、海底は奥の冠辭、奥津は白浪の冠辭、白浪は立田山の冠辭也。これ古歌の一體也。
何時鹿越名武《いつかこえなん》とは、此時立田山を越ずしては、長田王の妹の住處もみえざるなるべし。
歌の意は、歸京のほどもはかりがたくて歸らんことをいつかと、はるかに伊勢浦より立田山をこえんことをおもへる意也。此歌上句はしひて情有にあらねども、前の歌の發句にも浦佐夫流とありて、此歌の發句も海底とありて、皆海浦による句をみれば、長田王海ちかき旅館なるべし。
海底。此二字を古本には、わたのそことよめり。仙覺古訓を非として、わたつみのとよめり。古本は訓も此集に例あれば、あしきにもあらざれども、仙覺訓しかるべくおぼゆる所ありて、今これに(216)したかふ。印本にも、わたつみのとよめるは仙覺訓なるべし。
或問云。此歌の下句、いつしかこえていもがあたりみん、と有べきことを、いつし(一字※[手偏+讒の旁]入?)かこへなんいもがあたりみん、とは句連續せざるにはあらずや。
答云。しからず。これはいつしか立田山をもこえん。いつしかいもがあたりをもみん。といへる句格也。
 
右二首今案、不v似2御井所v作若疑當時誦之古歌歟。
 
此古註者の案、さも有べき歟。しかれども、久しく伊勢浦に滯留の時の歌ときこゆれば、長田王の歌に有べからずともいひがたし。僻案は此集にしたがひて、長田王の歌と見て釋せし也。山邊御井の歌にてはなし。伊勢浦旅館にての歌なるべし。
 
寧欒宮
 
僻案。此寧樂宮の三字は、此集修補の時註者の書加へたる歟。但後人の傍註を轉寫の時、誤て本文になしたる歟。此集撰者の文にては有べからず。いかにとなれば、此三字撰者の文ならば、和銅元年の所に有べし。すでに和銅元年、和銅五年の歌等を上に載て、此所にいたりて寧樂宮の三字を標すべき理あらず。たとひ和銅元年の所にこの三字ありても、文武天皇の御代の歌に、宮號も御宇天皇代の字もしるさずして、大寶元年、慶雲三年などゝ載たれば、元明天皇の御宇も、和銅元年と、和銅五年としるして後宮號を載べきにあらず。大寶已後は、年號を以て宮號・御宇天皇代にかへたる(217)とみえたれば、きはめて寧樂宮の三字は後に加へたるなるべし。
 
長皇子與2志貴皇子1放(於?)佐紀宮倶宴歌。
 
長皇子は、天武天皇の皇子、すでに前にこみえたり。志貴皇子は天智天皇の皇子。是も前にみえたり。
佐紀宮は、大和國添下郡にありし離宮なるべし。
 
秋去者。今毛見如。妻戀爾。鹿將嶋山曾。高野原之宇倍。
 
あきさらは。いまもみること。つまこひに。しかなかんやまそ。たかのはらのうへ。
 
秋去者《あきさらは》とは秋にならばといふ詞也。
山曾高野原《やまそたかのはら》とは、此山は佐紀山なるべし、高野原も佐紀に在とみえたり。
此歌は、佐紀山の眺望おもしろき心を、今もみるごとゝいふ一句にふくみて、きこえさせ給へる歌なり。意は、今の眺望のおもしろきごとくに、秋にならば、高野原の上、妻こひの鹿の音をさへきかば、あわれますますふかゝるべきよしをかねてよみたまへり。又今來ん秋の妻を契りおかせ拾ふ意ときこえたり。
秋去者。此三字を、諸本あきさればとよめり。しかれどもてにをは合ざるににたり。よりて、あきさらばとよむ。
鹿將鳴。此三字を一古本には、しかなくとよめり。將の字あればしかなくとはよむべからず。よりて(218)今しかなかんとよむ也。
 
右一首長皇子。
 
此註は、標題に長皇子與志貫皇子倶宴歌とあれば、兩皇子の中いづれの御歌ともわかちがたければ、注者所見ありとみえて、長皇子の御歌なる事を釋せるなるべし。
或問云。或説に、古萬葉集といふは、此集第一卷のみを云。其證據には、嵯峨天皇のかゝせ給へる古萬葉集の序に、和銅五年長田王を伊勢の齋宮につかはしける時に、やすらの皇子ときこえけるみことのよう給ふけるまで此集にはいれたるとありといへり。此説しかるや。
答云。しからず。古萬葉集の序といふもの、今よのなかに流布するは、天よりくだれる歟。地より出たる歟。そのはじめをしらず。かの序を見れば、かけまくもかしこき嵯峨天皇の御ことのはとはみえず。國語のふるきあたらしきをもしらざる人の、名をいつはりてかけるとみえたり。その辨くはしくいはんも、今はゞかる所なきにあらねばさしおきぬ。しる人はしるべし。
 
萬葉集僻案抄 終 本集卷之一終
 
 
大正十二年二月十七日印刷
大正十二年二月二十日發螢行
大正十三年九月十日三版
               萬葉集僻案抄
                定價金貳圓九拾錢
       著者 荷田 春滿
       校訂者 久保田 俊彦
       發行者 東京市外西大久保四五九番地
              橋本 福?
       印刷者 東京市麹町區紀尾井町三番地
              金澤 求也
 萬葉集叢書第二輯
發兌元 東京市外西大久保四百五十九番地
       古今書院 振替東京三五三四〇番
 
             2007年9月15日(日)午前9時55分、入力終了