日本上代井の研究  日色四郎 201頁  1967.5.3 奈良県橿原市公苑町橿原考古学研究所内日色四郎先生遺稿出版会 代表 末永雅雄
 
〔入力者注、誤植が大変多いので明瞭なものは断りなしに訂正した。正確を期したい方は底本にあたっていただきたい。注が現在普通に付けられる位置と違って、注のつく語句の初めの字につけられれている。読みにくいので、現在普通に行われている付け方に修正した。〕
 
〔入力者注、元奈良県橿原考古学研究所長 文学博士末永雅雄氏の序は省略した。〕
 
 
(1) 自  序
 
 苔蒸して幽寂な庭につっらえられた井は好事家の良い研究対象ではあつたが、それより遥か上代の古井は土中深く埋もれていつしか其の存在も忘れられ、遇々其の遺構が発見されてもそれが何であるかも判らないという状態であった。然し現在の井筒に似て周りを厚い板でとり囲み、内に土器や種々の遺物等を容れた遺構が屡々発掘されるようになってからは、具眼の学者の間では、これは学界未知のものではあるが、朧げながらも井に関係があるものではないかという推測が行われていたのであった。たまたま昭和十五年、紀元二千六百年奉祝記念事業として、奈良県畝傍山麓に鎮座する橿原神宮の神殿御造営及び内外両神苑の拡張工事が行われる事となり、この工事中広大な面積に亘って各種の上代遺跡が発見され、それと同時に上に述べたような遺構が多数に検出された。奈良県では此等の調査のため直ちに遺物調査委員を委嘱したが、其の調査に依って此の遺構がまさしく上代井のそれである事が判明し、其の構築年代や其れから出土した遺物等についても略研究が成り、茲に学界多年の疑問が釈明される事となったのである。
 著者はこの橿原遺跡の調査員の一人として初頭から此の地の調査に携わり、調査主任であった橿原考古学研究所長文学博士末永雅雄先生の指導のもとに主として此の未知の遺構の究明に当って来た。(2)従って本書には橿原遺跡検出の上代井を主として其他各地の出土のものの発掘調査状況を記載し、併せて上代井に関する文献的研究を取扱って見た。
 唯本書の成立は決して著者一人の労作ではない。顧みれば昭和十三年発掘調査開始以降、同学同好の故を以て調査研究のために集まった人々の間にも、種々の有為転変が見られ又数名の物故者をも出した。寒風吹き荒ぶ中に時を忘れて行われた精密発掘、目も眩む炎天下に蒸風呂の様な深い井の底での調査等、御互いに励まし合い導きあって、末永先生を中心として結束運営された発掘作業及び其の後十数年に及ぶ、調査研究の結晶が本書を生み出したのであり、本書の出版を特に許された末永先生の深い理解と厚意に深く拝謝し、又慈父のような愛情で指導と鞭達を賜わられた文学博士西田直二郎先生に対して謹しんで感謝の意を表わす次第である。
   昭和二十六年 孟夏
                        奈良県耳成山麓 著 者
〔「日色四郎先生遺影」と題する三枚の写真は省略〕
                          
(1)   第一章 上代井の諸性格
 
      第一項 良い飲料水を得ることの困難
 
 水、飲料水は人類の生存上一日も欠く事の出来ぬものであるから、これをどうして得るかという事は太古原初の時代から最も重大な問題であった。既に開発が十分に行われている山紫水明の此の国土では、到る処清冷甘美な水が殆んど自由に得られるが、往古この地が深い森林、厚い叢樹に被われていた時代には、快適な飲料水を得るという事は決して容易ではなかった。曽て戦時中南方湿潤の地に行動した将兵が、飲料水を得る為に如何に多くの努力を払った事か。例え雨量が多く地下水の高い土地であっても開発されない自然林の裡に快適な水を求める事は非常な難事である。
 此の事実を古典に探れば、曽て関東地方には逃水《にげみづ》と云う語があり、「夫木和歌抄(註一)」の俊頼朝臣の歌(註二)に詠まれている。この逃水については未だ明かでない点もあるが、谷川士清氏は其の名著「倭訓栞(註三)」に於て是は春夏の頃の曠野の陽炎《かげろう》で、日光の反射の工合で水溜りがあるように見えるのが、近寄れば消え失せて又向うに見えるような幻覚を云ったものと述べているが(註四)、これは上代良い飲料水に恵まれなかった武蔵野人の水に対する切実な慾求を示した言葉ではなかったか。又「枕草子(註五)」一五一段井の項の最初に謳われている掘兼井(註六)も関東地方にあった。この井は当代 (2)名井の一で別に掘金井、掘難井とも記し、今川越市の南方二里入間郡掘兼村大字掘兼にあるものが其の跡とされているが、斉藤幸雄氏の「江戸名所図会(註七)」は、此の井は単なる一井を指すものではなく、上代茫莫たる武蔵野が良井に恵まれず所々に新井を穿っても容易に良水を得る事の出来なかった事実を物語るものかとしている(註八)。逃水、掘兼井共に未だ其の解釈に不明確な点を残してはいるがいづれも上代未開の関東地方の上水の欠乏を示す単的な事象と解して差支えあるまい。更に古代では「日本書紀(註九)」に景行天皇が筑紫巡幸の際、肥後国水島に於て食事の水に苦しまれた事を記るしているが(註一〇)、その時侍臣達は島中に水が無くどうしてよいか判らず止むなく天神地祇に祈って其れを得たので、因って島名を水島と名付けたと云うとある。勿論比の様な記事は「古事記(註一一)」「日本書紀」「風土記(註一二)」等を通じて一般に現われている地名起原の説明伝説ではあるが、やはり当時に於ける飲料水を得る事の困難を物語るものである。日本書紀と前後して撰修された「常陸風土記(註一三)」の茨城郡の条にも前者と殆んど相似た記事(註一四)が収録されているが、それは倭武天皇《やまとたけるのすめらみこと》(日本式尊の御事)が同国御巡狩の途次、桑原岳上に停留され御食事に用いられる水を得るため水部を(註一五)して新たに井を掘らせたという。又播磨風土記(註一六)の賀毛郡(註一七)の条にも品太天皇《ほむだのすめらみこと》(応神天皇の御事)が小目野《をめぬ》附近巡幸の際従臣に命じて井を掘らせたとあり、この外にも諸国の風土記には此の様な型の叙述が数多く収められていて当時の事情を物語っている。
 中臣寿詞《なかとみのよごと》は天皇御一代一度の大嘗祭に中臣氏が奏上する寿詞である。その制作は大約大宝律令以前と推定され、又其の内容はより遥かに古く成立したものとされているが、これ亦同じく上代に於て良水を得る事の困難さと、如何にして其水を得たかと云う事を物語ることが主題となっている。寿詞(註一八)は先づ天孫降臨の後、皇御孫|瓊瓊杵尊《ににぎのみこと》に奉(3)まつる御膳の水を得るため天児屋根命《あめのこやねのみこと》が其の御子|天忍雲根神《あめのおしくもねのかみ》に命じて皇祖の神々に「皇御孫尊《すめみまのみこと》の御膳の水には此の国土の水に高天原の水を加えて献りたいのでその水をいただきたい」という水請いの事情から説き起し、皇祖の神々は其の水を得る方法として、先づ天の玉櫛を天忍雲根神に授けて「此の玉串を地に刺し立てゝ、夕日の傾く頃から朝日の登る頃まで、天つ詔詞《のりと》の大詔詞言《ふとのりとごと》を以て請い祈れ。さようにすれば其の前兆として若々しい蒜《ひる》のように清浄な若竹が群り生ずるであろう。次に其の竹の下から天つ水が盛んに湧き出るであろう。それで其の水を天つ水として御膳の水に用いて聞し召せ」と教えられたとある。
 寿詞の語る所、意味深淵で其の真意を捕捉すべくもないが、要するに御水取のための神々の苦心を物語るものであり、これにつき別に鎌倉時代に編述された神道五部書(註一九)の「豊受皇大神宮御鎮座本紀」はより具体的な記述を試み、其の「御井水(註二〇)」の条に御水取の行事は、神々の最も重要な政事《まつりごと》の一つであるとまで極言している程である。
 次に「中臣寿詞」に於て皇孫瓊瓊杵尊の水には此の国土の水に高天原の水を合せ加えて用いるとあるが、これは当時其の住居の附近に良好な飲料水の無い場合は他の地方にこれを求めた慣習のあった事を物語るものであるが、此の推測を裏付ける他の例証として「古事記」大雀命《おほささぎのみこと》(仁徳天皇の御事)の条に於ける早船|枯野《からぬ》(註二一)及「播磨風土記」補遺の駒手御井の速鳥の記事(註二二)を指摘することが出来る。早船枯野及び速鳥の二記録は恐らく同一事実に対する異なった記事と思われるが、要するに難波高津宮(大阪市内)にまします仁徳天皇供御の水を、遠く淡路島或は明石駅から早船枯野或は速鳥を以て朝夕に運んでいたという意味であり、ここにも明かに上述の慣習が認められる。
 逃水、掘兼井以下一連の事実は上代に於ける良水の欠乏と、其水を得るため如何に多くの困難が横たわっていたかを告げるものである。
 
(4) 註一、夫木和歌抄。中古時代の勅撰集で、家集に漏れた歌を集めて四季、恋、雑事等に部立し、向後の勅撰のため、また斯道学者のために編輯したもので、三十六巻よりなっている。夫木の名は霊夢に依って名づけ、扶桑の字の部分を採ったものと伝えられる。著者勝田長治は冷泉為相に学んで和歌に長じ、また薙髪して法号を連眼とも云った。
 註二、俊頼朝臣の歌。
  あづま路にありといふなる逃水の逃げのがれても世を過ぐすかな   俊頼朝臣
 註三、倭訓栞。八十六巻よりなり、五十音順によって凡ゆる和訓を網羅した我国有数の名辞書である。著者は伊勢の大学者谷川士清、其の序文は本居宣長、文化二年の出版である。〔入力者注、倭訓栞は近代デジタルライブラリーにある。〕
 註四、是は、逃水について和訓栞の解釈は
  にげ水、武蔵野の景色也、春より夏かけてうららかになぎたる空にわかく生しけりたる草の原に、地気のたち昇るかこなたより見れば草の葉末をしろしろと水の流るるか如く見ゆめり、まことの水には非すこと処にゆけば又むかふに見ゆるをもて名つけり……。
 註五、枕草子。一条天皇の后定子に仕えた稀世の才媛清少納言の随筆で、紫式部の源氏物語と共に平安朝文学の二大名著である。己が身の君寵を得て時めきしこと、仕えた皇后の宮の御威勢の盛んなこと、我が身が敏才で世に誉めはやされたこと、四季の風雅、動植物のこと、其の他の見聞、褒貶等を随心随手漫録したものである。
 註六、掘兼井。枕草子一五一段掘兼井の叙述は井は掘兼の井。走井は逢坂なるがをかしき。山の井、さしも浅きためしになりはじめけむ。飛鳥井「みもひも寒し」と誉めたるこそをかしけれ。
 註七、江戸名所図会。江戸の絵入地誌で江戸町内の神社、仏閣名所旧蹟等洩れなく集録し、又数多の絵画を挿入して詳細且容易に解説してある。著者斎藤幸雄は寛政中これを編し、子幸孝文化年中これに刪補を加え、孫幸成文政年中これを上梓し、父子孫三代凡そ三十年にして成った。七巻二十冊より成り、全都の刻刊の完成したのは天保七年であった。
 註八、此の井。掘兼井についての江戸名所図会の説述。
  掘兼井……浅間の祠の左に凹地有て、中に方六尺ばかりに石を以て井桁とし、半土中に埋れたるものあるを掘兼井と称せり、(5)……土人伝へ云、往古日本武尊東征の時、武蔵野水乏しく、諸軍渇に及びければ、尊、民をして此所彼所に井を堀らしむるに、終に水を得ざれば、竜神に命じて流を引しむるとなり、【今の不2年越1川、或は入間川の事なりともいへり】……按にすべて掘兼の井と称するもの、乙女新田、及び高井戸等の地にもありといひて、掘兼の井一所ならず、再び按に、武蔵野の広漠なる古水に乏しき故に、所々に井を掘穿つといへども、容易に水を得る事かたかりければ、かくは号けけるならん、されば此井一所に限るべからずと云ひて可ならん歟。
 註九、日本書紀。三十巻、神代から持統天皇迄の編年史で、一、二巻を神代に三巻以下を人皇紀に当てている。六国史の第一で、古事記に次いでの旧史である。古事記は漢字を仮りて邦語を直写しているが、これは文体には純粋な漢文を用いて、然も其の訓みは邦語風である。元正天皇の養老四年勅を奉じて舎人親王を総裁として大安麿等が撰したもので、古事記に後るること八年にして成った。
 註一〇、景行天皇。日本書紀の同天皇水島巡幸の記事
  十八年夏四月壬戊朔王中、海路より葦北の小島に泊まりて進食《みをし》したまふ。時に山部阿弭古《やまべのあびこ》の祖|小左《をひだり》を召して、冷水《さむきみもひ》を進らしむ。是の時に適りて島中に水無く、所為《せむすべ》を知らず。則ち仰いで天神地祇に祈《の》みまうすに、忽に寒泉《しみず》崖の傍より湧出でたり。乃ち酌みて以て献る。故《か》れ其の島を号けて水島と曰ふ。
 註一一、古事記。三巻。元明天皇が太安麿に詔して稗田阿礼が誦むところの勅語、旧辞を撰録させられたもので和銅五年(紀元一三七二年)に成った。実に我国現存最古の史書で、上巻は神代、中巻は神武天皇から応神天皇まで、下巻は仁徳天皇から推古天皇までに当てゝいる。漢文を用いているが、訓《よみ》を主としたものでいわば国文である。上代史の研究には日本書紀と並んで無くてはならない貴重な文献である。
 註一二、風土記。元明天皇の和銅六年の詔によって諸国から撰進されたもので、その国の産物、土地の沃瘠、山川原野の名称の由来、又は古老の伝える旧事、異聞等について記してあり現在の地理書にも似た我国最古の地誌と云うべきものである。各国から進上された風土記の内、今日まで略まとまって遺存しているものは常陸、播磨、出雲、肥前、豊後の五風土記である。他の諸国のものは早く散佚し僅かに請書に引用されて一部分残っているものがあるに過ぎない。
(6) 註一三、常陸風土記。この風土記の撰進年代については天平の前後とする説と、これより一層古く霊亀以前和銅の間とする説との二説がある。もと加賀の前田家に伝わったものを水戸藩で借覧、延宝の頃書写したものが世に伝わり、やがて天保中西野宣明によって刊行されることになった。全文の辞句、文章の結構等が他の風土記に比して特に勝れているので、当時の文章練達の人の手に成ったものと推測されている。
 註一四、記事。常陸風土記の記事。
  郡(茨城郡)の東十里に桑原岳あり。昔倭武天皇、岳の上に傍留《とどま》りたまひて、御膳を進奉《たてまつ》りき。時に水部をして新に清井を掘らしめしに、出ずる泉《みず》浄香《きよ》くて、飲み喫《くら》ふに尤《いと》好《よ》かりし……。
 註一五、水部。もひとりべと読み別に主水部、水取部とも記す。上代飲料水をもひと云い、又みもひとも敬称した。延喜式に依れば宮内省には主水司《もひとりのつかさ》があり、御料の井、氷等についての諸務を司どり、又其の祭式に与っていた。日本書紀神武天皇二年の条に出ずる弟滑《おとうかし》は菟田《うだ》の主水部の遠祖である。又新撰姓氏録の神別に出ずる水取連は「神饒速日命六世孫。伊香我色雄命之後也。」である。ここに確言することは出来ないが上代軍旅の際は水部を同伴して飲料水を得しめ、時に井の掘鑿等を行わしめているが、これは現在の軍隊が給水班を持ち、必要に応じて新井の掘鑿等を行っているのと似たものであろう。
 註一六、播磨風土記。三条西伯爵家秘蔵の古伝本が唯一のもので、明治の初年はじめて印刷、公にされた。巻首が欠け或は又巻末も失われているかも知れないので完本とは云えないが、記載内容は比較的豊富である。作出年代は霊亀以前と推測されている。
 註一七、賀毛郡。播磨風土記同郡の記事。
  小目野……品太天皇《ほむだのすめらみこと》の巡行《いでま》しし時、……是に従臣井《もとこひと》を聞きき。
 註一八、寿詞。寿詞の其の部の抜萃
  皇御孫尊《すめみまのみこと》の御膳都水《みけつみづ》は、宇都志国《うつしくに》の水に天都水《あまつみづ》を加へて奉らむと申せ。……此の玉櫛を刺《さ》し立てて、夕日《ゆうひ》より朝日《あさひ》の照《て》るに至るまで、天都詔戸《あまつのりと》の太詔戸言《ふとのりとごと》を以《も》ちて告《の》れ。如此《かく》告《の》らば、麻知《まち》は弱蒜《わかひる》に由都五百篁《ゆづいほたかむら》生《お》ひ出でむ、其の下より天の八井《やゐ》出でむ、此を持ちて天都水と聞し食《め》せ」と事依《ことよ》さし奉りき。……
(7) 註一九、神道五部書。伊勢神道の所依経典で、伊勢二所皇太神宮御鎮座次第記、伊勢二所皇太神宮御鎮座伝記、豊受皇太神宮御鎮座本紀、造伊勢二所大神宮宝基本紀、倭姫命世紀の五部よりなり、古昔は禁河の書と称して、神官と雖も六十歳以下の者は閲覧を禁ぜられる程神聖視されていた。製作年代については現在の研究では平安朝の末期から鎌倉時代の末頃、即ち治承年間から永仁の頃までの間に外宮の神官等の手によって漸次に偽作されたものであろうと言われている。
 註二〇、御井水。豊受皇太神宮御鎮座本紀の御井水の条の抜萃
  御井水。……于v時皇孫之命天村雲命【乎】召詔【久】。食国《おすくに》之水【波】未v熟《うまからず》。荒水【爾】在【介利】……時【爾】御祖天照皇太神。天御中主皇太神。正哉吾勝尊。神魯岐。神魯美尊神議詔【久】雑【爾】奉【牟】政者。行奉下【弖】在【度母】水取|政道【於波】遺【天】天下復|飢餓《やはし》【久》在【計利】。……天忍石【乃】長井【乃】水【乎】取。八盛【天】誨給【久】。此水持下【弖】。皇太神乃御饌【爾】八盛献【天】。遺水【波】。天忍石水【止】術《まじなひ》云【天】。食国【乃】水|於《うへ》【爾】潅和《そそぎあはせ》【天】。朝夕御饌【爾】奉献【礼】。……
 註二一 早船枯野。古事記の記事。
  この御世に、免寸河の西の方に、高樹《たかき》ありけり。その樹の影、朝日に当れば、淡路島に逮び、夕日に当れば、高安山を越えき。かれこの樹を切りて、船に作れるに、いと捷《と》く行く船にぞありける。時にその船の名を枯野《からぬ》とぞ謂ひける。かれこの船を以て、旦夕《あさよひ》に淡路島の清水を酌みて、大御|水《もひ》献りき。……
 註二二、駒手御井。播磨風土記補遺の記事。
  明石駅家《あかしのうまや》、駒手御井《こまてのみゐ》は、難波高津宮天皇(仁徳天皇の御事)の御世に、楠、井口《ゐのへ》に生ひ、朝日には淡路島を蔭《おほ》ひ、夕日には大倭嶋根《おほやまとしまね》を蔭へり。仍《か》れ其の楠を伐りて舟を造りき。其の迅《はや》きこと飛ぶが如く、一※[楫+戈]《ひとかぢ》にして七浪を去《ゆ》き越へき。仍《よ》りて速鳥《はやとり》と号《なづ》く。是に朝夕此の舟に乗り、御食《みをし》に供《そな》へむ為に、此の井の水を汲むに、一旦《あるひ》御食の時に……
 
   第二項 井の開発と地方神
 
 快適な飲料水(註一)を得る事がこの様に困難であった時代に偶々清冷甘美な水が得られた場合、それは我々現代人には(8)到氏想像も及ばぬ歓喜であり、やがてその井を神と崇め又其れの発見、掘鑿を自らが尊崇する神、人の功績に帰し、其処に井を中心として強い信仰生活が初められた。今此等の事情について其の証拠を古典に(註二)求めれば、風土記は最も多くの資料を提供している。驚く可き事は常陸・播磨の両風土記は其の各郡の条に殆んど漏れなく井についての記事を収録し、特に其水が皇室及び其の地方の開発者との関連に於て述べられているという事である。勿論此等の記事の中には前にも述べたように所謂風土記式地名伝説と見做すべき物が多いが、この場合説明に無理があればある程井(註三)に対する当代人の関心が並々でなかった事を示すものと考えられる。例えば常陸風土記によれば常陸の国名は日本武尊が巡狩中、国造《くにのみやつこ》である※[田+比]那良珠命《ひならすのみこと》が掘った井に衣の袖を漬《ひた》された其の義に因ったものであると云う。
 常陸風土記 巻頭総記の条
 ……倭武天皇《やまとたけるのすめらみこと》(日本式尊の御事)東の夷《えみし》の国を巡狩《めぐ》りて、新治《にひばり》の県《くに》に幸過《いでま》せる時、遣《つかは》されし国造《くにのみやつこ》、※[田+比]那良珠命《ひならすのみこと》、新に井を掘らしめしに、流泉《いづみ》浄《きよ》く澄《す》み、尤《いと》好愛《うるは》しかりき。時に、乗輿《みこし》を停《と》めて、水を翫《もてあそ》び手を洗ひたまひしに、御衣《みけし》の袖《そで》、泉に垂りて沾《ひ》ぢぬ。便《すなは》ち袖を漬《ひた》す義《こころ》に依りて、此の国の名と為《せ》り。風俗《くにびと》の諺《ことわざ》に、筑波岳《つくばのたけ》に黒雲|挂《かが》り、衣袖活漬国《ころもでとひたちのくに》と曰《い》ふは是なり。……
 可成り無理をして井に結びつけた説明が行われているが、そこに時代の反映が見られると思われる。
 次に此れと殆んど同様の記事(註四)が同風土記新治郡の郡名起原の説明に採られている。ここでは美麻貴天皇《みまきのすめらみこと》(崇神天皇の御事)の御代、東夷の荒賊を治めるため新治国造の|比奈良珠命《ひならすのみこと》が来任ののち、新に井を治《は》りし(掘った)因《ゆえ》を以て新治《にひはり》の郡名としたと云う。※[田+比]那良珠命は前掲の常陸の国名伝説、後述の新治の郡名伝説によれば第十代崇神天皇の御代大和朝廷から東夷の荒賊を治めるために遣わされ、その侭土着して日本武尊巡幸の際にも奉仕された。(9)恐らくこの命は東国に対する大和朝廷の高い文化の指導者であり、農業や井の開発等についても深い知識を持ち、当代農本主義の国策の第一線に立ち、任地に於て存分に腕前を発揮され住民は長く其の恩沢を受けることが出来た。此の農業開発者としての責務の第一は水の不足に苦しむ土民に対して、良好な飲料水と豊富な潅漑水とを与える事であった。風土記は此の命が其れについて十二分に成功した事を物語っている。この功績がやがて土地と井に結びつけられ、新治国造の祖として尊崇される因由となった。
 転じて播磨風土記にも屡々|葦原志挙乎《あしはらのしこを》命(大国主命)或は伊和《いわ》大神(大己貴命)の功績が称えられているが、これ亦国土の開発者、地方祖神として井の開発に結びつけられている。
 播磨風土記 揖保郡の条
 粒丘《いひぼのをか》。……葦原志挙乎命……杖《つえ》以て地《つち》を刺《さ》ししに、即ち杖の虚より寒泉《みづ》湧き出でて、遂に南北に通へり。……
 とあり、粒丘の良井に大国主命が杖で地を刺した虚から湧出したという。この外にも弥麻都比古命《みまつひこのみこと》(孝昭天皇の御事)品太天皇《ほんだのすめらみこと》(応神天皇の御事)息長帯日売命《おきながたらしひめのみこと》(神功皇后の御事)を始めとして、尊貴の方で井の開発に開係付けられているものが極めて多い。播磨国(兵庫県)の如く瀬戸内寡雨地帯に位し、飲料水、潅漑水に最も苦しむ地方に於て、良井の発見、開発は限りない喜びを土人に与え、土人も亦其の発見・開発を情として皇室或は地方祖神の功績に帰したものであろうし人々はこの井に依って生活を繁栄させ、井を通して其の開発者、祖神に感謝の誠を棒げたのである。
 
 註一、快適な飲料水。快適な飲料水又は良好な井についてその特徴を大和志所載の九十井及大和名所図絵所載の三十三井を通してこれを見れば、(一)味の良いこと(二)水量が豊富であること。(三)水の増減がなく旱天時にも涸れないということである 京(10)都府についても雍州府志、都名所図絵等其の記るす特徴は大和と同様である。此の三つの特徴は今も変りはなく、現在地方の名井と称えられているものも殆んど此の範疇を出ない。
 註二、古典。一般的に古典は時代が遡る程井についての記事に富んでいる。奈良県の江戸時代以降に例を取れば延宝九年刊行の「和州旧跡幽考」、享保二十一年発行の「大和志」に最も多く、寛政三年の大和名所図絵之に次ぎ、大正四年出版の「大和史料」は最も簡略に近い。云う迄もなく此の傾向は時代が井に対して持つ関心の逓減を意味するものである。
 註三、井。風土記等の古典に記るされている井には二種の別があり、一は飲料水を供するもの、他は潅漑水を得るためのものである。併しこの点については第二章に於て詳しく了解されたい。
 註四、同様の記事。常陸風土記新治郡の条に次の記事がある。
  古老の曰《い》へらく、昔、美麻貴天皇《みまきのすめらみこと》(崇神天皇)の馭宇《あめのしたしろしめしし》世《みよ》に、東の夷《えみし》の荒賊《あらぶるにしもの》を平討《ことむ》けむ為に、新治国造《にひばりのくにのみやつこ》が祖《おや》、名は比奈良珠命《ひならすのみこと》と曰《い》ふを遣《つかは》しき。此の人|罷《まか》り到りて、即《やが》て新しき井を穿《ほ》りしに、〔今、新治里《にひばりのさと》に存《あ》り。随時《をりをり》に祭を致す。〕其の水|浄《きよ》く流れき。仍《よ》りて、井を治《は》りし因《ゆゑ》を以《もち》て、郡《こほり》の号《な》に著《つ》く。……
 
      第三項 井の信仰
 
 良好な飲料水を給する井は単に強い信仰の対象となつた計りでなく、井そのものも神と崇められて盛んな祭祀を受けることとなつた。井に対するこのような信仰は殆んど世界的な拡がりを持ち、古来各民族の間に井、泉などを神聖視し又此れに魔術的な力があるとする習俗が盛行し現在もなお根強い力を持っている。我国に於ても略同様である。
 先づ井神について「古事記」に依れば此の神(註一)は大穴矣遅神《おほなむちのかみ》と八上比売との間に生れた神で、やがて母の八上比売(11)は此の子神を木の俣に刺し挟んで帰って仕舞われたので木俣《きまた》(ノ)神、別に御井《みゐ》(ノ)神と云うとある。我等の祖先は此の神が井に宿る事を信じ、進んで井其の物にも神性を賦与していたのである。此の信仰は上下おしなべて盛んで「延喜式(註二)」によれば、宮中に祭る神三十六座の内|座摩巫祭神《ゐかすりのみかんなぎのまつるかみ》五座の内|生井《いくゐ》神、福井神社、綱長井《つながゐ》神の三座を初めとして、主水司に於ても御井神一座、御生気御井神一座が祭られて定例式は臨時の祭式が執り行われていた。又座摩祭神に(註三)ついても加茂真淵の説く所によれば、「ゐかすり」は井之後(ゐのしり)の借字で、従って井の出口或は下流域に祭られる神を意味し、やはり井神を祭った神社と解せられるという。次に践祚大嘗祭には在京斎場の井は二ケ所と定められ、荘厳な卜占ののちに掘られて御井神を祭る事となつていた。
 民間にあつても此の信仰は盛んであった。同じく延喜式所載の神社について調査すれば、其の神社名中、井字を附せる神社の数は大社、小社合せて全国三千百三十二座の内約七十社に及び、其の内大井神社、御井神社などは各七社以上を算し、又石井、浅井、井上等の神社名も多い。今これらの神社を直ちに井神或は井そのものを神として祭る神社と速断することは出来ないが、井の信仰と深い縁りを持つものである事には違いない。先に常陸風土記新治郡の条に於て、比奈良珠命が掘られた新井の記事(第一章第二項註四)の割註に
 今、新治里《にひばりのさと》に有《あ》り。随時《をりをり》に祭を致す。
 とあるが、これも一つの考察の資料である。
 此の風習は現在も各地に見られるが其の最大のものは伊勢外宮の御井社及京都の石清水神社等であろうか。外宮の御井は古来最も名高く、其の起原は天孫降臨の際天上から移しすえられたものと伝えられ、傍にある御井社は此の井を祭るものである。(第一章第一項御井水、第二章第四項天真名井参照)次に石清水神社について井上頼寿氏(12)著わす所の「京都民族志」によれば、この神社は今は石治水八幡の摂社であるが、その創立は本社よりも古く、同社名の始源の地とされ、所謂岩清水は男山の中腹、鳥居の正面の四角の石枠の内にある。八幡の山中には数多くの井泉があるが、此れが最も有名なもので泉其のものが神とされている。此のような井を祭る風習は未だ根強く行われ、各々の家庭に於ても年頭に、月毎に、又古風を守る家では毎朝、井神に灯明、酒其の他の供物を献じて、其の祭を行っているが、此等の信仰は寧ろ古昔の方が盛んであつた。発掘調査された上代井の井底にも明かに神を祭った遺構と認められる物が残っていたのである。(三章第四項第七目、埋没土器と埋没土器上被層)此の信仰はまた当然仏教によっても採り上げられた。今奈良市多聞院の古記である「多聞院日記」によって一例を示せば、大正十七年四月約一週間を要して市の井を掘り其の竣工の際、井水の開眼供養を行つて各々の息災延命を祈祷し、竜神の守護勧請をしたという(註四)。如何にも神仏混淆の面白い井の祭りと思われる。
 井を祭る神社の中には其の社殿が直接井の上に建築されている場合がある。「延喜式神明帳」に次のような社名が見えるが、此等は井の上の神社と解することが出来、其の社殿は井の上にあったものであろう。
 山城国愛右郡 出雲井於神社
 大和国城上郡 狭井坐大神荒魂神社五座
 和泉国和泉郡 泉井上神社
 摂津国島下郡 井於神社
 但馬国養父耶 井上神社二座
 今出雲井於神社について伴信友は其の「神名帳考証」に於て、其の社殿はもと井上に在ったものと推断されている。
 
〔入力者注、12.13頁の間に2頁にわたって写真がある。「明日香村大根田の大師井」「今井町蘇武井」「大和高田市有井の大師井」「高市郡高取町羽内の瓶井」、「三井寺井」「宇陀内牧の五千本の樋」「明日香村阿部山「井戸の元」」「高取町入生谷の共同井」〕
 
(13) 神名帳考証
      井ノヘノ
 出雲(ノ)井(ノ)於神社 山城国愛宕郡
  ○又按ニ井上ト申セバ旧ハ井ノ上ニ社ノアリタルナラン洛東祇園社尾張津島社モ素盞鳴尊ヲ祭リテ共ニ井ノ上ニ社ヲ建タリ
 なお前掲の「京都民族志」によれば有名な滋野井(京都滋野井の辻)、石占井(日吉神社附近)、嵯峨落星井(同町法輪寺)、天真名井(下京区市比売神社)等に於ては昔時或は現在井上に社殿がある。又京都の貴船神社も社伝によれば其の神殿は神秘な泉の上にあり、次に大阪府下茨木市茨木神社の天石門別《あめのいわとわけ》神社も口伝によれば赤井の清水の上に在ると云う。転じて奈良県に於ても曽ては諸所に此の型式の神社があつたと伝えられ、今も三輪山麓の大神《おうみわ》神社の摂社は三輪山頂の小池(井)の中に祭られている。何故にこの様な風俗が起つたのであろうか。この理由の説明を一部の人々は井上に社殿を置けば万一火災の場令、御神体は井中に落ちこんで類焼を免かれ得るとしているがこれは寧ろ結果論で、初め井そのものを神として崇めていたものが、やがて其の上に社殿を造つて祀るという事になったものであろう。神道家の説く所に依れば、井上の建築物は湿気のため腐朽が甚だしいので現在は其れが井の傍に移建される傾向にあるという。
 井と神社信仰との関係は上述の通りであるが、更に外来の寺院信仰との繋りは求められないであろうか。「日本書紀」に
 天智天皇の条
 九年春三月甲戊朔壬午、山御井《やまみゐ》の傍《ほとり》に於いて、諸神《かみたち》の座《みまし》を敷《し》きて、幣帛《みてぐら》を班《あか》ちたまふ。
(14) とあるが、山御井は山の井の敬称であり、通常滋賀県滋賀郡三井寺の地にあるものとされ、今も其れと伝えられる井が同寺金堂の側に在り、三密灌頂の閼伽となし、慈尊三会の暁を期っている。「今昔物語(註五)」や「元享釈書(註六)」は天武、持統、文武御三代の御誕生にあたって御産湯の水を汲まれたので、井は一つであるが三井寺と云うと説いているが、「後撰和歌集(註七)」などの歌(註八)によっても古くは明かに山の井であった。恐らく敬称|山御井《やまみゐ》の御井《みゐ》が三井に転じて三天皇御産湯の水の附会にまで伝説化されたものであろう。とまれ此の井が当代の名井であった事は天智天皇御親祭の御事からも察しられるが、平安朝以降隆昌を極めた三井寺(園城寺)は実に此の井によって建立されたと考えて間違はあるまい。又飛鳥時代の古塔……此の塔は惜しくも昭和二十二年焼失した……を以て聞こえた奈良県の名刹法輪寺も亦御井寺或は三井寺と称し、今も其の井を残し、其の内の一井は※[土+專]井とでも呼ぶべきもの(第二章第四節※[土+專]井参照)であるが、此の地は古くから三井と云い其の所以は富の井に因むと伝えられている。富の井は上宮聖徳法王帝説(註九)に
 斑鳩《いかるが》の富の井の水|汝《い》が無くに喫《た》ぎてましもの富の井の水
 とあるもので、聖徳太子に関係を持ち我が上代史に記載される最も古い井の一つである。恐らく此の井と寺の創建との間にも何等かの因果関係があったのではあるまいか。この様な井と寺院の創建との関係を推測させる例は他にも求めらるべく、此等から帰納して恐らく有名な井、信仰高い井の地を卜して寺院の建立が行われたと云う事が考えられる。英国にも同様な例が認められるが本章第四項スコットランドの聖者ムンゴの井について参照されたい。
 次に直接的に水に対する信仰の表現として禊と産井等が挙げられる。先づ禊は神代以来長く続けられて来た我が国の慣習で海、河、泉、井等の水で身を滌《そそ》いで其の汚穢《けがれ》を去り心身を清浄にするという行事で、現在の水垢離は其(15)の残影とされている。水を用いて物の汚れや異物を洗い流すことは当然のことであるが、禊に於ては此れを一歩進めて心の汚れまで拭い去ると解し、水の清浄作用を精神界にまで昂めて其の神秘作用を認め、我が民族の純潔性を崇み好尚に根ざし神道祭式の主要な部分をなしている。禊の初見は神代に伊弉諾尊《いざなきのみこと》が黄泉《よもつくに》から還られて「吾が身の濁穢《けがれ》を滌《あら》ひ去《す》てむ」と仰せられて、筑紫の日向の小戸《をど》の橘《たちばな》の※[木+意]原《あはぎがはら》で祓除《みそぎはら》いをされた事で最も人口に膾炙しているが、降って奈良時代の歌集である万葉集(註一〇)等にも禊(註一一)についての歌が多数に採り入れられて、当代に於ける其の盛行を裏書している。別に禊とは異なるが天照大神が素盞鳴尊と天の安河《やすのかは》で最も厳粛な誓約《うけひ》をされた時、それに用いた剣や玉等を天真名井の水でそそがれているが、之も亦禊と同様な水に対する考慮から発するものであろう。恐らくキリスト教徒の洗礼、イスラム教徒の浄めの水(註一二)等も亦同じ考慮に出ているものであろう。
 次に産井については産湯に用いる水を汲み採る井が其れである。産湯は「倭訓栞」に「産湯也。洗児湯といふ」とあり出産直後の赤子に用うる湯である事は云う迄もない。産湯の目的は医学的には洗児湯の文字の示すように赤子に附着している汚物を洗い去り、又其の発育を促進する効果を期待したものであるが、別に産湯には其れを了えた赤子は初めて着物をつけて子供の仲間入りをすると云う何かほのぼのとした芽出度い嬉しい希望が懸けられているのである。此の故に古から産湯の意味は重大に考えられ、これに用いる水を汲んだ井は産井として長く記念された。従って著名人士の産井と称するものが各地に多い。勿論これらの中には後世の附会に出づるものが多いが、これ亦産湯を通して水に対する信仰の一表現と考えられる。史上産井についての初見は仁徳天皇の御子反正天皇の御誕生についての記録で、日本書紀に、同天皇の産湯の水には淡路島の瑞井《みづのゐ》の水が用いられ、其の時井の中に多遅比《たぢひ》の花(いたどりの花)が落ちていたので、その花に因んで天皇の御命名が行われた(多遅比瑞歯別天皇《たちひみつはわけのすめらみこと》)(註二二)と云う(16)芽出度い限りの伝文が記載されている。
 
 註一、此の神は、古事記の其の条
  かれその八上比売は……その生みませる子をば、木の俣に刺し挟みて返りましき。かれその子の名を木(ノ)俣(ノ)神とまをす、またの名は御井《みゐ》(ノ)神ともまをす。
 註二、延喜式。五十巻。醍醐天皇勅によって藤原忠平等が前後二十余年を費して編纂したもので、延長五年(紀元一五八七年)に完成した。朝廷年中の儀式、百官臨時の作法、其の他各国の定例等を詳細に記録したものである。
 註三、座摩祭神。加茂真淵は座摩を井之後(ゐのしり)の借字と解しているが、此の逆の意と思われる「井古」なる文字が春日文書に見えている。東京都下「井頭《ゐのがしら》」もこれと同義であろう。
 註四、市の井。多聞院日記天正十七年四月の条。
  廿一日、一、南市ヨリ井出ノ西ニ井水堀 一御分トシテ沙汰也
  廿六日、井ノモト出来了、水一段能涌出也、珍重々々雨風
  廿八日、市の井水開眼供養 各息災延命祈祷抽懇祈 仏舎利三粒竜神守護勧請訖 無利益【云】
 註五、今昔物語。後冷泉天皇の治暦三年(紀元一七二七年)権大納言に拝せられた源隆国の著す所で、日本部三十巻、天竺部十五巻、震旦部十五巻、計六十巻より成り、和漢印三国古今の雑話を集録したものである。
 註六、元享釈書。三十巻より成り、東福寺海蔵院の住職師錬(虎関禅師)の製作で、推古天皇以降後醍醐天皇の元享年問に到る七百余年間に於ける我国仏教の略史である。
 註七、後撰和歌集。二十巻、古今和歌集に次ぐ勅撰歌集で村上天皇の天暦五年(紀元一六一一年)に大中臣能宣、清原元輔、源順、紀時文、坂上望城等の五人が御所の昭陽舎に於て古今和歌集に漏れた歌及び古今和歌集以後の歌を集めたものである。栄花物語に依れば後撰集の名は古今集の後に撰成されたものの意であるという。
 註八、歌。山御井についての後撰和歌集の歌。若う侍りける時は志賀に常に詣でけるを年老いては参り侍らざりけるに参り侍りて
(17)                   読人知らず
  珍らしや昔ながらの山の井に沈める影ぞ打ち果てにける
 註九、上宮聖徳法王帝説。作者も著作年代も不明であるが非常に上代のものと考証されている。表題の示すように上宮聖徳法王則ち聖徳太子を中心として述べた記録である。
 註一〇、万葉集。我国最古の歌集で仁徳天皇の御代から淳仁天皇の御代までの歌四四九六首が収録されている。歌を体を以て分類すれば、短歌、長歌、旋頭歌となり、部類には凡そ雑歌、相聞挽歌、譬喩歌、四季雑歌、四季相聞等である。歌風は単純、素朴、雄大で自然の情から発し、後世の歌が務めて彫琢を弄しているのと異なつている。当時の言語、世態、人格等まのあたり見るがごとく、又史書としての価値も大きい。著者については古来異説が多く、橘諸兄、大伴家持の撰といい、別に両人の撰とも唱えられているが未だ明かにされていない。
 註一一 禊。万葉集の禊の歌一首。
  六二六
   君に因《よ》り言《こと》の繁きを古郷の明日香《あすか》の河に禊しに行く
 註一二、イスラム教徒の浄めの水。イスラム教は中国では清真教といわれる位、信者は極めて清潔を保つように教えられ、特に礼拝の時には必ず身体を洗い浄める。聖地メッカにあるカーバを礼拝する前には必ず有名なザムザムの霊泉の水を用いることとなっている。
 註一三、反正天皇の産湯井。
  日本書紀 反正天皇即位前紀
  天皇初め淡路宮に生れます。……是に井有り、瑞井《みづのゐ》と曰ふ。則ち汲みて太子に洗《あむ》しまつる。時に多遅《たぢひ》の花落ちて井の中に在り。因りて太子の名《みな》と為す。多遅の花は今の虎杖《いたどり》の花なり。
 
      第四項 井の伝説と民間信仰
 
(18) 井についての伝説や民間信仰は可成りに多い。又既に消滅してしまった風習などて今は古典にのみ残っているものもある。此の項では此等の問題について取扱って見た。ただ第二章で解説する真名井、生井、栄井及びこれと同一系列の井や薬井、薬水又は酒井等の性格にも此の項に取扱ふべきものがあるが、其等は便宜上すべて其の項に譲った。
 先づ奈良県を中心として井の民間信仰について記るせば
1、子供は井に近よってはいけない。それは井神が子供をまねき、井に引き込まれる恐れがあるからである。
2、井は不浄を忌む。井に唾すると口が腫れ、又小便すると道具が曲る。産婦は二週間位は井に近寄ってはいけない。井戸凌いには身を浄めなくてはいけない。又井に入る時繩の帯を用いれば怪我がないと信ぜられている。里人の場合は「私のように年寄りで汚れた身体で入つても障《さわり》がないよう御許し下され」と先づ井神の許しを乞いうける。
3、井戸浚いは通例旧暦七月七日|棚機《たなばた》祭に行われるが、此の特金箔を入れると井水が浄く美しくなる。金銀紙で人形を造り之を入れても同様である。又正月、御盆には神楽が廻って来るが、その獅子の頭の金紙或は髪の毛を入れても同様の効果があるとされている。
4、新たに井を掘る場合は卜占を行い、その土地を浄めて行うことが一般的である。奈良盆地に於ては普通其の東麓に鎮座する有名な大神神社(註一)の卜占を受け、掘ろうとする土地の四方に青竹を立てて注連繩を張り神官の祝詞奏上を行う。又塩で土地を浄める。
5、今は余り注意されない様であるが上代に於ては井戸掘、井の修理、井戸浚え等にも吉凶の日があり、軽々には行われなかった。此等の例証は「正倉院文書(註二)」や「明月記(註三)」に求めることが出来る。
(19)6、一般に井は不用になっても埋めないで自然消滅をまつべきものとされ、その理由としては急に埋めると井神までも埋め込んで其の息の根を止めて仕舞うからとされている。それでどうしても早急に埋める必要の場合は、長い青竹の節を抜いたものを井底に立て其の上方を地上五寸余り出して置いて埋立てをすることとなっている。これは云う迄もなく神が呼吸をするためのもので、この労を怠ると一家の中から限の潰れる者が出たり、盲の子が生れたりすると信ぜられている。伊勢平野に於ては此の場合「まなこ」……井底にある小水溜め……を取り去るが、これも井の眼を潰さない為と説明されている。恐らく此のような風習は大和、伊勢ばかりでなく他にも求められる者であろう。「和漢三才図会(註四)」に
 古井不v可(ラ)v塞(ク)令(ム)2人(ヲ)盲聾(タラ)1。
 とあり、「古い井は塞いではいけない。塞ぐと人を盲やつんぼにする」と云うのであるが、この書は約二百四十年以前に著わされたものであり、此の俗信にも相当古い伝統があることが判る。
7、一般に井と眼との関係は密接であるが、これについては第二章第四項第十七目薬井・薬水の項に解説を行つた。
8、落雷と井。次のような伝説が奈良県に流布されているが、此の県以外にも案外広い範囲に拡がつているのではあるまいか。それは雷が井の中に落ち、若し其の井の所在が神社の境内なれば神官、寺院なれば僧侶か本尊仏かが井に蓋をして雷を井に閉じこめて仕舞う。雷は神官、僧侶、神物に深く謝し今後其の地には絶対に落雷しないことを誓い許されて昇天する。其れ以来其の神社や寺院の境内又は其の集落には絶えて落雷を見ないと云うのである。奈良盆地には此の伝説を持つものが相当に多く次にその二三の地名を挙げた。
 磯城郡多村|味間《あぢま》 須賀神社 祭神素盞鳴尊
(20) 磯城郡安倍村山田 山田寺 真言宗
 高市郡天満村奥田 善教寺 浄土真宗
 高市郡真菅村曽我 東楽寺 曹洞宗
 南葛城郡掖上村柏原 某井
 「京都民族志」にも次の記事があつて同じ型の伝説と思われる。
 雷の井戸。近江石山の南、岩間の山に僧泰澄が観世音を安置して堂宇を建てたが何分高い地の事とて再度雷火の災に遇った。そこで泰澄は本尊に祈誓し、三度目に落雷して伽藍を破壊した雷神を捕縛した。そして以後絶対に落雷せぬ事を誓わしめ、且山地の市で閼伽の水の無いのを憂えてゐる折柄是れ清水を湧かせよと命じて縛を解いてやり、加持水を雷神の掌中に受けさせて其の手で巌を刺し穿たしめたところ、其処から玉の様な清水が噴き出した。今に雷の井戸と称して同寺の庫裡の奥に存し、一種のよい味がある。
 この伝説にも長い伝統があった。それは前掲の石山寺の雷の井戸の伝説と殆んど同型の物語(註五)が「今昔物語」に収められているので少くとも平安時代には既に此の伝説は成立していた。そして此等の物語を通して、上代に於ける良水を得る事の困難さが、仏の功徳と巧みに織りなされて一つの物語に纏め上げられている事を窺うことが出来る。
9、落星と井。星が井に落ちたという伝説も相当に多く奈良県、京都府等に拡がっている。前に述べた落雷の井と比して全く別々の根文から出た二つの伝説であるか、若しくは雷か星の片方から他へ伝説がずれたものか、この問題の解明は寧ろ民俗学者の手に委ぬべきものであろう。二三の例を記るせば奈良県生駒郡の森泉について「大和志(註六)(註七)」は此の泉は南田原村にあり、土地の人は、昔星が此の井に降ったと云い伝えていると記るしている。京都市嵯峨の(21)法輪寺境内の落星井について、「洛陽名所集」巻十一は次のように記るしている。則ち「堂のかたはらに有。井の上に社立たり。道昌此井にて垢離の時星くだりけるとなり。」又同じく東山黒谷の山内栄摂院の明星井について、同院の記録は次の様な由来を伝えている。「明生井水に降りて仏菩薩来現す」と。
10、次に大師井……弘法水……御大師さんの井戸……について記述を行つて見たい。大師井の分布は殆んど全国的であるが略次のような型式にまとめられ、唯細部に於て異動がある。それは或る土地に見馴れぬ僧がやつて来て水を乞う。甲の村では女が機を織っていて、手を止める煩らわしさに拒絶する。或は洗い物をしていて汚れた水を汲んで出す。乙の村では女が機から降りて此処は水が濁っていると云つてわざわざ遠くの井から汲んで来て出す。それから甲の村では井の水が出なくなり或は水が濁って仕舞い、この村では清水が混々と湧出して此の井が其れであると云う。此の旅僧は大師空海であった。それで井の傍には大師を祀る祠があったり、大師の石像が立っていたりする。以上は柳田国男氏者「伝説」に依ったのである。
一、二村型式の分類。
イ、最も普通の型式を(.利根川図志(註八)」によって関東に求めれば、其の巻二、日子天社の条に特に大師とは記るしてはいないが次のような記事がある。
 天保十三年四月十八日、同村(相馬郡青山村)勘助の妻機を織り居しに、廿四五歳許の僧来りて、水を乞ふ。自家井の地洩にて呑むべからざる由をいひて、隣より丐《こ》ひて与へしかば、悦びて、さらば井を加持し与ふべし。清水になりなば諸病に効あるべしとて去れり。その明日見しに清水と為れり。試に母の眼病に伝けしに癒えたり。この噂高くなりて、水を乞ふ者夥しく、耳目を聳動するを以て官より禁ぜらる。猶水を盗む者断えずとなむ。
(22) 次に京都市|高《こう》の尾の一つ井にも同じ型の伝脱があり、ここでは旅僧は大師となっている。非常な良水で今でも一村が此の井一つに依存しているという。
ロ、(一)の伝説の中心点が何処にあるか此の方面の研究を怠つている著者には不明であるが、伝説を構成している要素が少なく、単に大師が堀られた、又は関係されたというような単純な伝説の一群がある。
 大師一夜の井、奈良市福井町不空院にあり、大師が一夜の内に堀られた。
 樽井、奈良市三条樽井町にあって、大師が同市橋本町の可須理井を掘られて、それを興南院の閼伽井に当てたが水が不足なので別にこの井を掘られた。これで水が十分に足りたので樽井と云うと。
ハ、所謂薬井、薬水で大師が此の井の水を用うれば病に効くと教えられたと云う類で、大師井の多くは此の性格を持っている。前述の利根川図志の井もそれであるが、此については改めて第二章第四項薬井、薬水に詳説した。
ニ、井開発に用いられた物件及動作の異同による類別、
 大師が錫杖で突いた処から水が湧出して井が出来たという杖つきの井で、奈良県では生駒郡郡山町矢田筋の大師杖つきの泉、京都市では東寺の大師杖衝井などがある。
 大師が独鈷で突いた処、或は其れを投げた処から水が湧出して井となつたという独鈷井には京都泉涌寺内空海独鈷井、同じく熊野観音境内五智水等がある。前者は独鈷を投げた処から、後者は打つた処に生じたと伝えられる。遠く関東にも見られ群馬県の前橋風土記(註九)に独鈷井が記るされている。
(ニ)、甲村の型式については前述の高の尾の一つ井と地を接した田原の南方犬打川の下流域一帯の地が当り、此処では主婦が水を与えなかったために水質が悪くなった、と伝えられている。
(23) さて以上の分類中(ニ)の甲村の型式はさて措き全国の良井と云われるものの大部は一の乙村の型式に属し、其の開発は大師空海の功績に帰せられているのが大部分である。併し土地によっては特殊性があり、例えば古伝に富む奈良県などでは少数ながら神武天皇、聖徳太子等に関係を持つものがあり、又同県添上郡大安寺村の石清水は奈良時代の名刺大安寺の行教和尚(註一〇)が独鈷で突いて生じたものと伝え、京都鹿ケ谷の法然院の善気水は忍徴(註十一)が錫杖で刺した処に湧出したものとされている。関東に於ては土地柄大師に代って八幡太郎義家の関係した井が見られ、別に日本式尊(愛知県)や甚だしきは豊臣秀吉が杖で出したという温泉(兵庫県有馬)等も伝えられている。恐らくこのような現象は伝説が大師井信仰として統一される際に除外されたものと解すべく、換言すれば其等の井の所在地に於ては、大師よりも其等の過去の有名人或は大師より後世ではあつても土地に印象の深かつた人々の方が尊重されて、井の開発に結びつけられた事を物語るものであろう。
 又大師井信仰の起原は大師空海よりも一層古い上代に求む可きで、例えば「播磨風土記」粒丘《いひぼのをか》の井の記事(註一一)に葦原志挙男命《あしはらのしこをのみこと》則ち大国主命が杖で地面を刺すと其の処から寒泉《しみづ》が湧出したとあるが、此れは前述の杖つきの井、独鈷井等と同型式の物語で、唯葦原志挙男命を大師の名に置き換える事によって其の儘大師井に変えうる性格のものである。中華に於ても「倭訓栞」に依れば
 梁の景太禅師羅浮の宋積寺に居れり、其徒水なきを患ふ。師錫を地に卓つ、立ところに泉涌出て井を得たり。
 とあり、又英国リスターリング(Listerling)の聖者ミユレン(St.Mullen)の井は聖杖から流れ出るという伝説を持つている。此のように此の種の伝説に飾られた井は海外にも見られる所で、我が大師井も此等諸外国のものと或る繋りを持つものであるかも知れず、従って大師井信仰の起原は大師空海よりも古い時代に於て世界的な立場(24)で再検討されねばならない。いずれにせよ大師井が附近の井より水量が豊富で清冷甘美な良井である事から考えて、此の信仰は良井の開発者に対する上代人の感謝の意の表現と見るべく、其れが一世の名僧大師空海の功績に統一、帰一されたものと解すべきであろう。
11、水鏡、我々は少年時代の懐かしい説話の数々の中に「鹿の水鏡」、「魚をくわえた犬の水鏡」等を回想する。浅い井も深い井も共にあらゆる物を写し出す。特に谷合いに湛えられた山の井のしじまな一時に写し出された形、姿は物凄いまでに静寂其のものである。大和物語(註一二)に
 ……男いぬれば、ただ一人物も食はで山中に居たれば、限なく佗しかりけり。……待ちわびて立ち出でて、山の井に往きて影を見れば、我がありしかたちにもあらず、怪しきやうになりにけり。鏡もなければ、顔のなりたらんやうも知らでありけるに、俄に見れば、いと恐しげなりけるを、いとはづかしと思ひけり。さてよみたりける。
 あさか山かげさへ見ゆる山の井の浅くは人をおもふものかは
 とよみて、木に書きつけて、庵に来て死にけり。
 とあるが、文中あさか山の歌は早く万葉集巻十六に出るもので、説話はこれにヒントを得て面白く構成されたものであろう。筋は京都の某大納言の娘で世に優れた美女が、男のためかどわかされて陸奥国|安積山《あさかやま》に棲んでいて鏡を持たない儘に過していたが、或る日男の留守中の佗しいままに、山の井の水鏡に姿を写し余りにも変り果てて恐ろしげな己の容姿を歎き恥ぢて、男の帰りも待たないで死んで行くというのである。山の井の鏡としての性格が明瞭に描かれている資料の一つとして挙げた。此のような水の映像作用から歴史を現代人の指針……鏡……として採り上げて見るという意味で史書に有名な四鏡(註一三)があり、伝説としては全国各地に著名人士の姿見の井が散在している。(25)又一般に井其のものにも映像に関連した名称……鏡石(井底の大石)、マナコ(上下二段の井で下段の小井筒内を云う)、或はメボ(関東地方のモノモライ、学名麦粒腫)を治癒する力……等があり、更に全国各地に鏡池、鏡沼、鏡淵等の地名が多いが、此等の名称、事柄も亦此の作用に其の因由を求むべきものであろう。(メボについては第二章第四項薬井、薬水参照)
 次に姿見の井について一、二の例を挙げれば
 業平姿見の井。奈良県生駒郡法隆寺村大字|並松《なみまつ》。在原業平が河内に通われた際、いつも此の井に姿を映したと伝えられる。
 敦盛像見の井。奈良県南葛城郡葛城村大字風の森。今は埋められてしまつた。附近に吹の藪と称する地名が残り、有名な青葉の笛はこの藪の両岐の竹で作られたという。
 静御前姿見の井。奈良県吉野郡中荘村大字菜摘。
 小野小町姿見井。京都市東山小町寺内。
 深草少将姿見の井。洛南墨染の欣浄寺の畑中。少将が小町のもとへ通った時姿を見た井という。
 業平姿見の井。京都府乙訓郡大原野村大字上羽の竹藪の中。今は埋められて無い。
12、ここに呪い(呪詛)の井とでも称すべきものがある。著者の手元には現在次に掲げた資料だけであるが、他にも諸書を渉猟すれば、又地方伝説等の中に求め得るかも知れない。
 水鏡(註一四) 光仁天皇の条
 ……后まじわざをして井に入れさせ給ひにき。帝をとくうしなひ奉らむといふ事どもなり。その中に入れたる物(26)を、ある人とりて宮の内にもてあつかひしかば、この事皆人しりにき。
 これは奈良朝末宝亀三年の事で、光仁天皇の后井上内親王が、天皇を失い奉る目的で呪いの物品を井の中に入れたと云うので、何を入れたかは記るされていないが、やがて其れが取出されて宮中では其の仕末に困って持て余したと云うのである。
 さて此の呪詛の場合、入れられた物品の穿鑿よりも何故に井の中に入れたか、何故に井を呪詛の用に供したかと云う点に問題があり、恐らく其の理由は、井の深く人を引き入れる様な寂滅感と、暗く何物をも葬り去る様な秘密感とに此の呪詛の性格と相通ずるものがあるためであろうか。唯ここに附記せねばならない事は、呪詛のために物品を埋める場合、それは必ずしも井の中に入れるとは限られず、単に土中に埋めて置く方法もとられていた。(第三章第四項、縦板、有柱式井筒の例参照)従って此の場合は、井の持つ上述の性格が利用されたと解すべきものであろう。
 外国にも呪いの井(cursing well)の例は見られる。今ウェールズ(Wales)のデンビシャー(Denbighshire)の聖者エリアン(St・Elian's Well)の井は其の一例であるが、此の井の中に呪う相手の姓名を記してピンと一所に投げ込めば、其の相手の敵人を痩せ衰えさせる事が出来ると信ぜられている。又古くイングランド(England)のバス(Bath)市には羅馬時代の大浴場があったが、曽てここから鉛版の一片が発見され、これには
 あの静かに澱む水のように、痩せ衰えていくビルビア(Vilbia)を運び去った人は、彼女……したところの人をのみ救う事が出来る。
 と記るされていた。……の部分が腐朽して仕舞ったため全文の意を知る事が出来ないが、此等の文字の背後に、今を距る二千余年の昔、愛慾と憎悪との交錯した戦慄すべき悲劇がかくされて、それが井に関係を持つことを窺う(27)ことが出来る。
13、逆に呪われた井と称すべきものがある。それは日本書紀の雄略天皇紀に出づるもので、同天皇の怒りに触れた御馬《みまの》皇子が処刑される際に、三輪の磐井《いはゐ》を呪って此の井水は天皇が使用することは出来ないとしたと云うので、特定の個人に対して井水を呪詛したのである。これと関連して同じく武烈天皇紀に時の大臣|平群真鳥《へぐりのまどり》が罪を得て殺される際に食塩を指して呪ったと云う記事があるが、我が上代に於ては塩・水のような重要食品等を呪う風習が行われ、是はタブー(宗教的禁制、禁忌)の一種と見做されている。此の様な風習は我々現代人に対しては噴飯に価するだけの事柄ではあっても、其の時代には社会的、信仰的に重大性を持っていて、呪われた本人にとっては厳そかな強制力を持っていた。又既に記したように所謂大師井とは対象的に一杯の水を乞ふ大師に対して其れを惜しんだため、水が濁ったり出なくなったりしたと云う伝説を持つ井があるが、これもこの種の呪われた井と解すべきものかも知れない。ただ前述のものが個人に対して水や塩等を呪うに反して、井の方は一郡、一郷の集団に対して呪うことに特徴が見られる。或はこの二つの呪詛は根本的には同一の思想から派生したものであるかも判らない。奈良県山辺郡|都介野《づけの》村大字小山戸の大師井(第二章第二項の同井参照)では現在もその水を産湯と湯灌の水に使う事が厳重に禁じられて、若し此の禁を破ることがあれば重大な障《さわ》りがあると信じられている。それは此の禁じられている二つの用途が共に穢れとされて、そのため清浄を尊ぶ井に於て此れを嫌ったものであるか、或は上代行われていた何かの禁忌の名残りとすべきであるか。出産は古来穢れとされ、今も産後の婦人は井に近寄る事を忌まれているが、逆に産井は先に述べたように誇示される面があり、この点なお一層の研究を要することと思われる。いづれにせよ著者はこれについても上代にあって井が呪詛の対象として撰ばれる程に社会上、生活上重要な位置を占めてい(28)た事を強調したい。
 以上井についての風俗、旧慣、伝説、民間信仰等を挙げて解説を行ったが、此等の中には局限された一地方だけのものではなく、全国的な拡がりを持つもの、更に世界的に関連性をもつもの等があり、その起原、性格等については著者の不敏求めて未だ及ばないものが多いのを遺憾とする。
14、次に主として欧洲に於ける此の種の問題について英国雑誌「マナーズ、アンド、カススムズ、オヴ、マンカインド(Manners and customs of mankind)」の三十一年版に依って一瞥を試みよう。上代の井、河川、池沼の中には親切か又は残酷な土地の精霊が沢山住んで横行していたと信ぜられ、此等に対しては犠牲が供せられていた。ホーマー(Homer)の時代(西紀前十世紀頃)ザントス(Xanthos)及スカマンダー(Scamander)の両河には各々僧侶が配せられていて、此の者達の手によって精霊達に犠牲が捧げられていたのであった。併しこのような河水に対する神聖観は現在も猶盛んで、印度のガンヂス(Ganges)河に於ては聖地ベナレス(Benares)への巡礼者の驚く可き多数の群が、この河水に沐浴して極楽往生疑いなしと信じている。此の種の信仰の祭式について英国に於けるものを記せば先づ最も有名なのはチッシソトン(Tissington)の井の水浴である。祭は毎夏キリスト(Ascensionday)昇天節に挙げられるが、其の際井は種々の美しい花に飾られ、又僧侶の勤行も行われる。同じような装飾の祭典が、バクストン(Buxton)の聖者アン(St・Ann's Well)の井でも行われ、多数の人々がここを訪れるし別に此のアンの井は古く羅馬時代から薬井(Healing Well)として知られ、降って宗教改革時代には井の上に礼拝堂が建設されたが、この建物は井から御利益をえた人々の捧げた松葉杖や其の他の記念品で一杯になっている。又ノーザンバーランド州(Northumberland)のコラーフォード(Collerford)附近の羅馬時代の城壁の線上にはコベンチナ(29)(Coventina)に献上された同時代の井があるが、ここからは夥しく多量な羅馬の貨幣、花瓶、数珠玉、指輪其の他の貴重な奉納品が発見された。転じて仏蘭西のショーモン市(Chanmont)東南のブールボン・レ・ベーン(Bourbonneles‐BainS)で西暦一八七五年に羅馬時代の井が発見されて銅貨四千枚、銀貨三百枚、金銀若干箇が検出された。これらの貨幣はいづれも皇帝オーガスタス(AugustusS)(西暦紀元前二七年から紀元後一四年まで在位)から皇帝ホノリウス(Honorius)(西暦三九五年から四二三年まで在位)まで約四百年に亘ってのものであった。次に西暦一八七〇年スコットランドの南部キルクカッドブライトシャー(Kirkcud‐brightshire)のトロキュアー(Troqueer)にある聖者クエルドン(St.Querdon's Well)の井の井戸浚えの際、同じく沢山な貨幣が発見されたが、これはエリザベス女王(Queen Elizabeth)(西暦一五五八年から一六〇三年まで在位)からヂョージ三世王(GeorgeV)(酉暦一七六〇年から一八二〇年まで在位)までの期間のものであった。此の型式の少しく変った例としてスコットランドのロスシャー(Ross‐shire)にあるイニス・マレー(Iunis Maree)の井に於ては、供物を井の傍の木に縛り附けて置く習慣がある。面白い事に最近西暦一八七七年九月(明治九年)ヴィクトリア女王(Queen Victoria)がここを訪れた際、やはり此の古い習慣に従って貨幣を木に取附けられたという。
 英国に於て特にケルト系民族の多く住むコーンウォール・ウェールズ、アイルランド地方には聖処女及び其の他|諸々《もろもろ》の聖者に捧げられた井が多い。例えばスコットランドのグラスゴウ寺院(Glasgow Cathedrl)の東南礼拝堂(The South‐East Chapel)の中にある聖者ムンゴ(St.Mungo's Well)の井は、口碑によれば元はケルト民族の聖井として、ストーソサークルの中央にあって、同民族の信奉するドルイド教の浄めの水として用いられていたが、ムンゴがこの民族をキリスト教に改宗させて教会を建てる時、其の地を特に此の井の所在地に求めて井を建物の中(30)に取り入れたものであると云う。フリントシャー(Flintshire)のホリーウエル(Holly Wll)にある聖者ウイニフレッド(St.Winifred's Well)の井も名高く、今猶多くの信者や巡礼者の帰依を受けているが、井の起りについて次の様な聖徒物語が伝えられている。それは聖者ウイニフレッドは紀元七世紀頃に生を享けていた聖処女で、土豪のカサドック(Casadoc)から求婚されていた。併し彼女は堅く独身を誓っていたので彼の申出を拒絶した。其のため土豪の怒りに触れて遂に彼の剣で斬殺されてしまった。彼女の頭が体から離れて丘の傾斜を転がり落ち、其の留まつた処から此の井は湧出したと云う。奇蹟的に聖女はここに蘇生し反対に土豪は死亡してしまった。此の様な型式の伝説を持つ井は極めて多く、イングランドだけで二十六の聖井は何某の聖者が殉教したか、或は安息したかの場所から湧出したと信じられている。
 ギリシヤの農夫達は現在でも河や泉の中にはニンフ(半神半人の美女)が住んでいると信じて恐怖し、どんな無謀な男でも川を渡る時には三度十字を切って祈る事を忘れない。又子供達は井水を汲む時、其の前に必ず三回井の中に唾をするように教え込まれ、若しこれを怠たれば例のニンフのため井の中に引き入れられると信じられている。そしてこの型式の信仰は、今でも英国のスコットランドやウェールズ地方に薄く或は深く残存している。
 以上述べたように欧洲の上代にあっては井、河泉、湖沼等は超自然的生物則ち精霊の住み家として信奉され、又精霊達は聖式を行ったり、供物を捧げる事によって宥める事が出来ると考えられていたのである。
 
 註一、大神神社。奈良県磯城郡三輪町にあり、大倭大物主櫛甕玉命を祭神とし、記紀によれば其の鎮座は遙かに神代にあった。中世以降大和の一の宮として特に盛大におもむき、終戦後の現在も民間の非常な崇敬を集めている。
 註二、正倉院文書。奈良時代井戸掘りに吉凶の日のあった事は同文書の具注暦断簡によって知り得る。((31)艮【○中略】廿九日辛亥金成 歳後天恩【○中略】治井竈吉、
  卅日壬子木収  歳前天恩【○中略】 井竈【○中略】中吉、
震【○中略】五日【○三月】丁巳土満、歳前歳後【○中略】治井、竈吉【○中略】
  とあり、本文所載の大日本古文書の註によれば「按ズルニ、右ハ天平十八年の具注暦ノ断簡ナラム、」とある。
 註三、明月記。井の修理に吉凶の日次があり、それに際して祭式を挙げた事は明月記の記載によって窺いうる。
  建保元年……六月廿日、今日修2復井1云云、貧屋井塞、不v及2修造1送2旬月1、汲2冷泉面井1云々、下官無v処2于成敗1、不v知2家途事1、一日雑人共称2日次宜由1相営云々、廿三日、井終v功云々、令v修2土已祭1、
 註四、和漢三才図会。寺島良安が正徳中編輯したもので百五巻より成り、和漢古今風百の事実を網羅して考証図説した一大雑書である。良安は浪華の人、杏林堂と号して医を業としたが、博覧強記で和漢の学に通じていた。
 註五、同型の物語。今昔物語に出ている同型の物語を記るせば
  今昔物語集巻第十二
  越後国神融聖人縛v雷起v塔語第一
  今昔。越後国ニ聖人有ケリ。名ヲバ神融ト云フ。……然レバ諸人此ノ聖人ヲ貴ビ敬フ事无v限シ。而ル間。其国ニ一ノ山寺有リ。国上山ト云フ。而ルニ其ノ国ニ住ム人有ケリ。専ニ心ヲ発シテ此ノ山ニ塔ヲ起タリ。供養セムト為ル間ニ。俄ニ雷電霹靂シテ。此ノ塔ヲ蹴壊テ雷空ニ昇ス。願主泣キ悲デ歎ク事无v限シ。然ドモ此レ自然ラ有ル事也ト思テ。即チ亦改メテ此ノ塔ヲ造ツ。亦供養セムト思フ程ニ。前ノ如ク雷下ヲ蹴壊テ。遂ザル事ヲ歎キ悲ムデ。猶改メテ塔ヲ造ツ。此ノ度ビハ雷ノ為ニ塔ヲ被壊ル事ヲ止メムト。心ヲ至テ泣々ク願祈ル間ニ。彼ノ神融聖人来テ願主ニ向テ云ク。汝ヂ歎ク事无カレ。我レ法花経ノ力ヲ以テ。此ノ度雷ノ為ニ此ノ塔ヲ不v令v壊ズシテ、汝ガ願ヲ令v遂ムト。願主此レヲ聞テ掌ヲ合セテ。聖人ヲ向テ泣々ク恭敬礼拝シテ喜ブ事无限シ。聖人塔ノ下ニ来リ居テ一心ニ法花経ヲ誦ズ。暫許有テ空陰リ細メル雨降テ雷電霹靂ス。願主此レヲ見テ恐ヂ怖レテ。此レ前前ノ如ク塔ヲ可v壊キ前相也ト思テ歎キ悲ム。聖人ハ誓ヒヲ発シテ。音ヲ挙テ法華経ヲ読奉ル。其時ニ年十五六許ナル童。空ヨリ聖人前ニ堕タリ。其ノ形ヲ見レバ頭ノ髪蓬ノ如クニ乱レテ極テ恐シ気也。其ノ身(32)ヲ五所被v縛タリ。童涙ヲ流シテ起キ臥シ。辛苦悩乱シテ音ヲ挙テ聖人ニ申サク。聖人慈悲ヲ以テ我レヲ免シ給ヘ。我レ比レヨリ後更ニ此ノ塔ヲ壊ル事不v有ジト。……聖人ノ云ク。汝ヂ此レヨリ後仏法ニ随テ逆罪ヲ造ル事无カレ。亦此ノ寺ノ所ヲ見ルニ更ニ水ノ便无シ。遙ニ谷ニ下テ水ヲ汲ムニ煩ヒ多シ。何デ汝ヂ此ノ所ニ水ヲ可v出シ。其レヲ以テ住僧ノ便ト為ム。若シ汝ヂ水ヲ出ス事无クバ我レ汝ヲ縛テ。年月ヲ送ルト云フトモ不v令v吉ジ。亦汝ヂ此ノ東西南北四十里ノ内ニ雷電ノ音ヲ不v可v成ズト。童跪テ聖人ノ言ヲ聞テ答テ申サク。我レ聖人ノ言ノ如ク水ヲ可v出シ。亦此ノ山ノ外四十里ノ間ニ雷電ノ音ヲ不v成ジ。何ニ況ヤ向ヒ来ル事ヲヤト云フニ。聖人雷ヲ免レツ。其時ニ雷掌ノ中ニ瓶ノ水ヲ一滴受テ。指ヲ以テ巌ノ上ヲ※[國+爪]穿テ。大キニ動ジテ空ニ飛ビ昇ス。其ノ時彼ノ巌ノ穴ヨリ清キ水涌キ出ヅ。…其後数百歳ヲ送ルト云ヘドモ塔壊ルル事无シ。亦諸ノ所ニ雷電震動スト云ヘドモ。此ノ山ノ東西南北四十里ノ内ニ于v今雷ノ音ヲ不v聞ズ。亦其ノ水不v絶ズシテ于v今有リ。雷ノ誓ヒ錯ツ事无シ。……
 註六、大和志。並河永の著、享保二年の出版である。並河氏は伊藤仁斎に学んで経史百家に通じていたが、我国に地誌のないのを歎き、友人関祖衡等と共に日本輿地通志を編し、本書は其の一部である。
 註七、此の泉。大和志に次の通り記るされている。
  森泉在南田原村……土人曰昔星降2于此1因名。
 註八、利根川図志。利根川沿岸地方の地誌で、赤松義知の著す所。安政二年の自序があり六巻より成る。
 註九、前橋風土記の独鈷井の記事
  独鈷井、在2浄法寺村浄土院門前1相伝弘法大師以2独鈷1親所v鑿也方六尺許其水清冷味甘美也雖2天下旱魃1所v此泉不v残2滅少1。
 註一〇、行教和尚。備後に生れ、後大和国大安寺に住み三論及び真言宗の教旨を修めた。貞観元年豊前宇佐八幡を拝し帰って山城の男山に其の神霊を勧請して祀った。
 註一一、忍徴。浄土宗の高僧。延宝九年山城に法然院を開く。正徳元年歿。
 註一二、大和物語。平安時代の名著で、和文の物語である。作者については在原業平の子滋春とも花山院とも云われているが詳かでない。
 註一三、四鏡。平安時代漢文でかかれた六国史に次いで国文の史書が作られたが、それは同時代の大鏡、鎌倉時代の今鏡、水鏡、室町時代の増鏡で、これをまとめて四鏡と云っている。鏡字を用いた意味は歴史は現代に対しては鏡であつて、そこに批判の基準を求めるという意味である。
 註一四、水鏡。和文の史書で、神武天皇辛酉の年から仁明天皇の嘉祥三年に至る五十四代の間の事を録している。後鳥羽天皇の建久の頃中山忠親の著わすところと云われているが異論もある。誤りも多いが勅撰の国史に見えない事実で史学の好材料となっている史料も含まれている。
 
      第五項 井と集落
 
 集落の発生について井がこれに先行する場合と其れの逆の場合との二つが考えられる。先行する場合の例として考古学的調査の結果によれば、奈良県に於て磯城郡川東村大字|唐古《からこ》、高市郡新沢村大字|一《かず》、同郡|真菅《ますが》村大字|中曽司《なかぞし》、吉野郡中荘村大字宮滝等の縄文式、弥生式の広大な住居跡が例外なく川畔、沼畔に位し、昭和十三年発見の橿原神宮外苑の縄文式遺跡地も亦沼中に横たわる半島状地塊の先端に発見された。又最新発掘調査中の静岡市外登呂の弥生式遺跡も登呂其のものの意味が「水の淀んだ所又は淵という意味に解され現在の登呂の地形では一寸と不似合に思はれるけれど、地理学上から調査して頂いた結果は、この附近が或る時期に……遺蹟を残した人々の住んでいた頃に……浸水して沼沢地となつた形跡がある」(大場磐雄氏著古代農村の復原から)という。これを考古学調査の一般について見ても、関東縄文式遺跡、諸地方の弥生式遺跡が殆んど其の時代の海岸線、河畔、沼畔低地に位して、人々は先づ水の利便を考慮して集落を構成した事を物語っている。
(34) 上述の事実は朧げではあるが次の記録などからも窺い得られる。
 播磨風土記 揖保郡の条
 出水里《いづみのさと》。此の村に寒泉《しみづ》出づ。故《か》れ泉に因りて名と為す。
 常陸風土記 那賀郡の条
 ……泉、坂の中に出づ。水多く流尤も清し。之を曝井《さらしゐ》と謂ふ。泉に縁《そ》ひて居《す》める村落の婦女、夏月《なつ》、会集《つど》ひて布を浣《あら》ひ曝乾《さら》せり。
 則ち、泉に困って里の名とするとか、泉に沿って住む村落とか、共に泉則ち井が集落に先立って存在した事を物語るものである。著者は以上の考察を小野武夫氏著「近世村落の発達及変遷」の一文を借りて次に纏めて見たい。
 農村が新に村を建設すると云ふ事は語を換へて云へば、其の地に殖民すると云ふ意に外ならぬのであるが、古来殖民地建設に当り其の地に具備せねばならぬ条件には三つあると云はれて居る。一に曰く水、二に曰く仕事、三に曰く殖民者の堅固なる意志である。西洋の学者は此の三つの条件を称して三「ダブルユウ」即ちWater、 Work、Will と云ふて居るが、日本古来の農民が新に村の建設をなすには、矢張り其の新開地の条件として其処に良水ありや否や、其地にて適当なる農業を経営し得るや否やを見たる上、自ら確乎不抜なる精神を以て開拓の業に取掛ったことであらふ。
 則ち殖民地建設の第一要件として良好な飲料水と灌漑水の必要が強調されている。併し井は必ずしも常に集落に先行するものではない。これについては余りにも常識的であるから説明を省いた。
 古事記や日本書紀等の古典には単に春日《かすが》の櫟井《いちひゐ》、朴井《ゑのゐ》、金網井《かなつなのゐ》、竹原井等の記載(註一)が屡々行われている。先づ櫟井(35)については日本書紀の允恭天皇の条(註二)に容姿絶妙無比《かたちすぐれてならびなく》、其《その》艶色《うるはしきいろ》衣より徹《とほ》りて晃《て》り、時の人々から衣通郎姫《そとほりのいらつひめ》とまで其の美しさを絶讃された弟姫《おとひめ》が、天皇の御召によって近江国の坂田から、大和国の藤原宮に参上する時、其の途上春日の櫟井の側で食事を摂り、又弟姫は天皇の御使いである鳥賊津使主《いかつのおみ》に酒食を賜わって其の意を慰められたと記るされている。櫟井は古事記品陀和気命《ほむだわけのみこと》(応神天皇)の条にも出で、同天皇の御歌「……櫟井の、丸邇坂《わにさか》の土《に》を……」の櫟井と同じで、奈良県添上軍|治道《はりみち》村|櫟枝《いちゑだ》にあったとされ、上代に於ける名井の一であるが、ここに注意すべき事は、井の側で酒食が供せられたという事実である。
 次に朴井については日本書紀推古天皇廿四年の条(註三)に現在の薩南諸島中の一島|掖玖《やく》島の人々が先後并せて三十人帰化して来たので朴井に安置したとあり、金綱井については同じく天武天皇即位前紀(註四)に壬申の乱に際して、倭京の将軍|大伴連吹負《おほとものむらじふけひ》が金綱井に駐屯して敗戦のため散《あら》けて仕舞った兵卒を招き集めたとある。朴井は和泉国泉南郡に、金綱井は大和国高市郡にあったとされているが、二井共其処には相当の集落が成立していたもののように推考される。特に後者については、将軍幕下の諸軍の宿舎たるべき程の集落が成立していたものであろうか。勿論この地は当時の交通上の要地であり、又此の壬申の乱の両軍の配置から考えて、戦略上の要地でもあったが、やはり大軍を容れるに足る大集落が成立していたとなすべきであろう。最後に竹原井については日本書紀、万葉集、続日本紀等に屡々竹原井頓宮として散見しているが、此地は大和、河内の国境附近河内領高井田の地に当り、古来両国を繋く交通上の要地として知られていたが、恐らく頓宮は此の要地の名井を卜して設けられたものであろう。以上を要約して地方の名井と喧伝されるものの中には、周囲に大集落が発達し、其処は交通上の要点にも当り宿舎の設備も整い、物資も豊富で後世の駅としての性格を帯びていた。旅人は此の井に憩い此処に宿りして次の旅程についたのである。(36)次に挙げた催馬楽の飛鳥井《あすかゐ》の歌は「此の井に御泊りなさい」と旅人に宿泊をすすめるもので「ここは蔭も良し、水も冷く甘い、馬糧の草も良い」と如何にも其の目的の歌としては恰好のものであったに違いない。
 催馬楽(註五) 飛鳥井《あすかゐ》
 飛鳥井に宿《やどり》はすべしや おけ
 蔭もよし水《みもひ》も冷し
 御馬草《みまくさ》もよし
平安時代に記録された延喜式(註六)に諸国の官道について「若し水無き処は旅人の便を計って井を掘れ」と云う意味の示達があるが、これは上に述べたように、上代以降実際に行われて来た習俗を法制化したものであり、又同じ頃編纂された令集解(註七)の「……水草無き処は卅里の制限に係わらず駅を置け」という記載は、水草則ち井と馬糧とに重点を置いて駅を設けさせるという配慮に出たもので、上代井の性格から考えて興味深い措置と思われる。
 この様な観点から万葉集巻一の
 和銅五年壬子夏四月、遣《ス》2長田王《ヲ》于伊勢|斉宮《いつきのみや》1時山辺御井(ニテ)作歌
 山辺乃《やまのぺの》 御井乎見我※[氏/一]利《みゐをみがてり》 神風乃《かむかぜの》 伊勢処女等《いせをとめども》 相見鶴鴨《あひみつるかも》
 の伊勢乙女の意味も、従来行われて来た解釈のように御井の傍に行宮に仕えていた宮女とか、そこに住まっていた名高い一人の美女とか、或は単なる里の少女達とかと解するよりも、やはり此の山の辺の御井の地にも井を中心として相当の集落なり宿場なりが出来ていて、其処に住まっていた乙女どもを指すと説いた方が、すらすらと納得が行くのではないかと思われる。
(37) 然し此の様な習俗は海外に於ても上代史一般に見られた所で、隣邦中華古代に於ても周礼秋官(周礼は西紀前十一世紀頃を最盛時代とする周代の制度を記るしたもので、天地春夏秋冬の六官よりなり、秋官は主として獄訟刑辟について説いている)によれば野廬氏(註八)があり、同氏は「国の交通関係を掌り、道路を四万に通ずる。国内や郭外を比較して、道路や旅宿、井の樹木の調査整備を行なう事を任務とする」と云うとある。井の樹木については別に「樹は蕃蔽たり」と記るされ、これによって井の周囲に樹木を植えて休息時の覆いとしていた事が察しられ、又「宿息井樹」と並記されて旅人の休宿所としては井と旅宿とが同様に取扱われて、我が上代井の性格と極めて酷似している事が窺われる。別に「市井」の語は、一般に人々の住む所則ち町と説かれているが、その依って来る所以は、中華上代に於て、井に集る水汲みの人々を目あてにその傍に市が立って商売が行われた事から起ったとされている(註九)。又我国より数等乾燥度の高いアラビアに於ては、現に砂漠中のオアシス(井と同性質)を中心として大集落が形成され、ここは大洋中の島の如く旅行者の生命の保護地であり、又楽しい休息地でもある。ともあれ時と所を異にして井を周って同じような習俗が見られるのは面白い事である。
 
 註一、記載。万葉集巻一に出る藤原宮の御井や玉井頓宮などの井も当代の名井であった。後者は続日本紀に記るされ、行宮として用いられていた。
 註二、允恭天皇の条。日本書紀の同条は
  七年冬十二月……弟姫。容姿絶妙比無《かたちすぐれてならびな》し。其の艶色《うるはしきいろ》衣より徹りて光る。是を以て時人号けて衣通郎姫《そとほりのいらつひめ》と曰ふ。……則ち鳥賊津使主に従ひて来《まね》く。倭の春日《かすが》に到りて、櫟井《いちひゐ》の上に食《かれひく》ふ。弟姫親ら酒を使主に賜ひて、其の意を慰む。……
 註三、推古天皇廿四年。日本書紀朴井の条
  廿四年三月、掖玖《やく》の人三口|帰化《まねおもむ》けり。夏五月、夜句《やく》の人|七口《ななたり》来れり。秋七月。亦掖玖の人|廿口《はたたり》来《まね》けり。先後併せて卅人、皆(38)朴井に安置《はべ》らしむ。
 註四、天武天皇即位前紀。日本書紀の金綱井の条
  元年秋七月、……是の日、将軍吹負……更に還りて金綱井に屯《いは》みて、散卒《あらけたるつはもの》を招き聚む。
 註五、飛鳥井。奈良県高市郡飛鳥村大字飛鳥と奈良市、京都市との三ケ所に其の址と伝えられるものがあるが、飛鳥村のものが之で、他は遷都に伴って其処へ移されたものである。飛鳥村のものは其の地形から考えて頷ける位置にある。蜻蛉日記、狭衣物語等にも出ているが、今蜻蛉日記によって当時の状況を窺えば
  騎蛤日記中巻
  はつせざまにおもむくあすかに御あかし奉りければたたくきぬきに車を引かけて見れば木立いとおかしき所なり庭きよけに井もいと飲まほしければむへやとりはすへしといふらんと見えたり。
 註六、延喜式。巻五十雑令に
  凡諸国駅路辺植2菓樹1。令2往還人1得2休息1。若無v水処。貫v使掘v井。
 註七、令集解。大宝令の註解書の一で、延喜の頃明法博士惟宗直本の撰にかかるものである。
 註八、野廬氏。周礼秋官司寇下の同条
  野ろ氏(ハ)掌(ル)2達国(ヲ)1。道路至(ル)于四幾(ニ)1……比(ベ)2国郊(ヲ)1及(ブ)2野之道路、宿息井樹(ニ)1【比(ハ)猶(ホ)v校《クラプル》也。宿息(ハ)廬之属、賓客(ノ)所v宿(ル)及(ビ)昼止(ル)者也。井(ハ)共(ニ)飲食(ス)樹(ハ)為2蕃蔽1】
 註九、依って来る所以。
  正義曰、古老、相聚汲v水、有v物便売、因成v市、故云2市井1。
 
      第六項 井と行楽集会
 
 井戸端会議と下世話に云われるように井は古来巷談(そこには明るさと興味と解放とが期待される)の中心であった。「伊勢物語(註一)」第二十三段の和歌(註二)
(39) つゝゐつゝ井筒にかけしまろがたけ過にけらしなあひ見ざるまに
 は、井の傍で結び初められた幼い頃の恋心が年と共に成長して互いに遣瀬ないままに、男から女に送られた詞であった。ここでは井は幼き者達の集会場であり、又素朴な恋の仲介所でもあった。今昔物語(註三)には某《なにがし》の春近という舎人《とねり》が町の井の※[竹/甬]《つつ》に押し懸り立って、附近の娘たちを集めて勁※[(尸/(師の旁))+又]《こうがい》を手の爪に立てて井の上に差し出して、連続四五十回も返し立てて見せ、人々はこの至妙の曲芸に限りなく興じ感じたとあるが、ここにも前文と同様な平安時代のほほえましい井戸端巷談の状況を窺うことが出来る。併しこれより古い奈良時代或はそれ以前に於ても同じような慣習が認められる。例えば日本書紀の記載によれば天武天皇は新らしく造られた宮殿の井の側で皷吹《つつみふえ》の調練をさせられたといふ(註四)。次に掲げた万葉歌も恐らく此の観点から説明した方が無理がないのではあるまいか。
 春霞《はるかすみ》 井上従直爾《ゐのへゆただに》 道者雖有《みちはあれど》 君爾将相登《きみにあはむと》 他四来毛《たもとほりくも》
 の「井上従直爾」の井上について従来の解釈は(一)井の上、(二)地名として現在奈良県磯城郡川東村大字|東井上《ひがしいね》に関連ありとし、(三)俗に云うたんぼとしているが、(二)(三)はここに採らず、(一)の解釈に従った場合、井の上を通って行けば近道があって恋しい人に一刻も早く逢える筈であるのになぜ廻り道をして来なければならなかったか。やはりここにも集会場としての井の性格が横たわっているのである。則ち早道して逢いたいのは山々だが、井のほとりを通れば口さがない村人の目を免かれる事が出来ない。人目にふれまいとすれば井のある近道を避けてやむなく廻り道もせねばならぬ。歌は一刻も早く逢いたい恋心と人目を恐れて秘められた気持ちとを巧みにまとめて歌い出したものであろう。
 併し井は単にこの様な軽い井戸端会議的な集会場としてのみではなく、もっと民衆の実生活と直接的な関連をも(40)っていたのであった。今常陸風土記に例を採れば
 久慈郡
 高市《たけち》と称《い》ふ所は、東北二里なる密筑《みつぎ》の里なり。村の中に浄泉《いづみ》あり、俗に大井と謂ふ。夏は冷《ひややか》に、冬は温《あたたか》し。湧き流れて川と成る。夏の暑き時は、遠邇《をちこち》の郷里、酒肴を齎賚《もたら》して、男女|集会《つど》ひて、休遊《あそ》び飲楽《たぬし》べり。
 頃は今を去る千二三百年の古、ここに常陸国密筑の里では混々と湧き出る大井の浄泉に、三伏の暑熱を避けて酒肴を携えた遠近の男女が、生産に忙しい一時を割いて、自由に遊び戯むれたのであった。同じ種類の記事は出雲風上記(註五)にも見えている。それは同国島根郡|邑美《あふみ》の冷水《しみづ》(註六)に関するもので、ここでも付近の老弱の宴楽が屡々催うされて、興の趣くままに美しい旋律の歌謡や情熱的な舞踊等が繰り展げられた事であろう。此の事情は上層の人々に於ても同様であった。続日本紀(註七)によれば光仁天皇宝亀三年に靭負御井(註八)に置酒し、陪従の五位已上及び文士の曲水(註九)を賦する者に禄を賜うとあるが、此は朝廷に於ける一例である。靭負御井は一説によれば宮中衛門府内にあり、御用の飲料水を汲む井の一とされ、当時の名井で万葉集によれば天平勝宝七歳聖武天皇も亦この井に行幸のことがあった。此の様に奈良朝及其れ以前の時代にあっては井は単なる集会場としてばかりではなく、それを周って行われた遊楽を通じて、より深く実際生活に直結していたのである。
 ※[女+曜の旁]歌《かがひ》は歌垣とも云い、上代一般的に行われていた風俗で男女混合の歌と踊りの集会であるが、恐らくこれ亦井の傍で行われた遊楽の一つで、本質的には前記常陸風土記の大井、出雲風土記の邑美の冷水の催し等と同性質のものと思われる。最も有名な※[女+曜の旁]歌は常陸国筑波山のそれで、同国風土記や万葉集に記るされているが、今其の「風土記」(註一〇)によれば筑波山の東峯の女体山頂には冬も夏も絶えない流泉《いづみ》があり、春秋の好季節には広く阪東諸国の男女が飲食(41)の料を携えて登山し、遊楽、※[女+曜の旁]歌を行なうという。さて此の風土記の流泉について万葉集の※[女+曜の旁]歌の歌には
 筑波嶺に登りて※[女+曜の旁]歌会をする日作れる歌一首并に短歌(註一一)
 鷲の住む 筑波の山の裳羽服津《もはきづ》の その津の上に 率《あとも》ひて 未通女壮士《をとめをとこ》の往き集《つど》ひ ※[女+曜の旁]歌《かがひ》ふ※[女+曜の旁]歌に 他妻《ひとづま》に 吾も交らむ 吾が妻に 他《ひと》も言問《ことと》へ この山を 領《うしは》く神の 昔より 禁《いさ》めぬ行事《わざ》ぞ 今日のみは めぐしもな見を 言《こと》も咎むな(一七五九)
 とあり、※[女+曜の旁]歌は裳羽服津のその津の上で集い催うされたのであるが、裳羽服津の津及び津の上の津は共に水辺を示す文字であり、恐らく風土記に云う流泉は此の裳羽服津を指すものであろう。こう考える時此の有名な※[女+曜の旁]歌も亦井を周って催うされた行事であつた。同じ常陸風土記香島郡の条に出る童子女松原《をとめのまつぱら》の※[女+曜の旁]歌も水辺の催しと思われ、又特に注目されるのは続日本紀巻三十の歌垣の歌である。
 宝亀元年三月の条
 辛卯。岩井。船。津。文。武生。蔵六氏(ノ)男女二百卅人供2奉《ス》歌垣(ニ)1。……其(ノ)歌垣歌(ヒテ)曰(ク)。布知毛世毛《フチモセモ》。伎与久佐夜気志《キヨクサヤケシ》。波可多我波《ハカタガハ》。知止世乎麻知弖《チトセヲマチテ》。須売流可波可母《スメルカハカモ》。……並v是古詩(ナリ)。
 文中の「淵も瀬も清く爽けし博多川」の歌は特に※[女+曜の旁]歌の古い詩と記るされ、又内容は博多川を歌ったものであるが、上代に於ては河泉は井と同性質のものであり、是等から推して※[女+曜の旁]歌の始源のものは水辺則ち井を周つて催うされたと結論し得るのではあるまいか。
 最後に井が重大な行事の式場として用いられた事については既に述べたように天真名井を周る天照大御神と素盞鳴尊二神の誓約以上に重要、厳正な御儀の例は見当らない。歴史時代に入っては次の事例が見られる。
(42) 日本書紀 天智天皇の条
 九年三月甲戊朔壬午、山御井《やまみゐ》の傍《ほとり》に於いて、諸神《かみたち》の座《みまし》敷《し》きて、幣帛《みてぐら》を班《あか》ちたまふ。中臣金連|祝詞《のりとごと》を宣る。
 この解釈について飯田武郷氏は其の著「日本書紀通釈」に於て谷川士清氏の「日本書紀通証」を引いて、山御井の水の清々しい傍に神座を敷かれたというのは神武天皇が靈畤《まつりのには》を鳥見山中に立てられたのと同じ意味で、天智天皇は此度近江国に都を遷されたについて九年三月、神祇官を設けて臨時の神祭を挙げられたのであり、此の際に諸社の弥宜、祝部を召されて幣帛を頒ち受けしめたものであると解していられる。兎も角靭負御井、山御井等に於ては相当な国家的更要事件が井を中心として挙げられていた。井は場として実にここまで高く評価されていたのである。
 
 註一、伊勢物語。二巻、一種の和歌集的な物語で、即ち和歌から趣好を案出して、人の一代記のように構成したものである。作者については古来諸説紛々として俄に断じ難いが在原業平、伊勢の作となす説が流布されているが強い反対論もある。併し平安朝初期の代表的文学作品である事には異論がない。
 註二、名歌。伊勢物語の其の部を掲出すれば、「昔田舎わたらひしける人の子ども井のもとに出で、遊びけるを、成人になりにければ、男も女をはぢかばしてありけれど、男はこの女をこそ得めとおもひ、女もこの男をこそと思ひつつ、親のあはすることも聞かでなんありける。さてこの隣の男のもとよりかくなん、」
 つゝゐつゝ井筒にかけしまうがたけ過にけらしなあひ見ざるまに
 註三、今昔物語の集の春近の語。
  今昔物語集巻廿四 於2爪上1勁※[(尸/(師の旁))+又]返男針返v女語第四。今昔。□天皇ノ御代ニ。右近ノ陣ニ□ノ春近卜云フ舎人有ケリ。鞠ヲナム極ク微妙ク蹴ケル。其ノ春近ガ後ノ町ノ井ノ※[竹/甬]《ツツ》ニ押懸リ立テ。若キ女共ナドノ数有ケルニ。見セムト思テ鞘ヨリ勁※[(尸/(師の旁))+又]《コウガイ》ヲ取出テ。手ノ爪ニ立テテ井ノ上ニ差出デテ。四五十度計リ返シ立テケルヲ。人集テ此レヲ見テ興ジ感ジケル事无2限リ1。(43)
 註四、天武天皇は。日本書紀の同条について
  天武天皇即位十年
  三月庚子朔……甲午、天皇新宮の井の上《ほとり》に居《おは》して、試に鼓《つゝみ》吹《ふえ》の声を発《た》て、仍りて調《とゝの》へ習はしめたまふ。
 註五、出雲風土記。現存の風土記中で最も内容が多いがやはり巻頭に一部の闕脱があるとされて完本とは云い難い。巻末の記録によつてこの風土記は天平五年に制作され、その関係者は神宅臣金太理《みやけのおみかなたり》と出雲臣広島《いづものおみひろしま》であった事が判明している。五風土記中最も早く注目され既に文化三年に出版された。
 註六、同国島根郡邑美の冷水。出雲風土記の同条
  邑美の冷水《しみづ》。東西北は山にして並《みな》嵯峨《さか》し。南は海|※[さんずい+覧]漫《ひろ》し。中央《まなか》には鹵※[さんずい+賣]《かた》※[石+隣の旁]々《きよ》し。男女老いたるも少《わか》きも、時《よりより》に叢《むらか》り集《つど》ひて、常に燕会《うたげ》する地《ところ》なり。
 註七、続日本紀。日本書紀に続いた正史で、第一巻文武天皇の元年から第四十巻桓武天皇の延暦十年に至る九十五年間の国家の大小の事実を記す。従四位下菅野真道以下数名が桓武天皇の勅を奉じて撰し、延暦十六年に成った。
 註八、靭負御井。万葉集に載せられたものは
  冬の日|靭負《ゆげひ》の御井《みゐ》に幸《いでま》しし時、内命婦石川朝臣詔に応じて雪を賦する歌一首
 松が枝の地《つち》に着《つ》くまで降る雪を見ずてや妹が籠《こも》り居《を》るらむ(四四三九)
 続日本紀にあらわれた同井。
 光仁天皇の条、宝亀三年三月甲申。靭負御井に置酒す。陪従の五位已上及び文士の曲水を賦する者に禄を賜ふ差有り。
 註九、曲水の宴。めぐりみづのとよのあかりと訓む。もと大陸から輸入された貴族的な遊宴の一つで当時朝廷に於ても屡々催うされていた。
 註一〇、其の風土記。常陸風土記の筑波山の※[女+曜の旁]歌の条
  筑波郡
(44) 夫《か》の筑波岳《つくばのたけ》は……東の峰は四方《よも》磐石《いはほ》にして、昇り降り決屹《さが》しきも、其の側に流泉《いづみ》ありて、冬も夏も絶えず。坂より以東《ひむがし》の諸国の男女、春は花の開《さ》ける時、秋は葉《このは》の黄《もみ》づる節《とき》、相携《たづさ》ひ駢※[門/眞]《つらな》り、飲食《をしもの》齎賚《もたら》し、騎歩登臨《よぢのぼ》り、遊楽《あそ》び栖遅《す》めり。
 註一一、筑波嶺に登りて。歌の現代語訳を鴻巣盛広氏著「万葉集全釈」から記るせば次の如くである。
  鷲が旺んでいる筑波の山の裳羽服津のその津のあたりに、連れ立って少女と若い男とが行き集って、互に交り合う歌垣で、他人の妻と私も一緒に交ろう。私の妻に他人も語をしなさい。この筑波山に鎮座して領していらっしゃる神様が、昔から禁じていないことだぞよ。今日ばかりはそれを不快に思って見るなよ。また言葉にも咎めるなよ。
 
      第七項 井と子産み
 
 前項で述べた常陸風土記筑波山の※[女+曜の旁]歌の記事の前文によれば駿河の富士山は「冬も夏も雪霜ふり、冷寒《さむさ》重襲《かさな》り、人民登らず、飲食《をしもの》も奠《まつ》る者|勿《な》き」非生産の山で、筑波山は祖神尊《みおやのかみのみこと》から「人民|集《つど》ひ賀《ことほ》ぎ、飲食《をしもの》富豊《ゆたか》」と讃美された生産豊かな山で、この生産を司る神は延喜式神明帳に見える「筑波郡二座。筑波山神社二座。【一名神大。一小。】」であると信じられていた。恐らく此の山の※[女+曜の旁]歌は其の初めは筑波神を祀る祭式に伴つて発生し、やがて盛大なものに発展したものであろう。一般に祭式特に上代のそれは農耕に於ける豊燒な生産を祈るものであるが、豊燒な生産は水則ち井を根幹とするものである関係で、そこに祭式、水(井)、生産という一連の関係が成立していた。筑波の※[女+曜の旁]歌も農耕に於ける豊作祈願に其の端を発したもので筑波神の祭式、裳羽服津の水(井)、生産という体系の上に立ち、此の生産概念を具象化したものとして、此の催しにのみ限って許される人間世界に於ける生産行為則ち自由な恋愛という形式を採ったものであろう。然しここでは未だ人間生産則ち子産みの前提行為だけが認められているだけで子が生れるという概念にまで展開されてはいない。或は過去には其の様な概念はあつたが、既に当時は消滅してし(45)まったものかも知れない。先に述べた常陸風土記の密筑の大井、出雲風土記の邑美の冷水等の記事もこれを率直に読解すれば、単なる物見遊山的な宴楽ではあるが、やはり其の行為の原始型には此の※[女+曜の旁]歌と同様な信仰があつたのではなかつたか。
 農耕に於ける生産が明確に子が生れると云う概念にまで展開されている例を海外に採れば、後漢書東夷列伝に
 「海中に女国があり、そこには男が居ない。伝えによると其の国には神井があり、これを※[門/規]《のぞ》けば子を生むという(註一)」とある。此の記事は当時に於てもすでに伝えとして載せられてはいるが、これには明確に井と子生みとの関係が認められて水(井)、農耕生産、これから※[糸+寅]繹された「子が生れる」という概念にまで展開されている。なお此の外にもこれと同型式の伝説が諸外国に見られ、従って此の種の伝説は汎世界性をもつものである。この様な観点から神代史に出づる天真名井の誓《うけひ》に於て御子神が生れたと云う伝えも再検討されねばならない。神話(註二)の大様は御姉神天照大御神に対して、御弟神須佐之男命が、其の清明心を証するため二神共々に天安河をさしはさんで天真名井で誓をされた時の様を伝えたものであるが、ここで注目されねばならないことは、誓の結果姉神は五柱、弟神は三柱の御子神を儲けられたという事である。伝えの中に断ってあるように此等の御子神は各二神の物実によつて成りませるもので、天真名井とは直接には関係を持っていないようであるが、二神の宝剣や宝珠を井に振りそそぐ事によって、御子神が生れたと云う点に井と子生みという此の問題に何等かの関わりを持つものであるかも知れない。
 民俗学の説く所によれば今も全国各地に数多く残されている姥が井(註三)、姥が池或は念仏池(註四)の伝説について其の起原は遠く仏教渡来以前の上代にあって、清い泉のほとりに子安《こやす》という母と子の神を祀る風習に発源し、又これと類似している阿弥陀の井(註五)、誕生井、産湯の井等の伝説も亦同じ起原に依るものであるという。此等の伝説を通じて水と(46)子との繁りが極めて密接で両者切り離すことの出来ない関係で現わされているが、此の事実も更に一歩深く其の根庭を探れば、水(井)と子生みという上述の信仰から発しているものかもしれない。又諸国の水分《みくまり》神社が屡々子授けの神として……例えば奈良県吉野郡吉野町水分神社は別に子守明神、子守《こもり》さん等と呼ばれて子授けの神として信仰が深い……信仰を集めているのは「みくまり」が「みこもり(身隠《みこも》り〕」に転じて子授けの意を持つことになった為と説かれているが、此の言葉の転化は古い時代からの水(井)と子生みという信仰概念を素地として容易に行われたと説く事も強ち無理ではあるまい。
 この意味に於て子産みの前提としての恋愛が井の傍に於てなされる事は当然である。先に述べた伊勢物語第二十三段の「筒井筒」の恋歌や、筑波山の※[女+曜の旁]歌は此の好例であるが、希臘神話のヒラマスとシズビの恋愛物語や、ゲーテの若きヴェルテルの悩みにも此れに類する例が見られる。次に中島清氏訳若きヴェルテルの悩みの一節である。
 一七七一年五月十二目の頂
 ……僕もその泉に魅せられてしまった。……或る小さな丘をおりて行くと一つの洞窟の前に出る。そこを更に二十段ほど下りたところに、澄み切つた水が大理石から湧いているのだ。その上側をとりまいて井桁になっている小さな石垣、周りを蔽っている高い樹木、その場所の涼しさ……さういうものがすべて何か人を索きつけるような、また人を戦慄させるようなものを持っている。僕はどんな日でも茲で一時間ばかりを過さないことはない。と、村から娘達がやって来て水を汲んで行く。……こうやってそこに腰かけていると、何となくあの族長時代のことがはっきりと胸に浮び上ってくる。その時代の祖先たちがみんな泉のほとりで近づきになって、やがては胸の思いを打ち明けると言った光景が。泉のほとりには如何に、も幸福そうな人々の霊が彷徨っている。
(47) この井と子産みの論題についてはそれを的確に決定する資料に乏しい憾みがないでもない。のぞけば子を生む井は相当の古典である後漢書にもすでに伝えとして載せられ、又筑波山の※[女+曜の旁]歌についても其の歌に自由な男女の交わりは「此の山を領く神の昔より禁めぬ行事で今日のみは」として何か其の行為自体に一種の言訳的な感情が動いているようにも感じられる程これも亦古い時代からの伝統で、本質的なものは既に失われているのかも知れない。著者の不学此のような資料によつて上述の推論を行うことは独断の譏りを免がれないでもないが、なお資料の増加をまつて的確なものたらしめたい。
 次に井と女性の性器とを関係づけた事象も多く、此れ亦汎世界性をもつて広く分布されている如くである。奈良県宇陀郡三杖村には木澤川の上流であるイモジ川の細流があるが、イモジは湯文字で婦人の腰巻を意味する。これだけでは単に希妙な名称だけに過ぎないが、此の川の川上に姫岩という大岩があり、其の下部の小穴を通じて水は奔流している。此の小穴は姫岩の性器とされ、此の水は婦人病の治癒に特効があると信じられている。姫岩、性器、薬水、湯文字と道具立が揃い明かに水(井)と女性の性器との関連が物語られている。同県添上郡柳生村の或る谷は「さね谷」と呼ばれ其の中央に細流があり弁才天が祭られている。谷の形が女性のそれに似ているので其の名が生れたものであろうが、やはり此処にも上述の関連……水と女性の性器……の概念が横たわつているのであろう。此の関連性の問題についても資料の増加を待たねばならないが、若しこれが偶然性のものでないとした場合はやはり上述の井と子生み、井と恋愛の概念と関係をもつものと解すべく、この三つの命題は恐らく根元的には同一の概念から派生したものと解すべきであろう。
 
(48)註一、海中に。後漢書東夷列伝の其の条は
  東夷列伝七十五
  東沢沮在2高句※[馬+麗]蓋馬大山之東1。又説海中有2女国1無v男、人或伝其国有2神井1、※[門/規]v之輒生v子云。
 註二、神話の大様は。古事記に表われた其の条は。
  かれここに各天(ノ)安(ノ)河を中に置きて誓《うけ》ふ時に、天照大御神先づ建速須佐之男命の佩かせる十拳剣《とつかのつるぎ》を乞ひ度《わた》して、三段《みきだ》に打折りて、ぬなとももゆらに、天之真名井《あめのまなゐ》に振り滌ぎて、さ囓《が》みに囓《か》みて、吹き棄つる気吹《いふき》の狭霧《さぎり》に成りませる神の御名は、多紀理毘売《たきりひめノ》命、またの御名は奥津島比売《おきつしまひめノ》命とまをす。次に市寸島比売《いちきしまひめノ》命、またの御名は狭依毘売《さよりひめノ》命とまをす。次に多岐都比売《たぎつひめノ》命〔三柱〕。速須佐之男(ノ)命、天照大御神の左の御髻《みみづら》に纏《ま》かせる八尺《やさか》の勾魂《まがたま》の五百津《いはつ》の御統《みすまる》の珠を乞ひ度して、ぬなとももゆらに、天之真名井《あめのまなゐ》に振り滌ぎて、さ囓《か》みに囓みて、吹き棄つる気吹の狭霧に成りませる神の御名は、正勝吾勝勝速日天之忍穂耳《まさかあかつかちはやひあめのをしほみみノ》命。また右の御髻《みかづら》に纏《ま》かせる珠を乞ひ度してさ囓みに囓みて、吹き棄つる気吹の狭霧に成りませる神の御名は、天之菩卑能《あめのほひの》命。また御鬘《みかづら》に纏《ま》かせる珠を乞ひ度して、さ囓みに囓みて。吹き棄つる気吹の狭霧に成りませる神の御名は、天津日子根《あまつひこねノ》命。また左の御手に纏《ま》かせる殊を乞ひ度して、さ囓みに囓みて、吹き棄つる気吹の狭霧に成りませる神の御名は、活津日子根《いくつひこねノ》命。また右の御手に纏《ま》かせる珠を乞ひ度して、さ囓みに囓みて、吹き棄つる気吹の狭霧に成りませる神の御名は、熊野久須毘《くまぬくすぴノ》命〔併せて五柱〕。ここに天照大御神、速須佐之男《はやすさのをノ》命に告《の》りたまはく、この後に生《あ》れませる五柱の男子《ひこみこ》は、物実《ものざね》我が物に因りて成りませり。かれ自ら吾が子なり。先に生れませる三柱の女子《ひめみこ》は、物実《ものざね》汝《みまし》の物に因りて成りませり。かれ乃ち汝の子なり。かく詔《の》り別けたまひき。
 註三、姥が井、姥が池。平凡社の社会科事典によれば
  越後三島郡蓮華寺村の入口に姥が井と称する古井戸がある。人が井戸の傍に近よって、大きな声で「をば」と呼ぶと、忽ち井の底からしきりに泡が浮んで来て、ちようど声に答えるようである。或はそれを疑う者があって、試みに兄とか妹とか呼んで見ても、さらに何のしるしもないということである。その理由というのは、昔土地の豪族某の下女が、主人の稚児の守りをしてこの辺で遊んでいた時、誤ってその児が井戸に落ちて死んだ。女も申訳のために身を投げて死んだので、今に至る(49)まで「をば」と呼べば泡立つ不思議を現ずるというのである。即ち哀れな姥の霊魂が水の中に留っていると考えた人が多かったのである。ここからずっと離れた静岡市から少し東、東海道の松並木からちょっと入たところの姥が池にも同様の伝説がある。旅人が池の岸に来て「姥甲斐ない」と大声で呼ぶと、忽ち池の水が湧き上るといい、大切な主人の子を水の中に落して、自分も申訳のために身を投げて死んだ哀れな乳母の話が伝わっている。この種の伝説は御大師井戸同様これまた数多く全国に分布している。共通の特色は、常に童児の口碑を伴っていることで、つまり老幼二人の男女のあったことを、古い泉に連繋して誤り伝えているのである。
 註四、念仏池。姥が池と関連して考えられるのは、念仏池の伝説で念仏を唱えると水が湧くというので、これも全国に多い話である。美濃の谷汲の念仏池ははやくから有名であった。池には小さな橋が架かっていて、これを念仏橋といい、橋の下には石塔が一つあり、橋からその石塔に向って念仏を唱へると、水面に珠の如く沸々と泡が立つ。しづかに唱へればしづかに立ち、責め念仏といって急いで唱へると、泡もこれに応じてたくさんに浮んだといふ話であります(以上柳田国男氏著「日本の伝説」による。)
 註三、註四に関連して奈良時代に撰進された「豊後風土記」に以下のような記録があるが姥が井、姥が池、念仏池等と同巧異曲のものであり、従ってこれらの伝説もかなり古い時代から行われていた事を知ることが出来る。
 日田《ひだ》郡の条
 五馬山《いつまやま》……但《ただし》一処《ひとところ》の湯は、其の穴、井臼《ゐうす》に以たり。注ぐこと丈余《ひとつゑあまり》。浅さ深さを知ること無し、水の色は紺《こむ》の如く、常に流れず。人の声を聞けば、驚き憤《いか》りて※[泥/土]《ひぢ》を騰《あ》ぐること一丈余許《ひとつゑあまり》なり。今|慍湯《いかりのゆ》と謂ふは、是なり。
 速見《はやみ》郡の条
 玖倍理湯井《くべりゆのゐ》。此の湯の井は、郡の西なる河直山《かはなほやま》の東の岸に在り。……人|竊《ひそか》に井の辺に到り、声を発《あ》げで大きに言《ものい》へば、驚き鳴りて、涌《わ》き騰《あが》ること二丈余許《ふたつゑあまり》なり。……因りて慍湯井《いかりのゐ》と曰《い》ふ。俗語《さとひと》は玖倍理湯井と曰ふ。
 註五、阿弥陀の井。社会科事典に依れば、
  阿弥陀の井という古井戸が各地に多いのも、多分そのほとりで念仏の行をしたためであろう。(空也派の念仏は多くの人が(50)集まって来て、踊り狂ひつ、合唱する念仏である)どう考えても空也派念仏が弘まって以後のことであり、これが原因で、姥が井や仏法水の伝説が後に出て来たとは考えられない。念仏の僧たちが諸国を行脚するよりも以前から水の恵みを大切に感じて、そこに神を敬い祭っていたことが、むしろ念仏の信仰を泉のほとりに引きつけたのであろう。即ち泉の湧出と神の出現とを結びつけた信仰の方がもとであった。
 
      第八項 井と土地の占有
 
 この様な井の重要性は更に井の開発が土地の占有ということと同じ意味を持つ事にまで発展した。「播磨風土記」によれば邑宝里《おほのさと》で弥麻都比古《みまつひこ》命は井を掘り食事を摂られて「吾多くの国を占めつ」と言われたとある。
 讃容郡《さよのこほり》の条
 邑宝里。弥麻都比古命《みまつひこのみこと》、井を治《ほ》りて粮《おもの》※[にすい+食]《を》しき。即ち、吾多くの国を占めつと云ひき。
 又別に同書|都麻《つまの》里の条に於て播磨刀売《はりまとめ》と丹波刀売《たんばとめ》とが国の境をされた時播磨刀売は井の水を汲んで食事をされ「此の水は有味《うま》し」と仰せられたとあり、此等の記事に依って当代井を掘り其の水で食事を摂るという事は直ちに土地を占有することと同意語であった。前にも述べたように上代にあっては井を開発して良好な飲料水を給し、又豊富な潅漑水を与える事は地方指導者の最も重要な任務であり、特に播磨国のように寡雨地帯にあっては潅漑水則ち生産である。このため水量の不足による不毛の原野に井を掘鑿して十分な潅漑用水を与えて生産地と化し、之を占有する事が上代神々の事業であった。この様な社会状勢を反映して其の開発した井水で煮炊した食物を摂るという事が、其の土地の占有を意味する事になったのであろう。逆に食物を摂らなかったと云う事は土地を失うことを(51)意味した。例えば同風土記讃容郡|筌戸《うへど》(註一)の条に伊和大神(大巳貴命の事)が此の地に初めて来られた時、大神は筌(うけとも云い竹を編んで造った魚を捕える器具)にかかった鹿の肉で膾《なます》を作り、これを食べようとされたが、それが地面に落ちて仕舞ったため此の地を去ったと記るされている。恐らく土地占有の第一要件は其の地で食事を摂る事であり、井の開発は第二義的であった。併し当時にあっては水(井)は則ち生産という程に重要な手段であったため、前掲風土記記載のように井と食物とが同価値で取扱かわれるようになったものであろう。
 我国に於て縄文式時代には其の生活は主として採集、狩猟等の手段に依存していたが、弥生式時代に入ると明かに水稲栽培の経営が初まり、奈良県磯城郡|唐古《からこ》の弥生式遺跡からは木製の鍬、鋤、杵等の農耕具が、又静岡市外|登呂《とろ》の同種遺跡からは広大な水田の遺跡及び鍬、田舟、田下駄等が発見されつつある。
 又神話には保食神《うけもちのかみ》の死体から粟、稗、稲、麦、豆の五穀が生じ、天照大御神や素盞鳴尊が水田を経営されたとあるが、此れも農耕栽培時代に入っていた事を物語るものである。此の水稲栽培は直ちに潅漑用水の問題を惹起し、已に其の片隣は天照大神、素盞鳴尊の神話に現われているが、其れが最も端的に記るされているのは火遠理命《ほをりみこと》の伝説で、命が兄火照命《ひでりのみこと》の釣《つりばり》を失い、海神の国に到って之を得て帰る時海神は「然してその兄|高田《あげた》を作らば、汝《な》が命は下田《くぼた》を営《つく》りたまへ。その兄下田を作らば、汝が命は高田を営りたまへ。然したまはば、吾水を掌れば、三年の間、必ずその兄貧しくなりなむ。」と教えられているが、この意味は海神は自分は水を掌っているので、若しお前の兄が高田を耕作すれば日照りを続かせて水に不自由な田を益々困らせ、逆に兄が水の多い下田を耕作すれば降雨を多くして水に苦しませ、三年の間には必ず貧しくして見せようと云うことで、此の神話によって当代すでに乾燥と霖雨(大水)が農耕に及ぼす影響或いは潅漑排水の技術等が知られており、又朧げではあるが潅漑水の争奪等も行はれていたよ(52)うに察知される。神々の水争いについては此の外にも記録が多いが、播磨風土記揖保郡の条、美奈志《みなし》川のものは最
も面白いものの一つであろう。文によれば(註二)美志川という名の起りについて古文伊和大神(大己貴神)の御子石竜比古《いはたつひこ》命と其の妹|石竜比売《いはたつひめ》命の二神が此の川の水を争った事があった。男神が爾山《にのやま》の峯を越えて北方に水を流して仕舞ったので女神はそれは「理に非ず」とされて峯の附近から溝を開いて南方泉村に河水を流下させた。そこで男神は再び泉の底の川に行って流れを奪つて西方に引こうとされたので女神は此れを許さず、別に暗渠を造り地中に水を引いて南方泉村の田に流下させた。そのため川水は絶えて流れなくなったので旡水《みなし》川と呼ぶのであると云う。以上の如き内容であるが川の名の起りを説き、併せて当代の用水論を記して面白い。石竜比古と石竜比売の二神は文中妹背の神となつているが、これは利益相反する地方の二人の開発指導者と解してもよいであろう。美奈志川の水に対して男神が地形を無視して北方或は西方に流下させようと企てるに反して女神はそれを「理にあらじ」と説き地形に順応した引水が至当であるとして、遂に其の主張を貫くという内容である。驚く可くことは此の様に古い神話時代に於て、地形を無視してまで開発指導者達が、所謂我田引水のために複雑困難を極めた引水に涙ぐましい迄の努力を払つたと云うこと、及び地形に順応した引水が理に協つた正当なものであるという普遍的原則が、既に承認されていたという事である。播磨風土記には此の外にも神々が井を掘り、又井水、河水を奪い合う記事が特に懽漑水の問題の深刻さを雄弁に物語るものであろう。
 この様にして行われていた地方神或は地方開発指導者の個々の努力に依る懽漑水の獲得運動も、大和朝廷の勢威拡大と共に国策として遂行されることとなり、懽漑・排水の問題は国家的重要事業として採りあげられて行った。記紀の記載に第十代崇神天皇以降池、溝、井等の築造、開発が俄然増加するのは這般の事情を物語るものである。(53)ただ風土記等に於て池の築造と並んで井の開発の多いのは現在では、懽漑用井と飲料用井とは略区別されているが、上代にあつてはその別がなく懽漑水則飲料水であつた。従って井の開発という意味は現代人が感ずるように、飲料水の取得のみを意味したものではなく、併せて懽漑水の獲得をも意識していたのである。
 最後に外国の例について見たい。我国より甚だしく乾燥している地方にあつては此の問題はより一層深刻である。井は貴重な私有物であり又財産でもある。アラビアの砂漠に於ては他人の井に無断で近づくことは甚だ危険な事であるとされ、井の争奪の為上代から現在に到るまで血醒ぐさい闘争が屡々繰りかえされて来た。イスラム教祖マホメッドの祖父が聖地メッカにあるザムザムの霊泉を其の親族コレイシュ家と争つたのは史上有名な事であり、又これより古く西暦紀元前四九一年、ペルシア王ダリウス一世がギリシア諸市の非礼に赫怒して「一杯の土と数滴の水を献ぜよ」と逼った事があつたが、この土と水とを献上することは服従の象徴とされ、ここにも水が土地の占有と密接な関係にある事が見出されるのである。
 
 註一、筌戸の条。播磨風土記筌戸の条は
  讃容郡の条
  筌戸。大神、(註、伊和大神)出雲国より来たまひし時、嶋村岡を呉床《あぐら》と為《な》して、筌《うへ》を此の川に置きたまひき。放れ筌戸と号く。魚入らずして鹿人りき。此を取らして鱠《なます》に作りて食《きこ》すに、口に入らずして地《つち》に落ちき。放れ此の処を去りて、他《ほか》に遷りたまひき。
 註二、文によれば。播磨風土記美奈志川の条は
  揖保郡の条
  美奈志川。美奈志川と号くる所以《ゆゑ》は、伊和大神の子《みこ》、石竜比古命《いはたつひこのみこと》と妹《いも》石竜比売命《いはたつひめのみこと》と二神《ふたはしらのかみ》、川の水を相|競《きそ》ひき。※[女+夫]の神は、北の方|越部村《こしべのむら》に流さまく欲し、妹の神は南の方泉村に流さまく欲せり。爾《その》時《とき》※[女+夫]の神|爾《その》山《やま》の岑《みね》を踰《こ》えて流し下したまひき。妹(54)の神見て、理《ことはり》にあらじと以為《おも》ひて、即ち指櫛《さしぐし》以《も》て其の流れの水を塞《せ》きて、岑の辺《ほとり》より溝《うなて》を闢《ひら》きて、泉村に流して格《あらそ》ひき。爾に※[女+夫]の神復泉の底の川に到りて、流を奪ひて、西の方の桑原村に流さむとす。是に妹の神遂に許さずして、密樋《したび》を作りて泉村の田の頭《ほとり》に流し出しき。此より川の水絶えて流れず。故れ旡水《みなし》川と号《なづ》く。
 
      結
 
 上代人は我々が想像する以上に飲料水の採取に困窮し、特に霖雨に汚れず旱天に涸れず、しかも清涼甘美な水を得る事に最も苦心を払っていた。従つて偶然にもせよ良好な井を得た事は神意の致す所であり、又祖先の霊の加護によるものと信じ、ここに井に対する厚い感謝と深い信仰とが生れ又井を神として崇め尊ぶ風習が生じた。実に上代人の生存と生活は此の井を基幹として展開され、ここに上代井の意義があり其の諸性格が規定されたのである。井を周って集落が形成され、特に条件に恵まれたものにあっては交通交易の中心となり、又井戸端会議的な小集会は一方行楽、宴遊的な大集会場に発展する他面最も重大な祭礼、式典の場にまで高揚された。更に井の持つ農耕への懽漑性は、やがて土地の占有という政治経済的分野にまで影響をもたらしたのである。
 然し上代にあっても徐々に人智は進み特に大陸文化の流入は井の開発、掘鑿の技術にも種々な改良を与え、河泉、湖沼等の自然井は人工的井筒井に代換されて集落共同井から個人井への転移が行われた。此の事実は先づ井の概念に大変革を起し、其の内から自然井は除去され、次にこれ迄井を周って行われていた大小の集会、祭礼、式典等も近代的諸制度の発展、整備と共に井から分離して他の場所に於て挙げられ、このため上代井の持っていた諸性格は其の大部が失われることとなった。ただ現在も集会の中心としての性格だけが井戸端会議という名称のもとに存続し、恐らく僅か乍らではあっても井の存在する限り今後も永く保持されて行くことであろう。
 
(55) 第二章 上代井の各種
 
      第一項 井 一 般
 
 井は万葉集抄(註一)によれば「集《ゐ》る」の義、水の集まるのを云い俗に井戸(註二)とも称している。それで井戸本来の機能は水の集まる処、則ち川などを堤で堰きとめて水を溜めておいた所を指したものであろうか。現在では概ね地盤を穿ち湧出する水を汲み上げるか、吸い上げるか、又場合によっては噴出させて日常生活に必須な飲料水、雑用水或は其の他の水を得るための設備を指している。
 1、井の起原。其の起原については各地で其の時期を異にしているが、世界文化の揺籃地である中華、エジプト、メソポタミヤ地方等では早くもキリスト紀元前数千年の時代に遡ると考証されている。中華に於ては段注説文解字(註三)によれば往昔聖人伯益(註四)が初めて井を作ったとしているが和漢三才図会は中華時代の名著三才図会(註五)を引いて三才図会云(フ)炎帝始(メテ)穿(ツ)v井(ヲ)、堯教(ヘテ)v民(ニ)鑿(リテ)v井(ヲ)而飲(マシム)、伊尹教(ヘテ)v民(ニ)田(ノ)頭(ホトリニ)鑿(リテ)v井(ヲ)以|漑《ソソガシム》v田(ニ)。
と記るして炎帝、堯、伊尹が井の作り方や井による懽漑の方法等を民に教えたとしている。併し伯益を初めとして此等の人々は所謂中華古代の聖賢で其の事蹟は詳かでなく従って此の記事は寧ろ中華に於ては最も古代から地を穿って井を作ることが行われていたと云う程度の説明と解したい。(56)エジプトに於ても古く深井があった。平凡社発行の大百科事典によれば
 古代の井戸中最も有名なものは挨及ピラミッドの工事中使用したといわれるカイロ市のジョセフの井戸である。この井戸は岩の中に九〇米も掘下げたもので、上下の二部分に分れ、上部は深さ五〇米、断面は五・五米、七・五米の矩形、下部は深さ四〇米、断面は二・七米、四・六米の矩形であつた。水を汲み上げるには下部の方は多数のバケツを付けた環状の鎖を、上部の底に入れた驢馬に索かせて汲上げ、上部は井戸側に沿ふ螺旋状の斜面で運び上げたといわれている。その規模といひ、構造といひ驚嘆すべきものであって、当時におけるエジプト人の優秀な技術を物語ってゐる。このほか古代のギリシャ、ペルシャ、インド等にも著名な井戸があり、また支那人は殆ど今日と同様の方法で深さ五〇〇米に達する掘抜井戸を穿ってゐる。ローマ時代に至つては規模に於ても数に於ても他に比類を見ない程発達したのであるが、なほ且つ用水に不足して末曽有の水道工事を起してゐる。井の深さについては中華に於ても前掲ジョセフの井の後文に支那人は五〇〇米に達する掘抜井を穿つたと記るしているが、其の時代等が明かにされていない。今孟子盡心章句上に「井を掘りて九※[車+刃](註六)」とあるが、一※[車+刃]の長さは八尺とされているので九※[車+刃]は七十二尺の深さを示している。勿論この語は学問、事業を為す者が中途に挫折することの非を誡しめた比喩ではあるが、間接に当時に於ける深井の存在を示すものであろう。
 2、井筒の名称。日本上代の井には非人工的で自然其の儘の河泉、池沼の井と、掘鑿されて井筒等の施工を有つものとの二種別があった。前者の自然井については特殊な名称を聞かない。後者の掘鑿井については倭訓栞、俚言集覧共に掘井の名称を用い「穿ちて水を取るをいう」と説いている。井筒については俗に井戸側とも云い、此れについて「伊呂波字類抄(註七)」は
(57) 幹【イツツ、亦作v韓井垣也、】
 と解き、和漢三才図会は
 幹【音寒】 韓同 ※[朝の左+余]同 俗云井筒 又云井桁 幹井上木欄也、共形四角或八角
 と説き、幹、韓、※[朝の左+余]は同意語で俗に云う井筒、井桁に当るとし、又別に幹は井上の木欄則ち地上にある井筒の手摺をも意味し其の形は四角或は八角であるとしている。別に同書は
  、スルニ ハ ノ キ ヲ ニ フ     ト   ナル ヲ フ
 按(ズルニ)幹(ハ)其(ノ)円(キ)者(ヲ)俗(ニ)曰(フ)2井筒(ト)1、方(ナル)者(ヲ)曰(フ)2井桁(ト)1。
 と記して、幹の円いものが井筒、四角のものが井桁であろうかとしている。又倭訓栞には
 ゐづつ、井筒也、井のかこひしたるをいへり
 とあり、別に類聚名物考には
 筒井つゝゐ・九きかわなるをいふ四方なるをは多く板井といふ。
 又守貞漫稿には
 江戸井、地上に出る井筒を、化粧側と云、
 とある。今これ等の名称を判り易く表示すれば
○伊呂波字類抄及び和漢三才図会
 井戸側全体を幹、韓、※[朝の左+余]、井筒、井桁
 井戸側地上部の手摺を幹
 井戸側の円いものを井筒
(58) 井戸側の四角のものを井桁
○倭訓栞
 井のかこいを井筒
○類聚名物考
 井戸側の円いものを筒井
 井戸側の四角のものを板井
○守貞漫稿
 井戸側地上部を化粧側
 となるが、其の名称は可成り区々であり又不適当と思われるものもある。例えば幹は図会では井筒と手摺の両方を意味し、図会では円型井筒は井筒であるが、考では筒井であり、方形井筒についても両者の名称はそれぞれ井桁、板井と異なっている。恐らく此の外にも種々な名称が時代により地方によって与えられていたことと思われるが、これでは今後井の学問として採り上げられていく場合混乱と錯誤を招く恐れがあり、又以上の名称だけでは記載に不足を感じるので私は井一般の名称について統一して使用する事を提唱したい。不備ではあるが左に私案を掲げた。
 御叱正を待ちたい。先づ井の種別について表によつて説明すれば
   自然井         
               井筒井
井      掘井      土 井
               其の他(マイマイズイト等)
   人工井
       その他     (水底の井、マンブリ等)
(59) 則ち井一般を自然井と人工井に二大別する。自然井は自然其のままの河泉、池沼等の井、人工井は人工によって作られた井を示す。次に人工井は掘井と其の他(水底の井、マンブリ等)の二に、更に掘井は井戸側を持つ井筒井、其れを欠く土井と其の他(マイマイズイト等)の三に分ける。其の他として扱つた水底の井、マンブリ、マイマイズイトについては各其の項に説明した理由によって其の分類を行つたが、ここに簡単に記るせば水底の井は人工井ではあるが水底にあるものであり、マンブリは横穴の井で他の縦に地上に穿たれた井とは性格を異にしているため、又マイマイズイトは広い意味の土井の一種ではあるがこれも普通に云う土井とは技術的に相違しているため各其の他として取扱つて見た。
 次に普通云う井戸側については井筒と称し、これを別って二とする。
     地上部(所謂井桁に当る、又化粧側に当る)
井 筒
     地下部或は埋設部
 井筒については其れが示す範囲が不明瞭なので思い切つて地上部と地下部に分類して見た。地上部は所謂井枠に相当し、井桁と呼んでも差支えはなく、地下部は埋設部と称するも可と思われる。井筒は其の平面形によって左表のように別つて見た。
    円型井筒(図会の井筒、名物考の筒井に当る)
 
井 筒      四角形(図会の井桁、名物考の坂井に当る)
    角型井筒 六角形
         八角形
         其の他
(60) 上述の通りであるが以下此の名称を用いて本書の記述をすすめて見たい。
 3、井筒地上部の高さ。井筒地上部の高さについては現在は普通二尺前後の汲み易い程度に造られているが、過去に於ては必ずしもそうではなく、中には地面すれすれの高さのものもあつた。江戸時代末に著わされた大和名勝図会(註八)添上郡の条に載せられた井の絵によっても……それは石井か※[土+專]井と想像されるが……地上の部分は僅少である。今我々が山間地の比較的古風を残していると思われる井について見ても往々にして地上部を欠くものが少くな
い。併し過去に於ても現在と余り変らない高さのものもあり例えば「興福寺濫觴記(註九)」に出づる鎮守社戊亥隅にある井は……これは石井筒である……高さ一尺一寸五分と記録されている。幸い井は人家に附随するものであるため絵巻物(註一〇)其の他の絵画に比較的多く措かれ、此等によれば所謂目分量の謗を免がれないが其の高さは現在のものと略同じ程度のものであった。
 なお井筒の平面は円、角、六角、八角等があり、用材は石材、木材、磚瓦等である。概して石井等の場合其の下底にある大石を鏡石と称する。これは其の上方に積まれる井筒材の基盤となるもので、一ケ、二ケ、三ケ、四ケ及び其れ以上の数の石が用いられ、用いる石の数の少い程大型のものが選ばれている。
 4、井水の汲み上げ方法。明治以降のポンプ類は別として、(一)柄杓による方法、(二)竿による方法、(三)索による方法、(四)撥釣瓶による方法、(五)滑車による方法の五種が数えられる。
一、柄杓による方法。浅い井で用いられ、桶、柄杓共比較的大型のものが用いられる。
二、竿による方法。釣瓶を竹或は細い木の棒の一端に結びつけ、竹、木の硬直さを利用して釣瓶に水を満して汲み上げる方法で、余り深井には用いられない。
(61)三、索による方法「振り釣瓶」(抑力)。(二)の竹、木の棒の代りに索を用いるもので巧みな手の捌きによって水を釣瓶に満たして汲み上げる方法である。これも余り深井には向かない。
四、撥釣瓶による方法。井筒から稍離れた地点に頑丈な柱を立て、其の上部に横木を渡し一方に石等を載せ他方に竿に吊した釣瓶を懸け、石の重みで撥ねて水を汲む方法である。
五、滑車による方法。井筒の上方に滑車則ち轆轤を装備しこれに動索則ち釣瓶縄をかけ、釣瓶を附けて水を釣む方法である。和漢三才図会によれば轆轤(註一一)は別に車木《くるまぎ》とも呼ばれていた。
 5、釣瓶、井戸綱、柄杓釣。釣瓶は罐、鑵と当て井から水を釣む器で、普通円又は方形の木製或は金属性の桶である。然し上代に於ては其の時代に描かれた絵画及び発掘調査の結果から推して曲物桶が用いられていた(曲物桶については第三章第四項第九目曲物を参照されたい。)古典に於ける初見は日本書紀神代巻、彦火火出見尊の条の「豊玉姫の侍者|王瓶《たまのつるべ》を以て水を汲む」と玉瓶である。此の記事は神代の事柄で果して此の時代に釣瓶があったか容易に断定を下し難いが、これの記るされた奈良時代をやや遡る時代に釣瓶が存在した事は考古学的資料によつて明確に云い得る事である。釣瓶に縛して水を汲む縄は井戸縄、井筒綱或は釣瓶縄といい、※[糸+橘の旁](ツルベナハ、井ドナハ)、※[糸+更](ツルベナハ)等の文字が当てられ、其の材料には藁、麻其の他の繊維、棕櫚毛、金属主として鉄等が用いられている。なお平安時代以降の絵巻物等によれば釣瓶に用いた曲物桶は比較的腰低のもので、これを細縄で十文字にからげて用いていた。なお釣瓶については第三章第四項第九目の曲物、柄杓については同じく第四項第七目の瓢箪について見られたい。
 6、井戸屋、井の上に設けられた建物別ち井戸屋(註一二)、井戸形については、壮麗なものから傘代用にもならないよう(62)な貧弱なものまである。上代に於て寺院建築は最も壮大であったもので其の井戸屋も此れにふさわしい大きさである。今天平十九年に勘録した大安寺伽藍縁起並流記資財帳によれば同寺(註一三)の僧房院には井戸屋が二棟あり、共に六角形で柱間の長さ各一丈、高さ九尺とあけ、可成り大型の井戸屋である。又正倉院蔵東大寺殿堂平面図にも五角形の井屋(或は井か)が描かれている。大安寺には別に大衆院にも一棟の井屋があった。間口七丈七尺、奥行三丈、高さ一丈四尺とあり非常に大きい。然し恐らくこれは井だけの屋形ではなく、井に連関する種々の作業例えば料理材料の整理、衣料の洗濯等のような作業の場所としても用いられたものであろう。東大寺、興福寺其の他当代の寺院には多数の僧侶、学生が居住しており、其のためにも広大な井戸屋と多量に湧出する井が必要とされていた。
 7、井料、井大工、井役。東大寺、神護寺、高野山、東寺、大乗院其の他の古文書に屡々井料という語が散見しているが、これは灌漑水に関連する語で飲料水の井とは直接には関係がないので省略することとした。高野山文書に現われる井役なる語も此の観点から考えられるものと推察されるが資料が少いので今後の研究に待ちたい。同じく高野山文書に出ている井大工も現在考察すべき資料に乏しく、井戸掘職人を指したものか、灌漑のための施設……主として井堰等……を造る者を云ったものか、或は其の両者を兼ねた職人を意味したものか明かになし得ない。
 
 註一、万葉集抄。別に仙覚抄とも云い、僧仙寛が亀山天皇の御代に著わしたもので万葉集の註解である。二十巻よりなり巻首には総説を掲げ本文の点中にはまま古点の誤謬を論じて新点を附け又風土記類で後世に伝わらなかったもので本書に引用されているものもある。
 註二、井戸。著者の管見によれば井戸の初見は「大日本古文書」巻四天平七年讃岐國山田郡弘福寺領田図
(63) 屋一宇倉一宇及井戸一構
 である。
 註三、段註説文解字。清の段玉裁が注した説文解字なので此の様に呼ばれている。段王裁は宇若膺、茂堂と号し、乾隆帝時代の人で経史特に六書に詳かであつた。
 註四、伯益。段註説文解字のこの部は
  古老伯益初(メテ)作(ル)v井(ヲ)出(ヅ)2世本(ニ)1
 註五、三才図会。百六巻から成っている。初め中華明代の五※[土+斤]の撰にかかり、後其の子恩義が続集して万暦年問に完成した。
  天文、地理、人物、時全、官室、器甲、身体等十四項目に分って説いている。
 註六、井を掘りて九※[車+刃]。孟子の其の部
  孟子(ノ)曰(ハク)、有(ル)v為(スコト)者(ハ)、辟《タトヘバ》若(シ)v掘(ルガ)v井(ヲ)、掘(リテ)v井(ヲ)九※[車+刃](ニシテ) 而不(レバ)v及(バ)v泉(ニ)、猶(ホ)v為(スガ)v棄(ツト)v井(ヲ)也。
 註七、伊呂波字類抄。橘忠兼の著で三巻から成る。いろは四十八文字に分けて種々の詞を集めた字書である。集めた詞は凡て漢字で、什仮名を附けている。各字は更に天象、地儀、人倫其の他に分かたれ、中には往々註解を加えてあるのもある。
 註八、大和名勝図会。秋里離島の作で書中の絵は竹宗春朝斎の手に成っている。大和の名勝図会を掲げて各々其の由緒、沿革、景致等を詳かに説明したもので寛政三年の自跋がある。
 註九、興福寺濫觴記。一、興福寺、二、講堂建立之次第、三、春日四所大明神御鎮座之事等以下九項目に分ち、主として興福寺、春日神社の由緒及び其の諸建築物の建立と其の後の次第等について記す。著者及び著作年代は不詳であるが略江戸中期頃のものとされている。
 註一〇、絵巻物。井の描写は次の絵巻物等に見られる。
  天王寺扇面古写経図(藤原時代)、北野天神縁起(鎌倉時代)、石山寺縁起(鎌倉時代末から足利時代)、伊勢新名所絵合絵巻(鎌倉時代末)慕帰絵詞(正平六年頃)等。
 註一一、轆轤。和漢三才図会の其の部
(64) 轆轤。俗(ニ)云(フ)車木、井(ノ)上汲(ム)v水(ヲ)円転木也、在(リ)2幹之上(ニ)1受(クル)v※[糸+橘の旁](ヲ)之物称(ス)2轆轤(ト)1、用(ヒテ)2和訓(ヲ)1呼(ブ)v之也、物宗(ニ)云(フ)、史佚始(メテ)作(ル)2轆轤(ヲ)1、
 註一二、井戸屋。文中の大安寺資財帳には「井屋」文唐招提寺建立縁起には「井殿」
 謹一三、同寺。天平十九年の大安寺の資料帳には井屋について次の如く見えている。
  合井屋弐口。【並六角間各長一丈。高九尺立僧房院。】
  ……
  一井屋。【長七丈七尺。広三丈。高一丈四尺。】
の語が見えている。
 
      第二項 井外周の樹木
 
 奈良盆地の周縁の山間部に入ると今でも現代文化の洗礼を受けないで古昔の生《なま》のままで残つている事象が往々にして発見される。井を周って繁る樹木の如きものも恐らく上代井の残影ではないかと思われる。所見の代表的なものについて記るせば
 1、井戸の谷の井(高市郡船倉村大字|羽内《》ほーち》)
 羽内部落のある丘上から南方を望むと谷を隔ててもう一つの森に包まれた丘が見える。ここに式内社波多※[瓦+長]井《はたみかゐ》神社【大。月次。新嘗。】(註一)。が鎮座している。この神社は本章甕井の条に述べるように其の種の井に何等かの関係をもつものかと推測される。部落のある丘陵と神社のある丘陵とに挟まれて北に開く細長い谷合いの北端出口に、こんもりと繁った数本の杉木立が見えるが此の根元に井戸の谷の井がある。井の形は略一辺四五尺の四角形、周囲は石で積み上げ北側は地面と同高の広場で汲取りに用いられ、他の三方は梢小高く上に木立がある。樹木の太さは直径一尺四五寸も(65)あろうか。肥料と水分に恵まれて松はいつ見ても瑞々しくすく/\と伸びて実に美しい。偶々訪れた夏の日、井の内側に曲つた松の根元から水滴が静かに白玉のように井面に落ちていたが、著者は続日本紀光仁天皇の条の桜井の有名な童謡を思わず連想した事であった。
 桜井《さくらゐ》爾《に》。白璧之豆久《しらたましづく》也《や》。好璧之豆久《よきたましづく》也《や》。
 然しこの様な状景は木立の種類や形こそ異なれ沖縄其の他の南方諸地域にも見られる図で、後述の理由から考えて恐らく古い井の型式を残すものと思われる。余談ではあるが羽内部落十数軒は丘陵上にあるため井の掘鑿が極めて困難で深さも約六十尺が必要で其の上良水を得る事が出来ない。それで平常は丘陵の上方から部落の中央を通して引いてある灌漑用水を飲料水にも兼ねて用いている。用水路の幅は一尺二三寸で、其れが里道を横ぎる所だけ両側を石畳みとして人、馬車等の通行や水の汲み上げのため土崩れ等の無いように施工してある。(溝には橋が架けられていない。)然し用水の不足する暑中などには家々は井戸の谷の井まで水汲みに行かねばならない。遠い家で二町、近くても一町位の距離があり、しかもその間には可成りの急坂がある。夏の焼けつくような西日を受けて大きな水桶二つを※[木+去]《おうこ》(天秤棒)で擔い急坂をよぢ登る老媼の姿を見た時、又それが毎朝、毎夕の日課である事に想倒した時、我々水に恵まれた者の幸福さをしみ/”\と感じた事であつた。
 2、高井(宇陀郡|内牧《うちのまき》村大字高井)
 木津川の上流の宇陀川の支流である内牧川の右岸に沿つて高井部落の人家が点在している。高という文字が示すように標高三百五十米前後の傾斜地が南方内牧川の川畔に急勾配で降つているが、部落は其の傾斜地の上部やや平坦な部に位し、其の入口に高井の井がある。井は千本松と云われる無数の巨大な枝を持つ、樹幹の直径凡そ六七尺(66)にも及ぶ巨木の根元にあり、其の長径は二尺、短径は一尺五寸計り、深さは二三寸で水もなく井と称するより松の大根に囲まれた地面の凹所と云った感じのものである。里人の言によれば初め松の稚かった頃は井も深く湧水量も多い良井で部落の共同井として用いられていたが、松の成長と共に井は刻々と縮少され、又松が付近の水分を吸収してしまうため水量も漸減して遂に井としての生命を失って仕舞った。千本松の謂れは松の幹や枝が井の邪魔になるので何回、何十回に亘って切り払ったため、幹、枝が簇生して長年月の間に今日の巨大を成したという。本井については大和志に「僧空海所v鑿」と記るされているように弘法大師が水の不足に苦しむ里人のために掘り与えられたという所謂大師井で、松樹も其の際植えられたものと伝えられ、井、松に対する里人の信仰は極めて篤い。毎月廿六日は夜半まで御籠りと称して樹下の井の側で御勤めをする習慣であり、井の正面には朱色の鮮かな鳥居が設けられ、井の直前には常に供花、供物が捧げられている。因みに最近は樹幹からやや離れた下方に新井が掘られてこれが共同井に充てられている。然し経済的に豊かな家から漸次に個人井が掘鑿される傾向にあるという。
 3、大師井(山部郡|都介野《つげの》村大字|小山戸《おやまど》)
 大和盆地の東方の大和高原台地には史上有名な都祁《つげ》水分神社が鎮座し、井は其の南方約二粁大字小山戸にある。大師井は其の後方に蟠る丘陵から派生する二つの尾根が作る小さい谷合いの出口に穿たれ清冽で豊富な水を堪えている。井周囲の樹木は松一株であるが地面すれすれの部で三枝に別れ主幹の直径は略三尺他の二枝もそれ/”\二尺近い巨木である。木は井の上手にあり、後方の傾斜の強い地盤が下方へ漸降する(匐行)ため、幹は下方に丸く大きく湾曲して井面に垂れ下るよう見え、特に一枝は数尺に亘って水平に曲った幹が其の下半部を水面に没して、それから急に直上している。井水については古えから其れを産湯と湯灌の水に用いる事が厳禁されているのは他に余(67)り例が無く面白い事と思われる。
 扨この様に井の周囲に樹木を周らす風習について古典を探れば、其の初見は日本書紀神代巻彦火火出見尊……山幸彦……が海神の宮を訪れる条の記事で、「門の前に一の好井《しみづ》あり、井の上《ほとり》に百枝の杜樹《かつらのき》あり。放《か》れ彦火火出見尊其の樹に跳り昇りて立ちたまふ。」とあるが、海神の宮の門前には井を被うて枝の非常に多い大きな杜樹があったという。次に万葉集巻二に、
 吉野宮に幸せる時、弓削皇子、額田王に贈り与ふる歌一首
 古に恋ふる鳥かも弓弦葉《ゆづるは》の御井の上より鳴きわたり行く(一一一)
 弓弦葉は交譲木《ゆづりは》のことで井には此の木が高く立っていた(註二)と解すべきであろう。朝妻の御井についても琴歌譜に次の如き記載がある。
 歌返
 島国の淡路の三原の篠、さねこぢに
 い掘《こ》じ持ち来て 朝妻の御井の上に植えつや
 淡路の三原の篠
 これは淡路島の三原の篠をわざ/”\遠く離れた大和の朝妻(註三)の井まで持ち来って植えつけるという譬喩歌であるが、井周囲の樹木としては相当高く評価されている。天平の頃行宮として屡々用いられていた竹原井頓宮の竹原井なども亦これと同じ状景を呈していたものであろう。朴井(榎井とも記し推古紀廿四年に出づ)桜井社(延喜式に出づ、和泉国)榎葉井(無名抄に出づ、大和国)或は※[木+匡]井、椿井《つばゐ》(二井とも大和国)等の井名も恐らく井周囲の同名樹に(68)よつて命名されたものであろう。
 以上の例証によって上代井の周囲には竹木等を植付ける習慣があった事を窺うことが出来るが、今山間地方に行われている井外周の樹木も恐らく此の習慣の名残と推測される。現行の此の種の井について其の特徴を挙げれば
l、大型の良井で共同井の場合が殆んど全部である。従って又大師井が多い。
2、井筒の形は四角、長方形等が多い。井筒地上部を欠くものが多くこれは上代井の一型式である。
3、周囲の樹木には松、檜が多い。其の直径は一尺前後のものが普通であるが中には前掲例のように大木のものもある。井筒の一方は水を汲んだり、洗い物や洗濯等をするため相当広い空地を作り、他の三方は樹木を周らしている。樹幹は初め普通数尺の高さの部で切るので其処から小枝が簇生してこんもりとした木立が出来上つている場合が多い。然し中には繁るに任せているものもある。
4、共同井の慣習として年一回一定の日に使用者が集まって井内外の掃除や木立の整理等を行つている。ではどんな動機で此のような風習が起ったのであろうか。現在この風習を実施している人々の説明では木立によって井の内に塵埃等が落ち込むのを防ぐ為という。併し此の解釈は寧ろ結果から逆に考えた附会ではなかろうか。著者はこれを上代井の名残りと考えて見たい。則ち山ふところや山裾の傾斜地の凹みに樹木の根から泌み出した水が湛えられている山清水……山の井……此の形が古い井の一つの型式であるが、此の状景を其のまま人工的に再現したもの、此れが井外周の樹木の起原であると断じたい。
 
 註一、式内社、延喜式の巻九、巻十には当時の神社名が記載されている。此等の神社は其の頃社格が高く名高いものであったが今これを式内社と呼んで其れ以後の神社と区別している。従って現在は衰え果てていても式内社と云えば創建が古く其の(69)上、曽ては社格が高い有名な神社であった事を意味している。
 註二、井。此の井の所在については明かでないが大和志によれば「一(ハ)在(リ)2池田荘六田村(ニ)1、一(ハ)在(リ)2川上荘大滝村(ニ)1」とある。六田村は奈良県吉野郡吉野町に、大滝村は同郡川上村に属している。
 註三、朝妻の井。奈良県南葛城郡葛城村には今も宇朝妻の村落がある。此の地は日本書紀天武天皇紀に出る朝嬬《あさづま》、万葉集の旦妻《あさづま》の地に擬せられ、琴歌語の御井の地も此処と推されている。
 
      第三項 河泉・湖沼と井
 
 桂木荘雑詠
 道《い》ふを休《や》めよ他郷苦辛多しと
 同袍友有り自ら相親しむ
 柴扉暁に出づれば霜雪の如し
 君は川流を汲め我は新を拾はん
 この人口に膾炙した広瀬淡窓翁(安政三年歿)の詩に「君は川流を汲め」とあるのは注目されねばならない。汲んだ水を何に用いたのであろうか。吾々の常識ではこれを清掃用水と解したい。しかしここでの意味は飲料水に用いたのであった。最早一部の人々には忘れられようとしているが河原・湖沼の水は最近まで相当広く飲料水として用いられ、最も古代にあってはこれが飲料水の総てであったに違いない。今でも山地地方ではこの習慣が滅びず、中には却って河泉水が井水に勝る所以を説く者さえも居る。奈良県に例を採れば水の美しい吉野川に沿う人家は特(70)に河水に依存する傾向が強く中には家の床から直結釣瓶を河面に垂れるような構造を持っているものもある。若し近く降雨が予想される時主婦は預め水を汲み上げて不足に備えなくてはならない。それは雨があると河水が濁って飲料に適しなくなるからである。山間部に入る程渓水に依存する度が多くなり、細流を直接に或は掛樋を用いて一旦木桶に蓄え砂土を沈澱せしめてから、炊事に用いている所もある。又大和盆地の平坦部では普通の井を用いているが、飛鳥川、葛城川等の中流付近の集落では特殊な構造物に依つて河底から河水を引いて集落の一部或は全体が飲料水をこれに依存している所もある。高市郡|天満村《てんま》大字|奥田《おくだ》(註一)は此の種の取り水の代表的なものなのでこの目末の註に詳記した。併せて参照されたい。さて今でも地方によって川畔、溝辺の洗い場をイドバ或はイドバタ等と呼び、九州地方一帯及瀬戸内の一部島嶼で井をカワと云い又伊豆大島で共同井をカアと称しているのも過去に於ける此の習慣の名残りである。驚く可き事に大阪市(註二)に於てさえ明治の中頃まで其の飲料水を淀川の川水に依存し、又現行の水道施設の内には水源を河水・湖沼に求めるものが多く、例えば東京都に於ては江戸時代初期に神田(註三)・玉川の上水が設けられて現在本部水道施設の基幹となつているが、人の知るように神田上水は井頭《ゐのがしら》池及び其の他の池、川の水を水源とし、玉川上水は多摩川中流の羽村堰で川水を採り入れたものである。
 飲料水としての河水には種々の品評がある。和漢三才図会に引かれている茶経によれば其の味は山の水が上で、川の水が中、井の水は下とされている。京都宇治川の水は茶に用いて良く其の宇治橋|三間水《みまのみづ》は特に勝れていると云う。現在宇治橋の其の部は特に張り出しが造られ、豊太閤が点茶の際ここから河水を汲み上げたと伝えられている。雍州府志(註四)によれば三間水(註五)は橋の西方から第三の柱間を流下するもので此の水は勝れて美味であるという。此の第三の柱間は略河心に当っているが何れの河川に於ても河心の部で表面から稍下方の水が、又溢張して盛り上って流れ(71)ている時より減水して河心が凹んでいる時の水が良水とされている。「本朝食鑑(註六)」には此の甘美な水の生ずる理由を次のように説明しているが江戸初期らしい面白い解釈である。
 西京の水を第一となす。なかんづく鴨川之神流は潔白甘美にして、最も大井宇治の水に勝れり。然れども二水も亦中央之美を失なわず。和州之諸水は西京の水に次ぎて相劣らず。両州の水は泉源高遠千丈之上に漲り落て飛湍廻瀾、山を※[螢の虫を糸]り、巌を旋り石に咽び砂に淘て、而して水勢労し、水性和ぎ、其の清きこと鏡の如く其の潔きこと玉の如く、余州の企て及ぶ所に非ず。寔に天下の中央第一水なり。
 此のように河川の水は良質の飲料水として寧ろ井水に勝るとも劣らないものとして盛んに用いられていたのてあった。換言すれば過去に於ては河泉・湖沼は現在の井其のものであったのである。されば本居宣長は其の名著古事記伝(註七)に
 ○……凡そ古へは、泉にまれ川にまれ、用る水に汲《くむ》処《ところ》を井と云へり……
 と説き、村田了阿もその著「俚言集覧(註八)」に
 井は浅きながれ也、掘井の事のみに非ず、
 と記し、又「松屋筆記」には
 井とは池也筒井のみと思ふべからず
 と記るして、掘井だけが井ではなく、井の本体は浅い流れや池であると強調されているが、これに依って見ても最近代まで井の概念は河泉・湖沼が主であった事を了解することが出来るであろう。則ち井の概念は過去に遡る程河泉・湖沼其のものであり、逆に時代が降るに従って人工的な掘井に移行して来たと見る可きであろう。万葉集巻(72)十四東歌相聞の名歌
 青楊《あをやぎ》のはらう川門《かはど》に汝《な》を待つと清水《せみと》は汲まず立所《たちど》平《なら》すも(三五四六)
 早春川辺の渡し場に萌える青柳のもと恋人を待ちわびる女、これも亦川に水汲む女の姿であった。常陸風土記には「大井……湧き流れて川と成る」、播磨風土記には「山の東に流るる井あり」等の用語が行われて居り、現代人には理解し難い表現であるが、上述の考察を以て見れば実に面白い語法である。又天平勝宝八歳欠定の東大寺堺四至図(正倉院御物)には大仏殿と羂索堂(三月堂)の東北方に四角形の記号に依って二つの井が図示されているが、二井とも其れから細流らしい流れが下方に走っているが、これ亦前述の湧き流れている井を示すものであろう。又やや年代は降るが興福寺濫觴記に于v時神至2一瀬1【今俗呼2此所1云一ノ井】
 とあるが、割註にある一ノ井は一ノ瀬を指しこれ亦明かに一ノ井が川中にある事を示している。
 
 註一、奈良県大和高田市大字|奥田《おくだ》の取り水。大和盆地の水を集めて大阪湾に注ぐ大和川の諸支流の内、盆地南部から流出する葛城《かつらぎ》川、飛鳥《あすか》川の中流沿岸には其の堤防の外側に附着している様な形で小さな池沼が湛えられている。特に葛城川の沿岸には多く高市郡天満村大字奥田及び南葛城郡|忍海《おしみ》村大字|新《しん》村の両集落の西方及び天満《てんま》村大字|勝目《かじめ》集落の西方には川岸の東側に各数ケの池沼が附着し此れを地方語でデミズ(出水)、ワキス (湧洲)、ワキスイ(湧水)、ダブ等と呼んでいる。此等の池沼は大和盆地に著しく発達している灌漑用の皿池とは全く異なり其の成因は恐らく川床から堤防下を浸透して外側に出た水が人工的に処理されて現在の形をとっているものであろう。此等は面積こそ小さいが水量は豊富で又其の量の変化が少いので此れに構作を施して飲料水或は灌漑水に利用している場合が多い。今灌漑用水として用いられているものは別として飲料水として用いられているものについて天満村大字奥田の施設を代表的なものとして次に述べる。
 奥田は戸数約百三十戸、大和盆地南部に多い環濠集落の一つで今も猶集落の北側には殆んど原形の儘と思われる濠が保存(73)されている。集落の中央に興井山善教寺(浄土真宗)があり、此処は修験道の開祖|役行者《えんのぎようじや》(役小角)誕生の地と伝えられ、其の産湯の井と云われるものが最近まで残っていた。興井山の山号は此の井に因んで附けられたものと云う。
 葛城川は此の集落の西方約七八町の所を北流しているが、河の堤防の東側にはワキスイ、カキワケ(柿脇)、ハコンダブ(箱のダブ)、ニシノショウ(西の圧)等の所謂ダブがあり奥田の飲料水には葛城川の水とワキスイ、カキワケの二つのダブの水が用いられている。
 ワキスイの取水方法。河床から下方約七尺の所に流水に直角に川幅一杯に「水受け」が増設されて其の周囲は砂及び栗石(河礫)で固く詰められている。「水受け」は厚さ三寸の松材で四角形の筒形に造られ内法に於て縦横各一尺、其の長さは略川幅一杯で二十四間である。此の木箱には直径六七分の小穴が無数に穿たれ、河床の水は周囲の細砂、栗石等に濾過されて此の小穴を通して「水受け」の内部に集められる。此の水は「水受け」の東の端に接続する土管によって堤防の下を潜りワキスイの中に構えられた井筒の底に導かれて此処に蓄えられる。井筒は普通野井戸等に見られる組み方と同様のもので丸太材で井筒枠を組み外側から薄板を当てて四角形の井筒とし、其の井底からは砂を噴き上げて清列な水が多量に湧出している。
 カキワケの取水方法。カキワケは川畔から東方的一町半余離れ、ワキスイの東方稍北寄りの地点にある。水は前者のように川床からの取水ではなく井筒を組んで池床下からの湧水を集めたものである。(然し此の水も河水と連関をもっているものに違いない。)此処の井筒は極めて大型である。其の形は中脹れの長方形則ち舟型で、内部は中央に向つて階段式に下り四段目に最下底に達するが其の計測は上段に於て全長(東西)六十尺、幅は両端に於て各十尺五寸、中央部に於て最大十二尺、最下底の幅は約三尺である。井筒が細長いため内側への倒壊を防ぐため最上段の井枠には十一本、最下底のそれには九本の頑丈な横木が支えとしてわたされ、中間の二段にもこれ亦頑丈な縦材を用いて側圧を防いでいる。井筒上端から最下底までの高さは約六尺六寸である。此の巨大な井筒の西端に近く其の内側に更に別の井筒が設けられている。東西八尺、南北六尺の角型でこれも珍らしく大型のもので上下の二段から成り全高九尺である。此の井筒の上端は大型のものと同高であるから其の下底は後者よりも約二尺四寸低く従つて底面積は小さくても相当の湧水量を期待することが出来る。此の井筒の東(74)側の材は上部が欠如されて湧水はここから大型井筒の方に流れ出す構造となつている。水は両方の井筒から均しく湧出し渇水時を除いては井筒の上端杓一尺位の高さにまで満ちているのが普通である。水が極めて清列なため水深が九尺前後に達するにも係わらず底の底まで透き通り時に鮒、鮠《はえ》等の小魚が白い腹を日光に照り反らせて浴び、周囲の夏草は緑の影を静かな水面に映して何となく引きつけられる様な美しさを感じさせる。
 水の配分方法。ワキスイの水は奥田への里道に沿った幅一尺数寸の小溝によって東し、約一町半でカキワケの水を併せて集落の南方に達する。ここには両方から順に西組、東組、中組の三仲継井があり、これまで上水道として流下した水は仲継の大型井筒(直径三尺、深さ九尺の底なし井筒)の中に蓄えられ、此処からは全部竹樋を用いた暗渠によつて、西組の水は集落の西端に近く、東組のものは同じく東端に近く、中組のものは略中央の各々の会所《くわいしよ》に誘導される。会所は別に大水溜とも称し、ここには直径約五尺、高さ六尺三寸の大酒樽様のものが埋められている。再びここに集蓄された水は更に多数の竹樋によって初めて各戸に導かれて使用される。各戸の井は底つきの酒樽様の大型桶で、普通の井筒が底のないのとは異なっている。これは云う迄もなく水を洩らさないのを目的としているからである。此の個人井の中にも其の位置の関係で更に附近の井の中心となる場合もあり、其の時は更にここから別の樋が派出されて次の井に導水されている。此の様にして水源地から最遠距離の井は十一町余に及んでいる。
 以上述べたように極めて巧妙に構成されているが、村民はその欠点として水を一時に多量に用いる事が困難である事を指摘している。其れは会所の貯水量には限度があり又急速な補給も困難なため多量の水を長時間に亙って使用するには耐えられないからである。其のため防火用水用として明治になってから別に貯水池が設けられた。東、西、中の三組には各井戸組合があり、各組は単独で「井戸の茶あかし」という会合を催おす。其の日は毎年旧正月十一日で此の日各戸は其の人頭に応じて井の負担金を拠出し(戦前迄五銭)、これは主として会所等の清掃、修理等に充てられている。井戸組合の運営は一年交替とし其の当番の家を当家《とや》と云う。茶あかしは当家の家で行われ、打合せ、相談のあとに田舎風の料理が供されることとなつている。別に全体に共通する水源地、水路等の問題を処理するためには別の規定が設けられている。なお飲料水として余った水は田圃の灌漑用水に用いられている。此の様な取水型式は単に奥田集落のみに限らず盆地南部の各地に行われ、中(75)には灌漑用水のみを得る目的で此の様な構作を設けている処もある。飛鳥川畔|八木《やぎ》町|小房《おふさ》にはデメズ(出水)と呼ばれるダブがあるがこれは曽ては飲料水にも用いられていたが現在は各戸に掘井が普及したので灌概用にのみ用いられている。
 此の型式の取水方法は一見巧妙を極めているが要点は二つの取水方法と一つの導水方法との巧みな組合せにある。則ち河川及び井筒から取水する方法と暗渠によって水を誘導する方法との組合せである。河川を井として用うる事はあらゆる井に先行して行われた風習であり、井筒による方法も亦其の始源を遠く上代に求め得る。暗渠による水の誘導は何時頃始められたものであろうか。今播磨風土記揖保郡の条に
 美奈志川……是に妹の神……密樋《したび》を作りて泉村の田の頭《ほとり》に流し出しき。
とあるが、密樋は地下に埋設された樋則ち現在の暗渠である。万葉集の
 水鳥の鴨の住む池の下樋なみいぶせき君を今日見つるかも(二七二〇)
の下樋なみも同様である。又行基年譜には
 行年卅七歳甲辰
 ……築v池堀v河、度v橋伏2通樋1掘v溝云々
とあり、「伏2通樋1」は明かに暗渠である。この様に暗渠は奈良時代には盛んに用いられていたのであった。結局問題は此の三つの組合せが何時から初められたかと云う事になるが、記録が不備なため明かになしえない。恐らく小規模なものは相当古くから行われていた事であろう。平安時代の寝殿造の園地、鎌倉時代以降の城砦構築等に於ては可成り進んだ取水方法が考案されていたに違いない。江戸時代になると次に述べるように大規模な上水工事が江戸を初めとして各地に創められたが、此の場合奥田のような地方の施設が其の範となったものか、或は其の路が奥田等で行われたものか今詳かになし得ない。ワキスイについては嘉永五年(紀元二五一三年)修繕の際の古帳があるので少くとも其れより四五十年以前の寛政、亨和の頃まで遡ることは確実である。それは此の井筒の大修理は四五十年目に行うことになっているからである。従って今を去る百四五十年前後の頃この様に巧妙な水道工事が農村奥田に於て完成し、実用化されていたという事になるのである。
 註二、大阪市に於てさえ。洞沢勇氏著「上水の話」所載の大阪市水道部で発表した「水道条例発布前に於ける大阪市の史料」(76)中の一節を次に掲げた。
 古来大阪人は井戸水を飲料に供せず、多く河水を使用していたため、その需要に応ずる水屋なるものがあって、いずれも水船を河岸に繋留し、淀川筋の川水を汲取り、担桶を以て毎朝華客先へ運び込み、若干の料金で販売していた。併し明治一九年コレラ流行の際、其の伝播が河水を介すること多きを認め、同年八月大阪府は飲料水営業取締規則を設けて、淀川筋源八渡上流西側及中津川筋字嬉ケ崎上流の二ケ所を汲取場と定め、翌年三月淀川筋天満橋上流を追加し、一四一九年七月井戸取締規則を設け、井戸の新設及修理には一定の構造を定め検査を受けしめたが、コレラは益々熾烈となり、一九年中大阪市内で八、〇〇〇名に近い患者を出したので、二〇年、前記飲料水汲取場に濾過所を設け、天満橋下流の水を飲料とする事を厳禁して飲料水の取締に就いて相当苦心しつつあった」。
 この様に大大阪市に於てさえ河水に飲料水を求めていた事実は極めて新らしく、其の他は押して知る可き状熊である。
 昭和二十三年利根川下流の千葉県香取郡笹川町に於てコレラが猖獗を極めた事があったが此の原因は実に患者の汚物を洗った川水を飲料水として用いた事にあった。
 註三、神田、玉川の両上水。江戸時代の江戸市民の飲料水は神田、玉川の両上水道に依つていた。此の二つは江戸時代の初期に創設され、他に擢んでて大規模な組織と計劃のもとに行われ現在なお東京都水道施設の基幹をなしている。神田上水は徳川家康の命によって大正十八年(紀元二二五〇年)に成った。水源は東京府北多摩郡三鷹村の井頭《ゐのがしら》池に発し、豊多摩郡井荻町上井草の善福寺の池、同じく下井草の妙正寺池の末流を合せ、なお玉川上水分水の流末で淀橋を流れるものを合せて目白台の下に至り、堰を設けて余水は江戸川に落し、上水は小日向台の麓に沿つて小石川水戸邸内に入り、やがて水道橋附近に於て大樋を以て神田川を渡り、神田、日本橋、京橋の一部に給水していた。此の上水は新多摩川上水の完成と共に明治三十三年廃せられたが、なお後楽園に至る水路は旧のまま保存されている。玉川上水は将軍家綱の時工費七千五百両を以て承応三年(紀元二三一四年)竣成した。多摩川の中流、西多摩郡羽村の堰で取入れられた水は、先ず多摩川の左岸を平行して拝島に至り、武蔵野平野を東に直行して小金井を過ぎ、井頭池の南を大体旧神田上水に平行して新宿に至り、遂に御苑に達する。これから石樋、木樋によって各戸に給水されていたもので、明治二十三年東京市上水道が出来るまで市民の大切な飲料(77)とされていた。そして今なお此の水道は淀橋の浄水場に引かれて利用されているのである。
 註四、雍州府志。山城国の地誌で十巻よりなり全文漢文を用いている。序、凡例、建置、形勝、郡名、城池、風俗、山川、神社、寺院、土産、古蹟、陵墓の各門に別れ、各々に解説がある。貞享元年(紀元二三四四年)の序文がある。著者黒川玄逸は林道春の弟子で和漢の学に通暁していた。
 
 註五、三間水《みまのみず》。雍州府志の本文は
  山川門 久世郡の条
  三間ノ水 几宇治川共流至清其中宇治橋自2西方第三柱間1流過者為2特勝1点v茶人汲2此水1煮v湯
 註六、本朝食鑑。元禄八年(紀元二三五五年)刊行され十巻よりなる。本草綱目によつて、日用食物の形状、性質等を弁じ、好悪を示したものである。著者は平野必大である。
 註七、古事記伝。本居宣長翁の大著で古事記の評解、註釈書中の白眉である。明和元年(紀元二四二四年)著者三十五歳の時稿を起し天明六年五十七歳にして漸く古事記の上巻を伝し、寛政四年六十三歳の時其の中巻を伝し、何十年六十九歳にして其の下巻を伝し終った。巻数四十八、実に三十五年問の苦心の経営である。
 註八、俚言集覧。村田了阿の著で二十六冊から成る。五十音順に俚言を輯めて解説した辞書である。
 
      第四項 井 の 各 種
 
 上代井とは如何なるものであり又其の種別にはどんなものがあったか。著者は奈良、平安時代等の文献等を中心とし更に現在までのものをも参照して以下に記るす様な種別と分類を行って見た。
1、走り井。山の井。垂井。垂水。
(78)2、板井。石井。堆井。甕井。※[土+專]井。つつみゐ。水底の井。マンブリ。土井。マイマイズイト。
3、金綱井。綱長井(津長井)
4、薬井。薬水。酒井。曝非。
5、真名井。生井。栄井。瑞井。八井。御井。
6、大井。長井。
 (1)は主として其の在る状況、状態から、(2)は其の構造から、(3)はむしろ水の汲み上げの方法から、(4)は其の特殊な用途、特定から、(5)は井を尊崇する立場から、(6)は其の形状等から名付けられている。なお以上を本章第一項に掲げた井の分類表に当て嵌めれば次の様である。しかし分類三以下の井はそれから除外されている。それは分類の特長、標準から納得される事と思われる。
        自然井、走り井、山の井、垂井、垂水
                井筒井 板井、石井、堆井、甕井、※[土+專]井、つつみゐ
井           掘井  土井
        人口井     其の他(マイマイズイト等)
            其の他 (水底の井、マンブリ等)
 以下順を追うて其の構造、特徴等について記述を進めて見たい。
 
        第1目 走  り  井
 
 前項の末尾に常陸、播磨の両風土記の記事に「大井……湧き流れて川と成る」「山の東に流るる井あり」等の用(79)語が行われている事を述べたが、上代井の概念には河泉の流れが含まれていた。此の河泉の流れに対して走り井という名称が与えられたのである。走り流れている井という意味である。万葉集に滝の様に(註一)落ちたぎつて走る井を見すてて去り難いとか、蜻蛉日記に走り井(註二)(此れは有名な逢坂の走り井を指しているが)に休んで涼を取って心地良げである、走り井に手足を浸して涼しむなど記るされているが、此等の記事は走り井を河泉の流れと解して初めて理解し得ることである。既に此の名詞は一般には忘れられて仕舞ったが「大乗院寺社雑事記」に散見している所から推して恐らく戦国時代末の頃までは用いられていたものであろう。
 
 註一、滝の様に。万葉集巻七雑歌から採った。
   落ちたぎつ走り井の水の清くあれば廃《す》てては吾は去《ゆ》きがてぬかし(二二七)
 註二、走り井。蜻蛉日記の此の所の文を挙げれば次の通りである。
  ……人には云はず、走り井には、これかれ馬うち早めて、先だつもありて至りつきたれば、さき立ちし人々、いとよくやすみ涼みて、心ちよげにて、車かきおろす所により来たれば、後なる人、羨し駒のあしとく走り井の
 といひたれば
 清水に影はよどむものかは、
 近く車寄せて、あてなる方に、幕など引きおろして、皆おりぬ。手足も浸したれば、こころ物思ひ晴れけるやうにそ覚ゆる。
 
        第2目 山  の  井
 
 万葉集巻十六
(80) 安積香山野さへ見ゆる山の井の浅き心を吾が思はなくに(三八〇七)
 枕草子
 井はほりかねの井。はしり井は逢坂なるがをかしき。山の井、さしも浅きためしになりはじめけむ。
 更科日記(註一)
 四月晦日……東山なる所へうつろふ。……霊山近き所なれば、詣でて拝み奉るに、いとくるしければ、山寺なる石井によりて、手にむすびつつ飲みて、この水の飽かずおぼゆるなどいふ人のあるに、
 おくやまの石間の水をむすびあげて飽かぬものとは今のみやしる。
といひたれば、水のむ人、
 山の井のしつくににごる水よりもこはなほあかぬ心ちこそすれ
 多武峯少将物語(註二)
 山の井の麓に出でて流れなむこれしき人のかげをだに見ん
 夫木和歌抄巻第二十六 井
 岩壷にたゝふばかりの山の井のつゝがなくても世をすこさばや  衣笠内大臣
 むすぶ手にきえぬおもひや山の井のながれにすだく螢なるらん  慈鎮和尚
 新勅選和歌集(註三)
 人目もる山井の清水結びても猶なかなくにぬるる袖かな
 山家集(註四)
(81) 浅くともよしや又くむ人もあらじ我にことたる山の井の水
 山の井、これは正しく山清水である。山ふところに、山裾に湛えられた自然の清水である。谷合いの「岩壷にたゝふばかり」の「しづくににごる」「むすぶ手にきえぬ」程の少量の水である。岩の裂目から或は老木の空ろの根元から滴り落ちる清水で、自然に放置されて、「よしや又汲む人も」なく「人目にもれる」井で、勿論人工的な「つつ(井筒)がない」。木立ちに包まれた井水は「こひしき人の影」も写す程に静かで、其の少量の水は昔から「浅きためし」にされている。流れ下って「麓に出でて」初夏の頃は「螢もすだく」井でもある。走り井、垂井、垂水と同じく自然の水であり、非人工的な井であり、又最も原始の時代からあらゆる時代を通して現在も用いられている井である。
 古来有名な山の井としては神武天皇御来遊の砌に経られた茅渟《ちぬ》の山の井の水門《みなと》(大阪府下)の山の井、天智天皇が即位九年神祭を催された山御井等である。後者については第一章第三項にも述べた。
 
 註一、更科日記。旅行日記に自伝を併せ記し、一家の内事、夢見のことまでもわびしく面白く綴られている。著者は菅原孝標の女、(寛弘の頃生る)一巻本である。
 註二、多武峯少将物語。藤原高光少将が応和元年(紀元一六二一年)出家して比叡山に登ったが、此の始末を近侍の者が記るした日記である。伊勢、竹取物語等に次いで古い。
 註三、新勅撰和歌集。新古今和歌集に次ぐもので後堀河天皇の貞永元年(紀元一八九二年)勅によって藤原定家が撰集したものである。二〇巻である。
 註四、山家集。二巻よりなり僧西行の家集である。西行は武術、軍学に長じ鳥羽上皇に仕え。又和歌に達していた。後鳥羽天皇の建久三年(紀元一八五二年)寂した。
 
(82)        第3目 垂 井・垂 水
 
 垂井、垂水共に字義のように垂れ落ちる井であり垂れ落ちる水である。岩間から木の根から滴る可憐な水も、滝のようにたぎり落ちる大型のものもこれに含まれている。山の井、走り井とは非人工的な点で同質であるが、山の井は其の周囲の状況から名付けられ、これは走り井と共に水の動きに基いて呼ばれた。又山の井が浅く鏡のように静的であるのに反し走り井の垂井、垂水は最も動的であるのを特徴としている。走り井と垂井、垂水の区別は前者が比較的緩傾斜の水を指すのに対して後の二者は急勾配で所謂急湍或は瀑布、滝に当る。万葉集に垂水の枕言葉として「石走《いはばし》る垂水の水」と用いられているのも岩の上を走り流れて轟々と落ちる滝そのものを形容したものであろう。然し数条の玉を綴った糸を引いたように点々と滴り落ちる美しい岩清水も亦この井の範疇に属し、古人はこれに玉、玉すだれ、玉かけ等の形容を与えている。夫木和歌抄巻第二十六井に
 岩間もるたまかけの井のすゞしさはちとせの秋をまつ風ぞふく   皇太后宮大夫俊成卿
 続日本紀光仁天皇の条に出づる桜井(本章第二項井戸の谷の井参照)催馬楽、無名抄(註一)等に出づる大和国葛城の榎葉井《えのはのゐ》、常陸風土記行方郡の条に出づる玉清井《たまきよのゐ》等は恐らく玉井、むかけの井と同質のもので垂井、垂水の一種であろう。各地名人名として用いられている垂井(註二)、樽井、垂水(註三)、玉井、玉水(註四)なども此の言葉の固有名詞化したものであろう。垂井と垂水の別は井に重点を置いた名詞として垂井、水に重点を置いたものとして垂水と称し、実際には何等の区別もなかったものと思われる。
 
 註一、無名抄。方丈記の著者として名高い鴨長明の随筆で、四八項目に分類して和文で記るされている。
 註二、垂井、樽井。美濃国不破郡垂井町玉泉寺の門前に垂井と呼ぶ井があり地名はこれによっている。藤川記に
  あさはかに心な掛けそ玉簾垂井の水に袖も濡なん
  大阪府泉南郡の樽井は旧名|山井《やまのゐ》を改めたものである。
 註三、垂水。上代の名家に垂水公があった。平安時代に記るされた新撰姓氏録によれば、同公は右京皇別の出で其の祖阿利真公は孝徳天皇の御代、天下旱魃に際して天皇の宮に高樋を通して水を送り、それを御膳の水に供し、其の功によって垂水公の姓を賜わったという。
 註四、玉水。京都府綴喜郡の井手村には有名な井手の玉水があって、平安時代の文学に屡々見えている。
 
        第4目 水 底 の 井
 
 次に述べるような井がある。それは奈良県に於ては単に井と呼ばれるだけで他に特殊な名称もないが、河泉、池沼等の底で特に井のように深く凹んでいる所に名付けられた。本居宣長翁は早くもこれに着眼されて、其の著「古事記伝」七、天真名井の解釈に於て
 ○天立真名井……又此(ノ)井は、即(チ)安(ノ)河瀬の中《ウチ》にて、井と云べき所を指《サシ》て云るにて、別に世常云《ヨノツネイフ》井ありしには非ず、
 と記し、此の天真名井は天、安河瀬の中で井と云うべき所を指して云ったもので世間普通の掘井のようなものではないとしているが、此の種の井の存在を考えた場合示唆に富んだ解釈と思われる。又天王寺扇面古写経の下絵には流れの中に丸い井桁のような区画を造り、此の中から水を汲み上げて飲んでいる女の姿を描いている絵があるがこれも河中の井の状景である。現在でも河流の中に一寸とした囲いを作ったり特にコンクリートの井筒を嵌めこん(84)だりして、そこを井に用いている風景を目撃することがある。常陸風土記に椎井についての記事(註一)があるが、池の中から清水が湧出しているので其の井の名称を採って椎井という地名としたとあり、此れも同じ種類の井と思われる。我国にはこのような原始的な井が過去から現在に亙って存在しているのである。人工的に造られたものもあり、又中には自然に出来た凹所で其のように呼ばれているものもあろう。
 註一、記事。常陸風土記|行方郡《なめがたのこほり》椎井の記事
  壬生連麻呂……椎井と号ふ。池の面《うへ》に椎株《しひのき》あり。清泉の出づる町なれば、井を取りて池に名づく。
 
        第5目 マ ン ブ リ
 
 マンブリ、マンボ、マンポリ等と称する井がある。通常丘陵の麓に横穴を掘り、其の上方及び側方の水を集めて穴の出口に誘導する装置である。横穴の長さ(奥行)は数十間に達するものもあり、高さは略大人が楽に歩行し得る程度、幅は高さよりやや狭くトンネル型に掘られている。底の中央或は側方に細い浅い溝を穿ち水はこれを通って出口に流れ出ている。余り掃除の行き届かない井にあっては入口又は上方から竹木雑草等が生い繁り凄惨な状景を呈しているものもある。然し付近が水に乏しいにも係わらず流れ出す水は清例である。比較的水に恵まれない山間部に見られ奈良県では東部山間部の宇陀郡盆地西南部や南葛城郡等に見られる。古事に出る穴井はこれに当るものであろうか。
 
        第6目 マイマイズイト
 
(85) 螺井、蝸牛泉などと記し今も武蔵国の諸地方に残り又現に使用され恐らく掘井の中で最も原始的なものであろう。はじめ河泉、湖沼等の縁辺に生活していた古代人が移住其の他の原因で自然井に依存する事が出来なくなった場合、何等かの方法で井を造らなくてはならなかったが現在のように土地を垂直に掘り下げることは容易でなかった。自然段掘りとして階段式にするか或は擂鉢形に掘って螺旋形の路で降りて行くように工夫した。今東京都の青梅鉄道羽村駅の東、熊野社の前に残るマイマイズイトは其の最も代表的なもので名のように蝸牛の殻に似ている。平凡社発行の社会科事典によれば井の口は矩形で各辺は一六・五米に一四・三米もあり、摺鉢の斜面は三〇度で、地表から四米のところに方四米の底面があり、其処まで螺旋形の小径で降りられるようになっている。此の中央に深さ八・三米の玉砂利で囲まれた釣瓶井がある。恐らく崩れ易い砂礫層を垂直に掘るのに苦しみ大きく窪地を作ったものであろう。今でも十四戸が共同で使用しているという。なお第一章第一項「掘兼井」について挙げた江戸名所図会の記載によれば其の井も亦此の種の井であったように推察される。猶琉球糸満付近にもこれと酷似した井が現在使用されているという。
 伝聞するところによれば最近豊橋市付近|瓜郷《うりごう》の弥生式遺跡地に於て上部に径二米の不正円形の階段状窪地が発見され、階段の高さは五・六米で段々に下降するように造られていたという。発掘調査に携わった人々の意見によれば恐らく当代の井遺構ではないかという。若しこの推定に誤がないとすれば、これは規模の大小こそあれ武蔵のマイマイズイトに酷似して居り、現在のマイマイズイトを上代井の一残影とする想像に有力な資料となるものと思われる。
 
(86)        第7目 土    井
 
 掘井に属する井の内井筒地上部の存杏については兎も角として地下の部に何等の施設をも加えず単に土を掘った儘で使用するものが今も相当見受けられる。文献には比の種の井の名称はなく、石井、板井等に対して仮りに土井とでも呼ぶべきものであろうか。現在は比較的地盤の堅固な地方に多く、相当の深さを持ち井筒地上部則ち井桁をもつものが普通である。これは恐らく地上付近の土崩れ等の危険が十分に予想されるためであろう。前述のように古記録には其の名称が見えないが橿原遺跡地出土の二十一例の上代井中二例……約一割……が之に当っているので、上代に於ても或る程度は用いられた事が証明された。此の発掘状況については第三章に述べた。
 
        第8目 板    井
 
 山の井が人里離れた谷合いや森の中に湛えられているのに反して此の井は邑里の内、人家に接して造られて極めて人懐かしく此の点に於て山の井とは対蹠的な性格を持っている。
 夫木和歌抄 巻二十六 井
 大君の春のわかみつそまふとてたかいた井にかしめさしつらん  正三位和泉卿
 謡曲 井筒
 「われ《ワキ》この寺に休らひ、心を澄ます折節、いとなまめける女性、家の板井を掬びあげ花水とし、これなる塚に回向の景色見え給ふは、如何なる人にてましますぞ……」
(87) 神楽歌
 我が門の板井の清水
 里遠み人し汲まねば
 水草生ひにけり
 以上のように「大君の春の若水として注連縄で飾られた板井」、「いとなまめける女性の花水を釣み上げる板井」、
「我が家の門の板井の清水」等々最も人に親しみを持つ井である。では板井とはどんな井であろう。広文庫(註一)は倭字通例書を引いて
 板ニテ回リヲ囲ミタル井也。
 と説き、類聚名物考(註二)は
 井筒を板にて作りし四方の井をいふ筒井の丸きを対て知へし
 と解いている。則ち土砂が内側に崩落するのを防ぐため板で周りを囲んである井のことで、現在我国の平坦地にある井には此れに属するものが多い。著者は第三章で述べるように、奈良県橿原市畝傍山麓の橿原遺跡出土の二十一箇の上代井の発掘に関係したが、其の内の二例を除いた他は全部板井であったこと及び本章第一項註九の絵巻物や其の他の絵画に描かれた井も亦全部板井のように察せられる事などから推して、此等の井が造られ又は描かれた時代に於て比の種の井が極めて普遍性を持っていた事を知り得たのである。一般に我国は加工の自由な木材に恵まれているため土崩れの憂いのある平坦な沖積層地に於ては板井を用うる事が最も経済的であり又手軽であったからには違いない。板井の平面形には円、四角、六角、八角等があり、深さについては現在も相当の深さを持っている(88)ものがあるが、過去のものについても同様であった事が次の歌などから汲みとられる。
 大木和歌抄 巻二十六 井
 さゆる夜の風もおよばぬそこなれば探きいた井や氷らざるらん 左近中将具氏卿
 宇澤保物語(註三) 祭の使
 兵部卿の宮より
 ぬるみゆく板井の清水手にくみてなほこそたのめ底は知らねど
 今回の檀原遺跡地に於ける上代板井の発掘調査は我国最初のもので、本書第三章の大部分は此の調査記録に充てた。なお我々が此の遺跡地出土の井に対して板井という名称を付して、学界に報告したのは実に前掲の謡曲井筒の「板井」に其の出典を求めたものである。
 最後に板井について別の解釈のある事を付加したい。併しこれについては前の解釈ほど明確な所謂極め手を持たないが、此のような異なった内容も合せて包含されていたのかも知れない。其れは板井を板葺の井則ち井戸屋形の屋根を板で葺いてある井とする解釈である。今鏡によれば
 第九 むかしがたりかしこきみち/\
 又能因法師、月あかく侍りける夜、いたゐにむかひてひさしのふき板所々とりのけさせて月やどして見侍りけるに……
 則ち此の板井は屋根の庇が板で葺かれていたのである。従っていたゐを固有名詞とせず普通名詞とした場合此の井は板葺の井戸屋形の井であった。次に伴信友翁の高著神名帳考証は因幡国の板井神社を解説して次の如く述べて(89)いる。
 板井神社 因幡国気多郡 志、……板屋神社ト称ス……俚言板葺大明神ト云フ……
 則ち板井神社は別に板屋神社、板葺大明神と称されていたと記るしてこれも板葺の井戸屋形の井と解されているようである。此等から推して坂井を板葺の井とする解釈も成り立つのではないか。併せ記るして後考を待ちたいと思う。
 
 註一、倭字通例書。八巻より成り橘成実の著わす所である。古今の仮名遣について論述したもので元禄の頃世に問われたものである。
 註二、類聚名物考。和漢の事物を網羅して其の名義を分類考説したもので、天文、時令、神祇、地理、釈教、人物、姓氏、称号、武備、弓矢、身体……等三十五部に類別し外に目録一巻、標題十八巻あり、凡て二百六十二巻、百五十五册より成る。著者山岡浚明は和漢の学に深く洽聞、博識で安永九年(紀元二四四〇年)京都に没した。
 註三、宇津保物語。二十巻より成り我国最古の続き物語である。源氏物語や枕草子にすでに記るされて古く且興味ある物語である。著作の時代については異論があり、(一)延喜、貞観の頃源順の著す所といひ、(二)長保以前藤原為時の作といひ、(三)鎌倉時代の偽作であるとの説もある。竹取物語から暗示を受けていると云われている。
 
        第9目 石    井
 
 いしゐ、いはゐ共に訓む。
 夫木和歌抄 巻第二十六 井
 風さむくなりにし日よりあふ坂の関のいは井にゐくさおゐにけり 好  忠
(90) 手にむすぶいし井の水のありてのみ春にわかるゝしかの山こえ   後京極摂政
 さてこの井の構造について前掲の二首からこれを窺ふことは困難である。従って岩壺に自然にたたえられた人工の加えられない井と解しても或は又石井筒を持つた井と推しても自由である。併し幸い次の資料は略其の構造を示している。
 万葉集 巻七難歌
 馬酔木《あしび》なす栄えし君が穿《ほ》りし井の石井の水は飲めど飽かぬかも(一一二八)
 この石井は掘りし井である。山の井、走り井のように自然其の儘のものではない。次に
 今昔物語巻十一 智証大師初門徒立2三井寺1語第廿八
  ……寺ノ辺ニ僧房有リ。寺ノ下ニ石筒ヲ立タル一ノ井有リ。
 とあり、石筒を立てゝ井筒とした井である。石井筒は施工其の他に経費が嵩み普通民家では仲々造る事が困難であったと思われる。(此の事情は現在でも程度の差こそあれ同様である)前掲万葉歌の馬酔木なす(枕言葉)栄えし君則ち財産家の君がと云っている点や、三井寺の石井……これも財政豊かな寺の井である……など這般の事情を物語るものであろう。
 なお石井筒の大きさについて稍新しい記録ながら興福寺濫觴記に出ているものによると同寺鎮守社の浮雲大明神の戌亥隅にある石井筒(註一)は一つの石の掘抜で形は六角、石の厚さは二寸五分、内側の直径二尺二寸五分とある。参考となる計数と思われる。そしてこれと殆んど同形の井が板井ではあったが橿原遺跡地から出土した。第三章第四項第八目について見られたい。
(91) 従って私は石井の構造について井筒が石製のものと推測ではあるが岩盤の上に湛えられたものとの二種に解したい。
 
 註一、石井筒。興福寺濫觴記の石井筒の記録は
 鎮守社 浮雲大明神
 ……
 成亥隅井筒有v之。寸法【一方一尺一寸ツツ。厚二寸五分。高一尺一寸五分。小口差渡二尺二寸五分。但六角。一ツ石掘抜ナリ。】
 
        第10目 碓    井
 
 常陸風土記 信太《しだ》郡の条に
 郡の北十里に碓井《うすゐ》あり。古老の曰へらく、大足日子天皇《おほたらしひこのすめらみこと》(景行天皇の御事)、浮島の帳宮《かりみや》に幸したまひし時、水の供御《おもの》無かりき。即ち卜者《うらべ》をして訪占《うらど》はしめて所所に之を穿る。今、雄栗の村に存《のこ》れり。
 豊後風土記 日田《ひだ》郡の条に
 五馬《いつま》山。……飛鳥浄御原宮御宇天皇《あすかのきよみはらのみやにあめのしたしろしめししすめらみこと》(天武天皇の御事)の御世、戊寅《つちのえとら》の年に、大きい地震《なゐ》有《ふ》りて、山崗裂け崩れ、此の山|一峡《ひとを》崩《く》え落ちて、温之泉《いでゆ》処々より出づ。湯の気|熾《さかり》にして熱く、飯を炊ぐに早く熟《な》る。但一処の湯は、其の穴、井臼に似たり。注ぐこと丈《ひとつえ》余《あまり》。浅さ深さを知ること無し。水の色は紺の如く、常に流れず。
 ……
 碓井について常陸風土記の碓井、豊後風土記の井臼以外余り見当らないが、固有名詞としては碓井(筑前)、碓(92)氷(上野)、宇須比(上野)、臼井(阿波、下総、越後)など地名、人名に多く残り、又前掲常陸風土記にも所々に之を掘るとあり上代に於ては相当に普及していた井の一型式と思われる。
 今臼井の臼と碓井の碓とは厳密に云えば区別がある。和名類聚抄に依れば臼は宇須(うす)、碓は賀良宇須(からうす)で、文献としては前者は日本書紀の神功皇后の条に出ているのを初見として我国在来の立臼であり、後者はからうすの音が示すように唐《から》から輸入された外来のもので万葉集、宇津保物語、源氏物語等に見えている。今臼について伝讃岐発見銅鐸に其の絵が描かれているが、側面形は現在の臼と略似た形であり、従つて上面の平面形も亦円形と思われる。臼については今も古えも足で踏む杵の部と土にいけ込んだ臼の部とから成り、臼は殆んど石製でこれ亦上部に穀物を容れて舂くための円い深い穴が穿たれている。今臼井及び碓井の名称について臼、碓共に其の側面形によって呼ばれたものではなく上部平面の形から名付けられ、又碓は杵の部を除いた臼の部について名付けられたと思われるので、両種のうすは共に其の平面形が円形である事から推して、此等の井は平面形が円型であつた井と解したい。則ち臼井、碓井ともに角型井筒に対して円型井筒の井の総称であつたと推考される。ただ極めて少い資料に依った判断なのでなお今後の研究に期したいと思う。
 
        第11目 甕《みか》   井《ゐ》
 
 著者の浅学、此の名詞についても記載の発見は甚だ少く僅かに次の二例を得たに過ぎない。
○延喜式神名帳
 大和国高市郡 波多※[瓦+長]井神社
(93)○琴歌譜 七日あゆだ振
 高橋の甕井の清水
 あらまくを すぐにおきて
 出でまくを すぐにおきて
 何が汝が此処に
 出でて居る 清水
 ……
 先づ甕井の甕について検討を加えて見よう。和名類聚抄に
 大甕、美賀、本朝式云、埴※[瓦+長] 和名同上
 とあり、甕と※[瓦+長]とは同義である。従って波多※[瓦+長]井神社の※[瓦+長]と高橋の※[瓦+長]井の※[瓦+長]とは同義で、※[瓦+長]井、甕井も同義である。さて甕は陶器《すゑき》(祝部土器)の壺を意味し土器としては最も大型のもので、其の容量については続古事談(註一)によれば造酒司(註二)の大刀自と云う壺は卅石入りとある。此の壺は其の大きさから考えて大甕に違いないが、然し卅石という大きな容量は如何があろう。次の記録は其の儘信ぜられる大きさである。其れは天平九年の「和泉監正税帳(註三)」に記るされているもので「盛※[瓦+長]壺壱拾参口 口別受五斛」とあるもので十三箇の甕の容量各々五石とある。又「法隆寺伽藍縁起並流記資財帳(註四)」には「※[瓦+長]……一口経一尺三寸五分、深二尺四寸」とあり、天平勝宝七歳の越前国使等解(註五)には※[瓦+長]の容量二石五斗或は三石とある。現在奈良県山辺郡|石上《いそのかみ》神宮所蔵の甕は殆んど完形品として保存されている珍らしい大壺であるが、社務所の調査によれば(94)高さ三尺二寸六分 口経一尺一寸七分 胴部直経三尺五寸 胴周り一丈八寸五分である。現在発掘などの際破片にはなっているが、石上神宮のそれと相前後する大きさのものと推定されるものが屡々発見されているので続古事談の記載のような大きさの物は兎も角として相当大型の甕が焼成されていた事は事実である。
 扨※[瓦+長]井とはどんな井を指すものであろう。極めて難解である。先づ※[瓦+長]井が固有名詞であるか或は普通名詞であるか。波多※[瓦+長]井神社、高橋の甕井等の語句から考慮してまづ普通名詞の如く思われる。仮りに左様解した場合、其の構造は石井筒の井を石井、板井筒の井を坂井と称する例から推して甕を井筒として使用した井と解せられないであろうか。此れについて次の二つの事項は此の考察に何等かの関係を持つものであろう。先づ其の一は播磨風土記の一文で
 揖保郡の条
 荻原里。……又|※[缶+尊]《もたひ》の水溢れて井を成しき。故《か》れ韓清水《からしみづ》と号《なづ》く。
 ※[缶+尊]は新撰字鏡(註六)によれば甕と同訓で「もたひ」と読む。それで「※[缶+尊]の水溢れて井を成しき」の文意には何か甕井に関わりがあるものかも知れない。其の二は最も具体的である。それは昭和十九年一月奈良県高市郡畝傍町に於て発掘された上代井の遺構である。次に其の概要を記るせば、
 奈良県高市郡畝傍町大字木殿小字井坪発掘上代井について。
 昭和十九年一月同所に於て暗渠排水工事の溝掘り作業中約三十米離れて南北の二地点から二箇の上代井の遺構が発見され幸い著者は其の発掘調査に携わる事が出来た。地は白鳳様式の三重塔に名高い奈良市西郊薬師寺の前身の(95)地として考証されている本薬師寺史蹟指定地の西方二百米余の所で、二箇の井が余り離れないでしかも狭い一連の暗渠排水溝(上部の幅八十糎)から共に発見されたという事は小字名井坪の名が偶然でないことを示している。二井の内甕井に縁りを持つものは北方のものである。この井は上下二段の構成で、下段の板井は正方形、縦板、無柱式構造で、各辺は一枚板を用い板の長さ(高さ)は四尺、幅は二尺二寸前後、厚さは一寸余である。上段は此の板井筒の上に大甕を水平に口部を上にして底部を嵌めるようにして戴せてあった。甕藍は勿論破砕されていたが復元の結果、口径一尺八寸、胴部最大径四尺弱で其の大きさは先に記るした石上神宮所蔵の大甕に勝っている。此の場合甕の底が有ったか無かったかは此の遺構が井であったか無かったかを決定する重大な鍵となるので其の点特に慎重に調査したにも係わらず井筒の周囲からも内部からも其れに当る物を求める事が出来なかった。これは初めから底の無い壺であった。則ち偶然底が割れ欠けて壺として使用に耐えないものであったか、或は故意に底を欠き抜いたものであったか、兎も角底のない大甕を板井筒の上に戴せて井筒の全体を構成していたのである。既に甕は低く潰れていたため其の上縁は田面下七寸余の所にあったが、付近の土地の堆積状況等を参照して井の使用当時にあっては甕の上部一尺前後は地表に露出していたものと推測される。
 偶々此の井の概略が新聞紙上に報道されると名古屋市東区在住の久保田量学氏は奈良県史蹟名勝天然記念物調査委員会に書を寄せて次のような報告をせられた。それを抄録すれば今から約四十七年前同氏所有の同市中川区高畑町字宮前の畑中から一つの構築物を発見した。其れは大甕四箇を縦に重ねたもので最下のものには底があったが其の上の三箇は底を抜いてあった。当時底のない方は捨て去られたが、最下の底のあるものは掘り出されて今も尚保存されているというのである。此の報告には甕の大きさ、焼成の状態等が記るされず、且戦争のため著者との連絡(96)もとれず其の儘に過ぎてしまったが恐らくこれも前述の井と同一類型に属するものと推察される。
 以上二例について其れが甕井であると速断することは避く可きで、今後同型例の多数の検出による考察を待たねばならないが、少くとも甕井に関わりを持つ井として今後の研究の資料たらしめたい。
 
 註一、続古事談。古事談に模して造られた説話集で六巻よりなる。建保七年(紀元一八七九年)に出来たが著者については詳かでない。第一巻王道後宮篇、第二巻臣節篇、第三巻は欠如、第四巻神社仏寺篇、第五巻諸道篇、第六巻漢朝篇からなっている。
 註二、造酒司の大刀自。続古事談の其の部は
  第一、造酒司ノ大刀自ト云ツボハ、三十石入也、土ニ深クホリスヘテ、ワヅカニ二尺バカリイデタルニ……
 註三、和泉監正税帳。正倉院文書にある。
 註四。法隆寺伽藍縁起並流記資財帳。其の部は※[瓦+長]壱拾口
  一口径一尺三寸五分 深二尺四寸
  一口径一尺五寸 深二尺二寸五分
  (以下略)
 註五、越前国使等解。尊勝院文書。其の部は
  ……
  合買雑物廿一物
  ……
  ※[瓦+長]四口【二口各受三石 二口各受二石五斗】直一百四十文【二口各四十束 二口各三十束】
 註六、新撰字鏡。僧昌住の著わす所で十二巻より成る。漢字の訓義を示した字書で、天部、日部、月部、肉部、雨部、風部、火部、連火部、人部等から卜部、殳部等まで偏冠によって字を類聚し、其の外にも品部様、二合字、重点字等がある。自序(97)によれば寛平四年初稿成り、更に昌泰四年迄に増補を行い、片数百六十、文数二万四百八十余字を収載したものと云う。
 
        第12目 ※[土+專]     井
 
 ※[土+專]を井筒の材として用いた井を※[土+專]井と仮称して以下に記るす。※[土+專]は別に※[專+瓦]、磚とも記るし方形或は長方形の平板状の瓦で住昔宮殿、寺院建築等の床敷などに用いられていた。此の種の井は現在奈良県生駒郡富郷村大字三井の法輪寺の旧寺地内にあり、恐らく我国唯一のもので又現存する井筒井としても最古のものであろう。法輪寺は別に三井寺とも云い、推古天皇の三十年、山背大兄王、由義王の二王子が父聖徳太子の為に創立するところで、其の三重塔は付近の法隆寺、法起寺の塔と共に飛鳥様式の古建築として著名であつたが、本寺のものは前述のように照和二十二年火を失して消滅してしまった。此の寺にも縁起によれば近江の三井寺式の産湯伝説があり、享保以前に描かれたと推定されている同寺伽藍之図には寺域内に三井の位置が記るされている。
 ※[土+專]井は其の内の一井で、平面形は真円であるが断面は花瓶状を望し、其の径は上部付近は最少、中央部稍下方で最大、下底は少しく狭まり、其の計数は上部で約三尺、中央稍下方で四尺五寸、深さは現在約十四尺である。※[土+專]は井筒下底の鏡石の上から平に積み重ねられて井筒を構成している。然し普通一般の方形のものでは円形井筒を造るのに不都合のため、特に梯形として其の幅の狭い上辺を井筒の内側に面せしめて左右の※[土+專]との緊密な接触を計り、更に上辺を※[土+專]の内側に対して緩やかな孤状に殺ぎおとして井筒の内側が真円となる様に工夫されていた。※[土+專]の大きさについて著者の実測したものは厚さ八糎、長さは上辺十八・五糎、下辺は二十二、三糎、両辺は同長で二十六糎(98)で他のものも略同型同寸である。一段について使用している※[土+專]の枚数は住職の言によれば最小経部に於て略十二枚、最大経部に於て十六枚位という。井の最下底には四箇の鏡石を用いて井筒の基盤としている。石はいづれも井の内側に面する面を平滑とし、これを井桁に並べて内部に縦横一尺一寸五分、一尺三寸の四角形の穴を作り、水は此の下方から湧出するようにされている。
 井構築の実年代については主として※[土+專]の時代鑑定から決せらるべく、古瓦研究の現段階に於ては相当な難問である。併し其の焼成は堅く、色は純白色を帯び土質に可成りに精選されているので、或る程度上代に遡るものと見られ、従って井の構築年代も其れに比して推考される。今文学博士石田茂作氏編輯の法輪寺大鏡の一節を抜萃すれば次の如くである。
 古井……法輪寺現境内の西北約三十間のところにある。口もとの石積みは新しいが、以下は梯形の※[土+專]にて積み、現存の井として恐らく最古の遺跡であろう。伝へて聖徳太子此地に三井を掘り、三島女王、大兄王子、由義王子の産湯に用ひ給ひ、三井の地名それによりて生ずと云ふが、これが或はその一つであるかも知れない。
 
        第13目 つ つ み ゐ
 
 谷川士清氏の「倭訓栞」につゝみゐを解して
 つゝみゐ 包井の義也去年|御《み》生気の方の井を点して蓋を封し春音(上の二宇は春立日か、著者註)主水寮是を内裡に奉るを若水といふ也
とあり、年末に御生気の方の井に蓋をして包み春立日に汲む若水に備える井、これが包み井である。(99)別に万葉集に都追美井(つゝみゐ)と云う名称が載せられている。
 須受我弥乃《すずがねの》 波由馬宇馬夜能《はゆまうまやの》 都追美井乃《つつみゐの》 美都乎多麻倍奈《みづをたまへな》 伊毛我多大手欲《いもがただてよ》(三四三九)
 扨このつゝみゐについては如何なる解釈を下すべきであろうか。勿論前述の倭訓栞の解釈は適用すべくもない。これについてまず先学の註解を窺えば、同じく倭訓栞に於て谷川氏は仙覚律師の万葉集抄を引いて抄に人馬或は不浄を落さぬためにいほりを造りおはひをしたる井也といへり伊勢鈴鹿郡古馬屋といふ所に遺跡ありと此名を伝ふ鈴かねは鈴鹿根の義也
 として、つゝみゐは庵を造って被いをした井であり、今伊勢国に其の遺跡ありとして固有名詞としても認めている。次に「万葉集略解」に於て橘千蔭は
 つつみゐ、美は添へ言ふ詞にて筒井なり。
と解き、類聚名物考の著者山岡俊昭氏も亦詳細な註釈を試みてこれに同調されている。
 類聚名物考 巻八十八
 〇筒真井 つゝみゐ 筒御井作2名所1、案につゝみゐ世には堤井とのみ書て川の堤に在る井なりといひ又は包井と書につけて井の上を覆ひつゝみたるを云ふなといへるみな仮事なり筒井といふに同しく丸井げたの井を云けミは真の意にてほむる詞にて物につけていふ事常の習ひなり俗に賞美のミといふ是なり地名にも三吉野三熊野みこし路の類又御の意なるも是をかよひとみすまるみとらしみそみくりやの類なり清水をましみつといひ水をみもひといひたる類多くこの例有り……
 次に鹿持雅澄氏は其の万葉集古義に於て
(100) ○都追美井は、水を漏失《もら》さぬやうに、つゝみかこひたる井を云なり……(略解に、都追美井の美は、そへ云辞にて、筒井なりと有は謂れず)
 と解し、水を洩らさないために包み囲んだ井であるとして略解及び名物考の筒井とする説に強く反対されている。最近鴻巣盛広氏は其の万葉集全釈に於て此の説に賛し、次のように敷衍されている。
 水を囲って、湛へてある井。掘井ではなく、飲料水を湛へたもの、かうしたものが、駅では人馬の用として必要であつた。略解に「つつみゐは、実はそへ言ふ詞にて筒井也。」とあるのはよくない。
 著者の呂鈍未だこの井につき自信ある断定を下しえない。唯もし強いて臆測を述べるなれば略解及び名物考の解釈に従って筒井と解したい。すでに第一章第五項井と集落の条に於て延喜式巻五十雑令を引いて述べたように、当時往還の駅々には旅人の利便を計つて、水の無い所には井を設備せしめられた。此の設備については単に漠然と命ぜられたものではなく恐らく内規があつて井の型式、設備などについて一定の規準のようなものが示されていたのではあるまいか。此のような観点から考察する時、此の井は当時最も普遍的な筒井でなくてはならないと思われるのでつゝみゐを筒井と解し、みはやはり賞美のみと説きたい。ただ名物考に於ては筒井を円い井戸側の井としているが、著者はこれを円、角両種の井と解し、此の種の井は当時にあっては板井が一般的であったと思われるので筒井の実際を板井と考えたいと思う。
 
        第14目 金  綱  井
 
 日本書紀天武天皇の条
(101) 元年秋七月庚寅朔……壬子……是の日、将軍|吹負《ふけひ》、近江の為めに敗られて、独り一二の騎を率ゐて走ぐ。墨坂に逮《およ》びて、遇《たまたま》菟《う》が軍の至るに逢ふ。更に還りて金綱井《かなつなのゐ》に屯《いは》みて 散卒《らけたるつはもの》を招き聚む。
 寡聞にして金綱井の文字右の外に見当らず。
 これについて倭名類聚抄には
 桔※[木+皐]【加奈都奈為、吉高二音、】鉄索井也、
 とあり、これに依れば桔※[木+皐]は加奈都奈為《かなつなゐ》とよみ金綱井と同音で、鉄索井と解せられている。言い換えれば金綱井は桔※[木+皐]、鉄索井である。鉄索井は字義の示すように普通縄等で作られた井戸綱に対して金属……恐らく鉄……で造られた綱を用いている井という意味である。金綱井はこのように解さるべきであろう。書紀の本井の所在については一説によれば奈良県高市郡今井町大字|小網《しようこう》の地とされているが確証はない。なお此の井については第一章第五項井と集落に於ても述べた。
 
        第15目 撥 釣 瓶 井
 
 本章第一項井水の汲み上げ方法の条で記るしたように井筒から数尺離れた地点に頑丈な木柱を立てて其の上部に横木を渡し、横木の一方に石等を載せ他方に竿に吊した釣瓶をかけ、石の重みで撥ねて水を汲み上げる井を云い、別に桔※[木+皐]とも云う。此の起原について和漢三才図会は荘子を引用して次のように説いている。其れは子貢が漢陰の付近で一人の男が穴を穿って井の中に入り、甕に水を満して田に運びそれで灌いでいるのを見て、それでは労が多い計りで功が少ないといって撥釣瓶の作り方を教えたと云う。然し図会の著者は恐らく此の種の井は子貢以前から(102)あつたに違いないが、子貢がそれを人々に教え広めて一般化したと解すベきであろうと付け加えている。我国の撥釣瓶井は初め其の方法を中華から伝えられたものか或は我国独自に発生したものか未だ詳らかでないが、次に掲げるように已に千数百年以前の陶器に此の井が描かれているので相当古い時代から用いられていた事は明らかである。今それを高橋健自博士著「日本原始絵画」から抜き書きすれば次の如くである。
 日本原始絵画 第二篇 原史時代
 陶器《スエノウツワ》に於ける箆書の絵として近頃吾輩の興味を惹いたのは備中国阿哲郡美穀村大字唐松の古墳から発掘された平瓶の上面に見るところである。これは中央に二階建の家屋があり、その左に馬に乗ってゐる人物と右に井戸らしいものが画いてある。……
 右方の井戸と想はれるものはそれ以外に想像がつかぬ。一垂直線を中軸として下部に画かれたる矩形は井筒で、その垂直線は釣瓶の竿であらう。竿の上部から右方へ引いた横線は丸太で、その右端に近く立ってゐるのは樹幹であらう。かくて丸太の支点をこの樹幹におき、丸太の左端を竿に結びつけたと見て、この図は撥釣瓶の井戸と見て可からう。
 此等は家屋と騎馬人物と井戸とを併せて一図を構成したものであるから、この絵は風俗図として、当時の生活様式の一端を定すべき貴重なる資料である。
 このように相当上代から行われた井で、巧みに挺子の理を応用して水汲上げの労を節約し、今も農村風景を象徴する昔なつかしい井である。
 
(103)        第16目 掘  抜  井
 
 何時頃我国で始められたか明かになし得ないが正徳年中(約二四〇年前)刊行された和漢三才図会に記るされているので其の頃既に行われていた事は明白である。同書(註一)によれば掘抜井は土地によつて其の深さは不定であり。これを作るには鉄挺《かなてこ》を用い、五丈七丈の地下に至って俗に云う加弥《かね》に突き当った際急にこれを突き破つて噴水を得る。水量は極めて豊富で常に井桁に溢れているとある。
 
 註一、三才図会の掘抜井の記事。
  案有(リ)2掘抜井1随(テ)2土地(ニ)1深浅不v定(マラ)五丈七丈(ニシテ)而至(ル)d如(ナル)錆(ビタル)鉄《カネノ》1者(ニ)u【俗云加弥】以(テ)2鉄梃《ァナテコヲ》1急(ニ)突(キ)起(リ)鑿《ウガチテ》v穴(ヲ)而※[しんにょう+外](ケ)上(ル)如(シ)緩(キトキハ)則(チ)所(ノ)v湧(ク)水勢損(ス)v人(ヲ)其水雖(ドモ)2救旱(ト)1不(シテ)v涸(レ)而常(ニ)溢(ル)2於※[朝の左+余]《イゲタ》1、不v能(ハ)2渫《カヘ》尽(スニ)1
 
        第17目 薬 井・薬 水
 
 清冷甘美な水の一掬は疲れに悩む人々にとつて如何に大きな慰安であり、又肉体や精神に強い活力を蘇らせる事であろう。古事記は御病に疲れ果てた日本武尊が伊吹山から還ります時(註一)居寤清水《ゐざめのしみづ》に憩い給う御様を次の如く叙している。
 中巻 大帯日子淤斯呂和気天皇(景行天皇の御事)の条
 倭建命……かれ還り下りまして、玉倉部の清水に到りて、息ひませる時に、御心稍|寤《サ》めましき。かれその清水を居寤(ノ)清水とぞ謂ふ。
(104) やがては病に果てられる尊ではあったが、一時的乍ら此の清水に活力を恢復された様がひし/\と感じられる。薬井、薬水の信仰は此の様な上代人の水に対する感興に儒仏両教の霊水思想が加味されて醸成されたものであろう。今上代史に現われた代表的な薬井について、有名な美濃国多度の美泉(註二)について記るせば続日本紀に養老元年(紀元一三七七年)元正天皇がここに行幸せられ、其の時の詔として次のように述べられている。則ち手や顔を洗えば皮膚が滑らかになり、痛い所を洗えば其処が愈え、此の水を飲み或はこれに浴すれば白髪が黒くなり又毛がはえかえり、闇限も見えるようになる。其の他の持病も皆平癒するという。とも角非常な効験が認められ其の発見を記念して大々的に行事が催うされた。まづ此の美泉の発見を以て大瑞と宣言して改元が行われ、老人、僧侶を敬し、高齢者への授位や賑恤、孝子順孫、義夫節婦の表彰、やもめ、一人もの、病者等の救恤慰問、或は国司、郡司の叙位等多彩に且盛大に挙行された。古典に現われた薬井信仰の例は此の外にも多いが、これに依つて略上代人の薬井信仰の概貌を知り得ると思われる。
 薬井、薬水信仰と併せて上代人は一般的に水の薬効を信じていた。これについて今を去る五百余年以前藤原実煕は其の著「拾芥抄」に次の如く説いている。
 拾芥抄 下
 凡月宿2東井1可2沐浴1。令2人長生無v病1。
 五月五日取2棗葉三升1。井華水(註三)擣2取汁1浴。永不v生2悪瘡1。……
 則ち月が東井に宿る時に沐浴をすれば無病で長生すると云い、又五月五日に棗の葉三升を取って井華水に汁を取り之に浴すれば良く悪質の腫物から免かれると云うのである。板井華水であるが普通朝最初に汲んだ井水を称して(105)いるが和漢三才図会には水綱を引いて朝四時に最初に汲んだ井水と説明されている。此の水は非常に効目が広く又顏色を良くするともいわれている。此の井華水について現在の一例を近畿に求めれば、阪神急行電鉄宝塚線沿線|清《きよし》荒神では今社務所で二匹の野馬を描いて朝顔茶碗を参詣人に頒っているが、この茶碗については下のような信仰が行われている。則ち此の茶碗に井華水を汲み塩を加えて飲むと一年の内で一つの願い事、例えば病気の快癒、家業の繁栄等が叶えられ、又これを神棚に供えて後飲めば口中の棘を去るという云々。以上は一般の水についての薬効を示したものであるが、更に若水について記るせば、これについては幸い一条兼良の公事根源(註四)に左のような解釈が示されている。
 供2若水1 立春日
 若水といふ事は、去年御生気の方の井をてんして、ふたをして人に不v汲、春立日主水司内裏に奉れば朝餉にて是をきこしめす也。荒玉の春立日是を奉れば、若水とは申にや。年中の邪気をのぞくといふ本文あれば、殊更是を供するなり。
 この様に若水は宮中に於て立春の日に主水司に於て汲み取り天皇の朝餉に奉った水であるが、年中の邪気を除くという意味を持っていた。此の御儀は民間にも伝承されて今も古風を崇ぶ家々に見られる年中行事の一つで、奈良県に於ても比較的古風の残っている地方や家々に於ては元旦早朝必ず主人或は長男が盛装して汲み取り、之を神々に供える習慣となつている。
 井と小豆、麦粒腫治癒という一連の信仰は現在も全国的な拡がりを持っている。学名麦粒腫は関東ではものもらい、中部地方ではめこじき、近畿ではめぼ等と云い、これが生じた時は井神に笊半分を見せて(井の上に笊半分を(106)翳す)此れを癒してくれたら笊全体を見せてやろうと唱えて小豆二三粒を井に落し込めば治癒すると云うのである。土地に依って多少異なった法式もあるが此の型式が略一般的のものである。此の信仰は何時頃どのような理由によって生じたものであるか著者の不敏未だ判断がつかない。併しこれも亦薬井信仰に一連の繋りを持つものであろうか。
 大師井信仰については第一章第四項井の伝説と民間信仰の第十目大師井の条に述べたが、ここに薬井という観点から此れを観察すれば此の種の井は其の性質上薬井である場合が多い。奈良県吉野郡大淀町大字薬水の薬井(註五)の水は條験道の大峯入峯の人々の良い家苞であり、同県磯城郡三輪町の大神《おほみわ》々社の摂社狭井《さゐ》神社(註六)の薬井は現在も付近に患者の療室までが備わつている。此の水は特に精神病患者に卓効があると信じられている。井上頼寿氏著京都民族志に最近に於ける薬井信仰の著例として次のような記載が見られる。
 京都府乙訓郡、乙訓寺と長岡天神の間の弘法井。大正十四年頃に何が起因か判らぬけれども此の井戸に大変な信仰が勃発して俄かに小堂が建つやら大賑を呈した。日々京阪から参詣人が殺到して水を受け素晴しい騒であった。翌年の夏七八月頃は殊に熱狂的となり炎天にも怯まず……時には日に八千人を算すると云ふ有様で京阪電車の淀停留場前には臨時に自動車会社が出来て車を連列して客を待つと云ふ状であった。警察で調べて分析の結果「飲料に適せず」といふ事で持帰る事を許さなかったが信仰は中々尽きず僅の間に万の賽銭が上つたといふ。機敏な商人は東寺の大正十五年九月二十一日の縁日に「明量水を入れたうどんです。どんな病気でも治ります。大勉強一杯七銭」と広告して希利を博したと云ふ。併しかくもゆゆしかつた群集心理も一時を経ると何時とも無くすたれてしまった。
(107) 今薬井について其の薬効を奈良県、京都府の諸例について分類を行えば略次の如くである。当代人の病患治癒の願望が単適に表明されて面白いと思われる。
1、謡病に効験ありとされるもの
 奈良県吉野郡大淀町大字薬水の薬井
 京都府乙訓郡乙訓村付近の明星井
2、眼病に効験ありとされるもの
 奈良県北葛城郡河合村大字薬井の薬井
 京都府下洛西の柳谷の香水
3、精神病に効験ありとされるもの
 奈良県磯城郡三輪町大神々社摂社狭井神社境内の狭井
 京都府洛北岩倉村大雲寺境内の跋難陀竜の水(註七)
4、安産に効験ありとされるもの
 京都市錦小路烏丸西入占出山町の占出山《うらでやま》の井《ゐ》
5、長生延命に効験ありとされるもの
 奈良県吉野郡大淀町大字薬水の薬井
6、永患いの病人に飲ませて本復するか否かを占う井
 京都府東山郡成就院内の香水
(108) ほぼ以上のような分類が出来るが、これは殆んど全国的にも云い得る事である。なお薬井信仰については其の持つ医学的な薬効よりも寧ろ信仰的な効果に依るものが多い事は言を要しない。
 薬井信仰は全世界的な拡がりを持つている。今諸外国の一二の例について記るせば第一章第四項井の伝説と民間信仰第十三目に於ても二三の例を挙げたが英国バクストン市セント・アンの井は羅馬時代から薬井として著名であったが、最近の例としてルーマニアに於ても此の種の井が発見されて今尚巡拝者や病者が来集しているという。此の井の信仰の初めはスミーニ在住の一少女がこの井水で眼を洗えば眼病が治ると夢に見て醒めて其の通りにして癒ったので其れが喧伝の端緒をなしたという。
 
 註一、居寤清水。大日本地名大辞典によれば、一般には近江国阪田郡|醒井《さめがゐ》村の醒井がそれとされているが、別に岐阜県不破郡宮代村にある南宮神社の辺の清水がそれであるとも云い、今何れとも定め難いと云う。
 註二、多度の美泉。同じく大日本地名大辞典によれば、養老山中の養老神社の菊《きく》水が是に当っている。其の菊水の名称は諺に菊水は齢を延ばすと云うにより、養老改元の詔に、此泉の効を述べたまへる旨を体して、かくも名付けたるならん。但し此の菊水は今験するに、尋常の寒泉にして鉱泉の類に非ずと云う。蓋し古時の醴泉《さけのみず》変じて尋常の水となれるのみ。泉井の性分を変改するは古に例多し。なおこの美泉について続日本紀の記事を記るせば次のようである。
 続日本紀巻七 元正天皇の条
 養老元年十一月|癸丑《十七》。天皇軒に臨で。詔して曰く。朕今年九月を以て美濃国不破の行宮に到る。留連すること数日。因て当耆郡多度山の美泉を覧て。自ら手面を盥ふに。皮膚滑なるが如し。亦痛処を洗ふに。除愈へずと云ふこと無し。朕之躬に在て。甚其験有り。又就て之を飲み浴する者は、或は白髪黒になり。或は頽髪更に生じ。或は闇目明なるが如し。自余の痼疾。咸《おなじ》く皆平癒せり。昔聞く。後漢の光武の時に。醴泉出づ。之を飲む者は。痼疾皆癒ゆと。符瑞書に曰く。醴泉は美泉なり。以て老を義ふ可し。蓋し水の精なりと。寔に惟るに。美泉は即ち大瑞に合へり。朕庸虚と雖も。何んぞ天の※[貝+兄]《たま》ものに違はん。(109)天下に大赦して。霊亀三年を改めて。養老元年と為す可しと。天下の老人年八十已上に。位一階を授く。若し五位に至らば。授くる限に在らず。百歳以上の者には、※[糸+施の旁]三疋。綿三屯。布四端粟二石。九十已上の者には。※[糸+施の旁]二疋。綿二屯。布三端。粟一斛五斗。八十已上の者には。※[糸+施の旁]一疋。綿一屯。布二端。粟一石を賜ふ。僧尼も亦此例に准ず。孝子順孫。義夫節婦は。其の門閭に表して。身を終るまで事勿らしむ。鰥※[立心偏+(旬/子)]独疾病の徒。自存すること能はざる者には。量つて賑恤を加ふ。仍て長官をして親しく自ら慰問して。湯薬を加給せしむ。山沢に亡命し。兵器を挟蔵して。百日まで首せ不るは。罪に復する事初めの如くす。又美濃の国司及当耆の郡司等に。位一階を加ふ。又当耆郡来年の調庸。余郡の庸を復す。百の宮人に物を賜ふ事各差有り。女官も亦同じ。美濃の守従四位下笠の朝臣麻呂に従四位上。介正六位下藤原の朝臣麻呂に従五位下を授く。
 註三、井華水。朝最初に汲んだ井水のことで顔色を良くするとも伝えられている。和漢三才図会は水綱を引いて次のように説いている。
  水綱云井(ノ)水|平旦《トラノトキ》第一汲(ヲ)為(ス)2井華水(ト)1其功極(テ)広(シ)。
 平旦は午前四時である。
 註四、公事根源。年中の禁中公事を第一月から第十二月まで順序して各々其の根元を説述したものである。著者一条兼良は博学多聞で最も儒仏の二書に精しく、又朝典に熱し、和歌を良くした。文明十三年(紀元二一四一年)没した。
 註五、薬井。大和志に依れば病に良く旱天に祈れば雨が降り、此の水を飲む村民は長寿であるという。南向きの花崗岩台地の麓にあって岩間から湧出する水は清冽で美しい。
 註六、狭井神社の薬井。この薬井は狭井と呼ばれている。狭井神社の祭神大神荒魂神は疾病を鎮圧する神で、毎年三月鎮花祭が執行されている。此の祭は令義解、延喜式などの古書に解説され、春諸花が飛散する時疫病の神が分散して各所に疫病を起すので其れを鎮めるために行われる祭式で、別に花鎮めの祭とも呼ばれ、社伝に依れば文武天皇の大宝元年(紀元一三六一年)から始められたという。神社は大和台地の西側断層崖下に生じた深い浸蝕谷の谷頭に鎮座し、井は本殿の後方に掘られている。水は諸病に効験があるが特に精神病に卓効があるとされている。
 註七、跋難陀竜の水。別に不増不減水、智弁水等とも云い、精神病に著効ありとされ、後三条天皇の御代に効験を現わしたと(110)云う伝説を持っている。今も附近に精神病専門の岩倉病院があり、此の香水は患者に良い効験を垂れているという。
 
        第18目 酒     井
 
 養老の滝の伝説は此の種の井についての最大のものであるが、古来酒井についての伝説、記録は多く今も其の跡と伝えられているものが各地に見られる。さて酒井とはどんな井であつたか。二種の解釈が成り立つ。一は養老の伝説のように井の水が酒であった井で、播磨風土記に見えている。
 印南郡の条
 含芸里《かむぎのさと》。……又酒山有り。大帯日子天皇《おほたらしひこのすめらみこと》(景行天皇の御事)の御世、酒の泉涌き出でき。故《か》れ酒山と曰ふ。百姓《おほみたから》の飲む者|都《やが》て酔《ゑ》ひて、相闘《たたか》ひ相乱《みだ》りき。故《か》れ埋め塞《ふた》がしめき。後に庚午《かのえうま》の年に、(天智天皇の第九年の事か。この年は紀元一三三〇年に当る)人有りて掘り出でつ。今に猶酒の気有り。
 酒が涌き出すこんな井がいま時有ったら素晴らしい物である。百姓達が飲んで酔って争いたたかうので埋めてしまったが猶後年になっても酒気があつたと云う。次に大和盆地の東縁、史上に名高い倭迹々日百襲姫命《やまとととひももそひめのみこと》の御墓の東方、県道を隔てて田の中に径四尺余の盛土があり、目印の玉椿の枝葉で被われているが、これも往昔長者井と呼ばれた酒井の遺跡である。此の井は又大師井でもあり、伝えによれば嘗て盛助という信仰深い男が此処に住み、極く貧窮ではあったが廻国の巡礼達には必らず恵みや施しを怠たらなかった。やがて廻り廻って弘法大師が此の地に巡錫された時、此の篤行を聞いて感じられ大黒天の像を刻んで盛助に与えたが、これから其の家は富み栄え、井からは酒が滾々と涌き出してやがて巨万の富を残したという。時代錯誤の噴飯的夢物語で何時に変らぬ人間の財と酒と(111)に対する弱点と嗜好とを巧みに捉え、之に信仰を結びつけて構成されているが、これ等に依って酒其のものが涌出すると云う酒井の性格を知り得ると思われる。
 其の二は現在の酒井戸と同じく其の水を用いて酒を醸す場合の井を称する。やはり播磨風土記に例を採れば其の揖保郡の条の酒井野の地名起原について酒井と称するのは、応神天皇の御代ここに酒殿を建設したため、換言すれば此の井の水を用いて酒の醸造を行つた為であるという。
 揖保郡の条
 酒井野《さかゐぬ》。右、酒井と名づくる所以《ゆゑ》は、品太天皇《ほむだのすめらみこと》(応神天皇の御事)の世《みよ》に、宮を大宅里《おほやけのさと》に造り、井を此の野に闢《ひら》きて、酒殿を造り立てき。故《か》れ酒井野と号《なづ》く。
 酒井の二つの性格については上述の通りであるがなお肥前風土記に出ている酒井泉《さかゐのいづみ》別名|酒殿泉《さかどののいづみ》は季節に依つて水質を変じ、秋九月に到れば白色に変じて味は酸性を帯び臭気を発して飲むことが出来ないと云う記事からの印象は酒井と云うよりも寧ろ今の炭酸泉のような感じである。上代にあっては此のような井も亦酒井の範疇で取扱われていたものであろう。
            
 肥前風土記|基肄郡《きいのこほり》の条
 酒殿泉。此の泉は、季秋九月《あきのながづき》に、始めて白き色に変りて、味|酸《す》く気《けはひ》臭《くさ》し。喫飲《の》むに能はず。孟春正月《はるのむつき》に、変りて、清冷《さやか》になりて、人始めて飲喫《の》む。因りて酒井泉《さかゐのいづみ》と曰ふ。後の人は酒殿泉《さかどののいづみ》と曰ふ。
 
        第19目 曝 井・染 井
 
(112) 曝井《きらしゐ》について常陸風土記に其の名が挙げられている。
 那賀郡の条
 郡より東北、粟河を挟みて駅家《うまや》を置けり。其の以南《みなみ》に当りて、泉、坂の中に出づ。水多く流|尤《いと》も清し。之を曝井と謂ふ。泉に縁《そ》ひて居《す》める村落《むら》の婦女、夏月、会集《つど》ひて布を浣《あら》ひ曝乾《さら》せり。
 文に依れば曝井は付近の婦女が夏季布を洗い晒すのに用いた井である。今は見られないが、以前は布を織り上げた後は一旦河水、井水等に浸して晒したものであった。万葉集の歌にこれを見れば、
 多麻河に曝す手作《てづくり》さらさらに何ぞこの児の許多《ここだ》愛《かな》しき(三三七三)
 多麻河に曝す手作則ち手で織つた布とあるが、多麻河は今の東京府下を流れる多摩川で其の河原では布晒しが盛んで、現在此の地方に調布《ちようふ》、砧《きぬた》などの地名が残っているのは此の風習に由るものという。
 橘の島にし居れば河遠み曝さず縫ひし吾が下衣《したごろも》()一三一五
 此の歌は比喩歌で、普通なれば晒すべき布を河まで行くのが遠いので晒さずに縫ったと云うのであるが、此の様に布を井泉に晒す風習は維新の頃まで行われて屡々文学、歌謡、絵画等の題材としても採り上げられていた。大和名所図会添上郡の部に「ならのさらし塔」と云う表題で佐保《さほ》川の広い河原に於ける布晒しの状景が描写されているが、其処には十数人の人夫が布を舂き、川に洗い、最後に河原に拡げて干し乾かしている。恐らく一般の河泉、井水共に其の必要に応じて布晒しに用いられていたが、前掲風土記の記るすように「水多く流れ尤も清く」水質の適するものは特に曝井として四辺の人々から愛用されたものであろう。又和漢三才図会(註一)には「山城の水は清潔《イサギヨク》、味が甘美で、性は剛《ツヨ》からず、重くないので布を染めたり布を曝したりするのに良い」とあり、我々には一寸理解し得な(113)い表現であるが、当代人は此のような水質の水を布の染め、曝しに良いとしていた。
 なお布帛を染めるための水を得る井もあり、之を染井と称した。やはり付近の井より特に水質がこれに適するものに名付けられていたものであろう。京都の禁中には染殿があり、ここでは御用の絹布が染められていた。奈良県では中将姫が蓮糸を染めたと伝えられる北葛城郡当麻村|当麻《たいま》寺付近の染野《しめ》の石光寺の井が名高い。和州旧跡幽考はこれを次のように説いている。
 石光寺、石光寺又は染野寺ともいふ……又染野寺といふ事は曼陀羅の蓮糸をそめ給ひし所なれは此名あり【西誉抄】織著縁起に寺巽角穿v井雖2高燥無v水之土1如2志願1修2得之1成2五色1とあらはし給ひしは此所なり……
 
 註一、和漢三才図会、図会のこの部の本文は
  按本朝(ニテ)水之勝(レタル)者(ハ)似(タリ)3加茂川(ヲ)為(スニ)2第一(ト)1、惣《スベテ》山城之水(ハ)清潔《イサギヨク》、味甘美(ニシテ)性不v剛《ツヨカラ》、不v重《オモカラ》、其(ノ)染(メ)v帛(ヲ)、曝(シ)v布(ヲ)、磨(キ)v鏡(ヲ)、烹(ル)v茶(ヲ)、共(ニ)皆他国(ノ)無(シ)d及(ブ)2于此(ニ)1者u。
 
        第20目 天真名井(真名井)
 
 天真名井《あめのまなゐ》の出典を求めれば先づ神話に於ける天照大神と素盞鳴尊との天安河に於ける誓約《うけひ》の条で古事記、日本書紀の両典は之を次のように記るしている。
 古事記 五巻
 天照大御神然らば汝《みまし》の心の清明《あか》きことは如何にして知らましてとのりたまひき。ここに速須佐之男《はやすさのをノ》命、各|誓《うけ》ひて、子生まなとまをしたまふ。かれここに各天(ノ)安(ノ)河を中に置きて誓《うけ》ふ時に、天照大御神先づ建速須佐之男(ノ)命佩かせる(114)十挙剣《とつかのつるぎ》を乞ひ度《わた》して、三段《みきだ》に打折りて、ぬなとももゆらに、天之真名井に振り滌ぎて、さ齧《が》みに齧《か》みて、吹き棄つる気吹《いぶき》の狭霧《さぎり》に成りませる神の御名は、……
 日本書紀神代上(右の古事記の記事と同じ条の個所にて)
 一書に曰く、……天渟名井《あめのぬなゐ》、亦の名は去来《いざ》の真名井《まなゐ》に濯《ふりすゝ》ぎて……
 一書に曰く、……乃ち天真名井三処を掘りて相与に対ひて立つ。
 則ち天照大神は御弟素盞鳴尊の御心が清明で正しいかどうかを証明する為に二神共々天の安河で誓約をされたが、此のため御弟神の十挙剣を手に取って三段に折られこれを天真名井に振りそそいで云々と云うので書紀の一書では天真名井は別に天渟名井或は去来の真名井とも云い、又この誓約のために特に真名井を三処掘ったとの伝えもあるとしている。兎も角御弟神の御心の証明という最も厳粛重大な誓約に天真名井の水を用いられたのである。
 次に出雲風土記|意宇部《おうのこほり》の条には真名井社《まなゐのやしろ》、米那為社《まなゐのやしろ》の二社が見え、逸文丹後風土記丹波郡|比治里《ひぢのさと》の条には真井《まなゐ》、又延喜式神名帳には丹波国丹波郡|比沼麻奈為《ひぬまなゐ》神と見えている。此の風土記の比治里の真井と神名帳の比沼麻奈為とは同一井に対する称呼で、別に摂津風土記に出ている比遅乃麻奈韋《ひぢのまなゐ》も其れを指す。今丹波国中郡五箇村大字鱒留に祭られる藤社《ふぢこそ》大明神は其の後身のものとされ、社名藤社及び其の山を菱山《ひしやま》というのは共に比治山の転訛であるという。さて此の真名井について丹後風土記は
 丹後国丹波郡の郡家の西北の隅の方に比治里《ひぢのさと》有り。此の里の比治山《ひぢのやま》の頂《うへ》に井有り。其の名を真井《まなゐ》と云ふ。今は既に沼と成れり。此の井に天女《あまをとめ》八人《やたり》、降り来て水を浴《あ》みき。時に老夫婦有り。……此|老等《おきなたち》、此の井に至りて、竊《ひそか》に天女一人の衣裳《ころも》を取り蔵《かく》ししかば……
(115) とあり、真井は比治山頂にあり曽て此の井に八人の天女が天降つて水浴していたが、其の一人が老夫婦のため衣裳を隠されて天上に帰ることが出来ず止むなく人里に留る事となり、ここに清浄な天女と非道な人間との交渉が始められるのであるが、この所謂白鳥処女神話或は羽衣伝説は近江風土記其の他の記録にも其の類型があり又世界的な拡がりを持つもので、天上の乙女と地上の人間との或る交渉を主軸として展開されている。比治山頂の真井は此の天女達がひそやかに浴みする神秘な井であった。更に此の井について神道五部書は豊受皇太神宮御鎮座本紀、宝亀本記、倭姫命世記、伊勢二所皇太神宮御鎮座伝記の諸書いづれも之について簡単ながら記載を行い、例えば御鎮座本紀は
 御井水(註一)、……即時《スナハチ》日向高千穂宮【乃】御井定崇居焉奉v仕矣。自v爾以降。但波真井石井【爾】鎮移居。水戸神奉v仕【岐】。其後従2真井乃原1遷2于止由気宮乃御井1居止《スエタテマツル》焉。
 とある。此の文は第一章第一項に挙げた御鎮座本紀の所謂御水取の記事の直後に連続するもので前後併せて其の大意を述べれば天村雲命によって高天原から此国にもたらされた天忍石の長井の水は、初め日向の高千穂の宮の御井にすえられていたが、後に丹波の真井の石井に移し鎮められ、其の後更に伊勢の豊受神宮(註二)の御井にすえ祭られたと云うのである。
 扨天真名井とは如何なる井を指すものであろう。先づ天については天安河其の他の名詞に冠せられている天と同
意語で特に記るすべきものはない。次に真名について、日本書紀の解説書で鎌倉時代に編纂された釈日本紀(註三)は其の真名鹿の釈に於て
 真名鹿
(116) 私記曰。問。此鹿更加2真名1。如何。○答。真名是褒美之例也。欲v示2与d凡鹿u異1。故云2真名鹿1耳。猶如2天真名井之類1也。
 と解し、真名は是褒美の例で、真名鹿の場合は此の鹿が外の平凡な鹿とは違っている事を示すためである。それで天真名井の場合も同様であるというのである。此の解釈によれば天真名井は其れを褒め称えて其れが他の一般の井とは異なっていることを示していると云うことになる。次に本居宣長は其の著古事記伝七に於て
 ○天之真名井、書紀一書に、天渟名井《アメノヌナヰ》ともなるを合せて思ふに、真渟名井《マヌナヰ》と約《ツヅメ》たる(奴那を切《ツヅメ》て那となる)名にて、真《マ》は美称《ホメコト》、(真水を云など云る説は、例のいとうるさし)渟《ヌ》は凡て水の湛《タタヘ》たる所を云、(沼《ヌ》も同じ)名《ナ》は借字にて之《ノ》なり、(之《ノ》を那《ナ》と云る例多し)されば此《コ》はただ井を美《ホメ》て云る称にて、一(ツ)の井の名には非ず、故(レ)書紀に掘(テ)2天(ノ)真名井三処(ヲ)1とも有(ル)ぞかし、又此(ノ)井は、即(チ)安(ノ)河瀬の中《ウチ》にて、井と云べき所を指して云るにて、別に世常《ヨノツネ》云《イフ》井ありしには非ず、
 と解し、真は美称、渟は水の湛えた所で、比の真名井を天安河瀬の中にある井を褒めて云ったものとされ、釈日本紀とは稍異なった解釈を下されている。また言語学や民族学もマナ(mana)について種々な解明を行っているがポリネシア、インドネシアを中心とする太平洋沿岸地域に於てはこれに「神聖にして不可思議なる」の意味を与えている。
 私は上述の文献等を比較考察して此の井を「神聖にして荘厳なる井」と解し、井に対する上代人の崇敬の感情の最も純粋にして素朴なるもの、換言すれば其の信仰の極致の表現と解したいと思う。従って第二義的な意味で釈日本紀や古事記伝の説に賛したい。今天真名井についての四大文献である前掲記紀、丹後風土記及び御鎮座本紀の其(117)の条について見るに、記紀のものは天照大神に対して御弟神が自らの清明心を明かす最も荘厳、厳粛な御儀で其れは此の井の傍で挙げられ、剣と玉とは此の井にふり滌がれたのである。風土記のものは人里離れた山頂に清浄無垢な天つ乙女が浴みする神秘を極めた井である。最後に本紀のものは此の国土に降臨された皇孫之命の御饌都水として特に高天原から持ち下され後世伊勢の豊受太神宮の御井に移し祭られたこれ亦最も神聖なる水である。此のように考察して帰納された天真名井の性格は最も当代人に崇敬された神聖にして荘厳なる井ということで、此の解釈は又太平洋沿岸地域に於けるマナ信仰の概念とも一致すると思われる。井を神として祭ることは我が古来の習俗であるが天真名井は他の如何なる井にもまして神聖、荘厳を極め、民衆の祭る井と云うより寧ろ神々の祭る井と解すべく、直接神々に関連を持つ井である。寡聞の範囲では奈良県山辺郡丹波市町石上《いそのかみ》神宮、同|磯城《しき》郡|香久山《かぐやま》村|天香山《てんこうざん》神社には今に天真名井が伝えられて神聖なる井として崇敬されている。
 
 註一、御井水。これについて「宝基本紀」には
  泊瀬《ハツセ》朝倉宮御宇(雄略)廿一年丁巳。依2皇太神御託宣1【天】。明年戊午歳秋七月七日。以2大佐々命1【天】。従2丹後国与謝郡比沼山頂魚井原1。奉v迎2等由気皇太神1。
  倭姫命世記には
   泊瀬朝倉宮大泊瀬稚武天皇(雄略)即位廿一年丁巳冬十月。倭姫命夢教覚給【久】。皇太神吾一所耳不v坐【波】 御饌【毛】安不2聞食1。丹波国与佐之小見比沼之|魚井《マナヰ》原坐。道主子八乎止女【乃】斎奉。御饌都神止由居太神【乎】。……
 とある。
 註二、豊受神宮の御井。大日本地名大辞書によれば此の井は現在豊受神宮の御饌水《みけつみず》で其の傍に御井水が祭られている。外宮御炊殿の西百廿丈、藤岡の麓にあり、天真井或は天長井と呼ばれている。
 註三、釈日本紀。日本書紀の註釈書で二十八巻より成り、卜部懐兼の著である。其の解釈は略正鵠を得又博く古えの記録、風(118)土記等で後世に伝わらないものを集録してあるので稽古の資料としても価値が大きい。正安年中(紀元一九五九年から一九六一年)卜郡兼永が本書を考閲したという。著者懐兼は後嵯峨天皇、後深草天皇の御代の人である。
 
        第21目 生井《いくゐ》・栄井《さくゐ》・綱長井《つながゐ》・瑞井《みづゐ》・八井《やゐ》・御井《みゐ》・大井《おほゐ》・長井《ながゐ》
 
 標題の名はいづれも井を崇め尊んで呼んだ美称である。生井、栄井、綱長井の三井は宮中に祭られる神三十六座の中|座摩巫《ゐがすりのみかんなぎ》の祭る神で、別に祈年祭《としごひのまつり》の祝詞にも謳われている。生井の生《いく》は生魂、生日の生と同義で生かす。成長、永遠を意味し、栄井の栄《さく》は幸、咲と同義で幸運、繁栄の意である。綱長井は別に津長井とも記して長い綱を用いた深い井である。三井とも永遠に涸れることのない井水を称えて暗に皇室の万代無窮を祈ったものであろう。大井、長井は其の形を採り、他は純然たる美称である。八井は早く神武天皇の御子神八井耳命の名に用いられたが其の他の井も人名、地名に付けられているものが多く、其のあるものについては既に其の関係する項に於て解説を行った。いづれにせよ此等の井名は明らかに上代人が井に対して抱いた親愛、感謝、崇敬の情の卒直な表現と見るべきものである。井に関する文献を渉猟する時、時代が遡る程其れについての記事が増すことは上代に於て井が如何に要用なものであったかを物語るものである。
 
         結
 
 本章では冒頭に井各部の名称、付属施設等について其の解説及び起原の考証を行い更に古文献等に現われた各種の井についても亦同様の取扱いを行った。各種の井として取扱った井の数は走り井、山の井以下三十余種に及びこ(119)れは現代人には殆んど理解し難い多数である。其れ程上代人は自由に井に命名し、区別を立て、又其の区別の意味に於て用いていたのである。此等の井の出現の順序については走り井、山の井、垂井、垂水は最も古く、水底の井、マンブリ、マイマイズイト、土井は次の時期に現われ、板井、石井、堆井、甕井、※[土+専]井、つつみゐ等は進歩の最後の段階のものと思われる。然し遺憾ながら共等の初源の時期を明確に示す事が出来ない。其れは既に歴史時代の劈頭から此等の井の殆んど総てが行われていたと思われるからである。唯板井、マイマイズイトについては発掘の結果略其の始源型式と推されるものが早く弥生式時代にあった事が判明している。金綱井、撥釣瓶井は水の釣み上げ方を、掘抜井は井の掘り方を共に基準として命名された。薬井、薬水、酒井、曝井、染井は用途によって命名されたが果して其等の井全部が其の名の示すような効果を持っていたか疑問であり、其等の内には上代人の井に対する信仰に依るものも相等にあった事であろう。天真名井、生井、栄井、綱長井、瑞井、八井、御井、大井、長井等の名称は上代人の井に対する尊崇、感謝の情の表現で、最後の二種には併せて其の形状も考慮されている。此等の井にも其の使用に盛衰があった。走り井の名は忘れられ堆井、甕井、つつみゐ等は最早其の特徴まで伝わらない。又其の時代に広く一般的に用いられたもので今は局部的に残っているに過ぎないものもあり、逆に掘抜井のようにより深く大規模なものに発達したものもある。第一章の結に述べた事と併せて井にも其の性格や使用率の上に大きな変遷が見られるのである。
 
(120)    第三章 上代井の考古学的調査
 
      第一項 発掘調査の跡
 
 上代井遺構の研究に一つの時代を劃したものは昭和十三年春から翌十四年にかけて行われた紀元二千六百年奉祝橿原神宮(奈良県高市郡畝傍町)外苑拡張工事の際の発掘調査……以下橿原遺跡の発掘調査と云う……である。勿論其れ以前からも其の時々地方研讃の人々によって調査研究が行われてはいたが……時には其れが適確に井の遺構と断定することの出来なかった様な場合もあって……まだ学問的に処理される段階にまで達していたとは云い得ない状態にあった。今順序として橿原遺跡発掘調査以前に於ける調査の一二について管見に触れたものを記るせば、
 大乗院寺社雑事記文明十七年の条(註一)
 四月一目、東大池之中仁井本在之、今日見付之、北之中嶋之南西也、以槙板立廻之、上古之所為也、
 とあり、これは奈良大乗院の尋尊僧正の日記の一節であるが、井筒は東大池の中、北の中嶋の南西の地点に発見され、横板を立て廻らして造られた板井であったという。文明十七年は紀元二一四五年に当り約四五〇年前の事で井発掘の記録としては驚く可き古いもので又恐らく我国最古のものであろう。
 次に常磐草の記事がある。此れは吉田東伍氏著の大日本地名辞書、淡路の瑞井《みづゐ》宮の条に引かれているもので、著者の不学常磐草が何時頃書かれたものであるかを明かになし得ないが極く近代のものであろうか。これによれば淡路之瑞井は今江尻の潮清水(一名松本水)と云もの是ならん、老楠のうつほ木、径六寸深七尺なるものを以て、井筒となせり、……古史に淡路嶋清水、淡路瑞井と称するは此れなるべし、
 とあり、樹種は兎も角として内側が空ろの丸材で径六尺、高さ七尺と云う井遺構は発掘調査例にも之に近い大きさのものがあり明かに上代井の遺構と考えられるので記録の「一つとして挙げた。因に此の井は淡路島三原郡松帆村大字瑞井にあり、古く人皇第三代安寧天皇の御子|知知都美《ちちつみ》命は淡路之御井宮にましましたが此の井は其の宮名の起りとされ、降って仁徳天皇の御料として旦夕難波高津宮に運ばれた淡路島の清水及び天皇の御子反正天皇の産湯の水を汲まれた瑞井も亦この井に擬せられている。
 次に新潟県の実例を「明治以前日本土木史」の井の梗概の条から抜萃した。因みに同書も亦其の井の発掘者里山氏著の「曲げ物の井戸側」から抜萃したものであるという。
 今其の発掘の二例を挙げる。(一)新潟県中蒲原郡大江山村大字江口字館の内、明治初年畑を田に拓く時発掘したさうだが今伝はらぬ。(二)同県長岡市蔵王町字蔵屋敷五百三十番地、蔵王町はもと股倉村と称し、式内宇奈具志神社に擬せらるゝ蔵王権現によつて生れた聚落で附近では最も古い部落である。……昭和三年の頃であった。蔵王町蔵屋敷五百三十番地に住む今井金蔵が台所つゞきの納屋の一隅に井戸を掘つた。三、四尺掘り下げると何かに当ったので、掘り出して見ると、偶然にも古い井戸の上を掘つたので、当つた者は古い井戸側であつた。此井戸側は檜の柾を今の木羽をはぐ様にしてはいだものらしく、深く地中にあつた丈に殆んど腐蝕して居ない。曲げた内(122)側には多分片刃の薄い刃物で入れたと思はれる細かい切目が沢山はいつて、うまく正円に曲がる様にしてある。板一枚の幅一尺長さは五六尺もあらうか。従つて井戸の直径は案外小さいものである。……発掘物は今井家に保存してゐる。予の知る限り二例しかないが、此檜の使ひ方の豊富さから見て、相当古い時代のものとは思ふが、考証すべき何物もない。
 此の記事によつて察すれば井筒は円型で檜の曲物を用いていた。橿原遺跡地及び其の他の地からも此の様な曲物で造られた井筒が数例出土しているが、其れ等はいづれも其の上部に角型の井筒を載せた組合せ型上下二段式のもので、下部の曲物の部は狭少で単に水溜めとしての役割を果たしているに過ぎない。今この今井家のものが其の様な二段式構造の下段であったか、或は井筒全体が此の曲物で造られていたものであつたか此の記録のみでは明かになし得ない。とまれ此れも亦明かに上代井の遺構である事には間違いない。
 昭和三年六月奈良県|磯城《しき》郡|城島《しきしま》村|粟殿《おうどの》(現桜井町粟殿)、同九年同県北葛城郡|磐園《いわその》村磯野の両地からそれぞれ出土した二つの板井の発掘調査、(共に奈良県史跡名勝天然記念物調査会抄報第二輯所載)及び昭和十二年初頭行われた奈良県磯城郡|川東《かわひがし》村大字|唐古《からこ》弥生式遺跡出土の井遺構の発掘調査は直接昭和十三年橿原遺跡地出土の井遺構調査の基礎となつたもので、此等の調査が予備的知識となって橿原のそれを極めて容易且精確なものとしたのである。今これ等の調査の内唐古弥生式遺跡地のものについて奈良県史跡名勝天然記念物調査会報告第十六冊磯城郡川東村唐古弥生式遺跡の調査から転載すれば次の様である。
 第五様式土器(註二)を出土した遺構として、上記の竪穴類の他に二基の特殊な構造を有するものがあつた。共に竪穴に比して狭長な縦坑状を呈し、その一は第八〇号地点第一様式竪穴の一部を貫通して穿たれ、東西一尺七寸、南北(123)一尺三寸余の中心距離をもつて四本の杭をを四隅に打ち込み、杭の内外に二重に葭(註三)を立て繞らしたものである。四本の杭のうち、二本は径二寸五分乃至三寸の丸太材を用ひ、他の二本はより大なる丸太を四つ割程度に打ち割つた割丸太であつて、いづれも先端七、八寸の部分を粗削りにして尖らし、垂直位より僅に上ひろがりに立て、上部一側には一端が二叉に分れた丸太を渡してあつた。……杭の全長は四尺数寸に達するものであつたと推測され、従つて坑の深さもまた四尺内外であつたと察せられる。内底部は有機質を含んで黒色を呈する砂層がX字形に沈積し、坑の中位に第五様式に属する一個の長頸壺形土器が遺存したのである。その二は第二一号地点の例であつて、七本の細割丸太を中央部で径二尺五寸のほゞ円形に砂層中に打ち込み、その間に葭を横に編み渡してからんだものである。杭の全長は、調査当時既に上部を欠失してゐて三尺五寸余を測つたが、もとは五尺余に達したと思われ、これを上拡がりにやゝ斜位に打ち込んであつて、杭の下端一尺七寸余は葭がらみを行はず、上部三尺余の部分は内部を掘り込んで周壁を葭で保護したものと考へられる。坑の底部に接して土器下半部破片一個が検出せられた。
 この二例(註三)の特殊な遺構はそれぞれ坑の周壁に入念な保護施設があり、一般の第五様式竪穴に比して更に径が小さく深さが深い特色をもつているので、自から竪穴とは別な用途に当てられたものと思はれるのである。ここに調査者としてその性質に対する一個の解釈を述べるならば第二一号地点例が砂層中に底部を置き、第八〇号地点例が粘土層の上位にある砂層を貫通して穿たれ、且つ底部に黒色砂の堆積を見たといふ事実によつて、共に砂層中の地下水をこの縦坑によつて汲上げる目的に出たものではないかと考へられることである。
 《著者挿入》(別に唐古)池底西南隅から発見された巨木の空洞となつたらしいものを竪に伏せ込んだ遺構がある。此の内部(124)の空洞となつた材は直径約二尺七寸の不整円形を呈し長さ五尺許りを残してゐたし 所によつて厚薄の差はあるが、残つた部分は三寸乃至七寸の厚さを有し、概して云ふと一端が厚く、他方が薄くなつてゐる様に見受けた。右の現状の示すところは一見自然に空洞となつた材の様にも思われるが、かなり腐朽した今日においては固より本来全然加工がなかつたなどとは断じ難い。而してこの空洞の内部は大部分池底の泥土で充されてゐたが、下層に若干の砂層を認め、更に底部には第二様式土器片、獣骨、桃核、木の葉などが数寸の厚さに堆積して遺存するのが注意せられた。
 本遺跡もまたその性質に対して的確な判断を下し難いものであるが、これを以て人為に依る遺構であるとすれば、近年実例の加はつた奈良朝前後の板井の構造から推して相似た原始的遺構の埋没したものとする解釈が可能であり、其の下底の状況がこれを傍証するに近いものがある。本遺跡の如き地層において、この種の空洞の材を立てゝ、うちに湧水を導く設備とすることは充分考へ得る所である。さればこれまた先に第五様式土器出土遺跡として記した二遺構と同じ性質と見る可きであらう。内部より出土せる土器片がその使用の時代を示し得るとすれば、それは第二様式土器の時期乃至その前後に属すると考ふべきものである。
 此の様な精密な調査が行われて、此等の遺構が略井のそれで年代も大凡判明していたのであったし実際発掘に際して全然新しい未知な遺物遺構に接した場合、我々は常に其の判断に苦しめられ、若し卒然として此のような遺構に接した時、角型或は円型の囲いと其の中に置かれた土器片、壺片等を見て之は古墳の新型式で、土器片等は骨壺の破片と判断するかも知れない。著者は橿原遺跡地調査に於て主として井遺構の発掘調査を担当したが以上のような先輩の労苦の結論を其のまま受け継ぐことが出来たため、どの位恵まれた調査をなし得たか計り知れないものが(125)あった。
 
 註一、大乗院寺社雑事記。南都大乗院主尋尊の記で、同院所蔵の日記類について抄出したものに、自己の書留めを加えて残したものと考えられている。尋尊は一条兼良の子で、康正二年興福寺の別当となり、永正五年(妃元二一六八年)入滅した。本記は特に康正の頃から後が史料として採るべきものが多いとされている。
 註二、第五様式土器。唐古弥生式遺跡出土の土器は五種の様式に大別されている。
  第五様式土器の特徴は第一に箆描・櫛描・竹管文・浮文等種々の施文法による記号的図形を器の一局部に施す手法が著しく、その他の例へば土器を帯状に繞る文様帯の如き装飾手法の僅少となつてゐる事である。胎土は必ずしも良質でなく、これを輪積み或は巻上げによつて成形した粘土帯の継ぎ目が良く認められ、表面の仕上げは刷毛目・箆磨きと並んで叩目の使用が盛である。……灰赤色乃至灰茶色を呈し、焼成はやゝ軟質である。壺の中では長頸壺の愛用が著しく、甕・鉢・高杯等の器形が発見せられた。(以上は奈良県史蹟名勝天然記念物調査会報告第十六册、磯城郡川東村唐古弥生式遺跡による。)
 註三、葭を。此の遺跡地出土の上代井と思われるもの三の内、二は其の周囲を葭で囲っていた。これについて古事記大倭日子※[金+且]友命(懿徳天皇)の条に葦井之稲置とあるが、この葦井との関係はどうあろうか。
 
      第二項 上代板井の型式分類
 
 昭和十三年から翌十四年にかけて行われた橿原神宮の外苑拡張工事の総面積は三十二万坪の広さに亙り、其の殆んど全面から縄文式、弥生式及び土師・祝部等各種土器の包含層、上代井の遺構等が発見された。此の拡張工事作業には一般の奉仕隊も参加して盛大に行われ、其の内の一部の人々に遣物・遺構の発掘調査にも力を勠せられた。本書の読者の内にもあの豊かな乙女の姿を思わせる玉襷《たまだすき》畝傍山の麓に汗して此の勤労奉仕に尽された思い出を持つ(126)者も数多いことであろう。
 さて前にも述べたように本遺跡地出土井の調査は、我国上代井遺構の調査研究に其の基礎と組織を与えた意味に於て一つの時期を劃するものであるが、此の遺跡地で発掘調査された上代井遺構の数は二十一箇に及び其等は略数個の集団をなして発見された。二十一箇の中二井を除いて他の全部は板井で井筒は木材を以て成形され、他の二井は土井とでも称すべきものか単に土地を円筒形に穿つたのみである。今此等の井及び其の後奈良県下の各地で検出された遺構について種類、型式等の分類を行えば次のようである。そして此の分類は現在に於てはほぼ日本全国に通ずるものと思われる。
○上代井遺構の種類
 板井、土井
 (第二章マイマイズイトの目にも述べたように此の外の種類の出土例も聞くが未だ明らかになし得ないので略することとした)
 次に板井の分類を井筒の、(1)形状、(2)構造、(3)井筒の組合せに依つて行えば次のようである。
○板井の分類
1、井筒の形状に依る分類
一、円型井筒。井筒が円筒形をなすもの。
二、角型井筒。井筒が角型をなすもの。此の型式は次の如く細分される。
 イ、方 形
(127) ロ、長方形
 ハ、六角形
2、井筒の遺造に依る分類
一、刳抜《えぐりぬき》式、円材の内部を刳技いて円筒形の井筒としたもの。
一、桶皮《おけがわ》式。現在桶屋がするように桶皮状の板を数枚合せて円筒形に成形したもの。板は年輪に平行して削られている。
三、極物《まげもの》式。高さ数寸の曲物筒を数段重ねて井筒を成形したもの。
 以上の一、二、三の型式は円型井筒に特有である。
四、縦板式。板を縦に並べて角型井筒を成形したもの。此れにも二つの種別がある。一は予め四隅に柱を立て此れに横木を亙して枠(骨組)を組み、其の周囲に数枚乃至十数枚の小幅の板を張附けて井筒を成形したもの、他は柱なしで単に幅広の四枚の板を合せたものである。前者を(イ)有柱式、後者を(ロ)無柱式と名付ける。
五、横板式。板を横に用いて角型井筒を成形したもの。此れにも四隅の柱によって板を張付けた有柱式と、(ロ)柱なしの無柱式と、(ハ)一例ではあるが柱なしの六角形式井筒の三種がある。
3、井筒の組み合せに依る分類
 上述の諸型式は単独に用いられて井筒を構成しているものと、此等を組み合せて井筒を構成しているものとの二種がある。
一、単独型。前述のように一つの構造だけで出来ているもの。
(128)二、組合せ型。二つの構造を組み合せて成形しているもの、此の型式は更に次の二類に分けられる。ィ、上下二段式(註一)。井筒が上下の二段に別かれているもので、これも更に上下両井筒の平面積が同寸のものと異寸のもの及び井筒下底から上方に到るに従って其の内法が狭くなるものと、別に上段に大型祝部土器(大甕)、下段に板井を用いたものとの四に分けられる。
ロ、特殊型。円型井筒の外側に角型井筒を周らしたもので一例だけの検出である。一応円角組合せ式と名付けて特殊型として取扱うこととした。
 以上の分類を表示すれば次の如くである。
1、井筒の形状に依る分類
板井井筒 一、円型井筒
     二、角型井筒 イ、方 形 ロ、長方形 ハ、六角形 ニ、其の他
2、井筒の構造に依る分類
板井井筒 円 型 一、刳技式 二、桶皮式 三、曲物式
     角 型 四、縦板式 イ、有柱式 ロ、無柱式
         五、横板式 イ、石柱式 ロ、無柱式 ハ、六角形式
 
(頁数なし)第六号井(橿原遺跡出土)第八号井(橿原遺跡出土)第十六号井(檀原遺跡出土)第十八号井(橿原遺跡出土)〔入力者注、四枚の見事な写真は割愛した〕
(頁数なし)第八号井遺物出土状態(橿原遺跡出土)第九号井(橿原遺跡出土)第十六号井(橿原遺跡出土)〔入力者注、写真三枚割愛〕
 
(129)3、井筒の組み合せに依る分類
板井井筒 一、単独型 
     二、組合せ型 イ、上下二段式上下異構造 上下同寸 上下異寸 上狭下広 上段祝部、下段板井
            ロ、特殊型(円角組合せ式)
○土井の分類。なし。
 なお角型井筒側板の用い方(張付け方)について縦板式井筒では比較的簡単であるが、横板式には各種の手法が採られている。其の一は枠組(蒸籠組)で枠を組み四隅に長い柄を出したものを数段重ねたもの、其の二は突付(胴付)で前者の※[木+内]を欠くもの、其の三は校《あぜ》組で正倉院宝庫の建築に似て上下の横材の各両端に近い箇所の上下に相欠きを行って其の部に直角に材を嵌人して四角の枠を作りこれを数段重ねたもの、其の四は嵌板で四隅に立つ柱の相対する面に縦溝を作りここに横板を上方から落し込んで井筒を成形するもの等であるが、此の外にも特殊な手法が行われている。以上を表示すれば次の如くである。
○角型井筒側板の用い方(張付け方)
縦板式 枠組の外側に板を張付けたもの
    四枚の板を合せたもの
横板式 枠 組(蒸籠組)
    突 付(胴付)
    校 組
    嵌 板
    特殊な手法
(130) さて上掲のように形状、構造、組み合せの上から数種の分析を行って見たが、これは現在までの出土例に依ったもので今後発掘例の増加に伴って細部に於ては当然の変更が予想される。又発掘例の記載の項に於て明かにしたように厳密な意味に於ては同種のものは殆んど認められず、いずれも多少の相違を示して各種各様の型式が検出されたのであった。一般に井には地域性が著しく其の地の地形、地質、地下水等の状況に強く影響されて同一地域には同一型式のものが盛行する傾が強い。檀原遺跡及び其の他から検出された上代井に型式の固定化が乏しい事と地域性が殆んどないという事は当代の井が未だに発達過程にあることを物語るものであろう。以下発掘調査の結果について順次記載を行って見たい。但し其の記載は橿原遺跡及び其の付近地出土のものを主とし、此れ以降の他府県に於ける調査のものについては未だ殆んど正式に発表されていないので省略に従つた。
 
 註一、上下二段式。此の種の井で上下の井筒の構造が異なっているものに対して、上下の構造に同じものを用いた上下二段式、上下同構造のものの検出も予想したのであったが遂に検出されなかった。
 
      第三項 井筒の形状に依る分類
 
        第1目 円型井筒の例
 
 此の型式の井筒の例として橿原遺跡から五井、奈良県高市郡高市村大字岡から一井、計六井が検出されている。内二井は単独井筒、他は組合せ型井筒の一部をなすもので、橿原遺跡出土(註一)の第二号井(組合せ型、特殊型の内円角(131)組合せ式井筒)の内側井筒、同じく第三号、第十二号井及び高市村大字岡出土井(三井とも組合せ型、上下二段式上下異構造上下異寸井筒)の下段井筒に用いられている。詳細については構造分類の項に詳記した。
 
 註一、橿原遺跡出土井。これには追ひ番号で第一号から第二十四号までの番号が附けられ、番号は発見順位によっている。
 
        第2目 角型井筒の例
 
 角型井筒は円型に比して其の使用率が大きい。それは技術的に製作が容易であった為であろう。角型方形単独例としては橿原遺跡地及び高市郡畝傍町大字木殿から計九井、また組合せ型としてはいずれも上下二段式のものであるが、上下同寸のものに第十五号、第十九号の二井があり、上下異寸のものの内上段角型、下段角型(但し上下の構造は異なる)のものに第九号、上段角型、下段円型のものに第三号、第十二号の二井がある。一例ではあるが上段祝部、下段板井のものがあつたが、此れについては既に第二章第四項第十一目甕井の項に説明を行った。
 角型長方形のものには橿原遺跡地第七号井及び高市郡高市村大字岡出土のものがある。前者は構造分類の縦板無柱式、後者は上下二段式、上段角型長方形、下段円型曲物式にあたる。角型六角型井筒は橿原遺跡地から一井だけ検出された。これは構造分類の横板無柱式特殊な組み方に分類される。
 
(132)    第四項 井筒の構造に依る分類
 
        第1目 円型・刳抜式井筒の例
 
 巨大な円材の内側を刳抜きにして円筒形を造りこれを井筒に用いた井を云い、檀原遺跡他出土の第二号、第六号の両井及び第三号井の下段のものが此れに当っている。
 第二号井。橿原神宮の大鳥居の南方には久米仙人の伝説に名高い久米寺が昔の偉観をこそ留めないが、こんもりとした森に包まれて伽藍の美を誇っている。此の井は久米寺の外廓の東北方約二町、神宮参道の西側の地点から発見された。単独、円型刳抜式で巨大な円材の内側を判り抜いて井筒を構成している。材の厚さは底部約二寸の間は一様で略三寸八分に及んでいる。此の平均して厚いと云う事が単に自然的に腐朽して内部に空洞が出来たものを井筒として利用したものではなく、明かに施工されたものである事を物語っている。これから上方は内側に於ては利器を以て判り取ったように漸次に薄くなっている。これは初めから現状のように加工されていたものであるか或は栗石層中に埋れていた厚い底部だけが比較的水蝕を受けないで原形のままで残り、それから上方の其の部は水蝕のため痩せ細って現在のように変つたものであるか詳かになし得ない。然し推測が許されるなれば恐らく原形は略視状に近いものに加工されていたものであろう。高さは現在約一尺五寸、直径は三尺、一見底のない臼状を呈している。井筒としては其の高さが余りにも低すぎる感心があるが、恐らく土質等の関係で腐朽が甚だしく、早く其の上部(133)を消磨し去ったものであろうか。其の上緑は波状を呈して凹凸が著るしい。材は姫小松で、井筒の外側の一部に樹皮が付着したままで発見された。井筒の下底には栗石層が敷かれていた。一般に井底の栗石層は普通卵大の栗石則ち礫を砂で堅く固め、井の下底から湧出する水の浄化を計ったもので、橿原を初めとして各地出土の井に共通し、寧ろ逆に此の層があれば其れと井の遺構と断定しても差支えない程の普遍性を持ち、現在でも各地の井に盛んに用いられている構作である。ただ極めて珍らしい事に此の井に於ては、礫の代りに弥生式土器の破片が砂で固められていた。橿原遺跡地では勿論本例のみの特徴である。先にも記述したように奈良県川東村唐古弥生式遺跡地に於て「巨木の空洞となったらしいものを竪に伏せ込んだ遺構」で、空洞内部の「下層に若干の砂層を認め、更に底部には第二様式土器片、獣骨、桃核、木の葉などが数寸の厚さに堆積して遣存するのが注意せられ」て、本例と其の構造型式が近似し又同じように井底からも弥生式土器を出しているので、本井も亦一応弥生式時代の遺構として検討が加えられた。然し唐古のものは付近が広く且濃密な弥生式包含層であったのに反して本井の周辺は極めて稀薄な散布地であり、又比較的近い付近から出土した同じ型式の第一号、第六号井の内部及び周辺からは弥生式土器検出の徴候は全然なく却って土師、祝部土器片を出土し、更に唐古のものに比して本井筒の構造は技術的に格段の進歩を見せているのでやはり本遺跡地出土の他井と同一時代に属するものと考察した。恐らく栗石層構築に際して付近に散布する弥生式土器片を礫代りに用いたものであろう。井内部からは磐と思われる木骨片と縦杵の半折分とが発見された。其の舂部の長さは約一尺二寸である。
 第六号井。現在の大連動場の東南隅の外側稍南寄りの道路上から発見された。第二号井と同様の構造であるが用材は檜である。村の厚さは一寸五分内外、他例と同様上部程腐朽の度が甚だしく其の上縁は高低の差が大で、下底(134)から最高部まで四尺二寸である。其の断面は楕円形を呈し外周に於て長径三尺、短径二尺六寸前後であるが原形は略正円に近かったものと推測され、其れが側圧のため潰されて現状を呈しているものであろう。井筒の下底には栗石層が横たわり例によって拳大の礫が砂で堅く固められ其の厚さは五六寸に及んでいる。広く敷かれた此の層の上に更に人頭大の礫を井筒の形に円形に置き其の上に井筒を立て、井筒底部と礫との間に生じた間隙は小さな礫や砂でこれも堅く充填されていた。井筒直下の此の大きな礫は現在行われている鏡石と同一目的を持つものであろう。現在此の地方の比較的深い井には、其の下底に一箇乃至数箇の一抱えもある大石を埋め此の上に井筒を構成している。これは鏡石と呼ばれ其の上方の重い井筒を支える基盤で、建築物の礎石のような役割をなすものである。恐らく此の井の此の構作は鏡石の原始的なものと推察されるが、後に述べる第一号、第十三号井の下底に埋没されていた木材の台状物も亦同一目的に出たものであろう。
 第三号井は組合せ型、上下二段式上下異構造、上下異寸井であるが、此の種の刳抜式井筒はその下段に用いられていた。それで組合せ型の項に説明を譲った。
 後記。昭和二十五年、福岡県山門郡瀬高村大字金栗で奈良時代以降鎌倉時代頃までと推定される住居址が発掘調査されたが、其の時六箇の上代井の遺構が検出された。六箇の内五箇までは単に土を掘り下げた土井(本章第五項参照)であったが、残りの一箇は此の目に述べた構造に属し大木を刳抜きした二つを合せて円型井筒を成形していた井底からは祝部土器二、桃の種若干、曲物製の杓の破片等が出土したと云う。
 
        第2目 円型・桶皮式井筒の例
 
(135) 桶皮状の弧状の板を何校か連らねて円角形の井筒としたもので橿原遺跡地出土の第一号井がこれに当っている。この井は前述の第二号井の西北約一町の地点で発見され、橿原遺跡地としては最初の発見であったので第一号井と命名された。此の井は組合せ型・特殊型・円角組合せ式井筒で円型井筒の外側に更に角型のものが装備されて二重井筒になっていた。桶皮式井筒はこの内側のものに用いられていたのである。
 此の井筒は桶皮状の縦板六枚を合せて円型井筒を成形し其の直径は二尺六寸余、桶皮板の厚さは一寸五分乃至二寸で、其の横幅は各一尺四寸、四寸、二尺一寸、二尺、三寸五分、一尺七寸でこれを順次に並べている。内二尺一寸と二尺のものとは稍曲つている割目に沿って緊密に合せる事が出来るので初めは四尺以上の大幅に及ぶ一枚板であった。それで此の大幅の板だけを取つて考えた場合には前述の刳抜式井筒に相当するように思われるが、他の数枚の幅の狭い板を加えて全体として考察した場合はやはり別種のものとして桶皮式井筒の名のもとに区別する事としたのである。さて井筒の全高は約五尺七寸であるが、付近の地形等から考察して原形は十三尺前後のものと思われる。此等の桶皮板の繋ぎ則ち連続方法としては二つの方法が用いられていたと推測される。一は小幅板の間に用いられていた方法で二枚の板の相接する間の下端に近く相対して、現在各縦二寸、桟一寸、深さ一寸五分余の角穴(太※[木+内]穴《だぼあな》)を穿ち此れに小木栓(太※[木+内]|隠※[木+内]《かくしはぞ》)を隠し嵌めて両板の連繋を計っていた。他の一は大幅板に用いられていた方法で、板の下端に近く両側にそれぞれ方一寸五分許りの不整形の穴を穿ち、恐らく相隣る二枚の板の此の穴に綱のようなものを通して之を緊縛して連結させていた。併し此のような穴は板を筏等に組んで流す場合にも他材との連続に用いる事があるので確定的には断定し得ない。以上で此の井の桶皮式の部の記述を終るが、なお外側は角型方形、横板無柱式井筒で、長さ三尺六寸、幅一尺六寸前後の板四枚を以て枠組(蒸籠組)とし、此の四角形枠(136)二つを重ねて井筒を作り、其の総高は略三尺四寸である。板の厚さは最大約二寸であるが、上段のものは腐蝕のため可成り薄くなつている。枠の四隅からは一隅三枚づつの長※[木+内](雌木二、雄木一枚)が直角に出ているがその長さは最大二寸余である。従って井筒の内法は大約方三尺一寸である。
 此の角型井筒の内側に桶皮式井筒が容れられていた。なぜこの様な施工を行ったのであるか。未だ明確な解答を与える事が出来ない。併し現在でも水量の少い地方で特に多量の水を一時に必要とする井に於て二重井筒を用いる場合がある。それは二重に井筒を立てて其の間に砂を詰め、ここに含水層を作り(これを「含み」と云う)内側井筒内の水が不足して来れば此処から直ちに補給が行われると云う構造のものである。此の井も或はこのような意図のもとに造られたものであつたかも知れない。
 井筒の下底には拳大の礫を秒で固めた所謂栗石層が造られていた。此の栗石層の上に廃物の角材を用いて略四角形の枠を組み円、角の両井筒とも其の上に載せられていた。井筒の内部には青色泥土が充満していた。此の泥土は静かな長期に亙る沈澱の結果長じたもので其の粒子は微細を極めている。井の周囲の原土は花崗岩の靡爛した黄色砂上であるが、これは井筒内部の青色泥土の為着色されて美しい青緑色を呈し井底付近は少いが上部に到るに従って其の幅を増し井筒上面付近に於ては井筒の外周一二尺に及んでいる。この井筒内部の青色泥土と井外周原土の青緑色変とは栗石層と共に此れ亦井筒遺構を決定する場合の重要な条件である。併し原土の青緑色乃至青色変は外周の地質に左右され若し付近が沖積期の堆積で其れ自身が青色砂泥の場合は変色が明瞭に現われない。井筒内部からの検出遺物は割合に少く僅かに栗石層に接して祝部小型長頸坩一箇と曲物の破壊したもの一を得たに過ぎない。
 此の井は桶皮式井筒の例として挙げたが、円角の組合せ片であり、円型、角型が各単独であっても井としての機(137)能を十分に果しうる大きさを持っていた。
 
        第3目 円型・曲物式井筒の例
 
 曲物筒を数段重ねて円型の井筒を成形したもので、橿原遺跡地出土の第十二号井、奈良県高市郡高市村大字岡出土のもの及び既述の「明治以前日本土木史」所載の新潟県長岡市蔵王町出土のものが之に属している。併し最後のものは措き前の二井はいずれも組合せ型、上下二段式井の下段にこれが用いられていた。
 第十二号井。現橿原神宮駅の東側久米丈六台地の北端稍西寄りの地点から発見された。上段は一辺の長さ二尺二三寸の方形、縦板、有柱式井筒で其の方位は東へ約二十度の傾きを示している。下段の円型曲物井筒は其の直径一尺六寸、深さは六寸余、上段井筒の下底面の中央から稍片方に偏して其の下方に位していた。上下両段の間の平面には相当大きな礫や古瓦片などで栗石層が造られ、又下段下底にも同じ層が発見された。井筒の外側には上段井筒の底部付近から下段曲物井筒の栗石層まで続いて人頭大の礫及び古瓦片などがぎっしり詰めこまれていた。橿原遺跡地出土の二十一井の内井筒の外側にこの様な構作を施したものは唯この井のみであったが其の後発掘された同型式井である前述の高市村大字岡出土のもの及び高市群畝傍町大字木殿出土のものにも同じ構作が見られた。但し大字木殿のものは角型、縦板、無柱式の井筒であった。
 板上下二段式の井で本例等のように上段に比して下段が小面積の場合、此の下段は浄水を溜める為の装置として考案されたものて、ここは「まなこ」と呼ばれている。恐らく上方から覗いた時井の中央深く人間の眼《まなこ》のように光って見える形容から生まれた言葉であろう。現在でもこの様な型式の井が伊勢平野、岐阜方面等に行われて、此の(138)部には、桶、樽などが使われ時には竹を編んで同形の囲いを作ると云う。奈良盆地に於ては今は殆んど見ないが県の東部宇陀郡大宇陀町付近の山間盆地では最近まで野井戸に此の型式が採られていた。
 上段井筒の下底は現地表面から十一尺三寸の下方にある。現地表面は種々の考察から原地表面と略同じ高さと推定されるので此の数字は其のまま本井構築当時の深さと考えられる。
 なおこの井について一二のことを記せば井筒内部からは祝部土器、土師器の細片、古瓦片など少量の遺物、又上段井筒の上部からは一片ながら奈良時代末期と推定される軒平瓦が発見された。次に本井付近からは此の外数箇の上代井、上代掘立柱の柱根の集団及び土器貯蔵孔とでも考察すべき数箇の竪穴等が発見された。此等はいずれも同時代の遺構遺物と考えられ、此の地の過去の貴重な文化遺産として慎重に調査された。
 次に高市村大字岡出土のものについては上段が長方形、横板、無柱式であった外前者と大同小異であるので省略に従った。ただ此の井について特記すべきことは上段井筒の上辺は現地表面下一尺二寸の所にあるが、略この高さに広さ七八寸前後、厚さ三四寸位の平石が何段歩かの広さに亙って一面に敷かれている事で、井の上段北辺の板は真上にあたる石のため内側に曲っている程である。此の石葺工事は明かに井の廃絶後か或は使用中に其れを止めて行われたものであるが、石茸中には大型祝部土器の破片も石材の代用として使用されていた。此の付近は皇極天皇飛鳥板蓋宮の旧阯として言い伝えられているが、石茸工事は此の所伝と照合して興味ある事実であり、又この工事とそれに用いられている祝部土器及び井との相関々係等今後研究の好資料たるものと思われる。
 
        第4目 角型・縦板、有柱式井筒の例
 
(139) 板を縦に用いて角型井筒を造り其の支えとして四隅に柱を用いたものの謂いである。橿原遺跡地から第三号、第九号、第十二号、第十九号の四井と、此の遺跡地の北方(現神武天皇御陵前駅の北方約五百米)に横たわる四条池の池床から第二十号、第二十二号の二井と合せて六井が発掘された。然し第二十号、第二十二号の二井以外は全部が組合せ型、上下二段式に属して上下二段の一方に此の型式が用いられているが此等は各其の項に於て記し、ここには此の型式だけを用いた二井について記すこととした。
 第二十号井。四角形、縦板有柱式の井筒で其の方位は略正中線に一致している。四本の柱は現在高さ六尺五寸内外、下部の直径は五六寸、円材を荒削りした多角柱である。これを方二尺六寸の四隅に立て柱の下端から一尺二寸及び四尺五寸の二ヵ所に各二ヶ宛の※[木+内]穴を直角の向きに穿っている。※[木+内]穴の大きさは一寸角、深さも一寸前後である。此の穴に上下各四本の横桟をわたして井枠を組み、其の周囲に縦板を密着させて井筒を構成している。ここで特に注目すべきは側板の下部で板と柱とを固着させる為に小型の鉄製鎹を二ヵ所に用いていたことである。鎹の大きさは一は長さ一寸、幅二分、厚さは一分弱、他は長さ一寸七分であるが折り曲げた角が変形しているので判然とはしない。幅は三分、厚さは一分弱である。両箇とも其の形は現在のものと同様で其の両端は直角に曲げられている。側板は広狭、厚薄種々のものを用い、二三分の薄い板は二枚重ねとし又扉の古材まで混用している。恐らく有り合せの材を集めて組み立てたものであろう。
 (一) 両側の二枚の扉板について。長方形のもので二枚共長さ四尺二寸、厚さ一寸七分で幅は一尺四寸五分と一尺一寸五分で、同質の材で美しく削られている。井筒の内側から見て右、則ち北側にあった材には其の略中央及び下方に二箇の長方形の小穴を縦に列べて穿ち、又別に中央に横に六寸程離して二ヵ所に二箇宛上下に二寸程はなして(140)並ぶ穴があけられていた。二枚共其の一方の端が丸く削られていたし 何よりも手掛りとなったものは左側の板の左側上端に残っていた小突起である。これは明かに扉の軸受に嵌るべき軸である。これによって此の二枚を扉の材と考えた場合はじめて其の一端が丸く削られていた事、又中央の縦の小穴は錠をさし込む穴、横に二ヵ所にあけられた二箇宛の穴は鍵を取りつける材を固着させる為に穿たれた穴と了解する事が出来た。そしてこれを井筒材として用うるためわざわざ二枚の板の接する面に上中下三ヵ所に深い※[木+内]穴を作り之に※[木+内]則ち隠し栓をを使って二枚を接合していた。
 (二) 東側の一枚の扉材について。東側の側板三枚の内一枚も明かに扉の廃材であった。縦四尺四寸三分、幅一尺七寸八分の長方形の一枚板で、厚さは約一寸五分である。其の下端右側に偏して縦に二ヵ所に長方形の小穴が穿たれ、又中央から稍下方に右に偏して横に五寸程離れて二ヵ所に上下二ヶ宛の穴が一寸程離して造られている。唯西側のもののように一方の端を丸く削ってはなかった。
 (三) 南側の一枚に穿たれた穴について。南側の四枚の内一枚は長さ六尺六寸余、幅一尺三寸五分、厚さ一寸の板である。此の板の下端から三寸五分上方の中央に大きさ七分宛の穴が穿たれていた。之は第一号井の内側円型井筒の桶皮状材の下端近くにあった小穴と類似性をもつものと考えられる。
 井筒の内部は特有の青色泥土に充たされ、其の略中央に於て一ヵ所木の葉の薄層が発見された。泥土の中から栗の実の皮片一、小形の瓜の種一、粗目の布片一が検出された。然し布片については其の物が発見されたのではなく、検出されたのは唯泥土に印せられた布型だけで云わば痕跡に過ぎない。桃の種は第八、第九、第十一、第十七、第十九号井等からも出土しているが、本井に特に多く其の検出個数は六十九ヶに達している。検出個所は井筒内各所(141)に亙り中には泥土に隠れて検出されなかったものもあるので全体では相当数に達するものと思われる。六十九ヶの内半数以上は鼠のため片側を噛み去られていた。
 此の井に於て品も注目すべき事は井筒下底の栗石層の上に祝部平※[分/瓦]が埋設されていた事である。其の数は四箇で略四角形の位置に其の口を各々中央に向け揃えたように整然と水平の位置に安置され、此れは明かに此の土器が意識的に埋設された事を示しているが、我々は更に他の多くの例によって此の土器埋設の事実を確かめる事が出来た。これについては第七目横板、無柱式井筒の例について見られたい。さて四箇の平※[分/瓦]については一は最も精巧で胴の直径七寸二分、高さ二寸七分である。口頸部は破損しているが把手は完全に残り其の断面は腰高の蒲鉾状を呈している。珍らしい事には口頸部の基部と把手の間を経一分位の蔓草の蔓で幾重にも巻き付けてあった事である。又壺の中からは長さ三寸、径四分位の木片で其の中央を蔓で緊縛して仮りに此の土器を釣り下げる場合引っかかりとなる装置の残片かと思われるようなもの一、別に蔓で結び目を作り何物かを縛ったような形のもの一とが検出された。二は胴の直径七寸一分、高さ二寸八分、前者に比してやや平たい感じの土器である。口頸部は欠損して殆んど残っていないが把手は完全に付着し、箆で土を四万から削ってあるので其の断面は略四角形である。三は胴の直径六寸四分、高さ二寸六分、口頚部、把手共に一部を残すに過ぎない。把手は二と同様の断面のものと推測される。四は胴の直径六寸、高さ三寸一分で前三者に比して直径と高さとの比が大きい。口頸部、把手共基部から失われている。
 第二十二号井。前者と大同小異の構造なので略した。
 
        第5目 角型・縦板無柱式井筒の例
 
(142) 前述の型式に反して柱を用いず縦板だけで角型の井筒を構成するもので、橿原遺跡地出土の第五号、第七号の二井と奈良県高市郡畝傍町大字|木殿《きどの》出土のものがこれに当る。
 第七号井。大運動場の東北隅に近い内側から発見され型態分類の長方形井筒である。構造は極めて簡単で、四枚の縦板を四方に並べて井筒を構成しているが非常に小型で、相対する板の幅は長辺は各一尺八寸、短辺は一尺五寸で厚さは四枚とも略一寸七分である。現存の高さは一尺七寸で其の著るしい低さは先に刳抜式井筒の例として挙げた第二号井と酷似している。長辺の板の下端から上方六寸の位置の内側に長さ一尺九寸、幅二寸、厚さ一寸五分の横木が各々一本宛板に密接してわたされ、其の両端は短辺の板の其の高さに造られた切り込みに嵌め込まれている。之は板が側圧によって内側に倒れるのを防ぐ為のものであるが頗る簡潔な工作である。畢竟井筒が狭少であるためこれで十分に目的を達し得た訳であるが、他の多くの井筒が四角の頑丈な木枠を用いているのに反して之は単純率直しかも技術的に相当進んだ施工と思われる。
 第五号井。型態は角型四角形、構造は縦板無柱式で井筒の方位は、真北より東へ約二十度の傾きを持っている。井筒板は四枚からなり、其の幅は東側のもの一尺四寸九分、西側のもの一尺五寸三分、北側のもの一尺八寸二分、南側のもの一尺六寸八分で、これを四方から合せて井筒を構成している。従って井筒の断面は正確には東西に長い不正四角形である。板の厚さは下方に厚く上方に薄い。四枚とも下端に於ける厚さは一寸二三分、それから上方三尺の部に於て略一寸である。上縁は他例と同様に凹凸が甚だしく、最も高く残ったのは南側のもので現在六尺二寸を算する。原地表面から此の南側板の上線まで約一尺七寸であったから井筒の元の高さは八尺前後と推定されている。下端から一尺五寸上方の内側に幅約三寸、厚さ一寸五分の材で作られた四角形の木枠が装備されていた。之は(143)単に方形に合せただけに過ぎない井筒板が側圧のため内側に倒れるのを防ぐ為のもので、この様な構架は簡略なもの乍ら前述の第七号井、後述の奈良県高市郡畝傍町大字木殿出土のもの及び第九号井の下段の縦板有柱式井筒にも認められた。ここに注意すべきは第九号井下段井筒のものには上下二段の木枠が取りつけられていたが、他は何れも中央から稍下方に一段だけが見られたのみであった。これは初めから其の必要を認めないで取り付けなかったものか或は上下に装備されていたが上段のものが何等かの原因で失われて仕舞ったものか、此の判断については今後の研究に待ちたい。井筒底部の栗石層は卵大の礫を上下左右略一寸の間隔に置き、之を砂で堅く固め其の厚さは約七寸で、井筒板の下端はこの栗石層に約四寸の深さに食い込んでいた。
 井筒の内部は栗石層の上約三寸迄は青色砂泥の中に礫、土師器片などが雑然と混じて検出された。これは使用時に上方から落ち込んだものであろう。その上部約一尺五寸の間は青色泥土のみで何等の來雑物も検出されなかった。これは井の静止を示すもので恐らく使用が停止されて、井筒の内部では上方或は周囲の間隙等から落ち込んで来る泥土が静かに堆積を続けていた事を物語るものであろう。更にその上部一尺三寸余は再び拳大の礫、布目瓦、土器片、木片などが井付近の黄色土砂に混じて埋積し、これは人為的に埋没が行われた事を示している。更に其の上部三尺余は又付近の黄色土砂のみで遺物其の他の夾雑物を含んでいない。これは井が再び自然に放置されて顧りみられず長い時間に亙って風雨による埋没が行われた事を証するものであろう。栗石層の上、中央稍東寄りに径約五寸高さ一尺二三分の土師皿が発見された。皿は糸尻を持ち普通の焼成であるが、正しく上向きに水平に置かれ下半は栗石層の中に強く食い込んで、これも明かに埋設土器であった。又栗石層の上表面下約二寸の地点から和銅開珎の半部を検出した。その発見瞬時の何とも云えぬ赤い美しい色沢! 私は思わず此の色沢に見とれて暫し立ちつくし(144)たのであった。夏のことではあったが既に夕景、服も靴もゲートルも泥で塗りつぶされ疲れてもいた。併し此の感慨と喜悦とは偉大な記念碑のように生涯私の胸底深く残ることであろう。又此の頃は未だ上代井の実年代については其れを適確に示す遺物が検出されず、決定し得ない状況であり、発掘当事者にとってはこれが大きな悩みであった。果然此の古銭の検出によって、本井は和銅(紀元一三六八年)以降に構築されたものである事が判明し、ここに上代井一般に対する実年代の研究に確然たる端緒を握り得たのであった。研究対象としての遺物の性格や年代が不明確な際、其れに絶対的な決定を与え得る程の貴重な検出に対する感激感謝の念は蓋し発掘者のみが味いうる特殊な愉悦であろうか。とまれ検出された此の半分の欠け口は短く尖っていたので明かに私の鍬で欠き損じたものであった。翌日若者は残部を探すために更に努力を続けたが遂に得ることが出来なかった。なお此の古銭は外部から落ち込んだものであろうか、或は埋設されたものであろうか。第一の理由として其の検出位置から推してこれは外部から落ち込んだものではなく、第二に当時行われていた井底の土器等埋設の習俗と考え合せて初めから意識的に埋設されたものと想像される。
 畝傍町大字木殿出土井。構造は前述の第五号井とほとんど同様である。発掘した土地の農家の言によれば井筒下底から土師皿一、小型広口壺三ケが発見された。土師皿は直径四寸、高さ八分の普通の型式の小皿であるが土質精良、焼成堅緻、赤褐色の美しいものである。土器の裏側下底中央に「上つ」なる墨書があった。上つと読むべきか或は一文字なのか不明である。文字全体の大きさは約五分角である。
 
        第6目 角型・横板有柱式井筒の例
 
(145) 四隅に立てた柱に横板を貼りつけて角型の井筒としたものを云う。橿原遺跡地の第四号、第十四号、第十六号の三井がこれに該当している。
 第十四号井。神武御陵前駅と其の西方を南北に走る国道との中間稍南寄りの地点から発見された〔先ず四本の柱を方形の位置に立て、これに※[木頁内]穴を上下の二段に穿ち横木を挿入して木枠を組み、この外周に長方形の板を横に段々に貼りつけて井筒を成形している。柱は現存の最高のもので八尺六寸、槍鉋で仕上げられた荒削りの丸柱で、其の基部の直径は五六寸内外である。上方程細く又中には稍曲っているものもあって粗雑な造りである。柱の或るものには所々に一寸角位の※[木+内]穴が浅く残っているが、これは井筒構成上何等の効果をも果していないので、此の材が他の構築物の材料から転用されたものである事を示している。二段の※[木+内]穴の位置は柱の下端から上方へ各八十及び四尺三寸で穴は大きさ約一寸角、横木は不揃いであるが略一寸五分の角材で※[木+内]穴に嵌る部分だけ恰好に削ってある。外周の横板は長方形であるが可成り不揃いである。板は割った儘のものと手斧をかけたものとの二種があり、其の厚さは不定で二寸位のもの、一寸二三分前後のもの、又一枚の板で上方が一寸下方が三寸位のものもある。長さは大部が二尺七八寸であるが現存の最高部に使用されていた一枚は三尺三寸に及んでいた。幅も六七寸のものから一尺九寸の物まで含まれている。この様に板の幅が違うため各々の側壁に貼られた板の数も不同で、少ない面では四枚、多い面では六枚を用いている。横板は柱の下端から六七寸上方の部、栗石層の直上から貼り初められて上方に及び、此の様にして出来た各側壁の現存の高さは最高六尺八寸である。然し井の発見前に上部の板は一部失われて柱の上端一尺計りは杙の様に整地された地上に露出していた。最下の横木の或る一端は※[木+内]穴に極めて緊密に嵌人していたため発掘した時は削った直後のように真新しく白い木膚に木理がはっきりと浮んで美しく光っていた。然し(146)これも第五号井から和銅開珎を検出した時のように見る見るうちに暗褐色となり数分の後は全く他の露出していた部分と同様の色に変って仕舞った。実際土壌は埋蔵物に対してこの上なき防腐剤であり、良き保護者である。柱の下底六七寸の部分は栗石層の中に埋まっていた。栗石層については他例と同様で其の厚さは三寸内外、礫の大きさは卵大であった。総体的に見て此の井の構造は大雑把で又極めて頑丈であるという事が出来る。
 井筒の内部は例によって青色泥土が充満していた。其の中からは土師器、祝部土器の破片を初めとして木材片、礫及び夥しい量の古瓦片等が発見され、其の検出頻度は栗石層から上部まで殆んど変化がなかった。唯栗石層から上方二尺内外の部に田螺殻、魚骨(鮒か)、甲虫の翅、玉虫大の甲虫の死屍一ケ等が発見され、又四尺前後の部に木の葉及び小枝等が層状をなし、其の間に土砂を挟んだものが数層認められた。この事実はこの井が第十七号、第二十号井と同様に使用停止の後埋められることなく放置されていた事を示し、更に小魚や水虫等がこの小井筒内に生活を営み、幾度かの秋が訪れて枯葉や枯枝が落ち込んだ事を物語るものである。古瓦片の内約半分に割れた疏瓦片一ケが枯葉枯枝層の間から検出された。其の紋様は奈良県高市郡飛鳥村大字豊浦の向原寺址出土の飛鳥時代初期の単瓣八葉蓮華文のそれに酷似しているが、其れより大型で直径は五寸三分に達している。中央の蓮子は子房部の表面が剥落している為不明で、各蓮瓣間にある珠文は比較的小さい。白鳳期に属する瓦である。栗石層直上の埋設土器については他例に屡々見られた様に土師・祝部の土器が数個何れも上向きに据え置かれたものが発見された。此の土器の上を被う上被層(第七目、横板、無柱式井筒の例参照)の有無については明確に断定を下すことは出来なかった。唯栗石層の上部約一尺内外の所に極めて薄いものではあるが砂層が四五寸おきに数層重なっているのが見られた。或はこれを上被層と見るべきかも知れない。埋設土器の個々については
(147) (一) 土師器。広口壺一、高さ五寸一分、胴の直径五寸五分、丸底である。口縁部と庭部を除いて内外面とも刷毛目が認められる。把手付広口壺二、一は高さ五寸一分五厘、胴の直径七寸五分、厚肉である。底部には条紋があり、胴の中央やや上に左右に上向きの把手が取り付けてある。口縁部は少しく外側に反転し、其の外側には左下方から右上方へ走る箆描きの斜平行線文がある。二もこれと同型式の横拡がりの土器であるが稍小型で高さは四寸五分、胴の直径は五寸六分である。同じく糸尻と一対の上方に反転する把手があるが、其の先端は両方とも欠損している。前者に比して精良な粘土を用い焼成も堅く美しい土器である。扨この土器の胴部に取りつけられた上方に反転する把手について、一般に我が上代に於ては重い物を運ぶ場合これを頭上に載せることが盛行し、これは今の韓国其の他の地方の風俗と同様であった。今我々は千五六百年も以前に築造された古墳から埴輪土偶を発掘するが、それには屡々頭上に壺を戴きこれに手をかけている姿を見出すことが出来る。又平安朝の末頃描かれた高山寺戯画や天王寺扇面古写経の絵等からもこの慣習のあった事を窺うことが出来る。古文献にこの例証を探れば鎌倉時代に書かれた「今古著聞集」に「きよげなる女の川の水を汲みて、みづからいたゞきて行く女ありけり」とあり、また同時代の沙石集にも「下人は一人も候はず。われと水をくみ、いたゞき候ほどに、頭《つむり》には毛一つもなきとこそ承れ」と記るされている。此の「いただき」則ち頭上運搬の慣習は今も本土沿岸の所々の海村や稀に山間の僻村等に残っているが、薪を頭上に載せて京の街に商う大原女の姿は最も有名である。内容物の重い相当大きな土器を頭上に頂く場合それに手を掛ける個所として土器の胴部に把手をつけることは最も安定を得る方法であり、更に把手を上方に緩く反転させて肩から頭上に伸びる手指をこれに掛け易くすることは最も自然な又必要な工夫であったのである。小型広口壺二、一は高さ一寸五分、口径二寸三分、他は同じく九分五厘と一寸一分で二箇共口径が高さより大きい。(148)此等の小型土器は実用を目的としたものではなく、信仰的な意味を以て作られ又据え置かれたものであろう。同じ小型土器は先に述べた第二十一号井及び奈良県高市郡畝傍町大字木殿出土の板井からも数ケ宛検出された。
 (二) 祝部土器。壺の蓋一、蓋のつまみの方を下にして水平の位置で発見された。直径六寸二分、厚肉で精巧な造りである。一部欠損している。横瓮一、長径一尺五寸、普通の型式のものである。
 (三) 墨書銘ある祝部土器片一。皿の破片でもあろうか軽く彎曲した不整形の小片で縦三寸五分、横二寸の破片の表及び裏に大小種々の文字が雑然と記るされている。惜しい事に墨が薄れてしまった為、読み取ることが困難であるが、軽うじて判読し得たものについて記るせば、内面には「人人蘭」と続けられた三文字が認められ、外に不明の三文字と土器が損じたために切られて一部分だけ残っている周縁の六文字等も数えられるが全部読み得ない。外面では細字で「忠忠」と二文字が判明し、其の左側に「神」らしい字が見えるが明かでない。この外不明の三文字と切れた一文字が数えられる。
 第十六号井。現橿原公苑事務所の西側、改修以前の桜川の東畔から発見され、同じく角型、横板有柱式である。大体の構造は先ず角材を以て方形の木枠を作り、この四隅に小柱を立て、各柱の間に横板を上から落し込む様にして嵌めて井筒を構成している。以下細部について記るせば基底をなす方形の木枠の材は其の長さ二尺四寸乃至二尺六寸で、幅は約二寸三分、厚さは二寸前後である。枠の組み方は相対する二辺の材の両端二寸前後を残して其の内側の上部を現在幅二寸五分、深さ一寸位に欠き取り、別に此処に直角に嵌まる他の二辺の材の其の部の下部を同形に欠き取り、(相欠)この部で相隣る二つの材を上下から直角に堅く嵌め込んで方形の木枠を造り上げている。この様にして出来た木枠の内法は一尺六寸乃至一尺七寸の角形で之がまた井筒内側の寸法でもある。次に枠材の直交(149)部(ほぼ四隅)の中央に上から下まで縦に通る※[木+内]穴が穿たれ、其の大きさは現在二寸に一寸五分の長方形である。ここには井筒四隅の小柱が立てられるが、此の穴には其の小柱の下底に造り出されている※[木+内]が嵌め込まれていた。この※[木+内]は現在方一寸、長さ二寸五分乃至三寸である。なお面白いことに※[木+内]の下方中央に木理に縦に割目を作りこれに楔を入れて小柱と木枠との緊密な連繋を計っていた。小柱の太さは不揃いであるが、太いもので三寸角、細いもので二寸三分乃至二寸五分角である。各種の井筒の内側に面する部は複雑に殺ぎ落され、其の断面は図のようで、
       g   e
          ――――
   f    c   d
   a    b
―――――――――――――― 〔入力者注、二本の横線の右端をつなぐ縦線あり〕
 
殺ぎ落された部分に左右から横板が嵌まるように工夫されていた。則ち相隣る二つの柱の間には横板が嵌めこまれて井筒が構成されていたが、図のabcfの部とgcdeの部とは左右からの横板の位置を示したものである。従って横板は小柱が完全に立てられた後、下方のものから順次に上から落し込むようにして嵌められていったものであろう。現在柱に腐朽が甚だしく最高のもの二尺一寸、最低のもの一尺六寸である。横板の厚さは一寸位、長さは一尺七八寸、幅は不揃いである。これについて更に詳記すればまず東西両側の板は各々一枚宛残り東側のものは長さ一尺七寸、幅(高さ)一尺五寸で、西側のものは長さ一尺六寸五分、幅一尺五寸五分である。西側の板の外側には処々に焼けこげの跡が認められ、もとは全面的に焼いてあったものと推測される。これは板の防腐のためと思われるが他の板には全然其の形跡は残っていない。南北両側には各小幅の板が二枚宛用いられていた。南側のものは長さ各々一尺八寸、幅は五寸五分と七寸五分である。北側の二枚は長さ一尺七寸、幅は三寸と一尺一寸である。次に此等の横板が小柱に接する部分の内側は往々に薄く削られて現在其の先端部の厚さは約五分である。此の殺ぎ落しはこれによって左右から(150)の二枚の横板を小柱の内側の凹所で直角に合せる際其の操作を容易ならしめるための工夫である。又最下底の横板下辺の両端には不揃いながら最大高さ二寸五分、幅約一寸の長方形の切り欠きが施されている。これは小柱の内側の殺ぎ落しを最下底まで、則ち木枠へ嵌まる※[木+内]の基部まで行って仕舞うと※[木+内]の其の部が弱くなるので、小柱の最下部約一寸ばかりは元の四角柱のままで殺ぎ落しをしないで残し、逆に横板のこの部を欠き取ることに依って見事に嵌るように構作したのである。以上のような構造でこれを他井に較べると複雑、精巧を極めている。この点第四号、第八号の両井と並んで橿原遺跡出土諸井中出色のものである。更に此の井が他と異なる一点は栗石層の上に数寸の木炭層を設け更に此の上に薄い砂礫層を置いていた事である。木炭は非常に堅緻なもので直径一寸位の丸村が多く、長さ二三寸に打ち欠いで用いていた。この装置は勿論湧水の浄化を目的としたものであるが極めて発達した工夫である。現在奈良盆地の各町では別に水濾《みづこし》桶を使用しているが、これは普通桶或は瓶の底部に木炭層を造り、其の上に細砂を厚く詰めて水は此の二層によって浄化されて下底の小穴から垂下するように工夫されている。本井はこの装置を直接井底に設けたもので木炭の表面には褐色の酸化鉄が付着していた。遺物は殆んど云うに足らず、土器片の極微量を出したに過ぎない。
 第四号井。大運動場の東南隅の内側から発見された。此の井の構造も略前述の第十六号井と似ているが稍趣を異にしている点もある。それは横板の嵌め方であるが、其の方法は先ず四寸角の柱を四隅に立て柱の各相対する面に深さ一寸、幅一寸五分の縦溝を作り、此の溝に上方から順次に下方に横板を落し込んで井筒を構成しているのである。横板の長さは略三尺、厚さは五分である。現存している井筒の高さは約七尺であるが上部三尺余を欠いているため原形の深さは十尺内外と推定されている。
 
(151)        第7目 角型・横板無柱式井筒の例
 
 四枚の横板を合せて角型を造りこれを数段重ねて井筒を成形しているものを云う。橿原遺跡出土の第十三号、第十八号、第二十一号井が此の例として挙げられるが、此の外にも上下二段式井筒ではあるが、第九号井の上段、第十五号井の上下両段及び第十九号井の下段等が此れに当っている。
 第十三号井。現野外公会堂の東南外側の地点に所在していた。厚さ約一寸、長二尺九寸前後の横板四枚を突付(胴付)に合せて内法約二尺七寸の方形を作り、これを段々に重ねて高さ約六尺の井筒として成形している。整地以前の原地表面から一尺五寸で現存井筒の最上部に達したので、元の井筒の深さは少くとも七尺五寸以上と推定されている。通常の栗石層の上に四本の古材を放射状に横たえて井筒の四隅は此の上に置かれていた。但し一隅だけは他と異なって井筒の対角線と直角の方向に横木を用いていた。此のように井筒の下に木片の台を用うる手法は既に述べた第一号井にも見られた所である。井筒内部の状態については先ず井筒の上端から二尺位の間は他井と同様に外部から転落した大小様々の礫、瓦破片などが土砂に混じて雑然と堆積し、礫の中には人頭大の大きさのものも混じていた。此の層の下約二尺余は井特有の青色泥土層でいささかの夾雑物をも交えず、静かな長期に亙る沈澱の結果生成したものである。井筒上端から四尺四五寸内外の所に人工的に拳大或は其れ以上の大きさの礫を並べて作った数寸の層が横たわり其の直下に薄い砂層、それに続いて更に下方には多数の土器が一面に埋設されていた。此の土器群の厚さは平均七八寸で井筒の上端から五尺乃至六尺の間にあり其の下は直ちに栗石層に接していた。これを逆に云えば栗石層の上に土器群が置かれ、これを被うて下から砂層、礫層の順に埋設の構作が行われていたので(152)ある。なお井筒の外周については着色の青色砂泥は他例と同じであるが、下底外側から横※[公/河原]一箇が発見され、これは他井に見られぬ事であった。
 上述の諸構造の内最も興味のあるものは人工的礫層以下土器群を含む層で其の厚さは約一尺五寸、復元井筒の深さ七尺五寸余の約五分の一に当っている。埋設土器の内には最大高さ一尺六分、胴の直径一尺七分の祝部壺を初めとして最小径数寸の土師壺に至るまで十箇に余る大小の広口壺が一面に並び殆んど足の踏み場も無い状態で井筒内一杯に埋設されていたのである。此等の壺の内土師把手広口に壺二箇だけは其の頑丈な造りのため略完形で発見されたが、他のものは殆んど破砕して復元する事の出来ないものもあった。此の二つの完形土師器は上向きに安置の状態で発見されたが、上述の大型祝部壺以下他の土師壺なども小片にこわれながらも原型をくずさず、其等は何れも上向き水平の位置を保ち安置の状態で発見された。完形土師壺二箇及び大型祝部壺などには各其の内部に七八分程度に細砂泥が充満し、肩部以上は単に水のみであった。別に一つの広口壺の上には大型祝部壺の破片を蓋様にして載せてあったが他の壺には此の様なものは全然認められなかった。壺の内容物については充分な精査を行ったが蓋の残片と見る可きもの及び其の他何物も検出し得なかった。然し恐らく壺は初めは何等かの有機質の蓋を持っていたが今は其れが腐朽し去ったものであろう。若し蓋が無かったとすれば壺は砂泥で一杯になる筈で現在まで壺の肩部以上に水だけ残る筈はないからである。恐らく壺は当初は中空か或は水だけを容れて埋設されたものであろう。それは此の後第十八号井の発掘に於てここからも此の井と同型式の構造物が発見され、其の内の壺の一つは水だけで泥土も入っていなかったので此の様な考察が成り立つと思われる。又埋設土器の上被層についても第十八号井から同様の例が得られたので此の種の構造が第十三号井だけに限られた事ではなく、やはり此の頃に普遍性を持って(153)いた慣習と推察される。
 検出土器については横瓮以外は総て井底の埋設土器群に属している。今其の重なものについて記せば、
 (一) 土師器。把手付広口壺二、一は高さ六寸二分、胴の最大径八寸五分、胴に比して高さが割合に低いし 口径は四寸四分、平底で糸尻を欠いている。表面は一帯に剥落が甚だしい。胴の中央やや上部に把手と思われるものの失われた痕跡があるが、一方だけで他方のものは甚だしい剥離のために明らかになしえない。肉は薄手で最厚部は口縁部の下方で約三分である。二も略同型式の壺であるが稍小型でより精巧に造られている。高さ六寸二分、胴の直径八寸二分、口径四寸六分、前者と異なって糸尻があり其の径は四寸一分である。胴の左右に長さ約一寸に達する把手が突出し、其の先端は上方に反転しているが、両方とも最先端は欠損しているし土質は精良なものを用い焼成は堅く肩部から下方は磨きがかけられて光っている。口縁部は薄肉であるが肩の辺から徐々に厚くなり、最も厚い部は糸尻の辺で四分五厘に達しているじ広口壺四。四箇を通じての特質は高さと胴部最大径とが略等しい事で、従って其の側面から見た感じは極めて円い。頸部は相当深くくびれ、何れも丸底で裏面全体に縦或は斜の刷毛目が認められる。四箇其高さは四寸乃至六寸の間である。
 (二) 祝部土器。広口壺一、普通の型式のもので高さ一尺六分、胴の直径一尺七分、口径六寸四分で、肩の張りは中位、丸底である。内面には一様に打痕を印し、外面には蓆文を押している。土器は数十片に砕かれていたが略完形に復元し得た。使用時網で包まれていたらしく、幅約二分の材料で網目一寸余の痕が表面全休に薄く残っている。勿論材料に何を用いたか判らない。此の壺と前述の把手付広口壺とは何れも肩の辺まで泥土がつまり其れ以上には水が湛えられていた。横瓮一、胴の長径一尺五分、短径七寸三分、上部中央に漏斗状の口が付着し口縁部までの高(154)さは九寸である。口縁部の直径は一部欠損のために明かになし得ないが、頸部の径は二寸九分である。外面には一面に蓆文が刻され器壁の厚さは各部略一様で約三分である。ただ横に長い胴の一方の内側に径一寸五分の円形に稍薄くなっている。形も突出の度合が幾分強く、色も特に黒色である。これは一般の横瓮が左様であるように初めに其の部だけ除いた全体の胴部を作り、後に此処に別の土を張り付けて其の穴を塞いだ工程を示すものである。
 (三) 埋設土器と埋設土器上被層。扨此の井底に検出された土器群は出土の状況から推して偶然に落下して其の位置を占めたものではなく、明かに人工的に安置増設されたものである事は既に述べた通りである。先に唐古弥生式遺跡第八〇号地点出土の井らしい坑の中位に「一個の長頸壺形土器が遺存した」事実を記るしたが、これはさておき橿原遺跡出土井ばかりでなく、前述の奈良県橿原市木殿発掘の井からも其れと見られる土器を出し、又昭和十六年二月橿原遺跡を去る北東三粁の橿原市|醍醐《だいご》の新賀《しんが》池で発掘された縦板有柱式井底からも埋設土器として土師広口壺、同皿及び祝部平瓶各々一個を検出した。此等の土器に対して我々橿原遺跡調査委員会では埋設土器と命名した。別に第十三号、第十八号井では更に此の埋設土器を被うて礫、砂等の上被層が認められたが、此の層に対して、同じ委員會は埋設土器上被層と命名した。我々は発掘調査の資料から上代井にあっては井底にこの様な構作を施す習俗があったと帰納する事が出来たが、今重複を顧りみず埋設土器及び埋設土器上被層の構造状況について各井の記載を更に摘記すれば次の様である。
 第二十号井。方型、縦板有柱式井筒。埋設土器は祝部の平瓮で四箇である。略同形品で井筒底四角形の位置に各々口部を中央に向けて水平に埋設されていた。
 橿原市醍醐の新賀池出土井。角型、縦板有柱式井筒。土師広口壺、同上皿、祝部平瓶各々一箇が検出された。
(155) 第五号井。角型、縦板無柱式井筒。埋設土器は糸尻を持つ土師皿一箇で、正しく水平に上向きに置かれ下半は堅く栗石層に食い込んでいた。別に栗石層の中から和銅開珎一箇が検出された。橿原市木殿出土井。角型、縦板無柱式井筒。詳細は不明であるが井筒底から土師器の皿一、小型広口壺三を出したという。皿の底裏に墨書銘が認められた。
 第十四号井。角型、横板有柱式井筒。埋設土器は土師、祝部の各種広口壺で、土師壺の内二箇は極めて小型であった。埋設土器上被層とは明確には断定し得なかったが土器群を被う砂の薄層が認められた。
 第十三号井。方型、横板無柱式井筒。栗石層の上方約一尺五寸のところに砂、礫から成る埋設土器上被層が造られ、其の下方に十数箇の埋設土器が安置され、其のあるものは肩部以上が水のみであった。土器は始めは蓋で被われ、其の内容は中空か水が入れてあったものと推測される。
 第十八号井。方型、横板無柱式井筒。栗石層の上方二尺の部に礫だけの埋設土器上被層があり、其の下方の理設土器は土師広口壺八箇、祝部平※[公+瓦]一箇の計九箇で、其のあるものは全く水だけを容れていた。土器の外石英粗面岩の板状のもの、棒状木製品、瓢箪各一などが検出された。
 第二十三号井。角型、横板無柱式井筒。埋設土器は四箇で、内大型の一箇は栗石層上に直接置かれていたが、他の三箇は極く小型のためか木片を敷いて其の上に安置していた。別に瓢箪一箇も検出された。
 第八号井。六角型、横板無柱式井筒。土師皿七八枚と祝部甕の大形破片数枚とが理設土器として検出された。何れも栗石層上に安置され皿の内何枚かは重ねられていた。二箇の皿の底裏には「神」字が一字宛墨書されていた。笹塔婆一枚も付近から検出された。
(156) 第十一号井。土井。円型。埋設土器として井底中央から小型土師広口壺一箇を検出した。
 第十七号井。土井。円型。埋設土器として底部中央から土師広口壺一箇が検出された。
 第九号井。組合せ型、上下二段式上下異構造上下異寸井筒。埋設物とは明確に断定し得ないが下段井筒下底に近く十数枚の笹塔婆が検出された。参考として記るす。
 扨埋設土器及び埋設土器上被層の性格について記るす事となったが、現在の段階に於て此の問題について結論的なものを出すことは、其の発掘調査例が橿原遺跡を中心とした比較的小範囲内のものであり、且少数例のため早急の感がないでもないが、今其の傾向として述べうる事は
 (イ) 埋設土器は必ず井筒底の栗石層の上に安置埋設され、其の数は一箇乃至十数箇に及んでいる。土師器、祝部土器共に用いられ、器種は壺と皿が最も多く平瓶、横瓮等も混じていた。大きさについては中に非実用的と思われる小型壺が見られた事である。埋設土器上被層をもつものは少数であったが、これを欠くものに比して一層鄭重、荘厳な感じがある。二者とも同一意図のもとに構作されたものであろう。
 (ロ) 埋設物は土器を主とするが其れと共に他の資材も併せ埋められていた。其れは極少数例であり、其の埋設の状況等も明かになし得なかったが埋設土器と略同じ位置から第八号井からは笹卒塔婆、第十八号井からは石英粗面岩の板状のもの、棒状木製品、瓢箪、第二十号井からは瓢箪等が検出された。偶然に落ち込んだとしては其の位置が余りにも深すぎ且土器埋設の意味が祭神にあったと考えられる以上、此の様な資材が土器と併せて祭神料として用いられた事も有り得ると思われる。第五号井栗石層中に検出された和銅開珎も此の意味に於ける埋設物であろう。
(157) (ハ) 井筒の型式と埋設土器及び其の上被層との関係については、此等の構作は角型井筒及び十井だけに行われて、将来は兎も角現在は他の円型及び組合せ型井筒からは検出されなかった。  (ニ) 埋設広口壺の或るものは其の当初から中空か或は水を容れてかで埋設された。此のような検出例は少数ではあったが、広口壺ははじめは恐らく其の大部分がこのようにして埋設されたものであろう。
 (ホ) 埋設土器及び埋設土器上被層構作の時期。何時構作されたものであろう。二つの時期が仮定される。一は井が構築される時、二は其れが廃棄される時である。発掘の結果からは此の疑問を解決する積極的な証左は見出し得なかった。従って此の問題は遺憾ながら不明として後日の解決を待たねばならない。唯仮定の論拠について記るせば、
 a 第五号井の埋設土器は一箇であったが、其の埋設を井筒組立完成の後に行う場合は子供なれば兎も角普通人の大きさでは作業が極めて困難である。其れは井筒の内法が略南北一尺四寸、東西一尺六寸弱の大きさで、これでは身体を下方に曲げて土器を埋設することは不可能に近いと思われるからである。従って此の事実から導かれる結論は埋設の作業は、井筒の組み立てられない前、則ち井構築の際に行われたという事である。
 b aの結果を正しいとして他を顧りみた場合、まず第十三号、第十八号両井に於て其の埋設土器から栗石層までの厚さはそれぞれ一尺五寸及び二尺で、此等の井の使用時の深さを各々七尺五寸及び十尺(共に推測)とすれば、上被層以下の厚さと井の深さの比は略一対五となり、これは井底の最も良水を得られる栗石層直上の五分の一の深さに当り、たとえ祭神の為とはいえ此れを犠牲として慮りみなかったという事となる。果してこれはあり得る事であろうか。次に埋設土器について其れ等は殆んど倒れるような事がなく正しく上向きの状態で発見されたものが多(158)く、其の初め埋設された時の姿を略其の儘現在にまで持続して来たと考えられる。若し井構築の際埋設が行われたとした場合、其の後の長年月の使用に耐えて……時に井戸浚えも行われた事であろう……此の様な原形を保ち得るものであろうか。埋設土器上被層で被われているものは兎も角として、全然其れがなくて第八号井では土師皿が数枚も重なり合い、第二十号井では四箇の平瓮が口を中央に向け揃え、第二十一号井では高さ僅か二寸前後の広口壺数箇が木の台の上に置かれたまま倒れもしないで残っていたもの等余りにも埋設時の原形を伝えるものが多い。以上二つの事実を強く考慮した場合、埋設は寧ろ井の廃棄の際行われたとした方が無難であるとも感じられる。
 上述のような推測論を行ったが資料不足のため確答をなし得ない。考古学はあくまで発掘の事実に立脚して諭ぜられねばならない。検出例の少い本間題に対して著者は余りにも推測諭に深入りし過ぎたと感じながらも将来の参考のために述べた。
 (ヘ) 最後に土器の埋設はどういう意味を持っていたか。一般に上代にあって土器は祭神料として用いられていた。今延喜式によって祭神料としての主なる土器の種類を記るせば次の様である。
 缶《もたひ》。坩《かはしりつき》。酒壺。瓶《かめ》。平居《ひらすゑの》瓶。杯《つき》。短女杯《ひきめつき》。坩杯《つぼつき》。盆《ほとぎ》。匝《はさふ》。高盤《たかひら》。土片|椀《もひ》。陶※[瓦+長]《すえのさらけ》。
 勿論祭神料は土器だけに限られず武具や農工具其の他種々の物が用いられ、先にも述べたように井筒底から埋設土器と伴出した種々の物品は其れに当ると思われるが、土器は最も一般的に用いられて神祭にふさわしいものとされ、其のため土器を祀ると云う事が直ちに神を祭るという事と同意語になっていた。例えば日本書紀崇神天皇の条に於て同天皇に叛いた武埴安彦を討伐する時の記事に「爰に忌瓮《いはひべ》を以て和珥武※[金+巣]《わにたけすきの》坂の上に鎮座《す》う」とあるが、其の意味は山城に出撃する皇軍の戦を祈って和珥武※[金+巣]坂で神祭りを行ったと云うことで、「忌瓮を……鎮座う。」と神(159)祭りとが同意語に用いられている。又次の万葉歌からは祝部を地面に掘り据えて神祭りした様を窺うことが出来る。
 大伴坂上郎女、祭神の歌一首並に短歌
 ……奥山の 榊の枝に 白紙《しらが》つけ 木綿《ゆふ》とりつけて 斎瓮を 忌ひ穿《ほ》り居《す》え 竹玉を……(三七九)
 上代人は土器に対して此の様な性格を賦与していたのである。埋設土器の解釈は上代人の此の様な観念を背景として考察されねばならない。そして其の意味は井に坐す井神に対してか或は井其のものに神性を認めてか、土器を斎い据えてこれを祭るという事であったのである。
 第十八号井。大運動場の東側を南北に走る道路の東側、信光寺のやや南方の地点に所在していた。方型、横板無柱式で型態、構造共に第一号井の外側井筒と同型式で、前述の第十三号井と比較すれば前者は突付、此れは枠組で、蒸籠を重ねたように枠の四隅に長※[木+内]を有する事が特徴である。横板の長さは略三尺五寸、厚さは不揃いであるが一寸前後、此の板四枚を以て蒸籠形を作り、之を重ねて井筒を成形している。現存の段数は六段、各段の高さは最小一尺一寸五分、最大二尺二寸で総高八尺二寸五分に達している。井筒の内法は枠によって稍異なり其の長さは三尺から二尺七寸までである。枠の四隅に直角に出ている※[木+内]は第一号井のものに比して著しく長く其の長いものは三寸五分にも及んでいるがこれも不揃いである。井筒の組み方には特異な点が二つ発見された。其の一つは※[木+内]組みの板の合せ目に直径二分位の穴を穿って木質の釘を一ヵ所宛打ち込んでいる事である。これは板の離脱を防ぐ目的に出たものであるが、井筒埋設の後は外方から強い圧力が加わるので其の恐れはなく、所謂蛇足の感がないでもない。此の井筒だけの例である。他の一つは全部ではないが、各段の板の上下の合せ目に外部から隠して上下に通じる角穴(大※[木+内]穴《だぼあな》)を穿ちこれに長さ約二寸、縦一寸二分、横(厚さ)三分位の小木栓、則ち繋ぎ(だぼ、隠※[木+内]《かくしぼも》)を挿入(160)してあった事である。勿論これは各段各辺の全部にあった訳ではないが、其の位置は一辺について一ヵ所の時は略中央に、二ヵ所の時は其の両端に近い。此の繋ぎ材は上下の段が前後左右に移動するのを防ぐ為のものである事は言を要しないが、現在でも奈良盆地の各所に見られる瓦井筒にやはり円型の大※[木+内]穴があり、これに竹を嵌めて用いている。
 井筒の内部については其の上部からは遺物は全然検出されなかったが、底部からは第十三号井と同様の構作が発見された。其れは栗石層上約二尺の位置に拳大の礫を一面に敷きつめて埋設土器上被層を造り、其の下方に埋設土器を安置してあった事である。土器の数は土師広口壺八箇、祝部平瓮一箇の計九箇で、殆んどが半ば傾いた状態で発見された。土器の或るものは全然中空であった。同じ場所からこの外に石英粗面岩の板状のもの、棒状木製品、小さな穴二筒を穿った瓢箪一筒が検出された。土器以外の三物件も埋設土器と同じ意図の下に置かれたものであろう。以下これらについて摘記すれば、
 (一) 土師器。広口壺。一は胴部最大径五寸四分、高さ四寸七分、外周には煤煙が固着している。他の三箇の広口壺は第十三号井出土の四箇の土師壺と胴部の直径と其の高さとが略等しく、五寸乃至六寸の間のもので内外両面に刷毛目が認められる。最小の五寸のものは緊密に網で包まれていた。網の材料は蘆様の植物の茎を平たくしたもので網目は六角形、其の径は三分位である。網で被われていた部分は土器の膚が略原形を保っていたが、目の部分は露出していたため荒れて凹んでいる。破片ではあるが別に他の一箇も検出され、此の目も六角形、径は六分前後であった。
 (ニ) 瓢箪(柄杓)。既に述べたように本井及び第二十一号井から発見された。本井のものは埋設土器と略同じ高(161)さから発見され、下底の一部であるが復元した直径は四寸位のものと推測される。併しひどく潰されているため明かにはなし得ない。今瓢箪について説明を加えれば一般に上代にあっては此れは現在の柄杓《ひしやく》と同様に用いられていた。「神楽歌採物歌」の杓《ひさご》の句に
  杓
   本
 大原や清和井の清水
 杓《ひさご》もて
 鶏は鳴くとも
 遊ぶ瀬を汲め
 遊ぶ瀬を汲め
 とあるが、この「ひさご」は瓢箪を柄杓に用いたものである。狩谷掖斎翁は其の箋注「倭名類聚抄」に於て、この「ひさご(註一)」が後転訛して「ひしゃく」となり、或は「ひ」を約して単に「しゃく」となったと述べ、更に瓢箪の長いものを柄杓に使う場合はこれを割って用いたこと、又瓢箪を「なりひさご」と呼んだのは、木で造ったものまで「ひさご」と云うようになって両者の区別がつき難くなったので「なり」の接頭語を付加した。「なり」の意味は草木が実を結ぶことを意味すると説明されている。以上をまとめる意味に於て次田潤氏の祝詞新講のこれについての明快な説明を引用すれば
 瓠《ひさご》と柄杓《ひしやく》とは同義であって、「ヒサク」は「ヒサゴ」の転訛である。瓠の実を二つに割りて、中を虚にして日に(162)乾して、水を斟むのに用ゐるのが「ヒサゴ」で、後世木の薄板を曲げて造った柄杓を「ヒサク」と呼ぶのも、用途が同一であるが為である。水を斟む時に瓠を用ゐる古俗は今も田舎には稀に見受けるが、朝鮮などでは今でも一般に用ゐてゐる。
 最後に江戸中期頃に著わされた倭訓栞によれば其の頃未だ瓢箪の柄杓が一般的だった事を示し、「今も杓に瓢を用るもの多し」と記るされている。ただ注意したい事はそれでは上代には現在の様な形で長い柄のついた物は無かったかというと決してそうではなかった。天王寺扇面古写経の下絵によると現在のものと殆んど同形の長い柄をつけた水柄杓で水を酌み、それから飲んでいる絵があるので明かである。ただ絵のため詳細が判明しないが柄は真直で木製らしく杓の部は竹か木か判らない。柄と杓との取り付けは特別な工風によって柄の先端を杓の外側上端に近い一点に固着しているが其の方法は判らない。併し現在の曲物製柄杓のように柄の先を杓の外部上方から内部の底に突きさして固着しているのとは明かに異なっている。
 第二十一号井。橿原遺跡の北方四条池の中央から稍東北寄りの地点に所在していた。角型、横板無柱式の井筒で、長さ約二尺五寸、幅六七寸、厚さ一寸余の板四枚を突付に組んで四角形を造り此れを重ねて井筒を成形している。上部が早く失われたため井筒の深さ、段数などは不明である。井筒内部の青色泥土、栗石層等については他井と異なるところはないが、埋設土器に異例なものがあったので次に記した。其れは土器のあるものが極めて小型であることと、其の埋設安置の方法が他と異なっていることである。則ち四箇の埋設土器中三筒の小型土器についてはわざわざ一木片を置き其れを台として其の上に安置されていた事である。此れは次の計測の結果が示すように極く小型の土器のためであろうが本井だけが持つ特異な型式である。他の最も大型の一箇は直接栗石層上に置かれて(163)いた。
 (一) 土師広口壺。前述の四箇の土師広口壺が埋設土器として用いられていた。まず木の台の上に安置されていた小型土器については一は胴部直径二寸六分、口径二寸七分、高さ一寸七分五厘で稍薄手である。二は胴部直径二寸三分、口径二寸四分五厘、高さ一寸六七分、前者よりも稍小型で形も歪み粗製の感がある。三は最小で広口壺というよりも寧ろ筒形の丸底土器と呼ぶ方がふさわしい。口縁部と胴部との離れもなく口径一寸七分、高さ一寸六分である。此等三箇の土器は実用のものとしては余りにも小型に過ぎ、製作の当初から或る非実用的な目的恐らく祭祀用として造られ、其れが井底の祭神料として充てられたものであろう。栗石層上に直接置かれていた一箇は最大のもので把手を両側に持つ壺である。胴部直径五寸七分、高さ四寸六分、口径四寸二分で糸尻を持っている。把手は胴の左右に上向きに付いているが其の先端は共に欠けている。外側は刷毛目を水平につけ、口縁部外側は箆で斜線を刻している。土質は精良で厚肉である。
 
 註一、ひさご。箋注倭名類聚抄に次のように述べられている。
  ○按今俗呼2比車久1者、比佐古之※[言+爲]転、又呼2車久1。
  ○按瓢古単言2比佐古1、其長頸者、割v之為2斟v水器1、……比佐古遂為2木勺之専名1、敗瓢云2奈利比佐古1以別v之、奈利、草木結実之謂也、
 
        第8目 角型・六角型式井筒の例
 
 橿原遺跡出土の第八号井で唯一箇だけ発見された。位置は現在の大運動場の中央稍南寄、第三号井の西方約五十(164)米の地点である。型式は角型六角型、構造は横板無柱式で本遺跡発掘の二十一井中第四号、第八、第十六号井と並んで構造、手法最も入念精巧を極めている。先づ井の方位について六角形の対角線の方向は正中線に一致していた。厚さ三寸、幅七八寸、長略二尺の板六枚を横に組み合せて対角線の長さ三尺六寸の六角形を作り、これを重ねて現在高さ六尺の井筒を成形しているが、板の左右、上下の組み合せは実に巧妙、入念に行われている。井筒の外側は其の下方には各辺夫三一本の杭を井筒板に密接して打ち込み更に礫で堅く固めていた。
 内部は他例と同じく青色泥土が充満し土師、祝部等の土器片は全面的に発見され、古瓦片、桃種、木の葉の層等は上層以上に多く発見された。最下の栗石層は拳大の礫を砂で固め、其の厚さは二尺に及び群を抜いて非常に厚い。
 遺物について先づ埋設土器と墨書銘ある土器について記るせば栗石層に接して大型祝部壺の破片数個と土師器皿とが発見された。土師皿は其の数七八枚に及び、いづれも上向きに置かれ其の内何枚かは重ねられた儘発見された。特記すべきは内二箇のものに各「神」字一字が墨書されていた事である。土器の一は直径四寸四分、高さ一寸三分五厘、稍厚手で、内面には薄く刷毛目があり、外側には口綾部に限り約五分位の幅で同様刷毛目がある。墨書は裏面殆んど中央にあり、大きさは約七分角で一度記るしたものが薄かったか、或は薄色になった為か再び濃い墨で其の上から書き直している。筆力は勇健である。他は直径五寸七分、高さ一寸一分稍薄手の土器で、内面は同じく刷毛仕上げ外側は刷毛及び箆で仕上げている。前者同様裏面中央に「神」字が墨書されている。字の大きさは三分角位、墨色は薄れ、筆力は弱々しい。此の神字の意味については総説の部に於て述べた井の信仰及び横板無柱式井筒の項に於て説いた埋設土器についての記述によって了解される事と思われる。なお此の井からは別に小片ながら「右」字を書したものと、小型皿の内面に口縁に平行して一線を墨書したものとの二箇の土師皿片をも検出した。(165)次に古瓦について其の大部は布目の平瓦片であるが、中に一箇の複瓣蓮華紋疏瓦片を検出した。約半分の破片であるが復元の結果、其の直径は五寸二分である。外帯の紋様は剥落の為不明、中帯の珠文は稍小型で現存八箇、全部で十五六箇と推定される。子房は直径一寸、蓮子は五箇である。蓮花紋を初めとして全体の感じ極めて繊細で奈良時代末期のものである。三は乾漆片について。不整形の破片三箇を検出した。最大のもので縦二寸六分、横一寸七分、厚さ一分弱である。縦糸、横糸で、織り上げた荒目の麻らしい布を数枚重ねて漆で固着していた。四は笹塔婆について、栗石層に接して笹塔婆一枚が検出された。型式は第九号井(組合せ型、上下二段式上下異構造上下異寸井筒の例に記載)出土笹塔婆の二種の型式の内入念な制作のものに属している。長さ五寸七分、幅五分、厚さ一分弱であるし 五輪をあらわす左右からの刻み目は片側が五、他方が六である。
 六角型井筒については先に第二章石井の項に於て「興福寺濫觴記」を引いて此の種の石井筒について記るし、別に同章井一般の項井戸屋に於ても触れて置いたが、此の井の検出によって上代六角型井筒の実際を知り得たのは幸であった。
 
        第9目 組合せ型・上下二段式上下異構造上下同寸井筒の例
 
 上下二段の組合せからなり上下の構造は異なっているが其の平面の寸法は同じ井筒を云い、橿原遺跡出土の第十九号井がこれに当っている。
 第十九号井。橿原神宮大鳥居前のロータリーの南辺から出土した。上段は角型、縦板有柱式、下段は角型、横板無柱式で両段共其の平面積は同寸で方三尺五寸である。上段は先ず四本の柱を方形の位置に立て、これに※[木+内]穴を上(166)下二段に穿ち各々横木を挿入して四本の柱を結びつけて井枠を作り、此の井枠の外周に一辺各四枚の板を縦に並べて井筒を成形している。縦板の幅は殆んど同じで八寸前後、長さは現存最大七尺であるが四五尺のものが最も多い。厚さは下端に於て一寸三分位を算するが上部は痩せて薄くなっている。下段の構造は枠組みである。埋立工事の都合上中途で井筒を埋設したため計測も出来ず又井筒最下底をも究める事が出来ず遺憾であった。唯井筒の深さは上下合せて略十一尺五寸と推定される。しかし此の附近は早く整地作業が行われたため井筒と原地表面との関係は遂に知る事が出来なかった。珍らしいことに井筒は全体として西に傾き其の傾斜は七八度に及んでいる。これは井筒西側の地盤が特に軟弱だったため東側からの土圧の結果生じたものである。
 検出遺物としては上段内部からのものは殆んど記るすに足らない。下段内からのものについては其の中辺に合口皿が二組略同一平面に水平に約五寸離れて置かれていた。一組は土師器、他は祝部土器で、内部は共に青泥で充たされていた。また此の土器の傍から延喜通寶一箇が検出された。この古銭は醍醐天皇の延喜七年(紀元一五六八年)初めて鋳られたもので、先に記るした第五号井出土の和銅開珎と共に上代井の実年代を決定する上に頗る貴重なものであった。次に上下両段を通じて曲物桶三箇が略完形で発見された。直径七八寸のもの一、長径四寸九分のもの一、四寸のもの一である。前者は底を上として斜めの位置に、後二者は底を下にして水平の位置に発見された。今四寸九分のものについて代表的に記述すれば長径は四寸九分、短径は四寸五分で、土圧のため稍歪んでいた。縁の材は幅(桶の高さ)二寸五分、厚さ一分弱で、これを円く曲げて両端を二寸五分の幅に重ねて、幅二分の丈夫な木皮を以て縫合密着させている。底板の厚さは一様でないが略一分五厘で、縁の一方に嵌め込まれ外側六ケ所から木釘で堅く打ち附けられていた。此等三箇の内恐らく小型の三箇は釣瓶として、大型のものは桶として用いられたも(167)のであろう。以上の外に他井と同様に土器片、古瓦片、桃の種などが検出され又所々に薄い木の葉の層が挟在し、其の中から甲虫、田螺などの死屍も発見された。次に合口皿及び曲物について再説すれば
 (一) 二組の合口皿。此の明かに意識されて埋設された二組の合口皿について如何なる解釈を与う可きであろうか。土器に対する上代人の信仰の一般的なものについては角型、横板無柱式井筒の例の項に説いたが、更に上代人は土器を呪詛の具に供し又これに呪詛的性格をも附与していたのであった。呪詛の具として用いた例については神武天皇は大和平定の祈願のために丹生川上《にうかはかみ》に於て神祇を祭られ、其の際土器(厳瓮《いつへ》)を丹生川に沈めて「若し魚大小となく悉く酔ひて流れ」たなれば、大和平定は必ず成ると宣せられて一種の呪詛を行わせられた。次に十訓抄の一節を掲出したが、本抄は鎌倉時代に著わされたものではあるが、其の内容には平安時代に取材するものが多く、掲出のものは御堂入道関白則ち藤原道長についての記事からである。
 十訓抄 第七の二一
 御堂入道殿、法成寺を作らせ給ふ時、毎日渡らせ給ふ。其頃白犬を愛して飼はぜ給ひける。御供に参りけり。或日門を人らせおはしますに、御前に進みて走りめぐりて吠えければ、……忽に晴明を召して、子細を仰せらるるに、……君を咒詛し奉るもの、厭術の物を道に埋みて、越えさせ奉らんと構へ侍るなり、……其所を指してほらするに、土器を打ち合せて、黄なる紙ひねりにて、十文字にからげたるを掘り起してけり。解きて見るに、入りたる物はなくして、朱砂にて一文字を土器に書けり。 文中「土器を打ち合せて」の意味は合口皿の趣向と思われるが、これは発掘の合口皿を解する上に要用な記録と思われる。別に我々はこれの考察にあたって発掘に依る貴重な資料を持っている。それは奈良県史蹟名勝天然記念(168)物調査報告第十五冊、宮瀧の遺跡の記事で、これによれば同遺跡の重要な遺構の一つである上代建築の敷石の傍ら下方からもこれと同様の「埋納したと見るべき一組の合口皿があった。この土器は合せ口たる手法によって明かに意識的な埋蔵を認め得るとともに、礎石に対して一種の鎮壇具としての埋蔵を思はせるものでもある。」「ただその調査に於いて、内部に遺物ありや否やを仔細に検したけれども、細砂の充塞する外何物をも認めなかった。」と記るされ、又右の外にも「年代は或は下降すること甚しいとも思われるが別に数組の合口皿がある。のちのかはらけに類したものであって、内面に墨書をしてあって、明らかに密教の鎮壇具と推される。」と説かれている。以上の引用で明かなように本井出土の合口皿は宮瀧のそれと極めて酷似している。ただ本井附近には建築遺構らしいものも発見されなかったので今は鎮壇具と説明するより、十訓抄によって寧ろ呪詛の意図に出でたものと解したいと思う。殊に第一章第四項第十二目に述べたように我が上代に行われていた井に物品を入れて呪ふ風習は此の考察に強い支持を与えるものと思われる。なお土器の持つ呪詛的性格については此の問題に直接の関係がないので説明を略することとした。
 (ニ) 曲物。曲物は桶或は釣瓶として上代井の中から出土し別に井筒にも用いられているので次にこれについて総括的な記述を行った。此れは別に綰物《わげもの》とも云い、檜、松などの薄い材を円形に綰《わ》げ、合せ目は普通樺皮などで綴ぢた容器を指す。現在は殆んど跡を絶ったが中世以前に於ては広く容器としても使用され、江戸時代に於ても倭訓栞によれば「今も東国の桶は麻笥の如く木を屈めて囲をし樺をもて縫たる物多しとぞ」とあるように、極く最近まで用いられ現在でも祭祀などには襲蔵のものが引き出されて用いられる所があり、未だに大和の古老の間には「ワゲル」「ワゲモノオケ」等の言葉が残っている。又一般に現在も曲物が水柄杓、肥柄杓、火鉢桶、飯櫃等に用いられ(169)ている事は人々の知る所である。板井に水を汲む釣瓶について平安時代の倭名類聚抄によれば「桶……汲2水於井1之器也」とあり、当代にあっては桶……曲物桶も水を井に汲む器で現在の釣瓶に相当していたし前に記るした信貴山縁起絵巻、石山寺縁起、融通念仏縁起絵巻等には、此の曲物桶を綱で十文字に括りつけて釣瓶に使用している図が見えているが、桶の小型のものを釣瓶に用いていたのである。さてこれについて狩谷掖斎翁の箋注倭名類聚抄は
  ……以v桶為d汲2水於井1之器u、未v聞、若是汲器、宜v訓2都留閇1、汲v水致2之他1之器、当v訓2乎計1。
 と説いて、桶で井から水を汲むという事は末だ聞いた事がない。水を汲む器なれば都留閇《つるべ》と訓むべきで、桶は水を汲んで他へ致すものだから、桶と釣瓶とは異なったものとして和名類聚抄の本文を否定されている。なる程釣瓶の文字は前にも述べたように(第二章第一項第五目釣瓶参照)日本書紀神代巻に出でて、上代にも桶と釣瓶の区別はあった。併しこれは単に桶の用途の上に於ける相違で、比較的小型の桶で井から水を汲み上げるのに用いたものを釣瓶と呼び、桶と釣瓶の相違は形の大小と用途の上の相違である。発掘の結果上代井の中から屡々絵巻物等に釣瓶として描かれている曲物と同じ位の大きさと思われるものが出土しているので、小型で井に用いた曲物を釣瓶として他の桶と区別し、やはり倭名類聚抄の本文に従いたい。資料としては稍新しいが次の文書も上述の見解を補足するものであろう。
 春日神社文書第三 大東家文書(年代不詳)
 南北郷出納御供所替物注進状
 ……
 一、ワゲ桶 【四口※[土+完]飯桶、立八寸、広サ《内ノリ》壱尺弐寸
        八口汁桶、立六寸、広八寸
        八口ツルベケ、立四寸三分、広五寸弐分】   弐拾口
(170) これは曲物桶(ワゲ桶)二十箇(弐拾口)の内訳の説明であるが、内四箇は塗飯櫃(※[土+完]飯桶)、八箇は汁桶、八箇は釣瓶桶(ツルベケ)で、更に各々の高(立)、直径(広)が記されている。これによって同じ曲物桶で高さ、直径の大きいものが桶に充てられ、小型のものが釣瓶に用いられている実情を知る事が出来る。
 扨橿原遺跡出土の曲物についてその直径は数寸の小型のものから一尺四五寸の大型のものまで各種にわたり、高さも二三寸から六七寸のものに及んでいる。本井出土の二箇の小型桶は其の寸法も略春日神社文書に記るされたものに似ているので釣瓶桶の遺材と考えられる。
 材については現在のものと同じく平たく剥いだ薄板を用いているが、大型桶及び井筒等に用いられているものには浅い苞丁目を入れている。苞丁目の距離は二三分から五六分で、比較的底に近い部に多い。この目は云う迄もなく材を円形に曲げる際に容易にするためのものである。この苞丁目について次の様な分類が出来る。
 イ、全然ないもの
 ロ、側板《かわいた》の内側だけにあるもの
 ハ、側板の内外両側にあるもの
 ニ、側板の縁《ふち》に付して直角に苞丁目を入れたものと斜に入れたもの
 ホ、側板の平面に対して苞丁目を垂直に入れたものと斜に入れたもの
又側板の両端の合せ方については
 イ、小型のものは両端を二寸余重ねそれを留める木皮は縦に一ケ所である。
 ロ、大型のものは重ねた部も広く直径一尺四寸五分のもので六寸に重ね木皮も二ケ所に用いているものがあった。
(171) ハ、特殊例と思われるが第九号井出土の直径五寸の小曲物は薄い側板を二重に用い従って合せ目は三重となり木皮も二ケ所で留めていた。
次に底板の取り附け方については
 ィ、側板の一方の縁に底板を嵌め込み外側から釘でとめていたもの
 ロ、二例だけであるが側板の一方の縁の内側に縁に平行して断面凸状の帯が造られているのが検出された。これは底板を他方からここに落し込んで此の突帯で支えるための施工と考えられる。此の二例に限って釘穴は全然認められなかった。
 
        第10目 組合せ型・上下二段式上下異構造上下異寸井筒の例
 
 上下二段の組合せからなり上下の構造及び其の平面の寸法共に異る井筒を指し、橿原遺跡出土の第三号、第九号、第十二号井及び奈良県高市郡明日香村大字岡出土のものがこれに当るが、後の二井については円型曲物式井筒の例として先に述べたのでここでは前の二井について記るすこととした。
 第三号井。大運動場の中央稍東南寄りの地点から発見された。上段は四角型、縦板有柱式、下段は円型井筒である。上段井筒は一辺二尺五寸の方形に組合せた木枠の四隅に四本の小柱を立て此の周囲を縦坂で囲いをして井筒を成形している。下段の原型には刳板式井筒が使用されていた。其の直径は一尺五寸で円材の内部を刳抜いて円筒型にしたもので、其の厚さは一寸弱である。別に外周には薄板を何枚も曲げて之を取り巻いた工作が施こされていた。此の下段は浄水を溜めるための装置である。又上下両段の間隙の平面及び下段の底部には他例同様の栗石層が発見(172)された。整地後に於ける地表面から上段下底までの深さは約六尺であったので原井筒の深さは其れ以上である。
 第九号井。現大運動場の外側東南隅から国道を隔てて東方約三十米の地点、運動場の東側を南北に走る近畿日本鉄道橿原線踏切番小屋の下に所在していた。上下両段共方形、上段は横板無柱式、下段は縦板有柱式で上段より小型である。本井は其の大きさ、深さ共に橿原遺跡地及び其の他から発掘された諸井中最大のもので、此の外にも特定を持っていた。もと此の附近は小字狐塚と呼ばれ、南から北に延びた低い丘阜地であったが、井発掘の際には既に整地が行われて平坦地となり井の上部も切り取られていた。井筒の外側は他例同様青色に変っていたが、附近の土壌が黄褐色のため其れが極めて鮮明に現われ、其の幅は井筒の上方に於ては其の外周一尺位であるが、中段以下に於ては四五尺の幅に及んでいる。此の様な井筒中段以下の幅広は井水が其の辺の高さまで湛えられていて水汲みのため動揺が甚だしかったため生じたものであろう。此の部分の井筒の外側からは相当多量の古瓦片、礫、木材片等が発掘された。此等の内の一部は其の検出時の状態から推して、井筒構築の際、其の板片が倒れるのを防ぐために一時的な支えとして使用され、それが其の儘埋設されたもの、他は附近に散在していたものが同じく井筒を埋める時土砂と共に埋め込まれたものであろう。上下の二段とも其の方位は南北の方向と一致している。整地のため原地表面が略四尺削られて其の部の井筒は取り去られていたが、猶現在井筒の上端から最下の栗石層まで九尺五寸の深さを算するので使用当時の深さは十三尺五寸以上と推定される。上段の方形の一辺の長さは五尺六寸、板の厚さは一寸乃至一寸二・三分、其の幅は一尺内外、上段の総高は約六尺に達し、各段は突附で組まれている。下段の縦板有柱式は内法約三尺の方形、高さは略四尺、板の厚さは一寸五分内外で上段より厚い。各辺は幅一尺五寸前後の縦板二校を並べて成形しているが、箇所に依って板の幅の不足から生じた数寸の間隙には厚さ五六分の薄板を外側(173)から当てて其れを塞いでいた。比の下段の内側には上下の二箇所に木枠が取り付けられて地圧を支えていた。其の位置については下方のものの下端は井筒板の最下端から上方三寸の部で栗石層の表面と同高であり、上方のものの上端は井筒板の最上端から下方三寸五分の位置である。下方の木枠は幅四寸、厚さ二寸五分余の材を用いて外法三尺と二尺九寸の枠に造り、上方のものは幅三寸厚さ二寸許の材を以て組み立てられていたが、これは腐朽が甚だしく長さの計測は不可能であった。恐らく下方の物と略同寸と思われる。下方の木枠は井筒に固着されていたが、上方のものは此の点も不明である。井筒の四隅には径一寸五分位の小柱が一本宛上下の木枠の間に嵌め込んで立てられていた。其の長さは両木枠の間隔と同じで二尺六寸である。此の小柱は掘り出されて乾燥するとぼろぼろに砕けて仕舞ったが、木枠、井筒板等の頑丈さに比して余りにも繊細、脆弱である。普通有柱式井筒に於ては強力な柱が骨骼となって井筒が構成されているのであるが、これでは全く其の用に耐えず単なる型式的な存在と化している。下段井筒は上段井筒の下底中央に伏せ込まれ、下段の上端は上段の下底から三寸五分の高さに当っている。両井筒の作る間隔は幅約一尺で、其の作る平面には厚さ三四分の薄板数枚を敷き重ね、其の上に平たい石や敷瓦の破片類を一面に敷きつめ砂で固めた栗石層が設けられていた。下段最下底の栗石層は拳大の礫を砂で固め其の厚さは四寸前後である。
 井筒内からの検出遣物は木片、樹皮、桃の種子、土器、古瓦、礫等大部は他例と同じ種類のものであるが異色あるものとしては墨書銘ある土師器皿、漆塗りの土師器皿、青緑釉ある土器、土製馬、小刀子、櫛片、屐、笹塔婆等があり、井筒が大型のため遺物の数量も夥しく内部各所から発見され、又上段井筒の内部からは上方から落ち込んだと思われる井筒板が数板雑然とした位置で発見された。遺物が最も多量に出土した箇所は上端から一尺乃至二尺(174)五寸の間及び下段の中央部附近である。今其れらの内特徴あるものについて記るせば次の如くである。
 (一) 土師器。完形の皿が十七枚、其の他破片も多い。一は直径五寸、高さ一寸、内面及び外側の口縁部附近に刷毛目がある。製法稍粗雑である。二は直径五寸一分、高さ一寸一分、稍薄手、焼成堅緻である。三は直径五寸二分、高さ一寸三分、稍厚手で焼成柔弱である。四は直径四寸八分、高さ九分、内面は刷毛仕上げ、外面には所々に指圧による凹凸を箆で修正した跡が残り、内面には一面に漆が塗られているが、変色して黒色を呈していた。さてこの漆について簡単な説明を行えば漆は早く縄文式時代に用いられ本橿原遺跡についても其の縄文式遺跡から漆製の腕輪様のものが出土し、又奈良県磯城郡田原本町大字唐古の弥生式遺跡(奈良県史蹟名勝天然記念物調査会報告第十六冊)からも漆塗りの弓、櫛、腕輪等が検出された。比の様に一般化されていた漆は歴史時代に入って益々其の使用の範囲を拡大し、大型の仏像までがこれを材料として製作されていたのである。什器としての土器についても其の使用に際して洗滌、清拭に便利な点と盛られた液体の浸透を防いで其の保全を計るという点とを考慮して其の内側に漆を塗る事が行われていた。さきに昭和三年奈良県平城宮遺構の調査(奈良県史蹟名勝天然記念物調査報告第十二冊、平城宮遺構及遣物の調査)に於て、漆塗の土器が発見されたが、本井出土の漆塗土器二例(一例は次に述べた)も亦比の様な意図のもとに製作されたものと思われる。
 (ニ) 墨書銘ある土師器皿。土師器皿の内のあるものには墨書銘が発見された。一は約二分の一の破片で原形は直径六寸、高さ六分と推定されて割合に低く、内面及び口縁部外側辺に刷毛目がある。底部裏面中央に「大」字が墨書されている。大きさは一寸角余、筆力は強い。幸い文字の部は完全に残されている。二は直径五寸六分、高さ一寸の完形品である。内面一部に漆が残っているが元は全面に塗布されていたものであろう。外側には処々に煤が附(175)着していた。底部裏面中央に「館」字が墨書され、其の大きさは一寸角である。三は五分の三程の大きさであるが、之も幸い文字の部が完全に残されている。復元した皿の直径は五寸三分、高さは六分で、底部裏面中央稍一方に偏して「治」字が墨書され、大きさは一寸二、三分角、相当の達筆である。墨書銘について奈良県では曽て奈良市佐紀町の平城宮遺構及遺物調査(奈良県史蹟名勝天然紀念物調査報告第十二冊)に当って窯器(祝部土器)に残された墨書六例が報告され、近く橿原市の藤原宮阯伝説地高殿の調査(日本古文化研究所報告第十一、藤原宮阯伝説地高殿の調査、二)に於ても同じく一例が報告されている。井からの検出例としては他府県に於ては現在まで余り聞かないが、今橿原遺跡地検出のもの及び其の後の検出例を表示すれば次のようである。
  墨書文字  黒書土器の種別及箇数 井の名称或は所在  井の型式
神、神、    土師器皿二箇    橿原遺跡第八号井  六角型井筒
大、治、館、  土師器皿三箇    橿原遺跡第九号井  下組合せ型上下二段式、                                  上下異構造上下上下異寸井筒
人、人、蘭、忠、忠、神(?)祝部土器片一箇 橿原遺跡第十四号井 角型、横板有柱式井筒
上つ      土師器皿一箇    橿原市木殿発堀井  角型、縦板無柱式井筒
竜       瓦器一箇      (註一)奈良市横田発堀井 縦板有柱式井筒
大、大金、大金寺、祝部土器皿三箇(?)(註二)名古屋市昭和区瑞穂町發堀井 横板井筒
 さて以上のような墨書文字は何を意味したものであろう。遺憾ながらこれを明らかになし得ない。唯一二言い得ることは「神」字については既に説いたように井の信仰に関するものであり、「竜」字は其れが水、井と絶対的関連性をもつものである点に興味があり、或は第一章第三項に挙げた多聞院日記の市の井の記録の示すように井に対(176)する竜神勧請の意味を持つものであるかも知れず、他面井信仰に対する大陸思想の強い影響を窺う事が出来る。「大」字については名古屋市瑞穂町出土のものは大金寺と称する寺名の頭文字を採ったとも考えられるが、第九号井のそれは何を意味するものであろう。「大」字の墨書銘は井以外に於て数例が報告されているが、恐らく「治」「上つ?」等と共に吉祥の意を表わしたものであろうか。「館」字についても井以外の二三例が発見されているが当時其れに関係した人々に理解される建造物を示したものであろう。一般に上代に於ては土器に墨書をする風習が盛んで、上流社会にあっては長文の和歌の如きものまで記るして贈答する事が盛行し、土器への墨書は我々の想像以上に行われていた。次に古典から一二の例証を行えば
 万葉集 巻四
 思遣《おもひやる》 為便乃不知者《すべのしらねば》 片※[土+完]之《かたもひの》 底曽我者《そこにぞわれは》 恋成爾家類《こひなりにける》注2土塊※[土+完]之中1。
 此の歌について武田祐吉氏は近著「万葉集全註釈」に於て、歌の下の註に「注2上※[土+完]之中1。」則ち土※[土+完]の中に注すとあるが、土※[土+完]は土製の椀を意味し、本文によれば歌は片※[つち+宛]則ち蓋の無い椀の底に書かれたものと解せられている。一般に※[土+宛]は別に※[怨の心が皿]とも記るし、モヒ、マリと読み、今の椀に以た形のものであるが、土※[土+完]は土器の椀である。又「宇津保物語」によれば
 祭の使
 土器にかく書きつけ給ふ
 所《朱雀》せき身は余所《よそ》なれと遊ぶなる宿に心をわれもやるかな
 蔵開上
(177) 土器を見給へば女御の君の御手にて
 一夜《仁寿殿》だに久してふなるなしたづのまにまに見ゆる千歳なりけり
と例よりもめでたく書き給へり
 (三) 青緑釉の土器片。三片が検出されたが、同一土器の破片と思われる。復元することは出来ないが恐らく直径数寸の鉢形土器で一破片には糸尻の一部が残存している。焼成は堅く、器の表裏に青縁色の美しい釉薬がかけられて光沢がある。
 (四) 土製馬。普通各地から出土するものと同じ型式のものであるが、比較的粗雑な造りである。高さは頸蔀で略二寸三分、長さは尾を入れて三寸三分である。右足は前後の二脚とも欠損している。頭部は別に其の形の士をそこに張り附けて造り、両眼は丸棒で突いて凹めただけである。尾は上方に反転している。一般に土製馬は古墳末期から平安時代まで製作されていたものである。
 (五) 小刀子。上段井筒の下底、東北の隅から発見された。恐らく上方から落ち込んで其のまま埋まっていたものであろう。鞘は失われ、鉄の部分と鍔元に附着した把の小木片とが残っている。刃部の長さ二寸、茎部の長さ三寸、全長五寸のものである。腐朽のため判然としないが片刃のように考えられる。一般に小刀子は土製馬と同じ頃に製作愛用されていた。
 (六) 櫛片。現在の横櫛と殆んど変らない形のもので、下段井筒の栗石層上一尺位の所から出土した。材は小刀子と同じようにここに水を汲んだ婦人の髪から落ち込んだものであろうか。
 (七) 屐。屐は上代「あしだ」と訓み、鼻緒のある履物の総称で、必ずしも現在の足駄のみには限らなかった。こ(178)れ迄の出土例や其の他の研究によって平安時代には既に所謂今の浜下駄と足駄との区別が出来ていた。平面形には四隅の角張ったものと、丸くて全体が隋円形をなすものとがあり、前鼻緒の位置については一方に偏しているものと、中央にあるものとの二種があった。本井上段井筒下底から約一尺位上方に於て屐一箇が検出された。縦六寸一分、横二寸一分の浜下駄で、四隅を丸く落して今の女児の履く形のものである。右側が板目に添って少しく裂け失われているので原形の横幅は二寸二分余であろう。歯は前後に作り出しのものが二枚あり、前方のものは其の高さ、幅共に後方のものより大きい。歯の両側基部には鋭い鑿様のものの突き跡が数個ずつ残っている。台板の厚さは前方より段々に薄くなり現在前方三分、中央二分五厘、後方一分である。前鼻緒の穴の位置は略台の中央で現在のものと変らないが穿孔はやや小さい。下駄全体としての造りは極めて粗雑である。
 (ハ) 笹塔婆。下段底部に近く十数枚の笹塔婆と称する小型板塔婆が検出された。第八号井底からも一枚発見された事は前述の通りである。此の出土品は型式によって二種に分類される。一は入念な造りで現在の板塔婆に似た形のもの、他は粗雑で幅広のものである。前者の一例を挙げれば高さ(長さ)一尺一寸五分、幅三分五厘、厚さ一分弱である。上部に近い左右からの刻み(五輪)は七箇所宛である。第八号井からのものも此れに属する。後者の一例は高さ六寸六分、幅八分、厚さは前者よりも薄い。刻み目は一ケ所宛で頸部に近く、同一箇所に故意に数回小刻みに刃を入れている。類例が少いながら二筒の井から又同じく井底から検出されたことから推して此等は偶然に落ち込んだものではなくやはり何等かの目的をもって埋設されたものであろう。比の種小型塔婆について現在の研究によれば其の使用の盛時は室町時代とし、其の出現は古く遡っても鎌倉時代の末頃とされている。併し第八号井、本井共に此の塔婆は井底に近く埋設され其の附近及び上部から土師器、祝部土器、古瓦片等を出土しているので、(179)少くとも此の塔婆の埋設の時期は其の附近及び上部からの出土品の埋設時期と同じと見なくてはならない。則ち土師・祝部土器と同時の埋設と見るべきである。ところが橿原遺跡出土の上代井の殆んど全部から土師・祝部土器を出しているので、此等の井は此の種土器の盛行期に埋設されたものとすべく、従って笹塔婆(註三)も亦此の時期のものとせねばならない。
 (九) 井遺構の発掘について。此の井は著者の経験した最大、最深のものであり、従って発掘も大掛りのものであったので、これを代表として以下井遺構発掘の一般について記述を行って見たい。先ず発掘に当って遺構の高さと現地表及原地表(井使用当時の地表)との関係則ち高差を調査記録する事が第一である。其れを怠ると原井の深さや其の後の埋没状況等を明かになし得ない。次に角形井筒の場合は其の方位を記入して置かねばならない。これは将来統計的に重要な資料となるであろう。次にいよいよ発掘であるがその前に井筒遺構の深さ(其の時の井筒の最上部から栗石層までの高さ)を測り、それから発掘の第一鍬を下すべき距離を考えねばならない。大約其の位置は深さ四五尺の井筒で六七尺の距離が普通で、井筒の深さに一二尺加えた距離が良いのではないか。この距離は卒然として考えると余りにも遠きにすぎ無駄な労力と感じられるかも知れないが、近過ぎると掘り進むに従って掘り上げた土砂が附近に堆く積まれて地上作業が不便となる計りでなく、下底で作業する場所が狭くなり、止むなく再び穴の掘り拡げと、掘り上げた土砂の再移転とを行わねばならない事が屡々起り勝ちである。なお発掘は附近に障害物が無い場合は井筒の南側から行うのが良い。此れは採光上又は撮影等の必要上最も好都合であるからである。第九号井発掘の際は井筒の現在の深さが九尺五寸であり、井筒南側板の南方十尺の距離に発掘の第一鍬を下したがそれでも十分ではなかった。掘り進むに従って南側だけでなく東西両側の板の外側も掘らねばならない場合が起って(180)来る。然し此の場合は浅い井筒でも最大限南側の深さの半ば位で止めて余り深く掘り下げない方が良い。それは掘り下げすぎると井筒が崩れて来る危険が生ずるからである。井筒が崩れると単に下底で作業に専念する発掘者に傷害を与える計りでなく、井筒の構造や内容物等が乱されてしまい折角の発掘の功が半減されてしまうからである。次に井筒外側の士の掘上げ作業も無雑作に行うことは控えねばならない。特に井筒に接近した部分は慎重に掘り進める事が必要である。其れに井筒の外側にも屡々遺物が検出されたり又重要な事項が偶発的に発見される可能性があるからである。南側外側の発掘が進んで井筒の下底が究められて後初めて待望の井筒内部の検出が行われる。此の検出は勿論上部から行われ、土砂、木の葉の層序関係、遺物の位置及び其の埋没状況等について精密な観察と其れに基づく計測と記録が大切である。検出が終って不用になった土砂は未だ発掘以前の状態のままで残っている北側板の外側に積み上げるのが原則として容易である。南側の板は内部検出の進行と共に一枚宛取り外していくのがよく、従って検出の終った時は井筒板は三方だけがコ字形に残って井筒内は中空になっているので、此等の坂は簡単に全体から離脱して取り外すことが出来る。このあと直ぐ南側以外の未調査の井筒外側三方の土砂埋没状況等について調査しなくてはならない。此の調査について精密に行う意味では南方同様上部から徐々に掘り下げて調査すべきであるが、大体論としては内側から精密に観察して必要と思われる個所だけ発掘調査する程度で如何であろうか。状況によって適度に処置すべきであろう。次は井筒材料の地上引上げ作業である。井筒の板や柱は大小種々であり上方にあるものや、小型で軽いものは兎も角大型で永年の水浸しで重くなっているものはたやすく引き上げる事が出来ず割合に面倒で又苦しいものである。此の場合地上作業員は相当の人数を要する時があり、引上げに要する綱其の他の器材の準備、又作業員や器材の足場も確かりしたものでなくてはならない。其の為には広い平地を必(181)要とするので、発掘の当初から予め掘り上げた土砂の置場について引上作業の邪魔にならないよう考慮しておかねばならない。此の作業中忘れ勝ちな事は栗石層と井筒材最下底部との関係の調査である。井筒材則ち柱及び側板が栗石層の中にどの程度の深さで埋められているかの調査である。最後に栗石層の発掘が行われる。此の層は非常に堅く、又此の頃になると相当疲れてくるのでつい投げやりな気分になり勝ちであるがこれも十分に精査されねばならない。殊に此の層の中からも遺物が検出される事があるからである。井筒材料は適当な場所で陰乾しを行って十分乾燥してから入念に洗滌して附着している土砂や汚物を去り再び洗い水の乾燥するまで静置すべきである。完全な乾燥ののち井筒各材料の実測、又木材の材質検査が望ましく、最後に組み立てを行って元の井筒に復元し、更に細部の観察、他井との比較研究等綜合的な考察が必要である。写真撮影も欲しい。此の組み立てに備えるため予め発掘の際井筒の柱、側板其の他の材料個々に其の表裏、左右、上下の順位等を記入した札を附けて置く事を忘れてはならない。検出遺物の処理については考古学の一般的方法と同様である。唯初心者の最も心せねばならないことは遺物其の他の発掘品の洗滌は其れが十分に乾燥するのを待って行うという事である。重要品と思われる物件については一刻も早く洗滌して其の性質を究めたいと云う感じは発掘者共通の心理ではあるがこれは絶対に慎まねばならない。それは良く乾燥しない遺物を無理に水洗いしたため屡々貴重な資料を損じたり、失って仕舞う事があるからである。なお井筒の発掘は一日で完了するよう立案することが大切である。二日に亙ると夜分深い井底に水溜りが生じ翌日これの汲み出しをせねばならないし、水のため井底が泥濘となって作業が一層困難となるからである。又場合によっては遺物の散迭する恐れもなしとしない。写真撮影は経費の許す限り欲しいものである。然し其れが最も有効な賢料となるよう被写休の選択、撮影方法等について十分に工夫する事が望ましい。最近天然色写真が盛(182)んとなった。井内部のように空気から完全に遮斯されている所では埋蔵物の性質、埋蔵の状況等によっては地上では想像も及ばぬ色沢を持っている事があり、それらは発掘後は急速に酸化して数分の間に地上の普通色に変化してしまうので此等を天然色写真として発掘時の色沢に保存することは極めて有意義な事と思われる。
 
 註一、奈良市大宇横田発掘井。昭利二十五年八月大字横田にある下池《しもいけ》の南西隅近く方形縦板有柱式井筒が二箇と同じく東南隅に近く組合せ型、上下二段式上段不明(早く撤去された)下段曲物式井筒二箇と合せて四井が発見された。其のうち、方形の二井の距離は約二十米、曲物の二井の距離も二十米、方形と曲物の最も近いものの距離は約六十米である。竜字の墨書銘を出した井は西南隅の二井の内の西北のもので、文字は奈良時代に盛行した瓦器の糸尻の部に書かれていた。
 註二、名古屋市昭和区瑞穂町発掘井。愛知県元史蹟調査委員小栗鉄次郎氏の談話によれば、瑞穂町運動公園事務所北方から曽て上代井が発見され、其の構造は横組みの板囲いであった。井から出土した祝部皿の底の糸尻の中に墨書銘が発見されたという。
 註三、最近奈良市極楽院の修理工事中其の天井裏から恐らく万を以て算える程の移しい笹塔婆が発見された。略長方形の薄板で唯上部だけ山形に象どり、其の長さは九寸五分前後、幅は五分前後、厚さは一分位である。十数枚を重ねて下部を糸で束ねて一束にしてあるものが相当残っているが、これ等は開くと恰度骨だけの扇を開いた感じである。これには各塔婆の表面に上部のものから次々に阿弥陀経其の他の経文が記るされ、其の続きは更に束を裏がえして次々の塔婆に記るされている。ばらばらになっている大部の塔婆も初めは恐らく此の様にしてあったものであろう。中について年号の記入されたものが発見され其の一枚には「嘉禄元年南無阿弥陀仏」とあり、これによって塔婆が鎌倉時代の初期に記るされた事が明確にされた。
 
        第11目 組合せ型・上下二段式上下異構造上狭下広井筒の例
 
 井筒は上下二段の組合せからなり、両段の構造を異にし上部から下降するに従って内法が広くなるものを云う。檀原遺跡出土の第十五号井がこれに当る。
 第十五号井。其の所在は大運動場の中央東寄りの地点、縄文式第二包含層の東側である。型態は角型方型、構造は上下二段の組合せで、上段は枠組、下段は校《あぜ》組で、上下井筒の平面積は同寸である。下段の校組の部は相隣る左右の板が互い違いに重なる六段からなり、其の内最下の二段は円材を半分に割り其の割面を井筒の内側とし、外側は材の形に多角形に丁斧で削ったものを用い、残りの上部四段は平板の厚いものを用いている。下二段の割材の最厚の部は二寸五分前後、上四段の平板の厚みは不揃いで一寸二分乃至二寸前後である。材の幅は四寸乃至八寸、長さは三尺三寸乃至三尺五寸である。四隅に直角に出ている柄は下方のもの程短くて略二寸余、上方のものは四寸前後に及んでいる。従って内法は最下底で方二尺四寸、上部で方二尺を算し、上部に近い程狭くなっている。上段の枠組の部は二段重ねで板の長さは略二尺七寸、幅は下段のものに比して可成りに広くて略一尺、厚さは一寸二三分である。同じく枠の四隅に※[木+内]を出し、内法は腐朽が甚だしく明かでないが方一尺八寸前後である。上下二段全体として其の内法は最下底で方二尺四寸、下段上部で二尺、枠組上部で一尺八寸前後で下底程広く上方に到るに従って狭まって来るよう設計されている。これは上下二段式で下段により小型の井筒を伏せ込んだものと対蹠的な構造である。恐らく此の様な相違は地質と特に水の湧出量に関連して各工夫されたものであろう。井筒の南側最下段から数えて四、五の両段及び西側同じく六段目の板に其の略中央に各一箇の粗雑な穴が穿たれていた。南側のものは共に円形に近いもので其の直径は二寸、西側のものは楕円形で横に長く長径は四寸五分、短径は二寸である。此の穿孔の目的は井筒外側からの水を誘導するためのもので、此のような構作は現在も奈良盆地の井に屡々見られるが、勿論此のような大孔ではない。
(184) 井筒内部からは細根式鉄鏃一、矢竹の部分一、鋏の片方の片一、鉄製利器一、土器片少量を出した。細根式鉄鏃。所謂長頸式で全長六寸、内茎部は二寸に及び小突起を以て刃部と界している。全体を通じて幅は一分五厘、厚さは稍これより少く平たい感じである。刃部の先端は特に平たく鋭利にしてある。此の型式の鏃は文学博士末永雅雄氏の高著「日本上代の武器」によればかなり年代の溯る古墳から出土しなお奈良時代まで行われ、特に正倉院御物に多く現存し、実年代は奈良時代に近いものと考えられるという。鋏片。鋏の片方の片で長さ四寸七分、中央最大幅四分である。現存の握り鋏の古い型式のものであるが現行のものとは稍形を異にしている。鉄製利器。形状は刀身の中央からそれを直角に切り離した下半分に似て、長さ七寸九分、幅最大六分強、厚さ約一分である。特に刃部、背部と考えられる部もなく一様の厚みの平板で用途を明かになし得ない。
 
        第12目 組合せ型・上下二段式上下異構造上段祝部下段板井井筒の例
 
 井筒は上下の二段からなり上段には祝部土器、下段には板井を用いたもので、第二章第四項第十一目甕井に於て甕井に縁りのある升として挙げた奈良県橿原市木殿出土井がこれに当っている。ついて見られたい。
 
        第13目 組合せ型・特殊型・円角組合せ式井筒の例
 
 橿原遺跡出土の第一号井であるが、本章第四項第二目桶皮式井筒の例に記るしたのでここは省略に従った。
 
(185)    第五項 土井の発掘例
 
 第二編各論土井の目に述べたように井筒に石、板等の材料による施工を行わず、単に土を井筒型に掘った儘のものであるが以下発掘調査した橿原遺跡出土の第十一号、第十七号井の二例について述べる。
 第十一号井。橿原神宮駅の東方に南北に亙って蟠る丈六台地で発見された。早く行われた土取作業のため井の上部は破壊されて其の部の土砂は持ち去られて仕舞ったため、其の部の構造は知る可くもないが残った下半部の平面形は楕円形で、其の長径は五尺六寸、短径は三尺七寸である。下底の形状は土師壺の底のように円く掘られ其の深さは原地表から略十三尺である。本井及び後述の第十七号井に附いて他井と特異の点は栗石層が認められず、且井筒材を用いていないと云う事である。前にも述べたように栗石層及び井筒材の存否は井遺構決定の諸条件の内特に重要な条件であるが、此の二井は其れ等を欠いでいるのに何故に井遺構と断定したか。それは二井とも第一は其の内部が井特有の青色泥土で満たされていた事、第二は幸い黄褐色を呈する洪積層地に穿たれていたが井の周囲は共に一尺数寸の幅に亙って円形に青く変色していてこれは井遺構の特性であること、第三は内部検出の遺物が他井出土のものと同種のもので其の上理設土器を持っていた事、第四は本井に於ては底部に酸化鉄が固結して赤褐色を呈し之は第十二号井底にも見られたように井使用時に於て鉄分が沈澱した結果のものと見られる事などである。
 内部の青色泥土に混じて土器、礫、古瓦片、桃の種、木片等が検出された。又比較的下底に接して数個の土器が群をなして二ケ所から又別に其等と離れて井底中央部から小型土師壺が一個検出された。此の壺は理設土器である。(186)今此等の土器の内重なるものを摘記すれば次のようである。
 (一) 土師広口壺。胴部最大径五寸九分、口径は四寸六分、無文である。これが埋設土器である。祝部土器。広口壺は胴の最大径六寸七分、口径五寸二分、高さ六寸五分で形の整った壺である。口頸部は中央に水平に一線を劃して上下の二段に分ち、共に波状の文様を描いている。肩の上部には切籤文を印しその上下に各々一条の線を置いている。胴部以下には処々に蓆文の跡が残り、内部は無文である。祝部※[瓦+泉]。胴部最大径五寸六分、口径四寸一分、高さ五寸八分である。口縁上端から幅五分の間は無文であるが、ここに凸帯を作り、その下部に波状紋が二段に描かれている。肩部には幅六分許りの切籤文を廻らし其の上下に各一条の線を加えている。此の文の下縁に接して円形の孔が一つ稍斜め上から穿たれて其の直径は約四分である。焼成に当って火力が強かったため肩部附近から美しく柚薬様の石英溶融物が所々に流下している。
 第十七号井。現大運動場内四百米トラックの北側外側から発見された。前述の第十一号井同様整地のため早く其の上部が失われたので其の部の状況は明かになし得ないが、残された下部の平面形は殆んど完形の円で直径は三尺四寸である。現地表面下二尺迄は同じ広さであるが其れ以下は徐々にせばまり丸底となっている。栗石層は認められない。現存の深さは四尺三寸である。内部は青色泥土が充満し、更に外周の黄褐色洪積層地も一尺数寸に亙って染められて青色を呈していた。別に井の側壁に一部食い込んで長さ二尺二寸、直径一寸五分余の円棒が垂直に打ち込まれた形で発見された。棒の下端は鈍く尖り上端は平面で現地表下二寸の下方にあった。何時、何の目的で置かれたものか明かになし得ない。
 遺物としては先ず板片を挙げなくてはならない。長さ約三尺、幅四五寸、厚さ三分余の長方形で略同形のもの三(187)枚が井筒一方の上端から反対側の底に向って斜めにばらばらではあったが略同じ位置に発見された。此は或は井の地上部に造られていた井桁の一部が落ち込んで残ったものかも知れない。現在此の型式の井に於ては殆んど石或は木材の井桁が造られているので上述の想像も許るされると思われる。次に上部に近く楕円形を長径に沿って半分に割った形の板で長さ約二尺、幅最大五寸、厚さ二分五厘の大きな横櫛形の板が水平の位置で発見された。原形は此れに失われた部を補加した完形の楕円形と考えられ、更に長径軸の外側には矩形の突出物が附属している。又外周から一寸余の内側には其れに平行して浅い掘り込みがあり、其の三ケ所に少しく巻いた樹皮が附着して何物かを板に留めた形で残っている。次に上端から二尺前後の部に烏貝の殻が検出された。この事実は既に述べたように此の井が一時的ながらも水溜りになっていた事を証するものである。これ等の外桃の種、古瓦片、土器片等が発見された。土器は殆んど土師器の皿で其の検出位置は上端から一尺内外の間である。唯埋設土器と見られる土師広口壺一ケが底部中央から発見された。数枚の土師皿中一は口径三寸九分、高さ一寸で他と比して稍深底、厚手で土質も精良である。内面には条痕を以て口縁部に対して斜めに平行線文を描き、又中央部には自由に渦状円紋を画いている。
 
    第六項 発掘調査の結果
 
 本章を終るに当って以下発掘調査の綜合的結果について記述を行って見たい。
 
        第1目 井 筒 の 材 質
 
(188) 橿原遺跡発裾調査委員会に於ては発据板井の一部を奈良女子高等師範学校(現奈良女子大学)教授小清水卓二博士に委嘱して其の材質検査を行った。左記は同氏の鑑別された結果である。
 第一号井内側円型井筒、第二号井筒                     姫小松
 第一号井外側角型井筒、第五、第六、第七、第八、第九、第一〇、第十二、第十四号井筒 檜
 表を通覧して当代人が如何に良く井筒材として耐久性が強く又加工の容易な材質を選択して使用していたかが窺われると同時に、現在では巨木の姿が殆んど見られない迄に整地開拓された奈良盆地に当時相当の巨樹が繁茂していた事が判明する。
 製材には割具と鋸と手斧《ちような》の三種が用いられ、割具は板割りに、鋸は截断に、手斧は仕上げに充てられている。特殊な材以外は鉋は用いられていないがこれは井筒材にはそれ迄の仕上げを必要としなかったためであろう。割板には其の幅が二尺前後に及ぶものがあるがそれが同じ厚さに美しく手際良く割られている。用材には割り易い無節のものが使用されている。
 
        第2目 栗  石  層
 
 栗石層は井底に於ける水の濾過装置で第十一号、第十七号の二土井を除いて他の全部に見られた所で、卵大、拳大の礫を堅く砂で固めて浄水が出来得る限り完全に行われるように計られていた。其の厚さは不同であるが略五寸前後を普通としている。第十六号井は特に此の層の上に木炭層と砂層を重ねていたがこれは更に十全を期した考慮の結果である。又第八号井の栗石層は厚さ二尺に及んでいたがこれは寧ろ特殊例として考慮さるべきものであろう
(189) 栗石層と井筒との関係について其の何れが初めに造られたか。発掘例に依れば、
 第一号井、栗石層上に角材を置き其の上に井筒が組み立てて置かれていた。
 第六号井、栗石層の上に人頭大の礫を井筒の大きさに円形に並べ其の上に井筒を立てていた。
 第十三号井、栗石層の上に角材を放射状に並べこの上に井筒を置いていた。
 第十四号井、四角型、横板有柱式の井筒であるが四隅の柱は厚さ三寸内外の栗石層を貫いて其の下方三四寸に及び、横板は栗石層の真上から柱に貼りつけられていた。
 上述の諸例は栗石層と井筒との関係について、前者が後者に先き立って造られていた事を示している。他井に於ても略同様の状況なので反証が提出される迄栗石層は井筒に先行すると云う事に決定したい。則ち井は先ず土地が掘られて清水を得るに十分な深さに達した時、栗石層が入念に造られこの上に井筒が立てられたのである。何れの栗石層に於ても其れに使用されている礫は略同じ大きさで、又上下、左右も略同間隔に置いてあるので可成り入念に施工された事が判明する。なお現在の井は必ずしもそうでなく大和盆地では寧ろ上代の逆である。
 
        第3目 井 の 埋 歿
 
 井は不要となった場合直ちに埋められたものか或は其の儘放置されたものであったか。常識的には深い井を放置しておく事は危険であり直ちに埋められる事が考えられる。然し第一章第四項「井の伝説と民間信仰」に記るしたように現在の習俗としては埋めないで自然消滅を待つべきものとされ、和漢三才図会も正徳の古文に於て其の習俗を支持して理由づげを行っている。では発掘の結果はどうであったか。
(190) 第五号井、第十三号井の下半部には青色泥土が充満し、上半部には古瓦片、石塊、木片等が雑然と混じた原土壌層が見られた。第十九号井に於ても略同様であった。下半部の泥土層は静かな長期に亙る沈澱の結果生じたものであり、上半部の層は明かに人工埋設である。
 第八号井、第二十号井は共に現存高さ六尺の井筒であるが、其の上半部から木の葉の層が発見された。第十四号、第十九号の二井では田螺殻、魚骨、甲虫等の死屍と数層の木の葉、枝等の層が発見され第十七号井からは烏貝の殻が検出された。
 以上列挙した発掘例によって判断すれば此等の井は使用停止ののちは其の儘放置されていたのであった。井筒は上部から腐朽していったが其の下部では井筒の上方から或は井筒板の間隙等から徐々に砂泥が押し込んで堆積が行われ又何時とはなしに水草が生い、小魚や田螺其の他の貝類、水虫などが此の小天地に生を楽しむようになった。数層の木の葉の層の挟在は幾春秋の経過を物語るものであろう。此等の事情は古歌(註一)、古文(註二)によっても推察することが出来る。そしてやがて此等の井が人々の脳裏から消え去ったのち第五号井に見られたような埋設が行われたものであろう。
 ただ次の諸例は以上の判断に否定的な解釈を与える資料である。それは第九号井のように井筒の内部殆んど全体から土器其の他の遺物を出した井がある事で、此の外にも一二の例で井筒内相当の高さまで遺物を包含している井のあった事である。此れは井使用停止の直後か或は間もなくの頃一時にか或は多少の時間的な差違はあっても短期間に人為的に埋められた事を示すもので、長期に亙る放置の状態を表わすものではない。この様に現在までの資料では井は其の使用停止の後そのまま放置されたものと、人為的に埋められたものとの二つに分つことが出来る。併(191)し此の判断については今後猶多数の資料を得て再検討をしたいと考えている。
 
 註一、古歌。古今和歌集巻二十
  我が門の板井の清水里|遠《とほ》み人し汲まねば水草《みくさ》生ひにけり
 註二、古文。吉野拾遺下
  なが月の比吉野を出てならの都のゆかしく侍りて、爰かしこみありき侍るに、大安寺といへる所に、公行朝臣の世をいとひいますなるを思ひ出て尋ね侍りしに、ひまあらはなる柴の戸の、しばしがほども住べくもあらぬ。いたゐの水は、木の葉に埋もれ、わざとならぬ庭の草むらの色は、さながら霜にけたれぬにや。
 
        第4目 井構築の歴史
 
 本題については未だ資料も乏しく詳かでない面が多いが既述の内から此れに関連のあるものを抜萃して記るせば次のようである。先ず問題は二つに別れる。一は前項の初めに述べたように河泉、湖沼、流泉等の自然の井で、此等の利用は縄文式、弥生式の石器時代から現在まで程度の差こそあれ等しく行われている。併し此種の井については自然水を其の儘使用して何等の施設も加えていないので此の問題からは除外される。
 問題として取り上げられる井は人工的な井、則ち主として井筒井の場合である。此れについて年序に従って記るせば
 一、縄文式時代。此の時代の井については未だ其の存在を物語る遺構等の資料が発見されていない。
 二、第三章第一項に述べたように奈良県唐古、静岡県登呂等の中期弥生式遺跡に於て井の遺構と思われるものが発見され、此等は井筒井の原始型のものと推定されて当代井の存在が肯定されている。又第二章第四項第六目マイ(192)マイズイトに述べたような段掘り或は摺鉢形の所謂マイマイズイトと呼ばれているものも此の頃に発生したものであろう。
 三、古事記、日本書紀、風土記等には井に関する記事が多く特に風土記には井開発の因由についての記録が多い。しかも其の殆んどは地方開発の始祖神、大和朝廷初期の天皇の御事蹟として述べられている。勿論此等は総て其の儘歴史的事実として肯けるか疑問であるが、此の時代は略大和朝廷対外発展時代の初期に当り我国は或る程度大陸文化の影響下にあったので井についても其の指導や示唆を受けており、中央指導の人々は此のようにして得た新知識を携えて地方に下り、井の開発、掘鑿等の業に当った事であろう。
 四、降って仏教伝来以後寺院建築に於ては僧尼のために多量の飲料水、雑用水の井を必要としたので寺院関係の人々……入朝の僧侶、土木建築の専問家、或は留学帰国の僧侶……等の手によって井についての一層進んだ技術、知識が伝えられ、やがてそれは仏教の弘通、寺院建築の増加に伴って地方に拡められていった事であろう。先に述べた奈良県生駒郡斑鳩町大字三井の上代磚井の構築或は続日本記記載の僧道照の井に関する記事等は這般の事情を雄弁に物語るものと思われる。
 続日本紀 文武天皇四年三月の条
 道照……於(テ)v後(ニ)周2遊(シテ)天下(ニ)1。路傍(ニ)穿(チ)v井(ヲ)。諸(ノ)津済(ノ)処(ニ)。儲(ケ)v船(ヲ)造(ル)v橋(ヲ)。……
 五、此のようにして井についての知識が高められ又普遍化されて行くと同時に一方に於ては大津京以降平城京、平安京等の諸都制が布かれて次第に条坊内の機構が整備される一方宅地用の個人井も漸次増加、発達した事であろう。特に平安京に於ては一町四行八門の制によって一戸の間口五丈、奥行十丈の地積が宅地として割当てられたの(193)で、此の傾向は益々盛んとなり、やがて時代と共に地方にも波及していった事と推察される。今間口五丈、奥行十丈をメートルに換算すれば各々八・三米、一六・六米である。今此の関係を発掘の結果について見れば奈良県橿原市木殿小字井坪出土の二井は(第三章第四項五目縦板無柱式井筒の例参照)南北に三十米の距離を以て造られ、同じく奈良市横田下池発見のものは(第三章第四項九目の註一参照)方形の二井、曲物の二井共に相去る二十米であった。又山辺郡|都介野《つげの》村大字白石(註一)で昭和十四、五年の頃一群の奈良朝時代頃と思われる三井を発見したが、関係者の記憶によれば其の距離は各五六米と八九米であったという。極めて乏しい資料であるが此等の距離が平安京の宅地制の上に仮定した井の距離と甚だしく違っていないのは興味深い事実である。又同じ時代山陽道、東海道、東山道其の他諸国の大中小路の駅には往還する旅人の便利のため井を掘らせたが、これも亦井の普及発達に一つの役割を果した事と思われる。 使用されていた井の種類については比較的富裕な階級及び社寺等に於ては石井、※[土+專]井等が用いられ、又撥釣瓶井、金綱井は珍らしいものとされたであろう。一般には板井が行われ地盤が堅くて崩壊の危険の無い土地では土井も使用されていた事であろう。然し云うまでもなく此の反面河泉池沼等の自然水も相当盛んに用いられていた。
 
 註一、山辺郡部介野村の井。昭和十四五年の頃奈良県山辺郡都介野村大字白石の郷社国津神社の東隣の地から三個の上代井の遺構が発見された。そこは西方に蟠る丘阜地の麓から緩やかに東方の田圃に延びる細長い半島状丘陵の略先端で其の頃ここに池を造るための土取作業中のことであった。已に十余年前のことであるが作業関係者の記憶にによれば三井の内二井は大約五六米の距離で南北に位置し、他の一井は南方のものの西方略八九米の処にあった。東北方の一井は地上から深さ四尺位で終っていたが他の二井はいづれも八尺以上に及び、特に東南方のものからは其の底部に近く三箇の瓦器が発掘された。種々の談話を綜合して此等は奈良、平安時代の井の遺構と思われる。三井の比較的近い相互距離が注目される。
 
(194)        第5目 共同井と個人井
 
 井は使用者を対象として二種に別けられる。一は個人井則ち住宅附属の井、他は多くの人々が共に用いる共同井である。
 先ず共同井について其の特徴を挙げれば
 一、河泉、湖沼、瀑布等の自然水で此等は各人の自由な使用にまかせられる。
 二、記紀、風土記等に挙げられている井の大部で此等の内飲料、灌漑用兼用のものは大部が流泉則ち河泉である。現在も多い。
 三、同じく記紀、風土記等に挙げられているもので行楽、集会等の中心となった井。
 四、信仰の中心となっている井。神を祀られている井、大師井、其の他何等かの伝説、歴史、功験等をもつ井。
 此等の共同井は又附近の井と比較して水量が豊富で湧出量も多く、其の上良い味を持っていた。井筒も大型で深度も大きい。地形的には比較的谷合いの出口或は地表面の地形には係わりなく地下水の豊富な所に設けられている。
 個人井については特に記るすべきものはないが強いて挙げれば一般的に共同井と比して小型で水量、水質、湧出量が劣ると云いうる。然し必ずしも一概に言い切る事は出来ない。
 二種の井の出現の時期について先ず共同井については井の性格上極端に云えば人類発生の時代にまで遡り、歴史時代を通じて現代にまで続いている。大阪市が其の飲料水を最近まで淀川の河水に依存していた事実や又現行の水道施設の如きも其の大部は広い意味に於ける共同井と見るべきであろう。個人井の発生の時期については推考が極(195)めて難かしい。古文書では天平七年(註一)のものに「屋一宇倉一宇及井戸一構」とあり、一戸一井の個人井と思われるものが記るされているが、此の問題を解くためには余りにも新しすぎる。従って此の判断は遺構に依らねばならないが今かりに問題を板井遺構に限って検討するとして、現在出土しているものについてそれが共同井であったか、個人井であったかを決定する事は極めて難事である。何となれば現在廃滅した井について過去の湧出量の多少や水質、味の良否等を知る事は殆んど絶望であり、又井筒の大小、深浅等から其れを考察する事も井研究の現段階に於ては容易でない。ただ将来のため著者の思半に触れた井遺構について其の上縁部に於ける大きさ則ち井の口径及び深さについて表示すれば次のようである。
 井遺構の口径及び深さの表
 (表中「高」は現在残っている井筒の高さを示し、「深推定」は井筒及び其の上部の原地表までを考慮した原井筒の深さを表わす。各口径の下の括孤内の数字は各井筒の大きさを正方形の井筒に換算した場合の一辺の長さを示している)
 一、弥生式時代の井と推定されるもの。
 1、奈良県磯城郡田原本町大字唐古弥生式遺跡第八〇号地点出土井。
  角型。口径一・七尺×一。三尺(一・五尺)坑の深さ四尺内外
 2、同右第二一号地点出土井。
  多角円型。口径二・五尺(二・二尺)坑の深さ五尺余?。
 3、同右唐古池底西南隅出土井。
(196) 円型。口径約二・七尺(二・四尺)高五尺。
 4、静岡県登呂弥生式遺跡出土井。
  円型。口径一・七五尺(一・六尺)。
 5、同右前井の東方地点出土井。
  矩形井。長径三・二尺、短径二・六尺(二・九尺)
  (4、5については大場磐雄氏著「古代農村の復原」によった。)
二、古墳時代以降の井。
 6、橿原遺跡出土第二号井。
  円型。刳抜式。口径三・〇尺(二・七尺)高一・五尺
 7、同第六号井。
  円型。刳抜式。口径二・八尺(二・五尺)高四・三尺。
 8、同第一号井。(円角組合せ式の内側の物について)
  円型。桶皮式。口径二・六尺(二・三尺)高五・七尺。
 9、同第二十号井。
  四角型。口径二・六尺×二・六尺(二・六尺)柱の高六・五尺。
 10、同第七号井。
  角型。口径一・八尺×一・五尺(一・七尺)高一・七尺。
(197) 11、同第五号井。
  角型。口径一・六尺×一・六尺(一・六尺)高六・二尺。
 12、同第十四号井。
  角型。口径二・七尺×二・七尺(二・七尺)柱の高八・六尺。
 13、同第十六号井。
  角型。口径一・六尺×一・七尺(一・六五尺)高二・一尺。
 14、同第四号井。
  角型。口径三・〇尺×三・〇尺(三・〇尺)深推定一〇・〇尺。
 15、同第十三号井。
  角型。口径二・九尺×二・九尺(二・九尺)高六・〇尺。
 16、同第十八号井。
  角型。口径三・五尺×三・五尺(三・五尺)高八・二尺。
 17、同第二十一号井。
  角型。口径二・五尺×二・五尺(二・五尺)高不明。
 18、同第八号井。
  六角型。口径対角線の長三・六尺(二・九尺)高六・〇尺。
 19、同第十五号井。
(198)  上段角型。口径一・八尺×一・八尺(一・八尺)高五・四尺。
 20、同第十九号井。
  上段角型。口径三・五尺×三・五尺(三・五尺)深推定一一・五尺。
 21、同第三号井。
  上段角型。口径二・五尺×二・五尺(二・五尺)深推定六・〇尺以上。
 22、同第十二号井。
  上段角型。口径二・三尺×二・三尺(二・三尺)深推定二・三尺。
 23、同第九号井。
  上下二段式。上段角型の口径五・六尺×五・六尺(五・六尺)深推定一三・五尺以上。
 24、同第十一号井。
  土井。楕円型。口径長径五・六尺、短径三・七尺(四・〇尺)深一三。○尺。
 25、同第十七号井。
  土井。円型。口径三・四尺(三・〇尺)深四・一二尺以上。
 26、奈良県高市郡明日香村大字岡出土井。
  角型。口径三・〇尺×二・一尺(二・五尺)深三・四尺以上。
 27、奈良県橿原市木殿出土井。
  特殊型上段祝部下段板井。祝部口径一・八尺(一・六尺)深七尺内外
(199) 28、奈良県生駒郡斑鳩町大字三井法輪寺磚井(現存)
  円型。上部口径三尺(二・七尺)深現在十四尺。
 以上列記の井について括弧内の数字は井の大きさを円、楕円、長方形等に係わらず全部正方形に換算して其の一辺の長さを尺単位で示したものであるが、二三番の橿原遺跡出土の第九号井は一辺の長さ五・六尺、深さ十三尺五寸以上と推定され、大きさ、深さ共に群を抜き特に其の口径は現在でも個人井としては殆んど見られぬ大きさで、二四番の楕円形の土井も其の大きさの正方形への換算は一辺四尺に及び深さも大きい。これに反して一番の唐古弥生式遺跡出土の一辺一・五尺、四番の登呂弥生式遺跡他出土の一辺一・六尺、一〇番、十一番の橿原遺跡出土の一辺一・七尺、一・六尺の諸的は著しく小型で、其の上浅くこれでは多人数の使用には耐えないと見るべきであろう。
 次に同じく正方形に換算された口径一辺の長さの尺単位に於ける頻発度をグラフに依つて見れば二十八井中三尺以下のものが二十五井を占めて断然多く其れ以上のものは四井に過ぎない。
 口径一辺の長さの頻発度表(註・印は井一箇を示す。)
〔入力者注、頻発度表は省略〕
(200) 表上一辺三尺以上の井が急激に疎らな頻発度を示すのは何を物語るものであろうか。或はこの辺に共同井と個人井との大きさについての境界を求められるのかも知れない。いずれにせよ此の問題は極めて難解で、今後発掘例の増加をまって深く考えられねばならない。又此れによつて板井についての個人井、共同井の出現の時期の解答が導かれる事と思われる。
 
        第6目 上代坂井使用の実年代
 
 此等橿原遺跡を中心として出土した上代板井使用の実年代について読者は既に上に述べた発掘調査記録によつて自ら了解された事であろう。我々橿原遺跡調査委員も資料を綜合的に考察して其の使用の時期は略弥生式時代から平安時代の頃までとし、其の盛行期を土師器、祝部土器の盛行した古墳時代から平安時代頃までに求めると云う結論に達した。今重複を顧りみず資料について年代決定上考察の材料とされた重なものについて記るせば次のようである。
 一、井筒の型式について
 イ、奈良県唐古弥生式遺跡から略同時代の井として検出された空ろの樹幹の井筒は後の円型刳抜式、桶皮式井筒の原始のものであろう。円型井筒は続いて古墳時代、歴史時代を通じ、刳抜式井筒と思われる井筒が正平六年(紀元二〇一一年)頃の慕帰絵詞の絵にも描かれているので相当長年月に亙って用いられていた事が判る。
 ロ、縦板式井筒については藤原時代末に描かれた天王寺扇面古写経の下絵に見えている。
 二、検出遺物について
(201) イ、土師、祝部土器は各井殆んどから出土した。
 ロ、第五号井の敷石層中から和銅聞珎、第十九号井の内部から延喜通寶が各々一個宛検出された。
 ハ、第十四号井から白鳳期の蓮華文疏瓦片、第八号井から奈良時代末蓮華文疏瓦片、第十二号井から同じく奈良時代末の華瓦片各一個宛が検出された。
 ニ、第十五号井から長頸式鉄鏃一個が検出された。此の型式の鏃は古墳時代古期から奈良時代に亙って盛行した。
 ホ、第九号井から小刀子が検出された。略古墳時代末から平安時代に亙って用いられたものである。
 ヘ、第九号井から土製馬が発見された。略古墳時代末から平安時代頃にかけて製作されていた。
 橿原遺跡を中心とした上代板井使用の実年代については上述の通りであるが、ここに「慕帰絵詞」に描かれている円型井筒は最も注意されねばならない。此の事実は正平の頃にも依然としてそれが用いられていた事を示し、従つて上代板井を一般的に見た場合其の使用の実年代を建武・正平の頃まで更に其れ以後に下げなくてはならないと思われる。併し未だ其の下限界について明確にする事は出来ない。
                
    2006年7月29日(土)午後3時35分、入力終了
 
〔入力者注、秋山日出雄・石井太一郎・網干善教の三氏による跋は省略した。あたかも今日の朝刊によれば網干善教氏は昨日の2006年7月29日(土)午後九時過ぎ永眠された。〕