武田祐吉著作集第七巻 万葉集篇3、角川書店、469頁、1973.10.30
 
○『国文学研究柿本人麻呂攷』
○「柿本人麻呂評伝」
○『万葉自然』
○「天平初期の人物」
○「万葉四季物語」
○「万葉集における部類の基準としての季節」
○「雪驪短筆」
○「高橋虫麻呂論」
 
 
国文学研究柿本人麻呂攷
               〔誤植等、大岡山版によって訂正したものがある。〕
   目次
序説 歌の傳統と柿本人麻呂………………………一三
第一 柿本朝臣人麻呂歌集の研究(上)…………二一
 一 柿本朝臣人麻呂歌集の提示…………………二一
 二 柿本朝臣人麻呂歌集所出の範圍……………二六
 三 柿本朝臣人麻呂歌集の問題…………………三一
 四 短歌一首の字數………………………………三二
 五 文字使用法……………………………………三八
 六 編纂法…………………………………………五七
 七 題詞の樣式……………………………………六二
 八 問答の體………………………………………六五
 九 人麻呂歌集と人麻呂作歌…………………六九
(2) 一〇 類歌類句の研究………………………七一
 一一 人麻呂歌集と歌經標式……………………九五
 一二 歌の集録の性格……………………………九八
第二 柿本朝臣人麻呂歌集の研究(下)………一〇三
 一 柿本人麻呂の妻……………………………一〇三
第三 柿本人麻呂傳………………………………一三〇
 一 舍人…………………………………………一三〇
 二 家系…………………………………………一三七
 三 在京時代……………………………………一四一
 四 地方生活……………………………………一五六
第四 柿本人麻呂の作品…………………………一七一
 一 人麻呂以前…………………………………一七一
(3) 二 人麻呂の時代…………………………一八〇
 三 人麻呂の思想………………………………一八七
 四 季節の動き…………………………………一九二
 五 歌體…………………………………………一九五
 六 言語現象……………………………………一九九
 七 長歌の構成…………………………………二一七
 八 短歌作品の表現……………………………二二三
 九 人麻呂以後…………………………………二三八
 
     圖版目次
 
一 萬葉集抄出類聚
二 新撰姓氏録妙讀耕齋舊藏本
三 新撰姓氏録抄有不爲齋舊藏本
 
(12)  序
 
 『万葉集』に関する研究を集めて『国文学研究』万葉集篇として出版したのは、昭和九年一月であった。その後、昭和十二年には、引き続いて『国文学研究』の神祇文学篇および歌道篇を出版したが、今また幸いにして、その万葉集篇第二として「柿本人麻呂攷」を出版することを得る運びとなった。
 むかし、幼少のみぎり、家兄木兄子から、佐佐木信綱博士の『少年歌話』を買い与えられ、始めてここに『万葉』の歌に接した。湯原の王の
  吉野なる夏実の川の川淀に鴨ぞ鳴くなる山陰にして(巻三・三七五)
の歌は、その書から学んだ、忘れられない歌の一つである。中学に入るに及んでは、積善館版の『万葉集略解』に親しみ、これがため、『略解』の訓は、いつまでも抜けにくかったものである。
 『万葉集』中において、柿本人麻呂が大きな存在であることは、いうまでもないことである。したがって、古今の万葉研究家は、大なり小なり、この人について筆を下している。わたくしも、小田原中学校に奉職しておった時代に、いくつかの文章を書いたのを手始めに、年をかさねて、この人に関する研究を積んでいった。昭和十二年に厚生閣から出版した『柿本人麻呂』には、その要を摘んで平易に述べたが、そのほかの著書にも、これに触れた文章を収めたものがある。今この書には、体系を整えてこの人に関する考究を記した。
 この書は、わたくしのいささかの研究の集積であるけれども、わたくしはこれを最後の結論と思っていないし、また学徒としてのなすべきことがこれに終わったものとも考えていない。人麻呂の研究には、資料の性質上にわかに結論の(12)定めがたいことが多いのである。ただ従来多く閑却されがちであった柿本朝臣人麻呂歌集について考察を試みたことが、新しい考察方面を示すものともならば、幸いである。その集が、人麻呂となんらの関係もなきものであるとは、とうてい考えられぬところである。
 本書中、第一、第二、第三の各章は、かつて斎藤茂吉博士のすすめによって、雑誌「アララギ」に連載したものである。「アララギ」に発表した順序は、第二の「柿本人麻呂の妻」最も早く、昭和十二年八月号から連載しはじめた。第一章はこれについで、「柿本朝臣人麻呂の歌集」として、昭和十三年七月号から、第三の「柿本朝臣人麻呂伝」は、またこれについで昭和十六年一月号から掲載した。しかし本書に収めるにあたっては、いずれも補訂を加えたが、第一章においては、特に多くの増補が加えられている。なお序説は、その一部を雑誌「青垣」に載せた。第四の「柿本人麻呂の作品」は、全然未発表の原稿である。
  昭和十八年五月
(13)  序説 歌の伝統と柿本人麻呂
 
       一
 
 『古事記』『日本書紀』の歌の大部分は、歌うことによって伝えられたと認められるものであって、その中にはいかなる人が歌い伝えたかを語るものも存している。たとえば、『日本書紀』神武天皇の巻の来目《くめ》歌は、「今来目部が歌ひて後にいたく笑ふはその縁なり」と記している。来目部が来目歌を歌って『日本書紀』のこの文の書かれたときに至ったと見られるのである。また『古事記』に国主《くず》歌を載せて、「今に至るまで国主どもが大贄《おほにへ》を奉る時に常にこの歌を歌ふ」と記している。これによって、国主歌が国主の人々によって伝えられたことが知られるのである。その来目部や国主は、後世までも大嘗祭には参り出て奉仕することになっている。その奉仕はかような歌を中心とした伎芸を演ずることと解せられる。
 記紀の歌謡は、来目歌など伝来の明らかなもののほかにも、それぞれに伝えるものがあって伝わったのである。それはその歌に縁故の深い氏族が伝えたと考えられる。しかしそのあるものは、大歌として宮廷に直属して公のものとなっていたようである。同時にまた個々の家のものもあったのである。大歌を演奏することをつかさどるのは、大歌所の職掌であるが、古くは雅楽寮の所管となっていた。毎年十一月から翌年一月にかけて節会が行なわれ、その場合に大歌が多く演奏される。その間、特に歌人歌女を召してこれに預からしめるのである。この場合の歌人というのは、歌を詠み出す人の謂《いい》ではなくして、歌を歌う人の意味であったのである。
(14) 『万葉集』のうちの古いものについて考える。古い歌から順に見てゆくと次のごとき順になる。
 1 仁徳天皇の皇后の御歌
 2 允恭天皇の皇太子の御歌
 3 雄略天皇の御製の歌
 4 聖徳太子の御歌
 5 舒明天皇の御製の歌
 これらの歌はどういうふうにして伝わってきたのであろうか。『万葉集』を編纂するにあたっては、かならず材料とするものがなくてはならぬ。それはよし、ものに記しつけたものであっても、その原形としては、やはり歌われいたものであったと考えられる。それはこれらの歌の内容、形態、およびその伝来の事情によって推測されるのである。
 仁徳天皇の皇后の御歌は、形態が整備であり、あるいはさらに後の歌であろうかともいわれている。しかしその中の
  君が行きけ長くなりぬ山尋ね迎へか行かむ待ちにか待たむ(巻二・八五)
は、允恭天皇崩後の軽の大郎女の御歌と、詞句に小異はあるが、互いに連絡ある歌と見られるのである。允恭天皇の皇太子の御歌は、巻の十三にあって、「こもりくの泊瀬の川の云々」と歌われていて、ここには作者の名を伝えず、『古事記』を引いて木梨の軽の皇子の御歌としているのである。雄略天皇の御製は『古事記』『日本書紀』における歌物語に通ずるものがあり、聖徳太子の御歌は『日本書紀』に形は変わっているが、事情が類似し詞句に共通点のある伝来を載せている。
 かように見てくると伝来の探られぬ歌もあるのであるけれども、大体において、記紀の歌謡と同じような伝来をもっていたと推測することができるのである。しかし記紀の歌謡よりは、さらに流れて民間に歌い伝えていたものもあるであろう。
 これらの歌謡を受けて、さらに新しい道を開拓した次の世の歌人たちは、ただ文字によって歌を連ねるだけであって、(15)全然これを口にすることはなかったかというに、そうばかりはいえぬものがある。三方沙弥が藤原房前の邸で歌ったという歌は、
  大殿の このもとほりの 雪な踏みそね
  しばしばも 零《ふ》らざる雪ぞ
  山のみに 零りし雪ぞ
  ゆめ寄るな人や な履《ふ》みそね雪は(巻十九・四二二七)
    反歌
  在りつつも見し給はむぞ大殿のこのもとほりの雪な踏みそね(同・四二二八)
 この歌は、集の中で変わった形の歌として注意される。その形は実際に歌いあげられた歌であることを証明するものがある。これはまさしく記紀の歌謡の伝統を受けたものであって、文筆作品たる歌とは種類が違うのである。ここに至るまでの経過は、あきらかでないものがあるが、音声に上せたというだけの証明は他にもある。若宮年魚麻呂はしばしば歌を吟誦したが、彼は相当の歌手であったと考えられる。大伴旅人が大宰府を離れて都に上ってくるときに、これを見送った遊行の女婦児島は、
  凡《おほ》ならばかもかも為《せ》むをかしこみと振りたき袖を忍びてあるかも(巻六・九六五)
  大和道は雲隠りたり然れども我が振る袖をなめしと思ふな(同・九六六)
 の二首の歌を口吟した。特に遊行の女婦の間には歌われつつ歌が伝えられたものと見られるのである。天平十一年(七三九)十月皇后宮で行なわれた維摩講《ゆいまこう》には、
  時雨《しぐれ》の雨間無くな零《ふ》りそ紅《くれなゐ》ににほへる山の散らまく惜しも(巻八・一五九四)
の歌が歌われたが、その時の歌人は、田口朝臣家守・河辺朝臣東人・置始連長谷等十数人であったと伝えられている。このほか大伴家持等の宴に誦したと伝えられた歌は多いことである。巻の二十に載せている防人らの歌の中に、武蔵の(16)国では、防人の妻の歌をも載せているが、これらはその歌意より按じても、家を出るときに別れに臨んで贈った歌であるが、これらの防人の妻が、紙に歌を書いてその夫に呈したものとは思われない。その歌の中には、
  我が夫《せ》なを筑紫《つくし》へ遣《や》りてうつくしみ帯《おび》は解《と》かななあやにかも寝《ね》も(巻二十・四四二二)
のごとき、昔年の防人の歌として伝えられてもいるものもあり、これらはすべて口吟せられたものと考えられるのである。
 歌われる歌から文筆作品にまで歌を展聞させたのは、柿本人麻呂の功績が大きな力となっていると考えられるが、その人麻呂自身、はたして歌を吟誦することはなかつたであろうか。彼がしばしば詠んだ皇子・皇女の殯宮に臨んで作った歌は、その殯宮で吟誦せられたものではなかったか。また行幸に供奉し、皇子に奉った歌などは、いずれも紙に記して奉ったものとも見えぬのである。妻を失っても雄大の長篇をなし、妻に別れても朗々として吟誦すべき歌を伝えているのは、元来歌われる歌を扱うことに慣れて、かような形をなしたのであろう。人麻呂の作品の中には、同語同音によって作りなしている作品も少なくないのである。
 人麻呂は、春日氏と同族であって、敏達天皇の御代に家門に柿の樹があったから、柿木氏と称したと伝える。春日氏は仁徳天皇の朝に家門が富み栄えて、糟《かす》を積んで垣となしたので、糟垣氏を賜い、のち春日と改めたものという。これらのもとは和珥《わに》氏であって、和珥氏は『古事記』『日本書紀』の歌謡のいくつかを伝えた家であると考えられる。こういう系統の家に生まれたことは、人麻呂自身がかような歌を歌い伝えたという証明にはならないが、これらの家に伝えた伎芸に影響せられていることは、その作品に見られるところである。人麻呂を伝える上において、その家の系統を調べることは、その作品の性格を考える参考となることである。
 
         二
 
 今日、歌を詠むには、心の中で詞を扱い、これを思い浮かべ、さまざまに吟味をして、それを手帳や原稿紙に書き付(17)ける。その経過の間に、詞を一応音声に現わしてみることもあるが、それは必要な条件ではなくして、無音声のままに詞を扱ってしまうのが普通である。それからそれを発表する場合には、活字に組んで、紙面に印刷する。これを読む者も、多くの場合、無音声に、黙読してしまう。文字になっているものを、音声に還元することなしに、処理してしまう場合が多いのである。そこで実際問題としては、歌が音声と関係なしに存在し、全然見る文学としてのみ存在することになる。批評鑑賞にあたっても、音声を顧慮することなしに行なわれてよいものであるかの問題になる。
 もちろん今日でも、実作にあたって、音声に上せて試みる人はあるであろう。島木赤彦なども常に吟誦を試みたという。また一部の人々の間には、自作他作の吟詠も行なわれている。いわゆる披講詞・御詠歌詞・琵琶歌調など、流儀はさまざまであるようであるが、これもいまだ吟詠に上せることの適否が、歌の可否の問題には触れていないのである。
 言語は、人間の共同生活における一の約束の上に成立しているものであって、本質的に音声をその形態とするものである。ここに一定の音声を発することによって、ある意味を現わすことができるのである。それからつづいて自分の思想をまとめるために、人々は、音声に発することなしに、言語を使用するけれども、その場合にも、その詞の音声は、念頭に浮かべられているのである。
 文字が行なわれるに及んで、音声によって伝えられた言語は、文字に写され、また音声を省略しても思想が文字に写された。しかし文字そのものは、言語ではなく、言語の記号であるから、これを読むことによって、言語に還元するのである。しかるに、わが国で使用している文字のうち、漢字は、表意文字であって、言語に換算することなしにも、ある意味を表示しているものであるから、文字は読めなくても意味のわかることがあるのである。『万葉集』にも、そんなのがある。
  鳥翔成あり通ひつつ見らめども人こそ知らね松は知るらむ(巻二・一四五)
 この歌の初句「鳥翔成」は、今日の万葉研究の程度では、読み方がわからないのであるが、意味はわかっている。鳥が飛ぶようにということだという。今日の人の歌にもそれがあって、漢字で書いてあるから意味はわかるが、読み方の(18)わからぬものがある。歌を味わうのに音声を顧慮する要なしとせば、かような歌でも結構間に合っていくのである。
 また国語のうち、ことに漢語は、文字を配当することなしに、音声だけ聞いたのでは、意味のまぎらわしいことが多い。これはその歌が文字にのみ依存しておって、やはり音声を条件に入れていなかったということになる。これも、読めても読めなくても、その効果にはあまり相違のないものというべきである。
 歌が実際に歌われるものから、文字に定着するに至ったのは、非常に大きな転換であった。そうして永い間、文字の上のみに生きてきた関係上、その生育してきた時代の性格はおおむねふり落している。ただ五句三十一音という音節の数の上の約束ばかりが、遺伝的に残っているだけである。ある者は、これを墨守し、ある者は、これをもふり捨てようとしているが、そのいずれにしても理由のある行動でなくてはならぬのである。
 歌の歴史の上において、歌われるものから文筆作品への転換をなしとげたのは、『万葉集』の時代であった。その時代の代表的歌人なる柿本人麻呂は、前代から受けついだものと、自己の作品との間に、若干の相違するものを持っている。その人麻呂の作品の中からも、後人は、自分の接触する面のみを見ていたともいえる。今日の歌は、中世以後の系統を追うものであり、しかも一面には万葉復興が口にせられているのであるが、それはいたずらに『万葉』の形骸を学ぶものであってはならぬのである。歌は、わが民族生活の表現であり、記録であって、国語をもって構成せられているものであるから、当然民族精神に生き、国語の美点を発揮し得たものであるべきである。それは近ごろ盛んに唱えられる万葉精神の方面からはもちろんであるが、同時に、いわば閑却されがちな国語の特質の方面からも、これを考えなければならぬのである。国語は、目に見るだけのものではないはずである。
 歌われるものの明るさ、それは母音に富む国語の特質からくるものであり、また音節の数を基礎とする歌体の性質からくるものであるだろう。その一々の吟味は、こまかになされねばならぬが、要するにそれらは、わが国民性の明るさを表現するものにほかならない。
 
(19)         三
 
 『万葉集』の歌人群のうち、柿本人麻呂が大きな存在であることは疑いをいれぬところである。人麻呂は、歌の正しい伝統の保持者として、伝えられたものを受けて、これを次の世に引きついだ人であった。その思想精神において、第一の作家として見るべきであるのみならず、国民的にも人間的にもすぐれた作家であることがその特色であって、永く後の世からして景仰の的となっているのも道理である。『古今集』の長歌に「あはれむかしべありきてふ、人まろこそはうれしけれ、身はしもながらことのはを、あまつそらまできこえあげ」と歌い、また歌の聖とまでたたえられたのも、そのすぐれた作品の及ぼした効果であった。
 人麻呂を研究することは、古くから行なわれていた。これは偉大なる歌人としてこれを慕うあまり、その伝記を明らかにし、その作品を鑑賞して、その風格に親しもうとするにほかならなかった。国民的偉人としてその人を伝えることは、その作品の上に現われたる雄大なる思想を伝え、崇高なる精神を仰ぐ意味においても、国民精神の昂揚に資するところがあるであろう。またその豊麗なる詞藻は、国民性の涵養に資し、醇正なる国民生活の養成にあずかるところがなくてはならない。その人および作品の研究は、十分になさるべきである。
 人麻呂の伝記の研究にあっては、まず資料の少ないのを難とする。『万葉集』以外には、信をおくに足るべき資料を見いだしがたいのである。その『万葉集』においても、題詞に柿本朝臣人麻呂作歌とあるもののほかに、『柿本朝臣人麻呂歌集』の歌があり、その伝来の事情はかならずしも単純ではないのである。しかも人麻呂集については、たとえば賀茂真淵のごとき、古の集は、おのれをも他人のをも選ばず書き記すものであるという見地に立って、雑然たる集録として取り扱ってきた。後の学者も多くこれにならつて、いまだ十分なる研究を行なうものがなかったのである。事を叙し、作を論ずるにあたっては、その資料として扱われるものの検討は、まず第一になされなければならない。『人麻呂集』がはたして人麻呂を伝し、人麻呂を論ずるにあたって、取るに足らぬものであるか否かは、改めて、検討されなけ(20)ればならない。それは『人麻呂集』のみならず、従来信じて疑わなかった人麻呂作歌とあるものも、さらに検討してみなければならぬのである。その上において、取るべきを取り、捨つべきを捨てるのは、これは当然のことというべきである。
 要するに人麻呂の研究にあたっては、その資料となすべき『万葉集』中の記事についてあらためて基礎的研究から出発しなければならぬのである。そこには種々の方法が考えられる。文化史の方面から当時の社会情勢を明らかにすることも一つのしごとであろう。語学の方面から、語彙および文字について検討を加えることも必要であろう。また文学の上から、歌の作品としていかなる位置を占めるかを調べるのも必要であろう。すべての基礎的な研究の上に立ってはじめて、綜合的な大観がなされねはならぬのである。そして彼が歌の上においていかなる位置を占めるかを明らかにし、彼の作品の意義を明らかにしてこなければならぬのである。これは歌の伝統の上に住する者の、当然のしごとというべきである。
 
(21)  第一 柿本朝臣人麻呂歌集の研究(上)
 
     一 柿本朝臣人麻呂歌集の提示
 
 柿本人麻呂を伝し、およびこれを論ずる者は、従来多くは、主として『万葉集』中、題詞に柿本朝臣人麻呂作歌とあるものによっておった。『万葉集』中には、別に柿本朝臣人麻呂歌集所出の歌が多数あるけれども、人麻呂の作品として疑わしいものであるとなして、顧みない状態であった。しかし疑わしいものは、十分に検討が加えられねばならない。人麻呂歌集と称する以上は、なんらか人麻呂に関係のあるべきことが予想せられる。もし後人の編纂物であって、人麻呂を伝し論ずるに、資料として採るべからざるものであることが、あきらかにならばそれも結構である。また資料として採るべきふしがあることが知られれば、なお結構である。吾人は、白紙の状態において、まず人麻呂集の検討を試みなければならぬ。
 最初に『万葉集』における人麻呂歌集所出の歌の存在状態を調べる。まず人麻呂歌集から出た歌数の明記のあるものがあり、これに対して、その種の記事のないものが問題となる。
 『万葉集』中人麻呂歌集と目せられるものの指示には、三種の別がある。もっとも麻呂と麿、歌と謌とについては、同一と見なして区別を立てないことにする。また伝来による相違もあって、これによって種別の移動すべきものも存する。
(22) 一、柿本朝臣人麻呂之歌集二十七例
  巻三   二四四 三吉野之の左註
  巻七  一〇六八 天海丹の左註
      一〇八八 足引之の左註
      一〇九四 我衣服の左註
      一一〇一 黒玉之の左註
      一一一九 往川之の左註
      一一八七 網引為の左註
      一二五〇 妹為の左註
      一二六九 巻向之の左註【通行本にはこれがない。】
      一二七一 遠有而の左註
      一二九四 朝月日の左註
      一三一〇 雲隠の左註
  巻九  一七〇九 御食向の左註
      一七二五 古之の左註
      一七七五 泊瀬河の左註
      一七八三 松反の左註
      一七九九 玉津島の左註
  巻十  二〇三三 天漢の左註【通行本にはこれがない。】
      二〇九五 夕去の左註
(23)     二一七九 朝露爾の左註
      二二三四 一日の左註
      二二四三 秋山の左註
      二三一五 足引の左註
      二三三四 阿和雪の左註
  巻十一 二三六二 開木代の左註
      二五一六 敷細布の左註
  巻十二 二八六三 浅葉野の左註
 二、柿本朝臣人麻呂歌集十二例
  巻二   一四六 後将見跡の題詞の下
  巻十   一八一八 子等名丹の左註
       一八九六 春去の左註
  巻十二  二九四七 念西の左註
       三〇六三 浅茅原の左註
       三一三〇 豊州の左註
  巻十三  三二五三 葦原の前行
  巻十四  三四一七 可美都気努の細註
       三四四一 麻等保久能の左註
       三四七〇 安比見底波の細註
       三四八一 安利伎奴乃の左註
(24)      三四九〇 安都佐由美の細註
 三、柿本朝臣人麻呂之集一例
  巻十三  三三〇九 物不念の前行
 右のうち、第一種の一一一九、一二五〇、一二九四、一七二五、二二三四の諸例については、一、二の写本に之の字のないのがあるが、多本によることとし、一二六九、二〇三三の二例については、同じく寛永版本に之の字がないが、元暦校本等の古写本にはこれがある。一七九九の一例は、元暦校本に歌の字なく、別筆で書き入れてあるが、これはこの本のみの誤脱であろう。また一七八三の一例は、元暦校本・藍紙本・神田本に集の字なく、これによれは本文は「柿本朝臣人麻呂之歌中出」となる。これは他にも「笠朝臣金村之歌中出」の例があって、それと同じ意味に書いたか、またはそれに引かれて書き誤ったかの間であろう。
 以上のように三種の書き方があるが、これは同一の物件を指示するものと見てよいであろう。ただ巻によって、多少の習慣があることが認められる。ことに巻の十四の諸例にことごとく之の字のないことは、歌の本文をも書き改めたと認められるのとあわせ考うべきである。またここには集の字のあるものに限って集めたが、ないものをも参照する必要のあることは、前項の一七八三の例でも知られるし、他の笠金村歌集などの例に照らしても知られることである。ただし人麻呂の場合には、人麻呂歌集からこの歌を取り出したという意味に、集の字なくして用いた例は、ほかに見あたらない。
 ここで、他の笠金村・高橋虫麻呂・田辺福麻呂の歌集の指示方法を調べてみよう。これらの場合には、集の字のあるものに限るわけにはゆかないのである。
 笠朝臣金村歌集一例
  巻二   二三二 御笠山の左註
 笠朝臣金村之歌三例
(25)  巻三   三六九 物部乃の左註
  巻六   九五三 竿壮鹿之の左註
  巻九  一七八九 吾味児之の左註
 高橋連虫麻呂之歌集二例
  巻九  一七八一海津路乃の左註
      一八一一 墓上之の左註
 高橋連虫麻呂歌集一例
  巻九  一七六〇 男神爾の左註
 高橋連虫麻呂之歌二例
  巻三   三二一 布士能嶺乎の左註
  巻八  一四九七 筑波根爾の左註
 田辺福麻呂之歌集三例
  巻六  一〇六七 浜清の左註
      一七九四 立易の左註
  巻九  一八〇六 蘆檜木笑の左註
 右の例のうち、高橋連虫麻呂之歌集の一七八一の一例は、元暦校本・藍紙本・神田本に集の字がないから、これによれば所属が転ずるのである。
 田辺福麻呂の場合は、姓を書いてないので、『田辺福麻呂之歌集』という一の書名があったかとも考えられるが、金村・虫麻呂の場合は、さる書名ではなかったらしい。人麻呂の場合もこれに準じて考えてよいかと思うが、氏名と歌集との間に、之の字のあるのは、やはりさる名の書名ではなかったことを現わしているのであろう。
 
(26)   二 柿本朝臣人麻呂歌集所出の範囲
 
 柿本人麻呂歌集から出た歌である事を現わすために用いられる、柿本朝臣人麻呂歌集またはその類似の語は、歌の本文の前にあるものと後にあるものとがある。前にあるものは、また題詞類似の句中にあるものと、および題詞に随伴するものとがある。題詞類似の形式をとるものは、巻の十三にあり、たとえば「柿本朝臣人麻呂歌集歌曰」のごとき形をとって、その歌に臨んでいる。巻の十三の三三〇九の歌の前にあるごときは「柿本朝臣人麻呂之集歌」と記している。また題詞に随伴せるものとしては、巻の二の一四六の題詞「大宝元年辛丑幸于紀伊国時見結松歌一首」の下に「柿本朝臣人麻呂集中出」とある。この「柿本朝臣人麻呂歌集中出」の形は、歌の本文の後にくるもの、いわゆる左註の文中にあっても、大体同様の形をとって現われている。この他に、たとえば巻の十四には、本文と人麻呂歌集の歌との異同を左註として註しているものがある。
 以上はいずれも、その歌が柿本朝臣人麻呂歌集から採録せられたものであることを語っている。歌詞の異同を註したものにあっても、人麻呂歌集から採録したのではないであろうが、同じくその歌が人麻呂歌集にあることを示すに足りる。これらの記事は、その記事の後または前にある歌が、人麻呂歌集にある歌であることを示すものであるが、この記事を指定する範囲については、考慮を要するものがある。
 前記の範囲に関しては、その範囲の歌数を指定しているものと、歌数の明記なきものとに分けることができる。歌数の指定あるものは、巻の七、九、十、十一、十二の諸巻にわたって存している。この場合は、その範囲を確実に定めることができる。集中にあっては、かような歌数の明記があるものにも、なお問題の存するものがあるが、人麻呂歌集の場合には、幸いにしてその問題に触れないでもよさそうである。
 次に歌数の明記なきものにあっては、ほとんど疑問なくその範囲を決定し得るものと、および問題となり得るものと(27)を有する。巻の二の一四六の題詞の下にある記事は、その記事自身は歌数の明記を存していないが、その題詞に一首の文字があり、またこの一首だけで、集の項目が変わるのであるから、まず紛れなきものの例にあげることができる。巻の十二における歌数の明記なき左註も、分類の小題以後の数首をさすものとして、まず紛れなき分に入れてよいであろう。また巻の十四の歌の左註としてあるものも、おおむねその歌一首に限りいっているものと見てよい。巻の十三の例、三二五三の歌の前にあるものは、歌数の明記を欠いているけれども、この歌は長歌であるから、すぐつづいて載っている反歌をもその所属として見ることができる。かように範囲の決定に問題のない場合も多いのであるが、また一方にこれが問題になるものも存するのである。それは実に巻の九に存する。
 巻の九には「柿本人麻呂歌集云々」の左註は五箇所に見えている。そのうち三箇所は歌数の明記があり、問題にならないのであるが、他の二箇所は明記がないので問題となり得るものである。それは、一七〇九および一七二五の左註である。この一七〇九の左註の指定する範囲については、次に記す理由により、自分は一六六七以下の四十三首をさすものと見るのである。また一七二五の左註の範囲については、一七一五以下十一首をさすものと見るのが普通である。
 いま、一七〇九の歌の次にある左註の範囲について見ると、『万葉集新考』には「一六八二以下の二十八首をさせるならん」といい、この説に従うものが多い。
 まず第一に注意すべきことは、本集において人麻呂歌集所出等、歌の出所を註記せるは、歌の作者の伝来に対する参考としての意味をも含むものなることである。それで歌数を明記しないのは、作者の明記され、または作者未詳として記されている歌を除いて、その次からをさすものと解すべきである。いま巻の九の初めについていえば、初めの大泊瀬幼武天皇の御製の歌と、次の作者未詳の左註のある歌とは当然人麻呂歌集所出の範囲にははいらない。さてその次に大宝元年(七〇一)十月の十三首があって、この中の一首は、類聚歌林によるに長忌寸意吉麻呂の歌であると註している。他の十一首はならびに作者を註せず、また作者未詳とも註していない。その次の後人の歌二首もまた同然である。人麻呂集所出の歌に、別の資料をもって作者の一説を付した例は、巻の十にもあって、よしこれがあっても人麻呂集所出の(28)歌であることをさまたげない。
 第二に、巻の二に大宝元年紀伊の国に行幸せられたときの歌があって、「柿本朝臣人麻呂歌集出」と註している。人麻呂集に、このときの行幸のときの歌があるとみなすべきである。なお巻の一にも、この時の歌二首があるが、いまの問題と関連して考うべきである。
 第三に、巻の九の人麻呂集所出の歌に、かつて、妹とともに黒牛潟に遊んだことを叙したものがあるが、いま問題とせる十三首中にも婦人とともに黒牛潟に遊んだことを伝えている。
 第四に、大宝元年の歌十三首および後れたる人の歌二首の字数は平均一八・八であり、巻の九の他の人麻呂歌集所出の歌の字数に比して決して多い方ではない。
 以上の考察によれは、大宝元年の歌十三首、および後れたる人の歌二首をも人麻呂集所出の歌となすべきではあるまいか。さて進んで巻の一の大宝元年の題詞ある歌をも人麻呂集所出の歌と考える方向に進みたいのである。  (以上十九行『国文学研究』万葉集篇摘要)
 巻の九における人麻呂歌集の範囲についてはなお問題があって、丹比真人の歌以下十二首(一七二六−一七三七)を人麻呂歌集所出とする説がある。これは「柿本朝臣人麻呂之歌集出」の左註を持っていないで、すぐつづいて高橋連虫麻呂の歌集から出た上総の末の珠名の娘子を詠める歌に接続している。それは一七六〇の次にある「右件歌者高橋連虫麻呂歌集中」の範囲になってくるのであるが、しかし問題の丹比真人以下は、それぞれ作者の名のある歌であって、作者名がなくすべて虫麻呂の作品であると認められる虫麻呂歌集の所出とは考えられない。
 これらの歌を人麻呂歌集の歌であるとすることは、主としてその前にある一七一五の歌以下十一首の人麻呂歌集から出たとされているものとの比較を根拠とするのである。しかし仔細に点検すれば、その間には多少の相違が見られるのである。いま比較の便宜上、一七一五以下十一首の一団を前者とし、一七二六以下十二首の一団を後者とする。
 この両方とも作者の名を題詞に存し、しかもそれが略書されている点において共通している。いまその作者の名をあ(29)げると、前者にあっては、槐本・山上・春日・高市・春日蔵・元仁・絹・島足・麻呂であり、後者は丹比真人・石河卿・宇合卿・碁師・小弁・伊保麻呂・式部大倭・兵部川原である。この前者にあって槐本・山上・春日・高市等は氏であり、春日蔵は氏と姓の一部分であり、元仁・島足・絹・麻呂は名であると考えられる。これらはきわめて省略した書き方であって、書留をしておいた人の備忘のような性質を持っている。こういう書き方は、例がないわけではなく、たとえば巻の十五における遣新羅使の歌の書留にも同様なものが見出される。後者の場合もほぼ同様であるが、丹比真人は氏と姓とを記し、石川卿は氏と敬称、宇合卿は名と敬称である。碁師は不明であるが、師は法師であるかもしれない。小弁・伊保麻呂は名であり、式部大倭・兵部川原は職名と名または氏であろう。しかし前者に比して一の気分が感じられる。それは作者に対して敬意を払っているものが多いことである。前者にあっては、これはほとんど見られないところであった。
 前者の中で、
    春日蔵歌一首
  照月遠 雲莫隠 島陰爾 吾船将極 留不知毛(巻九・一七一九)
   右一首、或本云、小弁作也。或記2姓氏1、無v記2名字1、或称2名号1、不v称2姓氏1。然依2古記1、便以v次載。凡如v此類下皆効v焉。
 本文は春日蔵の歌として掲げ、編者はこれを註して、ある本では小弁の作であるとなしている。春日蔵は春日蔵首老の略称であろうと思われるが、老はもと僧侶であり、弁紀と称したが、小弁と称したことは他に伝えがない。しかも後者にあっては別に小弁の歌一首を挙げているのである。これによれば後者は人麻呂歌集所出であるとなすよりも、むしろ前者の左註の中に見えるある本というものに近い性質があると見るべきである。
 なお作歌の土地からいえば、前者は近江および吉野であり、あるいは紀伊の国での作かと思われるものも含んでいる。後者は土地の知られるものは難波・山科・紀伊・近江・吉野の各地に及んでおり、所在未詳の地名としては梶島および(30)伊勢かといわれる三重がある。わずかに十二首のうちに土地が非常に多方面に及んでおり、前者とは歌の記録としての成立過程を異にするものと考えられる。前者にあっては近江や吉野にあって聞くがままに記したと考えることもできるが、後者にあってはさらに編纂的な立場が考えられるのである。
 要するに、この両者が同じ性質のもとにあるということは、いまだ認めがたいと思われる。人麻呂歌集にあっても、かなり多種の立場が考えられるけれども、かような編纂的態度は見られないところである。このゆえに吾人は、左註に示すがままに「人麻呂歌集所出」とあるもののみを人麻呂歌集とし、その分について範囲を決定するのを妥当なりと信ずる。「人麻呂歌集所出」の記事なくして、これを人麻呂歌集と認定するには、さらに動かせない証拠をあげる必要がある。
 かくのごとくにして、柿本人麻呂の歌集の調査にあたっては、まずその基礎として人麻呂歌集から出た歌、および人麻呂歌集にある歌の範囲を決定しておくことを要する。
 しかしてその歌数は次のとおりである。
  巻二     一
  巻三     一
  巻七    五六
  巻九    六四
  巻十    六八
  巻十一  一六一
  巻十二   二七
  巻十三    三
  巻十四    五
(31)    計三八六
 右のうち、巻の十四には人麻呂集にその歌があるという意味で詞句の異同を註したもの一首を含んでいる。また巻の十一には、「右一首上見柿本朝臣人麻呂之歌中也云々」、および「右上見柿本朝臣人麻呂歌中云々」の左註を有するものがあるが、いまこれを計算に入れない。これは柿本人麻呂の歌集を、しからざるものから区別しようとする意図にもとづくものである。よって歌集の文字に重きを置いた結果になるが、ただ巻の九の一七八三の左註の記事だけは、古写本によれば集の字がないわけになること、前文に記したとおりである。
 
   三 柿本朝臣人麻呂歌集の問題
 
 人麻呂歌集所出の歌として、基礎となるべきものを定めたのは、ここに現われている特質を調査して人麻呂歌集所出の以外のものの中から、この特質に近いもののあることを見いだしたいと思うからである。
 平たくいえば人麻呂歌集所出の部分と、その他の部分との比較ということになるのであるが、これは必ずしも双方の全面的な比較を意味するものではない。「その他の部分」については、むしろ個別的に、「人麻呂歌集所出の部分」の特質を見てゆくことがいまの場合必要なのである。
 この調査は人麻呂歌集の特質を明らかにし、これをもって、その他の部分にあてていくことになるのであるが、ここにまず『人麻呂歌集』の調査が二方面に分けられ、これに従って、その他の部分との比較もまた、おのずから二方面に分けられる。その一は表記法に関する方面であって、文字使用法・編纂法・抄出法等の部門があり、この調査には人麻呂歌集所出の歌の、全部を材料とすべきものである。この調査にあたって、人麻呂歌集所出の歌の『万葉集』における存在状態が、かならずしも原形のままであるとは考えられないことは注意を要する。この点を顧慮しつつ調査を進めてゆくことが必要である。
(32) その二は、柿本人麻呂の作品という立場においての方面であって表現法および内容の両部門を有する。この方面は人麻呂歌集所出の中でも、人麻呂以外の人の作品と認められるものを除外することを要する。そうしてこれを、その他の部分のうち、人麻呂の作品として明記あるものと比較を試みようとするのである。
 かくして第一の調査からは、『万葉集』の編者が人麻呂歌集に対して、いかなる取り扱いをなしたかの問題を通して人麻呂歌集の原形と思われるものをながめることができるであろう。『万葉集』の編者の取り扱いという中には人麻呂歌集所出の明記のない部分にも人麻呂歌集から採用した歌がないかの問題を含む。第二の調査には、人麻呂歌集所出の歌は、人麻呂以外の人の作品を除いて、これを人麻呂の作品と認めてよいかどうかの問題の解決に重心が置かれる。
 
   四 短歌一首の字数
 
 人麻呂歌集の歌の、外形上の特色のうち、字数の問題は、一番簡単な問題のように思われる。これも、なにゆえにかような字数現象を現わすかの点になると、相当複雑になるが、これは使用文字の性質の問題に移して考えてもよい。そうすればここには簡単にかたづくことになる。
 人麻呂歌集の字数については、前に調査したものが、『国文学研究』万葉集篇の一〇四頁以下に出ているが、これは今回のしごととは調査の基礎をなす歌数が違うから、改めてこの書において決定した人麻呂集の範囲によって調査せねばならない。これによれば人麻呂歌集の短歌三百四十八首中、十字のもの三首、十一字十八首、十二字三十二首、十三字五十七首、十四字五十六首、十五字四十首、十六字三十一首、十七字二十五首、十八字二十五首、十九字二十六首、二十字十三首、二十一字十一首、二十二字七首、三十一字二首、三十二字一首、三十三字一首である。その各巻における分布、および平均字数は次の表のごとくである。
(33)歌数    十字 十一字 十二字 十三字 十四字 十五字 十六字 十七字 十八字 十九字 二十字 二十一字 二十二字 三十一字 三十二字 三十三字 平均
巻二  挽歌 一                             一                二二、〇
巻三  雑歌 一                                                一                     二一、〇
巻七  詠物 一〇                  一           二   二   一   二    二                     一八、五
    羈旅 八               四       一       一       一   一                          一五、四
   譬喩歌 一五     一    一   四   六   三                                              一三、六
巻九  雑歌 五四                  二   五   九   九   八   九   五    五   二                 一七、八
    相聞 五                                   二   一   一        一                 一九、四
    挽歌 五                       一           一   一   一    一                     一八、六
巻十  雑歌 五四          一   二   七   三   一二  八   九   八   一    一   二                  一、六八
    相聞 一四      二   三   四   五                                                  一二、九
巻十一正述心緒 四七 一   六   七  一四   八   七    二   一       一                             一三、三
  寄物陳思 九三  二   六  一六   二一  二〇  一四   六   二       三   二   一                     一三、九
    問答 九           一   二   一           二    一  一             一                一六、一
巻十二正述心緒 一〇     二   一   一   三    二   一                                         一三、五
  寄物陳思 一三      一   一   四   三    二   一       一                                 一三、七
  羈旅発思 四           一   一        二                                             一三、八
巻十三 相聞 一                                   一                                  一八、〇
巻十四    四                                                         二   一   一    三一、八
  三四八   三   一八  三二  五七  五六   四〇   三一 二五  二五  二六  一三  一一   七    二   一   一
 この調査には『白文万葉集』を使用した。人麻呂歌集の歌は巻の二、三、七、九、十、十一、十二、十三、十四の諸巻に出ているが、ここにはその中の短歌の一首全き形を伝えているもののみをあげた。巻の十四の三四四一の歌は、この調査にはいらない。
(34) 人麻呂歌集所出の歌の字数は、巻によってかならずしも一致しない。大体巻の十一のごとく、多数まとめてあるものは、原本の書法に近く、巻の十四などは一字一音式に書き改めたものであろう。巻の二、三のごとく、一首だけ遊離しているものに字数の多いのも、おそらくは書き改められたためであろう。ただ巻の七、巻の十の両巻において、雑歌と譬喩相聞歌との間に字数の聞きのあるのは見のがせない。巻の七の詠物十首の平均字数は一八・五で、※[羈の馬が奇]旅八首の平均字数は一五・四であるが、※[羈の馬が奇]旅八首中にある十三字の歌四首は、内容上むしろ相聞の歌に近く、この四首を除くと、※[羈の馬が奇]旅の歌の四首の平均字数は一七・八の高率に上るのである。
 巻の九の歌は、また比較的に字数が多い。この巻はすべて題詞のある歌である。すなわち人麻呂歌集所出の歌は題詞あるもの、および雑歌(詠物※[羈の馬が奇]旅を含む)の類は比較的字数多く書かれ、相聞譬喩の類は字数が少ないのである。巻の七、十のごとく混っているものもあって、『万葉集』の編者がその前者のみについて書き改めを行なったとは考えがたい。
 次に巻の七および巻の十一における人麻呂歌集所出の旋頭歌について見るに、巻の七にあっては平均一八・五であり、巻の十一にあっては一九・二である。旋頭歌は五音二句、七音四句から成立しているから、これを五音二句、七音三句の短歌の字数に換算すれば、巻の七は一五・〇七となり、巻の十二は一五・四四となる。この数字は同巻の短歌の平均字数に比して、多いものと少ないものとの中間にあることが知られる。
 これに対して人麻呂歌集所出の以外の短歌のうち、字数の少ないものは、十二字のもの二首、十三字四首、十四字十八首、十五字四十五首、十六字百三十首、十七字二百九十七首、十八字四百九十九首であるから、字数を少なく書くことが、人麻呂歌集の外形上の特色の一であるとは、明らかにいい得るところである。ただ字数の少ないのは人麻呂歌集であるという確定的なことがいえないのはもちろんである。
 人麻呂歌集所出以外の短歌で、十二字をもって書いているのは次の二首である。
  物皆者新吉唯人者旧之応宜(巻十・一八八五)
  人言繁跡妹不相情裏恋比日(巻十二・二九四四)
(35) また十三字のは、
  命幸久吉石流垂水水乎結飲都(巻七・一一四三)
  橡解濯衣之恠殊欲服此暮可聞(同・一三一四)
  春霞山棚引鬱妹乎相見後恋毳(巻十・一九〇九)
  結紐解日遠敷細吾木枕蘿生来(巻十一・二六三〇)
 これらは、いまだ人麻呂歌集ないし人麻呂の作品との関係のあることが認められないが、十四字で書いたものの中には、すでにさような徴証のあるものが見いだされる。十四字で書かれたものは、次の十八首である。
  東野炎立所見而反見為者月西渡(巻一・四八)
  王神座者雲隠伊加土山爾宮敷座(巻三・二三五或本)
  矢釣山木立不見落乱雪驟朝楽毛(同・二六二)
  庭立麻乎刈干布暴東女乎忘賜名(巻四・五二一)
  月読之光者清雖照有惑情不堪念(同・六七一)
  離家旅西在者秋風寒暮丹雁喧渡(巻七・一一六一)
  秋風之清夕天漢舟榜度月人壮子(巻十・二〇四三)
  秋風爾河浪起暫八十舟津三舟停(同・二〇四六)
  天漢霧立上棚幡乃雲衣能飄袖鴨(同・二〇六三)
  天漢瀬毎幣奉情者君乎幸来座跡(同・二〇六九)
  妹恋吾哭涕敷妙木枕通袖副所沾(巻十一・二五四九)
  人事茂君玉梓之使不遣忘跡思名(同・二五八六)
  大原古郷妹置吾稲金津夢所見乞(同・二五八七)
(36) 草枕旅之衣紐解所念鴨此年比者(巻十二・三一四六)
  留西人乎念爾※[虫+廷]野居白雲止時無(同・三一七九)
  大舟能思憑君故爾尽心者惜雲梨(巻十三・三二五一)
  ※[木+若]垣久時従恋為者吾帯緩朝夕毎(同・三二六二)
  一眠夜算跡雖思恋茂二情利文梨(同・三二七五)
 以上のうち、四八、二六二の二首は、柿本人麻呂作歌の題詞を有するものであり、二三五は、同様のものの左註にある歌である。なお五二一は藤原字合に贈った常陸の娘子の歌、六七一は湯原の王の歌に和したある人の歌であり、一一六一以下の十三首は作者未詳の歌である。
 短歌を少ない字数で書いたものには、なお正倉院文書、天平勝宝元年(七四九)八月二十八日、装※[さんずい+黄]手実の紙背の短歌をあげねばならない。
 それは、
  □家之韓藍花今見者難写成鴨
とあり、上の損字は一字か二字か明らかでないが、たぶん一字であろう。そうとすれば、十三字で短歌を書いたことになる。そこで字数を少なくして歌を書くのは、人麻呂歌集の特色の一であるが、人麻呂歌集には限らぬことだということは、やはり動かせないと見なくてはならない。
 人麻呂集所出の以外の歌にあって、題詞に柿本人麻呂作歌とあるものは、字数についていかなる数字を示すであろうか。今特に短歌のみについて計算を試みる。その総数は五十六首であって、巻の一に十一首、巻の二に二十首、巻の三に十八首、巻の四に七首である(ある本、ある書の歌を除く)。これを字数の別でいえば、二十八字一首、二十六字一首、二十四字三首、二十三字一首、二十一字六首、二十字十八首、十九字九首、十八字七首、十七字六首、十五字二首、十四字二首であって、漢字二十個をもって短歌一首を書いているのが最も多いことがわかる。そうしてこれよりも字数(37)の多いものは、これより字数の少ないものの半分にも足らぬのである。しかしてこの比率に、巻によって多少の相違の見いだされることは、特に興味のあるところである。わずらわしいようであるが、いまこれを巻別に表示すれば次のとおりである。
   字数 二十八 二十六 二十四 二十三 二十一 二十 十九 十八 十七 十五 十四 計
巻別
巻一      一       一   一   三   二  二           一 一一
巻二           一   一       一  一〇  三  三  一       二〇
巻三              一       二   二  三  二  五  二  一 一八
巻四                          四  一  二           七
計       一    一   三    一   六  一八  九  七  六  二  二  五六
 この表によれば、巻の一、二では、中心が二十字、二十一字あたりにあり、巻の三ではもつと小数の方に移動していることがわかる。しかして人麻呂の作品をも含めた短歌の全部にあっても、ほぼ同様の傾向を示している。すなわちこの四巻における字数の表は次のとおりである。
   字数 二十八 二十六 二十五 二十四 二十三 二十二 二十一 二十 十九  十八  十七 十六 十五 十四 計
巻別
巻一      一       三   四   六  一六  一五  一一  七   三   一        一  六八
巻二           一   四   六   五  一五  二四  三〇  一三 一七  一一  三  二    一三一
巻三          二   三   七  一一  一七  三九  三七  四三 二九  二七  八  三  二 二二九
巻四          一   二   九  一二  二八  五〇  四四  五六 五三  二九 一二  四  二 三〇二
計       一   四  一二  二六  三四  七六 一二八 一二二 一一九 一〇二 六八 二三  九  五 七三〇
 
 この二つの表を比較することによって、短歌一首を書くに要した字数は、人麻呂の作品のほうが、全部の作品よりも、(38)概して少ないことが知られる。すなわち、短歌一首を書くに要した平均字数は、全部にあっては、巻の一 二〇・二、巻の二 二〇・一、巻の三 一九・六、巻の四 一九・六であるのに対して、人麻呂の作品のみでは、巻の一 二〇・九、巻の二 二〇・〇、巻の三 一七・〇、巻の四 一九・二の数字を示している。
 
    五 文字使用法
 
      一
 
 漢字をもって国語を表記するにあたり、その漢字を、表意文字として用いる方法と、表音文字として用いる方法とが存することは、いまさらいうまでもない。『万葉集』における柿本人麻呂の作品は、その大部分を占める巻の一ないし巻の四にあっては、表意文字としての用法を単用しているものと、これに表音文字としての用法を交え用いているものとがあり、巻の十五にあっては、むしろ特例として、大部分を表音文字で書いている。しかして巻の十五のは、後人が書き直しを行なったものと見てよい事情のもとにあるから、しばらくこれを別とし、ここには主として巻の一ないし巻の四の書法について考察を加えていく。ただしこれが後人の手を加えているいないの問題は、推定を今後に保留しておくのである。
 国語の表記にあたり、漢字を表意文字として用いることの根拠は、漢文の訓読にもとづくことである。漢文を訓読するということは、漢文を国語に翻訳して読むことである。しかしてその知識にもとづき、逆に国語を漢文に翻訳することが行なわれる。その場合、もとの国語の音声の保留がなされるときに、そこに漢文を離れて、国語表象を意味する特殊の漢字配列がなされる。ここに表意文字としての漢字使用に不足が感じられて、表音文字としての使用が補充せられ、または表音文字のみをもってしても、国語表象が行なわれるに至るのである。表記せんとする国語が歌謡である場合、(39)もとの音声は必要であるから、特にこの方面に漢文を離れた国語表象が行なわれるが、歌謡でも漢文訳したものもあり、歌謡ならずとも漢文くずれの表象を見るのである。
 漢字を表意文字として使用するにあたっては、その漢字の訳語が数種ある場合には、これが何の国語を表象しているかについて問題となるものがある。たとえば上という漢字が使用せられているときに、これをウヘと読むか、カミと読むか、またはノボルと読むかは、器械的には決定し得ない。しかしここにはこういう問題を別として、一の漢字には一の定訳があるものとして、それでもなおその漢字が、はたして定数の国語音声を表象しているかについて考えてみたい。という意味は、たとえば忽という漢字が使用せられているときに、これが国語のタチマチを表記しているか、タチマチニを表記しているかという問題をいうのである。
 国語には、本質上、表意文字としての漢文には表記し得ない部分がある。意味の不明なる固有名詞、わが国のみにあってかの土になきものなどはもちろんであるが、語法上にあっては、助詞、動詞、形容詞の語尾、助動詞のごときは、おおむね表意文字をもってしては表記しがたい。もっとも助詞にしても、於于をニに用い、者をハに用い、助動詞にしても将をムに用い、不をズに用いるがごときはある。これらは本邦における特殊の発達をなしているものであるが、根本義においては、やはり表意文字としての用法にほかならない。しかし大体この種のものは、漢字を表意文字として用いたのでは、不自由不便であるには違いない。そこでこれらの部分に対し、表音文字としての用法をもって表記し、これによって表記の完全を期するのである。
 体言についていえば、一の漢字は、一の定訓をもっているものとして、普通に解釈される。しかしこれが格を表わす助詞は、漢文にあっては特別の文字を使用しない場合も多いのである。しかも国語の漢字による表記は、元来漢文から出発したものであり、漢文の性質を受け入れたものが多いのであって、ないがゆえに省略したものとはいえないのである。たとえば、柿本人麻呂の柿本をカキノモトノと読むが、このノ両個の音は相当する漢字はないけれども、あるべくして省いたものでなくして、この人の姓を漢風に書くことによって生じた字面にほかならない。漢字自体には格はない(40)のであるから、その立前からいえば、ノを表記する文字のあったほうが紛れがない。しかるに本朝人名地名などの固有名詞には、古くからノにあたる文字を書かないほうが普通になり、仮字が発達して後にも、漢字のみをつらねているようになったのである。
 用言についていえば、漢文には用言の活用語尾を区別しない。そこでこれが表記法として格別の方法がなかった。助詞・形容詞にあたる漢字が、国語のいかなる活用形を表しているかは、それ自身には表記し得ない。ここにも他の方法をもって活用部分を表出するほかはないが、四段動詞や良行変格動詞の活用のごときは、むしろこれを表示しないのを原則としている。ただ一段・二段および加行・佐行・奈行変格動詞のごとき、活用部分が二音にわたる場合に、その後の音声を表記するがごとき習慣になっているものがある。形容詞については、比較的に活用部分の表記が多いのは、形容詞そのものの発達と関係があり、その活用部分に対して、形容詞そのものでなくして付属物たる感が、比較的に強いためであると考えられる。
 表意文字の補助として、表音文字の使われるのは伊予国温湯碑文における夷与のごとき固有名詞に始まり、特殊の体言、および特殊の用言に及び、また用言の活用部分助動詞、助詞に及んでいる。これらは文献調査によって、いかなる部分が、表音文字の補足を必要として感じたかを知るべきである。
 
         二
 
 表意文字としての使用法中、助動詞・助詞を表現する文字のごとく、彼我の間に、その位置について相違のある場合に、漢文とは変わった文字排列を見受けることがある。
 助詞としては「不」は漢文にあっては、その否定する助詞よりも上位にあるを例とする。『万葉集』にあってもこの字は、かなり多く用いられているが、これらはおおむねその否定する動詞の上に置かれている。ただし「イネガテズケム」のごときは、「ズ」は「イネガテ」を否定するものであるから漢文の方則上よりすれば、「ズ」を表示する不は「イ(41)ネガテ」を表示する文字よりも上にあってしかるべきであるが、事実「宿不勝家牟」(巻四・四九七)と書いてある。かような例はあるが、とにかく「不」の下には、否定せられる文字を置くのを通例とする。しかるにここにただ一例、「不」の下に否定せらるべき語を現わす文字のないものがある。それは、人麻呂作歌のうち、
  物乃部能八十氏河乃阿白木爾不知代経浪乃去辺白不母(巻三・二六四)
の一首である。この「白不」の不は、まさしく表意文字として使用せられており、その否定する語は、表音文字ではあるが、かえってその上に位置している。これは人麻呂作品中、特色ある用字例の一と見なしてよいと思う。
 しかし「不」以外にあっては、他に類例がないわけでもない。助動詞「ベシ」は、表意文字としては「可」「応」などをもって現わされているが、その多くは限定せられる用言を、その字の下に置いている中に、まれに国語脈のとおりに「ベシ」にあたる字を限定せられる語を現わす文字よりも下に置いているものがある。
  士也母空応有万代爾語続可名者不立之而(巻六・九七八)
  妹手取而引与治※[手偏+求]手折吾刺可花開鴨(巻九・一六八三)
  秋山之木葉文末赤者今旦吹風者霜毛置応久(巻十・二二三二)
 右の前二首の「可」、後の「応」はそれである。このうち「妹手」の歌は、人麻呂歌集所出の歌である。また助動詞「ム」(「ラム」「ケム」を含む)を現わす文字「将」についても同様の数例を見る。
  住吉乃荒人神船舳爾牛吐賜付賜将島之埼前依賜将礒乃埼前(巻六・一〇二一)
  千歳爾闕事無万歳爾有通将得(同・三二三六)
  占裳無偃為公老母父之愛子丹裳在将稚草之妻裳有等将家問跡家道裳不云名案問跡名谷裳不告誰之言矣労鴨腫浪能恐海矣直渉異将(巻十三・三三三九)
  母父裳妻裳子等裳高高丹来将跡待人乃悲(同・三三四〇)
 右のうち、三三三九の「有等将」は古本によった。これらはいずれも人麻呂とは関係がないようである。
(42) 助詞としては、「ユ」「ヨ」を現わす「従」「自」、「ト」を現わす「与」のごときは、下に書いたものも多い。「ト」を現わす「共」を下に書いた例もある。珍しい例としては、「ニ」を現わす「乎」を下に書いたものがある。
  事毛無生来之物乎老奈美爾如此恋乎毛吾者遇流香聞(巻四・五五九)
 ただしこの下の「乎」は桂本・元暦校本等の古本によったので、仙覚本は「于」である。また、
  卯管庭君爾波不相夢谷相跡所見社天之足夜乎(巻十三・三二八〇)
 この「乎」も元暦校本・天治本等の古本によったのであるが、これはむしろ表音文字として「ヲ」と読むほうが集中における「乎」の用法から見て普通である。仙覚本に「于」に作るによらば、やはり「ニ」である。
 
         三
 
 前にも書いたが、個々の漢字は、どれだけの国語を表現するものと見るのが適当であるかは、相当大きな問題である。漢字は、遊離して個々に存在していると見るべき場合と、文章を構成する分子として存在している場合とがある。ある漢字の表現する内容に相当する国語は、その漢字の翻訳語にほかならぬものであって、漢字の存在状態の種類によって相違してくるのである。たとえば名詞を表現する漢字のごときは、その訓すなわち、訳語が動揺することはないものと、一般に考えられているかもしれない。しかし事実は決してそうではない。「松」という字の訓は「マツ」であるとして、疑いなきもののごとくであるが、それはその字が遊離状態にある場合の訓であって、文章の一部をなす場合には、「松は」「松に」「松を」「松の」等のいずれかを現わしているのである。しかしこれは純粋の漢文、もしくは漢文類似の文章における訓であって、漸次この字は「マツ」の音声を代表するものとの観念が発生して、「ハ」「ニ」「ヲ」「ノ」のごとき助詞の部分を別に表出するに至るのである。
 さらに用言を表現する漢字にあっては、この関係がいっそう複雑であって、たとえば「動」の字は、文章中にあっては、「動か」「動き」「動く」「動け」の一を表現するが、場合によっては、「動きぬ」「動けり」のごとく、助動詞の部分(43)をもあわせて表現することがある。助動詞を併用して翻訳すべき場合が多くあるというのである。
 かようなことをいってきたのは、『万葉集』の歌の記載法について、文字の省略、不省略を問題にしようとしてであり、自然いかなるを文字省略というべきの問題に直面したからである。上代漢文の訓読が行なわれ、それが応用されて、国語の漢字記載が発達してきたものであって、『万葉集』の歌の記載法には、なお多くの漢文風の習慣を存している。たとえば歌詞ではないが、国語「カキノモトノヒトマロ」を表現するに、柿本人麻呂の文字を用いて通用している。二個の助詞「ノ」は、この場合相当する文字を有せぬけれども、漢文の習慣に従って書かれているというべきである。
 助詞・助動詞のごとき、他の体言・用言に対して、従属的な性質を有するものにつき、特にこれを表現すべき文字を有せざるものから、有するものへの展開の跡を求めていくのも、一の事業であるが、ここには取り扱い方として、結果から見て、これを有せざるものを省略とするのが便宜である。そして普通の場合に、助詞の省略と助動詞の省略とがあり、特殊の場合に、その他の品詞の省略がある。
 柿本人麻呂の作品の記載法は、大体において、すでに文字省略の部分の少なくなったものといえる。いま、その中に助動詞を表現する文字を省略したものを拾い上げてみよう。
 崇敬の助動詞「ス」については、特にこれを読み添えて読むべきか否かの問題について考えさせられる。
  八隅知之吾大君 高照日之皇子(巻一・四五)
  八隅知之吾大王 高照日之皇子(同・五〇)
  神下座奉之 高照日之皇子波(巻二・六七)一
  八隅知之吾大王 高輝日之皇子(巻三・二六一)
 この高照の三例は「タカテラス」と読む時に、助動詞「ス」にあたる文字がないことになり、「タカテル」と読む場合には、この問題に触れないことになる。「高照」の漢字の直訳は「タカテル」であるけれども、この文字の熟合がすでに敬意を含んでいることを感じさせるし、そうすれば「タカテラス」と読むのが自然だとも考えられる。「高輝」の(44)場合も「タカヒカル」と読めば助動詞がないことになり、「タカテラス」と読めば「高照」を「タカテラス」と読むのと同様の場合になる。しかして、
  天照日女之命 天乎波所知食登(巻二・一六七)
の「天照」が「アマテラス」と読むべきである以上は、「高照」をも「タカテラス」と読むのが当然と思われる。なおこの類には、
  馬並而 三猟立流 弱薦乎 猟路乃小野爾(巻三・二三九)
  秋山之 黄葉乎茂 迷流 妹乎将求 山道不知母(巻二・二〇八)
の二例があり、「立流」を「タタセル」と読み、「迷流」を「マドハセル」と読む場合に、いずれも敬語の助動詞「ス」に相当する文字がないことになる。しかしてこれらの字面からは前の場合と異なって少しも敬意を感じてこないのである。もっともこの種の助動詞「ス」における、敬意の有無もしくは分量については、別に説があるけれども、いまはしばらく通説にまかせて崇敬の助動詞として扱っておく。
 
          四
 
 時の助動詞「キ」を省略したものは割に多い。これは本来、漢文のほうでは時を表現する文字は、これを訓読する場合に多く副詞の形をとることによるからであろう。
  黄葉乃 過伊去等 玉梓之 使乃言者(巻二・二〇七)
  遣使 御門之人毛 白妙乃 麻衣著(同・一九九)
  黄葉之 落去奈倍爾 玉梓之 使乎見者 相日所念(同・二〇九)
  時不在 過去子等我 朝露乃如也 夕霧乃如也(同・二一七)
  天数 凡津子之 相日 於保爾見敷者 今叙悔(同・二一九)
(45)  淡路之 野島之前乃 浜風爾 妹之結 紐吹返(巻三・二五一)
 右の例のうち、第一は「伊去」に「キ」にあたる字を略し、その他は「遣使」「相」「過去」「相」「結」のそれぞれに「シ」を略していると認められる。これらの字面は漢文の風習に従えば、過去の意味を表現する文字なくして、しかもその意に使用せられるものである。
 次に助動詞「リ」の活用を省略した例としては、
  吾妹子之 形見爾置 若児乃 乞泣毎(巻二・二一〇)
  去年見而之 秋乃月夜者 雖照 相見之妹者 弥年放(同・二一一)
 右の初めの例に「置」一字を「オケル」と読むのは、「ル」にあたる字を略し、後の例に、「照」一字を「テラセレ」と読むのは、同じく「レ」を略していると認められる。
 次に同じく時の助動詞「ヌ」またはその活用を略した例としては、
  不止行者 人目乎多見 其根久往者 人応知見(巻二・二〇七)
  久堅之 天所知流 君故爾 日月毛不知 恋渡鴨(同・二〇〇)
  小竹之業者 三山毛清爾 乱友 吾者妹思 別来礼婆(同・一三三)
 この第一の例では「応知見」を「シリヌベミ」と読むべきがごとくであり、ここにヌにあたる文字の省略されていることが知られる。また第二の例は「天所知流」を「アメシラシヌル」と読むべく、第三の例は「来礼婆」を「キヌレバ」と読むべきがごとくである。ここには助動詞「ヌ」の活用なる「ヌル」「ヌレ」の「ル」もしくは「レ」に相当する文字があって、しかも「ヌ」にあたる文字がないのである。これは助動詞の一部分を省略したものというべきである。
 次に未来および推量の助動詞としての「ム」を省略した例は、
  春花之 貴在等 望月乃 満波之計武跡(巻二・一六七)
  雖嘆 為便不知 雖恋 相縁無(同・二一三)
(46)  留火之 明大門爾 入日哉 榜将別 家当不見(巻三・二五四)
 以上の例は、「貴在等」「為便」「入日」の文字において、いずれも「ム」に相当する文字がない。なおこれに準ずべき例としては、
  吾妹児之 里爾思有者 懃 欲見騰(巻二・二〇七)
であって、この「欲見騰」を「ミマクホシケド」と読むのは、「マク」の二音を省略しているものと見るべきである。
 推量の助動詞「ラム」については、その一部分を省略した例がある。
  夏草乃 思志萎而 将嘆 角里将見 靡此山(巻二・一三八)
  石見之海 打歌山乃 木際従 吾振袖乎 妹将見香(同・一三九)
  葦辺波 鶴之哭鳴而 潮風 寒吹良武 津乎能埼羽毛(巻三・二五二)
 以上いずれも「将」を「ラム」と読ましているようであるが、この字は「ラム」の意味はなく、むしろ国語「ム」に相当するものであるから、まさしく「ラム」の「ラ」を省略したものと見るべきである。なお右の第二の例では、「妹将見香」を「イモミツラムカ」と読むによれば、助動詞「ツ」にあたる文字をも省略していることになる。
 
         五
 
 次に推量の助動詞「マシ」の一部を省略したものとして、
  其故 為便知之也(巻二・一九六)
の例をあげることができる。この「為便知之也」の句は、訓法に諸説のあるところであるが、誤字ありとする説はこれを除外し、その他について見れば、「スベモシラシヤ」「セムスベシレヤ」等の訓がある。集中これに類する字面としては、
  天橋文 長雲鴨 高山文 高雲鴨 月夜見乃 持有越水 伊取来而 公奉而 越得之旱物(巻十三・三二四五)
  沼名河之 底奈流玉 求而 得之玉可毛 拾而 得之玉可毛 安多良思吉君之 老落惜毛(同・三二四七)
(47)の二首における「得之」のごときがあり、これもまた「エマシ」と読むのが適切であると思われる。さればこれらの例にあっては、「マシ」の「マ」を省略したことになるのである。
 また否定ではあるが、「マシジ」の「マシ」を省略したものとしては、
  直相者 相不勝.石川爾 雲立度礼 見乍将偲(巻二・二二五)
の例をあげることができる。この第二句の「相不勝」は旧訓「アヒモカネテム」であったのを、橋本進吉氏に至って、「アヒカツマシジ」と訓むようになった。
 最後に否定の助動詞「ヌ」を省略した例として、
  百重二物 来及※[毛三つ]常 念鴨 公之使乃 雖見不飽有武(巻四・四九九)
をあげる。この歌の第二句「来及※[毛三つ]常」は、文字の上にはまったく否定の意味を現わすものがないのである。漢文にあっても、否定の内容は、特にこれを文字に現わすのが普通であるが、ここは語原的には否定であっても、使用上希望に転じているので、文字の上にこれを必要とする気持を失ったものであろう。集中かような否定の助動詞を省略した例としては、次の数首をあげることができる。
  下檜山 下逝水乃 上丹不出 吾念情 安虚歟毛(巻九・一七九二)
  五月山 宇能花月夜 霍公鳥 雖聞不飽 又鳴鴨(巻十・一九五三)
  何時跡 吾待今夜 此川 行長 有得鴨(同・二〇九二)
  真十鏡 見之賀登念 妹相可聞 玉緒之 絶有恋之 繁比者(巻十一・二三六六)
  我勢古波 幸座 遍来 我告来 人来鴨(同・二三八四)
  日位 人可知 今日 如千歳 有与鴨(同・二三八七)
  如是為乍 吾待印 有鴨 世人皆乃 常不在国(同・二五八五)
  敷細 枕動而 宿不所寝 物念此夕 急明鴨(同・二五九三)
(48) 右のうち、二三八四、二三八七の二例は、人麻呂歌集所出の歌である。なお『万葉集総索引』は『万葉集』における文字や詞句の捜索に至便の書であるが、かよう文字に現われざる単語をあげていないのは不備といわねばならない。
 
         六
 
 柿本人麻呂の作品中の文字を、正字と仮字とに分け、その諸現象を少しく観察したいと思う。その全部の状態を明らかにすることが必要であると思うが、ここには便宜上、特殊の形に見えるものに限ることとした。
 正字というのは、個々の漢字固有の意味に相応して用いられているものをいう。ここにはまず、ひどく漢文風な文字の使い方が目につく。これは、漢文では熟字として慣用せられていたものと思われ、しかもその多くは、今日の普通の漢字使用上からは、縁遠く思われるものである。こういう種類の用字法は他の作家の作にも見いだされるが、なかんずく人麻呂の作品にあって相当に目だつものなのである。いま次にその目だつものをあげよう。
 猶預不定《タユタフ》(巻二・一九六)他には、巻の十一作者未詳の歌に、猶預(二六九〇)がある。
 交定《シヅマリ》(同・一九九)他には、巻の十九に平安(四三六四)がある。
 遣悶流《ナグサムル》(同・一九六、同・二〇七)他に所見がない。まったく人麻呂作品特有の字面である。流は表音文字。
 迷惑《マドフ》(同・二〇一)迷または惑の一字を使った例はあるが、迷惑と熟したのは他にはない。
 遣使(同・一九九)遣または便の一字を使った例はあるが、遣使と熟したのは他にはない。なお使は表音文字でなくして、遣使と熟したものと見るべきである。
 散動(同・二二〇)巻の六に散動而有所見(九二七)、海人船散動(九三八)の二例がある。いずれも山部赤人の作品である。
 鬱悒《オホホシ》(同・二二〇)巻の二に鬱悒の二例(巻二・一七五、同・一八九)がある。いずれも日並みし皇子の尊の宮の舎人の作で、この作について人麻呂の作品と深い関係があるものと考えられる。
(49) 霏※[雨/微]《タナヒク》(巻三・四二九)巻の十に六例があるが、いずれも人麻呂歌集の作品である。
 ※[女+感]《ヲトメ》(巻一・四〇)巻の四、六、八、十、十二、十九等に用例がある。
 樛木《ツガノキ》(同・二九)他に用例はない。『詩経』の周南に見えている字面である。
 楽浪《ササナミ》(同・二九、同・三〇、巻二・二一八)他に高市黒人の作品にあり、また巻の十三の作者未詳の歌にも使われている。
 不楽《サビ》(巻二・二一〇)他に用例がある。
 不怜(同・二一三、二一七、二一八)これも他に用例がある。
 いま、巻の一から巻の四までの、人麻呂作品以外の歌について、かような類を求めるに、行幸・黄葉・白水郎・須臾・随意・霍公鳥・徘徊・比日のごとき、集中に目馴れているものを除いては、巻の一に怜※[立心偏+可](※[立心偏+可]怜)・金野・諍競・古昔清明・委曲・都宮・為当があり、巻の二にはいって、鶏鳴・風流・光儀・※[雨/沛]霖・御駕を加え、巻の三にはいって、不聴・海若・黙然・潤湿・山斎・展転・装束・集聚・驟騒を加え、巻の四にはいってさらに聴去・遠隔・返却を加える。巻の三に割合に多いのは、家持の作品に多いのであって大体において、人麻呂作品中における漢風熟字の、しかも特殊のもののあるのが目だつのである。
 以上は、歌詞中について調べたのであるが、題詞についても、たとえば「泣血哀慟」(巻二・二〇七)のごとき文字のあるのは、注意すべきである。献何皇子歌のごとき字面とあわせて考うべきものである。
 石井庄司氏の「人麻呂集の用字法」によれは、「霏※[雨/微]」の字面は人麻呂集および人麻呂作歌のみに見られる字面であり、また沢瀉久孝氏の「戯書について」によれは「楽浪」の字面は人麻呂と黒人とのみにあり、また巻の九の人麻呂歌集所出の歌に見られる。以上二氏の研究によってたしかめられたことは、題詞の人麻呂の作歌とあるものと、人麻呂集所出の歌とには、共通した、しかも他には見られない特殊の用字があるということである。しかしておそらくは高市黒人の歌も、巻の九の人麻呂集所出の歌に高市歌とあるのと関連して考えてもよいものではなかろうか。〔次改行せよ〕
 
(50)         七
 
 人麻呂の歌集の歌が、少ない字数で書かれていることは、用字法の上から、一番目だつことである。数字をあげてのこれが説明は、前にあげてあるから重ねてはこれをなさぬ。しかして字数が少なくなっていることの説明としては、左の諸点があげられる。
 一、言語の記載を省略したものが多い。
 二、漢字の正用が多い。
 三、漢文風の記載が多い。
 ある言語の全部またはその一部の記載が省略されることは、数字の少なくなる理由として、見やすいところである。動詞、形容詞の語尾、助詞、助動詞の類の省略は、その最も多い例である。ただし漢字が、どれだけの国語音声を現わすことが正当なる用法であるかは、前に記したとおり別途に考えねばならぬところである。たとえば人麻呂集においてのみ見られる「早敷哉」の字面は「ハシキヤシ」の音声を現わしているものと思うが、「哉」が「ヤ」を現わしていて「シ」を現わす文字が省略されているか、または「哉」が「ヤシ」を現わしているかは考えられねばならない。そこでもし「哉」が「ヤシ」を現わしているとせば、漢字の正用法のゆえに、数字が少ないということになるであろう。漢字を正用することは、仮字として使用するよりも、概して数字が少なくなる。仮字には一字多音のものが少ないのに反して、正用の場合はこれが多いからである。漢文風に文字を排列することは、結局助詞の類を補い書くことなくしてすむ。ある漢字が助詞をもあわせて現わし得るからである。
 さて人麻呂集の文字使用法は、歌としては、比較的に漢文の用字法に親しいということになる。これを漢字の正用と仮用とに分けていえば、正用では、他に見なれない漢語の熟字が目だつのである。これには人麻呂集のみに見得られるものと、他の歌にもあるが例の少ないものとがある。他の歌に少しく例のあるものは、またその理由が意味をもってく(51)ると思うのである。「惻隠」または「惻隠惻隠」の字面が、人麻呂集に限られ、「霏※[雨/微]」の字面が、人麻呂集および人麻呂作歌と題するものに限られていることは、石井庄司氏の指摘するところであり、「楽浪」の字面が、人麻呂集および人麻呂作歌、高市古人作歌と題するものに限られていることは、沢潟博士の調査を基としてたしかめられた。なおいえば、
  (端端) 山葉 追出月 端端 妹見鶴 及恋(巻十一・二四六一)
  (小端) 是山 黄葉下 花矣我 小端見 反恋(巻七・一三〇六)
  (夙夙) 秋夜 霧発渡 夙夙 夢見 妹形矣(巻十・二二四一)
  (跡状) 大野 跡状不知 印結  有不得 吾眷(巻十一・二四八一)
  (極太) 伊田何 極太甚 利心 及失念 恋故(同・二四〇〇)
       大船 真※[楫+戈]繁抜 榜間 極太恋 年在如何(同・二四九四)
  (虚空) 零雪 虚空可消 雖恋 相依無 月経在(巻十・一三三三)
  (意追) 恋事 意追不得 出行者 山川 不知来(巻十一・二四一四)
       雲谷 灼発 意追 見乍有 及直相(同・二四五二)
  (遙※[女+漢の旁]) 遙※[女+漢の旁]等 手枕易 寝夜 鶏音莫動 明者雖明(巻十・二〇二一)
  (荘厳) 天在 一棚橋 何将行 穉草 妻所云 足荘厳(巻十一・二三六一)
  (半手) 世中 常如 雖念 半手不忘 猶恋在(同・二三八三)
  (丸雪) 丸雪降 遠江 吾跡川楊 雖苅 亦生云 余跡川楊(巻七・一二九三)
 以上はいずれも熟字風の用法であって、特殊の字面であるといえよう。
 また一字だけの用法でも、特殊のものがあり、人麻呂集の筆者が漢文に練達していることを思わせるものがある。「是」を氏の義に用いて「是川」を「ウヂガハ」と読ませているのは『万葉集美夫君志』の発見するところであるが、特殊の用法であるといえる。「御」の字にしても、
(52)  春日野 友鴛 鳴別 眷益間 思御吾(巻十・一八九〇)
の歌におけるがごときは、普通とは変わって、漢文風だといえる。
 「金」「白」を「アキ」と読むのは、五行説にもとづくもので、また人麻呂集の特色の一であることは、同じく石井氏の指摘するところであるが、
  吾恋 嬬者知遠 往船乃 過而応来哉 事毛告火(巻十・一九九八)
の歌の「火」を、南の義に取り、「ナム」と読むとすれば、やはり五行説による例に加えることができる。ただしこれは文字の仮用である。
 
         八
 
 『万葉集』の用字法について、漢字を表意文字として使用するものと、表音文字として使用するもの(万葉仮字)とに分けることは、理論上妥当な分類であるにしても、実際の用例にあたっては、そのいずれに属するかを判断するに困難を覚える場合が多い。同一の文字を同じ音声で読むにしても、ある場合は表意文字であり、ある場合は表音文字であるものがある。「者」を助詞「ハ」「バ」に使った場合は、者の字義からして表意文字であるとしても、「者田為為寸」のごとき場合の「者」は、明らかに表音文字である。かようなのはまだわかりやすいはうであるが、「也」「耶」「哉」を「ヤ」に用いた場合、その「ヤ」が感動の助詞か、疑問の助詞かによって分類が違ってくるのではないか。「矣」「呼」「叫」を「ヲ」に用いた場合はいかん。やはり使用の場合に応じて分類が違ってくるのではないか。
 固有名詞の場合も判断が困難である。人名にしても、地名にしても、もともと意味があって付けたのに相違ないのであるから、その意味を意識してあてた文字なら表意文字であり、しからざるときに表音文字とすべきである。ただ、それを今日から見て区別するのが困難なのである。柿本人麻呂は、その家門に大きな柿の樹があったので、取って氏としたというのだから、柿本は表意文字であろうし、名の人の字もたぶん表意文字であろうが、名の麻呂は表音文字と見な(53)すべきである。歌中に現われているものには、男子に憶良・意吉麻呂・石麻呂・土師乃志婢麻呂・荒雄その他があり、女子に安見児・大名児・佐欲比売その他があって、これらは大体区別がつかぬという次第でもないが、地名に至っては、数が多いだけにいっそう困難なるものがある。淡海・藤原のごときは表意文字であろう。和泉の国の海上を、血沼之海と書いたのは、地名起原伝説にもとづくものであって表意文字であり、珍海と書いた珍の字は、ただ「チヌ」の音を借りただけで、珍しい海の義でないから、表音文字である。ところで大和の国のハツセを泊瀬と書くのは、表意文字であるとしても、長谷と書いたのはやはり字義によって書いたので、表音文字とはいえない。
 『万葉集』の歌の用字法の中で、万葉仮字としからざるものとの割合が、どのくらいになっているかは興味のある問題であるが、今日どういう答案が出ているかを知らない。おそらくは調査する人によって相当の開きが出るであろう。人麻呂歌集についていえば、万葉仮字を一字も使っていない歌が八十四首あり、これは人麻呂歌集において万葉仮字の使用が少ないことを現わす一現象になるのである。なお題詞に柿本人麻呂作歌とあるものにあっては、一字も万葉仮字を交えない歌は次の二首にすぎない。
  東野炎立所見而反見為者月西渡(巻一・四八)
  天離夷之長追従恋来者自明門倭島所見(巻三・二五五)
 前にあげた八十四首以外の歌が人麻呂歌集にあって、少なくとも一字以上万葉仮字を有しているわけになる。しかしここにまず、たぶん万葉仮字ではあろうと思うが、断言もできない数箇の例をあげて、これを除外しておかなければならない。それは次の歌にある。
  君為手力労織在衣服斜〔右○〕春去何何摺者吉(巻七・一二八一)
  天漢安川原定而神競者磨〔右○〕待無(巻十・二〇三三)
  行行不相妹故久方〔二字右○〕天露霜沾哉(巻十一・二三九五)
  百積船潜納八〔右○〕占刺母雖問其名不謂(同・二四〇七)
(54) 右○符を付した、斜、磨、久方、八はそれである。これらの文字は、今日いまだ研究がゆき届いていないために、万葉仮字であるか否かを決定しがたいのである。こういう類は、実は、このほかにもあるが、それは他の文字に万葉仮字と考えられるものがあるので、この例にはいらぬのである。
 
         九
 
 『万葉集』の用字を表意文字と表音文字とに分けることが、個々の例については困難な場合があるがごとくに、表音文字を字音仮字と訓仮字とに分けることについても、また困難な事情をともなう場合がある。たとえば香をカの音に用いたものにあって、明日香の場合は訓仮字と見られるが、香具山・伊香保の場合は、一方に草乎思香(壮鹿)・多鶏蘇香仁の例にあわせて、とかくの考慮を要するのである。
 そこで例によって、一々考証を省略して、大体の数字だけをあげれば人麻呂歌集所出の歌の中に、字音仮字のみを含んでいる例が六十六首あり、反対に訓仮字のみを含んでいる例が百十七首ある。またその両方を含んでいる例は、百十五首である。大観すれば字音仮字がやや少ないということになり、これは集全体の空気に対して、異色あるものということになる。
 字音仮字の、一字で一音を現わすものとしては、次のとおりである。
 ア 阿安 イ 伊己  ウ 宇有  オ 於  カ 可何箇加香架我 キ 枳岐 ク 久苦 ケ 郡家気 コ 居己古 サ 佐左  シ 紫之水思志四師子斯自 ス 須受 セ 世西勢 ソ 曾祖蘇序叙  タ 多太  チ 治  ツ 頭豆都  テ 天主田  ト 登等得杼  ナ 奈那南 ニ 爾邇二仁尼而  ヌ 奴  ネ 尼  ノ 乃能  ハ 波薄  ヒ 比臂肥備  フ 府  ヘ 陪倍閉遍  ホ 保宝  マ 麻  ミ 未美弥  ム 牟武  メ 馬米  モ 毛聞文母勿物  ヤ 也夜耶  ユ 由  エ 延  ヨ 与  ラ  羅良  リ 利里理  ル 流留  レ 礼列  ロ 呂侶  ワ 和  ヰ 位  ヱ 恵  ヲ 乎遠
(55) 以上百二十一種である。これを『万葉集古義』に『万葉集』全体における字音仮字として三百二十二種をあげたのに比するに、人麻呂集にあっては、字音仮字の種類が多いということになる。そうしてこの百二十一種が、四百九十五個の使用回数によって現われているのであるから、一種の使用回数が、平均四回強ということになり、使用文字の種類の多いことが、ここにも証明されることになる。しかしこれは各種の文字使用法を併用しているものにおける通性でもある。
 以上は一字をもって一音を現わす字音仮字のことであるが、さらに人麻呂集所出の歌における文字使用上の特色の一として、一字で二音を現わす字音仮字の多いことは注意される。二合と呼ばれるこの種の文字としては、
 壹《イチ》 各《カク》 干《カニ》 君《クニ》 兼《ケム》 険《ケム》 監《ケム》 雑《サヒ》 色《シキ》 鐘《シク》 当《タキ》 珍《チヌ》 点《テム》 南《ナム》 辺《ヘニ》 臘《ラフ》 濫《ラム》  廉《レム》
の十八種の多きに上っている。しかも濫、兼のごときは五出しているのであって、使用回数は二十八回である。全巻におけるかような用字法の数は、今調査を欠くが、『万葉用字格』から、私意を加えて取捨して拾ってみると、以上のほかに次の三十余種があるにすぎない
 市《イチ》 鬱《ウツ》 高《カク》 旱《カニ》 漢《カニ》 ※[日/木]《カホ》 敢《カム》 郡《クニ》 乞《コチ》 今《コム》 金《コム》 相《サカ》 積《サカ》作《サク》 薩《サツ》 散《サニ》 匝《サヒ》 颯《サヒ》 三《サム》 式《シキ》 瞻《セミ》 託《タカ》 弾《タニ》 塔《タフ》 福《フク》 莫《マク》 幕《マク》 万《マニ》 楽《ラカ》 落《ラク》 覧《ラム》 藍《ラム》 越《ヲチ》
 この数は、実際調査の上はさらに増加する見込であるが、人麻呂歌集にこの種の用法の多いことは断言できると思う。これは人麻呂歌集の筆者が、漢字の知識に豊富であったということになるであろう。
 
         一〇
 
 人麻呂歌集における訓仮字使用の性質については、字音仮字の場合と相違するものがある。しかしこれは、むしろこの両者の本質的な相違と見るべきものである。今日においては、字音仮字も訓仮字も、ある音声を現わすものとして単純に考えられているようであるけれども、単に音声の記号として考えてよいのは字音仮字だけであり、訓仮字には、さらにその上に、約束による効果をあわせ有している。ある事物を現わすに、使用する文字が一定して慣用せられるもの(56)は、字音仮字にもあるが、訓仮字としては、ある事物を現わす音声の一部分を代表的に示し、その他をこれによって暗示する方法が存するのである。訓仮字にあっては、ある文字の現わしうる音声の種類が、字音仮字の場合よりも、多種複雑であるがゆえに、それにひかれて、理論的には現わしえざる音声をも、約束によって現わしうるものとして取り扱われている。
 人麻呂歌集における訓仮字が、一個の文字で一個の音声を現わすものよりも、二個以上の音声を現わすもののほうが多いのは、ある文字の訓が、元来二音以上のほうが多いのに起因する。したがって訓仮字は、字音仮字よりも、一々の文字の使用度数が少なく、表音文字の資格の一なる通用性において、字音仮字よりも劣っている。人麻呂歌集において、一字をもって一音を現わす訓仮字は次の五十七個である。
 ア 足吾余  力 香鹿  キ 寸木  ク 来  ケ 食  コ 子  サ 狭  シ 足為僧  ス 為  セ 背  ソ 其  タ 田  チ 千  ツ 津  テ 代手  ト 跡常利戸  ナ 名  ニ 荷丹  ネ 根  ハ 羽早葉  ヒ 日  ヘ 重  ホ 穂廬  マ 真  ミ 三見眷箕  ム 六  メ 目眼  モ 裳方  ヤ 八哉  ユ 湯  ラ 柄  ル 入  ヲ 少矣男緒麻
 この中には、丹裳などに多少の通用性が認められるだけで、むしろ思いつきで使われるという類のものが多いのである。この傾向は一字で二音以上を現わすものにあっても同様である。その類は次の七十八種である。
 ア 飽《アク》 イ 射|稲《イツ》 ウ 浦受打裏 カ 鴨柄垣苅金方|蜻限《カギル》 キ 聞  ク 国暮 ケ 来《ケリ》  コ 事|強《コハ》米  サ 坂刺(サシ、サス)障核竿|楽《ササ》  シ 霜舌敷(シキ、シク)代下布(シキ、シク、シケ)然科  ソ 副  タ 谷|足《タラ》高《タケ》桁《タナ》  チ 常《チネ》  ツ 管尽著鶴鈎積舂  ト 鞆十取床友  ナ 鳴《ナス》苗浪平嘗長|火《ナム》  ニ 庭  ヌ 抜  ハ 秦早量  フ 振|経《フレ》乾《フレ》触  マ 枉巻  ム 村  モ 本|思《モヒ》  ヨ 吉依  ワ 丸《ワニ》
 この中では鴨が断然使用回数多く群を抜いている。これについでは谷ぐらいで他はずっと少ない。火をナムに用いたのは五行説から出て、南を火性とするにより、南の字音ナムを用いたものといわれている。なお二個の文字を熟字とし(57)て用いたものに、
 二十《ハタ》  左右《マテ》  諸手《マテ》  細竹《シノ》  開木《ヤマ》  角髪《ミヅラ》
の六例がある。開木をヤマと訓する意味は未詳であるが、その他は比較的単純な訓である。総じて持ってまわった訓としては火《ナム》だけである。戯書というのは、どの程度までをさすべきか明瞭でないが、ツルカモに鶴鴨と書いたのは多少そういう性質もあろう。助詞のカモを現わすに鴨をもってしたのは目なれてしまって唐突感を与えないが、カリガネを苅音と書いたのは、連想が働いているのであろう。しかし戯書風のものが少ないことは、人麻呂歌集の特色というべきである。
 一字で二種以上の音声を現わしたものはあるが、足をアおよびシに、それぞれ上略または下略して使ったのは目だつ。なお上略に入《ル》廬《ホ》があり、下略に早《ハ》がある。またナガラに長柄をあてたのは、今、柄の上略として扱ったが、実は音が余ったのを省略して使ったのである。これに反して、文字に現われざる他の音声を付けて読むべき類は多い。助詞ノ・テのごとき、助動詞このごとき、しばしばその文字なくして読み添えられる例である。名著をナツカシクと読ましめているもののごときも、訓仮字が元来ある事物の音声の代表的な部分だけを現わす性質を有しているものであることを語る一例となるであろう。そうしてこの傾向は、表意文字によって現わされている部分において同様であり、これが人麻呂歌集の文字使用法の大きな特色となっているものである。
 
      六 編纂法
 
         一
 
 『万葉集』巻の十一は、古今相聞往来歌類の上として、古歌集所出、柿本朝臣人麻呂歌集所出、および出所未詳の歌(58)を、旋頭歌・正述心緒歌・寄物陳思歌・問答歌・譬喩歌の六類に分類している。今その寄物陳思歌のうち、人麻呂歌集所出の九十三首について、物に寄せて思いを陳《の》べたというその物をあげて、歌の排列の順序に注意してみると、
 水垣  神  天地  山  川  水  海  淡海  隠沼  土  石  玉  雲  霧  雨  霜  風  月  草  茅  百合  葦  山萵苣  菅  羊歯  稗  山菅  篠  葛  壱師  大野  玉藻  松  回香滝  橘  鶴  鴛鴦  鳰  鹿  船  蚕  肥人  隼人  剣  櫛  鏡  枕  衣  弓  占
という順序である。この順序が偶然の結果でないことは、同物に寄せた歌を一所に集めてある上に、種類を同じくするものをまとめてあるので知られる。すなわち、神祇部を第一に、地部・天部・植物部・動物部・人物部・器物部の順序になっている。その部内について見れば、水に縁あるものを一に集め、また土・石・玉を一まとめにしてある。天部は水象を一に集め、植物部は草本と木本とを分かち、動物部は、鳥と獣と虫とを分かっている。植物部の中に大野の歌があるのは近いともいえるが、動物部の中に船の歌があるのは衍入であろう。こういう順序は『爾雅』などのシナの古い辞典から学んだもので、部の順序も大体一致しているが、神祇部を最初に置いたのは日本式で、令などと照応して意義の多いことである。
 さらに集中の、巻の七、十、十一、十二、十四の諸巻の詠物寄物の歌について、排列法を考えてみると、同物を詠じ同物に寄せた歌は一処に集めてあるが、その順序は、到底巻の十一の人麻呂歌集所出の寄物陳思歌のように整然としていないことを発見する。巻の七は、詠天詠月というふうに、題を掲げて人麻呂歌集所出の分は、各題のもとに割って入れてあるが、今、人麻呂歌集所出のもののみを拾ってみると、
 詠天  詠雲  詠山  詠河  詠葉
の順序となり、『爾雅』式類聚の排列法と一致するが、作者未詳の分をも加えての順序は、
 詠天  詠月  詠雲  詠雨  詠山  詠岳  詠河  詠露  詠花  詠葉  詠蘿  詠草  詠鳥  (59)思故郷  詠井  詠和琴
となり、詠露が天部を離れて地部と植物部との間にあったり、思故郷の歌が途中に入り、詠井の歌が地部を離れていたりして、秩序がだいぶん乱れている。『万葉集』の編者は、寄物の歌については、常に寄衣寄玉の歌を第一に置き、巻の十の歌については、春雑歌・春相聞・夏雑歌・夏相聞に、いずれも詠鳥寄鳥を最初に置くがごとき、一定の排列法を有しながら、さらに部門を立てて、順序をつけていく分類排列法に無関心であったことは、人麻呂歌集所出の歌が、その秩序をも伴って、人麻呂集から抄出せられたことを語る。出所未詳の分とは違った文字使用法を有していることも、これが旁証となるべきものである。しかして『万葉集』の編者をも待たずに、人麻呂集においてすでに寄物陳思、詠物等の分類を有し、したがってまた、これに対する正述心緒・譬喩歌等、分類の残部を有していたことを示す。これは『万葉集』における正述心緒・寄物陳思・譬喩歌等の名目より、進んでは雑歌・相聞・挽歌等の分類およびその名称が、人麻呂集から来たのであろうと考えられる根拠になるものである(『上代国文学の研究』摘要)。
 
         二
 
 『万葉集』の成立については、いわゆる切継ということが相当に関係があると考えられる。この事は先に『元暦校本万葉集』の巻の十七を資料として書いたことがあった。しかしこの研究は当然なお他の巻々にも及ぶべきである。切継とは昔の巻物仕立の書物について主としていわれることで、巻物を切っては他の紙を継ぎ合わせ、または巻物の一部分を切り去ることをいうのである。
 『万葉集』中に引用せられている諸歌集は、またこの切継の法によって収められているものがあると思われる。たとえば柿本人麻呂歌集について見ても、その多くの歌数がまとまってはいっている場合のごときは、特にそのように思われる。人麻呂歌集の歌が多くまとまってはいっているのは巻の十一であるが、そこには人麻呂歌集の元の部類のままに取り入れられていると思われる。この事も先に十一、十二、十四および七の諸巻について、その排列を調べ、「アララ(60)ギ」誌上にも載せ、その後単行の著書にも収めて発表したことであった。
 今また巻の九の人麻呂歌集所出の歌について見ても、同様の事が感じられる。巻の九には人麻呂歌集の所出の歌が数処に載せてある。そのうち、数多く集っていたのは、一六六七から一七〇九まで四十三首、一七一五から一七二五まで十一首の二箇所である。このうち特に注意されるのは、前の歌の中一六九四から一七〇九までの十六首が、いずれも季節を含んでいる歌であり、しかもその季節が春から冬まで順に列んでいることである。次に掲げるとおりに季節を有しているのである。
  一六九四 細領巾《ほそひれ》の鷺坂山《さぎさかやま》の白|躑躅《つつじ》吾に染《にほ》はね妹に示さむ(躑躅)
  一六九五 妹が門《かど》入り泉河《いづみがは》の常滑《とこなめ》にみ雪残れりいまだ冬かも(残雪)
  一六九六 衣手の名木の河辺を春雨に吾《われ》立ち沾《ぬ》ると家念ふらむか(春雨)
  一六九七 家人《いへびと》の使なるらし春雨の避《よ》くれど吾を沾らす念へば(春雨)
  一六九八 ※[火三つ]《あぶ》り干《ほ》す人もあれやも家人の春雨すらを間使《まづかひ》にする(春雨)
  一六九九 巨椋《おほくら》の入江|響《とよ》むなり射部人《いめびと》の伏見が田井に雁渡るらし(雁)
  一七〇〇 秋風の山吹の瀬の響《とよ》むなべ天《あま》つむら雲《くも》翔《かけ》りあふかも(雁)
  一七〇一 さ夜中と夜は深けぬらし雁が音の聞ゆる空に月渡る見ゆ(雁)
  一七〇二 妹があたり茂き雁がね夕霧に来《き》鳴きて過ぎぬ羨《とも》しきまでに(雁)
  一七〇三 雲隠り雁鳴く時は秋山の黄葉《もみち》片待つ時は過ぎねど(雁・黄葉)
  一七〇四 うちたをり多武《たむ》の山霧しげみかも細川の瀬に波の騒げる(霧)
  一七〇五 冬ごもり春べを恋ひて植ゑし木の実になる時を片待つ吾ぞ(冬)
  一七〇六 ぬばたまの夜霧は立ちぬ衣手を高屋《たかや》の上に棚引くまでに(霧)
  一七〇七 山城の久世《くぜ》の鷺坂神代より春は張りつつ秋は散りけり(落葉)
(61)  一七〇八 春草を馬咋《うまくひ》山よ越え来なる雁の使は宿《やどり》過ぐなり(雁)
  一七〇九 御食《みけ》向ふ南淵《みなぶち》山の巌《いはほ》には落りしはだれか消え残りたる(雪)
 一六九四|細領巾《ほそひれ》のは、躑躅のまだ咲かないのを歌い、一六九五妹が門は、残雪を歌っている。この二首は早春の歌と解すべきがごとくである。かようにこの一団が季節を有しているのに対して他の人麻呂歌集所出の歌は季節を持つものが往々にして交つているにすぎない。
  背の山に黄葉《もみぢ》常敷く神岳《かみをか》の山の黄葉《もみぢ》は今日か散るらむ(巻九・一六七六)
 この歌は黄葉を歌っているが、これは紀伊の国に行幸のあった時の一団の歌として収められているのであろう。
  妹が手を取りて引き攀《よ》ぢうち手折《たを》り吾が插《かざ》すべき花咲けるかも(巻九・一六八三)
  春山は散り過ぐれども三輪山はいまだ含《ふふ》めり君待ちがてに(同・一六八四)
 この二首は春に属するが、これは相聞の歌であろう。
  彦星の插頭《かざし》の玉の嬬恋《つまごひ》に乱れにけらしこの河の瀬に(同・一六八六)
 これは七夕を連想するが、泉河の辺で作られた歌で、季節には関係なく歌われているのであろう。その他月を詠めるもの等があり、純然たる無季節ということはできないが、大体においては季節感が乏しく、また整理の行き届かない感じを持っている。
 季節が四季の順になっていることには、二様の見方がある。一団の歌の中から季節感の深いものだけを集めて、後にこれを整理したと見る見方と、歌のできた順に排列してあるので、たまたま四季の順になっていると見る見方とである。しかし今の場合にあっては、おそらくは後に季節のある歌を集めて、分類したものであろうと考えられる。それは季節のある歌がとにかく一個所にまとまっていること、泉河の辺で作った歌、鷺坂で作った歌、舎人の皇子に献る歌等、同じ題のものが各所に分れていること等である。ことに名木河で作った歌は雨に遇ったことを歌っておりながら、二箇所に分出している。そしてその雨を特に春雨と断った歌は、一六九六から一六九八までに集められ、季節を入れてない歌(62)は一六八八に別に出ている。
 元来九の巻は雑歌の巻であって、季節には無関心に編纂せられていると認められる。しかるにその中かように季節を含む歌がまとまっていることは『万葉集』の編者の関知せぬところであって、おそらく他の七、十一、十二、十四等の例と同じく人麻呂集においてすでにかような部類が立てられていたものと考えられる。これに関してさらに考うべきは、巻の十の編纂法である。巻の十はまず四季にわかち、さらに雑歌相聞等に分けている。その中をまた雑歌は何々を詠めるの小題があり、相聞は何に寄すの小題がある。しかしてこの春雑歌・春相聞等の部類の最初には、各人麻呂歌集所出の歌が数首ずつあり、これに限っては何を詠める、何に寄す等の小題が付いていないのである。すなわち人麻呂歌集にあっては、季節を含む歌を、小題を付せずに収録してあったものとも考えられるのである。見方によってはむしろ人麻呂歌集の分類を基礎にして、これに他の歌の集を切り継ぎしていったともいえるのである。
 かように人麻呂歌集は、すでにその歌を分類するに、少なくとも一部分にあっては季節の有無をもって標準としたといえるのである。しかしてそこにはたぶんすでに雑歌・相聞等の部類が立てられておったものであろう。『万葉集』の部類編纂の法が人麻呂集に負うところ少なくないと認められる一例としてこれを記しとめておく。
 
   七 題詞の様式
 
 人麻呂歌集所出の歌の中には、題詞を有するものがある。その題詞の書き方について、注意すべきものを拾ってみよう。
 第一に、年号を明記したものがある。それは、
 大宝元年辛丑幸于紀伊国時見結松歌一首(巻二・一四六題詞)
 大宝元年辛丑冬十月太上天皇大行天皇幸紀伊国時歌十三首(巻九・一六六七以下題詞)
の二例であって、巻の二のは、巻の九の略書とも見られる。元来人麻呂歌集の題詞は、大体簡単に書き、意を得れば足(63)るという主義であるように見えるのに、大宝元年(七〇一)の歌に限って年号を明記し、干支や月までも記してあるのは、異例である。
 人麻呂歌集所出以外の題詞についていえば、年号の明記あるものも相当にある。ことに笠金村歌集は、年月を明記することをその特色の一となすべきである。大宝の年号としては、
 大宝元年辛丑秋九月太上天皇幸于紀伊国時歌(巻一・五四以下題詞)
 二年壬寅太上天皇幸于参河国時歌(同・五七以下題詞)
 以下、大宝三年(七〇三)、慶雲元年(七〇四)二年(七〇五)はなくして慶雲三年があり、四年がなくして和銅元年(七〇八)がある。巻の一、二の両巻について見るに、編纂にあたって、年月を考えれば容易に考ええたであろうと思われる歌もあるのに、これが標記をなさずして、大宝元年に至ってはじめてその標記を、なしたのは、その資料にあったままを踏襲したものともいえる。そうとすれば人麻呂歌集所出の歌における「大宝元年云々」の題詞は、異例とはいえ、なお人麻呂歌集にすでにあったものと見るべきである。
 『万葉集』にしても人麻呂歌集にしても、大宝以前は年を標記することなくして、大宝に至ってこれを標記したのは、いかなる理由によるであろうか。今はこれを忖度するほかはないのであるが、当時無年号で経過してきたところ、新たに大宝の年号が立てられたので、ここに年号に対する意識が高調せられたものと考えられる。時の主上文武天皇は、大陸の文化に大なる御関心を有せられ、漢詩の御製をものこさせられてあり、従来の無年号の、年を紀するに不便なのを思わせられて、ここに新たに大宝の元号をお立てになったものと拝察せられる。しかしてこの年号を定められるにあたっては、詔勅をお下しになって、これが施行を命ぜられたであろう。かように考えてくれば、『万葉集』なり人麻呂歌集なりが、大宝元年に至ってはじめて年号を明記したことも別に怪しむには足らぬのである。
 大宝元年(七〇一)の行幸は『続日本紀』には「九月丁亥(十八日)天皇幸2紀伊国1。(略)十月丁未(八日)車駕至2武漏温泉1」とある。巻の一のは巨勢の歌であって、巻の九のは紀伊にはいっての歌であるから、途中しばらく巨勢あたり(64)に御逗留あったかもしれない。『続日本紀』には天皇の行幸を伝えて、太上天皇の御幸を伝えず、巻の一には太上天皇の御幸を伝えて天皇の行幸を伝えない。人麻呂歌集にあわせ伝えているのは詳審というべきであって、『続日本紀』などによって作られた文面でないことを知る。
 人麻呂歌集の題詞には、献何皇子歌というのが多い。巻の九だけであるが献忍壁皇子一、献舎人皇子三、献弓削皇子三、合計七箇の多数に上っている。これに対して人麻呂歌集以外の題詞には、
 柿本朝臣人麻呂献泊瀬部皇女忍坂部皇子歌一首(巻二・一九四)
 柿本朝臣人麻呂献新田部皇子歌一首(巻三・二六一)
 八代女王献 天皇歌一首(巻四・六二六)
 献 天皇歌一首(同・七二一)
 献 天皇歌二首(同・七二五、七二六)
 献新田部親王歌一首(巻十六・三八三五)
の六例があって、そのうち二例は人麻呂の作品がある。なおそのほかに、人麻呂作品の左註に、献泊瀬部皇女(巻二・一九五左註)、献忍壁皇子(巻三・二三五左註)、の二例がある。
 ここにまず考えられることは、柿本人麻呂の生活が、諸皇子方に歌を献る機会に富んでいたということであり、それは諸皇子の知遇を得ていたことを証明するが、さらにその献歌の性質については、別途に考究しなければならぬことである。そうしてかような境遇は集中に他に例が多くないことと、および人麻呂歌集にあっては、同様の境涯にあって詠まれた歌が多いこととが注意をひき、また人麻呂作品の左註に現われたところは、人麻呂歌集と関係があるのではないかと思われることも注意しておく必要があろう。
 なお献に代わる文字として、集中題詞に奉天皇三例、奉母一例を見いだす。いずれも人麻呂に関係のない歌である。これによっても、献何皇子歌という書き方は、人麻呂と縁故の深いものであることが知られる。
(65) さらに人麻呂歌集の題詞の特色としてあぐべきは、作者の姓名を略記するもののあることである。これは特に巻の九において目だつところである。これについては春日蔵歌(巻九・一七一九)の左註に
 右一首、或本云、小弁作也。或記2姓氏1、無v記2名字1、或※[人偏+稱の旁]2名号1、不※[人偏+稱の旁]2姓氏1、然依2古記1、便以v次載。凡如v此類下皆効v焉。
とある。かくのごとき略記の類を人麻呂歌集所出と認められる歌の題詞から求めれば、間人宿禰・春日・高市・春日蔵・元仁・絹・島足・麻呂等である。なお一七二六から一七三七に至る一団の歌をも、人麻呂歌集所出と認める説に従えば、さらに丹比真人、石河卿・宇合卿・碁師・小弁・伊保麻呂・式部大倭・兵部川原等の記事をこれに加えることができるが、ただしこの一団を人麻呂歌集所出とするには、若干の疑点が存するので、これは除外すべきであること前に記したとおりである。
 かような作者の姓名の略記については、集中他にも、巻の二に丹比真人、巻の三に石上大臣・高橋朝臣、巻の八に高安、巻の九に阿倍大夫・藤井連等の例がある。ことにこれらの略書の性質を考える上に参考となるのは、巻の十五の遣新羅使の一行の歌の中に、丹比大夫・羽栗・六鯖などの例の見えることである。この中、羽栗・六鯖は一行中の人で、六鯖は、六人部鮪麻呂であろうといわれている。この遣新羅使の一行の歌は、一行中の一人の書留と思われるものであって、もと自己の備忘にほかならぬのであるから、他人の作品にも、その人を想起するに足るだけの資料を註記すれば足りたのである。この意味において、人麻呂歌集も、ある一人の書留としての性質を見ることができ、したがって他の場合にも、ほぼこれと同様の材料からきていると考えることができるのである。
 
     八 問答の体
 
 古い歌謡が多数の人の集まったところで歌い交され、自然そこには問答の形において歌われるものの多いことは、今(66)さらいうまでもないことである。『万葉』以前『古事記』『日本書紀』の歌謡を見ても、この傾向は知られることである。甲が乙に対して歌いかけ、乙がそれに対して答える。一首の全き形において贈答されることが普通であるが、たとえば筑波の問答のごときは、その一つ一つがまとまった内容を持っているには相違ないけれども、これを切り離しておのおの独立した歌謡であるとなすことには疑問がある。相互に結び付いてはじめて一の内容をなすものとするほうが適切なのではないか。
 歌いものの系統を伝えたものとして考えられる神楽歌は、本方と末方とに分かれて歌い交すが、そのおのおのがそれぞれ独立した一首を歌うものもあるが、またある一首の前半を本方が歌い、後半を末方が歌うものもある。この場合初句から三句までを本方が歌い、末方はふたたび三句から歌いはじめて五句に至るのを通例とする。これは単に一首を両方で歌い分けたというだけであって、問答ではないが、しかしその間におのずから問答のような気分が出てくるのである。
 短歌についていう。短歌は古く二句で切れていた。この場合に二句まではこの歌の主題を提示する性質を持っている。そうして三句以下がこれを説明するのである。須佐の男の命の神詠についていえば、「八雲立つ出雲八重垣」はその提示部であり、「妻ごみに八重垣作る、その八重垣を」は説明部である。記紀の歌謡にあってはかような性質の句切れを有するものが多いのである。
 旋頭歌は、筑波問答のような、両者が五七七の片歌形式で問答をなしていたものが、後に一人でその両方を歌うようになり、ここにその成立を見るに至ったものだと考えられる。そこで全体を一人で歌うようになっても、その前半と後半との間には自然に問答の気を感ずるわけである。
 かくして古代の歌謡には、甲乙の両者であって問答をなしたものから出発して、つづいて一首の中に問答の両部をあわせ有するものが見られるのである。これが歌いあげられる場合でも、独語的な性質をとって、ここに自問自答の歌を見るに至るのである。
(67)  八田の一本菅《ひともとすげ》は子持たず立ちか荒れなむあたら菅原《すがはら》 言《こと》をこそ菅原と言はめあたら清《すが》し女
  大君を島に放《はふ》らば船《ふな》余りい帰りこむぞわが畳《たたみ》斎《ゆ》め 言をこそ畳といはめわが妻は斎《ゆ》め
 ここには、その前半においてある説明をなし、後半においてさらにこれをくつがえすような口吻が見える。なお『日本書紀』雄略天皇の巻の次の歌のごときになると、ここにまったく自問自答の形は完成したものといえるのである。
  倭《やまと》の小村《をむら》が岳《たけ》に猪《しし》伏すと誰か此の事|大前《おほまへ》に奉《まを》す。
  大君はそこを聞かして玉纏《たままき》の胡床《あぐら》に立たし倭文纏《しづまき》の胡床に立たし……
 『万葉集』にはいっても、問答の歌はもちろん相当に多く詠み出されている。相聞の歌もある意味では問答の歌ともいえるのである。同時にまた、ここにも自問自答の歌のいくつかを見いだすのである。旋頭歌では、
  住吉《すみのえ》の小田《をだ》を苅らす子|奴《やつこ》かも無き 奴あれど妹が御為《みため》と私田《わたくしだ》苅る(巻七・一二七五)
  水門《みなと》の葦の末葉《うらば》を誰か手折《たを》りし わが背子が振る手を見むと我ぞ手折りし(同・一二八八)
 長歌では貧窮問答歌等その代表的なものであるが、巻の六にある石上乙麻呂が土佐の国に流される時の歌のごとき、問いと答えとがそれぞれまとまった一首の形をなしているが、やはり自問自答の歌であろうと思う。
  うち日さつ三宅《みやけ》の原ゆ 直土《ひたつち》に足踏み貫き 夏草を腰になづみ 如何なるや人の子ゆゑぞ 通はすも吾子《あこ》 諾《うべ》な諾な母は知らじ 諾な諾な父は知らじ 蜷《みな》の腸《わた》か黒き髪に 真木綿《まゆふ》持ちあざさ結《ゆ》ひ垂り 大和《やまと》の黄楊《つげ》の小櫛《をぐし》を抑へ插す刺細《さすたへ》の子は それぞ吾が妻(巻十三・三二九五)
 これは巻の十三にある歌で作者未詳であるが、親と子との問答の体になっている。しかしこれももちろん自問自答で実際に問答されたものではない。
 以上あげたような自問自答の歌は、いずれも答の部分に主眼があるのであって、問いの部分は答えを引出さんがための設問にすぎないのである。しかるにここに少しく変わった性質のものがあるのは次の歌である。
  物|念《も》はず路行きなむも 青山はふり放《さ》け見れば 躑躅花《つつじばな》香少女《にほえをとめ》 桜花|盛少女《さかえをとめ》 汝《な》をぞも吾《わ》に依《よ》すとふ 吾をぞも汝(68)に依すとふ 汝はいかに念ふや 念へこそ歳の八年を 切る髪のよちこを過ぐり 橘の末枝《ほつえ》を過ぐり この川の下にも長く 汝が心待て(巻十三・三三〇九)
 この歌は「汝はいかに念ふや」までが問いであり、その以下が答えになっている。これは柿本朝臣人麻呂歌集の歌であるが、二人で詠んだ二章が一に集まったものであるか、または一人で詠んだ自問自答の歌であるかがまず考えられる。実はこの前にこの歌の問いの部分と答えの部分とを切り離してそれぞれに独立した歌とし、反歌を一首ずつ付けたものが載っており、この歌はそれに対する参考として載せられているのである。その問いの歌の終わりは 「荒山も人し依すれば依そるとぞいふ汝が心ゆめ」となっており、答えの歌の初めは、「然れこそ歳の八歳を」となっている。しかしこれでは問答としての気配が熟せぬのであって、柿本人麻呂歌集の「汝はいかに念ふや、念へこそ歳の八年を」という問答の受け継ぎ方のきわめてなめらかであるには遠く及ばぬのである。
 一体巻の十三には古い長歌を多く載せているが、これに対して後に反歌をつけて形を整えたように見える歌も往々に存するのである。例えば「隠国の泊瀬の河の上つ瀬にい杭を打ち云々」の歌のごときは、左註にいっているとおり『古事記』にある歌で、木梨の軽の太子の御歌である。しかるにこれに、
  年わたるまでにも人はありとふを何時の間にぞも吾が恋ひにける(巻十三・三二六四)
の歌を反歌として添えている。この反歌は第二句の途中で切れる形になっており、長歌に対して明らかに後人のつけたものであると認められる。今問答の「物念はず路行きなむも」の本文としてあげた歌に、各反歌をつけたのもやはりこの流れと見られるのである。それで参考として人麻呂歌集の歌をあげているのは逆であって、人麻呂歌集の方がむしろ原形でなければならぬのである。ただその場合に、他の自問自答の歌と変わって、答えの部分がこの歌の主眼だとはいえない。重要な意味を有するものであっても、ただそれだけのためにこの歌が詠まれたと見るわけにはいかない。そこで両人の問答であるか、自問自答であるかの問題は、なお考慮すべき余地が存するのをみるのである。
 
(69)   九 人麻呂歌集と人麻呂作歌
 
 人麻呂歌集が、純粋に人麻呂作品のみを収めていないということについては、契沖の代匠記精撰本総釈にいう説を初見とする。それには例をあげて、人麻呂歌集には他人の歌があるといい、また婦人の歌もあり、東歌もあることをあげて、人麻呂集というもみずからの集にはあらずして、広く諸人の歌を集められたるなりといい、しかしまた人麻呂歌集中の歌を別巻には人麻呂作歌とせる例をあげて不審を存している。人麻呂歌集には婦人の作と認むべきものの混じていることは、まさに契沖所説のとおりであるから、その作者の名なきものはすべて人麻呂の作品として取り扱うのが躊躇せられるのは当然である。
 題詞に人麻呂作歌とあるものは、いかなる資料によって『万葉集』に編入せられているかは問題である。まず第一に注意されることは、これらの歌が「或る本」による歌詞の相違を有するものの多いことである。すなわち数種の伝来を有していたと認められることである。同一の原歌にして詞句の相違があり、「或る本」の歌として別提してあるものに、巻の二に長歌二、短歌四がある。歌詞中に「或云、一云」として詞句の相違を有するものはさらに多い。巻の十五に天平八年(七三六)の遣新羅使が船中で誦詠した時の人麻呂の歌を、巻の三には一本として取り扱っているから、さるたぐいのものもあるであろう。巻の三には「或本歌一首」として、「三吉野の云々」の歌をあげ、その左註に「人麻呂歌集出」と記しているものがあって、人麻呂歌集を「或る本」として取り扱っていると認められるが、題詞に「人麻呂作」とする歌に付記せる「或る本」というも人麻呂歌集をさしているものではないかと思われるものがある。巻の三の巻頭の歌の「或る本」のごときそれである。巻の九における人麻呂歌集所出の歌には、題に皇子に献ずとせるものが多くあり、またこの「或る本」の歌が僅少の字数で書いてある点も人麻呂歌集の書法と一致している。さればこの「或る本」というは、人麻呂集をさせるもので、本文の歌が人麻呂作歌とあるがゆえに特に人麻呂集とことわらなかったものとみ(70)られる。
 さらに考うべきことは、単に「或る本」の歌のみにとどまらず、題詞に人麻呂作歌とあるもの自身も、人麻呂歌集を資料としているものがありはしないかという問題である。人麻呂歌集を「或る本」として扱っているのによれば、主文を成しているものは人麻呂歌集ならぬ資料から採取せられたかとも考えられる。しかし吾人はなおよく調査してみなければならない。
 題詞に人麻呂作歌とある歌が人麻呂歌集にもあり、また人麻呂歌集にある歌を左註の文に単に人麻呂の歌とせるものがあることは、早く契沖もこれを指摘している。
 巻の四の柿本朝臣人麻呂作歌四首としてあげてある「み熊野の浦の浜木綿」以下の四首は、題に人麻呂作としてあるけれども、歌意を按ずるに、前二首は男子の歌後の二首はこれに答うる女子の作であることは明瞭である。人麻呂歌集の歌の中、題詞に作者の明記してある以外にも、人麻呂以外の人の作品を含んでいるという。しかしこれらの歌の時代は、人麻呂の時代と見てさしつかえはなかった。ただ女子の作品と認むべきものがあるにより、人麻呂以外の人の作品があるならんというのを認めておいたのである。しかるに題詞に人麻呂作とあるものの中にも、女子の作と認むべきものがありとすれば、題詞に人麻呂作とあるものと、人麻呂歌集所出の歌とは、この点において同じ性質のものと見なすべきである。人麻呂歌集の中にも、「妻に与ふる歌」、「妻の答ふる歌」という題の歌があり、また内容上夫妻で問答したと認められる歌も多い。その無題の問答を誤解して、人麻呂作と題を置いてしまったのではなかろうか。
 題詞に人麻呂作とあるものは、いずれ何かの資料によったに違いないが、その一部分が人麻呂歌集を資料としていなかったとは断じられない。藤原の宮の時代の作者の中には、人麻呂歌集に見えている人名が多いではないか。巻の一、「紀伊の国にいでましし時の川島の皇子の御作」に註して、「或云山上臣憶良作」とあるのは、まさしく巻の九の人麻呂歌集所出の「山上歌一首」をさせるものである。また巻の一、大宝元年(七〇一)秋九月太上天皇の紀伊の国に幸しし時の歌の坂門人足の歌、及びその或る本の春日蔵人老の歌のどちらかは、人麻呂歌集所出ではあるまいかと思われるの(71)である。
          (以上三十七行『国文学研究』万葉集篇九三−一一五摘要)
 
   一〇 類歌類句の問題
 
      一
 
 『万葉集』の歌には、類歌、類句と見なすべきものが相当に多い。類歌、類句を突きつめると、同歌、同句となるのであるが、ここにも程度の問題があって、同一と見なすべきものの中に、若干の音声の相違を許容すべきか否か等のことも考究すべきである。ここには同一のものを含めて、類歌、類句の語で取り扱おうと思うのであるが、その外辺、どの位の相違までを類似とするかは、その時の認定によるのである。そこで、部分的に類似点を有するものでも、やはりこの範囲に入れて取り扱おうとするのである。なお類歌というのは、一首全体にわたって類似性のあるものであり、類句というのは、一首の一部分に類似性を有するものである。
 歌の上にかような類似性の発生を見るには、その両者間に直接関係のあるものと、直接関係のないものとがありうる。直接関係のあるものとしては、一方が先行し、他方が後出するのを常型とする。この場合、後出のものが、影響模倣によって類似を生じたと見なすべきである。しかしこれが同一人の手に出た場合には、その作者の個性としてこれを指摘することができる。逆に、ある類似性を通じて、その両者を、同一の作者の手に成ったと考える一助とすることもできる。一の歌に、後に改作を加えた場合にも類似性は残り、また伝来の間に、かえって類似性を有する相違を生ずることもあろう。
 両者相互の間に直接関係のないものにあっては、かならずしも一方が先行し他方が後出することを条件としない。ただここには共通の先行者があるかないかによって、暗合と通行とを区別することができる。なんらの先行がなくして、(72)偶然ここに両者間に類似性のあることを見る。かような暗合の起こる場合も少なくはない。しかして別に先行があり、何人かがこれを模倣使用し始めたにしても、程経てその一般的な通用の認められる場合は、これを通用せるものとして取り扱うべきである。例えば、「やすみししわが大君、高照らす日の御子」の句のごときは、大歌に出発しているものであるが『万葉集』における存在状態においては、これを通用性の詞句として認めざるを得ない。古人は、佳句を見聞くに及んでは、これを自作に応用してあやしまないのである。また「いはむすべせむすべ知らに」のごとき句は、出典ともいうべき原歌はなくして、広い通用を有しているものと考えられ、その使用せられている範囲も一般的のものがあると見てよいであろう。
 類歌、類句の類似性については、これを表現(形体、詞句)と思想との二方面にわかって考えられるが、この両者は、常に関聯しているといってよい。歌の形体と詞句との間にも密接な関係があり、これらを厳密に区別して考えることは困難である。
 歌の上におけるかような類似性を、人麻呂作歌、及び人麻呂歌集所出の歌の上に見てゆこうと思うのであるが、まず人麻呂の長歌構成における特色として、前部において歴史的叙述を有することをあげることができる。同時の他の作家の作品にあっては、すぐに主要部の叙述にはいるものが多数を占めているのである。
 長歌の前部に歴史的叙述を有するものの代表作として「日並皇子尊殯宮之時作歌」(巻二・一六七)は、まずあげらるべきであろう。この歌は持統天皇三年(六八九)四月に作られ、人麻呂作長歌のうち、挽歌としては最も早き作に属する。この歌は、天地の初めの時に、高天の原に神々が集まって統治すべき国を定められることに始まり、日の御子として天武天皇が葦原の水穂の国におくだりになり、飛鳥の浄の宮における天下統治の大業を終えさせられてから、天にお帰りになることを叙している。しかる後に天武天皇の皇子なる日並みし皇子の尊の薨去を悼み奉る部分にはいるのであって、この高貴の皇子の薨去に対する哀悼の情は、前行部に雄大なる歴史叙述を有することによって高められてくる。その他、過近江荒都時作歌(巻一・二九)においては、神武天皇の御上より説き起こして天智天皇の御上に及び、高市皇(73)子尊城上殯宮之時作歌(巻二・一九九)においては、天武天皇の御事蹟より始めて、ここには高市の皇子の御事蹟が讃えられている。これらはいずれも同一の手法であって、人麻呂作長歌の特色となすに足るものである。また、
  従石見国別妻上来時作歌(巻二・一三一、一三五)
  献泊瀬部皇女忍坂部皇子歌(同・一九四)
  明日香皇女木※[瓦+缶]殯宮之時作歌(同・一九六)
の数首は、前部において、地理的叙述を有し、それがやがて主要部に対して譬喩としての役目を持っている。妻死之後泣血哀慟作歌の第二首(巻二・二一〇)、および長皇子遊猟路地之時作歌(巻三・二三九)もまた、冒頭の叙述は、やがて次の句に対して、譬喩としての位置を占めている。かような譬喩を構成する叙述に始まることは、大歌にも例があり、枕詞や序歌の原理となるものであるが、人麻呂作の長歌にあっては、これが、歴史的叙述に始まるものと、同一の構想に出ているものと見なすべく、その組織を大がかりのものとする効果を与えているものである。
 石見の国から、妻に別れて上ってきた時の長歌二首が、いずれも石見の国の海岸における海藻の描写に始まっているのは、同一の事情のもとに詠まれた歌であり、ことによると同じ時の作であるとも考えられる。そうして一は、「浪のむたか寄りかく寄り、玉藻なす寄り宿し妹」の句を引き起し、他は「玉藻なす靡き寝し児を深海松の深めて思へど」の句を引き起こしている。ここには完全な類似性が認められると思うが、この関係はまた献泊瀬部皇女忍坂部皇子歌と、明日香皇女木※[瓦+缶]殯宮之時作歌との両者においても認められる。この前者は左註にいうがごとく河島の皇子を越智野に葬った時の歌と認むべく、それは持統天皇の五年(六九一)九月であり、一方明日香の皇女の薨去は、文武天皇の四年(七〇〇)四月であって、これは人麻呂の作品中、年月の明らかなる最後のものである。この両者はいずれも明日香川に藻の生うることを材料として歌い起こしている。しかしてその前者はこれによって「玉藻なすか寄りかく寄り靡かひし妻の命」の句を引き起こし、後者は同じく「立たせば玉藻のもころ、臥せは川藻の如く靡かひし宜しき君」の句を引き起こしている。ここにおいて、かの石見の国から、上りきた時の歌と合わせて、この四者の間の類似性を説くことも付会(74)ではないとせねばならぬ。なお別に妻の死んだ時の歌にも「おきつ藻の靡きし妹」の句があり、女子の姿体の柔軟性を描写する場合に、常に藻に寄する連想が人麻呂に存したことが認められるのである。
 
         二
 
 人麻呂の大才をもってしても、その長歌の構成には、しばしば同様の手段がくり返されていることが知られる。しかし同じ手段をくり返すことを避けようとして、避けられなかったものでなしに、作者においては別に意に介していなかったものと見るべきであろうか。歌いものから出発してきた歌の道には、今までのものをくり返すところに、むしろ興味がかけられていたともいえるのである。そこでかような問題は、当然詞句の上にも見いだされるのである。
 しかしながらわれらは、ここにはさらに進んで、人麻呂の作品にしばしば用いられるところの、この作者特有と認められるものに注意したいと思うのである。そういう詞句の検出はかなり困難である。われらの捜索する材料は、限られた範囲内であり、われらの視線の外に、幾多の材料を逸しているであろうと思うからである。この問題はしかしながら今に始まったことではない。われらはただ与えられた『万葉集』の中において調査することで満足せねばならない。
 神ながらという詞《ことば》がある。この詞は、古典の中では『万葉集』のみに限られた詞ではなく、また『万葉集』においても人麻呂関係の歌中のみに見える詞でもない。しかし万葉におけるその分布を見ると、やはり人麻呂愛用の詞の一だということが考えられる。その分布は次のとおりである。
 一、人麻呂作品
  やすみししわが大君、神ながら神さびせすと(巻一・三八)
  山川も寄りて奉れる神ながらたぎつ河内に船出するかも(同・三九)
  やすみししわが大君、高照らす日の御子、神ながら神さびせすと(同・四五)
  飛鳥の浄の宮に、神ながら太敷きまして(巻二・一六七)
(75)  定めてし瑞穂の国を、神ながら太敷きまして(同・一九九)
  あさもよし木上の宮を、常宮と高く奉りて、神ながら鎮りましぬ(同)
 以上の六例である。この中「神ながら神さびせすと」の句は、人麻呂作品に特有の句で、天皇または皇子の御行実を叙し奉ろうとして、その御行実の御性質をまず概説し奉るいい方である。
 二、人麻呂歌集所出
  葦原の瑞穂の国は、神ながら言挙せぬ国(巻十三・三二五三)
 この句を含む歌は「蜻島倭の国は神からと言挙せぬ国云々」の歌の参考としてあげられている。いずれが先であるかをつまびらかにしないが、なお古歌もしくは古詞に源流を求むべき句のように思われる。
 三、その他
  都宮は高知らさむと、神ながら思ほすなべに(巻一・五〇、作者未詳)
  いそはく見れば神ながらにあらし(同)
  ひさかたの天つ宮に、神ながら神といませは(巻二・二〇四、置始東人)
  み手づから置かし給ひて、神ながら神さびいます(巻五・八一三、作者未詳)
  神ながらめでの盛に、天の下奏し給ひ(同・八九四、山上憶良)
  やすみししわが大君の、神ながら高知らせる稲見野の(巻六・九三八、山部赤人)
  神ながら御名に帯ばせる、白雲の千重をおし分け(巻十七・四〇〇三、大伴池主)
  立山に降りおける雪の常夏に消ずて渡るは神ながらとぞ(同・四〇〇四、同)
  食国は栄えむものと、神ながら思ほしめして(巻十八・四〇九四、大伴家持)
  神ながらわが大君の、天の下治め給へは(巻十九・四三五四、同)
  やすみししわが大君の、神ながら思ほしめして(同・四二六六、同)
(76)  かけまくもあやに畏し、神ながらわが大君の(巻二十・四三六〇、同)
 以上の十二例のうち、作者未詳三、置始東人、山上憶良、山部赤人各一、大伴池主二、大伴家持四である。ただし作者未詳のうち巻の五の例は、山上憶良であるかも知れない。かような分布を見る時、この詞は、少なくも人麻呂の思想発表に好み用いた一であると推定することができよう。
 「いかさまに思ほしめせか」の句も、人麻呂作品にのみ見える句ではないが、その插入句としての妙味は、人麻呂の愛用するところであった。なお類句をもあわせ掲げる。
 一、人麻呂作品
  そらにみつ倭を置きて、あをによし奈良山を越え、いかさまに思ほしめせか、天ざかる夷にはあれど(巻一・二九)
  天つ水仰ぎて待つに、いかさまに思ほしめせか、つれも無き真弓の岡に(巻二・一六七)
  秋山の下べる妹、なよ竹のとをよる子らは、いかさまに思ひ居れか、栲紲の長き命を(同・二一七)
 二、その他
  やすみししわが大君、高照らす日の御子、いかさまに思ほしめせか、神風の伊勢の国は(巻二・一六二、夢裏習賜御歌)
  朝夕にありつる君は、いかさまに念ひ座せか、うつせみの惜しき命を(巻三・四四三、大伴三中)
  里家は多にあれども、いかさまに念ひけめかも、つれも無き佐保の山辺に(同・四六〇、大伴坂上郎女)
  磯城島の日本の国に、いかさまに念ほしめせか、つれも無き城上の宮に(巻十三・三三二六、作者未詳)
 以上の例のうち、夢裏習賜御歌が、人麻呂作品を承けているとは考えられないから、この句も多分、古歌からきているものであろう。ここにも人麻呂の愛用句の出所を語るものがあると思われる。
 以上のごとき例に比すれば、「うつせみと思ひし時」の句は、さらに人麻呂に特有の句としての性質が明らかである。この句は、人麻呂作品以外には全く見いだされないのである。
  うつそみと念ひし時、春べは花折りかざし(巻二・一九六)
(77)  うつせみと念ひし時に、取り持ちてわが二人見し(同・二一〇)
  うつそみと念ひし時、たづさへてわが二人見し(同・二一三)
 ただし、二一三の例は二一〇の「或る本」の伝来であるから数にははいらない。以上ただ二例だけであるが、なお類句として「うつせみと思ひし妹」の句をあげることができる。
  うつせみと念ひし妹が、玉かぎるほのかにだにも見えぬ思へば(巻二・二一〇)
 これにも「或る本」の伝来があるが省略する。
 
         三
 
 神さび(動詞神さぶを含む)の語もまた人麻呂の作品に特有の語ではない。この語は集中に二十七回用いられており、人麻呂の作品としては、そのうちわずかに三箇である。しかしながらこれらの使用例を考えると、人麻呂の方に特殊のものがあるのを覚える。それは他の作歌にあっては主として自然物についていっているに対して、人麻呂の作品は特に高貴の御方に対して用いているのである。元来この語は、嬢子さび、丈夫さび、男さび等の同類語があり、それらはいずれも嬢子または男子の性能を発揮する謂である。これによって神さびも同じく神としての性能を発揮することをいうものと考えられる。
 この語は山について用いられているものが最も多い。すなわち、次のごとくである。
  耳高の青すが山は、背面の大御門に宜しなべ神さび立てり(巻一・五二)
  天地の分れし時ゆ、神さびて高く貴き、駿河なる布士の高嶺を(巻三・三一七)
  やすみしし我が大王の、見し給ふ芳野の宮は、山高み雲ぞ棚引く、河はやみ瀬の音ぞ清き、神さびて見れば貴く、宜しなべ見れば清けし(巻六・一〇〇五)
  伊夜彦おのれ神さび青雲の棚引く日らに、※[雨/沐]そぼ零る【一に云ふあなに神さび】(巻十六・三八八三)
(78)  難波門を榜ぎ出て見れば神さぶる生駒高嶺に雲ぞたなびく(巻二十・四三八〇)
 右はいずれも、それぞれ山の姿の神として性質を発揮しているありさまを述べている。なお右の例の中、「やすみしし我が大王の」の例は、上の「山高み雲ぞ棚引く」の句を受けて「神さびて見れば貴く」といっている。次に山に準じて見るべき地形についていっている例をあげる。
  神さぶる荒津の埼に寄する浪間無くや妹に恋ひ渡りなむ(巻十五・三六六〇)
  神さぶる垂姫の埼漕ぎめぐり見れども飽かず如何に我せむ(巻十八・四〇四六)
  聞きし如まこと貴く奇しくも神さび居るかこれの水鳥(巻三・二四五)
 右の前の二例は埼を修飾し、第三の例は島について詠嘆している。
  み湯の上の樹群を見れば、臣の木も生ひ継ぎにけり、鳴く鳥の声も変らず、遠き代に神さびゆかむ行幸処(巻三・三二二)
 この例は伊予の温泉の地の末の代まで神さびゆかんことを歌っている。その思想の中心は、樹群の鬱蒼として栄えていることにあるようである。これに類する例としては次の歌があげられる。
  我が命を長門の島の小松原幾代を経てか神さびわたる(巻十五・三六二一)
 この歌は小松原の神さびていることを歌っているが、それはそこに生えている松樹の群がかような感じを起こさしめたものといえるであろう。
  君が行きけながくなりぬ奈良路なる島の木立も神さびにけり(巻五・八六七)
 これも木立の神さびていることを歌っている。
  何時の間も神さびけるか香具山の鉾椙が本に薛生すまでに(巻三・二五九)
  茂岡に神さび立ちて栄えたる千代まつの樹の歳の知らなく(巻六・九九〇)
  神さびて巌に生ふる松が根の君が心は忘れかねつも(巻十二・三〇四七)
(79)  かき数ふ二上山に、神さびて立てる栂の木、幹も枝も同じ常盤に(巻十七・四〇〇六)
  礒の上の都万麻を見れば根を延へて年深からし神さびにけり(巻十九・四一五九)
 右の五例は樹木の神さびていることを述べている。いずれも樹齢古くなり鬱蒼として生い茂っている姿を想わしめる。
  木綿懸けて祭る御室の神さびて斎ふにあらず人目多みこそ(巻七・一三七七)
 この歌は序歌の体であるが、御室の神さびていることから三句以下を引き出している。
  海の底奥つ深江の、海上の子負の原に、み手づから置かし給ひて、神随神さび座す、奇魂今の現に尊きろかも(巻五・八一三)
  神さぶる磐根こごしきみ芳野の水分山を見ればかなしも(巻七・一一三〇)
  凝しかも巌の神さび、たまきはる幾代経にけむ(巻十七・四〇〇三)
 右の三例は岩石の神さびていることを歌っている。ただし一一三〇の例は水分山を修飾しているとも解せられる。以上の二十一例はいずれも自然物について神さびの語を使っているのである。そうしていずれも人麻呂の作品ではない。
  石上振神杉神成恋我更為鴨(巻十一・二四一七)
  浅葉野立神古菅根惻隠誰故吾不恋(巻十二・二八六二)
 右の二首はいずれも人麻呂歌集の歌であるが、前者は第三句をカムサビテ、後者は第二句をタチカムサブルと読む説が存している。これによれば杉の木及び菅について神さびの語を使ったことになるが、これらの訓については猶問題が存するであろう。
 次に人事について神さびの語を用いた例はわずかに六箇である。
  神さぶと不欲にはあらずやや多や斯くして後に不楽しけむかも(巻四・七六二)
  神さぶと不許にはあらず秋草の結びし紐を解くは悲しも(巻八・一六一二)
 前者は紀女郎、後者は石川賀係女郎の作で、いずれも婦人であるが、人を拒んでみずから高くする気持を神さぶと形(80)容している。男を寄せつけない女の形容に、この語が用いられているのである。
  なゆ竹のとをよる皇子、さ丹づらふ吾が大王は、隠国の泊瀬の山に、神さびに斎き坐すと、玉梓の人ぞ言ひつる  (巻三・四二〇)
 この歌は石田の王の卒せられた時の丹生の王の御歌で、その王の泊瀬の山にお鎮りになったことを、神さびに斎き坐すと歌っている。ここにはとうとい御方が薨去せられたことによって、神としての性質を発揮せられたとして歌っているのである。これらの例も同じく人麻呂の作品ではないが、ここに人麻呂の作品中、この最後の例とやや通ずる用例が存するのを見る。それは高市の皇子の薨去された時の歌である。
  かけまくもゆゆしきかも、言はまくもあやに畏き、明日香の真神の原に、ひさかたの天の御門を、かしこも定めたまひて、神さぶと磐隠ります、やすみしし吾が王の(巻二・一九九)
 ここにわが王と申し上げているのは天武天皇の御事であって、その崩御せられて明日香の真神の原にお鎮りになっていることを、神さぶと形容し奉っているのである。かくのごとくとうとい御方が崩御又は薨去せられることについて、これを神さびの語で形容し奉る例はあるのであるが、しかも人麻呂の作品には、さらに御在世の御方について神さびの語を用いる用例が存するのである。
  やすみしし吾が大王、神ながら神さびせすと、芳野川たぎつ河内に、高殴を高しりまして登り立ち国見をせせば  (巻一・三八)
  やすみしし吾が大王、高照らす日の皇子、神ながら神さびせすと、太敷かす京を置きて(巻一・四五)
 前の例は芳野の離宮に行幸せられた時の歌で、持統天皇がその離宮の高殿にお登りになって国見をなされるありさまを神ながら神さびせすと叙しており、後の例は軽の皇子が安騎の野にお宿りになった時の歌で都を出て泊瀬山を越え、安騎の野にお宿りになることを神ながら神さびせすと叙している。かように特に高貴な御方の御行動を叙し奉るにこの語を用いるのは、人麻呂の作品の特色と見るべきものであって、人麻呂がその思想においてかような御方に神としての(81)御性質を見奉っていることを証するものである。されば神さびの語はかならずしも人麻呂作品に特有の語とはいいがたいけれども、その用法は特有のものであるといってよいのである。
 
          四
 
 『万葉集』は、本文の歌に対して、或本、一本、或云、一云等の形で、その別伝を註している。これらは、作者については別伝の存せぬものもあり、または作者についても異説の存するものもある。作者に別伝のないものには、その作者が、始めから両案を存したものもあろうし、また伝来の間に相違を生じたものもあるべきである。そうして『万葉集』の立場は、作者の知られているものはこれを明らかにし、作者に別伝の存するものは、これに注意しているのであるから、詞句の別伝をあげて、作者の別伝を記してないものは、作者については、別伝がなかったものと見るべきである。少なくも作者の伝えを異にすると認めるだけの材料がないものと考えられるのである。
 題詞に柿本人麻呂作歌とあるものにあっては、或本、或云等の形で、別伝を註してあるものが多い。その中には作者自身の両案がないともいえぬので、将来これに言及する機会があるかもしれないが、大部分は伝来にもとづく別伝とみなしてよいであろう。巻の三の※[羈の馬が奇]旅歌と巻の十五の遣新羅使人一行の誦詠とを照合してあるなどは、そのよき例である。
 巻の二の高市の皇子の殯宮の時の歌には、或書反歌一首が付記せられており、これに対して左註に、類聚歌林には、檜隈の女王が泣沢の神社を怨む歌であるとしている由を載せている。これは類聚歌林によって、作者の異説を註したのであるが、今日にあっては、この歌が、婦人の作として適当であるとなす見解が成立する以外には、いずれをもって是とすべきであるかを知らない。巻の三の巻頭にある歌、
    天皇御遊雷岳之時柿本朝臣人麻呂作歌一首
  皇者神二四座者天雲之雷之上爾廬為流鴨(二三五)
の歌には「右或本云献忍壁皇子也其歌曰王神座者雲隠伊加土山爾宮敷座」という左註がある。この左註は、本文の歌と(82)の詞句および思想上の類似に注意して参考としてあげられたものと認められるが、献忍壁皇子という書き方、および少ない数字で歌詞を書くことなどは、この「或る本」というのが、人麻呂歌集のことではないかと思わしめるに十分である。人麻呂歌集を「或る本」として取り扱った例は、同巻少し後に、
    弓削皇子遊吉野時御歌一首
  滝上之三船乃山爾居雲乃常将有等和我不念久爾(二四二)
の歌に対して、
    或本歌一首
  三吉野之御船乃山爾立雲之常将在跡我思莫苦二(二四四)
   右一首柿本朝臣人麻呂之歌集出
とあげた例がある。ここでは本歌が弓削の皇子の御歌であるのに対して、類歌が人麻呂歌集から出ていることを註したのは、作者に関して別伝の存することを明らかにしたものといえるのである。かの「献忍壁皇子云々」の左註が、人麻呂歌集によっていると断定しえないので、決定的な議論を立てるわけにはゆかないが、おそらくは本歌が人麻呂の作品である以上、これに対して「或る本」を註するにあたつても、それが人麻呂歌集であると記載する必要をみなかったのであろう。突き込んでいえば、人麻呂歌集の歌を、人麻呂の作品の伝来として取り扱ったものとして考えられるのである。そこで人麻呂の作品に対して、出所を記さずに、ただ或云、或本等として詞句の異同を註したものの中には、人麻呂歌集の伝来もあるべきことと思うのである。さらに進んでは題詞に人麻呂作歌と記してあるものも、その一部は人麻呂歌集所出のものがあろうと思うのである。例をあげよというなら、巻の三にある柿本朝臣人麻呂献新田部皇子歌、巻の四にある相聞歌のごとき、それではないかと考えられるのである。
 
         五
 
(83) 『万葉集』が、その所載の歌に対して、一云、或云、一本、或本等の形で、別伝を註するのは、伝来を尊重し、その正確を期する意識の表出であって、原歌に忠実なる態度というべきである。後の勅撰集などでは、撰者の見識をもって、修正を加えて歌を収載する場合も多く、原歌の伝来を尊重する意味で、歌詞の別伝を載せたものに乏しい。『万葉集』の編者も、幾人か人をかえていると考えられているのだから、そのいずれもの人が伝来に忠実であったとはいえないであろうが、現に見るところでは、書写時代以前、集の成立期間に、すでに相当多量の別伝収載が行なわれていたと見られるのである。
 これらの別伝収載の意味は、かならずしも一ではないであろう。一の本文の歌に対して、同一の歌と認められるが、しかも詞句に相違のあるものを註し、または同一の歌でないにしても、類似の部分のあることが目立つので、これを参考にあげる。この註は『万葉集』の編者がこれをなした場合と、すでにもとの材料にはいっていたと思われるものとがあって、作者自身が両案を存しておいたようなのは、その後者に属する。もちろんここには、書写の間に生じた校異を註したものを除き、また歌詞の一部分であるものに誤って一云を冠したもののごときも当面の問題にははいらない。
 かような形のものについて、本文と別伝との両者が、同一の原歌から出発したものであるか、または別の歌であるかは、興味ある問題であるが、これを判断すべき材料を欠く場合が多い。同一の歌である場合には、いかにしてその差違が生じたかの問題が起こる。それは伝誦による場合と、記録の場合とが考えられ、記憶の不正確、時に応じて加えられた改修、不注意等による理由があげられる。また別な歌であるとなす場合には、模倣によるものや、暗合によるものがあるべく、どの程度までを類歌とし、または類句一部分の類似とすべきかの問題がある。
 かような別伝の記載形式としては、一首の歌に対して、一首の全部をあげるものと部分的に詞句について註したものとがある。人麻呂の作品に関しては、作者について記事なくしてあげてあるものは、同じく人麻呂の作と伝うるものであると見てよいであろう。作者の所伝に問題がある場合には、特にこれを記しているからである。高市の皇子の木※[瓦+缶]の殯宮の時の長歌の或書反歌に、類聚歌林を引いて、檜隈の女王の、泣沢の神社を怨む歌であると記しているがごときが(84)ある。
 妻が死んだ時の長歌の第二首は、別に或本歌曰として、一首全体の別伝を載せているが、その本文とした歌の方の初め打蝉等念之時爾の下に、小字で、一云宇都曾臣等念之と記しているのは、或本歌と同じ文字であって、はじめこれをもって各句の相違を記そうとし、相違が繁くしてこれをやめて別に一首全体を載せたようにも見える。石見の国から妻に別れて上ってくる時の長歌の第一首も、別に或本歌として全部を載せているが、その本文にも一云の形で詞句の相違が記され、しかもこれは或本歌とも違うものである。これらの句は、少なくとも三通りの所伝があることになる。
 巻の三にある※[羈の馬が奇]旅の歌と、巻の十五にある遣新羅使人の一行が船中で吟誦した歌とは、相互に詞句の相違を記しあっているが、この例は人麻呂の歌が、吟誦せられることによって、別伝を生じた例になるのである。この吟誦による別伝の発生については、なおよく考えてみたいと思うのである。
 
          六
 
 歌が古くは口誦によって行なわれていたことは改めていうまでもない。それがある時代に至って文筆による製作を見るに至ったのであるが、柿本人麻呂の場合においては、どうであったかということは一応考えてみる必要がある。人麻呂の作品には漢文学の影響があり、文字をよく知っている人であったとは考えられるが、その作品がいかなる場合にも紙に書かれていたとは断言せられないことである。後の世の人は自分たちの歌の創作の態度から推して、人麻呂もまた紙と筆とをもって歌を作っていたように思っているようである。事実それより降って奈良時代にはいれば、筆と紙とを使うことがいっそう多くなっていったであろう。
 人麻呂の作歌の事情を考える。その主な作品として、皇子皇女の殯宮において作られた歌がある。殯宮とは、新しき御墓の辺における葬祭の場をいうと見られる。そこに舎人たちが集まっており、人麻呂が作って詠み上げたと考えられる歌は、はたして一応紙に書いてそれを朗読したものであろうか。また天皇の雷の岳に行幸せられた場合に歌を作り、(85)長の皇子が猟路の池におもむかれ、軽の皇子が安騎野に宿られた時にも、それぞれ御供をして歌を作っている。これらの場合に、紙に書いて差し上げて御覧を願ったものであるか、疑問とすべきところである。当時民間の女子等文字を知らないと思われる人々が歌を詠んでいるのは、おそらくは文筆を用いていなかったであろう。そういう背景の下に、人麻呂が文字を知っていたからとて、かならずしも歌を作るのに文筆を用いたとは限らないのである。なお諸皇子に献ずとした歌もあることであって、これらもたぶん同様に考えてよいであろう。
 古人は興に乗じて歌を詠みこれを吟誦すると同時に、以前からあった歌をもしばしば吟誦する。天平八年(七三六)の遣新羅使の一行が、船中にあって人麻呂の歌を吟誦したことは前にも記したが、彼らは人麻呂歌集ともいうべき一巻を船中に携えていたのであろうか。これを
  玉藻刈る乎等女を過ぎて夏草の野島が埼に廬す我は(巻十五・三六〇六)
と記録しているのによれば、そういう便利な本はなかったのであろう。
 吟誦によって歌の詞句が相違してゆくことは珍しいことではない。
  橘の本に道履み八衢にものをぞ思ふ人に知らえず(巻六・一〇二七)
 この歌は三方沙弥が妻を恋うて作った歌であるのを、後に豊島の采女がこれを吟誦したのであろうという伝えがある。三方沙弥の歌というのは、
  橘の影履む道の八衢にものをぞ思ふ妹に逢はずて(巻二・一二五)
というのが別に伝えられている。このごときは伝承によって伝来が移った例であると見られるのである。
 かような吟誦による伝承の相違が、「或る本」の形によって別伝となって残っているものもあるのではないかと思われるのである。巻の一にある近江の荒れたる都を過ぎし時の人麻呂作歌の中、「春草の茂く生ひたる霞立つ春日の霧れる」の句に対して、「あるは云ふ、霞立つ春日か霧れる夏草か繁く成りぬる」の別伝が記されている。歌としてはどこまでも春の景物に徹底しているほうがよいのであって、春と夏とを対句にした別伝のほうは採るべくもない。人麻呂の(86)作歌に、春秋を対句にするがごときは、吉野の宮における歌の中にもあるが、それは吉野の宮の景勝を概念的に述べているのであって、今の場合とは違う。今ここでは現に見る近江の荒れたる都の風景を叙しているのであるから、どこまでも現在に即していなければならない。かくのごとき区々の伝来を生ずるに至ったのは人麻呂の作品が吟誦により伝えられたものが多かったのであろうと思う。さらにいえば、人麻呂は作家として優れた位置を持っているのみならず、また歌手としての盛名をも有していたのではないかと思うのである。「やすみししわごおほきみ」という書き方は、かならずしもその歌が歌われたものであることを証明しないが、この句が実際歌われていた歌、すなわち、大歌からきたものであることはいえるのである。大歌の歌手は歌人と称して、特に十一月の節から翌年正月までその技能を用いることが多かったのである。
 
          七
 
 人麻呂歌集所出の歌で、その他の所伝の歌と全く同じなのは、ただ二箇の例を見るのみである。すなわち、
  朝影 吾身成 玉垣入 風所見 去子故(巻十一・二三九四、人麻呂集)
  朝影爾 吾身者成奴 玉蜻 髣髴所見而 往之児故爾(巻十二・三〇八五)
 文字の上には相違があるけれども、これらはまず同一に読むべきものと見てよいであろう。これに反して、もと同一の歌に出たもののごとくであっても、小異を有して伝来しているものは多い。これはこれらの歌が音声による伝承を有していたことがかような結果になって現われるに至った大きな原因となっていると考えられる。もとよりそれだけではないであろうが、歌が誦詠せられていた事実を逸するわけにはゆかぬと思う。
  安比見※[氏/一]波 千等世夜伊奴流 伊奈乎加母 安礼也思加毛布 伎美未知我※[氏/一]爾(巻十四・三四七〇、人麻呂集)
  相見者 千歳八去流 否乎鴨 我哉然念 待君難爾(巻十一・二五三九)
 これもまず同一に読んでよいであろう。巻の十四のは、東歌であるが、註して柿本朝臣人麻呂歌集出也とある。この(87)歌が人麻呂集所出であるのを、東歌に編入したか、もと東歌として伝わったものに人麻呂集所出と同一のものがあってこの誌となったかは、考究を要する問題で、東歌全体の性質からして論じてこなければならない。ここにはただ人麻呂集の歌に他の所伝、巻の十一の作者未詳の分とまったく同一のものがあることを見るのみである。
 さて人麻呂歌集所出の歌に対して、小異のある別伝を次に掲げる。一句にだけ小異のあるものは見あたらない。二句にわたって小異あるものに始まる。
  三吉野之 御船乃山爾 立雲之 常将在跡 我思莫苦二(巻二・二四四、人麻呂集)
  滝上之 三船乃山爾 居雲乃 常将有等 和我不念久爾(同・二四二、弓削の皇子)
 弓削の皇子は、天武天皇第六の皇子で、持統天皇の七年(六九三)に浄広弐を授けられ、文武天皇の三年(六九九)七月に薨ぜられた。人麻呂歌集にはこの方に献じた歌が三箇所にあり、人麻呂歌集と縁の深い御方である。
  為妹 我玉求 於伎辺有 白玉依来 於岐都白浪(巻九・一六六七、人麻呂集)
  為妹 吾玉拾 奥辺有 玉縁持来 奥津白浪(同・一六六五)
 一六六五のは、岡本宮御宇天皇の紀伊の国に幸せられた時の作者未詳の歌と伝えている。はたしてしかりとせば、人麻呂よりは前になる。
  白那弥之 浜松之木乃 手酬草 幾世左右二箇 年薄経濫(巻九・一七一六、山上歌)
  白浪乃 浜松之枝乃 手向草 幾代左右二賀 年乃経去良武(巻一・三四、川島の皇子)
 人麻呂集に山上歌というのは、山上憶良が作ということであろうか。すなわち、巻の一の川島の皇子の御歌には、或云山上憶良と註している。なお『歌経標式』には角沙弥の作としている。
  眉根削 鼻鳴紐解 待哉 何時見 念吾君(巻十一・二四〇八、人麻呂集)
  眉根掻 鼻火紐解 待八方 何時毛将見跡 恋来吾乎(同・二八〇八)
 もと同源からきたものとしても、五句の相違は、かなり距離を感じさせている。
(88)  早敷哉 不相子故 徒 是川瀬 裳襴潤(巻十一・二四二九、人麻呂集)
  愛八師 不相君故 徒爾 此川瀬爾 玉裳沾津(同・二七〇五)
 人麻呂集の歌、第四句をウヂガハノセこと読むべしとすれば、三句にわたって相違があることになる。作者が男子と女子に変わっているが、類似感の多い例である。一度文字に是川瀬と写したものを此川瀬爾と読みあやまったと見られぬこともない。
  里遠眷 浦経 真鏡 床重不去 夢所見与(巻十一・二五〇一、人麻呂集)
  里遠 恋和備爾家里 真十鏡 面影不去 夢所見社(同・三六三四)
 人麻呂集の真鏡が、句を隔てて見るにかかるのは、不自然である。作者未詳の歌のほうが巧みに用いられている。
  礒上 生小松 名惜 人不知 恋渡鴨(巻十一・二八六一、人麻呂集)
  巌上爾 立小松 名惜 人爾者不云 恋渡鴨(同・或本歌)
 以下三句にわたって相違のある例である。礒上生小松の序が名惜を引き出す点には、なお問題があり、何か別に原歌があるかも知れぬことを思わせる。
  遠有而 雲居爾所見 妹家爾 早将至 歩黒駒(巻七・一二七一、人麻呂集)
  麻等保久能 久毛為爾見由流 伊毛我敝爾 伊都可伊多良武 安由売安我古麻(巻十四・三四四一、東歌)
 東歌に註して、柿本朝臣人麻呂歌集曰、等保久之※[氏/一]、又曰、安由売久路古麻とある。とにかく以上のような別伝の程度では、いずれが原形であるかを判別することは困難である。なおこの類には、他の一方が人麻呂の作と題詞にあるものを省くこととした。
  恋為 死為物 有者 我身千遍 死反(巻十一・二三九〇、人麻呂集)
  念西 死為物爾 有麻世波 千遍曾吾者 死変益(巻四・六〇三、笠女郎)
 第一句と第四句とに相違があるが、一首全体の組織から見ても、同歌と認めて支障なきもののごとくである。当時の(89)歌道として、古歌などを使用することは、別段変わったことでもないが、並べられれば笠女郎のほうに歩が悪いことはもちろんである。
  月見 国同 山隔 愛妹 隔有鴨(巻十一・二四二〇、人麻呂集)
  都奇見礼婆 於奈自久爾奈里 夜麻許曾波 伎美我安多里乎 敝太弖多里家礼(巻十八・四〇七三)
 同一なのは初句だけで、他の四句は少しずつ違うが、これももと同歌であったものと考えられるものである。巻の十八のは、大伴池主の書簡中にある歌で、一古人云と断わってあるから、人麻呂集の歌のごときが伝えられていたものと見られる。
  海神 持在白玉 見欲 千遍告 潜為海子(巻七・一三〇二、人麻呂集)
  底清 沈有玉乎 欲見 千遍曾告之 潜為白水郎(同・一三一八)
 第三句以下同一であるが、全体の組織も同じく、かつ譬喩歌でもあるので、同一の歌として考えてよいであろう。
  恋敷者 気長物乎 今谷 乏牟可裁 可相夜谷(巻十・二〇一七、人麻呂集)
  恋日者 気長物乎 今夜谷 令乏応裁 可相物乎(同・二〇七九)
 いずれも七夕の歌である。もと同歌に出たものであろう。
 さらに、全体としてはかならずしも同歌ではないが、部分的に同一、または類似の詞句を有し、両者の間に密接の関係があると認められるものがある。そのうち、一方が人麻呂の作歌と題せられているものは、その両者の関係を観るに重要なる材料となるものである。次の二例のごときはこれに属するものである。
  塩気立 荒磯丹者雖在 往水之 過去妹之 方見等曾来(巻九・一七八七、人麻呂集)
  真草刈 荒野者雖有 黄葉 過去君之 形見跡曾来(巻一・四七、人麻呂集)
 これも同一なのは第五句だけであり、他の句にも相当の相違があるが、全体の組織なり思想なりについて、密接の関係のあるは、疑いなきところである。
(90)  古爾 有険人母 如吾等架 弥和乃檜原爾 插頭折兼(巻七・一一一八、人麻呂集)
  古爾 有兼人毛 如吾歟 妹爾恋乍 宿不勝家牟(巻四・四九七、人麻呂集)
 これも同断である。しかもここには三句までの同句があり、四、五句の内容は違うが、全体の組織は同一であるというべきである。
 以下は一方が作者未詳の例である。
  言出 云忌忌 山川之 当都心 塞耐在(巻十一・二四三二、人麻呂集)
  名毛伎世婆 人可知見 山川之 滝情乎 塞敢而有鴨(巻七・一三八三)
  隠処 沢泉在 石根 通念 吾恋者(巻十一・二四四三、人麻呂集)
  隠津之 沢立見爾有 石根従毛 達而念 君爾相巻者(同・二七九四)
  遠妹 振仰見 偲 是月面 雲勿棚引(巻十一・二四六〇、人麻呂集)
  吾背子之 振放見乍 将嘆 清月夜爾 雲莫田名引(同・二六六九)
  菅根 惻隠君 結為 我紐緒 解人不有(巻十一・二四七三、人麻呂集)
  草根之 懃念而 結義之 玉緒云者 人将解八方(巻七・一三二四)
 類句の範囲を拡張すればさらに若干の例を増しうるであろう。かかる類句の成立については、全般的な問題として取り扱っておいてもよい問題である。
  梓弓 引津辺在 莫謂花 及採 不相有目八方 勿謂花(巻七・一二七九、人麻呂集)
  梓弓 引津辺有 莫告藻之 花咲及二 不会君毳(巻十・一九三〇)
 一は旋頭歌であり、他は短歌になっている。しかしこの両者の問に密接な関係のあることは認められよう。それは梓弓という枕詞から引津を出し、それからなのりその花に転じてゆく過程の滑らかな進行が歌人の興味をそそって、かような類型的な歌を作らしめたというべきである。こういう句は人口に膾炙していたものであろうと思われる。有名な歌(91)があって、それから出ているのである。人麻呂集の歌がその原歌であるかどうかは、いまだ明らかにすることを得ない。
  剣刀 諸刃利 足蹈 死死 公依(巻十一・二四九八、人麻呂集)
  剣刀 諸刃之於荷 去触而 所殺鴨将死 恋管不有者(同・二六三六)
 この二つの歌では詞句の類似ということもあるが、同時に内容が類似している点に注意すべきである。剣刀の諸刃の鋭きに触れて死なんとするところに中心がある。しかし人麻呂集の歌は、君のためにとならば剣刀の鋭きをもあえて踏まんとする強さが現われており、後のほうの歌では、恋のせんすべなさに剣に触れて命をも縮めようとするのである。同じ詞句を使ってもその間には相当の距離があって、人麻呂集の方が原形であり、その詞を拾って次の歌が成されたかの感があるものである。
  珍海 浜辺小松 根深 吾恋度 人子※[女+后](巻十一・二四八六、人麻呂集)
  血沼之海之 塩干能小松 根母己呂爾 恋屋度 人児故爾(同・或本歌)
 ここにも詞句の類似と同時に形体の類似があげられる。「或る本」の歌というのは、人麻呂集に対してどういう性質の書とも知られない。人麻呂集の別本とも考えられるが、おそらくはそうでなくして、ただ他の本という意味にあげているのであろう。血沼の海の浜辺の小松から根を引き起こし、最後に「人の児故に」と結んだ構成は、かならず密接な関係があって作られたものと思われる。
  秋柏 潤和川辺 細竹目 人不顔面 公無勝(巻十一・二四七八、人麻呂集)
  朝柏 閏八河辺之 小竹之眼※[竹/矢] 思而宿者 夢所見来(同・二七五四)
 これは三句までの類似である。しかもその取り扱い方は全然別であり、前の人麻呂集の歌では初二句が三句を引き起こす序になっているのに対して、後の歌は前三句が第四句を引き起こす序になっている。しかしながらこの両者の間にかならず関係のあることは認められるものである。
  足常 母養子 眉隠 隠在妹 見依鴨(巻十一・二四九五、人麻呂集)
(92)  垂乳根之 母我養蚕乃 眉隠 馬声蜂音石花蜘※[虫+厨]荒鹿 異母二不相而(巻十二・二九九一)
 これは両者とも三句までを次の句の序として使っている。なおこの三句は、巻の十三・三二五八の長歌にも同じく序として使われており、この句を聞いたものが名句として重ねて使用したものと認められる。
  布細布 枕動 夜不寝 思人 後相物(巻十一・二五一五、人麻呂集)
  敷細 枕動而 宿不所寝 物念此夕 急明鴨(同・二五九三)
 これも気の利いた句というのでかような類似の詞句を見るに至ったものであろう。枕の動くということは、何でもないようであるが、寝られないのを形容する句としてはいかにもと思われるものである。
  三名部乃浦 塩莫満 鹿島在 釣為海人乎 見変来六(巻九・一六六九、人麻呂集)
  朝開 傍出而我者 湯羅前 釣為海人乎 見変将来(同・一六七〇、人麻呂集)
 これは第四、五句が同一である例である。大宝二年(七〇二)の紀伊の国への行幸の歌の一団中にならんで出ている歌であって、いずれも人麻呂集から出たと認められるものである。かくのごときは一つの詞句を得て、これを両様に応用したものということができよう。
  撃日刺 宮路行丹 吾裳破 玉緒 念委 家在矣(巻七・一二八〇、人麻呂集)
  内日左須 宮道爾相之 人妻※[女+后] 玉緒之 念乱而 宿夜四曾多寸(巻十一・二三六五、古集)
 前の歌は旋頭歌である。歌体は変わっているけれども、両者間に構成上の類似が多いことは認められる。前者は女子の歌とおぼしく、後者は男子の歌であろう。前の歌における玉の緒は、女子の歌としていかにも自然であり、これに対して後の歌は玉の緒が突然である。これもいずれかといえば、人麻呂集の歌を原歌となすべきである。
  真鏡 手取以 朝朝 雖見君 飽事無(巻十一・二五〇二、人麻呂集)
  其十鏡 手取持手 朝旦 見人時禁屋 恋之将繁(同・二六三三)
 ここにも三句までの一致が見られる。前の歌において、朝な朝な見れども君を飽くことのなきというのは自然である。(93)後の歌はこれに対して多少の思い設けたところがうかがわれる。
 以上人麻呂集の歌と一致または類似の句を有している歌をあげてきた。その結果は多くの場合において、人麻呂集のが原歌であり、他のがその模倣であるかのごとくに見られるのである。これは人麻呂集自身にとってはなんら増減するところのない問題である。ただその集の歌が世間に知られているものの多いことを語っているだけである。
 『万葉集』巻の十三の相聞の部にある作者未詳の歌、
  蜻島 倭之国者 神柄跡 言挙不為国 雖然 吾者事上為 天地之 神毛甚 吾念 心不知哉 往影乃 月文経往者玉限 日文累 念戸鴨 胸不安 恋列鴨 心痛 未遂爾 君丹不会者 吾命乃 生極 恋乍文 吾者将度 犬馬鏡 正目君乎 相見天者社 吾恋八鬼目(三二五〇)
 この歌および反歌二首に対して、参考としてであろう、柿本朝臣人麻呂歌集の歌にいわくとして、次の長歌一首および反歌一首を載せている。
  葦原 水穂国者 神在随 事挙不為国 雖然 辞挙叙吾為 言幸 美福座跡 恙無 福座者 荒礒浪 有毛見登 百重波 千重浪爾敷 言上為吾 言上為吾(三二五三)
    反歌
  志貴島 倭国者 事霊之 所佑国叙 真福在与具(三二五四)
 これは三二五〇の歌の「蜻島倭の国は神からと言挙《ことあげ》せぬ国然れども我は言挙す」の句に対して、人麻呂集の歌の、「葦原の水穂の国は神ながら言挙せぬ国然れども言挙ぞ吾がする」の句が類似しているので、あわせ掲げたものと見える。そこでこの二つの歌を較べて見るに人麻呂歌集の歌はこの句に対して末句に「言挙す吾は」の句を持っており整然たる組織をもっているが、前の歌では「天地の神も甚」以下が言挙《ことあげ》の文句であると見えるけれども下に照応の句を持っていない。
 言挙の語は集中になお数例がある。
(94)  千万乃 軍奈利友 言挙不為 取而可来 男常曾念(巻六・九七二)
  此小川 白気結 滝至 八信井上爾 事上不為友(巻七・一一一三)
  大方者 何鴨将恋 言挙不為 妹爾依宿牟 年者近浸(巻十二・二九一八)
  和我保里之 安米波布里伎奴 可久之安良波 許登安気世受杼母 登思波佐可延牟(巻十八・四一二四)
 また『古事記』中巻に、
  於是詔2茲山神者徒手直取1而、騰2其山1之時、白猪逢2于山辺1。其大如v牛。爾為2言挙1而詔、是化2白猪1者其神之使者雖2今不1v殺、還時将v殺而騰坐。
とあり、また『播磨国風土記』揖保郡の条に、
  言挙阜、右所3以称2言挙阜1者、大帯日売命之時行軍之日、御2於此阜1而教2令軍中1曰此御軍者慇懃勿2為言挙1。故号曰2言挙前1。
とある。
 なお『日本書紀』の興言を、『日本紀私記』にはコトアゲと読んでいる。これらの例によって、コトアゲとは言を挙《あ》げて言い立てることであって、わが国が元来神のままにあって、特に言い立てをしない国であるという思想が、巻の十三の歌には現われているのである。この句はわが国の本質を説明した句であって、普通の人ではたやすく言えない句である。古くから言い伝えた句であるかどうかは明らかでないが、人麻呂歌集の歌にあってはこの句がしっかりと置かれてあり、反歌の言霊の佑《たす》くる国というのと照応して、この歌の精神的な内容を構成している。しかるに三二五〇の歌のほうにあつては、言挙《ことあげ》の内容が「天地の神もはなはだわが念ふ心知らずや」というだけが言挙《ことあげ》らしいのであって、他はくどくどとしたかこち言《ごと》にすぎないのである。また反歌の二首においても一向言挙せぬ国というのにふさわしい詞句を見いださない。この場合にもやはり人麻呂歌集の歌のごときが先行しており、その句の流伝によって「天地の神も甚云々」の歌のごときが生まれ出たように見えるのである。
(95) 人麻呂歌集のこの歌は、その内容の思想的なる点において、また組織力の強い点において、人麻呂作歌として恥ずかしからぬものである。吉野の離宮に幸せし時の歌などにおいて、わが国の本質に触れた人麻呂は、こういう歌の作者として他に匹敵する者を見ないといってもよい人である。かような方面における人麻呂の作品には、詞句の末の借物でない根深いものが存するのである。人麻呂歌集の中にあつても、人麻呂の特色の濃厚な作品といってよいであろう。
 
    二 人麻呂歌集と歌経標式
 
 柿本人麻呂に関する文献としては、『万葉集』以外『歌経標式』をもって最古とする。この書は、奈良時代の末光仁天皇の宝亀三年(七七二)に藤原浜成の撰したところであって、詩学に準じて歌学を立てた書である。その書中に、例としてあげた歌に、柿本人麻呂と思われる人の作品をあげているのである。
 『歌経標式』には、柿本若子として見えている。若子は人名ではなくして敬語であることは、同じ書中に、大伴志売夜若子と記しているのでも知られる。正倉院文書には敬語に使った例があり、『万葉集』には敬語としての例はないが、歌に、
  稲《いね》舂《つ》けば皹《かか》る我《あ》が手を今宵もか殿の和久故《わくご》が取りて嘆かむ(巻十四・三四五九)
と詠まれ、若い男の意味で敬意を含んでいるものと考えられる。『歌経標式』が山部赤人や高市黒人などは氏名をあげているのに、ここに柿本若子というのは、その人に敬意を払っているものであることが知られる。ここには人麻呂が若い男として取り扱われているのである。
 『歌経標式』に柿本若子の歌としてあげているものは次の三個である。
 一、如2柿本若子秋歌1曰
  阿岐可是能一句 比爾計爾不気馬二句 美豆倶基能三句
(96) これは歌病に七種ありとした中の第一、頭尾の病を説明して、病にあらざるものの例としてあげたのである。これは短歌の一部をあげたと認められるが、『万葉集』における人麻呂の作品には、これに相当するものを見ない。同じ句を有する歌としては、
  秋風之 日異吹者 水茎能 岡之木葉毛 色付爾家里(巻十・二一九三)
の歌があるが、これは作者未詳である。人麻呂の作品にもかような句をもった歌があったかもしれないが、今明らかにする由がない。なおこの例は腰尾の病の条にも重ねてあげてある。
 二、如d柿木若子賦2長親王1歌u曰、
  比佐可他能一句 阿麻由倶都紀乎二句 阿美爾佐旨二句 和我於保岐美婆四句 岐努何佐爾是利五句
 これは同じく歌病七種の第四※[厭/黒]子の病の例としてあげている。この歌は『万葉集』巻の三、長皇子遊2猟路池1之時柿本朝臣人麻呂作歌とある長歌の反歌に、
  久堅乃 天帰月乎 網爾刺 我大王者 蓋爾為有(巻三・二四〇)
の歌と同じものと認められるので『歌経標式』に仮字書にしてあるのによって『万葉集』の歌の訓が決定せられるものである。第三句の網の字を綱の誤りとする説もあったが、『歌経標式』にはまさしく阿美に作っているのである。この例があるによって柿木若子が人麻呂に相違ないことが確かめられる。
 三、如d柿木若子詠2長谷1四韵歌u曰、
  阿麻供母能可気佐倍美由留一句 己母利倶能波都勢能可波努二句 宇羅那美可不能禰与利己努三句 伊蘇那美可阿麻母都利勢努四句 与旨恵夜旨宇羅波那供等母五句 与旨恵夜旨伊蘇婆那倶等母六句 於岐都那美岐与倶己岐利己七句 阿麻能都利不禰八句
 この歌は、歌体三種の長歌の例にあげているところである。この歌はまた『万葉集』巻の十三にある、
  天雲之 影塞所見 隠来※[竹/矢] 長谷之河者 浦無蚊 船之依不来 礒無蚊 海部之釣不為 吉咲八節 浦者無友 吉(97)画矢寺 礒者無友 奥津浪 諍榜入来 白水郎之釣船(巻十三・三二二五)
の歌と同一と認められる。『万葉集』には作者の名を記さず、はたして人麻呂の作であるか否かをつまびらかにしない。しかしこの歌の構成および詞句には、人麻呂が石見の国から妻に別れて都に上った時の歌と密接な関係のあることを思わしめる。かの石見からの歌に、「石見の海角の浦回を、浦なしと人こそ見らめ、潟無しと人こそ見らめ、よしゑやし浦は無くとも、よしゑやし潟は無くとも」と歌い起こしたそのままの姿が、長谷の河に所を変えて現われているのである。
 『万葉集』巻の十三は作者未詳の長歌を集めてあり、相当古く歌い伝えられたと思われる歌から始めて、奈良時代の初めの作にも及んでいる。その中には木梨の軽の皇子の御歌と伝えるもの、穂積老の歌と伝えるものがあって、これを左註に記している。本文の歌に対して似寄った詞句を有する人麻呂集の歌を参考としてあげたものも二個あって、人麻呂集との関係は相当に密接なものがある。もし人麻呂集を参考としてあげるならば、この「天雲の影さえ」の歌もあげてしかるべきである。
 なお巻の十三の歌で人麻呂の作品と関係があると認らめれるものには、三二四〇の「王命恐」の歌がある。この歌の
  楽浪《さざなみ》の志我の韓埼、幸くあらは又かへり見む、道の隈八十隈毎に、嗟《なげ》きつつ吾が過ぎ往けば、弥遠に里離り来ぬ、弥高に山も越え来ぬ
の部分のごときは、人麻呂の近江の国から都に上った時の歌との類似が見いだされる。また三二五八の荒玉之年者来去而の歌の
  天伝ふ日の闇れぬれは白木綿の吾が衣袖も通りて濡れぬ
の句は、同じく石見の国から上った時の歌との類似が思われる。
 三三二四の「珪纏毛文恐」の歌は、藤原の宮時代に薨去せられた皇子を悼み奉る歌として見られるが、その中には
  天の如仰ぎて見つつ、畏けど思ひ憑みて、何時しかも日足らし坐して、十五月のたたはしけむと
の句や、
(98)  大殿をふりさけ見れば白栲に飾り奉りて
の句、
  天の原ふりさけ見つつ、珠手次懸けて思ばな、恐かれども
の句があって人麻呂の作品との類似が思われる。また三三四四の「此月者君将来跡」の歌には、
  大舟の思ひ憑みて、何時しかと吾が待ち居れば、黄葉の過ぎて行きぬと、玉梓の使の云へば
の句があって、これは人麻呂の妻の身まかりし時の歌との一致を思わしめる。
 かようにこの巻は、人麻呂の作品との類似が多いのであって、その理由について種々の推測がなされるのである。人麻呂の歌が有名であって、その詞句が他の人の作品にもはいったとなすがごときはその一解である。
 人麻呂の作品には別伝を有するものがあって、それらの詞句の相違を、一云の形や、或本歌の形で註しているもののあることは前にもあげた。今十三の巻をもって人麻呂の歌を考えるのに別伝であるかのごとき観もなされるのである。もし、「天雲の影さへ見ゆる」の歌が、『歌経標式』のいうがごとく人麻呂の作品でありとすれば、吾人は巻の十三の歌の性質について改めて考えなければならないものがある。しかし『歌経標式』が、「天雲の影さへ見ゆる」の歌に、人麻呂の詞句と同様のもののあるのを見てこれを人麻呂の作品と即断しなかったともいえない。『歌経標式』の存在は、人麻呂の研究の上にも一つの謎を提出するものであって、今日ではまだこれを解決するまでに至っていないのである。
 
   一二 歌の集録の性格
 
 『万葉集』二十巻四千五百首の大歌集が、今日伝存することを得たのは、まったく古人が、歌の集録に意義を感じ、興味を有していたがゆえである。それは自家の作品を集録するはもとより、進んではその見聞するところの歌を集録するに及ぶのである。これらの集録は、自家専用の覚え書であるか、または、他に示すことをも予想しているかによって、(99)その用意に多少の相違を見るのである。
 『万葉集』を通じて見た、歌の集録についても、またかような範囲および態度の種類が存する。高橋連虫麻呂歌集、および田辺福麻呂歌集のごときは、従来考えられていたように、すべて虫麻呂もしくは福麻呂の作品と見ることが妥当なのであろう。そうしてそれは、虫麻呂もしくは福麻呂が、それぞれその自作を集録したものと考えられるのである。この二歌集は、その一々の作品に、作者の署名を見ないのは、すべて自作であって、紛らわしいことがないからであろう。
 笠朝臣金村歌集も、大部分は、金村その人の作と認められる。金村は、律気な男で、一々作歌の年月および事情を題しておいたのが特色である。しかし金村歌集には、他人の作をも収めている。
    石上大夫歌一首
  大船に真※[楫+戈]繁貫き大君の命かしこみ礒廻するかも(巻三・三六八)
    和歌一首
  もののふの臣の壮士は大君の任のまにま聞くといふものぞ(同・三六九)
   右作者未審、但笠朝臣金村之歌中出也。
 この和歌が、金村の歌中から出たとなす以上は、石上大夫の歌も、当然同じ集録から出たと見るべきである。作者未審の文字は、『万葉集』の編者(または整理者)が加えたと見なされるが、作者の名を伝えないことは、資料たる集録にあっては、集録者自身の歌であったのであろう。もとの集録にすでに作者未審としていたこともないとはいえないが、おそらくはそうではないのであろう。
 古歌集は、作者および集録者を伝えない。巻の七には、
  嬢子らが放《はなり》の髪を木綿の山雲なかがふり家のあたり見む(巻七・一二四四)
のごとき、男性の歌もあり、
  居明して君をば待たむぬばたまのわが黒髪に霜はふるとも(巻二・八九)
(100)のごとき、女性の歌もあって、作者の人格において、一定するところがない。また巻の二の、天皇崩之後八年九月九日奉為御斎会之夜夢裏習賜御歌一首は、古写本に、古歌集中出とあるが、持統天皇の御代における特殊の事情のもとにある御歌であって、古歌集、古集などあるものが、すべて同一の集録であるかどうかも問題になるのである。
 類聚歌林は、山上憶良の撰と伝え、『万葉集』に引用するところによっても、斉明天皇の御製、磐姫の皇后、額田の王の御歌、長意吉麻呂の歌等を載せており、これはたぶん集録者の作を載せずに、古歌のみを伝えたものと思われる。
 以上は、特に書名をあげて引用しているものについて考察したのであるが、出所をあげないものにあっても、集録がなされ、それが材料になっているものを見るのである。大伴家持のごとき、歌の集録をなしたことの明白なる一人であって、その徴証とすべき記事が存している。一例をあげれば、山部赤人の、
  あしひきの山谷越えて野づかさに今は鳴くらむ鶯の声(巻十七・三九一五)
の一首を載せて、
  右年月所処、未v得2詳審1。但随2聞之時1、記2載於茲1。
と記しているがごとき、これである。ただし家持の態度は、他人に示す場合を予想していたと思われ、一々の歌に作者の名を記すを原則とし、巻の十九のごとき、自作なることを記さざる巻は、巻末に至って、
  但此巻中不v※[人偏+稱の旁]2作者名字1、徒録2年月所処縁起1者、皆大伴宿禰家持裁作歌詞也。
と記している。ただしこの註は、家持自身の所為か、または後の整理者の所為かには、問題が存するにしても、彼が、自作と他作とを交え集録し、他作には一々作者を註しておいたことは知られるのである。
 『万葉集』の巻の十五は、天平八年(七三六)の遣新羅使の一行の歌と、中臣宅守と狭野の茅上の娘子との相聞往来の歌との、二部から成っている。その前半、八年の遣新羅使の一行の歌は、百四十五首あるが、それは古歌十二首、作者の記事ある歌三十首および作者の記事なき歌百三首から成っている。この年の遣新羅使は、大使阿倍継麻呂、副使大伴三中、大判官壬生宇太麻呂であるが、これらは、この集録では、それぞれ大使、副使、大判官とのみ記して、氏名をあ(101)げていない。その他にも、羽栗、六鯖など、氏名を略書したものがあり、羽栗は未詳であるが、六鯖は、六人部鯖麻呂の省略であろうといわれている。
 また作者未詳の歌の中には、初めに、十一首の贈答の歌があり、これはある男子とその妻との贈答と認められ出発に際して別れを惜しんだ歌であるが、それらは、なんらの記事なくして、ただ歌を列記してあるにすぎない。それから船に乗って出発し、順次進行するのであるが、初めに別れを惜しんだ歌の中には、妻の歌とおぼしくて、
  君が行く海辺の宿に霧立たば我が立ち嘆く息と知りませ(巻十五・三五八〇)
の歌があり、これに対して、男子の歌とおぼしくて、
  秋さらばあひ見むものを何しかも霧に立つべく嘆しまさむ(同・三五八一)
の歌がある。さて風速の浦に舶泊てし夜の作歌、
  我が故に妹嘆くらし風速の浦の沖辺に霧たなびけり(巻十五・三六一五)
  沖つ風いたく吹きせば我妹子が嘆の霧に飽かましものを(同・三六一六)
の二首は、「君が行く海辺の宿に」の歌を下に思って詠んでいる歌と解すべきである。別れに臨んで形見の衣を贈ることは、一般的風習であって、特殊の事項ではないけれども、これに関しても別れに臨んでの作と、旅中の作とに、照応するものがある。
 この遣新羅使の一行の歌は、もちろんその一行のうちのある人の集録たるに相違はない。そうしてその作者の名を記さない歌は、その集録者たるある一人の作であって、彼は一行中の他人の作をも録し、ただ妻の場合に限って、その作と記さないでこれを録したものと思われる。その集録者は、たぷん副使、大伴三中であったろうと思われるが、ここにはそれは誰でもよい。それはおそらく、自家のための集録であったがゆえに見聞くところの他人の作に限って、その作者を註しておいたと認められ、その中には、大使、副使、大判官のごとき、官名のみのものや、羽栗、六鯖のごとき、略書のものをも有しているのであろう。
(102) 『万葉集』中には、作者の名を記さざる歌が、相当に多数ある。それらの中にはたとえば遣新羅使の一行の歌のごとき集録が、さらに他人の手によって改編せられたものを含むであろう。たとえば、
  大海に島もあらなくに海原のたゆたふ波に立てる白雲(巻七・一〇八九)
の歌に話して、右一首、伊勢従駕作とあるは、何人の作か。初めから作者不明のままに集録せられたものではないであろう。
  いちじろく時雨の雨は降らなくに大城の山は色づきにけり(巻十・二一九七)
の歌に古写本には註して、
 謂、大城山者、在2筑前国御笠郡1之大野山頂、号曰2大城1者也。
とあるは、『万葉集』の編者、ないしは後の研究者の記入でなくして、もとの集録者の自註であったであろう。しかも今や一律に作者未詳の中に織り込まれている。
 自作および妻の作は、区別をせず、作者の名を記さないこと、他人の作は、その名を記すが、それは略書する場合もあること、見聞するところの古歌をもあわせ記すことと、遣新羅使の一行の歌の集録におけるこれらの条件と一致するものは、これを柿本朝臣人麻呂歌集についても、同様に見いだされるところである。
 
(103)  第二 柿本朝臣人麻呂歌集の研究(下)
 
    一 柿本人麻呂の妻
 
       一
 
 『万葉集』には、類似の構成を有し、または類似の詞句より成っている、いわゆる類歌と称せられるものが少なくない。かような類歌の出現については、種々の理由が求められよう。類型的な内容、もしくは表現上の習慣により、偶然暗合してできるものは別として、その相互に関係ある場合としては、一の作者の個性が型となって現われるもの、一の作者が他の作品に模倣して現われるもの、一の作品が伝来によって類歌としての性質に到るもの等がある。
 巻の第九の挽歌に、柿本朝臣人麻呂之歌集出として載せてある歌のうち
  塩気立 荒礒丹者雖v在 往水之 過去妹之 方見等曾来(一七九七)
というのがある。紀伊国作歌四首の第二首である。この四首は、昔、妻と共に紀伊の国に旅行したある人が、妻の死んだ後にひとりふたたび紀伊の国に旅行して、今は亡き妻を憶う内容を有している。潮気の立ち昇る荒磯ではあるが、ゆく水のごとくに長逝したわが妻の記念の地としてここに来たというのがこの歌の大意である。
 ところで、また巻の第一に、軽皇子宿2于安騎野1時柿本朝臣人麻呂作歌の長歌一首反歌四首があって、その反歌の第(104)二首には
  真草刈 荒野者雖v有 黄葉 過去君之 形見跡曾来師(四七)
というのがある。これは草壁の皇子が薨去になって後に、その皇子の御子なる軽の皇子の御旅行の御供をして、柿本人麻呂の詠んだ歌であって、この一団の歌の内容は、昔、草壁の皇太子の行啓になったこの安騎の野に、その薨後に宿って追憶し奉るということになっている。
 右に掲げた二つの歌を対比してみると、全然同じ構成から成っていることがわかり、ただ詞句のうち、一の塩気立つ荒磯が、一は真草刈る荒野になっており、一の往く水の過ぎにし妹が、一は黄葉の過ぎにし君になっているだけである。しかして黄葉の過ぎにしの句は、紀伊国作歌にあっては、第一首に
  黄葉之 過去子等 携 遊礒麻 見者悲裳(巻九・一七九六)
となって現われている。
 人麻呂歌集の歌は、人麻呂の作であるか否かについては、問題の存するところであるが、他人の作と明記があり、ないしは婦人の作と認められるもののような、人麻呂の作品にあらじと考えられるもののほかは、大体人麻呂の作品であって差し支えがないのである。ことに紀伊国作歌のように、特殊の内容を有するものは、人麻呂の作品たるべき性質が強いのであり、巻の一との類歌関係があることによって、いっそうこれが肯定せらるべきである。
 軽の皇子が、安騎の野に宿られたのは、何年であるか明らかでない。しかし題詞、排列の順序、および歌意を按ずるに、草壁の皇子が薨去せられて後、文武天皇として御即位になるまでの間のことであるから、その薨去後数年間のことであるとはいえるのである。草壁の皇子は、持統天皇の三年(六八九)四月に薨去せられ、その年に軽の皇子は、七歳にましましたのである。後、皇子は十五歳にして即位せられた。安騎の野に宿られたのは何のゆえとも知りがたいが、父の皇子の狩猟にこの野にお出ましになったのにならうとすれば、十歳以上の御齢のほどとなすべきであろうか。しかしこれは仮にいうのみである。
(105) 紀伊の国作歌の年代も、もとより知られない。ただこの二つの場合は、あまり多くの年代を隔てていないのであろうと想像するだけである。それは、あまり密接した時のことではなく、ただあまり多からぬ若干の年月が、その間にあるのであろうと考えるのである。またその前後も知られない。古人は、類歌を作ることを苦痛に感じていなかったらしいが、前の歌の記憶があって、後に焼き直したものではないかもしれない。前に作った歌の構成が、心に残っていて、意識なしに後の歌を成したものであろう。しかしこの点は、今問題としているところではないのである。
 
         二
 
 ここで前にあげた柿本朝臣人麻呂歌集所出なる紀伊国作歌四首をあらためて読んでみよう。
  黄葉の過ぎにし子等と携はり遊びし礒を見れば悲しも(巻九・一七九六)
 黄葉のごとく過ぎ去っていつたかの人、すなわち死んでしまった妻と、昔手を携えて遊んだ礒を、今ひとり来て見れば悲しいという歌意である。黄葉のは、枕詞であるが、季節を有している。これを季節にかかわらずに用いたとなすこともできるが、季節に意味があると見ることもできる。どちらかといえば、短歌形式において、かような実体を有する枕詞の使用は、嘱目の事物によるものとなすを至当とするのである。黄葉のの枕詞は、人麻呂の作にあっては、「軽の皇子の安騎の野に宿り給ひし時の反歌」(巻一・四七)と、妻の死にし時の長歌(巻二・二〇七)とにあるが、四七の黄葉の過ぎにし君は、草壁の皇子をさし奉り、皇子の薨去は、持統天皇の三年(六八九)四月にあるので、薨去の時を現わすものとはいうことを得ない。したがって今の歌の、黄葉の過ぎにし妹も、妻の死んだ季節の記憶でなくして、今紀伊の国にあっての嘱目となすべきである。子等は、もとより複数ではない。かの人とさした一人があっていうのである。妻を失った作者は、秋の頃紀伊の国に旅行して、今は亡き妻を追憶しているのである。
  塩気立つ荒磯にはあれど行く水の過ぎにし妹が形見とぞ来し(巻九・一七九七)
 連作の一首として、前の歌の内容をさらに説明している。前の歌では礒の性質を、今は亡きわが妻と共に遊んだとこ(106)ろと説いていたが、ここでは、さらに、潮の気の立つ荒磯ではあるが、ゆく水のごとく去って帰らぬ妻が形見のところであると叙している。なおゆく水のについては、後に参照すべき歌を出すことにする。
  古に妹と我が見しぬばたまの黒牛潟を見ればさぶしも(巻九・一七九八)
 これも、昔妻と共に見た黒牛潟を、今ひとりして見れば慰まぬよしを歌っている。黒牛潟は、集中他に
  黒牛の海紅にほふももしきの大宮人しあさりすらしも(巻七・一二一八)
  黒牛潟潮干の浦を紅の玉裳裾引き行くは誰が妻(巻九・一六七二)
の二首がある。前者は藤原卿の作であり、後者は大宝元年(七〇一)十月の行幸の際の歌で、人麻呂歌集所出と推定せられるうちにある。これを人麻呂歌集所出と推定する由は、前に記した。黒牛潟は、今の黒江であるというから、和歌の浦に接続した地である。
  玉津島磯の浦廻の真砂にもにほひて行かな妹が触りけむ(巻九・一七九九)
 連作の最後の歌として、一握の白砂にも妹の面影を覚え、去らんとして去りがたき悲しみが歌われている。玉津島は、和歌の浦の一島であって、風光の美をもって知られ、他にも多く詠まれている。
 右の四首の内容は、かつて妻と共に紀伊の国の黒牛潟玉津島付近を遊覧したことのある作者が、その妻の死んで後に、同じ地に旅行して感慨の情に堪えぬことを歌っている。かような内容の歌は集中大伴旅人の場合などにもあるが、同じく人麻呂集所出の歌にも、注意すれば、なお見いだすことを得るのである。巻の九に、やはり紀伊国作歌二首と題して、
  吾が恋ふる妹は逢はさず玉の浦に衣片敷き独かも寝む(巻九・一六九二)
  玉匣明けまく惜しきあたら夜を衣手かれて独かも寝む(同・一六九三)
の二首がある。この歌の場合を考えると、普通には、わが家に妻を置いてきた人の作と考えられている。後者はそれでよいとしても、前者もはたしてそれでよいか。前者について仮に古義の解釈を一例としてあげると、「歌意はかかるすさまじき荒海の辺にても妻と相宿するならばすこしはなぐさむ方もあるべきに恋しく思ふ妻には得あはずして此の玉の(107)浦の海辺に独宿をせむかさても堪がたしやとなり」といっている。しかし家に残してきた妻を、旅にして恋うるに、「我が恋ふる妹は逢はさず」とはいわないのである。夢ならば、「妹は逢はさず」ともいえるが、作者はこれから寝ようとしているのである。これは妹を訪ねても妹が逢ってくれない趣であるから紀伊の国に恋妻を有し、それを訪ねたとなすべきである。玉の浦は那智山の下なる粉白浦より十町ばかり西南にある由であるが、はたしてしかるか否かを知らない。『略解』にいうように玉津島のほとりの浦であるかもしれない。ところはとにかく、亡き妻が形見の地に訪ねてきて、しかもその妻は逢ってくれずに旅のひとり寝をする旨を詠んだものとして歌が生きてくるのである。従来の解釈のままでは、前の歌は評判が悪かった。それは悪かったはずである。雑歌に収められているのは、亡き妻を思うこと、言にいでて顕著でないからでもあろう。なお前後山城、近江での作であって、途中にこの二首が插まっている序列に不審も存するのである。
 
         三
 
 以上、人麻呂歌集の所出にかかわる紀伊国作歌の作者は、人麻呂と認めらるべきものがあり、その人は二回以上、紀伊国に旅行し、その前回には妻と行を共にしていたのであることを明らかにした。
 紀伊の国には若の浦、玉津島の名勝があり、また南に廻つては牟漏の湯が古くから知られている。しかし交通はかなり不便で、道路には道守があり、大和から日数を重ねてわずかに到るべき地でもあった。そういう所に婦人として旅行をする場合は、どういう際のことであろうか。当時の婦人としてこれを考えると、一は夫に従ってその任国におもむく場合があり、その場合に自然国内の名勝をも旅行することもあろう。しかし今の場合では、さような徴証がほかには見えないのであるから、しばらくいま一つのあり得べきことを考えてみたいのである。それはその婦人が、宮廷に奉仕する者として行幸または御幸の御供に出で立つ場合である。
 人麻呂が多くの作品をのこした藤原の宮時代を考うるに、女帝にましました持統天皇は、その四年九月に紀伊の国に(108)行幸せられている。また文武天皇の大宝元年九月に、太上天皇として紀伊の国に御幸せられている。その大宝元年の時の歌は、巻の一、二、九等によって伝えられているが、四年九月の時のは、確かなものが伝わらない。
 天武天皇の朝には、諸氏の婦人の、夫あるとなきとにかかわらず、希望者に対して宮廷に奉仕せしめられている。人麻呂の妻が、そういう婦人の一人であったろうかと考えられる次第は、また巻の一に、持統天皇の六年三月に、伊勢に行幸せられた時、京にとどまって人麻呂の作った歌三首が伝えられ、これにもそうもあったろうかと思われるふしが存するのである。その歌は、
  嗚呼見の浦に船乗すらむ妹子等が珠裳の裾に潮満つらむか(四〇)
  釧著く手節の埼に今日もかも大宮人の玉藻刈るらむ(四一)
  潮騒に伊良虞の島辺榜ぐ船に妹乗るらむか荒き島廻を(四二)
 これらの歌の意は、行幸の先のありさまを想像しているのであるが、それはいずれも御供をした婦人を中心にして詠んでいるのである。三首の連作と見るべきであって、最後の第三首に至って、その婦人を妹と呼んでいるのであるが、もちろん複数ではなく、ただ一人その人とさす人があったのである。その人の珠裳の裾を特に指定しているのは、その婦人と特別の関係あることを語っている。第二首の大宮人は、男性をも女性をもいう語であるが、初句の「釧著く」の枕詞は、釧のような新しい装身具を用いる姿、即、宮廷に奉仕する婦人のごとき人の姿を描いている。釧はシナで用いたものがはいってきたので、宮廷の婦人の間に用いられた新しい装身具であったのである。しかして第三首に至って、それがわが想う人であることを明らかにしているのである。
 人麻呂にはまた、み熊野から浜木綿につけて妻に贈った歌があり、この妻も同人であるかどうかも測りがたい。しかし持統天皇の宮女であったろうと思われる人麻呂の妻は、紀伊の国への行幸の後夫に先立って死んでしまった。行を共にしたのはたぶん四年九月の行幸の度であったろうと思うのである。この妻は天皇の宮女として、人麻呂は舎人その他の役人として行ったのであろう。そこでこの婦人は、人麻呂が妻の死んだのを悼んで詠んだ長歌二首が、同一人の場合(109)だともいうし、二人だともいうので、定説がないくらいであるが、その中、軽の娘子の場合であっても差しつかえはない。宮仕えを退いてから軽の里に住んでいたのであろうともいえるし、また、軽を里として折々はその里に下がっていたのだろうともいえる。その歌の「天飛ぶや軽の道は、我妹子が里にしあれば、ねもころに見まくほしけど、止まず行かば人目を多み、まねく行かば人知りぬべみ」と人目を憚る趣に詠んでいるのもよくわかる。またその歌の、黄葉の過ぎにし子等の句に関係をつけて見ることもできる。しかし四月に薨去になった草壁の皇子に対して、黄葉の過ぎにし君の句を作っているのだから、これはむしろ歌の作られた時節に縁あるものとして見るがよいのかもしれない。
 
          四
 
 持統天皇の宮廷に奉仕せる佳人の一人に、人麻呂が妹と呼び妻と称うる人があったことを認めた上で、その人がどういう人であったかを考えてみたいが、確実に資料として使用できるものは見あたらない。ただそれかと思うばかりのものはないでもない。
 巻の十一、人麻呂歌集所出の問答歌の中に、
  皇祖乃 神御門乎 懼見等 侍従時爾 相流公鴨(二五〇八)
  真祖鏡 雖見言哉 玉限 石垣淵乃 隠而在嬬(二五〇九)
というのがある。ここにまず問題となるのは、前の歌で、後の歌は前の歌の解釈にともなって解くことができよう。
 前の歌、『拾穂抄』に、
  すめろぎの神のみかどとは帝をたつとみたる詞也。かしこみはおそるる心也。宮仕人などの君をおそれながらとのゐ所にてなどあひみし心にや。
 『万葉代匠記』初稿本に、
  すめろぎの神のみかどを。此神といへるは君なり。あふ時も時こそあらんをつつしみて出仕したる時しもあへるよ(110)といふなり。
 同精撰本に、
  此ハ衛門府ノ属官ナドノ番ニ当リテ祗候スル時女ヲ見テヨメル歟。又別ノ官人ナルカ。御門ノ出入ノ制禁ヲ恐レテ、アル時ニ詮ナク只見タル由ニヤ。
 このすめろぎの神のみかどを、天皇の朝廷または御門と解するのは、一般の解である。ただ『代匠記』精撰本では男の歌としているが、『略解』では女の歌としている。『略解』にいう。
  神のみかどとは朝廷を申せり。恋ふる男の朝廷に侍ふ時に、故有て女の見し也。此あへるは只相見たる也。たまたま見るも時こそあれ、かかる時にして甲斐なきを女の歎く也。
 そこでまず、「すめろぎの神のみかど」の意味から解決してゆかねばならないが、この語の原文は、皇祖乃神御門とあり、これには注意すべき諸本の校異はないから、この字面によって考究を進むべきである。
 集中、皇祖及び参考とすべき字面の用例は、他に、
 皇祖
  皇祖 神之御門爾 外重爾 立候 内重爾 仕奉(巻三・四四三)
  皇祖乃 神之御代自 敷座流 国爾之有者(巻六・一〇四七)
 皇神祖
  皇神祖之 神乃御言乃 敷座 国之尽(巻三・三二二)
  皇神祖能 可見能大御世爾 田道間守 常世爾和多利(巻十八・四一一一)
 皇祖神
  皇祖神之 神宮人 冬薯蕷葛 弥常敷爾 吾反将v見(巻七・一一三三)
  皇祖神之 遠御代三世波 射布折 酒飲等伊布曾 此保宝我之波(巻十九・四二〇五)
(111) 右のうち、注意すべき校異としては、四四三の歌の皇祖神を細井本第二に皇神祖とし、一一三三の歌の皇祖神之神宮人を『類聚古集』に皇祖神宮人とし、四二〇五の歌の皇祖神を、元暦校本、『類聚古集』、『古葉略類聚鈔』、金沢文庫本、西本願寺本等に皇神祖としている。しかして以上の歌のうち前代の天皇、すなわち皇祖の義に解すべきは、一〇四七、三二二、四一一一、四二〇五の諸例であって、一一三三の例はいかようにも解せられ、ただ四四三の一例だけが、現在の天皇と解するのが都合がよいのである。四二〇五のごときは、多本によって皇神祖とするを是とすべきであるが、これとおよび一〇四七、三二二、四一一一のごとき、今問題としている歌の皇祖乃神と同一または類似の字面において、前代の天皇と解すべき途が存していることは最も注意すべきである。これらの字面は、正しく皇祖、皇神祖を示しているのであるから、文字どおりに解釈するをもって正義とするであろう。
 次に御門は、文字どおり宮廷の御門と解すべく、しかも一面には宮殿、宮廷の意味にも用いられている語である。されば皇祖乃神御門は、皇祖の神霊を奉祀せる宮殿と解することができるのである。神器はもと天皇と同殿に奉安し、後これを別殿に奉祀した。これ皇祖の神霊殿であって、皇祖乃神御門の文字は、正しくこれをさし奉ったものとなすべきである。ここに奉仕するは内侍司の女官であって、神殿に謹みて奉仕せる時に、たまたま公を見たのである。
 公は集中多数用いられており、男子をさしていう語であって、女子をさす確実な例はないはずである。さればこの歌も、もとより女子の歌であって、神霊殿に奉仕せる女官の詠となすべく、その君と呼ばれる人も役向の上でたまたまここに姿を現わしたものと見るべきである。
 問いの歌が女子の作である以上は、この場合、答えの歌は当然男子の歌である。枕詞として用いた真祖鏡に真祖の文字を用いてあることは、これがこの歌の詠まれた場合に縁があって、時の空気を暗示するものであるかも知れない。序として用いた玉限石垣淵乃の句は、他に、
  玉蜻 磐垣淵之 隠耳 恋管在爾(巻二・二〇七)
  玉蜻 石垣淵之 隠庭 伏以死 汝名羽不v謂(巻十一・二七〇〇)
(112)の二例があり、しかも前者は、柿本人麻呂が、世に軽の娘子と呼ばれる妻の死を哀んで詠んだ歌中にある。軽の娘子の死を哀むに及んでありし日の歌の詞を引用することも考えられるところである。
 令の制、内侍司の職員に尚侍二人典侍四人、掌侍四人、女嬬一百人とある。そのいずれであるかは知られないが、その中の一人に、人麻呂がさして妹と呼ぶ人があったのであろう。
 
         五
 
 人麻呂歌集所出の歌のうち特に作者の明記を有せざるものは、長歌二首、旋頭歌三十五首、短歌三百三十三首である。この数には、左註に一説として作者を伝えているものを除外しない。この合計三百七十首の中、地名に関わらざる歌二百五十五首で、他の百十五首は、地名に関係ある歌である。ここに地名に関係あるというのは、歌詞中に地名を含んでいる歌、および歌詞の中に地名を含んでいなくても、題詞に製作地が明記してある歌をあわせいうのである。
   巻二 巻三 巻七 巻九 巻十 巻十一 巻十二  巻十三 巻十四 合計
大和    一  一四  六 一〇  一一   二          四四
紀伊 一      二 二一                     二四
山城        一 一二     一〇   一          二四
近江        一  二      六               九
摂津        三         一               四
その他       二         三   二      一    八
不明        一             一           二
無        三二  八 五八 一三〇  二一   三  三  二五五
合計 一  一  五六 四九 六八 一六一  二七   三  四  三七〇
 今これらの地名との関係の有無、およびその地名の国名別を表に作り、まずその分布を示せば前表のごとくになる。
(113)もっともここには、ある語が地名であるかないかの問題、また地名であるとしたところで、それが何国所在であるかの問題があるが、ここにはその吟味を省略することにする。
 右の表のうち、その他八というのは、伊勢、三河、駿河、上野、美作・備後、筑前、豊後の各一を含んでいる。ここでまず大和が最も多く、紀伊と山城とがこれにつぐことがわかるのである。そこで次に、この大和関係四十四を、さらに大和国内の各地方に分類してみると、巻向弓月方面が最も多くして十三を数え、これについでは、三室、泊瀬、三輪、倉梯が各三、飛鳥八釣、香具山、振、春日、朝妻が各二、吉野、多武、南淵、神奈備、今木、葛城、黒髪山、奈良山、矢野の神山各一となるのである。そこで三輪と泊瀬とは、巻向弓月と隣接の地であり、三室また三諸は、諸所にあるが、三輪山の一名とするを得るならば、またこの地方の数を増すことになる。もっとも泊瀬は広いのであるが、歌の趣では、主としてその西部、三輪、巻向に近い方面と解せられるのである。そこでこれらの三輪巻向地方に偏っていることは偶然にすぎないか否かを考うべき順序になる。これらの地方に関係のある歌の中に、ある一個の境涯が兄いだされることはないかを確かめたいのである。
 
          六
 
 柿本人麻呂歌集の歌のうち、巻向弓月方面の地名の見えているのは、次の十三首である。
  痛足河《あなしがは》河浪立ちぬ巻目《まきもく》の斎槻《ゆつき》が嶽に雲居立てるらし(巻七・一〇八七)
  あしひきの山河の瀬の響るなべに弓月が嶽に雲立ち渡る(同・一〇八八)
  鳴る神の音のみ聞きし巻向の檜原の山を今日見つるかも(同・一〇九二)
  三諸のその山並《やまなみ》に子等が手を巻向山は継のよろしも(同・一〇九三)
  巻向の痛足の川ゆ往く水の絶ゆることなくまた反り見む(同・一一〇〇)
  ぬばたまの夜さり来《く》れば巻向の川音高しも嵐かも疾き(同・一一〇一)
(114)  児等が手を巻向山は常にあれど過ぎにし人に行き纏かめやも(巻七・一二六八)
  巻向の山辺とよみて行く水の水沫のごとし世の人吾は(同・一二六九)
  巻向の檜原に立てる春霞鬱にし思はばなづみ来めやも(巻十・一八一三)
  子等が手を巻向山に春されば木の葉凌ぎて霞たなびく(同・一八一五)
  玉かぎる夕さり来《く》れば猟人の弓月が嶽に霞たなびく(同・一八一六)
  あしひきの山かも高き巻向の岸の子松にみ雪降りけり(同・二三一三)
  巻向の檜原もいまだ雲居ねば子松が末ゆ沫雪流る(同・二三一四)
 ここに見えている地名は、総括的なものとして巻向《まきむく》(または巻目)、山の名に巻向山、弓月が嶽(または斎槻嶽)、檜原の山(単に檜原とも)、三諸の山、川の名に痛足川である。巻向は奈良県磯城郡で、三輪の北に接し、巻向山はその東方にあり、その山間から、痛足川が流れて、西流して泊瀬川に注いでいる。弓月が嶽は、巻向山の峰巓であるといい、檜原の山は、巻向山の南に連なっているということである。
 以上の地方は、人麻呂歌集にあっては、多数の歌を有するところであるが、人麻呂集以外にあっては、わずかに纏向之痛足乃山(巻十二・三一二六)、痛背乃河(巻四・六四三)があるばかりである。それゆえに人麻呂歌集に特有の方面ということができるのである。巻向の地は、藤原の宮よりいえば、三輪山の背後に位し、諸国への通路にもあたっていない。しかるにここには春の歌、冬の歌があり、夕の歌、夜の歌があるのは、ある一人が、特別の事情のもとに、しばしば訪れきたったものと見られるのである。その特別の事情は、これを歌詞の中に求めるよりほかにしかたはないが、そこにはおのずから見得られるものがある。まず最初に、巻向の枕詞として使われている「子らが手を」の句に注意したい。この句は三度まで重ねて使われている。枕詞には各種の観察点から分布を試ことができるはずであるが、その使用にあたって意味がわかっていたかいなかったかを標準として考えることもできる。もちろんこのわかっていたかいなかつたかは推量によるほかはないが、古歌から永い間襲用してきたものは、当時すでに語原意識の稀薄になっていたもの(115)があると思われる。これに反して自家の創始、または同時代の句の模倣にかかるものは、明確なる意味の理解のもとに使用せられたはずである。そうしてこの分には、機械的に次の詞句を引き起こす役目のほかに、一首全体の内容に関与するものがある。たとえば、
  我妹子を去来見の山を高みかも大和の見えぬ国遠みかも(巻一・四四)
 この我妹子《わぎもこ》をのごときは、去来見《いざみ》に対する枕詞であるが、この歌の内容について、重要なる表現の一部を成している。この問題は、さきに釧著く手節の埼にの歌でも触れたが、今またこれを明らかにしておく。
 ここに三個まで使われた、児等が手をの句について、正しくその時の作者の関心を描いていると見られるのである。ことに、
  児等が手を巻向山は常にあれど過ぎにし人に行き纏かめやも(巻七・一二六八)
の歌にあって、しかるのを覚えるのである。過ぎにし人は、死んでしまった人であって、その人にこれより後行き纏《ま》くことあらんやと歌っているのは、その死者が妻であったことを示している。巻向山は変わらずにあるけれども、死んでしまった妻を纏くことなしの歎息は、その巻向山が、亡妻と関係ある山であって始めて甚深の歌になるのである。
  巻向の山辺とよみて行く水の水沫の如し世の人吾等は(巻七・一二六九)
 前の歌にすぐ続いてここにも作者は、巻向の山のほとりを流るる川に寄せて無常の思いを成している。作者が特にこの地に来て亡妻に関して追悼の歌を成しているのは、けだし仔細のあることであろう。巻向の山辺をどの地名に代えてもよいという次第ではなく、かならず巻向でなくてはならない理由があったものと考えられる。この歌の巻向の地名が動かなくなって、ここにこの歌の真意が味わえるのである。
 
         七
 
 昔、男があった。宮仕えをしている間に、同じ宮仕えの女とあい思うようになった。宮中のかしこき場所で、たまた(116)ま顔を合わせることもあるが、もとより場所柄といい、人目もあって、詞《ことば》をかわすこともならない。人知れず思い乱れる心は、ついに女をある山里に隠したのであった。その隠したところは、男の仕えている藤原の宮から眺めやられる美しい三輪山のうしろ、巻向の痛足の川のほとりであったと思う。背後には巻向山を控えている。その山の峰を弓月が嶽というので、巻向の弓月が嶽と呼ばれるが、泊瀬の山続きであるから、泊瀬の弓月が嶽とも呼ばれる。その名は斎槻とも由槻とも書かれているので、貴い槻の老樹でもあったものかもしれない。弓月と書いてあるのは佳字を宛てたのであろう。この嶽の名は集中に四出し、いずれも人麻呂歌集所出の歌である。
  泊瀬の弓月が下に我が隠せる妻、茜さし照れる月夜に人見てむかも(巻十一・二三五三)
  健男の思ひ乱れて隠せるその妻、天地に透り光《て》るとも顕れめやも(同・二三五四)
 連作の歌である。前の歌は、歌の対象となるものを提起し、隠し妻を置いてこれになお不安を感ずる由を歌い、後の歌は、これに対して堅く信ずるところを述べてみずから安んじている。美しい妻を隠し置いた心は、もとより人に知られることを憚るのであるけれども、しかも一面には人に誇りたいような下心もあって、これらの歌ができている。形式を自問自答に借りて幾分の不安をみずから慰めている。「天地に透り光るとも」の一句に、その妻の美しさを想わしめる。この力強い言い据え方は、まさしく人麻呂の作と見られるところである。後の歌は、「ますらをの思ひ健びて」という別伝を有している。これもまた思い切って力強い句である。
 同じく人麻呂集から出た歌に、
  泊瀬川夕渡り来て我妹子が家の金門に近づきにけり(巻九・一七七五)
というのがある。これには「舎人の皇子に献る」という題があるが、事柄は作者自身の上ともとれるのである。泊瀬川は、もちろん泊瀬の山間から流れ出るが、三輪のほとりにきて西北に方向を変え、やがて痛足川をあわせる。そのいずこの辺をここに泊瀬川といったかはわからないが、特に三輪川の名があるにしても、その辺を泊瀬川ともいったものともとれる。
(117)  こもりくの豊泊瀬路は常滑のかしこき路ぞ恋ふらくはゆめ(巻十一・二五一二)
 この歌は、かような泊瀬川を夕渡り来る男を待つ女の歌とも見られる。常滑は、人麻呂作歌ならびに人麻呂集所出の歌に限って使われている語である。この歌は問答の歌で、この前に、
  赤駒の足掻速けば雲居にも隠れ行かむぞ袖巻け吾妹(巻十一・二五一〇)
があり、この次に、
  味酒の三諸の山に立つ月の見がほし君が馬の音ぞする(巻十一・二五一二)
がある。その女の待つ人は、馬に乗って通ってくる。ここにいう三諸の山は三輪山のことと思われるのである。人麻呂集には、なお、
  遠くありて雲居に見ゆる妹が家に早く到らむ歩め黒駒(巻七・一二七一)
がある。もとよりいずれの妻をさして行く時の歌とも知られないが、記して参考に備える。
  鳴る神の音のみ聞きし巻向の檜原の山を今日見つるかも(巻七・一〇九二)
 その女のもとに通い初めた頃の歌であろう。この山里は、男の郷里ではなかったのである。ことによると女の縁故ある里であるかも知れない。
  三諸のその山並に子等が手を巻向山は継のよろしも(巻七・一〇九三)
 三諸は美しい山である。「本辺は馬酔木花咲き末辺は椿花咲く」とも歌われている。その美しい山に並んでいる巻向山は、その山辺にわが妻を住ませて置くので、続き方がよいのである。「子等が手を」の一句は、この歌の眼目である。
  巻向の檜原に立てる春霞おほにし思はばなづみ来めやも(巻十・一八一三)
 巻向の檜原の山には春霞が立ち罩《こ》めてぼうっとしている。おぼろげに思うとならば、骨を折ってこの山里に通つてはこないであろう。これは単に風光を賞ずるがための出あるきではない。「なづむ」というのは、宮仕えの暇をうかがってか、山路河原の難儀であるかはわからないが、おそらくは、いずれをも含んでいるであろう。人目を憚って訪い寄る(118)よしをおりしも山にかかれる春霞に託して歌っている。
  巻向の痛足の川ゆ行く水の絶ゆること無くまた反り見む(巻七・一一〇〇)
 この山川の瀬のおもしろさは、さることながら、そこにはなお絶ゆることなく通いこようと思うだけの理由がなければならない。人麻呂が吉野の川の常滑に託して、「絶ゆること無く又かへり見む」と歌ったのは、吉野の離宮に対する奉仕の誓いであった。この痛足の川のほとりには、また作者の心をひきつける人がいたはずである。
  痛足州川波立ちぬ巻目の弓月が嶽に雲居立てるらし(巻七・一〇八七)
 痛足の川波の騒ぎ立つを見ながら、弓月が嶽に雲のかかるのを感じている。川を見て山の見えない家居のさまを想像したい。
  ぬばたまの夜さり来れば巻向の川音高しも嵐かも疾き(巻七・一一〇一)
 作者は屋内にいるであろう。昼の間はさしも注意されなかった川瀬の音が、夜にはいって烈しさのつのるのを覚える。戸外の漆黒な闇に渡る荒い風のけはいを感じている歌である。
 かくて作者は、この巻向の地で冬の歌を詠み春の歌を詠んだ。どれだけの年月をここに通いきたものかは知らない。夏の歌秋の歌はないが冬から春への一期で終わったものかも知れない。しかして終わりにその妻は死んだ。この地で死んだかどうかの問題が残る。ここで今一度、
  子らが手を巻向山は常にあれど過ぎにし人に行き纏かめやも(巻七・一二六八)
  巻向の山辺とよみて行く水の水沫の如し世の人吾は(同・一二六九)
の二首をしみじみと味わいたい。巻向の山、痛足の川に対する作者の深い感情が幾分なりとも感じられるであろう。
  いにしへにありけむ人も我が如か三輪の檜原に插頭折りけむ(巻七・一一一八)
  往く川の過ぎにし人の手折らねばうらぶれ立てり三輪の檜原は(同・一一一九)
 この二首もここにあわせ記しておく。三輪の檜原は、巻向の檜原の山のことを三輪山の山続きであるからかく呼んだ(119)のであろう。人麻呂集の歌ではないが、「三諸つく三輪山見ればこもりくの泊瀬の檜原思ほゆるかも」(巻七・一〇九五)
の歌の泊瀬の檜原も、畢竟同じ山を泊瀬渓谷方面から称えたのであろう。さて三輪の檜原の二首は連作で、「古にありけむ人」、「往く川の過ぎにし人」は世を去った妻をさしているのではなかろうか。前の歌は、人麻呂が紀伊の国から妻に贈った歌に同型の作があり、後の歌の初二句は、人麻呂集の紀伊の国にて作れる歌に、類似句がある。この過ぎにし人は、かの紀伊の国に悲しい思い出を残した人と同じ人なのであろう。
 ここに託したことは一篇の歌物語に類している。『伊勢物語』の主人公を在原業平に宛てて解するがごとくに、人麻呂集の主人公を柿本人麻呂に宛てて解すれば活気を生じてくる歌の多く存するのは事実である。
 
         八
 
 人麻呂の妻、および妻と目すべき人の作品については、数種の伝来があって、題詞にその明記のあるもののほかに、歌詞によって判断されるものがある。すなわち次のごとくである。
 甲、題詞を拠りどころとするもの
  イ、柿本人麻呂が妻の歌とあるもの
    巻四・五〇四
  ロ、柿本人麻呂が妻依羅の娘子の歌とあるもの
    巻二・一四〇 同・二二四 同・二二五
  ハ、妻の和ふる歌とあるもの(人麻呂集所出)
    巻九・一七八三
  ニ、後れたる人の歌とあるもの(人麻呂集所出)
    巻九・一六八〇 同・一六八一
(120) 乙、歌詞より判断するもの
  イ、題詞に柿本人麻呂が作歌とあるもの
    巻四・四九八 同・四九九
  ロ、問答の歌の一方(人麻呂集所出)
    巻十一・二五〇八 同・二五一一 同・二五一二 同・二五一三 同・二五一六
  ハ その他婦人の作と認められるもの(人麻呂集所出)
    巻七・一二八〇 同・一二八一 同・一一八八 同・一二九二 同・一二九八 同・一三〇八 巻十・二二四〇 巻十一・二三五六 同・二三五七 同・二三六〇 同・二三六二 同・二三六八 同・二三六九 同・二三七八 同・二三七九 同・二三八〇 同・二三八一 同・二三八二 同・二三八四 同・二三八九 同・二三九八 同・二四〇五 同・二四〇七 同・二四二一 同・二四四〇 同・二四五四 同・二四五九 同・二四六五 同・二三六六 同・二四七〇 同・二四七七 同・二四七八 同・二四八四 同・二四九七 同・二四九八 同・二五〇〇 同・二五〇三 巻十二・二八四一
 右のうち、ことに推定により婦人の作としたものはなるべく婦人の作に相違ないと認められるものにとどめておいたが、それでもなお疑問の余地があろうと思う。また七夕の歌は、すべてこれを除いた。そこにはよし婦人の立場で歌ったものがあっても、それは仮設に過ぎないと考えられる。
 かように数種の伝来があって、しかもまたその歌主と目すべき人にも、前後人を異にする事情があったのであるから、これを一々に弁別して歌主を定めることは困難である。しかし困難というだけで、全然手がつけられないかというに、多少は考うべきところも存するのである。
(121) まずその中で、柿本人麻呂妻依羅娘子作歌とあるものは、歌主に関して最も多くを伝うるものである。この人の作品には、人麻呂の死を悼んでいるものがあるので、その人は人麻呂によって死を悼まれた妻ではないこと、および人麻呂の最後の妻であることが明らかにされる。そうして人麻呂が石見の国から都に上ってくる時に、角の里に婚して間もなき妻を置いており、また人麻呂は石見の国で死んだ事情から、この依羅の娘子が石見の国の角の里の娘子であったと見るのは順当である。その作品は、
    柿本朝臣人麻呂の妻依羅の娘子、人麻呂と相別るる歌一首
  勿念《なおも》ひと君は言へども逢はむ時いつと知りてか吾が恋ひざらむ(巻二・一四〇)
    柿本朝臣人麻呂、死りし時、妻依羅の娘子の作れる歌二首
  今日今日と吾が待つ君は石川の貝に【一に云ふ谷に】交《まじ》りて在《あ》りといはずやも(同・二二四)
  直《ただ》の逢《あひ》は逢ひかつましじ石川に雲立ち渡れ見つつ偲《しの》はむ(同・二二五)
 この三首を見るといかにも一とおり思うところを述べているが、特に才気の鋭く情熱の燃えるがごときものは見いだされぬのである。この人の身許についてはまたおのずから一条の説話があるはずであるが、今はこの人以外の妻を説くのを先とするのでこれを省略する。
 その次に、柿本人麻呂の妻の作歌とあるものは、その人の名を伝えていないから、依羅の娘子であるかどうかは、これだけではわからない。その歌は巻の四にある。
    柿本朝臣人麻呂の妻の歌一首
  君が家に吾《われ》住坂《すみさか》の家路《いへぢ》をも吾は忘れじ命死なずば(巻四・五〇四)
 まずこの歌の前数首の排列を見よう。『万葉集』の歌の排列は、作歌年代の知られるものにあっては、ほぼ年代順になっており、同一の材料から出た部分がまとまっている傾向がある。今の場合では、柿本朝臣人麻呂の歌四首(巻四・四九六−四九九)、碁檀越の伊勢の国に往きし時、留れる妻の作れる歌一首(同・五〇〇)、柿本朝臣人麻呂の歌三首(同・(122)五〇一−五〇三)の次にこの歌が載っている。そのうち、四九六から四九九に至る四首は、人麻呂の作歌と題してあるけれども、歌意を按ずるに、四九八、四九九の二首は人麻呂の妻の作歌と認むべきものである。そうしてこの四首は、人麻呂が紀伊の国に旅行して妻に歌を贈り、およびこれに対して妻が答えた歌であるが、その四九八の歌のごとき、人麻呂の贈った歌を反駁して言い込めるような才気を現わしている点は、注意すべきである。さてその次に、碁檀越の伊勢の国に往つた時の妻の歌が一首挟まっているのは、前後と材料を同じくしたものによると思われる。この人の伊勢に行ったのは、持統天皇の六年(六九二)三月の伊勢の行幸の時のことではないかと思われるが、これは断定するわけにはゆかない。その次に、人麻呂の相聞の歌が三首あって、ここに人麻呂の妻の歌があるのだから、この妻をかの熊野から歌を贈った妻と見るのが順当である。この五〇四の歌に詠まれている住坂を通ってわが家に行く道は、宇陀の墨坂であろうと思われる。その地が今日のいずれの所にあたるかは詳しいことはわからないが、宇多の萩原付近にあったものと思われる。今日の地理を見ると、藤原京方面から伊勢におもむくのに名張を越える道と高見山の付近を通過する道とがある。持統天皇の伊勢行幸の時の御通路は、『続日本紀』によれは、伊賀を御通過になったことが見え、当麻麻呂の妻の歌によれば、夫が名張の山を越えることを想像している。名張は伊賀路である。しかもまた石上麻呂の歌によれば、高見山に隔てられて大和が見えないといっている。『続日本紀』にこの伊勢行幸を記していることによれば、この年三月六日伊勢に幸せられ、伊賀、志摩の諸国を御経過になって二十日に還幸せられている。また同年五月六日、阿胡の行宮に行幸せられ、十二日に吉野の宮に幸せられ、十六日に還幸せられている。この前の度は、志摩の国から藤原に還幸せられたようであるから、この時には、地勢上高見山方面に出られたかもしれない。その住坂は、高見山方面の道にあるようである。そこでこの人麻呂の妻は前にもいうがごとく、伊勢の行幸にお供をし、住坂に至ってこの歌を詠んだものと考えることができる。この場合、碁檀越の妻の歌も参考に供することができるのである。
 巻の九における人麻呂歌集所出の妻の和《こた》うる歌には、諸種の問題が含まれている。これは、妻に与うる歌に続いて出ているので、贈答の歌である。
(123)    妻に与ふる歌一首
  雪こそは春日《はるび》消《き》ゆらめ心さへ消え失《う》せたれや言も通はぬ(巻九・一七八二)
    妻の和《こた》ふる歌一首
 松反《まつがえ》りしひてあれやは三栗《みつぐり》の中上《なかのぼ》り来ぬ麻呂と云ふ奴《やつこ》(同・一七八三)
 この場合、夫は妻を残して遠く旅に出ているものと思われる。それは春の日ざしのうららかにさす頃であって、降り積む雪の消え失せるであろうということを想像している。それはたぶん四国か九州のような南方に旅行していて、春の日に雪の消える大和の国を思っているのであろう。そこからは久しく妻の便りがない。そこでこの一首を詠んで贈ったものと思われる。これに対する妻の歌は、鋭い才気が強く感じられるものである。「松反りしふる」ということは、おそらくは鷹に関する術語であろうといわれている。四、五句はまた問題の句であるが、五句を「麻呂といふ奴」と訓むことが許されるならば、そこには戯れにもせよ人麻呂を奴に比して、容易に上京してこないのをなじっているのである。この激しい語気は、この作者の並々ならぬ才気の現われであるということができるであろう。四句の訓法も問題であるが、「中ゆ上り来ぬ」という一案を提出したい。この中は狭岑の島の石中に死人を見て詠んだ人麻呂の長歌中にある、「継ぎ来たる中の水門ゆ船浮けて云々」とある中で、讃岐の国の那珂の郡と同地であろう。
 人麻呂集から出た歌の中で、ただ歌意によって妻の歌たるべきものと考えられる作品については、いっそうその弁別が困難である。ここにはその中の一、二について注意すべき点を指摘するにとどめよう。
  剣刀《つるぎたち》諸刃《もろは》の利《と》きに足|踏《ふ》みて死にし死なむ君に依《よ》りては(巻十一・二四九八)
 この歌は、君のこととならば、剣刀のその諸刃の鋭きに足を踏んで死ぬこともあえて辞せざる強き決意を歌っている。この強い言葉は、かの安倍の女郎の、火にも水にもと歌ったのと並んで、集中でも稀に見る女性の強い心を歌ったものである。
  隼人《はやびと》の名に負《お》ふ夜声いちじろく吾が名は告《の》りつ妻と恃《たの》ませ(巻十一・二四九七)
(124) 前にあげた剣刀の歌のすぐ前にある。隼人は九州南方に繁殖した種族で勇猛をもって鳴っているので、これを召し出して宮廷の護衛とした。彼らは宮廷の夜を守るにあたって姓名を名乗るが、それはいわゆる蛮声で天地に響けとばかり名乗るのである。それを材料として序となし、作者自身が夫と恃む人に従う心を明らかにした歌である。この歌はすぐ前にある、
  肥人《ひびと》の額髪《ぬかがみ》結へる染木綿の染みにし心我忘れめや(巻十一・二四九六)
の歌と並んで、変わった風俗を有する人々を材料としている点で注意されている。肥人の歌のほう方は男の歌であって、たぶん肥人の風俗を目のあたり見る地方、すなわち九州から妻のもとに贈られ、これに対して妻が隼人の歌をもって報いたものと思われる。この場合、その妻は、隼人の呼び声を耳にする場所にいたと見るのが順当である。少なくも隼人の夜声についてよく承知している人であったというべきである。それは宮廷に奉仕せる婦人であったろうという意味である。
 かように見てくると、茫漠として手をつけかねていた人麻呂の妻の正体も、大体は形がついてきたようである。人麻呂の前の妻は、宮廷に奉仕した婦人で非常な才気を有していたと考えられる。小野小町、和泉式部、紫式部、清少納言のような平安時代の才媛に匹敵する人物であったと見えるのである。後の妻は、いまだ年の若い田舎のいわゆる長者の女というような人であったであろう。
 
         九
 
 次には、人麻呂の歌に乗った妻の諸相を調べてみよう。これも紀伊における、巻向におけるなど、すでに記したものもある。今その他をあわせてこれを一覧したい。ただしここにあげたのは、女性に関する人麻呂の歌の中、その女性が人麻呂の妻にあらざること、題詞等によって明らかになるものを除き、また妻があるかどうか明らかでないものをも除く。たとえば、「剣《たち》の後《しり》、鞘に納野《いりの》に葛引く吾妹」(巻七・一二七二)のごときは、吾妹とあつても、集中の例、路傍の人(125)にでも吾妹というので、これをもってすぐに人麻呂の妻と考えることができない。かようなのを除いたのである。また妻に関して詠まれた歌であるらしいにしても、いかなる妻とも知りがたいものも、この調査には必要がないので、多くこれを省いた。単に家と称しているのも多くは省いた。要するに必要中心に集めてみたものだともいえる。七夕の歌が除外されるのももちろんである。括弧して集とあるのは、人麻呂歌集所出の歌である。
 甲、生ける妻に対するもの
  イ、妻の許を訪う
    巻七・一二七一(集) 巻十・一八一三(集)
  ロ、ただのあい
    巻七・一二七八(集) 同・一二九〇(集)
  ハ、別に臨みて
    巻十一・二五一〇(集)
  ニ、別れきて
    巻二・一三一−一三九、巻四・五〇三 巻十四・三四八一(集)
  ホ、別れいて(同じ国にて)
    巻十・二二三四(集) 同・二四二〇(集)
  ヘ、妻を隠す
    巻十一・二三五三−四(集)
  ト、京にとどまりて
    巻二・四〇−四二
  チ、旅より妻に
(126)   巻四・四九六−七 巻九・一七八二(集)
  リ、旅にて妻を思う
    巻三・二五一 巻九・一六八八(集)同・一六九六−八(集)巻十二・三一二八(集)
  ヌ、死ぬ時妻を思う
    巻二・二二三
 乙、死せる妻に対するもの
  イ、妻の死せし時
    巻二・二〇七−二一六
  ロ、追憶
    巻七・一二六八(集)巻九・一六九二(集)同・一七九六−九(集)
 生ける妻を持っていた時の歌として、作者たる人麻呂もしくは人麻呂とおぼしき人の所在を求むるに、まず京にての歌があり、伊勢の行幸に従った妻を思っている。次に妻と国は同じというのは、京であるかどうかはわからぬが、たぶん大和の国にての作と見てよい。旅にしては、山城の国、紀伊の国、淡路の野島の埼、および石見の国にての諸作がある。紀伊の国からは、浜木綿につけて歌を送り、淡路の野島の埼では、妻が結んだ衣の紐を、浜風に吹き反させている。その海路の旅は、夏の頃と思われるが、山城の国では春雨に思いを託している。
    名木河にて作れる歌
  あぶり干す人もあれやも濡衣を家には遣らな旅のしるしに(巻九・一六八八)
  衣手の名木の河辺を春雨に吾立ち濡ると家思ふらむか(同・一六九六)
  家人の使なるらし春雨のよくれど吾を濡らす思へば(同・一六九七)
  あぶり干す人もあれやも家人の春雨すらを間使《まづかひ》にする(同・一六九八)
(127) 家といい家人というは、この頃その妻が、作者の、家と単称するところに住んでいたことを語っている。これのみならず、山城の国での歌は、秋の歌もあるが春の歌が多い。ここまできたものだから、ついでに想像をほしいままにすれば、近江の荒れたる都での歌も春の作で、この時に下ったものといえるし、近江の国から上ってくる時、宇治河の辺に立って詠んだ歌、
  もののふの八十宇治河の網代木にいさよふ浪の行方知らずも(巻三・二六四)
 この歌の無常の歎きが深いのは、この旅にある間に妻を失ったのだといえないこともない。さすれば海路を西に下ったのは、その以前だということになる。大宝元年(七〇一)に紀伊の国への行幸に従ったのも、後れたる人を妻と解釈すれば、その以前ということになる。
 
         一〇
 
 人麻呂が、妻の死を悼んだ歌として、巻の二に、反歌をともなった長歌二首のあることが知られている。その一は、軽の地に置いた妻を悼んで、死後にその里のあたりを彷徨する意味に歌われ、その二は、死んだ妻を尋ねて羽易の山に登る意味に歌われている。この長歌二首における、死せる妻が、同一人であるか否かが、まず問題になり、ついで巻向の嬢子との関係も、問題になるべきものである。
 最初に軽の里にいた妻に対する歌であるが、この歌から知られることで、今の問題に関係のありそうなことは、軽の道が妻の里であったこと、たびたび行ってみたいと思ったが人目を憚っていたこと(少しは行ったことになる)、使いが来て妻の死を報じたこと、その妻は生前軽の市に始終出たこと、妻の死の季節は黄葉の散り乱れる時分であったことなどである。そうして人麻呂には、この歌以外に、軽の地で詠んだという証明のできる作品のないことは注意すべきである。軽の地を訪れることが少なかったから、その地での歌も少なかったのだということはいえるでもあろう。そこでなぜ訪れることが少なかったかというと、人目を憚ったからだということになるが、なおその他の場合も考えられよう。それ(128)は軽の地に妻を有することになってからまだ日が浅かったのだともいえるのである。しかしここには、石見の国から上ってくる時の歌に見る、「さ寝し夜はいくだもあらず」というような内容の句は見えていないのである。
 第二の歌を見ると、その妻は、緑児《みどりご》を残していったこと、羽易の山に妻のいることを人に聞いて登山したこと、および反歌では引手の山に妻を葬ってあることなどが知られる。この妻と同棲していたとはないが、「吾妹子と二人わが寝し、枕づく嬬屋の内に、昼はもうらさび暮し、夜はも息づき明し」というのは、残した緑児を抱いて困っているのとあわせて、同棲していたようにとれるところである。そこでこの歌では羽易の山と引手の山との関係が問題になる。斎藤茂吉兄の『柿本人麿』にも、別所説と同所説との存することをあげて、詳論してある。まず大鳥の羽易の山を集中の他の歌によって、春日であることを決定し、これと引手の山が同所であるか否かの問題になるのである。この引手の山を、大和志にいう山辺郡の竜王山であるとなすのは、根拠の有無を知らないが、柳本の東方にあり、穴師の東北にあたっておって、巻向にあった妻を葬ったとすれば、最も自然な近さにある。そうすれば羽易の山は別地となるわけで、それはどういうことになるかというと、羽易の山には、わが恋うる妻がいるという由を人から聞いて山路を分けてきたが、髣髴にも見えないというだけで、葬ったということは少しもないのである。ただ或本歌になって、羽易の山に、わが妻の灰にあるを見るのである。畢竟、衾路を引手の山に妹をおきて山路を行くというのは、引手の山に妻を葬って、あらぬ他の山を彷復するものと考えられる。羽易の山と亡き妻との関係は、人がその山に妻がいると告げるだけの縁故があるのであろうが、今知るよしもない。
 初めに帰って、軽の地にいた妻については、引手の山に葬った妻との関係が、不明というほかはないが、強いていえば、その妻が、軽を郷里とし、しばらく帰っている間に死んだのだとも考えられる。その歌の面に現われる詞句は、少なくともこの想像を否定せぬことを見るであろう。
 幾人かの妻を死なせたのだともいえるけれども、おそらくは、軽にいた妻、巻向にいた妻、引手の山に葬った妻は、同じ人であったのではなかろうか。畝火山の蔭さすあたりを徘徊し、巻向山を仰ぎ見て歎息し、羽易の山を分けて索め(129)歩き、また紀の国の海岸を泣いて彷徨した人麻呂の、面影に立って忘れがたき人が、その人であったのであろう。形見に残した緑児は、その後どうなったであろうか。これも今また知るよしもなき心残りである。
 
 
(130)  第三 柿本人麻呂伝
 
    一 舎人
 
      一
【一】
 舎人をトネリと読むのは、『倭名類聚鈔』に内舎人を宇知止禰利とし、『類聚名義抄』に舎人をトネリとしている。語原については、殿入の約かなどの説があるが、未詳というほかはなく、別に刀禰の語があって、それとの異同も問題にされている。刀禰は、広瀬大忌祭の祝詞に、「王等臣等百官人等、倭国 乃 六御県 能 刀禰、男女 爾 至 万弖」とあるのを始めとして、諸書に多く見えている。この祝詞の男女に至るまでの句が刀禰を説明しているか、または並立であるかによって、刀禰が女子をも含むかどうかが分かれるのである。命婦をヒメトネというのから見れば、普通刀禰に女子を含まないのかもしれない。刀禰は、百官の主典以上の称であるといい、里坊の頭立つ者の称であるというのから見て、舎人と関係のない語と見るべきであろう。
 また正倉院文書続修後集第三十九巻に次の文書がある。これも刀禰が舎人と関係のないことを証明するもののようである。
 坂合部浜足解、申請料事
(131)  右人、於v病伏而不v得2参向1、望請、諸刀禰等、所v請如v件、仍注v状、以解
   景雲四年八月十一日専請高椅春人
 舎人の文字は、『日本書紀』では仁徳天皇の巻に近習舎人、武烈天皇の巻には近侍舎人など見えるが、これらは後に舎人の字を宛てたものともいえよう。しかし上代の制度の中には古来のしきたりが、後に整理せられて成文となったものが相当に多い。官職についてもそれがあり、采女なども、元来古くからあった事実が後に大陸法制の影響を受けて、制度化したものと考えられる。舎人のごときもまたほぼ同様の沿革を持つものであろうか。
 『日本書紀』では、舎人のほかに、帳内、宦者、兵衛の字面をも、同じくトネリと訓しているが、国語のトネリはこれを総称し得るものであるにしても、令制では、舎人と帳内兵衛とは違うのであり、宦者もまた違うものと考えられる。すなわち、軍防令によれば、五位以上の者の子孫の、年二十一以上で現に役のない者のうち、三位以上の者の子と性識聡敏にして儀容とるべき者とを内舎人に宛て、その以外は大舎人および東宮舎人に宛てる。また六位以外八位以上の者の嫡子で、現に役のない者は、簡試して三等とし、儀容端正であって書算に巧みなるを上等とし、身材強幹であって弓馬に便なるを中等とし、身材劣弱であって文字を知らないのを下等とする。その上等下等は式部に送って簡試して上等を大舎人とし、下等を使部とする。中等は兵部に送って試練して兵衛とする。帳内は、六位以下の子および庶人をとってこれに充てることになっている。されば舎人というのは、以上のごとき者の中の、上等の者と見てよいのである。
 右に掲げた令制は、天武天皇二年(六七四)五月に、「公卿大夫及び諸臣連、伴造等に詔して、それ始めて出身する者は、まづ大舎人に仕へしめ、然して後に才能を選簡して当職に充てよ」とある趣旨を制度化したものと見るべく、内舎人は、大宝元年(七〇一)六月に、始めて内舎人九十人を補し、太政官に列見すとあるから、その以前は、大舎人の名において呼ばれたものと考えられる。その名はトネリの総称に対して、区別してこの語を成したと思われるのである。
 春宮の職員としての舎人は、令に、舎人監の規定があり、正一人、佑一人、令史一人、舎人六百人、使部十人、直丁一人を置いている。しかして『日本後紀』大同元年(八〇六)六月の詔に、「東宮の舎人は、令に依って、蔭子孫及び位(132)子の儀容端正にして書算に巧なる者を取って補するに、頃年令に乖いて、兼ねて白丁を取る。宜しくこの例を改めて一に令の条に依るべし」と見えている。しかしこれはすぐ続いて七月に、「白丁百人を取って東宮の舎人に補することを聴せ」とあるから、事実、当時は白丁をもこれに補することは、やむを得なかつたのであろう。これは後のことで、古くは令の制のとおりに行なわれていたと認められる。東宮の舎人がいつから置かれたかはわからないのである。
 
         二
 
 天智天皇の皇子志貴の親王、その王子春日の王、その王子市原の王、この代々の方々は、いずれも良き歌を『万葉集』にとどめられている。市原の王は、一時東大寺に関係の深い写経事業に関与せられておったので、その関係の文書中に御名を拝見することも多く、御自筆の書状、御自署の文書も正倉院文書の中に多く残っている。その中に、続修別集第八巻、天平十一年(七三九)正月二十八日の文書(『大日本古文書』二ノ一五四)に、御自署とおぼしくて、舎人市原王とある。(なおこの文書は、天平二年<七三〇>正月十三日大宰帥大伴旅人亭の梅花の宴の歌の作者小野国堅の自筆文書のようである)以下、同年四月十五日、二十六日、八月十一日、二十五日、二十九日等の文書に、いずれも舎人市原王とあり、天平十一年に市原の王が舎人でおられたことが知られる。この王は、『続日本紀』によれば天平十五年(七四三)五月に、無位から従五位下に叙せられている。正倉院文書には、天平感宝元年(七四九)の頃から、玄蕃頭として見えている。王族にして舎人であること、奇異のようであるが、『延喜式』巻の十二、中務省の巻に、「凡薬師寺三月最勝会童子、王氏内舎人六人云々」とあって、例のないことではない。『万葉集』巻の六には、市原の王の御歌を、天平五年(七三三)に序でているから、当時すでに相当の年齢に達しておられたものであろう。なお天平十一年(七三九)の十月には、皇后の宮の維摩講に琴を弾ぜられたことが、巻の八に見えている。
 その他、名家の子弟で、内舎人となった者には、藤原家伝に、藤原武智麻呂が大宝元年(七〇一)に年二十二で内舎人となったことが見え、『万葉集』巻の十七天平十三年(七四一)四月の条に、内舎人大伴宿禰家持と見えるが、これは年(133)齢は明らかでない。
 正倉院文書続々修第四十六帙第五巻の、天平宝字五年(七六一)のものと推定せられる神祇大輔以下官人歴名(『大日本古文書』十五ノ一二九)には、内舎人として、百済文鏡、加茂浄足、当麻大庭、石川浄万呂、佐伯人万呂、无位石川継成、他田人成、阿部吉人、阿部山守、粟田鵜養の名を列記している。この中、百済文鏡は天平神護二年(七六六)五月に、従五位下をもって出羽守となり、石川浄万呂は、天応元年(七八一)五月に従五位上をもって少納言となったことが、いずれも『続日本記』に見えている。
 正倉院文書正集第四十四巻にある、他田日奉部直神護解(『大日本古文書』三ノ一四九)は、宣命体の文章をもって知られている文書であるが、これには、中宮舎人左京七条の人従八位下海上国造他田日奉部直神護が、祖父父兄及び自己の功労を述べて下総の国の海上の郡の大領に任ぜられんことを請うている。その文中神護は中宮舎人として、天平元年(七二九)から今に至るまで二十年勤めたといつている。
 同じく正倉院文書続修第三十七巻、造石山院所労劇帳(『大日本古文書』五ノ二七二)の中に、奉仕雑色人等三十四人の労を記したものがある。その中に、案主散位寮散位従八位上下村主道主は、年四十で、河内の国大県の郡の人であるが、労劇二十三歳で内紫徴中台舎人として十八年、散位寮に五年であるという。これによれば、この人は年十八で舎人になったことになる。また右大舎人少初位上玉作造子綿は、労十三歳であるというが、これも年齢を記していない。
 
          三
 
 舎人には、大舎人、内舎人、東宮舎人等の別があり、舎人はその総称と見られる。『出雲国風土記』、意宇郡舎人郷の記事に、「志貴島宮御宇天皇御世、倉舎人君等之祖、日置臣志毘、大舎人供奉之、即是志毘之所v居、故云2舎人1」とあり、大舎人に仕え奉ったので舎人というとある。大舎人の称は、古くからあったものと見えて、『日本書紀』の雄略天皇の条にも見えている。その職掌は、『令義解』に、供奉之人とある。
(134) 内舎人は、『続日本紀』、大宝元年(七〇一)六月癸卯の条、「始補2内舎人九十人1、於2太政官1列見」とあって、この時に始めて置かれた。内舎人もやはり供奉の官であるが、五位以上の子孫の、性識聡敏にして儀容見るべきをとって内舎人にあて、以外を状に随って、大舎人および東宮舎人にあてたので、舎人の中にては選抜せられたものである。これを置かれなかった以前は、もとより他の舎人の中に包含せられていたはずである。
 東宮舎人は、令制に、春宮坊に舎人監があり、正一人、佑一人、令史一人、舎人六百人、使部十人、直丁一人を置いている。その始めをつまびらかにしないが、持統天皇の十一年(六九七)二月に皇太子軽の皇子(文武天皇)の御ために、東宮大傅以下の職員を補せられたことが伝わっている。
 大伴家持は、大納言大伴旅人の子として、まず内舎人として奉仕している。天平十年(七三一)十月十七日の橘奈良麻呂の宴の歌の左註に、内舎人としてその名のあるのが初見である。これは三位以上の子として簡《えら》ぶ限りにあらずというので、舎人にあてられたものと見えるので、性識聡敏と容儀の見るべきとは問題になっていない。それから天平十八年(七四六)閏七月に越中守に任ぜられるまで、その職にあったのであろう。天平十六年(七四四)二月に、安積の皇子の薨ぜられた時には、内舎人大伴宿禰家持と名乗って挽歌を詠んでいる。その歌中には、「逆言の枉言とかも、白栲に舎人装ひて、和豆香山御輿立たして」(巻三・四七五)、「大夫《ますらを》の心振り起し、剣刀腰に取り佩き、梓弓靫取り負ひて、天地と弥遠長に、万代にかくしもがもと、憑めりし皇子の御門の、五月蝿なす騒ぐ舎人は、白栲に衣取り著て」(巻三・四七八)などの句がある。その反歌には、
  大伴の名に負ふ靫《ゆぎ》負ひて万代に憑みし心|何処《いづく》か寄せむ(巻三・四八〇)
の歌もあって、これは作者自身の心境を歌ったものであるから、これと照応する長歌中の舎人云々の句も、作者自身をも含めて歌っていると認められる。
 柿本人麻呂は、その父祖をつまびらかにしないが、やはり天武天皇二年(六七四)五月乙酉朔の、公卿大夫および諸臣連、ならびに伴造等に詔せられて、「それ初めて出身せむ者は、まづ大舎人に仕へしめ、然して後に、才能を選簡びて(135)当職に充てよ」と仰せ下された旨により、まず大舎人として奉仕したものと思われる。そうして皇子方にも侍したものであろう。人麻呂の作品中、舎人の語の見えているのは、持統天皇の十年(六九六)七月に薨ぜられた高市の皇子の尊の城上の殯宮の時の歌の反歌に
  埴安の池の堤のこもり沼のゆくへを知らに舎人はまどふ(巻二・二〇一)
の一首のみであるが、その長歌中に、「使はしし御門の人も白栲の麻衣著云々」とあるのは、家持の歌の例によっても、舎人を含んでいることは明らかである。なお参考として、巻の十三にある挽歌の二例をあげておく。
 その一は、三三二四の歌で、いずれの御方ともわからないが、ある皇子の命の薨去を悼み奉った歌で、その中に、「うち日さす宮の舎人は、雪の穂に麻衣著るは、夢かも現かもと云々」の句があり、他の一は、三三二六の歌で、同じく城上の宮に大殿を仕え奉った御方をお悼み申し上げた歌で、その中に「朝は召して使ひ、夕は召して使ひ、使はしし舎人の子らは、行く鳥の群りて待ち、あり待てど召し給はねば云々」の句がある。
 
          四
 
 舎人の職務は広汎である。宿衛侍従をその本務とするようであるが、技能ある者は、またこれによって奉仕している。神楽が近衛の舎人の所役になっていることは、著明な事実であり、その他、芸能の心得ある者は、またこの道によって仕えた。『延喜式』に、鎮魂、園韓神、平野等の祭りには、官人一人、史生一人が、舎人の和舞をよくする者四人を率いて参るとある。『万葉集』巻の八に、天平十一年(七三九)十月、皇后官の維摩講に、終日、大唐高麗等の種々の音楽を供養した。その日琴を弾じたのは、市原の王、忍坂の王、歌子は田口朝臣家守、河辺朝臣東人、置始連長谷等十数人であった。この歳、市原の王は舎人であり、この時なお舎人であったのであろう。その維摩講に琴を弾かれたのは、舎人の職務としてではなかったかもしれないが、他の諸人と同じく、技能ある者は、かかる場合にも召し出されることがあると見られる。
(136) 正倉院文書、天平勝宝四年(七五二)二月の写書所解(『大日本古文書』三ノ五六〇)に、正月の食口を申す中に、書生百九十人、装※[さんずい+黄]二十二人、校生十九人、案主五十八人に対して舎人八十二人をあげている。その八十二人の内訳は、二十五人堂童子、十人帙千部法華経、二人著琉軸、四人写政所公文、四人供奉礼仏三人病者二十七人雑使、七人遣使としている。これで写書所にも舎人が配せられていたこと、ならびにその務めの方面の大体が知られる。また舎人が写経や装※[さんずい+黄]に従事したことの知られる文書もある。一例をあげれば、同じく正倉院文書、天平宝字二年(七五八)九月五日の東寺写経所解(『大日本古文書』四ノ三〇一)中には、坤宮官舎人少初位上秦忍国、写紙五百二十九張、布十三端九尺四寸、左大舎人大初位下田部虫麻呂、写紙四百四十張、布十一端、右大舎人大初位下丈部子虫、写紙五百六十七張、布十四端七尺三寸、右大舎人无位田辺岡麻呂校紙九千五百張、布九端二丈一尺、右大舎人従七|位《(マ、)》能登忍人、造紙三千二百二十張、布八端二尺、坤宮官舎人従八位下宗形若麻呂、造紙三千二百張、布八端、その他数人の名が見える。布何端というのは、写校装※[さんずい+黄]に対する工賃であって、信仰のゆえに奉仕しているのではないことを語っている。
 かような舎人等の勤務状態を語る舎人上日に関する文書も多く存している。今その一例をあげれば、天平勝宝元年(七四九)八月の経師上日帳(『大日本古文書』三ノ二八〇)中には、政所よりきたれる舎人として、茨田孫足等数人の上日の数勤仕日数を記している。すなわち、茨田孫足は、五月【日十五・夕十三】月【廿一・十九】七月【日廿二・夕廿】であり、敦賀石川は六月【卅・二十九】七月【日廿八・夕廿五】である。敦賀石川のごときはほとんど毎日勤仕していた次第である。
 この上日の、日とあるは昼間の勤仕であり、夕とあるは、夕方のことであるのは、もちろんであるが、彼らはそのまま役所に寝泊りしたことと思われる。彼らは用事があれば、特に請暇解を出して退出した。写経師解案(『大日本古書』二十四ノ二七)は司内の穏便のことを申す文書で、経師等の希望を述べた興味の多いものであるが、その六条のうちに、次のごとき一条がある。
 一、経師休仮事
   右経師等情願 請毎月休仮五日。
(137) 右の文の、請毎月五日以下は、もと毎月一度退以五日為休とあったのを訂正したもので、これをもっても、経師が常詰であったことが知られる。また同じ文書中の他の一条には、
 一、欲換浄衣事
   右浄衣、去年二月給付、或壊或垢、雖洗尚臭、請除被及帳以外、悉皆改換。
とあり、彼らが被および帳を給付せられていたことが知られる。被は衾であり、すなわち、寝具を給せられて合宿していたことが知られるのである。このことはまた、東大寺写経所解(『大日本古文書』十三ノ三八一)に、経師五十人、校生四人、装※[さんずい+黄]二人の料として衾五十六覆を請求していることによっても証明される。これらは経師等一般に関する文献であるが、その中には舎人をも含んでいるものと解せられ、また同時に、舎人の、他の方面における勤仕についても、同様の事情にあったであろうと推測される材料になるのである。
 
    二 家系
 
     一
 
 柿本朝臣は、『新撰姓氏録』第七巻、大和国皇別のうちに、
 柿本朝臣、大春日朝臣同祖天足彦国押人命之後也。敏達天皇御代、依3家門有2柿樹1、為2柿本臣氏1。
とある。ここに標目として掲記されている柿本朝臣については、柿下朝臣とする伝来もある。柿本を柿下とも書くかの問題は第二段として『新撰姓氏録』としては、もとどちらかであったものであろうと考えられる。そうして『日本書紀』に柿本を用いてあるによれば、姓氏録にも、たぶん柿本とあったものであろう。家蔵の写本を検するに、読耕斎旧蔵本には柿下朝臣とあり、有不為斎旧蔵本には柿本朝臣とあって、この方面からは、いまだ結論をひき出し得ない。
(138) 『万葉集』にあつては、柿本朝臣と書くのが普通であるが、古写本には、往々にして柿下朝臣と書いてあるものがある。たとえば巻の九の目録中、柿本朝臣人麻呂歌集歌二首とあるを、西本願寺本、温故堂本などには、柿下朝臣云に作っている。これは目録のことで、後人の手に成ったものと見られるが、元来古人は、氏名の音声を写すのに、かならずしも一定の漢字を使わない。されば山於憶良とも山上憶良とも書くし、山部赤人とも山部明人とも書いている。人麻呂の場合にあっても、柿本朝臣と書くのが普通であるが、柿下朝臣と書かぬ限りもないということになる。
 大春日朝臣と同祖、天足彦国押人の命の後ということについては、姓氏録第三巻在京皇別の下に
 大春日朝臣出v自2孝昭天皇皇子天帯彦押人命1也。仲臣令3家重2千金1、委v糟為v堵、于v時大鷦鷯天皇謚仁徳臨2幸其家1詔号2糟垣臣1、後改為2春日臣1。桓武天皇延暦廿年賜2大春日朝臣姓1。
とあり、孝昭天皇の皇子、天帯彦国押人の命から出ている。この皇子の御子孫は繁昌されたので、姓氏録によっても、上記のほかに、小野朝臣、和爾部朝臣、和爾部宿禰、櫟井臣、和爾朝臣、葉栗臣、吉田連、丸部、丈部、栗田朝臣、真野臣、和爾部、安部公、野中、小野臣、大宅臣、村公、度守首、布留宿禰、久米臣、井代臣、津門首物部、羽東首、壬生臣、葦占臣、細部物部、根連、櫛代道等の諸氏があげられる。『日本書紀』の孝昭天皇の巻には、「天皇、世襲足媛を立てて皇后と為し給ひ、后、天足彦国押人の命と日本足彦国押人の天皇とを生み給ふ。天足彦国押人の命は、和珥臣等の始祖なり」と見えているだけであるが、『古事記』には、天押帯日子の命は、春日臣、大宅臣、栗田臣、小野臣、柿本臣、壱比葦臣、大坂臣、阿那臣、多紀臣、羽栗臣、知多臣、牟邪臣、都怒山臣、伊勢飯高君、近淡海国造の祖なりとあって、姓氏録の所伝と契合するものが多い。柿本氏もその一つである。
 柿本氏と祖を同じくする諸氏については、それぞれ若干の伝うべきことがある。その中に、小野臣、和邇部臣から猿女を出していたという伝えがある。猿女は、元来天の鈿女の命の子孫なる稗田氏から出るはずのものであったのを、いつの頃よりか小野臣、和邇部臣から出すようになったのは、雑濫であるというので、弘仁四年(八一三)十月二十七日の太政官符によってこれを停廃している。猿女はもと鎮魂を職とするものであり、小野、和邇部からこれを出していたの(139)は、雑濫であるとはいうが、さような勢いを成すに至った要素はあったものと見てよいのであろう。小野、和邇部の家の物語は、今日では知るよしもないが、その祖なる天足彦国押人の命は、孝安天皇の御兄にましますと伝える点において、その子孫が、臣下として奉仕するに至った物語があったのではないかと想像されるのである。
 柿本氏の由来については、敏達天皇の朝にその家門に、大きな柿の木があったので、柿本氏を称したということになっている。かような氏の名は諸氏が勝手に称したものではなくして、みな朝廷より賜わったものである。そこで柿の木のあるをもって氏としたということは、その柿の木が敏達天皇の御目にとまったものと解釈するのを至当とする。同族の春日氏は、仁徳天皇の行幸せられた時に、その家が富み栄えて糟を積んで垣となしたので、始めて糟垣氏といい、後、これを改めて春日としたのである。その氏を賜わる以前は和珥といったと考えられる。この一族は、皇室との関係が深く、応神天皇は和珥の矢河枝比売をお召しになって、御歌があり、比売は、菟道の稚郎子、八田の若郎女、女鳥の王を生み奉っている。これらの皇子には、それぞれ歌物語が伝えられている。また雄略天皇には、春日の袁杼比売を召されて、ここにも歌物語がある。これらの歌を中心とする物語は、なお和珥氏に関係するものが多くあり、その氏に語り伝えられていたものと認められる。かくのごとく、和珥は皇室に対してしばしば女子を奉っており、また歌の物語を、多く伝えている家柄である。人麻呂の家が柿本を氏とする前は、何といっていたか未詳ではあるが、春日氏と同祖という以上は、和珥を氏としておったもので、敏達天皇の朝に至って柿本氏と称すること、あたかもその一族が春日を氏とするに至ったと同様の事情があったのであろう。人麻呂が歌をもって皇室に奉仕したことは、偶然ではなかったのである。その家に伝わった歌物語の歌は、たぶん歌いあげられて伝わりきたったものと考えられる。人麻呂の作品にその影響が現われているのは当然というべきである。
 
     二
 
 柿本氏には、その祖先を同じくする氏々と共通した物語を伝え、またそれらと別れて、別の氏を成すに至った物語を(140)伝えていたはずである。
 持統天皇の三年(六八九)四月に、日並みし皇子の尊の薨去せられた時の人麻呂の長歌は、その前半に神話の叙述を有するを異色としている。それは天地の初めから説き起こし、先帝天武天皇の御事蹟に及んでいる。
  天地の初の時 ひさかたの天の河原に 八百万千万神の 神集ひ集ひいまして 神分ち分ちし時に 天照らす日女の命 天をば知らしめすと 葦原の水穂の国を 天地の寄り合ひの極 知らしめす神の命と 天雲の八重かき別けて 押下しいませ奉りし 高照らす 日の皇子は 飛鳥の浄の宮に 神ながら太敷きまして 天皇の敷きます国と 天の原石門を開き 神上り上りいましぬ(下略)(巻二・一六七)
 天地の初めに、高天の原に多くの神が集まって、国土をわかったということは、『古事記』『日本書紀』にない所伝で、この歌の作られた時代は、まだ『古事記』『日本書紀』ができず、神話の統制が行なわれていなかった時であるから、かような伝来も存在していたのであろう。そうしてこれはやがて柿本氏の所伝と見ることが順序である。
 『万葉集』には、伊邪那岐の命、伊邪那美の命の御名は現われないのであるから、したがって人麻呂に関係のある歌にも、それが現われていない。古代の神名としては、大汝の命、少彦名の命が歌われている。人麻呂歌集所出の歌には、
  大穴道少御神の作らしし妹背の山は見らくしよしも(巻七・一二四七)
  八千戈の神の御代より乏し嬬人知りにけり継ぎてし思へば(巻十・二〇〇二)
の二首がある。八千戈の神は、大汝の命の別名として伝えられている神である。
 同族なる大春日氏が、中頃富み栄えて、糟を積んで垣としたので、糟垣臣の姓を賜わり、後春日に改めたという。その本拠の地は、後の春日の地であろう。また櫟井氏はその南櫟井に、和珥氏は和珥に、布留氏は布留に、それぞれ居住していたと考えられている。かくのごとく、天足彦国押人の命の御子孫は、大和にしては、添、山辺の東の青垣山の下に居住したと思われる。
 顕昭の柿本朝臣人麻呂勘文に、
(141) 清輔語云、下2向大和国1之時、彼国古老民云、添上郡石上寺傍有v杜、称2春道杜1、其付中有v寺、称2柿本寺1、是人丸堂也。其前田中有2小塚1、称2人丸墓1、其塚霊所而常鳴云々。
とある。その柿本寺の遺址を、今日の櫟本《いちのもと》の付近に求めるのも、縁故のないことではない。人麻呂の墓があるということは別儀として、家門に柿の樹があったというのは、この辺に求めてよいのであろう。家門の樹によって氏を定めた例は、『姓氏録』第十一巻、大貞連の条に、聖徳太子が、巻向《まきむく》の宮に巡行し給いし時、その家の辺に大俣ある楊樹があったので、大俣連の姓を賜わったといい、同じく第十三巻、榎室連の条に、聖徳太子が山城の国に巡行し給いし時、その家の門に大きな榎の樹があり、太子が見そなわして、「是の樹は室の如し、大雨も漏らず」と仰せられて、榎室連を賜わったということなどがある。
 さらに南すれば、朝和村に大和神社があって、大国魂の神を祀《まつ》り、三輪に大神神社があって、大物主の神を祀っている。この両神とも、大汝の命の別名として伝えられているのであって、大汝の命に関する神話は、この一帯の地に分布していたものなるべく、人麻呂の作品にその神名が現われてくるのも偶然ではないと考えられる。
 
     三 在京時代
 
       一
 
 前にも記したように、日並皇子尊殯宮之時柿本朝臣人麻呂作歌(巻二・一六七)は、その前半なる神話の部分が、『古事記』『日本書紀』に伝うるところと相違しているのは、問題になる。その部分で、天地の初めの時に、天の河原に多くの神々が集まって、神分をなされた時に、天照らす日女の命は、天を御統治あらせらるべく、また葦原の瑞穂の国は、天地の寄り合うている限り、御統治あらせらるべしとしてお降し申した天孫は飛鳥の浄の宮にましまして云々の義に解(142)せられるのであるが、この高天の原で国土をお分けになったということは、他の古典に所見のないところであるからとして、神分をカムハカリと読んで、御相談になった意味に解する説が存するのである。しかしこれとても、神々が御相談になって天照らす大神が高天の原を御統治になったという伝はないことである。天孫が葦原の瑞穂の国にお降りになることについて、神々が高天の原で議《はか》られたということは、大祓の詞に、「高天の原に神留り坐す皇親神漏岐神漏美の命もちて、八百万の神たちを神集へに集へ給ひ神議りに議り賜ひて、我が皇御孫の命は、豊葦原の瑞穂の国を、安国と平けくしろしめせと事依さし奉りき」とあるを始めて若干の伝来がある。それにしても『古義』に、神分分之時爾をもって、天孫降臨のみにかかるとなすのは、文章解釈上無理であって正説とはなしがたい。
 この歌に現われている神話と同一の所伝は、いかにも他の古典に見あたらないが、参考とすべきものはある。それは『日本書紀』巻の第六、垂仁天皇二十五年の条、一云に、
 是の時、倭の大神、穂積臣の遠祖大水口の宿禰に著《かか》りて誨へ給ひしく、太初の時に期りて、天照らす大神は悉に天の原を治らせ、皇御孫の尊は専葦原の中つ国の八十魂の神を治らせ、我はみづから大地官の神を治らむといふ言已に訖へぬ云々。
とあることである。ここに倭の大神というのは、大倭の大国魂の神であって、ここには神がかりとして現われているのであるが、かような統治すべき方面をわかったという神話も、かならずしも存在しないではなかったことを語るものと見られよう。かくして伴信友が『長等の山風』の付録二にこの歌を釈して、「さて神分分時爾とは、高天の原にして、八百万神の集座して、諸臣に知食国々を分配依し給ふとしてまづ天照大神はもとよりのままに、天を知食すことと定給ひ、皇孫命は此大皇国を云々知食せと言依し給ひ、さて其外にも他諸国を諸神に、分配依し給へる由の古伝説のありけるによりて、然はよめるなるべし」といえる説もあながちに排斥することができないのである。
 それでこの歌は、次点の歌と解せられるのであるが、神分分之の訓は、古くワミワカレワカレシとあつたのを、仙覚がカムハカリハカリシに改めたものであり、その後、『代匠記』にカムワカチニワカチシ、『童蒙抄』にカンクハリクハ(143)リシ、『古義』にカムアガチアガチシの諸訓が出ている。分をハカリと読むことは、『字鏡集』に例があるにしても、これを議の意味の借訓としてここに用いたとなすは無理である。
 倭の大神の神懸りをしたという穂積氏大水口の宿禰は、饒速日の命の子孫で物部氏と祖を同じくしている。その氏名に負うている穂積は、今の山辺郡朝和村新泉の地であろうといわれている。大倭の大国魂の神を祀る大和神社も同地にあり、柿本氏の本拠と考えられる地方と、遠からざる位置にある。
 
         二
 
 日並みし皇子の尊の殯宮の時の作歌以外に、神話時代に触れているものに、人麻呂歌集所出の七夕の歌がある。
  八千矛の神の御代よりともし妻人知りにけり継ぎてし思へば(巻十・二〇〇二)
  天地と別れし時ゆおのが妻しかぞ手に在る秋待つ吾は(同・二〇〇五)
  ひさかたの天つしるしと水無し川隔てて置きし神代しうらめし(同・二〇〇七)
  天の川安の川原に定りて神競者磨待無(同・二〇三三)
 牽牛織女の関係が悠久なる神代に始まったとなす思想は、人麻呂歌集を除いては、山上憶良、大伴家持、および作者未詳の長歌の冒頭にこれを見るのみであり、これを短歌に用いているのは、人麻呂集の特色だといえるのである。すなわち天と地と別れた時から、すでに決定したことだとなしている。
 右にあげた例のうち、最後の歌は、訓読に困難を覚える歌であるが、その左註に「此歌一首庚辰年作之」とあり、作歌年代を明記している点でも注意される。
 当時、庚辰の年としては、天武天皇の八年(六八〇)および天平十二年(七四〇)がこれに相当するのであるが、天平十二年では、年代が下りすぎるから天武天皇の八年の方であろうとなすのが至当の見解である。そうしてこれは、人麻呂作歌、並びに人麻呂集所出の歌のうち、年代の知られる最古のものになる。
(144) 七夕の行事は、元来わが国に行なわれた農耕年中行事の一が、大陸伝来の節供と合同したものといわれているが、宮廷における七夕の宴は、正月元日、三月三日、五月五日、九月九日の諸節会と共に、暦の渡来と共におこった行事と見られるであろう。七夕の宴の伝うるものは、、持統天皇の五年(六九一)七月七日に行なわれたのを初見とするが、これより先曲水の宴は、顕宗天皇の元年三月上巳に行なわれ、薬猟は、推古天皇の十九年(六二)五月五日に行われている。『万葉集』中、七夕の歌の作られた場所としては、東宮(養老八年<七二四>七月七日応令)、左大臣家、帥家船中(または磯辺)、独居等の場合がある。人麻呂歌集の場合は、いかなる場合とも知られないが、人麻呂が舎人として出仕中のものにかかるのではないかと思われる。これよりして後九年、持統天皇の三年(六八九)四月に、日並みし皇子の尊の薨去せられた時に、人麻呂は挽歌を作り、またその宮の舎人等は慟傷して二十三首の歌を作っている。このことが一番年代の接近して伝えられていることであって、これを除いては推測も何もなさない。皇子の尊に奉仕していた舎人の中には、人麻呂をはじめ、歌をよくするものが多くいたと考えられる。
 日並みし皇子の尊、また草壁の皇子と申す。御父は天武天皇、御母は皇后(持統天皇)、天智天皇の元年(六六二)、大津の宮に降誕せられ、天武天皇の十年(六八二)二月、立って皇太子となり、持統天皇の三年(六八九)、四月薨去せられた。御年二十八。『万葉集』に石川の郎女に賜える御歌一首をとどめさせられている。人麻呂は、この皇子に、立太子の前後より舎人として奉仕していたのであろう。人麻呂歌集の他の歌に多く作歌年代を記さない中にあって、ひとり天の川安の川原にの歌のみに、その年代を記したのは、その年の七夕に、特に記憶すべきものが存したのであろう。人麻呂の年齢は未詳というほかはないが、この時、少なくも二十歳前後に達していたのであろうとは、普通に考えられるところである。
 皇子の尊の殯宮の時の人麻呂作歌は、人麻呂作歌と題せられるもののうち、作歌年代の知られる最初のものである。前半に神話より歌い起こしたその構想の雄大は認められるが、これを「わが大君、皇子の尊の天の下知らしめしせば」と受けて、後半を起こしているのは、前半との連絡が緊密でない感じがあり、もっと御統治あらせらるべき有様を詳述(145)すべきであったと思われる。この辺に、想余って詞足らざる初期の作品たる性質が存するように思う。
 
         三
 
 持統天皇、御少名は※[盧+鳥]野の讃良の皇女、天智天皇の第二皇女にまします。御母は、蘇我石川麻呂の女越智の娘、御姉に大田の皇女がましました。斉明天皇の三年(六五七)に、大海人の皇子(天武天皇)の妃とならせ給い、天智天皇の元年(六六二)に草壁の皇子の尊を生み給い、天武天皇の二年(六七四)二月に立って皇后となり給い、天武天皇の崩ぜらるるに及び、臨朝称制し給い、持統四年(六九〇)正月に即位し給うた。持統十一年(六九七)八月、位を皇太子に譲り、大宝二年(七〇二)十二月崩御せられた。
 この御代に歌の道が大いにおこったのは、天武天皇の御代以来培われたところが、ここに発したのではあるが、天皇が斯の道にとって良き指導者であらせられたことも否めない事実である。御製も何首か集に伝わっており、すぐれた御詠み口にあらせられる。ことに天武天皇崩御の後八年九月九日、行なわせられた御斎会の夜の御夢に習い給うた御歌は、大歌の詞や、由緒のある詞を承けて、かような伝統のある詞が、当時の歌の道に、直接に影響を与える位置にあったことを示されている。
 これより先、天武天皇の十四年(六八六)九月には、詔を下して、「およそ諸の歌男、歌女、笛吹は、おのが子孫に伝へて歌笛を習はしめよ」といい、翌朱鳥元年正月には、歌人等に袍袴を賜わったことが見えている。これらの歌人等は、雅楽寮に属し、大歌を歌う人々と解せられるが、当時これを御保護御奨励になったのである。天武天皇は五節の歌舞を制定せられたとも伝えて、その御代に大歌興隆のことのあったことが知られるのである。これらの歌人がいかなる人であったかは知られないが、集の巻の六に歌※[人偏+舞]所の諸王臣子等の語があり、巻の八に天平十一年(七三九)十月の皇后の宮の維摩講における歌子は、田口朝臣家守、河辺朝臣東人、置始連長谷等十数人であったと伝えているのは、もって参考とすべきである。
(146) 天武天皇は藤原の夫人に、持統天皇は志斐の嫗に、それぞれ御製の歌を賜い、夫人と嫗とは、それぞれ御答の歌を献つている。特に御製を賜わらずとも、廷臣が歌を献る場合は多いであろう。長意吉麻呂の応詔歌は、難波の宮での作かと考えられ、いずれの御代のこととも明らかになし難いが、歌により詔に応ずる場合は、持統天皇の御代にもしばしばあったことと思われる。
 行幸の御事蹟としては、持統四年(六九〇)九月の紀伊の国、持統六年(六九二)三月の伊勢の国への行幸のことが伝えられ、太上天皇としては、大宝元年(七〇一)の紀伊の国、同二年(七〇二)の三河の国への御幸が伝えられている。吉野の宮への行幸はことに多く、『日本書紀』にも三年正月、八月、四年二月、五月、八月、五年正月、四月、七月、十月、六年五月、七月、十月、七年三月、五月、七月、八月、十一月、八年正月、四月、九年閏二月、三月、六月、八月、十二月、十年二月、四月、六月、十一年四月の二十八回が伝えられている。したがって人麻呂が、吉野の宮に行幸のあった時に歌を作ったというのも、『万葉集』の左註にいうごとく、いずれの度の行幸の時とも知りがたい。また二首の長歌が同時の作か否かも詳審でない。ただ前の歌に「花散らふ秋津の野辺に」の句があり、これをしもその季節の描写とすれば、三月頃の作品とすべきであろうか、次の歌には春秋の描写が対句になっていて、季節を決定せず、また小網さし渡し、鵜川を催すことがあるが、これがその作の季節を指示するものか否かをも決定しえない。
 人麻呂の吉野の宮での作歌は、帝徳を讃嘆するその内容から見ても、献歌であると見るべきである。他にも、天皇の雷岳に御遊びあらせられた時の作歌が、献歌と見るべきものであり、なお諸皇子方にはしばしば献歌をしている。『懐風藻』には吉野の宮での応詔の詩を伝えているし、人麻呂以後の人にも吉野での歌が多くあり、かかる行幸の際にはたぶん歌を召されることがあったと見られるのである。
 
          四
 
 人麻呂の吉野の宮の作歌は、大歌などからきたと思われる由緒のある詞句に、斬新の詞句を加えて組織されている。
(147) 「やすみししわが大君の知らしめす天の下に」あたりの句は、人々の耳に親みの深い句であるが、「御心を吉野の国の花散らふ秋津の野辺に」の句となると、その場に即した句であって、聴く人の耳に一脈の清風を感じさせる。「うま酒を三輪」などの古い言い方があり、吉野の国というのも古い言い方であるが、そこに御心をの一句を使うだけで、習熟した言い方を基礎とした新しい内容が現わされてくる。山河の清き河内にしても、山河の清きまでは祝詞などで耳馴れている句であり、これを目前の河内に転用してきたところに、無理でなくして新様の感じを与える。「船双めて朝川渡り船競ひ夕川渡る」にしてもおそらくはそうだし、「この山のいや高知らす水たぎつ激流の都は見れど飽かぬかも」にしてもそう言えるであろう。「見れど飽かぬかも」は、『万葉集』の特有の表現であり、人麻呂の常用句の一でもある。
 いまだ人麻呂以前に遡って考えることのできない句である。その句を長歌の終わりに使い、それをそのまま繰り返して反歌を起しているのは、同一の音声を繰り返す手法として、まったく歌いものからきたものである。次の長歌と反歌との連絡にも、同じ手段が用いられている。
 第二の長歌に至っては、さらに藤原の宮の役民の作れる歌、及び藤原の宮の御井の歌との関係が指摘されねばならない。この歌にあっては、天皇が、吉野の宮の高殿に上り立って国見をあそばされることを叙し、吉野の山川の神はこれに応じて奉仕することを述べている。吉野の宮の景勝を叙するに、作者たる人麻呂の見たところをもってせずして、天皇が御覧になると山川はかくのごとき景況を呈して奉仕すると叙している。これは藤原の宮の御井の歌におけると同一の手段であって、御井の歌にあっては、同じく天皇が埴安の池の堤の上にお立ちになって御覧あそばされると、東西南北の四門に臨む山々は、かくのごとき姿をなして立っていると述べている。これらの歌に現われた思想は、この国の山河は、天皇の御ために厳粛に、かつ有益に奉仕するとなすのである。これはやがて、藤原の宮の役民の作れる歌にも現われているところであって、その歌では、やすみししわが大君高照らす日の御子が、藤原の地に宮を造営し天下を統治しようと思し召すと同時に、天地がこれに感応して近江の田上山から宇治河に木材が流れ下ると歌っている。しかしてさらに人民も家や身を忘れて労務に奉仕することを述べ、天地人の三才が、大御心の動くままに感応し活動するという(148)思想を歌っている。吉野の宮の歌にあっては、吉野の山河であるが、それは吉野における自然の全部であり、その山河の神というは、山河における神霊そのものをいうのであって、その間に格別の相違はない。この歌では反歌で人民の奉仕を説いている。天皇は吉野の宮の高殿にましまして国見をあそばされている状勢を歌っているのであるから、反歌の第四、五句も、「滝つ河内に船出せすかも」と敬語法に読んではよろしくない。これは「船出するかも」として、大宮人の船出と見なければならない。すなわちこの歌の「山川も寄りて奉れる」というは、役民作歌の「天地も寄りてある」というに相当する思想である。
 
         五
 
 藤原宮役民作歌及び藤原宮御井歌については、『万葉集』にすでにその作者の名を記していないのであるから、今日にあっては、もちろんこれを未詳とするほかはない。しかし近世以後人麻呂の作ならんとする説も多く、人麻呂を伝する上において、これについて無関心でありえない。よってこれに対する考えを記しておく。
 第一に、この二篇の含んでいる思想が、人麻呂の作品に共通する点の多いことである。このことは前にも記した。役民作歌は神ながらの思想をもって一貫しており、大御心に対して、天地および国民の感応し奉仕することを歌っている。また御井の歌は、天皇に対し奉って、四方の山々が感応し奉仕することを歌っている。これらの思想は、人麻呂の作品にあっては、吉野の宮における作に現われ、また軽の皇子の安騎野にお出ましになった時の作に現われているところである。ことに山川自然の奉仕を語ることは、人麻呂作品以外には見得ざるところである。他にあっては、「天地の御霊たすけて」とか、「天地の神もうづなひ」とか、天地を偉大なりとする思想が根抵となっているのである。役民作歌にいう「天地も寄りてあれこそ」は、吉野の作歌における「山川も寄りて奉れる」と、同一の思想に出るものである。
 第二に構成上の共通点である。「やすみししわが大君、高照らす日の御子」の句に始まり、これを主格とする構成は、人麻呂以外の作品にも見られるけれども、なおもって、藤原の宮の両作と、人麻呂作歌とにおける、構成上の大きな共(149)通点であることを失わない。役民作歌にあっては、御造営のことを叙して、しかもその主意は慶賀にあり、これは吉野の宮の作と同一手段である。御井の歌にあっては、四山の景況を叙するに、「埴安の堤の上に在り立たして叡覧せらるれば」として叙しており、これは吉野の宮の第二作に、「吉野川の滝つ河内に高殿を高知りまして登り立ち国見を為せば」として、山川の景況を叙しているのとまったく同一手段であって、他に比類を見ざる独得の構成である。
 第三に修辞上の共通点である。特色ある詞句の共通しているものとしては、「もののふの八十宇治川」の句が、役民作歌と人麻呂の作歌とに共通して用いられている。役民作歌は、「わが作る日のみかどに知らぬ国寄り巨勢路ゆ」以下の九句の長い序を有することにおいて特色を有するのであるが、人麻呂作歌の中にも、石見の国から上りくる時の歌に、「妻ごもる屋上の山の雲間より渡らふ月の」は序であり、軽の皇子の安騎野のお出ましの時の作歌に「玉かぎる石垣淵の」も序である。九句にわたる長大の序は、集中に比類がなく、作者の力量を語ると共に後人をして惑わしめるところがあり、尋常の手段ではなかった。玉藻なすの一句は、平凡な枕詞のようであるが、人麻呂作歌および人麻呂歌集所出に数出しているほかには、ただ一例があるのみである。一体に藻を譬喩に使うのは、人麻呂の慣用手段といってよいのである。
 第四に、集においては、軽皇子宿于安騎野時柿本朝臣人麻呂作歌にすぐ続いて藤原宮之役民作歌があり、次に志貴皇子御作歌があって、その次に藤原宮御井歌がある。その左註に右歌作者未詳とあるのは、御井歌についていうなるべく、役民作歌は、役民を作者と見て註を加えないのであろう。前の歌の作者と同一人の作である場合に、作者の名をかくことはない。巻の三に山部宿禰赤人の望不尽山歌の次に詠不尽山歌があって、作者の名をかいているが、赤人の歌に続くからといって、赤人の作であるとはなしがたい。
 第五に、藤原の宮に関する二作は、整然たる組織を有する長歌である。当時人麻呂以外に長歌の作がないこともないが、多くは短篇であって、感情の表出を主とし、かような知的要素にもとづく組織を有するものを見ないのである。かような長歌の製作は、短歌の場合とは違って、この道に習熟することによって、整然たる組織を有する作品を得るので(150)ある。この点については、当時人麻呂以外に、これに擬すべき作家を伝えないのである。もし藤原の宮の二作が、人麻呂以外の作家の手によって成ったとするならば、その作家の存在が、なお何らかの形において伝えられたであろうと考えられる。
 
         六
 
 『万葉集』の巻の三は、巻の一、二と違って、御歴代天皇の御代の標目を掲げていない。したがっていずれの天皇の御代の歌であるかを明らかにしがたいものが多い。ただ、大体において時代順に配列してあるが、それもかならずしも厳密になっていないようである。それは当時いずれの御代の歌と明らかになしがたいものがあり、かような形式をとるに至ったのであろう。
    天皇|雷《いかづち》の岳《をか》に御遊《いで》ましし時、柿本朝臣人麻呂の作れる歌一首
  皇は神にしませは天雲の雷《いかづち》の上に廬《いほり》するかも(巻三・二三五)
   右、或る本に云ふ、忍壁の皇子に献れるなり、その歌に曰はく
  王《おほきみ》は神にしませは雲|隠《がく》る雷山《いかづちやま》に宮敷きいます
 この歌の題詞にいう天皇も、いずれの御時ということをつまびらかにしない。ただ柿本人麻呂の作品が、持統天皇、文武天皇二代の間に詠まれてあり、そのいずれであるかといえば、この歌のすぐ次に天皇の志斐の嫗に賜える御歌があって、女帝にましますがごとくであるからしたがってこの歌の天皇も持統天皇とするのが通説である。また雷の岳は、明日香の雷にある岳で、明日香の京時代の歌となすこともできる。
 雷の岳は明日香の神なび山ともいい、三諸山ともいう。『日本書紀』雄略天皇の七年七月の条に、天皇|小子部※[虫+果]羸《ちいさこべすがる》に詔して、三諸山の神を捉えしめたが、やがてその山に放たしめ、よって改めて名を雷と命ぜられたと伝えている。その山に行幸になった時に、人麻呂が供奉して詠んだ歌となされている。
(151) この歌にいう「皇は神にしませば」の句は、人麻呂の始めた句ではない。本集巻の十九に壬申の乱平定せし以後の歌二首を掲げているが、この二首とも、「おほきみは神にしませば」の句を持っている。この句はそこでは天武天皇の御事蹟を讃嘆したものであり、人麻呂の歌に先行するものと認められる。神の語には本来、現前にあらざるものという意味を含んでいたと認められる。風土記には「神に坐せて」の句でその崩御を現わし奉っているものもある。天武天皇朝以来その語の範囲が広まり天皇をただちに神と申し上げる語法が発達したと考えられる。
 左註にいう「或る本」とはいかなる書であるかは明らかではないが、たぶん人麻呂歌集をさすがごとくである。忍壁の皇子は天武天皇の皇子で、慶雲二年(七〇五)五月薨去せられている。したがってこの歌がそれより以前の歌であることは明らかであるが、その年代は知られない。おおきみは古く天皇の御上にのみ使われていたごとくであるが、後、皇子方に対してもこの語を使うようになってきた。
    春日の王の和へ奉れる歌一首
  王は千歳にまさむ白雲も三船の山に絶ゆる日あらめや(巻三・二四三)
 この歌弓削の皇子の御歌にお答え申し上げたものであり、おおきみというのは、弓削の皇子をさし奉る。さればこの「或る本」の歌のおおきみも忍壁の皇子をさし奉っていると見るのが順当である。皇子の御殿がこの岳の辺にあったのであろう。しか見る時は、これもおそらくは藤原の宮に移らなかった前の歌のごとくである。
 人麻呂のこの歌は岳の名が雷というより思い設けたところであって、地名に雷の上というのを、実物の雷の上というのに連想して詠んだものである。芳野の離宮の作などに比べて、即興の要素が多い。しかしこの岳に雷を放った故事がある以上は、それはただその名のみにとどまらずして、その地に雷のあることを信じているとなすべきであろう。その上に廬をせられたことを讃嘆する意味に詠まれているとなされている。
 日並みし皇子の尊の薨去せられたのは、持統天皇の三年(六八九)四月であり、巻の一に軽の皇子の安騎野にお出ましになった時の歌は、それより後の歌であることは明らかである。ここに軽の皇子と申し上げているのは、文武天皇の御(152)事であるから、その御即位以前の歌となすべきである。軽の皇子の御名は、そのよるところを明らかにしないが、当時の皇子皇女の御名は地名によるもの多く、大伯の皇女の御名のごとき、御生誕の地名をとってつけられたものもあるが、多くは御幼少のみぎり、お育て申し上げた乳母の氏姓によるものと考えられる。しからばこの君の御名に負うておられる軽も、軽の我孫子等の縁故によるものであろうか。人麻呂が妻の死を傷んだ歌の中に「天とぶや軽の路は吾妹子が里にしあれば」と歌い、「吾妹子が止まず出でにし軽の市に我が立ち見れば」とも歌っているによれば、この妻は軽を郷里としており、相当の身分のある人と見るべきゆえに、やはり軽の我孫子氏などではなかったかと考えられる。もししかりとすれば、人麻呂はこの君に特別の関係をもっていたことになる。
 この長歌に皇子の御事を叙して、その安騎野に御猟せられたことを歌い、亡き日並みし皇子の尊の御上をお慕い申している。この季節は、「み雪降る安騎の大野に」といい、「はた薄しのをおしなべ」と歌っているのによれば、日並みし皇子の尊の薨去後、いつの冬とも知られないが、『懐風藻』によれば、文武天皇御年二十五であったと見えるから、御即位の年に御年十五にましまし、日並みし皇子の薨去の年には九歳にましました。この歌がいつであるかは知りがたいが、おそらくは日並みし皇子の尊の薨去より四、五年以上は経過した後の歌ではないかと考えられる。歌中に古《いにしえ》を思いてと歌われているが、この集における古は、古代の意味に歌われているもののほかに、わが身の上にも使われた例がある。
 ここの、「神ながら神さびせす」との句は、芳野の離宮での作品の第二句に用いられているところであり、それは天皇の御上に歌っている。ここでは軽の皇子の御上を歌っているのであるが、この皇子の尊貴にましますことを現わす句としては申し分のない句である。この長歌および反歌四首の構成が非常に整備している点から見ても、人麻呂の作品として相当に調子の乗った頃の作と見なされる。この歌の反歌の第四首に、
  日並みし皇子の尊の馬並めて御猟立たしし時は来むかふ(巻一・四九)
の一首は、日並みし皇子の尊の薨去の時、その宮の舎人等の慟傷して作れる二十三首の第二十一首、
(153)  褻衣《けごろも》を春冬《とき》片設《かたま》けて幸しし宇陀の大野は思ほえむかも(巻二・一九一)
の歌と呼応するものがある。この舎人等の中に人麻呂がいたことは推測されるのであるが、その作品の中にも人麻呂の作品が混っているかも知れない。この二十三首をも人麻呂の作品とする説もある。これも一応もっともな点もあるが、今日ではいまだ明らかにこれを証明するまでに至っていない。
 持統天皇の三年(六八九)四月に日並みし皇子の尊薨ず。人麻呂作歌あり。持統四年(六九〇)九月、紀伊の国に行幸あり。人麻呂、作歌なし。持統五年(六九一)九月、川島の皇子薨ず。人麻呂作歌あり。六年(六九二)三月、伊勢の国に行幸あり。人麻呂、京にとどまりて作歌あり。持統八年(六九四)十二月、藤原の宮に遷り給う。人麻呂作歌なし。持統十年(六九六)七月、高市の皇子の尊薨ず。人麻呂作歌あり。文武天皇四年(七〇〇)四月、明日香の皇女薨ず。人麻呂作歌あり。大宝元年(七〇一)九月、紀伊の国に行幸あり。人麻呂集に歌あり。大宝二年(七〇二)十月、三河の国に御幸あり。人麻呂作歌なし。同年十二月、持統太上天皇崩ず。人麻呂、作歌なし。
 以上の事実によって見るに、大宝元年(七〇一)までは中央における諸事に際して歌を作っていることが多い。しかるに二年以後は御幸、崩御等の大きな事件が起こっても、その作を残していない。これによって見ても、大体大宝元年(七〇一)頃までは主として都にあったものとおぼしく、たぶんこの間、舎人として奉仕していたものであろう。
 人麻呂は、芳野の離宮等行幸の場合に歌を奉っていることは前に記した。皇子皇女の薨去に際しては、日並みし皇子の尊、川島の皇子、高市の皇子の尊及び明日香の皇女の殯宮において、それぞれ歌を詠んでいる。ただし、川島の皇子の場合は、題詞には「泊瀬部の皇女忍坂部の皇子に献れる歌」とあり、左註に「或る本」を引いて、「河島の皇子を越智野に葬りし時、初瀬部の皇女に献りし歌なり」とあるによる。また諸皇子に対して歌をたてまつることがある。軽の皇子の安騎野に御猟せられた時に歌を詠み、長の皇子の猟路の池に出でました時に歌をたてまつっている。また新田部の皇子に雪の日に歌をたてまつっている。その他人麻呂集にあっては、忍壁の皇子、舎人の皇子、弓削の皇子にそれぞれ歌をたてまつっている。これらは人麻呂が皇室の殊遇を蒙っていたことを証するに足りる。それは人麻呂が歌人とし(154)てすでに知られている人物であり、かような場合に歌をたてまつるのが当然のようになっていたとも見られるのである。
 
         七
 
 持統天皇四年(六九〇)九月の紀伊の国への、行幸については、『万葉集』巻の一に、
    紀伊の国に幸しし時、川島の皇子の御作歌【或るは云ふ山上憶良の作。】
  白浪の浜松が枝の手向草《たむけぐさ》幾代までにか年の経ぬらむ【一に云ふ年は経にけむ】(三四)
があって、「左註に、日本紀に曰はく、朱鳥四年庚寅秋九月、天皇紀伊の国に幸したまふ」と記している。この歌は川島の皇子の御歌となっており、「或るは云ふ山上憶良の作」とし、作者の相違がある。これについては、巻の九には、
    山上の歌一首
  白浪の浜松の木の手向草幾代までにか年は経ぬらむ(一七一六)
を載せて、「或るは云ふ、河島の皇子の御作か」としている。この巻の九の歌は、人麻呂歌集所出のものと認められるので、もしこの歌が持統四年(六九〇)九月の作品ならば、人麻呂はその行幸に御供して歌を記しとどめておいたともいえるのである。しかし巻の一と九では、作者の伝来を異にしており、いずれが原作者であるかを明らかにしない。川島の皇子は持統五年(六九一)九月に薨じられているのであるから、この紀伊の国での御作と伝うるものは、左註にいうがごとく、持統四年(六九〇)九月ということはかなうのである。しかし人麻呂集では山上の歌としているのであって、当時山上なるものが、川島の皇子の御歌を拝誦したものとも考えられる。これをもってしては、人麻呂が持統四年(六九〇)九月の行幸に御供をしたという証明とするに足りないのである。ついで持統六年(六九二)三月には伊勢の国へ幸せられている。この時には人麻呂は都にとどまって、行幸の先を思って三首の歌を詠んでいる。
    伊勢の国に幸しし時、京に留りて柿本朝臣人麻呂の作れる歌
  嗚呼見《あみ》の浦に船乗すらむ※[女+感]嬬《をとめ》らが珠裳《たまも》の裾に潮満つらむか(巻一・四〇)
(155)  釧《くしろ》著《つ》く手節《たふし》の埼に今日もかも大宮人の珠藻刈るらむ(同・四一)
  潮騒に伊良虞の島辺傍ぐ船に妹乗るらむか荒き島廻を(同・四二)
 『日本書紀』によるに、この伊勢の国への行幸は、三月六日に御出発になり、二十日に還幸せられている。この人麻呂の作品は、その行幸に、人麻呂の思い人が御供をしていることを語っている。これは、他の全作品を綜合して考える時に明らかにされるのである。このことは、別に柿本人麻呂の妻の題のもとに記したところである。
    柿本朝臣人麻呂の妻の歌一首
  君が家に吾《わが》住坂《すみさか》の家道《いへぢ》をも吾は忘れじ命死なずば(巻四・五〇四)
の歌は、たぶんこの時にその妻によって作られたものであろう。住坂は、『古事記』崇神天皇の条に、宇陀の墨坂の神に楯矛を奉ることが見え、『日本書紀』神武天皇の巻にも見えている墨坂であると考えられる。これは東の方から大和の国の中央部に入りきたる要路にあたる。人麻呂の歌に答えて、当時その坂を越えて帰りきたことを伝えているのであろう。人麻呂の都にとどまって詠んだ歌の気分からいえば、人麻呂は、その妻を得て、いまだあまり多くの月日を経ていないようである。
 持統八年(六九四)十二月には、藤原の宮への遷都があるが、人麻呂の作と伝えるものは残っていない。ただ「役民作歌」と題せる作を、それかあらぬかと思うばかりである。人麻呂集には、藤原の宮時代の歌と覚しき歌は残っている。
  ひさかたの天の香具山このゆふべ霞たなびく春立つらしも(巻十・一八一二)
 この歌は、天の香具山を常に見馴れている立場で歌われている。その山から程近き藤原の京での作と見てよいのであろう。
 
(156)     四 地方生活
 
         一
 
 人麻呂の生涯を、在京時代と地方官時代とに分けて考えることは、一応便宜である。これは当時の一般の男子歌人の主なる人々が、まず舎人として出仕し、しかる後に他の官につく順序をふみ、これによって舎人時代とその他の官仕の時代とに分けられる点を、参考としてである。ただ舎人以外の一般官仕にも京官と地方官とがあり、高橋虫麻呂のごときは、京官にも地方官にもなっていたことがあるように考えられる。人麻呂の場合には、舎人以外の京官であったという証明がない。地方に下ったのも、たぶん地方官としてであろうと推量するまでである。それで在京時代の歌には、年代の明らかなものもあり、地方関係のものには、年代の明らかなものがない。ただし行幸の御供のごときは、在京時代のものとして取り扱うのである。人麻呂が四国に旅行したことがあるのは、巻の二に、讃岐の狭岑《さみね》の島に石中の死人を視て詠んだ歌があるので知られている。また筑紫におもむいたことがあるのは、巻の三に、「筑紫の国に下りし時、海路にて作れる歌」があるので知られる。しかしそれがいつの頃のことであるか、またいずれが先であるかも知られない。ただたぶん地方官としておもむいたのであろうとなす推量を前提とし、京官であったことがあるかも知れないのを計算外におけば、舎人としての生活が終わってからであると考えることができる。その舎人時代もいつ終わったか知れないのであり、大宝元年(七〇一)九月、紀伊の国への行幸に御供をしているのを、舎人時代の最後とすれば、それより後に下ったことになるのである。
 巻の三にはまた、人麻呂の※[羈の馬が奇]旅の歌八首があり、これも瀬戸内海を海路に上下した時の歌と考えられるだけで、四国におもむいた時とも筑紫におもむいた時とも知りがたい。しかしその歌の中には、妻に別れて海路を下る意味の歌があ(157)り、また遠い途《みち》を大和恋しく思いつつ上りくる意味の歌がある。これによって妻を有していた時代のことと考えられ、筑紫に下った時の歌の一つ
  名ぐはしき稲見《いなみ》の海の奥つ浪千重に隠《かく》りぬ大和島根は(巻三・三〇三)
の歌と、※[羈の馬が奇]旅の歌の、
  天ざかる夷《ひな》の長路ゆ恋ひ来れば明石の門より大和島見ゆ(巻三・二五五)
の歌とは思想的に聯絡があるのが認められる。これに反して狭岑《さみね》の島の歌は、讃岐の国から漕ぎ出してきた歌であるが、自分の妻に関しては一言も及んでいない。またこの歌は、妻の死んだ時に悲しんで詠んだ歌よりも後にあり、石見の国にあって死なんとした時の歌の直前にある。その両者の間にはさまれている排列の順序を、意味あるものとすれば、筑紫に下ったほうが先だということになる。
 巻の九に人麻呂集から出た歌として、妻と問答をした歌がある。その歌は麻呂と呼ばれる人が遠く地方におり、離れている妻に歌を送っている。その歌は、
  雪こそは春日消ゆらめ心さへ消え失せたれや言も通はぬ(一七八二)
 この歌が雪のあまり降らない地方におって、妻を思って詠んだ歌であろうということは、前に記したことがある。推量ずくめで確たることが言えないのは残念であるが、あるいは西国にあって大和なる妻に送った歌であろうか。
 人麻呂の瀬戸内海に関する歌は、大部分はすぐれた歌として知られている。ただ一首だけ読み方に問題があるので、何とも言えないものがあるが、人麻呂の製作が十分に脂の乗り切った時代のものであるということができる。人麻呂が唐に渡ったという説があるのは根拠ないことであるが、筑紫の国へ下ったというのは、大宰府へおもむいたものと考えられ、後に天平八年(七三六)の遣新羅使人の一行が、船中で、これらの人麻呂の※[羈の馬が奇]旅の歌を吟誦したのも、かならずしも縁故のないものではなかったのである。
 四国との交通は海路によるほかはないが、筑紫との往来には、海路と陸路とがある。遣外使節や大宰帥の一行や、防(158)人など、多勢の場合は海路をとり、小人数の場合、急行の場合は陸路をとっている。人麻呂が、筑紫への往還に海路をとっているのは、何か大人数の場合であったと考えてよいのかも知れない。それ以上のことはわからない。
 
         二
 
 作品に残された人麻呂の足跡を求めると、大和地方以外では、紀伊、近江、讃岐、筑紫及び石見《いわみ》があげられる。これらの地方への旅行は、二回以上のもあるようであるが、さてその年代および順序となると、やはりその参考資料が少なくて、決定せられぬものが多い。
 石見については、最後に人麻呂がその地で死んでいるのだから、途中で一度都に帰ることがあったとしても、その前後の旅行を、連続的なるものと見て、これを最終に置くことは、まず問題がないとしてよい。そこで残る四地方への旅行の順序を吟味すればよいことになる。
 紀伊の国へは、少なくも二回以上旅行をしている。
  み熊野の浦の浜木綿百重なす心は思へどただに会はぬかも(巻四・四九六)
 この歌は、紀伊の国から浜木綿《はまゆう》に付けて、妻のもとに送ったとなすべきである。そうして作者は、妹に恋いつつ眠りをなしかねたのであるから、この旅行には妻をともなわなかったと考えられる。しかるに人麻呂は、後年妻をうしなって後、ひとり紀伊の国におもむいて、かつてその妻と携わり遊びし礒に涙を催しているので、今一度妻と共に旅行したことを認めなければならない。
 人麻呂集には、大宝元年(七〇一)十月、紀伊の国に行幸のあった時の歌を伝えている。これによれは、人麻呂もこれに供奉したと考うべきである。その歌の中には、
  木の国に止まず通はむ妻の社妻寄し来せね妻といひながら(巻九・一六七九)
のごときがあるが、これには、「右一首或云坂上忌寸人長作」の左註がある。そのほか、妻に恋いている意味の歌はな(159)い。このたびの行は、文武天皇の行幸と、持統太上天皇の御幸とがあったのであるから、持統太上天皇に奉仕していたと考えられる人麻呂の妻が、これに御供したとすることは不自然ではない。またこの歌中には、
  黒牛潟塩干の浦を紅の玉裾裾引き行くは誰が妻(巻九・一六七二)
の歌があって、たぶん御供の婦人たちも、その浦に下り立ったと見られ、これに対して、同じく人麻呂集には、その浦を亡き妻と共に見しことを叙して、
  いにしへに妹とわが見しぬばたまの黒牛潟を見れはさぶしも(巻九・一七九八)
と歌っている。
 近江への旅行は、近江にての作、およびその往還の時かと思われる諸作について考えるほかはないのである。その往還の時かと思われる諸作は、人麻呂集にあっては、泉河、名木河、鷺坂、宇治河等で詠まれているが、これらは春の季節のものと、秋の季節のものとがある。春の歌としては、
  たく領巾《ひれ》の鷺坂山の白つつじ吾ににほはね妹に示さむ(巻九・一六九四)
  妹が門入り泉河の常滑《とこなめ》にみ雪残れりいまだ冬かも(同・一六九五)
  衣手を名木の河辺を春雨に吾立ち濡《ぬ》ると家念ふらむか(同・一六九六)
  家人の使なるらし春雨のよくれど吾を濡らす念へば(同・一六九七)
  ※[火三つ]《あぶ》り干す人もあれやも家人の春雨すらを間使にする(同・一六九八)
  春草を馬咋《うまくひ》山ゆ越え来《く》なる雁の使は宿過ぐなり(同・一七〇八)
 これらの作品には、共通して、妻を有する人の作であることが明らかにされている。そうして「妹が門入り泉河」のごとき句も用いられているので、たぶん妻に別れて近江に下る時の作であろうかと考えられるのである。かの「近江の荒れたる都を過ぎし時に作れる長歌」には、「春草の茂く生ひたる、霞立つ春日の霧れる」の句があって、やはり春の歌であるのは、かくして近江に下っての作と見なしてよいのであろう。
 
(160)         三
 
 近江の荒れたる都を悼む人麻呂の歌には、本文に「春草の茂く生ひたる、霞立つ春日の霧れる」の句を有して、春の製作であることを語っている。なおこの句は、「霞立つ春日か霧れる、夏草か茂くなりぬる」という別伝を有しているが、吉野の離宮での歌のように、概念的に春秋を対句にしたのとは違って、事実に即して春秋を対句にすることは、人麻呂の作品には見られないところであるから、この別伝は、後の吟誦者が、変えて伝えたものと見るべきである。この歌は、春光のもとに旧都の荒廃を悼んでいるが、その痛心は、人麻呂一人の上に起こった特殊の境涯ではなくして、この地を過ぐる旅人の、何人の上にも起こる一般的な感慨である。
 また春の頃、たぶん近江の国に下る道中での作かと思われる山城の国での諸作には、妻を想い家を想って、深き旅情に浸っているが、それは想う効のある恋であった。
  玉久世《くせ》の清き河原に禊《みそぎ》して斎《いは》ふ命も妹が為こそ(巻十一・二四〇三)
 旅にあってつつがなからんことを期するのは、われを待つ妻があるからである。この歌は、往還のいずれとも知られないが、心に愛人を擁して、玉と砕ける久世河の清流に、身の穢《けがれ》を滌《すす》いだのであった。
 人麻呂歌集には、なお、秋の頃山城の国を旅行した歌がある。
  巨椋《おほくら》の入江|響《とよ》むなり射部人《いめびと》の伏見が田居に雁渡るらし(巻九・一六九九)
  秋風の山吹き瀬々の響むなべ天のむら雲翔りあへるかも(同・一七〇〇)
 当時は、宇治河の水が横流して、巨椋の入江を成していた。そのほとりを行った時の歌である。
  山城の久世の鷺坂神代より春は萌りつつ秋は散りけり(巻九・一七〇七)
 一首の中に、春と秋とが詠まれているが、秋の落葉に対する感慨が主になっていると見てよいのであろう。神代よりくり返しくることを詠んでいるのであるが、その底には、一脈の無常思想の流れていることなきを保証せぬのである。
(161)    柿本朝臣人麻呂近江の国より上り来し時、宇治河の辺に至りて作れる歌一首
  もののふの八十宇治河の網代木にいさよふ波のゆくへ知らずも(巻三・二六四)
 ここには題に、「近江の国より上り来し時」と明記してある。この歌は、宇治河の激流に、たちまち生じ、たちまち消滅する波について、感慨を述べている。この歌について、無常思想を明らかに感じているのは、『代匠記』である。いわく、
 人の世の生住異減の四相の中に、暫く住するよと思ふに、程なく異相に遷され行くを、水の網代木にふれて暫しやすらふと見ゆるが、やがて流れ過ぐるに感じてよまれたり。第七に、同じく、みなわの如し世の人我は、又みなわの如く世をば我が見るとよめるに合せて見るべし
とある。その引いた、「みなわの如し世の人我は」というのは、
  巻向《まきむく》の山辺とよみて行く水の水沫《みなわ》の如し世の人吾は(巻七・一二六九)
の歌で、人麻呂集から出ている。ただし「みなわの如く世をば我が見る」のほうは、いまだ検索しえない。なお人麻呂集には、
  水の上に数書く如きわが命を妹にあはむとうけひつるかも(巻十一・二四三三)
の一首であって、涅槃経の句によっているといわれている。これらは、人麻呂歌集の歌であるが、人麻呂作歌と題せられている歌にも、「飛ぶ鳥の明日香の川の、上つ瀬に石橋渡し、下つ瀬に打橋渡す、石橋に生ひ靡ける玉藻もぞ絶ゆれば生ふる、打橋に生ひををれる川藻もぞ枯るれば生ゆる」(巻二・一九六)の句には、人の去って還らぬことを歎く情を含み、「栲縄《たくなは》の永き命を、露こそは朝に置きて夕は消ゆと言へ、霧こそは夕に立ちて朝は失すと言へ――時ならず過ぎにし子らが、朝露の如、夕霧の如」(巻二・二一七)にも、人生無常の思想の流れていることを見る。これらに徴しても、「いさよふ波の行方知らず」が、作者の無常観を現わしているものと見てさしつかえなく、しかも宇治河の辺に立って、この観を成すに至ったのには、またそれだけの理由があったものと見るべきである。
 
(162)          四
 
 もののふの八十宇治河の歌から、一首置いて次に、次のごとき歌がある。
  淡海の海夕浪千鳥汝が鳴けば心もしのに古おもはゆ(巻三・二六六)
 この歌については、契沖も無常観に想いを寄せないで、巻の一にある「近江の荒れたる都を過ぎし時の歌」と同じく、近江時代のいにしえを思うとなしている。そうしてこれが、今日の通説となっている。
 千鳥は、渉禽類《しようきんるい》の一種で、冬季河海などの水辺に群棲する烏をいうのであろうが、当集にあっては、他の季節にも歌われている。
    夜の裏に千鳥の喧くを聞く歌二首
  夜ぐたちに寝ざめて居れば河瀬とめ心もしのに鳴く千鳥かも(巻十九・四一四六)
  夜ぐたちに鳴く河千鳥うべしこそ昔の人もしのび来にけれ(同・四一四七)
 越中の国での歌であるが、これらは三月に作られている。
    十二月内裏に侍ひて千鳥の喧くを聞きて作れる歌一首
  河渚《かはす》にも雪は零《ふ》れれし宮の裏に千鳥鳴くらし居む処無み(巻十九・四二八八)
 これは正月十二日の作である。
  清き湍《せ》に千鳥妻|喚《よ》び山の際に霞立つらむ甘南備《かむなび》の里(巻七・一一二五)
 これは作られた時期は不明であるが、春の歌のようである。
  佐保河の清き河原に鳴く千鳥|河蝦《かはづ》と二つ忘れかねつも(巻七・一一二三)
 これも作られた時期は不明であるが、河蝦に配したところは夏らしくもあり、また神亀二年(七二五)五月、吉野の離宮での笠金村の作にも、「上辺には千鳥しば鳴き、下辺には河蝦妻喚ぶ」と詠まれている。
(163)  夕霧に千鳥の鳴きし佐保路をば、あらしやしてむ見るよしを無み(巻二十・四四七七)
 この歌も時期は未詳であるが、秋らしくも思われる。
 かように、千鳥は冬よりもその他の季節に詠まれているものが多いのであって、したがって夕浪千鳥の歌の季節も、かならずしも冬季とは定めがたいようである。そこで千鳥の問題はそのままにしておいて、次に考えてみたいのは古《いにしえ》の語である。「古おもほゆ」の内容が、いかなるものをさしているかの問題である。
 古の語は、今日では古代の意に解し、少なくも数百年前の往事をいうとなすのが常識である。しかし当集にあっては、かならずしもそのような古い時代を意味していない。仮に近江の大津の宮時代のこととしても、その最後の年から人麻呂の盛んに作歌し始めた持統天皇の御代の初めまでは十五年しか経過していないのである。
 人麻呂の作品中イニシヘの語の見えるのは次の諸作である。
  (一)三雪ふる阿騎《あき》の大野に旗すすき小竹をおし靡《な》べ草枕旅宿りせす古昔念ひて(巻一・四五)
  (二)阿騎の野に宿る旅人うち靡き寝も宿らめやも古思ふに(同・四六)
  (三)古にありけむ人も我が如か妹に恋ひつつ宿ねがてずけむ(巻四・四九七)
  (四)今のみのわざにはあらず古の人ぞ益《まさ》りて哭《ね》にさへ泣きし(同・四九八)
  (五)古にありけむ人も我が如か三輪の桧原に插頭《かざし》折りけむ(巻七・一一一八、人麻呂集)
  (六)古家に妹とわが見しぬば玉の黒牛潟を見ればさぶしも(巻九・一七九八、人麻呂集)
 以上の諸例のうち、(六)が作者身上の往事であることには疑いがない。(一)(二)は、草壁の皇太子のいましし日のことで、これもわずかに数年前のことと思われる。(三)(四)(五)は、問題になると思うが、やはり作者に関係深い往事とするのを妥当と考える。
 このほかになお人麻呂と同時代の他の用例を考える必要があろう。そうしてそこには、「古ささきし我」(竹取の翁の歌)のごとく、自家身上の往事をいうものと、「古も然にあれこそ」(天智天皇三山の御製)、「古の賢しき人も後の世の鑑(164)にせむと老人を送りし車持ち帰り来し」、(竹取の翁の歌)のごとく、遠き昔をいうものとがあり、また「結松|情《こころ》も解けず古思ほゆ」のごとく数十年の昔をいう中間的のものとがあることが見いだされる。しかしながら人麻呂の作中にあっては、自家身辺の往事をいうと考えられることは、淡海の海の歌の解釈上、重要なる意味を有するものといわねはならない。
 人麻呂は、その近江時代において、千鳥の声にも悲哀を誘われる傷心のことに会したのではないかと考えられるのである。
 
          五
 
 人麻呂集には、近江の高島の作をとどめている。
  高島の阿渡《あと》河波は驟《さわ》げども吾は家おもふ宿りかなしみ(巻九・一六九〇)
  旅なれは三更《よなか》をさして照る月の高島山に隠らく惜しも(同・一六九一)
 高島は、琵琶湖の西岸にあり、北陸道の通路にあたっている。この歌の作者が、山を越えて北国に出たかどうかは、つまびらかになしがたい。この「高島の阿渡河波は」の歌は、人麻呂の、「石見の国から妻に別れて上り来し時の歌」の反歌の一なる、
  小竹の葉はみ山もさやに乱《さや》げども吾は妹おもふ別れ来ぬれは(巻二・一三三)
と同一の組織を有し、そのドモの用法は特殊であって、たぶん同一人の手に成るものと推定しえられるものである。
 巻の十四なる東歌の一首に、
  上つ毛野伊奈良の沼の大藺草《おほゐぐさ》よそに見しよは今こそ増《まさ》れ(巻十四・三四一七)
というのがあり、註して「柿本朝臣人麻呂歌集出也」とある。巻の十四には、この歌のほかにも、三四四一、三四七〇、三四八一、三四九〇の数首に、「柿本朝臣人麻呂歌集出也」と註し、またはその集との詞句の異を記しているものがあ(165)る。これらは、人麻呂集の歌が、『万葉集』の東歌の中に混入したと見るを、妥当となすべきであるが、とにかく人麻呂集がこれらの歌を含んでいたものと考えてよいのであろう。ところで、「上つ毛野」の一首は、今日、『万葉集』をとおして見る人麻呂集には存しない歌である。この歌は、序歌の体であって、いまだ人麻呂が上つ毛野に旅行したことを証明するに足りない。
 また人麻呂集から出た一首に、
  路の後深津島山しましくも君が目見ねば苦しかりけり(巻十一・二四二三)
というのがある。この深津島山は、備後の国であり、これも序歌の体であるが、特に深澤島山を提示したゆえんは、その作者が、この地に旅行したことを語るものであろう。しかしそれは筑紫に下った時のこととも見られるのである。
 右の歌と並んで、なお一首、
  紐鏡|能登香《のとか》の山は誰故ぞ君来ませるに紐開けず寐む(巻十一・二四二四)
というのがある。この能登香の山は、『大日本地名辞書』に、『美作名所栞』を引いて、美作《みまさか》の国勝田郡にある山としている。これは婦人の作と見られ、美作の国にあって歌い、または美作の国を通ってきた人に対して歌ったと見られる。その国は、大和から帚《ほうき》の国への通路にあたっているのである。
 最後に、人麻呂が石見の国に旅行したことは、「石見の国から妻に別れて上り来し時の歌」、および「石見の国に在りて死に臨みし時の歌」によって明瞭に知られる。この石見の国から、妻に別れて上ってくることを伝え、また石見の国で死に臨んだことを伝えているのは、石見の国におもむいてから、少なくも一度都に上ることのあったことを語っている。さような事情は、その国の役人として下った場合に、普通に起こる事柄である。当時、地方官は毎年税帳使として、上京することになっている。そのほかにも、部領使などで上京する機会があり、そういう際に、妻に別れて上京する作を残したのであろう。
 人麻呂の妻については、すでに所説をつくしたから、ここには所要以外に重ねて述べない。石見の国から上京した時(166)の妻は、後の妻であり、その国の角の里にいたことが歌によって知られる。
 国司が、その任地にあって、部内の娘子を娶《めと》ることは、例のあることである。今その知られているところを次に記す。
    門部の王の恋の歌一首
  飫宇《おう》の海の塩干の潟の片念《かたおもひ》に思ひや行む道の長手を(巻四・五三六)
   右は、門部の王、出雲守に任けらえし時、部内の娘子を娶りき。いまだ幾時《いくばく》もあらずして、既に往来を絶ち、月を累ねし後、更に愛心を起し、仍りて此の歌を作りて娘子に贈り致しき。
 これは出雲守門部の王が、その任地にあって部内の娘子を娶ったのである。
    抜気大首《ぬきけのおほびと》、筑紫に任けらえし時、豊前の国の娘子《をとめ》紐児《ひものこ》を娶《と》りて作れる歌三首(二首略)
  豊国の香春《かはる》は吾家《わぎへ》紐児にいつがり居れば香春は吾家《わぎへ》(巻九・一七六七)
 これは抜気大首が、九州のいずれかの任にあって、豊前の国の娘子を娶《めと》ったのである。
 
         六
 
 人麻呂は、石見の国から妻に別れて京に上りし時に、長歌二篇を残しているが、これは同一の時の作と見てよいのであろう。それは黄葉の散り乱れる頃であり、無事にその任を果たして任国に戻ったと思われ、その後、ついに石見の国にあって、死に臨んで一首の歌を詠んだ。
    柿本朝臣人麻呂、石見の国に在りて、死に臨みし時、みづから傷みて作れる歌一首
  鴨山の磐根し纏《ま》ける吾をかも知らにと妹が待ちつつあらむ(巻二・二二三)
の歌は、それである。
 この題詞に、「死に臨みし時」とあるので、人麻呂の位階が、六位以下であったろうということは、昔から説かれていた。石見の国は、中国であるから、その守といえども六位であり、おそらくは人麻呂は、それよりも下の役であった(167)のであろうとなされている。
 そこで、人麻呂が、石見の国に下った時、およびその死んだ時の年代が問題になるのである。まず人麻呂は、いつ頃まで京にいたかというに、文武天皇の四年(七〇〇)に、明日香の皇女が薨ぜられた時には、挽歌を詠んでいるから、その頃は都にいたと思われる。『続日本紀』によるに、同年三月、道照和尚物化し、弟子等、遺教を奉じて粟原に火葬した。天下の火葬はこれよりして始まるとある。しかるに、人麻呂の作品中「土形《ひぢかた》の娘子を泊瀬山に火葬せし時」(巻三・四二八)および「溺れ死にし出雲の娘子を吉野に火葬せし時」(同、四二九、四三〇)の作があって、これらは、文武天皇四年より後と認められる。また大宝二年(七〇二)の紀伊の国への行幸には御供をしており、巻の十三にある、人麻呂集から出た「葦原の水穂の国は云々」の長歌および反歌は、沢瀉博士の説のごとく、遣唐使に贈った歌と見られ、当時の遣唐使として大宝二年の粟田真人等一行の時のものとすれば、その頃もたぶん都にいたものであろう。
 石見の国に下ったのは、少なくもその後のこととせねばならぬ。人麻呂の死に関する諸作は、巻の二にあって、「寧楽の宮和銅四年」(七一一)の歌の直前にあり、これによれば、寧楽の宮以前に生を終わったことになるが、この配列の位置は、そのままにも信じられぬものであることは、他の例によっても知られるところである。
 新田部の皇子にたてまつった雪の長歌に、
  矣駒山《いこまやま》木立も見えず落《ふ》り乱れ雪の驟《さわ》げる朝《あした》楽《たの》しも(巻三・二六二)
というのがある。この初句は、細井本に矣駒山、『類聚古集』、神田本に矢駒山、西本願寺本等の仙覚本に矢釣山とあって、訓も古点ではイコマヤマと訓んでいたものである。肝腎の処に異伝があって、確証となしがたいのは遺憾であるが、古くは矣駒山とあったとなすべきがごとくである。八釣山ならば明日香の地であるが、矣駒山ならば、奈良の西大和河内にまたがる峻嶺である。唐招提寺は、新田部の皇子の旧宅を施して寺院としたものであって、その地は矣駒山を望むべく、八釣山では、地理に合わない。皇子が、今の唐招提寺の地を相せられたのは、都が奈良にうつされてからのことと考えられるので、人麻呂がもしその宮殿にあってこの歌を詠んだものとすれば、その生存時代は、奈良時代にわたっ(168)ているものとせねばならない。
 人麻呂は、亡き妻を求めて羽易の山を彷徨する歌があり、その山は、春日にある山として知られている。また人麻呂集の歌には、春日山、奈良山を詠んだものがある。これらも人麻呂の生存が、奈良時代にわたったとなす資料の足しにはなると思うが柿本氏は春日氏と同族であるから、特に春日の地方に何らかの縁故、たとえば祖先の祀などがないともいえない。また人麻呂集には、近江の字面があり、これはもと淡海であったものを、和銅に至って、諸国の地名に好字を付した際に、この字が宛てられたとも見られるが、これも人麻呂集の成立の問題の資料となるものであって、その集の文字が、人麻呂の自記によるものであるとなす証明が成立するまでは、時代考察の材料とすることは、さし控えねばならない。
 要するに人麻呂の歿年の時代は未詳というほかはないが、奈良時代にわたっているかとも考えられるという程度のことはいえるのである。その作歌の初期として考えられる天武天皇の庚辰の年(六八〇)から数えれば、平城宮を都と奠められた和銅三年(七一〇)まで三十一年であり、この数字を基調として、人麻呂の年齢は、五十を幾つか越したほどではなかったかと考えられるのである。
 
         七
 
 人麻呂は、その死に臨んで、鴨山の磐根し纏《ま》けるの歌を詠んだ。磐根し纏くの句は、熟語句であって、死んで墳墓に横たわることをいい、次のごとき用例がある。
  かくばかり恋ひつつあらずは高山の磐根し纏きて死なましものを(巻二・八六)
 鴨山の歌は、いまだ死せざる前に詠まれたものであるけれども、死後を予想して、鴨山の磐《いわ》に横たわれる自分を写している。そのゆえに、人麻呂の墳墓を、鴨山に求めるのは、順当の考えというべきである。
 ところで、人麻呂の死に対して、その妻|依羅《よさみ》の娘子は、次のごとき歌を詠んでいる。
(169)  今日今日とわが待つ君は石川の貝に交りてありといはずやも(巻二・二二四)
  直《ただ》の逢《あふ》はあひかつましじ石川に雲立ち渡れ見つつ慕《しの》はむ(同・二二五)
 ここには、その待つ君が、石川の貝に交りてあることを歌い、また石川に雲の立ち渡らんことを頼っている。貝に交りてあるという表現は、他に類を見ないが、
  鏡なすわが見し君を阿婆《あば》の野の花橘の珠に拾ひつ(巻七・一四〇四)
  玉梓《たまづさ》の妹は珠かもあしひきの清き山辺に蒔けば散りぬる(同・一四一五)
のごとく、死去した人を、珠に比して言う現わし方はあって、火葬による別れを歌ったものと認められている。遠きにいる人を雲に比して思うことは、生別にも、歌われているが、死別の場合に、火葬の煙を雲に比することが多い。土形の娘子を火葬した時の人麻呂の作、
  こもりくの泊瀬の山の山の際にいさよふ雲は妹にかもあらむ(巻三・四二八)
のごときは、その一例である。
 人麻呂が石見の国で死し、屍体のまま遠く運搬したとは考えられぬのであるから、これを火葬した石川の地は、死んだ場所から程遠からぬところと考うべきであり、その妻の依羅の娘子は、石川に雲の立ち渡るのを見つつ慕ぶべき地にいたことになる。かくて石川も石見の国に求むべく、その名は、諸国に類の多い名であって、石の目立つ川であったによるのであろう。妻の依羅の娘子も、かの角の里にいた妻と同人と認むべきである。
 その妻の歌に対して、丹比《たじひ》某は、人麻呂の意に擬して一首の歌を詠んでいる。
  荒浪に寄り来る玉を枕に置き吾此処にありと誰か告げけむ(巻三・二二六)
 この丹比某は、いかなる人とも知られないが、その歌によって、死せる人麻呂のいるところは、荒浪に寄り来る玉を枕に置くところであることが確かめられる。石川や鴨山は、この歌によって所在が検討せられねばならない。
 また右の歌に続いて、「或る本の歌」として、
(170)  天ざかる夷《ひな》の荒野に君をおきて念ひつつあれば生けりともなし(巻三・二二七)
の一首を伝え、その左註に「右一首の歌は、作者いまだ詳ならず、但し古本この歌を以ちてこの次に載せたり」とある。この歌ももし人麻呂の死を悼む作であるならば、その作者は未詳であるが、天ざかる夷に、死せる人麻呂のあったことを語ることになる。
 客死した地方官を、その任地に葬ることは例がある。大宰帥河内の王の卒した時には豊前の国の鏡に葬った。天平十年(七三八)の周防国正税帳には、大宰大弐小野朝臣の骨送使が筑紫に向って下ったことを語っており、たぶん筑紫に葬ったものであろう。同じ帳には同じく大宰大弐紀朝臣の骨送使が京に向ったことをも伝えて、この人は帰葬したようであり、同じ大宰大弐の白骨が、同じ年に東西に別れ葬られたのも不思議である。これらは身分も良い人たちであるが、それより下の者が、任地に墳墓を定めることは、ありうることであった。
 上代、皇室との御縁故の深かった和珥氏の流れを汲む柿本人麻呂の生涯を探ってついにその死に至った。解釈の幾通りにもできる伝記資料は、すべての上に確言する機会を少なからしめた。人麻呂の伝として新たに寄与しえた点は少ないであろう。
 
(171)   第四 柿本人麻呂の作品
 
     一 人麻呂以前
 
         一
 
 『古事記』『日本書紀』によって伝えられた、現存せるわが国最古の歌謡を、成立および伝来の方面から考える時に、そこにもいくつかの種類を数えることができる。伝来というのは、これらの歌謡が、成立してから、いかなる形で伝わっていたものを、『古事記』または『日本書紀』がとりあげたかの問題である。
 まず多数を占めていると思われるのは、歌曲の歌詞として成立し伝来したものである。『古事記』や『日本書紀』の歌謡の中には、名称を有するものがあり、これは『琴歌譜』などに照して、その歌の歌曲名であることが推定せられる。二書に共に載せている歌で、その一方に名称があり、他に名称のないものもあり、また全然名称を逸しているものでも、
なお歌曲の歌詞として伝えられたものと見てよいものもあるであろう。それらの歌曲は、来目歌《くめうた》における来目部、国栖歌《くずうた》における国栖のごとき、これを伝えた人々をあきらかにしているものもある。その他の歌曲も、それぞれ、それに縁故の深い氏族の人々によって伝えられたであろう。そうして宮廷における節会《せちえ》や、またはその他の機会に演出して行ったと考えられる。そのあるものは固定し、そのあるものは伝える人々によって多少の変化をも有していたであろう。そ(172)の歌曲には、物語をともない、その物語のゆえに、記紀に収載せられて残ったのである。
 これらの歌曲として伝えられたものも、その形体および性質は、かならずしも単一ではなく、長大なるものもあり、短小なるものの集合体、もしくは単独体のものもあって、その性質もまたそれに応じて相違している。神語、および天語歌のごときは、形体も長大であり、「事の語りごともこをば」のごとき、添加の詞を有している点に特色があり、語りものとしての分野を占めていたかとも思われる。その音声の出し方も、短小なるものに比べて、性質上の相違のあることが、神語もしくは天語歌の名において現わされているのであろう。『万葉集』中について、この系統のものを求めると、巻の十六にある竹取の翁の歌、同じ巻の乞食者の歌などが、その系統を伝えるものであろうか。『古事記』における応神天皇の御製の歌と伝えるところの、「この蟹や何処《いづく》の蟹」の歌は、比較的長篇の歌であるが、そこには蟹の道中が歌われ、「おし照るや難波の小江に廬作りなまりて居る」の歌にも、蟹の道中が歌われている。また、「いとこ汝夫の君、居り居りて物にい行くとは」の歌は、『日本書紀』における播磨の縮見《しじみ》の屯倉《みやけ》の室寿《むろほぎ》の詞の、「あしひきのこの片山の、さを鹿の角ささげてわが舞へば」の詞句と連絡があり、鹿舞の詞章として考えられる。竹取の翁の歌の解説はここには省略するが、古き芸能の詞章から出発したものであることは疑いを容れない。かような語りものの系統は、『万葉集』において長歌が雄大に発達することにあずかって力があったものと思われる。それは柿本人麻呂によって代表される途であり、かような語りものの系統を承《う》けることによって長歌が叙事的な方面への展開を得たものと考えられる。それは本質的には叙事詩ではなく、部分的にのみ叙事詩であり、音声に上せるにあたっても、活動的な音譜ではなく、跳躍の少ない音声として歌われたものであろう。人麻呂等は、こういう語りものの要素をとり入れることによって、長大なる作品を成すに至ったと考えられるのである。
 次に、記紀に収載せられたのは、同じく歌曲の歌詞としてであっても、その世間における伝来状態は、もっと自由であって、通用性が多く遊離しても伝えられていたものがあるであろう。たとえば、
  大倭べに西風《にし》吹き上げて雲離れそき居りとも吾忘れめや
(173)の歌は、『古事記』下巻仁徳天皇の巻に、「吉備の黒日売の献れる歌」としているが、『丹後国風土記』、浦島の物語には、
  大倭べに風吹き上げて雲離れそき居りともよ吾を忘らすな
として、神女の歌としている。また、
  梯立《はしたて》の倉椅山を嶮《さか》しみと岩懸きかねてわが手取らすも
の歌は、同じく『古事記』下巻に、速総別《はやぶさわけ》の王の女鳥の王と共に倉椅山に登った時の歌としているが、『肥前国風土記』には、杵島《きしま》山における歌垣の歌として、
  霰降《あられふ》る杵島《きしま》が嶽《たけ》を嶮《さが》しみと草取りかねて妹が手を取る
とし、また『万葉集』巻の三には、仙柘枝《やまひめつみのえ》の歌として、
  霰降り吉志美《きしみ》が嶽を嶮《さか》しみと草取りはなち妹が手を取る(三八五)
としている。これらは、歌曲中の一首が、流伝しているうちに、異説を生じたものともいえるし、そういうものもありうべきであるが、なお別に本質的に自由に行なわれていたものもあったとも見られるのである。この種の伝来の歌謡は、物語にとり入れられることによって、記紀に収載せられ、しからざる場合に収載せられなかったものが多いと考えられる。人々が場合に応じて、多少詞句を変更して歌うことも、この種の伝来の特質としてあげられる。前の歌曲としての伝来を、表立った存在とすれば、これはさらに広く世間に流布していることを特色とする。また歌詞の一部が変更せられるだけでなく、もっと全面的に創作せられる場合もあろう。次に、時世に関心を持って、これを諷喩しても作られ、またその他の場合の作品が、時世に関係あるがごとくに解釈せられるものもある。『日本書紀』における時人の歌、および童謡または謡歌のごときこの種に数えられる。時人の歌と称するものは、
  大坂に継ぎ登れる石村を手越しに越さば越しがてむかも(崇神天皇紀)
  や雲立つ出雲梟帥《いづもたける》が佩ける大刀|黒葛《つづら》さは巻きさ身無しにあはれ(同)
  朝しもの御木《みけ》のさを橋前つ君い渡らすも御木のさを橋(景行天皇紀)
(174)  畝傍山木立薄けど頼みかも毛津の若子の籠らせりけむ(推古天皇紀)
  太秦は神とも神と聞え来る常世の神を打ちきたますも(皇極天皇紀)
等である。なお当世詞人、または、ある人と伝えるものも、これに準じて考えてよいであろう。
 や雲立つの歌は、『古事記』には倭建の命の御歌として伝え、歌曲の歌詞としての伝来を有しているようであり、これによれは、一概にはいえないが、大体これらの時人の歌は、当事者の立場にある気分よりも、むしろ第三者として、事実に対し、その感想を述べているようである。そのあるものに至っては、詠史風に創作せられ、音声に出して歌われる機会もなかったのではないかの疑いもある。たとえば、太秦はの歌のごとき、そういう気分の濃厚なものとしてあげることができる。
 『日本書紀』の後半に見える、童謡および謡歌と称するものは、あきらかに時人の歌とは、違うところがある。それは内容、形体ともに、もつと自由な※[羈の馬が奇]束《きそく》しがたいものを持っている。
  岩の上に 小猿米焼く
  米だにも たげて通らせ 山羊《かましし》の老翁《をぢ》(皇極天皇紀、童謡)
  向つ峰《を》に 立てる夫らが
  にこねこそ 我が手を取らめ
  誰がさきで さきでぞもや
  我が手執らすもや(同上、三輪山の猿の歌)
  はろぼろに琴ぞ聞ゆる島の藪原(同上、謡歌)
  をち方の 浅野の雉子
  とよもさず 我は寝しかど 人ぞとよもす(同上)
  小林《をばやし》に 我を引きれて せし人の
(175)  おもても知らず 家も知らずも(同上)
  打橋の つめの遊に 出でませ子
  玉代《たまで》の家の 八重子の刀自
  いでましの 悔はあらじぞ 出でませ子
  玉代の家の 八重子の刀自(天智天皇紀、童謡)
  橘は おのが枝々 なれれども
  玉に貫く時 おやじ緒に貫く(同上)
  み吉野の 吉野の鮎
  鮎こそは 島辺も吉《え》き
  あ苦しゑ
  水葱のもと 芹のもと 吾《あれ》は苦しゑ(同上)
  臣の子の 八重の紐解く
  一重だに いまだ解かねば 御子の紐解く(同上)
  赤駒の い行き悍る 真葛原
  何の伝言 直《ただ》にし吉《え》けむ(同上)
 橘はの歌は、前の時人の歌に類するものがあるけれども、そのほかは、みな別種類のものであるといえる。それは大歌の世界とも、もちろん異なった内容および形体を有している。民間に流伝していたものを、政治上の諷意ありとして、史家が採り上げるに至ったという解釈は、さもあるべきである。
 最後に、同じく時に応じて作られるものであるが、かなり早い機会に記録を得てしまったと考えられるものがある。たとえば、斉明天皇の皇孫建の王の薨去を悲しまれた御製の歌、また蘇我の造媛《みやつこひめ》の薨去に際して、野中川原史満《のなかのかわらのふひとまろ》の奉(176)った歌などがあげられる。
 かように古歌謡の成立および伝来を、分類して考えると、歌曲として固定して伝えられたものと、民間にむしろ自由に歌い伝えられたものと、および時に臨んで新たに作られるものとの状態において、古代から万葉時代に受け継がれたものということができる。『万葉集』の歌人たちは、かような歌の世界にあって、自分のものを育てていったのである。しかしそこには、さらに他の方面から、大きく時代の影響というものを加えて考えてゆかねばならない。従来から伝えられたものに、ある変化が与えられる。それが時代の有する意義である。
 
         二
 
 たとえば、前記の野中川原史満の作歌を見る。これは天智天皇がいまだ皇太子にましました時に、皇太子妃であった蘇我の造媛が薨去せられたのを悼み奉って、皇太子に献上した歌である。
  山川に鴛鴦《をし》二つ居てたぐひよくたぐへる妹を誰か率《ゐ》にけむ
  本ごとに花は咲けども何とかもうつくし妹がまた咲き出来ぬ
 皇太子はこれを褒美し給い、御琴を授けてうたわしめ、絹四疋、布二十端、綿二※[果/衣]を賜わった。それはこの歌によく御心に触れ奉ったものがあるからであると拝察せられる。これは従来歌いきたって広く流布しているものにあらずして、特別にこの場合に即して歌い出たものであるからであって、この歌をもって、野中川原史満の創作であるとなすのが至当である。しかもこの「本ごとに」の歌は、『万葉集』巻の二十に、
  時々の花は咲けども何すれぞ母とふ花の咲き出来ずけむ(四三二三)
という歌がある。この歌は、遠江の国の山名郡から出た防人丈部真麻呂の歌として伝えられている。この二首は、いわゆる類想の歌であって、広く歌い伝えられていた歌から、同様に出発してきているのであろう。また第一の歌に、鴛鴦《おしどり》を用いたのは、シナ文学の影響が見られ、これを巧みに新しい歌として形成したと見られるのである。
(177) 畢竟広く歌い伝えられているものを基礎とし、時に臨んで新しい歌をも作り成す。それには当時すでに大陸文学の影響が与えられていることが知られる。これは結局時代の勢いであって、ここに歌の道における創作が発展するに至る経路が見られるのである。
 家族の延長である氏族の集まりを、社会組織の根幹としていた古代にあって、漸次に国家意識は強まってゆき、大陸との交通の頻繁になるにつれて、すべてを氏族から解放して、国家中心に集中する計画は立てられた。これすなわち大化の改新であって、孝徳天皇の大化二年(六四六)に発せられ、後、天智天皇の御代に至ってさらにその実があげられた。
 律令の整備、戸籍の作製等、諸般の施設は、成ったのである。
 文学の方面にあっても、一般文化の展開に並行して、新しい動きを見せたのであった。近江時代に漢文学の盛んに行なわれたことは、『懐風藻』に、「宸翰文を垂れ給ふ」といい、「麗草彫筆唯百篇のみにあらざりき」ともいっているによって知られる。天智天皇御製の漢詩文は、不幸にして残っていないが、弘文天皇の御製の詩は、数章を存し、天智天皇の御宴に侍し給うての一章のごとき、高大なる御詞藻を拝するに足る。これによっても、天智天皇の宮廷に、漢詩文の行なわれたことを知ることができる。そうしてかように漢詩文の取り立てられたことが、やがて歌の上にも影響を及ぼしてきたことは、自然の勢いというべきであった。
 歌の道の上に現われた大陸文学の影響としては、一は、創作意識の確立である。従来の歌の道は、伝えきたったものに、新しい製作が加えられてゆくけれども、誰の作ということは、作者自身も強い主張を持たず、他の人も多く意識することなしに、それからそれへと吟誦していった。古歌に、同一の作品に、作者の異伝のあるものが多いのは、人々が、自他の作品の区別なく歌い伝えたからである。しかるに今や、漢詩文の創作にあたっては、その一章ごとに作者の署名のあることを発見した。ここにおいて新しく作られた歌の記録は始まり、一々の作品にその作者を伝えることが、厳重に行なわれるようになった。これはやがて創意の尊重になり、人々の注意をひくに足る作品の製作に努力するに至った。
 従来歌は、実際の生活に即して歌われ、主なる題材を人事にとってきたのであったが、大陸文学の刺戟をいれて、こ(178)こに実際の生活とは直接関係のないところの風雅の方面に途を開くに至った。これは実際の生活にとっては、なくては成立しないという性質のものではなく、ただこれがあることによって、心の働きを豊富にすることのできる種類のものである。たとえば自然界に対して深い関心を持つに至ったことである。従来とても花の美しさのごときを愛してはいたが、そのことが、独立せる歌の中心になってはいなかった。しかるに今や、人生には、自然界が深い関係において存在することを知り、また人事上にも、生存上に必要なる生活以外に、なお豊富な生活の種類の存することを知るに至ったのである。歌の道が、この方面に展開せんとする端緒を示したのは、大きな変化といわねばならない。
 近江時代を中心として、その前後にわたって作歌を残している方に額田の王がある。額田の王は、鏡の王の王女で、初めに天武天皇のいまだ大海人の皇子と申された時代にお仕えして十市の皇女を生み奉り、後、天智天皇の近江の宮廷にも召され、晩年は大和の帝都に老を養っておられた。当時を代表するに足る才媛であったことは、その作品によっても窺われる。『万葉集』には、明日香の川原の宮に天の下知らしめしし天皇の御代よりして歌を伝えている。この天皇は、『万葉集』に、天豊財重日足姫の天皇の自註を有することにより、皇極天皇の御事と解せられているが、孝徳天皇の御事とする説もある。ところで額田の王の歌は、この歌を始め、その初期の作品には、作品に関して、類聚歌林に別伝を有するものの多いのが不審の点である。すなわちこの「秋の野のみ草刈り葺き」の歌は、類聚歌林に、「一書に戊申の年に比良の宮に幸しし時の大御歌」としている。これによれば皇極天皇の御製となる。また斉明天皇の御代に掲記せられている「熟田津に船乗りせむと」の歌も類聚歌林に天皇の御製とし、また天智天皇の御代に掲記せられている「味酒三輪の山」、および「三輪山をしかも隠すか」の二首を、同じく類聚歌林に、「遷2都近江国1時、御2覧三輪山1御歌」としている。これのみならず、類聚歌林の伝うるところは、『万葉集』と作者の伝えを異にしているものが多い。ただし作者の伝えを異にしているから、『万葉集』の編者は、これを参考として掲げたのであろう。それにしても『万葉集』の古い部分に、作者の異伝を存するものが多いのは事実である。これは従来の説のように、あながちに類聚歌林の杜撰《ずさん》をのみ責むべきではないかもしれぬ。その理由はさらに他に求むべきであって、古い時代の歌の性格からくるものと考(179)える方がよいのであろう。そういう世界の中に、額田の王は、創意に富んだ歌を作っていたということになる。
 額田の王の作品は、長歌三章のほかは短歌であるが、その長歌は、十八句より成るもの一、十五句より成るもの二であって、長歌としてはむしろ短いものである。その一首は反歌をともない、他の二は反歌をともなっていない。反歌をともなうことは、長歌として新しい形のものであり、たぶん大陸文学の影響を受けて成立した形と考えられるが、額田の王の、反歌をともなっている長歌は、次のごとくであって、長歌と反歌との関係が、きわめて密接にできあがっている。
  味酒 三輪の山 あをによし 奈良の山の 山の際に い隠るまで 道の隈 い積るまでに つばらにも 見つつ行かむを しばしばも 見さけむ山を 情無く 雲の 隠さふべしや(巻一・一七)
    反歌
  三輪山をしかも隠すか雲だにも情あらなも隠さふべしや(同・一八)
 この歌は、近江の宮廷から召されて、奈良山を越えておもむかれる時に、郷里の三輪山を顧みて詠まれた歌であるが、作者が、紙筆によってこの作を成したとも思われない。また天智天皇の七年(六六八)五月五日の薬猟の日に、時の皇太子にいました天武天皇と贈答せられた歌のごときも、たぶん歌垣の場におけるかけあいの歌のような形で贈答せられたものであろう。作者は教養のある方と考えられるが、歌の内容や作歌の事情は、いまだ筆紙による創作として見ることを躊躇せしめる。
 しかしながらそこに歌われた作者の熱情は、他に見られない特殊の美しい詞句となって現われていることも事実である。故郷の山に対する別離の悲は、多少類型的な対句を使用しているが、やはりこの人独得の清婉の感をもってよく描かれている。また「茜さす紫野ゆき」の句における溌剌たる才気は、容易に他の企及を許さざるものがあり、その創作の意義は十分に認めざるを得ない。
 しかしてさらに、詔に応じて春の花と秋の黄葉との美を論じた一篇のごときに至っては、ここにまったく口誦文芸た(180)る旧套を脱して、新しい世界を開拓したことになる。花や黄葉は、美しいには違いなく、従来といえども、これを認めないわけではなかったが、ここにはその実を抽出して取り扱っている。これは人間の生きるための生活上何ら必要のあるものではなく、生きている上における余分の世界であったのである。そうして歌の道において、かような方面を開いたことは、大陸文学の影響の結果といってよく、この歌は題にも、天皇、内の大臣藤原朝臣に詔して、「春山の万花の艶と、秋山の千葉の彩とを競はしめ給ひし時」とあるは、宮廷における文雅の御遊びの時のことであるから、他の廷臣は、たぶん漢詩をもって奉答した中に額田の王は歌をもって奉答したのが、ここに収められたものと見られるのである。そうしてこれこそは、紙筆に命じて製作せられたでもあろう。一句の音数もほぼ整っているのである。
 近江時代を中心とする額田の王の作品には、なお主脈として歌われる歌の性格を有していた。しかし漢文学によって刺戟せられては、一面に文雅の内容を盛った創作をも見るのである。これは才気の特にすぐれた額田の王によって描かれた波紋であって、一般にはもっと惰力に任せて、無自覚的な作歌を成していたものと思われるのである。
 
     二 人麻呂の時代
 
 
         一
 
 近江の宮時代に続く明日香の清御原の宮の時代は、概していえば、固有の伝統を尚ぶ風があった。文芸の上にも、その傾向が見られ、『万葉集』によって伝えられた天武天皇の御製の歌を拝しても、いずれも大歌、ないし口誦文芸風の御風格を見るのである。その吉野の宮にての御製の歌、
  良き人のよしとよく見てよしと言ひし吉野よく見よ良き人よく見つ (巻一・二七)
のごときにしても、その同音重畳の御技法は、吉野の宮で、御高唱あそばされたものであることを証している。また吉(181)野の神女の歌うところによって、五節の舞いの歌詞を御制定になったと伝えるのも、清御原の宮における歌の傾向を語るに足るものである。
 天武天皇の四年(六七六)二月には、大倭、河内、摂津、山背、播磨、淡路、丹波、但馬、近江、若狭、伊勢、美濃、尾張等の国に勅して、部内の百姓の、能《よ》く歌う男女、および侏儒伎人を選んで貢上せしめた。ここに能《よ》く歌うとあるは、もちろんその国の風俗に能あるをいうに違いないであろう。後、同じ御代の十四年(六八六)九月詔して、およそ諸の歌男歌女、笛吹の者は、すなわちおのが子孫に伝えて歌笛を習わしめよとある。また朱鳥元年(六八六)正月、御窟殿の前に御して、倡優等に禄を賜うこと差あり、また、歌人等に袍袴を賜うとある。歌男歌女歌人は、この時に召し出された者などを含むものと考えられる。これは歌われる歌に関する記事であるが、もってこの御代に、この方面に関心を有せられたことを証することができよう。
 天武天皇の皇子大津の皇子は、漢詩をよくせられ『懐風藻』にその作が残っているが、その題は、春苑宴のごとき、私宴の御作と認められ、侍宴応詔のごとき題を見ない。『日本書紀』に詩賦のおこるは、この皇子に始まるとしているのは、当時他に作家の伝うべきもののなかったことを語っている。皇子は、天武天皇崩御の年(六八六)に歿せられたのであるから、これをもって、清御原の宮の時代の文運が漢詩の盛行にあらざりしことを知ることができよう。
 しかしながら、一面において、大津の皇子の漢詩にあそばれたことも、また事実であって、新しい光を求めて動こうとする機運は、常に潜んでおった。人麻呂歌集によれば、天武天皇の八年(六八〇)庚辰の年に、七夕の歌は詠まれている(巻十一・一九九六−二〇九三)。この夕、天を仰いで、牽牛織女の恋を歎き、筆を執《と》って詩を賦し文を構うることは、大陸伝来の雅事であって、歌がこれに参することは、歌の上における大陸文学との接触面であったといえる。もちろんこれは一例にすぎないが、かような機会もあって、歌の道は、新しい段階に到達するものであった。
 ついで御位に即《つ》かれた持統天皇も、歌にすぐれさせ給い御製の歌には、特に新しい境地を開かせ給うたものがある。
  春過ぎて夏来るらししろたへの衣ほしたり天の香具山(巻一・二八)
(182) 藤原の宮付近から御展望になったのであろう。香具山の新緑に燃える樹叢の中に、白い麻衣が初夏の烈しい日に輝いている。こういう叙景詩は、今までの歌の世界に、かつて見なかったところであった。この歌の持つ空気は、あかるく、さわやかであって、夏の季節が、むしろ喜びをもって迎えられている。この御歌は時代に魁《さきが》けしたものではないかも知れぬけれども、その時代を代表する名篇とはいえるのである。天皇はまた行幸をしばしばせられ、御在位中、御譲位後を通じて、吉野の宮への行幸は数十度に及び、そのほか、紀伊、伊勢、参河等にもみゆきせられた。これらの行幸に供奉して、人々は歌の道にはげんだ。まさしくこの時代の歌の指導者にましましたと申すべきである。
 当時の藤原の宮の規模の、雄大であったことは、今日その遺址についても知られるところである。それは大陸の制にうるところがあり、新しき文化の結晶ともいえるのである。この時にあたって、歌の道が、新しき文学意識のもとに更生したのも当然であった。それは時の勢いであるが、同時にそこに動く人の力を見遁すわけにはゆかない。その人々は、柿本人麻呂、高市黒人、長意吉麻呂等であるが、中にも、人麻呂の事業がもっとも大であり、この人をもって、時代を構成する者となすべきである。もとよりこの人一人の力がよくこれをなしたのでもないかも知れないが、少なくとも、大きな力をもって人々のゆくべき途を示したのであった。ことに残っている業績から見れば、まさしくそこに大きな天才の働いていることを見るのである。
 人麻呂の作品の性格を二方面から眺めることができる。従来の伝統を受けるものと、新しく求め得たものと。この二方面は、結局融合して、人麻呂の全作品を構成しているのである。
 従来の伝統を受けるもの、それは歌いものの世界から受け継いだ遺産であった。柿本氏は和珥氏の支流であり、和珥氏は、『古事記』『日本書紀』によって伝えられる歌物語と関係が深く、その伝承者であったと考えられている。人麻呂もまた幼時からそれらの歌謡に親しんでいたであろう。それはおのずからその作品に現われているのである。人麻呂の生まれた年代は不明であるが、天武天皇の八年(六八〇)に七夕の歌を作っていることを認めるならば、近江時代もしくはその以前に生まれているであろう。その成育時代の人々は、歌は歌うものとしての常識に立っていたと考えられる。
(183) 文筆作品たる歌が、すでに生まれていたとしても、歌の本系は、なお歌いものの世界であった時代において、作歌者が、歌い手であるのは、自然である。人麻呂と同時代で後輩にあたると思われる長意吉麻呂《ながのおきまろ》のごとき、その歌を歌いあげて衆諸の興に応じていたのであろう。彼が常に詠む即興の歌は、声に出して初めて意味あるものであって、紙に書いて習うべき風雅の道ではなかった。その作には、独語的なるものに乏しくして、衆諸と共に楽しむ性格のものが多いの である。
 人麻呂もまた、ことにその初期の作品において、歌われたものが多いと見られる。
  大君は神にし坐せば天雲の雷の上に廬《いほり》するかも(巻三・二三五)
 この歌は、巻の三の初めにあって、天皇御2遊雷岳1之時、柿本朝臣人麻呂作歌一首と題詞がある。天皇は、いずれの御代とも知られないが、諸説多く持統天皇の御事としているのは、人麻呂作歌の盛期が、持統天皇、文武天皇二代の間にあるからである。古く考えれば天武天皇の御事であるかも知れないが、いずれにしても、明日香の清御原の宮にましました頃のことと見るべく、人麻呂にとって、その初期の作品となすことができる。この歌は、その思想の雄大なる点において、すぐれているのであるが、その思想の根幹を成すところの、「大君は神にし坐せば」の句は、他の数首の歌に見いだされる句である。その中には壬申の年の乱の平定せし後の大伴御行、および作者未詳の歌もあって、これらは、明日香の清御原の地に都作りせられたことを謳歌しているのであるから、まずもって人麻呂のこの作より前の歌となすべく、したがってこの句は、人麻呂の創意ではないことになる。しかも壬申の年の乱の平定せし後の歌というにも、すでに同じこの句をもって二首の歌を伝えているのであって、それよりも前にこの句を有する歌が行なわれていたと考えられる。そういう句を使って歌を詠むことは、歌いものとしては、常に行われることであって、何の不審もないことであるが、文筆作品になるに及んで、かようなことを嫌うようになるのである。
 この歌は、左註として、「右或本云、献2忍壁皇子1也。其歌曰、王神座者雲隠伊加土山爾宮敷座」の文を持っている。
 この左註の文は、たぶん人麻呂歌集によったものであろうと推定せられるのであるが、この献――皇子の文は、人麻呂(184)の作品、ならびに人麻呂歌集において、もっとも多く使用せられている字面である。人麻呂、もしくは人麻呂歌集の作者は、諸皇子方に歌をたてまつる。それらの歌は、はたして紙に書いてたてまつったであろうか。
 
         二
 
 人麻呂の諸皇子にたてまつった歌の中には、即興の歌と認むべきものをも含んでいる。
  とこしへに夏冬行けや裘《かはごろも》扇放たぬ山に住む人(巻九・一六八二)
 この歌は忍壁の皇子にたてまつった歌であって、仙人の形を詠んだものである。これは歌の題材として扱いがたいものを詠んだのであって、長意吉麻呂の諸作に見るがごとき性質のものである。意吉麻呂は数種の物を詠んだり、歌として取り扱いがたいものを詠んだりして、もっぱら時の興を助ける方面に進んだ。人麻呂にもそういう方面があり、ここに掲げた歌のみならず、猟の御供をしても詠み、雪の宴に臨んでも詠んだりしている。しかし人麻呂の作品は、かような即興の詩程度にとどまっていないで、さらに一歩を進めたところに、その独自の境地が開かれたのであった。
 吉野の宮での作歌は、人麻呂の作品中でも、重要な位置を占めるものであるが、その反歌に長歌の末尾をくり返して調子を整えているところは、歌いものから脱化したところがあり、人麻呂の作品中初期のものと考えられる。これらは同じくその宮で歌われたものと考えられる。皇子皇女の薨去に際して、その殯宮で詠んだ挽歌もまた、殯宮で吟誦したものであろうとする説は首肯すべきである。しかしその歌品が、いたずらに歌いものの旧態を守るにとどまらずして、形式・内容ともにいちだんの展開を示したのはやがて人麻呂の偉大なるゆえんである。
 人麻呂の作品に見いだされる、歌いものからきた要素は、なお詞句の末にまで及んでいるようである。その作品に常に見られる、「やすみしし吾が大君、高照らす日の御子」の句も、その一であろう。今日『古事記』『日本書紀』にはこのままの句を見いださない。ただ『古事記』の美夜受比売の御歌に、「高光る日の御子、やすみしし吾が大君」の順になった句を見いだすのみである。これらのほかに、「やすみしし我が大君、高照らす日の御子」と、熟した句を有する(185)歌があったかどうかは未詳というほかはないが、この句が、人麻呂の思想を表現するのに適切な句であり、したがってこれがしばしば用いられたものであることは知られるのである。そのほか古い枕詞を縦横に使用し、同時にこれに対して創意をも多く加えているのは、人麻呂の歌の性質をよく説明するものである。
 人麻呂の作品に、かように歌いものからきているものがあり、同時にこれに大陸文学の影響を加えて、その作品が成立している。しかしおしなべて歌いものといっても、それには種類のあることは前にも記したとおりである。大歌として宮廷において節会の折などに歌われるものは、早くから固定の傾向にあったと見られ、一般民衆の間にはこれに対してさらに流動する歌謡が行なわれていたと考えられる。紀記の歌謡について観る。その古い時代の歌謡と伝えられるものは大雅の風があり、悠揚として迫らざる気分をもっている。これに対して『日本書紀』の新しい時代の巻々に見える童謡、謡歌の類は、諷喩の情が露骨であり、歌品が下って見える。それは泰平の頌歌でなくして、民間憂憤の声であるからである。
 これらの童謡、謡歌を、古くから歌曲として歌い伝えてきたものに比ぶれば、種類の差が見いだされる。かような民間に行なわれた歌謡の傾向は、万葉時代を通じて、亡ぶことなく別途に伝わっていったものと考えられる。しかし人麻呂等の完成した万葉の主脈をなすものは、こういう系統ではなかった。それはむしろ大歌の洋々たる風雅の響であった。それは『万葉集』自体がその系統を伝えるものであり、人麻呂は、その伝統の上に立つものと見られるのである。『万葉集』の巻の第一を開く。巻頭の雄略天皇の御製「籠もよみ籠もち」、次の舒明天皇の御製「大倭には群山あれど」、次の間人老《はしひとのおゆ》の歌、「やすみししわが大君」の諸作は、みな大歌の正統を伝うるものである。ただその次の軍《いくさ》の王《おほきみ》の歌に至って、独語性が強くなり、大歌の歌風から出て、ここに一展開を成したことを見る。しかしそれも大歌系統の歌風が、大陸文化の影響を入れてここに至ったもので、童謡、謡歌の系統とはまったく別方面に進んだものである。『万葉集』の歌人たちの取り上げた系統は、要するにこれであった。その系統を取りあげて長大の雄篇も成されたのである。これはやがて文筆化する歌として、むしろ固定しておった宮廷の歌が取り上げられたのは自然である。そうしてここに一種(186)の形体が固定し、また一句の音数は決定した。
 以上のごとく歌いものから取り上げられて、文筆作品にまで展開した歌は、初めは歌いものである母体との連絡が感じられていたが、やがて人が変わり世が移るに及んで、完全に分離して文筆作品としての独立性を誇るようになったけれども、それはやがて紙面の上においてのみの生命に局限せられることになって、その結果はやがて平板に陥り、奈良時代末に及んですでに衰運に襲われたことは、余儀なき次第であった。現に同じく人麻呂において形式を完成したと認められる旋頭歌のごときは、その完成と同時にすでに衰運が萌《きざ》していた。それは結局旋頭歌となったことが歌いものから離れたゆえであった。ひとり短歌のみは、なお実際に歌いものとしての存在があって、その支持を受けていっそう隆昌になっていったと考えられる。
 人麻呂の作品は、実際上歌われたものであるにしても、これが紙面に記されているものは、もとさような成立過程をもっていたからである。ここにおいて全体の形式および詞句の上において、文筆作品としての整理が行なわれているのである。人麻呂が文筆作品としての歌の作者であったことは、彼が漢文学の知識に富み、その思想にも親しかったことによっても証明される。その歌集には七夕の歌が多数にあり、また仏教の無常思想を歌ったものも見いだされる。そのほか作品の文字使用法にもその筆の跡が残っているものとせられるならば、熟語やその他において、彼が漢文に通達した人であったことを証明するものが多いのである。長歌の構成や対句の表現などに漢文学の影響は大きく現われているのである。
 
(187)     三 人麻呂の思想
 
         一
 
 人麻呂の歌中における、「大君は神にし坐せば」の句が、よしその前から存在したものを踏襲したのであっても、天皇の神に坐します御徳を仰いで雷のようなおそろしいものの上に置くことは、人麻呂独自の思想というべきである。「赤駒のはらはふ田舎を都となしつ」とか、「水鳥のすだく水沼を都となしつ」とかいうに比して、天皇尊崇の思想の、はるかに壮大なのを見る。この壮大なる思想こそは、人々が人麻呂の作品に驚嘆した第一の理由であった。それは人々の言わんと欲して言い得なかったところであり、これに対しては、言われてみれば、いかにもという感を禁じえない。この点において、人麻呂は、人々に代って言う歌人であったのである。そうしてそれはやがて歌人の有すべき本格的の性質であるはずである。人麻呂が、歌人としての名声を、百世のもとにほしいままにしえたのも、まことに偶然ではなかったのである。
 天皇の神性を讃嘆して、雷のごとき神霊の上に、君臨し給うとなす思想は、吉野の宮にての長歌にあっては、山や川の神の奉仕の形において現われている。天皇が吉野の離宮の高殿にお立ちになって御覧になると、吉野の山や川は、それぞれに誠を致してお仕えする。山の神が、花黄葉を插頭《かざし》にするのは、調貢を奉るのであり、川の神が、上流下流に漁獲をなすのは、大御食に対して奉仕するのである。山や川は地上にある大いなる存在であり、ことに吉野の風光を構成するところの全部である。その神霊が、大君にお仕えするという思想は、真に雄大なる構想というべきである。この思想は、同時代の作者未詳の藤原の宮の役民の作れる歌において、天皇の大御心に対して、天地が感応して奉仕するという構想と共通のものであって、当代詞人の、天皇尊崇の情を窺うに足るものがある。
(188) これはもとより尊厳なる国体に基礎を有するものであるが、作者たる人麻呂その人について見るに、まずわが国民として生まれたこと、その家が皇室より出で、代々皇室と深い関係を有していたこと、人麻呂もまた出でて仕え、行幸にも供奉してその盛儀を観ていること、教養に富み、遠く神話時代からの歴史に通達していたこと、海外の事情にも暗からず国家意識の発達していたこと等が、その思想の根拠としてあげられるところである。
  大君の遠の御門とあり通ふ島門《しまと》を見れば神代し思ほゆ(巻三・三〇四)
 国土即王城の大思想は、その歴史的根拠として、神代を追憶する形をとって歌われている。現在の事実は、遠く神代において開始せられ決定せられたとなすのは、わが古典の根本義であって、人麻呂においても、明瞭にこれが出ているのである。神代における事実が、そのままにして今日に到れりとなすことは、やがて今日の世に神代を感ずることになる。吉野の宮で詠んだ長歌に、その時の御代を称して、山川も寄りて奉れる神の御代かもと歌った根拠は、ここに存する。
  大穴道少御神の作らしし妹背の山は見らくし好しも(巻七・一二四七)
  ひさかたの天つしるしと水無し川隔てて置きし神代しうらめし(巻十・二〇〇七)
  天地と別れし時ゆおのが妻然ぞ手にある秋待つ吾は(同・二〇〇四)
 これらの作品に現われている思想は、みな同様であって、純日本的なるものであるというべきである。これは結局人麻呂の時代および教養が、しからしめたものということができる。
 かくてこの作者は、山に対しても、七夕の行事に対しても、これが歴史的根拠を求めるところの思想家であった。されば、季節の移り変りを見ても、
  山城の久世の鷺坂神代より春は萌《は》りつつ秋は散りけり(巻九・一七〇七)
と歌って、その変ることなき進行を思っている。もし秋葉の揺落することを中心として歌われているならば、それはいわゆる無常思想を包蔵するものともいえよう。しかし春は萌りつつの一句において、秋は散りけりに対して、年々同じ(189)事件のくり返されることを歌っているこの歌は、なお神代より変らずして今日に至っていることを語るものと観るべきである。
 かような思想のもとにあって、神代の崇敬、およびこれにもとづく生活の行なわれることは当然である。
 人麻呂の作品には、天皇を神と称え奉れるもののほかに、国土山川の神霊をいうものがあり、また目に見えぬ存在たる神霊をいうものもある。
  ちはやぶる神の持ちたる命をば誰が為にかも長く欲りせむ(巻十一二四一六)
 ここには、生命の司配者としての神が信じられ、歌われている。神が、人の生命を保護し、これを栄えしめるとなす思想は、神霊を畏敬し、これが活躍を信ずる古人にとって、固有的に存したものであり、本集にあっても、作者未詳の、「霊ちはふ神も吾をばうつてこそしゑや命の惜しけくも無し」などの歌になって現われている。ここにおいて人麻呂集の、
  玉久世の清き河原に身祓《みそぎ》して斎《いは》ふ命は妹が為こそ(巻十一・二四〇三)
 ここには、身祓によって、神がその命を保持することが期待されている。斎いの思想は、神が人生を司配すとなすところに根拠があり、人々は、斎いの行事によって、神威の発揚を期するのである。
 言霊の思想も、またこれと関連して考うべきであって、ここにはさらに全面的に、国そのものが、言霊によって護持せられるとなしている。
  敷島の大倭の国は言霊のたすくる国ぞま幸くありこそ(巻十三・三二五四)
 この歌の意は、わが国が、言語の神霊によって、護持せられることを語っている。ここに言霊のたすくる国というは、山上憶良の歌には、「言霊のさきはふ国」とあり、積極的に国に対して、佑助を行なう義と解せられる。しかしてこの歌に前行する長歌においては、「葦原の瑞穂の国は、神ながら言挙せぬ国」と歌っている。神ながらの語は人麻呂の作品に数出しているところであって、神霊の厳在する事実のもとに、すべてのことが行なわれるとなす思想を語っている。(190)天皇は神にましますがゆえに、その御行動は神業であり、また国家自体としても、神なるがゆえに言挙なくして栄えるとなすのである。人麻呂は、その固有の神観の上に、国家意識の発達を加えて、これらの作を成した。
 すべてのことの上に、歴史的根拠を観ることが作品に現われて歴史的叙述となることは自然である。人麻呂がその長歌において、しばしば歴史的叙述に始まる構成を成しているのは、その思想にもとづくものである。日並みし皇子の尊の殯宮の歌において、天地の初めの神話時代から説ききたったのは、この皇子の御身分に応じた構成であった。高市の皇子の尊の殯宮の歌において、先帝天武天皇の御事蹟より起こって、その皇子の御事蹟に及んでいるのも、やはりこの皇子の挽歌たるにふさわしい雄大なる構成である。これに対して、明日香の皇女の殯宮の歌には、かような歴史的叙述はないが、その御生前の追憶に、詞句を費しているのも、皇女の挽歌だからであってこれもふさわしい。また自身の妻の死を悼む歌にも、その生前の追憶が歌われている。近江の荒れたる都を過ぎし時の歌においては、神武天皇の御代から説き起こして、天智天皇の御事蹟に及び、全篇追憶をもって主想としているのもその知識からいって当然のところである。その他、軽の皇子の安騎野に出遊せられた時の歌には、皇子の御父君なる日並みし皇子の尊の御事蹟を追憶し奉り、また一身上の追憶も多く歌われている。後、山部赤人に、追憶思想のゆたかな諸作があり、人麻呂の影響の及んでいることを見るのである。
 知識人としての人麻呂は、やはり、時代の波に乗って、大陸伝来の思想にも触れていたと見られる。彼の作品に、漢文および漢文学の影響の現われていることは、指摘せられるが、なお、無常思想のはいっていることも認められる事実である。
  もののふの八十宇治川の網代木にいさよふ波のゆくへ知らずも(巻三・二六四)
 宇治川の急流に、起こるかと見れば消えて跡なき波を眺めて、作者は今、その河岸に立っている。その心を忖度して、童心をもって波を眺めているとなすか、はたまたここに人生の倏忽《しゆつこつ》を感じているとなすかは、問題とするに足りる。しかしながら作者は、もとより多感の人であって、夕波千鳥の鳴く音にも往事を追憶しているのである。無心にしてこの(191)河波に対していることは考えられない。いわんや、他の歌の支持があるのである。
 明日香の皇女の殯宮の歌は、その御名にちなんで、明日香川の描写に始まっている。「飛ぶ鳥の明日香の川の上つ瀬に石橋《いはばし》渡し、下つ瀬に打橋わたす、石橋に生ひ靡ける玉藻もぞ、絶ゆれば生ふる、打橋に生ひををれる川藻もぞ、枯るれば生《は》ゆる」(巻二・一九六)と、その川の藻を歌っているのは、やがて次の「靡かひしよろしき君」を描かんがための準備であるが、ここに歌われていることは、明日香川の藻は、冬きたって枯れてもまた生い、流れのままに切れてもまた生えることをいい、その陰には、これに反して人は一度往いてまた還らぬものであることを思っていることは、十分に感じられるところである。世の中の常なきことを、露骨に歌ってはいないけれども、なおその底に流れる無常観を感じずにはいられない。
 さらにまた、
  巻向の山辺とよみて行く水の水沫のごとし世の人|吾等《われ》は(巻七・一二六九)
に至っては、人生を泡沫に譬えたものであって、無常思想からきていることは、いうまでもない。
  水の上に数書く如きわが命を妹に会はむとうけひつるかも(巻十一・二四三三)
 この歌も、仏教思想にもとづいていることのあきらかなものである。水の上に数書くごときは、『涅槃経』に出るという。この歌は、それを使って、しかも一方には、「うけひ」のごとき固有の信仰行事を歌っているところに、時代の意義がある。ここには、命についての説明は、知識であり、うけひをしたことは実生活である。海外との交通によって、受け入れられた仏教思想は、まず知識として、有識者の間にはいりきたったのであるが、実際生活に即しては、まだ融合しないものがあったと見るべきである。
 これらの歌に現われた無常思想は、前にあげた同一の作者の神観、世界観と矛盾するものがあるのではないか。たとえば、生命にしても、神のたもてる命と、水の上に数書くごとき命とは、思想的に別種のものであると見なされる。明日香の皇女の薨去は、文武天皇の四年(七〇〇)であり、その殯宮の挽歌は、人麻呂の作品中、作歌年月の知られる最後(192)のものである。その他の無常思想の作品も、これと共に、人麻呂の作歌時代の後期において、詠まれたものと考えられる。しかもそれは、ことに触れて感じやすい境遇にあり、詞句がたまたまこれに及んだものと見るべく、多くの諸作には、いまだその滲透を見ないのである。
 
     四 季節の動き
 
         一
 
 人麻呂が、わが国民の一人として、国家の観念に富み、純正なる思想の持主であったことは上記のとおりである。しかし彼は神について語り、神話について語っているけれども、自分の家の祖先を歌わず、また父母を歌わないことは、大伴家持等と相違するところである。家庭の人としては、妻を失った時の挽歌の中に、吾妹子が形見に置けるみどり子の泣くことを歌っているのみであって、ただ妻に関する歌の多いのが特色である。
 人麻呂の妻に関しては、別に詳しく述べたから、ここにはこれを省く。彼は舎人時代から妻を持ちこれと交通していた。この愛人に対する愛情は強くその作品に現われている。伊勢の国に行幸のあった時に、ひとり都にとどまって、行幸に従った愛人を想う歌には、その行程を想像して、感傷に堪えない心を歌っている。妻に別れ、また妻の死を傷む歌も多いが、楽しい心でその許に訪れる歌もあり、その家を出て旅に上った際に詠んだと思われる歌もある。
  妻もあらは採みてたげまし佐美の山野の上のうはぎ過ぎにけらずや(巻二・二二一)
 海中の島にたおれ伏している人を見ても、その家に残してきた妻を思いやる。その心はやがて作者自身の妻に対する心の反映というべきである。七夕の歌が多いのも、その身の上に思いなぞらえての歌があるのであろう。河を中に距てて年に一度逢う七夕の恋は、舎人としての作者の境涯に通うものがある。上日の数が積って、妻の許に訪れがたい場合(193)があって、おのずからにこれらの歌に現われているとも見られるのである。
 人麻呂には挽歌が多い。皇子皇女の殯宮で詠んだ歌は、おそらくはその場で歌いあげられたものであろう。それのみならず、吉備津の采女の死を傷み、また出雲の嬢子の死を傷みなどして、多くの人の死に触れている。中にも妻の死を傷む歌は痛切な響を残している。かくして人麻呂自身の死に臨んでは、またみずから歌を残した。もちろんこれらには、死のいかなるものであるかを取り扱ったものはなくして、主として残された人の悲哀を歌っているのは、当時の思想として自然の姿である。黄葉の散り乱れた山路に路を失って帰られなくなったと亡き妻を歌っているのは、死者がみずからこの世を去りゆくという思想から出て、亡き妻を思う情が写されている。その妻の面影を求めて、ひとり軽の市に徘徊して、畝傍山に鳴く鳥の声も開かずと歌っているのは、特に愛情の切なるものがあって、作歌に熟した頃の作であることを思わしめる。
 人麻呂歌集にある、妻の死後に、紀伊の国の海岸にひとり旅する歌は、従来あまり人目に触れなかったようである。その海山に旅寝して亡き妻の姿を求めるあたりは、しかしながら人麻呂の感情のよく出ているところである。もとめてもついに妻は逢うことなく、ひとり玉の浦に衣をかたしきて寝る自分を見いだした歌のごとき、痛切の情を語っている。
 人事方面に雄大な作品を残した人麻呂は、けだし従来の伝統をうけ、これを大成したものとしての性質が顕著であるが、一方に従来あまりなかった方面を開拓した作品としては、自然の姿や、季節の移り変りに心をとどめた短歌の上にこれを見いだす。芳野の離宮での作品は、その主想は、離宮の永遠に栄えゆくことを祝うにあるが、形としてはその山川の景勝を歌っている。山川の清き河内は、山と川とに分けて、よくその面目を描き出している。
  ぬばたまの夜さりくれば巻向の川音《かはと》高しも嵐かも疾《と》き(巻七・一一〇一)
  あしひきの山河の瀬の響《な》るなべに弓月《ゆづき》が嶽に雲立ち渡る(同・一〇八八)
 これらの歌に描かれた山川の風光は、清新にして、しかも強い力をもって描かれている。その自然に深く観入した作者にあって、始めて歌われるところである。〔次改行せよ〕
(194) 山の歌には高山を詠んだものはないが、天の香具山や巻向山など、みな美しい歌となって現われている。作者が山を愛したことは、「妹背の山は見らくしよしも」と歌い、また三諸山に並んで「巻向山は継ぎのよろしも」と歌っている。
 海の歌にはまた作者の旅行の経験からくるものが多く、種々の礒や波の姿を描いている。あるいはこれによって旅情を訴え、あるいは都近くなる喜びを描いている。しかしいずれも陰鬱なものはなくして、大きく明るく歌っているのはその特色である。波の立つことを歌い、郷里の山のこれに隠れて見えなくなったことを歌い、また風波のおそろしさをも歌っている。ここにも海洋に親しんだ人の生活が窺われる。
 四季折々の季節が、秩序正しく廻りゆくことは、わが本州の地の特色であって、人麻呂もまたその中に育ってきた。そこには春耕し秋収穫する穀物の一耕作をもって、一年として数えることが古くから行なわれていた。かような寒暑の往来につれて移りゆく季節のものの変化には、古人の心を動かすものがあったのである。霞、露、霧、雨、雪、雲、風のごとき、天象のさまざまのものがわが国の文学に特に取り用いられる材料であった。
  ひさかたの天の香具山此のゆふべ霞たな引く春立つらしも(巻十・一八一二)
 この夕つ方、たまたま見れば、天の香具山に霞がかかっている。季節はいつしか春になったのである。この形に現われたところを見て、暦の上に春のきたことを察する。これは自然に親しんでいる人々の上に、やがて、季節の上に月を立てて数える道がはいってきたことを語っている。自然を眺めて、これを知識の上に及ぼしたところにこの歌の時代的意味がある。人麻呂集において、春、夏、秋、冬の四季の分類がすでになされていたと考えられることは、やがてこの作者の季節に敏感であったことを語るものといってよいのである。この世を去りゆく人を歌うにしても、「黄葉の過ぎて去にき」と歌う作者は、季節の風物に触れて、心を動かす人であったのである。
 季節の動きは、古歌にあっては、人事歌謡の上に断片的にのみあらわれるところであったのを、近江時代に額田の王が、花と黄葉との優劣を歌によって判断することから、これを直接に歌に取り扱う道が開かれてきた。人麻呂の時代にあっては、季節は歌の道に全面的に乗ってきたのである。人麻呂の作品の多くに、季節に対する感情が窺われるのも、(195)この人を得て、またこの方面のいっそう広く開かれたことを示すものと見られる。
  妹が門入り泉河の常滑《とこなめ》にみ雪残れりいまだ冬かも(巻九・一六九五)
 作者はいまその妻の家を出て、旅に上った。泉河の岩床には、なお雪が残っている。季節はすでに春になったのに、しらじらと残れる雪の色を見れば、まだ冬であるのかと疑っている。ここにも実際の風光と季節との関係を取り上げて歌っている。かくのごとくにして、季節に対する関心は次々に高まってゆくのである。しかしここには残雪のような季節に関係のある風物に対して、作者の心が敏感に動いていることを見るのである。
 夏の木陰や残雪のような、従来はその美の認められなかったものが人麻呂の作品には美しい歌となって取り上げられている。夏や冬の過ごしがたかったところから、古くは春秋の歌のみ多かったのであるが、この方面にもようやく新しい道は開かれつつあったのである。人事の方面にその中心がありとされる人麻呂の作品も、一面にはまた自然歌人としての開拓的位置を語るところのすぐれた作品を見ることができるのである。旅に出て雨に濡れても「春雨に吾たち濡る」と歌った作者には、季節の観念が強く動いていたのである。
 
     五 歌体
 
         一
 
 大歌として宮廷に歌い伝えられた歌曲を中心に、民間一般にも歌われていた歌謡があって、歌の進んできた道は、決して狭いものではなかったのである。これらの歌は、従来から伝えられたものに、新来文学の刺戟を容れて、意匠を改め、詞藻の大いにおこらんとする機運にあった。柿本人麻呂は、この時に出て、伝えられたものの全部を受け入れ、さらに新粧をもつて、この道を広くしたのである。
(196) 神語、天語歌のような大歌の歌曲からきた、長歌の体の完成は、すでに前の時代に成されていたであろう。人麻呂は、これを受けて、いっそうその形体を整備し、長大にもした。人麻呂作の長歌は、雪の日に新田部の皇子にたてまつれる歌の十一句を最短とし、高市の皇子の尊の殯宮の歌百四十九句を最長としている。今、その短いものから順次配列すれば次のごとくになる。
  献2新田部皇子1歌           一一句反歌一
  軽皇子宿2于安騎野1時作歌       二五句反歌四
  長皇子遊2猟路池1之時作歌       二五句反歌一
  幸2于吉野宮1之時歌(その一)     二七句反歌一
  同        (その二)     二九句反歌一
  献2泊瀬部皇女忍坂部皇子1歌      二九句反歌一
  吉備津采女死時作歌          三四句反歌二
  過2近江荒都1時作歌          三七句反歌二
  従2石見国1別v妻上来時歌(その一)   三九句反歌二
  同           (その二)   三九句反歌三(或本四三句反歌一)
  讃岐狭岑島視2石中死人1作歌      四五句反歌二
  妻死之後泣血哀慟作歌(その一)    五三句反歌二
  同         (その二)    五七句反歌二(或本五五句反歌三)
  日並皇子尊殯宮之時作歌        六五句反歌二
  明日香皇女木※[瓦+缶]殯宮之時作歌 七五句反歌二
  高市皇子尊城上殯宮之時作歌      一四九句反歌二
(197) 柿本人麻呂歌集の歌
  葦原水穂国者             一六句反歌一
  物不念路行去裳            二二句
 右のうち「或本歌」を除いた長歌一首の平均句数は四十三句であって、高橋虫麻呂の平均三十三句、山部赤人の平均十九句に比して断然多いといえる。また人麻呂以前には、五十句以上の長歌は、一首もなかったのに、人麻呂には五首を数える。それは内容によって自然に長短があり、殯宮の時の歌が長大であり、雪の日の即興と見える歌が短小であるのは、いかにもと思われるところであるが、しかも妻に別れて上りくる時の歌が二首あって、いずれも長篇であるなど、要するに彼の構想が雄大であり、詞藻が豊富であるによるものである。
 人麻呂の長歌は、形体がよく整い、変形と見るべきものは少ない。わずかに、吉備津の采女の死んだ時の歌の末尾が、朝露のごとき、夕霧のごときとなっておって、普通の形よりも一句多く、葦原水穂国者の歌の末尾に、くり返しの一句が添い、物不念路行去裳の歌が、問答体を採って、普通の長歌形式二個を続けた形になっているのが、特異の点である。反歌は、物不念路行去裳の歌にないだけであって、その他は、いずれも一首ないし四首を有している。
 要するに人麻呂の長歌は、大歌の系統を受けて、さらに整備し発達せしめたものであることは、歌体の方面からも確められる。
 旋頭歌は、『万葉集』において、歌数が少なく、わずかに六十三首に過ぎないのであるが、そのうち人麻呂歌集の所出の歌が、実に三十五首を占めている。そのほか、作者の知られているものには、丹生の女王、山上憶良、藤原八束、高橋虫麻呂、紀鹿人、壬生宇太麻呂、大伴家持、元興寺の僧、遣新羅使人の作に、各一首があるのみで、他は作者未詳である。これをもって見ても、人麻呂以外に旋頭歌をよくする人のなかったことがわかる。この歌体は、もと二人の人が、それぞれ片歌の一を歌って問答したのを、後に一人でその全部を歌うようになって成立したものと考えられ、『万葉集』以前には、『古事記』に一首あるのみであった。一の表現様式として、旋頭歌を完成したことは、やはり人麻呂(198)の功績の一としてあげられる。その作品に、なお自問自答の気分が多く存しているのも、その労作の過程を窺うことができよう。
 短歌は、『万葉集』中、最大多数を占めている歌体であるが、人麻呂もまた、実に自由にこの歌体を駆使した。漢詩の絶句にも比すべきこの短詩形は、相聞などの会話性言語を盛るに適し、また※[羈の馬が奇]旅の作などの独語性言語を盛るにも十分である。わが国の人が、この短詩形を愛して、簡潔な言語をもって幽玄深奥の境地を写すに至ったその中興の存在として、人麻呂の位置は重要なものがある。
 また以上の歌体が、単独に存在せずして、数個の有機的結合によって成立しているものもある。長歌とその反歌との結合のごとき、その例であるが、なお短歌のみ数個結合して成立しているところの、いわゆる連作の短歌もある。伊勢の国に行幸せられた時に京にとどまって詠んだ三首の歌のごとき、個々の歌の集合として見るより、連作として見るべきものであって、その場合、第三首の、妹乗るらむかの句が、全体に対して、響きを持っていることがわかる。また、
  古にありけむ人もわが如か三輪の檜原に插頭《かざし》折りけむ(巻七・一一一八)
  往く川の過ぎにし人の手折らねばうらぶれ立てり三輪の檜原は(同・一一一九)
のごとき、完全なる連作として見るべきである。
 人麻呂が、その思想を歌うに使った歌体は、かように長歌、短歌、旋頭歌の三体にわたり、そのいずれにも偉大な事業を成しているが、この三体は『万葉集』における歌体の全部であるから、したがって『万葉集』における人麻呂の地位の重要性は明白である。ただ万葉時代においては、別にもっと自由な民衆の口から口に流れている歌体があつたと思うけれども、『万葉集』自体が、おおむねその方面を顧みること少なく、ひたすらに文筆作品の方向に進んでいるのであり、人麻呂は、けだしその方向の指導者であったと考えられる。
 
     六 言語現象
 
         一
 
 以下、かような歌体の上における言語表現の方法について、順を追うて記してみよう。
 語彙。人麻呂の作品に使われている語彙は、豊富であるといえる。人麻呂は、しばしば、同一の題目のもとに二首の長歌を詠んでいるが、それらの間には、あまり重複して用いられた詞句を見ない。「吉野の宮に幸しし時」の二首の長歌では、「やすみししわが大君」の句が、重複し、「石見の国より妻に別れて上り来し時」の二首の長歌では、「石見の海、玉藻なす、顧みすれど」の三句が重複し、「妻の死にし後泣血哀慟して作れる二首の長歌」では、「吾妹子が、為むすべ知らに」の二句が重複しているだけである。同じ「玉藻なす」の句を受けても、一方に「寄り寐し妹を」といえば、他の方には「靡き寐し児を」と変えて歌っている。また対句表現にも、「念へりし妹にはあれど、憑めりし児らにはあれど」のごとく、同一の内容をも、常に分かって別語をもって対句として歌っているのであって、その使用し得た語彙のゆたかなことを語っている。
 たとえば、一個の神の語を使うにしても、その構成する句の種類は次のごとくであって、いかにも応用の広く変化の多いことが知られる。
  神からか、神宮に、神風に、神さびせすと、神集ひ、神分ち、神上り、神葬り、神さぶと
  千万神の、真神の原に、
  川の神も
  神ながら
(200)  神のことごと、神の命と、神の命の、神の御代かも、神の御面と
  神にし坐せば
 ここには人麻呂歌集所出の分を入れなかったが、これを入れれば、さらに変化の数が多くなるのである。これらによっても、人麻呂の語彙の豊富なことがわかるのである。
 人麻呂の語彙が、前行せる歌謡からきているものの相当に多いことは争えない事実である。しかし人麻呂の知識の上に、どれだけの歌謡があったかは、もちろん測りがたい。ただ記紀の歌謡に使われている語彙が、ここにも見いだされることを知るのみである。したがって人麻呂が、この方面においてどれだけの創意を持っているかもあきらかにされない。また人麻呂の後継者は、人麻呂の語彙を、多く受けているようであり、人麻呂独創のもので、『万葉集』にはその用例を多く見いだし得るものもあるであろう。ただ吾人は、畳有、敵見有、御在香、小角、※[風+票]、神の御面、荒床、島門、おびゆる、鳥穂自物等の詞句が、集中には、人麻呂以外に用例を見いださないことを知る。「うつせみと思ひし時」(または妹)の句も、他に見ないし、「夕浪千鳥」の語も他に見ない。これらは人麻呂が新たに作歌に拾いあげたものもあろうし、またその新造語もあるであろう。ちはやぶるは、枕詞としては用例が多いが、「ちはやぶる人を和《やは》せと」のごとく、内容の続く句としての用例は他になく、しかもこの用法は、『古事記』などにおける古い用法に一致するものである。その和《やわ》せの語も、古い伝承文芸からきているようであり、本集では、後に大伴家持がこれを使っている。「か行きかく行き」、「か寄りかく寄り」のごとき句も、人麻呂特有の句で、やはり後に、家持が、「か行きかく行き」を使っている。
 人麻呂の作品に使用した言語は、歌体におけると同様に考えても、当時の民衆の口語でなくして、古風な歌謡およびこれが系統を引く歌謡に用いられた種類のものであろう。さらにいえば、人麻呂歌集から出た「物不念路行去裳」の歌は、特に民謡風のものであるが、それに使用せられている、「にほえ嬢子」「さかえ嬢子」のごとき、また「末枝をすぐり」のごとき、たまたまにして見る口語風の言語ではなかろうか。この「すぐり」は他に所見がないが、巻の十三、十(201)四などに見える、「寄そり」「寄そる」と類似しているようであり、また「泣くり」はないが、巻の十四に「泣くる」があって、これも口語風の語と考えられるから、これらに準じて口語ではないかというのである。
 ともあれ、人麻呂の語彙が、一般には高雅であることは認められる。同時に、その創意にかかる造語、および採択があって、古風な言語を活用しながらも、清新の気分さえ感じさせるのである。
 
         二
 
 修辞。歌において特に発達した修辞として、枕詞は、人麻呂の作品において盛んに用いられ、八十個の多きに上っている。これには人麻呂歌集の歌を入れず、また「或る本の歌」「一に云ふ」の類を入れない。これらを入れると、使用回数の調査などに、正鵠《せいこく》の数字を得がたいからである。
 一、正接。枕詞の意味が、そのまま次の詞句の意味に接続してゆくもの。枕詞を受ける詞句が、ただ一つの意味に用いられているものである。
  イ、説明叙述
    あかねさす  日 又
    あまぐもの  雷
    あまざかる  鄙 又
    あまづたふ  入日
    いさなとり  海 又
    かすみたつ  春
    きもむかふ  心
    くさまくら  旅 又 又
(202)    こもりくの 泊瀬 又
    しきたへの  袖 又 衣 枕 手枕
    そらにみつ  大倭
    たかてらす  日 又
    たかひかる  日
    たまかぎる  夕 石垣淵
    たまもよし  讃岐
    ふゆごもり  春さる
    ももしきの  大宮 又
    ももへなす  心
  ロ、譬喩
    あきやまの  下べる
    あさどりの  通はす
    あまつみづ  仰ぐ
    あめつちの  いや遠長く
    あめのごと  ふりさけ見つつ
    いりひなす  隠る
    うづらなす  い這ひもとほる
    おきつもの  靡く
    おほふねの  思ひたのむ 又 たゆたふ
(203)         わたりの山
    おほゆきの  乱る
    かがみなす  見る
    かりごもの  乱る
    さかどりの  朝越ゆ
    さねかづら  後も会ふ
    ししじもの  い這ふ 又
    たくなはの  長し
    たまもなす  寄る 靡く か寄りかく寄る
    つるぎたち  身に副ふ 又
    つゆじもの  置く
    とりじもの  朝立つ
    とりほじもの 腋挟む
    なつぐさの  思ひ萎ゆ 又
    なよたけの  とをよる
    ぬえどりの  片恋
    ぬばたまの  夜 又 夕
    はふつたの  別る
    はるとりの  さまよふ
    はるばなの  貴し
(204)    まそかがみ  仰ぐ
    もみぢばの  過ぐ 又
    もちづきの  たたはし いやめづらし
    ゆくとりの  争ふ
    ゆふづつの  か往きかく往く
    ゆふばなの  栄ゆ
    わかくさの  妻
 二、転接。枕詞の意味が、次のある詞句のみに接続するもの。枕詞を受ける詞句の意味と、下文に対する意味とが、両様に使われているものである。
  イ、説明叙述
    あさもよし  城上
    あづさゆみ  春 又
    あまかぞふ  凡津
    あまとぶや  軽の市
    あらたへの  藤江の浦
    いはばしり  淡海
    おほとりの  羽易の山
    くしろつく  手節の埼
    ことさへく  辛の埼 百済の原
    こまつるぎ  和射美が原
(205)   たまだすき  繋く 畝火 又
    たまだれの  越智野 又
    つぬさはふ  石見
    つまごもる  屋上の山
    ともしびの  明石大門
    みけむかふ  城上
    みこころを  吉野
    やくもさす  出雲
    やまのまゆ  出雲
    わかごもを  猟路の池
  ロ、音声
    つがのきの  いや次々に
    ふかみるの  深む
 三、未詳。枕詞自体の意味未詳のもの、およびこれを受ける詞句との関係未詳のもの。
    あぢさはふ  目言
    あをによし  奈良
    たまづさの  使 又
    たまほこの  道 又
    とりがなく  東国
    ひさかたの  天 又 又 又 又 又
(206)    やすみしし  わが大君 又 又 又 又 又 又
 以上によって、人麻呂の枕詞の使用法の分野は明白である。同じ音声を利用した機械的の用法は、きわめて少なく、わずかに二例を見るのであって、その他は、説明叙述、および譬喩のごとき、智的なる用法のものである。これらの用法には、「ひさかたの天」「やすみししわが大君」のごとき、従来のものをそのまま使用したものと、さらに新意を加えたものとがあり、またまったく創意によって作られたと見えるのもある。
 記紀の歌謡にあっては、枕詞は、正接のものが多く、転接のものは、地名・人名等の固有名詞以外には、あらたまの年、および月があり、「たまきはる内の朝臣」も、あるいはそうかと思われる程度である。同じ音声を利用したものには、「若草の若く」など、多少見いだされる。これに比較して、人麻呂の枕詞は、大体同じ傾向を踏むものであり、これに新意の加えられていることを見るのである。
 
         三
 
 序詞。人麻呂作歌と題せられているものの中における序詞は、次の十例である。
 一、譬喩
  見れど飽かぬ吉野の川の常滑の 絶ゆることなく(巻一・三七)
  妻ごもる屋上の山の雲間より渡らふ月の 惜しけども隠ろひ来れば(巻二・一三五)
  埴安の池の堤のこもり沼の 行く方を知らに(同・二〇一)
  もののふの八十 うぢ川(巻三・二六四)
  三熊野の浦の浜木綿 百重なす(巻四・四九六)
  玉かぎる石垣淵の こもりのみ(巻十一・二七〇〇)
  をとめらが袖 ふる山の水垣の 久し(巻四・五〇一)
(207) 夏野ゆく牡鹿の角の 束の間(巻四・五〇二)
 二、音声
  楽浪の志賀の辛埼 幸くあれど(巻一・三〇)
  ひさかたの天づたひ来る雪じもの 往き通ひつつ(巻三・二六一)
 右のうち、「楽浪の志賀の辛埼」の例は、主題の提示を、そのまま序に応用したので、他の例と変わっている。「妻ごもる屋上の山」の例も、実景を序に使っている。また、「もののふの八十宇治川」「をとめらが袖ふる山」の二例は、句の途中において序が言い懸けになっており、「をとめらが」の例は、また序が二重になっている。これらの複雑なる用法は、人麻呂に至って発達したものということができる。そうしてそこには理智的な歌才のはたらきを見るのである。
 「ちはや人宇治」という古歌謡の枕詞が、ちはや人、勇猛な人から、武士を連想して、「もののふの八十宇治川」の序詞となったと見られる。この序は、「藤原の宮の役民の作れる歌」にもあり、その歌と人麻呂との関係は、未詳というほかはないが、人麻呂の他の序には、いずれも創意が認められ、これのみが他の創意を襲用したということも考えがたいことである。
 主題として提示したものを、そのまま序に利用することは、人麻呂歌集にも、
  巻向の穴師の川ゆ往く水の絶ゆることなくまた顧みむ(巻七・一一〇〇)
などある。人麻呂歌集には、これのみならず序詞を使った歌が多い。その序詞は、いずれも独創に富んでいるものである。
 一、譬喩
  み吉野の三船の山に立つ雲の 常にあらむと(巻三・二四四)
  剣大刀鞘に 納野に(巻七・一一七二)
  妹が門入り 泉川(巻九・一六九五)
(208)  春草を馬 咋山(巻九・一七〇八)
  春さればしだり柳の とををにも(巻十・一八九六)
  秋山のしたびが下に鳴く鳥の 声だに(同・二二三九)
  秋の夜の霧立ち渡り おばほしく(同・二二四一)
  秋の野の尾花が末《うれ》の 生ひ靡き(同・二二四二)
  人の親のをとめ子据ゑて 守る山辺から(巻十一・二三六〇)
  百積《ももさか》の船榜ぎ入るや 占さして(同・二四〇七)
  をとめらを袖 ふる山の水垣の 久しき(同・二四一五)
  遠山に霞かがふり いや遠に(同・二四一六)
  宇治川の水沫逆巻き行く水の 事反さず(同・二四三〇)
  沖つ藻を隠さふ波の五百重波 千重しくしくに(同・二四三七)
  近江の海沖榜ぐ船に碇おろし かくれて(同・二四四〇)
  白檀石辺の山の 常石なる(同・二四四四)
  香具山に雲ゐたなびき おぼほしく(同・二四四九)
  雲間よりさ渡る月の おぼほしく(同・二四五〇)
  天雲の寄り合ひ遠み 相はねども(同・二四五一)
  高山の峯の朝霧 過ぎにけむかも(同・二四五五)
  わが夫子が浜行く風の いや達に(同二・二四五九)
  山の端をさし出づる月の はつはつに(同・二四六一)
  三日月のさやにも見えず雲隠れ 見まくぞ欲しき(同・二四六四)
(209)  山萵苣《やまちさ》白露しげみ うらぶるる(同・二四六九)
  湖《みなと》にさねはふ小菅 しのばずて(同・二四七〇)
  山代の泉の小菅 おしなみに(同・二四七一)
  見渡しの三室の山の石穂菅 ねもころ(同・二四七二)
  水底に生ふる玉藻の うち靡き(同・二四八二)
  珍《ちぬ》の海の浜辺の小松 根深めて(同・二四八六)
  礒の上に立てるむろの木 心いたく(同・二四八八)
  橘のもとに吾立ち下枝取り 成らむや(同・二四八九)
  高山の峯行く獣《しし》の 友多み(同・二四九三)
  隼人の名に負ふ夜声 いちじろく(同・二四九七)
  朝づく日向ふ黄楊《つげ》櫛 古りぬれど(同・二五〇〇)
  まそ鏡手に取りもちて 朝な朝な見れども(同・二五〇二)
  うま酒の三諸の山に立つ月の 見がほし(同・二五一二)
  新治の今作る路 さやかにも(巻十二・二八五五)
  八釣川水底絶えず行く水の 続ぎてぞ(同・二八六〇)
  礒の上に生ふる小松の 名を惜み(同・二八六一)
 二、譬喩兼音声
  春さればまづ三枝《さきくさ》の 幸くあらば(巻十・一八九五)
  宇治川の瀬々のしき浪 しくしくに(巻十一・二四二七)
  鴨川の後瀬しづけみ 後もあはむ(同・二四三一)
(210)  荒礒越え外行く波の 外心(巻十一・二四三四)
  淡海の海しつく白玉 知らずして(同・二四四五)
  春楊葛城山に立つ雲の 立ちても(同・二四五三)
  ぬばたまの黒髪山の山草に小雨ふりしき しくしく(同・二四五六)
  たらちねの母が飼ふ蚕の繭ごもり こもれる(同・二四九五)
  肥人の額髪結へる染木綿の 染みにし(同・二四九六)
 三、音声
  路の後深津島山 しましくも(巻十一・二四二三)
  淡海の海沖つ白波 知らねども(同・二四三五)
  大船の香取の海に碇おろし いかなる(同・二四三六)
  淡海の海沖つ島山 奥まけて(同・二四三九)
  道の辺の草深百合の ゆりにとふ(同・二四六七)
  湖《みなと》葦に交れる草の知草の 人皆知りぬ(同・二四六八)
  路の辺のいちしの花の いちじろく(同・二四八〇)
  平山《ならやま》の小松がうれの うれむぞは(同・二四八七)
  天雲に翼うちつけて飛ぶ鶴の たづたづし(同・二四九〇)
  山川の水陰に生ふる山草の 止まずて(巻十二・二八六二)
  浅葉野に立ち神さぶる菅の根の ねもころ(同・二八六三)
 これらの序詞を用いた歌の大部分は、相聞の歌であるが、その序に用いられた事物と、当事者との関係は、一切知ることを得ない。関係の深いものを使ったのもあるであろうと推量するにとどまる。しかしこれらの序の使い方は、縦横(211)無尽に才気を振るっており、その作者と見られるところの、人麻呂、およびその愛人の歌才の非凡なことを語っている。これだけある中で、前行のもののあることを証明しうるものは、一つもない。
 
         四
 
 譬喩。枕詞や序詞には、譬喩が多く用いられていることは、上記のとおりであるが、その他にも少なからず見いだされる。いま、人麻呂作歌中、枕詞、序詞以外の譬喩に使った事物を種類別にしてあげてみよう。
 天地
  ひさかたの天見る如く仰ぎ見し皇子の御門(巻二・一六八)
  あかねさす日は照らせれどぬばたまの夜渡る月の隠らく惜しも(同・一六九)
  渡る日の暮れぬるが如照る月の雲隠る如(同・二〇七)
  ととのふる鼓の音は雷の声と聞くまで(同・一九九)
  とり持たる弓弭のさわぎみ雪ふる冬の林に飄かもい巻き渡ると思ふまで聞きのかしこく(同・一九九)
  露こそは朝に置きて夕には消ぬといへ霧こそは夕に立ちて朝には失すといへ(同・二一七)
  時ならず過ぎにし子らが朝露の如夕霧の如(同・二一七)
  捧げたる幡の磨きは冬ごもり春さり来れば野ごとにつきてある火の風のむた靡くが如く(同・一九九)
  この川の絶ゆることなくこの山のいや高知らす(巻十八・四〇九八)
  明日香川しがらみ渡し塞かませば流るる水ものどにかあらまし(巻二・一九七)
 動物
  吹きとよむる小角の音は敵みたる虎かほゆると諸人のおびゆるまでに(巻二・一九九)
 植物
(212)  走り出の堤に立てる槻の木のこちごちの枝の春の葉の茂きが如く念へりし妹にはあれど(巻二・二一〇)
  玉藻なすか寄りかく寄り靡かひし妻の命(同・一九四)
  立たせば玉藻のもころ臥せば川藻の如く靡かひし(同・一九六)
 器物
  ひさかたの天ゆく月を網に刺しわが大君は蓋《きぬがさ》にせり(巻三・二四〇)
  白栲の天領巾がくり鳥じもの朝立ちいまして(巻二・二一三)
 以上のごとく、天および天象もっとも多く、地文のこれにつぐを見る。器物の二例も、蓋《きぬがさ》および領巾であるが、これはその譬えられる正体が、月および雲であって、やはり天象のうちに属する。これによって、たやすく人麻呂の念頭に浮ぶところが奈辺にあったかを知ることができる。
 藻を譬喩に使ったのは、右の摘出では、わずかに二例に過ぎないが、枕詞としての譬喩の数を加えると、人麻呂が、藻を愛し、これをもってしばしば婦人の姿体を描いたことが知られる。これは他の作者に少ないところであるから、人麻呂の特色の一つとしてあげることができる。これは当時としては、清新にしてしかも適切な感じを与えたものであろう。
 明日香の皇女の殯宮の歌のごときは、全篇が明日香川を題材として、譬喩を主体とする構成が強く感じられる。譬喩に使う事物を叙述することによって、歌い起こされているものには、石見の国から妻に別れて京に上った時の歌の第一首などがある。また短歌では、一首全体が、譬喩になっているもののあることは、前掲の例によって知られる。高市の皇子の尊の殯宮の時の歌のごときは、皇子の軍威を、鼓、小角、幡、弓弭、矢のそれぞれを、譬喩でたたみかけてきた技法が効果を与えている。譬喩は、人麻呂の作品では、種々変化して現われ、重要なる位置を占めていることが知られる。
 人麻呂歌集にも、もちろん譬喩が多い。有名なのでは、
  天の海に雲の波立ち月の船星の林に榜ぎ隠る見ゆ(巻七・一〇六八)
(213)のごときがある。これは漢文学の影響を受けていると見られるが、人麻呂の思想傾向によく一致して、この作を得たものと考えられる。
 特殊の譬喩として、他の事物を説明するに、自己をもって譬喩とするものがある。
  古にありけむ人もわが如か妹に恋ひつつ寐ねがてずけむ(巻四・四九七)
 いにしえにあった人の、その妻に恋して、眠りを成しかねたであったろうと推察するに、わがごとくにかと譬えている。この例は、人麻呂歌集にもあって、やはり人麻呂の開発した一方面と見なされる。
  古にありけむ人もわが如か三輪の檜原に總頭《かざし》折りけむ(巻七・一一一八)
 ここにも自己を譬喩に使って古人の行動を推測している。これらの歌に現われているところは、古人の所為が主題になっているけれども、それはもちろん、仮の相であって、本意は、作者自身が、妻を思って眠りを成しかね、また三輪の檜原に插頭を折ったことにあるのである。それを古人を借りきたって説明したのであって、実は、古人のほうが譬喩になっているのである。
 
         五
 
 対句。人麻呂の作品に現われた対句には、全然同一の句をくり返しているものを見ない。対句は元来は同一の句をくり返すことから起こったものと考えられるが、『万葉集』にはいっては、すでにそういう純粋なる歌いものから離れているのである。
 もちろん歌われている歌には、同じ意味の言葉を重ねてくり返すことは、常に行なわれていることである。これは『万葉集』にも引き継がれて、たとえば、「籠もよみ籠もち」の歌にも、「おしなべて我こそ居れ、しきなべて我こそ居れ」のごとき形となって現われている。人麻呂の作品にもこの種類のものは見いだされる。
  大宮は此処と聞けども、大殿は此処と云ヘども(巻一・二九)
(214)  念へりし妹にはあれど、恃めりし児らにはあれど(巻二・二一〇)
 これらは同一の内容を言葉を換えて説明し、これによって意味を強調してきただけであって、対句としては原始的なものである。
 人麻呂の作品に多く用いられている対句は、もっと進んだ程度のものであって、対句の形をとって実現することによって、広い範囲のことを説明し、またはあることをくわしく説明するのである。
  春草の繁く生ひたる、霞立つ春日の霧れる(巻一・二九)
  舟並めて朝川渡り、船競ひ夕川渡る(同・三六)
 これらの対句使用法は、きわめて巧みであって、これによってその情景を描くがごとくに写し出している。
  秋山のしたべる妹、なよ竹のとをよる子ら(巻二・二一七)
 一個の婦人を描くのであるが、まったく変わった語を使ってその美しい姿を巧妙に描き出している。対句の最高潮に達したものということができる。
 人麻呂の対句は、ただ二句を単にならべただけでなくして、長い対句もあり、また対句からさらに対句に続く形もある。また場合によっては、これらの対句は、かならずしも形の同一なることをもってせずして、変わった形において相対しているものもある。「芳野の宮に幸しし時の歌」には、山の神と川の神との奉仕を対句の形で描いている。それはかならずしもその句の形が同一に構成されていないのである。
 畳《たたな》はる青垣山、山祇《やまつみ》の奉る御調《みつき》と、{【春べは花かざし持ち、秋立てば黄葉かざせり】}逝《ゆ》き副《そ》ふ川の神も大御食《おほみけ》に仕へ奉ると、{【上つ瀬に鵜川を立ち下つ瀬に小網さし渡す】}(巻一・三八)
 この、前の八句は、山の神の奉仕を説き、後の八句は、川の神の奉仕を説いている。しかもそのそれぞれが、「春べは花折りかざし」と、「秋立ては黄葉かざせり」とが対になり、また「上つ瀬に鵜川を立ち」と、「下つ瀬に小網さし渡(215)す」とが対になっている複雑なる対句というべきである。
 高市の皇子の尊の殯宮の時の歌には、皇子の御軍の威勢を描写するにあたって、同じく対句が用いられている。その鼓、小角、幡、弓弭、矢のそれぞれを、対句で描いているが、いずれも適切な譬喩が用いられて構成されている。その各句は、長い句もあり、短い句もあって、かならずしも一定していない。
 さらに明日香の皇女の殯宮の時の歌、石見から妻に別れて都に上り来る時の歌、吉備津の采女《うねめ》のみまかりし時の歌のごとき、全体において対句が重要なる位置を占めており、これによって叙述がなされているといってよい。いま吉備津の采女のみまかりし時の歌を例にあげる。
  【秋山のしたべる妹なよ竹のとをよる子ら】}は、いかさまに念ひ居れか、栲綱《たくなは》の長き命を、{【露こそは朝に置きて、夕に消ゆと言へ霧こそは夕に立ちて、朝は失すと言へ】}梓弓音聞く吾も、髣髴《ほの》見し事悔しきを、{【敷栲の手枕纏きて剣刀身に副へ寐けむ】}若草のその夫の子は{【さぶしみか念ひて寐らむ悔しみか念ひ恋ふらむ】}時ならず過ぎにし子らが{【朝露の如夕霧の如】(巻二・二一七)
 かようにまったく対句を、その表現様式の主体としていることがわかる。
 人麻呂の対句は、かように発達しているものであって、しかも古い伝統を受け継いでいるものが多いのである。その中には、古い歌謡の対句に、往々にして見受けられるところの、対句の前半はそのまま終止し、後半のみが後の文に続いてゆく形のものがあるが、人麻呂の作品にもなおその形を残しているものがある。たとえば「高市の皇子の尊の殯宮の時の歌」の冒頭の句は、「かけまくもゆゆしきかも、言はまくもあやに畏き、明日香の真神の原に云々」となっているが、このかけまくも、ゆゆしきかもは、それで終わり、これに対する「言はまくもあやに畏き」は後に続いてゆく。また讃岐の狭岑の島に石中の死人を視て作った歌の後部は、「荒床により臥す君が、家知らば行きても告げむ、妻知らば来も問はましを、玉桙の道だに知らず、おぼほしく待ちか恋ふらむ、愛しき妻らは」となっているが、この中、「家(216)知らば行きても告げむ」と「妻知らば来も問はましを」とは対句になっており、この「家知らば」のほうは作者が行って告げようということで、それで終わり、「妻知らば」のほうは、「玉桙の道だに知らず云々」に続いてゆくのである。これらは人麻呂が古い対句の用法をよく理解して、それを受け継いでいるものということができる。
 後の作家の対句になると、いたずらに句を美しくするために、対句の構成をとるものがあり、これがために事実の描写に矛盾を生ずるに至るものがある。たとえば神岳に上って山部赤人の作った歌に、「春の日は山し見が欲し、秋の夜は川しさやけし、朝雲に鶴は乱れ、夕霧に河蝦は騒ぐ」と歌っているが、ここには春の日と秋の夜との光景を対句で表現して、いま、現にそのいずれであるかを明らかになしがたいものがある。また内野に行幸のあった時に、中皇命の仰せによって、間人老の作った歌には「朝猟に今立たすらし、夕猟に今立たすらし」とあって、これもその今が朝であるか夕であるかを混雑せしめる。人麻呂の対句にはかような矛盾性のものはない。吉野の歌には、「春べは花折りかざし、秋たては黄葉かざせり」と、春秋を対にしているけれども、それは吉野の山の性質を概念的に説明したものであって、現在の描写ではないから、別段さしつかえはない。また、「舟並めて朝川渡り、舟競ひ夕川渡る」も、朝に夕に船を漕ぎ出すことを歌っているので、現在の描写とは言いがたい。これらの歌にあっては、かような説明的な句よりも、実際を描写したはうがいっそう効果的であったろうというけれども、ここではその問題を別として、これがために一首の内容が矛盾してしまうことのないのを想うべきである。近江の荒れたる都を過ぎし時の歌に、「春草の繁く生ひたる、霞立つ春日の霧れる」と、春の景を叙して対句にしたのは、実際を写したものとして効果が多いが、それに註して「或るは云ふ、霞立つ春日か霧れる夏草か繁くなりぬる」とあるのは、春と夏とを対句にしたものであって、これはよろしくないのである。ことに春日か、夏草かと疑問の助詞を用いたのは、現に見ている形に対して歌ったものとしては不思議に感ぜられる。これはおそらくは歌い伝えたものが誤ってかような伝来を残したものであろうと思われる。これを除いては対句による内容の矛盾を人麻呂はなしておらぬのである。
 
(217)     七 長歌の構成
 
         一
 
 長歌は一形体が長大であるがゆえに、内容をどのように布置配当するかは、重要なる問題である。これが適当になされることによって、その表現は成功し、Lからざる場合に失敗する。大伴家持の長歌が、短篇のものを除いて多くは弛緩の譏《そしり》を免れないのは、他にも理由があろうが、一にはここに顧慮することなく、ただ平板にことを運ぶのみに終始しているためであると考えられる。
 この点において、人麻呂の長歌は、実によく構成されている。それはかならずしも一律ではなく、題材に応じて内容の適当なる布置配当がなされている。まずその作品の根拠を成すところの事実の叙述を、主題叙述部とすれば、これに先行する前提叙述部を有するものと、しからずして、すぐに主題叙述部にはいるものとがあり、この叙述部の後には、その主題叙述にもとづく作者の感想の表示が行なわれるのを通例とする。この叙述部および感想部の二部構成は、古歌謡において、もっとも普通に見られる形である。たとえば、
  大倭には群山あれど、とりよろふ天の香具山登り立ち国見をすれば、国原は煙立ち立つ、海原は鴎立ち立つ……叙述部
  うまし国ぞ、あきつ島大倭の国は……感想部(巻一・二)
のごとくになっている。この表現構成は人間の神経系統の活動の原則に準拠するものであって、まず視聴等の感覚機関によって知覚し、しかる後に感情意志の発動に及ぶのである。このゆえにこの構成は、その作品の性質として、素朴、純粋、率直等の性質を与え感銘を強からしめる効果に富む。人麻呂の諸作が、この構成をとっていることは、伝統を受(218)けた自然の結果であり、これに複雑性を与えていることは、その才能と努力との結果である。
 いま、人麻呂作の長歌の表現構成の方式を、一、前提叙述部を有するもの、二、前提叙述部を有せざるもの、三、叙述後感想の方式によらざるものの三類に分かって観察しよう。
 一、前提叙述部を有するもの
  イ、前提叙述部の存在の明瞭なもの。
    歴史の叙述を前提とするもの
     日並みし皇子の尊の殯宮の時の歌
     高市の皇子の尊の殯官の時の歌
    地理的叙述を前提とするもの
     讃岐の国の狭岑の島に石中に死人を見る歌
     泊瀬部の皇女忍坂部の皇子に献れる歌
     明日香の皇女の殯宮の時の歌
     石見の国より妻に別れて京に上る時の歌の第一首
     同上の第二首
 以上のごとく、人麻呂の長大なる作品は、多くこれにはいっている。これらの前提叙述部は、歴史のごとき時間的叙述によるものと、地理のごとき空間的叙述によるものとがあり、いずれも、その主題叙述の前衛として、その部分にはいる準備を成し、気分を整えるに役立つものである。それで、その主題叙述部の性質に応じて、適当なる選択がなされている。皇子の薨去にあたって歴史的叙述のごとき堂々たる前提がなされ、その他の場合には、またしかるべき前提がなされている。泊瀬部の皇女忍坂部の皇子に献れる歌は、河島の皇子の薨去の時の歌と解せられるが、特に皇女にたてまつる場合であったがゆえに、明日香川の玉藻によって歌い起こして御生前の追憶に及んだものであろう。讃岐の国の(219)狭岑の島の石中に死れる人を悼む歌は、讃岐の国の叙述から歌い起こしているが、その叙述は雄大に過ぎて、その主題叙述に適しない感がある。
 前提叙述部が主題叙述部に対して、いかなる関係において接続するかについてはやはり二種の方式がある。一は、純粋に内容において接続するものであり、日並みし皇子の尊、高市の皇子の尊の殯宮の歌、讃岐の国の狭岑の島の歌はこれに属する。他は、前提叙述部は、次の部分に譬喩もしくは枕詞として使用されてある詞句を引き出すために役立っているもので、上の三例を除いた他の四例が、これに属する。この後の四例は、いずれも前提部は藻を描写しており、その藻が、次に譬喩もしくは枕詞として使用され、それはいずれも婦人の姿体を描く点において共通している。これは確かに人麻呂の表現構成の方式の一特質といってよいものである。
  ロ、前提叙述部より直に主題叙述部に接続するもの。
     近江の荒れたる都を過ぎし時の歌
     妻の死りし後泣血哀慟して作れる歌の第一首
     同上の第二首
 近江の荒れたる都の歌は、歴史的叙述によって起こしているが、文を改めずして主題なる天智天皇の御事蹟に続いている。これは全体を雄大にする効果があり、前項の歴史的叙述を前提とする二篇に準ずるものである。妻の死りし後の二作は、一は地理的な説明に起こり、他は生前の追憶に始まっている。この二作は、やはり文を改めずに主題に接続しており、その前部は、前提でなくして、すぐに主題の叙述であるともいえるが、主題の気分の構成に関して、準備的な性質にあることは事実である。そうしてその第二首にあっては、過去の追憶が、主題の提示にあたって、譬喩として役立っていることは、また前項の藻に寄する諸作と類似している。
 二、前提叙述部を有せざるもの。
 特に前提叙述部と称すべきものなく、またあってもあまり目立たないで、すぐに主題叙述部にはいるものがある。こ(220)れには、堂々たる内容のもので、前提を有することをかえって煩わしとするものと、および即興の小品たる性質のものとの二方面がある。
 堂々たる内容を有するもの。
    吉野の宮に幸しし時の歌の第一首
    同上の第二首
 即興の小品たる性質のもの。
    長の皇子の猟路の池に遊《いで》ましし時の歌
    新田部の皇子に献れる歌
 この項の諸作は、いずれもやすみししわが大君の句に始まっている。この句は荘厳無比の句で、前提は不必要であって、かえって荘重味を失するおそれがある。ことに吉野の二作は、内容の雄大性を確保するために、直接に主題の叙述から歌い出したことが、きわめて適切であった。この二作は、感想部を明瞭に備えているが、他の二作は、感想部はあっても、その移り目が、文を改めていない。この後の二作は、一は猟場の説明、他は雪の説明から、これを利用して感想部に移ってゆく手段に、共通点がある。これは、主題である事実と、これに対する感想との間に、密接なる関係を有することを表現する巧みなる行き方である。これは即興の作と見るべく、正式の表現様式を具えざるところに妙趣がある。
 三、叙述後感想の方法によらざるもの。
 人麻呂の作品には、例外的に、叙述部と感想部との二部構成の様式によらないものがある。これは、即興の小品ではなく、むしろ様式の上に、ある変化を求めたものと考えられ、その例に属する二作は、またそれぞれに別の形を採っているのである。その二作は、
    軽の皇子の安騎野に宿りましし時の歌
(221)    吉備津の采女の死りし時の歌
 安騎野の作は、前提なくしてすぐに主題の提示に始まること、前の吉野にての作に似ているが、これは終わりに至るまで主題の叙述であって、感想部と称すべきものを見ない。その主部に対する感想は、反歌において現われているのであって、長歌が叙述部であり、反歌が感想部であるがごとき観を呈している。また吉備津の采女の死りし時の歌は、同じく主題の提示に始まっているが、感想部が叙述部と合併して進行している。これはその題材に適応したゆき方で、両部の融合が巧みになされている。すなわち初めに「秋山の下べる妹、なよ竹のとをよる児ら」と、その麗人を描き、次に「露こそは朝に置きて夕は消ゆといへ、霧こそは夕に立ちて朝は失すといへ」と、譬喩によって無常観を点出し、さてその残した愛人がいかに思い歎いているであろうかと叙し、最後に、「朝露の如」「夕霧の如」と、時ならず過ぎにし君を写し、前に出した譬喩に呼応して留めている。これはしかしながら、明日香の皇女の殯宮の歌にも、すでにその一端の見いだされる技法であった。かの殯宮の歌では、まず御名にちなめる明日香川に生うる藻を叙し、その藻は、絶ゆれば生い、枯るれば生えることを述べて、皇女のひとたび逝いてまた還りまさざることに対して、反対の譬喩をなしている。明日香の皇女の殯宮の時の歌は、文武天皇四年(七〇〇)の作であって、人麻呂の作品中、年代のあきらかに知られるもののうちの最後の作であるが、この吉備津の采女の死りし時の歌は、その構成の円熟している点において、さらにその後の作ではないかと思わしめるものがある。
 人麻呂歌集所出の二長歌は、また叙述部と感想部との二部方式によっていない。「葦原水穂国者」の歌は、前提叙述部はあるが、感想部は独立せずに、主題叙述部に融合している。これは題材が、壮行の性質にあるからであろうが、もし大宝二年(七〇二)の遣唐の時の作とすることが認められるならば、人麻呂の後期の作であって、変化を求めたものといえる。「物不念路行去裳」の歌は、問答体を採っており、これは多くの文雅な作品の類と、その趣を異にしているものであって、その問答のそれぞれが短歌の延長であるがごとき性質を有しているのであるから、かの順序の正しい二部様式を踏襲せぬことが、かえって情熱的な内容を盛るに適しているのである。
(222) 前提叙述から主題叙述へ、主題叙述から感想へ、人麻呂の作品は、理路整然として秩序を保って進行する。全体としての統一を保ち、起伏あり照応あり、効果的に全篇が構成せられている。長歌と反歌とが、渾然として一体を成している例は、安騎野に宿りましし時の歌にこれを観る。長歌から反歌への接続が、有機的に行なわれている例は、吉野の宮での二作に、これを観る。吉備津の采女の歌は、插入された露と霧との対句が、結末に至って照応を成して、深い感銘を与え、明日香の皇女の殯宮の歌は、終始、明日香川を材料として、つくるところなき追憶を写している。吉野の宮にて、妻の死りし後、石見の国から京に上る時の三題は、いずれも同一の題目のもとに、二篇の長歌をとどめている。その二篇が、それぞれに同一の時か、または別の時かはあきらかでないけれども、その間には変化があり、決して単調を感じさせない。かえって年代を隔てていると思われるところの、泊瀬部の皇女と忍坂部の皇子とにたてまつれる歌と、明日香の皇女の殯宮の歌との間に、構成上共通点の多いのを見る。明日香川の藻を写すことによる前提叙述、薨去せられた御方の御事、残された御方の御事の順序による構成は、よく一致している。前者は情熱的であり、後者は整然としている点に、それぞれの特色があって、人麻呂の作歌年代の推移を語っている。これらは比較的短い文章を積み上げてできているが、近江の荒れたる都を過ぎし時、安騎野に宿りましし時の歌のごときは、全篇一文でできている。高市の皇子の尊の殯宮の歌は、全篇一文ではないが、その前半は、非常に長い文章でできている。
 要するに人麻呂の長歌作品の表現様式は、それぞれの内容に応じた方式を採っているのであって、これがその作品の効果を強くしていることは争えない事実である。これは彼が頭脳的な歌才を有している歌人であったことを証明するものといってよいのである。
 
(223)     八 短歌作品の表現
 
         一
 
 わが国の歌謡は、音節の数の上に形体上の基礎を有しており、原始歌謡にあっては、音節の数の少ない句の次に、その多い句があり、この二句が単位となって進行するのが原則であった。そうして多くの場合、最後に至って変化を生じ、音節の数の多い一句が置かれて終止する形を採っておった。かような古歌謡のうち、一章五句から成るものは、特殊の曲調を有するに至り、後、音節の数の少ない句が五音節に、音節の多い句が七音節に整理せられるに及んで、ここに五句三十一音節の短歌の歌体は固定した。
 かくのごとくにして成立した短歌は、その初期においては、その歌われる曲調が、成立過程を出発点とするものであったと考えられ、文字に写された歌詞も、なお二句切の格調を有していた。すなわち
  八雲立つ 出雲八重垣
  妻ごみに 八重垣作る
  その八重垣を
のごとく、第二句および第四句において、文末もしくは句末となる。二、三句、および四、五句の、それぞれの接続は、初二句、三、四句の接続よりもいっそう分離した関係にあったのである。その後、四、五句の関係は、まず密接し、ついで二、三句の関係も、密接して、その代りに、三、四句の関係が分離して、いわゆる三句切の格調を生じた。
 『古事記』『日本書紀』に載っている五句体の歌は、おおむね二句切であって、三句切と見られるものはきわめて少ない。『古事記』に四十首のうち三句切三首、『日本書紀』に六十五首のうち八首である。『古事記』の三首は、
(224)  やつめさす 出雲梟帥《いづもたける》が 佩《は》ける太刀  黒葛《つづら》さは纏《ま》き さ身無しにあはれ
  梯立ての 倉梯山は 嶮《さが》しけど
  妹とのぼれば 嶮しくもあらず
  御諸の 厳榎《いつかし》がもと 橿がもと
  ゆゆしきかも 橿原をとめ
 また『日本書紀』の八首は、
  赤珠《あかだま》の 光はありと 人は言へど
  君が装《よそひ》し 尊くありけり
  八雲立つ 出雲梟帥《いづもたける》が 佩《は》ける太刀
  黒葛《つづら》さは纏《ま》き さ身無しにあはれ
  淡海《あふみ》の海《み》 瀬田の渡《わたり》に かづく鳥
  目にし見えねは いきどほろしも
  淡海《あふみ》の海《み》 瀬田の渡《わたり》に かづく鳥
  田上《たなかみ》過ぎて 宇治《うぢ》に捕《とら》へつ
  臣《おみ》の子は 栲《たへ》の袴を 七重をし
  庭に立たして 足結《あゆひ》なだすも
  大倭《やまと》の 忍《おし》の広瀬を 渡らむと
  足結《あよひ》たづくり 腰づくろふも
  太秦《うづまさ》は 神とも神と 聞えくる
(225)  常世《とこよ》の神を 打ちきたますも
  橘は おのが枝々 なれれども
  玉に貫《ぬ》く時 おやじ緒《を》に貫く
 以上の歌は、歌いものたる性質のものもあり、また時人の作と伝えるものもある。『日本書紀』の、八雲立つ、太秦はの二章は、それである。かような三句切の歌は、歌詞は三句切になっておっても、歌う時には、二句切の曲調に合せて歌ったのか、または、曲調も共に三句切に移っていったものかは、つまびらかでない。
 『万葉集』にはいると、三句切は、その数を増してくる。明白に三句切と認むべきもののほかにも、意味においては、二句の次に句切を有していても、格調上なお三句切と見なさるべきものがあって、三句切の勢いの増大してきたことを覚える。たとえば『万葉集』における短歌を、初めから順にあげる。
  たまきはる 内の大野に 馬並めて 朝踏ますらむ その草深野(巻一・四)
  山ごしの 風を時じみ ぬる夜おちず 家なる妹を かけてしのびつ(同・六)
  秋の野の み草刈り葺き 宿れりし 宇治の宮処の 仮廬し思ほゆ(同・七)
  熟田津に 船乗せむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は榜ぎ出でな(同・八)
 たまきはるの歌は、内の大野に、馬を並べて朝お踏みになる。それをなされているであろうという意味であるから、理論上、第二句で句切となるものである。しかし、第三句を助詞「て」で留めたのは、その性格上、ここに息を継ぐ気分があり、このゆえにむしろ三句切に近いものを感じさせる。山ごしのの歌は、明瞭に二句で切れるが、「ぬる夜おちず」の句は、第四句に密接に接続しない。二句切と共に、三句切をも感じさせている。秋の野のの歌は、二句で切れるけれども、三句との関係はかなり密接である。熟田津にの歌は、二句で切れるが、それよりも三句の切のほうが大きい。
 かように見てくると、全般において二句切を否定するわけにはゆかないが、三句切の気分がひしひしと増大してゆく傾向にあることを覚えるのである。そうして、この傾向は、人麻呂の短歌に至って、いっそう大きくなってゆくのであ(226)る。
 『万葉集』の巻の一から巻の四までにおける人麻呂の短歌として、いま調査の資料としたのは、次の五十六首である。
  巻の一
    三〇 三一 三七 三九 四〇
    四一 四二 四六 四七 四八
    四九
  巻の二
   一三二 一三三 一三六 一三七 一六八
   一六九 一九五 一九七 一九八  二〇〇
   二〇一 二〇八  二〇九 二一一  二一二
   二一六 二一八  二一九 二二一 二二二
   二二三
  巻の三
   二三五 二四〇  二四九 二五〇  二五一
   二五二 二五三  二五四 二五五  二五六
   二六二 二六四  二六六 三〇三  三〇四
   四二六 四二八  四二九 四三〇
  巻の四
   四九六  四九七  五〇一 五〇二  五〇三
    (四九八、四九九の二首は人麻呂の妻の作として省く)
(227) 以上のうち、明白に三句切として認められるものは、次の三十二首である。
  ささなみの 志賀の大わだ よどむとも 昔の人に またもあはめやも(巻一・三一)
  見れど飽かぬ 吉野の川の 常滑の 絶ゆることなく またかへり見む(同・三七)
  山川も 寄りて奉れる 神ながら たぎつ河内に 船出するかも(同・三九)
  あみの浦に 船乗すらむ 嬢子《をとめ》らが 珠裳《たまも》の裾に 湖満つらむか(同・四〇)
  潮さゐに 伊良虞《いらご》の島辺 榜《こ》ぐ船に 妹乗るらむか 荒き島みを(同・四二)
  東の 野に陽炎《かぎろひ》の 立つ見えて かへりみすれば 月|傾《かたぶ》きぬ(同・四八)
  小竹《ささ》の葉は み山もさやに さやげども 我は妹おもふ 別れ来ぬれば(巻二・一三三)
  ひさかたの 天見る如く 仰ぎ見し 皇子の御門の 荒れまく惜しも(同・一六八)
  明日香川 しがらみ渡し 塞《せ》かませば 流るる水も のどにかあらまし(同・一九七)
  明日香川 明日だに見むと 思へやも わが大君の 御名忘れせぬ(同・一九八)
  ひさかたの 天知らしぬる 君ゆゑに 日月も知らに 恋ひ渡るかも(同・二〇〇)
  埴安の 池の堤の こもり沼の 行く方を知らに 舎人はまどふ(同・二〇一)
  去年《こぞ》見てし 秋の月夜は 照らせども あひ見し妹は いや年さかる(同・二一一)
  衾路《ふすまぢ》を 引手《ひきて》の山に 妹をおきて 山路を往けば 生けりともなし(同・二一二)
  ささなみの 志我《しが》の津の子が 罷道《まかりぢ》の 川瀬の道を 見ればさぶLも(同・二一八)
  天数《あまかぞ》ふ 凡津の子が あひし日に おほに見しかば 今ぞ悔しき(同・二一九)
  鴨山の 岩根し纏ける 吾をかも 知らにと妹が 待ちつつあらむ(同・二二三)
  ひさかたの 天ゆく月を 網にさし わが大君は 衣笠《きぬがさ》にせり(巻三・二四〇)
  淡路の 野島が埼の 浜風に 妹が結びし 紐吹きかへす(同・二五一)
(228)  あらたへの  藤江の浦に 鱸釣る 白水郎《あま》とか見らむ 旅行く吾を(巻三・二五二)
  稲日《いなひ》野も 行き過ぎがてに 思へれば 心こほしき 加古の島見ゆ(同・二五三)
  ともし火の 明石大門《あかしおほと》に 人らむ日や 榜ぎ別れなむ 家のあたり見ず(同・二五四)
  天ざかる 鄙の長路ゆ 恋ひ来れば 明石の門より 大和島見ゆ(同・二五五)
  生駒山 木立も見えず 降り乱れ 雪の騒《さわ》げる あした楽しも(同・二六二)
  もののふの 八十宇治川《やそうぢかは》の 網代木《あじろぎ》に いさよふ浪の ゆくへ、知らずも(同・二六四)
  名ぐはしき 印南《いなみ》の海の 沖つ波 千重に隠りぬ 大和島根は(同・三〇三)
  大君《おほきみ》の 遠の御門《みかど》と ありがよふ 島門《しまど》を見れば 神代し思はゆ(同・三〇四)
  こもりくの 泊瀬の山の 山の際に いさよふ雲は 妹にかもあらむ(同・四二八)
  山のまゆ 出雲の子らは 霧なれや 吉野の山の 峰にたなびく(同・四二九)
  八雲さす 出雲の子らが 黒髪は 吉野の川の 沖になづさふ(同・四三〇)
  をとめらが 袖ふる山の 水垣の 久しき時ゆ 思ひき吾は(巻四・五〇一)
  夏野ゆく 壮鹿《をじか》の角《つの》の 束《つか》の間も 妹が心を 忘れて思へや(同・五〇二)
 以上のごとく、半数以上の多数を占めて、三句切の歌を見るのである。もちろんここに三句切として扱ったのは、二句の切と、三句の切と、いずれが強いかという比較的の立場でいうのである。このほかにも、格調上、三句切を感じる歌もあって、人麻呂の作品における三句切は、かなり強く現われているといえる。そうしてこの現象は、記紀の五句の歌における二句切の格調が、もはや強い圧力を示さなかったことを示すものであり、それは人麻呂の作品が、一般に文筆化の一路をたどっていったためであるといえるのである。
 『日本書紀』後半における童謡、謡歌の類は、おおむね二句切であった。ただ「橘はおのが枝々生れれども」の歌は、三旬切であるが、これは童謡というよりも、むしろ時人の歌というがごとき性質を持っている。こういう民謡風の格調(229)とは別に、人麻呂によって代表される一部の歌は、進んでいった。それが句切の問題に反映しているといえるのである。
 
         二
 
 記紀の歌謡において常に見られるところの、一首の歌詞の中に、同一の音声をくり返すことは、歌われる歌からくるものであるが、人麻呂の短歌作品には、あまり現われていない。
 一、第二句と第五とに、同一の句、ないし同形の句をくり返すもの。これは二句と四句とに句切を有し、第五句は第二句をりく返すのが、その典型的なるものである。たとえば、
  朝しもの 御木のさを橋
  前つ君 い渡らすも
  御木のさを橋
 また
  ぬばたまの 甲斐の黒駒
  鞍著せば 命死なまし
  甲斐の黒駒
のごときである。『万葉集』にも、その前期には、この二、五同句の短歌が相当にあり、高市黒人の歌にもあるが、人麻呂の歌には、これを見ない。また二句五句に、同形の句をおく歌もない。
 二、一首の中に同一の語をくり返すもの。これは、そのくり返す場所によって種類がある。ある句を受けて、その次の句に前句と同一の語の現われるもの。句頭に同一の語の現われるもの。一定のところでなくして同一の語の使用せられるもの等である。
  日下江の入江のはちす 花はちす みのさかり人ともしきろかも
(230)  三諸の厳橿がもと 橿がもと ゆゆしきかも 橿原をとめ
  水門の潮のくだり うなくだり うしろもくれに置きてか行かむ
 記紀の歌謡に見るところのこれらの調子のよい技法は、人麻呂の短歌には、全然用いられていない。また句頭に同語をくり返すものもない。ただ不定所的に同一の語をくり返すものはあるが、同語を用いることの効果を求めることなく、むしろ目立たないようにしているかとさえ思われるほどである。
  あみの浦に船乗すらむをとめらが珠裳の裾に潮満つらむか(巻一・四〇)
 これは、助動詞「らむ」が二度用いられてあり、割合に目立つほうの例であるが、これは珍しいものである。
  潮さゐに伊良虞の島辺傍ぐ船に妹乗るらむか荒き島みを(巻一・四二)
 ここには、島が再出しているが、それは、島辺、島みと変化を与えて目立たないように使われている。
 三、別の語であるが同じ音声の重出するもの。これもその位置によって種類がある。人麻呂の短歌作品には、多くはないが見受けられる。
 イ、頭韻。古人の愛用したものであるが、人麻呂の作としては、
  小竹の葉はみ山もさやにさやげども我は妹思ふ別れ来ぬれは(巻二・一三三)
が有名である。この歌の第三句、「乱友」については、訓法に諸説があるが、「佐左賀波乃佐也久志毛用爾」(巻二十・四四三一)を文証として、サヤゲドモと読むべく、作者が意識して頭韻を用いたものと見るべきである。ほかには「明日香川明日だに見む」とがあるだけである。「天ゆく月を網にさし」「凡津の子があひし日におほに見しかば」のごときは、意識して用いたかどうか不明であるが、相当の効果はあがっていると認められる。
 ロ、しりとり。前の句の末と、後の句の始めに、同じ音声を重ねるものである。人麻呂の短歌には、「志賀の辛埼さきくあれど」、「泊瀬の山の山の際に」の例があるのみである。
 要するに、人麻呂の短歌には、一、二の作品を除いては、音声について不活溌であって、すべて内容中心であること(231)が知られる。音声を生命とする口誦文芸から脱却して、ここに知能中心に短歌道が樹立されたのである。
 
         三
 
 一個の思想の表現は、原則として、主格の提示と、それが説明叙述の部分とから成り立つ。その主格の提示が、思想の中心を成す場合もあるが、人々が表現しようとする思想は、多く、特異の現象に接して起こるところのものであるから、自然に表現しようとする思想の中心は、その説明叙述の部分にあることになる。このゆえに、国語においては、必要がない限り、主格の提示を省略するのである。
 短歌は、詩形が短小ではあるが、単に作者の思想の中心を成す部分だけを盛るとすれば、余裕のある場合が多い。よって、中心思想を理解せしめるに必要な副思想をもって、その余裕を埋めることになる。国語は、中心思想の表現に使用される説明叙述を、文末に置くを通例とするので、短歌においても、その主想は、通例、後半に置かれる。これは自然の姿であるが、作歌技術の発達にともなって、しからざるものをも、多く見るようになるのである。
 人麻呂の短歌も、その主想を後半に置くものが断然多く、しからざるものは、わずかに数例を見るのみである。すなわち、主想を前半に置くものには、
  妻もあらは採みてたげまし沙美《さみ》の山野の上の菟芽子《うはぎ》過ぎにけらずや(巻二・二二一)
  飼飯《けひ》の海の庭よくあらし刈薦《かりごも》の乱れ出づ見ゆ海人の釣船(巻三・二五六)
の二例があるのみである。前の歌は、石中の死人に対して、妻もあらば、むざむざと餓死はさせまいというのが主想であって、野辺の菟芽子の時が過ぎたというのは、その前提条件である。後の歌は、作者が船を礒辺に留めて仮泊した翌朝の歌であって、飼飯の海の海上の平穏を推量するところに主想があり、釣船の乱れ出るのを見るのは、その前提条件である。この二首を除いては、主想とおぼしきものが前にきている例を見ない。
  東《ひむかし》の野に陽炎《かぎろひ》の立つ見えてかへりみすれば月かたぶきぬ(巻一・四八)
(232)  玉藻刈る敏馬《みぬめ》を過ぎて夏草の野島が埼に船ちかづきぬ(巻三・二五〇)
 この二首は、前後の両部に、軽重の差が少ないが、なお西の空に月の傾くを眺め、野島が埼に船の近づいたことを叙したのをもって、主想となすべきであろう。
 その他の、後半に主想を置くものにあっては、前半において、説明補足をするものもっとも多く、条件を設定するものこれについでいる。そのほか、修飾するもの、理由をいうもの、主格を提示するもの等がある。いま、それらの例を二首ずつあげておく。
 説明補足するもの。
  あみの浦に船乗すらむ嬢子らが珠裳の裾に潮満つらむか(巻一・四〇)
  ひさかたの天見る如く仰ぎ見し皇子の御門の荒れまく惜しも(巻二・一六八)
 条件を提示するもの。
  ささなみの志賀の大わだよどむとも昔の人に又も会はめやも(巻一・三一)
  真草刈る荒野にはあれど黄葉《もみぢば》の過ぎにし君が形見とぞ来し(同・四七)
 修飾するもの。
  埴安の池の堤のこもり沼のゆくへを知らに舎人はまどふ(巻二・二〇一)
  夏野ゆく牡鹿の角の束の間も妹が心を忘れて思へや(巻四・五〇二)
 理由を挙げるもの。
  青駒《あをごま》の足掻《あがき》を速《はや》み雲居にぞ妹があたりを過ぎて来にける(巻二・一三六)
  ひさかたの天知らしぬる君ゆゑに日月も知らに恋ひわたるかも(同・二〇〇)
 主格を提示するもの。
  阿騎の野に宿る旅人うち靡き寐《い》もぬらめやも古思ふに(巻一・四六)
(233)  古にありけむ人もわが如か妹に恋ひつついねがてずけむ(巻四・四九七)
 かような、主想を後半に置く表現様式は、落ちつきをよくし、しっかりとした感じを与えるに役立っている。この点からも、彼の表現が、明快率直を喜んだことが知られる。
  小竹の葉はみ山もさやにさやげども我は妹おもふ別れ来ぬれば(巻二・一三三)
  家に来てわが家を見れば玉床の外に向きけり妹が木枕(同・二一六)
  をとめらが袖ふる山の瑞垣の久しき時ゆ思ひき我は(巻四・五〇一)
  飼飯《けひ》の海の庭よくあらし刈薦の乱れ出づ見ゆ海人の釣船(巻三・二五六)
  ともし火の明石大門に人らむ日や榜ぎ別れなむ家のあたり見ず(同・二五四)
  阿騎の野に宿る旅人うち靡きいもぬらめやも古思ふに(巻一・四六)
  名ぐはしき印南《いなみ》の海の沖つ波千里に隠りぬ大和島根は(巻三・三〇三)
 これらの歌には倒置の法が用いられている。その後に置かれている句は、いずれも短い句であって、これによって、力強さを加えている。そのうち、「家に来て」「飼飯の海の」の二首は、五句を体言留めにしたただ二つの例であって、それは主格の提示であり、そのほか、上から説明しきたって体言で留める法は、わずかに
  沖つ波|来《き》寄る荒礒《ありそ》をしきたへの枕とまきてなせる君かも(巻二・二二二)
に、その一例を見るのみである。
  潮さゐに伊良虞の島辺榜ぐ船に妹乗るらむか荒き島みを(巻一・四二)
  荒栲の藤江の浦に鱸釣る白水郎とか見らむ旅行く我を(巻三・二五二)
 これらの末句の「ヲ」は、感動の助詞と見られるが、多少上に返る気分を感じさせる。荒い島であるのに、旅ゆくわれであるのに、くらいの意味であって、いまだ倒置の法とすべきでないようである。
 
(234)         四
 
 主想の表現様式としては、動詞、もしくは形容詞で、率直に言い切ったもの、助動詞を用いたもの、および反語、感動等の助詞を用いたものなどの種類がある。いま次に分類してこれをあげる。
 一、動詞、形容詞で言い切ったもの。
 イ、普通の動詞。
  小竹の葉はみ山もさやにさやげども我は妹思ふ別れ来ぬれば(巻二・一三三)
  埴安の池の堤のこもり沼のゆくへを知らに舎人はまどふ(同・二〇一)
  日並みし皇子の尊の馬並めてみ猟立たしし時は来向ふ(巻一・四九)
  去年見てし秋の月夜は照らせどもあひ見し妹はいや年さかる(巻二・二一一)
  淡路の野島が埼の浜風に妹が結びし紐吹き返す(巻三・二五一)
  山の際ゆ出雲の子らは霧なれや吉野の山の峰にたなびく(同・四二九)
  八雲さす出雲の子らが黒髪は吉野の川の沖になづさふ(同・二三〇)
 ロ、受身の動詞。
  稲日野も行き過ぎがてに思へれば心こほしき加古の島見ゆ(巻三・二五三)
  天ざかる都の長路ゆ恋ひ来れば明石の門より大和島見ゆ(同・二五五)
  大君の遠の御門とあり通ふ島門を見れば神代し思ほゆ(同・三〇四)
  淡海の海夕波千鳥汝が鳴けば心もしのに古思ほゆ(同・二六六)
  もみぢ葉の散りぬるなべに玉梓の使を見れば会ひし日思ほゆ(巻二・二〇九)
 ハ、動詞に助詞カモを添えたもの。
(235)  ひさかたの天知らしぬる君ゆゑに日月も知らに恋ひわたるかも(巻二・二〇〇)
  大君は神にし坐せば天雲の雷の上に廬するかも(巻三・二三五)
  山川も寄りて仕ふる神ながらたぎつ河内に船出するかも(巻一・三九)
 ニ、動詞に反語の助詞ヤを添えたもの。
  夏野行く壮鹿の角の束の間も妹が心を忘れて思へや(巻四・五〇二)
 ホ、形容詞で留めたもの。
  天かぞふ凡津の子があひし日におほに見しかは今ぞ悔しき(巻二・二一九)
  衾路を引手の山に妹をおきて山路を行けば生けりともなし(同・二一二)
 ヘ、形容詞に助詞モを添えたもの
  あかねさす日は照らせれどぬばたまの夜渡る月の隠らく惜しも(巻二・一六九)
  生駒山木立も見えずふり乱れ雪の騒げるあした楽しも(巻三・二六二)
  ひさかたの天見る如く仰ぎ見し皇子の御門の荒れまく惜しも(巻二・一六八)
  ささなみの志賀の津の子が罷路の川瀬の道を見ればさぶしも(同・二一八)
 以上のごとき、動詞、形容詞で言い切る方法は、もっとも率直な表現であって、この類の比較的に多いのは、注意するに足りる。これは次の助動詞を用いたものの中の、決定的の意味を現わすものとあわせて、彼の表現の特色とすべきである。
 二、助動詞を使用するもの。
 イ、き
  真草刈る荒野にはあれどもみぢ葉の過ぎにし君が形見とぞ来し(巻一・四七)
  をとめらが袖ふる山の瑞垣の久しき時ゆ思ひき吾は(巻四・五〇一)
(236) ロ、けり
  家に来てわが家を見れば玉床の外に向きけり妹が木枕(巻二・二一六)
  青駒の足掻を速み雲居にぞ妹があたりを過ぎて来にける(同・一三六)
 ハ、たり
  草まくら旅のやどりに誰がつまか国忘れたる家待たまくに(巻三・四二六)
 ニ、つ、つも
  ささなみの志賀の辛埼幸くあれど大宮人の船待ちかねつ(巻一・三〇)
  珠衣のさゐさゐしづみ家の妹に物言はず来にて思ひかねつも(巻四・五〇三)
 ホ、ぬ(完了)
  東の野に陽炎の立つ見えてかへりみすれば月かたぶきぬ(巻一・四八)
  玉藻刈る敏馬を過ぎて夏草の野島が埼に船近づきぬ(巻三・二五〇)
  名ぐはしき印南の海のおきつ波千重に隠りぬ大和島根は(同・三〇三)
 ヘ、り
  ひさかたの天ゆく月を網にさしわが大君は衣笠にせり(巻三・二四〇)
 ト、ずも、ぬ、ぬかも
  もののふの八十宇治川の網代木にいさよふ波のゆくへ知らずも(巻三・二六四)
  秋山の黄葉をしげみまどひぬる妹を求めむ山路知らずも(巻二・二〇八)
  明日香川明日だに見むと思へやもわが大君の御名忘れせぬ(同・一九八)
  み熊野の浦の浜木綿百重なす心は思へどただにあはぬかも(巻四・四九六)
 チ、む、めやも
(237)  見れどあかぬ吉野の川の常滑の絶ゆることなくまたかへり見む(巻一・三七)
  秋山に落つるもみぢ葉しましくは散りな乱れそ妹があたり見む(巻二・一三七)
  こもりくの泊瀬の山の山のまにいさよふ雲は妹にかもあらむ(巻三・四二八)
  鴨山の岩根し纏ける吾をかも知らにと妹が待ちつつあらむ(巻二・二二三)
  ささなみの志賀の大わだよどむとも昔の人にまたも会はめやも(巻一・三一)
  しきたへの袖交へし君玉だれの越智野過ぎゆくまたもあはめやも(巻二・一九五)
 リ、なむ
  ともし火の明石大門に入らむ日や榜ぎ別れなむ家のあたり見ず(巻三・二五四)
 ヌ、らむ、らむか、らめやも
  荒栲の藤江の浦に鱸釣る白水郎とか見らむ旅行く吾を(巻三・二五二)
  釧著く手節の埼に今日もかも大宮人の玉藻刈るらむ(巻一・四一)
  あみの浦に船乗すらむをとめらが珠裳の裾に潮満つらむか(同・四〇)
  潮さゐに伊良虞の島辺榜ぐ船に妹乗るらむか荒き島みを(同・四二)
  石見のや高角山の木の間よりわが振る袖を妹見つらむか(巻二・一三二)
  阿騎の野に宿る旅人うち靡きいもぬらめやも古思ふに(巻一・四六)
 ル、けむ
  古にありけむ人もわが如か妹に恋ひつついねがてずけむ(巻四・四九七)
 ヲ、らし
  飼飯の海の庭よくあらし刈薦の乱れ出づ見ゆ海人の釣船(巻三・二五六)
 ワ、まし
(238)  明日香川しがらみ渡し塞かませば流るる水ものどにかあらまし(巻二・一九七)
  妻もあらは採みてたげまし沙美の山野の上の菟芽子過ぎにけらずや(同・二二一)
 以上の用例は、多数の助動詞を使用しており、いかに彼の思想の豊富であったかを語るものがある。その中については、過去、完了、打消のごとき、決定を意味する助動詞が多く、めや、らめやもまた、反語によって決定を意味している。これを前に掲げた助動詞を使用しない例にあわせて、その表現の中心が奈辺にあったかを知ることができる。人麻呂の短歌から、力強い表現を感ずることは、決して偶然ではないのである。
 
     九 人麻呂以後
 
         一
 
 人麻呂が作品に取り扱った題材は、広汎であった。それは彼の生活に現われた各の方面であった。彼は舎人として宮廷に奉仕し、また地方官として旅行もした。そういう社会人としての生活と、その一面に持っている家庭人ならびに自然人としての生活と、この両面の立場から、彼の作品を分類することができる。それはもちろん正確に分類し得るはずのものではなく、互いに交錯するところが多いのであるが、しばらくその強く現われているものについて、標目を立てるのである。
 一、社会人としての作品。
 イ、頌歌
 これは人麻呂の公的生活の中枢を成すものであって、雄大なる思想を盛っているものである。吉野の宮での二作、雷の丘での作品などこれに属する。また、長の皇子の遊猟の歌、新田部の皇子の雪の歌も、雄大なる点においては、前の(239)詩作に劣り、多量に即興詩としての気分があるが、なおこの項に属すべきである。
 ロ、挽歌
 皇子、皇女の殯宮の歌を始め、吉備津の采女、狭岑の島の死人、出雲の娘子、香具山の屍など、人麻呂の作品には、特に多い題材である。妻の死りし後の歌、死に臨みてみづから傷める歌などは、家庭人としての立場にあるが、なおここに属せしめるを便宜とする。
 ハ、追憶
 各地に旅行して、古代を憶い、往時を思慕する作品であって、軽の皇子に従って安騎野に宿り、近江の荒れたる都を過ぎ、また紀伊の国に従駕して結松を詠んでいる。西海におもむいて大君の遠の御門を歌ったのも、この項に属すべきである。妻を失って後、ひとり紀伊の国に遊んで、亡き人を憶う諸作は、家庭人としての色彩が濃いが、またここに属するもよく、挽歌の類に収めてもよい。
 二、家庭人および自然人としての作品。
 イ、相聞
 妻に贈れる歌と、ひとり妻を想う歌とは、実際においては区別を立てがたい。男女両者の関係の進行につれてさまざまの歌相は現われる。物に寄せても歌い、寄せないでも歌う。石見の国から妻に別れて京に上る時の歌などもこれに属する。
 ロ、羈旅
 はるかに家を念う心は、旅の歌の中枢を成すものであるが、その心は、ある時は強く詞に現われ、ある時は深く沈潜する。旅にあって、海山の大きな姿に接して、歌ごころは洗練される。特に羈旅の歌と題したもののほかにも、これに属すべき歌がある。妻に与うる歌は、相聞の類にもはいるが、旅の心の流れている点を特異とする。
 ハ、自然
 人麻呂の時代になると、山川花鳥の自然を、正面から眺めて歌うようになった。人麻呂集の詠物の歌は、多くこの類(240)に属する。いずれも短歌であるが、長歌にも、吉野の宮での歌のごときは、山川の美を称えることが表になっている。
 ニ、季節
 四季おりおりの風物に心をとどめて、これを主題とするようになったのも、この時代からのことである。実際の現象と、暦の上の事実との交錯するところに歌が成立する。七夕の歌は、性質が違うけれども、秋を迎える心は強く動いているのである。
 以上は、人麻呂の作品について、その主要なる方面をあげたのであるが、これに漏れたものも自然あることであろう。とにかくその多種多方面であることは、驚くべきものがある。従来の伝統を受け継いで、これを一手に引き受けたようなところが、人麻呂の特質なのである。
 人麻呂の後に出た歌人は、一人で全面的に人麻呂の遺業を引き継ぐような人はなかった。ただ仰いで人麻呂の作品を見、その一面ずつをそれぞれに守り伝えていったようにも見える。もちろんそこには人麻呂の作品以上に、それぞれにあるものを付加しているであろう。同時に人麻呂の持っていたものを遺落してもいるのである。いまここに、後の歌人たちが、どういうふうに、人麻呂の事業を分担して、発達させていったかを表示してみようか。この中、高市黒人と長意吉麻呂とは、人麻呂と同時代の人ともいえる。しかし人麻呂に先立つものとしての証明はなく、まずその後輩ということができよう。山上憶良以下も同断である。
      羈旅…………高市市黒人
      即興…………長意吉麻呂
      挽歌(長歌)…山上憶良
柿本人麻呂 挽歌(短歌)…大伴旅人
      叙事…………高橋虫麻呂
      頌歌…………笠金村・山部赤人
      相聞…………作者未詳
(241) ここには、人麻呂からすぐにうける人々をあげたのであって、大伴家持になると、さらにこれらの人々からうけることになる。
 
         二
 
 高市黒人は、短歌の作家で、羈旅の作のみを残している。その妻との贈答の歌も羈旅に関するものである。巻の三において、柿本人麻呂の羈旅の歌八首に続いて黒人の羈旅の八首を載せているのは、両者の共通するところを思わしめる。人麻呂の歌はあかるく、黒人の作は沈んでいる。それは、歌いものの要素を取り入れているけれども、一面には、旅の苦しさを感じており、人麻呂の歌に見るような、心に妻を持つ楽しさは現われていない。妻との問答は、軽く別に処理されている。その妻には、むしろ愉快な調子で接している。黒人が、
  妹も吾もひとつなれかも三河なる二見の道ゆ別れかねつる(巻三・二七六)
と歌ったのに対して、その妻が、
  三河の二見の道ゆ別れなばわが夫も吾もひとりかも行かむ(巻三・二七六、一本に云ふ)
と答えた問答は、諧謔に富んでいてあかるいが、人麻呂の、
  古にありけむ人もわが如か妹に恋ひつついねがてずけむ(巻四・四九七)
と歌つたのに対して、その妻が、
  今のみのわざにはあらず古の人ぞまさりて哭《ね》にさへ泣きし(巻四・四九八)
と答えたのは、なかなか鋭い応酬というべきである。
  雪こそは春日消ゆらめ心さへ消え失せたれや言も通はぬ(巻九・一七八二)
  松がへりしひてあれやは三栗の中のぼり来ぬ麻呂といふ奴(同・一七八三)
の問答も、たぶん同一人の間になされたとおぼしく、いっそうの鋭さを感じさせる。それは結局相手である妻の性格に(242)よるものであって、黒人の妻が温厚であり、人麻呂の妻が俊敏であったによるのであろう。
 黒人の拓いた境地は、旅にあって自然の中に自己を見いだしたところにあるが、それは人麻呂の作品の一角と、はなはだしく種類を異にするものではなかったのである。それは相互に得失があって、黒人には、旅の心のしみじみとした点が、強く現われているのである。
 長意吉麻呂は、黒人と同じ場合に歌を詠んでおり、やはり短歌のみをとどめている。この人は、即興の歌才に富み、難題を巧みに処理した。人麻呂の作品にも、かような性質はある。雷の丘の歌などには、即興的な気分が看取され、仙人の形を詠める歌などには、難題を扱う態度が存する。しかし人麻呂の本領は、ここにはなかったのであるが、意吉麻呂からは、即興と難題とを除き去れば、ほとんど何も残らないといってもよい。そうして彼は、縦横にその奇才を動かして、滑稽的な方面を開発した。これは人麻呂の性格にないところであった。意吉麻呂の持っている歌の芸人である性質は、当時の歌道の隆運に乗じたものであり、またこれによって歌道を広くした功績があるであろう。
 人麻呂の後を受けて、続出した歌人たちの中では、笠金村、車持千年、山部赤人等の一団が、頌歌の方面を受け継ぎ、人麻呂の影響さえ明白に現われている点において、その後継者の中心を成すものということができる。その人々には、行幸に供奉しての諸作があり、ことに吉野の宮にての作品もとどめている。思想的には、神代からの伝承として御代を寿ぎ、詞句の上には、また人麻呂の特色ある詞句を見いだす。笠金村の、
  山高み白木綿花に落ちたぎつたぎの河内は見れど飽かぬかも(巻六・九〇九)
  万代に見とも飽かめやみ吉野のたぎつ河内の大宮処(同・九二一)
にも、人麻呂からきているものを感ずるが、山部赤人の、
  やすみししわご大君の、高知らす吉野の宮は、たたなづく青垣ごもり、河次の清き河内ぞ、春べは花咲きををり、秋されば霧立ち渡る、その山のいやますますに、この川の絶ゆることなく、ももしきの大宮人は、常に通はむ(巻六・九二三)
(243)には、いっそうそれが露骨に感じられる。けだし吉野の宮では、人麻呂の作品が有名になっており、それが先入主となって、ひととおりでは、それから脱却することが困難であったと見える。吉野の山川を描いて、その春秋の景を叙し、これをもって序に応用してきた構成は、全然人麻呂からきているものである。人麻呂では、「この川の絶ゆること無く、この山のいや高知らす」と歌ったのであるが、ここには、山の高さを逸して、「この山のいやますますに」としたのは、何のことであるかわからない。
 金村、赤人等の作品には、行幸に供奉しての公的生活によるものと、それから離れた生活のものとがあることは、人麻呂と同様である。そうして旅に出ての作品中に赤人には人麻呂の後を受けるものが見いだされる。富士山を望む歌において、天地の初めから歴史的に叙述しきたり、神岳に登り、伊予の温泉に到って詠んだ歌には、懐古思想が強く現われており、これらは人麻呂の系統を伝えるものというべきである。季節を感ずる心や、自然観照の態度などにも人麻呂からきているものがあり、さらにそれが沈潜している。人麻呂を継承し、その形を小さくしたようなものを、赤人に感ずるのである。
 旅人、憶良、虫麻呂になると、さすがに人麻呂になかったものを多く持っており、ただその作品の一部のみに、人麻呂との接続を見いだすのである。
 旅人の風流清雅な作風は、大陸文学からの影響を多く得ており、時代から観て、人麻呂のおこした途を経過しているとはいえ、およそ人麻呂とは関係の薄いものであるといえる。ただ妻を失い、その面影を慕って歌を詠んでいる境涯のみに、共通点を有している。しかしそれは畢竟境涯の相似のみであって、人麻呂が、亡き妻の面影に恋うて、昔共に見し礒辺を徘徊し、
  わが恋ふる妹はあはさず玉の浦に衣片敷き独かも寐む(巻九・一六九二)
と歌った情熱的なものを、旅人は持ちあわさない。わずかに
  礒の上に根はふむろの木見し人をいかなりと問はば語り告げむか(巻三・四四八)
(244)  吾妹子が植ゑし梅の樹見る毎に心むせつつ涙し流る(巻三・四五三)
と、その人去ってなお残れる物に寄せて想いを陳べる作があるのみである。これは年齢の相違と、その貴族的な性格とからきているものと考えられる。
 憶良の世界も、人麻呂とは遠いものがある。憶良は学者で、類聚歌林の撰もあるほどであって、人麻呂の作品について無識であったとは思われない。しかも長歌に富んでいるその作品には、あまり人麻呂からきたものを感じさせない。「日本挽歌」は、妻の死を取り扱っており、その妻は、憶良自身の妻か、他人の妻かは問題にもされているが、そこには人麻呂の妻を失った後の作品の片影をも浮べていない。憶良の挽歌は、率直に本題にはいり、その人の遠く去ったことを叙したまでであって、前提、感想等の設備を全然顧慮していない。そこには取り扱い方の相違があって、彼此の間の授受はないと見られるのである。その他の作品にあっても、思想の表現が露骨であって、人麻呂の作品におけるごとき、感情の活躍を感じさせない。しかしその「好去好来歌」には、人麻呂集の葦原水穂国者の歌の思想と共通するものがあって、憶良はかの歌の存在を知って、この歌を作ったのであろう。憶良は、大宝二年(七〇二)に遣唐使の少録として唐におもむき人麻呂の葦原水穂国者の歌は、たぶんその度の遣唐使に贈ったものと見なされるのであるから、憶良がその歌を知っていたとなすのは、至当の推測である。言霊の活躍によって幸福を期する思想は、こと新しいものではないが、これを万里の波涛をしのぐ人の壮途を祝う材料として、送行の歌の中心としたところに、受けているところがあると認むべきである。また七夕の歌が十二首もあるのは、やはり人麻呂の拓いた途を踏んでいるものということができる。
 高橋虫麻呂は、叙事詩人として知られている。その直接に受けているところは、竹取の翁の歌あたりにあるであろうが、長歌における叙事的な部門も、人麻呂の拓いた道であることを想えば、虫麻呂が、その方面をさらに開拓したのだということは、あたっているであろう。一般に、長歌の作者は、人麻呂の影響を受けているものということができるのである。虫麻呂は、その特有の鮮明なる描写によって、事件を浮き上らせた。ここには彼の独自性が見いだされる。
(245) 大伴家持にも、人麻呂の影響は、多大に見いだされる。その安積の皇子の薨去を悼み奉る歌などには、明瞭にそれが指摘される。しかし彼は、同時に山上憶良などの影響をも、大きく受け入れているのであって、ここに彼の歌境が成立している。
 人麻呂が去って後に、幾多の俊豪は、それぞれに自家の道を開発した。しかしそれは全体としては、人麻呂の拓いた道を継承するものであり、これを部分的に見れば、人麻呂の遺したものに、新しいものを加えていったと見るべきである。しかも人麻呂の後、ふたたび見るを得なかったもの、それは雄大なる構想のもとに、醇乎たる国民精神を盛り上げた長篇の作品である。
 
          三
 
 人麻呂の一生は、さして長いようではなかったと思われるが、作品の数は相当にあり、その生前から歌人として有名であったようである。皇子方に歌をたてまつったり、またその殯宮で歌を詠んだりしたことは、舎人としての奉仕にもとづくものであったであろうが、後には歌人として特に召されることもあったかも知れない。それはたてまつれる歌の多くを残している点で推量するほかはないのである。
 その作品が伝えられて、他の人々によって歌われたと思われることは、巻の十五にある天平八年(七三六)の遣新羅使の一行が、船中で人麻呂の歌を吟誦していることによっても証明される。その吟誦された歌は、別に巻の一及び三に人麻呂歌として伝えられているものとは詞句に若干の相違がある。当時の歌は、歌い伝えている間に多少の変化を免れなかったものと考えられる。
 『万葉集』の編者は、巻の一および三における作歌と、巻の十五における吟誦歌とを、互いに参照して詞句の異伝を註している。人麻呂の作品には、この他にも詞句の別伝を有するものが多い。巻の一における近江の荒れたる都を過ぎし時の歌なども、その差違の多いものである。また巻の二における、石見の国から妻に別れて都に上りし時の歌、およ(246)び妻のみまかりし後、泣血哀慟して作れる歌のごときは、いずれも二篇ずつを残しているが、その一つには歌中に詞句の異同を「一に云ふ」として註し、他の一には別に「或る本の歌」として一首全体の別伝を掲げている。これは詞句の相違がはなはだしくて、本文中に相違を記すに堪えなかったものであろう。こういう詞句の相違は、どこから出るかというに、作者自身が別案を有していたと一応考えることもできる。しかしこれらの別伝の中には、おそらくは作者の意志に反していると思われるものもあって、やはり後に伝誦した人々が誤りを残したものであろうと思われる。
 要するに早くから種々の別伝を生ずるまでに人々に愛誦せられたものと考えられる。『万葉集』中においても、人麻呂の影響は大きく動いているのである。
 吉野の宮での作品は、特に有名であったようである。この地に天皇の行幸があり、御供をして歌を詠む人々は、短歌はともあれ、長歌になるとまず人麻呂の作品が心に浮んだものと考えられる。一家の風格を有する人々にしても、なお人麻呂の影響を免れることができなかった。
 大伴家持が人麻呂を敬慕していたことは、その文に「幼年いまだ山柿の門を経ず」の句をもってしていることによっても知られるのである。ひとり家持のみならず、大きく歌道の上からいっても、奈良時代におけるその隆昌は、人麻呂の事業を継承したによるものというべきである。
 家持の山柿の門は、柿本人麻呂と山部赤人とを意味するものとして考えられていた。山が赤人であることは、その後異説があり、これを山上憶良とすることが、今日では有力に考えられるようになった。しかし柿の方は、柿本人麻呂であることに異論はないのである。それはこの柿の字にまがう人がほかになかったゆえもあるが、同時に人麻呂の事業が群を抜いておって、後の歌人をして景慕の的となさしめたことも当然であったと思われるのである。
 人麻呂は、かようにして奈良時代においてすでに大歌人として目せられていたのである。平安時代以後はこれを受けて、さらにこれを崇拝するに至った。『古今集』の序に人麻呂と赤人とがならべられてから、人麻呂は歌人の代表的なものとして、とうとばれていた。藤原公任が三十六人撰を作るにあたつても、人麻呂はその第一に置かれた。平安末期(247)に至っては人麻呂の肖像を掲げこれを祭ることが始まり、人麻呂を歌聖とする思想を生ずるに至った。これより後、住吉、玉津島に合わせて、人麻呂をもって和歌の神としていよいよ崇拝するようになった。これも歌道の上に中心を求めて、ついにこの人に想い到ったのである。その経路には多少不純なる点もあって、三十六人集中の人麻呂集を盲信した時代もあり、「ほのぼのと明石の浦に」の歌をもって人麻呂の代表作としたこともある。しかし学者の研究は、ついにこの人の真面目を明らかにしなければやまないのである。平安末期の僧顕昭の『柿本人麻呂勘文』は、人麻呂についてその種姓、官位、時代、歌仙、家集、渡唐、妻妾、墓所等を考究した。これは今日から見れば信頼するに足らぬものを使用した欠点はあるが、人麻呂研究の最初の業績といってもよい。その後の人々は伝記に、作品の註釈に、評論に、あらゆる方面からこの人をきわめつくした。それはなおいまだ不明な点が多いけれども、その偉大なる歌人であることは明白になされたといってもよいのである。
                2009年5月11日(月)午後2時20分、入力終了
 
〔附録、入力者の作成したもの。太字は「私設万葉文庫」収録及び予定のもの。〕
○萬葉集大成1総記篇
 目次 高木市之助 萬葉集の歴史的地盤、 坂本太郎 萬葉集の地理的環境、 山田孝雄 古事記と萬葉集、 武田祐吉 萬葉集の成立、 尾山篤二郎 萬葉集編纂目的の考察、 澤瀉久孝 萬葉集の巻々の性質、 岡崎義恵 萬葉集の美と思潮、久松潜一 萬葉集の歌躰と風格、 風巻景次郎 萬葉集と歌風の変遷、 松村武雄 萬葉集伝説歌考、吉沢義則 萬葉集の歌語、 肥後和男 萬葉集と民俗学、 東条操 萬葉集と方言、 野間清六 萬葉時代の美術、長谷川如是閑 日本の文化的性格と萬葉集、 久松潜一 総記篇跋
 
○萬葉集大成2文献篇
 目次 佐々木信綱 萬葉集文献総説、 上田英夫 古点・次点の歌とその点者、 五味智英 中古の萬葉学者、 武田祐吉 萬葉集抄・仙覚・仙覚本、 小島憲之 由阿・良基とその著書、 藤井信男 安土・桃山時代の萬葉集研究、 野村貴次 季吟の萬葉拾穂抄、 大久保正 長流の萬葉研究書とその史的性格、 久松潜一 契沖と萬葉代匠記、 三宅清 荷田春満の萬葉學書、井上豊 賀茂真淵の萬葉研究、 大久保正 宣長と由豆流の研究、 伊藤正雄 荒木田久老と萬葉學、 藤田寛海 守部の萬葉學書、 鴻巣隼雄 鹿持雅澄の萬葉集古義と木村正辞・近藤芳樹の萬葉學、 五味保義 子規・左千夫・茂吉と萬葉集、 久松潜一 佐々木信綱と萬葉研究、 佐々木信綱 萬葉集の古写本、 山田孝雄 萬葉集の版本、 久松潜一 文献篇跋
 
○萬葉集大成3訓詁篇上
 目次 小島憲之 萬葉語の解釈と出典の問題、 大野晋 上代語の訓詁と上代特殊仮名遣、 澤瀉久孝 巻一、粂川貞一 巻二、 吉永登 巻三、 扇畑忠雄 巻四、 清水克彦 巻五、 湯口誠一 巻六、 佐竹昭広 巻七、 藤森朋夫 巻八、 木下正俊 巻九、 澤瀉久孝 跋 
 
○萬葉集大成4訓詁篇下
 目次 澤瀉久孝 萬葉集訓詁の方法、 井手至 巻十、石井庄司 巻十一、 松田好夫 巻十 二、 伊藤博 巻十三、 福田良輔 巻十四、 大浜厳比古 巻十五、 武智雅一 巻十六、 吉井巌 巻十七、 上原浩一 巻十八、 蜂八宣郎 巻十九、 阪倉篤義 巻二十 澤瀉久孝 跋 
 
○萬葉集大成5歴史社会篇
 目次 長谷川如是閑 日本の歴史の性格と萬葉集、 坂本太郎 萬葉集と上代文化、家永三郎 萬葉時代の家族生活、 竹内理三 萬葉時代の庶民生活、 彌永貞三 萬葉時代の貴族、 石母田正 初期萬葉とその背景、 北山茂夫 萬葉の盛期としての萬葉、 川崎庸之 天平萬葉、 藤間生大 大伴家の歴史、 西郷信綱 萬葉の相聞、 清水克彦 憶良の世界、 井上光貞 古代の東国 高木市之助 跋 
 
○萬葉集大成6言語篇
目次 山田孝雄 萬葉集文字論序説、 阪倉篤義 萬葉集における語詞の構成、菊澤季生 萬葉時代の代名詞、 佐伯梅友 動詞・形容詞、 濱田敦 助動詞、 林大 萬葉集の助詞、 佐伯梅友 文の構成、 佐藤喜代治 萬葉集における待遇表現、 金田一京助 萬葉集の敬語、 福田良輔 東歌の語法、 池上禎造 萬葉人の言語生活、 大野晋 萬葉時代の音韻 境田四郎 枕詞・序詞 佐伯梅友 跋 
 
○萬葉集大成7様式研究編比較文学篇
目次 次田潤 抒情詩としての萬葉集、 太田善麿 萬葉集に於ける叙事詩的要素、柴生田稔 萬葉集の叙景詩的要素、 志田延義 萬葉集の歌謡、 岡部政裕 萬葉集の長歌、 佐佐木信綱 萬葉集の短歌、 脇山七郎 萬葉集の旋頭歌、 山崎馨 萬葉集の譬喩歌、 青木生子 萬葉集の正述心緒歌、 竹内金治郎 萬葉集の寄物陳思歌、 上村悦子 萬葉集の相聞歌、 久米常民 萬葉集の挽歌、 宮崎晴美 萬葉集の雜歌、 久松潜一 跋、 吉田精一 萬葉集の比較文学的研究、 土居光知 比較文学と萬葉集、 吉川幸次郎 膠着語の文学、 山岸徳平 萬葉集と上代詩、 小島憲之 萬葉集と中国文学との交流、 杉本行夫 萬葉集歌と中国韻文、 尾山篤二郎 奈良末期の短歌修辞学、 松本信廣 萬葉集に現れた神話伝承、 日夏耿之介 萬葉の比較文学的フィールド・ワアク、 小島憲之 跋
 
○萬葉集大成8民俗篇
目次 和歌森太郎 萬葉集における民俗、堀一郎 萬葉集にあらはれた葬制と他界観・霊魂観、原田敏明 萬葉集と宗教信仰、東光治 萬葉集の動物一、中西悟堂 萬葉集の動物二、小清水卓二 萬葉集の植物一、松田修 萬葉集の植物二、尾崎元春 萬葉集に現れた服飾、澤瀉久孝 萬葉集の食生活、後藤守一 萬葉集の住生活、上村六郎 萬葉集の色彩と染色、直木孝次郎 萬葉集と農耕、大場磐雄 萬葉集の考古学的考察、柳田国男・森本治吉・堀一郎 民謡性・その他、高木市之助 跋 
 
○萬葉集大成9作家研究篇上
 目次 久松潜一 柿本人麿の作品、 武田祐吉 柿本人麿評伝、 高崎正秀 高市黒人、 尾 山篤二郎 額田ノ姫王攷、 高木市之助 憶良と旅人、 次田眞幸 山上憶良論、 五味智英 山部赤人、 風巻景次郎 山部赤人上、 金子武雄 天智天皇の諸皇子・諸皇女、 川崎庸之  天武天皇の諸皇子・諸皇女、 石井庄司 中臣朝臣宅守と狭野茅上娘子、 西角井正慶 俳 諧歌とその作者、  小島憲之 萬葉集七夕歌の世界、 尾山篤二郎 作家研究篇上跋             
○萬葉集大成10作家研究篇下
 目次 風巻景次郎 山部赤人下、 高崎正秀 笠金村、 田辺幸雄 天皇・皇后・夫人、 岡部政裕 高橋蟲麻呂と田辺福麻呂、 五味智英 大伴旅人序説、 川田順 大伴家持、 五味保義 大伴坂上郎女、 加藤順三 無名作家歌集の性格、 斎藤清衛 萬葉女流歌人群、 扇畑忠雄 遊行女婦と娘子群、 柴生田稔 東歌及防人の歌 尾山篤二郎 作家研究篇下跋  
 
○萬葉集大成11特殊研究篇
 目次 倉野憲司 萬葉集と上代歌謡、 吉永登 萬葉集における異伝発生の諸形式、 後藤興善 東歌研究、 門脇禎二 防人歌の登場、 岸俊男 防人考、 横田健一 萬葉時代の地方社会と文化、 佐竹昭広 本文批評の方法と課題、 神田秀夫 萬葉集の用字の一側面、 小島吉雄 宗祇と兼載との萬葉集研究、 荒木良雄 萬葉集と玉葉・風雅集、 中村幸彦 萬葉集をめぐる国学者の生活、 尾山篤二郎 六藝より觀たる奈良朝、  吉沢義則 柿本人麻呂時代に於ける日本文化史上の境界線、  源豐宗 萬葉集と造形芸術との様式的連関、  角田文衛 萬葉集と正倉院、  宮良當壯 萬葉集の歌と琉球の歌謡、  大野晋・頼惟勤 萬葉仮名の字音研究の手引き、  小島憲之 特殊研究篇跋
 
○萬葉集大成12本文篇1
 上欄に正宗敦夫の作成した寛永版本による本文篇(総索引の本になったもの)、下欄に澤瀉久孝の作成した訓注がある。新校萬葉集が基礎になっている。
 
○萬葉集大成20美論篇
 目次 日夏耿之介 萬葉の美學、 土居光知 万葉集に於ける詩的形象の流転、 風巻景次郎 創世期の文学的詩歌、 五味智英 古代和歌として観た万葉美、 尾山篤二郎 万葉集浪漫主義の探求、吉水千之 万葉の韻律に就いて、 瀬古確 歌格の上から観た万葉美、 小田良弼 一般言語の韻律と万葉集の韻律、 森本冶吉 古代人の美学、 犬養孝 創作意識の上から観た万葉文学、 鼓常良 万葉に見る自然美、 岡崎美恵 文芸学的見地から観た万葉美、 高木市之助 万葉の美しさ、 尾山篤二郎 美論篇跋、 補遺 神田喜一郎 万葉集の骨骼となった漢籍、 春日政治 万葉集と古訓点、 谷山茂 万葉・古今・新古今の比較の一方法、 高崎正秀 枕詞の発生
 
○萬葉集大成21風土篇
 目次 高木市之助 二つの風土、 犬養孝 萬葉地理、 奥野健治 萬葉集に於ける近畿地方、 北島葭江 大和の風土と萬葉集、 大津有一 萬葉集に於ける北陸地方、松田好夫 萬葉集に於ける東海地方、 西角井正慶 關東・信濃・東北、 斎藤清衛 萬葉集に於ける中国・四国、 大藪虎亮 瀬戸内海と萬葉集、 森本冶吉 萬葉集に於ける九州地方、 高木市之助 風土篇跋、 林屋辰三郎 大和、 小林文次 正倉院文書から見た平城京
 
○萬葉集大成22研究書誌 年表・索引篇
 目次 藤森朋夫 萬葉集研究書誌 本文 註釈・鑑賞 概説・論篇・講座・随筆 品物 人物 地理 語彙・語法・その他 民俗 書誌・辞典 図録・その他 外国譯
 松田好夫 萬葉集年表  編集部 萬葉集大成索引
 
 
(248) 柿本人麻呂評伝     〔原版、平凡社『万葉集大成9』、一九五三年六月〕
 
   一 家がら
 
 昔、敏達天皇の代に、家門に柿の木があったので、それから柿のもとの氏と称するという。氏とは、家々の血統の称呼であって、他と区別するためのものであるが、古くは勝手につけるわけにはゆかない。姓《かばね》とともに朝廷から賜わるものである。家門の木によって氏を定めた例は、聖徳太子が、巻向の宮においでになった際、家のほとりに大きな股のある楊樹があったのによって大俣《おおまた》の連の氏は定められ、同じく聖徳太子が山城の国においでになった際、家門に大きな榎の樹のある家があり、太子が御覧になって、この樹は室のようだ、大雨も漏らないと仰せられて、榎室の連の氏を賜わったという。柿本氏も、敏達天皇の代とことわってあるに見ても、その天皇から賜わったものとして光栄を感じていたであろう。
 『新撰姓氏録抄』大和の国の皇別(皇族の系統)の条に、「柿本朝臣、大春日朝臣同祖。天足《あまたらし》彦国押人命之後也。敏達天皇御代、依3家門有2柿樹1、為2柿本氏1。」とある。その大春日の朝臣のことは、左京の皇別の条にあって、「出v自2孝昭天皇皇子、天帯彦国押人命1也。仲臣令3家重2千金1、委v糟為v堵。于vr時大鷦鷯天皇謚仁徳、臨2幸其家1詔号2糟垣臣1。後改為2春日臣1。桓武天皇延暦廿年賜2大春日朝臣姓1。」とある。これによれば、柿本氏は、大春日氏とともに、孝昭天皇の皇子、天帯彦国押人の命から出たことになる。そうして大春日氏の条に、出自と書いてあるのは、その氏の宗家で(249)あることを示し、柿本氏の条に、同祖、之後と記してあるのは、古記か本系か、どちらか一つによったことを示すものである。柿本氏が、いつごろ春日氏から分かれたかはわからないが、その氏の称呼の由来を敏達天皇の代におくによれば、その頃に、一氏を成すに足りるだけの勢いを持っていたのであろう。『新撰姓氏録抄』の一本には、柿本朝臣を柿下朝臣に作るが、今どちらが録の原形であるかをあきらかにしない。
 『日本書紀』孝昭天皇の条には「廿九年春正月、甲辰朔丙午、立2世襲足媛1為2皇后1。后生2天足彦国押人命、日本足彦国押人天皇1。」とあり、また「六十八年春正月、丁亥朔寅子、立2日本足彦国押人尊1、為2皇太子1、年廿。天足彦国押人命、此和珥臣等始祖也。」とある。また『古事記』孝昭天皇の条には「此天皇、娶2尾張連之祖奥津余曾之妹、名余曾多本※[田+比]売命1。生御子、天押帯日子命、次大倭帯日子国押人命二柱。故弟帯日子国忍人命者、治2天下1也。兄天押帯日子命者【春日臣、大宅臣、粟田臣、小野臣、柿本臣、壱比章臣、大坂臣、阿那臣、多紀臣、羽栗臣、知多臣、牟耶臣、都怒山臣、伊勢飯高君、壱師君、近淡海国造之祖也。】」とある。
 皇子の名は、『日本書紀』と『古事記』とで変わっているが、これは同一人と見るべきである。そうして『古事記』に明記してあるように、弟の皇子が帝位につかれた。これは孝安天皇である。さて兄が臣下になって仕えたのであるが、これはしばしばある形で、自分の家は、天皇の御祖先の兄であったのだが、子細あって臣下となったのだとするのである。たとえば、神代にあっては、彦火々出見の尊と隼人の祖先、また神武天皇の皇子の御二方の場合など、例の多いことで、それらは多く一場の説話を伴うのを常とする。今ここに孝昭天皇の皇子の場合に、そういう説話を伝えないのは、他の同類の説話と、あまり接近しているか、または古人の考えにも、あまりに荒涼たる内容であるか、その他の理由があるのだろう。この種の説話において、両系統の祖先が兄弟であったというのは、構想であって、たださように伝えていたと解すべきである。
 『日本書紀』では、その皇子の系統として、ただ和珥《わに》氏をあげただけである。これは古い称で、後分かれて春日氏等となったものである。これは地名としては、今日の奈良市の南方|櫟本《いちのもと》村の字に和爾の名が残った。
 はじめワニと称したのは、何のゆえであるかをあきらかにしないが、国語のワニは、第一に神話に現われてくる動物(250)のワニを連想する。そのワニについて、ここに細説しているいとまはないが、彦火々出見の尊と隼人の祖先との説話にも関係があり、氏の祖先の物語として伝えるものに、ワニを氏の称呼とするいわれがあったもののようである。
 和珥氏は繁栄した。その占めている地は、大和の国から山城の国へおもむく要衝を占め、往来の貴人たちは、その家を足だまりとして、宿泊した。応神天皇が近江の国へおでましの途中、この家にお寄りになり、娘子を得て歌を歌われた話や、仁徳天皇が、糟を積んで垣とする長者ぶりをほめて糟垣の氏を賜わったというような話は、かくして生じた。その家は、多くの歌曲を歌い伝え、宮廷に参上してもこれを演奏する家がらとなったようである。
 柿本氏の占めている地は、やはり今の櫟本村の一部で、そこにはもと柿本寺という氏の寺もあったという。姓《かばね》はもと臣であったが、天武天皇の十三年十月、諸氏の族姓を改めて、真人、朝臣、宿禰、忌寸、道師、臣、連、稲置の八階とするに及んで、その十一月、大春日、大宅、栗田、小野、櫟井等とともに、朝臣の姓を賜わった。この時、朝臣となるもの五十二氏である。これは人麻呂の何歳の時かはわからないが、その少壮の時の事であったはずである。姓は家の階級であって、氏とともに、ごく古い時代にはなかったが、宮廷政治の制が確立するに及んで発達した。しかし氏々の伝えるところによって多種であったのを、その重要性にかんがみて、天武天皇が整理されたのである。第一の真人は、ごく近い皇族の家に賜わり、これに次ぐ皇別や、神別のおもな家に朝臣を賜わった。家がらを尊重する時代にあって、新たに朝臣を賜わった柿本氏は、かなり高い家がらであった。なお天武天皇の氏姓の整理は、中途でやんだために、この八種以外の姓も多く残されている。
 
   二 青年人麻呂
 
 柿本人麻呂は、いつの年、何の地で生まれたかわからない。父親が地方官として旅行中、任地で生まれるというような場合もあり得るが、常識的には、大和の国の母の家で生まれたとすべきである。人麻呂集(柿本朝臣人麻呂歌集のこと。(251)以下略称する)に、庚辰の年に作ったという歌があって、その年を天武天皇の九年(六八〇)とすれば、その頃二十歳ぐらいであったと見て、斉明天皇の末年ごろに生まれたことになる。父祖、兄弟、子孫など、人麻呂に直結する人名はあげられないが、時代の近い人には、『日本書紀』天武天皇の十年十二月(六八一)に、柿本臣※[獣偏+爰]に小錦下の位を授けたことが見え、また『続日本紀』神亀四年正月(七二七)に、柿本朝臣建石に従五位下を授けたことが見える。これらの人は、人麻呂の近親として時代が合うのである。
 人麻呂という名は、久松博士もかつて指摘したように、当時普通に見られる名である。そのほか、『万葉集』に拾つても、黒人、赤人、旅人など、人を名に持ったものは多い。
 人麻呂の学問については、少なくとも彼が文字を駆使して、自由にその作品を書いたであろうし、その作品の上にも、当時の学問のあとが見いだされるので、無学の人であったとは考えられない。忍壁《おさかべ》の皇子や舎人の皇子のような学識のゆたかな方の知遇を得、また七夕の歌の多数を留めている点などから見ても、これを立証するものがある。天智天皇や藤原鎌足が、南淵先生のもとに学んだ時代は去り、その学問の系統が伝わったかどうかもあきらかでないが、学問そのものは残っていたであろう。天武天皇の時代の学者としては、その十年三月に、帝紀および上古の諸事を記し定めしめた時に、みずから筆を執って事を記したという中臣大島や平群子首《へぐりのこおびと》、十一年三月(六八二)に新字四十四巻をつくらしめたという境部石積等のあることが知られる。当時の学問は、実務に即したもので、すぐに吏務、政務に役立つようなものに向けられた。しかし学業の余暇、自然に文学の方面にも、読書欲は向けられたであろう。
 七月七日の夕、天上において牽牛織女の二星相会するを仰いで、文学の雅筵を開くことは、漢土から伝来した風流である。この夜、文人たちは韻を探って詩を賦するのであるが、そういう催しごとの席上に、歌が顧みられるようになったのは、漢詩文の製作に刺戟されて、歌が文筆によっても作られるようになったからである。天智天皇が藤原鎌足に命じて、春の花の艶と秋の葉の彩とを競わしめたのは、もと漢詩文の興を目的とされたものと解せられるが、この場合に、額田《ぬかだ》の王は歌を詠み、それはあきらかに漢文学の影響を受けた作品となった。人麻呂が学問をしたのは、主としてその(252)少壮の時代であったのであろうが、その間に受け入れた知識は、彼の場合、大きく歌の方面へ展開した。
 天武天皇の二年五月(六七三)、公卿大夫、および諸臣連、伴造等に詔して、それ始めて出仕する者は、まず大舎人に仕えしめ、しかして後に才能を選簡して当職に充てよと命ぜられた。この詔の趣旨は、後に令制となったが、人麻呂もこの制によってまず舎人として出仕したものと思われる。
 舎人には、大舎人、内舎人、東宮舎人等の別があり、その内舎人は、大宝元年六月(七〇一)に始めて置かれた。
 舎人の職務は広汎である。宿衛侍従をその本務とするようであるが、技能のあるものは、またこれによって奉仕している。『万葉集』巻の八に、天平十一年十月(七三九)、皇后宮の維摩講に、終日大唐高麗等の種々の音楽を供養した。この日琴を弾じたのは、市原の王、忍坂の王、歌うは田口家守、河辺東人、置始長谷等十数人であった。この歳、市原の王は舎人であり、この時もたぶん舎人であったのだろう。琴を弾いたのは、その技能によって召されたので、舎人の職掌としてではなかったかもしれないが、舎人の中に、かような才能のある者は、特に召されることもあったのである。舎人としての人麻呂にも、そのような機会があったものと考えることができる。
 しかし人麻呂は、おもて芸としては、その文筆に関する才能によって、史生(書記)として吏務の方に身を立てていったと見るのが順当である。大歌の歌手としての歌人、歌女もあった時代であるが、それを人麻呂にあてて考うべきではない。人麻呂は、吏務によって後に地方官にもなっているのであって、作歌、および吟誦は、『万葉集』の他のすぐれた歌人たちと同様に、余技としてたしなんでいたものと見るべきである。
 
   三 大和時代
 
 作品に現われた人麻呂の生涯を、大和時代と地方時代とに分けて考えるのは便利である。地方時代といっても、実際には地方から地方へと廻っていたわけでもなく、その間に大和での生活がはさまっているのだろうが、そういうこまか(253)い経歴は、あきらかにすることが困難である。
 そこで大きく、大和時代と地方時代とに分けることになるのだが、はじめは舎人として出仕し、後、何かの京官にも、また地方官にもなったのだろう。その二つの時代の区切を、どこに置くかについては、その作品に関係のある事項をあげて考えるほかはない。
 ここで人麻呂の作品に関係のあること、またその他の大事項を、年表風にあげて見よう。上の数字は西暦である。
 
  六七二 弘文天皇元年 壬申の乱。
  六八〇 天武天皇九年 庚辰の年。人麻呂集に七夕の歌がある。
  六八九 持統天皇三年四月、日並みし皇子の尊薨ず。人麻呂挽歌。
  六九〇 同 四年九月、紀伊の国に幸す。
  六九一 同 五年九月、川島の皇子薨ず。人麻呂挽歌。
  六九二 同 六年三月、伊勢の国に幸す。人麻呂留京作歌。
  六九四 同 八年十二月、藤原に遷都す。
  六九六 同 十年七月、高市の皇子薨ず。人麻呂挽歌。
  六九九 文武天皇三年七月、弓削の皇子薨ず。
  七〇〇 同 四年四月、明日香の皇女薨ず。人麻呂挽歌。
  七〇一 大宝元年九月、紀伊の国に幸す。人麻呂集に歌あり。
  七〇二 同 二年十月、三河の国に幸す。同 十二月、持統太上天皇崩ず。
  七〇五 慶雲二年五月、忍壁の皇子薨ず。
  七一〇 和銅三年三月、寧楽に遷都す。
  七一五 同 六年四月、長の皇子薨ず。
 
(254) 右の表について、人麻呂に作品があるかどうかという事をもって一線を画するならば、大宝元年九月(七〇一)の紀伊の国への行幸と、同二年十月(七〇二)の三河の国への行幸との間に、その一線が引かれる。人麻呂が在京しもしくは行幸に供奉していたらば、当然歌を詠んだであろうと思われるのである。もとよりそういう歌の伝わらないこともあろうし、また何かの理由で、歌を詠まないこともありうるが、そういう事は特殊の事情として別にして考えなければなるまい。そこで大宝元年九月までを、まず人麻呂の大和時代として取り扱うことになる。
 大和時代の作品は、舎人および他の京官として、宮廷の人々と接触する公的生活からくるものと、それを離れた私的生活の上のものとに分けることができる。もとより公的生活からくるものでも、それは舎人および他の京官としての正当な職務の所産ではないものもあろうが、職務上のものかどうかを正確にわけることは困難であって、これは一まとめにしておくほかはない。職務上のものとは、たとえば宮廷から讃歌や挽歌などの製作を命ぜられたというような場合である。集中、応詔の歌という題詞は、しばしば見られるところであるから、人麻呂に対しても、命を下して歌を詠ましめることはあり得たと思う。こういう命令の下るのは、何も人麻呂に限ったことではないが、彼が特に歌に名を得ていたとすれば、特に指名して作らしめることもあったであろう。
 公的生活からくるものとしては、行幸、行啓、皇子の出遊などに従って詠んだ歌、皇子皇女の殯宮や御宴に侍して詠んだものなどがある。作られた年代の知られるものもあるが、不明なものも多い。
 人麻呂の出仕のあとを眺めると、はやい年代の作に、日並みし皇子の尊の殯宮《もがり》の時の歌がある。これは持統天皇の三年四月(六八九)のことであるが、翌四年九月(六九〇)の紀伊の国の行幸には、従ったかどうかわからない。その翌五年九月(六九一)の川島の皇子の薨去の時には、泊瀬部の皇女等にたてまつる歌があり、その翌年六月三日(六九二)の伊勢の国の行幸には、京にとどまって歌があり、越えて十年七月(六九六)の高市の皇子の薨去に際しては、挽歌を詠んでいる。日並みし皇子の尊は、皇太子であり、高市の皇子は、皇太子とは申さなかったが、帝位にのぼるべき方とされていた。人麻呂はまた、軽の皇子に従って阿騎野に宿って歌を詠んでいる。軽の皇子は、後に帝位につかれた文武天皇であ(255)る。こういう経歴を眺めると、人麻呂は、次々に有力な皇子に奉仕したことが知られるのである。
 天皇については、巻の一に、天皇の吉野の宮にいでましし時の歌があり、巻の三に、天皇の雷の岡にいでましし時の歌がある。巻の一のは、藤原の宮に天の下知らしめしし天皇の代の標目のうちにあって、この天皇は、持統天皇の御事と解せられている。持統天皇は、吉野川の激流に臨んだこの離宮を、特に愛せられて、『日本書紀』によって伝わっているだけでも、三十回の行幸があった。そのうちのある時に、人麻呂が御供してこの名篇を成したと考えることは、もっともな考えかたであるが、四年九月の紀伊の国の行幸には歌を残さないで、従ったという証明がないし、六年三月の伊勢の国の行幸には、京にとどまって歌を詠んでいる。このように持統天皇には直接お仕えしたとすべき証明なく、かえって反証があり、一方皇子方には直接お仕えしていたようであり、またこの吉野の宮での作が、十分に練熟した作品であることなどから見て、文武天皇の行幸に従って詠んだ作を、『万葉集』の編者が持統天皇の行幸と混雑して考えたものかと思われる。巻の三の、雷の岡に行幸の際の作はいずれの天皇の行幸とも記してないのを、後人が持統天皇の行幸と解しているものである。しかし特殊の理由で、吉野の宮に行かぬとも限らないから、ここにはただ持統天皇に常侍したのではなかろうということにとどめておく。大宝元年九月の紀伊の国の行幸は、文武天皇と持統太上天皇とお二方のおでましであって、人麻呂は、文武天皇のおでましに従ったのであろう。ただしその頃には、舎人以外の官になっていたかもしれない。
 吉野の宮の頌歌は、一つのまとまった思想をもっていることで注意される。これに比べると、他の車持千年、笠金村、山部赤人、大伴旅人等の吉野の宮の歌が、いかに無思想であるかがわかる。これは彼が神話や歴史に通じ、これを保持して、作品の上に及ぼしたもので、他の歌にも断片的には現われているが、作品の性質上、吉野の宮の歌に、その円熟した全貌を示したものである。しかも一方には、仏教の無常思想を扱った歌もあって、知識欲は強く、ひたすらなかたまりやではなかった。
 
(256)   四 出仕者としての作品
 
 人麻呂の作品に関係のある皇子皇女は、天智天皇、天武天皇の皇子皇女、およびその系統の方である。ことに天武天皇の皇子については、大津の皇子と穂積の皇子とを除いて、すべて人麻呂の作品に関係が見いだされる。
 一、天智天皇の皇子皇女。
 河島の皇子。天武天皇の十年三月、諸皇子諸王諸臣に命じて、帝紀および上古の諸事を記し定めしめた時に、その首席に指名されている。『懐風藻』に詩一首をとどめて、文学のあった方であることが知られる。持統天皇五年九月に薨じ、年三十五であったという。人麻呂との関係は、泊瀬部の皇女、忍壁の皇子に献る歌の左註に、ある本をあげて、河島の皇子を越智野に葬りし時、泊瀬部の皇女に献れる歌なりとある。この歌は、夫を亡われた皇女にたてまつるを主としており、人麻呂が河島の皇子と深い関係にあったとは証明されない。
 明日香の皇女。文武天皇の四年四月(七〇〇)に薨じ、その殯宮で、人麻呂は歌を詠んでいる。夫君の御名が伝わらないので、これ以上人麻呂との関係をあきらかにするを得ない。
 二、天武天皇の皇子皇女、およびその系統。
 高市の皇子。天武天皇の第一皇子である。持統天皇の十年七月(六九六)薨じた。その城上の殯宮で詠んだ人麻呂の挽歌は、集中第一の長篇であり、舎人として奉仕していたことを歌っている。香具山の麓に宮があったので、人麻呂もそこに奉仕していたのである。
 日並みし皇子の尊。草壁の皇子のこと。天武天皇の十年二月(六八一)、皇太子となり、帝位につくに至らずして、持統天皇の三年四月(六八九)に薨じた。人麻呂は、かつてこの皇子に侍して阿騎野に宿ったと思われるが、その歌はない。殯宮での歌があり、その前半には、特殊の神話が叙せられている。舎人として奉仕していたらしい。なおこの皇子の薨(257)去の時の舎人等の歌二十三首をもって、人麻呂の作に擬する説がある。
 軽の皇子。日並みし皇子の尊の皇子である。持統天皇の十一年(六九七)、立って皇太子となり、その八月即位した。文武天皇と申す。慶雲四年六月(七〇七)崩じた。『懐風藻』に御製の詩をとどめている。軽の皇子と申された頃、阿騎野に宿り給い、人麻呂はこれに従って歌を詠んだ。それは日並みし皇子の尊の薨去後のことで、冬の季節であるが、何年か不明。人麻呂が、高市の皇子の薨後、この皇子に従ったとすれば、持統天皇の十年の冬のことになる。当時、都はすでに藤原にうつされていた。
 忍壁の皇子。天武天皇の十年三月、帝紀および上古の諸事を記し定めしめられた時、指名の中にあり、また文武天皇の三年(六九九)、命じて律令を撰せしめられた時にも、これに与っている。文学のあった方であることが知られる。慶雲二年五月薨じた。人麻呂は、この皇子に再三歌をたてまつった。その一は、河島の皇子の薨去した時の歌の題に、泊瀬部の皇女と忍壁の皇子とに献るとあるもの。泊瀬部の皇女と忍壁の皇子とは、同母の御兄弟で、皇女は、河島の皇子の妃であったのであろう。ここに特に忍壁の皇子の御名を出したのは、この皇子との関係において、この歌がたてまつられたからであろう。その二は、天皇の雷の岡にいでましし時の歌の左註に、ある本によって、忍壁の皇子にたてまつる歌をあげている。その三は、忍壁の皇子に献る歌と題し、仙人の形を詠めると註してあるもの。皇子が、大陸の文物に興味を有せられ、仙人の図像など飾られたのを詠んだものであろう。
  とこしへに夏冬行けやかは衣扇放たぬ山に住む人(巻九・一六八二)
 仙人の珍しい風俗が歌われている。かように人麻呂は、文雅の道が縁となって、この皇子の知遇を得ていたと思われる。
 山前の王。忍壁の皇子の御子。養老七年十二月(七二三)卒した。『懐風藻』に詩一首をとどめている。石田の王の卒した時に山前の王の詠んだ歌(巻三・四二三)があって、その左註に「右の一首は、或るはいふ、柿本朝臣人麻呂の作れる歌なり」とある。この左註の説をとって人麻呂の作とすることはできない。また人麻呂の作とする伝えのほうにも、この歌をやはり石田の王の卒去の時のものとするのであるか不明であるが、もし石田の王の卒去の時の歌とする伝えな(258)らば、人麻呂と石田の王との関係を語る資料となる。石田の王は、系統、伝記未詳の方であるが、この山前の王の挽歌の前に丹生の王の挽歌があり、それらの歌意によるに、年少の方であったようであって、山前の王は兄、丹生の王は母君であったと解せられる。
 長の皇子。霊亀元年六月(七一五)、薨じた。猟路の池に出遊せられた時に、人麻呂は従って歌を詠んでいる。春と見られるが何年であるか不明。
 弓削の皇子。長の皇子の同母弟である。文武天皇三年七月薨じた。弓削の皇子に献ると題した歌は四首ある。
 舎人の皇子。養老七年(七二三)に『日本書紀』を奏進したことは著名である。長生きされて天平七年十一月(七三五)に薨じた。舎人の皇子に献ると題した歌は七首あり、また人麻呂集中に舎人の皇子の御歌二首を録している。その知遇を得ていたことがよく知られる。
 新田部の皇子。天武天皇の諸皇子のうち、最年少の方のようである。天平七年九月、薨じた。人麻呂は、この皇子に雪の歌をたてまつっている。たぶん雪中の御宴に召されたものであろう。唐招提寺は、新田部の皇子の旧邸を施して創建するところであるが、人麻呂の歌中に、生駒山木立も見えずと歌っているのは、よくその地に合う。またこの歌は、長歌(反歌をともなう)として短いもので、作者老成の境に成るもののごとくである。これらによって、奈良遷都後の作であろうかと考えられる。
 泊瀬部の皇女。忍壁の皇子の同母の御兄弟。天平十三年三月(七四一)薨じた。忍壁の皇子の条参照。
 なお貴人以外で、人麻呂と関係のあるものは、その妻を別として吉備の津の采女等数人がある。
 吉備の津の采女は、吉備の国から出た采女で、人麻呂にその死を悼む歌がある。その反歌に志我の津の子ともいっているのによれば、近江の国での作だろうか。人麻呂は、生前にほの見し事悔しきをと歌っているだけで、関係はあきらかでない。
 挽歌にはなお、土形の娘子を泊瀬山に火葬せし時の歌、溺れ死にし出雲の娘子を吉野に火葬せし時の歌があるが、こ(259)れもそれ以上には知られない。
 巻の九には、吉野川に遊んだ時の歌に、元仁、絹、島足、麻呂の歌というのが並んでいる。これらは同僚であろうが、氏も伝わらない。麻呂は、人麻呂自身の事であるかもしれない。人麻呂集に間人《はしひと》の宿禰の泉河での作二首を伝えているのは、山城の国を通って行く旅に、同行した人の歌であろう。間人は氏、宿禰は姓で名は伝わらない。巻の三に、間人宿禰大浦の作歌があるが、同人か否かわからない。また人麻呂の死を悼んで、丹比《たじひ》の真人が歌を詠んでいるが、これも氏姓だけで、名を伝えないので、何人か不明である。
 以上の庶人のうちには、地方生活の部に記すべき人もあるが、今便宜ここに付記して、人麻呂の知人を見るたよりとする。
 貴人の席に侍して、歌人が歌をたてまつることは、古くからあった風俗であるが、本来は、歌いあげたものであったのはもちろんである。漢詩文が行なわれるようになってからは、文筆による文雅の歌会も催されたであろう。人麻呂の場合は、文筆によってたてまつったと確言できるものはないが、
  天の海に雲の波立ち月の船星の林に榜ぎ隠る見ゆ(巻七・一〇六八)
のような、漢詩文の影響を受けていると考えられる歌があるとともに、妻に与うる歌(巻九・一七八二)のごとき、地方から妻に贈った歌は、文筆によらざるを得ないから、合わせて文筆によってたてまつった歌もあるとするを妥当とする。しかしまた、弓削の皇子に献れる歌、
  神奈偏の神より板にする杉のおもひも過ぎず恋のしげきに(巻九・一七七三)
また、舎人の皇子に献れる歌、
  たらちねの母のみことの言にあれば年の緒長くたのみ過ぎなむ(巻九・一七七四)
  泊瀬川夕渡り来て吾妹子が家の金門に近づきにけり(同・一七七五)
のごときを、文筆によってたてまつったとすることは困難であって、かような歌は、実際に歌いあげたものと考えられ(260)る。集中の例を考えるに、歌が吟誦される場合は多く、あるいは古歌が吟誦され、あるいは新しく作られた歌が吟誦されもする。古新未詳と記されたものも見いだされる。
 人麻呂は、歌の創作家としてすぐれた才能を持っていた。新しい文学意識のもとに、古歌謡の豊富な知識を活用して歌を作る。これも集中にしばしば見るように、歌を所望されて即座に、歌をまとめる機才もあったことだろう。これを歌いあげる場合にも、聞きにくからず、すぐれた天分が発揮されたことであろう。それはやがて皇子の方々のお召しを重ねることにもなり、これをまね伝えることによって、その作歌が流布することにもなる。人麻呂の作品に、詞句の別伝の多いのは、広く歌われたことによると考えられる。
 皇子皇女の薨去に際して詠んだ挽歌も多いが、これは殯宮での作であって、やはり吟誦されたもののごとくである。殯宮とは、いまだ葬らざる前の祭宮の称であるが、そこでは亡き君の遺徳をたたえて誄詞の奏せられるのが礼であった。人麻呂の挽歌が、神話や御事蹟を叙するもののあるのは、ここに史的根拠を有するものである。
 日並みし皇子の尊の殯宮の時の歌には、まだ痛切な哀情が出切っておらず、その反歌の、
  ひさかたの日は照らせれどぬばたまの夜渡る月の隠らく惜しも(巻二・一六九)
には、譬喩に適切でないものがあった。高市の皇子の殯宮の時の歌では、それが整備されて、雄大な作となっている。河島の皇子の薨去の時の歌と、明日香の皇女の薨去の時の歌とは、ともに歌材として明日香川を使用し、その技巧は、後者においてすぐれているが、しかも痛切の情はかえって前者において感じられる。すべて整備し発達して、人麻呂の歌歴は進行した。
 
      五 前の妻
 
 私的生活から生まれた作品は、自然を詠んだものと、人事関係のものとがあるが、自然を詠んだものは、どのような(261)時期において詠んだものか、ほとんど全部が不明であって、伝記の秩序の中に入らない。
 人麻呂の妻についても、まとまった資料はない。やはり作品をあつめて考えるほかはなく、まず前の妻と後の妻とに分け、ここにはその前の妻について述べることとする。
 前の妻に関しては、資料としてその人の作と題せるもの、推定によってその人の作と考えられるもの、および妻に関する人麻呂の作品(相聞と挽歌)がある。いずれもそのいかなる人であるかを説明する性質のものでないので、今日となっては、不明のことが多いのである。
 前の妻に関して課せられる難問題は、一人であるかどうかという事である。人麻呂の妻のみまかりし後、泣血哀慟して作れる歌は、それぞれ反歌をともなう長歌二篇から成っている。人麻呂は、吉野の宮での作や石見の国から妻に別れて上りくる時の作のごとく、一つの題目のもとに長歌二篇を列記する例はあり、人麻呂の才能をもってすれば、同一の題下に二篇の長歌を作ることも困難なことではない。しかも妻の死について詠んだ歌は、前の歌は、秋の頃その死の報に接して詠み、後の歌は、翌年の春詠んだものであるから、その点においては、同一人の死について詠んだとすることは自然である。
 第一の歌は、「天飛ぶや軽の路は吾妹子が里にしあれば、ねもころに見まくほしけど」と歌い起こし、その妻が軽の里を本居とする人であったことを示し、しかも心ならず訪れないでいるところに、妻の死を報ずる使いが来たので、その報告を聞いただけではあり得ないで、吾妹子が止まず出で見し軽の市にわが立ち聞けば、玉だすき畝傍の山に鳴く鳥の声も聞えず、玉桙の路行く人も一人だに似るが行かねば、すべもなくて妹が名を呼んで袖を振つたと結んでいる。この歌にても知られるように、軽は畝傍山の南方の地で、この地に関しては、軽部の臣、軽の我孫《あびこ》などの氏が伝えられる。その妻のもとに訪れるのに、止まず行かば人目を多み、まねく行かば人知りぬべみと、人目をはばかっているのは、舎人が常時奉仕しており、皇子の御殿をまかり出ることを遠慮したものと見える。男子が女子のもとを訪れる風習のもとには、使いの報告によって妻の死を知ることもあったのである。後に人麻呂が死んだ時には、その妻は、知らないで来(262)るのを待っていた。反歌には、「秋山の黄葉をしげみまどひぬる妹」とあって、黄葉の散りみだれる頃、妻を山に送ったことが知られる。
 第二の歌においては、はからずも妻の死に会して哀痛し、その残した子を抱いて途方に暮れることを叙し、大鳥の羽貝の山に、わが恋うる妻はいますと人がいうので、骨を折って尋ねて来たが、しかも生ける妻に会うことができないと歌っている。ここに大鳥の羽貝の山というのは、春日なる羽貝の山とも歌われている山で、春日の地の山である。なぜその山に亡き妻がいると人が教えたのだろうか。別伝に、妻が灰になっていたと歌っているによれば、火葬の地だったのだろうか。また反歌には、「衾路を引手の山に妹をおきて山路を行けば」とも歌っている。この引手の山は、確かではないが、柿本氏の本居なる朝和村の竜王山のことだという。それではここが墓地なのだろうか。
 軽の里と、羽貝の山および引手の山とは、かなり遠い地なので、別人説も行なわれるのである。しかし第二の歌に、幼児のことが見えているので、出産のために、しばらく軽の里に帰っていて、ついにその子を形見として残したが、遺骸は羽貝の山に火葬して、柿本氏の墓地である引手の山に葬ったとすれば、ありえないことでもない。ただし羽貝の山については、春日氏一門の集会する機会などがあったのかもしれない。
 以上のごとく別人とすることは確証がないのであるから、確説の出るまでは一人として扱うべきである。資料が断片的なので、推測、想像の要素の多くなるのもやむを得ない。
 そのころ人麻呂は、皇子の御殿に勤めていた。宮廷で、神祭りや何かの行事の行なわれる時には、皇太子の御供して宮廷に行くこともたびかさなり、そういう時には、皇太子のおでましを待ちながら、宮の内を行きかう采女たちの花やかな姿に、特にその中の一人の姿を追い求めるようになった。
 軽の里から出た女は、持統天皇の御もと近く仕えたが、先帝天武天皇のおはじめになったこの明日香の清御原の宮は山間の地であり、規模も大きくなく、生活もあまり形式ばらなかったので、世間からまったく切り離された、後世の宮廷生活とは相違するところがあった。
(263) 人麻呂は、文筆をよくしたので、特に史生(書記)の役をしていたのだろう。女も才媛で、筆が立つので、役むきの文書の交通から、役目以外の事にも触れる機会があったのだろう。
 はじめ天武天皇が崩御せられてから、皇太子であった日並みし皇子の尊は、ただちに即位されず、母の后である持統天皇が、政務を見ておいでになった。三年四月に、日並みし皇子の尊が薨去されるに及び、四年正月に、皇后がはじめて帝位につかれた。その年の頃であろう。九州の南方から、慶祝の意を表するために肥人が上京した。宮廷で引見の儀があり、染めた木綿《ゆう》で額髪を結んでいるその特異の風俗を見て、人麻呂は、
  肥人《ひびと》の額髪《ぬかがみ》結へる染木綿《しめゆふ》のしみにし心われ忘るれや(巻十一・二四九六)
という歌を詠んで女に贈った。女も、これに答えて、宮廷護衛の隼人が、夜間名のりをすることを材料として、
  隼人《はやびと》の名に負ふ夜声いちじろくわが名は告りつ妻と恃ませ(巻十一・二四九七)
という歌を返した。女が男に対して名をいうのは、妻となることを承諾した意味である。
 女は、神前に奉仕しながら、たまたま殿外の庭上にかしこまっている男の姿を見いだすこともあった。
  皇祖《すめろぎ》の神の御前にかしこみとさもらふ時にあへる公《きみ》かも(巻十一・二五〇八)
 紙のはしに書いた女の歌を眺めて、もとより人に知られてはならぬ仲を、男は、み鏡に寄せて返歌をした。
  まそ鏡見ともいはめや玉かぎる石垣淵のこもりたる妻(巻十一・二五〇九)
 女帝にまします持統天皇は、出遊を好まれ、紀伊、伊勢などに行幸された。女は、天皇に直接お仕えしているので、いつも御供をし、男は、皇子に仕えているので、皇子がともにおでましになる場合には、御供をすることになる。六年三月の伊勢の国への行幸にも、女は御供したが、人麻呂は京にとどまっていて歌を詠んでいる。
  安美の浦に舟乗すらむ娘子らが珠裳のすそに潮満つらむか(巻一・四〇)
  釧《くしろ》つく手節《たふし》の埼に今日もかも大宮人の玉藻苅るらむ(同・四一)
  潮騒《しほさゐ》に伊良虞《いらご》の島辺榜ぐ船に妹乗るらむか荒き島みを(同・四二)
(264) 行幸に御供した女たちの上を思うように詠みながら、心は、その中のある一人に集中している。女が、
  君が家にわれ住坂の家路をもわれは忘れじ命死なずば(巻四・五〇四)
と詠んだのも、この行幸の度であろうか。住坂というのは、普通に墨坂といい、大和の宇陀にあって、東方から大和の国の中心に入る関門とされていた。
 藤原に都うつりがあってからのことであろうか。女はついに宮廷内に見ることができなくなった。宮廷の人々は、女の行く先を追って探し求めた。女は美しい人だったのである。
  泊瀬《はつせ》の弓月《ゆづき》が下にわが隠せる妻、茜さし照れる月夜に人見てむかも(巻十一・二三五三)
  ますらをの念ひ乱れて隠せるその妻、天地に徹り照るとも顕れめやも(同・二三五四)
 泊瀬の弓月というのは、藤原の宮からさして遠からずに眺められる三輪山の東方の山つづきで、泊瀬渓谷から見れば、泊瀬の弓月と呼ばれ、巻向の穴師の方から見れば、巻向の弓月が嶽と呼ばれる。その山の巻向側の麓に、人麻呂は、女を隠し住ませた。そうして隙をもとめてはそこへ通った。その頃が一番楽しい時代だったのだろう。
  巻向の檜原に立てる春霞おはにし思はばなづみ来めやも(巻十・一八一三)
  子らが手を巻向山に春されば木の葉しのぎて霞たなびく(同・一八一五)
 その家は、穴師川に近く、山に夕立の雲が立てば、その川の水音も急に増して聞えるように思われる。
 女は染織の技にもうとからず、男のために、みずから機も織った。みずから織りみずから着る生活様式の時代であって、機を織ることは、りっぱな女芸とされていた。
  夏影の妻屋のしたに衣裁つ吾妹、うらまけてわがため裁たばやや大に裁て(巻七・一二七八)
 人麻呂は、体格も見事な男だったのである。
 宮仕えをしている悲しさは、役を帯びて遠く地方に出ることも稀ではない。人麻呂も、地方官の史生などになって、遠く家を離れることもしばしばだった。
(265)  淡路の野島が埼の浜風に妹がむすびし紐吹きかへす(巻三・二五一)
を詠んだのは、海路四国へ渡る途上、淡路島のほとりで詠んだものである。四国での旅寝は、年を越したが、妻からのたよりは、久しく絶えた。春になって、
  雪こそは春日消ゆらめ、心さへ消えうせたれや言も通はぬ(巻九・一七八二)
と雪の無い四国から詠んで贈つたのに対して、心知らぬ人とばかり、女はいたずらの一首を返した。
  松がへりしひにあれやは三つ栗の中ゆ上り来ぬ、麻呂といふ奴(巻九・一七八三)
 女の才気は、実にするどいものであった。
  衣手の名木の河辺を春雨にわれ立ち濡ると家思ふらむか(巻九・一六九六)
  家人の使なるらし春雨のよくれどわれを濡らす思へば(同・一六九七)
  あぶりほす人もあれやも家人の春雨すらを間使にする(同・一六九八)
  あぶりほす人もあれやも濡衣を家にはやらな旅のしるしに(同・一六八八)
 これは近江の国におもむく途中、名木川のほとりで春雨に逢ったわびしさを歌ったものである。
 その妻は、子を生んだが、それは軽の里の実家に帰っていて生んだのだろう。そうして間もなく死んでしまった。秋の黄葉の散り乱れる頃であったが、人麻呂が近江の国に行っていた留守の事だったかもしれない。近江の国から上って来る時、宇治川のあたりで詠んだ歌には、暗い影がさしている。
  もののふの八十宇治川の網代木にいさよふ浪のゆくへ知らずも(巻三・二六四)
 人麻呂は、亡き妻の幻影を追うて軽の市を徘徊したが、もとよりその姿を見るべくもない。年を越えて春の頃、去年生まれた子が、乳をもとめて泣くのを抱いて、ありし日の妻屋に泣き、大鳥の羽貝の山に氏人の女は集つても、わが妻の姿は見いだされない。かつてはなつかしい山川であった巻向の山も、穴師の川も、今は亡き妻を思うよすがとなるのみである。
(266)  子らが手を巻向山は常にあれど過ぎにし人に行き巻かめやも(巻七・一二六八)
  巻向の山辺とよみて行く水の水沫のごとし世の人われは(同・一二六九)
  いにしへにありけむ人もわが如か三輪の檜原に插頭《かざし》折りけむ(同・一〇九二)
  行く水の過ぎにし人の手折らねばうらぶれ立てり三輪の檜原は(同・一〇九三)
 紀伊の国の南海岸は、むかし妻とともに旅行した地である。これはいつのことかわからない。夫婦携えて私的の旅行をしたとも思われないから、持統天皇四年九月の行幸の時のことであろうか。浦の浜木綿《はまゆう》を採って歌をつけて、妻に贈り、それに妻が答えて歌を返したのも、その旅先のことであったかもしれない。そういう行幸の御供では、旅先でも離れがちであったのだろう。
 その後、人麻呂はまた紀伊の国に旅行して今は亡き妻を想って、悲痛の情を歌っている。これも大宝元年十月(七〇一)の行幸の時のことであったろうか。文献に伝わらない皇子の御旅行のこともあろうから、確言はできない。
  もみぢ葉の過ぎにし子らとたづさはり遊びし礒を見れば悲しも(巻九・一七九六)
  潮気立つ荒磯にはあれど行く水の過ぎにし妹が形見とぞ来し(同・一七九七)
  いにしへに妹とわが見しぬばたまの黒牛潟を見ればさぶしも(同・一七九八)
  玉津島議の浦みのまなごにもにほひて行かな妹が触れけむ(同・一七九九)
 これらの歌は、軽の皇子の阿騎野に宿り給いし時に従って詠んだ歌の反歌のあるものと似るものがある。それとの先後はあきらかでないが、大宝元年十月より遠くない頃に妻を失ったものだろうか。
 相聞の歌に示された人間人麻呂の性格は、快活、率直であって、熱情を有し、時には男性的な冒険をも辞せぬ人であったようである。加うるに教養があり、文筆の力もゆたかであったので、貴人の愛顧を得、吏務にも通じて、漸次昇進してゆく段階にあったものと考えられる。
 
(267)      六 旅行
 
 在京の生活と地方への旅行とは、織り交ぜられているのだろうが、その具体的のことは知られない。足跡を残した地方としては、四国、九州、近江、石見などがあげられ、石見の国が最後の地であることが知られるだけで、その他の諸地方の先後はわからない。ただし行幸の御供の旅行は、ここにはあげない。
 四国に下ったことは、讃岐の中の水門から船を出して、途中、狭見の島に泊って、石中の死人を見て詠んだ歌があるので知られる。この歌は、讃岐の国の性質から説き起こした雄大な構想を有しているが、石中の死人をあわれむ歌としては、前半が雄大でありすぎる。これは上京の途次の作であるが、往還の途上の作としては、※[羈の馬が奇]旅の歌八首(巻三・二四九−二五六)が、四国ゆきの際のものとしてあげられる。この八首は、それぞれ、三津の埼、敏馬の埼、淡路の野島が埼、藤江の浦、可古の島、明石の門、飼飯の海等の地名を詠み入れている。これはいずれも瀬戸内海に属する地名であり、難波の津を出て、敏馬の埼、淡路の野島、明石の門、可古の島、藤江の浦は、讃岐の中の水門を目標とする通路にもまた九州への通路にもあたる。飼飯の海は、淡路島の西岸にあって、これだけはどちらからの通路にもはずれるが、四国への旅にここを通過したこともあったのだろう。この八首は、往路と帰路との両方向の歌を合わせており、どちらかといえば、四国への往来の際の作とすべきがごとくである。人麻呂の旅の歌は、純粋な自然描写の作は、ほとんど見られず、どこまでも旅行者としての自己を見失わないところに特色がある。
  玉藻刈る敏馬《みぬめ》を過ぎて夏草の野島が埼に船ちかづきぬ(巻三・二五〇)
にしても、自分を見つめているし、
  天ざかるひなの長路ゆ恋ひ来れば明石の門より大和島見ゆ(同・二五五)
にしても、帰途のよろこびを大きく写している。
(268) 九州へ下つたのも海路によっている。
  名ぐはしき印南《いなみ》の海の沖つ波、千重に隠りぬ、大和島根は(巻三・三〇三)
  大君の遠の御門とあり通ふ島門《しまと》を見れば神代し思ほゆ(同・三〇四)
 これらの作は、人麻呂として後期の作であるように見受けられる。人麻呂が遣唐使となって大陸へ渡ったという説のあるのは、こういう歌から出たのだろう。人麻呂の時代には、大宝元年に遣唐使が出されたが、人麻呂には、その送行の歌と見られるものがあるので、自身が行ったとは思われない。その歌にも、よく後期の成熟した風格がうかがわれる。
  葦原の水穂の国は、神ながら言挙せぬ国、然れども吾は言挙す、事さきくまさきくませと、つつみ無くさきくいまさば、荒磯浪ありても見むと、五百重波千垂波に重《し》き、言挙す吾は言挙す吾は(巻十三・三二五三)
    反歌
  敷島の大和の国は言霊のさきはふ国ぞまさきくありこそ(同・三二五四)
 この歌には、別に題詞は付けてないが、これは沢瀉博士の説のように、遣唐使に贈った歌とすべきである。この時の遣唐の大使、粟田真人は柿本氏と同族であり、また少録(書記)として随行した山上憶良も同族である。
 近江の国にも地方官としてしばらく行っていたのだろう。山城の国を旅行した歌も伝えられるのは、近江の国への往反の途上の作が多いのだろう。春の頃下ったと見え、また秋の頃にも通過している。地方官には、四度の使いといって、年々交替して政務報告に出京するから、それらのための旅行もあるだろう。
 近江の国では、近江の荒れたる都を過ぎし時の歌(巻一・二九、三〇)が大作である。これは、天智天皇の近江の大津の宮の廃址に立って詠ただ作で、思想的に漢文学の影響を受けている。歌詞には、作者は目のあたり大津の宮の盛時を見なかったように歌っている。
 近江の国では、広く国内を巡行したようで、遠く北方の高島にも行っている。
  高島の阿刀河波はさわげども吾は家おもふやどりかなしみ(巻九・一六九〇)
(269) これは後に詠んだ石見の国から上京する時の歌の反歌の一つ、「ささの葉はみ山もさやにさやげども」の歌の先縦をなすものである。
 地名を詠み入れた歌としては、なお、
  上つ毛野いならの沼の大藺草《おほゐぐさ》よそに見しよは今こそまされ(巻十四・三四一七)
の歌があるが、この歌は相聞の歌で、類型的な形をもっており、これだけでは上野の国に旅行したという証明にならない。そのほかにも遠く東方にもおもむいたという証跡はない。
 
      七 石見の国の人麻呂
 
 人麻呂は、最後に石見の国の役人となった。諸国には階級があり、令の制に、大国、上国、中国、下国に分かれ、『延喜式』によれば、石見の国は中国であるから、その守(長官)といえども、正六位下の官である。しかし人麻呂は、石見の守でもなく、もつと下級の役人だったのだろう。石見の国の国府(国の役所)は、今の浜田市の東北の下府村にあり、人麻呂もその地に住んでいた。それからさらに東北に海岸沿いに進むと、江の川の河口に近い所に、角の里があり、これが大和の国へおもむく道の最初の駅家になる。
 当時、街道筋には駅家を置き、ここに馬を用意させて、公用の旅行者の使用に供した。そこは宿泊食事の用をもするので、後世の旅館に近いものに発達した。諸国の役人たちが宴会を催す時なども、自然これを利用して、地方生活の単調をまぎらした。そういう駅家には、娘子がいて、役人や旅行者の哀愁を慰めるのである。それらの娘子の中には、ただ歌い伝えられた歌を歌うだけでなく、その時に相応した歌を詠むものもあり、都から下った人に接して、恥ずかしからぬものもいたのである。
 妻を失ってから何年たったか、はるかに遥遠の国に下った人麻呂は、そういう所に、旅の愁えを慰める道を見出した。(270)相手の娘子は、依羅《よさみ》の娘子という。駅長の娘であるかどうかはわからないが、いわゆる長者の娘として、京人に接するだけの教養があった。角の里にいて、国府から折々に通ってくる人麻呂が、税帳使として秋の頃都へ上る時にも、その家に宿ったのである。その時の依羅の娘子の歌、
  な念ひと君は言へどもあはむ時いつと知りてかわが恋ひざらむ(巻二・一四〇)
 内容は、別れに臨んでいう世のつねの言であるが、かえって純粋に思い入つている姿が浮き出している。
 人麻呂は、その妻の家を足がかりとして、それから石見の海岸を離れて都への旅程につくのであった。妻の家を顧みがちに行く心は、二篇の長歌となって伝わっている。歌はいずれも石見の海の叙述に筆を起こして、別離の哀情を述べている。第一の歌の末尾に「夏草の思ひしなえてしのぶらむ妹が門見む、靡けこの山」の句には、強い意力が表現されていると評される。その反歌、
  石見のや高角山の木の間よりわが振る袖を妹見つらむか(巻二・一三二)
  ささの葉はみ山もさやにさやげどもわれは妹思ふ別れ来ぬれば(同・一三三)
の二首は、高大の格調を有し、多年練磨してきた大歌人の絶頂の作であることを思わせる。
 この旅行は、無事に使命を果たして帰任したことであろう。その後、任地で病みついて、みずから余命の久しくないことを知って、一首の歌を詠んだ。
  鴨山の岩根し巻ける吾をかも知らにと妹が待ちつつあらむ(巻二・二二三)
 岩根を巻くというのは、死んで墓穴に横たわることをいう成句である。鴨山は墓地。所在不明であるが、下の丹比の大夫の歌によれば日本海の荒浪の近くうち寄するところの丘陵で、国府の付近に求めらるべきである。
 人麻呂の死を知らずに妻は来るのを待っていた。今日の考えかたでは不思議のようであるが、当時の風習では、変わったことではない。その妻の詠んだ歌、
  今日今日とわが待つ君は石川の貝に交りてありと言はずやも(巻二・二二四)
(271)  ただに逢ふは逢ひかつましじ石川に雲立ち渡れ見つつしのはむ(同・二二五)
 日本海にそそぐ石川の川原で、火葬にしたと見える。歌聖の白骨は、石川の貝に交り、肉親を焼く煙は、雲のように天に昇った。そなたの空を見て、妻の依羅の娘子は、おそらくはまだあまり年を取っていない身に悲歎した。すぐれた歌才の持主ではないが、思うところをまとめるだけの才能はあった。
 自分の訪れるのを待っていた妻が、ただ死の報告を受けたことを知ったとしたら、人麻呂の心はどんなであろうか。しかしいかに歌聖でも、死んでしまっては、折角の妻の歌に和する歌を詠むわけにもゆくまい。たぶん石見の国の役人、おそらくは長官であったのであろうと思われる丹比の大夫が、人麻呂の心に擬して詠んだ歌、
  荒浪に寄り来る玉を枕頭《まくら》に置きわれここにありと誰か告げけむ(巻二・二二六)
 今はしずかに墓穴に伏している人麻呂に代って詠んだ一首である。
 人麻呂の死んだのは何年頃だろうか。藤原の宮時代の末ともいい、奈良時代のはじめともいう。的確な文献はなく、諸種の事情を集めて考えるだけである。
 まず上の方から限定して行くと、大宝元年十月の紀伊の国の行幸の時の作があるから、それより以後で、秋の頃石見の国から上京し、それから帰任したと見られるから、大宝元年の翌々年、慶雲元年(七〇四)以後ということになる。
 石見の国における人麻呂関係の歌は、巻の二の相聞と挽歌とにある。相聞の部のは、その最後にあって、その前には石川の女郎と大伴田主との相聞、石川の女郎の大伴宿奈麻呂に贈れる歌、長の皇子の皇弟に与うる歌などがあって、こまかい年代判断の資料とすべきものはない。挽歌の部のは、人麻呂の讃岐の狭岑の島に石中の死人を見る歌の次にあり、その後には、寧楽の宮と標して、和銅四年(七二)の姫島の松原に美人の屍を見る歌に続いている。これによれば、寧楽の宮以前のこととすべきがごとくであるが、『万葉集』の編者が資料としたところにも、人麻呂の死の年代をあきらかにしたものなく、ただ人麻呂の挽歌の作に続いてその死の歌を列記したものなるべく、その年代を明白にした所業とは考えられない。寧楽の宮の標目も、巻の一においては、和銅五年四月(七一二)の歌より後においているので、これに(272)も絶対の信をかけるわけにいかない。
 奈良付近の地名を詠んだものには、妻の死を悼む歌に、春日の羽貝の山が歌われ、その他に、春日野の友鶯の鳴き別れなどの句が見いだされるが、春日は、柿本氏の縁故地で、はたして奈良時代であるがゆえに、この地が歌われたかどうか、決定するに困難である。ただ前にも記したように、新田部の皇子に献る歌に、生駒山が詠まれ、これを新田部の皇子の御邸での作とすれば、奈良に都をうつしてから後の作のごとくである。それは石見の国から、たまたま上京していた時の作かどうか、それも不明である。
 奈良時代にかかったとしても、そのごくはじめの頃に世を終わったらしい。年齢もわからないが、仮に年代の知られる最初の作、天武天皇九年庚辰の年の七夕の歌を、その二十歳の時とすれば、和銅三年三月、奈良に遷都の時は、五十歳の時のことになる。多くてもそれより十年も上のことはないだろう。
 
   八 作品の伝来と影響
 
 『万葉集』に載っている人麻呂の作品は、その伝えかたに数種がある。第一は、題詞に人麻呂作歌とあるもので、これはまず人麻呂の作品の根幹をなすものとして取り扱われる。しかしその中にも、巻の四の四九八、四九九の二首のように、その妻の作と認められるものがあって、すべて文句なしというわけではない。次に左註または題詞において、柿本朝臣人麻呂歌集の所出である旨を記したものがある。以前は、人麻呂集は、信をおきがたいものとされていた。その根拠は、他人の作があること、婦人の作と認められるもののあること等である。しかし今日では題名の示す通り、人麻呂の歌集として認められることになっている。当時の個人の集は、イ、純粋に自作だけを録するもの、ロ、和する歌の場合に限り、他人の作をも録するもの、ハ、自作を中心として、見聞するところの他人の作にも及ぶもの等の種類があって、人麻呂集は、この最後の集の性質をもっている。巻の十五の前半、遣新羅使人の一行の集録のごときが、その類(273)似の例であって、それも贈答した妻の歌を、無署名で収録されている。人麻呂の自記のままに『万葉集』の資料となっているかどうかは考えなければならない問題であるが、少なくともそのはじめに自記のものがあったと考えられる。題詞に人麻呂作歌とあるものの中には、人麻呂集を資料としているものがあるとも見られている。次に左註に、「或るは云ふ」として柿本人麻呂が作なりとするもの。これはそういう伝えもあったものと見るほかはない。人麻呂は、はやく有名であったから、伝誦の歌を、その人の名に寄せることもあったのだろう。
 『万葉集』以外では、『歌経標式』に柿本若子として若干の伝来がある。若子は、若い人に対する愛称である。その作を伝えるのは、次のごとくである。
 秋の歌、秋風の日にけに吹けば(不完)
 長の親王を賦する歌、ひさかたのあま行く月を網にさしわが大君はきぬがさにせり。
 長谷を詠める四韻の歌、天雲の影さへ見ゆる、こもりくの泊瀬の川の、浦無みか船の寄りこぬ、礒無みかあまも釣せぬ、よしゑやし浦は無くとも、よしゑやし礒は無くとも、沖つ浪浄くこぎり来、あまの釣船。
 右のうち、後の二首は『万葉集』にも見え、ひさかたのの歌は、長の皇子の猟路の池にいでましし時献れる歌としているが、こもりくのの歌は、巻の十三にあって、作者の名を記していない。
 なお平安時代に入つての歌集に見えるもの、また三十六人集のうちに人麻呂集があるが、これらは、すべて信をおくに足りない。
 人麻呂の歌は、その生存時代から伝誦されていたようである。当時、歌を吟誦する風習があり、新古によらず、吟誦した。人麻呂自身も、自作のみならず、伝えられた歌謡をも吟誦したのだろう。人麻呂集の中に、民謡と思われるような歌をも含んでいるのは、見聞にまかせて、そういうものをも収録しておいたのであろうし、新作と古歌との間に、明確な線を引くことはできない。
 人麻呂の歌には、詞句に別伝のあるものが多い。『万葉集』の編者は、小異にとどまる時は、ある句のみに別伝を註(274)し、大異ある場合には、或る本の歌として、全形を付載している、吟誦して伝えられるものは、詞句を毀損することが多く、概して原形に及ばない。近江の荒れたる都を過ぎし時の歌は、本文では、春日と春草とによって対句を作って好適であるが、その小註の別伝では、春日に対する夏草をもってして、気分を破壊している。また天平八年(七三六)の遣新羅使人の一行が、船中において人麻呂の歌を吟誦したものも、原歌の風格を損じている。
 吉野の宮の歌のごときは、特に歌人の間に流伝したものとおぼしく、後の吉野の宮の歌は、これに影響されているものが多い。山部赤人の作のごときは、詞句の模倣にまで及んで、いかにその歌に景仰したかが知られる。
 大伴家持はその文において、幼年にして山柿の門に至らずと称している。山は山上憶良か山部赤人か、問題を存するにしても、柿が柿本人麻呂であることは、疑いをいれない。人麻呂が門流を育てたというようなことは考えられないが、遺風を仰ぐ人々は多かったのである。
 
(275)   人麻呂歌集の部類
 
 『万葉集』における各種の部類法のうち、もっとも特色のある雑歌、相聞、挽歌等の標目を立てる部類法の根拠は、これらの標目が、漢籍によるものであることがあきらかにされたので、これによる部類法も、詩集の類に見られるのであろうとは、考えられるところであるが、現在では、これによって部類した詩集の類を見ることができない。ただ『万葉集』の中に引用されている柿本朝臣人麻呂歌集(以下人麻呂集と略称する)が、これに類する部類法をなしていたのではないかと推測されるだけである。類聚歌林も、書名によれば、歌を部類してあったようであるが、何を部類の基準としていたかはまったく知られない。
 『万葉集』は、巻の二、三、七、九、十、十一、十二、十三、十四の諸巻に、人麻呂集からでた歌を収録している。そのうち巻の十一には、多数の歌をまとめて収録している。巻の十一は、目録のはじめに、古今の相聞往来の歌の類の上と題し、さらに部類して歌を収録しており、その状態は、左のとおりである。
 旋頭歌(人麻呂集十二首、古歌集五首)
 正述心緒
 寄物陳思
 問答
  以上三項人麻呂集、歌数百四十九首。
 正述心緒
(276) 寄物陳思
 問答
 譬喩
  以上四項人麻呂集以外の歌。
 以上のうち、寄物陳思の歌は、その思を寄せた品物について、それぞれ秩序ある配列をなしている。まず人麻呂集所出の分は、九十三首であるが、それらの歌において、思いを寄せた品物の順序は、神祇に関するものをはじめに置き、以下、地文、天象、植物、動物、器物の順になっており、またその中でも、地文では、水象、土石をそれぞれ一に集め、植物は、草本と木本とを分け、動物は、鳥と獣と虫と人種とを分けている。ただし動物の鹿と蚕との間に船が一首入っている。
 次に人麻呂集以外の寄物陳思の歌は、百八十九首あって、その品物の順序は、器物、馬、道、神祇、天象、地文、水象(淡水)、野、埋木、水象(鹹水)、植物、玉石、動物(鳥)の順になっている。この配列は、人麻呂集所出にくらべて乱れているところが多い。この器物の部は、衣類ではじまっている。
 また巻の七における譬喩歌のうち人麻呂集所出以外の分の品物は器物、山、植物、動物、天象、神、水象、藻、船であり、巻の十四の国名末勘の相聞往来の歌のうち、寄物の部分の品物の順序は、器物、植物、天象、動物、水象、船、真朱、雨、藻、風、月、神である。この巻の七、および十四の器物は、いずれも衣類ではじまっている。
 以上の数種の寄物の歌の品物の順序を比較するに、人麻呂集所出のものは、もっとも整然としており、神祇にはじまる構想は、日本特有のものである。これに対して、他の三種は、器物の衣類にはじまり、また乱れたところも多い。用字法も、人麻呂集所出のものは特色のあるものであって、もとの部類法を存したまま、集団的に『万葉集』に取り入れられたものと考えられ、寄物陳思がそうであるとすれば、これと対立する立場にある正述心緒もすでに人麻呂集において立てられた名目のままを移したものと考えられる。またしたがって旋頭歌、譬喩歌、問答の名目による部類も、人麻(277)呂集において存在していたものを、そのまま移し入れたものと考えられる。
 巻の十一の編成は、古今の相聞往来の歌の類を集録したものであるが、その組織の分野である旋頭歌、正述心緒、寄物陳思、問答の類が、それぞれ人麻呂集においてすでに存在した名目であって、『万葉集』の編者は、これを踏襲したものであるとすれば、これを総括する相聞往来の名目も、人麻呂集からきたものと考えるのが至当である。
 巻の十は、春の雑歌、春の相聞、夏の雑歌、夏の相聞、秋の雑歌、秋の相聞、冬の雑歌、冬の相聞に分けて、季節のある歌を収録しているが、人麻呂集所出の歌は、そのうち、春の雑歌、春の相聞、秋の相聞、冬の雑歌、冬の相聞の部においては、いずれもその部初に小題を付することなく掲記している。ただ秋の雑歌の部においてのみ、七夕、花を詠める、黄葉を詠める、雨を詠めるの各小題のもとに分出している。これは、人麻呂集にもと小題があったものを遺失したとするよりも、人麻呂集には小題を掲げることはなかったものと見るべきである。そうして巻の九における人麻呂集所出の歌に季節のあるものとないものとを分けた形跡があり、巻の九は、季節の有無にかかわらない編成であるから、これは人麻呂集の原形と見るべく、したがって巻の十における人麻呂集所出の歌が、季節によって部類してあるのも、人麻呂集の原形を存するものとなすべきである。
 部類の一部門として立てられている挽歌の称は、相聞と同じく漢籍にその出典を有している。『万葉代匠記総釈』(精撰本)にいう。「挽歌ハ後ノ哀傷ナリ。玉篇云、挽亡遠切、引也、与v輓同。礼記檀弓下云、弔2於葬者1、必執v引、若従2柩及壙1者、皆執v※[糸+弗](中略)捜神記云、挽歌者喪家之楽、執v※[糸+弗]者相和之声。文選注、李周翰曰、田横自殺。従者不2敢哭1、而不v勝v哀故為2悲歌1以寄v情。後広v之為2薤露蒿里歌1以送v終。至2李延年1、分為2二等1薤露送2王公貴人1、蒿里送2士大夫庶人1、挽v柩者歌v之、困呼為2挽歌1。今ノ挽歌、此ニ准ラヘテ知ヘシ」すなわち挽歌は、柩車を挽く人の歌である。
 薤露、蒿里の歌の詞章は、左の通りである。
(278)    薤露歌
  薤上露、何易v晞、露晞明朝更復落、人死一去何時帰。
    蒿里曲
  蒿里誰家地、聚2斂魂魄1無2賢愚1、鬼伯一何相催促、人命不v得2少踟※[足+厨](『古詩源』による)
 歌意は、人の生命のはかなくしてしかもふたたび帰ることのないものであることを述べて哀悼をなしている。後人のこれに和する者この意を出ることなく、文選に挽歌と称して載せてあるものもまた同様である。
 『万葉集』において、部類の標目として、挽歌を立てたのは、巻の二、三、七、九、十三、十四の六巻で、そのほかの用語としては、巻の五、十五、十九の三巻に見えている。
 『万葉集』における挽歌の範囲は、かならずしも直接に人命の死亡を悼むものばかりではなく、亡き人を追憶する作にも及んでいる。巻の二の挽歌に、有問の皇子の松が枝を結んでみずから傷む歌を載せ次に長意吉麻呂、山上憶良の、結び松を見て追憶する歌を載せ、それに註を付して、
 右の件の歌等は、柩を挽く時に作れるにあらざれども、歌の意に准擬して、故挽歌の類に載す。
といっているのは、その態度をあきらかにして、後人の疑いを断ったものである。
 挽歌の目が、すでに人麻呂集において立てられていたかどうかは、あきらかでない。しかしもしすでにあったとしても、それは挽歌の原意に近いものであって、『万葉集』における挽歌のような広いものではないであろう。もし『万葉集』以前に、挽歌が広い範囲にわたるものであったら、前掲の結び松の左註に見るようなことわり書きを要しなかったことである。
 『万葉集』における挽歌の中に、人麻呂集から出た歌としては、巻の二に、大宝元年辛丑(七〇一)、紀伊の国に、幸した時、結び松を見る歌一首(一四六)、巻の九に、宇治の若郎子の宮所の歌一首(一七九五)、紀伊の国にて作れる歌四首(一七九六−一七九九)があるが、いずれも故人を追憶する作である。結び松を見る歌は、前掲の長意吉麻呂、山上憶(279)良の結び松を見る歌、および右の件の歌等の左註の次にあって、左註以後に収載されたものであることを示している。宇治の若郎子の宮所の歌は、
  妹らがり今木の嶺に茂り立つ妻松の木は古人見けむ(巻九・一七九五)
という歌で、内容上、挽歌の概念に遠い作である。紀伊の国にて作れる歌は、紀伊の国に旅行して亡き妻を追憶するものであるが、これらの歌の内容および詞句は、巻の一の雑歌の部に収められている軽の皇子の阿騎野に宿り給いし時の人麻呂の作歌と、密接な関係があって、同種の作となすべきものである。これに対して、『万葉集』の編者が、一を雑歌に、他を挽歌に収めたのは、はなはだ不徹底な態度というべきである。
 人麻呂集から出た亡き妻を追憶する歌は、なお巻の七の雑歌のうち、一二六八、一二六九、巻の九の雑歌のうち一六九二、一六九三等が見られるのであって、他の雑歌と比肩しており、人麻呂集においては、挽歌の目があったとしても、追憶の作を含まなかったことが知られるのである。
 
 
(280)  万葉自然     〔一九四五年、湯川弘文社発行の随筆集〕
 
   一 万菓時代
 
 『万葉集』は、日本の人々にとって、いつの世にも変わることのない貴い宝である。その宝の光を、あらゆる方面から語り伝えてきた。今またこれについて語るのも、まだまだ余分のことではないように思われる。
 『万葉集』はわが国において現存せる最古の歌集として知られている。その古さの程度を、概数をあげていえば、『万葉集』中のもっとも新しい歌が今日からおよそ千二百年前、もっとも古い歌がおよそ千六百年前の作である。それゆえに千六百年前から千二百年前に至る約四百年間の歌がこの集に集められているということになる。もちろんこれは概数であって、精密な数字は年表でも繰ればすぐにわかることであるが、実数は千二百年前にはまだ少し欠けているのである。
 この千六百年前から千二百年前に至る間、これを大体万葉時代と称することができよう。四百年間といえば、これを一括してその特色をいうこともできるけれども、同時に相当に長い時間を意味するものであるから、自然その間に起伏している歴史の跡を見てゆくこともできるのである。その四百年間についても、最後の七、八十年間の歌が大部分を占めており、古い時代のものはいたって少ないのである。とにかくこの間の歌が約四千五百首あり、これを二十巻に編纂してある。
(281) わが国の文化史の上からこの万葉時代を見る。一体わが国の文化が、外来の刺戟を受けて、目立って変化をきたした時代が前後にわたって二回ある。一国の文化はそれ自身のみでも自然に進化発達してゆくものであるが、異なった性質の文化に接触する時に急に大きな変化を生ずるのである。わが国においてもちろん固有の文化があり、順次時を経て発達しているのであるが、これが外来文化の刺戟を得ると、急に発達が目覚しくなるのである。わが国の文化の歴史の上に、かような外来の刺戟を大きく受け入れたその一は、明治の御代にあたって、欧米大陸に発達した文化を吸収して、わが国の文化が長足の発展をなし遂げたことである。このことはきわめて近い時代のことでその事情もよくわかっている。今まで鎖国的に固有の文化をはぐくみきたったものが、ここに新しい刺戟を受けて、一時に膨脹発達していったのである。これに対して、上代において外来文化の刺戟を受けて、わが国固有の文化の目覚めてきた時代、これがすなわち万葉時代である。この上代にあって入りきたったものは東洋大陸に発達した文化であって、これが従来のものを刺戟して、その発達を見るに至ったのである。なおこのほかに近世の初めにあたって、南蛮伝来の文化の流入を説くこともできるが、これは前後両度の文化輸入に比しては、その与えた影響は小さかったといえるのである。
 日本の人々は、もとより祖先以来育ててきた文化を持っているけれども、今まで見なかった新しいものに接すると、非常な勢いでこれを吸収しようとする。明治時代の欧米文化の吸収の跡に照しても、その勢いは非常に激しいものが見られる。ある場合は国情に適するか適しないかを顧みるいとまなく、盲目的にも採り入れるがごとくにも見えるのである。しかしながらかようにとり入れてもやがて自然に目覚める時がくる。まず採り入れ、しかる後にこれを検討して、国情に適するものを残し、適せざるものを棄てる。かくのごとくにして進んできているのである。この傾向は上代においても同様である。ただし明治時代における欧米文化の吸収は非常な激しい勢いでなされている。これは彼我の交通量が、非常に大きく、近世航海術の発達にともなって、盛んに太平洋の波を越えてアメリカにおもむき、またはインドを過ぎてヨーロッパに至る。かなたより来る人も多く、非常に大きい接触面をもって文化を吸収している。それゆえに明治時代の文化は、急激な勢いをもって発達しているのである。しかるに上代にあっては、まず交通量の少ないというこ(282)とを考える必要がある。いたって小さい木造の船に乗って、距離は比較的短いけれども多くの日数を経過し、困難を冒したことは今日の想像以上である。わずかな人々が年を隔てて往来する程度であった。したがってその文化の入りくることも自然緩慢になっている。新しいものを吸収しようとする意気は同様であるけれども、その経過は非常に長い年月を掛けているのである。かくのごとくにして四百年という年数は、万葉時代の相当に長いことを示すものではあるが、この年数を掛けて、日本の文化は徐々に、しかし熱烈に発達していったものである。
 『万葉集』はかように進取的な時代において現われた一つの結晶物である。それは外来文化を吸収した時代を代表するものであるにしても、その内容は、日本の人々の本来所有しておったものを、発達させていったものにほかならぬのである。『万葉集』は、あたかも明治の大御代のような活気のある時代において、できたものであることがまず注意されなければならない。
 『万葉集』の書名の意味は諸説があるが、古い用例を見ると、万葉の文字を万世という意味に用いた例が多い。それゆえに万世の集という意味に解釈すべきである。『万葉集』のできた時代は、今まで口誦によって伝えておった一切のものを、文字に記録する文化運動の盛んに行なわれた時代である。そういう潮流に乗じてこの書物もできたのである。『万葉集』の書物の形になって伝えられているのも、文字によって万世に伝えようとする意図をもって編纂せられたと見るべきものと思われる。この書名には、古人の大きな抱負が宿っていると考えられるのである。
 
   二 万葉集の作者
 
 歌の歴史は、これを大観すれば、口より口に歌い伝えられていったものが、ある時代に文字を得て、これを記録し、ついに文筆によって作り成される歌を派生するに至った歴史である。そうしてその分かれる時代が大体において『万葉集』の時代であり、したがって『万葉集』には口誦文芸としての歌謡を存するとともに、文筆作品としての歌をも有す(283)るのである。
 口誦文芸としての歌謡は、いつの世にも絶えることなく人々の間に行なわれる。ここには時代によって形式が変化し、転々として新しい形式を求めて移っていることが目立つ。今日の歌はやがて忘れられて、次の世にはまた変わった形の歌が勢力を占めてくるのである。しかも形式は変わるが内容はあまり変わらない。いつの世でも大体同じような内容が歌われている。これが口誦文芸としての歌謡の大体の性質である。しかるに文字で書かれた歌は、形式の変化が容易に行なわれない。いったんある形式が成立すると、長い間これが保育されてゆく性質がある。たとえは三十一音という短歌の形ができると、何千年という年月を経てもその形が残っている。あるいはいったん五七五という俳句の形ができると、これもまた何百年を経過しても残っている。もちろんそこには例外があって、長歌、旋頭歌のごとき形が、文筆的作品として成立し、しかも滅んだごとき例はあるが、口で歌われる歌謡に比しては形式の変化が少ないのである。そうしてそこに盛られる内容としては、今まで詠み古されたことを避ける傾向がある。その内容については、時に従って新しくなるということができるのである。時代の変遷とともにようやく複雑になり、その情趣が変わってゆくのである。
 文字で書かれて目で読む歌は、今日非常に広く行なわれている。もっともここに歌というのは、しばらく俳句、新詩等をも含む広い意味に解釈してよいのであるが、今日、日本の人々は、その非常に多数の人々が一生の間に歌か俳句を作る機会に接する。普通教育を受けるほどの者はかならず俳句や歌を教材として授けられる。自分が作らないまでも、これを読み解釈することは、いやしくも普通教育を受ける人々にはきまっていることである。かように国民の多数が歌を読みまたは作るということは、わが国民の特質の一である。
 かように目で読まれる歌は、今日広く一般に行なわれているけれども、これを歴史の上にさかのぼってゆけば、その範囲はだんだん狭くなるのである。とにかく文字に書きまたは書かれたものを読むのであるから、教養がなくてはこの道に携わることはできない。したがってこの道は、教養の普及にともなって今日のごとく広まっていったというべきである。
(284) 『万葉集』の時代にあって、文筆作品としての歌の道が成立した。その時代を正確にいうことは種々議論のあることであるが、少なくとも天智天皇の近江時代にはすでにその証跡をあげることができる。それより飛鳥・藤原時代を経て、奈良時代に及んで、この道は定まったということができよう。しかし当時歌が盛んであったにしても、文字を知って歌を書きなすことのできた人は、きわめて限られた人々であったといってよいのである。当時は文字に書きなすにしても、なお口誦文芸からもちきたったものの多くを伝えていたのであるが、平安時代に入ると、この道はさらに狭く、特殊の人々に限られ、口誦文芸の道とはまったくかけ離れたものとなってしまった。文字を知る者の範囲は大宮人ないし僧侶の間に限られ、歌の道も自然その範囲を世界としておったのである。さらに鎌倉室町時代に入って、教養ある武士の一部を加え、江戸時代に降って町人の一部をも加えたと考えられる。かように歌の道は文字を知る者の範囲に応じて広がりに広がっていったのである。そうして明治時代に至って、教育の普及とともに大きい広い読者層を得るに至ったのである。かように二つの道に分かれたのであるが、その源にさかのぼれば一であり、太古以来人々が集まって歌い交していたのが、この道であった。その分かれるにあたっても、初めはほとんど相違を見なかったのであるが、分かれて年久しくなるに及んで、双方がまったく対立的な形を得るに至ったのである。そうして『万葉集』の時代というのがこの分かれ道を含んでいるのである。このゆえに『万葉集』には、口より口にと歌い伝えている民謡俚謡ともいうべき歌をも含んでいるが、同時にまた一方にはひたすら文筆によって作られた作品をも含んでいるのである。ここに『万葉集』の歌の広さという性質が生まれる。日本の人々のあらゆる方面にわたって、その生活の記録としての性質を現わすことができたのである。
 
   三 万葉集の親しさ
 
 『万葉集』の特色の一つとして、その作者の範囲の広さからいえば、そこには教養のある人の歌もあり、また境遇に(285)よって教養に恵まれざる人の歌をも含んでいるのである。平安時代の代表的歌集なる『古今和歌集』、または鎌倉時代に入っての『新古今和歌集』、これらの歌集にはそれぞれの特色がある。あるいは優美高尚の点にすぐれており、または幽玄華麗な性質に見るべきものがある。しかしそれらの歌を詠んだ人々の世界は非常に狭いのであって、文字を知っている大宮人の範囲に限られていたのである。これに反して、『万葉集』は、一面には土の中から生まれたばかりの素朴な原始的な歌謡をも存していると同時に、一方には外来文化の吸収に熱中したいわゆる新しい人々の作品をも含んでいる。かような事情のもとに、この歌集の作者は日本の人々の全般にわたっているということができる。
 『万葉集』の作者の数は、概数をあげれば四百六十人もいるであろう。その中には天皇を始めたてまつり、皇室の御方をも含んでいる。また官吏およびその家族、さらに民間にあって農耕に従事していた人々、かような人々をも含んでいる。これらの人々の中にはもちろん純粋の大和民族が多いのであるが、一面には大陸から渡ってきた人々の系統もある。朝鮮系統、シナ系統等、実に多いのである。たとえば余明軍、刀利宣令等は朝鮮系統の人であり、張氏福子、秦八千島等はシナ系統である。『万葉集』の歌はかくのごとく日本民族を構成したすべての人にわたっている。ここにあらゆる人々の祖先の声が聞かれるのである。
 わが国の宝ともいうべき古典も多くあるが、『万葉集』は歌集である関係上、祖先の声をそのまま聞くことができる性質を持っている。わが国の古典としては、太古以来の説話を伝えている『古事記』『日本書紀』のごとき、あるいは祭典儀式に用いた祝詞寿詞のごときもある。これらが日本の人々にとって非常に尊いのはもちろんであるが、これらの尊いゆえんは、国家国民というごとき大きい立場で説かれていることが特に意義を有するのである。しかるに歌はこれらと性質を異にして、これを歌うある一人というものが考えられるのである。その一人は国民としての一人である。口誦文芸の歌は多数の人々の間に歌い伝えられたものであるが、しかもその個々の歌の中には、これを歌うただ一人の人の立場が認められるのである。これを綜合すれば国民の生活が明らかにせられ、民族の精神が発揮せられているけれども、一々の立場としては国民の祖先のある一人の言葉、ある一人の声が歌の形をとって現われているものである。これ(286)が今日『万葉集』に対して特に親しさを感じさせるおもな理由の一になっているのである。崇厳というがごとき意味においては、民族の物語、信仰の淵源を語る古典に対して、遜色があるかもしれないが、日本国民の一人の声、千二百年前の祖先の声という意味においては、『万葉集』の歌から、特に親しさを感じてくるのである。今日『万葉集』を読んですぐに祖先の言葉に触れてゆくことができるのである。ここに残っている四千五百の歌の言葉は、すなわち、祖先の言葉がそのままの形で残っているということができるのである。同時に、歌としての性質上、そこには日本国民の日常の生活が現われている。大きな国家的行事でなくして、その日その日を送っていたその生活が現われている。祖先の考えかつ感じていたこと、そういうものがそのままに残っている。ここに我々の心やすさをもってこの集の歌に触れてゆくことができるのである。また比較的長いものもあるけれども、大体において一つ一つでまとまっている。それゆえに理解しやすいという点もある。他の古典になると、日常の生活でなくかつまとまった大きな形になっているから、これを読んで理解に困難を感ずることが多いけれども、『万葉集』にはそれがない。『古事記』『日本書紀』の歴史的な物語、ことに神話の部分のごときは、正しい指導のもとにこれを読んでゆく必要があるが、『万葉集』にはそういう誤解のおそれは少ないのである。
 一面においては『万葉集』はむずかしい歌集といわれているけれども、これは元来読み下すまでがむずかしかったので、今日漢字仮字交り文に書き下してある以上は、そのむずかしい性質はよほど緩和されているのである。読んでいけば割合にわかりよいのである。言葉としては古語もあり古い語法もあるが、それはむしろ稀であって、大体は今日の文語の知識でどうやら意味のわかる程度である。国語は古来変化することが比較的少なかった。『万葉集』の歌は、千二百年以上を経過しているにかかわらず、今日普通に用いられている言葉が大部分を占めている。この点も『万葉集』の歌をして親しませやすい一の理由になるのである。
 しかしいかに国民の全般にわたっている性質があり、上代国民の声として親しみやすいものがあったにしても、その内容にして採るに足らないものがあったならば、その価値は非常に少ないといわねばならぬ。しかしその方面において(287)も、日本人の宝として実に尊ぶべき性質を持っている。日本の人々は千二百年前においてすでにかようなりっぱな歌集を持っていたのである。これは今日の日本の人々の自信を高める上に非常に力あるものとなるであろう。
 
   四 万葉集の意義
 
 『万葉集』は相当に古い時代から読まれてきたものである。その初めにあたっては主として作歌の参考として読まれてきた。しかし作歌の参考として読むにしても、初めの間はその詞を取るために読まれ、ついでその格調や表現法に心がひかれるように移ってきたものである。そうしてかようにして『万葉集』に親しんでいる中に、自然にその尊い精神に触れるようになってきたものである。
 平安時代にあっては、『万葉集』に親んだ歌人として特別に誰をあげるということもでき難い。多くの歌人はおそるおそる『万葉集』の詞を取っていたように見えるのである。しかるに鎌倉時代の源実朝の歌となると、自然に万葉精神に触れているものが見いだされる。
 それよりして後江戸時代に入って国学の興隆を見ると同時に、『万葉集』はまた別の意味で読まれてきた。ここではまず古語を明らかにするために読まれ、ついで古道を明らかにするために読まれてきた。『万葉集』の歌によって人々の心がいっそう古代に向けられていったことは事実として見てよいと思う。
 しかしながら今日『万葉集』その他の古典を読むことは、もう少し違う意味で読んでゆかなくてはならないと思う。これを読んでまず古を明らかにすることはもちろんであるが、今日では古道を明らかにしてこれに復帰するという意味ではない。現代のために古道を明らかにするものでなければならぬのである。古典を読み古典に親しむことは、古に帰り古を慕うという意味だけでなしに、すぐにもって現代の生活を指導するものでなくてはならぬのである。『万葉集』についても同じことであって、われらはすぐに万葉の歌に触れて、その含んでいるものをわれらの心の上に感じてくる(288)のである。そこに語られている祖先の生活は、すぐにもって今日の人々の心の糧となるのである。それでなければただ古い歌を読むというだけのことになって、力強いものを感ずることができなくなるであろう。
 『万葉集』の歌に現われた祖先の生活を明らかにすることは、すなわち、今日の人々の心のゆくべき方を明らかにすることである。ことによれば眠っているかもしれない心の一部を呼び覚ますという意味にもなるのである。今日の人々の心に与える大きな刺戟でなければならぬのである。ここに至ると単に古道を明らかにするというだけではない。これをもって今日を指導し将来を指導するところがなくてはならぬのである。
 形が歌である以上、そこに現われている古人の言葉は、昔の人の言葉そのままであり、昔の人の持っておった思想感情をそのままに表現して今日に至っている。長い歴史を経て伝えきたわれらの心を、ずっと上にさかのぼってしかも直接に祖先の声によって触れることができるのである。
 以上は『万葉集』に現われた祖先の生活に関する話の準備として、まず『万葉集』の広さ、親しさ、強さについて述べてきたのである。
 
   五 生物と季節
 
 この書では、万葉歌人の自然愛の方面について語ることとしよう。万葉の人々は、わが家族を愛し、また同じくこの世に生きながらえている隣人を愛すると同時に、その愛はまた自分を廻っている自然界にも及んでいるのであった。人事関係と相ならんで、自然に対する愛を歌った歌が、『万葉集』にあっては非常に大きな部分を占めている。人事関係の歌と自然関係の歌と相ならんで、『万葉集』を成しているということができるのである。この集の作者は、かような自然の景物に対して、人間に対すると同様に、美しい心をもって相対していた。善意をもって一切の自然物に対していたのである。
(289) 自然現象としては種々の方面がある。時々の季節の変遷というようなこともあり、それに応じて、山岳、海洋、河川、平野などのごとき地文上のものが、この集の作者にとっては、いかにも美しく眺められた。崇高にも眺められ、艶麗にも眺められる。ここにおのずから人間性の陶冶の道が存するのである。作者の方から一切の自然物に対して美しい心をもって相対してゆくので、同時にこの一切の自然物が、またその人に対して胸襟をひらいて、これを迎え、よき姿を現わしてこれに接することになってくる。ここに自然物からして感受するところが、非常に大きいものがあるのである。
 自然界に存している人間以外の他の動物、それは『万葉集』の作者にとっては、もっとも親しまれる存在であった。自分達に対して親しさをもって現われてくる。かように感じているのである。それはいくつかの歌によってこれを語ってゆくほうが早いのである。この当時の歌に入っている生物、これも実に数が多いのである。これらの生物に関する歌を一々あげていることはもちろんここではできることでないので、その中で代表的なもの、ことにたくさん詠まれているもの、そういうものの一、二について、記してみようと思うのである。
 
    六 千鳥に呼びかける
 
    柿本朝臣人麻呂の歌一首
  淡海《あふみ》の海夕浪千鳥|汝《な》が鳴けば心もしのにいにしへ思ほゆ(巻三・二六六)
 千鳥というのは、小さな黒い水鳥である。千鳥とは、たくさんの鳥を意味するが、ここには水辺に群れている水鳥の一種の名として歌っており、歌の中心がそこに置かれている。淡海の海は琵琶湖のことである。「あふみ」という言葉自身が、「あはうみ」ということで、淡水湖を意味する。しかしすでに淡海という地名になっているから、さらにそこに海という言葉を添えて淡海の海という。その淡海の海の夕の浪に群れ飛ぶ千鳥、それをきわめて簡潔に夕浪千鳥といっている。その湖水の夕方の姿を、いかにも簡潔に言い現わしている語である。動詞のごときものを一切省いてただ名(290)詞だけを羅列した姿になっている。これは自然の姿をそのままに写生したというよりは、むしろこれを図案化した傾向があるのである。歌であるから絵画とはもちろん性質が違うけれども、描写の種類をいえば、そういう図案的な便化をしたゆき方である。淡海の湖水の夕浪に群れ飛ぶ千鳥を、ここに描き出した非常に美しい語であるけれども、同時にこれがやや作り過ぎて生気を欠くうらみがないでもない。巧みであるだけ、それだけ、夕浪千鳥の語は、本当に浪の動く姿などを描いていないで、それを静かな形で描いている。そういう傾向がある。美しいには美しいけれども、その姿をまともに描き出さずして、図案化している傾向があるということができる。そこでこれを生かすために「汝が鳴けば」という次の句が重要な意味をもってくるのである。淡海の海夕浪千鳥と、そこにあるものをただ羅列して歌うだけのゆき方であるから、おのずからにして生気を欠くうらみがある。それをこの句で、呼びかけてとり扱っていることを明らかにする。湖上に群れ飛ぶ千鳥、それに対して、非常な親しみを感じて、お前が鳴けばというので、いかにも湖上に群れ飛ぶ千鳥の姿がでている。「心もしのに」という句は、一の熟語句である。わが心もうちしなえて、心がなえなえとして、心がぐったりするというような意味。天智天皇がここに都せられていわゆる近江の時代をおつくりになった、その昔が思われる。懐古の情に堪えない。歌としては昔の天皇の大御代をいうことが中心となっている。その千鳥の鳴く声に催されてわが心もしおしおと昔のことが思われる。
 ここにこの歌をあげたのは、この千鳥に対して古人がいかに親しみを感じておったかということを語るためである。旅に出てかような千鳥の鳴く声を聞けば、その千鳥の声に誘われてわが恋情の切なるを覚える。千鳥が鳴こうが鳴くまいが、ここが天智天皇の御遺跡であることに変わりはないけれども、それはただ物質的な考え方であって、そこにいる生物、それがいかにも千鳥までも古を思って低徊して去る能わず鳴いているかのごとくに感じて、千鳥よその方が鳴けばという。万葉時代の作者たちの住んでおった世界が、かような生物とともにいる世界であることを感じさせる。人間の世界もひとり人間だけの世界でなくして、大きな自然の中に抱かれている世界である。そういうことを感じさせる歌である。人間にして一切の自然物になんら感情を持たずに、ただ自分の衣食住のための自然というような物質的な考え(291)をしてきたならば、それは人間の生活が、いかにも索寞として無意味なものになってしまうであろう。人間に対してつねにある関係を持ち交渉を持っている自然が存在しているということは、人間の生活を非常に潤いあるものとならしめている。そういう意味でかような歌は、よく味わってゆけばゆくだけ、その意味が深く感じられてくるのである。
 この歌と並んで参考とすべき歌は、
    出雲守|門部《かどべ》の王《おほきみ》の京《みやこ》を思ふ歌一首
  飫宇《おう》の海の河原の千鳥|汝《な》が鳴けば吾が佐保河の念《おも》ほゆらくに(巻三・三七一)
 この歌である。出雲は、山陰の一地方である。その国守の門部の王という方の歌である。奈良の都の時代である。遠く出雲の国守となっておられるが、たまたま奈良の都を思ってこの歌をお詠みになったのである。前の人麻呂の歌と同じように、千鳥の鳴く声によって自分の感情の刺戟されてくることを歌っている。飫宇《おう》の海というのは、出雲の国の海の名である。地方庁のことを昔の言葉で国府《こふ》といった。その国府のほとりの海が飫宇の海である。その海に入る所の河原、それはどこの土地にも、よくある所であって、いわゆる河口の河原、そこにいる千鳥、やはり多く群れてちちと鳴いている。汝が鳴けばは、千鳥に対してあたかも人間の言葉を解するかのごとくに歌っている。故郷の奈良の都の佐保河をも、わが佐保河という現わし方をしている。千鳥に対してその方が鳴けばという言い方をし、同じく故郷の佐保河は、これは生物でもない、一の故郷の河にすぎないのだが、その佐保河に対して、私の佐保河が思われることよと歌っている。
 古人の故郷の山河を愛する気持も十分出ている。それはこの河原の千鳥の鳴く音に催されて故郷の佐保河が思い出される。すべて、古人がいかに自然に対して愛情をもっておったか、自分の住んでいる世界に対していかに美しい心をもって対していたかということを語るものである。それからして日本の人々は、その国を愛する国民であるということにも導かれるのであるけれども、順序としてまず自分の住んでいる環境を愛する、自分の住んでいる世界を愛するということがこれらの歌によって現われているのである。人間相互に美しい心をもって、相対しているのみならず、自分の接(292)する人間以外の生物、あるいは山野、そういうものに対しても親しみと愛とをもって相対していた。そういうことが知られるのである。
 かように動物に対して、あたかも人間の情を解するかのごとくに歌ったものは枚挙にいとまないのである。千鳥の歌にしてもまだいくらもある。
    鳥を詠める
  佐保河にさ驟《ばし》る千鳥|夜更《よくだ》ちて汝《な》が声聞けば宿ねがてなくに(巻七・一一二四)
 ここにも千鳥に対して汝が声聞けばという言葉を使っている。千鳥はちょこちょこ小走りに走っている。これを呼びかけている。宿《い》ねがてなくには、古い面倒な語法であるが、寝ることができぬことだ、眠りをなしがたい、こういう意味である。ひとり寝ざめて佐保河にさばしる千鳥の声を聞いている。千鳥よ、そなたが鳴くと、一種の情が胸に迫ってきて眠りをなしがたい。言葉には少しくむずかしいものがあるけれども、この千鳥に対して、そなたがということをいっている点には変わりはない。
 
   七 雁の歌
 
 集中にはみずから千鳥に擬して自分が千鳥になったつもりで詠んだ歌もあるが、同様にひとり千鳥のみに限らず雁に対しても同じような気持で、みずから雁になったつもりで歌を詠んでいる例もある。これらはいずれも雁に対する親しみの情を現わした歌である。中には雁に対して歌いかけた歌もある。
  明暗《あけぐれ》の朝霧|隠《がく》り鳴きて行く雁は吾《わ》が恋《こひ》を妹に告げこそ(巻十・二一二九)
 明暗《あけぐれ》というのは、夜が明けたがまだ暗いのをいう。こういうのは、国語の微妙な現わし方である。夜が明けたがまだ朝霧がこもって暗いのであるが、その朝霧に隠れて鳴いてゆく雁は、わが恋を妻に告げてほしいものである。かように(293)言いかけている。また雁に対して自分の便りをしてくれ、という現わし方も出ている。
  ぬばたまの夜渡る雁はおほほしく幾夜を経てか己《おの》が名を告る(巻十・二一三九)
 「おほほしく」は、何となく心のうっとうしい状態。雁が名を名のる。雁の鳴声がはっきりしないのを「おほほしく」といっている。雁の鳴声を毎夜毎夜聞くが、そなたの声は、どれくらいの夜数を自分の名を名のっているのであるか。雁というのは、鳴声からきた言葉で、自分の鳴声をそのまま名前として使っている。かりかりと鳴くから、それで雁という言葉ができている。結局は雁の鳴声は自分の名を名告っている。夜、大空を渡ってゆく雁は、幾晩重ねて自分の名を名告っているのか。しかもそれは、心のはればれとしない声で、鳴いてゆく。実際雁の鳴声が、もの思いに沈んだ声で鳴いているように聞えるのをいう。ぬばたまのは枕詞、真っ暗なという感じを与える枕詞である。
 この歌は、譬喩である。昔の婚姻の風習上、男が女の門口にて自分の名を名のる。それをわが思う人を雁に譬えて、こういう歌い方をしている。そこでこれに対して答の歌、
  あらたまの年の経行けばあともふと夜《よ》渡る吾を問ふ人や誰(巻十・二一四〇)
というのは、男が雁になったつもりで返事をしているのである。
 これは雁の歌であるけれども、この歌の中には少しも雁という言葉は出ていない。なぜ出ていないかというと、作者自身が雁のつもりで詠んだ歌だから言葉には雁ということは出ていない。「あらたまの」は、年の枕詞。年が経てゆく、年が過ぎ去ってゆく、これは長い間ということである。「あともふ」ということは、何《あ》と思《も》ふ、いかに思うということ。夜の大空を渡るわれを何と思うかと尋ねるのは誰であるか。歌の心は、自分は毎夜あなたに恋をして、あなたのもとに訪れてゆく。それをようやく時間が経てゆくほどに、自分の言葉を聞いて尋ねてくれるあなたはどなたであるか。かような雁というものなどに親しみを感じ、自分たちの身の上をそれに托して詠むような親しさをもって生きてきたのである。
 かような歌をあげると、実に際限もないのである。かくのごとく古人は生物に対してごく親しい気持をもって対しておったのである。
 
(294)    八 鴨鶯など
 
 死にあたっても、池上に鳴く鴨などに別れを惜しんで、従容として死んでゆく。たとえば大津の皇子という方のおかくれになる時の歌に、
  百《もも》伝ふ磐余《いはれ》の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠《くもがく》りなむ(巻三・四一六)
 これは大津の皇子が、死を命ぜられて磐余の池のほとりでみずからおかくれになった時の歌である。「百伝ふ」というのは、磐余の「い」にかかる枕詞である。彼の磐余の池で鴨が鳴いているのを、今日だけ見て、自分は雲隠れることであろうか。雲隠るというのは、貴人のおなくなりになることを、天へお昇りになるという形にいう思想である。まさに死なんとして磐余の池に鳴く鴨を聞くのも、今日だけであると、従容として池の上に鳴く鴨に別れを惜しんで死ぬ。死に臨んでもなお池の鴨に想いを寄せて、そうして静かにこの世を辞し去るのである。
 かように古人は、自分たちの世界のものとして、一切の生物を愛しておった。ただしその古人が特に愛を寄せている生物は、時代によって多少変遷がある。古い時代には鴨とか鹿とかいうものに主として親しみが感じられていた。やや時代が変遷するに及んでは、鶯とかほととぎすとか、声を愛するものに転じてゆくのである。そういうところはある。それはもちろん後になっても、鴨とか鹿などに対する愛情は変わりないけれども、おのずからにして愛情を寄せる物は多少移ってくる。そこにはそれだけの理由がある。ちょうどその個々の生活に適応するものが、愛せられてゆくことは当然である。古人が田園に住してまだ都会をなさず、質実な生活を中心として過ごしておった時代には、あるいは池上に鳴く鴨、山辺を走る鹿、そういうものに主として愛情を感じていた。しかしながら時代が移って、都会が発達してくると、都会といっても、鶯、ほととぎすの訪れる都会であるが、ここに文化の気持を生じて、実際生活にはなんら関係なき鶯、ほととぎすのごとき、声の烏に趣味が移る。こういうことは、人間生活の向上発展に従って変化するものであ(295)る。いかなるものに愛の中心が寄せられているかという、そのあとを眺めてゆくことも、古人の生活のあとを眺めることである。だんだんに移り変わってゆくその愛の対象を調べてゆくも、また一の文化史的意味がある。かくのごとく時代によって多少変遷はあるものである。
 そこでまずここには鳥類、千鳥、鴨、雁、そういうものに対する愛を現わした歌をいくつか指摘した。たとえば鹿などに対しても、古人が非常な愛を感じていた。次の御製の歌を拝しても、古代天皇が鹿に対して非常な愛を持っておいでになったことがわかるのである。
    岡本《をかもと》の天皇《すめらみこと》の御製の歌一首
  夕されば小倉《をぐら》の山に鳴く鹿は今夜《こよひ》は鳴かず寝宿《いね》にけらしも(巻八・一五一一)
 岡本の天皇と申しあげるのは、舒明天皇の御事である。明日香の岡本の宮に皇宮を御造営になっておられたので、岡本の天皇と申す。しかし後にまた斉明天皇が同じところに皇居を御造営になった。その御代を後の岡本の宮と申す。斉明天皇と申すお方は女帝で、舒明天皇の皇后様である。それであるから、舒明天皇か、またはその皇后の斉明天皇の御製かということになる。この歌は巻の九の一番初めにも重ねて出ており、その方では雄略天皇の御製ということになっている。種々作者には異説がある。一つの歌に作者が種々伝わっているということは、その歌が歌い伝えられたことを語るものと見て、よいのである。歌い伝えられている間に、甲の作者であるとなし、それがあるいは言葉が変わっても伝えられてきて、乙の作者であるともいうようになってくる。この歌のごときも、実際古人によって歌い伝えられていたものであろう。
 鹿の鳴く音に対して、日頃親しみを感じておいでになったのである。小倉の山というのは、諸方に同じ地名の山がある。くらという言葉は、地名にはよくある。鎌倉とか赤倉とか倉という言葉のつく地名はたくさんあり、元来古語の谷間を意味する。それで小倉の山は小さい倉のある山というような意味であって、どこかわからないのである。ただ明日香のほとりにある小倉の山である。その小倉の山に鳴く鹿は、今夜は鳴かない。それは寝てしまったのだろうと推量せ(296)られている。何でもない歌のようであるが、日常の生活において、おのずから夕になれば鳴く鹿の音が親しまれる。そこに深い情趣の生活がある。
 一体、鹿に対しては神話、伝説などにもいろいろの伝えがある。摂津の国の夢野の鹿の伝説は有名なものである。むかし摂津の国に雌雄の鹿が棲んでおった。その雄が夢を見た。それは、自分の背中に雪が積り、また薄が生えたという夢である。そこでその鹿がこれはどういう夢だろうかと妻に尋ねたところが、妻がいうには、すすきが生えたということは、矢が立つしるしだ。背中に雪が積つたということは、塩を塗られる前兆だ。こういって夢の判断をして、だから慎んで外へ出てはいけないといったのに、雄鹿が淡路島の雌鹿のもとに通っていった。はたしてその渡りの中で狩人に逢って矢を射られて殺されてしまったという伝説である。この伝説は夢野という野原の名称の起原説話として伝えられている。そのほか、鹿に対しては、諸国の風土記などに種々の伝説がある。
 昔、鹿の角の立つありさまは、ちょうど枯木の林のようであったというまでに、鹿がたくさんおったといわれている。そういう次第で、古人は鹿などに対しても非常な親しみをもって住んでいた。この歌にしても、こよいの鹿の声がしないのは、それはかならずしも失望落胆というほどの大きなことではないかもしれない。日ごとに聞えるものが聞えないその寂しさ、そういうものが歌われている。
 巻の十にも鹿の歌が十数首ならんでいる。これらの鹿は多く萩との関係から説かれてくる。鹿が萩のもとを訪ねる。そこに興趣がある。これらの歌によって古人が鹿の鳴く音などに対して非常な親しみを感じていたということがわかるのである。
 ところで鴨とか鹿とかいうようなものに対する歌は、たくさんあるが、これと同時に鶯、ほととぎすの歌もたくさんある。鶯の歌にも注意すべき歌があるが、鶯の歌になってくると、実際の生活というよりも、さらにそれ以上のものを求めていることが痛切に感じられてくる。率直にいえば、鴨とか鹿とかいうものを、古人がなぜ愛したかといえば、それは食ってうまいことから親しみが始まった次第である。鹿や鴨を愛する時代にあっても、鶯が啼かないはずはない。(297)鶯という鳥はわが国にはたくさんいるので、それを愛せぬということはない。事実上、多少の文献は残ってはいるが、歌にはなっていない。それが、時代が下ってくるに従って、そこに実生活以上のあるものを求めるようになって鶯の歌が多く詠まれてくる。ここに一種の人間生活の発展、文化の向上というものが認められる。
 人間はただ、食って寝て生きているだけのものではない。それ以上のあるものを求めてゆくのが人間の特色である。ただ、食って暑からず寒からず暮らしてゆくというだけならば、それは動物的な生活である。それ以上のあるものを求めるところに、人間生活の向上の道がある。かような鶯の歌が出てくるということも、それは時代の反映であると同時に、日本の文化の発展の跡を示すものである。鶯の歌が多いと同時にまた、ほととぎすの歌も多い。この時代のほととぎすの歌は、多少後世のほととぎすを愛するのとは違う。ほととぎすの声を愛するということには違いないが、ただ親しむという気持で、血に啼くとか寂しいとか、そういう気持は出てこない。そういうところに古人の明るい心が出ている。これが後世になると、ほととぎすの声は寂しい、哀調を帯びるということになってくる。『万葉集』におけるほととぎすの歌には、まだそういう哀調は出ていない。それは旅の寂しさは雁の声あるいは鶴の声でも催される。そういう歌はあるけれども、それは自分の心が刺戟されるだけで、まだその声が哀詞を現わすというようなことは出ていない。
 次の歌のごときは、ほととぎすの初声を愛している歌の一つである。
  ほととぎす汝《な》が初声は吾にもが五月《さつき》の珠に交《まじ》へて貫《ぬ》かむ(巻十・一九三九)
 これなどは、いわゆる風流の限りをつくしている。ほととぎすよ、そなたの啼く初声は、私にとって欲しいものだ。どうするかというと、五月の薬玉といって、薬を包んでそれに玉を下げる。その薬玉にほととぎすの声を珠として緒に交えてぶらさげよう。これなどは、ほととぎすの声を愛すると同時に、それをいかなるものとして賞美するかというに、すなわち自分たちが玉を愛する気持でほととぎすの初声を賞美しよう、こういう気持が出ている。
 ほととぎすの歌として今一つ注意すべき歌は次の歌である。
    霍公鳥《ほととぎす》を詠める一首并に短歌
(298)  鶯《うぐひす》の 生卵《かひこ》の中に ほととぎす ひとり生れて 己《な》が父に 似ては鳴かず 己《な》が母に 似ては鳴かず 卯の花の 咲きたる野《のべ》辺ゆ 飛び翻《かへ》り 来《き》鳴き響《とよも》し 橘の 花を居散《ゐち》らし 終日《ひねもす》に 鳴けど聞きよし 幣《まひ》はせむ 遠くな行きそ 吾が屋戸《やど》の 花橘に 住み渡れ鳥(巻九・一七五五)
    反歌
  かき霧《きら》し雨の降《ふ》る夜《よ》を霍公鳥《ほととぎす》鳴きて行くなりあはれその鳥(巻九・一七五六)
 ほととぎすは自分の卵を他の鳥の巣へ産み落してゆく。そういう言い伝えが昔からある。これは実際そういうことがあるということである。みずから卵をかえさないで、鶯の巣の中に産む。鶯が折角卵をあたためてかえしている。その中から自分に似ない子が生まれてきた。父母に似ない声で鳴いている。鶯の子ならば鶯らしく鳴けばよいものを、ほととぎすの卵だったから鶯の声に似ない声で鳴いている。卯の花の咲いている野辺を通って、飛びひるがえり、ほととぎすが来て橘の花にとまってそれを散らかす。そうして一日中鳴いておつても聞きよし、贈物をしようから、遠くへ行くことなかれ。わが屋戸《やど》の花橘に住み渡っておれ、鳥よ。
 空一面に霧がこもって雨の降る夜をほととぎすが鳴いてゆく、あわれその鳥。いかにも感に堪えた歌である。これは、ほととぎすの歌としては鶯の生卵の中に生まれたという叙述が変わっていて注意をひかれる歌である。
 かように古人は、その同じ社会に生存している人々に対して愛情を寄せているだけでなく、また自分たちと同じ世界に棲んでいる一切の生物に対して親しみを感じている。この集には、随分歌に詠み入れた生物の種類は多いものである。またそれらの生物の中には、歌には出てこないが、文字として借りてきているのもある。たとえば蛇《へび》などは、歌われてはいないけれども、へみという音を借りて字を使っている。そのほか、熊とか虎とか象なども詠まれている。象はきさといって山の名などに象山というのがある。鳥にしても、今日どういう鳥かわからない貌鳥《かおどり》というのもあるし、その他いろいろ変わった鳥もある。自分と同じ世界に住んでいる生物に対して非常に親しんで生活していたということがいえるのである。そこにはまた動物を愛することによって人間の品位の向上が期せられる。それは物質的な愛情よりして、(299)さらに進んで実生活以上のある高尚な生活が、そこに展開されてくるということになるのである。
 
   九 季節観
 
 かような生物にあっては、おのずから季節に従って来たり去るという性質を持っているものがある。雁などにしても、秋にそのくることを歌い、また春になって去ってゆくことを歌っている。季節に深い関係を有することは、日本の文学の一つの特色である。
 生物に続いて、この季節のことを述べようと思う。季節観は、熱帯の地などでは、適切に感じてこない。季節の移り変わりが、内地のようにはっきり現われてこない。季節観には歴史があるのであって、それにともなって日本の文学における季節観は発達してきた。その高調せられるにあたっては、俳句のごときは、季節のないものは俳句でないとまで考えられておった。今日では季題解放ということが論じられているけれども、俳句ができてから明治大正に至るまでは、どうしても季節がなければならないとされていた。これにはまたその歴史があるのである。一体日本の文化は、歴史があって順序をおって発達してきたことは、いうまでもないのである。政治上の中心が、まず大和の国に入って、それから続いて山城の国の京都の方面に移った。都の名でいえば奈良から京都に移った。この時代に、日本文学における季節観というものは発達してきたものである。元来日本民族は、かなり複雑な構成をもって、種々の系統の人々をあわせて融合発達してきた民族であるが、初めは海洋に接して生活しておったと考えられる。それから漸次大和、山城というような土地に、文化の中心が移ったものである。歴史の上を按じても、神武天皇が日向から御進発になって大和の国にお入りになった事実が伝えられている。大和の国では、四季の循環がきわめて秩序正しく行なわれるのである。それでこの『万葉集』の時代にあって、国文学における季節観は、十分な発達をとげてきたといえるのである。
 内地における夏および冬は、相当に激しい気候のものであって、人間の活動には適しない。春と秋とが、文化の中心(300)に住んでいる人々にとっては、もっとも住みよい時期である。そこで古い歌などにおいては、夏冬に関するものは少なくして、自然春秋に関する歌が多かったものである。それが時代が下るに従って、漸次平均してゆく傾向にある。まったく平均はしないけれども、俳句あたりになるとほとんど平均に近くなってくる。歌の時代には、まだ春秋の歌が多く夏冬の歌が少なかった。そこで万葉時代にあっては、初めの間は、季節の観念が十分に発達していなかったのであるけれども、漸次人文の発達とともに、古人の季節に対する情趣が非常に深くなってきたのである。そうして、『万葉集』の巻の八および巻の十のごときは、春夏秋冬の部類を立てて歌を配列している。それは古人がすでにかような春夏秋冬に対してある感情をもっておったことが知られるのである。こういう季節に対する感じは、漸次敏感になっていったものである。そうして古人が季節の移り変わりに心が動き、この季節の微妙な移りが、わが日本国民の歌の心を養い、その心を優雅ならしめていった。そういう意味で、国民の性情の発達の上には、季節というものは重要な意義を有するものである。初めの間は歌の上にはあまり関係はなかったものであるが、それがようやく発達していったところに意味がある。日本民族は、古代から耕作をもって生活の中心となしているのである。ことに水田耕作は非常に古い時代から行なわれている。稲のみならずその他の穀物の耕作も、日本の人々にとっては生業の中心となっていたといってもよかったのである。そこで春から秋にかけては、この穀物の耕作が行なわれ、冬の間はむしろ狩猟の方面に費やされていた。同じ一年の中にも、春から夏にかけては耕作の時季であったのである。そういう意味で、初めから季節に対して注意を払っていた。それから後にこの季節というものを一の趣味風流として感じてくるように発達していったものである。
 その季節観の発達していった跡を眺めてゆくと、万葉以前ではすでに『古事記』あたりにも四季の名を神の名につけているのがある。たとえば夏の高津日の神、夏の日の烈々として照り輝くありさまを神の名として讃えた名である。それから冬に対しては、天の冬衣の神、冬になれば衣を重ねて着る。そこで冬の衣は厚く十分にこしらえる。そういうところから天の冬衣の神というような神名が起こってくる。これらは、古人が夏とか冬とかいうものに対して、ある観念をもっておったことを現わす。それから春秋に対しては春山の霞壮夫《かすみおとこ》、秋山の下氷杜夫《したひおとこ》というのがある。霞壮夫という(301)のは、春山の霞むという自然の景色を男子の名としてとり扱ったのである。それから下氷《したひ》というのは、山の樹々の赤く照り輝くのをいう。この美しき二人の男がある少女を愛した。そういう神話がある。伊豆志処女という少女を争う、その結果は春山の霞壮夫が母親の助けを得てついに少女を得たという神話である。ここでは二人の男の名を、春と秋との美しき景物をもって名付けている。かように神話時代にも神の名などに四季の名を用いることがあったのである。
 それからまた万葉以前の古い歌の句などにも、四季の現われているものがあった。だが、それがいっそう発達してあきらかに季節の観念が発達してきたのが、万葉時代である。
 
   一〇 花と黄葉
 
 四季の中では、ことに春秋の観念があきらかに対立的となっている。その春の美しさと秋の美しさとを対立的にとり扱ったのが、天智天皇時代の額田《ぬかだ》の王《おおきみ》の御歌である。
    天皇、内の大臣藤原朝臣に詔して、春山の万花の艶と、秋山の千葉の彩とを競《あらそ》はしめ給ひし時、額田の王の、歌を以ちてことわれる歌
  冬ごもり 春さり来《く》れば 鳴かざりし 鳥も来鳴きぬ 開《さ》かざりし 花も開《さ》けれど 山を茂《しげ》み 入りても取らず 草深み 取りても見ず 秋山の 木の葉を見ては 黄葉《もみぢ》をば 取りてぞ賞《しの》ぶ 青きをば 置きてぞ歎く そこし恨めし 秋山|吾《われ》は(巻一・一六)
 内《うち》の大臣《おおおみ》、これは後の内大臣《ないだいじん》とは違い、もっと大きな百官の統領というような大臣である。藤原朝臣は鎌足のことである。それで天智天皇が内《うち》の大臣《おおおみ》の藤原鎌足に詔《みことのり》して、春の山に花がいろいろに咲き匂うその美しさ、艶というのは美しさ、それから、秋山にはいろいろの葉が色づく。万花に対して千葉という対語を用いている。春の花と秋の黄葉と、どちらが美しいかということを競わしめられた時に、額田の王が歌をもって判断をした歌である。ここにはまず花、黄(302)葉の美を賞美するということに注意を要する。次にはそれを、春の花、秋の黄葉というように対立的にとり扱っていることである。それからまたそういう題材を歌ったということが注意すべきことである。これは鑑賞の上の議論を歌で現わしている。
 今までの歌は、主として日常生活における方面に根拠のあった歌である。それがここに至って、実生活以上の花、黄葉の美というようなことを歌にとり扱ったのは、この歌が始まりではないにしても、これがその代表的な作品の一であるということはいえる。今までの歌は、主として人事関係の歌が多かったのに、ここには、実生活以上の自然美を歌をもって現わしている。
 この歌は、二段からできあがっている。草深み取りても見ずまでが、第一段で、まず春について春はかような長所がある、しかしまた欠点もあるというのがこの第一段の内容である。それから第二段に至って、秋はこういう性質のものだ、そこで自分は秋をよしとする。かような結論を下している。討論風の内容を歌で現わしたのであって、その議論は幼稚であるにせよ、それを歌で現わしたところに価値がある。
 冬ごもりは枕詞。冬が終わって春になってくれば、今まで鳴かなかった鳥も来て鳴く。鳥は春になってことにさえずるものであって、鳴かなかった鳥も来て鳴く。冬の間咲かなかった花も咲いているけれども。これは対句であるが、しかし鳥の方は鳴かざりし鳥も来鳴きぬで切ってしまって、それから開かざりし花も開けどものほうが後へ続いてゆくのである。「山を茂み」という語法は、この集に常にある語法で、山が茂くしてということで、山が名詞、茂みが形容詞になる。草深みも同様で、草が名詞、深みが形容詞、「を」を入れないで使う場合もある。草深み月清みというのがそれである。「を」はあってもなくてもよい。山が茂くして、草が深くして。入りても取らず、その山に入つても、花は咲いていても、これを取ることをしない。草が深くして花が咲いているが取っても見ない。この歌は花と黄葉の優劣を競うのであるけれども、議論としては、花、黄葉の本質的な美よりも、それを賞美することができるかできないかということを問題としている。それだから議論としては少しはずれている。花、黄葉は美しいことは認めるが、これを自分(303)の手に取って愛することができるできないということをもって判断の標準にしている。花はおおむね木高きところに咲く、また草茂くして取ることができない。こういって春の弱点をあげている。
 これに反して秋山の木の葉を見ては、黄葉しているのを取って賞美する。しのぶと書いてあるが、愛する。青きをば置きてぞ歎く、青く変色しないのをば、それをさし置いて歎息する。秋の木の葉は手に取ってあるいは賞しあるいはさし置いて賞せざることができる。それが春よりまさっている。この集では秋の木の葉の色付くのを黄葉と書く、紅葉と書いたのはきわめて稀である。そこし恨めし、しは助詞、その点が恨めしいことだ。かように手に取って賞美することができる。そこで秋山をわれは愛する。
 とにかく、これだけの内容を一首の歌にまとめ、しかもそこには春の花、秋の黄葉を対立的に取り扱っていることは認めなければならない。そういう意味で、この歌は歴史的な意義を多大にもっているのである。かようにしてだんだん季節に対する観念が発達してゆくのである。ここには花、黄葉についてであるけれども、春秋は物の美しき時節であるという観念が発達してきたのである。
 
   一一 夏来るらし
 
 この傾向をさらにまた別の方面から語ることができるのは、持統天皇の御製である。
  春過ぎて夏|来《きた》るらし白たへの衣《ころも》ほしたり天の香具山(巻一・二八)
 春が過ぎて夏が来たそうな。「白たへ」は白い織物、主として麻などの織物、その衣を干してある。天の香具山のほとりでは。意味は単純によく理解される歌である。
 この歌は、小倉百人一首に入って、「春過ぎて夏来にけらし白たへの衣ほすてふ天の香具山」となっている。ほかのところはともかくも、「ほすてふ」というのは、いけない。「ほすてふ」というのは、干すというの意味で、人が申し上(304)げたことになる。ここでは、人にお聞きになったのではない。現に御自身に御覧になった。それだから「衣ほしたり」となって、始めて香具山のほとりの景色が生きてくる。人づてに聞くと、天の香具山のほとりでは衣を干しているそうだ。それによって考えれば春が過ぎて夏が来たのだというようになって、間接的になってしまうのである。実際香具山の緑したたらんとする中に真白な衣が干してある。それによって夏来るらしという推量が生きてくる。まったく百人一首の歌は、読み誤ったものである。
 百人一首の中には『万葉集』の歌が三首入っている。他の一つは、
  田子の浦にうち出でて見れば白たへのふじのたかねに雪はふりつつ
というのである。これもいけない。田子の浦から富士山を望んだ時に、富士山に雪が降っている時には富士山は見えはしない。田子の浦から見て白扇倒《はくせんさかしま》にかかっている時には雪はふりけりでなければならぬ。今一つは人麻呂の歌で
  あしひきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかもねむ
というのがあるが、これは『万葉集』では作者未詳となっている。かように百人一首の歌は、万葉に関する限りみな間違っているのである。
 ところで、この歌は、どういう点に注意すべきかというに、春が過ぎ去って夏が来たそうなというところに一の爽快味を覚えさせる。夏が訪れたということをかように歌の上でお現わしになった。春とか夏とかいう名称に一つの観念を持たせて御現わしになった。元来、夏は人間の生活上、むしろ苦痛の時代であるのに、ここには夏が来たということをもって一種の爽快味を感じている。そこに季節に対する感じの発達してきたことを思わしめる。そうして香具山のほとりの住民が白い衣をさらしている。そういう実際の景色から、夏が来たことを感じて現わし給うたのである。そこにこの歌の意義がある。
 持統天皇の御代は、藤原の宮の時代であるが、この時代の季節に対する感じ方は、どの季節に対しても同じように好感をもつようになってきた。実生活から離れて、その以上に、ある季節観が歌の上に、発達してきた。かくのごとくし(305)てこれより後、各の季節の移り変わりということに特別の感情をもって眺めるようになった。自然の景色は実質的にはいつも変わらずに存している。しかしそれが外面的に季節によって変わった姿をなす。その季節によって変わりゆく姿が美しい。そこに人間として美を感じてゆく美的生活があり、美的情操を養う上に非常に役立ってくる。
 かような季節観を現わした歌はまだたくさんある。もちろんこれを一々あげているわけにはいかないが、その中もっとも注意すべき歌を一、二あげれば、
    志貴《しき》の皇子《みこ》の懽《よろこび》の御歌一首
  石《いは》そそぐ垂水《たるみ》の上のさ蕨の萌え出づる春になりにけるかも(巻八・一四一八)
 志貴《しき》の皇子《みこ》と申す御方は、天智天皇の皇子である。歌には直接現われていないが、何か非常にお喜びになる事情があった。それを歌によってお現わしになった。垂水《たるみ》というのは、水のしたたり落ちるもの、岩蔭から水がしたたり落ちる、それが岩《いわ》にそそいで勢いよく出てくる。冬の間は凍りついておった水が、春巡りきたって流れ出てくる。そのほとりのさ蕨《わらび》、さは接頭語である。蕨も冬の間は地下にかくれておったが、ようやく春を迎えてその頭を持ち出してくる。その萌えいずる春になった。一切のものが生命を回復する春になりきたったことだ。春の来ることをもって喜びを現わす。ここに春の季節が生き生きとして人間に感じられてくる。
 元来、春の来るのをもって喜びの代表とすることは、これはほかの歌にもある。神話にも、葦牙《あしかび》のごとしということがある。葦牙というのは、葦の芽のこと、入江、川口のような泥の中から、葦が芽を出してくる。日本の開闢の初め、これから日本の国のはじまろうとするその勢いを、春の初めにあたって葦の芽の萌えいずることによって表現してきた。この譬喩のごときは、入江のほとりに生活の根拠を置いている人々でなければいえない。そこには葦牙の萌え出るということによって、春が巡りきたっていよいよこれから活動の季節の始まることが現わされたのである。それが時代を経て、形を変えて、ここにさ蕨の萌えいずる春という形になって現われている。この歌は、非常に姿が高大である。それは上から一気に歌い起こしてきたその姿が非常に大きい。こういう歌は朗吟してその味わいを感ずることができる。喜(306)ばしいという言葉は、歌の表面には現われていないが、蕨が春の光をあびて芽を出してくるという、その力で春を現わし喜びを現わしてくる。そういうところにこの歌の意義がある。
 かくのごとく古人は、季節を自分たちの生活にもっとも親しいものとして感じておった。これが人間の生活が機械化した今日に至って、ややもすると、この季節を忘れるようになってくる。今日の都会生活は、この季節を忘れさせる。そうして今日の人々は四季の移り変わりに対する感じが鈍くなっている。そこに恐るべき人間生活の機械化というものが含まれてくる。
 まずここには人間生活が生物、季節という方面から目覚めてきて、季節を敏感に感ずることに目を聞いてきた。これは国民性の涵養の上に、重要な意義をもっている。その意味で、自然に対してこの季節に現われる姿が、自然に対する愛の根本になるのである。
 
   一二 都会の発達
 
 今まで話を進めてきたところは、万葉時代人が自然に親しんで生活をし、それで自然から受け入れるところが多かった。こういうふうに話を進めてきたのであった。
 そこで今度は進んで、その自然に関連して、都会という、人間生活の一様式について一応語っておきたいと思うのである。そこにはおのずからまた万葉作者の生活の一端が現われているということができるのである。
 日本の古代にあっては、都会というようなものはまだ発達を見なかった時代があった。それは主として、皇居が一か所に定着しないで、御歴代ごとに移り変わっておったからである。これは当時の社会情勢としては、中央政府のある所に必ずしも多数の人が集まっていることを条件としないし、今一つは日本の古い習慣として代々新たに宮室を営んでゆくために、皇子時代に住んでおいでになった宮殿が、御即位とともに皇居となる。こういう関係で発達してきたもので(307)ある。しかしながら時代が進むに従い、中央政府の組織も漸次複雑になってきて、これを中心として人々が集まってくるので、ここにだんだん帝都が一の地点に定着していく傾向を生じたのである。
 わが国における帝都として、まずあげらるべきものは、天智天皇の近江の大津の京であったろうと思われる。天智天皇は、非常に進取的の御方でおいでになり、新しい文化を採り入れて、国家の組織を完成することに努められたのであるから、したがってその宮城も壮大に造られ、これをめぐって、幾多の人々も落ちついて生活するようになっていったと見られるのである。この大津の宮は、天智天皇、続いて弘文天皇の二代で終わった。そして世はふたたび大和の国に帝都を迎えるに至ったのである。大和においては、明日香の宮になるのであるが、明日香の宮は、山間の地であって、いまだ帝都として、都会をなすまでに至らなかったと思われる。これに続いて、持統天皇の藤原の宮が、都市計画も立ち、大きな企画のもとに都会としての構成がなされたようである。
 藤原の宮は大和の三山の間の地にあり、今日発掘事業が行なわれて、これによってその規模なども窺われるのである。この藤原の宮時代に、持統天皇、文武天皇二代の御代があった。それから続いて元明天皇が大和の国の奈良の京をお定めになり、ここに七代七十五年間の帝都としての発達を見るに至ったのである。元明天皇、元正天皇、聖武天皇、孝謙天皇、淳仁天皇、称徳天皇、光仁天皇のこの七代である。この七代七十五年間が、いわゆる奈良の京の時代である。それで、『万葉集』に載せている最後の歌が、この淳仁天皇の天平宝字三年(七五九)の歌である。これがちょうど全奈良時代の三分の二のところにあたる。前五十年、後二十五年、それであるから、万葉時代というのは、奈良時代の三分の二までを含んでいることになる。その後の三分の一は、歌が『万葉集』には載っていない。『万葉集』以外にもきわめてわずかしか残っていない。この奈良時代の前半までに『万葉集』の歌の大部分が作られた。『万葉集』の歌は、一面からいえば、奈良時代を代表しているといってもよいくらいである。もっともその間に聖武天皇の時代に、一時京を山城の国の恭仁《くに》というところに移され、それから摂津の難波また山城の紫香楽《しがらき》にもちょっと移されたことがある。だが、それはきわめて短いことで、また奈良に京が移された。奈良時代といってもその間にごくちょっとだけはほかに京を移(308)されたこともあるのである。
 都会が発達しなかった時代にあっては、人々はもちろん田園の生活をしていた。そこには、自然に親しむ機会が多かったはずである。都会が発達するに至っても、その当時の都会としては、割合に自然に接近している都会であった。すなわち、人家がそう密接していないので、都会とはいいながら、なおその地には幾多の緑林を見ることができたのである。しかし、奈良の都のごときは、整頓したものであって、町などの区劃が整然として行なわれ、その都会の東西には市なども定められてあった。かように形態は備わっておったのである。
 この奈良の京の盛んなありさまをたたえた歌として有名なのが次の歌である。
    大宰少弐小野|老《おゆ》朝臣の歌一首
  あをによし奈良《なら》の京師《みやこ》は咲く花の薫《にほ》ふがごとく今さかりなり(巻三・三二八)
 大宰少弐は、大宰府の上から第三等の官、その小野老の歌である。「あをによし」は枕詞であるが、意味はわからない。この集には普通青丹吉の文字を書いているので、奈良のほとりから昔青い丹《に》が出た、丹《に》というのは鉱物質の絵の具である。それだから青丹吉というとなす説などがある。
 この奈良の京は、春になって咲きいずる花の色のぱっと映発するようである。「にほふ」は、香ではない、花の色が美しくかがやくのをいう。「朝日ににほふ山桜花」、あれも朝日に香りがするのではない。ぱっとかがやく状をいうのである。その咲く花のにおうがごとくに今こそは奈良の京師《みやこ》はさかりである。奈良の京師というのは、当時としては文化の発達した世界として考えられていた。また実際大陸の文化を採り入れて、わが固有の文化の大いに発達した時代である。種々の制度は完備し、また大仏なども造りなされた時代であり、国家としての組織も完成し、中央政府の組織もりっぱになっておった。したがってそこに往来する大宮人たちも、自然多く、この帝都に集まり来る人民も、非常ににぎやかに住みなしている。そのありさまを「咲く花のにほふがごとく」と譬えたのである。かの春の美しく咲きいずる自然の美に譬えたのである。
(309) 一体譬喩を用いる歌は、おおむね成功しないのがつねであるけれども、この歌は単純であるだけにかえっていきいきしている。咲く花のにおうがごときありさまと、都会の発達しているありさまを巧みに説明している。この歌は奈良の京を讃歎した有名な歌として昔から知られているのである。
 しかしここでなお注意すべきことは、かように都会が発達しこれを讃歎するにしても、古人がなお花の咲く美しさに譬えているということである。都会の発達した人文のいろいろの美しさ、そういうこともあろうけれども、それらよりも、奈良の京師の往来がしげしというようなことはあまり歌っていないのであって、ただその京師の美しさを咲く花の美に譬えた、こういうところに意味があるのである。
 ちょうどこの歌と対立的な位置を占めているのが、奈良の京師が一時他にうつされた時代に詠まれた歌である。
    大原真人|今城《いまき》の、奈良《なら》の故郷《ふるさと》を傷み惜む歌一首
  秋されば春日の山の黄葉《もみぢ》見る奈良《なら》の京師《みやこ》の荒るらく惜しも(巻八・一六〇四)
 先に述べたとおり、聖武天皇の天平十六年(七四四)、京師を一時山城の国の恭仁にうつされたことがある。新しい京師が栄えるとともに、今までの奈良の京師が荒れる。朝廷を始め大宮人ことごとく新しい都に移り住んだ。これを廻って生活している人々も散り散りになりゆくにつれて、奈良の京師が荒れはてた。そこでこれを傷み惜しみ、非常に悲しいことであるといって歎いた歌であるが、その奈良の京師の美しさは、秋になりくれば、春日の山の黄葉を見ることによって代表される。春日の山の自然の美しさに恵まれている奈良の都である。それが荒れてゆくのが惜しいと歌っている。昔の都会生活は、今日と違って、やはりその都会に現われている自然の美を中心として住んでおったということがわかるのである。こういう傾向は、なお幾多の歌によってこれを証明してゆくことができるのである。
 ちょうど天平十六、七年という頃は、帝都の移転の非常に頻繁に行なわれた時代である。その時代に詠まれた歌が、巻の六に集まっている。そのほかにもあるが奈良の京師が他に移ったその当時の歌が大体そこに集まっているのである。
 その新しい都をたたえる言葉として、これらの歌に現われているところは、その自然美を覚め讃えている。また荒れ(310)たるを傷むというのは、そこが荒れて、しかも昔に変わらず春は花咲き秋は黄葉している。こういうふうに歌っているのである。これら自然の美に浸りつつ、しかも帝都を構成していった。それがこれらの歌によって現われているのである。
 かように帝都の荒廃を傷み、または新しい京師の栄華を褒めたたえるということであっても、なおかつその自然の景勝、花も美しく咲き乱れ、鶯や鹿の鳴く音のりっぱなところであると讃えている。その歌に現われるところは、主として自然の美の方面であるけれども、都会そのものは、もとより人間の作り出した工作物として、そこには人間の繁栄、文化の向上というようなことが当然考えられるものである。これらの大部分が、自然美に恵まれた帝都であることを歌っている中に多少変わった歌もある。帝都が定められ、そこには東西にわたって市などが置かれている。その東西の市を詠んだ歌などは、都会の歌としては人文の方面に歌い及んでいるものである。それで東西の市の歌の例をここにあげて見ようと思う。
    門部《かどべ》の王《おほきみ》の、東《ひむかし》の市の樹を詠《なが》めて作れる歌一首
  ひむかしの市の植木の木足《こだ》るまで逢はず久しみうべ恋ひにけり(巻三・三一〇)
 門部の王が東の市を詠まれた歌である。ここには確かに都会美の一面が描かれている。それはやはり樹木を材料としているけれども、都会の並木としての樹である。市というのは、商業の中心地であって、昔は商店街というものが定まっていないので、市を設けて、そこに集まってきて売買した。日の出より日没に至るまで日を定めて、そこに多勢の人が集まってきて売買をしたものである。奈良の都には東西に市が立った。そこの市には街路樹が植えてある。街路樹に対する観念は昔と今日とは多少変化がある。昔は実のなる樹を選んで植えたものである。それは夏は日蔭をなす。実がなる時分には道往く人がその実を取って渇を医するに足りるから、そこで果樹を街路樹に植えた。ところが今日では街路樹は、そんな食べる実のなるものなどは植えない。食べる実がなるとみなもいで食ってしまって、樹までいためてしまう。だから今日の街路樹はみな実の食べられないものを植える。昔は、わざわざ親切に食べられるものを植えたものである。今日は夏日蔭になるだけで何も役に立たない樹を植える。そこは時代の相違であるが、昔は淳朴であった。そ(311)の樹を詠んだのである。植木というのは植えた樹だから植木、木足《こだ》るまでというのは、木が茂って枝が垂れる。木は植えると一時衰える。それがやや時間がたつと、また茂ってくる。それでいかにも時間のたったことを現わしている。並木が活力を回復してくる、それほどまでに久しくして、ほんとうに恋しくなった。ここには街路樹の美が描き出されているといえる。都会に住むにしてもその中から作者たちに親しまれるものは、多くはかような自然の景物であったということができる。これが当時の『万葉集』の作者たちの住んでいた世界である。それは、都会の人には限らない。この時代の作者は、範囲が広いのであるから、田園の詩人も多いのであるけれども、都会に住んでおった人もなお自然に親しんで住んでおった。
 西の市の歌はまた変わった歌である。
  西の市にただ独出でて眼並《めなら》べず買ひにし絹し商《あき》じこりかも(巻七・一二六四)
 これはたぶん女の歌と見られるのであるが、奈良の京師の西の市に、ただ一人で出て、眼並べずというのは選択をしないで、いろいろ眼でならべて比較をしてみないで、そうして買ってきた絹は、商《あき》じこり、買い損い、買いかぶり、これは良いと思って買ったところが、もっとほかのと比べて買ってくればよかったものを。これは寓意がある。こういう絹を買い損ったというのは、つまりは人間を買い損った。もっと良いものを選べばよかったが買い損いをしてしまった。思いのほかくだらない男だったというのである。歌の表面としては買い損いをしたという歌である。
 大宮人は、奈良時代に入ってから、かように、主として都会生活を送っておった。その生活は、秋されば春日の山の黄葉を見ながら、春来れば奈良の都の大路に咲きにおう花を愛して、そうして正しい生活をしておったのである。
 
   一三 旅ゆく者
 
 かように都会が発達してゆく一面には、また自然都会中心の歌がいろいろと現われてくる。そこには自然の景色を歌(312)うにしても、おのずから雄大味というものが漸次忘れられていって、目前の小さい景色に心を奪われるようになってゆく。同じ自然の美を讃えるにしても、海山の雄大な景勝を歌わずして、都会の中に残っているある部分的な自然を描くというような傾向に進んでゆくのも、これもまた自然の勢いである。かような都会の発達にともなう作品の低調、ようやく意気が小さくなってゆく。それを救ったのが旅行である。古人は種々の事情からかなり旅行をしている。ことに旅行に出て、歌が多く詠み出されている。自分の家に住んでいる場合には、主として歌われるものは、自分の家を中心とした生活である。そこには人と人との触れ合う心、お互いの美しい心をもって親しみ合う人と人との問題がここに歌となって現われているが、旅行に出ると、多くの場合、その作者に孤独性を与えるのである。歌の独語性というものが、旅行の歌によって発達してくるものである。元来日本の歌は多数の人々が集まって歌ってきた。その成育発達してゆく場所は、主として祭りの庭であるが、祭りに多勢集まって歌うと、どうしても対人的な作品ができてくる。相手を目標とする歌が歌われてくるのである。そういう性質で発達してきた歌が、ようやく時代が下ってくるに従って、ここに歌としての独語性が発達した。人々は朝命により地方におもむく。それは地方官として赴任することもあり、または使節としておもむくこともあり、または兵士として召し出されることもある。かような移動ということによって、まずその作者は、ほかの人と切り離されてひとり生活する。自分の家族、自分の周囲の人々と離れる。旅行には従者もあり同僚もあり純然たる一人でないにしても、位置からいえば独語的な場所に置かれる。そうしてこれと同時に、この旅行によって、新しい世界に接するのである。物が一つところに定着している以上は、その周囲は変わらないのをつねとする。わずかに季節の変化ということによって、そこに移動を見いだしてくるけれども、原則として人間が動かない以上は周囲は動かない。その人間が旅行によって移動を生じ、ここに周囲が変化を生じてくる。新しい世界が歌人の前に展開してくる。ここに人々は、歌人としての眼を新しい物象に対して見開いてゆく。そこで旅行の時に、人々は、あるいは大きな山に接し、あるいは大きな海を渡り、そうして自分の精神を雄大にしてゆく。それであるから、この集における自然を詠んだ歌は、都会人として見た春日山とか佐保河とかいう小さな山河を詠んだ歌ももちろん多いが、それに対して(313)同時に一面には大きな山岳、大きな海洋を詠んだ歌にも乏しくないのである。そこにおのずから国民性の闊達にして物にとどこおらないところの性情が養われてくるのである。
 一体日本文学には、海津の文学は乏しいといわれているけれども、『万葉集』には海洋を詠んだ歌は非常に多いのである。山岳を詠んだ歌にしても、富士山のごとき高山をもその題材としている。そこに旅行人としての新しき生命が生まれて出るのである。自然旅行の歌には、また今日からこれを吟唱して、いかにも古人の風懐を思い見るというごとき種類の歌に乏しくないのである。ただ、自然、旅行のことで家族と離れているから、家を思い家を慕う、そういう内容の歌の多いのは、やむを得ないのであるけれども、歌そのものとしては、旅行によって新しい境地に到達することができるのである。自然のすぐれた大きな景勝に触れて、作者の心の発達に資するところももちろん多かったはずである。
 
   一四 柿本人麻呂の旅の歌
 
 旅行の歌としては、ほとんど枚挙にいとまがないといってもよいのである。一、二の代表的な歌をあげて見ると、巻の三に柿本人麻呂の※[羈の馬が奇]旅の歌八首というのもある。同じ巻に高市黒人《たけちのくろひと》の※[羈の馬が奇]旅の歌八首というのもある。これはいずれも※[羈の馬が奇]旅の歌として代表的なものである。ここには人麻呂なり黒人なりの旅中における生活がよく現われている。この人麻呂と黒人とは、ほぼ時代を同じくした人で、いずれも藤原の宮時代、すなわち持統天皇、文武天皇両代の御代に、歌人としての生活をなしておった人である。
 人麻呂はかなり多くの方面に旅行をしている。大和にその家があったはずであるけれども、それから山城を越えて近江の方へも旅行している。南の方は紀伊の国、それから伊勢にも行っている。四国にも、九州にもおもむいている。また山陰の方は石見の国などにも旅行していて、相当に足跡の広かった人である。ここに集まっている※[羈の馬が奇]旅の歌八首は、主として瀬戸内海を航海した時の歌で、旅の趣がよく現われている。ただ惜しいことには、一番初めの歌が難訓で、何(314)ともしかたがないのである。「三津《みつ》の埼浪をかしこみ隠江の」までは読めるが、その後の「舟公宣奴島爾は」読めないのである。「ふねこぐきみがのるかのしまに」などと読んでいるが、はたしてそれでよいかどうかわからない。
 その次の歌、
  玉藻刈る敏馬《みぬめ》を過ぎて夏草の野島が埼に船近づきぬ(巻三・二五〇)
 瀬戸内海を航海して西の方におもむく時の歌であるが、大阪港、昔の難波津を船立ちして、敏馬を通り過ぎて淡路に船がさしかかってゆく。敏馬というのは大阪と神戸の間にある所、そこを通り過ぎて、淡路の一角なる野島が埼に船が近づいた。それだけの歌である。しかしそれだけでは歌にならない。意味はわかるけれども、それは一つの報告文にすぎない。それに玉藻刈るといい夏草のという、この修飾句をつけるので歌が生きてくる。こういうところに、歌の意義がある。歌と散文との相違がある。玉藻刈るというのは、藻の美しさを讃えた言葉、その玉藻を刈り取るような敏馬、青松白砂とでもいうべき美しい海岸、その海岸の気分を出すために玉藻刈るという。海藻を刈り取ることは、海女のする業であるけれども、それを美しい語で描いた言い方である。海女が船を漕ぎ出して、海藻を刈り取っているという叙述である。しかもそれは本当に海藻を刈り取っていてもいないでも、それはどうでもよいので、その海岸の気分をこの玉藻刈るの一句で現わしたのである。美しい海岸である。これは自然を描くのであるけれども、自然の動態を描き出している。しかもその色彩が美しい優しい女性的な姿で描き出されている。敏馬の浦というのはもちろん波のはげしくうち寄せる荒磯ではない。むしろ砂こまかに水澄んでいる。そういう感じを与えるのがこの玉藻刈るの句である。同じ海岸を描写するにしても、この句は美しい女性的な海岸の描写である。それで敏馬が生きてくる。それから海岸に夏草の生い茂っている野島が埼に船が近づいた。海上から見た青々として草の生えている野島が埼が、これで生きてくる。同じく自分の行程を報告するにしても、敏馬を過ぎて野島が埼に船近づきぬでは、意味はわかるが、それは一種の報告に過ぎない。そこに玉藻刈ると夏草のとを持ってきて始めてそれの意義が活躍してくる。これなどは歌と報告文との差異を説明するに都合のよい歌である。
(315)  淡路の野島が埼の浜風に妹が結びし紐吹きかへす(巻三・二五一)
 妹が結びしということは、旅に出るにあたり、別れに臨んで、妻が衣の紐を結んでくれる。そのことを現わしている。かくのごとくにして野島が埼のはとりで行程が夕方になり、その野島が埼の浜風に吹かれている自分を描き出している。しかもその衣の紐は、家を出る時、またこの家まで無事に立ち帰ってくるようにという祝いの心をこめて、結んでくれたものだ。妻が紐を結ぶのは、自分の心をここに結び込めるので、再び結んだ所まで無事に立ち帰るようにという祝の心である。その浜辺の風が旅衣の紐を吹きひるがえすということは、すでに国を出る時に妻が結んでくれた紐だがという、その連想が現われている。ただ、自分の衣の紐を浜風がひるがえしている。それだけの描写であるけれども、そこに含まれているものは、家を思い妻を思う情が含まれている。そこに意味がある。かようにして旅行は進行していった。
 その次の歌では、同じ海上の描写でも、敏馬の場合には玉藻刈る敏馬を過ぎてであったが、ここに至って鱸釣るの句を用いている。
  あらたへの藤江の浦に鱸《すずき》釣る白水郎《あま》とか見らむ旅行く吾を(巻三・二五二)
 人麻呂が海路瀬戸内海を航海して行ったのはいつの頃かわからないけれども、その行く船の前後にあたって、鱸も溌刺として波間に跳つている。それをこの鱸釣るの一句で描いている。玉藻刈るも漁人の所業である。鱸釣るも漁人の所業であるけれども、美しい敏馬を玉藻刈るで描き、またわが船の前後にあたって溌剌として魚の跳る海上であることを現わすのには、この鱸釣るの一句で描いてくる。藤江の浦というのは、播磨の国、その枕詞に「あらたへの」と置いたのであるが、鱸を釣っている漁夫の服装の連想があるであろう。当時海上に船を漕ぎ出すことは漁夫ででもなければしないことである。しかるに自分は官命をおびて遠く地方におもむくのである。それをよその人は鱸を釣る漁夫と見違えているであろうか。これは旅のさびしい感じを現わしている。
 同じ海を現わすにしても玉藻刈るという描写と、鱸釣るという描写とは非常に違う。ここでもし玉藻刈るといったら非常に女性的になる。人麻呂という男子が海上を旅行して漁夫と間違えられるという感じは出なくなる。言葉は非常に(316)多い中で、ぜひ一つこの言葉でなければならぬという言葉がある。この場合はどうしても鱸釣るでなければならない。前の場合は玉藻刈るでなければならない。
  稲日《いなび》野も行き過ぎがてに思へれば心恋しき可古《かこ》の島見ゆ(巻三・二五三)
 行き過ぎがてにの「がてに」は、困難、できないなどの意味を現わしているのであるけれども、「がて」という言葉は助動詞で、本来はできることを意味する。それから「に」が否定を意味する。それで「がてに」という熟語になって、できないということになる。稲日野は播磨の国の地名であるが、伝説があって非常に美しい感情をもっている地名である。景行天皇が稲日野に行幸せられて妹子を得られたという伝説がある。しかし旅行していると、この稲日野というのは非常に単調である。ことに船に乗って稲日野に沿って航海して行くと、非常に長くて行き過ぎることが困難である。そこで物を思っている。やがて心の中に恋しく思っていたあの可古の島が前途に見えた。ここで旅の心が現われている。かような変化のない道をも旅行するというその気持が出ている。
  ともしびの明石大門《あかしおほと》に入らむ日や榜《こ》ぎ別れなむ家のあたり見ず(巻三・二五四)
 これは明石海峡にまだ入らない前の歌である。明石大門というのは明石の海峡で、門というのは海峡である。大きい海峡が大門で、小さい海峡が小門である。小門というのは小さい門戸の形である。このほか、迫門《せと》、よく瀬戸という字をあてるが、それはあて字で迫門が本字である。それから音の立っている所の鳴門、島の海峡は島門、河で両岸が出て門戸のような形になっている所は河門である。大門というのは、その大きい海峡ということであるが、もちろん、どれだけ以上が大門で、どれからが小門などというそんな規定はないから、作者が大門と感じた時にこれを大門という。なぜここで大門といったかというと、あの明石海峡のかなたには広々とした海があって、その海の大きな門戸としての感じであるから、大門といった。これから入らんとする明石海峡、それに「ともしびの」という枕詞をつけてある。ともす火が明るい。それから引き出したので、同時にこれは漁夫が火を焚いて漁っている。明石海峡のほとりで漁夫のともし火が燃えている。難波津を出て第一日の夕方に淡路島のほとりに船がかりをして、これから明日の前途の方を望み見(317)ると、そこには漁夫のいさり火の燃え立つ明石海峡が見える。それであの海峡に入る日にはわが家のあたりを見ずに遠く榜《こ》ぎ別れてしまうであろう。家のあたりとは、わが家のある大和の連山をいう。こういう感じを詠んでいる。実際明石海峡までは大和の山々が見える。それが明石海峡を過ぎてしまうともう見えなくなる。明石海峡に入らんとする前夜の歌で、大きな門戸が口を開けて自分の船を待っている。かしこへ榜いで行ってしまったら、もうなつかしい故郷は見えなくなるという感慨である。同じ明石海峡でも西の方から帰ってくる時には、
  天《あま》ざかる夷《ひな》の長道《なかぢ》ゆ恋ひ来《く》れば明石の門《と》より大和島見ゆ(巻三・二五五)
と詠んでいる。夷《ひな》というのは地方、その地方の長い道を、故郷恋しさに榜いでくれば、ようやくにして明石海峡に近づいてきた。明石海峡から大和の島が見える。大和島というのは、人麻呂の家のある大和の山々が海上に浮んだ姿、それで明石の門から大和島見ゆという。故郷の山々がようやく見えてきたうれしさを詠んでいる。いかにも旅人としてそういう感じを抱くであろうと思われる。これらの歌は、今日読んでも同じ感情をもって受け入れることができるのである。
 
   一五 高市黒人の旅の歌
 
 かような人麻呂の作品に対して、高市黒人の作品のごときは、黒人の個性がよく出ているのである。高市黒人は、人麻呂と同時代の人で、人麻呂ほど有名ではないが、自然を描きなしてはまた深さにおいて非常にすぐれたものがあるといわれている。恋しい家が見えるというような歌はむしろ少ない。実際の自然を描写する方面に特色がある。黒人の歌を少し読んでみる。
  旅にして物|恋《こほ》しきに山|下《した》の赤《あけ》のそほ船沖に能《こ》ぐ見ゆ(巻三・二七〇)
 やはり人麻呂と違うところがある。「こほしき」は恋しきの古語である。すべて物に対して恋しき情を物恋しきという。自分の心にある不足の状態を補い満たそうと欲する情を恋しという。何だか自分に不足感がある、それを満足させたい(318)と思う気持である。旅に出て一切が不自由勝ちである。それを何とかもう少し温めたいと思う感じである。旅のさびしさ物足りなさがある。山下のというのは枕詞である。山の木の葉の赤いようなあの赤《あけ》のそほ船、赤く絵の具で塗った船、これは役所の船、官船である。民間の船と違って形も大きいし、かつ赤く塗って民間の船と区別してある。そういう船が堂々として向こうの沖の方に榜いでゆく、それが見える。その船には都からの便りもあろうし、あるいは自分の知っている人も乗っているかもしれない。そういう船が遠く沖の方に榜いでゆくのが見える。だが、それがどうしたというところまではいかない。そこに黒人の特色が見える。旅の気分は十分に出てくる。人麻呂であったら、もつと感歎してしまうところであるが、そこが違う。前の大和島見ゆには、はっとした意気が感じられるが、黒人のほうは何だかそこにある感じがあるということはあるけれども、それはうれしい感じでもない。なつかしさではあるけれども、それは作者になんらかのかわりなきように、沖の方を悠々として榜いでゆく、とだけで終わっている。そこに前の歌と感じの違うものがある。これはおのずから作者の個性の相違が出たのである。いかにも自然にすらすら描き出しているところに、この歌のすぐれているところがある。
  桜田へ鶴《たづ》鳴きわたる年魚市《あゆち》潟潮干にけらし鶴《たづ》鳴きわたる(巻三・二七一)
 桜田の方へ鶴が渡って鳴いていく。年魚市潟というのは名古屋湾である。その干潟、潟というのは浅い所で、潮が干れば現われ満つれば隠れる地形である。年魚市潟は潮が干たそうな。鶴が鳴いて渡る。第二句と、終わりの第五句とが同じ形をもっている歌は、古歌にしばしばある。これは歌が歌いものであった時代からのなごりである。後になると、この形はなくなってしまう。ここにはおのずから謡いもの風な美しさが出てくる。しかし内容は単純で、作者は今海岸にいて、桜田へ鶴が鳴き渡ってゆく、それによって見ると年魚市潟は潮が干たそうなと、単純に年魚市潟の景色を想像したのである。
  四極山《しはつやま》うち越え見れば笠縫の島|榜《こ》ぎかくる棚無し小舟《をふね》(巻三・二七二)
 これも椅麗な歌である。柔らかいやさしい線が現われている。四極山は、大阪湾に臨んでいる小さい山である。その(319)四極山を越えてみれば、笠縫の島がある。あの付近は菅がたくさんあって、昔の人はその菅で笠を作っていた。それで難波の菅は名物になっている。その笠を作るのを笠縫という。菅を縫って作るのである。ここでは笠縫の多く住んでいた島、笠縫の島といってももちろん淀川の出口である。その島に榜いで隠れて行く船、棚というのはすべて横板をいう。その棚もない船というのは、粗末な簡単な船で、波が少し荒くなれば打ち込まれる。そういう粗末な舟、それが島に榜ぎ隠れて行く。四極山を越えてみると、笠縫の島に小舟が隠れて行く。本当に棚があるかないか、それはどうでもよい。柔らかないかにも美しい物静かな川口、入江の姿、その風光が描き出されている。そこにこの歌の特色がある。
  磯《いそ》の埼|榜《こ》ぎ回《た》み行けば近江《あふみ》の海八十《やそ》の湊に鵠《たづ》多《さは》に鳴く(巻三・二七三)
 これはまた黒人の特色のよく出ている歌である。これは琵琶湖の歌であるが、作者は琵琶湖を船に乗って榜ぎ出した。磯は石のたくさんあるところ、磯の埼は、その先端、磯の突角。琵琶湖は、昔の人はしばしば水と陸との出入が多いということを歌っているが、その中のどこかの入江の類で、そこに作者は舟に乗っている。それからだんだん沖の方へ出て行く。入江の磯の埼を、石のごろごろしている埼を廻って行けば、近江の海で、その八十の湊、最初船を榜ぎ出した所は入江の中だから眼界が狭い。しかし磯の埼を傍ぎ廻って行くに従って次第に眼界がひらけて、そこで近江の湖水のたくさんの湊、湊というのは、水の入口になっている所、そこに鶴がたくさんに鳴いている。琵琶湖のあちらこちらに湊がたくさんある。どの湊の入口でも鶴のような大きな水禽が鳴いて騒いでいる。
 こういう景色になると、鶴のような大きなものを持ってこなければ歌が生きてこない。八十の湊に千鳥しば鳴くなどというと、実景かもしれないが歌が小さくなってくる。それで、この歌は作者が入江の中から船を榜ぎ出して、だんだん外へ出るに従って琵琶湖の大観がひらけてくる。その作者の位置の移動ということが第一に出ている。それから外に出るに従って、現われた琵琶湖の大観が現われている。ここにこの黒人の自然の描写のすぐれているところが現われている。これによって闊達な気象が養われてくる。こういう大きな歌は、後世になると、だんだん少なくなってくる。
  吾が船は比良の湊に榜《こ》ぎ泊《は》てむ沖へな放《さか》りさ夜ふけにけり(巻三・二七四)
(320) これもやはり琵琶湖を船に乗って榜いで行く時の歌である。わが船は琵琶湖の西海岸にある比良の湊に榜いで碇泊しよう。沖の方へ離れることなかれ、もう夜はすっかりふけてしまった。
 昔は船に乗って航海するにあたって、夜になれば船を岸辺に寄せて泊るのである。燈台の設備もないし真っ暗な海上を航海して行くわけにはゆかない。陸上を行くものが山野に仮寝の夢を結ぶと同様に、水上に船を浮べて行く者も岸辺に船を停めて寝るのである。そこでもう夜がふけてしまったからわが船は今夜は比良に榜ぎ泊てよう。今は碇泊して泊を取ろうというのである。かような内容を歌った歌はほかにもある。
  夏|麻《そ》ひく海上潟《うなかみがた》の沖つ渚《す》に舟はとどめむさ夜ふけにけり(巻十四・三三四八)
 これは作者未詳であるが、夜がふけたによって碇泊しようというのである。次のもやや似た感じである。これも作者未詳である。
  波高しいかに揖取《かぢとり》水鳥の浮宿《うきね》やすべきなほや榜ぐべき(巻七・二一三五)
 この歌は、舟人に言いかけた歌として面白い。この歌は、まず第一句で何と舟人よ、と呼びかける。楫というのは舟を榜ぐ道具、櫂のことであるから、結局舟を榜ぐ人。水鳥のように浮宿をしようかあるいはなおもっと榜いでゆくのか。これは泊る時の歌でないが、水上旅行の歌として注意すべき歌である。ことに音調の上でも、注意すべき歌で、波高し
で切って、楫取、水鳥と、とりという音を重ねて、「浮宿やすべきなほや榜ぐべき」と、べきという言葉が、また重ねられて調子をとっている。
  何処《いづく》にか吾は宿らむ高島の勝野《かちの》の原にこの日暮れなば(巻三・二七五)
 これは黒人の作で、陸路の歌である。陸路でも水上を行くと同じように、行き暮れて到るところに宿を求めている、それが出ている歌である。何処に私は宿ろうか。高島の勝野の原は琵琶湖の西岸、昔は樹海をもって知られておった。
 昔の人の旅行は万事に不足勝ちのものであった。そうして日暮れたところに宿りをとる。そういうところがそれぞれ出ている。陸路の日暮を歌った歌は多い。同じ黒人の歌にも、こういう歌もある。
(321)  売比《めひ》の野《の》の薄《すすき》おしなべふる雪に宿かる今日し悲しく思ほゆ(巻十七・四〇一六)
 売比の野というのは越中の国。この歌はいかにも北国の雪を思わしめる。枯野原に薄が一面に生えている、その薄を押し伏せて降ってくる。急に大吹雪がして今まで茫々として生い茂っておった薄などが、一ぺんにして蔽いつくされてしまう。人をも薄をも蔽いつくしてしまう。それほどにして降る雪、そういう場合で、さすがに野宿をするわけにはゆかないから、その辺に宿を借る。今日は、雪が降るとも知らないで出てきたものであろうが、この雪中に宿を借ることを悲しく思う。古人は悲しという言葉を容易に使わない。これだけの旅の苦しさを描いて始めて悲しといっている。「薄おしなべふる雪」というような描写は、黒人独得の世界である。
 かように黒人は、旅に出ては、その自然を描写すること、きわめてこまかいものあり深いものありといわなければならぬ。
 これら人麻呂、黒人の歌を代表として、古人の旅の歌の一端を述べてきたのである。要するに古人は、この旅行によって新たな自然に接触している。そこに古人の生活がいよいよ広められてゆき、新しい感触をもってこの新しい世界に接してゆくところがあるのである。旅行というものは、人間にとっては、その精神修養の上に、非常に意義の深いものであることを感じさせる。これらの歌は、都に留まっておっては、詠むことのできない作品である。ことに薄おしなべ降る雪というようなことは、奈良の都あたりの景ではない。その他の歌にしても、「磯の埼榜ぎたみ行けば」という歌にしても、実際自分が湖上に舟を浮べて行くから、始めてこの大きな景勝に接することができる。そこに旅行から得るところが非常に多いということができるのである。一面においては都会の発達ということがあって、そこに都会独得の文化は、いよいよ盛んになってゆく。この時代にあっては種々の書物が盛んにできるということもあり、朝廷百般の制度も整備してゆくということもあり、また自然大宮人の生活がいよいよ豊富になって、今までになかった美しい衣食のごときも、新たに生まれ出ることになってもくる。それは順当であるけれども、それだけに人々の世界が狭くなってゆくところもある。新しい今までなかった文化の道が開けてくると同時に、自然の姿から新しい意気を感得することは、(322)ようやく狭められてきたところに、またかような旅行によって、新しい生活を開いてゆくことがあるのである。人麻呂や黒人は、奈良時代よりは、もう一つ前の藤原の宮時代の人である。この傾向は続いて、奈良人もやはり旅行によって新しい生活の刺戟を得てきている。一面においては、都会文化にともなう人々の精神が、ようやく文弱の方面に流れてゆく事実は、認めざるを得ないのである。今まで詠まれなかった鶯、ほととぎすのごときものの声を楽しむという人文方面に進んでいったことは事実である。それと同時に、今までと同じように自然に接触して、そこから新しい空気を感じてきている。そこに始めてこの集に、ひとり風雅の道のみでなく、昔からの自然児の歌の世界が、そのままに残っているということができるのである。
 ここには、文化の発達の代表として都会を語った。それから自然児に返る一つの手段としての旅行をあわせて語ったのである。
 
   一六 遣外使節
 
 当時の最大の旅行としては、遣唐使、遷新羅使等の海外旅行のことが指摘されなければならない。
 わが国が、古代から国家をなしきたったことは、もちろんであるが、これが、今日の言葉でいう国家であることは、国際関係を生じた後に、その意識が、いっそう明瞭になってきたのである。人々の生活の上においても、今までただ純粋にして持っていたところのものが、他の刺戟を受けて、これを整理して、明瞭にすべてのものを考えてくるようになり、同時に物質的方面にあっても、いっそうその豊富を増してくるのである。従来の生活に加うるに、新しい生活様式を加えて、人々の生活の向上が、ここに起こってくる。かような関係から、海外と交通を開いたということは、国民にとって、眼界を広くしたことになり、非常に有益なことであったといわねばならない。これによって大きな刺戟を得て、すべてが一段と開発向上していったのである。
(323) 海外との交通については、古代からその史実が残っている。素戔嗚の尊が新羅の地にお渡りになったという神話をも伝えている。それよりして後、彼我の交通は常に絶えずに行なわれておったものである。しかし正式に海外に対して使節をつかわされたのは、まず推古天皇の御代に小野妹子を隋につかわしたことが知られている。シナ大陸は当時隋という国の時代であって、そこに使節をつかわした。よって遣隋使と称したのである。それから隋が亡んで唐の代となり、したがって遣唐使という名称を生じたものである。かような大陸との交通によって得たところは、思想の方からいうと、まず第一に儒学の教えが入ってきたことが、もっとも注意すべきことであった。これによって日本の人々の生活をいっそう精練し、子弟に教養する道を開いたことは、儒学の教えによるもっとも大きな効果である。ついでは仏教の教えが入ってきた。これは日本の人々をして、生死というがごとき問題に触れさせてきた。今まであまりそういう方面に触れることの少なかった日本人の思想をいっそう深きものたらしめたということは、また疑いをいれぬ事実である。なおその他、種々の思想が入ってきている。老荘を祖とする道教の思想のごときも、入ってきた跡が認められるのである。かように思想方面においても大陸からして種々の思想が流入してきた。同時に国家組織の完成、すなわちすべての官制を初めとして、今までいっさい不文法で行なわれたことが、明文に記されるようになってきたことも、海外との交通の結果というべきである。また、文字が入りきたったことによって、今まで口伝えに伝えていたことを記して、あるいは歴史の書を作り、あるいは歌謡の書を作るごときことも、漸次盛んに行なわれてきたのである。
 『万葉集』にはこれらの遣外使節に関する歌を多く載せている。これらの歌には、特に注意すべき点として、日本の国を大きな立場から眺めるという思想がつねに現われていることである。他の場合の歌では、すべて国内的であってわが国の一部分を眺める。人と人とたがいに相接し、また自然に接して自分の接した部分を歌うという性質のものがほとんど全部であったに対して、一歩わが国を出て海外におもむくと、大きな立場からこの日本の国を眺める、こういう性質の歌に富んでくるのである。それは全部がそういう歌ばかりでもないが、日本の国はかような国であるということを歌に詠んだものが、この遣唐使などの関係の歌に割合に多いのである。その点がもっとも注意すべき一つである。
(324) ここに特に遣唐使に関する歌を語ろうとするのは、海外の刺戟ということに注意されるのがまず第一である。それからわが日本の国をかような国であると歌ったものが多い。これが第二の注意すべき点である。また使節の人々としては旅行という境涯に置かれている点が、注意される。そのほかいろいろの意味において、これを見ることができるのである。
 『万葉集』の時代における遣唐使としては、まず文武天皇の大宝元年(七〇一)の遣唐使、これは元年に出て一度引き返して二年にふたたび出発している。粟田真人が大使となって行った。それからその次には霊亀の多治比県守、この時には、確とした歌が伝わらない。それからその次の天平五年(七三三)の多治比広成、この時の歌はたくさんある。それから天平勝宝二年(七五〇)の藤原清河、この時の歌もたくさんある。ことにこの天平勝宝二年の遣唐使は一艘は無事に帰朝したけれども、一艘は南海に漂ってまたシナに戻ってしまった。そうして大使の藤原清河もついにかの地で一生を終わった。それから一つの船は所在が知れなくなってしまった。たぶんどこかで沈没してしまったのであろう。百十一人中、多年を経てわずかに四人だけが帰ってきたなどという悲惨なことになっている。遣唐使の旅行は非常に艱難が多かったのであるが、日本男児としてはかような艱難をおかしても、文化輸入の使節として出発する。生きてかえる者わずかに数人というような場合があってもやむを得なかったのである。
 遣唐使のほかには遣新羅使というものがあった。これは新羅の国につかわされた使節である。これも大体においては遣唐使に準じて、内地の文化発展の上に非常に意義のある使節であった。新羅との関係は、唐の関係とは違うけれども、実際問題としてやはり艱難が多かったことはほぼ同様である。
 『万葉集』における遣新羅使は、天平八年(七三六)の遣新羅使の一行の時の歌が巻の十五に百四十五首ばかり載っている。この天平八年の遣新羅使の一行がまた非常に艱難が多かった。途中、瀬戸内海を航海する時からすでに風波の難に逢った。そうしてかろうじて向こうへ着いたところが、船中で大使を始め病気になって死ぬものが多かった。この時の大使は阿倍継麻呂であったが、一行中に疫病が流行して大使を始め多勢死んでしまう。ことに継麻呂のごときは往く(325)道の対馬で詠んだ歌が残っておって、そうして向こうへ渡ると間もなく死んでしまっている。それからこの時は、新羅が勢いを張っていたために、新羅に行って名分上の問題が起こって、わが使節の一行を礼遇しない。そういう問題も起こった。かようにこの遣新羅使の一行は、唐よりは近いけれども非常な難儀に出遭っている。
 それからただ一首であるが遣渤海使関係の歌がある。渤海というのは、今日の朝鮮の北方に渤海に面して建国していた。そこから使節を寄せて来たし、こちらからもそれに対して答礼使を送った。その時の歌が一首ある。これは天平宝字二年(七五八)に小野田守という人をつかわしたその時の歌である。かように当時の人々は艱難をおかしては海外に使いした。そうしてわが国の文化発達の上に寄与するところがあったのである。
 
   一七 遣唐使
 
 大宝元年(七〇一)の遣唐使の歌、
    三野連名闕く入唐の時、春日蔵首老の作れる歌
  在嶺《ありね》よし対馬の渡|海《わた》なかに幣《ぬさ》取り向けて早還り来《こ》ね(巻一・六二)
 三野連は氏姓で名がかけている。何という人か名がわからないということになっているが、これは三野岡麻呂という人である。今日では古写本の書入および墓志銘によって、この人が岡麻呂であることがわかった。この人は遣唐使の小商監、つまり商務官ともいうべき役目、こちらとかなたとの物を有無相通ずる商業上の役目をもって遣唐使の一行に加わっている。これが遣唐使の中に加わって行った時に、春日蔵首老の詠んだ歌である。
 在嶺よしは、対馬の枕詞。在嶺という対馬の山だといわれている。対馬は山が断崖絶壁でできているので、荒い嶺の意味にいう名であろう。その対馬への渡海の中で幣を手向けて、そうして早く還っていらっしゃい。来ねは、来よと希望する語法。幣を手向けるとは、手向の祭りをすることをいう。手向の祭りは旅行中に災難などの起こらないように道(326)中でする祭りである。山を行けは山でもするし、海を渡る時は海の中でも行なう。それから船を出す時にもする。山を越える時などは、手向をする場所は一定している。もうこの道では誰でもここで手向をするという一定の場所ができる。昔は手向すなわち峠だといっていたが、今日では手向と峠とは違うとする。手向は山の上ですることもあるし、中腹ですることもある。その手向の祭りには神に対して幣を手向ける。幣というのは、布・絹・糸・麻などの類で、これを神にささげて祭りをする。後にはこれを切って撒き散らす。切る場合には切幣などという。あるいは大きいままに松の枝などにかけて手向をする。そうしてわが道の平安を祈る。手向を詠んだ歌の二、三、
  周防なる磐国山《いはくにやま》を越えむ日は手向よくせよ荒しその道(巻四・五六七)
 磐国山を越える日は手向の祭りをつつしんで行なえ。その道は非常に荒っぽいから。道が荒いというのは道行く者がしばしばそこで艱難に逢うようなのをいう。
  佐保過ぎて奈良の手向におく幣は妹を目|離《か》れずあひ見しめとぞ(巻三・三〇〇)
  かしこみと告らずありしを三越路《みこしぢ》の手向に立ちて妹が名告りつ(巻十五・三七三〇)
 この後の歌は遠く北陸の方に旅行する。別れた妻が恋しいけれども呼ぶのは恐るべきであるがゆえに告らずいったが、しかし今三越路の手向に立ちてついにわが妻の名を呼んでしまったことだった。これらは手向という名の場所がすでにできていることを語っている。
 在嶺よしの歌は、遣唐使を送るのだから、無事に行っていらっしゃいということが主眼になっているが、当時の人々に信仰的な気持の深かったことがいえる。道路に神を祭って、無事に往来しようとする信念のあつかったことが知られる。
    山上臣憶良の、大唐に在りし時、本郷を憶ひて作れる歌
  いざ子どもはやく日本《やまと》へ大伴《おほとも》の御津《みつ》の浜松待ち恋ひぬらむ(巻一・六三)
 この歌は山上憶良が同じく大宝二年(七〇二)の遣唐使に書記官となって行った。この人は学者であるから書記となっ(327)て行った。この歌は大唐に在りし時とあるが、大唐とは、向こうを尊敬して書いている。なぜ日本で向こうのことを大唐と書くかというと、漢文で書くのだから、かように書くものと向こうの人が教えたのである。日本の人は正直なものだから、そのとおり習って大唐と書いた。それでかの地にありし時に本国を思うて詠んだ歌。この歌はどういう点に注意すべき歌かというと、外国で詠んだ歌だということである。『万葉集』にたくさん歌はあるけれども、外国で詠んだ歌というのはこれ一つである。
 日本人の海外発展の意気、それをこの歌が語るのである。この歌は故郷を思うという歌であるけれども、わが国人は国外に出てもやはり歌を詠んで自分の志を現わしている。そこが注意すべき点である。朝鮮半島へ行って詠んだ歌は古いところにもあるが、これはシナ大陸で詠んだという意味で注意すべき作品である。シナ大陸で詠んだ歌というのは、これが一番古いのである。もう少し後に安倍仲麻呂の詠んだ、
  天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも
という歌がある。この安倍仲麻呂も遣唐使の一行に従って留学生となって行った人である。そうしてついにかの国に留まって一生を終わった。かの地でこの歌を詠んだことが伝わっている。大空遥かにふり仰ぎ見ると月は皎々として照り輝いている。あれはわが故郷の三笠山にいでし月がやはりここにも上るのだというのである。この歌は『万葉集』にはなく『古今集』にある。
 いざ子ども、さあ子どもよ、というのは、自分の部下、ここでは船人たち下人たちをさして子どもといっている。子どもという言葉は親しんでいうので、本当の子でなくとも、部下とか目下の者とかをいうのである。次のごとき用例がある。
  いざ子ども香椎《かしひ》の潟《かた》に白たへの袖さへぬれて朝菜摘みてむ(巻六・九五七)
 大伴の御津の浜松、大伴というのは地名である。松原の松ということを利用して「待ち恋ひぬらむ」としゃれている。あの大伴の松は待ちこがれていることであろう。松が自分を待っているというのは故郷が自分を待っている。言い(328)換えれば故郷が恋しい。
 これらが大宝の時の遣唐使の一行の歌である。これにはそれぞれの意義がある。前の歌としては手向の祭りがあり、後の歌としては海外で詠んだということに意味がある。そういう点で、短い歌だが日本の意気を示す上にまた日本の文化発達の歴史の上に、非常に意味のある歌ということができる。
 天平五年(七三三)の遣唐使を送る時の歌、
    天平五年癸酉春閏三月、笠朝臣金村の、入唐使に贈れる歌一首并に短歌
                    
  玉襷《たまだすき》懸けぬ時なく、気《いき》の緒に吾が念ふ君は、うつせみの命かしこみ、夕されば鶴《たづ》が妻|喚《よ》ぶ難波潟三津の崎より、大船に真楫《まかぢ》繁貫《しじぬ》き、白波の高き荒海《あるみ》を、島伝ひい別れ行かは、留まれる吾は幣引《ぬさひ》き、斎《いは》ひつつ君をばやらむ、はや還りませ(巻八・一四五三)
    反歌
  波の上ゆ見ゆる児島の雲隠りあな気衝《いきづ》かし相別れなば(同・一四五四)
  たまきはる命に向ひ恋ひむゆは君がみ船の楫柄《かぢつか》にもが(同・一四五五)
 この歌は格別のことはなく、ただ神を祭って、みそぎをしながらお待ち申し上げましょうという趣旨である。旅行く人を遠く送るにあたって、留守をする者がみそぎをして間違い事なきようにして待つという敬神の情がよく出ている。その点に注意すべきである。
 次の歌も天平五年の歌である。
    天平五年、入唐使に贈れる歌一首并に短歌【作者いまだ詳ならず】
  そらみつやまとの国、あをによし平城《なら》の京師ゆ、おし照る難波に下り、住吉《すみのえ》の三津に船乗り、直《ただ》渡り日の入る国に、遣はさる吾が夫《せ》の君を、懸けまくのゆゆしかしこき、住吉《すみのえ》の吾が大御神、船の舳へ》に領《うしは》き坐し、舶艫《ふなとも》に御立坐《みたちいま》して、さし寄らむ磯の埼埼、榜ぎ泊てむ泊泊《とまりとまり》に、荒き風浪に遇《あ》はせず、平けく率《ゐ》て帰りませ、本《もと》の国家《みかど》に(巻十九・四二(329)四五)
    反歌一首
  沖つ波辺波な越しそ君が船榜ぎ帰り来て津に泊《は》つるまで(巻十九・四二四六)
 ここではシナのことを日の入る国と歌ってある。昔、聖徳太子が書状をあちらにおつかわしになった時に、日いずる国の天子書を日没する所の皇帝につかわすとお書きになったことがある。
 住吉の御神が船をお導きになる、神々の御守護があるということを歌っている。その点がこの歌の特色である。
 遣唐使関係の歌については、まだあぐべき歌があるが、それらはなお本書の姉妹篇『万葉人生』『万葉思想』の両書に譲ることとする。
 
   一八 遣新羅使と遣渤海使
 
 遣新羅使になると、多少事情の異なるところもある。少なくともシナ大陸と朝鮮であるから、航海の道程はよほど短いといわねばならぬ。しかしながら、短いけれども困難はやはり同様のものがある。また、主としてわが国が文化を採り入れたのは、唐の文化であるけれども、しかしこの朝鮮半島は、シナ大陸に発生した文化輸入の道としては重要な意義を有している。歴史の上から見ても、応神天皇の御代に、阿直岐・王仁のような学者が渡ってきたのも朝鮮からである。シナ大陸に発生した文化でも、朝鮮を経由してわが国に入ってきている場合がある。欽明天皇の朝に仏教が渡来したのも、百済の王が仏像および経文を献上したのによるのである。かように文化輸入の経路として、重要な位置を占めている。
 遣新羅使の一行の歌としては、巻の十五に天平八年(七三六)の一行の歌がたくさん残っている。大使・副使を始め、多くの人々の歌が残っている。それから、その船の中で誦み上げた古い人の歌、柿本人麻呂の歌なども入って、合計百(330)四十五首というものがここに載っている。これらはまたそれぞれ注意すべき作品である。今そういう歌を一々あげてゆくいとまはないのであるが、その中であわれをとどめたのが大使の阿倍継麻呂で、対馬で歌を詠んでいて、向こうへ行って死んでしまったので、いかにも気の毒である。その歌の中に次のごときがある。
  玉敷ける清き渚《なぎさ》を潮満てば飽かず吾行く帰るさに見む(巻十五・三七〇四)
 これは対馬の竹敷《たかしき》の浦の渚に下り立って、思いを述べた歌の中にある。せっかくこの対馬の竹敷の浦の、玉を敷いたような美しい渚に下り立って遊んだのであるが、潮が満ちてきたので、帰ってくる時にまたここを見ようといって、そうして朝鮮に渡ったのだが、向こうで死んでしまった。なお一行の人は大使ばかりでなく、多くの人が病気になって死んでいる。あるいはせっかく帰ってきても、船中病気が多いというので隔離される。そういう事情もあって非常に困難を重ねておった。だが、それらは日本の文化の進展の上にはまたやむを得ない犠牲である。古人がわが日本の文化建設のためには、いかに献身的に努力したかというその一端が知られる次第である。
 それから遣渤海使を送る歌として、大伴家持の歌に次のごときがある。
  青海原風波なびき行くさ来《く》さつつむことなく舟は早けむ(巻二十・四五一四)
 青海原の風波が平らかになびき伏して、往く道も還り道も間違いなく、災難がなく船は早いことでしょう。往復とも別に何の災難もなく船は早く帰って来ることでしょう。渤海という国は、今の渤海に臨んだ地方にあった。そういう遠隔な所へも使節をつかわされた。それは先方から使節が来たから、返礼としてつかわしたのであるけれども、ここにも遣唐使・遣新羅使と同じような意気を感ずることができる。これら海外へ派遣される使節が、いずれもあらゆる難儀をおかして、わが国のために働かれた。そういう跡を歌に見る。そこには歌としてすぐれた作品も伝わっているし、また特にこれによって日本の国がいかなる国であるかということを人々が意識して考えるようになってきたことも窺われる。そんな点にも注意すべきことが多いのである。
 
(331)   一九 海洋に親しむ
 
 わが国は海国であって、四面に海を環らしていることはいうまでもないことである。したがって古くからこの海洋に関する歌も多いのであるが、これが中世以後は鎖国的になってしまって、海に関する歌などは、きわめて少なくなってしまう。『万葉集』には上述したような遣外使節を始め、また国内の旅行にしても海を航することは割合に多い。かくしてここには海洋に関する歌がたくさんある。海洋に接して国民の気象がおのずから宏大になるということは、これはまた事実であって、この海国に生を受けている者に対して、進取的な気象を育成するにあずかって力がある。同時にこの時代の人々が、みずから進んで艱難に接するという気概をもっていたことが知られるのである。陸路を行くよりは、当時としてはやはり海路を行くほうに困難は多いけれども、そういうことを恐れずに、海洋をしのぎ渡って、国民としての本分を尽くす、こういう意識に燃えているのである。自然海を歌う歌は、『万葉集』にはたくさんあるが、それらの歌は、非常に気象の雄大なものに富んでいる次第であるが、今これらの歌について少しく述べておこうと思う。
 航海するといっても、種々の方面に海があるが、大体において大阪湾から西の方、瀬戸内海を航し、それからずっと九州の方に行く。また場合によっては紀伊方面、伊勢の方面へかけて行くこともあるが、主として西の方の海が多いのである。またいずこの海ということなく歌われているものももちろんある。
 海の大きい感じを歌っている歌としては、次の歌などをあげることができる。これなどは、人々の気宇をおのずから大きくするものがある。かような歌は、平安時代にはほとんど類例を見ないといってもよい。『万葉集』のもっているすぐれた歌の一つだということができる。いかにも大きな海の模様が現われている。
  大海に島もあらなくに海原《うなばら》のたゆたふ浪に立てる白雲(巻七・一〇八九)
   右の一首は伊勢に駕に従へる作
(332) いつの時とも知れず伊勢に行幸のあった、その行幸のお供をしてある人の詠んだ作品である。
 伊勢に行幸があったのはたびたびある。持統天皇も伊勢にお出ましになっているし、聖武天皇もお出ましになっている。いずれの時かわからない。作者もわからないし時代もわからない。駕というのは御乗物、そのお供をして伊勢に行った時の作である。
 海を見渡すと、そこに島も何物もない。まず見渡す限り一面の青海原で、「島もあらなくに」というのは、あらぬことだ。「たゆたふ」というのは、どちらへ行こうかとさまよいためらっている。その辺でゆたゆたとしている浪の彼方からむくむくと白雲が立ち上ってくる。このたゆたう浪に立てる白雲という叙述が、何でもないようだけれども、いかにも海の壮大性を描き出している。限りも知らぬ青海原に浪が起伏し、そのかなたに白雲のむくむくと立ちのぼるありさま、それを想像して読めば、いかにも海がよく描かれていることがわかる。
 この歌はただ一首の短歌であるけれども、少なくも平安時代になってからは、こういう作品はまったく見ることができなくなっている。その点でもっとも注意すべき作品である。
 海に関する歌は前に述べた遣唐使の歌にも遣新羅使の歌にもたくさんある。航海をして行く以上、そこには種々の形で海に関する歌がたくさんできてくるのは当然である。先に述べた人麻呂、黒人などにも海に関する歌はたくさん出てきているけれども、ああいう著名の作家の作品以外に、かような何人の作とも知れないものに、またかえってすぐれたものが多い。それが巻の七あたりにならんでいる。この中にはすぐれた歌が多い。
  円方《まとかた》の湊の渚鳥《すどり》浪立てや妻呼び立てて辺《へ》に近づくも(巻七・一一六二)
 これは美しい景色である。同じく伊勢の国の円方の湊の渚にいる鳥、水鳥である。何の鳥ともいえないが、鷺とか鶴とかいう類であろう。それが浪が立てばにや妻を呼んで岸辺に近づく。円方の浦は非常に風光明媚な美しいところであるが、そこの潮の退いた浅瀬に立っている水鳥が、岸辺の方に妻を呼んで近づいてくる。それはちようど潮が寄せてきて浪が立つゆえであろう。
(333) 次も同じような内容の歌である。
  夕なぎにあさりする鶴《たづ》潮満てば沖浪高み己妻《おのづま》喚ばふ(巻七・一一六五)
 夕方になると風がぴったりと落ちる。これは瀬戸内海の沿岸ではつねにある現象である。その風の落ちたところで餌を拾っていた鶴が、潮が高くなったから岸辺へ行こうといって自分の妻を呼んでいる。
  今日もかも沖つ玉藻は白浪の八重折《やへを》るが上に乱れてあらむ(巻七・一一六八)
 これはちょっと珍しい境地を詠んでいる。作者は海を渡ってきた。それは昨日か一昨日か近い頃であろう。ところで自分が海を航海してくる時に見たのは、沖の浪が起伏するその中に美しい玉藻がもまれている景色であった。白浪の八重折るというのは、浪が幾重にも重なって崩れかかる浪。その上であの美しい玉藻はやはり今日も乱れているのだろうな。沖の浪が真白に立ち騒いでいる。その中に青い玉藻がもまれている姿、それの思い出を詠んでいる。小さな船に乗って航海してきた。そこで見た景色である。それが思い出になって忘れられない。美しい思い出である。
  海人小船《あまをぶね》帆かも張れると見るまでに鞆《とも》の浦廻《うらみ》に浪立てり見ゆ(巻七・一一八二)
 海人の小船が帆を張り上げたのかと見るまでに浪が立っている。鞆の浦というのは内海にある一の湊の名、浦廻のミは地形の彎曲している性質を現わす接尾語。作者は船に乗っているか、または鞆の浦の岸辺にいるか、それはどちらでも差しつかえない。海人の小船が白帆を上げたかのように非常に高い白浪が立っている。それが見える。
  黒牛の海|紅《くれなゐ》にほふももしきの大宮人しあさりすらしも(巻七・一二一八)
 黒牛の海というと怪奇な感を与える地名であるが、これは紀伊の国の黒牛潟である。黒牛という地名であるから、くれないにおうという色の対照を持ってきた。黒牛潟ではくれないの色がかがやいている。ももしきの、枕詞。しきというのは石の建造物で、大宮は大きい礎石をたくさん据えて建造するので、ももしきの宮という。大宮人があさりをするらしい。大宮人は男も女も入っているが、主としてこれは女である。その女の赤い腰裳が黒牛の海の水にかがやいて見える。これなどは色彩の配合を描いている。これも海の歌の一としてあげることができる。これは藤原卿の作としてお(334)り、その藤原卿は何人かわからないが、行幸の時の歌か何かであろう。
  藻刈船《もかりぶね》沖こぎ来らし妹が島形見の浦に鶴翔ける見ゆ(巻七・一一九九)
 妹が島形見の浦というのは、紀淡海峡にある島と浦の名である。その形見の浦に鶴が飛び立っている。ちょうど潮が干たのである。それがために海人が藻刈船を榜いでくるらしい。それだけの歌であるが、妹が島形見の浦という地名の美しさがある。地名は、土地の名称であるが、どのような名前をつけてもよいという性質のものではない。やはり昔から美しい地名をつけることになっている。そこで妹が島形見の浦という一つの地名であるけれども、非常に美しい感じを与える。地名の美しさがこの歌の美しさを保つ上に力強く響いている。
  大海の水底《みなそこ》とよみ立つ浪の寄らむと思へる礒のさやけさ(巻七・一二〇一)
  大海の礒もとゆすり立つ波の寄らむと思へる浜のさやけく(同・一二三九)
 これは同じような歌である。
 海底を鳴り響かせて浪が立って荒礒に落ちかかろうとしている。浪の力強さがよく描かれている。その波が打ち寄せんとする浜の清らかな情景。沖の方から打ち寄せてきた波が、大地をも鳴り響かせて、さっと岸辺に寄せようとするその浜辺の清らかさ。古人の愛した所は、かならずしもおだやかな海ばかりではない。万葉時代の人の愛する所は、かような荒海の美でもあった。そういうところに強い歌ができてくる。
  風《かざ》早の三穂の浦廻《うらみ》をこぐ舟の船人とよむ波立つらしも(巻七・一二二八)
 これは有名な歌で謡曲羽衣に用いられている。
  未通女等《なとめら》が織る機《はた》の上を莫櫛《まくし》もちかかげ栲島《たくしま》波の間ゆ見ゆ(巻七・一二三三)
 栲島という名の島は諸国にある。栲というのは木の名。その木の生えている島、それが波の間から見える。その栲島といわんがために、未通女等が織る機の上を真櫛もち掻きあげるという序を用いた。真櫛は機《はた》に用いる櫛、それをもって上へかき上げる。たくというのは、それをつかねることをいう。ただ栲島が波の間に見えることを、機の糸を未通女(335)等が櫛ですいている姿を連想して歌っている。栲島が波の間に見える。それだけでは単純すぎるので、未通女等が織る機の上をと、序を持ってきたのである。
  静けくも岸には波は寄せけるかこれの屋通し聞きつつ居れば(巻七・一二三七)
 波の岸辺に打ち寄せる音を静かに聞いている。静かである。岸には波が寄せたのだな。作者は家の中に納まっている。そうすると家の外の岸辺に波が打ち寄せる。この家を通してそれが静かに聞えてくる。海岸の静かな宿のありさま、それがよく出ている。
 かようにそれぞれ特色のある歌が多く残っている。これは古人が海を航しあるいは海岸に旅行をして、その時その時の思いをこれらの歌に残しているのである。そこには日本の人々の気象として、非常に大きな海をも歌うし荒海をも歌う。またもちろん静かな海をも歌う。かように海洋によってわが民族性の養われてきたことは、また自然の感化の一になるのである。非常に変化の多い海、ある場合にはその荒波を押し切っても航海する。ある場合には岸辺に静かに打ち寄せる波を楽しむ。そこに飛び翔る鶴を愛する。そういう自然から受ける感化の非常に大きいものがある。この集の人人は海洋に接近し、それから種々の美をも感じ、また自分の勇気をも舊い起こしてきているのである。
 
   二〇 海洋に関する長歌
 
 海の歌としては、山部赤人の次の歌など、綺麗な歌であり、また有名な歌でもある。これは静かな海である。
    神亀元年甲子冬十月五日、紀伊の国に幸しし時、山部宿禰赤人の作れる歌一首并に短歌
  やすみししわご大君の、常宮《とこみや》と仕へまつれる、雑賀野《さひがの》ゆ背向《そがひ》に見ゆる、奥つ島清き渚に、風吹けば白波騒ぎ、潮干れば玉藻刈りつつ、神代より然ぞ尊き、玉津島山(巻六・九一七)
    反歌
(336)  奥《おき》つ島|荒磯《ありそ》の玉藻潮干満ちて隠ろひゆかば思ほえむかも(巻六・九一八)
  若《わか》の浦に潮満ち来れば潟《かた》を無み葦辺をさして鶴鳴き渡る(同・九一九)
 もといつの歌とも書いてなかったけれども、玉津島の行幸に御供したというので、『万葉集』の編者が、その時を調べて神亀元年(七二四)と記したのである。その反歌の「若の浦に」の歌は、有名な歌である。若の浦は今日の和歌の浦のこと。その若の浦に潮満ちくれば干潟がなくなる。潟というのは潮が干れば現われ潮が満ちれば隠れる地形をいう。潮が干ると鶴がそこへ下りて餌を拾う。また潮が満ちると餌が拾えなくなるから岸へ帰る。岸の葦の生えているところを指して鶴が鳴き渡る。これは鶴のような大きな水鳥が葦の生えているその岸の方へ鳴いて渡って行く美しい情景を歌っている。かように行幸の御供をして詠んだ歌もある。
 また作者が官吏か何かになって旅行して詠む歌もある。瀬戸内海などの美を歌ったものなども少なくない。上には人麻呂の歌をあげた。特に瀬戸内海の地理的状勢を説明したような歌もある。次の歌なども、瀬戸内海の地勢を説明して、同時にそこの美しさを描き、自分の航海したことを歌っている。
    羈旅の歌一首并に短歌
  海若《わたつみ》は霊《くす》しきものか、淡路島中に立て置きて、白波を伊予に廻《めぐ》らし、座待月《ゐまちづき》明石《あかし》の門《と》ゆは、夕されば汐を満たしめ、明けされば潮を干しむ、潮騒《しほさゐ》の波を恐《かしこ》み、淡路島磯隠りゐて、何時しかもこの夜の明けむと、さもらふに寝《い》の宿《ね》がてねば、滝の上の浅野の雉《きぎし》、明けぬとし立ち響《とよ》むらし、いざ児ども敢へて榜《こ》ぎ出む、にはも静けし(巻三・三八八)
    反歌
  島伝ひ敏馬《みぬめ》の埼を榜ぎ廻《た》めば大和恋しく鶴《たづ》多《さは》に鳴く
   右の歌は若宮年魚麻呂誦せり。但しいまだ作者を審にせず。(同・三八九)
 瀬戸内海の歌は多いけれども、これは大局から内海のありさまを描写した歌である。この歌は淡路島を中心にして、四国および明石海峡辺の地理をよく説明している。海若は霊しきものかとまず海の不思議なことを歌っている。海若は(337)海神であるけれども、海の中には海神がいるというのではなくして、海そのものを海若というのである。同じ海でも、それがただ大きいという感じを持たせる時には大海というし、海は人間の知恵では何とも測るべからざるものがある、底も知れないし、はても知れない、そういう神秘な感じを現わす時にこれをわたつみという。海若という言葉自身は、海神ということであるが、しかしそれは海の神秘にして測ることのできない性質をいう時に特にいうのである。
 ここでは、海は不思議なものだな、不思議という感じを出すのだから大海とはいわぬ。何が不思議かというと、淡路島を中に立てて白波を伊予の方に廻らせる。座待月は明石の枕詞。座待月というのは、十五夜が望月、十六夜がいさよいの月、いさよいというのは躊躇する。十六夜の月は山の端から出ようとして、出ようか出まいかとちょっとためらう。それでいさよいの月という。十七夜の月を立待の月、十八夜が坐って待っているから座待月、十九夜になると宵に出てこないから、寝て待つ寝待月、そういうようにいわれている。けれどもそれは大体のことで、満月を過ぎて一夜二夜あたりが居待月、十五夜を過ぎての明るい月で、明石のことを言い出すのに座待月明石という。明石の海峡から夕方になれば潮を満たしめ朝になってくれば潮を干させる。明石海峡は朝夕潮の干満によって潮の流れる方向が違う。これなどはあの辺を小さい舟に乗って航海した人でなければわからないことである。その辺を航海するので、ここの海峡は潮の満ちる時と干る時とで流の方向が違うことを知る。実際にその地を舟に乗って航した人でなければこの句は出てこない。これで瀬戸内海東部の地形が、よく現われている。潮騒というのは、潮のさわさわと鳴りさわぐこと。たとえば潮流が岬にぶっつかるとか、両方から潮がぶっつかるとか、海中に暗礁があるとか、種々の理由で潮が鳴りを立てること。そこの波の恐ろしさに淡路島の磯に自分の船が隠れている。いつになったならばこの夜が明けるのだろうか。早く夜が明けないかと待っている。夜は淡路島に磯隠れしていつこの夜が明けるかと待っている。宿がてねばは、寝られないので。淡路島の磯辺に船を停めて隠れているけれども、眠りをなし難いので、早く夜が明けてくれば良い。その寝られないところにちょうど雉が鳴き出してきた。滝というのは水の激しく流れる所、そこのほとりの浅野にいる雉が鳴くのは、夜が明けたと鳴いているらしい。さあ人々よ、児どもというのは船人である。あえてというのは努めて、これから骨折っ(338)て榜ぎいでよう。「にはも静けし」、海上も静かだから。こういう歌である。
 これは海路の旅行の歌として整っている歌であるが、特にこれをあげたのは、瀬戸内海東部の描写がよくできているからである。瀬戸内海の美は、今日やかましくいわれるけれども、すでに当時からして歌にはかように立派に詠み出されているのである。
 反歌。淡路島から陸地伝いをして敏馬の埼を榜ぎ廻って行くと、鶴がたくさん鳴いている。その声によって大和の恋しさがいっそう募ってくる。これは淡路島からようやく難波の方に近づいてくる時の歌である。どこから来た船かわからないけれども、長い道中を通って今ようやく敏馬の埼を榜ぎ廻ってきたところである。
 この歌は作者がわからない。若宮年魚麻呂という人が誦み上げた。この人は作歌もあるが、人の歌をよく誦み上げている人である。一種の歌うたいというような人であろう。すぐれた歌と思えばこそ、この年魚麻呂などが誦み伝えてきたのである。
 
   二一 浦島の歌
 
 かように古人は海に親しみを感じている。実際上海を航海する機会も多かったので、自然海に接触したわけであるが、それが、かようにいくつかの歌となってゆく。当時の都のある大和は山間の地である。後に京都に移ったが、地形からいえば、大和も京都もたいして変わりはないのであるけれども、京都の時代になると海の歌は稀になってくる。しかるに万葉時代の人は、海に親しさを持って、種々の方面から詠み出している。また海国日本ということを忘れない。その時代はかように海に親しみを持ち、あるいは荒い海、あるいは静かな海、いろいろの海の姿を歌い出している。したがって海に対して各種の方面からの観察がなされているわけである。それらの中の一つとして、海そのものが日本の人々の性質を闊達ならしめたことに関連して、海に関する神話伝説なども、わが国には発達している。
(339) いったい日本の神話は、いわゆる海洋神話が根幹をなしている。ここには神話の方面には触れるいとまがないのであるが、伊弉諾の尊の神話を始め、多くの海洋神話がある。『万葉集』の歌としてはまた海に関する伝説が残っているのが注意される。その代表的なものは浦島の歌である。内容は今日語り伝えている浦島の話と大差はないが、少しく相違するところもある。ここでは亀が出てこないことは大きな相違であるが、そのほかの大きな筋は、だいたい今日普通に語り伝えているものと同じである。
 
    水の江の浦島の子を詠める一首并に短歌
  春の日の霞める時に、住吉《すみのえ》の岸に出で居て、釣船のとをらふ見れば、古《にしへ》の事ぞ念ほゆる、水の江の浦島の児が、堅魚《かつを》釣り鯛釣り矜《ほこ》り、七日まで家にも来《こ》ずて、海界《うなさか》を過ぎて傍《こ》ぎ行くに 海若《わたつみ》の神の女《をとめ》に、邂《たまさか》にい榜《こ》ぎ向ひ、あひとぶらひこと成りしかば、かき結び常世《とこよ》に至り、海若《わたつみ》の神の宮の、内の重《へ》の妙《たへ》なる殿に、携はり二人入り居て、老もせず死《しに》もせずして、永き世に在りけるものを、世のなかの愚人《おろかぴと》の、吾妹子に告《の》りて語らく、須臾《しましく》は家に帰りて、父母に事も告《の》らひ、明日の如吾は来なむと、言ひければ妹がいへらく、常世辺《とこよべ》にまた還り来て、今のごと逢はむとならば、この篋《くしげ》開くなゆめと、許多《そこらく》に堅めし言を、住吉に帰り来りて、家見れど家も見かねて、里見れど里も見かねて、恠《あや》しとそこに念はく、家ゆ出でて三歳のほどに、墻《かき》も無く家|滅《う》せめやと、この筥を開きて見てば、旧《もと》の如家はあらむと、玉篋《たまくしげ》少し開くに、白雲の箱より出でて、常世|辺《べ》に棚引きぬれば、立ち走り叫び袖振り、反側《こいまろ》び足ずりしつつ、たちまちに情|消失《けう》せぬ、若かりし膚も皺みぬ、黒かりし髪も白けぬ、ゆなゆなは息さへ絶て、後つひに寿《いのち》死にける、水の江の浦島の子が家地《いへどころ》見ゆ(巻九・一七四〇)
    反歌
  常世辺に住むべきものを剣刀|己《おの》がわざからおそやこの君(同・一七四一)
 浦島の物語などが古くから伝えられていることは、わが日本国民が海洋に親しんで住んでおったためである。春の日に海を見れば浦島のことが思い出される。今日でもたまたま海を見れば、浦島のことなどが連想されやすい。
(340) 作者の高橋虫麻呂は、伝説歌人といわれるだけあって、このほかにも種々の伝説を好んで詠んでいる。これはその伝説中の代表的な浦島の物語を詠んでいる。それにこの虫麻呂のすぐれているところは、伝説を歌うにしても、伝説の筋を詠んでいる点にある。ほかの人は、もう伝説などというものは誰でも知っているものとして詠んでいるから、かえって伝説の内容が残らないが、この人は伝説の内容を詠んでいる。
 この歌は初めの起こりが非常によくできている。春の日の霞める時に住吉の岸に出ていって、釣船の波にゆれてたわんでいるのを見れば、昔の浦島の話が思い出されるという歌い起こLで、これが読者を美しい想像の世界へ導き、全体の空気を美しいものとする効果がある。小泉八雲という、日本を世界に紹介した帰化人があった。その人がこの歌を非常に好んで、よくしばしば朗吟していたという。日本を愛する人としてこういう歌が気に入るのはもっともである。
 こういう伝説は、伝説の学問からいうと、種々の性質をあわせもっているが、一つには異郷訪問説話という種類に属する性質をもっている。異郷というのは、人間世界以外のある世界を想像することである。昔は今日のように科学が発達していないので、人間世界以外に別に何か生物のいる世界があることを想像する。今日でも星の世界には生物があると想像する人があると同じである。その異郷というのには種類がある。たとえば地の底にあるとなす国もあり、海のかなたにあるとなす国もある。この浦島の異郷というのはいわゆる竜宮で、海の中にあるといわれる一つの世界である。その異郷を人間が訪問するという形の伝説になるのである。
 そうして、それらの異郷訪問説話の性質としては、人間を代表するある人と、それからその異郷にある者との間に、互いに関係を生じてくる。それは性が違う。一方が男ならば一方が女というように異性である場合がもっとも多い。それから親子関係になる場合もあるが、多くは婚姻になる。浦島のごときは婚姻を結ぶという異郷訪問説話の種類に属する。
 これにはみな型がある。浦島の物語では、してはならぬという禁を犯す。それがために最後が破滅に終わるという型である。ここでは玉篋を開けてはならないというのに、開けて見るから結局その間が破裂に終わる。これは異郷訪問説(341)話の一の型になるものである。竜宮の乙姫が玉篋を浦島に与えて開けてはいけないぞというのに開けて見るものだから、すぐ年を取って死んでしまう。玉篋というのは今日の浦島伝説では玉手箱になっている。女の持っている大事な箱。昔の女がおまじないをして大事に持っている箱で、それは女にとっては秘密の箱である。その中に女の威力というものがしまってある。それを開けることは女にとっては自分を裏切られることになる。ところが、男というものは昔から好奇心が強い、見るなというと見たがる。それで、種々の伝説にも、見るなというのに禁を犯して見るということが、たくさんある。一つ家の婆さんが見るなというのを覗いて見ると、そこに人間の骨がうず高くなっている。見るなというと見たくなる。女の方では見られては困るから、見ると破裂だぞといって禁止することがこの伝説の骨子になっている。そこでこの浦島説話では、玉篋を開けるといけないというのに開けるから、また逢うこともできないことになる。
 水の江の浦島の子が釣に出て、堅魚や鯛や、獲物がたくさんあって喜んでいる。そうして七日まで家にも帰らないで海の界を通り過ぎて榜いで行って、海神の女にたまたまに榜ぎ逢い、お互いにたずね交して、そこで約束ができたから結び合って常世に行く。常世というのは異郷である。常世は変わることなき世界である。人間世界には、死もあり、病もあり、年を取ることもあるが、そんな類のことのない思想的国土である。そこに行って海神の宮殿の内の重という、一番中の室の霊妙なる御殿に互いに連なり合って、二人で入って、年も取らず死にもしないでいつまでもいたものを、それを世の中の愚人、すなわち浦島がわが妻に話をしていうことには、ちょっとの間、家に帰って父母に事を話して明日のように帰ってこようといったら、妻がいうには、常世の方にまた帰ってきて、今のように逢おうというのなら、この篋を決して開けるなと、十分に約束したことを、それを故郷の住吉に還ってきて、家を見ても家も見ることができず、里を見ても里も見ることができず、そこであやしいと思って、家から出て三年ばかりの間に墻もなく家が滅せてしまおうや、そんなことはないと思う。異郷と人間の世界とでは時間のたち方が違う。向こうでは三年ばかりと思っておった。けれども住吉に帰ってきたら、もう七代たってしまっておった。そこでそういうはずはないと、この筥を開けてみたら、旧のように家があるか知らんと考えて、王篋を少し開いてみると、白雲が箱の中から出て、常世の方へ棚引いて行った。(342)それは、この箱の中に、乙姫が浦島の寿命を封じ込めておいた。それを開けたものだから常世の方へ棚引いて行った。そこで残念がって走りまわる。叫び声を出して袖を振ってころげまわり、足ずりしつつ残念がる。たちまちに精神が消えてしまった。年を封じておったのを開けたから若かった膚も皺が寄って、黒かった髪も裏白になって、たちまちおじいさんになってしまった。それから後は息さえ絶えて後ついに命が絶えてしまった。たちまちに情消失せぬというのは、人事不省に陥ってしまったことをいう。その浦島の家のあった所、その故郷が見える。これで初めの住吉の岸に出でいて釣船のとうろうを見れば古の事が思われると歌ったのと照応して全体を結んでいる。
 反歌。常世のほとりにおればよかったものを。剣刀は己の枕詞。自分のわざからこんな国に帰ってきて、そうして玉篋を開けて年を取って死んでしまった。ばかな奴だ。おそやというのは、愚鈍な奴さ、浦島のこの君は。
 かように浦島をあわれむ気持で詠んでいるし、そこにはこの作者といえども場合によっては海の彼方の常世という世界に行ってもみたい気持もあるのである。それで、海の不思議、そういうことが結局はかような歌となり、伝説となって現われているということがいえる。人々が海に接し、この海のどこまでも際限のないかなたに何だかありそうなと思うことは、海を見る人の感ずるところである。今日のように海のかなたには何という国がある。その隣にはどういう国があるというような、地理の知識がはっきりしていないから、何だか不思議でならない気持がある。神秘不可思議、そういう感じがもとになって、かような説話を作りなしている。人間が行って帰って来さえしなければいつまでも生きていられる立派な世界がある。こういうように考えている。その思想がやがてこの歌を作りなしている。それでこの歌にあっては、まず常世の国というものに対して、人々がいかなる気持を抱いていたかというに、その海のかなたにあるという少しも年を取らない、死にもしないという理想的国土として感じておったことが知られる。かような説話を持ち伝えてきたことは、やがて日本の人々がおのずからにして海を愛しこれに接近していたことを語るのである。これから後になって海の伝説はかえって少なくなるので、海に接近して親しむということは、やはり万葉時代の一つの特色ということができるのである。そういうところから生まれ出してきた歌がたくさんあるのである。
 
(343)   二二 天の海
 
 当時の人々としては、たとえばこの大空などを見ても、これをもって海に譬えるというようなことがある。海に親しんでいるから、他のものをも海に譬える。大きな天などを海に譬える。
    天を詠める
  天の海に雲の波立ち月の船星の林に榜《こ》ぎ隠る見ゆ(巻七・一〇六八)
   右の一首は柿本朝臣人麻呂の歌集に出づ。
 天を海に譬えて詠んでいる歌である。天を見ればその茫漠としてきわまりないところが海の連想を起こしてくる。それは一方に海というものに親しんでいるから、天を見てすぐにこれを海に譬える。これは譬喩の歌で、天を海としそこに雲の波が立ちさわいでいる。これから月を船に譬える。これはいくらも例がある。月は満月の時もあるが、また弦月の時は船の形をする。そういうことが始終あるものだから、月を船に譬える。たとえば同じく、
  春日なる三笠の山に月の船出づ遊士《みやびを》の飲む酒杯《さかづき》に影に見えつつ(巻七・一二九五)
 その他、
  大船に真楫《まかぢ》繁貫《しじぬ》き海原を榜ぎ出て渡る月人壮子《つきひとをとこ》(巻十五・三六一一)
 月のことを擬人法で月人壮子といっている。海上で月が出てきたことを、月の壮子が船に櫂を取り付けて海上に榜ぎ出たというのである。
 これらをもって見ても、月を船に譬えることは、たくさんあることが知られよう。月がいかにも船に似寄って見えるものだから、おのずからにしてかような描写が出てくるのである。星の林に榜ぎ隠る見ゆ、作者としては陸上にいて海のありさまを見た感じに譬えている。ちょうど月の船が岸辺から見える。星の林に榜いで隠れて行く。そこには天を海(344)に譬えるだけの、海に対する親しさ、そういうものが存在していたことがわかる。この歌などは一つの譬喩の歌であるが、この歌を詠んでいくと、さすがに大きなものを見せられたという感がある。
 いったい譬喩は、歌においてはみだりに用いるべからざるものである。しかしこのくらいに作りなしてくると、天を仰いでそれから海を感じてくるところに気象を広くする性質がある。それがこういう歌の持つ特色であろう。今日は、原則としては歌には譬喩は用いない。しかしごく単純に、咲く花の薫うがごとくというような譬喩がかえって力強く響いてくる。ここでは海を天に譬えて、その譬喩が非常にこまかく出ているところがあるけれども、天のような大きなものを感じさせるものがある。『万葉集』の歌の中でも、特色のある歌ということができる。
 以上は、この集の人々が海洋に親しんで住んでいたことを説いたのであるが、その海洋の壮大性から民族性の涵養せられるところであったものといってよろしい。あるいは荒海を押ししのいで行く人々の元気は、海洋に親しむことによって強く養われる。鎖国的になってしまえば、海をひたすらに恐れるばかりである。それに対して海に親しむことが、わが民族発展の第一歩であるといえるのである。そういう意味で、海に関する歌を述べてきた。後世平安時代以後の歌には、多く見るを得ざるところであるという意味においても、『万葉集』の特色となすことができるのである。
 
   二三 山部赤人の富士山の歌
 
 以上、海洋の歌を読んで、そこには日本の人々の気宇を宏大にするものがあったことを述べてきたのであるが、続いて山岳については、その崇高なる精神を感受するものがある。河川については、また昔の言葉でいう、さやかという気持を養ってきた。わが国は海の国であることはもちろんである。大八洲はことごとく海に面している国土である。同時にまた山岳にも富み、その中に仰いで貴むべき姿を皇している山が少なくないのである。今日では山岳登攀ということが盛んに行なわれているごとく、昔にあっても登山は相当に行なわれていた。そうしてこれによって人々はその気象を(345)養ってきたものである。また登らないまでも、山岳に対すれば、おのずからにして爽快な、さわやかな愉快な気持にひたることができるのである。そういう関係から、この集にはまた幾多の山岳に対するすぐれた歌謡を残している。また同時に、その崇高なる姿を描いては、自然にわが国の本質に触れているものがあるのである。
 たとえば富士山を詠んだ歌のごときは、同時にわが国がいかなる国であるかということに触れているのであるが、そういう意味でも、これらの山岳の歌に、特に注意すべきものがあるのである。当時の人々の始終旅行をしている範囲は、本州および四国・九州等をおもな方面としているだけに、自然山岳の歌もその方面に限られているのは当然のことであるが、そこには大小幾多の山岳があり、あるいはそれに登って天下の景勝を見て気宇を大にする性質の歌もあり、同時に下界からこれを仰ぎ見て、その神秘にして貴い姿を讃歎する歌もある。両方面からこれらの山岳を詠む歌を残しているのである。さて何といっても山岳中で代表的な山は、富士山である。富士山に関する歌が、またこの集の山岳に対する歌としてももっともすぐれており、かつ精神的な分子に富んでいるのである。よってまず富士山に関する歌から述べてゆこうと思う。
    山部宿禰赤人の不尽《ふじ》の山を望める歌一首并に短歌
  天地の分れし時ゆ、神さびて高く貴き、駿河なる布士《ふじ》の高嶺を、天の原ふり放《さ》け見れば、渡る日の影も隠ろひ、照る月の光も見えず、白雲もい行き憚り、時じくぞ雪は降りける、語り継ぎ言ひ継ぎ行かむ、不尽の高嶺は(巻三・三一七)
    反歌
  田児《たご》の浦ゆうち出でて見れば真白にぞ不尽の高嶺に雪は零《ふ》りける(同・三一八)
 山部赤人は昔から人麻呂と並んで称せられた歌人である。時代は人麻呂のほうが一時代前で主として藤原の宮時代に活躍した。赤人のほうは奈良時代の初めにあたってその作品を残している。それであるから時代は同時ではない。若い時分に人麻呂の晩年に接しているはずであるが、作歌の上からいえば時代が違うのである。しかし人麻呂、赤人と称せ(346)られているのは、赤人がいかにも清らかな高雅な作品を残しているので、昔から人々に愛されてきたためである。その赤人の代表的な作品といえば、前にあげた若の浦の歌のごときも有名であるが、何といってもこの不尽山の歌が第一にあげらるべきである。この歌は比較的短い長歌であるが、不尽山の崇高な姿をよく描き出している。赤人は東方の国に旅行したから、それでその途中駿河のほとりて富士山を仰ぎ見てこの歌を詠んだのである。もちろん登って見たのではない。田児の浦から望み見たこの富士山は、昔からわが国民にとっては忘れがたいものとしてある。この山を直接に仰ぎ見るものはもとより、しからざる者もつねにこれを絵に描いたもの、あるいは写真に写したものを伝えて、そうしてその清らかにして貴い姿に対して、いかにもわが国の山岳の代表であるように感じてきたのである。日本の人々が富士山から精神的に影響を受けて、これによって精神修養に資するところは、古来非常に大きいものがあるのである。それらの源はといえば、やはりこの歌などがもとになっている。これより後、富士山に関する詩歌文章は非常にたくさんある。その中には人々の心を育成するに足るものがあるのであるが、その基をなすという意味で、もっとも注意すべき作品である。民族精神の作興、思想涵養のために大きな力があるのである。
 昔この宇宙の初めにあたっては、天と地とが一つであった。それがやがて分かれて二つとなった。天地の分かれし時ということは、世界の初めを現わすものとして、原始的な内容の深い句である。「ゆ」というのは、その時よりして以来。天地の分かれし時に始まってそれよりこの方にというのである。神さびという言葉は、上二段活の動詞である。たとえば「をとめさび」「をとこさび」という。その用例として次のごとき古い歌がある。これは『万葉集』の歌ではない、古い歌である。
  をとめどもをとめさびすも唐玉《からたま》を手本《たもと》に巻きてをとめさびすも
 唐玉というのは、大陸から渡来した玉である。娘子たちがそれを手の本に巻きつけて、「をとめさび」をする。この歌は五節の舞の歌である。天武天皇が吉野河のほとりで、娘子の舞うのを御覧になって、五節の舞いをお定めになったといわれている。五節の舞いというのは、古い舞いであるが、今日でも御即位の時に大嘗祭にはこの五節の舞いが行な(347)われる。その舞いの歌である。「をとめさび」ということは、おとめとしてのふるまいをすることで、おとめらしい真似をするのではない。おとめとしての性質を発揮するのが、をとめさびである。つまり上等の玉などを手に巻きつけて舞いなどを舞うのは、いかにもおとめとしてのふるまいである。そういうおとめとしての性質を発揮するのを「をとめさび」という。「をとこさび」というのも同じことである。男子としての性能を発揮するという意味である。
 かように、何さびという言葉は、その性能を発揮することを現わす。神さびということは、神としての性能を発揮するという意味である。この富士の山の精霊を神と感じて、その神としての性能を発揮して高く貴いというのは、人々がこれに対して崇高なる感じを抱くゆえんである。そこで神さびて高く貴き駿河なる不尽の高嶺といっている。
 その神さびてある性質は、神代以来、天地の分かれた時から以来のことで、今日に始まったことではない。天地の始めて分かれた時よりして以来、神さびて貴き姿というので、山の神聖な感じを十分に述べている。その富士の山を、天上遙に遠望すれば、空を渡る日の光も富士の山に隠れる。照る月の光も山にさえぎられて見えない。白雲は悠々として天空を移動しているが、それも富士の山がそこにさえぎっているので、行くことをはばかり、降るべき時でないのに雪が降っている。ここまで富士の山の姿を描いてきている。これから将来かけてまた人々にも語り継ぎ言い継ぎをしていこう。語り継ぎ言い継ぎということは、伝うべきことを次々に話をしてゆくことである。
 元来この歌は、割合に短い形の長歌ではあるが、富士山の歌としては要を得てその山の犯すべからざる性質をよく歌い現わしている。これは赤人の不尽山の歌として有名な歌である。それはいかにも要領を得ている。同時に多少富士山を概念的に叙したというところもある。
 反歌のほうは、転じて作者が田児の浦に出て富士山を眺めた感じをよく現わしていて、これはいっそう具体的である。「田児の浦ゆ」というのは、田児の浦の中を通ってということである。ユということは普通に、からと訳してもよいのであるが、こういう場合は、田児の浦からうち出でてというと、田児の浦からどこかほかへ行つたというように感じられる。たとえは「巻向の穴師の川ゆゆく水の」という句がある。この例は、ユの性質を説明するのに都合のよい例であ(348)る。穴師の川の中を水が通ってゆくのであって、それをからと訳すると、穴師の川から水が外へ飛び出してしまうことになる。そういう「から」ではない。その中を通ってゆく水ということである。田児の浦の中を通って広場にうち出でてみれば、こういう意味である。また田児の浦に打ち出でて見ればといってしまうと、どこか他の所から田児の浦という所に出てきたということになる。には方向を指定する。田児の浦の広い中を通ってゆくのだが、その中を通って広場に出てみれば、仰ぎ見る富士の高嶺に雪が白たえに降り積っているその姿がいかにも絵に描くとも及びがたい。白扇《はくせん》倒《さかしま》にかかる東海の天、これは昔から人々の心を養ってゆくのにあずかって力がある。その源はというと、この歌に帰することができる。これから後、富士山を吟じている歌は多いが、さかのぼればこの歌ということができる。富士山を詠んだ代表的作品である。そうして特にこの歌では山の崇高にして貴むべき性質が非常によく描かれている。
 
   二四 無名氏の富士山の歌
 
 この赤人の歌の次に並んでいる不尽山を詠める歌は、これは前の歌ほどは有名ではない。しかし作品として見れば、これはまた非常にすぐれている歌である。赤人の作が歴史的構想の上に立っているのに対して、このほうは富士山の地理的叙述が非常にすぐれている。そうしてその山はわが日本の鎮めであるという思想がよく出ている。そういう所にもっとも注意すべき点がある。ただ惜しいことには作者がわからない。赤人の歌とならんでいるからこれも赤人の作だろうという説があるが、左註に「右の一首は高橋虫麻呂の歌の中に出づ、類を以ちてここに載す」とある。右の一首の範囲を終わりの短歌一首とせずにすべてにかかるものとして、これを虫麻呂のだろうとする説もある。それから今一つ笠金村説がある。これはこの巻の目録に、この歌は笠金村の歌中から出たと書いてある本があるからである。要するに今日は作者未詳というほかはない。
    不尽の山を詠める歌一首并に短歌
(349)  なまよみの甲斐の国、打ち寄する駿河の国と、こちごちの国のみ中ゆ、出で立てる不尽の高嶺は、天雲もい行き憚り、飛ぶ鳥も翔《と》びも上らず、燎《も》ゆる火を雪もち消ち、降る雪を火もち消ちつつ、言ひもかね名づけも知らに、霊《くす》しくも坐《いま》す神かも、石花《せ》の海と名づけてあるも、その山の包める海ぞ、不尽河と人の渡るも、その山の水のたぎちぞ、日《ひ》の本《もと》のやまとの国の、鏡とも坐す神かも、宝ともなれる山かも、駿河なる不尽の高嶺は、見れど飽かぬかも(巻三・三一九)
    反歌
  不尽の嶺に零《ふ》り置ける雪は六月《みなつき》の十五日《もち》に消《け》ぬればその夜降りけり(同・三二〇)
  不尽の嶺を高みかしこみ天雲もい行きはばかり棚引くものを(同・三二一)
   右の一首は高橋連虫麻呂の歌の中に出づ。類を似ちてここに載す。
 この歌は、部分的に見ても、山の噴火と降る雪が相闘うという壮観を描いており、雄大な気象に富んでいる作品である。まず地理的説明から入ってゆく。
 なまよみの甲斐の国、まず富士の高嶺の所在を明らかにしている。なまよみのは枕詞。意味はわからない。昔の説で、海にいる貝は生で食うとうまいから、なまよみの貝だというがあてにならない。駿河の国は、太平洋に面している。波のすぐに打ち寄せる国であるから、打ち寄する駿河の国。これも枕詞。甲斐の国すなわち山梨県、駿河は静岡県の東部。こちごちというのは、此方此方。今日は彼方此方という。この時代はまだ彼方此方という言葉が発達しないで、此方という言葉が先にできたからこちごちという。国のみ中ゆ。国の中央、みは接頭語、国の中央を通って、そこから上の方に出で立てる富士山。これは地理的説明である。天雲も富士の山が高いので行くことをはばかる。空飛ぶ鳥も山の威力に圧せられて山より上に翔び上がることができない。
 富士山はその当時活動しておった。そこで空から降ってくる雪で山の噴火を消しとめ、それから降る雪を噴火をもって消す。噴火のことを詠んだ歌として雄大である。集中にはほかにも山の噴火を詠んだ歌として、相聞の歌であるが、(350)次のごとき歌がある。
  鶯のなくくら谷にうちはめてやけは死ぬとも君をし待たむ(巻十七・三九四一)
 くら谷というのは谷のこと、そこへうちはめてというのは、自分の身をおとしいれて、そうして焼け死んでもあなたを待とうという、これは山の熱気を詠んだ歌として、地文上に注意すべき作品である。ところが折角そういう熱気のほとばしる谷を詠んだのであるが、鶯が啼くくということをいっているのがやはり女らしい。うわさに聞いているのであろう。どこそこの山に行くと、熱気がほとばしっているという。それを歌に使ったのはよいが、その所も鶯が啼いているだろうと思って、鶯のなくくら谷といったのであろう。そういう火気熱気を有する谷であるが、鶯の啼くで歌が弱くなってしまった。こっちの富士山のほうは水火相激する壮観の歌ができた。物をいうことができず、名づけることも知らずに。知らにということは否定の古い語法である。実に霊妙に坐《ま》す神山であるな。石花の海は、今日では山中湖・河口湖などに分かれて富士五湖といっているが、昔はもっと大きく一緒になっておったという。富士山の後方にある湖水。その山が自分で包んでいる湖である。そういう大きな湖を山が包んでいる。不尽河と称して人の渡るのもその山の水の激して落ちるものである。ここまでが不尽山の地理的説明である。それからまた総括になっている。「やまと」は、ごく狭い範囲から出て、だんだん広い範囲に移り変わっていった。非常に包容性のある、非常に大きな意味のある言葉で、その範囲が国運の進展とともに大きくなっていった。日の本のという言葉は東の方のということが語原である。日のもとにあるそのやまとの国、それからしてわが国の称となってきた。ここではもちろんこの日本の国の意味である。鎮めとも坐す神かも、日本の国の鎮護としておいでになる神である。これは富士山が、いかにもわが国の鎮護という感を抱かしめるものがある。それで古人は、この富士山を仰いでは、そこから一種の安定感を覚える。わが日本の宝としてかくのごとき山がある。日本の国の鎮護としてこれを仰いで人々がこれによって安らかな感じを得てくる。山に対して古人の抱くところかくのごときものがある。それは特に富士の山のごとき崇高なる姿をなしている山に対して感ずるところである。宝ともなれる山かも。これは言葉を改めてわが国の宝としてできている山である。駿河なる富士の高嶺は見(351)れど飽かぬかも。作者は不尽の山を望み見て詠んでいる。今までのところは、大きく不尽山の外観を述べてきたのであるが、ここに至って作者自身の精神が、恍惚としていつまでもこの富士の山に対して、その崇高なる精神を自分のものとして感受するところがある旨を述べている。構成においてまた思想において非常にすぐれたところをもっている。そうして部分的にも噴火と雪とあい闘うという壮観を描いて、全体の精神的内容の表現を助けている。この山こそは日本の鎮めの山である。この思想がよく描き出されている。
 反歌。六月の十五日というのは、一年中で一番暑い絶頂となされておった。昔は一、二、三月が春で、四、五、六月が夏であるが、事実としては六月が一番暑い時とされておった。六月のことをみなづきという。「水無月の土さへ裂けて照る日にも」という歌がある。すべて一年中で六月の中頃をもって一番暑い日と感じておった。それで富士山に積っている雪もその日には消えるが、夜になるとまた降ってくる。一年中のもっとも暑い日の昼間だけは消えるが、その夜はまた降ってくる。これが始終消えることなしという漠然たる言い方よりも、一年中のもっとも暑い日には消えるがその夜はまた降ってくるというほうが強い。これはその山の雪の性質を描いた。そうして長歌に思想的地理的に描ききたったものを補う。そういう性質の歌である。
 最後の歌。富士の山が高くまた貴く恐るべくあるがゆえに、空ゆく雲も行くことをはばかり棚引いている。これは棚引く雲を詳しく述べている。この一首は、長歌の一部分に似ているところがある。
 以上、富士山の歌がいくつかならんでいる。集中富士山の歌はこれだけではないけれども、代表的なものは、ここに集まっている。赤人の作品もよく富士山の性質を描いているが、この歌も古人が山岳に対していかなる感じを抱いておったかということをよく語っている。これによって当時の人々の山岳から受け入れるところのものがよくわかるのである。
 かように富士の山の美を歌い、これを仰ぎ見て気象を雄大にすることは、日本の人々の特質であって、自然を愛好する一の現われにはかならないのである。精神的に受けるところが多いので、特にかような歌ができ上がってきたというべきである。
 
(352)   二五 筑波山の歌
 
 富士山以外の山々は、崇高性はいくらか及ばないが、同時にまたこれに対して親しみ愛する気持は、かえって多いものがある。それらの山々は、また昔の信仰上、神聖な山として仰がれている山々である。高山を歌った歌としては、越中の立山を歌った歌などがあって、これは大伴家持などの作品にある。これも長歌ですぐれた山の姿を描き出している。この立山の歌でも、やはり山の神聖な性質の方面に触れている。家持は、当時としては思想家風な人ではあったが、立山を仰ぎ見ては、その崇高な性質に感じている。そのほかにはそう高い山は歌われていない。伊予の高嶺、筑波の山などがあるが、筑波の山などは山としては小さいほうである。富士山や立山を詠んだ歌は、下から仰ぎ見て詠んだ歌である。富士山は当時としては登ることは困難であったと見えて、登って詠んだ歌はないが、筑波山などになると、実際に登って歌を詠んでいる。そこに親しみの情が強く感じられる。そういうところが注意すべき点である。
    検税使大伴卿の筑波山に登れる時の歌一首并に短歌
  衣手《ころもで》常陸の国、二並《ふたなら》ぶ筑波の山を、見まく欲り君来ませりと、熱けくに汗かきなげ、木の根取り嘯《うそぶ》きのぼり、峯《を》の上を君に見すれば、男《を》の神も許し賜ひ、女《め》の神も幸《ちは》ひ給ひて、時となく雲居雨|零《ふ》る、筑波嶺をさやに照して、いぶかりし国のまはらを、委曲《つばらか》に示し賜へば、歓《うれ》しみと紐の緒解きて、家の如解けてぞ遊ぶ、うち靡く春見ましゆは、夏草の茂くはあれど、今日の楽しさ(巻九・一七五三)
    反歌
  今日の日にいかにか及《し》かむ筑波嶺《つくばね》に昔の人の来けむ其の日も(同・一七五四)
 検税使は、文字どおりに租税を検査する使い、納税収税のありさまいかにと検査する使いのその大伴卿、これは大伴旅人である。その旅人が検税使として常陸の国に行って筑波山に登った。その時にこの歌の作者が従って登った。この(353)歌は高橋虫麻呂の歌中から出ているので、虫麻呂の作品と認められる。虫麻呂は当時常陸の国に官吏として勤務しておったので、旅人が筑波山に登ったから随行してこの歌を作った。君に見すればというのは、作者が案内をしているからである。衣手は枕詞。二並ぶ筑波の山は、筑波山は嶺が二つある。その山を女神、男神といっている。そこで二並ぶ筑波の山という。その山を見たいと思って、あなたがおいでになると、熱くあるので汗をかき息をつき、木の根をつかまえてふっと息を吹いて、そうして登って行く。そうして岑の上を君に見せれば筑波山の女神、男神もさあやつて来たか、登らしてやるぞとお許しになり、いかにも登って来たか、お前を幸福ならしめてやろうと、平常は雲があったり雨が降ったりする筑波嶺を、さやかにはっきりと照らして、今まで地形なども十分に知らなかったその国土のすぐれているところを、つまびらかにお示しになったから、うれしさのゆえに衣の紐をといて、自分の家のようにうちとけて遊んだ。うち靡くは春の枕詞。草木の葉が伸びて靡く春に見るよりも、夏草の茂っている今日のたのしいことよ。夏の時分の暑いのに、汗をかいて登ったが、春よりはかえってこのほうがよく晴れて国土が見られた。この歌では、登山ということが歌われている。そうして同時に筑波山を神聖な山として仰ぐ古人の感じが出ている。登山というのはただ登って楽しむだけではない。山としての神秘な力を感じている。当時の筑波山には春秋に人々は手を取って登って、遊びたわむれるということが事実上行なわれていた。
 反歌。昔の人の来たというその日も今日の日にどうして及ぼうや。筑波山に来たことを喜んで詠んだ。これは夏の筑波登山の快を述べている。
 これに対して次の歌は、秋の筑波山の美しさを述べている。
    筑波山に登る歌一首并に短歌
  草枕旅の憂を、慰もる事もあらむと、筑波嶺に登りて見れば、尾花ちる師付《しづく》の田井に、鴈がねも寒く来鳴きぬ、新治《にひはり》の鳥羽《とば》の淡海も、秋風に白波立ちぬ、筑波嶺のよけくを見れば、長きけに念ひ積み来し、憂は息みぬ(巻九・一七五七)
(354)    反歌
  筑波嶺の裾廻《すそみ》の田井に秋田刈る妹がり遣らむ黄葉手折らな(巻九・一七五八)
 草枕旅の憂いを慰めることもあろうかと、筑波嶺に登ってみれば、尾花の散る師付《しづく》という所の田園に鴈がねも来ていかにも寒そうに鳴いている。新治の鳥羽の淡海も、秋風に白波が立っている。これは筑波から望み見た鳥羽の淡海という湖水である。それも秋風に白波が立っている。筑波嶺のよくあることを思えば、今まで鬱積していた思いがすっかり晴れた。人間がこの世に生存している以上は、それはいろいろ煩悶もあり、憂鬱も起こってくる。しかしそんなものは登山によって追っ払ってしまう。その精神がよく出ている。世の中のことに接している時には、不平も起ころうとし、憂鬱も時には起ころうとするが、山に登って大自然に接すれば、そこでいっさいの憂いなどは飛んでしまう。毎日毎日だんだん思い積んできたその憂いなどいうものは、すっかりやすらいでしまった。登山の意義をここで示している。
 反歌。筑波嶺の裾まわりの田園に稲を刈っている婦人、ここの妹は、特別にそれとさす人はないので、その辺に稲を刈っているおとめたちを妹といっている。その妹のもとにこの山の黄葉を折ってやろう。いかにも黄葉の美しさを人にも見せて自然の美を分かつ。そういうところがよく現われている。かように筑波山の登山を詠んだ歌はたくさん残っている。巻の三にも春の頃雪消の道を踏んで筑波山に登った歌がある。
    筑波岳に登りて、丹比真人《たぢひのまひと》国人の作れる歌一首并に短歌
  鶏《とり》が鳴く東《あづま》の国に、高山は多《さは》にあれども、明つ神の貴き山の、並《な》み立ちの見が欲し山と、神代より人の言ひつぎ、国見する筑波の山を、冬ごもり時じき時と、見ずて行かばまして恋しみ、雪消する山道すらを、なづみぞ吾が来る   (巻三・三八二)
    反歌
  筑波嶺を外《よそ》のみ見つつ有りかねて雪消《ゆきげ》の道をなづみ来るかも(同・三八三)
 かような富士山とか筑波山とかを真正面から眺め、またはさらに登って親しむ。こういう歌は多い。また同時にこの(355)山の付近の人々が、山を朝な夕なに眺めて、それから受けいれるところも自然多い。かような名山は民謡に歌われているものも多いのである。
 
   二六 東歌の山々
 
 『万葉集』巻の十四に、東歌というのがあって、東国に関する歌を集めている。その中には国の名のわかっているのとわからないのと二種類あるのであるが、国の名のわかっているほうでは山に寄せた歌が相当に多い。その中に、富士とか筑波とかいうような山に関する歌がある。東歌は全部民謡というわけにはいかないので、中には旅行人の歌も相当に入っている。また民謡性の歌も相当にある。とにかく、『万葉集』の中では、巻の十四は、民謡の性質の多い巻ということができる。その筑波山に関する歌では次のごときがある。
  筑波巌に雪かも降らる否をかもかなしき児ろが布《にの》乾さるかも(巻十四・三三五一)
 これはよほど民謡性のある歌で、東語が多少入っている。筑波山を今朝仰いで見ると、雪が白くかかっている。筑波山に雪が降ったのか知らん。降らるは降れるに同じ。否をかも、否そうではないのかも知れん、自分の愛する彼の児が布を干しているのか知らん。乾さるかもは、乾せるのか。実際にある日の筑波山に雪の白くかかったのを見て、雪が降ったのか知らん、あるいはあの児が衣を干しているのか知らん。筑波山の近くに住んでいる人々が、どういう感じをもって山に親しんで住んでいたか。そういうことを語る例になる歌である。富士山を詠んだ東歌としては、
  富士の嶺のいや遠長き山路をも妹がりとへは日《け》に及《よ》ばず来ぬ(巻十四・三三五六)
 駿河の国の人の歌といわれている。富士山麓の遠く長い山路をも、日に及ばずとは長い時間がかからないで、遠い山路でも妹の許へというので、そんなに時間がかからないというのである。
 また妻に別れて都の方へ兵士か何かになって行く人の歌かと思われるものもある。
(356)  霞みゐる富士の山|辺《ぴ》に我が来《き》なば何方《いづし》向きてか妹が歎かむ(巻十四・三三五七)
 自分が今故郷を離れて遠く旅立をして、あの霞んでいる不尽の山辺に私が行ったならば、どちらを向いてわが妻が歎くことであろうか。
 これらは東歌の一斑を紹介する意味で、山に縁のあるものを出した。かように民謡にも山々は多く歌われている。この当時富士筑波というような名山を始め、それほどでない小さい山でも、またそれぞれ愛せられて詠まれているのである。
 
   二七 山の美しさ
 
 大和の国にはかように大きな富士の山のごときはもちろんないけれども、また愛すべき山は多くあって、その美しさを讃えた歌は少なからずあるわけである。次の歌なども、山の美しさをよく現わしている民謡風の性質のある歌である。
  三諸《みもろ》は人の守《も》る山、本辺《もとべ》は馬酔木《あしび》花咲き、末辺は椿花咲く、うら麗《ぐは》し山ぞ、泣く児守る山(巻十三・三二二二)
 三諸は大和の中央にある三輪山のことである。その三諸山は人が番をしている山、山には番人を置いてみだりに人を登らせない山もある。本辺は馬酔木花咲き、本辺というのは山の麓の方、馬酔木というのは、普通にあせび、あせぼといっている。常緑潅木で清らかな感じのする花が咲く。その花が咲き、また末辺、山の上の方は、椿の花が咲いている。これで山の姿の美しさ、春の山の美しさが歌われている。それはちょうど泣いている子をあやして守っている山、山が美しい温容をもって泣く子を愛撫している。そういうような山だ。山の姿を描いた歌としては、これほど美しい句をもって描いた歌は少ない。他の歌は、山の崇高神秘という方面にすぐれているが、ここには春の花の一面に咲き乱れて、それが泣く子の番をしている山だという。昔の人がいかに山々の姿に親しみをもって接していたかということがよく知られるのである。そうしてこの歌は、山の姿を描くと同時に、泣く子を守るというある婦人の姿を思い浮べているに違いない。子を守っている人の、その美しい姿を描き出している。人間として子を愛している姿の美しさ、それを山の姿(357)に見いだしてきて、この山がそのままに泣く子を守っている山だ。うら麗しは、美しい精妙なこと。うら麗しは、本辺の馬酔木、末辺の椿の花の咲くを受けて、このとおり美しい山だということを現わす。山の姿を仰ぎ見て、それに親しみを感じつつ生活していった古人の心持がこの歌によってよく描き出されている。
 富士筑波などの名山を詠んだ歌によって、あるいは山の崇高な精神を感受し、あるいは登山の爽快を味わい、また三諸山の歌などによって、古人がいかに山に親しんで生活しておったかということが窺われるのである。
 
   二八 大和の山々
 
 山の歌はまだたくさんある。巻の三には神岳《かみおか》に登って詠んだ山部赤人の美しい歌がある。これは明日香《あすか》の神岳であって、その岳の上から望み見た明日香地方の美しさが、ここには実に美しい言葉で描き出されている。なお大和の国の山山については、そのほかいろいろ出ている。
  鳴る神の音のみ聞きし巻向《まきむく》の檜原の山を今日見つるかも(巻七・一〇九二)
 巻向は大和の国の中央の東寄りにある地名。その巻向の檜原の山という名は、前からよく聞えておった。有名であった。鳴る神というのは雷のことであるが、鳴る神のように音にばかり聞いておった。それを自分は今日こそは見たという歌である。これは人々の間にあの山はりつぱな山であるというように伝えている。そのように聞えたところの山を自分は今見たのである。その山の美しさを讃えるのであるが、まず有名なあの山を自分は始めて見たという。山の名が人の間に言い伝えられていることが知られるのである。
  三諸《みもろ》のその山並《やまなみ》に子らが手を巻向山は継《つぎ》のよろしも(巻七・一〇九三)
 三諸という山、その山につづいて並んでいる巻向山は、形がいかにもよろしい。子らが手をは、枕詞。子らといっても複数ではない。妻のことを子らという。あの妻の手を巻く山はいかにもならび方がよろしい。これは前の歌と続いて(358)巻向山の美しい姿を詠んでいる。三諸の山に続いて巻向山が並んでいる。その続き方が美しいのである。
  いにしへの事は知らぬを我見ても久しくなりぬ天の香具山(巻七・一〇九六)
 香具山という山は、神話によく出る山で、昔から神聖な山として語り継ぎきたった山であるが、しかし自分はその昔のことはよく知らないが、自分が見てからもこの山は随分久しくなった。この世界に香具山が貴い姿をして立っておって、それから随分久しくなった。何でもないような歌であるが、しかもこの香具山の貴さ、それになれて人々が住んでいるその姿が、よく描き出されている。かように山の歌は、いずれも山の美しさに親しみ、これを愛している人々の歌である。
 巻の十には、四季の歌が配列されているけれども、その中にはやはり山々に春の訪ねくる美しさ、それがそれぞれに美しい歌となって現われている。次の歌のごとき、代表的な歌である。
  ひさかたの天の香具山このゆふべ霞たなびく春立つらしも(巻十・一八一二)
 香具山に春が来たという歌であるが、しかし非常に規模が大きい。ひさかたの天の香具山ということが香具山の山容を描き出すにかなり効力がある。ほかの山には、天のといわない。この山に限って天のとつけるのは、神聖の山、昔から歴史を伝えてきているという意味で、天の香具山という。
 この歌の付近にあるのはおおむね山の歌で、いずれもそれぞれに趣のある歌である。以上、古人がいかに自然に親しみを感じていたかという、その一方面として、山岳に関する歌をあげたのである。
 
   二九 河川
 
 同時に河川も、古人の親しみ愛するものとして接触しているのである。川からは、精神的にいかなる感じを受けているか、人生における川の存在はいかなる意義を有するかというと、それは川が種々の利便を寄与する。そういう物質的(359)方面は別として、ここでは精神的方面に限って述べるのであるが、その方面の一、二の例を記してゆこうと思う。川の歌は巻の七にならんでいる。ここをまず見てゆくのが便宜である。
 これらの歌の中でまず注意すべきことは、清さ、さやけさということが、川についての感じの中心になっていることである。
  大君の三笠の山の帯にせる細谷川の音のさやけさ(巻七・一一〇二)
 三笠の山が川をめぐらしていることをいうのに、ちょうど人間が帯にしているように、山腹から川が流れ出していることをいう。三笠には、大君のという枕詞がついている。三笠というのは、三つの笠という意味ではない。ただみ笠という意味である。さやけさというのはどういう意味に使われているかというと、細い谷川、その谷川の水の音が清らかで澄み通った気持を現わすのに使われている。かようにさやかな川瀬の音を古人は愛しているのである。
 ほかの歌にも、さやかという言葉の出ているのが多い。
  泊瀬《はつせ》川|白木綿《しらゆふ》花に落ちたぎつ瀬をさやけみと見に来《こ》し吾を(巻七・一一〇七)
 白木綿花というのは作り花である。木綿というのは楮の皮のさらしたものである。それで作ったのが木綿花で、それが白いから白木綿花という。ところで、谷川の水の激して白く泡を立てるのは、白木綿花のごとくである。泊瀬川が落ちたぎっているのを、さやけくあるがゆえにと見にきた自分であるよ。自分に対して、泊瀬川は白木綿花のごとくに落ちたぎっている。これは泊瀬川が白波を立ててさわいでいる。自分はその川瀬のさやけさを愛するがゆえに見にきたことである。ここにも川瀬のさやけさを愛する心持が出ている。
  泊瀬《はつせ》川ながるる水脈《みを》の瀬を早み井堤《ゐで》越す波の音のさやけく(巻七・一一〇八)
 水脈というのは、水の流れの道である。川の流れでも、水の主流というべきものがある。その水脈の瀬が早くして、水を溜めるために、石などで、堤風に川の中に築いてある堰を越える。この泊瀬川は、流れる水脈の瀬が早くして、その井堤を越す波の音がさやかにあることだ。
(360)  葉根※[草冠/縵]いま為る妹をうら若みいざ率《いざ》川の音のさやけさ(巻七・一一一二)
 率川というのは奈良のほとりにある川の名である。葉根※[草冠/縵]《はねかずら》は、これは髪にのせる羽根をつけた※[草冠/縵]である。それを飾りにつけているわが妻が、まだうら若くして、いざとその人を誘うことを、いざ率川としゃれている。率川の音のさやけさというだけの歌である。葉根※[草冠/縵]をしている、その女子がまだ年が若いので、それをいざと誘うのだが、その川瀬の音と、葉根※[草冠/縵]をしている女との間に連想がある。
 要するにさやかの感じを現わしている。これらの歌は、いずれもさやかという詞が歌の表面に現われている歌である。古人が河川から主として感じ得るものは、このさやかである。さやかという言葉が表面に出ていない歌もあるけれども、川を愛するということは、要するにこの川のさやけさを愛することである。川瀬の音がさやかにひびき、その音がいかにもよい気持を与えている。さやかという言葉は、形あるものについていえば明白であり、音についていえば、澄み透った声である。清らかにして明白なのがさやかである。そういう感じを古人は愛して、自然それをもってわが心の持ち方にもなしてきたのである。
 これらの河川に関する歌を求めてゆくと、なおいろいろある。さやかということの代りに、清き河原、清き川瀬などということもある。清きというのは、さやかと畢竟相通ずる性質のものである。古人の愛する気持は清らかであり、さやかであるということに帰するのである。清き河原という言葉は、次の歌などに使われている。
  佐保河の清き河原に鳴く千鳥|河蝦《かはず》と二つ忘れかねつも(巻七・一一二三)
  清き瀬に千鳥妻喚び山の際《ま》に霞立つらむ甘南備《かむなび》の里(同・一一二五)
 千鳥と河蝦、その二つは生涯忘れることができない。河蝦というのは河に棲むかわずである。それから「清き瀬に千鳥妻喚び」というのは、故郷を思う歌であるが、これらはいずれも清き川瀬を歌っている。
 それから宇治川の歌のごときになると、さやかというよりはむしろその激流についての感じを歌っているところが多い。もっともその中にも波が清らかであるという歌もあるが、流れが激流であるから、それから古人はある感化を受け(361)ている。宇治川の歌などがたくさんあるということは、そういう激流を古人が愛していたということになるのである。
 次の歌もさやかという性質を歌った歌である。
    波多《はたの》朝臣|少足《をたり》の歌一首
  さざれ波磯|巨勢道《こせぢ》なる能登湍《のとせ》河音のさやけさたぎつ瀬ごとに(巻三・三一四)
 ここには巨勢の道にある能登湍河の音のさやけさを詠んでいる。巨勢という所は葛城山のふもとにある地の名である。その地名を引き出すために、小さい波が磯をこすという。その巨勢道にある能登湍河、その音のさやけさよ。水の激する瀬ごとに、どこもどこも清らかな音を立てている。音の世界に住む古人の清らかな気持を、これら河川の歌によってよく味わってゆくことができる。
 静かな山に対して、崇高の感じを受けているだけではなく、川に対してはそこからすべての物を洗いつくすという清らかさを愛して親しんできている。したがって川に対する歌は多数あって、川の描写はなかなかこまかいものもある。水の流れをよく見つめて、その活動している姿をよく歌っている。
 
   三〇 吉野川
 
 吉野川を詠んだ歌などもたくさんある。それもそれぞれすぐれた歌になっている。吉野川の静かな姿を描いた歌としては、次の歌のごときは、山中の川の静けさをよく描いている。
    湯原の王の、芳野にて作れる歌一首
  吉野なる夏実《なつみ》の河の川淀に鴨ぞ鳴くなる山かげにして(巻三・三七五)
 吉野川というのは、大和の吉野群山の間を流れる山中の川である。川自身がすでに山中の川である。その吉野川の中の、夏実から流れ入る川を夏実の川という。淀というのは、水の淵をなして停滞しているところ。吉野川のきわめて静(362)かな川中の淀。その川中に鴨の鳴いているのがこの岸から聞える。そういう川の静かな姿を描き出している。そういうところに特色がある。山中何物もない。ただ蒼々として水が流れている。その中に鴨が浮いている。静かに鳴いている。その静かな姿を描いているということができる。
 これに対して川瀬の動態を描いた歌としては、次の歌を代表としてあげることができる。吉野川を詠んだ歌もたくさんあって、堂々たる歌も乏しからずあるが、ここにはその中、短歌であるが、河の流れを描いたものとして、これを一つ例にあげる。
  落ちたぎち流るる水の磐《いは》に触り淀める淀に月の影見ゆ(巻九・一七一四)
 これは作者未詳。芳野の離宮に行幸があった時の歌であるが、この歌には川の流れのいろいろに変化する姿、それが描かれている。たぎちは、激する、激しく流れること。高いところから水が流れ落ち、激してそうして流れる谷川の水、それが磐に触れてそこで淀みをつくる。淀める淀というのは水の停滞する所、上の方から非常に激しい勢いで激して流れ落ちてきた水が、磐にぶっつかって、しかもそこで淀みをつくる、その淀んでいる淀みに月の姿が浮んでいる。山川の流れの姿を描いてきている。
 以上はそれぞれの川の特色を描き出している歌であるが、かように川に親しんでいることは、古人が川に対して非常に関心を持ち、そうして、そこから自分の精神に無言の教養を受けていることを語っている。古人は山に対して特に自分の心をどうするとか、川に対してわが精神を錬磨するとか、そういう気持はないかもしれないけれども、自然に触れている間に、おのずからにして、それからある感化を得てゆく、感情の陶冶を得てゆくということは確かに考えられる。ことに河川方面では、人の心を清らかにし明るくするものがあるということが考えられるのである。
 吉野川を歌った歌は、巻の六などにもたくさんある。それらは一面に吉野の山をも詠んでいる。山を詠んでいるという点からいえば、次の歌のごときも特に川の方に中心点が置かれて詠まれている歌の例としてあげることができる。
    養老七年癸亥夏五月、芳野の離宮に幸しし時、笠朝臣金村の作れる歌一首并に短歌
(363)  滝の上の三舟の山に、瑞枝《みづえ》さし繁《しじ》に生ひたる、栂《つが》の樹のいや継ぎ継ぎに、万代にかくし知らさむ、み芳野の蜻蛉《あきつ》の宮は、神からか貴かるらむ、国からか見が欲《ほ》しからむ、山川を清みさやけみ、うべし神代ゆ定めけらしも(巻六・九〇七)
    反歌二首
  毎年《としのは》にかくも見てしかみ吉野の清き河内のたぎつ白波(同・九〇八)
  山高み白木綿花《しらゆふばな》に落ちたぎつ滝の河内は見れど飽かぬかも(同・九〇九)
 主として反歌において吉野川の美しさを嘆称している。吉野の地は、昔から歴史のあるところで、神武天皇が九州から大和へお入りになる時にも、吉野を御経過になっているし、それから後しばしば史上に現われている。天武天皇が吉野にお入りになったこともある。万葉の時代の離宮は、吉野川に臨んで建てられておった。吉野川の一地点で両岸が大きな岩でできている。その中を吉野川の流れが狭められて流れる。今日の宮滝の地が万葉時代の吉野の旧蹟であるといわれている。元正天皇の養老七年(七二三)にそこに行幸があった時、笠金村が詠んだ歌である。
 滝は、今日いうように、上から直角的に落ちる水だけでなくして、激しく流れる水はみな滝である。これは吉野川の激流をいう。
 滝の上の吉野山中の三舟の山に、枝が栄えてりつぱに樹が茂っている。今現に目に見る三舟の山に、栂の樹が一ぱい生い茂っているという実際の景色を描いて、それからいや継ぎ継ぎにを引き出している。万代かけてかくのごとく知ろしめさるべき吉野の蜻蛉の宮はそれは貴い。この土地の霊ゆえに貴いのであろうか。またこの吉野の国土のゆえにか見ることの望ましくあるのであろうか。国というのは、吉野地方をさして国といっている。そこで山川が清くかつさやかにあるので、まことにも神代よりここを宮どころと定めたのであろう。
 なぜこの吉野に離宮を定めて代々行幸あそばされるかというと、その土地の山川が清くかつさやかであるからであろう。こういうように考えているのである。
(364) 反歌。年々歳々かように見たいことである。河内ということは、かわうちということで、河は、水の流れ、両岸を総称していう。河の流域、峡谷をいう。今日河という場合のごとく流れを主としていうよりも、もっと広い意味で河内という。吉野峡谷というに近い意味である。その吉野峡谷のたぎつ白波の美しさ、吉野川の激流をたたえて、それを年年にかようにして見たいものであるとしている。
 山が高くして白木綿の花のごとくに落ち激するそのたぎつ河内、この吉野の川の美しさは、どれほど見ても飽かない。
 この集には、「見れど飽かぬかも」という句はしばしば使われている。これはその川を見ても恍惚として、いつまで見ておっても飽きる時を知らないというのである。かようにわれを忘れて、自分と自然と互いに融合しあう気持が、見れど飽かぬかもである。
 
   三一 河川の伝説
 
 吉野川を歌った作品はたくさんあるが、一々あげているわけにもいかない。とにかく吉野川の清らかであることを、古人は非常に愛しておった。かように川についても親しみをもって見ておった。吉野川などは昔から歴史もあり、非常な親しみをもって、古人はここに通って、飽きることを知らずに眺め尽くしておった。そういう関係からこの吉野川の流域にはまたいろいろの伝説なども生じてきている。
 住吉の海については浦島の伝説があるように、吉野のほうにはまた吉野の伝説がある。山のほうでは三輪山の伝説などが有名である。それから富士・筑波にも伝説がある。『常陸国風土記』には富士・筑波の伝説がある。昔、神様が富士の山のもとに訪れたところが、ちょうどお祭りをしていたのでこれを拒んだ。それから筑波の山に行ったら神聖なお祭りの晩だけれども、特におもてなしをした。そこで神様が喜んで歌を作って、筑波山の愛すべきゆえんを歌った。富士の山のほうには少しく具合の悪い伝説である。それから三輪山の伝説は、三輪山の神がりっぱな男の形をして女のも(365)とに通ったという伝説である。
 それと同じように、吉野川には柘《つみ》の枝《え》の伝説というものがある。
    仙《やまびめ》柘の枝の歌三首
  霞零り吉志美《きしみ》が嶽を険《さか》しみと草取りはなち妹が手を取る(巻三・三八五)
   右の一首は、或るはいふ、吉野人|味稲《うましね》の柘の枝の仙媛に与へし歌なりと。但し柘枝伝を見るにこの歌あることなし。
  この夕柘のさ枝の流れ来ば簗《やな》は打たずて取らずかもあらむ(同・三八六)
   右一首
  古に簗打つ人の無かりせば此間《ここ》もあらまし柘の枝はも(同・三八七)
   右の一首は若宮年魚麻呂の作れる。
 仙というのは仙人ということであるが、元来日本の伝説では、山に住んでいる人は山人である。それに仙人思想が入ってきて、仙人という言葉ができた。柘の枝というのは桑に類する木の名である。
 この三首だけではこの柘の枝の伝説の内容はわからない。浦島のほうは高橋虫麻呂が伝説の内容を説いてくれたから、歌だけでもその内容が知られるけれども、これには出ていない。
 この伝説は、『万葉集』以外のものにも多少伝わっている。しかしやはり筋書はない。ただ、かような断片的に内容に触れた歌だの詩があるだけである。それらを綜合して考えると大体わかるのである。それは吉野川に漁夫の味稲《うましね》という者があって、簗をかけて漁をしておった。簗とは、川の中に簀を張って置き、川の水が流れて来ると、水は簀からすいて落ちるが、魚だけは簀に残る、それを捕える漁業である。今日でも諸国で簗をかけて魚を捕ることは行なわれているけれども、流れを落ちる魚が全部取れるので特に許可を要することになっている。
 昔、吉野川に簗をかけて魚を取っておったところに、上流の方から柘の枝が流れて来た。吉野人の味稲が、その柘の(366)枝を取って家へ持って帰ったところが、それが女に化けてその味稲と結婚した。だが後にその柘の枝の仙女が飛んで行ってしまった。こういう伝説である。それがこの吉野川の伝説として伝わっておった。吉野川にはまだこのほかにも伝説があり、吉野川に対して古人が非常に親しみを感じていたことを現わしている。
 霰零りは枕詞である。吉志美が嶽がけわしいので、草を取り離してそうして妹が手をとる。
 「この夕柘のさ枝の流れ来ば」というのは、これは後の人が詠んだので、作者は未詳である。この夕つかた柘の小枝が流れて来たならば、簗は打たずして取らずにおこう。そういう柘の枝を拾ったから、夫婦になったり、化かされたり、天に昇ったりしたから、今柘の枝が流れて来ても取らずにおこう。
 昔簗を打って柘の枝を取る人がなかったならば、今でもその柘の枝があるだろう。昔の人が拾ってしまったから今はない。
 かような伝説は、河川を中心として諸所に伝わっておったと考えられる。ここには吉野川のほとりに伝わる伝説をあげておく。
 それから巻の五に松浦の河に遊ぶ序というのがある。これには松浦河に関する伝説が使われている。松浦河というのは佐賀県にある川であるが、今日玉島川と松浦川とあるが、この歌は、今日の玉島川のほうである。もっともこれは伝説をそのまま扱ったのではなく、伝説をもとにして作り成している。これは万葉時代の小説として注意すべきものである。わが国は昔から小説などいろいろ作ってきてもいるし、また多少伝わってもいるが、とにかくこれはいつ作ったということがはっきりしている。そういう意味で一番古いのである。
 この作者は大伴旅人と認められる。旅人が松浦河に遊んで、その地で魚を釣っている女子に出逢った。その女子と歌を贈答するという内容をもっている小説であるが、紀行文の形をなした一の物語である。これにはやはり伝説がある。それは神功皇后が三韓にお渡りになる時に、はじめこの玉島川で魚をお釣りになった時に、まっすぐな針に飯粒をつけてお釣りになった。もしこれから自分の行くことが成功するならば、魚が釣れるだろうといってお釣りになったところ(367)が、はたして釣れた。それから毎年この玉島川では女が魚を釣る。そういう伝説がある。それで小説の歴史からいって、作者がわかって、かつ作られた年代の明らかになっている小説として最古のものである。文学史上そういう意義を有する。これらはいずれも河川が人間の生活と非常に深い関係をもっていたことを現わすに足りる。人々は河川からおのずからにして感銘を得ていたということがいえるのである。それは今日からその感情を分析してゆげば、主としてさやかというべき河川の感じが中心をなし、それを感得していったことがいえるのである。
 
   三二 自然の中に生きる
 
 以上動植物から始まって、海洋・山岳・河川などに関する歌を読んできたゆえんは、要するに古人が自然に接して非常な親しみを感じ、自然の中に生きておった。それを語らんがためであった。そうしてこれらの自然の中から、その美しいところ優れたところを感得して、詠まれた歌ということである。言を換えれば、これらの自然の中から、美しい部分だけを特に取り出して歌っておったということである。
 それではなぜ自然の美しい姿がこれらの歌として現われてくるか。この作者たちが自然に対しておのずから好意をもって相対しているので、自然の中からすぐれたところが見いだされてくるのである。すべての物は、人が物質的にきわめて冷酷な態度で見る時には、そこには物質的な存在のみしか見えないけれども、いったんこちらの人の精神が動いてある気持で見る時には、それに応じて特色を発揮してくるものである。この集の人々は、自然に対して人生に好意を寄せていることを感じている。それが幾首かの歌となってこの集に現われてきているわけである。これらを綜合してゆけば、要するにこの世界を美しと見、この人生を美しと見る態度にほかならないのである。わが国においては、どこまでも人間の生きている世界を、厭うべき世界とは見ていないのである。りつぱな人間の居住地として、美しい世界であるとしてこれを讃嘆してきているのである。
 
 
(368)   天平初期の人物   〔一九五四年一月「明日香」掲載〕
 
 『万葉集』の歌人たちに関する資料としては、『万葉集』自身のほかに、『日本書紀』『続日本紀』『懐風藻』、正倉院文書などがあるが、『藤原武智麻呂伝』なども、有力な資料の一つである。
 『藤原武智麻呂伝』は、僧延慶の署名があり、恵美押勝の全盛時代に書かれたものとされ、漢文で書かれている。武智麻呂は、不比等の長子で、南家と称し、その弟、北家の房前、式家の宇合、京家の麻呂とともに、藤原四門の祖と呼ばれる人である。不比等のこの四人の男子は、いずれも人物で、文学の才能もゆたかな人々であった。
 武智麻呂は、天武天皇の九年庚辰の年(六八一)に生まれた。この年は、『万葉集』巻の十の七夕の歌のうち、人麻呂歌集所出の分の左記に見える年号で、人麻呂歌集所出のうち最古の年代を示すものとして注意されている年である。そうして天平九年七月(七三七)に、正一位左大臣として死んだ。時に年五十八であった。武智麻呂伝は、この生涯のことを記したもので、その全部が、『万葉集』研究に役立つものであるが、『万葉集』の歌人の関係として特に注目されるのは、聖武天皇の御代のはじめにおける朝廷の人材をあげた部分である。
 武智麻呂が大納言になったのは、武智麻呂伝には六月とあって年を逸しているが、『続日本紀』によれば、天平元年(七二九)二月以後、三年九月以前のことになる。『武智麻呂伝』に大納言としてよく朝政に参画して上下安静に、国に怨讎なきことを記して、当代の人物を列挙している。すなわちこの時にあたって、舎人の親王は知太政官事たり、新田部の親王は知惣管事たり、二弟房前は知機要事たりとし、以下、参議高卿、風流の侍従、宿儒、文雅、方士、陰陽、暦算、咒禁、僧綱に分かってそれぞれ代表的人物の名をあげている。この中に、『万葉集』の歌の作者の名も見いだされ(369)るし、しかも有名な歌人はあげられていないので注意をひくのである。
 まず武智麻呂その人は、『万葉集』に歌を伝えない。『懐風藻』にも、房前、字合、万里(麻呂)と三人の弟が並んで名をつらねながら、この人の詩はない。伝によれば、大宝四年三月(七〇四)には大学の助となり、和銅元年三月(七〇八)には図書の頭となっており、文字のあった人であることはあきらかである。為政者としてあげた三人のうち、舎人の親王は、御歌三首を伝え、新田部の親王は歌を伝えないが、人麻呂が歌をたてまつったことが伝えられ、またその家の婦人が歌をたてまつったことが伝えられる。藤原房前は短歌一首を伝えている。
 次に参議高卿としてあげたのは、中納言丹比県守、式部の卿藤原宇合、兵部の卿藤原麻呂、大蔵の卿鈴鹿の王、左大弁葛木の王(橘諸兄)の五人である。丹比県守は、『万葉集』に作歌を伝えないが、集中、丹比真人とのみあって名を欠くもの三首があって、その中には、県守の作かとされているものもある。宇合と麻呂は作歌を伝えている。宇合は才物で、漢詩をよくした。歌は短歌六首を伝えているが、その実作の数は、これのみにとどまらないであろう。宇合が常陸の守であった時に、高橋虫麻呂がその下僚であったものとされ、両者の間にも伝うべきものがあったのだろうが、今すべて湮滅に帰してしまった。麻呂は、大伴の坂上の郎女に通ったことがあり、その相聞の歌も伝わっている。葛木の王は、大伴家持との関係も深く、短歌八首を伝えているが、これもその実作の数は、これのみにとどまっていないだろう。鈴鹿の王については、『万葉集』は何事をも語らない。
 次に風流の侍従としてあげてあるものは、六人部《むとべ》の王、長田の王、門部の王(大原門部)、狭井の王(橘佐為)、桜井の王(大原桜井)、石川君子、阿部安麻呂、置始工(小鯛の王)等である。六人部の王には、『万葉集』に短歌一首がある。長田の王は短歌六首がある。ただし同名の方が同時に二人あるので、同一の方ときめるわけにもゆかない事情にある。門部の王は、短歌五首がある。狭井の壬は、『万葉集』に名が見えているが、歌はない。桜井の王は、短歌二首がある。石川君子には石川の少郎の名のもとに短歌一首があり、このほかに左註に「あるは云ふ」とするもの、また石川の大夫の作とあるものにこの人の作があるかもしれない。才人であって歌をよくしたようである。阿部安麻呂は、『万葉集』(370)には全然名が見えない。置始工は、巻の十六に、小鯛の王の宴居の時の歌があり、またの名を置始多久美というとある。風流というのは、詩歌音楽に通じ、風雅を解することの意と見られるので、歌人と見られる人を多く含んでいるのであろう。
 次に宿儒として、宇部大隅、越智広江、背奈行文、箭集虫麻呂、塩屋吉麻呂、橘原東人等があげられている。このうち『万葉集』に歌を残しているのは、背奈行文だけで、その歌が、佞人を謗る歌であるのは、儒者らしくておもしろい。橘原東人は天平十八年正月(七四六)の雪の宴に作歌があったそうで、その歌は伝わらないが、歌をよまなかったわけではない。この人々のうち、『懐風藻』に詩を伝えているのは、越智広江、背奈行文、宇部大隅、箭集虫麻呂、塩屋吉麻呂(『懐風藻』に古麻呂に作るのは誤りであろう)である。
 次に文雅には、紀清人、山田御方、岩井広成、高丘河内、百済倭麻呂、大倭小東人をあげている。このうち『万葉集』に、紀清人は短歌一首を伝えている。山田御方は、『万葉集』に三方の沙弥とある人であるとする説がある。山田御方はもと僧であったが、還俗して出仕した。その人を還俗後も三方の沙弥と称したとすることには疑問がある。葛井広成、高丘河内は、『万葉集』に歌を伝えている。百済倭麻呂、大倭小東人は、『万葉集』にその名を伝えない。『万葉集』巻の九に、式部大倭とあるもの、あるいはこれらのうちの一人かもしれないが、あきらかにされない。『懐風藻』には、山田御方、百済倭麻呂、葛井広成の詩を伝え、『経国集』にも葛井広成の文を伝えている。文雅というのは風流とあるに類するもののごとく、詩文の才を主としていったのであろう。
 次に方士として、吉田宜、御立呉明、城上真立、張福子等をあげている。この吉田連は、大伴旅人に贈った書状が『万葉集』に載せられ、その中に歌三首が記されている。張福子は、天平二年正月十三日(七三〇)の旅人亭の梅花の宴に医師として歌一首を伝えている。この二人とも医師であるのによれば、方士というのもその意であろうか。
 以下、陰陽、暦算、咒禁、僧綱としてあげてある人名の中には、『万葉集』の作家はいない。
 『武智麻呂伝』には、特に歌人としてあげたものはない。これは漢学を主とする筆者の立場からは、歌道は、余技的(371)なものとするによるのであろう。したがって当時在世したはずの歌人、山上憶良、大伴旅人、高橋虫麻呂、山部赤人等の名を見いだすことができない。わずかに、風流の侍従、文雅などの項に幾人かの歌人を見るだけである。この伝の書かれた恵美押勝の全盛時代には、歌はもはや宮廷文学の主流ではなくなっていたのだろう。それでこのような文化の代表人物の選定となったものと思われる。かくのごとく『万葉集』の代表歌人の多くを逸しているとはいえ、当時の文化人の顔ぶれを知る上には、興味ぶかい資料である。それらの人々は、『万葉集』に少数ながら作歌をとどめている人が多く、当時、歌が廷臣の間にゆきわたっていたことを思わしめる。天平十八年正月の雪の宴の記事(『万葉集』巻の十七)に見ると、廷臣の多くが歌をよんでおり、歌をよまなかったのは、大陸から来た朝元だけだったという。このような宴会の時だけでなく平常から歌を作っていた人も多かったことであろう。そういう作家群から見れば、『万葉集』の登載している歌の世界は、その一部分にすぎなかったのである。
 
 
(372)  万葉四季物語   (一九四二年五月、八雲書林刊『神・人・自然』に収録。)
 
       一月
 
 わが国のように、季節の循環が明瞭に現われてゆく国土にあっては、自然その住民がこれに即応した生活を営むようになる。春、種を下して秋に収穫する耕作の上にはもとより、またこの間を縫って狩猟その他の季節に関係のある生活が織り込まれている。
 かような状態のものに、寒い時候が日に増し暖かになり、やがて暑くなったかと思うとまた涼しくなり、ついでまたもとの季節に戻ってゆく。こういう循環の行なわれていることは、古代から意識せられていたと考えられる。その上に月日を立てて年を数えてゆく精密な暦の行なわれるに至ったのは、いつの頃からかは明らかでないが、その暦ももとより季節の推移を基礎として立てられたものであった。暦が自然現象の上よりも、日月の運行のごときを標準とするようになって、暦の表と実際の現象との間に若干の相違をきたすことも生じてきた。その相違矛盾に興味をもつようにもなってゆくが、大観すれば暦は季節の推移に応じて立てられているというべきである。万葉時代は、季節の自然なる推移の中に育ってきた人々が、新たに暦の思想をいれて、整理と矛盾との問に生きていた時代であるともいえよう。
 『万葉集』の巻頭の歌は、この岡に菜を摘む児を歌われていることからして、やはり初春の歌ということができよう。『万葉集』二十巻四千五百首の巻頭を占めて、ついで起こる諸種の行事の始めというごとき意味を示している。春の行(373)事として、野に出でて若菜を摘むことは生活の上にも新しい生命を注ぎ入れることとして感じさせる。これは季節の上に現われた生活現象の歌われたものというべきであるが、別に暦の上から一年の最初の歌を求めるとなると、巻の二十の最後の歌、すなわち、『万葉集』での一番終わりの歌が正月一日の歌であるのも面白いことである。
  新《あたら》しき年のはじめの初春の今日降る雪のいや重《し》け吉事《よごと》(四五一六)
 これは天平宝字三年(七五九)正月一日に、因幡の国の庁でその国の郡司等に饗を賜えるときの歌で、因幡守大伴家持の作である。年はここに改まっていよいよ新しい暦は開かれたが、それは春の季節のきたり迎うることではあるけれども、事実はなお冬の分子が多量に残っており、その中にきざしくる春の生命を喜ぶのである。ここにはやがてきたらんとする春を迎えてまず祝う気分がある。そこで地方庁にあってもその国の郡司等を集めて饗宴を賜わるのである。今年もいっそうよい年であるように、穀物が実り、民豊かに栄えるようにと祝って年の門出を寿《ことほ》ぐのである。それは新しい年の初めであり、同時に初春であることを祝っている。新しき年の初めというのは、暦の方からきた言葉で、初春というのは実際上の季節の春の初めをいう。それが同時に重なってきたところに新春の意義が生ずるのである。しかも事実としては、なお冬の代表者ともいうべき雪が降りしきっている。その雪を豊年の瑞兆として取り上げて、これによって良きことが、降る雪の降りしくように積み重なれと祝っているのである。暦の上の知識と事実との矛盾を、初春という概念で調和させている歌だともいえるのである。事実上初春の風物はいまだ味わわれてはいないのであるが、気分においてそれを感じているところに、この歌が成り立っている。知識人として、どのように初春を感じようかと骨を折っているところが、この歌のもつ意義である。
  あしひきの山の木末《こぬれ》の寄生《ほよ》取りて插頭《かざ》しつらくは千年|寿《ほ》ぐとぞ(巻十八・四一三六)
 これも天平勝宝二年(七五〇)正月二日に、越中の国の庁で、郡司等に饗を賜わったときの越中守大伴家持の作である。寄生は寄生木で、大樹の枝のつけ根などに生じている。それを取って插頭《かざし》にして祝うのである。插頭はこの時代には多く花のあるものを插しているが、ここに特に寄生を持ち出したのは、長生の意義を感じているのでもあろうか。花のあ(374)るものよりも、ないもののほうが、変化のないことを現わすに適しているのである。国守を始め郡司等が寄生を插頭して御代をことほぎ、みずからも祝っている姿が窺われる。
 正月はやはり酒宴の多い月である。国庁の宴のような公式の場合以外にも、便宜上所々に催されたのであろう。
  新しき年のはじめは弥年《いやとし》に雪ふみならし常斯くにもが(巻十九・四二二九)
 これは天平勝宝三年正月二日に、越中守家持の館に宴を開いた時の歌の一つである。国庁の宴であるか否かは明らかでないが、おそらくは私宴であろう。しかしここにも北国の習いとはいえ、雪はなお深く降り積んでいることが歌われている。このとき降れる雪ことに多くして四尺に及んでいたという。雪に新年の意味はないが、それをしいて感じようとしているところに、暦の上にすでに春であることの解釈を求めようとしていたことが知られる。
  降る雪を腰になづみて参り来ししるしもあるか年の初めに(巻十九・四二三〇)
 これはその翌日越中介内蔵忌寸縄麻呂の館の宴のときに、大伴家持の作った歌である。ここにも同じように降る雪を踏みわけて来たかいのあることを歌っている。年の初めに雪を踏みわけて宴を開く、その興趣を味わうのである。その宴には、雪を積んで巌石の重なっているのに模し、それに草木の花を染めなしたという。雪の巌に描かれた撫子の美しさが諸人の歌に詠まれている。そこには遊行の女婦蒲生の娘子も侍して歌を詠んでいる。そうして宴を続けて夜ふけて鶏鳴に至ったのである。
 新年には宮廷においても御宴が催される。それぞれ特色のある行事があって、それらに関する歌も残っている。
  初春の初子《はつね》の今日の玉箒《たまははき》手に執るからにゆらぐ玉の緒(巻二十・四四九三)
 暦が行なわれるようになってから、いつの頃からとも知られないが、年や日に干支を配していうようになった。子は十二支の初めであり、新年になってその最初の子の日を初子として祝うのである。この歌ではその日に玉帚を飾って祝ったことが歌われている。これは帚に玉を結びこれを飾るのである。帚で玉を掃きよせるという意味と、人の生命のことを玉の緒というので、これを寄せて生命をかき集める意味にとりなして祝われたのである。新年の初子の日に、その(375)玉帚を手にとれば、それに結びつけた玉の緒も揺れているという意味の歌である。玉の緒を揺することは、鎮魂の行事にあり、これによって人の魂を鎮めて寿久を祝うことに思い寄せている。今日、酉の市の祝儀ものに熊手に宝物をつけて売るのと同様に、古くは帚で玉を掃き寄せると考えたものである。新たに来た年の幸福を祝う心持が感じられる。この歌は天平宝字二年(七五八)正月三日に大内裏の東屋の垣下に臣下を召して玉帚を賜わって宴を開かれた時の大伴家持の作である。
  水鳥の鴨の羽の色の青馬を今日見る人は限なしといふ(巻二十・四四九四)
 同じ年正月七日の御宴の為に家持がこの歌を作っている。この年は六日に宴を開かれたということである。この七日の節会には、馬を引き出して御覧になるので白馬の節会《せちえ》という。しかし古くはこの歌にもあるように、白い馬ではなかったようである。「水鳥の鴨の羽」というのは、青を引き出すための序であるが、ここにいう青馬は白色の馬とは思われない。「限なし」というのは、生命の限りなきをいうのであり、ここにも年の改まるにつれて祝う意味がある。馬を見るのがなぜめでたいのであるか、明らかでないが、おそらくは豊作をあらかじめ祝う気持がもとになっているのであろうか。これが白馬に変わったのは、蚕《かいこ》の神が白馬であるという信仰と連絡があるようである。
 長野県の松本地方で歌われている春駒の歌には「春の始めに春駒なんぞ、夢にみてさへよいとや申す、年よし世もよし蚕もよし、かひことりてはみののや国の、桑の郡や小野山うちの、とめた蚕種がさてよい種子よ云々」と歌われ、春の馬と蚕との関係が語られている。
 春はすでに迎えられたけれども、なお雪の降りしきる日は多く、これに寄せて雪の御宴なども行なわれている。天平十八年(七四六)の雪の宴の歌が巻の十七に数首載せられている。
  降る雪の白髪までに大皇に仕へまつれば貴くもあるか(巻十七・三九二二)
 左大臣橘諸兄の歌である。白髪を迎うるまでに年老いて、なおも朝廷にお仕えすることをみずから貴く思っている。この歌では降る雪は白髪を引きだすだけに使われており、雪を中心とする歌ではないが、作者の白髪に雪の連想が慟い(376)ていることを見るべきである。いかにも老臣の歌らしく、御代の泰平を祝うに足る作である。
  天の下すでに覆ひて降る雪の光をみればたふとくもあるか(巻十七・三九二三)
 同じ雪の御宴に紀清人の詠んだ歌である。ここでは雪が正面から讃えられている。天下をおおうて降る雪の光が、尋常ならざるものがあることを歌っている。「すでに」は決定的であることを現わしている。堂々たる歌ということができよう。
  御苑生《みそのふ》の竹の林にうぐひすは屡《しば》鳴《な》きにしを雪は降りつつ (巻十九・四二八六)
 天平勝宝五年(七五三)正月十一日、大雪が降って一尺二寸も積ったので家持たちの詠んだ歌の一首である。ここにも春はすでにきたりながら、なお雪の襲うてくることが歌われている。かような現象の間に漸次冬の季節が薄らいで、いつしか純然たる春の風景に移ってゆくのである。
  河渚にも雪は降れれし宮の裏《うち》に千鳥鳴くらし居む処無み(巻十九・四二八八)
 翌日内裏に侍して千鳥の鳴くを聞いて詠んだ歌である。「降れれし」は、降れりの已然形に助詞しの接続したものと認られるが、珍しい語法である。河原に鳴く千鳥を詠んでいる歌で、作者の持つ風懐が窺われる。
  一つの松幾代か経ぬる吹く風の声のすめるは年深みかも(巻六・一〇四二)
 天平十六年(七四四)正月十一日、久邇の京の活道の岡に登って、大木の松の下に集まって宴を聞いた時の市原の王の歌である。風気ようやく和やかに、野外に出てみれば草は萌え、天日の光はようやく浸みわたってきた。岡の上の大木の松の下に盃をあげて春を楽しむ。風が梢を渡って響きをたてている。年深みは年を重ねて古くなったことをいう。青松を渡る風の音のさやかなのを愛した歌で、自然の声に興趣を寄せる古人の心が歌われている。
 天平二年(七三〇)正月十三日に催された大伴旅人の大宰府における梅花の宴は、風流の会として知られている。九州は気候の進行も早く、すでに梅花の枝頭に満つるを見るのである。ここに集まる人各一首の歌を詠んでいる。その数は三十二首である。その人々は主人大伴旅人をはじめ、大宰府および九州・壱岐・対馬の役人たちで、おそらくは年頭を(377)期して大宰府に集まることがあり、その機会にこの宴が開かれたものと思われる。いまその一、二をあげよう。
  正月《むつき》立ち春の来らば斯くしこそ梅を折りつつ楽しき竟《を》へめ(巻五・八一五)
 大宰大弐紀の卿の作である。この人はたぶん紀男人であろうと思われる。この歌は新年の古歌として伝えられている、「新しき年の始めにかくしこそ千とせをかねて楽しき竟《を》へめ」の歌をもとにして詠まれている。もとの歌は歌いものであり、今のこの歌もそれと同じようにこの席上で作者によって歌われたものであろう。「楽しき竟へめ」という句は、この時代としてすでに古語になっている。楽しみを尽くさんという意味である。ここに伝えられている三十二首の歌は、紙筆によって伝えられたものであろうが、一面にはまた、それぞれ歌いあげられて興を添えたものと思われる。なお次にこの時の歌の数首をあげておこう。
  わが苑に梅の花散るひさかたの天より雪の流れ来るかも(巻五・八二二)
  梅の花咲きて散りなば桜花継ぎて咲くべくなりにてあらずや(同・八二九)
  梅の花いま盛なり百鳥の声の恋《こほ》しき春来るらし(同・八三四)
  妹が家に雪かも降ると見るまでに許多《ここだ》も乱《まが》ふ梅の花かも(同・八四四)
 
       二月
 
 二月は仲春であって、春の最も盛んな時節であるとされている。実際に春の中央というわけにはゆかないが、すべてのものが活気を生じ、花のあるものは蕾《つぼみ》を用意し、芽の出るものは芽を整えてきたことは疑われない。
  君が往《ゆき》もし久ならば梅柳誰とともにか吾が※[草冠/縵]かむ(巻十九・四二三八)
 天平勝宝三年(七五一)二月三日に、越中守大伴家持の邸に集まって宴を開いた時の家持の歌である。時に判官久米広縄が正税帳を持って、都に上ろうとしたので、別れを惜んでこの歌を詠んだのである。越中の風土は、梅が咲き柳が芽(378)を開くのは、三月に入ってからのことであるので、誰と共にかこれを※[草冠/縵]《かずら》にしようぞと歌っているのである。北国にあって訪れる春を待ち設けている気持が歌われている。
 都の方ではもう馬酔木《あしび》の花盛りである。天平宝字二年(七五八)二月の初めに中臣清麻呂の家で宴を開いた時に、目を庭前につけて詠んだ歌
  鴛鴦《をし》の住む君がこの山斎《しま》今日見れば馬酔木《あしび》の花も咲きにけるかも(巻二十・四五一一)
 馬酔木は毒を持つ植物で、春日の辺にはたくさんに生い繁っているが、鹿もこの木は食べない。前年の枝先から細い蔓のような花芽が出て、春の初めになったら、白い鈴のような房状になった花をつける清らかな可憐な感じのする花である。山斎は本来山の建物をいうのであるが、この集では、シマと読み、庭園の意味に使っている。鴛鴦の住むの一句で、その庭園の池のある美しさが描かれている。この歌は御方の王の歌である。
  磯かげの見ゆる池水照るまでに咲ける馬酔木の散らまく惜しも(巻二十・四五一三)
 同じ時の甘南備伊香の作である。池水に照るまでに咲ける馬酔木と歌っているのは、この花がよほど華やかな花であるように見うけられる。馬酔木が今日の※[木+浸の旁]木であるとなす解釈に疑問を生じさせるものである。※[木+浸の旁]木はむしろ清楚といった感じの花であって、池水に照るまでに咲ける馬酔木というのでは、少しくふさわない気がする。この歌ではむしろ躑躅《つつじ》などのほうが似合わしいようである。
  見渡せば向つ峯《を》の上の花にほひ照りて立てるは愛《は》しき誰が妻(巻二十・四三九七)
 二月十七日に大伴家持が難波にあって堀江を距てて美女を見て作った歌である。ここには人の美しさを叙するために、「向つ峯の上の花にほひ」の句を持ってきている。春はようやく廻りきたって難波辺に花の咲くのが眺められる時候になった。花をもって女に比することが似つかわしく感じられる季節になったのである。「見渡せば」は、今現に見渡していることと、二、三句の「向つ峯の上の云々」を引き出す役を兼ねている。難波には「向つ峯」というような地勢はないので、この句は花の「にほひ」を引き出すために設けられたことが知られる。それから花の美しさを叙し、その花(379)のごとく照り輝いて立っているのは、誰の妻かと疑って、佳人を描いているのである。花か人かと紛らわしいような描写をしたところにかえって効果が上がっている。
  やぶなみの里に宿借り春雨に隠《こも》り障《つつ》むと妹に告げつや(巻十八・四一三八)
 二月十八日に公用によって越中の国礪波の郡のある人の家に宿り、風雨たちまちに起こって帰ることができないでいた時に作った歌である。「やぶなみ」は里の名である。「隠り障む」というのは、雨に降り込められて閉じ籠り、慎んでいることである。古人は雨にぬれることを嫌った。それは衣服が雨に耐えないのがもとになっていよう。いま、にわかに風雨にあって、家に帰り得ないことを歌っているので、困っているのであろうが、多少の興味を感じているようである。
  世間《よのなか》は数なきものか春花の散りのまがひに死ぬべきおもへば(巻十七・三九六三)
 二月十九日家持が病気にかかって詠んだ長歌の反歌である。西行は、「ねがはくは花のもとにて春死なん」と歌って、ついに本懐のごとく二月十六日に死んだ。花の美しさを愛すると同時に、その華やかな色はかえって無常の感に導かれやすいのである。花と共に散るという思想はしばしば見られるところである。この歌は初二句に世間の無常を嘆じ、春の花の散り乱れるままに死なんとしている自分を憐れんでいる。春たけなわになろうとして病に襲われることが多い。そのできごとの一つである。
  春の野に霞たなびきうらがなしこの夕影に鶯なくも(巻十九・四二九〇)
  わが宿のいささ群竹吹く風の音のかそけきこの夕かも(同・四二九一)
 春はすでに天地の間に満ちている。しかもこのうるわしき自然に対して、一人寂寥の感に打たれるのは才人の常である。自然に親しんで生活してきた万葉時代の人々も、ここに至ってわずかに竹の葉に吹く風の音にも心を動かすようになった。春の哀愁のしみじみと感じられる歌である。春の野に霞がたな引いて鶯が啼いている。なんら悲観すべき材料のないにかかわらず、一抹の悲哀感の襲ってくるのを、いかんともなしがたいのである。
  うらうらに照れる春日に雲雀あがり情悲しも独しおもへば(巻十九・四二九二)
(380) 同じく二十五日に詠んだ歌である。作者は家持で、この歌に説明をつけて、「春の日|遅遅《うらうら》に※[倉+鳥]※[庚+鳥]正に暗く。悽※[立心偏+周]の意、歌にあらずば、撥《はら》ひ難し」としている。ひとり雲雀の囀るを聞いて寂寥の感に打たれ、歌をもってこれを払おうとしている。さびしき春の夕暮である。
  時々の花は咲けども何すれぞ母とふ花の咲き出来ずけむ(巻二十・四三二三)
 天平勝宝七歳(七五五)の二月に交代して筑紫に遣わされた防人等の歌は、集中異色あるものとして知られている。この歌は遠江の国の防人丈部真麻呂の歌である。これらの歌は人情の流露しているという点において優れている。この歌もその一つであるが、しかしおりしも春であって、その訪れることの早い遠江の国は、すでに花の盛りであったことが、この歌を成さしめたというべきである。遠い征途に上らんとして咲き匂う花を見て感慨深いものがあり、それでこの歌を詠んだものであろう。防人の歌を読んでもやはり思いを季節に及ぼさねばならないのである。
  父母も花にもがもや草枕旅は行くともフ《ささ》ごて行かむ(巻二十・四三二五)
 この歌も同じく遠江の国の丈部黒当の作である。父母を花としてフげて持って行こうというところに、純粋な感情が窺われるが、やはり花に対してこの感をなしたので歌の意味が生きてくるのである。同じ国の防人の歌の中にある「父母が殿のしりへの百代草」というのがあるが、この百代草について、菊花であるという説もあるが、しかし季節のことを思えば、やはり春でなければならぬと思う。
  道の辺の茨《うまら》の末《うれ》にはほ豆のからまる君を離《はか》れか行かむ(巻二十・四三五二)
 上総の国の防人丈部鳥の作である。からまるの序に「茨の末にはほ豆」を持ちきたったのは、防人らしくて珍しいのである。しかしここにもすでに豆の蔓の延びているのを見て詠んだことに注意したい。都人ならば気づかずにすんでしまうものを、東人なればこそこれを使って序ともしたのである。道の辺に豆の蔓が茨の若い枝に匍いまとっている。そのようにからまって慕う子らを置いて行くことかと嘆いたのである。防人の出立に際しても春光は十分に行きわたっていたのである。
 
(381)       三月
 
 北国にも梅桜桃李の一時に咲き匂う春が廻りきたった。そのある日の夕に詠んだ歌である。
  春の苑くれなゐにほふ桃の花した照る道に出で立つ※[女+感]嬬《をとめ》(巻十九・四一三九)
  吾が園の李の花か庭に散るはだれのいまだ残りたるかも(同・四一四〇)
 園いっぱいに紅に咲き匂う桃の花は輝くばかりである。その下辺に出で立つ嬢子を配して花か人かと思う美しさを描いている。名詞を重ねたような形の歌で、かえってそれがふさわしく感じられるのが前の歌である。この艶麗に対して、次の歌はむしろ清楚な感じを描いている。白い李の花の与える寂寥の思いを、苑に消え残る雪かと紛うという言葉で現わしてある。家持のようやく油に乗ってきた時代で、それぞれの花の特色をよく描き出している。はだれは斑雪《はだらゆき》で、半ば消え残るようになっている雪をいう。
 春の日に萌《は》れる柳を取り持ちて見れば都の大路おもほゆ(巻十九・四一四二)
 「二日、柳黛を攀ぢて京師を思ふ」という題がある。シナでは婦人が柳の新葉のような眉を描いた。その風習から柳の若葉を柳黛というのである。芽の萌え初めた柳の枝を引き寄せて、遙かに京の空を思いやるのである。「はれる柳」は芽の萌え出した柳である。京の大路にも柳が植えてあったのである。遠い国の春にあって遙かに京を思う情を柳に寄せている。同じく家持の歌である。
  もののふの八十をとめ等が※[手偏+邑]み乱《まが》ふ寺井の上の堅香子《かたかご》の花(巻十九・四一四三)
 「堅香子」は今のかたくりであって、紫色の可憐な花をつける。この歌もその花を詠んだのであるが、その咲いている場所を説明するのに、「をとめ等が※[手偏+邑]み乱ふ寺井の上」というのが手段である。「もののふの」は、枕詞、八十にかかる。「八十をとめ」は多くのおとめで、井の辺には朝な夕なに水を汲みに集まってくる。「※[手偏+邑]み乱ふ」は、水を汲むざわ(382)めきを巧みに叙している。寺にある井のほとりに、おとめが多く集まって水汲みをしている、その辺の楚々たる草花を描いたのである。同じく家持の作である。
  尋常《よのつね》に聞くは苦しき喚子鳥声なつかしき時にはなりぬ(巻八・一四四七)
 三月一日に大伴の坂上の郎女が、佐保の家で作っている。呼子鳥は春噂く鳥であるが、三月になって啼きはじめると見える。人を呼ぶような声に聞えるので呼子鳥という。いつも聞けばかえって心が悩まされるのであるが、その初めに当たっては、さすがにこれも懐かしきものの声である。季節の鳥を待ち設ける心が、ここにも現われている。
  漢人も筏《いかだ》浮べて遊ぶとふ今日ぞ我が兄子《せこ》花|※[草冠/縵]《かづら》せよ(巻十九・四一五三)
 大伴家持の三月三日の作である。この日は上巳の節句で曲水の宴が催される。幾廻りも曲がって流れている水に盃を流し、その流水の裾に人々は座して漢詩を作り、詩のできた者が流れから盃を取り上げて酒を酌むのである。その風流の遊びを写して、ここには筏を浮べて遊ぶと詠んでいる。花※[草冠/縵]は時の花を環にして髪の飾りとするものであり、風流の業となっている。
  奥山の八峯《やつを》の椿つばらかに今日は暮さね丈夫《ますらを》の徒《とも》(巻十九・四一五二)
 同じ日の歌である。「奥山の八峯の椿」は「つばらかに」と言わんがための序であるが、山から椿を折って瓶に插してあるので、これを材料として使っている。つばらかに今日を暮すというのは、歓を尽くすことをいう。人々に対してこのよき日を楽しく暮すように勧めている歌である。ちょうど椿の花の咲く頃で、この歌が詠み出されているのである。
  朝な朝な揚る雲雀になりてしか都に行きてはや帰り来む(巻二十・四四三三)
 三月三日、防人を※[手偏+僉]※[手偏+交]する勅使、ならびに兵部の使人等、共に集まって宴を開いた時の安倍沙美麻呂の歌である。防人のことを取り扱うために、難波に集まっている人たちは、奈良の都からは一日行程のところではあるが、やはり春愁に襲われて都を恋しく思っている。野辺には朝な朝な雲雀が高く揚って囀っている。その雲雀であったなら、都へ行ってたやすく帰ってくることであろう。雲雀に寄せて郷愁が歌われている。
(383)  雲雀あがる春べとさやになりぬれば都も見えず霞たなびく(巻二十・四四三四)
 同じ時の家持の作である。空はすっかり霞み渡って、都の方も見えずにただ雲雀の声ばかりが聞えてくる。春の日に旅に出て都を思う心が描かれている。うららかな景色に対して愁いの慰められない気持である。
 春になって桜の花の咲き匂うのはいうまでもないことである。ここでは同じく三月の頃難波に下った時、竜田山を越えて、桜の花を詠んだ高橋虫麻呂の歌を見よう。往復の日にわけて、桜の花の描写が細かくなされている。
  白雲の竜田の山の、滝の上の小鞍の嶺に、咲きををる桜の花は、山高み風し止まねば、春雨の継ぎてし零《ふ》れば、秀《ほ》つ枝は散り過ぎにけり、下枝《しづえ》に残れる花は、須臾《しましく》は散りな乱れそ、草枕旅行く君が、還り来むまで(巻九・一七四七)
    反歌
  吾が行きは七日は過ぎじ竜田彦ゆめこの花を風にな散らし(同・一七四八)
 竜田山の桜の花の、雨風が続いて襲うので、上の方の枝から散り初め、下の枝はなお残っているありさまが描かれている。桜の花の美しさ華やかさを歌う歌は多いが、その実際に目をとめて描写しているのは珍しい。ここに作者虫麻呂の特色がよく現われている。竜田彦は竜田山の神で風の神である。その神に花を散らさないようにと歌っているのである。長歌としては比較的に短いが、いわゆる小品としての名作といってよいであろう。
  春さらば插頭《かざし》にせむと我が念ひし桜の花は散り去にしかも(巻十六・三七八六)
 桜の花は華やかではあるが、盛りの短いのをもって惜しまれている。咲いたかと思う間にはかなく散り失せるのが潔いのである。この歌は桜児という名の嬢子が、二人の人に思われて、身を置くによしなくして林の中に入って死んだのを傷んだ歌である。その哀悼の意を桜の花の散ったことによって叙している。春になったならば、自分が插頭にしようと思っていた桜は散ってしまったというのは、譬喩であって、そのおとめをわがものにすることを現わしている。插頭は時の花を折って髪に插すのをいう。これも風流のわざであった。
  春の野の下草靡き我も寄りにほひ寄りなむ友のまにまに(巻十六・三八〇二)
(384) 竹取の翁という者があって、季春の月に丘に上って遠く望むところに、たまたま羮《あつもの》を煮る九人の嬢子に出あって、その席につらなったが、たちまちその娘子たちに嫌われたので歌を詠んで、昔若かった時代の話をし、老翁をばかにするものでないことを教えた。それに対する九人の娘子の返歌の一首である。春の野に出て若菜を煮るのは、楽しい行事であると同時に若くなろうとするためのわざでもある。空想を背景とした実際の情景であるのが面白いのである。春の下草が靡いているように、自分も人々と同じく靡き寄ろうという心を歌っている。この竹取の歌と関係して次のごとき歌もある。
  春日野に煙立つ兒ゆ※[女+感]嬬等《をとめら》し春野の菟芽子《うはぎ》採みて煮らしも(巻十・一八七九)
 これは作者未詳の歌である。これは都のほとり春日野には煙が立ち上っている。これは嬢子等が野に出て菟芽子を採んで煮るのだなというのである。菟芽子は今日の嫁菜であり、その楽しい行事の中にやはり信仰的な意味を伝えているのである。かような行事のうちに三月も過ぎ春も暮れてゆくのである。
 
       四月
 
 花も散り若葉が萌えて四月になる。この頃から夏に入るのであるが、まだ春の名残の顧みられることが多い。
  春過ぎて夏来るらし白栲《しろたへ》の衣ほしたり天の香具山(巻一・二八)
 持統天皇の御製である。藤原の宮のあたりから香具山を御覧になると、青葉若葉に初夏の日が照りかがやき、その辺の住民が干した白い衣が、強い光を反映している。さわやかな初夏の風物をお詠みになった御製である。
  居り明しも今宵は飲まむほととぎす明けむあしたは鳴き渡らむぞ(巻十八・四〇六八)
 四月一日に大伴家持の詠んだ歌である。この年は二日が立夏の節に当たった。霍公鳥は夏に入れば啼くというので、その前夜にこれを待ち設ける心でこれを詠んでいる。同じ家持の長歌の一節にも、「木のくれ闇|四月《うづき》し立てば夜ごもり(385)に鳴く霍公鳥」とも詠んでいる。ここにいたままで夜を明かすのを、「居り明し」の一語で現わしている。このまま夜が明けるまで酒宴を催そうというのである。霍公鳥が立夏の節を知って来る訳ではないが、それの来ることがおおむねその季節に違わざることを愛するのである。
  玉に貫く花橘を乏しみしこの我が里に来鳴かずあるらし(巻十七・三九八四)
 同じく越中の国で、立夏の節を経てすでに日を重ねてなお霍公鳥のきたり鳴かないのを詠んだ歌である。この歌は三月二十九日の歌であるが、この年は三月の中に立夏の節を迎えたのである。橘の花を緒に貫いてこれを愛する。しかし越中の国の風土は橘がきわめて稀なので、霍公鳥が来て鳴かないのであろうと歌っている。二、三句は花橘を乏しんでで、橘が少ないゆえにというので、下の「し」は助詞で強く指定するだけである。ここにも季節によって訪れて来る鳥を待つ心が歌われている。
  あしひきの山辺に居ればほととぎす木の間立ち漏《く》き鳴かぬ日はなし(巻十七・三九一一)
 四月三日に同じく大伴家持が、久邇の京より弟の書持にこたえた歌である。この京は山に囲まれており、霍公鳥の声に親しまれているところなのでこの歌が詠まれている。「木の間立ちくき」は、樹間をくぐってである。霍公鳥の声を愛することはもと大陸文学の影響からきている。わが国では古くは顧みなかったものである。万葉時代にすでにこの風流を愛する心があって、平安時代に引き継がれた。今日の人は都会にいては容易に聞くことができない。このためにその声を珍しく思う感情を育てている。奈良時代にはたくさんいたようである。
  あをによし奈良の都は古りぬれどもと霍公鳥鳴かずあらくに(巻十七・三九一九)
 都が久邇に移されて、奈良の都は廃墟となっていた頃の歌である。古き都であってみれば霍公鳥はなお訪れるはずであるが、その鳴かない寂しさを歌っている。年々訪れるので親しみを重ねている意味に、もと霍公鳥と詠んでいるのである。五句を、鳴かずあらなくにの誤りとする説があるが、もとのままで通じる。
  ぬば玉の月に向ひて霍公鳥鳴く音はるけし里遠みかも(巻十七・三九八八)
(386) これも家持の作である。四月十六日に歌われている。霍公烏の声を月の夜空に聞いたのである。後世の霍公鳥の歌の先駆をなす歌である。
  藤浪の影なす海の底清み沈著《しづ》く石をも珠とぞ吾が見る(巻十九・四一九九)
 四月十二日布勢の湖に遊覧して舟を多※[示+古]の湾に泊めて詠んだ歌である。これも家持の作である。春から夏にかけて咲く藤の花のもとに舟を停めて、清き湖水の底を望み見た歌である。美しい初夏の風景が描かれている。
  鵜河立ち取らさむ鮎の其《し》が鰭《はた》は吾に掻き向け念ひし念はば(巻十九・四一九一)
 越中の国から越前の国にいる大伴池主の許に鵜を送った家持の歌である。初夏の河瀬に鵜を浮べて魚を取る、古い歴史のあるわざが歌われている。鵜飼を催して得たところの魚の鰭は自分の方に向けよというのは、自分を思う心のありなしを問うのである。夏の風物としてこれもまた興味のある歌である。
  吾が兄子《せこ》が捧げて持たる厚朴《ほほがしは》あたかも似るか青き蓋《きぬがさ》(巻十九・四二〇四)
 同じ時に僧恵行の詠んだ歌である。厚朴の葉は大きくて食物などを載せるに適している。家持がその葉を折り取って手にしたのを、かの何枚も葉が分かれて出ている姿を青き蓋かと疑ったのである。ここにも初夏の気分が味わわれる。
  皇神祖《すめろぎ》の遠御代御代はい布き折り酒飲みきといふぞ此の厚朴(巻十九・四二〇五)
 前の歌に応えた家持の作である。遠き昔はかような広い葉を折り重ねて酒を酌み交した。その風情を思い起こしている。厚朴の説明の歌であるが、これを捧げ持って客に示した家持の姿が思われる歌である。
  水伝ふ磯の浦廻の石躑躅もく咲く道をまた見なむかも(巻二・一八五)
 持統天皇の三年(六八九)四月に草壁の皇太子の薨ぜられた時の、その宮の舎人等の詠んだ歌の一つである。皇太子のおられた島の宮の林泉には、躑躅がいっぱいに咲きあふれている。その華やかさも今日はよしなく、別れを告げる心が歌われている。華やかな景に対して、かえって無限の悲哀が感じられる。
  木綿畳《ゆふだたみ》手向の山を今日越えていづれの野辺に廬せむ吾等(巻六・一〇一七)
(387) 天平九年(七三七)四月に大伴の坂上の郎女が賀茂神社に参詣し、ついでに相坂山を超えて琵琶湖畔に到り、夕方に帰りきたって詠んだ歌である。あたかも山野を跋渉する好季節になり、行き暮れて知らぬ野辺に廬《いおり》するのも苦痛ではなくなった頃として味わうべきである。歌の心には知らぬ野辺に宿りする心細さが感じられるように歌われているけれども、実はもっと明かるい軽い気持で詠まれているのであろう。それを今日の人は、かえって寂しい気持があるように感じているであろう。都会人のもつ初夏の憂鬱とでもいうようなものが、現代の解釈としては先に立つのである。
 
       五月
 
 万葉時代の前期を飾る女流歌人額田の王には、幾多の美しい歌がある。次の歌もその豊麗な詞藻の一つとして知られている。
  茜さす紫野行き標野《しめの》行き野守は見ずや君が袖振る(巻一二〇)
 この歌は天智天皇の七年(六六八)五月五日に、天皇の蒲生野に猟せられた時の額田の王の歌である。五月五日は、陽数の重なる時として、万物ことごとく活動するので、特にその意味の行事の行なわれる日である。この日に行なわれる猟を薬猟という。男子は鹿をとって、その角のいまだ袋になっているものを得て薬とするのである。女子もまた野外に出でて薬草などを採る、この日に取ったものが特に効果が多いというのである。そこで宮廷の王臣以下、ことごとく出でて猟をする。紫野というのは紫草を栽培してある苑で、非常に厳重な監督のもとに置かれてある禁園である。その紫野、すなわち標野《しめの》であって、みだりに人の入るのを許さざるところである。その禁断の園生に立ち寄って、君が袖振るのを野守は見ているではないかというのが、この歌の大意である。茜《あかね》さすは、紫の枕詞であるが、美しい言葉で、茜と紫と並んでこの歌の色彩をなしている。薬猟の日にたまたま起こったできごとを伝える歌として知られている。
  たまきはる宇智の大野に馬|並《な》めて朝踏ますらむその草深野(巻一・四)
(388) 舒明天皇が宇智野に猟せられた時の長歌の反歌で、別に薬猟としては伝えられていないけれども、夏の草深き野を猟せられるのであり、また天皇を始めまつり中皇命もお出ましになっているので、それが薬猟であることは疑いをいれない。その猟の日に中皇命の御命によって間人連老の作って奉った歌である。「たまきはる」は枕詞、宇智の大野に馬をならべてお立ちになっているのを拝察し奉っているので、雄大な気分の感じられる歌である。十六の巻の、鹿のために痛みを述べて作った歌の中に、「八重畳平群の山に四月と五月の間に薬猟仕ふる時に」とも歌われておって、四月から五月にかけて行なわれていたことが知られる。
  杜若衣に摺りつけ丈夫のきそひ猟する月は来にけり(巻十七・三九二一)
 この歌は四月五日に大伴家持が詠んでいるが、杜若《かきつばた》の花を衣装に摺りつけて丈夫のきそい猟をすると歌ったのは、やはり薬猟と見られるのである。「きそひ猟」は衣服を着装いて猟する意味であって、美しく着飾ってゆくことを歌っている。
  春日野の藤は散りにて何をかも御狩の人の折りて插頭さむ(巻十・一九七四)
 この猟も薬猟である。藤の花を插頭にして、春日野の草深い中を駈けまわる大宮人の姿が写し出されている。しかも藤の花はすでに散って、いまは插頭にすべき花のないことがここに描かれてある。
  五月の花橘を君がため珠に貫く散らまく惜み(巻八・一五〇二)
 大伴の坂上の郎女の歌である。古人が珠を愛すること非常なものがある。五月になって橘の花が白珠のように少しふくらみを見せてくると、これを緒に貫いて薬玉にかける。その風流は近世人の及びがたいものがある。橘の花の散らんことを惜んで、君のためこれを玉の緒に貫いている。説明的な歌であるが、花橘に対する愛情はよく描かれている。
  霍公鳥いたくな鳴きそ汝が声を五月の玉にあへ貫くまでに(巻八・一四六五)
 藤原の夫人の歌である。橘の花を玉に貫くまでは風雅な事実であったが、さらに進んでここには霍公鳥の声を交えて貫かんという五月の風情を歌っている。その声を愛しそれを玉になぞらえて緒に貫くところに思い設けた風情がある。(389)薬玉の飾に時の花を緒に貫いた時代にあって、初めて趣の感じられる歌である。
  霍公鳥汝が初声は吾にもが五月の珠に交へて貫かむ(巻十・一九三九)
 これは作者未詳の歌であるが、同じく霍公鳥の初声を恋うる心からこれを玉に貫こうと歌っている。
  五月山花橘に霍公鳥隠らふ時に逢へる君かも(巻十・一九八〇)
 これも作者未詳である。五月山という名の山はあるではあろうが、ここでは五月の山として解したい。その山の名からして五月の景をここに歌っていると見るべきである。花橘の繁みに霍公鳥が隠れている。これも夏の景況の一つである。
  霍公鳥来鳴く五月の短夜も独し宿《ぬ》れば明しかねつも(巻十・一九八一)
 この頃は短夜として知られている。美しい詞の中に含む哀怨の情が窺われる。
  我が兄子《せこ》が宿のなでしこ日並べて雨は降れども色も変らず(巻二十・四四四二)
  雨の降り続く頃で、その雨の日に瞿麦《なでしこ》の花が可憐に咲き続けている、という意味の歌である。大伴家持の作である。今日も雨、今日も雨、その陰鬱な霧雨のもとに大和撫子が美しく咲き驕っている。その可憐な花を愛したのである。
  あぶらの火の光に見ゆる我が※[草冠/縵]《かづら》さ百合の花の笑まはしきかも(巻十八・四〇八六)
 五月九日、秦石竹の館に宴した時に、大伴家持の詠んだ歌である。当時はあぶら火は明るいものとして感じられていた。その光のもとに照し出された百合の※[草冠/縵]の美しは人の心を打つに足りたのであろう。その花を見るより微笑が感じられると歌っている。これも時の花の美しさを愛した歌と見るべきである。
  紫陽花の八重咲く如くやつ世にをいませ我が兄子《せこ》見つつしのはむ(巻二十・四四四八)
 五月十一日に丹比国人の家に宴を開いた時に、左大臣橘諸兄が紫陽花《あじさい》に寄せて主人を祝ったのである。幾重にも重なり合って咲いているその花は、数の多いことを叙する材料としてふさわしいものである。この花の幾重にもなって咲いているように、幾重にも栄えませといったところに手段がある。これは結局紫陽花の特色を現わしたことにもなる。こ(390)こにも夏の花の一つが歌に入っている。この月はかような特色のある花の多い月である。
 
       六月
 
 上代の暦では四月、五月、六月を夏とするので、六月は夏季にあたるのであるが、実際の季節は暦よりは約一月遅れるので、六月が一番暑い時になるのである。それでこの月は、水無月といい暑熱の時期となされている。
  不尽《ふじ》の嶺に零り置ける雪は六月《みなつき》の十五日《もち》に消ぬればその夜降りけり(巻三・三二〇)
 作者未詳の不尽山の長歌の反歌である。六月の中でもその中央である十五日をもって一番暑い日を現わしている。四季雪をもって蔽われる不尽の高嶺も、この日だけは雪が消えるが、しかしまたその夜に降るというのである。一年中消えずにいるというよりも、最も暑い一日だけは消えるが、すぐその夜にはまた降るという言い方が効果的である。六月十五日をもって暑熱の最も激しい日とした現わし方も巧妙である。
  六月《みなつき》の地さへ割けて照る日にも吾が袖乾めや君に逢はずして(巻十・一九九五)
 ここにも六月をもって最も暑い月となすことが出ている。土までも裂けて照る日というので夏の烈しい日ざしが描かれている。この歌も前と同じように一年中の極暑の時をあげて、その日といえども君に逢わずしてはわが泣きぬれた袖はかわくまいと歌っている。集中、暑熱を歌う歌はきわめて稀であって、ただこれらのみがあげられるにすぎない。要するに生活上苦痛の季節であって、これを歌にする余裕を生じなかったのであるが、ここには烈日を描く必要から歌われているのである。この歌も作者未詳である。
  渡る日の影に競ひて尋ねてな清きその道またも遇はむため(巻二十・四四六九)
 大伴家持が病にふして無情を感じて道を修めんと欲し詠んだ歌である。六月十七日に作られている。ここには別に夏の烈しい日影は描かれているのではないが、たまたま夏の暮れがたき日影の歌われている点に多少の興味がある。この(391)長い一日中を無駄にすることなく道に志してゆこうとするのである。清きその道は仏道を意味しているであろう。会いがたきその道に会わんがために夏の長き日をかけて道を得ようとする心が歌われている。
  この見ゆる雲はびこりてとの曇り雨も降らぬか心|足《だら》ひに(巻十八・四一二三)
 天平感宝元年(七四九)の大伴家持の作である。この年は閏五月六日以来旱天続きであって、百姓の田畝には凋める色があった。六月一日に至ってたちまち、雨雲のけはいを見て、その夕方に大伴家持の作った歌である。この頃は暑い日が続くのであるが、農作物にとっては成長の時期であり、適度の雨量を必要とするのである。しかもしばしば雨降らざることが続くので、ここに雨を請う必要があり、この歌もそのために雨をねがつている。今見えている雲がひろがりはびこって、空かきくもり満足するまでに雨も降れかしと歌っている。日ごとの天象にも心をとめているのである。
  我が欲りし雨は降り来ぬ斯くしあらば言挙せずとも年は栄えむ(巻十八・四一二四)
 同月四日に家持の作った歌で、ついに望んだ雨は降ってきた。かくのごとくならば、言挙げすることなくとも穀物の稔りは十分であろうと歌っている。言挙げは、下の者から上位のものに対して申し出る意味であり、ここでは神に対して祈願をこめる意味に用いられている。「我が国は神ながら言挙せぬ国」と歌われている。すべて神のなし給うままに自然に栄えていく国であって、言挙げをしないのを本則とする。風雨時を得て順におとずれるのが、最も望ましいのであって、この月としてはことにそれが都合よく進行することが喜ばれたのである。
  吾が屋戸《やど》の萩咲きにけり秋風の吹かむを待たばいと遠みかも(巻十九・四二一九)
 六月十一日家持の歌である。萩は秋咲くものとせられているが、越中の国土は秋の訪れること早くして、ここに萩の早き花の咲くを見たのであろう。しかし季節はまだ夏であり、秋風のおとずれてくるのには間がある。これに先だって咲いた萩の花に、やがて秋の来んことを知る。その暑い季節の下にすでに秋のけはいの動いていることを感じたのである。
  吾が屋前《には》の萩の下葉は秋風もいまだ吹かねば斯くぞ黄変《もみ》てる(巻八・一六二八)
(392) 天平十二年(七四〇)六月の家持の作で、時はずれの藤の花と萩の黄葉との二枝を折って、坂上の大嬢に贈った歌の一つである。これは奈良の都でのことであるが、ここにもまだ秋風の吹かないのに、すでに黄変した萩の下葉を取り立てて歌っている。これは順当の季節の推移によって現われたものではないが、秋の物である萩の黄葉のまずおとずれたことに興味を感じており、秋ならずして秋の景物の現われたことに心をとめているのである。四、五句はまだ秋風も吹かないのに、かように黄葉したといっている。「黄変てる」は、もみじを動詞にし、もみじているという意味に助動詞をつけて現わしている。
 
       七月
 
 七月に入ると、秋の気はすでに動いて、大空の色にもそれと知られる。
  今よりは秋づきぬらしあしひきの山松かげに晩蝉《ひぐらし》鳴きぬ(巻十五・三六五五)
 天平八年(七三六)の遣新羅使の一行中の一人の作である。この行は何月何日に出発したかは明らかでないが、秋になったならば帰ってこようといってきたものを、途中難風にあって往路筑紫の館に渡ってすでに秋を迎えたのである。山松の陰に晩蝉の鳴くを聞いて、秋のまさしくきたことを歌っている。晩蝉は旧の七月になると鳴きはじめるのであって、これも季節によっておとずれてくるものの一である。
  秋萩ににほへる吾が裳ぬれぬとも君が御船の綱し取りてば(巻十五・三六五六)
 同じ時七月七日の夜天漢を仰いで大使阿倍継麻呂の詠んだ歌である。この人は不幸にして新羅の地で死んでしまった。その人の七夕の歌を見るのもあわれである。七夕はシナの古伝説に出ている。天に牽牛、織女の二星があり、各その職に勤めていたので、天帝がこれを憐れんで結婚せしめたところ、その業務を怠るに至ったので、銀河を中に距てて住ましめ、一年に一度だけ会うことを許したというにもとづく。この夕、星を祭って手芸の上達を願い、また詩歌を賦して(393)その恋を憐れむのである。この歌は、織女星に代わって詠んでいる。秋萩で染めたわが裳がよし濡れても、夫の乗ってきた船の綱を取り得たらば満足であるよしを歌っている。美しい裳を着けた女子の、天の河辺に下り立って、牽牛の船の綱を引き寄せている姿を想像している。七夕の歌にふさわしい美しさをもった歌である。
  牽牛《ひこぼし》の嬬《つま》迎へ船|榜《こ》ぎ出らし天の河原に霧の立てるは(巻八・一五二七)
 山上憶良の歌である。同じく彦星が妻を迎えるために舟を榜ぎ出していると想像している。天の河原に霧の立つ秋の景色が歌われている。元来七夕の歌はもと想像の上に出ているのであるから、写実風のものが少ないのであるが、この歌は秋になって川霧の立つ趣を描いているところに風情があるのである。
  吾が待ちし秋萩咲きぬ今だにも染《にほ》ひに行かな遠方人《をちかたびと》に(巻十・二〇一四)
 人麻呂集から出た七夕の歌である。秋になって萩の咲いたことにより、遠方にいる恋しき人の衣を染めに行きたいと歌っている。織女星の心情を詠んだ歌である。
  秋風の吹きただよはす白雲はたなばたつめの天つ領巾《ひれ》かも(巻十・二〇四一)
 想像の豊かなのがよいのである。天上を仰ぎ見れば、白雲一片、秋風の吹くにまかせて飄々と飛んでいる。それを織女星の領巾かと歌っている。領巾は白い薄布で作り、婦人の肩から掛ける衣装であるので、白雲をこれに見立てたのが適切に感じられるのである。
  このゆふべ零《ふ》り来る雨は彦星の早榜ぐ船の櫂の散沫《ちり》かも(巻十・二〇五二)
 七夕の夕に雨の降りたきるを牽牛が妻に会うために榜ぐ舟の櫂の飛沫かと疑っている。ここにも豊かな想像を見るべきである。
  足玉も手珠《ただま》も玲瓏《ゆら》に織る機《はた》を君が御衣《みけし》に縫ひ堪《あ》へむかも(巻十・二〇六五)
 織女星の美しく身装をととのえて機を織っているさまを描いている。上代にあって機織は婦人の手芸としてこれをなすは上等の人と感じられていた。その機を織る嬢子の手足の珠のゆらめくさまが描かれている。これも美しい想像であ(394)る。
  秋風の清きゆふべに天漢《あまのがは》舟榜ぎ渡る月人をとこ(巻十・二〇四三)
 これも七夕の歌であるが、ここではむしろ月が主になっていて、その大空を渡る姿が歌われている。月を船に譬えることは漢詩にもあり、似合わしき譬喩であるが、ここには月を人格化し、その人が舟を榜いでいると歌っている。清らかな歌である。以上四首ともに作者未詳の歌である。
  吾が岳にさを鹿来鳴く先芽《はつはぎ》の花嬬《はなづま》問ひに来鳴くさを鹿(巻八・一五四一)
 大伴旅人の作である。秋になって萩の花がまず咲き出た風情を歌っている。萩は鹿の妻であるという風流な想像から、その萩の花嬬を訪れに鹿が来て鳴くと歌っている。鹿の歌も多いが、いまここにこの一首をあげておく。
  宮人の袖つけ衣秋萩ににほひよろしき高円《たかまと》の宮(巻二十・四三一五)
 大伴家持の作で高円の宮の秋の景色が歌われている。袖つけ衣は袖の先に端袖のついている長袖の衣であって、大宮人の装いである。その美しい着物を着て、萩の咲き匂うほとりを歩いているさまが歌わている。
  丈夫《ますらを》の呼び立てしかばさを鹿の胸分け行かむ秋の萩原(巻二十・四三二〇)
 秋にもなって鹿狩の季節にもなった。この殺伐なわざが美化せられて歌われている。勇士が立ち向かうときに鹿が喜んで出てくるように歌っている。一面の萩原の中を、さを鹿が、胸でおし分けて呼ばれる方へ進んで行くその姿が詠まれている歌である。
  斯くのみにありけるものを萩が花咲きてありやと問ひし君はも(巻三・四五五)
 天平三年(七三一)七月に大伴旅人の薨じた時に資人の余明軍の詠んだ歌の一つである。旅人は九州にあったときには奈良の都を慕い、その地を見たならばいやしきわが身も若がえるであろうと歌っていた。天平二年十二月に都に帰るに至っては、さらにまたその少年時代を過した明日香の地を恋い慕っていたようである。天平三年の夏から秋にかけての頃、栗栖の小野の萩の花の散りなん頃には行ってみようと歌っている。しかも病に臥して、萩の花が咲いているかと傍(395)の者に問いながらその風流な一生を終わったのであった。万葉時代における七月のできごとの一つとしてこれを記しとめておく。
 
       八月
 
 八月になれば、秋もいよいよ深くなって、野山の草もそれぞれに花をつけてくる。古人の花を愛することは、一とおりでないものがある。他に心を寄せるものが少なく、生活の様式が単純であっただけに、花に心をひかれることが多いのである。
  秋の時花|種《くさ》なれど色別《いろごと》に見《め》し明らむる今日の貴さ(巻十九・四二五五)
 これは大伴家持が、都に上る途中、宮中で秋の花の宴を開かれる時の詔に応ぜんがために、あらかじめ詠んだ長歌の反歌である。季節季節の花があり、ことに秋には花が多く、種々に咲くけれども、その一種ごとに御鑑賞あそばされる今日の貴さを歌っている。後の世の菊花の御宴にも比すべき風趣多き御行事である。
  君が家に植ゑたる萩の始花《はつはな》を折りて插頭《かざ》さな旅別るどち(巻十九・四二五二)
 このとき家持は隣国の越中の国の大伴池主の館で、都から上ってきた久米広縄に会っている。そこでこの歌があり、この家の庭に咲いた萩の花を折ってともに插頭して別れを惜しんでいる。「插頭さな」は、かざしたいの意味に希望を述べている。秋の花を手折って旅の途中に別れを惜しむ、往くものも帰るものも思い出の多い別れである。
  石瀬野《いはせの》に秋萩凌ぎ馬並めて始鷹猟《はつとがり》だに為ずや別れむ(巻十九・四二四九)
 大伴家持がまさに都に上ろうとして別れを惜しんだ歌である。これから鷹狩の季節がくるのである。萩の花を踏んで鷹を手にして猟をする、それをだに君と共にせずして、別れることの名残り多いことを歌っている。「始鷹猟」は、その年の秋はじめて行なう鷹狩をいう。当時の地方官の風流見るべきである。
(396)  秋の野に咲ける秋萩秋風に靡ける上に秋の露おけり(巻八・一五九七)
 同じく家持の歌で、秋の語を用いること多く、巧みを好んでかえって作りものに堕しているけれども、また秋の風懐を見るには足りよう。秋の景況を強いるように畳みかけて歌っている。
  高円《たかまと》の尾花吹き越す秋風に紐解き開《あ》けな直《ただ》ならずとも(巻二十・四二九五)
 八月十二日の宴に大伴池主が詠んでいる。高円は奈良の都の東方に当たる地名で、高原風の地勢をなしていた。その高円野の尾花を吹き越してくる風の衣の紐を解いて悠々自適しようとしている。五句の「直ならずとも」は、尾花に直接ふれずとも、それを吹き越す風によって、その趣きをわが身に受け入れようというのである。直接でなくともの意味に解される。
  秋の田の穂向《ほむき》見がてり我が兄子《せこ》がふさ手折りける女郎花かも(巻十七・三九四三)
 八月七日の夜の宴に、大伴家持の詠んだ歌である。「我が兄子」は大伴池主をさしているのであろう。この夜の宴に池主がふさふさと女郎花《おみなえし》を手折ってきた。その花は秋の田の稲穂の模様を見るついでに手折ってきた花である。女郎花は野に咲く花として親しまれる。その趣きの味わわれる歌である。
  をみなへし咲きたる野辺を行きめぐり君を思ひ出|徘徊《たもとほ》り来ぬ(巻十七・三九四四)
 前の歌に対する池主の反歌であって、いかにも女郎花の咲いた野辺を徘徊して、君を思って折ってきたのであると答えている。宴に招かれて女郎花を折って訪れる風情を味わうべきである。山上憶良の秋の七草の歌は有名であり、秋の野の花の優れているものは、つくされているが、その歌にも女郎花は入っており、古人が、深くこの花を愛したことが知られる。
  朝戸開けてもの思ふ時に白露の置ける秋萩見えつつもとな(巻八・一五七九)
 この頃白露のおくことが多い。露は萩の花に宿った風情が常に歌われている。この歌は天平十年(七三八)八月二十日橘諸兄の家の宴に、文馬養の詠んだ歌である。朝戸を開けて見ると、白露のおける秋萩がおのずからに目にふれて、秋(397)の思いを深からしめる、感傷的な歌である。
  さを鹿の朝立つ野辺の秋萩に玉と見るまでおける白露(巻八・一五九八)
 これも大伴家持の作で、やはり萩の花においた露を詠んでいる。鹿の鳴く声の耳につく頃で、ここにも萩に鹿が配せられている。
  山彦のあひ響《とよ》むまで妻恋に鹿鳴く山辺に独のみして (巻八・一六〇二)
  この頃の朝けに聞けばあしひきの山を響《とよも》しさを鹿鳴くも(同・一六〇三)
 同じく家持で、天平二年(七三〇)八月十三日に作っている。鹿の声は鋭くして秋の山辺に響いて聞える。しかもそれは妻を恋うる情の切々たるものがあって、この点聞く人の心を打つことが強いのである。鹿の声を聞いて痛む心が歌われている。
  秋の夜は暁《あかとき》さむし白栲《たへ》の妹が衣手著むよしもがも(巻十七・三九四五)
 大伴池主の作である。ようやく朝寒夜寒の季節となり、ひとり旅に出て家郷を思う情の切なるものがある。暁の寝覚に沁々と触れた寒さが描かれている。白栲は染めてない衣で麻などをいう。その妻の衣を着るよしもあれかしと歌っているのである。
  をとめらが玉裳裾びく此の庭に秋風吹きて花は散りつつ (巻二十・四四五二)
 八月十三日の内裏の宴に、安宿《あすかべ》の王の詠んだ歌である。宮仕えの嬢子たちが美しい裳をひき延《は》えて、庭前を緩歩している。おりしも秋風吹ききたって一面に咲いている秋草の、花のほろほろと散り乱れる、その美しい景色が歌われている。今を盛りと咲き乱れる時の花も、ようやく秋風の誘いくるのをいかんともなしがたき風情である。
  今朝の朝け秋風寒し遠つ人雁が来鳴かむ時近みかも(巻十七・三九四七)
 これは大伴家持の作である。ここにも朝早くして風の寒いことが歌われている。かくして秋はようやくふけまさり、やがて北方から雁の訪れきたる時節が近づいてくる。遠方から訪れくる雁を「遠つ人」と叙したところに、無限の感慨(398)が宿される。その鳥の来る時期が近くして秋風の寒くなったことを歌っているのである。
 
       九月
 
 昔の暦では、九月は秋の終わりになっているけれども、今日からいえば、なお秋たけなわの頃である。田園には稲が実り雁もようやく訪れてくる。この頃の山の寂しさもまたひとしおである。
  わが夫子《せこ》を大和へ遣るとさ夜更けて暁露《あかときつゆ》に吾が立ち霑れし(巻二・一〇五)
  二人行けど行き過ぎがたき秋山をいかにか君がひとり越ゆらむ(同・一〇六)
 天武天皇が九月九日に崩御になり、つづいて大津の皇子がひそかに伊勢の神宮におもむかれたときに、姉君の大伯《おおく》の皇女が御弟大津の皇子の都に上る姿を見送って詠まれた御歌である。この生別、またいつ逢うともわからない心細さを二首の短歌に寄せて歌われている。夜いまだ深くして大和の方へ出で立つ弟君の、その前途を見送っていると、いつしか暁方の露がしっとりとおいてすっかり濡れてしまった。わが弟は二人で行っても行きかねる秋山を、いかにして一人で越えているであろう。荒涼たる山路の思いが皇女の御心を打つのである。この寂しさは秋の季節にして、ことに趣が深く感じられる。
  巨勢《こせ》山のつらつら椿つらつらに見つつ思ふな巨勢の春野を(巻一・五四)
 大宝元年(七〇一)九月に持統太上天皇が紀伊の国に御幸せられた時に、坂門人足が葛城山の麓の巨勢の野で詠んだ歌である。一面につらなっている椿は秋の日ざしを十分に受けて、その葉が照り輝いている。この秋の日の面白さは、春の美景を想像させるものがある。しかしここにはそれによりて秋の野の美しさが描かれている。
  然あらぬ五百代小田《いほしろをだ》を刈り乱り田廬《たぶせ》に居れば京師し念ほゆ(巻八・一五九二)
 大伴の坂上の郎女が竹田の圧にあって詠んだ歌である。稲も刈り頃になった。人々に逢わず日を過ごして遥かに京師(399)を思って詠んでいる。収穫の時節の忙しさが間接ではあるが描かれている。
  吾が業《なり》なる早田《わさだ》の穂立造りたる※[草冠/縵]ぞ見つつ偲ばせ吾が夫《せ》(巻八・一六二四)
 坂上の郎女の娘なる坂上の大嬢が稲で作った※[草冠/縵]を大伴家持に贈った歌である。種を下し、早苗とりから手をつくして育ててきたその稲で※[草冠/縵]を作って贈った歌で、田園に対する当時の人々の立場が歌われている。この作者がみずから作った稲ではもちろんないけれども、それに親しんできたことは事実である。それをかようなことに慣れていない都人の家持に送って、田園の香りを思わしめたのである。
  九月《ながつき》のその初雁の使にも念ふ心は聞え来ぬかも(巻八・一六一四)
 遠江守桜井の王が聖武天皇に奉った歌である。今や雁の訪れて来る季節となった。ここからそちらへ行く初雁の使いに、思う心は寄せて送るのでありますけれども、それはそちらへも通じているのではないでしょうかと歌っている。初雁の使いに託して送る心を、雲井の空には聞き給うや、いかに、というのである。初雁の使いは故事があるが、初雁の使いに思いを寄せ、思いを送るといった点が面白いのである。
  ひさかたの雨間もおかず雲|隠《がく》り鳴きぞ行くなる早田《わさだ》雁がね(巻八・一五六六)
  雲隠り鳴くなる雁の去きて居む秋田の穂立繁くし念ほゆ(同・一五六七)
 ここにも雁の訪れて来る田園が歌われている。秋深き頃の風情というべきである。いずれも大伴家持の作。
  雨隠り情|鬱悒《いぶせ》み出で見れば春日の山は色づきにけり(巻八・一五六八)
  雨晴れて清く照りたるこの月夜夜くたちにして雲な棚引き(同・一五六九)
 これもいずれも大伴家持の作である。この頃は雨が多い。すべての草木を腐らせるように降る雨に、心も鬱陶しく閉じ籠つていたのであるが、たまたま出て見ると春日の山はすっかり色づいている。またその雨の晴れた夜の月の美しさ。このまま雲の隠すことのないようにと思うのも人情である。
  九月《ながつき》の時雨の雨にぬれとほり春日の山は色づきにけり(巻十・二一八〇)
(400) 以下作者未詳の歌である。ここには九月の雨があらゆるものをぬらし、底の底までとおってゆく気持が歌われている。その雨にぬれとおされている春日の山が色づいてきた。季節の雨の催しきた景色が十分に描かれている。
  九月の白露負ひてあしひきの山のもみぢむ見まくしも良し(巻十・二二〇〇)
 野にも山にもいっぱいにおく白露に、山はようやく黄葉はじめてゆく。それを楽しみに見る心、それは古の人で始めて感じられるゆったりした気持である。人間世界の娯楽の少ない時代にあって眺められる山の姿である。
  白露を玉になしたる九月の在明《ありあけ》の月夜見れど飽かぬかも(巻十・二二二九)
 ま夜中から明るくなってくる月の光に、庭いっぱいにおいた白露は、玉と輝いている。これも秋をおいて見ることのできない風趣である。
  九月の在明の月夜ありつつも君が来まさば吾恋ひめやも(巻十・二三〇〇)
 この歌の初二句は、「ありつつも」といわんための序であるけれども、しかもその序はいたずらにおいたのではない。この良夜を君が来まさずば、なんともしかたがないの意味に歌われている。ただし調子がよく滑り過ぎて、いささか軽薄になった感じがあるのは、やむを得ないところである。
  誰《た》そ彼と我をな問ひそ九月の露に濡れつつ君待つ吾を(巻十・二二四〇)
 袖もぬれそぼつまで、露にぬれて君を待っているのを、怪しんで問うことなかれというのである。秋の露のしっとりおくなかに立ちつくして人を待つ気持が歌われている。
  九月の時雨の雨の山霧のいぶせき吾が胸誰を見ば息まむ(巻十・二二六三)
 時雨の雨が霧のように山をおおうて襲ってくる。そのような晴れやらぬわが心は誰を見たら晴れゆくであろうか。山近く家居をしながら、九月の雨に閉じ籠められた寂しい気持が、その山霧を使って序としたこの歌によって現われている。実景を序にとりなしてゆくところに手段が存するのである。
  天雲のたゆたひ来れば九月の黄葉の山もうつろひにけり(巻十五・三七一六)
(401) 天平八年(七三六)の遣新羅使の一行が対馬にて作った歌の一つである。都を出て遥かなる路を天雲のところ定めぬようにさすらいつつ来れば、いま、一面に染めつくした秋の山もすでにうつろう色を見せてきた。秋も終わりになったのである。都を出る時は秋になったら帰ってこようと約束をしたものを、その秋が空しく去り、錦を成した山の黄葉も、ついに旅先で衰えてゆく。秋の過ぎゆく寂しさがしみじみとこの旅人の胸を打つのである。かくて暦の上の秋が過ぎ去ると共に、事実秋の景色も衰えてゆくのである。
 
       十月
 
 暦の面はいよいよ冬になって十月に入る。しかし実際の季節では秋の終わりの気分が濃厚である。時雨の雨の降りつづく中に、紅葉の移ろいゆくのが目立つ頃である。
  背《せ》の山に黄葉|常敷《とこし》く神岳《かみをか》の山の黄葉は今日か散るらむ(巻九・一六七六)
 大宝元年(七〇一)の紀伊の国への行幸の時の歌である。この時の行幸は九月から十月にかけて行なわれた。大和を出る時にはなお秋のたけなわの頃であったが、いま紀州からの帰りに背の山にさしかかると、黄葉が一面に散り敷いている。都近き三輪山の山黄葉も、今日は定めて散っているであろうと推量している。長い旅に出ていた間に、季節のいつしか移り変わっているのに心を傷ましめた歌である。この歌は柿本人麻呂歌集から出た歌と推測される。
  時雨の雨間無くな零りそ紅ににほへる山の散らまく惜しも(巻八・一五九四)
 天平十一年(七三九)の十月の維摩講《ゆいまこう》に、琴に合わせて歌われた歌である。維摩講は維摩大士の忌日に、維摩経を講ぜられるのをいう。琴に合わせて歌われた歌であるから、いつの作とも知られない。歌そのものは間なく降る雨のために山の紅葉の散りぼいゆくのを惜しむ意味であるが、この場合は無常を傷む心が寄せられているのであろう。秋深くなって、草木の葉の枝頭を辞してゆくのに、人生の無常を感じるのは自然の情である。美しい言葉の中に潜む哀愁を味わう(402)べきである。
  黄葉を散らす時雨にぬれて来て君が黄葉をかざしつるかも(巻八・一五八三)
 橘奈良麻呂の家の宴に、久米の女王の詠んだ歌である。黄葉をぬらす時雨の雨にぬれてきて、その黄葉を插頭にして遊んだ風情が歌われている。
  奈良山の峯の黄葉取れば散る時雨の雨し間無く零《ふ》るらし(巻八・一五八五)
 同じ時の県犬養吉男の作である。時雨の雨のぬれて、手を触るれば散る黄葉のはかなさが歌われている。もう黄葉も枝にあるに堪えられなくなったのである。
  あしひきの山の黄葉今夜もか浮び去ぬらむ山川の瀬に(巻八・一五八七)
 同じ時の大伴書持の作である。夜の間をも待たずに、黄葉は谷川の瀬に流れてゆく。これを惜しむ情のよく現われている歌である。
  奈良山をにほはす黄葉手折り来て今夜かざしつ散らば散るとも(巻八・一五八八)
 これも同じ時の三手代人名の作である。黄葉をかざして今夜共に遊ぶから、もう散ってもよいという意味で類想の多い歌である。古人がかように自然の美しさに心を慰めた趣が窺われる。
  十月《かむなづき》時雨に逢へる黄葉の吹かば散りなむ風のまにまに(巻八・一五九〇)
 これも同じ時の大伴池主の作である。時雨にあった黄葉のもろさが歌われている。雨にあった黄葉は風が吹けば吹くままに散ってゆくのである。これらの黄葉の歌は、いずれも十月十七日に集まって宴を開いた時の歌であるが、『万葉集』ではこれを秋の部に収めている。月からいえばすでに冬に入っているのであるけれども、秋の景物として見るべき黄葉を主としているので、ここに収めたものであろう。
  九月の時雨の雨の山霧のいぶせき吾が胸誰を見ぱ息まむ。一に云ふ、十月時雨の雨降り(巻十・二二六三)
 この歌は九月の時雨の雨が詠まれているが、別伝として、「一に云ふ、十月時雨の雨降り」としているのは、時雨の(403)雨が、九月、十月にわたっていずれにしても通ずるからである。その雨によって起こされる山霧から、四句のいぶせきをひき起こしている。すでに九月の条にもあげておいた歌である。
  十月時雨の雨にぬれつつや君が行くらむ宿か借るらむ(巻十一・三二一三)
  十月雨間もおかず零りにせば誰が里の間に宿か借らまし(同・三二一四)
 この二首は問答の歌である。この蕭々として降る雨に濡れながら君が行くことであろうか、あるいはどこかに宿を借りているであろうかと歌ったに対して、その雨のやむ間もなく降ったならば、いずくの誰の里に宿を借りるべきだろうかと歌っている。問答としては平凡であって、少しも情熱的なところがない。問うほうもただいずれであろうかと疑っており、答えるほうも雨が降ったらどこかに宿を借りようと歌っているだけである。しかし十月の雨が旅する人にとってわずらわしいものであったことは感じられる。
  十月時雨の常か吾が兄子《せこ》が屋戸のもみぢ葉ちりぬべく見ゆ(巻十九・四二五九)
 大伴家持が梨の黄葉を見て詠んだ歌である。この木の黄葉の今にも散りそうに見えるのは、十月に降る雨の常かと疑っている。目に触れたところを歌ったにすぎないけれども、自然の移り変わりに心をとめている故人にして詠み得るところである。
  百伝《ももづた》ふ磐余《いはれ》の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ(巻三・四一六)
 大津の皇子は九月にひそかに伊勢に下り、そこから都に帰ってきたのであるが、謀叛を企てたことが現われて、十月に磐余の池のほとりで死を賜わった。そのときに従容として、池上に鳴く鴨に別れを惜しんだ歌である。池面に十月の短い日の光が暮れてゆくのに、波に浮ぶ鴨は寒々と鳴いている。しかしその声を聞き、その姿を見るのも今日限りで、いまこれから自分は遠く天に帰ってしまうであろうと詠まれている。死を見ること帰するがごとく、従容として、池上の鴨に別れを惜しまれた辞世の作である。季節はようやく冬らしくなって、池には水鳥が浮いているのである。そういう推移を心にとめて生きていた世界がここにも描かれている。
 
(404)       十一月
 
 春たがやし夏くさぎった耕作も、秋になって成熟し長い間の労苦は報いられて、収穫を見るに至る。そこでその後にくるものは、新たに得た穀物をもって神を祭ることであり、またたがやした人々自身の心の安まりでもあるのである。十一月はちょうどその期節で、神を祭る時期とされている。新嘗祭は宮中で行なわせられる祭りであるけれども、古くは民間においても行なわれたことが伝えられている。
  天地と相栄えむと大宮を仕へまつれば貴くうれしき(巻十九・四二七三)
 天平勝宝四年(七五二)十一月の新嘗祭の節会《せちえ》に、詔に応じて大納言巨勢奈※[氏/一]麻呂の詠んだ歌である。この祭りはきわめて神聖な祭りで、天皇御みずから新穀をもって天つ神を祭られるのであり、同時に天つ神からは、穀物をお授けになる儀と拝察せられる。この祭りが年々行なわれるということは、太古に天つ神から、この瑞穂の国をお授けになったことを伝えてゆく上に意味があり、国家として重大な意義を有するものである。そこで天地のあらんかぎり、わが国が続きゆくあかしとして、この祭りを行なわせられることの尊さを歌っているのである。歌柄も雄大であって内容にふさわしい作である。
 大宮を仕えまつるは、新嘗祭の御宴を行なわせられるために、宮殿を装飾奉仕したことをいう。尊くかつ、うれしき新嘗祭が、よく描かれている。
  天地と久しきまでに万代に仕へまつらむ黒酒《くろき》白酒《しろき》を(巻十九・四二七五)
 同じ時の歌で、文屋智奴の作である。ここにも天地のあらん限り永久にこの黒酒、白酒をもって御祭りを仕えまつろうと歌っている。黒酒白酒は、その年の新穀をもって作った酒で、特に木の灰を入れて作ったのが黒酒である。この御酒をもって神を祭るのである。
(405)  島山に照れる橘|髻華《うず》に插し仕へまつるは、卿大夫等《まへつぎみたち》(巻十九・四二七六)
 これも同じ時の藤原八束の作である。冬に入って橘の実の熟する頃となった。その明るんだ橘を冠の上に宿して大臣以下の公卿が奉仕することを歌っている。髻華は元来作り花で、これを冠に插して節会に奉仕したのをいう。ここでは橘を折って髻華として插するによって風情を添えている。島山は、この歌では御苑をさしていっているのであろう。この尊い神事につづく御宴に橘をさした風情が、豪華な形で歌われている。
  天地を照らす日月の極《きはみ》無くあるべきものを何をか思はむ(巻二十・四四八六)
 天平宝字元年(七五七)十一月十八日に内裏で行なわせられた御宴の歌で、淳仁天皇がいまだ皇太子にましました時の御歌である。この御宴はたぶん新嘗祭の御宴であろう。わが大いなる御国はあたかも大空を渡る月日のごとくきわみなくあるべきであるゆえに、何をか思わんという意味に仰せられている。御国を称えた尊い御歌である。
  いざ児等《こども》香椎《かしひ》の潟に白栲《しろたへ》の袖さへぬれて朝菜採みてむ(巻六・九五七)
 天平二年(七三〇)十一月に、大宰府の役人達が香椎の廟に参拝したときに、馬を香椎の浦にとめて大伴旅人の詠んだ歌である。これも十一月は神社に参拝する例である。香椎の廟は今日の官幣大社香椎宮で、仲哀天皇と、神功皇后とを祀る。いざ児どもというのは、一緒に来ている身分の低い人たちを呼びかけている。その香椎の潟に、白い織物の袖までもぬれて朝の菜を摘んでゆこうというのである。その人々は実際白い麻の衣を着ていたと認められる。朝菜は、ここでは海藻で、潟に下り立ってこれを拾ってゆこうというのである。そこで「袖さへ濡れて」の句が、意味をもってくるのである。旅人の作品中でもまた特に高雅な趣きをもって優っている作である。
  木綿畳《ゆふだたみ》手に取り持ちて斯くだにも吾は祈《こ》ひなむ君に逢はぬかも(巻三・三八〇)
 天平五年(七三三)十一月に大伴の坂上の郎女が氏神を祭った時の長歌の反歌である。この民間における祭りは、女子が主となって行なったもので、木綿畳のごときものを手に持って、祭ったものと見える。木綿畳は楮や麻のごときもので織った席《むしろ》である。それを持って祭りをすることは、作者自身としては、君に逢わんがためであると歌っている。
(406)  鳩鳥《にほどり》の葛飾早稲《かつしかわせ》を饗《にへ》すとも其の愛《かな》しきを外《と》に立てめやも(巻十四・三三八六)
 東歌で下総の国の歌である。鳩鳥の枕詞である。この葛飾の地にできた早稲をもって神を祭る。そのような神聖な夜でも、最愛のその君を戸外に立たせることはしないというのである。その反面には、この夜はきわめて神聖な夜で、男子や外来者を入れず、女子のみがひとり家を守って祭りを行なうことが知られるのである。民間に行なわれた新嘗の夜の歌として注意されるものである。
  玉|映《は》やす武庫の渡りに天つたふ日の暮れゆけば家をしぞ思ふ(巻十七・三八九五)
 大伴旅人は神亀五年(七二八)に大宰帥となって九州に下ったが、三年たって天平二年(七三〇)十一月に大納言に任命せられて、都に上ることになった。その年の十一月に、その従者たちが、まず大宰府を発して都に上る。その途中の海路である人の詠んだ歌である。
 「玉映やす」は枕詞。玉の光りが映発する意味で、ゆかしいという意味のむかしにかかっている。武庫の渡りは、今日の神戸あたりの海上である。「天づたふ」も枕詞であるが、日の枕詞にこの句を使ったのは、その日が大空を渡ってゆくのを終日見守っていた感じがよく現われている。いまや一日も夕方になって、一日中わが船の上を照らしていた日も、まさに海上に没せんとしている。武庫の渡りで、その夕日のほのかな光が美しく島を照らしている。この夕、ことにわが家を思う情が切であることを歌っている。一首の中に二句まで枕詞を使い、それを有効に用いてきた点で、この歌の感じが深くなってきている。しみじみと日の暮れゆく海上の旅愁を思わしめる歌である。
  橘は実さへ花さへその葉さへ枝に霜|降《ふ》れどいや常葉《とこは》の樹(巻六・一〇〇九)
 天平八年(七三六)十一月葛城の王等に橘宿禰の姓を賜わったときの聖武天皇の御製である。おりしも橘の実の熟する頃で、これは常緑樹にしても冬になって実の熟する樹である。霜が降っても、実も葉もまたその花も衰えないと歌わせられている。ただ花は夏に咲くので、ここでは句調のために特にこれを加えられておかれたのであろう。
  消残《けのこ》りの雪に相《あ》へ照るあしひきの山たちばなを裹《つと》に採み来《こ》な(巻二十・四四七一)
(407) すべての物に訪れてしかも早く消えた、今わずかに残っている雪に照り合っている山橘の実を、裹に採んでゆこうというのである。山橘は今日の薮柑子で、古人はかような小さい実のなるものを愛したのである。これは古人が玉を愛する心から出たもので、あらゆる草木の小さい実を愛しているのである。
  奥山の樒《しきみ》が花の名の如やしくしく君に恋ひわたりなむ(巻二十・四四七六)
 樒の花が歌われているのが珍しい。万葉の作者は、かような物の数にもないような花に心をとめている。ここではそのしきみといふ名にことよせて、しくしくを引き出している。奥山に咲いているしきみの花の名のように、重ね重ね自分は恋いつつ日を送ろうというのである。心をとめて見れば、趣のあるその花が、いましきみという名によって見いだされて歌われている。
  高山の巌に生ふる菅の根のねもころごろに降り置く白雪(巻二十・四四五四)
 十一月二十八日橘奈良麻呂の家で開いた宴に、その父の諸兄の詠んだ歌である。冬もいよいよ本格的になってきて、雪もしばしば降るようになった。「高山の巌に生ふる」は、「ねもころごろ」を引き出すための序であるが、これによって雪の降り積っているところが描かれていると見るべきである。「ねもころごろ」は「ねむごろ」を重ねた用い方で、きわめて丁寧な意味になるであろう。あらゆるものを埋めつくす雪が降っているのである。
 
       十二月
 
 十二月になって寒気は絶頂に達する。雨まじり雪降る夜の寒さは一しおであり、世上の貧窮をこの夜に思い寄せた山上憶良の貧窮問答の歌に、「風まじり雨降る夜の雨まじり雪ふる夜は」と歌い起こした手段は適切であったということができる。
  沫雪の庭に零りしき寒き夜を手枕纏かず独かも宿む(巻八・一六六三)
(408) 大伴家持の作である。特に十二月の作として記してはないが、雪の降りしく寒夜の情が描かれている。十二月の歌としては、
  十二月《しはす》には抹雪ふると知らねかも梅の花咲く含《ふふ》めらずして(巻八・一六四八)
のごとき歌がある。これは紀少鹿の女郎の歌である。「知らねかも」は、「知らねばにや」の意で疑問の条件法になる。雪をしのいですでに梅花が咲いたのを愛している。衆花に先立って開くこの花の清らかな性情が描かれている。
  今日零りし雪に競ひて我が屋前《には》の冬木の梅は花咲きにけり(巻八・一六四九)
 これは家持の作で、同じく雪中の梅を詠んでいる。枝に散るは雪か梅か、見まごうばかりの風情が描かれているのである。
  わが屋戸《やど》の梅咲きたりと告げやらば来ちふに似たり散りぬともよし(巻六・一〇一一)
 天平八年(七三六)十二月十二日に歌舞所の人々が、葛井広成の家に集まって宴を開いたときに、主人が古曲に擬して詠んだ二首の一つである。思う人に梅の花が咲いたと告げてやったならば来よというに似ている。さてその上は散ってもよいというので、共に梅花を愛しようとする心が見えている。この歌は『古今集』になっては「月夜よし夜よしと人に告げやらば来てふに似たり待たずしもあらず」となっている。そのほうが心持は複雑で、歌いもの風に伝えられていた歌であることが知られる。おそらくはこれはいずれも替え歌で、いわゆる古曲と見なすべき古歌が存したのであろう。
  み雪降る冬は今日のみ鶯の鳴かむ春べは明日にしあるらし(巻二十・四四八八)
 天平宝字元年(七五七)十一月十八日に三形の王の家に集まって宴を開いた時の三形の王の歌である。この年は橘奈良麻呂の変があって、これがために罪せられるもの多く、死するものも少なくなかった。この事変をしのいで来ん春を待つ心が寓せられているようである。いまや雪の降りつもる冬の真中であるが、やがて鶯の啼くべき春が間もなく訪れてくるであろう。春を待つ心が強く動いている。冬は当時としてももちろん好ましからざる季節であり、春を待つのは一般の人々にかよっている心であった。
(409)  うち靡く春を近みかぬばたまの今宵の月夜《つくよ》霞みたるらむ(巻二十・四四八九)
 同じ時の甘南備伊香の作である。主人の歌に和して春の気はいのすでに動ききたったことを詠んでいる。「うち靡く」は春の枕詞で、草木のなびくありさまが描かれている。今宵の月夜はすでに春の近くきたことを報じて霞んでいる。冬の中にしいて春を見いだした作品である。
  あらたまの年行き還り春立たばまづ我が宿に鶯は鳴け(巻二十・四四九〇)
 同じ時の大伴家持の作である。今年の奈良麻呂の変には大伴氏の人々多く難にあった。家持としては特に寂寥の感がある。春の、どこよりも真先にまずわが宿に訪れ来るようにと歌っている心は、思うことが多いのである。
  月読めばいまだ冬なりしかすがに霞たなびく春立ちぬとか(巻二十・四四九二)
 同じ月の二十三日に詠んだ家持の作である。暦面ではいまだ冬であるが、しかも霞はすでにたなびいている。これは春がきたのであろうかと疑っている。暦の面と実際との矛盾をここに指摘している。暦によって知るところは知識であり、しかもこれは季節を大体支配しているけれども、往々にして前後することも多いのである。古い時代の歌は事実に即して詠まれたが、時代が下るにしたがって暦面に関心をもつようになってきた。ここにも暦面を気にしていることが見えている。かくて今年も暮れて新しい年の来るのを迎えるのである。
 
 
(410)   雪驪短筆  〔一九二八年〜二九年、雑誌「アララギ」に連載。〕
 
       とほのみかど
 
 『万葉集』巻三に、柿本人麿の、筑紫に下る時の歌に、
  大君のとほのみかどとありがよふ島門を見れば神代し思ほゆ(巻三・三〇三)
という歌がある。この歌、別義なきようであるが、第二句の、トホノミカドトの、助辞トの説明に苦しむことになっていた。
 トホノミカドは、この歌をはじめ、集中八個所に出ている。トホが遠方の意で、距離の遠いのをさすことには別に異見はないい。ミカドについて、朝庭と書いたのが、この歌とともに三つ、御朝庭と書いたのが一つ、朝廷と書いたのが一つ、あとの三つは仮字書きである。読み方については、仮字書きのものを証として、すべてミカドと読んでいる。意味については、朝庭の字面によって、まずは朝廷、政府の意味を持つものと考えられる。従来の説もこれから出たものはないようである。ミカドは、元来御門戸の意である。それから転じて、一部をもって全般を推して、宮殿、宮室の義に用いる。また三様に転じて、一は朝廷、政府の意となり、二は、国土国家の意となり、三は、宮室の主人にまします天皇の意となる。このうち、『万葉集』においては、宮門、宮殿、朝廷、政府という用法まであって、天皇の意に用いるようになったのはない。これは中世以後の語である。政務を執る所という意に用いたものも、古い部分の歌には見当(411)たらないで、天平前後の作に見られるだけである。
 今集中トホノミカドの語を用いた歌について吟味してみよう。
  大君の遠のみかどと、しらぬひ筑紫の国に、泣く子なす慕ひ来まして(下略)(巻五・七九四)
 実際慕って行ったのは、太宰府であるけれども、この歌の文脈からいえば、遠のみかどとして指定しているのは、筑紫の国である。
  食国の遠のみかどに、汝等《いましら》し斯く罷りなば、平けく吾は遊ばむ(下略)(巻六・九七三)
 この歌は、天皇が、東山・山陰・西海の諸道につかわす節度使に賜うた御製である。節度使は、兵馬に関する特使で、その行く先は地方の政庁であろうが、この歌では、かならず政庁とせねばならぬこともない。
  大君の遠のみかどと思へれど日長くしあれば恋ひにけるかも(巻十五・三六六八)
 この歌は、遣新羅使の一行が、筑前の国志麻郡の韓亭に船を泊めていた時の作である。韓亭は韓地に渡海する船の泊津にある宿舎で、政庁といわるべきものではない。筑紫は太宰府があるから、遠のみかどというといわれているが、しからば、遠国で国府のある国は、すべて遠のみかどというべきであろう。この歌のごときは、遠のみかどを太宰府または国府と解しては通じない歌である。
  すめろぎの遠のみかどと、韓国に渡るわが夫《せ》は(下略)(巻十五・三六八八)
 これも遣新羅使の一行の歌である。かの地には日本府があるから、それをさしていうといわれるが、この時代の韓地は、まったく他国で、日本の使人が時に渡るのみで、官吏の常在しているところではない。韓国をさして、すめろぎの遠のみかどと称している。
  大君の遠のみかどぞ、み雪降る越《こし》と名に負へる、天ざかる鄙にしあれば、山高み川とほじろく、野を広み草こそ茂き、(下略)(十七・四〇一一)
 この歌は、大伴家持が、越中の国府にありて作った作であるから、国府をさして遠のみかどと称したとも言いえよう。(412)しかし、文脈は、越の国をさして、遠のみかどと称している。「山高み云々」も、国府の風景でなくて、越中の国そのものの叙述である。
  大君の遠のみかどと、任《ま》き給ふ官《つかさ》のまにま、み雪ふる越に下り来(下略)(巻十八・四一一三)
 これも前と同様で、越の国を、遠のみかどとしている。しかしとにかくこの二例は、国府として解してもよいのである。
  すめろぎの遠のみかどと、しらぬひ筑紫の国は、賊《あた》守る押《おさ》への城《き》ぞと(下略)(巻二十・四三三一)
 この歌は、筑紫の国々につかわされる防人の情に代って詠んだ歌である。明らかに筑紫の国をさして、遠のみかどと称している。かく見きたると、遠のみかど、かならずしも地方の政庁とのみ解すべきでないもののようである。最初に掲げた柿本人麻呂の作品にしても、太宰府とあり、通う島門と解すると、助辞トが不通となる。この点に関して、井上通泰氏の『万葉集新考』にいえるところは、傾聴するに足りる。いわく、
 古義に「島門は難波より筑紫までの間の島々をすべ云なり。さてかの島々の依合たる島門のあやしくなりいでしを見るにつけては、神の国造らしし時、いかにしてかかくはつくり出給ひけむと神の御代の事までおもはるると云ふなるべし」といへり。此説の如くならばトホノミカドトのトの言穏ならず、宜しくミカドニといふべきなり。又アリガヨフとシマトとの間にミチノといふこと無かるべからず。今の如くトホノミカドトアリガヨフシマトと云へるを味へばシマト即トホノミカドならざるべからず。否シマトは島と島との間なる船路なるべければシマトにトホノミカドのあるべきならねど少くともシマトは其遠ノミカドの入口などならざるべからず。さればここにシマトといへるは福岡湾内ならざるか。題辞に海路作歌とあるには拘はるべからず。
とある。かえりみるに、遠のみかどのミカドが政庁の意ならば、国のみかど、鄙のみかど等の語もありて可なるがごとく、府、庁等の字に、マツリゴトノヤの訓のほかに、ミカドの訓もありてしかるべきか。『新考』にいうシマトすなわちトホノミカドという説は、見つけどころである。前に掲げた、他のトホノミカドの例歌にも、トホノミカドすなわち(413)越の国、トホノミカドすなわち筑紫の国と解して、すこぶる適切なるものがある。
 島門は、島が両方から突出して、人家の門戸にくらぶべき地形なることを思えば、遠のみかどは、皇居の遠方の御門と解して、これを人々が通行し、これを作られた神代のことが思われると歌って、一首の生命が躍動するのを覚える。助辞トもきわめて適切である。
  大君の遠の御門《みかど》とあり通ふ島門を見れば神代し思ほゆ
ミカドの原文に朝庭と書いてあるのは、借字であって、かえってミカドの原義にあてはめて可なるものであろう。しかして他のトホノミカドの語を使った例にしても、越の国、筑紫の国、いずれも帝国の入口にも比すべき所、韓国またわが外門として、古人の意のあるところを汲むべきである。なまじいに一度朝庭の字を宛てたるよりして、誤解を生じきたったものと考えられる。
 
       家持と『万葉集』の巻一、二
 
 「アララギ」十月号、「万葉集私見」七に、小生がかつて、家持は現行『万葉集』の一、二を見なかったであろうと書いた文を引いて、そのしからざるべきかを説いておられる。これについて一言する。
 土屋氏の引用せられた小生の文には、家持が人麻呂の歌の影響を受けていることを認めながら、一方に巻一、二の影響はないと記してある。これは小生の文の明瞭を欠いた点であるが、理由はあることである。
 土屋氏のあげて、家持が『万葉集』の巻一、二から得たであろうとなす句は、人麻呂の歌中に見るものである。(一つだけ、「にはたづみ流るる涙」の句だけが例外であるが。)
 『万葉集』の巻一、二にある人麻呂の歌は、おおむね、一云、或云、或本歌等の異伝のあるもので、これは、人麻呂の歌が、多くの所伝を有していたことを証するものである。(414) 家持が『万葉集』の巻一、二を見たとするならば、人麻呂以外の作品からの影響をも、もっと多く見いだすべきかと考える。たとえば新都讃嘆の歌には、藤原宮役民歌、藤原宮御井歌の影響を見いだしたい。ことに巻一の感化を、あらゆる方面から受けていてしかるべしと思う。
 ゆえに家持は、『万葉集』の巻一、二から人麻呂の影響を受けないで、人麻呂集、もしくはその他から、人麻呂の影響を受けたのであろうというのが、小生の論旨であったのである。
 「にはたづみ」の句は、踏襲性を重んずる枕詞のことでもあり、かならず巻二のかの歌からの直接影響とも定めがたい。
 
       東細布
 
 巻十一の作者未詳の寄物陳思の中にある歌、
  東綿布従空延越遠見社目言疎良米絶跡間也(二六四七)
 この歌は、仙覚の新点の歌であるが、仙覚はこれを
  よこぐものそらにひきこすとほみこそまことうとからめたゆとへたつや
と読んでいる。かく読んだ理由は、その『万葉集註釈』にも出ていないから不明であるが、東細布を、ヨコクモと読んだのは譬喩の字面と見たものであろう。『代匠記』以下に横雲は東方に細布のごとくたなびくがゆえに、義をもって訓んだといえるは、けだし仙覚の意であろう。『万葉代匠記』初稿本の書入に、しののめのと読んだほか、初句については、別に異説がないようである。第二句は後の学者、ソラユ(またはヨ)ヒキコシと読み改め、第四句は、目言は、『考』にメゴトとしてこれに落ち着き、疎良米は、『略解』にカルラメと読んでいる。この歌は寄物陳思の歌であって、器物に寄する歌の間にはさまつている。前には衣、※[草冠/縵]、帯、枕、鏡、剣、弓、鼓、燈、武思侶、橋、宮材、浮※[竹/矢]緒、とあっ(415)て、次にこの歌があり、その後には、墨縄、蚊火、板、葦火、馬、道、神、月、雲、風、霧、雨、露、霜、地、山、水、野、埋木、木積、黄土、水辺、舟、木類、草類、藻類、花、玉緒、石、貝、鳥、のごとき順序になっている。この間に横雲に寄せた一首がありとするは不審である。分類した者が東細布の字面に惑うてこれを插んだと見ておくか、またはこの一首を※[手偏+讒の旁]入とするか、そうでなくば東細布を雲とせずに器物と見るか、いずれかによらねばならぬとすれば、やはり東細布の字面どおり、布の一種としたほうがおだやかであろう。その訓については別に、よい考えもないが、字に誤りがなくば東国の調布として「たづくりの」とよんでもよいかと思うが、はたしてしかりや否やを知らぬ。第三句以下は「とほみこそめごとうとからめ絶ゆとへだつや」訓んでいるのは、「遠い故に逢ひ見ることは稀ならむも、絶えむとて君は隔て給ふや」と説いている。今「間」を『類聚古集』『古葉略類聚鈔』に「問」に作っているのによれば「絶ゆと問はすや」であって、「逢ふ事こそ稀ならめ別るる心なきに君は『絶ゆ』と問ひ給ふや」との意になる。相聞の歌として、このほうが情趣に富んでいるように思う。
 
       磐代の結び松
 
 斉明天皇の四年(六五八)十一月、有間皇子を捕らえて紀伊の牟漏の湯に召した。その途上、岩代で、有間皇子の詠んだ歌、
  磐代の浜松が枝を引き結びまさきくあらば復かへり見む(巻二・一四一)
  家にあらば笥に盛る飯を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る(同・一四二)
 松が枝を結ぶ心は、霊を結びこめて、ふたたびここに呼び寄せよとなす信仰である。集中多く松が枝を結び、また草の葉を結んでいる。さてこの歌は、囚われて行く道で、前途に生命の不安を感じていること、普通の旅行の比でない。ところでこの結び松、そのしるしなくて、ふたたび見ることを得なかったとなすのが普通の説である。この歌の次に載(416)せてある、長忌寸意吉麻呂《ながのいみきおきまろ》、山上臣憶良、柿本朝臣人麻呂歌集等の追和の歌、またその意である。しかるに『日本書紀』によるに、牟漏の行宮について皇太子の訊問を受け、しかる後に帰途藤白の坂で絞られたように記してある。しかりとせば、磐代は帰路にも通ったはずである。牟婁の湯からは、磐代を通って、後に藤白にかかるからである。『書紀』が訛伝を伝えたか、または意吉麻呂等が、結び松の詠に哀傷して、ふたたび見ざりし由に詠みなし、もしくは事実を誤り伝えたかであろう。結び松をふたたび見ざりけむとなすところに深い哀傷がこもるのである。
 
       実朝の歌三首
 
 『金塊集』に見えない実朝の歌と伝うるもの三首。一は先年佐佐木信綱氏方で見た『雑歌集』という写本に、古記の中の歌とて、鎌倉右大臣
  郡より立つ巳にあたり出湯有名はあづま路のあつ海といふ
立つ巳は巽《たつみ》で東南の義。三句は、イデユアリまたはイヅルユアリと読む。あつ海は熱海である。この歌は『金塊集』の中に交えても見劣りするものでない。
 一は先年の震災で焼けた『法燈縁起』という書物にあった歌。実朝、一夕、その実生は宋の湯州雁蕩山にして、夙因あり、その功力をもって日本の将軍となると夢み、覚めて後詠んだ歌、
  世も知らじ我もえしらずから国のいはくら山にたき木こりしを
 この歌については、かつて雑誌「とねりこ」に書いたことがある。
 一は『群書類従』に収められた『新和歌集』の巻一にある歌。この歌は多くの人が知ってもいよう。
    鎌倉右大臣家より梅を折りて給ふとて
  君ならで誰にか見せむ我が宿の軒端に匂ふ梅のはつ花
(417) 返しは信生法師が詠んでいる。
  うれしさもにほひも袖にあまりけりわがため折れる梅の初花
 
       紫草園
 
 古人は、色彩のうち、紫色を最貴重したもので、服飾の制定に当たって、かならずこれを最上位のものとしている。その紫色は、柴《むらさき》草という草の根の皮汁から、染料を採取するということである。
 紫草は山野に自生するものとして知られている。常陸、出雲等の風土記に記せるも、この趣と見られる。しかるに古くこれを培養したと認むべき文献がある。天平九年(七三七)の豊後国正税帳(【『大日本古文書』二ノ四〇頁】)に、球珠郡の天平八年(七三六)の収支を録し、国司が部内を巡行した費用を記した中に、次のごとき記事が見える。
 壱度、蒔営柴草園【守一人、従三人并四人二日】単捌人、上弐人守、従陸人
 壱度、随府使※[手偏+僉]紫草園【守一人、従三人并四人一日】単肆人、上壱人守、従三人
 壱度、堀紫草根【守一人、従三人并四人二日】単捌人、上弐人守、従陸人
 また直入郡、および郡名未詳の分にも同様のことが見える。これによると、これらの各郡で、紫草園を経営し、これを国守が巡視し、また太宰府からも使いが来て※[手偏+僉]※[手偏+交]したことが知られる。すなわち紫草園の経営は、きわめて重いこととして、厳重なる監察のもとになされたことが知られる。紫草の根は、染色の料として、相当に多量を要すべきにより、培養によって、その需要を充たしたものである。播磨国正税帳(【『大日本古文書』二ノ一五〇頁】)に、「太宰府進上紫草部領備前国上道郡主帳少初位上新田郡弓云々」とあるも、おそらくは太宰府の部内で培養採取した紫草を送る使いであろう。豊後国正税帳のは、天平八年の事実を記したものであって、それより前、いつより行なわれ、また他の国にも行なわれたかどうかはわからないが、この国この年のみに限ったことでないであろう。
(418) さて、『万葉集』巻第一、額田の王の歌、
  茜《あかね》さす紫野ゆき標野ゆき野守は見ずや君が袖振る(二〇)
この歌の紫野を、官営の紫草園と解したいのである。紫は多く高貴の御料として用いられるにより、その柴草園の厳重であるべきは想像しがたくない。かつかの『豊後国正税帳』によっても、その監察を厳にせられたありさまが察せられる。紫野すなわち紫草を培養する園で、標野というも、語を代えて同物をさすにほかならぬものと考える。御料の紫草を培養する園として、雑人の侵入を禁じた標野の取扱いをなしていたものと思われる。紫草を植えた園を紫野と称するは、粟野というは、粟を植えつけた畑の意と解するのと同様であろう。
 
       にてし
 
 『万葉集』巻第六、天平五年(七三三)に、神社忌寸老麻呂が、草香山を越ゆとて作った歌に
  直超《ただごえ》のこの道にして〔二字右○〕押し照るや難波の海と名づけけらしも(九七七)
この歌の「して」を『類聚古集』『古葉略類聚鈔』に「之師」としている。これによれば第二句は「このみちにてし」であって、「し」は動詞でなく一の助辞である。『類聚古集』と『古葉略類聚鈔』との「之師」は「弖師」の誤りであろう。「て」の上に助辞の「し」のつく形は歌には見馴れないが、宣命には多い。助詞の「し」は強く指示したことになる。今その例をあげると、
 弥務めに弥結りにあななひ奉り輔佐《たす》け奉らむ事に依りてし、この食国天の下の政事は(続紀第三詔)
 天の下平けく百官安けく為てし、天地の大瑞は顕れ来りとなも神ながら思ほしめさくと詔る(同第六詔)
 上下を斎へ和げて動无く静に有らしめむには、礼と楽と二つ並べてし、平けく長くあるべしと神ながら思ほしまして(同第九詔)
(419)このほか、第十三、十七、十九、二十三、二十四、二十七、三十一、四十一、四十八、六十一等の諸詔に、その例が見える。
 名詞に「にて」のつづける例は、
  還るべく時はなりけり都にて誰が手本をか吾が枕かむ(巻三・四三九)
  家にてもたゆたふ命浪の上に浮きてし居ればおくが知らずも(巻十七・三八九六)
等の例がある。
 この語について、なお考うべきは、次の歌である。
  去年の春あへりし君に恋ひにてし桜の花は迎へ来らしも(巻八・一四三〇)
この歌を『代匠記』に「相トハ花ヲ愛シテ情アル人ニ花ノ相逢ヲ云ヘリ、恋ニテシハ、ニハ助語ナリ。賞翫セシ去年ノ人ヲ花ノ恋ルナリ。迎来ラシモトハ、咲テニホフカ、去年ノ人ヲ見ニ来ヨト迎ルニ似タルヲ云ヘル歟」といい、『略解』に「去年桜をめでし人を、花も恋つつ此春も其人を迎へんとてこそ、花の咲たるならめと、桜の心をはかりてよめるか。宣長は、右の長哥は脱句有て、春山を人の越行事の有しなるべし。さて此哥に迎とはよめる也。然らざれは迎といふことよしなしといへり。さも有べし」と見え、『略解補正』に「君爾」は「君之」の誤りかといい、『古義』に「恋爾手師は、思ふに師は伎字を草体より誤れるものにてコヒニテキなるべし。迎来良之母はムカヘケラシモと訓むべし。待迎へけるらしの謂なり。母は歎息辞なり。歌意は去年の春花盛の時花見がてらに逢てかたらひし其君にわかれて、恋しく思ひてのみ月日を経渡りしに、今日又桜花の下にて、ゆくりなく其君にあへるは、桜花が其君を待迎へけるならし、さてもうれしき事ぞとなり。花の下にて人に行逢たるを懽てよめるなるべし」と見え、井上氏の『新考』に「案ずるにコヒニテシとはいふべからざる辞なり(コヒニシ又コヒテシとこそいふべけれ)おそらくは、恋爾手師は恋爾師乎の誤ならむ。次に結句について云はむに、巻一に馬ナメテ御猟タタシシ時ハ来向とあるにて思へば、桜ノ花ノサク時ガムカヒ来ルサウナといへるなるべし。さらば迎はムカヒとよむべし。迎は古書にムカヒにも借れり。一首の意は、去年ノ春桜ノモト(420)ニテ逢ヒシ君ニ我ハ恋ヒニシヲ今年又桜ノサクベキ時ニナリヌ、といへるならむ。」と見えている。『奈良朝文法史』もまた、「恋爾手師」の「師」を助動詞「き」の活用と見て、「にてき」の例にこの歌を出している。
 今思うに「恋ひにてし」を連体形と見るゆえに誤脱の説もいで、解釈も困難に陥るのである。「恋ひにて」を用言、「し」を助辞と見ればさしつかえないことと思う。動詞に助動詞「にて」の付く例は、
  梅の花咲きて散りなば桜花継ぎて咲くべくなりにてあらずや(卷五・八二九)
 水鳥の發《た》ちの急《いそ》ぎに父母に物言ず來《け》にて今ぞ悔しき(卷二十・四三三七)
  年も弥高く成りにて余の命も幾ならず(續紀五十九詔)
のごときがある。「て」に「し」がつくのは前の卷第六の時にあげた例である。一首の意は、去年の春逢えりし君に(桜の花が)恋をして來て、お迎えをするように咲いたそうなという意である。君とは、宴会などで吟誦した場合の相手をさして、いったのである。桜も去年お目にかかったあなたを慕って咲いたらしいという意味の歌なのである。
 
       ゆつ考
 
 『万葉集』卷一に、十市の皇女、「伊勢の神宮に參ゐ赴き給ひし時、波多の横山の巌を見て、吹黄の刀自の作れる歌」に、
  河の上の湯都盤村に草むさず常にもがもな常処女にて(二二)
 この歌の初二句について、古くはカハカミノユツハノムラニと読み、『万葉集』の註釈書の、現存せる最古の書なる、侠名氏の『万葉集抄』(秘府本万葉集抄の名のもとに古今書院の『万葉集叢書』に収められてある)に、「カハカミノユツハノ村トハ伊勢國ニアル所也」とある。しかるに下河辺長流の『万葉集管見』に「此ゆつはの村を名所といひつたへたれと、あやまりなるへし。題に波多横山(ニ)巌を見て、吹黄刀自か作るうたとかけり。歌には湯都磐村とかけり。されは、是をゆ(421)ついはむらと読へし。いはのおほきをいはむらトハいふ也。湯都ハ五百津といふ詞也。日本紀に、天安河辺に有所の五百津《いほつ》石村といへること有。さて末に草むさずとつづけよめるも、磐石のことくきこえたり。」と記してから、後の學者によつて、祝詞、『古事記』における例が加えられて、おおむねこれにしたがつっいるようである。
 まず『日本書紀』にある例というのは、卷一神代上に、伊弉諾の尊が、軻遇突智を斬つて三段となしたという段にあるので、
 復劍の刃より垂る血、こは天の安の河辺にある五百箇磐石と為りき。
とある文である。これについて『万葉考』には、「神代紀に五百箇磐石てふ同事を、祝詞に湯津磐村とかき、湯津桂、湯津爪櫛など皆木の枝の多く、櫛の刺《ハ》の繁きをいふ也。仍て古へより五百を約て湯といふを知」とあるが、『延喜式』の卷八の祝詞の中に五出しているのは、みな『日本書紀』のと違う説話の中に用いられているので、ただちに同じ内容を有するものとは速斷しがたい。すなわち、
 四方の御門に湯都磐村の如く塞り坐して(新年祭、月次祭)
 四方の内外の御門に、湯津磐村の如く塞り坐して(御門祭)
 大八衢に湯津磐村の如く塞ります皇神等(道饗祭)
とあるので、いずれも、神の鎮座し給う状態を形容した譬喩に用いている。
 また『古事記』の上卷にある例は、『日本書紀』と同じく、伊弉諾の尊が火神を斬る段にあって、
 ここにその御刀の前に着ける血、湯津石村に走りつきて成りませる神の名は石柝の神、次に根柝の神、次に石筒の男の神、次に御刀の本に着ける血も、湯津石村に走りつきて成りませる神の名は、雍速日の神、次に樋速日の神、次に建御雷の男の神。
とある。この文と『日本書紀』の文とを比較するに、同じ説話を語つているものではあるが、湯津石村と五百箇磐石とは、用い方が違つていることが知られる。すなわち、『古事記』では、血が湯津石村に走りついて神が成ったといい、(422)『日本書紀』では、血そのものが五百箇磐石となったというのである。血が走り散って多くの磐石になったというは、いかにも多数が利いている。血が磐石に走りついて神となったというほうは、多数ということが重要な内容でないことに注意すべきである。湯津石村は前からあり、五百箇磐石は、これによってできたのである。ユツとイホツと同語であるとなす説は、共に、数の多いことを表わすものとするのである。これが果たして真実であるかどうか今まずイホツのほうから調べてみよう。
 イホツの用例を出して見ると、『日本書紀』に、「八坂瓊之五百箇御統、五百箇真坂樹、五百箇野薦」がある。『万葉集』に、「白珠の五百都集」(巻十・二〇一二)、「朝猟に伊保都登里多底」(巻十七・四〇二)、「白珠の伊保都都度比乎」(巻十八・四一〇五)、「天にはも五百都綱波布」(巻十九・四二七四)の例がある。これらの例はいかにも数の多いことと解して通達する。五百箇と書いたものが正字であろう。このほかに、「鰒玉伊保知毛我母」(巻十七・四一〇一)、「金銀も伊本知母賀母」(『古事記』下巻)のイホチも、五百箇の意と解してよいであろう。
 ひるがえってユツのほうの意義を考えてみよう。『古事記』下巻に、「波毘呂由都麻都婆岐」が二出しているのは、葉広ユツ真椿なるべく、『日本書紀』の巻二に湯津杜《ゆつかつら》樹の例もある。樹木にユツというは、『日本書紀』の五百箇真坂樹、五百枝賢木の例によって、枝の繁茂している義とすれば、岩石にユツというも重なりあっている形容ともとれよう。『古事記』に血が湯津磐村に走りついたというも、『祝詞』に、門戸の神が、湯津磐村のように鎮座せられてとあるも、この義によるものとすべきであろう。湯津爪櫛(『日本書紀』)のユツも、櫛の歯の多い義に解せられている。
 しかし一方にまた、ユという語がある。他の名詞に添うては、湯種(巻七・二一〇、巻十五・三六〇三)湯小竹《ゆざさ》(巻十・二三三六)と記されている。湯(熱水)は、物を清浄にする力が信ぜられていたので、神事に湯を用いるのは、その心である。湯種は、清浄にした種子であり、湯小竹は、神事に用いる小竹から出発したものと考えられる。由槻(巻七・一〇八七)、弓槻(巻十一・二三五三)とあるも、おそらくは樹木信仰から出た語なるべく、また動詞としてユム(斎、忌)、形容詞としてユユシ(忌忌し)が派出したものと認められる。
(423) 古語に、ユとイと通ずることは、夢、壱岐、行く、忌む等の例によって明らかであるが、ユツがイホツと同語であるとなすは真淵の、イホをつづめてユとすという説にもとづき、本居宣長の、「伊富《いほ》を切《つづむ》れば与《よ》なれど、与と由とは殊に近く通ふ音なり。自《より》を古言に由《ゆ》とも与とも云たぐひなり」(『古事記伝』)というによる。しかし、ユツ磐村とイホツ磐石とを、かならず同語とせねばならぬわけもないことは、上述のとおりであるし、『台記』の別記に載せた中臣の寿詞には、「由都五百篁生ひ出でむ」という句もある。これを由都か五百かどちらかは衍であるとなすよりも、ユツを斎つの義とすれば、どの例も何の障りもなく通過するのである。多の例に湯津と書いてあるのは、ユの音を借りたものでなくして、その内容をも表わしているものであろう。ツは助辞で、天つ神、沖つ波、野つ鳥等のツと同語と思われる。
 すなわち、ユツ磐群は、神聖なる岩石群の謂で、岩石信仰を表わす語、ユツ真椿、ユツ杜樹は、同様に樹木信仰を表わす語と思われる。櫛に神秘な力があることは、種々の説話ともなっているので、ユツ爪櫛の語があるのも不思議でない。これらのユツを五百箇の義として、しいて説明するよりも、自然な説明を得るものである。
 以上の考察によって、ユツとイホツとは、別語であろうとなすのである。
 
       明日香清御原宮天武天皇代
 
 『万葉集』巻一、二の両巻は、何々宮御宇天皇代と標目を設けて、その御代に属する歌を収載している。その標目は、巻一に、泊瀬朝倉宮御宇天皇代から、藤原宮御宇天皇代に至る七例、巻二に、難波高津宮御宇天皇代から、藤原宮御宇天皇代に至る七例であるが、その中に、異例の書法二則を含んでいる。
 一は、巻一の「紫草の」(二一)の歌と、「河の上の」(二二)の歌との間にあるもので、寛永版本には「明日香清御原宮天皇代」とあるので、諸註釈書に宮の下に御宇の二字を脱したものとして取り扱っている。他にならい、かつ目録には御宇の二字ありとなすこと、その根拠とするところである。
(424) 今、『校本万葉集』によって、古本の異同を尋ねるに、仙覚本の系統の諸本は、みな寛永版本に同じである。しかして仙覚本以外の古本を見るに、元暦校本には「明日香清原宮天武天皇代」として、朱で御の字を補っており、伝冷泉為頼筆本には「明日香清御原宮天武天皇代」、神田本には「明日香清御原天武天皇代」とあって、少々の差違はあるが、いずれも、御宇の二字のあるべき場所に、その二字はなくて、天武の二字のあることは一致している。
 この元暦校本に御の字のないのについても、いささか私案があるが、それは異日の問題としておいて、単に、御宇の二字の代りに天武の二字のあることについて考えてみたい。
 歴代の天皇の漢風の謚号を上《たてまつ》ったのは、いつを初めとするか明らかでないが、天武、文武、聖武のごとき壮大なる謚号は、かならず第一次に選定せられた謚号なるべく、その時代は、これらの御代と関係の最も深い御代にあつたと見てよいであろうと思う。孝謙天皇は、国風の謚号を上らなかったので、その御在位の時、天平宝字二年(七五八)に上った宝字称徳孝謙皇帝の尊号を、そのまま御号となしている。天平勝宝三年(七五九)の序ある『懐風藻』には、すでに文武天皇の御号が見えているから、天武天皇の御号も、その頃にはすでに上られたものと見るべきである。かくして、『万葉集』において、漢風の謚号をことごとく後人の加筆とするには及ばぬことで、明日香清御原宮天武天皇代の字面も、他の例と違うからといって、古本の伝来を無視して、天武の二字を御宇の誤りとすべきではない。おそらくは、仙覚が、天武の二字に不審を抱いて、傍註などの、本文に紛れ入ったものとして、削り去って現行本の姿を成したのであろうが、巻一の編纂に使った材料は、古いものが多いにしても、編成を改め、かつ左註を加えなどした時代は、すでに天武天皇の謚号を上った時代として許容せられるであろう。
 なお御宇を標する、天皇代の題目の下には、それぞれ、小字で国風の御名を註し、また漢風の謚号をも記しているものもある。その漢風の謚号の中には、巻一には、天智天皇、天武天皇、巻二に、仁徳天皇、天智天皇、天武天皇、持統天皇の謚号が見える。この小字の註と、上の大字の御宇を標する題目とは、また同時のものと認むべきか否かの問題があるが、単に漢風の謚号があるから後人の加筆であるとなす説は、不完全なる説というを妨げない。
(425) 今一つ、他と例の異なる書法は、巻二の「我が岡の」(一〇四)の歌と「我が夫子を」(一〇五)の歌との間にあるもので、これは寛永版本には、藤原宮御宇天皇代とあるので、従来疑いを容れなかったが、古本には変わった形を存しているものがある。この部分の仙覚本以外の本としては、三本あるが、その中の元暦校本と神田本とには「藤原宮御宇高天原広野姫天皇代」とある。金沢本だけは、寛永版本に一致している。元暦校本と金沢本と、いずれが原形を存しているかの問題であるが、前掲の、明日香清御原宮天武天皇代の書法を認めるとならば、これも違例ではあるが、元暦校本等がかならず誤りであるとは断じえぬところである。元暦校本には数次の校合が入っているが、この点について、校異を出していない。
 
       作者の名の位置
 
 『万葉集』の歌の作者の名は、題詞のうちにこれを記すか、または左註にこれを記すを原則としている。『古今集』以下の勅撰集のように、題詞の下、歌の前行下方に、作者の名を記すことは、ただ四箇の例があるだけである。
 そのうち二つは、巻四に、「大君の行幸のまにま」(五四三)、「三香の原旅の宿りに」(五四六)の二つの歌の前行に、いずれも笠朝臣金村とあるもので、桂本、元暦校本に、いずれもしかあるから古き形をとどめているものと思われる。他の一は、巻五の敬和為熊凝述其志歌六首の例であるが、これは序があって、題詞の下方、序の前行下方に、神田本と細井本とに筑前国守山上憶良とある。この巻の神田本、細井本は共に仙覚本以外の系統に属する。また今一つは、歌ではないが、同巻の沈痾自哀文も、題の下に山上憶良作とある。
 以上四例のうち、巻四の五四三の歌と、巻五の熊凝のために志を述ぶる歌とについては、仙覚本には、題詞のうちに作者の名を収めているのは、普通の形式に訂正したものであろう。巻四の五四六の歌の場合は、仙覚本にも題詞の中に収めたものと、しからざるものとの、二種を存している。(426)なお藤原惺窩流の『万葉集』に、作者の名を、すべて題詞の下方に移したのは、意に任せて原形を改めたものである。
 
       こをとつまをと
 
 『万葉集』巻二十に、下総の国の防人、葛飾郡の私部の石島が歌として、
  ゆこさきになみなとゑらひしるへには古乎等都麻乎等おきてともきぬ(四三八五)
というを載せている。ユコサキは、行く先であり、シルヘは、後方であること諸家に異議なきところである。二句のナミナトヱラヒは、『万葉集新考』に「第二句を契沖以下|浪音《ナミナト》揺《ユ》ラヒの意とせり。おそらくは浪ヨ云々スナの意にて、ナミナは浪|莫《ナ》ならむ。トヱラヒはタユタヒに同じきか。ヨシヤをヨシヱとも云へるを見れば、也行と和行とは相通ずべし」と見えている。このうちナミナに浪莫を宛てたのは発見である。トヱラヒは、タユタヒとするよりも、巻九、水の江の浦島の子を詠める歌の「春の日の霞める時に墨の江の岸に出で居て、釣舟の得乎良布見れば」(一七四〇)のトヲラフと同語と見たい。この語の意味は未詳であるが、船と浪とに関していっているので、おおよそは推量せられる。浦島の子を詠める歌は、高橋連虫麻呂の歌集から出たものであるが、虫麻呂集の歌には、俗言とおぼしきが多く用いられているから、この語も俗言であろうもしれぬ。さすれば、トヲラフと、トヱラフと、いずれが転であるかは、容易に決しがたいが、もしこの語の語幹が、撓(トヲ、タワ)と同じであるならば、トヱラフは、地方言であろう。
 第四句の古乎等都麻乎等については、古来両様の読み方がある。『校本万葉集』によるに、平安朝時代にすでに、コヲラツマヲラ、コヲトツマヲトの両訓が存したもののようである。仙覚は、はじめコヲトツマヲトをとり、後にコヲラツマヲラに従ったものらしい。『拾穂抄』『代匠記』以下は、コヲラツマヲラに従って、ラを助詞としている。しかるに『万葉集古義』に至って、「古乎等都麻乎等於枳弖等の三の等は、トと訓べし。(ラと訓るはわろし。此前後の歌の書法によるに、もしラならば、良字を書べし。訓を仮字に用ひしとは思はれず。)この等《ト》は曾に似て軽き辞なり。例は、十(427)四に、蘇良由登伎奴与、又、伎美乎等麻刀母、此下に伊※[泥/土]弖登阿我久流など皆同じ。」として、コヲトツマヲトと読んでいる。この訓仮字を用いたとは思われないという説はよい。ただ語釈は、これでは首肯せられない。
 集中この語法を説明すべきものを求むるに、巻四に、大伴坂上郎女の歌の中に、
  汝乎与吾乎人ぞ離《さ》くなる、いで吾君人の中言聞き起《た》つなゆめ(六六〇)
というのがある。この初句は、ナヲトアヲと読むべきもので、人が汝を離ち、またわれをも離つという意で、トは、いくつもの物を並べ数え立てる用の助辞である。ナヲトアヲトというべきを、ナヲトアヲといって、下のトを略するのは、古文にも往々にして見るところである。
 さてコヲトツマヲトも、子をと妻をとであって、子を置きて来、また妻を置きて来た意に解すべく、汝をとわれをと、全然同じ語法と見るがよい。ナヲトアヲに、誤字説をもって臨むよりも、互いに助けてかようなトの用法を肯定したほうがよいと思う。
 オキテトモキヌは、「出でてと吾が来る」(巻二十・四四三〇)の例によって、トがテを受けたもので、やはりトの一格であろう。
 
       せせば
 
 巻一に、吉野の宮にみゆきせし折の柿本人麻呂の長歌二首のうちの第二首、
  やすみしし吾が大君、神ながら神さびせすと、芳野川たぎつ河内に、高殿を高知りまして、のぼり立ち国見乎為波                             (下略)(三八)
 右ののぼり立ち国見乎為波の句は、前を承けて天皇の御行動を叙述しているものであって、天皇が高殿にお上りになり、国見をあそばさるればの意に解すべきものである。しかるに従来国見乎為波を、クニミヲスレバと読んでいるので(428)あって、本集には天皇の御行動でも、あらわに敬語を用いないものはあるが、この歌では、上に神さびせす、高知りますと敬語を用いている関係上、国見乎為波も、敬語を用いて読んだほうが適切と思われる。
 今『校本万葉集』によって、この句の校異を検するに、元暦校本には、為の下に※[(生+丸)/云]があり、『類聚古集』『古葉略類聚鈔』、神田本には、いずれも藝があり、冷泉本には勢がある。また元暦校本は、波を婆に作っている。
 動詞の第一活用(将然段)から、再び佐行四段に活用すると、敬語となることは、一般的な規則として、『奈良朝文法史』に説くところである。しかして動詞「為」にも、同様のことが行なわれる。そのセス形は最も普通であるが、橋本進吉氏は、
  麻苧《あさを》らを麻笥《をけ》にふすさに績ますとも明日|着《き》せさめやいざせ小床に(巻十四・三四八四)
によって、セサの形を肯定し、
  明つ島倭の国を、天雲に磐船浮べ、艫に舳に真櫂繁貫き、い榜ぎつつつ国見し為《せ》して、天降り坐し掃ひ平げ(下略)(巻十九・四二五四)
によって、セシの形を肯定し、したがってこの語の佐行四段なることを証明せられた。(「万葉集語解三則」、「心の花」第二十五巻第十一号)
 今人麻呂芳野の歌の国見乎為波の校異を見るに、冷泉本によって為の下に勢を補い、元暦校本によって波を婆に改むべきもののようである。元暦校本、『類聚古集』以下は、いずれも為の下になお一字あることにおいて一致し、ただ字形において小異あるものであって、元暦校本のは勢に近き訛字であり、『類聚古集』等の※[藝のなべぶたなし]も勢に近い字で、かつ※[藝のなべぶたなし]では意を得るに苦しむから、冷泉本に従って、勢を補い、国見乎為勢婆を原形とすべきものと考える。さてクニミヲセセバと読み、天皇が国見をあそばしたればの意に解すべきである。このセセは、動詞為の敬語法、その第四活用(已然段で)従来求められなかった形であるが、これを得てこの語は、始めて、セサ、セシ、セス、セセ全形を現わし、不完全活用でなかったことが明らかになったのである。
 
(429)       全夜
 
 『万葉集』巻十二、問答の歌に、
  今更 将v寝哉我背子 荒田麻之 全夜毛不v落 夢所見欲(三一二〇)
というがある。この歌の第三句について、『古義』に、
 荒田麻之は、此上に、新夜一夜不落夢見とあるによりて思ふに、麻は夜字の誤写にて、アラタヨノナリ。アラタマノにては解べきすべなし。又集中に、アラタマてふ言は、甚多かれど、タマを田麻と書る処、一処だになし。且音訓用連て、仮字とせることも、むげになしとにはあらねど、其は大要用ひなれたる字あれば、かやうに書くべしともおもはれず。しかるを昔より、字の誤なることをしれる人、一人だになくして、荒田麻之全夜とは、一年の間の毎夜といふ意と心得来れるは、あらぬことにこそありけれ。
とある。幸いにも元暦校本には、荒田夜之となっていて、『古義』の説の正説であったことを証している。
 第四句については、古来マタヨモオチスと読んでいたものを、『童蒙抄』に至って、ヒトヨモオチスに改め、爾来その訓が行なわれている。全夜をヒトヨと訓ずるのは、全一夜の義にとるのであるが、全夜をヒトヨと読むことは、本来無理である。ことに、一夜もおちずと、全夜毛不v落とでは、意味に相違のあることが、この訓の欠点である。一夜も落ちずは、夜ごとにの意が主であり、全夜毛不v落は、夜もすがらの意が主になっている。
 しからば全夜を、何と読むべきかというに、やはり旧訓のマタヨが捨てがたい。巻十五に、
  命をし麻多久しあらばありきぬのありて後にも逢はざらめやも(三七四一)
 『古事記』に、
 命の麻多郁む人は、畳薦平群の山の熊檮葉を、髻華に插せ、その子
(430)があって、マタシという形容詞があり、これと、巻四の、
  吾命の将全牟限忘れめやいや日にけには思ひ益すとも(五九五、牟は元暦校本による)
とをあわせて、マタシは、今もいう全しであることが知られる。さてこの詞が、語幹だけで、他の名詞に接続することは、正倉院文書、続修四十九(『大日本古文書』五ノ二四二頁)にその徴がある。
 主奴麻柄麻多万呂謹白
 先日通申米事
  右件米、今日昨日間甚要用、乞照v状、好佐官尊申給、付2此使1垂2処分1、家v恩後、必主奴永将2奉仕1、勿2无礼1嘖、
  必今廿箇日間許、稲苅即令2春進上1、如v先中2給奈良京1、勿怠々々、今注2事状1謹白
           七月十七日付2使日下部裏白万呂1
 敬上 吉成尊左右                                主奴麻柄全万呂状
 この書状は、文意も文体も注意すべきものがあり、その他にも参考となる点があるから全文を出した。主奴は卑下の辞で、ヌシノヤツコと読むべく、真白万呂の名とともに他日の用に供すべきものである、今ここでは麻柄全万呂が、また麻柄麻多万呂とも、みずから書いていることに注意したい。すなわち全万呂をマタマロと読むべきことを示している。この人は他にも所見があって、全万呂とも麻多万呂とも書いているが、ここに一文の中に両様に書いてあるので、明らかに同一人であることが認められる。
 されば形容詞全しも、他の多くの形容詞と同様に、語幹だけで他の名詞に接続して熟語を作るものと考えられ、全夜をマタヨと読むも、根拠なきことでないことが知られる。さて、アラタヨノマタヨモオチズを、新たに来る夜の全夜を欠くることなくの意にとって、かの歌を解すべきであろう。
 
(431)       子をと妻をと追記
 
 巻五、「老身重病、年を経て辛苦し、及児等を思ふ歌」(八九七)の中に「病遠等加弖阿礼婆」の句がある。これも、ヤマヒヲトクハヘテアレバと読んで、子をと妻をとの文中に言及すべき例であった。
 
       鹿がいうのではない
 
 『万葉集』巻第九、天平五年癸酉、遣唐使の舶、難波を発して海に入る時、親母の、子に贈れる歌、
  秋芽子乎妻問鹿許曾、一子二子持有跡五十戸、鹿児自物吾独子之、草枕客二師往者、竹珠乎密貫垂、斎戸爾木綿取四手而忌日管吾思吾子、真好去有欲得(一七九〇)
 この歌は、次点の歌であるが、誰が最初に訓を付したかは未詳である。今主として初めの四句についていおうとするのであるが、最初の二句は、古くからアキハキヲツマトフカコソと読んでおり、『万葉集新考』に至って、乎を爾の誤りとして、アキハギニツマトフカコソと読みなおしたほかに異訓を見ない。一子二子持有跡五十戸の句の訓については、古いところでは、元暦校本の赭の書き入れに「ヒトツコノフタコモツトイヘ」とあり、神田本には「ヒトツコノフタコモチタルトイヘ」とある。仙覚は、これらの次点の訓を、修正して「ヒトツコフタツコモタリトイヘ」となした。その後、『万葉考』に「ヒトツコニコモタリトイヘ」となし、『古義』には、今村楽の説に、二子は乎の誤りであるとして「ヒトツコヲモタリトイヘ」といえるによって、「ヒトリコヲモタリトイヘ」と読み、『口訳万葉集』は、原文のまま「ヒトリコニコモタリトイヘ」と読んでいる。
 以上のごとく諸家の説があるが、鹿許曾をカコソと読み、持有跡五十戸をモタリトイヘと読む点については、ほとん(432)ど定訓のようになっていると見てよいであろう。五十戸をイヘと読むのは、イは五十の訓読、ヘは戸の訓読である。その例としては
  真玉付彼此兼手言歯五十戸常相而後社悔二破有跡五十戸(巻四・六七四)
の歌があり、この歌の二つの五十戸をも、ともにイヘと読んでいる。
 さてこの文においては、秋芽子乎妻問、一子二子の訓法について異説を立てようとするものではないから、説明の便宜上、諸説のうちの一つをとって書き下し文を作っておくほうが都合がよい。どの説をとるかとなると、文字を訂正しないで読むが穏当であると思うから、これによって全篇を書き下しにしておく。
  秋萩を妻問ふ鹿こそ、一人子に子持たりといへ、鹿児じもの吾が独子の、草枕旅にし行けば、竹珠を密《しじ》に貫き重り、斎戸《いはひべ》に木綿《ゆふ》取り垂《し》でて、斎《いは》ひつつ吾が思ふ吾子《あこ》、真幸《まさき》くありこそ
 全体の結構を按ずるに、ただ一人の子を旅に出して、幸福ならんことを願った意である。そうして鹿の子のようなただ一人のわが子といわんとして、鹿はただ一つの子を持つものであると、鹿の性質を叙しているのが、初めの四句である。そうしてイヘは、鹿コソの結びであると見れば、鹿こそ――といえの文脈となり、鹿が、わたくしは一人子に子を持っておりますというと解すべく、鹿がみずからこの作者に告げる意となる。しかしそうではあるまい。鹿は一人子に子を持つものと世人がいう意として、イヘの主格は、世の人で、この文では省略せられているものとなすべきであろう。鹿こそを受けるのは持有でなければならない。鹿が一人子を持つのである。しからば、「鹿こそ子持たれといふ」と読まねばならぬが、従来そういう訓法も聞かぬし、五十戸をイフと読むべくもない。上にコソの係りがなくて、動詞の已然段を使うは、条件法としての用法はある。この場合は文の終止ではなくして、下にその条件法を受ける叙述がある。たとえば、
  家さかりいます吾味を停みかね山隠りつれたましひも無し(巻三・四七一)
のごときもので、長歌にことにこの用法が多い。これらは、山隠りつればという意に解してよい。しかるに、「秋萩を」(433)の歌にあっては、「子持ちたり」といえば条件法としては意を成さぬので、やはり「子持たりといへ」で、いったん、文は終結するものと見るがよい。さればこのイヘは、上に正当の係りはなくして、鹿こそのコソを誤って受けたものと観るべきである。先師三矢重松先生の『高等日本文法』をひもとくに、
 明けぬれはつれなくなりぬ「女郎花人知れずこそ折らむ」と思ふに(躬恒)
 「是も亦これの島根の人にこそ有りき」と云ふなれ(『続日本後紀』)
 その他の数例をあげて、さて「此等のコソを正しく結ひて試むるに語気何となく相応せず。かかるは成分の係属を忘れてただ語気のみに釣られて、結び或は流せるものなり」(取意)と記されてある。さればはやく『万葉集』にもかかる例があったものと見なすべきで、やはり、「秋萩を妻問ふ鹿こそ一人子に子持たり」といえと解すべきものであろう。
 
       子をと妻をと追記
 
  金門田をあらがきまゆみ日が照《と》れば雨を待と如《の》す伎美乎等麻刀母(巻十四・三五六一)
 この歌の第五句も、君をと待つともの意に解して、かの例にあわせ考うべきであろう。
 
       反羽二
 
 『万葉集』巻十二
  暁の朝霧隠り反羽二いかにか恋の色に出でにける(三〇三五)
 この歌の第三句は、昔から難訓の文字で、これについて諸説がある。旧訓としては、元暦校本にカヘルハニと読み、カヘシニハの別訓のあることを伝え、『類聚古葉』にはカヘシニハと読んでいる。なおその他の訓もあったようである(434)が、仙覚に至ってカヘルサニに改めた。これを『万葉代匠記』の精撰本に「反羽二ヲカヘルサニトヨメルハ羽ノ和訓ハトサト同韻ニテ通スル意歟。オホツカナシ。今按、反ノ上ニ黄ノ字落タル歟。然ラハ朝霧コモルモミチハノト読ヘケレハ下句ノ色ニ出ト云モ能叶ナリ」とて黄反羽二の誤りとしてモミチハニと読まうとしている。『万葉考』には、反詞二の誤りとしてカヘリシニと読み、『万葉集古義』には、反為二の誤りとして、訓は同じくカヘリシニと読んでいる。
 今思うに、この歌、一、二句の、暁の朝霧隠りは、髣髴として明らかならざるをいい、三、四句の、いかにぞ恋の色に出でにけるはしかるに何として顕われたのであろうかの意を成している。さらば、三句は、しかるに、反対に等の意を表わすものと解してもよい。ここに巻十一に、
  かへらまに君こそ我に栲領巾の白浜浪のよる時も無き(二八二三)
という歌がある。この歌は、問答歌で、
  栲領巾の白浜浪の依りあへず荒ぶる妹に恋ひつつぞ居る(二八二二)
の歌に対する答の歌である。この初句カヘラマニは、原文加敝良末爾とある(寛永版本は、加敝良未爾に作っているが、訓はカヘラマニであり、西本願寺本、金沢文庫本以下の写本、木活本等、みな未を末に作っている)。このカヘラマニの意は、反対にさかしまに等の意である。さて反羽二をも、カヘラバニと読んで、カヘラマニと同語としたいと思う。バとマと通うのは最も普通である。羽は、ハの仮字に用いるのは普通であるが、新治乃鳥羽能淡海(巻九・一七五七)のごときには、バと読むもののごとくである。
 一首の意は、暁の朝霧にこもって、はっきりしない。しかもそれとは反対に、どうして恋が表に顕われたのかと疑うのであろう。
 カヘラバニ、またはカヘラマニのカヘラは、翻、覆、却等の意のカヘルと同語であろう。バ、マは、何であるかをいまだつまびらかにしない。ワクラバニは、あるいは類型の語かと考えられる。トコトバニ、ワワラバニ(和和良葉爾、巻八・一六一八)は、類型か否かを明らかにしない。
 
(435)       とことばに
 
 トコトバニは、本集巻第二、皇子の尊の宮の舎人等の慟傷して作れる歌の中に、
  我が御門千代常登婆爾栄えむと思ひてありし我し悲しも(一八三)
の歌の第二句に用いられている。このほかには、常不止(巻四・五四二)を、旧訓に、しか読んでいるが、これは、そうも読めるというまでのものである。
 婆の字は、集中普通に濁音に用いているが、中には清音に読むべきものもある。現に巻二についてみても、清音に読むべきものは、島宮婆母(一七一)、露己曾婆(二一七)、霧己曾婆(同)の三例あるが、島宮婆母の婆は、金沢本、『類聚古集』等に波に作っているから、そのほうが古いであろう。しかして、トコトハニを諸説みな清音としている。『万葉考』に、「とことはは、とこしなへにとこ磐《イハ》にと言をかさねて、限なき事を強くいふ也。婆の字書しは、とはのはを、とわの如く半濁にとなふるをしらする例、上下に有」とある。この説は、万葉時代に、ハをワと発音する現象を認めての立論である。トコトハを、トコとトハとに分解したが、『万葉集』にはトハの語はなく、したがってその清濁も分明でない。『古義』には「常登婆は【婆の濁音字を書るは正しからず】常津磐《とこついは》の約なるべし。ツイの切チとなれるを、チをトに転じてトコトハとはいへるなり。さてそれよりうつりてはいつも変らず常しなへなることにいへり。常磐といふも同じ。」とある。トコトハの語源をトコツイハとし、チがトに転じたとなすは苦しい。
 すでに語源が確かめられないならば、清音に決定すべくもない。むしろ婆を書いてあるに任せて、トコトバニとバを濁るがよい。現にこの語は仏足歌碑の歌にも用いられて、同じく婆の字が書かれている。
  これら世は移り去るとも止己止婆爾《とことばに》さ残りいませ後の世の為又の世の□
 
(436)       鹿がいうのではない追記
 
 「秋萩を妻問ふ鹿こそ一人子に子持たりと云へ」の歌(巻九・一七九〇)で、コソを受けてこれを結ぶべきは、「持たり」であるべきに、かえって「いへ」で受けて結んでいるのは、係結の法からいえば正格とは言いがたい。しかしてかような方角はずれの語格は、このほかにも集中に存していた。しかもその一例は、かの記事中、五十戸をイヘと読む証としてあげた歌であった。
  真玉付彼此兼手言歯五十戸常相而後社悔二破有跡五十戸(巻四・六七四)
この歌、訓して、
  真玉つく彼此《をちこち》兼ねて言はいへど逢ひて後こそ悔にはありといへ
となしている。『略解』に五句の二を衍字となしているが、それは今の問題にはかかわりはない。後こそあれと係り、しかして結ぶべきものであるが、五十戸がイヘと読まれる以上、やはり五句はクイニハアリトイヘと読むべきであろう。この他、
  栲縄の長き命を、露こそは朝に置きて、夕は消ゆと云へ(消等言)、露こそは夕に立ちて、朝は失すと云へ(矢等言)、(巻二・二一七)
  紀道にこそ妹山ありと云へ(妹山在云)櫛上の二上山も妹こそありけれ(巻七・一〇九八)
  あしひきの山鳥こそは、峯向ひに嬬問すと云へ(嬬問為云)(巻八・一六二九)
  縁児の為こそ乳母は求むと云へ(乳母者求云)乳飲めや君が乳母求むらむ(巻十二・二九二五)
  衣こそはそれ破れぬれば、つぎつつも又も逢ふと云へ(相登言)、玉こそは緒の絶えぬれば、括りつつ又も逢ふと云へ(逢登曰)(巻十三・三三三〇)
(437) 以上の諸例は、たとえば、「消ゆれといふ」「失すれといふ」「あれといふ」「嬬問すれといふ」「求むれといふ」「逢えといふ」等のごとくも読みうる字面である。しかもおそらくはかように読むにあらずして、「子持たりと云へ」の例のように、「云ふ」がコソを受けているように読むべきものであろうと思われる。
 かように見きたると、トイフの場合に、助辞トは、常に完結せる文章を受けないことが見いだされる。かくのごときトイフ(トフ、チフ)は、むしろ助動詞としての資格に立つものというべく、一般助動詞の発生の上に興味ある資料となるものである。
 雑誌「青垣」の誌上に、橋本徳寿氏が毎号「万葉集諸詞の研究」と題して、『万葉集』における詞の用例を集めている。その七月号はコソの調査であって、この文の例もその調査によったものである。同氏の調査は、大変なほねおりのように見受けるが、無駄も少々あるようである。結びとして用い単にその事物を強くさしたる「コソ」の項のごときは、他の項目に分属すべきものであったであろう。
 
       わくらばに追記
 
 わくらばにの結尾はもう少し書いてあったはずであるが、何かの手違いで、発行所に行かなかったものと見える。よってかの終りに次の数行を補う。
 仏足跡歌碑の歌には、清濁を正しく書き分けてはいないようであるが、婆の字については、すべて五個用いられているうち、麻婆利麻都礼婆の上の婆が清濁に問題があるだけで、ほかは濁音に用いてある。麻婆利も、瞻りとする説(『万葉集辞典』)に従えば、濁音と解してよいのである。
 トコトバニのバは、『万葉集』および仏足跡歌碑に、ともに婆の字を用いてあるに従って、濁音とすべきであろう。
 
(438)       強佐留
 
 『万葉集』巻第二、久米禅師、石川郎女を娉ひし時の、石川郎女の歌、
  み薦刈る信濃の真弓引かずして強作留行事を知ると言はなくに(九七)
 この歌の第四句、強作留を、仙覚はそのまま、シヒサルと読んでいる。それでも意は通ずるが、『代匠記』に至って、強を弦の誤りとして、ツルハクルと読み、『考』も、強を弦の誤りとしてヲハグルと読んでいる。そうして、今日では、この種の読み方が、まず定説のごとくになっている。
 しかるに現存せる古本は、一もこれらの修正説に一致しているものを伝えない。かえって、元暦校本、金沢本、『類聚古集』『古葉略類聚鈔』、神田本等の、仙覚本以外の系統の古本は、ことごとく強佐留となっている。強を弦に作っている本を見ないばかりでなく、かえって作をも佐に作っているのである。
 この古本の流れの、強佐流の字面を、弦作留の誤りとするには、二字修正せねばならない。かつ、矢をハグとはいうが、弦をハグということは他に見るところがない。
 古本が出現して、諸家の学説と一致している字面を示したことも多いが、これなどは、古本はかえって諸家の説に背く傾向を示している。強と弦、佐と作、似た字ではあるが、似たというだけでは、軽々しく本集の字面を改むべきでない。多く改むるものは、多く邪説である。
 
       吉と告
 
 吉の字と告の字とは、字形が似ているので、『万葉集』中においても、しばしばお互いに間違えられている。そうし(439)て字形が似ている以上に、いっそう間違えられる理由が存している。
 それは日本の上代の書法に、漢字の画を、鍵の手に引き懸けて書く筆法が存しているのである。吉の字ならば、その第一画を、上から曲げて書く、告、こういう形に書くのである。こう書けば、告に見誤られるのも無理のない形である。古写本で例をあげるなら、巻一・五五の歌、「朝毛吉木人乏母」の吉の字を、元暦校本にそう書いてある。あれは告の字ではなくして、吉の一体である。しかも同本の朱の訓に、すでにアサモツクの読みがあって、この字を告と見ていることを語っている。枚が牧になり、比が此になるのも、同様の筆法から出た間違いで、ただ字形の似ているというだけではない。
 さて集中、吉を誤って告とした例としては、巻一、巻頭の天皇御製歌中、「押奈戸手吾許曾居師告名倍手吾己曾座」の告は、もと告名倍手をツケナヘテと読んでいたが、本居宣長の『玉の小琴』に、告は吉の誤りとし、師吉名倍手をシキナヘテと読んでから、今日では定説のようになっている。
  一日こそ人母待告長きけをかく待たさえばありかつましじ(巻四・四八四)
 この歌の第二句の告は、元暦校本、神田本、細井本等に吉に作れるによらば、ヒトモマチヨキと読むべきであろう。これも吉をもって定字となしてよいようである。
  鵙鳩ゐる荒磯に生ふるなのりその告名者告世父母は知るとも(巻三・三六三)
 この第四句、告世の告を、『略解』に吉の誤りとして、第四句をヨシナハノラセと読んでいる。これもいまだ古鈔本の証明を得ぬが、あるいは吉の誤りであろうか。
  夕卜にも占爾毛告有今夜だに来まさぬ君をいつとか待たむ(巻十一・二六一三)
 この第二句、告有を嘉暦伝承本には、吉有とし、訓も、ウラニモヨクアリとある。これも吉有に従って、ヨクアルと連体形に読んだほうがよいようである。
 
(440)       丹因子等何四千庭
 
 『万葉集』巻十六の竹取の翁の歌は、集中でも難解の詞句の多い歌とせられ、賀茂真淵、荒木田久老等には、特にこの歌だけについての註釈が存しているほどである。今はこの歌の中の、丹因子等何四千庭の句だけについて、見るところを記して見よう。
 この歌は、仙覚新点の歌の一で、仙覚に至って初めて訓を得たものである。今日の伝来では、『類聚古集』に、まばらに訓を付しているが、この今あげた句には、訓が付してない。されば、この句に、ニヨレルコラカヨチニハとついている訓は、すべて新しく仙覚が下した訓と見るべきである。さて仙覚の『万葉集註釈』には、この句について「ニヨレルコラカヨチニハミナシツラナルカトハ、ワレモカクオサナカリシヲ、ニヨレルコトモヨキトチト、ミナシテ、ナミヰタルカト云ルナリ」とある。この文は、その意味が不明で、したがって仙覚の訓の真意を知りがたい。『拾穂抄』に仙曰とて引いたのには「我もかくおさなかりしを、よれる子とものよきとちに見なしてなみゐたるかと也」とある。これによれば、やや意味がたどられるが、はたして仙覚の文を、そのまにま引いたかの点には疑いがある。
 『管見』は、この歌は、集中難義の第一であると逃げ、『代匠記』には、丹因子等何トハ、我ニ似ヨリタル同シ程ノ子等カナリ。四千庭は、第五ニ余知古良等手多豆佐波利提トアルヲ思フニ、四千ハ上ノ丹因ノ下、子等何ト云上ニ有テ、庭ハ衍文ナルヘシ。句ノ字数ノトヽノホラサルハ古歌ノ例歟。或ハ五字ノ一句落ル歟。此ヨリ下爛脱シタル歟。不審多シ」として、文字修正説を出している。これによれば、ニヨルを似寄ると解しているが、仙覚の意も、おそらくはここにあったであろう。
 賀茂真淵の『竹取翁歌解』には、「今本こゝを四千とあるは見の字の乱て四千となりしなり。右にこの辞の例三所までありて、明らかなればあらためつ。是よりは女のわらはをいふ」とあって、女子の上をいうことと解している。その(441)後、荒木田久老は、丹因の上に吾の字脱として、「ワニヨスコラカ」とし、『古義』には、同じく丹因の上に我の字脱として、「アニヨルコラガ」と訓してある。そのほかにも誤字説はあるが、文字の修正は最後の手段であって、もとの文字のままで、できるだけの穿鑿は試みられなければならない。
 今按ずるに、丹の字に、この歌では常にニと読んでいるが、かならずニと読まねなならぬこともないであろう。この歌の中でも、同一の字を、幾様にも読ましめていることは例があることである。よって集中の読例を求むるに、
  奈良山を令丹黄葉手折り来て今夜かざしつ散らば散るとも(巻八・一五八八)
 この歌の第二句、仙覚本には、ニホスモミチはと訓しているが、『拾穂抄』にはニホハスモミチハとある。ニホスの語の根拠はこの竹取翁の歌中に、「丹穂之為衣丹」とあるによるであろうが、一方に、
  紅に衣染めまく欲しけども著て丹穂哉人の知るべき(巻七・一二九七)
の例があって、脱字説もあるが、普通に丹穂哉の三字をニホハバヤと読んでいる。これを認めるならば、「丹穂之為衣丹」をニホハシシヌニとも読むべく、したがってかの「令丹黄葉」をも、ニホハスモミヂと読む方が、語法上順当であろうと思う。ニホハスの語例は、
  秋の野を爾保波須萩は咲けれども見るしるなし旅にしあれば(巻十五・三六七七)
がある。ただし令丹の読み方のいかんにかかわらず、丹一字をもて、ニホフの意に読ましめる証になることである。
 よって問題の「丹因子等何四千庭」の句を、そのままに、ニホヒヨルコラガヨチニハと読みたいと思う。ニホヒヨルの語は、この竹取の翁の歌に答えた、九人の娘子の歌の最後の歌に、
  春の野の下草靡き我も依り丹穂氷因将友のまにまに(巻十六・三八〇二)
と用いてある。この語の意味は、ニホフおよびヨルの語義よりして、花やかに寄り添う義と考えられる。よって、ニホヒヨルコラとは、ここに集まっている娘子をさしているものである。
 ヨチは、
(442)  処女等が処女さびすと、唐玉を手本に纏かし、よち児等と手携りて(巻五・八〇四)
  この川に朝菜洗ふ児汝も吾もよちをぞ持てる、いで児|賜《たば》りに(巻十四・三四四〇)
等の用例があり、巻十三には、
  然れこそ歳の八歳を、鑽る髪の吾同子を過ぎ、橘の末枝を過ぎて、此の川の下にも長く、汝が心待て(三三〇七)
という歌があって、この歌の別伝として、柿本人麻呂集から出た歌には、この「吾同子」に相当する語を「与知子」(古写本による)と書いてある。これらの用語例によって、ヨチは、同年輩、同じ年頃をいうこと、先哲のすでに説けるがごとくである。
 されば、問題の句は、ニホヒヨルコラガヨチニハと読んで、花やかにここに集まっている娘さんたちの年頃にはと解すべく、その娘子たちと同じ年頃の時代にはと、やはり竹取の翁の年少時代を語らんとするものであって、したがって、次の三名之綿以下の句も、翁の少年時代の叙述と認められる。娘子たちの上を言ったとする説はけだし誤りなるべく、この歌の全体の構造の上に、重大なる相違をきたすものである。
 
       土※[土+完]に歌を書く
 
 『万葉集』巻第四、
  思ひ遣るすべの知らねば片※[土+完]の底にぞ吾は恋ひなりにける(七〇七)
 この歌は、通行本には、前行に「粟田娘子贈大伴宿禰家持歌二首」とあって、粟田娘子が、大伴家持に贈った二首の歌の一首である。粟田娘子の粟田は氏と見られるが、元暦校本、『類聚古集』『古葉略類聚鈔』、神田本等の古鈔本には、粟田女娘子とあるのでこれによれば、粟田女という名の娘子であることが知られる。
 さて歌の本文中、片※[土+完]の底に恋いなるということについて、『万葉集註釈』に「モヒトハ茶※[土+完]也」、『管見』に「※[土+完]とは、(443)土にて作り、それを焼て食物なと盛椀の事なり。底のふかきものなれは、かくいへり。片は上に注することく、只助詞なれは心なし」と見えて、片※[土+完]の、器具であることを釈している。『代匠記』に至って、『延喜式』『和名類聚鈔』をあげて、片※[土+完]のいかなるかを明らかにし、さて「思フテ上略シテモフトヨメル事、集中ニ多ケレハ、片思ヲ片※[土+完]ノ名ニヨセテ深ク恋沈ムヲ、底ニコヒナルトハヨメルモノナリ」と説いている。『略解』には、※[土+完]は椀の誤りかといい、宣長の説とて、「かたもひはただ底といはむ料のみ也。さて底になるとは恋の至り極れるといふ也。紀に底宝と有も宝の至極と云也と言へり」と記している。この後の諸説、多く宣長の説に従って、カタモヒノを枕詞としている。
 片※[土+完]の実体については、諸註にいうごとく、蓋のない椀をいい、土偏に従っているによれば土器であろう。字形については、正倉院文書に、片※[土+宛]も片※[土+完]も、その中間の字形もある。片※[土+宛]が正字で、片※[土+完]はその略体と見るべきものと思われる。
 さて『校本万葉集』を検するに、元暦校本に、本文の下に小字にて注士※[土+完]之中とあり、その他『古葉略類聚鈔』、神田本、および京都帝国大学本に引ける禁裏御本等に、文字に異同はあるが、やはり小字の註を有している。また桂本の断簡にも注上※[土+完]之中として小註を存している。この小註は、古来注意されたことがないとおぼしく、仙覚本にも見えないのは、衍入として削り去ったものと考えられる。
 今考うるに、これは、注土※[土+完]之中とあったもので、土※[土+完]の中に注すと読むべく、土※[土+完]すなわち土器の椀の中にこの歌を書いて贈ったことを意味するものであろう。この時代の相聞の歌は、文字に書いて送るのが常であるが、その文字を紙に書かないで、片※[土+完]が片思いに通ずるよりして、片※[土+完]の底に歌を書いて贈ったものであって、この歌の内容と、この小註とは、密接な関係を有するものと思われる。されは歌中のカタモヒノは、単なる枕詞でなくして、わが恋は片思いの底に沈んだという意であってこれを同音多義を応用して、歌を片※[土+完]の内底に書いて示したものであろう。そこに相聞往来の歌としての機智があり、作者の才思を有効に、先方に通じえたことと思われる。
 
(444)       梅花の新歌の作者
 
 大伴家持の弟に書持《ふみもち》というのがある。この人は天平十八年(七四六)九月のころ、若くして死んだ由で、兄の家持が挽歌を詠んでいる。書持の歌は、巻三に一首、巻八に三首、巻十七に二首見えている。しかるに以上のほか、巻十七の「追和太宰之時梅花新歌六首」の左註に、通行本には、右天平十二年(七四〇)十一月九日大伴宿禰家持作とあって、この六首を家持の作とせるに、元暦校本には、右十二年十二月九日大伴宿禰書持作とあって、この六首を書持の作としているの。この六首は、
  み冬つぎ春は来たれど梅の花君にしあらねば折る人も無し(巻十七・三九〇一)
  梅の花み山としみにありともやかくのみ君は見れどあかにせむ(同・三九〇二)
  春雨に萌えし柳か梅の花共に後れぬ常のものかも(同・三九〇三)
  梅の花いつは折らじと厭はねど咲きの盛りは惜しきものなり(同・三九〇四)
  遊ぶ内の楽しき庭に梅柳折り插頭《かざ》しては思ひ無みかも(同・三九〇五)
  御苑生の百木の梅の散る花の天に飛びあがり雪と降りけむ(同・三九〇六)
 以上の六首は、正直なところ、まずい歌である。ことに言い表わし方が幼稚である。家持の初期の作は、かなりまずい作があるが、それでもこの六首を除くと、よほど水準が上がる。家持は有名で、書持は有名でないから、書持を家持に書き誤るおそれは多いが、家持を書持に書き誤るおそれは、よほど稀であろう。
 古今書院から出た『万葉学叢刊』に収めた『万葉集目録』は、原本は平安朝末期の写本であるが、その書に、『万葉集』の作者の名を列記して、集中の歌数をあげてある部分がある。その大伴書持の条に、
 大伴書持十二首第三可一 第八可三 第十七可八
(445)とある。この第十七巻のは、梅花の新歌六首を加えての数である。同書、大伴家持の条には、第十七短九哥六十五とある。この短は長歌の謂である。巻十七に三十一音形の歌六十五首あるというのを数えて見ると、梅花の新歌六首を除いて、実は六十七首ある。これによって見ても、『万葉集目録』の計算に用いた本も、梅歌の新歌六首を書持の作としていたことが察せられ、元暦校本の字面の、かならずしも孤立性のものでないことを示されている。
 
       古鈔万葉集複製印行の部数
 
 『赤彦全集』第一回の配本に添えられた月報の第一号に、高木今衛君の文中、故人が鴎外博士から写真版の『桂万葉』を借りたことを記して「夫れは博士が容易に之を貸与されたに対する感謝と、之を部数制限で刊行した某博士に対する憤慨とが一緒になったからであらう」と書いてある。この某博士が何人をさすかは、今日の事情から容易に推測しうべく、しかもこの記事が誤解をもととしておりながら、なまじいに某博士と名を伏せてあるために、かえって本人からは釈明をなしがたいであろうと思う。高木君の文によって、某博士に対する誤解が広まり、はなはだ迷惑なことであろうと思うから、『万葉集』古写本の刊行についていささか知るところのある小生よりして、事情を説明しておこうと思う。
 帝室御物の『桂万葉』の、写真版(玻璃版)による印行は、前後二回ある。前回は明治三十二年(一八九九)、時の宮内大臣子爵田中光顕氏(後伯爵に陞る)が、百部を印行して諸家にわかたれたもので、この印行には、某博士は全然干与していない。後回は昭和三年(一九二八)、佐佐木博士の手によって刊行されたものであって、部数は三百部、今なお残本が発行所(東京府渋谷町桜丘八十三尚古会)にあって、諸方の需めに応じている。
 右の次第であるから、『桂万葉』の印行に際して、もしはたして故人が某博士に対し憤慨を懐いたとせば、そはまったく誤解にもとづくことである。しかし高木君の文中には、日本文学全書中の略解三冊というような間違いの記事があ(446)るから、今問題にしている記事についても、正確な記憶にもとづくものとは断言せられない。文中の『桂万葉』とあるも、あるいは『元暦万葉』のことであろうも知れぬ。よってさらに『元暦万葉』の複製について記しておく。
 『元暦万葉』が玻璃版として印行せられたのは前後三回ある。第一回は大正七年(一九一八)、山県公爵の勧めによって、古河男爵がその所蔵にかかる分を印行した。その部数は五十部で、非売品として諸家に配布した。この印行部数は、まったく印行者の意志によるものであって、某博士はこれを緩和しようとして勧説したが聴かれなかったものである。第二回は大正十四年(一九二五)、佐佐木博士が高松宮家御蔵の分を印行したもので、これは今なお残本が発行所(本郷区西片町十竹柏会)に存している。第三回は、昭和三年(一九二八)、朝日新聞社が、高松宮家本、古河男爵家本の両本をあわせさらに断簡をも集めて印行したもので、これは当時広く予約を公募したことである。
 以上のごとく、仮に『元暦万葉』としてもなお誤解である。その他の『万葉集』古写本の写真版で印行されたものとしては、藍紙本、金沢本、天治本があるが、いずれの場合も当たるものはない。はたして故人がさような誤解を抱いていたとせば、今日それを釈くことを得ぬははなはだ遺憾であるが、ねがわくはさらに高木君の文によって、かような誤解が伝播せぬようにと、一言を費す次第である。
 
 
(447)   『万葉集』における部類の基準としての季節
 
 〔一九五二年十月、国学院大学編論文集『古典の新研究』第一集(角川書店刊)に収録。〕
 
         一
 
 『万葉集』が、その採集した歌を部類し配列するにあたっては、種々の基準が使用される。これらの基準は、単独に使用されることもあるが、多くは数種が併合される。その部類し配列するに当たって使用される基準は、おおむね次のとおりである。
 一 雑歌、相聞、譬喩歌、挽歌の標目を立てて分類する法。これは『万葉集』における特殊の分類法として知られ、巻の一から十四までの諸巻に用いられている。そのうち雑歌、相聞、譬喩歌は、さらにその中に項目を立てて分類しているものもある。たとえば、雑歌には、詠何、※[羈の馬が奇]旅作等、相聞、譬喩歌には寄何、また相聞に、正述心緒、寄物陳思、問答歌等である。以上の分類法は、歌の内容によるもののほかに、作歌事情、表現法等にも及んでいるものである。
 二 特殊の作歌事情によるもの。東歌、由縁ある等の分類の行なわれているものはこれである。
 三 季節によるもの。歌の内容、または作歌の時期により、季節をもって部類の標準とする巻がある。
 四 歌体によるもの。巻によっては旋頭歌を一団として集め、また巻の十三は、計画的に長歌(反歌を含む)だけを集めている。これによれは歌体の他の分類である短歌だけ集められているものも、偶然ではないと考えられる。
 五 作者の有無によるもの。作者の知られているものと伝わらざるものとは、それぞれ分けて集めてある。
 六 書式によるもの。まとまった文書の形態を有するものを一所に集めている。巻の五のごときは、これである。な(448)お巻によって文字使用法の種類を異にするが、これは別の理由によるものであって、文字使用法をもって部類の標準とはしなかったらしい。
 七 資料によるもの。一団を成している資料は、これを一所に収めている。柿本人麻呂歌集、古歌集、高橋虫麻呂歌集等の歌集、遣新羅使人の歌、中臣宅守の相聞歌、大伴家持の集録のごときはこれである。
 八 作歌もしくは作者の時代によるもの。編者はつとめて歌の時代を知って、これによって配列を行なっている。ただし特に縁故のある歌は、かならずしもその時代によらないで一所にまとめているものがある。「追ひて和ふる歌」のごときは、その例である。
 『万葉集』の編纂には、実に以上のような多種の基準が行なわれており、しかもその一々の基準が、かならずしも同一の態度において使用されていないので、いっそう複雑な結果をきたしている。これらの基準は、一々について考究を要するものがあり、これによって『万葉集』の成立の一面をあきらかにすることができるようである。ここにはそういう考究の一環として、特に部類の基準としての季節について、私見を述べようと思う。
 
         二
 
 農耕を中心とする古代人の生活に、大きな関係を持っていたのは、季節の推移である。寒暑が往来し、一回の耕作と収穫が行なわれる期間をもって、時間の一の単位とする時に、寒暑とその中間の時期とを数えて、四季が成立する。これは自然の変化となって、人生に接触し、人はこれを通して、季節の観念を構成した。
 季節の観念は、もと自然現象の変化によって成立したものであるが、暦法が行なわれるようになって、これによって一年間のある時期を提示するようになり、ついには一年の時間を四分して、それぞれの季節に属せしめるに至った。ここにおいて、季節は、自然現象の変化と、ある期間の名称という、二つの方面から考えられるようになった。独立語として使用される季節は、一年間のある時期の表示であって、同時に、自然現象の特殊の変化をも含むものである。人々(449)は、自然現象の特殊の変化に対して、季節を感じ、これを季節の観念のもとに整理して考えるようになった。文学の整理の基準として季節が使用されるのは、このような過程の上においてである。
 『万葉集』において、部類の基準として季節の使用されていることが明白なのは、巻の八と十とであって、その他においても潜在的に使用されているもののあることが見いだされる。
 『万葉集』の編者は、『万葉集』の作者の一人であるかどうかは、明白でない。ここでは、作者としての立場は、必要に応じて触れることとし、もっぱら編者としての立場を中心に考察を加えようと思う。
 巻の八と十とが、部類の基準として季節を使用していることは、それぞれ、春雑歌、春相聞、夏雑歌、夏相聞、秋雑歌、秋相聞、冬雑歌、冬相聞の標目を掲記して、歌を収録していることによってあきらかである。一々の歌については、巻の八はおおむね作者を伝え、巻の十は伝えないものを集めている。
 この二巻に収録されている歌について、編者は、それぞれ季節を感じているであろう。その例外的なものについては、特に註を付して所見をあきらかにしている。
  石の上布留の神杉神びにしわれやさらさら恋にあひにける(巻十・一九二七)
   右の一首は、春の歌にあらざれども、猶和なるをもちて、故この次に載す。
  雨降ればたぎつ山川岩に触れ君がくだかむ心はもたじ(同・二三〇八)
   右の一首は、秋の歌に類ざれども、和なるをもちてこれを載す。
 この二首は、春の歌、もしくは秋の歌ではないが、和歌であるがゆえに載すとしている。和せられた歌には季節があるのだから、和歌もたぶんそれと同じ季節に作られたのだろうが、ここではそれを季節の条件と認めていない。このようなことわりがきのないものは、すべて季節の歌として取り扱われたと解せられる。
 この例外的である二首を除くその他の全部について、編者は、どのような条件のもとに季節を感じたかというに、巻の八と十とでは、作者や作歌事情を伝えると伝えないとの相違にもとづく条件の相違があって、かならずしも全面的に(450)一致するものではないことが知られる。よって今まず巻の十について、季節を感じたと見られる条件を検討しよう。巻の十を先にするのは、作者や作歌事情を伝えないので、条件が比較的単純に指定されるからである。ただし特に作者や作歌事情について伝えのある若干がある。
 
         三
 
 巻の十は、まず四季それぞれの雑歌、相聞として八個の標目をかかげ、その下に小題をかかげて歌を収録している。ただし柿本朝臣人麻呂歌集所出の歌は、別に小題を付せずに大きな標目のもとにまず出したものと、それぞれの小題のもとに分出したものとがある。人麻呂集所出の歌に、このような形を採ったのは、人麻呂集が、季節のある歌を別にしてあったかどうかは別として、すべてに小題を付して収録する方法ではなかったのであろう。
 各歌における季節は、小題を含む歌詞の全部によって表示されるものと、歌詞の一部によって表示されるものとがある。
    旧りにLを欺く
  冬過ぎて春し来れば年月は新なれども人は旧りゆく(巻十・一八八四)
  物皆は新しきよしただ人は旧りぬるのみしよろしかるべし(同・一八八五)
 この二首は、連作であって、合わせて鑑賞すべきものである。第一首は、これだけ切り離しても、春の歌であることがわかるけれども、第二首は、これだけ切り離してはわからない。題詞および前行の歌があることによって、はじめて春の歌であることがわかるのである。また小題のあるによって、季節の歌であることの知られるものには、たとえば七夕の歌のごときがある。その多くは、題詞をはずしては、季節の歌であることがあきらかにされないだろう。
 今どのような事項について、季節を感じているかを知るために、各歌について、題詞等を参照して、たぶん季節を感じたのであろうと考えられる事項を集めてみる。一首の全部や大部分で表示しているものは、要をつまんで記すことと(457)する。一首で二個以上あるものは、主客にかかわらずそのすべてを出したから、事項の数は、歌数より上回っている。
 この調査によって、巻の十の編者が、どのような事項について季節を感じたかが知られ、他の巻について考察する際の基準になる。
 この調査に現われた事項の数としては、自然現象が多く、人事現象は少ない。しかし使用回数からいえば七夕は多数であって、その特殊性を示している。表には現われないことだが、動物については、鳴き声を扱ったものが多く、たとえは鹿は、全部が鳴くことについて使用されている。植物において花の咲くことを歌うものが圧倒的に多いのと同様、すべて自然現象は、季節によって生ずるところの変化に、季節感を認めているのである。
 次に、一の事項で、二個以上の季節において現われているものがある。これはその事項について、季節感がまだ定まっていなかったものと見られる。これと同様のものに、この巻では、たぶん季節を感じていると見られるもので、他の巻では、かならずし
 
春         
時令
    春      六
    春来る   二六
   (【春去る、春立つ、春になる等を含む】)
    春日     七
天象
    春風     一
    霞     二六
    春雨    一二
    雪     一三
    雪消     一
地文
    春野     五
    春山     四
動物
    鶯     一一
    喚子鳥    四
    貌鳥     二
(452)   雉子    一
    もずの草ぐき 一
植物
    花      八
    梅     二一
    桜      九
    柳     一三
    三枝     一
    桃      一
    藤      一
    ひさぎ    一
    あしび    三
    山ぶき    三
    つつじ    一
    ゑぐ     一
    うはぎ    一
    春菜     一
    春草     一
    藻の花    二
人事
    野遊     四
時令
    五月     四
    六月     一
    短夜     一
    秋立たず   一
天象
    烈日     一
    霞      一
地文
    夏野     二
動物
    霍公鳥   三四
    喚子鳥    一
    ひぐらし   二
植物
    卯の花    九
    藤      三
    花橘    一〇
    あふち    一
    菖蒲     一
    かきつばた  一
    なでしこ   三
    くれなゐ   一
    夏草     二
人事
時令
    秋      三
    秋来る    五
    秋まつ    二
    秋づく    二
    秋過ぐ    一
    冬まつ    一
    九月     四
    秋の夜    四
天象
    秋風    二七
    月      七
    秋の月    三
    雨      二
    時雨    一五
    霧     一一
    露     三〇
    露霜     七
    霜      七
地文
    秋野     二
    秋山     八
    秋田    一六
動物
    雁     二九
    鶴      三
    もず     一
    鹿     二二
    ひぐらし   二
    こほろぎ   四
    かはづ    六
植物
    萩     六九
    薄(【尾花を含む】)一三
    朝顔     三
    女郎花    二
    早稲     一
    秋の香    一
    秋の穂    一
    からあゐ   一
    つき草    二
    貌花     一
    水草の花   一
    黄葉    四七
    秋花     二
人事
    七夕    九八
    秋さり衣   一
時令
    寒夜     二
天象
    雪     二七
    霰      二
    露      二
    霜      一
動物
植物
    梅      九
    黄葉     一
人事
 
季節をともなっているとはいえないものがある。自然現象の動態に多く季節を感じているのとあわせて、季節感の固定していなかったことを語っている。
 いつの季節にも見られるものについて、特殊の季節感を表示しようとする場合には、多くは季節感の濃厚な他の事項を配してこれを表示する。たとえば秋季における月や霧のごときは、これである。
 このような季節感の動揺があるので、歌をそれぞれの季節に部類配置するに当たって、かならず妥当であるものばかりでもない。実際には、一の事項が二つの季節にまたがって起こることもありがちであり、季節による変化の微量であるものもあって、編者自身も、処理に苦しむものがあったのだろう。
 二李にわたって部類されているおもなものは、梅、雪、喚子鳥、ひぐらし、なでしこ、藤、月、露、霜等である。その中、梅は、春と冬とに見え、冬季のものは、雪を配したものが多いが、配せぬものもあって、春季のものと区別がつかない。
  誰が苑の梅の花ぞもひさかたの清き月夜にここだ散りくる(巻十・二三二五)
  誰が苑の梅にかありけむここだくも咲きにたるかも見がほしまでに(同・二三二七)
(453)  妹がためほつ枝の梅を手折るとは下枝の露にぬれにけるかも(同・二三三〇)
  咲き出照る梅の下枝におく露の消ぬべく妹に恋ふるこのごろ(同・二三三五)
  わが屋戸に咲きたる梅を月夜よみ夕々見せむ君をこそ待て(同・二三四九)
 これらは、いずれも冬の部にある歌であるが、春の部に収めたものに比して、特に変わった点を見ない。春の部においても、雪を配した梅の歌は、むしろ冬の部に収めたほうが妥当であるように見える。しいて理由を求めれば、編纂に際して資料としたところには、作歌の時日が伝えられておって、それによって春と冬とに分けたものででもあろうか。
 月の歌は、秋の部に収めたものには、多く他の秋の季節のものを配してあるが、次の歌には、他の季節の物を配していない。
  天の海に月の船浮け桂揖かけて榜ぐ見ゆ月人をとこ(巻十・二二二三)
 この歌には、文雅の色彩が濃厚であって、七夕の雅会などで詠まれたもののようであるが、そういう作歌の時日が、秋の部に収められる根拠となったものであろうか。一方、冬の部にも月の歌がある。それは、
  さ夜ふけばいで来む月を高山の峰の白雲隠しなむかも(巻十・二三三二)
であって、これを歌詞の上では、何ら冬の歌とすべき理由を見いださない。
 かように作歌の時日を尊重して季節に部類しているかと思われる一方には、また作歌の時日にはかかわらずに、歌われている事項に季節を感じて配置する例もある。
  天の川安のわたりに船浮けて秋立つ待つと妹に告げこそ(巻十・二〇〇〇)
  天地と別れし時ゆおのが妻しかぞ手にある秋待つ吾は(同・二〇〇五)
 この二首は、七夕の歌であるが、歌中にはいずれも、秋を待つ心が歌われてあって、正確にいえば、秋の歌ではないが、やはり他の七夕の歌とともに秋の部に収めてある。しかし七夕の歌は、七月七日に作られるものであるから、実際に作られた時日は秋であったのである。
  (454)  朝霞たなびく野辺にあしひきの山霍公鳥いつか来なかむ(巻十・一九四〇)
 これは夏の部にあるが、歌意は、霞のたなびく野辺にあって霍公鳥を待つ歌である。他の例に従えば、霞は春季のものと解せられているのだから、歌意よりすれば春の部に収めらるべきものである。これを夏の部に収めたのは、霍公鳥の語にひかされたか、または実際の作歌時日が夏にあったためであろう。
  八田の野の浅茅いろづくあらち山峰のあわ雪寒くふるらし(巻十・二三三一)
 この歌は、冬の部に収めてあるが、目前の風光は、「浅茅いろづく」にあって、それによってはるかな北国の山を望んでいるのであるから、当然秋の部に収むべきものである。これらの例は、季節の分類が、作られた時日にもよらず、正確でないもののあることを示すものである。
 この巻では、譬喩歌や旋頭歌は、春雑歌等の大きな部類の終わりに譬喩歌もしくは旋頭歌と題して付けて出してある。これは、それらを部類の基準とする態度を示したものであって、巻の八がこれらを特に出さないのと相違するところである。
 
          四
 
 巻の八においても、各歌を四季に分かち、各季ごとに雑歌と相聞とに分けている。その部類の基準となったものは、大部分は、題詞もしくは歌詞に、季節に関する事項が示されているものであって、それらは、作られた時日にかかわることなく取り扱われているが、五首だけは、題詞や歌詞に、季節に関する事項なく、ただ作られた時日によって配置されたと見られるものがある。まず巻の十におけると同様に、題詞や歌詞において季節を感じたと考えられる事項をしらべてみよう。
 巻の八は、巻の十に比して、歌数も少ないが、二季以上に跨がっている事項も少ない。わずかに、梅、雪、なでしこ、尾花が見られる程度である。
(455) 梅は、春の部と冬の部とに見える。冬の部にあるもの十五、そのうち雪などの冬の季物を配し、もしくはまず咲くというもの十首で、それのないもの五首の作者は、三野石守、他田の広津の娘子、大伴の坂上の郎女、和ふる歌、紀の少鹿の娘子で、これらは、資料とするところに、作歌の時日が伝えられていたのかもしれない。
 巻の八の編纂の方針は、一、題詞や歌詞によって季節の示されているものを集める。二、作歌の時日には拘泥しない。三、連作や問答の場合は、その一方の季節に従って、季節のないものをも付収する。このような方針が立っていたようである。
 季節のある歌を収録したことは、たとえば、天平十年(七三八)秋八月二十日、右大臣橘家にて宴《うたげ》せる歌七首(巻八・一五七四−一五八〇)は、いずれも秋の季節の詠まれている歌である。しかるに巻の六にも、秋八月二十日、右大臣橘家に宴せる歌四首(巻六・一〇二四−一〇二七)があって、同時の作と見られるのであるが、これには季節に関する事項が詠まれていない。これによれば、一団の歌の集録を分かって、
 
時令
    春     一
    春来る   四
天象
    雪     六
    霜雪    一
    霞     五
    春雨    二
地文
    春山    二
    春野    三
動物
    鷺     三
    喚子鳥   二
    雉子    一
植物
    花     三
    梅     八
(456)   桜    八
    柳     二
    ねぶ    二
    あしび   一
    山ぶき   二
    春菜    三
    董     三
    茅花    二
    なでしこ  一
人事
時令
    五月    四
    夏まけて  一
    菖蒲を玉にぬく日 一
天象
地文
    夏野    一
動物
    霍公鳥  三三
    ひぐらし  二
植物
    橘    一三
    藤     一
    はねず   一
    卯の花   五
    百合    二
    なでしこ  一
人事
時令
    秋     二
    秋来る   二
    秋の日   一
    九月    一
    十月    一
    秋の夜   一
天象
    月     二
    秋風    九
    秋雨    一
    時雨    九
    露    一四
    露霜    三
    霜     二
    霧     一
地文
    秋山    一
    秋野    五
    秋田    八
動物
    鹿    一五
    雁    一三
    鶴     一
    こほろぎ  一
植物
    黄葉   二八
    萩    三三
    茅花    一
    女郎花   三
    葛花    一
    なでしこ  四
    藤袴    一
    朝顔    一
    かほ花   一
    秋の花   一
    薄(尾花を含む) 六
    秋草    一
    時じき藤  一
人事
    七夕   一五
時令
    寒夜    一
天象
    冬風    一
    雪    一九
動物
植物
    梅    一五
    薄(尾花) 一
人事
 
季節のない歌を巻の六に、季節のある歌を巻の八に収めたものと見える。この両巻は、この点においてそれぞれの分野を占めるものというべきである。
 作歌の時日に拘泥しないということは、たとえば、橘朝臣奈良麻呂の結集せる宴の歌十一首(巻八・一五八一−一五九一)は、天平十年(七三八)冬十月十七日の作であり、仏前の唱歌一首(同・一五九四)は、同年冬十月であるにかかわらず、いずれも秋の部に収めているのは、これらの歌が、すべて黄葉に関して歌っているからである。元来季節の来往は、太陽の運行にともなうところの自然現象であり、月の盈毀を基準とする暦月とは、かならずしも一致するものではないが、便宜上正月二月三月を春とし、以下三月ずつを一季としている。閏月のある場合など、季節の自然現象とかなり一致しないことも生ずるのである。編者は、自然現象に季節を感ずるがゆえに、ここに暦月のさすところにはよらなかったのである。橘奈良麻呂の結集せる宴の歌の内容には、黄葉の散ることを歌っているものが多いが、黄葉そのものに、秋の観念が結びついていたのである。
 ところで、次の二首の歌、
    大伴宿禰家持の、時じき藤の花并せて芽子の黄葉の二物を攀ぢて、坂上の大嬢に贈れる歌二首
  わが屋前の時じき藤のめづらしく今も見てしか妹がゑまひを(巻八・一六二七)
  わが屋前の芽子の下葉は秋風もいまだ吹かねばかくぞもみてる(同・一六二八)
   右の二首は、天平十二年庚辰の夏六月に往来せる。
(457) これを秋の部に収めたのは、作歌の時日によるものではなく、題詞および歌詞によることはあきらかである。ここでは特に第二首の芽子の黄葉に秋の季節を感じたためであると解せられる。しかしその歌では、「秋風もいまだ吹かねば」と歌っているのであって、あきらかに夏の歌であることを示している。前にもいまだその季節の歌でないものを、その季節に入れてある例をあげたが、それは編者の観察が足りなかったための例外であった。今また編者は、歌の内容を十分に理解することができなかったのである。藤は、巻の十では春と夏に、この巻では夏に入れてあるが、晩春首夏にまたがるものであって、ここでは「時じき」と修飾しているのであるから、これも夏六月の作というに照して、当然夏の歌とすべきである、この二首が、大伴家持の作であることを考えれば、これを秋の部に収めたのは、家持の所為と考えることが困難である。
 次にこの巻としては例外的に、五首だけ、季節に関する内容なしに、作られた時日によって収められている歌がある。それは、春の部に、天平五年(七三三)癸酉の春三月、笠朝臣金村の入唐便に贈れる歌(巻八・一四五三−一四五五)であり、秋の部に大伴家持の姑坂上の郎女の竹田の庄に到りて作れる歌(同・一六一九)、大伴坂上の郎女の和ふる歌(同・一六二〇)であって、後者には、右の二首は天平十一年(七三九)己卯の秋八月に作れるの左註がある。この五首は、いずれも季節に関する内容がないもので、これを作歌の時日によってこの巻に収めたのは、この巻の大部分の編纂方針と背馳するものである。笠金村の作品については、巻の四に題詞の様式の特殊なものがあって、後加の徴証のあるものがある。
 
         五
 
 巻の八と十とにおいて、季節に関する歌が集められたのに対して、他巻ではどういう態度が示されているであろうか。実際他巻にも季節に関する歌が見いだされるが、それらはどのように考えらるべきであろうか。
 巻の八と十との調査によって、一往どのような事項について季節を感じていたかが知られた。よって他巻の歌をこれに照らして、季節のある歌もしくはない歌がどのように配置されているかを見る。
(458) まず巻の九において、柿本人麻呂歌集所出の歌に、季節のある歌が、集団的に存在していることを見る。この巻では、人麻呂集所出の歌は、集団をなして数出している。その最初の集団、これは一七〇九の歌の左註に、「右は柿本朝臣人麻呂の歌集に出づる所」とあるもので、その文の指示する範囲については諸説があって一定しないが、ここではその最小限を掲げるだけで足りることにしよう。それは「忍壁の皇子に献る歌」以下二十八首である。わずらわしいようであるが、次にその二十八首をあげる。
    忍壁の皇子に献る歌一首
  とこしへに夏冬ゆけや裘扇放たぬ山に住む人(一六八二)
    舎人の皇子に献れる歌二首
  妹が手を取りて引きよぢうち手折りわがかざすべき花咲けるかも(一六八三)
  春山は散りすぎぬとも三輪山はいまだ含めり君待ちがてに(一六八四)
    泉河の辺にて間人の宿禰の作れる歌二首
  河の瀬のたぎつを見れば玉もかも散り乱れたる川の常かも(一六八五)
  彦星のかざしの玉の妻恋に乱れにけらしこの川の瀬に(一六八六)
    鷺坂にて作れる歌一首
  白鳥の鷺坂山の松蔭に宿りて行かな夜も深けゆくを(一六八七)
    名木河にて作れる歌二首
  あぶりほす人もあれやも沾衣を家にはやらな旅のしるしに(一六八八)
  荒礒辺につきて榜がさね杏人の浜を過ぐれば恋しくありなり(一六八九)
    高島にて作れる歌二首
  高島の阿渡川波はさわげども吾は家思ふやどり悲しみ(一六九〇)
(459)  旅なれば三更をさして照る月の高島山に隠らく惜しも(一六九一)
    紀の国にて作れる歌二首
  わが恋ふる妹はあはさず玉の浦に衣片敷き独かも寐む(一六九二)
  玉くしげあけまく惜しきあたら夜を衣手かれて独かも寐む(一六九三)
    鷺坂にて作れる歌一首
  たくひれの鷺坂山の白つつじわれににほはね妹に示さむ(一六九四)
    泉河にて作れる歌一首
  妹が門入り泉川の常滑にみ雪のこれりいまだ冬かも(一六九五)
    名木河にて作れる歌三首
  衣手の名木の川辺を春雨に吾立ち沾ると家念ふらむか(一六九六)
  家人の使なるらし春雨のよくれど吾を沾らす念へば(一六九七)
  あぶりほす人もあれやも家人の春雨すらを間使にする(一六九八)
    宇治河にて作れる歌一首
  巨椋の入江とよむなり射目人の伏見が田井に雁渡るらし(一六九九)
  秋風の山吹きて瀬のとよむなへ天つしら雲翔りあふかも(一七〇〇)
    弓削の皇子に献れる歌三首
  さ夜中と夜は深けぬらし雁がねの聞ゆる空ゆ月わたる見ゆ(一七〇一)
  妹があたりしげき雁がね夕霧に来鳴きて過ぎぬすべなきまでに(一七〇二)
  雲がくり雁鳴く時に秋山の黄葉片待つ時は過ぎねど(一七〇三)
    舎人の皇子に献れる歌二首
(460)  うちたをり手武の山霧しげみかも細川の瀬に波のさわける(一七〇四)
  冬ごもり春べに恋ひてうゑし木の実のなる時を片待つ吾ぞ(一七〇五)
    舎人の皇子の御歌一首
  ぬばたまの夜霧は立ちぬ衣手の高屋の上にたなびくまでに(一七〇六)
    鷺坂にて作れる歌一首
  山城の久世の鷺坂神代より春は萌りつつ秋は散りけり(一七〇七)
    泉河の辺にて作れる歌一首
  春草を馬咋山ゆ越え来なる雁の便は宿過ぐなり(一七〇八)
    弓削の皇子に献れる歌
  御食向ふ南淵山の巌にはふりしはだれか削り残れる(一七〇九)
 右の二十八首を通覧して、まず気づかれることは、同じ題の重出の多いことである。すなわち、舎人の皇子に献れる歌二回、鷺坂にて作れる歌三回、名木河にて作れる歌二回、泉河にて作れる歌二回(内一回は泉河の辺とある)、弓削の皇子に献れる歌二回である。同一の作歌事情が、時を隔ててくり返し起こることは、格別めずらしくはないが、ここでは数種の作歌事情が、おのおの重出しているのである。内容から見れば、前の名木河にて作れる歌のうち、あぶりほす(一六八八)の一首は、後の名木河にて作れる歌、ことにその第三首あぶりほす(一六九八)の歌とは、連作であると認められるものであり、かつその荒礒辺に(一六八九)の歌は、名木河で作った歌ではないだろうとされている。
 いま季節の上から右の二十八首を観察すると、まず一六八三、一六八四の二首は、春の歌である。次に一六八五、一六八六の二首は連作で、七夕を連想しているが、七夕の夜ではなく、季節と切り離しても考えられる。それから飛んで、一六九四は躑躅、一六九五は残雪、一六九六以下三首は春雨で、以上春の歌、一六九九は雁、一七〇〇は秋風、一七〇一以下二首は雁、一七〇三は雁と黄葉、一七〇四は霧、一七〇五は木の実、一七〇六は霧、一七〇五は落葉、一七〇八(461)は雁で、以上いずれも秋の歌である。なお一七〇七の、「春は萌りつつ秋は散りけり」は、春秋にわたっているが、この類の表現は、巻の十にも「春は萌え夏は縁に云々」の歌(二一七七)があって、主想によって秋の部に収められている。さらに一七〇九は「はだれ」で、冬の歌で終わっている。この季節の有無によって分ければ、一六九三までと、一六九四からとの二部に分けることも考えられる。前の部分には春の歌もあるが、まず季のない歌が多く、しかもその最後にある紀伊の国にて作れる歌二首は追憶である。後の十六首は、春、秋、冬の順になっており、意識的な配列のあとが感じられる。作者は少なくも春秋の二回に山城の国を旅行してその作をとどめているのであろうが、泉河、名木河、宇治河の順に、大和から遠くなっていった次に、大和の国においでになったであろうと考えられる弓削の皇子、舎人の皇子関係の歌を插み、また鷺坂、泉河と続く順序は、歌の作られた順序に配列したものとは考えられない。
 『万葉集』の編纂に際して資料とした人麻呂集において、すでにこのような順序になっていたものであるかどうかはわからない。ただし巻の九の編纂には切り継ぎが多く使用されたようであり、また巻の十一における人麻呂集所出の歌の研究によって、『万葉集』における部類の一標目である相聞は、たぶん人麻呂集の部類を踏襲したのであろうと考えられるので、季節は、すでに人麻呂集において部類の基準として使用されていたのではないかと推測されるのである。
 
          六
 
 巻の十六までの諸巻のうち、巻の五、十四、十五、十六のごとき特殊の内容を有する諸巻を除いて、その他の十二巻は、一定の基準のもとに部類がなされたものとも見られる。巻の十三は、作者、作歌事情の伝わらない長歌(反歌を含む)を集め、巻首から季節のあるものとないものとが交錯しているから、これは季節の有無にかかわりなく集めたものと解せられる。
 さきに巻の八の考察において、同一時の作品について、季節のあるものを巻の八に、季節のないものを巻の六に収めた事実のあることを指摘した。巻の六には長短合わせて百六十一首の歌があり、そのうち季節のあるものは、霧、鶴、(462)河蝦のような、季節感の動揺していたと思われるものを除いて、十三首ある。これらは精選せられなかったがゆえに存在するとも見えるし、後加であるとも考えられる。
 巻の三は、長短合わせて二百四十九首、これを雑歌百五十四首、譬喩歌二十五首、挽歌六十九首の三部に分けてある。季節のある歌と認められるものは、雑歌に十二首、譬喩歌に八首、挽歌に八首である。
 また巻の四は、長短合わせて三百九首、そのうち季節のある歌と認められるもの二十五首で、巻の八および十に重出している歌三首がこの中にある。
 今、季節の有り無しによって歌を分けなかったと見られる巻の十七以下の四巻について、季節のある歌と認められるものが、どのくらいの分量を占めているかを見るに、巻の十七は、百四十二首中の六十四首、巻の十八は、百七首中の四十首、巻の十九は、百五十四首中の八十九首、巻の二十は、二百二十四首中の七十七首が、季節を有すると認められる歌である。これについては、作者たちの歌に対する態度の偏りを計算に入れなければならないが、巻の三、四と巻の十七以下とでは、共通する性質も少なくないのであって、あまり桁はずれの計数は出ないものと思う。そこで巻の十七以下における季節のある歌の数に比して、巻の三、四の二巻は、一往季節のある歌を除外する方針であったように考えられる。それでは、この両巻にある、季節のある歌は、いかにして存在するかというに、おそらくは後加によるためではないかと考えられるのである。
 巻の三の挽歌は、天平十一年(七三九)六月、大伴家持の亡妻を悲傷する歌および弟書持の和ふる歌十三首(四六二−四七四)、十六年(七四四)二月、安積の親王の薨りし時の大伴家持の歌六首(四七五−四八〇)、高橋某の死りし妻を悲傷する歌三首(四八一−四八三)で終わっているのであるが、その亡妻を悲傷する歌および安積の親王を悲傷する歌において、季節のある歌が九首までも見いだされる。また巻の四の巻末は、大伴家持と藤原久須麻呂との相聞の歌七首で終わるのであるが、そのうち五首までも季節のある歌である。
 挽歌は、特に季節のあるものを集めた巻がないが、相聞は、巻の八に四季の相聞の部が置かれている。しかるにそれ(463)に譲らないで、季節のある歌を除外したと思われる巻の、しかも巻末にこれらをおいたのは、その前に成立した形に対する破壊であって、これと同種のことが、巻の八において、作者である大伴家持の意に反して行なわれたと見ることの前提において、同じく大伴家持の所為とは認めがたいという考えに導かれる。それでは、どういう人がそれをしたかの問題が、続いて起こってくるのである。
 
 
 
(464)   高橋虫麻呂論  〔一九五一年九月、雑誌「文学研究」に発表。〕
 
 『万葉集』の歌人の一人である高橋虫麻呂についてお話いたします。虫麻呂は今日からさかのぼって約千二百年前の人である。日本文学のこのような早い時代において虫麻呂はどのような位置を占めているのでありましょうか。『万葉集』は現存している歌集の中での最古のもので、虫麻呂は『万葉集』の歌の持つ年代の幅の上から申せば、奈良時代前期を代表する歌人ということになります。奈良時代は、具体的に申せば、元明天皇が和銅三年に都を奈良に定められてから、桓武天皇が都を奈良から長岡の京に遷されるまで、西暦で申しますと七一〇年から七八四年までの七十五年間であります。この時代は日本文化が大陸文化の影響を受けて整備した時代であります。『万葉集』はこの奈良時代七十五年の約三分の二までで終わることになります。その『万葉集』における奈良時代をさらに二期に分けて考えると、まず奈良遷都より天平年間(これは天平五年<七三三>までとも、十六年<七四四>までともされます)までを奈良時代前期とする。この時代は歌の上に大きな文学性を認めてくる時代であります。奈良時代以前の歌は、従来のものをほとんど無反省にそのまま持ちこんでいましたのを、柿本人麻呂の出現などがあって文学としての根を据え、それからこの奈良時代を迎えるのであります。そこで作品の上に個性の現われた時期であり、文学が文筆作品としての位置を確定した時期であります。
 この奈良時代前期に属する歌人としては、大伴旅人、山上憶良、山部赤人、それに高橋虫麻呂などがあり、それらの人々の作品の示す特色が、またこの時代の歌の特色ということになるわけであります。文学は社会の中に生きる個人生活から生まれ出たものであります。そこでそれらの作家の性格を分けて考えてゆくことも一つの方法であります。この(465)見地から奈良時代前期の作家たちを分けて見ますと、一に進歩的傾向を持つ作家群と、二に保守的傾向を持つ作家群と、二つに分けて考えることができると思います。前者は大陸文化の影響のいちじるしい文学であり、日本文学が大陸文学とのつながりを持ってくることを示すものであります。それは特に大陸との交通が頻繁に行なわれるようになった結果であります。これは別に文壇のみが影響を受けたのではなくして、あらゆる方面が大陸の文化をとり入れたのであり、文壇もまたその一環としてその影響を受け入れたわけであります。その吸収者としては当時の急進的な文学者であり、詩人であり、歌人であったわけです。これらが進歩主義的な作家群であり山上憶良や大伴旅人などがそれに属すると考えられます。彼らは漢文をもよく綴ると同時にまた歌をも詠んだのです。憶良の漢文などは理屈っぽいが、しかし貧窮問題を歌の題材として選んでくるがごときは、まことに大胆で従来には見られなかったところでありまして、これらはやはり大陸文学の影響を受けたものということができます。大伴旅人は漢詩をもよくした詩人肌の人で、たとえば松浦河に遊ぶ序などを見ても、漢文の小説の影響を受けた作品と見ることができます。これらが進歩的傾向の作家群でありますが、これに対して保守的傾向の作家としては赤人や虫麻呂などが考えられてくるわけであります。赤人や虫麻呂には、旅人や憶良の作品に見るような大陸文学的なものはない、漢詩漢文の作も伝わりません。しかし保守的であるということはかならずしも進歩的であるのに対して劣っているという意味ではありません。むしろ彼らこそ純粋の日本文学の伝統の上に立つものであるということができるのであります。かくのごとく当時の歌人群を分類して、虫麻呂の位置をあきらかにすることができるのであります。
 さて『万葉集』以前にもいくつかの歌集のあったことは知られております。『万葉集』中に名の見える六歌集としては、類聚歌林(山上憶良の撰)、古歌集(編者未詳)、柿本朝臣人麻呂歌集、高橋連虫麻呂歌集、笠金村歌集、田辺福麻呂歌集がそれであります。類聚歌林は多くの古歌を集録したという点で編纂もの的な色彩が濃く、古歌集、人麻呂歌集もどうも一人の作には限っていないようであります。これに対して、虫麻呂歌集以下は個人の歌集としての特色を持っております。このような個人の歌集ができたということは何といっても個性が自覚されるようになった何よりの証拠であ(466)って、作家として自己意識の覚醒と考えることができます。『万葉集』に出てくる虫麻呂の作歌は、長歌一四短歌一九旋頭歌一でありその大部分が高橋連虫麻呂歌集中出となっております。これらの作品によって、虫麻呂が畿内と東国とにわたって生活していたことが知られます。東国の歌としてはことに常陸の国の歌が多く、『常陸国風土記』の編纂に関係したものと考えられております。都での作としては天平四年(七三二)に藤原宇合が西海道の節度使になったのを送る歌があり、したがってその当時は中央におったと考えられます。『万葉集』以外の唯一の虫麻呂伝記資料としては、正倉院文書に『優婆塞頁進解《うばそくこうしんげ》』というものがあります。優婆塞とは俗家にあって仏門に入った人を意味する語であります。この文書の最後に少初位上高橋虫麻呂と見えます。すなわちこの文書は、虫麻呂が僧となるべき人を寺に送った時の手紙なのでありましてこれは虫麻呂の自筆の文書と考えられます。少初位上は位の中ではもっとも低いものであり、高橋虫麻呂とだけあって連とは書いてありませんが、当時位の低い者はしばしばカバネを省略する一般的な習慣に従ったものと考えられます。
 このようなごく下級の官吏であった彼は、憶良や旅人のような学問も知識もなかったが、本当に歌が好きで常に詠んだものと考えられます。それがかえって外国ものを鵜呑みにしないよさを出しているのであります。また虫麻呂は伝説歌人だとされております。たとえば水江の浦島の子を詠んだ歌や勝鹿の真間の娘子を詠んだ歌とかまた菟原処女の墓を見る歌とかに見られるように伝説上の人物を取り扱うことはたしかに虫麻呂の一つの特色であります。彼の歌は自然を詠んだ歌と人事に関する歌とに大別されます。伝説の歌はその人事に関する歌の中に入れられるものでありますが、しかもそれが他の人の作品と異なっているところは、伝説の内容を詳しく物語ってゆく点であります。浦島の歌にしても物語風に進めて行く点が、伝説歌人としての面目があらわれているのであります。だがしかしそれは作家としての虫麻呂のすべてを蔽うべき評語ではありません。むしろその特色は人間を描写する点にあったのであります。たとえば「……さ丹塗の 大橋の上ゆ くれなゐの 赤裳裾引き 山藍もち 摺れる衣着て……」というように、現実の人間を詠んでも色彩の描写に至るまで詳しく叙するのであります。過去の人を扱っても現実の人を扱っても、小説的描写を歌の世(467)界にとり入れてくるのであります。歌にほととぎすを詠むようになったのは明らかに大陸文学の影響でありますが、これが虫麻呂の題材にはいってくると「鶯の生卵《かひこ》の中に ほととぎす ひとり生れて わが父に似ては鳴かず わが母に 似ては鳴かず……」という風に日本古来の言い伝えの上に帰ってゆく。鳥を人間的に詠んだのであって、かならずしもそのまま描いてはいません。しかし自然を詠んだ歌にも、「筑波山に登る歌」を始め描写のすぐれたものを残しています。総じて彼の歌は描写の歌ということができましょう。また浦島の歌において「老いもせず死にもせずして」は明らかに不老不死の語の直訳でありますが、しかしそうした語を使いながらも、「世の中のおろか人……」といって海の中の宮にとどまらずして帰ってきてしまった浦島を評してくやしがつている。これはおよそ理性の勝った知識人の考え方ではない。教育者であり道徳者である憶良などであったら、おそらくこうは考えないでしょう。この点が、虫麻呂の俗人的な性格であり、他と異なるゆえんでもあります。しかしながらこの平俗の性格が、かえって作品の上に血の通ったあたたかみを与えてくれるのであります。
 結局平俗な日本人の生活階級の感情を物語風に表現して歌っているのが虫麻呂の特色であり、旅人や憶良のような文筆家に対して、一方ではこのような歌人が奈良時代前期に現われたということが注意されるのであります。
             〔2009年6月2日、午後6時、入力終了〕
(468)あとがき
▽第七巻万葉集篇Vは、著者の膨大な万葉集研究の中でも、柿本人麻呂の研究を中心として成った一巻である。大正三年、万葉集校訂の事業に参加されて後、『万葉葉書志』『国文学研究万葉集篇』『万葉集校定の研究』と本著作集所収の論考の示す通り、著者はその生涯の情熱を万葉集の研究にうちこまれた。万葉集研究史の上で著者の残された大きな足
跡は、本巻および第五巻万葉集篇T・第六巻万葉集篇Uの三巻によって、ほぼうかがい知ることができる。
▽『国文学研究柿本人麻呂攷』は、昭和十八年、著者五十八歳の年に大岡山書店より上梓された。昭和九年一月に刊行された『国文学研究万葉集篇』に引き続く万葉集研究という意味から著者はこれを万葉集篇二としておられる。所収の論考としては昭和十三年一月から雑誌「アララギ」に発表された「万葉史生手実――柿本人麻呂の妻――」が一番早く、また、「柿本人麻呂伝」も同じく「万葉史生手実」として昭和十六年一月から同誌に連載されたものである。当時、著者は人麻呂伝の作成に情熱をこめておられた。
▽「柿本人麻呂評伝」は、昭和二十八年六月、著者六十八歳の年、平凡社刊『万葉集大成9』に収録されたもので、柿本人麻呂攷以後、著者の人麻呂に関するまとまった論考としては最後のものである。
▽『万葉自然』は、昭和二十一年、湯川弘文社より上梓された万葉集に関する随筆集である。
▽ 「天平初期の人物」は、昭和二十九年一月、雑誌「明日香」に発表されたものである。
▽ 「万葉四季物語」は、昭和十七年五月、八雲書林刊『神・人・自然』に収録されたエッセイである。
▽「万葉集における部類の基準としての季節」は、昭和二十七年十月、国学院大学編の論文集『古典の新研究』第一集(角川書店刊)に収録されたものである。
(469)▽ 「雪驪短筆」は、昭和十三年から同十四年にかけて、雑誌「アララギ」に連載されたものである。
▽ 「高橋虫麻呂論」は、昭和二十六年九月、雑誌「文学研究」に発表されたものである。
                  武田拓吉著作集刊行会
 
 
〔参考〕國文學研究 萬葉集篇二−柿本人麻呂攷、武田祐吉、大岡山書店、418頁、5圓70錢、1943.7.25
      〔入力者注、あまりに紙の赤変が激しく読めないので入力を断念した。〕
 
(1)       序
 
 萬葉集に關する研究を集めて、國文學研究萬葉集篇として出版したのは、昭和九年一月であつた。その後、昭和十二年には、引き續いて、國文學研究の神祇文學篇、及び歌道篇を出版したが、今また幸にして、その萬葉集篇第二として、柿本人麻呂攷を出版することを得る運びとなつた。
 むかし、幼少の砌、家兄木兄子から、佐佐木信綱博士の少年歌話を買ひ與へられ、始めてこゝに萬葉の歌に接した。湯原の王の
  吉野なる夏實の川の川淀に鴨ぞ鳴くなる山陰にして
の歌は.その書から學んだ忘れられない歌の一つである。中學に入るに及んでは積善館版の萬葉集略解に親み、これが爲、略解の訓は、何時までも拔けにくかつたものである。
 萬葉集中に於いて、柿本人麻呂が、大きな存在であることは、言ふまでも無いこと(2)である。從つて、古今の萬葉研究家は、大なり小なり、この人に就いて筆を下してゐる。わたくしも、小田原中學校に奉職して居つた時代にいくつかの文章を書いたのを手始めに、年を累ねて、この人に關する研究を積んで行つた。昭和十二年に厚生閣から出版した「柿本人麻呂」には、その要を摘んで平易に述べたが、その外の著者にも、これに觸れた文章を收めたものがある。今この書には、體系を整へてこの人に關する考究を記した。
 人麻呂の作品は、高度に皇國精神を發揚してゐるものであり、その人の存在は、民族の自信を高めるに足るものではあるが、それにしても、これに關するかやうな微著が、この大東亞建設の大戰の、しかも總力を擧げての血戰期に當つて、出版することを得るのは、誠に大稜威のもとに於ける生ける驗と言はざるを得ない。
 この書は、わたくしのいささかの研究の集積であるけれども、わたくしはこれを最後の結論と思つてゐないし.また學徒としての爲すべき事がこれに終つたものとも考へてゐない。人麻呂の研究には、資料の性質上、遽に結論の定めがたいことが多いのである。ただ從來多く閑却され勝であつた柿本朝臣人麻呂歌集に就い(3)て考察を試みたことが、新しい考察方面を示すものともならば幸である。その集が、人麻呂と何等の關係も無きものであるとは、到底考へられぬ所である。
 
 本書中、第一、第二、第三の各章は、かつて齋藤茂吉博士の勸に依つて、雜誌アララギに連載したものである。アララギに發表した順序は、第二の、「柿本人麻呂の妻」最早く、昭和十二年八月號から連載し始めた。第一章はこれに次いで、「柿本朝臣人麻呂の歌集」として昭和十三年七月號から、第三の「柿本朝臣人麻呂傳」は、またこれに次いで昭和十六年一月號から掲載した。しかし本書に收めるに當つては、いづれも補訂を加へたが、第一章に於いては、特に多くの増補が加へられてゐる。なほ序説は、その一部を雜誌青垣に載せた。第四の「柿本人麻呂の作品」は、全然未發表の原稿である。
 
  昭和十八年五月
                       武田祐吉
 
 
(1)   目次
序説 歌の傳統と柿本人麻呂…………………………三
第一 柿本朝臣人麻呂歌集の研究(上)…………一七
 一 柿本朝臣人麻呂歌集の提示…………………一七
 二 柿本朝臣人麻呂歌集所出の範圍……………二四
 三 柿本朝臣人麻呂歌集の問題…………………三四
 四 短歌一首の字數………………………………三六
 五 文字使用法……………………………………四六
 六 編纂法…………………………………………八〇
 七 題詞の樣式……………………………………八九
 八 問答の體………………………………………九五
 九 人麻呂歌集と人麻呂作歌…………………一〇一
(2) 一〇 類歌類句の研究……………………一〇五
 一一 人麻呂歌集と歌經標式…………………一四九
 一二 歌の集録の性格…………………………一五六
第二 柿本朝臣人麻呂歌集の研究(下)………一六〇
 一 柿本人麻呂の妻……………………………一六四
第三 柿本人麻呂傳………………………………二一一
 一 舍人…………………………………………二一一
 二 家系…………………………………………二二四
 三 在京時代……………………………………二三二
 四 地方生活……………………………………二五八
第四 柿本人麻呂の作品…………………………二八五
 一 人麻呂以前…………………………………二八五
(3) 二 人麻呂の時代…………………………三〇二
 三 人麻呂の思想………………………………三一四
 四 季節の動き…………………………………三二三
 五 歌體…………………………………………三三〇
 六 言語現象……………………………………三三五
 七 長歌の構成…………………………………三六四
 八 短歌作品の表現……………………………三七五
 九 人麻呂以後…………………………………三九九
 
     圖版目次
 
一 萬葉集抄出類聚………………………………一一二−一一三
二 新撰姓氏録妙讀耕齋舊藏本…………………二二四−二二五
三 新撰姓氏録抄有不爲齋舊藏本………………同前
 
   柿本人麻呂攷
 
(3)  序説 歌の傳統と柿本人麻呂
                                       一
 
 古事記、日本書紀の歌の大部分は歌ふ事によつて傳へられたと認められるものであつて、その中には如何なる人が歌ひ傳へたかを語るものも存してゐる。例へば日本書紀神武天皇の卷の來目歌は、今來目部が歌ひて後にいたく笑ふはその縁なりと記してゐる。來目部が來目歌を歌つて日本書紀の此の文の書かれた時に至つたと見られるのである。また古事記に國主歌を載せて、今に至るまで國主どもが大贄を奉る時に常にこの歌を歌ふと記してゐる。これによつて國主歌が國主の人々によつて傳へられたことが知られるのである。その來目部や國主は、後世までも大嘗祭には參り出て奉仕することになつてゐる。その奉仕はかやうな(4)歌を中心とした伎藝を演ずることと解せられる。
 記紀の歌謠は、來目歌など傳來のあきらかなものの外にも、それぞれに傳へるものがあつて傳はつたのである。それはその歌に縁故の深い氏族が傳へたと考へられる。しかしその或るものは、大歌として宮廷に直屬して公のものとなつてゐたやうである。同時にまた個々の家のものもあつたのである。大歌を演奏することを掌るのは、大歌所の職掌であるが、古くは雅樂寮の所管となつてゐた。毎年十一月から翌年一月にかけて節會が行はれ、その場合に大歌が多く演奏される。その間特に歌人歌女を召してこれに預らしめるのである。この場合の歌人といふのは、歌を詠み出す人の謂ではなくして、歌を歌ふ人の意味であつたのである。
 萬葉集のうちの古いものに就いて考へる。古い歌から順に見て行くと次の如き順になる。
  1、 仁徳天皇の皇后の御歌
  2、 允恭天皇の皇太子の御歌
  3、 雄略天皇の御製の歌
(5)  4、 聖徳太子の御歌
  5、 舒明天皇の御製の歌
 これらの歌はどういふ風にして傳はつて來たのであらうか。萬葉集を編纂するに當つては、かならず材料とするものが無くてはならぬ。それは、よし、ものに記しつけたものであつても、その原形としてはやはり歌はれあたものであつたと考へられる。それはこれらの歌の内容、形態、及びその傳來の事情によつて推測されるのである。
 仁徳天皇の皇后の御歌は、形態が整備であり、或るいは更に後の歌であらうかとも云はれてゐる。しかしその中の
  君が行きけ長くなりぬ山尋ね迎へか行かむ待ちにか待たむ
は、允恭天皇崩後の輕の大郎女の御歌と、詞句に小異はあるが、互に連絡ある歌と見られるのである。允恭天皇の皇太子の御歌は、卷の十三にあつて、こもりくの泊瀬の川の云々と歌はれてゐて、此處には作者の名を傳へず、古事記を引いて木梨の輕の皇子の御歌としてゐるのである。雄略天皇の御製は、古事記、日本書紀に於ける(6)歌物語に通ずるものがあり、聖徳太子の御歌は、日本書紀に形は變つてゐるが、事情が類似し詞句に共通點のある傳來を載せてゐる。
 かやうに見て來ると傳來の探られぬ歌も有るのであるけれども、大體に於いて記紀の歌謠と同じやうな傳來をもつてゐたと推測することが出來るのである。しかし記紀の歌謠よりは更に流れて民間に歌ひ傳へてゐたものもあるであらう。
 これらの歌謠を受けて更に新しい道を開拓した次の世の歌人達は、たゞ文字によつて歌を連ねるだけであつて、全然これを口にすることは無かつたかといふに、さうばかりは云れぬものがある。三方沙彌が藤原房前の邸で歌うたといふ歌は
  大殿の このもとほりの 雪な踏みそね
  しばしばも 零らざる雪ぞ
  山のみに 零りし雪ぞ
  ゆめ寄るな人や な履みそね雪は
    反歌
  在りつつも見し給はむぞ大殿のこのもとほりの雪な踏みそね
(7) この歌は、集の中で變つた形の歌として注意される。その形は實際に右端ひあげられたうたであることを證明するものがある。これはまさしく記紀の歌謠の傳統を受けたものであつて、文筆作品たる歌とは種類が違ふのである。此處に至るまでの經過は、あきらかでないものがあるが、音聲に上せたと云ふだけの證明は他にもある。若宮年魚麻呂は屡々歌を吟誦したが、彼は相當の歌手であつたと考へられる。大伴旅人が大宰府を離れて都に上つて來る時に、これを見送つた遊行の女婦兒島は、
  凡ならばかもかも爲むをかしこみと振りたき袖を忍びてあるかも
  大和道は雲隱りたり然れども我が振る袖をなめしと思ふな
の二首の歌を口吟した。特に遊行の女婦の間には歌はれつつ歌が傳へられたものと見られるのである。天平十一年十月皇后宮で行はれた維摩講には、
  時雨の雨間無くな零りそ紅ににほへる山の散らまく惜しも
の歌が歌はれたが、その時の歌人は、田口朝臣家守、河邊朝臣東人、置始連長谷等十數人であつたと傳へられてゐる。この外大伴家持等の宴に誦したと傳へられた歌(8)は多いことである。卷の二十に載せてある防人らの歌の中に、武藏の國では、防人の妻の歌をも載せてゐるが、これらはその歌意より按じても、家を出る時に別に臨んで贈つた歌であるが、これらの防人の妻が、紙に歌を書いてその夫に呈したものとは思はれない。その歌の中には
  我が夫《せ》なを筑紫へ遣りてうつくしみ帶は解かななあやにかも寢も
の如き、昔年の防人の歌として傳へられても居るものもあり、これらはすべて口吟せられたものと考へられるのである。
 歌はれる歌から文筆作品にまで歌を展開させたのは、柿本人麻呂の功績が大きな力となつてゐると考へられるが、その人麻呂自身、果して歌を吟誦することはなかつたであらうか。彼が屡々詠んだ皇子皇女の殯宮に臨んで作つた歌は、その殯宮で吟誦せられたものではなかつたか。また行幸に供奉し、皇子に奉つた歌などは、いづれも紙に記して奉つたものとも見えぬのである。妻を失つても雄大の長篇をなし、妻に別れても朗々として吟誦すべき歌を傳へてゐるのは、元來歌はれる歌を扱ふことに慣れて、かやうな形をなしたのであらう。人麻呂の作品の中には(9)同語同音に依つて作りなしてゐる作品も少くないのである。
 人麻呂は春日氏と同族であつて、敏達天皇の御代に家門に柿の樹があつたから柿本氏と稱したと傳へる。春日氏は仁徳天皇の朝に家門が富み榮えて、糟を積んで垣となしたので、糟垣氏を賜ひ、のち春日と改めたものといふ。これらのもとは和珥氏であつて、和珥氏は古事記、日本書紀の歌謠の幾つかを傳へた家であると考へられる。かういふ系統の家にまれたことは、人麻呂自身がかやうな歌を歌ひ傳へたといふ證明にはならないが、これらの家に傳へた技藝に影響せられてゐることは、その作品に見られるところである。人麻呂を傳へる上に於いて、その家の系統を調べることは、その作品の正確を考へる參考となることである。
 
       二
 
 今日歌を詠むには、心の中で詞を扱ひ、これを思ひ浮べ、さまざまに吟味をして、それを手帳や原稿紙に書き附ける。その經過の間に、詞を一應音聲に現して見ることもあるが、それは必要な條件では無くして、無音聲のまゝに詞を扱つてしまふの(10)が普通である。それからそれを發表する場合には、活字に組んで、紙面に印刷する。これを讀む者も多くの場合、無音聲に黙讀してしまふ。文字になつてゐるものを、音聲に還元することなしに、處理してしまふ場合が多いのである。そこで實際問題としては、歌が音聲と關係無しに存在し、全然見る文學としてのみ存在することになる。批評鑑賞に當つても、音聲を顧慮することなしに行はれてよいものであるかの問題になる。
 勿論今日でも、實作に當つて音聲に上せて試みる人はあるであらう。島木赤彦
なども常に吟誦を試みたといふ。また一部の人々の間には、自作他作の吟詠も行はれてゐる。いはゆる披講調、御詠歌調、琵琶歌調など、流儀は樣々であるやうであるが、これもいまだ吟詠に上せることの適否が、歌の可否の問題には觸れてゐないのである。
 言語は人間の共同生活に於ける一つの約束の上に成立してゐるものであつて、本質的に音聲をその形態とするものである。こゝに一定の音聲を發することに依つて、ある意味を現すことが出來るのである。それから續いて自分の思想を纏め(11)る爲に、人々は、音聲に發すること無しに、言語を使用するけれども、その場合にも、その詞の音聲は、念頭に浮べられてゐるのである。
 文字が行はれるに及んで、音聲に依つて傳へられた言語は、文字に寫され、、また音聲を省略しても、思想が文字に寫された。しかし文字そのものは、言語では無く、言語の記號であるから、これを讀むことに依つて、言語に還元するのである。然るに、我が國で使用してゐる文字のうち、漢字は、表意文字であつて、言語に換算すること無しにも、ある意味を表示してゐるものであるから、文字は讀めなくても意味のわかることがあるのである。萬葉集にも、そんなのがある。
  鳥翔成あり通ひつつ見らめども人こそ知らね松は知るらむ
 この歌の初句鳥翔成は、今日の萬葉研究の程度では、讀み方がわからないのであるが、意味は分かつてゐる。鳥が飛ぶやうにといふことだといふ。今日の人の歌にもそれがあつて、漢字で書いてあるから意味はわかるが、讀み方のわからぬものがある。歌を味ふのに、音聲を顧慮する要なしとせば、かやうな歌でも結構間に合つて行くのである。
(12) また國語のうち、殊に漢語は、文字を配當すること無しに、音聲だけ聞いたのでは、意味の紛らはしいことが多い。これはその歌が文字にのみ依存して居つて、やはり音聲を條件に入れて居なかつたといふことになる。これも讀めても讀めなくても、その效果にはあまり相違の無いものといふべきである。
 歌が實際に歌はれるものから文字に定著するに至つたのは、非常に大きな轉換であつた。さうして永い間、文字の上のみに生きて來た關係上、その生育して來た時代の性格はおほむねふり落してゐる。ただ五句三十一音といふ音節の數の上の約束ばかり、遺傳的に殘つてゐるだけである。ある者は、これを墨守し、ある者は、これをもふり捨てようとしてゐるが、そのいづれにしても理由のある行動で無くてはならのである。
 歌の歴史の上に於いて、歌はれるものから文筆作品への轉換を爲し遂げたのは、萬葉集の時代であつた。その時代の代表的歌人なる柿本人麻呂は、前代から受け繼いだものと、自己の作品との間に、若干の相違するものを持つてゐた。その人麻呂の作品の中からも、後人は、自分の接觸する面のみを見て居たとも云へる。今日(13)の歌は中世以後の系統を追ふものであり、しかも一面には萬葉復興が口にせられ
てゐるのであるが、それは徒に萬葉の形骸を學ぶものであつてはならのである。歌は、わが民族生活の表現であり、記録であつて、國語を以つて構成せられてゐるものであるから、當然民族精神に生き、國語の美點を發揮し得たものであるべきである。それは近頃盛に唱へられる萬葉精神の方面からは勿論であるが、同時に、いはば閑却されがちな國語の特質の方面からも、これを考へなければならのぬである。國語は、目に見るだけのものではない筈である。
 歌はれるものの明るさ、それは母音に富む國語の特質から來るものであり、また音節の數を基礎とする歌體の性質から來るものであるだらう。その一々の吟味は、こまかに爲されねばならぬが、要するにそれらは、わが國民性の明るさを表現するものに外ならない。
 
       三
 
 萬葉集の歌人群のうち、柿本人麻呂が大きな存在であることは疑を容れぬ所で 
 
(16)て、更めて基礎的研究から出發しなければならぬのである。そこには種々の方法が考へられる。文化史の方面から當時の社會情勢を明にすることも一つの爲事であらう。語學の方面から語彙及び文字に就いて檢討を加へることも必要であらう。また文學の上から歌の作品として如何なる位置を占めるかを調べるのも必要であらう。すべての基礎的な研究の上に立つて始めて、綜合的な大觀がなされねばならぬのである。そして彼が歌の上に於いて如何なる位置を占めるかを明にし、彼の作品の意義を明にして來なければならぬのである。これは歌の傳統の上に住する者の、當然の爲事といふべきである。
 
(17)  第一 柿本朝臣人麻呂歌集の研究(上)
 
       一 柿本朝臣人麻呂歌集の提示
 
 柿本人麻呂を傳し、及びこれを論ずる者は、從來多くは、主として、萬葉集中、題詞に柿本朝臣人麻呂作歌とあるものに依つて居つた。萬葉集中には、別に柿本朝臣人麻呂歌集所出の歌が多數あるけれども、人麻呂の作品として疑はしいものであるとなして、顧みない状態であつた。しかし疑はしいものは、十分に檢討が加へられねばならない。人麻呂歌集と稱する以上は、何等か人麻呂に關係のあるべきことが豫想せられる。もし後人の編纂物であつて人麻呂を傳し論ずるに、資料として採るべからざるものであることが、あきらかにならばそれも結構である。また資