肥前國風土記新考、井上通泰、巧人社、155頁、貳圓、1934.12.10
〔目次、省略〕
(1)肥前國風土記新考
緒 言
元明天皇の和銅六年五月に畿内七道に勅して國々の物産・地味・地名の起原又國々に傳はれる口碑を録して奉らしめられた。これが即諸國の風土記であるが風土記といふ名はいつ命ぜられたのか分らぬ。然し延長三年の太政官符には夙く風土記と見えて居る。その風土記といふ名は晋の周處の著書なる風土記に倣はれたのであらう。さて右の勅に應じて諸國から早きは數年の後に、遲きは數十年の後に所謂風土記を撰進したやうであるが當時の六十餘國三島のものが
○和銅六年には六十二國三島であつた。其後廢置増減があつたが淳和天皇の天長元年に六十六國二島と定まつて明治維新に至つたのである
全部具備せざるまでも大部分は撰進を經て太政官に保存せられて居たであらうに太政(2)官では(恐らくは人々が自宅へ持歸りなどして)夙く散逸したと見えて醍醐天皇の延長三年十二月に
諸國ニ風土記ノ文アルベシ云々。宜シク國掌ニ仰セテ之ヲ勘進セシムベシ。若國底ニ無クバ部内ヲ探求シ古老ニ尋問シテ早速ニ言上セヨ
といふ太政官符が出た。國底といふは國衙の事である。從來右の官符を解釋してモシ國衙ニ副本ガアルナラバ奉レ、若又無クバ新ニ作ツテ奉レといふ意味として居るが、さういふ意味とは思はれず又若さういふ意味ならば和銅六年の時の如くどういふ事を録して奉れといふ指圖が無ければならぬ。恐らくは延長の官符は若國衙ニ副本ガアルナラバ奉レ、若又國衙ニ無クバ部内ニ殘ツテ居ラヌカ探シテ見ヨといふ程の意味であらう。出雲風土記の末に天平五年二月卅日勘造とあるが爲に勘進といふ語が編纂といふ事のやうに聞えるのであるが勘は字書に校也とあつて※[手偏+交]合・勘正乃至考定などいふ事である(※[手偏+交]校は通用)。之に製作の義は無い。されば勘進は誤字ヲ正シテ奉レといふ程の事であらう。又言上は晋書以下に例があつてやがて奏上といふ事である。さて今世に傳はつて居るのは出雲の完本と播磨の缺本と常陸・豐後・肥前の略本とだけであるが其中で出雲には天平五年二月(3)といふ年記があり播磨と常陸とがそれよりなほ古いものである事は郡の下を郷といはで里と云へるにても知られるが豐後と肥前とはいつの頃に出來たのであらうか。荒木田久老の※[手偏+交]正した豐後風土記の序には此書を延長の撰として居る。又中山信名(纂訂古風土記逸文附録前後風土記概論の辨)はまづ豐後肥前をかの天平五年勘造の出雲風土記と同時代の物と推定し、さて風土記を作るのは暇のいる業で無いから此三國のは和銅發勅後に直に撰進し天平に至つて改作したのであると云うて居るが、これは基礎からして浮動して居る。即豐後肥前が天平の頃に出來たといふ證據は無い。又栗田寛博士(古風土記逸文凡例)は
肥前豐後のは出雲のと同體裁にも見ゆれどなほ其より後にたてまつれるならむも知るべからず。文體に自らかはる所あればなり
と云うて居られるが是はた主觀的の説である。夙く伴信友も
肥前豐後のは大概出雲のと同じ體裁なれば同じ頃に進れる物なるべし。文のさま出雲のよりも後れて見ゆれば延長三年に召上げたまへる記ならむかと思はるれど……肥前豐後のよりも稍後ざまに見ゆる(○備中國風土記)すら寛平の頃既に有りし書なれ(4)ば肥前豐後なるは元よりにて共に延長のあなたより在り來し風土記なるべし(○以上比古婆衣卷十三。平田篤胤の古史徴開題記に同文の見えたるは信友の説を借れるなり)
と云うて居る。豐後と肥前と兩國の事を同時に云はうとすると煩はしくなるから豐後風土記の事は其新考の緒言に讓つて今は肥前風土記の事のみを云はんに、まづ注目すべきは本書總説の下に
又|纏向日代《マキムクヒシロ》宮御宇|大足彦《オホタラシヒコ》天皇誅2球磨贈《クマソ》於1而巡2狩筑紫國1之時從2葦北|火流《ヒナガレ》浦1發般幸2於火國1度v海之間日沒、夜冥不v知v所v著。忽有2火光1遙視2行前1。天皇勅2棹人1曰。直指2火處1。應v勅而徃、見得v著v崖。天皇下v詔曰。何謂邑|也《ゾ》。國人奏言。此《コハ》是|火國《ヒノクニ》八代《ヤツシロ》郡火邑也。但不v知2火主1。于《ソノ》時天皇詔2群臣1曰。今此|燎《モユル》火非2是人火1。所3以号2火國1知2其爾由1
とある一百二十九字と景行天皇紀十八年に
五月壬辰朔從2葦北1發般到2火國1。於v是日|歿也《クレヌ》。夜冥不v知2著岸1。遙視2火光1。天皇詔2挾杪者《カヂトリ》1曰。直指2火處1。因指v火徃之、即得v著v岸。天皇問2其火光處1曰。何謂邑|也《ゾ》。國人對曰。是八代縣豐村。亦尋、其火是誰人之火|也《ゾ》。然不v得v主。茲知v非2人火1。故名2其國1曰2火國1
とある九十六字との大同小異なる事、又本書松浦郡の下に
(5) 昔者|息長足《オキナガタラシ》姫尊欲v征2伐新羅1行2於此郡1而進2食於玉島小河之側1。於v茲皇后勾v針爲v鉤、飯粒爲v餌、裳絲爲v緡登2河中之石上1捧v鉤祝曰。朕欲d征2伐新羅1求c彼財寶u。其事功成凱旋|者《ニハ》細鱗之魚飲2朕鉤1。既而投v鉤片時果得2其魚1。皇后曰。甚|希見《メヅラシキ》物(希見謂2梅豆羅志《メヅラシ》1)。因曰2希見《メヅラ》國1。今訛謂2松浦郡1。以所《コノユヱニ》此國婦女孟夏四月常以v針釣2年魚1。男夫雖v釣不2能獲1之
とある一百三十五字と神功皇后紀に
北到2火前《ヒノクチ》國松浦縣1而進2食於玉島皇小河之側1。於v是皇后勾v針爲v鉤、取v粒爲v餌、抽2取裳糸1爲v緡登2河中石上1而投v鉤祈之曰。朕西欲v求2財國1。若有v成v事者河魚飲v鉤。因以擧v竿乃獲2細鱗魚1。時皇后曰。希見物也(希見此云2梅豆邏志1)。故時人号2其處1曰2梅豆羅國1。今謂2松浦1訛焉。是以其國女人毎v當2四月上旬1以v鉤投2河中1捕2年魚1於v今不v絶。唯男夫雖v釣以不2能獲1v魚
とある一百三十九字との大同小異なる事である。無論偶然の一致で無いから日本紀が風土記に據つたとするか又は風土記が日本紀に依つたとせねばならぬ。さて若此風土記を天平以後の撰とするならば風土記が日本紀に據つたとせねばならぬ。從つて彼小異は風土記の撰者が日本紀の文を改めたものとせねばならぬ。試に兩者の文を比較するに、たとへば風土記に
(6) 天皇下v詔曰。何謂邑也。國人奏言。此是火國八代郡火邑也。但不v知2火主1
とあるが天皇が地名を問ひたまひ國人が地名を答へ奉れるに添へて但不知火主と申せるは問ひたまはぬ事を答へ奉つた事になつて妥で無い。何謂邑也の次に又誰火也などあるべきである。日本紀には
天皇問其火光處曰。何謂邑也。……亦尋、其火是誰人火也
とある。されば日本紀の方が優つて居る。右は一例として擧げたのであるが此外にも日本紀の方が優れる處が澤山ある。元來風土記は勅命に依つて國廳から太政官に奉つたものである。國廳から太政官に奉る解《ゲ》に勅撰の國史を引きながら其文を更へて、然も悉く更へて奉る事があらうや。又日本紀のかの玉島里小河の一節も主として肥前風土記に據り傍いささか古事記を參酌して文を成したと思はれるが、もし風土記が日本紀に據つたとするならば日本紀の文の中から古事記を參酌した處を省き又は改めたものとせねばならぬ。此等を思へば肥前風土記は天平などの撰にはあらで日本紀奏上以前の撰である。なほ云はば日本紀を奏上した養老四年五月より前に、郡の下の里を郷と改められた靈龜元年より後に即出雲風土記に先だつて元正天皇の御世に成つたのである
(7)次に諸國の風土記は其國々で作つて太政官に呈したものであるが肥前も亦さうであるかといふに、ここに不審なる事がある。第一には肥前國の總説は逸文として傳はれる肥後國の總説と其文が大同小異である。第二には豐後國の總説に
豐後國者本與2豐前國1合爲2一國1云々
逸文として傳はれる筑後國の總説に
筑後國者本與2筑前國1合爲2一國1云々
とあつて(豐前筑前二國の總説は傳はらず)肥前肥後二國の總説に
肥前國者本與2肥後國1合爲2一國1云々
肥後國者本與2肥前國1合爲2一國1云々
とあると冒頭の一句が形式を同じくして居る。第三には肥前國と豐後國とは卷初に郡郷里驛烽寺などの數を擧げ各郡の下に更に郷里以下の數を擧げ郷名地名などの下に在郡東・在郡西南などその郡家からの方位を註したるなど其體裁が全く同一である。
○從來多くは右の郡を地域の郡と見て居るのは誤である。右の郡は郡家即郡役所である
(8)然も右の體裁は西海道以外の風土記に共通なるものでは無い。辭を換へて云ふならば西海道諸國の風土記に限つて共通なる體裁である。以上三件はどうして生じた事か。抑西海道即九國三島には
○筑前・筑後・豐前・豐後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩の九國と壹岐・對馬・多※[衣+陸の旁+丸]《タネ》の三島とである。多※[衣+陸の旁+丸]島は天長元年に廢して大隅國に附けられた。又多※[衣+陸の旁+丸]島は今の種子《タネガ》島・屋久島・口の永良部《エラブ》島などの總稱である
國々島々の司の上に太宰府といふ上司があつた。されば太宰府から符を下して記述はしかじかの體裁に從ふ事、筑前筑後また豐前豐後また肥前肥後また日向大隅薩摩の如き同胞國は協議して母國の名義を記述する事、その書出はかやうに書く事と命じたとするならば上述の三件は説明せられぬ事は無いが、それにしても國々島々の司が別々に書いては今傳はれる本又は逸文の如く均一なる事は得られまい。常識から考へてもソンナ手數をかけて然も太宰府で澤山に筆を入れるよりは諸國諸島から資料又は稿本を提出せさせて太宰府で能文の士をして撰定せしめた方が便利であらう。されば余は西海道の風土記は國々島々で編纂したもので無くて諸國諸島から提出した資料又は稿本を基として(9)太宰府で撰定したものであらうと思ふ。又それには一二の傍證が無いでも無い。ただ一つ不審なるは肥前の總説と肥後の總説との相異である。兩國の總説は上述の如く大同であるが小異がある。もし太宰府で撰定したものであるならば全然同文で、傳寫の誤と認められるより以上の差異があるべきで無い。此事に就いてはここで説明を下す方がよいのであるが大分長くなりさうであるから逸文新考に讓る事とする
次に諸國の風土記の逸文を最多く傳へたるは釋日本紀と僧仙覺の萬葉集註釋とであるが後者即所謂萬葉集仙覺抄に肥前國では※[巾+皮]搖岑《ヒレフリノミネ》と杵島《キシマ》山との二文が見えて居る。栗田博士はその杵島山の文を流布本の脱漏として流布本に編入して居られるが其二文は流布本と體裁を異にして居る。試に流布本の鏡渡及|褶振《ヒレフリ》峯と仙覺抄所引の※[巾+皮]搖岑とを對比するならば左の如くである
鏡渡(在2郡北1)昔者|檜隈廬入野《ヒノクマイホリヌ》宮御宇|武少廣國押楯《タケヲヒロクニオシタテ》天皇之世遣2大伴|狹手彦連《サデヒコノムラジ》1鎭2二任那《ミマナ》之國1兼救2百済《クダラ》之國1。奉v到來至2於此村1即娉2篠原村(篠謂2志奴1)弟日姫子《オトヒヒメコ》1成v婚(日下部君等祖也)。容貌美麗特2絶人間1云々
褶振峯(在2郡東1。烽家名曰2褶振烽1) 大伴狹手彦連發船渡2任那1之時弟日姫子登v此用v褶振招。(10)因名2褶振峯1云々
右は流布本の文である。仙覺抄に引けるは
松浦縣々東三十里有2※[巾+皮]搖岑1(※[巾+皮]搖此云2比禮符離1)。最頂有v沼計可2半町1。俗傳云。昔者|檜前《ヒノクマ》天皇之世遣2大伴紗手比古1鎭2任那國1。于時奉v命經2過此墟1。於v是篠原村(篠資農也)有2娘子1。名曰2乙等比賣《オトヒメ》1。容貌端正|孤《ヒトリ》爲2國色1。紗手比古|便《スナハチ》娉成v婚。離別之日乙等比賣登2此峯1擧v※[巾+皮]招。因以爲v名
とある。まづ流布本には郡家の事を當時の制度に從うて郡と云うて居るのに彼逸文には西土の地理志に擬して縣と云うて居る。文體も逸文の方が流布本より漢臭い。即流布本の文體は尋常であるが逸文の方はつとめて漢めかさうとして居る。ヒレフリノミネを流布本に褶振峯と書けるに對して逸文に※[巾+皮]搖岑と書けるは適に兩本の撰者の趣味を代表せるものである。兩本は明に別本である。されば乙本を以て甲本を補ふべきでは無い。兩本撰述の前後に就いてはくはしく西海道風土記逸文新考の緒言に論じようが余の研究を要約すれば流布本即甲本の方が古いのである。曩に雜誌「歴史地理」第五十八卷第三號に「肥前國風土記に就いて」といふ一文を出した時には
文體も逸文の方が流布本より古風に見える。少くとも逸文は流布本より新しい文體では無い
と云うたのは研究が屆かなかつたのである。さてその新しい方の乙本の編纂も恐らくは奈良朝時代を下りはすまい。かの※[巾+皮]搖岑の文の中に檜前天皇之世とあるが、もし御歴代の御謚号が制定せられてから後に編纂したものならば撰者の趣味として必宣化天皇と書き奉るべきであるからである。さても釋日本紀や仙覺抄や塵袋の出來た鎌倉時代にはまだ諸國の風土記が(國によつては二種の本さへ)殘つて居たのに今は大部分亡失したといふ事は學界の一大恨事である
○塵添※[土+蓋]嚢《ヂンテンアイナウ》抄に見えたる風土記逸文の抄譯は殆皆塵袋から取つたものである。塵添※[土+蓋]嚢抄は室町時代の物であるが塵袋は黒川春村の考證に據れば文永弘安の頃に書いたものであると云ふ
さて肥前風土記の流布したのは寛政十一年に荒木田久老が訓點を加へて翌年刊行せしめたのが始である。その奥書に
右一冊者肥前國長崎人大冢惟年所2齎來1書也。原本謬誤尤多矣。寛政十一己未年三月於2京師旅寓1※[てへん+交]2正之1加2訓點1畢。葢依2城戸千楯・長谷川菅緒等之需1者也 皇太神宮權禰宜從四位(12)下荒木田神主久老
とあつて一本を以て校正して居る。爾來一般に此本が用ひられて諸書に引用せる肥前風土記の文は殆皆此本に據つて居る。然し此本は訓に妥ならざる處又は誤れる處が多いのみならず往々返點を打ち誤つて居る。又所謂舊本即原本の字を改めたるも半は誤つて居る。久老本の外に刊行せられたるは栗田寛博士の標注本である。その本即標注古風土記の凡例中に見えたる肥前國人絲山貞幹の纂注はまだ刊行せられて居らぬやうである。栗田博士の本には相當にくはしい標注がある上に船帆郷の下なる擧落葉船を擧落乘船の誤としたる如きいみじき發見もあるが、もと傍訓は無かつたのを明治三十二年に發行した時に學問に忠實ならざる人が久老本の傍訓をそのまま寫入れたものと見えて往々標注と傍訓と矛盾せる處がある。これは讀者にも迷惑であるが著者には一層迷惑であらう
○久老本は今でも獲がたくは無いが日本古典全集中の古風土記集下卷に縮刷して出して居る。原本の新搨本よりは郤つて明瞭である
余は右の二版本に據つて本書の註釋を書いて居る間に京都の猪熊信男君からその秘蔵の古寫本の影印本を贈られた。その書風から推すと南北朝時代以前或は鎌倉時代の寫本(13)であらうが奥書は無い。贈られた影印本は所謂大和綴であるが原本は蝴蝶装でその料紙は裴紙その大さは縱七寸八分強横五寸二分強であるといふ。此本は遙に流布本即久老本より優つて居る。此本によつて余の發見の確められた處が少く無い。栗田氏の標注には五種以上の異本を束ねて一本として引用せられて居るが其中に徃々此本と同じき處があるから氏が引用せられたる中に此本の寫があつたであらう。梗注の凡例中に曼殊院所蔵之本とあるのが即此本であらう。此本は上に述べた通り南北朝時代以前の寫本であるが此本も亦流布本と同樣なる略本である。されば肥前風土記の完本から略本を作つたのはよほど古い事と見える
最後に再一般に就いて云はんに世に日本總國風土記といふ書が數十冊ある。享保年間に幕府が古典を捜訪した時に他書と共に諸家から提出せられたが、それは其時代より少し早く恐らくは束山天皇の頃に僞作したものなるべき事は關祖衡・中山信名などが指摘したる如くである。當時幕府でも僞書といふ事を看破して提出本は悉く棄却した(好書故事書籍八及纂訂古風土記逸文附録參照)。右の外にも若干の殘缺風土記がある。其中で丹後風土記殘缺の如きは六人部是香《ムトベヨシカ》が之を眞物と信じて箋釋を加へたが是も亦僞書である(如(14)蘭社話卷三十九丹後風土記僞書考參照)
○丹後風土記には鈴鹿連胤が寫したといふ奥書と連胤から借りて寫したといふ是香の奥書とが見えて居るが僞撰考の作者邨岡良弼君は「これ或は連胤是香二氏等が爲にする所ありて擬定せし者にはあらぬか」と云うて居られる。もし連胤などの手に成つたものならば播磨風土記以外の古典に見えて居らぬ大汝命の子の火明命を引出し來り又肥前豐後などの風土記に倣つて葢丹後國者本與丹波國合爲一國と書くなどは何でも無い事である。事實誰の僞作であるかは知らぬが古典學の素養の無いものには出來ぬ事であるから恐らくは播磨風土記の出現に誘はれての惡戯であらう
さて風土記といふのは元來書名で江戸時代に出來た書物にも之に倣つて某國風土記と名づけ又古風土記に續ぐ意で某國續風土記と名づけた事であるが夙く平安朝時代の初から風土記を地誌の意にも即普通名詞としても用ひたやうである。たとへば江李部《カウリハウ》集(これは大江匡衡の詩集で群書類從卷百三十二に出て居る)の中卷神道部なる冬日於2州廟1賦詩の小序に昔西曹始祖菅京兆行2縣邑1以注2風土記1(注一作v作)とある。
○昔大學寮の文章《モンジャウ》院に束西二曹があつた。東曹は大江氏が、西曹は菅原氏が業を授けた(15)處(本朝文粹卷六大江匡衡申2男能公學問料1状、職原抄式部省大學寮條等參照)。當時の儒職は菅江二氏であつた。西曹始祖菅京兆は菅原清|公《タダ》である。京兆は京職であるが清公は左京大夫であつたから菅京兆と云うたのである。さて詩中に明時侍讀一愚儒、再得尾州竹使符、長保春風初促v駕、寛弘冬雪更迷v途といひ又割※[奚+隹]唯叢雲劍というて居るから此詩は匡衡が一條天皇の寛弘年間に尾張守として再尾張國に赴任した時に作つたのである。清公は匡衡より遙に前の人で大同三年から弘仁三年まで七年に亙つて尾張介であつた。されば右の小序は清公が尾張在任中に風土記を作つた事を云うたのであるが其時代は彼和銅六年より殆一百年の後であるから朝命に依つて風土記を作つたのでは無く私に地誌を作つたので、それを匡衡が風土記と稱したのである。此私撰地誌はやがて塵袋卷三及卷十に菅清公卿尾州記また菅清公記とあるものである
ともかくも江戸時代に地誌に某國風土記と命名せし如く平安朝時代の私撰地誌にも某國風土記といふのがあつたであらうから否現に菅原清公が私に作つた尾州記を風土記と稱せる例があるから古書に某國風土記曰といふ文の見えたるを見て古人の徃々敢てしたやうに「和銅の分にあらずんば延長の分」と片附けてしまふのは頗る輕忽なる業であ(16)る。然も延長年間に風土記の再撰を命ぜられたといふ事は明徴の無い事である
風土記には歴史地理學上にも考古學上にも研究すべき事が頗多いが、それ等の事を研究するにもまづ風土記の本文の誤を訂し又その訓を正し以てその義を明にせねばならぬ。
その義が明になつて居らぬとあたら研究も徃々砂上の樓閣となるからである。
○此新考の中から其例の最顯著なるものを擧ぐれば基肄《キ》郡|姫社《ヒメゴソ》郷・神埼郡三根郷・松浦郡|値嘉《チカ》島などである
余の作業は樓閣建築の爲に基址工事を營むに過ぎぬ。後來崇樓高閣を建築せんとする人の爲に此工事が利用せられなば幸甚とすべきである。近來萬葉集の研究の盛に行はるるは大に慶賀すべき事であるが靜に思へばそれには少々流行を※[走にょう+診の旁]ふ氣味が交つて居りはせぬか。上代國文學者の研究範圍は萬葉集に限つては居らぬ。萬葉集だに研究すれば上代國文學者の務はすむと云ふでもあるまい。何故に萬葉集から出發して他の古典をも研究せぬか。古事記日本紀などこそ一通り古人きつ拮据の手を經たれ、風土記の如きはまだいくらも開拓の鍬がはひつて居らぬでは無いか。風土記は實に國文學界の滿洲である
昭和八年八月十日
(17) 肥前國風土記新考凡例
本文は荒木田久老の校訂本に據る。但その改字補字は頭書に依りて所謂舊本即原本に復す。久老の改字補字は必しも正しからざればなり。又卷頭に「風土記 肥前國」とあるは猪熊本にただ肥前國とあるに從ふ
久老本に據れるは本風土記の通行本はやがて此本なればなり
幸に猪熊信男君所蔵の古抄本の複製を獲ながら其本に據らざるは其本には異字多くて活版に移さむに便ならざればなり
久老本と猪熊本とを對照し又一般古鈔本の例を思ふに久老本は原本所用の(又は久老本の原本はその原本に用ひたる)宇體を變更したるもの少からざるに似たり。さる疑はあれどなほ偏に久老本に據れるは久老本所用の字體の方少くとも現代の讀者に適すればなり
○右に云へるは小を少に、反を變に、朝庭を朝廷に改めたる類なり。朝廷は古鈔本に多く(2)は朝庭と書けり。漢籍にも古きものには例あり
久老本の分註は皆一行に改めて括弧内に收む。其他も體裁は必しも原に從はず
本風土記は正しくは肥前國風土記と稱すべし。新考の外題を始として書中にも多くは肥前風土記と書けるは略したるなり。他の國のも然せり
(1)肥前國風土記新考
井上通泰著
肥前國
部壹拾壹所(郷七十、里一百八十七) 驛壹拾捌所(小路) 烽貮拾所(下國)城壹所 寺貮所(僧寺)
新考 律書殘篇(改定史籍集覧第二十七冊)に肥前國郡十一、郷七十、里百八十一とあり。
○里百八十一とあるは不審と思ひしに昨日受領せし古典保存會の影印本に里百八十七〔右△〕とあり。されば史籍集覧本は誤れるなり。但影印本に郡十二とあるはいぶかし(昭和九年四月三十日追記)
延喜民部式に
(2) 肥前國上 管、基肆〔左△〕・養父・三根・神埼・佐嘉・小城・松浦・杵島・藤津・彼杵・高來
とあり(肆は肄《イ》の誤なり)又和名抄に
肥前國管十一 基肄・養父(夜不)三根(岑)神埼(加無佐木)佐嘉・小城(乎岐、國府)松浦(萬豆良)杵島(岐志萬)藤津(布知豆)彼杵(曾乃岐)高來(多加久)
とありて郡數本書と合へり。今は三養基《ミヤギ》・神埼・佐賀・小城《ヲギ》・杵島(今もキシマといふ。二三の書にキノシマと訓じたるは誤なり)藤津・東西松浦(今はマツウラと唱ふ)南北松浦・東西|彼杵《ソノギ》南北|高來《タカギ》の十四郡に分れ其中にて東西松浦以上の八郡は佐賀縣に、南北松浦以下の六郡は長崎縣に屬したり。三養基は三根・養父・基肄の三郡を合併し其首字を聯ねて名としたるなり○郷は播磨常陸二風土記の里に當り此書の里は彼兩書の村に當れり。靈龜元年に里を郷に村を里に改められしなり(播磨風土記新考四頁參照)。本書の完本には七十郷の名悉く見えたりけむに今本に見えたるは十五郷のみ。和名抄には
基肄郡 姫社・山田・基肄・川上・長谷(○高山寺本には川上無し)
養父郡 狹山・屋田・養父(也布)鳥栖(止須)
三根郡 千栗(○高山寺本には知利久と訓註せり。今も千栗八幡宮をチリクと唱へて(3)チクリと唱へず)物部・米多(女多)財部・葛木(加都良木)
神埼郡 蒲田(加萬太)三根(美禰)神埼(加無佐岐)宮所(美也止古呂○高山寺本には所を處と書けり)
佐嘉郡 城埼(木佐岐)巨勢・深溝(布加無曾)小津(乎都○高山寺本には深溝と小津との間に防所あり)山田(也萬多)
小城郡 川上(加波加美)甕調(美加都岐)高來(多久)伴部(止毛)
松浦郡 庇羅・大沼(於保奴)値嘉(知加)生佐(伊岐佐)久利
杵島郡 多駄・杵島(木之萬)能伊・島見(志萬美)
○高山寺本に多駄以下四郷を彼杵郡に屬し大村彼杵を杵島郡に屬せるは誤ならむ
藤津郡 鹽田(之保多)能美
彼杵郡 大村(於保無良)彼杵(曾乃木)
高來郡 山田(也萬多)新居(爾比井)神代(加無之呂)野鳥(乃止利)
以上四十四郷を擧げたり。その中にて本書に見えたるは姫社・狹山・鳥栖・物部・米多・蒲田・三(4)根・宮所・能美の九郷にて本書に出でて和名抄に見えざるは曰理《ワタリ》・漢部《アヤベ》・船帆・託羅《タラ》・浮穴《ウケアナ》・周賀《スカ》の六郷なり。後者の中には名のかはれるもあるべし○里は各郡の下に註せるを合計するに一百八十四里にてここに里一百八十七とあるに合はず。彼杵郡の下に郷肆所(里四)とあるに誤あらざるか○驛は延喜兵部式に
肥前國驛馬 基肄十疋、切山・佐嘉・高來・磐氷・大村・賀周・逢鹿。登望・杵嶋・鹽田・新分・船越・山田・野鳥各五疋(○高山寺本和名抄には切山を功山とし佐嘉・登望を佐喜・登部とせり。後者は無論誤なり)
傳馬 基肄驛五疋
とあり。即驛十五所にてここに驛萱拾捌所とあり又各郡の下に註せる驛數の合計適に十八なると一致せず。さて厩牧令に
凡諸道置2驛馬1大路(謂2山陽道1。其大宰以去即爲2小路1也)廿疋、中路(謂2東海東山道1。其自外皆小路也)十疋、小路五
とあれば基肄以下皆五疋なるべきに基肄を特に十疋としたるは此驛は獨肥前のみならず筑後・肥後・薩摩より太宰府に往くにも經過せし驛なれば中路に准じ、さてもなほ不(5)足なる事あれば傳馬五疋を置きしならむ。捌は音ハツ、公文書に用ふる八の借字(所謂大字)なり○烽《フウ》は國名トブヒ又はススミ(ノロシは近世語なり)、肥前は外蕃來寇の虞あれば特に多く烽を置かれしなり。天智天皇紀三年に
是歳於2對馬島・壹岐島・筑紫國等1置2防與1v烽
とあり。軍防令に凡置烽皆相去四十里とあり。四十里は今の二百町なり。さて郡名の下に註したるは小城郡一所・松浦郡八所・藤津郡一所・彼杵郡三所・高來郡五所にて合計十八所に過ぎず。即ここに烽二十所とあるに比して二所少し。右の中にて小城藤津二郡は外海に臨まざれど彼杵高來の二郡より(小城郡は又松浦郡より)國府への仲繼の爲に置かれしならむ○職員令に國を大上中下の四等に別てり。ここに下國とあるは肥前は下國即第四等國なりとの事なるべけれど此二字は烽二十所の分註とすべきにあらず。宜しく初に、即郡一十一所の前に書くべきなり。但豐後風土記にも烽の下に註したり。又延喜民部式には上國とせり。されば下國とあるを誤寫とすべきか。又は初下國なりしが夙く延喜時代に上國に進みたりしなりとせむか。按ずるに律書殘篇に肥前國守介掾大少目五位以下八位以上也とあり。職員令に依れば下國は守|目《サクワン》各一人、中國は守|掾《ジヨウ》目各一人、上國(6)は守介掾目各一人なれば延暦年間には肥前は夙く上國なりしなり。律書殘篇の國名表は延暦遷都以前に成りしものなり。民部式に肥前と同じく上國に列れる豐後も亦風土記には下國とあり。喜田新六君の研究(歴史地理第六十一卷第六號「令制に於ける國の等級」)に據れば國の等級は人口又は課丁の數を標準として定めしものなりといふ○城一所とあるは天智天皇紀に
四年秋八月遣2達率憶禮福留・達率四比福夫於筑紫國1築2大野及|椽《キ》二城1
とあり(憶禮福留・四比福夫は百済人の姓名、達率は百済國の位階なり)。文武天皇紀に
二年五月令3太宰府繕2治大野・基肄・鞠智《ククチ》三城1
とある椽城、即基肄城、又萬葉集卷八夏雜歌なるホトトギス來ナキトヨモスといふ歌の左註(新考一五二五頁に見えたる記夷城にて當國基肄郡と筑前國御笠郡(今の筑紫郡の内)とに跨れるキノ山にありて近く太宰府の西南に當りて有事の際に太宰府の背面を防備せむ爲に築かれし朝鮮式山城なり。椽城の現状は歴史地理第五十卷第二號に出でたる武谷水城君の報告にくはし。キノ山の事はなほ下にいふべし〇僧寺といへるは尼寺に對して云へるなり。さて下文に神埼郡一所(僧寺)佐嘉郡一所とありてここに寺貳所(7)とあるに合へり。又ここに寺二所(僧寺)とありて尼寺を含まざるを見てその國分寺を指せるにあらざるを知るべく又以て此書が國分寺創建以前に成りし一證とすべし
肥前國者本與2肥後國1合爲2一國1。昔者《ムカシ》磯城瑞籬《シキノミヅガキ》宮御宇|御間城《ミマキ》天皇之世肥後國|益城《マシキ》郡|朝來名《アサクナ》峯有2土蜘蛛打猴|頸《ウナ》※[獣偏+爰]二人1帥2徒衆一百八十餘人1拒2捍皇命1不v肯2降伏1。朝廷勅遣2肥君《ヒノキミ》等祖|建緒組《タケヲクミ》1伐v之。於v茲健緒組奉v勅悉誅2滅之1、兼《マタ》巡2國裏1觀2察消息1到2於|八代《ヤツシロ》郡白髪山1日晩止|峯〔左△〕《宿》。其夜虚空有v火自然|※[火+票]〔左△〕《燎》、稍々降下就2此山1燎之《モエキ》。時健緒組見而驚怪、參2上朝廷1奏言。臣辱被2聖命1遠誅2西戎1不v霑2刀刃1梟鏡自滅。自v非2威靈1何得v然之。更擧2燎火之状1奏聞。天皇勅曰。所v奏之事未2曾所1v聞。火下之國(ナレバ)可v謂2火國1。即擧2健緒組之勲1賜2姓名1曰2火|△《君》健緒|純〔左△〕《組》1便《スナハチ》遣治2此國1。因※[火を□で囲む]曰2火國1。後分2兩國1而爲2前後1
新考 御字はアメノシタシロシメシシとよむべし。御間城天皇は崇神天皇の御事なり○肥後國益城郡朝來名峰は今の上益城郡福田村大字福|原《ハル》なる福田寺《フクデンジ》山なりといふ○(8)土蜘蛛は一種の異民族にて又先住民族なり○打猴頸※[獣偏+爰]はウチサル・ウナサルとよむべし。打猴は肥後國風土記逸文には打※[獣偏+爰]と書けり。景行天皇紀十二年十月の下又豐後國風土記|直入《ナホリ》郡|禰疑《ネギ》野の條にも打※[獣偏+爰]といふ土蜘蛛の名見えたれどそれと此とは全く別なり○不肯降伏の不肯を久老はァヘズとよみたれどアヘズはエズに齊しければ此訓はかなはず。宜しくウベナハズとよむべし。降伏は猪熊本に降服とあり。下にも屡見えたるを此本は或は伏或は服と書き猪熊本には皆服と書けり○肥君は神武天皇の御子神八井耳《カムヤヰミミ》命の子孫なり。古事記神武天皇の段に神八井耳命者火君等之祖也とあり〇八代郡白髪山は今の北種山村にありと云ふ○止峰は猪熊信男氏所蔵の古寫本にも肥後國風土記逸文にも止宿とあり。之に從ふべし○自然※[火+票]は彼逸文に自然而燎とあり猪熊本にも自然燎とあれば※[火+票]を燎の誤としてオノヅカラモエとよむべし。※[火+票]は火ノコ又は火ノコの飛ぶ事なればここに叶はず○稍々降下就此山燎之を逸文には稍々降下著燒此山に作れり。燎之の之を助字と認めてヤヤニクダリテ此山ニツキテモエキとよむべし。久老が燎之をカガリビノゴトシとよめるは非なり。豐後風土記なる救覃《クタミ》峯の下に此峯頂火恒燎之とあり。これは久老もモエタリとよめり。さて此火は俗に龍燈といひ外國の書(9)にサント、エルモの火といへる靈火にて電氣の作用に由るものなり。ツクシの枕辭にシラヌ火といふは此靈火に依れるなるべけれど今シラヌ火といふもの、たとへば中島廣足の不知火考に記述描寫したるものは右の靈火即いにしへのシラヌ火とは全く別なり。橘南谿(西遊記卷一)などはともかくも、廣足ばかりの古典學者が日本紀・風土記などを疎に讀みて今いふシラヌ火と混同したるはいとあさまし。因にいふ。今いふシラヌ火は漁火にて其始は近古の事なりといふ○梟鏡を久老は梟賊に改め後人皆之に從へり。按ずるに漢書郊祀志上に祠2黄帝1用2一梟破鏡1とあり北史卷四十三※[形の左+おおざと]※[虫+叫の旁]傳に既逆甚。梟鏡禽獣|之《スラ》不v若とありて鏡《ケイ》(又破鏡といふ)は※[獣偏+竟]の通用にて梟は母を食ふ鳥、※[獣偏+竟]は父を食ふ獣なれば逆賊に譬へたるなり。久老が梟賊に改めたるは妄なり。原に從ふべし○何得然之の之も助字なり。イカデカ然ルコトヲ得ムトとよむべし○更擧燈火之状奏聞を久老がマタカガリビヲアグルサマヲマヲセリとよめるはいとわろし。火は篝火にあらず。又人の擧げしにあらず。いかでかさは訓むべき。宜しくマタモエシ火ノサマヲアゲテマヲシキコエキとよむべし。豐後國風土記の總説にも既而參2上朝庭1擧v状奏聞とあり○未曾所聞とある妥ならずおぼゆ。續日本紀大寶二年九月に甲子年定2氏上1時不所〔二字傍点〕載氏令v賜v被v姓者(10)云々といへるを堀正意は疑當3倒作2所不〔二字傍点〕1といへり。之を例とせば所未會聞の顛倒ともすべし。世説文學門袁虎少貧の條にも所誦五言又其所未甞聞といへり。されど其條の劉註に引ける續晉陽秋に
會虎在2運租船中1諷詠。聲既清會、辭又藻拔。非3尚(○謝尚)所2曾聞1とあり又豐後風土記の總説にも化生之芋未曾有見とあればなほ原のままにて可なるなり○火の下に久老が君字を補ひたるはよろし。猪熊本にはまさしく火君とあり○健緒純の純は組の誤ならむ。初には別の名なりしを此時武功を賞して健緒組といふ美名を賜ひしなり○囚火の火は衍宇なり。猪熊本に無し○肥前國は肥後國に續かず。兩國は筑紫海即有明海を圍みて環を成せるが其環は筑後國|三瀦《ミヅマ》・山門《ヤマト》・三池の三郡によりて其東北を斷たれ又早崎瀬戸によりて其西南を斷たれたり。されば本居宣長は古事記神代卷に
次ニ筑紫島ヲ生ミタマフ。此島モ身一ニシテ面四アリ。面毎ニ名アリ。故《カレ》筑紫國ヲ白日別ト謂ヒ豐國ヲ豐日別ト謂ヒ肥國テ建日向日豐久士比泥別ト謂ヒ熊曾國ヲ建日別ト謂フ
(11)とある傳(全集第一の二三八頁)に
筑紫島を有面四と云て肥國を其一に取れり。然るに國圖を考るに肥前と肥後とは海(○筑紫梅)の隔《ヘナ》りて地つづかず。正しく二に分れたれば面一には取がたき國形なり。故考るに右に引る書紀又風土記などの火國の故事は地名に依るに皆肥後國の地なり。然れば肥國と云しは初はただ肥後の方のみにて、肥前の地は本は筑紫國の内なりしがやや後に肥國にはつきしにやあらむ。肥前は筑前筑後と地つづきて此三國は面一にも取つべき國形にて肥後とは清く離れたればなり
といへり。古事記に筑紫末羅縣之玉島里といひ日本靈異記に筑紫肥前國松浦郡人火君之氏といへるなどを見れば肥前を筑紫國即白日別に屬したりきと宣長のいへるは宜しきが如くなれど右の筑紫は筑紫島即九州の謂なれば宣長の説の證とはすべからず。もし此島亦身一而有面四とあるに拘はらば宜しく豐前豐後を一面、筑前筑後を一面、肥前を一面、薩摩大隅と日向の南半とを一面とすべく日向の北半と肥後とはいづれの面にも屬すべからず。後者は実に九州の躯幹にて強ひて神代卷の文に充てなば身一といへるに當るべし。かかれば神代卷の文は風土記に火國の本を肥後とせると相叶はず。從(12)ひて調和すべからざる兩者の一に附きて「肥前の地は本は筑紫國の内なりしがやや後に肥國にはつきしにやあらむ」とは云ふべからず。さて肥前が肥後とは清く離れたるに之を肥前と稱し又風土記に後分兩國而爲前後といへるは宣長のみならず誰も訝る事なるが、これに就きて伴信友は比古婆衣卷十五火國名考の附記(全集第四册三三二頁以下)にまづ記傳の説を擧げ、さて
かくてなほ考るに上代に火國といへるは今の肥後の方なるべき由いはれたるはまことにさる事にて動なく聞ゆるにその肥後と離れたる域も肥前といふ由のおぼつかなくさるに合せては聊ただよはしく思はるるにつきてなほ國圖をかむがふるに肥後は東の國岬より島づたひに天草といふ大島を界《カギ》り肥前はその天草の北面より二三里ばかりに海を隔てて島原といふ域より北東ざまに肥後の西面より筑後の西方かけて流海《イリウミ》をへだててめぐり對ひて筑後の西方に隣れり。上代には今の肥後の方ざまを火國といひ後に今の肥前の方かけて火國に屬《ツケ》られたりしを又後に今の如く前後に分たれたるものなるべし(平陸よりいへば肥後の北の方筑後に隣りてその筑後を隔てて肥前なれば肥前肥後もと合せて一國なりつる由いへる風土記の説ここ(13)ろえがたく聞ゆれどかく肥後の東の國岬より便れば一國とせられし事更にうたがはしからず)
といへり。肥後の東の國岬といへる心得られず。もしくは宇土半島の尖端をいへるか。思ふに火國は筑紫海を中心として大やうに其周圍を火國と稱せしならむ。陸つづきにあらでも一地域と認めたる例を擧ぐれば肥前國彼杵郡は今東西に分れ其二郡は大村※[さんずい+彎]を中心として環を成せるが其環の東南は北高來郡眞津山村によりて中斷せられたり。或は今筑後に屬せる沿岸も太古には火國にぞ屬したりけむ(景行天皇紀十八年に今の三池郡を筑紫後國御木といへる事は心附かざるにあらず)。辭を換へて言はば肥前と肥後とは太古には或は相續きたりけむ
又|纏向日代《マキムクノヒシロ》宮御宇|大足彦《オホタラシヒコ》天皇誅2球磨贈《クマソ》於1而巡2狩筑紫國1之時從2葦北(ノ)火流《ヒナガレ》浦1發船|幸《イデマサムト》2於火國1度v海之間日没、夜冥不v知v所v著。忽有2火光1遙|視《シメス》2行前1。天皇勅2棹人《カヂトリ》1曰。直《タダニ》指《サセ》2火處1。應v勅而往、得v著v崖《キシ》。天皇下v詔曰。何謂《ナニトイフ》邑|也《ゾ》。國人|奏言《マヲサク》。此《コハ》是火國八代郡火|△《邑》也。但不v知2火主1。于《ソノ》時天皇詔2群臣1曰。今此|燎火《モユルヒ》非2是人(14)火1。所3以号2火國1知2其|爾由《シカルユヱ》1
新考 大足彦天皇は景行天皇の御事なり。球磨贈於はクマソと訓むべし。久老が贈於をソオとよめるはわろし。地名は二宇を充つべき定なればソを其母音を添へて二字に書けるにて國名のキを紀伊と書き當國の郡名山名のキを基肄・記夷など書き肥後國の郷名のヒを肥伊と書けるに同じ。元來クマソは二の地名即クマは肥後、ソは大隅の地名にて此地方は或異民族の根據地なりしかば其異民族をクマソと稱せしなり。文字は熊襲なども書けり。景行天皇がクマソを征せむが爲に九州に下りたまひし事は景行天皇紀に
十二年秋七月熊襲反之不2朝貢1。八月己酉幸2筑紫1云々
とあり。又風土記の記事に當る處は
十八年春三月天皇將v向v京以巡2狩筑紫國1、……夏四月甲子到2熊縣1……壬申自2海路1泊2於葦北小島1而進食……五月壬辰朔從2葦北1發船到2火國1。於v是日|歿也《クレヌ》。夜冥不v知2著岸1。遠視2火光1。天皇詔2挾※[木+少]者《カヂトリ》1曰。直指2火處1。因指v火往之、即得v著v岸。天皇問2其火光處1曰。何謂邑|也《ゾ》。國人對曰。是八代縣豐村。亦尋、其火是誰人之火|也《ゾ》。然不v得v主。茲知v非2人火1。故名2其國1曰2火國1
(15)とあり。天皇は周防の佐婆津より周防灘を越えて豐前に渡り、豐前より豐後に、豐後より日向に入りて熊襲を滅し、さて後肥後を經て筑後に入り、本書に據れば筑後より肥前に入りたまひしなり○葦北は今肥後に葦北郡あるその地方なり。國造本紀に葦|分《キタ》國造見えたり。敏達天皇紀十七年に火葦北國造とあり又推古天皇紀十七年に肥後國葦北津とあり。萬葉集卷三にも
葦北の野坂の浦ゆ船出して水島にゆかむ浪たつなゆめ
とあり。栗田氏標注に
火流浦、藤村光鎭曰。葦北郡|日奈久《ヒナグ》浦ナラント云リ
といへり。此説然るべし。播磨風土記|美嚢《ミナギ》郡の下に
美嚢《ミナギ》ト号スル所以ハ昔|大兄《オホエ》イザホワケノ命、國ヲ堺ヒシ時|志深《シジミ》里|許曾社《コソノモリ》ニ到リテ勅《ノ》リテ云ハク。此土|水流《ミナガレ》イト美シキカモト。故|美嚢《ミナギ》郡ト号ス
とありてミナガレを訛《ナマ》りてミナギといふと云へり。これと同じくヒナガレを訛りてヒナグといふなり。大日本地名辭書に火流をヒナガと訓じたるは強ひてヒナグに近づけむとしたるにて宜しからず。火流《ヒナガレ》は海光即海水中の微生物の發する燐光に由れる名な(16)らむ。彼シラヌ火とは(古のとも今のとも)關係無し。日奈久浦は今葦北郡の北端に日奈久町あるその地方なり○幸はイデマサムトと訓むべし。さてここに
葦北ノ火流浦ヨリ發船《フナデ》シテ火國ニイデマサムト海ヲ渡リタマヒシ間《ホド》ニ日|没《ク》レ云々
といひ日本紀に從葦北發船到火國といへるを思へば葦北は當時火國に屬せざりしなり。但敏達天皇紀に火葦北國造といへるは上に引けるが如し。なほ肥後國風土記逸文|閼完《アソ》縣の下に云ふべし○遙視行前を久老は遙ニユクサキヲミルとよめり。宜しく遙ニユクテヲシメスと訓むべし。又應勅而往を勅ノママニ往クニとよみたれど而の宇あるを思へば作者は應ジテとよますべく書けるなり。すべて準漢文は強ひてうるはしく國文によみ改むるを要せず。日本紀には此處を因指火往之と書けり。之は例の助字なり○天皇は地名を問ひたまひ國人は地名を答へ奉れるに添へて但不知火主と申せる相叶はず。何謂邑他の次に又誰火也などあるべきなり。日本紀には
天皇問2其火光處1曰。何謂邑也……亦尋、其火是誰人之火也
とあり。こは原文の不足を補へるならむ〇八代郡火也の也の上に邑をおとせるなり。猪熊本には火色也とあり。肥後風土記逸文には火邑とあり。彼は邑を色に誤り此は也を落(17)せるなり。さて火邑は即和名抄に見えたる肥伊郷なるべけれど今當郡にヒといふ地名無し。太宰管内志に
長瀬氏(○眞幸《マサキ》)云。……火邑も肥伊郷も今は詳ならず。強ひて思ふに八代郡氷川あり。もし是肥伊郷の川にして火邑もやがて其川のあたりなりしにや
といへり。氷川は當郡北種山村より發し西流して八代湾に注げり。火邑は其流域の海岸にぞ在りけむ。日本紀には國人對曰。是八代縣豐村とあり。これに就きて太宰管内志に
八代郡の西南の隅の海邊に豐浦あり。是か。或人云。氷川の邊に豐原村あり。又八代益城二郡の堺に豐福村あり。是等豐村の名殘ならむかといへり(○或人云といへるは中島廣足の不知火考の説なり)
といひさて長瀬眞幸が
豐村はホムラとよみて火邑と一つか。火邑を豐村と書くは字音をかり且好宇をえらべるならむ云々
といへるを評して
一わたりさもと聞ゆれど豐をホの假字に用ひたる事古書にをさをさ例なき事なれ(18)ばいかがなり。常足(○管内志の著者伊藤氏)も初に豐は火を書誤りたるならんとおもへりしかど是もひがごとなり。重て按ずるに豐浦の邊は昔は葦北郡の内と聞ゆれば豐福と定めん方よろし
といひ伴信友も
國圖を見るに八代の郡内の海邊に豐福といふが見えたるはこれならむか
といへり。按ずるに火邑と豐村とは別處にはあるべからず。豐村は恐らくは斐村の誤寫ならむ○但不知火主を肥後風土記逸文には但未審火由と書きたれば主は由の誤かとも思へど日本紀には然不得主とあり。但こは誰人之火也と問ひたまひしに對して主と云へるなり○燎火はモユル火とよむべし。久老がカガリビとよめるはわろし○知其爾由はソノシカルユヱヲシリツとよむべし。此處日本紀には故知v非2人火1。故名2其國1曰2火國1
とあり。紀の撰者は崇神天皇の御世に健緒組が八代郡白髪山に神火の下りし状を奏せしに由りて其國を火國と名づけたまひきといふ傳説を採らざりしなり○ここに注目すべきは此一節中の又纏向日代宮御宇大兄彦天皇以下百二十九字と上に引きたる景行天皇紀十八年五月の文九十六宇との大同小異なる事なり。くはしく緒言に云へり○(19)栗田氏の標注本には天皇勅曰の曰を白に、不知火主の主を生に、知其爾由の爾を稱に誤れり。皆活字の誤植なるべし
基肄《キノ》郡 郷陸所(里|七十〔二字左△〕《十七》)驛壹所(小路)
昔者《ムカシ》纏向日代《マキムクノヒシロ》宮御宇天皇巡狩之時|御《マシマシテ》2筑紫國御井郡|高羅《カワラ》之行宮1遊2覧國内1霧覆《オホヘリ》2基肄《キ》之山1。天皇勅曰。彼國可v謂2霧之國1。後人改号2基肄國1。今以爲2郡名1
新考 和名抄の郡名に基肄とあり。同じき卿名に基肄(木伊)と訓註したれど、もとはキと唱へしなり(一四頁參照)。元來和名抄の國郡郷名の訓註は後人の添加と見えてあかぬ事いと多し。はやく太宰管内志に
初には木とのみ唱へけむを木《キノ》國を紀伊國など書く例にて肄《イ》を添へて書けるなり。さるを和名抄に木伊とよませたるは誤なり
といひ又|城《キノ》山の下に
(20) さて青柳主(○著者の師青柳種麿)の説に因て勘れば此城山は木より起れりとする方親しく聞ゆ。……又|八十木種《ヤソコダネ》を蒔生し給へる五十猛の神の此山主なる證は筑前志六卷筑紫神社の件又此卷荒穂神社の件に委く云るが如し
といへり。筑紫神社は城山の北麓なる筑前國筑紫郡筑紫村大字|原田《ハルダ》に、荒穂神社は同山の南麓なる當郡|基山《キヤマ》村大字|宮浦《ミヤノウラ》にあり。五十猛《イダケル》命を此山に齋けるは出雲民族の發展と關係あらむ○基肄郡の名は國史には始めて三代實録貞觀八年七月十五日の下に肥前國基肄郡人川邊豐稻・同郡擬大領山(ノ)春永と見えたり○此郡は肥前國の東北端にあり。明治二十九年以來其西なる養父《ヤブ》郡又其西なる三根郡と合併して三養基《ミヤキ》郡と稱せらる。古くも養父郡とふさねてキヤブと唱へし由管内志に見えたり○郷陸所の陸は六の借字、里の七十は十七の顛倒なり。猪熊本には十七とあり○筑紫御井郡は筑後國三井郡にて本郡の東に隣れり。郡中に高良山あり。神名帳の高良玉垂命神社(今國幣大社高良神社)此山にあり。高羅之行宮の址は知られず。高良は今カウラとよめど、もとはカワラと唱へき。その假字はカワラなり。カハラにあらず。和名抄筑前の郡名に早良を佐波艮と訓註し日本紀の仁徳天皇前紀に考羅済をカハラと傍訓したるは共に誤れり。例とすべからず○(21)基肄之山は肄を捨ててキノヤマとよむべし。萬葉集卷四に
今よりは城《キノ》山道はさぶしけむわがかよはむとおもひしものを(筑後守|葛井連《フヂヰノムラジ》大成)
同じき卷五に
うめのはなちらくはいづくしかすがにこの紀能夜麻にゆきはふりつつ(太宰大監大伴宿禰百代)
とあり。此山の事は夙く上(六頁)にも云へるが管内志に
三橋氏(○本部東屋神社の祠官三橋眞國)云。城山に坊中山城山とて二峯あり。西なるを基山と云
貝原翁云。城山は太宰府の坤の方萩原村の上なる高山なり(俗に坊中山と云)。萩原より城山を越て肥前國基肄郡に行道あり。馬の徃來自由なり。昔は肥前筑後より此城山の道を越て太宰府に通ひし由云り。肥前筑後の人は處によりて今も此道を通ふことのあるは近ければなり
三橋氏云。城山は古は一山の總名なりし趣なれども此山に東西二峯ありて今は東を坊中山とし西を城山とす
(22)といへり。後に東峯に寺(四王院)の建てられしに由りて東峯を取別きて坊中山といひしにこそ。ここに云へるは固より二峯の合稱なり。城山は其高さ四百米餘なれば高山とは稱すべからず○栗田氏が霧覆基肄之山の山を山ニとよめるはわろし。山ヲとよむべし。霧が山を覆ひしに由りて國に霧之國と名づけたまひしより郡名山名の基肄は起りきと云へるを見れば基肄はキイとよみてキリの訛とすべきに似たれど今も山名をキヤマと唱へ又萬葉集に城・紀と書けるを思ひて基肄はなほキと唱へ又山名はうるはしくはノを添へてキノヤマと唱ふべきなり
長岡《ナガヲ》神社(在2都東1) 同天皇自2高羅行宮1還〔左△〕《遷》幸而在2酒殿泉之邊1。於v此《ココニ》薦v膳《ミケ》之時|御具《ミケシノ》甲鎧《ヨロヒ》光明異v常。仍令2占問1。卜部殖坂奏云。此地有v神|甚《イタク》願《ホリセリ》2御鎧1。天皇|宣《ノリタマハク》。實|有v然者《サルコトアラバ》奉《マツラム》v納2神社1。可v爲2永世之財《ナガキヨノタカラ》1因号2永世《ナガヨ》社1。後人改曰2長岡《ナガヲ》社1。其鎧|貫緒《ヌキヲ》悉爛絶。但|冑《カブト》并|甲板《ヨロヒノイタ》今猶在也
新考 還幸とあるに據らば肥前より筑後に行き更に肥前に還りたまひしなりと解すべけれど筑後の高羅にて始めて肥前の基肄山を望みたまひし趣なる上に日本紀に據(23)れば日向より肥後を經て筑後に入りたまひしにて(肥後より筑紫海を横ぎりて肥前の高來《タク》郡に渡りたまひしかど同處より又肥後に還りたまひき)肥前より筑後に入りたまひしにあらず。されば還幸とあるはかなはず。宜しく遷幸の誤と認むべし。古寫本に見ゆる遷字の異體は還字とまぎらはし○酒殿泉は次に見えたり。於此は猪熊本に於茲とあり○膳はここにてはやがて御飲食なればミケとよむべし(久老はカシハデとよめり)○御具を久老はミヨソヒとよめり。字に就かばミヨロヒとよむべけれど御具甲鎧を、ミヨロヒノヨロヒとよまむは手づつなれば御具は御著料の義としてミケシとよむべし○仍令占問卜部殖坂奏云を久老は仍リテ占部殖坂ニウラドハセタマフ。マヲシツラクとよめり。宜しく占問の下を句として仍リテウラドハシム。卜部殖坂《ウラベノウヱサカ》マヲシケラクとよむべし。卜部殖坂の殖坂は名なり。卜部は職を以て氏としたるなり。令卜問は御著料の甲の光常にかはりて見えしかば卜部をして鹿の肩骨を灼きて占へしめ給ひしなり○願は久老に從ひてホリセリとよむべし。萬葉集卷三に
いにしへのななのさかしき人どもも欲爲《ホリセシ》ものは酒にしあるらし
とあり。財は寶の借字なり○長岡社はナガヲカノ社とよまでナガヲノ社とよむべきか。(24)ナガヨをナガヲと訛りて長岡の字を充てしならむ○管内志に
此長岡は今基肄郡永吉村とてあるそれなるべし。又其村に祭る社の神體甲の如くなる物なりといふ(三橋氏云。永吉社の社人今おちぶれたるがもてる舊記に長吉村の氏神八幡宮はもと永世神社なり。祭る所少彦名神なり。此社度々兵火に罹りて廢せり。今の八幡宮はいにしへ奈良田村の西歳の森に在しといふ。……年の森より永吉村にうつり給へりしなるべし。今は八幡宮の相殿にませり
といひ栗田氏標註に
三橋五丸曰。長岡神社葢今永吉邑カ。田代ノ東北十丁許ニアリ。今村中ニ八幡宮アリ。相殿ニ大名持命ヲ祭ル。神體鐵冑、體勢甚大ニシテ腐爛シテ其制知リ難シ。僅ニ冑形ヲ存ズル耳。此レ所謂永世之財乎
といへり。後に移り來し八幡宮に壓されて本來の神(一は少彦名命とし一は大名持命とせり)は今は相殿にいますと云へるなり。永吉は今|田代《タジロ》村の大字となりてナガヨシと呼ばる。もとは永吉と書きてナガヨとよませしを後に字に就きてナガヨシと唱ふる事となりしならむ。今村社永世神社あるは明治初年の復稱なりといふ○この御甲は光明と(25)あれば革甲ならで鐵甲ならむ。さて鎧貫緒といへるは鐵板即|札《サネ》を綴りし緒なり。甲板といへるはやがて札《サネ》なり○爛絶を久老はミダレタユとよめり(栗田氏標注にミダシとあるは誤植ならむ)。字のままにタダレタエタリとよみて可なり。ここに佐賀縣志永世神社の下に
法曹類林に本社の神職等彼の鎧を神體の如くし正體なきが如くす。故に決杖せらるるもの三人等の事見ゆ
といへるは何より引きたるにか。無論原書を見しにはあらじ。又日本地理志料基肄郷の下に風土記の文を引きさて又見法曹類林卷百八十一と云へり。法曹《ホフサウ》顆林二百三十卷中今も傳はりて學界に知られたるは群書類從卷四六四に收めたる卷一九二(殘缺)及卷二〇〇(完)續群書類從に收めたる卷二二六(殘缺)改定史籍集覧第十七冊に收めたる卷一九二(殘缺)及卷二二六(殘缺)古典保存會本の卷一九七(完)にて
○近藤守重の右文故事に見えたるは卷一九二・卷一九七・卷二〇〇のみ
卷一八一は見し事なし。さる本世に傳はれるにや。長岡神社の事は無論彼傳世の卷々に見えず
(26)酒殿泉《サカドノノイヅミ》(在2郡東1) 此泉|之〔左△〕《者》季秋九月(ノ)始(ニ)變2白色1味酸|氣《カ》臭《クサクテ》不2能喫飲《ノマレズ》1。孟春正月變而清|冷〔左△〕《※[さんずい+令]》。人始飲喫。△△△△《又以釀酒》。因曰2酒井泉1。後人|△《改》曰2酒殿泉1
新考 之は者の誤ならむ。久老は始を季秋九月より離ちてアキノナガツキニハジメテとよみたれど始を上に附けて季秋九月ノ始ニとよむべし。變白色は白キ色ニカハリとよむべし(久老はカハレバとよめり)○久老は氣臭の二字をクサシとよみたれど氣をカとよみ臭をクサクテとよむべし(播磨風土記|印南《イナミ》郡|含藝《カムキ》里|酒氣《サケノカ》參照)○孟は始なり。四季各三月を分ちて孟仲季とするなり。清冷の冷は猪熊本に※[さんずい+令]とあるに從ふべし。※[さんずい+令]も亦清なり(栗田氏の本には令とせり)〇人の飲用するのみにて酒井泉とは云ふべからず。人始飲喫の下に又以釀酒などありしが落ちたるにはあらざるか。播磨風土記|揖保《イヒボ》郡|石海《イハミ》里の下にも
酒井野 右所3以稱2酒井1着|品太《ホムタ》天皇之世造2宮於|大宅《オホヤケ》里1闢2井此野1造2立酒殿1。改号2酒井野1とあり。酒殿は造酒處なり(播磨風土記新考四一頁參照)。管内志に
常足按ずるに此泉酒氣などありしなるべし。土中より酒泉の湧出たる事古くは例多(27)きことなり
といひ、さては酒殿泉とあるを説明するに困難なるより
殿と云は後世に故有て殿を立たるなどにて負せたるなるべし
といへり○栗田氏標注に後人ノ下一本改ノ字アリといへり。その一本は即今の猪熊本なり○管内志に
元禄圖に基肄郡酒井村あり(三橋氏云。基肄郡飯田村にシゲヌヰといふ井あり。酒井村はシゲヌヰより七八丁ばかり巽の方にあり。此井今は淵の如くになれり。いみじき旱にもひる時なし。……里人の説に此井秋の比になればくさみ出て呑むにたへずと云。是全く風土記にいへる酒殿泉なるべし。田代よりは東南半里ばかりにありといへりき)
といひ栗田氏標注に
三橋五丸曰。本郡飯田村ニしげぬゐト云アリ。今ノ酒井村ハ其井ノ辰巳ニアリ。泉廢シテ篁原トナル。其側ニ池アリ。池水時ニ變ズ。即此記ト異ナル事ナシ
といひ「肥前風土記の研究」には
(28) 今基里村大字飯田字重田の西に細長い池がある。これが酒殿泉でこれから流れる川が酒井川といふ
といへり。酒井村は今泉西に分れて飯田村と共に基里《キサト》村の大字となれり
姫社《ヒメゴソ》郷(△△△) 此郷之中有v川名曰2山途《ヤマヂ》川1。其源出2郡北山1南流而會2御井大川1。昔者此|門〔左△〕《川》之西有2荒《アラブル》神1行路之人多被2殺害1「半凌半殺。」于《ソノ》時卜2求祟由1。兆云。令《シメヨ》3筑前國宗像郡人珂是|胡〔左△〕《古》祭2吾|社《モリ》1。若合v願者不v起2荒《アラブル》心1。△《即》覓《マギテ》2珂是古1令v祭2神社《モリ》1。珂是古即捧v幡祈祷云。誠有v敬〔左△〕《欲》2吾祀1者此幡順v風飛往墮2願v吾之神邊1。使〔左△〕《便》即擧v幡順v風放遣。于《ソノ》時其幡飛往墮2於御原郡|姫社之社《ヒメゴソノモリ》1更還飛來落2此山途川邊之田村1。珂是古|自〔左△〕《因》知2神之在|家〔左△〕《處》1。其夜夢見2臥機《クツビキ》(謂2久|那〔左△〕《都》※[田+比]枳1)絡※[土+朶]《タタリ》(謂2多多利1)※[人偏+舞]遊出來壓驚1。珂是古於v是亦|△《識》2織女神1。即立v社《ヤシロ》祭v之。自爾《ソレヨリ》已來《コノカタ》行路之人不v被2殺害1。因曰2姫社《ヒメゴソ》△《社・ヤシロ》1。今以爲2郷名1
新考 和名抄郷名に姫社とありて訓詁無し。管内志に
(29) 姫社はヒメノヤシロとよむべし。難波の比賣許曾を姫社とも書けれどその例とは異なり
といへり。久老はヒメコソとよみ日本地理志料にはヒメノヤシロとよめり。なほ下にいふべし。郷名の下に郡家よりの方位を記したりしが落ちたるならむ○山途川は異本(たとへば猪熊本)に山道川とあり。途にもあれ道にもあれヤマヂとよむべし。久老がヤマトとよめるはいとわろし。古、地名などを書くに音訓を交へ用ふる事は無かりし事なるをや。管内志に
基肄郡人云。基山より出て姫方村の東を巡りて辰巳の方三井川に入る川あり。是山道川なるべし。此川をおきて外に此郡内に川ある事なしといへりき。……三橋氏云。山道川はダイキ川と合て御井川に入る。その合處を酒井村といふといへりき
といひ栗田氏標注に山途川ハ今ノ秋水川ニアタルト云リといへり○其源出郡北山南流而とあるを久老が郡ノ北ヨリ出デ山ノ南ヲ流テとよめるはわろし。宜しく郡ノ北ノ山ヨリ出デテ南ヘ流レテとよむべし。郡北山は即城山なり。御井大川は即筑後川なり。此川の末は筑後肥前の界を成せり○門《ト》は渡なり。但まづ門ある事をいはで直に此門とい(30)へる不審なり。猪熊本には此川とあり。此方宜しきに似たり○半凌半死を久老が半ハシヌギ半ハシニヌとよめるはいとわろし。シヌグとシヌと自他相對せざるにあらずや。さて多被殺害と半凌半殺と重複せり。されば半凌半殺は多被殺害の註文と認めて半ハシヌギ半ハ殺シキ(又は半ハシヌガレ半ハシニキ)とよむべし○有荒神云々の例は播磨風土記にも賀古《カコ》郡|鴨波《アハハ》里舟引原・揖保郡|枚方《ヒラカタ》里佐比岡・神前《カムサキ》郡|埴岡《ハニヲカ》里|生野《イキヌ》の下に見えたり(播磨風土記新考五五頁參照)。下文神埼郡・佐嘉郡の下にも例あり○卜求祟由は久老の如くタタル由ヲウラヘマグニとよむべし。兆云を久老はウラヘツラクとよみたれど兆は燒灼に由りて鹿の肩骨に現れたる文なればウラカタニイハクなどよむべきか○珂是胡の胡は猪熊本に古とあり。下は皆古に作りたればここも猪熊本に從ひて古とすべし○覓の上に即などを落したるか。下文佐嘉郡の下に
此川上ニ荒ブル神アリ。徃來ノ人半ハ生シ半ハ殺シキ。故ニ縣主等ノ祖大荒田占問ヒキ。時ニ土蜘蛛大山田女|狹《サ》山田女トイフ二女子アリテ云ハク。下田村ノ土ヲ取リテ人形馬形テ作リテ此神ヲ祭祀《マツ》ラバ必應和アラムト。大荒田|即〔右△〕其辭ノママニ此神ヲ祭リキ
(31)とあり○吾社の社も神社も共にモリとよむべし。社をモリとよむべき事は播磨風土記新考(二三三頁以下)にいへり。此時にはまだ樹叢のみにて神殿無く又如何なる神とも知られざりしなり。さればこそ下文に珂是古因知2神之在處1といひ亦識2織女神1即立v社祭v之といへるなれ○神が珂是古をして己を祭らしめむ事を願ひしは崇神天皇紀に見えたる大物主神が大田田根子を求めし事と相似たり。又尾張國風土記逸文に
丹羽郷|吾縵《アヅラ》郷、卷向珠城《マキムクノタマキ》宮御宇天皇○垂仁天皇。世字脱せるか)品津別《ホムツワケ》皇子生七歳而不v語。旁《アマネク》問2群下1無2言1v之。乃後《ソノノチ》皇后夢有v神告曰。吾多具國之神、名曰2阿麻乃彌加都比女1。吾未v得v祝《ハフリ》。若爲v吾充2祝人1皇子能言。亦是|壽考《イノチナガケムト》。帝卜2人覓v神者1日置部等祖建岡君|卜食《ウラニアヒキ》。即遣v覓v神。時建岡君到2美濃國花鹿山1攀2賢木《サカキ》枝1造v縵《カヅラ》誓曰。吾縵落處必有2此神1。縵去落2於|此間《ココ1。乃識v有v神。因竪v社。由v社名v里。後人訛言2阿豆良里1也
とあるとも相似たり。又鬘を投げてその落ちし處を神の所在と認めしと幡を放ちてその落ちし處を神の所在と認めしとも相似たり○敬を久老は欲の誤とせり。使は猪熊本に便とあり。之に從ひて便即をつらねてスナハチとよむべし。スナハチを便即と書ける例は漢籍に無數に見えたり。日本紀などにもあり○御原郡は筑後の郡名なり。もと御井(32)郡の西北に接したりしが今三井郡に入れり○姫社之社はヒメゴソノモリとよむべし。ここにも神殿は無かりしなり。田村は地名にや。誤字あらざるか○珂是古自知神之在家とある自は妥ならず。因などあるべきなり。在家も在處の誤ならむ。アリカのカは處なり。家の字音にあらず。アリカを在家と書くは近世の俗習なり(久老は家を下なる其夜夢見に附けて家ニテとよめり)。珂是古は神を祭るにつきてまづその如何なる神なるかを知らむと欲せしが、ここに至りて始めてその御原郡姫社の森に住みて山道川の西なる森に來通ふ神なる事を知りしなり○ヒメゴソノ社《モリノ》神の事は古事記應神天皇の段に
又昔新羅國主ノ子アリ。名ヲ天之日矛ト謂フ。是人|參《マヰ》渡來キ。參渡來《コ》シ所以ハ新羅國ニ一ノ沼アリ。名ヲ阿具奴摩ト謂フ。此沼ノ邊ニ一ノ賤女晝寢キ。ココニ日ノ耀《ヒカリ》虹ノゴト其|陰上《ホド》ヲ指シキ。亦一ノ賤夫アリテ其状ヲ異《アヤ》シト思ヒテ恒ニ其女人ノ行ヲ伺ヒキ。故《カレ》コノ女人ソノ晝寢ノ時ヨリ姙身《ハラ》ミテ赤玉ヲ生ミキ。ココニソノ伺ヒシ賤夫ソノ玉ヲ乞取リテ恒ニ裹ミテ腰ニ著ケタリキ。此人山谷之間ニ田ヲ營《ツク》リシ故ニ耕人等ノ飲食ヲ一ノ牛ニ負セテ山谷之中ニ入リシニ其國主ノ子天日矛ニ遇逢《ア》ヒキ。爾《カレ》ソノ人ニ問ヒテイハク。ナド汝飲食ヲ年ニ負セテ山谷ニ人ルゾ。汝必其牛ヲ殺シ食フナラム。トイ(33)ヒテ即ソノ人ヲ捕ヘテ獄ニ入レムトス。其人答ヘテイハク。吾牛ヲ殺スニ非ズ。唯田人ノ食ヲ送ル耳。トイフ。然レド猶赦サズ。爾《カレ》ソノ腰ノ玉ヲ解キテソノ國主ノ子ニ幣《マヒ》シキ。故ソノ賤夫ヲ赦シ其玉ヲ將來《モチキ》テ床邊ニ置キシニ即美麗娘子ニ化《ナ》リキ。仍《カレ》婚シテ嫡妻トシキ。爾ソノ孃子常ニ種々ノ珍味ヲ設ケテソノ夫ニ食ハセキ。故ソノ國主ノ子心奢リテ妻ヲ詈リシカバ其女人言ヒケラク。凡吾は汝ノ妻トナルベキ女ニ非ズ。吾|祖《オヤ》ノ國ニ行カム。トイヒテ即竊ニ小船ニ乘リテ逃遁《ニゲ》渡來テ難波ニ留リキ(コハ難波ノ比賣碁曾社《ヒメゴソノモリ》ニ坐ス阿加流比賣神ト謂フ者ナリ)
といへり。この比賣碁曾社の社もモリとよむべし。宣長(記傳二〇五八頁)が「比賣碁曾と云は社號なり」といへるは從はれず。ヒメコソのコは古典に碁とも語とも許とも書けり。上より續きたればおのづから濁らるるにて必しも濁を是とし清を非とすべからず。次に日本紀垂仁天皇二年の註に
一ニ云フ。初|都怒我阿羅斯等《ツヌガアラシト》(○意富加羅《オホカラ》國王の子)國ニ在リシ時ニ黄牛ニ田器ヲ負セテ田舍ニ將徃《ヰ》キシニ黄牛忽ニ失セキ。迹ヲ尋《ト》メテ覓《マ》ギシニ跡一ノ郡家《サト》ノ中ニ留リキ。時ニ一ノ老夫アリテ曰ク。汝ノ求ムル牛ハ此郡家ノ中ニ入リキ。然ルニ郡公《サトヲサ》等ノ曰ク。(34)牛ノ負ヘル物ニ由リテ推セバ必殺シ食ハムト設ケタルナリ。若ソノ主|覓《マギ》至ラバ物ヲ以テ償ハム耳。トイヒテ即殺シ食ヒキ。若牛ノ直《アタヒ》ニ何物ヲ得ムトカ欲《オモ》フト問ハバ財物ヲ望ムナ。便《スナハチ》郡内ニ祭レル神ヲ得ムト欲フト云ヘ。トゾイヒシ。俄ニシテ郡公等到リテ曰ク。牛ノ直ニ何物ヲカ得ムト欲フト。對ヘシコト老夫ノ教ノ如シ。ソノ祭レル神ハ是白石ナリ。△《カレ》白石ヲ以テ牛ノ主ニ授ケキ。囚リテ將《モチ》來テ寢中ニ置キシニソノ神石美靈童女ニ化《ナ》リキ。ココニ阿羅斯等大ニ歡ビテ合ハムト欲ヒキ。然ルニ阿羅斯等ガ他處ニ去ニシ間ニ童女忽ニ失セキ。阿羅斯等大ニ驚キテ己ガ婦ニ問ヒテ曰ク。童女ハ何處ニカ去ニシト。對ヘテ曰ク。束方ニ向ヒキト。則尋追|求《ヤ》ギ遂ニ遠ク海ニ浮ビテ日本國ニ入リキ。求グ所ノ童女ハ難波ニ詣リテ比賣語曾(ノ)社《モリノ》神トナリキ。マタ豐國(ノ)國前《クニサキ》郡ニ至リテ復比賣語曾社神トナリキ。並ニ二處ニ祭ラル
といへり。比賣語曾社神の社も亦モリとよむべし。次に攝津風土記逸文に
比賣島松原(ハ)古|輕島豐阿伎羅《カルシマトヨアキラ》宮御宇天皇世(○即應神天皇)新羅國有2女神1遁2去其夫1來暫住2筑紫國伊波比乃比賣島1。乃曰。此島者猶不2是遠1。若居2此島1男神尋來。乃更遷來遂停2此島1。故取2本所v住之地名1以爲2島号1
(35)といへり。神名帳に攝津國東|生《ナリ》郡比賣許曾神社、又臨時祭式に比賣許會神社一座(亦号下照比賣)とあるもの即是なり。
○日本書紀通釋卷二十八(一四四六頁)に右の攝津風土記の逸文を暫住筑紫國岐伊〔二字傍点〕比賣島とある本に據りて引きて「岐伊は肥前國基肄郡なり」といひたれど基肄郡は海に臨まず。從ひて此郡に屬せる島あるべくはあらず。宜しく伊波比乃比賣島とある本に從ひて豐後國東|國東《クニサキ》郡なる姫島、即垂仁天皇紀二年なる豐國|國前《クニサキ》郡の地とすべし。此豐國國前郡を栗田飯田二氏が一の國を脱せる本に從ひて豐前國の事とせる(通釋一四四七頁以下)は從はれず。豐後國人小串重威の姫島考に據れば姫島は周防と豐後との間なる伊波比|洋《ナダ》の西南偏に在りて其島の海岸の岩山に赤水明神とて石の祠にいますが即ヒメゴソノ神なりといふ
さればヒメゴソノ神は韓國より來りし女神なり。否恐らくは歸化韓人が衣服飲食に祐《サチ》あらむ事を折りて本國の女神を祭りしならむ○臥機(謂久那※[田+比]枳)とある那は猪熊本に從ひて都の誤とすべし。クツビキは和名抄織機具に楊氏漢語抄云。臥機、久豆比岐云々とありて狩谷望之の箋注に
(36) 按ズルニ是麻繩モテ之ヲ爲《ツク》リ織人ノ足ニ縛著シテ足ノ屈折スルニ隨ヒテまねきヲシテ仰俛《ギヤウフ》セシムル機ナリ。關東ノ俗ニ云フ所ノすそを是ナリ、肥後ノ俗ニ今モ猶くつひきト呼ブ。ソハ沓引ノ義ナリ
といへり
○久老が臥磯を臥v機と返讀せしめ又※[人偏+舞]を上なる絡※[土+朶]に附けてタタリヲマハシとよめるはいみじき誤なり。栗田氏は標注に和名抄を引かれたれば正しく讀まれしなるべきに本文に亦臥v機とせるはいぶかし。思ふに栗田氏標注本の本文はもと無訓無點なりしに出版に當りて學問淺薄なる人が久老の校訂本の訓點をさながらに寫入れたるにぞあらむ
○タタリは播磨風土記|餝磨《シカマ》郡小川里の下・萬葉集卷十二(をとめらがうみをのたたり)太神宮式・木工寮式・祝詞式(龍田風神祭)などに見えたり。和名抄蠶絲具にも楊氏漢語抄云絡※[土+朶]多々理と見えて箋註に
令義解《リヤウノキゲ》ノ線柱モ亦即是物ナリ。關東ノ俗ニくり臺ト呼ビ關西ノ俗ニハ今猶たたりト稱ス
(37)といへり○其夜云々はその夜珂是古の夢に室内のクツビキ・タタリなどが自跳りまはりて臥したる珂是古の胸を壓すと見えしなり○於是亦織女神を久老は織女神モとよめり。もしさる意ならば亦は神の下に置くべく又織女神を姫社之社の神と別神として此神をも社を立てて祭りしなりとせざるべからず。按ずるに亦の下に識を落したるにてココニ亦織女神ナルコトヲシルとよむべし(猪熊本には識女神とあり。これは織を落したるなり)。即初には祭を求むる神が御原郡姫社の森に住みて山道川の西なる森に來通ふ神なる事のみを知りしが夢に織機の具が怪を示ししに由りて其神は織女神なる事を知り乃山道川の西なる森に社を建てて其神を祭りしなり。織女神はハタオリメノ神ともよむべけれど(オリヒメとよまむは陋し)古事記神代卷にアメナルヤオト多那婆多ノウナガセルタマノミスマル云々とあり神名帳尾張國に多奈波太神社見え萬葉集卷十に棚機ノイホハタタテテオル布ヲなどあるに據りてタナバタノ神とよむべし(タナバタツメとよまむも可なり)。但そのタナバタは固より七夕銀河のタナバタにあらず○因曰姫社はもと御原郡姫社の森に坐しし神を祭れるが故に姫社と稱しきと云へるなり。又姫社はもと姫社社とありて因リテ姫社《ヒメゴソ》ノ社《ヤシロ》トイフとよむべかりしを一の社字(38)を衍字として削りしならむ。伊藤常足が姫社をヒメコソとよまでヒメノヤシロとよむべしと云へるはヤシロといふ事無かるべからざる故にて、そこまで按じつめたるはたたへつべけれど今一歩を進めて一の社字の落ちたるを看破すべかりしなり○さて社の字は古來コソとよみて萬葉集には浦ナシト人社ミラメ滷ナシト人社ミラメ(卷二)などテニヲハのコソにも借りて書きたれど何故に社をコソとよむかといふ事は未知られず。たとへば倭漢三才圖會卷十五倭字の條に
社ハ宮祠ノ名ナリ。然ルニ倭ニ助語ノ字トセリ。未ソノ據ヲ知ラザルナリ(○原漢文)
といひ萬葉集古養(ワタツミノトヨハタ雲ニイリ日サシの註)に「コソに社・與・與具などの字を書るは其義未詳ならず」といひ管内志豐後國國埼郡上、比賣語曾神社の條に
御名義比賣は女神なれば負せたり。語曾はいまだ思ひ得ず
といへり。按ずるに日本紀に韓國の地名の山をムレ、川をナレ、村をスキ、城をサシなど訓じたるが古韓語なる事は人の知れる如し。コソはおそらくは右の類にて森の古韓語ならむ。即歸化韓人が本國の女神を樹叢にいつきて其樹叢を姫ゴソなど稱せしより遂に邦語に交れるならむ。然らば姫ゴソノモリ又播磨風土記|美嚢《ミナギ》郡なる志深《シジミ》里|許會社《コソノモリ》など(39)は重複して云ふべからざるに似たれど、こは例ある事にて、たとへば播磨風土記|餝磨《シカマ》郡伊和里の下に蹈牟禮丘《イナムレノヲカ》といひおなじき神前《カムサキ》郡|多駝《タダ》里の下に城牟禮《キムレ》山といひ神功皇后紀に阿利那禮河といへり。ムレが山、ナレが川の古韓語なる事は初に云へる如し○さて姫社郷は管内志に
基肄郡人云。今當郡に姫方とて大村あり。此村の東を流るる河あり。是古の姫社郷の地ならむか。此邊四五村をすべて姫方郷と近き比までも唱へたりと云。といへりき。此説さもあるべし
といへり。今も基里《キサト》村の大字に姫方あり。又管内志に
常足按ずるに基肄郡姫方郷の河西に八幡社とて近村の宗社ありといふ。もし是にはあらぬか(八幡神は後に相殿などに祭れるを主神の如くに唱へ習ひたるにてもあるべし)
といひ「肥前風土記の研究」に
こんな故ある社であるがだんだん知る人がなくなつてゐたが明治二年以來藩廳で祭典を擧げられる事になつた。所の人のいふには本社は世の轉變によつて祠殿境地(40)も荒れてしまつたから姫方村の人等相謀つて宇佐八幡宮の分靈を奉祀し住吉高良の二神を合祭して八幡宮といひ本の姫社は却つて近傍の民家の傍に埋没し機織神と言つて聊の石祠ばかり殘つてゐたのを明治維新の時村人が協議してその石祠を八幡社内に復して古名にかへし姫神社といつたが今は姫古曾神社といつて村社である
といへり。管内志に又
又筑後國三原郡大崎村に棚機神社ありといふ。基肄三原相近ければ是にてもあらむか
といへり。もし實に三原郡大崎村(今三井郡|小郡《ヲゴホリ》村の大字にて基肄郡界にいと近し)に棚機神社といふがあらばそは恐らくは本書の御原郡|姫社之社《ヒメゴソノモリ》ならむ。但本書には彼姫社の森にも社を建てし事を云はず。否本書の趣にては少くとも初に社を建てしは山道《ヤマヂ》川の西のみなりしに似たり。然るに從來御原郡姫社の森にも社ありと豫斷せしは姫社之|社《モリ》の社《モリ》をヤシロと誤讀せし結果なり○本郡六郷のうち今の本に見えたるは姫社郷のみなり。他は傳寫せし人が節略せしなり。いといと惜むべし
(41) 養父《ヤブ》郡 郷肆所(里一十二)烽壹所
昔者|纏向日代《マキムクノヒシロ》宮御宇天皇巡狩之時此郡佰姓|擧部《トモコゾリテ》參集。御狗出而吠之。於v此有2一産婦1臨見《ノゾキミレバ》御狗即吠止。因曰2犬聲|止《ヤム》國1。於此〔二字左△〕《今》訛謂2養父郡1也
新考 養父郡は基肄郡の西に接したり。肆と佰とは四と百との借字なり○此郡の國史に見えたる始は續日本後紀仁明天皇嘉承元年八月の下に
肥前國養父郡人太宰少典從八位上筑紫公文公貞直・見豐後大目大初位下筑紫公文公貞雄等賜2姓忠世宿禰1貫2附左京六條三坊1
とあり。筑紫公戊公は筑紫ノクモンノキミとよむべきか。纂詁には公文公を火公の誤とせり○烽を置かれしは旭村の旭山なりといふ○巡狩を久老がミカリシタマフとよめるはひが事なり。巡狩は孟子に
天子適2諸侯1曰2巡狩1。巡狩巡v所v守也
天子適2諸侯1曰2巡狩1諸侯朝2天子1曰2述職1
とありて巡狩に狩猟の義は無し。狩は守の通用なり。されば巡狩之時は下なる巡幸之時・(42)行幸之時また播磨風土記なる巡行之時とおなじくイデマシシ時・ミユキセシ時などよむべし。こは夙く基肄郡の處にていふべきを落したればここに云ふなり。久老も総説の處にてはイデマスとよめるを基肄郡の處より後は皆ミカリシタマフ又はミカリとよめり○擧部をトモノヲコゾリテとよめるもひが事なり。トモノヲは部曲の長なり。部は部曲民なり。但ここにては村民なり。擧部參集は宜しくトモコゾリテマヰリツドヒキとよむべし○出而は鹵簿ヨリ出デテといふ事か○産婦は和名抄に和名宇布女《ウブメ》とあり。臨見は臨を借字としてノゾキミレバとよむべし。古は臨をも覘をもノゾクと云ひき。家ながら鹵簿をうかがひ見しなり。久老はノゾミ〔右△〕ミレバとよめり○於此は下文に今訛狹山郷・今訛米多井・今謂蒲田郷訛也・今謂賀周里訛之也などあるに據りて今の誤とすべし。於此の二字は恐らくは上より移れるならむ。猪熊本に於今とあるも可ならず。於を剰字とすべし○和名抄本郡の郷名に養父あり。管内志に初郡家を置れたる處なるべしといへり。今麓村大字牛原の字に養父の名殘れり
鳥※[木+巣]《トス》郷(在2郡東1) 昔者|輕島明宮《カルシマアキラノミヤ》御宇|譽田《ホムタ》天皇之世造2鳥屋《トヤ》於此郷1取2聚雜鳥1養馴《カヒナラシテ》貢2上朝廷1。因曰2鳥屋郷1。後人改曰2鳥※[木+巣]郷1
(43) 新考 ※[木+巣]は巣に同じ。顯宗天皇紀に山背《ヤマシロ》國のウタノアラスダといふ地名を歌荒※[木+巣]田と書けり。又|國巣《クズ》を徃々國※[木+巣]と書けり○譽田天皇は應神天皇の御事なり。明宮は攝津風土記の逸文に輕島豐阿岐羅宮御宇天皇世とあればアキラノミヤとよむべし。久老がアカリノミヤとよめるはわろし。養馴も久老はヤシナヒナラシテとよみたれどカヒナラシテとよむべし。鳥養・犬養など養をカヒとよむは常の事なり○今三養基郡に鳥栖《トス》町あり
日〔左△〕《曰》理郷(在2郡南1) 昔者筑後國御井川|渡瀬《ワタリセ》甚廣、人畜《ヒトモケモノモ》難v渡。於v茲纏向日代宮御宇天皇巡狩之時就2生葉《イクハ》山1爲2船山1就2高羅《カワラ》山1爲2梶山1造2備《ツクリソナヘテ》船1漕2渡|人物《ヒトケモノ》1因曰2日〔左△〕理《ワタリ》郷1
新考 日理の日は曰の誤なり。亘の誤にはあらず。古は地名を書くに音訓を交へ用ふる事は無かりき。曰の音ワツなるをワタに轉用したるなり。名義は渡なる事下文に見えたる如し○久老が人畜をヒトモケモノモとよみ人物をヒトケモノヲとよめるはいと宜し。人物の語例は神武天皇紀に人物|咸《ミナ》瘁《ヲエヌ》とあり。又日向風土記逸文|智鋪《チホ》郷の節に人物失v道とあり。巡狩之時はイデマシシトキなどよむべき事上に云へる如し○就生葉山云々(44)は生葉山ニ就キテ船ノ材ヲ採リ又高羅山ニ就キテ梶ノ材ヲ探リテといふことを面白くいひ習へるままに書けるならむ○生葉《イクハ》山は浮羽郡の東界なる高井岳なり。此山の木を伐りて御井川即筑後川に浮べて持來りしなり○此郷は和名抄に見えず。又其地は詳ならず。管内志に
青柳大人云。亘理郷は即和名抄の屋田郷の事なり。今も屋田村あり。さて御井川の古渡、屋田・高田兩村の間を經て千栗《チリク》八幡の前を流れたり。其川南流して遂に古渡廢れたり。
と云れき
屋田郷は青柳大人説に今も屋田村有てオクタと唱ふ。是古訓なるべし。といはれき
といへり。在郡南とあれば今の旭村か
狹山《サヤマ》郷(在2郡南1) 同天皇行幸之時在2此山行宮1徘徊曰。望2四方1分明《サヤケシ》。因曰2分明《サヤケ》村1(分明謂2佐夜氣志1)。今訛謂2狹山郷1
新考 望四方分明は四方ヲ望ムニサヤケシとよむべし。分明謂佐夜氣志といふ分註は本來此次にあるべきなり。古語拾遺に天照大神が天石窟の磐戸を開けましし處に
(45) 當2此之時1上天初晴衆倶相見(ルニ)面皆明白。伸v手歌舞相與稱曰。阿波禮、阿那於茂志呂、阿那多能志、阿那|佐夜憩《サヤケ》、飫憩《オケ》
とあり○狹山郷の地も今知られず。但此山とあれば狹山は元來山名にて狹山あるが故に郷をも狹山といひしなり。栗田氏標註に
糸山貞幹曰。此郷所在詳ナラズ。郡南トアルニヨラバ朝日山ノコトニハ非ルカ
といへり。按ずるに在郡南とあるは在郡西の誤にあらざるか。もし然らば今の麓村の西部を以て此郷に擬すべし○郷四所中一郷は見えず。又和名抄の四郷中本書に見えたるは鳥栖・狹山のみ。他の二郷中養父は郡家所在の郷なるべければ殘る屋田を青柳種麿は曰理の改稱と認めたるなり
三根郡 郷陸所(里十七)驛壹所(小路)
昔者此郡與2神|崎〔左△〕《埼》郡1合爲2一郡1。然|海部直《アマノアタヒ》嶋請分2三根郡1。即縁2神|崎〔左△〕《埼》郡三根村之名1以爲2郡名1
(46) 新考 本郡は養父郡の西に續き神埼郡の束に隣れり○神崎郡の崎は猪熊本に埼とあるに從ふべし。海部直嶋を猪熊本に鳥とせり。こはいづれか正しからむ。海部嶋が請ひて三根郡を置きしは大化二年以後なるべければ雄略天皇紀十年に
身狹村主《ムサノスクリ》青、呉ノ獻レル二鵝ヲ將《ヰ》テ筑紫ニ到リシニ是鵝、水間君《ミヌマノキミ》ノ犬ニ※[口+齒]マレテ死ニキ(別本ニ云ヘラク是鵝、筑紫ノ嶺《ミネ》縣主|泥《ヒヂ》麻呂ノ犬ニ※[口+齒]マレテ死ニキ)
とある嶺縣は後の三根郡のみにあらで後の神埼三根兩郡に當らむ○海部はアマともアマベとも訓むべし。角鹿海直《ツヌガノアマノアタヒ》は古事記孝靈天皇の段に見え吉備海人直(又海部直)は同仁徳天皇の段・日本紀の雄略天皇紀・敏達天皇紀などに見え但馬海直は姓氏録左京神別に見え尾張中島海部直は舊事紀天神本紀に見えたり。直はカバネなり。費とも費値とも書けり。皆借宇なり。さてアタヘとよまでアタヒとよむべし。アタフといふ語は古四段活なりしなり。嶋は人名なり○母郡に三根村あればとて其地ならぬ同郡の別地を割きて置きたる郡に三根と名づくべからず。恐らくは神埼郡三根村は同郡の首邑にて又海部嶋の本居ならむ
物部郷(在2郡南1) 此郷之中有2神社1。名曰2物部|經津主《フツヌシ》之神1。曩者《ムカシ》小墾田《ヲハリダ》宮御(47)宇|豐御食炊屋《トヨミケカシギヤ》姫天皇令3來目《クメ》皇子爲2將軍1遣v征2伐新羅1。于時皇子奉v勅到2於筑紫1乃遣2物部若宮部1立2》社於此村1鎭《イハヒ》2祭其神1。因曰2物部郷1
新考 物部經津主之神は物部のいつきし經津主神なり。經津主神は武神なり○豐御食炊屋《トヨミケカシギヤ》姫天皇は推古天皇の御事なり。推古天皇紀に
十年春二月己酉朔來目皇子ヲ新羅ヲ撃ツ將軍トシテ諸ノ神部《カムトモノヲ》及國造伴造等并ニ軍衆二萬五千人ヲ授ク。夏四月戊申朔將軍來目皇子筑紫ニ到リ乃進ミテ嶋郡ニ屯シテ船舶ヲ聚メ軍粮ヲ運ブ。六月……是時來目皇子病ニ臥シテ征討ヲ果サズ十一年春二月癸酉朔丙子來目皇子筑紫ニ薨ズ
とあり。來目皇子は用明天皇の御子、推古天皇の御甥にて聖徳太子の御同母弟なり。神部は祭事を掌る部曲なり。但ここは國造伴造に對したればカムトモノヲとよみて其長等とすべし。風土記に見えたる物部若宮部は其|神部《カムトモ》の一なり。なほ下にいふべし。國ノミヤツコと伴ノミヤツコとは略後の外《ゲ》官と内官とに當るべし。嶋郡は後の筑前國志摩郡なり○物部は軍事を世職とする部曲なり。物部若宮部は物部に屬する神部の一ならむ○其神の其は物部若宮部ノイツケルとなり。此經津主神は物部若宮部のいつきしなれば(48)特に物部を添へて物部經津主之神といひしなり○物部郷の地は今知られず。「肥前風土記の研究」に「物部社は今北茂安村板部の物部社で物部郷は板部中津隈附近であらう」といへり。中津隈は北|茂安《シゲヤス》村の大字なり。板部はいづれの大字の内にか。もしくは江口の内か
漢部《アヤベ》郷(在2郡|南〔左△〕《北》1) 昔者來目皇子爲v征2伐新羅1勅2忍海漢人《オシヌミノアヤビト》1將來《ヰキテ》居《スヱテ》2此村1令v造2兵器1。因曰2漢部郷1
新考 忍海は顯宗天皇紀に忍海角刺宮を歌に於尸農瀰《オシヌミ》ノコノタカキナルツヌサシノミヤとよめるに據りてオシヌミとよむべし。和名抄に大和の郡名忍海に於之乃美と註したるはヌのノにうつれるなり。忍海漢人は新羅の俘虜の子孫なり。即神功皇后紀五年に
乃新羅ニ詣リテ蹈鞴津《タタラノツ》ニ次《ヤド》り草羅城《サワラノサシ》ヲ拔キテ歸リキ。是時ノ俘人等ハ今ノ桑原・佐糜・高宮・忍海凡テ四邑ノ漢人等ノ始祖ナリ
とあり。上古は工藝は多くは歸化人の掌る所なりき。忍海漢人も其例に漏れざりきと見えて續日本紀養老三年十一月に忍海手人廣道、同神龜元年十月に忍海手人|大海《オホアマ》見えた(49)り。手人は即工人なり○勅は古典に天皇以外にもつかへり。たとへば播磨風土記|宍禾《シサハ》郡比治里の下に葦原|志許乎《シコヲ》命占v國之時勅3此地|小狹《サクテ》如2室戸1また天日槍命宿2於此村1勅2川音甚高1とあり豐後風土記總説にも莵名手《ウナデ》即勅2僕者1遣v看2其鳥1とあり。畢竟ノルに充てたるなり。漢籍にも其例いと多し。たとへば唐書卷百五十四李晟傳に
邏者得2姚令言・崔宜諜者1。晟命釋v縛飲2飯之1遣v還、勅曰。爲v我謝2令言等1。善爲v賊守。勿v不v忠2于1(○叛臣朱)
とあり。なほ彼豐後風土記總説の下に他の例を引くべし○此郷にて兵器を造らしめられしは此地方より砂鐵を産しけむ爲か○漢部郷は和名抄に見えず。大日本地名辭書に「今の中原村是なり」といへり。今も中原村大字原古賀に綾部の名は殘れり○在郡南は猪熊本に在郡北とあるに從ふべきか
米多《メタ》郷(在2郡南1) 此郷之中有v井。名曰2米多井1。水味鹹。曩者《ムカシ》海藻《メ》生2於此井之底1。纏向日代宮御宇天皇巡狩之時|御2覧《ミソナハシ》井底|△《之》海藻1即勅賜v名曰2海藻生井1。今訛2米多井1以爲2郷名1
(50) 新考 和名抄郷名に米多(女多)とあり。古事記應神天皇の段に
故|意富杼《オホド》王者筑紫之米多君之祖也
とあり又國造本紀に
竺志《ツクシ》米多國造 志賀高穴穂朝(○成務天皇)息長公《オキナガノキミ》同祖|稚沼毛《ワカヌケ》二俣命孫都紀女加定2賜國造1
とあるは即此米多にや。大日本地名辭書には異説を擧げたり○井は泉なり。縱に深く穿ちたる今樣の井にあらず。海藻を栗田氏は和名抄の訓註に據りてニギメとよみたれど、ここは久老の如くただメとよむべし。又巡狩之時は例の如くイデマシシ時などよむべし。猪熊本に井底の下海藻の上に之の宇あり。海藻生井はメオフル井とよむべし。久老がメオフ井とよめるはわろし○管内志に今も三根郡坊所郷米多村ありといへり。坊所は今の上峯村の大字なり。今も同村大字前牟田に此井の遺《ナゴリ》と稱せらるるものあれどたやすく信ずべからず○本郡六郷中三郷は見えず○兵部省式に見えたる切山驛(高山寺本和名抄には功山とあり)は基肄驛と佐嘉驛との間なれば三根神埼二郡の内なるべきが其名今殘らず。本書に三根郡の下にも神埼郡の下にも驛壹所と見えたるを思へば初に(51)基肄と佐嘉との間に二驛を置かれしを後に一驛とせられしにて、そが即切山驛なれば此驛の址は兩郡の界に近き處に求むべし
神埼《カムサキ》郡 郷玖所(里二十六)驛壹所|△△△《烽壹所》寺壹所(僧寺)
昔者此郡有2荒《アラブル》神1往來之人多被2殺害1。纏向日代宮御宇天皇巡狩之時此神|和平《ナゴミキ》。自v爾以來無2更《カツテ》有1v狹〔左△〕《殃》。因曰2神埼郡1
新考 神埼郡は三養基郡の西、佐賀郡の東北に在りて其西北端は小城郡に接せり。玖は九の借字なり。佐賀縣誌に
今神埼町大宇|田道个里《タミチガリ》ニ驛个里《マヤガリ》アリ。古ヘノ驛ニテ人ノ徃來ノ多カリシ處ナラム
といへり(こは絲山氏の纂註の説なりといふ)。或は然らむ。但切山驛は此處に擬すべからず○猪熊本に驛壹所の次に烽壹所とあり○荒神の例は基肄郡姫社郷の下にあり。管内志に理由は云はでただ「此の荒神則今の櫛田社なり」といへり。又縣誌櫛田神社の下に
荒キ神ハ本社ノ神ニハ非ザルカ。本社驛个里ニ近ケレバナリ
(52)といへれど驛址に近きは以て證とするに足らず。荒ぶる神ありしは驛を置かれしより遙に前なる事なればなり○此神和平を久老は此神ヲナゴシタマヘリとよみたれど神を主格として此神ナゴミキとよむべし。自爾以來云々の例も姫社郷の下にあり。更の宇はうるはしくはカツテとよむべし○久老いはく。※[立心偏+束]舊本作v狹。以2僻按1改v之と。原本に狹とあるを久老が臆を以て改めさてオソリとよみしなり。恐らくは殃の誤ならむ○又久老が神埼之埼者幸之意乎といへるはうべなひがたし。播磨風土記|賀古《カコ》郡|鴨波《アハハ》里の下に昔|神前《カムサキ》村有2荒神1といひ、おなじき神前《カムサキ》郡の下に乃因2神在1爲v名。故曰2神前郡1といへり。ここも山の埼などに神の在りしに由りて神埼郡といひしにこそ。ただ行文のうるはしからざるによりて因が無更有殃を受けたるが如く聞ゆるのみ
三根郡(在2郡西1) 此郷有v川其源出2郡北山1南流入v海。有2年魚1。同天皇行幸之時御船從2其川|瀬〔左△〕《湖》1來|御2宿《ヤドリマシキ》此村1。天皇勅曰。夜|※[穣の旁からハを取る]〔左△〕《裏》御寢甚有2安穩《ヤスカリキ》1。此村可v謂2天皇御寐安村《スメラノミネヤスムラ》1。因名2御寐《ミネ》1。今改2寐字1爲v根
新考 川とあるは下文にいへる三根川即今の城原《ジヤウバル》川にて郡の北界なる脊振《セブリ》山より發(53)せり。此川今は筑後川に注ぎたれど上古は筑後川の河口は遙に北方に在りて城原川は直に海に注ぎけむ。郡北山とあるは即脊振山なり。脊振山は彼僧性空が籠りたりし山なり○從其川瀬とある心得がたし。猪熊本には從其川湖とあり。之に從ひてソノ川ノミナトヨリとよむべし。ミナトは川口なり。ミナトに湖の字を充てたる例は萬葉集卷三(新考四四六頁)に
あしべにはたづがねなきて湖《ミナト》風さむくふくらむ津乎の埼はも
卷七(新考一二八一頁)に
あふみの海|湖《ミナト》はやそぢいづくにか君が舟はて草むすびけむ
卷十二(新考二七一〇頁)に
湖轉《ミナトミ》にみちくるしほのいやましにこひはまされど忘らえぬかも
などあり。又延喜臨時祭式東宮八十嶋祭に赴2難波湖1祭之《マツレ》とあり。御宿はヤドリマシキなどよむべし○天皇勅曰夜※[穣の旁からハを取る]御寢甚有安穩を久老が※[穣の旁からハを取る]を素に改めて天皇ヤスミネトノリタマヒイトマセクアリとよみたるはいとわろし。※[穣の旁からハを取る]を裏の誤として天皇ノリタマハク。夜裏御寢イト安穩《ヤス》カリキ。此村ハ天皇ノ御寐安村ト謂フベシト(54)とよむべし。此村可謂天皇御寐安村までが勅辭なり。天皇は御自の言行に敬語を添へたまひき。夜裏は夜中に同じ。萬葉集卷十七なるヌバタマノ月ニムカヒテといふ歌の題辭にも夜裏遙聞2霍公鳥喧1述v懷歌とあり。甚有安穩はイトヤスカリキなどよむべし。例は常陸風土記總説の下に流泉淨澄尤有好愛とあり。これもイトメデタカリとよむべし。久老は甚有安穩をイトマセクアリとよみて
安穩ノ二字遊仙窟ニ麻世久ト訓ミ萬葉卷九ニ麻勢久ノ詞アリ。併セ考フベシ
といへり。遊仙窟訓麻世久といへるは同書に娘子安穩〔二字傍点〕、新婦向v房臥也とあるを指せるにや。その安穩は元禄刊本にイマセと傍訓せり。うるはしくはヤスクイマセとよむべきなり。
○醍醐寺本遊仙窟(古典保存會發行)にはイマセヨと傍訓し又臥去也に作りてネニイヌと傍訓せり。イマセとイマセヨとはいづれにても可なり。向の宇との對應を思へば去の宇はある方まされり。さて臥去也はネニイナムとよむべし
又萬葉卷九有麻勢久之詞といへるは同卷なる藤井連和歌に命乎志麻勢久可願〔五字傍点〕とあるを云へるにてこは麻多久母願名《マタクモガモナ》・麻幸久母願《マサキクモガモ》などの誤とすべし(萬葉集新考一八〇四頁(55)參照)。所詮マセクといふ語は無きなり○此郷は和名抄にも神埼郡三根(美禰)と見えたれど其地今知られず。但此郷有川云々又在郡西とあれば今の城原川の流域なり。栗田氏標註に
貞幹曰。此郷現ニ郡中ニナシ。又郡中ニ川ハアレドモ船ノ徃來スベ キ所ニアラズ。此文モト三根郡中ニアリシガ錯出セシナラム云々
といふ説を擧げたり。今の城原川は船の徃來すべき川なりや否や徃見ねば知らねど(此川今も年魚を産すといへば小川にはあらじ)川といふ物はすべて古は今より遙に廣く、その水量はた今より遙に多かりきと思はる。たとへば奈良の佐保川は今は小川に過ぎざれど萬葉集卷一なる從2藤原京1遷2于寧樂宮1時歌に泊瀬川より船にて佐保川に到りし趣見えたり。されば今を以て輕々しく古を斷ずべからず。又此書のみならず和名抄にも神埼郡の郷名に擧げたるを右の如き薄弱なる理由にて錯出とは認むべからず
船帆郷(在2郡西1) 同天皇巡狩之時諸氏人等擧落|葉〔左△〕《乘》v船擧v帆參集於三根川|△《之》津1供2奉天皇1。因曰2船帆郷1。又御船|沈石《イカリ》四顆存2其津邊1。此中一顆高六尺|經〔左△〕《徑》(56)五尺、一顆高四尺|經〔左△〕《徑》五尺、無v子婦女就2此二石1恭|祷所者《コヒノメバ》必得2妊産1。一顆高四尺|經〔左△〕《徑》五尺、一顆高三尺|經〔左△〕《徑》四尺、亢旱之時就2此二石1※[樗の旁]并祈者必|爲雨落《アメフル》
新考 巡狩を猪熊本に巡行に作れり。氏人はここにては部曲の長即トモノヲなり○擧落葉船の葉を栗田氏が乘の誤と見られたるはいと宜し。擧落は養父郡の下なる擧部に同じ。トモコゾリテともムラコゾリテとも訓むべし。例を石作に取らむか。石作は一の部曲即トモにて聚りて一村を成し其長をトモノヲと稱しトモノヲの一族は連《ムラジ》・首《オビト》などのカバネを賜はり一般の石工は石作部と稱せしにて部はやがて部落即村なりしなり。擧落の語例はたとへば續日本紀延暦四年六月の坂上苅田麻呂の上表に擧落隨v使盡來永爲2公民1とあり○津は船附なり。供奉はツカヘマツリキとよむべし。天皇の御用に勤仕せしなり。猪熊本に三根川の下、津の上に之の宇あり○船帆郷は諸の氏人の部落を稱せしにあらず。諸の氏人の參集して天皇の御用に勤仕せし處即三根川の船附附近を船帆郷と稱せしなり○イカリを沈石と書ける例は播磨風土記|餝磨《シカマ》郡伊和里の下(新考一〇七頁)にもあり。存はノコレリとよむべし。其下に猪熊本に乎字あり。津邊はツノヘとも古風(57)にツノヒとも訓むべし。但へもヒも濁らぬを可とす○顆は類圓なる物を數ふるにいふ語なるが、ここの四顆一顆は顆字を捨ててただヨツ・ヒトツとよむべし○經は徑の誤字なり。猪熊本には※[人偏+至]とあり。※[人偏+至]はやがて徑の俗體なり。原本に高徑は皆分註とせり。本行とせずては文つづかざれば今改めて本行とす。久老本に據れば第二顆と第三顆と高徑共に同一なるが猪熊本には第二顆を高八尺とせり。さては第二顆は第一顆より大きになりて大者を後とする事となればなほ久老本に從ふべし○恭はウヤウヤシクともヰヤヰヤシクとも訓むべし。又祷祈者はコヒノメバとよむべし。栗田本にマヒノメバとあるは久老本の惡刻をさながら移したるにていとあさまし○得妊産、爲雨落を久老がコウメリ、アメフレリとよめるはいとわろし。語格上コウム、アメフルとこそ云ふべけれ。特に雨にフレリといふ事はあらぬをや。
○雨雪の今降るは活動格にてフルといふべく雪の地上に降りたるは靜止格にてフレリといふべけれど雨の地上に降りたるはフレリとは云ふべからず。地上に降りたるはもはや雨とは云ふべからざればなり。古人の歌に雨にフレリとよめる例無し。景樹始めてフレリとよみて中島廣足に咎められき
(58)さて得妊産はコハラミウムコトヲウとよむべし。猪熊本に妊を任に作れり。任は妊に同じ○亢旱は大旱なり。栗田本に元旱とあるは誤植なり。※[樗の旁]《ウ》はアマゴヒなり○必爲雨落の爲字心得がたし。タメニと訓まむか。それも妥ならず。此字は史記の伍子胥傳に
公子光謂2呉王1曰。彼伍胥父兄|爲《ラル》v戮2於楚1云々
又古詩十九首に但爲2後世嗤1とあるを始として爲所と同じくラルに充てたる例あり。其例は陶潜・李白の詩、特に多く杜甫の詩に見えたり。但此等の例と他動詞ならぬ雨落とを同一視して雨ニフラルとは訓むべからず。爲は又作・成と同じく主動詞の補強として用ひらるる事あり。例を杜甫の詩に求めなば須v爲2下v殿走1、不v可v好2樓居1また莫v須《ベカラズ》v驚2白鷺1、爲d伴宿c清溪uまた莫《ナカレ》v作v委2泥沙1また故作2放v舟廻《カヘル》1また不v成v向2南國1、復作v遊2西川1などなり。此等はハシルベシ・ヤドラム・ユダヌルナカレ・カヘル・ムカハズ・アソブを須爲走・爲宿・莫作委・作廻・不成向・作遊と書けるなり(俗讀にてはハシルヲナスベシ・ヤドルヲナサムとよむめれどさては國語の格にかなはず)。此等を例として雨フルを爲雨落と書けるかとも思へど雨フルは自然にてハシル・ヤドル・ユダヌ・カヘル・ムカフ・アソブなどの故意なると又同視すべからず。所詮しばらく爲を捨てて爲雨落の三字を聯ねてアメフルとよむべし○船帆郷(59)の地も今知られず。栗田氏標註に
貞幹曰……此郷モ本ハ三根郡ノ錯簡カ。今三根中ノ北ニ船石村アリ。ソコニ※[樗の旁]スレバ驗アリト云石アリトゾ。是ナランカ
とあれど錯簡説のうべなはれざるは前に云へる如し
蒲田郡(在2郡|西〔左△〕1) 同天皇行幸之時御2宿此郷西1。薦2御膳《ミケ》1之時蠅甚多|鳴《ナキ》其聲|大《イト》囂《カマシ》。天皇勅云、蠅聲甚囂。因曰2囂《カマ》郡1。今謂2蒲田郷1訛也
新考 久老は基肄郡長岡神社の下なる薦膳之時をカシハデヲススムル時とよみ、ここの薦御膳之時をオモノヲススムル時とよめり。兩者は同訓ならざるべからず。宜しく共にミケヲススメシ時ニとよむべし○大囂、甚囂の囂を久老はカマビスシとよめり。元來カマビスシはカマシとミスシとの連語にてカマシもミスシも共にヤカマシといふ事なるが、ここはカマビスシ又はカマミスシとのたまひしよりそを略してカマノ郷といひそめきとせむよりカマシとのたまひしよりカマノ郷といひそめきとせむ方穩ならむ
(60) 〇アナカマなどいへばヤカマシをカマシといひし事は明なり。又ヤカマシをミスシといひし證は豐後風土記網磯野の下に天皇勅曰|大《アナ》囂《ミス》(謂阿那美須)とあり。因にいふ。今ヤカマシといふは彌カマシならむ。イヤをヤとのみいふは古語にも例あり(萬葉集新考三七八四頁おもやめづらし參照)
○栗田氏標註に貞幹曰。郡西ノ西ハ南ノ誤ナランといひ大日本地名辭書に今境原村・蓮池村等なるべしといへり。境|原《バル》は境野村の大字なり。境野・蓮池二村は郡の西南にあり。蓮池村大字小松に今も蒲田津といふ字あり
琴木岡(高二丈、周五十丈。在2郡南1) 此地平原(ニテ)元來無v岡。大足彦天皇勅曰。此地之形必可v有v岡。即令3郡丁起2造此岡1。造畢之時登v岡宴賞、興《アソビ》闌《タケシ》之後竪2其御|△《々》1琴々化爲v樟(高五丈、周三|尺〔左△〕《丈》)。因曰2琴木岡1
新考 必可有岡は岡ガ無クテハナラヌとなり。丁《ヨボロ》は人夫なり○興闌之後を久老はアソビスギヌル後とよめり。げに闌は盛の過ぐる事なれどスギヌルといはば終る事と聞ゆべければアソビタケシ後ニとよまむか○竪其御琴々化爲樟はもと御々琴々とありて(61)竪2其御琴1御琴化爲v樟とよむべかりしを上の々を落したるならむ。竪は豎《ジユ》の俗字なり○周三尺とあるを久老は尺疑丈之誤乎といへり。猪熊本には適に丈とあり。栗田氏の標註に
貞幹曰。本郡妙法寺ノ文書ニ神埼郡蒲田社祭供免田川埼二町(字号芦野開)餘枝尾方一町五段二丈(字号毎木〔二字傍点〕宮脇)田地等之事云々トアリ。國人今泉千秋云。此書年号ナケレドモ五百年許ノモノト見ユ。毎木宮ハ琴木宮ニテ香椎宮ヲ云ナラン
といひ地理志料餘戸の下に
纂註ニ云ハク。郡南ノ餘江村ニ香椎宮アリ。地勢隆然トシテ丘ノ如シ。或ハ其趾ナラム。因リテ謂フニ毎木ハ即琴木
といへり。然るに「肥前風土記の研究」には「今の香椎社は餘江の東北で路の北にあるが別に高い所でも何でもない」と云へり。毎木宮の毎木はげに琴木岡の琴木なるべけれど岡の跡は今知るべからず。元來人の築きし岡なれば之を夷げむことも難からざるべく、やがて世を經る程に岡の形の失せもぞしけむ。餘江は今の境野村の大字にて蓮池村大字蓮池の東北に當れり
(62)宮處《ミヤコ》郷(在2郡西南1) 同天皇行幸之時於2此村1奉v造2行宮1因曰2宮處郷1
新考 ミヤコを宮處と書けるは正字なり。和名抄當郡郷名に宮所(美也止古呂)と訓註せるは誤なり。處は古語にコといひ(ソコ・ココ・カシコなどのコ)又カといひしなり(アリカ・スミカ・ヤマガ・ヲカなどのカ)。さてミヤコは元來建築物なるミヤに對してその所在地をいひしなり。さればいにしへは行宮の所在地をもミヤコといひき。其例は此處の外景行天皇紀十二年に
天皇遂ニ筑紫ニ幸シ豐前國|長峽《ナガヲ》縣ニ到リ行宮ヲ興シテ マシマシキ。故其處ヲ号シテ京《ミヤコ》トイフナリ
又豐後風土記|大分《オホキダ》郡の下に
昔者纏向日代宮御宇天皇|△《ヨリ》2豐前國|京都《ミヤコ》行宮1幸2於此郡1云々
また直入《ナホリ》郡宮處野の下に
同天皇爲v征2伐土蜘蛛1之時起2行宮於此野1。是以名曰2宮處野1
とあり○本郡九郷のうち本書の今本に見えたるは四郷のみ。その三根郷は此郷有v川其源出2郡北山1とありて三根川の上流にて然も川は其郷を貫きたりきと思はれ又御船從2(63)其川|湖《ミナト》2來御2宿此村1とありて上流とは云へど船の通ふべき平野と思はる。次に船帆郷は乘v船擧v帆參2集於三根川之津1とあり在2郡西1とありて三根川の西岸に在りて三根郷より下流にありきと思はる。次に蒲田郷は今の蓮池村及境野村の東部か。蓮池村の束南端|城原《ジャウバル》川の西岸に蒲田津といふ字殘りたればなり。次に宮處郷は蓮池村の西部即犬童川の西方か。在郡西南とあればなり
佐嘉郡 郷陸所(里十九)驛壹所、寺壹所
昔者樟樹一株|生《オヒタリ》2於此村1。幹枝秀高莖|△《葉》繁茂、朝日之影(ニハ)蔽2杵島《キシマ》郡蒲川山1暮日《ユフヒ》之影(ニハ)蔽2養父《ヤブ》郡草|横〔左△〕山1也。日本武《ヤマトタケル》尊巡幸之時|御2覧《ミソナハシテ》樟|△《樹》茂榮1△《勅》曰。此國可v謂2榮國1。因曰2榮郡1。後改号2佐嘉郡1。一云。郡西有v川名曰2佐嘉川1。年魚|有之《アリ》。其源出2郡北山1南流入v海。山〔左△〕《此》川上有2荒《アラブル》神1往來之人半生半殺。於v茲縣主等祖大荒田占問。于《ソノ》時有2土蜘蛛大山田女・狹《サ》山田女二女子1云。取2下田村之土1(64)作2人形馬形1祭2祀此神1必|在〔左△〕《有》2應和1。大荒田即隨2其辭1祭2此神1。神|※[音+欠]《ウケテ》2此祭1遂應和之。於v茲大荒田曰。此婦|如是《カク》實|賢《サカシ》※[女を□で囲む]。故以2賢女1欲《オモフト》v爲2國名1。因曰2賢女《サカシメ》郡1。今謂2佐嘉郡1訛也
新考 佐嘉郡は今佐賀郡と書く。それも新しき事にあらず。即和名抄にはなほ佐嘉郡と書きたれど夙く日本靈異記下卷第十九に肥前國佐賀郡大領正七位上|佐賀公《サカノキミ》兒公とあり。さて今は賀の今音に從ひてサガと唱ふる事なるが(なほ近江國の郡名|鹿深《カフカ》を甲賀と書きてよりカフガと唱ふる如し)本書以下に嘉と書けると、賀はいにしへ多くは清音に充てしと、本署に榮郡の改號なりとも賢女郡の訛なりとも云ひたるとを思へば初にはサカと清みて唱へしなり○驛壹所とあるは即兵部省式に見えたる佐嘉驛ならめど其地は今知られず○此村といへる、指す所無ければ或は誤字ならむかとも思へど次なる小城《ヲキ》郡の下にも此村といひ豐後風土記速見郡の下にも此村とあれば誤字にはあらじ。此村はただ此土・此地などと心得べし○莖の下に葉などぞありけむ。さらでは幹枝秀高に對せず。北史卷八十四王崇傳(孝子傳)に於2其室前1生2草一根1。莖葉甚茂とあり○杵島郡蒲(65)川山は今知られず。栗田氏標註に
貞幹曰。佐留志村ノ堤尾山ナルベシ
とあるは如何なる證に據れるにか知らねど恐らくは其附近即杵島郡の東界の高山ならむ。次なる草横山と共に佐嘉郡より見ゆる高山ならでは叶はず。因にいふ。三代實録貞觀三年八月の下に肥前國正六位上堤雄神授2從五位下1とあるは右の堤尾山に坐しし神ならむ。杵島郡は小城郡を隔てて佐嘉郡の西方に當れり○養父郡草横山は管内志に
肥前人三橋氏云。風土記に草横山とあるは今の九千部山を云なるべし。是を置て養父郡に高山ある事なし云々
といへり。九千部山は佐賀郡より東北に當りて三養基郡と筑前國筑紫郡とに跨れる高山なり。按ずるに草横山は草穂山の誤にてそのクサボを訛りてクセブ又はクセンボといひて九千部の字を充てたるにあらざるか。僧性空が此山にて法華經九千部を讀みしよりの名といふは俗説のみ。但島原半島即温泉岳の中にも九千部といふ山あり○朝日ノ影ニハ杵島郡蒲川山ヲ蔽ヒ暮日ノ影ニハ養父郡草横山ヲ蔽ヒキといへる例は景行天皇紀十八年に
(66) 秋七月辛卯朔甲午筑紫|後《シリ》國御木(○今の三池郡)ニ到リテ高田行宮ニマシマシシ時ニ僵樹アリ長九百七十丈ナリ。……爰ニ天皇問ヒテ曰ク。是何ノ樹ゾト。一老夫アリテ曰ク。是樹ハ歴木《クヌギ》ナリ。甞未僵レザル先ニハ朝日ノ暉《ヒカリ》ニ當リテハ杵島山ヲ隱シ夕日ノ暉ニ當リテハ阿蘇山ヲ覆ヒキト。天皇ノ曰ク。是樹ハ神木ナリ。故是國ヲ御木國ト号クベシト
また筑後風土記逸文に
三毛郡云々|昔者《ムカシ》棟木一株郡家ノ南ニ生ヒタリキ。其高サ九百七十丈ニテ朝日ノ影ニハ肥前國藤津郡多良ノ峯ヲ蔽ヒ暮日ノ影ニハ肥後國山鹿郡荒爪ノ山ヲ薇ヒキ云々。因リテ御木國トイヒシヲ後人訛リテ三毛トイヒキ。今以テ郡名トセリ
また古事記仁徳天皇の段に
コノ御世ニ兎寸《ウキ》河ノ西ニ一ノ高樹アリキ。其樹ノ影旦日ニ當レバ淡道《アハヂ》島ニ逮ビ夕日ニ當レバ高安山ヲ越エキ
また播磨風土記逸文に
明石驛家ノ駒手御井ハ難波高津宮天皇ノ御世ニ楠井上ニ生ヒタリキ。朝日ニハ淡路(67)島ヲ蔭《オホ》ヒ夕日ニハ大倭《ヤマト》島根ヲ蔭ヒキ
などあり。所謂大木傳説なり○御覧樟茂榮は上に樟樹一株生於此村とあるを思へば樟の下に樹を落したるならむ。曰は猪熊本には勅とあり。もと勅曰とありしを猪熊本は曰を脱し久老本は勅を落したるにこそ○此國可謂榮國の此國は上なる此村と同じく此地方と心得べし。當時國の義いまだ定まらず、廣きをも狹きをもクニといひき。さて榮國と名づけたまひしを榮郡といひ始めしは大化改新の時ならむ○佐嘉川は今の嘉瀬川にて所謂山内より發し南流して筑紫海に注げり。
○山内とは神埼・佐賀・小城三郡の北偏山地の總稱なり。佐賀郡の北界は國界に達せずその上流を川上川といふ○年魚有之はただアユアリとよむべし。之は助字なり。焉の如く見べし。此川は今も玉島川と相並びて佐賀縣下にての鮎の名産地なり○山川上は此川上の誤ならむ。下にも又此川上有石神といへり。その又はここの此川上に對したるなり○荒ブル神は祭られざる神なり。荒ぶる神ありて徃來の人を殺しし例は夙く基《キ》肄郡|姫社《ヒメゴソ》郷の下並に神埼郡の下に見えたり。半生半殺は猪熊本に生半殺半とあり○縣は國造を置かれし國よりは狹かりしに似たり。但アガタと稱せしはよく開けたる地域にて(68)其治者の收入は郤りて國よりも多き事ありしが如し。さてここに縣主といへるは佐嘉縣主ならむ。すべて縣主は國造と共に大化改新の時に廢せられ其空名のみ徃々カバネとなりて殘りき。縣主をミヤケノオビトと同視せる宣長以來の説は從はれず○土蜘蛛は穴居の異民族にて記・紀・諸國の風土記などにあまた見えたり。夙く本書の総説にも見えたり。さて大山田女・狹《サ》山田女といふ名は天孫民族よりおほせしなるべきが大狹は大小兄弟などと同じくてここにては姉妹を示す稱にて山田は本來地名ならむ。その山田を管内志に和名抄の山田郷、元禄國圖の東山田村西山田村とせり。今も川上村の大字に東山田あり。又大字川上に字西山田あり○下田を管内志にクボタとよみて太俣郷窪田村(今の久保田村大字久保田)かといへるは非なり。今の松梅村大字梅野の下田《シモダ》にて今の川上村大字川上とは川上川を隔てて斜に相對せり○人形の下馬形の上に一本に及の字ありといふ。在は猪熊本に有とあり。應和は寧音讀すべし。栗田氏の標註に馬形の例に雄略天皇紀九年七月の下なる譽田陵の土馬を引きたれど、そは陵墓の立物にてここなるとは別なり。皇太神宮儀式帳荒祭宮等神財の中なる青毛土馬一疋(高一尺、鞍立髪金餝)また續日本紀神護景雲二年二月なる
(69) 奉2神服於天下諸社1。……毎v社男神服一具、女神服一具。其太神宮及月讀社者加v之以2馬形并鞍1
などをこそ引くべけれ○※[音+欠]は音キン、享と同義なればウケテとよむべし。應和之の之は助字なり○如是實賢女の女は衍宇ならむ。久老が欲をオモヒとよめるはいとわろし。欲爲國名までが大荒田の辭なりざれば欲をオモフトとよむべし。又欲は本來以賢女の上にあるべきなり
又此川上有2石神1名曰2世田《ヨダ》姫1。海神|年常《トシノハニ》(謂2鰐魚1)逆v流|潜上《クグリノボリテ》到2此神所1。海底小魚多相從之。或《アルハ》人畏2其魚1者《バ》無v殃或人捕食者|有v死《シヌ》。凡此魚|△《等》經2二三月1還而入v海
新考 久老が川上をカハノビとよめるはわろし。今も地名・川名をカハカミといひ又古語に川邊をカハカミともいへばカハカミとよみて川邊と心得べし(萬葉集新考四一頁參照)○石神は自然石の人形に似たるを神といつきしなり。播磨風土記|揖保《イヒボ》郡神島・同郡揖保里神山の下にも見えたり○世田姫を久老は音訓を交へてセタヒメとよみたれど(70)今の淀姫神社即三代實録貞觀二年二月及同十五年九月の下に見えたる豫等比※[口+羊]大神、神名帳に見えたる與止日女神社と關係ある事明なれば宜しくヨダヒメとよむべし○海神を久老が上に附けてウミノカミナリとよめるはいといとわろし。海神は次の一句の主格にて年常の下に謂鰐魚と註したるは元來海神の註なるを誤りて下に移したるなり。栗田氏標註に
糸山貞幹ガ説ニ云。コノ註文謂鰐魚ノ三字ハ一本ニヨルニ海神ノ下ニアリシガ錯《マガ》ヒツル也。世田姫ハよたひめ也。淀姫ハ即よたひめニテ此神ヲ豐姫ト申スモ(○宇佐宮縁起・一宮記・神名帳頭註など)とよひめニハアラズゆたひめ也。土人ハナベテよたひめト云也。ト語リキ。此説イトヨロシ
といひたれどなほ海神が次の句に屬すべきことを悟らず。同氏の逸文考證與止姫神社の下に
按ふに與止日女神は穂々出見尊の御叔母にて即海神の女なるべし云々
といへるもなほ誤讀に基づきたるなり。元來ヨド姫といふ神は河神なるべく思はる。他日間を得ば淀姫考を草すべけれど今は事の因にただ結論のみを擧げおくなり○鰐魚(71)といへるは記紀に見えたる和邇・鰐と同じく海中の大魚(鮫類)なり。無論クロコダイルにあらず。今もサメの事をワニといふ地方あり(たとへば石見國)○久老は年常二字未詳といへり。年常は毎年といふ事なり。トシゴトニとも訓むべけれど古語に從ひてトシノハニとよむべし。年常は又歳常といへり。此二語南北史には特に多く見えたり。たとへば南史卷五十三昭明太子蕭統傳に
又出2主衣(○職名)絹帛1年常〔二字傍点〕多作2襦袴各三千領1冬月以施2寒者1不v令2人知1
北史卷八十六閻慶胤傳に
頻年饑儉。慶胤歳常〔二字傍点〕以2家粟千石1賑2恤貧窮1。人頼以|済《スクハル》
同書卷九十四高勾麗傳に自v此歳常〔二字傍点〕貢獻また毎《ツネニ》遣2使人1歳常〔二字傍点〕朝貢とあり同卷庫莫奚傳に自v此已後歳常〔二字傍点〕朝獻とあり同卷契丹傳にも自v此歳常〔二字傍点〕朝貢とあり。新しきものにては、たとへば五代史卷六十七呉越世家に
呉越貢2賦朝廷1遣使皆由2登莱1泛v海。歳常〔二字傍点〕飄2溺其使1
とあり。又國書にてはたとへば營繕令凡在京營造云々の條の義解に即年常〔二字傍点〕支料之外云々また類聚三代格延暦二年三月太政官符に件綿年常〔二字傍点〕所v貢廿萬屯。今減2其數1定2十萬屯1と(72)あり○逆流を久老はサカマクミヅヲとよみたれど宜しくナガレニサカラヒとよむべし○或人畏其魚者を久老がアルハ人ソノ魚ヲカシコムモノハとよめるはよからず。さてはモノと人と重複すればなり。アルハ人ソノ魚ヲカシコメバとよむべし。元來人或畏2其魚1者無v殃或捕食者有v死と書くべきなり。次に有死の有は無殃に對せしめむが爲に添ヘたるのみ。有を棄ててただシヌとよむべし○淀姫神社一名河上神社は川上村大字川上にありて清流に臨めり。昔は肥前國の一宮なりき。祭神は諸書に神功皇后の御妹淀姫一名豐姫なりといへるを管内志には
常足按ずるに風土記に荒神といひ世田姫といへるは始より此河上にます神にして則與止日女神社の本主なり。さるを豐姫の又の名を淀姫とする説は非なり。豐姫は後に祭れる神と聞えて元より別神なり云々
といへり。特選神名牒に「風土記によるときは海神にます事明かに聞ゆるを」云々といひ地名辭書に「風土記に海神世田姫と曰ふ者是なり」といへるは風土記の誤讀なり
因にいふ。和名抄肥前國郡名に小城(乎岐、國府)とあれど伊呂波字類抄には肥前國管十一……佐嘉(サカ、國府)とあり。又國府地は佐賀郡にありて小城郡には無し。はやく管内志(73)に
元禄圖に佐嘉郡上佐嘉郷尼寺村あり。是正しく古の尼寺の有し處と聞ゆ。さらば國府も佐嘉郡の内とすべきか
といひ地名辭書に
國郡沿革考云。肥前府は和名抄小城郡に在りと爲せど小城に絶えて府址を見ず。佐嘉郡久知井村に遺址ありて其國分尼寺并に惣社も此に在れば小城に作るは誤ならん
といへり。げに春日村の大字尼寺は國分尼寺の名のなごりなるべく又大字久知井の惣座はやがて總社なるべく國分寺並に國分尼寺の址と傳へたる處も大字尼寺にあり。又中世此附近を府中といひきといふ。其外にも若干の傍證あれば國府の在りし處はげに今の春日村ならむ。國府址・國分寺・國府總社跡の記事は佐賀郡誌(三二〇頁以下)に、國分寺及尼寺跡の記事は佐賀縣史蹟名勝天然紀念物調査報告第二輯に見えたり。又因にいふ。安閑天皇紀二年五月の下に見えたる火國春日部|屯倉《ミヤケ》は皇后春日山田皇女の爲に建てたまひし屯倉の一なるが春日村大字久知井の春日は其名の殘れるならむといふ
(74) 小城《ヲキ》郡 郷漆所(里二十)驛壹所、烽壹所
昔者此村有2土蜘蛛1造v堡《ヲキ》隱之《カクリテ》不v從2皇命1。日本武尊巡幸之日皆悉誅v之。因号2小城郡1
新考 小城は和名抄の訓註に乎岐とあり。今は濁りてヲギといふ。今の小城郡は神埼・佐賀二郡の西に接し其東南部筑紫海に臨めり○郷七所とあれど和名抄に見えたるは四郷のみ○兵部省式に佐嘉驛の次に高來驛を擧げたり。今郡の西南部に多久村と東西南北の多久村とあり。驛を置かれたりしは此地方なり。和名抄に本郡郷名の高來を多久とよめり。然も當國郡名の高來は多加久と註したれば郷名訓註の多久は加を落したるかとも思へどその高來郷は今の多久諸村なる事明なる上に高はタとよむべき理由あれば少くとも本郡郷名の高來は初よりタクと唱へしならむ。はやく地理志料卷六十三に
高字古單ニ多ト呼ビキ。加ハ處ナリ。語辭ナリ。豐後ノ日高郡ハ比多ト註シ後日田ニ作レリ。薩摩ノ高城郡ハ今多岐ト呼ブ。古中ヲ奈ト訓ミ岡ヲ乎ト訓ミシハ此ト同ジ。多久ノ言ハ栲ナリ。土宜ヲ以テ名トセルナリ
(75)といへり○此村とあるは上に云へる如くコノトコロと心得べし。元來次なる松浦郡の下に此郡といへるが如く此郡とあるべきなり○堡を久老はムロとよみ下文藤津郡能美郷の下なる堡はツチムロとよめり。能美郷の下なるはいかにもあれ、ここの堡はヲキとよまでは郡名の起とならず。堡は音ハウ、字書に堡障(ハ)小城也と見え又軍防令には城隍と城堡とを別ちて
凡束邊北邊西邊ニ線《ソ》ヘル諸郡ノ人居ハ皆城堡内ニ安定セヨ。……其城堡崩頽セバ當處ノ居戸テ役シテ閑《イトマ》ノマニマニ修理セヨ
とありて其義解に
堡ト謂フハ土ヲ高クシ以テ堡障ヲ爲《ツク》リテ賊ヲ防グナリ。此ハ守固ノ城ニアラズ。故ニ居戸ヲ役シテ修理スルナリ。上條ノ城隍崩頽者ハ是守固ノ城ナリ。故ニ兵士ヲ役シテ修理スルナリ。彼此同ジカラズ。仍リテ兩條ヲ立テタルナリ
といへり。されば堡は安んじてヲキと訓むべし。さて小城と書けるは適にそのヲキの正字なり。又小柵とも書くべし。柵は古典にキとよめり。夙く管内志に「堡を古くは乎岐とよめりしなるべし」といひ栗田氏標注にも堡ハ小城ノ如キモノナレバをきト訓ムベシと(76)いへり○隱之はカクリテとよむべし。之は助字なり
松浦郡 郷壹拾壹所(里二十六)驛伍所、烽捌所
昔者|氣長足《オキナガタラシ》姫尊欲v征2伐新羅1行2於此郡1而進2食於玉島小河之側1。於v茲皇后勾v針爲v鉤《チ・ツリ》、飯粒《イヒホ》爲v餌、裳絲《モノイト》爲v緡《ヲ》登2河中之石上1捧v鉤祝曰。朕欲d征2伐新羅1求c彼財寶u。其事功成凱旋(セム)者《ニハ》細鱗之魚呑2朕鉤1※[緡を□で囲む]。既《カクテ》而投v鉤片時果得2其魚1。皇后曰。甚希見物《イトメヅラシキモノ》(希見謂2梅豆羅志《メヅラシ》1)。因曰2希見《メヅラ》國1。今訛謂2松浦郡1。所以《ユヱニ》此國婦女孟夏四月常以v針釣2年魚1。男夫|羅〔左△〕《〓》v釣不2能|羅〔左△〕《獲》1之
新考 松浦はマツラとよむべし。今マツウラと唱ふるは字に引かれたるなり。松浦郡は明治十一年以來東西南北の四郡に分れたるが同十六年以來東西は作賀縣に、南北は長崎縣に屬したり。さて東松浦郡は小城郡の西北に接して其北と西とは海に臨み、西松浦郡は東松浦郡の西南に接してその西北方のみ海に臨み、北松浦郡は西松浦郡の西に接(77)したる半島と其西方なる平戸島とより成り、南松浦郡は平戸島の西南方なる五島列島より成りて西|彼杵《ソノギ》郡と海を隔てて東西相對せり。中世松浦郡を上下に別ちしが、その上松浦(上松浦郡とも云へり)は略今の東西二郡に當り下松浦は略今の南北二郡に當る如し。さて上松浦は朝鮮(並に朝鮮を經ての支那)との交通即所謂北路の埠頭にして下松浦は支那への直通航路即所謂南路の津涯なりしかば松浦地方の地名は屡漢籍にも見えたり○本書に郷一十一所とあるに和名抄に僅に庇羅・大沼・値嘉・生佐・久利の五郷を擧げたるは落せるにやいといぶかし。驛五所とあるは兵部省式に見えたる磐氷《イハヒ》・大村・賀周《カス》・逢鹿《アヒカ》・登望《トモ》の五驛にて皆今の東松浦郡の内にあり。右の大村を諸書に今の東|彼杵《ソノギ》郡の大村とせるは誤にて、所謂草野の大村にて今の東松浦郡玉島村の内なり。肥前國深江驛(大日本地名辭書に據れば佐尉驛)と本郡賀周驛との間に在りしなり。磐氷をも地名辭書には東彼杵郡に擬したれど、これも今の東松浦郡にておそらくは今の嚴木《キウラギ》村の内ならむ。肥前の東端|基《キ》肄より西南島原半島の野鳥に通ずる驛路中|高來《タク》即今の小城《ヲギ》郡|多久《タク》より岐れ北方に向ひて彼大村に達する中間驛なり。
○地理志料には東松浦郡の内としたれど賀周の前驛としたり。同書も亦彼大村驛を(78)東彼杵郡の大村としたるなり
烽八所ありしは云ふまでも無く朝鮮支那等よりの來襲に備へしなり○古事記仲哀天皇の段に
亦筑紫ノ末羅《マツラ》縣ノ玉島里ニ到|坐《マ》シテ其河邊ニ御食《ミヲシ》シタマヒシ時四月ノ上旬ニ當リキ。爾《カレ》其河中ノ礒ニ坐《マ》シテ御装ノ糸ヲ拔取リ飯粒《イヒボ》ヲ餌トシテ其河ノ年魚ヲ釣リタマヒキ(其河ノ名ヲ小河ト謂ヒ亦其礒ノ名ヲ勝門比賣《カチドヒメ》ト謂フ)。故四月上旬ノ時女人裳ノ糸ヲ拔キ粒《イヒボ》ヲ餌トシテ年魚ヲ釣ルコト今ニ至ルマデ絶エズ
とあるは國司などの語りしを採られたるならむ。少くとも當時の陪從の都に歸りて語傳へし資料のみに據られざりし車は故四月上旬之時……至2于今1不v絶也とあるにて知らる。又日本紀の神功皇后紀に
北、火前《ヒノクチ》國松浦縣ニ到リテ玉嶋里ノ小河ノ側ニ進食シタマフ。是《ココ》ニ皇后針ヲ勾ゲテ鉤《チ》トシ粒ヲ取リテ餌トシ裳ノ糸ヲ抽取リテ緡トシ河中ノ石上ニ登リテ鉤ヲ投ゲテ祈リテ曰ク。朕西ノカタ財《タカラ》ノ國ヲ求メムト欲ス。若事ヲ成スコトアラバ河ノ魚、鉤ヲ飲メト。因リテ竿ヲ擧ゲタマフニ乃細鱗ノ魚ヲ獲タマヒキ。時ニ皇后ノ曰ク。希見物《メヅラモノ》ナリト(79)(希見此云2梅豆邏志1)。故時ノ人其處ヲ号ケテ梅豆羅國《メヅラノクニ》ト曰ヒキ。今松浦ト謂フハ訛レルナリ。是ヲ以テ其國ノ女人四月ノ上旬ニ當ル毎ニ鉤ヲ河中ニ投ゲテ年魚ヲ捕ルコト今ニ絶エズ。唯男夫ハ釣スレドモ能ク魚ヲ獲ズ
とあるは主として本風土記に據り、傍いささか(抽取といひ四月上旬といひ於今不絶といへるなど)古事記を參酌して文を成せるなり。なほ緒言の中(五頁)に云へる所と參照すべし○さて風土記並に日本紀に松浦を神功皇后の御時より後に始まりし名とせるが國造本紀に
末羅國造 志賀高穴穂朝(○成務天皇)御世穂積臣同祖大水口|足尼《スクネ》孫矢田|稻吉《イナキ》定2賜國造1
とあり又魏書倭人傳に
從v郡(○帶方郡)至v倭……歴2韓國1……至2對馬國1……至2一支國1……又渡2一海1千餘里至2末盧國1。有2四千餘戸1濱《ソヒテ》2山海1居。草木茂盛、行不v見v前。人好捕2魚鰒1。水無2深淺1皆沈没取v之
とあれば(數字は漢人の癖なる誇張なり。泥むべからず)神功皇后が年魚をみそなはして(80)メヅラシキ物とのたまひしに由りてメヅラノ國と名づけ遂にマツラと訛りきと云へるは恐らくは一傳説に過ぎざらむ。皇后の御世が支那の何の代に當るべきかは此處にていふを好まず○進食は漢籍に多く見えて貴人に食を薦むる事にも貴人自食する事にも云へり。景行天皇紀四十年に停2尾津濱1而進食とあり令内膳司の義解に進食先甞とあるを始として國典にもあまた見えたり。久老がミヲシシタマフとよめるは字のままにミケタテマツリキなどよみては上文の此郡ニイデマシテと自他相背くが故ならむ。久老の如く御自の事としてミヲシシタマヒキなどよむべきはたとへば北史卷七齊の文宣帝紀に末年遂不v能2進食1唯數飲v酒とあるを例とすべし○玉島小河は東松浦郡の東北界より發して濱崎町大字濱崎の東北にて海に注げる玉島川即萬葉集卷五に
まつらがはかはのせひかりあゆつるとたたせるいもがものすそぬれぬ
まつらなるたましまがはにあゆつるとたたせるこらがいへぢしらずも
などよみて玉島川とも松浦川ともいへる小川なり。今唐津市内にて海に注げる松浦川は萬葉集の松浦川にあらず○久老は鉤をツリ飯粒をイヒツブ緡をツリイトとよめり。鉤はチともよむべく緡はヲともよむべし。飯粒は必イヒボとよむべし。播磨風土記|揖保《イヒボ》(81)郡揖保里の下にイヒボを粒と書けり。又其郡名・里名・山名のイヒボはやがて飯粒より出でたるなり○河中之石上は即古事記の河中之礒なり。イソは大石なり。此石の事はくはしく萬葉集新考(九四一頁以下)に云へり○祝を久老がホギテとよめるはわろし。イハヒテとよむべし。イハフはかくあれかしと祈るにてホグとは異なり。今の世はホグを誤りてイハフといふ。久老がイハフとよむべきをホグとよめるは其反對の誤なり。栗田本には祝を祀と誤れり。誤植ならむ○凱旋者を久老はイクサカチテバとよめり。元來凱は勝、旋は歸の義なるが、この凱旋は功成がやがて勝つ事なれば、もし訓讀せむとならば旋を主としてカヘラムニハとよむべけれど寧凱旋セムニハと音讀すべし。猪熊本には功成を成功に作れり○呑朕鉤緡の緡は衍字か。たとひ然らずとも無きぞまさらむ。日本紀には之を削りて河魚飲鉤と書けり○既而はカクテなどよむべし。スデニシテとよまむは古語の義にあらず。古語のスデニは悉なり。既の字には悉と夙と兩義あるを夙の義なる時にも誤りてスデニとよむ事となれるなり。出雲風土記に加茂嶋既礒、子嶋既礒などいひ天武天皇紀七年冬十月に
是時百姓一家在2岡上1。當2于地動夕1以(テ)岡崩處遷。然家|既〔右△〕全而無2破壞1。家人不v知2岡崩家|避《サレル》1。但(82)會明後知以大驚焉
とあるなどの既こそ悉の義なればスデニとは訓むべけれ(萬葉集新考三五〇七頁參照)○和名抄鮎の註に漢語抄云細鱗魚とあれば細鱗之魚は久老の如くアユノ魚と訓むべきに似たれどよく思ふに此時はまだ魚の名だに知ろしめさざりしなれば少くとも此處の細鱗之魚は魚名とは認むべからず。從ひてアユとは訓まずしてサイリンと音讀すべし(無論皇后の御辭のままに書けるにあらず)。後世アユを細鱗と書くは日本紀(又は此文)に據れるにて雁蕩山志に細鱗魚と見えたりと云ふは(和漢三才圖會・箋注和名抄などに引けり)暗合に過ぎざらむ○さて風土記の趣にては年魚の水中に游ぐを見て其魚を釣得たまひしにて日本紀の旨にてはただ鉤を投げて年魚を釣得たまひしなり。メヅラシキ物とのたまへる、釣得て始めて年魚を見たまひし趣なれば日本紀の方理にかなへり。否日本紀は風土記を修正して理にかなへたるにこそ○孟夏四月の例は上(二六頁)に孟春四月とあり。不用の孟夏を添へて書ける、こも亦本書が悉く訓讀すべきにあらざる一證とすべし。久老の如く四宇を聯ねてウヅキニハとよまば本書の撰者は恐らくは眉をひそめむ○久老は以針釣年魚の頭註に以〔右△〕字疑|句〔右△〕誤乎といへり。即久老は初に勾針爲(83)鉤とあるを承けて勾針釣年魚と書きたりしを誤りて以針とせるかと云へるなり。按ずるに皇后の年魚を釣りたまひし時には咄嗟の事にて釣具の準備無かりしかば直針を曲げて鉤としたまひしなり。後人の皇后に倣ひしは四月に此處にて年魚を釣る事のみ。豈毎常直針を曲げて鉤とせむや。以針と書けるは以鉤の意にこそ。或は針は鉤の誤字にてもあるべし。日本紀には以|鉤〔右△〕投河中捕年魚と書けり。但古事記には故四月上旬之時女人拔2裳糸1以v粒爲v餌釣2年魚1とありて針を曲ぐる事こそ見えね緒も飯も皇后の如くすと云へり○猪熊本には釣の下に之の字あり。古典にはかかる處にも之の字を挿める例あれば直に衍宇とは認むべからず○男夫羅釣不能羅之を久老は男夫ツリヲカクレバ之ヲカケアヘズとよみたれど、もとのままにては辭を成さざれば日本紀に唯男夫雖釣以不能獲魚とあるに據りて男夫|雖〔右△〕釣不能|獲〔右△〕之の誤として男夫《ヲノコ》ツリスレドモエエズ(又はヨクエズ)とよまざるべからずと思ひしにうれしきかな猪熊本にはまさしく男夫|雖〔右△〕釣不能|獲〔右△〕之とあり
鏡|渡《ワタリ》(在2郡北1) 昔者|檜隈廬入野《ヒノクマイホリヌノ》宮御宇|武少廣國押楯《タケヲヒロクニオシタテ》天皇之世遣2大伴|狹手彦連《サデヒコノムラジ》1鎭2任那《ミマナ》之國1兼《マタ》救2百済之國1。奉v命到來至2於此村1。即娉2篠原《シヌハラ》村(篠謂2志(84)奴1)弟日姫子《オトヒヒメコ》1成v婚(日下部君等祖也)。容貌美麗特|絶《スグレタリ》2人間1。分別之日取v鏡與v婦。々含2悲|啼〔左△〕《※[さんずい+帝]》1渡2栗川1所v與之鏡緒絶沈v川。因名2鏡渡1
新考 宜化天皇紀に
二年冬十月壬辰朔天皇、新羅ガ任那ニ寇シタルヲ以テ大伴金村大連ニ詔《ノ》リテ其子磐ト狹手彦トヲ遣シテ任那ヲ助ク。是時磐ハ筑紫ニ留リ其國政ヲ取リテ三韓ニ備ヘ、狹手彦ハ徃キテ任那ヲ鎭メ加《マタ》百済ヲ救フ
とあり○武少廣國押楯天皇は宜化天皇の御事なり。少は小の通用なり。紀に見えたる如く任那及百済が新羅に侵されし故にそを救はむ爲に大伴狹手彦を遣ししなり。任那は我國の領土なり。其國に日本府といふ政廳を置きて韓國を統監せしめられたりき○此村といへる指せる所無し。恐らくは前節に擧げたる地を指せるならめど其前節を略したる爲に指せる所無きが如くなれるならむ。さて其村はいづくにか。篠原村の地だに知られなば栗川即今の松浦川の東とか西とかいふ事ばかりは知らるべし。なほ後に云はむ○篠原村に就いて管内志には著者の師青柳種麿が「鏡村の西に梶原又原など云處あ(85)り。此あたりなるべし」と云へるをうべなひ、さて「郡南五六里に笹原と云處ありといへどそれにはあらざるべし」と附記したれどシヌハラをカヂハラと訛るべからず。又それを略してただハラと云はむ事もいかが。今郡の東南偏なる嚴木《キウラギ》村大字中島に篠原と書きてシノハラと唱ふる字と笹原と喜きてササバルと唱ふる字とあり。兩者の關係にはなほ疑はしき事あれど本書の篠原が此地方なる事は略凝なからむ○弟日姫子はオトヒヲトメとよむべきかとも思ひしかど魏書に見えたる所謂女王の卑彌呼もやがて姫子の謂にて筑紫にてはヒメコといふ語行はれしに似たれば仍オトヒヒメコとよむべし。オトヒの例は顯完天皇紀に見えたる天皇龍潜中の御誥《ミコトアゲ》に弟日ヤツコラマとあり。又萬葉集卷一にスミノエノ弟日ヲトメとあり。余は萬葉集新考(一〇七頁)に「オトヒは古義に云へる如く娘子の名なるべし」と云ひたれど、オトヒは弟《オト》といふ事、そのヒはヒコ・ヒメのヒと同じくてヒコといへば男子に限りヒメといへば女子に限れどヒは男女に亙りしならむ(持統天皇紀八年十月に弟國部弟日といふ人名見えたり)。はやく書紀集解にも
弟日ハ即弟ナリ。葢古語ノ日古・日賣ノ日ナリ。猶弟彦ト謂フガゴトシといへり。さて篠原村の弟日姫子は即松浦佐用姫なり○日下部君等祖也といふ註は宜(86)しく弟日娘子の下、成婚の上にあるべし。下文|賀周《カス》里の下に遣2陪從大屋田子1日下部君等祖也)誅滅時云々とあれば弟日娘子は大屋田子の子孫にや○含悲啼を久老は悲ヲフフミテナキツツとよめり。北史蕭賛傳に夜則銜悲涕泣とあるに似たれば啼の下に泣を落したるにやと思ひしに猪熊本を檢するに含悲※[さんずい+帝]とあり。※[さんずい+帝]はたとへば地藏經に一毛一※[さんずい+帝]一沙一塵とありて滴水の事なれど少くとも我國にては涕に通用せり。即萬葉集に白雲ニ※[さんずい+帝]ハ盡キヌ(卷八)ニハタヅミナガルル※[さんずい+帝]トドメカネツモ(卷十九)と書けり。されば猪熊本に從ひ悲※[さんずい+帝]ヲ含《フク》ミテとよみて眼ニ涙ヲヤドシテと心得べし
○但※[さんずい+帝]は又啼と通用せし如し。たとへば後漢書卷三十四梁冀傳に其妻が妖態を爲しし事を謂ひて作2愁眉※[口+遞のしんにょうなし]粧]1と云へるを※[王+周]玉集卷十四美人篇に引きて※[さんずい+帝]粧と書けり。※[口+遞のしんにょうなし]は啼に同じ
○栗川は今の松浦川なり。川の東岸に久里《クリ》村あり。和名抄に見えたる久利郷是なり。此地名より栗川の名は出でたるなり○因名鏡渡とあるに依れば鏡村・鏡山(ヒレフリ山の一名、鏡宮・鏡川(松浦川の一名)などの名は皆直接又は間接に渡の名より出でたるなり。鏡渡の址は今確には知られねど今の鏡村大字鏡の附近ならむ。今の久里村は今の鏡村の西(87)南に接し大字久里は大字鏡の南方即川上に當れり○上述の如く篠原村を今の嚴木村の内とせば狹手彦の駐りし處は今の松浦川より西なる地とせざるべからざれど其地は今知られず。ヒレフリ山は嚴木と同じく河東に在りて高からぬ山にはあれど遠く海洋の眺望せらるる山なれば此山に登りて離去の船を瞻送りけむはさもあるべし
褶振《ヒレフリ》峯(在2郡東1。峰冢〔二字左△〕《烽家》名曰2褶振|峯〔左△〕《烽》1) 大伴狹手彦連發船渡2任那1之時弟日姫子登v此|用《モチテ》v褶振招。因名2褶振峰1。然弟日姫子與2狹手彦連1相分經2五日1之後有v人毎v夜來與v婦共寢、至v曉早歸。容止形貌似2狹手彦1。婦|抱《オモヒテ》2其《ソヲ》怪《アヤシト》1不2得忍黙《エモダアラズ》1竊|用2績麻《ウミヲモチテ》1繋《カケ》2其人|襴《スソ》1隨v麻《ヲノマニマニ》尋往、到2此峰頭之沼邊1有2寢蛇《ネタルヲロチ》1身(ハ)人而沈《シヅミ》2沼底1頭(ハ)蛇而臥2沼|塵〔左△〕《脣》1。忽化爲v人即|語〔左△〕《謌》云。
志努波羅能意登比賣能古袁佐比登由母爲禰※[氏/一]牟志太夜伊幣爾久太佐牟《シヌハラノオトヒメノコヲサヒトユモヰネテムシダヤイヘニクダサム》也
于《ソノ》時弟日姫子之從女走告2親族1。親族發v衆昇而|看之《ミルニ》蛇并弟日姫子並亡|不v(88)存《アラズ》。於v茲見2其沼底1但有2人屍1。各謂2弟日|女〔左△〕《姫》子之|骨《カバネ》1。即就2此峯南1造v墓治置。其墓|見在《イマモアリ》
新考 仙覺の萬葉集註釋に
肥前國風土記云。松浦縣々東三十里有2※[巾+皮]搖《ヒレフリ》岑1※[巾+皮]搖此云2比禮符離1)。最頂有v沼計可2半町1。俗傳云。昔者|檜前《ヒノクマ》天皇之世遣2大伴紗手比古1鎭2任那國1。于時奉v命經2過此墟1。於v是篠原村(篠(ハ)資濃《シヌ》也)有2娘子1。名曰2乙等比賣《オトヒメ》1。容貌端正|孤《ヒトリ》爲2國色1。紗手比古|便《スナハチ》娉成v婚。離別之日乙等比賣登2此峯1擧v※[巾+皮]招。囚以爲v名
とありて今本と相異なり。栗田氏は其逸文考證には甲乙原一本としたるに似たれど甲乙別本なる事言ふまでも無し。さて童蒙抄にやはらげて書けるは今本の方なり。二本の關係は緒言に云へり。仙覺抄に見えたる文は西海道風土記逸文新考に註すべし。又萬葉集卷五の序に
大伴佐提比古郎子特被2朝命1奉2使藩國1。艤棹|言《ココニ》歸《ユキ》梢赴2蒼波1。妾也松浦|佐用嬪面《サヨヒメ》嗟2此別易1歎2彼會難1。即登2高山之嶺1遙望2離去之船1悵然斷肝、黯然※[金+肖]魂。遂脱2領巾1麾《フル》v之。傍者莫v不2流涕1。(89)因号2此山1曰2領巾麾之嶺《ヒレフリノネ》1也。乃作v歌曰
とありて
とほつ人まつらさよひめつまごひにひれふりしよりおへる山の名
山の名といひつげとかもさよひめがこの山のへにひれをふりけむ
よろづよにかたりつげとしこのたけにひれふりけらしまつらさよひめ
うなばらのおきゆく船をかへれとかひれふらしけむまつらさよひめ
ゆく船をふりとどみかねいかばかりこほしくありけむまつらさよひめ(○以上大伴旅人作)
又別に
まつらがたさよひめのこがひれふりし山の名のみやききつつをらむ(○山上憶良作)
おとにきき目にはいまだ見ずさよひめがひれふりきとふきみまつら山(〇三島王作)
とあり○摺振峯は久老はヒレフルミネとよみたれど宜しくヒレフリノミネとよむべし。道理上然よむべきのみならず乙本の訓註にも比禮符離とあり。今ヒレフル山といふは訛れるなり○褶は播磨風土記にもヒレに借りたれど實はよく當らず(同書新考三五(90)二頁以下參照)○峰冢を久老はミネとよめり。こは爾雅釋山に山頂(ハ)冢とあるに據れるかとも思はるれど、もし之に依らば全山の名は別にありて其峯のみをヒレフリノミネといふなりとすべきなり。さらば標題には其全山の名を擧ぐべきなり。按ずるに下文|値嘉《チカ》嶋の註に有2烽家三所1とあると參照すれば峰冢は烽家の誤ならむ。さて軍防令には烽《フウ》又は置烽之處といひて烽家といふ名は見えざれど郡を郡家ともいひ驛を驛家ともいふ如く烽子の舍を烽家とぞいひけむ。然らば烽家はフウケ又は家の字を捨ててトブ火又はススミとよむべし。さて名曰褶振峯の峯は烽の誤とすべし。猪熊本を檢するにうれしくも、はた妬くも烽家名曰褶振烽とあり○振招を久老はフリヲクとよみたれどフリマネクとよむべし。マネクをいにしへヲクと云ひしにあらず。ヲクはさそひ寄する事にてマネクとは義すこし異なり○婦抱其怪を久老はヲミナソヲアヤシトオモヒテとよめり。播磨風土記|讃容《サヨ》郡|中川《ナカヅガハ》里の下に於v是犬猪即懷2怪心1取v劔歸v家とあり豐後風土記速見郡頸峯の下に田主於v茲大懷2怪異1とあるなどの語例に據れば抱は懷の誤かとも思へど抱負・抱懷なども云へばオモフと訓まれざるにあらじ。されば久老の訓に從ふべし○不得忍黙を久老がモダエアヘズとよめるはいとわろし。忍黙の古語はナホアリ又はモダ(91)アリなり。モダユにあらず。されば四宇はエモダアラズ(又はエナホアラズ)と訓むべし。エモダアラズは俗語のジツトシテヲル事ガデキズなり(萬葉集新考四四五頁參照)○竊用2績麻1繋2其人襴1隨v麻尋徃は所謂三輪傳説の加はれるなり。三輪傳説とは古事記崇神天皇の段に
コノ意富多多泥古《オホタタネコ》ト謂フ人ヲ神ノ子ト知レル所以ハ上ニ云ヘル活玉依毘賣《イクタマヨリビメ》ソレ容姿端正ナリキ。ココニ神壯夫《カムヲトコ》ノ其形姿威儀時ニ比《タグヒ》無キガアリテ夜半ノ時倏忽ニ到來《キタ》リキ。故《カレ》相|感《メ》デテ相婚供住《アヒトツギアヒスミ》セシ間《ホド》ニ未幾時モ經ズシテ其美人|妊身《ハラ》ミキ。ココニ父母其妊身ノ事ヲ怪ミテ其女ニ問ヒテ曰ク。汝ハオノヅカラ妊ミキ。夫《ツマ》ナキニ何ニ由リテ妊身ミシゾト。答ヘテ曰ク。麗美《ウルハ》シキ壯夫ノ其姓名モ知ラヌガアリテ毎夜|到來《キタ》リテ供住《アヒスミ》セシ間ニ自然ニ懷妊《ハラ》ミキト。是ヲ以テ其父母其人テ知ラムト欲シテ其女ニ誨ヘテ曰ク。赤土《ハニ》ヲ床前ニ散シ閇蘇紡麻《ヘソヲ》ヲ針ニ貫キテ其衣ノ襴《スソ》ニ刺セト。故教ヘシ如シテ旦時《アシタ》ニ見レバ針ヲ著ケタル麻《ヲ》ハ戸ノ鉤《カギ》穴ヨリ控《ヒキ》通り出デテ唯|遺《ノコ》レル麻ハ三勾《ミワ》ノミナリキ。爾即《カレ》鉤穴ヨリ出デシ状《サマ》ヲ知リテ糸ノマニマニ尋《トメ》行キシカバ美和山ニ至リテ神社《モリ》ニ留リキ。故其神ノ子ト知リキ。故其麻ノ三勾遺レルニ因リテゾ其地ニ名ヅケテ美和(92)トハ謂ヒシ
とある是なり○沼塵を久老は沼壅に改めてイケノツツミと訓めり。さて久老は壅舊本作塵と云ひたれど猪熊本には脣に作りて傍に※[辰/土]と書けり。此字は字書に見えず。脣はクチビルなれど轉じては物の縁《ヘリ》をも脣といひ(杯脣など)之に三水を添へたる※[さんずい+脣]に水※[涯の旁]の義あれば沼脣のままにてヌマノモトホリとよむべし。栗田氏は按ニ※[さんずい+脣]若クハ※[さんずい+尋]ノ誤といへり。※[さんずい+辱]は※[さんずい+脣]の誤植ならむ。王維の燕子龕善師といふ古詩にも巖腹乍旁穿、澗脣時外拓といへり○即語云の語を久老は謌に改めたり。こはさもあるべし○栗田氏は歌を釋して
一首(ノ)歌意は此篠原村ノ愛ハシキ弟日姫子ヲ一夜ニテモ率テ寢シ時節ノアリシコトナレバ決シテ其元ノ家ニタダニ降シ遣リハセジ。故ニ諸共ニココニテ死シテ來世マデモ永ク夫婦ノ契リヲ結バント也
といへり。歌にヰネテムと未來に云へるを率テ寢シ云々と過去に釋すべけむや。決シテ以下も全然誤解なり。まづ末の也は歌に添へたる助字か。又は即謌云といふ文に添へたる助字か。いづれにもあれヤとは訓むべからず。皇極天皇紀三年に
(93) 于時有2謠歌三首1。其一曰……其二曰……其三曰ヲバヤシニワレヲヒキレテセシヒトノオモテモシラズ伊弊母始羅孺母《イヘモシラズモ》也
とあり。又萬葉集にアサツユノゴト、ユフツユノゴトのゴトを如也と書き(二一七)オトノサヤケサ・ミルガカナシサ・ナキガサブシサを清也・悲也・不怜也と書き(一一〇二・一四四二・三二二六)モミヂハヤツゲを續也(一五三六)コヒコソマサレを増益也(二二六九)キミヲコソマテを待也と書けり(二三四九。數字は國歌大觀本の番号なり)。次にヰネテムは率寢テムなり。率寢は閑處に率行きて寢る事なり。オトヒメノコヲのヲはヰにかかれるなり(萬葉集新考三〇〇二頁參照)。次にサヒトユモは少し確ならねどサは添辭、ユはヨの訛《ナマリ》にてヒト夜ダニといふ事にや。仁徳天皇紀二十二年の皇后の御歌なる瑳由廼虚烏《サユドコヲ》も小夜床ヲといふ事なり。但その由を或は用の誤とし或は由の古音ヨなりと云へり。次にシダは時といふ事なり(萬葉集新考三〇七一頁參照)。次にイヘニクダサムは家ニ下サムにて山ヨリ下シテ家ニ還サムとなり。されば一首の意は折角上ツテ來タ事ダカラ一夜ナリトモ留メタラ家ニカヘサウと云へるなり○但有人屍云々は蛇の食殘したる屍ありし趣なり。骨は屍の借字と心得べし。されたる骨にはあらじ。顯宗天皇紀元年にも御骨をミカ(94)バネと傍訓せり。
○畢竟古、屍をも骨をもカバネといひしかば此處は屍と書くべきを骨と書けるなり。彼朝臣・宿禰などのカバネをも骨と書ける事あり。こは我國のカバネを新羅の骨(種族)に擬したるにて此處にカバネを骨と書ける類とは別なり。いとまぎらはしかれど相混ずべからず
蛇が狼などの如く人を食ふか否かは穿鑿するに及ばず。ただ毀損せられたる人屍ありて面貌は分かねど從女の言と相照して家人等は弟日姫子の屍と定めきと云へるなり。種麿等が某處にあるが弟日姫子の墓ぞと云へるは武松打虎天台狗、直與2關張1一樣傳とかいふ清人の詩さへ思はれていとをかし○弟日女子之骨の女子は猪熊本にもかくあれど娘子の誤ならむ。ここのみ語を更ふべきにあらねばなり。治は收の借字と認むべし。當時の漢文には徃々同訓異義の字を用ひたり。たとへば播磨風土記にも階《ハシ》を橋と書き挿《サシ》を指と書けり○太宰府管内志に
さて此領巾振峯は鏡山とも松浦山とも云て古に松浦烽冢のありし處なり(○烽家は褶振烽《七レフリノトブヒ》といひし事上にいへる如し)。松浦郡濱崎町の南にあり。高さ六七町許なれども(95)海邊といひ他山につづかざれば聳て見ゆ。頂は廣平なり。其廣さ東西四百間餘、南北二百間許もあるべし。其中に池あり。池の長さ百四五十間許、横四十間許、ある處は十間二十間もあるべし。是風土記に云る沼〔右△〕と聞ゆ。今は池の東北に堤を築て山下の田にまかする水を貯ふる池とす云々
といひながら右の沼の註に
吉松氏曰。此池は風土記の沼には非ず。享保の頃土井侯の命にて掘たる池なり。風土記の沼は少し傍の卑き所の雨天には水の溜る所なり
といへり。國人岡吉胤の「まつらの家づと」には「いただきに池あり。これを鏡の池といふ」といへり。此山高さ二百八十四米、又の名を七面山といふ。元來熄火山にて池は噴火口の跡ならむ。領主の掘らせたるものと云へるはうたがはし。山の頂上は約五萬坪の平坦なる芝生なりといふ○篠原の弟日姫子即松浦佐用姫が夫の船を望みて立盡して所謂望夫石となりきといふ事は本風土記並に萬葉集に見えざる事にて中世の好事者が劉義慶(南朝宋の宗室、世説の著者)の幽明録に
武昌北山上有2望夫石1。状若2人立1。古傳云。昔有2貞婦1。其夫從役遠赴2國難1。携2弱子1餞2送此山1立(96)望v夫而化爲v石。因以爲v名焉
とあるを見聞して本風土記に見えたる三輪傳説と取換へて本話を美化したるなり。然るに本郡(東松浦郡)呼子港に對せる加部《カベ》島なる田島神社(今國幣中社)の境内に伏したる女人の形したる石あるを見出でてそれを望夫石と稱し更にそを神體として佐用姫神社を建てて田島神社の末社とせしより之に欺かれて佐用姫が夫の船を看送りしは此加部島なる田島山(音讀して文字は天童とも傳登とも書く)なりといひ始めしものあり。岡吉胤の如きは
されば今いふ領巾振山は風土記に見えたる鏡山にて此島なる一つの山こそまことのヒレフル山なりしか
といひ又ヒレフリ山に登りし處に
今これをヒレフル山といへどこは風土記に見えたるカガミ山なるべし
といへれど鏡山といふ名は風土記に見えざる上に、もしヒレフリ山を加部島の内とせば風土記に褶振山在郡東といひ乙本に松浦縣々東三十里有2※[巾+皮]搖岑1といへるに適せむや。此人の言などを評せむはおとなしからじと云ふ人もあれど此人は肥前國人(三根郡(97)坊所《バウシヨ》村の人なればなほ惑はさるる人もあらむかとてぞ。管内志に
今は池の東北方に堤を築て山下の田にまかする水を貯ふる池とす。堤下に石祠あり。權現社といふ(人形に似たる石此邊にあり)
といへるを見れば鏡山の方にても加部島に對抗して所謂望夫石を求出できと見ゆれど實は不要の爭なり
賀周《カス》里(在2郡西北1) 昔者此里有2土蜘蛛1名曰2海松橿《ミルカシ》媛1。纏向日代宮御宇天皇巡國之時遣2陪從大屋田子1(日下部君等祖也)誅滅時霞四|含〔左△〕《合》不v見2物色1。因曰2霞里1。今謂2賀周里1訛v之也
新考 里といへるは郷の下の里を云へるか。又は取外して郷を里といへるか。恐らくは後者ならむ。賀周は和名抄の郷名に見えねど延喜式に賀周驛見えたり。纏向日代宮御宇天皇は景行天皇の御事なり○陪從はミトモ人なり。下文|値賀《チカ》島・能美《ノミ》郷・彼杵《ソノキ》郡の下にも見えたり。播磨風土記などにも〇四含は四合の誤ならむ。文選の西都賦に紅塵四合煙雲相連とあり。また北史卷五十二安徳王延宗傳に周軍圍2晉陽1。望v之如2黒雲四合1とあり○物(98)色には數義あり。ここは光景と云はむが如き義にて俗語のモノノアイロなり。そのァイロはアヤイロの約なり。例は萬葉集卷八なるサヲシカノ胸別ニカモ云々の左註に右天平十五年癸未秋八月見2物色1作といひ卷十七なる山カヒニサケルサクラヲ云々の序に空過2令節1物色輕v人といひ卷二十なるサク花ハウツロフ時アリ云々の左註に悲2怜物色變化1作v之也といへり。杜甫の詩(秋日〓府詠懷一百韻)にも登臨多2物色1、陶冶頼2詩篇1また物色歳時|晏《オソシ》、天隅人未v歸(雨四首)と作れり○平安朝時代以來はカスミを春季の晴天にのみ立つものと定めたれど漢籍に用ひたる霞の字、奈良朝以前の書に見えたるカスミといふ語にはさる限定義は無くて今いふキリ・モヤをもカスミといひ霞と書けり。ここなども然り(萬葉集新考一三四・五七〇・一三二七・一七三一・一九八四・二九七一・三〇〇一頁參照)
○因にいふ。瀟湘八景の山市晴嵐、近江八景の粟津晴嵐の晴嵐は今いふカスミなり。鄭谷の詩にも晴嵐染2近畿1と作れり。邦人は嵐をアラシとのみ心得たれど嵐氣・嵐光・烟嵐・青嵐・翠嵐・朝嵐・夕嵐・溪嵐などいへる嵐は元來水蒸氣なり。蘇東坡の過嶺詩に霧繞2征衣1滴2翠嵐〔二字傍点〕1と作り楊誠齋の詩にも長樂昏嵐〔二字傍点〕著v地凝、程郷毒霧|※[口+巽]《フキテ》v人腥また山有2濃嵐〔二字傍点〕1水有v氛、非v煙非v霧亦非v雲、北人不v識南中瘴、只到2龍川1指|似《シメサム》v君と作れり。かの霞も晴霞・紅霞・朱霞な(99)どいへるは無論今のカスミなり
○賀周里は地名辭書に「賀周今詳ならず」といひ栗田氏は
梅松橿媛、今見貸村アリ。此媛ハ其居地ヲ名ニ負ヒシナラン。松浦廟縁起ニ見留加志之莊是也トアリ
といへり。げにミルカシの名は今も殘りて唐津市の内舊唐津村の大字に見借《ミルカシ》あり。但少くとも驛址は見借より東北方ならむ。所詮賀周里は今の唐津市の内なり
逢鹿《アヒカ》驛(在2郡西北1) 曩者《ムカシ》氣長足姫尊欲v征2伐新羅1行幸時於2此道路1有v鹿|遇之《アヒキ》。因名2遇鹿驛1。々東(ノ)海有2蚫《アハビ》・螺《ツビ》・鯛・海藻《メ》・梅松《ミル》等》1
新考 管内志に柳園隨筆に
松浦郡逢鹿驛と云は今唐津城より西北二里ばかりに大賀浦とてある是なり。鞆浦と同じつづきの海邊なり。今もアフカといへり
と云へるを引き又「元禄圖に松浦郡相賀村あり」といへり。今の湊村の大字相賀是なり。其東方の岬を相賀崎といふ。さて今はオオカと唱ふれど、いにしへはアヒカと唱へしにあ(100)らざるか。相賀は見借の北方凡二里にあり○驛東海は恰唐津※[さんずい+彎]の西北瑞なり○鰒を蚫と書ける、めづらし。我國にては蚫をも鮑をもアハビに充つれど漢字の鮑にはアハビの義無し。蚫は鮑の扁を更へたる邦製宇と思はる○螺を久老がサザヒと訓じたるは和名抄に佐左江とあるに從ひてサザエに改むべし。但ここに螺とあるは和名抄の榮螺子なりや否や明ならず。海産螺類の總名はツビといひし如し。さればここの螺はしばらくツビとよみてむ○驛名の由來は播磨風土記|宍禾《シサハ》郡の下に
所3以名2宍禾1者伊和大神……巡行之時大鹿出2己舌1遇2於矢田村1。爾《カレ》勅云。矢彼舌在|者《トイヒキ》。故号2宍禾1
とあるに似たり。これもシサハを鹿遇《シシアヒ》の義とせるなり
登望《トモ》驛(在2郡西1) 昔者氣長足姫尊到2於此處1留爲2雄装1。御|臂〔左△〕《負》之鞆落2於此村1。因号2鞆驛1。驛東西之海有2蚫・螺・鯛・雜魚《クサグサノイヲ》・海藻・梅松等1
新考 管内志に
柳園隨筆に松浦郡登望驛と云は呼子の東の海口に大伴浦・小伴浦とてある此處なる(101)べしと見えたり
といへり。今呼子村の大字に大友・小友あり。其岬を供野崎といふ。さて此處を登望驛の地とせむに不審なる事二あり。一は逢鹿と相去る事凡一里半にて厩牧令に凡諸道|須《ベク》v置v驛者毎2卅里1(○今の四里餘)置2一驛1とあるに合はざる事なり。但相鹿と見借(賀周驛址は不明)との距離も二里に過ぎざる事上に云へる如し。一は在都西とある事なり。郡家の址は不明なれど賀周里・逢鹿驛だに在郡西北とあれば其逢鹿より更に西北に當れる登望驛は無論在郡西北とあらざるべからず。恐らくは西の下に北の宇ありしが落ちたるならむ。因にいふ。鏡渡在郡北、褶振峯在郡東(別本に松浦縣々東三十里有※[巾+皮]搖岑)、賀周里在郡西北、逢鹿驛在郡西北などあれば郡家は鏡渡より南、褶振峯より四里ばかりの西、賀周里・逢鹿驛より東南に在りしなれば今の相知《アウチ》村の北部を以て其址に擬すべきか。さらば褶振峯は在郡東北とあるべきなり。なほ考ふべし。その郡家の在りし處と大伴狹手彦の駐りし處との異同は如何。これはた考へざるべからず○神功皇后紀に
皇后、橿日浦ニ還詣リテ髪ヲ解キテ海ニ臨ミテ曰ク。……今頭ヲ海水ニ沐《スス》ガム。若驗アラバ髪自分レテ兩トナレト。即海ニ入リテ洗《スス》ギタマヒシニ髪自分レキ。皇后スナハ(102)チ分レタル髪ヲ結ビテ髻《ミヅラ》トシタマヒ(○即男装なり。婦人は髪を後に垂れしなり)因リテ群臣ニ謂ヒテ曰ク。……吾婦女ニシテ加以《マタ》不肖ナリ。然レバシバラク男貌ヲ假リテ強《アナガチ》ニ雄略ヲ起サム云々
また一云に則皇后爲2男|束装《ヨソヒ》1征2新羅1また應神天皇紀に
既《ハヤ》ク産《ア》レマシシトキ宍《シシ》、腕上ニ生ヒタリ。其形鞆ノ如シ。是皇太后ガ雄装シテ鞆ヲ負《ハ》キタマヒシニ肖《ア》エタリ。故其名ヲ稱シテ譽田《ホムタ》天皇ト謂フ(上古ノ時ノ俗ニ鞆ヲ号シテ褒武多ト謂フ云々)
といへるは本風土記に爲雄装とあると合へり○神功皇后紀に冬十月從2和珥津《ワニツ》1(○對馬國上縣郡の北端)發之とのみありて本土のいづくより發したまひしか知られねど此附近より發したまひて加部島・加唐《カカラ》島(○雄略天皇紀に見えたる各羅《カカラ》島)壹岐・對馬の岸をつたひて韓國に渡りたまひしならむ。夙く古事記傳卷三十(全集本一八五九頁)に
さて萬葉十五にタラシヒメ御船ハテケム松浦ノウミとあるに依れば新羅より還渡坐る時も御船此浦に泊しなるべし。さて此より筑前に到坐て御子は産賜へりしなり。さて是に准へて思ふに初に新羅へ御船發《ミフナダチ》ありしも此浦にぞありけむ。さるは初に御(103)船發ありし地も泊し地も何地といふことは此記にも書紀にも見えざるを萬葉にかく此浦に御船|泊《ハ》つるよしよめるは然語傳へたることありしなるべし。凡ていにしへ韓國へ渡るには多く此浦より船開せしにや。萬葉五に見えたる佐用比賣が故事など思ふべし
といへり。唐津といふ名をも思ふべし。唐は借字にて實は韓ならむ○御臂之鞆の臂は久老の頭註に臂舊本作何と見えねば久老の據れる本には初よりかくありしにや。猪熊本には明に御負之鞆とあり。この負の字斥けがたし。應神天皇紀に是肖d皇太后爲2雄装1之《ヲ》負鞆uとあればなり。恐らくはもと御負之鞆とありてミハカシノトモとよむべかりしを久老ならずともさかしら人ありて臂の字に改めたるならむ。因にいはむ。鞆は國字なり。されば音無し。漢土には此物無し。されば此物に當る字無し○さて應神天皇紀に爲雄装と書き負鞆と書けるも亦日本紀が風土記に基づきし痕跡と認むべし
大家嶋(在2郡西1) 昔者纏向日代宮御宇天皇巡幸之時此村有2土蜘蛛1名曰2大身1。恒|△《拒》2皇命1不v肯2降|伏〔左△〕《服》1。天皇勅命誅滅。自v爾以來|白水郎《アマ》等就2於此島1造v宅(104)居之《ヲリ》。因曰2大家嶋1。嶋南有v窟有2鍾乳1。及《マタ》木蘭(アリ)廻縁之海(ニハ)蚫・螺・鯛・雜魚及海藻・海松|多之《オホシ》
斬考 大家は何とよむべきか。久老はオホヤとよみ管内志には
大家はオホヤとよむべきか(又オホイヘともよむべし。和名抄に石見國邇摩郡大家(ハ)於保伊倍などもあり)
といへり。和名抄に見えたる豐前國|下毛《シモツミケ》郡なる大家郷は豐前志に據れば後の大江村なりといへばげにオホイヘともよむべし(オホエはオホイヘの訛とすべければなり)。又播磨風土記揖保郡の處に
大家里(舊名大宮里) 品太天皇巡行之時營2宮此村1。故曰2大宮1。後至2由中大夫爲v宰之時1改2大宅里1
とありて大家を大宅とも書き又和名抄郷名に大宅(於保也介)とあればここの大家もオホヤケともよむべし。さてオホヤにもあれ、オホイヘにもあれ、オホヤケにもあれ、大と書けるは多の借字にて(古は大も多も汎も共にオホシといひき)家數の多きより起りし名(105)にて近古の俗に某千軒といふが如し。次にその大家島は今の何島にか。管内志には「大家今詳ならず」といへり。栗田氏の標註に
平戸(ノ)近傍ニ大家ト云島アリ。大島トイフソレナリ
と云へれど平戸島の北に度《タク》島を隔てて大島一名|小豆《アヅキノ》大島又|的山《アヅチノ》大島といふはあれど大家島といふは無し。栗田氏の説は傳聞の誤ならむ。さて本書に大家島在郡西とあれば平戸島又は大島に充つべきなるが平戸島は日本後紀延暦二十四年七月の下に見えたる庇羅島、和名抄に見えたる庇羅郷なれば大家島は仍大島に擬すべし。元來大島は平戸島の一屬島にて其大さは附近の福島・鷹島・生月《イキツキ》島などと伯仲なるを之を大島と稱するが不審なり。或は大家島の家を略して大島と呼ぶこととなりしにあらざるか○久老は恒を拒に改めて舊本作v恒。以2癖按1改v之といへり。こは下文能美郷の下に拒2皇命1不v肯2降服1とあるに依れるなれど又下文|孃子《ヲミナ》山の下に常捍2皇命1不v肯2降服1とあれば恒はもとのままにて其下に拒・捍などを補ふべし。不肯降伏を久老はマツロヒアヘズとよみたれどアヘズはエズといふに齊しければ然はよまで降伏ヲ(又はマツロフコトヲ)ウベナハズとよむべし。降伏は猪熊本に降服に作れり。下文の孃子山の下にも能美郷の下にも降服と(106)あれば伏を服に改むべし○因曰大家嶋嶋南有窟の嶋嶋を猪熊本に郷々に作れり。輕々しく可否すべからず○錘乳は猪熊本に鐘乳とあり。鍾鐘は國漢共に通用し
〇干禄字書に鍾鐘(上酒器、下鐘磬字。今竝用2上字1)とあり
此物の如きも古典に或は鍾乳と書き或は鐘乳と書けり。今は多くは鐘乳と書けど李時珍の石之津氣鍾聚成v乳滴溜成v石。故名2石鍾乳1と云へるに據らば鍾(アツマル)を正字とすべし。和名をイシノチといふ。橘南谿の西遊記にカネチと訓じたるはいとわろし○木蘭は典藥式太宰府|進《タテマツル》年料雜藥に木蘭皮百五十斤とあり。モクラニと音讀して可なり。今のモクレンか。萬葉集に見えたるハネズは恐らくはモクレンならむ(新考七四七頁參照)。モクレンは我國にても暖地には自生するものなり。木蘭を木蓮といふも新しからず。白樂天の詩集に木蘭とも木蓮とも云へり○嶋南有窟有鍾乳及木蘭を久老は鍾乳ト木蘭アリとよみたれど木蘭は窟中に有りしにはあらじ。宜しく及木蘭を一句としてマタ木蘭アリとよむべし○廻縁はメグリには違はねどモトホリとよむべし。多之の之は助字なり○此次に庇羅島即今の平戸島の記事ありしをあたらしくも略したるならむ
値嘉《チカ》嶋(在2郡西南之海中1。有2烽家三所1) 昔者同天皇巡幸之時在2志式《シシキ》島之(107)行宮1御覧《ミソナハスニ》西海海中有v嶋煙氣多|覆《オホヘリ》。勅遣2陪從|阿曇連百足《アヅミノムラジモモタリ》1令v察之《アキラメシム》。島有2八十餘1。就中《ソノナカノ》二嶋嶋|別《ゴトニ》有v人。第一嶋名2小近1。土蜘蛛大耳|居之《ヲリ》。第二嶋名2大近1。土蜘蛛|垂耳《タリミミ》居|△《之》。自餘《ソノホカ》之嶋|並《ミナ》人不v在。於v茲百足獲2大耳等1奏聞。天皇勅|且《トセシ》v令2誅殺1時大耳等叩頭陳聞曰。大耳等之罪實當2極刑1。雖v被2戮1不v足v塞《ミタスニ》v罪。若降2恩情1得2再生1者奉v造2御贄1恒貢2御膳《ミケ》1。即取2木皮1作2長蚫・鞭蚫・短蚫・陰蚫・羽割蚫等之|様《タメシ》1獻2於|御所《ミモト》1。於v茲天皇垂v恩赦放。更勅云。此嶋雖v遠|猶見如v近《チカキゴトミユ》。可v謂2近嶋1。因曰2値嘉嶋1
新考 値嘉島は今いふ五島列島なり。今其北端なる宇久《ウク》島・小値嘉《ヲチカ》島・野崎島等を北松浦郡に屬し其東偏なる平島。江《エノ》島等を西彼杵郡に屬し中通《ナカドホリ》島以下を立てて南松浦郡とせり。五島と稱するは福江・久賀《ヒサガ》・奈留《ナル》・若松・中通・宇久の六島最大なるが或は久賀を除き或は若松を省きて五島といふなりとぞ○古事記神代卷に次生2知※[言+可]島1。亦名謂2天之|忍男《オシヲ》1とあるには平戸島をもこめたるか。平戸島は本土に密接して一島群を成し五島列島とは清(108)く相離れたれど三代實録貞觀十八年三月の下に
參議太宰權帥從三位在原朝臣行平起2請二事1。其一事……其二事、請令d肥前國松浦郡庇羅・値喜兩郷更建2二郡1号2上近下近1置c値嘉嶋u(○立てて一島として壹岐・對馬の列とせむと云へるなり)。……望請合2件二郷1更建2二郡1号2上近下近1便《スナハチ》爲2値嘉嶋1新置島司郡領1。……奏|可《ユルサル》
とあれば平戸島と五島列島とを一屬と見る見方もあるべし。値嘉は天武天皇紀四年四月に一子流2血鹿島1、同紀六年五月に漂2著於血鹿島1とありて血鹿とも書けり。
○敏達天皇紀十二年に(百済)參官等遂發2途於血鹿1とあるは角鹿などの誤にあらざるか
和名抄郷名には値嘉(知加)とあり○標題の値嘉嶋は猪熊本には値嘉郷とあり○有烽家三所とあるを久老が家疑冢誤乎と云へるは非ならむ(九〇頁參照)○在はマシマシテなどよむべし(久老の訓のオマシマシテは古語にあらず)○志式は神名帳肥前國四座(松浦郡二座)の中に志々岐神社とある志々岐に同じ。平戸島の南端にて今志々伎村と稱す。ここに志式島といへるは不審なり。志々伎の南部半島を成せる故か。御覧西海、海中有嶋云(109)々といへるを見れば此時御目にかかりしは五島列島の北端なる(即今北松浦郡に屬せる)宇久群島か○陪從ははやく上(九七頁)にも見えたり。阿曇連《アヅミノムラジ》百足は播磨風土記揖保郡|石海《イハミ》里又浦上里の下に見えて彼書にては孝徳天皇の御世の人とせり(同書新考二六四頁及二七五頁參照)○令察之はアキラメシメタマヒキとよむべし(久老はミセタマフとよめり)。播磨風土記餝磨郡|少川《ヲガハ》里の下にも即遣2舍人上野國麻奈※[田+比]古1令v察之とあり。なほありけむかし○就中を久老がソノナカノとよめるは宜し。第一第二は音讀すべし。名小近名大近は小近トナヅク、大近トナヅクとよむべし。名は天皇の勅に基づきて後に命ぜしなればなり(久老は名ハ小近、名ハ大近とよめり)。居之は之の字を助字としてヲリキ又はヲリとよむべし。又下の居の下に之の字を補ふべし。自餘はソノホカとよむべし(久老はソノアマリとよめり)○大耳・垂耳は皇軍より附けたる名ならむ。土蜘蛛本來の名にはあらじ○小近大近は列島中のいづれなるべきか。今宇久島の西南なるを小値嘉島といへど、いにしへ小近といひしは宇久・小値嘉・野崎などの島團にてその主島即ここに云へる第一島に當るは宇久島ならむ。又大近といひしは中通島以下にてその主島即ここにいへる第二島は中通島ならむ。又續日本紀天平十二年十一月の下なる大將軍東人等の(110)上言中に
廣嗣之船從2知駕嶋1發、得2東風1往四箇日、行見v嶋。船上人云。是|耽羅《タムラ》嶋也(○朝鮮の済州島)。……而西風卒起、更吹2還船1……遂著2等保知駕嶋(ノ)色都嶋1矣
とあるトホチカ島は奥五島と云はむに齊しくて一島を指せるにはあらじ
○初には福江島の事ぞと思ひしに(地名辭書にも福江島としたり)地理志料に入唐五家傳、惠運自2博多津1上船到2遠値駕島那留浦〔七字傍点〕1とあるを思へば恐らくは本文に云へる如くならむ。那留浦は那留島の内なるべければなり。色都島は知られず。村岡氏が右の文の遠値嘉島をヲチカと訓まれたるは從はれず
○且令誅殺時の且は將の如く心得て誅殺セシメタマハムトセシ時ニとよむべし。神代紀なる其且v終之間・其且2神退1之《カムサラムトスル》時を始として古典に無數の例あり○叩頭は陳聞と共に音讀して可なれど、もし訓讀せむとならば久老の如くノミテとよむべし。下文|能美《ノミ》郷の下に但|叩頭《ノミテ》陳2己罪過1……因曰2能美郷1とあればなり。雖被戮殺不足塞罪は語格を正して戮殺セラルトモ罪ヲ塞《ミタ》スニ足ラジとよむべし。塞を久老はアガナフとよめり。字のままにフタグとよむか又は意を酌みてミタスとよむべし○長蚫以下の蚫を久老はノシ(111)とよみたれどノシはノシアハビの略即所謂かた言なれば仍《ナホ》アハビとよむべし。但伸をノスといふは俗語に似たれど新撰宇鏡に熨衣(己呂毛乃須)とあれば夙く行はれけむ○樣をサマとよめるも心ゆかず。俗語のミホンの意なればタメシとよむべし。例は氷樣《ヒノタメシ》など○垂恩赦放に垂2恩赦1放と點じたるはわろし。垂v恩赦放と點じて恩ヲ垂レ赦シ放チタマヒキとよむべし。猶見如近は久老の訓に基づきてチカキゴトミユとよむべし○延喜主計式肥前國の調《ミツギ》に短鰒・長鰒・羽割鰒見え蔭鰒・鞭鰒も筑前國の調には見えたり。又同内膳式太宰府の年料に短鰒・陰鰒・羽割鰒見えたり。栗田氏は
鞭蚫ハ鞭ノ状ニ製シタルナルベシ。短蚫ハ長蛇ニ對ヘタル名ナリ。陰蚫ハ陰干シノ蚫ナリ。羽割蚫ハ鳥ノ羽ノ如ク小ク割テ重ネタル物ナラン
といへり。余はいまだ考へず。ノシ即ノシアハビはいにしへ食料に供せしなり
△《嶋》則有2檳榔・木蘭・梔子・木蓮子《イタビ》・黒葛《ツヅラ》・篁・篠・木綿《ユフ》・荷《ハス》・※[草冠/見]《ヒユ》1。海則有2蚫・螺・鯛・鯖・雜魚・海藻・海松・雜海菜《クサグサノモ》1。彼《ソノ》△《嶋》白水郎|當〔左△〕《富》2於馬牛1。或有2一百餘1近嶋※[二字□で囲む]或有2八十餘1。△《大》近嶋西有2泊v船之停二處1(一處名曰2相子|之〔左△〕《田》停1。應v泊2二十餘船1。一處名曰2川原浦1。應v(111)泊2一十餘船1)。遣唐之使從2此停1發到2美禰良久之|済〔左△〕《サキ》1(即川原浦之西|済〔左△〕《埼》是也)從v此發船指v西|度之《ワタル》。此嶋(ノ)白水郎容貌似2隼人《ハヤビト》1、恒好2騎射1、其言語異2俗人《ヨノヒト》1也
新考 前文と、一節なり。今は便宜に從ひて割きたるのみ○則有は下なる海則有と對し又その則は辭のニハに當れば別の上に落宇ありと認めざるべからず。恐らくは因曰2値嘉嶋1々則有云々とありし々を落したるならむ。されば復原して嶋則有云々とすべし○ここに云へる檳榔はビラウといひてシユロに似たる木なり。漢名蒲葵、學名リビストーナ、シネンジスにてビンラウジ(檳榔子)とは別なり。ビンラウジは舊日本に産せず。ビラウは九州にては處々に自生し其北限は思の外の處まで達せるが五島にては中通島に屬せる相島・福江島に屬せる男女群島などに繁茂せりといふ。典藥式諸國進年料雜藥に太宰府檳榔子廿斤とあり○梔子を猪熊本に枝子と書けるは誤にあらず。和名抄に梔、今案醫家書等用2支子二字1とあり、天武天皇紀十年・續紀天平十四年正月(支子梔)新撰字鏡・延喜式などに支子と書き本草和名には枝子和名久知奈之とあり。藥用並に染料に供せし爲に古は珍重せしなり。播磨風土記にも宍禾《シサハ》郡柏野里以下に生v梔といふ事あまた見えた(112)り。無論自生の物を云へるなり○木蓮子は邦名イタビ、無花果に似たる蔓性灌木なり。故に又イタビカヅラ又ツルイチジクといふ。其實は甜くして食すべし。故に木マンヂュウの名あり。延喜大膳式諸國貢進菓子、太宰府の下に但木蓮子者筑前國部内諸山及壹岐等嶋所v出之中擇2好味者1年中貢とあり○黒葛はツヅラなり。又アヲカヅラといふ(播磨風土記新考二八〇頁參照)○篁はここにては一種の竹なり。タカムラに非ざる事勿論なり。南朝宋の戴凱之の作なる竹譜に篁作2※[竹冠/高]笛1、體特堅固とありて註に篁竹(ハ)堅而促節、體圓而質堅、皮白如2霜粉1。大者宜v行v船細者爲v笛とあり。即節つまり質堅く※[竹冠/高]《サヲ》又は笛とすべき竹なり。ここに篁といへるはやがて是にや
○右の文を引きて宜行船を宜作船に誤れる書あり。宜行船は宜爲※[竹冠/高]と云はむに齊しきをや。余なども書を読むこと精しからず。人の過は以て我戒とすべし
○木綿《ユフ》はカヂノ木一名紙ノ木にてカウゾの類なり。※[草冠/見]《ヒユ》は食用に供すべし○鯖は青魚の會意字なり。但邦製字にあらず○彼白水郎當於馬牛といふ事解すべからず。まづ彼はソノとよむべきが、ソノと指せるは何にか。海則有云々といへるを受けてソノといへるかとも思へど、さては辭足らざるのみならず嶋則有云々海則有云々と相對へて云ひなが(114)ら其後者のみを受けてソノとは云ふべからず。恐らくは彼嶋白水郎とありし嶋を落せるならむ。次に當於馬牛とあるは如何。土蜘蛛が此島の主なるが此島には馬牛無ければ白水郎を馬牛に代用すといふ意かとも思へど土蜘蛛民族と海人民族と同時に住みて後者が前者に役せられしなりとは思はれざる上に次下に白水郎恒好2騎射1とあると矛盾せり。按ずるに因曰値嘉島といふまでは景行天皇の御世の事、嶋則有云々以下は風土記撰進當時の事なり。即土蜘蛛民族の住みしは昔の事にて今は其島に海人民族の住めるなり。されば當は誤字とせざるべからず。乃猪熊本を検するに彼白水郎富於馬牛とあり。又栗田氏の本には富に改めて標註に富於馬牛ノ富舊印本當ニ作ル。今一本ニヨリテ訂スといへり。之に從ふべし○或有一百餘近嶋或有八十餘近場といへる、亦解すべからず。此列島ハ或ハ一百餘島ヨリ成レリト云ヒ或ハ八十餘島ヨリ成レリト云フといふ事かとも思へど、さては上に島有八十餘といへると重複せるのみならず近島は列島の總稱にて箇々の名にあらねば一百餘近嶋、八十餘近嶋などいふべくもあらず。又次句に西有泊船之停二處とある上に一語無くては何の西にか知られず。之によりて思ふに一百餘の下の近嶋は衍字とすべく、八十餘の下の近嶋は次の句に屬すべく、原文は或有一百(115)餘或有八十餘とありしにてソノ島ノ海人ハ馬牛ニ富ミテ或ハ一百餘ヲ有シ或ハ八十餘ヲ有セリといへるなり。さてかく馬牛に富みたればこそ其海人は恒に騎射を好みしなれ。但今は農業に主として牛を用ひ馬は極めて.乏しくて島人中には終生馬を見ざる者ありといふ。牛は強健怜悧にして他處にても特に五島牛と稱して珍重せらる〇一百餘の下の近島の衍字なる事右に云へる如くなるが其闌入は古き事と見えて猪熊本にも此二字あり。釋日本紀卷十五血鹿嶋の下に
案風土記云。更勅云。此嶋雖v遠猶見如v近。可v謂2近嶋1。因曰2値嘉嶋1。或有2百餘近嶋1或有2八十餘近嶋1
とあるは島則有より富於馬牛までの四十四字を略したるが仍闌入本に據り又句を誤れり○近嶋の上に恐らくは大を落したるならむ。停は泊の借字なり○相子之停の之を猪熊本には田に作れり。それに從ふべし。その相子田は續紀寶龜七年閏八月の下に
先v是遣唐使船到2肥前國松浦郡|合蠶田《アヒコタ》浦1積2月餘日1不v得2信風1云々
とあると同處とすべく又相照してアヒコタとよむべけれど其地今確に知られず。福江島と久賀《ヒサガ》島との海峽を田浦《タノウラ》瀬戸といひ久賀島の南岸に田浦港あり。或は今アヒコ田の(116)アヒコを略して田とのみ云へるかとも思へど田浦といふ名はいと古し。即日本後記延暦二十四年六月の遣唐大使藤原|葛野《カドノ》麻呂の上奏中に發v從2肥前國松浦郡田浦1四船入v海とあり○川原浦は下に美禰良久之埼の註に即川原浦之西埼是也とあれば地名辭書にいへる如く今の福江島|岐宿《キシク》村の※[さんずい+彎]ならむ○美禰良久之済は萬葉集にも續日本後紀にも埼とあるのみならず間近き對岸あるにあらねば済といはむ事心得がたし。されば埼の誤ならむと思ひしに果して然り。即猪熊本を※[手偏+嶮の旁]するに土扁に齊の草體に似たる宇を書きたれどなほ埼の宇の面影を殘せり(萬葉集雜攷挿入寫眞參照)。續日本後紀承和四年七月の下に
太宰府馳v驛言。遣唐三箇舶共指2松浦郡|旻樂埼〔三字傍点〕1發行。第一第四舶忽遇2逆風1流2著壹岐嶋1、第二舶左右方便漂2著値嘉嶋1
とあり又萬葉集卷十六筑前國志賀白水郎歌十首の左註に自2肥前國松浦縣美禰良久〔四字傍点〕埼1發舶とあり。續後紀の旻樂もミネラクとよむべきなり。なほ後に云ふべし。このミネラクノ埼を平安朝時代末期の京人はミミラクと聞誤り又島と誤傳へ、甚しきは海外と誤傳へきと見えて蜻蛉日記には文にも歌にもミミラクノ島といひ俊頼の歌にはミミラク(117)ノワガ日ノモトノ島ナラバとよめり。その日本の内なる事は顯昭の袖中抄にはやく辨じたれどミミラクが、ミネラクの聞誤なる事には心附かで郤りて萬葉集に美禰良久とある禰を彌の誤とし、宣長すらその地名字音轉用例なるンの韻をミに用ひたる例の中に續後紀の旻樂を擧げて
萬葉十六に美禰良久とある是なり。旻呉音ミンをミミに用ひたり
といへり。又久老は先入に泥みて本風土記の美禰良久の禰を彌に改めて頭註に舊本彌爲v禰非也といへり。夙く關|政方《マサミチ》の傭宇例に斯じたる如く旻の音はミヌなればそのヌを轉じて、ミネの借字とはすべく、ミムにあらねばミミとは訓むべからず。萬葉集にも本風土記にも美禰良久とあり續日本後紀に旻樂と書けるにて此地名のミネラクなる事は疑ふべからず。さてそのミネラクは今福江島の西北端に三井樂村といふがある、それにて其處の岬こそ美禰良久之埼なれ。なほ云はむに新古無數の書にミネラク(又はミミラク)ノ済といへるは皆本風土記の久老本に誤られたるなり。上にいへる如く済は埼の誤なり。今後ミネラクノ済と書く人あらば學問の進歩に後れたりと笑はれむぞ。又因に云はむ。萬葉集卷五なる山上憶艮の好去好來歌(新考九七四頁)に阿庭可遠志チカノ岬《サキ》ヨリ(118)大伴ノ御津ノハマビニタダハテニミフネハ泊《ハ》テムといへるチカノサキはやがて、ミネラクノ埼にや。又は漠然として値嘉島の一岬を指せるにや。當時支那に渡るには專南路を取りしかばいづくにて乘船しても多くはミネラクノ埼にて國土を離れしかど、もとより航海術の幼稚なりし時代なれば歸路にはたとひミネラクノ埼を志しても半は風浪の意に任せざるを得ざりしに似たり○隼人《ハヤビト》は薩摩大隅に住せし渡來の異民族なり。クマソの子孫にあらずとも之に近き民族ならむ。俗人は世人なり
杵島《キシマ》郡 郷肆所(里一十三)驛壹所
昔者纏向日代宮御宇天皇巡幸之時御船|泊《ハツ》2此郡|磐田杵《イハタキ》之村1。于《ソノ》時從2船※[爿+弋]※[哥+弋]《カシ》之穴1洽〔左△〕《※[さんずい+令]》水自出(一云船泊之處)自成2一島1。天皇|御覧《キソナハシテ》詔2群臣等1曰。此郡可v謂2※[爿+弋]※[哥+弋]島《カシシマ》郡1。今謂2杵島郡1訛v之也。郡西有2湯泉1出之《イヅ》。巌岸峻極、人跡罕v及也
新考 和名抄に岐志萬と訓註せり。地名辭書にキノシマと訓じて「近世文字に由り(?)キノシマと訛る」といひ市町村大字讀方名彙にもキノシマとよめり。然るに土人は今もキ(119)シマと唱へてキノシマと云はず。他地方たとへば束京などにて米に限りてキノシマ米といふとぞ。思ふに少くとも地名辭書は日本地誌提要・郡區町村一覧・郡名異同一覧などの官撰地誌に據れるならむ。さて杵島をキノシマとよめるは地誌提要が始なるに似たり○和名抄郷名に多駄・杵島・能伊・島見を擧げて、ここに云へると郷數一致せり。驛一所とあるは延喜式に見えたる杵島驛なり。郡家は杵島山の北麓、今の橘村に在りしなり。乙本に杵島山を縣南二里有2一孤山1と云へればなり○本郡は東北は小城郡に、西北は西松浦郡に、西南は東彼杵郡に、南は藤津郡に接し東南は筑紫海に臨めり。武雄川一名六角川、西より發し東に流れて郡を貫き其下流は小城郡の多久川と合して二部の界を成せり○磐田杵之村は今知られねど武雄川の沿岸にありきと思はる○※[爿+弋]※[哥+弋]は和名抄に※[牛+弋]※[牛+可]〔二字傍点〕所2以繋1v舟也とありて加之と訓註せり。字は玉篇に※[爿+戈]※[爿+可]〔二字傍点〕、漢書に※[爿+羊]柯〔二字傍点〕、史記及後漢書に※[爿+羊]※[爿+可]〔二字傍点〕と書けり。漢書の※[爿+羊]柯が正しきなりといふ(箋註倭名抄に據る)。古寫本に徃々|爿《シヤウ》扁を牛《ギウ》扁に作れり。音はシャウカなり。カシは出雲風土記|意宇《オウ》郡の下に
此《カク》テ堅メ立テシ加志ハ石見國ト出雲國トノ堺ナル名ハ佐比賣山是ナリ
とあり又萬葉集に
(120) 舟はてて可志ふりたてていほりせむ名子江のはま邊すぎがてぬかも(卷七)
大船に可之ふりたてて濱きよき麻里布のうらにやどりかせまし(卷十五)
あをなみに袖さへぬれてこぐ船の可之ふるほどにさよふけなむか(卷二十)
とあり。下文彼杵郡|周賀《スカ》郷の下にも神功皇后の御船の※[爿+羊]柯の化して大石柱になりし事見えたり。カシは即岸に掘立てて船の綱を繋ぐ大杙なり。船ノカシノ穴はカシを掘立てし穴なり○洽水を久老は水ククリテとよみたれど洽にクグルの義は無し。洽は恐らくは※[さんずい+令]又は冷の誤ならむ。前者ならばキヨシとよむべく後者ならばサムシとよむべし。地名辭書に此文を引けるには冷に作れり。著者の見識にや又は據れる所あるにや〇一云船泊之處といふ註は何處にかかれるにか解すべからず。猪熊本を※[手偏+嶮の旁]するに右の六字を本文とせり(また處を家に誤れり)。按ずるに一云船泊之處は後人の書入れたる註にて一本に自出と自成一島との間に船泊之處の四宇ありといふ意ならむ。然らば底本と此四字ある本といづれか善きといふに底本の方にては主格無くて何が島となりしにか知られねば底本に此四字を補入れて※[さんずい+令]水自出船泊之處〔四字傍点〕自成一島とすべし○郡西有湯泉出之巌岸峻極云々を久老が郡ノ西ニ湯泉ノ出ヅル巌アリ岸|峻極《サガシ》クテと訓じたるはい(121)みじき誤なり。宜しく出之の下の句として湯泉アリテ出ヅ(又は湯泉ノ出ヅルアリ)巌岸峻極とよむべし。出之の之は助字なり。その湯泉は今の武雄町の柄崎《ツカサキ》温泉にて巌岸云々は所謂蓬莱山一名白寵峰なり。峻極はもしくは極峻の顛倒か○栗田氏は此次に仙覺の萬葉集註釋卷三に引ける杵島郡縣南二里有一孤山云々の文を補ひたれど仙覺の引ける肥前風土記は異本にて今本と別なれば今本には混ずべからず。右の文は逸文新考に出して註解せむ
孃子《ヲミナ》山(在2郡東北1) 同天皇行幸之時土蜘蛛|八十女《ヤソメ》又|有〔左△〕《在》2此山頂1常|掃〔左△〕《扞》2皇命1不v肯2降服1。於v茲遣v兵掩滅。因曰2孃子山1
新考 孃子を久老はハハコとよみ管内志にはヲミナとよむかと云ひ栗田氏は八十女ヲハハコ〔三字傍点〕ト云コトイカガアラムと云ヘり。なほ下に云ふべけれどヲミナとよむべし。萬葉集にはヲミナを女・佳人・美人・姫など書きたれど又娘とも娘子とも書けり(卷三に娘子部四《ヲミナベシ》サキ澤ニオフル花ガツミ)。但娘子は又イラツメにも充てたり。娘孃は同音同韻にて通用なり。爺孃など云ひて孃又は娘を母に充つるは俗にして正しからず〇八十女は土(122)蜘蛛の名なり。栗田氏は八十女ハ名ノ如クニモ聞ユレド八十ノ女ニテアマタノ人ヲ云ルニヤアランと云はれたれど、もしさる意ならば少くとも有土蜘蛛八十女とこそいふべけれ。上にも有2土蜘蛛打猴頸※[獣偏+爰]二人1また有2土蜘蛛大山田女狹山田女二女子1とあり下文能美郷の下にも有2土蜘蛛三人1とあるにあらずや○有此山頂の有は正しくは在と書くべし。又といへるは省略したる前節に對して云へるならむ○掃を久老は扞に改めて舊本作v掃以2僻按1改といへり。げに扞の誤ならむ。上文大家島の下にも恒△皇命不v肯2降伏1とあり。扞は久老の如くサカヒテとよむべけれど不肯降伏は降服ヲウベナハズとよむべし○掩は襲なり。されば安んじてオソヒとよむべし。久老が掩滅二字疑ハクハ掃滅ノ誤か。孃子ノ孃モ亦攘ノ誤カといへるはいとわろし。管内志に
村名帳に小城郡多久郷|女山《ヲンナヤマ》村あり。是後世郡界のかはりたる物と聞ゆ。圖に小城郡の西に女山村・倉持村あり。杵島郡に甚近し。肥陽古跡記に「多久の女山は鈴鹿御前の靈也。則山の姿、女の髪ゆりかけたる形に似たり。山上に岩屋あり。遠見すれば齒黒つけたる口びるの如くにしてやさしき山形也。麓にめづらしき岩又迎(?)の尾崎にツツミ石といふあり。是は鈴鹿御前の寶を入れ給ひし袋の石になりたる也と云」云々
(123)とあり。今小城郡との界(くはしく云はば小城郡東多久村と本郡山口村との界)に高さ三三八米の女《ヲンナ》岳あり。杵島郡家のありし橘村より適に東北に當りて在郡東北といへるにかなへり。是即孃子山なり。さて其山を今ヲンナ岳と唱ふるによりて又孃子山がヲミナ山とよむべきを知るべし。管内志の著者はこの女岳(又女山)と今の西多久村の字女山とを混同せり。後者は部落の稱なり○女岳は帝國圖に兩子山と記入せるもの即是なり
藤津郡 郷肆所(里九)驛壹所、烽壹所
昔者|日本式《ヤマトタケル》尊巡幸之時到2於此津1日沒2西山1。御舶|泊之《ハテテ》明旦遊覧(シタマフニ)繋2船|覧〔左△〕《纜》於大藤1因曰藤津郡1
新考 國造本紀に
葛津|立〔左△〕國造 志賀高穴穂朝御世|紀直《キノアタヒ》同祖大名草彦命(ノ)兒若彦命定2賜國造1
とあり。葛津はフヂツとよむべし。立は誤字なるべきが何の誤にか。栗田氏の國造本紀考には直の誤として本紀及古文書に直を立と誤れる例を擧げ又葛津直國造とは云ふべ(124)からざるに由りて直を傍訓の※[手偏+讒の旁]入とするか又は國造の二字を後人の追加とすべしといひ、地理志料には立ハ葢之ノ字ノ※[言+爲]ニテ衍文ナルノミといひ、地名辭書には等の誤としたれど共にうべなひがたし。國造に定められし紀直同祖若彦命は即次節に見えたる紀直等祖穉日子なれば此葛津を本書の藤津郡と同處として不可なきに似たれど諸國造の末に、所謂三島の間に擧げたるは(くはしく云はば伊吉島造・津島縣直の後、多※[衣+陸の旁+丸]《タネ》島の前に擧げたるは)なほ不審なり。此不審は晴れねど藤津立國造の立は竝の誤にて其下に字の落ちたるか。さてその落字は彼杵か。藤津郡と東彼杵郡とは山脈によりて相隔てられたれど又大野原の如き高原によりて相連れる處もありておのづから合せて一行政區とするに便なる事もありしにや、近古にも兩郡を合せて藤津莊又は彼杵莊と稱せし時あり。郡名の國史初見は三代實録貞觀八年七月なり○郷四所とあれど和名抄に見えたるは鹽田・能美の二郷のみ。驛一所は兵部省式に見えたる鹽田驛なり。烽一所は近古と同じく託羅《タラ》峯にぞ置きたりけむ○藤津郡は東北は筑紫海に臨み北及西北は杵島郡に、西南は束|彼杵《ソノギ》郡に、南は北|高來《タカギ》郡に隣れり。川の最大なるは鹽田川にてその二源(嬉野川及吉田川)共に郡の南界なる多良《タラ》岳山脈より發し北流して郡の北部に到りて屈曲して(125)東を指し其末流は杵島郡との界を成して筑紫海に注げり○此津といへる指す所無し。上に文を略せるか。さて其津はいづくぞ。栗田氏の標註に
貞幹云。藤津ハ何處ナラン。抄(○和名抄)ニ藤津郷ヲ逸セルナラン。其郷ハ託羅郷東北海岸ニテ今ノ七浦・濱驛ノ邊カ。此邊ナラデハ御船ヲ泊ツベキ所ナケレバナリ
といへり。今の鹿島町大字|納富分《ナフドブン》字藤津に藤の森といふ處あり。問題の津は此附近にて鹿島川の古の河口ならむか○繋船覧於大藤を久老は繋v船覧2於大藤1と點じて船ヲツナギテ大藤ヲミソナハスと訓じたれど明旦遊覧シタマフニを受けたれば覧を削りて繋2船於大藤1とせざるべからず。吉田束伍博士も此事に心附ききと見えて此文を地名辭書に引けるには覧の字を削れり。然らば覧は衍字とすべきか。否おそらくは然らじ。思ふに覧は纜の扁を落したるにて船ノトモヅナヲ大藤ニ繋ギタリとよむべきならむ
能美《ノミ》郷(在2郡東1) 著者纏向日代宮御宇天皇行幸之時此里有2土蜘蛛三人1(兄名大白、次名中白、弟名小白)。此人等造v堡隱居、拒2皇命1不v肯2降服1。爾《ソノ》時遣2陪從|紀直《キノアタヒ》等祖|穉日子《ワカヒコ》1令以〔二字左△〕《以且》2誅滅1。於v茲大白等三人但|叩頭《ノミテ》陳2己罪過1共乞更|入〔左△〕(126)奉主人〔二字左△〕。因曰2能美郷1
新考 此里といへるは郷の下の里をいへるにあらで郷その物を里といへるにてなほ播磨風土記に徃々里を村といへる如し○小白は猪熊本に少白とあり。少小は通用なるが古寫本には多くは少と書けり○堡は上(七五頁)に云ひたる如くヲキとよむべし。拒皇命不肯降服の例は上文の大家島及孃子山の條にあり○穉日子は即國造本紀に見えたる若彦命なり。之を和紀イラツコ・別《ワキ》イカヅチなどの例に依りてワキヒコとよむべきかと云ふに(現に久老・栗田氏等はワキヒコとよめり)なほワカヒコとよむべし。ワキイラツコ・ワキイラツメ・ワキイカヅチなどはワカが下なるイに引かれてワキとなれるにて
○萬葉集にワガオホキミを徃々ワゴオホキミといへるが如し
今の例とはすべからず○令以誅滅とある以の字心得がたし。以はツカ ハシテのテに當るべければ令の上にあるべきなり。猪熊本を※[手偏+嶮の旁]するに以且誅滅とあり。之に從ひて誅滅セムトスとよむべし。且を將の如く用ふる事は上(一一○頁)に云へり○叩頭はノミテとよむべし。ノミは願なり。さればこそ叩頭と書けるなれ○共乞更入奉主人を久老は共ニ更《アラタ》メテ主人《キミ》トツカヘマツラムト乞ヘリとよめり。入奉はツカヘマツラムとはよまれず。(127)共ニ更メテ入リテ主人ト奉ラムト乞ヒキとよみて入は治外ヨリ入リテの意と見べきかとも思へど天皇を主人と申し奉らむこといとなめし。猪熊本には更入奉主人を更主に作れり。主を生の脱畫と見れば共乞更生となりて意義は通ずれど、たとひ傳寫を重ねたりとも二字を五字に誤らむ事いかがあるべき。栗田氏の標註には入一本ニナシといへり。不審なるは入の字のみにあらねば此本もなほ據りがたし。恐らくは更入は猪熊本に基づきて更生〔二字傍点〕とすべく奉主人は奉仕之〔三字傍点〕の誤とすべからむ。さらば終の之は助字と認むべし○能美郷の地は今知られず。或は今の鹿島町附近にて郡家は其西偏に在りしか
託羅《タラ》郷(在2郡|△《南》1東臨v海) 同天皇行幸之時到2於此郷1御覧《ミソナハスニ》海物豐多。勅曰。地勢|雖v少《サクアレド》食物|豐足《タラヘリ》。可v謂2豐足《タラヒ》村1。今謂2託羅《タラ》郷1訛v之也
新考 郡の東南部に多良村あり。多良川、村中を流れ其河口に大字多良あり。されば託羅郷は此地方なり。栗田氏標註に糸山氏云郡東ハ東ノ下南ヲ脱セシナルベシといへり。或は在2郡南1東臨海とありし南を脱したるか○海物はウミノモノとも久老の如くウミツモノともよむべし。魚介藻菜の總稱なり。豐多を久老はユタニオホシとよめり。二宇を聯(128)ねてサハナリともよむべし○雖少の少は狹の義なれば久老はセバケレドとよめるなれどサクアレドとよむべし。播磨國揖保郡|狹野《サヌ》村の下に仍云。此野雖v狹猶可v居也。故号2狹野1とあり。こはサ野の名の起を云へるなれば雖狹をサクアレドとよむべき明證とすべし。豐足を久老はユタニタラヘリとよみたれど、これも寧二宇を聯ねてタラヘリとよむべし○豐足村を久老はユタタリとよみ村岡氏はトヨタラシとよみたれど、こはタラヒとよむべし。タラヒを訛りて今はタラといふと云へるなり
鹽田川(在2郡北1) 此川之源出2郡西南|託羅《タラ》之峯1束流入v海。潮|滿之《ミツ》時逆流漸細、流勢|大〔左△〕《太》高。因曰2潮高滿川1。今訛謂2鹽田川1。川源有v淵深二許丈、石壁嶮峻、周匝如v垣。年魚|多在《サハナリ》。東邊者2湯泉1能癒2人病1
新考 鹽田川の事は上(一二四頁)にいへり。ここに云へる託羅之峯は多良山脈なり。多良山脈は本郡と北|高來《タカギ》郡及東|彼杵《ソノギ》郡とを隔てたり。其最高峯を多良岳といふ。多良村の西南に聳えて恰三郡に跨れり。筑後風土記逸文にも肥前國藤津郡多良之峯とあり。さて鹽田川はまづ北流し次に束流せるなれど、ここには略して東流とのみ云へるなり○潮滿(129)之時を久老がシホミツルトキとよめるはいとわろし。ミツルはミタスなり。ここはシホミツトキとよむべし○漸細を久老は潮滿に改めたれど、潮滿之時逆流といひて更に潮滿流勢太高といふべけむや。なほ漸細とあるに從ひてヤヤニホソリテとよむべし。川ノ幅ヤウヤウニ細リテ水嵩イト高シといふ意なり。猪熊本には※[泝の最後の画なし]細に作れり。※[さんずい+片]の誤か。※[さんずい+片]は音ハン、字書に水流也一曰水※[涯の旁]とあり。大は猪熊本に太とあるに從ふべし○鹽田川には吉田川・嬉野川の二源ある事前に云へる如くなるが、ここに川源有淵といへるはウレシノ川の方なり〇二許丈は二丈許といはむに齊し。湯泉といへるは今の嬉野温泉なり
彼杵《ソノキ》郡 郷肆所(里四)驛貮所、烽參所
昔者纏向日代宮御宇天皇誅2滅|球磨噌※[口+於]《クマソ》1△△《凱旋》之時天皇在2豐前國宇佐(ノ)海濱《ウナビ》行宮1勅2陪從|神代《カムシロ》直1遣2此郡|速來《ハヤキ》村1捕2土蜘蛛1。於v茲有v人名曰2速來津《ハヤキツ》姫1。此歸女申云。妾弟名曰2健津三間《タケツミマ》1住2健村之里1。此人|有《モタリ》2美玉1。名曰2石上《イソノカミ》神之木蓮子玉《イタビダマ》1。愛而|因〔左△〕《固》藏不v肯v示v他。神代直|尋覓之《タヅネマギシニ》超v△《山》而逃走落2石岑1(郡以北之山)。即(130)逐及《オヒシキテ》捕獲推2問虚實1。健三問云。實有2二色《フタクサ》之玉1。一者曰2石上神木連子玉1、一者曰2白珠1。雖v比2※[石+肅]※[石+夫]1願以獻v之。亦申云。有v人名曰2篦築《ノヤナ》1。住2川岸之村1。此人有2美玉1愛v之|因〔左△〕《罔》v極。定無v服v命。於v茲神代直※[廻の回が白]而捕獲問v之。篦築云。實有之。以貢2於|御《オホミモノ》1。不2敢愛惜1。神代直捧2此|三色《ミクサ》之玉1還獻2於|御《オホミモノ》1。于《ソノ》時天皇勅曰。此國可v謂2具足玉《ソナヒダマ》國1。今謂2彼杵郡1訛v之也
新考 彼杵は和名抄の訓註に曾乃岐とあり。今はキを濁りてソノギと唱ふ。郡名の國史初見は貞觀八年七月なれど夙く萬葉集卷五なる詠2鎭懷石1歌の序に肥前國彼杵郡平敷とあり○郷四所とあれど今本(略本)に見えたるは浮穴・周賀の二郷のみ。又和名抄には大村・彼杵二郷を擧げたり。之に由りて管内志にも地名辭書にも郷四所とあるを浮穴・周賀・大村・彼杵とせり。或は然らむ。但本書撰進の時より和名抄の國郡部の成りし時までに郷の興廢改稱などありけむも知るべからず○兵部省式に見えたる肥前國の驛のうち本郡に擬すべきは鹽田と船越との間に擧げられたる新分のみ(新分は和名抄に筑前國鞍手郡の郷名新分を爾比岐多と訓めるに依りてニヒキダとよむべし)思ふに古、二驛あり(131)しを減じて一驛とせしならむ。その新分驛の址は恐らくは今の彼杵村より南、今の大村町より北にぞあらむ。地理志料に大村驛を本郡に擬し地名辭書に磐氷大村二驛を本郡に充てたるは共に誤れり。はやく松浦郡の下(七七頁)にいへり。さて新分驛は當國の國府より肥後の國府に到る西路に當れり。當國の國府より肥後の國府に到るに東路を取れば佐嘉・切山・基肄(以上當國)御井・葛野・狩道(以上筑後)を經由して肥後の大水驛に達し又西路を取れば佐嘉・高來《タク》・杵島・鹽田・新分・船越・山田・野鳥を經由し海を渡りて肥後の長埼驛に達せしなり○彼杵郡は今東西に分れて大村湾を夾めり。さて東彼杵郡に佐世保軍港あり西彼杵郡に長崎港ある爲本郡は實に帝國の要地となれり。東彼杵郡は北は西松浦・北松浦の二郡に、東は杵島・藤津。北高來の三郡に接し西南は大村※[さんずい+彎]に臨めり。又西彼杵郡は中央部の東端北高來郡に續ける外は海に圍まれたり○總説の下にも纏向日代宮御宇大足彦天皇誅2球磨贈於1而巡2狩筑紫國1之時云々とあり。猪熊本に球磨噌※[口+於]の下、之時の上に凱旋の二字あり。宜しく之に從ふべし○栗田氏標註に
貞幹曰。宇佐海濱ハ下ニ引ク關氏ノ説ノ如ク宇土濱ノ誤ナルベシ。又豐前國〔三字傍点〕三字ハ後人ノ宇土・宇佐ノ誤ヲ知ラズ※[口+刀]リニ添ヘタル者ナルベシ
(132) 關氏曰。宇佐濱ハ宇土濱ノ誤ナルベシ。和漢三才圖會ニ景行天皇云々宇土濱海人獻2腹赤魚1マタ熊本地志ニ宇土郡三角岳ハ梅濱ニ聳エ蘆北・八代・飽田・玉名及肥前島原ノ海一目ニ盡スベシトアレバ景行天皇此岳ニ登リシ時神代直ヲ召シテ問給ヒシナラン云々
といへる理由は豐前の宇佐と本郡即肥前國彼杵郡とは其間に筑前肥前の諸郡を隔てていと遠き爲なるべけれど、かかる理由のみに依りて宇佐を宇土の誤とし更に豐前國の三宇を後人が妄に加へたるものと認むべけむや。特に和漢三才圖會に宇土濱云々とありといへるそは一條兼良の江次第抄に
腹赤(ハ)鱒魚也。……景行天皇御宇於2筑紫宇土郡長濱1釣得獻2天皇1
とあるを三才圖會に引けるにて原書即江次第抄にも三才圖會(卷四十八)にも宇土郡長濱とありて宇土濱とはあらぬをや。更に江次第抄の宇土郡長濱も下文高來郡の下に見えたる玉名郡長渚濱の誤傳なるべきをや。關某が右の誤字説を唱へ糸山氏が之に左袒したるのみならば特に筆を費すに及ばざらめど栗田氏の標註に之を引用したるに由りて黙止するを得ざるなり○宇佐海濱を久老がウサバマとよめるは次節に宇佐濱と(133)あるに由りてなれどウサバサといふ地名あるを聞かねばウサノウナビと訓みて宇佐郡の周防灘に臨める海濱と心得べし。ウナビはウミベの古語なり。さて宇佐の海濱にましまししは筑紫即西海道の巡幸を終へて豐後の國前《クニサキ》より周防の沙婆に渡らむとしたまひし前なるべし○神代直は和名抄郷名に高來郡神代(加無之呂)とあると關係あるべければ右の訓註に依りてカムシロノアタヒとよむべし。久老がカシロとよめるは理由無し。今も諸國に神代といふ氏又は地名少からざるがカミシロ又はカウジロ又はクマシロと唱ふる如し○速來村を久老がハヤクとよめるはわろし。宜しくハヤキとよむべし。今の東彼杵郡早岐村の地方なり。今ハイキと唱ふるはハヤキを訛れるなり。速來津姫もハヤキツ姫とよむべし(久老がこのツをも次なる健津三間のツをも濁れるは更にわろし)○健村之里は今知られず○此一節に玉といへるは皆眞珠なり。本來玉には廣中狹の三義あり。狹義の玉は我國に産せざれば古今共にギョク又は直音にゴクといひてタマとは云はず。廣義の玉は珠玉の總稱なるが取分きて水中に産するを珠といへばここは珠と書くべきを玉と書けるは廣義に從へるなり。さて大村※[さんずい+彎]は今もアコヤ珠即眞珠を産し其産地として三重縣の英虞《アゴ》※[さんずい+彎]と共に世界に聞えたり。柳園隨筆にも
(134) 此入海の浦々に眞珠を取るもの多し。珠は極品なりと云。此貝玉の多きは一つの内に眞珠三つ四つもあり。凡貝毎に珠あり。他國にも此貝あれど此處なるにしかず
といへりと云ふ○木蓮子王といへるは形イタビの果實に似たるが故ならめど何故にかイソノカミノ神ノといふことを添ヘて稱しけむ○因藏を久老は固藏に改めたり。さもあるべし。不肯は例の如くウベナハズとよむべし○超而を久老は超山に改めたり。猪熊本にも超而とあれど少くとも超の下、而の上に越えし物を示す一字あるべきに似たり。栗田氏に據れば一本に起而とありといふ。こは而に合せて超を起に改めたるにあらざるか。しばらく超而の間に山の字を補ふべし○石岑は今知られず。但註に郡以北之山とあれば今の西松浦郡との界の山脈の中ならむ。郡家は彼杵郷にぞありけむ。落石岑を久老が石岑ニ落ツとよめるはわろし。石岑ヨリ落ツとよむべし○健三間は健の下に津を落せるか。又はツはノに似たる辭なれば添へてよませたるか○※[石+肅]は音シュク、字書に黒砥石とあり又※[石+夫]は音フ、司馬相如の子虚賦に※[石+武]※[石+夫]とありて註に石次v玉。赤地白采葱※[草冠/龍]不v分とあれば久老の如く二字を聯ねてイシとよむか又は音讀すべし。畢竟玉ト稱スベキモノナラネドと云へるなり○篦簗を久老はミフヂヤナとよみて頭註に倭姫世記ニ(135)篦山簗瀬見ユといへり。こは同書崇神天皇六十六年の下に
爾《ソノ》時伊賀國造進2※[竹冠/昆]《ミフヂ》山・葛山・△戸並地口御田・細鱗魚《アユ》取淵・梁|作《サス》瀬等1朝御氣夕御氣(ヲ)供進《タテマツル》矣
とあるを云へるなり。皇太神宮儀式帳なる供2奉朝大御饌夕大御饌1料地祭物本記事といふ條に
朝夕(ノ)御饌《ミケノ》箕(ニ)造奉《ツカフル》竹原并箕藤黒葛(ノ)生フル所三百六十町在2伊賀國名張郡1。亦朝夕(ノ)御饌(ニ)供奉《ツカフル》年魚取淵・梁|作《サス》瀬一處、亦|御栗栖《ミクルス》二町在2伊賀郡1。右五處此伊賀國造等之遠祖(ノ)奉地《タテマツリシトコロ》
といへるは右と同じき事を云へるにて、其箕藤黒葛は箕ノフヂノツヅラと訓むべきにて(藤は葛《フヂ》の借字にてカヅラの事)箕を作るには竹と葛《フヂ》とを要する事なるが其|葛《フヂ》の料なる黒葛《ツヅラ》の生ずる所云々といふ事なるを後人の誤りてミフヂクロカヅラとよみて箕藤といふ植物と黒葛と二種と心得て、倭姫命世記なる彼※[竹冠/昆]山の※[竹冠/昆]にミフヂと傍訓したるにあらざるか。ともかくも※[竹冠/昆]はミフヂとは訓まれず。抑※[竹冠/昆]は音キン、一種の矢竹にて我國にてはノとよめり。たとへば和名抄に※[竹冠/昆](音昆、能)とあり(但音コンといへるはいかが)。されば倭姫命世記の※[竹冠/昆]山はおそらくはミノ山とぞよむべからむ。次に箆篦(二字相同)は音ヘイ、竹製の小刀即ヘラにて※[竹冠/昆]とは別字なるを徃々相混ぜり。栗田氏は
(136) 字書箆邊兮切。※[金+又]箆竹器。又同v※[竹冠/比]。取v蝦是也トアルニヨラバえびやなトヨムベキカ。舊訓(○久老の訓)ハ世記ニヨレルナレドコチタキ心地ス
といへり。寧|※[竹冠/昆]《キン》の誤としてノヤナとよむべきか。猪熊本には二處共に※[草冠/昆]と書けり。簗は梁に竹を冠らせたるなり。漢籍に例ありや○川岸之村は今知られず。川岸は地名にもあれ川の岸にあるより然名づけられたるなるべければ今の小森川の沿岸か。小森川は猿谷峠より發し折尾瀬《ヲリヲゼ》村を貫き早岐《ハイキ》村の東に沿ひて海に注げり。住を久老がヲレリとよめるはあさまし。ヲリとこそよむぺけれ。元來アリと同活なればヲレリといふ格は無し○因極を久老が固秘に改めたるはわろし。栗田氏の如く罔極の誤とすべし。さてキハミナシとよむべし〇二つの御を久老のオホムとよめるはいとわろし。平安朝時代の假字書にオホンといふ語あれど、そはオホミ何といふべきをオホン何と訛り更にその物を略してただオホンといひしなり。ここは音にてゴとよむか又はオホミモノとよむべし。二色三色は二種三種なればフタクサ、ミクサとよむべし○具足玉國は久老の如くソナヒダマノ國とよむべし。ソナヒは後世のソナハリにて(キハミをキハマリともいふが如し)ソナハリ玉は滿チ足ヘル珠といふ事なり
(137)浮穴《ウケアナ》郷(在2郡北1) 同天皇在2宇佐〔二字左△〕濱行宮1詔2神代直1曰。朕歴2巡諸國1既至2平治1。未v被2朕治1有2異徒1乎。神代直奏云。波〔左△〕《彼》煙之|起《タツ》村未2猶被1v治。即勅v直遣2此村1。有2土蜘蛛1名曰2浮穴(ノ)沫媛1。扞2皇命1甚無禮。即誅v之。△《因》曰2一浮穴郷1
新考 浮穴は和名抄伊豫國郡名に浮穴(宇城安奈)とあればウキアナとよむべきかと云ふに萬葉集卷五なる令v反2惑情1歌に宇既《ウケ》グツヲヌギツルゴトクとあるウケグツは孔のあきたる沓といふこと、又遊仙窟(流布本卷五)に積愁腸已斷、懸望眼應v穿の應穿をウゲヌベシとよみたれは孔のあく事をいにしへウクといひきとおぼゆ(但クケの活にてキとは活かず)。かかれば浮穴はウケアナとよみて大きなる洞のあるより名づけたるにあらざるか。伊豫の浮穴(今は温泉郡の村名)も現にウケアナと唱ふ。和名抄の郡郷の訓註は必しも信頼すべからず。さて管内志に
此浮穴郷は今はさだかならざれど風土記に彼杵郡郷肆所とありて浮穴周賀二郷のみを擧げ和名抄に大村彼杵の二郷のみを擧たるに因て思へば肆所の内二郷は和名抄に出せると同事にて郡中を四に別ちて南方を浮穴郷とし西方を周賀郷とし北方(138)を大村郷とし東方を彼杵郷としたる物と聞ゆ。されば浮穴郷は今の長崎より西南|野母《ノモ》・肥《ヒノ》御前・麹島の邊までをかけていふ名なるべし
といひ栗田氏標註に
關氏云。浮穴郷ハ有喜村邊ヨリ矢上驛・日見村・阿和村ナドヲ云ルナリ。郡北ハ東北ノ東ヲ指シタルカ(○指は脱か)
といへり。即管内志は今の西彼杵郡の南支とし關某は同郡の腰部とせるなるが共に郡家の南方又は西南方にて本書に在郡北といへると反對なるにあらずや○宇佐濱はもとのままにて又は濱の上に海を補ひて宇佐ノウナビとよむべきかとも思へど、ここに不審なる事あり。神代直の奏言に浮穴郷を指して彼煙ノタテル村といへるを思へば宇佐濱行宮は浮穴郷に立つ煙の見ゆる處にあらざるべからず。然も豐前國宇佐の海濱より(關某のいへる如く肥後國字土としても)肥前國彼杵郡北部の一村に立つ煙の見ゆべくもあらず。思ふに當國(おそらくは當郡)の或行宮に坐しし程の事にて、もと同天皇在△△濱行宮詔神代直曰とある二字の漫滅したりしを後人の新寫するに際して前節に天皇在豐前國宇佐海濱行宮勅陪從神代直とあるに準じて妄に宇佐の二字を補入れたる(139)にあらざるか。彼には海濱とあるに此には海の事無きも、もと彼此同一ならざりし痕跡と認めらるべくや○久老は既至平治をハヤクコトムケヲサメタリとよみ未被朕治をイマダワガコトムケヲカガフラザルとよみたるがコトムケは平には當れど治には當らず。されば朕治はァガミヲサメとよむか又は治を音讀すべし。既至平治も寧平治を音讀してハヤク平治ニ至レリとよむべし。有は無論未の上にあるべし。當時の漢文には徃々かかる顛倒例あり。たとへば日本紀天武天皇十年二月に朕今欲d更定2律令1改c法式uと書くべきを朕今更欲云々と書き上文佐嘉郡の下にも故欲d以2賢女1爲c國名uと書くべきを故以賢女欲爲國名と書けり(播磨風土記新考索引顛倒例參照)
○因に云はむ。顛倒は唯古文のみならず徃々近人の文にも見えたり。その最甚しきはかの先哲叢談後編なり
○波煙之起村の波は彼の誤ならむと思ひしに猪熊本には實に彼とあり。カノともソノとも訓むべし。未猶被治の治はもし訓讀せむとならばミを添へてミヲサメとよむべし○浮穴沫媛を久老がウキナワヒメとよめる心得がたし。アワのアはアナにつづきたれば略すべけれどウキのキにはアの韻無ければアナのアは略すべからざるをや。久老は(140)理を思はで口調に任せしにこそ。管内志には
此浮穴は沫の枕詞に置たる物と聞ゆ(さればウキアナノアワヒメとノ文字を添へてよむべきかなほ考ふべし)。其枕詞をやがて地名に移せるなり
といへれどアワの枕にウキアナノといへる例も無く又然云ふべき理由も無し。但ノを添へてよむべきかといへるはげに然らむ。恐らくは沫媛といふが名(自稱にもあれ天孫民族の名づけたるにもあれ)浮穴は其居處の稱ならむ。浮穴はウケアナとよみて洞の事とすべきかといふ事は上に云へり○管内志に「誅之とある下に落字あるべし」といひ栗田氏標註に曰ノ上ニ因字ヲ脱セルカといへり。猪熊本を検するにまさしく因の字あり
周賀《スカ》郷(在2郡西南1) 昔者氣長足姫尊欲v征2伐新羅1行孝之時御船繋2此郷東北之海1。艫舳之|※[爿+弋]※[哥+弋]《カシ》化而爲v磯〔左△〕《礒》。高二十餘丈、周十餘丈、相去十餘町、充而〔二字左△〕《兀立》嵯峨草木不v生。加之《シカノミナラズ》陪從之船遭v風漂|波〔左△〕《沒》。於v茲有2土蜘蛛名|欝比袁《ウツヒヲ》麻呂1極〔左△〕《拯》2済其船1。因名曰2救郷1。今|△《謂》2周賀郷1訛v之也
斬考 管内志に柳園隨筆を引きて
(141) 彼杵郡松島(○今の西彼杵郡松島村)の迫門を出て長崎に至る洋中を相撲灘と云。神島(○カウノシマと唱ふ。長崎港口にあり)まで十里あり。其沖の方に十餘丈の大岩二つ海中に立ちたり。是を沖の相撲・地の相撲と云。其状甚奇なり。沖の方なるは大洞ありて見えたり。南北相對してそば立たる状猛勇の力を爭ふ勢に似たり。因て俗に相撲石といふ。此巌の邊、海の深さ三十尋ありといふ。此地の方は雪の浦(○今雪の浦村)幸の浦(○今|神《カウ》の浦村)などあり。風土記に(○いへる)周賀郷は此邊の事なるべし。神功皇后の※[爿+羊]柯化して石と成れりと云は此相撲石の事なるべし。郡西南とあるもよくかなへり
といへり。げに是なるべし。但所謂大角力岩・小角力岩は神《カウ》の浦村の西方なる海中にありて本書に御船繋此郷東北之海といへるに副はず。東北は或は西北の誤か。管内志に又速來門の下に海路記を引きて
相撲石は沖の相撲・地の相撲とて二つあり。地の相撲は高さ凡二十間もあるべし。巡りも同じ。地の相撲のいただきに大木の蜜柑あり。熟して落る時にぞ蜜柑とは知らるる
といひ又日本汐路記を引きて
南の方に相撲島とて島二つ東西にあり。中に行事島と云島あり。地より一里ほどあり
(142)といへり。又地名辭書に水路志を引きて
大角力岩は(池島の南東方約一海里半)奇形の空洞を有する一大高岩(二五二呎)にして水面より聳立し舟を寄すべからず。而して該空洞は弓形にして南方より望めば宛も帆揚船の如し
といへり。こは所謂沖の相撲なり○※[爿+弋]※[哥+弋]は船を繋ぐ杙にて※[爿頁羊]柯と書くが正しく又カシとよむべき事杵島郡の下に云へる如し
○因にいふ杙を※[木+兀]と書かむは猶可なり。杭とは書くべからず。杭は地名なり
○磯は猪熊本に礒に作れるに從ふべし。磯は音キ、字書に水中磧也また石激v水曰v磯といへり。我國にては礒と混用せり。礒は磯の俗體にあらず。別字なり。音ギ、字書に石巌也とあり。さて久老は磯(實は礒)をイシとよみたれどイソとよみて大岩と心得べし。イソは元來大岩の事なるが轉じて大岩ある水邊特に海邊をいふこととなれるなり(本註八一頁また萬葉集新考二二〇・一四三四〔四字傍点〕・二〇二九・二一二三〔四字傍点〕・二五六〇・三二一五・三八四〇・四〇一八頁等參照)○充而を久老が突出に改めたるはやや常識を逸せり。恐らくは兀《ゴツ》立の誤ならむ。さらば兀立シテ嵯峨タリとよむべし。兀立は適に突出したる状なり○漂波は猪熊本(143)に漂沒に作れるに從ふべし○久老は其船の上を救済として救舊本作v極といひたれど猪熊本を※[手偏+嶮の旁]するに〓とあり。こは拯《シヨウ・スクフ》を誤れるにて久老の底本には極と誤れるなり。現に拯に作れる本もありと見えて管内志に引けるには拯とし栗田氏標註には按救一本拯トアリ。今之ニヨルと云へり○今の下に久老に從ひて謂を補ふべし
速〔左△〕《速》來門(在2郡西北1) 此|門《ト》之潮之來者東(ニ)潮|落者《オツレバ》西(ニ)涌登。涌響同2雷音1。因曰2連〔左△〕《速》來門1。又有2杉〔左△〕《松》木1本者著v地末者沈v海。海藻|草〔左▲〕《早》生。以擬2貢上1
新考 本郡の總説に見えたる速來村及速來津姫に照して連來は速來の誤とすべし。さてノを添へてハヤキノトとよむべし。トは今いふセトなり○大村※[さんずい+彎]の口は其西北にありて針尾島其口を塞げり。されば大村※[さんずい+彎]は針尾島の兩側なる細長き海峡に由りてのみ其外※[さんずい+彎]と交通せり。東北なる海峡をハイキノセトといふ。其東北岸に早岐あり。本書に速來門といへるは此海峽なり。海峽の長凡二里半、一見河流の如く人工によりて最甚しく狹められたる處は今は僅に八間に過ぎずといふ。但元禄十二年に作製せし平戸領分圖には「此間狹所拾七間」とあり。西南なる海峽を針尾ノセトといふ。此處東西兩郡の界にて(144)南岸に西彼杵郡大串村の伊之浦あり。故に又伊ノ浦ノセトといふ。栗田氏標註に
種信(○即種麿)曰。此處ニ據テ考フレバ東西ノ兩門ヲ号テ速來門卜云ナリ。今ノ世ハ誤レリ
といへるは中々に誤れり。針尾迫門の記事は省かれたるにてもあるべし。速來門が兩門を兼ねたる稱にあらざる事は記事を味はひて知るべし○此門之潮之來者の下の之を管内志に引けるには々とせり。久老本に從ふべし。又西湧登涌響同雷音を管内志所引には西涌登涌|降〔右△〕響同雷音に作りて降の一字多し。東潮落に對して西涌登といへるなれば更に涌降といふべきにあらず。これも刻本に從ふべし。さて東潮落者を久老は東ノシホオツレバとよみたれど東ニとよみて西ニワキノボルに對せしむべし○因とは潮ノ速ク來ルニ因リテ速來門トイフと云へるなり○杉木を管内志所引には松木に作れり。さて栗田氏標註に
種信曰。此松今猶遠來ニアリ。枝ニ蠣海虫等多クッキタリ。其木ノ色赤シ。今云女松ナり
といへれど實に一千二百餘年前の本書に見えて當時はやく老木なりし趣なる其木と同一なりや頗おぼつかなし。其木が杉なりや松なりやは決しがたけれど本書著v地未者(145)沈v海とある、杉の状にあらねばしばらく松と認むべし○沈はシヅメリとよむべし。久老がシヅケリとよめるはわろし。シヅクはシヅムの古語にあらず。底に附く事なり○海藻草生以擬貢上とある不審なり。メ又はニギメを海藻草と書ける例無く又メはいづくにも生ふる物にてめづらしからねばなり。されば猪熊本又管内志に引ける本に據りて海藻早生の誤とすべく又久老がモクサオフとよめるを改めてメ、ハヤクオフとよむべし○以擬貢上とある擬は將の如く心得べし。さて以テ貢上セムトスとよむべし。未貢上せざるなり。擬の例はたとへば豐後風土記|球覃《クタミ》郷の下に擬v炊2於御飯1令v汲2泉水1また同書網磯野の下に擬v爲2御膳1作2田獵1とあり
高來《タク》郡 郷玖所(里二十一)驛肆所、烽伍所
昔者纏向日代宮御宇天皇在2肥後國|玉名《タマキナ》郡|長渚《ナガス》濱之行宮1覧2此郡山1曰。彼山之形似2於別嶋1。屬《ツケル》v陸之山歟。列居〔二字左△〕《別在》之島歟。朕欲v知v之。仍勅2神《ミワノ》大野宿禰1遣v看《ミシム》之。徃到2此郡1。爰有v人迎來曰。僕者此山神。名高來津座。聞2天皇使之來1奉v迎而(146)已。因曰2高來郡1
新考 地名は夙く景行天皇紀十八年六月に高來縣と見えたれど郡名の始めて國史に見えたるは三代實録貞觀八年七月なり。和名抄に小城郡の郷名高來は多久と註し本郡は多加久と註せり。然るに久老は本郡名をもタクと訓み地理志料にも古名多久、後増2加字1也といひ地名辭書にも
小城郡高來郷の例に據らば當に多久と訓ずべし。多加久と云は後人文字に因りて訓み訛れるならむ。或は高木に訛れる者あり
といへり。しばらく此等の説に從ひてタクとよむべし。和名抄に多加久と註し今タカギと唱ふるは文字に引かれたるならむ。和名抄の郡郷名の訓註の深く信ずべからざるは屡云へる如し○高來郡は明治十一年以來南北二郡に分れたり。その北|高來《タカギ》郡は北は藤津郡に、西は東西彼杵郡に接し東は諫早※[さんずい+彎]に、南は千々石《チヂハ》灘に臨み其東南の一端のみ南高來郡に續けり。次に南高來郡即所謂島原半島(正しくは温泉岳半島とぞ云ふべからむ)は其西北、北高來郡に續けるのみにて其他は海に圍まれたり。即北は諫早※[さんずい+彎]に、東は筑紫海の南端なる島原※[さんずい+彎]に、西は千々石灘に臨み南は早崎海峡を隔てて天草の下島と相對(147)せり。地理志料に
圖ニ徴スルニ南北二郡ノ界スル所狹窄ニシテ半里ニ過ギズ。状蜂腰ニ似タリ。今ノ北部ハ古彼杵ノ域タリシコト疑ヲ容ルル無シ
といへるは几上の論にあらずや。ともかくも本書の高來郡がもし今の南高來郡のみならば郷九所はあるべからず。又驛四所は置かるべからず○郷九所とあれど本書(略本)には一郷の名だに見えず。和名抄に見えたるも山田・新居・神代・野鳥の四郷のみ。其中にて山田と神代とは今南郡に同名の村あるその附近ならむ。新居の地は知られず。野鳥は地名辭書に「今の島原なるべしと想はる」といへり○兵部省式に見えたる當國驛名のうち本郡に擬すべきは船越・山田・野鳥の三驛のみにて本書に驛四所とあると一致せず。後に一驛を廢せられしにや。右の三驛のうち船越驛は今の諫早附近なり。諫早附近は諫早※[さんずい+彎]と大村※[さんずい+彎]との地峽にて船越といふ名にかなへるのみならず(船越は地峽の別名なり)諫早村はもと船越といひしを明治九年に改稱せしなり。
○本郡には諫早町・諫早村・北諫早村ありていとまぎらはし諫早附近は低地なり。古は諫早※[さんずい+彎]今より遙に深く※[さんずい+彎]入したりけむ。船越の前驛は新分、船(148)越の次驛は山田、その次驛は野鳥ならむ。地名辭書に據れば野鳥より島原※[さんずい+彎]を渡りて肥後國長埼驛即今の飽託郡河内村大字船津に達せしなりといふ。山田を今の南高來郡山田村とすれば船越・山田兩驛の距離近きに過ぐる如し。なほ考ふべし○長渚濱を久老がナガヲとよめるは心得がたし。或は渚を緒と見誤りしにや。長渚はナガスとよむべし。萬葉集にも渚をスに充てたり。今の肥後國玉名郡長洲町にて島原半島よりは東北に當りて相去る事遠からず。肥後風土記逸文にも
玉名郡長渚濱(在郡西) 昔者大足彦天皇誅2球磨噌※[口+於]1還駕之時泊2御船於此濱1云々
とあり。景行天皇紀十八年六月に
自2高來縣1渡2玉杵名邑1時殺2其土之土蜘蛛|津頬《ツツラ》1焉
とあるは高來郡より玉名郡に渡りたまひきとせるにて本書に見えたるとは相反せり。玉杵名邑は即玉名なり。初玉杵名と書きてタマキナと唱へしを地名は二宇に書くべしといふ制に從ひて玉名と書き、さてもなほ初にはタマキナと唱へしを訛りてタマイナと唱へ(和名抄に多萬伊奈と訓註したり)終に文字に引かれてタマナと唱ふることとなりしなり。されば本書にてはタマキナとよむべし○此郡(ノ)山といへるは島原半島の大部(149)分を成せる温泉岳なり。温泉はウンゼンと唱ふ。温の一音ウンなり。・温氣・温病・温明殿・温州蜜柑などの時にもウンと唱へてオンと唱へず。雲仙とも書くは字を更へたるのみ。なほ二荒山を日光とも書き當國加部島の田島山を傳登とも書くが如し。温泉岳はあまたの峯より成れり。其中にて最高きは普賢山・妙見山などなり○久老は別島をコトナル島と訓み次句なる列居を別在に改めて亦コトナルとよめり。列居を別在の誤としたるは宜しかれどコトナルとよみては義通ぜず。不相連屬を別といへば別島をハナレジマとよみ別在之島をハナレタルシマ(之は助字)とよむべし。別をハナレとよむべき證は爾雅釋山に小山別(ナルハ)2大山(ト)1鮮とありて※[刑の左+おおざと]※[日/丙]の註に謂小山與2大山1不2相連屬1者名v鮮と云へり○神大野宿禰は久老の如くミワノオホヌとよむべし。三輪氏族なれば他氏族なる大野氏と別たむが爲に神大野と稱せしならむ。仍勅神大野宿禰遣看之を久老はヨリテ神ノ大野ノ宿禰ニノリゴチテ之ヲミセニツカハスとよみたれど某ニ勅《ノリゴ》チテといひてミセニツカハスとは云はれず。仍リテ神大野宿禰ニ勅シテ看シムとよむべし。豐後風土記總説にも莵名手《ウナデ》即勅2僕者1遣v看2其鳥1とあり。之は助字なり。讀まぬがよし○高來津座を久老はタクツヰとよみ地名辭書にはタクツクラとよめり。高來ニヰルといふ義ならばツは添(150)ふべからず。高來ツクラとよめばツを添へたるはかなへど、さては高來ノ座席といふ義となりて人名にはふさはず。栗田氏標注に座一本彦ニ作ルといへり。もしさる古本あらばそれに從ひてタクツヒコとよむべし。但猪熊本にも座とあり。奉迎而已は久老の訓に據りてムカヘマツルニコソとよむべし○この高來津座は天孫民族と思はる。當時筑紫即今いふ九州には先住民族と渡來民族と雜居したりしにて後者の一なる天孫民族にもニニギノ尊の降臨より前に渡來せしものあり、ニニギノ尊に扈從して天降りし神々の子孫といへども悉くは神武天皇の御東幸には從ひ奉らで筑紫に殘留りしものもあるべし
土齒《ヒヂハ》池(俗言v岸爲2比遲波《ヒヂハ》1。在2郡西北1) 此池|東〔左△〕《南》之海邊有v岸。高百餘丈、長三百餘丈。西海波濤常以|澀※[さんずい+徐]〔二字左△〕《濯滌》。縁2土人辭1号曰2土齒池1。池堤長六百餘丈、廣五十餘丈、高二丈餘。池裏縱横二十餘町許。潮來|之〔左△〕《者》常突入。荷菱多生。秋七八月荷根甚|甘《ウマシ》。季秋九月香味共變|不v中v用《クフベカラズ》也
新考 澁※[さんずい+徐]を久老は濯滌に改めたり。猪熊本には濕滌とあり。久老の改字に從ふべし○(151)西海波濤常以|濯滌《タクテキ》とあれば岸は本郡の西岸なり。此池東之海邊右岸といへるに依れば岸は東岸と聞えて相かなはず。又高百餘丈の斷岸の上に池あらむに、たとひ高潮來るとも其池に突入すべからず。思ふに斷岸は池と海との間にありしにあらで池より南方にありしならむ。辭を換へて云はば此池は温泉岳の支脈の千々石《チヂハ》※[さんずい+彎]に入れる其北麓に在りしならむ。さらば此池東之海岸とある東を南の誤とすべし。又思ふに俗言v岸爲2比遲波1とはあれど、いかなる岸をもヒヂハと云ひしにはあらで方言にヒヂハといひしは斷岸絶壁の事ならむ。さてそのヒヂハの事と池の事とを別に記さば後人の惑ふまじきを附近にヒヂハのあるに由りて此池をヒヂハノ池といふと云はむとてかくまぎらはしく云へるなり。もし
郡西北海邊有2斷岸1。高百餘丈、長三百餘丈。西海波濤常以濯滌。俗言2斷岸1爲2比遲波1。池近在2其北1。故號曰2土齒池1
とあらば誰にも通ずべきを○池堤の廣(即幅)五十餘丈とあるは權衡を失へり。五は誤字か。地理志料に
絲山氏曰ク。土齒池ハ千千石村ノ北ニ在り。今多クハ※[余/田]《ヒラ》カレテ田トナレリ。其堤ハ長十(152)町、幅三十間、高サ五間、老松|聯《ナラビ》立チ清水深ク湛ヒ海潮堤ヲ拍テリト
とあり○今南高來郡の西岸に千々石村ありてチヂワと唱へらる。是ヒヂハを訛れるなりといふ。げに然るべし。潮來之の之は者などの誤ならむ○甘はウマシとよむべし。久老はアマシとよめり。不中用をクフベカラズとよめるは辭意を得たり
峯湯泉《ミネノユ》(在2郡南1) 此湯泉之源出2都南|高來峯《タクノミネ》西南之峯1流2於東1流〔左△〕《之》。之〔左△〕《流》勢甚|多〔左△〕《烈》、熱異2餘湯1。但和2冷水1乃得2沐浴1。甚〔左△〕《其》味酸。有2流黄白土及松1。松(ハ)其葉細、有v子大如2小豆1。令v得v喫
新考 管内志にミネノイデユとよめるに對して地名辭書に「峯湯泉は美禰乃由と訓べし」と辨じたり。湯泉即温泉は古はユとのみ云ひしを人の沸す湯と別たむ爲にイデユと稱することとなりしなり。湯泉といふ語今の耳には疎かれど和名抄に温泉(一名湯泉、和名由)とあり文選東都賦・抱朴子論僊篇などにも見えたり。又文選西征賦・豐後風土記などには湯井〔二字傍点〕といひ北史穆崇傳附穆多侯傳・同書楊※[立心偏+音]傳など又日本紀の舒明天皇紀以下には温湯〔二字傍点〕(有馬温湯・同温湯宮・伊豫温湯・同温湯宮・紀温湯・牟婁温湯など)と書けり○高來峯《タクノミネ》は(153)即温泉岳なり。郡南高來峯とあるを見れば高來郡家は温泉岳より北に在りしなり。さて今の北郡に在りしか又は南郡にありしかと云ふに土齒池を在郡西北と云へるを見れば南郡に在りし事明なり。地理志料には今の島原に擬したれど島原町は温泉岳の東方にあれば郡南高來峯と云へるに叶はず。今南高來郡の北端に神代村あり。此附近は古の神代郷にてその神代は此地方を平定せし神代直の氏と關係あるべき事夙く上に云へり。推測を下さば神代直後に此附近に封ぜられ爾來地名を神代と稱することとなり封建制の廢せられし後も本郡の治處は此處に置かれしにあらざるか。但神代村を郡家址とすれば土齒池は其西南に當りて西北には當らず。所詮郡南高來峯といへるに副ひ同時に土齒地在郡西北といへるに叶ふ地點は存在せざるなり○此温泉の末が川を成せる事は和漢三才圖會に
温泉嶽在2高木郡1……其流水稍熱如v湯之小川中|毎《ツネニ》小魚多游行、亦奇也
といひ西遊記卷五地獄といふ條にも
絶頂は平地にて民家そこここに見え田畠も多し。……其中に幅三間許の川流れたり
(154)といへり○温泉岳の事は長崎縣史蹟名勝天然紀念物第七輯にくはし。温泉を以て著れ、氣温は南國ながら箱根よりやや低く躑躅花・紅葉・霧氷を三景物とせり。躑躅花は多種なる中にレンゲツツジ・瓔珞《ヤウラク》ツツジ(一種のドウダンツツジ)など最めづらし。紅葉の主なるものも亦ヤウラクツツジなり○久老が熱の字を上なる流之勢喜多に附けて流ノ勢|甚多《イタク》アツシとよめろはわろし。熱は下句なる異餘湯に附けてアツキコト餘湯ニ異ナリとよむべし。さて流之勢甚多といふこと心得がたし。まづ流勢の間に之の字を挿むべからず。次に勢には多といふべからず。よりて思ふに流之は之流の顛倒か。又多は烈の誤か。即もとは流2於東1之、流勢甚烈とありしか。もし然らば之は流於東に附けて助字と認むべし。此温泉の温度は今も二百度以上に達して其味酸しといふ○甚味酸の甚は無論其の誤ならむと思ひしに猪熊本に其とあり○流黄は即硫黄なり。流が古く硫は新しきなり。國語に之をユワウといふはユノアワ(湯之沫)の轉訛なり。字音にあらず。流にも硫にもユといふ音は無し。和名抄に石流黄(和名由乃阿和、俗云2由王1)とあり○白土は邦名シラツチ、和名抄に白土一名堊また堊(和名之良豆知)白土也とあり。化學名は炭酸カルシューム○及松松其葉を猪熊本にも管内志に引ける本にも及和松其葉に作れり。記述に依れば海松(155)の事と思はるるが海松に和松といふ一名あるを聞かねばなほ刻本に從ふべし。海松一名新羅松、邦名をテフセンマツ又テフセンゴエフ、學名をピーヌース、コーライエンジスといふ。朝鮮に多き一種の五葉松なり。其子即毬果内の種子は芳香脂氣ありて味はた淡泊なり。近年市場に上りて人皆知れり。海松は元來寒地の産なる上に温泉岳には今此樹を見ざれど舊日本にても長野・山梨二縣には之ありといふ。温泉岳の景觀及植物群落は内務省編纂天然紀念物及名勝調査報告植物之部第八輯に見えたり。又温泉山神社即四面宮の事はかしのしづえ下卷などに出でたり
(1) 肥前國風土記新考後記
年も老い體力も衰へたから著述は播磨風土記新考を以て打切とするつもりであつたが人々に勸められて又肥前風土記と豐後風土記と西海道諸國風土記の逸文と古事記及日本紀の歌とを研究する事になつた。さてまづ肥前風土記を註して居る内に財團法人啓明會から前三者の研究に對して過分の補助を授けらるる事になつた。かくて今日までに成し遂げたのは肥前風土記の第三稿と豐後風土記の第二稿と風土記逸文の初稿とで記紀の歌にはまだ手が著けられぬ。例の如く表を以て示すならば
昭和六年一月十三日 肥前風土記註起筆
同 年三月十二日 猪熊本複製本受領
同 年五月 一日 徳富翁門下の乞に依りて「肥前風土記猪熊本に就いて」といふ一文を草す(蘇峰先生古稀祝賀知友新稿の發行は同年十一月)
(2) 同 年同月二十三日 肥前風土記開講(聽講を許ししは門人のみ) 同 年同月二十六日 肥前風土記註初稿完了
同 年七月 十 日 財團法人啓明會より研究補助の通知を受く
同 年九月 雜誌「歴史地理」に「肥前國風土記に就いて」といふ一文を發表す
同 七年七月 九 日 肥前風土記講了
同 八年三月二十三日 肥前風土記註第二稿起筆
同 年六月 十一日 同脱稿
同 年七月 十八日 第三稿起筆
同 年八月 十六日 同脱稿
西海道九國の順序は延喜民部省式では筑前。筑後・豐前・豐後・肥前・肥後等となり和名抄では筑・肥・豐となつて居る。余が肥前を先としたのは彼を斥け此に據つたのでは無い。肥前特に佐賀縣に知人が多くて肥前の方が參考とする地誌が獲やすさうであつたから、まづ肥前に手を着けたのである。後に豐後の地誌の方が多く手に入つたから第二稿の時には豐後(3)を先に書いたが豐後の初稿には肥前の初稿に讓つた事が少からずして、それを一々書改めようとすると取外しも出來るであらうと思はるる上に豐後を先とせねばならぬ理由も無いから肥前・豐後の順序で讀んでもらふ事としたのである
余は旅行が嫌といふでも無いが元來無性者で七年餘も岡山に居たが安藝の宮島にさへ行いた事が無い。まして九州の山川は遠望した事さへ無い。然るに風土記を研究するには地理を知らねばならぬから一昨年は夏休を利用して九州を一巡するつもりで略、隨行者も物色しておいた。待受けてくれた親戚もある。又九州には門人が少く無いが多くは未面の人々であるからそれ等に逢ふ事をも樂として居た。然るに同年の七月下旬に至つて血壓が急に昇り動悸が劇しく呼吸がせはしくなつて醫師から嚴重なる靜養を命ぜられたから旅行の計畫などは消滅してしまうた。汽車や自動車で駈けまはつたのでは何程の地理的知識も得られまいが、それでも地圖を按ずるよりはましであらうと思うたのに、かやうに旅行を停止する事になつたのは殘念ではあるが、これも神の御憐であらう。もし七月中旬に出發して旅中で右の發作があつたらば或は今日まで執筆を續ける事が出來なかつたであらう
(4)かくて地理の研究は專、地誌に據る事としたが今日までに一讀又は一見又は使用したのは僅に左の書籍である
日本地誌提要
洋装八冊、四六判。自明治七年至十二年刊行。元正院地誌課編纂
郡區町村一覧
一冊、美濃紙判。明治十四年出版。内務省地理局編纂
郡名異同一覧
一冊、美濃紙判。明治十四年内務省地理局編纂
市町村大字讀方名彙
洋装一冊、菊判。大正十四年發行。小川琢治博士著
日本地理志料
十五冊、半紙判。明治三十六年發行。邨岡良弼君著。和名抄中國郡郷里二部の箋註なり
大日本地名辭書
太宰管内志
(5) 洋装三冊、四六判。天保年間伊藤常足著。明治四十三年發行了
九州繪圖
一名九州九个國之繪圖。天明三年及文化十年刊各一葉
九州之山水
洋装一冊、大正十五年熊本營林局發行
肥前國風土記
一冊。古寫本複製本
肥前風土記
一冊。荒木田久老校正。寛政十二年刊行
標注古風土記
假装一冊、菊判。栗田寛氏標注。明治三十二年發行
肥前風土記の研究
假装一冊、四六判。松尾禎作君著。昭和六年發行
古事類苑地部三十二肥前國
(6) 佐賀縣誌
一冊、半紙判。佐賀縣教育會編輯。明治三十三年發行
住賀の栞
洋装一冊、四六判。大正十五年佐賀縣發行
佐賀縣史蹟名勝天然紀念物梗概
假装一冊、菊判。大正十四年同調査會發行
佐賀縣史蹟名勝天然紀念物調査報告
假装三冊、菊判。佐賀縣編纂。第三輯は昭和七年發行
佐賀縣寫眞帖
四六四倍判横綴一冊。明治四十四年佐賀縣發行
長崎縣紀要
洋装一冊、菊判。明治四十年發行
長崎縣史蹟名勝天然紀念物
假装七冊、菊判。長崎縣編纂。第七輯は昭和六年發行
(7) 神埼郡郷土誌
半紙判洋紙本二冊。大正四年發行
佐賀郡誌
仮装一冊、菊判。佐賀郡教育會編纂。大正四年發行
佐賀市誌
仮装一冊、四六版。大正十五年佐賀市役所發行
東松浦郡史
洋装一冊、菊判。大正十四年發行
松浦の家づと
美濃紙利一冊。岡吉胤著。明治三十一年發行
松浦がた
大本一冊。昭和二年唐津名勝宣傳會發行
西松浦郡誌
洋装一冊、菊判。大正十年西松浦郡役所編纂發行
(8) 平戸郷土誌△
假装一冊、菊判。大正六年平戸尋常高等小學校著作發行
五島通史第一輯
假装一冊、菊判。大正六年發行
長崎縣東彼杵郡誌△
洋装一冊、菊判。大正六年同郡教育會發行
大村地方郷土讀本
假装一冊、菊判。同研究會編輯。昭和六年發行
北高來郡誌△
洋装一冊、菊判。同郡教育會編述。大正八年發行
嶋原紀要
假装一冊、四六判。明治四十四年發行
二十萬分一帝國圖
外若干種若干冊。右の中にて書名の下に△を附したるは借覧せしもの、其他は南天莊第一(9)文庫所藏である
此書を著作するに際しても亦多く諸君の厚意に浴した。左に其人々の芳名を掲げるが或は漏したるもあるであらう
外山且正君・鶴見左吉雄君・副島八十六君・猪熊信男君・河村嘉一郎君・森繁夫君・蘆田伊人君・山田壽房君・河村二四郎君・八谷彌吉君・松尾禎作君・佐々木信一君・大村伯・松浦伯・柴田常惠君・關田駒吉君・柳田國男君・鈴木高蔭君・大隈信常侯・南弘君・川島令次郎君・中頭晟剛君・森銑三君・工藤壯平君・笠森傳繁君等
昭和八年八月十二日
〔索引省略〕
(24) 井上道泰博士著述(昭和三年以來公刊之分)
萬葉集新考菊判八冊 絶版
南天莊歌集 四六判一冊 古今書院 再版
南天莊墨寶 菊判二冊 絶版
南天莊雜筆 菊判一冊 絶版
播磨風土記新考 菊判一冊 大岡山書店
萬葉集難攷 菊判一冊 明治書院 再版
肥前風土記新考 菊判一冊 松要書店
昭和九年十二月五曰印刷
昭和九年十二月十日發行
肥前風土記新考 【定價金貮圓也】
東京市澁谷區青葉町一○
著者 井上 通泰
大阪市東區博勞町二ノ二二
發行者 松浦 貞一
東京市下谷區御徒町二ノ七八
印刷者 石野 觀山
東京市下谷區御徒町二ノ七八
印刷所 福壽堂印刷所
大阪市東區博勞町二ノ二二
版元 巧人社
振替大阪三四一七五番
電話船場三六六四番
2008年2月28日(木)午後3時43分、入力終了