風土の万葉
    伊予の高嶺のいざにはの岡
米田進(こめだすすむ)
 
 赤人の伊予の温泉の歌のこの表現も地理的に難解なものである。ただ過去の天皇の行幸を追憶しこれからも行幸地として神域らしくなっていくだろう、という歌で、地理と、反歌の「熟田津の船乗り」の実態以外は、ほとんど問題にされない。地理にしても武智説(後出)が定説のようになって70年近くになり、もはや忘れられた状態である。しかし、私は松山は地元でないし、二回行っただけだが、武智説には賛同できない。といってもわずかな違いだが、やはりその違いは無視できないので、以下述べてみたい。まず赤人の歌(塙本を書き下した、ただし「うちじのひ」とあるのを通説に従って「歌思ひ」とした。)。
 
   山部宿祢赤人伊豫の温泉に至りて作る歌一首井せて短歌
322 すめろきの 神の命の 敷きいます 國のことごと 湯はしも さはにあれども 嶋山の 宜しき國と こごしかも 伊豫の高嶺の 射狭庭の 岡に立たして 歌思ひ 辞思ほしし み湯の上の 木群を見れば 臣の木も 生ひ継ぎにけり 鳴く鳥の 声も 変らず 遠き代に 神さびゆかむ 幸しどころ
   反歌
323 ももしきの 大宮人の 熟田津に 船乗りしけむ 年の知らなく
 
 この歌は先述したようにただの追憶と想像の平凡な作であまり問題にされることもない。たしかにそうだが、細かく見ると赤人らしい表現のくせはよく出ていて、けっこう興味深い。そんななかで「こごしかも 伊豫の高嶺の 射狭庭の 岡」の地理が難解で、そのわかりにくさは、富士山の歌の「田子の浦ゆ打ち出でて」以上とも言え、未だに正解は見られない。
 犬養氏も山田説(後出)を取ったが、石槌山(松山からは見えないから当然だが)とか石手川上流方面の写真は『万葉の旅(下)』に載せなかった。私も道後温泉は二回も行ったが、石手寺あたりの平凡な丘陵の印象しかない。
 沢瀉は、武智雅一「『伊予の高嶺』私考」万葉第十六号、1955.7.15)を紹介しその説に賛同している。但し誤解している。その後伊藤博釋註では、武智説を正確に解して支持し、奥村恒哉「こごしかも伊予の高嶺」(国語国文第四十九巻第二号、のち『歌枕考』筑摩書房、1995.2.2に収録)を別途の考察として紹介する。また射狭庭の岡について、「温泉の裏にある伊佐尓波神社の岡と湯築城址の岡。もと一続きで湯の岡と称した。」と通説を簡潔にまとめた。武智説では、土屋私注、山田講義、武田全註釈の説を要約して私案を出し、奥村論文はそれを丸ごと踏襲した上で新見を加えた。今は武智説がほぼ支持されているが、奥村説も西宮全注に詳しく紹介され支持されている。
 
 武智説は山田講義の説とほとんど同じだが山田説が伊豫の高嶺は石鎚山で、その山の続きが道後温泉あたりに達したものとするのにたいしそれを変更して、石鎚山脈と高輪山地の総体を伊豫の高嶺と見なしている。大変短いもので、私のような奈良県人は二回行くだけでも大変だが、武智氏は地元の大学の教師だから松山あたりの地理風土には詳しいはずなのに、過去の説の批判が殆どで実地踏査の詳細がないのは残念である。結論は上述した内容に尽きるが、その根拠は、道後温泉あたりは石鎚山から遠く離れていて、全然見えないから、石鎚山の一部とは言えない(井上新考は十数里、山田講義は七里強、窪田評釈は七里、と言ったが、私の計算では34キロほどある)。射狭庭の岡背後の山々が、高縄半島の山々の麓にある事は確実だから、高縄半島の山も伊豫の高嶺と呼べばよく、要するに赤人は、石鎚山脈と高縄半島の総体を伊豫の高嶺と言ったのだと見なすことで解消する、というものである。それだと地理的には一応問題ないが、その場合、高縄半島の山だけを見て、「伊豫の高嶺」とは言いにくい。わずかでも石鎚山も共に見えていてこそ「伊豫の高嶺」とも言える。やはり山田説や古注の言う通り、ここは「石鎚山」と限定するべきだ。なお武智説との先後ははっきりしないが、窪田評釈も山田説と同じで「道後温泉とはほぼ七里を距てているが、その間、山脈が連亙して、しだいに低くなって、温泉の辺まで来ている。」とある。
 
 釋注が福見山、高輪山を出した。高輪山は離れているが、福見山1053mの東方の尾根には1217mの明神が森がありさらに東には高縄半島の最高峰東三方が森1233mもあって、かなりの山地で、石手川上流、奥道後の更に奧である。ネットの登山記の写真などでは稜線上から遠く離れた石鎚山が遠望できるが、やはり格の違う高さだ。福見山は松山市内からも見えるという。それら高輪山地の山はかなりのものだが、東三方が森と石鎚山脈との間は高度が下がり、標高300m程度の山が錯綜している。また東温市の重信川があり、これが石鎚山脈と高縄半島を大きく分けている。だから地理的な実感としては、武智説の言う通り、山田、窪田説は成り立ちそうもないのである。つまり石鎚山から連亘しているのではなく、高輪山地の石手川流域の山がしだいに低くなって温泉のあたりまで来ているのである。だからといって武智説にも欠点があるのは先述の通りだが、武智説で、海上より見る石鎚山脈・高繩山塊はまことにこごしき山だ、予讃線の車窓からは一層その感が深い、などと言い、最後に「温泉への道中矚目した連亘せる山並を念頭において「こごしかも伊豫の高嶺のいさにはの岡」と歌ひあげたものであらう。」と言ったのは興味深い。つまり、海上や予讃線の車窓から見ると、石鎚山脈と高輪山地は連亘しており、どちらもこごしき山で、赤人はそういう道中の眺めを念頭において詠んだというのである。ただし赤人が道中のどこでの眺めを念頭においたのか具体的に述べられていない。海上と言っても松山港は目前に興居島が横たわっており、その狭い海上から石鎚山脈がどの程度見えるのか心もとない。見えたとしても、石鎚山は相変わらず南東方向だから、高輪山地の山々(かなり高度があるし面積も広い)で大方隠れるだろうし、より遠くなってより小さく見えるから、高山としての迫力に欠けるだろう。また予讃線といっても、高縄半島をぐるりと廻っている間はほとんど見えないだろう。私の体験からすると大阪からのフェリーで西条の壬生川港に入る時の石鎚山脈の眺めはまことに圧倒的だ。また予讃線ではないが、松山道で愛媛県に入ってからは、左、つまり南側に屏風のような石鎚山脈が連なっており、全体に日影で暗いから、その深山的な風貌はものすごいものだ。つまり瀬戸内海の西条方面からの眺めやそのあたりの予讃線からなら、武智説の言うように見える(武田全註釈も瀬戸内の海上からの眺めの雄偉さを言っている)。今治を回って松山方面に出たらそんな眺めはないのである。赤人が瀬戸内海をどのように旅したのかは分からないが、西条あたりの海上(燧灘)を通ったであろう。そして孰田津に上陸して道後温泉近くに行き、西条あたりでの石鎚山脈の景色を念頭において詠んだということになる。武智説は高輪山地につらなる山々をどうしても、伊豫の高嶺と見なしたかったのだが、それはやはり実際の景色を叙した歌と見たかったからであろう。高輪山地だけでは不足なので、念頭の中の石鎚山も加えて、こごしき山の連亘と言ったのであろう(ただし赤人がどこで石鎚山を見たかは言っていなかったが)。
 
 この写生的な叙景という先入観に禍されたと思われるのが、もう一つの専論、奥村恒哉「こごしかも伊予の高嶺」である。武智説が引いた説などを長々と引用するので非常に冗漫である。武智氏は金子説と同じだというがそれは誤解である。伊豫の高嶺というのは、石鎚山と、特に道後の東北に近い高縄山、福見山、その他射狭庭の背景の山々を合わせて「こごしかも伊豫の高嶺」と言ったと言うのは武智説とほぼ同じであるが、その根拠が全然違う。「この赤人作歌は全く視覚に基づいて運ばれている。そうして現に、なだらかな丘陵しか目に入らないのである。目に見える光景に背反して、赤人が歌を作ると考えることは不条理であろう。」と、アララギ風の写生的な叙景歌論をだして、石鎚山の巨岩信仰を根拠として「こごしかも伊豫の高嶺」と言ったのだというのである。
 奥村説は、しつこいほどに、武智説などの先人の説を引用紹介し、批判したり支持したりするが、土屋説以外はみなどこかずれている。同じ議論を蒸し返すこともしばしばあるが、先人の説を正確につかんでいないから、一向に要領を得ない。よって詳しくたどることはやめる。
 結局、歌枕信仰発生説をだすための前置きとして先人の説を穿鑿しただけだと思える。そして「赤人は道後温泉の周辺の山々を見ているのであるが、同時に石槌山の神を見ているのである。「こごしかも伊豫の高嶺」を、石槌山の信仰と無関係に理解することは初めから無理であろう。単に地勢的に解釈しようとするから、さまざまな不条理が発生して解釈に窮することになったのである。」「「石槌山」の信仰を無視すれば、そもそも解釈が成り立たないのである。」と言う。ここで信仰に結び付けるのは、たとえ日本霊異記の話があるとしても飛躍であろう。石鎚山の巨石信仰(あの頂上のマチュピチュのような岩峰を見れば誰でも納得)があったのは事実だろうけれど、それが赤人の歌の背景にあると解くのは無理である。それは巨石とか目立つような石があるところだけの話で、道後温泉付近のなだらかな丘を、「こごしき伊豫の高嶺(の石神の居ます)射狭庭の丘」とするのは苦しい。「こごしき伊豫の高嶺」はあくまでも「こごしき石鎚山」のことであり、神のことではないだろう。「こごしき神」などというのはありそうにない。武智説を卓見と言いながら、眼前の実景にこだわって、無理な信仰説を出したと思うしかない。
 
 結論に移ろう。すでに述べたが、武智説とだいたい同じで、その不十分な所を調整しただけである。「こごしき伊豫の高嶺」はやはり山田説などのいうように石鎚山で決定であり、高輪山地も含めた一体の総称ではない。「高嶺」と言うのは岩波古語辞典などに「高い山」とあるが「ね」「みね」の原義に戻れば、大きく空に向かって聳える山頂とそれをとりまく山体ということだから、石鎚山と高輪山地をひっくるめて一つの高嶺とは呼べないだろう。高輪山地は石鎚山脈からはかなり離れており、一つの独立した山地で中心となる山もある。
 ついで武智説は赤人は旅の途上で石鎚、高輪の山々を見その体験を念頭において詠んだと言うが、どこで見たかは言わない。これは上述のように、西条沖から見たものというしかない。大阪南港から西条の壬生川港(東予港の一部)へフェリーで行って朝入港の前に見た石鎚山脈はまさに圧倒的であった。何重もの山脈の後ろに高く聳える姿は、ネット上の壬生川港からの写真でも迫力充分だ。武田全註釈が内海からの眺めといったのもこのことだろう。
 わずかこれだけの修正だが、赤人が道後温泉あたりで眼前の低い山々を見て、念頭の「こごしき伊豫の高嶺」と「射狭庭の岡」とをどう結び付けたのか。武智説なら、奥道後あたりの山々をみて、それを「こごしき伊豫の高嶺」の一部として、「こごしき伊豫の高嶺」と呼び、それの麓の「射狭庭の岡」ということで一応は通じる。しかし、眼前の奥道後あたりの山は、「こごしき伊豫の高嶺」ではないとすると、赤人は完全に、「こごしき伊豫の高嶺(西条からの眺め)」を心象としてのみ念頭に置き、それの連亘した(実際は連亘していないが)奥道後の山々の麓の「射狭庭の岡」と見て詠んだと言うことになる。これで歌の解釈として通じるだろうか。歌を読んでみよう。
 
  すめろきの 神の命の 敷きいます 國のことごと 湯はしも さはにあれども 嶋山@の 宜しき國と こごしかも 伊豫の高嶺の 射狭庭の 岡に立たして
 
神としての天皇が治めている国々に温泉は多いけれど、その中でも島山のすぐれた国の岩のごつごつした伊予の高嶺の射狭庭の岡にお立ちになって、
 
取り敢えずここで切れば、人麻呂以来の天皇讃美の型に従い、神としての天皇の治める国々に温泉は沢山あるが、中でも……といいながら、「岡に立って」で中断し、受ける言葉がない。続いて後半の「歌思ひ 辞思ほしし み湯の上の木群」となって、主題が過去の天皇達が歌辞を思ったことになり、その場所として「み湯」と出るだけで、温泉そのものはおおかた無視されており、肩すかしである。温泉も有名だが、その温泉のある伊予の国は島山のすぐれた国で、なかでも「伊豫の高嶺」はすばらしく、ここ射狭庭の岡では、そのすばらしい山は残念ながら見えないが、近くの山々から南東方向には多くの山があり、その先には「伊豫の高嶺」があるはずである。その高嶺を背後に持つ射狭庭の岡と言うことになるだろう。つまり「射狭庭の岡」を讃美するために、見えないのをちょっと無理をして、誰もが知る「伊豫の高嶺(石鎚山)」を持ち出したのではないだろうか。実景の描写と言うより、美文的Aに構成的に練り上げた表現と言うことであろう。だいたい「島山の宜しき国と」というのは「伊豫の高嶺」の前提として出したものだが、道後温泉のある岡を言うためなら特に必要のないものである。実際、瀬戸内海の山陽方面に比べて、四国は山が目立つ。播磨からは阿波の高峰群が見え、讃岐にかかると、五剣山、屋島の印象的な山があり、金比羅近くの飯野山なども見事であり、伊豫になると、新居浜、西条とまさに海近くに連なる高山群は伊豫を代表する絶景である。赤人は四国北岸沿いに船旅をして、伊豫の高嶺を見て、四国の中でも特に島山の宜しき国と思ったのであろう。
 
  歌思ひ 辞思ほしし み湯の上の 木群を見れば 臣の木も 生ひ継ぎにけり 鳴く鳥の 声も 変らず 遠き代に 神さびゆかむ 幸しどころ
    反歌
  ももしきの 大宮人の 熟田津に 船乗りしけむ 年の知らなく
 
後半は、射狭庭の岡の森で、かつて行幸した聖徳太子や舒明、斉明天皇の事績Bを思い出して、古さを思わせる大木や鳥の声に、これからも末永く神々しくなってゆくだろう、この行幸のあった岡よ、というわけだ。反歌では熟田津での大宮人の船乗りを想起し、それもいつのことか分からない、という。ただ、森と木と鳥と港だけは明瞭だが、ほかは漠然と昔の天皇や大宮人を思い歴史のながれを思うだけだ。赤人は、樹木や鳥の声や歴史が好きだったというだけだが、あっさりとしていながら、石鎚山の岩峰から、温泉、古跡の森、古木、鳥、港、と言った風に、まんべんなく配布して急所をはずさない。そして反歌では、赤人らしく射狭庭の岡に至る前に戻って熟田津をだしてくる。このあたり武田全註釈の評語が参考になる。「この歌にも、事物に對して時間的に觀る作者の特性があらわれている。同人の富士山の歌と比較して、その一致せる所に注意すべきである。すなわち過去の事實を囘顧し、將來に期しているのであつて、全く同一手段に出ている。詞句も美しくよく、整備されている。殊に樹木と鳥聲との現?を描寫した句は、美しくかつ效果が多い。これも赤人の名作の一である。」
 過去の天皇の遺跡や歴史も含めた伊豫讃歌としてそつがないできである。ここまで簡潔に構成するのはさすがに歌の技巧家赤人である。ということで、窪田評釈の言うように、島山の宜しき国のその山の代表として石鎚山(1982m)を出し、その後で、それを背後に持つ射狭庭の岡に焦点を絞り、旧跡の自然や歴史に及んだ構成と言える。
 
注、
@「島山」の語義について二つに分かれている。時代別は「水に臨んだ地の山」として赤人のこの歌を例に引いている。これは明らかに武田全註釈の説で、武田は詳しく論じている。一方岩波古語辞典は「島と山と」として同じく赤人のこの歌を例に引いている。これだけ違うのは珍しい。土屋私注は「島となつて居る山の意であらうと言はれるが、今見る實地の地形から推せば、島と山の意である如く感ぜられる。」と言う。今は土屋説の方が有力のようだが、実地の地形というのが具体的にどこを指すのか分からない。道後温泉の付近とすればそういう感じはしない。島は松山港前に幾らでもあるが、山は貧弱だ。西条の場合、燧灘の一部で島はほとんどない。今治まで行けばまた沢山あるが。それに、島と山のすぐれた国というが、石鎚山のすごさとは比較にならないし、歌でも石鎚山の印象が強く、島のことは出てこない。ということで全註釈の説に随う。
A土橋寛「万葉開眼(上)」1978.4.20、で、神岳に登って詠んだ歌について「六朝詩の美辞麗句の羅列を文学と考えた形式主義の悪い影響」と言う。それはこの伊豫の温泉の歌にも言える。
B風土記逸文(古典大系による)では、行幸や碑文について詳しく記しているが、その碑文の中の「山岳(やま)の〓〓(いはぎし)窺ひ望みて」を石鎚山を望んだとする説があるが(新編全集)、古典大系の頭注に「温泉のあたりの岩崖」とあるのがよい。温泉の近辺を描写するのに、遠く離れた石鎚山のでてくるわけがないし、岩崖も見えるはずがない。今温泉周辺に目だった岸壁はないようだが、小さいものなら温泉周辺にもあるし、地形の変化ということも考えられる。
 
参考
 私のを含めて、かなり無理したような説が出るのは、「伊豫の高嶺の射狭庭の岡」という表現の「の」に原因がある。この「の」の場合、伊豫の高嶺と呼ばれる山の範囲内に射狭庭の岡があるという意味にしか取れないが、その岡は、伊豫の高嶺(石鎚山)からは遠く離れており、しかも全く見えないので、そういう意味にはならない、というもので土屋私注が唱えたものだ。私は、「伊豫の高嶺の」は実景を描写したものではなく、ただ説明的(概念的)に加えたものだと考えた。ところが、最近山口佳紀氏が「萬葉集研究第四十二集」、2023.3.25の「ヨハ(夜半)考――『万葉集』における「三更」の訓みをめぐって――」で、「すなわち、「あかとき闇」と「朝影」との時間的関係は、前者の中に後者が含まれる関係ではなく、前者の後に後者が来るという関係である。
 もともと、<名詞(A)+ノ+名詞(B)>におけるAとBとの意味的関係は多様であり、<Aの後に来るB>という関係もあり得る。要するに、「夜半の暁」という表現は、「夜半」に続く「暁」という関係を表わすものと解されるのである。」と主張された。時間の表現は空間の表現と共通することが多い。これだと、伊豫の高嶺の中に射狭庭の岡が含まれると言う関係でなく、伊豫の高嶺の前方とか近くに射狭庭の岡があると考えることも出来る。つまり実景ではなく説明であるという見方が「の」の意味から出てくるのであって、無理な操作をしなくても済む。もちろん、山口説が認められるかどうか、認められたとして、空間にも応用できるものかどうか、それはわからない。だから参考とした。
             〔2023年10月10日(火)午後8時10分、成稿〕
 
風土の万葉
    赤人歌の「田子の浦ゆ打ち出でて見れば」
米田進(こめだすすむ)
 
 赤人の歌を読んでいくと、空間の表現に特異なものがあり、解釈の定まらないものがしばしばある。仮構性、観念的、構成的、非実景的、対句表現の巧妙な工夫、といった坂本信幸氏の指摘された赤人の歌風(1)の具体的な一面を示すものと言えるだろうが、風土的地理的な追究をすれば、特異とみえるものも、赤人の方法によったものかも知れず、赤人文学の理解を広げるよすがとも成るであろう。ここではそれらのうちから「田子の浦ゆうち出でて見れば」の問題を考えてみたい。
 
 言うまでもなく巻3、山部宿祢赤人望不盡山歌一首并反歌の反歌
318、田子の浦ゆうち出でて見れば真白にそ富士の高嶺に雪は降りける
にある表現で、「田子の浦」の比定、それと「ゆ」の解釈とから、どういう行動でどこで、富士の降雪を見たかということが問題になる。新古今集では「田子の浦に」となっていて、よくわかるのに、万葉では「田子の浦ゆ」となっていて、その「ゆ」の意味がはっきりしないのである。ということで、地理と助詞の研究がこの歌では問題であった。長歌との関係も必要だとは思うが補説で触れる程度にする。
 地理については、沢瀉久孝の『万葉古徑一』(中公文庫、1979年、原本1941年)の説が広く支持されている。つまり薩[土+垂]峠の麓の岬のような所から、由比、蒲原、富士川河口の右岸(吹上浜)までということである(注釈ではなぜか岩淵までとなっている)。別に、薩[土+垂]峠の西の清見、興津の海岸からとするものもある(2)。これはなぜそう考えるのかはっきりしないが、無理だろう。清見、興津、清水、三保あたりはそれだけで一つの浦を成している。だいたい万葉集には、〜浦、と言う地名がかなり多いが、一つの港を中心とした前後の小さい範囲を言うことが多く、〜浜、とも言えるようなのが多い(浦=港説は土屋文明が既に言っている(3))。港を二つ以上抱え、岬を挟んで両側に広がるような大きな浦などは詠まれない。そういう点から言えば、土屋文明(3)がいうように、通説の田子の浦よりももっと狭く、由比川右岸のあたりと見るのが良いだろう。これらは「ゆ」の解釈とも絡んでくる。
 
 次ぎにその田子の浦と富士を見た場所との関係はどうかと言うに、かなりややこしい。助詞「ゆ」との関係で論じられることが多いが、実際の地理との照合(つまり現地調査)の不十分なものが多い。沢瀉『古徑一』(以下この略称による)は、岩波古語辞典にいう「A動作や時間の経過点をあらわす。…を。…を通って。)(例の人麻呂の痛足の川ゆ…を用例で出す)」の意味だとするが、なぜ岩波古語辞典の@の起点の意味では駄目なのかが説明されていない。『古徑一』が「痛足の川ゆ(岩波古語辞典の用例)」を出さないで「夷の長道ゆ」を出す理由は分からないが、不自然なのは、「夷の長道」をずっと恋しながらやってくる(恋という行為の経過点が夷の長道)というのと、田子の浦の海岸を経過中、展望を遮っていた山裾などを回り込んで開けたところに出て見ると富士の降雪が見えた、というのとでは意味の質が違うと言うことだ。「田子の浦」は「打ち出でて見る」という動作の経過点ではないだろう。漫画的だがエックス(もとのツイッター)のエンドレス再生のように、山裾を回り込む動作を田子の浦の端から端までずっとし続けるなどというのは不可能である。沢瀉の言う回り込める山裾などほとんどない。だいたい「ゆ」の意味からして今言ったように成り立たない説だが、現地の地理からしても、田子の浦の地域内で、富士がよく見える場所など無い。そういう地理的な条件からも無理な説である。にもかかわらず今ではこの沢瀉の経過点説が定説と言っていいほどに支持されている。ただし、田子の浦のどの地点を回り込んだかでは説が分かれる。
 
 沢瀉以外の経過点説について森本説((1)の注で触れた書にある)、そして実地調査による説として、犬養説と土屋説を見てみたい。
 森本は、まず田子の浦を富士川河口から西、薩[土+垂]峠あたりまでの海岸とし、この地点ということが重要だとする。そして「ゆ」については「或る場所を過ぎてゆく経過するの意」だとする。次ぎに「「打出でて」というのは、廣々とした處へ出る意だと思ふ。」とする。眺望の聞かない薩[土+垂]峠の峠道から海辺へ出、その海岸を歩み続けて富士山を見たとするわけである。「ゆ」の意味は岩波古語辞典のAと同じである。ところで、これだと「田子の浦を歩み続けて、広々としたところへ出た」となるが、これでは「ゆ」の意味が合わない。「ゆ」はあくまでも、通過点、経過点であって、それはある動作の経過点ということであって、「ゆ」だけで「歩み続ける」とか、経過するといった動作の意味はない(4)。だから、薩[土+垂]峠の麓の海岸から由比にかけて歩み続けている時に、見晴らしのいいところに出たという解釈にはならない。ある連続した動作をしながら通過した場所、経過した場所を示すのが「ゆ」の意味である。ここでも沢瀉説への批判と同じことが言える。森本説が「ゆ」を「に」の意味にとって、新古今集のように「田子の浦に出てみると」とするほうがはるかに分かりやすいのだがと、未練そうに言ったのも、「経過点」の方だと苦し紛れの説明になると分かっていたのだろう。つまり氏は、田子の浦を経過して(歩み続けて)、ある見晴らしのいい田子の浦に出てみると、と言った解釈をして、これは変な解釈だと気づいていたのであろう。
 次ぎに最近の注釈書で、名指しはしないものの、多くの支持を得ている犬養孝氏の『万葉の旅(中)』(社会思想社、1964.7.30)を見てみよう。氏は薩[土+垂]峠からの眺めを詠んだものとする。真淵以来、薩[土+垂]峠の麓の海岸を通過するようにしていたのを、犬養氏は興津川の途中から山中に入って峠を越す道としたわけである。赤人はどちらをとったか、それはわからない。峠越えだったとしても、結論は同じである。薩[土+垂]峠の麓は私は通っていないが土屋文明(3)も言うようにほとんど見えないであろう。そして山中に入って峠に出たところはさすがに高度があるだけに大きな伊豆半島と駿河湾の入り海を前面にして雄大な眺めだが、肝心の富士はパノラミックな風景の中の小さな部分に過ぎず、それも中腹以上が見えるだけであって、とうてい赤人の、特に長歌の表現には合わない。薩[土+垂]峠からではまだ富士へはかなりの距離がある(直線で約34キロ、なお七難坂からは約26キロ)。ところが、そういう肉眼で見た実際の風景が、氏の写真には出ていない。一番問題なのは、富士の頂上部分をかなり拡大しているということだ。撮影時に望遠レンズを使った可能性が高い。肉眼ではあのようには見えない。犬養説を支持する人たちは実際に薩[土+垂]峠まで行かず、あの写真を見て判断したのではないだろうか。犬養氏は沢瀉に言及しながら、沢瀉の地理説には触れず、「ゆ」の意味にも触れない。起点説になるはずがないので経過点説だろうが、その説でなぜ薩[土+垂]峠説になるのかわからない。薩[土+垂]峠に出てもそこはかろうじて田子の浦の西端にすぎない。それで「ゆ」の意味に合うのだとすれば、それは経過点でも起点でもなく「に」の意味である。つまり新古今集の意味にとっているのである。薩[土+垂]峠からの富士の眺め(御坂峠、乙女峠にならぶ眺望の名所だというが、それは富士の全景ではなく、由比、蒲原の入江、大きな伊豆半島、駿河湾の美しい海、などの組み合わさった総合的な美景なのである)こそが赤人の見たものに違いないという事だけを最優先した結果、「ゆ」の意味や長歌との総合的な歌の理解が不十分になったものと言わざるをえない(『万葉の風土』1956.7.3所収「赤人の不盡山歌の構成」初出1948.11・12、に長歌短歌を構成的に論じたものがあるが地理的な観点はない。)
 実地踏査によるものでは、数少ない起点派の土屋説(3)を見る必要がある。「ゆ」については一応沢瀉説に従い、真淵の薩[土+垂]峠の岸をめぐったところが「打ち出でて見れば」の場所だという説を示して、そこは眼前の丘陵の上に頂近くを若干あらわして居るだけなので「打ちいでて見れば真白にぞ」といふ感動には当たらない、と言っている(真淵は薩[土+垂]峠を越えていない)。肉眼で見れば全くその通りだろう。峠と海岸では高度差があるが、わずかなものだ。つまり犬養説は否定されるのだ。土屋説の方が歌の理解は深いということでもある。そして、蒲原から岩淵への丘陵部を越えたところで、頂上から山麓富士川まできれいに見え、そここそが「打ちいでて見れば」の場所だとする(実地踏査後調べて七難坂だとする)。これはその通りで、間然するところがない。同じ実地踏査でも犬養説より土屋説の方が合理的で客観的である。犬養氏は「草ぼうぼうの峠道」趣味が強すぎるのである。そして「ゆ」は古義の言うような出発点の意味でよいとする(初めは沢瀉説を支持していたのにここで突然否定するが、何故かその説明がない)。それにしても土屋説の出たのが1943年、それ以後土屋説を支持したものがないのは不思議だ。そして土屋説を知っていながら、それを検証せず、まず薩[土+垂]峠ありきとした犬養説を支持する人が多いのも不思議でる。
 
 すでに地理の所で沢瀉『古徑一』にふれたが、ここで『古徑一』で大きな分量を占めている「ゆ」の説明と地理の所で説明し残した所を見よう。
 随分多くの説を紹介しているが、森本説は漏れている。その中で、吉澤説の紹介が面白い(「ゆ」を起点として田子の浦から出て見るでは、何処へ出たのか分からないと言っている)が、それについての沢瀉の意見はない。
 「ゆ」の解釈では、「ゆ」以外のも含めて大量の用例を出し、「ゆ」「よ」「ゆり」「より」「を」「に」などまで言及しているが、やや脱線気味で、かえって「経過点」ということの説明があいまいになる。結局「を」で訳すのが一番いいとする。つまり辞典の訳と同じなのだが、「を」と訳しても取りようによっては、経過点にも起点にもなるので、一番いい訳を見つけ出しても、それだけでは解決しないのである。おまけに、「を」と訳しても、江戸時代からの説にあるように「に」の意味を含ませてもいいのだといった煮え切らない言い方をする。極端に言えば、「ゆ」は経過点の意味だが、明瞭に経過点の意味であるものから、どのようにでも取れるものまで幅があり、鑑賞次第だと言ってるようなものである。そして「田子の浦ゆ」の場合は明瞭な経過点だというが、「由比、蒲原の濱邊の道を、山かげにそうて歩いてゐたのである。そしてその山かげから打出でて、さへぎるものもない中天に、秀麗な富士の高嶺をうちあふいだ時、おのづからにして「田兒の浦ゆ打出でて見れば」の句が成つたのである。」という。そして作歌の位地を眞淵の言う薩[土+垂]峠東麓ではなく、蒲原の東、吹上濱近くと見る方があたつてはゐないか。」という。「を」で訳すのがいいといいながら実際には山陰から吹上浜に出てというように「から」と訳し、経過点といいながら、田子の浦の東端吹上浜近くから見たのだろうというなど、やはり曖昧な結論になっている(「を」では訳せないということになる)。吹上浜では、西端の薩[土+垂]峠と同じで、もう田子の浦を経過点とすることはできないだろう。田子の浦を経過中山かげを回り込んだのではなく、山陰を回り込んで田子の浦を行ききったところで、となり、だから「さへぎるものもない中天に、秀麗な富士の高嶺」と言えるので、結局土屋説とそう変わらないことになる(しかし吹上浜とは思えないようなことも言っており沢瀉説は朦朧としている、補説参照)。それにしても沢瀉説を支持するような説が多い中で、吹上浜説を支持したようなものが見当たらず、犬養説(沢瀉が否定したもの)を支持するものが多いのはどういうことか。沢瀉説では山陰を回り込んで吹上浜に出、犬養説では薩[土+垂]峠に出て富士山を見る。どちらも「ゆ」の意味と「田子の浦」の地理に合わない。結局、「ゆ」を起点の意味とし、由比を起点としての田子の浦とみなし、七難坂の見晴らしのいいところで、その田子の浦から出て巨大な富士山を見たとする土屋説が一番合理的である。なお、その富士川河口左岸の今の田子の浦からみた写真などを見かけるが、犬養説の望遠レンズの逆で、こちらは広角レンズを使っているのではないかと疑われる。私が肉眼で見たとき(富士川鉄橋あたりの鉄道の車窓から)はもっと圧倒的だった。乙女峠と御坂峠は私は知らないが、写真を見るとやはり小さく感じる。どちらも行ったことがないので断定できないが。
 以上で、「ゆ」の意味と地理的な条件から、土屋説が正しいと結論する。
 
注、
(1)「セミナー万葉の歌人と作品、第七巻、赤人虫麻呂」2001.9.30、所収「山部赤人論」。、「春の野にすみれ摘みにと来し我そ野をなつかしみ一夜寝にける」について、その「仮構性も、実景の直叙に向かわない赤人の構成的・観念的詠法によって醸し出された赤人の歌風として、長歌における表現の彫琢をもとに確立したものといえよう。」と言われたが(対句表現の工夫については、この引用の直前の吉野讃歌の論の中にある)、その表現の彫琢に、富士の山を望む歌の長歌も寄与しているだろうし、「田子の浦」の反歌にもその歌風は影響していよう。田子の浦の反歌の場合、仮構性と言うほどではないが、田子の浦から展望の開けた所へ出たと言っても、なぜ田子の浦なのか、なぜそこに居たのか、展望の開けたところとはどこか、といった実景の直叙がなく、構成的・観念的な印象が濃厚なのである。坂本氏の評に似たものは、富士山歌の評において、他にもある。森本治吉氏「山上憶良・山部赤人」谷馨氏との共著、1938.8.20、厚生閣、88頁。「現實の富士山を歌つてゐない」「富士の偉容を表現する…配列したものに過ぎない。」「富士の實景を一度離れて」「構成物である。」など、これらは富士の山を望む歌の長歌の評釈中のもので、評語に共通性がある。鈴木日出男氏「山部赤人の技巧」『万葉集を学ぶ第三集』1978.3.15所収、「叙景とはいえ実在の自然、あるがままの自然ではない。対句による風景叙述…実際を越えた空間的・時間的な広がりを示して、むしろ想像の次元に属するのである。前掲の「春日山」の歌などでは…理想の風景に近い。…無意味無価値…当たらない。…心象風景として、…理解すべきではないか。…非事実としての自然を叙述しようとする自由さが、…すぐれた叙景歌を生み出したといえる。」長くなったがすぐれた評といえる。『註釈万葉集《選》』1978.12.20、橋本達雄氏担当317番の評より「赤人の狙いは叙景にあったのではなく、実際に即しながらも富士の神性を観念的・綜合的に讃えるために、内容的にも構造的にも均衡を保たせ、整然と歌うことにあったのである。そのように全体はすっきりとして爽雑物がなく、みごとなプロポーションを保っている。ここに赤人の歌の特性があり、簡浄な富士の姿と見合う美しさがある。」「反歌は…長歌との関連で見る視点も忘れてはなるまい。…。いわば長歌で観念的に歌ったことを現実的写実の手法をもって、直接的に単純化して歌ったのだということになる。したがって赤人が富士を見た第一印象はむしろ反歌の方にあって、これを再構成したのが長歌だという見方もできよう。」長歌のみ評したのが多い中でこれは反歌にも及んでおり貴重である。五味智英『萬葉集講義――第一巻』1985.9.20、「現実には、白雲が行きはばかるのは富士のせいでないかもしれない。まあ、この場合は、かなり現実性も真実性もあるわけですが、「渡る日の 影も隠らひ 照る月の 光も見えず」というようなところになると、何か、赤人が大げさにものを言っているような気がなさると思う。それは、そうではなくて、富士の大きさというものの真実をとらえた表現が、こういう詞句になっているわけであります。」長々と引用したが、どれも省くには惜しい評である。
(2)『古徑一』が多く引用した中の『東海道名所図会』に「田籠あるひは田児とも書す都て清見興津よりひかし浮嶋原迄の海邊の惣號なるへし」とある。新編全集に「興津の東方から由比を経て蒲原に至る海岸をいう。」とあるのはこれに近い。ほかに多田全解では興津から薩[土+垂]峠を越えたとして、興津を田子の浦としている。多田全解ははっきり経過点説をいいながら起点説のようにも見えるのは奇妙であり、興津の小部分だけを田子の浦とするのも理解しがたい。
(3)『萬葉紀行』1969.9.26、白玉書房、初版は1943年。81頁「「うら」は入海であり港であり、同時に港に出來た聚落の場合もあらう。」「由比川の右岸…町屋原に田兒の浦を限定したい…。」和名抄(勉誠社文庫1978年)でも「浦 四聲字苑云浦大川旁曲諸舩隱風所也」とあり土屋説を裏付けている。和名抄郷名では、「河内豊浦」「駿河宇良」「相模御浦」「武藏鮎浦」「陸奥宇良」「隠岐宇良」「筑前内浦」があり、多くはないがあることはある。
(4)岩波古語辞典の経過点の語釈で、「…を。…を通って。」とあり、後者は紛らわしい。森本説でも「田兒の浦を通つて、といふ意味である。」とある。しかし、経過点というからには、その点は名詞でなければならず、「…を通って」というのも、通るという動作ではなく、「…を通して」とか「ずっと」という意味でなければならない。森本説も沢瀉説と同じく「ゆ」の意味を正しくつかんでいないといえるのである。
 
補説一(本論では簡潔すぎるので繰り返しも含むが補説を付ける。)
 「田子の浦ゆ」の「ゆ」の経過点説(沢瀉説、森本説)については、助詞の意味として成り立たないと述べたが、ここで具体的に沢瀉『古徑一』の出した用例を中心に検討を加えたい。
 今の場合「浦ゆ」の例を先ず見ると、その「ゆ」の意味については、〜から、という動作の起点をあらわす(岩波古語の@用例15-3599磯廻の浦ゆ)例ばかりと思えるが、動作の経過点をあらわす(岩波古語のA、用例7-1100)とする説の例もある。ただし、集中、「浦従(うらゆ)」という表現は、巻3に3例、巻7に1例の、計4例(巻15の宇良由を入れると5例)で、大変少ない。
イ3-246、芦北の野坂の浦ゆ船出して水島に行かむ波立つなゆめ
ロ3-318、田子の浦ゆうち出でて見れば真白にそ富士の高嶺に雪は降りける
ハ3-357、縄の浦ゆそがひに見ゆる沖つ島漕ぎ廻る舟は釣りしすらしも
ニ7-1172、いづくにか舟乘りしけむ高島の香取の浦ゆ漕ぎ出来る舟
ホ15-3599、月読の光りを清み神島の礒廻の浦ゆ船出す我れは
このうち、イハホは起点を意味する「ゆ」だというのが定説で、ロニに経過点とする説があるのだが、イハホはそれぞれ「船出し」「見ゆる」「船出す」とあり起点であることは間違いないが、ロもまた「うち出で」とあり、イホの船が浦(港のあるところ)を出るというほど明瞭ではないが、起点としての「ゆ」であると思える。ニは沢瀉をはじめ経過点とする説が目立つが、「漕ぎ出來る」という動詞を使っているところを見ると、起点の「ゆ」と見ていいだろう(多田全解は起点とする)。経過点とする説は、最初に船乗りしたところから香取の浦を通って、としてこれを経過点の意味とするようだが、それだと、香取の浦の沖を経過したのではなく、香取の浦(港)から出て経過するというような曖昧な意味になる。船旅が別の港を経由するのはよくあることで、その経由地の香取の浦(港)を新たな起点としてそこから漕ぎ出てきた船を詠んだというのでよく分かる。経過と言えば連続した動作になるが、経由といえばある点の動作だけを意味することになる。「香取の浦を経由点としてそこから漕ぎ出てくる船」ということである。つまりすべてに「〜から出る」という意味がある。「見ゆる」というのも、357番の赤人の歌の場合、見た場所は点としての繩の浦であって、経過点としてのある程度の距離を持ち、移動する動作が行われた場所ではない。経過中にずっと沖つ島の釣船を見たのではないのである。
 5例では余りに少ないので、他の「ゆ」の例を見よう。
ヘ7-1100、巻向の穴師の川ゆ行く水の絶ゆることなくまたかへり見む
これは経過点の例として代表的なもので、沢瀉注釈では「卷向の痛足の川を流れゆく水のやうに…、「川ゆ」は川を通つて、」とある。場所は、〜浦(多くは港)ではなく、穴師の川である。川は普通、点ではない。そこでの動作は、出る、見ゆ、ではなく「行く」である。上流から下流へ、あるていどの長さのある経過点を、水が流れ行くのである、これを起点と見ることは出来ない。だから定説である。他に沢瀉が挙げたものから。
ト14-3522、昨夜こそば子ろとさねしか雲の上ゆ鳴きゆく鶴の間遠く思ほゆ
これが起点でなく経過点であることは明らかだが、場所は、雲の上、で、起点としては漠然としすぎていて、空というのと変わらないのであり、動作は「鳴きゆく」で、前のと同じく「ゆく」がある。
 経過点に似たものとして沢瀉が出すもの。
チ10-2314、巻向の檜原もいまだ雲居ねば小松が末ゆ沫雪流る
これは、場所が、小松が末、で小さな点であり、動作は、流る、で、経過点というより起点と取りたい。雲がかからないのだから、雪が降っていても見えないほどの小雪なのだが、小松の枝先から、その緑を背景に、風に乗って雪が流れ出るように降っているのが見えたのであろう(沢瀉『古徑一』はこのように解釈しながら経過点と言う)。
リ3-255、天離るひなの長道ゆ恋来れば明石の門より大和島見ゆ
沢瀉説では「を」に訳せる例(つまり経過点の例)として出した。経過点を示す例として辞典などに必ずといってよいほどに引用される、代表的な例である。場所は、長道、で相当長い距離だから、経過点にちょうどよいし、動作は、恋来る、で、トの「ゆく」にたいして「来る」だから、長道をずっと恋しながら来るという連続する動作である。
ヌ15-3691、……はしけやし 家を離れて 浪の上ゆ なづさひ来にて あらたまの 月日も来経ぬ……
場所は、浪の上、で、トの雲の上と同じく空間的な広がりがあり、動作は、なづさひ来る、だから、これまた、来る、である。浪の上をずっと難渋しながら来るという連続する動作である。沢瀉はチリヌを経過点の例に似たものとして出したが、チは起点の例になる。
 経過点か出発点か決めがたいとして沢瀉が出すもの。
ル8-1476、独り居て物思ふ宵に霍公鳥こゆ鳴き渡る心しあるらし
ヲ8-1491、卯の花の過ぎば惜しみか霍公鳥雨間も置かずこゆ間鳴き渡る
ワ10-1959、雨霽れの雲にたぐひて霍公鳥春日をさしてこゆ鳴き渡る
ルヲを沢瀉は起点のようだというが、こ、は、狭い点とも広い場所とも決めがたい。動作が、鳴き渡る、だから、行くという意味に取れ、経過点としたほうがよいようだ。この上空をずっと鳴きながら飛んでいくということである。ワについては沢瀉も経過点だろうという。ルヲには春日というような目的地がないが、目的地がはっきりしなくても上空をどこかを目指して飛んでいくのである。
カ11-2805、伊勢の海ゆ鳴き来る鶴の音どろも君が聞こさば我れ恋ひめやも
沢瀉は、浜から離れていると出発点、浜に出ていると経過点、という。場所は、伊勢の海で、かなり広い空間だ。動作は、鳴き来る、で来るがある。つまり今までの例だと、こういうのは経過点となる。浜から離れていても、伊勢の海は広い。伊勢の海が鶴のたまり場ということもないだろうから、やはりそこを起点として鳴いて来るのではなく、もっと遠くから、伊勢の海をずっと鳴きながら飛んで来るということで、浜からの遠近に関係なく経過点と見るべきであろう。
 「を」というよりも「に」に近いものとして沢瀉の出した例も見てみよう。
ヨ10-2224、この夜らはさ夜更けぬらし雁が音の聞ゆる空ゆ月立ち渡る
ルヲワの、鳴き渡る、に似た、立ち渡る、で、場所も、雲の上、に似た、空、で、雁の鳴き声が聞こえる空をずっと月が移動していくということで、問題なく経過点である。
 沢瀉はここで「心ゆ」の例を出しているが、具体的な場所とは言いにくく、今の場合不要だろう。
タ7-1194、紀の国の雑賀の浦に出で見れば海人の燈火波の間ゆ見ゆ
レ10-2166、妹が手を取石の池の波の間ゆ鳥が音異に鳴く秋過ぎぬらし
ソ11-2753、波の間ゆ見ゆる小島の浜久木久しくなりぬ君に逢はずして
ツ12-3167、波の間ゆ雲居に見ゆる粟島の逢はぬものゆゑ我に寄そる子ら
「波の間」はちょっとイメージしにくいが、「波間」だから波と波の間、狭い場所でいいだろう、波は普通たくさんたつものだが、それでも一つ一つの波の間を想定すればよい。動作はレ意外は「見ゆ」で、赤人の「繩の浦ゆそがひに見ゆる」と同じ型だから、起点でよい。沢瀉は「浪間従は「より」「から」でいいが、「に」とも取れる。」と言っているが、そう今風に取らなくても、起点の「から」でよい。レの「鳴く」はちょっと変わった動作だが、鳴くのが聞こえる、で、「見ゆ」の視覚を「聞こゆ」の聴覚に代えたと思えばよいだろう
ネ3-319、……こちごちの 国のみ中ゆ 出で立てる 富士の高嶺は……
場所は、国のみ中、という点で、動作は「出で立て」だから、「出」を含んでいる。つまり起点である。沢瀉は「「従」は「に」ではなく、「から」で、山田講義に動作の出自を示すとあるが、一概にそうとも言えない、「に」で取れる。山が地面からにゅっと突き出るというのはおかしい。1-52の従も「から」より「に」のほうが素直だ。「ゆ」は本来出自を示すが、変化して「を」に更には「に」の意味に、更に「へ」の意味になったのだろう。」と言っている。「波の間ゆ」の「ゆ」は「に」とも取れると言うのと同じで、こっちはもっと積極的に「に」の方が素直だと言っている。しかしこれは起点説が優勢である(多田全解、阿蘇全歌講義は、はっきり起点とする)。富士山は何と言ってもコニーデ型の巨大な火山で、火を噴いたのだから、地面からにゅっと突き出てくるのである。当時の噴火していた富士山を見知っていた万葉歌人の方が沢瀉よりも正確に捉えている。
 以上で沢瀉の出したものは大方見たが、最後に付言すると、時代別国語大辞典では、抽象的な意味での場所をあらわす場合として3708(下ゆ)、3023(下ゆ)、2016(心ゆ)、490(心ゆ)を出すが、沢瀉の例で除外した「心ゆ」はこれにあたる。また、動作の起点をあらわす例として、4245(奈良の都ゆ難波に下り)403(手ゆ離れず)481(家ゆも出でて)を、挙げているが、4245のは、場所が「奈良の都」で、動作は「下る」、あとの二つは、場所は固有名詞ではないが、「手」も「家」も小さな点的な場所であり、動作は「離れ」「出で」で、経過点の動作でないことは明らかである。
 まとめると次のようになる。
経過点説
 場所、穴師の川、雲の上、長道、浪の上、こ(3例)、伊勢の海、空、
 動作、行く水、鳴きゆく、恋来れ、なづさひ来、鳴き渡る(3例)、鳴き來る、立ち渡る、
起点説。
 場所、野坂の浦、田子の浦、縄の浦、香取の浦、礒廻の浦、小松が末、波の間(4例)、国のみ中、奈良の都、手、家
 動作、船出し、うち出でて見れ、見ゆる、漕ぎ出來る、船出す、流る、見ゆ、鳴く、見ゆる(2例)、出で立てる、下り、離れ、出で
説明はそれぞれの所でしたので繰り返さない。
 
補説二
 どこで富士山を見たかということより、その見え方が大事である。
 犬養氏『万葉の旅(中)』198頁「意外に大きく白雪の富士の全容があらわれる。」とあるが、頂上部分が見えるだけのものを「全容」とは言えない。赤人の歌にはまさしく全容が必要である。古典全集に「薩[土+垂]峠(九〇メートル)を越え、下りかけた辺で、正面に金倉山(蒲原後方の山)越しに富士を仰ぎ左に駿河湾を眺めて詠んだものであろう。」(西宮全注、阿蘇全歌講義はこれを引用しているが「左に駿河湾」などという恥ずかしい誤記をそのまま踏襲している)、「金倉山越し」では全容ではないのだが、それでいいと思っているのであろう。
 沢瀉『古徑一』197頁「岩淵驛又は富士驛附近の如く、さへぎるものもなく富士の景観を恣にするといふ地點をさしたものではなくして…」、198頁「由比、蒲原の濱邊の道を。山かげにそうて歩いてゐたのである。そしてその山かげから打出でて、さへぎるものもない中天に、秀麗な富士の高嶺をうちあふいだ時、…。」前者の「さへぎるものもなく」の眺めは否定し、後者の「さへぎるものもない中天」を正しいとするのは苦しい。だいいち後者では、全容はおろか富士山そのものすらほとんど見えないはずである。「さへぎるものもない中天」どころではない。
 土屋『萬葉紀行』76頁「…薩[土+垂]峠の岸をめぐつた所が…眞淵を尊敬するので…前面の丘陵の上に頂近くを若干あらはして居るだけなので…當らない…」、79頁「由比驛前をすぎて進む頃から富士山は再び前面、即ち蒲原背後の丘陵に没して行つた。」、82頁「(七難坂にて)清水から出て以来これは始めての眺望である(頂上から富士川まで丸見えであること)。私は理屈ぬきに之こそ「打ちいでて見れば眞白にぞ」であると直感した。」。すでに述べてきたことを煩を厭わず直接引用して確認した。つまり理屈ぬきの直感とはいいながら、富士の全容を見るというのはこういうことなのであり、沢瀉説も犬養説も歌を理解するには役立たないのである。
 高木市之助『雜草萬葉』1968.10.29所収「某自然歌人の場合 その一 霊峰」81頁「…丁度富士川の鉄橋へ差しかかる一寸手前で海岸近く迫っていた山脈…が尽きると途端に富士山の偉容が突如として車窓を圧する。真白にそ――降りける、という強辞は、…赤人の富士山への驚異でなくてはならない。」、82頁「東海道線の上り列車の客が現に今日一斉にびっくりして、その真白に雪を戴く、秀麗さを見つめるその印象と同じものをうたっているのが、赤人の反歌だということを…私の体験が証してくれるのである。」。長い引用になったが、土屋の直感を詳細にに補足したものといっていいし、私の東海道線のたった一回の体験もそうなのである(富士山の下を通る東海道線には多分三回ほどは乗っているが、はっきり富士を見、今もその風景を明瞭に記憶しているのはただの一回である)。高木説の結論は長歌反歌の屈折という高度なものだが、今はそれは措く。高木説は土屋説への強い支持である。
 具体的には触れなかったが、高木説が、ちょうど長歌に触れる機縁となる。
  天地の 別れし時ゆ 神さびて 高く貴き 駿河なる 富士の高嶺を 天の原 振り放け見れば 渡る日の 影も隱らひ 照る月の 光も見えず 白雲も い行きはばかり 時じくぞ 雪は降りける 語り繼ぎ 言ひ繼ぎ行かむ 富士の高嶺は
 ここに「振り放け見れば」とあるが、麓から圧倒的な空の高みまで「仰ぎ瞻る」から、「神さびて高く貴き」となる、内村鑑三が言ったと思うが、キリスト教の教会などでは、キリストの十字架像が随分高いところにある(どこの教会でもというわけではないし、仏教でも東大寺大仏などは見上げるほど高いが)。富士山もあの角度ぐらいはあって、その角度で仰ぎ瞻るから神の威厳(高木の言う「山の霊威」)が生じるのである。薩[土+垂]峠から前山越しに頂上を見ても仰ぎ瞻るような角度はない。太陽や月の光が見えないというのは明らかに誇張であり実際にはあり得ないことで(南側から見ているし、深い谷間でもない、梶川信行氏『万葉史の論 山部赤人』1997年、115頁に同じ意味の発言がある)、高木の言う「古代信仰、或は神話の眼がある。」のかも知れないが、あまりの高さと巨大さに圧倒されて漢文風の表現を使ったという方があたっていよう。
  補記、新大系、「高山が日月の光を覆い隠すという表現は、万葉集の中に他に例を見ない。おそらくは「崑論その高さ二千五百余里、日月も相避隠して光明を為す所なり」(史記・大宛列伝)や「昼夜日月を蔽ひ、冬夏霜雪を共にす」(南朝宋・謝霊運「登廬山絶頂望諸[山+喬]」・芸文類聚・山)などの詩文における山岳表現の型を襲うものであろう。」とあるのが参考になる。
 突飛な例で恐縮だが、長與善郎『竹澤先生と云ふ人』の冒頭近く「竹澤先生富士を見る」で、初夏箱根の乙女峠から富士を見る所がある。雲が晴れてきて、数里離れた目の高さに黒い地があらわれ、あんな高い山があるはずがない、あれは空だと奥さんが言い、竹澤先生が高すぎるようだが、あれが富士の頂上だろうという、さらに雲が晴れると、頂上かと思ったそこより更に上に「富士は兀然としてその巨いなる斑の頂きをあらはした。」とあり、奥さんは「まあこはい!」という。先生は「實に鬼的《デモーニッシ》な面つきじやありませんか。」と言い、北斎はこの感じを弱いながらも知っていたともいう。この「鬼的」というのがいかにも長與らしい。赤人もまた同じような印象を持ったと思えるのである。
  補記、久保田淳『富士山の文学』(文春新書)174頁、村田春海によく似た歌がある。子規に厳しく批判されているそうだ。
 次ぎに「白雲も い行きはばかり」とあり、これも誇張かとも思えるが、神代からといい、ついで漢文風に誇張表現をしたあと、雲と雪については現実的に言ったとも思える(犬養孝氏『万葉の風土』所収の前掲論文に同趣旨の発言がある)。山に雲がかかれば、たいがい層雲で霧がかかったようなものだから、時間がたてば消えるし、たえず形も変わる。それは富士山も同じである。ところが赤人は、雲が富士山に妨げられて動かないというのである。これはひょっとして富士山の笠雲ではないかと思える。啓蒙的な自然科学系の本は幾らでもあるだろうが、『井伏鱒二自選全集 第五巻』「富士の笠雲」の御坂峠で観察した話が面白い。
  補記、久保田淳前掲書110頁、笠雲を綿帽子と詠んだ歌が紹介されている。
 この長歌の日月雲雪などの自然の異様な表現のもととなった実景は、どこで見たとも書かれていない。しかし東海道を旅したならば、今の東海道線が富士川を渡るあたり、つまり岩淵あたりしか考えられない。それを種明かしするように、反歌ですなおに簡潔に「田子の浦ゆ打ち出て見れば」と歌ったのであろう。これについて、吉澤義則氏は次のように言う(沢瀉『古徑一』の引用による)。「「田子の浦ゆ」は…「打出でて」を修飾することも出来る…何ら支障はないのである。但しこの歌では、さう見るといふと、田子浦から何處へ出たかが分らない。從つて何處から富士を見てゐるか分らなくなる。」と。これは奇妙な論理である。それで「田子の浦ゆ」は「見れば」にかかるのだというが、これを認める人はいない。この論理には、富士山は必ず美景の名所である田子の浦から見るものだという先入観があるように思える。しかしそこからは全容が見えないのだからだめである。それに田子の浦から必ず名前のある所へ出なければいけないわけでもない。とにかく、田子の浦の一角である山あるいは岡を越えると、突然視界が開け富士山の全容が見えたということで、土屋氏や高木氏の言う通りなのである。川端康成『雪国』の、「トンネルを抜けると雪国であった。」のようなものである。長歌も反歌も、岩淵あたりから富士山の全容を見て詠まれたものであり、長歌は長歌らしく、反歌は反歌らしく工夫を凝らして詠まれたと言えるのである。
 
補説三
 沢瀉『古徑一』に引用されながら、中身については何も言及されず、また沢瀉以外でも中身ぬきで引用された論文に、上田英夫「『田兒の浦ゆ』の語釋に就いて――澤瀉久孝氏の御示教を仰ぐ――」「奈良文化」第20号1931.4.10、がある。読んでみて、沢瀉への批判には興味深いものがあり、また私が言ったのと似たことを主張しているところもある。少し長くなるが、抄出してみたい。
意に滿たない處がありますのです。それは『田兒の浦ゆ』の『ゆ』に就いての御所見が私にはぴつたり來ないからであります。
私は…、この『ゆ』の解釋に於てはどこまでも『より』といふ本來の意味(即ち進行動作の出發點を示す)を失つてはならないものであつて、これを口語に移す場合も出來るだけ『から』と譯すべきものだと思ふのであります。
槻落葉別記の『…さる意にもあらで、ただ輕く爾《ニ》といふ助辭《テニハ》に似たるあり。また遠《ヲ》に通ふもあり。』なる説の『さる意にもあらで』以下の考へ方に多大の疑問をもつものなのであります。…、それでは萬葉人が殊更用ゐた從の字義が死んでしまひはしないかと患考致します。
槻落葉や檜嬬手などのいふ如く、『田兒の浦ゆ』が『田兒の浦に』とほぼ同樣の意味に解し得られるものならば、何故萬葉人は『從』などの文字を用ゐないで、爾あたりの文字を用ゐなかつたものでありませうか。私には失張彼等の頭に爾などではどうしてもいけない是非從でなければならない氣持があつたのに相違ないと思はれるのであります。
それにすでに先人も説いてゐます如く萬葉集ではこの從《ユ》の語のあとには、特別の場合以外は大抵動作進行の意味をもつ語が出て來てをりますことは御承知の通りであります。
澤瀉さん、兎に角私には從といふ文字は何處までも『より』の意味にとるべきものであつて、これを『に』の意味などにとるのは少し解理のやうに思はれてなりませぬ。
何だか槻落葉の著者の頭に、新古今集所載の萬葉歌『田子の浦にうちいでて見れば』や『天さかるひなの長賂を』などが深くしみ込んでゐて、それが、萬葉の原歌の解釋の際に少からず著者を牽制したものではないかといふ風に思はれてならないのであります。
澤瀉さん、…私の解釋を申しあげさせて戴きますならば、『うちいでて』は無論戸外に出た意味ではありますけれど、これは極く輕く殆ど調子の爲に置いた語ぐらゐに見まして、『田兒の浦から――見ると』といふ風に解するのであります。…考の『打出て出兒の浦より見ればと心得べし』なる説が解釋の仕方では大變面白く感ぜられるのでありまして、つまり『打出て』を一番前にもつていつて殆ど調子の語といふ風な扱ひ方をしたものと假りに思つてみますと、賀茂翁は流石に直觀的なよさを示してゐるといふことになるのであります。…この場合の『言の上下云々』の如き、彼の單純さ粗笨さ獨斷さを暴露した場合も少くないのは惜しいことであります。
 長々と引用したが、これでほぼ尽きている。そう長くもない論文なのである。沢瀉と違って「から」を重視したのはいいが、「を」と訳すべき経過点の「ゆ」まで、「から」と訳し、起点の意味と経過点の意味とを区別しなかったのが失敗のもとであろう。「ゆ」のあとに動作進行の言葉が来ると言ったのはいいが、「ゆ」はそれの出発点を示すとした結果、経過点の意味が曖昧になり、沢瀉に経過点の用例を大量に出させる結果になり、真淵と同じような「(打ち出でて)田子の浦から見ると」説になって沢瀉に批判されたわけである。私と同じように「ゆ」のあとの動詞に目を付けながら、それを、起点(動作)と経過点(進行)の二つに更に分けなかったのがよくなかったのであろう。
2023年8月29日(火)成稿、9月15日(金)補説三追加。
 
風土の万葉
「藤原宮之役民作歌」の地理から見た作者像     米田進(こめだすすむ)
 
    藤原宮之役民作歌
一、やすみしし 我が大君 高照らす 日の皇子(が、主語) 荒栲の 藤原が上に 食す国を 見したまはむと みあらかは 高知らさむと 神ながら 思ほす(述語)なへに(と同時に) 天地も 寄りてあれこそ 石走る 近江の国の 衣手の 田上山の 眞木さく 檜のつまでを もののふの 八十宇治川に 玉藻なす 浮かべ流せれ(述語。主語は天地の神)
 
二、其を取ると 騒く御民(主語)も 家忘れ 身もたな知らず 鴨じもの 水に浮き居て(述語) 「我が(主語、序詞の中の連体句の主語で、役民)作る(述語) 日の御門に 知らぬ国 寄し巨勢道より 我が国は 常世にならむ 図負へる くすしき亀(主語、泉の「いづ」が述語になっている)も 新代と」(「」の部分は「いづ」にかかる序詞) 泉の川に 持ち越せる(述語、主語は役民) 眞木のつまでを 百足らず 筏に作り(述語、主語は役民) 泝す(述語、主語は役民)らむ
 
三、いそはく見れ(述語、見ているのは作者である工事関係の官人か)ば 神ながらにあらし(こう推量しているのは役民の勤労を見ている作者である工事関係の官人か)
 
これは北野達氏が三つに分けられたもの@を借用し、主述関係を書き入れたものである。題詞に役民の作る歌とあるが、読めば分かるように、それがはっきりと登場する二で、「我が作る」「持ち越せる」はいいとしても「泝すらむ」のは役民のすることを推量しているので、無理があるし、三の「いそはく見れば」の主語は役民ではあり得ない。そういうところから、作者をどのような人物とするかが問題となってきたが、本稿では、宇治川での、またそこから木津川へと檜のつまでを持ち越したときの、役民の労働や行程の地理、また序詞の中の巨勢路などから見えてくる作者像を推測して見てみたい。
 まず「持ち越す」を検討しよう。岩波古語辞典には、「持ち越し、持って来る。」として、ここの例を挙げている。これはなかなか微妙であって、持って来る、といっても、宇治で陸揚げして、手で持って来れるような生やさしいものではないから(近藤註疏は、宇治川で取り上げて木津川まで陸路を運んだと言っている、この説が大体通説である)、車に載せて馬か牛か人が運ぶか、コロ利用で引っ張ってくるかだが、そういうものを持って来るというだろうか。やはり運ぶだろう。それに、運ぶは、運搬するで、物をただ移動させればいいわけだが、持って来る、は、自分に関係した物を主体的に計画的に移動させるというニュアンスがある。だから「我が造る」という表現が出てくるわけで、藤原の宮の建設に重要な檜材Aをただ運搬するのでなく、宇治から藤原まで持っていって我々が宮の建築に関わるのだとなる(或いはそう認識していた)。
 木津川までと言っても、宇治橋から一番近い木津川の河岸である城陽市の上津屋(こうづや)まででも直線距離で5.5キロ、すこし岡があるから迂回すると7キロ以上になるだろう。やはり巨椋池に出るところから、材木に繩を付けて池の岸を、途中からは池に注ぐ古川の岸を上津屋まで引いたものだろう。この上津屋というのもいわくありげだ。久御山町に下津屋があるから、本来津屋という地名だろうが、広辞苑に、「平安時代、津や港で貨物の運送を取り扱った家。」とあり、日本国語大辞典、平凡社日本史大事典、にもほぼ同じ意味の項目がある。もちろん河川の港にもあっただろう。つまり、木津川から巨椋池を渡って、宇治や伏見にいたる舟運の港だったようだ。井上新考、講義、窪田評釈などは、木津川が淀川に合流するところで筏にして木津川を遡上しようとするのを見て詠んでいるとする。たしかに、宇治から上津屋あたりまで陸上を苦労して運ぶよりは、そのまま、木津川が淀川に合流するところまで宇治川から巨椋池へ流した方が楽だろうが、沢山の材木をそのまま巨椋池に流し込んだらどこへ行くか分からず、伏見あたりで動かなくなったりすると回収に手間がかかりすぎる。それに宇治川で役民が水に浮いてまで材木を取り、持ち越すというのだから、巨椋池へ流しっぱなしにするわけではない。また、巨椋池の淀川合流点から木津川に回し込んで筏に造るのはいいが、そこから上津屋あたりまででも相当な距離であり、迂回である。ちなみに今は大きく地形が変わったようだが、宇治から三川合流地に近い御幸橋まで直線で9.5キロ、しかも、流れ任せ、御幸橋から上津屋まで6キロ、計15.5キロで、これも曲がりくねりなどを加味すれば、宇治から上津屋まで直接行くのに比べて約三倍であり、時間的にも相当かかるだろうから、けっして合理的なルートとはいえない。まっすぐ宇治から巨椋池の南西岸沿いに古川が池に注ぐところまで行き、あとは古川をさかのぼって、上津屋近くまで引いていくのが一番合理的であり、作業もはかどるだろう。また、持ち越すというからには、宇治川で取り上げた役民が一貫して作業するのがふさわしい。恐らく筏にして木津川を奈良山近くまで持っていくのも同じ役民だろう。
 こう見てくると、作者は、宇治川が巨椋池に注ぐあたりで、水に浮かんで材木を取る役民の姿を眺め、さらに木津川までの持ち越しを見ているか、同行しているという設定で詠まれていることになる。巨椋池と木津川の合流点あたりで詠む設定とは言えないだろう。
 二段目には「我が作る 日の御門」とあって、これを根拠に、作者は藤原宮にあって宮を作っているという設定で詠んでいて、役民の労働などは想像で詠んだのだという説があるB。しかしこれは無理であろう。宇治川での材木取り上げ作業の描写は労働の歌として出色のものであり、現場での観察無しでは詠めないと思われるC。逆に、藤原の宮の建設などと言うことは作業に携わるものなら知っていなければならない。そうでないと、どれぐらいの量でどんな規格の材木をどういう手順で持って行くかなどは決められない。その檜材を藤原の宮に運ぶための重要な作業を、我こそが宮殿を造っているのだ(檜材がなければ宮殿は出来ない)と言うのは理解しやすいことだ。もちろん作者が役民の立場になってそう詠んだのである。藤原の宮での建築責任者的な役民や官人の立場での発言ではないと思われる。だいたい、藤原の宮での想像とするなら、巨椋池から先、木津川を遡上するのだろうと推測するのはいいとして、そこから、奈良山まで、さらに山を越えて佐保川へ、そこから寺川へ、米川へ、中ノ川へ、そして藤原の宮での荷揚げという長い道程について一言も触れないのは、異様である。確かに宇治川の場面が一番重要で躍動的だろうが、奈良山越えも興味を引くことであり、あの佐保川や寺川、米川のような小さい川をどう運ぶのかと言った技術的な面も面白そうである。それに三段目の「いそはく見れば」の「いそはく」は、筏に作る場面であって、藤原の宮での建設作業ではない。また、宇治川で檜材を扱っている段階なら、藤原の宮では、まだ材木がほとんど無い状態だから、役民がせっせと立ち働くと言っても、整地などの地味な作業で、建物をくみ上げるような華やかな場面ではないだろう。
 宇治から木津川への行程に絞ったのだから、やはり、作者は最初から宇治とそこから木津川への現場にいてそこを題材に詠もうとしたのであろう。そして序詞で藤原の宮の建築を少し話題にし、そのあとすぐに結論の持統天皇の藤原の宮建築の讃美でまとめたのは、なかなか巧妙である。
 二段目には今述べた、例の長い序詞がありそこに「巨勢路」が出る。「巨勢」ではなく「巨勢路」とあるのは、紀伊への道路を思わせ、その先には紀氏の本拠の和歌山がある。紀氏については岸俊男氏の論文Dが詳しいので、以下筏のことまで、氏の論文を大枠にして私見を交えながら述べる。紀氏は朝鮮半島経略に大伴氏とともに非常に活躍したが、大伴氏は難波を拠点とした。瀬戸内海の北の航路は難波に着き、そこから大和の明日香方面へ向かう。南の航路は和歌山に着き、巨勢から明日香を目指す。この南方ルートも当時は有力であった。だから紀氏という有力豪族も出たわけであり、当時何度か紀伊行幸があったのもその方面の豊かさや重要性があったからだろう。紀氏は紀ノ川河口から泉南にかけてを拠点とした。藤原の宮時代は、だいたい難波だけが活用され、紀氏は影が薄くなったが、紀伊は船材に富み、造船技術も優れていたから、朝鮮半島での戦闘などがある時は紀氏が重宝された。それに紀ノ川という有用な水路があるし、五條から巨勢路を通れば、朝鮮半島や中国の舶来ものは楽に運べるから、難波から明日香へ来るのとはそんなに遜色がない。巨勢路はかつて紀伊から宝物が運ばれてくる魅力的なルートであったのであり、常世になるだろうと祝って亀の祥瑞が出るのに適した土地と言えようE。また紀ノ川下流は紀氏を介して朝鮮からの渡来人も多かった。
 紀氏は筏造りも得意だったようだ。あの紀伊半島の森林と川が有れば当然だろうが、50番歌に筏に作って木津川を遡上するとあるのも、なにかそういう紀氏の集団の労働が係わっているようにも思える。
 栄原氏によるFと、紀ノ川、大和川(平群の紀氏)とともに、淀川の水運なども紀氏が関与したであろうという。それは山城に紀伊郡という地名があるからなのだが、栄原氏が、三川合流地点も紀伊郡で、紀氏が管理したように言われたのは疑わしい。あのあたり(淀)は、久世郡であって、紀伊郡ではない。なお八幡市一帯は綴喜郡。それでも巨椋池の北岸一帯は、深草、伏見あたりを中心地とする紀伊郡の南端で、宇治に近いから、宇治川から流れこんでくる材木を集めるのに紀氏が関与した可能性は高く、またそれらを木津川に持って行った後、筏に組むのも紀氏の得意技であったであろう。
 巨勢路の霊亀出現については漢籍の素養が指摘されるが、栄原氏も言うように紀氏には漢籍の素養の深い人が多かった(懐風藻など)。
 こうしてみると、長い序詞にわざわざ巨勢路を出したのは、50番歌の作者が紀氏関係の宮廷人だからではないかと思いたくなるのである。
 宇治あたりでの木材運搬作業の監督を司り、藤原の宮での持統天皇の前での報告を兼ねた頌歌誦詠で、その現場での体験を詳しく歌いあげ、さらに巨勢路を出して、本貫の紀伊を想起させるような工夫もしたのであろう。
 
@北野達「藤原宮役民の歌」、セミナー万葉の歌人と作品第三巻、1999.12.30。
A西岡常一・小原次郎「法隆寺を支えた木〔改版〕」、NHKブックス、1978.6.20(2019.6.25.改版)。法隆寺などの古代寺院の建築に、檜材がいかに重視されたかが詳説され、また、材木は伐採よりも運搬が大変なので、近いところから消滅していったという。田上山は近江だから大和平野あたりにはもうどこにもなかったと言うことになろう。吉野は大量にあるが大和平野に運ぶのが困難で、その上山が深く切り出しにくかったのだろう。
B注@で、北野氏は「この作者が「のぼすらむ」と現在推量の助動詞を用いたのは、なにも、作者が役民でないからなどではない。藤原京で造営にあたった役民が、その木材を運ぶために泉川に筏をさかのぼらせている人々を思い浮かべたまでである。このように見てくれば、「いそはく見れば」と表現された、「いそはく」ものは、直接的には、藤原京造営の役民であったに違いない。その「いそはく」民の中に、一首の作者自身がいたとしてもいっこうに不思議ではない。」と述べておられる。
古くは「玉勝間」が、「吾は役民の吾也、さて日之御門爾とあるを以て見れば、此作者の役民は、藤原(ノ)宮の地に在て、役《ツカ》はるゝ民也」と言い、古義、美夫君志などが踏襲するが、特に「攷證」は詳しく敷衍。
C「井上新考」に、「宣長、雅澄は藤原より思遣りてよめるなりとせり。此説は穩なるに似たれどなほイソハクミレバのミレバにかなはず。イソハクはイソフの延言にてイソフは木村博士の發明によれば競ひ爭ふことなり。キソヒアラソフヲミレバとは藤原にて想像していふ辭にあらず。必現場にていふ辭なり。……此長歌は淀川と木津川との落合にてよめるなり。」とある
D岸俊男「日本古代政治史研究」塙書房、1966.8.24、所収「紀氏に関する一試考」。
E北野氏も霊亀に関連して引用されて居たが(注@の論文参照)、続日本紀元正天皇の養老7年10月13日の項に、「左京の人无位紀朝臣家、白亀を献る。」とある。「新大系続日本紀二」の注に、「扶桑略記」によると城上郡から出たか、とある。巨勢路から出たのではないが、紀氏が献っており、万葉50番歌の霊亀も、紀氏が関係しているのではないかと思わせる。養老七年は西暦723年、藤原の宮地鎮祭があった持統6年は西暦692年、31年の開きがあるが、養老の頃の人が充分思い出せる時間であろう。
@「謎の古代豪族紀氏」、和歌山県文化財センター編、清文堂、1999.10.20、所収の栄原永遠男氏の論文。
〔2023年6月14日(水)夜、成稿〕
 
風土の万葉
「藤原宮御井歌」の東西南北の山   米田進(こめだすすむ)
 
1-52    藤原宮御井歌
八隅知之 和期大王 高照 日之皇子 麁妙乃 藤井我原尓 大御門 始賜而 埴安乃 堤上尓 在立之 見之賜者 日本乃 青香具山者 日経乃 大御門尓 春山跡 之美佐備立有 畝火乃 此美豆山者 日緯能 大御門尓 弥豆山跡 山佐備伊座 耳為之 青菅山者 背友乃 大御門尓 宣名倍 神佐備立有 名細 吉野乃山者 影友乃 大御門従 雲居尓曽 遠久有家留 高知也 天之御蔭 天知也 日之御影乃 水許曽婆 常尓有米 御井之清水〔短歌略〕
 
八隅知し わご大王 高照らす 日の皇子 あらたへの 藤井が原に 大御門 始め賜ひて
埴安の 堤の上に あり立たし 見したまへば
大和の 青香具山は 日の経の 大御門に 春山と 茂みさび立てり
畝傍の この瑞山は 日の緯の 大御門に 瑞山と 山さびいます
耳成の 青菅山は 背面の 大御門に よろしなへ 神さび立てり
名ぐはし 吉野の山は かげともの 大御門ゆ 雲居にそ 遠くありける
高知るや 天の御蔭 天知るや 日の御蔭の 水こそば つねにあらめ 御井のま清水
 
はじめに
 東西南北の門に対する四つの山の描写に工夫があって、実に見事な風景の造形が行われている。今はだいたい通説らしいものが出来て、作者の問題や文学史上の位相の問題を除けばほとんど問題にされないが、風景の表現の元になる地理的な事実については、問題を残している。江戸時代には畝傍山は南門に対すると見られ、吉野の山と重なるので少し問題になったが、今は西の門に対すると言うことで決着した@。しかし、今でも時々指摘されるように、西の中門から見ると、相当に南に偏っており、つまり南西の巨勢方向に見えるので、西の方位というところに不安がある。西の方位といっても、角度はかなり広く取れる場合もあるので、真西でなくともよいという説もあるが、本稿では別の見方もありうることを推測してみたい。香具山、耳成山は風景描写の理解がまだ浅いように思うが、地理的には問題ない。吉野の山は、最近の注釈でも、藤原宮から南方遠くに見えるとするものがほとんどで、金子評釈をはじめ、二三の反対説(絶対に吉野の山は見えないという説)があるが、問題にされることがない。これは物理的に見えないことは明らかなのだから、見えないという前提の上で歌をどう解釈するかというのが問題で、それについては本稿で中心的に論じた。なお、藤原宮の門と山を眺めた出発点である埴安の池の堤が未解決である。これはもはや確実に場所を特定することは不可能に近いが、それでも一考の価値はあるし、四山のあり方にも係わるので、具体的な位置を想定した。以上の地理上の問題を論じて、風土と藤原宮御井歌との関連に説き及びたい。
 
埴安の池の堤
 木下正史氏によるとA、
  現地形と周辺における発掘成果などを併せ考え、現在の下八釣集落からその北方にかけての場所に池跡を推定している。このように推定してよければ、中ノ川は埴安池に流入していた可能性がでてくる。
ということだそうである。中ノ川というのはちょっとした溝程度の小流で、下八釣一帯も平坦な水田地帯だから、谷口を塞き止めるような大きな池はできない。大極殿跡のあるかつての鴨公小学校の周囲にある醍醐池や別所池程度の皿池であろう。江戸時代には下八釣の南東香具山山麓の出屋敷から北北東に延びる低い尾根を池の堤の一部と見たようだが、これは磐余の池関係のもので、埴安の池とは関係なさそうだ。皿池とすると堤はそう高くないだろう。しかし、藤原宮の大垣を間近に見ることで、宮の立派さは分かるB。
 橿原考古学研究所のHPに、藤原京条坊復元図がある。それで見ると、中ツ道と東の大垣の北半との中間を中ノ川が流れており、その建部門(東の中門)の東あたりが今の下八釣だから、建部門の北東の中の川の東西を占め、東の大垣にかなり接近したところに、埴安の池の西の堤があったのだろう。つまり岸俊男氏復元の条坊だと、東二坊大路と東三坊大路、二条大路と四条大路に囲まれた部分に池があり、その東二坊大路(東の大垣の前面)と二条大路の交わるあたりの堤ということになろう(堤は曲がり角の所が広いのが多い)。随分南北に細長いがこういう皿池もあるし、埴安の堤から北の大垣の門を見るにはやむを得ない。
 ところで、なぜ埴安の池の堤なのだろうか。藤原宮の北東の隅の外側あたりから、四方の門と四方の山を描写するのは何か理由があるのだろうか。宮の全体や建物の配置などを見るなら南の正面朱雀門から朱雀大路を少し南に行ったところに、日高山という一寸した丘があり、その上から見るのが最適だが、中央が削られて朱雀大路になったために、風致に欠けるのだろうし、御井から離れすぎるようだ。というのも、井戸はやはり内裏(天皇の生活場所だから、北の大垣に近いところにある)にあるだろうからである。御井を主題にするのなら、垣の外ではなく、内部のその井戸の側で詠んだようにすればよいようだが、門(大垣の印象もある)や三山の眺めを描写するためには、外から見た方がいいだろう。朱雀大路のような正面でなく、もっと高いところから宮の建物の配置を見るなら、香具山に昇ればよいが、山中から見たのでは、山全体が東の門に対しているということが見えにくくなるから、少し離れて見た方がよい。
 歌に藤原宮を造りはじめたとあるのは、死んだ天武ではなく、持統Cが主語で、やはりこの天皇特有の事情があるのだろう。確実なことは言えないが、推測できることはある。
 埴安の池の堤を展望の場としたのには、高市皇子の存在が大きく影響していようD。万葉にあるように、この皇子の宮は香具山の宮と呼ばれ、埴安の池の近くにあったようだ。199番の短歌の二首目201番に、
埴安の 池の堤の 隠沼の 行方を知らに 舎人はまとふ
とある。おそらく、埴安の池と香具山北麓の間を占めていたのだろう。またこの皇子は太政大臣として藤原宮、藤原京建設の責任者であったようだから、その皇子の宮の近くで、建設の状況を質し、御井のあたりや三山を見るのはふさわしいし、その場所の設営や接待にも便利である。
 最後に、この天皇は水辺が好きだったようで、飛鳥周辺だと、埴安の池が最も手近で、空も広々としていて、風景もいい。吉野行幸や伊勢行幸でも船遊びがあったようだから、埴安の池で船遊びぐらいはしたであろう。
 
   埴安の池の堤からの眺め
 大垣の塀は高くて大きいから、その外堀に添うあたりから見たのでは、畝傍山あたりは見えなかっただろうと思われる。埴安の池の堤はどれほどだろうか。あのあたりの皿池ならせいぜい2、3メートルぐらいだが、5メートルぐらいの高さのところもあったのだろうか。それだけあって、大垣から50メートル以上離れたら、畝傍山もかなり見えるだろうが、一辺900メートル以上だから、畝傍山に面する西の大垣、更には南の大垣などは、宮内の宮殿や官舎などにも遮られ、小さくとぎれとぎれに見えて、あまり大垣らしくなかっただろう。
 実際に埴安の堤に立って眺めた場合を空想すると、東西北の大垣の中門の正面にそれぞれの山があるとはとうてい思えない。耳成山は北の中門から見てかろうじて時計の針の55分あたりが山の中心だが、埴安の堤の北端が三条では、大垣の北東角に山の一部が遮られるかも知れない。やはり池の北端は二条であろう。香具山も、東の中門の正面ではなく、かなり南東に振っている。埴安の堤からだと東の大垣が全部見えるし、香具山も北東に尾根が延びかなり山体が大きく見える。東の中門から正面ではないが、右手斜めから正面に向かって見えるので、門に対して立っているとは言える。畝傍山は、西の中門からではあきらかに南西に振っているが、かなり距離があるために違和感が薄らいでいる。なお埴安の堤からは、宮内の建物や東の大垣などに遮られて、中腹以上しか見えないだろう。西の中門よりさらに1キロほど離れ、西の中門のあたりと畝傍山の見える方向が南西方向に少し重なるため、中門の正面でないことの違和感が薄らぐと思える。なんにしても、宮の北東、北西、南西、南東の角からそれぞれの方向に線を延ばして4等分すれば、それぞれの山は東西南北に収まるので、特に歌の表現を概念的で現実的ではないとみなすほどのことはない。注Bで述べたように、中門ではなく三つの門のどの門に対してもいいとするならなおさらである。しかし、耳成山が北に離れすぎてしかも相当に低くて小さく、また香具山は扁平で、畝傍山は高くいかめしく、三山に囲まれたというにはバランスが悪いことは確かで、三山の中心という観念が実際の風景より先行して、ちょっと無理をしたとも言える。三山を詠み込んだ歌というのも、この御井歌と例の天智の作しかない。ちなみに二山を詠んだのはない。
 
吉野の山
 さて、南門からは吉野の山は確実に見えない。いろいろ説は出ているが、なぜ見えない山を詠むのか、再考の余地はあるようだ。
  大和の 青香具山は 日の経の 大御門に 春山と 茂みさび立てり
  畝傍の この瑞山は 日の緯の 大御門に 瑞山と 山さびいます
  耳成の 青菅山は 背面の 大御門に よろしなへ 神さび立てり
  名ぐはし 吉野の山は かげともの 大御門ゆ 雲居にぞ 遠くありける
三山では、香具山と耳成山が「立てり」で、畝傍山は「います」となっている。畝傍山だけに敬語がある。「立てり」となっていないのは、香具山、耳成山が、麓から頂上まで、山全体が見えるのに対して、畝傍山は、大垣や宮殿に邪魔されたり、かなり離れているとかしたりして、麓の部分が覆われて、「立っている」という言い方がふさわしくなかったのだろう。それにしても、この「に」はどういう意味だろうか。普通空間的時間的なある場所や時点を指示するのだが、まさか「大御門」という門に山があるわけでもないだろう。おそらく対象を指定するという意味だろう。大御門を対象として立っている、というだけの表現内容だから、金子評釈の言うように、名山を配したと言うことだろうが、それと共に風光の良さを表現するということがあろう。平野部に山が聳えるということでは讃岐平野が最たるものだが、三山に囲まれるという点では大和平野はもちろん、近畿一帯ではまずない。
 ところで、三山の内、畝傍山だけに敬語が使われているのが不審である。歌全体として、道教思想だとか、当時は香具山が大和の中心の山だったとか言われているが、それなら「天の香具山」と言われそうなものだ。そうではなくて畝傍山に敬語があるのだから、そういう思想上の観点はあてはまらない。ここは、初代天皇の神武の橿原の宮を想起しているように思える。それが眼前の藤原宮にまで連綿と続くということだから、香具山、耳成山よりは格が一つ上ということで、そういう歴史認識によって、畝傍山を目出度い山だと讃美し敬語を使い、素朴な皇統讃美の意図もあるのだろう。道教思想などとは無縁と思われる。
 話がかなりそれたが、吉野の山は見えないということについて、最近の注釈類でも、はっきり、吉野の山を見えるとしているのもある。宮跡ではなくとも、八木駅から見えるというのもあるE。みな間違いで、そういうところからは全然見えない。おそらく、高取山の南東の尾根が細かく枝分かれし、芋峠側の尾根が奥まって高く(高取山の頂上584メートルより高い606メートルの峰がある)、やや色が薄く見えるのを、吉野の山と勘違いしたものであろう。当時の環境の良さからすれば、それが高取山の一部で、吉野の山でないことは肉眼で明瞭に分かったであろう。
 かつて、非常に空気の澄んだ日、奈良から橿原までの24号線を自転車で走りながら、吉野の山を見続けたことがある。今から何十年も前なら、国道沿いに水田のあるところが結構あって、吉野方面もよく見えた。奈良から郡山辺りまでは、高取山や多武峰の向こうに、大峰の山々がはっきりと見え、芋峠の向こうの弥山などの1900メートル前後の山が見事である。これが天理あたりになると、山上が岳方面が多武峰に隠れて見えなくなる。田原本になっても、弥山方面がまだまだ見えている。橿原市にはいると、さすがに芋峠の向こうにわずかに見えるだけだ。これが米川にかかる三山橋で全く見えなくなる(今ではあのあたりビルだらけだから、これは夢のような話で、再実験も出来ない)。奈良からずっと見続けてきたのだから、高取山の東尾根と吉野の山を混同することはない。つまり、八木駅とか藤原宮から吉野の山が見えないのは確実な事実なのだ。このようなことは証拠にならないと言えばそれまでだが、万葉人は、高取山の一部を吉野の山と誤解することはなかったという可能性が高いとは言えよう。それに、はるか空の彼方という表現にも合わない。見えないから空の彼方なのだE。ところで、証拠にならないと言ったが、実は、壬申の乱の前に天武一行が大津から飛鳥へ強行した時に、国道24号の東、中ツ道を南下したのだ。24号(下つ道の東を併行)よりは、吉野の山の見えなくなるのが早いが、それでも田原本あたりまでは同じようなものだろう。味間、蔵堂(くらんど)(村屋神社のあるところ)、法貴寺などは行ったが、ただ多武峰あたりの山を見ただけで、吉野方面は注視しなかった。天武一行が何時間もずっと大峰の高山を見続けたことは確かだろう。正し晴れていればのはなしだが、書紀に天候は当然ながら書かれていない。しかし、額田王の三輪山の歌にもあるように、天智、天武といった人々は、明日香と近江の間を何度か往復しただろうから、奈良から明日香までの間吉野の山を何度も見たことは間違いないだろう。持統天皇も見ていたわけで、御井歌で、南の方空の彼方には吉野の山があるのだ、という感慨を持ったとしてもおかしくはない。それはまた、御井歌の作者、またその聞き手にも共有された実感であろう。ただし直接には、天武、持統の吉野行幸の体験が元になっていよう。一山越えれば吉野なのだし、峠あたりからは、広大な吉野大峰の山々が見える。
 吉野行幸でそういうものを見てきた人には、藤原宮あたりから、明日香の山々の稜線を見たら、鮮やかにその向こうに吉野大峰の山々が想起されたであろう。
 それに、明日香というところは、なぜか吉野の空気が漂っているのだ。実際に芋峠あたりから南東の風が吹き込んでくるのだろうが、植物相や山の形などが、吉野とほとんど同じなのだ(特に吉野山以北)。奈良の植物学界では、音羽の連山や多武峰などの植物は吉野の出店と言われている。藤原宮から南方に吉野の山を想起するのは、歴史的な由緒のある(神武天皇とか)名山というだけでなく、身近に感じられる山だからということもあろう。
おわりに
 埴安の堤から見たというのは、ただそこから見たことにしたというだけでなく、そこからの四方の名山の見え方(あるいは見えないこと)を具体的に描写したことを示しており、そこに居合わせた人たちは、臨場感や風土感にあふれた作品として受けとったであろう。
 既に述べたこともあるが、どう描写しているかまとめておきたい。
 まず埴安の池の堤からのそれぞれの山の頂上への方位と直線距離。
  香具山、ほぼ南東に625メートル
  畝傍山、ほぼ西南西に2875メートル
耳成山、ほぼ北西に2000メートル
吉野山、ほぼ東南東に19.2キロメートル(吉野山の858メートルの最高点まで)
 ここでもう一度、その部分の原文を引用しておこう。
香具山は頂上まででもわずか600メートル強で、一本一本の木の枝まで見える。表現通り春の樹木や、あるいは桜の花などが、茂りあって春山そのものである。耳成山は2キロの距離で、さすがに此だけ離れると木々の形までは見えないし、小さい山で表土も薄いから大木もなく南から見ると日光が当たりすぎて緑色も薄くせいぜい灌木の山程度で、菅山というのは当たっている。ただ小さいながらに形は円錐形で整っているから神さびたイメージもある。畝傍山は、三山の中で一番遠く3キロ弱だが、高さは一番だから、耳成山よりも立派にみえ、山の東北東面の一番傾斜の強い面を見るので、やや黒みを帯び、山らしい威厳を見せる。これはもう木々の形など見えるわけがないので、植物のことは言わない。
 吉野の山は、見えないのだから幾ら遠くても関係ないが、今の吉野山の最高点までで約19キロ、奈良よりは近いが、三山に比べれば勿論遠い。表現で見ても、遠くにあるではなくて、遠くありける→遠かりける、と見なせるからF、遠いことだ、ということになる。芋峠の彼方の空の下で遠いことだと言うことになり、見えないことを言外に含めている。しかし、見えなくても、はっきりあることを意識しているのは、既述のように、吉野行幸などで芋峠の方向の彼方に吉野の山(の中心部)を見た経験が眼前に想起しているからであろう。更には、その距離が本当に遠い事も思い浮かべていよう。
 御井歌は、山に絞って、実際の風景(三山)と想起した風景(吉野の山)を美しく描いて、眼前の御井(おそらく大垣の陰で見えないだろうが、これも想起して)のすばらしさを讃頌した歌と言うことになろう。宗教的政治的な意味合いは少ないであろう。
 
@江戸時代の注釈書がなぜ、畝傍山は南門に対するとしたのか、理由は不明である。おそらく藤原の宮をもっと西よりと見たところから、南の方向にあると考えたのだろう。香具山を日の経(東西)としたから、やむを得ず畝傍山を日の緯(南北)としたのだろうという古義の説は意味不明である。山田講義が『高橋氏文』(『本朝月令』所引)の、東を日竪、西を日横とするのを引いてから、畝傍山は西門に対応するという説に定着したようだ。
A『藤原京・よみがえる日本最初の都城』中公新書、2003.1.25
 同氏は又、平安時代の「典薬寮」には、薬園などのほかに、御井《みい》なども付属したという。そして藤原宮跡では、薬物関係木簡が多量に出土したことがあり、場所は内裏東外郭の東を北流する東大溝が、北面大垣をくぐり抜け宮外へ四メートルほど出た地点で、これらの木簡は、東大溝の上流で一括投棄されたものらしい、という。つまり内裏の北東側と東の大垣とのあいだということで、そこに御井があったとすれば、埴安の池からは目と鼻の先である。
B『日本史リブレット藤原京の形成』、寺崎保広、山川出版社、2002.3.25、24頁。
 大垣の高さは約5.5メートルに復元される。門は12ケ所あり、皆同規模。桁ヌキ長、約25メートル。
皆同規模ということは、歌の中の大御門というのも、特に中門というわけではなく、三つの門すべてかも知れない。言い換えれば三つの門に代表される北の大垣全体で、耳成山に対していると言えよう。他の東西南も同じ。
C『萬葉集年表第二版』、土屋文明、岩波書店、1980.3。52番53番歌、持統八年(694)。「藤原宮造営成りての作なるべし。」とあるから持統天皇が主語であることは間違いない。
D『日本古代宮都構造の研究』、小澤毅、2003.5、青木書店。
 「第2表 藤原京の造営過程(『日本書紀』『続日本紀』による)」、に細かく整理されているが、持統が何度も宮地に行くのは当然として、高市皇子について
持統四年 (六九〇) 十月二十九日 高市皇子、藤原の宮地を観《みそなは》す。公卿百寮従《おほみとも》なり。
とあるのは、同年七月に太政大臣に任じられてからのもので、この規模のものはほかになく、持統の藤原行きより早い。その後十年七月没まで、その任にあったから、藤原宮・京造営に高市皇子が重要な役目を持っていたことは明らかだろう。
E『續萬葉紀行』、土屋文明、養徳社、1946.9。7頁に、
 關急八木驛の高架乘車場から、再び吉野の方を望んだが、高取の連峰の背後にわづかに霞んで居る遠山を認めた。吉野から大峰にかけての山の一部であらうが、之は御井の歌に歌はれた吉野の山ではあるまい。御井の歌の吉野山、やはり高取から細峠に至る連峰をさすのであらう。
とある。この遠山というのは、吉野の山ではなく、本文中に述べたように、606メートルの峰の前後のことであり、また高取、細峠間の連峰は御井の歌の吉野山ではない。
ついでに言うと、北島葭江『萬葉集大和地誌』、關急版、1941.8、の82頁に、
 …、遙か北方の耳成山の麓からなら僅かにいまの吉野山の頂點がちよつぴりと覗いて見えるが、藤原の宮阯からは何れの點からしても全く見ることを得ないのである。
とあるが、土屋文明と同じ過ちである。そして、歌では、三山は見えるといってるのだから、吉野の山も見えるはずだとして、結果的に、土屋と同じ過ちをしている(出版年からすると北島の方が早いが)。
F遠くありける、というのは、鶴久氏「所謂形容詞のカリ活用及び打消の助動詞ザリについて」(「萬葉」42号1962年1月)がカリ活用の未融合形として出しておられるように、形容詞「遠し」の意味で使われるから、「遠いことだ」とか「遠いことであることだ」と訳すべきなのに、「遠くにある(遠くに見える)」というように訳す注釈書が殆どである。これは「ある」を存在するという意味の動詞に取っている。だから場所を示す格助詞「に」を補っている。しかし明らかにカリ活用であり、助詞「に」はないのだから、そういう意味に取るのは誤りであろう。三山が見えるのだから、吉野の山も見えるはずだという先入観があるとしか思えない。しかし、「雲居にぞ遠くありける」といふうに、「雲居」のところで「に」が使われている。だからか、阿蘇全歌講義、「はるかに遠い雲のかなたにある。」新大系、「遠く雲のかなたにあるのだ。」のように、「雲居」と「遠く」の語順を逆にして、「遠く雲居に」という意味で訳している。これだと「遠い」という実感的(実際に歩いた感覚)な意味が薄くなる。「遠い雲居(空の彼方)に」では、隔離感が強まる。語順通りに見えても、私注、「雲の居る遙か遠くにあつた」、注釈、「雲の彼方遠くにあることだ」などでは「に」が「雲居」ではなく「遠く」の方に置き換えられている。また、和歌大系、「雲の彼方に遠くつらなっている。」というふうに「に」の位置も語順通りにしても、「つらなる」という「遠い」という語から出てこない意味を補わなければならない。それに「遠くつらなる」も意味曖昧だ。連なり方が遠いというのはどういうことか。雲の彼方まで山脈が続いていくことなのか。要するにこれも、見えるという前提で訳そうとしているからだろう。それでは、見えないけれど、遠いことだ、といった意味で素直に訳せるかというと、なかなかそうはいかない。「雲居に」の格助詞「に」が邪魔をするのだ。「雲居(空の彼方)に遠いことだ。」では場所を示す「に」に対して、「遠い」では舌足らずである。だからこれも「空の彼方に(あって)遠いことだ。」というように補わなければならないが、「遠くあり」をカリ活用の形容詞とせず「に」を補って訳すよりましであろう。
       〔2023年4月24日(月)午後7時15分成稿〕
 
 
 「名張の山を今日か越ゆらむ」の名張の山――風土の万葉――
                              米田進(こめだすすむ)
一、はじめに
 風土論の観点から見た、万葉集の歌の「名張の山」とは何か、いうことだが、和辻の風土論を大きく展開させたオギュスタン・ベルク氏の風土論の法法の一部@に教えられたものである。自然と文化との関連と言うのがベルク氏の一つ方法だが、その文化を万葉の和歌に置き換え、自然を地理的な条件に置き換えて考察した。
 
 対象とする歌。
1-43  當麻眞人麻呂妻作歌
吾勢枯波 何所行良武 己津物 隱乃山乎 今日香越等六
我が背子はいづく行くらむ沖つ藻の名張の山を今日か越ゆらむ  (4-511に類歌がある)
 
 この名張の山についての地理考証は既に述べた(サイト「man-youbunkoの日記」で「名張」を検索してほしい)。そこで言ったように名張に越えるような山らしい山はないAのに、歌では、はっきりと、山を今日越える云々と詠んでいる。山がないのに山を越えるというのはどういうことか。
 43番歌以外に名張を詠んだ歌を見ておく。
 
1-60    長皇子御歌
暮相而 朝面無美 隱爾加 氣長妹之 廬利爲里計武
宵に逢ひて朝面無み名張にか日長く妹が廬りせりけむ
 
8-1536    縁達師歌一首
暮相而 朝面羞 隱野乃 芽子者散去寸 黄葉早續也
宵に逢ひて朝面なみ名張野の萩は散りにき黄葉早繼げ
 
 長皇子のは知り合いの女性が行幸からいつまでも帰らなかったのは、長く名張で滞留していたのだろうというので、大和の近くという安心感で帰還を急ぐ必要がなかったのだろうが、「なばり」という地名も関係あるかとちょっとふざけたのだから、寂しい名張の「山」は必要ない。ただの地名の「名張」でよいということである。縁達帥の場合そこに住んでいるか、しばしば往来しているかで、そうなると、大和から見たら山でも、住民の目からしたら野なのだから、正直に地形をそのまま詠んでいるわけである。萩や黄葉(たぶん雑木)などは名張らしい植生で、大和の野とも似ている。
 
二、大和の居住民から見た名張の山
 43番歌で名張の山というのは、そこに住んでいない人(大和平野南部の飛鳥あたりの人)から見ての山と言うことが出来る。大和平野の住民からすれば、名張地方は、事実としては、山とは言えないのに(名張山とか名張丘陵といった固有名詞はなく、水田になった小盆地と散在する丘陵や小山の集団である)、山と呼べる地方であり、大和平野を出て、伊勢の平野や海に出るのに越えなければならない山と見なせたのである。
 次ぎに名張の表記が、万葉集では、「隠」で一貫しているのを見るとB、これは大和平野の住民としての万葉歌人の認識だとわかる(特に天武朝)。初瀬や宇陀の山々の向こうの隠れた土地ということであり、名張の住民に取っては、別に隠れた土地ではなく、書紀にある「名墾」という表記からすると、「な+はり」という語構成で、開墾した土地ということだろう。だから大和中心的な思考によって、大和の万葉歌人は、名張を山林原野の多い「隠れた土地」と認識していたと思われるのである。淋しい山間地という印象もある。山城にしても、飛鳥・奈良時代は山背と表記されたのだが、言うまでもなく、奈良山の向こう側(後ろ側)という大和中心的な認識がある。
 だいたい、大和平野に住んでいた万葉歌人が、名張へ行ったことがある人も、そうでない人も(多分非常に少ない)、「名張の「山」」と認識し、「隠(なばり)」という大和中心的な表記をしていたと言うことは、自分たちの住む土地を誇る気持が裏にあったということであろう。そこには都があったわけだが、また広大な平地や農地があったC。その広大な平地を彼等は自覚していたと思われる。
 
三、名張の山と対照的な大和平野、及び各地の原
 奈良盆地、東西約16キロ、南北約30キロ、面積約300平方キロ(平凡社『奈良県の地名』)。
 京都盆地は、奈良盆地とほぼ同じだが、これは巨椋池で中断されるので、巨椋池以北だけで見るなら奈良盆地より狭い。今の大阪平野は、面積的には奈良盆地の5倍強あって広大だが、古代は、河内湖があり、淀川、猪名川、武庫川河口も今より内陸に陥入していて、一連の平坦な陸地としては、奈良盆地ほどの広さがない。大和人には珍しい海面の広さの方が印象的であった(草香山越えの歌など)。播州平野は約400平方キロ、奈良盆地より少し大きいが、川による三角州などで大きくなったもので、また丘陵部も目立つ。近江盆地は670平方キロ、奈良盆地の倍以上あるが、琵琶湖や丘陵によって分断されており、連続した平地としての大きさはあまり感じられない。
 ということで、近畿以西の古代にあっては、奈良盆地が一番大きな平地であったと思われる。九州あたりまでの地理を知っていたらしい大和居住の万葉歌人達もそう思っていただろう。神武天皇が青山が周囲を囲む国の最中といって都したという説話もうなづかれるのである。
 万葉集でも、2番歌、舒明天皇の国見歌で、「国原は煙立ち立つ」と歌われているが、この国原というのも、奈良盆地の広大さをいうものであろう。具体的には、「三宅の原」(13-3295)、長屋の原(1-78題詞)、浄見原(標目や語注)、真神の原(2-199、他)、藤原(1-50)、藤井が原(1-52)、竹田の原(4-760)、百済の原(2-199)がある(異名同所らしいものも1つとした)。
 これらを今の地名で見ると、橿原市東竹田町から、田原本の西竹田町にかけての寺川一帯、さらにその下流の三宅町から川西町にかけて、またその西方の、曾我川や葛城川中流の百済、そして、初瀬川から布留川にかけての田園地帯がある。これは今の奈良盆地の中南部一帯である。出ていないのは、曾我川、葛城川の上流一帯、佐保川流域の盆地北部である。景観としては、河川の堤防の樹木や、神社林、水鳥の舞う池沼などはあるものの、だいたいは水田の広がる広々とした平野であり、国原であったであろうC。
 大和以外では、大阪の「味経の原」、「依網の原」、京都の「筒木の原」、「阿後尼の原」、「三香の原」、「布當の原」、三重の「五十師の原」、兵庫の「大海の原」、「印南国原」、滋賀の「勝野の原」、岐阜の「和射見が原」、福岡の「湯の原」、「故布の原」、埼玉の「於保屋が原」がある。大和の8が突出していて、次ぎに多いのは京都の4で、あとは1つか2つ。詠まれた歌の多少にも拠るが、家持関係の北陸、人麻呂のいた石見や瀬戸内海航路に沿う中国四国(播磨を除く)、行幸のあった紀伊を含む南海は皆無で、東海は1つ、東山道は2つ、多量にある東歌にわずか1つ、大宰府のあった九州でも2つで少ない。やはり平野の少なさという風土的なものがあろう。当時の畿内は特に平野部(水田地帯)が多かったのである。
 話がそれた。大和以外にも少ないながらちらほら、〜原、はあるが、だいたいは、大和から旅してきた官人たちの、観光気分で褒め称えたような歌であった。大和の場合は、土着あるいはそこに長く居住している人の感覚で、〜原、といったものだろう。つまり、奈良盆地はいいところで、平坦で東西南北の目印の山も明瞭だから、歩いて何キロも簡単に移動できるし、舟便もあって交通の楽な原だと認識していただろう。「名張の山を今日か越ゆらむ」と歌った、当麻の麻呂の妻も、そういう広大な平原地帯(おおかたは水田)の風景や、そこでの生活に慣れ親しみ、毎日山に登ったり下りたりするような、森や林や谷川を越えていくような、近くにいくらでも山があり、山の地形やそこの動植物に親しむような、そういう生活についての知識は少なかったと思われる。もちろん彼等にしても、吉野や宇陀あたりの山間地帯から平野部に出てくる人々からその生活圏の話を聞いたり、他人の経験談を聞いたり、自らそういう所へ行くことがあったりするだろうが、そういうものが身に付いた経験にならないことは言うまでもない。当麻の麻呂の妻にしても、名張のように大和のすぐ近くの土地の場合、人から聞くことも多いだろうし、自分で行った経験があったかも知れないが、よほど地理に興味でも持たないかぎり、その土地(風土)を正確に理解し表現することは困難であろう。
 
四、大和居住の万葉歌人達の山の観念
 ところで、「名張の山」の「山」は山らしい山ではないと言ったが、彼等の山についての認識はどのようなものであったのだろうかD。犬養孝前掲書の「万葉全地名の解説」によって、大和の山を分類する。山地の比定で私見と違ったり、異説があったりするのは、そのままにした。三諸の山などの普通名詞的なものは省く。1ある地の山地又は丘陵の総称(大地名で呼ぶことが多い)
 イ、今なら〜谷という地形、泊瀬山、巨勢山、平群の山
 ロ、一塊の山地や丘陵、石村の山、振山、吉野の山、奈良山、佐紀山、佐保山、黒髪山、竜田山
2ある地にある山(山頂や稜線を持つ山らしい山)
 イ、山らしい山、忍坂山、倉橋山、跡見山、三輪山、巻向山、香具山、耳成山、畝傍山、葛城山、二上山、三船山、春日山、御笠山、高円山、生駒山。
 ロ、非常な低山であったり、尾根の一部で独立した山体らしいものを持たなかったりする山、伊加土山、亦打山、三船の山、象山、御金の嶽、水分山、高城の山、青根が峯
 ハ、地元の人にだけ識別できる山、猪養の山、弓月が嶽、痛足の山、引手の山、南淵山、細川山、矢釣山、朝妻山
 ニ、所在が不明瞭な山、耳我の嶺(耳が嶺)、宇治間山、去来見の山、羽易の山
 43番歌の作者当麻麻呂の妻の場合、伊加土山ぐらいは知っていただろうが、亦打山は紀伊行幸にで同行しない限り知らないだろうし、それ以下の吉野方面のも、吉野行幸や山岳仏教にでも関係しない限り、知ることはないだろう。
 結局、当麻麻呂の妻が、大和平野(たぶん中南部)の住民として、普通に思い浮かべる山と言えば、2の葛城山、二上山、生駒山、春日山、三輪山、倉橋山、多武の山(多武峰)、大和三山といったところで、大和平野中南部の住民なら日常的に見慣れた山である。しかし、それらは、「名張の山」の型の山ではない。ということは、1の方だが、イは、あてはまらない。名張の山は、谷間のような地形ではない。宇陀川、青蓮寺川(上流は曽爾川)、名張川の合流するあたりで、山は非常に低いから、谷という印象はない。だから、ロの方になるが、石村の山、振山、吉野の山、奈良山、佐紀山、佐保山、黒髪山、竜田山などとは、ちょっと違う。これらは、名張のような大地名(郡程度の地名)ではなく、石村、振、佐紀、佐保、黒髪、竜田などは、狭い範囲の丘陵性の山で、名張一帯とは地形が違う。ということで、吉野の山、奈良山が、大地名を冠していることからも、似ているが、吉野は余りにも大きい。奈良山は、川が無く面積が小さく、自然も豊かとは言いにくい。吉野(特にもとの宇陀郡の南方一帯)を小さくし、奈良山の規模を大きくしたら、名張のようになるだろう。当麻麻呂の妻が吉野の山や奈良山を知っていたかどうかはわからない。しかし周囲の人間に知っている人はいくらでも居ただろうから、森林が多くて平地もなく、寂しいところで、そういうところも「山」と呼ぶのだということぐらいは認識していただろう。
 今の感覚から言うと、「名張の山」という山など存在しない。せいぜい名張の町の郊外の里山と呼ぶべき地域だ。当麻麻呂の妻は、名張へ行ったことがあるかないか、それは分からない。夫が持統の伊勢行幸に同行しているのだから、その途中にある名張というのがだいたいどういう所かということは、行ったことがなかったとしても、情報として聞いていたであろう。それに、前にも言ったが、名張は、大和の隣、更には宇陀郡の続きで、大きな障壁もなく、簡単に往復できるから、だいたいどういう土地かと言うことは、作者を含めた大和平野の人達には共通理解があったであろう。だから、作者が「名張の山」と詠めば、読む方も聞く方も、あの山間の寂しい山林原野の広がるところだと思うであろう。だから、「名張の山を越える」というのは、大和と伊賀の境の山(明瞭な頂上とある程度の比高があって名張山などと呼ばれるもの、あるいは連山や山地)を越えて大和とは違う風土の東国伊賀に入ることではないE。名張阿保間の山林原野を横断し、阿保の谷間から青山峠を越えて、大和とは異質の風土の国伊勢に入ることなのだ。名張はまだ、大和(特に宇陀の高原)と大して変わりのない土地なのである。その大和らしさの残る最後の土地を出て人気のない寂しい土地を、夫は今ごろ伊勢に向かって越えているだろうかというのである。伊勢に入ってしまえば、石上麻呂の歌ったように、国は遠く、間を隔てる山も高くて、心の通い合いも薄れるのである。
 
補論、往路か復路か
 
 1-43の歌では、往路か帰路かということが少し問題になったF。上述してきた所から見れば、往路と見るしかない。帰路の場合、青山峠を越え伊賀郡の阿保を越え名張郡に入った所で、半分大和に入ったようなもので(実際室生の山々が見え出す)、今ごろどこを通っているだろうか、今日あたり名張の山を越えているだろうか、という感慨は起こらないだろう。すでに宇陀郡近くまで来ているものを、そこを越えたら大和だなどと焦点のずれたことは言わないだろう。山深く険しい峠越えなら、一志郡から青山峠を越える時点で経験している。大和から見れば名張は寂しい山間の土地だが、伊勢から来れば、険しく人煙稀な青山峠を越えて大和も近く、一安心するようなおだやかな土地なのだ。だから43番歌は帰路とみるべきだ。
 
@「風土の日本」ちくま学芸文庫、1992.9.7。「風土学序説」筑摩書房、2002.1.15。「日本の風景・西洋の景観」、講談社現代新書、1990.6.15。
 
A名張市には、黒田川(宇陀川)沿いの狭小な水田地帯と名張市街地の周辺、美旗新田あたりの小さな盆地以外には水田地帯はない。残りは大体丘陵性の山野だが、名張市街地で標高200bほどあり、周囲の丘陵は標高250b前後、一部に300bを越すのもあるが、比高はわずかである。ただし言うまでもなく、南方宇陀郡曽爾村に向かえばもっと高い山がある。宣長の菅笠日記にもあるが、青山峠を越え、登山口の伊勢路に出て、長田川沿いに開けた阿保から、かつての上野市との境の峠を越え、すぐにまた名張市に入って、美旗の狭い水田を越し、蔵持まで、まるで雑木林のような低い丘陵で、人家がなく、淋しい感じがする。この初瀬街道沿いの蔵持から阿保の手前まで、だいたい当時の名張郡だから、「名張の山」と言えよう。宣長も、「菅笠日記」で、そのあたりを43番歌の作者が越えた「名張の山」だと言っている(正確には美旗新田から蔵持だが、万葉のころは阿保の近くまでと見て良いだろう)。名張で一泊した翌日(歌の今日)越えるというのだからそこが適当である。距離的には、伊勢国境の青山峠まではまだまだだから、そこまで「名張の山」としてもよいが、阿保は伊勢からの初瀬街道と、長田川(伊賀川)沿いに上野に通ずる道との分岐点であり、伊賀神戸に近く、伊賀郡の中心部で、上野の圏内だから、もう「名張の山」とは言いにくい。こういう地理は京に止まった作者達も知っていたのであろう。
 
B『日本書紀』大化二年(646)春正月…宣改新之詔曰、…。其二曰、初修京師、置畿内國司…。凡畿内、東自名墾横河以來、南自紀伊兄山以來、【兄、此云制。】西自赤石櫛淵以來、北自近江狹々波合坂山以來、爲畿内國。
同、天武天皇元年(672)六月廿四日。及夜半到隱郡、焚隱騨家。
同、天武天皇元年(672)九月十一日。宿名張。
同、朱鳥元年(676)六月廿二日。名張厨司災之。
 以下『六国史』では、「名張」が四回出て、「名墾」「隠」は出ない。書紀では壬申の乱での挙兵のときは「隠」で、飛鳥への帰還の時は「名張」になり、以下名張に固定したようだ。わずか3か月で表記が変わったのは何故か。乱のときに寄与する所があって、好字二字に替えたのか、それは分からない。大化の時の「名墾」が古くからの表記だとすれば、乱挙兵時に新しく「隠」の表記で認識され、万葉集はそれだけを受けついだが、壬申の乱勝利後の天武は「名張」の表記に替えたということかも知れない。なお古事記では地名「なばり(名張、名墾、隠)」は出てこない。和名抄は、郡名郷名ともに名張。
 
C古島敏雄『土地に刻まれた歴史』岩波新書、1967年10月20日、の附録、秋山日出雄氏編「大和国条理復元図」を見ると、大和平野の全域、隅々にまで条里制が施行されている。ただし、古島氏も言われるように、いつこのような条里制が施行されたのか明瞭ではないようだ。だいたい律令制の確立した頃ということだから、飛鳥時代の終わりから奈良時代にかけてできたらしい。その全部が水田に成ったわけではなく、盆地中央部などは、湿地状のところもあったらしい。竹田の原の一部と思われる橿原市中町(東竹田町の西隣)には、寺川の旧河道らしい池が今も残っている。初瀬川なども洪水で河道の変わることがあったらしい。
 
D岩波古語辞典、「山」、《「野」「里」に対して、人の住まない所》@地表の極めて高く盛り上がっているところ。通例、丘より高いものをいう。
 以下A〜Iの派生義は省略。たくさんの意味があるが、「名張の山」に当てはまるような意味はどこにもない。せいぜい「人の住まない所」が当てはまる程度だが、それだけでは山の意味として充分ではない(墓地、廃屋、川原、海岸なども人は住まない)。それに、平群の山、巨勢山、初瀬の山などは人も住んでいるし、里もある。
時代別国語大辞典上代編、「山」@山。山岳。A採木地。薪や用材を伐採する山。B墳墓。
 【考】で、Aの意味を敷衍し「山ノ幸…のある場所をいった…」などと、詳しく説明している。新明解、大辞泉にも似た説明がある。これは魅力的な説だが、名張の山の場合、地元の人ならそういう意味で呼べそうだが(薪炭の採取とか)、遠く離れた大和平野の、それも利害関係がなく、自分の所有する山でもない人が、そういう意味で呼ぶかどうか疑問だ。前者の説を踏まえて「山林が多く住民が少なく山がちの淋しい土地で、そこの住民以外のものが呼ぶ称。」といった定義でも下したいところだ。
 
E伊賀大和の国境に「名張の山」と呼ばれるような山があり、そこを越えて異境の風土である東国の伊賀に入るとする説がちらほらある。
沢瀉注釈、名張市の西、大和境の山をさした…。
新潮集成、名張の山を大和伊賀国境の山とする。
全注(伊藤博担当)、名張が大和の東限で、この地の山を越えると異郷伊賀の国だったからである。
新編全集、名張の山、名張市西方の山をいうか(附録)。
釈注、「名張」は畿内の東限で、この地の山を越えると異郷の伊賀の国になる。
稲岡和歌大系、名張の山を大和伊賀国境の山とする。
 以上6つの注釈書にある。このうち、集成、全注、釈注は、伊藤博氏のもので、説にぶれはないが、名張の山を越えると異境の伊賀の国になるなどというのは、全く地理を知らない説である。稲岡説もほぼ同じ。沢瀉説、新編全集説、は不明瞭であるが、名張市の西に見える山(犬養孝「万葉の旅」に載る写真もそういう山だろうが、これは黒田の西南に連なる断層崖の山地、つまり元の室生村笠間と名張市の平地部との境の山で、最高点は茶臼山である)といっても、それを越える旅程ではないから、結局、伊藤、稲岡、沢瀉、新編全集の説はすべて成り立たない。持統伊勢行幸ルートで、大和伊賀の国境となるのは、元室生村の宇陀川が狭い谷間を出るあたりであって、山裾のちょっとした上り下りはあっても、国境の山のようなものはない。だから国境の山を越すこともない。これについては、門井直哉氏の「古代日本における畿内の変容過程−四至畿内から四国畿内へ−」(歴史地理学54−5、2012.12、ただしネット上のテキストによる)にある、図7「初瀬街道沿いの標高変化」が参考になる。西峠からしばらく榛原の高原上の土地で、鳥見山、額井岳の山麓だが、戒場山(かいばさん)の麓の篠畑が、もと榛原町と室生村の境でちょっとした坂になっている。そこから室生川と宇陀川の合流点の大野(室生ダムの堰堤から少し行ったところ)に向かって急降下し、そこから再び少し登ったあとは奈良三重県境の三重県(名張)側の最初の町安部田の鹿高(かたか)神社の前に向かって緩やかに下っていく。つまり県境に越えるような山はないが、強いて言えば、室生の山とでも言うしかないだろう。なお、もし、大和伊賀の境に名張山と呼べるような山があったら、注Bで述べた畿内国の四至のところで、畿内の東限は名張の横河(夏見の西の名張川とするのが通説)とせず、名張山としたであろう。北は合坂山、南は背の山というように山が境界となっている。明石の櫛淵は、はっきりしない。門井氏は須磨区の西端の境川から垂水区塩屋の海岸沿いに櫛のような入江があって、そこが櫛淵だとされる。私も、垂水区の塩屋で一夏過ごしたことがあるが、確かに山は海岸に迫っている。櫛淵が境界といっても、実際はその山(鉢伏山)が境界だ。そういう中でなぜ名張は山ではなくて川なのか。要するに事実として山が無く、名張川が、実質的に大和と伊賀(畿外)との境界だったからであろう。名張川までは大和との親近性が強いと門井氏も言っている。だから名張で一泊した翌日(歌の「今日」)、その名張から阿保までの丘陵地(名張の山)を夫は越えているだろうというのである。
 
F燈、總釈、菊池精考、金子評釈、窪田評釈、武田全註釈、佐佐木評釈など、燈以外は、時期的に集中して帰路(復路)説で、特に、金子評釈「必ず復路と見るべきである。」武田全註釈「勿論帰途の作」と強調している。それ以前に、往路説、山田講義「往路に詠んだ。」があり、以後に沢瀉注釈の往路説がある。沢瀉以降は、往路復路を問題にしていない。山田、沢瀉がなぜ往路としたのか理由は不明、復路説も燈以外は根拠を示さない。燈は「〇今日香越等六 この今日といふ事、麁にみまじき也。かくいふ故は、今日だにいまだなばりの山をも越ずは、夫が歸期いと待遠ならむ。とその程をまちくらさむ事、いかにくるしからむとの心をもたせてよめるなれば也。されば、此一首の眼なりとしるべし。」と言う。長い旅行も、あとは今日の名張の山越えさえすれば、日暮れ頃には帰ってくるだろうという心のはずみが歌から感じ取れるとでもいうのだろう。しかし、名張の郡家あたりで一泊したら、すでに名張の山を越えているわけで、そこからの今日の帰路にはそんな山はないのだから、これは無理である。山田説はなぜ往路としたのかよくわからない。沢瀉説は、大和伊賀の境(名張の西方)にありもしない名張の山を比定しているのだから、その点からして無理である。たとえあったとしても、出た日に越えてしまうものを、今日こそは越えるだろうというのも腑に落ちない。昨日出たが、今日あたりは、いよいよあの名張の山を越えるのだろうと思いやったわけだ。
 
参考、本居宣長「菅笠日記」より。以下、本居宣長記念館のHPによる。
1日目、松坂−伊勢路
2日目、伊勢路−榛原
3日目、榛原−千股(予定では吉野山までだった)、4日目、千股−吉野、5日目、吉野山一帯、6日目、吉野−明日香、岡、7日目、明日香一帯、8日目、見瀬、今井、八木、大神神社、初瀬、榛原、9日目、榛原−伊勢本街道で、曽爾、御杖方面を経由し、石名原(もとの美杉村奥津の手前)、10日目、石名原、奥津、北畠神社、堀坂山などを経て松坂。
 これの二日目で、伊勢路の次の阿保から七見峠を越えて名張手前の蔵持までの、「名張の山」を越えている。持統伊勢行幸では往路復路ともに名張で泊まったと思われるのだが、ここでは往路は、伊勢路で泊まり、翌日午前中に名張の町に達し、そのあと多武峰経由で千股(上市の少し手前)まで行き、復路は榛原から南東方向に向かい、名張を経過していない。その点は参考にならない。
 二日目の「名張の山」のあたりの原文。
いせぢより此驛迄一里也。さてはねといふ所にて。又同じ川の板ばしを渡る。こゝにてははね川とぞいふなる。すこしゆきて。四五丁ばかり坂路をのぼる。この坂のたむけより。阿保の七村を見おろす故に。七見たうげといふよし。里人いへり。されどけふは雲霧ふかくて。よくも見わたされず。かくのみけふも空はれやらねど。雨はふらで。こゝちよし。なみ木の松原など過て。阿保より一里といふに。新田といふ所あり。此里の末に。かりそめなるいほりのまへなる庭に。池など有て。絲桜いとおもしろく咲たる所あり。
  糸桜くるしき旅もわすれけり立よりて見る花の木陰に。大かた此國は。花もまださかず。たゞこのいとざくら。あるはひがん桜などやうの。はやきかぎりぞ。所々に見えたる。是よりなだらかなる松山の道にて。けしきよし。此わたりより名張のこほり也。いにしへいせの国に。みかどのみゆきせさせ給ひし御供に。つかうまつりける人の北の方の。やまとのみやこにとゞまりて。男君の旅路を。心ぐるしう思ひやりて。なばりの山をけふかこゆらんとよめりしは。【万葉一に わがせこはいづくゆくらんおきつものなばりの山をけふかこゆらん】此山路の事なるべし。やうやう空はれて。布引の山も。こし方はるかにかへり見らる。
  此ごろの雨にあらひてめづらしくけふはほしたる布引の山。この山は。ふるさとのかたよりも。明くれ見わたさるゝ山なるを。こゝより見るも。たゞ同じさまにて。誠に布などを引はへたらんやうしたり。すこし坂をくだりて。山本なる里をとへば。倉持となんいふなる。こゝよりは。山をはなれて。たひらなる道を。半里ばかり行て。名張にいたる。阿保よりは三里とかや。町中に。此わたりしる藤堂の何がしぬしの家あり。その門の前を過て。町屋のはづれに。川のながれあふ所に。板橋を二ッわたせり。なばり川やなせ川とぞいふ。いにしへなばりの横川といひけんは。これなめりかし。ゆきゆきて山川あり。かたへの山にも川にも。なべていとめづらかなるいはほどもおほかり。名張より又しも雨ふり出て。此わたりを物する程は。ことに雨衣もとほるばかり。いみしくふる。かたかといふ所にて。
        2023年2月27日(月)午後7時30分成稿