人麻呂199番歌の「不破山越えて」
米田進(こめだすすむ)
高市皇子尊城上殯宮之時柿本朝臣人麻呂作歌一首 并短歌
かけまくも ゆゆしきかも(一に云ふ ゆゆしけれども) 言はまくも あやに恐き 明日香の 眞神の原に ひさかたの 天つ御門を 恐くも 定めたまひて 神さぶと 岩隠ります やすみしし 我が大君の きこしめす 背面の国の 眞木立つ 不破山越えて 高麗剣 和射見が原の 行宮に 天降りいまして 天の下 治めたまひ(一に云ふ 払ひたまひて) 食国を 定めたまふと 鶏が鳴く 東の国の 御軍士を 召したまひて ちはやぶる 人を和せと まつろはぬ 国を治めと(一に云ふ 払へと) 皇子ながら 任けたまへば (以下略)
大長編なので全歌の引用はしなかった。飛鳥の真神の原に天武が宮を定め、今は亡くなったと言ったあと、その生前のときの長大な壬申の乱の戦闘場面があるが、既に指摘もあるように地名がほとんどない。かろうじて不破山と、本営のあった和射見が原が出るが、あとは地域名の「東の国」、戦闘の左右に影響した風を吹かせたという「渡会の 齋きの宮」しかない。殯宮の場面になって、短い中で埴安、百済の原、木の上の宮、香具山の宮、の四つの地名が出るのはやはり作歌時点が高市皇子の殯宮である事を印象づける。
天武と補弼者高市による天下取りについては、主語の問題に絡めて事実(書紀の記述)との齟齬をどう見るかという点で繁く論じられてきた。大体に於いて歴史的な事実という設定で詠まれているというのが最近の論調だ(注①)。しかしその設定は相当に緩いもので、聞き手が共通に知っているはずの知識に大きく負っていると思える。表現面だけでは乱の経緯や進行がはっきりしないというのは、作者人麻呂も承知の上だろう。高市にとって無用な部分は略して事実としての印象を集中させるということもあるだろう。
感情に訴える文飾的な誇張表現は受け入れるとしても、少ない地名に一つでも間違った解釈があったら、当時の聞き手にあったであろう地名や経緯の補足も支離滅裂となり、全体の感銘は大きく削がれよう。それが「不破山越えて」だと思われる。
注釈類を見ると、
目安補正、不破山《フハノヤマ》 美濃の不破郡に、いにしへ關を置しを、不破の關と云。名の聞えし山路也。
万葉考、不破山越而《フハヤマコエテ》、 美濃國不破郡の山なり、此時よりやこゝに關は在けん、是は天皇初め吉野を出まして、伊勢の桑名におはしませしを、高市皇子の申給ふによりて、桑名より美濃の野上《ノガミ》の行宮へ幸の時、此山を越ましゝをいふ、
とあり、関のあった山といいながら、桑名からそこを越えたというつじつまの合わないことを言う。
山田講義、不破山とは美濃國不破郡の山をさせるならむが、今さる名の山のあることを知らず。よりて考ふるに不破郡中にて人の目につくものは所謂美濃の中山なれば、或は之をしか名づけしか或は又鈴鹿關不破關愛發關の三關の名を以て推すときは、鈴鹿關のあるは鈴鹿山愛發闘のあるは愛發山なるによりて不破關のある山即ち不破山なるべく思はる。(中略)
されば不破山が實際に不破關ならば、不破山こえとは實地に通過せさせ給へりといふ事にあらずして、その關のあなたに出でましてといふ程の事なるべし。若し又美濃中山を不破山といふ事ならば、これは實際にこえて彼方に出でまししならむ。いづれによるべきかといふに、なほ不破關としてはじめの説によるべきならむ。
詳しいので二カ所から引用した。これは桑名から野上に入ったという書紀の記述に反するのを「その關のあなたに出でまして」と解して糊塗しようとする。わかりやすい説で、窪田評釈、全註釈、私注の同説もあって可能性があるようにも思えたが後述のような否定説で一説の資格を失った。それより山田自身否定した「若し又美濃中山を不破山といふ事ならば」の一説が魅力的だが、書紀の記述に従えば南宮山(美濃の中山)を越えず、その東麓を迂回している。これをどう見るか。
全釈、伊増峠のことで、伊勢から入つて、これを越えると、關ケ原に出られる。 これも考と同じ矛盾。
注釈、不破山を越えた彼方の、といいたいが、「て」が不適。作者が地理を知らずに、不破山越えてと言ったか。
稲岡全注、誤解と言うより書紀の記載とは齟齬があったのだろう。
全歌講義、事実に即していないことになる。ここは、壬申の乱の記録として詠んでいるわけではないので、事実に忠実であるかどうか、必ずしも問題にはしなかったのであろう。
不破の関説が、目安補正、考など古くからあるが当時はまだ関はなかった。それに代わって全釈の伊増峠説が出て、茂吉、佐々木評釈、新潮集成、犬養『万葉の旅(中)』などに受け継がれた。しかしこれに書紀の記述との齟齬があることは山田講義が詳説した通りなので、最近は「不破山越え」について注をつけないのが目立つ。そんな中でまず山田講義説等を否定したのが沢瀉注釈で、「不破山越えて」、の「て」に注目して「越えた(向こうの)」の意味にならないとしたのは道理で、誤写説でも出さない限り無理である。さらに稲岡全注が、人麻呂作歌の他の「越え」の用例と、「真木立つ不破山」という表現とから、実際に山を越えたと解するのが自然、と述べて決着したと言えよう。
そこで、なぜ人麻呂は書紀とは正反対の行程を詠んだのか、ということが問題になる。まず沢瀉注釈は、人麻呂は地理を知らなかったかとした。しかし他の地名は一応確かなのに、重要な不破山越えの地理を知らなかったかとするのは歌人としての人麻呂の人格を否定するものだろう。ついで稲岡全注は「誤解と言うより書紀の記載とは齟齬があったのだろう。」とする。書紀とは違う別の記録があったのかといっても、現実に壬申の乱の経験者が多数いる中で(持統天皇もその一人)、天武が近江側から和射見が原に入ったなどと言ってもだれもまともに相手にしないだろう(山田講義が近江からの「不破山越え」が荒唐無稽であることを論じている注②)。最後に阿蘇全歌講義が「事実に即していないことになる。ここは、壬申の乱の記録として詠んでいるわけではないので、事実に忠実であるかどうか、必ずしも問題にはしなかったのであろう。」とする。要するに虚構説である。文学としての虚構は当然あるべきだが、問題は近江からの「不破山越え」という虚構が高市皇子挽歌の構想にどうかかわるかということで、そんなことをしたら、ゆるやかにでも歴史的な事実という設定をしたのがだいなしになり、まるで天武がヤマトタケルになって東方征伐に向かうようなお話になってしまう。体験者の知識との釣り合いが取れず、感銘も薄く、殯宮の場がしらけてしまう。
では、どうするか。山田講義が一案として示した南宮山越えを条件つきで採るしかない。天武は高市の要請で桑名の行宮から養老山地の東麓を北上し、途中牧田川を渡って南宮山の東麓に出、迂回するように南宮山の北麓の野上に向かった(注③)。高市の場合は不破郡家に用はないから、牧田川を渡ったあと南宮山南西麓を川沿いに北西に向かい牧田のあたりで支流の藤古川に沿うようになり、最後南宮山西端の小さな岡を超えて和射見が原に出たのであろう。これなら「不破山を越え」と言えるが、天武の場合は迂回したから文字通りの山越えとは言えない。 そこは歌では「背面の国の 眞木立つ 不破山超えて 高麗剣 和射見が原の 仮宮に 天降りいまして 」とあって、すでに多数の東国の兵士達が和射見が原に駐屯していたであろうが(壬申紀による)、彼等の目には南方を遮るかなり大きな南宮山を飛び越えて原の東方(野上方向)に神のように空から降りてきたと思えたかもしれない(遥か南方の桑名にいるはずの天武が現れたのだから)。兵士達にそう思わせるような現れ方をしたという文脈で詠まれていると思う。
話しが後戻りするようだが、次に「背面の国の不破山」を考える。天武が治める北方の国、つまり美濃の国にある不破山、で問題ないのだが、この北方という方位が地理に合わないように思われてきた。大和の明日香あたりから見れば北東であり、実際北は山城で、宇治を過ぎてから、東北東に向かって近江、美濃に出るのだから北方とは言いにくい。実際、東山道という名称も東を示している。
この歌の場合を考えると、高市や天武にとっての壬申の乱は和射見が原と切っても切れず、戦略の重要地点であり、そこを占拠するかどうかが勝敗の分かれ目で、そのためにも無事に行ける可能性のある最短距離として、吉野を出てからは裏道を抜けるようにして伊賀を駆け抜け伊勢に入ってもゆるめず、美濃が視程に入る桑名についてようやく落ち着いた。その時の地理感からすればまさに美濃は北方の国だったのである。「かけまくも ゆゆしきかも…真神の原に ひさかたの 天つ御門を 恐くも 定めたまひて 神さぶと 岩隠ります やすみしし 我が大君の きこしめす 背面の国の 真木立つ 不破山」と歌い出して、聴衆は壬申の乱を想起し、「背面の国の 真木立つ 不破山」と誦したところで、北勢あたりを思い出し、そういえばあのあたりからは美濃は北方の国だと納得したのであろう。そこから南宮山は見えないと思うが、北上した高市や天武とその従者は、和射見が原を遮るように大きく横たわる南宮山を不破山として見たのであろう。
ところで、通説というか、一般に「不破山」は近江と美濃の国境で伊増峠だと思われている。稲岡説で述べたように、ここは実際に山を越えたと取るべきだが、それだと近江側から東に向かい、鈴鹿山脈と伊吹山の間の低い丘陵地帯を越えることになり、「背面の国の不破山」より「東の国の不破道」の方が適していると思える。また国境の峠道の場合、「~の国の」という言い方はなじまないようである。
国境の山(越える山。越えないで詠んだのは除く。)
29.あをによし 奈良山を越え(奈良山越えて)、3236.そらみつ 大和の国 あをによし 奈良山越えて 、3237.あをによし 奈良山過ぎて、3240.奈良山越えて
83.龍田山いつか越えなむ、1747.龍田の山の…旅行く君が帰り来るまで、1749.龍田の山を夕暮れにうち越え行けば、971.龍田の山の…うち越えて、3722.龍田の山をいつか越え行かむ、4395.龍田山見つつ越え來し桜花、
2201.生駒山うち越え来れば、3590.生駒の山を越えてぞ我が來る、3589.生駒山越えてぞ我が來る、
1428.草香の山を夕暮れに我が越え来れば、
2185.大坂を我が越え来れば、
298.真土山夕越え行きて、543.紀道に入り立ち真土山越ゆらむ、1019.真土山より帰り来ぬかも、1680.紀へ行く君が真土山越ゆらむ今日、
3236.我れは越え行く 逢坂山を、3237.逢坂山に 手向け草 幣取り置きて、3240.近江道の 逢坂山に 手向けして 我が越え行けば、3762.逢坂山を越えて來て…、1017、手向けの山を今日越えて、
3402.碓氷の山を越ゆる日は、
4440.足柄の八重山越えて、
4008.砺波山 手向けの神に 幣奉り、
参考、国境を表示した山、
319.甲斐の国…駿河の国…国のみなかゆ出で立てる富士の高嶺、
その他の参考、
1786.み越路の雪降る山を越えむ日は、1800.東の国のかしこきや神の御坂に、2214.雁の越え行く龍田山、2294.雁飛び越ゆる龍田山、3957.奈良山過ぎて 泉川 清き河原に、
こうしてみると国境の山を越えるとき「~の国の」とその山の所在する国名やそれに準じた地名を冠する例は非常に稀だ。3236の場合は典型的な道行文ということもあってか、次いで出る地名に山代が冠せられているのと対応させるために国境というよりも大和にあることを重視したのだろうか。3240も典型的な道行文の歌だが「近江の国の」ではなく「近江道の」になっている。逢坂山はあきらかに国境の山だから、近江国内(曽倉全注)というより、近江への道(近江街道)にある逢坂山と取った方がよいだろう。それは、543.「紀道に入り立ち真土山越ゆらむ」にも言えることで、この場合、国境の山だから紀道に入ったとは言えず、紀州街道とでもいったもので巨瀬道以南だろう(多田全解等)。1786、1800は存在する国名ではなくその地方ということで~道に準じる。要するに国境の山に国名を冠したものは199を除外すれば3236だけで、これは特異な例と見なせよう。
それに対して、国境でない国内の山の場合。
2.大和には…天の香具山、52.日本の青香具山、
91.大和なる大島の嶺(国境の高安山あたりとする説もある)、
1050.山城の鹿背山の間の、
35.紀道にありといふ…背の山、544.紀の国の妹背の山、1098.紀道にこそ妹山ありといへ、1195.紀の国の妹背の山に、
50.近江の国の衣手の田上山、487.近江路の鳥籠の山、
317.駿河なる富士の高嶺(国境の山と見ていない)、319.日の本の大和の国の…駿河なる富士の高嶺、
199.背友の国の…不破山越えて、
3423.上つ毛野伊香保の嶺ろに、3434.上つ毛野阿蘇山つづら、
3424.下つ毛野みかもの山の、
1753.常陸の国の…筑波の山を、382.吾妻の国に…筑波の山、4094.東の国の 陸奥の 小田なる山に 黄金、
737.若狭路の後瀬の山、
3153.越の大山行き過ぎて、4000.越の中 国内ことごと… 新川の その立山に、
132.石見のや高角山、134.石見なる高角山、
567.周防なる岩国山を越えむ日は、
322.伊予の高嶺、
311.豊国の鏡山、417.418.豊国の鏡の山、2341.豊国の木綿山雪の、
3697.対馬の浅茅山、
ここの、紀道、近江道、若狭道は国名が付くのと意味的にほとんど変わらない。「不破山越えて」と同型のものは567だけだが(「背面の国」を199の場合、美濃の国と同じ意味として)、他について見てもその国でよく知られた山だから、特に国名を冠するのだろう。
以上から、「不破山越えて」は近江側から東へ不破の国境地帯を越えて行ったのでなく、伊勢の桑名から北上し美濃に入ってから南宮山を越えた(上空を越えたと想像したとしても)と見るのが当を得ていると考えられる。
注
①榎本福寿「日並・高市両皇子の挽歌と天武天皇――神話、歴史に根ざすその成り立ち――」『萬葉集研究第三十五集』2014.10.20
②山田講義「桑名より多度山の麓なる戸津…經て垂井に到られしならむ。然るときには、不破山をこえられたることはあらず。又實際當時の事情として、さきに一旦近江の多羅尾までいでまして、再び引かへして、伊勢へ出でたまひし如き事情なれば、近江に入り、近江の方より不破關をこえて、美濃に入りたまふが如きことは不可能なるのみならず、若しそれ程に容易ならば、美濃に行宮をつくりて屯します必要はなかりし筈なり。」
③直木孝次郎『壬申の乱増補版』1992.12.15、が妥当とした、松原公宣氏が『続日本紀研究』で所謂cルートして示した南宮山東麓ルートのこと。美濃国府や不破郡家の存在が根拠らしい。「而入不破。比及郡家,尾張国司守小子部連※〔金+且〕鉤、率二萬衆歸之。」と壬申紀にあるから間違いない。なお、桑名から関ヶ原まで直線で約39キロ、天武のルートなら確実に45キロほどにはなる。桑名からは養老山地に遮られて南宮山は見えない。中間過ぎの南濃町駒野あたりからは見えるだろう。
〔2025年2月18日(火)午後7時16分成稿〕