井上通泰 萬葉集新考第一   國民圖書株式會社 1928.3.6  
 
 
   圖版解説
平安朝時代に書寫した萬葉集は仙覚が書いた本集の奥書を見ても少くは無かつたやうに思はれるが今も傳はれるは五種に過ぎぬ。然もいづれも完本では無い。此藍紙萬葉は其五種の一つである
藍紙萬葉と云ふのは其料紙が銀砂子を撒いた薄藍色の紙であるからである。筆者は所謂古筆家即舊派の鑑定家は藤原公任と云つて居るが公任ではあるまじきが上に時代も公任よりは大分後であらうと思はれる。此本の今までに世に出たのは卷九の大部分と卷十八の一部分とのみである。他の卷は恐らくは断片にならぬ前に燒失などしたのであらう
圖版に現したるは縱八寸八分横一尺一寸七分の一紙で、卷十八のうちで、右四首十日大伴宿禰家持作之とある歌である。元來長歌一首反歌三首なるが此一紙にをさまれるは長歌一首反歌一首である。されば反歌二首八行と右四首云々の一行とは次の紙にまはつて居るのである。もし其紙が此發表に促されてどこからか現れて來たらどんなに面白からう
 
 
 
(1)萬葉集新考   
   緒  言
 
此書は明治四十三年十月より始めて昭和二年四月に終りし萬葉集講義の稿本を補訂したるなり。その稿本は大正四年五月より正宗敦夫君の手にて一册づつ稿成るに從ひて出版せしがそは非賣品として少數の會員に頒ちしのみ。その上出版に長年月を要せし爲會員とい へども卷一より具して持てるは少き由なればこたび諸氏の慫慂、與謝野寛、正宗敦夫兩君の盡力によりて國民圖書株式會社より公刊して廣く世上の好學者に頒つ事とせしなり
こたびの本は私刊本を補訂したる處少からざれば篤學の士はたとひ私刊本を所有せらるとも更に新本を一讀せられむ事を希望す
(2)私刊本に附したる歌の栞、辭の栞は讀者の便を圖りて一册に蒐むべし」余は元來書を見し事多からず。萬葉註釋書中此書を作るに當りて一讀せしは
 圓珠庵契沖の代匠記
 賀茂眞淵の考
  著者の原著は 一、二、十一、十二、十三、十四のみ
 本居宣長の玉の小琴(卷四まで)
 荒木田久老の槻の落葉(卷三のみ)
 富士谷御杖の燈《アカシ》(卷一のみ)
 加藤千蔭の略解《リヤクゲ》
 香川景樹の※[手偏+君]解稿本(卷四まで)
 鹿持雅澄《カモチマサズミ》の古義
 近藤芳樹の註疏(卷三まで)
(3) 木村|正辭《マサコト》博士の美夫君志《ミブクシ》(卷二まで)
以上十書のみ。さて余の説と同じきがはやく右の書どもに見えたるは何々にしか云へりと書き改め又は誰同語と書き加へて萬葉集註釋家の通弊を避くるにつとめき。されどなほ心附かずして先哲の説とことわらぬ處もあるべし
 右の書どもゝ燒失後未再獲ざるもの多かればこたびの補訂には一切參考せず。されば補訂には古人の説を冒したる處あるべし
萬葉集註釋家の通弊は他人の説を他人の説とことわらず讀者をして其人の説と誤信せしむる事なり。試に燈と古義卷一とを較べ槻の落葉と古義卷三とを較べ古義と註疏とを較べなば思半に過ぐべし。後の學者願はくは余の例に倣へ
    昭和二年四月
                                                                井 上 通 泰 識
 
(1)  凡  例
漢字のみにて書けるが萬葉集の原文にて假字がきにせるは譯文なり」原文は寛永版本に依りたり。但誤字なる事明白なるものは指摘の煩を避けて直に改めたる處あり。又俗字を正字に改めたる處あり
譯文中傍訓を施したるは諸家(特に略解古義)の訓の一定せざりし處と、諸家の訓を斥けて余が新に訓ぜし處と、讀者が讀み悩み又は讀み誤るべき恐ある處となり。その別は註解を讀まばおのづから明ならむ
歌の中に□を以て圍めるは衍字、即宜しく除くべき字
字間に△を挿みたるは脱字又は脱文ある處
字の左傍に小さき△を附したるは誤字
字の右傍に△を附したるは注意すべき字なり
又歌の中に( )を以て括したるは枕辭なり
萬葉集新考第 一
 
    目  次
 
 卷一
  雜歌………………………………………………………一頁
 卷二
  相聞…………………………………………………………一三一頁
  挽歌…………………………………………………………一九四頁
  橋本進吉氏のガテヌ、ガテマシ考の大意(追考)……三三五頁貝
 卷三
  雜歌…………………………………………………………三四五頁
  譬喩歌………………………………………………………四八五頁
  挽歌…………………………………………………………五〇一頁
(2) 流布本卷第一至卷第三目録………………………………五八五頁
  流布本卷第三附録…………………………………………六〇九頁
 
(1)萬葉集新考卷一
                   井 上 通 泰 著
 
 雜歌
  泊瀬朝倉《ハツセアサクラ》(ノ)宮(ニ)御宇天皇代
   天皇御製歌
1 籠《コ》もよ 美籠《ミコ》もち ふぐしもよ みぶくしもち 此|岳《ヲカ》に 菜つます兒 いへ吉閑《キカナ》 名のらさね (そらみつ) やまとの國は おしなべて われこそをれ しきなべて われこそませ 我許|者《□》背齒告目《ワレコソハノラメ》 いへをも名をも
籠毛與美籠母乳布久思毛與美夫君志持此岳爾菜採須兒家吉閑名告沙根虚見津山跡乃國者押奈戸手吾許曾居師告〔左△〕名倍手吾己曾座我許者背(2)齒告目家乎毛名雄母
 御宇はアメノシタシロシメシシとよむべし。又略してシラシシ又はシロシシともいふべし。此天皇は雄略天皇なり
 籠は雅澄の説に從ひてコと訓み吉閑は木村博士の説に從ひてキカナとよむべし。コはカゴなりブグシは草などを掘る具なり。今も之をフグセといふ地方あり。モヨは助辭なり。ミコといひミブクシといはむとてその先容《マウケ》にコモヨ、フグシモヨとのたまへるなり。美夫君志はミブクシとよむべし。ミにつづける爲に濁音が上に移れるにてなほ日ノカゲルをヒガケルといひ夜ノクダツをヨグタツといふが如し。ツマスはツムの敬語なり。否敬語といふばかりにはあらねど人の事にいひて己が事にいはぬ格なれば以下もしばらく敬語と解せむ。俗語にうつさばツマッシャルなど譯すべし。キカナは聞カムに同じノラサネはノルの敬語なるノラススの命令格なり。されば名ノラサネは名ノラッシャイなどうつすべし。ソラミソは空ニ見ツの古格にてヤマトにかゝれる枕辭なり。こゝのヤマトは日本なり。オシナベテのオシは無意義の添辭にあらず。オシナベテは齊シク壓《オサ》ヘテなり。又シキナベテは齊シク(3)敷キテなり。さればオシナベテとシキナベテとは略同意なり。ワレコソマセは再ワレコソヲレとのたまはむは平板なれば語を換へてマセとのたまへるなるが天皇はかく御自身にも敬語を用ひたまひしなり○我許者背齒告目の訓從來一定せす。まづ眞淵は許の下に曾の字おちたりとして
  われこそは せとしのらめ
とよみ宣長は者を曾の誤として
  わをこそ せとしのらめ
とよみ雅澄は我の下に乎を補ひ者を宣長の説の如く曾の誤とし背の下に跡を補ひて
  あをこそ せとはのらめ
と訓み芳樹は許の下に曾を補ひて
  あをこそは せとしのらめ
とよめり。即眞淵と宣長との説を折衷したるなり。木村博士は許の下に曾を補ひ背の下に止を補ひて
(4)  われこそは せとはのらめ
と訓めり。即眞淵の又の説に同じ(眞淵は背の下に登を補ひてセトハノラメと詠むべきかと云へり)
 次に釋はいかにと見るにまづ眞淵は
  吾をこそは夫として住所をも名をも告しらすべきことなれ
と釋けり。かくては釋と訓と相|副《カナ》はず。もし釋の如き意ならばワレヲコソといはずばかなはじ。次に雅澄は
  朕をこそ夫として家をも名をもつゝまはず告り知らすべき事なれ
と釋けり。訓と對照するに釋の夫トシテは訓のセトハに當れり。夫トシテといふことをセトハとはいふべからず。前にも云へる如く木村博士の訓は
  われこそは せとはのらめ いへをも名をも
にて眞淵の第二説と同じ。然るに其釋は大に眞淵とたがひて
  汝はいかに思ふとも我こそは夫とはのらめといふ意にて結句のイヘヲモ名ヲモも天皇の御自の御事なり
(5)と云へり。家をも名をものらむとあるを天皇の御自の事としたるは富士谷御杖の説によれるなり。但木村博士の説の如くにてはイヘヲモ名ヲモといふ辭のかゝる處なし。たとひ上代の調なりとも我コソハ夫トノリテ家ヲモ名ヲモノラメといふべきを我コソハセトハノラメイヘヲモ名ヲモと略すべきにあらず。されば諸家の説一も穩なるものなし
 按ずるに
  我許者背齒告目家乎毛名雄母
とあるを從來三句と見たるが誤にて實は二句なり。又許の下の者は誤りて入りたるにて
  われこそはのらめ 家をも名をも
とよむべきなり。背をソとよむは正訓にてなほ齒をハとよむが如し。抑此御製は夙く契沖の云へる如く二段より成れるなり。而して第一段の末に
  家きかな 名のらさね
とのたまへるに對して第二段の末に
(6)  われこそはのらめ 家をも名をも
とのたまへるにて又前々の句にワレコソヲレ、ワレコソマセとのたまへるを承けてワレコソハノラメとハの辭を添へてしたたかにのたまへるなり。ソノワレコソハといふばかりの調なり
 追考 類聚古集には許の下の者の字無し。元暦校本には朱にて者の字を書入れたり。美夫君志に古葉類聚抄なる一訓にワレコソハツゲメイヘヲモナヲモとありと云へり
 
   高市《タケチ》(ノ)崗本(ノ)宮御宇天皇代
    天皇登2香具《カグ》山1望v國之時御製歌
2 やまとには むら山あれど とりよろふ あめのかぐ山 のぼりたち 國見をすれば 國原は けぶり立籠〔左△〕《タチタツ》 うなばらは かまめたちたつ うまし國ぞ あきつ島 やまとの國は
山常庭村山有等取與呂布天乃香具山騰立國見乎爲者國原波煙立籠海(7)原波加萬目立多都怜※[立心偏+可]國祚蜻島八間跡能國者
 此天皇は舒明天皇なり
 ヤマトニハのハは輕く添へたるなり。外ノ國トチガヒテ澤山山ガアルガとまでいふ調にあらず○アレドの下にソノ中デモといふことを補ひて聞くべし。又カグヤマの下に芳樹の云へる如くソノ山ニといふことを加へて心得べし。取ヨロフの取は打に似たる添辭なり。ヨロフはヨロヘルにて具足セルといふことなり〇アカヌ所ナキなり國見は眺望なり。○ハラは眞淵の云へる如く廣くして平なる處をいふ○立籠は一本に立龍とあり。舊訓にタチタツとよめるに從ふべし。考にタチコメと改めたるはこちたくて一首の趣にかなはず。さてタチタツはそこにもこゝにもたつなり。たつことの絶えざるをいふにはあらず○カマメは鴎なり○ウマシグニは結構ナル國といふことなり。ウマシは今はウマキ、ウマクとはたらけど、いにしへはウマシキ、ウマシクとはたらきしなり。さればこそこゝもウマグニとは云はでウマシグニと云へるなり
 
   天皇遊2獵内野1之時|中《ナカツ》皇|命〔左△〕使2間人《ハシビト》(ノ)連《ムラジ》老《オユ》1獻歌
(8)3 (やすみしし) わがおほきみの あしたには とりなでたまひ ゆふべには 伊縁立之《イヨリタタシシ》 みとらしの あづさの弓の 奈加〔左△〕《ナリ》はずの 音すなり あさがりに 今たたすらし ゆふがりに 今たたすらし みとらしの 梓の弓の 奈加〔左△〕《ナリ》はずの 音すなり
八隅知之我大王乃朝庭取撫賜夕庭伊縁立之御執乃梓弓之奈加弭乃音爲奈利朝獵爾今立須良思暮獵爾今他田渚良之御執梓能弓之奈加弭乃音爲奈里
 古義に中皇命は中皇女の誤にて間人《ハシビト》(ノ)皇女の御事なるべしと云へり。間人皇女は天皇の御女なり。ヤスミシシは大君にかゝれる枕辭なり。ヤスミは大ヤスミ殿小ヤスミ殿などのヤスミにて御坐といふこと、シシは知ラシなり。いにしへシラスをシスとも云ひしなり。さればヤスミシラスといふべきをヤスミシシといへるは枕辭の一格にてイサナトリ海などと同格なり(古義略同説。)○伊縁立之は雅澄のイヨリタタシシとよめるに從ふべし。イヨリタタシシのイは添辭、ヨリは倚、タタシシはタチ(9)シの敬語なり。ミトラシは執リタマフ物といふ事なり。弓は執るものなればミトラシといふなり。なほ劔は佩《ハ》くものなれば之をミハカシといふが如し○アサユフニトリナデタマヒイヨリタタシシといふべきを二つに分けて云へるは辭の文《アヤ》なり。而して二つに分けしにつきておのづからハの言は出來れるなり○アヅサは今ヨグソミネバリ又はハンザなどいふ木なりといふ白井光太郎博士の説によるべし○弭は弓の兩端の弦を受くる處をいへば中弭といふべき由なし。されば宣長は奈加を奈利の誤とせり(玉の小琴の外古事記傳二十三卷にも)。然るに谷森善臣翁は加奈の顛倒として、金弭とせり。案ずるに奈加弭ノ音スナリといへる、弭の音の遠く聞ゆる趣なればなほ弭に音を立つる設をしたるものとして奈利弭の誤即鳴弭とすべし○アサガリニ、ユフガリニとある朝夕は上なるアシタニハ、ユフベニハの朝夕とは異なり。まづイマタタスラシの今は一つの時をさして云ふ語なれば朝と夕と二つをかけては云ふべからず。さらば今とさしたるは朝にや夕にやといふに反歌にアサフマスラムとあれば今とさしたるは朝の方なる事明なり。さればアサガリニイマタタスラシといふが主意にてユフガリニイマタタスラシは其副に云へる(10)のみ○古義に
  御かりに出賜はむとて御弓とりしらべ賜ふが弓弭の鳴さわぐ音の後宮へきこゆるなりと云へるはまだ宮を出で給はぬ程に奉りし歌とせるなり。美夫君志に
  後宮より御獵所に奉れりしなり…かかれば後宮にて其鞆の音をきゝ給ひて今こそ御獵し給ふならめと御羨しく思ほしめすなり
といへるはいかが。高市崗本宮と字智野とはいたく離れたれば宇智野にて弓の響くが高市崗本宮なる後宮に聞ゆべくはあらず。案ずるに此時の御獵は字智野に行宮を作りて連日御獵し給ひしにて中(ノ)皇女も其行宮まで御供し給ひしなるべし○此歌十八句より成り上十句と下八句と二段に分れたり。但上十句のうち初二句は上下二段にならびかゝりたれば實は二段各八句にて其下四句全く相同じ
 
    反歌
4 (たまきはる)うちの大野に馬なめて朝ふますらむその草深野《クサブカヌ》
珠刻春内乃大野爾馬數而朝布麻須等六其草深野
(11) 反歌は先輩或はカヘシウタとよみ或はミジカウタとよみたれど木村博士のハンカとよめるに從ふべし。古人は古學者の如くに字音を嫌はざりけむとおぼゆ
 タマキハルはウチにかゝれる枕辭なり。野は古くはヌと云へり。但集中に能と書きたる處もあれば寧樂時代よりはやくノに轉じそめしなり。千蔭は
  アカネサスムラサキ野ユキシメ野ユキなどはヌと唱へがたければ調によりてノともよみたりと見ゆ
と云へれど唱へがたく思ふはムラサキノユキシメノユキとよみなれたればなり。何の唱へ難き事かあらむ。固より調にも意にもかはりなければヌとよみてもノとよみてもあるべし○雅澄は六の卷に朝ガリニシシフミオコシ夕ガリニ鳥フミタテ馬ナメテ御獵ゾタタス春ノシゲ野ニとあるを引きてフマスは鳥獣をふみたておどろかし給ふ事なりと云へれどフミオコシフミタテなどあらばこそしか釋かめ、ただフムとあるをいかがはふみたておどろかす事と釋かむ。ただ野を蹈むことにこそ○結句を眞淵千蔭は舊訓にクサフケヌとよめるに從ひて
  夜ノフケユクといひ田の泥深きをフケダといふが如し
(12)と云へれど木村博士の云へる如く夜ノフケユクのフケはフクルといふ語のはたらきたるなれば今の例とすべからず。フケダは例として可なれどフカ何といふを轉してフケ何といふは此他に類なくそのフケダはた古書には見えぬ語なれば證とはしがたし。古義の如くクサブカヌとよみて何の妨もなきをや。古語といへばつとめて今唱ふるとは異さまによむべきものぞと心得たるはをさなし○結句クサフカヌと云ひすてたる故に餘意ありて聞ゆるなり。即オイサマシイ事カナなどいふ餘意あるなり。古義歌意の條にいへる事は燈の説によれるにて從ひがたし(上なるフマスの釋も燈の説によれるなり)
 
   幸2讃岐(ノ)國|安益《アヤ》(ノ)郡1之時軍王見v山作歌
5 かすみたつ ながき春日の くれにける 和《ワ》|豆《□で圍む》肝《キモ》しらず (むらぎもの) 心をいたみ (ぬえこどり) 卜嘆居者《ウラナゲキヲレバ》 (たまだすき) かけのよろしく (とほつ神) わがおほきみの いでましの 山越風乃〔左△〕《ヤマコスカゼニ》 ひとりをる わが衣手爾〔左△〕《ノ》 あさよひに かへらひぬれば ますらをと お(13)もへる我も (草まくら) たびにしあれば おもひやる たづきをしらに 綱《ツヌ》のうらの あまをとめらが やく鹽の おもひぞやくる わがしたごころ
霞立長春日乃晩家流和豆肝之良受村肝乃心乎痛見奴要子鳥卜歎居者珠手次懸乃宜久遠神吾大王乃行幸能山越風乃獨座吾衣手爾朝夕爾還比奴禮婆大夫登念有我母草枕客爾之有者思遣鶴寸乎白土綱能浦之海處女等之燒塩乃念曾所燒吾下情
 和豆肝は舊訓にワヅキモとよみたれどワヅキモといふ辭他に例なければとて古義には豆を衍字として六言にワキモシラズとよめり。しばらく之に從ひて界モ知ラズの意とすべし○卜嘆居者は舊訓にウラナケヲレバとよめるを眞淵ウラナキヲレバに改め宣長は十七卷にヌエドリノ宇良奈氣之都追とあるを證としてもとのまゝによむべしと云へり。案ずるにウラナケシツツの例によらばウラナケシヲレバといはざるべからず。ウラナクルといふ動詞あらばこそウラナケヲレバとい(14)ふべけれどさる動詞ある事を聞かず。さればウラナゲキヲレバとよむべし。ウラナゲクは呻吟するなり○カケノヨロシクは略解に
  卷十子ラガ名ニカケノヨロシキ朝妻ノ云々とよみて言にかけていふもよろしきといふ意にて下のカヘラヒといふ詞へかゝる也
と云へれどカヘラヒは設けて云へる語なればそれにかけてカケノヨロシクと云はむは詮なきこゝちする上にかくてはトホツカミワガオホキミノイデマシノといふ三句無用となる如し。案ずるにいにしへ安益《アヤ》(ノ)郡にいでまし山といふ山ありしにて天皇の行幸先にいでまし山といふ山ありしによりてカケノヨロシクと云へるなるべし。もし然らば玉ダスキカケノヨロシク遠ツ神ワガオホキミノの四句はイデマシノ山の序とすべし○山越風は御杖のヤマコスカゼとよめるに從ふべし。山コス風乃の乃とワガコロモデ爾の爾と顛倒せるにあらざるか。もし然らばイデマシ山ヲフキ越ユル風ニ我袖ノ朝夕ニヒルガヘレバといへるなり○上にナガキ春日ノクレニケルワキモシラズ云々ウラナゲキヲレバといへるは薄暮又は初更の事とおぼゆるに下にアサヨヒニカヘラヒヌレバとあるは矛盾せるに似たれど(15)助けて釋かれざるにもあらず。即歌をよみしは薄暮又は初更の事なれど山こす風の吹くは反歌にヤマゴシノ風ヲトキジミと云へる如く始終の事なればアサヨヒニと云へるなり○オモヒヤルタヅキヲシラニは鬱ヲ散ズル方法ヲ知ラズとなり○綱はツヌとよむべし。さて綱ノウラノアマヲトメラガヤク鹽ノの三句はヤクルにかゝれる序なり○オモヒゾヤクルは思が燒くるにはあらず。オモヒヤクルといふ複動詞の間にゾをはさみたるなり。此事は御杖はやく云へり○括弧を施したるは枕辭なり
 追考 ※[手偏+君]解に
  カケノヨロシクは…案ずるに行幸能山とつづくべき事おぼつかなし。こは名所なるべくみゆ。さらばミユキ山など成べし。イデマシ山と云はんもことごとしければ也。さる時はカケノヨロシクは行幸ノヤマにかゝる也さて此たびの行幸をもこめたりと云べけれど猶案ずるにこは只行幸と云はん序のみ成べし。この句によりて端詞の幸讃岐國安益郡之時軍王見山作歌とはかきなしたる歟。又は見行幸山作歌などありけんをさかしらに直したるなど成べし。すべてはし詞(16)は違へる事のみ多し。見山とのみあるも足はぬこゝちす。且舒明天皇此國に行幸のことものに見えず。さはとまれかくまれ行幸能山とつづくべき事名所ならでは更に有まじきわざ也。諸説はるか下なるカヘラヒヌレバと云にかけたるは語勢を失へる也云々
といへり
 
   反歌
6 山ごしの風をときじみぬる夜おちず家なる妹をかけてしぬびつ
山越乃風乎時自見寐夜不落家在妹乎懸而小竹櫃
    右※[手偏+驗の旁]2日本書紀1無v幸2於讃岐國1。亦軍王未v詳也。但山上憶良大夫類聚歌林曰。紀曰天皇十一年己亥冬十二月己巳朔壬午幸2于伊豫温湯宮1【云々】。一書云。是時宮前在2二樹木1。此之二樹斑鳩此米二鳥大集。時勅多掛2稻穗1而養之。乃作歌【云々】。若疑從2此便1幸之歟
 トキジミはトキジといふ形容詞のはたらきたるなり。四卷にトキジケメヤモとあ(17)るはトキジカラメヤモといふに齊しければ亦トキジのはたらけるなり。之に反してトキジクノカグノコノミ、トキジク藤などのトキジクは副詞なり。さて風ヲトキジミは風ガ常ニ吹ケバとなり○ヌル夜はただ夜と云ふことなり。ヌルは輕く添へたるのみ。所謂歌語なり。さてヌル夜オチズは毎夜といふことなり○カケテといふに辭にかくると心にかくるとの別あり。カケテシヌビツのカケテは心にかくるなり。長歌にカケノヨロシクとあり又祝辭などにカケマクモアヤニカシコキといへるカケは辭にかくるなり
 
   明日香《アスカ》(ノ)川原《カハラ》(ノ)宮御宇天皇代
    額田《ヌカタ》王歌
7 あきの野の美草《ミクサ》かりふきやどれりしうぢのみやこのかりほしおもほゆ
金野乃美草苅葺屋杼禮里之兎道乃宮子能借五百磯所念
    右※[手偏+驗の旁]2山上憶良大夫類聚歌林1曰。一書戊申年幸2比良宮1大御歌。但(18)紀曰。五年春正月己卯朔辛巳天皇至v自2紀温湯1。三月戊寅朔天皇幸2吉野宮1而肆宴焉。庚辰日天皇幸2近江之|平《ヒラ》(ノ)浦1
 此天皇は皇極天皇なり
 美草は古くミクサとよみ又ヲバナ(元暦校本)とよめり。宣長は薄の事と見えたればヲバナとよめるに從ふべしといひ雅澄は文字のまゝにミクサとよみて薄の事と心得べしと云へり。雅澄の説に從ふべし○ウヂノミヤコといへる、宇治に都のありし事なければいかがといふにこは曾て宇治に行宮を作りてしばしいましゝ事あるなり(下にも吉野離宮を瀧ノミヤコといへり)。日本紀に其事の見えぬは記しおとせるなり。雅澄は
  近江に行幸ありし度こゝに行宮をたてて一夜とまらせ給ひしなるべし
と云へれどたとひ數度の御とまりなりともただ一夜の御とまりなるを都と云はむこといかが。雅澄は豐前の京、豐後の宮處《ミヤコ》野、肥前の宮處郷を風土記に景行天皇の行幸し給ひて行宮を造り給ひしによると云へるを證に引きたれどやがてそれらも風土記を味ふにしばらく其處々にいましゝなるをや。ヤドリシ、ヤドリツルなど(19)云はでヤドレリシ即トマツテヲツタといへるにても一夜のやどりならざりし事知らる○カリホとあるを舊註に天皇の假廬と見たるを雅澄は
  こは從駕の人々の借廬を云り。…もし天皇命の借廬ならむには尊みてヤドラシシなどこそあるべきをあなかしこヤドレリシなどいふべしやは
と云へれど天皇をもこめ奉りて我々ノとか一同ノとかいふ意と見て可なるべし〇一首の意は曾テ秋ノ頃御供ニテシバラク宇治ニトドマルトテ假廬を造ツテ其野ノ薄ヲ刈リテソレヲ屋根ニ葺イテトマツタ事ガアツタガソノメヅラシクオモシロカツタ事ガ今ダニ忘レラレヌとなり
 
   後(ノ)崗本(ノ)宮御宇天皇代
    額田王歌
8 にぎた津にふなのりせむと月まてば潮もかなひぬ今はこぎ乞菜《デナ》
熱田津爾船乘世武登月待者潮毛可奈此沼今者許藝乞菜
    右※[手偏+驗の旁]2山(ノ)上(ノ)憶良大夫(ノ)類聚歌林曰。飛鳥(ノ)岡本宮御宇天皇元年己丑(20)九年丁酉十二月己巳朔壬午天皇大后幸2于伊豫温湯(ノ)宮1。後(ノ)岡本(ノ)宮馭宇天皇七年辛西春正月丁酉朔壬寅御船西征始就2于海路1。庚戊御船泊2于伊豫(ノ)熟田津(ノ)石(ノ)湯(ノ)行宮1。天皇御2覧昔日猶有之物1當時忽起2感愛之情1。所以《ユヱニ》因製2歌詠1爲2之哀傷1也。即此歌者天皇(ノ)御製焉。
    但額田王歌者別有2四首1
 此天皇は齊明天皇(即皇極天皇の重祚)なり
 ニギタ津は伊豫の國人半井梧庵の愛媛面影に今の三津の濱なるべしと云へり○ツキマテバを古義に
  これ實には潮まちし賜ひしなるべきを月を主としてのたまへるがをかしきなり
と云へるは御杖の説によれるにてわろし○シホモカナヒヌといへるにて月出でぬとはきこゆるなり。モの言の用方いと巧なり○結句は燈にコギイデナとよめり之に基づきてコギデナとよむべし。イデナはイデムといふに近し
 
(21)   幸2于紀温泉1之時額田王作歌
9 莫囂圓〔左△〕隣之大相七兄爪《四字左△》△△謁〔左△〕氣吾瀬子之射立爲兼五可新何本《マツチヤマミツツコソユケワガセコガイタタシケムイツカシガモト》
 莫囂圓は眞淵に從ひて圓を國の誤として大和國の事とすべし。又大相七は大堆土の誤として山の事とすべし。
  荀子に積土成v山風雨興焉とあり。但堆土といへる例は知らず
さて莫囂國隣之大堆土の八字をマツチヤマとよむべし(以上は守部の説に同じ。ただ相を堆の誤としたるのみ)。マツチ山は紀路ニイリタツ眞土山ともありて大和と紀伊との界にあれば戲れて大和國隣之山とだに書くべきを更にあざれて莫囂國《ヤマト》(ノ)隣之大堆土《ヤマ》と書けるなり○兄爪謁氣は春海のいへる如く見乍湯氣《ミツツユケ》の誤とすべし。但ユケとあればミツツの下にコソを補はざるべからず。されば見乍許曾湯氣の誤脱とすべし○吾瀬子之は舊訓の如くワガセコガとよむべし。射立爲兼は古義の如くイタタシケムと六言によむべし。イは添辭、タタシケムは立チ給ヒケムなり。五可新何本は契沖等に從ひてイツガシガモトとよむべし。イツガシは神聖ナル樫といふことなれば神の坐す樫の杜ならむ。モトはテニヲハを添へてモトヲと心得べし。(22)○こは御とも先より京なる人に贈りしにて
  アナタガ前方眞土山デ樫ノ杜ノ下デ御眺望ナサレタト承リマシタガ唯今私モ眞土山ヲ見ナガラソノ樫ノ杜ノ下ヲトホリマス
といへるなり
 
   中皇命〔左△〕往2于紀伊温泉1之時御歌
10 君がよもわがよも所知哉〔左△〕《シラム》いはしろの岡の草根をいざむすびてな
君之齒母吾代毛所知哉磐代乃岡之草根乎去來結手名
 中(ツ)皇女は齊明天皇にも御女なり。齊明天皇は舒明天皇の皇后なればなり
 所知哉は舊訓にシレヤとよめるを宣長は、哉を武の誤としてシラムとよめり○草根は舊訓にクサネとよめるに從ふべし。其草根は御杖の云へる如くただ草の事なり。但草根を結ばむとのたまへる、世の常の短き草とは思はれねば薄の事なるべし○君ガヨ、吾代とのたまへるヨは將來なり。シラムは掌《ツカサド》ラムなり。草木を結びおけば其草木の解けざる限身に恙なしといふ俗信ありしなり。磐代は紀伊の地名なり。君(23)とのたまへるは次の歌にワガセコとのたまへると同じき人にて此時同伴したまひし人なり。此皇女は御叔父孝コ天皇の皇后となりたまひしが此時は天皇の崩御後なれば御同伴者は別人なり
 
11 わがせこはかりほつくらす草《カヤ》なくば小松が下の草《クサ》をからさね
吾勢子波借廬作良須草無者小松下乃草乎苅核
 三句と結句との草の字舊訓に共にカヤとよみ略解古義共にそれによりたれど上の草こそカヤとよまめ下なるはことさらにカヤとよむべき理由なければ宣長の説の如くクサとよむべし。カヤは薄を屋根に葺く時の名なり○下の字は舊訓にシタとよめるに從ひて可なり○古義に
  小松はおひさきこもれる物なれば云々
といへるは燈の説によれるにてわろし(すべて御杖の燈の説はいりほがにて從はれざる事おほし)。小松は今の世には二三尺以下なるをいへどいにしへはやゝ大なるも云ひきとおばゆ。小松ガ下ノクサと云へる其草を薄と見れば松は少くとも一間以上ならざるべからず。卷四にナラ山ノ小松ガ下ニタチナゲキツルといふ歌も(24)あり(美夫君志に擧げたる間宮永好の説に『小は美稱にてただ松といふことなり』といへるはいかが)○カラサネは刈リ給ヘにて上なる名ノラサネと同格なり。ツクラスは作リ給フなり。但こゝにては假廬ヲ作リタマフガとうつすべし
 追考 間宮永好の犬※[奚+隹]隨筆卷二(歌文珍書保存會本上卷五十七頁)に小松は小さき松をのみいふ事と思ふは懷狹し。大きやかなる松をも然いひて其例古にこれかれあり。萬葉集卷一にワガセコハカリホツクラスカヤナクハ小松ガ下ノクサヲカラサネ
   此御歌に小松が下とよませ給へるは松蔭の薄萱などをさし給へるにて廬を葺かむ料にとおもほすばかりなれば其たけ四五尺ばかりはありつらむ
  卷四にキミニコヒイタモスベナミナラヤマノ小松ガ下ニタチナゲキツル
   木の下にたつといはるゝ松ならむには小さき木とは云べからず
  卷二ノチミムトキミガムスベルイハシロノ小松ガウレヲマタミケムカモ
   これは有馬皇子自傷結松枝歌イハシロノハママツガエヲヒキムスビ云々とよみ給へる松を見てよめる歌にてそは四十三年前のことなり。しかるをいま小(25)松とよめるを思へばいよいよ大きなる松をもなほ小松と云ひけむことを明らむべし
  卷十五にワガイノチヲナガトノシマノ小松原イクヨヲヘテカカムサビワタル
   神さびたりけむ松をいかで小さき松とすべき
  抑此小〔右△〕てふ詞はただかろく添てもいひ女などのやさしく云はむとても云ふことにてヲといへるに同じかるべし。然るにヲ某は多くコ某は少なければたまたま小松小菅などいへるはヲにかよふコなることを知らでただ小さきものを云へる稱とのみ思ふはよくもたどらぬなりけり(採要)
といへり(正宗敦夫のいひおこせし)
 
12 わがほりし野島はみせつ底深きあこねの浦の玉ぞ不拾《ヒロハヌ》
吾欲之野島波見世迫底深伎阿胡根能浦乃珠曾不捨〔左△〕
    或(ハ)頭(ヲ)云吾欲子島羽見遠《ワガホリシコジマハミシヲ》
    右※[手偏+驗の旁]2山上憶良大夫類聚歌林1曰。天皇御製歌【云々】
(26)ミセツは見セテクレタガとなり○不拾を契沖古風に依りてヒリハヌとよめり。いづれにてもあるべし○契沖のいへる如くアコネノ浦ノ玉ヲ拾ハント思へド水ガ深サニ拾ハレヌといふ意なり。或説にあこねの浦には行き給はざりしにてアコネノ浦ヲゾミザリシといふ意を今の如くのたまへるなりといへれどかくてはソコフカキといふこといたづりなり○玉とは美しき小石なり。海なき大和の人の海濱の小石を珍重しけむさま集中に屡見えたり
 
   中大兄三山《ナカツオホエノミツヤマノ》歌一首
13 かぐ山は うねびををしと 耳梨と あひあらそひき 神代より かくなるらし いにしへも しかなれこそ うつせみも つまをあらそふらしき
高山波雲根火雄男志等耳梨與相諍競伎神代從如此爾有良之古昔母然爾有許曽虚蝉毛嬬乎相格良思吉
 中大兄は天智天皇の御事なり。されば歌の上に御の字を補ふべし(27)ウネビヲヲシは契沖は畝火を男山としてヲヲシキウネビといふことなりと云へり。さらばヲヲシウネビといふべくヲヲシを下には附くべからず。谷|眞潮《マシホ》、木下|幸文《タカブミ》等畝火を女山としてヲヲシのヲはてにをは、ヲシはカハユシといふ意なりと釋けり。卓見といふべし
  因にいふ。幸文の説は其著さやさや草紙に見えたるが古義には大神眞潮の説として此説を擧げたり。木下幸文の説も之に同じなどいはざるを見れば雅澄は亮々《サヤサヤ》草紙を見ざりしなり。こゝに又いぶかしき事あり。即幸文の師なる景樹の※[手偏+君]解に
   この意は香山は畝火山を愛《ヲシ》と思ひかけて耳梨山と爭ひたりと云にて香山を畝火耳梨の爭ひしとは見えず云々
  といへり。暗合にや然らずやたやすく考ふべからず
 ○イニシヘモは神代ニモといひてもよきを辭を換へてのたまへるなり○ウツセミモを古義には現在ノ身モと釋き美夫君志には現存ノ身モと釋けり。即今アル人モといふ意に取れるなり。されどもし神代又はイニシヘに對してのたまへるなら(28)ばイマノ世モなどのたまふべし(契沖はウツセミはこゝにては今ノ世といふ事なりといへり)。物遠くイマアル人モとやうにはのたまふべからず。案ずるにウツセミモは神靈に對してのたまへるにて人間モといふ意にのたまへるなり。三山の爭は人間の事にあらざればなり。二卷の長歌にもウツセミシ神に不勝者とあり○ラシは今ははたらかぬ辭となれれど此御歌にシカナレコソ…アラソフラシキとあり本集六卷にウベシコソミル人ゴトニカタリツギシヌビケラシキとあり又推古紀なる御歌にウベシカモ蘇我ノコラヲ大君ノツカハスラシキとあるを見れば(ハとかかりてラシキと結ばれたる例は見えず)いにしへはラシキとはたらきしにて其はたらきはカの係の時もコソの係の時も同一なりしなり(玉緒七卷七丁と參照すべし)
 
   反歌
14 かぐ山と耳梨山とあひし時たちて見にこしいなみ國はら
高山與耳梨山與相之時立見爾來之伊奈美國波良
(29) 此反歌はたたへて云はば古雅ともいふべけれど一首の中に主格なければ誰が立ちて見に來しにか分らず播磨風土記の文によりて始めて出雲なる阿菩《アボ》(ノ)大神が立ちて見に來しなりとは知らるゝなり。因にいふ。風上記に
  出雲國阿菩大神聞2大倭〔右△〕國畝火香山耳梨三山相闘1此欲2諌止〔右△〕1上來之時到2於此處1乃聞2闘止1覆2其所v乘之船1而坐之。故號2神阜〔右△〕1。阜形似v覆(古義に引けるには倭を和、止を山、形を之と誤り又一の阜を脱せり。原文似覆の下に船の字を脱せるか)
とある神阜を仙覺の萬葉鈔の流布本に神集とせるによりて眞淵はカヅメとよみ狛(ノ)諸成、伴信友等は今の印南郡|神爪《カヅメ》(神爪は石の寶殿の後に當りて街道に沿へる村の名なり。美夫君志に『さる里の名ある事なし』といへるは妄なり)に當てたれど鈔に神集又は神隼とあるは神阜の誤にて其神阜は今の揖保郡林田の南方なる神岡に當れり。されば風土記の趣は今の御製の趣と異なり。即天皇の據り給へる傳説にては阿菩大神は印南國原まで來給ひし事となり風土記に擧げたる傳説にては揖保郡の神阜まで來給ひし事となれり。固より神話の事なればいづれ眞實なりとも定められず
 
(30)15 わたつみの豐旗雲にいりひさしこよひのつく夜|清明《アキラケク》こそ
海津海乃豐旗雲爾伊理比沙之今夜乃月夜清明己曾
    右一首歌今案不v似2反歌1也。但。舊本以2此歌1載2於反歌1。故今猶載v此歟。亦紀曰。天豐財重日足姫《アメトヨタカライカシヒタラシヒメ》(ノ)天皇(ノ)先《サキ》(ノ)四年乙巳立2天皇1爲2皇太子1
 三山歌の反歌にあらざる事左註に云へる如し。思ふに題辭のおちたるなるべし。雅澄は考の説によりて
  三山の反歌にあらざることはいふに及ばず。されど同じ度此印南の海邊にてよませ給ふなるべし
といへれど前述の如く題辭のおちたるなるべければ中(ツ)大兄の御歌とだに定むべからず。いかにぞ印南の海邊にての作と定めむ○結句舊訓にスミアカクとよめるを眞淵はアキラケクコソとよみ雅澄は明を照の誤字としてキヨクテリコソとよめり。又雅澄はコソを希ひ望む辭のコソと見、三句のイリヒサシをイリヒサシテといふ意にとりて
(31) 入日の曇れるを見てかくてはこよひの月もさやかならじをいかで彼入日の影の心よく照りて雲もはれゆき今夜の月しもさやかに有れかしとよみませるなり
といへり(こは御杖の説によれるなり)。もし此説の如く月のあかからむ事を望むが目的にて其仲介として雲に入日のさゝむ事を望むならば
  わたつみのとよはた雲に入日させこよひのつくよあかくててるがね
などいふべく今の如くまぎらはしくはいふべからず。されば清明は眞淵のアキラケクとよめるに從ふべくコソはコソアラメの略と見るべし。又イリヒサシといへるは古格にて今ならばイリヒサシヌといひ切るべきをイリヒサシといひすてたるにて古今集なるカリクラシタナバタツメニヤドカラムのカリクラシと同格なり○トヨハタグモは旗なす雲なり。トヨはたたへ辭にて大といはむが如し
 
 近江大津宮御宇天皇代
  天皇詔2内大臣藤原朝臣1競2憐春山萬花之艶、秋山千葉之彩1時、額田王以v歌判v之歌
(32)16 冬ごもり 春さりくれば なかざりし 鳥もきなきぬ さかざりし 花もさけれど 山を茂《シミ》 いりても不取〔左△〕《キカズ》 草ふかみ 執手《トリテ》もみず 秋山の この葉をみては 黄葉《モミヂ》をば とりてぞしぬぶ 青きをば おきてぞなげく そこし恨〔左△〕之《タヌシ》 秋山△吾者《アキヤマヲワハ》
冬木成春去來者不喧有之鳥毛來鳴奴不開有之花毛佐家禮杼山乎茂入而毛不取草深執手母不見秋山乃木葉乎見而者黄葉乎婆取而曾思奴布青乎者置而曾歎久曾許之恨之秋山吾者
 近江大津宮御宇天皇は天智天皇なり。鎌足をして春秋いづれかよきと群臣に問はしめ給ひし時群臣或は春をよしと申し或は秋ををかしと申しゝ中に額田王は歌をよみて答へ給ひしなり。判とあるは人々の議論を判せしにあらず春秋の優劣を判せしなり(燈同説)。一篇十八句三段に分れたり。即上十句、中六句、下二句なり
 冬ゴモリは冬ゴモリシテなり。春サリクレバは春ガ來レバなり。鳥モキナキヌは辭は切れ意は下へつづけり。キナキといふに意は同じ。ヌを省きて心得べし○不取は(33)古義に取を聽の誤としてキカズとよめるに從ふべし○執手を略解に考に從ひてタヲリテとよめるはいはれなし○アキヤマノの上に之ニ反シテといふことを補ひて聞くべし。しか聞かるゝはトリテゾシヌブが上なるトリテモミズに應じたればなり○黄葉を考以下モミヅよめり。されどモミヂタルヲバ(或はモミデルヲバ)といふことをモミヅヲバと云ひては辭足らず。案ずるにもみちたるものは即モミヂなればこゝは舊訓に從ひてモミヂヲバとよむべし。元來モミヂはモミヂタルモノといふことにて木葉といふ意は無し。前註者モミヂバを略してモミヂとのみ云ふをききなれて、ふとモミヂに木葉といふ意あるやうに誤解して上のコノハと重ならむを恐れて強ひてモミヅヲバとよめるにこそ○シヌブは契沖の云へる如くここにては賞美する事なり。オキテは採ラズシテなり○恨之は舊訓にウラメシとよめるを宣長は怜之の誤としてオモシロシとよみ雅澄は同じく怜之の誤としてタヌシとよめり。後者に從ふべし。○ソコシのシは助辭、ソコはソレなり○秋山の下に曾又は乎の字あるべし。此句つとめて簡潔にいひたるなれど今本の如くにては秋山そのものがワレと云へるやうにきこゆればなり。しばらく乎をおとしたりと(34)してアキヤマヲワハをよみて我ハ秋山ヲアハレトオモフといふべきを略したりとすべし
 
   額田王下2近江國1時作歌井戸王即和歌
17 (うまざけ) みわの山 (あをによし) ならの山の 山際《ヤマノマニ》 伊隱《イカクル》まで みちのくま 伊積《イツモル》までに 委曲毛《ツバラニモ》 みつつゆかむを しばしばも 見放武《ミサケム》やまを こころなく雲の かくさふべしや
味酒三輪乃山青丹吉奈良能山乃山際伊隱萬代道隈伊積流萬代爾委曲毛見管行武雄數數毛見放武八萬雄情無雲乃隱障倍之也
 題辭の井戸王の上に并の字ありしが下なる井の字に紛れて落ちたるならむ。なほ下にいふべし○ミワノヤマの下にソノヤマガといふことを加へて聞くべし、契沖が『ミワノヤマの下にヲ文字を入れて心得べし』と云へるは非なり。しか心得むに下なるミサケムヤマヲと相かなふべしやは○山際は木村博士のヤマノマニとよめるに從ふべし○伊隱は古義にイカクルとよめるによるべし。カクルは古くは四段(35)にはたらきし語なり。イは添辭なり○ミチノクマは道の曲角なり○伊積は舊訓イツモルなるを春滿のイサカルに改めたるはわろし。道の隈にサカルとは云ふべからず。マデニは今のマデなり。ニに拘はるべからず○委曲毛の毛を雅澄は爾の誤字とし『下なるシバシバモのモの字にてこゝをも兼ねたり』といひてツバラカニとよめるは非なり。下のモこゝまで及ぶべけむや。なほ舊訓の如くツバラニモとよむべし○ミツツユカムヲはミツツユカム山ヲといふべきを言餘れば下なるミサケムヤマヲに讓りてヤマといふ語を略したるなり○見放武を古義に本集卷三に
  ゆくさにはふたりわがみしこのさきをひとりすぐればみもさかずきぬ
とあるに據りてミサカムとよめれど普通の格によりてなほミサケムとよむべし。ミサケムは見遣ラムなり○契沖は題辭に拘泥して即題辭に遷2都近江國1時などしるさざるによりて遷都以前に故ありて近江に下り給ひし時の歌なるべしと云へり。されど一首の調しばらく他國にものする旅の調にあらず。されば余はなほ遷都の時の歌と認む(芳樹同説)。左註には類聚歌林を引きて遷2都近江國1時御2覧三輪山1御歌焉としるせり
 
(36)   反歌
18 三輪山をしかもかくすか雲だにもこころあらなむかくさふべしや
三輪山乎然毛隱賀雲谷裳情有南畝可苦佐布倍思哉
    右二首歌山上憶良大夫類聚歌林曰。遷2都都近江國1時御2覧三輪山1御歌焉。日本書紀曰六年丙寅春三月辛酉朔己卯遷2都于近江1
 三輪山ノユクユク手前ノ山ニ隱レンハ是非モナイガセメテ雲ナリトモ心アリテ三輪山ヲ隱サザレと云へるなり。シカモはカクモなり
 
19 綜麻形乃《ヘソガタノ》林始乃さぬ榛のきぬにつくなす目につくわがせ
綜麻形乃林始乃狹野榛能衣爾著成目爾都久和我勢
    右一首歌今案不v似2和歌1。但舊本載2于此次1。故以猶載焉
 雅澄は前の長歌の題辭中なる井戸王即和歌の六字を此歌の前に附けたり。然るに額田王は女王なればそをさしてワガセといはむ事ふさはず。これによりて御杖は前の長歌を井戸王作歌とし此歌を額田王和歌とせり。されどそは意に任せたる改(37)竄にてこゝろよからず(因にいふ。加納諸平は額田王を男王とせり。其説嚶々筆語一編に見えて美夫君志卷一上七十二頁にも引けり)。井戸王の和歌は別にありしにて其歌と今の歌の題辭と共におちたるにあらざるか○綜麻形乃を契沖はヘソガタノとよみ春滿はミワヤマノとよめり。雅澄は契沖の訓によりたれどなほ三輸山の古の異名なるべきかと云へり。案ずるに古事記に見えたる三輪大神の神話によれば麻の絲の三勾《ミワ》殘れるによりて彼神のいます山を三輪といへるなり。ヘソヲ即麻絲を卷きたるものゝ形と山の形と相似たるによりてミワヤマと名づけつといふ傳説はある事なし。されば綜麻形と書きてミワヤマとよむべき理由なく又ヘソガタを三輪山の異名と認むべき理由なし。然も訓はヘソガタとよむ外はなく其ヘソは地名ガタは縣なる事雅澄の云へる如くなるべし○林始乃は契沖ハヤシノサキノと訓み春滿シゲキガモトノと訓めり。しばらく契沖の訓によるべし。或は十九卷にウノ花ヲクタスナガメノ始水ニとある始水をミヅバナとよめるに倣ひてハヤシノハナノとよむべきか○榛は枝直、宣長のハリとよめるに從ふべし。今いふハンノキの古名をハリといひ又萩の古名をハリといふ。榛は元來ハンノキのハリに當(38)る字なれど又萩のハリに借用ひたる事あり。こゝにサヌハリと云へるは野萩にてサは添辭なり。雅澄は和名抄に王孫和名ヌハリグサといへるものなりと云へれど從はれず
 
    天皇遊2獵蒲生野1時額田王作歌
20 (あかねさす)紫野ゆきしめ野ゆき野守はみずや君が袖ふる
茜草指武良前野逝標野行野守者不見哉君之袖布流
 額田王は女子にて初|大海人《オホシアマ》(ノ)皇子の妾なりしが此時皇子の御兄なる天智天皇に召されたりしなり。蒲生野は近江の地名なり。カマフのカは清みて唱ふべし
 紫野とシメ野とは別の處にあらず。こは紫ノオヒタルシメ野ヲユキツツといふべきを七五の調に從ひて二つに分けて云へるなり○ソデフルは挑むさまなり。紫の生ヒタル禁野ヲユキツツ君ガ袖フリ我ヲ挑ミタマフヲ野守ハ見ズヤハ、野守ノ見咎ムベキニ愼ミ給ヘといふ意なり○野守は眞淵は司人たちをそへたるなりと云ひ守部は天智天皇を申せるなりといひ雅澄は額田王の警衛のものをたとへたるなりと云へり。案ずるにこはただ傍人ノといふ意なるを野にての事なるからに野(39)守といへるのみ。眞淵守部などは野づらに群臣百官の立ちたる中にての事と思ひたりげなれど群臣百官の立ちたる中ならば女王は誡め給はずとも大海人《オホシアマ》(ノ)皇子の袖を振り給ふ事はあらじ。固より野といふとも林もありつかさもありて一目に見渡すべくもあらざめれば皇子の遙に女王を見附けて周圍に人の少きを見て挑み戲れ給ひしなるべし。雅澄は野守を女王の警護のものと見たれど警護のものありてそれに見咎められむことを恐れなばただ知らぬ顏にて行過ぐべし。何ぞことさらに此歌をよみて皇子の處に持たせ遣さむや。されば野守はただ傍人といふ意に釋くべし〇四五を倒置せるは結句の七字はもと三四より成りたれば野守ハ見ズヤを結句に遣れば三四にあつるに四三を以てするになりて口調よろしからねばなり。かく辭の順序を亂りてまでも古人は口調を大切にせしなり。世間に口調わろき歌をよみて萬葉の歌に擬し得たりと思へるものあるは笑ふべし
 
    皇太子答御歌
21 (むらさきの)にほへる妹をにくくあらば人づま故にわれこひめやも
紫草能爾保敝類妹乎爾苦久有者人嬬故爾吾戀目八方
(40)    紀曰天皇七年丁卯夏五月五日縱2獵於蒲生野1。于v時大皇弟諸王内臣及羣臣皆悉從焉
 ムラサキノは贈歌にムラサキヌユキといへるを承けたるなり。ソノ紫ノと釋くべし〇四五は贈歌と同じく倒置したり。倒置の理由はなほ口調の爲なり(三四に當つるに四三を以てするよりは二五を以てする方口調よろし)○ヒトヅマユヱニは人の妻なるにといふ意。ソナタハ今ハ人ノ妻ナルニモシニクク思ハバコヒメヤハ、今モニクク思ハネバコソカクハ袖フリコフルナレ、ソヲ諌ムルコトノワリナサヨとのたまへるなり
 
  明日香(ノ)清御原《キヨミハラノ》宮(ニ)御宇天皇(ノ)代
   十市《トヲチ》(ノ)皇女參2赴於伊勢神宮1時見2波多(ノ)横山(ノ)巖1吹黄《フキキ》(ノ)刀自作歌
22 河上《カハカミ・カハノヘ》のゆついはむらに草むさず常にもがもなとこをとめにて
河上乃湯都盤村二草武左受常丹毛冀名常處女※[者/火]手
     吹黄刀自未v詳也。但紀曰。天皇四年乙亥春二月乙亥朔丁亥十市(41)皇女、阿閉皇女參赴於伊勢神宮1
 此天皇は天武天皇なり
 河上は舊訓にカハカミとよめるを略解にカハノへに改めたり。いづれにてもあるべく又いづれにても河邊といふことなり(本集卷五詠2鎭懷石1歌なるウナガミの海邊といふことなるを思へ)。ユツイハムラはアマタノ岩群なり〇古義に
  年ふり古びたる巖上に草の生たるをいへるにてムサズのズの言までは關らず
といへるは非なり。草のむしたるをいかでかクサムサズとはいふべき。こは巖壁の滑にして鏡の如くなるを見て此石の如く顏色とこしへに衰へざらなむと願へるなり〇三句の下にツネナルガゴトといふ辭を補はではとゝのはず。古歌なれば是非なけれど之を範とはしがたし
 此皇女は天武天皇の御女(生み奉りしは彼額田女王なり)にて大友皇子即弘文天皇の皇后なり。御夫帝が御父帝に殺され給ひし後御父帝の許にいましゝなり
 追考 中島廣足の橿のくち葉卷二に
  猶こは舊訓のまゝにカハカミノとよむべくおぼゆ。さるは古言にカハカミとい(42)へるは今いふみなかみの事にはあらず河のほとり岸のあたりの事にて同卷に河上ノツラツラ椿云々、卷四に河上ノイツモノ花ノ云々、卷五にタマシマノコノ可波加美ニイヘハアレド云々、卷十四に河波加美ノネジロタカガヤ云々など多くカハカミとよめるさらにミナカミの事にはあらず。みな岸のほとりの事にしてよく聞ゆるなり。又卷五鎭懷石の歌の序に臨海丘上とあるを歌には宇奈加美ノとよめり。此ウナガミも地名にはあらず。ただ海のほとりの丘上を宇奈可美といへるなり。カミはただ其邊をいへるなれば河上もなずらへてしるべきなり
といへり
 
    麻續《ヲミノ》王流2於伊勢(ノ)國|伊良虞《イラゴ》ノ島1之時時人哀傷作歌
23 (うちそを)をみのおほきみあまなれやいらごがしまの珠藻かります
打麻乎麻續王白水郎有哉射等籠荷四間乃珠藻苅麻須
 麻續の續は積の誤なる事勿論なれど古書には續の字を書きならへり。焉を烏と書ける類にて殆通用ともいふべし
 日本紀に因幡に流さるとありて此歌の題辭と合はず。されば左註には題辭を後人(43)の誤記ならむと疑へり。されど因幡にイラゴガ島といふ處あるを聞かねばはやく守部の云へる如く初因幡に流さるべしと定まりしが伊勢にかはりしを紀には初の定について因幡と書けるなるべし。或は初因幡に流され後に伊勢に移されしにもあるべし。ともかくも題辭に伊勢國とあるを後人の誤記と定むるは輕率なり。さてそのイラゴノ島は今は三河に屬せり○藻を刈るは食料とする爲なる事答歌にて明なり○カルラムといはでカリマスと云へるを見れば大和の都にて人のよめるにはあらで親しく麻積《ヲミ》(ノ)王の生計に勞せるを見し人のよめるなり。恐らくは其國の司人などのよめるなるべし○アマナレヤはアマヂヤト見エテと戲れていへるにはあらでアマデモナイノニと同情して云へるなり。さればオイタハシイコトヂヤといふことを補ひて心得べし
 
    麻續王聞v之感傷|和《コタヘシ》歌
24 (うつせみの)命ををしみ浪に所濕《ヌレ》いらごの島の玉藻|苅食《カリハム》
空蝉之命乎情〔左△〕美浪爾所濕伊良虞能島之玉藻苅食
(44)    右案2日本紀1曰。天皇四年乙亥夏四月戊戊朔乙卯三品麻績王有v罪流2于因幡1、一子流2伊豆島1、一子流2血鹿《チカ》(ノ)島1也。是云v配2于伊勢國伊良虞島1者若疑後人縁2歌辭1而誤記乎
 所濕を略解にヌレとよめるは考によれるにて古義にヒデとよめるは舊訓によれるなり。自動詞のヒヅは四段又は上二段の活なればヌレテといふ意の處にヒデといふべき由なし。さればヌレとよむべし○苅食を略解にカリヲスとよめるは眞淵に從へるにて古義にカリ ハムとよめるは契沖に從へるなり。ヲスは人の上にいふべき語なればハムとよむべし○命ヲヲシミは命ヲシサニなり。命ヲ惜ミテにあらず
 
   天皇御製歌
25 みよしぬの 耳我嶺《ミミガノミネ》に 時なくぞ 雪はふりける 間なくぞ 雨はふりける その雪の 時なきがごと その雨の 間《マ》なきがごと くまもおちず 思乍叙來《モヒツツゾクル》 その山道を
(45)三吉野之耳我嶺爾時無曽雪者落家留間無曽雨者零計類其雪乃時無如其雨乃間無如隈毛不落思乍叙來其山道乎
 耳我嶺を守部雅澄はミガネノタケとよみたれど理由薄弱なり。なほ考に字のまゝにミミガノミネとよめるに從ふべし〇間を舊訓にヒマとよみ古義にマとよめり。後者に從ふべし。クマモオチズは山道ノ一曲モ漏サズにてやがて始終といふことなり○思乍叙來を略解に考に從ひてモヒツツゾクルとよめるを古義には句の頭にてオを省ける例なしといひてオモヒツツゾクルとよめり。オモフの古語はモフなり。集中の歌にモヒ、モフを以て始まれる句無きは偶然のみ。美夫君志に(元暦校本にも)コシとよめるは非なり。途上の御製なればクルとよむべくそのクルは古義に云へる如く今ならばユクと云ふべきなり○此御製は春滿季吟などの説に東宮を辭して吉野に入り給ひし時のとせるを古義に戀の御歌とせるは活眼なり。東丸等の説は史實に泥めるなり。若モヒツツゾクルの八字に後世の註者の穿鑿する如く重大なる意義あらば皇太弟は此御歌の流布すると同時に命を奪はれ給はまし。歌は時人の耳を欺き、しかも後人の心に通ずるやうにはよまれぬものぞかし
 
(46)  或本(ノ)歌
26 みよしぬの 耳我山《ミミガノヤマ》に 時じくぞ 雪はふる等言《トフ》 間《マ》なくぞ 雨はふる等言《トフ》 その雪の 不時如《トキジキガゴト》 その雨の 間なきがごと 隈もおちず 思乍《モヒツツ》ぞくる その山道を
三芳野之耳我山爾時自久曾雪者落等言無間曾雨者落等言其雪不時如其雨無間如隈毛不墮思乍叙來其山道乎
    右句々相換。因v此重載焉
 等言は考及略解にトフ古義にチフ代匠記及美夫君志にトイフとよめり。いづれにてもあるべし○不時如を略解古義にトキジクガゴトとよめるは非なりしトキジクノカグノコノミなどいふ時のトキジクは副詞なり。體言にてこそトキジクなれ。ヤマゴシノ風ヲトキジミなどあれば形容詞にも用ふるにて形容詞にてはトキジ、トキジキ、トキジクとはたらくなり。今は勿論形容詞に用ひたるなればトキジキガゴトとよむべきなり。燈、美夫君志にもしか訓めり
 
(47)   天皇幸2于吉野(ノ)宮1時御製歌
27 よき人のよしとよくみてよしといひし芳野よくみよよき人|四來三《ヨクミツ》
淑人乃良跡吉見而好常言師芳野吉見與良人四來三
     紀曰。八年己卯五月庚辰朔甲申幸2于吉野宮1
四來三は舊訓にヨキミ(ヨキ人ヨ君)とよめるを荷田春滿はヨクミに改め同|御風《ノリカゼ》は又ヨクミツに改め宣長は春滿の訓に從ひて『ミとのみいひてもミヨといふ意になる古言の例なり』といへり。東丸、宣長の訓に從へば結句のヨキヒトは御供のうちなる人となり御風の訓に從へば結句のヨキヒトも古の君子となるなり。御風の訓の方穩なり
 
  藤原(ノ)宮(ニ)御宇天皇代
   天皇御製歌
28 はるすぎて夏きたるらししろたへのころもほしたりあめのかぐ山
春過而夏來良之白妙能衣乾有天之香來山
(48) 藤原宮御宇天皇とあるは持統文武兩天皇にて天皇御製歌とあるは持統天皇なり。キタルは來到ルの約なり○シロタヘノは古義に云へる如く此御歌にては枕辭にあらず。シロタヘノコロモは白布の衣なり。白き衣なるが故に遙に新緑のひまに見えしなり。古は常の服としては貴賤ともに白きを用ひしなり。くはしくは松の落葉二卷五十丁と五十八丁とにいへるを見べし
 
    過2近江(ノ)荒都1時柿本朝臣人麿作歌
29 (たまだすき) 畝火の山の 橿原の ひじりの御世ゆ【みやゆ】 あれましし 神のことごと (つがの木の) いやつぎつぎに あめのした しろしめししを【めしける】 (そらにみつ)【そらみつ】 倭をおきて【やまとをおき】 (あをによし) なら山をこえ【ならやまこえて】 いかさまに おもほしめせか【おもほしけめか】 (あまざかる) 夷者雖有《ヒナニハアレド》 (石走《イハバシノ》) あふみの國の ささなみの 大津の宮に あめのした しろしめしけむ すめろぎの 神のみことの 大宮は ここときけども 大殿は ここといへども はる草|之《カ左△》【かすみたつ】 しげくおひ(49)たる【はる日かきれる】 かすみたつ【なつ草か】 はる日|之《カ左△》きれる【しげくなりぬる】 (ももしきの) 大宮どころ みればかなしも【みればさぶしも】玉手次畝火之山乃橿原乃日知之御世從【或云自宮】阿禮座師神之盡樛木乃彌繼嗣爾天下所知食之乎【或云食來】天爾滿倭乎置而青丹吉平山乎越【或云虚見倭乎置青丹吉平山越而】何方御念食可【或云所念計米可】天離夷者雖有石走淡海國乃樂浪乃大津宮爾天下所知食兼天皇之神之御言能大宮者此間等雖聞大殿者此間等雖云春草之茂生有霞立春日之霧流【或云霞立春日香霧流夏草香繁成奴流】
百磯城之大宮處見者悲毛【或云見者左夫思母】
 近江荒都は天智弘文兩天皇の舊都なり
 アレマシシは生レマシシ、神は天皇なり。イヤツギツギニの下にヤマトニテコソといふことを省きたり。そは下なるヤマトヲオキテに讓れるなり。文章ならばヤマトニテコソ天ノ下ヲシロシメシシカ、サルヲイカサマニオモホシメセバカソノヤマトヲオキテ云々といふべきなり(燈にも『こゝに倭爾而といふ事あるべき事なるに(50)上の從、下の倭乎置而にしるければはぶかれたる也』といへり)〇一本にアメノシタシロシメシケルとあり。眞淵は之を採りてシロシメシケルヤマトヲオキテと續くなりといへり。『此處もし續くにあらずばイカサマニオモホシメセカは此處にあるべきなり。然るに此二句の下にあるは此處に入れがたき所以あるべくそはシロシメシケルソラニミツヤマトヲオキテと續きて彼二句を挿む餘裕なき爲なるべし』とも云ふべけれどなほさにあらじ。まづシロシメシシヲとシロシメシケルとを誦しくらぶるに乙は甲に比して調弱くて一首の※[しんにょう+酋]勁なるにかなはず。次にシロシメシケルソラニミツとつづきて其間に餘裕なき爲にイカサマニ云々の二句をあとにまはしたりとせばヤマトヲオキテの直下にもおくべきをなほその中間にアヲニヨシナラ山ヲコエといふ二句をおけるを見ればイカサマニ云々の二句をあとにまはしたるは已むを得ざる爲にはあらでわざとものしたりとおぼゆ。所詮ヤマトニテコソ天ノ下ヲシロシメシシヲソノ倭ヲオキテ云々といふ意なり○ナラヤマヲコエは一本にナラヤマコエテとある方まされり○オモホシメセカも古義には或云オモホシケメカとあるに從へり。もとより過去にいふべきなれど下なるア(51)メノシタシロシメシケムのケムにて過去にきかせたるにて一の格なり。古義の説は頑なり。○オモホシメセカは下なるアメノシタシロシメシケムと相應ぜるなり(燈にも下のシロシメシケムのうちあひなりといへり)。古義の説は從ひがたし。ササナミは廣き地名なり。大津も志賀もそのササナミの内なりしなり○アメノシタシロシメケムはイカサマニオモホシメセカの結にて上なるアメノシタシロシメシシヲと呼應せり。此二句下なるスメロギノカミノミコトノと辭は切れ意はつづけり。俗語にて釋くにはソノといふ語を加へて釋くべし○古義に燈の説を承けて
  上に宮といひこゝに殿と云るはいひかへたるなり。かく同じやうの事を二句いひかへてよめること古歌に多し。此は事を懇にいはむとする時のわざなり
といへるは非なり。辭を文《カザ》れるにこそあれ○春草之シゲクオヒタル、カスミタツ春日之キレルの二ツの之は可の誤ならざるか。春草ノ繁ク生ヒテヤ見エヌ、春日ノ霞ミテヤ見エヌといへるなり。美夫君志に『宮殿は燒亡して此時は無かりしなるべし』といへり。カスミタツは春日の准枕辭、キレルは即カスメルなり。大宮ドコロは大宮の跡なり。サブシは樂からざるなり
 
(52)   反歌
30 ささなみのしがの辛崎さきかれど大宮人の船まちかねつ
樂浪之思賀乃辛崎雖幸有大宮人之船麻知兼津
 本集卷四大伴坂上郎女の怨恨歌にキミガツカヒヲマチヤ兼手六とあり。宣長は
  待兼は爰は俗にいふ待かぬる意には非ず。集中不得と書る意にて待得ざる也
といひ雅澄は
  マチカネツとはまてどもまてども待得ざるをいふ。カネは集中に多く不得とかけり。しかあらむと心にねがふことのつひにその本意を得ざるをいふ
といへり。辛崎を人に擬したるなり
 
31 ささなみのしがの【ひらの】大わだよどむとも昔の人にまたもあはめやも【あはむともへや】
左散難彌乃志我能【一云比良乃】大和太與杼六友昔人二亦母相目八毛【一云將會跡母戸八】
 ワダは※[さんずい+彎]にて岸の曲りこめる處なり。※[さんずい+彎]内の水は淀みてゆきやらぬもの、行きやら(53)ぬものは物を待つ如く思はるればシカ淀ミテ待ツトモ昔ノ大宮人ニ又逢ハムヤハ、逢ヒハセジといへるなり○ヨドメドモとあらでヨドムトモとあるより足代弘訓は
  淀むべき理はなき事なるにそはたまたま淀む事ありとも云々
といへれど(御杖同説)そは誤なり。ヨドムトモといへるはさる意にて云へるにあらず。今いふヨドミテモなり
 
   高市連黒人《タケチノムラジクロヒト》感2傷近江(ノ)舊堵1作歌
32 いにしへの人にわれあれやささなみのふるきみやこをみれば悲しき
古人爾和禮有哉樂浪乃故京乎見者悲寸
 初二はワレハイニシヘノ人ニアラナクニといふばかりの調なり。上なるウチソヲヲミノオホキミアマナレヤと參照すべし。略解に
  ワレココノイニシヘ人ニヤ有ランとをさなく疑ひてよめるなり
といへるは語調をさとらざる説なり。堵は都の通用なり
 
(54)33 ささなみの國つみ神のうらさびてあれたるみやこみればかなしも
樂浪乃國都美神乃浦佐備而荒有京見者悲毛
 雅澄は考の説に據りて
  さ々なみの地をうしはきます御神の心のあらびによりて遂に世の亂もおこりて全盛なりし京都の荒たるよしなり
といへれど二卷なる長歌に
  晝はもうらさびくらしよるはもいきづきあかし嘆けどもせむすべしらに
と云へるなど心の荒ぶることゝ釋きて聞えむや。ウラサビのサビはカチサビ、ヲトコサビなどのサビとは異にてサブシ(後世のサビシ)のサブと同じ。さればウラサブルは衰ふる事なり。今はササナミノ神ノ廣前ノサビシクナリテといふべきを(大津に都のありし程はさ々なみの國つ御神はうぶすなの神なれば崇敬淺からず廣前もにぎはしかりけむ)ただにササナミノ國ツ御神ノといひたればそれに準じてウラサビテといへるなり。ササナミノ國ツ御神は大山|咋《クヒ》神即|日吉《ヒエ》神社なり。太平記卷九尊氏著2篠村1國人馳參といふ條に
  卯月十六日は中の申の日なりしかども日吉の祭禮もなければ國津御神もうらさびて御贄の錦鱗徒に潮水の浪に溌剌たり
とあり
 
   幸2于紀伊國1時川島皇子御作歌
34 (しら浪の)濱松がえのたむけぐさいく代までにか年のへぬらむ【年はへにけむ】
白浪乃濱松之枝乃手向草幾代左右二賀年乃經去良武 一云年者經爾計武
    日本紀曰。朱島四年庚寅秋九月天皇幸2紀伊國1也
 シラ浪ノは寄スルを省きたる准枕辭なり。タムケグサは考にいへる如く手向の具といふことにて即幣の事なり。海邊の松が枝に古き幣のかゝれるを見ていくらの年をか經にけむ即いつの世にたがたむけしものぞとのたまへるなり。布を以て作れる幣の朽ちずして殘れる程なれば非常に古き事にはあらぬをさも古き事のやうに云へるがおもしろきなり。古義に齊明天皇の行幸ありし時又は中(ツ)皇女のおは (56)せし時の手向草としさては今まで殘るべくもあらねば
  そのかみたむけ給ひし具のなほあるがごとく見そなはして云々
と云へるは非なり。其物の眼前に存ずる調なる事いちじろきをや○結句一にトシハヘニケムとあり。いづれにても意は一なり。木村博士は『ヘヌラムとあるとへニケムとあるとは意異にてヘヌラムとあるに從へば今ヨリ後モナホイク代マデニカ經行ラムといふ意なり』と云へるはいみじき誤なり。ヘヌラムはフラムといふと同じとは云ひもしつべけれどそのフラムは未來の辭にあらざるをや
 
   越2勢能《セノ》山1時阿閉《アベ》(ノ)皇女御作歌
35 これやこの倭にしてはわがこふる木路に有云《アリトフ・アリチフ》名におふせの山
此也是能倭爾四手者我戀流木路爾有云名二負勢能山
 阿閉皇女は持統天皇の御妹にて後の元明天皇なり
 有云を考にアリトフとよみ古義にアリチフとよめり。いづれにてもあるべし○ナニオフといふ辭今人も歌文に用ふれどよく其意をさとらざる如し。古義にあまたの例を擧げたるにも名ヲオフといふと名ニオフといふとを混じたり。されど此二(57)つは混ずべからず。名ヲオフは名ヲ負フにて名稱を帶する事なり。たとへば六卷なる名ノミヲ、ナゴ山トオヒテ吾戀ノ千重ノヒトへモナグサマナクニは名バカリナゴ山ト稱セラレテといふ事なり。ナニオフは名ニ副《オ》フにて實の名に副《カナ》ふ事なり。これに二種ありて甲は彼名ニシオハバイザコトトハムミヤコ鳥の類、乙は十五卷なるコレヤコノ名ニオフナルトノウヅシホニの類なり。後世名高しといふ義にナニオフといふ辭を用ふるは乙の方の轉ぜるなり。まづ右の區別をよく心に銘すべし。さて今の歌は名ニオフとあれば略解古義の如くには釋くべからず。この歌の格は極めて複雜なればまづ二三の句即ヤマトニシテハワガコフルといふ十二字を除きて釋くべし。右の二句はセといふ語の序に過ぎざればなり。ナニオフは此歌にては名聲の實際に反せざる意にて彼コレヤコノナニオフナルトノウヅシホニのナニオフに同じ。されば始めて紀の國なるせの山を見たまひて
  これやかの紀路にありときく、虚名にはあらざるせの山なる
とのたまへるなり。一首の意はこれにて盡きたれどこれのみにてはただ言にて更に詩趣なし。ヤマトニシテハワガコフルといふ序を挿み給へるによりて始めて詩(58)趣は生ぜるなり。此行御夫草壁皇子は大和にとどまり給ひて御身のみものし給へれば御夫皇子を慕ひ給ふ御心折にふれて現れてセノヤマときゝ給ふにつけてもまづ御夫皇子を思出で給ひてヤマトニシテハワガコフルとのたまへるなり。ヤマトニシテはヤマトニテといふに同じくハは七字の調に從ひて填め給へるのみ。ことなる意あるにあらず。略解古義にワガコヒ奉ル夫ノ君ノソノセトイフ言ヲ名ニ負ヘルセノ山カと釋けるは非なり(古義に『そのセといふ名に負ふ山』といへるは辭だにとゝのはず。略解の如く『セといふ言を』といはざるべからず)。さる意ならばセト名ヲオフヤマといはざるべからず。畢竟ナニオフとナヲオフとを混同せるより右の如き説は起りしなり
 
   幸2于吉野宮1之時柿本(ノ)朝臣人麿作歌
36 (やすみしし) わがおほきみの きこしをす 天の下に 國はしも さはにあれども 山川の きよきかふちと (御心を) 吉野の國の (花ちらふ) 秋津の野邊に (宮柱) ふとしきませば (ももしきの) 大(59)宮人は 船なめて あさ川わたり ふなぎほひ 夕かは渡《ワタル》 此川の たゆることなく 此山の 彌高良之 珠水激《イハバシル・オチタギツ》 たきのみやこは みれどあかぬかも
八隅知之吾大王之所聞食天下爾國者思毛澤二雖有山川之清河内跡御心乎吉野乃國之花散相秋津乃野邊爾宮柱太敷座波百磯城乃大宮人者船並氏且〔左△〕川渡舟競夕河渡此川乃絶事奈久此山乃彌高良之珠水激瀧之宮子波見禮跡不飽可聞
 キコシヲスはシロシメスなり。カフチは河に抱かれたる地なり○御ココロヲのヲは普通のヲとは異にて無意義の助辭なり。ハナチラフは准枕辭○ミヤバシラはフトにかゝれる枕辭なり。もし枕辭ならずばミヤバシラフトシクとは云ふべからず。柱にシクといはむやうなければなり○フトシキマセバのフトは稱辭にてヒロ又はタカと通ひシクは領する事にてシルに同じ。さればフトシル、ヒロシル、タカシルといひ又フトシク、ヒロシク、タカシクといふなり○フナギホヒはフネナメテの對(60)なれば名詞にはあらず。フナギホフといふ動詞のはたらけるなり。現に二十卷にフナギホフホリ江ノ河ノといふ歌あり○夕河渡の渡は舊訓にワタリとよめるを宣長はワタルに改めたり。之に從ふべし○此川ノタユルコトナク此山ノイヤタカカラシ此四句細に見るに不審なる事一ならず。まづコノ川ノ如ク絶ユルコトナクといへるは何が絶ゆる事なきにか、コノ山ノ如クイヤ高カラシといへるは何が高きにか。契沖は
  臣下の仕ふる吉野川のたえぬが如く君高みくらにいます事は吉野山の高きが如くならんと也
といひ眞淵は
  山川にそへて幸と宮とをことぶけるなり
といひ千蔭は之を敷衍して
  此川の絶えざるが如く常に幸し給ひ此山の高く動なきが如くいつまでも宮ゐし給はん事をことぶける也
といひ雅澄は
(61) タユルコトナクとは此離宮の此後もたゆる事なく榮えまさむといふなり
といひ木村博士は
  此川の水のたゆる事なきが如く此山のいよゝ高く成り重なりて崩るゝことのなきが如く大宮の榮えまさむことを祝ぎたるなり
といへり。かく諸説一致せざる上にいづれの説によりても辭足らず。次にコノ山ノイヤタカカラシといひきりては次なる三句と意に何の相あづかる所もなし。歌聖豈さる拙辭を吐かむや。されば此四句には誤脱あるべし。少くとも彌高良之の一句はなほ研究せざるべかりず。因にいふ。本集十八卷なる家持の長歌に
  この河のたゆることなくこの山のいやつぎつぎにかくしこそつかへまつらめいやとほながに
とあり。かくてこそいふべき所なけれ。更に案ずるに彌高良之の之は牟の誤か。もし然らばコノ川ノ云々の四句はタキノミヤコにかゝれるなり(なほ思ふに高も固などの誤か)○珠水激は考にイハバシルとよめるを古義に殊を隕の誤としてオチタギツとよめり○タキノミヤコは瀧川の邊にあるが故に云へるなれど當時稱して(62)タキノ宮またタキノ都とぞいひけむ
 
   反歌
37 みれどあかぬ吉野の河のとこなめのたゆることなくまたかへりみむ
雖見飽奴吉野乃河之常滑乃絶事無久復還見牟
 トコナメは集に常滑と書けるにつきて諸家皆文字の如き意とせり。就中眞淵は
  常しなへに絶えぬ流の石にはなめらかなるものゝ附けるものなり。そを即體にトコナメといひなして事の絶せぬ譬にせり
といへり。石をトコといはばこそそれに附きたる滑なる物をトコナメともいはめ。とこしへに絶えぬ流の石に附きたるをトコナメといふべけむや。千蔭は
  とこしへにいつもかはることなく滑なる由なり
といへれど卷九に妹ガ門イリイヅミ河ノトコナメニミユキノコレリイマダ冬カモとある、滑なる物とせざれば(即略解にいへる如く滑なる事としては)かなはず。雅澄は底滑の義とし水底の石に生ずる植物の名とせり。されど川ノ流ノ如クタユル事ナクといはで物遠く其川ノ水底ニ生ジタル或植物ノ如クタユル事ナクと云は(63)むはいかがなり。案ずるにトコナメのトコはトコイハの略にて頂平なる岩の事なるべくナメは並なるべし。木曾川に寢覺の床とてあるも頂平なる岩なり。本集十一卷にコモリクノトヨハツセヂハトコナメノカシコキミチゾオコタルナユメといふ歌あり。さればトコナメは川中に頂いささか平なる岩を竝べて川を渡る科としたるなり。集中に又之をイハバシと云へり。畢竟飛石なり○上三句はタユルにかかれる序なり。眼前の物を以て序としたるなり○マタカヘリミムは又立歸リテ見ムにて此後モ度々來テ見ヨウと云へるなり
 追考 嚶々筆語二編に
  萬葉三に常磐成石室、同十一に常石有命哉など常磐常石とかきてあればトコイハをつづめてトキハといへる事諭なし。されど常(ノ)字に泥(ム)べからず。同六に人皆ノ壽《イノチ》モ吾モミヨシヌノタギノ床磐《トキハ》ノツネニアラヌカモとある床磐の文字に隆正はこころひかるるなり。さてトコイハをトキハとつづめいふたぐひは合語の一格にて例おほかり。カキハを堅石ともあるにより誰もカタキイハといふ詞のつづまりと心得めれどこれはいかにいひ試てもさはつづまらず。例もなし。垣磐の(64)イをはぶきたる合語の格とおもはるる也。キの前イなればカキイハをカキハといふは事もなし。しか思ふよしは古今集にオク山ノイハガキモミヂチリヌベミ云々の歌なるイハガキ、カキイハともに壁立せる大石をいふめれば横にたひらかなるを床磐といひ縦に聳たるを垣磐といひてそれを合語の格にてトキハカキハといへる物とみれば語釋いとやすし。堅石とかけるは義をとれる物ならむ。又|壁磐《カキイハ》のうつしあやまりにてもあるべし
とあり(野之口隆正ときはかきは)
 柳田國男云はく。地名に床波、床鍋、床編、常滑あり。トコは祭壇即岩にてナミは並なり。上古岩を道路の傍又は邑里の境に立て或は天然の岩を利用して地鎭の祭を行ひき。其祭壇をクラ又はトコといふ。石の數二箇より十數箇に及ぶ。播磨加西郡に鎭石と書きてトコナミと呼ぶ村ありと
 
38 (やすみしし) わが大きみ かむながら かむさびせすと 芳野川 たきつかふちに 高殿を たかしりまして のぼりたち 國見をすれば (疊有〔左△〕《タタナヅク》) 青垣山 山つみの まつるみつぎと 春べは 花かざ(65)しもち 秋たてば もみぢかざせり【もみぢばかざし】 ゆふ川の 神も 大みけに つかへまつると かみつ瀬に 鵜川を立《タチ》 しもつ瀕に さでさし渡《ワタシ》 山川も よりてつかふる 神の御代かも
安見知之吾大王神長柄神佐備世須登芳野川多藝津河内爾高殿乎高知座而上立國見乎爲波疊有青垣山山神乃奉御調等春部者花挿頭持秋立者黄葉頭刺理【一云黄葉加射之】遊副川之神母大御食爾仕奉等上瀕爾鵜川乎立下瀬爾小網刺渡山川母依※[氏/一]奉流神乃御代鴨
 カムナガラを契沖は神ソノママニテの意なりといひ眞淵は神ニオハスルママニといふ意なりといひ雅澄は御杖の説によりて
  ナガラといふ詞は俗言にソレナリニといふほどの意なり
といへり。案ずるに神トマシマシテといふばかりの意なり。獨語のゲットリッヒ(英語のゴットライク)や之に當らむ。因にいふ。日本紀孝コ天皇の卷に
  詔曰|惟神《カミナガラモ》我子|應v治故寄《シラサムトコトヨサシキ》是以|與《ヨリ》2天地之初1君臨之國也
(66)とありて惟神の註に
  惟神者謂d隨2神道1亦自有c神道u也
とあり。これによりて神ながらの道といひならへり。案ずるにカミナガラモはこゝにては天皇(即本文の我子)の御所爲に云へるにあらで天照大神の御所爲に云へるなり。即カミナガラモはシラサム〈應治)にかゝれるにあらでコトヨサシキ(故寄)にかかれるなり。カミナガラモのモはシラサムにかゝれりと誤り心得てよみそへたるなれば除くべく又カミナガラはカムナガラに改むべし。進みて案ずるに詔曰と惟神との間に
  豐葦原|千五百秋《チイホアキ》之瑞穗(ノ)國者天照大神
などいふ辭のおちたりとおぼゆ。即もとは
  豐葦原(ノ)千五百秋の瑞穗(ノ)國は天照大神かむながら『我子しらさむ』とことよさしき
などいふ文なりしなるべし。さて註なる惟神者云々の十三字はカムナガラをシラサムにかゝれりと心得たる後人の心得ぬままに書加へし註にて實に筋も通らぬ拙文なり。恐らくは神道者流のさかしらなるべし。之を深き心ありげに釋きなすは(67)いとをこなる事なりかし○カムサビは二義あり。今のカムサビはカムサビヲルカコレノミヅシマなどのカムサビとは異にて進みて事を行ふ意にて引籠り居る事のうらなり○タキツカフチは瀧川即急流の河内なり。タキツは動詞にあらず。タキノの意なり○タカドノヲタカシリマシテはわざと同音を重ねたるなり○疊有を舊訓にタタナハルとよめるを眞淵宣長は有を付の誤とし雅澄は有を著の誤として共にタタナヅクとよめり(眞淵の説は冠辭考に見えたり。考にはなほタタナハルとよめり。宣長の説は記傳二十八卷に出でたり)○アヲガキ山は連山なり。連山は青き垣に似たればかく云へるなり。おそらくはいにしへいけ垣をアヲガキといひしならむ。古事記神代之卷に青|紫《フシ》垣とあるも柴のいけ垣ならむ。さて宣長は青垣山の下にノをよみそへずして六言の句としたり。げに青垣山が花をかざし紅葉をかざす意ときこえたればノをよみつくべきにあらず○考、略解、美夫君志はモミヂカザセリといひ切るべしといひ燈、古義はモミヂバカザシの方を採れり。案ずるに此長歌は左圖の如き構造なれば
  やすみしし…國見をすれば たたなづく青垣山…もみぢばかざし 山川も
               ゆふ川の……さでさしわたし    
(68)モミヂバカザシとよむべし○ユフ川は考に地名なるべしといへり○カミモを從來三字の句としたれど云ふべき事をおもひ得ずて三字のまゝにさしおきたるやうにて拙し。恐らくは落字あるべし。景樹は『ユフ川ノ川門ノ神モとありしか』といひ芳樹は遊副川之神母とある之を々の誤としてユフカハ、カハノカミモとよめり。しばらくユフ川ノカハセノ《四字傍点》神モの脱字とすべし。川門は川の渡場にて魚を捕るにふさはしき處にあらねばなり○鵜川乎立を諸註ウガハヲタテとよみたれど十七卷にウナビガハキヨキセゴトニ、宇加波多知カユキカクユキ、ミツレドモソコモアカニト同卷にメヒガハノハヤキセゴトニカガリサシヤソトモノヲハ字加波多知家里、十九卷にシクラガハセヲタヅネツツワガセコハ宇河多々佐禰ココロナグサニなどあればウガハヲタチとよむべくそのウガハヲタチは鵜を使ひての漁獵を催す事なり。諸註のうち考のみはウガハヲタチとはよみたれど
  川の上下を多くの人もて斷《タチ》せきて中らにて鵜を飼ものなれば斷といふべし
と云へるはくちをし。宣長の
  鵜川をする人共をたゝするを云也
(69)と云へるはタテとよみての上の説なれば評するに及ばず。此タツは四段にはたらく他動詞にてミカリタタスとあるタツも是なり。前に云へる如く催スと釋すべし○サデサシの下なる渡を古義、美夫君志にワタスとよめるは非なり。上に圖示して云へる如くワタシとよみて下へ續くべし○サデサシはさでを張る事なり。サデは果して今いふサデにやおぼつかなし。サシワタシといへる此方の岸より彼方の岸にはりわたす事ときこゆればなり。芳樹も亦不審を抱けり○ヨリテツカフルにて上なるクニミヲスレバを受けたり。又カミノ御代カモは上なるカムナガラカムサビセストと呼應せり
 
   反歌
39 山川もよりてつかふ流〔左△〕《レ》かむながらたきつ河内に船出せすかも
山川毛因而奉流神長柄多藝津河内爾船出爲加母
    右日本紀曰。三年己丑正月天皇幸2吉野宮1、八月幸2吉野宮1、四年庚寅二月幸2吉野宮1、五月幸1吉野宮1、五年辛卯正月幸2吉野宮1、四月幸2(70)吉野宮1者《トイヘリ》。未3詳知2何月從駕作歌1
 雅澄が山川モヨリテツカフルタキツ河内ニカムナガラ《十一字傍点》船出セスカモといふべきを下上に云へるなりといへるはあやなし。因而奉流の流は禮の誤にてそのツカフレはツカフルニの意ならむか○カフチは河の行廻れる裏をいふ。されば陸の名なり。さるをその河内に船出すといへるはいかが。恐らくは河内ニは河内ユの意ならむ。即卷六なるワタノソコ、オキツイクリニ、アハビタマ、サハニカヅキデのニと同例ならむ
 
   幸2于伊勢國1時留v京柿本朝臣人麿作歌
40 あごの浦にふなのりすらむをとめらが珠裳のすそにしほみつらむか
嗚呼兒乃浦爾船乘爲良武※[女+感]嬬等之珠裳乃須十二四寶三都良武香
 古義に御杖の説を承けて
  ヲトメラとは數人をさしていふごとく聞ゆれども猶心にさす女ありけるなるべし
(71)といひその女をおもひやり憐みてよめるなるべしと云へるはいかが、女房たちの物めづらしさに定めて喜び騷ぎて遊びをる事ならむと云へるなり。長き裳をかかげて船に乘らむとたゆたふほどにみちくる潮に裳の据をぬらしまどふらむさま目に見ゆるが如くならずや
 
41 (釧著《クシロツク》)たふしの崎に今もかも大宮人の玉藻かるらむ
劔〔左△〕著手節乃崎二今毛可母大宮人之玉藻苅良武
 釧著は春滿始めてクシロツクとよめるを雅澄は著を卷の誤としてクシロマクに改めたり。前者に從ふべし○雅澄は例の御杖の説に據りて此歌の大宮人をも必さす人ありてよめるなるべしといへり。うべなひ難し○又タマモカルラムをいかにわびしくやあるらむとおもひやらたる意なりといへるは殆常識を外れたり。これも物めづらしさに大宮人が藻刈りなどして遊ぶらむと云へるのみ○今モカモは今ヤといふことなり
 
42 しほさゐにいらごの島邊こぐ船に妹のるらむかあらき島回《シマミ》を
潮左爲二五十等兒乃島邊※[手偏+旁]船荷妹乘良六鹿荒島回乎
(72) シホサヰは眞淵は滿潮の時波の騷ぐをいふといひ御杖は滿潮の音をいふといへり。音の事としてはニといへる穩ならず。なほ眞淵の説に從ふべし○島回は舊訓にシマワとよめるを雅澄シマミに改めたり。雅澄の訓によるべし。但ミをモトホリの約とせるはいかが。語はしか限なくつづまるものにあらず。ミはメグリといふことなり○ヲは燈に云へる如くナルニの意なり〇三首の調を思ふに人麿は曾て此地方に遊びしならむ
 
   當麻《タギマ》(ノ)眞人《マヒト》麿(ノ)妻作歌
43 わがせこはいづくゆくらむ(おきつもの)なばりの山をけふかこゆらむ
吾勢枯波何所行良武巳津物隱乃山乎今日香越等六
 ナバリは伊賀國名張なり○これも京に留りてよめるなるを留京といふことは前の歌の題辭に讓りて書かざるなり。さればこそ次の歌には特に從駕と書けるなれ
 
   石上《イソノカミ》(ノ)大臣從v駕作歌
44 (わぎもこを)いざみの山をたかみかもやまとのみえぬ國とほみかも
(73)吾妹子乎去來見乃山乎高三香裳日本能不所見國遠見可聞
    右日本紀曰。朱鳥六年壬辰春三月丙寅朔戊辰以2淨廣肆廣瀬王等1爲2留守宮1。於v是中納言三輪朝臣高市麿脱2其冠位1フ2上於朝1重諌曰。農作之前車駕未v可2以動1。辛未天皇不v從v諌遂幸2伊勢1。五月乙丑朔庚午御2阿胡行宮1。
 伊勢國にイザミノ山といふ山あるべし。結句は又ハ國遠ミカモ大和の見エヌとなり。石上大臣も名を麿といひき
 
   輕(ノ)皇子宿2于安騎《アキ》野1時柿本朝臣人麿作歌
45 (やすみしし) わがおほきみ (高照) 日のみこ かむながら かむさびせすと ふとしかす みやこをおきて (こもりくの) はつせの山は 眞木たつ 荒山道を いはがねの しもとおしなべ (さかとりの) 朝こえまして (玉限《タマカギル》) ゆふさりくれば み雪ふる 阿騎《アキ》の大野に はたすすき 四能〔左△〕乎《シヌヲ》おしなべ (草枕) たびやどりせす 古昔念(74)而《イニシヘオモヒテ》
八隅知之吾大王高照日之皇子神長柄神佐備世須登太敷爲京乎置而隱口乃泊瀬山者眞木立荒山道乎石根禁〔左△〕樹押靡坂鳥乃朝越座而玉限夕去來者三雪落阿騎乃大野爾旗須爲寸四能乎押靡草枕多日夜取世須古昔念而
 高照を舊訓にタカテラスとよめるを眞淵古事記景行天皇の段の歌にタカ比迦流ヒノミコヤスミシシワガオホキミとあるによりてタカヒカルと改めよめり。されどタカヒカルならば高光とかくべし。ことさらに高照とは書くべからず。其上タカテラスといひて通ぜざるにあらず。タカは前にもいへる如く天といふ事(今も空をタカといふ地方あり)テラスはテルの敬語にてタカテラスは即アマテラスといふに同じ。辭はさまざまにいふべし。必しも一には限るべからず。さればなほタカテラスとよむべし。さてそのタカテラスは無論日の枕辭なり(燈同説)○カムサビセスの事は前に云ひたれどなほ此處につきて云はば靜に藤原(ノ)宮に居給はで安騎野にい(75)でますが即かむさびし給ふなり。フトシカスは住ミタマフなり○マキを檜とするは眞淵の説なり。アラ山道ヲのヲはナルヲなり○玉限は舊訓にタマキハルとよめるを眞淵は限を蜻の誤としてカギロヒノに改め雅澄はもとのまゝにてタマカギルとよめり。雅澄の訓に從ふべし○ハタススキ四能乎オシナベはハタススキを枕辭とする説とはたすゝきのしなひとする説と、はたすゝき及小竹とする説とあり。又契沖は萬葉にはヲとニと互に通はしたりといひてハタススキヲシノニオシナムルなりといへり。されど處にこそよらめかゝる處にニをヲといふべきにあらず。雅澄は四能乎を四奴爾の誤字としてシヌニとよめり。案ずるに下なる梓弓、ユギトリオヒテまた卷十九なるアラキ風、浪ニアハセズと同格にてハタススキ及小竹ヲオシナベと云へるならむ。四能は四奴の誤字とすべし。當時未シノと云はねばなり○尾句は舊訓ムカシオモヒテ眞淵イニシヘオボシテ千蔭イニシヘオモヒテ雅澄イニシヘオモホシテとよめり。反歌にも古部《イニシヘ》オモフニとあれば古昔はイニシヘとよむべし。オボシテは後世の音便なれば論の外なり。オモヒテとオモホシテといづれか可なるといふに反歌のイニシヘオモフニは臣下の心なればオモフニにて可(76)なれど今は皇子の御心なれば敬語なくてはかなはずと思ひてオモホシテと雅澄等はよめるなれど歌は言數に限あれば語毎に敬辭を用ふべきにあらず。今は敬辭はタビヤドリセスのセスに讓りてあるべきなり。さればイニシヘオモヒテとよむべし○上なるカムナガラカムサビセストはタビヤドリセスまでにかゝれり○オシナベの重出せる、心ゆかず。おそらくは傳の誤れるならむ。禁樹は楚樹の誤か
 
   短歌
46 阿騎《アキ》の△《ヌ》に宿旅人《ヤドレルタビビト》うちなびきいもぬらめやもいにしへおもふに
阿騎乃爾宿旅人打靡寐毛宿良目八方古部念爾
 短歌は一般の例によらば反歌とあるべきなり。但下にも例あり
 二句舊訓にヤドルタビビトとよめるを雅澄ヤドレルタビトに改めたり。雅澄の訓やすこしまさらむ○旅人は輕皇子の一行にて其中に作者もこもれるかと思へどさらばイモネメヤモと云はざるべからず。然るにイモヌラメヤモと云へるを思へばタビトは皇子御一人を指し奉れるなり。ウチナビキは横になる事にて寢る事の形容なり。イは睡眠なり。現今はただヌルといへど、いにしへはイヲヌルといひしな(77)り
 
47 まくさかる荒野にはあれど(△葉《モミヂバノ》)すぎにし君がかたみとぞこし
眞草苅荒野者雖有葉過去君之形見跡曾來師
 燈に
  人ぢかき野は草も常に刈れば荒野ならではよき草も生ひねばなり。かゝる荒野はただ草かるをのこなどこそは來れ。なべてのものゝ來べき野にはあらねどとの心也
といへるを例の如く雅澄の承けて
  人氣遠き野は草も生繁りてあればさる荒野に行て草を刈ゆゑにいへるなり
といへるは非なり。マクサカルのカルは一種の代語なり。もし言數に制限なくばマクサシゲレルといはまし。カルとあるに泥むべからず○スギニシはウセシなり。君は草壁皇子を指せるなり
 
48 ひむかしの野にかぎろひのたつみえてかへりみすれば月かたぶきぬ
東野炎立所見而反見爲者月西渡
(78) ヒムカシノ空ニといはでヒムカシノ野ニといへるを思へばこゝのカギロヒはかの遊絲繚亂碧羅天など云へる類にはあらで地中よりのぼる水蒸氣の陰なるべし○カヘリミスレバは西ノ方ヲ見レバとなり
 
49 日雙斯△《ヒナミシヌ》みこのみことの馬なめて御獵たたしし時はきむかふ
日雙新星子命乃馬副而御獵立師斯時者來向
 日雙斯を契沖はヒナメシと四言によみ千蔭はヒナメシノとよみ雅澄は斯を能の誤としてヒナミノと四言によめり。案ずるに日雙はヒナミとよむべし。ヒナミは准日にて天皇ト齊シクといふことなり。草壁皇子は御父天武天皇の御晩年より御母持統天皇の御代にかけて萬機を攝したまひしかば本集卷二に日並《ヒナミノ》皇子といひ他の古典古文に日並知《ヒナミシラス》皇子、日並|所知《シラス》皇子、日並|御宇《シラス》東宮など云へるなり。さて此處はもと日雙斯須《ヒナミシス》とありし須をおとせるならむ。ヤスミシラシをヤスミシシといへるを思へばいにしへシラスをシスとも云ひしなり○ミカリタタシシは三卷長皇子遊2獵路池1之時柿本朝臣人麿作歌に
  馬なめて三獵立流わかごもをかりぢの小野に云々
(79)とあるを久老は釋して
  立は鵜川タツなどいふ立にて御獵人の立をいふ
といへり。こは此卷幸2于吉野宮1之時柿本朝臣人麿作歌の中に鵜川乎立とあるを宣長の釋して
  立は本のまゝにタテと訓べし(○眞淵のタチと改め訓めるに對して云へるなり)。是は御獵立又は射目立などのタテと同くて鵜に魚とらする業を即鵜川といひて其鵜川をする人共を立するを云也
といへるを學べるなり。雅澄は之に對して
  立は皇子の上に限りて申せるなり。御|列子《カリコ》を立せ賜へると云にはあらず。供奉の列卒の事はいふまでもなし
といへり。細に思へば此辭たやすく解すべからず。立を皇子にまれ獵人にまれ人の立つこと々せむにミカリタツとはいふべからず。或は云はむミカリタツはミカリニタツのニを省けるなりと。げに六の卷なるウマナメテミカリゾタタスハルノシゲ野ニの如きはニを省けりとも見るべし。されどミカリニタタスといふべきをニ(80)を省きてミカリタタスと云はむに御獵に出立つことゝ心得べく御獵場に立つ事とは心得べからず。されば宣長、久老、雅澄の説は從はれず。今集中に此辭を用ひたる例を集むるに
 一 日雙斯みこのみことの馬なめて御獵立師斯ときはきむかふ 即今の歌
 二 馬なめて三獵立流わかこもをかりぢの小野に 卷三長歌
 三 朝がりにししふみおこし夕狩にとりふみたてて馬なめて御※[獣偏+葛]曾立爲はるのしげぬに 卷六長歌
 四 朝がりに今たたすらし夕がりにいまたたすらし 卷一長歌
 五 ますらをは御※[獣偏+葛]爾立之をとめらは赤裳すそびくきよきはまびを 卷六
 六 たつか弓手にとりもちて朝がりに君は立之奴たなくらの野に 卷十九
 右のうち四五六にはニの言あり。而して六にタタシヌとあれば(即タタセリといはねば)四五六のカリニタタスは獵に出立つ事なること明けし。三はミカリニゾタタスのニを省けりとして四五六に同じき意と見られざるにもあらねどアサガリニシシフミオコシユフガリニトリフミタテテといふことミカリゾタタスより前に(81)あればなほ狩に出立つといふ意にあらじ。即ミカリニのニを省けるにあらじ。されば三はなほ一二に同じ。案ずるにミカリタタスとミカリニタタスとはもとより別意なる辭にてミカリタタスは御獵を催し給ふといふ事なり。ウガハタツ(又ウガハタタス)が鵜を使ひての漁獵を催す事なることははやく上に云へり○時ハ來ムカフは時節ニハナリヌとなり
 
   藤原宮之役民作歌
50 (やすみしし) わがおほきみ (たかてらす) 日のみこ (あらたへの) 藤原がうへに をす國を めしたまはむと 都宮《ミアラカ・オホミヤ》は たかしらさむと かむながら おもほすなべに あめつちも よりてあれこそ (磐走《イハバシノ》) あふみの國の (衣手の) たなかみ山の (まきさく) ひのつまでを (もののふの やそ)うぢ河に (玉藻なす) うかべながせれ そをとると さわぐ御民も 家わすれ 身もたな不知《シラズ》 (鴨じもの) 水にうきゐて わがつくる 日の御門に しらぬ國 よりこせぢより (82)わが國は とこ世にならむ ふみおへる あやしき龜も 新代《アラタヨ》と いづみの河に もちこせる 眞木のつまでを (ももたらず) いかだにつくり 泝須良武 いそはく見れば 神隨爾有之《カムカラナラシ》
八隅知之吾大王高照日之皇子荒妙乃藤原我宇倍爾食國乎賣之賜牟登都宮者高所知武等神長柄所念奈戸二天地毛縁而有許曾磐走淡海乃國之衣手能田上山之眞木佐苦檜乃嬬手乎物乃布能八十氏河爾玉藻成浮倍流禮其乎取登散和久御民毛家忘身毛多奈不知鴨自物水爾浮居而吾作日之御門爾不知國依巨勢道從我國者常世爾成卒圖負留神龜毛新代登泉乃河爾持越流眞木乃都麻手乎百不足五十日太爾作泝須良牟伊蘇波久見者神隨爾有之
    右日本紀曰。朱鳥七年癸巳秋八月幸2藤原宮地1。八年甲午春正月幸2藤原宮1。冬十二月庚戊朔乙卯遷2居藤原宮1。
 日ノミコは即オホキミにてこゝにては共に天皇を申し奉れるなり。フヂハラガウ(83)ヘのウヘはタカヌハラノウヘなどのウヘと同じく高地といふ意なる事考にいへる如し。ヲスグニは御領國なり。メスは治ムなり○都宮を眞淵はミアラカ又オホミヤとよみ雅澄はオホミヤを採れり。いづれともよむべし。タカシラスのタカはたゝへ辭、シラスはこゝにては占むる事なり○カムナガラは前に云へる如くカミトマシマシテといふ事にて其意茫漠たれば處によりてふさはしく釋くべし。こゝは神慮ニなど釋きて可なり○オモホスナベニまで十二句の大意は天皇ガ藤原ニ皇居ヲ造營セムトオボスママニといふ事なり
 ヨリテアレコソは天神地祇モ依リ從ヒタレバコソなり。契沖以下多くはヨリテアレバコソアラメのアラメを略したるやうに心得たるは非なり。コソの結はナガセレなり(御杖景樹同説)。古義に
  このコソを下のウカベナガセレにてとぢめたるものとせむは非ず。さては宮材を浮べ流すことのみを天神地祇のしろしめし給ふ由にて大宮づくりのなべての上をば神祇のしろしめさぬ意になれば協ひがたし
といへるは却りて非なり。近江の田上山にて伐り出したる材木を大和の藤原に送(84)るに瀬田川に投ずれば自然に流れて宇治河を經て木津川との落合に到るをここに役民が待取りて筏に組みて木津川をさかのぼせ今の木津あたりにて陸に揚げて陸路を藤原に運ぶなり。彼落合よりさきは人力によりて運送する事なれど瀬田川より落合即今の八幡の附近までは天然の力による事なればそれを天神地祇の手傳とは云へるなり。さればウカベナガセレは神祇のしわざにて田上の杣人のしわざにあらず○タナカミヤマは近江國の西南隅にありて瀬田川の東方に當れり。ツマデは角材なり○アメツチモよりウカベナガセレまで十二句の大意は天神地祇モ天皇ニ依リ從ヒタレバコソ御造營ノ御手傳トシテ近江國ノ田上山ノ檜ノ材木ヲ瀬田川ヨリ宇治川ニ浮ベ流シタレとなり
 ソヲトルトは其材木ヲトリトドムトテなり。略解に『陸へあげて』といひ古義に『陸地に取上れば』といへるは非なり○サワグ御民モのモはモ亦のモにて天神地祇に對していへるなり○不知を舊訓にシラズとよめるを古義にシラニとよめり。もとのまゝにても然るべし。さて身モタナシラズは夢中ニナツテ、己を忘レテなどいふ意とおぼゆ○ワガツクルより下九句はイヅミノ川の序とおぼゆれば煩はしきを避(85)けて後に讓るべし○モチコセルはモチキタレルなり。自然に任せなば淀河の川下へ流れゆくべきによりて人の力にていづみ川の川口へもちゆくなり。このモチコセルをあしく心得て略解古義などに一旦陸に引上げて更に泉川に浮ぶる事としたるなり。水利のよきに從はずして何ぞ煩はしく陸上を運搬せむや思ふべし○イヅミノカハニモチコセル眞木ノツマデヲモモタラズイカダニツクリはただイヅミノカハニモチコシテイカダニツクリといふべきを上にヒノツマデといひし後既にあまたの句をつらねたるにワガツクル云々の九句をさへ挿みたればこゝに更にマキノツマデといふ語を用ひたるなり。モチコセル彼マキノツマデヲとカノといふ語を加へて釋くべし。さて上にヒノツマデといひこゝにマキノツマデといへるにてもマキ即檜なる事を知るべし○ノボスラムは泉川ヲノボスラムなり。さて考に
  ラムといふは田上の宮材に仕へ奉るものゝおしはかりていへるなり
と云へるは上なるウカベナガセレを誤りて田上山にて材木を切出すものゝしわざと見、從ひて此歌を田上山にて役民の作れるなりと見たるなれば論ずるに足ら(86)ず。宣長、雅澄は藤原より思遣りてよめるなりとせり。此説は穩なるに似たれどなほイソハクミレバのミレバにかなはず。イソハクはイソフの延言にてイソフは木村博士の發明によれば競ひ爭ふことなり。キソヒアラソフヲミレバとは藤原にて想像していふ辭にあらず。必現場にていふ辭なり。されば宣長もイソハクは藤原にての事としたれどモモタラズイカダニツクリノボスラムイソハク見レバと續きたる辭を斷切りてノボスは他處にての事、イソハクは藤原にての事とは見るべからず○さてノボスラムイソハクミレバといふ續すこし穩ならず。試にいはばノボセムトイソハクミレバとありしを今の如く傳へ誤れるにはあらざるか。果して然らば此長歌は淀川と木津川との落合にてよめるなり○神隨爾有之を考にカムナガラナラシとよめるを燈にカムガラナラシに改めたり。燈の訓に從ふべし。さてそのカムガラナラシはゲニ天皇ハ神ニマシマストオボユといふ意なり。木村博士は神隨ナラシをヨリテアレコソの結としたり。其説の非なる事は前に述べたる所にて明なるべし○ソヲトルト以下の意はソノ材木ヲトリトドムトテ立騷グ御民ハタ家ヲ忘レ身ヲ顧ミズ水ニウキヰテ彼材木ヲ泉川ニ持來リソヲ筏ニ作リテ川上ニ(87)ノボセムト競ヒ爭フヲ見レバゲニ天皇ハ神ニマシマストオボユといへるなり
 ワガツクル以下九句古義は殆全く宣長の玉勝間の説に據れり。さればまづ玉勝間(十三卷八丁)の説を抄せむに
  シラヌ國ヨリの七言はコセヂの序、又ワガ國ハトコ世ニナラムフミオヘルアヤシキカメモ新代ト以上五句はイヅミ河の序にて本文はワガツクル日ノ御門ニコセヂヨリイヅミノ河ニモチコセルマキノツマデヲイカダニツクリノボスラムとつづくなり。さて巨勢は藤原の南方に當れば泉川をのぼせて北方より運送するには巨勢を經べからず。されば近江より宇治川に流れ來れる材木を一旦泉川にもちこして筏に作りそを再宇治川にかへし淀河を經て海に流し今の攝津和泉の海を經て紀伊の紀ノ河の河口に到りその河をさかのぼせて大和に到り巨勢路を經て藤原に運ぶなり。ノボスラムは紀(ノ)河をノボスラムなり
 宣長の説は大略右の如し。運送の便否は必しも途の遠近によらねば大まはりにまはりたる方或は便よきにや知らねどイヅミノ河ニモチコセルマキノツマデヲイカダニツクリノボスラムとあるをいかでか紀河ヲノボスラムとは釋かむ。又泉川(88)にて筏に作り淀川、海路、紀ノ川を經て巨勢より藤原に運ぶならむにはコセヂヨリといふ事最後にこそあるべけれ。いかでかイヅミノ河より前に云はむ。されば宣長の説は例にはたがひて穩健ならず。いで余の説を述べむにワガツクル、日ノ御門ニ、シラヌ國、ヨリコセヂヨリ、ワガ國ハ、トコ世ニナラム、フミオヘル、アヤシキ龜モ、新代ト以上九句はイヅミノ河の序、その中にて更にワガツクル、日ノ御門ニ、シラヌ國、ヨリの三句二言はコセヂの序なり。日本紀には見えざれど持統天皇の御治世の初に大和の巨勢路より神龜の出でしことあるなり。今は其事實を述べてイヅミノ河の序とし更に外蕃來貢といふ祝意をコセヂの序としたるなり。立返りて句々の意を釋かむにワガツクル日ノ御門ニは今我々ノ造營スル皇居ニなり。吾は或は今の誤にもやあらむ。シラヌクニ、ヨリコセヂは聞知ラヌ外蕃ガ寄リ來レといふことを巨勢路にいひかけたるなり。トコヨはトコトハナル世なり。トコ世ニナラムフミはトコ世ニナルベキ瑞文なり。ワガ國ハのハはノの誤にはあらざるか。フミオヘルアヤシキ龜は甲に吉瑞の文字ある神龜なり。新代は舊訓にアタラヨとよめるを久老アラタヨとよみ改めたり。そのアラタヨを古義に藤原の新宮とせるは非なり。此天皇の(89)新御代なり
 さて此歌は夙く宣長の云へる如く眞の役民の作歌にはあらで名ある歌人の名を役民に托して作れるものなる事言ふを待たず。おそらくは柿本朝臣人麿の作ならむ
 
   從2明日香宮1遷2居藤原宮1之後志貴(ノ)皇子御作歌
51 ※[女+采]女乃《タワヤメノ》そでふきかへすあすか風みやこをとほみいたづらにふく
※[女+采]女乃袖吹反明日香風京都乎遠見無用爾布久
 初句は考には※[女+采]を※[女+委]の誤としてタワヤメノとよみ(舊訓はタヲヤメノ)古義には媛の誤としてヲトメノとよめり。字はいかにもあれ訓は考に從ふべし○ソデフキカヘスは略解古義に云へる如く、フキカヘシシといふべきを言數に制せられて、フキカヘスと云へるなり。木村博士が宣長の説を引きてフキカヘスベキの意と認めたるは非なり。過去を現在にいへる例は二卷にもタケバヌレタカネバナガキ妹ガ髪コノゴロミヌニカカゲツラムカとあり○題辭に遷居とあるを考に『居は此皇子をさすのみ』といひ古義にも『此皇子の遷り座しをさして云』といへれどイタヅラニフ(90)クと決定してのたまへる、明日香にてよみ給ひし調なれば遷居とあるはなほ天皇の御上をいへるにて皇子は遷都後なほしばらく明日香に殘り給ひしか又は藤原に遷り給ひし後明日香にかへり給ひしことありてよみたまひしなり。なほ下なるトブトリノアスカノサトヲといふ御製の註を見合すべし〇一首の意は此處に都ノアリシ時ハ風モ美女ノ袂ヲ吹返シシガ今ハタダ徒ニ吹ク事ヨといへるにて舊都の衰へたるを嘆けるなり
 
   藤原(ノ)宮(ノ)御井《ミヰ》歌
52 (やすみしし) わごおほきみ (たかてらす) 日のみこ (あらたへの) 藤井が原に 大御門 はじめたまひて はにやすの 堤のうへに ありたたし 見之《メシ》たまへば やまとの 青かぐ山は 日のたての 大御門に 春〔左△〕《アラ》山と しみさびたてり 畝火の このみづ山は 日の緯《ヨコ》の 大御門に みづ山と 山さびいます 耳高〔左△〕《ミミナシ》の あを菅《スゲ》山は そともの 大御門に よろしなべ かむさびたてり (名ぐはし) よ(91)しぬの山は かげともの 大御門|從《ユ・ヨ》 雲居にぞ とほくありける (たかしるや) あめの御蔭 (あめしるや) 日のみかげの 水こそは 常爾有米《トコシヘナラメ》 御井のましみづ
八隅知之和期大王高照日之皇子麁妙乃藤井我原爾大御門始賜而埴安乃堤上爾在立之見之賜者日本乃青香具山者日經乃大御門爾春山跡之美佐備立有畝火乃此美豆山者日緯能大御門爾彌豆山跡山佐備伊座耳高之青菅山者背友乃大御門爾宜名倍神佐備立有名細吉野乃山者影友乃大御門從雲居爾曾遠久有家留高知也天之御蔭天知也日御影乃水許曾波常爾有米御井之清水
 ワゴオホキミといへるはワガのガが下なるオに引かれたるなり。フヂヰガハラは記傳三十四卷に
  藤原宮はもと藤井が原と云地なればそを略きて藤原とも云しなるべし
といひ燈に
(92) 藤井が原は即藤原なり。もとは藤井が原といひけむをつづめて藤原といひなりしなるべし
といへり。げに然るべし。さてフヂ井は所謂藤原宮(ノ)御井の名ならむ○大御門といふ語五つ見えたる初の大御門はやがて大宮なり○ハニヤスノツツミは埴安ノ池ノ堤なり。アリタタスはアリタツの敬語、アリタツは後のタテリと同じ。タテリはタチアリの約なり。古はアリを上に附けてもいひしなり。さればアリタタシはタタズミタマヒなり。考に『天皇はやくより此堤に立して物見放給へりしをいふなり』と云へるは非なり○見之は古義にメシとよめるに從ふべし。ミルを敬語にはメスといふ。タマヘバは後世のタマフニなり。ミワタセバヤナギサクラヲコキマゼテなどのミワタセバと同格なり○ヤマトノ以下二十四句は六句づつに分れて對を成せり○アヲカグ山は香具山の樹木茂りて青きをたゝへて云へるなり。之に特にヤマトノといふ事を冠らせたるも亦此山をたゝへたるならむ。春山は宣長『青山の誤なるべし』といへり○シミサビのシミは茂なり。サビはカムサビ、ヲトメサビなど名詞の下に附けて進みものする樣子を示す語なり。考、略解に『カムサビを略きいふなり』と云(93)へるは非なり。なほ云はばシミサビのシミは名詞なり。さればシミのみにてはしげる事とは釋かれず。シミサビとつづきて始めてしげる義とはなるなり○ミヅ山は此山のみづみづしきをたゝへて云へるなり。緯の字舊訓にヌキとよめるを考にはヨコとよめり。考に從ふべし○ヤマサビといへるは上にシミサビといひたれば辭を換へたるのみ○耳高は考に耳爲の誤とし古義に耳無の誤とせり○青菅山は菅の生ひたる青山といふ意ならむ。さればアヲスガ山とはよまでアヲスゲ山とよむべし。ソトモは北方なり。ヨロシナベはフサハシクなり。カムサビはモノフリなり○ナグハシヨシヌノヤマハ云々此芳野山をも前出三山の如くほめたゝふるかと思へば思ひもかけずクモヰニゾトホクアリケルといへるが平凡ならでめでたきなり。但トホクアリケルは今ならばトホクミエケルなどいふべし。カゲトモは南方なり○以上新宮の地勢のすぐれたるをいひさて始めて本題に人りて御井の事をいへり。初より御井の事をいひては今の如き雄篇は得がたきなり。長歌を作らむとする人は注目すべし。さて大宮には東西南北の四門あるべく今は其東門に香具山を、西門に畝火山を、北門に耳無山を、南門に遠き吉野山を配したるにやと思ふに日經《ヒノタテ》(94)は東西なれば東門を日ノタテノ大御門ともいふべけれど日緯《ヒノヨコ》は南北なれば西門を日ノヨコノ大御門とはいふべからず。古義には枉げて然いへるなりと云へれどもし對辭を以て云はむとならば朝日サス大御門、夕日テル大御門などもいふべきを正しく日經《ヒノタテ》に向へるを日ノヨコノ大御門といふべけむや。之によりて思ふに四門は東西南北の方位を正して設けしにはあらで四山、特に三山を正面に見るやうに設けしにて畝火山は大宮の西南に當ればそれに向へる門は西南に向はしめしならむ。西南門ならば少し枉げて日ノヨコノ大御門ともいふべきなり○タカシルヤのタカは空といふ事なり。古義に『タカク知マス天といふ意につづけたり』といへるは非なり。空ヲ領スル天、ソノ天ヲ領スル日といへるなり○タカシルヤアメノミカゲ、アメシルヤヒノミカゲノ、水コソハといへる解し難し。契沖はウツルといふ語を補ひて『高き天の影日の影もうつる水』と釋き(タカキと云へるは誤なる事古義につきて云ひし如し)眞淵はミカゲを今いふオカゲの義と見て『天の御蔭日の御影のなし出る水』又『天の御蔭日の御蔭に依て自ら涌出る水』と釋けり。宣長(記傳二十二卷)は『萬葉なるは天之影と云こと、其餘(○祝詞、推古紀等)は天の御蔭と云ことなり』と云(95)へれば契沖と同説なるなり。天は雨雪ヲ降して井の源を養へば井の水の湧出づるをアメノミカゲともいふべけれど日は井の水を涸らすものなれば日の御蔭によりて湧出づる水とはいふべからず。されば眞淵の説は從はれず。又湧出づる水は靜ならざれば天又は日のうつるにふさはしからず。されば契沖宣長の説も從はれず。古義には
  一説に高知也云々の四句は正しく云はば此天皇ノ天ノ御蔭日ノ御蔭ト隱リマスコノ美豆ノミアラカノ水コソハといふべきを推古天皇紀蘇我大臣の歌并祝詞などの古言をいひなれて唯アメノミカゲとのみ云てやがて御舍《ミアラカ》のこととはなしたるなり云々
といへり。案ずるに天ノミカゲ日ノミカゲは天に對スル陰、日ニ對スル陰にて井に屋を設けたるを云へるならむ○常爾有米を舊訓トキハニアラメとよめるを考にトコシヘナラメと改めよめり。さるを古義には又舊訓に復せり。さるは仙覺注本に常の下に磐の字あるによりつとなり。さる本あらば知らず今の如く常とのみありてはトキハとはよまれず。いづれにもあれ意は同事にてカルル世アラジとなり○(96)ミヅコソハトコシヘナラメといひさて再ミヰノマシミヅといひて稱嘆の意を表したり。かくミヅコソハトコシヘナラメといへる中に新宮のとこしへならむ事を祝する意は十分にこもれる事古義に発揮せるが如し
 
   短歌
53 藤原の大宮づかへあれ衝哉〔左△〕《ツガム》をとめがともは之〔左△〕吉召〔左△〕《トモシキロ》かも
藤原之大宮都加倍安禮衝哉處女之友者之吉召賀聞
    右歌作者未詳
 田中道麻呂之〔左△〕を乏〔右△〕、召〔右△〕を呂〔右△〕の誤としてトモシキロカモとよみ(玉(ノ)小琴に見えたり)宣長哉〔右△〕を武〔右△〕の誤としてアレツカムとよめり(但宣長はアレを奉仕の意としツクをイツクの略としたればツカムのカを濁らず。宣長の説は小琴の外玉勝間十一卷に見えたり)アレツクは契沖の説に從ひて生繼《アレツグ》の意とすべし。さてツギとスキと通ふを思へばツグは古くは清みて唱へしならむ。又清音の語なる衝を濁音の語なる次に借るまじきにあらず。集中にシジクシロのシジに宍の字を充て又ナベに苗を充て(97)イブカシのイブに言を充てたる例あり○大ミヤヅカヘは契沖等の云へる如く大宮に奉仕する事なり。雅澄の大宮を作る事なりといへるは非なり。ヲトメガトモのトモハ輩なり。トモシキロのロは助辭、トモシキはウラヤマシキなり。さればトモシキロカモは羨シキ哉となり〇一首の意は天皇ハ長壽ヲ保チ給フベケレバ我等ハ御代ノ限仕ヘ奉ル事ハカナハジ、我等ニ生レ繼ギテ宮仕セム少女等ゾウラヤマシキと云へるにて恐らくは女官のよめる歌なるべし○契沖が『此歌御井の反歌とは見えず』といひ眞淵が『必右の反歌ならず』といへるは非なり。御杖が
  もと端作に御井歌とある故にさる惑も生ずるなれど長歌を釋せるが如く御井をもて此藤原都の遠長かるべき事をほぎ奉れる歌なれば御井は表にて此都をほぎ奉れるが本情なり。されば此歌はなほ同じことほぎなり。さらに別時の歌にあらず。此歌表に御井をよまずとて端作にまどひて眞をそこなふまじき也
といへるぞ我心を獲たる
 
   大寶元年辛丑秋九月太上天皇幸2于紀伊國1時歌
54 こせ山のつらつら椿つらつらにみつつ思奈《シヌバナ》こせの春野を
(98)巨勢山乃列列椿都長都良爾見乍思奈許湍乃春野乎
    右一首|坂門《サカト》(ノ)人足《ヒトタリ》
 以下文武天皇の御代の歌なり。太上天皇は持統天皇なり
 ツラツラは今いふツルツルなり。さればツラツラツバキは葉ノツヤツヤシキ椿といふことなり。二十卷にも足引ノヤツヲノツバキツラツラニとよめり。椿は邦製字なり○思奈を舊訓にはオモフナとよみ齋藤彦麿(片廂稿本卷一)はオモハナとよみ雅澄はシヌバナとよめり。オモフナとよめる人は或はオモフヨの意とし(契沖眞淵)或はオモフナカレの意とせり(御杖)。雅澄は題辭に秋九月幸2于紀伊國1時歌とあるを誤とし同年春二月吉野宮にいでましゝ時の歌としてシヌバナを將2賞愛1の意とせり(此卷額田王の長歌にモミヂヲバトリテゾシヌブとあるを例として)○契沖は
  巨勢野の春になりて萬面白からんに此椿さへ山を照して咲かん時を思ひやるなり
といひ眞淵は
  今は九月にて花さかむ春を戀るなり
(99)といひて題辭のまゝに秋の歌としたれどコセ山のツラツラツバキといふ二句はツラツラニの序にて一首の意に與からねば契沖眞淵等の説の如く椿にかけて釋くべからざるは勿論秋の歌とは見るべからず。されば雅澄の説の如く題辭の秋九月を誤として春の歌とすべし。但雅澄の
  さらぬだにあるをまして椿の花さへ咲にほひたる巨勢の野の春のけしきのあかずおもしろく思はるればつらつらに見つゝ一向にめでしのびをらむとなり
といへるはなほ初二の純然たる序なる事に心附かざりしなり
 
55 (あさもよし)木人ともしもまつち山ゆきくと見らむきびとともしも
朝毛吉木人乏母亦打山行來跡見良武樹人友師母
    右一首|調《ツキ》(ノ)首《オビト》淡海《アフミ》
 トモシはウラヤマシなり。ユキクトミラムは往クトテ見、來トテ見ルラムとなり。キビトハ紀伊國人なり
 
   或本歌
(100)56 河上のつらつら椿つらつらにみれどもあかず巨勢の春野は
河上乃列列椿都良都良爾雖見安可受巨勢能春野者
    右一首春日(ノ)藏首《クラビト》老《オユ》
 此歌の春の歌なる事は疑ふ人なかるべし
 
   二年壬寅太上天皇幸2于參河國1時歌
57 ひくま野ににほふ榛《ハリ》はらいりみだり衣にほはせたびのしるしに
引馬野爾仁保布榛原入亂衣爾保波勢多鼻能知師爾
    右一首|長《ナガ》(ノ)忌寸《イミキ》奥麿《オキマロ》
 榛を契沖はハギとよみてハンノ木の事とし眞淵はハギとよみて萩の事とし枝直、宣長、久老、守部、御杖、雅澄等はハリとよみてハンノ木とせり。ニホフ榛原といひイリミダリテ衣ヲニホハセといへるハンノ木の調ならむや。宜しくハリとよみて萩の事とすべし(慈延、弘訓、芳樹同説。慈延の説は隣女※[日+吾]言卷二に見えたり)。抑榛はハンノ木、萩はハギなるをいにしへ共にハリといひしかば此處の如くバギのハリに榛の(101)字を借り用ひたる例あり。又ハンノ木ト別たむ爲に※[草冠/秦]の字を充てたる例あり又さかさまにハンノ木のハリに萩の字を借り用ひたる例あり○イリミダリは眞淵の云へる如く人りて亂すなり。古義に『入てまじはることなり』といへるは從はれず○コロモニホハセは衣を萩の花に染めよとなり。命令法を用ひたれば異樣に聞ゆれどニホハサム(一シヨニニホハサウ)といふと甚しく異なる事はなきなり。字數に制限せられて申合を命令に轉じたるのみ○シルシニは記念ニなり。古義に『旅ノ得分ニといはむがことし』と云へるは非なり○引馬野は遠江國にありて今の三方が原なり。三河國に御幸ありしついでに御伴人たちの此わたりまで遊びに來たりしならむ
 
58 いづくにかふなはてすらむあれの崎こぎたみゆきしたななし小舟
何所爾可船泊爲良武安例乃崎榜多味行之棚無小舟
    右一首|高市《タケチ》(ノ)連《ムラジ》黒人《クロヒト》
 フナハテスラムは舟ハハツラムといふに同じ。但結句に小舟とあればフナハテスラムとはいふべく舟ハハツラムとは云ふべからざるなり。御杖の(102)何所とは此舟のとまるらむ《五字傍点》所をしらむとする心なり
といへるはよけれど木村博士の
  舟のとまらむ《四字傍点》ところを知らまくする意なり
といへるはスラムとセムとの別を辨へざる釋なり。スラムは現在の想像なればここは今頃舟ハハテタデアラウガドコニハテタデアラウカといふ意なり○コギタミはコギ廻りなり。タナナシ小舟は舷《タナ》を打たぬ淺き小舟なり
 
   譽謝《ヨサ》女王作歌
59 ながらふる妻〔左△〕《ユキ》ふく風のさむき夜にわがせの君はひとりかぬらむ
流經妻吹風之塞夜爾吾勢能君者獨香宿良武
 ナガラフルは古義に云へる如くナガルルの延びたるにて空より物の降ること、妻は久老(槻の落葉上卷十三丁頭書)の云へる如く雪の誤字なり○以下二首は京に殘れる人の作歌なり
 
   長《ナガ》(ノ)皇子御歌
(103)60 よひにあひてあしたおもなみなばりにかけながき妹がいほりせれけむ
暮相而朝面無美隱爾加氣長妹之慮利爲里計武
 ヨヒはこゝにては初夜にあらず。ただ夜といふことなり(眞淵はやく云へり)。ナバリは伊賀國名張なり。古語に隱るゝ事をナバルといへば若き女の前夜に始めて男に逢ひて翌朝はづかしさにもの陰に隱《ナバ》るといふ事を序につかひたるなり○ケナガクの事は記傳(二十八卷)にくはしくいへり。コゝは旅に出でて日を經たる事をいへるなり。イホリは假宿なり。更に案ずるに發駕は十月十日にて還幸は十一月廿五日、名張御宿泊は其前日なれば此歌は還幸の日の朝よみ給ひしならむ。かく見てこそケナガキとのたまひ又イホリセリケムと過去にのたまへる所以も知らるゝなれ
 
   舍人《トネリ》(ノ)娘子從v駕作歌
61 ますらをがさつ矢たばさみたちむかひいるまとがたはみるにさやけし
(104)大夫之得物矢手挿立向射流圓方波見爾清潔之
 古義に二句をサツヤダハサミとよみて
  ダを濁るはタバサミといふべきをバの濁音を上へうつして云古語の一例にて云々
といへり。げに二語の連合する時下の語の濁音の處をかへて上に移る例はあれど(日のかげるをヒガケルといふ類)そは調の爲におのづから然るにて云はば古人のなまりなり。今の歌の二句など少くとも今人の口に唱ふるにサツヤタバサミと唱へて調のあしきことなし。ことさらに古に阿りてサツヤダハサミと唱ふるに及ばず○イルまではマトガタにかゝれる序なり。マトガタは伊勢の地名なり。以上五首參河國に御幸し給ひし時の歌なり
 
   三野《ミヌ》(ノ)連《ムラジ》人唐(ノ)時春日(ノ)藏首《クラビト》老作歌 62 (在根良《三字左△》《オホフネノ》)對馬のわたりわたなかに幣とりむけてはやかへりこね
在根良對馬乃渡渡中爾幣取向而早還許年
(105) 此歌も大寶二年の作なり。遣唐使の發船せしは此年六月なればなり
 在根良は誤字とおぼゆ。眞淵は布根盡又は百船能又は百都舟の誤としてフネハツル又はモモブネノ又はモモツフネとよみ宣長は布根竟の誤としてフネハツルとよみ雅澄は大夫根之の誤としてオホブネノと訓めり。大船能か○ツシマノワタリは對馬海峡なり。トリムケテは手向ケテなり〇三野(ノ)連名は岡麿。明治五年大和國平群郡萩原村にて其墓志を掘出でき。墓志の全文は美夫君志及山田孝雄氏の續古京遺文に出でたり(遺文には拓本の寫眞も)
  
   山上臣憶良在2大唐1時憶2本郷1歌
63 いざ子ども早《ハヤク》日本邊《ヤマトヘ》おほとものみつの濱松まちこひぬらむ
去來子等早日本邊大伴乃御津乃濱松待戀奴良武
 遣唐使の歸朝は慶雲元年なり。されば此歌は大寶二年の作にはあらざるべきを前の歌の因にてこゝに載せたるならむ
 コドモは從者をさして云へるなり○早日本邊は舊訓にハヤヒノモトヘ又ハヤクヤマトヘ略解にハヤモヤマトヘ古義にハヤヤマトヘニとよめり。官本の訓に從ひ(106)てハヤクヤマトへとよむべし。三卷にもイザ子トモヤマトヘハヤクとあり。但こゝのヤマトは日本なり。古義に大和とせるは非なり。大伴は攝津の地名なり○古義に『ミツノハママツはマツと云はむとて云るなり』と云へるは代匠記の説によれるにてオホトモノミツノハママツをマツの序とせるなり。案ずるにこは辭の如く御津の濱松がまちこふらむと云へるにて家人を松に擬したるのみ
 
   慶雲三年丙午幸2于難波宮1時志貴皇子御作歌
64 葦邊ゆく鴨のはがひに霜ふりてさむきゆふべは和《ヤマト》しおもほゆ
葦邊行鴨之羽我比爾霜零而寒暮夕和之所念
 アシベユクのユクは浮ビユクなり○ハガヒは契沖のいへる如く羽を打ちがへたる處なり○和は諸本に倭とあり
 
   長(ノ)皇子(ノ)御歌
65 (霰うつ)あられ松原すみのえのおとひをとめとみれどあかぬかも
霞打安良禮松原住吉之弟日娘與見禮常不飽香聞
(107) アラレウツを雅澄は燈に據りて
  此時九十月の頃なれば御まのあたり霰のふりけるをやがて枕詞におかせ給へるなるべし
と云へれどアラレウツは考にいへる如くただの枕辭にて一首の意に與からず。霰のふるは※[雨/妾]時の事にてミレドアカヌカモと云へるにかなはざればなり○オトヒは古義に云へる如く娘子の名なるべし○オトヒヲトメトのトについて兩説あり。一はヲトメト共ニとし(契沖)一はヲトメトマツバラトとせり(眞淵)。ヲトメト共ニの意ならばミレバと云はざるべからず。さればヲトメト松原ト二ツナガラといふ意と見べし
 
   太上天皇幸2于難波宮1時歌
66 大伴のたかしの濱の松が根を枕宿抒〔左△〕《マキテシヌレバ》いへししぬばゆ
大伴乃高師能濱乃松之根乎枕宿杼家之所偲由
     右一首|置始《オキソメ》(ノ)東人《アヅマビト》
(108) 太上天皇の崩ぜしは大寶二年十二月なれば以下五首の歌は慶雲年間の歌より前にあるべきなれど難波への御幸も吉野への御幸も何年にか知られねば束ねてここに載せたるならむ
 四句は眞淵マキテシヌレドとよみたれどドにては穩ならず。マキテシヌレバなどあるべきなり。宣長は杼を夜の誤としてマキテヌルヨハとよめり○シノバルをシヌバユといへるにつきて思ふに古のラリルレロは今一般に唱ふる如くにはあらで薩摩人などの唱ふる如くにぞありけむ。果して然らば古のラリルレロはRには當らでLに當れり○家シのシはゾに似て特殊なる結を要せざる便利なるテニヲハなり
 
67 旅にして物戀之伎乃鳴〔二字左△〕事毛《モノコヒシキニイヘゴトモ》きこえざりせばこひてしなまし
旅爾之而物戀之伎乃鳴事毛不所聞有世者孤悲而死萬思
    右一首高安(ノ)大島
 二三句舊訓にモノコヒシキノナクコトキとよめり。契沖眞淵が此訓に從ひて『鴨に云ひかけたり』といへるは論ずるに値らず。古義には乃を爾の誤とし美夫君志には(109)乃をもとのまゝにしてニとよみ又二書共に鳴を家の誤とせり。古義に燈に從ひてコヒシキをコホシキとよみ改めたるは日本紀の歌にキミガメノ姑※[鍋ぶた/臼/衣ノ下]之枳《コホシキ》カラニとあるに依れるなれどそはもとのまゝにてよし○燈に
  マシ 上のセバのうちあひにて虚に設出たる事の末をいふ詞なり。脚結《アユヒ》抄將倫(○ムの類といふ事)のうちにマシを屬したる事もとムといふに同じ類の詞なればなり。されどムはその事實なる事の末をいふ詞なり。マシは虚設したる事の末なるがたが へり
といへり。此説後に敷衍していふべし
 
68 大伴のみつの濱なる忘貝家なる妹をわすれておもへや
大伴乃美津能濱爾有忘貝家爾有妹乎忘而念哉
    右一首|身人部《ムトベ》(ノ)王
 ワスレテオモヘヤはただワスレムヤといふに同じき事眞淵の云へる如し。上三句は序なり○此歌は故郷なる妻よりアマリ久シク外ニオハスルニ我ヲ忘レヤシタマフラムなど問ひおこせしに答へたるなるべし。古義に『歌意は』とて二説を擧げた(110)るそはさながら燈の説に據れるなるが中に第二説の方ぞよき
 
69 (草枕)たびゆく君としらませば岸のはにふににほはさましを
草枕客去君跡知麻世婆岸之埴布爾仁寶播散麻思乎
   右一首|清江娘子《スミノエヲトメ》進2長皇子1 姓氏未詳
 ハニフニは實はハニフノハニニといふべきなれどしかいひては煩はしきが故にしばらく理を捨てたるなり。古義に
  直に埴のことをハニフといふはただ草を草根といひただ月を月夜といへる類にや
といへるはいかが(右の説は實は御杖のなり)○上三句はイツマデモ御トドマリニナルヤウニ思ウテヰマシタガ御立ニナルト存ジマシタラといひ四五は御衣ヲ當地ノ名物ナル埴デ染メテアゲマシヨウモノヲといへるなり。衣といふことは無けれど衣の事とよくきこゆるなり。古は意通ずれば足るとしたりしなり。されどそはあかぬ事なれば今にして學ぶべきにはあらざるなり○作者は即長皇子の御歌に見えたるオトヒヲトメなり。進はタテマツレルとよむべし
 
   太上天皇幸2于吉野宮1時|高市《タケチ》(ノ)連《ムラジ》黒人(ノ)作歌
70 やまとにはなきてかくらむよぶこどりきさの中山よびぞこゆなる
倭爾者鳴而歟來良武呼兒鳥象乃中山呼曾越奈流
 クラムは燈に
  ある注(○略解)にクラムはユクラムに同じとあれどユクラムにひとしくするはくはしからず。後世にてはユクラムといふべき所なるをクラムとよめるは必その別なくてはかなはぬ事ならずや。大かたユキクといふ事こなたに心をおきてはユクといひかなたに心をおけばクルと云。これ古人ユキクを用ふる法也
といへり。此歌の如き處は今はユクラムとのみいへど今もヤマ路ヲユケバなどはヤマ路ヲクレバともいひて人怪まず。又今もユクをクルといふ地方あり。西洋にてはユクをクルといふこと常の事なり。こなたを本とするとあなたを本とするとによりて或はユクといひ或はクルといふ事御杖の云へる如し○ヤマトニハのハは輕く添へたるのみ。ヤマトは吉野より北方なる大和平野を指していへるなり。吉野は大和平野とは別天地を成したれば吉野國ともいへり。ヨブコドリはホトトギス(112)の類なり。俗にカンコドリといふ〇一首の意はキサノ中山ヲナキツツコユル呼子鳥ノ聲ノスルハナツカシキ故郷ノ方へナキテユクノデアラウカとなり
 
   大行天皇幸2于難波宮1時歌
71 やまとこひいのねらえぬにこころなくこのすの崎にたづなくべしや
倭戀寐之不所宿爾情無此渚崎爾多津鳴倍思哉
    右一首|忍坂部《オサカベ》(ノ)乙麿
 大行天皇は故天皇といふことにて文武天皇を指し奉れるなり
 シヌバユのユ、ネラエヌニのエなどは今のユ又はエの如く唱へしにあらず。ユはユとルとの中間〔日が月〕の音、エはエとレとの中間〔日が月〕の音にて唱へしなり。イは睡眠なり。いにしへはイヲヌル、イノネラルなどいひしなり
 
72 玉藻かるおきべはこがじ(しきたへの)枕の邊《アタリ》わすれかねつも
玉藻苅奥敝波不榜敷妙之枕之邊忘可禰津藻
    右一首式部卿藤原(ノ)宇合《ウマカヒ》
 枕之邊は舊訓にマクラノアタリとよめるを古義にマクラノホトリとよみ改めたり。舊訓によるべし○タマモカルを代匠記には(古義にも)枕辭としたるを御杖は此辭に意あらせて玉藻のなびけるさまを見れば家にて妹とねたりし枕のあたりの思はるれば玉藻かる奥方は漕がじといふ意なりとせり。奇説のやうなれど此説最穩なり。熊谷直好も枕の邊を故郷なる妹の枕なりといひたれど(直好の説は※[手偏+君]解に見えたり)一首の意は釋き得ず。右の御杖の説に從へばタマモカルのカルはかのマクサカルアラ野ニハアレドのカルと同じく一種の代語にてナビクといふべきをカルと云へるなり
 
   長(ノ)皇子御歌
73 (わぎもこを)はやみ濱風やまとなる吾松椿ふかざるなゆめ
吾味子乎早見濱風倭有吾松椿不吹有勿勤
 二句はハヤミムをハヤミハマカゼに云ひかけたる事は明なれどもそのハヤミハマカゼといふ事さとりやすからず。眞淵は難波わたりに早見といふ濱あるなるべしと云へれどさらばハヤミの下にノの言あらでは調よろしからす。宣長はただ濱(114)風といふに御の言を添へたるなるべしと云ひたれど固よりの語にいひかけてこそをかしからめ、云ひかけむが爲にみだりにミの言をそふべくもあらず。契沖は十一の卷にハヤキ早瀬といふことをハヤミハヤセといへる類にてハヤキ濱風といふ事なりといへり。是最穩なり。案ずるに年號の朱鳥をアカミトリとよむを(天武天皇紀に戊午改v元曰2朱鳥元年1とありて註に朱鳥此云2阿河美苔利《アカミトリ》1とあり)從來の説には赤御鳥の義としたれどなほハヤミハマカゼの類にてアカキを名詞にしてアカミといへるなり。宮の名のキヨミハラ、本集卷五詠2鎭懷石1歌なるクシミタマなど細に檢しなば此類なほ多かるべし〇四句は眞淵以來ワヲマツツバキとよめるを古義に『マツツバキと連ね言ふべきにあらず』といひて椿を樹の誤とし樹の下に爾の字をおとしたりとしてワヲマツノキニとよめり。マツツバキはウメヤナギなどいふと何の差かあらむ。難者或はウメヤナギとはいひなれたれどマツツバキは云ひなれずと云はむに答へて云はむ。ウメヤナギもマツツバキも云ひそめし時には何の擇ぶ所もなかりしをウメヤナギは次々に人の云ひて云ひなれマツツバキは次いで云ふものなかりしによりて云ひなれざるのみ。されば眞淵の訓の如くワヲマ(115)ツツバキとよみて可なり。ワレヲマツをマツツバキにいひかけたまへる事論なし。ワヲは句中の枕辭とも云ふべし○フカザルナはきゝなれねど今吹く濱風の故郷の方へ吹きゆくを故郷なる松椿にふきかよへるものと假定し、さて然吹きつづけよとのたまへるなり。何故にかくはのたまへるかといふに故郷のこひしさにこゝの濱風の故郷に吹き通ふをだに慰としたまへばその風の通路だに絶えざらむことを願ひたまへるなり。古義に『この寒さを家人に知らせて云々』といへるは御杖の牙後を承けたるにて從ひがたし
 
   大行天皇幸2于吉野宮1時歌
74 みよし野の山のあらしのさむけくにはたやこよひも我ひとりねむ
見吉野乃山下風之寒久爾爲當也今夜毛我獨宿牟
    右一首或云天皇御製歌
 サムケクニは寒カルニといふことなり。古義に『後世の詞にてはサムケキニといふべきをかくいへるは古言なり』といへれどサムケキニといふ語は無し。後世のサム(116)キニなりとはいひもすべし○燈に
  ハタはせむこゝちもなき事のやごとなくせらるゝ歎なり。されば亡父(○成章)脚結抄にハタは里言にセウコトモナイコトといふ義ありといへり…ヤは疑なり
といへり。古義に云へる所はこれより出でたるなり。ハタヤは更に又なり○我の宇舊訓にワレとよめるを眞淵ワガに改めたり。眞淵の訓に從ふべし○此歌御製の調にあらず
 
75 うぢま山あさ風さむし旅にして衣かすべき妹もあらなくに
宇治間〔日が月〕山朝風塞之旅爾師手衣應借妹毛有勿久爾
     右一首長屋(ノ)王
 旅ニシテは旅ニテなり。妹モアラナクニは妻モアラヌニとなり
   
   和銅元年戊申天皇御製歌
76 ますらをの鞆の音すなりもののふのおほまへつぎみ楯たつらしも
(117)大夫之鞆乃音爲奈利物部乃大臣楯立良思母
 此天皇は元明天皇なり。此天皇の御代に都を藤原より寧樂に遷し給ひしなれば題辭の前に寧樂宮御宇天皇代とあるべきなり
 鞆ノ音スナリは弓ヲ射ル音ガスルといふこと、モノノフノオホマヘツギミは將軍といふこと、楯タツラシモは楯ヲ立テテ弓ヲ射シメルサウナといふことなり。嗚呼イサマシイ哉とのたまへるにあらで嗚呼心配ナ事ヂヤとのたまへるなり。さればこそ御名部皇女の御|和《コタヘ》にワガオホキミモノナオモホシとのたまへるなれ。眞淵の云へる如く蝦夷の叛けるを討たむ爲の軍ならしの音をきこしめしてよませたまへるなり
 
   御名部《ミナベ》(ノ)皇女奉v和御歌
77 わがおほきみものなおもほしすめ神のつぎてたまへる吾なけなくに
吾大王物莫御念須賣神乃嗣而賜流吾莫勿久爾
 吾を宣長の君の誤としたるはツギテタマヘルの意を釋きかねたる爲なり。ツギテ(118)は君ニツギテにてタマヘルは蒼生ニタマヘルなり。ワレナケナクニはワレナキナラヌニなり。元明天皇の女帝にて事に當りて御心よわくましますを慰め奉りて事アラバ御力トナリ奉ルベキヲ御心安クオハシマセとのたまへるなり○モノナオモホシはモノ思ヒ給フナとなり。御名部皇女は天皇の御姉なり。ををしき御本性にぞおはしけむ
 
   和銅三年庚戌春二月從2藤原宮1遷2于寧樂(ノ)宮1時御輿(ヲ)停2長屋(ノ)原1※[シンニョウ+向]《ハルカニ》望2古郷1御作歌 一書云太上天皇御製
78 (とぶ鳥の)あすかの里をおきていなば君があたりは【君があたりを】みえずかもあらむ【みずてかもあらむ】
飛鳥明日香能里乎置而伊奈婆君之當者不所見香聞安良武【一云君之當乎不見而香毛安良牟】
 持統天皇の明日香より藤原に遷りたまひし時の御製なるべく題辭に元明天皇が藤原より寧樂に遷り給ひし時の御製とせるは誤なるべき由宣長いへり○君とのたまへるは明日香に殘りたまへる皇親たちなるべし。オキテイナバはアトニ殘シ(119)テ行カバとなり○四五の句は一云の方穩なるに似たり
 
    或本從2藤原京1遷2于寧樂宮1時歌
79 天皇《オホキミ》の みことかしこみ にきびにし 家乎擇《左△》《イヘヲサカリ》 (こもくりの) はつせの川に ふねうけて わがゆく河の 川隈の やそくまおちず よろづたび かへりみしつつ (玉桙の) 道ゆきくらし (あをによし) ならのみやこの 佐保川に いゆきいたりて わが宿有《ネタル》 △衣乃上從《アリソノウヘユ》 あさづくよ 清爾見者《サヤニミユレバ》 たへのほに よるの霜ふり 磐床と 川之氷凝《カハノヒコホリ》 さゆる夜乎〔左△〕《モ》 息〔左△〕《イコフ》ことなく かよひつつ つくれる家に 千代二手來〔左△〕《チヨマデニ》 座多〔左△〕公與《イマサムキミト》 われもかよはむ
天皇乃御命畏美柔備爾之家乎擇隱國乃泊瀕乃州爾※[舟+共]浮而吾行河乃川隈之八十阿不落萬段顧爲乍玉桙乃道行晩青丹青楢乃京師乃佐保川爾伊去至而我宿有衣乃上從朝月夜清爾見者栲乃穗爾夜之霜落磐床等川之氷疑〔左△〕冷夜乎息言無久通乍作家爾千代二手來座多公與吾毛通武
(120) 久老の説にオホキミとは當代天皇以下諸王までをいひスメロギは皇祖をいひ又皇祖より受繼ませる大御位につきては當代をもいふといへり(槻の落葉)。今は當代を申せるなればオホキミとよむべし。雅澄の天皇は大皇の誤なるべしと云へるに對して芳樹は『三處まで天皇とあれば大皇の誤とはすべからず。そのまゝオホキミとよむべし』と云へり○ミコトカシコミはミコトヲカシコミテにあらず。ミコトガカシコサニといふことなり○ニキブは御杖の云へる如くアラブの反なり。但意は安んずる事なり○家乎擇の擇は誤字なることしるし。眞淵は放又は釋の誤とせり。それによりてイヘヲモサカリ(眞淵)、イヘヲサカリ(千蔭、木村博士)イヘヲサカリテ(御杖)イヘヲモオキテ(眞淵一訓)イヘヲオキ(雅澄)イヘヲステテ(芳樹)などさまざまによめり。しばらく放の誤としてイヘヲサカリとよむべし○藤原より寧樂に到る爲泊瀬川に舟を浮べて其川を北方に下るなり。ヤソクマオチズはあまたある川の曲角毎にといふ意なり。古義に燈の説によりて
  比はただ隈の多かるをいふにはあらで川路のいと遠き状を思はせむが爲なり
といへるはいかが。三輪わたりにて舟に乘りぬとも泊瀬川の川路の長さいかばか(121)りかあらむ○ミチユキクラシのミチは舟路なり。陸路にあらず。さばかり遠き道にはあらねども川の曲角毎に故郷のなごりを惜みてかへりみかへりみして途中にて日暮になりぬとなり(燈同説)。さて泊瀬川をさし下りて佐保川との落合に到りてそこより更に佐保川をさしのぼりて寧樂に到りしなる事考に云へる如し○イユキイタリテワガネタルを古義に『船にて寢ながら佐保川にゆきつきたるさまなり』といへるは非なり。ユキイタリテネタルとあればゆきつきて寢たるなり。さてその寢たるは舟中(雅澄)にや假屋(眞淵)にやといふにそれを決するにはまづ衣乃上從の訓を定めざるべからず。これを字のまゝにコロモノウヘユとよみては何の事とも聞えず。寢たる衣の上より月を見る(又は月が見ゆ)といふ事あるべきにあらねばなり。又ネタルコロモとも續かず。されば眞淵は衣を床の誤としてトコノウヘヨリとよみ普請いまだ成就せざる假屋に寢たるなりといへれど次にイハトコト川之氷凝サユル夜ヲといへるは川邊の景なれば眞淵は又『川に遠からぬなるべし』と云へれどそはあまりに意に任せたる解釋なり。但衣とあるはともかくも誤字なり。上野常朝といふ人我宿有衣乃上從とある有の字を下の句につけてワガイネシアリソ(122)ノウヘユとよみし由註疏に見えたり。此説おもしろし。但イネシは必ネタルといはざるべからず。よりて思ふに有の下に今一字有の字のありしがおちたるにてワガネタルアリソノウヘユなるべし。或は云はむ。今の佐保川は勿論の事古の佐保川といふとも細き流にすぎざるべければアリソといはむこといかがと。答へて云はむ。アリソはいにしへただ岸といふ義につかひたりと見えて卷二にもミタチセシ島ノアリソヲケフミレバなど池の中島の岸をもアリソと云へれば怪むべからず○清爾見者はサヤカニミレバ(舊訓、燈、古義、美夫君志)サヤニミユレバ(考)サヤニミレバ(略解)などよめり。雅澄は『アサヅクヨはサヤカニの枕詞にもあるべし』といひながら一方には又『コロモノウヘヨは引被りて寢たるながらに曉月を見る貌なり』といへり。もしアサヅクヨを枕辭とせばサヤカニはいはであるべし。ただアリソ(或はコロモ)ノ上ヨリミレバといひて足るべくサヤカニミルとまで云ふべき要なければなり。さらば枕辭とせでアサヅクヨヲと心得べきかといふにそもなほ不可なり。月は固より細に精しく見る要なきものなればなり(たとひさる要ありともツバラニミルなどいふべくサヤカニミルとは云ふべからず)。さればこゝは考の訓の如くサヤニ(123)ミユレバとよむべし。さて萬葉の時代には後にいふミユルニをもミユレバといへれば(藤原宮御井歌なるメシタマヘバの註と參照すべし)アサヅクヨサヤニミユレバはアサヅクヨガサヤカニ見ユルニなり○タヘノホニのニはシラユフバナニオチタギツ又シラユフバナニナミタチワタルなどのニと同じく後世のトに當れり。さればタヘノホニはタヘノホノゴトクといふ意なり。タヘノホのタヘは眞淵の云へる如く白布にてホは丹《ニ》ノホのホと同じく色澤なり○ヨルノシモフリのヨルノはただ輕く心得べし。古義に『朝霜夕霜にならべていふ』などいへるはことごとし○イハトコは代匠記に『磐石の平にて床の如くなるを譬へて名付たるにや』と云へり。此説よろし。燈に
  磐床は磐を床にしたるを云……太古は穴居しければ石を座とも床ともしたるなるべし
といひ古義に
  磐床は磐をもて臥具の床につくれるをいふ。石坐石船の類なり
といへるは非なり○川之氷凝の凝を舊訓にはコリテ考にはコゴリ古義にはコホ(124)リとよみ燈には氷を水の誤としてカハノミヅコリとよめり。氷ガコル又はコホルといふべきにあらざる如くなれど播磨風土記|讃容《サヨ》郡凍野の下に凍v冰《ヒコホル》とあればもとの儘にて川ノヒコホリとよむべし○サユル夜乎はサユルヨヲとよむべけれどヲの言難儀なり。ナルニの意かと思へどイコフコトナクカヨヒツツと云へる一夜の調にあらず。然もいつもいつも途中にて日が暮れ又月がさえ霜がふり川の水が氷るべくもあらねばナルニのヲとは思はれず。古義にはヨヲを夜頃ナルモノヲと釋きたれど糊塗の譏を免かれず。案ずるに乎は或は毛などの誤にてサユル夜モならざるか。モとすればよく通ず○息コトナクの息を考にイコフとよめるを古義にはヤスムとよみて『イコフともよむべし』と云へり。いづれにてもあるべし○千代二手來〔右△〕座多〔右△〕公與は考に來を爾、多を牟の誤としてチヨマデニイマサムキミトと訓めり。キミトのトはトトモニ(燈の説)の意にはあらでトシテ(古義の説)の意なり。ワレモカヨハムは人モ我モと云へるにあらず。燈に云へる如くキミとさしたる人を主とたててモといへるなり。即ワレモチヨマデニカヨハムと云へるなり。いこふ事なく家づくりせしは主人にあらで其一族又は出入のものなり。さて其人も主人と同じ(125)く藤原をばすみ棄てたれど寧樂には住まぬなり。そは反歌にアヲニヨシナラノ家ニハヨロヅヨニワレモカヨハムといへるにて知らる
 
  反歌
80 (あをによし)寧樂の家には萬代にわれもかよはむ忘跡〔左△〕念勿《ワスレテオモフナ》
青丹吉寧樂乃家爾者萬代爾吾母將通忘跡念勿
     右歌作主未詳
 忘跡念勿は或はワスルトオモフナとよみ或はワスルトモフナとよめり。オモフナとモフナとはいづれにてもあるべけれどワスルトとよみては結句の意通ぜず。案ずるに跡は而などの誤にてワスレテオモフナなるべし。ワスレテオモフナは只ワスルナといふに同じ。上なる大伴ノミツノ濱ナルワスレ貝イヘナル妹ヲワスレテオモヘヤもただワスレメヤといふに同じき事その條下にて云へる如し
 
   和銅五年壬子夏四月遣2長田王于伊勢(ノ)齊宮1時山邊(ノ)御井(ニテ)作歌
81 山邊乃《ヤマノヘノ》御井を見がてり(かむかぜの)いせをとめどもあひみつるかも
(126)山邊乃御井乎見我※[氏/一]利紙風乃伊勢處女等相見鶴鴨
 齊は齋の通用なり
 初句は從來ヤマノベノとよめるを宣長玉勝間三卷の山邊は鈴鹿郡にありて今ヤマベといふと云へるにもとづきて雅澄はノを削り又ヘを清みてヤマヘノと四言によめり。されどかゝるノは後世省きて唱ふる例往々あることなればなほヤマノヘノと五言によむべし○イセヲトメドモは一人にや數人にや。一人と數人とにて結句のアヒミルの意もかはるべし。古義には一人として『一人をヲトメドモと云ふはなほ一人をイモラ、ヲトメラといふが如し』と云へれどラとドモとは一つに見るべからず。案ずるにこはなほ數人にて御井のもとにてか又は休み給ひし家などにて美人等の目にかかりたるを興じてよみたまへるなるべし
 
82 うらさぶる心さまねし(ひさかたの)あめのしぐれのながらふみれば
浦佐夫流情佐麻彌〔左△〕之久堅乃天之四具禮能流相見者
 ウラサブルは意氣の衰ふる事、サマネシは多シといふ事にて初二はイトイタク心ゾシヲルルといふ事なり。又ナガラフは空より物の降る事なり○以下二首は題辭(127)のおちたるなり。たとひ長田王の歌なりとも山邊御井作歌といふ題辭の下に此二首をば收むべからず。古義次の歌の處に或説とて擧げたるは御杖の説なるが從ひ難し
 
83 (わたの底)おきつしらなみたつた山いつかこえなむ妹があたりみむ
海底奥津白浪立田山何時鹿越奈武妹之當見武
    右二首今案不v似2御井所1v作。若疑當時|誦《トナヘシ》之古歌歟
 初二はタツタ山の序、その中にて又ワタノソコはオキにかゝれる枕辭なり
 
  寧樂宮〔三字□で囲む〕
   長(ノ)皇子與2志貴《シキ》(ノ)皇子1於2佐紀(ノ)宮1倶宴歌
84 秋去者今毛見如《アキサレバイマモミルゴト》つまごひに鹿將〔二字左△〕鳴《シカナク》やまぞたかぬはらの宇倍《ウヘ》
秋去者今毛見如妻戀爾鹿將鳴山曾高野原之宇倍
     右一首長(ノ)皇子
 寧樂宮の三字は削るべし。佐紀は今の奈良市の西北に當れる地なり
(128) 略解古義ともにアキサラバ今モミルゴト妻ゴヒニカナカム山ゾタカヌハラノウヘとよめり。鹿をカとよみ改めしは宣長なり。まづ右の訓によりて釋かむにアキサラバといひ鹿ナカムと云へるは春又は夏の調なり(現に御杖は『春夏のほどなりけるなるべし』といへり)。然るに春又は夏の歌としてはイマモミルゴトといふこと通ぜざるによりて考と古義とには秋の歌とせり。さては又アキサラバと未來に云へるがかなはぬによりて考には
  今も見る如くにゆく末の事もかはらじと云なり
といひ古義には
  畢竟は今眼前に見る如く又も秋になりなばとのたまへるなり
といへり。もし果してマタモアキニナリナバといふ意ならば極めて修辭の拙き歌なり。つらつら思ふにアキサラバ……鹿ナカムと未來にいへるとイマモミルゴトと現在に云へるといかにしても相かなはず。されば初句四句に誤訓あるか又は二句に誤訓あるなり。然るに二句の今毛見如はイマモミルゴトとよむ外なく又誤字ありとも見えず。轉じて初句の秋去者を見るにこはアキサレバともよむべし(現に(129)舊訓及考には鹿ナカムとのうちあひを忘れて誤りてアキサレバとよめり)又四句を見るにもとのまゝにてはカナカムヤマゾとよむ外はなけれど鹿將の將を衍字とするか又は鹿將を牡鹿の誤とする時はシカナクヤマゾとよむべし。即此歌は
  秋され〔右△〕ば今もみるごと妻ごひにしかなく〔四字右△〕山ぞたかぬはらのうへ
とよむにて向の山に鹿の聲のするをきゝて主人は指もて山をさし客は目を擧げて山を見るさま一幅の畫を見る如くならずや○ツマゴヒニの五言無用に似て無用にあらず。尋常の歌人のおもひもつかぬ五言にて此五言あるが爲に一首の調悠然として迫らざるなり。留意すべし○タカヌハラノウヘは高野原の高地にて即高野山なり。高野山の麓が高野原にて佐紀宮はその續にありきとおぼゆ。古義に
  宇倍は上にてそのあたりといふ意なること既くいへるがごとし
といへるはアタリの意なるへの借字に上と書けるを見てウヘ即アタリの意と誤解せるなり。鹿將鳴ヤマゾタカヌハラノウヘと云へるウヘはやがてヤマならではかなはざるをや○此歌の題辭に長皇子與志貴屋子於佐紀宮供宴歌とありて此歌の次に右一首長皇子とあり。その書樣をおもへばもと此次に志貴皇子の歌ありし(130)が失せたるなり。此事は木村博士既に心附けり
                          (大正三年十二月六日脱稿)
              2005年3月13日(日)午後8時20分校正終了
 
(131)萬葉集新考卷二
                    井 上 通 泰 著
 
  相聞
   難波(ノ)高津(ノ)宮(ニ)御宇(シシ)天皇代
    磐姫《イハノヒメ》皇后思2天皇1御作歌四首
85 君がゆきけながくなりぬ山多都|禰〔左△〕《ヤマタヅノ》むかへかゆかむまちにかまたむ
君之行氣長成奴山多都禰迎加將行待爾可將待
    右一首(ノ)歌(ハ)山上(ノ)憶良(ノ)臣(ノ)類聚歌林(ニ)載焉
 仁コ天皇の御代なり
 相聞を眞淵はアヒギコエとよめるを雅澄はシタシミウタとよめり。たとひ本集の撰者シタシミウタとよませむ心なりともシタシミウタとよむべしなどいふ註を(132)加へざる限その世の人といふともシタシミウタとは得讀まじ。木村博士、間〔日が月〕宮永好(犬※[谿の左+隹]隨筆上)などの説の如く音にてサウモンとよむべし。萬葉の頃は後世の古學者の思へるよりは音を用ひしこと多かるべくおぼゆ○古事記なる輕《カル》(ノ)大郎女《オホイラツメ》の
  岐美賀由岐氣那賀久那理奴夜麻多豆能牟加閇袁由加牟麻都〔右△〕爾波麻多士
と同一なる歌といふ事はあきらかなれど(木村博士の暗合としたるは從はれず)記に輕(ノ)大郎女の歌としたるや正しき、此集に磐之姫の御歌としたるや眞なる。そは輕々しく定むべからず○山多都禰の禰は彼古事記の歌又本集六卷高橋(ノ)連《ムラジ》蟲麿の歌に山多頭能〔右△〕迎參出六キミガキマサバとあるによればノの誤字なる事しるし○加納諸平は古事記輕太郎女の歌の註に此云2山多豆1者是今造木者也とある造木をミヤツコギとよみ和名抄に接骨木和名美夜都古木とあり伊呂波字類抄に接骨木【ミヤツコキ】とあるを證としてヤマタヅを接骨木《ニハトコ》の事とせり(山多豆考)。なほ木村博士の美夫君志卷一二別記附録山多豆考補正又高田與清の松屋筆記卷九十五を參考すべし○ムカヘカユカムはムカヘニカユカムのニを略したるなり。否上古にはニを挿まざりしなり。さて諸平は
(133)  此木、葉も枝も對ひ生るものなればムカヘといふ詞の發語に置れしならむ。但しムカヒは四段の活にて自然むかふ詞、ムカヘは下二段の活にてこなたよりむかふる詞にて活たがへば山多豆の葉の對ひたるが如く迎へゆかむといふ意也
といへり
 
86 かくばかりこひつつあらずば高山のいは根しまきてしなましものを
如此許戀乍不有者高山之磐根四卷手死奈麻死物乎
 宣長の説にコヒツツアラズバはコヒツツアラムヨリハといふ意なりといへり(記傳三十一卷及玉の緒七卷にくはし)○タカヤマノイハネシマキテを考に『葬てあらんさまをかくいひなし給へり』といひ略解、美夫君志共に之に從ひたれど、もし葬の事ならばシナマシより後にあるべきなり。されば辭のまゝに岩根ヲ枕トシテと心得べし、マクは枕とする事○イハネは岩の下端にて岩の上端をイハホといふに對せり。なほカキネとカキホとの如し。但岩そのものをもイハネといふ。こゝなど然り
 
87 ありつつも君をばまたむ(うちなびく)わが黒髪に霜のおくまでに
(134)在管裳君乎者將待打靡吾黒髪爾霜乃置萬代日
 一首の趣を思ふに庭などにたちつゝよみ給ひしなり。アリツツモはカウシタママデといふこと即カク庭ニ立テルママデといふことなり。眞淵のアリツツモをナガラヘアリツツの意としクロカミニ霜ノオクを髪の白くなることゝせるは非なり。シモノオクマデニは雅澄のいへる如く夜フケテ霜ノフリオクマデといふ意なり。ウチナビクは黒髪にかゝれる准枕辭なり
 
88 秋の田の穗のへにきらふ朝がすみいづへの方にわがこひ將息〔左△〕《ヤラム》
秋之田穗上爾霧相朝霞何時邊乃方二我戀將息
 秋之田とあるは秋田之を誤れるなり。將息は從來ヤマムとよみて疑へる人なけれどヤマムとありてはイヅヘノカタニと打合はず。案ずるに將息は將遣の誤字にてヤラムなるべし。集中に思を放ち遣ることをオモヒヤルといへり。今も其類にて秋の田の稻穗の上に滿ち渡れる朝霧のいづ方にか我戀を放ち遣らむとよみ給へるなるべし。こゝのカスミは霧なり。キラフはクモルなり○更に案ずるに霧はいづくともなく消えゆくものなれば上三句はイヅヘノ方の序とせるか。但序とせむに辭足(135)らねど古歌の序には後世の法に照すに辭の足らぬが少からず。下なるアヅマ人ノノサキノハコノ荷ノ緒ニモ、神山ノ山ベマソユフ短ユフなども然り
 
   或本(ノ)歌曰
89 居明而《ヰアカシテ》きみをばまたむ(ぬばたまの)わが黒髪に霜はふるとも
居明而君乎者將待奴婆珠乃吾黒髪爾霜者零騰文
     右一首古歌集中(ニ)出
 初句を宣長はヲリアカシテとよめり(玉勝間十四卷)。されどなほ舊訓の如くヰアカシテとよみて可なり。但そのヰはトノヰのヰに同じく『ただ一わたり輕く常にいふとはかはりて夜寢ずに起て居る意』なる事宣長のいへる如し○此歌は前のアリツツモといふ歌と相似たるが故に擧げたるなり
     古事記曰。輕太子奸2輕(ノ)大郎女《オホイラツメ》1故其太子|流《ナガサル》2於伊豫湯1也。此時|衣通《ソトホリ》(ノ)王不v堪2戀慕1而迫往時歌曰。君之行氣長久成奴山多豆乃迎乎將往待爾者不待。此云2山多豆1者是今(ノ)造木也
(136)     右一首歌古事記與2類聚歌林1所v説不v同。歌主亦異焉。因檢2日本紀1曰。難波(ノ)高津(ノ)宮御于|大鷦鷯《オホササキ》(ノ)天皇二十二年春正月天皇語2皇后1納2八田《ヤタ》(ノ)皇女1鷦v爲v妃。時皇后不v聽。爰天皇歌以乞2於皇后1之。三十年秋九月乙卯朔乙丑皇后遊2行紀伊國1到2熊野岬1取2其之|御綱葉《ミツナガシハ》1而還。於v是天皇伺2皇后不1v在而娶2八田皇女1納2於宮中1。時皇后到2難波(ノ)済1聞3天皇合2八田皇女1大恨之【云云】。亦曰。遠飛鳥《トホツアスカ》宮御宇|雄朝嬬稚子宿禰《ヲアサツマワクコスクネ》(ノ)天皇二十三年春正月甲午朔庚子|木梨《キナシ》(ノ)輕《カル》(ノ)皇子爲2太子1。容姿佳麗。見者自感。同母妹輕(ノ)大娘《オホイラツメ》皇女亦艶妙也【云云】。遂竊通。乃悒懷少息。二十四年夏六月御羮汁凝以作v氷。天皇異v之卜2其所由1。卜者曰。有2内亂1。蓋親親相姦乎【云云】。仍移2大娘皇女於伊與1者《トイヘリ》。今案二代二時(トモニ)不《ミエザル》v見2此歌1也
 
近江(ノ)大津(ノ)宮御宇天皇代
 天皇賜2鏡王女1御歌一首
(137)91 妹がいへも【一云いもがあたり】つぎてみましを【一云つぎてもみむに】やまとなる大島のねに家もあらましを【一云いへをらましを】
妹之家毛繼而見麻思乎山跡有大島嶺爾家母有猿尾【一云妹之當繼而毛見武爾一云家居麻之乎】
 鏡王女は鏡王ノ女とよむべし。眞淵以來鏡女王の誤としたれど集中いづくにも鏡王女とあればなほもとのま々たるべし。おそらくは其名の傳はらざりしならむ
 初二は一云の方によるべし。結句はいづれにてもあるべし○考、古義に大津宮にての御製とせるは標に近江大津宮御宇天皇代とあり歌にヤマトナルとあるによれるなるべし。案ずるにイモガアタリツギテモミムニとのたまへるを思へば女王の家にいでまして女王に逢ひ給ひしなり。此女王は鎌足大臣の嫡室にて天皇の都を大津に遷し給ひしは御宇六年、鎌足の薨去は同八年。天皇の崩御は同十年なれば行幸は九十兩年の間〔日が月〕とせざるべからず。それもあるまじき事にはあらねど此時女王の御妹なる額田王にすら十歳ばかりなる御孫(葛野王)おはすれば鏡王女の御齢は少くとも四十餘歳なりけむ。さる老女に逢はむ爲にふりはへて近江より大和に行幸し給ひ、なほあき給はでイモガアタリツギテモミムニなどのたまはむやいとお(138)ぼつかなし。恐らくは皇子にて孝コ天皇の御代に津(ノ)國豐埼宮にましましゝ程(女王のいまだ鎌足の妻となり給はざる程)大和にかへりて女王を訪ひ給ひし後の御歌なるべし。とまれかくまれオホシマノネニとさし定めてのたまへるを見れば御かへるさに其大島嶺にてよみ給ひしなり。たとひ大和國にてよみ給ふとも他國にましましゝ程ならばヤマトナルとのたまふべきなり。標はあまりに重く見べからず。本集の撰者詳によみ給ひし時を知らずば其御代の標下に掲ぐべし。否たとひ皇子とましましゝ時の御歌といふ事明なりとも皇極孝コ齊明御三代のうちいづれの御代のと知られずばなほ其御代の標下に掲ぐる外なからむかし。次なる内大臣藤原卿娉2鏡王女1時歌も恐らくは此御代のにあらじ(玉勝間二卷にくはしく此女王の事をいへり)○大島(ノ)嶺にて鏡王女の家を顧み給ひてモシ此峠ニ住マバ引續キテ妹ノ家ヲ見ヨウモノヲとのたまへるなり
   鏡王女奉v和歌一首
92 秋山のこのしたがくりゆく水の吾許曽益目御念從者《ワレコソマサメオモホサムヨハ》
秋山之樹下隱逝水乃吾許曾益目御念從者
(139) 流布本に題辟の下に鏡王女又曰額田姫王也とあるは誤なり。おそらくは家持ならぬ後人の註ならむ。此女王は鏡王の女、額田女王の姉にて始天智天皇に寵せられ後に鎌足の夫人となりし人なり
 四五舊訓にワレコソマサメミオモヒヨリハとよめるを古義にアコソマサラメオモホサムヨハとよみ改めたれどアコソはきゝなれずマサメとマサラメとはいづれにてもあるべし(キミガミカゲニマスカゲハナシのマスなり)。宜しくワレコソマサメ、オモホサムヨハとよむべし。オモホスを御念と書けるは卷一なる御念《オモホシ》メセカ、モノナ御念《オモホシ》を始めて例多し。正しくはワレコソマスラメ、オモホスラムヨハと云ふべきなれど言數餘りてさは云ひ難きによりて、かくは云へるならむ。否上古はスラムをセムとも云ひし如し。アルラムをアラムといふは歌には今も許さるゝ事なり○上三句はマサメにかゝれる序にや。コノシタガクリは木《コ》ノ下ニ隱レテなり。カクレをいにしへカクリといひしなり。又いにしへはかゝる所のニをも省きしなり
 
   内大臣藤原卿娉2鏡王女1時鏡王女贈2内大臣1歌一首
93 玉しくげ覆乎安美《オホフヲヤスミ》あけて行者《ユカバ》君名《キミガナ》はあれど吾名《ワガナ》しをしも
(140)玉匣覆乎安美開而行者君名者雖有吾名之惜毛
 内大臣藤原卿は鎌足なり
 二句舊訓にオホフヲヤスミとよめるを雅澄はカヘルヲイナミに改めたれどなほ舊訓に從ふべし○初二はアケテの序なり。タマクシゲをオホフの枕辭と思ふべからず。タマクシゲを枕辭とすれば第二句の意義通ぜざるのみならずアケテは枕辭の縁語となりて此時代の歌の風にかなはざればなり。考に
  匣の蓋は覆ふこともやすしとてアケテとつづけたり。さて夜の明ることにいひかけたる序のみ
といひながらタマクシグの下に冠辭と註したるは矛盾せり。ヤスミは怠リの古言にあらざるか。玉クシゲは手箱なり○行者は舊訓にユカバとよめるを略解には一本の舊訓によりてイナバとよめり。いづれにてもあるべし○契沖は六帖に此歌を載せてワガ名ハアレドモ君ガ名ヲシモとしたるを引きて『古本は上は吾、下は君なりけるを今の本誤て引替たるか』と云へれど比歌は題辭に娉2鏡王女1時とあるを見(下にも娉と娶とを別てり)又答歌の調を見ても女王の未鎌足に靡き給はぬ程なれ(141)ば我名ハヲシカラネド君ノ名ガヲシイといひたまふべくもあらず。さればもとのまゝにてあるべし。古義、美夫君志に女王の靡き給ひし後の歌とせるは誤なり○君ガ名ハアレドは君ハ男子ナレバ御迷惑ニナラネドといへるなり
 
   内大臣藤原卿報2贈鏡王女1歌一首
94 (玉くしげ)みむろの山のさなかづらさねずばつひに有勝麻之目
玉匣將見圓山乃狹名葛佐不寐者遂爾有勝麻之目【或本歌云玉匣三室戸山乃】
 上三句は序なり。サネズのサは添辭なり。四五の意は相寢ズバ逐ニ堪ヘ得ジといへるなり○結句を從業アリガテマシモとよめり。さて宣長(記傳十二卷)いはく『カテのカは書紀の歌によるに清むべし』と。又いはく『カテは難き意なり。又カネと云にも通ひて聞ゆ』と。案ずるに原格カツ(連體格カツル)にてカテヌとはたらくを見れば下二段活の動詞なり。さてアリカテマシモはアリカネムといふ意にや。このマシ御杖の定義(一卷一〇九頁參照)に合はず。サネズは事實にて虚設にあらねばなり。なほ考ふべし○集中にカテを又不勝と書けり。宣長(同上)いはく
  カテを不勝と書るはタヘズと云意を取れるなるべし。タヘヌは難キと同意なれ(142)ばなり。然るを其不字を省きて勝とのみ書るはいさゝか意得がたけれど……不勝を勝とのみ書るも所以あるにや
 岡本保孝の難波江三卷上(百家説林續編下一の六五六頁)に
  こゝにまぎらはしき事あり。勝はカツ、カテとよむべければ不勝《カテ》の意の時に勝とかけるあり。是はただカテとよむ字なれば不勝の意のカテの詞の假字に勝を用ひたるなり
とあり。保孝は『勝と書けるは不勝と書くべき不を略せるにあらず。カテに不勝と書けるは義訓、勝と書けるは借訓にて固より別なり』と云へるなり。古義にいはく
  勝とのみ書るは不字を略きたる如見ゆれどもよくおもへば勝のカツの訓を轉用ひたるものにて略けるにあらず。もとより理異なり。思紛ふべからず(さればカテには不勝とも勝とも書れどもカネには不勝と書て勝とのみ書る例なきにて勝は不勝の不字を省きたるにはあらず固より理異なること著し)
木村博士(美夫君志卷二別記)は
  不勝とあると勝とのみあるとはもとより文字の用ゐざまの異なるにて勝との(143)みあるはカツの訓を通はして借用ゐたるにて字義には關からず。松をマト酒をサキ高をタケなどに借れると同例なり
といへり。即保孝雅澄の説と異なる所なし【此卷を印刷に附すべく正宗敦夫の許におくりし後同人より橋本進吉氏のカテヌカテマシ考を送りおこせつ。一讀するに極めておもしろき創見なり。此卷印刷の間に精讀して卷末追考の部に抄出すべし】
 
   内大臣藤原卿娶2采女|安見兒《ヤスミコ》1時作歌一首
95 吾者毛也《ワレハモヤ》やすみこえたり皆人《ミナビト》のえがてにすとふ安見兒えたり
吾者毛也安見兒得有皆人乃得難爾爲云安見兒衣多利
 初句舊訓にワレハモヤとよみ雅澄はアハモヤとよめり。いづれにてもあるべし。モヤは助辭なり○皆人を古義に人皆の誤としてヒトミナとよめり。ヒトミナの古くミナビトの新しきは論なけれど集中皆人と書けるこゝのみにもあらねば誤字とも定むべからず。鎌足の時代は知らず本集を編みし時代にはヒトミナともミナビトともいひしなるべし。言語の變遷には新舊ならび行はれし時代あること言を俟たず○古義に
  ヤスミコエタリとは安見兒は名ながらこゝはたやすく得たる意をかねたり
(144)と云へるは代匠記に
  ヤスミコエタリは幸にて易く相見ると云心を名にそへたり
とあるによれるにてワレハモヤをなほ新しとしてアハモヤと改めよめる雅澄の言ともおぼえず
 
   久米禅師娉2石川(ノ)郎女1時歌五首
96(水薦《ミスズ》かる)しなぬの眞弓わがひかばうま人さびていなといはむかも
禅師
水薦苅信濃乃眞弓吾引者宇眞人佐備而不言常將言可聞
 冠辭考に水薦を水篶の誤としてミスズとよめるを古義にはもとのまゝにてミコモとよめり。木村博士は
  薦字此まゝにてスズとよむべし。書紀神代紀に野薦をヌスズと訓るを證とすべしへ○冠辭考にはこれをも野篶に改めたり)。これを篶に改るはわろし。篶字は金の承安年間に成れる五音篇海といふものに始て見えて篶(ハ)黒竹也とありて舍人親(145)王の日本紀を撰び給へる時はもとよりにて萬葉集撰集の時も未だ此文字はあらざりし也。いかで日本紀、萬葉集等に用ゐらるゝ事のあるべき(撮要)
といへり。此説によるべし○ウマビトサビテは種姓ニ誇リテといふこと○初二は序なり。ワガヒカバは我挑マバとなり。禅師は人名なり。僧にあらず
 
97 (三薦《ミスズ》かる)しなぬの眞弓ひかずして強作留行事をしるといはなくに
郎女
三薦苅信濃乃眞弓不引爲而強作留行事乎知跡言莫君二
 契沖は強を弦の誤としてツルハグルワザとよみ契沖の改字に從ひて眞淵は弦をヲとよみ芳樹はツラとよめり。雅澄は弦を眞淵の如くヲとよみハクルのクをすみて令著(俗にいふハケル)の意とせり。案ずるに初二はヒカズの序に過ぎざれば四句に至りて必しも弓に縁あることをいふべきにあらず。否四句に至りて弓に縁あることをいふは寧後世の風なり。一首の調より見ても四句はただスマハムコトヲ又はイナマムコトヲなどいふべきなり。されば強は輕々しく弦の誤字と定むべからず。再按ずるに強作はもとのまゝにて留行は或は留住の誤か。さてイナマムコトヲ(146)とよむべきか○結句のイハナクニの主格は第三者なり。下にもアリトイハナクニとあり。こゝは知リ給ハザラムヲの意とすべし
 
98 (梓弓)ひかばまにまによらめどものちの心をしり勝奴鴨《カテヌカモ》 郎女
梓弓引者隨意依目友後心乎知勝奴鴨
 カテヌのヌは打消のヌか又は完了のヌか。宣長は打消のヌとして
  カテヌはカテの反對なる詞なるを同意によめり
といひ(記傳十二卷)保孝は『オハンヌのヌなり。不のヌにあらず』といひ(難波江三卷上【百家説林續篇下一の六五六頁】)雅澄は
  ヌは不の意にあらず。已成《オチヰ》のヌにてトリモキナキヌなどいふヌに同じ。さてカテヌはカネツに通ひてユキスギカテヌはユキスギカネツといふ意に通ひて聞ゆる其餘も此定をもて准ふるに集中ひとつも疑ふことなし。……『もしカテヌをカネツに通ふとせばシリカテヌカモ、イリカテヌカモなど云むこといかが。たとへばカネツルカモと云てカネツカモとは云はるまじきにて知べし。しかるをカテヌルカモと云ることはなくしてカテヌカモとのみ連云たるはいかに。不字の(147)意のヌよりカモと連ねてヌカモと云は常なればなほカテヌのヌをも已成のヌとせむことおぼつかなし』と思はむか。十四にヨダチ伎努可母。又オキテ伎努可母、二十卷にイハズ伎奴可母。又コエテ伎怒加牟などあるキヌはキツと云に通ふ意なるを其もキツルカモと云ひてキツカモとは云はるまじければオキテキヌルカモ、イハズキヌルカモなどいふべきにヌカモとのみ云たるをや。カテヌカモといへるもこれと同じ例なり
といひ(古義二上)木村博士は
  かくてカテヌカモとあるヌは去の意のにて連用言を受るヌなり。將然をうくる不のヌにはあらず。卷四にイモニコヒツツイネカテニケム、卷十一にマチシヨノナゴリゾイマモイネカテニスルなどニとも活かしいへるにて去の意のなること明らけし。但去の意のヌは截斷言なればカモとは受まじきやうなれども此ヌは古くは連體をもかねたるなり。其證は卷十四にイキヅクイモヲオキテ伎奴可毛とある是今と全く同例なり
といへり(美夫君志卷二別記二頁)〇一首の意はモシ君ガ我ヲ引カバ引クガママニ(148)寄ラム、サレド但後々ノ事ガ知ラレズといへるなり
 
99 梓弓つらをとりはけひく人はのちの心をしる人ぞひく 禅師
梓弓都良絃取波氣引人者後心乎知人曾引
 この歌などは頗拙し。弓ニ弦ヲトリカケテヒク人ハ豫後々ノ事ヲ思定メテヒクといふ意なるべけれど(梓弓は此の歌にては枕辭にあらず)シルヒトゾヒクと云へるヒクヒトハと云へると相かなはず。シリテコソヒケなどあるべきなり。抑本集の歌をことごとくとゝのひたりと思はむは誤なり。本集の歌にはとゝのはぬも少からず。其中に誤字誤訓ありてとゝのはぬもあるべけれど又もとよりよみ方拙くてとゝのはぬもあり。元來後世とはちがひて歌よむ人少く其上時又は處の異なるは傳聞することも後世に比して少かるべきを偏に多きを冀ひてきくに從ひ見るに從ひて集めたるめれば玉石同架の恨はもとよりあるべきなり。さるを誤りてよき歌のみを集めたるものと信じてわろきをもよろしと思ひなし又わろきをわろしといふを憚るは愚の至なり○ツラヲは弦緒にてやがて弦なり。都良絃と書ける絃は弦の通用なり。トリハケはカケテなり
 
(149)100 東人《アヅマビト》ののさきのはこの荷の結〔左△〕《ヲ》にも妹がこころにのりにけるかも 禅師
東人之荷向篋乃荷之結爾毛妹情爾乘爾家留香問
 東人は古義に從ひてアヅマビトとよむべし。アヅマドとはよむべからず。ノサキは貢物の初荷なり。結は諸本に緒とあり。代匠記に
  緒の上に函の乘たる如く我心に妹が乘るとなり
といへり。右の釋の如くば此歌も頗拙しといふべし○再案ずるに荷ノ緒ニモは荷ノ緒ニ乘ルナスと心得べきか。又妹ガココロニは妹ガ、我心ニといふ意なるべし
 
   大伴宿禰娉2巨勢郎女1時歌一首
101 (玉かづら)みならぬ樹には(ちはやぶる)神ぞつくとふならぬ樹ごとに
玉葛實不成樹爾波千磐破神曽著常云不成樹別爾
 大伴宿禰は家持の祖父安麻呂なり
 考に
(150)  葛は子《ミ》の成もの故に次の言をいはん爲に冠らせしのみなり。且子の成てふまでにいひて不成の不《ヌ》まではかけぬ類ひ集に多し
といひ古義に
  玉葛は實の成ものなるゆゑに次の句をいはむ料にいへるなり。實の成てふまでにかゝりて不成の不まではかけて見べからず。フルノワサダノ穗ニハイデズなどいふ類なり
といひ美夫君志に
  此は實〔右△〕の一言にかけたるにてフルノワサダノ穗ニハイデズとあるもワサ田ノ穗とかけたるにて同例なり(採要)
といへり。此歌のみについて見ば木村博士の説を穩當とすべけれど答歌に至りて忽窮すべし。されば余は玉葛は實の成らぬ又は實のなり難きものにて此歌にてはミナラヌにかゝれりと認む○ミナラヌ樹は考にいへる如く男せぬ女にたとへたるなり。此神は無論邪神なり○結句は蛇足なり
 
   巨勢《コセ》(ノ)郎女《イラツメ》報贈歌一首
(151)102 玉かづら花のみさきてならざるは誰戀爾有目《タガコヒナラメ》わはこひもふを
玉葛花耳開而不成有者誰戀爾有目吾孤悲念乎
 誰戀爾有目は舊訓にタガコヒニアラメ(眞淵はタガコヒナラメ)とよめり。契沖は
  有目をアラメとよみては今のテニヲハに叶はねど此集には此類あり。音をも用ひたればアラモとよみてアラムと心得べきか
といひ玉緒七卷には『同集の中テニヲハ違へるに似て違へるにあらざる歌』と標して今の歌の外に
  見えずともたれこひざらめ山のはにいざよふ月をよそに見てしが(三卷)
  あらかじめ人言しげしかくしあらばしゑやわがせこおくもいかにあらめ(卷四)
など十一首の歌(但そのうち五首は下にカ又はヤの辭あれば今のと一つにはしがたし)を出して
  件の歌どもン、ラン、ケンといふべきところをメ、ラメ、ケメといへる、たがへるに似たれども集中にかくのごとく例おほく又上に出せるごとく日本紀の歌にも見え後の歌にもこれかれ例あり
(152)といへり。雅澄は今のタマカヅラの歌の處にては
  タガコヒナラモと訓べし。目をメとよむはわろし
といひながら四卷なるアラカジメ人ゴトシゲシの處にては
  上にコソなどいふ辭なくまた下に受る辭なてしてムといふべきをメと云るはいとめづらしけれど古語の偏格の一なり。二卷にタマカヅラ……三卷にミエズトモ……十四にシダノウラヲアサコグフネハヨシナシニコグラメカモヨヨシコザルラメなどある此等ムと云べきをメと云たるなり。又七卷にワガセコヲイヅクユカメト、十四にカナシイモヲイヅチユカメトなどあるもムといふべきをメと云へるにて同じ。此餘下に續く辭あるときムといふべきをメといへることは甚多し。委くは余が歌詞三格例に云り。披考べし
といへり(宣長の玉緒を見て説を改めしなり)。されば一種の格としてタガコヒナラメとよむべし○タマカヅラハナノミサキテはナラザルハの序なり。ナラザルハは戀の成らざるなり。古義に『實ノ成ラザルハといふなり』と云へるは非なり。贈歌にミナラヌといへるを受けてナラザルハといへれど贈歌にナラヌといへるは實の成(153)らぬにて然も女の男せぬ譬なるを答歌にナラザルハとへるは譬にはあらで戀の成らぬを云へり。即辭相似て意相異なり。本集の贈答には此躰多し○タガ戀ナラメはアナタノ方ノ戀デハゴザイマスマイといへるなり
 
   明日香(ノ)清御原宮(ニ)御宇天皇代
    天皇賜2藤原夫人1御歌一首
103 わが里に大雪ふれり大原のふりにしさとにふらまくはのち
吾里爾大雪落有大原乃古爾之郷爾落卷者後
 天皇は天武天皇なり。藤原夫人は天皇の宮人にて鎌足の女なり
 フリニシサトは代匠記に
  此所さきに都のありし邊などにてやフリニシサトとはよませ給ひけむ
といひ記傳三十四卷に
  天皇初此夫人の家に通ひ住賜へりし故にフリニシサトとはよみ給へるなるべし。十一卷の歌にも大原ノフリニシ里とあり
(154)といへり。大原を卑め給へる調なれば少くとも此歌のフリニシサトは昔ナジミノナツカシキ里といふ意にはあらで昔盛ナリシガ今ハサビシクナレル里といふ意なり○夫人の、事ありて一時大原に歸り給へる程にのたまひ遣しし御製なるべし○フラマクハ後はマダフルマイといふ意なり。戯れて雪をたふとくめでたきもののやうにのたまへるなり
 
   藤原夫人奉v和歌一首
104 わがをかのおかみに言而令落ゆきのくだけしそこにちりけむ
吾崗之於可美爾言而令落雪之摧之彼所爾塵家武
 オカミは龍なり。古義に言而を乞而に改めて
  乞字舊本言〔右△〕とあるは寫誤なることうづなければ今改めつ。コヒテとよむべし。言而とありてはきこえぬ事なるをいかでかも今まで註者等の心はつかざりけむ
といひたれどイヒテとありてきこえたり。否イヒテとコヒテと語調異なり。こゝはイヒツケテといふ意にてネガヒテといふ意にあらねば必イヒテとあるべし○令落を考にフラセタルとよめるを古義にフラシメシとよみ改めたり。古義に從ふべ(155)し○略解に『クダケシのシは過去のシなり』といへるはいみじき誤なり。シは助辭にてクダケは今いふカケラなり。はやく契沖の『クダケは物の摧けたるかたはしの意なり』と云へる如し○天皇の御戲に答へて御里ニ散リマシタノハ私ガココノ山ノ龍ニイヒ附ケテフラシマシタ雪ノ片ハシデゴザイマセウといへるなり
 
   藤原宮御宇天皇代
    大津皇子竊下2於伊勢(ノ)神宮1上來時|大伯《オホク》(ノ)皇女御作歌
105 わがせこをやまとへやるとさよふけてあかとき露に吾《ワガ》たちぬれし
吾勢枯乎倭邊遣登佐夜深而※[奚+隹]鳴露爾吾立所霑之
 藤原宮は持統文武兩天皇の御代なり
 吾を略解にワレとよめるはわろし。舊訓の如くワガとよむべし。美夫君志に古事記中卷の歌に和賀布多理泥斯とあるを例に引けり○大津皇子は天武天皇の御子、大伯皇女はその同母の御姉にて時に伊勢の齋宮にましましき。大津皇子、御父天皇の崩ぜし後大事を思立ちて祈願の爲に竊に伊勢へ下りて還ります時御姉の見送り(156)て此歌は、よみたまひしなり。ワガセコは兄弟間にもいひしなり。ヤルトは還シ遣ルトテなり
 
106 ふたりゆけどゆきすぎがたき秋山を如何君がひとり越武《コエナム》
二人行杼去過難寸秋山乎如何君之獨越武
 初二はフタリユクトモユキスギガタカラムと釋くべしフタリユクトモとのたまはでフタリユケドとのたまへるはユキスギガタキに合せ給へるにて古今集なるチリヌレバコフレドシルシナキモノヲケフコソサクラヲラバヲリテメなどの類なり(これも本來は散リナバ戀フトモシルシナカラムモノヲといふべきなり)○如何は從來イカデとよめり。正宗敦夫いはく
  集中假字書の歌を檢するに伊可爾可由迦牟、伊可爾可和可武などあれどイカデとあるを見ず。されば萬葉時代にはイカデといふ辭は未無かりけむ
と。山田孝雄氏の奈良朝文法史二五七頁にも
  イカは先にあげし如くイカト、イカニの二形あり。イカトは後世には耳なれぬものなり。イカデといふは續日本後紀の長歌にみえたるを始とす。然るに萬葉集中(157)の如何、何如等をイカデとよめるは時代を辨へざるものなり。又イカガといふよみ方も當時のものにあらず。かく假字書にせるもの一もあることなし
といへり。二氏の説に從ひて如何はイカニカとよむべし○越武は舊訓にコユラムとよめるを考にコエナムに改めたり○美夫君志に
  しのびて下らせ給ふともなどか御供の人もなからむ。然るにかくのたまふは歌の上の常なり
といへれどこは皇女の御身に對してヒトリとのたまへるなり。即我ト二人打連レ物語シツツユクトモサビシクテ行過ギガタカラム秋ノ山ヲ云々といふ意なり〇二首共に別に臨みてよみたまへるにはあらで別れし後によみたまへるなり
 
   大津皇子贈2石川郎女1御歌一首
107 (あしひきの)山のしづくに妹まつと吾たちぬれぬ山のしづくに
足日木乃山之四付二妹待跡吾立所沾山之四附二
 シヅクは露なり。吾の字舊訓にワレとよめるを考にワガとよみ改めたり。舊訓によるべし〇二句と五句とに同辭を用ひたる格なり。此格に二句にて切るゝと四句に(158)てきるゝとの別あり。二句にて切るゝは前なるワレハモヤヤスミ兒エタリミナ人ノエガテニストフヤスミコエタリの類にてまづ初二に大要をいひ下三句にやゝくはしくいふなり。四句にてきるゝ方は四句までにすべての意をいひ終へて更に二句をくりかへすにて五句はなくてもよきなり。なほ一格二句にて切れ更に四句にてきるゝあり。五卷ウメノハナ今サカリナリオモフドチカザシニシテナ今サカリナリの類なり
 
   石川女郎奉v和歌一首
108 わをまつと君がぬれけむ(あしひきの)山のしづくにならましものを
吾乎待跡君之沾計武足日木能山之四附二成益物乎
 ナラルルコトナラバといふことを補ひて釋くべし。セバ、ズバなどの照應なきマシはかゝる辭を略したるなりと知るべし○ニナルとトナルとは別あり。ニナルは變じて成るなり。今はナラルルコトナラバ變ジテ雫ニナラマシヲといへるなり
 
   大津皇子竊婚2石川郎女1時津守(ノ)連《ムラジ》通《トホル》占2露其事1皇子御作歌一首
(159)109 (大船の)つもりの占に將告〔左△〕《イデム》とは益爲爾《マサシニ》しりてわがふたりねし
大船之津守之占爾將告登波益爲爾知而我二人宿之
 占露はウラヘアラハシシニとよむべし○將告を舊訓にツゲムとよめるを考にノラムとよめり。案ずるに占の告《ノ》らむ意ならばツモリノウラノ〔右△〕ノラムトハとあるべくウラ爾とはいふべからず。十四卷に
  武藏野にうらへかたやきまさてにものらぬきみが名うらにでにけり
とあるを思へば將告は將出の誤にてイデムとよむべし○益爲爾は舊訓にマサシニとよめるを雅澄は兼而乎の誤としてカネテヲとよめり。舊訓によるべし。そのマサシニを考には『正シニなり。正シは專占にいふ言』といひ美夫君志には
  正シ也。卷十一にユフゲトフウラマサニノレ妹ニアヒヨラム、卷十四にムザシヌニウラヘカタヤキマサテニモなどあるマサと同じ。正シのシはシク、シ、シキの活詞のシにて終止言なるを體言にいひなしてそれをニと受たる也。ク、シ、キの活用の無字にあたる詞のナシをナシニと受るにて心得べし(採要)
といへり。案ずるにマサシニは形容詞の語幹にニを添へたるにてナシニとは同一(160)視すべからず。ナシの語幹はナなればなり。古事記應神天皇の御製なるマヨガキコニカキタレの濃《コ》ニ、此卷人麿從2石見國1別v妻上來時歌の彌遠爾サトハサカリヌ彌高爾ヤマモコエキヌのイヤトホニ、イヤタカニなどの類と見べし。さてマサシニはマサシクなり
   日並《ヒナミ》(ノ)皇子(ノ)尊贈2賜石川女郎1御歌一首【女郎字曰大名兒】
110 大名兒ををちかたぬべにかるかやの束のあひだもわれわすれめや
大名兒彼方野邊爾苅草乃束間〔日が月〕毛吾忘目八
 此石川女郎は久米禅師と贈答せし石川郎女とは時代異なれば別人なれど大津皇子と贈答せしとは同人なるべし。此御歌の題辭の註に女郎宇曰大名兒とあるは御歌にオホナゴヲとよませ給へればそのオホナゴは即石川女郎の名なることを知らせむ爲に註せるにて大津皇子と贈答せしと別なることをさとさむの註にはあらじ〇二三句は序なり。ヲチカタヌベは遠クノ野なり
 
   幸2于吉野宮1時弓削《ユゲ》(ノ)皇子贈2與|額田《ヌカタ》王1歌一首
(161)111 いにしへにこふる鳥かもゆづるはのみ井の上よりなきわたりゆく
古爾戀流鳥鴨弓絃葉乃三井能上從鳴渡遊久
 額田王の御供つかへずして藤原の都に留まれるに贈り給ひしなり○ユヅル葉ノ御井は泉の名なり。ミヰノウヘのウヘは空なり。アタリにあらず○ヨリは今ヲといふ。すべて今自動詞の上に附くるヲ即ミチヲユク、カハヲナガルなどのヲはいにしへみなヨリといひしなり○弓削皇子は天武天皇の御子なり。御父天皇の此處に行幸ありし時を偲びて天皇の寵人たりし額田女王にいひつかはしゝなり
 
   額田王奉v和歌一首
112 いにしへにこふらむ鳥はほととぎすけだしやなきしわがこふるごと
古爾戀良武鳥者霍公鳥蓋哉鳴之吾戀流其騰
 此歌あまたの辭を略したり。まづ三句の下にナラムといふ辭を補ひさて其次にソノホトトギスハイカサマニナキシゾといふ辭を補ひて聞くべし。御歌ニハタダ鳥トノミノタマヘルガ古ニコフラム鳥ハ霍公鳥ナルベシ、ソノ霍公ハイカサマニナ(162)キシゾ、モシワガ古ニコヒテナクヤウニナキシカと云へるにてケダシヤのケダシはモシに當りヤはナキシカのカに當れり。ケダシの事は玉勝間八卷に云へり
 
   從2吉野1折2取蘿生松柯1遣時額田王奉入歌一首
113 みよしぬの玉松がえははしきかも君が御言をもちてかよはく
三吉野乃玉松之枝者波思吉香聞君之御言乎持而加欲波久
 蘿はコケとよむべし。和名抄に松蘿一名マツノコケ一云サルヲガセとあり。ヒカゲにはあらず。ヒカゲは地上に生ふるものなればなり
 玉の小琴に
  玉松と云こと此外に例なし。玉の字は山の誤也。十六卷にも足曳之山縵之兒とある山の字を玉に誤れり。是明らかなる例證なり
と(記傳八卷及玉勝間十三卷にも)いへるを美夫君志には誤字にあらずとして
  玉勝間に玉は山の誤にて山松ガ枝なりといへるもわろし。其由は猶此卷なる玉カヅラカゲニミエツツとある所にいふべし
といへれど玉カヅラカゲニミエツツの處(卷二中十五頁)には
(163)  この玉縵の玉は山の誤り也と古事記傳卷二十五又玉勝間卷十三にいはれつるは非也。其由は上の玉マツガエの所にもいへり
といひて玉松をよしとせる所以を云はず。案ずるに今の歌三句に至りてハシキカモとほめむとするには二句に豫ほむべきにあらねば玉松は山松の誤なる事論なし。ハシキカモは愛スベキ哉となり○ミコトはおそらくは歌にて其歌は傳はらざりしなるべし。カヨハクは通フ事ヨにてやがて來レル事ヨとなり○芳樹は『ハシキカモは下なる君につづきたり。此頃は三句にて切るる歌なければなり』といへれど現に前の歌も三句にて切れたるにあらずや(次なるオクレヰテコヒツツアラズバオヒシカムも三句にて切れたり)
 
   但馬皇女在2高市《タケチ》皇子宮1時思2穗積皇子1御歌一首
114 秋の田のほむきのよれるかたよりに君によりななこちたかりとも
秋田之穗向乃所縁異所縁君爾因奈名事痛有登母
 二皇子一皇女は共に天武天皇の御子にて異母の御兄弟なり
 初二は序、カタヨリニは偏ニ、ヨリナナは依ラムにて心ヲ傾ケムといふ事、コチタカ(164)リトモは世間ノ批評ガヤカマシクトモといふ事なり
 
   勅2穗積皇子1遣2近江(ノ)志賀(ノ)山寺1時但馬皇女御作歌一首
115 おくれゐてこひつつあらずばおひしかむ道の阿囘《クマミ》にしめゆへわがせ
遺居而戀管不有者追及武道之阿囘爾標結吾勢
 考に
  左右の御歌どもを思ふにかりそめに遣さるゝ事にはあらじ。右の事顯れたるに依て此寺へうつして法師に爲給はんとにやあらん
と云へり。法師にし給はむ爲か否かは知られねど罪にあてて崇福寺には遣はされしなり。穗積皇子と但馬皇女とは異母兄弟なるが異母兄弟の相婚するは當時罪とせられず(下にも弓削皇子思2紀皇女1歌あり。弓削皇子と紀皇女とも異母の兄弟なり)。されば之によりて罪を獲給ひしにはあるべからず。美夫君志に
  輕太子と輕大郎女とたはけ給へるによりて太子を伊豫に流し給ひし事など思ひ合すべし
といへれど輕太子の事は同胞兄弟の相婚なれば今の例とはすべからず。前の歌の(165)題辭に但馬皇女在2高市皇子宮1時思2穗積皇子1御作歌とあり又次なる歌の題辭に但馬皇女在2高市皇子宮1時竊接2穗積皇子1事既形而後御作歌とあり。眞淵は
  但馬皇女この宮におはす故はつばらならず
といへり。高市皇子と但馬皇女とも同母兄弟にあらねば皇女が皇子の宮にましましゝ事故なくてはかなはず。案ずるに但馬皇女は高市皇子の妃たりしにて其前より穗積皇子と通じたりしが高市皇子に娉せられし後もなほ穗積皇子を思ふことやまずして秋ノ田ノホムキノヨレル云々の御作歌ありそれのみならず宮にましましながら竊に穗積皇子に逢ひ給ひしかばその咎によりて穗積皇子は近江に遣られ給ひしにこそ○註疏に例の三句切を嫌ひてオヒシカム道とつづけて見るべしと云へれど、もしオヒシカムを四句へ續けて見ばオクレヰテコヒツソアラズバはシメユヘにかゝりて一首の意通ぜざるに至らむ○オクレヰテはアトニ殘リテ、アラズバはアラムヨリハ、オヒシカムは追附カム、クマミは道ノマガリ角、シメユヘはシヲリセヨとといふ事なり
 
   但馬皇女在2高市皇子宮1時竊接2穗積皇子1事既形而御作歌一首
(166)116 人ごとをしげみこちたみ己《オノガ》母〔□で圍む〕世爾《ヨニ》いまだわたらぬ朝川わたる
人事乎繁美許知痛美己母世爾未渡朝川渡
 初二は人ノ口ガウルササニとなり。三句母の字なき本多し。されば舊訓にオノガヨニにとよめるに從ふべし。オノガ世ニは生來といふ事○結句については諸説あるうち考に
  事あらはれしにつけて朝明に道行給ふよし有て皇女のなれぬわびしき事にあひ給ふをのたまふか
といへるぞ最穩なる。跡を晦まし給ふ途中などの御歌なるべし。美夫君志に考の説を補ひて
  こひしさにたへかね給ひて遂に追ゆき給ひし道に小川などありて橋もあらざれば裾ひきかゝげて渡り給ひしわびしさをの給へるなるべし
といへるはヒトゴトヲシゲミコチタミとのたまへるにかなはず。一旦はオクレヰテコヒツツアラズバオヒシカムとまで思立ち給ふとも人言を憚り給はば跡おふことは寧中止し給ふべければなり○夕顏の卷に源氏が夕顏を霧深き朝何がしの(167)院につれゆきし後夕顏に向ひていひしことばに
  まだかやうなることをならはざりつるを心づくしなることにもありけるかな『いにしへもかくやは人のまどひけむわがまだ知らぬしのゝめの道』ならひ給へりや
とあるは今の歌と趣の似たる所あり
 
   舍人皇子御歌一首
117 ますらをや片戀せむとなげけどもしこのますらをなほこひにけり
大夫哉片戀將爲跡嘆友鬼乃益卜雄尚戀二家里
 マスラヲヤは丈夫ヤハなり。上三句の意は片戀二悶ユルハ丈夫トシテ恥ヅベキ事卜思へドとなり○シコは自嘲りてのたまへるなり。されば第四句はイヤナ丈夫デとうつすべし。ナホはヤハリなり
 
   舍人(ノ)娘子奉v和歌一首
118 なげきつつますらをのこのこふれこそわがもとゆひのひぢてぬれけれ
(168)歎管大夫之戀禮許曾吾髪結乃漬而奴禮計禮
 舍人は氏なり。乳母の氏を皇子の名とせる例多かれば舍人(ノ)娘子は舍人皇子の乳母の女にや
 モトユヒは本に髪結とあるを契沖モトユヒとよみて髪の事としてより諸家皆其説によれり。案ずるにもし髪の事ならば結の字を添へて髪結とは書くべからず。否直にワガクロカミノといふべし。されば此歌のモトユヒは古今集なる君コズバ閨ヘモイラジコムラサキワガモトユヒニ霜ハオクトモのモトユヒと同じくなほ髪のもとを結ふ紐の事とすべし○考に
  ヒヂはあぶらづきてぬるぬるとしたる髪をいふ。ヌレとはたがねゆひたる髪のおのづかろぬるぬるととけさがりたるをいふ。此下にタケバヌレとよめる是なり
といへれど膏づかば髪は却りてとけさがらざるべし。されば古義にいへる如くヒヂテヌレケレはただぬるゝ事にて當時人に戀ひらるればもとゆひ紐の濡るといふ諺ありしにこそ(古義には契沖の説に從ひてモトユヒを髪の事とせり)○コフレ(169)コソは後世のコフレバコソなりヒヂテはヌレテにおなじ
 
   弓別皇子思2紀(ノ)皇女1御歌四首
119 芳野河ゆくせ之〔左△〕《ヲ》はやみしましくもよどむことなくありこせぬかも
芳野河逝瀕之早見須臾毛不通事無有巨勢濃香毛
 初二は序なり。之は乎の誤字なり。シマシクモはシバラクモなり○アリコセヌカモのモは助辭にてアリコセヌカは雨モフラヌカのフラヌカなどと同格なればアリコスル(連體)といふ動詞のはたらきたるにてヌは打消のヌなり。さてそのアリコスルはアツテクレルといふ義にてアリコセヌカモはアツテクレヌカナア、アツテクレカシといふ義なり。ヨドムコトナクは絶ユル事ナクなり○紀皇女は弓削皇子の異母妹なり
 
120 吾妹兒にこひつつあらずば秋はぎのさきてちりぬる花ならましを
吾妹兒爾戀乍不有者秋芽之咲而散去流花爾有猿尾
 アキハギを古義に『秋さくものなればいへるものなり』といひ美夫君志に『ハギは秋(170)さくものなるからアキハギといふ』といへるは精しからず。アキハギはハルガスミなどと同じく所謂歌語にて文には用ふまじき語なり○萩の散るを見てよみ給ひしなるべし。サキテはただ輕く添へたるなり○磐(ノ)姫皇后のカクバカリコヒツツアラズバタカヤマノ岩根シマキテシナマシモノヲと同格なり
 
121 ゆふさらばしほみちきなむすみのえの淺香の浦に玉藻かりてな
暮去者鹽滿來奈武住吉乃淺香乃浦爾玉藻苅手名
 ユフサラバは夕ベニナラバとなり。シホミチキナムは潮滿チ來テ苅ラレズナリナムといふ意にて其下にサレバ今ノ程ニといふ事を省きたまへるなり。相聞歌に入れたるを見れば譬喩の歌ならむ
 
122 大船のはつるとまりのたゆたひにものもひやせぬ人の兒ゆゑに
大船之泊流登麻里能絶多日二物念痩奴人能兒故爾
 初二は序なり。タユタヒニは序よりかゝりては船の動搖する事、主文の方にてはグヅグヅトシテといふ意なり。○ヒトノコは人ノシメタル婦人なり。人ノムスメの意(171)と見るべからず。皇女は皇子の異母妹なれば人ノムスメの意とせば皇子が父帝を指して人とのたまふやうになるべければなり○以上四首は無論同時の御作にあらず
 
   三方《ミカタ》(ノ)沙彌《サミ》娶2園(ノ)臣|生羽《イクハ》之女1未v經2幾時1臥v病作歌三首
123 たけばぬれたかねば長き妹が髪このごろみぬに掻入〔左△〕《カカゲ》つらむか 三方沙彌
多氣婆奴禮多香根者長寸妹之髪此來不見爾掻入津良武香
 沙彌は人名なり。僧にあらず。上に見えたる禅師の類なり
 記傳三十一卷に頂髪をタギフサとよみてタギは髪を揚たるを云、フサは其揚て集めたる髪の繁きを束ねたる處を云。……萬葉に髪タグと多くよめり。揚ることなり
といへり。七卷の歌にヲトメラガオルハタノ上ヲマグシモチカカゲタク島ナミマヨリミユとあり又今の歌にカカゲツラムカと云へるに對して答歌に人ミナハ今(172)ハナガシトタケトイヘドと云へるなどを見ればタク(クは清むべし)はげにかきあぐる事なり。古義に『總束ぬるをいふ語』といへるは非なり○ヌレは考に『たがねゆひたる髪のおのづからぬる/\ととけさがりたるをいふ』といへり。畢竟すべる事なり○ナガキはナガカリシといふべきを五七の調の爲にナガキと云へるなり。三卷安積皇子薨之時内舍人大伴家持作歌にもサキシ花をサク花といひサワギシ舍人をサワグ舍人といへり。外にも例あり。揚グレバ滑リ揚ゲネバ長キといへるは童女の額髪のさまなるべし○掻入を宣長は入を上の誤としてカカゲとよめり(宣長の説は略解に見えたり)。之に從ふべし○結句はモハヤ髪ノビテカキアゲツラム、アナユカシといへるなり
 
124 人みなはいまは長跡《ナガシト》たけといへど君がみし髪|亂有《ミダレタリ》とも 娘子
人皆者今波長跡多計登雖言君之見師髪亂有等母
 いにしへは童女の間は髪を結はずして後に垂れ成人して始めて髪を揚げしなり。古義に『男して〔三字傍点〕髪をたきあぐるを髪揚といふ』といへるは非なり。江家次第第十二齋王群行の條に依v未2成人1不v可2上v髪給1歟とあるを見るべし○長跡を古義にはナガミ(173)トとよみて『ながさにと云はむが如し』といへれどなほ舊訓の如くナガシトとよみてナガシトテの意と見るべし○亂有を古義、美夫君志にミダリ〔右△〕タリとよめれど自動詞のミダルは二段活なればなほ考の如くミダレ〔右△〕タリとよむべし○結句の下にタカジといふことを略したるなり○古義に『女の髪を上ぐるは夫たるものゝする事にて贈歌は我病みて訪らはぬ内に他男をして髪あげせしめつらむといふ意、答歌は他夫にあげしめむやはといふ意』と云へるは非なり。未男せぬ女の髪あげたる例竹取を始めてあまたあり。古義に引ける伊勢物語の君ナラズシテタレガアグベキは高尚の説にタレカナヅベキの誤なりといへり
 
125 橘のかげふむ路のやちまたに物をぞおもふ妹にあはずて 三方沙彌
橘之蔭履路乃八衢爾物乎曾念妹爾不相而
 初二は序なり。橘は道の並木なり。ヤチマタは序よりかゝりては縦横に通じたる道、主文の方にてはサマザマニといふことなり。めでたき歌なり○古義に歌意を釋きて『あるまじきことをもとかく考へ出し娘子の心をまで探りて云々』といへるはひが言なり
 
(174)   石川女郎贈2大伴(ノ)宿禰《スクネ》田主《タヌシ》歌一首
126 みやびをとわれはきけるをやどかさずわれを還利〔左△〕《カヘシツ》おそのみやびを
遊士跡吾者聞流乎屋戸不借吾乎還利於曾能風流士
    大伴田主字曰2仲郎1。容姿佳艶風流秀絶。見人聞者|靡《ナシ》v不2歎息1也。時有2石川女郎1。自成2雙栖之感1恒悲2獨守之難1。意欲v寄v書未v逢2良信〔左△〕1。爰作2方便1而|似《ニセテ》2賤嫗1已提2鍋子1而到2寢側1※[口+更]音跼足叩v戸諮〔左△〕曰。東隣貧女將v取v火來矣。於v是仲郎暗裏|非v識《シラズ》2冒隱之形1慮外不v堪2拘接之計1。任v念〔左△〕取v火就〔左△〕v跡歸去也。明後《アケテノノチ》女郎既恥2自媒之可1v愧復恨2心契之弗1v果因作2斯歌1以贈(リテ)諺〔左△〕戲焉
 還利はカヘセリとよむ外はなけれどカヘセリにては格かなはず。利は都などの誤にてカヘシツならざるか○オソは俗にいふトンマなり
 自成2雙栖之感1と恒悲2獨守之難1と顛倒せるか。良信は良媒の誤か。己はミヅカラとよむべきか。寢はツマヤなり。※[口+更]はムセブ、跼はヨロボフなり。諮は※[言+念]《ツグ》の誤か。非識はシラ(175)ズとよむべし。慮外は女郎の慮外にて暗裏云々は中郎ガ美女ノ賤嫗ニ似セタルナルヲ知リテ拘《トラ》ヘムカト計リシニ中郎ハ暗サニ冒隱ノ形ヲ認メズシテ女郎ノ計ニ墮チザリキと云へるにや。任念は任※[言+念]の誤、就跡は※[(口/耳)+戈]跡の誤か。もし然らばツゲシマニマニ、跡ヲヲサメテとよむべし。心契は心期なり。俗にいふアテなり。諺戲は元暦校本に謔戲とあるに從ふべし
 
   大伴宿禰田主報贈歌一首
127 みやびをにわれはありけりやどかさず令遣《カヘシシ》われぞ風流土者〔左△〕有《ミヤビヲニアル》
遊士爾吾者有家里屋戸不借令遣吾曾風流土者有
 令還を舊訓にカヘセルとよめれど過去に云ふべき處なればカヘセルにてはかなはず。カヘシシとよむべし(古義にカヘセ〔左△〕シとよめるは非なり)○者有を考にニハアルとよめるを古義に者を煮の誤としてニアルとよめり○本集にはかく拙き歌も交れり
 
   石川女郎更贈2大伴宿禰田主1歌一首
(176)128 わがききし耳に好似《ヨクニツ》(葦若未〔左△〕乃《アシカビノ》)足痛《アシナヘ》わがせつとめたぶべし
吾聞之耳爾好似葦若未乃足痛吾勢勤多扶倍思
    右依2中郎足疾1贈2此歌1問訊也
 好似は舊訓にヨクニバとよめり。されど我キク如クナラバといふことをヨクといふ辭をさへ添へて耳ニヨク似バといふべくもあらず。古義には耳ニヨク似ツとよめり。之に從ふべし。即カネテ御足ノ病ガアルト聞イテヰマシタガ昨夜御目ニカカリマシタニ其通デゴザイマシタといふ意なり。中郎がたちあがり來ズして女郎の謀成らざりしかばくやしまぎれに躄といひなしたるなり○葺若未を舊訓にアシカビとよめるを宣長は
  若末(○未を末の誤としていへるなり)をカビとは訓がたし。卷十長歌に小松之若末爾とあるはウレとよめればこゝもアシノウレノとよみて足痛はアナヘグとよまむか。蘆芽《アシカビ》はなゆるものにあらず。一本若生とあるによらばカビとよむべし
といへり(此説は略解に引きたり)○足痛は舊訓にアナヘグとよめるを考にアシナヘとよみ改め古義には
(177)  アナヤムとよむべし。舊本にアナヘグとよめる是もあしからじ。又官本にアシヒクとよめり。さも訓べし
といへり。古義の訓の如くアシノウレノアナヤムワガセとよまむにアシノウレノをいかなる枕辭とかせむ。案ずるに足痛はアシナヘとよみ第三句は葦若生〔右△〕乃の誤としてアシカビノとよむべきか。アシカビは即葦苗なれば躄の枕辭にアシカビノといへるならむ○ツトメは考に『紀に自愛の字をツトメと訓しが如し』といへるが如し○タブは玉勝間一卷に
  古言にタマフをタブとも云
といひ山田孝雄氏の奈良朝文法史に
  タブは古來の學者タマフの約言なりといへり。余惟ふに斷じて然らず。かへりてこれが古の形にてこれより波行四段形の複語尾に連なりてタマフとなりしものならむとおもはるゝなり
といへり。余は此説に左袒す
 
   大津皇子(ノ)宮(ノ)侍《マカダチ》石川女郎贈2大伴宿禰宿奈麻呂1歌一首
(178)129 ふりにし、おみなにしてやかくばかり戀にしづまむ【一云こひをだにしぬびかねてむ】たわらはのごと
古之嫗爾爲而也如此許戀爾將沈如手童兒
    一云戀乎太爾忍金手武多和郎波乃如
 題辭に大津皇子宮侍石川女郎といへるは田主と贈答せし石川女郎と別人なるを示さむが爲なり。大津皇子宮侍の上に前ノといふことを加へて見べし。大津皇子の在世中の作にあらじ。マカダチは侍女なり○フリニシ嫗《オミナ》は老女なり。タワラハはワラハに同じ。但こゝはただうら若き女をいへるなり。前註これを幼童の事と思へるより幼童の戀に沈まむことあるべからねばナクといふ語を加へて幼童ノナクガ如ク戀ニ沈ミテナカムヤハなど釋き僻めたるなり〇一云のカネテムハカネテアラムヤなり。ヤはオミナニシテヤのヤをこゝに引下して釋くべきなり
 
   長(ノ)皇子與2皇弟1御歌一首
130 にふの河瀬はわたらずてゆくゆくと戀痛吾弟《コヒタムワガセ》乞《コチ》かよひこね
(179)丹生乃河瀬者不渡而由久遊久登戀痛吾弟乞通來禰
 皇弟は同母の御弟弓削皇子ならむ
 古義に
  ユクユクトは次のコヒタムへ直につづけては聞べからず。尾句の上にめぐらして意得べし
といへるは非なり。ユクユクトはユクラユクラニと同語にて心のおちゐぬ状なり。初句よりコヒタムまで長皇子の御上なり。さればコヒタムの上にワガといふことを補ひて心得べし○戀痛を略解にはコヒタキとよめれどなほ考にコヒタムとよめるに從ふべし。コヒタムは戀ヒ惜ムなり○吾弟は舊訓にワガセとよめるを雅澄はアオトに改めたり。舊訓に從ふべし。いにしへは年の長幼にかゝはらずワガセといひしなり。吾弟とあるは意を得て書けるのみ○乞は舊訓にコチとよめるを契沖イデに改めたり。舊訓によるべし。コチラヘなり○美夫君志にいへる如く病に罹りなどしてこちらより訪ひ給ふことかなはざりしによりてかくのたまひ遣ししなり○古義にセハワタラズテを『カシコキ河瀬ヲ渡ラバソコナヒモヤ侍ラム、瀬ハ渡(180)ラズシテ來マセといふなり』といへるは非なり。丹生川を隔てて住み給ひけむにこれよりにもあれ彼よりにもあれ瀬をば渡らでいかにしてか通はむ
 
   柿本朝臣人麿從2石見國1別v妻上來時歌二首并短歌
131 いはみのみ つぬの浦囘《ウラミ》を 浦なしと 人こそみらめ かたなしと【一云磯なしと】 人こそみらめ よしゑやし 浦は無友《ナクトモ》 よしゑやしかたは【一云いそは】 無鞆《ナクトモ》 (いさなとり) 海邊《ウナビ》をさして 和《ワ》たづの ありそのうへに かあをなる たま藻おきつ藻 朝はぶる 風こそ依米《ヨセメ》 夕はぶる 浪こそ來縁《キヨレ》 浪のむた かよりかく依《ヨル》 玉藻なす よりねし妹を【一云はしきよしいもがたもとを】 (露霜《ツユジモ》の) おきてしくれば この道の やそくまごとに よろづたび かへりみすれど いやとほに 里はさかりぬ 益《イキ》たかに 山もこえきぬ (夏草の) おもひしなえて しぬぶらむ 妹が門みむ なびけこの山
石見乃海角乃浦囘乎浦無等人社見良目滷無等【一云礒無登】人社見良目能咲(181)八師浦者無友縦畫屋師滷者【一云礒者】無鞆鯨魚取海邊乎指而和多豆乃荒磯乃上爾香青生玉藻息津藻朝羽振風社依米夕羽振流浪社來縁浪之共彼縁此依玉藻成依宿之妹乎【一云波之伎余思妹之手本乎】露霜乃置而之來者此道乃八十隈毎萬段顧爲騰彌遠爾里者放奴益高爾山毛越來奴夏草之念之奈要而志怒布良武妹之門將見靡此山
 浦囘は例の如く久老雅澄の説に從ひてウラミとよむべし○無友、無鞆は舊訓に共にナクトモとよめるを宣長ナケドモとよみ改めたり。こはなほナクトモとよむべし。本集十五卷にアマノハラフリサケミレバヨゾフケニケル、ヨシヱヤシヒトリヌルヨハ安氣婆安氣奴等母とあればなり○以上一段にてタトヒ浦ハナクトモ、タトヒ瀉ハナクトモ我ナツカシク思フアタリナリといふ意を略せるなり。此あたり海深く又海岸は直線をなせりと思はる○イサナトリ以下十三句はヨリネシイモの序なり○海邊は舊訓にウナビとよめるに從ふべし。ウナビはやがてウミベなり○和タヅは舊訓にニギタヅとよめるを宣長はワタヅとよめり。宣長の説に從ふべし。(182)今の都濃の東に江川《ゴウノカハ》といふ川を隔てて渡津《ワタツ》といふ處あり。カアヲナルはただ青キといふことなり○ハブルは契沖のいへる如くもと鳥の羽たゝきする事にて今は風及浪を鳥によそへたるなり。風及浪につきては振動の義とすべし○依米は舊訓にヨラメとよめるを略解にヨセメに改めたり。略解に從ふべし。古義に來依の誤としてキヨセとよみたれどヨセクとはいふべくキヨスとはいふべからず(ヨスルはいにしへ四段にはたらきしとおぼゆればヨスレをヨセとはいふべけれど)○來縁は舊訓にキヨレとよめるに從ふべし(古義にはこれもキヨセとよめり)。浪ニコソ來ヨレのニを略したるなり。前聯にはタマモオキツ藻ヲ〔右△〕風ガヨスといひ後聯にはただ浪ニキヨルといひて何ガといふ事を云はねどなほおのづから浪にたぐひて玉藻沖つ藻の來寄るやうに聞ゆるは調の所爲なり
  こゝにまぎらはしき事あれば一言せむ。古義に來縁をキヨスとよみて其例に後撰集なる住吉ノ岸ニ來ヨスルオキツナミ間ナクカケテモオモホユルカナと拾遺集なるモカリ船今ゾナギサニ來ヨスナル汀ノタヅノ聲サワグナリとを擧げたり。雅澄すら『これらもキヨスといへる例なり』といへる程なれば之を見て余が(183)前に『キヨスとはいふべからず』といへるを怪む人あるべし。右の二首の歌にキヨスといへるは浪又は船の來寄る事にてこのヨスは露霜にオクといひ紅葉にソムルといひ浪にカクルといふ類にて一種の自動詞なり。即おのれをよするにて物をよするにあらず(本居春庭の詞の通路上卷三十八丁にいへる説は從はれず)。されば此等を例として今の歌の來縁をキヨセとはよむべからず
 ○ナミノムタの上にソノといふ辭を加へて聞くべし。ナミノムタは浪卜共ニなり○カヨリカク依の依を舊訓にヨリとよめるを古義にヨルと改めよめるはよろし。但『しばらく此處にて絶て心得べし』といへるは非なり。カヨリカクヨル玉藻とつづけるなり。カヨリカクヨルはカウ寄リアア寄ルとなり○イサナトリよりタマモナスまではヨリネシ妹ヲのヨリの序なり。ヨリネシはヨリソヒネシなり。一云ハシキヨシイモガタモトヲはこゝにかなはず○露霜はただ露の事なること宣長(玉勝間十四卷)の云へる如し。ツユジモと濁りて唱ふべし○里ハサカリヌの里は妹をおきたる里なり○益高は舊訓マスタカ、考の訓マシタカなるを宣長はイヤタカに改めたり。之に從ふべし。さてイヤタカニ山モコエキヌといひナビケコノ山といひ反歌(184)にもササガハハミヤマモサヤニサヤゲドモといへるを見れば此歌は始めての山路にてよめるなり。其山は何といふ山にかなほ後にいふべし○オモヒシナエテは物思ニ弱リテなり。シヌブラムは我ヲ思フラムなり○妹ガカドは妹ガイヘといふことなれど印象を明にせむが爲にカドと云へるなり○ナビクは横になるなり。山にナビケと云へるは低クナレとなり。此七字は鬼神の辭なり。凡慮の及ぶ所にあらず
 
   反歌
132 石見のやたかつぬ山のこのまよりわがふる袖を妹みつらむか
石見乃也高角山之木際從我振袖乎妹見都良武香
 句のまゝに三句を四句につづけて心得むにヨリといふ辭おちつかぬこゝちす。之が爲ともいかにとも理由は云はねど契沖は四五をおきかへてタカツヌ山ノコノマヨリ妹ミツラムカワガフルソデヲとして心得べしといひ眞淵、千蔭、雅澄、木村博士等皆之に從へり。案ずるにコノマヨリのヨリを穩ならず思ふは一わたりの考にて元來袖をふるは自慰むる爲にはあらで惜別の情を人に示す爲なればコノマニ(185)などはいはれず必コノマヨリといはではかなはざるなり。されば此反歌は句のまゝに心得べし。即人麿が高角山の木間より袖を振りて見せしなり。はやく熊谷直好も『人丸の木のまより振たる袖なり』といへり(※[手偏+君]解稿本に見えたり)○今石見國高津といふ處に人麿の社あり。古義及美夫君志には此高津即高角山なりといへり。地圖を案ずるにまづ古の國府は今濱田の東に當りて下府《シモゴフ》、國分などいふ地名ある處なりとおぼゆ。その東方に都濃あり。共に那賀郡の東部にて海に沿ひたり。されば人麿は國府より海濱の平地を東行して都濃に到りそれより高角山にかゝりて此長歌及反歌はよみしなり。さて今柿本社のある彼高津はいかにといふに那賀郡の西方に當れる美濃郡の海岸の中部にありて國府とは、いたく相はなれたるのみならず國府を立ちて都濃屋上などを經て京に上らむに方向全く相反せり。されば今の高津は古の高角山にあらず。さらば古の高角山は今のいづくに當るかといふに國府より遠からず都濃を過ぎての山なるべければ恐らくは都濃に近き連山のうちなるべし。なほ云はば都濃といふ地名と高角山といふ山の名との間に關係あるべし。或本の歌にはワガツマノコガ夏草ノオモヒシナエテナゲクラムツヌノ里ミムナ(186)ビケコノ山とあり。此歌によらば人麿の妻は都濃の里に住みしなり
 
133 ささが葉はみやまもさやに亂友《サヤゲドモ》われは妹もふわかれ來ぬれば
小竹之葉者三山毛清爾亂友吾者妹思別來禮婆
 亂友は舊訓にミダレドモとよめるを考にはサワゲドモに改め古義は舊訓に從へり。されど語格上ミダレドモとはいはれず。サヤニといふを受けたれば美夫君志に云へる如くサヤゲドモとよむべし。サヤグはさやさやと騷ぎ鳴ること又サヤニはサヤサヤといふ事なり。ササはこゝにては熊笹なるべし。一首の意は考に
  こゆる山こぞりて笹吹風のさやぐには大かた物もまぎれ忘るべくかしましけれど別れし妹こひしらは猶まぎれずといふなり
といへるが如し
 
   或本(ノ)反歌
134 石見なるたかつぬ山のこのまゆもわがそでふるを妹みけむかも
石見爾有高角山乃木間從文吾袂振乎妹見監鴨
 
(187)135 (つぬさはふ) 石見の海の (ことさへぐ) からの埼なる いくりにぞ 深みるおふる ありそにぞ 玉藻はおふる (玉藻なす) なびきねし兒を (深みるの) ふかめてもへど 左宿夜者《サネシヨハ》 幾毛《イクタモ・イクラモ》不有《アラズ》(はふつたの) わかれしくれば (きもむかふ) 心をいたみ おもひつつ かへりみすれど (大舟の) わたりの山の もみぢばの ちりの亂《マガヒ》に 妹が袖 さやにもみえず (つまごもる) やかみの【一云室上山】山|乃〔左△〕《ニ》 雲間よりわたらふ月の をしけども かくろひ來者《クレバ》 (あまづたふ) 入日さしぬれ ますらをと おもへるわれも (しきたへの) ころもの袖は とほりてぬれぬ
角障經石見之海乃言佐敝久辛乃埼有伊久里爾曾深海松生流荒礒爾曽玉藻者生流玉藻成靡寐之兒乎深海松乃深目手思騰左宿夜者幾毛不有延都多乃別之來者肝向心乎痛念乍顧爲騰大舟之渡乃山之黄葉乃散之(188)亂爾妹袖清爾毛不見嬬隱有屋上乃【一云室上山】山乃自雲間渡相月乃雖惜隱此來者天傳入日刺奴禮大夫跡念有吾毛敷妙乃衣袖者通而沾奴
 イクリは記傳三十七卷に
  イクリは海なる石なり。小き石を云と云説は非なり。又海の底なる石を云と云も非なり。海底なるをも又上に出たるをも云ひ又小きをも云大なるをも云名なり(採要)
といへり○フカメテは心ヲ深メテなり。左宿夜者は舊訓にサヌルヨハとよめるを雅澄はサネシヨハと改めよめり。上にナビキネシ兒ヲとあるに對して必サネシヨハとあるべし○幾毛不有を略解にはイクラモアラズ古義にはイクダモアラズとよめり。伊久陀、伊久良ともに集中に例あり○ワタリノヤマは渡津の附近の山にやあらむ○亂は舊訓にマガヒとよめるを古義にミダリと改めよめれどなほ舊訓に從ふべし。チリノマガヒニはチルマギレニなり○ヤカミノヤマは大日本地名辭書に邇摩郡の地名の中に擧げて『渡津の東なる丘陵にして今下松山村に屬し大字八神と云ふ地是なり』といへるを豐田八十代氏は
(189)  八神村には山といふべき程のものなし。これを余が實地踏査の結果に徴するに都濃《ツノ》津より東に向ひて進めばまづ人の注目を牽くは那賀郡淺利村の北なる室上山(小富士ともいふ)なることは言ふを待たざれば人麿が此山をおきて殊更に山らしくもあらぬ八神村の丘陵を取りて歌ふべくもあらず
といへり(雜誌心の華第十九卷第三號)○クモマヨリワタラフ月ノヲシケドモの三句はカクロヒにかゝれる序なり○ヤカミノ山乃の乃は爾の誤なるべし(木村博士が美夫君志一下百五頁に述べたる説によれば乃のま々にてもニとよむべけれど)○カクロヒは妹が袖の屋上山に隱るゝなり。渡山わたりまでくれば黄葉はちりまがはずとも妹がふるらむ袖はみゆべからず。屋上山わたりまでくれば山は隱さずとも妹がふるらむ袖は見ゆべからず。さるを見ゆべきものゝ落葉に妨げられ山に遮られて見えぬやうにいへるがをかしきなり○來者を古義に來乍の誤としてキツツとよめり。もとのま々にてあるべし。クレバは今のクルニなり。否ユクニなり○入日サシヌレは代匠記に
  サシヌレバと云はざるは古語なり。バを加て意得べし
(190)といひ言葉の玉緒七卷に『長歌の一つの格の詞』と標して上にコソとかゝらずしてヌレ、レ、セといひて切れたる例どもを擧げて
  此レ、セは皆長歌のなかばに在て事の他へうつるきはにいふ一つの格にて下へバを加へてレバ、セバと見ればよく聞ゆる也。右に引る大雪ノミダレテキタレ(○高市皇子尊城上殯宮之時柿本朝臣人麿作歌)を一云アラレナスソチヨリクレバともあるにて心得べし
と云へり。ヌレはヌレバの略にあらず。一つの辭にてヌルニ又はヌレバといふに當れり
 追考 大日本地名辭書に
  渡の山とは此|江《ゴウ》(ノ)川の渡の邊の山を指す。江津《ゴウツ》の島星山などにあらずや
といへり
 
   反歌二首
136 あを駒のあがきをはやみ雲居にぞ妹があたりをすぎてきにける【一云あたりは(191)かくりきにける】
青駒之足掻乎速雲居曾妹之當乎過而來計類【一云當者隱來計留】
 クモヰニはハルカニなり。考に『此言をかく遠き事にいふは轉じ用るなり』といへり○此歌のスギテは春スギテ夏キタルラシなどのスギテとは異にて遠ざかる事なり
 
137 秋山に落《チラフ》黄葉《モミヂバ》しましくはなちりみだれそ【一云ちりなみだれそ】妹があたりみむ
秋山爾落黄葉須臾者勿散亂曾妹之當將見【一云知里勿亂曽】
 落黄葉は舊訓にオツルモミヂバとよめるを古義にチラフモミヂバとよめり。須臾者はシマラクハともよむべし〇四句を考、古義、美夫君志などにナチリミダリ〔右△〕ソとよめれど自動詞のミダルは昔も二段活なり
 
   或本(ノ)歌一首并短歌
138 石見のみ 津乃浦乎無美 浦なしと 人こそみらめ 滷なしと 人こそみらめ よしゑやし 浦はなくとも よしゑやし 滷はなくと(192)も (いさなとり) 海邊《ウナビ》をさして 柔田津《ニギタヅ》の ありその上に かあをなる 玉藻おきつ藻 あけくれば 浪こそ來依《キヨレ》 ゆふされば 風こそ來依《キヨレ》 浪のむた かよりかく依《ヨル》 玉藻なす なびきわがねし しきたへの 妹がたもとを (露霜の) おきてしくれば この道の 八十隈ごとに よろづたび かへりみすれど いやとほに 里さかりきぬ 益《イヤ》たかに 山もこえきぬ はしきやし わがつまの兒が (夏草の) おもひしなえて なげくらむ つぬの里みむ なびけこの山
石見之海津乃浦乎無美浦無跡人社見良目滷無跡人社見良目吉咲八師浦者雖無縱惠夜思滷者雖無勇魚取海邊乎指而柔田津乃荒磯之上爾蚊青生玉藻息都藻明來者浪己曾來依夕去者風己曾來依浪之共彼依此依玉藻成靡吾宿之敷妙之妹之手本乎露霜乃置而之來者此道之八十隈毎萬段顧雖爲彌遠爾里放來奴益高爾山毛越來奴早敷屋師吾嬬乃兒我夏草乃思志萎而將嘆角里將見靡此山
(193) 津乃浦乎無美は津野乃浦囘乎などの誤脱ならむ○柔田津は底本の和多豆に當れり。されば底本の和多豆は之と相照してなほニギタヅとよむべきかといふにおそらくは和多豆をニギタヅと誤り訓みて柔田津と書きたるならむ○來依はキヨレとよむべく浪コソ、風コソは浪ニコソ、風ニコソのニを略したりと認むべし
 
   反歌
139 石見のみ打歌山乃このまよりわがふる袖を妹|將見香《ミツラムカ》
石見之海打歌山乃木際從吾振袖乎妹將見香
    右歌體雖v同句句相替。因v此重載
 打歌《タカ》の下に都濃《ツヌ》をおとしたるか
 
   柿本朝臣人麿妻|依羅娘子《ヨサミノイラツメ》與2人麿1相別歌一首
140 勿念跡《ナオモヒト》きみはいへども相時《アフトキヲ》いつとしりてかわがこひざら乎〔左△〕《ム》
勿念跡君者雖言相時何時跡知而加吾不戀有乎
 初句を考にナモヒソトとよめるを古義にオモヒのオを略するは處にこそよれか(194)かる處に略することはなしと論じてナオモヒトとよめり(景樹同訓)。ナモヒソトとも云はれざるにあらず〇三句は舊訓にアハムトキとあるを木村博士はアフトキヲとよめり。げにヲといふ辭あらまほしきなり○乎は牟を誤れるなり。諸本に牟とあり
 
 挽歌
  後崗本宮御宇天皇代
   有間(ノ)皇子自傷結2松枝1歌二首
141 いはしろの濱松がえをひきむすびまさきくあらばまたかへりみむ
磐白乃濱松之枝乎引結眞幸有者亦還見武
 挽歌は考にカナシミノウタとよみ古義にカナシミウタとよめれどなほ音讀すべし
 有間皇子は前代孝コ天皇の御子にて當代|齋明《サイメイ》天皇の御甥なり。天皇が紀伊國|牟婁《ムロ》(ノ)(195)湯にましましし程御謀叛の聞《キコエ》ありしかば牟婁に召して糺し給ひ京に還し給ふ途中なる藤白坂にて絞殺せしめ給ひしなり。此御歌は歸路によみ給ひしならむ。御歌の調によれば京に還るべき仰は承り給ひしかど無事ならざらむ事を察し給ひしなり○マサキクは無事デといふこと、カヘリミムは再來リテ見ムといふことなり
 
142 家にあればけにもるいひを(草まくら)旅にしあれば椎の葉にもる
家有者笥爾盛飯乎草枕旅爾之有者椎之葉爾盛
 笥《ケ》は物を入るゝ器の總稱なれど狹義にては特に飯を盛る器をいふ○いにしへは食物は木葉に盛る習なりき。さてそれには大きなる木葉を擇びき。椎の葉は細にてふさはしからす。或は椎の字はナラに借れるにはあらざるか。新撰字鏡に椎(ハ)奈良乃木也となり。ナラガシハといふも一種の植物にあらで楢の葉ならむ。カシハは木葉を所謂|飯盛器《イヒモルウツハ》とする時の稱なり
 
   長《ナガノ》忌寸《イミキ》意吉麿《オキマロ》見2結松1哀咽歌二首
143 いはしろの岸のまつがえむすびけむ人はかへりてまた見けむかも
(196)磐代乃岸之松枝將結人者反而復將見鴨
 次の歌にムスビマツとよみ今の歌の題辭にも見2結松1と書けるを見れば皇子の歌よみ給ひし後其松名木となりてムスビマツと稱せられたりしなり○カヘリテは還リ來テなり
 
144 いはしろの野中にたてるむすび松こころもとけずいにしへおもほゆ
磐代乃野中爾立有結松情毛不解古所念 未詳
 ココロモのモは亦なり。松のむすぼれたる上に意吉麿の心もむすぼるといへるなり。美夫君志に『その結びし人の心も解ずぞありけむとなり』といへるは非なり○濱マツガ枝といひ岸ノ松ガ枝といへるにこゝに野中ニタテルと云へるを見れば此松は海邊の野中にありしなり
 
   山上《ヤマノウヘ》(ノ)臣《オミ》憶良《オクラ》追和歌一首
145 鳥翔成ありがよひつつみらめども人こそしらね松はしるらむ
鳥翔成有我欲比管見良目杼母人社不知松者知良武
(197)    右件(リ)歌等雖v不2挽柩之時所1v作唯擬2歌意1故以載2于挽歌類1焉
 初句契沖は舊訓にトリハナスとよめるに從ひて『鳥の羽の如なり』と釋き眞淵はツバサナスとよみて『羽して飛ものをツバサといふ』といへり。即鳥の如くといふ意とせるなり。千蔭は眞淵の訓に從ひて『翔は翅の誤なるべし』といへり。いづれも從ひがたし。鳥ノ飛ブ如クといふ意なるべければトトビナスとよむべきか。翔はトブともよむべし。卷三なる詠不盡山歌にもトブ鳥モトビモノボラズを翔毛不上と書き卷四なる長歌にもアマトブヤを天翔哉と書けり○アリガヨフはカヨフの持續なり。カヨフは一時の現在、アリガヨフは持續の現在ともいふべし。さてアリガヨフの主格は有間皇子なり
 
   大寶元年辛丑幸2于紀伊國1時見2結松1歌一首
146 のちみむと君がむすべるいはしろのこまつがうれを又みけむかも
後將見跡君之結有磐代乃子松之宇禮乎又將見香聞
 考に『即右の意寸麻呂の始めの歌を唱へ誤れるなるを後人みだりに書加へしもの(198)なり』といへれど彼歌をかくは唱へ誤るべからず。おそらくは同時別人の作ならむ。ウレは梢なり。○間宮永好の犬※[奚+隹]隨筆卷二に
  有馬皇子自傷結松枝歌イハシロノハママツガエヲヒキムスビ云々とよみ給へる松を見てよめる歌にてそは齊明天皇四年なれば大寶元年より四十三年前のことなり。しかるをいまコマツとよめるを思へばいよいよ大きなる松をもなほ小松と云ひけむことを明らむべしといへり○此歌はイハシロノ野中ニタテルといふ歌の次にあるべし。さて其歌の下なる未詳の二字はもと此歌の下にありしにあらざるか
 
   近江大津宮御宇天皇代
    天皇聖躬不豫之時太〔左△〕后奉御歌一首
147 あまの原ふりさけみればおほきみの御壽者△長久天足有《ミヨハタナガクアマタラシタリ》
天原振放見者大王乃御壽者長久天足有
 太后は大后を誤りたるなり。オホギサキとよむべし。オホギサキは即皇后なり。皇太(199)后にあらず
 四五は舊訓の一にミイノチハナガクアマタラシタリとありて宣長、千蔭、雅澄、木村博士は之に從へり。又契沖はオホミイノチハナガクアメ〔右△〕タレリとよみ景樹はオホミイノチハナガクアマ〔右△〕タレリとよめり。長の上に手を補ひてミヨハタナガクアマタラシタリとよむべきか。アマタラシタリは天ノ如ク滿チ足リ給ヘリとなり○初二は天ヲ仰ギテ占ヘバといふ意にや
 
   一書曰。近江天皇聖體不豫御病急時太〔左△〕后奉獻御歌一首
148 (青旗の)木旗の上をかよふとは目には雖見ただにあはぬかも
青旗乃木旗能上乎賀欲布跡羽目爾者雖視直爾不相香裳
 美夫君志に
  この處錯亂あり。右のアヲハタノ云々の歌は天皇崩御の後の歌なれば右の一書曰云々の端詞の御歌にあらず。されば此一書の大后の御歌一首脱て次の天皇崩御之時云々の端書は青旗乃云々の前に在しが錯亂したるなるべし
といへるが如し○契沖はコハタを地名としアヲハタノをコハタの枕辭とせり。ア(200)ヲハタノカヅラキ山又アヲハタノオサカノ山の例によれるなり。眞淵はアヲハタノ木旗とある木を小の誤としてヲハタとよみて大殯の旗とせり。案ずるに木旗は契沖の云へる如く地名にて即今の山城の木幡ならむ。其山の上を人像に似たる白雲の過ぐるを見て宮人のアレコソ天皇ニオハスラメなどいひ騷ぐをきこしめしてよみ給へるならむ。さらば青ハタノは枕辭とすべし○雖見は舊訓ミレドモなるを古義にはミユレドとよめり○タダニアフはマトモニ相見ルなり
 
   天皇崩御之時倭太〔左△〕后御作歌一首
149 人はよしおもひやむとも(玉〔左△〕《ヤマ》かづら)影にみえつつわすらえぬかも
人者縱念息登母玉※[草冠/縵]影爾所見乍不所忘鴨
 倭太后は倭姫皇后なり
 オモヒヤムは即ワスルなり。同じ語の二度いでくる一つをいひ換へたるにて所謂換辭格なり○宣長は本集十四にヤマカヅラカゲとあるを證として玉カヅラの玉を山の誤字とし『山カヅラはヒカゲノカヅラのことにて影の枕詞における也』といへり(玉勝間十三卷、記傳八卷、同二十五卷)○ワスラエヌカモの上に我ニハといふこ(201)とを補ひて聞くべし
 
   天皇崩時婦人作歌一首 姓氏未詳
150 うつせみし 神に不勝者《アヘネバ》 離居《サカリヰ》て 朝なげく君 放居《ハナレヰ》て 吾〔左△〕《ユフ》こふる君 玉ならば 手にまきもちて きぬならば ぬぐときもなく わがこひむ 君ぞきそのよ いめにみえつる
空蝉師神爾不勝者離居而朝嘆君放居而吾戀君玉有者手爾卷持而衣有者脱時毛無吾戀君曾伎賊乃夜夢所見鶴
 ウツセミは人間なり○不勝者は從來タヘネバとよめれどアヘネバとよむべくや。アフ(連體格アフル)はキホフにてこゝにては伴ナフなり○離居、放居共に舊訓にハナレヰとあるを契沖は放居をサカリヰとよみ雅澄は離居をサカリヰとよめり。いづれにても一つはサカリヰとよむべし○放居而の下の吾は夕の誤なるべし。キソノ夜は昨夜なり
 
(202)   天皇大殯之時歌二首
151 かからむとかねてしりせば大御船はてしとまりにしめゆはましを
如是有刀豫知勢婆大御船泊之登萬里人標結麻思乎
 一首の調を思ふに御不豫の直前に御船を湖上に浮べ給ひし事あるなり○結句はシメ縄ヲ結ヒテ留メ奉ラマシヲといへるなり○歌の下に額田王とある本あり
 
152 (やすみしし)わごおほきみの大御船|待可將戀《マチカコフラム》しがの辛崎
八隅知之吾期大王乃大御船待可將戀四賀乃辛崎
 待可將戀は略解にマチカコフラムとよめるに從ふべし。志賀の辛崎を人に擬したるなり○歌の下に舍人吉年とある本あり
 
   大后御歌一首
153 (いさなとり) あふみの海を おき放而《サキテ》 こぎくる船 へつきて こぎくる船 おきつかい いたくなはねそ へつかい いたくなはねそ (若草の) つまの念〔左△〕《ミコトノ》 △鳥立《メデシトリタツ》
(203)鯨魚取淡海乃海乎奥放而※[手偏+旁]來船邊附而榜來船奥津加伊痛勿浪禰曾邊津加伊痛莫波禰曾若草乃嬬之念鳥立
 放而は從來サケテとよめり。沖ノ方ニトホザカリテといふ意とおぼゆ。然るにサケテは他動詞なればこゝにかなはず。よりて思ふにサカルはサキアルの約なればいにしへ自動詞にてはサク又はサカルといひ他動詞にてはサクルといひしなるべし。されば今はサキテとよむべし。さてオキサキテは沖ニ〔右△〕サカリテ、ヘツキテは邊ニ〔右△〕附キテなり○オキツカイ、ヘツカイは契沖のいへる如く沖コグ船ノカイ、邊コグ船ノカイなり。雅澄の『オキツカイは舟の左にぬけるをいひヘツカイは舟の右にぬけるをいふべし』といへるは非なり○結尾を舊訓にツマノ、オモフトリタツとよみて三言七言の句とせり。袖中抄にはツマノオモヘル、トリモコソタテとよめれど契沖のいへる如くモコソとよむべき字なし。宣長はツマノの下に命之の二字をおとせりとしてツマノミコトノオモフトリタツとよめり。念を命之の誤とし其下に愛の字を補ひてツマノミコトノメデシ鳥タツとよむべきか○考に此鳥を『めで飼せ給ひし鳥を崩まして後放たれしがそこの湖に猶をるをいとせめて御なごりに見給(204)ひてしかのたまふならむ』といひ雅澄も此説を採りたれど放鳥ならずとも近江の海には自然に水鳥多かるべし
 
   石川夫人歌一首
154 ささなみの大山守はたがためか山にしめゆふ君も不有國《アラナクニ》
神樂浪乃大山守者爲誰可山爾標結君毛不有國
 石川夫人は天皇の宮人なるべし
 大山守は宣長の説(記傳三十三山守部の註)に
  大山守とよめる大はささなみの山は大津宮の邊なる山にてことなる由をもてこの山守をたたへていふ也。大御巫などの大の如し
といへるに從ふべし。古義に考の説によりて『大山守者とは大山は御山なり云々』といひて大を山につけたるは非なり。山守は山番にて雜人の入りて山を荒すを防ぐ役人なり○不有國は舊訓にマサナクニとあれど字のま々に(六帖袖中抄などによめるやうに)アラナクニとよむべし
 
(205)   從2山科御陵1退散之時額田王作歌一首
155 (やすみしし)わごおほきみの かしこきや みはかつかふる 山科の 鏡の山に よるはも 夜のことごど 晝はも 日のことごと ねのみを なきつつありてや (ももしきの) 大宮人は ゆきわかれなむ
八隅知之和期大王之恐也御陵奉仕流山科乃鏡山爾夜者毛夜之盡晝者母日之盡哭耳呼泣乍在而哉百礒城乃大宮人者去別南
 ミハカツカフルを雅澄は『造奉るなり』といへり○ネノミヲは本に哭耳呼とあり。十四卷にもツクバネニカガナクワシノ禰乃未乎加ナキワタリナムアフトハナシニとあればげにネノミヲとよむべけれどノミはネにはかゝらでナクにかゝれるなれば今の情を以て見ればネヲノミといふべくおぼゆ。されば後の歌にはネヲノミゾナク、ネヲノミナケバなどよめり(因にいふ。續紀第六十二詔に官《ツカサ》冠ヲノミ取賜ヒ又官ヲノミ解《トリ》賜ヒとある、このノミは官位又は官にかゝりたれば今ならば官位ノミヲ、官ノミヲといふべきなり)○アリテヤのヤはユキワカレナムの下に引下して(206)今シユキ別レムカと心得べし
 
   明日香(ノ)清御原(ノ)宮御宇天皇代
    十市《トヲチ》(ノ)皇女薨時高市(ノ)皇子(ノ)尊御作歌三首
156 みもろの神の神《カム》すぎ已具〔左△〕耳矣〔左△〕自得〔二字左△〕見監乍〔左△〕共《イメニダニミムトモヘドモ》いねぬ夜ぞおほき
三諸之神之神須疑巳具耳矣自得監乍共不寐夜叙多
 十市皇女と高市皇子とは異母の御兄弟なり。いにしへは異母の男女は相婚して可なりし程なれば今の世の異母の男女の如く御兄弟として相親しみ給ふべきにあらず。然も此三首の御歌の調によればいと親しき御中ならざるべからず。よりて思ふに大友皇子(弘文天皇)崩じ給ひし後十市皇女は高市皇子と逢ひ給ひしならむ
 ミモロはこゝにては三輪山の事なるべし。下の神は古義にカムとよめるに從ふべし。同書に
  神之神と重ね云たるはふかくうやまひたまへるなり。さてカムスギは皇女の薨《スギ》給ふをよそへ賜へり
(207)といへるは非なり。上なる神はただの神にて下なる神は神聖ナルといふことなり又初二は(三四よみがたけれど)考にいへる如く序とおぼゆ〇三四を舊訓にはもとのままにてイグニヲシトミケムツツトモとよみたれどかくては何の事ともきこえず。きはめて誤字あるべし。されば眞淵以下さまざまに字を改めさまざまに訓をつけたり。就中守部(鐘の響第四十段)は
  已具耳の三字は上のスギと云言に具したるにて義以て聞せたる書法なる歟。さらば三四の句は已具耳之〔左△〕自影〔左△〕見疊〔左△〕乍共《スギシヨリカゲニミエツツ》にて云々
といひ木村博士は具は一本めとあるに從ひ得を將、乍を爲の誤として
  さて三四の句はイメニヲシミムトスレドモと讀べし。トの辭は讀そふるなり。矣をヲに用ゐるは漢文の助辭の意を以てなり
といひて監を見に用ひたる例、同意の文字を重ね書ける例(博士は見監の二字をミとよめり)自を清音につかへる例を擧げて
  上二句はイといはむ料の枕詞にて神杉|齋《イ》といふ意のつづき也。又はイミといふべきを活かしてイメといひくだしたるにもあらむ
(208)といへり。案ずるに巳具耳矣自は巳賣〔右△〕耳多耳〔二字右△〕の誤、得見監乍共は將〔右△〕見念〔右△〕共の誤(監は衍字)ならむか。さらばイメニダニミムトモヘドモとよみて初二をイメにかゝれる序とすべし
 
157 神山《カミヤマ》のやまべまそゆふみじかゆふかくのみ故《ユヱ・カラ》にながくとおもひき
神山之山邊眞蘇木綿短木綿如此耳故爾長等思伎
 神山は舊訓にミワヤマとよめるを契沖カミヤマに改め木村博士は再ミワヤマに改めたり。契沖に從ひてカミヤマとよむべし○ヤマベマソユフはヤマベの下にノを挿みて心得べし。マソは眞小緒《マサヲ》にて繊維、ユフは木の名なり。
  地名にユフゾノ、ユフキ、ユノキなどあればユフは木の名なる事しるし。但本名は別にありて其木のすぢにてユフといふ布を織れば其木の別名をユフといひしなり。其木はカヂにやタクにや確には定め難けれどおそらくはカヂをもタクをも共にユフといひしなるべし。宣長はカヂとタクとを同物としたれどカヂは今のカヂ、カウゾなどの總名にてタクとは別物なるべし(仙覺鈔によれば筑紫風土記に長木綿、短木綿といふことありとぞ。惜むべし其文傳はらず)
(209) マソユフはマソを産するユフといふことなるべし。マソユフとミジカユフとは二物にあらず。ミジカユフはやがて長低きマソユフなり。さればカミヤマノヤマベマソユフミジカユフといへるはクサカ江ノ入江ノハチスハナバチスと同格にてただにカミヤマノヤマベノミジカユフといふべきを調の爲に今の如く云へるなり○故を舊訓にユヱとよめるを略解にカラに改めたり。五卷に加久乃未加良爾シタヒコシイモノココロノとあればカラともよむべし。いづれにもあれカクミジカキモノヲといふ意なり。但ミジカユフといふ序を承けながら辭にミジカキといはざる、外の例にたがひてめづらし。守部(鐘のひびき第四十一段)の
  三句の短木綿を受けて如此耳と重ね合せたるにあらじか。もしさらばミジカユフミジカキカラニとよむべきなるべし
と云へるは鑿説なり〇一首の意はカク御命ハ短キモノヲ長カレト思ヒシヨといへるなり
 追考 日本紀通釋第一の四八三頁に
  池邊眞榛云。ユフはカヂノキの事にて今もカヂノ木又カウゾと云ひ和名抄に楮(210)穀木也和名加知とあるにて知べし。さてユフをカヂノ木と云ふは何世の頃よりならん。カヂノ木の本名はタクにて其をユフといひ又カヂと云は別名なり。此木皮にて布を織る事少く紙を漉く事多くなれるより即|紙麻《カウゾ》の木とは呼しならん。故後には此木皮のみをユフと呼て木名はカヂと稱へしか。和名抄にも木部には楮穀木也和名加知と擧てユフは祭祀具部に記して木綿和名由布、折v之多2白絲1者也とあればなり云々
といへり
 
158 山ぶきの立儀足《タチヨソヒタル》やましみづくみにゆかめど道のしらなく
山振之立儀足山清水酌爾雖行道之白鳴
 立儀足は契沖のタチヨソヒタルとよめるに從ふべし○上三句を契沖は皇女の御墓の景とし古義には皇女の住み給ひ皇子の通ひ給ひし宮の景としたれどいづれにもミチノシラナクとのたまふべきにあらず。信友(長等の山風上卷)は
  此上の御句は皇女の身まかり給ひてよみの國に往ておはしますべき上をの給はむにただに豫美との給はむ事のゆゆしきをそのかみ早くより漢語の黄泉と(211)いふを豫美に當てゝ用ひなれたるをおもほしよりてその漢語にめぐらして山振の花の黄なるが泉にうつろひたる所におはします趣にとりなして其處に追いでまさまくおもほせど道行しろしめさねばいたづらに慕ひてのみおはすことよと嘆き給へるなるべし
といひ守部(鐘の響第四十二段)も
  三句迄の意は後世の歌に黄泉を黄なる泉とよめる類にて山振を黄にとり山清水を泉になして黄泉の據字のまゝに夜見國といふをめぐらして巧みにつづけさせ給へるなり。四句クミニユカメドとは泉の縁に宣へるにて結句と合せて夜見國までたづね行たかれど其道のしられなくにと嘆かせ給へる也。此皇女は天武天皇七年四月宮中にして頓薨し給ひて葬所も定かなれば御墓を指てミチノシラナクなどはいかでのたまはん。此ほどにては高市皇子命こそ御墓何くれの事ははからせたまふべきものなるをや
といひ齋藤彦麿(傍庇稿本卷一)も
  よく思ふに葬所は添上郡赤穗なればミチノシラナクとはいかでよみ給ふべき。(212)またく上の句は黄泉の二字をよみ給へるにて……萬葉集の頃はかゝる工みなる歌はあるべくもおもはねどみさかりに漢さまのおこなはるゝ時なればきはめてなしともいひがたくなむ
といへり。此等の説よろし。皇女の薨去は四月なれば御前にちり殘れる山吹を見給ひて上三句はおもひより給ひしなるべし
 
   天皇崩之時太〔左△〕后御作歌一首
159 (やすみしし) わが大きみの ゆふされば めし賜良〔左△〕之《タマヒシ》 あけくれば とひ賜良〔左△〕志《タマヒシ》 かみをかの 山のもみぢを けふもかも とひたまはまし あすもかも めしたまはまし 其山を ふりさけみつつ ゆふされば あやにかなしみ あけくれば うらさびくらし あらたへの ころもの袖は ひる時もなし
八隅知之我大王之暮去者召腸良之明來者問賜良志神岳乃山之黄葉乎今日毛鴨問給麻思明日毛鴨召賜萬旨其山乎振放見乍暮去者綾哀明來(213)者裏佐備晩荒妙乃衣之袖者乾時文無
 太后は大后の誤にて後の持統天皇の御事なり
 賜良之、賜良志を契沖が仙覺のタマヘラシと點ぜるに從ひて『タマヘリシと云を古語に、通じてタマヘラシといへり』といへるは非なり。タマヒシといふべき處にてタマヘリシといふべき處にあらねばなり。宣長いはく
  十八卷にミヨシヌノ此大宮ニアリガヨヒ賣之多麻布良之モノノフノ云々是と同じ格なり。常のラシとは意かはりて何とかや心得にくき云ざま也。二十卷に大キミノツギテ賣須良之タカマトノ野邊見ルゴトニネノミシナカユ。此メスラシも常の格にあらず。過し方を云ること今と同じ。是等の例に依て今もタマフラシと訓べきこと明けし。本にタマヘラシと訓るは誤也
と。古義にも例として右の二首の歌を擧げたれど十八卷なるメシタマフラシは常のラシにて今の例とはすべからず。案ずるに賜良之は賜比之の誤ならむ。またメスは古義にいへる如くミルの敬語なり。さて二つのタマヒシは共に神岳に續けり。神(214)岳は即雷岳なり○トヒタマハマシ、メシタマハマシとあるマシは屡いひし如く條件附の場合につかふ辭なり。されば今はモシ世ニマシマサバといふことを補ひてきくべし○カナシミは古義にいへる如くカナシガリなり。アヤニはイミジクなり。ウラサビはシヲレなり。クラシはワタリにてカナシミとウラサビと雙方にかかれるなり○ふたゝびユフサレバ、アケクレバとのたまへるは辭の文なり。○アラタヘは粗布にてこゝにては御喪服なり
 
   一書曰。天皇崩之時太上天皇御製歌二首
160 もゆる火もとりてつつみてふくろにはいるといはずや面智〔左△〕男雲《アフヨシナクモ》
燃火物取而裹而福路庭入登不言八面智男雲
 太上天皇は大后とあるべし
 眞淵は面を四句につけ智を知曰の誤としてイルトイハズヤモシルトイハナクモとよみ守部(鐘の響第四十三段)は智を知日の誤とし面知をアフの義訓としてアハムヒナクモとよめり。しばらく面知因の誤としてアフヨシナクモとよむべし。一首(215)の意は世ニハ燃ユル火ヲ取リテ袋ニ入ルル如キ幻術モアルヲ天皇ハ再見奉ル由無キ事カナといへるなり
 
161 きた山に陣《ツラナル》雲の青雲の星〔左△〕《ヒモ》さかりゆき月|牟〔左△〕《モ》さかりて
向南山陣雲之青雲之星離去月牟離而
 陣は從來タナビクとよみて疑ひし人なけれどタナビクとよまむやうなし。ツラナルとよむべし。北山の峯に所謂青雲のつらなりて見ゆるなり(類聚古集にはツラナルとよめり)○青雲を眞淵は白雲の事とし宣長は虚空の事とせり。本集十六に
  いや彦、おのれかむさび青雲のたなびく日すらこさめそぼふる
とあるを見ればアヲグモは晴天に見ゆる白雲なり。タナビクは虚空にいふべき語にあらねばなり(宣長は記傳十八卷に、雅澄は古義十六卷下に虚空にタナビクといひて可なる所以を縷述したれどげにもとおばえず)。白雲をアヲグモといへるは晴天の白雲は青みを帶びたればなり。青雲のアヲは獨語のブラウ(英語のブリュ―)にはあらで獨語のブラ―ス(英語のペール)なり。祈年祭祝詞にアヲグモノタナビクキハミ、シラクモノオリヰムカブスカギリといひてアヲグモとシラクモとをむかは(216)せ本集十三にタナビク、ムカブスの所屬をかへてシラクモノタナビク國ノ、アヲグモノムカブス國ノといひ記に青雲ノ白肩ノ津といひて青雲を白の枕辭としたるにても青雲即白雲なる事を知るべし○キタヤマニツラナル雲ノアヲグモノとはキタ山ニツラナル青雲ノといふべきを調の爲に今の如く云へるにてかのクサカ江ノイリ江ノハチス花バチス、カミ山ノ山ベマソユフミジカユフの類なり。さて此三句はサカリの序なり。峯につらなる雲の、峯より離《サカ》るを以て序とせるなり○星は日毛の誤字にて下二句は天皇崩御の後月日のやうやうに經行くを嘆き給へるなるべし。イヤ年サカルなどあれば月日にサカルといはむこと論なし○月モサカリテの下にイトド戀シクオボユなどいふことを補ひて承るべし。月牟は月毛の誤なり
 
   天皇崩之後八年九月九日奉2爲御齊〔左△〕會1之夜夢裏習賜御歌一首
162 あすかの きよみはらの宮に あめのした しろしめしし (やすみしし) わがおほきみ (たかてらす) 日の御子 いかさまに おもほしめせか (かむ風の) 伊勢の國は おきつ藻|毛〔左△〕《ノ》 靡足波〔二字左△〕爾《ナビカフクニニ》 しほけ(217)のみ かをれる國に △ (うまごり) あやにともしき (たかてらす) 日の御子
明日香能清御原乃宮爾天下所知食之八隅知之吾大王高照日之皇子何方爾所念食可神風乃伊勢能國者奥津藻毛靡足波爾塩氣能味香乎禮流國爾味凝文爾乏寸高照日之御子
 九月九日は天皇の御忌日なり。御齊曾《ゴサイヱ》の齊は齋の通用なり。奉爲はツカヘシとよむべし。習ヒ賜ヒシは人の誦《トナ》へしをおぼえ給ひしなり
 キヨミハラのミはハヤミハマカゼ、アカミトリ、卷五詠2鎭懷石1歌なるクシミタマなどのミに同じ。さればキヨミハラはキヨキ原といふことなり。伴信友(長等の山風附録一)が淨海原の義とせるは非なり。此宮號を清原、淨原と書き又キヨミノミヤといひて淨之宮と書ける(本集此卷日並皇子尊殯宮之時柿本朝臣人麿作歌)を見てもミが助辭に過ぎざるを知るべし(十五卷なるアキサレバ故非之美伊母ヲイメニダニヒサシクミムヲアケニケルカモのコヒシミもコヒシキを名詞にしたるにて今の(218)類なり)〇オキツ藻毛の毛は古義に從ひて之の誤とすべし、靡足も古義に從ひて靡合の誤とすべし。波は國の誤ならむ○鹽氣は潮煙なり。カヲレルはクモレルなり。國爾は國乎といふにひとしくて國ナルニとなり○契沖の云へる如くカヲレルクニニの下に落句あるべし。トモシキはユカシキなり
 
   藤原宮御宇天皇代
    大津皇子薨之後|大來《オホク》(ノ)皇女從2伊勢(ノ)齊宮1上京之時御作歌二首
163 (かむ風の)いせの國にもあらましをなにしか來けむ君も不有爾《アラナクニ》
神風之伊勢能國爾母有益乎奈何可來計武君毛不有爾
 御弟の殺され給ひし事は京に歸り給ふまで知り給はざりしなり。美夫君志に『皇子の薨じ給ひし事を始めて知り給ひし如く疑ひ給へるにていと哀深く聞ゆるなり』といへるは非なり○カクトナラバといふ辭を補ひてきくべし。マシとあるにて右の辭を省けりとは知らるゝなり○不有爾は古義にマサナクニとよめれど舊訓の如くアラナクニとよみて可なり
 
(219)164 見まくほりわが爲《スル》君もあらなくになにしか來けむ馬疲爾《ウマツカラシニ》
欲見吾爲君毛不有爾奈何可來計武馬疲爾
 爲を舊訓にセシとよめるを考にスルとよみ改めたる、よし○馬疲爾を舊訓にウマツカラシニとよめるを宣長はウマツカルルニとよめり。なほ舊訓に從ふべし。徒ニ馬ヲ疲ラシテとなり
 
   移2葬大津皇子(ノ)屍於葛城(ノ)二上山1之時大來皇女哀傷御作歌二首
165 うつそみの人なるわれやあすよりはふたがみ山を弟世〔二字左△〕《ワガセ》と吾〔左△〕《ヲ》みむ
宇都曾見乃人爾有吾哉從明日者二上山乎弟世登吾將見
 ウツソミノは枕辭にあらず。ウツソミノ人とつづきて靈魂ナラヌ現身ノ人といふ意なり○弟世は舊訓にイモセとあるを雅澄は吾世の誤としてワガセとよめり。案ずるに上なる長皇子與皇弟御歌にワガセを吾弟と書けり。今の弟世も吾弟の誤字なるべし○吾將見の吾は乎の誤か。もし然らばヲは助辭とすべし○人ニシテ山ヲ弟トシモ見ムアサマシサヨと歎きたまへるなり
 
(220)166 礒のうへにおふる馬醉木をたをらめどみすべき君がありといはなくに
礒之於爾生流馬醉木乎手折目杼令視倍吉君之在常不言爾
    右一首今案不v似2移葬之歌1。蓋疑從2伊勢神宮1還v京之時路上見v花感傷哀咽作2此歌1乎
 イソは巖なり。ウヘの意は語の如し。ホトリにあらず○馬醉木を舊訓にツツジとよめり。眞淵はアシミ又アシビとよみてボケ、シドミの總稱とし(萬葉考及冠辭考アシビナスの條)黒川春村は『安志妣、安之婢と書ける妣婢は美と同じくミの假字なれば正しくはアシミといふべし』といへり(碩鼠漫筆卷一)。雅澄はアシビとよみてアセボノ木の事とせり(馬醉木をアシビとよめるは眞淵の説によれるにてそのアシビをアセボとせるは舊説によれるなり)。木村博士は
  馬醉木はアシビとよむべからず。アセミとよみて今のアセボの事なり。アシビと假字書にしたるは馬醉木とは別にて今のボケなり(採要)
(221)といへり(美夫君志卷二別記)。博士の説に從ふべし○アリトイハナクニはアラナクニといふに同じ。いにしへの一つのものいひなり。古事記下卷輕太子の眞玉ナス、アガモフ妹、鏡ナス、アガモフツマ、アリトイハバコソニ、家ニモユカメ、國ヲモシヌバメといふ御歌の傳(三十九卷)に
  アリト、イハバコソニの二句はただアラバコソと云意にてイフと云ことは添たる辭なり。此例常に多し
といへり○カム風ノ、ミマクホリ二首の御歌の調によれば大津皇子の殺され給ひし事は京に上りて始めて知り給ひしなり。されば左註の説は從はれず。或はアリトイハナクニをアラズトイフニと誤解してかくは云へるにや
 
   日並《ヒナミ》(ノ)皇子《ミコ》(ノ)尊(ノ)殯宮之時柿本朝臣人麿作歌一首并短歌
167 あめつちの はじめの時し (ひさかたの) 天のかはらに 八百萬 ちよろづ神の かむつどひ つどひいまして 神分《カムクマリ》 分之時《クマリシトキ》に あまてらす【一云さしのぼる】 ひるめの命 天をば しろしめすと 葦原の み(222)づ穗の國を あめつちの よりあひのきはみ しろしめす 神の命と あま雲の やへかきわきて【一云やへぐもわきて】 神下《カムクダシ》 いませまつりし △(たかてらす) 日のみこは あすかの きよみの宮に かむながら ふとしきまして すめろぎの しきます國と あまのはら いはとをひらき かむ上《アガリ》 上《アガリ》いましぬ【一云かむのぼりいましにしかば】 わがおほきみ みこの命の 天の下 しろしめしせば (春花の) たふとからむと (望月の) たたはしけむと 天の下【一云をすぐに】 よもの人の (大船の) おもひたのみて (あまつ水) あふぎてまつに いかさまに おもほしめせか つれもなき 眞弓の崗に 宮柱 ふとしき座〔左△〕《タテ》 みあらかを たかしりまして 明言爾 御言とはさず 日月《ツキヒ》の まねくなり塗《ヌレ》 そこゆゑに みこの宮人 ゆくへしらずも【一云さすたけのみこのみやびと歸邊不知爾爲】
天地之初時之久堅之天河原爾八百萬千萬神之神集集座而神分分之時爾天照日女之命【一云指上日女之命】天乎波所知食登葦原乃水穗之國乎天地之依相(223)之極所知行神之命等天雲之八重掻別而【一云天雲之八重雲別而】神下座奉之高照日之皇子波飛鳥之淨之宮爾神隨太布座而天皇之敷座國等天原石門乎開神上上座奴【一云神登座尓之可婆】吾王皇子之命乃天下所知食世者春花之貴在等望月乃滿波之計武跡天下【一云食國】四方之人乃大船之思憑而天水仰而待爾何方爾御念食可由縁母無眞弓乃崗爾宮柱太布座御在香乎高知座而明言爾御言不御問日月之數多成塗其故皇子之宮人行方不知毛【一云刺竹之皇子宮人歸邊不知爾爲】
 日並皇子は准天皇といふ意の御名にて皇太子草壁皇子の御事なり。はやく上にいへり
 時シのシは助辭なり。アメノカハラは天(ノ)安河の河原なり。ヤホヨロヅ千ヨロヅ神はただアマタノ神といふ事なり。カムツドヒは神の所爲なればカムを冠らせたるなり○分の字を舊訓にハカリとよめるを雅澄は分にはかる義なければとてアガチに改めたれど木村博士は字鏡集に分をハカルとよめりといへり。げに分にハカリの訓はあるべし。されど今は信友の説(長等の山風附録三【全集第四ノ六〇五頁】)に從ひてカム(224)クバリとよむべし。否カムクマリとよむべし。高天原と瑞穗國とを配り分けたまふなり。信友が
  さて其外にもあだし國々を諸神にくばりよさし給へる由の古傳説のありけるによりて然はよめるなるべし
といへるは云過ぐしたり○ヒルメノ命は即天照大御神なり。アメヲバシロシメストはシロシメストテにて天照大神ガ天ヲシロシメスニヨツテ即御自葦原ノ穗瑞ノ國ヲシロシメサヌニヨツテといふ意なり○アメツチノヨリアヒノキハミは天地ノ相接スル果マデとなり。神ノ命トは神トシテなり。ヤヘカキワキテは八重ナルヲ掻別ケテなり○神下を從來カムクダリとよめれどカムクダシとよまではイマセと對せず。マツルはクダシにもイマセにもかゝれり。イマセマツリシはスエ奉リシなり○さてこのイマセマツリシといふ句、格は次なるタカテラス日ノミコにつづきたれど意は切れてつづかず。之によりて雅澄は上にゾノヤ何等の言無ければマツリキといふこと辭のとゝのひの正格なれどこゝは然云ては宜しからざる所以にわざとことざまにマツリシと云へるなる(225)べし
といへれどげにもとおぼえず。(雅澄の引ける例は多くは當らず。そは其歌々の下に云ふべし)。或はこゝに句のおちたるにはあらざるか。いづれにもあれ次なるタカテラスヒノミコは瓊瓊杵尊の御事にはあらで天武天皇の御事なれば(契沖、宣長、干蔭、信友、木村博士の草壁皇子の御事とせるは見誤れり)マツリシにて一段をいひ収めたりとしてはタカテラス云々の出方俄なり。日ノミコハのハの言もおちつかず。云々ナル日ノミコハなどあるべき語勢なればなり。又高照(光とも輝とも)日ノミコは集中の長歌には皆ヤスミシシワガオホキミとたぐひて單濁にタカ照日ノミコといへる例無し(古事記日本紀にはあれど)。おそらくはイマセマツリシの次にスメロギノ、神ノ御世ヨリ、ツガノ木ノ、イヤツギツギニ、天ノ下、シロシメシ來テ、ヤスミシシ、ワガオホキミなどいふ句のありしが落ちたるならむ○フトシクは卷一にフトシカスミヤコヲオキテ、下にサダメテシミヅホノ國ヲカムナガラフトシキマシテとあるを見れば他動詞なり。然るにこゝにアスカノキヨミノ宮ニカムナガラフトシキマシテといひ又卷一にハナチラフアキツノミヤニミヤバシラ《五字傍点》フトシキマセバ、(226)卷六にウミ麻《ヲ》ナスナガラノ宮ニマキバシラ《五字傍点》フトタカシキテといへるなど補語《オブエクト》なきがあるは(ヽを附けたるは枕辭なり。補語にあらず)みなヲスグニヲなどいふことを略せるなり。即ヲスグニヲフトシキマスといふべきを云ひ慣れて補語を略しても通ぜしなり。フトシキマシテの下にマシシヲといふことを補ひて心得べし○スメロギは歴代の天皇の御事なり。古義に天武天皇の御事とせるは非なり。シキマス國はイマス國なり。アマノハラの下にノを添へて聞くべし。天に石門《イハト》ありと認めて天に昇ります事をかくいへるなり。神上は舊訓のまゝにカムアガリとよむべし。〇一本にカムノボリイマシニシカバとありて下へ續けるはわろし○前註者はタカテラスよりアガリイマシヌまでを第二段としたれど余の見る所にてはタカテラスの前に脱句ありて上よりつづけるなればイマシヌまでぞ第一段なる
 ワガオホキミ、考にいへる如くこれより日並皇子尊の御事を申すなり○アメノシタ以下は此皇子天位ニ即キ給ハバイカバカリ結構ナラムト天下ノ人ノ待渡リシニといへるなり。タフトカラムトはメデタカラムトといふ意なり。タフトキモノハ酒ニシアルラシなどメデタキをタフトキといへる例多し。タタハシケムトはタタ(227)ハシカラムトにてタタフは滿つ事なれば滿チ足ラヒアラムトと心得べし。アマツ水は天水にて即雨なり。アフギテ待ツの枕辭なり○イカサマニオモホシメセカの結はいかにといふに打見にはマネクナリヌルにて結びたるが如くなれどイカサマニオモホシメセカ……月日ノマネクナリヌルといひては義理通ぜざればマネクナリヌルにて結びたるにはあらで給を省けるなり。即イカサマニオモホシメセバニカアラムといふべきを略したるなり。○ツレモナキは縁故モナキといふこと○祝詞にシタツイハネニ宮柱フトシキ…テ(又ヒロシキタテ又フトシリタテ又ヒロシリタテ)タカマノハラニ千木タカシリテとあるを見ればこゝにミヤバシラフトシキ座ミアラカヲタカシリマシテとある座は立の誤にてミヤバシラフトシキタテなり。而してこゝのミヤバシラはフトシキタテの補語なり。ミヤバシラは一卷(五九頁)に云へる如くフトの枕辭として用ひたるもあれど又今の如く補語として用ひたるもあり。祝詞の語例、本集六卷ヤマシロノカセ山ノマニ宮柱フトシキタテテタカシラスフタギノ宮ハ、二十卷カシバラノウネビノミヤニ宮柱フトシリタテテアメノシタシラシメシケルなどの宮柱は皆補語なり。心をふかめてわきまふべ(228)し○ツレモナキ以下は眞弓ノ岡に御墓を造りしを云へるなり○明言爾を從來アサゴトニとよみて言を毎の借字としたれどみこととはす方ならではアサゴトニといはれず。おそらくは今モモノハノタマフベケレド幽明界異ナレバ此世ノ人ニキコユルヤウニハモノノタマハズといふことにて言は字のまゝの意なるべし。その訓はアラハゴトニとよまむに六言になりて調よからず。或はアラ人神などを例としてアラゴトニなど訓むべきにあらざるか○マネクナリ塗の塗を宣長(玉の小琴及玉緒七卷)はヌルとよみてツキヒノとあるノの結としたれどこは古義にヌレとよめるに從ふべし。ヌレは前に云へる如くヌルニの意なり
  因にいふ。宣長のノは必ヌルとやうに結ぶべきものと定めたるは誤なり。ノは元來ハモの類の係にてゾノヤの類の係にあらず。ノといひてヌルとやうに結ぶは略辭格なり。此事は文法家の間にははやく知られたる事なるべけれど歌學者の徒は今も紐鏡の分類を株守せるやうなれば一言おどろかしおくなり
 ○ユクヘシラズモを古義の如く『ゆくかたも知らず退き散りぬるはさても/\かなしき事』と釋きては即作者が宮人の行方を知らぬ事としてはソコユヱニといへ(229)るにかなはず。案ずるにユクヘは高市皇子の薨ぜし時に同じ作者の作りし長歌の反歌にハニヤスノ池ノ堤ノコモリヌノユクヘヲシラニトネリハマドフとあるユクヘと同じく今の語にていはば方向といふことなり。さればユクヘ知ラズモは宮人たちがおのがゆくべき方を知らぬにてセムスベヲ知ラズと云はむに齊し。さて作者も宮人の一人とおもはるれば皇子ノミヤ人は我々宮人ガと譯すべし〇一本の歸邊不知爾爲を略解にヨルベシラニシテとよみ美夫君志にユクヘシラニスとよめり。古義にはシラニスルとよみて
  一云の方は用べからず。マネクナリヌレといふよりのつづきも必ソコユヱとあるべくはたシラニスルといふもてにをはとゝのひがたければなり
といへり。てにをははよくとゝのひたり。何故にとゝのひがたしといへるにか。上にノなどなくてはヌルとはいはれずと思へるにか
 
   反歌二首
168 (ひさかたの)あめみるごとく仰ぎ見しみこの御門のあれまくをしも
(230)久堅乃天見如久仰見之皇子乃御門之荒卷惜毛
 ミカドは芳樹の
  こは皇子のすみ給ふ大殿を御門といへるなり。そは朝庭の字をミカドと訓るにて其義を知べし。次の舍人等の歌にタカヒカルワガ日ノミコノイマシセバシマノミカドハアレザラマシヲ、ヨソニミシマユミノ岡モ君マセバトコツ御門トトノヰスルカモ、ワガ御門チヨトコトハニサカエムト思ヒテアリシワレシカナシモなどの御門はみな御殿のことなり
と云へる如し。考以下に語のまゝに門の事とせるは非なり
 
169 (あかねさす)日は雖照有《テリタレド》(ぬばたまの)夜わたる月のかくらくをしも
茜刺日者雖照有烏玉之夜渡月之隱良久惜毛
    或本云〔□で圍む〕以2件《コノ》歌1爲2後(ノ)皇子(ノ)貴〔左△〕(ノ)殯宮之時(ノ)歌反1也
 雖照有を從來テラセレドとよみたれど宜しくテリタレドとよむべし。持統天皇を日に比し奉り草壁皇子を月に比し奉りて天皇ハ恙ナクマシマセド皇子ハ惜クモ(231)ウセ給ヒヌといふ意なる事古義に云へる如し。さて何故に日と月とに比したるかと云ふに皇子の御通稱を日並と申し奉りて天皇との御關係恰月と日との如くなるが故なり。日ナミは准日の義なり。夜ワタルのワタルは運行なり
 左註の云は衍字なり。又貴は諸本に尊とあるに從ふべし。後(ノ)皇子(ノ)尊は草壁皇子に次ぎて皇太子に立たせ給ひし高市《タケチ》(ノ)皇子なり。或本は高市皇子薨時の歌の反歌とせるなれど此歌は日並皇子の時のとせではかなひがたし
 
   或本歌一首
170 しまの宮まがりの池のはなち鳥人目にこひて池に不潜《カヅカヌ》
島宮勾乃池之放鳥人目爾戀而池爾不潜
 島宮は日並皇子のましましし宮なり。マガリノ池は即天武紀に周芳國貢2赤龜1乃放2島宮池1とある島宮池にてマガリは其形によれる名なるべし。美夫君志に『こは御庭の中の池ながらマガリは地名也』といへるはいかが○結句は從來カヅカズとよめれど譬ふる所ある歌にもあらぬをカヅカズといひ放しては餘情少きに似たり。(224)宜しくカヅカヌとよむべし。ゾ、ヤ、何の係なくてカヅカヌといふは略辭格なり
 
   皇子(ノ)尊(ノ)宮(ノ)舍人等慟傷作歌二十三首
171 (たかひかる)わが日のみこの萬代に國しらさまし島の宮はも
高光我日皇子乃萬代爾國所知麻之島宮婆母
 クニシラサマシのマシは下へつづきたり。今の歌又詞花集ツネヨリモナゲキヤスラムタナバタハアハマシ暮ヲヨソニナガメテなどの例は少かれどモノといふ名詞につづけてシナマシモノヲ、アハマシモノヲなどいふは常の事なり。さて今のマシには世ニマシマサバなどいふことを省きたるなり○シマノミヤハモといへるに無量の感慨を帶びたり。元來ハモはドウナツタラウとゆかしむ意のテニヲハなればこれは島(ノ)宮にありての作にあらで同處に參らずなりし後の作なり
 
172 島の宮|上池〔二字左△〕有《イケノウヘナル》はなちどりあらびなゆきそ君まさずとも
島宮上池有放鳥荒備勿行君不座十方
 二句考には池上有の誤として池ノウヘナルとよみ古義には勾池之の誤としてマ(225)ガリノイケノとよみ美夫君志にはもとのままにてウヘノイケナルとよみて『島の宮の山上にある池にて勾乃池とは別なるべし』といへり。考の説に從ふべし○アラブルはナルルのうら、野性に復する事にて畢竟飛ビ去ルナとなり〇ハナチドリは芳樹の云へる如くかねてはなち飼にしてありし鳥なり
 
173 (たかひかる)わが日のみこのいましせば島の御門はあれざらましを
高光吾日皇子乃伊座世者島御門者不荒有益乎
 シマノミカドを考に御門の事として『舍人の守る所なれば專らと云』といへるは非なり。美夫君志に
  島の宮の宮殿をいふ。本集卷一にワガツクル日ノミカドニ云々フヂヰガ原ニ大御門ハジメタマヒテ云々などありてこの前後にあるミカドもみな宮殿をいへり
といひ註疏に『島御殿といはむが如し』と云へるぞよき○イマシセバはイマサバにおなじ
174 よそにみしまゆみの岡も君ませばとこつ御門ととのゐするかも
(234)外爾見之檀乃岡毛君座者常都御門跡侍宿爲鴨
 このミカドも御殿なり。トノヰのヰはヰアカシテのヰにて夜起きて居る事なり○ヨソニ見シはコレマデ心ニトメナカツタといふ事、二三はソノ眞弓ノ岡ニ御墓ガ出來タカラといふ事、トコツミカドは永久ニマシマスベキ宮殿なり
 
175 いめにだにみざりしものをおほほしく宮出もするか作日〔二字左△〕《サダ》のくま囘《ミ》を
夢爾谷不見在之物乎鬱悒宮出毛爲鹿作日之隅囘乎
 見ザリシは思ハザリシなり。オホホシの上のホは多くは清音を當てたれど本集十七卷に於煩保之久とあればオボホシと云ひしにや。さて其意は心の晴れざるにて今いふウツトシに當れり(記傳十七卷オボチの條と參照すべし)。考に『忘れてはこはいかなる故にて此日のくまの宮を出入するにやとおぼめかるゝといふなり』といひてボンヤリトなどいふ意とせるは非なり○ミヤデは契沖の云へる如く出仕なり○結句は舊訓にサヒノクマワヲとよめり。契沖は此訓に從ひて
  サヒノクマは第七にサヒノクマヒノクマ川とよめる所なり。三吉野ノ吉野などよめるやうにヒノクマにサもじを添へて再いへるなり。和名云高市郡檜前【比乃久末】(235)眞弓岡同じ郡なれば檜隈のあたりにや
といひ宣長は
  作日は一本に佐田とあるを用べし
といひ雅澄は
  檜隈なり。隈囘はクマミとよむべし
といひ木村博士は
  檜隈なり。隈囘《クマワ》はクマグマといはむが如し
といへり。ヒノクマは固有名詞なればヒノクマノ隈囘といふべきをちぢめてヒノクマ囘とはいふべからず。宣長の説に從ひて佐田の誤字とすべし。佐田は下に見えたり。クマミヲのヲはヨリのヲにてクマミヲトホリテなり。クマミは道の曲なり○眞弓岡に宿直に行く途の作なり
 
176 あめつちと共にをへむとおもひつつ仕へまつりしこころたがひぬ
天地與共將終登念乍奉仕之情違奴
 ヲヘムは仕ヲ終ヘムなり(芳樹同説)。されば初二はトコシヘニ仕ヘ奉ラムトといふ(236)意なり。美夫君志に『君が代は天地と共にこそ終らめと思ひつゝ云々』といへるは歌にヲヘムとあると自他相かなはず
 
177 (朝日てる)佐太の岡べにむれゐつつわがなく涙やむときもなし
朝日弖流佐太乃岡邊爾羣居乍吾等哭息時毛無
 考に『朝日夕日をもて山岡宮殿などの景をいふは集中また古き祝詞などにも多し。是にしくものなければなり』といへれどさては第三句以下の調と相かなはず。宜しく准枕辭と認むべし。下にもアサ日テル島ノ御門ニとあり○又考に
  檜隈の郷の内に佐太眞弓はつづきたる岡なり。さて此御陵の侍宿所は右の二岡にわたりて在故に何れをもいふなりけり
とあるはいかが。上にヨソニミシマユミノ岡モ君マセバとあり下にツレモナキサダノ岡ベニ反居者《キミマセバ》とあれば佐太の岡即眞弓の岡とおぼゆ。はやく契沖も『佐太の岡は眞弓岳の別名か』といへり。なほ云はば佐太は岡のある土地の名にて岡の名は眞弓岡ならむ
 
178 御立爲之《ミタチセシ》島をみる時(にはたづみ)流るる涙とめぞかねつる
(237)御立爲之島乎見時庭多泉流涙止曾金鶴
 御立爲之を舊訓にミタチセシとよめるを眞淵はミタタシシに改め略解古義共に之に從へり。甲いはく。動詞にはミを冠らする事なければ卷五にミタタシセリシとあるを例として舊訓の如くミタチセシとよむべしと。
  ミタチ、ミタタシは共に名詞にてタタシはタチの敬語なり
 乙いはく。ミタチセシとよまむは固より可なり。されど又ミタタシシともよむべし。下なる御立之島ニオリヰテナゲキツルカモ又十九卷なるフナドモニ御立座而はミタチセシ、ミタチシマシテとは訓むべからず。ミタタシシ、ミタタシマシテと訓まむ外なからずやと。甲又いはく。下なる御立之は上に三處まで御立爲之とあるに依れば爲の字をおとしたるなり。又十九卷なる御立座而はタタシイマシテとよむべし。御立をタタシとよむべきは上にオモホシを御念と書きトハサズを不御問と書けるを證とすべしと。甲は今の余、乙は前の余なり○島は島(ノ)宮の池の中島なり。此島によりて宮の名を島(ノ)宮といひしなり。地の名は橘なり。さてミタチセシは皇子ノ立チ給ヒシとなり
 
(238)179 橘の島の宮にはあかねかも佐田の岡邊にとのゐしにゆく
橘之島宮爾者不飽鴨佐田乃岡邊爾侍宿爲爾往
 代匠記に『橘寺と云も彼地にあれば橘も所の名なるべし』といひ木村博士も之に從へり。然も博士は上のシマノミヤマガリノ池ノハナチドリの處に『勾は地名なり』といへり。マガリを地名とせばタチバナは地名とすべからず。博士の説は矛盾せり。タチバナはげに契沖のいへる如く地名なり〇一首の意は美夫君志に『島ノ宮ニハトノヰヲナシタラネバニヤアラム佐田ノ岡邊ヘモトノヰシニユクコトヨとなり』と云へるが如し。但橘之島宮の上に皇子ノマシマサヌといふことを加へて聞くべし。代匠記に『ナニノ飽足ラヌ所有テカ此宮ヲ除テ佐田ノ岡邊ニトノヰシニハ行と悲しみの餘に設て云なり』といひ古義に之によれるは非なり。宮ニハとあるを味ひて美夫君志の説の如くなるを知るべし。アカネカモは飽カネバヤなり○今橋寺と飛鳥川を隔てて飛鳥岡の麓に島(ノ)庄といふ處あり。眞弓岡は其西方廿町許の處にあり
 
180 御立爲之《ミタチセシ》島|乎母〔左△〕《ヲシ》家とすむ鳥もあらびなゆきそ年かはるまで
御立爲之島乎母家跡住鳥毛荒備勿行年替左右
(239) 年カハルマデを考には『來らむ年の四月までも』と釋き(草壁皇子の薨去は四月十三日なり)美夫君志には『せめて年かはるまで』と釋けり。考の説に從ふべし。そのかみ年カハルマデといひて周年の事と聞えしなるべし。今周年の事をムカハリといふもよしありげなり○島乎母の母は誤字にあらざるか。シマヲシとあるべき處なり。契沖が『水の外、島をも』と釋けるは服し難し。スム鳥モは人に對してモと云へるなり
 
181 御立爲之《ミタチセシ》島のありそを今みればおひざりし草おひにけるかも
御立爲之島之荒礒乎今見者不生有之草生爾來鴨
 代匠記に
  磯は海に限らず川にも池にもよめり。されば歌の習なれば必あら浪のよする所ならずとも大形に磯をアライソといへるか。若は海邊を學びて作らせ給へば云か
といひ考に
  御池に岩をたて瀧おとしてあらき磯の形作られしをいふなるべし
といへり。たとひさる事ありとも打任せてシマノアリソとはいふべからず。おそら(240)くはアリソをただイソといふ意につかへるなるべし。更に案ずるに當時の宮人は海なき國に住みて海をゆかしむあまりに(海邊の小石を玉とめでて家づととし池中に島をつくりしなどによりて海をゆかしみけむとおしはからる)池川の事をも海めかしていひしにはあらざるか。今の歌の外ウナバラハカマメタチタツ(埴安の池に)、サホ川ニイユキイタリテワガネタルアリソノウヘユ、水ツタフ磯ノウラ囘ヲ、アラ山中ニ海ヲナスカモなどいへるを思ふべし○今の字を舊訓にケフとよめり。今の下に日の字ある本ありといひ(一卷クシロツクタフシノサキニ今モカモ大宮人ノ玉藻カルラムの今も類聚古集には今日とあり)美夫君志には『重石を重と書き背向を背と書ける類にて脱字にあらず。今の字のみにてケフとよむべし』といへれどイマとよみて可なり。卷三昔ミシキサノ小河ヲ今ミレバイヨヨサヤケクナリニケルカモ、卷七佐保山ヲオホニミシカド今ミレバ山ナツカシモ風フクナユメなど例とすべし(此等も木村博士はケフとよむべしといはめど)
 
182 とぐらたてかひし鴈〔左△〕《タカ》のこすだちなばまゆみのをかにとび反《カヘリ》こね
鳥※[土+(而/一)]立飼之鴈乃兒栖立去者檀崗爾飛反來年
(241) 木村博士の説に※[土+(而/一)]は栖の俗體なりといへり○鴈は鷹の古宇雁の誤とする説(契沖)とカリとよみてカルガモの事とする説(契沖一説又眞淵)とあり。案ずるにカモの類は直に水に放つべく鳥座を立てては飼ふまじく結句などの調もカモめかねば鷹〔鳥なし〕《タカ》の誤といふ説に從ふべし○結句舊訓にトビカヘリコネとよめるはトビユキサテカヘリコヨといふ意とすべきか。木村博士は反は變の通用なればトビウツリコネとよむべしといへれどげにともおぼえず。再案ずるに九卷なる詠霍公鳥歌にウノ花ノサキタル野邊ユ、飛飜《トビカヘリ》來ナキトヨモシとあるを見ればトビカヘリは飜り飛ぶ事ならむ。さらば結句はただ飛ビ來ヨと心得べし
 
183 わが御門千代とことはにさかえむとおもひてありしわれしかなしも
吾御門千代常登婆爾將榮等念而有之吾志悲毛
 ワガミカドは代匠記に『此ミカドは宮の意なり』といへるが如し。千代トコトハニは永久ニといふ事
 
184 ひむかしのたぎの御門にさもらへどきのふもけふもめすこともなし
(241)東乃多藝能御門爾雖伺侍昨日毛今日毛召言毛無
 此ミカドは眞の御門なり。門のほとりに瀧ありしにて其瀧はまがりの池の水の落口なるべし。はやく註疏にも
  タキは今の瀑布のたぐひにはあらず。ただ勾の池の水の瀬をなして流るゝを瀧といへるなり。禁中に瀧口とて清涼殿の御|溝《カハ》水に流れいづる處あるが如きたぐひなり。そこにある御門ゆゑに此名あるなり
といへり○メスコトは召ス事なり。言と書けるは借字なり
 
185 水つたふ磯の浦囘《ウラミ》の石《イハ》つづし木丘《ムク》さく道をまたみなむかも
水傳礒乃浦囘乃石乍自木丘開乎又將見鴨
 水ツタフは水がつたひ流るゝなり。美夫君志に水ヲツタフイソとやうに釋けるは自他たがへり○ウラミはもと海にいふ語なれどアラ山ナカニ海ヲナスカモ(卷三)など池の廣きをたたへて海といへる例あれば今も池の汀の曲線を成せるを海めかして浦囘と云へるなるべし。海邊の景趣を模したるが故にはあらじ○石を舊訓にイハとよみ古義にイソとよめり。舊訓に從ふべし。イソツツジ、といふ一種あらば(242)こそあらめ磯ニオヒタルツツジといふ意ならば(雅澄の品物解には『常のつつじの礒べにさきたるを云へるにて云々』といへり)上にイソノウラ囘ノとあればイソとふ事再言はであるべし○ウラ囘ノはミチにかゝれり○木丘を諸註にモクとよめるを伴信友はムクとよみて
  木字の呉音ムクなるを牟〔右△〕の音に用たるなり。木字の呉音ムクなる由は予がこの考によりて僧義門が委しく考たる説あり。さて本言はムシなるを後世には多くモシといへりとぞきこゆる。モシと云ふ言詞にたまたま茂の字の音の似たるをもて字音ならむとおもひまがふべからず。モキ、モクまたモシ(○以上形容詞)モス、モセリ(○以上動詞)などはたらく言なり
といへり。くはしくは松の藤靡(伴信友全集第三の一一三一頁以下)及義門の活語雜話(第三篇四十丁)を見べし○さればムクはシゲクなり。又ミナムカモは又此宮ニ參リテ見ル事ハアラジとなり
 
186 ひと日にはちたびまゐりしひむかしの大寸御門《タギノミカド》をいり不勝鴨《ガテヌカモ》
一日者千遍參入之東乃大寸御門乎入不勝鴨
(244) ヒト日ニハのハはヤマトニハムラヤマアレドのハと同じく無意の助辭なり○大寸御門を舊訓にタギノミカドとよめるを考に
  寸《キ》は假字なり。假字の下に辭を添るよしなし
といひてオホキミカドとよみ改めたり。然るに美夫君志には『十卷|沙穗内之《サホノウチノ》など人名地名の類には假字の下にノの辭をよみそふる例あり』といへり。此説よろし。なほ舊訓の如くタギノミカドとよむべし。前々の歌と併せて考ふるにヒムカシノタキノミカドは内門の名にて其外に舍人の番所はありしなり○宣長(記傳十二卷)は不勝をカテヌとよみて
  カテヌにも不勝と書れば云々
といひ。岡本保考は
  入不勝鴨(イリカテヌ〔右△〕カモ)寢乃不勝宿者(イノネカテネ〔右△〕バ)宿不勝家牟(イネカテニ〔右△〕ケム)寢不勝鴨(イネカテヌ〔右△〕カモ)去不勝可聞(ユキカテヌ〔右△〕カモ)出不勝鴨(イデカテヌ〔右△〕カモ)月待難(ツキマチカテヌ〔右△〕)過不勝者(スギカテナク〔二字右△〕ハ)以上の歌どもにヲハンヌを省きて書かぬはいかにといふにもと虚語なれば本字なし。されば其處の前後、(245)字義をもてかける歌にはかならず此ヲハンヌのヌは別に文字なくてよみつけておくなり。前後、文字の音のみかれる假字ならばそのナニヌネノにあたる假字をかく也。たとへばスギ加弖奴〔右△〕可母とあり
といひ(難波江三卷上、奈行の言を添へてかかざる例)木村博士は
  勝をカテヌとよむ此ヌは已に云如く去の意のにてよみそへたるものなり。上に出したる宿不勝家牟(イネカテニ〔右△〕ケム)また宿不勝爲(イ子カテニ〔右△〕スル)とあるニと合せ見てそのよみそへたる辭なることを知べし
といへり(美夫君志卷二別記三頁)○さて今の歌のイリガテヌカモはイリカヌルカモといふ意にて召さるゝ御用なければ入ることなきなり
 
187 つれもなき佐太の岡べに反〔左△〕居者《キミマセバ》しまのみはしにたれかすまはむ
所由無佐太乃岡邊爾反居者島御橋爾誰加住舞無
 ツレモナキは此歌に所由無と書き人麿の長歌に由縁母無と書けるを見ても前に云へる如く關係モナキと云ふことなるを知るべし○反居者を舊訓にカヘリヰバとよめれどかくては義通ぜず。古義に反を君の誤としてキミマセバとよめり。これ(246)ぞよろしき。木村博士は反を變の通用としてウツリヰバとよみて舍人の移り居る事とせり。舍人の佐太の岡邊に居るは皇子の御墓のある處なればツレモナキといふきべきにあらず。即三句を舍人の事としては初句と相かなはず○シマノミハシを契沖は御階の意と見たれど島の宮の御階を打任せてシマノミハシとは云ふべからず。契沖并に其説に從へる人々はシマノミカドを例としたるならめどそのミカドは宮の御門といふことにはあらで御殿といふ事なる由既に云へり。案ずるにシマノミハシは勾の池の中島に渡せる橋にてかのをかしき島の御橋にも誰かとどまらむと云へるなるべし。スマハムはトドマラムといふ意にこそ。住居の意とすれば御階にてもかなはず
 
188 且覆、ひの入去者《イリヌレバ》御立△之《ミダチセシ》島におりゐてなげきつるかも
且覆日之入去者御立之島爾下座而嘆鶴鴨
 且覆を舊訓にアサグモリとよみ眞淵は天靄の誤としてアマグモリとよみ雅澄は茜指に改めてアカネサスとよみ木村博士は且を旦の誤としてタナグモリとよめり。ともかくも且覆は誤字なるべし(天傳などの誤か。且は次の歌の初なる旦の字の(247)うつりしにもあるべし)○入去者は雅澄のイリヌレバとよめるに從ふべし〇二句は皇子の薨ぜしを譬へたるなるべし。夜になるを待ちて池の中島におりゐて嘆かむことあるべきにあらねばなり。眞淵は『二句を今の過ませる譬と見て末をいかに心得んとすらん』と云へれど二句を譬と見ても末と矛盾することなし○シマニオリヰテは御殿より島におりたつなり。眞淵は『日暮ゆけば宮の外方の池島のほとりの舍へ下ゐる故にしかよめり』といへれどミタチセシ島ニオリヰテとあるを見れば皇子の立ち給ひし處即舍人のおりゐる處なり。皇子豈舍人の舍のある處に立ち給はむや。否皇子の立ちて眺したまはむ中島に舍人の舍を設けむや
 
189 あさ日てる島の御門におほほしく人音もせねばまうらがなしも
旦〔左△〕日照島乃御門爾鬱悒人音毛不爲者眞浦悲毛
 オホホシクは上にいへり。陰氣ニなり。ウラガナシは心悲なり。マは添辭
 
190 (まき柱)ふとき心はありしかどこのわがこころしづめかねつも
眞木柱太心者有之香杼此吾心鎭目金津毛
(248)二三は平生ヲヲシキ心ヲ持チタリシカドとなり。コノワガ心はワガ此悲なり。シヅメはオサヘなり
 
191 (毛ごろもを)春冬〔□デ圍む〕かたまけていでまししうだの大野はおもほえむかも
毛許呂裳遠春冬片設而幸之宇陀乃大野者所念武鴨
 ケゴロモヲは古義に云へる如く枕辭なり○カタマケテを古義に『片附設《カタヅキマウク》るよしなり』といひ美夫君志に『其時を待まうくるなり』といひて共に他動詞と見たれど十卷にアキノ田ノワガカリバカノスギヌレバカリガネキコユ冬カタマケテとあるを見れば自動詞なり。語意はチカヅキテといふ事ならむ○春冬の冬の字は衍字なるべし。即春の字一本に冬とあるより春の字の傍に書きたるがまぎれて本行に入れるなるべし○オモホエムカモはシノバレムカなり。卷一アキノ野ノミクサカリフキヤドレリシウヂノミヤコノカリホシオモホユのオモホユに同じ
 
192 朝日てる佐太の岡べになく鳥の夜鳴|變〔左△〕布《ワダラフ》この年ごろを
朝日照佐太乃岡邊爾鳴島之夜鳴變布此年己呂乎
(249) 上三句は考にいへる如く序なり。鳥ノ鳴クガゴトクニ我等ハ夜鳴云々スルといへるなり○變布を舊訓にカヘラフとよめるを契沖はカハラフと改めよめり。案ずるに變布は度布の誤にて夜毎ニナキテ此年ゴロヲワタルコトヨといへるなるべし○トシゴロは考に、『去年の四月より今年の四月まで一周の間御陵づかへすれば年ゴロと云へり』といへるが如し○玉緒七卷(二十八丁)にヨナキカハラフ此トシゴロヲとよみて『右のヲはたすけたる辭にてヨといふに同じ』といへれど右に釋せる如く四句にかへるヲなり
 
193 八多〔左△〕籠良《ヤツコラ》がよるひるといはずゆく路をわれは皆悉《サナガラ》宮道叙爲《ミヤヂニゾスル》
八多籠良家〔左△〕夜晝登不云行路乎吾者皆悉宮道叙爲
    右日本紀曰三年己丑夏四月癸未朔乙未薨
 八多籠良は舊訓にヤタゴラとよめり。タとツと通ずれば奴等なりといふ説(契沖)とハタゴは和名抄に飼馬器、籠也とあれば馬を追ふ男をハタゴといへるなりといふ説(契沖一説)と良は馬の誤字にてハタゴウマガなりといふ説(宣長)とあり。多を豆などの誤字としてヤツコラガと訓むべし。下人等之となり。家は諸本に我とあり○皆(250)悉は舊訓にサナガラとよめるを考にコトゴトとよめリ。舊訓によるべし。ソノママニといふことなり○宮道叙爲を舊訓にミヤヂトゾスルとよめるを考にニゾスルに改めたり(はやく類聚古集にはニゾスルとよめり)。後世の語法に從はばトゾスルといふべけれど下にナミノトノシゲキハマベヲシキタヘノ枕爾シテとよみ三卷にヒサカタノアメユク月ヲ綱ニサシワガオホキミハキヌガサ爾セリとよめる例によりてなほニゾスルとよむべし○宮道は出仕の道路なり。一首の意は下人ノ往來繁キ道ヲトホリテ我ハ毎日眞弓岡ノ御陵ニ出仕スルといへるなり
 
   柿本朝臣人麿獻2泊瀬部《ハツセベ》皇女1忍坂部皇子〔五字を□で圍む〕歌一首并短歌
194 (とぶとりの) あすかの河の かみつ瀕に おふる玉藻は しもつ瀕に ながれ觸經《フラバフ》 (玉藻なす) かよりかくより なびかひし つまのみことの (たたなづく) 柔膚《ニキハダ》尚《スラ》を (つるぎだち) 身にそへねねば (ぬばたまの) 夜床もあるらむ【一云何れなむ】 そこゆゑに 名具鮫魚〔左△〕天《ナグサメカネテ》 氣留〔左△〕敷藻《ケダシクモ》 相屋常念而《アフヤトモヒテ》【一云きみもあふやと】 (たまだれの) をちの大野の あさ露に (251)たまもはひづち 夕霧に ころもはぬれて (草枕) たびねかも須留《スル》 あはぬ君ゆゑ
飛鳥明日香乃河之上瀬爾生玉藻者下瀬爾流觸經玉藻成彼依此依靡相之嬬乃命乃多田名附柔膚尚乎劔刀於身副不寐者烏玉乃夜床母荒良無【一云何禮奈牟】所虚故名具鮫魚天氣留敷藻相屋常念而【一云公毛相哉登】玉垂乃越乃大野之旦露爾玉藻者※[泥/土]打夕霧爾衣者沾而草枕旅宿鴨爲留不相君故
 題辭のうち忍坂部皇子の五字は考にいへる如く衍なり。削るべし。おそらくはもとは註文にて忍坂部皇子同母妹などぞありけむ○流觸經を宣長は古事記雄略天皇の段の歌に
  ほつえの、えのうらばは、なかつえに、おち布良婆閇《フラバヘ》、なかつえの、えのうらばは、しもつえに、おち布良婆閇
とあるに依りてナガレフラバヘとよめり。此説に基づきてナガレフラバフ〔右△〕とよむべし。經はハフとはよまれねばもしハフとよむべくば經の上に羽を補ふべしと云(252)へる人もあれど日ヲフ〔右△〕、絲ヲフ〔右△〕などのフは元來ハフの約なれば經の字は安んじてハフとも訓むべし。さてフラバフはフリバフにて接觸といふ意ならむ。源氏物語などにフレバヒといへるは同語の活の轉じたるなり○ナビカヒシは考にいへる如くナビキアヒシなり。次に出來るもの夫の君なればナビキシの延とは見るべからず。嬬は借字にて實は夫なり○柔膚を舊訓にヤハハダとよめるを古義にニキハダに改めたり○尚を舊訓にスラとよめり。スラにては通ぜざるに似たれど五卷貧窮問答歌にサムキ夜須良乎とあるも今と同じければなほスラとよむべきなり。案ずるに此スラは普通のスラとは異にて主語を強むる辭なるべし○ヨドコモアルラムは御夫婦相寢給ハデ掃ヒ給フコトモ少ケレバ夜ノ御フシドモ荒レルデアラウとなり。一云何レナムの何は阿の誤字なり○名具鮫魚〔右△〕天氣留〔右△〕敷藻は久老の説に魚は兼の誤、留は田の誤にてナグサメカネテケダシクモとよむべしと云へり(類聚古集を檢するに留は田とあり)。そのナグサメカネテは己をなぐさめかぬるにてタレコメテ春ノユクヘモシラヌマニのタレコメテなどと同格なり。ケダシクモは或ハなり。モシヒョットといふことなり○雅澄はただアフヤトモヒテといひては不敬(253)なりといひて念の上に御を補ひてオモホシテとよみたれど芳樹もいへる如く歌は毎辭必しも敬語を用ふべきものにあらず一首の上にて敬意を失はざれば可なるものなり。裳に玉を添へてタマモといへるはたたへたるなり。ヒヅチはヌレテなり〇タビネカモ爲留をも雅澄は爲須《セス》の誤とせり。拘泥すべからず○アハヌ君ユヱは逢ハレヌモノヲといふ意にて上なるアフヤトモヒテと呼應せり。結句例の如く力あり○タビネカモスルとあるを味ふにいにしへは新喪には墓の傍に廬を作りて往き宿りしことあるなり(草壁皇子の御新喪に舍人等が眞弓岡の陵に宿直せしをも思ふべし)。今も遠き處なるが故に越智野にやどり給ひしにあらず。タビネといふ語の今の調につきて遠き處のやうに思ふべからず。考に『ユフギリニコロモハヌレテは其野をくれぐれと分過て夕べに宿り給ふまでを云』といへるは遠き處と思へるよりの誤なり。越智野は藤原と同郡なれば遠き處にはあらじ
 
   反歌一首
195 (しきたへの)袖かへし君(たまだれの)越野過去《ヲチヌヲスギヌ》【一云をちぬにすぎぬ】又もあはめやも
敷妙乃袖易之君玉垂之越野過去亦毛將相八方【一云乎知野爾過奴】
(254)   右或本曰。葬2河島(ノ)皇子(ヲ)越智野(ニ)1之時獻2泊瀬部皇女1歌也。日本紀曰朱鳥五年辛卯秋九月己已朔丁丑淨大參皇子川島薨
 ソデカヘシのカフは後世のカハスなり〇四句を考にヲチヌニスギヌとよみて『スギヌとは既薨ましてをち野に葬たる事をつづめていふなり』といへれどさては辭足らず。ヲチヌヲ〔右△〕スギヌとよみ改むべし。をち野をすぎてある丘陵に葬《カク》され給ひしなり
   明日香皇女|本※[瓦+缶]《キノヘ》殯宮之時柿本朝臣人麿作歌一首并短歌
196 (とぶとりの) あすかの河の かみつ瀬に いはばし【一云石浪】わたし しもつせに うち橋|渡《ワタス》 いはばしに【一云石浪】 おひなびける 玉藻もぞ たゆればおふる うち橋に おひををれる 川藻もぞ かるればはゆる
飛鳥明日香乃河之上瀬石橋渡【一云石浪】下瀬打橋渡石橋【一云石浪】生靡留玉藻毛叙絶者生流打橋生乎爲〔左△〕禮流川藻毛叙干者波由流
(255) 明日香皇女は天智天皇の御女なり。木※[瓦+缶]《キノヘ》殯宮は御墓の外に殯宮を營みしにはあらで木※[瓦+缶]の御墓を新葬の程殯宮といひしなり。されば木※[瓦+缶]殯宮之時は新葬2于木※[瓦+缶]1之時と心得べし
 一云石浪とある、は石並の借字なり。イハバシもイシナミも共に飛石にてやがてトコナメなり○渡は舊訓にワタシとよめり。景樹雅澄のワタスとよめるに從ふべし○ヲヲルはたわむ事にてナビクといふに似たり。宣長は『ヲヲリはワワリにてわ々わ々と繁く生ひあるを云也』といひ木村博士は『ヲヲレルは生繁るさまをいへる也』といへれどなほ眞淵の『とを々に靡くをいふ』といへるに從ふべし○タマモモゾ、川藻モゾのモゾを雅澄が後世のシモゾと同じくカヘリテといふ意を含めりといへるはいかが。こはタマ藻モ、川藻モといふに常のゾをそへたるのみ。此事はやく玉の緒七卷十五丁にもいへり
 
 なにしかも わがおほきみの、立者《タタセバ》 玉藻の如許呂《モコロ》 臥者《コヤセバ》 川藻のごとく なびかひし よろしき君|之《ノ》 朝宮を わすれたまふや 夕宮を そむきたまふや
(256)何然毛吾王乃立者玉藻之如許呂臥者川藻之如久靡相之宜君之朝宮乎忘賜哉夕宮乎背賜哉
 常情を以て云はば上をうけてはナニシカモワガ大君ノ云々イニテカヘラヌなどいふべきを、しかあらはなる照應法を用ひずただうせたまひし事のみをいひ然も前に對照に用ひたる玉藻川藻をはたらかして立者玉藻之如許呂臥者川藻ノゴトクといへるが文藻のめでたきにて又よくせでは解し難き所以なり○立者を契沖はタタセレバとよみ眞淵はタタスレバとよめり。千蔭のタタセバとよめるに從ふべし。玉藻之如許呂臥者を從來如の下を句として玉藻ノゴトク、コロフセバと訓みたりしを山田孝雄氏が始めて呂の下を句として如許呂をモコロとよまれしはいみじき發見なり。金澤本には現に母〔右△〕許呂とあり。モコロは如クの古語なり
  右の山田氏の説は大正十年十月發行の雜誌アララギに出でたるを正宗敦夫の注意によりて今囘の補訂に際して補ひ入れたるなり
 ○臥者はコヤセバとよむべし。コヤセバは臥シ給ヘバなり○川藻ノゴトクにて切るるにあらず。タタセバ玉藻ノ如《モコロ》ナビカヒ臥《コヤ》セバ川藻ノゴトクナビカヒシといふ(257)べきを略せるなり。ナビカフは前にも云へる如くナビキアフにてかたみによりそふことなり○ヨロシキキミ之の君も亦皇女なり(芳樹同説)。上にワガオホキミノといひたれば再キミ之とはいふまじきなれどかく打返していふは一つの格なり。畢竟まづワガオホキミノといひさて立歸りて云々ノ君之といへるなり。ヨロシキは眞淵の云へる如く容貌の具足せるをいふ。君之の之は上に君乃とあるに對照してノとよむべし○アサミヤヲ云々の四句はただイカナレバスミマシシ宮ヲ忘レ背キタマフゾと云ふべきを分けて對句にいふにつきて朝と夕とを配したるまでなり○さて雅澄の心づける如く
  ナニシカ〔右△〕モ……忘レタマフヤ〔右△〕背キタマフヤ〔右△〕
といひてはカとヤと疑の辭かさなるなり。案ずるにこのヤは常のヤよりは輕くて一種の助辭なり。雅澄の擧げたる例の中今昔物語なる何ノ益カアラムヤといふのみ今と同じき格なり。後世常用ふる辭の中にも何トカヤといふことあり。此ヤ今の歌のヤに近し(なほ玉の緒四卷三十二丁に擧げたる例を見べし)。玉の緒七卷八丁に(258)これはナニシカモにて切れたり。さる故に下に何の結びなし。タマフヤのヤへかけて見べからず
といへるは非なり
 
うつそみと おもひしときに 春べは 花をりかざし 秋たてば もみぢばかざし (しきたへの) 袖たづさはり (鏡なす) 見れども不厭《アカズ》 (もち月の) いやめづらしみ おもほしし 君と時時《トキドキ》 いでまして あそびたまひし (みけむかふ) きのへの宮を とこみやと さだめたまひて (あぢさはふ) めこともたえぬ
宇都曾臣跡念之時春部者花折挿頭秋立者黄葉挿頭敷妙之袖携鏡成雖見不厭三五月之益目頬染所念之君與時時幸而遊賜之御食向木※[瓦+缶]之宮乎常宮跡定賜味澤相目辭毛絶奴
 ウツソミトオモヒシトキニは考に『顯の身にておはせし時といふのみ。念の言は添ていふ例』といへり。オモフを添へていふはそのかみ行はれし一種のものいひとお(259)ぼゆ。上にもアハメヤをアハムトモヘヤといへり○袖タヅサハリは袖ヲツラネなり○不厭を雅澄はアカニとよみたり。舊訓に從ひてアカズとよむべし。オモホシシにかゝれるなり○メヅラシミはメヅラシガリなり。雅澄のメヅラシウと釋せるは當らず○君與時時とある君は夫《セ》(ノ)君なり。時時を眞淵のヲリヲリとよめるを雅澄は古言にヲリヲリといへる例なしと云ひて舊訓の如くトキドキとよめり。トコ宮は御墓なり○メコトを眞淵は見ル事といふ意としてコを濁り雅澄は目ト辭トなりとしてコを清めり。しばらく後者に從ふべし
 
しかれかも【一云そこをしも】 あやにかなしみ (ぬえどりの) かたこひ嬬【一云しつつ】 (朝鳥の)【一云朝露の】 かよはす君が (夏草の) おもひしなえて (ゆふづつの) かゆきかくゆき (大船の) たゆたふみれば 遣悶流《ナグサムル》 こころもあらず そこゆゑに 爲便知之也〔三字左△〕《スベヲシラニト》 おとのみも 名のみもたえず (あめつちの) いやとほながく しぬびゆかむ 御名にかかせる あすか河 よろづよまでに (はしきやし) わがおほきみの かたみ何〔左△〕《ニ》ここ(260)を
然有鴨【一云所己乎之毛】綾爾憐宿兄鳥之片戀嬬【一云爲乍】朝鳥【一云朝露】往來爲君之夏草乃念之萎而夕星之彼往此去大船猶預不定見者遣悶流情毛不在其故爲便知之也音耳母名耳毛不絶天地之彌遠長久思將往御名爾懸世流明日香河及萬代早布屋師吾王乃形見何此焉 シカレカモは一にソコヲシモとあるによるべし○美夫君志にアヤニカナシモ〔右△〕とよみて句としたるはわろし○底本にカタコヒ嬬とあるは誤なり。カタコヒシツツのツツは事の反復又は持續を示す辭なり。古義に『ツツは此をも爲ながら彼をもする言にてこゝは片戀し賜ひながら城上宮にかよひ賜ふよしなり』と云へるは非なり。片戀は一方のみ戀ふるをいふ。こゝは皇女はうせたまひたれば皇子の戀を片戀といへるなり〇一云アサツユノはわろし○カヨハス君とは眞淵の云へる如く皇女の御墓所へ夫君忍坂部《オサカベ》(ノ)皇子の參り給ふをいふ。美夫君志に『皇女のおはしましゝ折皇子の通ひ給ひしをいふ』と云へるは非なり。シナエテはシヲレテなり○ユフツ(261)ツは和名抄に由布郁々(一本に由布豆々)とあり。前註或はユフヅヽと書き或はユフヅツと書き或はユフツヅと書けり。狩谷望之の箋注倭名抄に
  按毛詩大東篇、西有2長庚1。傳(ニ)庚(ハ)續也。正義云。日既入之後有2明星1。言《イフハ》其長能續2日之明1。故謂2明星1爲2長庚1也。是(ニ)知、由布都々(ハ)夕續之義
といひ伴蒿蹊の閑田耕筆卷之一に
  長庚星を常に夕豆都と中のツもじを濁る。和名抄由布豆々とあるは二字共に濁音によめとにや。しかるに此訓の出所は詩小雅大東篇西有長庚の下の毛傳に日既入謂2明星1爲2長庚1庚續也とあるによれるか。しからばツヅクの意にて下の一もじをのみ濁るべきものなり
といへり。即ユフツツの漢名長庚は長續の義なればユフツツは夕續の義なりと云へるなり。此説によりてユフツヅとよむべきかとも思へど日ガケル、ミブクシなどの例によらば濁音を上に移してユフヅツともいふべし〇カユキカクユキはアチラヘイツタリコチラヘイツタリなり。タユタフはグヅグヅトシテススマヌなり。古義に『カユキカクユキは御道に附ていひタユタフは御心の悩み給ふことをいへる(262)なり』といへるは非なり○遣悶流は雅澄のナグサムルとよめるに從ふべし。此ナグサムルは前の長歌のナグサメカネテと同じくおのれを慰むるなり。さてナグサムル以下は作者自身の上なり。ソコユヱニはソレ故ニなり○爲便知之也は宣長の説にここはセムスベヲナミとかセムスベシラニとかいふべき處なれば誤字なるべしといへり。爲便不知之止の誤としてスベヲシラニトとよむべきか。シラニトは知ラズなり○オトはこゝにてはやがて名なり。ノミモはダニといふに同じ○カカセルは明日香川ヲ御名ニカケタマヘルと云へるなり。古義に『明日香皇女と申す御名に懸賜へる』といへるはいひざまわろし○結尾の一句宣長は何を荷の誤としてカタミニココヲとよみ『ココヲカタミニシノビユカムと上へ返る意なり』といひ(略解に引けり)雅澄之に從へり。されどよく思ふにシヌビユカムを結句の結とせば上なるオトノミモ名ノミモは何にて受けたりとかせむ。受くるものなくなるにあらずや。
  オトノミモ名ノミモはオトダニ名ダニにてそをシヌビユカムと受けさてシヌビユカム其御名とつづけたるなり
(263) 宣長の一説(玉の小琴)には『ココヲのヲは輕くしてヨと云はむが如し』といへり。されば宣長はツマゴメニヤヘガキツクルソノヤヘガキヲのヲと見たるなり(玉緒七卷二十八丁『ヨに似たるヲ』といふ條をも見べし)。又景樹は
  カタミカココヲは君ガカタミカモと云へるにてココヲはうち返して處をさしてとぢむるにて云流せる詞にてヲに意なし
といへり。即宣長の一説の如し。もし此等の説の如くヲをヨに近きヲとしてワガオホキミノカタミカといひすてたりとせば上なるヨロヅ世マデニはいづれの辭にて受けたりとかせむ。ヨロヅ世マデニのをさまる處なきにあらずや。案ずるにカタミ何の何は略解に引きたる宣長の説の如く荷の誤字としてニとよみココヲはココヲセムの略とすべし。かく見ればヨロヅ世マデニはセムにて受けたるにてかけ合はぬ處なし。美夫君志にも
  ヨロヅヨマデニこは下のカタミニココヲといふへかゝりてこの皇女の御名にかかれる川の名なればこの川を萬代までも吾王の御形見とは見むと也
といへり。カタミニのニは下なる君ガカタミニミツツシヌバムのニと同例にて後(264)世のトに當れり○さればソコユヱニ以下はソレ故ニセムスベヲ知ラズ、セメテ御名ダニイツマデモシノビ行カウト思フソノ御名(明日香トイフ御名)ニカケ給ヘル明日香川ヲ我皇女ノ御形見ニ致シマセウ、此明日香川ヲといへるなり
 
   短歌二首
197 あすか川しがらみわたしせかませばながるる水ものどにかあらまし【一云水のよどにかあらまし】
明日香川四我良美渡之塞益者進留水母能杼爾賀有萬思【一云水乃與杼爾加有益】
 こは譬喩歌にてモシ御壽ニ然ルベキ柵ヲ渡シタナラバカク早クオカクレニハナラナカツタラウといへるならむ。一云のミヅノは水ガの意なるべし。但底本の方まされり
 
198 (あすか川)あすだに【一云さへ】みむとおもへやも【一云おもへかも】わがおほきみの御名わすれせぬ【一云御名わすらえぬ】
明日香川明日谷【一云左倍】將見等念八方【一云念香毛】吾王御名忘世奴【一云御名不所忘】
(265) アスカ川はアスの枕辭なり○オモヘヤモはオモヘバヤモにてモは助辭なり。オモヘバヤ御名ワスレセヌと照應せるにてヌはヤの結なり。古義に『ヤは後世のヤハと同じ』といへるは非なり。明日香皇女ノ御名ヲ忘レヌハ此後モ御目ニカカルコトガアラウト我心ニ思フノデアラウとなり。古義に
  明日香川を明日さへも又見むと思はむやは、又も見むとはおもはれぬことぞ、なぞといはば明日香川をみると皇女の明日香と申す御名がわすられねば戀しきこゝろにいよいよたへられぬ故に、となり
といへるは代匠記の誤を敷衍したるにて人まどはしなり
 
   高市皇子尊|城上《キノヘ》殯宮之時柿本朝臣人麿作歌一首并短歌
199 かけまくも ゆゆしきかも【一云ゆゆしけれども】 いはまくも あやに畏伎〔左△〕《カシコシ》 あすかの 眞神の原に (ひさかたの) あまつ御門を かしこくも 定めたまひて かむさぶと いはがくります (やすみしし) わがおほきみの きこしめす そともの國の (眞木たつ) 不破山こえて (266)(こまつるぎ) わざみが原の かり宮に あもりいまして 天の下 をさめたまひ【一云はらひたまひて】 をすぐにを 定めたまふと (とりがなく) 吾妻の國の みいくさを めしたまひて ちはやぶる 人をやはせと まつろはぬ 國ををさめと【一云はらへと】 みこながら 任《マケ》たまへば
挂文忌之伎鴨【一云由遊志計禮杼母】言久母綾爾畏伎明日香乃眞神之原爾久堅能天津御門乎懼母定賜而神佐扶跡磐隱座八隅知之吾大王乃所聞見爲背友乃國之眞木立不破山越而狛劔和射見我原乃行宮爾安母理座而天下治賜【一云拂賜而】食國乎定賜等鳥之鳴吾妻乃國之御軍士乎喚賜而千磐破人乎和爲跡不奉仕國乎治跡【一云掃部等】皇子隨任賜者
 一首二段百四十九句より成れる雄篇大作なり。高市皇子は天武天皇の庶皇子なり。天武天皇と弘文天皇と叔姪相戰ひ給ひし時此皇子軍事を統べ給ひき。弘文亡び給ひて天武位に即き天武崩じて皇后持統天皇位を繼ぎ給ひし初には草壁皇子皇太子たりしが同天皇の三年に草壁の薨じ給ひし後は此高市皇子皇太子に立ち給ひ(267)又太政大臣に任ぜられて國政を執り給ひしが持統の十年に薨じ給ひき。まづ以上の事を心得おくべし
 カケマクモは古義に云へる如く口ニカケテイハムモといふことにて次なるイハマクモに同じ。考に『いやしき心にかけて慕奉らむも』といへるは非なり〇一云ユユシケレドモとあるはわろし。ユユシキカモのユユシはこゝにては次なるカシコシと同じ。古義に『恐多クユユシキ哉となり』といへるが如し○アヤニ畏伎といふ辭、語格の上にてはアスカノ眞神ノ原にかゝれり。されど地名をいふにイハマクモアヤニカシコキとはいふべからず。案ずるに伎は之の誤にてアヤニカシコシと切りたるにこそ。さらでは第二句をユユシキカモと切りたるも不審なり。現に三卷安積皇子薨之時家持作歌にも
  かけまくもあやに恐之〔右△〕いはまくもゆゆしきかもわがおほきみ御子の命の云々
とあり(因にいふ。家持の歌には古歌殊に人麿憶良の歌を學びたる處多ければ相照して古歌を釋き又は古歌の誤を正すべきこと少からず)○アマツミカドは古義に云へる如く御陵の事なり。下なる弓削皇子薨時歌にもヒサカタノアマツ宮ニカム(268)ナガラ神トイマセバとあり。略解に考の説によりて天にのぼります事と見て『右にアマノ原イハトヲヒラキカムアガリアガリイマシヌと云にひとしく崩給ふ事をいふ』といへるは非なり○イハガクリマスは契沖の云へる如く葬《カク》されたまふをいふ。さてイハガクリマスにて切るゝにはあらでイハガクリマスワガオホキミノとつづくなる事も契沖の云へる如し。そのオホキミは天武天皇なり。右によれば天武天皇の御陵は明日香の眞神ノ原にありしなり。然るに日本紀及諸陵式に依れば此天皇の御陵は檜隈《ヒノクマ》(ノ)大内(ノ)陵なり。されば代匠記には『大内陵の處を眞神(ノ)原とも云か』といひ略解は大内を眞神(ノ)原の小名とせり。されど眞神(ノ)原は崇峻天皇紀に
  元年……始作2法興寺1。此地名2飛鳥(ノ)眞神(ノ)原1。亦(ノ)名(ハ)苫田
とあり本集卷十三に
  みもろの、神なび山ゆ、とのぐもり、雨はふりきぬ、あまぎらひ、風さへふきぬ、大口の、眞神の原ゆ、しぬびつつ、かへりにし人、家にいたりきや
とあり又今の歌にも明日香ノ眞神ノ原とあれば眞神(ノ)原は大内陵とは同郡ながら檜隈《ヒノクマ》にはあらで飛鳥《アスカ》にあるなり。大日本地名辭書にも『眞神原は飛鳥法興寺の地に(269)て鳥形山の下なり」といひ又
  飛鳥寺 法興寺又元興寺と號す。今|安居院《アグヰ》(眞言宗號2鳥形山1、飛鳥大佛と稱するもの)の北に本寺址礎石數多あり
といへり。大内陵の地は檜隈の北端にて飛鳥の西隣に當れば古は此地をかけて明日香の眞神(ノ)原といひしを後に檜隈に屬せられしならむ○ヤスミシシワガオホキミ以下は壬申の亂の事を云へるなり○ソトモは裏手なり。前註に云へる如く美濃は大和の東北方に當るが故にソトモノクニと云へるなり○ワザミガ原は上田秋成の膽大小心録に「美濃國わざみが原とは今いふ關が原也」と云へり○アモリは天降なれどこゝにてはただクダリと心得べし。ヲサメタマヒとハラヒタマヒテとはヲサメタマヒをとるべし。此時天武はいまだ天子におはしまさねど此長歌は天子と見奉りてよめるなり。さればこそ上にもキコシメスソトモノクニとは云へるなれ○チハヤブルを考、略解、美夫君志に枕辭とせるは非なり。こゝにては枕辭にあらで狂暴ナルといふことなり。ヤハスは懷柔する事○ヲサメトとハラヘトとはいづれにてもあるべし。宣長の云へる如くヲサメヨトといふをいにしへはヨの言なく(270)てヲサメトともいひしなり○ミコナガラは考に云へる如く皇子ノママニテといふことなり。大將軍には任じたまへど皇子を下して臣下とし給ひしにあらねばミコナガラといへるなり○任を雅澄は自動詞としてマキとよめれどこ々は天皇が皇子を大將軍に任じ給ふなれば考の訓の如くマケとよむべし。以下高市皇子の御上をいへり
 
大御身に たち取帶之《トリハカシ》 大御手に 弓とりもたし みいくさを あともひたまひ ととのふる 鼓の音は いかづちの 聲ときくまで ふき響《ナス》流〔□デ圍む〕 くだのおと母〔左△〕《ハ》【一云ふえの音は】 あたみたる 虎かほゆると もろ人の おびゆるまでに【一云ききまどふまで】 ささげたる 幡のなびきは (ふゆごもり) 春さりくれば 野ごとに つきてある火の【一云ふゆごもりはる野やく火の】 風のむた 靡如久《ナビクガゴトク》 取持流《トリモタル》 ゆはずのさわぎ みゆきふる 冬の林に【一云ゆふの林】 飄《ツムジ》かも いまきわたると おもふまで ききのかしこく【一云もろびとのみまどふまでに】 ひきはなつ 矢のしげけく (大雪の) 亂而《ミダレテ》きたれ【一云あられなすそちよ(271)りくれば】
大御身爾大刀取帶之大御手爾弓取持之御軍士乎安騰毛比賜齊流皷之音者雷之聲登聞麻低吹響流小角乃音母【一云笛乃音波】散見有虎可※[口+リ]吼登諸人之協流麻低爾【一云聞惑麻低】指擧有幡之靡者冬木成春去來者野毎著而有火之【一云冬木成春野燒火乃】風之共靡如久取持流弓波受乃驟三雪落冬乃林爾【一云由布乃林】飄可毛伊卷渡等念麻低聞之恐久【一云諸人見惑麻低尓】引放箭繁計久大雪乃亂而來禮【一云霰成曽知余里久禮婆】
 取帶之は美夫君志にトリハカシとよめるに從ふべし。佩ビ給ヒとなり○トトノフル以下三十句を以て五種の軍器を形容せり。即皷四句、角《クダ》六句、幡八句、弓八句、矢四句なり。而して幡と弓との形容は略相對せり○アトモヒは率ヰなり。トトノフルは宣長の云へる如く呼び集むるなり(玉の小琴の外、記傳三十卷五十六丁、詔詞解第一詔を見べし)○吹響流の流は或は衍字か。さらばフキナスと四言によむべし。クダノオトモとあるモの言いぶかし。前にツヅミノオトハとあり後にハタノナビキハとあ(272)ればこ々もクダノオトハとあるべきなり(はやく考にも『小角ノ音母とある母の辭前後の辭の例に違』といへり)。一本にはフエノオトハとあり。フエとクダとはいづれにてもよけれどモはハの誤とすべし○アタミタルを古義に寇而有《アタミタル》なり。寇ンダルと云むが如し。ミはカタミシテなど云ミに同じ。敵にはりあひいかれるをいふなり
といひ美夫君志に
  敵見は新撰字鏡に怏於高反、※[對/心]也、強也、心不服也、字良也牟、又阿太牟とありてアダミ、アダムと活く詞也。これを虎が敵を見たる意とするは非也。こは虎が心不v服して怒れるをいふ也
といへれどアタムは字鏡に『心に服せざるなり』とある如く心のうちにて恨むる義にて(字鏡に宇良也牟とある也は衍字なるべし)敵にはりあひ向ふ義にあらず。さればアタミタルはなほ舊説の如く敵を見たる意とすべし○オビユルマデニは一本にキキマドフマデとあり。第一節のとぢめにキクマデといひ第二節のとぢめに又キキマドフマデといはむは拙なれば底本に從ふべし。マデニは後世のマデなり。ニ(273)を添へたるに拘はるべからず○フユゴモリ以下四句一本にフユゴモリハルヌヤク火ノとあれど此一節は次の一節と對を成せるに次の節八句なれば此節も八句なるべし。一本の方によれば六句となればなほ底本に從ふべし○風ノムタは風ニツレテなり。靡如久を眞淵ナビケルゴトクとよめるを雅澄は舊訓に從ひてナビクガゴトクとよめり。此方調強くてこゝにかなへり○長等の山風附録一(信友全集第四の五五一頁)に
  幡の靡を春野燒く火にたとへたるは古事記序に此御軍のさまを賛へたる文に杖矛擧v威、猛士烟起、絳旗耀v兵、凶徒瓦解と作るに符《カナ》へり。絳旗は赤旗なり。赤旗兵士を耀して殊に勢を益して見えたるさまをいへるなり云々
といへり○取持流を眞淵トリモテルとよめるを雅澄は又舊訓によりてトリモタルとよめり。こはいづれにてもよし○ユバズノサワギの下にハを補ひてきくべし。宣長の説(記傳二十三卷八十七丁)に
  一にアヅサノ弓ノナリバズノオトスナリ、二にトリモテルユバズノサワギ云々キキノカシコクなどあるは射るに音高く鳴るがありしことゝ聞ゆ
(274)といひ雅澄は此説を敷衍して
  さていかなれば弭の鳴やうにつくれるぞといふに其音以て威すが料なりけり
といへり。右の説然るべし○飄は眞淵のツムジとよめるに從ふべし○イマキワタルのイは添辭なり。さてそのマキを雅澄の『木葉フキマクなどいふマキなり』といへるは非なり。木葉フキマクは風が木葉をふきまくにてイマキワタルのマクは風が己を卷くなり。混同すべからず。このマクは紅葉にソムルといひ浪にヨスル、カクルといふ類にて余の假に復己動詞又准自動詞と名づけたるものなり○キキノカシコクを考にミノカシコクに改めて『こゝは聞ことならず。見を誤れる事明かなれは改めつ』といひ略解にも『こゝは見る事なれば一本の見マドフマデニと有かた然るべし』といへれど古義に云へる如く上にユハズノサワギとあればキキノカシコクとありてよくかなへり○シゲケクはシゲカルヤウハとなり○亂而を古義には例の如くミダリテとよめり。なほミダレテとよむべし。キタレはキタルニなり。御方よりいはばユキタレといふべきを次に敵のさまを云はむためわざとキタレといひて巧に自他を轉じたるなり。一本のアラレナスソチヨリクレバは劣れり。大ユキノ(275)は大雪ノ如クなり
 
まつろはず たちむかひしも (露じもの) けなばけぬべく (ゆく鳥の) あらそふはしに【一云あさしもの消者消言爾うつせみとあらそふはしに】 わたらひの 齊〔左△〕宮《イツキノミヤ》ゆ かむ風に いふきまどはし 天雲《アマグモ》を 日の目もみせず とこやみに おほひたまひて 定めてし みづ穗の國を
不奉仕立向之毛露霜之消者消倍久去鳥乃相競端爾【一云朝霜之消者消言爾打蝉等安良蘇布波之爾】渡會乃齊宮從神風爾伊吹惑之天雲乎日之目毛不令見常闇爾覆賜而定之水穗之國乎
 マツロハズタチムカヒシモといへるは敵軍にて頑強ニ抵抗セシ者モ亦となり○ケナバケヌベクは終ニハ死ナバシヌベクなり。ハシニは俗語のトタンニなり○齊宮を舊訓にイツキノミヤとよめるを眞淵イハヒノミヤに改め雅澄も亦『イツキノミヤとよまば齋王のまします處とまぎるべし』といひてイハヒノミヤとよめり。そはいかにもあれこ々に齋宮とあるは書紀垂仁天皇紀に因興2齋宮于五十鈴川上1と(276)ある齋宮と同じく皇大神宮の御事なり○カムカゼニは神風ヲ以テなり。考、略解、古義、美夫君志共にイフキマドハシのイフキを息吹としたれどイは契沖の云へる如く添辭にてフキマドハシは敵を吹惑はすなり○アマグモは大ゾラなり。天の字流布本に大に誤れり○サダメテシは天照大御神の定め給ひしなり
 
かむながら ふとしき座而《マシテ》 (やすみしし) わがおほきみの 天の下 まをしたまへば よろづ代に しかしもあらむと【一云如是毛あらむと】 (ゆふ花の) さかゆる時に わがおほきみ みこの御門を【一云サス竹のミコノ御門を】 かむ宮に よそひまつりて つかはしし 御門の人も しろたへの 麻ごろもきて はにやすの 御門の原に (あかねさす) 日の盡《コトゴト》 (ししじもの) いはひふしつつ (ぬばたまの) ゆふべになれば 「大殿をふりさけみつつ」 (うづらなす) いはひもとほり さもらへど さもらひ不得者〔左△〕《カネテ》 (はるとりの) さまよひぬれば 嘆も いまだすぎぬに おもひも いまだつきねば (ことさへぐ) くだらの原ゆ かむはふり はふり(277)伊座而《イマセテ》 (あさもよし) きのへの宮を とこみやと 高之〔二字左△〕《サダメ》まつりて かむながら しづまりましぬ
神隨太敷座而八隅知之吾大王之天下申賜者萬代然之毛將有登【一云如是毛安良無等】木綿花乃榮時爾吾大王皇子之御門乎【一云刺竹皇子御門乎】神宮爾裝束奉而遣使御門之人毛白妙乃麻衣著埴安乃御門之原爾赤根刺日之盡鹿自物伊波此伏管烏玉能暮爾至者犬殿乎振放見乍鶉成伊波比廻雖侍候佐母良比不得者春鳥之佐麻欲此奴禮者嘆毛未過爾憶毛未盡著言左倣久百済之原從神葬葬伊座而朝毛吉木上宮乎常宮等高之奉而神隨安定座奴
 ミブホノ國ヲカムナガラフトシキ座而とつづけるなり。さてミヅホノクニヲ以下七句自他極めて不明なり。抑壬申の亂は紀元一三三二年なり。紀によれば此年天武位に即き給ひ十四年の後即一三四六年に崩御し給ひ皇后持統位に即き給ふ。而して高市皇子の太政大臣に任せられ給ひしは一三五〇年なり。さればミヅホノクニ以下七句に十八年二代間の事をたゝみこめたり。いたく辭を省きたるはやむを得(278)ざるなり。さて天ノ下マヲシタマヘバは高市皇子が大政を執り給ひし事なること疑ふべからず。次にヤスミシシワガオホキミノは天皇を指し奉れるにや皇子を指し奉れるにや。略解、古義、美夫君志は天皇の御事とせり。オホキミノを天皇の御事とせばオホキミノ天ノ下とつづけて天皇ノ天下ヲ高市皇子ガ治メタマヘバと見ざるべからず。而してかく見ればフトシキマシテといふ句のをさまる處なくなるなり。されば雅澄は座而の而を衍字としてフトシキイマスヤスミシシワガオホキミノ天ノ下とつづけて心得たり。案ずるに座而はなほマシテとよむべくヤスミシシワガオホキミは高市皇子とすべくミヅホノクニヲの下に天皇ガといふことを略したりと見るべし。はやく記傳三十二卷二十二丁にワガオホキミノアメノシタマヲシタマヘバの三句を引きて
  此オホキミは高市皇子尊を申せり
といひ註疏に
  ヤスミシシワガオホキミノは高市皇子をさす。さるは定マリシ天下ヲ天武天皇ノ神ナガラフトシリマシテソノ後吾大王高市皇子ノ天下ノ政ヲタスケ申シ玉(279)ヘバといふことなり。この吾大王を諸註天武の御事として次なる申賜者よりを高市の御事とおもへる故に古義の衍字の説もおこれるなり
といへり。なほ云はば瑞穗國ヲ天武ガ太シキマシ次イデ持統ガ太シキマシテ我高市皇子ガ太政大臣トシテ政ヲ行ヒタマヘバといへるなり○如是毛を考にはシカモ、古義にはカクシモ、美夫君志にはカクモとよめり。美夫君志によるべし。底本のシカシモといづれにてもあるべし。シカシモアラムトは然アリナムトなり○ユフバナノは枕辭なり。冠辭考にこは木綿もて造れる衣を實に咲榮ゆる花のごとくにいひなして皇子尊の御齢の盛なりしをいふ冠辭とせり。さて集中に春花ノ榮ル時とよめる如く實の花をもいふべけれどその比ユフもて作れる花をいとめづる事ありてよめるなるべし云々
といへり○サカユルトキニを古義、美夫君志に皇子の御事としてミサカリニ榮エ給フ時ニと釋き『皇子のさかえ給ふを木綿花にたとへて云々』と釋きたれどヨロヅヨニシカシモアラムトユフバナノサカユルトキニとつづけるシカシモアラムト(280)はカヤウニアラウト思ウテといふことにて世の人の思ふ心なればサカユルトキニも世の人の事とせざるべからず○ワガオホキミミコノミカドヲは一本にサスタケノミコノミカドヲとあり。底本の方まされり。御門は御殿なり。古義に『殯宮の御門なるべし』といへるは非なり(美夫君志同説)○カムミヤニヨソヒマツリテはカム宮ニヨソヒ改メマツリテなり。このニは上なるアマグモヲ日ノ目モミセズトコヤミニ〔右△〕オホヒタマヒテのニと同じく變ジテといふ意を含めり○ミカドノ人のミカドも御殿なり。考、古義、美夫君志に御門を守る舍人とせるは誤れり。薨じての後に御階の下を去りて御門を守る舍人等をツカハシシミカドノ人といふべけむや○芳樹いはく
  白色は元來神事の服なり。喪服は白色にあらず、みないはゆる墨染、鼠色、鈍色の衣にて論語の朱注に喪主v素、吉主v玄といへる漢國の制とはうらうへなり。天智天皇の頃などより漢ぶりの素服の制をまね上古よりの制にまじへられたれどなほ皇國に素服を用るは漢國の如く喪中の常服とするにはあらず、ただ御送葬の時などに用るのみ。されば素服は喪中の禮服、喪服は喪中の常服と知るべし(採要)
(281)といへり○ハニヤスノミカドノ原は考に『香久山の宮の御門の前なる野原をいへり』といへり。原は廣場なり○アカネサス以下十句のうち
  あかねさす、日のことごと、ししじもの、いはひふしつつ
  ぬばたまの、ゆふべになれば、△△△△△、△△△△△△△、うづらなす、いはひもとほり
と相對せるなればユフベニナレバの下にオホトノヲフリサケミツツの二句を挿入すべきにあらず。其上フリサケミツツといふ句下なるとかさなりツツといふ辭も上なるイハヒフシツツとかさなりておもしろからず。恐らくは此二句は下なる天ノゴトフリサケミツツの下に一云として書入れられたりしがまぎれてこゝには入れるなるべし○日ノコトゴトは終日といふ事、イハヒのイは添辭、モトホリは徘徊なり。不得者は舊訓にエネバとよめるを宣長は者〔右△〕を天の誤としてカネテとよみ改めたり○サマヨフは呻吟すること○ヌレバはヌルニ、次なるツキネバはツキヌニなる事宣長の云へる如し(記傳十一卷十丁に『ネバはヌニと云意なり。此例古歌(282)には多し』といひて例を擧げたり)○クダラノハラユはクダラノ原ヲ經テなり○高之の二字を宣長は定〔右△〕の字の誤としてサダメとよめり。之に從ふべし○さてカムハフリ以下自他頗まぎらはし。まづハフリは他動詞なればハフリイマシテとはいふべからず。されば伊座而はイマセテとよむべきか。犬※[奚+隹]隨筆上十六頁にも
  伊座而を諸本イマシテと訓り。此訓惡し。イマセテと訓べし。令v座テの意なればなり
といへり。又思ふに伊座而は奉而の誤にてハフリマツリテなるか。本集十三卷にも神葬葬奉者とあり。シヅマリマシヌもサダメマツリテと自他相かなはぬこ々ちすれどこはサダメマツリテの下にて主格のかはれるなり。即人が定めまつりて皇子がしづまりましぬるなり。テの前後にて主格のかはれる例は上にも天皇の瑞穗(ノ)國をふとしきまして皇子の天の下を申し給ふをカムナガラフトシキマシテ〔右△〕ヤスミシシワガオホキミノ天ノ下マヲシタマヘバといへり
 
しかれども わがおほきみの 萬代と おもほしめして つくらしし かぐ山の宮 萬代に すぎむともへや 天のごと ふりさけみ(283)つつ (たまだすき) かけてしぬばむ かしこかれども
雖然吾大王之萬代跡所念食而作良志之香來山之宮萬代爾過牟登念哉天之如振放見乍玉手次懸而將偲恐有騰文
 シカレドモはワガ大王ハシヅマリマシヌレドモなり○萬代トはヨロヅヨニマシマサムトテなり。古義に『萬代ニモ易ルべカラヌ宮トオモホシメシテの意なり』といへるはよく思ふにかなはず。さてこのヨロヅヨトは次なるヨロヅヨニと偶然相かさなれるにはあらでわざと重ねたるなり。即ヨロヅヨニマシマサムトオモホシテ宮ヲ作リ給ヒシ御身ハスギ給ヒシカド其宮ハ萬代ニウセジといへるなり○スギムトモへヤは古義に云へるごとくスギウセムヤハの意にてオモフは例の如く當時のものいひのま々に輕く添へたるなり○アメノゴトフリサケミツツ、上なるオホトノヲフリサケミツツは此二句の異傳なるべし
 
   短歌二首
200 (ひさかたの)あめしらしぬる君ゆゑに日月《ツキヒ》もしらにこひわたるかも
(284)久堅之天所知流君故爾日月毛不知戀渡鴨
 アメシラシヌルは前註に云へる如く薨ジ給ヒシといふこと○君ユヱニは宣長『君ナルモノヲといふ意なり』といへり。人ヅマユヱニのユヱニと同じ。ソコユヱニミコノ宮人ユクヘシラズモのユヱニとは異なり○シラニはシラズなり
 
201 はにやすの池の堤の隱沼《コモリヌ》のゆくへをしらに舍人はまどふ
埴安乃池之堤之隱沼乃去方乎不知舍人者迷惑
 考に
  こは堤にこもりて水の流れ行ぬを舍人の行方をしらぬ譬にいへればコモリヌとよむなり。今本カクレヌと訓たるはここにかなはず。後世あし蒋などの生しげりて水も見えぬをカクレヌといふと心得てこ々を訓つるはひがごとなり
といへり。即眞淵は池ノツツミノコモリヌを埴安ノ池ノ水ノ堤ニ圍マレタル部分とせるなり。雅澄は
  コモリヌとは草などの多く生茂りて隱れて水の流るゝ沼なり
といひてそのコモリヌと堤又は池との關係を説かず。案ずるに本集にコモリヌノ(285)シタユコフレバ、コモリヌノシタユコヒアマリなどあるを見ればコモリヌは雅澄のいへる如く草にうづもれたる沼なり。而して其コモリヌは池の一部にて堤に接したる處ならむ、其處の水はいづ方へぬくるにか知られねばユクヘヲシラニの序とせるなり○ユクヘは行クべキ方にて今いふ方向なり。上なるミコノ宮人ユクヘシラズモのユクヘに同じ。皇子におくれ奉りて今後いかがすべきと舍人の惑ふさまなり。特に舍人を擧げたるは作者も舍人の一人なればなり。さればトネリハは我々舍人ハと心得べし。人麿は初草壁皇子の舍人たりしが皇子の薨ぜし後、高市皇子の舍人たりしなり
 
   或書(ノ)反歌一首
202 なき澤のもりにみわすゑ雖祷祈《イノレドモ・コヒノメド》わがおほきみは高日しらしぬ
哭澤之神社爾三輪須惠雖祷祈我王者高日所知奴
    右一首類聚歌林曰。檜隈《ヒノクマ》(ノ)女王怨2泣澤(ノ)神社1之歌也。案2日本紀1曰。持統天皇十年丙申秋七月辛丑朔庚戌後(ノ)皇子(ノ)尊薨
 前の歌の反歌にあらず
(286) モリは樹木茂りて神のいます處をいふ。故に本にモリに神社と書けり○ミワは眞淵のいへる如く酒をかめる※[瓦+長]《ミカ》をいふ。神酒とするは非なり○雖祷祈を舊訓にイノレドモとよめるを宣長コヒノメドに改めたり。いづれにてもあるべし。イノリツレドといふ事なれば雅澄の如くノマメドモとはよむべからず〇三四の間にソノカヒナクテといふ辭を加へて聞くべし○タカ日シラスはアメシラスに同じ
 
   但馬皇女薨後穗積皇子冬日雪|落《フリシニ》遙望2御墓1悲傷流涕御作歌一首
203 ふる雪はあはになふりそよなばりのゐがひの岡の塞爲卷爾《セキトナラマクニ》
零雪者安幡爾勿落吉隱之猪養乃岡之塞爲卷爾
 アハの事略解(宣長の説)、橘南谿の東遊記後篇一の十五丁(古義に『越の國にアハといふものありて云云』といへるは東遊記の文をすこしかへたるなり)、件蒿蹊の閑田耕筆卷一、村田春海の織錦舍隨筆上卷『海量がものがたり』といふ條(百家説林續篇上五四八頁)
  蒿蹊は大菅中養父よりきくといひ春海は村田泰足よりきくといひて其事全く相同じ。泰足は中養父の門人なれば師よりきゝしにこそ。海量の説は別なり
(287) 北越雪譜、田中大秀の荏野冊子などに見えたり。荏野冊子は版本なくて見し人少かるべければ今は其説のみを擧げむに
  飛騨にて雪のおつるを阿保《アヲ》(○傍訓はもとのま々)といふ。アハは淡しき雪といふことなるべし。寒強くてふる時は雪いと細末にて水氣なく輕ければ、さる時は積ることも甚深し。山の險しき地につもりたるが水氣なければ凍固まる事なくてなだれ落つるを樹を殖て防ぐ事なり
と云へり。右の諸書の説によれば近江、美濃、飛騨、越後などにてナダレの一種をアワ又はアヲといふと見ゆ(諸書にアハと書けるは今の歌のアハに據りたるにて口にてアハと唱ふるにはあらじ。北越雪譜にはアワと書けり)。案ずるに今の歌のアハもし崩雪の事ならばアハニフルとはいふべからず。されば今の歌のアハと彼方言なるアワとは關係なし。考には本に安幡とあるを佐幡に改めて
  多くふることなかれと云言なり。今本佐を安を誤れり。今改む
といへり。案ずるにアハはサハの誤にあらでアハ即サハなるべし(古今集墨滅歌の中なるクモノアハダツ山ノフモトニのアハダツもサハニタツなるべし)○ヨナバ(288)リノヰガヒの岡は契沖の云へる如く地名にて但馬皇女の御墓のある處なり○塞爲卷爾を考にはセキナラマクニとよみ古義にはセキナサマクニとよめり。又守部は塞爲を寒有の誤としてサムカラマクニとよみて彼サレバトテ石ニフトンモキセラレズの類とせり(鐘の響第四十四段)。案ずるに古義の如くよまばヰガヒノヲカガといふにきこゆべく、さるまぎれを防ぐには少くともセキの下にヲの言を加へざるべからず。又考の如くよみては意通ぜず。恐らくは塞の下に跡などのありしがおちたるにてセキトナラマクニにて皇女の御墓に詣で給はむ妨とならむにとのたまへるなるべし○古義に但馬皇女の薨ぜしは和銅元年なれば此歌は下なる寧樂宮の下にあるべしと云へり。此歌の調を思へば穗積皇子此皇女に通じて罪を蒙り給ひしが高市皇子の薨ぜし後は公然と同棲し給ひしならむ
 
   弓削皇子薨時|置始《オキソメ》(ノ)東人《アヅマヒト》歌一首井短歌
204 (やすみしし) わがおほきみ (たかひかる) 日のみこ (久かたの) あまつ宮に かむながら 神といませば そこをしも あやにかしこ(289)み ひるはも 日のことごと よるはも 夜のことごと ふしゐなげけど あきたらぬかも
安見知之吾王高光日之皇子久堅乃天宮爾神隨神等座者其乎霜文爾恐美晝波毛日之盡夜羽毛夜之盡臥居雖嘆不足香裳
 アマツミヤニ云云を略解に『神となりて天路しろしめすといふ意なり』といひ古義に『薨《スギ》賜ひては神魂《ミタマ》高天原に上りまして天津宮におはします由にいへり』といへり。案ずるに上にアスカノマカミノ原ニヒサカタノアマツ御門ヲカシコクモサダメタマヒテとあると對照するにアマツミヤは御墓所なり○カシコミはカシコミテなり。古義にカシコサニと釋せるは非なり。又古義に
  カシコミは皇子のすぎたまへるを下ざまの者よりして悲み奉るはいともかたじけなくかしこき意にて云るなるべし
といへれど高貴の人に對し奉りては悲しき事にもうれはしき事にもカシコシといふべし。今もオソレ入ツタ事などいふにあらずや。雅澄の説はいりほがなり○フ(290)シヰナグケドは古義に云へる如くフシテ嘆キ居テナグケドなり
 
   反歌一首
205 おほきみは神にしませばあま雲のいほへが下〔左△〕《ウヘ》にかくりたまひぬ
王者神西座者天雲之五百重之下爾隱賜奴
 眞淵は下を上の誤とし宣長はもとの如くなるをよしとして
  下は裏にてウチと云に同じ。ウヘは表なれば違へり。表に隱る々と云ことやはあるべき
といへり。案ずるに俯して見るものには上を表とすべし。天空は上方にありて仰ぎ見るものなれば下を表とし上を裏とすべし。なほ床板と天井との表裏を異にするが如し。されば今の下〔右△〕はなほ眞淵の説の如く上の誤なるべし
 
   又短歌一首
206 ささなみのしがさざれなみしくしくにつねにと君が所念有《オモホセリ》ける
神樂波之志賀左射禮浪敷布爾常丹跡君之所念有計類
(291) 初二句は契沖の云へる如くシクシクニの序なり○シクシクニはタビタビといふ事にて雅澄の云へる如く所念有ケルの上へうつして心得べし。契沖及木村博士のツネニトにつづけて心得たるはシガサザレナミまでを序とせると矛盾せり。兩大人の説の如くばシクシクニまでを序とせざるべからず○所念有は宣長のオモホセリとよめるに從ふべし。四五の意はイツマデモ生キテヰタイト屡仰セラレタノニといへるなり。オモホセリケルは畢竟ノタマヒケルなり。契沖がオモホエタリとよみて
  常にましまして久しく仕へ奉らむと思ひし事のはかなかりけるよと東人がみづからの心を述たるなり
と釋し雅澄が訓釋ともに(シクシクニのかかり處を除きて)之によれるは誤なり○古義にいへる如く志賀をよめるは何ぞ所縁ありてのことなるべし○シガサザレナミは契沖『志賀の浦に立小浪なり』といへり。大膽に過ぎたるはぶき方にて彼ユフナミチドリの如くはなつかしからず。古義に『古人ならではあるまじきなり』とたゝへたるは適に余の感と反せり
 
(292)   柿本朝臣人麿妻死之後泣血哀慟作歌二首并短歌
207 (あまとぶや) かるの路は わぎもこが 里にしあれば ねもころに 見まくほしけど やまずゆかば 人目をおほみ まねくゆかば 人しりぬみ (さねかづら) 後もあはむと (大船の) おもひたのみて (玉蜻《タマカギル》) いは垣淵の こもりのみ こひつつあるに
天飛也輕路者吾妹兒之里爾思有者懃欲見騰不止行者人目乎多見眞根久往者人應知見狹根葛後毛將相等大船之思憑而玉蜻磐垣淵之隱耳戀管在爾
 古義に『カルノミチハは大和國高市郡輕といふ地の道路はなり』といへるはいかが。カルノミチは輕にかよふ路なり。今は輕ハ〔二字右△〕吾妹兒ノ里ニシアレバネモコロニ見マクホシケド其道ヲ〔三字右△〕ヤマズ行カバ人目ヲ多ミマネク往カバ人知リヌベミ云々といふべきをたゝめるなり。即ミチは下なる二つのユカバと相應ぜるなり○マネクユカバ人シリヌベミの例によらばヤマズユカバ人目ヲオホカルベミといふべけれ(293)ど本集十五卷にイモニアハズ安良婆須敝奈美、二十卷に和可例奈波イトモ須倍奈美などあれば必しも未來格を以て受けざりしなり。然らば未來格を以て受くるが新しく現在格を以て受くるが古きかといふに允恭天皇紀なる木梨(ノ)輕(ノ)皇子の御歌にイタ儺介麼《ナカバ》ヒト資利奴倍※[サンズイ+彌]《シリヌベミ》とあるを見れば(日本紀には介をカの假字に用ひたる事宣長の記傳、さき竹の辨などにいへる如し)又必しも然らざるなり。但後世はイデテイナバカギリナルベミ(伊勢物語)アケバ君ガ名タチヌベミ(古今集)色ニイデバ人シリヌベミ(同上)など必べミといふことゝなれり○マネクは眞淵『間無なり』といへるを宣長は『無間の意にはあらず繁クの意也』といへり。卷一ウラサブル心サマネシの處を見合すべし○ノチモは俗語のソノウチニなり○玉蜻イハガキブチノはコモリの序なり。玉蜻は舊訓にカゲロフノとよみ眞淵はカギロヒノとよめり。伴信友は玉蜻考(比古婆衣卷四【全集第四の九十一頁】)を作りてタマカギロとよむべしといひ雅澄も亦玉蜻考(萬葉集枕詞解下卷附録)を作りてタマカギルとよむべしといへり。雅澄の説に從ひてタマカギルとよむべくくはしくは各本書について見べし(美夫君志別記附録なる木村博士の鹿持雅澄玉蜻考補正も共に)
 
(294)わたる日の くれ去《ユク・ヌル》がごと てる月の 雲がくるごと (おきつ藻の) なびきし妹は (もみぢばの) すぎて伊去等《イニキト》 (たまづさの) 使のいへば
度日乃晩去之如照月乃雲隱如奥津藻之名延之妹者黄葉乃過伊去等玉梓之使乃言者
 ワタル日ノ以下四句は古義に云へる如くナビキシイモハの下にうつして心得べし○ワタル日のワタル、テル月のテルはただ輕く添へたるのみ。畢竟ワタル日、テル月といふは歌語なり○晩去を眞淵のクレヌルとよめるを雅澄は舊訓に從ひてクレユクとよめり。いづれにてもあるべし○ナビキシは女の形容なり○伊去等は考、古義にイニシトとよめれど美夫君志に云へる如くイニキトとよまでは語格かなはず○イヘバはイフニなり
 
(あづさ弓) おとにききて【一云おとのみききて】 いはむすべ せむすべしらに おとのみを ききてありえねば わがこふる 千重のひとへも 遣(295)悶流《ナグサムル》 こころも有《アリ》やと わぎもこが やまずいでみし 輕の市に わがたちきけば
梓弓馨爾聞而【一因聲耳聞而】將言爲便世武爲便不知爾聲耳乎聞而有不得者吾戀千重之一隔毛遣悶涜情毛有八等吾妹子之不止出見之輕市爾吾立聞者
 オトニキキテとオトノミキキテとは底本の方よろし。考、古義にオトノミキキテの方を採れるは非なり。次に至りてこそオトノミといふべけれ。オトは噂なり○遣悶流は古義にナグサムルとよめるに從ふべし。ココロはコトと心得べし○有八を舊訓にアレヤとよめるを古義にアリヤに改めたり。アレカシの意にはあらでアルカといふことなればアリヤとよむべし○ヤマズイデミシを契沖の『人丸のかよひくるやと出見るなるべし』といひ雅澄の『女の現世に人麻呂の通ひ來るやと出見しを云るにや』といへるはいかが。ただ市を出でて見しにこそ○キケバはキクニなり
 
(たまだすき) 畝火の山に なく鳥の 音《コヱ》もきこえず (たまぼこの) (296)道ゆく人も ひとりだに 似てしゆかねば すべをなみ 妹が名よびて 袖ぞふりつる
玉手次畝火乃山爾喧鳥之音母不所聞玉梓道行人毛獨谷似之不去者爲便乎無見妹之名喚而袖曾振鶴
    或本有d謂2之|名耳聞而有不得者《ナノミキキテアリエネバ》1、句u
 タマダスキ以下三句は音の序なること考にいへる如し○音は舊訓にオトとよめるを(本集には鶯、子規の聲をも於登といへる例あり)雅澄はコヱに改めたり。序よりかゝりてこそ鳥の聲なれ本文にては妹の聲なれば必コヱとよむべし○上なるタチキケバはコヱモキコエズにかゝれり。さればタマボコノの上に又といふ語を加へて聞べし○似テシユカネバのシは助辭なれば似テユカネバと云へるにて今の耳には異樣に聞ゆれど畢竟似タルガユカネバといふことなり○結二句は悲の極まりたるさまにて例の如くめでたし
 
   短歌二首
(297)208 秋山のもみぢをしげみ迷流《マドヒヌル》妹をもとめむやまぢしらずも【一云みちしらずして】
秋山之黄葉乎茂迷流妹乎將求山道不知母【一云路不知而】
 迷流を舊訓にマドヒヌルとよめるを考にマドハセルとよみ改めたり。いづれにても。結句は底本の方よし○うせて山に葬られたるを山に迷ひ入りしやうに云へるなり
 
209 もみぢばの落去《チリヌル》なべに(たまづさの)使をみれば相日《アヒシヒ》おもほゆ
黄葉之落去奈倍爾玉梓之使乎見者相日所念
 落去は考にチリヌルとよめるに從ふべし○ナベニはツケテ(契沖)又はツレテ(雅澄)と譯すべし○相日は考にアヘル日とよめれどなほ舊訓にアヒシ日とよめるに從ふべし〇一首の意は曾テ妻ノ許ヨリ迎ノ人ヲオコセシ時恰秋ニテ紅葉ノチリシコトアレバ今日喪ヲ告グル使ノ來レル時ヤハリ紅葉ノチルニツケテ彼日ガ思ヒ出デラルルとなり(考、古義)。反歌のうちに入れたれどこは長歌より前に作りしならむ○美夫君志に『大和より來たる使を見るにつけて』といひ長歌ツカヒノイヘバの(298)處に『使は大和より來たる使なり』といへれど人麿は此時藤原にありしにこそ
 
210 うつせみと おもひし時に【一云うつそみとおもひし】 取持而《タヅサヒテ》 わがふたりみし ※[ソウニョウ+多]出《ハシリデ》の 堤にたてる つきの木の こちごちのえの 春の葉の しげきがごとく おもへりし 妹にはあれど たのめりし 兒等にはあれど 世のなかを そむきしえねば かぎろひの もゆる荒野に しろたへの あまひれがくり (とりじもの) 朝たちまして (入日なす) かくりにしかば
打蝉等念之時爾【一云宇都曽臣等念之】取持而吾二人見之※[ソウニョウ+多]出之堤爾立有槻木之己知碁智乃枝之春葉之茂之如久念有之妹者雖有憑有之兒等爾者雖有世間乎背之不得者蜻火之燎流荒野爾白妙之天領巾隱鳥自物朝立伊麻之弖入日成隱去之鹿齒
 二首の長歌を兼ねて一の題辭を加へたれど初の長歌は忍びて通ひし妻、此長歌は公の妻の、子さへありしが死にしをかなしめる作なることはやく眞淵のいへる如(299)し。ウツセミトオモヒシトキニはコノ世ニアリシ時ニといふことにて明日香皇女殯宮之時歌にも見えたり○取持而を眞淵雅澄共にタヅサヘテとよめれどタヅサヘテは他動詞にて今は自動詞ならではかなはざればタヅサヒテとよむべし(木村博士同説)○※[ソウニョウ+多]出は舊訓にワシリデとよめるを眞淵はハシリデに改めたり。之に從ふべし。下に擧ぐる或本の歌にイデタチノとあるに當りたれば家ヨリ走リ出デ(又はイデタチ)タル處といふことゝおぼゆ(橘守部の山彦冊子卷三の三十六丁を參考すべし)○ツキノ木はケヤキなり。コチゴチノは兩方ノなり。山彦冊子卷三(三十八丁)に久老宣長の説(つきの落葉上卷三十四丁、古事記傳四十一卷廿一丁)を斥けて
  コチゴチはヲチコチとは元より別にて其言のさま上に物二つを先いひて其一をコチと指し今一をコチと指ていふ詞なり。今の心にてはふたつながらコチといはんは差別なくいかがなるやうなれど今の俗言にも兩方にある物を指ざしてコチラモヨイ此方モヨイ又コチラガオモシロイ否コチラガオモシロイなど常にいふと同じいひざまなり。さればかのヲチコチといふ語はうちつけにもよみ出せるを此コチゴチは一首の初にうち出せる例はあらずして必先上に物二(300)を云て其次にのみいへり云々
といへり○シゲキガゴトクはオモヘリシとタノメリシとにならび係れり。畢竟オモヒタノメリシといふべきを二つに割きたるなり○コラは妹に同し。對とするにつきて語を換へたるのみ○ヨノナカヲソムキシエネバは古義に云へる如く常ナラヌ世間ノコトワリヲ背キエザレバとなり○カギロヒノモユルはカゲロフノ立ツにて荒野の形容に云へるのみ○アマヒレを宣長は
  葬送の時の旗を領巾と云るにて字のまゝにヒレと訓べきか。領巾と旗と其さま似たればかくも云べし
といひ雅澄は歩障を見立てたるなりといへり。宣長の説の方穩なり
 
わぎもこが かたみにおける 若兒《ミドリコ》の こひなくごとに とりあたふ ものしなければ 鳥穗〔二字左△〕《ヲトコ》じもの わきばさみもち わぎもこと ふたりわがねし (まくらづく) つまやの内に ひるはも うらさびくらし よるはも いきづきあかし なげけども せむすべしらに (301)こふれども あふよしをなみ (おほとりの) はがひの山に 吾〔左△〕《ナガ》こふる 妹はいますと 人のいへば いは根さくみて なづみこし よけくもぞなき うつせみと おもひし妹が (たまかぎる) ほのかにだにも みえぬおもへば
吾妹子之形見爾置若兒乃乞泣毎取與物之無者鳥穗自物腋挾持吾妹子與二人吾宿之枕付嬬屋之内爾晝羽裳浦不樂晩之夜者裳氣衝明之嘆友世武爲便不知爾戀友相因乎無見大鳥羽易乃山爾吾戀流妹者伊座等人之云者石根左久見乎〔左△〕名積來之吉雲曾無寸打蝉跡念之妹之珠蜻髣髴谷裳不見思者
 若兒は舊訓にミドリゴとよめるを雅澄はワカキコに改めたり。或本の歌に緑兒之とあり本集十八卷にも彌騰里兒ノチコフガゴトクとあればなほ舊訓のまゝにてあるべし。コヒナクは乳を乞ひて啼くなり○アタフはいにしへ四段活にはたらきしなり。記傳十卷ミトアタハシツの註に『人に物をあたふと云はアタハスルのハス(302)を約たる例の言にて云々』といへるは非なり。ミトアタハシツのアタハスはアタフの敬語にてそのアタフと今の世にいふアタフともとは一なり○鳥穗自物は或本ノ歌に男自物とあれば眞淵が鳥穗を烏コの誤とせるに從ひてヲトコジモノとよむべし。さて續紀歴朝詔詞解二第六詔の解(本居宣長全集第五の二四五頁)に
  萬葉に鹿子ジモノ、鳥ジモノ、鴨ジモノ、馬ジモノ、犬ジモノ、鵜ジモノなどあるはいづれもソレガヤウニといふ意と聞え又同二にヲノコジモノ、三に雄ジモノ、十一にヲノコジモノなどあるは男のすまじきわざをする意にいへりと聞ゆるを、……こゝに稻掛大平が萬葉に就て考へたるはジモノはザマノなるべし。ザマとジモと音通へり。シシジモノは鹿状之《シシザマノ》にて此類みな同じ。ヲノコジモノは男ノ状トシテといふ意にて聞ゆ。といへり。此考さもあるべし
といへり。雅澄の
  ヲトコジモノは常に某ジモノといふとはいさゝか異りて男のすまじきわざをするをいふ意にいへり
といへるも右の宣長の説によれるなり。なほ考ふべし○子をわきばさむといふ事(303)は今はせぬことなれどいにしへはせし事なり。三卷にワキバサム子ノナク毎ニヲトコジモノオヒミウダキミとあり。古語拾遺にも天照大神育2吾勝尊1特甚鍾愛常懷2腋下1稱曰2腋子1云々とありて註に今俗號2稚子1謂2和可古1是其轉語とあり○ツマヤは寢屋なり。ウラサビはシヲレにてイキヅキは嘆息なり。シラニは知ラズなり○吾コフルは或本(ノ)歌に汝コフルとあり。眞淵雅澄は汝をよしとせり。ワガともいふまじきにあらねどなほナガの方まさるべし○イハネサクミテは岩根ヲ蹈ミトホリテなり。ナヅミコシはナヅミコシヲといふ意なり。ナヅミはナヤミなり。○ヨケクモゾナキのヨケクモはヨキ事モなり。此句は最終にまはして心得べし。モゾは宣長(玉緒七卷十五丁)のいへる如くただモとゾと重なれるのみ。雅澄の『モゾといふ辭にカヘリテといふ意を含めたり』といへるは非なり○結尾のウツセミトオモヒシ妹ガは冒頭のウツセミトオモヒシトキニと呼應せり
 
   短歌二首
211 こぞみてし秋のつくよは雖照《テラセドモ》あひみし妹はいや年ざかる
去年見而之秋乃月夜者雖照相見之妹者彌年放
(304) 三句は舊訓にテラセドモとよめるを考にテラセレドとよみ改めたれどなほ舊訓に依るべし○アヒ見シは共ニ見シなり。卷三なる
  鞆(ノ)浦の礒のむろの木みむごとに相見し妹は忘らえめやも
の相見之に同じ○イヤトシザカルのトシザカルは一の動詞なり。さて年ザカルはただ月日ガタツといふことなり。年と云へるに泥むべからず○考に
  妻の死たる明る年の秋よめる歌なり
といひ古義に
  歌意は去年ノ秋ニ月ハカハラズ照セルヲ別レシ妻ハ彌年|遠放《トホザカ》リヌルヨとなりさて此歌にて見ればこの長歌短歌は妻の死て一周忌によまれしなり。拾遺集の詞書に『妻にまかりおくれて又の年の秋月を見侍りて』とあるはさる事なり
といへれど去年の秋妻のなほ世にありし事こそ確なれ去年の秋より今年の秋までの間のいつ比にうせしにか知るべからず。否長歌の調を思へばうせし後程を經ての作にあらじ。但此歌は次の歌より後の作ならむ
 
212 ふすまぢ乎〔左△〕《ノ》ひきての山に妹をおきてやまぢをゆけば生跡《イケリト》もなし
(305)衾道乎引手乃山爾妹乎置而山徑往者生跡毛無
 フスマは地名、フスマヂは衾ヘ行ク道にて乎は之の誤ならむ。集中に之を乎と誤れる例少からず。ヒキデノ山は契沖の云へる如くハガヒノ山と同處なるべし○ヤマヂヲユケバのユケバは古義にいへる如くクレバなり。妻の墓ある山より家に歸り來るなり○生跡は宣長いはく
  イケルトと訓べし。此トはてにをはにあらす。ヤキダチノト心又ココロ利モナシなど云る利《ト》にてイケルトモナシは心のはたらきもなくほれて生る如くにもなきを云也。此言集中に多し。皆同じこと也。十九卷に伊家流等毛奈之とある流の字を前に若くは理の誤かと云るは僻事也けり云々
 又いはく(玉勝間十三卷五丁)
  本にイケリトモナシと訓るは誤なり。イケルトとはトはトゴコロ、ココロトなどの利にて生る利心もなく心のうつけたるよしなり。さればトはてにをはのトにはあらず。これによりてイケルトといへる也云々
といへり。案ずるに生ける利心といふ事あるべきにあらず。なほイケリトとよみ十(306)九卷なる伊家流等の流は誤字とすべし
 
   或本(ノ)歌曰
213 うつそみと おもひしときに 携手《タヅサハリ》 わがふたりみし いでたちの ももえつきの木 こちごちに 枝させるごと 春の葉の 茂如《シゲキガゴトク》 おもへりし 妹にはあれど たのめりし 妹にはあれど 世の中を そむきしえねば かぎろひの もゆるあら野に しろたへの あまひれがくり (鳥じもの) 朝たちいゆきて (入日なす) かくりにしかば 吾妹子が かたみにおける みどりこの こひなくごとに 取委《トリマカス》 ものしなければ をとこじもの わきばさみもち わぎもこと ふたりわがねし (まくらづく) つま屋の内に 且〔左△〕者《ヒルハ》 うらさびくらし よるは いきづきあかし なげけども せむすべしらに こふれども あふよしをなみ (大とりの) はがひの山に ながこふる 妹はいますと 人のいへば いはねさくみて なづみこし よけく(307)もぞなき うつそみと おもひし妹が 灰にてませば
宇都曾臣等念之時携手吾二見之出立百兄槻木虚知期知爾枝刺有如春葉茂如念有之妹庭雖在恃有之妹庭雖有世中背不得者香切火之燎流荒野爾白栲天領巾隱鳥自物朝立伊行而入日成隱西加婆吾妹子之形見爾置有緑兒之乞哭別取委物之無者男自物脅挿持吾妹子與二吾宿之枕附嬬屋内爾且者浦不怜晩之夜者息衝明之雖嘆爲便不知雖戀相縁無大鳥羽易山爾汝戀妹座等人云者石根割見而奈積來之好雲叙無宇都曾臣念之妹我灰而座者
 携手は略解の一訓の如くタヅサハリとよむべし○取委を舊訓の如くトリマカスとよむべくばマカスは四段活とすべきか。且者は日者の誤か○灰而座者はハヤク火葬シテ灰ニナリタレバとなり。考(眞淵全集二二二六頁)に
  此反歌は葬の明る年の秋まゐでてよめるなるをひとめぐりの秋までも骨を納めず捨おけりとせんかは
(308)といへるを美夫君志に辨じて
  こゝは火葬して埋めたるをやがて灰ニテ云々といへるなり。火葬して埋めたりとも既に火葬せしは灰ならずや
といへる共に非なり。眞淵以下一周年の作としたれどさる證いづくにかある。一周年の作としたるはコゾ見テシといふ歌を誤解したる爲にこそ
 
   短歌三首
214 こぞみてし秋のつくよはわたれどもあひみし妹はいや年ざかる
去年見而之秋月夜雖度相見之妹者益年離
 
215 衾路《フスマヂノ》引出の山に妹をおきてやまぢ念〔左△〕邇いけりともなし
衾路引出山妹置山路念邇生刀毛無
 念邇は往邇などの誤ならむ
 
216 家にきて吾〔左△〕《ツマ》屋をみれば玉どこの外向來《ホカニムキケリ》いもがこまくら
家來而吾屋乎見者玉床之外向來妹木枕
(309) 考に『吾はもし妻の字にや』といへり。げにイヘニキテワガ屋ヲミレバとはいふべからず。考の説の如く吾屋は妻屋の誤なるべし○タマドコを眞淵の靈床の義とせるを雅澄は『タマはほむる詞にて妹が座し床なればたゝへ云なり』といへり。此説によるべし○諸註此歌をコゾミテシ、フスマヂヲと同列なる反歌と見たれどイヘニキテツマヤヲミレバ云々といへる、久しく其家に住みたりけるが墓に詣でて歸り來てよめる調にあらず。他處にありけるが妻の死にし後に始めて其家に歸り來てよめる調にて長歌に
  わぎもこと、ふたりわがねし、まくらづく、つまやの内に、ひるはも、うらさびくらし、よるはも、いきづきあかし
などいへると調相かなはず。されば今の歌は右の長歌の反歌にあらず○外向來を考にホカニムキケリ(舊訓はホカニムキケル)とよめるを古義にはトニムカヒケリに改めたり。内外の外と見ては何の事とも聞えず。アラヌ方といふ意とみゆればなほもとの如くホカニムキケリとよむべし○コマクラは本の字の如く木枕なり
 
   吉備津(ノ)采女《ウネベ》死時柿本朝臣人麿作歌一首并短歌
(310)217 (秋山の) 下部留《シタブル》妹 (なよ竹の) とをよる子らは いかさまに おもひ居《マセ》か (たく紲《ナハ》の) ながき命を 露こそは あしたにおきて 夕者《ユフベニハ》 消《キユ》といへ 霧こそは ゆふべにたちて 明者《アシタハ》 失《ウス》といへ (あづさ弓) おときくわれも 髣髴《オホニ》みし ことくやしきを (しきたへの) 手枕まきて (つるぎだち) 身にそへねけむ (若草の) そのつまの子は さぶしみか おもひてぬらむ クヤシミカ オモヒコフラム 時ならず すぎにし子ら我〔左△〕《カ》 朝露の如也《ゴト》 夕霧の如也《ゴト》
秋山下部留妹奈用竹乃騰遠依子等者何方爾念居可栲紲之長命乎露己曾婆朝爾置而夕者消等言霧己曾婆夕立而明者失等言梓弓音聞吾母髣髴見之事悔敷乎布栲乃手枕纏而劔刀身二副寐價牟若草其嬬子者不怜彌可念而寐良武時不在過去子等我朝露乃如也夕霧乃如也
 題辭の吉備津釆女を宣長は反歌によりて志我津釆女の誤とせり。志我津(ノ)釆女は近江國志賀の郡領の女なるべし○下部留を舊訓にシタベルとよめるを紀傳三十四(311)卷三十三丁にシタブルとよみて『部留をベルとよむは非なり』といへり。下二段活の動詞なり。さて其義はニホフといふことなり○トヲヨルはナビクといふ意にて女の姿の形容なり○第六句略解にオモヒヲレカとよめるを雅澄はオモヒマセカに改めたり。オモヒヲルといふべき處にあらず、ただオモフといふべき處なれば雅澄の訓に從ふべし○第七句舊訓にタクナハノとよめるを契沖タクヅヌノに改めたり。紲《セツ》はツナともナハとも訓むべき上にタクヅヌは白の枕辭、タクナハは長の枕辭につかひなれたれば舊訓のまゝにタクナハとよむべし○ナガキイノチヲは長キ命ナルニなり。さてイノチヲといひさして之を受くる辭なし。景樹は『ナガキ命ヲの次に一二句おちたる也』といへり○夕者、明者を舊訓にユフベニハ、アシタニハとよめれどニの言耳だちて聞ゆれば古義の如くユフベハ、アシタハとよむべし○消と失とを舊訓にキエヌ、ウセヌとよめるを略解にキユ、ウスとよめり○イカサマニオモヒマセカ以下十二句の調を思ふにおそらくは自然の死にあらじ○オトキクはウハサニキクなり○髣髴は眞淵のオホニとよめるに從ふべし○オホニミシコトクヤシキヲは契沖の
(312)  打きくには、見ぬ人にはかゝる事を聞ても悲すくなき習なれば見たる事ありしを悔ゆるやうに聞ゆれど第二の短歌に合せて見れば能見おかざりしが悔しき意なり
といへる如し○ソノツマノ子は釆女の夫をいへるなり。クヤシミカオモヒコフラムは底本になきを契沖の一本より補ひ入れたるなり。サブシミ、クヤシミはサブシガリ、クヤシガリなり○時ナラズスギニシを略解に『上の長キ命と云にむかへてゆくりなく死しといふ也』といひ古義に『若く盛にてしぬべき時にあらずとの意なり』といへれどこは天壽ノ終ル時ニアラズシテといへるなり。此一句によりても釆女の死の自殺なりしこと知らる。三卷長屋王賜死之後倉橋部女王作歌にオホアラキノ時ニハアラネド雲ガクリマスとあり丈部龍麿自經死之時大伴宿禰三中作歌にウツセミノヲシキコノ世ヲツユジモノオキテイニケム時ナラズシテとあると參照すべし○其次の句舊來スギニシ子ラガとよみたれど子ラガといはば下に之を受くる辭なかるべからず。古義に我〔右△〕を誤字として子ラカと清みて訓めるは卓見なり。カナの意に近きカなり○アサツユノゴト、ユフギリノゴトは上なるツユコソハキ(313)リコソハと照應せり○結末五七七七となれり。變格なり○宣長いはく
  如也はゴトと訓べし。也の字は焉の字などの如く只添て書るのみ也。ゴトヤと訓てはヤ文字とゝのはず
といへり。木村博士の云へる如く嘆息のヤと見れば語格はとゝのはざることなけれど訓はなほ宣長の説によるべし
 
   短歌二首
218 ささなみのしがつの子らが【一云しがつの子が】まかり道〔左△〕之《ニシ》かはせの道をみればさぶしも
樂浪之志我津子等何【一云志我津之我】罷道之川瀬道見者不怜毛
 三句を考に續紀第五十一詔にミマシ大臣ノ罷道モウシロ輕ク心モオダヒニ念テ平ク幸ク罷トホラスベシ云々とあるを引きてマカリヂノとよみて『葬送る道をいふ』と云へり。宣長は道は邇の誤にてマカリニシなるべしと云へり。續紀第五十八詔に罷マサム道ハ平幸クツツム事ナクウシロモ輕ク安ク通ラセ云々とあり拾遺集(314)に出でたるもマカリニシとあれば宣長の説に從ふべし○カハセノ道は川瀬を渡りてゆく道なり。契沖の『身を投げむとて行しを云なるべし』といへるは非なり。釆女は身を投げしにもあるべし。カハセノミチは送葬の道なり○サブシはおもしろからざるなり
 
219 (天數《ソラカゾフ》)おほつの子が相日《アヒシヒニ》おほにみしかば今ぞくやしき
天數凡津子之相日於保爾見敷者今叙悔
 初句は眞淵のソラカゾフとよめるに從ふべし。空ニ數フのニを省けるにて凡《オホ》にかかれる枕辭なり。古義に天數を誤字としてササナミノとよめるは非なり
  古義に『ソラと云言は古は蒼天をのみ云ことにて暗推に物することをソラ某と云しことは一もあることなし』といへり。時代はすこしおくれたれど貫之集第一にカラゴロモウツ聲キケバ月キヨミマダネヌ人ヲソラニシルカナとよめり
 ○相日は考にアヒシ日ニとよめるに從ふべし
 
   讃岐|狹岑《サミネ》(ノ)島(ニテ)視2石中(ノ)死人1柿本朝臣人麿作歌一首并短歌
220 (たまもよし) さぬきの國は 國からか 見れどもあかぬ 神《カム・カミ》からか (315)ここだたふとき あめつち 日月と共に たりゆかむ 神のみおもと 次〔左△〕來《アフギクル》 中のみなとゆ 船うけて わがこぎくれば ときつ風 雲居にふくに おきみれば しき浪たち へ見れば しら浪さわぐ
玉藻吉讃岐國者國柄加雖見不飽神柄加幾許貴寸天地日月與共滿將行神乃御面跡次來中乃水門從船浮而吾榜來者時風雲居爾吹爾奥見者跡位浪立邊見者白浪散動
 狹岑島は代匠記に『那珂郡にあり。所の者サミジマと云』といへり。今の鹽飽《シワク》群島のうち與島の屬島なる沙彌島なり。反歌に佐美乃山とあるによりて契沖、眞淵共に狹岑島をサミノシマとよめれどなほ舊訓の如くサミネノシマとよむべし。サミネの、ネは峯にてツクバをツクバネといふに齊し○石中を契沖は『石の中に交るなり』といひ眞淵は『石中を窟の事といふはかたくなし。ただ磯邊をいふとすべし』といへり。又拾遺集二十には讃岐ノサミネノ島ニシテ石屋ノ中ニテナクナリタル人ヲ見テとあり。案ずるに石中は岩の間ならむ
(316) クニカラカは國ノスグレタル故ニカとなり。カラは古義に云へる如く故なり(考にナガラの略とせるは非なり)。神カラカの神は國をさして直に神といへるなり。我邦上古の思想にては山川國土をも神としたりし事古書を見て知るべし。古事記に此國を男神として飯依比古といへり。神柄は本集十七卷に可牟加良也ソコバタフトキ又ミレドモアカズ加武賀良ナラシなどあればカムカラともよむべく又續紀元正天皇の御歌に可未可良斯タフトクアルラシとあればカミカラともよむべし。但カムカラとよむともカラのカは雅澄のいへる如く清みて唱ふべし○ココダは俗にタント、タイサウなどいふに近し。多き方の不定數なり○タリユクは段々立派ニナルといふこと○古事記に今の四國の事を伊豫の二名(ノ)島といひ此島に四面ありといひて讃岐を其一面とせり。眞淵は『神ノミオモは其事を云へり』といへり。案ずるにこゝは二名(ノ)島四面の事と關係あるにあらず。即讃岐全國をカミノミオモといへるにあらで那珂の港を神(即讃岐國)の面といへるなり。而して那珂の港を讃岐の面と云へるは當時此地、一國の咽喉たりしによりてなり○次來を舊訓にツギテクルとよめるを雅澄は上に云の字を脱せるなりとしてイヒツゲルとよめり。宜しく仰(317)來の誤としてアフギクルとよむべし○ナカノミナトユのユを古義に『ニといはむが如し』といへれどこはただのユ即ヨリなり。那珂の港より沖の方へこぎ來るなり○トキツカゼは考に『海潮の滿來る時は必風の吹おこるをトキツ風とはいへり』と云へり○シキナミは重浪なり
 
(いさなとり) 海をかしこみ ゆく船の 梶ひきをりて をちこちの 島はおほけど (なぐはし) 狹岑の島の ありそ面〔左△〕《ミ》に いほりてみれば
鯨魚取海乎恐行船乃梶引折而彼此之島者雖多名細之狹岑之島乃荒礒面爾廬作而見者
 ユクフネは人麻呂の乘れる船なり○カヂヒキヲリテは強く艪を押すことゝおぼゆ。強く押すことゝ見ざればウミヲカシコミの一句いたづらなり○ナグハシはヨキ方ニ名ダカシといふ意なれどこゝは枕辭として用ひたり○アリソ面の面を契沖が囘の誤とせるを木村博士は誤字にあらずとして『アリソノオモのオを略ける(318)にて磯のおもてをいふ』といへれどなほ囘《ミ》の誤字とすべし。さてそのミは輕く添へたるのみ○イサナトリ以下十句の意は海ノ荒模樣ナルニ強ク船ヲ漕ギテ狹岑ノ島ニ漕ギ寄セテ上陸シテ假庵ヲ作リテソノ假庵ニヤドリテ打見レバといへるなり。景樹も『こは俄なる海のあれに會て思はぬ佐美の島に榜よせて庵さしてをるほど浪にあげられたる屍を見いでていたみよめりし也』といへり
 
浪のとの しげき濱邊《ハマビ》を (しきたへの) 枕|爾爲而《ニシテ》 あらとこに 自〔左△〕伏《コイフス》君が 家しらば ゆきてもつげむ 妻しらば 來毛《キモ》問はましを (玉梓の) 道だにしらず おほほしく まちかこふらむ はしき妻らは
浪音乃茂濱邊乎敷妙乃枕爾爲而荒床自伏君家知者往而毛將告妻知者來毛問益乎玉桙之道太爾不知鬱悒久待加戀良武愛伎妻等者
 枕爾爲而は從來マクラニナシテとよめれどマクラニシテとよむべし。ナスはツクリナスにてスといふとは別なればなり○アラトコはアララカナル床なり。古義に(319)『荒き海邊を寢床になしたるなり』といへるは漠然たり○自伏は臥伏の誤としてコイフスとよむべし。はやく死にたるをただ臥したるやうにいへるなり。さて上なるイホリテミレバを受けてはコイフス人アリと云ひをさめ、さて君ガ云々と云ひ起すべきなれど長歌には文章とちがひて一の事を云ひ収めずして次に移る句法あるなり○來毛を舊訓にキテモとよめるを略解にキモに改めたり○イヘシラバは家ヲシラバにてツマシラバは嬬ガシラバなり。辭ノ相似て格の相異なるが人の意表に出でておもしろきなり○オホホシクはウツウツトなり。ハシキは愛スベキなり
 
   反歌二首
221 つまもあらば採而《ツミテ》たげまし佐美乃山《サミノヤマ》ぬのへのうはぎすぎにけらずや
嬬毛有者採而多宜麻之佐美乃山野上乃宇波疑過去計良受也
 ツマモアラバは妻ダニココニアラバなり○採而は考にツミテとよめるに從ふべし○タゲマシは食ハセマシなり
 上宮聖コ法王帝説にイカナクニ多義弖《タゲテ》マシモノトミノヰノミヅとあるは命助(320)カラヌ程ナラバ飲ミタシト乞ヒシ水ヲ飲マセマシヲといへるにて今の類なり
 又食ふことをもタグといふ
  皇極紀童謡のコメダニモ多礙底トホラセカモシシノヲヂのタゲテを眞淵はやく『給《タ》ベテなり』といへり。雄略紀十四年及推古紀十八年に共食者とありてアヒタゲビトとよめり(美夫君志卷二別記十三頁にこのアヒタゲビトをウタゲビトの略言とせるは非なり。アヒタゲビトは相伴役なり)
 ○佐美乃山を舊訓にサミノヤマとよめるを雅澄は題辭に狹岑島とあるによりて乃を誤字としてサミネヤマとよめれどなほ字のまゝにサミノヤマとよむべし○ヌノヘは野邊なり。ウハギは嫁菜なり○スギニケラズヤは摘ミテ食料トスベキ時ガ過ギタデハナイカといふ意なり。玉の緒七卷二十丁に
  此ヤはヤハの意にてケラズヤハ、ケリといふ意におつるなり
といへり○海岸の屍をしばらく餓死したるものと斷定し、その傍によめ菜の多く生ひて盛過ぎたるを見てモシ妻ヲ具シタラバ此ヨメ菜ヲツミテクハスベクサラバ餓死ニモ及バジヲといへるなり。前註殊に代匠記、略解、美夫君志の説は誤れり
 
(321)222 おきつ波きよるありそを(しきたへの)枕とまきてなせる君かも
奥波來依荒磯乎色妙乃枕等卷而奈世流君香聞
 ナセルはナスのはたらけるにてそのナスは雅澄のいへる如くヌ(寢)の敬語なり。因にいふ雅澄が埃嚢抄なるヤスクシナスナ、君ヲシナシテのナスナ、ナシテを寢タマハスナ、寢タマハシテと釋せるは非なり。余の説は五卷思2子等1歌のヤスイシナサヌの處にていふべし
 
   柿本朝臣人麿在2石見國1臨v死時自傷作歌一首
223 かも山の磐根しまけるわれをかも不知等《シラニト》いもがまちつつあらむ
鴨山之磐根之卷有吾乎鴨不知等妹之待乍將有
 カモ山は所在今明ならず。眞淵は『常に葬する山ならむ』といへれど、もしカモ山ノイハネシマケルが鴨山に葬《カク》さるゝ意ならば今はまだ死にだにせざるなればイハネシマカムとこそいふべけれ。おそらくは旅にて病に罹りて鴨山の山べに假庵を作りて臥したりけむをカモ山ノイハネシマケルといへるなるべし。マケルハ枕ニセ(322)ルなり○ワレヲカモのカモは結句の下にうつして心得べし(古義)○不知等は宣長シラニトとよめり。古義に
  凡そシラニといふ言の下にあるトは皆助辭にて語勢を助けたるのみにて意には關らねば捨て聞くべし云々
といへり。こゝは知ラズシテと譯すべし
 
   柿本朝臣人麿死時妻|依羅《ヨサミ》(ノ)娘子《イラツメ》作歌二首
224 けふけふとわがまつ君は石かはの貝に【一云谷に】交りてありといはずやも
且今日且今日吾待君者石水貝爾【一云谷爾】交而有登不言八方
 石川は鴨山の下を流るゝ川とおぼゆ○イシカハノ貝ニマジリテは旅さきにてうせぬとも從者もあるべく都へしらせ來れる程なれば厚く葬《カク》ししなるべきを葬す人もなくて屍をそのまゝにしたるやうにわざといへるなり。久老(槻の落葉下卷二十七十)は『火葬せしその骨をいへる言と聞ゆ』といへれど、もし火葬せば遺骨はしらせの使携へ來るべし○結句はアリト人ノ告グルヨといふ意にてモは助辭なり。古義にヤモをヤハと釋したるは非なり○ケフケフトを且今日且今日と書ける例は(323)九卷に
  天のかはきりたちわたり且今日且今日わがまつ君が船出すらしも
 又十卷に
  いでていなばあまとぶ鴈のなきぬべみ且今日且今日《ケフケフト》いふにとしぞへにける
とあり
 
225 直相者相不勝《タダノアヒハアヒガツマシジ》いしかはに雲たちわたれみつつしぬばむ
直相者相不勝石川爾雲立渡禮見乍將偲
 初句舊訓にタダニアハバとありて契沖、眞淵、雅澄等共に之に從ひたれど直接ニ逢フナラバといふ意ならで直接ニ逢フ事ハといふ意なれば宣長に從ひてタダノアヒハとよむべし。タダニアフハともよむべけれどしかよまば二句の相、不用となるべし〇二句は舊訓にアヒモカネテムとよめるを考にアヒカテマシヲと改めよめり。宣長は考の訓を評して『マシヲの辭こゝに叶はず』といへり。げにマシは打合なくては云はぬ辭なり。卷末なる橋本氏の説に從ひてアヒガツマシジと訓むべし。アヒガツマシジは得逢ハジといふ事
 
(324)   丹比《タヂヒ》(ノ)眞人《マヒト》擬2柿本朝臣人麿之意1報〔左△〕歌一首
226 あらなみに縁來《ヨリクル》玉を枕爾置〔左△〕《マクラニシ》われ此間有跡《ココニアリト》たれか將告《ツゲナム》
荒浪爾線來玉乎枕爾置吾此間有跡誰將告
 題辭に報歌とあるによりて代匠記、古義には依羅娘子に和したる歌としたれどよく思ふに答歌の調にあらず。ただ人麿の心になりてよめるなり。されば報字は衍字又は誤字とすべし。はやく考にも
  今本こゝに報歌とあれど報と云べき所に非ず。後人さかしらに加へし言と見ゆ
と云へり○縁來を舊訓にヨリクルとよめるを考にヨセクルに改め古義之に從へり。アラナミノヨセクル玉とはいふべくアラナミニヨセクル玉とはいふべからず。されば舊訓に從ふべし。玉は美しき小石なり○枕爾置は考に置を卷の誤としてマクラニマキとよみ略解古義には字のまゝにてマクラニオキとよめり。オキといふこと穩ならず。舊訓にマクラニテとよめれば枕爾而の誤にやとも思へどトシテをニテといへるは此集の時代に例なき事なれば(後撰集には既《ハヤ》くヘニケル年ヲシルベニテ、イヒシバカリヲ命ニテなどよめり)枕爾爲の誤とすべきか。上なる人麿の長(325)歌にもナミノトノシゲキハマビヲシキタヘノ枕ニシテとよめり。とまれかくまれ置とあるは次の歌の三句に君乎置而とあるよりうつりしにこそ○此間有跡は舊訓にココナリトよめるを古義にココニアリトに改めたる、よろし○將告は舊訓にツゲナムとよめり。雅澄は一本の舊訓によりてツゲケムとよめれど前に云へる如く依羅娘子に和したる歌にあらねばツゲケムとよむべき由なし○此歌にアラ浪ニヨリクル玉ヲといへると娘子の歌に石川ノ貝ニマジリテといへるとによりて人麿の死にしは海に近き處なるを知るべし
 
   或本(ノ)歌曰
227 (あまざかる)ひなの荒野に君をおきておもひつつあればいけりともなし
天離夷之荒野爾君乎置而念乍有者生刀毛無
 左註に右一首歌作者未v詳但古本以2此歌1載2於此次1也とあり。考に
  上の一首は人麿が意になぞらへ此一首は其妻依羅娘子が意にあてゝ同じ丹比(326)眞人のよみたることしるし
といへり。此説よろし。丹比眞人は誰にか知られねど後の人とおぼゆ。雅澄が時人の中に求めたるは前の歌の題辭中の報の字に誤られたるなり○此歌は前に出でたる人麿のフスマヂノヒキデノ山ニ妹ヲオキテ山路ヲユケバイケリトモナシの格を學べるなり
 
   寧樂《ナラ》(ノ)宮
    和銅四年歳次辛亥河邊(ノ)宮人姫島(ノ)松原(ニテ)見2孃子屍1悲歎作歌二首
228 妹が名は千代にながれむ姫島のこまつがうれにこけむすまでに
妹之名者千代爾將流姫島之子松之末爾蘿生萬代爾
 ナガレムは前註に云へる如くツタハラムなり。古人はおしなべて深く名の後世に傳はらむことを希ひきとおぼゆ。これによりて死者を慰めて身ハウセヌトモ名ハ千代ニ傳ハラムと云へるなるべし。考に『今は姫島の松もて言擧すれば千代に名をいひ傳へゆかんぞとなり』といへれどいかでかうけばりてワガ歌ニヨリテ汝ノ名(327)ハ後世ニ傳ハラムなど云はむ○第三句以下は第二句の千代爾を詳言せるなり
 
229 難波がた鹽干なありそねしづみにし妹がすがたを見まくくるしも
難波方鹽干勿有曾禰沈之妹之光儀乎見卷苦流思母
 ミマクはミムを延べたるにて勿論將來を云へるなれど今はしほ干に際して孃子の屍を見しなり○シヅミニシは身ヲ投ゲシなり。屍の水底に沈めることゝせばシヅミタルといはざるべからず○如何なる戀にか知らねど美しき孃子が身を風光明媚なる姫島の海に投げしはげに少くとも其里の傳説となりて千代に流るべし
 
   靈龜元年歳次乙卯秋九月志貴(ノ)親王薨時作歌一首并短歌、
230 梓弓 手にとりもちて ますらをの さつ矢たばさみ たちむかふ たかまと山に 春野やく 野火とみるまで もゆる火を いかにと問へば (玉ぼこの) 道くる人の なく涙 ひさめにふれば しろたへの ころもひづちて たちとまり われにかたらく なにしかも もとな言《イフ》 きけば ねのみしなかゆ かたれば 心ぞいたき すめ(328)ろぎの 神の御子の いでましの たびの光ぞ ここだてりたる
梓弓手取持而大夫之得物矢手挿立向高圓山爾春野燒野火登見左右燎火乎何如間者玉桙之道來人乃泣涙※[雨/沛]霖爾落者白妙之衣※[泥/土]漬而立留吾爾語久何鴨本名言聞者泣耳師所哭語者心曾痛天皇之神之御子之御駕之手火之光曾幾許照而有
 志貴親王の薨は續紀に靈龜二年八月とありてこゝの題辭と合はねば契沖は志貴親王とあるは續紀に薨去の年月の見えざる磯城《シキ》皇子の誤ならむといひ(雅澄は之によれり)眞淵は題辭の元年九月を二年八月の誤とし木村博士は
  本集に記せるは其實にて紀は故ありて延期したる薨奏の年月を記したるなり
といひ又眞淵が親王を皇子の誤としたるを辨じて親王にて可なりと云へり○題辭に并短歌とあれど此歌の次に擧げたる短歌二首は眞淵の云へる如く今の歌の反歌にはあらで別の歌なり
 初五句は序なり(契沖)。一卷にもマスラヲガサツ矢タバサミタチムカヒ射ルマトガ(329)タハ見ルニサヤケシといふ歌あり。サツ矢はサチ矢にてそのサチは狩獵の獲物なり。高圓《タカマト》山は奈良市の東南にあり
  因にいふ。古義に野火を『野間の畑に物の種をまきつけむ料』といへるは燒畑をつくらむ爲といふ意なるべけれどいひざままぎらはし。又若菜の萠えむを促さむ爲に野を燒くことも古くよりありし事なり。拾遺集にもアスカラハ若菜ツマムトカタ岡ノアシタノ原ハケフゾヤクメルとあり
 ○ヒサメに二義あり。雹と大雨となり。こゝは大雨の方なり。大雨の方のヒサメはヒタメの轉じたるなり。タ行のサ行にかはれる例多し。ヒサメニのニはタヘノホニヨルノ霜フリなどのニと同じくトに通ふニなり。當時既にトとも云ひき。たとへば右の二句の對に岩床卜〔右△〕川ノヒコホリといへり。思ふにニは古くトは新しく當時新舊並び行はれしなり。否對句に辭を換ふる必要より古きをも捨てざりしなり。こはニとトとの上に限らず○ミチクル人ノはタチトマリワレニカタラクに續きナクナミダ以下四句は挿句にてフレバはヒヅチテにかゝれり○ナニシカモ以下道くる人の語辭なり。考にワレニカタラクの下に『其かたれる言はこゝに略て下にてしら(330)せたり』といひ古義に『カタラクよりしばらく句を隔て下のスメロギノ云々といふへつづけて意得べし』といひ又
  ナニシカモより以下六句は自己の上を悔て云るなり。何シニ物ノ分別モナク問ツルゾ、ソノ由縁ヲ聞バイヨイヨ悲シクテネニノミ泣カルルとの意なり
といへるは共に非なり。美夫君志には
  ナニシカモ以下六句はかの道來人の答へ言へる詞なり
といへり。六句のみならず終まで道くる人の答へ言へる辭なり○モトナを契沖は『ヨシナの古語なり』といひ宣長は
  本名《モトナ》と云は何れも皆今世の俗言にメツタニと云と同じ。メツタニは猥ニと云と同意にてミダリ、メツタ、モトナ皆通言にて元同言也
といへり。案ずるにモトナは俗語のアイニクに當れる處多し○本名言を眞淵はモトナイヒツルとよみ千蔭、雅澄、木村博士はモトナイヘルとよめり。モトナイフとよむべし。道くる人の作者に答へて何ゾ聞キタクモ無キ事をイフといへるなり。此處七言なるべきを五言にいひ次なるキケバ、カタレバは五言なるべきを三言、四言に(331)いへり。かく五七の數に滿たざる短句を續けたる爲|鳴咽《ヲエツ》して語る能はざる状見るが如くおぼゆるなり。木村博士も
  こは胸せまりてのどやかにいひかぬる也。すべて哀傷の歌には句つづきの切れ切れなる又言の足らぬものあり。これ自然の勢ひのしからしむるなるべし
といへり○キケバは君ノ問フヲ聞ケバといふ意、美夫君志に
  かの高圓山にもゆる火の故由をきけばわれも音をのみぞなかるゝとなり
といへるは非なり○スメロギノ神ノ御子ノとあるを眞淵『神之は上へつけて意得よ』といへり。なほ句のまゝに下へつけて心得べし○イデマシを古義に『御葬送のよしをあらはにそれとは申さずて常のいでましのやうにいひたるなり』といひ美夫君志には『親王の御葬送をいへるなり』といへり。特に御葬を隱していへるにあらず。木村博士の説に從ふべし○手火《タビ》は契沖神代紀に秉炬とありて訓註に秉炬此云2多妣1とあるを引き木村博士は『今ツイマツ又タイマツなどいふものなり』といへり。此等の説の如し○ココダの上にカクハといふことを加へテリタルの下にトカタリヌといふことを添へて心得べし
 
(332)   短歌二首
231 たかまとの野べの秋はぎいたづらにさきかちるらむみる人なしに
高圓之野邊秋芽子徒開香將散見人無爾
 考に『此皇子の宮こゝにありし故にかくよめり』といへり○イタヅラニは主としてサキにかゝれるなり。古義に『サキチルはただちることなり』といへるは處にこそよれ○チルラムといへるを思へば高圓(ノ)野ならぬ他處にてよみしなり
 
232 みかさ山野べゆく道はこきだくも繁あれたるか久にあらなくに
御笠山野邊往道者己伎太雲繁荒有可久爾有勿國
    右歌笠(ノ)朝臣金村歌集出
 繁を舊訓にシゲクとよめるを考にシジニとよめり。又考に
  コキダクは事の多きことなり。然れば繁の言は事重れり
といへるに對して美夫君志は本集卷十七にココダクモシゲキコヒカモとあるを引きて『重言にあらず』といへり。さてこゝはいかによむべきかと云ふにシゲク、シジ(333)ニなどよめばアレタルの形容となるが故に動詞と認めてシゲリ、シゲミなどよむべし。ともかくも或本にアレニケルカモとある方穩なり○御笠山は高圓と相近し。皇子の薨ぜざる間は高圓宮に往來する人多かりしかば御笠山の野邊をゆく道は荒るゝに暇なかりしに皇子薨じて未久しからぬにはやく荒れにけるよといへるなり。美夫君志の説はわろし○左註は長歌一首短歌二首にかゝれるにや
 
   或本(ノ)歌曰
233 たかまとの野べの秋はぎなちりそね君がかたみにみつつしぬばむ
高圓之野邊乃秋芽子勿散禰君之形見爾見管思奴幡武
 こはイタヅラニサキカチルラムといふ歌とはもとより別なり○カタミニのニは後のトにてコロモニホハセ旅ノシルシニのニと同例なり
 
234 みかさ山ぬべゆゆく道こきだくもあれにけるかも久にあらなくに
三笠山野邊從遊久道己伎太久母荒爾計類鴨久爾有名國
 二句底本にはヌベユクミチハとあり。ハの言ある方よろし
(334)                      (大正四年二月二十日脱稿)
 
(335) 追考
 
   橋本進吉氏のガテヌ、ガテマシ考の大意
 シリガテヌカモなどのガテヌのヌは了の意なりといふ説(○本書一四一頁、一四六頁、二四四頁參照)の可否を檢するに
  いつしかも此夜のあけむとさもらふに寢乃不勝宿者《イノネガテネバ》たきの上の淺野のきぎしあけぬとしたちとよむらし(三卷)
 かくの如く已然形のネなるは不の意のものに限り了の意のものに例無し。又
  つくばねのねろにかすみゐ須宜可提爾《スギガテニ》いきづくきみをゐねてやらさね(十四卷)
  むら鳥の伊※[泥/土]多知加弖爾《イデタチガテニ》とどこほりかへりみしつつ(二十卷)
 かくニより用言に續くる事は了のニには絶えて其例なく唯不の意のニにのみ例ある事なり。又
  うぐひすの麻知迦弖爾勢斯《マチガテニセシ》うめがはなちらずありこそおもふこがため(五卷)
  あかごまがかどでをしつつ伊※[氏/一]可天爾《イデガテニ》せしをみたてしいへの兒らはも(十四卷)
(336) かくの如くニよりスといふ語に續く事は了のニには決して例無くただ不の意のニにのみ例あり(ミレドアカニセムの類)。又
  しろたへのそでなきぬらしたづさはり和可禮加弖爾等《ワカレカテニト》ひきとどめしたひしものを(二十卷)
 ニよりトに續く事は不のニには例あれど(ソコモアカニトの類)了のニには一つも例無し
 以上述べ來れる所によればガテヌのヌ及其活用形なるネ、ニ、ナクは其活用及用法より見て了の意とするよりは不の意とする方穩なりと云はざるべからず
 然らばガテマシのマシはいかに説くべきか。まづガテマシの實例は
  一 有不得(十一卷)
  二 在勝申目〔右△〕(十一卷)
  三 有勝麻之目〔右△〕(二卷)
  四 有不勝自〔右△〕(四卷)
  五 由吉可都麻思自〔右△〕(十四卷)
(337)六 有勝益士(四卷)
  七 依勝益士(七卷)
 集中の例はこれにて盡きたり。右のうち二の目は諸本皆目となれり。三の目は元暦本には自に作れり。又拾穗妙によれば一本に乎とある由なり。四の自は代匠記以後の諸註には目の誤としたれど諸本いづれも自に作り目に作れるは一つも無し。五の自は管見の及ぶ所目に作れる本の一も無きは注意すべき事なり
 今や起り來べきは目とある方正しきか自とある方正しきかといふ問題なり。少くとももし自の方を正しとせばいかがといふことを一考せざるべからず。從來の學者の如く此等の事を顧みず自の字を見れば直に目の字の誤とするは甚輕率にして危險なる業なり
 先三の麻之目の目は一本に自とあるを正しとすればマシジと讀むことを得。四の有不勝自は自を誤にあらずとすればこれも亦マシジと讀まるゝ理なり、五の麻思自はそのまゝマシジとよまる。かくの如く從來ガテマシモの例としたりしものは第二の例の外は皆マシジと讀み改むることを得
(338) 六及七の勝益士はマシヲと讀み來れるが士をジの假字に用ゐるは普通の事なればこれもマシジとよむことを得。否しか讀む方穩なるこゝちす
 かくの如く自を正しとしてマシジと讀むとすればガテマシの例としたりしものは唯一つ即第二を除く外悉くマシジと讀み改むる事を得るなり。然らばマシジといふ語ありや否や
 マシジといふ語は續日本紀の宣命にアフマシジトテ又|忘得《ワスレウ》マシジミナモとあり。右の形より見ればマシジは形容詞的の活用を有するものなり。さて常に動詞を承けて其説述の意義を修飾するものにてザルベシ、マジといふやうなる意を有せり。即否定推量の助動詞なり
 此語は從來續紀宣命以外のものには発見せられざりき。されど日本紀の
  やまこえてうみわたるともおもしろきいまきのうちはわすらゆ麻旨珥
もマシジとよむことを得べく(珥は紀には多くはニの假字に用ゐたれどまたジの假字に用ゐたりと認むべき例あり)又萬葉集の中にては
  ほりえこえとほきさとまでおくりけるきみがこころはわすらゆ麻之目〔右△〕(二十卷)
(339) 此歌の尾句は古來ワスラユマシモとよみたれど目の字元暦本には自とあり又目をモの假字に用ゐたる確なる例は奈良朝の文献には殆無き事なればこの目はおそらくは自の誤なるべしと推測せらる。されば亦マシジとよむべきなり
 かくの如くマシジといふ語は續紀の宣命のみならず日本紀又萬葉集にもありて其意はいづれの場合にてもマジと同じく否定推量なり 然らば前に述べたる如くガテマシの諸例に於てマシモ、マシヲをマシジとよみ改めそのマシジを右に擧げたるマシジと同語とせば如何
 抑ガテマシモ、ガテマシヲはいづれも肯定の形にて然もその意は否定形なるガテヌ、ガテニなどと同樣なるが故に從來説明に困難を感ぜしなり。然るに今マシモ、マシヲをマシジとよみ改むればやがてガテヌ、ガテニなどと同じく否定形となれば此等と同樣の意を有することは何等の困難もなく説明することを得るなり
 次に考ふべきはマシモ、マシヲをマシジとよみ改むると共にカテをもよみ改むる必要なきかといふ事なり。もしマシならば將然言を承くる格なればカテヌの例によりてカテマシとよむべきなれど之をマシジとよみ改めし後もなほカテといふ形より(340)續くやいかにといふ事を一考せざるべからず
 前にガテマシの例として擧げしものゝうち一字一音なるは
  あらたまのきへのはやしになをたてて由吉可都麻思自《ユキカツマシシ》いをさきだたね(十四卷)
のみにて其他は勝の字を書きたればカタとよむべきかカテとよむべきか、はたカツとよむべきか明ならず
 右の第十四卷の歌は東歌なり。東歌には往々語法上の特例ありて大和詞と異なる所あれば直に大和詞の語法の證としがたき事あり。よりて轉じてカテの活用を檢するに不の意のヌ、ニ、ネにはカテよりつづく事は已に擧げたる例にて明なり。其他
  おほさかにつぎのぼれるいしむらをたごしにこさばこし介※[氏/一]務《カテム》かも(崇神紀)
といふ例ありて未來のムにもカテよりつづくこと知らる。否定のヌ、ニ、ネも未來のムも共に將然形を承くるものなれば明にカテの將然形なることを知るを得。然るに將然形のテなるは下二段式の活用に限れば恐らくはカテは下二段式にカテ、カツ、カツル、カツレと活用せしなるべし
 次にマシジはいかなる活用形を承くるかといふに
(341)  いまきのうちは倭須羅※[マダレ/臾]《ワスラユ》ましじ(齊明紀)
  きみがこころは和須良由ましじ(二十卷)
 此等はマシジが終止形を承くる確證なり。さればカテの場合にはカツマシジとなるべき理なり。而してこれを彼弟十四卷なるユキカツマシジに比較するに適に符節を合せたる如し
 以上の理由によりて吾人は從來アリガテマシモ、アリガテマシヲ、ヨリガテマシヲと訓じたりしものは悉くアリガツマシジ、ヨリガツマシジとよみ改むべきものなりと推定するなり
 ガテヌとガツマシジとが共にガテ、ガツの否定形にていづれも難シ、カヌ、タヘズ、アヘズといふやうなる意を有せりとすればガテ、ガツの意もおのづから明なり。即これは堪フ、敢フ又は得といふやうなる意を有せること疑ふべからず
 さてガテ、ガツといふ語は其活用の不完全なるのみならず其用法はた限られたり。即殆常に他の動詞の下にのみ用ゐられて其連用形に接せり。ただ古今集なるアハ雪ノタマレバカテニクダケツツはタマレバ得堪ヘズの意なればカテの獨立して用ゐら(342)れたる例なれど平安朝に於ても奈良朝及其以前に於ても他にかゝる例の無きより考ふればこれは恐らくは古き時代の用法の特殊の場合に殘れりしものにて當時普通一般の用法にはあらざりけむと思はる
 吾人はこれまで普通の讀方に從ひてガテ、ガツの頭音を濁音によみ來りしが此音の清濁については從來學者間に議論ある事なり。吾人は奈良朝に於ては既に濁音にてありけめど本來は濁音にあらでカテ、カツといふ語なりけむと考ふるなり。さるを濁るやうになりしは此語が他の動詞の下に來りて其意義を助くることゝなりし爲之と複合して連濁を起しゝなるべし
 ガテ、ガツは其上に來る語の種類が限られたりしのみならず其下に來る語も亦大に限られたりしなり。即ガテ、ガツが肯定に用ゐられたるは日本紀に唯一つ
  たごしにこさばこし介※[氏/一]務《カテム》かも
といふ例あるのみにて其他はすべてヌ、ネ、ニ、ナク、マシジなど否定の助動詞にのみ續けり
 平安朝に至りてはガテ、ガツの肯定形は勿論否定形も他のものは皆滅びはてゝ唯カ(343)テニのみ殘れり。又此時代にはガテニナルといふ新しき用例見えたり
 鎌倉時代以後となりてはガテニの外にガテノ及ガテヲといふ形あらはれ來たり。このガテノ及ガテヲは明にカテを難《カタ》シ又はカヌの意に用ゐたるにてガテの本來の意義に比すれば正反對となるなり。かゝる意義の變化はいつの頃にか起りけむ。平安朝の末には既にもとの意義失はれたりと斷言すべき證あり(明治四十三年発行國學院雜誌第十六卷)
 通泰いふ。右の説に從ひて新考二卷(一四一頁)なる
  玉くしげみむろの山のさなかづらさねずばつひに有勝麻之目〔右△〕
はアリガツマシジとよみ又同卷(三二三頁)なる
  ただのあひは相不勝いしかはに雲たちわたれみつつしぬばむ
はアヒガツマシジとよみて(不の字をマシジ即後世のマジに充てたるなり)甲はアリアヘジ(ヲラレマイ)乙は逢ヒ敢ヘジ(アハレマイ)の意と解すべし
2005年3月19日(土)11時55分、校正終了
 
(345)   萬葉集新考卷三
                    井 上 通 泰 著
 雜歌
   天皇|御2遊《イデマシシ》雷岳1之時柿本朝臣人麻呂作歌一首
235 おほきみは神にしませば(あまぐもの)いかづちの上にいほり爲流〔左△〕《セス》かも
皇者神二四座者天雲之雷之上爾廬爲流鴨
    右或本云。獻2忍壁皇子1也。其歌曰。王神座者雲隱伊加土山爾宮敷座
 左註に右或本云。獻2忍壁皇子1也。其歌曰
  おほきみは神にしませば雲|隱《ゴモル》いかづち山に宮しきいます
とあり○題辭の天皇は眞淵の新採百首解に持統天皇とし略解にも『持統天皇なる(346)べし。次の歌ども持統の大御時の歌なれば也』といへり○雷岳は宣長、久老、雅澄、永好(犬鷄隨筆上卷二一頁)等の説によりてイカヅチノヲカとよむべし。飛鳥《アスカ》(ノ)神奈備山の事にて飛鳥川の右岸なる雷《イカヅチ》村の後の岡なり○アマグモノは枕辭なり。枕辭と見ざれば續穩ならず○イカヅチは古義に『岳の名をまことの雷のごといひなしたるなり』といへる如し○上は舊訓にウヘとよめるを雅澄はヘとよめり。なほウヘとよむべし。ホトリといふ意にあらざればなり○爲流を久老はセルとよめれどなほ舊訓の如くスルとよむべし。否爲須の誤としてセスとよむべし。セスはシタマフなり○或本にイカヅチ山ニとあるによりて久老は『イカヅチノ上ニの上は山の誤にあらぬにや』と云へれど山にてはカミニシマセバといへる詮なし。山上には常人も住むべければなり。或本の雲隱はクモゴモルとよむべし
 
   天皇賜2志斐《シヒ》(ノ)嫗《オミナ》1御歌一首
236 いなといへどしふる志斐能がしひがたりこのごろきかずてわれこひにけり
不聽跡雖云強流志斐能我強語此〔左△〕者不聞而朕戀爾家里
(347) 志斐は嫗の氏なればただシヒガといふべきをシヒノガといへる誰も訝る事なり。契沖に從ひて志斐ノ嫗ガの嫗を略したるものと認むべし
  前註に十四卷にヒノクレニウスヒノ山ヲコユル日ハセナ能我ソデモサヤニテラシツとあるを同例としたれどこのセナノはセナネ(夫といふこと)を訛れるなり。同卷にセナナとも云へり。又宣長は十八卷なるシナザカルコシノキミ能等カクシコソヤナギカヅラキタヌシクアソバメをも同例としたれどこは左註に右郡司已下子弟已上諸人多集2此會《六字傍点》1因守大伴宿禰家持作2此歌1也とあればコシノキミラトとあるべく現に類聚古集、元暦校本等にキミ良等とあればキミ能等とあるは誤字とすべし
 ○此者は比者の誤字なり
 
   志斐(ノ)嫗奉v和《コタヘ》歌一首 嫗名未詳
237 いなといへどかたれかたれとのらせこそ志斐いはまをせ強話《シヒガタリ》とのる
不聽雖謂話禮話禮常詔許魯志斐伊波奏強話登言
 ノラセコソは後世のノラセバコソなり○シヒイのイは契沖(厚顏抄)宣長の云へる(348)如く一種の助辭なり。山田孝雄氏の奈良朝文法史三一一頁似下にくはしき説あり、就いて見るべし。志斐は私といふ代に氏を用ひたるなり
 
   長《ナガノ》忌寸《イミキ》意吉《オキ》麻呂應v詔歌一首
238 大宮のうちまできこゆあびきすとあごととのふるあまのよび聲
大宮之内二手所聞網引爲跡網子調流海人之呼聲
 アゴは本に網子と書けり。網ひく男どもなり○トトノフルはヨビアツムルなり。二卷(二七一頁)にいへり○アゴはもとより海人のうちなれどこゝにアマといへるはアゴに對したれば海人のうちにをさだちたるものを云へるなり○こゝの大宮は難波の離宮なるべし
 
   長《ナガ》(ノ)皇子遊2獵路池1之時柿本朝臣人麿作歌一首并短歌
239 (やすみしし) わがおほきみ (たかひかる) わが日のみこの 馬なめて みかりたたせる (わかごもを) かりぢの小野に ししこそは いはひをろがめ うづらこそ いはひもとほれ (ししじもの) いは(349)ひをろがみ (うづらなす) いはひもとほり かしこみと つかへまつりて (久かたの) 天みるごとく (まそかがみ) 仰ぎてみれど (はる草の) いやめづらしき わがおほきみかも
八隅知之吾大王高光吾日乃皇子乃馬並而三獵立流弱薦乎獵路乃小野爾十六社者伊波此拜目鶉己曾伊波此囘禮四時自物伊波此拜鶉成伊波比毛等保理恐等仕奉而久堅乃天見如久眞十鏡仰而雖見春草之益目頬四寸吾於富吉美可聞
 久老は題辭を遊2獵々〔右△〕路野〔右△〕1之時と改めて
  今本ひとつの獵の字を脱し野を池に誤れり。獵は活本古本によりて補《クハ》へ野は私に改つ。さるは池に遊獵すといふ事のあるべくもあらず歌にも小野とよみたればなり
といへり○ミカリタタセルは御獵ヲ催シタマヘルといふ事なり。くはしくは一卷(七十八貢)に云へり○シシは猪鹿の總稱なり(久老)○イハヒのイは添辭(契沖)。久老の(350)アリの約とせるは非なり。イハヒヲロガメは猪鹿の頸を地に附けて伏したるを形容せるなり。イハヒモトホレは這ヒマハレなり○初よりイハヒモトホレまでは一種の序なり。御獵場の光景を以て序とせるなり○カシコミトは雅澄『トは助辭にてカシコサニの意なり』といひて例を擧げたりシラニト(三二二頁)の類なり○イヤメヅラシキのイヤは益なり○此長歌人麿呂の作としては平凡なり。但反歌はめでたし
 
   反歌一首
240 (久堅の)あめゆく月を綱にさしわがおほきみはきぬがさにせり
久堅乃天歸月乎網〔左△〕爾刺我大王者蓋爾爲有
 きぬがさは絹張のさしかけ傘にて貴人のみ用ひしもの、傾蓋|故《フルキ》が如しなどいふ蓋にて其きぬがさは大にして傾きやすければ左右に綱をとほして其綱を左右より引きて平均を保ちしなり。ツナニサシのニはモテにて月ヲ綱モテトホシテといへるなり。古義に『ツナニと云るは君を戀る意をキミニコヒと云ると同意なり』といへるはいみじきひが言なり○キヌガサ爾セリの爾は今のトなり。今何々トスといふ(351)をいにしへは何々ニスといひしなり。二卷狹岑島視石中死人作歌なるナミノトノシゲキハマ邊ヲシキタヘノマクラ爾シテ、五卷ウメノハナサキタルソノノアヲヤギハカヅラ爾スベクナリニケラズヤなども今ならばマクラト〔右△〕シテ、カヅラト〔右△〕スベクといふべきなり。古義に『キヌガサニセリは蓋ニ化《シ》ケリと云が如し』といひ又『天の月を即御輿の蓋に化《ナ》して云々』といへるは新舊の語格を混同せるなり○略解に『蓋を月に見なしたる也』といひ古義に『圓蓋を月に見なしたるなり』といへるは非なり。こは御獵場にて日暮れて頭上に月の昇れるを見てその月をきぬがさに見なしたるなり。久老も『夕ぐれの月の出るまで御狩しあそびませるによりてかくはよめるなり』といへり。さらばツナニサシといへるはいかにといふにそはキヌガサトスといへるにつきて云へるのみ。たとへば雲ヲ衣トスといふべきを雲ヲ裁チテ衣トスといはむがごとし○網は綱の誤なり
 
   或本(ノ)反歌一首
241 おほきみは神にしませば眞木のたつ荒山なかに海をなすかも
皇者神爾之坐者眞木之立荒山中爾海成可聞
(352) 略解に
  是は右の反歌とはきこえず。歌のさま皇子に申にあらず。此池をほらせ給て幸有し時の歌にて別に端詞有しが落失しなるべし
といへり。此歌のオホキミは無論天皇を指し奉れるなり。されど池成りて行幸ありけむ時の歌と定めたるは妄なり。されば古義に
  此度遊獵に御供奉りて此池を見て皇コを稱奉りてよめるなるべし。さて此は右の反歌には似ざるやうなれども同度によめる故にかく次でたるなり
といへるに從ふべし○アラ山ナカのアラはアラ野のアラに同じく眞淵の『アラは生《アレ》ナガラのことにて人氣になれぬをいふ』といへる如し。一卷にもマキタツ荒山ミチヲとよめり。眞木ノタツは准枕辭なり○海といへるは獵路(ノ)池なり
 
   弓削《ユゲ》(ノ)皇子遊2吉野1時御歌二首
242 瀧上《タキノウヘ》のみふねの山にゐる雲のつねにあらむとわがもはなくに
瀧上之三船乃山爾居雲乃常將有等和我不念久爾
 瀧上を舊訓にタキノウヘとよめるを略解にタキノヘに改めたり。ホトリといへる(353)にはあらで上方といへるなれば仍ウヘとよむべし。さて其瀧を久老雅澄は宮瀧の事とせり。因にいふ宮瀧は急湍なり。瀑布にあらず。誤解すべからず。いにしへは瀑布をも急湍をもタキといひしなり○上三句は序なり。契沖の
  雲の起滅定めなきが如くなる世なれば我も常にあらむ物とは思はずとよみ給へり
といへるは非なり。略解に
  現身の事なれば此山の雲の常なる如くには在經まじきと歎給へる也
といへるに從ふべし(古義の説之に同じ)○勝景を見て人壽の短きを嘆ずるは詩人の常情なり(久老はやくいへり)
 
   春日王奉v和歌一首
243 おほきみは千とせにまさむしら雲もみふねの山にたゆる日あらめや
王者千歳爾麻佐武白雲毛三船乃山爾絶日安良米也
 三句以下は此白雲ノ三船ノ山ニタエザル如クといへるなり
 
(354)   或本(ノ)歌一首
244 みよし野の御船の山にたつ雲のつねにあらむとわがもはなくに
三吉野之御船乃山爾立雲之常將在跡我思莫苦二
    右一首柿本朝臣人麿之歌集出
 
   長田王被v遣筑紫1渡2水島1之時歌二首
245 ききしごとまことたふとくくすしくも神《カム》さび居《ヲル》かこれの水島
如聞眞貴久奇母神在備居賀許禮能水島
 題辭の渡2水島1を久老雅澄の水島ヲ渡ルとよめるは誤れり。水島ニ渡ルとよむべし○略解に和名抄なる菊池郡水島を引き古義に
  水島はかの泉(○景行天皇紀に見えたる)のある島によりて後に廣く郷名になれるなり
といへるは非なり。此歌の水島(景行紀に葦北(ノ)小島といへり)は島の名にて肥後の南部にあり和名抄なる水島は郷の名にて同國の北部にありて別なり。中島廣足の相(355)良日記に
  船にて白島にわたる。……南にさうそう島、水島あり。此水島は書紀にも風土記にもしるされ萬葉集の歌にも見えたるくすしき島にて今もいときよき水わき出めり。ふるくは葦北郡とあるを今は葦北八代の郡境にありて八代の方につけり。年をへて海もあせぬるにやあらむ今はしほひにはかちよりもものすめり。野坂の浦はさだかならねど今の佐敷の浦のあたりならむと或人のいへるげに此水島までの海路五里ばかりもあればかの船出シテとよみ給へるにもかなふべし。又和名抄に菊池郡に水島といへる地名のあるを此水島におもひまがへて萬葉略解の註に引たるはあやまり也。菊池郡なるは川のほとりにて今も水島村といひてあなる、此海よりは二十里も隔りて山にそひたる所なり
といへり(同じ人の著せる不知火考の附圖に水島をあらはして萬葉集所詠之水島是也と記せり)○マコトはゲニなり○居は舊訓に從ひてヲルとよむべし○カは哉《カモ》の意(略解)
 
246 葺北の野坂の浦ゆ船出して水島にゆかむ浪たつなゆめ
(356)葦北乃野坂乃浦從船出爲而水島爾將去浪立莫勤
 相良日記の頭書に
  野坂浦は水俣の邊に野坂村といへる所あるそこなるべしと或人いへり。可尋
といへり。水俣は佐敷よりは南方にありて薩摩の境に近し
 追考 禰富濱雄が廣足の日記野阪のうらづとをもて來て見せしを見るに
  野坂のうらは今其名はのこらねど此浦(○佐敷)也といへり。げにさがしきさかどものあなるはよしありて覺ゆ。こゝより舟出して水島にわたらんにはうみの上おほよそ六里にもあまるべし。水島は八代葦北の郡のさかひなるうみの一里ばかり沖のかたにあなればただに行見んには日奈久の里より舟出するなんいとちかゝるを此浦に物する人はかの山路のさがしきにくるしみて行さも來さも大かた舟にて物するを其舟ぢのついでにはまたいとよき見どころなればいにしへ長田王の此浦より舟出し給ひけんさまもおもひやらるかし。又和名抄に肥後國菊池郡水島とてあなるをあだし國の人はそれ也とおもへるもあめる、そは國がたをしらねば也。菊池は北のかたの山にそへる郡にてあし北までは中に三(357)の郡をへだてて海にはいとはるか也。その水島といへるは地名にて今も菊池郡に水島村といふがあなるやがてそれ也けり。こはついでにいへるなり
といへり。野阪の浦づとは文政四年の作、相良日記は同十三年の作なれば日記の頭註即水俣説は後出なれど未推究めざる説なれば打任せては從ひ難し
 
   石川(ノ)大夫|和《コタフル》歌一首 名闕
247 おきつ浪へなみたつともわがせこがみ船のとまりなみたためやも
奥浪邊波雖立和我世故我三船乃登麻里瀾立目八方
    右今案從四位下石川宮麻呂朝臣慶雲年中任2大貮1又正五位下石川朝臣|吉美侯《キミコ》神龜年中任2少貮1。不v知兩人誰作2此歌1焉
 ヘナミは沖ツ浪の反對にて岸近くたつ浪、タタメヤモはタタムヤハといふことなること前註にいへる如し○考に『男どちも互にしたしみあがめて吾セコと云事集中に多し』といへり○トマリの下にニを加へて心得べし。略解に『みことのりをうけたまはりて行ますたびなれば云々』と釋きたれど水島に渡りしは遊覧の爲なるべ(358)し。用あるべき處ならねばなり
 
   又長田王作歌
248 はや人の薩摩のせとを(雲居なす)とほくもわれはけふ見つるかも
隼人乃薩摩乃迫門乎雲居奈須遠毛吾者今日見鶴鴨
 ハヤビトノを契沖、眞淵(冠辭考)は枕辭とせるを宣長(記傳十六卷四十二丁)は
  隼人は國名なり。薩摩は國名にはあらず。隼人國の中の地名なり。後まで薩摩郡あれば其あたりの名にぞ有けむ。國名の薩摩と改まりしは大寶より靈龜までの間なるべし(採要)
といへり。六卷にハヤビトノセトノイハホモとあれば枕辭ならざる事は明なり○此瀬戸は薩摩國なる下|出水《イヅミ》と長嶋との間なる海峡にて今黒瀬戸といふ。野坂浦より水嶋に渡る海路より遙に此海峡を望み見しなり
 
   柿本朝臣人麻呂羈〔馬が奇〕旅歌八首
249 みつの埼浪をかしこみ隱江乃舟公宣奴島爾
(359)三津埼浪矣恐隱江乃舟公宣奴島爾
 舟公宣奴島爾は誤字なることしるし
  宣長は舟八毛何時寄奴島爾《フネハモイツカヨセムヌシマニ》
  久老は舟八毛|不通《ユカズ》奴島(ガ)埼爾
  千蔭は舟令寄敏馬崎爾《フネハヨセナムミヌメノサキニ》
  雅澄は舟寄金津《フネヨセカネツ》奴島埼爾
の誤とせり。三津埼は難波、ヌジマは淡路の地名にて三津埼よりヌジマに到るには敏馬を經ることなればミヌメをいはずして直にヌジマをいふべきにあらず。されば奴島は敏馬の誤とおぼゆ。公宣の二字は未考へず○隱江乃は舊訓にコモリエノとよめり。久老は『コモリヲルをやがてコモリ江にいひつづけたり』といひ雅澄も此説に從ひたれど此時代にさるいひかけあるべしとはおぼえず。再案ずるに隱江乃舟下而泊奴美奴馬爾《コモリエニフネヲオロシテハテヌミヌメニ》の誤脱か。乃はニともよむべし
 
250 珠藻かる敏馬を過《スギテ》(なつぐさの)野島|之《ガ》埼に舟ちかづきぬ
珠藻刈敏馬乎過夏草之野島之埼爾舟近著奴
(360)   一本云處女をすぎて夏草の野島が埼にいほりすわれは
   一本云處女乎過而夏草乃野島我埼爾伊保里爲吾等者
 タマモカルは一卷ハナチラフ秋津ノ野邊ニのハナチラフの類にて准枕辭なり○ミヌメは今の攝津國西灘村にて神戸の東に接せり○過を古義にスギとよみて六字の句としたれどもとの如くスギテとよみて可なり○ヌジマは淡路の北端の西岸にあり○之を舊訓にはガ、古義にはノとよめり。一本には我と書けり
 一本の歌は十五卷なる新羅に遣されし使人等が所に當りて誦詠せし古歌の中にも出でたり。宣長は
  處女と云地名有べくも非ず。是はミヌメを傳へ誤れる僻事也
といへれどこゝに處女とあるのみならず十五卷にも乎等女と書きたれば誤にはあらじ。契沖は
  第九に葦屋處女墓をよめる歌あり。彼由緒によりて兎原郡葦屋浦を處女とのみもいへるなり
といへり
 
(361)251 あはぢのぬじま之《ガ》さきの濱風に妹が結《ムスビシ》紐ふきかへす
粟路之野島之前乃濱風爾妹之結紐吹返
 結を舊訓にムスビシとよめるを宣長はムスベルに改め久老は
  卷廿に兒等我牟須敝流とあり。ムスビシとよむは非也
といへれど卷十四には筑紫ナルニホフ兒ユヱニミチノクノカトリヲトメノ由比之比毛等久とあり。さればムスビシともムスベルとも處によりていふべく今は妹ガムスブといふに力を入れたるなればムスビシとよむべし○紐は略解に
  こゝは風フキカヘスとよみたれば下紐にはあらで旅の衣の肩に付たる紐也。古事記口子(ノ)臣|紅紐《アカヒモ》つきたる青摺(ノ)衣をきる故|水潦《ニハタヅミ》紅紐を拂て皆|紅色變《アケニナ》るよし有
といへれど赤紐は肩に縫ひ着けて前後に垂るゝものにて(雅亮裝束抄による)晴着の飾とおぼゆれば旅衣にはつくべからず。今の歌の紐はおそらくは襟の紐ならむ〇三句と結句とうち合はず。即ハマカゼニとあるを受けてはフキカヘサルといはざるべからず。古義及藤井高尚の『歌のしるべ』にいへる所あれどそは牽強傅會の辯のみ。案ずるに古今集に
(362)  山かぜにさくらふきまきみだれなむ花のまぎれにたちとまるべく
とあると同じくて一の格なり
 
252 (あらたへの)藤江の浦にすすきつるあまとかみらむ旅ゆくわれを
荒栲藤江之浦爾鈴寸釣白水郎跡香將見旅去吾乎
    一本云しろたへの藤江の浦にいざりする
    一本云白栲乃藤江能浦爾伊射利爲流
 藤江は明石の西方にあり○ワレヲはワレナルヲなり○藤江の浦の勝景にめでてゆきすぎがたくするを鱸つる海人の舟とや人の見るらむと云へるなり〇一本にシロタヘノとあるはきはめて誤なりと久老いへり○因にいふ久老は
  藤のチは必すむべきにやとおぼしき事あり。古今集にワガヤドノ池ノ藤浪とあるも淵に通はしたるつづけなるに後撰集にもカギリナキ名ニオフ藤ノ衣ナレバソコヒモシラヌ色ノフカサカ、棹サセド深サモシラヌフチナレバ色ヲバ人モシラジトゾオモフとあり。土佐國にては今猶フヂのチはすむと其國人いへり
(363)といへり。備前國和氣郡穗浪村に藤浪氏と淵浪氏とあり。おそらくは初は共に藤浪なりしを古音のまゝにフチナミと唱ふるにつきて藤にてはかなひ難しと思ひて淵と書きそめし人ありて終に二氏となれるなるべし。同國兒嶋の地名藤戸も底深きわたり場といふ意にて淵門と名づけたるを藤戸と書くことゝなり終にフヂトと濁りて唱ふるやうになれるにあらざるか
 
253 いなび野もゆきすぎがてにおもへれば心こひしきかこの島みゆ【一云潮見】
稻日野毛去過勝爾思有者心戀敷可古能島所見 一云潮見
 ガテはアヘにてガテニは不敢なり。ガテズをガテニといふはシラズをシラニといふに同じ○オモヘレバはオモヘルニなり(略解)○契沖は
  印南野の面白くて過ぎうきに又かこの島も見ゆれば彼へも早く行きて見まくほしければ彼方此方に引かるゝ心をよめり。イナビ野ヲといはずして野モといへるは可古の島も見ゆと云ふ心を兼ねたり
といへり。三句の次に又ユク手ニハといふことを挿みて心得べし○さて今カコノシマといふ島なきによりて考には一本に潮見とあるに從ひ其潮を湖の誤として(364)カコノミナトミユとよめり(はやく契沖も『此の潮の字、下にミナトともハマとも訓じたればカコノミナト見ユといへるか。カコノハマとよめるか』いへり)。案ずるに今高砂といふは加古川の河口のデルタなり。是いにしへのカコノシマの變形したるものならむ○潮は播磨風土記、日本靈異記などにもミナトに借りたり。さて可古ノミナトは加古川の河口なり
 追考 大日本地名辭書|南※[田+比]都《ナビツ》島の條に
  風土記、萬葉集の所載を審按するに蓋印南川の河口なる堆洲にして中世以降高砂といふ者是なり。……加古の島と曰へるも又此ならん
といへり。南※[田+比]都は南※[田+比]都麻とあるべし
 
254 (ともしびの)明大門《アカシオホト》に入日哉《イラムヒヤ》こぎわかれなむ家のあたり不見《ミズ》
留火之明大門爾入日哉※[手偏+旁]將別家當不見
 明大門を眞淵(冠辭考)はアカシノオトとよみ久老はアカシオホトとよめり。雅澄のいへる如くイコマタカネ、イナサホソエなどを例としてアカシオホトとよむべし○入日哉は宣長のイラムヒヤとよめるに從ふべし。日ヤは日ニヤなり○不見は古(365)義に不を所の誤としてミユとよむべき説を擧げたれど(舊訓には不見のまゝにてミユとよめり)なほ宣長のミズとよみて『四の句の上へうつして見べし』といへるに從ふべし。雅澄は
  あかしの門に入む其日に榜別れて見えずなりなむかとおもふ我家のあたりが見ゆるはさてさて名ごりをしきことかなと云るなり
といへれどコギワカレナムはイラム日ヤの結なればイヘノアタリへはつづかず
 
255 (あまざかる)ひなのながぢゆこひくればあかしのとより倭島見ゆ【一本云家門當見由】
天離夷之長道從戀來者自明門倭島所見
    一本云家門當見由
 以下二首東上の時の歌なり。ナガヂユのユは中世のヨリ今のヲなり。倭島は大和の山なり〇一本家門當の門字は乃の誤かと契沖いへり
 
256 けひの海のにはよくあらし(かりごもの)亂出所見《ミダレイヅミユ》あまのつりぶね
(366)飼飯海乃庭好有之苅薦乃亂出所見海人釣船
 ケヒノウミは久老『淡路に飼飯野《ケヒノ》といふ地ありと吾友度會正柯いへり』といひ大日本地名辭書淡路國三原郡の條に『今松帆村に大字|笥飯野《ケヒノ》あり。或は慶野に作る』とあり○ニハは海面、ヨクは穩ニなり。アラシは集中に又アルラシといへり〇四句を久老はミダレイデミユとよみ千蔭はミダレイヅルミユとよめるを雅澄はミダレイヅミユに改めたり。之に從ふべし。ミユの上、後世は連體格を用ふれどいにしへは終止格を用ひしなり
 
   一本云
むこの海|舶爾波〔三字左△〕有之《ニハヨクアラシ》いざりするあまのつりぶねなみの上ゆみゆ
武庫乃海舶爾波有之伊射里爲流海部乃釣船浪上從所見
 二句を宣長はフナニハナラシとよみて『舟庭とは舟を海上に榜出すによき日和をいへり』といひ雅澄はムコノウミノフネニハアラシとよみて『ニハと云るは他方の海人の船にはあらじとの意なり』といへる共に非なり。なほ契沖のいへる如くニハ(367)ヨクアラシの誤とすべし。十五卷、遣新羅使人等當所誦詠古謌の中に
  たまもかる乎等女をすぎてなつぐさのぬじまがさきにいほりすわれは
  しろたへのふぢえ能うらにいざりするあまと也みらむたびゆくわれを
  あまざかるひなのながち乎こひくればあかしのとよりいへ乃あたりみゆ
  むこのうみの爾波余久安良之いざりするあまのつりぶねなみの宇倍ゆみゆ
以上四首の歌を擧げたり。此卷に右の歌どもを擧げたる次に一本云として擧げたるは全く十五卷なるに同じ(第二首の四句此卷に白水郎跡香〔右△〕とあり。十五卷には安麻等也〔右△〕とあるを一本云安麻等也と書かざるはおとせるなるべし)。契沖いへらく
  一本云とある四首の注は後人第十五を見て意を得ず此に注せるか。其故は新羅の使或は句を替へ又飼飯海などは時に叶はねば武庫(ノ)海と改めて誦しける故に彼卷に柿本朝臣人麿歌曰とて一々に注せり。彼時に叶へて假に誦したるを以て撰者何ぞ此に注せむや。君子これを思へ
といへり。げに然り○ナミノ上ユのユは輕く用ひてニの助辭に似たりと久老いへり
 
(368)   鴨(ノ)君|足人《タリヒト》香具山歌一首并短歌
257 (あもりつく) あめのかぐ山 (霞たつ) 春にいたれば 松風に 池浪たちて、櫻花 木晩|茂爾〔左△〕《シゲミ》 おきべには 鴨|妻喚《ツマヨバヒ》 へつへに△《ハ》 あぢむらさわぎ (ももしきの) 大宮人の まかりでて 遊船爾波《アソブフネニハ》 かぢさをも なくてさぶしも こぐ人なしに
天降付天之芳來山霞立春爾至姿松風爾池浪立而櫻花木晩茂爾奥邊波鴨妻喚邊津方爾味村左和伎百磯城之大宮人乃退出而遊船爾汝梶棹毛無而不樂毛己具人奈四二
 カスミタツは准枕辭○イケナミは埴安の池の波なり。ノを省きてイケナミといへるめづらし。所謂歌語なり。復活して今も用ふべし○サクラバナの次の句舊訓にコノクレシゲニとよめるを雅澄は爾を彌の誤としてコノクレシゲミと改め訓めり。此説おもしろし。但『シゲミは俗にシゲンデといはむが如し』といへるは非なり。此ミは下なる山タカミ河トホジロシ又五卷マツラガハカハノセハヤミクレナヰノモ(369)ノスソヌレテアユカツルラムのミと同じくてキニと譯すべきミなり。さればこゝのシゲミはシゲサニとは譯せずしてシゲキニと譯すべし。又案ずるに一卷の長歌に山乎|茂《シミ》イリテモキカズとあり、次の長歌にシキイマスを茂座と書けると照らし合せてもとのまゝにてコノクレシキニとよむべきか。又は二卷にイハツツジムクサク道ヲとあるに依りてコノクレムキニとよむべきか。コノクレはコカゲなり。サクラバナコノクレシゲミといへるは山櫻のさまなり○鴨妻喚を舊訓にカモメヨバヒテとよめるを契沖カモ、ツマヨバヒに改めたり○ヘツヘは岸の方なり。ヘツヘニの下に波《ハ》をおとせるならむ。アヂムラは水鳥の名なり○遊船爾波は從來アソブフネニハとよめり。往時の事を云へるなれば爾は衍字にてアソビシフネハとよむべきかとも思へど一卷タワヤメノソデフキカヘス〔五字傍点〕アスカ風ミヤコヲトホミイタヅラニフク、二卷タケバヌレタカネバナガキ妹ガ髪コノゴロミヌニカカゲツラムカなど過去を現在にいへる例少からねばなほ舊訓の如くアソブフネニハとよむべし。略解に『アソブ舟ニハとはアソブベキ舟ニハと云也』といへるは非なり○サブシはオモシロカラズなり○コグ人ナシニは漕ギテ遊ブ大宮人ナクテとなり。略解(370)に『舟人のなき事をいへる也』といへるは誤れり
 
   反歌二首
258 人こがずあらくもしるし(かづきする)をしとたかべと船の上にすむ
人不※[手偏+旁]有雲知之潜爲鴦與高部共船上住
 カヅキスルは准枕辭。アラクはアル事の意なり。タカべは水鳥の名なり。スムは居ルなり
 
259 いつのまもかむさびけるかかぐ山のほこすぎが本にこけむすまでに
何時間毛神左備祁留鹿香山之鉾椙之本爾※[草冠/辟]生左右二
 イツノマモはイツノマニモにてそのモは助辭なり。カムサビは物フリなり○ホコスギは考に『若木の細く長きをホコといへり』といひ古義に『杉の若木の鉾の長さばかりあるがまた鉾の形にも似たれば云なるべし』といへれどなほ代匠記に『※[木+温の旁]は直き木にて鉾を立てたるさまに見ゆればなり』といへるに從ふべし(はやく兼載雜談にも牟杉とはほこのやうにすぐなる杉なりといへり)。又考に『若木のすぎの鉾立な(371)りしも木末に(○考には本を末の誤とせり)ひかげの生るまで古びしは云々』といひ古義も此釋に(本を末の誤とする外は)從ひたれどモト若木ナリシ木といふ事を打任せてワカ木といふべけむや。しか云はれぬを見てもホコスギといふ稱が樹齢の老弱によらぬことを知るべし○此歌と二卷イモガ名ハ千代ニナガレムヒメ島ノ小松ガウレニ苔ムスマデニと本末相對せり。但モトといひウレといふは必ずしも木の根方又は梢といふ意にあらず。輕く上方といひ下方といへるのみ○前註にコケを日カゲとせるは誤なり。日カゲは地上に生ふるものなり
 
   或本歌云
260 (あもりつく) 神のかぐ山 (うちなびく) 春さりくれば さくら花 木晩茂《コノクレシゲミ》 松風に いけなみ※[風+犬三つ]《タチ》 邊津返者《ヘツヘニハ》 あぢむら動《トヨミ》 奥邊者《オキヘニハ》 かも妻《ツマ》よばひ (ももしきの) 大みや人の まかりでて こぎ來《ケル》舟は さをかぢも なくてさぶしも こがむともへど
天降就神乃香山打靡春去來者櫻花木晩茂松風丹池浪※[風+犬三つ]邊都返者阿遲(372)村動奥邊者鴨妻喚百式乃大宮人乃去出※[手偏+旁]來舟者竿梶母無而佐夫之毛※[手偏+旁]與雖思
      右今案遷2都寧樂1之後怜v舊作2此歌1歟
 木晩茂は舊訓にコノクレシゲミとよめり。そのミはかの山タカミ河トホジロシなどのミと同じき事前に云へる如し○※[風+犬三つ]は舊訓にタチテとよめるを略解にサワギに改め古義にタチとよめり。雅澄に從ふべし○邊津返者、奥邊者は舊訓にニをよみ添へて ヘツヘニハ、オキヘニハとよみ雅澄はニを省きてヘツヘハ、オキヘハとよめり。いづれにてもあるべし○動の字舊訓にサワギとよめるを略解にはトヨミと訓めり。下なる羈〔馬が奇〕旅歌の瀧ノウヘノ淺野ノキギシアケヌトシ立動ラシをタチトヨムとよむがごとく今もトヨミとよむべし。雅澄はあぢむらにトヨミといへる例なしといへれどいひて可ならば例の有無に拘はるべからず○來は舊訓にコシ略解にケルとよめるを雅澄は久老の來を去の誤としてニシとよめるに從へり。案ずるに往時此地ニテ漕ギシ舟ハといへるにてヨソヘ漕ギ去リシ舟ハといへるにあらねばコギケルとよむべくコキニシとはよむべからず
 
(373)   柿本朝臣人麻呂獻2新田部《ニヒタベ》(ノ)皇子1歌二首并短歌
261 (やすみしし) わがおほきみ (高|輝《テラス・ヒカル》) 日の皇子 茂座《シキイマス》 大殿のうへに (久方の) あまづたひくる ゆきじもの 往來乍益及常〔左△〕世《ユキカヨヒツツイヤシキイマセ》
八隅知之吾大王高輝日之皇子茂座大殿於久方天傳來自〔左△〕雪仕物往來乍益及常世
 高輝はタカテラス(舊訓)タカヒカル(久老)いづれにても可なり○茂座は略解にシキマスとよめり。結句にイヤシキイマセといへるに對してげにシキイマスとよむべし。シクは占むるなり○オホトノの上にコノといふことを加へて聞くべし。作者矢釣山なる御別邸に參りてよめるなり(大殿於と書ける於はウヘとよむべし)○往來乍益及常世を舊訓にユキキツツマセトコヨナルマデとよめるは固より當らず。考に常を萬の誤としてユキキツツマセヨロヅヨマデニとよみ久老は常を座の誤とし乍の下を句としてユキカヨヒツツイヤシキイマセとよめり。久老の訓によるべし。イヤシキイマセは彌敷座にてシキイマセは上なるシキイマスと照應せるなり。(374)雅澄がイヤシキは彌重なりといへるは非なり○ヒサカタノ以下三句はユキカヨヒにかゝれる序なり。自は白の誤なり。ユキを白雪と書けるなり
 
   反歌一首
262 やつり山こだちもみえず落亂《フリマガフ》雪※[馬+麗]朝樂毛《ユキニキホヒテマヰリクラクモ》
矢釣山木立不見落亂雪※[馬+麗]朝樂毛
 落亂はフリマガフ(久老)とよむべし。フリミダルとよみては切れて下へ續かず○雪※[馬+麗]は眞淵※[馬+麗]の字の扁の馬を足に改めてユキニキホヒテとよめり。訓はさもあるべし○朝樂毛は眞淵の論に從ひてマヰリクラクモとよむべし。朝の字をマヰリクに充てたるなり。さてマヰリクラクモは參り來ル事ヨとなり
 
   從2近江國1上來時|刑部《オサカベ》(ノ)垂麿《タリマロ》作歌一首
263 馬莫〔□で圍む〕疾《イタク》うちてなゆきそけならべてみてもわが歸《ユク》しがにあらなくに
馬莫疾打莫行氣並而見※[氏/一]毛和我歸志賀爾安良七國
 初句を舊訓にウマナイタクとよめれどナといふこと二句と重なれば初句の莫は(375)衍字なるべし(景樹芳樹同説)。さらばウマイタクとよむべし○ケナラベテは宣長のいへる如く日數ヲ重ネテなり。此辭はミテにかゝれり○歸は宣長のユクとよめるに從ふべし。上なるユクはただゆく事、こゝなるは藤原の都に歸る事なれば意を得て歸と書けるなり○古義に『ウチテナユキソは馬の口とれる者におほするなり』といへるは非なり。同行者にいへるなり。四句のワガはワレラガと見べし○ケナラベの下にテの言ある爲ワガユクまでにかゝれるやうに聞え、從ひて滞る所あるやうに聞ゆるなり
 
   柿本朝臣人麻呂從2近江國1上來時至2宇治河邊1作歌一首
264 (もののふのやそ)うぢ河のあじろ木にいざよふ浪のゆくへしらずも
物乃部能八十氏河乃阿白木爾不知代經浪乃去邊白不母
 モノノフノヤソは二句に跨れる七字の枕辭なり○イザヨフナミは網代にさへぎらるゝ波なり。しばしいざよひぬる後流れ去り流れ去りするが故にユクヘシラズモといへり。見る目のおもしろきをよめるのみ。他に意はなきこと古義にいへる如し
 
(376)   長《ナガ》(ノ)忌寸《イミキ》奥麻呂《オキマロ》歌一首
265 くるしくもふりくる雨か神之《ミワノ》埼さぬのわたりに家もあらなくに
苦毛零來雨可神之埼狹野乃渡爾家裳不有國
 三句を舊訓にミワノサキとよめり。宣長いはく(玉勝間九卷)
  三輪が崎は新宮より那智へゆく道の海べなり。新宮より一里半ばかりありてけしきよき所なり。佐野は佐野村といふ有て三輪が崎の一つづきなり
といへり。今紀伊國東牟婁郡に三輪崎村ありて其村の字に佐野の名殘れりといふ。久老のカミノサキとよみ改めたるは從ふべからず○ワタリは久老アタリの意にはあらで渡津の意なるべしといひ雅澄は『アタリをワタリといふ事は此集の比はすべてなかりき』といへり○クルシクモはワビシクモなり。雨カは雨カナなり。アラナクニはアラヌニなり
 
   柿本朝臣人麻呂歌一首
266 あふみの海ゆふなみ千鳥ながなけばこころもしぬにいにしへおもほ(377)ゆ
淡海乃海夕浪千鳥汝鳴者情毛思努爾古所念
 ユフナミチドリは夕浪に亂るゝ千鳥にて人麿の造語なり。古人はかくも大膽なりしぞ○シヌニはシナユバカリニなり○イニシヘは契沖の云へる如く近江の宮の昔なり 
 
   志貴皇子御歌一首
267 むささびはこぬれもとむと(あしひきの)山のさつをにあひにけるかも
牟佐佐婢波木末求跡足日木乃山能佐都雄爾相爾來鴨
 コヌレモトムトは都合ヨキ木末ヲ求メムトテなり。久老の『すむべきこぬれをもとむるをいふなり』といへるはすこし當らず。山ノサツヲは獵師なり○こはむさゝびを見てよみ給へるにてたとへ給へる事あるべけれど其事は知るべからず
 
   長屋王故郷歌一首
268 わがせこが古家《フルヘ》の里のあすかにはちどりなくなり島〔左△〕《キミ》まちかねて
(378)吾背子我古家乃里之明日香庭乳鳥鳴成島待不得而
    右今案從2明日香1遷2藤原宮1之後作2此歌1歟
 古家は五卷、十四卷に我家、妹家をワガヘ、イモガヘと假字書にせるを例としてフルヘとよむべし○上三句は君ノ舊宅アル里ノ明日香ニハといへるなり○島は君の誤にて藤原都より舊都明日香にゆけるほど藤原なる或人に贈れるなる事略解にいへる如し
 
   阿倍(ノ)女郎(ノ)屋部坂歌一首
269 人不見〔二字左△〕者《ヒトナラバ》わが袖もちてかくさむを所燒乍〔左△〕可將有《ヤカレテカアラム》不服而來〔左△〕來《キズテヲリケリ》
人不見者我袖用手將隱乎所燒乍可將有不服而來來
 屋部坂は契沖『三代實録第三十七云高市郡夜部村云々此處歟未考得』といひ大日本地名辭書磯城郡の條に『多《オホ》村大字矢部あり此歟』といへり○初句は考の頭註に『一説に人爾有者の誤かと云り』といへり。しばらく之に從ひてヒトナラバとよむべし○所燒乍可將有は諸註みなヤケツツカアラムとよめれど乍は手などの誤にてヤカ(379)レテカアラムなるべし○來來は略解に坐來に改めてヲリケリとよめるに從ふべし○屋部坂の野火にやかれなどして草木もなく赤裸なるを見て人ナラバ我袖モテ隱サムニ火ニ燒カレテカアラム衣モ着ズテヲリケリといへるなるべし(ほぼ略解の説に同じ)
 
   高市《タケチ》(ノ)連《ムラジ》黒人《クロヒト》羈〔馬が奇〕旅歌八首
270 たびにしてもの戀敷に(山下の)あけのそほぶね奥榜《オキヲコグ》みゆ
客爲而物戀敷爾山下赤乃曾保般奥※[手偏+旁]所見
 古義には戀敷を例の如くコホシキとよめり。いづれにてもよし○山下は舊訓にヤマモトとよめるを宣長はヤマシタに改めてヤマシタは秋山ノシタビとあると同言にて山の赤く照ることなりといへり(玉の小琴及記傳三十四卷三十三丁)。語源はともかくも枕辭とせではかなはず○アケノソホ船は略解に赤土もて塗りたる船にて官船なりといへり○奥※[手偏+旁]は從來オキニコグとよみて沖へこぎ出づることゝしたれどオキヲコグとよみ改むべし。沖の方を漕ぎ行くが見ゆるなり○一首の意は官船の都の方へ行くを羨ましく思ふなる事前註にいへる如し
 
(380)271 櫻田へたづなきわたるあゆちがたしほひにけらしたづなきわたる
櫻田部鶴鳴渡年魚市方鹽干二家良進鶴鳴渡
 和名抄尾張國愛智郡の條に作良郷あり又催馬樂の歌にサクラ人とあれば諸註櫻田を櫻郷の田の事としたれどよく思ふに作良の郷のうち海近く廣き田地のあるを地名のやうにサクラダと稱せしなるべし(はやく新採百首解にも『さくら田てふ所』といへり)。さらではアユチガタシホヒニケラシとあるとかなはず。さればサクラダへは作良ノ田へといふ意にはあらでサクラ田ノ方へといふ意なり。鶴のおりむ先はもとより愛智潟なり
 
272 しはつ山うちこえみれば笠縫の島こぎかくるたななし小舟
四極山打越見者笠縫之島※[手偏+旁]隱棚無小舟
 シハツ山、カサヌヒノ島は眞淵(百首解)のいへる如く攝津の地名にて笠縫の島は今陸地となれり。くはしくは古事記傳三十五卷及玉勝間六卷を見て心得べし○ウチコエミレバはウチコエツツ見レバなり。シマコギカクルはコギツツ島ニ隱ルなり。(381)四句にて切るべし。棚なし小舟が笠縫島にこぎつゝ隱ると云へるなり○タナナシ小舟は傍板《ワキイタ》を打たざる淺き小舟にて所謂獨底船なり。タナは續日本後記に柁折棚落とある棚にて正しくは舷と書くべし
 
273 礒前《イソノサキ》こぎたみゆけば近江の海やそのみなとにたづさはになく
礒前榜手囘行者近江海八十之湊爾鵠佐波二鳴 未詳
 磯前は舊訓にイソザキヲとめるを略解にイソノサキに改めたり。地名とせずばイソノサキとよまむ方まさるべし。コギタミはコギメグリなり○略解に近江國坂田郡に磯崎村といふ今もありて湊也。彦根に近し。八十の湊は今|八坂《ハツサカ》村といふ所也と云り。いかさまにも此歌の八十の湊は一所の名ときこゆるよし宣長いへり
といひ近江人大寂庵立綱のうきくさの跡にも『磯崎は坂田郡なる磯崎村、八十之湊は犬上郡|八坂《ハツサカ》村なるべし』といへり。案ずるに磯崎はなほ磯の崎にてヤソノミナトはなほアマタノミナトといふことなり。彼坂田郡なる磯崎は地形によりて名を負へるにこそ。八坂《ハツサカ》村をヤソノミナトに當てたるは特に辨ずるに足らず
 
(382)274 わが船はひらのみなとにこぎはてむおきへなさかりさよふけにけり
吾船者枚乃湖爾※[手偏+旁]將泊奥部莫避左夜深去來
 久老のオキベナサカリとよめるは非なり。ヘはテニヲハなり。沖ヘナサカリソのソは略してもよきなり○註疏に他船ハトモアレと釋けるはワガフネハのハを重く見すぎたるなり。さる意にあらず○結句を初句の上へまはして心得べし
 
275 何處吾將宿《イヅクニカワレハヤドラム》たかしまのかち野の原に此日くれなば
何處吾將宿高島乃勝野原爾此日暮去者
 初二を久老はイヅクニ【四言】ワレハヤドラムとよみ千蔭はイヅクニカワレハヤドラムとよめり。何處とありてカとよむべき字はなけれどよみそへてもあるべし。二句を雅澄のアハヤドラナムとよめるはあさまし。ヤドリナムとこそよまばよまめ○高島は近江の地名にてこは陸行の歌なり。勝野は今の大溝なり
 
276 妹も我もひとつなれかも三河なる二見の道ゆわかれかねつる
妹母我母一有加母三河有二見自道別不勝鶴
(383) ヒトツナレカモは一體ナレバニヤといふ意なり。契沖久老などの相思フ心ノヒトツナレバニヤといへるは非なり。又契沖が
  二見を二身になしたるか。さらずともフタミと云名よりヒトツナルカモとはいへり
といひ千蔭が『ヒトツナレカモといひ又三河二見など求て數を重ねよめる也』といひ雅澄の『三河二見といへる因にヒトツと云るなり』といへるは共に鑿説なり○考に
  三河の任などはてゝ大和へのぼる時よしありて尾張近江山背攝津をめぐりて歸るべければ妻は直に大和へ歸る時の別ををしめるならん
といへれどさては三河にては別るべからず。案ずるにこは三河より更に東なる國に赴かむとせし時によめるなり。抑三河より遠江に到るには御油《ゴユ》より吉田(豐橋)二川、白須賀、新居《アラヰ》、舞坂、濱松を經て天龍川に出づる道と御油より本《ホン》野原、嵩山《スセ》、本《ホン》坂越、氣賀《ケガ》、三方(ガ)原を經て天龍川に出づる道とあり。甲は東海道の大路にて乙は所謂姫海道なり。甲には途に今切の險あれば女子は好みて乙の道に由りけむ故に姫海道とい(384)ふにこそ。今も黒人は本道を行き妻は姫海道をゆかむとする故にフタミノミチユワカレカネツルとよめるなり。大日本地名辭書(御油の條)に
  按に二見路は後世姫海道と稱したり
といへるはいかが。フタミノ道ユワカレカネツルといへるを思へば本道と姫海道とを併稱してフタミノミチといひしに似たり。而して二見とかけるは蓋盒《フタミ》の借字にて離れては合ふといふ意にて名づけたるにあらざるか
 
   一本云
水河乃《ミカハノ》二見のみちゆわかれなばわがせもわれも獨かもゆかむ
水河乃二見之自道別者吾勢毛吾毛獨可毛將去
 考に
  是は妻の和たる歌なり。然れば端に黒人歌八首としるせし中に載べきにあらず。思ふに比八首の次に高市黒人妻和歌とて此歌有つらんを今本には脱、一本には亂てこゝに入つらん
といへり○古義に初句の乃を有の誤としてミカハナルとよめり。もとのまゝにて(385)ミカハノと四言によみてもあるべし
 
277 速《ハヤ》きてもみてましものを山しろのたかつきの村ちりにけるかも
速來而母見手益物乎山背高槻村散去奚流鴨
 速は舊訓にトクとよめるを久老ハヤとよみ改めたり。之に從ふべし。後世ハヤクといふに同じ○タカツキノ村は今は攝津國に屬せり。久老の『高く槻の生たる木群《コムラ》なるべし』といへるは非なり○チリニケルカモは考に『こは花か赤葉か。花といはで咲といへる類ひ古への常なればなり』といひ略解にカスガノ山ハサキニケルカモを例に出せり。契沖久老等の槻のもみぢの散るをいふといへるは誤れり
 
   石川少郎歌一首
278 しかのあまはめかり鹽やきいとまなみ髪梳《クシゲ》のをぐしとりもみなくに
然之海人者軍布苅鹽燒無暇髪梳乃少櫛取毛不見久爾
 左註に右今案石川朝臣君子號曰2少郎子1也とあり。考に題辭の少を女の誤として
  今本少郎と書て左の注に石川の字ぞといへるは甚しきひがごとなり。こは必女(386)の歌なるを男女の歌の分ちをだに見しらずや
といへり(新採百首解にも)。女の歌といへるはおのが上をよめるなりと心得たればなり。もし人の上をよめる歌とせば女の歌とは定むべからず。又左註を見ればはやくより少郎とありしなり。輕々しく改むべからず。少郎は兄を大郎、仲郎といふに對して云ふなり。いにしへは少小通用なりき○新勅撰集雜歌四に此歌を出だせるに四句クシゲノヲグシとあり又本集九卷にクシグナルツゲノヲグシモトラムト念ハズとあれば第四句はクシゲノヲグシとよむべし。但髪梳はクシゲとはよまれねば誤字にてもあるべし○考に『我上をよめるならん』といへれどなほ筑前に下りて志珂の女海人を見てよめるなり○ミナクニはミヌニの延言なれど今ミヌニといふとは異にてミヌヨなどいふに近し○軍布は久老の説に葷布の誤かと云へり
 
   高市《タケチ》(ノ)連《ムラジ》黒人歌二首
279 わぎもこに猪名野はみせつなすき山つぬの松原いつかしめさむ
吾妹兒二猪名野者令見都名次山角松原何時可將示
 西下の途にてよめるなり。猪名野以下皆攝津の地名にて猪名野は伊丹のあたりな(387)り。名次《ナスキ》ヤマ、つぬの松原共に今の西宮の近傍なり。ツヌは今の津戸か。代匠記に『和名を考るに武庫郡に津門【津止】あり』といひ閑田耕筆卷之一に
  名次山は西宮のうしろの山といふ。式にみゆる名次神社今は石もて作れる小社ながらやや大なる鳥井を建、其柱に其名を記す。……角の松原は此西宮の東の端尼(ガ)崎道にツトと訛れる所なりといふ
といへり○イツカ示サムはハヤク見セタシとなり
 
280 いざこどもやまとへはやく(しらすげの)眞野の榛原たをりてゆかむ
去來兒等倭部早白菅乃眞野乃榛原手折而將歸
 コドモは從者をさしていへるなり。古義に『妻女などを呼かけて云るなるべし』といへるは非なり〇二句にて切るべし。ヤマトヘハヤクユカムといふべきユカムを下なるユカムに讓れるなり○シラスゲノマヌは契沖『眞野ノ浦ノ小菅、眞野ノ池ノ小菅とよめるも今と同所にて菅に名ある所なる故にかくつづくるにや』といへり。シラスゲノは所謂准枕辭にて白菅ノ生フルを略したるなり。眞野は今神戸市の中に入れり〇此歌のハリは萩なり。此歌にタヲリテユカムといひ妻の答歌にユクサク(388)サ君コソ見ラメ眞野ノ榛原といへる、ハンノ木の調にあらざればなり○此歌は東上の時の歌なり
 
   黒人妻答歌一首
281 しらすげの眞野のはり原ゆくさくさ君こそみらめまぬの榛はら
白菅乃眞野之榛原往左來左君社見良目眞野之榛原
 ユクサクサは久老
  このサはアフサギルサ、カヘルサなどいひて其時をもはらといふにそふる言也。ユクトキ、クルトキ、歸ルトキなどいはんが如しといひ語源については久老は
  このサはもとよりセより轉れる言と見えて古事記に落2苦瀬《ウキセ》1而云々とみえ後の歌にアフセ、ココヲセニセンなどいへるセとひとしかりけり
 雅澄は
  古言に時といふことをシダともサダとも云るをそのシダもサダも約ればともにサとなれり云々
(389)といへり。語源の研究は余の企てざる所。人よく定めてよ○君コソ西國往返ノ途ニテ度々見給フラメ、吾ハ女ニテ再見ム事モ難カルベケレバヨク見テ行カムニ然イソギ給フナと云へるなり
 
   春日(ノ)藏首《クラビト》老《オユ》歌一首
282 (つぬさはふ)いはれもすぎずはつせ山いつかもこえむ夜はふけにつつ
角障經石村毛不過泊瀬山何時毛將超夜者深去通都
 第二句は磐余《イハレ》ダニ未過ギズとなり。結句の下にワビシクモアルカナといふことを加へて心得べし。一首三節に切れたるなり
 
   高市(ノ)連黒人(ノ)歌一首
283 すみのえのえな津にたちてみわたせばむこの泊ゆいづるふなびと
墨吉乃得名津爾立而見渡者六兒乃泊從出流船人
 エナツは今の住吉附近なり。武庫の泊はいにしへの武庫郡の内にて武庫川の河口か(河口の状は恐らくは今と異なるべし)。今の武庫郡は明治年間に兎原《ウバラ》郡と八部《ヤタベ》郡(390)とを合せられたるなり。但下に
  武庫の浦をこぎたむをぶね粟島をそがひに見つつともしき小舟
とある粟島は淡路島に附きたる小島とおぼゆれば武庫(ノ)浦は武庫川の河口附近としてはかなはず。されば武庫(ノ)浦は遙に西の方今の兵庫附近に亘れる稱か。さらば敏馬《ミヌメ》(ノ)浦といへるは武庫(ノ)浦の一部か
 
   春日(ノ)藏首老歌一首
284 やきつへにわがゆきしかば駿河なるあべの市ぢにあひしこらはも
燒津邊吾去鹿齒駿河奈流阿倍乃市道爾相之兒等羽裳
 阿倍は今の靜岡にて燒津はその西南にあり。ユキシカバは今ユキシニといふばかりの調なり○アベノイチヂは安倍の市の道なり○コラは一人にてもいひ又主として女にいふことははやく云ひき○ハモのモは嘆辭なり。さればコラハモは女ハナアといふばかりの調にて其女の消息をゆかしく思ふ意なり。記傳二十七卷ホナカニタチテトヒシ君ハモの註に『とぢめにかくハモと云は歎息の辭にてハヤと云と似ていさゝか異なり。ハモは戀慕ひていづらと尋求むる意ある辭なり』といへり
 
(391)   丹比《タヂヒ》ノ眞人《マヒト》笠麻呂往2紀伊國1超2勢能山1時作歌一首
285 (たくひれの)かけまくほしき妹名をこのせの山にかけば奈何《イカニ》あらむ【一云かへばいかにあらむ】
栲領巾乃懸卷欲寸妹名乎此勢能山爾懸者奈何將有【一云可倍波伊香爾安良牟】
 カケマクホシキのカクは口にする事○妹名は舊訓にイモガナとよめるを宣長久老はイモノナとよめり。何媛とか何の郎女とかいふ名にはあらで妹トイフコトヲといふ意なればげにイモノナとよむべし○結句は一云の方まされり。久老は兩者を存じて
  ヤガテ妹山トイフ名ニカヘバイカニアランとこたへかへしたる也。かく終の一句をうたひかへたる例集中の歌にも處々みえたり(○たとへば卷五和爲能熊凝述其志歌の反歌などをいへるなるべし)。佛足石の歌は歌ごとに皆然り
といへるを古義には集中にさる例なしといへり○故郷ナル妹ノコヒシサニ折ガアツタラ妹トイフコトヲ口ニシタイト思フ處デアルカラ今越ユルコノセノ山ノ(392)名ヲ代へテ妹ノ山トシテ妹ノ山妹ノ山トイハバイカガ、定メテ心が慰ムデアラウとなり。抑紀伊に吉野川を隔てて妹山と背山とありといふ事は夙くよりいふ事なれど宣長(玉勝間九卷及十二卷)は妹山の方は實は無き山なりと斷定し本居内遠の妹山背山辨には『もとは迫山の意なりけむを峯二つあるより風騷の士迫山の名を※[女+夫]《セ》の義にとりなして一の峯を背の山、今一の峯を妹山といひそめしならむ』といへり。げにもし妹山といふ山あらば妹ノ名ヲコノセノ山ニカヘバイカニアラムとは云はじ。されば妹山といふ山は少くとも此時には無かりしなり
 
   春日藏首老即和歌一首
286 よろしなべ吾背乃君之△《ナ》おひきにしこのせの山を妹とはよばじ
宜奈倍吾背乃君之負來爾之此勢龍山乎妹者不喚
 ヨロシナベは一卷にもあり。フサハシクといふことにてオヒキニシにかゝれり。ワガセノ君にかゝれるにあらず〇二句は從來ワガセノ君ガとよみたれどさては意通ぜず。案ずるにもと吾背乃君之名とありしが名といふ字のおちたるなるべし。さて其名は笠麻呂といふ名にはあらでセといふ名なれば之〔右△〕は前のイモノ名の例に(393)ならひてガとはよまでノとよむべし○イモトハヨバジは妹トハカヘジなり。即今マデ吾背ノ君ノ背トイフ名ヲ負ヒ來リテ恰好ナル山ノ名ヲ今サラ妹ノ山トカヘムヤといひて相手をたゝへたるなり
 
   幸2志賀1時|石上《イソノカミ》卿作歌一首 名闕
287 ここにして家やもいづくしら雲のたなびく山をこえてきにけり
此間爲而家八方何處白雲乃棚引山乎超而來二家里
 作者は考及槻の落葉には麻呂公とし古義には乙麻呂卿とせり○志賀にて故郷大和の方を顧み望みたる趣なり○ココニシテはココニテなり。三句の上にオモヘバカノといふことを補ひてきくべし
 
   穗積(ノ)朝臣老歌一首
288 吾命之《ワガイノチシ》まさきくあらばまたもみむしがの大津によするしら浪
吾命之眞幸有者亦毛將見志賀乃大津爾縁流白浪
    右今案不v審2幸行年月1
(394)初句舊訓にワガイノチシとよめるを久老雅澄のワガイノチノとよみ改めたるは中々にわろし○此歌は行幸の時の作にあらじ。おそらくは養老六年に佐渡國に流されし時の作ならむ。なほ卷十三に至りて云ふべし
 
   間人《ハシビト》(ノ)宿禰大浦|初月《ミカヅキ》(ノ)歌二首
289 あまのはらふりさけみればしらま弓はりて懸有《カケタリ》よみちは將吉《ヨケム》
天原振離見者白眞弓張而懸有夜路者將吉
 懸有はカケタリ(契沖)將吉はヨケム(舊訓)とよむべし〇三日月の空にかゝれるを白木の眞弓を張りかけたりとみなしたるなり。代匠記に三四の譬を結句に及ぼして『白眞弓を張て天に懸けつれば山賊などの恐なくして今行夜道はあしからじとなるべし』といへるを古義の路襲せるはをさなし。ただ月ガアルカラ夜道ハヨカラウといへるのみ
 
290 くらはしの山をたかみか夜ごもりにいでくる月の光ともしき
椋橋乃山乎高可夜隱爾出來月乃光乏寸
(395) 古義にヤマヲタカミカのカを『尾句の下にうつして意得べし』といへるは非なり。山ヲタカミカは山ヲ高ミニカアラムにてそのカはヨゴモリニイデクルにかゝれるなり。ヒカリトモシキにかゝれるにあらず○夜ゴモリニは夜フカクといふことなり(久老)。四卷にもコヒコヒテアヒタルモノヲ月シアレバ夜ハコモルラムシバシハアリマテとよめり○この歌のトモシは物足ラヌなり○久老のいへる如く此歌は初月の歌にあらず。されば上の歌の前に初月歌二首とあるは誤なり
 
   小田事(ノ)勢能山(ノ)歌一首
291 まきの葉のしなふせの山しぬばずてわがこえゆけば木葉しりけむ
眞木葉乃之奈布勢能山之奴波受而吾超去者木葉知家武
 契沖いはく『六帖に此歌を載せたるに作者を小田コトヌシといへり。事主なりけるを後の本に主の字を落せるか』といへり○シナフは靡く事なり。○シヌバズテを契沖は『故郷を戀ふる心にえたえしのばで』と釋し宣長はめで偲ばぬ意とせり。なほ考ふべし〇二句にて切りて心得べし
 
(396)   角《ロク》(ノ)麻呂歌四首
292 (久方の)あまのさぐめがいは船のはてし高津はあせにけるかも
久方乃天之探女之石船乃泊師高津者淺爾家留香裳
 作者の名は契沖『是は角兄麻呂を兄の字を落せるか』といひ又追考に
  續紀に惠耀といふ僧勅によりて還俗せり。姓は録、名兄麻呂を賜へり。録と※[用の上に点]《ロク》と同音なればそのころ相通して※[用の上に点]《ロク》(ノ)兄麻呂《エマロ》とも書たるを其文字の目なれねば後人角に誤つるなるべし
といへり(追考は槻の落葉に引けり)。按ずるに角の一音ロクなり。ロクの角を※[用の上に点]とも書くはカクの角と別たむが爲ならむ。されば商山四皓一人なる角里《ロクリ》先生は又※[用の上に点]里先生と書けり。四首共に難波にてよみし歌なり
天(ノ)探女《サグメ》が磐舟に乘りて難波の高津に着きし事は攝津國風土記の逸文にも見えたり。ハテシはハテケムと心得べし
 
293 鹽干乃〔左△〕《シホヒガタ》みつの海女《アマメ》のくぐつもち玉藻かるらむいざゆきてみむ
(397)塩干乃三津之海女乃久具都持玉藻將苅率行見
 初句舊訓にシホガレノとよめるを考及槻の落葉に四言の句としてシホヒノとよめり。案ずるにシホヒノ三津といふ續こゝろよからず。乃は方の誤にて潟の借字ならざるか○海女は舊訓にアマメとよめるを雅澄はアマメといへる例なしといひてアマとよみて二句を六言としたれど海人と書かで海女と書きたるを見ればなほアマメとむよべきなり〇四句の下にヲの辭を補ひてきくべし○クグツは編袋なり
 
294 風をいたみおきつ白浪たかからしあまの釣船濱にかへりぬ
風乎疾奥津白浪高有之海人釣船濱眷奴
 
295 すみの江の木△※[竹/矢]《キシノ》松ばら(とほつ神)わがおほきみのいでましどころ
清江乃木※[竹/矢]松原遠神我王之幸行處
 二句の下にハの辭を入れて心得べし○古義に木の下に志を補へり。※[竹/矢]はノの借字なり
 
(398)   田口(ノ)益人《マスヒト》大夫任2上野國司1時至2駿河淨見埼1作歌二首
296 いほはらの清見|之《ノ・ガ》埼乃〔左△〕みほの浦のゆたけきみつつものもひもなし
廬原乃清見之埼乃見穗乃浦乃寛見乍物念毛奈信
 清見之埼の之は舊訓にノとよめるを考にガに改めたり○清見埼は大日本地名辭書に
  今興津町の西大字清見寺の磯崎なるべし
といひ見穗浦は同書に
  清水港の舊名也。即清水、江尻と三保埼の間なる江※[さんずい+彎]をいふ
といへり○埼乃の乃は由又は從の誤にてサキユにあらざるか
 
297 晝みれどあかぬ田兒の浦おほきみのみことかしこみよるみつるかも
晝見騰不飽田兒浦大王之命恐夜見鶴鴨
 ヒルミレドは今ならばヒル見テモといふべき處なり。いにしへはミテモといふ辭はなかりしが後世物いひ細になりて出來たるなり。此歌の上二句は二卷なるフタ(399)リユケドユキスギガタキ秋ヤマヲと同格なり○槻の落葉に
  オホキミノミコトカシコミ此言集中にいとおほし。いにしへ人の天皇をかしこみ奉る意いたくつゝしめり。……心をとどめて此ひと言をだによく味へば大御國の古意を思ひ得つべし
といへり
 
   辨基(ノ)歌一首
298 まつち山ゆふこえゆきていほざきの角太《スミダ》(ノ)河〔□で圍む〕原《ハラ》に獨かもねむ
亦打山暮越行而廬前乃角太河原爾獨可毛將宿
     右或云辨基者春日藏首老之法師名也
 ユフコエユキテはユフベニコエユキテなり。ユフコエユクといふは歌語なり。文にはつかふべからず○マツチ山以下の地を契沖は駿河とし眞淵、宣長、久老、雅澄等は紀伊とせり。さて宣長は
  此角大河を古よりスミダ川と心得たるも僻事也。角を古スミと訓る例なし。スミ(400)には隅の字をのみ用ひたり。然ば爰はツヌダかツヌホかなるべし
といひ雅澄は角太河原の河の字類聚抄に無しといひて
  河字無き本に依ば原は眞神之原などいふ原にてスミダノハラニとよむべく又河原とあるも河は借字、之《ガ》の意にて角田之原なるべし(古來河とのみ心得來つれども河にてはあらじとぞおもはるゝ)。さて角田は眞土山の隣にありと云り(本居氏隅はスミ角はツヌにて事違へりと云り。されど續紀廿八詔に東南之角《タツミノスミ》云々|西北角《イヌヰノスミ》などあればなほ角田はスミダなるべき證とすべし)
といへり。雅澄の説に從ふべし。角太(ノ)原は後世の隅田《スダ》(ノ)莊にて紀伊國伊都郡の地名なり
 
   大納言大伴卿歌一首 未詳
299 奥山のすがの葉しぬぎふる雪のけなばをしけむ雨なふり行〔左△〕年《ソネ》
奥山之菅葉凌零雪乃消者將惜雨莫零行年
 シヌギはツキヌキなり。古義に久老の説によりてオシナビケテと譯せるは非なり○行年は舊訓にコソとよめるを宣長は所年の誤としてソネとよめり。ヲシケムは(401)惜カラム、フリソネは降ルナなり
 
   長屋王駐2馬(ヲ)寧樂山1作歌二首
300 佐保すぎて寧樂のたむけにおくぬさは妹を目かれずあひみしめとぞ
佐保過而寧樂乃手祭爾置幣者妹乎目不雖〔左△〕相見染跡衣
 契沖『佐保は長屋王の宅ある所なり』といへり。さらばサホスギテのスギテは二卷なるアヲ駒ノアガキヲハヤミ雲居ニゾ妹ガアタリヲスギテキニケルのスギテとおなじくて遠ざかる事とすべし○ナラノタムケは久老『奈良坂の峠なり』といへり。奈良坂は今の歌姫越にて今の奈良より山城に越ゆる般若寺坂の西方に當れり。契沖は之を若草山の一名なる手向山と混同せり。目カレズは恒ニなり○用ヲ終ヘテ無事ニ歸リテ末永ク妹ヲ見テムと願へるなり。アヒミシメトゾはアヒミシメヨトテオク幣ゾといふべきを略せるなり○雖は離の誤なり
 
301 いはがねの凝敷《コゴシキ》山をこえかねて哭者《ナキハ》なくとも色にいでめやも
磐金之凝敷山乎超不勝而哭者泣友色爾將出八方
(402) 凝敷を舊訓にコゴシキとよめるを雅澄はコゴシクとよみ改めたり。即雅澄は動詞とせるなり。案ずるに下に極此疑《コゴシカモ》イヨノタカネノとあり又十七卷に許其志可毛イハノカムサビとあり。此等のコゴシカモはコゴシキカモといふことゝおぼゆ。もしコゴシクといふ動詞ならばコゴシカモとはいふべからず。さればなほコゴシ、コゴシキとはたらく形容詞なり。さて其意は凹凸不平なる事なるべし〇四五は腹ニテハ泣クトモ男子ナレバ顏ニハ出サジといふ意なれば哭者をネニハとよみてネニハナクトモといひてはかなはず。久老の初思ひしやうにナキハナクトモとよむべし○此歌はただ山路のさがしき事をいへるのみなるを契沖は『別の悲しければしのびしのびにねにはなくとも』といひ久老は『おくれたる妹をこひつゝ山路を行がてなるに』といひ雅澄は『家なる妹に心は引れかた/”\超むと思へども得超あへずして』といへるは皆前の歌に引かれたるなり
 
   中納言安倍(ノ)廣庭卿歌一首
302 こらがいへぢややまどほきを(ぬばたまの)夜わたる月に競《キホヒ》あへむかも
兒等之家道差間遠烏野干玉乃夜渡月爾競敢六鴨
(403) コラを前註者皆妹の事としたれどいかが。こは五卷思子等歌にウリハメバコドモオモホユとあるコドモとおなじとおぼゆ○イヘヂは家ニユク道なり。古義に『妹が家の當(リ)近き道をいふ』といへるはいかに思へるにか○ヤヤは比較的といふ事なり。久老はヤウヤウと混同せり○ヨワタル月は夜の空をゆく月なり。契沖が『明るまである月を云ふ』といひ久老が『夜すがら大空をわたる月をいふ』といへるは非なり○競は舊訓にキホヒとよめるに從ふべし。略解にキソヒに改めたるは却りてわろし。月ニキホヒアヘムカモとは月の入らぬ間に到り得むやいかがとなり○雅澄のいへる如くおのが家に歸り來る途にての作なり
 
   柿本朝臣人麻呂下2筑紫國1時海路作歌二首
303 (名ぐはしき)稻見の海のおきつ浪ちへに隱奴《カクシヌ》やまと島根は
名細寸稻見乃海之奥津浪千重爾隱奴山跡島根者
 隱奴を舊訓にはカクレヌとよみ久老以下はカクリヌとよめり。此等の訓によれば沖ツナミノ千重といふものに大和島根が隱ると見ではかなはねどオキツ浪の下にノの言無ければ然は見られず。されば沖つ浪が千重に大和島根をかくすこととし(404)て隱奴をカクシヌとよむべし。播磨の印南の沖まで來て東の方を顧みるに蒼波渺茫として大和の山だに見えずといへるなり。ヤマトシマネは波の上に見ゆる大和の山々なり
 追考 槻の落葉に
  カクリヌとよみては沖つ波のかくるゝ事と聞ゆればカクシヌとよむべきにやとおもへどさてはいやし。千重に立へだつ沖つ波に倭島根は隱りぬといふ意なればカクリヌとよむべき也。卷五にコヌレガクリテとあり
といへれどオキツナミの下にニを略せりとは見られず。げに卷五梅花歌なるコヌレガクリテはコヌレニカクレテといふことなれどこれは一語となれゝば今の例とはすべからず
 
304 おほきみのとほのみかどとありがよふ島門をみれば神代しおもほゆ
大王之遠乃朝庭跡蟻通島門乎見者神代之所念
 トホノミカドは此歌にては太宰府を指せり(契沖)○古義に
  島門は難波より筑紫までの間の島々をすべ云なり。さてかの島々の依合たる島(405)門のあやしくなりいでしを見るにつけては神の國造らしゝ時いかにしてかかくはつくり出給ひけむと神の御代の事までおもはるゝと云ふなるべし
といへり。此説の如くならばトホノミカドトのトの言穩ならず。宜しくミカドニといふべきなり。又アリガヨフとシマトとの間にミチノといふこと無かるべからず。今の如くトホノミカドトアリガヨフシマトと云へるを味へばシマト即トホノミカドならざるべからず。否シマトは島と島との間なる船路なるべければシマトにトホノミカドのあるべきならねど少くともシマトは其遠ノミカドの入口などならざるべからず。さればこゝにシマトといへるは福岡※[さんずい+彎]内ならざるか。題辭に海路作歌とあるには拘はるべからず○アリガヨフは一時的にあらで續いて通ふこと
 
   高市連黒人近江(ノ)舊都(ノ)歌一首
305 かくゆゑにみじといふものをささなみのふるき都をみせつつもとな
如是故爾不見跡云物乎樂浪乃舊都乎令見乍本名
    右謌或本曰小辨作也。未v審2此小弁者1也
(406)カクユヱニはカク悲シカルベシト知リシユヱニなり。二三の間にシヒテサソヒテなどいふことを補ひて聞くべし○ミセツツモトナはアヤニク見セツツとなり
 
   幸2伊勢國1之時|安貴《アキ》王作歌一首
306 いせの海のおきつ白浪花にもがつつみて妹が家づとにせむ
伊勢海之奥津白浪花爾欲得裹而妹之家裹爲
 花ニモガは花ニモアレカシとなり
 
   博通法師往2紀伊國見2三穗|石室《イハヤ》1作歌三首
307 (はだすすき)久米のわくごがいましける【一云ケム】三穗のいはやはみれどあかぬかも【一云あれにけるかも】
皮爲酢寸久米能若子我伊座家留【一云家牟】三穗乃石室者雖見不飽鴨【一云安禮家留可毛】
 ハダススキは枕辭なり。但クメの枕といふ説(契沖、眞淵、山彦冊子二卷【五十二丁】)と句を隔てゝミホにかゝれりといふ説(眞淵一説、宣長、雅澄)とあり。おそらくはクメの枕なる(407)べし○ワクゴは小兒にも青年にもいへり○顯宗天皇御名は弘計《ヲケ》、日本紀に更《マタ》(ノ)名|來目《クメ》(ノ)稚子《ワクゴ》といへり。これによりて眞淵(冠辭考)は此歌のクメノワクゴを天皇の御事とせり。然るに天皇の紀伊にましましし事物に見えねば宣長(記傳四十卷)は
  萬葉三にハタススキ……此歌端書によるに紀伊國なり。然るに袁祁《ヲケ》王(○即後の顯宗天皇)は紀國に坐けること見えざれば此久米若子は別人にやとも思はるれどもなほ此御子なるべきか。もし播磨より前に紀國にもしばし坐しゝことありしが二紀に其事は漏たるにや。なほ詳ならず。又同卷にカザハヤノミホノウラ廻ノ白ツツジミレドモサブシナキ人オモヘバ、ミヅミヅシ久米ノワクゴガイフレケムイソノ草根ノカレマクヲシモこれもかの紀國の三穗石室のあたりの海邊にてよめるなるべし。端書は亂れたる誤なり。さて萬葉の同卷に生石《オフシ》(ノ)村主《スクリ》眞人歌オホナムチスクナ彦名ノイマシケムシヅノイハヤハイク代へニケム、或説に此志都(ノ)石室は今播磨國にある石之寶殿と云物にて其前に社ありて生石子《オフシコ》と云と云り。此説に就て己さきに思へるは『かの三穗石室の歌と此志都石室の歌と互に末句の入紛ひたるにて久米若子の坐しゝは播磨の志都石室なるべし。生石子(408)と云も御兄王の大石《オボシ》てふ御名に由あり』と思へりし(○記傳十二卷九丁及玉の小琴)はひかごとにぞありける。かの石寶殿と云物を志都石室なりと云ももとより非なり。彼は人の入居るべき物のさまにはあらず
といひ又本居内遠の三穗(ノ)窟考には
  億計《オケ》弘計《ヲケ》二王は實は市邊|押磐《オシハ》皇子の御孫にて久米若子は二王の御父の名なるを誤りて弘計王の更《マタ》(ノ)名《ナ》とせしなるべし。三穗は今の日高郡三尾か(採要)
といへり。眞淵宣長等の説に對して久老は
  スミケル人ゾツネナカリケル、ムカシノ人ヲアヒミル如シ又久米ノワク子ガイフレケムなどいへる日嗣しろしめしし王を申し奉りし事としてはいとなめきいひざまなり。されば久米ノワクゴは遠祁王を申し奉れるにはあらで神武天皇の率ましゝ久米部の、天皇紀伊國を經て内つ國に入りましゝ時紀伊國に殘れりけむその壯士《ワクゴ》をいへるなるべし(採要)
といへり。少くとも此久米(ノ)若子は顯宗天皇の御事にあらじ〇三句はいづれにてもあるべけれど結句は一云の方かなへり。遊賞の作にはあらで弔古の歌なればなり(409)○久米若子といふ人うちわびて此窟に住みしにはあらで窟を住處として豪奢なる生活を營みしなるべし。一首の調の然聞ゆるによりても弘計王の御事にあらざる事知らるべし。岩屋の在所の事は内遠の考の外玉勝間九卷にもいへり
 
308 常磐成《トキハナル》いはやは今もありけれどすみける人ぞ常なかりける
常磐成石室者今毛安里家禮騰住家類人曽常無里家留
 初句舊訓にトキハナルともトキハナスともよめり(宣長、久老、雅澄もトキハナスとよめり)。常磐の常は床の借字なり。記傳十六卷に常を正字とし床を借字とせるは非なり。後に木の常葉《トコハ》を訛りてトキハといふやうになりしより床磐と常葉とを混同して普く常磐と書くことゝなれり。さて常磐成をトキハナスとよめば床磐ノゴトクの意なり。岩屋を岩にたとふべきにあらねば此訓はかなひ難し。宜しくトキハナルとよみて永久不變ナルの意とすべし。トキハを永久不變の意に用ふるは轉義なり。床磐は永久不變なるものなれば(六卷にも人ミナノイノチモ吾モミヨシヌノタキノ床磐《トキハ》ノツネナラヌカモとよめり(轉じて永久不變の義になれるなり。かくトキハといふ語を永久不變の義に轉用するは後世に至りて始まりし事にはあらず。祝(410)詞にトキハニカキハニといひ本集十一卷にシラマユミイソべノ山ノ常石《トキハ》ナル命ナレヤモコヒツツヲラムといひ同六卷に春草ハノチハウツロフイハホナス常磐ニ〔八字傍点〕イマセタフトキ吾君とさへいへるを見ればはやくより轉義は行はれしなり○ツネナカリケルはトキハナルと照應せり
 
309 いはやとにたてる松の樹|汝《ナ》をみれば昔の人をあひみるごとし
石室戸爾立在松樹汝乎見者昔人乎相見如之
 初句石室戸爾と書ける戸は假字にて外なりと久老のいへる如し。略解に『イハヤドは石室の門也』といへるは非なり。五卷にも閨外をネヤトといへり
 
   門部王詠2東(ノ)市之樹1作歌一首
310 ひむかしの市の殖木のこだるまであはずひさしみうべ吾〔□デ圍む〕こひにけり
東市之殖木乃木足左右不相久美宇倍吾戀爾家利
 題辭に詠とありて更に作とあるは重なれるに似たれど卷六に詠2思泥崎1作歌とある類にて作をあまれりと見てヨメルウタとよむべきにやと久老いへり○コダル(411)マデの上にカタナリナリシヨリといふことを補ひて聞くべし○コダルは久老の木の年ふりて枝葉の足れるをいふといへる如し(契沖は木垂なりといへり)○アハズヒサシミは逢ハザル事久シサニなり。古義にアハズシテと譯せるはかなはず〇いにしへ京師には東西兩市ありしなり。こは市にて見そめし女を思ひてよめるならむ○吾は衍字なり
 
   ※[木+安]作《クラツクリ》(ノ)村主《スクリ》益人從2豐前國1上v京時作歌一首
311 梓弓|引《ヒキ》とよ國のかがみ山みず久ならばこひしけむかも
梓弓引豐國之鏡山不見久有者戀敷牟鴨
 アヅサユミヒキまではトヨクニの枕なり。契沖久老は引をヒクとよみてヒク音《ト》とつづけたりといひ眞淵(冠辭考)は引|撓《タヨ》ムといふ語を略き通はせてヒキトヨとつづけたるなりといひ雅澄は引|響《トヨム》といふ意にてつづけたるなるべしといへり。古義の説可なり○鏡山は豐前國田川郡香春村の東北に今も鏡山とてある是なるべし。久老が小倉に近き處にありといへるは其國人の説なりといへれど信じ難し○久老が
(412)  わがこふる人を鏡山によせ且鏡の縁語にてミズ云々といへり
といひ略解にも相聞の歌とせるは非なり。『鏡山ヲ見ズテ久シクアラバと云なり』と古義にいへる如し。但ミズヒサナラバは見ザル事久シカラバなり。ミズテとは譯すべからず。又古義に『見は鏡の縁に云るなり』といへるは鏡山ヲミズテといへると矛盾せり
 
   式部卿藤原|宇合《ウマカヒ》卿被v使v改2造難波堵1之時作歌一首
312 昔こそ難波ゐなかといはれけめ今者京引〔左△〕都備仁※[奚+隹]里《イマハミヤコトミヤコビニケリ》
昔者社難波居中跡所言奚米今者京引都備仁鷄里
 題辭の堵は都の通用なり。一卷イニシヘノ人ニワレアレヤの題辭にも感2傷近江舊堵1作歌とあり○ヰナカは今いふタンボなり〇四五句はイマハミヤコトミヤコビニケリとよむべし。村田春海は引を斗又は刀の誤とし(略解に引けり)雅澄は利《ト》の誤とせり○ミヤコビのビは久老がそのさまをいふ言にて後に何メクといふメクに同じといへる如し○難波宮を改造せられしは聖武天皇の神龜四年なり
 
   土理《トリ》(ノ)宣令歌一首
(413)313 みよしぬの瀧の白浪しらねどもかたりしつげば古おもほゆ
見吉野之瀧乃白浪雖不知語之告者古所念
 初二は序のみ〇三句の上にイニシヘノ事ハといふことを補ひて聞くべし○カタリシツゲバは人ノイヒツタフルヲ聞ケバといふこと○古の字は久老のイニシヘとよめるを可とす(舊訓はムカシ)
 
   波多《ハタ》朝臣|少足《ヲタリ》歌一首
314 さざれなみ礒こせぢなるのとせ河|音之清左《オトノサヤケサ》たきつ瀬ごとに
小浪礒越道有能登湍河音之清左多藝通瀬毎爾
 サザレナミイソまでがコセヂの枕なり。イソコスとかゝれるなり。既出の例はモノノフノヤソウヂ河。アヅサ弓ヒキトヨ國○コセヂは巨勢路にて寧樂より巨勢にゆく道なればノトセ川は契沖の大和と定めたるぞよろしき。近江といふ説(たとへば閑田耕筆卷之一に見えたる僧百如の説)は從はれず。今の重坂《ヘサカ》川なり。〇四句は音ノサヤケキ事ヨとなり。このサの用法は後の世なると少し異なり
 
(414)暮春之月幸2芳野離宮1時中納言大伴卿奉v勅作歌一首并短歌 未v※[しんにょう+至]2奏上1歌
315 みよしぬの 芳野の宮は 山からし 貴有師《タフトクアラシ》 水《カハ》からし 清有師《サヤケクアラシ》 あめつちと 長く久しく よろづ代に かはらずあらむ いでましの宮
見吉野之芳野乃宮者山可良志貴有師水可良思清有師天地與長久萬代爾不改將有行幸之宮
 ※[しんにょう+至]は逕の俗躰にて逕は經に通用せり○ヤマカラシ、カハカラシのカラは故、シは助辭なり○貴有師は舊訓にタフトカルラシとよめるを久老タフトクアラシに改めたり。之に准じて清有師もサヤケクアラシとよむべし。アラシはアルラシに同じ。こゝのタフトシはメデタシなり。卷二にも春花ノタフトカラムトとあり○此大伴卿は旅人《タビト》なり
 
   反歌
(415)316 昔みしきさの小河を今みればいよよさやけくなりにけるかも
昔見之象乃小河乎今見者彌清成爾來鴨
 
   山部宿禰赤人望2不盡山1歌一首并短歌
317 あめつちの わかれし時ゆ かむさびて 高くたふとき 駿河なる ふじの高嶺を あまのはら ふりさけみれば わたる日の かげもかくろひ てる月の 光もみえず 白雲も いゆきはばかり 時じくぞ 雪はふりける かたりつぎ いひつぎゆかむ ふじのたかねは
天地之分時從神在備手高貴寸駿河有布土能高嶺乎天原振放見者度日之陰毛隱此照月乃光毛不見白雲母伊去波伐加利時自久曾雪者落家留語告言繼將往不盡能高嶺者
 タカクタフトキは句を隔てゝフジノタカネにかゝれり○このアマノハラフリサケミレバは外の例とは異なり。即外の例なるはアマノハラヲのヲを略したるなれ(416)ど今はアマノハラニのニを略したるなり○ワタル日のワタルはテル月のテルと同じくて輕く添へたる語なり○カタリツギイヒツギユカムを契沖は『將來も此山の事は言ひつづけむとなり』といひ後の註家多くは之に雷同せり。案ずるに其世にありて後世まで殘らぬものならば後ノ世マデ語リ繼ガムと云ふべし。山の如き永久不滅のものは人の語り繼ぎ言ひ繼ぐを待たじ。さればカタリツグといへるには二種ありて一は後の世にかたりつぐ方、一は同時の人の未見ぬ人にかたりつぐ方にて今は後の方なり。六の卷なる過2敏馬浦1時作歌にウベシコソミル人ゴトニカタリツギシヌビケラシキとあるカタリツグも同時の人の未見ぬ人にかたりつぐ方なり○題辭の不盡山の下に久老は作の字を補ひたり
 
   反歌
318 たごの浦ゆうちでてみれば眞白衣《マシロニゾ》ふじのたかねに雪はふりける
田兒之浦從打出而見者眞白衣不盡能高嶺爾雪波零家留
 初二を眞淵の新採百首解にはタゴノ浦ノ山カゲノ道ヨリ打出テアフギミレバと釋き同じ人のうひまなびには
(417)  古への海道は今のさつた坂の山陰の磯傳ひにてそのさつた山の東の倉澤てふところに來れば富士は見さけらる。此邊みな田子の浦也。……かくて過こし磯もこゝも同じ田子の浦ながらかの山陰を打出て望し故に田兒ノ浦ユ打出テミレバといへる也
といへり。此説の如くばユの辭穩ならず。久老は『このユは常いふヨリといふ言には違ひて輕く、ニの手爾波に似たり』といひて田兒の浦に打出づる事とし考には『打出テ田兒ノ浦ヨリ見レバと心得べし。かく言を上下にして云事、集にも古今歌集にも多し』といひ(景樹の百首異見の説之に同じ)雅澄はタチイデテを船漕ぎ出づる事とせり。ユはニに通ふ事あれば(其例どもは槻の落葉三之卷別記二十八丁、犬※[奚+隹]隨筆【歌文珍書保存会本上卷一六頁】などに擧げたるを見よ)久老の説に從ふべし〇三句を雅澄はマシロクゾとよめれどマシロシといふ語あることを知らず○フリケルはフレリケルにてフツテヲルといふ事なり。新古今集、百人一首などにフリツツに改めたるは今ふることゝ思ひたがへたるなり
 
   詠2不盡山1歌一首并短歌
(418)319 (なまよみの) 甲斐の國 (うちよする) 駿河の國と こちごちの 國のみなかゆ いでたてる ふじのたかねは 天雲も いゆきはばかり とぶ鳥も とびものぼらず もゆる火を 雪|以《モチ》けち ふる雪を 火|用《モチ》けちつつ 言不得《イヒモカネ》 なづけもしらに 靈母《クズシクモ》 います神かも せの海と なづけてあるも その山の つつめる海ぞ ふじ河と 人のわたるも 其山の 水の當△《タギチ》ぞ 日本《ヒノモト》の やまとの國の しづめとも います神かも 寶とも なれる山かも 駿河なる ふじのたかねは みれどあかぬかも
奈麻余美乃甲斐乃國打縁流駿河能國與己知其智乃國之三中從出之〔左△〕有不盡能高嶺者天雲毛伊去波伐加利飛鳥母翔毛不上燎火乎雪以滅落雪乎火用消通都言不得名不知靈母座神香聞石花海跡名付而有毛彼山之堤有海曾不盡河跡人乃渡毛其山之水乃當烏日本之山跡國乃鎭十方座神可聞寶十方成有山可聞駿河有不盡能高峯者雖見不飽香聞
(419) 此長歌の次に反歌とありてフジノネニフリオケル雪ハといふ短歌ありそれに接して更にフジノネヲタカミカシコミといふ短歌ありて其左註に右一首高橋連蟲麻呂之歌中出焉以類載之とあり。右一首とあれば蟲麻呂の歌集中に出でたるはフジノネヲ高ミ恐ミといふ歌のみなり。さて此長歌と反歌とは誰の作にか。前の長歌と同じく赤人の作なるべしといふものあり。藤井高尚(歌のしるべ)の如きは赤人の作と押定めたり。されど本集に作者を記さざれば實は作者不詳の歌なり(もし赤人の作ならばアマグモモイユキハバカリなどいふ複句は寧用ひじ)。拾穗本には題辭の下に笠朝臣金村とあれど書式自餘の例に異なれば後人の書添なる事しるし
 今ならばカヒノクニトスルガノクニトといふべきを上のトを省きたるは一卷アラレウツアラレ松原スミノエノオトヒヲトメトミレドアカヌカモ、七卷サホ河ノキヨキ河原ニナクチドリカハヅトフタツワスレカネツモの類なり。下のトを省ける例も集中にあり。そは四卷に至りていふべし○コチゴチは此方此方にて即双方なり。くはしく本書二卷(二九九頁)にいへり○雪以、火用を舊訓に雪モテ火モテとよめるを雅澄はモチに改めたり。雅澄のモチモテの説は一卷コモチミコモチの歌の(420)處にくはし。モチは古くモテは新しきなり○言不得は契沖のイヒモカネとよめるに從ひ靈母は久老のクスシクモとよめるに從ふべし○神とはただに富士山をさしていへるなり。十六卷にも彌彦山の麓をイヤヒコノ神ノフモトといへり○セノウミは犬※[奚+隹]隨筆(珍書會本下卷十八頁)に
  こゝに甲斐國人名取繁樹といへる人の話にいま甲斐に西《ニシ》(ノ)湖《ウミ》といへる湖ありて是萬葉の石花海《セノウミ》なりと。按に西はかの書(○萬葉)にセの假名に用ゐたればそを甲斐人のニシと訓あやまりけむうつなし。……また略解に(○實は契沖の説)石花海とは鳴澤の事也といへるはいかに心得ひがめけるにか。澤と湖とはいと異なるものなるをや
といへり。西の湖は甲斐國東八代郡にあり。俗にセイコといふ。其西方に精進湖《シヤウジコ》あり。西八代郡に屬せり。共に富士八湖のうちにて海面上凡三千尺の高さにありといふ。三代實録にいはく
  貞觀六年七月十七日辛丑甲斐國言。駿河國富士大山忽有2暴火1、燒2碎崗巒1、草木焦熱土※[金+樂]石流、埋2八代郡|本栖《モトス》并※[賤の旁+立刀]《セ》兩水海1水熟如v湯魚鼈皆死云云
(421) 此時|石花湖《セノウミ》兩斷せられて今の西の湖と精進湖とに分れしなりといふ。西湖の周圍は三里十八町、精進湖の周圍は二里十六町、二湖相へだたる事二里ばかりなりといへば古の石花湖の大きさほぼ推測るべし○フジガハトのトはトテなり。タギチは瀬を成す事○宣長いはく『古書にヒノモトと云るは是のみ也。餘は日本と書てもヤマトと唱ふること也』と○ナレルはデキタルといふこと○カモといふ辭を三つ重ね用ひたるにて感歎の意殊に深く聞ゆ
 
   反歌
320 ふじのねにふりおける雪はみなづきのもちにけぬれば其夜ふりけり
不盡嶺爾零置雪者六月十五日消者其夜布里家利
 仙覺抄に富士の山には雪の降積りてあるが六月十五日に其雪の消て子の時より下には又隆替ると駿河國の風土記に見えたりといへり。果して然りとも其風土記の説は今の歌にもとづきて書けるにあらざるか。即仙覺の引けるは果して和銅の古風土記なりや。略解にも『かゝる諺の有を其國人の語けむまゝによめるなるべし』といへれどもしさる諺のあるによりてよめるならば結句はソノ夜フルトフなど(422)あるべきなり
 
321 ふじのねをたかみかしこみあま雲もいゆきはばかりたなびくものを
布土能嶺乎高見恐見天雲毛伊去羽計田莱〔左△〕引物緒
    右一首高橋(ノ)連《ムラジ》蟲麻呂之歌〔右△〕中出焉。以v類載v此
 略解に歌の字の下に集の字を補ひたり○タナビクモノヲのヲは『ヨといふに同じくよび捨たるヲなり。須佐乃雄命の大御歌にソノヤヘガキヲとあるをはじめて集中にもいとおほかり』と久老いへり。タナビクコトヨなど譯すべし。古義にアヲマツト君ガヌレケムアシヒキノ山ノシヅクニナラマシモノヲとあるモノヲに同じといへるは非なり○此歌前二首よりは品下れり
 
   山部宿禰赤人至2伊豫温泉1作歌一首并短歌
322 すめろぎの 神のみことの しきます 國のことごと 湯はしも さはにあれども 島山の よろしき國と (こごしかも) 伊豫の高嶺の いさにはの 崗にたたして 歌|思《オモヒ》 辭思爲師《コトオモハシシ》 みゆの上の こ(423)むらをみれば おみの木も おひつぎにけり なく鳥の こゑもかはらず とほき代に かむさびゆかむ いでましどころ
皇神祖之神乃御言乃敷座國之盡湯者霜左波爾雖在島山之宜國跡極此疑伊豫能高嶺乃射狹庭乃崗爾立之而歌思辭思爲師三湯之上乃樹村乎見者臣木毛生繼爾家里鳴島之音毛不更遐代爾神左備將徃行幸處
 伊豫の湯は即道後の湯なり。此長歌及反歌は聖コ太子の曾て此處に行啓していさにはの岡に碑を建てゝ文を録し給ひし事、舒明天皇の此處に行幸せし時大殿戸に椹《ムクノキ》【栗田氏訓】と臣(ノ)木とありていかるがといふ鳥としめといふ鳥と其二つの木に集りし事、齊明天皇の此處に行幸せし時額田王のニギタヅニフナノリセムト月マテバシホモカナヒヌ今ハコギデナとよみし事、その外はやく景行仲哀二帝の此處に行幸せし事を思ひてよめるなり
 スメロギノ神ノミコトは歴代の天皇なり(久老)。シキマス國ノコトゴトは領ジ給フ國ノ到ル處ニとなり○シマ山ノヨロシキクニトの上にコノ伊豫國ヲシモといふ(424)ことを補ひてきくべし。トはトテなり。久老雅澄のシマヤマを四國の事とせるはいかが○コゴシカモはコゴシキカモにて伊豫ノタカネにかゝれる准枕辭なり○伊豫ノタカネは久老今の石※[金+夫]《イシヅチ》山なりといひ古義、註疏、愛媛の面影なども此説に從へり(久老は※[金+夫]を鐵に誤り古義註疏共に其誤を襲へり)。案ずるに石槌山としては地理かなはず、歌の趣にてはイヨノタカネは道後の温泉に近く又イサニハノ岡はイヨノ高嶺の一部分ならざるべからざるに石槌山は温泉の東南十教里にあればなり。愛媛の面影の著者|半井《ナカラヰ》梧庵之について説を成したれど從はれず○イサニハノ岡といふ地名は今殘らず。國人の説に今義安寺といふ寺ある岡それなりといひ又今の湯月八幡宮の後方柿木谷より古城の邊まで昔は山つづきにて之を總てイサニハノ岡といひしを河野氏築城の時山を開き堀を穿ちて地勢全く變ぜしなりといふ(愛媛の面影)。雅澄の
  今伊佐庭といふ岡に社ありて伊佐庭神、湯月八幡神と申すを相祭れりと云り
といへるは非なり。伊佐爾波神社はもと伊佐爾波岡にありしを湯月八幡宮の傍に遷せるなり○ヲカニタタシテは宣長の説に聖コ太子の御事をいへるなりと云へ(425)り。此説よろし。崗ニタタシテの下に聖コ太子ガといふことを補ひてきくべし。抑此湯泉ははやく神代に著はれ景行、仲哀、舒明、齊明の天皇たちの行幸せしことあり。之に聖コ太子の行啓を合せて五度の行幸と云へり。就中太子は文を作りて碑を湯(ノ)岡(即伊佐爾波岡か)に建て給ひき。其碑は今殘らざれども碑文は幸に釋日本紀に傳はれり○歌思云々宣長雅澄の訓によりてウタオモヒコトオモハシシとよむべし。略解にウタシヌビコトシヌビセシとよめるは非なり。さてウタに對してコトと云へるは文辭なり。其文節はやがて碑の文なるべし。碑の文には
  我法王大王與2惠總法師及葛城臣1逍2遙夷與村1云々
とありて太子ならぬ人の書ける趣なれど少くとも太子も撰文に與り給ひきとおぼゆ。ウタオモヒとあれば歌もありしにてただ今は傳はらぬなり○ミユは御湯、上は雅澄の訓の如くヘとよみて近傍の義とすべし○コムラは樹の群なり。此語復活して用ふべし○オミノ木は仙覺の説にモミノ木なりといへり。風土記舒明天皇行幸の處に
  于v時於2大殿戸1有3椹與〔右△〕2臣木1
(426)とあれば伊豫の温泉には名高きおみの木ありしなり。さて今は昔名高カリシ臣ノ木モ年所ヲ經テ枯レ果テテヒコバエガ生ヒ繼ギタリといへるなり。彼文の次に
  於2其上1集3鵤與〔右△〕2此米鳥1
とあり(二つの與〔右△〕もと云とあり。今は契沖及栗田寛氏の意改による)。今は之を思ひてナク鳥ノコヱモカハラズといへるなり。さて臣の木は今と昔と異なる方、鳥の聲は今も昔にかはらぬ方にて表裏の事なるをオミノ木ハオモガハリシヌレドナク鳥ノコヱハカハラズなどいはでオミノ木モオヒツギニケリナクトリノコヱモカハラズと偶叙したるがおもしろきなり○トホキ代は末代にてカムサビユクはフリユクなり。畢竟遠キ後マデ傳ハラムといふ意なり。イデマシドコロは所謂五度の行幸の遺蹟なり
 
   反歌
323 (ももしきの)大宮人の飽〔左△〕田津《ニギタヅ》にふなのりしけむ年のしらなく
百式紀乃大宮人之飽田津爾船乘將爲年之不知久
 飽田津は舊訓にニギタヅとよみ眞淵は飽を饒の誤とせり。久老雅澄は今もアキタ(427)ヅといふ處ありといひてアキタヅとよめり。されど此歌は齊明天皇行幸の時額田王のよみしニギタヅニフナノリセムト月マテバシホモカナヒヌ今ハコギデナといふ歌によれりとおぼゆればなほ飽田津は饒田津の誤とすべし。國人の著せる愛媛の面影にはアキタヅといふ處はなしといへり。槻の落葉と古義とに見えたる西村大久保二人の説は疑ふべし○シラナクはシラレナクにてシラレナクと云へるに其かみの事を偲ぶ情あり
 
   登2神岳1山部宿禰赤人作歌一首并短歌
324 みもろの 神なび山に いほえさし しじにおひたる つがのきの いやつぎつぎに (玉かづら) たゆることなく ありつつも 不止《ヤマズ》かよはむ あすかの ふるきみやこは 山たかみ 河とほじろし 春の日は 山しみがほし 秋の夜は 河しさやけし あさ雲に たづはみだれ 夕霧に かはづはさわぐ みるごとに ねのみしなかゆ いにしへおもへば
(428)三諸乃神名備山爾五百枝刺繁生有都賀乃樹乃彌繼嗣爾玉葛絶事無在管裳不止將通明日香能舊京師者山高三河登保志呂之春日者山四見容之秋夜者河四清之旦雲二多頭羽亂夕霧丹河津者驟毎見哭耳所泣古思者
 神岳《カミヲカ》は雷岳の一名なり
 初五句はツギツギの序なり。イヤツギツギニと云はむとして今のぼれる山のつがの木を以て序とせるなり○ミモロは三輪にも神岳にもいふ。又カムナビといふ地名は大和のみならず山城にもあり。されどミモロノカムナビ山又は神ナビノミモロノ山とよめるは神岳に限れり。否平群郡にもミモロノカムナビ山といふ山あれどそは彼神岳社(高市郡飛鳥なる)を此山に遷し祭りたれば山の名をも遷したるなりといふ○イホエサシはアマタノ枝ガイデテといふこと、シジニオヒタルはオヒシゲリタルといふことなり。ツガは栂《トガ》なり○イヤツギツギニとタユルコトナクとほぼ同意なり。さて共に一句を隔ててヤマズカヨハムにかゝれり○アリツツモは(429)カクシツツなり○不止を略解にツネニとよめり。なほ舊訓の如くヤマズとよむべし○アスカノフルキミヤコは久老の『淨御原宮をいへる也。今は奈良へ都を遷されたればフルキミヤコとはいへる也』といへる如し○山タカミのミはサニとは譯すべからず。五卷なるマツラガハカハノセハヤミクレナヰノモノスソヌレテアユカツルラムのハヤミなどの類にて強ひて譯せばキニなど譯すべし。ともかくもサニといふばかりは次の事と親しからず○さて山とは神岳、川とは明日香川なり○トホジロシといふ語契沖は『大にゆたけき意なり』といひ宣長、久老、千蔭等は顯著の義とせり。こは一には語源より考へ一には續世繼に『その大納言の御車の紋こそきらゝにとほじろく侍りけれ』とあるに據れるなり。案ずるに此語書紀神代の卷に大小之魚とあるをトホジロクチヒ〔二字右△〕サキイヲドモ(チヒの二言私記によりて補ひつ)とよめると本集に二處(こゝと十七卷と)見えたるとの外には古きものには見えず。今鏡、愚管抄、悦目抄、長明無名抄などに用ひたるを【雅言集覧に集めたるを】見るに今鏡なると愚管抄なるとは顯著の義としてかなへど悦目無名に歌の姿を沙汰して
  たけ高くとほじろきを第一とすべし
(430)  限なくとほじろくなどはあらねど優にたをやかなり
  姿きよげにとほじろければ
などいへるは雄大の義とせでは通ぜず。されば中世の書に用ひたるは顯著の義なると雄大の義なると二種ありと謂ふべし。千蔭は神代紀の訓を評して
  かへりて轉りたるなるべし
といひ景樹は
  こは大也とおもひたがへし後の人の付たる假字にてよみざまもいと拙し
といへり。即二翁は本集の河トホジロシを川の大なることゝ思ひ誤れる人が神代紀の大小之魚についてトホジロク云々といふ訓を附けたるなりとせるなり。此見方によらば悦目無名のトホジロシは再神代卷の訓に誤まられたるものともすべけれど又見方によりては
  トホジロシは雄大といふ事の古語にてたまたま神代紀の訓に殘れるを遠くいちじろき義と誤り心得たる人の顯著といふべき處に用ひたれどなほ本義のまゝに用ひたる人もあるなり
(431)ともいはるべし。所詮見る人の心々なり。余は從來雄大の義として用ひたり○ミガホシは契沖の見之欲《ミガホシ》なりといへる如し。古義に後にミマホシといふに同じといへるはいかが。後世はミガホシといふ語絶えてミガホシといふべき時にもミマホシといふやうになりぬとは云ふべし○タヅハミダレのミダレは亂れ飛ぶなり。鳴く事は云はねど鳴きつゝ亂れ飛ぶさまなり○カハヅは今のカジカなり○ミルゴトニは古キ都ヲ見ルゴトニなり○此長歌は河トホジロシ、山シミガホシ、河シサヤケシ、カバヅハサワグとやうに數句づつにて切りたれば一首の調殊に遒勁なるなり
 
   反歌
325 あすか河かはよどさらずたつ霧のおもひすぐべき戀にあらなくに
明日香河川余藤不去立霧乃念應過孤悲爾不有國
 上三句は序。この歌のコヒは男女の戀にあらず。舊都を戀ふる心なり○オモヒスグベキを久老『おもひを過しやるべきといふ意』といひ雅澄も『念を遺失ふべきことなり』といへれどオモヒヲスグスベキとあらばこそさも釋かめ。オモヒスグといふ複動詞なるをいかがはオモヒヲスグシヤルと釋かむ。此語は下にもイソノカミフル(432)ノ山ナル杉村ノオモヒスグべキ君ニアラナクニとありて一時オモヒテ止ムといふこととおぼゆ
 
   門部王在2難波1見2漁父燭光1作歌一首
326 みわたせば明石の浦にともす火のほにぞいでぬる妹にこふらく
見渡者明石之浦爾燒火乃保爾曾出流妹爾戀久
 上三句はホの序なり。明石の漁火浪華まで見ゆべくもあらず。ただ遠方に見ゆる漁火をおしあてに明石の浦のと定めたるにて彼スミノ江ノエナ津ニタチテミワタセバムコノ泊ユイヅルフナビトの類なり○ホは物の先端なり。植物の穗もやがて其意にて名を獲たるなり。ホニイヅは内にこもりし事の外にあらはるゝをいふ。コフラクは戀フル事なり
 
   或娘子等賜〔左△〕2裹《ツツメル》乾蝮1戲請2通觀僧之呪願1時通觀作歌一首
327 わたつみのおきにもちゆきてはなつともうれむぞこれが將死還生《ヨミガヘリナム》海若之奥爾持行而雖放宇禮牟曾此之將死還生
(433) 賜は贈の誤なるべし(契沖)○ウレムゾは本集十一卷に今一つある外には例なし。契沖はナンゾ、イカンゾなど云に同じく聞ゆといへり○將死還生は宣長のヨミガヘリナムとよめるに從ふべし。略解にはヨミガヘラマシとよめれど辭の上か意の上かに云々ナラバ又は云々ナラズバといふことなくてはマシとはいはれず○略解に
  此僧死たるものを呪ひいかす術する聞え有ける故にほしあはびをもて來て戲に呪を請しなるべし
といへる如し。久老が
  この僧の死灰の心はいかでか思ひ返さむといふ意を含めり
といひ雅澄が之に從ひて
  色々すかしのたまふとも出離の心をば再おもひ返さじをといふ意を含めたるなり
といへるは非なり
 
   太宰少式小野(ノ)老朝臣歌一首
(434)328 (あをによし)ならのみやこはさく花のにほふがごとく今盛なり
青丹吉寧樂乃京師者咲花乃薫如今盛有
 
   防人《サキモリ》(ノ)司(ノ)祐〔左△〕大伴(ノ)四繩《ヨツナ》歌二首
329 (やすみしし)わがおほきみのしきませる國中者〔左△〕京師所念《クニノナカナルミヤコシオモホユ》
安見知之吾王乃敷座在國中者京師所念
 四句は雅澄の者を在の誤としてクニノナカナルとよめるに從ふべし。舊訓にクニノナカニハとよめるは國を大名《オホナ》の國と見ずして國々の意とし其國々の中には取分けて京を思ふといふ意と見たるならめど打任せて國々を思ふべきならねばそれに對してミヤコヲオモフといふべきならず○結句も雅澄のミヤコシオモホユとよめるに從ふべし。ミヤコオモホユとよむべしといふ説もあれどシの言なくては力足らず。京師の師は助辭のシに當れり(芳樹同説)○祐は佑の誤なり。防人司の佑は判官なり。マツリゴトビトとよむべし 
330 藤浪の花は盛になりにけりならのみやこをおもほすや君
(435)藤浪之花者盛爾成來平城京乎御念八君
 君とさせるは太宰帥大伴旅人卿なり(契沖)○寧樂の京の附近に藤の名所ありしなるべし。さらでは通ぜず(春日の藤は夙く此頃より名たゝりしか)。筑紫といふとも藤なくはあるまじきが故なり。因にいふ。フヂナミのナミは靡の意なり(眞淵はやくいへり)。後世浪をそへてよめる歌多く且定まりて浪の字を借り用ふれば深く察せざるものは浪の意と思ふめり。フヂナミのナミは穗ナミのナミと同じ。穗の立ちたるを穗ダチといひ穗のなびけるを穗ナミといふによりてフヂナミのナミもなびく意なるを知るべし。又フヂナミノ花と云ふは所謂歌語なり。秋ハギ春ガスミなどに同し。文にはただフヂノ花といふべし○オモホスを御念と書けるはトハスを御問と書けると同例なり。オモホスはオモフの敬語なるオモハスの轉ぜるなり
 
   帥大伴卿歌五首
331 わがさかり復將變△八方《マタヲチメヤモ》ほとほとにならのみやこをみずかなりなむ
吾盛復將變八方殆寧樂京師乎不見歟將成
(436) 帥は太宰府の長官なり。ソチともカミともよむべし
 二句は宣長の説に從ひてマタヲチメヤモとよむべし(宣長の説は玉の小琴の外玉勝間八卷に見えたり)。久老は他の例によりて變の下に若の字を補ひヲツを盛にかへることゝせり。案ずるにヲツはただカヘル又はモドルといふことなるべし。ほととぎすにヲチカヘリナクといへるヲチも同じ。さて轉じて若きにかへることをもワカキニヲツとはいはでただヲツと云ひしなるべし。久老はヲチカヘリナクのヲチを今のヲツと同語としたれど轉意の前後をいはず。余がヲツはもとはただカヘル又はモドルといふ意なるべしといふは今の歌にアガサカリマタヲチメヤモとあればなり。もしヲツがもとより若きにかへる意ならば今の歌はワガヨハヒマタヲチメヤモとこそいふべけれ。ワガサカリとはいふべからず。ほとゝぎすにヲチカヘリナクといふもヲツが元來ただもどる意なればなり。さて久老の説の如く若の字を補ふべきか否かといふに四卷にも六卷にも變若と書きたればこゝはなほ若の字をおとせるなるべし。即ヲツは元來ただかへりもどることなれど今は意を得て變若と書きたりしなるべし。因にいふ變は反の通用なり〇二三の間にモシ若ガ(437)ヘラズバといふことを補ひて聞くべし。ホトホトニは十中八九といふこと○此歌は前の歌のかへしなるべし。少くともかへしと見らるべし
 
332 わが命も常にあらぬか昔みしきさの小河をゆきてみむため
吾命毛常有奴可昔見之象小河乎行見爲
 アラヌカはアレカシなり(契沖)。キサノ小河は吉野にあり。毛と常と入りちがへるにあらざるか
 
333 (淺茅原)つばらつばらにものもへばふりにしさと之《ノ》おもほゆるかも
淺茅原曲曲二物念者故郷之所念可聞
 ツバラツバラは細ニなり。第四句の之を古義にシとよめれどなほ舊訓によりてノとよむべし。フリニシサトは次の歌によれば奈良にはあらず○オモホユルカモはシノバルルカナなり
 
334 わすれ草わがひもにつくかぐ山のふりにし里をわすれぬがため
萱草吾紐二付香具山乃故去之里乎不忘之爲
(438) ワスレヌガタメはワスレザル故ニソヲ忘レムトシテとなり。忘草を衣に附くれば憂を忘るといふ諺あればかく云へるなり。ワスレグサは百合科の植物にて黄なる花のさくものなり。今もワスレグサといひ又クワンザウといふ○香具山附近に作者の田莊ありしにや
 
335 わがゆきは久にはあらじいめのわだ湍者《セニハ》ならずて淵有毛〔左△〕《フチニアリコソ》
吾行者久者不有夢乃和太湍者不成而淵有毛
 ユキは旅行にて太宰府の任にあるをいふ。略解に歸らんも久にはあらずと釋してユキを歸り上ることゝ見たるは非なり○湍者は舊訓にセトハとよめるを久老のセニハに改めたるに從ふべし。六卷に見えたる同じ人の作にもシマラクモユキテミテシガカムナビノ淵ハアセニテ瀬ニ〔右△〕香ナルラムとあり○淵有毛は古義に毛を乞の誤としてフチニアリコソとよめるに從ふべし。フチニアリコソは淵デアツテクレとなり。イメノワダは吉野にあり。ワダは志賀ノ大ワダのワダにて水の淀める處なり
 
   沙彌滿誓詠v緜歌一首
(439)336 (白縫《シラヌヒ》)つくしのわたは身につけていまだはきねど暖所見《アタタケクミユ》
白縫筑紫乃綿者身著而未者伎禰杼暖所見
 初句舊訓にシラヌヒノとよめるを眞淵(冠辭考)はシラヌヒとよみて『古へは皆シラヌヒと四言によみつ』といへり○イマダハのハは意なし○結句は舊訓にアタタカニミユとよめり。記傳三十七卷に
  アキラカ、サヤカ、ノドカ、ユタカなどの類古言にはアキラケシ、サヤケシ、ノドケシ、ユタケシと云てアキラカ、サヤカ、ノドカ、ユタカなどは云(ハ)ぬ格なる故に……萬葉三なる筑紫乃綿者暖所見などもアクタケクと訓べきことなり
といへるに從ふべし○此綿は蠶綿即眞綿にて當時はたやすく手に入らざりしなり。筑紫の名産なりしが故にツクシノ綿と云へるなり
 
   山上臣憶良|罷《マカル》v宴歌一首
337 憶良らは今はまからむ子なくらむ其彼〔左△〕母毛吾乎將待曾《ソノコノハハモワヲマツラムゾ》
憶良等者今者將罷子將哭其彼母毛吾乎將待曽
(440) 無論戲れてよめるなり。四五殊にをかし〇四句は舊訓にソノカノハハモとよめれどカノといふこと餘れり。久老はソモソノ母モとよみて子ドモモ子ドモノ母モといふ意としたれど子の方はナクラムにて盡きたり。更にマツラムといふべきにあらず。類聚抄には彼〔右△〕の字子〔右△〕に作れりとぞ。袋草紙にもソノ子ノハハモとあれば清輔の見し本にも彼の字は子とありしなり。之に從ふべし○結句は久老のワヲマツラムゾとよめるをよしとす
 
   太宰帥大伴卿讃v酒歌十三首
338 しるしなきものを念はずばひとつきのにごれる酒を可飲有良師《ノムベクアルラシ》
驗無物乎不念者一坏乃濁酒乎可飲有良師
 念ハズバはオモハムヨリハなり(宣長)○シルシナキはイタヅラナルと云ふ事〇ニゴレルサケハは糟を漉さざる麁酒なり。當時も清酒はありしなり○結句はアルラシとよむべし。但十五卷にヒサシク安良之、二十卷にアスニシ安流良之とありてアラシ、アルラシ兩樣ともに例あり
 
339 酒の名をひじりとおほせしいにしへのおほきひじりの言のよろしさ
(441)酒名乎聖跡負師古昔大聖之言乃宜左
 魏の時酒を禁ぜられしより酒徒隱語を作りて清酒を聖人といひ濁酒を賢人といひしこと諸註にいへる如し。今は此故事によれるなり。李白獨酌の詩にも已聞清比v聖、復|道《イフ》濁如v賢とあり○久老いふ『オホキヒジリとは誰にまれ酒をたふとみて聖といふ名をおふ〔二字右△〕しゝ人をほめていへり』と
 
340 いにしへの七賢人等毛欲爲《ナナノサカシキヒトドモモホリセシ》ものはさけにし有良師《アルラシ》
古之七賢人等毛欲爲物者酒西有良師
 七賢人等毛欲爲はナナノサカシキ(雅澄)ヒトドモモ(幽齋本)ホリセシ(久老)とよむべし
 
341 賢跡物言從者《サカシミトモノイフヨリハ》さけのみてゑひなきするし益有良之《マサリタルラシ》
賢跡物言從者酒飲而醉哭爲師益有良之
 賢跡は古義にサカシミトとよめるによるべし。カシコガリの意なり。サカシミトのトは二卷シラニトイモガマチツツアラム又此卷長皇子遊2獵路池1時歌にカシコミ(442)トツカヘマツリテとあるトに同じ(古義總諭七十九丁參照)○結句はマサリタルラシとよむべし
 
342 いはむすべせむすべしらにきはまりてたふときものは酒にし有良之《アルラシ》
將言爲便將爲便不知極貴物者酒西有良之
 イハムスベセムスベは相偶ひたる熟語なり。こゝにてはイハムスベに意ありてセムスベには意なし
 
343 なかなかに人とあらずばさか壷に成而師鴨《ナリテシガモ》さけにしみなむ
中々二人跡不有者酒壷二成而師鴨酒二染嘗
 人トアラズバは人トアラムヨリハといふこと○成而師鴨は舊訓にナリテシガモと六言によめるを略解にナリニテシガモとよみ改めたれどさる辭はなし。其上二十卷にアサナサナアガルヒバリニ奈里弖之可ミヤコニユキテハヤカヘリコムとあればなほ舊訓の如くナリテシガモとよむべし○結句の上にサテといふ語を補ひてきくべし。略解にいへる如く呉の鄭泉といひし人の死に臨みて『必我を陶家の(443)後に葬れ。化して土になり幸に取られて酒壷とならば實に我心を獲む』といひし故事によれるなり
 
344 あなみにくさかしらをすと酒不飲人乎熟見者猿二鴨似《サケノマヌヒトヲヨクミバサルニカモニム》
痛醜賢良乎爲跡酒不飲人乎熟見者猿二鴨似
 サカシラヲストはカシコダテヲストテといふことなり(契沖)〇三句以下契沖のサケノマヌ人ヲヨクミバサルニカモ似ムとよめるを略解に改めてヒトヲヨクミレバサルニカモニルとしたれどサルニカモといふ語勢を受けてはニムといふべく下をニムといはば上はミバといはざるべからず。されば契沖の訓によるべし。さてサルニカモ似ムといへるは容貌の上にはあらでふるまひの上にて云へるなり。即猿のかしこぶりと異ならじといへるなり
 
345 あたひなき寶といふともひとつきのにごれる酒に豈益目八△《アニマサメヤモ》
價無寶跡言十方一坏乃濁酒爾豈益目八
 結句類聚古集に豈益目八方とあり。これによりてアニマサメヤモとよむべし
 
(444)346 よるひかる玉といふとも酒のみてこころをやるにあにしかめやも
夜光玉跡言十方酒飲而情乎遣爾豈若目八目〔左△〕【一云八方】
 ココロヲヤルは氣を散ずる事〇八目は八方の誤なり。集中にモに目の字を借れる例無し 
347 世のなかのあそびの道に冷〔左△〕者《タヌシキハ》ゑひなきするに可有良師《アルベカルラシ》
世間之遊道爾冷者醉哭爲爾可有良師
 三句は宣長の怜者の誤としてタヌシキハとよめるに從ふべし。アソビノミチニはアソビノ道ノ中ニテの意なり○結句は舊訓にアリヌベカラシとよめれどアルベカルラシとよむべし
 
348 このよにしたぬしくあらばこむ世には蟲に鳥にもわれはなりなむ
今代爾之樂有者來生者蟲爾島爾毛吾羽成奈武
 初二の間に酒ヲノミテといふことを補ひてきくべし。第四句は蟲ニモ鳥ニモなり。上のモを略したるなり
 
(445)349 生者《イケルモノ》つひにもしぬる物爾有者今生在間者《モノナレバコノヨナルマハ》たぬしくを有名《アラナ》
生者途毛死物爾有者今生在間者樂乎有名
 生者は考にイケルモノとよめるに從ふべし。楊子に有生者必有死、有始者必有終、自然之道也とあるによれるなり〇三句はモノナレバ(久老)四句はコノヨナルマハ(舊訓)有名はアラナ(宣長)とよむべし。四五の間に例のサケヲノミテといふことを挿みてきくべし
 
350 黙然居而《モダヲリテ》さかしらするは酒のみてゑひなきするになほしかずけり
獣然居而賢良爲者飲酒而醉泣爲爾尚不如來
 初句は宣長のモダヲリテとよめるに從ふべし(記傳三十卷二十一丁參照)。因にいふ俗語のダマルはモダル(モダアルの約)のモがマに轉じ更にマダが下上となれるなるべし(カラダ、ツゴモリを方言又は俗語にカダラ、ツモゴリといひ又アラタシを後世アタラシといふ類)
 
   沙彌滿誓歌一首
(446)351 よのなかをなににたとへむあさびらきこぎにし船の跡無如《アトナキゴトシ》世間乎何物爾將譬旦開※[てへん+旁]去師船之跡無如
 アサビラキは冠辭考及新採百首解にあしたに湊を船出するをアサビラキといへりと云へり。ヒラキは發船の發に當れり。さて今はアサビラキシテといふべきを略せるなり○結句はアトナキゴトシと久老のよめるに從ふべし。雅澄の云へる如くゴトはゴトクの略にてゴトシを略してゴトといふことなければなり
 
   若湯座《ワカユヱ》王歌一首
352 あしべにはたづがねなきてみなと風さむくふくらむつをの埼はも
葦邊波鶴之哭鳴而湖風寒吹良武津乎能埼羽毛
 二句はタヅガ、ネナキテなり。ネヲナクのヲを略してネナクともいひしなり(オノガモノカラネナクなど)○此歌サムクフクラムとあればつをの埼にてよめるにあらず。ハモも思ひ遣る辭なり○ツヲノ埼の所在は明ならず
 
   釋通觀歌一首
(447)353 みよしぬのたかきの山にしら雲はゆきはばかりて棚引所見《タナビケリミユ》
見吉野之高城乃山爾白雲者行憚而棚引所見
 ユキハバカリテはコエカネテなり○結句は雅澄に從ひてタナビケリ〔右△〕ミユとよむべし。ルといはでリといへる例は古義に擧げたり。上なるミダレイヅ見ユと同格なり
 
   日置《ヘキ》(ノ)少老《ヲオユ》歌一首
354 繩の浦にしほやくけぶりゆふさればゆきすぎかねて山にたなびく
繩乃浦爾塩燒火氣夕去者行過不得而山爾棚引
 縄(ノ)浦を眞淵久老は綱《ツヌ》(ノ)浦の誤として攝津の地名とせり○ユキスギカネテを雅澄は得消失ズシテと釋したれど前の歌なるユキハバカリテ又七卷なるシカノアマノシホヤクケブリ風ヲイタミタチハノボラデ山ニタナビクのタチハノボラデと似たる意とおぼゆ。即晝の間は上方にたちのぼりし烟の夕方になりて風が起りて横になりて山にたなびけるさまなり
 
(448)   生石《オフシ》(ノ)村主《スクリ》眞人歌一首
355 おほなむちすくな彦名のいましけむしづのいはやはいく代へぬらむ
大汝小彦名乃將座志都乃石室者幾代將經
 シヅノイハヤは小篠|敏《ミヌ》の説(玉勝間九卷三十一丁)に岩見國|邑知《オホチ》郡岩屋村にありといふ。閑田耕筆一之卷には圖をも出だせり。なほ記傳四十卷【四十五丁】翁草卷百五十二などをも參照すべし○此窟を播磨國の石(ノ)寶殿とする説はひが言なり 
   上《カミ》(ノ)古麻呂《コマロ》歌一首
356 今日〔左△〕可聞《イマモカモ》あすかの河のゆふさらずかはづなく瀬の清有良武《サヤケカルラム》【或本歌發句云あすか川今もかもとな】
今日可聞明日香河乃夕不離川津鳴瀬之清有良武【或本歌發句云明日香川今毛可毛等奈】
 初句は日を誤字としてイマモカモとよむべし(略解に日は目の誤かといへれど目をモの假字に用ひたる確なる例は未見當らず)○アスカノ河ノは四句の瀬にかゝれり。河ノユフサラズとつづくにあらず○ユフサラズは毎夕なり。三句にユフサラ(449)ズとあるにても初句のケフモにあらざる事を知るべし○結句はサヤケカルラム(久老)とよむべし
 
   山部宿禰赤人歌六首
357 繩の浦ゆそがひにみゆるおきつ島こぎたむ舟は釣爲良下《ツリセスラシモ》
繩浦從背向爾所見奥島※[てへん+旁]囘舟者釣爲良下
 眞淵久老は例の如く綱ノ浦の誤とせり○ソガヒは後方なり。前方に見ゆるといはで後方に見ゆるといへる異樣なるに似たれどよく思ふに作者は海邊に立てるにあらで船に乘りて或方向に進みをるなり。さるによりてソガヒニミユルといへるなり○結句宣長以下ツリセスラシモとよめるを雅澄は『ツリセスはツリシ給フといふ意なり。然るにこゝはツリシタマフと尊みいふべき處ならねばツリセスとよむはわろし』といひてツリシスラシモとよめり。案ずるに此格(ツリスをツリセスといひタツをタタスといふ類)は自の上にはいはで他の上にのみいふ辭なれば多少の敬意はあれど打任せたる敬辭にあらず(ふさはしき名稱を思ひ得ねば後にも、しばらく敬辭といふべけれど實は他の上にいふ辭といふべし)。されば今もツリセス(450)ラシモとよみて不可なる事なし
 
358 むこの浦をこぎたむをぶね粟島をそがひにみつつともしき小舟
武庫浦乎※[てへん+旁]轉小舟粟島矣背爾見乍乏小舟
 粟鳥は淡路に屬せる小島とおぼゆ。七卷にも粟島ニコギワタラムトオモヘドモ赤石ノトナミイマダサワゲリとあり○小舟とあるを略解に『こゝのトモシキは……舟をいふにはあらず粟島をともしくおもふ也。コギタム小舟は此作者の乘れる舟にて結句の小舟も同じ』といへるは非なり。海路にて小舟を見て其小舟をうらやましく思へるなり○久老雅澄が作者は西に下るに他の舟の倭の方へこぎのぼるがうらやましきなりと釋けるも非なり。作者は今粟島の邊をすぐとて此粟島を後に見つゝ武庫ノ浦をこぎめぐる小舟は定めておもしろかるべしと羨めるのみ。小舟は其わたりの漁舟なり。倭の方へこぎのぼる舟にあらず○さてアハシマヲソガヒニミツツといひてトモシキ小舟とは續けられず。ミツツは彼小舟の人の見るにてトモシキは作者が思ふなれば四五の間に辭無くてはかなはず。案ずるに二句と尾句と同語にてとむる格あり。こはは誰も知れる所なり。さて今の歌は右の格の中の又一(451)格にて初二を更に四五の間に挿みてきくべき格なり。辭を換へていはば
  アハシマヲソガヒニミツツムコノ浦ヲコギタム小舟トモシキ小舟
かくいふべきなれど、さては四五を同語にてとむる事となりて調よろしからねば其三四と初二とを倒置して彼二句と尾句とを同語にてとむる格にかなへたるなり
 
359 あべの島うのすむいそに依浪《ヨスルナミ》まなくこのごろ日本《ヤマト》しおもほゆ
阿倍乃島宇乃住石爾依浪間無比來日本師所念
 アベノシマは攝津といふ説あれど確ならず〇三句は久老に從ひてヨスルナミとよむべし。さて上三句は序なり
 
360 しほひなばたまも苅藏《カリツメ》家妹之《イヘノイモガ》はまづとこはば何をしめさむ
塩干去者玉藻苅藏家妹之濱裹乞者何矣示
 苅藏はカリツメ(舊訓)カラサム(久老)カリコメ(雅澄)などよめり。いづれも穩ならず。但例とも見べきは卷十六に荒城田ノシシ田ノ稻ヲ倉ニ擧藏而とありてこれをも舊(452)訓にツミテとよめり。又軍防令營繕令などの貯v庫の貯を古訓にツムとよめり。今もしばらくカリツメとよみてそのツメを俗語のシマヘの意とすべし○家妹之は舊訓にイヘノイモガとよめるを雅澄は二十卷に以幣乃母ガキセシコロモニとあるによりてイヘノモガとよめり。もとのまゝにてもあるべし○ハマヅトは海邊のみやげなり〇二三の間にシカセズバといふことを挿みてきくべし
 
361 秋風のさむきあさけをさぬの崗|將越《コユラム》きみにきぬかさましを
秋風乃寒朝開乎佐農能崗將越公爾衣借益矣
 此歌は考及略解にいへる如く女の歌とおぼゆ。されば題辭に山部宿禰赤人歌六首とあるはいぶかし。考には此歌を赤人の妻の歌として『上の黒人の八首と有中に妻の歌一首書入たる類ならん』といひ宣長は旅宿の遊女などのよめるなるべしといへり〇二句のヲを久老は後世にニといふ助辭なりといへり。時の下に添ふるヲなり○サヌの岡は上にサヌノワタリとあると同處なりといふ○將越を略解にコエナムとよめれど大和なる女の遙に思ひやりてよめるなりとおぼゆればなほ舊訓の如くコユラムとよむべし○キヌカサマシヲは例の如くモシデキルコトナラバ(453)といふ事を加へてきくべし。セバ、ズバなどの打合なきマシは皆然り、前に擧げたる宣長の説の如く旅宿の遊女の作とせば四句の將越はコエナムともよむべけれどさてはマシといへるにかなはず
 
362 みさごゐる石轉《イソミ》におふるなのりその名はのらし五〔左△〕《テ》よおやはしるとも
美沙居石轉爾生名乘藻乃名者告志五余親者知友
 上三句は序なり。石轉は舊訓にイソワとよめるを久老イソミと改めよめり。磯ノメグリなり○ナノリソはホンダハラなり(久老)○久老は五を弖の誤とせり。ノラシテヨはノラセ、ノラサネと同意にて告ゲタマヘとなり。オヤハシルトモは親ノ咎ヲ受クトモとなり。いにしへは人の娘は妄に他人に名を告げざりしにて誰の娘誰と名のるは身を許すに齊しかりしなり○此歌はまぎれてこゝに入りたるにこそ。相聞の歌にて初四首とたぐふべきにあらず
 
   或本歌曰
363 みさごゐるありそにおふるなのりその告〔左△〕《ヨシ》名はのらせおやはしるとも(454)美沙居荒礒爾生名乘藻乃告名者告世父母者知友
 千蔭は告を吉の誤としてヨシナハノラセとよめり。十二卷にはミサゴヰルアリソニオフルナノリソノ吉名者不告《ヨシナハノラジ》オヤハシルトモとあり
 
   笠朝臣金村鹽津山作歌二首
364 ますらをのゆずゑ振起《フリオコシ》いつる矢をのち見む人はかたりつぐがね
大夫之弓上振起射都流失乎後將見人者語繼金
 振起を略解にフリタテとよみたれど久老のいへる如く十八卷に梓弓須惠布理於許之とあればなほ舊訓の如くフリオコシとよむべし。調もその方をゝしく聞ゆ○ガネとガニとの別は古義にくはしく云へり。ガネは
  マスラヲハ名ヲシタツベシノチノ代ニキキツグ人モカタリツグガネ佐保河ノキシノツカサノシバナカリソネ、アリツツモハルシキタラバタチカクルガネ
などありてタメニとかベクとか譯すべし○第三句のイツル矢ヲは射ツル矢ゾと(455)いふことなり。射ツル矢ヲ後見ムとつづけるにあらず。アシヒキノ山ヨリイヅル月マツト人ニハイヒテ君マツ我ヲなどのヲなり
 
365 しほつ山うちこえゆけばわがのれる馬ぞつまづく家こふらしも
鹽津山打越去者我乘有馬曾爪突家戀良霜
 家コフラシモは家ガ(即家人ガ)コフルサウナとなり。奥義抄に
  旅人を家にてこふる妻あれば乘馬つまづきなづむ
といへるは此歌などによりていひ出でたるにて證とすべくはあらねど歌の調を思ふになほさる諺ありしにこそ
 
   角鹿《ツヌガ》(ノ)津乘v船時笠(ノ)朝臣金村作謌一首并短歌
366 こしの海の つぬがの濱ゆ 大舟に 眞梶ぬきおろし (いさなとり) 海路にいでて あへぎつつ わがこぎゆけば (ますらをの) たゆひが浦に あまをとめ 塩やくけぶり (草枕) たびにしあれば 獨して みるしるしなみ わたつみの 手にまかしたる たまだすき (456)かけてしぬびつ やまと島根を
越海之角鹿乃濱從大舟爾眞梶貫下勇魚取海路爾出而阿倍寸管我※[てへん+旁]行者大夫乃手結我浦爾海未通女塩燒炎草枕客之有者獨爲而見知師無美綿津海乃手二卷四而有珠手次懸而之努櫃日本島根乎
 ツヌガは敦賀なり○眞梶は兩方の櫓、ヌキオロシはヌキサゲなり○アヘグを久老、千蔭、雅澄ともに舟子の喘ぐことゝしたれどアヘギツツワガコギユケバとあるを舟子の喘ぐ事とは釋かれす。案ずるにまことは喘ぐも漕ぐも舟子のする事なれど歌にては作者自身が舟を漕ぐやうによめるなり。さればアヘグも作者の事と見べし○アマヲトメシホヤクケブリはアマヲトメノ塩ヤクケブリヲと辭を添へて心得べし○ヒトリシテミルシルシナミは獨見テハ見ル詮ガナイカラとなりワタツミノ手ニマカシタルタマダスキはカケテの序、又その初二句はタマの序なり○ヤマトシマネは大和國をいへり。旅先にておもしろき景色を見て故郷の妻や友やを思へるなり
 
   反歌
(457)367 こしの海のたゆひの浦をたびにしてみればともしみやまとしぬびつ
越海乃手結之浦矣客爲而見者之〔左△〕見日本思櫃
 こゝのトモシミはものたらぬ意なり(契沖がメヅラシキなりと云へるは從はれず)。旅先にてただ獨して見るが故に物足らぬなり
 
   石上《イソノカミ》(ノ)大夫歌一首
368 大船にまかぢしじぬきおほきみのみことかしこみ礒廻《イソミ》するかも
大船二眞梶繁貫大王之御命恐礒廻爲鴨
    右今案石上朝臣乙麻呂任2越前國(ノ)守1。蓋此大夫歟
 礒廻を舊訓にアサリとよめるを久老はイソミとよめり。そのイソミは雅澄のいへる如く礒を廻りて漕ぎ行くことゝおぼゆ(久老は『いそべに船がかりするをいふ言なり』といへり)。嗚呼ツライ事ヂヤといふ餘意あり
 
   和歌一首
369 もののふのおみのをとこはおほきみのまけのまにまにきくといふも(458)のぞ
物部乃臣之壯土者大王任乃隨意聞跡云物曾
    右作者未v審。但笠(ノ)朝臣金村之歌中出也
 モノノフノオミは廷臣、ヲトコは丈夫なり。マケは差遣なり。キクは承ルなり。古義にいへる如く同船の人のよめるなるべし
 
   安倍(ノ)廣庭卿歌一首
370 雨不〔二字左△〕零《コサメフリ》とのぐもるよ之〔左△〕《ヲ》、潤濕跡《ヌレヒデド》、戀つつをりき君まちがてり
雨不零殿雲流夜之潤濕跡戀乍居寸君待香光
 雨不零の零を宣長は霽の誤としてアメハレズとよみ久老は宣長の説に從ひ又或人の説とて雨不を※[雨/沐]の誤としてコサメフリとよめり。後説に從ふべし。トノグモルはただ曇る事なり○之の字を雅澄は乎の誤としてナルニのヲとせり○潤濕跡を契沖はヌレヒツとよみたれどなほ舊訓に從ひてヌレヒデドとよむべし。ヒヅは四段にも活きしなり
 
(459)   出雲守門部王思v京歌一首
371 飫△海〔左△〕乃《オウガハノ》河原のちどりながなけばわが佐保河のおもほゆらくに
飫海乃河原之乳鳥汝鳴者吾佐保河乃所念國
 契沖は飫の下に宇の字おちたりとし眞淵(槻落葉に引けり)は海を河の誤とせり。此等の説に從ひて飫宇河乃の誤とすべし。國府は今の八束郡|出雲郷《アダカヤ》村にありて意宇《オウ》川即今の熊野川に近かりしなり○オモホユラクニはオモハルルヨといふばかりの意なり。此ニは常のニと齊しからず。古義に心シテサノミ鳴コトナカレといふ意を含めたるなりといへるは非なり
 
   山部宿禰赤人登2春日野1作歌一首并短歌
372 (はる日を) かすがの山の (高くらの) 御笠の山に 朝さらず 雲ゐたなびき かほ鳥の まなくしばなく (雲ゐなす) 心いざよひ (其鳥の) 片戀のみに 晝はも 日のことごと よるはも 夜のことごと たちてゐて おもひぞわがする あはぬ兒ゆゑに
(460)春日乎春日山乃高座之御笠乃山爾朝不離雲居多奈引容鳥能間無數鳴雲居奈須心射左欲此其鳥乃片戀耳爾晝者毛日之盡夜者毛夜之盡立而居而念曾吾爲流不相兒故荷
 クモヰは記傳二十八卷【五十三丁】に『クモヰとは常には雲の居る處を云へども古へは又ただに雲を云ることも多し』といひて例を擧げたり○カホドリは眞淵の説によぶ子鳥と同じくて今のカツポ鳥なりといひ久老、守部(山彦冊子三卷五十九丁)岡部東平(嚶々筆語初篇七丁)などは之に左袒し契沖、信友(比古婆衣十八卷)などは一つの鳥の名にあらずといへり。なほ考ふべし○ココロイザヨヒは心シヅマラズなり○タチテヰテは或ハ立チ或ハ居テなり。アハヌ兒ユヱニは我ニナビカヌ女ナルニといふ事○さて初より十二句のうちココロイザヨヒ、片コヒノミニの二句の外はすべて文飾にてまづ眼前の景を叙しさて其辭の縁によりて感情を述べたるなり。人麿の
  ツヌサハフ石見ノ海ノ、コトサヘグカラノ埼ナル、イクリニゾ深ミルオフル、アリソニゾ玉藻ハオフル、玉藻ナスナビキネシ兒ヲ、フカミルノフカメテモヘド
(461)の格をまなべりとおぼゆ
 
   反謌
373 (たかくらの)三笠の山になく鳥のやめばつがるる戀もするかも
高※[木+安]之三笠乃山爾鳴島之止者繼流戀哭〔左△〕爲鴨
 上三句は序にてヤメバツガルルは長歌のマナクシバナクにあたりて怠る間なきをいへり○哭を眞淵は喪の誤とせり
 
   石上《イソノカミ》(ノ)乙麻呂朝臣歌一首
374 雨ふらば將蓋跡念有《キムトオモヘル》かさの山人にな令蓋《キシメ》ぬれはひづとも
雨零卷將蓋跡念有笠乃山人爾莫令蓋霑者漬跡裳
 二句は六帖にキムトオモヘルとよめるに從ひ令蓋は古義にキシメとよめるによるべし。又二句の前にワガといふことを加へヌレハヒヅトモの前にヨシヤ其人ガといふことを加へてきくべし○譬へたる所あるべし。古義の宮地其の説はうべなはれず
 
(462)   湯原王芳野作歌一首
375 吉野なるなつみの河の川よどに鴨ぞなくなる山かげにして
吉野爾有夏實之河乃川余杼爾鴨曾鳴成山影爾之※[氏/一]
 ニシテはニテの意なり。ニシテの事玉緒七卷三十五丁にくはし
 
   湯原王宴席歌二首
376 あきつはの袖ふる妹を(たまくしげ)おくにおもふをみたまへ吾君《ワガキミ》
秋津羽之袖振妹乎珠匣奥爾念乎見賜吾君
 アキツハノソデはうすものゝ袖なり。比古婆衣四卷(信友全集第四の九六頁)に秋津葉の意とせるはいかが。なほ蜻蛉羽の意なるべし○オクニオモフは俗にいふトツトキにて大切ニオモフなり○オモフの下に妹といふ語を挿みて聞くべし。即ソデフル妹ヲといひて更にオクニオモフ妹ヲといへるなり○吾君は久老のアギミとよめるに從ふべきかと思へど十九卷にサカエイマサネタフトキ安我吉美とあればなほアガキミ又はワガキミとよむべし。千蔭はワギミとよめれどワギミは新し(463)(奈良朝文法史四十八頁參照)
 
377 青山のみねのしら雲あさにけにつねにみれどもめづらし吾君《ワガキミ》
青山之嶺乃白雲朝爾食爾恒見杼毛目頬四吾君
 初二は序なり。略解に上は序なりといへるはまぎらはし○アサニケニは毎日なり
 
   山部宿禰赤人詠2故太政大臣藤原家之山池1歌一首
378 昔|者〔左△〕之《ミシ》ふるきつつみは年深《トシフカミ》いけのなぎさにみくさおひにけり
昔者之舊堤者年深池之瀲爾水草生家里
 贈太政大臣は不比等公なり。藤原家は藤原氏といふことなり。集中に橘家、坂上家、丹比家なども見えたり。古義に『高市郡藤原の別莊なるべし』といへるは非なり。山池は庭園なり○昔者之の者は看の誤にてムカシミシならむと田中道麻呂いへり(玉の小琴)〇三句は六帖にトシフカミとあるに從ふべし(舊訓はトシフカキ)。年久しき事をトシフカシといへるは古今のナガキオモヒ〔六字傍点〕ハワレゾマサレルなどと同じく漢語に胚胎したるにあらざるか(四卷大伴坂上郎女怨恨歌にもトシフカクナガクシ(464)イヘバとあり)○ツツミとイケノナギサとかさなれるこゝちす。案ずるにイケノはツツミの前にいふべきなれど餘地なきが故に下へまはしたるにてナギサはツツミの一部分と見べし
 
   大伴(ノ)坂上《サカノヘ》(ノ)郎女祭v神歌一首并短歌
379 (久堅の) あまの原より 生來《アレコシ》 神の命 奥山の さかき之《ノ・ガ》枝に 白香付《シラガツケ》 ゆふとりつけて いはひべを いはひほりすゑ たか玉を しじに貫垂《ヌキダレ》 (ししじもの) 膝をりふせ たわやめの 押日《オシヒ》とりかけ かくだにも われはこひなむ 君に不相《アハジ》かも
久堅之天原從生來神之命奥山乃賢木之枝爾白香付木綿取付而齊〔左△〕戸乎忌穿居竹玉乎繁爾貫垂十六自物膝折伏手弱女之押日取懸如此谷裳吾者祈奈牟君爾不相可聞
 生來は舊訓にアレキタルとよめるを久老雅澄はアレコシに改めたり。さてそのアレを雅澄はアラヒト神のアラと同言にて現はれ出づといふ事なりといへり。此説よろし。高天原カラ生レテ來タとはいふべきにあらねばなり○神ノ命は即大伴氏の祖神天(ノ)忍日《オシヒ》(ノ)命なり。略解にいへる如くミコトの下にヨの辭を添へてきくべし。ミコトヲのヲを省けるなりといふ説あれどさてはその照應すべきコヒナムとあまりに離れたり〇オク山ノは准枕辭なり。之はノ(舊訓)ともガ(槻の落葉以下)ともよむべし○サカキは眞淵の説(冠辭考マサキヅラの條)に一の木の名にあらでいにしへ松杉橿などの常葉木を神事などに用ひし時たゝへてサカキ(榮樹)といひしにてそが中に取り分けて鏡、幣をかけなどせしは橿なりといへり。宣長(記傳八卷)守部(神樂入綾上卷二十丁)など此説に左袒せり。久老は之に反してシキミなりといひ高尚(松の落葉四卷三丁)中山|美石《ウマシ》(後撰集新抄八卷九丁)熊谷直好(梁塵後抄神樂上一)などの説は久老に同じ。その外雅澄は今のサカキなりといひ六人部是香(すずの玉ぐし二卷三十二丁)は槻なりといへり。いにしへは一木の名にあらざりきといふ説は信ずべく又和名抄の頃には既に一木の名となれりしは確なり○白香付は舊訓にシラガツケとよめるを眞淵はシラガツクとよみて枕辭とせり。後の註者皆枕辭説に從へる中に獨是香は枕辭にあらずとし舊訓の如くシラガツケとよみて榊の枝にシ(466)ラガを附け又ゆふを附くる意とせり(すずの玉串二卷三十八丁)。是香の説に心引かる。シラガは本居大平の説に白紙なりといへり。されば白紙にて作れる幣と木綿布にて作れる幣とを榊に取附くるなり○イハヒベは清淨なる土器にてこゝにては酒を盛れるなり。イハヒホリスヱは清めて土中に堀りすうるなり○タカダマは眞淵の説(槻の落葉に引けり)に神代紀にスズノ八十玉グシといふあれば玉をすず竹に附けて神を祭るなりといへり。案ずるにタカ玉は竹を短く切りて緒に貫けるなり(仙覺の説に竹を玉のやうに刻みて神供の中にかけて飾ることあるそれなりといへり)。所謂スズノ玉グシとは別なり。竹に玉を附けたるをタカダマとはいふべからず。琉球諸島には今も細き竹管を紐にとほして頸にかくる風習ありといふ。但そは玉の獲がたき爲なるべく今は清淨を貴ぶ神事の具にて二たび用ふべきものならねば竹にて作れるにこそ。シジニは繁クなり。ヌキタレは緒ニ貫キテ頸ニ垂レとなり。垂はタレとよむべし○タワヤメは作者自身をいへり。なほ男子の自稱してマスラヲといふが如し○押日は諸註オスヒとよめり。記傳十一卷に
  此名はオソヒと通ひてオシオホヒを約めたるなり。さて其状は一幅にまれ二幅(467)にまれ幅《ハタバリ》のまゝにいと長き物なるを後世の婦人の被衣《カヅキギヌ》などの如く頭より被て衣の上を掩ひ下は襴まで垂ると見ゆ。さて其は上代は男女共に人に誰と知れじと面貌を隱す料の服と見えたり、然るを奈良の頃などになりては男の着ることははやく絶て女の古の禮服の如くなりて神を祭るときなどにのみ着けるなるべし(採要)
といへり。黒川春村(碩鼠漫筆卷之十意須比考)は
  古書中に押比、押日、忍比など有を見るにオスヒと訓べき文字ならず。必オシヒとよまゝほしきこゝちす
といへり。今は押日とあれば右の説に從ひてオシヒとよむべし。オシヒともオスヒともいひしにこそ。春村が意須比とかきたるをもオシヒとよむべしといへるは從はれず○カクダニモは代匠記にはカクサヘ略解にはカクバカリ古義にはカクマデモと譯せり。こゝは積極的の所作を云へるなれば今ならばサヘといふべくダニとはいふべからず。ダニの用法後世とは異なりきとおぼゆ○コヒナムのナムは契沖の説にノムにひとしと云へり。ノムは祈る事○結句は舊訓にキミニアハジカモ(468)とよめるを久老はアハヌカモに改めたり。げにワガ命モツネニアラヌカ、雨モフラヌカなどと同格なる如く見ゆれどよく思ふにこれらはみな相手につきたるはたらきにてフラヌカはフラナム、アラヌカはアラナムと譯してよく通ずれど君ニアハヌカモはアハナムとは譯せられず。アハナムといふ意ならば君ノとか君モとか云はすばかなはじ。たとへば十五卷に
  あはずしてゆかばをしけむまくらがのこがこぐふねに伎美毛〔右△〕安波奴可毛
とあるを思ふべし。さればなほ舊訓のまゝにアハジカモとよみてアハザラムカマアと譯し其前にサテモナホなどいふ辭を補ひて聞くべし
 
   反謌
380 ゆふだたみ手にとりもちてかくだにもわれはこひなむ君に不相鴨《アハジカモ》
木綿豐手取持而如此谷母君波乞嘗君爾不相鴨
    右歌者以2天平五年冬十一月1供2祭大伴氏神1之時制作2此謌1。故曰2祭v神歌1
(469) ユフダタミはたゝみたる木綿なり
 
   筑紫娘子《ツクシヲトメ》贈2行旅1歌一首
381 家もふと情進莫《ココロススムナ》かぜまもりよくしていませあらき其路
思家登情進莫風侯好爲而伊麻世荒其路
 二句は舊訓にココロススムナとよめるに從ふべし。ハヤルナといふことゝおぼゆ○カゼマモリヨクシテはヨク風待ヲシテといふ事なり○行旅は旅行者にて京に還る人なり。此娘子は所謂遊行女婦ならむ
 
   登2筑波岳1丹比眞人國人作歌一首并短歌
382 (とりがなく) あづまの國に 高山は さはにあれども 明〔左△〕《フタ》神の たふとき山の なみたちの 見がほし山と 神代より 人のいひつぎ 國見する 筑羽の山を (冬ごもり) △時〔左△〕敷時〔左△〕《トキジキヤマ》と みずて往者《ユカバ》 ましてこひしみ ゆきげ爲《スル》 山道すらを なづみぞわが來前〔左△〕二《コシ》
※[奚+隹]之鳴東國爾高山者左波爾雖有明神之貴山乃儕立乃見※[日/木]石山跡神代從人之言嗣國見爲筑羽乃山矣冬木成時敷時跡不見而往者益而戀石見(470)雪消爲山道尚矣名積叙吾來前二
 筑波山には二峯あり。一は高く一は低し。高きを男體といひ低きを女體といふ。いにしへ男體を男《ヲ》(ノ)神といひ女體を女《メ》(ノ)神といひ總稱してフタガミといひしなり。紀に※[木+患]日二上峯《クシビフタガミタケ》とあるを始めて諸國に二上山といふがあるは皆二神にて二峯あるによれる名なり(記傳十五卷七十四丁參照)○ナミタチはならび立てるさまなり○ミガホシは上(四三一頁)にいへり。ミガホシキ山をつづめてミガホシ山といへるなり○フタガミノ以下四句はフタガミノタフトキ山ニシテナミタチノミガホシキ山ナリトテとうつすべし。記傳四十五卷外宮之度相の註にも二三の例を擧げたり○クニミスルの上にノボリテといふ辭を加へて見べし○ツクバノ山ヲはツクバノ山ナルヲなり○フユゴモリ時敷トキトとては意通ぜず。又フユゴモリは春の枕辭なれば時敷とは受けられず。契沖はフユゴモリ春サリクレドシラユキノ時敷トキトとありしが二句おちたるなるべしと云へり。げに然り○時敷時跡を契沖は幽齋本の點に從ひてトキジクトキトとよめり。雅澄いはく
  白雪ノトキジクフリシク時トテの意とは聞ゆれどもいささかいひ足はぬ詞な(471)り
といへり。げに辭足らず。案ずるに契沖以來此句をトキジクトキとよめるはトキジクノカグノコノミ、トキジク藤などいふ例によれるならめど此等のトキジクはカグノ果又は藤の形容なり。然るに今のトキジクは雪の形容にて時の形容にあらねばトキジク藤などを例としてトキジク時とはよむべからず。此トキジクといふ語を上なる白雪の形容とするには如何にすればよきかといふにトキジキ時とよめば可なり。かくよめばトキジキは白雪の形容となりて下なる時の形容とならず又雅澄のいひ足はずといへる難もなくなるなり。本居春庭の詞の通路(中卷三十四丁)に『トキジシ、トキジキとはたらくことなし』といへれどトキジ、トキジキとはたらく事は本書一卷(一六頁及四六頁)にいへる如し。更に案ずるにシラユキノトキジキ時トといへる下の時といふ語穩ならず。おそらくはシラユキノトキジキ山トとありしを誤れるなるべし○往者は舊訓にイナバとよめるを久老雅澄はユカバに改めたり○ミズテユカバといへるを受けてはコヒシカルベミといふべきが如くなるをコヒシミといへる、此格の事くはしく本書二卷(二九二頁)にいへり(犬鷄隨筆上卷(472)七十二頁『未來言の下を現在言にて結格』參照)○ユキゲ爲の爲を舊訓にスルとよめるを略解にセルに改めたるは中々にわろし○スラは主語を強むる辭なり。本書二卷(二五二頁)を見合すべし○ナヅムはゆきなやむなり○明は朋の誤又前二は竝二の誤にてシに充てたるなりと前哲云へり。案ずるに明は双の誤か
 
   反歌
383 つくばねをよそのみ見つつありかねて雪げの道をなづみ來有《ケル》かも
筑羽根矣四十耳見乍有金手雪消乃道矣名積來有鴨
 ヨソノミは契沖ヨソニノミといはぬは例の古語なりといへり○來有は舊訓にクルとよめるを宣長ケルに改め後人みな之に從へり。さてそのケルを宣長は來タルの意とし雅澄は來ケルの切とせり。宣長の説に從ふべし。有は或は衍字にあらざるか。もし然らばクルとよむべし
 
   山部宿禰赤人歌一首
384 わがやどに韓藍《カラヰ》まき生之《オホシ》かれぬれどこりずてまたもまかむとぞおもふ
(473)吾屋戸爾幹藍種生之雖千不懲而亦毛將蒔登曾念
 韓藍は卷十一|隱《コモリ》ニハコヒテシヌトモミソノフノ※[奚+隹]冠草ノ花ノ色ニイデメヤモ(舊訓に鷄冠草をカラアヰとよめり。又卷十にコフル日ノケナガクシアレバミソノフノ辛藍ノ花ノ色ニイデニケリといふ歌あり)といふ歌の註に
  類聚古集云。鴨頭草又作2※[奚+隹]冠草1云々。依2此義1者可v和2月草1歟とあるを(今本の類聚古集第七を檢するに鴨頭草亦作2鷄冠草1亦作2唐棣1可v考とあり)契沖は斥けて
  和名集云楊氏漢語抄云鴨頭草……此中に※[奚+隹]冠草と云はず。それは猶漏たる事も有なむを和名集海菜類云楊氏漢語抄云※[奚+隹]冠菜……又木類云楊氏漢語抄云※[奚+隹]冠木……此兩種色も形も※[奚+隹]冠に似たる故に名づく。※[奚+隹]冠木を※[奚+隹]頭樹とも云へば※[奚+隹]冠草は※[奚+隹]頭花なるべき義明なり。……※[奚+隹]冠と鴨頭と色も形も異なるを何ぞ一草に名付むや。其上六帖にもカラアヰとよみたれば今の注用べからず(〇六帖には人シレズコヒハシヌトモミソノフノカラアヰノ花ノ色ニ出メヤとあり)
といへり。然るに眞淵は(474)此呉藍といひ韓藍と云も共に其種は同じもの也。さるをむかし中末までクレナヰてふ名の專らあるをおもへば始の呉の國よりこし時クレナヰと名づけ後に韓國よりもこしをカラアヰといふならん。さて縫殿式に韓紅花と有はただ深紅の事也。韓にて染るが濃(キ)に依てそれが樣に染るを云にて染種はただ紅花のみ。此左に類聚古集云……とあり。さて是を鴨頭草とするはひがごと也。そは多く生るものなれば殊に御圃に植らるべからず。……或人は此卷に※[奚+隹]冠草花と有によりて後世見ゆる※[奚+隹]冠草の事ぞといへるはいふにもたらず。先紅花は茎立の末に丸き房あつまり成て其房ごとの赤き花のさき出ぬるさま※[奚+隹]冠といふべし……といひ(萬葉考卷四別記)宣長は
  萬葉集の歌にクレナヰをカラアヰともよめり。そもそもクレナヰといふは此物もと呉の國より渡りまうできたるよしにて呉の藍といふをつづめたる名なるをそは韓國よりつたへつる故に又韓藍ともいへるなりといへる説のごとし。但しカラといふは西の方の國々のなべての名なれどこれは呉國をさしていへるにて呉藍といふと同じことにもあるべし。さるを萬葉の十一の卷には※[奚+隹]冠草と(475)も書るにつきて鴨頭草也とも※[奚+隹]頭花也ともいふ説どもの有てまぎらはしきやうなれどもツキ草とも※[奚+隹]頭花ともいふはみなひがごとにて紅花《クレナヰ》なること疑ひなし
といへり(玉勝間六卷一丁)。案ずるにカラアヰのツキクサにあらざる事は眞淵が『そは多く生るものなれば殊に御圃に植らるべからず』といひ契沖の『※[奚+隹]冠と鴨頭と色も形も異なるを何ぞ一草に名づけむや』といへる如し。然らば※[奚+隹]頭花と紅花といづれぞといふに本集卷七に秋サラバ影〔左△〕毛《ニホヒモ》セムトワガマキシ韓藍ノ花ヲタレカツミケムといふ歌あり。タレカツミケムといへる※[奚+隹]頭花の調とはおぼえず。されば眞淵宣長の説に從ひてクレナヰ即ベニバナの事とすべし○生之はオホシ、オフシ兩訓のうちオホシを正しとす。本集に於保之、於保佐牟、於保世流など書けり
 
   仙|柘枝《ツミノエ》歌三首
385 (あられ零《フリ》)きしみがたけをさがしみと草取|可奈和〔二字左△〕《カネテ》妹が手をとる
霰零吉志美我高嶺乎險跡草取可奈和妹手乎取
(476)    右一首或云。吉野人味稻與2柘枝仙媛1歌也。但見2柘枝傳1無v有2此歌1
 古事記|速總別《ハヤフサワケ》王の歌に
  はしだてのくらはし山をさがしみといはかきかねてわが手とらすも
といふ歌あり。又肥前風土記に肥前|杵島《キシマ》郡杵島山に郷閭の士女が毎歳春秋に登望して樂飲歌舞する歌詞とて
  あられふ縷〔右△〕きしまがたけをさがしみとくさとり我泥※[氏/一]《カネテ》いもがてをとる
といふ歌を載せたり。こは彼速總別王の歌を作りかへたるものとおぼゆ。栗田寛氏は肥前風土記にアラレフルの歌を擧げて是|杵島曲《キシマブリ》といひ又常陸風土記に崇神天皇の御代の事を記して杵島唱曲七日七夜とあるによりてアラレフルの歌は夙く崇神天皇の御代にありしなれば速總別王の歌の方後なりといへり。されど其論據確ならず。殊にアラレフルの方は尾句に不審あればなほ宣長の説の如くキシマガタケはクラハシ山を作りかへたるなり。キシマガタケの方は尾句に不審ありといふは彼クラハシ山の歌は男王の御歌にてワガ手トラスモとのたまへるは男王ま(477)づ登り女王(女鳥《メトリ》王)ついで登らむとして男王の御手にとりつきたまふにてよく聞えたれど草トリカネテ妹ガ手ヲトルといひては女まづ登り男ついで登らむとして女の手にとりつくにて理かなひがたし。かくの如く調に任せて理を忘れたるはやがて此歌の後出なる一證といふべし。これより本集の歌について云はむに此歌は題辭に仙柘枝歌三首とある第一首にて左註にも右一首或云吉野人味稻與2柘枝仙媛1歌也とあれど風土記の杵島曲と辭すこしかはれるのみにて柘枝に關れることなく又吉野の内にキシミガタケといふ山あることを聞かず。されば宣長久老等のいへる如く題辭の亂れたるなるべし○初句の霰零は風土記にはアラレフル〔右△〕とあれど眞淵は二十卷にアラレフ理カシマノカミヲと假字書にせるに據りてアラレフリとよめり○キシミはキシマを訛れるなり○サガシミトは上なるカシコミト、サカシミトなどと同格なり○可奈和は久老の説の如く可禰手などの誤字としてカネテとよむべし
 
386 このゆふべつみのさえだのながれこば梁はうたずてとらずかもあらむ
(478)此暮柘之左枝乃流來者梁者不打而不取香聞將有
    右一首
 此歌と次の歌とほ柘枝仙媛の事なれば一首前の題辭は此二首にかゝるべきなり。されど仙柘枝歌とありては柘枝のよめる歌の如く聞えてふさはしからず。されば略解には『仙の上に詠の字を脱せしか又略きてかける歟』といへり。二首共に後人の柘枝の事を詠じたる歌なること論なし。此女仙のことを記せる書に柘枝傳といふものありし趣前の歌の左註に見えたれど今傳はらず。ただ懷風藻に見えたる詩若干首と此二首の歌とによりて大略の事を察知すべし。即昔吉野に味稻《ウマシネ》(又美稻)といふ漁夫あり或時川瀬に梁を打ちて魚を待ちしに女仙、柘の枝に化し川上より流れ下りて其梁にかかりて云々しきといふ傳説ありしなり。續後紀卷十九興福寺大法師等奉v賀3天皇寶算滿2于四十1長歌にも三吉野爾有志熊〔右△〕志禰云々とあれど傳すこし異なりと見ゆ
 ツミは雅澄桑の一類にて今野桑といふものなりといへり。是然るべし〇四五の句の意心得がたし。略解古義には(479)或人云此歌の意昔ノ人ハヨクコソ梁ヲ打テ柘枝ヲ得タレ今時ハ梁ハウタズテアレバタトヒ柘ノ流來ルトモ取得ザランカとなりといへり
といへり。此説の如くば三句はナガレクトモといはざるべからず。おそらくはコノユフベ、モシソノカミノ如ク柘ノ枝ノ流レ來ラバイカニシテム、取ラズニヤオカム味稻ノ如ク梁ハ打タズシテといへるなるべし
 左註に『右一首 此下無詞諸本同』となり。右一首某作とあるべきにいづれの本にも某作といふ事無ければ後人『此下無v詞。諸本同』と註したるなり
 
387 いにしへにやなうつ人のなかりせば此間毛《イマモ》あらましつみの枝はも
古爾梁打人乃無有世伐此間毛有益柘之枝羽裳
    右一首若宮(ノ)年魚麻呂《アユマロ》作
 此間毛は舊訓にココモとよみ宣長雅澄はココニモとよめり。案ずるに意を得てイマモとよむべし(景樹同説)〇四句にて辭は切れて意は切れず。ソノツミノ枝ハモといふ意なり。ハモは目前に無きものを慕ふ意の辭なり○此歌の調を味はふに女仙が柘の枝に化して吉野川を流れ下りしは一旦の事にあらず。日々又は時々かくせ(480)しうち或時|美稻《ウマシネ》の梁にかゝりそれより其事絶えしなり。さればイマモアラマシは今モ流レ下ラマシといふ意なり。眞淵が
  彼味稻が梁打し故に柘枝がとどまりて遂に仙女も人間と成しかばながらへざりしをいへり
といひ(略解に引けり)宣長が
  古に川上に梁打てとどめし人のなかりせば此あたりまでも其柘は流來てあらましをといふならむ
といへるは共に非なり
 
   羈〔馬が奇〕旅歌一首并短歌
388 わたつみは あやしきものか 淡路島 なかにたておきて 白浪を伊與に囘之《メグラシ・モトホシ》 (ゐまち月) あかしの門《ト》ゆは ゆふされば しほをみたしめ あけされば しほをひしむ
海岩者靈寸物香淡路島中爾立置而白浪乎伊與爾囘之座待月開乃門從(481)者暮去者塩乎令滿明去者鹽乎令干
 ワタツミは前註或は海をさせりとし或は海神をいへりとせり。アヤシキモノカと受けたるを見れば略解の説の如く海をさせるなり○略解にモノカのカはカモに同じといひ古義にモノカはモノカナとなりと云へり。こは契沖のモノカはモノカナなりと云へるに從へるなり。又下なるヒシムを略解に
  ヒシムといひて上のアヤシキモノカといふを結べり
といひ古義に
  こゝにて上のアヤシキモノカをとぢめたり
といへり。こは宣長の
  シホヲヒシムと訓切て上のアヤシキモノカと云へるを結ぶなり
といへる從へるなり。案ずるにヒシムをモノカの結と見ればモノカはモノカモ又はモノカナの意にあらず。モノカモ又はモノカナといへば結を要せざればなり。されば略解古義もしモノカを契沖の説によりて釋かばヒシムは宣長の説によりて釋くべからず。即甲を取らば乙を捨つべく乙を取らば甲を捨つべし。兩者を併せ取(782)れるは千蔭雅澄の誤なり。さてモノカはモノカナの意にてヒシムはモノカの結にあらず(古今なるウツセミノ世ニモ似タルカ花ザクラサクトミシマニカツチリニケリなどと同格なり)〇ナカニタテオキテは海ノ中ニ立タセオキテなり。もしワタツミを海神とすれば何の中にたておくにか義理通ぜず。これにてもワタツミの海をさせるなる事を知るべし○囘之は舊訓にメグラシとよめるを久老はモトホシとよめり。意は同じ○伊與は宣長の説(記傳五卷四丁)の如く今いふ四國なり。今の伊豫と淡路とは遙に相隔れり。以上六句の意は白浪ガ淡路島ニ沿ウテ四國ノ方へメグルといへるなり○アケサレバは朝サレバといふに齊し。十九卷に安氣左禮婆と假字書にしたり。ユフサレバ以下四句は明石の瀬戸に潮の干滿あるを云へるなり○以上十二句は海の概叙なり。以下とは辭は全く切れて意は聊相關せり。されば次なるシホサヰノはソノシホサヰノと譯すべし
 
しほさゐの 浪をかしこみ 淡路島 いそがくりゐて いつしかも この夜のあけむと さもらふに いのねがてねば 瀧の上の 淺野のきぎし あけぬとし たちとよむらし いざ兒ども あへてこぎ(783)でむ にはもしづけし
塩左爲能浪乎恐美淡路島礒隱居而何時鴨此夜乃將明跡侍從爾寢乃不勝宿者瀧上乃淺野之雉開去歳立動良之率兒等安倍而※[手偏+旁]出牟爾波母之頭氣師
 シホサヰは潮の騷ぎ鳴る事なり○イソガクリヰテは礒ニ隱レ居テなり○サモラフはウカガフなり○イノネガテネバのイは名詞にて睡眠といふこと、カテネバは不敢者にてアヘヌニなり○淺野は地名。今淡路津名郡の北部に播磨灘に面して淺野といふ村ある是なり。此村に濱より十町ばかり入りて淺野(ノ)瀧とて大なる瀧ありといふ。古義に瀧は明石の近隣にあるなるべしと云へれどアハヂ島イソガクリヰテとあれば淡路なる事明なり。タキノウヘは瀧の上方なり。野之口隆正の書ける淺野原記に
  飛泉上《タキノウヘ》(ノ)淺野原者……今尚在2淡路國津名郡机南村之山際1其下〔二字右△〕有2飛泉1言2飛泉上1者眞然矣云々
(484)といへり○キギシは古くはキギシといひてキギスといはず(宣長、久老)。古事記八千矛神の歌にもサヌツ鳥キギシハトヨムとあり○アケヌトシのシは助辭。トヨムは音を発する事にて動物にいへるはやがてナクといふ事なり。彼神の歌にもサヌツトリキギシハトヨムの對句にニハツトリカケハナクといへり。タチトヨムのタチは添辭なり。古義にトビタチナキサワグラシといふなりといへるはいかが。目前に見たるにはあらで遙に鳴く聲をきけるなればトビタチとはいふべからず。目の前に見たるにあらねばこそラシといへるなれともいふべけれどラシはタチトヨムにつけるにあらでアケヌトシにつけるなり。即ラシは鳴く事につきて云へるにあらで鳴く所以につきていへるなり。前註此ラシの所屬を誤り心得たる如し○イザコドもはこゝにては舟人に向ひて云へるなり。アヘテは敢テにてキホヒテなり。喘ぐ事にはあらず○ニハはただ海上といふ事なるべし。契沖は海上のどかなるをいふといひ久老は海上の平らかなるをいふと云へれど、もしさる意ならばニハモシヅケシ、ニハヨクアラシなどは云ふべからず○此歌は四國より淡路島の西に沿ひて京に上りし人のよめるなり
 
(485)   反歌
389 しまづたひ敏馬の埼をこぎ迴者《タメバ》やまとこひしくたづさはになく
島傳敏馬乃埼乎許藝迴者日本戀久鶴左波爾鳴
    右歌若宮(ノ)年魚麿誦v之。但未v審2作者1
 いにしへの敏馬《ミヌメ》今の西灘の附近には島なし。野島乃埼なりしを年魚麿の唱へ誤りしにはあらざるか
 
  譬喩歌
   紀皇女御歌一首
390 かるのいけの納〔左△〕囘往轉留《ウラミユキメグル》かもすら爾〔左△〕《モ》たまものうへにひとりねなくに
輕池之納囘徃轉留鴨尚爾玉藻乃於丹獨宿名久二
 輕池は大和高市郡にあり。納は一本に※[さんずい+内]とあるに從ふべし。久老は※[さんずい+内]囘をウラミとよめり○往轉留は所謂官本にユキメグルとよめるに從ふべし(雅澄のモトホルと(486)よめるは久老の一訓に從へるなり)○爾は『或人毛の誤ならんと云り』と久老いへり。スラニは卷八にイトマナミ五月乎|尚爾《スラニ》といへる例あれどスラニと云はむに三四五の句ともにニどまりとなりて調わろし
 
   造筑紫觀世音寺別當沙彌滿誓歌一首
391 とぶさたて足柄山にふな木きり樹爾伐歸都あたらふなきを
鳥總立足柄山爾船木伐樹爾伐歸都安多良船材乎
 久老はトブサタテを足柄の枕としたれど十七卷にトブサタテフナ木キルトイフ能登ノシマ山といふ歌あれば枕辭にあらず。トブサの事童蒙抄、袖中抄、八雲抄、歌林良材、代匠記等に説あり(古義に袖中抄にも云々といへるは童蒙抄の説なり)。案ずるに木を伐りて其梢を切株の本に立てて山神にたむくるをトブサタツといふなり〇四句は舊訓にキニキリヨセツとよめるを宣長はキニキリユキツとよみてキはフナギといふべきを略したるなりといへり。船材を船材にきりゆきたらむにはアタラとはいふべからず。他の用に供したらむにこそアタラとはいふべけれ。されば宣長の説は從ひ難し。おそらくは第四句に誤字あらむ。題辭に造筑紫觀世音寺別當(487)とあるによりて契沖は觀世音寺造營の事と結びつけて釋きたれど船材は船材にて建築の材にあらねば彼寺の造營の事とは相關せず。固より標目に譬喩歌とあれば眞の意あるべく其眞の意は戀に關する事なるべくおもはるれど明には知られず。因にいふ。相模風土記に足柄山の杉を伐りて船に造りし事あり。さればいにしへ足柄山よりよき船材を出だしゝなり○再案ずるに第四句はヨソニモチユキツなどあるべきなり
 
   太宰《ダザイ》(ノ)大監《タイゲン》大伴(ノ)宿禰|百代《モモヨ》梅歌一首
392 (ぬばたまの)其夜の梅をたわすれてをらずきにけり思ひしものを
烏珠之其夜乃梅乎手忘而不折來家里思之物乎
 タワスレテのタは添辭なり。ソノ夜ノウメといへる、思ふに數日前或女の家にて梅を見しなるべし。オモヒシは折ラムト思ヒシなり
 
   滿誓沙彌月歌一首
393 みえずともたれこひざら米《メ》、山之末《ヤマノハ》にいざよふ月をよそに見てしが
(488)不所見十方孰不戀有米山之末爾射狹夜歴月乎外爾見而思香
 宣長は米を牟の誤とせる由略解に見えたれど玉の緒七卷にいへる所によればもとのまゝにてタレコヒザラメとよみて一種の格とせるなり(一卷【一五一頁】參照)○山之末は舊訓にヤマノハとよめるに從ふべし。末は略音にあらで義訓なり。ヨソニはヨソナガラなり○第二句はタレ戀ヒザラム、サレドといへるか
 
   金《コム》(ノ)明軍《ミヤウグン》歌一首
394 しめゆひてわがさだめてしすみのえの濱の小松はのちもわが松
印結而我定義之住吉乃濱乃小松者後毛吾松
 サダメテシはワガ物ト定メシといふこと(古義)○作者は大伴旅人の資人《ツカヒビト》なり。歸化人の子孫ならむ
 
   笠(ノ)女郎贈2大伴宿禰家持1歌三首
395 つくまぬにおふるむらさき衣染《コロモシメ》いまだきずして色にいでにけり
託馬野爾生流紫衣染未服而色爾出來
(489) ツクマは近江國坂田郡の地名にて米原の附近にあり○衣染を舊訓にキヌニソメとよめるを雅澄はコロモシメとよめり。紫に衣をそむとはいふべくむらさきを衣にそむとはいはねば古義の訓によるべし○眞ニ逢ハヌ前ニハヤク名ガ立ツタといふ事を譬へ云へるなり
 
396 みちのくの眞野のかやはらとほけどもおもかげにしてみゆとふものを
陸奥之眞野乃草原雖遠面影爲而所見云物乎
 眞野は今の福島縣相馬郡にあり○ニシテにはただニの意なるとニテの意なるとあり。今はニの意なり○初二を宣長トホシの序とし久老以下之に從ひたれどいづくはあれどミチノクノ眞野ノカヤ原をトホシの序とせむこともの遠し。又二句を序として家持ト遠ク隔タレド面影ニ見ユといふ意とせむにトフモノヲといふ辭蛇足なるべし。案ずるに此歌は其世の人口に膾炙せる歌ありてそれを本歌とせるにて彼陸奥ノ眞野ノカヤ原ノ遠キスラナホ面影ニ見ユトイフモノヲ、イカデカ君ノ影ニ見エザラムといへるなるべし
 
(490)397 奥山のいはもとすげ乎〔左△〕《ノ》ねふかめてむすびしこころわすれかねつも
奥山之磐本管乎根深目手結之情忘不得裳
 初二はネフカメテの序なれば乎は雅澄のいへる如く之の誤字なるべし○ムスビシは約束セシなり。ネフカメテはただ深クと心得べし
 
   藤原朝臣|八束《ヤツカ》梅歌二首
398 いもが家にさきたる梅のいつもいつもなりなむ時に事はさだめむ
妹家爾開有梅之何時毛何時毛將成時爾事者將定
 久老が初二をイツモの序として梅花ノ※[辛+瓜+辛]ノイツツとかゝれるなりといへるは非なり。初二は三句を隔てゝナルにかゝれる序なり○イツモイツモはイツニモを重ねたるにてそのイツニモは今のイツニテモなり。ナリナムは次の歌と見合するに實ニナリナムを省き言へるなり〇一首の意は女ノマメヤカニナリタラム時ニ眞ノ妻トハ定メムといへなるべし
 
399 妹が家にさきたる花のうめの花實にしなりなばかもかくもせむ
(491)妹家爾開有花之梅花實之成名者左右將爲
 上三句は序にて北山ニツラナル雲ノアヲ雲ノなどと同格なり○略解に或本(ノ)歌なりといへれど意こそ一つなれ辭は全くかはりたれば或本の歌にあらず。一卷なる人麿の過近江荒都時作歌の反歌なども二首全く同意なり○カモカクモは今のトモカクモなり。さればカモカクモセムはドウトモシヨウとなり
 
   大伴宿禰駿河麻呂梅歌一首
400 うめの花さきてちりぬと人はいへどわがしめゆひし枝ならめやも
梅花開而落去登人者雖云吾標結之枝將有八方
 サキテチリヌトはウツロヒヌなどいふに同じ。サキテは輕く添へたるのみ。されば第二句は心ガハリシタといふ事を譬へ言へるなり○枝は木の換語なり○略解古義などの次々の歌と閲聯せしめたる説は採るに足らず。女に贈りて之を誡めたるなり
 
   大伴(ノ)坂上(ノ)郎女宴2親族1之日吟歌一首
(492)401 山守のありけるしらにその山にしめゆひたててゆひのはぢしつ
山守之有家留不知爾其山爾標結立而結之辱爲都
 席上に駿河麻呂のありしによみかけしなり。既ニ契レル女ノアルヲ知ラデ我娘ノ夫トセムト思ヒテ耻ヲ見ツといへるなり。略解に『弟女を駿河麻呂の戀ふるまゝに母も許さんとせしを云々』といへるは當らず。ハヂシツは今いふ耻見ツなり。ユヒノハヂは結ヒテノ耻なり
 
   大伴宿禰駿河麻呂即和歌一首
402 山もりはけだしありともわぎもこがゆひけむしめを人とかめやも
山主者蓋雖有吾妹子之將結標乎人將解八方
 ケダシはモシ、或ハなど譯すべし○ワギモコは坂上郎女(即娘の母)をさせり○人トカメヤモはダレガトカウゾといふ事なり。人といふ語を何人にあてたるかといふまでを穿鑿するに及ばず。一首の意は外ニイヒカハセル女ナドアリハセネド、モシアリトモ御志ニイカデ違背セムといへるなり
 
(483)   大伴宿禰家持贈2坂上家之大孃1歌一首
403 あさにけに欲見《ミマクホリスル》そのたまをいかにしてかも手ゆ不離有牟《サケザラム》
朝爾食爾欲見其玉乎如何爲鴨從手不離有牟
 大孃は坂上郎女の長女なり○欲見を舊訓にミマクホリスルとよめるを古義にミマクホシケキに改めたれどホシケキといふ辭は無し○不離有牟を舊訓にサケザラムとよめるを久老カレザラムに改め千蔭雅澄之に從へり。而して略解にハナタズアランヤと釋き古義にハナサズニアラムと釋けり。されば少くとも千蔭雅澄はタマヲのヲを受けたる他動詞と見たるなり。案ずるに本集以下に見えたるカルは皆自動詞にてハナルといふ事なり。稀に他動詞の如く見ゆるもあれどよく見ればなほ然らず。即後撰に君ガ手ヲカレユク秋ノ末ニシモ云々、源氏若紫に年比ノ蓬生ヲカレナムモサスガニ心ボソク云々などあるヲはヨリのヲ即道ヲユク、門ヲスグなどのヲに齊しければ此等の例のカルはなほ自動詞なり。コロモ手カレテ、宿カレテなどもヨリのヲを省きたるにて異なる事なし。されば今は舊訓に從ひてサケザラムとよむべし○第三句以下の意は手ヨリ放タザラムスベモガナと云へるなり
 
(494)   娘子報2佐伯宿禰赤麿贈歌1一首
404 (ちはやぶる)神の社しなかりせば春日のぬべに粟まかましを
千磐破神之社四無有世伐春日之野邊粟種益乎
 次の歌の題辭に佐伯宿禰赤麿更贈歌とあれば久老の『前に赤麿が贈れる歌の有つるが漏たるならん』と云へる如し。久老が粟を會の意に取なせりといひ雅澄が粟といふに會《アフ》意を相兼ていひたるなりといへるは仙覺の説によれるにてひがごとなり。表の意はもし春日野が神の占めたまへる地ならずばそこに粟畑をつくらむものをと云へるなり
 
   佐伯宿禰赤麿更贈歌一首
405 かすが野に粟まけりせば待鹿爾《シシマチニ》つぎてゆかましを社師留鳥〔二字左△〕《ヤシロシアリトモ》
春日野爾粟種有世伐待鹿爾繼而行益乎社師留鳥
 ツギテユクは間をおかず度々行く事なり。三句は古義にシシマチニとよめるに從ふべし。つぎて行く事の目的をいへるなる事は明なり。結句も古義に留鳥を誤字と(495)してヤシロシアリトモとよめる最穩なり。但歌釋は古義の説には從ひ難し。案ずるにモシ春日野ニ粟ヲマキテアラバ其粟ヲハミニクル鹿ヲ待チニ度々行カウモノヲ、タトヒソコヲ領ジタマヘル社ハアリトモと云へるにて女を鹿にたとへたるなり。元來いにしへの贈答には辭を承けて意を承けざるものあり。さるを意を承けたりと見ては釋き誤る事多し。今も娘子の歌にカミノ社といへるは赤麿の妻をさして云へるを赤麿の歌にては娘子の情人をさしてヤシロといへるなり
 
   娘子復報歌一首
406 吾祭神〔左△〕者不有《ワガマツルヤシロハアラズ》ますらをに認有《ツキタル》かみぞよくまつるべき
吾祭神者不有大夫爾認有神曾好應祀
 初句は舊訓に從ひてワガマツルとよむべく(宣長はワハマツルとよめり)二句は略解に從ひて神を社の誤としてヤシロハアラズとよむべし。認有は古義にツキタルとよめるぞ穩なる。但認は誤字にてもあるべし○初二は我ニハ夫ハ無シといふ意、マスラヲは赤麿、マスラヲニツキタル神とは赤麿の妻にてヨクマツルベキとはヨク祭リ和メテ咎ヲ受ケヌヤウニシタマヘといふ意なり
 
(496)   大伴宿禰駿河麻呂娉2同坂上家之二孃1歌一首
407 (はるがすみ)春日のさと爾《ノ》うゑこなぎ苗なりといひしえはさしにけむ
春霞春日里爾殖子水葱苗有跡云師柄者指爾家牟
 二孃は古義にいへる如く坂上郎女の次女なり。略解に此二孃は則坂上大孃也といへるは非なり。二句の爾は一本に之とあり。此方穩におぼゆれば爾は乃などの誤字かと思ふになほ十四卷にカミツケヌイカホノヌマ爾ウヱコナギともあれば輕輕しく誤字とも定むべからず。とまれかくまれこゝの爾も下なる妹ガ見シヤド爾花咲の爾も共にノとよむべし。木村博士(字音辨證上卷七丁)は
  爾汝乃の三字は共にナムヂと訓る文字にて漢籍には常に通じ用ゐたり。音圖(〇大田全齋の漢呉音圖)を閲するに汝呉原音ニヨ次音ノ也。又乃は此方にて常にノの假字とせり。されば爾もノにも用ゐるべき文字なるを曉るべし
といへり。今の例とは反對に乃と書けるをニとよむべき(又は爾の誤とすべき)虞あり(二卷【一八九頁】參照)。これも木村博士(字音辨證下十四頁)は
  漢呉音圖によるに乃は呉原音ネイ次音ニの音なればニとよむべき字なり
(497)といひ黒川春村(碩鼠漫筆百六十頁)は
  乃にニの音も亦ある由は呉の直音(〇ニ)はさるものにて轉呉の拗音(○ニヨ)を省呼としてもニの假字とせむ事妨なし
といへり。乃と爾とをニにもノにも用ひむ事はいとまぎらはしけれどげに乃をノ爾をニに限りて用ふるは後の事にて初には乃をニ爾をノに用ひし事(又は用ひし人)もあるべし○コナギは一種の水菜なり。いにしへ好みて羮とせしなり。ウヱコナギは栽培したるコナギなり○イヒシの下にハを略せり。エは枝にてサスはイヅルなり○彼時マダ幼女ナリトノタマヒシハ今ハ生長シ給ヒタラムといふ事をたとへ言へるなり
 
   大伴宿禰家持贈2同坂上家之大孃1歌一首
408 なでしこの其花にもがあさなあさな手にとりもちてこひぬ日なけむ
石竹之其花爾毛我朝旦手取持而不戀日將無
 前なるアサニケニミマクホリスルといふ歌と同じく逢ひそめての後の歌なり。故に聘とは書かで贈と書けり。ナデシコノ花ニモガといふべきを言足らざるにより(498)てソノといふことを補へるなり。此歌のコヒヌは契沖の云へる如く常のコヒヌとは異にてメデヌといふ意なり○花ニモガは花ニモアレカシとなり。アサナアサナは毎日なり。二三の間にモシ石竹ノ花ナラバといふことを挿みて聞くべし
 
   大伴宿禰駿河麻呂歌一首
409 ひと日には千重浪しきにおもへどもなぞ其玉の手にまきがたき
一日爾波千重浪敷爾雖念奈何其玉之手二卷難寸
 ヒト日ニハのハは輕く見べし。シキニは頻ニなり。チヘナミは一種の枕なり。ソノ玉のソノといふ語一首のうちに指す處なし。契沖が
  其玉といへるは上に千重浪シキといへる海の意なれば眞珠は海にあればソノといひて玉を女にたとへて云々
といへるは從はれず○玉はいにしへタマキ、クシロなどとして手にも卷きしなり
 
   大伴坂上郎女橘歌一首
410 橘をやどにうゑおほせたちてゐて後にくゆともしるしあらめやも
(499)橘乎屋前爾殖生立而居而後雖悔驗將有八方
 家持に贈れる歌にや駿河麻呂に贈れる歌にや明ならず。久老雅澄は駿河麻呂に贈れる歌とせり。さもあるべし。初二ははやく妻を定めよといへるなり。諸註皆非なり。三四は雅澄が『後ニ立テ悔、居テ悔トモの意なり』と釋ける如し
 
   和歌一首
411 わぎもこがやどの橘いとちかくうゑてしゆゑにならずばやまじ
吾妹兒之屋前之橘甚近殖而師故二不成者不止
 ユヱニは宣長モノヲの意とせり。ワギモコといへるは二孃の母の坂上郎女なり。此歌も辭を受けて意を受けず。されば郎女の歌のタチバナと此歌のタチバナとは指す所異なり。即郎女の歌のタチバナは嫡妻といふことにて此歌のタチバナは二孃の事なり。一首の意はカク近ヅキ馴レシモノヲ二孃ヲ妻ニ申シ乞ハズバ止マジといへるなり。諸註の説當らず
 
   市原王歌一首
(500)412 いなだきにきすめる玉はふたつなしかにもかくにも君がまにまに
伊奈太吉爾伎須賣流玉者無二此方彼方毛君之隨意
 イナダキは頂、キスメルは宣長着統の意とせり。然るにその統《スマル》は集め總ぶる事にてフタツナシとあるにかなはねばフタツナシをタグヒナシの意とせり。されどフタツナシはなほ唯一無二の意とせでは四五の意とかけ合はず。さればキスメルの釋は他に求むべし(契沖久老は令著の意とせり。令著ならばキシムルといはざるべからず)。案ずるに播磨風土記賀毛郡の下に
  伎須美野 右號2伎須美野1者品太天皇之世大伴(ノ)連等請2此處1之時喚2國造黒田別1而問2地状1。爾時對曰。縫《ヌヘル》衣(ヲ)如v藏2櫃(ノ)底1。故曰2伎須美野1
とあり。此文中の藏の字はキスミタルとよむべければキスムは藏《ヲサ》むる事なり。さて髻中に珍玉を藏せし事經文に見え又髻珠といふ語、詩文に見え又本集卷廿にアモトジ母《ハ》タマニモガモヤイタダキテミヅラノナカニアヘマカマクモといふ歌見えたれど實に我邦にてさる事行はれしにやおぼつかなし。景行天皇紀四十年に箭藏2頭髻1とあり神功皇后紀に儲弦藏2于髪中1とあるも聖コ太子が白膠木《ヌリテ》の佛像を頂髪(501)に置き給ひしも皆髻珠とは目的を異にせり○譬喩の意は代匠記に
  女を髻珠の二つなきに譬へて君ガイハムコトヲバ水火ニ入ルコトヲモ辭セズトモカクモ君ガ意ニ隨ハムとなり。又按ずるに第六に市原王悲2獨子1歌一首あり。それを可然人の得んと云時に髻珠ノ如ク愛スル娘ナレドモ君ガノタマフ事ナレバ仰ニ從ヒテ參ラセムとにや
といへり。六卷なる獨子云々は市原王の子のただ獨なる謂にあらず。市原王自身が父の獨子にて兄弟なき謂なり。くはしくは六卷に至りて云ふべし。四五の意はソノ大切ナ玉モドウナリトモ御隨意ニといへるにて御入用ナラバ差上ゲマシヨウと云へるなり
 
   大綱〔左△〕《オホアミノ》公《キミ》人主《ヒトヌシ》宴吟歌一首
413 すまのあまのしほやきぎぬの藤ごろも間遠之《マドホクシ》あればいまだきなれず
須麻乃海人之塩燒衣乃藤服間遠之有者未著穢
 大綱は大網の誤なり○上三句は序なり。間遠之は舊訓にマドホニシとよめるを古義にマドホクシとよみ改めたり。古義によるべし。さて四五の意は逢フ事ガ稀ナレ(502)バ未ナジマズといへるにて畢竟モツト度々逢ヒタイモノヂヤナアと云へるなり。ただ馴レズといふべきを著馴レズといへるは序の縁に因れるなり○此歌は古歌なるを間遠クシアレバ未著馴レズとあるが己がさまに似たれば人に招かれたる宴席にて吟誦せしならむ
 
   大伴宿禰家持歌一首
414 あしひきのいは根こごしみすがの根を引者《ヒカバ》かたみとしめのみぞゆふ
足日木能石根許其思美菅根乎引者難三等標耳曾結烏
 アシヒキは山の換語なり。引者は舊訓にヒケバとよめるを久老ヒカバに改めたり。ヒカバカタミはミズテユカバマシテコヒシミと同格にてカタミトのトはサガシミトのトに同じ。されば第四句は引カバ難カルベキニヨリテとなり
 
  挽歌
   上宮聖コ皇子出2遊竹原井1之時見2龍田山死人1悲傷御作歌一首
(503)415 家にあらば妹が手まかむ(草枕)たびにこやせるこのたびとあはれ
家有者妹之手將纏草枕客爾臥有此旅人※[立心偏+可]怜
 雅澄の説にコヤスはただ臥す事にはあらでフスの古語コユの敬語なりといへり。二句にて切りて心得べし○此歌は書紀に見えたる皇子が大和の片岡にて飢人を見てよみたまひし歌の辭をも事實をも誤り傳へたるなり
 
   大津皇子|被v死《コロサエシ》之時|磐余《イハレ》池(ノ)般《ツツミ》流涕御作歌一首
416 (百傳《モモヅタフ》)いはれの池になく鴨をけふのみ見てや雲がくりなむ
百傳磐余池爾鳴鴨乎今日耳見哉雲隱去牟
    右藤原宮朱鳥元年冬十月
 題辭の般の字目録及一本に陂に作れり。契沖いはく
  般は史記封禅書云、鴻|漸《ススム》2于般1【漢書音義曰般水涯堆也】かくはあれども目なれぬ字用べき所にあらず。目録に陂に作れり。今は陂を誤て般に作れるなるべし
と。古義には右の説に從ひて直に陂に改めたり。木村博士の訓義辨證(上卷七十六頁)(504)には
  按に史記孝武紀の鴻漸2于般1とある注に漢書音義を引て般(ハ)水涯堆也とあればツツミと訓べき事もとよりのことなり
といひて契沖等の説を擧げ、さて
  されど集中物遠き文字を用ゐたる事これのみならずいと多かれば目なれぬ字なればとて誤なりとはいふべきにあらず。いかにもしてよまるゝかぎりはもとのままにて訓べきこと也。これらを常の通用の字に書改めむは古書の面目を失するわざにてさはすまじき事ぞかし
といへり。木村氏の説に從ふべし
 初句の百傳は記傳三十二卷にいはく
  百傳は角障を寫誤れるものなり。凡て磐余の枕詞は書紀繼體卷又萬葉三卷に今ニ(ツ)十三卷に二(ツ)見えたる何れも皆|角障經《ツヌサハフ》とありて百傳と云るは一もあることなきを以て誤なることを知べし。但しいづれも角障經と三字にのみ書るを經字の無きは本《モト》は有けむを百傳と誤れるから經字は衍と心得て後に削れるか。又此字(505)はなくともあるべし
といへり。モモヅタフ五十《イ》とかゝれるにや
 
   河内王葬2豐前國鏡山1之時|手持《タモチ》女王作歌三首
417 おほきみのむつたまあへや豐國のかがみの山を宮とさだむる
王之親魄相哉豐國乃鏡山乎宮登定流
 河内王は太宰帥にて卒せしなり。豐前に葬りしは故あるべし。いにしへムツタマアフといふ語ありしにてそは今氣ニ人ルといふことなるべくおぼゆ。アヘヤはアヘバニヤなり
 
418 とよ國のかがみの山のいは戸たて隱《コモリ》にけらしまてどきまさぬ
豐國乃鏡山之石戸立隱爾計良思雖待不來座
 隱を久老雅澄は古事記天の石屋戸の條に刺コモリマシキとあるによりてコモリとよめり。タテは閉ヂテなり○葬られしを自、窟に隱れしやうに云へるなり
 
419 いは戸わるたぢからもがも手弱寸《タヨワキ》女有者《ヲミナニシアレバ》すべのしらなく
(506)石戸破手力毛欲得手弱寸女有者爲便乃不知苦
 手弱寸を契沖タヨワキとよめるを雅澄タワヤメ、タワヤカヒナなどある例によりてタワヤキとよめり。もとのまゝにてあるべし○女有者は舊訓にヲトメニシアレバとよめるを宣長久老等はメニシアレバとよみ(古事記須勢理毘賣命の御歌にアハモヨ、メニシアレバとあるによれるなり)千蔭はヲミナニシアレバとよめり。略解の訓に從ふべし○シラナクはシラレヌなり
 
   石田王卒之時丹生王作歌一首并短歌
420 (なゆたけの) とをよるみこ さにづらふ わがおほきみは (こもりくの)はつせの山に かむさび爾〔左△〕《テ》 いつきいますと 玉づさの 人ぞいひつる およづれか わがききつる たは言か わがききつるも
名湯竹乃十縁皇子狹丹頬相我大王者隱久乃始瀬乃山爾髪左備爾伊都伎坐等玉梓乃人曽言鶴於余頭禮可我聞都流枉〔左△〕言加我聞都流母
 通本に丹生王の王を脱せり
(507) 二卷吉備津釆女死時歌にもナヨ竹ノトヲヨル子ラハとあり。トヲヨルのトヲはタワヤメのタワに同じくてトヲヨルは即タワミ寄ルなり。○サニヅラフは赤く匂ふことにてこゝにては紅顏なるをいふ。略解に枕辭とせるは非なり。抑此挽歌を作れる丹生王も、うせし石田王も共に其傳の知られざるうち丹生王は四卷八卷に丹生女王とあれば此も同人にて女王なるべきかと古義にいへり。石田王は諸註に男子としたれどトヲヨル皇子といへる女王めきて聞ゆ。なほ次の長歌及其反歌の下にいふべし○カムサビ爾の爾を宣長は而か※[氏/一]かの誤ならむといひ雅澄は手の誤なるべしといへり○伊都伎坐はイツカレイマスといはではかなはざるに似たり。石田王が人をいつくにはあらで人が石田王をいつくなればなり。もしイツカレイマスをイツキイマスといふことを得べくば二卷高市皇子尊城上殯宮之時歌のカムハフリ、ハフリ伊座而も從來の訓の如くイマシテとよむべし(余はイマセテとよみつ)○タマヅサノは使の枕辭なれど今は使の事をタマヅサノ人といへるなり○オヨヅレ、タハコトは共に妄言なり。キキツルモのモは助辭
 
天つちに くやしき事の 世のなかの くやしきことは あま雲の そくへのきはみ 天地の いたれるまでに 杖つきも つかずもゆ(508)きて ゆふけとひ いしうら以而《モチテ》
天地爾悔事乃世間乃悔言者天雲乃曾久敝能極天地乃至流左右二枚策毛不衝毛去而夕衢占問石卜以而
 アメツチニクヤシキ事は天地ノ間ニ悔シキ事といふ意にて次なるヨノナカノクヤシキ事と同意なり。さて辭を重ねていふ時今ならば天地ニクヤシキ事デといふべきをクヤシキ事ノといふは古の辭遣なり。上なる登2筑波岳1作歌に
  ふた神のたふとき山の〔右△〕なみたちのみがほし山と
といへると同格なり。なほ彼歌の處を見べし。さてコトハのハのをさまる處は後にいふべし。クヤシキコトハアマ雲ノとつづくにあらず○ソクヘは又ソキヘといへり。ソクはシリゾクなどのソク、ヘは方の意にてアナタといふことなり○アメツチノイタレルマデニは天地ノ達セル處マデといふことにて上二句と同意を重ねたるなり○ツヱツキモツカズモユキテは杖ハツカウガツクマイガトモカクモ行キテといふこと。十三卷にも杖ツキモツカズモ吾ハユカメドモとあれば當時の熟語なり○ユフケトヒは契沖(代匠記拾遺)の
(509)  つじうらを問ふ也。占をきかむとあるものはゆふさりつかたちまたに出て聞也。よりてユフケトフとも又ユフウラともよめり。又此集にミチユキ占ともよめり。ユフケは此集末に多し
といひ伴信友の正卜考(全集第二の五三九頁)に
  さてこの占を由布氣といふは夕に衢に出て往來人の言を聽てその言をもて神教として占問ふ事に合せ判斷《サダム》る術にて……といへる如し○イシウラは代匠記に
  景行紀云。十二年天皇初將v討v賊次2于|柏峡《カシハヲ》大野1其野有v石長六尺廣三尺厚一尺五寸天皇祈之曰朕得v滅2土蜘蛛1者將蹶2茲石1如2柏葉1而擧焉因蹶v之則如v柏上2於大虚1故號2其石1曰2踏石1也これや石占の初ならむ
といひ正卜考(信友全集第二の五四三頁)には
  道の傍なる道祖神の社内に置ける石につきて其輕重を定めて占ふるなり(採要)
といへり。案ずるに景行天皇の御わざはもとより石占と云ふべけれどこれは普通の例にはあらでなべては信友のいへる如く神靈の憑れる石塊を吉ならば擧《アガ》れな(510)ど祝ひてもち上げて占へしにこそ○古義に人の説を擧げて『以而は問而の誤にてはあらぬにや』といへり。なほ下に云ふべし
 
わがやどに みもろをたてて 枕〔左△〕《トコノ》へに いはひべをすゑ たか玉を 無間《マナク・シジニ》ぬきたれ ゆふだすき かひなにかけて 天なる ささらの小野の 七〔左△〕相菅《イハヒスゲ》 手にとりもちて (久かたの) 天の川原に いでたちて みそぎてましを 高山の いはほのうへに いませつるかも
吾屋戸爾御諸乎立而枕邊爾齊戸乎居竹玉乎無間貫垂木綿手次可比奈爾懸而天有左佐羅能小野之七相菅手取持而久堅乃天川原爾出立而潔身而麻之乎高山乃石穗乃上爾伊座都流香物
 ミモロは神殿なり。枕邊の事は後にいふべし。イハヒベ、タカダマは既に云ひき。無間は字のまゝにマナクともよむべく又意を得てシジニともよむべし。ユフダスキは木綿もて作れる襷、ササラノ小野は當時人の天上にありと信じたりし野なり○七相菅を宣長はナナフスゲとよみて古歌のトフノスガゴモを例とせり。久老は此訓(511)に從ひナナフのフを節の義としナナフスゲとは長高き菅をいふと云へり。されどもしトフノスガゴモのフに同じとせばそのフは信友(比古婆衣二十卷【全集第四の四五〇頁】)の云へる如く編の義にてトフノスガゴモは十節に編み分けたる菅薦なればナナフも七編の義とせざるべからず。されど薦の幅をいふ時こそあれ草のまゝなる菅の長さを云ふにイクフとは云ふべくもあらず。さればなほ雅澄の説に從ひて石相菅の誤字としてイハヒスゲとよむべし。祓に菅を用ひしことは諸註に例を引きていへる如し○天ノ川は天上の川なり。いにしへみそぎは水邊に出でてものせしなり○アマグモノよりミソギテマシヲまで二十四句の意は君ノ壽命ヲ保タム爲ニハイカニ難キ事ナリトモシテムヲといふ意にて天地の果まで行かむことも、天上に生ひたる菅を採りて祓に用ひむことも、天上の川におりたちてみそぎはらひせむことも皆成し難きことなるをその成し難き事をもしてむをと云へるなり○高山は即泊瀬山なり。はつせ山に葬りしをイハホノ上ニ云々と云へるなり○古義に歌意かくれたるところなしと事もなげに云へるはいかが。此歌につきて不審なる事一ならず。第一には
(512)  あめつちにくやしき事の世のなかのくやしきことは
といふ四句のをさまる處なり。もとよりクヤシキ事ハ天雲ノとつづくにはあらず。然らば此辭はいづくにかゝるにかといふにクヤシキ事ハは俗のクヤシキ事ニハの意にてアマグモノ以下二十四句を隔ててタカヤマノ云云にかゝれりと見るより外なし。さればアマ雲ノ以下二十四句は一種の挿句とみるべし
 次にアマ雲ノの前にアラカジメカクト知リセバといふことを補はでは通ぜず。さればクヤシキコトハのハは誤字にて其次に數句おちたるにかと思へどそは輕々しく云ふべくもあらず
 次に石占以而は古義に云へる如く問而に改むれば穩なる如くなれど、なほ思ふにテといふ辭こゝにかなはず。元來テは甲乙の二事相次ぐか又は甲の結果として乙の起る場合に用ふるテニヲハなり(此外にはツツの代に用ふることあり)。今は夕けとひ石占とふ事と神を祭りて之に祈請する事とは全然別事なればテといふ辭を以て連ぬべきにあらず
 次にユフダスキカヒナニカケテのテも然り。前註者は漠然と心得たりげなれどワ(513)ガヤドニよりカヒナニカケテまでの八句は神を祭りて之に祈請する事又アメナル以下八句はみそぎして罪をはらふ事にて全然別事なれば是亦テを以て相連ぬべきにあらず。案ずるに初の方は石ウラモチテウラドヒといひて始めて全く、後の方はカヒナニカケテコヒノミといひて始めて全きなり。かく二處同樣に辭の足らざる處なれば一をさしおきて一を改むべきにあらず。否たとひ石ウラモチテを石ウラトヒテと改めても未穩ならざるは前に云へる如し。今云ひつる如くウラドヒコヒノミといふ二語を補ひアラカジメカクト知リセバ云々シテウラドヒテマシヲ又云々シテノコヒノミテマシヲ又云々シテミソギテマシヲといふ意とすればよく通ずるなり。かやうに辭の足らざるは果して句の落ちたるにや。案ずるに一處ならばともかくも三處まで辭の足らざる處あり然も石ウラモチテといひさしカヒナニカケテと云ひさしたる同じ樣なる處の二處まであるを思へば句のおちたるにはあらで作者固有の口つきと見る方穩なるべし。彼クヤシキコトハと云ひさして長々と他の事を云へるも尋常の句法にあらざるを思ふべし
 なほ一つ云ふべき事あり。そはマクラベニといふ句なり。死者の家にもあらぬ作者(514)の家にみもろを立ててたが枕べにかいはひべをすゑむ。されば枕の字は誤字なるべくおぼゆ。諸注此點に不審を挿まざる中に獨、考には十七卷にイハヒベスヱツアガトコノヘニ、二十卷にイハヒべヲトコベニスヱテなどあるを證として枕邊を牀邊の誤とせり。此説然るべし
 
   反歌
421 およづれのたはごととかも高山のいはほのうへに君がこやせる
逆言之枉〔左△〕言等可聞高山之石穗乃上爾君之臥有
 タハゴトトカモはタハゴトトアルカモの略にてそのトは後世のニなり,結句の下にト使ノイフハといふことを補ひて聞くべし
 
422 いそのかみふるの山なる杉村のおもひすぐべき君にあらなくに
石上振乃山有杉村乃思過倍吉君爾有名國
 上三句は序なり。オモヒスグは上(四三一頁)にいへる如くタダ一時思ヒテ止ムといふ事なるべし○丹生王はおそらくは石田王の同母姉妹なるべし
 
(515)   同石田王卒之〔五字を□で圍む〕時|山前《ヤマクマ》王哀傷作歌一首
423 (つぬさはふ) いはれの道を 朝さらず ゆきけむ人の おもひつつ かよひけま四〔左△〕《ク》は ほととぎす 鳴五月者《ナクサツキニハ》 あやめぐさ 花たちばなを 玉にぬき【一云ぬきまじへ】 かづらにせむと なが月の しぐれの時は もみぢばを をりかざさむと
角障經石村之道乎朝不離將歸人乃念乍通計萬四波霍公鳥鳴五月者菖蒲花橘乎玉爾貫【一云貫交】※[草冠/縵]爾將爲登九月能四具禮能時者黄葉乎折挿頭跡
 略解には題辭の同を衍字とし古義には石田王卒之の五字を削れり。寧古義に從ふべし○イハレノ道は石村を經て或處へゆく道なり。その或處は雅澄の説には即泊瀬なりといへり。此説よろし。なほ下に云ふべし○アササラズは日毎の意なり(契沖)○第六句の四の字又口とあり(たとへば類聚古集)。久老は口とあるに從ひてカヨヒケマクハと訓めり。雅澄は久老の訓によりてカヨヒケムヤウハの意なりと云へり。ケマクハはケムハの延言なり○第八句を舊訓にナクサツキニハとよめるを雅澄(516)は鳴の上に來の字をおとせりとしてキナクサツキハとよめり。舊訓に從ふべし○アヤメグサ花タチバナヲ玉ニヌキとは菖蒲と橘花とを絲に貫き交ふるなり。カヅラは頭に挂くるにてカザスは頭にさすなり
 
(はふくずの)いやとほながく【一云くずの根のいやとほながに】よろづ世に たえじとおもひて【一云おほふねのおもひたのみて】 かよひけむ 君をばあすゆ【一云君を從明日香】よそにかもみむ
延葛乃彌遠永【一云田葛根乃彌遠長爾】萬世爾不絶等念而【一云大船之念憑而】將通君子婆明日從【一云君乎從明日香】外爾可聞見牟
    右一首或云柿本朝臣人麻呂作
 タエジトオモヒテのオモヒテはタエジトのみを受くるにあらず。上なるカヅラニセムト、ヲリカザサムトの二つをも受くるなり。辭を換へていはばカヅラニセムト思ヒ云々カザシニセムト思ヒ云々タエジト思ヒテ云々とやうにいふべきを最後なるオモヒテに讓りて上なる二つのオモヒを省けるなり。されば一本にオホブネ(517)ノオモヒタノミテとあるは採るべからず○雅澄いはくカヨヒケムといひて上にカヨヒケマクハとある首尾を相調へたりと。げに然り○君ヲバアスユと一本の君ヲアスユハ(香の字一本に者とありといふ)とは君ヲといふに力を入るゝかアスユといふに力を入るゝかの差なるがサバカリ熱心ニ通ヒシ君ヲバといふ意なれば君ヲバアスユの方まされるに似たり○ヨソニカモミムは四卷にも
  はつはつに人をあひみていかならむいづれの日にか又よそにみむ
などありて物いひかはしもせずなるなり。さて今のヨソニカモミムは或人がよそに見るなり。その或人は誰ぞ。古義には初瀬に石田王の通ひし美人ありけるが石田王の卒せしによりて其美人が石田王をよそに見るなりとせり。余の案は或人は即なくなりし人、而してなくなりしは石田王なれば石田王(女王)の許に通ひし人を石田王がよそに見るなりといふ説なり。なほ次々にいふべく今はまづ一首の意を通釋せむに
 泊瀬ナル石田女王ノ許へ(泊瀬と定めたる理由は次の一短歌の處にていふべし)石村《イハレ》ヲ經テ毎日ユキケム人ノ女王ヲ思ヒツツ通ヒケムサマハ霍公ノ鳴ク五月ニ(518)ハ女王ト共ニ菖蒲花橘ヲ貫キ交ヘテ鬘ニシテ遊バムト思ヒ長月ノ時雨ノ時ニハ女王ト共ニモミヂ葉ヲ折リカザシテ興ゼムト思ヒカクシツツイヤトホ長ク萬年モ絶エジト思ヒテ通ヒケム人〔右△〕ヲバ明日ヨリ女王ガヨソニ見タマハム嗚呼カナシキ哉
といへるなり。さてカヨヒケム君ヲバとある君といふ語が人まどはしなるなり。君とあるによりて石田王をさしたる如く思はるゝなり。もし君とあらで人とあらばその石田王を指すにあらざる事余の説を待たで心づく人あらむ。然も細に此歌を見るに上にユキケム人〔右△〕ノオモヒツツカヨヒケマクハとある人はやがてカヨヒケム君ヲバアスユとある君と同一人なれば今は第三者を君といへるなり。反歌に
  河風のさむきはつせをなげきつつ君があるくに似る人もあへや
とある君も全く今と同じくて第三者を指せり。なほ例を求むれば二卷明日香皇女木※[缶+瓦]殯宮之時柿本朝臣人麻呂作歌に
  もち月のいやめづらしみおもほしし君と時々いでましてあそびたまひし
(519)  ぬえどりの片こひしつつ朝とりのかよはす君が
とある君は明日香皇女にあらで夫の君|忍坂部《オサカベ》皇子なるも全く今と同じ。抑今の歌は彼長歌を學べるにあらずやと思はるる所あり。即彼長歌に
  うつそみとおもひし時に春べは花をりかざし秋たてばもみぢ葉かざし
とあるは今の歌に
  ほととぎすなく五月にはあやめ草花たちばなを玉にぬきかづらにせむとなが月のしぐれの時はもみぢ葉ををりかざさむと
とあるに當り又彼長歌に
  朝とりのかよはす君が夏草のおもひしなえてゆふづつのかゆきかくゆき大ぶねのたゆたふみれば
とあるは今の歌の反歌に
  河風のさむきはつせをなげきつつ君があるくに
とあると趣相似たり。さて立歸りてさらば何故に弟三者を君といふかと云ふに元來挽歌を見る人は死者にあらで生者なれば人の妻を哭するに際して其夫を君と(520)云はむこと必しも物遠からず。否彼長歌は明日香皇女の薨ぜし時其夫君忍坂部皇子に奉り今の歌は石田王の卒せし時其夫の君某王におくれる歌ならむも知るべからず、若然らむには生き殘れる夫君を指して君と云はむ事勿論なり。以上述べ來れる如くに釋かば此歌は氷の如くに釋け又石田王の女王なる事益明なるべし
 
   或本反歌二首
424 (こもりくの)はつせをとめが手にまける玉はみだれてありといはずやも
隱口乃泊瀬越女我手二纏在王者亂而有不言八方
 
425 河風のさむきはつせをなげきつつ君があるくに似る人もあへや
河風寒長谷乎歎乍公之阿流久爾似人母逢耶
    右二首者或云紀皇女薨後山前王代2石田王1作之也
 右二首或本には石田王の卒せし時山前王の悲しみて作りし長歌の反歌とし或説には紀皇女の薨ぜし後山前王が石田王に代りて作りし歌とせるなり
(521) 久老は初の一首を右の長歌の反歌とし後の一首を石田王卒之時山前王贈2紀皇女1歌としたり。千蔭は二首共に反歌にあらずとし雅澄は二首共に反歌なりとせり。余の説は二首ともに今の長歌の反歌とする事は雅澄の説に齊しけれど歌の釋は大に雅澄のと異なり。さるは石田王を女王と認めたる結果なり。諸註を批評せむことは極めて煩はしければ今は直に余の説を述べむにハツセヲトメは即石田王なり。泊瀬にましましし故にハツセヲトメといへるなり○アリトイハズヤモは二卷なる
  けふけふとわがまつ君は石川の貝にまじりてありといはずやも
とあるアリトイバズヤモに同じ。女王卒シテ其手ニマキ給ヘル手玉ノ緒ガ朽チ絶エテ其玉ガ狼藉タリトイフニアラズヤといふ意なり。まことに卒後さばかり程經たるにはあらざらめど都合によりては數日前の事をただ今の事の如くにも又あまたの月日を經たる如くにも云ふは古歌の常なり。今も長歌には君ヲバアスユヨソニカモ見ムといへり。之を辭のまゝに解すれば其日卒せしが如くなれど必しも然らじ
(522)河風のさむきはつせを
 君ガアルクニの君は石田女王の夫君なり。ニル人は石田女王に似たる人なり。アヘヤはアヘカシなり。結句は人麻呂の妻を失ひし時の長歌に
  たまほこの道ゆく人もひとりだに似てしゆかねば
とあるに似たり
 
   柿本朝臣人麻呂見2香具山屍1悲慟作歌一首
426 (草まくら)たびのやどりにたがつまか國わすれたる家待莫〔左△〕國《イヘマタマクニ》
草枕覊〔馬が奇〕宿爾誰嬬可國忘有家待莫國
 尾句は舊訓にイヘマタナ〔右△〕クニとよめるを眞淵久老莫を眞の誤としてイヘマタマ〔右△〕クニとよみて家待タムニの延言とせり。此説に從ふべし(類聚古集には家待眞〔右△〕國とあり)。宣長の説は從はれず。家は上にワガノレル馬ゾツマヅク家コフラシモとある家にて家人の事なり。タガツマは誰夫なり
 
   田口(ノ)廣麿死之時|刑部《オサカベ》(ノ)垂《タリ》麻呂作歌一首
(523)427 (ももたらず)八十隅坂〔左△〕《ヤソノクマヂ》にたむけせばすぎにし人にけだしあはむかも
百不足八十隅坂爾手向爲者過去人爾蓋相牟鴨
 八十隅坂の坂を眞淵は路の誤としてヤソノクマヂとよみ(久老の訓はヤソノクマデ)そのヤソノクマヂを宣長(記傳十四卷四十三丁)は黄泉路の事とせり。案ずるにうつつに尋ね行く路を云へるならむ○隅は隈の誤字にあらず。木村博士の訓義辨證(上卷四十六頁)に
  按に廣雅釋邱に隅(ハ)隈也と見え類聚名義抄にも隅(クマ)とあれば隅字クマと訓べき事論なし
といへり○タムケセバはタムケシツツ尋ネ行カバといふ事、ケダシは或ハなり
 
   土形《ヒヂカタ》(ノ)娘子(ヲ)火2葬泊瀬山1時柿本朝臣人麻呂作歌一首
428 (こもりくの)はつせの山のやまのまにいざよふ雲は妹にかもあらむ
隱口能泊瀬山之山際爾伊佐夜歴雲者妹鴨有牟
 雲といへるは火葬の烟なり(契沖)。イザヨフは動けども處を變ぜざるなり
 
(524)   溺死(ニシ)出雲娘子(ヲ)火2葬吉野1時柿本朝臣人麿作歌二首
429 (山のまゆ)いづもの子らは霧なれやよしぬの山のみねにたなびく
山際從出雲兒等者霧有哉吉野山嶺霏※[雨/微]
 山ノマユは枕辭なり(契沖)。ナレヤは後世のナレバニヤなり。さてそのナレヤを後世の歌にも用ひたるをハとニとを略せるなりとせむはわろし。上代の辭のさながら傳はれるなり
 
430 (やくもさす)出雲の子らが黒髪はよしぬの川のおきになづさふ
八雲刺出雲子等黒髪者吉野川奥名豆颯
 略解に『溺死の歌ありてさて火葬の歌有べきを此二首前後せり』といへる如し○ナヅサフは宣長いはく
  萬葉に見えたるナヅサフは或は海川などに浮べること或は船より渡る事などにいひいづれも水に著くことにのみいへり。中昔の物語書などにいへるはいたく意異にしてなれしたしむことにいへり
(525)といへり(記傳四十二卷三十五丁及玉勝間六卷二十七丁)。此説非なり。次々に言ふべし。こゝは滞る事なり。流れ失せざるなり
 
   過2勝鹿(ノ)眞間娘子墓1時山部宿禰赤人作歌一首并短歌
431 いにしへに ありけむ人の しつはたの 帶解替而 ふせ屋たて つまどひしけむ かつしかの 眞間の手兒名が おくつきを こことはきけど 眞木の葉や 茂有《シゲリタル》らむ 松が根や △ とほくひさしき ことのみも 名のみもわれは わすらえなくに
古昔有家武人之倭文幡乃帶解替而廬屋立妻問爲家武勝壯鹿乃眞間之手兒名之奥槨乎此間登波聞杼眞木葉哉茂有良武松之根也遠久寸言耳毛名耳母吾者不所忘
 イニシヘニアリケム人は即眞間娘子をよばひし人なり。九卷なる詠2勝鹿(ノ)眞間娘子歌に
  夏蟲の火にいるがごとみなと入に舟こぐごとくよりかくれ人のいふ時云々
(526)とあるに見合すれば唯一人を云へるにあらず。前註に単數と見たるは後の句の解釋が余のと異なる爲なり○シは織物の名なり。一名をシドリといふはシヅオリの約なり。古代工業の開けざりし程の織物は概無地なりし中に此布のみ文ありしかば頗珍重せられて又アヤヌノ(文布)と稱せられき。然るに後に外國よりさまざまの文ある織物輸入せられしかばそれと分たむ爲倭の字を加へて倭文布と書くこととなりしにて倭文とかくはその倭文布の略なり。さて其シヅの文は今いふシマなるべしと白石、眞淵、宣長、篤胤等いへり。げに然るべし。但篤胤が『青筋の文ある布を云』といへるはいかが。篤胤の引ける伯家部類に青筋乃文布といふことありと云へり。もしシヅの筋青色に限らば特にアヲキスヂノとは云はじ。されば筋の色は青に限らざるなり
  追考 はやく宣長の神壽《カムヨゴト》後釋(七十二丁)に『考に倭文を青筋ある布といはれたれど筋の色は青にはかぎるべからす。かの釋日本紀にいへるはたまたま青筋なるが殘れりしなるべし』と云へり
 シヅハタのハタは織物といふ事。さて此物ははやくすたれきと見ゆ。そは十一卷に(527)イニシヘノシヅハタ帶ヲムスビタレとあるを見又和名抄に之を擧げざるを見て知るべし。此布を帶とせし事は今の歌、十一卷の歌又武烈天皇紀の大君ノ御帶ノシヅハタムスビタレといふ歌にて證すべし。されど篤胤が『いにしへ專帶に用たりと聞えて』云々といへるはなほ考ふべし○帶トキカヘテを久老は『トキカヘテはトキカハシテなり』といひ雅澄は『帶解|交《カハ》シテといふに同じ。互ニ帶解テといはむが如し』といへり。されど眞間娘子は九卷の長歌によればいづれの男にも逢はで死にしなれば帶トキカハシテ又は互ニ帶解テなど云ふべからず。或は赤人は九卷の長歌とは異なる傳説によりて此歌を作れるなりとせむか。さてもなほ互に帶ときて寢る事はふせ屋を建てゝ妻問する事より後に云はざるべからず○フセヤは陋屋なり。古は妻を迎ふとて新に家を建てしなり。諸註殊に古義にくはしく云へるを見べし○次にツマドヒといふ語を研究せむ。もしツマドヒを男女相逢ふ意とせば上にオビトキカヘテとあるを久老雅澄のいへる如く帶トキカハシテの意とすべく又中間なるフセヤタテは誤字とするか又は冠辭考に云へる如くフセヤタツなどよみてツマの枕辭とせざるべからず。其故は帶をときかはす事と男女相逢ふ事との間(528)に家を造る事を挿むべきにあらねばなり。さて前註にツマドヒといふ語を釋けるやうを見るに略解には『男女相逢をいへり』といひ古義には『夫婦相|誂《トフ》をいふ詞なり』といへり。ツマドヒは果して男女の相逢ふに限りていふ語なりや。案ずるに古事記朝倉宮の段に
  即其|若日下部《ワカクサカベ》王の許にいでまして其犬を賜入れてのらしめたまはく是物は今日道に得つるめづらしき物なり故津麻杼比の物と云ひて賜入れき
とあるツマドヒノモノは今いふ結納なり。又本集九卷に
  いにしへのますらをのこのあひきほひつまどひしけむ〔七字傍点〕あしのやのうなびをとめのおくつきをわがたちみれば云々
  いにしへのしぬだをとこのつまどひし〔五字傍点〕うなびをとめのおくつきぞこれ
といひ十九卷に
  いにしへにありけるわざのくすはしきことといひつぐちぬをとこうなびをとこのうつせみの名をあらそふとたまきはるいのちもすててあひきほひつまどひしける〔七字傍点〕をとめらが云々
(529)といへる葦屋處女は二人の男にあひしにはあらで二人のうちいづれにも逢はでうせしなれば此等の歌のツマドフは男女相逢ふことゝは見べからず。されど又七夕を詠じて十卷に
  こまにしき紐ときかはし天人のつまどふよひぞ我もしぬばむ
などいへるは正しく男女相逢ふことゝ見ゆ。さればツマドフは今いふ申入といふが本義にて轉じては男女相逢ふ意ともなれるなり。今はフセヤタテツマドヒシケムとあり又九卷の長歌によれば眞間娘子は男せで死にしなれば今のツマドヒは申入の義とすべし。さてフセ屋クタテツマドヒシケムを新に家を造り女を迎へて妻とせむことを言ひ入れしことゝすれば上なるシヅハタノ帶トキカヘテを(上に擧げたる十卷の歌なるコマニシキ紐トキカハシに準じて)帶をときかはす意としては否オビトキカヘテとありては通ぜず。案ずるに日本紀に大君ノ御帶ノシヅハタムスビタレとありて太子すら倭文の帶を着けたまひしを見れば東の賤の男、ふせ屋に住むばかりの賤の男が倭文の帶を着けけむは決して平時の裝にあらじ。試に云はば武烈紀に
(530)  大君の御帶のしつはたむすびたれ
 又本集十一卷に
  いにしへの倭文はたおびをむすびたれたれとふ人も君にまさらじ
とあるを見れば帶解替而は帶結垂而の誤字にて妻どひせむとて賤の男の盛裝しけむを云へるにあらざるか。果して然らば
  しづはたの帶ゆひたれてふせやたてつまどひしけむ
と訓みて倭文の帶を結び垂れ又新に家を立てて娘子をよばひし事とすべし。或は字訓共にもとのまゝにて舊キヲ解キ新シキ倭文ノ帶ニ替ヘテの意即帶シメ替ヘテの意とすべきか○さて略解に『さてこれ迄は男の方をいふなり』といへるはツマドヒシケムにて切れたりとせるやうに聞えてまぎらはし。とまれかくまれツマドヒシケムは次なるカツシカノ眞間ノテコナガにつづけるなり○次に手兒名の義は如何。雅澄は之を娘子の名とし眞淵、宣長、久老等は普通名詞とせり。案ずるに本集十四卷にツルギダチ身ニソフ妹ヲトリ見カネネヲゾナキツル手兒ニアラナクニといふ歌あり。四五は幼キ兒ニアラヌニ聲ヲアグテ泣キツといふ意なれば手兒は(531)手ヨリ釋《オ》カヌ兒の意にて古語拾遺に
  天照大神育2吾勝《アカツ》尊1特甚鍾愛常懷2腋下1稱曰2腋子1
とある類なり(眞淵が末子《ハテコ》の意とし宣長が愛子《アテコ》の意とせるはうべなはれず)。さて同卷に人皆ノ言ハ絶ユトモ埴科ノ石井ノ手兒ガ言ナ絶エソネ又澤渡ノ手兒ニイユキアヒ赤駒ガアガキヲハヤミ言問ハズ來ヌなど幼兒ならで人となれるにも云へるは愛稱なり。されば手兒は普通名詞にて右の三首共に東歌なるを思へば少くとも多く東國に行はれし語なり。さらば今の手兒名も亦普通名詞なりやと云ふにこは雅澄の云へる如く固有名詞なるべくテコナのナは名の意にて(集中には手児名とも手児奈とも書けり)テコと云ふ事を名におほするにつきて添へたる言なるべし(眞淵のナは女なりといへるは從はれず)。九卷に上總(ノ)末(ノ)珠名娘子とあるも(末は周准《スヱ》にて郡名、珠名は娘子の名)珠といふ事を名におほするにつきて名といふ言を添へたるなり。從來手兒と手兒名とを同一視したれど珠(物名)と殊名(人名)と別なるを知らば又手兒と手兒名と別なるを知るべし
  和訓栞には『東國の俗、女の美なるものを稱してテコナといふといへり』又『奥洲津(532)輕の邊にて蝶をテコナといふ』といひ古川古松軒が人に贈りし書に眞間にて蝶又は美しき物をテコナといふといひ(雜誌國歌第十四號)井上文雄の伊勢の家苞(二卷七丁)には上野國草津にて末の女子をテコといふ由記せり。此等の説皆採らず。因にいふ。夫木抄卷七好忠の歌にウツギ原テコラカ布ヲサラセルト見エシハ花ノ盛ナリケリとあるは(曾丹集の一本にはテコナとあり)本集卷十四に多摩河ニサラステヅクリサラサラニ何ゾ此兒ノココダカナシキとあるに據れるにてテコをアヅマヲトメの意に使へるなり
  追考 垂仁天皇紀に是以改2汝(ノ)本國(ノ)名1追負2御間城《ミマキ》天皇(ノ)御名1便《スナハチ》爲2汝國名1……故號2其國1謂2彌摩那(ノ)國1其是之縁也とあるも御間名なり
 ○茂有良武は、略解にシゲリタルラムとよめるに從ふべし。マキノ葉ヤ以下四句ははやく契沖の云へる如く一卷人麿の過近江荒都作歌に
  大宮はここときけども大殿はここといへどもはる草|之《カ》しげくおひたるかすみたつ春日|之《カ》きれる【或云かすみたつ春日かきれる夏草かしげくなりぬる】ももしきの大宮どころみればかなしも【或云みればさぶしも】
(533)とあるに似たり。さるは之を學べるなり。さて眞木ノ葉ヤシゲリタルラムといへるは眞木ノ葉ガ茂レル爲ニヤ其墓ノ見エヌといふ意と聞ゆ。さては當時墓は跡もなくなれりしなり○松ガ根ヤトホクヒサシキを略解に
  代々遠く久しき老木の松の根の這わたりて墓を隱せる也。また也〔右△〕は之〔右△〕の誤にてマツガネノならんと宣長いへり
といへり。松ノ齢ヤ遠ク久シキといふ事を松ガネヤ云々とは云ふべからず。たとひ然云ふべくとも松の齢の長久なる事を云へるのみにてはココトハキケドと云へると照應せじ。略解には『松の根の這わたりて墓を隱せる也』と云へれどそは註者が妄に加へたる辭にて歌には見えざる所なり。マツガネヤのヤをノに改むればマツガネは枕となりトホク久シキは娘子の年代の遠く久しき事となれどさてはそのトホクヒサシキといふ一句のかゝる處なし。古義には
  松之根也は松根の遠く根延ふを云てトホクヒサシキの言を興せり。也は久寸《ヒサシキ》の下に轉じて意得べし
といへり、こは支離滅裂なる説にて辨ずるまでもなけれどなほ一わたり辨ぜむに(534)トホクヒサシキの言を興せるものならばマツガネヤは枕なり。而して枕ならば宣長の説の如くマツガネノといふべくヤとはいふべからず。又雅澄はヤはヒサシキの下にうつして心得べしといへれど名詞の下より形容詞又は動詞の下へうつして心得るヤは疑問のヤなり。而して疑問のヤは枕に添ふることあるべからず。案ずるに遠久の上に脱句あるべし。その脱句はツツミタルラム、シカバカリなどか。もし然らばトホク久シキは次の事と名とにかゝれるなり○コトノミモ名ノミモワレハワスラエナクニの主格は何なるか。ワスレナクニとあらでワスラエナクニとあればワレハは主格にあらでワレニハのニを省けるなり。されば主格はコト及名なり。從ひてコトノミモ名ノミモを言ノミニテモ名ノミニテモ(略解)言ニノミモ名ニノミモ(古義)など釋くべからず。又契沖以下コトを言の意としたれど言と書けるは借字にて實は事〔右△〕の意なり。即九卷にイニシヘニアリケル事トといひ遠キ代ニアリケル事ヲといへる事〔右△〕なり。さて事ノミ名ノミといへるノミはバカリの意にて事の方にては名に對して事ノミといひ名の方にては事に對して名ノミといへるなり○オクツキヲココトハキケドの下にソノオクツキノ見エヌハなどいふことを補(535)ひて聞くべし○ワスラエナクニはワスラレヌカナといふに近し。後世ワスラレヌニといふとは異なり
 
   反歌
432 われもみつ人にもつげむかつしかのままの手兒名がおくつきどころ
吾毛見都人爾毛將告勝牡鹿之間間能手兒名之奥津城處
 オクツキドコロはオクツキノ處なり。ただオクツキといふとは異なり。一卷人麿の長歌に大ミヤドコロといへると參照すべし
 
433 かつしかのままの入江にうちなびく玉藻かりけむ手兒名しおもほゆ
勝牡鹿乃眞々乃入江爾打靡玉藻苅兼手兒名志所念
 略解に契沖の第二説によりて『眞間の江に身を沈めたるをかくいへるにも有べし』といへるは非なり。玉藻ヲ見レバとあらばこそ然釋かめ。現に眞間の入江に玉藻の靡き生ひたるを見て其玉藻を手見名が苅りいたづきけむ昔をしのべるなり
   
   和銅四年辛亥河邊宮人見2姫島松原美人屍1哀慟作歌四首
(536)434 かざはやのみほの浦廻のしらつつじみれどもさぶしなき人おもへば【或云みればかなしもなき人おもふに】
加麻〔左△〕※[白+番]夜能美保乃浦廻之白管仕見十方不怜無人念者 或云見者悲霜無人思丹
 
435 (みづみづし)久米の若子がい觸《フリ》けむ礒の草根のかれまくをしも
見津見津四久米能若子我伊觸家武礒之草根乃干卷情〔左△〕裳
 
436 人言のしげきこのごろ玉ならば手にまきもちてこひざらましを
人言之繁比日玉有者手爾卷以而不戀有益雄
 
437 妹も吾も清之《キヨミノ》河のかはぎしの妹がくゆべき心はもたじ
妹毛吾毛清之河乃河岸之妹我可悔心者不持
    右案、年紀并所處及娘子屍作歌人名已見v上也。但歌辭相違是非難v別。因以累2載於茲次1焉
 二卷に題辭今と同じくてイモガ名ハ千代ニナガレム云々といふ歌あり。加之今の歌のうちはしの二首は處も事も題辭にかなはず。又奥二首は純然たる相聞歌にて此部即挽歌に入るべきにあらず。おそらくは家持の據りし原本に題辭(初二首と終二首との)歌(妹ガ名ハの歌)の脱して今の如くなれりしを其まま採れるにてこも亦本卷が精選を經ざる證なり。雅澄は題辭のうち和銅四年辛亥の六字を存じたれどこれも殘ずべきにあらず
 
かざはやのみほのうらみの
 以下二首は久米若子をしのべる歌なり。上(四〇六頁)なる博通法師の歌と參看すべし○カザハヤは略解に云へる如く紀伊の地名なるべし。サブシはおもしろからざるなり。さればこそ本に不怜と書きたるなれ
 
みつみづし久米のわくごが
 觸を雅澄は二十卷にイソニ布理と假字書にせるによりてフリとよめり○草根を略解にカヤネとよめれど草をカヤとよむは刈りて屋に葺くにつきていふなり。打任せて草をカヤといふべきにあらず。なほ水を飲料に供するにつきてはモヒといへど常にはミヅといふが如し
(538)人ごとのしげきこのごろ
妹もわれもきよみの河の
 キヨミハラノ宮を二卷(本書二二二頁)にキヨミノミヤといへるを思へばキヨミガハといひしをキヨミノ河といへるなり。契沖は『飛鳥河を淨御原の邊にてはキヨミノ川とも申べし』といへり○上三句はクエにかゝれる序、イモモアレモはキヨミにかゝれる枕辭なり。クエは主文にては悔、序よりのかゝりにては崩なり
 
   神龜五年戊辰太宰(ノ)帥大伴(ノ)卿思2戀故人1卿〔左△〕三首
438 愛《ウツクシキ》人のまきてし(しきたへの)わが手枕をまく人あらめや
愛人纏而軒敷細之吾手枕乎纏人將有哉
    右一首別去而經2數旬1作歌
 五卷太宰帥大伴卿報凶問歌、八卷式部大輔石上堅魚朝臣歌、太宰帥大伴卿和歌、下なる天平二年庚午冬十二月太宰帥大伴卿向v京上v道之時作歌五首、還入2故郷家1即作歌三首と參看すべし○愛は舊訓にウツクシキとよめるに從ふべし。今のカハユキな(539)り。略解にウルハシキとよめるは非なり。マクは枕とする事○題辭のうち下の卿は歌の誤なり 
439 かへるべき時者成來〔左△〕《トキニハナリヌ》みやこにてたがたもとをかわがまくらかむ
應還時者成來京師爾而誰手本乎可吾將枕
 宣長は來を去の誤として舊訓の如くトキニハナリヌとよみ雅澄は成來を來來の誤としてトキハキニケリとよめり。宣長の説の方に心引かる○マクラクは枕とする事にてそのクはカヅラク、ワナクなどのクに同じき事雅澄のいへる如し
 
440 みやこなるあれたる家にひとりねば旅にまさりてくるしかるべし
在京師荒有家爾一宿者益旅而可辛苦
    右二首臨2近向v京之時1作歌
 題辭の神龜五年戊辰云々は此二首にもかかれりと見ゆるに下に天平二年庚午冬十二月太宰帥大伴卿向v京上v道之時作歌とあり又六卷に冬十二月(○天平二年庚午)太宰帥大伴卿上v京時云々とあり又十七卷に天平二年庚午冬十一月太宰抑大伴卿(540)被v任2大納言1上v京之時云々とあると相かなはず。これによりて契沖は
  第二に後岡本宮御宇と標して有問皇子の歌を載るに因て意吉麻呂、憶良等の歌をも一所における例にや
といへれど實に天平二年の作ならば少し下なる天平二年庚午冬十二月太宰帥大伴卿向v京上v道之時作歌の前におくべし。強ひて神龜五年の作と一所におくべからず。案ずるに神龜五年の春妻大伴郎女を喪ひし後京に上らむとせしが故ありて上らずなりしにて右の二首の歌はその上らむとせしをりによめるなり
 
   神龜六年己巳左大臣長屋王賜v死之後倉橋部女王作歌一首
441 おほきみのみことかしこみ大あらきの時にはあらねど雲がくります
太皇之命恐大荒城乃時爾波不有跡雲隱座
 神龜六年は其八月に天平元年と改められき。長屋王が自盡を命ぜられしは其年二月なり。倉橋部女王は長屋王の女、妹などか
 記傳三十卷にアラキは新に死にたるまゝ未葬りあへぬほどまづ姑く収置く處をいふといひ又
(541)  時ニハアラネドとは大荒城仕奉るべき時ならぬを云。そは此長屋王は謀反賜ふよし聞えありしによりて窮2問其罪1令2王自盡1と續紀に見えて今世武家にて切腹仰付らるゝが如し。されば御命の限りにて薨坐るには非ざりしを時ニハアラネドと云るなり
といへり
 
   悲2傷|膳部《カシハデベ》王1歌一首
442 世のなかはむなしき物とあらむとぞこのてる月はみちかけしける
世間者空物跡將有登曾此照月者滿闕爲家流
    右一首作者未詳
 膳部王は長屋王の子にて父王の自盡を命ぜられし時自|縊《ワナ》きて卒せしなり○ムナシキはツネナキといふべきに似たり。モノトのトはオヨヅレノタハゴトトカモ(五一四頁)のトと同じく後世のニに當れり。アラムトゾはアラムトイヒテゾなり。此辭の下にソレヲ示スベクなどいふことを挿みて聞くべし
 
(542)   天平元年己巳摂津國班田史生|丈部《ハセツカベ》龍麿自經死之時判官大伴宿禰三中作歌一首并短歌
443 あま雲の むかふす國の 武士《マスラヲ》と いはれし人は すめろぎの 神の御門に とのへに たちさもらひ 内のへに つかへ奉《マツリテ》 (玉かづら) いやとほながく おやの名も つぎゆくものと おも父に 妻に子どもに かたらひて たちにし日より (たらちねの) 母のみことは いはひべを 前にすゑおきて 一手には 木綿とり持《モタシ・モチ》 一手には にぎたへまつり たひらけく まさきくませと あめつちの 神にこひのみ 何在《イカナラム》 とし月日にか (つつじ花) にほへる君が (牛留〔二字左△〕鳥《ニホドリノ》) なづさひこむと たちて居て まちけむ人は おほきみの みことかしこみ (おしてる) なにはの國に (あらたまの) 年ふるまでに しろたへの ころもでほさず あさよひに ありつる君は いかさまに おもひませか (うつせみの) をしきこの世を (露じも(543)の) おきていにけむ 時ならずして
天雲之向伏國武士登所云人者皇組神之御門爾外重爾立侯内重爾仕奉玉葛彌遠長祖名文繼往物與母父爾妻爾子等爾語而立西日從帶乳根乃母命者齋忌戸乎前坐置而一手者木綿取持一手者和細布奉乎〔左△〕間幸座與天地乃神祇乞祷何在歳月日香茵花香君之牛留鳥名津匝來與立居而待監人者王之命恐押光難波國爾荒玉之年經左右二白栲衣不干朝夕在鶴公者何方爾念座可鬱蝉乃惜此世乎露霜置而往監時爾不在之天
 天平元年は即神龜六年なり。此歌は八月改元の後の作なれば更に天平元年己巳とは標せるなり○古は六年に一囘づつ天下の公民に田地を頒與せられき。そを文字には班田と書きてアガチダ又はタマヒダといひき。アガチはワカチなり。畿内には特に班田使を置かれ其他の諸國にては國司班田の事を掌りき。班田使には長官、次官、判官、主典、史生ありき。略解にトシフルマデニとは畿内の班田多く事成りて攝津國に到りて死たるなるべしといへるは非なり。攝津は攝津の班田使を任ぜられし(544)なり。さて班田は十一月一日に始まりて翌年二月の末に終るが故に年フルマデニといへるならむ〇一首の趣によれば丈部龍麿といふ人鄙に生れしが朝廷に仕へて身を立て家を起さむの志ありて妻子に別れて京に上り班田使の史生となりて勤労せしが故ありて縊れて死にし時に上官なる大伴三中が憫みて此歌を作りしなり
 アマ雲ノムカフス國は契沖のいへる如く遠國といふことなり。前註に祝詞にシラ雲ノオリヰムカフス限とあるを引きて
  天地の限竝なき武士といふ意也(略解)
  天地の間に二なき武士といふ意(古義)
などいへるは非なり。こは祝詞にはカギリとあり今は國とある別を忘れたる説なり○武士ほ舊訓にモノノフとよめり。古義にマスラヲとよめるに從ふべし。スメロギノ神ノ御門は朝廷といふことなり。略解に
  龍麿先祖より傳へて仕奉りし故に前つ御代々々をかねてかくいへる也
と云へるは非なり○トノヘ、ウチノヘは宮城の内外郭なり○奉は契沖のテを添へ(545)てマツリテとよめるに從ふべし○オヤノ名は父祖の誉なり。父祖も朝廷に仕へし事あるならむ○ツギユクモノトはツギユカムモノトテの意○オモチチは父母の古語○初よりタチニシ日ヨリまでの十八句は龍麿が都に上りて朝廷に仕へ奉りて父祖の誉を繼がむと思ひ立ちて父母妻子に其意中を語りて國を立ちし日よりと云へるなり。略解に
  かく御門守をせし上に班田使に附きて他國に出立つによりて功を立て先祖の名をも繼ぎなむと父母妻子に語りて都を立ちしをいふといへるは非なり。トノヘニタチサモラヒ、ウチノヘニツカヘマツリテはただ御膝元ノ官吏トナリテといふことなり。さるを前註者辭のまゝに禁裏の三門を守る衛士の事としさては攝津國の班田史生となれる事歌中に見えざるが故に略解には右の如き註釋を下し古義は仕奉をツカヘマツリとよみてタマカヅラ以下と引離しタマカヅラ以下の四句に班田史生となりし事を含ませたりとしたるなり。龍麿國より出でて直に班田史生となりしか又はその前に他の官を經しか知られねど班田使は内官なればその史生となりし事はトノヘニタチサモラヒ、ウチノヘニツ(546)カヘマツリテとあるにこもりたれば別に述ぶるに及ばざるなり○タラチネノ以下十二句は故郷なる母の龍麿の無事ならむ事を神に祈るさまなり○取持を略解にトリモタシとよめるを古義にトリモチに改めたり。いづれにてもあるべし〇一手ニハユフトリモタシ一手ニハニギタヘマツリとあるを見ればユフとニギタヘとは別物なり。案ずるに式に布若干端、木綿《ユフ》若干斤、麻若干斤といふことあり。即布には端といひて木綿と麻とには斤といへり。されば今ユフトリモタシニギタヘマツリといへるユフは絲のまゝなるをいひニギタヘは織りたるをいへるなり。絲のまゝにても神に奉りし事は記傳にいへり。さてそのユフは廣義のユフ即かぢの皮のすぢと麻絲とを總稱せるなるべし。それに對したるニギタヘは青白兩種を兼ねたりと聞ゆればなり。トリモタシとマツリとは辭の文《アヤ》に二つに別けて云へるのみ。即絲と布とを兩手に取持ちて奉るなり○何在はイカナラム(舊訓)ともイカニアラム(古義)ともよむべし○ニホヘルは紅顏ナルにてわかく壯なる形容なり○牛留鳥を久老は爾富鳥の誤としてニホドリノとよめり。十二卷に爾保鳥ノナヅサヒコシヲ人見ケムカモ、十五卷に柔保ドリノナヅサヒユケバとあればしばらく久老の説に(547)從ふべし。木村博士(字音辨證下卷六六頁)は『こはもとより字の誤れるにはあらで今本のまゝにてクロトリノとよむべきなり』といひて牛にクの音ある證と留をロとよめる例とを擧げたり。げに牛留はクロともよむべし。然もクロを牛留と書きはせじ○ナヅサヒコムトは記傳四十二卷(三十五丁)に
  ナヅサヒは或は水に浮ぶをもいひ或は底に沈むをも云ひ或は渡るをもいひていづれも水につくことに云へり
といへり。上なる八雲サス出雲ノ子ラガクロカミハ吉野ノ川ノオキニナヅサフの如きは宣長の説の如くにても通ずるに似たれど今のナヅサヒコムトなどは通ぜず。玉勝間六卷に此歌を擧げて
  これは上にも下にも海川などの事見えねども他の例をもて思ふに海路を經て歸り來べき國の人なるべし
といへるは牽強なり。案ずるにナヅサフは艱むことなり。ここはただ來ムトとのみ云ひて可なるを上代の旅行は艱難なるものなればナヅサヒを添へたるなり○タチテヰテは或ハタチ或ハ居テなり上(四九八頁)にもみえたり○マチケム人ハは母(548)ノ命ノ待チケム人ハなり。さて此句次なるオホキミノにかかるにあらず。下なるアリツル君ハと共にイカサマニオモヒマセカにかかるなり○オホキミノ以下は攝津國の班田史生となりて難波に下れりしをいふ。ナニハノ國の國は郡郷などの意なる狹義の國なり○年フルマデニはコロモデホサズにかゝれり。アリツルにかゝれるにあらず。コロモデホサズは旅にして世話する人もなければ雨露にぬれたる衣を干しもあへずといふ事なり(古義)○アリツルは見エシなり○時ナラズシテは天壽ノ終ナラズシテにて即自殺せしをいふ
 
   反歌
444 きのふこそ君はありしかおもはぬに濱松|之《ノ》上〔□で圍む〕於《ウヘニ》雲《クモト》棚引
昨日社公者在然不思爾濱松之上於雲棚引
 キノフコソはツイ此間といふこと〇四五舊訓にハママツノウヘニクモトタナビクとよめるを『もしウヘニとよむべくば於の字上の字の下にあるべからず。さればハママツノウヘノ〔右△〕雲ニ〔右△〕タナビクとよむべし』と田中道麿の云へるに宣長、久老、干蔭、雅澄共に從ひたれど然よみては意通ぜず。雲烟などに比せずして打任せてタナビ(549)クとは云はれざればなり。さればなほ舊訓に從ひてハママツノウヘニ雲トタナビクとよむべし。おそらくは上は衍字ならむ。於は集中にもウヘとよめり
 
445 いつしかとまつらむ妹に玉づさのことだにつげずいにしきみかも
何時然跡待牟妹爾玉梓乃事太爾不告往公鴨
 玉ヅサはこゝにては使の代語にて玉ヅサノ言とは傳言の意とおぼゆ。上なる石田王卒之時歌にも玉ヅサノ人ゾイヒツルとあり
 
   天平二年庚午冬十二月太宰帥大伴卿向v京上v道之時作歌五首
446 わぎもこがみし鞆の浦の天木香樹《ムロノキ》は常世にあれどみし人ぞなき
吾妹子之見師鞆浦之天木香樹者常世有跡見之人曽奈吉
 トコヨニアレドはカハラズニアレドといふ事とおぼゆ。ミシ人ゾナキはソヲ見シ人ゾ今ハ此世ニ無キとなり○天木香樹は舊訓にムロノキとよめり。新撰字鏡に
  ※[木+聖]※[木+呈] 楊類。加波也奈支又牟呂乃木
  ※[木+慈]※[木+総の旁] 二字牟呂乃木
(550)  ※[木+香]   上同。又加豆良
とあり。又倭名抄に
  ※[木+聖]一名河柳 牟呂乃岐
とあり。右の如く楊類カハヤナギ又一名河柳とあるによりてはやくムロノ木を柳の類とする説あり。然るに田中道麻呂の説(玉勝間三卷)には今ネズムロなどいふ木なりといへり。其説によれば漢土の杜松にて今ネヅミサシ、ネズノ木、ブロン、モロなどいふ木にて蚊遣にたくものなり。久老、千蔭、雅澄など皆道麻呂の説に從へり。されど後に至りてもなほ柳の類とする説なきにあらず。たとへば信友の動植物名彙には
  此ムロノ木江戸わたりにてはギヨリウと云へど若狹などにてはジヨリウと云へり。……肥後熊本人長瀬眞幸云。備後の鞆の浦の磯近き海中に泉水岩とて奇巖種々ありて景色よき所あり。そこを舟にてゆくに磯の方の岩上に今江戸にてジヨリウ又ギヨリウといふもの大木にて數株あり。枝葉もはら海上へ垂れ覆ひたるさまいとめづらし。是萬葉によめるムロノ木なること疑なし。里人は其名をも知らであるなりといへり
(551)と云へり。案ずるにこゝに天木香樹とあり(十六卷なる玉ハハキカリコ鎌麻呂室ノ樹ト棗ガモトヲカキハカムタメといふ歌の題辭には天水〔右△〕香とあり)新撰字鏡に※[木+香]ムロノ木とあり法隆寺資財帳に※[木+聖]筥、捌拾貮合云々とあればムロは香木とおぼゆ。然るに御柳は香木にあらず(其上本草家の説によれば近古に渡來せしものなりといふ)。之に反して杜松は香氣ある木なり。さればネヅミサシをもカハヤナギをもいにしへは共にムロといひしにて※[木+聖]はカハヤナギのムロ(否ギヨリウ)にあたる漢字なるをネヅミサシのムロにも轉用せしなり(なほいにしへは萩をもハンノ木をも共にハリといひしよりハンノ木のハリに當る榛の字を萩のハリにも轉用せし如し)。さて此歌のムロは杜松の方なるべし。否おそらくは今イブキ又はビヤクシンといふ木なるべし。イブキは杜松と同類にて海岸に多きものなり
  因にいふ。播磨の室(ノ)泊も此木の茂りしによりて名を獲つるなるべし。いにしへは※[木+聖]生《ムロフ》(ノ)泊といひき
 
447 鞆の浦の礒の室木《ムロノキ》みむごとにあひみし妹はわすらえめやも
鞆浦之礒之室木將見毎相見之妹者將所忘八方
(552) ミムゴトニは將來見ム度毎ニなり(古義)○アヒミシは其木ヲ共ニ見シなり(略解)
 
448 礒のうへにねはふ室木《ムロノキ》みし人を何在《イヅラ》ととはばかたりつげむか
礒上丹根蔓室木見之人乎何在登問者語將告可
    右三首過2鞆浦1日作歌
 二三四の意はムロノ木ガソヲ見シ人ヲ我ニ問ハバとなり○何在を舊訓にイカナリとよみ契沖、久老、千蔭、雅澄之に從へれどこは考の訓の如くイヅラとよむべし。本集卷十五にも
  いはた野にやどりする君家人の伊豆良とわれをとはばいかにいはむ
とあり○カタリツゲムカはムロノ木ニ云々ト語リ告ゲムカ、イカニセムとなり
 
449 妹とこしみぬめの埼をかへるさに獨而《ヒトリシ》みればなみだぐましも
與妹來之敏馬能埼乎還左爾獨而見者涕具末之毛
 獨而の而の字一本に之とありとぞ。舊訓にヒトリシテとよめれど久老のヒトリシとよめるに從ふべし○ナミタグムといふ動詞を形容詞にしてナミダグマシとい(553)ふはなほコノム、ノゾム、ツツムをコノマシ、ノゾマシ、ツツマシといふ類なり
 
450 ゆくさにはふたりわがみし此埼をひとりすぐればこころがなし哀〔左△〕《モ》【一云みも左可受きぬ】
去左爾波二吾見之此埼乎獨過者情悲哀【一云見毛左可受伎濃】
     右二首過2敏馬埼1日作歌
 ユクサは上(三八八頁)に見えたり。ユキシナなり〇一云のミモサカズキヌは外の例によらばミモサケ〔右△〕ズキヌといふべきなり。奈良朝文法史には此例によりてサクをいにしへ四段にはたらきしなりとし木村博士の字音辨證下卷には此句并に十四卷なるウツヤヲノトノトホ可ドモ、同卷ヨラノヤマベノシケ可クニ、同卷アズノウヘニコマヲツナギテアヤホ可ドなどを擧げて『入聲借音の渇(ノ)字カツ、ケツ兩音の字なれば可にもケの音あるべき事おして知べし』と云へり。前者の説に從ふべし○久老はココロガナシモとうたひて更にミモサ可ズキヌとうたひかへたるなりとして『上にも例あり』といへり(三九一頁參照)。案ずるに見モサカズ來ヌは第四句と相副(554)はず。さればココロガナシモの方を採るべし。哀は喪の誤ならむ
 
   還2入故郷家1即作歌三首
451 人もなきむなしき家は(草枕)旅にまさりてくるしかりけり
人毛奈吉空家者草枕旅爾益而辛苦有家里
 代匠記に
  上に臨2近向v京之時1作歌に『都なるあれたる家にひとりねば旅にまさりてくるしかるべし』とある歌を蹈たるなり。案の如く旅に益てくるしとなり
といへる如し。クルシは後世のワビシなり
 
452 妹としてふたりつくりしわが山齋《シマ》はこだかくしげくなりにけるかも
與妹爲而二作之吾山齋者木高繁成家留鴨
 妹トシテフタリは妹ト二人シテの意なり(古義)○山齋を舊訓にはヤマ、六帖にはヤド、宣長(玉勝間十三卷四丁)はシマとよめり。案ずるに二十卷に二月於2式部大輔中臣清麿朝臣之宅1宴歌……屬2目山齋〔二字右△〕1作歌三首とありて
(555)  をしのすむきみがこのしまけふみればあしびの花もさきにけるかも
  池水にかげさへみえてさきにほふあしびの花を袖にこきれな
  いそかげのみゆるいけ水てるまでにさけるあしびのちらまくをしも
とあるみな庭園のさまをよめり。今もコダカクシグクといへる、庭園のさまなり。而して庭園の事をいにしへシマといひし事宣長のいへる如くなれば山齋は宣長雅澄に從ひてシマとよむべし○コダカクは木高クなり
 
453 吾妹子がうゑし梅のきみるごとにこころむせつつ涕しながる
吾妹子之殖之梅樹毎見情咽都追涕之流
 
   天平三年辛禾秋七月大納言大伴卿薨之時謌六首
454 (はしきやし)さかえし君のいましせばきのふもけふもわをめさましを
愛八師榮之君乃伊座勢波昨日毛今日毛吾乎召麻之乎
 二卷日並皇子の薨じ給ひし時の歌に
  ひむかしのたきのみかどにさもらへどきのふもけふもめすこともなし
(556)とあるに似たり
 
455 かくのみにありけるものをはぎが花さきてありやととひし君はも
如是耳有家類物乎芽子花咲而有哉跡問之君波母
 初二はカクハカナクアリケルヲといふことなり。ノミニはカクを強めたるのみ○ハモは宣長(記傳二十七卷)の『戀慕ひていづらと尋求むる意ある辭なり』といへる如し
 
456 君にこひいたもすべなみ(あしたづの)ねのみしなかゆ朝よひにして
君爾戀痛毛爲便奈美蘆鶴之哭耳所泣朝夕四天
 イタモはイトモなり。アサヨヒニシテのシテは二言ともに助辭なり
 
457 とほながくつかへむものとおもへりし君しまさねば心神《ココロド》もなし
遠長將仕物常念有之君師不座者心神毛奈思
 心神は舊訓にタマシヒとよめるを久老ココロドに改めたり。十七卷にキミニコフルニ許己呂度モナシともあればげにココロドなるべし。さてそのココロドを久老(557)は心所と釋き千蔭、雅澄は心利と解けり。おそらくは久老の説の如くにて意はなほタマシヒといふことなるべし
 
458 (若子《ミドリゴ・ワカキコ》の)はひたもとほりあさよひにねのみぞわがなく君なしにして
若子乃匍匐多毛登保里朝夕哭耳曾吾泣君無二四天
    右五首仕人金(ノ)明軍不v勝2犬馬之慕心1中〔右△〕2感緒1作歌
 初句舊訓にミドリゴノとよめるを宣長は齊明紀によりてワカキコノに改めたり。舊訓のまゝにてもあるべし(二卷【三〇一頁】參照)○君ナシニシテはシのみ助辭○左註の中〔右△〕は久老申〔右△〕の誤とせり。さらばノベテとよむべし○仕人は資人に同じ。資人は朝廷より身分に應じて賜はる從士なり
 
459 みれどあかずいましし君が(もみぢばの)うつり伊去者《イユケバ》かなしくもあるか
見禮杼不飽伊座之君我黄葉乃移伊去者悲喪有香
    右一首勅2内禮《ナイライ》(ノ)正《カミ》縣(ノ)犬養(ノ)宿禰|人上《ヒトカミ》1使v檢2護卿病1。而醫藥無v驗逝水(558)不v留。因斯悲慟即作2此歌1
 伊去者を宣長はイヌレバとよめれど、なほ舊訓の如くイユケバとよむべし。さて雅澄はそのイを上に附けてウツリイ、ユケバとよみて
  伊はマツ伊、タエジ伊などの伊にてウツリの下に附たる助辭なり。去の上に附てはよむべからず
といへり。げにもし添辭のイならばイユキハバカリ、イハヒモトホリなどの例にてイウツリユケバとあるべきなり
 
   七年乙亥大伴坂上郎女悲2嘆尼理願死去1作歌一首并短歌
460 (たくづぬの) しらぎの國ゆ 人ごとを よしときかして とひさくる うがらはらから なき國に わたりきまして 太皇《オホキミ》の しきます國に (うちひさす) みやこしみみに 里家は さはにあれども いかさまに おもひけめかも つれもなき 佐保の山べに (なく兒なす) 慕ひきまして (しきたへの) いへをもつくり (あらたまの) (559)年のを長く すまひつつ いまししものを
栲角乃新羅國從人事乎吉跡所聞而問放流親族兄弟無國爾渡來座而太皇之敷座國爾内日指京思美禰爾里家者左波爾雖在何方爾念鶏目鴨都禮毛奈吉佐保乃山邊爾哭兒成慕來座而布細乃宅乎毛造荒玉乃年緒長久住乍座之物乎
 人ゴトは人ノ言なり。人ゴトヲヨシトキカシテを略解に
  左註にいへる遠感2王コ1歸2化聖朝1といふにあたれり
といひ古義に
  皇朝の事を三寶をたふとむよき風俗ぞと他人の語るを聞きてまゐ來れる由なり
と云へり。ヨシとあるが果して皇國の形容ならば人ゴトニヨシトキカシテとあらざるべからず。今の如く人ゴトヲとあるにはヨシは人言の形容と認めざるべからず。されば人ノ言ヲゲニモトキキ給ヒテといふ意とすべし○トヒサクルはトヒヤ(560)ルといふことにてやがて向ヒ問フといふことならむ。十九卷にもカタリサケ見サクル人目トモシミトとあり○太皇は古義の如くオホキミとよむべし○里は家群なり。都のうちにあまたの里があるなり。今を離れて古の樣を思ひやるべし(六卷に元興寺之里といへるも奈良の内なり)○ツレモナキは縁故モナキなり。佐保ノ山ベは即郎女の父安麻呂卿の家のある處なり〇トシノヲは歴年なり
 
生者《イケルモノ》 しぬてふ事に 不免《マヌカレヌ》 ものにしあれば たのめりし 人のことごと (草枕) たびなるほどに 佐保河を 朝川わたり 春日野を そがひにみつつ (あしひきの) 山べをさして 晩闇《ユフヤミ》と かくりましぬれ いはむすべ せむすべしらに たもとほり ただ獨して (しろたへの) ころもでほさず 嘆きつつ わがなく涙 ありま山 くもゐたなびき 雨にふりきや
生者死云事爾不免物爾之有者憑有之人乃盡草枕客有間爾佐保河乎朝川渡春日野乎背向爾見乍足永木乃山邊乎指而晩闇跡隱益去禮將言爲(561)使將爲須敝不知爾徘徊直獨而白細之衣袖不干嘆乍吾泣涙有間山雲居輕引雨爾零寸八
 生者は舊訓の如くイケルモノとよむべし(本書四四五頁參照)○不免も舊訓に從ひてマヌカレヌとよみて可なり(久老はノガロエヌとよめり)○タノメリシ人ノコトゴトはタヨリニシタリシ人ミナといふことなり。此辭によれば郎女は他に住めりしなり。當時郎女は藤原朝臣麻呂の妻たりき。左註に郎女獨留葬2送屍柩1とある獨留を以て佐保の家を留守したりけむ證とはすべからず。こはただ母等と共に有馬には赴かで京に留りたりしことゝ見るべし○佐保河ヲ以下八句は送葬のさまなり。二卷に
  ささなみのしがつの子らがまかりにしかはせの道をみればさぶしも
とあるも送葬の道筋をいへるなり○朝川ワタリははやく一卷長歌に船ナメテアサ川ワタリとあり又二卷に人ゴトヲシゲミコチタミオノガ世ニイマダワタラヌ朝川ワタルとあるこれらは朝川ヲワタルのヲを略したるなれど今はアサカハワタリと一語のやうに用ひたるなり。ソガヒは後方なり○晩闇は舊訓にユフヤミと(562)よめるを宣長はクラヤミとよめり。クラヤミ、クレヤミ共に例あれどなほもとのままにてあるべし。トは如クといふ意なりと略解にいへる如し○タモトホリはウロウロトシといふ意。略解に『思ひ迷ふさまなり』といへるはいかが○クモヰタナビキは上なる赤人の長歌(四六〇頁)にもあり。クモヰとは常には空の事をいへど又ただに雲をいふこともあり。今のクモヰも然り。記傳二十八卷【五十三丁】クモヰタチクモの處に例を擧げていへり○雨ニフリキヤのニは後の世にはトといふ。二卷なるタカマトノ野ベノ秋ハギナチリソネ君ガカタミニ〔右△〕ミツツシヌバム、六卷なるハツセメガツクルユフ花ミヨシヌノ瀧ノミナワニ〔右△〕サキニケラズヤなどのニと同例なり○此歌結末殊にめでたし。小町伊勢などは到底此作者の儔にあらず
 
   反歌
461 とどめえぬいのちにしあれば(しきたへの)家ゆはいでて雲がくりにき
留不得壽爾之在者敷細乃家從者出而雲隱去寸
    右新羅國尼名曰2理願1也。遠感2王コ1歸2化聖朝1。於v時寄2住大納言大(563)將軍大伴卿家1既逕2數紀1焉。惟以2天平七年乙亥1忽沈2運病1既趣2泉界1。於v是《ココニ》大家石川命婦依2餌藥事1往2有間温泉1而不v會2此喪1。但郎女獨留葬2送屍柩1既訖。仍作2此歌1贈2入温泉1
 運病は重病にや。石川命婦は安麻呂の妻にて坂上郎女の母なり。大家は大姑の通用にてタイコとよむなり。漢籍に女子之尊稱といひ又婦稱v姑爲2大家1と云へり。さてここは家刀自を尊みていへるなるべし。古義に『母を尊みて稱《イヘ》るなるべし』といへるはいかが○死ぬることをクモガクルといふ。上にも
  ももづたふいはれの池になくかもをけふのみみてや雲がくりなむ
  おほきみのみことかしこみ大あらきのときにはあらねど雲がくります
などあり
 
   十一年己卯夏六月大伴宿禰|家持《ヤカモチ》悲2傷亡妾1作歌一首
462 今よりは秋風さむくふきなむを如何《イカニカ》ひとりながき夜をねむ
從今者秋風寒將吹烏〔左△〕如何獨長夜乎將宿
(564) 如何は從來イカデカとよめり。イカニカと改めよむべし(二卷【一五六頁】參照) 
   弟大伴宿禰|書持《フミモチ》即和歌一首
463 ながき夜を獨やねむと君がいへばすぎにし人のおもほゆらくに
長夜乎獨哉將宿跡君之云者過去人之所念久爾
 上三句は長キ夜ヲ獨寢ムカト君ガ嘆キイヘバとなり。又四五は我モソノウセシ人ヲ思フとなり。略解に
  黄泉の人も獨いねがてにすらむといふ也
といひてオモホユラクニを亡き人の思ふ事としたれど前にも
  おう河のかはらのちどりながなけばわが佐保河のおもほゆらくに
とあるを見て千蔭の説の非なるを知るべし
 
   又家持見2砌《セイ》上(ノ)瞿麥花1作歌一首
464 秋さらばみつつしぬべと妹がうゑしやどのなでしこさきにけるかも
秋去者見乍思跡妹之殖之屋前之石竹開家流香聞
(565) シヌベは我ヲ思ヘとの意にあらず。賞美セヲとの意なり。一卷額田王の長歌(本書三三頁)なる
  秋山のこのはをみてはもみぢをばとりてぞしぬぶ青きをばおきてぞなげく
のシヌブに同じ
 
   移v朔而後悲2嘆秋風1家持作歌一首
465 (うつせみの)よは常なしとしるものを秋風|寒《サムミ》しぬびつるかも
虚蝉之代者無常跡知物乎秋風寒思努妣都流可聞
 移朔は朔ヲウツシテとよむべきか。月カハリテといふことなり。こゝにては七月ニナリテと云へるなり。※[衣+者]淵(ノ)碑に
  泰始之初入爲2侍中1、曽不v移v朔遷2吏部尚書1
とあり○此歌のシヌビはなき人をしのぶなり。寒は契沖宣長の改訓に從ひてサムミとよむべし
 
   又家持作歌一首并短歌
(566)466 わがやどに 花ぞさきたる そをみれど こころもゆかず (はしきやし) 妹がありせば (み鴨なす) ふたりならびゐ たをりても みせましものを うつせみの 惜〔左△〕有《カレル》身なれば 霜霑〔二字左△〕《ツユジモ》の けぬるがごとく (あしひきの) 山ぢをさして (入日なす) かくりにしかば そこもふに 胸こそいため いひもかね なづけもしらに 跡もなき 世のなかなれば せむすべもなし
吾屋前爾花曾咲有其乎見杼情毛不行愛八師妹之有世婆水鴨成二人雙居手折而毛令見麻思物乎打蝉乃惜有身在者霜霑乃消去之如久足日木乃山道乎指而入日成隱去可婆曽許念爾胸己所痛言毛不得名付毛不知跡無世間爾有者將爲須辨毛奈思
 花といへるは石竹なり。ココロモユカズは氣ガナグサマズとなり○タヲリテモのモは助辭なり。亦のモにあらず。古義に
  折らずても見せ折りても見せましものなるをといふ意なり
(567)といへるは非なり○ウツセミノは枕辭にあらず。人間ノといふばかりの意なり○惜は借の誤なり。カレル身は假借の身にて佛教思想に基づきたる辭なり○霜霑は露霜の誤なり。アシヒキノ云々は死にて葬られしをいふ○胸コソイタメの下にサレドといふ辭を加へて聞くべし○イヒモカネ名ヅケモシラニは跡モナキにかかれるなり。云ハウヤウナク跡モナキといふ意なり。跡モナキはハカナキなり。元來ハカナシのハカはイヅクヲハカトなどいふハカと同じくて踪跡といふ事なり。獣の逃げし跡にひきたる血をハカリといふも同源の語なるべし
 
   反歌
467 時はしもいつもあらむをこころいたく伊去《イユク》わぎもか若子《ミドリゴ・ワカキコ》をおきて
時者霜何時毛將有乎情哀伊去吾妹可若子乎置而
 ココロイタクは悲シクなり。伊去は舊訓に從ひてイユクとよみ若子はミドリゴ又はワカキコとよむべし
 
468 出行《イデテユク》みちしらませば豫《アラカジメ》いもをとどめむせきもおかましを
(568)出行道知末世波豫妹乎將留塞毛置末思乎
 初句は舊訓にイデテユクとよめるを古義にイデユカスに改めたり。舊訓のまゝにてもあるべし○豫の字舊訓にカネテテヨリとよめるを久老アラカジメに改めたり。説は『つきの落葉』にくはし。セキヲオクは關を設くるなり
 
469 妹が見しやど爾〔左△〕《ノ》花|咲《サキ》時はへぬわがなく涙いまだひなくに
妹之見師屋前爾花咲時者經去吾泣涙末干爾
 二句舊訓にヤドニ花サクとよめるを宣長花サキとよみ改めたり。其説に花さく時が過ぎぬるにはあらで花さくまで時の經ぬるなれば花サキとよむべしといへり○妹ガミシヤドニとよまむにニの言穩ならず。爾は乃などの誤とするか又はこのまゝにてノとよむべし(四九六頁參照)○時ハヘヌは宣長のいへる如く死にて時を經たるなり
 
   悲緒未v息更作歌五首
470 かくのみにありけるものを妹も吾もちとせのごとくたのみたり來《ケル》
(569)如是耳有家留物乎妹毛吾毛如千歳憑有來
 力クを強めてカクノミニといへるなり○來は舊訓にケルとよめるを久老雅澄ケリに改めたれどカモなどいふ嘆辭を略したる格なればなほケルとよむべし
 
471 家さかりいます吾妹《ワギモ》を停不得《トドメカネ》山がくりつれ情神《ココロド》もなし
離家伊麻須吾味乎停不得山隱都禮情神毛奈思
 停不得は舊訓にトドメカネとよめるを宣長はトドミカネと改訓せり。こは五卷にトキノサカリヲトド尾カネ、ヨノコトナレバトド尾カネツモ、ユクフネヲフリトド尾カネなどあるによれるなれど尾はメともよむべしといふ説(字音辨證上卷三二頁)ある上に集中にナゲカクヲトド米モカネテ(十七卷)ナガルルナミダトド米カネツモ(十九卷)など後世の如く下二段活に用ひたるまさしき例あればなほ舊訓の如くトドメカネとよみてあるべし。今の停不得を宣長の説に雷同してトドミカネとよめる古義も上(五六二頁)なる留不得壽爾之在者をばトドメ〔右△〕エヌイノチニシアレバとよめり〇山ガクルは山ニカクルを一つの語とせるにてイソガクル、コヌレガクルなどの類なり。カクルのカは濁りてとなふべし。ツレはツルニなり。第四句の主(570)格は吾妹なり○情神は田中道麿のココロドとよめるに從ふべし。語ははやく(五五六頁に)見えたり
 
472 よのなかし常かくのみとかつしれどいたきこころは不△忍都毛《シヌビカネツモ》
世間之常如此耳跡可都知跡痛情者不忍都毛
 ツネはツネニなり。カツシレドは一面ニハ知ツテヲルガとなり○契沖に從ひて不の下に得を補ふべし
 
473 佐保山にたなびく霞みるごとに妹を思出なかぬ日はなし
佐保山爾多奈引霞毎兄妹乎思出不泣日者無
 思出は舊訓にオモヒイデテとよめるを久老雅澄はオモヒデ千蔭はオモヒデテとよめり。いづれにてもあるべけれどまづオモヒデとよむべし○此一列の歌秋の歌なるにカスミをよめり。二卷にも秋ノ田ノ穗ノ上ニキラフ朝ガスミとよめり。所詮霧をいへるなり
 
474 昔こそよそにも見しかわぎもこがおくつきともへばはしきさほ山
(571)昔許曾外爾毛見之加吾妹子之奥槨常念者波之吉佐寶山
 ハシキはカハユキなり。ナツカシキなり
 
   十六年甲申春二月|安積《アサカ》皇子薨之時|内舍人《ウチトネリ》大伴宿禰家持作歌六首
475 かけまくも あやにかしこし いはまくも ゆゆしきかも わがおほきみ みこの命 萬代に 食《ヲシ》たまはまし 大日本 久邇のみやこは (うちなびく) 春さりぬれば 山邊には 花さき乎爲〔左△〕里《ヲヲリ》 河せには あゆこさばしり いや日けに さかゆる時に およづれの たはごととかも しろたへに 舍人よそひて わづか山 御輿たたして (ひさかたの) 天しらしぬれ こいまろび ひづちなけども せむすべもなし
掛卷母綾爾恐之言卷毛齋忌志伎可物吾王御子乃命萬代爾食賜麻思大日本久邇乃京者打靡春去奴禮婆山邊爾波花咲乎爲里河湍爾波年魚小〔左△〕(572)狹走彌日異榮時爾逆言之枉言登加聞白細爾舍人裝束而和豆香山御輿立之而久堅乃天所知奴禮展轉泥土打雖泣將爲須便毛奈思
 安積皇子は聖武天皇の御子なり。題辭を見れば皇子の薨去は二月なるやうなれど實は閏正月十一日なり○カクルには心にかけて思ふと口にかけて言ふと目にかけて見るとの別あり。今は言ふ方なり。さればカケマクモは言ハムモといふことなり。次なるイハマクモに對して語を換へたるのみ○ユユシはこゝにてはカシコシにひとし○ワガオホキミミコノ命、ヨロヅ代ニヲシタマハマシ、大ヤマトクニノミヤコハと云へるを見れば此皇子は皇太子にましまししやうに思はる。されば二註にも『此皇子は儲がねにぞおはしけむ』と云へれど當時の皇太子は御姉|阿閇《アベ》(ノ)皇女なり。よりて思ふに皇太子は女性にて御繼嗣あるべき筈なければ此皇子ぞ唯一の御弟として終に皇位を繼ぎ給ふべきものと世人は期待せしならむ○食は舊訓にメシとよめるを契沖ヲシに改めたり。ヲシタマフはシロシタマフなり〇マシは常の如くには切れずして下なるオホヤマトに續けり。二卷にも
  たかひかるわが日のみこの萬代に國しらさまし島の宮はも
(573)とあり。ミコノミコトの下に世ニマシマサバなどいふことを略せるなり。そはマシといへるによりて知らる○オホヤマトは私に添へたるにあらず。當時久邇に冠らせてオホヤマトクニノ宮といひしなり○乎爲里の爲は烏の誤なり。サキヲヲリはサキナビキなり。古義に花のしげく咲きたる容をいふといへるはたがへり〇イヤ日ケニは日々ニなり○サカユル時ニはクニノミヤコハとあるを受けたれば久邇の京の榮ゆる事なること論なし。略解に『春の榮を皇子の御榮にいひよせたり』といへるはいかに思へるにか○タハゴトトカモのトカモは後世のニヤなり。トとニと相通へること多し○シロタヘニは白クといふこと。トネリヨソヒテは身ヲヨソヒテの身ヲを略したるなり。古義に『喪服をよそふを云へり』といへる如し。次なる長歌にもサワグ舍人モシロタヘニコロモトリキテとあり○和豆香山は瓶原《ミカノハラ》の東方に當れる群山なり○ミコシタタシテは御輿ガタチタマヒテにてそのタチタマヒテはトマリ給ヒテなり。古義に『出立賜ヒテと云なり』といへるは非なり。現に皇子の墓は和束村の内にあり○コイは臥シなり。ヒヅチはぬるゝ事。但今はヒヅチナクといふ一つの語となれるなり
 
(574)   反歌
476 わがおほきみあめしらさむと思はねばおほにぞみける和豆香そま山
吾王天所知牟登不思者於保爾曾見谿流和豆香蘇麻山
 吾王ガ薨ジテ此山ニ葬ラムト思ハネバ今マデハ云々の意をたゝみてかくは云へるなり
 
477 (足ひきの)山さへひかりさく花の散去《チリヌル》ごときわがおほきみかも
足檜木乃山左倍光咲花乃散去如寸吾王香聞
    右三首二月三日作歌
 散去を略解にチリニシとよめれどこゝは譬のうちなれば過去にはいふべからず。ただチルといひてよき處なれば宣長の訓の如くチリヌルとよむべし
 
478 かけまくも あやにかしこし わがおほきみ みこの命 (もののふの) 八十とものをを めしつどへ あともひたまひ 朝獵に ししふみおこし ゆふがりに とりふみたて 大|御馬《ミマ》の 口|抑駐《オサヘトメ》 御心(575)を 見爲《メシ》あきらめし いくぢ山 木立の繁《シゲ》に さく花も うつろひにけり 世のなかは かくのみならし ますらをの 心ふりおこし 劍刀 腰にとりはき 梓弓 ゆぎとりおひて 天地と いやとほながに 萬代に かくしもがもと たのめりし 皇子の御門の (さばへなす) さわぐ舍人は しろたへに ころもとりきて 常なりし ゑまひふるまひ いや日けに かはらふみれば かなしきろかも
掛卷毛文爾恐之吾王皇子之命物乃負能八十伴男乎召集聚率此賜比朝獵爾鹿猪践起暮獵爾鶉雉履立大御馬之口抑駐御心乎見爲明米之活道山木立之繁爾咲花毛移爾家里世間者如此耳奈良之大夫之心振起劔刀腰爾取佩梓弓靭取負而天地與彌遠長爾萬代爾如此毛欲得跡憑有之皇子乃御門乃五月蝿成※[馬+聚]騷舍人者白栲爾服取著而常有之咲此振麻此彌日異更經見者悲召〔左△〕可聞
 アトモヒは率ヰなり。シシを鹿猪と書けるに對してトリを鶉雉と書けり○抑駐は(576)舊訓にオサヘトメとよめるを宣長オシトドメに改めたり。なほ舊訓に從ふべし。馬を控ふる事なり。六卷にも馬ノアユミオサヘトドメヨとあり○見爲は雅澄のメシとよめるに從ふべし。ミルの敬語なり(古義卷一下九丁參照)。メシアキラメを契沖は『物を見て心にふさがれる思を遣るなり』といへり○イクヂ山は六卷にも見えて恭仁の宮人の好みて遊覧せし地とおばゆ○木立ノ繁ニサク花モを古義に
  シジニは俗にシゲウニといはむが如し。木立ノ繁ミニサクといふには非ず
といへり。案ずるになほ木立ノシゲミニサク花モといふ意とおばゆれば繁の字はシジとよまで名詞としてシゲとよむべし(シジニは副詞なり)。はやく久老もシゲとよめり。今もシゲといふ語は方言に殘れり。但十八卷なるコノクレ之氣爾は爾を彌の誤とすべきに似たり○サク花ノは言數に制せられてサクとは云ひたれどサキシの意と見るべし。さらではウツロヒニケリと相副はず。即皇子ノ曾テ活道山ニ遊ビ給ヒシ時木立ノ茂ミニサキタリシ花ハウツロヒニケリ。ゲニ世ノ中ハカクノミナラシ云々といへるなり。略解に『ウツロヒニケリは薨じたまふをいふ』といへるは非なり○世ノナカハカクノミナラシはゲニ世ノ中ハカクハカナキモノナラシの意(577)にて皇子の薨ぜし事を匂はせたるなり。以上六句頗巧なり。○梓弓ユギトリオヒテといへるすこし不明なり。まづ梓弓ト靭トヲ取負ヒテといふ意かと思へど、さてはいひざま穩ならざる上靭こそあれ弓は取負ヒテとはいふべからず。さればアヅサユミはユギノ枕と見るべきか。再案ずるに卷十九なる天平五年贈入唐使歌にアラキ風浪ニアハセズとあるはアラキ風及浪ニ逢ハセズと云へるなり。今も之を例としてなほ梓弓及靭ヲ取負ヒテと心得べきか。もし然らば取負ヒテは取帶ビテと心得べし○カクシモガモはカク仕ヘタシといふ意○御門は御殿なり。古義に『宮門をさして申せり』とあるは非なり○サワグ舍人のサワグは實はサワギシなり。今サワグにあらず○シロタヘニコロモトリキテは喪服を着るをいふ○ヱマヒフルマヒのヱマヒは語の如く、フルマヒは悲喜いづれにも就かざる語にてヱマヒと對せざるが故にすこし異樣におぼゆれど意を酌みて平素快活ナリシ顏附フルマヒガと釋くべし○召は呂の誤字なり。カナシキロのロは助辭なり
   反歌
479 (はしきかも)皇子の命のありがよひ見之《メシシ》いくぢの路はあれにけり
(578)波之吉可聞皇子之命乃安里我欲此見之活道乃路波荒爾鶏里
 ハシキカモはミコノ命にかゝれり。コゴシカモイヨノタカネノの類なり(四二二頁參照)○アリガヨヒはカヨヒツツなり。メシシ(雅澄の訓に從ふ)は見給ヒシなり
 
480 大伴の名におふ靭おひてよろづ代|爾〔左△〕《ト》たのみし心いづくかよせむ
大伴之名負靭帶而萬代爾憑之心何所可將寄
     右三月二十四日作歌
 名ニオフは名ニカナフなり。名は職なり(歴朝詔詞解第十一詔の解及記傳三十九卷十二丁參照)。大伴はもと武官の職名なりしが終に氏となれるなり。家持時に内舍人たり。内舍人は大刀をはき靭を負ひて仕へ奉る職なれば大伴ノ名ニオフユギオヒテとはいへるなり〇三句はヨロヅヨニトとあるべし。即萬代ニ仕ヘ奉ラムトといふべきを略せるなり。トの辭なくてはユギオヒテといふことタノミシにかゝりて筋通らず。おそらくは爾は跡などの誤にてヨロヅヨトなるべし。ヨロヅヨニトをヨロヅヨトとはいふべし。二卷(本書二八二頁)にもワガオホキミノ萬代トオモホシメシテツクラシシカグ山ノ宮云々とあり○イヅクカヨセムは誰ニカ寄セムといふ(579)意なり
 
   悲2傷死妻1高橋朝臣作歌一首并短歌
481 しろたへの 袖さしかへて なびきねし わが黒髪の ましらがに 成極《ナラムキハミ》 新世《アラタヨ》に 共にあらむと (玉の緒の) たえじい妹と 結びてし 事ははたさず 思へりし こころはとげず しろたへの  たもとをわかれ にきびにし 家ゆもいでて 緑兒の なくをもおきて (朝霧《アサギリノ》) 髣髴爲乍《オホニナリツツ》 山しろの さがらか山の 山際《ヤマノマヲ》 ゆきすぎぬれば いはむすべ 將爲△便《セムスベ》しらに 吾妹子と さねし妻屋に 朝庭《アシタニハ》 いでたちしぬび 夕には いりゐなげかひ わきばさむ 兒のなく母〔左△〕《ゴトニ》 雄《ヲトコ》じもの おひみ抱見《イタキミ・ウダキミ》 (朝鳥の) ねのみなきつつ こふれども しるしをなみと ことどはぬ 物にはあれど わぎもこが いりにし山を よすがとぞおもふ
白細之袖指可倍氏靡寢吾黒髪乃眞白髪爾成極新世爾共將有跡玉緒乃(580)不絶射妹跡結而石事者不果思有之心者不遂白妙之手本矣別丹杵火爾之家從裳出而緑兒乃哭乎毛置而朝霧髣髴爲乍山代乃相樂山乃山際往過奴禮婆將云爲便將爲便不知吾妹子跡左宿之妻屋爾朝庭出立偲夕爾波入居嘆舍〔左△〕腋狹〔左△〕兒乃泣母〔左△〕雄自毛能負見抱見朝鳥之啼耳哭管雖戀効矣無跡辭不問物爾波在跡吾妹子之入爾之山乎因鹿跡叙念
 ナビキネシアガ黒髪といふつづきすこし穩ならず○成極を略解にナラムキハミとよめるを古義にカハラムキハミに改めたれど、なほナラムキハミとよむか又はナリナムキハミとよむべし。化とかけるをナルとはよむべし。成とかけるをカハルとはよむべからず。さてナラムキハミはナラムマデなり○新世は舊訓にアタラヨとよめるを久老雅澄アラタヨとよみ改めたり。アラタ世は現代をたゝへていへるにか○タエジイ妹トのイは助辭なり。ヨなどを用ふると同じ心もちにて用ひたる助辭なり。何か無くては調に物足らぬ所あるなり○ムスビテシはチギリテシなり○事〔右△〕を槻の落葉及略解に事は言なりといひ古義に言ヲバ果サズなりと云へれど字の如く事と心得て可なり。トゲズはトホラズなり○タモトヲワカレのヲはヨリ(581)のヲなり。作者ノ袂ヨリワカレなり○ニキブはアラブの反對にて馴るる事、オキテは跡ニ殘シテなり○朝霧髣髴乍は略解にアサギリニホノニナリツツとよめるを古義に宣長の説に從ひてアサギリノオホニナリツツとよみてアサギリノを枕とせり。此説是なり。オホニは不明ニなり○山際は舊訓にヤマノマヲとよめるに從ふべし(略解にはヤマノマニとよみ古義には下に從の字をおとせりとしてヤマノマユとよめり)○將爲便の便の上に今一つ爲の字ありしをおとせるにや○朝庭を舊訓にアシタニハとよめるを雅澄はアサニハニとよみ改めて
  妻屋ノ朝庭ニなり。ニハは語辭にあらず。次のユフベニハのニハと異なり
といへり。こは久老の説によれるなるがかく云へるは朝ニハの意としてはツマヤニイデタチシヌビとは續かざるによりてかく云へるなれど、こは元來
  わぎもことさねしつまやをあしたにはいでたちしぬび、わぎもことさねしつまやに〔右△〕ゆふべにはいりゐなげかひ
といふべきなれど然同じ事を二度いひては煩はしくもあり手づつにてもあればイデタチの方はヲといふべくイリヰの方はニといふべき語格をさしおきて一方(582)のニを以て二つをふさねたるなり。されば朝庭はなほ舊訓の如くアシタニハとよみて朝ニハの意とすべし○ワキバサム以下は二卷人麿の長歌(三〇〇頁)に
  若兒のこひなくごとにとりあたふものしなければをとこじものわきばさみもち云々
とあるを學べるなり○雄を舊訓はヲノコとよみ久老はヲトコとよめり○泣母の母は毎を誤れるなり。抱見は舊訓にイダキミとよめるを雅澄はウダキミとよめり。いづれにてもあるべし。ウダクはイダクの古語なり○シルシヲナミトのトは除きて見るべし。後世はただナミといひてナミトと云はず。コトドハヌは物言ハヌなり○ヨスガは心を寄する對象なり
 
   反歌
482 うつせみの世の事なればよそにみし山をや今はよすが爾〔左△〕《ト》思はむ
打背見乃世之事爾在者外爾見之山矣耶今者因香爾思波牟
 世ノコトナレバは世ノナラヒナレバといふ事。二三の間に今ハ是非ナシといふ辭(583)を補ひて聞くべし○爾は跡の誤か
 
483 (朝鳥の)啼耳《ネノミヤ》なかむわぎもこに今またさらにあふよしをなみ
朝鳥之啼耳鳴六吾妹子爾今亦更逢因矣無
    右三首七月廿日高橋朝臣作歌也。名字未v審。但云2奉膳之男子1焉
 一本に啼耳の下に也の字ありといふ。さらば舊訓の如くネノミヤとよむべし○奉膳《ブゼン》は内膳司の長官にて高橋|安曇《アヅミ》二氏の世職なり。もし他氏之に任ぜらるれば奉膳と云はで上《カミ》と云ひしなり
                           (大正五年二月十六日脱稿)
(流布本目録省略)
 
 昭和三年三月三日 印 刷
 昭和三年三月六日 發 行
 (非 賣 品)
 著 者         井  上  通  泰
 
         東京市麹町区内幸町一丁目六番地
 發 行 者       中 塚 榮 次 郎
         東京市下谷區二長町一番地
 印 刷 者       守   岡     功
         東京市下谷區二長町一番地
 印 刷 所       凸版印刷株式會社
         東京市麹町区内幸町一丁目六番地
 
 發行所         國民圖書株式會社
               電話銀座七八三番
                   二一八八番
               振替東京五二二九八番
 
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萬葉集新考第二   1928.4.30
 
   圖版解説
紙本、縦一尺二寸七分、横一尺七寸八分。契沖阿闍梨の自畫賛である
契沖は元來眞言宗の高僧なるが萬葉集代匠記の著者で又近世歌學の開組とも云ふべき人である
  鴈啼てきくのはなさく秋はあれど春のうみ邊にすみよしのはま 沙門契沖
と書ける歌は伊勢物語に見えたる古歌である。契沖は畫をかいた事が無いといふ人があるさうであるが少いだけで、無い事は無い。此圖版の歌と畫と同筆なるは如何なる懐疑者といふとも首肯するであらう。然し若自作の歌であるならば尚耳を掩うて鈴を盗む輩があるかも知れぬが其輩の口をなも塞ぐべきは古歌を書ける事である。人のかいた繪に加へた賛ならば古歌を書きはすまじく、たとひ故あつて人の繪の賛に古歌を書くとも沙門契沖とばかり識しはすまいでは無いか
契沖の沖は多数の眞蹟に就いて檢するに冲と見えるもある。されば或は冲を正しとし或は沖を是とすろ事であるが元來冲と沖とは同字であるから自身も或は冲と書き或は沖と曹いたであらう
 
(凡例省略)
(目次省略)
 
(613)萬葉集新考卷四
                    井上通泰著
 
   相聞
    難波天皇(ノ)妹|奉d上《タテマツリシ》在2山跡1皇兄u御謌一首
484 ひと日こそ人|母《モ》待告〔左△〕《マツベキ》ながきけを如此所〔左△〕待者《カクノミマテバ》有不得勝〔左△〕《アリガテヌカモ》
一日社人母待告長氣乎如此所待者有不得勝
 契沖いはく
  妹とのみあるは何れの皇女と知れざるなるべし。……仁コ天皇の御代に此皇女も難波にましまして異腹の皇兄等の御中に御心を通はされたるが常は難波に坐ますが假初に大和へおはしましたるを待佗て贈らせ給ふと見えたり
といへり。難波天皇妹とありて奉上皇兄とあればその皇兄は難波天皇即仁コ天皇ならむ○第二句は舊訓に人モマチツゲと訓めり。契沖は此訓に從ひて告を繼の借(614)字とせり。又雅澄は告を志の誤字として人ヲモマチシとよめり。案ずるに告は吉の誤にてその吉の上に倍などをおとしたるにて人モマツベキにあらざるか。コソとかゝれるをベケレと結ばでベキと結ぶは古格にてオノガ妻コソトコメヅラシキの類なり(玉緒七卷七丁參照)○ナガキケのケはケナガクのケにて日數といふことなり○第四句は宣長の所を耳の誤としてカクノミマテバとよめるに從ふべし○結句を眞淵はアリガテナクモとよみ田中道麻呂は勝を鴨の誤としてアリガテヌカモとよめり。卷十一に君ニコヒツツ有不勝鴨《アリガテヌカモ》とあるを例とし有不得鴨の誤としてアリガテヌカモとよむべし。カテヌはアヘヌといふ事なれば不勝とも不得とも書くべし
 追考 第二句の告は諸本に吉とあり
 
   岳本天皇御製一首并短歌
485 神代より あれつぎくれば 人さはに 國にはみちて (あぢむらの) 去來者《カヨヒハ》ゆけど わがこふる 君にしあらねば 晝は 日のくるるまで (615)よるは 夜のあくるきはみ おもひつつ いねがてに登《ト》 あかしつらくも ながき此夜を
神代從生繼來者人多國爾波滿而味村乃去來者行跡吾戀涜君爾之不有者晝波日乃久流留麻弖夜者夜之明涜寸食念乍寐宿難爾登阿可思通良久茂長此夜乎
 左註に云へる如く高市岳本《タケチヲカモト》(ノ)宮即舒明天皇の御製にや後(ノ)岡本(ノ)宮即齊明天皇の御製にや明ならず。古義に
  今御製詞に依て考るに後岡本宮齊明天皇の皇后に立せ賜ひて後か、またはいまだ皇后に立せ賜はぬ前か舒明天皇を思奉りて御製《ミヨミ》ませるにやあらむ
といへり。婦人の作とおぼゆれば此説に從ふべし○略解に題辭なる御製の下に歌の字を補へり
 アレツギは生レ繼ギなり○去來者は宣長のカヨヒハとよめるに從ふべし○キハミはマデといふに同じ。上なるマデに對して語を換へたるのみ○寐宿難爾登《イネガテニト》は宣(616)長の説にイネガテニシテキミマツト〔六字傍点〕とありしが中間の六言おちたるなるべしといへり。もとのまゝにて可なり。イネガテニをイネガテニトとのたまへるはシラニをシラニトといふと同格なり○アカシツラクモはアカシツルモなり
 
   反歌
486 山のはにあぢむらさわぎゆくなれど吾はさぶしゑ君にしあらねば
山羽爾味村騷去奈禮騰吾者左天思惠君二四不在者
 上三句は山ノハニ味村ノサワギユク如ク人サハニサワギユクナレドといふ意とおぼゆ。さらば山ノハニアヂムラの九言はサワギの序とすべけれどさる序は異樣なる上にサワギユクの主格無ければ辭足らず。案ずるにいにしへの歌殊に反歌は意だに通ずればよしとして強ひて辭の足らざるを嫌はざりしにや。一卷三山歌なる反歌もタチテ見ニコシイナミ國ハラとのみいひて阿菩大神ノといふことを云はねば
  二山の闘諍を伊奈美の國が見に來りし由の傳ありて其方に據てよませ給へるにぞあるべき(犬※[奚+隹]隨筆下卷三十三頁)
(617)などいふ説も出來たれどなほ主格を略せるなり。又卷六歌※[人偏+舞]所之諸王臣子等集2葛井《フヂヰ》(ノ)連《ムラジ》廣成家1宴歌の小序に
  比來古※[人偏+舞]盛興、古歳漸|晩《クル》、理宜d共盡2古情1同唱c古〔右△〕歌u故擬2古〔右△〕趣1輙獻2古曲二節1云々(△を添へたる二つの古の字は本に此とあり。今改めつ)
とありて
  春さればををりにををりうぐひすのなくわが島ぞやまずかよはせ
とあるもヲヲリニヲヲリの前に花ノといふべきを略せり。而してかく主格を略せるがやがて古趣に擬したる所なるべし○サブシヱのヱは助辭、サブシは不樂なり
 
487 あふみぢのとこの山なるいさや川けのこ呂《ロ》ごろはこひつつ裳〔左△〕《カ》あらむ
淡海路乃烏龍之山有不知哉川氣乃己呂其侶波戀乍裳將有
    右今案高市岳本宮、後(ノ)岡本宮二代二帝各有v異焉。但※[人偏+稱の旁]2岡本天皇1未v審2其指1
 第四句のケは例のケなり。宣長は呂を乃の誤字としたれどなほもとのまゝにてあ(618)るべくケノコロゴロはコノ日頃といふ事なるべし○契沖は上三句をケの序として序よりつづきたるケは水の氣にて霧なりといひ略解には
  これはいさや河といふ地の名をやがて女の情をいさ不知といふにとりなし給へり(○千蔭は舒明天皇の御製とせるなり)
といへり。案ずるにこは千蔭のいへる如くケノコロゴロハコヒツツ裳アラムイサといふべきイサを序に讓れるにて三首下なる
  眞野の浦のよどの繼橋こころゆもおもへや妹がいめにしみゆる
 又卷二(二〇八頁)なる
  神山のやまべまそゆふみじかゆふかくのみ故にながくとおもひき
などと同體なり○コヒツツ裳アラムの裳は誤字にてコヒツツカ〔右△〕アラムなるべく四五の意は君モ此日頃我ヲ戀ヒ給フデアラウカとのたまへるなり○此御製に近江の地名を序につかひたまへるを見れば此長歌及反歌は夫の皇子(又は帝)の近江にいでませる程によみたまひしなるべし
 
   額田王思2近江天皇1作歌一首
(619)488 君まつとわがこひをればわがやどのすだれうごかし秋の風ふく
君待登吾戀居者我屋戸之簾動之秋風吹
 近江天皇は天智天皇なり〇人まどはしに秋風が簾を動かすよとなり
 
   鏡王女作歌一首
489 風をだに戀流者《コフルハ》ともし風をだにこむとしまたば何かなげかむ
風乎太爾戀流波乏之風小谷將來登時待者何香將嘆
 此女王の名こゝと卷二(四處)と卷八とに見えたる皆鏡王女とあり。眞淵の説(考別記二)によればそは皆鏡女王の誤なりといへどなほもとのまゝにて鏡王の女とよむべき由上(一三七頁)に云へり○此歌は眞淵のいへる如く前の歌の和歌とおぼゆ。略解に
  宣長云三の句の風ヲダニは上なる詞を重ねたるのみ也。風ヲダニ戀ルハトモシといふ二句を重ねいふ意也といへり
といへり。案ずるにこゝのトモシは飽かぬ意としてソノ風ヲダニ我戀フルハイト(620)飽カヌ事ナリと釋くべし。即一首の意は
  君は人まどはしに秋風の簾を動かすを憎みたまへどその風をだに我戀ふる事の乏しさよ。天皇の來給はむ事を期して待ち給はば遲くとも何か嘆き給ふべき。我は寵衰へて入御を仰がむ望も無し
といへるなるべし
 
   吹黄(ノ)刀自歌二首
490 眞野の浦のよどの繼橋こころゆもおもへや妹がいめにしみゆる
眞野之浦乃與騰乃繼橋情由毛思哉妹之伊目爾之所見
 初二は序なる事明なれど三句以下にツギテなどいふ事無ければ常の例とは異なり。宣長いはく繼橋ノツギテオモヘバニヤ云々といふ意なりと。然らばツギテといふことを略せるにて前なるアフミヂノトコノ山ナルイサヤ川といふ歌の類なり○眞野は卷三に眞野ノハリ原とあると同處にて神戸市の西部にあり。ツギハシは略解に『中に島の如き所有てまた懸渡せるをいふ也』といへり。處々に柱を立てゝ板を繼ぎたる橋ならむ○ココロユモのモは助辭にてココロユはココロニなり。而し(621)てそはオモヘヤにかゝれるなり。下にもココロユモアハ思ハザリキ、ココロユモオモハヌアヒダニなどよめり。宣長が『心から妹が夢に見ゆるといふ意なり』といひ雅澄が『情裏ヨリモといふが如し。モは表はさるものにて裏よりも眞實に思ふよしなり』と云へるは共に非なり。オモヘヤは思ヘバニヤなり○第四句に妹とあるにつきて契沖は『吹黄刀自は女なり。然るを此歌に妹之とあるはもし君ガ、セナガなどよめるを誤て傳へたるにや』といひ宣長は女どちも妹といふといひ雅澄は女どち妹といへる例を擧げたり。男どちセコといへば女どちイモといふべきは論なけれど、なほ略解にいへる如く此歌は男より吹黄刀自に贈れるにて次の歌こそ吹黄刀自の歌ならめ
 
491 河上のいつもの花のいつもいつもきませわがせこ時じけめやも
河上乃伊都藻之花乃何時何時來益我背子時自異目八方
 卷一にも此人の歌に河上と書けるをカハカミともカハノヘともよむべき由云へり。河ノホトリといふ意なればカハノヘとよまむ方穩なる如くなれど卷十四に可波加美ノネジロタカガヤと假字書にせる例あり(四一頁參照)○イツ藻のイツは河(622)上ノユツイハムラのユツに同じくて澤山といふ事なり。五百ツをつづめてユツともイツともいふを今はイツモイツモをさそひ出さむが爲にイツといへるなり(契沖、千蔭)○イツモイツモはイツニテモといふ事(卷三參照)○トキジケメヤモのヤモは後世のヤハ、トキジケメヤはトキジカラムヤにて古義にいへる如く何時トテモ時ナラズトイフ事アラムヤハといふ意なり
 
   田邊(ノ)忌寸《イミキ》櫟子《イチヒコ》任2太宰1時歌四首
492 衣手にとりとどこほりなく兒にもまされる吾〔左△〕《キミ》をおきていかにせむ
衣手爾取等騰己保里哭兒爾毛益有吾乎置而如何將爲
 一本に舍人吉年の作とせり○契沖千蔭雅澄共に櫟子の任に下りし時に其妻又は一婦人のよみし歌とし又上三句を母ノ袖ニスガリテナク子ニモといふ意とせり。されどよく思ふに他人の作れる歌とせむには結句のオキテイカニセムといふ事かなはず(他人の作ならばオキテイカニセムトカスルといはざるべからず)。辭を換へていはば結句は旅だつ人自身のいふ辭にて之を送る人のいふ辭にあらず。ただ不審なるは四句なり。即四句に吾ヲとあるを正しとせば送る人の歌ならざるべか(623)らず。よりて思ふに吾ヲは君ヲの誤なるべく而して或本に舍人吉年(又千年)の歌とせるは後人のさかしらにて實は櫟子の歌なるべし。はやく玉の小琴に
  吾は君の誤といはれたる考の説よろし
といひ景樹も亦吾を君の誤とせり。右の如くなれば以下四首共に櫟子の作なり○トリトドコホリはトリツキテなり。マサレルはマサリテナクの略と見べし
 
493 置きてゆかば妹こひむかも(しきたへの)黒髪しきてながき此夜を
置而行者妹將戀可聞敷細乃黒髪布而長此夜乎
 一本に田部忌寸櫟子と註せるは例のさかしらなり。結句は置キテユカバの下におきかへて心得べし○シキタヘノは枕辭とはしるけれど何にかゝれるにか明ならず。冠辭考に
  こは末の意みな夜床のさまなれば總てに冠らせてシキタヘの語を置たる物にて云々
といへるはうけられず。シキテの枕と見るべきか。クロ髪シキテは女の寢る状なり
 
494 わぎもこをあひしらしめし人をこそ戀のまさればうらめしみおもへ
(624)吾妹兒矣相令知人乎許曽戀之益者恨三念
 上三句は契沖等のいへる如く媒セシ人ヲとなり○ウラメシミは形容詞の語幹にム(ミ)を添へたるにてヲシム、カナシム、イツクシムなどの類なり。ウラメシガリと譯すべし。古義總論八〇丁、同二卷下一一九丁にあまたの例を擧げてウラメシウと譯したるはいかが
495 朝日影にほへる山に(てる月の)あかざる君を山ごしにおきて
朝日影爾保敝流山爾照月乃不厭君乎山越爾置手
 結句の下にスギユカムガカナシなどいふ辭を省きたるなり。千蔭雅澄は上三句をアカザルの序としたれど三句を序とすれば不審なる事あり。即朝日のにほはむには月は照るべからず。されば宣長のいへる如く第三句のみを枕として卷十二なるアラタマノ年ノ緒ナガクテル月ノアカザル君ヤアス別レナムと同格とすべし○朝日カゲニホヘル山ノ山ゴシニアカザル君ヲオキテといふべきをさはいひがたきによりてまづ山ニといひ結句に至りて更に山ゴシニといへるなり○此歌は前三首とはちがひて既に途に上りての後の作なり
 
(625)   柿本朝臣人麻呂歌四首
496 三熊野の浦のはまゆふ百重なす心はもへどただにあはぬかも
三熊野之浦乃濱木綿百重成心者雖念直不相鴨
 初二は序。ハマユフは濱オモトといふもの。其葉あまた重なりたればモモヘナスの序とせるなり(略解)○モモヘナス心ハモヘドは本集卷十六アサキ心乎ワガモハナクニの例によればモモヘナスはココロにかゝりココロハはココロヲバの略なり。即そのかみココロヲオモフといふ熟語ありしなり。但集中にココロハモヘドとよめるにココロニハのニを省きたりと見べきあり。なほ其歌の處に至りていふべし○タダニアフは直接に逢ふ事、こゝのアハヌカモはアハヌカナといふ意なり
 
497 いにしへにありけむ人もわがごとか妹にこひつつ宿不勝家牟《イネガテズケム》
古爾有兼人毛如吾歟妹爾戀乍宿不勝家牟
 結句、舊訓にイネガテニケムとよみ略解古義共に之に從ひたれどシを挿みてイネガテニシ〔右△〕ケムといはでは語格とゝのはず(卷二にミナ人の得難爾爲云《エガテニストフ》ヤスミ兒エ(626)タリとあるを思へ)。されば契沖の説に從ひてイネガテズケムとよむべし。ズケムは集中にナニスレゾハハトフハナノサキデ己受祁牟《コズケム》(卷二十)サヤマダノヲヂガ其日ニモトメ安波受家牟《アハズケム》(卷十七)など假字書にせる例あり。今はザリケムとのみ云へどいにしへはズケムとも云ひしなり。卷三(四四五頁)にもヱヒナキスルニナホシカズケリとあり
 
498 今のみのわざにはあらずいにしへの人ぞまさりて哭左倍《ネニサヘ》なきし
今耳之行事庭不有古人曽益而哭左倍鳴四
 初二は今ノ世ノミノ事ニアラズとなり。哭左倍は略解にナキサヘとよみたれど、なほ舊訓の如くネニサヘとよむべし。聲ヲアゲテナキサヘシタとなり
 
499 ももへにも來及※[毛三つ]常《キシカヌカモト》おもへかもきみが使のみれどあかざらむ
百重二物來及※[毛三つ]常念鴨公之使乃雖見不飽有哉〔左△〕
 二句は舊訓にキオヨベカモとよめるを契沖はオヨブといふ古言なければとてキシケカモとよみ雅澄は
(627)  キシカヌカモトと訓べし。シカヌといふはヌは希望の辭のネの轉れるなり(不の字の意にあらず)。アレカシ、アヘカシとねがふ意をアラヌカモ、アハヌカモなど云る例にてこゝの意をわきまへつべし。さて及の一字にてはシカヌと訓べからねばこゝは字の脱たるものかとも云べけれどねがふ意のヌの辭は省きて書る例集中に多し。七卷にアヲミヅラ云々人|相鴨《アハヌカモ》、十卷にカスミタツ云々妹|相鴨《アハヌカモ》、又サツキ山云々マタ鳴鴨《ナカヌカモ》またホトトギスキヰモ鳴香《ナカヌカ》、十一にワガセコハ云々人|來鴨《コヌカモ》又日クレナバ云々有與鴨《アリコセヌカモ》又カクシツツ云々|有鴨《アラヌカモ》又シキタヘノ云々急明鴨《ハヤモアケヌカモ》これら皆ヌの辭にあたる字を略きて書り(○玉勝間十三卷二丁『萬菓集に不字を略きて書る例』を參照すべし)。……本居氏のシケカモとよめるは(○契沖はやく然よめり)及の訓はよろしけれどアレをアレカモ、アヘをアヘカモなど云べき語格なければなほあしかりけり
といへり。案ずるにヌカモといへるにセヌカナの意なるとセヨカシの意なるとあり。甲は瀧ノミヤコハミレドアカヌカモ、君ヲシモヘバイネガテヌカモの類にて乙の例はタユルコトナクアリコセヌカモ、三笠ノ山ニ月モイデヌカモなどなり。而し(628)て乙の意なるヌカモに不の字を書けるは集中に一首もあること無し。然も雅澄が此ヌを希望のネの轉ぜるなりと云へるはなほ研究を要す。又乙の意なるはヌカとのみも云へり(ヒサカタノ雨モフラヌカ、人モナキ國モアラヌカなどの如し)。
  因にいふ。不△カモと書けるにはヌカモとよむべきとジカモとよむべきとあり。ジカモとよむべきは卷三(四六四頁及四六八貢)なる君ニアハジカモの類なり。此例集中に六七首あり
 又セヨカシの意なる中にはヌに當れる文字無きもある事雅澄の云へる如し。但雅澄の擧げたる例の中にはアハムカモ(アハジカモの反對)とよむべきものあるに似たり。なほ其歌々の處に至りていふべし〇一首の意はオヒカケオヒカケ使ノ來レカシト心ニ願ヘバニヤアラム、カクシバシバ來ル君ノ使ノナホ見レドアカヌといへるなり○哉は武の誤ならむ
 
   碁《ゴ》(ノ)檀越《ダンヲチ》往(ケル)2伊勢國1時留(レル)妻作歌一首
500 (かむ風の)伊勢の濱をぎをりふせてたびねやすらむあらき濱邊に
神風之伊勢乃濱荻折伏客宿也將爲荒濱邊爾
(629) ハマヲギは濱におひたる荻なり。伊勢にてハ葦の事をハマヲギといふといふは此歌によりて後人のいひいでたる俗説なり(契沖)
 
   柿本朝臣人麻呂歌三首
501 をとめらが袖ふる山のみづがきの久しき時ゆおもひきわれは
未通女等之袖振山乃水垣之久時從憶寸吾者
 上三句はヒサシキの序、その中にて又ヲトメラガソデの七言はフル山の枕なり。梓ユミヒキトヨ國などの類なり
 
502 夏野ゆくをしかの角《ツヌ》のつかのまも妹が心をわすれてもへや
夏野去小牡鹿之角乃束問毛妹之心乎忘而念哉
 初二は序なり。夏は鹿の角おひかはりてまだ短ければツカノマの序としたるなり(契沖)。此序なども新にいひ出でむは容易ならじ○ワスレテモヘヤは一つの辭づかひにてただワスレムヤといふに同じ、卷一にも大伴ノミツノハマナル忘貝イヘナル妹ヲワスレテモヘヤといふ歌あり
 
(630)503 (珠衣《タマギヌ》の)さゐさゐしづみ家の妹にものいはず來而《キテ》おもひかねつも
珠衣乃狹藍左謂況家妹爾物不語來而思金津裳
 卷十四に
  安利伎奴乃佐惠佐惠之豆美いへのいもにものいはず伎爾※[氏/一]おもひぐるしも
といふ歌あり。柿本朝臣人麻呂歌集中出とさへあればもとは今の歌と一つなりし事しるし。右の卷十四なる歌によりて眞淵(冠辭考)はアリ〔二字右△〕ギヌノ……モノイハズキニ〔右△〕テとよみたれど珠衣をアリギヌとよむべき由なし。なほ舊訓のまゝにタマギヌとよむべく(玉勝間六卷【三十丁】に四の卷なるはタマギヌにて裳に玉裳といふ類なりといへり)そのタマギヌは玉を着けたる衣なり(古義に珠を蟻の誤としてアリギヌとよみオリギヌの義とせるは鑿説なり)。さてタマギヌノはサヰサヰの枕辭なり○第二句は冠辭考に『妻がなげきさやめくをしづめんとて』云云と釋き略解古義共に此説に從ひたり。案ずるにサヰサヰはシホサヰのサヰにて騷といふこと、シヅミはシヅマリの約なり。當時の俗語方言にはかく異常に語をつづめたる例少からず。なほ後にいふべし
(631)  因にいふ。シヅマリをつづめてシヅミともいへばこそ下にナミダニシヅミのシヅミに定の字を借りたるなれ。定は安定の定にてシヅマリともよむべし
 ○來而はなほ舊訓の如くキテとよむべし。此歌と卷十四なると辭句ひとしからず。此歌は此歌として訓を施すべく卷十四なるに拘はるべからず○オモヒカネツモは思ニタヘカネツモなり。オモヒカネ妹ガリユケバのオモヒカネに同じ〇一首の意ハ騷にマギレテヰタガ女房トヨク話ヲセズニ來テ騷ガ靜マツテカラ思ニ堪ヘカネルといへるなり。こはおそらくは防人の歌にて人麻呂の作にはあらじ
 
   柿本朝臣人麻呂妻歌一首
504 君が家にわれ住坂の家ぢをもわれは不忘《ワスレジ》いのちしなずば
君家爾吾住坂乃家道乎毛吾者不忘命不死者
 キミガイヘニワレの八言はスミ坂の枕辭なり(宣長)。いにしへ夫婦となれば男の方より女の家にゆきて宿りしなり。之をスムといふ。此歌の趣にては女の方より男の家にゆきてやどるやうにきこゆ。此事千蔭雅澄もはやく不審せり。案ずるに題辭に柿本朝臣人麻呂妻歌とあるは誤にて妻の上に贈の字のありしがおちたるにはあ(632)らざるか○住坂は地名。書紀神武天皇紀、古事記水垣宮の段などに墨坂といふ地名見えたるを宣長(記傳二十三卷)は宇陀郡萩原《ハイバラ》驛の西にありといひ而して此歌のスミ坂は『宇陀の墨坂とは思はれず。坂は誤字ならむか』といへり(略解に引けり)○スミサカノイヘヂは住坂を經て彼家に到る道なり(古義)○不忘を雅澄はワスラジとよめり。ワスレジにて可なり
   安倍(ノ)女郎歌二首
505 今さらに何をかおもはむうちなびきこころは君によりにしものを
今更何乎可將念打靡情者君爾縁爾之物乎
 ウチナビキは寄ルの形容なり。何ヲカオモハムは考ヘル事ハ無イとなり
 
506 わが背子は物なおもひそ事しあらば火にも水にもわれなけなくに
吾背子波物莫念事之有者火爾毛水爾毛吾莫七國
 第四句はいたく辭を略したり。タトヒ火ニ入リ水ニ入ル事アリトモの意なり○ナケナクニはナカラナクニにて畢竟吾アルニといふことなり。卷一にもワガオホキ(633)ミ物ナオモホシスメ神ノツギテタマヘル吾ナケナクニといふ歌あり
 
   駿河※[女+采]女歌一首
507 (しきたへの)枕ゆくぐる涙にぞうきねをしける戀のしげきに
敷細乃枕從久久流涙二曾浮宿乎思家類戀乃繁爾
 水に浮びて寢るをウキネといへば枕をくぐりおつる涙に浮寐をしつといひて涙の多き事を形容したるなり。上四句の形容の誇大なる、頗古今集時代の歌に近し
 
   三方《ミカタ》(ノ)沙彌《サミ》歌一首
508 (ころもでの)別今夜從《わかるこよひゆ》、妹も吾もいたくこひむなあふよしをなみ
衣手乃別今夜從妹毛吾母甚戀名相因乎奈美
 第二句を契沖宣長共にワカルコヨヒユとよめり。之によればワカルはいにしへ四段活なりしなり。但卷十八なる長歌にコロモデノワカ禮之トキヨとあればはやく今の如く二段にもはたらきしなり○コヒムナのナは嘆辭にて集中に多くつかひたり
 
(634)   丹比《タヂヒ》(ノ)眞人《マヒト》笠麻呂下2筑紫國1時作歌一首并短歌
509 臣女《タワヤメノ》の くしげに乘有《ノレル》 鏡なす みつの濱邊に さにづらふ 紐ときさけず 吾妹兒に こひつつをれば あけぐれの あさ霧がくり なくたづの ねのみしなかゆ わがこふる 千重のひとへも なぐさ漏《モル》 こころも有哉跡《アリヤト》 家のあたり わがたち見れば
臣女乃匣爾乘有鏡成見津乃濱邊爾狹丹頬相紐解不離吾妹兒爾戀乍居者明晩乃旦霧隱鳴多頭乃哭耳之所哭吾戀流千重乃一隔母名草漏情毛有哉跡家當吾立見者
 臣女は略解に『此二字は姫の字の誤れるにてタヲヤメとよまんか』といひ木村博士(美夫君志卷一下六六頁及訓義辯證上卷二六頁)は『官女の意をもてタヲヤメとよむべきなり』といへり。恐らくは姫の字を戲に二つに割きて書けるなるべし○乘有を宣長のノレルとよめるを雅澄は『鏡は匣の内にこそ納べきを乘とはいかでいはむ』といひて齋の一字の誤としてイツクとよみ改めたり。用なき時は匣の内に納むべ(635)く用ある時は匣の上に載せもすべければもとのまゝにてノレルとよむべし。實は舊訓の如くノスルとよまゝほしけれど有の字を添へ書きたればノスルとはよまれず。さて初三句はミツノハマビのミにかゝれる序なり○サニヅラフは赤く匂ふ事○紐トキサケズは上着をぬがでまろ寐をする事なり。卷九にヒモトカズマロネヲスレバワガキタルコロモハ馴レヌといひ卷二十にクサマクラタビユクセナガマルネセバイハ《ヘ》ナルワレハヒモトカズネムといへり。以て證とすべし○アケグレノ云々の三句はネノミシナカユのネにかゝる序なり。但略解に『其朝のけしきをやがて序に設て云々』といへるは非なり。アケグレは略解に云へる如く夜の明方まだほのぐらき程をいふ。代匠記には『明んとする折に却てしばらくくらがるを云』といひ古義にも『夜の明はてむとしてかへりてくらくなる時をいふ』といへり。さる事果してありやおぼつかなし○名草漏は舊訓にナグサムルとよめるを契沖は
  ナグサモルとも讀べし。三室の山を三諸とも云に同じ
といひ雅澄は
  ナグサムルとよむべし。漏はムルに借て書るなり。集中に高松《タカマト》、小豆無《アヂキナク》、足常《タラチネ》、間結《マヨヒ》な(636)ど書ると同類なり
といへり。字のまゝにナグサモルとよみてナグサムルにひとしと心得べし。ナグサムルをナグサモルといふは轉訛なり。轉訛を地方に限り後世に限る事と思はむは迂遠なり。神名の往往書によりて少しづつ相異なるを思へ○有哉跡を舊訓にアリヤトとよめるを宣長はアレヤトに改め略解古義共に之に從ひたれど、なほアリヤトとよむべし(二九五頁參照)。以上四句は卷二なる人麿妻死之後沈血哀慟作歌の中なるをさながら取れるなり○イヘノアタリは故郷ノ見當ヲなり
(あを※[弓+其]《ハタ・ヤギ》の)かづらき山に たなびける 白雲隱 (あまざかる) ひなの國邊に 直向《タダムカフ》 淡路をすぎ 粟島を そがひにみつつ 朝なぎに かこのこゑよび ゆふなぎに 梶のとしつつ 浪の上《ウヘ》を いゆきさぐくみ いはのまを いゆきもとほり いなびつま 浦みをすぎて (鳥じもの) なづさひゆけば
青※[弓+其]乃葛木山爾多奈引流白雲隱天佐我留夷乃國邊爾直向淡路乎過粟(637)島乎背爾見管朝名寸二水手之音喚暮名寸二梶之聲爲乍浪上乎五十行左具久美磐間乎射往廻二稻日都麻浦箕乎過而島自物魚津佐此去者
 青※[弓+其]は舊割にアヲハタとよみたり(文字辯證上卷三二頁に※[弓+其]は旗の俗體なるべしといへり)。冠辭考には楊の誤としてアヲヤギノとよめり○白雲隱の一句に誤字あるか又は此句の下に脱句あるべし。さらでは上なるワガタチミレバのをさまる處なし○直向を舊訓にタダムカフとよめるを宣長のタダムカヒに改めたるはヒナノ國ベニを受けたりと見たるなり。されどヒナノ國ベニは遙に下なるナヅサヒユケバにつづきたるなればタダムカヒと相受くべきにあらず。雅澄はタダムカフとよみて淡路につけりと見たるはよろしけれどヒナノクニベを『四國邊をさしていへり』といひて四國ニタダニムカヘル淡路といふ意に釋きたるは非なり。播磨と淡路との間なる明石海峡を過ぐとて遙に天末に見ゆる四國を拉し來りて四國ニタダムカフ淡路などいふべけむや。こは卷十五なる屬v物發v思歌に
  朝されば妹が手にまく、鏡なすみつの濱びに、大船に眞梶しじぬき、から國に渡りゆかむと、ただむかふ敏馬をさして、しほまちてみをびきゆけば云々
(638)とあるタダムカフに同じくて行手の地が作者にただむかふなり。之に反して卷六なる
  みけむかふ淡路の島に、ただむかふみぬめの浦の云々
とあるは甲の地に乙の地がただむかふなり。よくせずばまぎれぬべし。今は正面ニミユルといふにひとし○粟島は淡路國津名郡岩屋浦にあり。粟島ヲソガヒニ見ツツは粟島ヲスギといはむに同じ○朝ナギニ云々の四句は例の辭のあやに二つに分てるのみ○イユキサグクミ,イユキモトホリのイは添辭。サグクミは卷二なる岩根サクミテナヅミコシ(三〇三頁)卷六なるイホヘ山イユキサクミなどのサクミと同じ。ユキモトホル(囘避の意)の對に用ひたればゆきとほる事(突破の意)とおぼゆ。卷十一にイハホスラユキトホルベキマスラヲモともよめり○イナ日《ビ》ツマは卷六にイナ美《ミ》ツマとあり。又卷十五に印南《イナミ》ツマと書けり。契沖はただ印南をさしていふといひ千蔭は播磨印南郡につける海中の島なるべしといひ雅澄は印南郡の海邊なりといへり。こゝに播磨風土記賀古印南二郡の條に南※[田+比]都麻といふ島の名見えて印南郡の條に郡(ノ)南(ノ)海中有2小島1名曰2南※[田+比]都麻1と見えたり。又景行天皇賀古(ノ)松原より(639)此島に渡り給ひし趣同書に見えたれば賀古印南の郡境の延長線に近しとおぼゆ。然も今これに相當する島なし。大日本地名辭書には此ナビツマとイナビツマ(又イナミツマ)とを一つとして今の高砂に當てたり。高砂は加古印南二郡の界を流るゝ加古川の河口のデルタにて今は島のやうには見えねどいにしへは島ともいふべかりけむ(三六二頁カコノシマ參照)。ナビツマのナビはイナビに同じくツマは端の意にて元來イナビツマ島といひけむを略してナビツマといひしにこそ
  因にいふ。風土記の一本に即遁2度於南※[田+比]都島1とあるは都の下に麻の字をおとせるなり
○ウラミは浦つづきなり。○ナヅサヒユケバは艱ミ往ケバとなり
 
家の島 ありそのうへに うちなびき しじにおひたる 莫告我〔左△〕《ナノリソノ》 などかも妹に のらずきにけむ
家乃島荒磯之宇倍爾打靡四時二生有莫告我奈騰可聞妹爾不告來二計謀
(640) 家ノシマの前に脱句あるべし。さらではナヅサヒユケバといふ句のをさまる處なければなり。案ずるにもと
  鳥じものなづさひゆけば、家の島くもゐに見えぬ、その島のありその上に
などありしが二句おちたるにや。彼卷十五なる屬v物發v思歌(即今の歌と辭句頗相似たる歌)に
  朝なぎに船出をせむと、船人もかこもこゑよび、にほどりのなづさひゆけば、いへじまはくもゐにみえぬ
とあり。今は此歌によりてクモヰニミエヌソノ島ノの二句を補はむとはするなり。もしもとの如くばイヘノシマはイヘジマノとあるべし。然もことさらに地名の中間にノを挿みて調を成したるを見ても原作は今の如くならざりけむことを知るべし○家ノシマは屬v物發v思歌にはイヘジマとあり。今エジマといふ。播磨灘なる島々の中にては最大なる島なり○シジニはシゲクなり。莫告我を略解には宣長の説によりて我を毛の誤としてナノリソモとよみ古義には能の誤としてナノリソノとよめり。一句を隔てゝノラズにかゝれる枕なればナノリソノとよむべし○ノラ(641)ズキニケムは故ありて別を告げずて來りしなり。反歌と照らし合せて心得べし、古義に『たちのいそぎして家の妹に語るべきことをも語らず來にしを今悔しみて鳴呼何トテカ告ズ來ニケムコトヨといふなり』といへるは非なり
 
   反歌
510 しろたへの袖ときかへてかへりこむ月日をよみてゆきてこましを
白妙乃袖解更而還來武月日乎數而往而來猿尾
 ソデトキカヘテは宣長『男女別れて旅に行く時に袖を解放ちて互に更へてかたみとする事のありしなるべし』といへり。袖をときかへもせず還り來らむ月日を數へもせで別れ來りしを悔めるなり○ソデトキカヘテのテは除きて心得べし。袖を解き更ふる事と月日をよむ事とは別事なればなり。卷三(二七四頁)悲2傷死妻1歌なるニキビニシ家ユモイデテ〔右△〕緑兒ノナクヲモオキテ朝霧ノオホニナリツツ云々の上なるテと同類なり
 
   幸2伊勢國1時當麻《タギマ》(ノ)麻呂(ノ)大夫(ノ)妻作歌一首
(642)511 わがせこはいづくゆくらむ(おきつもの)なばりの山をけふかこゆらむ
吾背子者何處將行巳津物隱之山乎今日歟超良武
 既に卷一に出でたり(七二頁)。ナバリノ山は伊賀國名張郡の山なり(宣長)
 
   草孃歌一首
512 秋の田の穗田のかりばかかよりあはばそこもか人のわをことなさむ
秋田之穗田乃刈婆加香縁相者彼所毛加人之吾乎事將成
 草孃は略解に『草の下香を落せしか。しからばクサカノイラツメと訓べし』といひ雅澄は輟耕録に娼婦の事を草娘といへりといひてウカレメとよめり。草野の娘子即村孃といふことにあらざるか○カリバカはこゝの外に卷十に
  秋の田のわが苅婆可のすぎぬればかりがねきこゆ冬かたまけて
 又卷十六に
  あめなるやささらの小野にちがやかりかや苅婆可に鶉|乎〔左△〕《シ》たつも
とあり。宣長は門人道麻呂の説によりて『稻を刈る時田を若干の區に分ちてそを一(643)ハカ二ハカと今もいふ、そのハカにて一はかづつ數人にて寄合ひて刈る故にカヨリアフの序とせり』といひ千蔭雅澄はカリシホ、カリ時の意とせり。又久老は『カリバは鎌をいひカは處をいふ言にて鎌入る所をカリバカといへるなるべし』と云へり(信濃漫録二卷二七丁)。案ずるにカリバカは一定の廣さを一人の苅分《カリブン》と定めたるをいふ。卷十六の苅婆可は誤字なるべし。さて今はカリバカの下にニを補ひて見べし○初二は序とおぼゆ○穗田は穗の出でたる田、カヨリアフのカは添辭、ソコモカはソレニツケテモ、コトナスはイヒタテハヤスなり○一首の意は男ハソノ苅分《カリバカ》ヲ苅リ進ミ我ハワガ苅分《カリバカ》ヲ苅リ進ミテ偶然寄リ合ハムニソレヲモ心アル如ク人ノイヒハヤサムカといへるならむ
 
   志貴皇子御歌一首
513 大原のこの市柴のいつしかとわがもふ妹にこよひあへるかも
大原之此市柴乃何時鹿跡吾念妹爾今夜相有香裳
 初二は序なり。市柴は舊訓にイツシバとよみ雅澄も之に從へり。げに卷八、卷十一に五柴とあり。又イツシカトをさそひおこすにもイツシバといはむ方まされる如し。(644)されど字のまゝにイチシバとよみても亦イツシカトの序とせられざるにあらず。オキ〔右△〕ツ島山オクマヘテなどの例あればなり。案ずるに當時イツシバをなまりてイチシバともいひしかば其唱のまゝに市柴と書けるなるべし。さてイツシバのイツは上なる河上ノイツ藻ノ花のイツに同じくて物の數の多きをいふ。柴は雅澄のいへる如く芝の借字なり。イツシカトはイツシカ逢ハムトなり
 
   阿倍(ノ)女郎歌一首
514 わがせこがけせるころもの針目おちず入爾家良之△《イリニケラシナ》わがこころさへ
吾背子之蓋世流衣之針目不落入爾家良之我情副
 古義に『吾背子は中臣東人をさすなるべし。次にも東人とこの女郎と贈答たる歌あればなり』といへり○ケセルは着給ヘルなり。キルを敬語にケスといふなり。そはなほミルを敬語にメスといふが如し(古義)○ハリメオチズは針目毎ニなり(契沖)○家良之の下に奈の字の落ちたるなるべし(同上)。ナは嘆辭なり。上(六三三頁)にもイタクコヒムナ〔右△〕アフヨシヲナミとあり○ワガココロサヘのサヘは絲に對して云へるなり。かく云へるを見れば其衣は阿倍女郎の縫ひたるなり〇一首の意は君ノ爲ニワ(645)ガ縫ヒテ君ノ今著給ヘル衣ノ一針毎ニ絲ト共ニ我心サヘ入リニケラシ、ウベ我心ノ君ガ身ヲ離レヌといへるなり
 
   中臣朝臣東人贈2阿倍女郎1歌一首
515 獨ねてたえにし紐をゆゆしみとせむすべしらにねのみしぞなく
獨宿而絶西紐緒忌見跡世武爲便不知哭耳之曾泣
 旅さきより女に贈れるなり○ユユシミトはカシコミト、サガシミト、シルシヲナミトなどと同格にてそのトは省きて見べきトなり(本書三五〇頁、四七七頁、五八二頁參照)。古義にユユシカラムトテの意なりといひモシヤ他人ナドヲシテ著《ツケ》シメバユユシカラム云々と釋せるは非なり。紐の絶えにしがゆゝしきなり。ユユシミは俗にいふ縁起ガワルイカラなり。さてユユシミト、ネノミシゾナクなどこちたく云へるを思へばただ紐の絶えしに困《コウ》じたるにあらじ。おそらくは當時獨寢て衣の紐の絶ゆれば夫婦の契に不祥なる事ありなどいふ俗信ありしにこそ
 
   阿部女郎答歌一首
(646)516 わがもたるみつあひによれる絲もちてつけてましもの今ぞくやしき
吾以在三相二※[手偏+差]流絲用而附手益物今曾悔寸
 ミツアヒニヨレルイトとは三すぢより合せたる丈夫なる絲をいふ。出雲風土記に三身之綱とあり孝コ天皇紀大化元年に三絞之綱とあるもミツアヒの事ならむ。君ガ旅ニ出立ツ時丈夫ナル絲ニテ紐ヲ縫附ケオカマシモノヲとなり
 
   大納言兼大將軍大伴卿歌一首
517 神樹《カムキ》にも手はふる【とち】ふをうつたへに人妻といへばふれぬものかも
神樹爾毛手者觸云乎打細丹人妻跡云者不觸物可聞
 作者は大伴安麻呂にて旅人、坂上郎女などの父なり○神樹を舊訓にサカキとよめるを宣長はカムキと改訓せり。即神木なり○ウツタヘニはヒトヘニなり(契沖)〇一首の意はサシモカシコキ神木ニモ手ヲ鯛ルル事アルヲ人妻卜云ヘバ絶對ニ觸レラレヌモノカ、ナアと云へるにて人妻に思をかけたるなり
 
   石川郎女歌一首
(647)518 春日野の山邊の道をよそりなくかよひし君がみえぬころかも
春日野之山邊道乎與曾理無通之君我不所見許呂香裳
 作者は大伴安麿の妻なり(本書五六三頁參照)。ヨソリは卷十三なる問答歌に
  汝をぞも吾によすちふ、吾をぞも汝によすちふ、荒山も人しよすればよそるとぞいふ
とあれば寄る事なるは確なれどこゝはいかに釋すべきか。契沖は
  ともなひてより所とする人もなきなり
といひ千蔭は
  よるべきたよりもなき意なり
といひ雅澄は
  隨身もなく唯獨通ふ意なるべし
といひ景樹は
  ひたよりにかよひ來るを云。外によりなく一すぢに通ひし也
といへり。タヨリ、手ヅルの意にて古今集戀三なるヨルベナミ身ヲコソ遠クヘダテ(648)ツレのヨルベと同意なるか
 
   大伴女郎歌一首
519 雨障《アマザハリ》つね爲《スル》きみは(ひさかたの)昨夜《キソノヨノ》の雨にこりにけむかも
雨障常爲公者久堅乃昨夜雨爾將懲鴨
 元暦校本の註に今城王之母也今城王後賜2大原眞人氏1也とあり。略解、古義に大伴旅人の妻なる大伴郎女と同人、とせり。いかが○雨障は舊訓にアマザハリとよめるを宣長は大平のアマヅツミとよめるを採れり。案ずるにアマザハリとアマヅツミとは略同意なれど今はなほアマザハリとよむべく下なるフルトモ雨ニ將關哉もまた舊訓の如くサハラメヤとよむべし○爲は舊訓にスルとよめるを古義にはセスとよめり。もとのまゝにて可なり○昨夜は略解にキノフとよみ古義にキソとよめり。六言によみては口調よろしからず。寧キソノヨノアメニと八言によむべきか。卷二に君ゾキソノ夜イメニミエツル(二〇一頁)とあり○古義にいへる如くコヨヒハ來マサヌナラムといふ意を含めり
 
   後人迫同歌
(649)520 ひさかたの雨もふらぬか雨乍見《アマヅツミ》君にたぐひて此日くらさむ
久堅乃雨毛落糠雨乍見於君副而此日令晩
 題辭の同を諸註に和の誤とせり。但前の歌のかへしに擬したるにあらず。前の歌を見て寄雨相聞の意をよめるなり○フラヌカはフレカシ(六二八頁參照)アマヅツミはアマゴモリなり。その下にシテを補ひて心得べし。アサビラキコギニシ船ノ跡ナキゴトシのアサビラキと同格なり。タグフはナラブなり
 
   藤原|宇合《ウマカヒ》大夫遷v任上v京時常陸娘子贈歌一首
521 庭立《ニハニタツ》麻|乎〔左△〕《ヲ》かりほししきしぬぶあづまをみなを忘れたまふな
庭立麻乎刈干布慕東女乎忘賜名
 宇合常陸國守たりしなり。初二はシキの序なり。庭ニタツ麻ヲカリホシシクとかゝれり。シキシヌブは頻に思ふなり。初二は賤女のしわざを以て序としたり。されど此女が實際しかするなりとは思ふべからず。國の守に思はれ又歌をよむばかりの女なればまことの賤女にはあらず。自謙して無下の賤女のやうにいひなせるなり〇(650)庭立はニハニタツとよむべし。卷十四にニハニタ都アサテコブスマとあり。ニハニタツは庭ニ生フルにてそのニハは垣内《カキツ》なり
 
   京職(ノ)大夫《カミ》藤原(ノ)大夫賜〔左△〕2大伴良〔左△〕女1歌三首
522 をとめらがたまくしげなる玉櫛の神氣武毛《タマシヒケムモ》、妹にあはず有者《アラバ》
※[女+感]嬬等之珠筺有玉櫛乃神家武毛妹爾阿波受有者
 上の大夫はカミとよみて官職なり。下の大夫はマヘツギミとよみて爵位なり。名を麻呂といふ。賜は諸本に贈とあり。古義に郎女の上に坂上の二字を補ひたれど、もとのまゝにてあるべし○第四句を契沖はカミサビケムモとよみて『逢見ヌ事ノ久シキヲ思へバアタラシキ櫛モフリヌラムとなり』といへり。案ずるに初句にヲトメラガといひ尾句にイモといへる、重複していふべきにあらねば上三句は序と見ざるべからず。さて之を序と見るにタマグシノカミサビケムモとよみては序とならねば第四句はなほよみやうあるべしと思ひしに今村樂、神の字をタマシヒとよみし由古義にいへり。いみじき發明なり。之に從ふべし。即タマグシノタマシヒと音を重ねたる序なり。さてケムモは古義にいへる如くキエムモにてモは嘆辭なり○有者(651)はアラバとよむべし(從來アレバとよめり)
 
523 よくわたる人は年にもあり【ちと】ふを何時間曾毛《イツノホドゾモ》、吾戀爾來《わがこひにけり》
好渡人者年母有云乎何時間曾毛吾戀爾來
 卷十三に年ワタルマデニモ人ハアリトフヲイツノ間曾母、ワガコヒニ來といふ歌あり○初二は契沖『戀ニ能ク堪忍シテ有渡ル人ハ一年アハデモサテコソアルヲと云なり』といへり。年ニモは一年中モなり〇四五代匠記にはイツノホドゾモワガコヒニケリとよみ略解にはイツノマニゾモワガコヒニケルとよめり(古義にはイツノホドゾモアガコヒニケルとよめれどイツノホドゾモとよまば第四句にて切りて心得べくさてはコヒニケル〔右△〕と結ぶべき由なし)。契沖の訓によりて四五の間にワガ妹に逢ハザルハタダシバシノ間ナルヲハヤといふことを補ひてきくべし
 
524 蒸〔草冠なし〕〔左△〕《ムシ》ぶすま奈〔左△〕胡也《ニコヤ》がしたに雖臥《フセレドモ》、妹としねねば肌しさむしも
蒸〔草冠なし〕被奈胡也我下丹雖臥與妹不宿者肌之寒霜
 蒸〔草冠なし〕は蒸の誤字なり。古事記須勢理比賣命の御歌にムシブスマ爾古夜ガシタニとあ(652)りて熟語となれるをさながら用ひたるなり。久老は『奈胡也の奈は爾を書ひがめたるものなり』といへり(信濃漫録三十四丁)。爾の略字尓と奈とは相似たればさもあるべし。記傳卷十一に
  ムシブスマは暖なる由の稱《ナ》なり。ニコヤガシタニは柔之下《ニコヤガシタ》ニなり。ニコヤカのカを省けるなり
といへり。ニコヤガシタといへる異樣なれど神代の古語なれば今の語法にては律し難し。畢竟アタタケキ衾ノ軟ナルガ裏ニといふことと心得べし〇三句は舊訓にフセレドモとよめるを略解にフシタレドと改めたり。もとのまゝにてあるべし
 
   大伴郎女和歌四首
525 さほ河の小石ふみわたり(ぬばたまの)黒馬之來夜者《クロマノクヨハ》年にもあらぬか
狹穗河乃小石践渡夜干玉之黒馬之來夜者年爾母有糠
 此歌は麻呂のヨクワタル人ハ年ニモアリチフヲといひしに答へたるなり○小石を契沖は
  サザレ浪サザラ荻などいへるもちひさきをササヤカと云より出たる詞なれば(653)サザレとのみ讀ては用ありて體なければ東歌にチクマノ河ノ左射禮思モとよめるを證として今もサザレシと讀べきにや。但……雪をハダレとのみよめる例證、明なればさて有べきにや
といひ清水濱臣(答問雜稿)は
  必コイシとよむべし。サザレにては更に其意を得ず。いかにとなればササ、ササラ、ササレ皆細小の義にて何事にもちひさき事にそへていふ詞也。サザレとのみいひて小石の事にはなりがたし
といひ其子光房(同書書入)は
  舊訓のまゝサザレとよむべき歟。サザレイシと云べきを略きてサザレとのみ云は小竹をササともシヌとも云に同じ。ササも只小の義シヌも垂《シナフ》義にて小竹にのみかぎりたる詞ならねど小竹の名におほせて云。此類猶あるべし
といひ井上文雄(伊勢の家苞卷二【十八丁】)は
  サザレ石を省きてサザレとのみいへるは言語の常にて、しかいぶかしむべきことならず。本集にハダレ雪をハダレとのみいひ大黒の鷹を我オホグロ、舟やかた(654)ある舟を黄ゾメノヤカタとのみよめり。源氏物語にあづま琴をアヅマとのみいへるも同じ定なり
といへり。古くはサザレイシ又サザレシ又サザライシといひてサザレとのみ云へる例なければコイシとよむべし。但後に小石をサザレとのみいふやうになりしは言語の變轉にて誤とはいふべからず○第四句は舊訓にコマノクルヨハとよめり。
 宣長いはく
  コマを黒馬と書るはただ字音をとれる假字のみ也。ウメを烏梅と書る類也。黒の字に意なし。道麻呂が云。ヌバ玉ノは來夜の夜にかゝれる枕詞也
と。されど卷十三にヌバタマノ黒馬《クロマ》ニノリテとあり又こゝは夜の枕などおくべき爲にあらねば契沖雅澄の説に從ひてクロマとよむべし。又來夜は雅澄がクヨとよめるに從ふべし。クル夜をクヨといへるは古格に依れるなり。くはしくは後に云ふべし○年ニモアラヌカは一年中ニ一度ナリトモアレカシとなり(略解)。贈歌にては屡逢ヘドモ久シク逢ハヌヤウニ思フといひ答歌にては年に一度も來ぬやうにいへるなり。宣長は『年の字は常の誤なるべし』といへり。こは卷十三に
(655)  川の瀬の石ふみわたりぬばたまの黒馬之來夜《クロマノクヨ》は常〔右△〕にあらぬかも
とあるによりて云へるなれど誤字とせでも心得らるなり
 
526 千鳥なく佐保の河瀬のさざれ浪やむ時もなしわがこふらく爾〔左△〕《ハ》
千鳥鳴佐保乃河瀬之小浪止時毛無吾戀爾
 上三句は序。コフラクハはコフルコトハとなり。爾の字は元暦校本にも類聚古集にも者とあり
 
527 こむといふもこぬ時あるをこじといふをこむとはまたじこじといふものを
將來云毛不來時有乎不來云乎將來常者不待不來云物乎
 初句を略解にコムトイフ人ダニと釋けるはわろし。コムトイフ時ダニと釋くべし。結句は
  たまかづら實ならぬ木にはちはやぶる神ぞつくとふならぬ木ごとに
  よき人のよしとよくみてよしといひし吉野よくみよよき人よくみつ
(656)などと同じくて當時行はれし一つの體にはあれどなつかしからず。蛇足と謂ふべし
 
528 千鳥なく佐保の河門の瀕をひろみうち橋わたすなが來《ク》とおもへば
千鳥鳴佐保乃河門乃瀬乎廣彌打橋渡須奈我來跡念者
    右郎女者佐保大納言卿之女也、初縁2一品穗積皇子1被v寵無v儔、而皇子薨之後時〔右△〕藤原麻呂大夫娉之郎女〔二字右△〕焉、郎女家2於坂上里1、仍族氏〔二字右△〕號曰2坂上郎女1也
 カハトは河のわたり場なり。舊説の如く河峡とせばカハトノ瀬ヲヒロミとはいふべからず○チドリナクは准枕辭なり○ウチハシを宣長は
  打渡す橋と心得るはいかが。打渡さぬ橋やはあるべき。故思ふに打は借字にてウツシの約りたる也。爰へもかしこへも遷しもてゆきて時に臨みて假そめに渡す橋也
といへり(玉の小琴二)○左註の時の字の上に脱字あるべし(下なる大伴田村家之大(657)孃贈2妹坂上大孃1歌四首の處に至りて云はむ)。郎女の二字はあまれるにや。族氏號曰を古義にウヂヲ……トイフナリとよめり。族氏は氏族の顛倒にや。さらば氏族號シテ……トイフとよむべし
 
   又大伴坂上郎女歌一首
529 佐保河のきしのつかさの小歴木莫刈鳥〔左△〕《シバナカリソネ》、ありつつもはるしきたらばたちかくるがね
佐保河乃涯之官能小歴木莫刈鳥在乍毛張之來者立隱金
 歌は二種の句より成る。甲は五七言の句、乙は七言の句なり。甲二乙一なるを短歌といひ甲三以上乙一なるを長歌といひ甲一乙一甲一乙一と次第せるを旋頭歌といふ。今の歌は旋頭歌なり○ツカサは高き處なり。契沖『官をツカサといふに同じ』といへり。案ずるにツカとも語源を同じうせり〇三句の鳥は焉の俗字なる烏の誤なり(桂宮御本即所謂桂萬葉には焉とあり。なほ訓義辨證上卷七七頁を見よ)。さて此句を舊訓にシバナカリソとよめるを雅澄はシバナカリソネとよめり。之に從ふべし○(658)アリツツモは己があるにあらず柴ヲソノママアラセツツなり。ソノママニシテと譯すべし○結句を契沖は諸共ニ立隱レテ逢事モアルガニと釋せり。ガネはベクなり。ガニとは異なり。ハルシキタラバは春ガ來テ葉ガ出テ木シグクナリタラバとなり
 
   天皇賜2海上《ウナガミ》女王1御歌一首
530 赤駒之〔左△〕越馬柵《アカゴマノコサヌウマセ》のしめゆひし妹がこころはうたがひもなし
赤駒之越馬柵乃緘結師妹情者疑毛奈思
    右今案擬〔右△〕古之作也、但以2往當〔二字右△〕便1賜2斯歌1歟
 馬柵は舊訓にウマヲリとよめるを宣長ウマセに改めたり。信友は舊訓の如くウマヲリとよみ又之の字を不の誤としてアカゴマノコサヌとよめり(比古婆衣卷十一【全集第四の二三六頁】)。之を不の誤とするは信友の説に從ふべく馬柵はなほ宣長の改訓によるべし。さてウマセのセは同じ人のいへる如くセキなるべく卷六にナキズミノ船瀬とあるフナセのセもこれと齊しかるべし○天皇は聖武天皇なり。初二は序。シメ(659)ユヒシは我物ト領ゼシといふ事にて妹にかゝれり○左註には誤脱ある如し。信夫道別(略解)は擬を疑の誤字とせり。なほ古の下に人字を脱せるか。道別は又往當を當時の誤字とせり(桂萬葉には時〔右△〕當とあり)。こはなほ考ふべし
 
   海上女王奉v和歌一首
531 梓弓つまびく夜音《ヨト》の遠音《トホト》にも君が御幸〔左△〕《ミコト》を聞之《キカクシ》よしも
梓弓爪引夜音之遠音爾毛君之御幸乎聞之好毛
 初二はトホトの序なり。契沖いふ『隨身が夜の陣にて弦打する音なり』と〇四句の御幸は眞淵の説に御事の誤にて御言の借字なりと云へり(記傳十一卷四丁にも)○聞之は舊訓にキクハシとよめるを契沖キカクシに改めたり。シは助辭なり〇一首の意はタトヒ遙ナリトモ君ノ御言ヲ承ルハウレシといへるなり。天皇の妹ガココロハウタガヒモナシとのたまひ女王のトホトニモ云々といへるを思へば故ありて女王は里にありて久しく内に參らざりしなり
 
   大伴|宿奈《スクナ》麻呂宿禰歌二首
(660)532 (うちひさす)宮にゆく子をまがなしみ留者《トムレバ》くるし聽去者《ヤレバ》すべなし
打日指宮爾行兒乎眞悲見留者苦聽去宮爲便無
 考の説に宿奈麻呂は續記に管2安藝周防二國1とあればその管國より女を宮仕に出だしゝ時の歌かといへり○マガナシミはカハユサニなり○留者、聽去者は舊訓にトムレバ、ヤレバとよめるに從ふべし(古義はトドムハ、ヤルハとよめり)
 
533 難波がた鹽干のなごりあくまでに人の見兒《ミルコ》をわれしともしも
難波方鹽干之名凝飽左右二人之見兒乎吾四乏毛
 初二はアクマデニ見ルの序なり○見兒は舊訓にミルコとよめるを古義にはミムコとよめり。未女を奉らぬさきの歌とせばミムコとよむべけれど結句を清く釋したる上ならでは女を奉らぬ程の歌とも定められず○トモシは略解にワレハ見ル事ノスクナシと也といひ古義に『トモシは少き意、モは歎息の辭なり』といへり。案ずるにここのトモシは上なる風ヲダニコフルハトモシのトモシにて飽かぬ意なり。されば此歌は女を京に上せし後の歌にて見兒はなほ舊訓の如くミルコとよむべ(661)し。人は廷臣を指せり。ワレシトモシモは卷二なるワレシカナシモ(二四一頁)の類にてワレハアカズ思フといふ意なり
 
   安貴王謌一首并短歌
534 とほづまの ここにあらねば (玉桙の) 道をたどほみ おもふ空 安莫國《ヤスカラナクニ》 なげくそら やすからぬものを みそらゆく 雲にもがも 高飛《タカトブ》 鳥にもがも あすゆきて 妹にことどひ わがために 妹も事なく 妹がため われも事なく 今裳見如 たぐひてもがも
遠嬬此間不在者玉桙之道乎多遠見思空安莫國嘆虚不安物乎水空往雲爾毛欲成高飛鳥爾毛欲成明日去而於妹言問爲吾妹毛事無爲妹吾毛事無久今裳見如副而毛欲得
 トホヅマほ夫と遠く離れて住める妻にて今は因幡國の本郷に歸れる八上(ノ)采女を指せり○アラネバはアラヌニなり○タドホミのタはタワスレテのタ(四八七頁)と同じくて添辭なり○オモフソラ、ナグクソラのソラは古義にココチと譯せるまづ(662)當れり(略解にサマとうつせるはふさはず)○安莫國を宣長のヤスケクナクニとよめるは非なり。ヤスケクナキ〔右△〕ニとはいへどナク〔右△〕ニとは云はず。なほヤスカラナクニと舊訓によめるに從ふべし○雲ニモガモは雲ニモ化《ナ》ラマホシとなり。ニモはニテモの意にあらず○高飛は宣長に從ひてタカトブと四言によむべし。タカトブのタカは名詞にて空といふ事なり。今も方言に空をタカといふ處あり。タカクトブを略してタカトブといへるにあらず○アスユキテは今日行カデ明日行キテといふにはあらでアスニモユキテといふ意なり。コトドヒはモノヲ言ヒなり〇事ナクはモノオモヒナクといふ意にあらざるか。下にも事モナクアリコシモノヲオイナミニカカル戀ニモ吾ハアヘルカモといふ歌あり○今裳見如は舊訓にイマモミルゴトクとよめるを宣長はイマモミシゴトに改めて『京ニアリシ時見シ如ク今モといふ意也』といへり。さらばミシゴト今モといはむが辭の順なり。もと五七の二句なりしが脱字を生じて一句となれるにはあらざるか。タグヒテモガモは相副ヒテモアラマホシとなり
 
   反歌
(663)535 (しきたへの)手枕まかず間置而《ヘダタリテ》としぞへにける不相念者《アヒオモハネバ》
敷細乃手枕不纏間置而年曾經來不相念者
    右安貴王娶2因幡八上采女1係念極甚愛情尤盛、於v時勅斷2不敬之罪1退2却本郷1焉、于v是王意|悼怛《タウダツ》聊作2此歌1也
 間置而を舊訓にへダテオキテとよめるを宣長はアヒダオキテとよめり。さてそのアヒダは時間にや空間にや宣長の思へるやうは知られねど雅澄は明に時間の事とせり。もし時間の事とせばアヒダオキテは年ゾヘニケルと重複すべし。案ずるに間置而は義訓にてヘダタリテとよみて處の隔たる事とすべきか○不相念者を宣長はアハヌオモヘバとよみ雅澄はアハナクモヘバとよめり。いづれにしてもこれもタマクラマカズと重複すべし。さればアヒオモハネバとよみて妹ガ相思ハネバといふ意と見るべくや。アヒオモハヌは集中に多くは相不念と書きたれど又下なる不相念《アヒオモハヌ》人ヲオモフハ大寺ノ餓鬼ノシリヘニヌカヅクゴトシの如く不相念と書けるもあり
 
(664)   門部王戀歌一首
536 おうの海の鹽干の滷のかたもひにおもひやゆかむ道のながてを
飫宇能海之鹽干乃滷之片念爾思哉將去道之永手呼
    右門部王任2出雲守1時娶2部内娘子1也、未v有幾時1既絶2往來1、累v月之後更起2愛心1仍作2此歌1贈2致娘子1
 飫宇《オウ》(ノ)海は即出雲の中(ノ)海なり。宍道《シシヂ》湖と美保※[さんずい+彎]との間〔日が月〕にあり。初二はカタモヒの序なり。卷三(四五頁)にも此王のよめるオウ河ノ河原ノチドリ云々といふ歌あり〇オモヒヤユカムはオモヒツツヤユカムのツツを省けるなり。ナガテは長路といふに同じ○略解に『出雲の任より歸る時道にて更におもひ出てよみて贈れる歌なるべし』といひ古義も此説に從ひたれどさては左註と合はず。千蔭雅澄はミチノナガ手を語のまゝに心得たるにはあらざるか。僅に一二里なるをも歌にはミチノナガテといふべし
 
   高田女王贈2今城王1歌六首
(665)537 こときよく甚毛莫言《イトモナイヒソ》ひと日だに君いしなくば痛寸取物
事清甚毛莫言一日太爾君伊之哭者痛寸取物
 コトキヨクはサツパリトといふことならむ甚毛莫言は契沖イタクモイフナとよめれどコトキヨクとイタクと重なりて調わろければ略解古義に從ひてイトモナイヒソとよむべし○君イシの伊は志斐伊ハマヲセ(三四七頁)の伊に同じ○結句を雅澄は偲不敢物の誤としてシヌビアヘヌモノとよめり。誤字とはおぼゆれど古義の説にも從はれず。有不敢物の誤としてアリアヘヌモノとよむべきか
 
538 人ごとをしげみこちたみあはざりき心あるごとなおもひわがせ
他辭乎繁言痛不相有寸心在如莫思吾背
 初二は人ノ口ガウルササニといふこと(一六六頁參照)○ココロアルゴトはオモフ心アル如クとなり(略解古義にはアダシ心アル如クと釋せり)。卷七に
  たえずゆくあすかの川のよどめらば故しもあるごと人のみまくに
とあるを古今集戀四に
(666)  たえずゆくあすかの川のよどみなば心ありとや人のおもはむ
と改めて出せり。之と參照して心アルゴトの意をさとるべし
 
539 わがせこしとげむといはば人ごとはしげくありともいでてあはましを
吾背子師遂常云者人事者繁有登毛出而相麻志呼
 トゲムは逢ヒトゲムなり
 
540 わがせこにまたはあはじかと思基〔左△〕《オモヘバカ》けさの別のすべなかりつる
吾背子爾復者不相香常思基今朝別之爲便無有都流
 アハジカはアハザラムカなり。基は墓の誤なり
 
541 この世には人ごとしげしこむよにもあはむわがせこ今ならずとも
現世爾波人事繁來生爾毛將相吾背子今不有十方
 コムヨニモは來世ニダニといふ事、今ナラズトモは此世ナラズトモといふ事なり
 
542 常やまずかよひし君が使こず今はあはじとたゆたひぬらし
(667) 常不止通之君我使不來今者不相跡絶多此奴良思
 イマハはモハヤにてアハジにかゝれり。タユタヒヌラシはタユタヒハジメタサウナといふばかりの意なり。古義に『此マデハアフベキカアフマジキカト二方ニ思ヒマドヒシガ今ハ一方ニアハジト決メヌラシの意なり』といへるは非なり○以上六首もとより一時の作にあらず
 
   神龜元年甲子冬十月幸2紀伊國1之時爲v贈2從駕人1所v誂2娘子1笠朝臣金村作歌一首并短歌
543 おほきみの いでましのまに (もののふの) 八十とものをと いでゆきし うつくしづまは (あまとぶや) かるの路より (たまだすき) 畝火をみつつ (あさもよし) きぢに入立《イリタツ》 まつち山 こゆらむきみは もみぢばの ちりとぶみつつ 親《ムツマシク》 わをばおもはず (草枕) たびをよろしと おもひつつ きみはあらむと あそそには かつは知れども しかすがに もだもえあらねば わがせこが ゆきのま(668)にまに おはむとは ちたびおもへど たわやめの 吾身にしあれば 道守の とはむ答を いひやらむ すべをしらにと たちてつまづく
天皇之行幸乃隨意物部乃八十件雄與出去之愛犬者天翔哉輕路從玉田次畝火乎見管麻裳吉木道爾入立眞土山越良武公者黄葉乃散飛見乍親吾者不念草枕客乎便宜常思乍公將有跡安蘇蘇二破且者雖知之加須我仁獣然得不在者吾背子之徃乃萬萬將追跡者千遍雖念手幼女吾身之有者道守之將問答乎言將遣爲便乎不知跡立而爪衝
 マニはママニなり。マニを重ねてマニマニといひ又中なるニを省きてママニともいふなり。續紀宣命にオノガホシキ末仁、字鏡にホシキ末爾などあり○ヤソトモノヲはアマタノ部《ムレ》ノ長《ヲサ》といふ意にてやがて百官といふ事なり(記傳十五卷十八丁參照)。ヤソトモノヲトのトはト共ニなり〇ウツクシヅマはイトシキ夫といふこと○キヂはここにては紀州の道なり。抑地名に路《ヂ》を添へたる(紀路、巨勢路、大和路の類)に(669)は其處の路なると其處へゆく路なると二樣あり。何々の路(輕の路、磐余《イハレ》の路の類)といへるも然り。其處へゆく道とのみ思へるは(たとへば小夜時雨廿二丁)かたくななり。此卷に淡海路ノトコノ山ナルイサヤ川といへるを思ふべし。鳥籠《トコ》、山は近江の内ならずや○入立を代匠記、略解にはイリタツとよみ舊訓、古義、※[手偏+君]解などにはイリタチとよめり。キヂはこゝにては紀(ノ)國といふ意なればイリタツとよむべし〇親を宣長のシタシクモとよめるを古義にシタシケクに改めてハシクをハシケクといふ類なりといへれどシタシケク、ハシケクなどいふ語は無し。げに上にもミヨシ野ノ山ノアラシノ寒久爾《サムケクニ》(本書一一五頁)イハネサクミテナヅミコシ吉雲曽無《ヨケクモゾナキ》云々(本書三〇一頁)といふ例あれどそは然いふべき理由あるにてただサムク、ヨクを延べてサムケク、ヨケクといへるにあらず。舊訓にはムツマシキとよめり。キとよみて下なる吾につづくべからざるはいふまでもなけれど此訓に基づき又皇親と書きてスメラガムツとよむ例に倣ひてムツマシクとよむべきか。宣長の如くモの辭を添へてよまむは心安からざればなり。いづれにもあれ我ヲコヒシクハ思ハデ君ハ旅ヲオモシロシト思ヒツツアラムト云々といへるなり○アソソニハはシレドモにか(670)かれり。絶えたる古語にて例も無ければ其意詳にしがたし。契沖は『推量し意得たる詞なるべし』といひ鐘の響(一三三丁)には『淺々にてウスウスといはむがごとし』といへり○カツは半面ニハ、カタヘニハなどの意なり。古義にいへる如くシレドモカツハと下にめぐらして見るに及ばず。シルにかゝれるにてモダモエアラズにかゝれるにあらず○モダモエアラネバはジットシテモヲラレヌカラといふこと、ユキノマニマニはドコヘユカウガユイタサキヘといふこと、オハムはオヒユカムなり○道守は道番なり。反歌の關守もやがて道守のうちなり。神代紀の一書に泉守道とありてヨモツチモリと訓じ和名抄道路具に※[しんにょう+貞]邏をチモリとよめり(但記傳【二十二卷七十八丁】には※[しんにょう+貞]邏は斥候にてチモリにかなはずといへり)○イヒヤルは俗にいふイッテノケルなり。シラニトのトは例の如く省きて見べし○タチテツマヅクは番十三にも
  ものいはずわかれしくれば、はや川のゆかくもしらに、ころもでのかへるもしらに、うまじものたちてつまづき
とあり。契沖は『心のうはの空なる故なり』といひ古義(卷十三)には『心も空にて歸りくる故に物につまづくなり』といへり。げに卷三なるワガノレル馬ゾツマヅク(四五五(671)頁參照)卷十一なるワガマツキミガ馬ツマヅクニなどのツマヅクは今もいふツマヅクなれどこゝのツマヅクは別なる如し。抑ツマヅクは爪ヲ突クなればそのツマヅクにことさらにするとおのづからせらるゝとの別あるべし。而してそのおのづからせらるゝ方は即今いふツマヅクにて、ことさらにする方は今いふツマダツなるべし。今はせむすべなさに或は夫の行けるさきの見えもやするとたちあがりてつまだつといへるなるべし。考に『そば立て望さまなり』と云へる、我意を獲たり
 
   反歌
544 おくれゐてこひつつあらずば木の國の妹背の山にあらましものを
後居而戀乍不有者木國乃妹背乃山爾有益物乎
 コヒツツアラズバはコヒツツアラムヨリハといふ意〇四五は妹背ノ山ナラマシヲといふことにて妹背ノ山ナラバ別ルル事モアルマイニといふ意を含めり
 
545 わがせこが跡ふみもとめおひゆかばきの關守い將留鴨《トドメナムカモ》
吾背子之跡履求追去者木乃關守伊將留鴨
(672) 紀ノセキモリ伊の伊は上(六六五頁)なる君伊シナクバの伊に同じ○將留鴨を略解にトドメテムカモとよみ古義にトドメナムカモとよめり。テムは自己のはたらきにいふ辭なればトドメナムカモとよむべし
 
   二年乙丑春三月幸2三香原離宮1之時得2娘子1作歌一首并短歌 笠朝臣金村
546 みかの原 たびのやどりに (たま桙の) 道のゆきあひに (あま雲の) よそのみみつつ ことどはむ よしのなければ こころのみ むせつつあるに あめつちの かみ辭因而《コトヨシテ》 (しきたへの) 衣手かへて おのづまと たのめるこよひ 秋の夜の 百夜の長く ありこせぬかも
三香之原客之屋取爾珠桙乃道能去相爾天雲之外耳見管言將問縁乃無者情耳咽乍有爾天地神祇辭因而敷細乃衣手易而自妻跡憑有今夜秋夜之百夜乃長有與宿鴨
 代匠記に『作者の名幽齋本に娘子の下にあり。例尤然るべし』といへり○タビノヤド(673)リニは旅ヤドリノホドニにてミチノユキアヒニは途ニテユキアフ際ニなり○ヨソノミは今ニを挿みてヨソニノミといふ。さてミツツとあればただ一度ならで度度行逢ひしなり○ココロムセツツは卷三(五五五頁)に吾妹子ガウエシ梅ノ木ミル毎ニココロムセツツ涕シナガルとあり○辭因而は從來コトヨセテとよめり。語意は略解古義共に宣長の『コトヨサシと同意にて神ノヨセ給ヒテなり』と云へるに從へり。案ずるにコトヨシ〔右△〕テとよむべくそのコトは辭、ヨシテはオホセテにて辭モテオホセテといふ意なり(記傳四卷八丁に言依《コトヨサシ》の言は借字にて事なりといへるは從はれず)○コロモデカヘテは袖ヲカハシテ、モモ夜ノナガクは百夜ノ如ク長ク、アリコセヌカモはアレカシなり
 
   反歌
547 (あま雲の)よそにみしより吾妹兒に心も身さへよりにしものを
天雪之外從見吾妹兒爾心毛身副縁西鬼尾
 心モ身サヘは心サヘ身サヘなり。古義に云へる如く今ハ何事ヲカ思ハムといふ意を含めり
 
(674)548 このよらの早開者《ハヤクアケナバ》すべをなみ秋の百夜をねがひつるかも
今夜之早開者爲便乎無三秋百夜乎願鶴鴨
 此夜ラのラはただ添へたる辭なり。野をノラといふが如し○第二句は契沖のいへる如くハヤクアケナバとよむべし。ハヤクアケナバといはばスベナカルベミと承くべきが如くなれどスベヲナミともいひしなり。上にもヤマズユカバ人目ヲオホミ(二九二頁)ミズテユカバマシテコヒシミ(四七一頁)ヒカバカタミト(五〇二頁)などあり○秋ノ百夜ヲは此夜ノ秋ノ百夜ノ如クナラムコトヲとなり
 
   五年戊辰太宰少武石川足人朝臣遷任(セシトキ)餞2于筑前國|蘆城《アシキ》(ノ)驛家《ウマヤ》1歌三首
549 あめつちの神もたすけよ(草枕)たびゆく君が家にいたるまで
天地之神毛助與草枕覊〔馬が奇〕行君之至家左右
 三首は皆送りし人の作れるにて作者は各別なるべし○蘆城は今の筑前國筑紫郡阿志岐にて大宰府の東方にあり
 
(675)550 (大船の)おもひたのみし君がいなばわれはこひむなただにあふまでに
大船之念憑師君之去者吾者將戀名直相左右二
 タダニアフはヨソナガラ逢フのうらにてマトモニ逢フといふことなれどこゝにてはタダニを輕く添へたるなり。マデニはマデといふに同じ
 
551 やまとぢの島の浦廻《ウラミ》に縁浪《ヨスルナミ》あひだもなけむわがこひまくは
山跡道之島乃浦廻爾縁浪間無牟吾戀卷者
     右三首作者未詳
 ヤマトヂは大和へ上る道なり〇島は契沖の説に筑前國志摩郡志摩郷なりといへり。おそらくは普通名詞の島ならむ○緑浪を宣長はヨルナミノとよみたれど卷十五にカムサブルアラツノサキニ與須流奈美マナクヤイモニコヒワタリナムとあればなほ舊訓に從ひてヨスルナミとよむべし。以上三句は序なり○アヒダモナケムは絶間モナカラム、コヒマクハはコヒムコトハなり。上(六五五頁)なるチドリナク佐保ノ河瀬ノサザレ浪ヤム時モナシワガコフラクハと相似たり
 
(676)   大伴宿禰三依歌一首
552 わがきみはわけをばしねとおもへかもあふ夜あはぬ夜二走〔左△〕良武《ナラビユクラム》
吾君者和氣乎波死常念可毛相夜不相夜二走良武
 ワガ君は女をあがめて云へるなり〇ワケを契沖眞淵は自稱の語とし宣長は對稱の語とせり。集中を檢するに自稱なると對稱なるとあり。案ずるにワケは奴といふことなるべし。さればこそ人にも自にもいふなれ。卷八なる紀女郎贈2大伴宿禰家持1歌に戲奴と書きて反云2和氣1と書けるはワケに奴の字を當てたれどその歌にては、もと戲れてワケと云へるなればその意をさとさむが爲に戲奴と書き、さては又ワケとよまれねば反云2和氣1といふ註を挿みたるなるべし。宣長(記傳卷二十六、玉勝間卷八、玉の小琴)はワケを汝といふ意とし今の歌を釋して
  汝ハ死ネト君ハオモフニヤといふ也
といへれど、さてはワケハシネトオモヘカモとこそ云ふべけれ。ワケヲ〔右△〕バと云へるを見れば自稱としてワレヲバと釋かでは語格とゝのはず○結句の走の字幽齋本には去とありといふ。略解にはフタユキヌラムとよみて『逢夜とあはぬ夜と經行を(677)いふ』といひ古義にはフタツユクラムとよみて『あふ夜とあはぬ夜と二(ツ)ながらに經行なり』といへり。案ずるに二は漢籍に功無v二2於天下1また親尊莫v二などある二にて二去はナラビユクとよむべし。古義に語例として下なるウツセミノ代ヤモフタユク又卷七なる世ノナカハマコト二代ハユカザラシを擧げたれどそは二度アル、二度來ルといふことにて今の歌の二去とは相與からず
 
   丹生女王贈2太宰帥大伴卿1歌二首
553 あま雲の遠隔《ソキヘ・ソクヘ》のきはみとほけどもこころしゆけばこふるものかも
天雲乃遠隔乃極遠鷄跡裳情志行者戀流物可聞
 達隔は契沖ソキヘ又はソクヘとよむべしといひ略解にはソキヘ古義にはソクヘとよめり。卷三にソ久ヘノ極とかき卷十九にソ伎ヘノキハミとかけり。さればいづれにてもあるべし。但木村博士(字音辨證下卷四七頁)は『久と書けるはキの音を用ゐたるものなり。久にキの音あり』といへり。語意は卷三(五○八頁)にいへり○キハミはハテなり〇四五句の意は此方ノ心ガ到レバサキデモ此方ヲ戀フルモノカとなり(古義)○宣長いはく二首ともに戲れなる歌なりと
 
(678)554 古《イニシヘノ》人の令食有《タバセル》きびの酒やめばすべなしぬきすたばらむ
古人乃令食有吉備能酒痛〔左△〕者爲便無貫箕賜牟
 古の字は舊訓にイニシヘノとよめるに從ふべし。イニシヘノ人はハヤクヨリ知レル人といふことなるべし○令食有は古義にタバセルとよみて『賜有《タバセル》なり』といへるぞ穩なる。タバスは後のタマハスなり○キビノ酒は黍を以て造れる酒といふと、吉備國産の酒といふと二説あり。吉備能酒と書ける、借字ともおぼえねば契沖の云へる如く吉備國の酒とすべし○ヤメバスベナシはヤマバスベナカラムといふにひとし○ヌキスは竹を編みて盥の上にかけわたして水のちらぬ用意にする物なり(契沖)〇一首の意は
  故人ノ賜ヘル吉備ノ酒ヲ飲ミテ酒ニ中リテ嘔吐ヲ催サムニセムスベナカルベケレバ願ハクハ吐物ヲ受クル盥ノ上ニカケワタス貫簀ヲモ賜ハラム
と戲れて云へるなり○痛は病を誤れるなり
 
   太宰帥大伴卿贈3大貮|丹比《タヂヒ》(ノ)縣守《アガタモリ》卿遷2任民部卿1歌一首
(679)555 君がためかみしまち酒やすの野にひとりやのまむ友なしにして
爲君醸之待酒安野爾獨哉將飲友無二思手
 カムは酒を造ることなり。今カモスといふはカミナスの約カマスの轉ぜるなり。卷十六にもウマ飯《イヒ》ヲ水ニ醸成《カミナシ》ワガマチシ云々とあり。古義に『カミスルといふべきを訛れるなり』といへるは非なり○待酒は古事記※[言+可]志比(ノ)宮の段に
  こゝに還上りましゝ時に(○應神天皇の越前より)その御おや息長帶日賣《オキナガタラシヒメ》(ノ)命(〇神功皇后)待酒をかみてたてまつらしき
とありて記傳卷三十一に『待酒は物より來る人に飲しめむ料にかみまうけて待つ酒なり』といへり〇二三の間に君ガ京ニ上リ去ラバといふ辭を加へてきくべし○ヤスノ野は今の筑前國朝倉郡安野なり。此地に旅人卿の山莊などありしなるべし
 
   賀茂女王贈2大伴宿禰三依1謌一首
556 筑紫船いまだもこねばあらかじめあらぶるきみを見之《ミルガ》かなしさ
筑紫船未毛不來者豫荒振公乎見之悲左
(680) 桂萬葉に題辭の下に故左大臣長屋王之女也とあり。コネバはコヌニなり。アラブルは卷二なるアラビナユキソ君マサズトモ(二三二頁)アラビナユキソ年カハルマデ(二三八頁)のアラビにて疎くなる事なり〇一首の意は宣長の
  三依、筑紫船のくるを待て筑紫に下らむとする程のことなるべし。然るに其筑紫船も未だ來ざる先に早よそになりて吾方へはうとうとしくなれるが悲と也
といへる如し。古義に
  君が船はいまだ來もせぬに心かはりて我方へはうとび荒びて依附かぬ君を見むとおもふがかねて悲きこといふばかりなしとなり。三依の筑紫より上らむとするほどによみて京より贈りたまひし歌なるべし
といひて見之をミムガとよめるは非なり
 
   土師《ハニシ》宿禰水通從2筑紫1上v京海路作歌二首
557 大船をこぎのすすみに磐にふりかへらばかへれ妹により而者《テハ》
大船乎※[手偏+旁]乃進爾磐爾觸覆者覆妹爾因而者
 コギノススミニはコギハヤリテなり。そのススミは卷三なる家モフトココロスス(681)ムナ(四六九頁)のススムに同じ○フリは觸レテ、カヘルはクツガヘルなり○而者を略解古義にテバとよみて千蔭は『テバはタラバなり』といひ雅澄は『吾思ふ妹に一日もはやく依らばこひしく思ふ心の安からむぞとなり』といへり。案ずるにこの妹ニヨリ而者は妹ノ爲ニハといふ意なり。さればテハのハは清みて唱ふべし。はやく景樹も
  この而者はタラバ、タレバいづれに見てもうまくかなはぬこゝちす。さらば者は澄てよみて妹ニヨリテナラバと云常のてにをはにきくべきか
といへり
 
558 (ちはやぶる)神の社にわがかけし幣はたばらむ妹にあはなくに
千磐破神之社爾我掛師幣者將賜妹爾不相國
 契沖いはく
  これは渡海の安くて疾く都に到らむ祈して出立來るににはのわるくて海路に日を經れば妻に逢ことの遲きに心いられしてさらば彼幣を返し給はらむと神を少恨み奉るやうによまれたるなり
(682)といへり
 
   太宰大監大伴宿禰百代戀歌四首
559 事もなく生〔左△〕來之《アリコシ》ものを老なみにかかる戀にも吾はあへるかも
事毛無生來之物乎老奈美爾如此戀于毛吾者遇流香聞
 太宰府にて大伴坂上郎女におくれる歌なり○事モナクは物思モナクなり(六六二頁參照)〇生來之は舊訓にアリコシとよめり。宣長は生を在の誤字とせり。雅澄は契沖の説に從ひてアレコシとよみて生レ來シの意とせり。宣長の説に從ふべし○オイナミは契沖の説に『ナミは列の字なり』といひ又『年次月次のナミなり』といへり。老境といふことゝおぼゆ。景樹は『後に老ノ波といふはこれより出でたるべし』といへり
 
560 こひしなむ後はなにせむいける日のためこそ妹をみまくほりすれ
孤悲死牟後者何爲牟生日之爲社妹乎欲見爲禮
 初二は戀死ナム後ニハ妹ヲ見ルトモ何カセムとなり。ノチハは後ニハなり○卷十(683)一にもコヒシナムノチハ何セムワガ命イケラム日コソミマクホシケレといふ歌あり
 
561 おもはぬを思ふといはば大野なる三笠の杜の神ししらさむ
不念乎思常云者大野有三笠杜之神思知三
 大野ナル三笠ノ杜は今の筑紫郡大野の附近なりといふ○神シシラサムはいにしへの誓の辭にて神ガ證人ニ立チ給ヒテ罸ヲ下シ給ハムとなるべし齊明天皇紀四年に若爲2官軍1以儲(ケタルナラバ)2弓矢1※[齒+咢]田《アギダ》(ノ)浦(ノ)神|知《シリナム》矣また天智天皇紀十年に
  泣血誓盟曰。臣等五人隨2於殿下1奉2天皇詔1。若有v違者四天王打、天神地祇亦復誅罸。三十三天|證2知《アキラメシロシメセ》此事1。子孫當v絶家門必亡云々
とあり○下にも卷十二にも似たる歌あり
 
562 暇なく人の眉根をいたづらにかかしめつつもあはぬ妹かも
無暇人之眉根乎徒令掻乍不相妹可聞
 イトマナクは絶間ナクなり○眉根は古義にマヨネとよめり。マユネにても可なり(684)〇略解に『人に戀らるれば眉のかゆきといふ諺有りて集中に多し』といひ古義に『人に戀らるれば眉皮の癢きといふ諺によりてよめるなり』といへれど卷六なる
  月たちてただ三日月の眉根かきけながくこひし君にあへるかも
 卷十二なる
  いとのきてうすき眉根をいたづらにかかしめつつもあはぬ人かも
などと合せ考ふるに眉根を掻くは戀人に逢はむ呪なり
 
   大伴坂上郎女歌二首
563 黒かみにしろ髪まじりおゆるまでかかる戀にはいまだあはなくに
黒髪二白髪交至耆如是有戀庭未相爾
 老ナミニカカル戀ニモ吾ハアヘルカモに和したる歌なり○第三句を古義にオユマデニとよめるは語格とゝのはず○次の歌によるに郎女は百代の挑に應ぜしにあらず。されば此歌の戀はおのが戀にあらで人の戀なり。從ひて此歌のカカル戀はカク切ナル戀など譯すべし。古義にカカル苦シキ戀と譯せるは郎女自身の戀と心得たるなり
 
(685)564 (山すげの)實ならぬことをわれによせいはれし君はたれとかぬらむ
山菅乃實不成事乎吾爾所依言禮師君者與孰可宿良牟
 山スゲノは實《ミ》の枕辭(略解、古義)ミナラヌはマコトナラヌなり。ヨセの下にテを補ひて心得べし。吾ニ托《ヨ》セテ實ナラヌ事ヲ人ニ云ハレシ君ハといへるにて畢竟吾ト無キ名ノ立チシ君ハといふ意なり
 
   賀茂女王歌一首
565 (大伴の)みつとはいはじ(あかねさし)てれる月《ツク》夜にただにあへりとも
大伴乃見津跡者不云赤根指照有月夜爾直相在登聞
 タダニはヨソナガラのうらなり
 
   太宰(ノ)大監《タイゲン》大伴(ノ)宿禰百代等贈2驛使1歌二首
566 (草まくら)たびゆく君を愛見《ウツクシミ》たぐひてぞこししかの濱邊を
草枕羈行君乎愛見副而曾來四鹿乃濱邊乎
     右一首大監大伴宿禰百代
(686) 愛見を略解にウルハシミとよめれど舊訓にウツクシミとよめる方まされり。旅ダチユク君ガシタハシサニ、となり。タグフはツレダツなり○志賀《シカ》は福岡※[さんずい+彎]口に當れる島にて其東南は所謂海の中道に連れり
 
567 周防《スハウ》なる磐國山をこえむ日はたむけよくせよあらきその道
周防在磐國山乎將超日者手向好爲與荒其道
    右一首少典山口(ノ)忌寸《イミキ》若麻呂
    以前天平二年庚午夏六月帥大伴卿忽生2瘡(ヲ)脚(ニ)1疾2苦枕席1、因v此馳v驛上奏望2請庶弟|稻公《イナキミ》姪|胡麻呂《コマロ》1欲v語2遺言1者《トイヘレバ》勅2右兵庫助大伴宿禰稻公治部少丞大伴宿禰胡麻呂兩人1給v驛發遣令v看2卿病1、而※[しんにょう+至]2數旬1幸得2平復1、于v時稻公等以2病既療1發v府上v京、於v是大監大伴(ノ)宿禰百代少典山口(ノ)忌寸《イミキ》若麻呂及卿(ノ)男家持等相2送驛使1共到2夷守《ヒナモリ》(ノ)驛家《ウマヤ》1聊飲悲v別乃作2此歌1
 岩國山は岩國町の北方に當れる山にて昔の中國街道の峻坂なり○夷守《ヒナモリ》は今の筑(687)前國糟屋郡|仲原《ナカバル》なりとも多多羅なりともいふ
 
   太宰帥大伴卿被v任2大納言1臨2入v京之時1府(ノ)官人等餞2卿筑前國蘆城《アシキ》(ノ)驛家1歌四首
568 みさき廻《ミ》のありそによする五百重浪たちてもゐてもわがもへるきみ
三埼廻之荒礒爾縁五百重浪立毛居毛我念流吉美
    右一首筑前(ノ)掾《ジヨウ》門部(ノ)連《ムラジ》石足《イソタリ》
 蘆城は上(六七四頁)に見えたり○廻の字略解には例の如くワ又はマとよみ古義にはミとよめり。ミサキは岬、ミはメグリなり。上三句はタチテの序なり○歌の意は古義に『云々の君にてましませば別れまゐらせむはいともせむすべなしとなり』といへる如し
 
569 辛人のころも染《ソム・シム》とふ紫のこころに染而《シミテ》おもほゆるかも
辛人之衣染云紫之情爾染而所念鴨
 上三句は序なり。契沖は
(688)  此國にも紫色を貴て衣を染なむをカラビトノとしもいへる意得がたし
といひ略解には
  辛は借字にて韓なり。又は辛人は淑人の誤にてヨキ人か。宣長は辛は宇万(ノ)二字歟といへり
といひ古義には
  辛は宮(ノ)字の寫誤なるべし
といへり。案ずるにヨキ人、ウマ人、ミヤ人の紫の衣を着るは作者目前に見て知りたるべければコロモソムトフとはいはじ。なほ韓人の借字とすべし○上の染を舊訓にソムとよめるを古義にシムに改めたり。説は同書三卷九六頁に見えたり。いづれにてもよし(四八九頁參照)
 
570 やまと邊《ヘ》君がたつ日のちかづけば野にたつ鹿もとよみてぞなく
山跡邊君之立日乃近者野立鹿毛動而曾鳴
    右二首大典《タイテン》麻田(ノ)連《ムラジ》陽春《ヤス》
 略解には邊をへとよみて辭とし考及古義にはヘニとよめり。卷一なるイザ子ドモ(689)早日本邊《ハヤクヤマトヘ》の例(一〇五頁)に從ひてヤマトヘとよむべし〇三四の間に人ハ勿論といふことを挿みて聞くべし○典は太宰府の第四等官なり。太宰府の四等官は帥《ソツ》、貮、監《ゲン》、典にて貮以下に大少ありしなり
 
571 月夜《ツクヨ》よし河音《カハノト》清之《キヨシ》いざここにゆくもゆかぬもあそびて將歸《ユカム》
月夜吉河音清之率此間行毛不去毛遊而將歸
    右一首|防人《サキモリ》(ノ)佑《ジヨウ》大伴|四綱《ヨツナ》
 第二句は略解にカハノトキヨシとよみ古義にカハトサヤケシとよめり。いづれにてもよし○ユクモユカヌモは京ニユク人モ、ユカデ筑紫ニ留ル人モなり○將歸は舊訓のまゝにユカムとよむべし(略解にはユカナとよめり)。ユカムは分レユカムとなり。上なるユクとは意異なり○防人佑は防人司の判官なり
 
   太宰帥大伴卿上v京之後沙彌滿誓賜〔左△〕v卿歌二首
572 (まそ鏡)みあかぬ君におくれてやあしたゆふべにさびつつをらむ
眞十鏡見不飽君爾所贈哉旦夕爾左備乍將居
(690) サビツツはシヲレツツなり。ウラサブといふに同じ(本書五四頁及一二六頁參照)○オクレテヤのヤはサビツツの下におくべきを言數の都合にてオクレテの下におけるなり○賜は贈の誤なり
 
573 ぬばたまの黒髪|變白髪手裳《シロクカハリテモ》いたき戀にはあふ時ありけり
野干玉之黒髪變白髪手裳痛戀庭相時有來
 二三句を宣長はクロカミシロクカハリテモとよみ雅澄は舊訓に從ひてクロカミカハリシラケテモとよめり。宣長の説の方穩なり。シロクカハリを變2白髪1と書きもすべけれどシラケを白髪とは書くまじきが故なり。テモのモは亦なり。オイテモ亦といふ意なり○こゝの戀は男女の戀にあらず。老イテ心淡クナリヌレドナホ君ヲ思フ情ノ切ナルニ堪ヘズといへるなり。略解に
  年經ても男女の戀は逢ふ時あるを此別は再逢ひ難きを歎くなり
といへるは非なり。上なるクロカミニシロカミマジリオユルマデカカル戀ニハイマダアハナクニと辭は似たれど意は似たる所なし
 
   大納言大伴卿和歌二首
(691)574 ここにありて筑紫やいづくしら雲のたなびく山の方にしあるらし
此間在而筑紫也何處白雲乃棚引山之方西有良思
 卷三(三九三頁)にココニシテ家ヤモイヅクシラ雲ノタナビク山ヲコエテキニケリ
といふ歌あり。ココニアリテはココニシテと同じくてココデといふ事、畢竟ココカラ見ルトといふ意なり
 
575 草香江の入江にあさるあしたづのあなたづたづし友なしにして
草香江之入江二求食蘆鶴乃痛多豆多頭思友無二指天
 草香江は河内の地名。上三句は序○タヅタヅシは契沖おちつかぬやうの心なりといへり。今いふタヨリナイの意なり。友ナシニシテは友ナクテなり
 
   太宰帥大伴卿上v京之後筑後守葛井《フヂヰ》(ノ)連《ムラジ》大成悲嘆作歌一首
576 今よりはきの山みちは不樂牟《サブシケム》わがかよはむとおもひしものを
從今者城山道者不樂牟吾將通常念之物乎
 第三句を舊訓にサビシケムとよめるを宣長はサブシケムに改めたり。オモシロカ(692)ラザラムとなり。四五はイツマデモ君ニマミエ奉ラム事ヲ樂ミツツ通ハムト思ヒシモノヲといふ意なり。古義に
  今より後は吾通ふべきよしもなくて城(ノ)山道はいよいよさぶしからむ、卿の太宰府におはして吾つねにかよひし時は人馬の通行絶ずてにぎはしくおもしろかりしを、となるべし
といへるは非なり○木の山は筑前國筑紫郡原田の南方にありて肥前に跨れり。いにしへ筑後肥前より太宰府に通ふには此山を踰えしなり
 
   大納言大伴卿新袍(ヲ)贈2攝津(ノ)大夫《カミ》高安王1歌一首
577 わがころも人にな著《キ》せそあびきする難波をとこの手には雖觸《フレドモ》
吾衣人莫箸曾網引爲難波壯士乃手爾者雖觸
 雖觸は舊訓にフルトモとよめれどさては意通せざるによりて宣長は
  雖の下不(ノ)字落たるか。しからばテニハフレズトモと訓べし。三四の句は高安王をたはぶれていへる也
(693)といへり。之によればタトヒ氣ニ入ラズシテ御手ニ觸レタマハズトモ人ニハ與ヘタマフナといへるなり。雅澄は雖觸をフレレドとよみ難波壯士を王自云へりとし、さては題辭と合はざるによりて高安王より旅人卿に贈れるなりとせり。案ずるにこの新袍は筑紫のつととして攝津職の長官たる高安王に贈りしにてもとより然るべき人をもて贈りけむを三津に船のはてし時そこらに居合せたる漁夫に托して贈りしやうにいひなして賤ノ男ノ手ニハ觸レヌレドといへるにや。さらば雖觸はフルレド又はフレドモ(四段活とせば)とよむべし
 
   大伴宿禰三依悲v別歌一首
578 あめつちと共に久しくすまはむとおもひてありし家の庭はも
天地與共久住波牟等念而有師家之庭羽裳
 任地を離れむとする時その家に別るゝ事を悲みてよめるなりと略解古義にいへれど京人が任國に下りたらむにたとひ其家いとめでたかりとも京に歸るうれしさを忘れてかくばかり其家の別を惜まむは人情にあらず。恐らくは家の庭に寄せて情人の別を惜めるなるべし○ハモは屡云ひし如く思ひ遣る調の辭なれば此歌(694)はその家にてよめるにあらで旅だちし後又は京に歸りての後によめるなり
 
   金《コン》(ノ)明軍與2大伴宿禰家持1歌二首
579 見まつりていまだ時だにかはらねば年月のごとおもほゆる君
奉見而未時太爾不更者如年月所念君
 明軍は家持の父旅人卿の資人《ツカヒビト》なり○時は雅澄のいへる如く四時の時なり。カハラネバとあるによりて常の意の時にあらざる事知らる。カハラネバはカハラヌニなり○見マツリテは最後ニ御目ニカカリテなり
 
580 (足引の)山におひたるすがの根のねもころみまくほしき君かも
足引乃山爾生有菅根乃懃見卷欲君可聞
 上三句は序なり。ネモコロは今いふクレグレなり。代匠記には男色關係の歌とせり
 
   大伴(ノ)坂上《サカノヘ》家之大娘報2贈大伴宿禰家持1歌四首
581 生而有着《イキテアラバ》みまくも不知《シラニ》なにしかもしなむよ妹といめにみえつる
生而有者見卷毛不知何如毛將死與妹常夢所見鶴
(695)略解にいふ
  契沖云。今コソ逢ガタケレ、カタミニナガラヘバ又相見ムモ知ラレヌヲナドカ吾夢ニ君ガ入來テカク逢ハデアランヨリハ戀死ナント見エツランとよめり(○代匠記の初稿本に出でたるなり)
 古義にいふ
  生存ヘテアリトモ現在ニテハ相見ム由モ知ズ、來世ニテ逢ベシ、サアレバ生テアラムハ中々ニ物ウシ、イザ死(ナ)ムヨ妹トノタマフト夢ニ見エツルコトヨ、何シカモカクハ見エツルゾとなり。第三四句をおきかへて意得べしと。雅澄は初二四を家持の辭とせるなり。句を前後するは處にこそよれナニシカモといふ地の辭を話辭の中に挿むべけむや。其上此説の如くば第二句の不知はシラニとはよむべからず。必シラジとよむべきなり。雅澄又いはく
  本居氏の詞(ノ)瓊綸《タマノヲ》てにをはたがへる歌の中に此歌をいれしはいかにぞや
と。玉緒七卷四丁に
  いきてあ【られ】ば見まくもしら【にず】……
(696)と擧げて
  これは、ゾノヤ何などなくしてツルと結べるかなはず。上のナニシカモは此語へはかゝらねばなり。但初句をイキテアラバと訓むときは二の句の意かはりてナニシカモの言、ツル迄かゝれば難なし
といへり。宣長の第一説は
  『いきてあれ〔右△〕ばみまくもしらず〔右△〕何しかも死なむよ妹』といめにみえつる
界中の辭を皆家持の話辭と見れば何シカモは死ナムと照應するが故に『ツルの係なし』といへるなり。第二説(玉の小琴なるは此方なり)は契沖の説の如く
  いきてあら〔右△〕ばみまくもしらに〔右△〕何しかも『死なむよ妹』といめにみえつる
シナムヨイモのみを家持の話辭と見ればナニシカモと見エツルと照應するが故に『難なし』といへるなり。説の當否は措きて宣長の語格論はよく通れり。訝るべきにあらず。さて歌の釋はしばらく契沖の説によるべし。此釋に從へばイキテアラバはミマクと、ナニシカモはミエツルと照應せるなり
 
582 ますらをもかくこひけるをたわやめのこふるこころにたぐへらめや(697)も
丈夫毛如此戀家流乎幼婦之戀情爾比有目八方
 男デサヘカク戀慕フガナホ女ノ戀慕フ心ニ匹敵セムヤといふ意なり。タグヘラメヤモはタグヒテアラムヤハなり
 
583 (月草の)うつろひやすくおもへかもわがもふ人のこともつげこぬ
月草之徙安久念可母我念人之事毛告不來
 二三はウツロヒカハリヤスキ心ナレバニヤといふ意、結句は便モセヌといふ意なり
 
584 春日山朝たつ雲のゐぬ日|無《ナミ》みまくのほしき君にもあるかも
春日山朝立雲之不居日無見卷之欲寸君毛有鴨
 第三句を從來ヰヌ日ナクとよめれどさては序とならず。よろしくヰヌ日ナミとよむべし○歌の意は契沖の云へる如く春日山ニ雲ノヰヌ日ナクテサヤカニ見エネバイカデ見マホシト思フ如ク見マホシクオボユル君カナといへるなり
 
(698)   大伴(ノ)坂上(ノ)郎女歌一首
585 いでていなむ時しはあらむをことさらに妻ごひしつつたちていぬべしや
出而將去時之波將有乎故妻戀爲乍立而可去哉
 初二は出デユク時ハアラウニといふ意、コトサラニはタチテイヌにかゝれり○こは郎女の夫の郎女に通ひそめし頃事ありて地方に行きし時によめるにあらざるか
 
   大伴宿禰稻公贈2田村(ノ)大孃1歌一首
586 あひ見ずばこひざらましを妹を見てもとなかくのみ戀者奈何將爲
不相見者不戀有益乎妹乎見而本名如此耳戀者奈何將爲
    右一首〔右△〕姉坂上郎女作
 稻公は旅人卿の庶弟、田村大孃は大伴宿奈麻呂の女、坂上郎女は田村大孃の繼母なり○モトナはアヤニクなり○結句は略解古義にコヒバイカニセムとよみたれど(699)コヒバと假設的にいふべき處にあらず。誤字あるにあらざるか○略解に左註の首は云の誤なるべしといへり。坂上郎女が田村大孃に贈りし歌とせば姉とは云ふべからず。姉は稻公に對して云へるなれば右一首とあるはもとのまゝにして作とあるを代作と心得べし
 
   笠女郎贈2大伴宿禰家持1歌廿四首
587 わがかたみ見つつしぬばせ(あらたまの)年の緒ながくわれも將思《シヌバム》
吾形見見管之努波世荒珠年之緒長吾毛將思
 將思は古義にシヌバムとよめるに從ふべし○シヌバセはシノビタマヘなり○年ノ緒は年數なり。第一年第二年とやうにいふがトシナミ、十年二十年とやうにいふがトシノヲなり○古義に『これは家持卿に別れゆくとき女郎より何にもあれ形見のものを贈りてそへたるなるべし』といへる如し
 
588 (しら鳥の)とば山松のまちつつぞわがこひわたる此月比を
白鳥能飛羽山松之待乍曾吾戀度此月比乎
(700) 初二は序。コノ月ゴロヲのヲは助辭なり
 
589 (ころもでを)打廻乃里にあるわれを知らずぞ人はまてどこずける
衣手乎打廻乃里爾有吾乎不知曾人者待跡不來家留
 第二句は舊訓にウチワノサトとよめり。契沖は右の訓に從ひて地名とせり。卷十一にも神ナビノ打廻前乃イハブチニとあり。宣長は打を折の誤とし乃を衍字としてヲリタムサトと訓みて近き事とせり。雅澄は之に從へり。初句をウチにかゝれる枕辭とし打廻はウチミとよみて近隣の義とすべきか。下にもマヂカキ君ニコヒワタルカモまた山河モヘダタラナクニカクコヒムトハとよめり○シラズゾはシラデゾ、コズケルはコザリケルなり
 
590 (あらたまの)年の經去者《ヘヌレバ》今しはとゆめよわがせこわが名のらすな
荒玉年之經去者今師波登勤與吾背子吾名告爲莫
 經去者は古義にヘヌレバとよめる、よろし(舊訓はヘユケバ)○歌の釋も雅澄の
  年の經にたれば今はくるしからじと心許して吾名を人に告知らしめたまふな、(701)ゆめゆめ吾夫子よといふなり
といへる如し
 
591 わがおもひを人に令知哉《シラスレヤ》たまくしげひらきあけつといめにし所見《ミユル》
吾念乎人爾令知哉玉匣開阿氣津跡夢西所見
 令知哉は略解古義共に宣長のシラセヤとよめるに從ひ略解に『知ラセバニヤなり』といひ古義に『知ラシムレバニヤの意なり』と云へり。げに我思ヲ君ガ人ニ知ラセタマヘバニヤ櫛笥ヲ開キツト夢ニ見ユといへるなれどシラセヤとよみてはかなはず。シラスルは二段活にてシラセは其將然格なればなり。必シラスレヤとよむべきなり○所見は舊訓のまゝにミユルとよむべし。略解にミエツとよめるは非なり
 
592 闇夜《ヤミノヨ》になくなるたづのよそのみにききつつかあらむあふとはなしに
闇夜爾鳴奈流鶴之外耳聞乍可將有相跡羽奈之爾
 闇夜は舊訓にクラキヨとよめるを契沖はやくヤミノヨともよむべしと云ひ雅澄は卷二十に夜未乃欲能と假字書にせるを證としてヤミノヨとよめり。初二は序な(702)り○ヨソノミニはヨソニノミなり
 
593 君にこひいたもすべなみなら山の小松が下に立嘆鴨〔左△〕《タチナゲキツル》
君爾戀痛毛爲便無見楢山之小松下爾立嘆鴨
 イタモはイトモなり。結句の鴨一本に鶴とあり。之によりてタチナゲキツルとよむべし。ツルの係の無きは略辭格なればなり○下の字舊訓にシタとよめるを考に
  小松といはんからに立寄るばかりの陰なるはいはじ。然れば其松のもとべに立ちて嘆きしをいふなればモトと訓べし云々
といひ略解古義共にモトとよめり。卷一の小松下乃草乎苅核も考、古義にはコマツガモトノとよめり。案ずるに小松といふもの、もし今いふ如く小さきもののみを云はば小マツガモトとも云ふべからず。小松ガナカニなどこそいふべけれ。然いはざるを見れば小松は今云ふよりは遙に大なるをもいひし事明なり。從ひてこゝは安んじてコマツガシタニとよむべし(卷一【二三頁】參照)
 
594 わがやどのゆふかげ草のしら露のけぬがにもとなおもほゆるかも
(703)吾屋戸之暮陰草乃白露之消蟹本名所念鴨
 上三句は序なり○ユフカゲグサは契沖いはく
  草の名にあらず。……陰草といはむとて幸露も夕におくものなれば夕陰草など云へり
 文意明ならねど夕カゲを陰草にいひかけたりとせるに似たり。略解には
  草の名にあらず。水陰草、山陰草といへるに同じく庭の夕陰の草なり
といひ古義には
  契沖云。草の名にあらず。夕の陰草なり。アシ引ノ山ノ陰草、天ノ河ミヅカゲ草などよめるたぐひなり
といへり。案ずるに本に暮陰草とは書きたれどカゲは陰にはあらで影の意なり。略解古義の字面に泥みたるは非なり。山、水などにこそ陰はあれ夕に陰あらむや。さて夕影は本集卷十九にコノユフカゲニウグヒスナクモ、古今集秋下にキリギリスナクユフ影ノヤマトナデシコなどありて夕日山に沈みて餘光なほ天にある程をいふ○ケヌガニはキエヌガニにてそのガニは略解にホドと譯し古義にバカリニと(704)譯せる如し。古義には又宣長のガニとガネとを混同せるを辨拆しガニをバカリニ、ガネをタメニと譯し古今集以後やうやうガネの方は用ひられずなりきと云へり。くはしくは今の歌の註下を見べし
 
595 吾命のまたけむかぎりわすれめやいや日にけにはおもひますとも
吾命之將全幸限忘目八彌日異者念益十方
 マタケムは全カラムなり。イヤ日ニケニは日ヲ追ウテマスマスといふことなり。さて上三句と下二句と打見には相親しからず。案ずるに第四句の上にムシロといふことを補ひて聞くべきなり
 
596 八百日《ヤホカ》ゆく濱の沙《マナゴ》もわが戀にあにまさらじかおきつ島守
八百日往濱之沙毛吾戀二豈不益歟奥島守
 ヤホカユクは略解に『多くの日數をあゆみ行といふにてかぎりなく遠き濱といふ意なり』といへる如し○沙を舊訓にマサゴとよめるを雅澄は和名抄と集中の例とを引きてマナゴとよめり○第四句アニマサラジカといへる異樣に聞ゆ。續紀歴朝(705)詔詞解四卷三十三丁に第二十八詔に豈障倍岐物仁方不在《アニサハルベキモノニハアラズ》とある註に
  豈云々三十八詔に豈障事|波不在止《ハアラジト》、四十二詔に豈敢云々事|波無止《ハナシト》、仁コ紀大后の御歌に阿珥豫區望阿羅儒《アニヨクモアラズ》、萬葉四に豈不益歟など有。古言の豈は漢文のいひざまといさゝかかはれり。萬葉十六に豈藻不在《アニモアラズ》ともあるは何ノ論モアラズなりと師のいはれし其意也。さてこゝにかく詔給へる意は……ナデフコトカアラム、サハルコトアラジと也
といへり。本集卷三にアニマサメヤモ、アニシカメヤモ(四四三頁及四四四頁)といへるは今の世にいふと同じ。されば古言のアニは今のいひざまと異なるもありとこそいふべけれ。さて今の歌にアニマサラジカといへるは續紀第三十八詔に豈サハル事ハアラジトといへると似たり。今はそのアラジの下にカの加はれるのみ。さて諸例に試みるに右のアニはオソラクハと譯して通ずるに似たり。されば今も恐ラクハマサラジと譯すべし。アラジカはアラジといふに同じ。なほ卷五に至りて云ふべし○オキツシマモリと云へるは海邊の趣なれば島守のさし向ひてある體にて問ひかけたるなり
 
(706)597 (うつせみの)人目をしげみ(いはばしの)まぢかき君にこひわたるかも
宇都蝉之人目乎繁見石走間近君爾戀度可聞
 ウツセミノは枕辭なり。代匠記にウツセミノ人目とは世ノ人目なりといへるは非なり。何に對してか特にウツセミノと云はむ○マヂカキ君はマヂカク住ム君なり
 
598 戀にもぞ人はしにする(みなせ河)したゆわれやす月に日にけに
戀爾毛曾人者死爲水瀬河下從吾痩月日異
 戀ニモゾは戀ニモ亦といふにゾを添へたるのみ。雅澄がモゾの辭にカヘリテといふ意を含めたるなり云々といへるは非なり○シニスルのシニは名詞なり。今も犬ジニなどいふシニなり。古今集にシニハヤスクゾアルベカリケル、榮花物語に殿ノ御シニなどあり○ミナセ河は宣長の説に河の名にあらで水無き河なりといへり。水なし河のシがセにうつれるなり。やがてミナシ〔右△〕河とも云へり。其みなせ河は砂の下を水の流るゝものなればシタユの枕とせるなり○シタユは略解古義共に人知レズと釋けり。こはヤスとあるに合せたるなれどまことに痩せむには人に知られ(707)ざることあらむや。案ずるにシタユは心ヨリの意にて心ヨリオトロヘユクといへるなり○月ニ日ニケニは日ヲオヒ月ヲオヒテにて之ヲオモヘバ人ハ戀ニモ亦死ヌルモノナリと云へるなり
 
599 (朝霧の)おほにあひみし人ゆゑに命しぬべくこひわたるかも
朝霧之欝相見之人故爾命可死戀渡鴨
 人ユヱニは人ナルニなり○オホニは漠然トなり。目モトドメズなり。卷二にオホニ見シカバ今ゾクヤシキ(三一四頁)卷三にオホニゾミケルワヅカ杣山(五七四頁)などあり○アラタマノ年ノヘヌレバといふ歌よりは前の歌なるべし。抑此二十四首はもと一時におくりし歌にはあらで度々におくりし歌なるを順序には拘はらでしるし留めたるなり
 
600 伊勢の海の濱もとどろによする浪|恐《カシコク》人にこひわたるかも
伊勢海之礒毛動爾因流浪恐人爾戀渡鴨
 上三句は序なり○恐の宇舊訓にカシコキとよめるを代匠記拾遺に
(708) カシコキとよめば人の上、カシコクとよめばわが上也。人の物いひなどをさしてカシコシとは云へり
と云へり。宣長もカシコクとよむべしと云へり
 
601 こころゆも吾はもはざりき山河も隔莫國かくこひむとは
從情毛吾者不念寸山河毛隔莫國如是戀常羽
 ココロユモはココロニモにて(上【六二〇頁】なるココロユモオモヘヤ妹ガイメニシミユルの註を見合すべし)ココロユモワハモハザリキはオモヒカケザリキといふことなり○山河は山と河となり○隔莫國は從來へダタラナクニとよめれどヘダテナクニといふべき處なり。下にもウミ山モ隔莫國とあり。これも六言によむべきか。なほ考ふべし
 
602 ゆふさればものもひまさるみし人の言問爲形《コトドフスガタ》おもかげにして
暮去者物念益見之人乃言問爲形面影爲而
 第四句は契沖のコトドフスガタとよめるに從ふべし。コトドフは物イフなり。スガ(709)タの下にヲを省けるなり○オモカゲニシテのシは助辭なり。雅澄がシテは其事をうけばりて他事なく物する意の時いふ詞なりと云へるはこゝにはかなはず。こゝのニシテは月影ヲ色ニテサケル卯花ハなどのニテに同じ
 
603 おもふにししにするものにあらませば千たびぞ吾はしにかへらまし
念西死爲物爾有麻世波千遍曾吾者死變益
 シニカヘルのカヘルは反復なり。さればシニカヘルは幾度も死ぬる事なり○變は反の通用なり
 
604 つるぎだち身にとりそふといめにみつなにの怪《シルシ》ぞも君爾相爲〔左△〕《キミニアハムカモ》
劍太刀身爾取副常夢見津何如之怪曾毛君爾相爲
 怪の字を略解にサガとよめるを雅澄はサガは前表といふことにあらずと云ひてシルシと改めよめり。いにしへ婦人が劍を身に副ふと夢に見れば男に逢ふ前表、男子が鏡を身に副ふと夢に見れば女に逢ふ前表とせしなり。六帖にウチナビキ獨シヌレバマス鏡トルトユメミツ妹ニアハムカモといふ歌あり○結句は從來キミニ(710)アハムタメとよめれどすこし穩ならず。爲は鴨の誤にあらざるか
 
605 あめつちの神理《カミニコトワリ》なくばこそわがもふ君にあはずしにせめ
天地之神理無者社吾念君爾不相死爲目
 神理は從來カミシコトワリとよめれどカミニ〔右△〕コトワリとよむべきか。コトワリナクバコソは感應ガナイモノナラバとなり。畢竟神ニハ感應アレバ祈ル驗アリテ必逢フ事アラムと自慰めたるなり
 
606 吾もおもふ人もなわすれ多奈和丹うらふく風のやむ時|無有〔左△〕《ナシニ》
吾毛念人毛莫忘多奈和丹浦吹風之止時無有
 多奈和丹は誤字とおぼゆ。宣長は
  三の句アサニケニの誤ならむか。旦爾氣丹か
といひ雅澄は
  此歌六帖には君モオモヘ我モ忘レジアリソ海ノ浦フク風ノ止時モナク(後撰には吾モ思フ人モ忘ルナ有磯海ノ云々とあり)とあるを思へばもと有曾海乃など(711)ありしをよりよりに寫し誤れるにや
といへり○結句の無有は舊訓にナカレとよめるを宣長は『無爾《ナシニ》の誤ならむか』といへり。後撰にも六帖にもヤム時モナクとあればげに本集なるはナシニとぞありけむ。さてそのナシニは初句に還りかゝれるなり
 
607 皆人をねよとのかねはうつ△《ナ》れど君をしもへばいねがてぬかも
皆人乎宿與殿金者打禮杼君乎之念者寐不勝鴨
 ミナビトをいにしへヒトミナといへり。されば雅澄はこゝも人皆の顛倒なりといへり。されど卷二(一四三頁)にも皆人とあるを彼も此も顛倒なりとせむはいかが○ミナ人ヲのヲは今のヨなり。卷七なるワガセコヲコチコセ山ト人ハイヘドのヲに同じ。ネヨトノ鐘は今の午後十時なり。イネガテヌカモはイネアヘヌカナなり
 
608 あひおもはぬ人をおもふは大寺の餓鬼のしりへにぬかづく如《ゴトシ》
不相念人乎思者大寺之餓鬼之後爾額衝如
 かひなき事のたとへに云へるなり。契沖いはく
(712)  昔は伽藍とある所には慳貪の惡報を示さむ爲に餓鬼を作り置けるなるべし。……寺に詣でば佛菩薩等ををがまむこそ滅罪生善の益はあるべけれ由なく餓鬼の許に行て尚其しりへをさへをがまむは何の益かあらむ云々
といへり。卷十六にも寺々ノ女餓鬼マヲサク大ミワノ男餓鬼タバリテ其子ウマハムといふ歌あり。いにしへ寺々に餓鬼の像をおきたりし事これにて明なり○如の字舊訓にゴトとよめるを雅澄はゴトシに改めたり。ゴトはゴトクの略にてゴトクはこゝにかなはざればなり○いにしへは女もかゝることを云ひき。かくいふは今の女に學べとにはあらず。人情の變遷を見るべしとなり
 
609 こころゆも我はもはざりき又更にわがふるさとにかへりこむとは
從情毛我者不念寸又更吾故郷爾將還來者
 略解に『此歌と次の歌は左に相別後更來贈とあれば近く女の來り住るが又故有て遠く隔りて後よみておくれるなるべし』と云へる如し
 
610 近有者《チカカラバ》雖不見在乎《ミズトモアラムヲ》いやとほく君が伊座者有不勝自《イマセバアリガツマシジ》
(713)近有者雖不見在乎彌遠君之伊座者有不勝自
    右二首相別後更來贈
 略解古義共に舊訓に從ひてチカクアレバミネドモアルヲとよめれど故郷へ歸りし後の歌なればチカカラバミズトモアラムヲとよむべきなり○伊座者を略解古義にイマサバとよめるは誤れり(舊訓はイマシナバ)。イヤトホク君ガイマスは事實にして假設にあらねばイマセバとよむべし○結句はアリガツマシジとよむべし。有|敢《ア》フマジ即得アラジの意なり
 
   大伴宿禰家持和歌二首
611 今更に妹にあはめやとおもへかもここだわが胸おほほしからむ
今更妹爾將相八跡念可聞幾許吾胸欝悒將有
 ココダは澤山、オホホシはウットシにて胸のふさがれるをいふ
 
612 なかなかにもだもあらましを何すとかあひみそめけむ不遂等〔左△〕
中々者〔左△〕黙毛有益呼何爲跡香相見始兼不遂等
(714) モダモアラマシヲはタダニアラマシヲにてアヒソメザラマシヲといふ意なり。ナカナカニは第四句にかかれり。中々者の者は一本に爾となり○結句は從來トゲザラナクニとよめり(等は一本に爾とありといふ)。トゲザラナクニはトゲザラヌニなり。然るに今はトゲザルニとあるべくトゲザラヌニといひてはトゲザルを更に打消したる事となりて義理通ぜず。宣長は
  トゲザラナクニと云ひてトゲヌニと云意になる古言の一格也。此例多し。別に委く云り
といへれどこれのみにてはげにとはおぼえず。雅澄は
  ナクは輕く添へたる辭にて家待莫國《イヘマタナクニ》など云へる類なり
といへり。家待莫國は卷三なる草マクラタビノヤドリニタガツマカ國ワスレタルといふ歌の尾句にて莫は眞淵等の説の如く眞の字の誤にてイヘマタマクニとよむべきこと彼歌の處(三卷【五二二頁】)にいへる如し。されば今の歌の例には引くべからず。案ずるに不遂爾の上に一字(相の字など)ありしが落ちたるにはあらざるか
 
   山口女王贈2大件宿禰家持1歌五首
(715)613 物もふと人にみえじとなまじひに常におもへどありぞかねつる
物念跡人爾不見常奈麻強常念弊利在曾金津流
 略解にナマジヒニを初句の上におきかへて釋き古義には三四の句はおきかへて意得べしと云へり。まづナマジヒニといふ語の意を明にせむに雅澄はカリソメニと釋きたれどこれは當らず。用例を考ふるに黽勉シテといふ意ときこゆ。されば句をおきかふる要は無し。即ナマジヒニオモフと續けるなり○アリゾカネツルは人ニ見エズニハアリカヌルとなり
 
614 相おもはぬ人をやもとなしろたへの袖ひづまでにねのみし泣裳《ナカモ》
不相念人乎也本名白細之袖漬左右二哭耳四泣裳
 モトナはアヤニクニなり。心外ニなり○契沖いはく『泣裳はナカモとよむべし。モはムに通じてナカムなり。集中例多し』と(例は古義に擧げたり)。人ヲヤ……ナカモと照應せり。人ヲヤのヲはナルヲのヲなり
 
615 わがせこはあひもはずとも(しきたへの)君が枕はいめにみえこそ
(716)吾背子者不相念跡裳敷細乃君之枕者夢爾見乞
 ミエコソはミエヨカシなり○第四句心得がたし。試に云はばいにしへ、人が我をこふれば其人が我夢に見ゆといふ俗信ありしなり。そは下なる東人の妻の歌を見ても知るべし。今は君ハ我ヲコヒタマハネバ我夢ニ見ユタマハズ、ソレハ是非ナケレドセメテ君ノ枕ハ夢ニ見エヨカシ、ソレヲダニ慰ニセムといへるにや
 
616 (つるぎだち)名のをしけくも我はなし君にあはずて年のへぬれば
劍太刀名惜雲吾者無君爾不相而年之經去禮者
 ツルギダチは名の枕辭〇一首の意は雅澄の今ハタツ名ノ惜キコトナク人目憚ラシキコトモナシといへる如し
 
617 蘆べよりみちくるしほのいやましにおもへか君がわすれかねつる
從蘆邊滿來塩乃彌益荷念歟君之忘金鶴
 アシベヨリはアシベヲにて初二はイヤマシの序なり○君ガは君ノ事ガとなり。ここのワスレはワスラレの約なり。オモガタノ和須禮牟シダハなどワスラルをワス(717)ルといへる例多し。略解に『君ヲワスレカヌルといふを君が云々といふは例也』といひ古義に『君ヲといふこゝろを君|之《ガ》と云は古言の例なり』といへるは妄なり
 
   大神《オホミワ》(ノ)女郎贈2大件宿禰家持1歌一首
618 さよ中に友よぶ千鳥ものもふとわびをる時になきつつもとな
狹夜中爾友喚千鳥物念跡和備居時二鳴乍本名
 第二句の下にカナを附けて聞くべし○ワブルは當惑する事○ナキツツモトナは雅澄のモトナナキツツといふが如しと云へる、よろし
 
   大伴坂上郎女怨恨歌一首并短歌
619 (おしてる) 難波の菅の ねもころに 君がきこして 年ふかく ながくしいへば (まそ鏡) とぎしこころを ゆるしてし 其日のきはみ 浪のむた なびく玉藻の かにかくに こころはもたず (大船の) たのめる時に (ちはやぶる) 神やさけけむ (うつせみの) 人かさふらむ 通爲《カヨハシシ》 君もきまさず (たまづさの) 使もみえず なりぬ(718)れば いたもすべなみ (ぬばたまの) よるはすがらに (あからひく) 日もくるるまで なげけども しるしをなみ おもへども たづきをしらに たわやめと いはくもしるく たわらはの ねのみなきつつ たもとほり 君が使を まちやかねてむ
押照難波乃菅之根毛許呂爾君之聞四乎〔左△〕年深長四云老眞十鏡磨師情乎縦手師其日之極浪之共靡殊藻乃云云意者不持大船乃憑有時丹千磐破神哉將離空蝉乃人歟禁良武通爲君毛不來座玉梓之使母不所見成奴禮婆痛毛爲便無三夜干玉乃夜者須我良爾赤羅引日母至闇雖嘆知師乎無三雖念田付乎白二幼婦常言雲知久手小童之哭耳泣管徘徊君之使乎待八兼手六
 初二句は序なり○玉の小琴に
  キコスはノタマフと云意に用ひたる詞也。下に云者《イヘバ》とあるに重なるやうなれどもかく重て云が古語の常也。さてノタマフと云ことをキコスと云こと例多し
といひ記傳卷三十七ヨシトキコサバの註に
  ヨシトノタマハバなり。……ノタマフと云べきをキコスと云へる例云々
といひて書紀萬葉の中よりあまたの例を擧げたり。げに本集卷十一なるイヌカミノトコノ山ナルイサヤ河イサトヲキコセワガ名ノラスナなどノタマフをキコスといふことあるは疑なけれど今のキコシテをイヒテとすれば下なるイヘバと重なるなり。宣長は『かく重ねていふが古語の常なり』といひたれどかゝる例あるを知らず。元來こゝのキコシテを宣長が辭のまゝに解せざるはネモコロニと親しからざる故なるべし。案ずるにネモコロニはキコシテにかゝれるにあらず。ネモコロニ年フカクナガクシイヘバといふ間に君ガキコシテを挿めるなり。即我事ヲ君ガキキ給ヒテネモコロニ年深ク長クノタマヘバと云へるなり。さればキコシテ(キカシテともよむべし)は辭のまゝにキキタマヒテと解すべし○年フカクの例は古義に擧げたり。略解に
  こゝは末々長ク絶ジトイヘバと也
(720)といひ古義に
  こゝは今よりゆくさきの久しく長きをかねていふなり
といへるは非なり。年フカクは年久シクにて年フカクもナガクも共に既往の事を云へるなり。卷三にも昔ミシフルキツツミハ年フカミ池ノナギサニミクサオヒニケリとあり(四六三頁參照)○トギシココロは再男ニ逢ハジト思固メシ心といふことなり。漢籍に※[礪の旁]2志操1といへるに當れり。大伴宿奈麻呂に死別して寡居したりし程の事と思はる。下にもおなじ人のよめるマソ鏡トギシ心ヲユルシテバノチニイフトモシルシアラメヤモといふ歌あり○ソノ日ノキハミを宣長は
  こは其日ノ盡ルマデと云意にて其日ノ毎日毎日過行テ極マリ盡ルマデにてイツ迄モと云意になる也。十七卷に來シ日ノキハミとも又其日ノキハミともあり。其日ヨリシテ今日迄と云ことに用ひたり
といひ略解古義共に之に從ひたれどソノ日カギリの意とすべし。卷十七述2戀緒1歌なる別來シソノ日ノキハミアラタマノ年ユキカヘリ春花ノウツロフマデニアヒミネバイタモスベナミ云々も其日カギリと釋きて滞る所なし○浪ノムタナビク(721)玉藻ノはカニカクニの序なり。ムタはトモニなり。藻は浪のまゝに、とゆきかくゆき處を定めねばカニカクニの序とせるなり。カニカクニ心ハモタズは迷ふ所なきをいふ○タノメル時ニはタノメル間〔月が日〕ニなり。サクルは離すこと、サフルは邪魔する事なり○通爲を略解にカヨハセルとよめるはわろし。宣長のカヨハシシとよめるに從ふべし○君モのモは使に對していひ使モのモは君に對していへり○スガラは始より終までの間をいふ。さればヨルハスガラニはヨルハ夜ドホシといふことなり○日モクルルマデの日モは夜ハスガラニの夜ハに對せるなり○タヅキは手段○タワヤメはタワヤキ女といふことにてそのタワヤシはタワムなどと同じくタワといふ語のはたらきたるにて剛毅ならざる事なり。タワヤメトイハクモシルクはタワヤメトイフ由モシルクといふ意なり○タワラハは卷二(一七八頁)にも戀ニシヅマムタワラハノゴトとあり。略解に『掌にのする許のわらはと云也』といへるは非なり。手に抱くばかりのわらはといふことなり(卷三【五三〇頁】なる手兒の語釋と合せ見べし)○タモトホリのタは添辭なり。タワスル(卷三【四八七頁】)のタに同じ○マチヤカネテムはマチカネテアラムカの意なり。カネタラムをカネテムといふはカラムをケ(722)ムといふと同例なり
 
   反歌
620 はじめより長くいひつつたのめずばかかるおもひにあはましものか
從元長謂管不念〔左△〕恃者如是念二相益物歟
 初二は長歌にネモコロニ君ガキコシテ年フカクナガクシイヘバといへるに當れり。略解に『長クトイヒテタノマセズバといふ也』といへれど長クトイフといふ事をナガクシイヘバ又ナガクイヒツツとは云ふべからず。長クトといふべき處は本集にもナガクトといへり。たとへば下にコヒコヒテアヘル時ダニウルハシキ言ツクシテヨナガク常《ト》モハバといへる如し。案ずるにナガクイフは年月を經ていひわたるなり○タノムルはタノマシムルにて畢竟約束する事、カカルオモヒニアハマシモノカは夫の通はずなりしを恨みてカヤウナ嘆ニ逢ハウヤと云へるなり○不念恃の念は令の誤なり
 
   西海道節度使(ノ)判官佐伯(ノ)宿禰|東人《アヅマビト》(ノ)妻贈2夫君1歌一首
(723)621 あひだなくこふれにかあらむ(草枕)たびなる君がいめにしみゆる
無間戀爾可有牟草枕客有公之夢爾之所見
 略解には夫の戀ふる事とし古義には作者の戀ふる事とせり。略解の説可なり。そのかみ人が我を戀ふれば其人が夢に見ゆといふ俗信ありしなり。下にもワガセコガカクコフレコソヌバタマノイメニミエツツイネラエズケレといふ歌あり
 
   佐伯宿禰東人和歌一首
622 (草枕)たびに久しくなりぬれば汝をこそおもへなこひそわぎも
草枕客爾久成宿者汝乎社念莫戀吾妹
 古義に
  旅にありて久しく相見ずあれば吾こそ汝を思ふ事の甚しけれ、されば吾思ふほど汝は吾を思ふまじければ汝のみ吾を戀しく思ふとはいふことなかれ吾妹よ
となり
と云へるサレバ以下はひが言なり
 
(724)   池邊王宴(ニテ)誦《トナヘシ》歌一首
623 松の葉に月はゆつりぬ(もみぢばの)過哉《スギヌヤ》君があはぬ夜|多鳥〔左△〕《オホク》
松之葉爾月者由移去黄葉乃過哉君之不相夜多鳥
 作者は不詳なるなり○多鳥は舊訓にオホクとよめるを宣長は
  結句はアハヌヨオホミと訓べし。鳥は身の誤か又焉の字にてもよし
といへり。鳥は烏の誤なり。さて烏が焉の俗體なる事は訓義辨證に見えて上に引ける如し○ユツルは古義に依移るといふ事なりといへり。案ずるにコノクレノ時ユツリナバアハズカモアラム(卷十四)など時にもいへるを見ればただウツルといふに齊しくて(イウツルをつづめてユツルといふか)月にいへるは傾く事なり。初二は女の來ぬ人を徒に待明しつるさまなり。初にコヨヒモマタといふことを加へて聞くべし。古義の説非なり○過哉は舊訓にスギヌヤとよめるを古義にスギシヤに改めたり。されどスギシヤにては語格とゝのはず。なほスギヌヤとよむべく釋は略解に『君ニアハヌ夜ノアマタ過ギヌルヨト也』といへるに從ふべし(古義にヤを疑辭としたるはわろし)。君ガアハヌは君ガ逢ウテクレヌとなり。君を主格とせるによりて(725)さる意とは聞ゆるなり○略解古義ともに多烏を宣長の説に從ひてオホミとよめれどスギヌヤと(古義の説の如くヤを疑辭としても)相かなはず。なほもとのまゝにオホクとよむべし。焉には意なし(例は訓義辨證上卷七九頁以下に擧げたり)○略解に『松を待にいひなして云々』といへるは鑿説なり
 
   天皇思2酒人女王1御製歌一首
624 道にあひてゑまししからに(ふる雪の)けなばけぬがに戀云〔左△〕《コヒモフ》わぎも
道相而咲之柄爾零雪乃消者消香二戀云吾妹
 天皇は聖武天皇なり○カラニは今いふカラなり。道ニユキアヒテ君ノウチヱミシヲ見シカラニとのたまへるなり○ケナバケヌガニは消エムバカリとなり○戀云は宣長の説に戀念の誤にてコヒモフなりといへり。之に從ふべし○ワギモの下にヨを添へて聞くべし
 
   高安王裹(メル)鮒(ヲ)贈2子1歌一首
625 おきべゆき邊去《ヘヲユキ》伊麻夜妹がためわがすなどれる藻ふしつか鮒
(726)奥幣徃邊去伊麻夜爲妹吾漁有藻臥束鮒
 オキベユキのヘは助辭にあらず。沖べヲユキのヲを省けるなり。河池などにもいにしへは沖といひき○邊去は從來ヘニユキとよめれどヘヲユキと改むべし○伊麻夜は誤字にあらざるか。もし誤字ならずばヤは助辭とすべし○藻臥束鮒は『藻に臥て一束許ある小鮒なり』と契沖云へり。なほ考ふべし。記傳卷三十四(六三丁)惠賀《ヱガ》之|裳伏《モフシ》(ノ)岡の註に
  田仲道麻呂云。萬葉四の歌に吾漁有藻臥束鮒とあるは誰もただ藻にかくれたる鮒と心得たるめれども若は此裳伏の地よりいづるよしにはあらじか
といへり
 
   八代女王獻2 天皇1歌一首
626 君により言のしげきをふるさとの明日香の河にみそぎしにゆく
君爾因言之繁乎古郷之明日香乃河爾潔身爲爾去
    一尾云龍田こえ三津の濱邊にみそぎしにゆく
(727)    一尾云龍田超三津之濱邊爾潔身四二由久
 言は人言なり。シゲキヲのヲは後のニなり。當時の都は奈良なれば明日香をフルサトといへるなり
 
   娘子報2贈佐伯宿禰赤麻呂1歌一首
627 わがたもとまかむともはむますらをは戀水《ナミダ》にしづみしらが生二有
吾手本將卷跡念牟大夫者戀永定白髪生二有
 題辭に報贈とありて初に赤麻呂の歌なければ略解には『報は衍字か又別に贈歌有しが落たるか』と云へり。古義には二首次なる赤麻呂のハツ花ノといふ歌を此歌の上におきかへ此歌を以てそれにこたへたる歌とせり○マカムは枕ニセムなり。生二有を舊訓にオヒニタリとよめるを雅澄はオヒニケリに改めたり○此歌解しがたし。宣長は三一二四五と句をついでて見べくさて四句の頭へ我ハといふことを添へて心得べきなりといひ(契沖同説)古義もその説に從へり。第二句と尾句とに誤字あるべし(第二句はマカムトカオモフ、尾句はシラガオヒニタルヲなどあらでは(728)通ぜず)
 
   佐伯宿禰赤麻呂和歌一首
628 しらがおふることは不念《オモハズ》なみだをばかにもかくにも求めてゆかむ
白髪生流事者不念戀水者鹿煮藻闕二毛求而將行
 不念を舊訓にオモハズとよめるを雅澄はオモハジとよめれどなほオモハズとよむべし。但辭はこゝにて切れたり。オモハズニといふ意と見て下へ續けては心得べからず○カニモカクニモはトニカクニなり。モトメテはソノ戀水ヲ目アテトシテとなり
 
   大伴四綱宴席歌一首
629 なにすとか使の來流《キツル》君をこそかにもかくにもまちがてにすれ
奈何鹿使之來流君乎社左右裳待難爲禮
 略解に
  此宴に來らぬ人におくれる也。障ありて來ぬよしの使を何にかせむ、君をこそ待(729)てと也
といへる如し。來流は略解古義にキタルとよめれどなほ舊訓の如くキツルとよむべし○マチガテニスレは待チカネタレとなり
 
   佐伯宿禰赤麻呂歌一首
630 初花のちるべきものを人ごとのしげきによりてよどむころかも
初花之可散物乎人事乃繁爾因而止息比者鴨
 花とのみいひて可なるを初花といへるは賞美の言なり○ヨドムは躊躇にてこゝにては行キテ得メデヌと云へるなり○古義に此歌をワガタモトといふ歌の前におきて其歌を此歌の和とせるはいかが
 
   湯原王贈2娘子1歌二首
631 うはへなきものかも人はしかばかりとほき家路を令還念者《カヘスオモヘバ》
宇波弊無物可聞人者然許遠家路乎令還念者
 ウハヘナシはツレナシといふこととおぼゆ。結句は略解にカヘスオモヘバとよめ(730)り。下なるウハヘナキ妹ニモアルカモカクバカリ人ノ心ヲツクスオモヘバとあると參照するにげにカヘスオモヘバとよむべし。イヘヂヲのヲはヨリのヲなり
 
632 目には見て手には不所取月内《トラレヌツキノウチ》のかつらのごとき妹をいかにせむ
目二破見而手二破不所取月内之楓如妹乎奈何責
 雅澄は不所取を古風にトラエヌとよみ月内をツキヌチとよめり。人の口に熟したる歌なる上舊訓もあながちに後世風といふにあらねばなほ常の如くよみて可なり。さて手ニハトラレヌは我物とせられぬ譬なり
 
   娘子報贈歌二首
633幾許《ココダクニ》おもひけめかも(しきたへの)枕|片去《カタサリ》いめにみえこし
幾許思異目鴨敷細之枕片去夢所見來之
 略解にいへる如く前の二首は未うけひかざりしほどの歌にて此歌は既に逢ひての後のなり。オモヒケメカモは君ガ思ヒケメバカとなり。古義に作者の思ふ事とせるは非なり。片去は契沖以下皆カタサルとよめり。さて契沖は
(731)  枕の片つ方をば君が爲に分ちおける夜の夢に見ゆると意得べきか
といひ宣長も
  夫の他處にあるほどは夜床を片避りて寢るなり。……さて片去りてぬる夜の夢にと云ふことなる故にカタサルイメとよむべきなりと云へれどさる意を枕カタサル夢といひては(枕カタサリヌル夜ノ夢などいはでは)辭足らず。案ずるに片去は舊訓の如くカタサリとよむべく枕カタサリは床の中央より一側に枕のずる事なり。枕が一側にずれ且夢に男が見えしなり○幾許を從來イカバカリとよめり。ココダクニ、ココダクモなどよむべからむ
 
634 家にしてみれどあかぬを(草まくら)たびにも妻與《ツマト》あるがともしさ
家二四手雖見不飽乎草枕客毛妻與有之乏左
 宣長雅澄は妻を夫《ツマ》の借字とし與を乃又は之の誤としたれど、もとのまゝにて舊訓の如くツマトとよむべし。次の歌と照らし見るに此時湯原王別の妻を伴ひて旅にありしなり。トモシは飽かざる事なり(六一九頁參照)。家ニテ見ルダニナホ飽カヌ所アルヲアダシ妻ヲ伴ヒテ旅ニアレバ愈不足ニ思フと云へるなり
 
(732)   湯原王亦贈歌二首
635 (草枕)たびにはつまは雖率有《ヰタレドモ》くしげのうちの珠とこそおもへ
草枕客者嬬者雖率有匣内之珠社所念
 第三句は舊訓にヰタレドモとよめるを宣長は大平の説によりてヰタラメドと改めたり。案ずるにゲニ旅ニアダシ妻ヲ伴ヒタレドソハ櫛笥ノウチナル玉ト同樣ニ用フル事モナシ、マコトニ妻トシテ戀シク思フハ御身ナリといふ意とおぼゆれば第三句はなほヰタレドモとよむべし。文選なる石崇の王明君(ノ)辭に昔爲2匣中(ノ)玉1、今爲2糞上(ノ)英《ハナ》1とあり。匣中玉は進御を得ざる譬なり
 
636 わがころもかたみに奉《マツル》(しきたへの)枕不離《マクラヲサケズ》まきてさねませ
余衣形見爾奉布細之枕不離卷而左宿座
 奉を舊訓にマタスとよめるを古義にはマツルとよみて
  マツルは即後世のタテマツルなり。十八卷に麻都流と假字書にせり。マタスとよむは非なり。物を獻ずるをマタスといふことなし(733)といへり(一卷下三四丁、及九卷二一丁)○枕不離は舊訓にマクラカラサズとよめるを契沖はマクラヲサケズとよめり。次の歌にワガ身ハサケジとあるに合せて契沖のよめる如くよむべし。マクラヲサケズは枕カラハナサズなり。サネマセのサは添辭なり
 
   娘子復報贈歌一首
637 わがせこがかたみのころも嬬問爾わが身はさけじことどはずとも
吾背子之形見之衣嬬問爾余身者不離事不問友
 第四句は我身ヲバハナサジとなり。コトドフはものいふ事なり。第三句は從來ツマドヒニとよめれど(ツマドヒの語義は五二七頁以下にいへり)意通ぜず。三四を顛倒して心得べきか
 
   湯原王亦贈歌一首
638 ただ一夜へだてしからに(あらたまの)月かへぬると心遮〔左△〕《ココロマドヒヌ》
直一夜隔之可良爾荒玉乃月歟經去跡心遮
(734) 心遮は舊訓にオモホユルカモとよめり。略解に
  道別云。所思※[毛三つ]など有しがかく心遮二字に誤たるならんといへり
と云へり。遮を迷の誤としてココロマドヒヌとよむべし
 
   娘子復報贈歌一首
639 わがせこがかくこふれこそ(ぬばたまの)いめに見えつついねらえずけれ
吾背子我如是戀禮許曾夜干玉能夢所見管寐不所宿家禮
 古義に
  カクコフレコソは夫(ノ)君がかく〔二字傍点〕戀とのたまふ如くしか〔二字傍点〕戀ればこその心なり
といへるはカクとシカとの後世の区別に泥めり。本集にはカクとシカとを通用せり。たとへば卷二高市皇子殯宮之時の長歌(二七六頁)にシカシモアラムトとあるを一本にカクモアラムトとせり。又今の歌また下なる
  朝髪のおもひみだれてかくばかり〔五字傍点〕なねがこふれぞいめにみえける
(735)  かむさぶといなにはあらずはたやはたかくして〔四字傍点〕のちにさぶしけむかも
はシカをカクといへるにて卷一なる
  三輪山をしかも〔三字傍点〕かくすか雲だにもこころあらなむかくさふべしや
 又上(七二九頁)なるシカバカリトホキ家路ヲカヘスオモヘバなどはカクをシカといへるなり。はやく記傳卷六(全集第一の三二一頁)にも
  凡てカクとシカとはくはしく云へば差あり。カクは我につきたる事又さし當りたる事を指て云、シカは向ふ人又向ふ物につきたる事又そのいふ事などを指て云。コレとソレとの差の如し。されど又カクとシカとを通はして云ることも記中にもあり。萬葉四にワガセコガカクコフレコソ云々などのたぐひはシカと云べきをカクと云り
といへり○イネラエズケレはイネラレザリケレの古格なり
 
   湯原王亦贈歌一首
640 はしけやしまぢかき里を雲居にやこひつつをらむ月もへなくに
波之家也思不遠里乎雲居爾也戀管將居月毛不經國
(736) 古義にハシケヤシはこゝは里と云ふに係りて妹が住里なればめで思ふよしなり
といひ又マヂカキサトヲは間近き里なるものをといふなりといへる如し。クモヰニは天外ノ如クニといふ意とおぼゆ
 
   娘子復報贈和歌一首
641 たゆといはばわびしみせむと(やきだちの)へつかふことは幸也吾君《ヨケクヤワガキミ》
絶常云者和備染責跡燒太刀乃隔付經事者幸也吾君
 ワビシミセムトはワビシガラウトとなり。ヘツカフを宣長は『絶もせず逢もせぬをいふ』といひ雅澄は
  ヘツラフといふと同言にてうはべには親しく依りたるごとくに見えて信實に依れるにあらぬを云ふ言なり
と云へり。へだたる事にはあらざるか。幸也は宣長は辛也の誤字としてカラシヤとよみ千蔭はもとのまゝにてヨケクヤとよめり。略解の訓に從ふべし。吾者はワガキミとよむべし(三卷【四六二頁】參照)
 
(737)   湯原王歌一首
642 わぎもこにこひてみだればくるべきにかけてよせむとわがこひそめし
吾妹兒爾戀而亂在〔左△〕久流部寸二懸而縁與戀始
 ミダレバはミダレナバにてヨセムと照應せり。クルベキは糸を繰る器具なり。ワギモコニ戀ヒテ我心モシ絲ノ如ク亂レナバクルベキ〔四字傍点〕ニカケテ繰リ集メムト覺悟シテワガコヒソメシナリといへるなり。略解にヨセムトを妹ガ方ヘヨセムトコソ(古義には妹ガ方ヘクリヨセムトテ)と譯せるは非なり○在は者の誤ならむ
 
   紀女郎怨恨歌三首
643 世のなかの女《ヲミナ》にしあらば吾渡《ワガワタル》痛背《アナセ》の河をわたりかねめや
世間之女爾思有者吾渡痛背乃河乎渡金目八
 契沖の説の如く離別を恨みたる歌なり。女は略解のヲミナとよめにる從ふべし(古義にはメとよめり)○吾渡を宣長は君波の誤として君ガワタルとよみ雅澄は直渡(738)の誤としてタダワタリとよめり。此事は後にいふべし。痛背は略解に痛足の誤としてアナシとよみ古義も之に從へり。集中にミナシ河をミナセ河ともいへればアナシ河をアナセ河とも云ひつべし。されば誤字と見るに及ばず。さて宣長雅澄が吾渡の吾を誤字としたるはワガワタルにては結句と打合はぬ如く見ゆるによりてなり。即『世ノ中ノ女ニシアラバ渡リカネメヤとあるを見れば紀女郎は渡りかねしなり。さらばワガワタルとはいふべからず』と思へるなり。案ずるに紀女郎は實に夫(古寫本に安貴王之妻也とあり)の跡を慕ひてあなせ河を渡りしなり。されどいたく渡りなやみしよりおのれのかよわきを嘲りて世間一般ノ婦人ナラバ今ワガ渡ル此アナセ川ヲ我如ク渡リカネムヤ、我如クハ渡リナヤマジといへるにて一首の意よく聞えたり。されば字のまゝにワガワタルとよみて不可なる所なし。アナセ川は卷向山より出でて初瀬川に入る小流なり
 
644 今はわはわびぞしにけるいきのをにおもひし君をゆるさ△《ク》思へば
今者吾羽和備曾四二結類氣乃緒爾念師君乎縦左思者
 夫の跡を慕ひてたわやめの身にしてあなせ川さへ渡り行きしかど終に別れざる(739)を得ざるに至りて此歌はよみしなり。イマハとあるにてさる事と知らる。ワビゾシニケルはアキラメタといふ意ならむ。くはしくは下なるオモヒタエワビニシモノヲの處にいふべし。イキノヲは命なり。イキノヲニオモフは命ヲカケテ思フなり。ユルスはゆるしはなちて別れいなしむるなり。卷十二にもシロタヘノソデノワカレハヲシケドモオモヒミダレテユルシツルカモとあり
 
645 しろたへの袖|可別《ワカルベキ》日をちかみ心にむせびねのみしなかゆ
白妙乃袖可別日乎近見心爾咽飲哭耳四所流〔左△〕
 二句はソデワカツベキとよむべき如くなれど卷十二に白妙ノ袖ノ別ハヲシケドモまた白妙ノ袖ノ別ヲカタミシテとあればなほソデワカルベキとよむべきなり。袖ガ分ルベキといふ意なり○此歌は前二首よりはさきの歌なるべし。流は泣の誤ならむ
 
   大伴宿禰駿河麻呂歌一首
646 ますらをのおもひわびつつたびまねくなげく嘆をおはぬものかも
(740)丈夫之思和備乍遍多嘆久嘆乎不負物可聞
 タビマネクは度々なり。結句は妹ガオハヌモノカハ、妹ガ負フベキモノゾとなり。カモはカハなり。古義にカモをカナとうつせるは非なり
 
   大伴坂上郎女歌一首
647 こころには忘るる日なくおもへども人のことこそしげき君にあれ
心者忘日無久雖念人之事社繁君爾阿禮
 古義に
  人言の繁きによりて思ふ如く得あはぬ君にこそあれ
と譯したれどさらば人之事繁君爾社阿禮とあるべし(事は言の借字)。されど卷十二にも
  極而、吾もあはむとおもへども人の言こそしげき君なれ
とあれば誤寫にはあらじ。かくコソの置處のたがへるに似たる例は卷十六にもハチス葉ハカクコソアル物とあり。これも常識によらばカクアルモノニコソといふ(741)べきなり
 
   大伴宿禰駿河麻呂歌一首
648 あひみずてけながくなりぬこのごろはいかに好去哉《サキクヤ》いぶかし吾妹
不相見而氣長久成奴此日者奈何好去哉言借吾妹
 ケナガクは久シクなり。好去哉を略解にヨケクヤとよめるを古義にサキクヤに改めたり。平安ナリヤイカニと云へるなり。イブカシはオボツカナシといはむが如し
と古義にいへり
 
   大伴(ノ)坂上(ノ)郎女歌一首
649 (夏〔左△〕葛《ハフクズ》)のたえぬ使のよどめればことしもあるごとおもひつるかも
夏葛之不絶使乃不通有者言下有如念鶴鴨
    右坂上(ノ)邸女者佐保(ノ)大納言卿(ノ)女也。駿河麻呂此〔左△〕高市(ノ)大卿之孫也。兩卿兄弟之家、女孫姑姪之族。是以題v歌送答相2問起居1
 古義に
(742)  佐保大納言は安麻呂卿なり。駿河麻呂の下の此は者の誤なるべし。高市大卿は安麻呂卿の兄御行卿なり。女孫姑姪とは坂上郎女は安麻呂卿の女、駿河麻呂は御行卿の孫なれば女孫といひ、さて坂上郎女は父のいとこなれば駿河麻呂より姑《ヲバ》といひ駿河麻呂はいとこの子なれば坂上郎女より姪と云るが故に姑姪とあるならむ
といへり○宣長の説に夏葛は蔓葛の誤にてハフクズとよむべしといへり。卷二十に波布久受ノタエズシヌバム、卷十に蔓葛《ハフクズ》とあれば之に從ふべし。ヨドメルは滞レルにて來らざるなり。タエヌはタエザリシの意と見べし。コトシモアルゴトは上(六六五頁)なる心アルゴトナオモヒワガセ、卷七なる故シモアルゴト人ノ見マクニの心アルゴト、故シモアルゴトと同義なり
 
   大伴宿禰三依|離《ワカレテ》復|相《アヘルヲ》歡(ブ)歌一首
650 わぎもこは常世の國にすみけらし昔みしより變若《ヲチ》ましにけり
吾妹兒者常世國爾住家良思昔見從變若益爾家利
 坂上郎女に贈れるなり。太宰府より歸り上りし時によめるか。常世國はこゝにては(743)仙郷なり。變若は舊訓にワカエとよめるを古義にヲチに改めたり。之に從ふべし。ヲツは若がへる事なり(卷三【四三六頁】參照)。マシは敬語のマシなり。益《マシ》とかけるは借字のみ
 
   大伴坂上郎女歌二首
651 (ひさかたの)あめの露じもおきにけりいへなる人もまちこひぬらむ
久堅乃天露霜置二家里宅有人毛待戀奴濫
 略解に太宰府にありし程の歌なるべしと云へり。さもあるべし。露ジモは露なり(卷二【一八三頁】參照)。アメノと云へるは古義に『天より降ものなればいふ。天ノシグレなど云が如し』といへり。家ナル人は都に殘せる娘たちなり。略解に『家ナル人は駿河麻呂の妻をいふなるべし』といひ古義にも之を學びて『宅有人毛は京ノ家ニアル人モといふにて駿河麻呂の妻をいふなるべし』といへれど郎女の娘は二人ありて郎女の太宰府にありし頃(天平二年)は二人共になほ幼かりき。長女の家持に、次女の駿河麻呂に嫁せしは遙に後の事なり。人モといへるは己に對していへるなり(古義)○白露のふれるを見て他郷にある事の久しきに驚き且故郷こひしく思へる趣なり。卷六に(744)天平二年庚午冬十一月大伴坂上郎女發2帥家1上v道とあれば此歌を作りし後間もなく還り上りしなり
 
652 玉主《タマモリ》に珠はさづけてかつがつも枕と吾はいざふたりねむ
玉主爾珠者授而勝且毛枕與吾者率二將宿
 玉主を略解にはタマヌシとよみ宣長雅澄は舊訓の如くタマモリとよめり。マタ雅澄は神名帳に玉主天神社と書きてタマモリとよめる例を擧げたり。宣長は
  カツガツは事の未慥ならずはつはつなるをいふ辭なり。……未うけばりて授け畢りぬるにはあらざれども先はつはつに授けそめたる意なり
といひ又
  玉主ニの上へ移して見べし
といへり。此説に從ふべし。カツガツモは俗語のソロソロなり。もし珠を授け畢りし後の作ならばカツガツモとはいふまじく又第二句はサヅケツとこそ云ふべけれ○玉は娘、玉主は婿なる事契沖のいへる如し。但契沖は家持駿河麻呂の二人としたれど略解古義にいへる如く駿河麻呂のみならむ。右の二首はもとより同時の作に(745)あらず。本集の編者の人よりきゝしが同時なれば並べ擧げたるにこそ
 
   大伴宿禰駿河麻呂歌三首
653 こころには忘れぬものをたまたまも不見日數多《ミヌヒサマネク》月ぞへにける
情者不忘物乎儻不見日數多月曾經去來
 第四句は略解にミザル日マネクとよめるを古義には卷十八に美奴日佐末禰美と假字書にせるに據りてミヌヒサマネクとよめり。之に從ふべし。卷十七にも見奴日佐麻禰美とあり。タマタマモは略解に『思ヒカケズ不意ニなり』といひ古義にはタマサカの意としてタマタマニサヘと譯したり。按ずるにタマタマモはタマタマニモにてそのモはダニに通ずれば雅澄の説に從ふべし
 
654 あひみては月もへなくにこふといはばをそろと吾をおもほさむかも
相見者月毛不經爾戀云者乎曾呂登吾乎於毛保寒※[毛三つ]
 アヒミテハのハは助辭,ヲソロのロは添辭なり○ヲソは今いふウソなりと契沖も宣長(玉勝間十一卷三五丁)もいへり
 
(746)655 念はぬを思ふといはばあめつちの神もしらさむ邑靈左變
不念乎思常云者天地之神祇毛知寒邑禮左變
 前なると二首一聯の歌なり。オモハヌヲオモフトイハバ何ガシノ神シラサムといふ事當時戀する人のいひなれたる誓言と見ゆ。上にも
  おもはぬをおもふといはば大野なる三笠のもりの神ししらさむ
とあり卷十二にも
  おもはぬをおもふといはば眞鳥すむうなでの杜の神ししらさむ
とあり○結句は考に
  歌飼名齋かくありしを草の手より見誤しか
といひ(此説或は宇萬伎のとし或は魚彦のとし或は眞淵のとせり)古義には
  言借名齋などありしを寫誤れるにてイブカルナユメならむか
といへり。邑禮は悒憤の誤か。卷九なる見2莵原處女墓1歌にイブセムを悒憤と書けり。イブセムはヤキモキスルといふ事なり
 
   大伴坂上郎女歌六首
(747)656 われのみぞ君にはこふるわがせこがこふとふ事は言のなぐさぞ
吾耳曾君爾者戀流吾背子之戀云事波言乃名具左曾
 三四の間にワレニといふことを補ひて聞くべし。コトノナグサは今いふ氣ヤスメなるべし。卷七にも例あり。雅澄は卷七の歌の註に事ノナグサメニと譯したれど今の歌に言〔右△〕とあるが正しくて卷七に事〔右△〕ノナグサニと書けるは借字なるべし
 
657 おもはじといひてしものを(はねず色の)うつろひやすきわがこころかも
不念常曰手師物乎翼酢色之變安寸吾意可聞
 ウツロヒヤスキはカハリヤスキなり。ハネズは卷八に
  夏まけてさきたるはねず久方の雨うちふらばうつろひなむか
 又卷十一に
  はねずいろのあか裳のすがた
とあり又日本紀卷二十九に朱花|此《ココニ》云2波泥須1とあれば暮春にさく赤き花にて變色(748)しやすきものと見ゆ。仙覺抄に或云庭櫻或云李花或云木蓮花といへりとあり。案ずるにニハザクラの花は特色あるものにあらず又うつろひやすきものにあらず。之に反して木蓮の花は青を帶びたる一種固有の赤色にて又風雨に逢ひて黒色にかはりやすきものなればニハザクラよりは當れり。件信友の動植名彙(全集第五)にも『木蓮花なるべし。詳説別にあり』といへり。其詳説は未見ず(略解には庭梅とし古義には庭櫻とせり)
 
658 おもへどもしるしもなしとしるものを奈何幾許《ナニカココバク》わがこひわたる
雖念知僧裳無跡知物乎奈何幾許吾戀渡
 初二はオモフトモシルシモナカラムトと釋くべし。第四句を契沖はナニカココバク、千蔭はナゾココバクモ、雅澄はイカデココダクとよめり。集中にナニカとナゾとは假字書にせる例あれどイカデは例なし(卷二【一五六頁】參照)。契沖に從ひてナニカココバクとよみてむ
 
659 あらかじめ人ごとしげし如是有者《かくしあれば》しゑや吾背子おくもいかにあらめ
(749)豫人事繁如是有者四惠也吾背子奥裳何如荒海藻
 弟三句は舊訓にカクシアラバとよめるを(略解古義共に之に從へり)契沖は
  有者は今按アレバともよむべし。シヱヤはヨシヤなり。奥は……後の心にいへり
といひ宣長は
  シヱヤはヨシヤと見ては此歌きこえず。歎息の聲也
といへり。案ずるにもしユク末ハイカナラムといふ意ならばオクハとこそいふべけれ、オクモとは云ふべからず。オクモはサシオクモにてヤマムモといふ事にあらざるか(置クに奥の字を借りたるは異樣なれど)○第二句はカクシアレ〔右△〕バとよむべく又四五をおきかへ、シヱヤはヨシヤの意としシヱヤワガセコの下にアヒソメテムといふことを加へて心得べし。一首の意はアヒソメヌ先ニハヤ人言ゾウルサキ、カカレバ止マムモイカナラム、タトヒコノママニ止ムトモナホ人言ハウルサカルベシ、ヨシヤ我背子アヒソメテムといへるなるべし。アラムといふべきをアラメといへるは一の格なり(卷二【一五一頁】參照)
660 汝《ナレ》乎〔□で圍む〕與《ト》吾乎《ワレヲ》人ぞさくなるいで吾君《ワガキミ》人のなか言ききこすなゆめ
(750)汝乎與吾乎人曾離奈流乞吾君人之中言聞起〔左△〕名湯目
 初句は舊訓にナヲトワヲとよめり。契沖は上のヲは助語なりといひ雅澄も汝乎の乎は助辭なりといへれどかゝる處にヲを挿める例を知らず。おそらくは上の乎は衍字なるべし。然らばナレトワレヲとよむべし。ナレトワレト〔右△〕ヲといふべき下のトを略せる例は集中にも玉ハハキカリコ鎌麻呂ムロノキトナツメノモトヲカキハカムタメ(卷十六)大伴|等《ト》佐伯(ノ)氏者(卷十八賀陸奥國出金詔書歌)君|與《ト》吾へダテテコフル(卷十九、四月三日云々の歌)などあり。サクハ離間〔日が月〕する事、ナカゴトハ即離間〔日が月〕の言辭なり。吾君は舊訓にワギミとよめるを代匠記に
  吾君はアガキミと讀べきか。ワギミは和殿原《ワトノハラ》、和御前《ワゴゼ》などいふ類の新語か。集中に例見えず
といへり。なほ卷三(四六二頁)を見るべし。キキコスナは古義に
  コスはアリコソ、ユキコソなどいふ乞望辭のコソと同じきを莫《ナ》と云に續くに引れてコソを轉じてコスといへるなり
といへり。キキコスナはキイテクレルナと譯すべし○起は越の誤なり
 
(751)661 こひこひてあへる時だにうるはしきことつくしてよ長くともはば
戀戀而相有時谷愛寸事盡手四長常念者
 略解に『コトは言なり。末句は長ク逢ハントオモハバとなり』といへる如し。コトツクシテヨは言ヲ極メヨカシとなり
 
   市原王歌一首
662 あごの山五百重かくせる佐堤《サデ》の埼さではへし子がいめにしみゆる
網兒之山五百重隱有佐堤乃埼左手蠅師子之夢二四所見
 アゴノ山は略解に志摩|英虞《アゴ》郡の山なるべしといへり。佐堤ノサキの所在は不明なり。宣長は佐を信又は詩の誤字として伊勢朝明郡の地名とせり。案ずるに宣長の説の如くサデをシデの誤とすれば第三句以上は序とならず。雅澄は
  歌の意は佐堤ノ埼ニテ小網サシ延《ハヘ》テ漁業セシ女ノウルハシカリシガ忘ラレズシテ夢ニサヘサダカニ見ユルとなり。契沖が序歌とせるはあらず
とさへ云へり。もとより少女の小網はへていざりせしは佐堤の埼なれど今は其サ(752)デノ埼を序につかへるなり。もし雅澄の云へる如くならばサデノ埼の下に必ニの辭あらざるべからず。今ニの辭を添へざるは序なるが故なり。アゴノ山は一山の名にあらず。英虞郡の群山なり。さればこそイホヘカクセルといへるなれ。さて英虞郡は志摩國の南部なれば佐堤(ノ)埼は南志摩の海岸にありとせざるべからず。宣長のいへる志※[氏/一]埼は伊勢の北方にありて地理かなはず。サデハフは小網を廣ぐる事
 
   安都《アト》(ノ)宿禰年足歌一首
663 佐穗わたり吾家《ワギヘ》の上になく鳥のこゑなつかしきはしき妻の兒
佐穗度吾家之上二鳴鳥之音夏可思吉愛妻之兒
 サホワタリは佐保ノ里ヲ渡リテなり。古義に
  佐保河ヲ渡リテの意なり。河をいはねどワタリと云れば河なることしるし
といへるは非なり。又略解古義ともにナク鳥ノまでを序とせるは非なり。序はコヱまでなり。妻之兒は即妻なり。今ならばナツカシク〔右△〕ハシキ妻ノ兒といふべきをナツカシキといへるはいにしへの語法なり。たとへば續紀宣命に清(支)明《アカ》(支)正(支)直(支)心|以《モチテ》などあり
 
(753)   大伴宿禰|像見《カタミ》歌一首
664 (いそのかみ)ふるとも雨に將關哉《サハラメヤ》妹にあはむといひてしものを
石上零十方雨二將關哉妹似相武登言義之鬼尾
 第三句は舊訓にサハラメヤとよめるを雅澄はツツマメヤとよめり。アマザハリといはむとアマヅツミと云はむとはほぼ同意なれど今はなほサハラメヤとよむべし。なほ卷八なる雨|障《ザハリ》イデテユカネバ、卷十一|雨乍見《アマヅツミ》トマリシ君ガの處にもいひてむ
 
   安倍朝臣蟲麻呂歌一首
665 むかひゐてみれどもあかぬ吾妹子にたちわかれゆかむたづきしらずも
向座而雖見不飽吾妹子二立離往六田付不知毛
 次の歌の左註によれば大伴坂上郎女に贈れるにて戲にただならぬ中の如くに云へるなり○タヅキはスベなり。卷一(一三頁)にもオモヒヤルタヅキヲシラニとあり
 
(754)   大伴坂上郎女歌二首
666 不相見者《アヒミヌハ》いくばくひさもあらなくにここばくわれはこひつつもあるか
不相見者幾久毛不有國幾許吾者戀乍裳荒鹿
 初句は記傳(三十卷二十六丁)及略解に從ひてアヒミヌハとよむべし(古義に者を而の誤としてアヒミズテとよめるは非なり)。イクバクヒサモは久ニモとニを補ひてきくべし。ココバクはココダともココダクともいふ。澤山といふ義(卷二【三一六頁】參照)
 
667 こひこひてあひたるものを月しあれば夜はこもるらむしましはありまて
戀戀而相有物乎月四有者夜波隱良武須臾羽蟻待
    右大伴坂上郎女之母石川(ノ)内命婦《ナイミヤウブ》與2安倍朝臣|蟲滿《ムシマロ》之母|安曇《アヅミ》(ノ)外《ゲ》命婦1同居。姉妹同氣之親焉。縁v此郎女蟲滿相見不v疎、相談既密。聊(755)作2戲歌1以爲2問答1也
 右二首も戲に事ありげにいへるなり。但二首別時の作なり。三四は月ノアルヲ思ヘバ夜ハマダ深カラムとなり。卷三にもクラハシノ山ヲタカミカ夜ゴモリニ云々とよめり
 
   厚見王謌一首
668 朝爾日爾《アサニヒニ》いろづく山の白雲のおもひすぐべき君にあらなくに
朝爾日爾色付山乃白雲之可思過君爾不有國
 初句は略解にアサニケ〔右△〕ニとよみたれどなほ舊訓の如くアサニヒ〔右△〕ニとよむべし。『朝毎ニ日毎ニなり。アサニケニと云へる意に同じ』と契沖いへり。上三句はスグの序にてオモヒスグベキは一時思ヒテ止ムベキといはむに齊し(四三一頁及五一四頁參照)
 
   春日王歌一首
669 (足引の)山たちばなの色にいでて語言〔左△〕《カタラバ》つぎてあふこともあらむ
(756)足引之山橘乃色丹出而語言繼而相事毛將有
 初二は序。ヤマタチバナはヤブカウジなり。語言は宣長が語者の誤としてカタラバとよめるに從ふべし。色ニ顯ハシテ心ノ中ヲ語ラバ引續キテ逢フ事モアラム、イデヤ色ニ出デテ語ラムといへるなり○第三句をイロニ出与とせる本あれど取らず
 
   湯原王歌一首
670 月讀《ツクヨミ》の光にきませ(あしひきの)山をへだててとほからなくに
月讀之光二來益足疾乃山乎隔而不遠國
 ツクヨミは月なり。山ヲモ隔テズ遠クモアラヌ處ナレバ月ノ光ニ通ヒ來マセといへるなり。今ならば山モ隔テズ遠カラナクニといふべし
 
   和歌一首
671 つくよみの光は清《キヨク》てらせれど惑情不堪念《ココロゾマドフタヘヌオモヒニ》
月讀之光者清雖照有惑情不堪念
 清の字、略解にサヤニとよめれど舊訓に從ひてキヨクとよみて可なり。四五は略解(757)にマドヘルココロタヘジトゾオモフとよみたれどさては意通ぜず。宜しく惑情を情惑の顛倒として六帖の如くココロゾマドフタヘヌオモヒニとよむべし。月ノ光ノ清サニ身ハ惑ハネド堪ヘヌ思ニヨリテ心ゾ惑フといへるなり。贈歌にツクヨミノヒカリといふ辭あるを取りてよめるにて後世の答歌とは趣を異にせり○雅澄は前の歌を娘子の湯原王に贈れる歌とし此歌を湯原王の歌とせり。げに然るべし
 
   安倍朝臣蟲麻呂歌一首
672 (しづたまき)數にもあらぬ壽〔左△〕持《ミヲモチテ》奈何幾許《ナニカココバク》わがこひわたる
倭父〔左△〕手纏數二毛不有壽持奈何幾許吾戀渡
 略解に
  壽は身の草書より誤れるにてミヲモチテならん。又吾身二字の誤にてワガミモテにても有べし
といへり。しばらくミヲモチテとよむべし。第四句は契沖のナニカココバクとよめるに從ふべし
 
(758)   大伴坂上郎女歌二首
673 (まそ鏡)とぎし心をゆるしてばのちにいふともしるしあらめやも
眞十鏡磨師心乎縦者後爾雖云驗將在八方
 上に出でたる此人の怨恨歌にもマソカガミトギシココロヲユルシテシとあり。トギシ心は節ヲ守ラムト思固メシ心、ユルスは人に委するなり(七一七頁參照)○テバはタラバ、イフトモは悔ユトモなり
 
674 (眞玉つく)をちこちかねて言《コト》はいへどあひてのちこそくい二〔□で圍む〕はありといへ
眞玉付彼此兼手言齒五十戸常相而後社悔二破有跡五十戸
 ヲチコチは略解に『今と後とをいふ』といへる如し。言を舊訓にイヒとよめるを略解にコトに改めたり。二の字は略解に衍字かといへり。ノチコソはノチニコソにてそのノチは副詞なり。之を名詞とせばアヒテノ〔右△〕ノチといはざるべからず
 
   中臣(ノ)女郎贈2大件宿禰家持1歌五首
(759)675 (をみなべし)さき澤におふる花がつみかつても知らぬ戀もするかも
娘子部四咲澤二生流花勝見都毛不知戀裳摺可聞
 上三句はカツテの序、其中にて又ヲミナベシはサキ澤の枕なり。或は舊訓の如くサク澤ニオフルとよむべきにて(本には咲澤と書けり)花勝見と女郎花とさき交れるにやとも思へど卷十にヲミナベシ咲野ニオフルシラツツジとありて躑躅と女郎花とは固よりさき交るべくもあらねばなほ契沖の説の如くサキ澤とよみて地名とすべし。さて契沖は『大和國添下郡の佐紀なるべきにや』と云へり。さてもなほヲミナベシをサキ澤又はサキ野の枕につかひたるは異樣にて故なくてはかなはぬここちす。轉じて例を尋ぬるに卷十一にカキツバタサキ沼《ヌ》ノ菅ヲ笠ニヌヒ云々、卷十二にカキツバタサキ澤ニオフル菅ノ根ノ云々とあり又菅家萬葉集(下卷女郎花の部)にヲミナベシ拆野《サキノ》ノサトヲ秋クレバ云々とあり。よりて案ずるにサキ野(澤も沼も其中にあり)は女郎花、燕子花などの多かる處なれば花チラフアキツノ野ベ、千鳥ナク佐保ノ河原、カハヅナクカムナビ川といふが如くにヲミナベシサキ野、カキツバタサキ澤などいへるなれどサキにいひかけたる爲ふと見てはかの花チラフ秋(760)津ノ野邊などの類とは見えぬなり。右の如くなれば今の歌のヲミナベシは所謂准枕辭なり○花勝見は野生の花菖蒲にて日光にては赤沼アヤメといふ。寫眞は三好博士の日本植物界(三四九頁)に出だし著色圖は日光といふ書の中なる白井博士の論文に添へたり。あやめより小さく五六月頃に花さくものにて花の色は紫赤にて今も或地方にては花ガツミといふとぞ。略解に
  陸奥にて今花菖蒲に似て花の四ひらなるものをカツミといへり。これぞまことの物なるべき
といへれどカツミは菰にて花カヅミと同物にあらず。又花勝見の花は三瓣にて四瓣にあらず(黒川春村の碩鼠漫筆に始めてカツミと花ガツミとを区別し花ガツミを野生の花菖蒲とせり。春村は其花ガツミを庭に植ゑて見し趣なるになほ四瓣花なりといへり。いといぶかし)○カツテモ知ラヌは曾テオボエヌとなり。カツテは更ニ、フツニなり
 追考 仙臺叢書第十卷に収めたる藤塚知明の花勝見考に
  宗仲(○陸奥淺香郷の人)曰。常のあやめの花に似て少し小ぶりなり。色は京紫の少(761)し赤み強し。此花二本松、淺香の里に澤山野山にもあり。五六月も花あり
 この花がつみおのれ仙臺の民なべてあやめと呼、池沼水澤に多し
 此春子の三郎なる知能……淺香の郷に入り人つどひたる民家に花がつみを問求むるにむくつけき男ふたりみたり口つどひてあやめの花にして四ひらなるこそまことの花がつみにあるぞ、五月來らば取てません、などいらへり
 さらば四ひらのあやめまぎ求めんと池沼に臨むに多く得たり
など云へり。いと拙き擬古文にて語格の誤さへいと多かれど大意は知らるべし。花ガツミを四ひらと云へるは之にもとづきたるなり。四ひらなるはおそらくは變種ならむ。此書には千蔭の序添ひたり
 
676 (わたの底おきを)ふかめてわがもへる君にはあはむ年はへぬとも
海底奥乎深目手吾念有君二波將相年者經十方
 略解に『初はフカメテといはん料のみ』といひてオキヲまでを序とせり。之に從ふべし。卷十六にもヰナ川ノ沖ヲフカメテワガモヘリケルといひ卷十八にもナゴノ海ノ沖ヲフカメテサドハセル君ガココロノスベモスベナサといへり。ココロヲフカ(762)クシテ即心フカクといふ事とおぼゆ。但卷十一にワタノ底オキヲフカメテオフル藻ノとあるは辭のまゝに沖ヲフカクシテ即沖深クの意とすべし
 
677 かすが山あさゐる雲のおほほしく知らぬ人にもこふるものかも
春日山朝居雲乃欝不知人爾毛戀物香聞
 オホホシクは心の晴れざる事にて(卷二【二三三頁】參照)コフルにかゝれり。初二は序。シラヌ人とあるを見れば女郎は家持を見し事なきなり
 
678 ただにあひてみてばのみこそ(たまきはる)命にむかふわがこひやまめ
直相而見而者耳社靈剋命向吾戀止眼
 タダニアヒテはヂカニ逢ヒテなり。ミテバはミタラバなり。命ニムカフ吾戀とつづけるなり。コヒヤムといふ動詞にあらず。命ニムカフは命ニ匹敵スルといふ事にて畢竟命ニトリカヘルホドナといふ事なり。戀の下にモの辭おちたるやうに見ゆれど卷十二にもマソカガミタダ目ニ君ヲミテバコソ命ニムカフワガ戀ヤマメとあればいにしへはかくても耳に立たざりしなり○剋は刻の通用なり
 
(763)679 いなといはばしひめや吾背(すがのねの)おもひみだれてこひつつもあらむ
不欲常云者將強哉吾背菅根之念亂而戀管母將有
 明ニ否逢ハジトイヒ放タバ強ヒテ逢ハムト云ハムヤとなり。オモヒミダレテの上にタダといふことを加へて心得べし
 
   大伴宿禰家持與2交遊1△別歌三首
680 けだしくも人の中言|聞可毛《キカセカモ》幾許《ココダ》雖待《マテドモ》君がきまさぬ
蓋毛人之中言聞可毛幾許雖待君之不來益
 目録に別久歌とあるは久別を顛倒したるにて、ここには久の字を落したるならむ。別の下にも脱字あるべし。ケダシクモはモシ或ハといふこと。第三句は古義にキカセカモとよめるに從ふべし(舊訓はキケルカモ)。聞キ給ヘバニヤなり。第四句は考のココダマテドモと舊訓のココダクマテドといづれにてもよし
 
681 なかなかに絶《タユ》としいはばかくばかりいきのをにしてわがこひめやも
(764)中々爾絶年云者如此許氣緒爾四而君將戀八方
 絶は略解にタエム。古義にタユとよめり。古義に從ふべし。イキノヲニシテのシテは助辭、イキノヲニは懸命ニといふこと。上(七三八頁)にイキノヲニオモフとあり。相照して心得べし
 
682 將〔左△〕思《アヒオモフ》人にあらなくにねもころにこころ盡してこふるわれかも
將念人爾有莫國懃情盡而戀流吾※[毛三つ]
 將思は一本に相思とありといふ。それに從ひてアヒオモフとよむべし。或は將相思《アヒオモハム》の誤にてもあるべし(訓義辨證上卷八八頁には將相通用せしなりといへり)
   大伴坂上郎女歌七首
683 謂言之《モノイヒノ》かしこき國ぞ(くれなゐの)色にないでそおもひしぬとも
謂言之恐國曾紅之色莫出曾念死友
 謂言之は古義にモノイヒノとよめるに從ふべし(舊訓にはイフコトノ)。カシコキはオソロシキなり。國は世ときくべし(古義)
 
(765)684 今は吾《ワ》はしなむよわがせいけりともわれによるべしといふといはなくに
今者吾波將死與吾背生十方吾二可縁跡言跡云莫苦荷
 第二句は上(六九四頁)に
  いきてあらばみまくもしらに何しかも死なむよ妹といめに見えつる
とあるに似たり。結句、打見にはイフトといふ辭餘れるに似たり。さるによりて宣長はイフトは添へたる詞なりといへり。案ずるにイフトイハナクニは仰セラルトモ承ハラヌニといふことにて上のイフは男のいふにて下のイフは傳ふる人のいふなり。はやく契沖も『君がいふとも人のいはねば』と釋せり
 
685 人ごとをしげみや君を(ふた鞘の)家をへだててこひつつをらむ
人事繁哉君乎二鞘之家乎隔而戀乍將座
 シゲミヤはシゲサニヤなり。フタサヤノはイヘヲヘダテテの枕なり。フタサヤは二鞘刀の畧にてその家は即鞘なり。二鞘刀は鞘の腹を連ね作れるをいふ。正倉院の御物に圖の如き刀子あり。一幹三室にて本太く末細し。刀は柄の色の各異なるを見れ(766)ば用ふる所はた各異なるべし。神功皇后紀五十二年に七枝刀とありて七枝にナナツサヤと傍訓せるはいぶかし。こは石上布留《イソノカミフル》神社の神寶の如く本來の鋒の外に左右に各三枝あるを云へるにあらざるか(彼神寶をやがて神功皇后紀なる七枝刀に擬する説もあり)
686 比者《コノゴロニ》ちとせやゆきも過與《スギニシト》われやしかもふ欲見鴨《ミマクホレカモ》
比者千歳八往裳過與吾哉然念欲見鴨
 諸訓を折衷して
  このごろに(舊略)すぎにしと(古)みまくほれかも(略)
とよむべし。ワレヤはワレヨなり。シカモフにて切れたり。ミマクホレカモは見マクホリスレバカモなり
 
687 愛常《ウツクシト》わがもふこころ(はや河の)雖塞々友《セキトセクトモ》なほや將崩《クヅレム・クエナム》
愛常吾念情速河之雖塞々友猶哉將崩
 こは略解に從ひて
  うつくしと……せきとせくとも……くづれむ
とよむべし。セキトセクトモはセキニセクトモといはむに同じ。古義に友の字は餘れるに似たれど雖干常《ホセド》と書けると同例なりといへり。クヅレムは古義の如くクエナムともよむべし。ウツクシトはイトホシトなり。上(六八五頁)にもタビユク君ヲウツクシミとあリ
 
688 青山をよこぎる雲のいちじろくわれとゑまして人にしらゆな
青山乎横殺雲之灼然吾共咲爲而人二所知名
 初二は序。ワレトはワレニ對ヒテなり(略解)
 
689 海山も隔莫國《ヘダタラナクニ》なにしかも目言《メゴト》をだにもここだともしき
海山毛隔莫國奈何鴨目言乎谷裳幾許乏寸
 隔莫國は上(七〇八頁)にいへり○目言を眞淵はメゴトと濁りて見る事といふ意とし雅澄は目ト辭トとせり(卷二【二五九頁】參照)。目言ヲダニモのヲは古今集なるアヤナクアダノ名ヲ〔右△〕ヤタチナム、香ヲ〔右△〕ダニニホヘ人ノシルベクなどと同じ類なるヲなり。ココダはこゝにてはタイサウなど譯すべし
 
(768)   大伴宿禰三依悲v別歌一首
690 照日〔左△〕《テルツキ》を闇にみなしてなく涙ころもぬらしつほす人なしに
照日乎闇爾見成而哭涙衣沾津干人無二
 初句を宣長は日を月の誤としてテルツキヲとよめり。之に從ふべし。ミナスは古義に云へる如く見變《ミナス》なり。なく涙に眠くもりて照る月を見れども闇の如しとなり。ナクナミダの下にニを省きたり。ホス人ナシニは妹ニ別レテハ干シテクルル人ナクテとなり。ナシニはナクテなり。古義にはナキニと同一視せる如し
 
   大伴宿禰家持贈2娘子1歌二首
691 ももしきのおほみや人は雖多有《オホカレド》こころにのりておもほゆる妹
百礒城之大宮人者雖多有情爾乘而所念妹
 第三句はオホカレド(舊訓)とオホケドモ(古義)といづれにてもよし。ココロニノリテは卷二(一四九頁)にも妹ガココロニノリニケルカモとあり。妹ガ我心ニ乘リテなり。オモホユルは我オモホユルなれば自他相背けるに似たれど當時はかやうにいひ(769)て怪しまざりしにこそ
 
692 うはへなき妹にもあるかもかくばかり人のこころを令盡念者《ツクスオモヘバ》
得羽重無妹二毛有鴨如此許人情乎令盡念者
 上(七二九頁)なるウハヘナキモノカモ人ハシカバカリトホキ家路ヲカヘスオモヘバとあるを學べるなり。ウハヘナキは彼歌の處にていひし如くつれなき意と思はる。結句は略解にツクスオモヘバとよめるに從ふべし。畢竟人ニ其心ヲ盡サスルヲ思ヘバといふ意なり
   大伴宿禰千室歌一首 未詳
693 如此耳《カクノミニ》こひやわたらむ秋津野にたなびく雲のすぐとはなしに
如此耳戀哉將度秋津野爾多奈引雲能過跡者無二
 初句は古義にカクノミニとよめるに從ふべし。三四は序なり。スグは上(七五五頁)なるアサニ日ニイロヅク山ノシラ雲ノオモヒスグべキ君ニアラナクニのオモヒスグに同じ。スグトハナシニはタダ一時ナラデといふ意にてスグとワタルとはうらうへなり
 
(770)   廣河女王歌二首
694 戀草をちから車になな車つみてこふらく吾心から
戀草呼力車二七車積而戀良苦吾心柄
 コヒグサのクサは料とか種とかいふ意なり。但今は草にとりなしてコヒ草トイフ草ヲ云々といへるなり。力車は榮華物語にも見えたり。考に『人の力もてやる車なり』といひ古義に『力人の引く車なり』といへるは共に非なり。力ある車といふ意にて重きものを運ぶべき車なり。コフラクは今いはばコフルコトヨなどいふべき語勢なり。ワガ心カラは略解に云へる如くワガ心ヅカラなり。古義に心ノ裏ヨリ眞實ニと譯せるは非なり。或人いはく此歌各句の首尾に韻をふめりと。おもしろき心づきなれどそは偶然のみ
 
695 戀は今はあらじとわれは念乎《オモヘルヲ》いづくの戀ぞつかみかかれる
戀者今葉不有常吾羽念乎何處戀其附見繋有
 第三句は古義にオモヘルヲとよめるに從ふべし。上三句の意は今ハ戀ハ殘ラジト(771)思フヲとなり。ツカミカカレルの下にハを補ひて聞くべし。ツカミカカルは襲フなり。卷十六にもコヒノ奴ノツカミカカリテとあり
 
   石川朝臣廣成歌一首
696 家人にこひすぎめやも(かはづなく)泉の里に年のへぬれば
家人爾戀過目八方川津鳴泉之里爾年之歴去者
 コヒスグはオモヒスグベキ戀ニアラナクニ、オモヒスグベキ君ニアラナクニなどのオモヒスグに似てコヒワタルのうらなり。初二の意は畢竟家人ヲ戀渡ルカナとなり。イヅミノ里は和名抄山城國相樂郡の下に水泉【以豆美】とある是なり。略解に『久邇の都へ遷されし後奈良の故郷に妻をおきてよめるならん』といへり
 
   大伴宿禰|像見《カタミ》謌三首
697 吾聞《ワガキキ》にかけてないひそ(かりごもの)亂れておもふ君がただかぞ
吾聞爾繋寞言刈薦之亂而念君之直香曾
 吾聞は舊訓にワガキキとよめるに從ふべし。カケテを契沖は『君が上の事をかけて』(772)と譯し雅澄は『言の葉にかけて』と譯せり。案ずるにカケテを右の如く譯すればワガキキニ、ナイヒソとつづきて辭を成さず。さればワガキキニカケテとつづけてワレニ聞カセテの意とすべし。人に物を見するを御目ニカクといふ類なり○タダカは玉勝間卷八(全集四卷一八四頁)に
  多太加とは君また妹をただにさしあてていへる言にて君妹とのみいふも同じことに聞ゆるなり
といへり。君ガタダカは君ノ御上と譯すべし
 
698 春日野に朝ゐる雲のしくしくに吾戀益《ワハコヒマサル》月に日にけに
春日野爾朝居雲之敷布二吾者戀益月二日二異二
 初二は重々《シクシク》ニの序。第四句は古義に從ひてワハコヒマサルとよむべし。月ニ日ニケニはイヤマシニなり
 
699 一瀬にはちたび障《サハ》らひゆく水の後毛將相《ノチモアヒナム》いまならずとも
一瀬二波千遍障良此逝水之後毛將相今爾不有十方
 川の水の高きより低きにおつる處を瀬といひ、瀬と瀬との間をも瀬といふ。今の瀬(773)は後者の意なり。一セニハのハは無意の辭なり。障を古義にサヤラヒとよめれど舊訓の如くサハラヒとよみて可なり。上三句は序なり。云々シテ逝ク水ノ後ニ合フガ如ク後ニ逢ハムといへるなり。第四句はノチモアヒナムとよむべし。ノチモは後ニモなり
 
   大伴宿禰家持到2娘子之門1作歌一首
700 かくしてやなほやまからむ近からぬ道のあひだをなづみまゐきて
如此爲而哉猶八將退不近道之間乎煩參來而
 カクシテは即近カラヌ道ノ間〔日が月〕ヲナヅミ來テなり。まづカクシテといひ、下に至りてくはしく云へるなり。カクシテヤのヤとナホヤのヤと重なれるはいかが。古義には上のヤは輕く添へたる辭なりといへり。案ずるにカクシテヤのヤはヤハの意。ナホヤのヤは助辭にてナホヤはタダニといはむに齊し○マカラム、マヰ來テといへるにて娘子に贈れる歌なる事を知るべし。マカル、マヰルは敬語なればなり
 
   河内百枝娘子贈2大伴宿禰家持1歌二首
(774)701 はつはつに人をあひみて何將有《イカナラム》いづれの日にか又よそにみむ
波都波都爾人乎相見而何將有何日二箇又外二將見
 ハツハツはチトバカリなり。第三句は舊訓にイカナラムとよめるに從ひてあるべし(古義にはイカニアラム)。ヨソニ見ムは略解古義にヨソナガラニモ見ムと譯したれどさては少くともヨソニの下にモといふ辭無かるべからず。ホンノ此頃人ニ逢ヒソメタガトテモアヒトグル事ハ成ルマジキニ知ラズイヅレノ日ニカ又ヨソニ見ム、イヅレ遠カラズ外ニ見デハカナハヌ事ナルベシといへるなり
 
702 (ぬばたまの)其夜のつくよけふまでにわれは忘れずまなくしもへば
夜干玉之其夜乃月夜至于今日吾者不忘無間苦思念者
 前なるとは別時の歌なるべし。其夜とは逢ひし夜なり。このソノは歌中に指す所なし。ヌバタマノソノ夜ノ梅ヲタワスレテヲラズキニケリ思ヒシモノヲ(四八七頁)ヒト日ニハ千重浪シキニオモヘドモナゾソノ玉ノ手ニマキガタキ(四九八頁)のソノと同類なり
 
(775)   巫部《カムコベ》(ノ)麻蘇娘子《マソヲトメ》歌二首
703 わがせこをあひみし其日けふまでにわが衣手はひる時もなし
吾背子乎相見之其日至于今日吾衣手者乾時毛奈志
 其日の下にヨリを補ひてきくべし
 
704 (たく繩の)ながき命をほしけくはたえずて人を欲見社《ミマクホレコソ》
栲繩之永命乎欲苦波不絶而人乎欲見社
 ホシケクハはホシク思フハとなり。結句は略解にミマホシミコソ、古義にミマクホリコソとよめり。按ずるにミマクホレコソとよむべし。チラデアレカシといふことをチラズアリコソといふ類にはあらで常の(係辭の)コソなればなり。さてミマクホレコソは見マクホレバコソ長キ命ヲホシク思フナレとなり
 
   大伴宿禰家持贈2童女1歌一首
705 はねかづら今|爲《スル》いもをいめにみてこころの内にこひわたるかも
葉根※[草冠/縵]今爲妹乎夢見而情内二戀度鴨
(776) ハネカヅラは女の漸く人となるほどにものする髪の飾とおぼゆれど其製明ならず。爲の字は舊訓にスルとよめるに從ふべし。雅澄はセスに改めたれど答歌にも今爲妹とありてその爲はセスとよむべからねばこゝもスルとよむべし。此歌なるをセス、答歌なるをスルとよむべくば書樣を別にすべければなり
 
   童女來報歌一首
706 はねかづら今|爲《スル》いもは無四〔左△〕《ナキモノ》をいづれの妹其《イモゾ》ここだこひたる
葉根※[草冠/縵]今爲妹者無四乎何妹其幾許戀多類
 爲を古義にセルとよめるはわろし。無四を宣長は無物の誤としてナキモノヲとよめり。之に從ふべし。妹其は舊訓の如くイモゾとよむべし。略解にイモカとよめるはわろし。四五は上なるイヅクノ戀ゾツカミカカレルと同格なり。即君ノ大サウ慕ヒ給ヘルハイヅレノ妹ゾとなり。上三句の釋は古義の如し
 
   粟田娘子贈2大伴宿禰家持1歌二首
707 おもひやるすべの不知者《シラネバ》(かたもひの)底にぞわれはこひなりにける
(777)思遣爲便乃不知者片※[土頁完]之底曽吾者戀成爾家類
 オモヒヤルは思を遣り失ふなり。不知者を舊訓にシラネバとよめるを古義にシレネバに改めたり。なほシラネバとよむべし。シラネバはシラレネバの略なり。カタモヒは略解にいへる如く蓋なき椀にてこゝにては底の枕なり。ソコニコヒナルとは『戀ノ至リ極レルといふなり』と宣長のいへる如し
 
708 またもあはむよしもあらぬかしろたへの我衣手にいはひとどめむ
復毛將相因毛有奴可白細之我衣手二齋留目六
 アラヌカはアレカシなり。略解に『今一度逢てあらばいはひとどめむと云也』といへる如し。第二句の次にサラバといふ辭を補ひてきくべし。いにしへ衣手に人の心をいはひとどむるまじなひありしにこそ
 
   豐前國(ノ)娘子《ヲトメ》大宅女《オホヤケメ》歌一首
709 夕闇は路たづたづし月まちていませわがせこそのまにも見む
夕闇者路多豆多頭四待月而行吾背子其間爾母將見
(778) イマセはこゝにてはユキマセなり。タヅタヅシは、タドタドシなり。ソノ間ニモのモはダニに齊し
 
   安都《アト》(ノ)扉娘子《トビラヲトメ》歌一首
710 みそらゆく月の光にただ一目あひみし人のいめにしみゆる
三空去月之光二直一目相三師人之夢西所見
 安都扉娘子を古義にアトノトビラヲトメとよみて
  安都は氏なり。此上に安都宿禰年足とも見えたり。扉は字《アザナ》なるべし、上に巫部《カムコベ》(ノ)(氏)麻蘇《マソ》(字)娘子《ヲトメ》などある類なり。扉はトビラと訓べきか。女の字にはめづらし云々
といへり
 
  丹波《タニハ》(ノ)大△娘子《オホノヲトメ》歌三首
711 かもとりのあそぶこの池にこのは落而《オチテ》うかべる心わがもはなくに
鴨鳥之遊此池爾木葉落而浮心吾不念國
 目録及諸本に大女〔右△〕娘子とあり○上三句は序なり。ウカベル心はウキタル心なり。落(779)而は舊訓に從ひてオチテとよむべし
 
712 (うま酒を)みわのはふりがいはふ杉手|觸《フリ》し罪か君にあひがたき
味酒呼三輪之祝我忌杉手觸之罪歟君二遇難寸
 三輪ノハフリは三輪(ノ)大神の神主なり。イハフは穢を避けて大切に守る事。觸はいにしへは四段にはたらきたればフリとよむべし。當時三輪の神杉に手を觸るれば神罸にて男に逢はれずなどいふ俗信ありしなり。カク君ニ逢ヒ難キヲ思ヘバ前方三輪社ニ參詣セシヲリ知ラズ知ラズ神杉ニ手ヲヤ觸レケムといへるなり。略解古義にイノルカヒナクシテなど云へるは非なり。歌の上には見えぬ事なり
 
713 垣ほなす人ごとききてわがせこがこころたゆたひあはぬこのごろ
垣穗成人辭聞而吾背子之情多由多此不合頃者
 垣ノ如ク中ヲ隔ツル人ノ言ヲ吾セコガキキテ云々と略解に譯せる如し。ワカセコガはアハヌにかゝれり。古義に吾セコガ心ヲユタユタト危ミ疑ヒテ云々と譯せるは非なり
 
(780)   大伴宿禰家持贈2娘子1歌七首
714 こころにはおもひわたれどよしをなみよそのみにしてなげきぞわがする
情爾者思渡跡縁乎無三外耳爲而嘆曾吾爲
 ヨシヲナミは逢フ由ガ無サニなり。ヨソノミニシテはヨソニノミ見テなり
 
715 (千鳥なく)佐保の河門のきよき瀬を馬うちわたしいつかかよはむ
千鳥鳴佐保乃河門之清瀬乎馬打和多思何時將通
 河門は河の渡場なり。馬ウチワタシのウチは添辭なり。古義に『鞭にて打て』といへるは從はれず
 
716 よるひるといふわき不知《シラニ》わがこふるこころはけだしいめにみえきや
夜晝云別不知吾戀情蓋夢所見寸八
 不知は古義にシラニとよめるに從ふべし。ケダシは或ハなり
 
717 つれもなくあるらむ人をかたもひに吾はおもへば惑毛《ワビシクモ》あるか
(781)都禮毛無將有人乎狩〔左△〕念爾吾念者惑毛安流香
 ツレナシはほだされぬ事にてこゝなどは氣ヅヨク(古義)など譯すべし。結句の惑毛は契沖はもとのまゝにてワビシクモとよみ略解には感の誤として同じくワビシクモとよめり。古義に愍の誤としてメグシクモとよめるはいかが。メグクとはいへどメグシクとは云はず。又そのメグシは父母ヲミレバタフトク妻子ミレバカナシクメグシなどいひて他よりいふ語にて自いふ語にあらず○狩は獨を誤れるなり
 
718 おもはぬに妹がゑまひをいめに見て心のうちにもえつつぞをる
不念爾妹之咲※[人偏頁舞]乎夢見而心中二燎管曾呼留
 オモハヌニはオモヒカケズなり。モエツツゾヲルは妹こひしさに心の悶ゆるなり
 
719 ますらをとおもへる吾乎〔左△〕《ワレヤ》かくばかりみつれにみつれ片もひをせむ
丈夫跡念流吾乎如此許三禮二見津禮片思男責
 ミツレはヤツレなり。略解に『ワレヲはワレナルヲといふ意か。されどワレヤとなくては末句にかなはず。乎は也の誤か』といへり。げに卷六なるマスラヲトオモヘルワ(782)レヤ水グキノ水城ノ上ニ涙ノゴハムなどの如くワレヤとあるべきなり
 
720 (むらぎもの)こころくだけてかくばかりわがこふらくをしらずかあるらむ
村肝之於〔左△〕摧而如此許余戀良苦乎不知香安類良武
 コフラクヲはコフルコトヲなり○於は情の誤なり
 
   戲2 天皇1歌一首
721 (足引の)山にしをれば風流《ミヤビ》なみわが爲類《スル》わざをとがめたまふな
足引乃山二四居者風流無三吾爲類和射乎害目賜名
 作者の名のおちたるなり。風流は契沖に從ひてミヤビ(古義にはミサヲ)とよむべく爲類は舊訓に從ひてスル(古義にはセル)とよむべし。ミヤビは俗にいふ氣ノキイタ事なり。契沖の一説にいへる如く山里より物を奉るにそへたる歌なり
 
   大伴宿禰家持歌一首
722 かくばかりこひつつあらずばいは木にもならましものを物もはずし(783)て
如是許戀乍不有者石木二毛成益物乎物不思四手
 岩ニモ木ニモ化リテ物思ハズシテアラマシモノヲといふべきを五七七にとゝのへむとてかく云へるなり
 
   大伴(ノ)坂上(ノ)郎女從2跡見《トミ》(ノ)庄1贈(リ)2賜(ヘル)留v宅女子大孃1歌一首并短歌
723 とこよにと わがゆかなくに 小金門《ヲガナド》に ものがなしらに おもへりし 吾兒の刀自を (ぬばたまの) よるひるといはず おもふにし 吾身はやせぬ なげくにし 袖さへぬれぬ かくばかり もとなしこひば ふるさとに 此月ごろも 有勝益土《アリガツマシジ》
常呼二跡吾行寞國小金門爾物悲良爾念有之吾兒乃刀自緒野干玉之夜晝跡不言念二思吾身者痩奴嘆丹師袖左倍沾奴如是許本名四戀心者古郷爾此月期呂毛有勝益士
 跡見は今|外山《トミ》と書きて大和國|磯城《シキ》郡|城島《シキシマ》村に屬せり。卷八に紀朝臣鹿人至2大伴宿(784)禰稻公(ノ)跡見庄1作歌とあると合せて思へば(稻公は坂上郎女の弟なり)跡見(ノ)庄は大伴氏の別業なり。庄はナリドコロとよむべし。留宅とある宅は坂上(ノ)家なり
 トコヨニトはトコ世ニ行カムトにてただトコヨニといふよりは力あり。さてトコヨは通常極めて遠き國をいへどその意ならばトコ世ニモ〔右△〕などいふべきを今トコヨニト〔右△〕と云へるを見れば契沖の
  一二の句は死シテ冥途ニモユカヌヲなり
といひ紀傳卷十二(全集第一の六六〇頁)に
  さて又後には人の死るを常世國にゆくと云しことあり。こは極めて遠き所にて便もなく往來《カヨ》ふこともかなはぬ意にて……萬葉四にトコヨニトワガユカナクニ云々これら其意なり
と云へる如きなり○ヲガナドは門なり。モノガナシラニを契沖はモノガナシゲニの意なりといへり。オモヘリシは物思ヲシテアリシといふ意にてこのオモフは下なる吾妹子ガオモヘリシクシ面影ニミユまたヨシヲナミオモヒテアリシ吾兒ハモアハレまた人ノコトシゲミオモヒゾワガスルのオモフと同じくて常のオモフ(785)とはすこし異なり○大孃既に人の妻たればトジといへるなり○モトナシのシは助辭、モトナはアヤニクニなり(卷二【三三〇頁】參照)○フルサトは跡見庄なり。コノ月ゴロモは行末久シクハ勿論ノ事當分ダニとなり○有勝益士は橋本進吉氏のアリガツマシジとよまれたるに從ふべし。意はアルニ堪ヘジとなり
 
   反歌
724 (朝髪の)おもひみだれてかくばかりなねがこふれぞいめにみえける
朝髪之念亂而如是許名姉之戀曾夢爾所見家留
    右歌報2賜大孃1歌也
 ナネは人を親み尊びていふ稱なり。略解にネは姉の意と云ひ古義にネは字の如く姉なりと云へれど然らず。古事記中卷に神|沼《ヌナ》河耳(ノ)命が御兄神八井耳(ノ)命にのたまふ辭に
  なね、なが命《ミコト》つはものをとりて入りて當藝志美美《タギシミミ》を殺《シ》せたまへ
とありて傳(全集第二の一二一六頁)に
  ナネは女にかぎるべきに似たれども、ここに兄命をのたまへれば男にもわたる(786)稱にてネは天津日子根など常多かるネなり
といへり○此歌汝ガ我ヲ戀フレバゾ我夢ニ汝ノ見エケルといふ意とおぼゆるをカクバカリといふ辭かなはぬこゝちす。されば宣長はコフレゾナネガと打返して心得べくカクバカリ我戀フレバゾ汝ガ我夢ニ見エケルといふ意なりといひ略解古義共に之に從へり。案ずるにもし宣長の説の如くば初よりコフレゾナネガとあるべし。何ぞまぎらはしくナネガコフレゾといはむ。又ナネガコフレゾイメニミエケルとあるをいかでか我戀フレハゾ我夢ニ汝ガ見エケルと釋かむ。上(七三四頁)にいへる如く本集にはカクとシカとを通用したれば今もシカバカリとうつして心得べし。さていにしへ、人が我をこふれば其人が我夢に見ゆといふ俗信ありしなり。上なる
  あひだなくこふれにかあらむ草まくら旅なる君がいめにしみゆる(七二三頁)
  ここだくにおもひけめかもしきたへの枕かたさりいめにみえこし(七三〇頁)
  わがせこがかくこふれこそぬばたまのいめにみえつついねらえずけれ(七三四頁)
(787)などを見るべく又此等の歌を見て今の歌も汝がこふをといふ意なる事を知るべし
 
   獻2 天皇1歌二首
725 にほどりのかづく池水こころあらば君にわが戀《コフル》こころしめさね
二寶鳥乃潜池水情有者君爾吾戀情示左禰
 戀を略解古義共にコフとよみたれど卷二にもイニシヘニ戀流トリカモ、又マスラヲノコノ戀禮コソとありてコフはいにしへも二段活なればこゝはコフルとよむべし〇一首の意たどたどし。略解には
  其池の如く深く思奉る心をしらせ奉れと池水にいふ意なり
といひ古義には
  君に深き心をしめし奉らねとなり
と云へり。かく釋けば意味は、生ずれどそは辭をはなれたる釋にて辭の上にはさる意味なし。案ずるに第三句と結句とにココロ(文字は共に情と書けり)といふ語のかさなれる下の方のココロはフカサなどの誤にあらざるか
 
(788)726 よそにゐてこひつつあらずば君が家の池にすむとふ鴨にあらましを
外居而戀乍不有者君之家乃池爾住云鴨二有益雄
 コヒツツアラズバはコヒツツアラムヨリハなり。略解に云へる如く天皇に獻る歌に君ガ家ノなど云はむはいとなめげなり。外に題辭のありしがおちて上なるアシヒキノ山ニシヲレバと云ふ歌の題辭の誤りて再出でたるにあらざるか。類聚古集には獻天皇歌とありて其下に大伴坂上郎女在春日里作とあり。おそらくは坂上郎女が大孃におくれる歌なるべし。とまれかくまれ二首共に相手の家の池をよめれば二首一聯の歌なる事は疑を容れず
 
   大伴宿禰家持贈2坂上家大孃1歌二首【雖絶數年後會相聞往來】
727 わすれ草わがした紐につけたれどしこのしこ草ことにしありけり
萱草吾下紐爾著有跡鬼乃志許草事二思安利家理
 シコノシコ草は忘草を忌み罵りていへるなり。なほ子規を罵りてシコホトトギスといひ※[奚+隹]を惡みてクダカケといふが如し。コトニシアリケリは名ノミナリケリといふに同じ。ワスレ草はクワンザウなり○題辭の下の分註なる後の字は諸(789)本に復とあり。數年絶ユトイヘドモ後會ヒテ相聞往來ストよむべきか
 
728 人もなき國もあらぬかわぎもことたづさひゆきてたぐひてをらむ
人毛無國母有※[米+更]吾妹兒與携行而副而將座
 アラヌカはアレカシ、タヅサヒはツレダチ、タグヒテは相添ヒテなり
 
   大伴坂上大孃贈2大伴宿禰家持1歌三首
729 玉ならば手にもまかむを(うつせみの)世の人なれば手にまきがたし
玉有者手二母將卷乎鬱膽〔左△〕乃世人有者手二卷難石
 モシ玉ナラバ緒ニトホシテ腕ニマキテ身ヲハナサザラムヲ云々の意なり。ウツセミノ世ノ人は俗にいふ人間なり○膽は瞻の誤なり
 
730 あはむ夜はいつもあらむをなにすとかそのよひあひてこと之《ノ》しげきも
將相夜者何時將有乎何如爲常香彼夕相而事之繁裳
 初二はアハム夜ハアノ夜ニ限ル事モナカリシニといふ意。結句の之は舊訓に從ひ(790)てノとよむべし(略解にはシとよめり)。コトノシゲキは人ノ口ノウルサキとなり。第四句のソノは例の歌中に見えざるものをさせるソノなり(七七四頁參照)
 
731 わが名はも千名の五百名にたちぬとも君が名|立者《タタバ》をしみこそなけ
吾名者毛千名之五百名爾雖立君之名立者惜社泣
 初句のモは助辭なり。千名ノ五百名ニタチヌトモは名ガシバシバ立ツトモといふこと。おもしろき造語なり。タチヌトモの下にヲシカラザラメドといふことを略せり。立者を舊訓にタタバとよめるを古義にタテバに改めて
  畧解に君ガ名タタバとよめるは未來を云る言なればヲシミコソナケと云るにかけ合ず
といへるは不思議なり。本集にはミズテユカバマシテコヒシミ、イモニアハズアラバスベナミ、ハヤクアケナバスベヲナミとやうに云へることを雅澄はよく知りたらむにいかでかゝることを云へるにか(二九二頁、四七一頁、五〇二頁、六七四頁參照)
 
   又大伴宿禰家持和歌三首
(791)732 今しはし名のをしけくもわれはなし妹によりてはちたびたつとも
今時有〔左△〕四名之惜雲吾者無妹丹因者千遍立十方
 イマシハシは略解に『ふたつのシは助辭にてイマハなり』と(代匠記にも)いへれどおそらくは當時イマシハといふ辭ありしにこそ。上(七〇〇頁)にもイマシハトユメヨワガセコワガナノラスナとあり。ヲシケクモは惜キコトモといふ意にて一種の格なり。之に準じてヲシキをヲシケキとはいふべからず。妹ニヨリテハは上(六八〇頁)にもカヘラバカヘレ妹ニヨリテハとよめり。古義にヨリテバと濁りてよみたれど古今集離別歌なるワカレテハ程ヲヘダツト思ヘバヤカツ見ナガラニカネテコヒシキのワカレテハと同格なれば清みてとなふべき事前にいへる如し○有は者の誤なり
 
733 (うつせみの)代やもふたゆくなにすとか妹にあはずてわがひとりねむ
空蝉乃代也毛二行何爲跡鹿妹爾不相而吾獨將宿
 フタユクはフタツユクといふ意にて神武天皇の御製なる彼ヤマトノ高佐士野ヲナナユクヲトメドモタレヲシマカムのナナユクの類なり。初二の意は此世ハ二タ(792)ビヤハ來ルとなり
 
734 わがおもひかくてあらずば玉にもがまことも妹が手に所纏牟《マカレナム》
吾念如此而不有者玉二毛我眞毛妹之手二所纏牟
 アラズバはアラムヨリハ、玉ニモガは玉ニモナリナム、マコトモはマコトニモなり。結句を略解にマトハレムとよめるは拙し。玉ナラバ手ニモマカムヲといふ歌の答なれば舊訓の如くマカレナムとよむべし。牟の字乎とある本ありと古義にいへり。げに類聚古集にも乎とあれどそはなほ牟の誤とすべし
 
   同坂上大孃贈2家持1歌一首
735 春日山かすみたなびきこころぐくてれるつくよに獨かもねむ
春日山霞多奈引情具久照月夜爾獨鴨念
 略解に初二を序とせるは非なり。月下の霞のさまなり。ココログシを略解に『くぐもるにておぼつかなき事にいへり』といひ古義に中山嚴水の説を擧げてめでなつかしむ意の言なりといへり。此卷の末にも
(793)  こころぐくおもほゆるかも春霞たなびく時にことのかよへば
とあり。俗にジレツタイ(懊悩)といふ意にあらざるか
 
   又家持和2坂上大孃1歌一首
736 つくよには門にいでたちゆふけとひあうらをぞせしゆかまくをほり
月夜爾波門爾出立夕占問足卜乎曾爲之行乎欲焉
 ユフケの事は卷三(五〇八頁)にいへり。就いて見るべし。足占《アウラ》は信友の正卜考(全集第二の五四五頁)に
  俗に童子などのする趣にてまづ歩きて踏止るべき標を定めおきてさて吉凶の辭(○ヨイカワルイカの類)をもて歩く足に合せつゝ踏わたり標の處にて踏止りたる足に當りたる辭をもて吉凶を定むるわざにもやあらむ
といへり。結句は初句の次におきかへて心得べし。ユカマクヲはユカムコトヲなり
 
   同大孃贈2家持1歌二首
737 かにかくに人はいふとも若狹道の後瀬の山ののちもあはむ君
(794)云々人者雖云若狹道乃後瀬山之後毛將念〔左△〕君
 三四はノチの序なり。初二は人ハトイヒカクイフトモとなり。ノチモはノチニモなり。今の情を以て見れば寧モを省くべきなり○念は會の誤ならむ
 
738 世のなかのくるしきものにありけらく戀にたへずてしぬべきもへば
世間之苦物爾有家良久戀二不勝而可死念者
 初句の上に戀トイフモノハといふ辭を補ひて心得べし。アリケラクはアリケルコトヨとなり
 
   又家持和2坂上大孃1歌二首
739 (のちせ山)のちもあはむとおもへこそしぬべきものをけふまでもいけれ
後瀬山後毛將相常念社可死物乎至今日毛生有
 二三の間に我モといふ辭を挿みて聞くべし。イケレはイキテアレなり
 
740 ことのみを後もあはむとねもころに吾をたのめて不相△可聞《アハヌイモカモ》
(795)事耳乎後手〔左△〕相跡懃吾乎令憑而不相可聞
 コトノミヲのヲは普通のヲにあらで調の爲における助辭なり。上(七六七頁)にも目言ヲダニモココダトモシキとあり。コトノミはコトバニノミなり。タノメテはタノマセテにてアテニセサセテなり。結句は宣長の説に不相の下に妹の字おちたるにてアハヌイモカモとよむべしといへり
 
   更大伴宿禰家持贈2坂上大孃1歌十五首
741 いめのあひはくるしかりけりおどろきてかき探れども手にもふれねば
夢之相者苦有家里覺而掻探友手二毛不所觸者
 イメノアヒは夢に逢ふ事。クルシは今のツラシ、オドロキテは目サメテなり。契沖の説に遊仙窟の
  少時坐睡則夢見2十娘1驚覺撹v之忽然空v手
といふ文によりて作れるなりといへり
 
(796)742 一重のみ妹がむすばむ帶をすら三重むすぶべくわが身はなりぬ
一重耳妹之將結帶乎尚三重可結吾身者成
 これも遊仙窟の文に日々衣寛朝々帶緩、又文選に衣帶日已緩とあるによれるなり
と契沖云へり。スラといへるは手弱女ナル妹ガタダ一重結バム帶ヲスラとなり
 
743 わが戀は千びきの石をななばかり頸にかけむも神之諸伏
吾戀者千引乃石乎七許頚二將繋母神之諸伏
 石は古義に從ひてイハとよむべし。結句は心得がたし、雅澄は隨似の誤としてマニマニとよめり。今上四句を續ぎ試みるにカクバカリヤモといひて其下にクルシキといふことを略したりとすべきなり。よりて思ふに神之諸伏は如是許諸伏の誤にてヤモを諸伏と書けるは彼|切木四《カリ》といふ博奕の采の三伏一向なるをツクといひ一伏三向なるをコロと云ひし如く四片皆伏したるを即諸伏なるをヤモ又はカモと云ひしにあらざるか
 
744 ゆふさらばやどあけまけてわれまたむいめにあひ見にこむといふ人(797)を
暮去者屋戸開設而吾將待夢爾相見二將來云比登乎
 此歌のヤドは屋の戸なり。アケマケテは明ケ設ケテなり。四五の意によりて思ふに坂上大孃より夢ニアヒ見ニユカムといふ意の歌を贈れるに答へたるなり。さて此歌も遊仙窟の文に今宵莫v閉v戸、夢裏向2渠《キミガ》邊1とあるによれるなりと契沖云へり
 
745 朝よひに見む時さへや吾妹△《ワギモコ》が雖見《ミレド》みぬごとなほこひしけむ
朝夕二將見時左倍也吾妹之雖見如不見由戀四家武
 コヒシケムはコヒシカラムなり。雖見を略解古義にミトモとよみたれどミトモといはばミザラムゴトといふべく今の如くミヌゴトとはいふべからず。されば雖見はなほ舊訓の如くミレドとよむべし〇一首の意は朝夕ニ我妹子ヲ見ム時サヘ(アカヌ心ニハ見テモ見ヌヤウニ)コヒシカラムヲ、マシテ今ハ打絶エテ見ネバコヒシキハ理ナリといへるなり○由は猶の通用なり。孟子に例多し
 
746 いける代に吾《ワ》はいまだ見ずことたえてかくおもしろくぬへる嚢は
(798)生有代爾吾者未見事絶而如是※[立心偏+可]怜縫流嚢者
 大孃よりおくれる嚢を見てよめるなり。イケル代ニは現世ニなり。コトタエテは言ガタエテなり。言語ニ絶シテと今いふ意なり。オモシロクにかゝれるなり
 
747 吾妹兒がかたみのころも下に著てただにあふまではわれぬがめやも
吾妹兒之形見乃服下著而直相左右者吾將脱八方
 カタミノ衣は忘れぬ爲にと妹の贈れる衣なり。タダニアフは直接ニ逢フなり。契沖いはく下に著るとはなつかしみて身にそふるなりと
 
748 こひしなむ其毛同曾《ソレモオナジゾ》なにせむに人目ひとごとこちたみわがせむ
戀死六其毛同曾奈何爲二人目他言辭痛吾將爲
 第二句は舊訓にソレモオナジゾとよめるを古義には古風にソコモオヤジゾとよめり。いづれにてもあるべし。ナニセムニを略解に何ゾヤと譯し古義に何故ニと譯せる共に當らず。何ノ爲ニと譯すべし。卷五にシロガネモクガネモ玉モナニセムニマサレルタカラ子ニシカメヤモ、卷十七にナニセムニ我《ワ》ヲメスラメヤなどあり。コ(799)チタミはこちたがり憚るなり○初二は身ヲ亡サムコトヲ恐レテ人目人言ニ憚ラバ終ニ戀死ナム、サレバ其モ此モ同一ナリといへるなり
 
749 いめにだにみえばこそ有《アラメ》かくばかり不所見△有者《ミエズテアルハ》こひてしねとか
夢二谷所見者社有如此許不所見有者戀而死跡香
 有は舊訓にアラメとよめるに從ふべし。アレとよみてはミエバと打合はざればなり。さてそのアラメはコフル心モナグサマメとなり。第四句は略解にミエズシアルハとよめり。宣長は有の下に念を補ひてミエザルモヘバとよみ雅澄は見の下に而を補ひて舊訓の如くミエズテアルハとよめり。雅澄の説に從ふべし
 
750 おもひたえわびにしものをなかなかに奈何《ナニカ》くるしくあひみそめけむ
念絶和備西物尾中々爾奈何辛苦相見始兼
 奈何を舊訓にナニカとよめるを古義にイカデに改めたり。されど集中にイカデといふ辭を用ひたる例なければ(卷二【一五六頁】參照)なほナニカとよむべし。宣長の説に此歌のワビニシは下に遠カラバワビテモアラムヲとあるワビに同じと云ひ千蔭は(800)古今集なるイマシハトワビニシモノヲササガニノ衣ニカカリワレヲタノムルのワビニシにも同じといへり。案ずるに常のワビならばニシとは受くべからず。ワビニシはアキラメタと譯すべし。上(七三八頁)なる紀女郎怨恨歌なる
  今はわはわびぞしにけるいきのをに思ひし君をゆるさくおもへば
のワビも常のワビとするよりアキラメの意とする方穩に聞ゆ
 
751 あひみてはいくかもへぬを幾許久毛《ココバクモ》くるひにくるひおもほゆるかも
相見而者幾日毛不經乎幾許久毛久流此爾久流必所念鴨
 第三句は舊訓にココバクモとよめるを古義にココダクモと改めたり。集中に許己婆久毛とも許己太久母ともかければいづれにてもあるべし。アヒミテハのハは清みて唱ふべし。助辭なり
 
752 かくばかり面影のみにおもほえばいかにかもせむ人目しげくて
如是許面影耳所念者何如將爲人目繁而
 第四句を略解にハテハテハイカニセンと譯せり。三四のあたりすこし穩ならずおぼゆれど卷十七なる假字書の歌にイマノゴトコヒシクキミガオモホエバイカニ(801)カモセムスルスベノナサ(大伴坂上郎女贈2家持1歌)とあれば誤字にはあらず。結句の上にサレドといふ辭を加へて聞くべきか
 
753 あひ見てば頃臾《シマシク》戀はなぎむかとおもへどいよよこひまさりけり
相見者須臾戀者奈木六香登雖念彌戀益來
 初句のハは濁りてとなふべし。ミテバはミタラバなり。須臾は古義にシマシクとよめるに從ふべし。略解にシマシモとよめれどテニヲハ無き方まされり。ナギムカはナゴマムカなり。ナグはいにしへ二段活なりしなり。オモヘドはオモフニなり
 
754 夜のほどろわがいでてくれば吾妹子がおもへりしくし面影にみゆ
夜之穗杼呂吾出而來者吾妹子之念有四九四面影二三湯
 ヨノホドロは宣長の説に夜明なりといふ。但語源については宣長と雅澄と説を異にせり。クレバはクルニなり○オモヘリシクシの下のシは助辭なり。オモヘリシクはいにしへ行はれし一の格にてオモヘリシにクといふ辭の添へるなり。古事記|明《アキラ》(ノ)宮(ノ)段なる太子|大雀《オホササキ》(ノ)命の御歌に
(802)  みちのしりこはたをとめはあらそはずねしくをしぞもうるはしみおもふ
 本集卷七に
  すみのえの名兒の濱邊に馬なめて玉ひろひしく常わすらえず
  わがせこをいづくゆかめとさき竹のそがひにねしく今しくやしも
などあり。記傳卷三十二(全集第三の一九七五頁)に
  シは過|去《ニ》しことを云シの如く聞ゆれど然らず
といひて卷十に戀敷ハケナガキモノヲ、卷廿に故非之久ノオホカルワレハとあるを引きて
  さては右の戀之久、過去し方を云るに非れば聞えがたし
と云へれどオモヘリシク、ネシク、ヒロヒシクのクはコヒシクノなどのク又イハク、イヘラク、イヒケラク、イヒツラク、イハマクなどのクとは齊しからず。さてオモヘリシクなどの(則動詞の過去格のシに添ふる)クの語源は未明ならねどオモヘリシクは思ウテヰタノ〔右△〕ガ、ネシクヲはネタノヲ、玉ヒロヒシクは玉ヲ拾ウタノ〔右△〕ガ、ソガヒニネシクはウシロ向ニ寢タノ〔右△〕ガと譯して心得べし
 
(803)755 夜のほどろいでつつくらくたびまねくなれば吾胸|截燒如《タチヤクゴトシ》
夜之穗杼呂出都追來良久遍多數成者吾胸截燒如
 給句は古義にタチヤクゴトシとよめるに從ふべし。タチヤクゴトシは刀ニテ斷チ火ニテ燒ク如シといへるにてこれも遊仙窟に
  未2曾飲1v炭腹熱如v燒、不v憶v呑v刃腸穿似v割
とあるによれること契沖のいへる如し。クラクはクルの延言にてこゝは來ル事ガと譯すべし。このクはオモヘリシクなどのクとは別なり。タビマネクナレバの下に古義に云へる如くナゴリヲシサノツモリツモリテといふことを補ひて釋くべし。タビマネクはタビタビニなり
 
   大伴田村家之大孃贈2妹坂上大孃1歌四首
756 よそにゐてこふればくるし吾妹子をつぎてあひ見むことはかりせよ
外居而戀者苦吾妹子乎次相見六事計爲與
 大伴(ノ)田村(ノ)大孃は坂上(ノ)大孃の異母(ノ)姉なり。田村と坂上とは住處の地名なり。ヨソニヰ(804)テは別ニ居テなり。ワギモコは女どちもいふ。ツギテはタエズなり。アヒ見ムコトハカリとつづけるなり。コトハカリは工夫なり
 
757 遠からばわびても有乎《アラムヲ》里ちかくありとききつつ見ぬがすべなさ
遠有者和備而毛有乎里近有常聞乍不見之爲便奈沙
 このワビテは上(七七九頁)にいへる如くアキラメテなり。常のワビならばワビツツとあるべきなり。有乎を略解にアラムヲとよめるを古義には乎を牟の誤としてアラムとよめり。もとのまゝにてあるべし。里チカクは我住ム里近クなり。案ずるにかく相近く住みながら相逢はざりしは何にか事情ありしなり
 
758 しら雲のたなびく山のたかだかにわがもふ妹をみむよしもがも
白雲之多奈引山之高々二吾念妹乎將見因毛我母
 初二はタカダカニの序なり。タカダカニは集中にタカダカニ君マツ夜ラハ、タカダカニコムトマツラム、タカダカニマツラム君ヤなど多くは待ツに副へたり(例外は卷十二なるタカダカニ君ヲイマセテ)。契沖は『遠き處を高く望みて待つ心なり』とい(805)ひ宣長は『仰ぎ望む意なり』と云へり。案ずるに人の來るを待つとてそのまだ見えぬをもどかしみてつまだち望むことあり。史記に可2翹公v足而待1と云へる是なり。つまだつはやがて身を高々にするなれば終にタカダカニといひて待つ事をいふ事とはなりにけむ。されば今もワガモフはワガ待チ思フといふ意と見るべし
 
759 いかならむ時にか妹をむぐらふの穢《キタナキ》やどに將入座《イリイマセナム》
何時爾加妹乎牟具良布能穢屋戸爾入將座
    右田村大孃坂上大孃并是右大辨大伴宿奈麻呂卿之女也。卿居2田村里1號曰2田村大孃1。但妹坂上大孃者母居2坂上里1。仍曰2坂上大孃1。于v時姉妹諮問以v歌贈答
 穢の字を略解に卷十九にムグラハフ伊也之伎ヤドモとあるによりてイヤシキとよみ古義も之に從ひたれど彼は彼なり此は此なり。記傳卷六(全集第一の三四三頁)の如く字のまゝにキタナキとよむべし。結句は略解にイリマサセナムとよみ古義にイリイマセナムとよめり。古義に從ふべし。我家ニ請ジ入レムとなり
 左註に右大辨大伴宿奈麻呂卿とあるにつきて古義に
(806)  右大辨は四位相當なれば卿といふべきにあらず。されどそは官制にて、私にはさらぬ位階の人等をも貴みて卿といへりしことありとおぼえたり。宿奈麻呂は大伴安麻呂卿の第三子にて家持脚の爲には小父なれば家持卿より貴みてしるされたること理なり(採要)といへり
 ここに一二考へたる事をいひてむ
   大伴宿禰宿奈麻呂は果して安麿の子なりや
 此卷大伴郎女和歌四首の左註(六五六頁)に
  右郎女者佐保大納言卿(○安麻呂)之女也)……郎女家2於坂上里1。仍族氏號曰2坂上郎女1也
 又ここの左註に
  右田村大孃坂上大孃并是右大辨大伴宿奈麻呂卿之女也。卿居2田村里1號曰2田村大孃1。但妹坂上大孃者母居2坂上里1。仍曰2坂上大孃1
とあり。されば大伴坂上郎女は安麿の女にて宿奈麿の妻なり。但田村大孃には繼母(807)とおぼゆ。系圖にて示さば左の如し
         田村大孃
 宿奈麻呂
 坂上郎女――――坂上大孃〔宿奈麻呂から田村坂上兩大孃に斜線あり〕
 宿奈麿は元暦校本卷二大津皇子宮侍石川女郎贈2大伴宿禰宿奈麻呂1歌一首の小註に
  宿奈麻呂宿禰者大納言兼大將軍卿之第三子也
とあり。大納言兼大將軍卿は即安麻呂なれば此説によれば宿奈麿と坂上郎女とは兄弟なり。上代は異母兄弟の相婚を忌まざりしかど(郎女の母は卷三及卷四の左註【五六三頁七五四頁】によれば石川内命婦なり。宿奈麿の母は詳ならず)なほ疑なきにあらず。古寫本の註文は打任せて信ずべきものにあらねばなり
  大伴坂上郎女は藤原朝臣麻呂と大伴宿禰宿奈麻呂といづれにさきに嫁せしか
 此卷大伴郎女和歌四首の左註(六五六頁)に
(808)  右郎女者佐保大納言卿之女也。初嫁2一品穗積皇子1被v寵無v儔而皇子薨之後時藤原麻呂大夫娉v之郎女〔二字左△〕焉
とあり。されば大伴坂上郎女は大伴宿奈麿の外に藤原麻呂にも嫁せしなり。其先後は如何
 鹿持雅澄の萬葉集人物傳には大伴坂上郎女の下に
  初一品穗積皇子にめされ皇子薨賜へる後藤原朝臣麻呂の妻となりて幾程なく麻呂みまかられければ大伴宿奈麿に再嫁て田村大孃坂上大孃など生たり
といへり(田村大孃は坂上郎女の所生にあらじ)。案ずるに穗積皇子の薨ぜしは靈龜元年七月藤原朝臣麻呂の薨ぜしは天平九年七月にて相距たる事二十二年なり。されば人物傳に『幾程なく麻呂みまかられければ』といへるは非なり。さて天平九年に麻呂の薨ぜし後大伴宿奈麿に嫁せしなりとせむか。宿奈麿との間に生みし坂上大孃同二孃の長じて人に嫁せむははやくとも天平勝寶の中比ならざるべからず
 こゝに卷八に坂上大娘秋稻※[草冠/縵]贈2大伴宿禰家持1歌などありて左註に右三首天平十一年己卯秋九月往來とあり。坂上郎女もし藤原麻呂の薨ぜし後に大伴宿奈麿に嫁(809)せしならむには、たとひ前夫のうせし年に後夫に嫁し其翌年に大孃を生むとも天平十一年には大孃僅に二歳なれば右の左註と合はず
 然らば郎女の大伴宿奈麿に嫁せしは藤原麻呂に嫁せしより前なるか。果して然らば上に擧げたる左註に皇子薨之後とある次に嫁2大伴宿奈麻呂卿1卿卒之後などいふこと無かるべからず。又彼左註に皇子薨之後時藤原麻呂大夫娉v之郎女〔二字左△〕焉とある後時のつづき穩ならず。おそらくは
  皇子薨之後嫁2大伴宿奈麻呂卿1卿卒之後寡居經v年〔嫁から一六字傍点〕
などありしがおちたるならむ。さて宿奈麿の卒せしはいつにか明ならねど(續紀に此人の事の見えたるは神龜元年二月までなり)おそらくは天平二年以前なるべし。何故にかくはいふぞと云はむに卷六によれば天平二年には郎女太宰府なる兄大伴旅人の許にあり。夫をもたる婦人の獨遠國に下りて長く留る事あるべくもあらねば此時は宿奈麿に死別して寡居せし程なるべし。太宰府にて大監大伴百代にこひられし(六八二頁)も當時寡婦なりし傍證とすべし
 或はいはむ。太宰府よりの歸路にて郎女のよみし歌に吾戀ノ千重ノ一重モナグサ(810)メナクニといひ吾背子ニコフレバクルシ暇アラバヒロヒテユカム戀ワスレ貝とあればなほ夫ありしにあらずやと。答へて云はむ。初の歌は寧樂なる幼兒をこひしにてもあるべく後の歌は後れて筑紫を立たむとせる兄をこひしにてもあるべし。ワガセコといふは夫に限らず。たとへば卷六なるおなじ人の歌にワガ背子ガ着ル衣ウスシとあるは姪家持を指し卷二(一五五頁)なる大伯《オホク》(ノ)皇女の御歌にワガセコヲヤマトヘヤルトとあるは御弟大津皇子を指したまへるなり
 右にいへる如くなれば卷三(四六四頁)祭神歌(天平五年冬十一月作)なる君ニアハジカモは藤原麻呂を戀ひたるなり。此卷なる怨恨歌(七一七頁)も同じ人におくれるに似たり
 因にいふ。難波江卷七下(百家説林續篇下一の八三二頁)に『宿奈麿は藤原麻呂大夫とも云ふか』といひ『大伴宿奈麿即藤原麻呂大夫』といへるは輕率なる推定なり。續紀を見よ。藤原麻呂は不比等の弟四子にて大伴宿奈麿とは閲歴も全く異なるをや。又いふ。すべて草稿といふものは思寄れるまゝにいまだよく考へぬ事をも記しおくものなれば岡本保考の如き學者にも右の如き失錯はあるなり。故人の草稿をさなが(811)らに公刊するは一種の罪惡なり。愼まざるべからず
 
   大伴坂上郎女從2竹田庄1贈2賜女子大孃1歌二首
760 うちわたす竹田の原になくたづのまなく時なしわがこふらくは
打渡竹田之原爾鳴鶴之間無時無吾戀良久波
 卷八に大伴坂上郎女竹田庄作歌及大伴家持至2姑坂上郎女竹田庄1作歌あり。跡見庄の外にこゝにも別業ありしなり。大和志料(下卷一三六頁)にいはく
  竹田 東西二處あり。東竹田は耳成村に屬し西竹田は平野村の大字たり
と。彼郎女の歌にコモリクノハツセノ山ハイロヅキヌなどあれば耳成村のうちなる東竹田の方なるべし。ウチワタスは前方ニミユルといふ事。上三句は序なり
 
761 早河のせにゐる鳥のよしをなみおもひてありし吾兒はもあはれ
早河之湍爾居鳥之縁乎奈彌念而有師吾兒羽裳※[立心偏+可]怜
 初二は序なり。早河はいづくのにてもあるべし。いま寺川といふ川、東竹田を貫きたれどそれにはあらじ。契沖の云へる如く早河の瀬にゐる鳥はよりどころなければ(812)ヨシヲナミの序とせるなり。さて略解に『我子の便なきに譬ふ』といへるは非なり。オモヒテアリシと過去にいへるをいかで今便なくてある事とはすべき。案ずるにヨシヲナミはスベナサニなり。上(七八〇頁)なる家持のココロニハオモヒワタレドヨシヲナミヨソノミニシテナゲキゾワガスルのヨシヲナミに同じ。三四の句は坂上郎女が故ありて娘をあとに殘して坂上の家を出でし時の事を云へるなり。さればヨシヲナミは引止メムヨシヲナミにてオモヒテアリシは物思ヲシテアリシなり。郎女が跡見庄より大孃に贈りし歌に常世ニトワガ行カナクニ小金門ニモノガナシラニ思ヘリシ吾兒ノ刀自ヲ云々、と云へるを參看すべし。ハモは目前に無きものを慕ふ意のテニヲハなり
 
   紀女郎贈2大伴宿禰家持1歌二首【女郎名曰小鹿也】
762 かむさぶといなにはあらず八△也多八〔二字左△〕《ハタヤハタ》かくしてのちにさぶしけむかも
神左夫跡不欲者不有八也多八如是爲而後二佐夫之家牟可聞
 カムサブトは年タケヌトテなり。初二の間に君ニ逢ヒソムル事ハといふことを挿(813)みて聞くべし(以上契沖の説による)。第三句を宣長は八多也八多の誤とせり。ハタヤハタはただハタと云はむを強く云ひたるにてシカシ又など譯すべし。カクシテはシカシテなり。カクとあれば既に逢ひぬるやうに聞ゆれど逢ひぬる後の歌とすればカムサブトイナニハアラズとあると相副はず。今ならばシカといふべきを集中にはカクといへる例あり(七三四頁及七八六頁參照)。されば今はシカ逢ヒテと譯すべく下なるウヅラナクフリニシ里ユオモヘドモといふ歌を見ても此時未逢はざりし事を知るべし。サブシケムはサブシカラムにてそのサブシは面白からぬ事。四五の間〔日が月〕に神サビタルヲイトハレナドシテといふことを補ひて心得べし。紀女郎は市原王の父安貴王のもとの妻なりといへば家持よりは年遙に長けたりけむ
 
763 玉の緒を沫緒によりてむすべればありてのちにもあはざらめやも
玉緒乎沫緒二※[手偏+差]而結有者在手後二毛不相在目八方
 略解に
  アワ渚は後に訛りてアハビ結ビ又アハヂ結ビなどいへり。玉ノ緒ヲヨリテアワ緒ニ結ビタレバといふ也
(814)といひ藤井高尚の伊勢物語新釋に
  アワヲはアワといふ結の名なり。後にアワビムスビ、アハヂムスビなどいふは此アワムスビをよこなまれるなるべし。此歌の上の句、玉ノ緒ヲヨリテアワ緒ニムスベレバといふ意に見るべし
といへり。案ずるに此等の説皆非なり。玉緒は壽命といふことなり。壽命を玉緒といふについて玉緒トイフ緒ヲ沫緒ニヨリテ結ブといへるなり。沫緒はくはしくは今は知りがたけれど縒方についての名とおぼゆ。結方についての稱にあらじ。もし結方についての稱ならば玉ノ緒ヲアワ緒ニムスブとこそいふべけれ。アワ緒ニヨリテとは云ふべからず。略解、勢語新釋などにアワヲニとヨリテとを下上して玉ノ緒ヲヨリテアワ緒ニムスビタレバの意とせるは右の矛盾に安んぜざればなり。然ももしさる意ならば初より玉ノ緒ヲヨリテアワ緒ニムスベレバとこそいふべけれ。何ぞまぎらはしく沫緒ニヨリテ結ベレバと云はむ。殊にまさしく(アワ結とはあらで)アワ緒とあるをいかでか結の事とせむ。さるを前人が結の事とせるは貫之の歌、枕草子の歌などにまどはされたるなり。其歌どもの事は後にいふべし。さて沫緒の(815)さまは既に云へる如く詳には知りがたけれど世の常の緒とはちがひて結びては解け難きなるべし。今は我玉ノ緒ハ沫緒ニ縒リテ結ビ固メタレバといへるにてやがて我ハ長命スル筈ナレバと戲れ云へるなり。拾遺集貫之の歌に
  春くれば瀧のしらいといかなれや結べどもなほあわにみゆらむ
といひ枕草子に
  うす氷あわにむすべる紐なればかざす日影にゆるぶばかりぞ
とあるはアワニヨルとはあらでアワニムスブとあり。又強く固き意ならで弱くはかなき意なれば今の歌のアワ緒とは更に相與からず。彼と是とを一つにするはあまりにをさなし。又山彦冊子、片廂などにこのアワ緒を魂しづめの事に結び附けたるは牽強傅會にて辨ずるに足らず(再案ずるにアワは緩き意か。絲又は紐を緩く結べるはもとより解けやすく緩く縒りたる緒を結べるはなかなかに解けがたきものなり)〇一首の意は我ハ長命スル筈ナレバ今日逢ハズトモ他年逢フ事モアルベシといへるなり
 
   大伴宿禰家持和歌一首
(816)764 ももとせにおい舌いでてよよむともわれはいとはじこひはますとも
百年爾老舌出而與余牟友吾者不厭戀者益友
 古義に『カムサブト云々と云るにこたへたり』といへれどカムサブト云々は現在の事をいひ玉ノ緒ヲ云々は末來の事を云へるなれば此歌は寧タマノヲヲ云々にこたへたる歌とすべし。モモトセニのニはトに通ふニなり。畢竟百歳ニナリテといふ意なり。第二句は老人の齒の無ければ物言ふとて口中に舌の見ゆるを云へるなるべし。イデテとあるに拘泥すべからず。ヨヨムは老人の言語の不明なるをいふなるべし。結句はムシロ戀ヒ増ストモとなり
 
   在2久邇(ノ)京1思d留2寧樂(ノ)宅1坂上(ノ)大孃u大伴宿禰家持作歌一首
765 ひとへ山へなれるものをつく夜よみ門にいでたち妹かまつらむ
一隔山重成物乎月夜好見門爾出立妹可將待
 聖武天皇の都を山城國相樂郡|恭仁《クニ》に遷し給ひしにつきて家持は恭仁にゆき妻はなほ寧樂に留りしなり。恭仁は奈良の北方にありて大和山城國境の山に隔てられたり。ヘナレルはへダタレルなり。略解に『山を隔てゝ住めばたやすく通ひがたきを』
(817)と釋ける如し
 
   藤原郎女聞v之即和歌一首
766 路とほみこじとは知れるものからにしかぞまつらむ君が目をほり
路遠不來常波知有物可良爾然曽將待君之目乎保利
 藤原郎女は恭仁宮の宮女なるべし。古義に
  藤原郎女は藤原朝臣麻呂の子にて母は坂上郎女なるべし。さて藤原郎女と呼なせるならむといへり。さらば坂上大孃には異父姉なり
といへれど坂上郎女の藤原麻呂に嫁せしは大伴宿奈麻呂に嫁せしより後なれば(八〇七頁參照)藤原郎女もし坂上郎女の娘ならば坂上大孃には異父妹なり。否坂上郎女が藤原麻呂に嫁せしは天平三年より後とおぼゆるに(郎女天平二年十一月に太宰府を發して京に上りし由卷六に見えたり)都を恭仁に遷されしは同十二年十二月なれはたとひ坂上郎女と藤原麻呂との間に女兒ありとも此時いまだ歌をよむには至らじ
 二三はコジトハ知リナガラといふ意。シカゾはサヤウニゾにて即月夜ヨミ門ニイ(818)デタチなり。略解に『サゾといふに同じ』といへるは非なり。君ガ目ヲホリは記傳卷二十六(全集第二の一五七八頁)に『目は所見《ミエ》のつづまれるにて君ガミエムコトヲ欲《ホル》と云意なり』といへり。畢竟君ニ逢ヒタガツテといふ意なり
 
   大伴宿禰家持更贈2大孃1歌二首
767 都路をとほみや妹がこのごろはうけひてぬれどいめにみえこぬ
都路乎遠哉妹之比來者得飼飯而雖宿夢爾不所見來
 都路は久邇の京にかよふ道なり。トホミヤは遠ケレバニヤにてそのヤはコヌにて結べり。ウケフは神に祈る事。第四句を初にめぐらして心得べし
 
768 今しらす久邇のみやこに妹にあはず久しくなりぬゆきてはやみな
今所知久邇乃京爾妹二不相久成行而早見奈
 初二は久邇ノ新京ニといふことなり。今シラスの今は雅澄のいへる如く新ニの意なり。ミヤコニは都ニテにて久シクナリヌにかゝれり。見ナは見ムなり
 
   大伴宿禰家持報2贈紀女郎1歌一首
(819)769 (ひさかたの)雨のふる日をただひとり山邊にをればいぶせかりけり
久堅之雨之落日乎直獨山邊爾居者欝有來
 山邊は鹿背山の邊なり。イブセシはウツトシといふこと。此時新京いまだ成りとゝのはず。げにかゝる情も起りけむかし
 
   大伴宿禰家持從2久邇京1贈2坂上大孃1歌五首
770 人めおほみ不相《アハザル》のみぞこころさへ妹を忘れてわがもはなくに
人眼多見不相耳曾情左倍妹乎忘而吾念莫國
 不相を舊訓にアハザルとよめるを古義にアハナクに改めたり。アハナクはアハヌの延言なり。世人は一般にアハザルとアハヌとを混同したれど兩者の間には差別あることなり。即アハヌは辭のまゝなれどアハザルはアハズアルの約なればただアハヌといふとは異なり。なほアフとアヘルとの異なる如し。而してアハザルの代にアハヌとはいふべくアハヌの代にアハザルとは云ふべからず。今は元來アハザルとあるべく、もし言數餘る時はアハヌとのみ云ふ事も許さるれど言を延べてま(820)でアハヌといはざるべからざる道理なし。されば今は舊訓に從ひてアハザルとよむべし。ワスレテモハナクニは忘レヌニといふことなり。ワスレメヤといふべきをワスレテモヘヤといへる類なり(一〇九頁及一二五頁參照)
771 偽も似つきてぞするうつしくもまこと吾妹兒われにこひめや
偽毛似付而曾爲流打布裳眞吾妹兒吾爾戀目八
 以下四首坂上大孃を恨むることありてよめりと見ゆ。初二は契沖の説に『偽をいふにも似つかはしき事をするなり』と云へる如し。古義に『似モツカヌ偽ヲスル妹ニテモアル哉と云ふべきを倒語にいへるなり』と云へるは非なり。おもふにイツハリモ似ツキテゾス ルは當時行はれし諺なり○ウツシクは古事記に宇都志伎青人草とあり又宇都志意美とあり。ウツシキ青人草とは目に見えぬ神に對してあらはれたる世人をいひウツシオミとはウツシキ御身といふことにて一言主大神の姿を現し給へるを見て雄略天皇の宣ひし辭なり。さればこゝのウツシクは實際ニなど譯すべし
 
772 いめにだに將所見《ミエナム》とわれは保〔左△〕杼毛《ウケヘドモ》友〔□で圍む〕不相《アヒオモ》志〔□で圍む〕思△《ハネバ》うべみえざらむ
(821)夢爾谷將所見常吾者保杼毛友不相志思諾不所見武
 第二句の將所見は從來ミエムとよめれど希望の辭とおばゆればミエナムとよまではかなはず。保杼毛友の友は衍字、保は誤字なるべし。訓は古義にいへる如くウケヘとあるべし。不相忘思は宣長の説に志は者の誤にて不相思者を下上に又誤れるかといへり。さらばアヒオモハネバ又はアヒモバザレバとよむべし(桂宮本には思の下に者の字あり)
 
773 ことどはぬ木すらあぢさゐ諸茅等之練乃村戸二あざむかえけり
事不問木尚味狹藍諸弟〔左△〕等之練乃村戸二所詐來
 何の事とも解しがたし。契沖の説に
  古人二首を以て一意を云へる事多ければ此歌は次の歌を云はむ爲なるべし
といへり。案ずるに何にか傳説あるに據りてよめるにて練乃村戸二は練乃言羽二の誤、そのネリはオモネリのネリにあらざるか。又木スラアヂサヰ諸茅ラノは木スラ紫陽花及諸茅ラノといふ意か
 
(822)774 百千たびこふといふとも諸茅等が練のことば志〔左△〕《ハ》われは不信《タノマジ》
百千遍戀跡云友諸茅等之練乃言羽志吾波不信
 略解に不信をタノマズとよめるはわろし。契沖の云へる如くタノマジとよまではイフトモと相副はず。志の字元暦校本等に者とあり
 
   大伴宿禰家持贈2紀女郎1歌一首
775 (鶉なく)ふりにしさとゆおもへどもなにぞも妹にあふよしもなき
鶉鳴故郷從念友何如裳妹爾相縁毛無寸
 ウヅラナクは枕辭。フリニシサトユは故郷ニアリシ時ヨリといふ意。久邇の京にてよめるなれば寧樂をフリニシサトといへるなり
 
   紀女郎報2贈家持1歌一首
776 ことでしはたがことなるか小山田の苗代水の中よどにして
事出之者誰言爾有鹿小山田之苗代水乃中與杼爾四手
 契沖いはく
(823)  一二の句は戀シキ由云ヒソメタルハ何レヨリゾ、君ガ先立チテ云ヘルニハアラズヤなり
といひ略解古義共に此説を採れり。案ずるにコトデシは言ニイデシにてその言ニイデシは集中にコトニイデテイハバユユシミ、古今集にコトニイデテイハヌバカリゾなどありて口ニ出シシといふことなり。神代紀の先言(コトサキダツ)をコトデシテとよめる一説ありともそを證としてコトデに先だち言ふ義ありとはすべからず。又第二句を諸註にタレナルゾの意としたれど、もしさる意ならばタレナルカとこそいふべけれ。タガコトナルカといへる、コトといふこと餘れり。案ずるにタガコトナルカはタガ上ナルカといふ意なり〇三四はナカヨドの序なり。ナカヨドニシテは一タビタユミナガラとなり。タエヌ使ノヨドメレバ(七四一頁)ワレハヨドマズ君ヲシマタム(卷五)などのヨドムと同意なり。上(八一二頁)なる贈答によれば家持は寧樂にてはやく此女を思ひかけしなり。さて久邇の新京に假住ひせしほど此女も供奉したりしかばウヅラナクなど再なまめきたることをいひおこせしかばそれに答へて一タビタユミナガラ『アフヨシモナキ』ナド今更言ニ出デテノタマフハ(824)タガ上ナルカ、ヨモ我事ニアラジといへるなり
 
   大伴宿禰家持更贈2紀女郎1歌五首
777 わぎもこがやどの※[竹冠/巴]をみにゆかばけだし門よりかへしなむかも
吾妹子之屋戸乃※[竹冠/巴]乎見爾往者蓋從門將返却可聞
 五首のうち第一は第二と、第三は第四と關聯せり○※[竹冠/巴]の字諸本に籬とあり○此時女郎始めて新京に家を造りしなり。さるによりてマガキヲ見ニユクといへるなり。契沖が『此をりふし郎女が家の損じたる處などつくろひたるなるべし』といへるは非なり。ケダシは或ハなり
 
778 うつたへにまがきのすがた見まくほりゆかむといへや君をみにこそ
打妙爾前垣乃酢堅欲見將行常云哉君乎見爾許曾
 ウツタヘニはヒタブルニなり(六四六頁參照)。マガキノスガタは籬の恰好なり。古義に※[竹冠/巴]の草木のすがたと釋せるは非なり。ユカムトイヘヤはユカムトイハメヤにてそのイフは輕く添へたる辭なり。さればユカムトイヘヤはユカメヤに齊し(卷二【二二(825)一頁】アリトイハナクニ參照)〇一首の意は『ヤドノマガキヲ見ニユカム』ト云ヒツレド專籬ノサマヲ見ニ行カムヤ、君ヲ見ニコソ行カメとなり
 
779 いたぶきの黒木の屋根は山ちかし明日《アスノヒ》とりて持將參來《モチマヰリコム》
板蓋之黒木乃屋根者山近之明日取而持將參來
 イタブキは板屋、クロ木は皮つきの木なり。屋根ハは第四句に續けるなり。山チカシにつづけるにあらず。明日の二字は古義に從ひてアスノヒとよむべし。結句も古義にモチマヰリコムとよめるに從ふべし○第三句は辭つまりたれど幸ニ山ガ近イカラといふ意と見るべし。山は鹿背山なり。初二は板ブキノ屋根ノ黒木ハとありしを下上に誤れるにあらざるか
 
780 黒木とり草《クサ》もかりつつつかへめど【一云つかふとも】いそしき知〔左△〕氣《ワケ》とほめむとも不在《アラズ》
黒樹取草毛刈乍仕目利勤知氣登將誉十方不在【一云仕登母】
 草とあるは薄にて常にはクサとよみ屋根を葺く料なる時はカヤとよむ習なり。さてこゝの草の字を舊訓にカヤとよめるを古義にクサに改めて『板ぶきなれば草は(826)屋根葺く料にはあらじ。蔀或は壁代などにすべて草を用ひしこと古書にあまた見えたれば其料なるべし』といへり。今も竹の乏しき地方にては壁下地のこまひに薄を用ふとぞ(西遊記續篇卷二の五丁參照)○知氣は考に和氣の誤とせるに從ふべし。イソシキワケは勤勉ナル奴といふこと(六七六頁參照)。ツカヘメドは仕ヘム、サレドなり。不在は舊訓にアラズとよめるを雅澄のアラジと改めたるは何の意なるかを知らず(一云の方に從はばこそアラジとはよむべけれ)
 
781 (ぬばたまの)昨夜《きそ》はかへしつこよひさへわれをかへすな路の長手を
野干玉能昨夜者令還今夜左倍吾乎還莫路之長手呼
 昨夜は契沖のキソとよめるに從ふべし。略解にヨベとよみたれどヨベは新しくて當時の物に例なし。さてキソは卷二(二〇一頁)に君ゾ伎賊乃夜《キソノヨ》イメニミエツルとあるを見ればただ昨日といふ意にて夜の意は無きが如くなれど今の歌につきて見るに、もし昨夜の意にあらずばヌバタマノといふ枕辭を冠らすべからず。卷十四(東歌)に
  うちひさつ〔右△〕みやのせがはのかほばなのこひてかぬらむ伎曾もこよひも
(827)  ひたがたのいそのわかめのたちみだえわをかまつなも〔二字右△〕伎曽もこよひも
  伎曾こそは子ろとさねしかくものうへゆなきゆくたづのまどほくおもほゆ
  おしていなといねはつかねどなみのほのいたぶらしもよ伎曾ひとりねて
とあるも皆昨夜の意なり。さればキソといひて既に昨夜の意なるをキソノ夜とも云ひしなり。仁コ天皇紀に
  復當2昨日臣妻産時1鷦鷯入2于産屋1
とある昨日の傍訓にキスとあれどこは後人の加へたるものなれば證とはし難し○ナガテのテはやはり道といふことにてミチノナガテは熟語なり(六六四頁參照)。ナガテヲのヲはヨリのヲなり
 
   紀女郎裹v物贈v友歌一首【女郎名曰小鹿】
782 風たかくへには雖吹《フケドモ》妹がため袖さへぬれてかれる玉藻ぞ
風高邊者雖吹爲妹袖左倍所沾而刈流玉藻烏
 人に物を贈るとてそを獲るに骨折れし趣にいふはいにしへの習なり。雖吹を略解古義にフケレドとよめるはわろし。舊訓の如くフケドモとよむべし。正しく云はば(828)フキシカドなり。袖サヘは裳にむかへて云へるなり○風タカクとあるはいかが。波タカク邊ニハタテドモとか風アラク邊ニハフケドモとかあるべきなり○烏は焉の俗體なり
 
   大伴宿禰家持贈2娘子1歌三首
783 をとどしのさきつ年よりことしまでこふれどなぞも妹にあひがたき
前年之先年從至今年戀跡奈何毛妹爾相難
 初二はハヤクヨリといふ意のみ
 
784 うつつにはさらにも不《イ》得〔□で圍む〕言《ハズ》いめにだに妹がたもとをまきぬとし見ば
打乍二波更毛不得言夢谷妹之手本乎纏宿常思見者
 不得言の得は契沖のいへる如く衍字なり。不言はイハズとよむべし。イハジとはよむべからず。ウツツニ逢ハムハ言フモ更ナリと云へるなり。結句の次にウレシカラマシといふことを補ひて聞くべし
 
785 わがやどの草の上白くおく露の壽〔左△〕《ミ》もをしからず妹にあはざれば
(829)吾屋戸之草上白久置露乃壽母不有情〔左△〕妹爾不相有者
 上三句は序なり。壽は宣長の説に身の誤ならむといへり。上(七五七頁)にもおなじ誤あり。イノチとよみては九言になりて調よろしからず○情は惜の誤なり
 
   大伴宿禰家持報2贈藤原朝臣久須麻呂1歌三首
786 春の雨はいやしきふるに梅の花いまださかなくいとわかみかも
春之雨者彌布落爾梅花未咲久伊等若美可聞
 題辭に報贈とあればとて必贈歌のありしがおちたるなりとは思ふべからず。又輕輕しく報を衍字とは定むべからず。集中報贈とありて贈歌を載せざるものゝうちには歌ならで書状を受けてそれに答へたるもあるべし○イヤシキフルはフリツヅクなり。サカナクはかゝる處にてはサカヌ事ヨといはむばかりの調なる事既に云へる如し。又ニを添へてナクニともいへり○契沖いはく
  此三首より、下の久須麻呂の報贈の歌までを通はし見るに久須麻呂の家に童女の有を家持の思ひ懸て其由を久須麻呂へ讀てつかはされたりと見ゆ。此つづき(830)天平十二三年までの歌と見ゆれば久須麻呂の娘には有べからず
といひ略解古義共に之に從ひ略解には久須麻呂の妹などなるべしと云へり。さるにこゝに一つの不審あり。そは久須麻呂の來報歌に
  春雨をまつとにしあらしわがやどの若木の梅もいまだふふめり
とある事なり。もし前註に云へる如くただ久須麻呂の家なる童女を梅にたとへて家持のウメノ花イマダサカナクイト若ミカモと云へるならば久須麻呂の答歌にはワガヤドノ若木ノウメハ〔右△〕とあるべくウメモ〔右△〕とはいふべからず。よりて案ずるに家持の歌は未開の梅花を折りてそれに添へて贈りしにて無論下の心は久須麻呂の家なる童女の事を云へるなれど歌の表にては其梅花の事を云へるにてコレ御覧ナサイ、マダサキマセヌといへるなるべく久須麻呂はその下の心をくみとりて私方ノ若木ノ梅モ〔右△〕マダ莟デゴザイマスと云へるなるべし
 
787 いめのごとおもほゆるかもはしきやし君が使のまねくかよへば
如夢所念鴨愛八師君之使乃麻禰久通者
 マネクは度々なり。アマリノウレシサニ現ノ事ナラズオボユといふ意にや
 
(831)788 うらわかみ花さきがたき梅をうゑて人のことしげみおもひぞわがする
浦若見花咲難寸梅乎殖而人之事重三念曾吾爲類
 梅ヲウヱテは女ヲ思ヒカケテといふをよそへたるなり。人ノコトシゲミは人ガ彼是ト噂ヲスルノデといふこと。オモヒゾワガスルは上(八一一頁)なるオモヒテアリシ吾兒ハモアハレなどと同例にてワガ物思ヲスルとなり
 
   又家持贈2藤原朝臣久須麻呂1歌二首
789 こころぐくおもほゆるかも春霞たなびく時にこと之《ノ》かよへば
情八十一所念可聞春霞輕引時二事之通者
 之を舊訓にノとよめるを略解にシに改めたるはかへりてわろし。ココログクは上(七九二頁)にも見えたり。懊悩の意なるべし。コトノカヨフとはおとづれのあるをいふ
 
790 (春風の)おとにしでなばありさりて今ならずとも君がまにまに
(832)春風之聲爾四出名者有去而不有今友君之隨意
 初句は枕辭なり。オトニイヅルは上なるコトデシハのコトデと同じく口に出して言ふ事、アリサリテは時ヲ經テといふ意なり。彼童女ヲ我ニ逢ハセムトダニ言擧シタマハバ時ハイツナリトモ君ノ御心ニ任セムといへるなり
 
   藤原朝臣久須麻呂來報歌二首
791 奥山のいはかげにおふる菅の根のねもころ吾もあひもはざれや
奥山之磐影爾生流菅根乃懃吾毛不相念有哉
 上三句は序。アヒモハザレヤは相思ハザラメヤなり。ザラメヤをザレヤといふはなほ思ハメヤを思ヘヤといふが如し(六二九頁參照)○古義に『これは童女の心にかはりてよめるなるべし』といへるは非なり
 
792 春雨をまつとにしあらしわがやどの若木の梅もいまだふふめり
春雨乎待常二師有四吾屋戸之若木乃梅毛未含有
 アラシはアルラシなり。君ノ見セ夕マヘル梅花ノ如ク我家ノ若木ノ梅モマダツボ(833)メリといひて童女のまだ世心づかざるにたとへたるなり
               (大正六年七月廿二日脱稿)
              2004年12月2日(木)午後9時、卷四入力終了
              2005年3月27日(日)午後4時、校正終了
 
(巻第五新製目録省略)
(839)  萬葉集新考卷五
                    井上通泰著
 
  雜歌
   太宰帥大伴卿|報《コタフル》2凶問(ニ)1歌一首
  禍故重疊、凶問累集、永懷2崩心之悲1、獨流2斷腸之泣1、但依2兩君大助1、傾命纔繼耳、筆不v盡v言、古今所v嘆
793 よのなかはむなしきものとしるときしいよよますますかなしかりけ
余能奈可波牟奈之伎母乃等志流等伎子伊與余麻須萬須加奈之可利家理
  神龜五年六月二十三日
(840) 太宰府にて妻を失ひし時人の弔ひしに答へたるなり。卷三なる神龜五年戊辰太宰帥大伴卿思2戀故人1歌三首、同じく天平二年庚午冬十二月太宰帥大伴卿向v京上v道之時作歌五首、還入2故郷家1即作歌三首、卷八なる式部大輔堅魚朝臣歌一首、太宰帥大伴卿和歌一首と見合すべし
 序なる兩君は弔ひおこせし人なり。但誰とも知られず
 初句の前に實際ニ當リテ、第四句の前にふたたびヨノナカハといふ辭を補ひて聞くべし
   ○
  蓋聞四生起滅、方2夢皆空1、三界漂流、喩2環不1v息、所以維摩大士在2乎方丈1、有v懷2染疾之患1、釋迦能仁坐2於雙林1、無v免2泥※[さんずい+亘]之苦1、故知二聖至極不v能v拂2力負之尋至1、三千世界誰能逃2黒闇之捜來1、二鼠競走、而度v目之鳥旦飛、四蛇爭侵、而過v隙之駒夕走、嗟乎痛哉、紅顏共2三從1長逝、素質與2四コ1永滅、何圖偕老違2於要期1、獨飛生2於半路1、蘭室屏風徒張、斷腸之哀彌痛、枕頭明鏡空懸、染※[竹冠/均]之涙逾落、泉門一掩、無v由2再見1、鳴呼哀哉
(841)  愛河波浪已先滅、苦海煩悩亦無v結、從來厭2離此穢土1、本願託2生彼淨刹1
 四生は胎卵濕化の四生類なり。起滅は生死なり。方夢皆空は夢ノ皆空シキニクラブとよみて空シキガ如シと心得べし。喩環不息は環ノ息マザルニタトフとよみて環ノ端ナキガ如シと心得べし○所以はソレユヱニとよむべし。方丈は十尺四方の室にて維摩《ユヰマ》大士即|淨名居士《ジヤウミヤウコジ》の居りし處なり。染疾は罹病なり○能仁は梵語なる釋迦の漢譯なり。雙林は沙羅雙樹林の略稱なり。泥※[さんずい+亘]《デイクワン》はナイヲンとも訓むべし。涅槃《ネハン》と同じく梵語の音譯なり。ネハンは即死なり〇二聖は維摩釋迦二人の聖人なり。二聖至極は二聖ノ至極ナルスラと訓むべきか。下なる思2子等1歌の序にも至極大聖とあり。力負は莊子大宗師篇に有v力者負v之而走とあるに據れるにて次なる黒闇と共に死を譬へたるなり。尋至はタヅネイタルとよむべし。次なる捜來に同じ〇二鼠は黒白兩鼠にて晝夜を譬へ、四蛇は地水火風に譬へたるにて共に經文中の語なり。度目之鳥は文選張景陽雜詩第二首の忽タルコト鳥ノ目ヲ過グル如シに據り過隙之駒は莊子の知北遊篇に人、天地ノ間ニ生クル、白駒ノ郤《ヒマ》ヲ過グル若ク忽然タルノミといひ漢書張良傳に人、一世ノ間ニ生クル白駒ノ隙ヲ過グル如シと云へるに據れるなり。(842)且飛夕走は互文なり。畢竟光陰ハ鳥ノ目ヲ度リテ飛ビ駒ノ隙ヲ過ギテ走ル如シと云へるなり〇三從は從父、從夫、從子なり。四コは文選なる後漢書皇后紀論に九殯掌v教2四コ1とあり。婦コ、婦言、婦容、婦功をいふ。又四教といへり○素質は白肌なり。洛神賦にも白き肌のあらはれたるを皓質呈露といへり○要期は所期なり。獨飛生2於半路1は中年にして偶を失ひたる事を鳥に譬へたるなり。此句は潘安仁の悼亡詩に如2彼|翰《トブ》v林鳥、雙棲一朝隻1とあるに倣へるか。生はオコルと訓むべきか○蘭室はカグハシキ室にて即閏なり。染※[竹冠/均]之涙は舜の妻が夫に後れて其ナミダ、竹を染めて所謂斑竹を生じきといふ故事に依れるなり。夫が妻を失ひしには適當せざれど、しばらく偶ヲ失ヒシ涙と心得べし。※[竹冠/均]《キン》は竹に同じ。泉門は冥途の人口なり
 愛河苦海は共に經文の語なり。愛は人之に溺るるが故に河に譬へたるなり。文選なる頭陀寺碑文にも愛流成v海情塵爲v岳とあり。亦はナホと心得べし。無結は無終にていまだ終に到らざるなり。結はトヂメとよむべし○厭離穢土も經文の語にて欣求《ゴング》淨土の對文なり。本願はモトヨリネガフと訓むべし。淨刹《ジヤウセツ》は即淨土なり。託は托の通用なり。托生は淨土に生れて身を蓮花に托するなり○刹は音サツにて※[(黒+吉)/れっか]韻なれど、(843)いにしへ屑韻に通用せしか。刹那、刹帝刹、羅刹など皆セツと唱ふるを思ふべし。なほ通用の例あるべし
 
   日本挽歌一首
794 大王《おほきみ》の とほの朝庭《ミカド》と (しらぬひ) 筑紫(ノ)國に (なく子なす) したひきまして いきだにも いまだやすめず 年月も 伊摩他〔二字左△〕《イクダモ》あらねば こころゆも おもはぬあひだに うちなびき △△《ヤミ》こやしぬれ いはむすべ せむすべしらに 石《イハ》木をも 刀此〔二字左△〕《ユキ》さけしらず いへならば かたちはあらむを うらめしき いものみことの あれをばも いかにせよとか (にほ鳥の) ふたりならびゐ かたらひし こころそむきて いへさかりいます
大王能等保乃朝庭等期〔左△〕良農此筑紫國爾泣子那須斯多比枳摩斯提伊企陀爾母伊摩陀夜周米受年月母伊摩他阿良禰婆許許呂由母於母波奴阿此陀爾宇知那此枳許夜斯努禮伊波牟須弊世武須弊斯良爾石木乎母刀(844)比佐氣斯良受伊弊那良婆迦多知波阿良牟乎宇良賣斯企伊毛乃美許等能阿禮乎婆母伊可爾世與等可爾保鳥龍布多利那良批爲加多良此斯許許呂曾牟企弖伊弊社可利伊摩須
 反歌の後に筑前國守山上憶良上とあれば前なる詩も此長歌も共に憶良の作なり。さて之を日本挽歌といへるは前なる詩に對して云へるなり
 トホノミカドは卷三にオホキミノトホノミカドトアリガヨフ島門ヲミレバ神世シオモホユとあり。遠國の朝廷といふことにて即太宰府なり。ミカドトのトはトシテなり○イキダニモイマダヤスメズは到りて間〔日が月〕の無き事を極端にいへるなり。卷十七なる家持の長歌にもイキダニモイマダヤスメズ年月モイクラモアラヌニとあり○伊摩他アラネバのアラネバはアラヌニなり。雅澄はイマダアラネバにては言足らずとして
  故案ふにもとは伊久陀毛とありしなるべきを上の伊摩陀ヤスメズの伊摩陀に見まがへて寫誤れるなるべし
と云へり。此説よろし。イクダモはイクバクモなり○ココロユモオモハヌアヒダニ(845)は略解に『心ヨリモ也。オモヒカケズの意也』といひ古義に『從v心モなり。心ノ裏ヨリモといはむが如し』とありて兩者の説一致せず。案ずるにココロユのユはニにかよふユにてココロユオモフはココロニオモフといふ事なり。漢文に竊惟といふ義なり。ココロノウチヨリ思フといふ意にあらず。さればココロユモオモハズはオモヒモカケズといふ意に落つるなり(卷四【六二〇頁及七一二頁】參照)○ウチナビキは横になるをいふ。コヤシヌレと五言に云へるは調よろしからず。略解には『レの下バの字おちたるなるべし』といへれど古義に云へる如く古格にてはかゝる處にバの辭を加へず。おそらくはコヤシヌレの上にヤミなどいふ語のおちたるならむ。さてコヤスは臥すことなればヤミコヤシヌレは病臥シヌレバにて死ぬる事にはあらず。死ぬる事はあらはに云はで言外に匂はしたるなり○イハキヲモ刀比サケシラズを宣長は『トヒサケはことどひて思をはらしやる意なるべし』といへれどげにとはおぼえず。刀比は由伎などの誤にて妻を失ひし悲に魂うせて道の岩木をも行き避くる事を知らずといふ意なるべし。此句の次にイヘナラバ云々とあるを思へば此歌は送葬の時に作りしなり○イヘナラバカタチハアラムヲは宣長の説に『葬せずしてあらば(846)せめて屍なりともあらむにといふ也』といへり○ココロソムキテは心カハリテなり。古義に心ヲ背キテと譯したれどソムクは自動詞なればヲを略したるにあらず。略解には世ヲソムクといふに同じといへれど世ヲソムクのヲはかの道ヲユク、川ヲ流ルなどの類にてヨリのヲなればそを例としてココロヲソムクとは云ふべからず○イヘサカリイマスは葬らるゝをいふ。イマスは契沖の説の如く行の敬語なり。雅澄は居の敬語とせり。もし居の敬語とせば此歌は墓まうでのをりの作とせざるべからず。然るに雅澄は反歌の第一首の註に『葬送に行てかへるほどよめるなるべし』といひて其言矛盾せり
 
   反歌
795 いへにゆきていかにかあがせむ(まくらづく)つまやさぶしくおもほゆべしも
伊弊爾由伎弖伊可爾可阿我世武摩久良豆久都摩夜佐夫斯久於母保由倍斯母
(847) ツマヤは閨、サブシクはサビシクなり。略解に『葬送て歸るをりの歌なり』といへるよろし
 
796 はしきよしかくのみからにしたひこしいもがこころのすべもすべなさ
件之枝〔左△〕與之加久乃未可良爾之多此己之伊毛我己許呂乃須別毛須別那左
 ハシキヨシはカハユキにて妹にかゝれり。カクノミカラニはこゝにてはカクハカナキ契ナルニとなり(卷二【二〇九頁】參照)。スベモスベナサはイハムスベナサといふ意にて辭を重ねたるは意を強めたるなり。略解古義共にセムスベナサと譯せるは非なり
 
797 くやしかもかく△※《ト》しらませば(あをによし)くぬちことごとみせましものを
久夜斯可母可久斯良摩世婆阿乎爾與斯久奴知許等其等美世摩斯母乃(848)乎
 クヤシカモはクヤシキカモにおなじ。卷三(四二二頁)にもコゴシカモとあり。カクの下にトの言おちたりとおぼゆ。即カクト〔右△〕シラマセバとあるべし。アヲニヨシを契沖、眞淵、雅澄は寧樂の換語とし久老はアナニヤシと同意として『妹ノ切ニ思ヘル筑紫國といふ意にてクヌチに冠らせしにや』と云へり(久老の説は槻の落葉卷三別記に見えたり。略解には久老の説を引き誤れり)。案ずるに筑紫にてみまかりしに故郷なる寧樂の國内をことごとく見せましものをとはいふべきにあらず。さればクヌチは筑紫の國内なり。更に思ふに今コネルといふ語の古形クヌにて今は青土《アヲニ》ヲクヌとかゝれるにあらざるか(例は紀國の枕辭に麻裳ヨシ著とかゝれる)
 
798 いもがみしあふちのはなはちりぬべしわがなくなみだいまだひなくに
伊毛何美斯阿布知乃波那波知利奴倍斯和何那久那美多伊摩陀飛那久爾
(849) 略解に『奈良の家のあふちをよめるなるべし』といへるは第一首なるイヘニユキテの家を筑紫の館なりといへると矛盾せり。古義に云へる如く國府にて見しあふちなる事論なし。ミシはメデシなり
 
799 大野山きりたちわたるわがなげくおきそのかぜにきりたちわたる
大野山紀利多知和多流和何那宜久於伎蘇乃可是爾紀利多知和多流
  神龜五年七月二十一日筑前國守山上憶良上
 オキソはタメイキなり。カゼは氣なり。此歌と卷六なるヲノコヤモ空シカルべキ萬代ニカタリツグベキ名ハタテズシテといふ歌とを見れば憶良は寧樂時代の歌人の中にても殊にををしきさがなりけむ。其事蹟のくはしく傳はらず其歌の多く殘らざるは惜しとも惜しき事にこそ
 或人の説に右の長歌及短歌は憶良が旅人の妻の死を悲しみて作れるなりといへり。げに憶良は旅人の部下なる上共に太宰府にありしなれば旅人の妻のうせし時追悼の歌を作りて旅人に贈らむはあるべき事なり。されど此歌はそれにはあらでなほおのが妻のうせしを悼めるなり。或人は歌中に慕ヒ來マシテ、家サカリイマス(850)などあるをおのが妻のうせしを悼める歌にあらざる第一の證としたれど卷二なる柿本朝臣人麿妻死之後泣血哀慟作歌にもアサタチ伊麻之弖入日ナスカクリニシカバ、又或本ノ歌に灰ニテマセバとあり卷三なる大伴宿禰家持悲2傷亡妾1作歌にも家サカリ伊麻須ワギモヲとあれば或人の説は立ちがたし。進みて旅人の妻を弔へる歌にあらざる證を擧げむにまづ旅人の妻の死は契沖のいへる如く春夏の間とおぼゆるに同じ太宰府に住める憶良が七月二十一日に至りて始めて弔歌を贈るべきにあらず。次にアレヲバモイカニセヨトカといひ、家ニユキテイカニカアガセムといひ、妹ガミシアフチノ花ハチリヌベシアガナク涙イマダヒナクニといへる豈人の妻の死を悼める調ならむや。次にシラヌヒ筑紫ノ國ニ、ナク子ナスシタヒ來マシテ、息ダニモイマダ休メズ、年月モイクダモアラネバとあればうせし人は夫と共に下らで夫の跡より下りしなり。然るに卷三なる天平二年庚午冬十二月太宰帥大伴卿向v京上v道之時作歌に
  妹とこしみぬめの埼をかへるさに獨し見ればなみだぐましも
  ゆくさにはふたりわが見し此埼を獨すぐればこころがなしも
(851)とありて(五五二頁及五五三頁參照)旅人の妻大伴郎女は夫と共に筑紫に下りしなり。さればナク兒ナスシタヒ來マシテとある人は旅人の妻にあらず。從ひて此日本挽歌は詩と共に舊説の如く憶良が其妻の喪を悲しみし作とすべし
 
   令v反2惑情1歌一首并序
  或有v人、知v敬2父母1忘〔左△〕2於侍養1、不v顧2妻子1輕2於脱※[尸/徙]1、自稱2畏〔左△〕俗先生1、意氣雖v揚2青雲之上1、身體猶在2塵俗之中1、未v驗2修行得道1之聖、蓋是亡2命山澤1之民、所以《ソレユヱニ》指2示三綱1更開2五教1遺v之以v歌令v反2其惑1、歌曰
800 父母を みればたふとし 妻子《メコ》みれば めぐしうつくし よのなかは かくぞことわり (もちどりの) かからはしもよ ゆくへしらねば 
うけぐつを ぬぎ△《ウ》つるごとく ふみぬぎて ゆくちふひとは いはきより なりでしひとか なが名のらさね あめへゆかば ながまにまに つちならば 大王《オホキミ》います このてら(852)す 日月のしたは あまぐもの むかぶすきはみ たにぐくの さわたるきはみ きこしをす くにのまほらぞ かにかくに ほしきまにまに しかにはあらじか
父母乎美禮婆多布斗斯妻子美禮婆米具斯宇都久志余能奈迦波加久叙許等和理母智騰利乃可可良波志母與由久弊斯良禰婆宇既具都遠奴伎都流其等久布美奴伎提由久智布此等波伊波紀欲利奈利提志比等迦奈何名能良佐禰阿米弊由迦婆奈何麻爾麻爾都智奈良婆大王伊麻周許能提羅周日月能斯多波阿麻久毛能牟迦夫周伎波美多爾具久能佐和多流伎波美企許斯遠周久爾能麻保良叙可爾迦久爾保志伎麻爾麻爾斯可爾波阿羅慈迦
 忘2於侍養1の忘は怠の誤にあらざるか。畏俗の畏は疑はくは異の誤かと契沖いへり。歌に漢文の序を加ふることはおそらくは憶良より始まりしにて旅人以下は之に倣ひしならむ
(853) 佛老に惑溺して五倫に戻れる輩を誡めたる歌なり○メグシもウツクシも共にカハユシなり。メグシといふ形容詞のまゝなるは今の耳にうとけれど之を名詞としたるは即メグミなり〇一本にウツクシの次に
  遁路得奴 兄弟親族 遁路得奴 老見幼見 朋友之 言問交之
の六句二十三字あれど外の假字音なると書樣異なる上に次とのつづきもわろければ※[手偏+巉の旁]入として削り去るべし○カクゾコトワリはカクアルゾコトワリナルとなり。今ならばカクアルゾといふべきをカクゾといへるはカクアルユヱニをカクユヱニといふ類なり(卷三【四〇五頁】參照)○モチドリは鳥もちにかゝれる鳥にてカカラハシの枕なり○カカラハシはワヅラハシといふ意、モヨは助辭○ユクヘシラネバは古今集雜下なるアフ坂ノアラシノ風ハサムケレドユクヘシラネバワビツツゾヌルのユクヘシラネバと同じ。避行クベキ方ヲシラネバといふ意にてその上にシカシといふ辭、その下にイカニセムといふ辭を加へて心得べし。イカニセムなどいふことを略したるはあまりなる省き方なれど結尾にカニカクニホシキマニマニといひさしたると同格にてわざとの事なり○契沖は『ユクヘシラネバ若此上に一句(854)五字のおちたるか』といひ雅澄はハヤカハノといふ五言を補ひたり。案ずるに此長歌は三段より成れる異體の長歌なり。即ユクヘシラネバまでが一段、ナガ名ノラサネまでが一段、アメヘユカバ以下が一段にて各段の末に七言の句を重ねたるなり。さればユクヘシラネバの上に脱句あるにあらず
 ウケグツは孔のあきたる沓○ヌギツルゴトクは宣長『ヌギウツルゴトクなり。辭のツルにてはかなはず』といへり。おそらくは都流の上に宇をおとしたるにて。ウツルはウチ棄ツルの約ならむ。下にウチステテハといふことをウツテテハと云へり○ユクチフは出家ストイフといふ意○ナリデシは生レ出デシなり
 アメヘユカバ云々はモシ天上ニ昇ルナラバ汝ノホシキママニスベシといふ意○ツチナラバは此土ニ居ルナラバ天皇ノイマセバ汝ガホシキママニハスベカラズといふことを省きいへるなり○コノは日月にかゝれり。古義に『此照す日月を云時にはヒツキといひ年月日時を云時の日月はツキヒといひて分てりとおぼえたり』と云へる、よろし○アマグモノ以下四句は祝詞の熟辭に據れるにて遙ナル果マデモ、山澤ノ隅々マデモといふ意なり。谷グクはヒキガヘルなり○キコシヲスは天皇(855)ノシロシメスとなり。クニノマホラは元來國の中央といふことなれどこゝは廣義につかひたるにて支那人がおのが國を中國といふそれと同意なり○カニカクニは彼ノ是ノトといふ意○結尾を略解には『欲するまゝにさはあるまじきことにてはなきかといふなり』といひ古義には『然欲き隨にはあるまじき事かとなり』といひてホシキマニマニシカニハアラジカを續けて釋けり。案ずるにアラジカは近世の人は多くはアルマイカ、アラウの意に用ふれど(古事記傳にはあまたたび此語を用ひたるうちただ一箇處のみ【四十三卷四十一丁】アラウの意に用ひたり)いにしへはアルマイカ、アルマイの意に用ひたり。アルマイの意に(即近世人の用ふるとはうらうへに)用ひたるまさしき例は續日本紀第十三詔に盧舍那《ルサナ》佛を作らせ給ふ事をのたまへる處に
  衆人《モロビト》は不成《ナラジ》かと疑ひ朕《ワレ》は金少《クガネスクナ》けむと念憂《オモホシウレヒ》つつ在に
とある又本集卷四(七〇四頁)に
  八百日《ヤホカ》ゆく濱のまなごもわが戀に豈|不益歟《マサラジカ》おきつ島もり
とあるなどなり(アニマサラジカはオソラクハマサルマイといふこと)。次にシカニ(856)ハは今いふサウデハなり。さればシカニハアラジカはサウデハアルマイといふことなればホシキマニマニに續けては聞くべからず。ホシキマニマニの下にイカデセムといふ辭を省き、物ノコトワリサウデハアルマイといふことをシカニハアラジカといひて上なる世ノ中ハカクゾコトワリとむかはせたるなり○略解に
  おのれひとり高ぶり家をはなれてみづから某先生と稱てゐたる人に示されたるなり
といへれどこはまことに異俗先生など稱せる人ありしにあらず。當時往々さる類の人ありしかば異俗先生といふ人を設けてそれにおくれる歌に擬して廣く世人を誡めたるなり。或一人に贈りしにあらざることは、ユクチフ人ハといへる句の調を味ひて知るべし。考に妻のうせし時の歌として『自の惑をはるけし歌なり』といへるはいみじき僻見なり
 
   反歌
801 ひさかたのあまぢはとほしなほなほにいへにかへりてなりをしまさ爾〔左△〕《ネ》
(857)此佐迦多能阿麻遲波等保斯奈保奈保爾伊弊爾可弊利提奈利乎斯麻佐爾
 アマヂは天に上る路、初二は天ハ遙クシテ登ルベカラズの意、ナホナホニは尋常ニなり世間並ニなり。ナリは家業なり。爾は禰の誤ならむ。シマサネはシマセにてなほ汝ガ名ノラセをナガ名ノラサネといへる如し
 
   思2子等1歌一首并序
  釋迦如來金口正説、等(シク)思2衆生1如2羅※[目+候]羅《ラゴラ》1、又説、愛無v過v子、至極大聖尚有2愛v子之心1、況乎世間蒼生誰不v愛v子乎
802 うりはめば こどもおもほゆ くりはめば ましてしぬばゆ いづくより きたりしものぞ まなかひに もとなかかりて やすいしなさぬ
宇利波米婆胡藤母意母保由久利波米婆麻斯提斯農波由伊豆久欲利枳多利斯物能曾麻奈迦此爾母等奈可可利提夜周伊斯奈佐農
(858) 釋迦云々は釋迦如來ノ金口《コンク》ノ正説ニ、等シク衆生《シユジヤウ》ヲ思フコト羅※[目+候]羅《ラゴラ》ノ如シトノタマヘリとよむべし。最勝王經に據りて書けるなり。金口は説迦の口をたたへて云へるなり。金口の正説は即直説なり。ラゴラは釋迦の實子なり。至極大聖は即釋迦なり」考に『都にとどめたる子を筑前の國にておもふなり』といへる如し○代匠記に陶淵明責v子詩に通子重2九齢1但※[爪/見]2梨與1v栗とあるを引けり。げに此詩に據りて梨を瓜にかへたるなり○イヅクヨリキタリシモノゾは代匠記に二説を出して
  宿世の因縁に依て親となり子となるとは聞けど宿命、智なければ知られぬ故なり。又故郷に留めたる子どもの夢に見え面影に立を云歟
といへり。前説に從ふべし○マナカヒは略解に眼之間なりといへる如し○ヤスイシのシは助辭、ヤスイは安眠、ナサヌはナスのはたらけるにてネシメヌなり。ナスはヌを敬語にナスといふ(古事記|沼《ヌナ》河日賣の歌にモモナガニ、イハ那佐牟ヲまた須勢理毘賣命の御歌にモモナガニ、イヲシ那世とあるナサム、ナセの如く)と格同じくして意異なり。古義に『ナはネサの縮りたる言なり』といへるは非なり。さてはナセヌといはざるべからず
 
(859)   反歌
803 銀《シロガネ》も金《クガネ》も玉もなにせむにまされるたからこにしかめやも
銀母金母玉母奈爾世武爾麻佐禮留多可良古爾斯迦米夜母
 金をクガネとよむは古語なり○ナニセムニはナニセムといふとは異にて何ノ爲ニ、イカニセム爲ニなどいふ意なり。例は卷四にコヒシナムソレモオナジゾ奈何爲二《ナニセムニ》人目ヒトゴトコチタミワガセム又卷十六に何爲牟爾ワヲメスラメヤとあり。此等の例によれば今の歌は第三句の下にタカラトセムなどいふ辭を省きたるなり。古義にナニ故ニと譯せるは當らず。マサレルタカラの下にモを補ひて心得べし。マサレル寶は結構ナル寶といふ事にて即金銀珠玉の類なり。憶良が此歌を作りしより二十年餘を經て天平二十一年に年號を(感寶と改め更に)勝寶と改められしもマサレルタカラといふ義にて此年二月に陸奥國より始めて黄金を奉りしによりてかくは名づけられしなり
 
   哀2世間難1v住《トドマリ》歌一首并序
(860)  易v集難v排八大辛苦、難v遂易v盡百年賞樂、古人所v歎、今亦及〔左△〕v之、所以因作2一章之歌1以撥2二毛之歎1、其歌曰
804 世間《ヨノナカ》の すべなきものは 年月は ながるるごとし とりつづき おひくるものは ももくさに せめよりきたる
世間能周弊奈伎物能波年月波奈何流流其等斯等利都都伎意此久留母能波毛毛久佐爾勢米余利伎多流
 排はシリゾケなど訓むべし。八大辛苦は即四苦八苦の八苦なり。四苦は生老病死なり、第五苦以下經によりて少異あれど中阿含經に據れば怨憎會、愛別離、求不得、五盛陰なり○百年賞樂は人生の快樂なり。及之は少し心得がたし。及は同の誤か。所以因は三字を連ねてソレユヱニ、ソコユヱニなどよむべきか〇二毛は左傳文選などに見えたり。黒髪に白髪の交れるなり。撥はハラフともヤルともよむべし
 スベナキモノハ年月ハとはスベナキモノハ年月ニテソノ年月ハとなり○トリツヅキはウチツヅキなりと契沖いへり○オヒクルは契沖追求と生來と二説を擧げ(861)て前の方なるべしといへり。なほ考ふべし○以上一篇の大意なる事契沖のいへる如し
 
をとめらが をとめさびすと からたまを たもとにまかし シロタヘノ 袖フリカハシ クレナヰノ アカモスソビキ よちこらと 手たづさはりて あそびけむ ときのさかりを とど尾《ミ》かね すぐしやりつれ (みなのわた) かぐろきかみに いつのまか しものふりけむ くれなゐの【一云にのほなす】 おもてのうへに いづくゆか しわかきたりし【一云つねなりし ゑまひまよびき さくはなの うつろひにけり よのなかは かくのみならし】
遠等呼〔左△〕良何遠等呼〔左△〕佐備周等可羅多麻乎多母等爾麻可志【或有此句云之路多倍乃袖布利可伴之久禮奈爲乃阿可毛須蘇備伎】余知古良等手多豆佐波利提阿蘇此家武等伎能佐迦利乎等等尾迦禰周具斯野利都禮美奈乃和多迦具漏伎可美爾伊都乃麻可斯毛乃布利家武久禮奈爲能【一云尓能保奈酒】意母提乃宇倍爾伊豆久由可新和何伎多利斯【一云都禰奈利之惠麻比麻欲毘伎散久伴奈能宇都呂比尓家里余乃奈可伴可久乃未奈良之】
(862) ヲトメサビは古義に云へる如く若き女のだてをする事なり。遠等呼の呼は※[口+羊]を誤れるなり○本朝月令の逸文より諸書に引きて天武天皇の御製とも天女の作とも傳へたるヲトメドモヲトメサビスモカラタマヲタモトニマキテヲトメサビスモといふ歌は今の歌の四句を取りて第二句を返して一首となしたるものなるべし
と契沖いへり○カラタマは韓玉なり。タモトはこゝにては衣の袂にはあらで手ノモト即手頸なり○タモトニマカシの次に一本にシロタヘノ云々の四句あり○ヨチコラは仙覺抄に同じ程の子等といふ意なりといへり。なほ考ふべし。手タヅサハリテは手ヲヒキアヒテなり○トキノサカリは盛の時なり。トト尾の尾果してミとよむべくばトドムはいにしへ四段にはたらきしなり。字音辨證(上卷三二頁)には
  古本どもにメとよめるに從ふべし。尾をメと呼は同轉の肥にべ穢にヱの音あると同例なり云々
といへれど此歌の下にもカクノ尾《ミ》ナラシと書き下なる鎭懷石歌にもカ尾《ミ》ノミコトと書けり○ヤリツレのツレは後世のツルニなり○カグロキのカは添辭なり。卷二なる長歌(一八〇頁)にもカアヲナルタマ藻オキツ藻とあり〇一本のニノホナス(863)のニは赤土、ホは色澤○シワカキタリシのカキは添辭。タリシは自動詞なればシワガと心得べくシワヲと心得べからず○ミナノワタ以下八句一本に
  つねなりし ゑまひまよびき (さくはなの) うつろひにけり よのなかは かくのみならし
とあり。こゝは第二段のとぢめなるが第三段のとぢめに
  たつかづゑ こしにたがねて かくゆけば 人にいとはえ かくゆけば 人ににくまえ 意余斯遠波 かくのみならし
とあるに對したれば一云の方を採るべし。おそらくは作者の改作ならむ、さてマヨビキは眉の恰好にてツネナリシヱマヒマヨビキは平生艶麗ナリシ容貌といふ程の事なり。カクノミナラシのノミはカクを強むる辭なり。卷三なる安積皇子薨之時家持作歌に
  いくぢ山、木立のしげに、さく花も、うつろひにけり、世のなかは、かくのみならし……つねなりし、ゑまひふるまひ、いや日けに、かはらふみれば、かなしきろかも
とあるは右の一節を學べるなり○以上若き女の忽に老ゆるを云へり
 
(864)ますらをの をとこさびすと つるきだち こしにとりはき さつゆみを たにぎりもちて あかごまに しづくらうちおき はひのりて あそびあるきし よのなかや つねにありける をとめらが さなすいたどを おしひらき いたどりよりて またまでの たまでさしかへ さねしよの いくだもあらねば たつかづゑ こしにたがねて 可久《カク》ゆけば ひとにいとはえ 可久《カク》ゆけば ひとににくま延〔左△〕《ユ》 意余〔左△〕新遠〔左△〕波《オホシヨハ》 かくのみならし (たまきはる) いのちをしけど せむすべもなし
麻周羅遠乃遠刀古住備周等都流岐多智許志爾刀利波枳佐都由美乎多爾伎利物知提阿迦胡麻爾志都久良宇知意伎波比能利提阿蘇比阿留伎斯余乃奈迦野都禰爾阿利家留速等呼〔左△〕良何佐都周伊多斗乎意斯比良伎伊多度利與利提摩多麻提乃多麻提佐斯迦閉佐禰斯欲能伊久陀母阿羅禰婆多都可豆惠許志爾多何禰提可久由既婆比等爾伊等波延可久由既(865)婆此等爾邇久麻延意余斯遠波迦久能尾奈良志多摩枳波流伊能知遠志家騰世武周弊母奈斯
 サツユミは狩獵に用ふる弓なり。シヅクラは契沖の説に『倭文を以てまつひたる鞍を倭文鞍といふ歟』といへり○ハヒノリテを契沖の『匍騎なり。よくも得のらぬ意なり』といへるは非なり。ハヒノルはハヒノボルなり。ノルは乘行く事にあらず○略解に『アソビアルキシこゝは句なり』といへるはわろし。アソビアルキシ世ノ中ヤとつづけるなり。ヤはヤハなり。遊ビアルキシハヒト時ニテ其世ハアハレ常ナラズといへるなり○サナスイタドヲは古事記八千矛神の御歌にヲトメノ、ナスヤイタドヲ、オソブラヒ、ワガタタセレバとありて傳卷十一(全集第一の六〇〇頁)に『ナスヤイタドヲは鳴ス板戸ヲなり。ナスはナラスにて即戸をさすことを然言りと聞ゆ』とあり。之に從ふべし。サナスのサは添辭なり。雅澄がサナスはサシナラスなりといへるはいかが、サシはサと省くべからず○イタドリヨリテは代匠記に『伊は發語の詞。タドリヨリテなり』といへり○マタマデノタマデサシカヘは沼河日賣《ヌナカハヒメ》の歌に(須勢理比賣命の御歌にも)眞玉手玉手サシマキとあるによれるなり。但サシカヘはカハシ、サ(866)シマキは枕にする事にてすこし異なり。サシは添辭○イクダモアラネバはイクバクモアラヌニなり。タツカヅヱを契沖は『手に握る杖と云意也』といへり。太さ一握なるを云ふか。卷十九に手束弓とあり○タガネテは契沖、千蔭、雅澄共に束ネテの意とせり。案ずるにタガネテのタは添辭にてカネテはこゝにては添へテの意にあらざるか○初の可久の久を古義に衍字とせり。げにかゝる處は一つはカといひ一つはカクといふが例なれど續紀第六詔に
  加久や答賜はむ加久や答賜はむと
とあれば二つ共にカクともいひしなり○意余斯遠波を契沖は
  ヲは助語にてシとソと通ずればオヨソハなり
といひ雅澄は
  凡者なり。シヲの約ソなればオヨシヲはオヨソといふに同じ
といへり。ヲを助辭とする説も、ソを延べてシヲといへりとする説も共に穩ならず。案ずるに第二段の末にヨノナカハカクノミナラシとあるとこゝに意余斯遠波カクノミナラシとあるとを合せ思ふにまづ波はテニヲハなり。さてオヨシヲはヨノ(867)ナカに對する語なれば名詞ならざるべからず。然るにオヨシヲといふ名詞ある事なければ意余斯遠は意保斯余などの誤字なるべくおぼゆ。そのオホシヨも例は見及ばねどヨは世、オホシはオホシ、オホシキとはたらく語にて大、汎などいふ意なれば後世大カタノ世などいふことをいにしへオホシ世といひしにあらざるか。意余斯遠波の前なるヒトニニクマ延《エ》の延は由とある方穩なるに似たり○カクノミナラシといふ句にて第三段をとぢめたるにて以上壯なる男の忽老ゆるをいへり○タマキハル、イノチヲシケド、セムスベモナシの三句は男女雙方にかゝりて一篇の収束なり
 
   反歌
805 ときはなすかくしも△△《ガモ》とおもへどもよのことなればとど尾《ミ》かねつも
等伎波奈周迦久斯母等意母閉騰母余能許等奈禮婆等登尾可禰都母
  神龜五年七月二十一日於2嘉摩都1撰定、筑前國守山上憶良
(868) トキハナスは枕辭にあらず。トキハニといふに同じ。卷七にもトキハナスワレハ通ハム萬代マデニとあり。カクシモガモはカクワカク盛ニテアレカシとなり。ヨノコトナレバは卷三(五八二頁)にもウツセミノ世ノコトナレバヨソニ見シ山ヲヤ今ハヨスガト思ハムとあり。世ノ習ナレバといふことなり。トドミカネツモは何をとどめかぬるにか分らず。反歌なればこそよけれ獨立の短歌ならば辭足らずと云はれむ。否反歌の、獨立の短歌と異なる點はこゝにあり。反歌は長歌と連ね見て意通ずれば可なるものなり○迦久斯母の下に諸本に從ひて何母を補ふべし
 以上長歌反歌各三首、神龜五年七月二十一日於2嘉摩郡1撰定とあるは此日に作りしにはあらず。はやく作りて草稿のまゝなりしを此日に簡《エラ》び定めしなり。前なる詩及日本挽歌と同じ日附なれば共に大伴旅人に見せしにかとも思へどごれには名の下に上の字なければ彼詩歌を旅人に見すべく簡び定むるついでに此歌どもも簡び定めしならむ。嘉摩郡は筑前の内なり。但國府のある處にあらず。國府は御笠郡にありて別の處なり
    ○
(869)  伏辱2來書1具承2芳旨1、忽成2隔漢之戀1、復傷2抱梁之意1、唯羨〔左△〕去留無v恙、遂待2披雲1耳
   歌詞兩首【太宰帥大伴卿】
806 たつの馬もいまもえてしが(あをによし)奈良のみやこにゆきてこむため
多都能馬母伊麻勿愛弖之可阿遠爾與志奈良乃美夜古爾由吉帝己牟丹米
 
807 うつつにはあふよしもなし(ぬばたまの)よるのいめにをつぎてみえこそ
宇豆都仁波安布余志勿奈子奴波多麻能用流能伊昧仁越都伎提美延許曾
 
   答歌二首
808 たつのまをあれはもとめむ(あをによし)奈良のみやこにこむひとの多(870)仁
多都乃麻乎阿禮波毛等米牟阿遠爾與志奈良乃美夜古邇許牟此等乃多仁
 
809 ただにあはずあらくもおほ久(しきたへの)まくらさらずていめにしみえむ
多陀爾阿波須阿良久毛於保久志岐多閉乃麻久良佐良受提伊米爾之美延牟
 略解に
  是は大伴旅人卿より京に在人の許へ歌を贈られし時京の人の答の歌と書牘なるを旅人卿よりの贈歌をも後に一つなみに書記せしもの也。末に淡等と有は則旅人卿の事にて……タビトとよむべし云々
といひ古義に
  此書牘は必此間(○贈歌と答歌との間)にあるべきを舊本にはいたくみだれたり(871)その故はまづ初二首は旅人より都の朋友の許へ贈られし歌なり、さてそれに書牘も有つらむをそは漏たるなり。かくてその旅人卿の書牘并歌詞に答へられて京の人の此書牘と次の答歌とある二首とを旅人卿の許へ贈られけるものなり。さて上に大伴淡等謹状とあるも(○アルベキモの意か)舊本にはみだれしこと前に云る如し
といへり。答歌の次なる大伴旅人謹状の六字は次なる日本琴の歌に屬せるなり
 隔漢は銀河ヲ隔テタルといふこと。抱梁は抱2梁柱1の略にて梁は橋なり。尾生が女と橋下に待たむと約して水至れども其處を去らずして橋柱を抱きて死にし故事に據りて信義の意に用ひたるなり。披雲は徐幹の中論に
  文王遇2姜公(○太公望〉於渭陽1、灼然如2披v雲見2白日1
とあるなどに依りて面會の意に使へるなり。徐幹は所謂建安七子の一にて又文選作者の一なればその名著中論は我邦にも行はれしならむ。懷風藻に見えたる調《ツキ》(ノ)古麻呂が新羅の客に贈りし詩にも江海波潮靜、披雲何難v期と作れり。羨の字は冀の誤かと契沖いへり
 
(872)たつの馬《マ》も今もえてしが(あをによし)ならのみやこにゆきてこむため
 タツノマは龍馬にて理想の駿馬なり。ただに駿馬を云ふにはあらず。考に『こゝにタツノマとは只良馬をいふのみ』と云へるは非なり
 
うつつにはあふよしもなし(ぬばたまの)よるのいめにをつぎてみえこそ
 イメニヲのヲは助辭にて露霜ニヌレテヲユカム、タチトマリ見テヲワタラムなどのヲと同類なり。ツギテミエコソは絶エズ見エヨカシなり
 
たつのまをあれはもとめむ(あをによし)ならのみやこにこむひとの多仁《タニ》
 多仁は一本に多米とあれば誤字かともおもはるれどタメニをタニといへる、外にも例あり。即續紀第十三詔に
  くさぐさの法のなかには佛の大御言し國家《ミカド》まもるが多仁波すぐれたりときこしめして云々
(873)とありて宣長(全集第五の二五〇頁)は
  多仁波はタメニハなり。萬葉五に云々。佛足石歌にはノリノ多能ヨスガトナレリとある多能はタメノなり
といへり。佛足石歌には又比△乃多爾といふ句あり。このタニもタメニならむ。さればいにしへタメニをタニといひきとおぼゆ。但ノリノタノは法ノ田ノといふ事ならむ。契沖は
  多仁はタメニと云略語なり。第十四にもあり。今の世は賤しき者のみ云詞となれり
といへり。略語といへるはいかが。賤シキ者ノミ云詞といへるは山川正宣の佛足石和歌集解に類林に『今俗にもタニナル物と云は爲ニナルモノなり』とあるを引き古義に膝栗毛にワシガタニヤア命ノ親ダとあるを引ける類にや
 
ただにあはずあらくもおほ久〔左△〕《シ》(しきたへの)まくらさらずていめにしみえむ
 宣長ほオホ久の久は之の誤ならむといへり。さてそのオホシを古義に多シの義と(874)して直ニ相見ル事ハ叶ハズシテ戀シク思ヒテ經渡ル年月多シと釋したれどオホホシの同語なるか又は於保々之とありしを於保久と寫し誤れるにてもあるべし。オホホシは心の晴れざるをいふ。マクラサラズテイメニシミエムは君ノ枕ヲ離レズ始終君ノ夢ニ見エムとなり
 大伴淡等謹状
 梧桐日本琴一面【對馬結石山孫枝】
 此琴夢化2娘子1曰、余託2根(ヲ)遙島之崇巒1、晞2幹(ヲ)九陽之休光1、長帶2煙霞1逍2遙山川之阿1、遠望2風波1出2入雁木之間1、唯恐五百年之後空朽2溝壑1、偶遭2良匠1散爲2小琴1、不v顧2質麁音少1、恒希2君子左琴1、即歌曰
810 いかにあらむ日のときにかもこゑしらむひとのひざのへわがまくらかむ
伊可爾安良武日能等伎爾可母許惠之良武比等能此射乃倍和我摩久良(875)可武
 
   僕報v詩詠曰
811 ことどはぬ樹には安里等母うるはしききみが手なれのことにしあるべし
許等等波奴樹爾波安里等母宇流波之吉伎美我手奈禮能許等爾之安流倍志
  琴娘子答曰、敬奉2コ音1、幸甚幸甚、片時覺、即感2於夢言1、慨然不v得2獣止1、故附2公使1、聊以進御耳(謹状不具)
  天平元年十月七日附v使進上
  謹通2中衛高明閣下1謹空
 大伴旅人が日本琴一面を中衛大將藤原房前に贈りし時の書牘及歌なり。淡等は旅人を唐めかして書けるにて唐時には例ある事なり。なほタビトとよむべし。結石山はユヒシ山とよむべし。今ユヒイシといふ。孫枝は文選※[禾+(尤/山)]康の琴賦に見えたるに據(876)れるまでにて眞のヒコエにはあらじ。崇巒《シユウラン》は高山なり。琴賦には峻嶽之崇岡とあり。託は托の通用なり。晞《サラス》2幹(ヲ)九陽之休光1は琴賦に且晞2幹於九陽1といひ吸2日月之休光1とあるに據れるなり。九陽は旭日、休光は美光なり。逍遙は自適なり。阿はクマと訓むべし。出2入雁木之間1は莊子山木篇に莊周が山木の用ふべき所無きが爲に伐られずして其天年を終へ又雁の鳴く能はざる爲に殺されしを見て周ハ夫《カノ》材ト不材トノ間ニ處《ヲ》ラムトスと云へるに據れるにて保身といふ意に用ひたるなり。百年之後は死後、溝壑は谷なり。左琴は劉|向《キヤウ》の列女傳卷二※[林/之]之於陵(ノ)妻の傳に左v琴右v書樂亦在2其中1矣とあるによりて手馴の琴の意とせるなり。報詩詠矣とあるは詩ニ報《コタ》ヘテ詠ジテイハクとよむべし。遊仙窟に報2余詩1曰、五嫂即報v詩曰、十娘報v詩曰などあり
 
いかにあらむ日のときにかもこゑしらむひとのひざのへわがまくらかむ
 琴の娘子に化してよみしに擬せるにて實は旅人の作なる事論なし。初二はイツカといふこと、コヱシラムは伯牙鍾子期の故事なり。マクラクは枕とする事。古義に『イカデハヤク君子ノ手ニ觸マホシとなり』といへる如し
 
(877)ことどはぬ樹には安里〔左△〕等母《アレドモ》うるはしききみが手《タ》なれのことにしあるべし
 夢中にて琴(ノ)娘子に答へしに擬せるなり。コトドハヌはモノイハヌなり。ウルハシは性質にいへるなり。温雅といふ程の意なり。キミガは第三者をいへるなれば正しくはヒトノといふべきなれど人に贈る歌にはかやうにも云ひしなり。古今集春下貫之の歌に一目ミシ君モヤクルトサクラ花ケフハマチ見テチラバチラナムとあり。これも正しくは人モヤとあるべきなり(卷三【五一八頁】參照)。琴ニのニは後世のトにてシは助辭なれば琴ニシアルベシは琴タルベシとなり。案ずるに第二句のアリトモは結句のアルベシと照應せる如くにて實は照應せず。木デハアルガといふべき處にて木デハアツテモといふべき處にあらざればなり。さればもと樹爾波安禮〔右△〕等母とありしを答歌にキニモアリトモとあるにまがへて樹爾波安里〔右△〕等母と傳へ誤り又は寫し誤れるにあらざるか(等はドにも當てたり。たとへば下なる梅花歌三十二首中の第十四首と第二十二首とに阿蘇倍等〔右△〕母と書けり)
  因にいふ。伊勢物語、古今集などに見えたるかの見ズモアラズ見モセヌ人ノコヒ(878)シクバアヤナクケフヤナガメクラサムといふ歌もコヒシクバとナガメクラサムとよく照應せる如く見ゆれば從來疑を挿みし人なきやうなれどこゝはコヒシキニといふべき處にてコヒシカラバといふべき處にあらねば(格のみを知りて調を知らざる人はかくいふともなほ悟らざるべし)今の如くコヒシクバとありては中々に結句と照應せず。こはもとコヒシクニとありしをクニといふ辭に耳馴れざる世となりてニをハの誤としてさかしらに改めたるなり。クニといふ辭を用ひたる例は本集卷一(一一五頁)にミヨシ野ノ山ノアラシノ寒久爾《サムケクニ》ハタヤコヨヒモワガヒトリネムとあり。業平の歌はやがてこのミヨシ野ノといふ歌の格を學べるなり
 奉はウケタマハルとよむべし。コ音はアリガタイオホセなり。李陵の答2蘇武1書に時因2北風1復惠2コ音1とあるを始めて文選には多く見えたり。敬奉2コ音1は次に跪承2芳音1とあるに同じ。公使は公用にて上京する使なり。進御はタテマツルなり。これも彼琴賦に進2御君子1とあるを用ひたるなり。高明は楊雄の解嘲に高明之家鬼瞰2其室1とあれど、それに據れるにはあらで夏侯湛の東方朔畫賛に高明|克《ヨク》柔とあり陸機の弔2魏(879)武帝1文序に資《ヨリ》2高明之質1とあるなどに據れるにて相手のコをたたへたるならむ。謹空は相手を敬ひて書翰に白紙を餘すをいふ。本朝|文粹《モンズヰ》卷七報2呉越王1書にも呉越殿下謹空とあり
  近ごろ世に知られし北白川宮御所藏の圓珍贈2觀中院政所1書(智證大師贈2僧正遍照1書)を見るに謹空の二字、一紙の末行を成して上下の中程にあり
    ○
跪承2芳書1嘉懽交深、乃知2龍門之恩復厚2蓬身之上1、戀望殊念、常心百倍、謹和2白雲〔左△〕之什1、以奏2野鄙之歌1、房前謹状
 
812 ことどはぬきにもありともわがせこがたなれのみことつちにおかめやも
許等騰波奴紀爾茂安理等毛和何世古我多那禮乃美巨騰都地爾意加米移母
  十一月八日附2還使|大監《タイゲン》1
(880) 謹通2尊門記室1
 キニハといはでキニモといへるはノタマフ如ク言ドハヌ木ニモアルベシ、サリトモといふ意にていへるなり
 龍門は登龍門の略、李膺の故事にて名士に知らるるを云ふ。白雲は白雪の誤ならむ、所謂陽春白雪にて旅人の歌調の高きをたたへたるなり。什は作なり。記室は今の秘書なり
    ○
  筑前國|怡土《イト》郡深江村|子負《コフ》(ノ)原臨v海丘上有2二石1、大者長一尺二寸六分、圍一尺八寸六分、重十八斤五兩、小者長一尺一寸、圍一尺八寸、重十六斤十兩、並皆※[木+隋]圓、状如2鶏子1、其美好|者《ナルハ》不v可2勝論1、所v謂徑尺璧是也、【或云此二石者肥前國彼杵郡平敷之石當占而取之】去2深江驛家1二十許里、近在2路頭1、公私往來莫v不2下v馬跪拜1、古老相傳曰、往者|息長足日女《オキナガタラシヒメ》命征2討新羅國1之時、用2茲兩石1、挿2著御袖之中1、以爲2鎭懷1、【實是御裳中矣】 所以行人敬2拜此石1、即作v歌曰
(881)813 かけまくは あやにかしこし たらしひめ かみのみこと からくにを むけたひらげて みこころを しづめたまふと いとらして いはひたまひし またまなす ふたつのいしを 世(ノ)人に しめしたまひて よろづよに いひつぐがねと (わたのそこ おきつ)ふかえの うながみの こふのはらに みてづから おかしたまひて かむながら かむさびいます くしみたま いまのをつつに たふときろかも
可既麻久波阿夜爾可斯故斯多良志比※[口+羊]可尾能彌許等可良久爾遠武氣多比良宜弖彌許々呂遠斯豆迷多麻布等伊刀良斯弖伊波此多麻此斯麻多麻奈須布多都能伊斯乎世人爾斯※[口+羊]斯多麻比弖余呂豆余爾伊此都具可禰等和多能曾許意枳都布可延乃宇奈可美乃故布乃波良爾美弖豆可良意可志多麻比弖可武奈何良可武佐備伊麻須久志芙多麻伊麻能遠都豆爾多布刀伎呂可※[人偏+舞]
(882) 筑前國|恰土《イト》郡深江村|子負《コフ》(ノ)原なる二靈石をよめるなり。相傳ふ神功皇后三韓征伐の時産期に近づきしかば占によりて肥前國|彼杵《ソノキ》郡平敷にありし此石を取りて御身に附けたまひて産期を延べたまひ凱旋の時此原に到りて應神天皇を生みたまひしなりと。石の名は筑前國風土記(釋日本紀卷十一所v引)に時人號2其石1曰2皇子産石《ミコウミイシ》1今訛謂2兒饗《コフ》石1とあり(野を子負《コフ》(ノ)原とも兒饗《コフ》(ノ)野ともいふは此石あるによれるなり)。後世專鎭懷石と稱するは此序の中に以爲2鎭懷1とあると歌にミココロヲ、シヅメタマフト、イトラシテ、イハヒタマヒシ、マタマナス、フタツノイシヲとあるに基づけるなりカケマクハはカケムコトハにて口ニカケテ申サムコトハとなり。アヤニはイミジクなり。タラシヒメは息長足《オキナガタラシ》姫の略にて神功皇后の御事○ムケタヒラゲテは征服シテなり。こゝにて切りて句を隔てゝマタマナスフタツノ石ヲへつづけて心得べし。即ミココロヲの上にコレヨリ先ニといふことを補ひて聞くべし○ミココロは御腹なり。古事記には即爲v鎭2御腹1取v石以纏2御裳之腰1とあり。イトラシテのイは添辭。イハヒタマヒシは大切ニシタマヒシといふ事なり○イヒツグガネは語リ傳フベクといふこと○ワタノソコオキツの八言は深江の序なり。ウナガミノは代匠記に(883)『唯海邊なり。處の名にはあらず』といへる如し。序に臨v海丘上とある臨海に當れり○オカシタマヒテは置キ給ヒテなり○カムナガラ以下は二石の事に係れり。オカシタマヒテにて主格かはれるなり。テの前後にて主格のかはれる例は卷二にもあり(二八二頁參照)。イマスは石を神として敬語を用ひたるなり○クシミタマはサキミタマ、クシミタマといふクシミタマとは別なり。記傳卷三十(第二の一八五六頁)に
  クシミタマとよめるは石をほめて奇き御玉と云るなり。御魂にはあらず
といへり。さてクシミタマのミを契沖宣長共に玉に附けて美稱としたれどクシミタマはクシキ玉といふことを古言の格にてクシミ玉といへるにてハヤミハマ風、アカミ鳥、キヨミ原などと同例なり(卷一【一一四頁】及卷二【二一七頁】參照)○イマノヲツツは今ノウツツにてマノアタリといふこと、タフトキロカモのロは助辭なり
 
   反歌
814 あめつちのともにひさしくいひつげとこのくしみたま志〔左△〕《オ》かしけらしも
(884)阿米都知能等母爾比佐斯久伊比都夏等許能久斯美多麻志可志家良斯母
  右事傳言那珂郡伊知郷蓑島人|建部《タケルベ》(ノ)牛麻呂是也
 アメツチノのノは玉緒卷七(十六丁)に
  これらのノはトに通ひて聞ゆ
といひて例を擧げたり。その例どもを見るに皆トモニといふ辭に續きたり。さればいにしへ何々卜共ニといふことを何々ノ共ニといひならひきとおぼゆ(但何々ト共ニといへる例もあり)○志〔右△〕可志の上の志は田中大秀の説に意の誤なりといへり。げに長歌にもオカシを意可志と書けり
 右の鎭懷石は記傳卷三十(全集第二の一八五七頁)に
  石は二つながら盗人のぬすみ持ゆきて今は無しと彼國人云り
とあり○此石を取り給ひし肥前國|彼杵《ソノキ》郡平敷は今の長崎に遠からざる處にて近き世までも鎭懷石の類なるめでたき石出できといふ。中島廣足の時津紀行(文政十年)に
(885)  平野(ノ)宿といへるを過行。萬葉五卷鎭懷石をよめる歌の序に或云此二石者肥前國彼杵郡平敷之石當v占而取v之といへる平敷やがてこゝなりといへり。此郷の長《ヲサ》某が園に鎭懷石とよびて昔よりいはひすゑたる赤石ありて此里の女ども子うむ時にあたりて此石にねぎ事すればいとやすらかなりといひ傳へたり。さるを先つ年長崎人某とかくはかりごちて此|長《ヲサ》をいみじく酒にゑはしめ我もゑひて戲にことよせてやがて其石を盗みもていきてあまたにわり碎きていにしへ好む人々にわかち與へぬるをはやく獲たりとて青木大宮司(○永章)おのれにも一つ贈られたるはいとめづらかにうれしきものからその某がしわざはいとほしからずぞおぼゆる。伊勢人のひがことよりも長崎人のさかしらは罪いと深かるべし。されどかの眞の鎭懷石は筑前國怡土郡深江村子負原にありと記し其形も並皆※[木+隋]圓状如2※[奚+隹]子1其美好者不v可2勝論1所v謂径尺璧是也とあればこの赤き石はよしなくおぼゆれど昔よりしかいはひすゑたりけむ石を私にわりたゝきけんいともいともうれたきわざなりけり。大宮司は※[奚+隹]子の如きをも里人に拾はせてひめたりといへり。今もさる石やあると見つゝゆけど似たるもなし
(886)  御こゝろをしづめまさむと此里にとらしゝ石ぞあやにくすしき
 いにしへしのぶついでには古めいたることぞいはれける。かの石のいでしところといへるもあるはいかならんおぼつかなし。なほくはしく尋ねまほしけれどけふはゆく先のいそがるれば又ことさらにをとて過行
とあり。安政五年長崎奉行荒尾成允、碑を此處に建てむとして國文と漢文とを以て事の由を記さしめき。其碑今もありや否や、刻めるは國漢いづれの方なるか知らまほし。さて漢文の方は難波江卷二上(百家説林續篇下一の六二一頁)に出でたれば摘録に止め國文の方はいまだ刊行の書に見えざれば長けれど全文を擧げてむ。まづ漢文の方には
  石之所v出平敷屬2肥前彼杵郡1、今長崎府北數里浦上村有2平野宿1、側有2小池1(○脱文あるにや)稱2鏡川1、相傳、后嘗鑒2容于此1、皆其地云、此間婦人妊v子者多賽2其處1、以祷2胎孕平安1、或獲2其石1挿2之衿神1若※[草冠/保]2祠之1、至2于今1不v渝、謂若v此則産泰、又以2其光塋麗澤類1v玉、好事者或磋爲2佩玩若※[石+遂]1、土人因呼2其處1曰2稜崎1、蓋國音稜通v燧也、……天保中文恭廟(○將軍家齊)命2邑之縣令高木君忠篤1采v之、縣令獲v石以輸焉、平敷之石※[徭の旁+系]v是復著2于世1、……鎭臺荒尾明府成允行v部抵v此西南瞰v海、慨然頗有2憂世之心1於v是 低回不v能v去、乃與2賓佐僚吏1議d立2碑其處1以永傳c于不朽u、永持君穀明首應2其議1、慫慂以成2其事1、實今上十二年安政五祀著雍敦※[片+羊]之歳春王正月也、……長崎府學助教長川※[にすい+煕]世※[白+皐]拜手稽首謹撰
とあり。國文の方は
   鎭懷石の碑
  息長帶姫命の新羅國をことむけ給へりしはかけまくもいともかしこき天照大御神の御教墨江三柱大神たちの導きませるによりてなりけり。かれ其御教の如くにして御軍を整へ雄のよそひをなし、いかしき御いづをしめして渡りたまひしかば大御船の浪新羅國なからまで到りぬ。こゝに其|國王《コニキシ》いたくおぢかしこみて皇命《オホミコト》のまにまに御馬かひとして年のはに貢を奉り百済國はたわたの屯家《ミヤケ》として仕へまつりしかば新羅國王の門《カナド》に其つかせる御矛を衝立て後世のしるしとし給ひき。これ神のちはひなる物から姫命の大御身としてさばかりたけき御しわざはそれはた神とも神とましませるところにてたゝへ奉らんに詞もなく(888)いともいともかしこき事になもありける。はじめ其海をわたりまさむとせし時はらませる皇子あれまさむとせしかば二の石をとらして御裳の腰にまかし大御身をいはひ鎭めつゝ歸りまして後になも生給ひける。其石の出つるは肥前國彼杵郡平敷といへる地にて占あへるまゝに取給ひし事古書どもに見えたるが如くなるを其平敷は此郡の山里村なる平野宿のことなりといへり。さるはかの命をいはひ祭れる祠よりはじめて古きゆゑよし傳へたる跡どもありて鎭懷石といへるが今も出づめるをそれ取りてはらめる女のいつきもたれば子うむ時まがことなしといふめるは正しくいにしへの跡なること疑ふべきにあらず。かくて今(ノ)世長崎の浦はこと國船どものまゐくる湊にしあればいやますますに此命の御いさををたふとみ其御靈をこひのみまつりてこの浦わのまもり神といつきまつり異國人どもをなづけをさむべき後世の鑑ともなさむとして其事どもを書記し遠長く傳へむものをとこたび長崎の里のつかさ荒尾(ノ)君よりおほせごとありて碑たてらるゝはまことにめでたき御しわざにて神の御心にもかなひぬべくいともよろこばしきことにこそありけれ。おのれおほせごとかがふり(889)て其故よしを一くだり記しつけぬるは安政の五とせといふ年の三月のなかば也。中島廣足
 又廣足の安政五年の詠草の中に
  鎭懷石の碑に書きそふる よろづ世にあふがざらめやとらしつる石の御たまのそのあとどころ
とありといふ(右の文は門人彌富濱雄が廣足の未定稿の中より求めいでて歌と共に送りおこせしなり)
 さてこの鎭懷石を詠ぜる長歌并反歌は目録に山上臣憶良詠2鎭懷石1歌一首并短歌とあり類聚古集(第十七)にも憶良とある上に辭藻はた憶良ならではとおぼゆれば此人の作と定むべし
 追考 長崎夜話草(享保年間西川如見著)に
  神功皇后異國征伐の御時胎内の皇子を壽き玉ひ二つの靈石を取せ玉ひて御鎧の上帶にさしはさみおはしましぬ。此石は御夢の告ありて彼杵《ソノキ》の郡平敷といふ所より得させ玉ひし石にて妙にうつくしかりしとかや。今筑前國|怡土《イト》郡深江村(890)八幡宮の御神體にて鎭懷石是なりとぞ、……いにしへより石もふとく成たるよし見えたり。扨もその平敷といふはいづこにやと余多年幾そばくの人に尋ねしかど知る人なし。然るに一とせ或人のいへるは長崎市町を去る事一里ばかりの北の山里に平宿といふ所あり。この村なる東の山より燧石赤白なる多く出、村人取て賣なるを玉人撰びて緒留の玉にすりたるは唐土の雲南石に異ならずとて人々價高く買とりぬ。則此石なり。とて見せ侍りしに實に美しきこといはん方なし。さらばその平敷といふ所は平宿の事にあらずや。敷と宿とまがひいとあやし。今は平の宿と訛れるもいぶかし。まして鎭懷石の留りまします所も深江村、長崎の古名も深江村といひしこそ又いとあやしけれ……
 又増補長崎略史(明治三十年金井俊行著)の年表第八に
  安政五年七月 平野宿神功皇后舊蹟に稚櫻神社を造り石碑を建つ(長川東洲・中島廣足碑文を作る。平野宿は神功皇后の鎭懷石を採り給ひし所にして平敷の訛傳なり……)
と云へり
 
(891)   梅花歌三十二首并序
  天平二年正月十三日萃2于帥老之宅1、申2宴會1也、于v時初春令月、氣淑風和、梅披2鏡前之粉1、蘭薫2珮後之香1、加以曙嶺移v雲、松掛v羅而傾v蓋、夕岫結vキリ、鳥對v穀而迷v林、庭舞2新蝶1、空歸2故雁1、於v是蓋v天坐v地、促v膝飛v觴、忘2言一室之裏1、開2衿煙霞之外1、淡然自放、快然自足、若非2苑1、何以※[手偏+慮]v情、詩紀2落梅之篇1、古今夫何異矣、宜d賦2園梅1聊成c短詠u
815 むつきたちはるのきたらばかくしこそうめををりつつたぬしきをへめ 大貮紀卿
武都紀多知波流能吉多良婆可久斯許曾烏梅乎乎利都都多努之岐乎倍米
 此序は誰の作にか。契沖は『憶良の作ならん』といへり。然るに近頃旅人の作とする説あり。案ずるに旅人の歌を三十二首中の第八即主賓とおぼしき人々の下、陪客とおぼしき人々の上に置き又作者を主人と註せるを思へば歌をついで又作者の名を(892)註せるは旅人なり。されど序はなほ憶良の作なるべし。其故はもし旅人の作ならば萃《アツマル》2于帥老之宅1の上に主格(諸人など)あるべく又帥老は自稱にあらで親愛の意を帶びたる他稱なるべく思はるればなり(もし或人のいへる如く自稱ならば第八首の下にも主人と書かで帥老と書くべきなり)
 契沖云はく
  此序發端は羲之が蘭亭記に永和九年歳在2癸丑1、暮春之初會2于會稽山陰蘭亭1、修2禊事1也とかけるに効へる歟。篇中に彼記の詞も見えたり
と云へり。萃はアツマルとよみ申はカサヌルとよむべし。于時初春令月氣淑風和の例に契沖は張衡の歸田賦なる仲春令月時和氣清を引けり。鏡前之粉は粉トとよむべし。鏡前ノオシロイノ如クとなり。珮後之香も香トとよみて香ノ如クと心得べし。珮は佩に同じくて帶なり。香はニホヒ袋ノニホヒなり。加以は加之に同じ。移雲は雲ウツリテとよむべし。雲ガ動キテとなり。掛v羅は雲に掩はれたる形容なり。蓋は松の梢をたとへたるなり。岫《シウ》は山穴なれどこゝは峯を云へるならむ。文選謝玄暉の和2王著作八公山詩1に雲聚岫如v複《カサナレル》とあり。結霧は霧ムスビテとよむべし。モヤガオリテと(893)なり。穀《コメ》は羅穀《ラコク》、霧穀とも云ひて一種の皺みたる薄絹にて霧をたとへたるなり。舞新蝶、歸故雁は共にヲを添へずして訓むべし。蓋v天は天ヲ蓋《カサ》トシテなり。契沖は淮南子の以v天爲v蓋を引けり。促膝は對座なり。觴はサカヅキなり。契沖は忘言の例に莊子の得v意而忘v言を引けり。卷十七なる大伴池主の歌の序にも淡交促v席得v意忘v言と書けり。開衿は披襟とも云へり。袷の紐を解きてうちくつろぐなり。煙霞はやがて霞なり。懷風藻に見えたる旅人の詩にも煙霞接2早春1とあり。煙霞は或は煙花の誤か。煙花は都市なり。此あたりもやや蘭亭記に似たり。特に快然自足は彼記中の語なり。翰苑の翰は筆なり。苑はこゝにては意無からむ。※[手偏+慮]はノベムとよむべし。詩紀2落梅之篇1は毛詩召南の※[手偏+票]有梅を指せるか。※[手偏+票]は落なり。但|※[手偏+票]有《オチタルヤ》梅の梅は梅實にて梅花にあらず
 ムツキタチの歌は初句の上に今ヨリ後モといふことを加へてきくべし。カクシコソのシは助辭なり。タヌシキヲヘメは眞淵宣長の説に樂シキコトヲ終ヘメにてヲヘメは極メメといふことなりといへり。契沖いはく『古今にアタラシキ年ノ初ニカクシコソチトセヲカネテ樂シキヲツメ此も今の歌の落句と同じかりけむを假名のへ〔右△〕の字とつ〔右△〕の字の似たるを書まがへたるべし』と
 
(894)816 うめのはないまさけるごとちりすぎずわがへのそのにありこせぬかも【少貮小野大夫】
烏梅能波奈伊麻佐家留期等知利須蒙〔左△〕受和我覇能曾能爾阿利己世奴加毛
 チリスギズは散リ失セズなり。二三の間に古義にいへる如くイツマデモといふ辭を補ひてきくべし。ワガヘは又ワギヘとあり。我家なり。アリコセヌカモはアツテクレヨカシなり。作者は卷三(四三四頁)に見えたる小野朝臣|老《オユ》なり○蒙は義の誤なり
 
817 うめのはなさきたるそののあをやぎはかづらにすべくなりにけらずや【少貮粟田大夫】
烏梅能波奈佐吉多流僧能能阿遠也疑波可豆良爾須倍久奈利爾家良受夜
 梅、傍の物となれり。契沖は梅と柳とを交へて鬘にするなりといへれどさる意とはきこえず。下にもウメノ花サキタルソノノアヲヤギヲカヅラニシツツ遊ビクラサ(895)ナとよめり、ケラズヤの例は卷二(三一九頁)にツマモアラバツミテタゲマシ佐美ノ山ヌノヘノウハギスギニケラズヤとあり。作者は續紀に見えたる粟田朝臣人上なるべしと古義にいへり
 
818 はるさればまづさくやどのうめのはなひとりみつつやはるびくらさむ【筑前守山上大夫】
波流佐禮婆麻豆佐久耶登能烏梅能波奈此等利美都都夜波流比久良佐武
 第四句のヤはヤハなり。思フドチ寄合見テコソ春ノ日ヲクラサメとなり(契沖)作者は即|山《ヤマ》(ノ)上《ウヘ》(ノ)臣|憶良《オクラ》なり
 
819 よのなかは古飛斯宜志惠夜《コヒシゲシヱヤ》かくしあらばうめのはなにもならましものを【豐後守大伴大夫】
余能奈可波古飛斯宜志惠夜加久之阿良婆烏梅能波奈爾母奈良麻之勿能怨
(896) 第二句を契沖コヒシゲシヱヤとよめり。さて宣長はコヒシゲシ、ヱヤと切りてヱヤを嘆息の辭とせり。コヒはモノオモヒといふことか。カクシアラバを雅澄の人トアラムヨリハと譯せるは非なり。もしさる意ならばカクシアラズバとこそいふべけれ(コヒムヨリハをコヒツツアラズバといへるを思へ)。案ずるにカクシアラバはカク戀ノ繁カラバとなり。三四の間〔日が月〕に寧といふ語を挿みて聞くべし
 
820 うめのはないまさかりなりおもふどちかざしにしてないまさかりなり【筑後守葛井大夫】
烏梅能波奈伊麻佐可利奈理意母布度知加射之爾斯弖奈伊麻佐可利奈理
 作者は卷四(六九一頁)に見えたる葛井《フヂヰ》(ノ)連大成なり
 
821 あをやなぎうめと〔右△〕のはなををりかざしのみてののちはちりぬともよし(笠沙彌)
阿乎夜奈義烏梅等能波奈乎遠理可射之能彌弖能能知波知利奴得母與(897)斯
 二つの名詞を連結するには各語の下にトを附くるが常規なり。たとへば下なるウチナビクハルノヤナギト〔右△〕ワガヤドノウメノハナト〔右△〕ヲイカニカワカムの如し。然るに集中右の常規に背きたる用例二つあり。甲は下のトを省きたるもの即今の時文の用例にひとしきものなり。たとへばムロノ木ト〔右△〕棗ノモトヲカキハカムタメ、大伴ト〔右△〕佐伯ノ氏ハ、君ト〔右△〕吾へダテテコフル(以上卷四【七五〇頁】に擧げたり)ウヅキト五月ノホドニ(卷十六乞食者詠)などの如し。乙は上のトを略せるものにてナマヨミノ甲斐ノ國ウチヨスル駿河ノ國ト〔右△〕、アラレ松原スミノ江ノオトヒヲトメト〔右△〕、ナクチドリカハヅト〔右△〕フタツなど是なり(以上卷三【四一九頁】に擧げたり)。今の歌は後者に屬せり。さて今の歌にアヲヤナギ梅トノ花ヲとあるを辭のまゝに解すれば柳ノ花ト梅ノ花トヲといふことゝなれどおそらくはアヲヤナギウメノハナ等《ト》ヲとありしを傳寫の際に誤りて等を烏梅《ウメ》の下に入れたるならむ○酒といふことをいはでただノミテといへるは此頃より始まりし辭遣なり。下にもウメヲカザシテタヌシクノマメとあり又卷八にもサカヅキニ梅ノ花ウカベオモフドチ飲ミテノチニハ散リヌトモヨシ (898)とあり○作者は卷三(四八六頁)に造筑紫觀世音寺別當沙彌滿誓とあると同人なり。出家入道の前に笠(ノ)朝臣麻呂といひしが故に笠沙彌と書けるなり。略解古義に沙彌を固有名詞として『沙彌は俗人の名なるべし』といへるは千慮の一失なり
 
822 わがそのにうめのはなちる(ひさかたの)あめよりゆきのながれくるかも(主人)
和何則能爾宇米能波奈知流比佐可多能阿米欲里由吉能那何列久流加母
 ナガレは降ることなり。卷一にもナガラフル雪フク風ノ(一〇二頁)アメノシグレノナガラフ見レバ(一二六頁)とあり。主人は即大伴宿禰旅人なり
 
823 うめのはなちらくはいづくしかすがにこのきのやまにゆきはふりつつ【大監大伴氏百代】
烏梅能波奈知良久波伊豆久志可須我爾許能紀能夜麻爾由企波布理都々
(899) 古義に
  梅花の盛過て散事は何處にあるぞ。未散花はいづくにも有まじ。梅花の咲たるながらに此城(ノ)山に雪はふりつゝ猶甚寒ければ未散時には至らじ。心しづかに賞愛しつゝ遊宴せむぞ。となり
 といへるはキノ山を帥老の家と思へるなれどキノ山は契沖等のいへる如く卷四(六九一頁)に今ヨリハ木ノ山道ハサブシケムワガ通ハムト思ヒシモノヲとある木ノ山ミチと同處なるべし(果して然らば其山は筑前肥前に跨れる山にて太宰府とはいたく離れたり。されば古義の如くには釋くべからず。案ずするに一首の意は
  梅ノ花ノ既ニ散ル處ガアルサウデアルガソレハイヅクゾ。サヤウニ散ル處モアルトイフニ此我越ユル木ノ山ハ今ナホ雪ガフリフリスル
といへるにて目前に梅花の散るを見ながらわざと身を木(ノ)山道におきてよめるなり。かの古今集春上なる春ガスミタタルヤイヅクミヨシ野ノ吉野ノ山ニ雪ハフリツツは適に今の歌の格を學べるなり。相照らして歌の意を會得すべし
 
824 うめのはなちらまくをしみわがそののたけのはやしにうぐひすなく(900)も【少監阿氏奥島】
烏梅乃波奈知良麻久怨之美和家曾乃乃多氣乃波也之爾于具此須奈久母
 此一列の歌は序には賦2園梅1とあれど實は梅花を題としてよめるのみ。されば三十二首中には目前の景をよめるもあり、目前の景を離れてただ梅花をよめるもあるなり。之を皆嘱目の作とせむは非なり。此歌のワガソノ、上なるワガヘノソノ、下なるワガヤド、イモガヘなど、もし嘱目の作ならばコノ園、君ガ家ノ園、此宿、君ガヘなどあるべきなり。またハルノ野ニキリタチワタリフル雪トなどはよむべからず○以下多くは作者の氏を修《チヂ》めたり
 
825 うめのはなさきたるそののあをやぎをかづらにしつつあそびくらさな【少監土氏百村】
烏梅能波奈佐岐多流曾能能阿乎夜疑遠加豆良爾志都都阿素※[田+比]久良佐奈
 
826 (うちなびく)はるのやなぎとわがやどのうめのはなとをいかにかわか(901)む【大典史氏大原】
有知奈※[田+比]久波流能也奈宜等和家夜度能烏梅能波奈等遠伊可爾可和可武
 ワカムといへるは卷一(三二頁)に額田王以v歌判v之とある判の意にて優劣を判するなり
 
827 はるさればこぬれがくりてうぐひすぞなきていぬなるうめがしづえに【少典山氏若麻呂】
波流佐禮婆許奴禮我久利弖宇具此須曽奈岐弖伊奴奈流烏梅我志豆延爾
 コヌレガクリテはコガクレテといふに齊し(コヌレは木末なれどこゝにては末には意なし)。古義には許奴禮我久利弖の弖を之の誤として『冬の程は木に隱れて見えざリしと云なり』と云へれどコヌレガクリテは花又は木葉に隱るゝ事なれば寧春の趣なリ。イヌナルを契沖宣長はユクナルの意とし眞淵雅澄は寐《イ》ヌナルの意とせ(902)り。又宣長は『コヌレは他の木の梢にて梅の下枝に居たる鶯の他の梢へかくれていぬるを云』といへり。案ずるにウメガシヅエニとあれば他の木の葉蔭などより梅の下枝に遷り來るなり○此歌などは古歌なるが故に解し難きにあらず。作の拙き爲に心得かぬるなり。作者は卷四(六八六頁)に見えたる山口(ノ)忌寸《イミキ》若麻呂なリ
 
828 ひとごとにをりかざしつつあそべどもいやめづらしきうめのはなかも【大判事舟氏麻呂】
此等期等爾乎理加射之都都阿蘇倍等母伊夜米豆良之波〔左△〕烏梅能波奈加母
 イヤは後世のナホなり○波は岐の誤なり
 
829 うめのはなさきてちりなば△《サ》くらばなつぎてさくべくなりにてあらずや【藥師張氏福子】
烏梅能波奈佐企弖知理奈婆久良婆那都伎弖佐久倍久奈利爾弖阿良受也
(903) ナリニテアラズヤはナリニタリといふことを強く云へるなり。上なるナリニケラズヤの類なり。藥師は即醫師なり○久良婆那の上に佐をおとせるなり。作者は男子なり。いにしへも今も男子の名にも子を添ふる事あり
 
830 萬世にとしはきふともうめのはなたゆることなくさきわたるべし【筑前介佐氏子首】
萬世爾得之波岐布得母烏梅能婆奈多由流己等奈久佐吉和多流倍子
 キフトモは雖來經にてスグトモと云はむに同じ。ヨロヅヨニのニは後世のトなり○子首はコビトとよむべし
 
831 はるなればうべもさきたるうめのはなきみをおもふとよいもねなくに【壹岐守板氏安麻呂】
波流奈例婆宇倍母佐枳多流烏梅能波奈岐美乎於母布得用伊母禰奈久爾
 ウメノハナの下にカナといふ辭を補ひて聞くべし。卷四(七一七頁)なるサヨ中ニ友(904)ヨブ千鳥モノモフトワビヲル時ニナキツツモトナと同格なり。君とは契沖のいへる如く梅花をさせるなり。ヨイは眞淵の云へる如く夜寢なり。さて梅花を思ふとて寢《イ》もねずといへるはいかなる意か。契沖が花のさくを待ちわぶる意とせるを雅澄は排斥して雨風ニアタラ盛ノ散過ムカト心ヲナヤマシツツ汝ヲ思フトテ夜モ寢ズシテ云々と譯したれどさまでの意はあるべからず。ただ梅花を人に擬して君ガ見タクテオチオチトハ寢ヌと云へるにこそ。作者は古義に續紀に見えたる板|茂《モチ》(ノ)連安麻呂なるべしといへり
 
832 うめのはなをりてかざせるもろびとはけふのあひだはたぬしくあるべし【神司荒氏稻布】
烏梅能波奈乎利弖加射世留母呂此得波家布能阿此太波多努斯久阿流倍斯
 ケフ一日ハ思フコトナカルベシとなり
 
833 としのはにはるのきたらばかくしこそうめをかざしてたぬしくのま(905)め【大令史野氏宿奈麻呂】
得志能波爾波流能伎多良婆可久斯己曾烏梅乎加射之弖多努志久能麻米
 トシノハは毎年なり
 
834 うめのはないまさかりなりももとりのこゑのこほしきはるきたるらし【少令史田氏肥人】
烏梅能波奈伊麻佐加利奈利毛毛等利能己惠能古保志枳波流岐多流良斯
 コホシキはコヒシキの轉ぜるなり○肥人はクマビトとよむべし
 
835 はるさらばあはむともひしうめのはなけふのあそびにあひみつるかも【藥師高氏義通】
波流佐良婆阿波武等母比之烏梅能波奈家布能阿素※[田+比]爾阿比美都流可母
(906) アハムトモヒシ、アヒミツルカモといへる、梅花を人に擬せるなり
 
836 うめのはなたをりかざしてあそべどもあきたらぬひはけふにしありけり【陰陽師礒氏法麻呂】
烏梅能波奈多乎利加射志弖阿蘇倍等母阿岐太良奴比波家布爾志阿利家利
 
837 はるのぬになくやうぐひすなづけむとわがへのそのにうめがはなさく【※[竹/下]師志氏大道】
波流能努爾奈久夜※[さんずい+于]隅比須奈都氣牟得和何弊能曾能爾※[さんずい+于]米何波奈佐久
 ナクヤのヤは助辭、ナヅケムトは招キ寄セムトなり。ウメガ〔右△〕ハナといへるめづらし。※[竹/下]は※[竹/弄]に同じ
 
838 うめのはなちりまがひたるをか肥《ビ》にはうぐひすなくもはるかたまけて【大隅目榎氏鉢麻呂】
(907)烏梅能波奈知利麻我此多流乎加肥爾波宇具此須奈久母波流加多麻氣弖
 チリマガフは散り亂るゝなり。ヲカビは岡邊なり。古義には畝傍《ウネビ》のヒを例とせり。但かの文字に通音あるを知りて言語に轉音あるを忘れたる音韻學者等は肥にはへの通音あればこゝもヲカベとよむべしといへり
 
839 はるの能にきりたちわたりふるゆきとひとのみるまでうめのはなちる【筑前目田氏眞人】
波流能能爾紀利多知和多利布流由岐得此得能美流麻提烏梅能波奈知流
 野を能と書ける注目すべし。此頃はやくノともいひしなり。キリタチワタリはカキクモリといふ意
 
840 (はるやなぎ)かづらにをりしうめのはなたれかう△《カ》べしさかづきのへに【壹岐目村氏彼方】
(908)波流楊奈那〔□で圍む〕宜可豆良爾乎利志烏梅能波奈多禮可有倍志佐加豆岐能倍爾
 ハルヤナギはカヅラの枕辭なり(眞淵、宣長)〇一首の意は契沖の『かづらの影の盃にうつるを盃の上にたが浮べたるぞといひなすなり』といへる如し○有の下、倍志の上に可をおとせり
 
841 うぐひすのおときくなべにうめのはなわぎへのそのにさきてちるみゆ【對馬目高氏老】
于遇此須能於登企久奈倍爾烏梅能波奈和企弊能曾能爾佐伎弖知留美由
 いにしへは鳥の聲をもオトといひしなり。ナベニはツレテなり。サキテはただ輕く添へたるのみ。卷三(四九一頁)なるウメノ花サキテチリヌト人ハイヘドワガシメユヒシ枝ナラメヤモの類なり
 
842 わがやどのうめのしづえにあそびつつうぐひすなくもちらまくをし(909)み【薩摩目高氏海人】
和家夜度能烏梅能之豆延爾阿蘇※[田+比]都都字具此須奈久毛知良麻久乎之美
 チラマクヲシミは散ラムコトガヲシサニなり
 
843 うめのはなをりかざしつつもろびとのあそぶをみればみやこしぞもふ【土師氏御通】
宇梅能波奈乎理加射之都都毛呂此登能阿蘇夫遠美禮婆彌夜古之叙毛布
 結句は京ガ思出サルルとなり。作者は卷四(六八〇頁)に見えたる土師《ハニシ》(ノ)宿禰|水通《ミミチ》なり
 
844 いもがへにゆきかもふるとみるまでにここだもまがふうめのはなかも【小野氏國堅】
伊母我陛邇由岐可母不流登彌流麻提爾許許陀母麻我不烏梅能波奈可毛
(910) イモガヘは妹ガ家、マガフは散り亂るゝ事〇モといふ辭三つまでかさなれるは口を衝いて發するに任せし當時の風なり
 
845 うぐひすのまちがてにせしうめがはなちらずありこそおもふこがため【筑前掾門氏石足】
字具此須能麻知迦弖爾勢斯字米我波奈知良須阿利許曾意母布故我多米
 マチガテニセシは待不敢セシにて即マチカネシなり。初二はただ梅花の修飾に云へるのみ。四五の意と交渉あるにあらず。思ふ女につぎて見せむ爲梅花の散らざらむことを希へるなり。作者は卷四(六八七頁)に見えたる門部(ノ)連|石足《イソタリ》なり
 
846 (かすみたつ)ながきはるびをかざせれどいやなつかしきうめのはなかも【小野氏淡理】
可須美多都那我比〔□で圍む〕岐波流卑乎可謝勢例杼伊野那都可子岐烏梅能波那可毛
(911) カスミタツは准枕辭○比は衍字なり
 
   員外思2故郷1歌兩首
847 わがさかりいたくくだちぬくもにとぶくすりはむともまたをちめやも
和我佐可理伊多久久多知奴久毛爾得夫久須利波武等母麻多遠知米也母
 この思2故郷1歌と後追和梅歌との作者については後にいふべし○員外とあるは同時の作にはあれど梅花を詠ぜる一列の歌の外なればなり。さて同時に思2故郷1歌を作れるは或は土師《ハニシ》(ノ)御通《ミミチ》のアソブヲミレバミヤコシゾモフと作れるに催されての事にもあるべし。次なると例の二首一聯の歌なり○クダツは傾くなり。雲ニトブクスリは仙藥にて淮南《ヱナン》王劉安の故事によれるなり。劉安の仙人となりて昇天せし時その棄置きし藥を※[奚+隹]犬の舐めて亦共に昇天せしこと列仙全傳にあり。雲ニトブとはその※[奚+隹]を思ひていへるなり。ハムトモはクラフトモなり。ヲツはこゝにては若返(912)る事なり(卷三【四三六頁】參照)
 
848 くもにとぶくすりはむよはみやこみばいやしきあがみまたをちぬべし
久毛爾得夫久須利波牟用波美也古彌婆伊夜之吉阿何微麻多越知奴倍之
 ヨはヨリなり。記傳卷十九(全集第二の一一六二頁)に
  記中の歌にヨリを一言に云るは凡て皆ヨとのみあリてユと云るは一も無し。然るを書記には此記と同歌なるも其餘も皆ユとのみありてヨといへるはなし。萬葉にはヨともユともあるなり
といへり。イヤシキワガミは仙人に對していへるにて凡夫といふばかりの意なり。
 古義に
  これを古來|卑賤《イヤシキ》吾身てふことに心得たれどもしからず。……今按ふにイヤシキは彌重《イヤシキ》なるべし。さらば吾身彌重々ニ又|變若《ヲチ》ヌベシといふ意なり
(913)といへるは非なり
 
   後(ニ)迫2和梅△歌1四首
849 のこりたるゆきにまじれるうめのはなはやくなちりそゆきはけぬとも
能許利多流由棄仁末自列留烏梅能半奈半也久奈知利曾由吉波氣奴等勿
 題辭中梅の下に花の字おちたるか
 
850 ゆきのいろをうばひてさけるうめのはないまさかりなりみむひともがも
由吉能伊呂遠有婆比弖佐家流有米能波奈伊麻左加利奈利禰牟必登母我聞
 
851 わがやどにさかりにさける牟〔左△〕《ウ》梅のはなちるべくなりぬみむひともがも
(914)和我夜度爾左加里爾散家留牟梅能波奈知劉倍久奈里奴美牟必登聞我母
 牟の字諸本に宇とあり
 
852 うめのはないめにかたらくみやびたるはなとあれもふさけにうかべこそ
    一云いたづらにあれをちらすなさけにうかべこそ
烏梅能波奈伊米爾加多良久美也備多流波奈等阿例母布左氣爾于可倍許曾
    一云伊多豆良爾阿例乎知良須奈左氣爾于可倍己曾
 三四は作者の改作せるならむ。一云の方を採るべし。契沖のいへる如く梅花の精靈の娘子などに化して夢に入りてかく告げしやうによめるなり
 思2故郷1歌と後追和梅歌とは同一人の作とおぼゆ。略解古義共に之を憶良の作とせるは舊説によりて此卷を憶良の集とし、さて此等の歌には特に作者の名を記さざ(915)る故に深くも思はずして憶良の歌と定めたるなり。されど此卷は卷末にいふが如く憶良の集にはあらず。されば作者の名を記さざる歌は一一細に考へざるべからず。上(八九一頁)に云へる如く梅花歌三十二首を整理排列せしは旅人なればこの員外追和六首の歌は必旅人の作なり。武田祐吉氏(雜誌『心の華』十九の六)も亦之を旅人の作とし(理由は余が云へると異なり)又
  員外思故郷歌二首と卷の三、帥大伴卿歌五首の中のワガサカリマタヲチメヤモホトホトニ寧樂ノ都ヲ見ズカナリナムとの間に於ける思想及歌詞の類似を以てその傍證となし得べし
と云へり。げにワガサカリといふ歌の員外歌に似たるのみならず追和梅歌のウメノハナイメニカタラクは上(八七四頁)なる日本琴を藤原房前に贈りし書牘に此琴夢化2娘子1曰云々とあると著想類似せり。されば武田氏のいへる如く此等の傍證によりても亦旅人の作と定むべし
 
   遊2於松浦河1序
 余以暫往2松浦之縣1逍遙、聊臨2玉島之潭1遊覧、忽値2釣v魚女子等1也、花容(916)無v雙、光儀無v匹、開2柳葉於眉中1、發2桃花於頬上1、意氣凌v雲、風流絶v世、僕問曰、誰郷家兒等、若疑神仙者乎、娘等皆咲答曰、兒等者漁夫之舍兒、草庵之微者、無v郷無v家、何足2稱云1、唯性便v水、復心樂v山、或臨2洛浦1而徒羨2王〔左△〕魚1、
乍臥2巫峡1以空望2烟霞1、今以3邂逅相2遇貴客1、不v勝2感應1、輙陳2※[疑の左+欠]曲1、而今而後豈可v非2偕老1哉、下官對曰、唯唯、敬奉2芳命1、于v時日落2山西1、※[馬+麗]馬將v去、遂申2懷抱1、因贈2詠歌1曰
853 あさりするあまのこどもとひとはいへどみるにしらえぬうまびとのこと
阿佐里須流阿末能古等母等比得波伊倍騰美流爾之良延奴有麻必等能古等
 
   答詩曰
854 たましまのこのかはかみにいへはあれどきみをやさしみあらはさずありき
(917)多麻之末能許能可波加美爾伊返波阿禮騰吉美乎夜佐之美阿良波佐受阿利吉
 
   蓬客等更贈歌三首
855 まつらがはかはのせひかりあゆつるとたたせるいもがものすそぬれぬ
麻都良河波可波能世此可利阿由都流等多多勢流伊毛河毛能須蘇奴例奴
 
856 まつらなるたましまがはにあゆつるとたたせるこらがいへぢしらずも
麻都良奈流多麻之麻河波爾阿由都流等多多世流古良何伊弊遲斯良受毛
 
857 (とほつひと)まつらのかはにわかゆつるいもがたもとをわれこそまかめ
(918)等富都此等末都良能加波爾和可由都流伊毛我多毛等乎和禮許曾末加米
 
   娘等更報歌三首
858 わかゆつるまつらのかはのかはなみのなみにしもはばわれこひめやも
和可由都流麻都良能可波能可波奈美能奈美邇之母波婆和禮故飛米夜母
 
859 はるさればわぎへのさとのかはとにはあゆこさばしるきみまちがてに
波流佐禮婆和伎覇能佐刀能加波度爾波阿由故佐婆斯留吉美麻知我弖爾
 
860 まつらがはななせのよどはよどむともわれはよどまずきみをしまたむ
(919)麻都良我波奈奈勢能與騰波與等武等毛和禮波與騰麻受吉美遠志麻多武
 題辭はもと遊2於松浦河1贈答歌并序などありしが脱字を生じて今の如くなれるなるべし。序の余以の下にも脱字あるべし。余以事〔右△〕などありしか。開はヒラケシメとよむべく發はサカシムとよむべし。開以下十二字は眉の形が柳葉の如く頬の色が桃花に似たるをあやなし云へるなり。意氣凌雲はこゝにては高尚なる事。便水は水ニ馴レといふ意か。樂山は論語の語なり。或臨以下は或臨v水云々或臥v山云々といふ意を曹植の洛神賦と宋玉の巫山神女賦とに據りて洛浦巫峡と云へるなり。さて契沖は或臨2洛浦1而徒羨2王魚1の粉本として淮南子の臨v河而羨v魚、不v如2歸v家織1v網を擧げたり。王魚は東京賦、呉都賦、陸機の擬古詩等に據りて王鮪の誤とすべきかとも思へど烟霞の對なれば玉魚の誤にて玉ト魚トならむか。邂逅はタマタマなり。オモヒガケズなり。毛詩鄭風、野有蔓章に邂逅相遇、適2我願1兮とあり。感應は感動と心得べし。※[疑の左+欠]曲は委曲なり。されば輙陳2※[疑の左+欠]曲1はコマゴマ御話ヲシマシタといふ事なり。非は不の如く訓むべし。下官は遊仙窟にあまた見えたり。文選にもあり。日落云々は文選なる應(920)休※[王+連]の與2滿公※[王+炎]1書に白日傾v夕、※[馬+麗]駒就v駕とあるを學びたる事契沖の云へる如し。※[馬+麗]馬は黒馬なり。一列の歌の作者の事は後にいふべし
 
あさりするあまのこどもとひとはいへどみるにしらえぬうまびとのこと
 人とは即娘等なり
 
たましまのこのかはかみにいへはあれどきみをやさしみあらはさずありき
 ヤサシはハヅカシに似たれどハヅカシは己についていひヤサシは他についていふの別あり
 
まつらがはかはのせひかりあゆつるとたたせるいもがものすそぬれぬ
 松浦川は即玉島川なり。今唐津の傍にて海に注げる松浦川とは別なり。カハノセヒカリは契沖の『仙女の容のかがやくなり』といへる如し○蓬客等の等の字類聚古集(921)には無し。蓬客の例は孟郊の詩に蓬客將2誰僚1とあり。蓬客は轉蓬、瓢蓬などの意にて蓬客は旅客の意か。とまれかくまれこゝは自謙して云へるなり
 
まつらなるたましまがはにあゆつるとたたせるこらがいへぢしらずも
 
(とほつひと)まつらのかはにわかゆつるいもがたもとをわれこそまかめ
 ワレコソといへるに雅澄のいへる如く他人ニハ逢ハシメジといふ意こもりて聞ゆ
 
わかゆつるまつらのかはのかはなみのなみにしもはばわれこひめやも
 上三句は序なり。ナミニシモハバは世ノ常ニ思ハバなり。古今集戀四なるミヨシ野ノ大カハノヘノフヂナミノナミニ思ハバワレコヒメヤハと四五ほぼ相齊し○娘等を娘子とせる本あり
 
(922)はるさればわぎへのさとのかはとにはあゆこさばしるきみまちがてに
 ワギヘノサトは我郷なり。サバシルのサは添辭。マチガテニは待不敢にてマチカネテに齊し。不敢をガテニといふは不知をシラニといふと同例なり(卷三【三六三頁】參照)
 
まつらがはななせのよどはよどむともわれはよどまずきみをしまたむ
 瀬は水のたぎちおつる處をいひ又その中間をもいふ(なほ竹の節をも節と節との中間をもフシ又ヨといふが如し)。こゝは後の方なり。ワレハヨドマズは我ハ撓マデなり。キミヲシマタムは君ノ再來ラムヲ待タムとなり
 以上一列の歌の作者は誰ぞ。契沖いはく
  此序并に仙女に贈る歌を古來憶良の作とす。今按是は旅人卿の作なるべし。其故は太宰帥は九國二島を管攝する故に都督と號すれば所部を檢察せむために何れの國にも到るべし。此故に第六には隼人ノセトノイハホモ吉野ノ瀧ニシカズ(923)とよまれたり。是一つ〔三字傍点〕。憶良は筑前守にて輙く境を越て他國に赴く事を得べからず。是二つ〔三字傍点〕。次の吉田(ノ)連宜が状に伏奉2賜書1といひ戀v主之誠と云ひ心同2葵※[草冠/霍]1と云へるは同輩に報ずる文體にあらず。憶良は從五位下、宜も此時從五位上なればかやうには書べからず。是帥殿への返簡なる證。是三つ〔三字傍点〕。亦兼奉2垂示1梅花芳席群英擒v藻といへるも帥主人なりける故に径に梅花芳席と云へり。松浦玉潭仙媛贈答も同人の體なり是四つ〔三字傍点〕。又彼次下の憶良の書并歌は帥卿の典法に依て部下を巡察せらるゝに贈らる。書尾に天平二年七月十一日とかゝれたる三首の歌何れも憶良は終に松浦河をも領巾麾山をも見られざること明なり。是五つ〔三字傍点〕。聊辨論して後人の發明を待のみ
といへり。此論よく當れり。なほ次下にいふべし
 
   後人追和之詩三首 都〔□で圍む〕帥老
861 まつむらがはかはのせはやみくれなゐのものすそぬれてあゆか△《ツ》るらむ
(924)麻都良河波河波能世波夜美久禮奈爲能母能須蘇奴例弖阿由可流良武
 第二句のハヤミは卷三なる山タカミ河トホジロシのタカミと同格なり。ハヤサニとは譯せずしてハヤキニと譯すべし(三六八頁及四二九頁參照)○可の下に都をおとせり
 契沖いはく
  此後人をばオクルル人とよむべし。此後にもあり。後世、後學などの意にはあらず。留後など云意なり。都帥老の三字は後の人の加へたるべし。其故は上に云が如し(○契沖は舊説に反して前の一列八首の歌を旅人の作とせるが故にこれを旅人の作にあらずとし從ひて都帥老の三字を後世の添加とせるなり)。帥の追和ならば都帥老聞之追和詩三首など云べし(〇一歩を讓りて前八首を旅人の作にあらずとし此三首を旅人の作とすともなほ後人とは書くべからずといへるなり)……都といへるは都督の都歟
といひ雅澄も亦後人をオクレタル人とよみ(雅澄は前の八首を憶良の作とし此三(925)首を旅人の作とせり)又
  都とは太宰府は西海九國の都督なればいへり
と云へり。案ずるに後人はノチニ〔右△〕ヒトノとよむべし。上なる後〔右△〕追2和梅歌1四首また下なる三島王後〔右△〕追2和松浦佐用嬪面歌1一首とある後に同じ。さて前の八首は契沖のいへる如く旅人の作にて此三首も亦旅人の作なり。即旅人が後に人の追和せしに擬して作れるなり。亦都帥老の帥老は後世の添加にあらず。此卷を筆録せし人の註せしなり。此註なくては旅人の擬作と知られがたきが故なり。都の字は諸本に無きを思へばおそらくは衍字ならむ
 
862 ひとみなのみらむまつらのたましまをみずてやわれはこひつつをらむ
比等未奈能美良武麻都良能多麻志末乎美受弖夜和禮波故飛都々遠良武
 古義に
(926)  此歌にミラムといひ次の歌にもミラムとあるにて思へば憶良等の逍遙せし跡にてよまれしさまなり。還りて(○憶良等の)後によまれし(○旅人の)ものならばミケムとあるべきものなり
といへり。ヒトミナノミラムマツラノはただ世間ノ人々ノ見ルラム松浦ノといへるにて特にかの仙女と贈答せし人を指せるにあらず。さればミラムにてよくかなへり。又此歌どもは題辭に後人追和之詩とありて前の八首を見ての後に作れるなり。古義に云ふ如くば題辭と相かなはじ。否次なる歌とも相かなはじ。人の歸來らぬさきに其人の旅先にて遭ひしことを豫知るべきにあらざればなり。但次の歌なる美良牟は美家牟などの誤字なるべし。こはミラムとありては通ぜず(雅澄のいへるやうにおくれ居る人の作としても)
 
863 まつらがはたましまのうらにわかゆつるいもらを美良〔左△〕武《ミケム》ひとのともしさ
麻都良河波多麻新麻能有良爾和可由都流伊毛良遠美良牟此等能等母(927)斯佐
 タマシマノウラニとある浦は河にいへるなり。前の八首の序には玉島之潭とあり。因にいふ。いにしへの玉島川は今の玉島のわたりより左に折れて海岸線に併行して領巾振《ヒレフリ》山と虹の砂原との間を西流して今の松浦川に注ぎしを後に濱崎の東を堀りて直に海に注がせしより玉島と滿島との間の河床は埋れしなり。但今も其跡と思はるゝ溝川ありといふ。玉島之潭といひ玉島ノウラといへるは今のいづくばかりにか知られず。トモシサはこゝにてはウラヤマシサなり
     ○
  宜啓、伏奉2四月六日賜書1、跪關2封函1、拜讀2芳藻1、心神開朗、似v懷2泰初之月1、鄙懷除※[衣+去]、若v披2樂廣之天1、至v若d覊〔馬が奇〕2旅邊城〔左△〕1、懷2古舊1而傷v志、年矢不v停、憶2平生1而落u涙、但達人安v排、君子無v悶、伏冀朝宣2懷《ナヅクル》v※[擢の旁]之化1、暮春存2放v龜之術1、架2張趙於百代1、追2松喬於千齢1耳、兼奉2垂示1、梅花芳席群英擒v藻、松浦玉潭仙媛贈答、類2杏壇各言之作1、疑2※[草冠/衡]皐税駕之篇1、耽讀吟諷、感謝歡怡、宜戀v(928)主之誠、誠逾《コエ》2犬馬1、仰vコ之心、心同2葵※[草冠/霍]1、而碧海分v地、白雲隔v天、徒積2傾延1、何慰2勞緒1、孟秋|膺《アタル》v節、伏願萬祐日新、今因2相撲部領使1謹付2片紙1、宜謹啓不次
 
   奉v和2諸人梅花歌1二首
864 おくれゐて那我古飛《ナガコヒ》せずばみそのふのうめのはなにもならましものを
於久禮砥爲天那我舌飛世殊波彌曾能不乃于梅能波奈爾母奈良麻之母能乎
 
   和2松浦仙媛歌1一首
865 きみをまつまつらのうらのをとめらはとこよのくにのあまをとめかも
伎彌乎麻都麻都良乃于良能越等賣良波等己與能久爾能阿麻越等賣可忘
 
(929)   思v君未v盡重題二首
866 はろばろにおもほゆるかもしらくものちへに邊多天留つくしのくには
波漏婆漏爾於忘方由流可母志良久毛能智弊仁邊多天留都久紫能君仁波
 
867 きみがゆきけながくなりぬならぢなるしまのこだちもかむさびにけり
枳美可由伎氣那我久奈理努奈良遲那留志滿乃己太知母可牟佐飛仁家理
  天平二年七月十日
 宜啓また宜謹啓不次とある宜《ヨロシ》は吉田(ノ)連の名なり。邊城は一本に邊域とありといふ。架は駕の誤か。奉は受なり。ウケタマハリとよむべし。芳藻の藻は文なり。泰初は魏の夏侯玄の字なり。似《ニスル》v懷2泰初之月1は時人が玄を評して朗々如2日月之入1v懷といひし(930)に據れるなり。樂廣は晋の世の人。若v披2樂廣之天1は衛※[王+懽の旁]が廣を評して若d披2雲霧1而覩2青天uといひしに依れるなり。但披2樂廣之霧1と云はでは通ぜず。現に菅家文草には孰非2樂廣披霧之士1と作れり(因に云ふ。懷風藻に見えたる刀利《トリ》(ノ)宣令《センリヤウ》の詩に披v雲廣樂天とあるは樂廣を顛倒せるならむ)。邊域は太宰府を指せるなり。年矢は千字文にも見えたり。年の徃く事の迅きを矢にたとへたるなり。平生は曩日なり。安排は莊子大宗師篇に見えたり。排は推移なり。されば安排は成行に任するなり。※[擢の旁]は雉なり。雉ヲ懷クル化は後漢の魯恭の故事にて龜ヲ放ツ術は晋の孔愉の故事なり。術は心術なり。駕2張趙1は漢ノ山陽太守張敝ト陽※[擢の旁]令趙廣漢トノ治ニマサレと。なり。文選北山移文に籠2張趙徃圖1とあり。潘岳の西征賦にも趙張と併稱せり。追2松喬1は赤松子、王子喬二仙人ノ齢ト※[人偏+牟]シカレとなり。班固の西都賦、張衡の西京賦、同思玄賦、魂文帝の芙蓉池作などにも松喬とあり。※[手偏+離の左]《チ》藻は文選に多し。たとへば※[手偏+離の左]v濠如2春華1(班國答2賓戲1)※[手偏+離の左]v藻※[手偏+炎]《オホフ》2天庭1(左思蜀都賦)などあり。※[手偏+離の左]はノベタルとよむべし。藻はここにては歌の文《アヤ》なり。玉潭は玉島河之潭を約したるなり。各言は孔子が門人をして各其志を言はしめしを云ふ。杏壇は莊子漁父篇に孔子遊2平緇帷之林1休2坐乎杏壇之上1とあり。もとは地名(931)なりしを後に壇の周に杏樹を栽ゑて名にかなへたるなりと云ふ。※[草冠/衛]皐税駕は曹植の洛神賦中の語なり(※[草冠/衛]皐は※[草冠/衛]といふ草の生ひたる澤、税駕は馬を車より解き放つなり)。されば※[草冠/衛]皐税駕之篇はやがて洛神賦なり。洛神賦は曹植が洛川にて神女に遇ひし事を作れる文なり。戀v主之誠誠逾2犬馬1は同じ人の上2責v躬應v詔詩1表に不v勝2犬馬戀v主之情1とあるに據れるなり。葵※[草冠/霍]は向日葵即ヒマハリの花と豆の葉となりといふ。之を一物とする説もあれど陸機の樂府《ガフ》詩、君子有所思行(曲名)に無《ナカレ》d以2肉食(ノ)資1、取c笑葵與uv※[草冠/霍]とあればなほ二物とすべし。曹植の求v通2親親1文に若2葵※[草冠/霍]之傾1v葉、太陽雖v不2爲v之囘1v光然向v之者誠也とあり。傾延は傾首延領の略かと云へり。勞緒は勞心なり。我邦上代の詩文には緒を心の如くつかへり。孟秋は初秋なり。萬祐日新は益御幸福ナレとなり。祐は幸なり
 右の歌の中にキミヲマツ〔五字傍点〕マツラノウラノヲトメラハとあれば此書牘の誰にあてたるものなるかを詳にせば遊2松浦河1贈答歌のたが作なるかはおのづから明なるべし。かくて契沖は
  宜が状に伏奉2賜書1といひ戀v主之誠といひ心同2葵※[草冠/霍]1と云へるは同輩に報ずる文(932)體にあらず。憶良は從五位下、宜も此時從五位上なればかやうには書べからず。是帥殿への返簡なる證なり
といひ武田氏は
  宜の和梅花歌にミソノフノ梅ノ花ニモナラマシヲとあるも旅人への報書として始めて意義を生ず
といへり。げに戀v主之誠、誠|逾《コユ》2犬馬1の一句にて旅人にあてたる書牘なる事明白なり。思ふに
  梅花歌三十二首并序 序は憶良
  員外思2故郷1歌兩首 旅人
  後2追2和梅歌1四首 旅人
 以上を一卷に
  遊2松浦河1贈答歌 旅人
  後人追2和之詩三首 旅人擬作
 以上を又一卷に清書して吉田(ノ)連宜に示しゝなり。さて宜の報書に
(933)  梅花芳席群英(ノ)※[手偏+離の左]《ノベタル》v藻、松浦玉潭仙媛(ト)贈答(セル)類2杏壇各言之作1擬(ハル)2※[草冠/衡]皐税駕之篇1といへる杏壇云々は梅花芳席にかゝり※[草冠/衡]皐云々は松浦玉潭にかゝれるにて彼は諸人の合作なれば孔子の門人たちの各其志を言ひけむ辭に似たりと褒め此は旅人一人の作なれば文選なる曹植の洛神(ノ)賦かと疑はるとたゝへたるなり
 右の歌の奥に天平二年七月十日とあるにつきて古義に
  或説に此月日は恐らくは右の二首(○思君末盡重題二首)許の自注ならむ。こゝの七月十日にては因2相撲部領使1と有にたがへり。書牘并歌を贈し(○相撲部領使に托して)其後又々此二首をよみて贈られしならむ。中務省式に前v節一月云々(七月二十五日相撲節日なり)などあるにかなはず。といへり。さもあるべし
といひ
  ○毎年七月天皇相撲を觀たまふ。其日を相撲(ノ)節《セチ》といふ。此日の設として毎年二三月頃に左右近衛府より使を諸國に遣はして相撲人を徴して領じ至らしむ。之を相撲(ノ)部領使《コトリヅカヒ》といふ(以上國史大辭典に據る)。中務省式に凡相撲(ノ)司前v節一月任2堪v事者1とあるは相撲(ノ)節の事務官の任命なり。部領使の事には與からず
(934) 之に對して武田氏は
  報書の中に孟秋膺v節とある以上、やはりこの日附に係るものと見なければならぬ。この報書を附せられた相撲部領使が七月に派遣せられる筈が無いといふ事は天平二年に在つては未だその明徴を見出し得ない事である
といへり。案ずるに左右近衛府より相撲|部領使《コトリヅカヒ》(コトリヅカヒは今いふ宰領なり)を諸國に遣はしゝは後世の定にて奈良朝時代には毎年六月二十日までに(當時の相撲(ノ)節は七月七日なり)諸國より部領使をして相撲人を領じて京に上らしめしなり。類聚國史第七十三(活字本五〇五頁)に
  嵯※[山/我]天皇大同五年丁未勅。進2膂力人1者常限2六月廿日以前1。自今以後隨v得即進莫v限2期月1
とあると下なる敬和d爲2熊凝1述2其志1歌u六首の序に
  以2天平三年六月十七日1爲2相撲使某國司官位姓名從人1參2向京都1
とあるとを味ひて余の言の妄ならざるを知るべし。さて今は太宰府より上りし相撲部領使の、節果てゝ筑紫に歸るに書牘を托せしにて天平二年七月十日といふ日(935)附は全部に係れる事勿論なり
 
おくれゐて那我古飛《ナガコヒ》せずばみそのふのうめのはなにもならましものを
 ナガコヒは宣長の説に長戀なりといへり。卷十二にもタマガツマ島熊山ノユフギリニ長戀シツツイネガテヌカモとあり。セズバはセムヨリハなり
 
きみをまつまつらのうらのをとめらはとこよのくにのあまをとめかも
 契沖のいへる如く娘子の歌に君ヲシマタムとあればそれを蹈みてキミヲマツといへるなり。トコヨノ國は仙郷、アマヲトメは海人の少女なり
 
はろばろにおもはゆるかもしらくものちへにへだ天〔左△〕《ツ》るつくしのくには
 第四句の邊多天留は類聚古集に敝太津留とあるに從ふべし。もとのまゝにては語格とゝのはず
 
(936)きみがゆきけながくなりぬならぢなるしまのこだちもかむさびにけり
 初二は君ノ旅ニアル事久シクナリヌとなり。こゝのナリヌはナリヌラシの意なリ。後世ケラシの意にケリといふに同じ。ケラシの意のケリとは西行のかの
  ふりつみしたかねのみ雪とけにけり〔二字右△〕清たき川の水のしら波
の類なり。くはしくは玉緒卷六を見て心得べし○契沖いはく
  ナラヂは奈良路なり。シマは地名なり。添上郡に八島あり。此處にや
といひ略解にも
  島は大和の地名也。奈良へ通ふ路なるべし
といへり。案るにこゝの奈良路はただ奈良といふに齊し。アフミ路ノトコノ山ナルイサヤ川などと同例なり。又シマは地名にあらず。旅人の家の庭園なり。いにしへ庭園をシマといひし事は卷三(五五五頁)にいへる如し。旅人の家の庭園は殊にめでたかりきと見ゆ。卷三(五五四頁)なる旅人が太宰府より故郷に歸りし時によみし歌にも妹トシテフタリツクリシワガシマハコダカクシゲクナリニケルカモとあリ。(937)カムサビニケリは契沖のいへる如くモノフリニケリなり。此歌も亦かの遊2松浦河1贈答歌が旅人の作なる事の傍證とすべし
     ○
  憶良誠惶頓首謹啓
  憶良聞、方岳諸侯都督刺史並依2典法1巡2行部下1察2其風俗1、意内多端口外難v出、謹以2三首之鄙歌1欲v寫2五藏之鬱結1、其歌曰
868 まつらがたさよひめのこがひれふりしやまの名のみやききつつをらむ
麻都良我多佐欲比賣能故何此列布利斯夜麻能名乃美夜伎々都々遠良武
 
869 たらしひめかみのみことのなつらすと【一云あゆつると】みたたしせりしいしをたれみき
多良志此賣可尾能美許等能奈都良須等美多多志世利斯伊志遠多禮美(938)吉
    一云阿由都流等
 
870 ももかしもゆかぬまつらぢけふゆきてあすはきなむをなにかさやれる
毛毛可斯母由加奴麻都良遲家布由伎弖阿須波吉奈武遠奈爾可佐夜禮留
  天平二年七月十一日筑前國司山上憶良謹上
 代匠記以下に方岳といふ文字の出典を擧げたれど三註(代匠記、略解、古義)共に方岳諸侯都督刺史の指す所を明言せす。ただ代匠記(卷之五下一頁)に
  太宰帥は九國二島を管攝する故に都督と號すれば云々
といひ又(同卷一七頁)
  判史依2今本1大判事史生等也。依2官本1肥前守也(○今本には判史とあり官本即禁裏の御本には刺史とあるなり)
(939)といへるのみ。或人は
  國守は唐制の刺史に當り太宰帥は唐制の都督に當れるが方岳諸侯と言ふも亦太宰帥を措きて他に宛つべきもの無し
といへり。されど方岳諸侯都督刺史並依2典法1巡2行部下1とあるを方岳諸侯都督の六字を太宰帥に充て刺史の二字を國守に充つべきにあらず。案ずるに方岳諸侯都督刺史は封建制の方岳を郡縣制の都督に、封建制の諸侯を郡縣制の刺史にむかはしめたるにて方岳都督を太宰帥に比し諸侯刺史を國守に比したるなり。文選の注に藩岳謂2諸侯1也とあるに泥むべからず○並依2典法1巡2行部下1察2其風俗1の並は各の義なり。太宰帥は九國二島を巡行し筑前守は筑前國を巡行するが典法に依るなり○意内多端口外難v出とある意内は三首の歌によりて察するに身、筑前守たれば界を踰えて隣國の勝地舊蹟を遊覧することを得ざるを嘆ぜるなり。之によりても亦かの遊2松浦河1贈答歌が憶良の作にあらざることを知るべし
 
まつらがたさよひめのこがひれふりしやまの名のみやききつつをらむ
(940) マツラガタは松浦縣なり(宣長)。サヨヒメノコといへるコは子にて親しみていふなり(雅澄)○ヒレはいにしへ婦人の領《クビ》より肩にかけし巾なり。山ノ名ノミヤキキツツヲラムは上(九二五頁)なるミズテヤワレハコヒツツヲラムと同意にて身を心に任せざるを嘆けるなり。古義にマノアタリ見ズシテ戀シク思ヒツツ居ムヤとなりといへるは山ノ名ノミ聞キツツヤハ居ルベキ、イデ見ニ行カムといふ意と誤解せるなり(雅澄はかの遊2松浦河1贈答歌を憶良の作とし『此三首は未松浦の地に到らざりし時の作と見ゆ』といへり。其説の非なることは上來辨拆る所を見て知るべし)○領巾振《ヒレフリ》山は肥前國東松浦郡鏡村の東にあリて一名を鏡山といふ。その北麓は即虹の松原なり
 
たらしひめかみのみことのなつらすとみたたしせりしいしをたれみき 一云あゆつると
 神功皇后の玉島川にて鮎を釣りたまひしこと記紀に見えたり。ナは魚の一名なり。雅澄は『魚をナと云は饌に用る時の稱なり』といへれど海中に魚の集れるをナムラといひ(これは雅澄自擧げたり)鯨をイサナといふなどを思へば必しも饌に用ふる(941)時に限りていふ名にもあらじ。ミタタシはタツの敬語タタスを名詞としてタタシといふそれにミを添へたるなり。イシヲタレミキとある石は古義に雲根志を引き
  肥前國松浦郡浮島と玉島川の間の松原に大石あり。其石方七尺ばかり。むらさき石と俗によべり。……昔神功皇后三韓退治の時此石上に立てうけひて釣し給ひしよし云傳へたり
といへり。今松浦郡に浮島といふ處あるを聞かず。げに源氏物語玉葛(ノ)卷に故少貮の子等姫君を具して肥前より遁げ上る處に
  ただ松浦(ノ)宮の前の渚と、かの姉おもとの別るゝとなんかへり見せられて悲しかりける 浮島〔二字右△〕を漕ぎはなれてもゆく方やいづくとまりと知らずもあるかな
とあれどさる地名實にあるにやおぼつかなし(松浦(ノ)宮とあるはやがて大夫(ノ)監《ゲン》の君ニモシ心タガハバ松浦ナルカガミノ神ニカケテチカハムとよめる神にて今も領巾振山の西麓に鏡宮とてましませり。祭神は神功皇后なり)。たとひさる處ありともそはいにしへの玉島川の川筋の附近なるべくさては今の玉島川とは遙に相隔た(942)れり。されば雲根志にいへる浮島と玉葛(ノ)卷なる浮島とは同處と見るべからず。書紀通證には
  玉島里在2松浦郡濱崎驛南半里1。或曰玉島川(ノ)岸有2大石1。方七尺許。俗名2紫石1。傳云2皇后垂釣之處1
といひ書記通釋(第三の一八四八頁)には
  或人云。川邊の小高き處に皇后の御社あり。其かたへに垂綸石碑あり。紫石は元和年中の洪水にて水底にうづもれたりといへり
といへり。此紫石は古事記に爾坐2其河中之礒1拔2取御裳之糸1以2飯粒1爲v餌釣2其河中之年魚1とある註に
  其河名謂2小河1亦其礒名謂2勝門比賣《カチドヒメ》1也
とあるカチド姫の事なりや(記傳第二の一八六二頁を參照すべし)。神后〔二字右△〕垂綸石碑の文は左の如し
  昔 神后將v有v事2于韓1、西巡至2于玉島1、立2水中石1、投v釣以祝、獲2細鱗魚《アユ》1、逐大致2戎于外荒1如v志、後人建2祠其河上1以祭、距v今千有六百年、水道渝易、石沒而不v見、今茲丁丑土人石(943)井助右衛門與2岡志者1謀、樹2碑其祠側1表v之、來|謁《コフ》2余文1、恭惟 后之靈聖威武、異域亦|籍《ツタフ》v之、況松浦靈蹟、耿2于國史1結2于民心1、陵谷雖v變、有2赫然不v變者1永存、夫碑存2不v存者1也、石有v時以※[さんずい+こざと+力]《コボル》、神明|攸《トコロ》v躔《フム》天地悠久、借《タトヒ》曰2爲埋2石表1、我小人竊畏焉、又何敢文、抑遠方之人彷徨惑2于無1v跡、若※[言+壽]張《チウチヤウ》爲v幻、則是擧亦無v罸、謹紀2其由1作v銘、姑以告2于往來弔v古者1爾鬱々紫石、神靈不v、厥蟄《ソノカクルル》不v遠、在2茲廟域1、後世千歳、隱見|胡《ナンゾ》識、生當2厥《ソノ》無1、鑒《ミヨ》2我石刻1
  文化十四年冬十月筑前龜井c敬撰并書
 龜井|c《イク》は即昭陽なり○タレミキとあるを玉緒卷七(三丁)に
  これは上にタレといへば見シと結ぶべきを見キといへるはたがへり。もしは志を吉に誤れる歟
といへるは非なり。いにしへはタレカといへばミシといひ、ただタレと云へばミキといひしなり。イツ見キ〔右△〕トテカコヒシカルラム、イク夜ネザメヌ〔右△〕スマノ關守などみな此格によれるなり。又山彦ノコタヘニコリヌ心ナニナリ〔右△〕、秋萩ノ花ノ色トハイヅレマサレリ〔右△〕などよめるを見るべし。古義にアメニフリキヤなどを例に引けるはいみじき誤なり。こはフリシヤとは云ふべからざる格なり。さてタレ見キはタレカ見(944)シといはむに齊しくて古義にいへる如くサテサテ羨マシキカナといふ意を含めり
 
ももかしもゆかぬまつらぢけふゆきてあすはきなむをなにかさやれる
 初二は百日ノ旅程ニモアラヌといふ意、アスハキナムヲは明日ハ歸ルベキヲなり。ナニカサヤレルは何事カ障《サハ》レルといふ意にて自|詰《ナジ》りたるなり
 
  大伴佐提比古(ノ)郎子《イラツコ》特被2朝命1奉2使藩國1、艤v棹|言歸《ココニユキ》、稍赴2蒼波1、妾也松浦【佐用嬪面】嗟2此別易1、歎2彼會難1、即登2高山之嶺1、遙望2離去之船1、悵然斷肝、黯然※[金+肖]魂、遂脱2領巾1麾v之、傍若寞v不2流涕1、因號2此山1曰2領巾麾之嶺《ヒレフリノネ》1也、乃作v歌曰
871 (とほつひと)まつらさよひめつまごひにひれふりしよりおへるやまのな
得保都必等麻通良佐用比米都麻胡非爾比例布利之用利於返流夜麻能(945)奈
 藩國は任那《ミマナ》なり。文選江賦にも※[木+義]榜とあれど棹は船と心得べし。史記項羽紀には※[木+義]船とあり。佐用嬪面《サヨヒメ》を分註とせるは誤れり。宜しく本文に復すべし。別易會難は遊仙窟の語、黯然※[金+肖]魂は江淹の別賦の辭なり。契沖は此歌并に序を旅人の作として
  右の憶良書中并和歌三首ともに憶良は松浦山玉島川ともに終に見られざる由をかけり。典法に依て巡察する次《ツイデ》に帥殿の見けるなるべし。歌も序も共に大伴卿の作なるべし。憶良は筑前國司なれば別勅などに依らずばたやすく境を出て他國に赴かるべきにあらず
といへり。此説に從ふべし○オヘルは負持テルなり
 
   後人追和
872 やまのなといひつげとかもさよひめがこのやまのへにひれをふりけむ
夜麻能奈等伊賓都夏等可母佐用此賣何許能野麻龍閉仁必例遠布利家無
(946) ヤマノナトは山ノ名トシテなり。略解にこのトをト共ニの意として『さよひめがおのが名も山の名と共に言繼げと思ひてか領巾をふりけんと也』といへるは非なり。ヤマノヘは山の上なり。上にヒトノヒザノ倍《ヘ》ワガマクラカムといひつ(八七四頁)タレカウカベシサカヅキノ倍《ヘ》ニといへる(九〇七頁)みな上の意のへなり
 
   最後人追和
873 よろづよにかたりつげとしこのたけにひれふりけらしまつらさよひめ
余呂豆余爾可多利都夏等之許能多氣仁比例布利家良之麻通羅佐用嬪面
 タケは今いふダケなり
 
   最最後人追和二首
874 うなばらのおきゆくふねをかへれとかひれふらしけむまつらさよひめ
(947)宇奈波良能意吉由久布禰遠可弊靈等加比靈布良斯家武麻都良佐欲比賣
 トカはトテカなり
 
875 ゆくふねをふりとど尾《ミ》かねいかばかりこほしくありけむまつらさよひめ
由久布禰遠布利等騰尾加禰伊加婆加利故保斯苦阿利家武麻都良佐欲此賣
 領巾フリトドメカネテといふべきを略してただフリトドミカネといへるなり(略解)○以上四首は皆旅人が(かの遊2松浦河1贈答歌の追和とおなじく)後人の追和に擬して作れるなり。後人追和、最後人追和、最々後人追和と重ねたるは適に眞の後人追和にあらざる事を語るものなり
 
   書殿餞酒日倭歌四首
876 (あまとぶや)とりにもがもやみやこまでおくりまをしてとびかへるも(948)の
阿摩等夫夜等利爾母賀母夜美夜故摩提意久利摩遠志弖等比可弊流母能
 うた〔二字傍点〕を倭歌といへる之を以て初出とす(集中に和歌と書けるは今いふ返歌か又は唱和なり)。略解にいはく
  こゝは送別の詩有し故にそれに對して倭歌とことわれるなるべし。前にも詩にならべて日本挽歌と書る事あり
といへり。作者については契沖は
  此は大伴卿都へ還り上らるゝを憶良の餞宴を設けらるゝ日の歌なり。……四首は此宴に預る人々のよめる歟。然らば一々の作者知がたし。終に(○次なる聊布2私懷1歌三首の後に)憶良上とあるは七首に通じて云へる歟。聊布2私懷1と云三首に限るべき歟。憶良も別を惜む一首をよまれざる事あるまじければ四首の中に有歟
といへり。『憶良の餞宴を設けらるゝ日の歌なり』とは何に基づきて云へるにか。もし(949)聊布2私懷1歌の後に憶良謹上とあるが故にとならば『四首は此宴に預る人々のよめる歟云々』の論は起るべきにあらず、案ずるに次なる聊布2私懷1歌三首は獨立の題辭と認むべからざれば即書殿餞酒日聊布2私懷1歌とあるべきを書殿餞酒日の五字を前の歌の題辭に讓りたるなれば憶良謹上とあるは兩題七首の歌に亘れるなり。即この書殿餞酒日倭歌四首は皆憶良の作なり○書殿はフミドノ(後にはフドノ)とよみて文書を置く處なり。この書殿につきて契沖は
  書殿と云事は筑前守(ノ)館は憶良の私の家にあらざる故なり
といひて筑前國司の官衙のうちとし略解には
  憶良の家にて馬のはなむけせらるゝ歌也。……書殿は書院といふが如し
といひ古義には
  書殿はフミトノと訓べし。後世の書院の事なり。和名抄に校書殿云々、江次第に文殿(ノ)官人云々。此等は公の文殿なり。今は私の書院なるべし。源氏物語に云々、紫式部日記に云々、十訓抄に云々なども見えて文殿は公にも私にもさるべき家には必ありしなり。……此は憶良の書院にて餞する時の歌なり
(950)といひて憶良の私邸とせり。案ずるにもし私邸又は國衙に招請しての餞宴ならばただ書殿とは書放すべからず(其上國司の私邸にはおそらくは書殿の設まではあらじ)。さればこゝに書殿とあるは太宰府の書殿にてそこに舊部下の人々集りて前帥の爲に餞宴を開きしならむ
  因にいふ書殿と後世の書院とは混同すべからず。書院はもと寺院の書齋を云ひしが後に建築上の名稱となりしなり。官學に對して私設の學校を書院といふは又別なり
 ガモヤのヤは助辭、二三句の間に鳥ナレバといふことを挿みて聞くべし
 
877 ひと母禰のうらぶれをるにたつたやまみまちかづかばわすらしなむか
此等母禰能宇良夫禮遠留爾多都多都〔四角で圍む〕夜麻美麻知可豆加婆和周良志奈牟迦
 宣長は初句の母禰を彌那の誤としてヒトミナノとよめり。人皆ノといふことなる(951)はほぼ疑なけれど輕々しく誤字とは斷ずべからず。例の字音辨證(下卷四四頁)にはまづ牟をミともよむべき事を論じて次に
  比等母禰能 これも母はミの假字にて人皆之なり。上の牟と互に證して共にミの音あることを知るべし
といひ又(下卷一六頁)
  禰をナと呼は呉音ナイを省呼したるものなるべし。其は同轉の乃をナに用ゐたると同例也
といへり。案ずるに當時筑紫の方言にヒトミナをヒトモネと訛《ナマ》りしによりてわざとかくはいへるにあらざるか○筑紫人ノ嘆キヲルニ大和ノ立田山ニ御馬ガ近ヅカバ筑紫ノ人々ヲ忘レ給ハムカとなり。ワスルの敬語はワスラスなり。さればワスラシナムカは忘レ給ハムカなり
 
878 いひつつものちこそ斯良米《シラメ》等乃〔二字左△〕斯久母〔左△〕《シマシクハ》さぶしけめやもきみいまさず斯〔□で圍む〕て
伊此都々母能知許曾斯良米等乃斯久母佐夫志計米夜母吉美伊麻佐受(952)斯弖
 宣長いはく
  或人(ノ)説に斯良米の斯は阿の誤、等乃は志萬の誤にてノチコソアラメシマシクモと訓べし。一首の意は戀シナドイヒツツモ後ニハサテモ有べケレド此シバラクノホドモ君イマサデサビシカラムカ也
といへり。案ずるに斯はもとのまゝ、等乃は宣長のいへる如く志萬などの誤、母は波などの誤にて
  口々ニサビシトイヒツツモマコトノサビシサハ後ニコソオモヒ知ラメ、別レ奉リテシバシノ程ハ君ガイマサズシテサビシカラムヤ、サビシカラジ
と人の意表に出でたることを云へるなるべし。又結句の斯は衍字なるべし
 
879 よろづよにいましたまひてあめのしたまをしたまはねみかどさらずて
余呂豆余爾伊麻志多麻此提阿米能志多麻乎志多麻波禰美加度佐良受(953)弖
 卷二長歌(二七六頁)にもアメノシタマヲシタマヘバとあり。臣下の政を執るは天皇に聞え上げてものするが故にアメノシタマヲスといふ
 
   聊|布《ノブル》2私懷1歌三首
880 (あまざかる)ひなにいつとせすまひつつみやこのてぶりわすらえにけり
阿麻社迦留此奈爾伊都等世周麻此都都美夜故能提夫利和周良延爾家利
 ヒナニイツトセスマヒツツは五年の間筑前守にてあるをいふ。テブリは風俗なり○聊は諸本に敢とあり
 
881 かくのみやいきづきをらむ(あらたまの)きへゆくとしのかぎりしらずて
加久能未夜伊吉豆伎遠良牟阿良多麻能吉倍由久等志乃可伎利斯良受(954)提
 カクノミヤはカクヤといふべきを強く云へるなり。イキヅキは嘆息なり。キヘユクは來經行にて過行く事なり○此歌を見れば當時國司の交替は四年を以て限とせしその年限を過ぎたれど召還されざりしなり。もし年限の内ならばキヘユク年ノカギリ知ラズテとはいはじ。契沖雅澄の年限の内とせるは從はれず。天平寶字二年十月の勅にも頃年國司交替スルコト皆四年ヲ以テ限トスとあり
 
882 あがぬしのみたまたまひてはるさらば奈良のみやこにめさげたまはね
阿我農斯能美多麻多麻比弖波流佐良婆奈良能美夜故爾※[口+羊]佐宜多麻波禰
  天平二年十二月六日筑前國司山上憶良謹上
 アガヌシは旅人をさしていへるなり。ミタマは御恩、メサゲは召上なり
 
   三島王後追2和松浦|佐用嬪面《サヨヒメ》歌1一首
(955)883 おとにきき目にはいまだ見ずさよひめがひれふりきとふきみまつらやま
於登爾吉岐目爾波伊麻太見受佐容比賣我必禮布理伎等敷吉民萬通良楊滿
 キミマツラヤマは君待ツを松浦山にいひかけたるにてキミは句中の枕辭ともいふべし。集中にツママツノ木ハ、キミマツ原ハなどもよめり○古義にフリキトフの處に
  キはシといふに近くて上にイシヲタレミキとあるキに同じ
といへるはいみじき誤なり。フリキトフこそ常の格なれ。フリシトフは所謂略辭格にてナリを略せるなり
 
   大伴(ノ)君|熊凝《クマゴリ》歌二首【大典麻田陽春作】
884 國遠き路の長手をおほほしく許〔左△〕布《ケフ》やすぎ南《ナム》ことどひもなく
國遠伎路乃長手遠意保保斯久許布夜須疑南己等騰比母奈久
(956) 次なる憶良の歌の題辭によれば麻田(ノ)連|陽春《ヤス》(卷四【六八八頁】に見えたる)が熊凝の辭世に擬して作れるなり。熊凝は肥後人にて京に上る途にて安藝國にて死にしなり
 國は故郷、路ノ長手は考及古義にいへる如く黄泉の道なり。ヲはヨリのヲなり。許布夜の許は諸本に計とあり。さればケフヤとよむべし。スギナムは行キナムなり。コトドヒモナクは途スガラ物言フコトモナクとなり。略解古義に『父母にものいふこともなきをいふ』といへるは非なり
 
885 朝露のけやすき我身ひと國にすぎがてぬかもおやの目をほり
朝露乃既夜須伎我身比等國爾須疑加弖奴可母意夜能目遠保利
 アサツユノは朝露ノ如クとなり。ヒト國は考にいへる如く黄泉なり。スギガテヌカモは行キカヌルカナとなり。オヤノ目ヲホリは親ニ逢ハマホシクテといふ意、卷四〈八一七頁)にもシカゾ待ツラム君ガ目ヲホリとあり
   筑前國司守山上憶良敬和d爲2熊凝1述2其志1歌u六首并序
  大伴君熊凝者肥後國|益城《マシキ》郡人也、年十八歳、以2天平三年六月十七日1(957)爲2相撲使某國司官位姓名從人1參2向京都1、爲v天不幸、在v路獲v疾、即於2安藝國佐伯郡高庭驛家1身故也、臨終之時長歎息曰、傳聞假合之身易v滅、泡沫之命難v駐、所以《ソレユヱニ》千聖己去、百賢不v留、况乎凡愚微者、何能逃避、但我老親並在2庵室1、待v我過v日、自有2傷心之恨1、望v我違v時、必致2喪明之泣1、哀哉我父、痛哉我母、不v患2一身向v死之途1、唯悲2二親在v世之苦1、今日長別、何世得v覲、乃作2歌六首1而死、其歌曰
886 (うちひさす) 宮へのぼると (たらちし夜〔左△〕《ノ》) ははが手はなれ 常しらぬ 國のおくかを 百重山 越てすぎゆき いつしかも 京師《ミヤコ》をみむと おもひつつ かたらひをれど おのが身し いたはしければ (玉梓の) 道の△麻尾《クマミ》に くさたをり しばとりしきて △等計〔左△〕自母能《ヲトコジモノ》 うちこいふして おもひつつ なげきふせらく 國にあらば 父とりみまし 家にあらば 母とりみまし 世間《ヨノナカ》は かくのみならし (いぬじもの) 道にふしてや いのちすぎなむ 一云わがよすぎ(958)なむ
宇知比佐受宮弊能保留等多羅知斯夜波波何手波奈例常斯良奴國乃意久迦袁百重山越弖須疑由伎伊都斯可母京師乎美武等意母比都々迦多良此袁禮騰意乃何身志伊多波斯計禮婆玉梓乃道乃麻尾爾久佐太袁利志婆刀利志伎提等計自母能宇知許伊布志提意母比都都奈宜伎布勢良久國爾阿良波父刀利美麻之家爾阿良婆母刀利美麻志世間波迦久乃尾奈良志伊奴時母能道爾布斯弖夜伊能知周疑南 一云和何余須疑奈牟
 これも熊凝の辭世に擬して作れるなり。六首とあるは長歌一首短歌五首なり。敬和とあれば大典麻田(ノ)陽春に贈れるなり。國司は守介※[掾の手偏が木偏]目の總稱にもいへば國司守とは書けるなり○以2天平三年六月十七日1……參2向京都1とある六月は誤字なるべし。上(九三四頁)に云へる如く當時の相撲節は七月七日にて諸國より相撲人を奉る期限は六月二十日なればなり○相撲使某國司官位姓名とある國司は總稱の方なり。守にはあらず。相撲使は微職にて守の自當るべきものにあらねばなり。さて某國(959)司官位姓名とおぼめかしたるは不審なり。うせし從僕の姓名年齢郷貫、うせし地、うせし年月日まで明なるに其男の主人の官位姓名の不明なる道理なきにあらずや。又何故に或國の相撲使の從人の京に上る途にて病みて死にしばかりの事を麻田連陽春が歌に作り憶良が之に和して長歌をさへ作りしにか、これも不審なる事なり(卷十六に見えたる筑前國志賀の白水郎荒雄の事は人の同情を惹くべき美談にて今と比すべからず)。此等の點を詳にせば或は得る所あらむと思へど今は考へ及ばねばただ後人の爲に目を著くべき處を示しおくのみ○身故は契沖、今按身(ノ)下脱v物耶といへり。爲天は略解に天ナルカナ(古義にはカモ)とよめり。喪明之泣は子夏が其子を失ひて失明せし故事なり
 宮は皇居なり。都とは同じからず○タラチシ夜の夜は一本に能とありといふ○ツネシラヌは平生ユキカヒセヌの意。ミチノオクカは筑紫を端として京に上る道の國々を云へるなり。古義に『國のゆきはての意なり』といへるは非なり。オクカヲはスギユキにかゝれり○カタラヒヲレドは傍輩ト語合ヒヲレドとなり○オノガミシは我身シといふべきを五言に足らねばオノガといへるのみ。イタハシはナヤマシ(960)なり○麻尾の上に諸本に久の字あり。クマミは曲角なり。卷二(一六四頁)にもミチノクマミニシメユヘワガセとあり。因にいふ。本集に見えたる歌語の中には漢籍を訓讀するにつきて出來たるにはあらざるかと思はるゝもの往々あり。ミチノクマ又ミチノクマミの如きも道周といふ漢語の飜譯にあらざるか。道周は毛詩有※[木+大]之杜に
  有2※[木+大](タル)之杜1生2于道周1【○※[木+大]之はテイタルとよむべし※[木+大]は音テイ木の特生せるさまなり杜は木の名】
 文選謝※[月+兆]和2徐都曹1詩に
  桃李成2蹊径1桑楡|蔭《オホフ》2道周1
とあり。又季歴(周ノ(ノ)文王の父)の作と傳ふる哀慕歌に
  梧桐萎々生2於道周1
とあり○クサタヲリ云々は途中にて病に罹りたれば道の傍に草を折り柴を取りて敷きて床を作るなり。クサタヲリの下にもシキといふことを加へて聞くべし〇等計ジモノは契沖計を許の誤としてトコジモノとよみ千蔭雅澄は之に據りて『床の如くといふなり』といへり。案ずるに床ニ臥ス如ク臥シテといふことを床ジモノ(961)ウチコイフシテとは云ふべからず。されど計はなほ許の誤なるべく又等許の上に乎の字などのおちたるにてヲトコジモノなるべし。うちこいふしなどは男のすまじき事、さるをヲトコジモノウチコイフシテといへるは卷二長歌(三〇〇頁)なるミドリ兒ノコヒナク毎ニトリアタフ物シナケレバヲトコジモノワキバサミモチと同例なり。コイフシテはただ臥シテといふに同じ○オモヒツツナゲキフセラクは嘆キ臥シツツ思ヘラクとさかさまにして心得べし○トリミルは世話する事なり。卷七にも肩ノマヨヒハ誰カトリミムとあり。略解に『とりあげ見る也』といへるは非なり○ヨノナカハカクノミナラシは上(八六三頁)にも見えたり。人事の避けがたきを云へるなり。イノチスギナムは死ナムとなり〇一云ワガヨスギナムとあるは次の短歌に屬すべきなり
 
887 (多良知遲〔左△〕能《タラチシノ》)ははが目みずておほほしくいづちむきてかあが和可留良〔二字左△〕武
多良知遲能波波何目美受提意保々斯久伊豆知武伎提可阿我和可留良(962)武
 遲の字諸本に子《シ》とあり。ハハガ目ミズテは母ニ逢ハズシテなり。結句はアガワカレナ〔二字右△〕ムとあるべきなり
 
888 つねしらぬ道の長手をくれぐれといかにかゆかむかりてはなしに 一云かれひはなしに
都禰斯良農道乃長手袁久禮久禮等伊可爾可由迦牟可利弖波奈斯爾 一云可例此波奈之爾
 ツネシラヌ道ノ長手は黄泉の道なり。クレグレトは卷十三なる長歌にもオキツ浪キヨル濱邊ヲクレグレト獨ゾワガクル妹ガ目ヲホリとあり。契沖は
  クレクレトとは悠なるに云詞也。俗にクレハルカと云も是なり
といひ宣長は
  齊明記にウシロモクレニとあるクレ也。クレは闇き意にておぼつかなきさま也。今俗言にもウシログラキなど云
(963)といへり。案ずるにこのクレグレトは杳々といふ漢語の直譯ならざるか。杳々は文選なる潘岳の寡婦賦に
  時曖々而向v昏兮、日杳々而西匿
 また飽明遠の樂府《ガフ》詩八首の東門行に
  遙々征駕遠、杳々落日晩
などあり。さればクレグレトは冥《クラ》き状なるべきを杳に冥の義の外に遙の義あるより轉じてハルバルトといふ意に用ひたるにあらざるか。なほ卷十三に至りて云ふべし○イカニカはイカデカなり○カリテは記傳卷二十七(全集第二の一六五六頁)に
  カリテはカレヒテの約りたるなり。カレヒテはカレヒノ料と云意なり(カレヒにする料の米と云ことなり。カレヒの價と云意にはあらず)。カテはカリテのリを省けるなれば此も同くカレヒテなり。さてカレヒは乾飯《カレイヒ》にて旅には飯を乾《ホシ》てもちゆくなり。それよりうつりて必しも乾たるならざれども旅にて食ふ飯をばカレヒと云なり(964)といへり
 
889 家にありてははがとりみばなぐさむるこころはあらまししなばしぬとも 一云のちはしぬとも
家爾阿利弖波波何刀利美婆奈具佐牟流許許呂波阿良麻志斯奈婆斯農等母 一云能知波志奴等母
 ノチハは後ニハにて終ニハの意なり
 
890 出《イデ》てゆきし日をかぞへつつけふけふとあをまたすらむちちははらはも 一云ははがかなしさ
出弖旦伎斯日乎可俗閉都都家布家布等阿袁麻多周良武知知波波良波母 一云波波我迦奈斯佐
 ハモほ尋ね慕ふ意の辭なり
 
891 一世には二遍《フタタビ》みえぬちちははをおきてやながくあがわかれなむ 一云相別|南《ナム》
(965)一世爾波二遍美延農知知波波袁意伎弖夜奈何久阿我和加禮南 一云相別南
 初二の意明ならず。試に云はば親ノ一代ノ間ニ生レカハリテ二度子トナルコトハ出來ヌといふ意にや。なほ考ふべし
 以上長歌一首短歌五首のうちタラチシノといふ歌を除きては皆結句の下に一云とあり。これについて略解に
  按に天平勝寶年中に奈良の藥師寺にたてられたる佛足石の碑の歌……などことごとく結句を二樣によめり。右の反歌此體に同と。此ごろかゝる體も有しにや。されば長歌の終に和何余須疑奈牟と有は次の多羅知遲能云々の短歌に添たるが誤て長歌の終に入しなるべしといへり。案ずるに卷三(三九一頁及五五三頁)に久老が佛足石體と認めたる歌二首あれど
  たくひれのかけまくほしき妹の名をこのせの山にかけばいかにあらむ 【一云かへばいにあらむ】
(966)の方は一本にカケバ、又一本にカヘバとあるにてもあるべく
  ゆくさにはふたりわがみし此埼をひとりすぐればこころがなしも【一云みもさ可ずきぬ】
とあるは作者の改作にてもあるべし。されどこゝの五首の歌は五首共に一云とあるを見ればわざと結句を調べ返せるなりとおぼゆ。さて佛足石の碑の歌は今の歌より後の作なれば今の歌に倣ひたるにこそ。憶良は從來の句法のみを守らで自機杼を出だしし人なれば(長歌を二段又は三段に分ちて各段の末に七言の句を重ねたるなど)今の體も憶良の創意なるべし
 
   貧窮問答歌一首并短歌
892 風|雜《マジリ》 雨ふるよの 雨雜《アメマジリ》 雪ふるよは すべもなく 寒《サムク》しあれば 堅塩《カタシホ》を 取つづしろひ 糟湯酒《カスユザケ》 うちすすろひて し可〔左△〕《ハ》ぶかひ 鼻ひしびしに しかとあらぬ ひげかき撫《ナデ》て あれをおきて 人はあらじと ほころへど 寒しあれば 麻被《アサブスマ》 引かがふり 布かた衣《ギヌ》 ありのことごと きそへども 塞夜《サムキヨ》すらを われよりも 貧《マヅシキ》人の (967)父母は 飢〔左△〕寒《ハダサムカ》らむ 妻子等《メコドモ》は 乞|乞〔左△〕《テ》泣らむ 此時は いかにしつつか 汝《ナガ》代はわたる
天地は ひろしといへど あがためは 狹《サク》やなりぬる 日月は あかしといへど あがためは 照やたまはぬ 人皆か 吾耳《アレノミ》やしかる わくらばに ひととはあるを ひとなみに あれも作《ナレル》を 綿もなき 布かた衣の みるのごと わわけさがれる かがふのみ 肩に打懸 ふせいほの まげいほの内に 直土《ヒタツチ》に 藁解敷て 父母は 枕のかたに 妻子《メコ》どもは 足《アト》の方《カタ》に 圍居《カクミヰ》て ウレヒサマヨヒ》 かまどには 火氣《ケブリ》ふきたてず こしきには くものすかきて 飯炊《いひかしぐ》 事もわすれて (ぬえ鳥の) のどよび居《ヲル》に いとのきて 短(キ)物を 端《ハシ》きると 云之如《イヘルガゴトク》 楚取《シモトトル》 五十戸良〔左△〕《サトヲサ》がこゑは 寢屋とまで 來立呼ひぬ かくばかり すべなきものか 世間《ヨノナカ》の道
風雜雨布流欲乃雨雜雪布流欲波爲部母奈久寒之安禮婆堅塩乎取都豆(968)之呂比糟湯酒宇知須須呂比弖之可夫可比鼻※[田+比]之※[田+比]之爾志可登阿良農比宜可伎撫而安禮乎於伎弖人者安良自等富己呂倍騰寒之安禮波麻被引可賀布利布可多衣安里能許等其等伎曾倍騰毛寒夜須良乎和禮欲利母貧人乃父母波飢寒良牟妻子等波乞乞泣良牟此時者伊可爾之都都可汝代者和多流天地者比呂之等伊倍杼安我多米波狹也奈理奴流日月波安可之等伊倍騰安我多米波照哉多麻波奴人皆可吾耳也之可流和久良婆爾比等等波安流乎此等奈美爾安禮母作乎綿毛奈伎布可多衣乃美留乃其等和和氣佐我禮流可可布能尾肩爾打懸布勢伊保能麻宜伊保乃内爾直土爾藁解敷而父母波枕乃可多爾妻子等母波足乃方爾圍居而憂吟可麻度柔播火氣布伎多弖受許之伎爾波久毛能須可伎弖飯炊事毛和須禮提奴延鳥乃能杼與比居爾伊等乃伎提短物乎瑞伎流等云之如楚取五十戸良我許惠波寢屋度麻※[人偏+弖]來立呼比奴可久婆可里須部奈伎物能可世間乃道
(969) 此歌二段よリ成れり。ナガ代ハワタルまでが問にてアメツチハ以下が答なり。各段の末に七言の句を重ねたる事令v反2惑情1歌に同じ○アメフル夜ノのノは卷三なるフタ神ノタフトキ山ノ〔右△〕ナミタチノ見ガホシ山ト(四六九頁)天ツチニクヤシキ事ノ〔右△〕世ノナカノクヤシキ事ハ(五〇八頁)などのノに同じくニシテ又と譯して心得べきノなり。されば風マジリ雨フル夜ノ〔右△〕雨マジリ雪フル夜は雨ノ夜或ハ雪ノ夜といふ意にはあらで雨雪ノ風ニタグフ夜といふ意なり○スベモナクは寒さを防がむすべなきなり○倭名抄廣本(箋註本四卷六四丁)に
  鹽 陶隱居曰、鹽有2九種1、白鹽 和名阿和之保 人常所v食也、崔禹錫(ノ)食經云、石鹽一名白鹽、又有2黒鹽1【今案俗呼黒鹽爲堅鹽日本紀私記云堅鹽岐多之是也】
とありて海塩の純良なるものをアワシホといひ不純なるものをカタシホ又キタシといふなり(崔禹錫食經なる白鹽は即岩鹽にて白鹽和名阿和之保とあると名は同じくて物は別なり)○ツヅシロヒはツヅシリの延言にて少しづつ食ふ事なりといふ。例は古義に擧げたり。トリは添辭なり○カスユザケは契沖酒の糟を湯に煎たるなりといへり○考に之可夫可比の上の可を波の誤とせり。シハブカヒはシハブ(970)キの延言なり。鼻ヒシビシニを略解に『鼻ビシビシは嚔《ハナヒ》也。ハナビシハナビシと重ねいふを略ていへり』といへるは非なり。鼻ガヒシビシトといふことにてそのヒシビシは鼻の鳴る音なるべし。ヒシビシト〔右△〕をヒシビシニ〔右△〕といふはかの鹽コヲロコヲロニ〔右△〕カキナシテと同例なり○シカトアラヌは雅澄の『今世にハカバカシカラヌといふ意なるべし』といへる如し○ホコロヘド寒クシアレバは前なる寒クシアレバに對してナホ寒クシアレバの意と見べし○ヌノカタギヌは袖なし羽織の如きものとおぼゆ。アリノコトゴトは有ル限なり。キソフはキオソフにて重ね着る事○サムキ夜スラヲの上にもナホといふ辭を加へて聞くべし。こゝのスラは卷二(二五二頁)なるニギ膚スラヲ、卷三(四七二頁)なる山道スラヲのスラと同類にて主語を強むる辭なり。以上問者自身の上にて以下は問者の心に思ふ所なり○飢寒良牟は從來ウヱサムカラムとよめれどウヱは動詞、サムシは形容詞なればそれを重ねてウヱサムカラムとは云ふべからず。考には飢を肌の誤としてハダサムカラムとよめり。しばらく之に從ふべし○乞乞は乞弖の誤ならむと契沖云へり。コヒテナクラムは卷二人麿の長歌(三〇〇頁)にもミドリ兒ノコヒナクゴトニとあり。但こゝは食のみな(971)らず衣をも乞ひて泣くなり○コノトキハはカカル時ハなり。下にイカニシツツカとあれば一囘の事にあらざるなり○ナガ代ハワタルの汝《ナ》は我より貧しき人に對して云へるなり
 アメツチハ以下はその貧しき人の心なり。古義に『次(ノ)句も自の上の事をいひて答たるにはあらず』と云へるは非なり。問者も貧しくはあれど、なほ堅鹽をつづしり糟湯酒をすゝり麻衾を被り布肩衣を重ぬる程の餘裕はあるを被問者はさる餘裕だになき樣なるを見ても以下は別人の上なる事をさとるべし○狹を舊訓にセバクとよめるを契沖『古語に任てサクとよむべし』といへり○吾耳は古義の如くアノミともよむべし。ワクラバニはタマタマニの意なりと契沖いへり。作乎は略解にナレルヲとよめるに從ふべし。生レタルヲの意なり○ワワクは前註に云へる如く亂るゝ事、カガフは繿褸の事とおぼゆ○フセイホノマゲイホとあるノは例のニシテ又のノなり。マガリイホといふべきをマゲイホといふは、なほフシイホと云ふべきをフセイホといふが如し○ヒタツチは今もヂビタといふ。足之方は舊訓によリてアトノカタニとよむべし(略解にはアトノベニとよめり)○憂を舊訓にウレヘ〔右△〕と點じた(972)るを古義にウレヒ〔右△〕に改めたり。記傳卷十(第一の五四五頁)に
  患の假字は三代實録(○國史大系本二二五頁)に憂禮比とあり。憂禮閇に非ず
といへり。いにしへ四段活なりしが今二段活となれるなり○サマヨフは呻吟する事なり。卷二なる長歌(二七六頁)にも春鳥ノサマヨヒヌレバとあり○コシキは即|蒸籠《セイロウ》なり。クモノスカキテはクモノと切りてよむべし。蜘蛛ガ巣ヲカキテなり。カクは作る事なり。軍書に井楼ヲカクなどいへり。ノドヨブは喉にて聲を發する事にて畢竟呻く事なり○イトノキテは甚避《イトノ》キテにて極端ニといふ事。イトノキテ以下四句は下なる沈痾自哀文に諺曰痛瘡灌v鹽、短材截v端とあれば當時さる諺ありしなり○シモトは笞。五十戸良は春滿《アヅママロ》の説に從ひて五十戸長の誤としてサトヲサとよむべし。コヱハの三言は餘れり。コヱハ來立呼ヒヌとは云はれざればなり。ネヤトは契沖は閨外なりといひ略解古義には寢屋處なりといへり。卷三(四一〇頁)にイハヤトニタテル松ノ樹とあるイハヤトの窟外なるを思へば契沖の説是なるに似たり○シモトトル以下は略解に『貧くて田租賦役等を責らるゝさま也』と云へる如し
 
893 世間〔日が月〕《ヨノナカ》をうしとやさしとおもへども飛立かねつ鳥にしあらねば(973)世間乎宇之等夜佐之等於母倍杼母飛立可禰都鳥爾之安良禰婆
  山上憶良頓首謹上
 二三は略解に『ウシト思ヒハヅカシト思ヘドモといふ也』といへる如くトビタチカネツは世ヲハナレカネツとなり。頓首謹上とあれど誰に贈りしにか知られず
 
   好去好來歌一首 反歌二首
894 神代より 云傳《イヒツテ》けらく (虚《ソラ》見つ) 倭(ノ)國は 皇神《スメガミ》の いつくし吉〔左△〕《ム》國 言靈《コトダマ》の さきはふ國と かたり繼《ツギ》 いひつがひけり 今(ノ)世の 人もことごと 目(ノ)前に 見在知在《ミタリシリタリ》 人さはに 滿てはあれども (高光《タカヒカル》) 日(ノ)御朝庭《オホミカド》 神《カム》ながら 愛《メデ》の盛に  天(ノ)下 奏《マヲシ》たまひし 家(ノ)子と 撰たまひて 勅旨《オホミコト》【反云大命】 戴持て 唐《モロコシ》の 遠(キ)境に つかはされ まかりいませ うな原の 邊《ヘ》にも奥《オキ》にも 神《カム》づまり うしはきいます 諸の大御神|等《タチ》 船舳《フナノヘ》に【反云布奈能閇爾】 道引|麻志《マシ》遠〔□で圍む〕 天地の 大御神|等《タチ》 倭(ノ)大國|靈《ミタマ》 (久堅の) あまのみ虚《ソラ》ゆ あまがけり 見渡たまひ 事|了還《ヲハリカヘラム》(974)日は 又更(ニ) 大御神|等《タチ》 船舳《フナノヘ》に 御手打掛て 墨繩を  はへたるごとく 阿庭〔左△〕可遠志 ちかの岬《サキ》より 大伴(ノ) 御津(ノ)濱|備《ビ》に  ただ泊《ハテ》に み船は將泊《ハテム》 つつみ無く さきくいまして 速《ハヤ》歸|坐《マ》せ
神代欲理云傳介良久虚見通倭國者皇神能伊都久志吉國言靈能佐吉播布國等加多利繼伊此都賀此計理今世能人母許等期等目前爾見在知在人佐播爾滿弖播阿禮等母高光日御朝庭神奈我良愛能盛爾天下奏多朝熊此志家子等撰多麻比天勅肯〔左△〕【反云大命】船載〔左△〕持弖唐能遠境爾都加播佐禮麻加利伊麻勢宇奈原能邊爾母奥爾母神豆麻利宇志播吉伊麻須諸能大御神等船舳爾【反云布奈能閇爾】道引麻志遠天地能大御神等倭大國靈久堅能阿麻能見虚喩阿麻賀氣利見渡多麻比事了還日者又更大御神等船舳爾御手打掛弖墨繩袁播倍多留期等久阿庭可遠志智可能岫〔左△〕欲利大伴御津濱備爾多大〔左△〕泊爾美船播將泊都都美無久佐伎久伊麻志弖速歸坐勢
 天平五年の春憶良が遣唐大使多治比(ノ)眞人《マヒト》廣成に餞したる歌なり。好去好來歌はサ(975)キクイマシテサキクカヘリマセトイフ歌といふ義なり。但字音によみて可なり
 イヒツテケラクは云傳ヘケルハなり。伊都久志吉國は字のままならば舊訓の如くイツクシキクニとよむべし。さて契沖は『嚴の字をイツクシとよみて嚴重にましますをいへり』といひ略解には『嚴《イツ》カシキ國といふなり』といひ古義には『嚴威《イツクシキ》なり』といひ鈴木重胤(書紀通釋第一の三三三頁所引)は『萬葉五にスメ神ノイツクシキ國とあるも神の御守の嚴重なる由也』といへり。按ずるに日本靈異記卷下第十に開v※[草冠/呂]見vレ之經色儼然文字宛然とありて儼然をイツクシクシテと訓ぜり。このイツクシは立派といふ事にて嚴重、嚴威などいふ事にあらず。嚴重嚴威などは古語にイカシとこそいへれ。さて今は嚴重といふ意としても辭足らず(神の御守の嚴重なるをスメ神ノイツクシキ國といふべけむや)立派といふ事とすれば義通ぜず。案ずるに伊都久志吉の吉は武などの誤なるべし。即イツクシム〔右△〕クニにて皇神ノ愛シ給フ國といへるなるべし。さてこそコトダマノサキハフ國との對もよろしけれ○コトダマは言語にくしき作用ありてたとへば祝へば吉事あるをいふ(犬※[奚+隹]隨筆上卷三五頁參照)。サキハフは助クルなり○初にイヒツテケラクといひて末にカタリツギイヒツガヒ(976)ケリといへるは某ノイヘラク云々トイヘリなどいふと同例なリ。ツガヒはツギの延言なリ○今ノ世ノ人モコトゴト目ノ前ニ見タリシリタリとは右ノ事ハタダ世ニ云傳フルノミナラズ今モ眼前ニ見聞スル所ナリといふ意にて下に神助によりて恙なく歸りリ來らむと祝はむ伏線なり○人サハニ滿チテハアレドモは天下ニ人多カレドとなリ。日ノミカドは天皇。天皇は神にてましませばおもほし又はのたまひ又はしたまふ事にみなカムナガラといふことを冠らせいふなリ。メデノサカリは宣命に例多し。御賞美の餘といふことなり。詔詞解第二十二詔の處(宣長全集第五の三〇五頁)に
  此萬葉なる愛能盛爾は撰タマヒテへ係れり。天下云々へ係ていへるにはあらず
といへり。天ノ下マヲシタマヒシ家ノ子とは天下ノ政ヲ執リシ人ノ子孫トシテといふこと。左大臣丹治比(ノ)眞人島といふ人の子孫なればなり。さて人サハニミチテハアレドモもカムナガラもメデノサカリニも皆エラビタマヒテにかゝれり。又エラビタマヒテより上の主格は天皇にて下の主格は廣成なり。テの前後にて主格のかはれる例は上(八八三頁)にもあり。マカリイマセはマカリイマスニなり○ウナバラ(977)ノより見ワタシタマヒまでの十六句は往路のさまなり○カムヅマリは記傳卷十一(全集第一の六三三頁)及大祓詞後釋上卷(全集第五の四二四頁)にいへる如くしづまります事なり。集りますことにあらず。ウシハクはおのが處と領するをいふ。ウナバラノ以下六句は畢竟海原ノ處々ニイマス神タチといふ意なり○ミチビキの下の麻志遠は一本に麻遠志とありといふ。千蔭雅澄は之を是としてマヲシとよみたれどマヲシといふべき處にあらず。遠を衍字としてミチビキマシとよむべし○アメツチノ以下四句は天地ノ神ト大和ノ大國御魂神トガといふ意。かく大國御魂神を取分けていへるは朝庭の御産土神なればなり。比神は今の官幣大社|大和《オホヤマト》神社の祭神なり○見ワタシタマヒは四方を見渡して大使の船を護りたまふなり○事ヲハリ以下は歸路のさまなり。スミ繩ヲハヘタルゴトクはマッスグニなり。こゝも御手ウチカケテのテの前後にて主格かはれり○阿庭可遠志の庭は一本に遲とありといふ。此二句オホトモノミツノハマビに對したればアヂカヲシはチカに冠らせたる辭とおぼゆ。宣長も智可の枕辭として
  アヂカ、チカと言の重なる枕詞也。さてアヂカは未考へず。ヲシはヨシといふに同(978)じ
といへり。なほ考ふべし○智可は記傳卷五(全集第一の二四九頁)に『今の五島平戸などの島々をすべいふなるべし』といへり。當時の日本の西のはてなり。ハマビは濱邊なり。上にもウメノ花チリマガヒタル岡ビニハとあり。タダハテは途中ニ泊ラズシテなり。ツツミナクは今のツツガナクなり。ツツムコトナクともツツマハズともいへればツツムといふ動詞よりツツミといふ名詞に轉じたるなり(玉勝間十二卷五丁參照)○肯は旨の誤、岫は岬の誤、大は太の誤なり
 
   反歌
895 (大伴ノ)御津(ノ)松原かき掃《ハキ》てわれ立|待《マタム》速歸|坐《マ》せ
大伴御津松原可吉掃弖和禮立待速歸坐勢
 カキハキテは掃除シテなり。カキは添辭○此頃憶良は筑紫より歸りて大和にあり
 
896 難波津にみ船|泊《ハテ》ぬときこえこば紐解さけてたちはしりせむ
難波津爾美舶泊農等吉許延許婆紐解佐氣弖多知婆志利勢武
(979)  天平五年三月一日良宅對面獻三日〔七字傍点〕山上憶良謹上
  大唐大使卿記室
 紐トキサケテは略解に『紐結ぶまでもなくいそぎ迎へてむといふ也』といひ古義は之に從へり。又タチハシリを古義に『いそぎ立走り行て迎へまゐらせむぞとなり』といへり。案ずるに紐トキサケテは襟の組を解きて活動に便にすることにて(卷四【六三五頁】參照)タチハシリは今いふ奔走なり。されば今は奴僕ト共ニ奔走セムといへるなり
 略解に良宅封面獻三日の七字を小字に書きて『今本に本行にせり〇もと小字に書るなるべし』といひ次に
  良は憶良の略、獻ルハ三日也とは朔日に此歌どもをよみてそれを大使に見せたるは三日といふ事なるべし
といへり。記室は今いふ秘書
 
   沈v痾自哀文 山上憶良作
竊|以《オモフニ》朝夕〔右△〕佃2食山野1者、猶無2災害1而得v度v世(謂常執2弓箭v避2六齋1、所※[がんだれ+自]〔左△〕禽獣(980)不v論2大小1孕及(ト)2不孕1並皆殺食、以v此爲v業〔右△〕者也)晝夜釣2漁河海1者、尚有2慶福1而
全經v俗(謂漁夫潜女各有v所v勤、男手把2竹竿1、能釣2波浪之上1、女者腰帶2鑿籠〔右△〕1、潜採2深潭之底1者也)況乎我從2胎生1迄2于今日1、自有2修善之志1、曽無2作惡之心1(謂聞2諸惡寞作諸善奉行之教1也)所以《ソレユヱニ》禮2拜三寶1、無2日不1v勤(毎日誦經發露懺悔也)敬2重百神1、鮮2夜有1v闕(謂敬2拜天地諸神等1也)嗟乎※[女+鬼]哉、我犯2何罪1遭2此重疾1(謂未v知2過去所v造之罪若是現前所v犯之過1、無v犯〔左△〕2罪過1何獲2斯病1乎)初沈v痾已來年月稍多(謂經2十余年也)是時年七十有四、鬢髪斑白、筋力※[八/机の旁+王]羸、不2但年老1、復加2斯病1、諺曰、痛瘡灌v塩、短材截v端、此之謂也、四支不v動、百節皆疼、身體太重、猶v負2鈞石1(二十四銖爲2一兩1、十六兩爲2一斤1、三十斤爲2一鈞1、四鈞爲2一石1、合一百二十斤也)懸v布欲v立、如2折翼之鳥1、倚v杖且歩、此2跛足之※[馬+盧]1、吾以身已穿俗、心亦〔右△〕累塵、欲v知2禍之所v伏祟之所1v隱、龜卜之門巫祝之室、無v不2往問1、若實若妄、隨2其所1v教、奉2幣帛1無v不2鬼頭1、然而彌〔右△〕有v増v苦、曾無2減差1、吾聞前代多有2良醫1救2療蒼生病患1、至v若2楡※[木+付]〔右△〕、扁鵲、華他、秦(ノ)和、緩、葛稚川、陶隱居、張仲景等1皆是在世良(981)醫、無v不2徐愈1也(扁鵲姓秦、字越人、勃海郡人也、割v胸採2心腸1而置v之、投以2髪藥1、即寤如v平也、華他字元化〔二字右△〕、沛國※[言+焦]人也、若有2病結積沈重者〔□で圍む〕在v内者1、刳v腸取v病、縫復摩v膏、四五日差之)追2望件醫1非2敢所1v及、若逢2聖醫髪藥1者、仰願割2刳五藏1、抄2探百病1、尋2達膏肓之※[こざと+奥]處1(肓鬲也、心下爲v膏、攻v之不v可、達v之不v及、藥不v至焉)欲v顯2二豎之逃匿1(謂晋景公疾、秦(ノ)醫緩視而還者可v謂2爲v鬼所1v殺也)命根既盡終2其天年1、尚爲v哀(聖人賢者一切含靈誰免2此道1乎)何況生録未v半爲2鬼枉殺1、顏色壯年爲2病横困1者乎、在世大患孰甚2于此1
  志怪記云、廣平前太守北海徐玄方之女年十八歳而死、其靈謂2馮馬子1曰、案2我生録1、當2壽八十餘歳1、今爲2妖〔右△〕鬼1所枉殺1、已經2四年1、此遇〔右△〕2馮馬子1、乃得2更活1、是也、内教云、瞻浮洲人壽百二十歳、謹案2此數1、非2必不1v得v過v此、故壽延經云、有2比丘1名曰2難達1、臨2命終時1詣v佛請v壽、則延2十八年1、但善爲〔二字左△〕者天地相畢、其壽夭者業報所v招、隨2其修短1而爲v半也、未v盈2斯※[竹冠/下]〔右△〕1而※[しんにょう+湍の旁]死去、故曰v未v半也、任徴〔右△〕君曰、病從v口入、故君子節2其飲食1、由v斯言v之人遇2疾病1不2必妖鬼1、夫醫(982)方諸家之廣説、飲食禁忌之厚訓、知易行難之鈍情三者盈v目滿v耳、由來久矣、抱朴子曰、人但不v知2其當v死之日1、故不v憂耳、若誠知2羽※[鬲+羽]可1v得v延v期者、必將v爲v之、以v此而觀乃知我病蓋斯飲食所v招、而不v能2自治1者乎
 帛公略説曰、伏思自※[礪の旁]以2斯長生1、生可v貪也、死可v畏也、天地之大コ曰v生、故死人不v及2生鼠1、雖v爲2王侯1一日絶v氣、積v金如v山、誰爲v富哉、威勢如v海、誰焉v貴哉、遊仙窟曰、九泉下人一銭不v直、孔子曰、受2之於天1、不v可2變易1】者形也、受2之於命1、不v可2請益2者壽也(見2鬼谷〔右△〕先生相人書1)故知、生之極貴、命之至重、欲v言言窮、何以言v之、欲v慮慮絶、何由慮v之、惟以人無2賢愚1、世無2古今1、咸悉嗟歎、歳月競流、晝夜不v息(骨子曰往而不v反者年也、宣尼臨川之嘆亦是矣也)老疾相催、朝夕侵動、一代歡樂末v盡2席前1(魏文惜2時賢1詩曰、未v盡2西苑〔右△〕夜1劇作2北※[亡+おおざと]塵1也)千年愁苦更繼2坐1(古詩云、人生不v滿v百、何懷2千年憂1矣)若夫群生品類、寞v不d皆以2有v盡之身1並求c無v窮之命u、所以道人方士自負2丹經1入2於名山1、而合藥〔右△〕之者養v性怡v髪以求2長生1、抱朴子曰、髪農云、百病不v愈、安得2長生1、帛公〔右△〕又曰、生好物也、死惡(983)物也若不幸而不v得2長生1者、猶以d生涯無2病患1者u爲2福〔左△〕大1哉、今我爲v病見v悩、不v得2臥坐1、向v東向v西、寞v知v所v爲、無福至甚、總集2于我1、人願天從、如有v實者、仰願頓2除此病1、頼得v如v平、以v鼠爲v喩、豈不v愧乎(已見v上也)
 弧を以て圍める處は通本の分註を便に從ひて書下したるなり。官本等によりて改め又は補ひたる字には右傍に△を加へつ○※[がんだれ+自]は官本に値とありといふ。古義に『有の誤ならむと云る説もあり』といへり○犯の上に造をおとしたるか○契沖は身已穿俗の已を未に改めねば理とほらずといへれど從はれず。穿は或は誤字ならむ○沈重の下の者は衍字か○攻v之不v可達v之不v及藥不v至焉の十二字は次の分註(即謂晋景各疾云々)の中にありしが紛れてここに入りしなり○視而の下脱字あるべし○善爲兩字倒かと契沖いへり○福大も顛倒か
 前に天平五年三月作の歌あり後に同年六月作の歌あれば此文も亦天平五年の作なり。而して憶良は此年に卒せしなるべし
 憶良の罹れりしはいかなる病なるか。初沈v痾已來年月稍多(謂經2十余年1也)是時七十有四といひ(年齢については聊思ふ所あり。後に至りて云ふべし)四支不v動百節皆疼(984)身健太重猶負2釣石1懸v布欲v立如2折翼之鳥1倚v杖且歩比2跛足之※[馬+盧]1といひ今我爲v病未v悩不v得2臥坐1といへるを見ればほぼ何の病なるかを察すべし
 
   悲2歎俗道假合即離易v去難1v留詩一首并序
 竊以釋慈之示教(謂2釋氏慈氏1)先開2三歸(謂v歸2依佛法僧1)五戒1而化2法界1(謂2不殺生、二不偸盗、三不〔右△〕邪姪、四不妄語、五不飲酒1也)周孔之垂訓前張2三綱(謂2君臣、父子、夫婦1)五教1以済2邦〔右△〕國1(謂2父義、母慈、兄友、弟順、子孝1)故知引導雖v二、得v悟惟一也、但以世无〔右△〕2恒質1、所以陵谷更變、人无〔右△〕2定期1、所以壽夭不v同、撃目之間百齢已盡、中臂之頃〔右△〕千代亦空、旦作2席上之主1、夕爲2泉下之客〔右△〕1、白馬走來、黄泉何及、隴上青松空懸2信劔1、野中白楊但吹2悲風1、是知世俗本無2隱遁之室1、原野唯有2長夜之臺1、先聖已去、後賢不v留、如《モシ》有2贖而可v免〔右△〕者1、古人誰無2價金1乎、未v聞d獨存遂見2世終1者u、所以維摩大士疾2玉體于〔右△〕方丈1、釋迦能仁掩2金容乎雙樹1、内教曰、不v欲2黒闇之後來1、寞v入2コ天之先至1(コ天者生也、黒闇者死也)故知生必有v死、死若不v欲不v如〔右△〕v不v生、(985)況乎縦覺2始終之恒數1、何慮2存亡之大期1者也
 俗道變化猶2撃目1、人事經紀如2申臂1、空與2浮雲1行2大虚1、心力共盡無v所v寄
 
  老身重病經v年辛苦及思2兒等1歌七首【長一首短六首】
897 (靈剋《タマキハル》) 内(ノ)限は(謂2瞻浮州人壽一百二十年1也) 平けく 安くもあらむを 事も無《ナク》 も無《ナク》もあらむを 世間《ヨノナカ》の うけくつらけく いとのきて 痛き瘡には 鹹塩《カラシホ》を 灌《ソソグ》ちふ何〔□で圍む〕ごとく  益益も 重《オモキ》馬荷に 表荷《ウハニ》うつと いふことのごと 老《オイ》にてある 我身(ノ)上に 病をら加《クハヘ》てあれば 晝はも 歎かひくらし 夜《ヨル》はも 息《イキ》づきあかし 年長く やみし渡れば 月|累《カサネ》 憂吟《ウレヒサマヨ》ひ ことどとは しななと思《モヘ》ど (五月蠅《サバヘ》なす) さわぐ兒等《コドモ》を うつてては 死《シニ》は不知《シラズ》 見|乍《ツツ》あれば 心はもえぬ かにかくに 思わづらひ ねのみしなかゆ 
靈剋内限者【謂瞻浮州人壽一百二十年也】平氣久安久母阿良牟遠事母無裳無母阿良牟遠世間能宇計久都良計久伊等能伎提痛伎瘡爾波鹹塩遠灌知布何其等久益(986)益母重馬荷爾表荷打等伊布許等能其等老爾弖阿留我身上爾病遠等加弖阿禮婆晝波母歎加此久良志夜波母息豆伎阿可志年長久夜美志渡禮婆月累憂今〔左△〕比許等許等波斯奈奈等思騰五月蝿奈周佐和久兒等遠宇都弖弖波死波不知見乍阿禮婆心波母延農可爾可久爾思和豆良此禰能尾志奈可由
 ウチノカギリは生涯といふことと思はる。記傳卷三十九(全集第三の二二一二頁)に
  注に謂2瞻浮州人壽一百二十年1也とあるはかの魂極の説に(○タマキハルを魂極の意とする説に)なれたる後世人のしわざにて此上の文に内教云とて此語のあるを取持來てここに書入たるなり。是を自注と思ふはひがごとなり
といへれど歌に漢文の註を挿める、後人のしわざとしてはあまりに大膽なり。なほ自註と見べし。ウチノカギリが一生といふ事なる故に經文を引きてしかじかと云へるなり。瞻浮州は即|閻浮提《エンブダイ》にて吾人の世界なり○モナクのモは記傳卷十三(全集第一の七三九頁)に『死たることのみにもあらず何事にまれ凶事をいふなり』といひ(987)又こゝのモナクは無恙といふ意なりといへり○ウケクツラケクは憂キ事ヨ、ツラキ事ヨといふ意にてこゝにて切れて下へは續かざるなり○イトノキテ痛キ瘡ニハ鹹塩ヲソソグチフ何〔右△〕如クは當時の諺なり。上なる貧窮問答歌にもイトノキテ短キ物ヲ端キルトイヘルガ如クとあり又上なる沈痾自哀文にも諺曰痛瘡灌v塩短材截v端ともいへり。イタキキズニハのハには意なし。何は古義にいへる如く衍字なるべし○マスマスモ重キ馬荷ニ云云は今のオモ荷ニ小附といふ諺に當れり。此歌にはウハ荷とあれど後撰集にはオモ荷ニハイトド小附ヲ云云とよめり。ウハ荷ウツのウツは添ふる事とおもはる。今の世にも小附ヲウツといふ由略解に見えたり○オイニテアルは老去《オイニ》タルなり。ヤマヒヲラのラは助辭なり。卷二十にも子ヲラ〔右△〕妻ヲラ〔右△〕オキテ等モキヌとあり○ヤミシワタレバのシも助辭○コトゴトハを契沖は異事の意として『異事とは子等を思ふ外の事なり』といへれどげにとはおぼえず。案ずるにコトゴトハは古今集離別なるカキクラシコトハ〔三字右△〕フラナム春雨ニヌレギヌキセテ君ヲトドメムとあるコトハと同じくてカクノ如クナラバといふ意なり。はやく中島廣足の海人のくぐつにも
(988)  萬葉五長歌コトゴトハシナナトオモヘド云々此コトゴトハはコトハを二つ重ねいへるなるべし。其意にてよく聞ゆ。これを悉の意に解たるはあたらず
といへり。シナナは死ナムなり○ウツテテハは契沖『ウチステテハにてチスをつづめてツといへるなり』といへり。或はウツツルはスツルといふ意にて、もとより一つの語にてかのナゲウツル御杖、フキウツルイブキノ狹霧などあるウツルはウツツルのツの一つはぶかりたるにや。シニハシラズは死ヌル事ハ知ラズなり。死ぬる事をシニといへる例は卷四(七〇六頁)に擧げたり○見ツツアレバはサワグ兒ドモヲ見ツツアレバなり。古義に『老身重病さまざまのうけくつらけき事を見つつ有ばといふなり』といへるは非なり(因にいふ。ツラキをツラケキといへる例なし)。カニカクニはイロイロなり○憂今の今は吟の誤なり
 
   反歌
898 なぐさむる心はなしに雲|隱《ガクリ》鳴往鳥のねのみしなかゆ
奈具佐牟留心波奈之爾雲隱鳴往鳥乃禰能尾志奈可由
 ナグサムルは己ヲナグサムルにてナグサムといふに同じ。ココロハナシニは心ハ(989)ナクテなり。三四は序
 
899 すべもなく苦しくあれば出《イデ》はしりいななと思《モヘ》どこらにさやりぬ
周弊母奈久苦志久阿禮婆出波之利伊奈々等思騰許良爾佐夜利奴
 イデハシリイナナトモヘドは長歌にシナナトモヘドといへるに當れり。サヤルはほださるる事
 
900 富人の家の子等《コドモ》のきる身なみくたしすつらむ※[糸+包]〔左△〕綿《キヌワタ》らはも
富人能家能子等能伎留身奈美久多志須都良牟※[糸+包]〔左△〕綿良波母
 身體は唯一つなれば衣服はあまたあれども著る身なきなり。クタシは腐ラシなり○※[糸+包]は※[糸+施の旁]の誤か
 
901 麁妙《アラタヘ》の布衣をだにきせ難《ガテ》にかくや歎|敢《カム》せむすべをなみ
麁妙能布衣遠※[こざと+施の旁]爾伎世難爾可久夜歎敢世牟周弊遠奈美
 アラタヘは粗布なり。ガテニは不敢なり。さればキセガテニは着セカネテなり。カクヤナゲカムはカクヤナゲキツツアルベキとなり。考、略解、古義に以上二首を貧窮問(990)答歌の反歌のまぎれてこゝに入れるなりとせり。げにこゝの反歌は第一首にまづ所謂經年辛苦の状をいひ第二首に苦しさの餘寧死なむと思へど子等に絆されて死なれぬ由をいひ第五首に子等の爲に却りて長壽のねがはるゝ趣を云へるなれば中間〔日が月〕に第三首と第四首とが介在しては思想連續せず。其上長歌に貧しきを嘆ける辭なきを反歌に到りて俄に子等に著すべき衣服を欲する意を述ぶべきにあらず。されば第三第四の二首は貧窮問答歌に屬すべきなり。題辭の下に長一首短六首とあるは後人のさかしらなり
 
902 (水沫《ミナワ》なす)微《モロキ》命も栲繩《タクナハ》の千尋にもがと慕《ネガヒ》くらしつ
水沫奈須微命母栲繩能千尋爾母何等慕久良志都
 ナガクモといふことをタクナハノ千ヒロニモといへるなり。ガは後世のガナなり
 
903 (倭文手纏《シヅタマキ》)數(ニ)も不在《アラヌ》身には在《アレ》ど千年にもがとおもほゆるかも【去神龜二年作之但以類故更載於茲】
倭父〔左△〕手纏數母不在身爾波在等千年爾母何等意母保由留加母
(991)  天平五年六月丙申朔三日戊戊作
 シヅタマキの歌は舊作にて今の長歌の反歌にとて作れるならねどミナワナスの歌の類なれば更に茲に書載せつといへるなり○父は文の誤なり
 
   戀2男子名(ハ)古日1歌三首【長一首短二首】
904 世(ノ)人の 貴慕《タフトミネガフ》 七種の 寶も我は 何爲《ナニセムニ》 △ わが中能〔左△〕《ニ》 産《ウマ》れ出有《イデタル》 白玉の 吾子|古日《フルヒ》は (明星《アカボシ》の 開朝《アクルアシタ》は (敷たへの) とこのへさらず 立《タテ》れども 居《ヲ》れどもともに △ 戲れ (夕星《ユフヅツ》の) ゆふべになれば いざねよと 手をたづさはり 父母も 表〔左△〕《トホク》者〔□で圍む〕なさかり (三枝《サキクサ》の) 中にをねむと 愛《ウツクシ》く しがかたらへば 何時《イツシ》かも ひととなりいでて あしけくも よけくも見むと (大船の) おもひたのむに おもはぬに 横風《ヨコシマカゼ》の 爾母〔左△〕布《ニハシク》敷可〔二字□で圍む〕爾《ニ》布敷可爾〔四字□で圍む〕 覆來《オホヒキヌ》れば せむすべの たどきをしらに しろたへの たすきをかけ まそ鏡 てにとりもちて 天神《アマツカミ》 あふぎこひのみ 地祇《クニツカミ》 ふして額拜《ヌカヅキ》 かからずも かかりも (992)△ 神|乃末爾麻《ノマニマ》仁〔□で圍む〕等《ト》 立阿射〔左△〕里《タチアガリ》 我《ワガ》例〔□で圍む〕乞のめど 須臾《シマシク》も よけくはなしに 漸漸《ヤウヤウニ》 かたち都久〔二字左△〕保里《クヅホリ》 朝朝《アサナサナ》 いふことやみ (靈剋《タマキハル》) いのちたえぬれ 立をどり 足すりさけび 伏仰《フシアフギ》 むねうちなげき 手に持《モタ》る あがことばしつ 世間《ヨノナカ》の道
世人之貴慕七種之寶毛我波何爲和我中能産禮出有白玉之吾子古日者明星之開朝者數多倍乃登許能邊佐良受立禮杼毛居禮杼毛登母爾戲禮夕星乃由布弊爾奈禮婆伊射禰余登手乎多豆佐波里父母毛表者奈佐我利三枝之中爾乎禰牟登愛久志我可多良倍婆何時可毛比等等奈理伊弖天安志家口毛與家久母見牟登大船乃於毛比多能無爾於毛波奴爾横風乃爾母布敷可爾布敷可爾覆來禮婆世武須便乃多杼伎乎之良爾志路多倍乃多須吉乎可氣麻蘇鏡弖爾登利毛知弖天神阿布藝許比乃美地祇布之弖額拜加良受毛可賀利毛神乃末爾麻仁等立阿射里我例乞能米登須臾毛余家久波奈之爾漸漸可多知都久保里朝朝伊布許登夜美靈剋伊()乃知多延奴靈立乎杼〔左△〕利足須里佐家婢伏仰武禰宇知奈氣吉手爾持流安我古登婆之都世間之道
 ナナクサノタカラは所謂七寶なり○ナニセムニは上(八五九頁)にいへる如く何ノ爲ニといふ意なり。此下に七言一句おちたりとおぼゆ。古義には臆を以てネガヒホリセムの七言を補へり○和我中能は古義に
  吾子といふへ續けて意得べし。爾と云はずして能と云るは此故なり。中とは夫婦の中のよしなり
といへれどワガ中ノワガ子と續くべくもあらねばなほ能は爾の誤とすべし○シラタマノワガ子は源氏物語桐壺(ノ)卷なる玉ノヲノコ御子の類なり○アカボシノはアクルニかゝれる枕辭なり。トコは家族の起臥すべく室内に一段高く作り設けたる處をいふ○略解に『ヲレドモトモニの下に一句半おちしならむ』といひ古義に『試にいはばカキナデテコトドヒタハレなどありしが落しにや』といへり。案ずるに父母トアソビタハブレとありしがタハブレのみ殘れるか○手ヲタヅサハリのヲは一種の助辭なり。上(八六一頁)にもヨチコラト、テタヅサハリテとあり○表者は舊訓(994)にウヘハとよめり。契沖の説に『ウヘハは彼方此方なり。古日が中にあるよりいへば兩方ともに表なり』といへり。おそらくは表は遠の誤にて者は衍字ならむ。考には表を遠の誤としてトホクハナサカリとよむべしといへれどハといふ辭なからむ方まされり○愛久は略解にウツクシクとよめるに從ふべし。カハユクといふ意なり○シガは古義にソレガなりといへり○アシケクモヨケクモは惡シクアラムモ善クアラムモとなり○横風は契沖のヨコシマカゼとよめるに從ふべし○爾母以下十字のうち終の布敷可爾は一本に無き由なれば契沖のいへる如く衍字とすべし。殘れる爾母布敷可爾を宣長は爾波可爾母の誤としてニハカニモとよめり。母を波の誤字とし敷可を衍字としてニハシクニとよむべきか。ニハシクニはニハカニに同じ○其次の句は舊訓にオホヒキヌ〔右△〕レバとよめるを雅澄はオホヒキタ〔右△〕レバに改めたり。もとのままにて可なり。さてヨコシマ風ノオホヒキヌレバを契沖は風邪に侵されしなりとせり○シロタヘノ以下四句は神を祭るさまなり○アマツ神アフギコヒノミを契沖の『天神なればアフギといふ。下の地祇をフシテと云相對なり』といへるは非なり。地祇なればとて足下にいますにあらねば伏して向ふべきにあら(995)ず。フシテはヌカヅキにかゝれるなり。さればアフギコヒノミとフシテヌカヅキとおきかへても妨なし○カカラズモカカリモは契沖『神の惠にかゝらずもかゝりも也』といへり○此あたり脱句ありと見ゆ。雅澄はカカリモの下に吉惠、天地乃の五字を補ひ末爾麻仁等の仁を削りてカカリモヨシヱ、アメツチノ神ノマニマトとせり。ヨシヱはヨシヤに同じ○立阿射里はこのまゝにては舊訓の如くツチアザリとよまむ外なし。そのアザリを契沖はアセリに同じとし雅澄は土左日記、源氏物語などのアザレに同じとせり。案ずるに阿射〔右△〕里は阿何里《アガリ》の誤字にあらざるか。我例の例は衍字ならむ○ヨケクハナシニはヨキ事ハ無クテとなり○漸漸は舊訓にヤクヤクニとよめるを宣長はヤヤヤヤニとよみ改めたり。さるを又雅澄はヤウヤウニとよみ改めて
  古言にヤヤといふことあれどそはヤを重ねたるなればそを再重ねてヤヤヤヤとはいふべからず。案ずるに今はヤヤを延べてヤウヤウといへるにてなほヤカをヤウカといふが如し。さて此集の頃にはかくさまに語を延ぶることあらじと思ふ人もあるべけれどマケズといふことをマウケズと延べたる例十八卷にあ(996)ればはやく此集の頃にもヤウヤウと延べいひけむ(採要)
といへり。マウケズと延べたる例といへるは卷十八なる家持の七夕歌にワタリモリ、フネモ麻宇氣受、ハシダニモ、ワタシテアラバとあるを云へるなり。雅澄の説に從ふべし○都久保里は契沖『都久は久都のさかさまに寫されてクヅホリにや』といひ雅澄は後世の書にクヅヲレとある例を擧げて『クヅヲレと書るもクヅホレの誤ならむにや』といへり。なほ考ふべし○足スリサケビのスは清みて唱ふべしと古義にいへる如し○手ニモタルアガコトバシツは子を玉にたとへたるにて冒頭なるシラ玉ノアガ子古日ハと照應せるにもあるべく又人麻呂の妹ガ門ミムナビケ此山、ウツソミトオモヒシ妹ガ灰ニテマセバなどを學びたるなるべけれどあまりに放膽なり○ヨノナカノ道はアハレ世ノ中ノ道ハセム方ナシといふべきを略したるなり
 
   反歌
905 わかければ道行しらじまひはせむしたべの使おひてとほらせ
和可家禮婆道行之良士末比波世武之多敝乃使於比弖登保良世
(997) 我子ハナホ稚ケレバ行クベキ道ヲ知ラジ、冥官ノ使ヨ贈物ヲスベケレバ負ヒテ行キテヨといへるなり。マヒは贈物なり。賄賂といふさがなき意を含まず
 
906 布施おきて吾はこひのむあざむかずただに卒去《ヰユキ》てあまぢしらしめ
布施於吉弖吾波許比能武阿射無加受多太爾卒去弖阿麻治思良之米
    右一首作者未v詳、但以3裁歌之體似2於山上之操1載2此次1焉
 布施は古義の如く音にてフセとよむべし(略解にはヌサとよめり)。コヒノムは佛ニなり。アマヂシラシメは上天ノ路ヲ知ラシメヨとなり
 操は調の義なリ。漢籍に風操などいへる操なり。略解、古義に『舊本ここに右一首云々とあるは例の後人の書加へしなり。此卷憶良の家集と見ゆれば自の名書ざりし處もありしなるをや』といへるは非なり。或人の老身重病云々までを筆録して一卷となせるに家持が他より此歌(戀2男子名古日1歌)を獲て作者は未詳なれど憶良の歌に似たればとて書添へたるなり。されば右一首云々は家持の註せるなり。代匠記に
  此歌は今按神龜年中に憶良のよまれたるを撰者類を以て此に載る歟。其故は上に憶良の妻は神龜五年死せられたるに今の歌に父母モ表者ナサカリ三枝ノ中(998)ニヲ寢ムとあればなり。神龜五年は憶良六十九歳なれば後妻を迎へらるべうもなし。下に(○題辭の下に)歌の數を注せるは後人の私にせるを本文かと思ひて書添へたり。其故は終に至て右一首と撰者の注せる意尤明なれば此に短二首とあるべきやうなし。此に准ずるに上にも員數を注せる中に作者撰者のせぬ事も交るべし
といへり。憶良の年齢については余の思ふ所あり。下にいふべし
 
 
(999)附録
   萬葉集卷第五の筆録者
 代匠記總釋首卷雜説(早稻田本二五頁)に
  第五は太宰帥大伴卿報2凶問1歌と云より山上憶良の戀2男子名古日1歌と云に至るまで神龜五年より天平五年迄の雜歌なり。此は憶良の記し置かれたるに〔十一字傍点〕家持の終の一首を加へて注せられたりと見えたり。其中に大伴熊凝が歌までは筑紫にての作、好去好來歌より終までは都にての作なり云々
といひ考別記に
  かくて今の五の卷は山上憶良大夫の歌集ならん
といひ略解(卷第五末)に
  此卷憶良の家集と見ゆれば自らの名書ざりし所も有べし
といひ古義(卷五の末)にも
  此卷憶良の家集と見ゆれば自の名書ざりし處もありしなるをや
といへり。本集卷第五は果して憶良の筆録又は家集なりや。まづ書殿餞酒日倭歌四首(1000)及聊布2私懷1歌三首の後、また和d遊2松浦河1贈答歌u三首の後に筑前國司山上憶良謹上とあり好去好來歌の後に山上憶良謹上大唐大使卿記室とあるは元來人に贈る爲に作れる歌又は書牘なれば家に殘すにも人に贈りしまゝに謹上等の文字及官名を存ぜるはさもあるべき事なり。されど詩及日本挽歌の後に筑前國守山上憶良上とあり貧窮問答歌の後に山上憶良頓首謹上とあり和d爲2大伴熊凝1述2其志1歌u六首に敬の字を添へたるは家集に記すべき文字にあらねば人ありて憶良が旅人、陽春《ヤス》等に贈れるまゝに寫し留めたるものとせざるべからず(和爲熊凝述其志歌にては筑前國司守山上憶良の九字は歌の後にありけむを題辭の上に移して)
 武田氏も
  謹上の文字は對手方に於て蒐集せられたものなることを示し云々
といへり
 殊に沈痾自哀文の題辭の下なる山上憶良作の五字は憶良の家集にあらざる事を證して餘あるものと謂ふべし。又神龜五年より天平五年まで六年の間に憶良の作りし歌はもとより此に止まらざるべし。此卷もし憶良の家集ならば外の歌をも擧げざら(1001)むや。現に天平元年及二年に作りし七夕歌ありて卷八に見えたるをや
 或は云はむ。もし憶良の家集にあらずとせば好去好來歌の奥に天平五年三月一日良宅對面献三日〔七字傍点〕山上憶良謹上云々とあり、シヅタマキ數ニモアラヌといふ歌の註に去神龜二年作v之但以v類故更載2於茲1とあるをいかがせむ。此等は憶良の自註にあらずやと。答へて云はむ。げに此等は自註なり。但卷中の自註は此等に止まらず。哀2世間無1v住歌の後なる神龜五年七月二十一日於2嘉摩郡1撰定筑前國守山上憶良とあるも、詠2鎭懷石1歌の後なる右事傳言那珂郡伊知郷簑島人建部牛麻呂是也とあるも、老身重病云々歌の後に天平五年六月丙申朔三日戊成作とあるも皆自註なり。此等の歌は憶良が表だたで此卷の筆録者に見せしにてもあるべく又此卷の筆録者が憶良の草稿について抄寫せしにてもあるべし
 近頃此卷を旅人の筆録とする説あれど其然らざるは卷頭に太宰帥大伴卿報2凶問1歌とあり、歌詞兩首の分註に太宰肺大伴卿とあり、後人追和之詩の下に帥老とあり(帥老は自稱にあらず)旅人の薨じて見るに及ばざりし歌(大伴熊凝歌以下)あるにて知るべし
(1002) 然らば此卷の筆録者は誰なるか。憶良の詩及日本挽歌、寧樂人、藤原房前、吉田宜、憶良の歌并に書牘、憶良の餞酒日歌及布2私懷1歌など旅人に贈れる詞藻を收録せるを見れば旅人の左右の人のしわざなること疑ふべからず。本集の編者にして旅人の子なる家持は天平二年に父の許にありしこと卷四に見えたれど當時なほ幼なりし明徴あれば決して此人のみやびにあらず。卷中に憶良の敬和爲熊凝述其志歌あり。敬和とあれば前にも云へる如く憶良が麻田陽春に贈れるまゝに寫し留めたるなり。さて此歌を憶良の作りしはいつにか詳ならねど熊凝の安藝國にて死せしは天平三年六月十七日なれば早くとも同年七月以後の作なるべし。而して旅人の薨ぜしは同年七月廿五日なればおそらくは旅人の許に送りしにはあらじ。されば此歌を筆録せしは旅人と共に京に歸りし人にはあらで旅人におくれて太宰府に留まれる人ならむ。旅人におくれて太宰府に留まれる人はあまたあるべけれど陽春は實に其一人なり。何によりて然はいふぞといはむに卷四に太宰帥大伴卿被v任2大納言1臨2入v京之時1府官人等餞2卿筑前國蘆城驛家1歌四首ありて其うちの二首の後に右二首大典麻田(ノ)連陽春とあればなり。假に陽春を此卷の筆録者とせむに憶良が陽春に贈りし歌のさながらに即敬の字(1003)の添ひたるまゝにて採録せられたるは自然の事なり。されど余は右の如き薄弱なる理由に基づきて陽春を以て此卷の筆録者なりと推定することを好まず。ただ此卷は旅人の左右の人の筆録にて陽春も亦其筆録者に擬せらるべき一人なりといふのみ
 
   山上(ノ)臣憶良年齢考
 天平五年の作とおぼゆる沈痾自哀文に
  是時年七十有四、鬢髪斑白、筋力※[八/机の旁+王]弱
とあれば天平五年に七十四歳なりしこと的確なるが如くなれど細に思へばなほ疑なきにあらず。まづ天平五年七十四歳として年譜を作らば左の如くならむ
  齊明天皇六年(紀元一三二〇年) 一歳
   此年誕生
  文武天皇大寶元年(一三六一年) 四十二歳
   正月遣唐使少録となさる。當時無位(續紀)
  同二年(一三六二年) 四十三歳
(1004) 六月發船(續紀)
 慶雲元年(一三六四年) 四十五歳
  七月歸朝(續紀)○在唐中憶2本郷1歌を作る(本集卷一)
 元明天皇和銅七年(一三七四年) 五十五歳
  正月正六位下より從五位下に陞せらる(續紀)
 元正天皇靈龜二年(一三七六年) 五十七歳
  四月伯耆守となる(續紀)
 養老五年(一三八一年) 六十二歳
  正月詔して人々と共に退朝の彼東宮に侍せしめらる(續紀)
 同七年(一三八三年) 六十四歳
  七月令に應じて七夕歌を作る(本集卷八)【本には八年とあれど養老八年を神龜元年と改められしは其年の二月なれば八年とあるは七年の誤とすべし】
 聖武天皇神龜元年(一三八四年) 六十五歳
  七月左大臣(長屋王)の家にて七夕歌を作る(本集卷八)
(1005) 同三年(一三八六年) 六十七歳
  此年筑前守となる二天平二年の作なる聊布2私懷1歌にアマザカル鄙ニ五年スマヒツツとあるを證とす)
 同五年(一三八八年) 六十九歳
  任地にて妻を失ひ之を悲しみて詩及日本挽歌を作る(本集卷五)〇七月筑前國嘉摩郡にて令v反2惑情1歌、思2子等1歌、哀2世間難1v住歌を撰定す
 天平元年(一三八九年) 七十歳
  七月太宰帥大伴旅人の家にて七夕歌を作る(本集卷八)○鎭懷石歌を作りしも此年か(本集卷五)
 同二年(一三九〇年) 七十一歳
  正月太宰帥の家にて梅花歌を作る(本集卷五)〇七月帥の家にて七夕歌を作る(本集卷八)○同月帥の遊2松浦河1贈る答歌を和す(本集卷五)○十二年書殿餞酒日倭歌及聊布2私懷1歌を作りて旅人に贈る(本集卷五)
 同三年(一三九一年) 七十二歳
(1006)  爲2熊凝1述2其志1歌を和す(本集卷五)
 同五年(一三九三年) 七十四歳
  三月好去好來歌を作りて遣唐大使多治比廣成に贈る○沈v痾自哀文を作る〇六月悲2歎俗道假合即離易v去難1v留詩及老身重病經v年辛苦及思2兒等1歌を作る(以上本集卷五)○病中藤原八束の使に訪はれてヲノコヤモ空シカルベキといふ歌を作る(本集卷六)○卒せしは此年か
 右によれば四十二歳まで無位にて此年遣唐使少録となりしなり。たとひ寒門の出なりとも四十二歳にして始めて官途に就かむは遲きに過ぎずや。是年齢に疑ある一なり。次に妻を失ひしは六十九歳なれば妻はた壯にはあるまじきに日本挽歌の調によれば老妻とは思はれず。殊に詩序中に嗟乎痛哉紅顏共2三從1長逝、素質與2四コ1永滅といへる豈老妻にいふべき辭ならむや。是二なり。又同年に作れる思2子等1歌に瓜ハメバコドモオモホユ、栗ハメバマシテシヌバユといひマナカヒニモトナカカリテといへる皆小兒の趣なり。これのみならず天平五年即七十四歳の作なる思2兒等1歌にもコトゴトハ死ナナト思ヘド、サバヘナスサワグ兒ドモヲ、ウツテテハ死ハ知ラズといへり。サ(1007)ワグ兒ドモといへるを十歳の小兒と假定せむに神龜元年即六十五歳の時に生ませし子とせざるべからず。是三なり。次に哀2世間難1v住歌は六十九歳の作なるべきに其序に因作2一章之歌1以|撥《ヤル》2二毛之歎1とあり。二毛は禮記檀弓下に古之侵伐者不v斬v祀、不v穀v※[がんだれ/萬]、不v獲《トラゲズ》2二毛1、左傳※[人偏+喜]公二十二年に君子不v重v傷、不v禽《トリコニセズ》2二毛1、文選潘岳秋興賦序に晋十有四年余春秋三十有二始見2二毛1とありて黒白二髪の相變れるなり。七十四歳の作なるべき沈痾自哀文の中にも鬢髪斑白とあり。たとひ憶良人よりすぐれて強健にして年齒懸絶せる婦人を娶り六十五歳にて子を生ませ七十四歳にてなほ二毛斑白なりとも沈痾自哀文は辭を極めて病衰を悲しめる趣なれば齢に比して壯なる事などは書くまじきなり。是四なり。次に天平五年に重き病に罹れりし時、人の來りてとぶらひしをりに作れる
  をのこやも空しかるべき萬代にかたりつぐべき名はたてずして
といふ歌本集卷六に見えたり。措辭豪壯、豈七十四翁の意氣ならむや。是五なり。以上五箇條の理由に基づきて思へば沈痾自哀文に是時歳七十有四とあるはおそらくは五十有四などの誤なるべし(草書の五の字は七の字にまがひぬべし)。しばらく天平五年(1008)五十四歳とすれば天武天皇八年の誕生にて始めて官途に就きしは二十二歳、筑前にて妻を失ひしは四十九歳、二毛を嘆じ斑白を哀しみしは四十九歳と五十四歳とにて卒せし時なほサワグ兒ドモのありし事はた怪しむに足らず
 或は云はむ。本集卷一藤原宮御宇天皇代の下に
  幸2于紀伊國1時川島皇子御作歌或云山上臣憶良作、白浪の濱松が枝の手向草幾代までにか年の經ぬらむ、一云年は經にけむ
とありて左註に
  日本紀曰朱鳥四年庚寅秋九月乙亥朔丁亥天皇幸2紀伊國1也
とあり又卷九に
  山上歌一首、白なみの濱松之木の手酬草幾世までにか年はへぬらむ、右一首或云河島皇子御作歌
とあり。憶良果して天武天皇八年の生誕ならば朱鳥四年には十一歳なり。十一歳の少年にして行幸のみともして右の歌をよむことを得むやと。答へて云はむ。卷一の題辭は持統天皇御宇幸2紀伊國1時に川島皇子の作り給ひし歌とも年月故事不詳憶良の作(1009)とも傳へたりといへるのみ。憶良の生誕よしや齊明天皇の六年なりとも、即持統天皇の紀伊行幸の時三十一歳なりとも此時なほ無位なれば從駕の列にはあるべからず』因にいふ。續紀大寶元年には山於億〔二字右△〕良とあり和銅七年、靈龜二年、養老五年には皆山上臣憶良と〔右△〕あれば姓は初|山於《ヤマノウヘ》とかきしを出仕の後山(ノ)上《ウヘ》と改めしなるべく億は誤字にてもあるべし
 又いふ。憶良の父祖は所見なし。本集卷十八に
  射水郡驛館之屋柱題著歌一首あさびらきいり江こぐなるかぢのおとのつばらつばらに吾家しおもほゆ右一首山上臣作、不v審v名、或云憶良大夫之男、但其正名未v詳也
とあり。績紀に神護景雲二年六月壬辰右京人從五位上山(ノ)上臣船主等賜2姓朝臣1とあるも憶良の子なるべし
                         (大正六年九月六日脱稿)
      2004年12月11日(土)午後1時55分、卷五入力終了
      2005年3月28日(月)午前10時56分、校正終了
 
(卷第六新製目録省略)
(1021)萬葉集新考卷六
                    井 上 通 泰 著
  雜歌
   養老七年癸亥夏五月幸2于芳野離宮1時笠(ノ)朝臣金村作歌一首并短歌
907 瀧の上の 御舟の山に みづえさし しじにおひたる 刀我《ツガ》の樹の いやつぎつぎに 萬代に かくししらさむ み芳野の あきつの宮は 神《カム》からか たふとかるらむ 國からか 見がほし將有《カラム》 山川を清清《キヨミサヤケミ》 △ うべし神代ゆ さだめけらしも
瀧上之御舟乃山爾水枝指四時爾生有刀我乃樹能彌繼嗣爾萬代如是二二知三三芳野之蜻蛉乃宮者神柄香貴將有國柄鹿見欲將有山川乎清清諾之神代從定家良思母
(1022) 續日本紀元正天皇紀に
  養老七年夏五月癸酉(〇九日)行2幸芳野宮○丁丑(○十三日)車駕還v宮
とあり
 瀧ノ上ノミフネノ山は夙く卷三(三五二頁)にも見えたり。宣長の菅笠日記(全集第四の四四六頁)に
  うしとらの方に(○吉野の里の入口の)御舟山といふ山見えたり。されど其山は瀧ノウヘノとよみたればこの近き所などにあるべくもおぼえず。これも例の(○吉野の妹背山とおなじく)なき名なるべし
といひ又(四五二頁以下)
  大瀧の里のあなたのはづれは即吉野川の川のへにて瀧といふもやがて川づらなる家の前より見やらるゝ早瀬にて上《カミ》よりただざまに落つる瀧にはあらず。……いにしへ吉野の宮と申て帝のしばしばおはしましゝ所、柿本人麿主の御供にさぶらひて瀧ノミヤコとよみけるも此大瀧によれる所なりけんかし。そのをりをりの歌どもに合せて思ふにアキヅノ小野などいひしも又瀧ノウヘノ御舟(1023)ノ山もかならずこのわたりなりけんこと疑もなければ今もさいふべきさましたる山やあると心をつけて見まはすにこの川づらより左のすこしかへり見る方にさもいひつべき山あり。船にしていはんには前しりへ平に長くてなからばかりに一きは高く屋形といひつべき所ある山なり。これやさならんとは思ひよれどいかにあらんおぼつかなし。そは瀧の所よりはすこし下《シモ》ざまにしあなればタキノウへといへるにはいさゝかたがへるやうにもあれどなべて此わたりならん山はなどかさ云はざらん。いにしへ忍ばん人またまたもここに來まさば必こゝろみ給へ。やがて此里の上なる山ぞかし
といへり。久老雅澄がいへる宮の瀧は大瀧よりは遙に川下にあり。懷風藻なる吉田(ノ)連《ムラジ》宜の從駕吉野宮詩に雲卷三舟谷と作れるも此山ならむ○ミヅエはミヅミヅシキ枝、サシは枝の出づる事、シジニは繁クなり○刀我は冠辭考にツガとよめり。略解に『刀は都の字のかたはら欠たるが刀となれるにもやあらん』といひ字音辨證(下卷二六頁)に『刀をツと呼は呉の轉音なるべし。同轉の毛をム、抱をフと呼べる事あると同例なり』といへり。卷三(四二七頁)赤人の登2神岳1作歌にも
(1024)  みもろの、神なび山に、いほえさし、しじにおひたる、つがのきの、いやつぎつぎに
とあり。今もツガノキノまでは序なり○カクシシラサムのシは助辭にて天皇ノカクシロシメサムとなり○カムカラカ云云は卷二(三一四頁)人麿の讃岐狹岑島作歌にも
  たまもよし、さぬきの國は、國からか、見れどもあかぬ、神からか、ここだたふとき
とあり。略解に
  カラは故の意、神とは此山を敷坐神をいふ
といひ古義に
  神とは即山をさしていへるなるべし
といへり。案ずるにカムカラカも國カラカも共に處ガラカといふ意なるを二樣に云へるならむ。もし山カラカの意ならば直に山カラカといふべければなり○ミガホシははやく卷三(四三一頁)に見えたり。此句の將有も貴將有《タフトカルラム》とおなじくカルラムとよむべきに似たれど或本(ノ)反歌に見欲賀藍《ミガホシカラム》と書けるを見ればなほ舊訓の如くカラムとよむべし。但そのカラムは今いふカルラムにひとしき事を忘るべからず。カ(1025)ルラムをカラムとも云ひしはアルラシをアラシともいひし如し○山川は山と川となり○清清を略解には清水濱臣の説に從ひて※[山+青]清の誤としてタカミサヤケミとよめり。古義に之を斥けて『さる目なれざる字を用ひしとは思はれず』といへるは宜なり。但同書に淳清の誤寫としてアツミサヤケミとよめるは從はれず。なほもとのまゝにてキヨミサヤケミとよむべし。略解古義にいへる如く清清の下に一句落ちたるなり。而して其句は古義の一説の如くトツ宮トなるべし○神代は契沖のいへる如く上古といふ意のみ
   反歌
908 としのはにかくもみてしがみ吉野のきよきかふちのたきつ白波
毎年如是裳見牡鹿三吉野乃清河内之多藝津白波
 トシノハは毎年、カフチは河に圍まれたる地、タキツのツは助辭にてノといふに同じ。契沖がタギルに同じといへるは非なり
 
909 山たかみしらゆふばなにおちたぎつ瀧のかふちは見れどあかぬかも
(1026)山高三白木綿花落多藝追瀧之河内者雖見不飽香聞
 こゝの山タカミは山ガ高キニなど釋すべく山ガ高サニとは釋すべからず(三六八頁及四二九頁參照)。シラユフ花は木綿もて造れる花なり。花ニのニは後世のトなり。卷一タヘノホニヨルノ霜フリ(一二三頁)卷二ナク涙ヒサメニフレバ(三二九頁)などのニと同例なり。此歌のタギツこそタギルに同じけれ
 
   或本(ノ)反歌曰
910 神からかみがほしからむみ吉野のたきつかふちは見れどあかぬかも
神柄加見欲賀藍三吉野乃瀧河内者雖見不飽鴨
 
911 み吉野の秋津の川の萬世にたゆることなく又かへり見む
三吉野之秋津乃川之萬世爾斷事無又還將見
 初二はクユルコトナクの序なり。マタカヘリミムはタチカヘリ此處ヲ見ムとなり。卷一(六二頁)なるミレドアカヌ吉野ノ河ノトコナメノタユルコトナクマタカヘリミムに似たり
 
(1027)912 泊瀬女のつくるゆふ花み吉野の瀧のみなわにさきにけらずや
泊瀕女造木綿花三吉野瀧乃水沫開來受屋
 ミナワニは水泡トなり。ケラズヤはケリを強くいへるなり
 
   車持朝臣千年作歌一首并短歌
913 (うまごり) あやにとも敷《シキ》 (なる神の) 音のみききし み吉野の 眞木たつ山ゆ 見くだせば 川の瀬毎に あけくれば 朝霧たち 夕されば かはづ鳴奈辨〔左△〕《ナクナリ》詳〔□で圍む〕 紐とかぬ たびにしあれば 吾《ア》のみして きよき川原を 見らくしをしも
味凍綾丹乏敷鳴神乃音耳聞師三芳野之眞木立山湯見降者川之瀬毎開來者朝霧立夕去者川津鳴奈辨詳紐不解客爾之有者吾耳爲而清川原乎見良久之情〔左△〕蒙
 車持はクルマモチとよむべし。後にクラモチとよむはルマのつづまりてラとなりしなり
(1028) 敷は古義にシキとよめるに從ふべし。アヤニトモシキはイトユカシキといふ意にてオトノミキキシと共にミヨシ野にかかれるなり。オトノミキキシは音ニノミ聞キシにてそのオトは噂なり○アケクレバは夜明クレバなり。鳴奈辨詳は一本に鳴奈利とあり○ヒモトカヌは旅の准枕辭なり。ミラクはミルコトガなり。シは助辭○卷三(四五五頁)なる金村が角鹿津乘v船時作歌に
  草枕たびにしあれば獨してみるしるしなみ云々
とよめると同意なり○情は惜の誤なり
 
   反歌一首
914 瀧の上のみ船の山は雖畏〔左△〕《ミツレドモ》おもひ忘るる時も日もなし
瀧上乃三船之山者雖畏思忘時毛日毛無
 第三句はこのまゝならばカシコケドとよむべし。契沖は
  腰の句は山神を敬てカケテ申モ恐レアルコトナレドと云なり
といひ宣長は
  雖畏にては聞えがたし。畏は見の誤にてミツレドモなるべし。下句は故郷人を忘(1029)れぬ也。長歌の末の詞又次なる反歌にて知べし
といへり。案ずるに契沖の説の如くならばオモヒ忘ルル時モナカラムなどいはざるべからず。さればまづ宣長の説に從ふべし
 
   或本反歌曰
915 千鳥なくみ吉野川の△音成《カハトナス》やむ時なしにおもほゆるきみ
千鳥鳴三吉野川之音成止時梨二所思公
 音の上に一本に川の字ありといふ。千蔭は之によりてカハトナスとよめり。上三句は序なり。キミといへるは家人なり
 
916 (茜さす)日ならべなくにわが戀は吉野の河の霧にたちつつ
茜刺日不並二吾戀吉野之河乃霧丹立乍
    右年月不v審。但以2歌類1載2於此次1焉。或本云。養老七年五月幸2于芳野離宮1之時作
 日並ベナクニは日ヲ重ネヌニなり。キリニは霧トなり。第三句以下の意三註(代匠記、(1030)略解、古義。以下も三註といはば右の三書と心得べし)皆嘆く息の霧と立つなりといへれどさらば第三句はワガナゲキなどあるべきなり。戀と霧とは懸絶せり。吾戀とあるは誤字にはあらざるか
 
   神龜元年甲子冬十月五日幸2于紀伊國1時山部宿禰赤人作歌并短歌
917 (やすみしし) わごおほきみの 常宮《トツミヤ》と つかへまつれる さひが野ゆ そがひにみゆる おきつ島 きよきなぎさに 風ふけば 白浪さわぎ しほひれば 玉藻かりつつ 神代より しかぞ尊き 玉津島やま
安見知之和期大王之常宮等仕奉流左日鹿野由背上爾所見奥島清波瀲爾風吹者白浪左和伎潮干者玉藻苅管神代從然曾尊吉玉津島夜麻
 聖武天皇紀に
  神龜元年冬十月辛卯(〇五日)天皇幸2紀伊國1○葵巳(〇七日)行至2紀伊國那賀郡玉垣(ノ)(1031)勾《マガリ》(ノ)頓宮1○甲午(〇八日)至2海部《アマベ》郡玉津島頓宮1留十有餘日○戊成(○十二日)造2離宮於岡東1○壬寅(○十六日)詔曰登v山望v海此間最好、不v勞2遠行1足2以遊覧1、故改2弱《ワカ》(ノ)浦名1爲2明光浦1、宜d置2守戸1勿v令2荒穢1、春秋二時差2遣官人1奠c祭玉津島之神、明光浦之靈u○己酉(〇二十三日)車駕至v自2妃伊國1
とあり
 常宮はトツミヤとよむべく常と書けるは借字なりと記傳卷十五(全集第一の八七二頁)にいへり○ツカヘマツレルの上にオミタチノといふことを補ひて聞くべし○サヒガ野は雜賀野なり。『弱浦よりは西の方なり』と契沖いへり。ソガヒは後方なり○オキツシマは沖中の島にて即玉津島なり。玉津島神社の在る處は今は陸地なれど此歌によれば昔は島なりしなり○玉藻カリツツのツツは白浪サワギにもかゝれり○シカゾはカクゾなり。いにしへシカとカクとを通用せし事本書卷四(七三四頁)に云へる如し
 
   反歌
918 おきつ島ありその玉藻|潮《シホ》干〔□で圍む〕滿《ミチテ》いかくろひなばおもほえむかも
(1032)奥島荒磯之玉藻潮干滿伊隱去者所念武香聞
 于は衍字ならむ。舊訓の如くシホミチテとよむべし。イカクロヒナバは隱レナバなり。オモホエムはシノバレムなり。卷二に毛ゴロモヲ春カタマケテイデマシシウダノ大野ハオモホエムカモ又下にヤマト路ノ吉備ノ兒島ヲスギテユカバ筑紫ノ子島オモホエムカモとあり
 
919 若の浦にしほみちくれば滷をなみあしべをさしてたづなきわたる
若浦爾塩滿來者滷乎無美葦邊乎指天多頭鳴渡
    右年月不v記。但※[人偏+稱の旁]從2駕玉津島1也。因今檢2注行幸年月1以載v之焉
 カタヲナミは干滷ガ無イカラとなり。玉津島の下に之時作の三字などおちたるにか。※[人偏+稱の旁]は稱に同じ
 
   神龜二年乙丑夏五月幸2于芳野離宮1時笠朝臣金村作歌一首并短歌
920 (足引の) 御山もさやに おちたぎつ 芳野の河の 河の瀬の きよ(1033)きを見れば 上邊《カミベ》には 千鳥しばなき 下邊《シモベ》には かはづつまよぶ (ももしきの) 大宮人も をちこちに △ しじにしあれば 見るごとに あやにともしみ (玉かづら) たゆることなく よろづ代に かくしもがもと 天地の 神をぞいのる かしこかれども
足引之御山毛清落多藝都芳野河之河瀬乃淨乎見者上邊者千鳥數鳴下邊者河津都麻喚百磯城乃大宮人毛越乞爾思自仁思有者毎見文舟〔左△〕乏玉葛絶事無萬代爾如是霜願跡天地之神乎曾祷恐有等毛
 此行幸の事績紀に見えず○サヤニは音の形容なり。ザアザアトなど譯すべし○ヲチコチニの下に落句あるか○アヤニトモシミはイトユカシキニなり。萬代ニカクシモガモトはイツマデモカク御トモシテ通ハムトとなり○舟は丹を誤れるなり
 
   反歌二首
921 萬代に見ともあかめやみ吉野のたきつ河内の大宮所
萬代見友將飽八三吉野乃多藝都河内之大宮所
(1034) 大宮所は大宮のある處なり。ただ大宮といふとは異なり
 
922 人皆のいのちも吾《ワガ》もみ吉野のたきの床磐《トキハ》の常ならぬかも
人皆乃壽毛吾母三吉野乃多吉能床磐乃常有沼鴨
 吾はワガとよむべし。我命モといふべきを略せるなり。三四はツネの序なり。床磐は古義に從ひてトキハとよむべし(略解にはトコハとよめり)。トキハは即字の如く床磐なり。今常磐とかく常は借字なり。ツネナラヌカモは常ナレカシとなり
 
   山部宿禰赤人作歌二首并底歌
923 (やすみしし) わごおほきみの たかしらす 芳野のみやは (たたなづく) 青墻ごもり 河次〔左△〕《カハナミ》の きよき河内《カフチ》ぞ 春べには 花さきををり 秋されば 霧たちわたり 其山の いやますますに 此河のたゆることなく (ももしきの) 大宮人は 常《ツネ》にかよはむ
八隅知之和期大王乃高知爲芳野離〔左△〕者立名附青墻隱河次乃清河内曾春部者花咲乎遠里秋去者霧立渡其山之彌益々爾此河之絶事無百石木能(1035)大宮人者常將通
 タカシラスは占有シ給フといふこと。アヲガキゴモリは青垣ニコモリを一語にちぢめたるなり。礒ニカクレヰテをイソガクリヰテといひ木末《コヌレ》ニ隱レテをコヌレガクリテといふと同例なり。さてその青墻は四方の群山なり○河次《カハナミ》は略解に山並に同じといへり。下なる讃2久邇新京1歌に山並ノヨロシキ國ト川次ノタチアフサトトとあるを見れば略解の説是なるが如くなれど又河次ノキヨキと續けるを見れば少くともこゝのカハナミは河波の意にて次と書けるは誤字とおぼゆ○サキヲヲリはサキナビキなり。常を略解にはトハとよめれどなほ舊訓の如くツネとよむべし○離は諸本に宮とあり。或は離宮とありし宮をおとせるか
 
   反歌二首
924 み吉野のきさ山のまのこぬれにはここだもさわぐ鳥の聲かも
三吉野乃象山際乃木末爾波幾許毛散和口鳥之聲可聞
 菅笠日記(宣長全集卷四の四五六頁)に
(1036)  川邊をはなれて(○樋口より吉野川を離れて)左の谷陰に入り四五丁も行きて道のほとりに櫻木の宮と申すあり。御前なる谷川の橋を渡りて詣づ。さて川邊をのぼり喜佐谷村といふを過て山路にかゝる。すこし登りて高瀧といふ瀧あり。……象《キサ》の小川といふは此瀧の流にて今過來し道よりかの櫻木の宮の前を經て大川に落つる川なり。象山といふもこのわたりのことなるべし
といへり○コヌレニハのハには意なし。古義に
  ニハは他に對へて云辭なり。他所ハ然ラズと云意を思はせたるなり
といへるは非なり。四五に吟じ續けてさるハをおくべき處にあらざるを知るべし○ココダモは澤山なり
 
925 (ぬばたまの)夜のふけ去者《ヌレバ》ひさ木おふる清き河原にちどりしばなく
鳥玉之夜乃深去者久木生留清河原爾知鳥數鳴
 去者は舊訓にユケバ、古義にヌレバとよめり。ヒサ木は今の赤芽ガシハなりといふ
 
926 (やすみしし) わごおほきみは み吉野の あきつの小野の 野上《ヌノヘ》には(1037) とみすゑおきて 御山には いめたてわたし 朝獵に ししふみおこし 夕狩に とりふみたて 馬なめて 御かりぞたたす 春の茂野に
安見知之和期大王波見芳野乃飽津之小野※[竹/矢]野上者跡見居置而御山者射固〔左△〕立渡朝獵爾十六履起之夕狩爾十里※[足頁搨の旁]立馬並而御※[獣偏頁葛]曾立爲春之茂野爾
 野《ヌ》ノヘは即野邊なり。トミは鳥獣の跡を求め見る人をいひイメは射部にて弓射る人をいふこと略解に云へる如し。野邊にも山にも跡見《トミ》をすゑ射部《イメ》を列ぬるを二つに分けていへるは辭の文なり○トミスヱオキテのテは例のあまれるテなり(卷四【六四一頁】參照)○ミカリゾタタスのタタスは催シ給フといふことなり(卷一【七八頁】參照)○固は諸本に目とあり
 
   反歌一首
927 (足引の)山にも野にも御獵人さつ矢たばさみ散動《ミダレ》たりみゆ
(1038)足引之山毛野毛御※[獣偏+葛]人得物矢手狹〔左△〕散動而有所見
     右不v審2先後1。但以v便故載2於此次1
 散動を舊訓にミダレとよめるを古義にサワギに改めたり。タリを添へたるを思へばなほミダレとよむべし○狹は挾の誤なり
 
   冬十月幸2于難波宮1時笠朝臣金村作歌一首井短歌
928 (おしてる) 難波の國は (葦垣の) 古郷《フリニシサト》と 人皆の おもひ息而《ヤスミテ》 つれもなく ありしあひだに (うみをなす) 長柄《ナガラ》の宮に (眞本柱) ふとたかしきて をす國を をさめたまへば (おきつ鳥) あぢふの原に もののふの 八十とものをは いほりして 都成有《ミヤコヲナセリ》 旅にはあれども
忍照難波乃國者葦垣乃古郷跡人皆之念息而都禮母爲〔左△〕有之間爾續麻成長柄之宮爾眞木柱太高敷而食國乎收賜者奥鳥味經乃原爾物部乃八十伴雄者廬爲而都成有旅者安禮十方
(1039) 聖武天皇紀に
  神龜二年冬十月庚申(○十日)天皇幸2難波宮1
とあり○古郷は舊訓に從ひてフリニシサトとよむべし。卷二に大原ノフリ爾之サトニとあり(略解にはフリヌルとよめり)○オモヒヤスムは放念なり。息而を略解にイコヒテとよめれどなほ舊訓の如くヤスミテとよむべし。ツレモナクは没交渉なり。古義に『トヒヨル人モナクと云意なり』といへるは非なり○マキバシラはフトタカにかゝれる枕辭なり(卷一【五九頁】卷二【二二七頁】參照)。ヲスグニヲ、フトタカシキテ、治メタマヘバといふべきを前後にいへるなり○長柄も味經《アヂフ》(ノ)原も今の大坂市のうちなり。モノノフノ八十伴(ノ)緒は百官なり○都成有は舊訓にミヤコトナセリ、略解にミヤコナシタリ、考及古義にミヤコトナレリとよめり。案ずるに上にアヂフノ原ヲ〔右△〕と無ければミヤコトナセリとはよむべからず。又アヂフノ原ハ〔右△〕と無ければミヤコトナレリとはよむべからず。されば略解の如くミヤコナシタリともよむべけれどヲの辭をよみそへてミヤコヲナセリトよむべし。即百官ガ此處ニ都ヲ造レリといへるなり。卷三なるオホキミハ神ニシマセバ眞木ノタツアラ山中ニ海(ヲ)成可聞《ナスカモ》を例とすべ(1040)し。略解に「旅トハイヘド都ノ如シといふ也」といへるは非なり。如の意のナスはナシタリともナセリともはたらかず○爲は無の誤ならむ
 
   反歌二首
929 荒野らに里はあれどもおほきみのしきます時は京師《ミヤコ》となりぬ
荒野等丹里者雖有大王之敷座時者京師跡成宿
 略解に
  此里ハ荒野ノ中ニ有シカドモといふ也
といひ古義に
  此里ハ曠野ニテハアレドモ云々
と釋けり。即アラ野ラニのニを略解は中ニの意とし古義はニテの意とせるなり。案ずるにモトヨリノ味經ノ里ハ荒野ナレドモといふ意なり
 
930 あまをとめ棚なし小舟こぎづらしたびのやどりに梶のときこゆ
海未通女棚無小舟※[手偏+旁]出良之客乃屋取爾梶音所聞
 
(1041)   車持朝臣千年作歌一首井短歌
931 (いさなとり) 濱邊をきよみ うちなびき おふる玉藻に 朝なぎに 千重浪より 夕なぎに 五百重浪よる △ 邊つ浪の いやしくしくに  月にけに 日日に雖〔左△〕見《ミガホシ》 今のみに あきたらめやも しらなみの いさき囘有《メグレル》 すみのえの濱
鯨魚取濱邊乎清三打靡生玉藻爾朝名寸二千重浪縁夕菜寸二百五〔二字左△〕重波因邊津浪之益敷布爾月二異二日日雖見今耳二秋足目八方四良名美乃五十開囘有往〔左△〕吉能濱
 イホヘ浪ヨルの下に雅澄はオキツ浪イヤマスマスニの二句を補ひて
  此歌アサナギニ千重浪ヨリと云とユフナギニ五百重浪ヨルと云と二句づつをもて雙べ對へたれば邊ツ浪ノイヤシクシクニと云る二句にも必對へたる詞のあるべき古歌の定格なり。故《カレ》今は十三に朝ナギニ、ミチクルシホノ、夕ナギニ、ヨセクル波ノ、ソノシホノ、イヤマスマスニ、ソノ波ノイヤシクシクニ云々とあるをも(1042)て姑く補たり
といへり。之に從ふべし○月ニケニは月々ニなり○雖見を舊訓にミレドモとよみ契沖はミルトモとよめるを略解に
  雖は欲の誤にて日々ニミガホシならん。ミルトモとては末へつづかず
といへり。之に從ふべし○今ノミニは今見ルノミニテとなり。囘有は舊訓のまゝにメグレルとよむべし(古義にはモトヘルとよめり)。イサキのイは添辭、サクは波を花にたとへたるなり
 
   反歌一首
932 白浪の千重にきよする住吉の岸のはにふににほひてゆかな
白浪之千重來縁流住吉能岸乃黄土粉二寶比天由香名
 ニホヒテは衣ヲニホハシテといふべきを言餘ればただニホヒテといへるなり。下にも馬ノアユミオサヘトドメヨスミノエノ岸ノハニフニニホヒテユカムとあり
 
   山部宿禰赤人作歌一首并短歌
(1043)933 天地の とほきがごとく 日月の 長きがごとく (おしてる) 難波の宮に わごおほきみ 國しらすらし みけつ國 日△《ヒビ》のみつぎと 淡路の 野島のあまの (海《ワタ》の底) おきついくりに 鰒珠 さはにかづきで 船なめて 仕奉之《ツカヘマツルシ》 貴見禮者《タフトシミレバ》
天地之遠我如日月之長我如臨照難波乃宮爾和期大王國研知良之御食都國日之御調等淡路乃野島之海子乃海底奥津伊久利二鰒殊左盤爾潜出船並而仕奉之貴見禮者
 國シラスラシにて一段なり○ミケツ國は御饌を奉る國の意なり。その下にノを添へて心得べし。日の下に々をおとしたるならむ○イクリは海石なり(卷二【一八八頁】參照)。イクリニのニはユにかよふニなり。いにしへユとニとを通はし用ひき○結二句を略解にはツカヘマツルガ、タフトキミレバとよみて『國シラスラシへ返して見べし』といへり。案ずるに海人ガ眞珠ヲ獻上スルヲ見レバ天皇ハ遠長ク國シラスラシとはいふべくもあらず。又仕ヘマツルヲ見レバとはいふべく仕ヘマツルガ貴キヲ見(1044)レバとはいふべからず。さればなほ契沖の
  ツカヘマツルシ、タフトシミレバとよみて仕ヘマツルシ見レバタフトシと意得べし。之は助語なり
といへるに從ふべし○この野島は淡路の南端なる今の沼島なりと大日本地名辭書に云へれど下なる山部赤人の歌に淡路ノ野島モスギイナミツマ辛荷ノ島ノ云々とあるを見ればなほ野島ガサキと同處にて淡路の北端なるべし
 
   反歌一首
934 朝なぎにかぢの音《ト》きこゆみけつ國野島のあまの船にしあるらし
朝名寸二梶音所聞三食津國野島乃海子乃船二四有良信
 
   三年丙寅秋九月十五日幸2於播磨國印南野1時笠朝臣金村作歌一首并短歌
935 なきずみの 船瀕《フナセ》ゆみゆる 淡路島 松帆の浦に 朝なぎに 玉藻かりつつ ゆふなぎに 藻塩やきつつ あまをとめ ありとはきけ(1045)ど 見にゆかむ よしのなければ ますらをの こころはなしに たわやめの おもひたわみて たもとほり 吾はぞこふる 船梶をなみ
名寸隅乃船瀬從所見淡路島松帆乃浦爾朝名藝爾玉藻苅管暮菜寸二藻塩燒乍海未通女有跡者雖聞見爾將去餘四能無者大夫之情者梨荷手弱女乃念多和美手徘徊吾者衣戀流船梶雄名三
 續日本紀に
  神龜三年秋九月壬寅(〇二十八日)以2正四位上|六人部《ムトベ》王……等二十七人1爲裝束司1以2從四位下門部王……等一十八人1爲2造頓宮司1。爲v將v幸2播磨國印南野1也○冬十月辛酉(○十七日)行幸○癸亥(○十九日)行還2難波宮1
 日本紀略に
  神龜三年冬十月辛亥(〇七日)行2幸播磨國印南野1○甲寅(○十日)至2印南野(ノ)邑美《オホミ》(ノ)頓宮1○癸亥(○十九日)還至2難波宮1
(1046)とありて共に今の歌の題辭なると合はず○邑美《オホミ》は明石郡なるに紀略の文に印南野(ノ)邑美(ノ)頓宮とあり又續紀の文に
  行宮(ノ)側近(ナル)明石賀古二郡百姓高年七十已上(ニハ)賜v穀各一斛
とあれば印南野は印南郡にとどまらで其東方なる賀古明石二郡に亘りしなり
 ナキスミは契沖久老(播磨下向日記)のいへる如く今の明石郡魚住なり。貞觀九年の官符(類聚三代格)に明石郡魚住船瀬とあるを見れば魚住即ナキスミなる事疑ふべき所なし。魚住は今はウヲズミと唱ふれど、もと魚來住《ナキスミ》など書きしを地名は二字に書くべき制によりて來を省きて魚住と書き初はなほナキスミとよみしを漸く字に從ひてウヲズミといふことゝなれるにこそ○フナセは即泊なり。彼官符に
  則知海路之有2船瀬1猶3陸道之有2逆旅1
といひ又魚住ノ船瀬といへるを受けて件泊といへるを見て船瀬はやがて泊なる事を知るべし。瀬と書けるは借字なり。フナセのセはウマセのセと同じからむ(卷四【六五八頁】參照)○松帆浦は淡路の北端なる松尾崎の沿岸なり○カリツツ、ヤキツツはアリにかゝれり。マスラヲノココロハナシニは丈夫ノ心ヲ失ヒテとなり○タワヤメ(1047)ノは手弱女ノ如クとなり。枕辭にあらず〇オモヒタワムは決行せざるなり。船梶はフネカヂとよむべしフナカヂとはよむべからず。古義にいへる如く船と梶となり。卷三にアソブ船ニハ梶棹モナクテサブシモコグ人ナシニ(三六八頁)又コギケル舟ハ竿梶モナクテサブシモコガムトモヘド(三七一頁)とあり
 
   反歌二首
936 玉藻かるあまをとめども見にゆかむ船梶もがも浪高くとも
玉藻苅海未通女等見爾將去船梶毛欲得浪高友
 第四句を初とし結句より初句へかへして心得べし
 
937 往囘《ユキメグリ》見ともあかめやなき隅の船瀬《フナセ》の濱にしきるしらなみ
往囘雖見將飽八名寸隅乃船瀬之濱爾四寸流思良名美
 初句は略解にユキメグリとよめるに從ふべし。舊訓にはユキカヘリとよみたれど下に往還常ニ我見シ香椎潟云々とあると意ひとしからず。シキルはくりかへし打寄するなり
 
(1048)   山部宿禰赤人作歌一首并短歌
938 (やすみしし) わがおほきみの かむながら 高しらせる 稻見野の 大海《オホミ》の原の (あらたへの) 藤井〔左△〕《フヂエ》の浦に しびつると あま船|散動《ミダレ》 塩やくと 人ぞさはなる 浦をよみ うべも釣はす 濱をよみ うべも塩やく ありがよひ 御覧《メサク》もしるし 清《キヨキ・キヨミ》白濱
八隅知之吾大王乃神隨高所知流稻見野能大海乃原※[竹/矢]荒妙藤井乃浦爾鮪釣等海人船散動塩燒等人曽左波爾有浦乎吉美宇倍毛釣者爲濱乎吉美諾毛塩燒蟻往來御覧母知師清白濱
 大海は三註共にオホウミとよめり。雅澄いはく
  大海乃原は地名にあらず。ただ海原をいへるなり
と。案ずるに大海はオホミとよむべくそのオホミは地名にて即日本紀畧に見えたる邑美《オホミ》なり○藤井は藤江の誤なる事略解に云へる如し。反歌にも藤江乃浦とあり○散動は舊訓にミダレ、略解古義にサワギとよめり。上なる足引ノ山ニモ野ニモと(1049)いふ歌の散動とひとしくミダレとよむべし○御覧は古義にメサクとよめるに從ふべし。ミルの敬語メス、それを延べてメサクといへるにてメサクモシルシは見給フコトモ宜ナリとなり○清白濱は又キヨミシラハマともよむべし(卷一はやみ濱風及卷二きよみ原參照)○白濱は白砂の濱なり。古義に『白浪のいちじるくよする濱を云』といへるは非なり
 
   反歌三首
939 おきつ浪へなみしづけみいざりすと藤江の浦に船ぞ動流《トヨメル》
奥浪邊浪安美射去爲登藤江乃浦爾船曾動流
 動流は舊訓にトヨメル、略解古義にサワゲルとよめり。卷三なる淺野ノキギシアケヌトシ立|動《トヨム》ラシ(四八二頁)の例によりてトヨメルとよむべし
 
940 いなみ野の淺茅おしなべさぬる夜の氣長在者《ケナガクアレバ》家ししぬばゆ
不欲見野乃淺茅押靡左宿夜之氣長在者家之小篠生
 卷一(七三頁)にもハタススキ、シヌヲオシナベとあり。オシナベは押伏《オシフセ》なり○氣長在(1050)者を略解古義に六帖に從ひてケナガクシ〔右△〕アレバとよめれどシといふ助辭結句なると重なれば舊訓の如くケナガクアレバとよむべし。ケナガクアレバは日數ツモレバとなり○續日本紀によれば行幸は十七日、還幸は十九日にて此歌にケナガクアレバとあると合はず。されば日本紀畧に從ひて七日の行幸とすべし。續紀には辛亥を辛酉と誤れるならむ
 
941 あかしがた潮干の道をあすよりは下咲異〔左△〕六《シタエミユカム》家ちかづけば
明方潮干乃道乎從明日者下咲異六家近附者
 下咲異六を契沖はシタヱマシケムとよみ略解古義共に之に從へり。さるはシタヱマシカラムの意とせるなり。されど然よみてはシホヒノミチヲのをさまる處なし。おそらくは異は往などの誤にてシタヱミユカムなるべし。シタヱムは心にゑむなり
 
   過2辛荷島1時山部宿禰赤人作歌一首并短歌
942 (あぢさはふ) 妹が目|不數見而《カレテ》 「しきたへの) 枕もまかず かにはまき 作れる舟に 眞梶ぬき わがこぎくれば 淡路の 野島もすぎ いなみつま △辛荷の島の 島のまゆ 吾宅《ワギヘ》をみれば 青山の そことも見えず 白雲〔左△〕《シラナミ》も 千重になりきぬ こぎたむる 浦のことごと 往隱る 島の埼々 くまもおちず おもひぞわがくる たびのけながみ
味澤相妹目不數見而數〔左△〕細乃枕毛不卷櫻皮纏作流舟二眞梶貫吾榜來者淡路乃野島毛過伊奈美嬬辛荷乃島之島際從吾宅乎見者青山乃曾許十方不見白雲毛千重爾成來沼許伎多武流浦乃盡往隱島乃埼埼隅毛不置憶曾吾來客乃氣長彌
 辛荷島は播磨風土記|揖保《イボ》郡の條に見えたる韓荷島なり。室津附近の海中にありて今もカラニジマと云ひて三小島より成れり○不數見而を宣長はカレテとよみ千蔭は數を衍字としてミズテとよめり。宣長の訓に從ふべし○カニハはハハカ一名カニハザクラ一名カバザクラの皮なり。くはしくは記傳卷八(全集第一の四五三頁)(1052)伴信友の正卜考卷二(全集第二の五一六頁以下)を見て知るべし。記傳にカニバと濁れるはわろし。カニワと唱ふべし。さて其カニハは舟のいづくにまきしにか古制さだかに知るべからねどおそらくは船底にまきて腐蝕を防ぎしなるべし○伊奈美嬬《イナミツマ》は今の高砂なり。くはしく卷四(六三八頁)にいへり。イナミツマ辛荷ノ島ノとつづける事不審なり。兩處はいたく相離れたればなり。おそらくはイナミツマの次に二句おちたるにぞあらむ○ワギヘは大和國なる故郷なり。青山ノソコトモミエズは遙ニ連ナリテ見ユル青山ノウチノイヅクトモ知ラレズとなり。略解に『淡路島を西へ過れば古郷の山も見えぬをいふ』といひてアヲ山ガの意としたるは非なり○白雲は白浪の誤か○コギタムルはコギメグルなり。但オキツ島コギタム舟ハ、武庫ノ浦ヲコギタム小舟などいへる例によればこゝもコギタム、浦ノコトゴトとありて然るべきなり。四段にも上二段にもはたらきしにや○ケナガミは日數ノ久シサニなり。此歌は西下の時の作なり
 
   反歌三首
943 玉藻かる辛荷の島に島囘《シマミ》する水烏《ウ》にしもあれや家もはざらむ
(1053)玉藻苅辛荷乃島爾島囘爲流水烏二四毛有哉家不念有六
 島囘を舊訓にアサリとよめるを古義に
  シマミスルとよむべし。島めぐりして食を求るを云なり
といへり。卷三(四五七頁)なるオホキミノミコトカシコミ礒廻スルカモも舊訓にはアサリとよめるを久老はイソミに改めたり。今は之に倣ひてシマミとよめるなり。此訓に從ふべし○アレヤにつきてまぎらはしき所あればすこし云ふべし。契沖は『アノ如クノモノニナリテアラバ』と譯して『アレヤは願の詞にはあらず』といへり。もし譯の如き意ならばアラバヤとあるべし。卷七にクレナヰニ衣ソメマクホシケドモ著テニホハバヤ人ノ知ルベキとあるを思ふべし。略解古義は共にアレカシの意とし古義には同例として卷七なるイハ倉ノ小野ユ秋津ニタチワタル雲ニシモアレヤ時ヲシ待タムといふ歌を擧げたり。案ずるに卷三(五二〇頁)なる河風ノサムキ長谷《ハツセ》ヲナゲキツツ君ガアルクニ似ル人モ逢耶《アヘヤ》とある、これもアヘカシの意なれば今のアレヤと同格なり。之に反して卷一(四二頁)ウチソヲ、ヲミノオホキミアマ有哉《ナレヤ》イラゴガ島ノタマ藻カリマス、同(五三頁)イニシヘノ人ニ我|有哉《アレヤ》ササナミノフル(1054)キ都ヲミレバカナシモこれらは海人ナラメヤ否海人ナラヌニ、イニシヘノ人ニアラメヤ否古ノ人ニアラヌニといふ意にて今のアレヤとは異なり
 
944 島がくりわがこぎくればともしかもやまとへのぼる眞熊野の船
島隱吾※[手偏+旁]來者乏※[毛三つ]倭邊上眞熊野之船
 島ガクリは島ニカクレテにて畢竟シマ陰ヲといふ意なり。古義に『海の沖遠く行て陸の方より見えずなるをいへり』といへるは非なり○こゝのトモシはウラヤマシなり。さてトモシキカモといはでトモシカモといへるは古格にて卷三(四二二頁)にコゴシカモ、五卷(八四七頁)にクヤシカモとあると同例なり○ヤマトヘは大和ノ方ヘなり。マクマヌノ船は熊野式の船なり。下にもミケツ國志摩ノアマナラシ眞熊野ノ小船ニノリテ沖ベコグミユとあり。又釋日本紀に引ける伊豫風土記逸文に野間郡熊野峯所v名2熊野1由者昔時熊野|止《ト》云船(ヲ)設v此(ニ)云々とあり
 
945 風ふけば浪かたたむと伺候《サモラヒ》につたの細江に浦がくりをり
風吹者浪可將立跡伺候爾都多乃細江爾浦隱往〔左△〕
(1055) 第三句は古義にサモラヒニとよめり之に從ふべし。サモラフベクの意にてそのサモラフはウカガフなり○ウラガクリは浦ニ隱レテなり○ツタノ細江は今の飾磨のあたりなり。今飾磨の西に津田村あり。又飾磨の内に細江町あり○飾磨は辛荷島より東にあれば歌の順序はたがへり○徃は諸本に居とあり
 
   過2敏馬浦1時山部宿禰赤人作歌一首并短歌
946 (みけむかふ) 淡路の島に ただむかふ みぬめの浦の おきべには 深みる採《ツミ》 浦囘《ウラミ》には なのりそ苅《カル》 (ふかみるの) 見まくほしけど (なのりその) おのが名をしみ 間使《マヅカヒ》も やらずて吾は 生友《イケリトモ》なし
御食向淡路乃島二直向三犬女乃浦能奥部庭深海松採浦囘庭名告藻苅深見流乃見卷欲跡莫告藻之己名惜三間使裳不遣而吾者生友奈重二
 三犬女《ミヌメ》は攝津國西灘村附近なり。タダムカフはタダニ向ヘルなり○採は舊訓にツミとよめるに從ふべし。苅は略解に從ひてカルとよみて句とすべし○オノガ名ヲシミは未練ト云ハレムガ口ヲシサニとなり○マヅカヒは契沖
(1056) 使は此方彼方の間〔日が月〕にかよふものなれば間〔日が月〕使といへり
と云へり○生友は舊訓にイケリトモとよめるを古義にイケル〔右△〕トモにかへたり。こは宣長の説によれるなれどなほイケリトモとよむべし(卷二【三〇五頁】參照)
 
   反歌一首
947 すまのあまの鹽やきぎぬのなれなばか一日も君を忘れておもはむ
爲間乃海人之鹽燒衣乃奈禮名者香一日母君乎忘而將念
     右作歌年月未v詳也。但以v類故載2於此次1
 初二はナレの序。ナレナバカのカは結句の下へまはして心得べし。ワスレテオモハムはただワスレムといふに同じ(卷一【一〇九頁】ワスレテオモヘヤ、卷二【二八八頁】スギムトモヘヤ參照)。さて一日モ忘レズとはいへど一日モ忘レムとは常云はざる所なり。案ずるにこのモはダニの意とすべし。即
  モシ離隔ニ馴レナバ一日ダニ君ヲ忘ルルコトアラム。今ハナホ一日ダニ君ヲ忘レズ
(1057)といへるなり。略解に『近く居て馴たらば』といひ古義に『君に近く向居て馴たらば』といへるは非なり
 
   四年丁卯春正月勅2諸王諸臣子等1散2禁於授刀寮1時作歌一首并短歌
948 (眞葛はふ) 春日の山は (うちなびく) 春さりゆくと 山(ノ)上に 霞たなびき 高圓に 鶯なきぬ もののふの 八十とものをは 折木四哭之《カリガネノ》 來繼皆〔左△〕《キツグコノゴロ》 石〔左△〕此續《コノゴロヲ》 常にありせば 友なめて 遊ばむものを 馬なめて ゆかまし里を まちがてに わがせし春を かけまくも あやに恐《カシコク》 いはまくも ゆゆしからむと あらかじめ かねて知りせば 千鳥なく 其佐保川に いそにおふる 菅の根とりて (しぬぶ草) 解除《ハラヒ》てましを ゆく水に みそぎてましを おほきみの みことかしこみ (ももしきの) 大宮人の (玉桙の) 道にもいでず こふるこのごろ
(1058)眞葛延春日之山者打靡春去住〔左△〕跡山上丹霞田名引高圓爾鶯鳴沼物部乃八十友能壯者折木四哭之來繼皆石此續常丹有脊者友名目而遊物尾馬名目而往益里乎待難丹吾爲春乎決卷毛綾爾恐言卷毛湯湯敷有跡豫兼而知者千鳥鳴其佐保川丹石二生菅根取而之努布草解除而益乎往水丹潔而益乎天皇之御命恐百礒城之大宮人之玉桙之道毛不出戀比日
 授刀寮は後の近衛府にて散禁は今いふ禁足なり。くはしく代匠記にいへり。就いて見るべし。左註によれば諸王諸臣禁中を空しうして春日野に遊びしによりて罪を蒙りしなり
 春サリユクトは春來ルトテなり。高圓は高圓《タカマト》の野なり○折木四哭之は契沖はやくカリガネノとよみたれど何故にかくは書けるかといふ事を明らめしは喜多村信節なり。狩谷望之の箋註倭名類聚抄卷二(九九丁)樗蒲の註に
  皇國所v爲樗〔手偏〕蒲〔さんずいが手偏〕雖v不v能v得2其詳1然其釆蓋用2四木1。故萬葉集折木四〔三字傍点〕、切木四〔三字傍点〕並訓2加里1。借2樗〔手偏〕蒲〔さんずいが手偏〕1爲v雁也、又三伏一向〔四字傍点〕訓2郡久1一伏三向〔四字傍点〕訓2古路1一伏三起訓2多米1。當d是所2擲得1之采(1059)名u。猶2廬白雉犢之稱1(○蘆白雉犢は皆五木の采名)其數以2三一1。亦可v證v用2四木1也。喜多村氏節信曰樗〔手偏〕蒲〔さんずいが手偏〕用2四子1一面白一面黒。其白者畫v雉二、不v畫二。黒者畫v犢二、不v畫二。以v之反復互換則九變而止。故又名2九采1……
 節信の萬葉集折木四考は未見ることを得ず。北愼言の梅園日記卷三に
  考ふるに折木四、切木四みな前條にいへる五木の類にて(〇五木とは一面黒く一面白き五枚の木片にてものする博奕なり)四木にてなす戲れ也【折字又切字を加へたるは長木ならぬをいへるなり】……さて四木をカリの假字に用ひたるは和名抄雜藝具に陸詞云※[木+梟]【音軒加利】※[木+梟]子(ハ)樗蒲采名也、又雜藝類に樗蒲和名加利宇知とあり。五木は廬(○采名)を貴采としたれども四木は※[木+梟]を貴采とせしなるべし。※[木+梟]をうちたるを勝とすれば樗蒲の名とせしにや。又萬葉十卷の三伏一向をツクとよませ十三卷の一伏三向をコロとよませたるも皆此四木の采の名なるべし
 木村正辭博士の美夫君志卷二別記附録に
  此折木四また切木四とかける事は先哲の説すべてひがごとのみにていかなる意とも知がたかりしを近きころ北村節信といへる人の考にて其義いと明かに(1060)なりたり。但其説いと長ければ今其意を採り約略してこゝにあぐ。和名抄雜藝部に兼名苑云樗蒲一名九釆【内典云樗蒲賀利宇智】又陸詞曰※[木+梟]【音軒和名加利】※[木+梟]子樗蒲釆名也とあるこれにて折木四は即樗蒲子の事にて其は小木を薄く削て兩邊を尖らしめて其形杏仁をそぎたるが如し。その半面は白く半面は黒く塗て白きかた二に雉を畫、黒き方二に犢を書てこれを投じて其釆色によりて勝負をなすなり。但西土にてはこれを五木といひて其釆五子なれども皇國にては四子を用ゐるなり。……かかれば折木四は樗蒲子の事にて加利の假字としたるなり
 正辭云。此説は實に千古の發明にてうごくまじき考なり¢Rるを北靜廬が梅園日記に自らの説として載たるはいとをこなる事なり。又按に樗蒲を加利といふは梵語なるべし。此戲はもと西域より傳しなれば其語をもて云ならへるならむ。其は飜譯名義集卷三帝王篇に歌利、西域記云羯利王、唐言2闘諍1、舊云2歌利1訛也とある是也。樗蒲の互に勝敗を諍ふは即闘諍するに同じければ加利とは呼べるなるべし
といへり。所詮いにしへ西土の五木に倣ひてものせし四木といふ戲ありてその釆(1061)(四枚の木片より成れり)をカリといふが故に戲れて雁《カリ》に切木四又は折木四の文字を當てたるなり(切レル木|四《ヨツ》又は折レル木|四《ヨツ》それ即|釆《カリ》なれば雁の借字としたるなり)
 按ずるに投子(博子ともいふ)をも釆といひ釆色(博打《バクチ》の目に當るもの)をも釆と云ひしにて和名抄に※[木+梟]子(ハ)樗蒲(ノ)釆(ノ)名也とあるは雜藝具〔右△〕に出で又※[木+梟]子〔右△〕とあれば投子をいへるなり。梅園日記に『四木は※[木+梟]を貴釆とせしなるべし。※[木+梟]をうちたるを勝とすれば樗蒲の名とせしにや』といひて※[木+梟]を釆色の名としたるは誤れり。又カリは投子の名にて樗蒲の名にあらざれば(樗蒲はカリウチといふ)木村博士の闘諍の梵語なりといふ説はかたがた信じ難し
 因にいふ。喜多村|信節《ノブヨ》一名を節信《セツシン》といふ。そは人の贈れる銅印に誤りて信節を顛倒したりしかば改め鋳させむも煩はしとてやがて一名とせしなり
さてカリガネに折木四哭と書けるはネに哭を當てガは添へてよませたるなり(契沖は哭之を之哭の顛倒とせり。果して然らばガネに之哭を當てノは添へてよませたるなり)○求繼皆石此續は眞淵は上の之の字を此句に附けて
(1062)  皆は春の誤にて之來繼春〔右△〕石五字をシキツギハルシとよむべし。さらばカリガネノはシキツギといはん枕詞とせん。意は春ノ及次《シキツギ》ツツ在物ナラバといふならん
といひ千蔭は
  皆は比日二字を一字に誤、石は如の誤にて來繼比日はキツギコノゴロと訓、如此續はカクツギテとよむべし。宣長の考も符合せり。さて意は宣長のいへる如く雁ガネノは來ツギといはん序にてキツギは春ノ來ツギテ此比ノゴトクカクツヅキテ常ニ春ナリセバといふ也
といひ美夫君志卷二別記附録には
  皆は留字、石は如字の誤りにて來繼留如此續《キツゲルゴトクココニツギ》なるべし(雁ノ來ツギ群レル如ク友ナメテイツモイツモ此所ニ遊バムモノヲ也)
といへり。案ずるに皆は比日の誤、石は如の誤なること略解にいへる如し。但訓は
  折木四哭之來繼比日如此續《カリガネノキツグコノゴロコノゴロヲ》
とあるべし。余が如此續の三字を意を待てコノゴロヲとよみしは守部の鐘の響(八五丁)に本集卷二なるミモロノ神ノ神スギ已具耳矣自云々の已具耳矣をスギシと(1063)よめるによりて思附きしなり。更に案ずるに如此續はこのまゝにても通ぜざるにあらねど續は或は讀の誤なるべし。カリガネノを宣長千蔭は枕辭としたれど枕辭にあらず。カリガネガ來ツグといへるにてその來つぐかりがねは即歸雁なり(卷五なる梅花歌(ノ)序は正月十三日に書けるものなるにその中に空歸2故雁1とあれば時候かなはずといふ難は起らじ)。以上再案によれば
  折木四哭之來繼比日如此讀《カリガネノキツグコノゴロコノゴロヲ》つねにありせば
とよむべくコノゴロヲのヲはツギテゾコフルコノ年ゴロヲなどの如く時の下に附くるヲなり○ユカマシ里ヲにて一段なり。里ヲは里ナルニなり。マシは下へつづけても用ふること卷三(五七二頁)にいへる如し。以上一段の意は
  春ニナリヌトテ春日山ノ山ベニ霞タチ麓ノ野ニ鶯啼クナリ。歸雁サへ來ツグ此頃ナレバ若禁足ノ罸ヲ蒙ラズバ我等宮人ハ友ヲサソヒ馬ヲ駢べテ野山ニ里ニ遊ビ行カムヲ
といへるなり
 春ヲは春ナルニにて十四句を隔てゝオホキミノミコトカシコミにかゝれるなり(1064)〇恐は略解古義にカシコシとよめれど、なほ舊訓にカシコクとよめるに從ふべし。カケマクモアヤニカシコクとイハマクモユユシとは同意にて散禁の罸を蒙るをいふ○千鳥ナクは准枕辭○略解に『シヌブ草はこゝは草にあらず。種《クサ》なり』といひ古義に『草は種なり。春野をしのぶ思ひ種《グサ》の意なり』といひて共にシヌブグサを補語としたれど、はらふべきものは禍なればシヌブグサは補語と見るべからず。否枕辭と見ざれば前後の意通ぜず。但いかにかゝれる枕にか未考へず○解除を略解にハラへとよめれど古義の如くハラヒとよむべし。記傳卷六(全集第一の三二八頁)にハラヒと云とハラヘと云と後にはまぎれて一に心得めれど本は別なり。ハラヒは自するをいひハラヘは令祓《ハラハセ》のつづまりたる言にて人にせしむるを云。罪咎ある人に負する祓《ハラヘ》など是なり
とあり○以上一段の意は
 カク畏クユユシキ仰ヲ豪ラムトカネテ知リナバハヤク罪ヲハラヒ穢ヲススギテムヲ悔シクモシカセズシテアタラ待兼ネシ春ナルニ天皇ノ仰ヲ畏ミテ外ニモ出デズ此授刀寮ニコモリテ徒ニ春ニ戀フル此頃カナ
(1065)といへるなり○住は徃を誤り官は宮を誤れるなり
 
   反歌一首
949 梅柳すぐらくをしみ佐保の内にあそびし事を宮もとどろに
梅柳過良久惜佐保乃内爾遊事乎宮動々爾
    右神龜四年正月數王子及諸臣子等集2於春日野1而作2打毬之樂1。其日忽天陰雨雷電。此時宮中無2侍從及侍衛1。 勅行2刑罸1、皆散禁於授刀寮1、而妄不v得v出2道路1。于v時悒憤即作2斯歌1 作者不詳
 サホノウチは佐保の郷内なり。コトヲはコトナルニなり。宮モトドロニの下にイヒサワガルルなどを略したり○此長歌并短歌にはアソバムモノヲ、ユカマシ里ヲ、ワガセシ春ヲ、ハラヒテマシヲ、ミソギテマシヲ、アソビシ事ヲなどナルヲのヲを多くつかひたり。作者の口ぐせなるべし
 
   五年戊辰幸2于難波宮1△作歌四首
950 おほきみのさかひたまふと山守すゑもる【ちと】ふ山に入らずばやまじ
(1066)大王之界賜跡山守居守云山爾不入者不止
 此行幸の事史に見えず○サカヒは古義にいへる如く用言につかひたるなり。略解に『是は親の守る女などを戀る譬喩歌也』といへる如し○宮の下に時の字を補ふべし
 
951 見渡せば近きものからいそがくりかがよふ珠をとらずばやまじ
見渡者近物可良石隱加我欲布珠乎不取不己
 チカキモノカラはイソガクリにかゝれり。イソガクリはイソガクルといふ用言のはたらけるにて礒ニ隱レテといふ意なり。モノカラはモノナルヲなり○近くて逢がたき妹に譬たりと略解にいへる如し
 
952 (からごろも、き)ならの里の島〔左△〕待《キミマツ》に玉をしつけむ好人〔左△〕欲得《ヨキタマモガモ》
韓衣服楢乃里之島待爾玉乎師付牟好人欲得
 カラゴロモ著までが枕なり。著馴といひかけたるなり○待は松の借字とおぼゆ。宣長は
(1067)  此卷の下吾宿ノ君松ノ樹ニとよめればこゝも島は君の誤にて好は取の誤ならん。……結句トランヒトモガとよむべし
といへり。君ヲ待ツを松にいひかけたるなり。君(ノ)字を島と誤れる例は卷三(三七七頁)にもあり。好人欲得の人を玉の誤としてヨキタマモガモとよむべし。女の歌なり
 
953 さをしかのなくなる山をこえゆかむ日だにや君《キミハ》はたあはざらむ
竿牡鹿之鳴奈流山乎越將去日谷八君當不相將有
    右笠朝臣金村之歌中出也。或云。車持朝臣千年作之也
 三註共に君にニをよみそへたり。案ずるに君ハとよむべし。こは秋の頃旅だつとてよめるにて
  鹿ノ妻ニ戀ヒテ鳴クナル山ヲ越行カム今日ダニ逢ヒタシト思フニヤハリ又君ハ逢ハザラムカ
といへるなり○以上四首行幸の御供にてよめるやうにはおばえず
 
   膳《カシハデ》(ノ)王歌一首
954 あしたには海邊《ウナビ》にあさりしゆふされば倭へこゆる雁しともしも
(1068)朝波海邊爾安左里爲暮去者倭部越鴈四乏母
    右作歌之年不審也。但以2歌類1便《スナハチ》載2此次1
 海邊を舊訓にウナビとよめり。然るに古義に
  十八に宇美邊ヨリムカヘモコヌカ、書紀竟宴歌にササナミノヨスル宇美倍ニ、古今土左にもウミベとよめり。十四にナツソヒク宇奈比ヲサシテとよめるは地名ならむ。山ビ河ビ岡ビ濱ビの例によらばウミビとこそいはめ。河ノビ。山ノビなど云はざるを見ればウナビとはいふべからず(○採要)
といへり。地名のウナビも元來海邊といふ義なればなほ古くはウナビとよむべし(彼カムナビも神之邊の義なるべし)。さて其海邊は旅先の海邊なり。トモシは羨シなり
 
   太宰少武石川朝臣|足人《タリヒト》歌一首
955 (さす竹の)大宮人の家とすむ佐保の山をば思ふやも君
刺竹之大宮人乃家跡住佐保能山乎者思哉毛君
(1069) 筑紫にて帥大伴旅人に贈りしなり。大宮人といへるは一般的なり。旅人の家も佐保山にありしなり。やがて卷三なる大伴坂上郎女悲2嘆尼理願死去1作歌(五五八頁)にウチヒサス都シミミニ。里家ハサハニアレドモ、イカサマニ思ヒケメカモ、ツレモナキ佐保ノ山邊ニ、ナク子ナス慕ヒ來マシテ云々といへる家なり
 
   帥大伴卿和歌一首
956 (やすみしし)わがおほきみのをす國は日本《ヤマト》もここも同じとぞおもふ
八隅知之吾大王乃御食國者日本毛此間毛同登曾念
 ヲスはシロシメスなり。第三句はシロシメス國ノ内ナレバといふ意なるべけれど辭足らず。日本は大和の借字なり。同の字を古義にオヤジとよめり。オヤジは古けれどオナジも集中に例あり(たとへば卷十八に月ミレバ於奈自クニナリとあり)
 
   冬十一月太宰官人等奉2拜香椎※[まだれ+苗]1訖退歸之時馬(ヲ)駐2于香椎浦1各述v懷作歌
    帥大伴卿歌一首
(1070)957 いざ兒ども香椎のかたにしろたへの袖さへぬれて朝菜つみてむ
去來兒等香椎乃滷爾白妙之袖左倍所沾而朝菜採手六
 略解に『子ドモは從者をさす。朝菜は朝食の料に礒菜つむ也。干潟にて裾ぬるゝをもととして袖サヘとはいへり』と云へる如し。カタニは滷ニテなり
 
     大武小野(ノ)老(ノ)朝臣歌一首
958 時つ風ふくべくなりぬかしひ潟潮干のうらに玉藻かりてな
時風應吹成奴香椎滷潮干※[さんずい+内]爾玉藻苅而名
 トキツ風は潮のさしくる時に吹く風をいふ(卷二【三一七頁】參照)。二三の間にシホノサシコヌ間ニといふことを補ひてきくべし○※[さんずい+内]《ゼイ》は文選海賦に沙※[さんずい+内]とあり
 
     豐前守宇努(ノ)首《オビト》男人《ヲヒト》歌一首
959 ゆきかへり常にわが見し香椎がたあすゆ後には見むよしもなし
往還常爾我見之香椎滴從明日後爾波見縁母奈思
 代匠記に『此男人は當年任の限はてけるなるべし』といへり。豐前ノ國府ヨリ太宰府(1071)ニ通フトテ常ニ見シ香椎潟ヲ云々といへるなり。古義に『いくたびも往かへり往かへりしつゝ見れども見あかずしておもしろき香椎潟なるを明日よりは任國にかへりゆきて後は見べき縁も無し云々』と釋したるは非なり。ユキカヘルは往クトテ還ルトテなり。上(一〇四七頁)なるユキメグリとは齊しからず
 
   帥大伴卿遙思2芳野離宮1作歌一首
960 隼人《ハヤビト》のせとのいはほも年魚はしる芳野の瀧になほしかずけり
隼人乃湍門乃盤母年魚走芳野之瀧爾尚不及家里
 隼人ノ瀬戸ノ巖ノオモシロサモ云々の意なり。隼人は國名なり。此瀬戸の事は卷三(三五八頁)にいへるを見よ○盤の字、諸本に磐とあり。但古書に盤を磐に通用せり
 
   帥大伴卿宿2次田《スキタ》(ノ)温泉《ユ》1聞2鶴(ノ)喧《ナクヲ》1作歌一首
961 湯の原になくあしたづはわがごとく妹にこふれや時わかずなく
湯原爾鳴蘆多頭者如吾味爾戀哉時不定鳴
 スキ田の湯は後にスイダの湯といひ今武藏の湯といふ。今の筑紫郡二日市村にあ(1072)り。天拜山の麓にありて太宰府より遠からず。湯の原は此温泉あるによりて名を得たるなり○此年旅人其妻を失ひき(卷五【八三九頁】參照)。故にワガゴトク妹ニコフレヤ時ワカズナクといへるなり
 
   天平二年庚午勅遣d擢《ヌク》2駿馬1使大伴|道足《チタリ》宿禰u時歌一首
962 奥山のいはにこけむしかしこくも問ひたまふかも念ひあへなくに
奥山之盤〔左△〕爾蘿生恐毛問賜鴨念不堪國
    右勅使大伴道足宿禰(ヲ)饗2于帥家1。此日會集(ノ)衆諸相2誘驛使|葛井《フヂヰ》(ノ)連廣成1言。須v作2歌詞1。登時《ソノトキ》廣成應v聲即吟2此歌1
 初二はカシコシの序なり。第三句以下の意はマダ歌ヲ思敢ヘヌニ歌ハイカニト畏クモ問ヒ給フカナとなり○登時はいにしへ支那に行はれし俗語にて即時、當時などの意なり
 
   冬十一月大伴(ノ)坂上《サカノヘ》(ノ)郎女發2帥家1上v道超2筑前國|宗形《ムナガタ》郡名兒山1之時作歌一首
(1073)963 おほなむち 少彦名の 神こそは 名づけそめけめ 名のみを 名兒山とおひて 吾戀の 千重の一重も なぐさ末〔左△〕《メ》なくに
大汝小彦名能神祀者名著始鶏目名耳乎名兒山跡負而吾戀之千重之一重裳奈具佐末七國
 宗形郡は通本に宗形部とあり。契沖は『官本に部を郡に改たり。此に依るべし』といへり。然るに訓義辨證下卷(二頁)には
  元本(○元暦校本)に郡字を部とかける事多くまた他の古書にも郡を部とかける事これかれあればもとのまゝにて有べき也。續日本紀卷三十二に信濃國水内部〔右△〕人……續日本後紀卷二に越後國蒲原郡〔右△〕伊夜比古(ノ)神預(ラシム)2之名神1以d彼部〔右△〕毎v有2早疫1致v雨救uv病也などある部の字即郡の意なり。零本丹後風土記にも郡を部とかけるがあり。また類聚名義抄に部コホリとあり。これ中世部をコホリと訓たる證なり
といへれどこれのみにてはコホリに部の字をも書きしといふ證は未十分ならず。諸本にも郡とあり
(1074) 名兒山は勝浦より田島へこゆる山なりといふ○卷二(二九四頁)に吾戀《ワガコフル》チヘノヒトヘモナグサムルココロモアリヤト、卷四(六三四頁)に吾戀流千重ノヒトヘモナグサモルココロモアリヤトとあり○末の字一本に米とありといふ。雅澄は之に從ひてナグサメ〔右△〕ナクニとよめり。訓義辨證上卷(三四頁)には
  今本に末とあるは誤也。未と改むべし。未にメの音のあることは上聲の尾(ノ)字にメの音のあるをもて知べし
といへり。いづれにしもナグサメ〔右△〕ナクニとよむべし。ナクニはヌカナといはむに近し○卷七に名草山コトニシアリケリ吾戀《ワガコフル》チヘノヒトヘモナグサ目ナクニとあるは今とよく相似たり
 
   同坂上郎女向v京海路見2濱(ノ)貝1作歌一首
964 わがせこにこふればくるし暇あらば拾ひてゆかむ戀わすれ貝
吾背子爾戀者苦暇有者捨〔左△〕而將去戀忘貝
 兄旅人をしたひてよめるなるべし(卷四【八一〇頁】參照)○捨は拾の誤なり
 
(1075)  冬十二月太宰帥大伴卿上v京時娘子作歌二首
965 おほならばかもかもせむをかしこみとふりたき袖をしぬびてあるかも
凡有者左毛右毛將爲乎恐跡振痛袖乎忍而有香聞
 初二は貴人ナラヌ尋常ノ人ナラバカウモアアモセンヲとなり。カシコミトのトは除きて心得べし○作者は遊女なり
 
966 やまとぢは雲がくりたり然れどもわがふる袖をなめしともふな
倭道者雲隱有雖然余振袖乎無礼登母布奈
    右太宰帥大伴卿兼〔右△〕2任大納言1向v京上v道。此日馬(ヲ)駐2水城1顧望府家1。于v時送v卿府吏之中有遊行女婦1。其字曰2兒島1也。於v是娘子傷2此易1v別嘆2彼難1v会拭v涕自吟2振v袖之歌1
 大和へ上ル道ハ雲ニ隱レテ君ノ一行ハ見エズナリヌ、サレド我ハナホ袖ヲゾ振ル、ソヲナメシト思ヒタマフナといふ意なるべし。無論まだ別れぬさきに取越してよ(1076)めるなり○左註の兼任は遷任の誤か。府家は太宰府の屋舍なり
 
   大納言大伴卿和歌二首
967 やまとぢの吉備の兒島を過ぎてゆかば筑紫の子島おもほえむかも
日本道乃吉備乃兒島乎過而行者筑紫乃子島所念香裳
 ツクシノ子島は即遊行女婦兒島なり。オモホエムはシノバレムなり。上(一〇三二頁)にいへり
 
968 ますらをとおもへる吾や(水茎の)水城《ミヅキ》のうへになみだのごはむ
大夫跡念在吾哉水茎之水城之上爾泣將拭
 ミヅグキノは枕辭なり(玉勝間卷一參照)○略解古義に『ミヅキのウヘは水城ノホトリといふが如し』といへり。案ずるに天智天皇紀に於2筑紫1築2大堤1貯v水名曰2水城1とありて水城といふはやがて大きなる堤にて其大堤ノ上ニテといへるなり。贈歌の左註に馬(ヲ)駐2水城1顧望府家1とあるも堤の上より顧みしたるさまなり
 
   三年辛未大納言大伴卿在2寧樂(ノ)家1思2故郷1歌二首
(1077)969 しま【らし】くもゆきて見てしがかむなびの淵は淺而《アセニテ》瀬にかなるらむ
須臾去而見牡鹿神名火乃淵者淺而瀬二香成良武
 カムナビといふ處大和國の處々にありて此歌の神名火はいづくのとも分き難きを六人部是香《ムトベヨシカ》の龍田考(三六丁)に
  そもそも神ナビとは神之森といふ言の約りつる言なりと賀茂翁のいはれつるは實に動まじき考にて、いづくの神の森にても然いふべきを大和にて古く三輪と飛鳥と葛城とに其名高かるはいづれもいみじく止事なき社どもなればなるべく後の書にこの龍田に近き神南備の其名高く成るはさばかり歌讀の多かりつる大伴氏の本居《モトヲリ》なりしまゝにおのづから歌にも多くよみいでたるうへ其後は龍田川の名高きに引かれて神ナビも三室も共に其名高くなれるなりけり
といひ又(三八丁)
  卷六大納言大伴卿在2寧樂家1思2故郷1歌にシバラクモユキテミテシガ神名火ノ淵ハアセビテ瀬ニカナルラムとあるを卷八に此旅人卿の孫〔右△〕なる大伴田村大孃が其妹坂上大孃に送れる歌にフルサトノ奈良思ノ岳《ヲカ》ノホトトギスとあるに考へ(1078)合すれば旅人卿までの本居《モトヲリ》は龍田の南なる奈良思(ノ)岡に在し事あきらかなり
といへり(田村大孃を旅人の孫といへるは非なり。宿奈麻呂を舊説の如く旅人の弟としても大孃は旅人の姪なり)○淺而は舊訓にアサビテとよめるを古義に
  淺而はアセニテと訓べし。……三卷に久方ノアマノサグメガイハ船ノハテシ高津ハ淺爾ケルカモ。こゝは淺の下に爾か去かの字など脱しか。又さらずともアセニテなり
といへり
 
970 指進〔二字左△〕乃|栗栖《クルス》の小野のはぎが花ちらむ時にしゆきてたむけむ
指進乃栗栖乃小野之茅〔左△〕花將落時爾之行而手向六
 初句を春滿はサシズミノとよみ雅鐙は村玉乃の寫誤としてムラタマノとよめり(こは卷二十に牟浪他麻之《ムラタマノ》クルニクギサシ云々とあるによれるなり)。代匠記、冠辭考、略解、古義共に枕辭とせり。余の案は後にいふべし○栗栖《クルス》は和名抄に大和國|忍海《オシノミ》郷栗栖とあるによりて略解古義共に忍海郡(今の南葛城郡)としたれど前の歌なる神名火の近傍ならざるべからず。而して神名火は龍田の神南なる事上にいへる如く(1079)なれば栗栖も亦|平群《ヘグリ》郡ならざるべからず○立返りて初句を吟味せむに結句のユキテタムケムと照應せしむるには初句にまづその行かむとする地名を云はざるべからず(栗栖ノ小野ニ行キテといへるにはあらざればなり)。もしその要なしとならば栗栖は類多き地名なれば郷名などを冠らすべくいづれにしても枕辭をおくべき余裕ある處にあらず。もし原字に拘はらで初句を填むべしといふ人あらば余はフルサトノといふべし
  或人此説を聞きていはく。然らば指進乃は振里乃の誤字にあらざるかと。案ずるにフルサトは集中に古郷、故郷などのみ書きたれど卷十一に古リタルを振有と書ける例(現ニモ夢二モ吾ハ思《モ》ハザリキ振有《フリタル》キミニココニアハムトハ)あれば振里と書くまじきにあらず。されどなほ安からざる所あり
 〇一首の意は略解に
  今萩の盛にはとても行事あたはざれば行て手向んころははや散ぬべしといふ也
といひ古義に
(1080)  末句は行て手向むとする頃はちりがたにならなむの意なり         といへり。もしさる意ならばチラム時ニカ〔右△〕とあるべきなり。思ふに萩の花散りなむ頃に故郷に歸らむあらましなりしならむ。然も旅人の薨ぜしは此年七月二十五日(丁未朔辛末)なれば果して志を遂げきや否やおぼつかなし○タムケムは略解に『故郷の神かまたは先租の墓などへ手向せんとなるべし』といひ古義にも『タムケムは土地《ウブスナ》(ノ)神などへ供養《タムケ》むの意にてよまれしなるべし』といへれどこは筑紫にて死別して故郷に還し葬りけむ妻大伴郎女の墓にたむけむと云へるなるべし。タムケムには何ヲといはでは物足らぬこゝちすれど酒ヲといはでただノムといふが如く(卷五【八九六頁】參照)補語を加へずしてただタムクとのみもいひなれしにこそ○茅は芽の誤なり。本集にハギを芽又は芽子と書けり
 
   四年壬申藤原|宇合《ウマカヒ》卿遣2(ルル)西海道節度使1(ニ)之時高橋(ノ)連《ムラジ》蟲麿作歌一首并短歌
971 (白雲の) 龍田の山の 露霜に 色づく時に うちこえて たびゆく(1081)きみは いほへ山 いゆきさくみ (あた守る) 筑紫に至り 山のそき 野のそき見世《ミヨ》と 伴部《トモノベ》を 班《アガチ》つかはし 山彦の こたへむきはみ 谷ぐくの さわたるきはみ 國がたを 見之《メシ》たまひて (冬ごもり) 春さりゆかば (とぶ鳥の) 早御來《ハヤクキマサネ》 龍田ぢの をか邊の路に につつじの にほはむ時の 櫻花 さきなむ時に (山たづの) 迎《ムカヘ》まゐでむ きみが來まさば
白雲乃龍田山乃露霜爾色附時丹打超而客行公者五百隔山伊去割見賊守筑紫爾至山乃曾伎野之衣寸見世常伴部乎班遣之山彦乃將應極谷潜乃狹渡極國方乎見之賜而冬木成春去行者飛鳥乃早御來瀧田道之岳邊乃路爾丹筒士乃將薫時能櫻花將開時爾山多頭能迎參出六公之來益者 續日本紀に
  天平四年八月丁亥正三位膝原朝臣房前ヲ爲2東海東山二道節度使1、從三位多治比眞人縣守爲2山陰道節度使1、從三位藤原朝臣宇合爲2西海道節度使1。道|別《ゴト》(ニ)判官四人、主典(1082)四人、醫師一人、陰陽師一人〇九月丁卯依2諸道節度使請1充《アツ》2驛鈴各二口1○十月辛巳給2節度使(ニ)白銅印1道別(ニ)一面
 懷風藻(群書類從卷百二十二)に正三位式部卿藤原朝臣宇合六首とありて
 五言奉2西海道節度使1之作 往歳東山役、今年西海行、行人一生裏、幾度倦2邊兵1
とあり
 露霜はツユジモと濁りて唱ふべし。ただ露といはむに齊し(卷二【一八三頁】參照)。イユキサクムは又イユキサグクムといふ。イは添辭ユキサクムは行避クのうらにて行通る事なり(卷四【六三八頁】參照)○アタマモルは敵の番をするなり。當時筑紫は外國より攻來る恐ありしによりて常に防備を嚴しくせられしなり○山ノソキ野ノソキは山ノアナタ野ノアナタにて所詮山奥野末なり○見世を舊訓にミヨとよめるを古義にメセに改めたり。宇合《ウマカヒ》が伴(ノ)部に命ぜむさまを叙したるなればミヨにて可なり。トモノベは屬僚なり。ベはワラハベなどのベなり。トモノヲ(部長)に對せる稱なり。班は古義にアガチとよめるに從ふべし。班田をアガチダとよむと同例なり。但カの清濁はなほ考ふべし○山彦ノ云々の四句は山野ノ果マデといふ意なり。國ガタは地形な(1083)り。見之は古義にメシとよめるに從ふべし。春サリユカバは春ガ來ラバとなり○早御來は略解にはハヤクキマサネとよみ古義には御を却の誤としてハヤカヘリコネとよめり。下なる來益者《キマサバ》と照應せるなれば略解の訓に從ふべし○タツ田ヂは卷四(六一七頁)なる淡海路、同卷(六六七頁)なる木路と同例にて龍田の道なり。龍田へ行く道にあらず○丹《ニ》ツツジノニホハム時ノ〔右△〕サクラ花サキナム時ニのノは例のニシテ又など譯して心得べきノなり(卷三【四七〇頁及五〇八頁】參照)○ムカヘマヰデムはムカヘニのニを略したるなり。マヰデムはマウデムなり
 
   反歌一首
972 千萬の軍なりとも言擧せずとりて來ぬべき男《ヲトコ》とぞもふ
千萬乃軍奈利友言擧不爲取而可來男常曾念
    右檢2補任文1八月十七日任2東山山陰西海節度使1
 イクサは兵士なり。コトアゲは心にをさめずして言に擧げていふを云ふ。我ヨク取リテ來ムなどいはむが言擧なり。さればコトアゲセズはダマツテといふことなり。(1084)トルは殺す事なり。説、記傳卷二十三(全集第二の一四一〇頁)にくはし
 
   天皇賜2酒(ヲ)節度使卿等1御歌一首并短歌
973 をすぐにの とほのみかどに 汝等か《イマシラガ・ナムヂラガ》 かくまかりなば たひらけく 吾は遊ばむ 手抱而《タウダキテ》 我はいまさむ 天皇朕《スメラワガ》 うづの御手|以《モチ》 かきなでぞ ねぎたまふ うちなでぞ ねぎたまふ 將還來日《カヘリコムヒ》 あひのまむ酒《キ》ぞ この豐御酒は
食國遠乃御朝庭爾汝等之如是退去者平久吾者將遊手抱而我者將御在天皇朕宇頭乃御手以掻撫曾禰宜賜打撫曾禰宜賜將還來日相飲酒曾此豐御酒者
 天皇は聖武天皇なり○汝等之はイマシラガともナムヂラガともよむべし(古義にはイマシラシ〔右△〕とよめり)○手抱而を契沖はタムダキテとよめり。記傳卷二十四(第二の一四八一頁)に
  抱は書記などにイダクともウダクともムダクとも訓るが中に萬葉十四にカキ(1085)武太伎とあればこれによりてムダキテと訓べしといひ古義卷三(一四〇丁)に
  抱はウダキと訓べし。靈異記に抱【于田伎】と見えたり。十四に武太伎とあるは東語にははやく訛れるなるべし。そもそもウダキといふ言の意は腕纏なり。……今モ土左人はウダキとのみいへり
と云へり。タウダキテとよむべし。さてタウグクは手を拱《コマヌ》く事なり○御身づからイマサム、スメラワガウヅノ御手、ネギタマフなどのたまへるはいともかしこき我邦の手ぶりにて他國には例なき事なり。古義にも
  かく御自の御うへの事を御自詔ふに尊みて詔へること天皇威稜の二なくありがたくかたじけなき事一卷初(〇九丁)に委辨たるが如し
といへり○ウヅは高貴といふ事。カキナデ、ウチナデのカキ、ウチは添辭。ネギは犒らふ事○將還來日は舊訓の如くカヘリコムヒとよむべし(略解にはカヘラム日とよめり)。アヒノマムの上にフタタビといふ語を加へて心得べし。トヨミキは酒をたたへてのたまへるなり      
 
(1086)   反歌一首
974 ますらをのゆくとふ道ぞおほろかに念ひて行くなますらをのとも
大夫之去跡云道曾凡可爾念而行勿大夫之伴
     右御歌者或云太上天皇御製也
 太上天皇は元正天皇なり○初二は大丈夫ナラデハ果シ難シトイフ任ゾとなり。オホロカニは尋常ニなり。かの王事靡※[監のような字]もうるはしくはオホロカナラズとよむべし
 
   中納言安倍廣庭卿歌一首
975 かくしつつあらくをよみぞ(たまきはる)短き命を長くほりする
如是爲菅〔左△〕在久乎好叙靈剋短命乎長欲爲流
 アラクヲヨミはアル事ガヨサニとなり。喜ありし時によめるにこそ○菅は管の誤なり
 
   五年癸酉超2草香山1時神社(ノ)忌寸《イミキ》老麿《オユマロ》作歌二首
976 難波がた潮干のなごりよく見てむ家なる妹がまち問はむため
(1087)難波方潮干乃奈凝委曲見在家妹之待將問多米
 草香山は大和河内國境の山の名なり。なほ下にいふべし○例の海をめづらしむ大和人の情を述べたるなり○ナゴリを普通の説には餘波の意とすめり。げに餘波の意として通ずる處もあれど今の歌又卷七なる
  奈呉の海の朝開のなごり今もかも礒の浦囘《ウラミ》にみだれてあらむ
といふ歌などは餘波の意としては通ぜず。餘波はさばかり見ておもしろきものにあらず又礒ノ浦囘ニミダレテアラムなどいふべきにあらざればなり。守部の鐘の響(一二〇丁)に
  萬葉七ナゴノ海ノアサケノナゴリケフモカモ礒ノウラミニ亂レテアラムまた六、難波ガタ潮干ノナゴリヨク見テム家ナル妹ガマチトハムタメこれらのナゴリは常の餘波のみの上をいふとは聞えぬやうなり。もしは汐干に殘る魚の事をいへるにはあらじか。守部稚きほど伊勢國朝明郡の海邊にしばし在けるに其邊にては汐の干るを待て礒の石間〔日が月〕、洲崎の窪みなどに殘りをる魚を捕にゆくをナゴリヲ拾フといひて何よりたのしきわざとせり。……元眞集にイセノ海ニナ(1088)ゴリヲ拾ヒ〔二字右△〕ワブル海人モ物思フ事ハエシモ増ラジ。かゝれば伊勢の海には殊に其名ありしにこそ。さてこれに合せて思ふに右の歌に礒ノウラミニ亂レテアラム、又潮干ノナゴリヨク見テムなど何とかや其事めきて聞ゆ。もしさらば是は魚殘《ナノコリ》、彼は波殘《ナノコリ》の意なるが唱へのおなじきままに混じたる歟。又ただ浪殘《ナゴリ》と云に魚もこもりて同じことなる歟といひ中島廣足の窓の小篠(中卷廿五丁)には
  ナゴリは風吹あれし海の風やみてもなほ浪のしづまらぬをいふ(餘波と書て今も海邊にはいふことなり)がもとにて其事其物の跡に殘りたるをいふ。……萬葉七ナゴノ海ノアサケノナゴリケフモカモ礒ノウラマニミダレテアルラム、催馬樂風シモフイタレバナゴリシモタテレバ、勢語其夜南ノ風フキテナゴリノ波イトタカシ、元眞集イセノ海ニナゴリヲタカミ〔三字右△〕ワブルアマモ物オモフ事ハエシモマサラジ(○此歌の第二句類從本などには守部の引ける如くヒロヒとあり本願寺本などには今の如くタカミとあり)これらは風にたちたる浪の風やみてもなほたつをいへる也(○ナゴノウミノといふ歌を此類に入れたるは誤なり)
(1089) 萬六ナニハガタシホヒノナゴリヨク見テナ家ナル妹ガマチトハムタメ、同四ナニハガタシホヒノナゴリアクマデニ人ノ見ル兒ヲワレシトモシモ。かくシホヒノナゴリとつづけ妹ガタメニヨク見テムなどいひ又アクマデニ見ル兒の序としたるなどは浪のたつことにてはあるまじくおもはる。こは貝や石や海松などのよりたるけしきのあかずおもしろきをシホヒノナゴリ、といへるにやあらむ
といへり。案ずるに浪殘《ナミノコリ》は音便といふことの無かりし世にナゴリとはつづまるべからず。又もしナゴリに波の意あらば勢語(八十六段)の如くナゴリノ波とはいふべからず。又波にいふを浪殘の約とせば魚、藻などにいふは魚殘《ナゴリ》又は菜殘《ナゴリ》の約とせざるべからず。否古今集春下に風ノナゴリ(さくらばなちりぬる風のなごりには水なき空になみぞたちける)とあるは何の約とかせむ。さればナゴリはただ殘といふことにて餘波にも餘風にも別後の餘情にも今の歌の如く潮の千て魚介海藻の潟に殘れるにも云ふべきなり
  契沖が『鹽の干潟に殘れるたまり水をナゴリといふ』といへるは餘波の意としては通ぜざる歌あれば彼にも此にもかなふべき釋をと拈り出でたるなり。雅澄が(1090)(萩原廣道も)浪凝の約とせるは緑衣を黒衣に代へたるまでにて浪殘の約とする説と共にふさはず
 
977 ただごえのこのみちにしておしてるや難波の海となづけけらしも
直超乃此徑爾師弖押照哉難波乃海跡名附家良長思裳
 古事記雄略天皇の段に日下《クサカ》之|直越《タダゴエ》(ノ)道とありて傳卷四十一(全集第三の二三六三頁)に
  倭の平群郡より伊駒山の内(南方)を越て河内國に至り(若江郡を經て)難波に下る道にして(今世に暗《クラガリ》峠と云是なり。……さて今の日下村は此道には非ず。やゝ北方なれども久佐加と云名は此坂より出て古は此坂のあたりをも日下とぞ云りけむ……)此道近き故に直越《タダゴエ》とは云なり
といへり。守部の鐘の響上卷(五丁)には
  此龍田越闇がり峠にかゝる道はいと久しき時よりの間道なり。……此山路甚近道なりければつひに龍田の直越(タダはタダ路など云タダなり。曲道《ヨキミチ》に對へて眞直に近く行を云)とは名に負しなり
(1091)といひて龍田越とくらがり峠とを混同せり。日下の直越とこそあれ、龍田の直越といへることは何の書にも見えざるをや(龍田考十一丁以下參照)。大日本地名辭書には
  草香山は生駒山に同じ。其北尾を云ふ。日根市村大字善根寺より登路あり。即古の孔舍衙《クサカ》坂にして又直越と稱したり
といひてくらがり峠より北方に當れる峠を以て日下の直越に擬したり。案ずるに北方なる峠は山路紆曲したればタダゴエとはいふべからず。後に其南方に一の峠(即くらがり峠)いで來てこの方近道なれば之をクサカノタダゴエといひしなり。草香山はげに生駒山の一名とおぼゆ〇一首の意は
  古ヨリおしてるや難波トイフハ此草香ノ直越道ニテ遙ニ難波ノ海ノ光レルヲ見テ云ヒソメシニコソ
といへるなり
 
   山上(ノ)臣|憶良《オクラ》沈v痾之時歌一首
978 士《ヲトコ・ヲノコ》やも空しかるべき萬代にかたりつぐべき名は不立《タテズ》して
(1092)士也母空應有萬代爾語續可名者不立之而
    右一首山上憶良臣沈v痾之時、藤原朝臣|八束《ヤツカ》使2河邊朝臣|東人《アヅマビト》1令v問2所v疾之状1。於v是憶良臣報語已畢、有v須〔左△〕拭v涕悲嘆口2吟此歌1
 不立は舊訓にタタズとよめり。古義にタテズとよめるに從ふべし。名ハは名ヲバを略せるなり○左註の有須は官本に有頃とありといふ。之に從ふべし。史記張儀傳に有頃《シバラクアリテ》而病とあり○卷十九に慕v振2勇士之名1歌一首并短歌といへる家持の歌ありて左註に
 右二首追2和山上憶良臣1作歌
とあり。合せ見べし
 
   大伴坂上郎女與d姪家持從2佐保1還c歸西宅u歌一首
979 わがせこが著衣《ケルキヌ》うすし佐保風はいたくなふきそ家にいたるまで
吾背子我著衣薄佐保風者疾莫吹及家左右
題辭を略解に與2姪家持1とよめるは非なり○家持は郎女の兄旅人の子なれば姪《ヲヒ》とはいへるなり○ケルは著タルなり○佐保風は卷一なるタワヤメノ袖フキカヘス(1093)アスカ風の類なり
 
   安倍朝臣蟲麿月歌一首
980 (あまごもり)三笠の山をたかみかも月のいでこぬ夜はくだちつつ
雨隱三笠乃山乎高御香裳月乃不出來夜者更降管
 クダチは卷五にもワガ盛イタククダチヌとあり。夜にクダツといふは更くる事なり○此歌卷三なるクラ橋ノ山ヲタカミカ夜ゴモリニイデクル月ノ光トモシキ又次なる歌と似たり〇三笠山は後世は春日山の手前なる小山をいへど
  はやく顯註密勘(定家)に『春日山に三笠山とてひき下りて小さき山に春日社おはします。春日山は總名なり。三笠山は別名なり』といへり
 當時三笠山といひしは連山の主峯なる今の春日山の事なり
 
   大伴坂上郎女月歌三首
981 かりたかの高圓《タカマト》山をたかみかも出來《イデクル》月のおそくてるらむ
※[獣偏+葛]高乃高圓山乎高彌鴨出來月乃遲將光
(1094) 代匠記に『※[獣偏+葛]高は第七に借高之野邊とよみて、地の名なれば石上布留と云如く※[獣偏+葛]高は總名にて高圓は別名なるべし』といへり○オソクテルラムの上にカクハといふ辭を添へて聞くべし。古義に月の出でぬ前の歌として出來をイデコムとよめるは非なり。出來は當夜の月のみについて云へるにあらず。されば舊訓の如くイデクルとよむべし。オソクテルラムは遲ク出來ラムといへるにてそのテルラムは當夜の月のみについて云へるなり
 
982 (ぬばたまの)夜霧のたちておほほしくてれる月夜のみればかなしさ
鳥玉乃夜霧立而不清照有月夜乃見者悲沙
 或人問ひて云はく。カナシサの如く形容詞の語幹にサを添へたるは名詞となれるなればミレバを受けてカナシサとはいふべからず。いかが。答へていはく。
  夕さればねにゆくをしのひとりして妻ごひすなる聲のかなしさ〔右△〕
  さく花におもひつくみのあぢきなさ〔右△〕身にいたつきのいるも知らずて
これらを見ればげに名詞なるが如くなり。古義に
  ミレバカナシサはミレバは初句の上にめぐらして心得べし。ミレバを隔てゝツ(1095)クヨノカナシサと續く意なり
といひてミレバに心をおきたるを見れば雅澄も問者の如くミレバカナシサとは續くべからずと思へるならむ。されど
  うつつにはさもこそあらめ夢にさへ人めをもると見るが〔右△〕わびしさ〔右△〕
などガを受けたる例あるを思へば此格は名詞にあらざる事明なり。案ずるに此格は元來形容詞の一格にてカナシサはカナシキコトヨと譯すべく他は之に準ずべし。因にいふ。形容詞の語幹にクを添へたるも文句の末にあるはコトヨと譯すべし。さればコトヨといふ意を古歌には或はサといひ或はクといへり。本集卷七なる
  大海のみな底とよみたつ浪のよらむと思へる礒の清左《サヤケサ》
  大海の礒もとゆすりたつ波のよらむと念へる濱の淨奚久《サヤケク》
これ例とすべし
 
983 山のはのささらえをとこあまの原とわたる光みらくしよしも
山葉左佐佳良榎壯子天原門度光見良久之好藻
    右一首歌或云。月別名曰2佐散良衣壯士1也。縁2此辭1作2此歌1
(1096) 略解に『ササラは小き意、エは美き意にて則月をほめいへり』と云へり。さらばササラエヲトコとエを下に附けでよむべし○ミラクは見ル事ガなり。シとモとは助辭○トワタルを古義に彼高天原ノ石屋戸ノ前ヲワタルと譯せるは非なり。トワタルのトは河ト、セト、トナカなどのトにて船の通ふ處なり。さればトワタルは古今集に
  わが上につゆぞおくなる天の川とわたる船のかいのしづくか
とある如く船にいふ語なるを今は天を海、月を船に擬してアマノ原トワタルと云へるなり
   豐前國娘子月歌一首【娘子宇曰大宅氏未詳也】
984 雪がくりゆくへをなみとわがこふる月をや君之〔左△〕みまくほりする
雪隱去方乎無跡吾戀月哉君之欲見爲流
 雲ガクリは雲ニカクリテのニとテとを省けるなり。ユクヘヲナミトのトはカシコミトなどのトにて除きて心得べきトなり。さてそのユクヘヲナミトは古義に『往方シレズナリヌル故ニといふ意なり』といへるごとし。君之《キミガ》は君毛《キミモ》の誤にあらざるか
 
(1097)   湯原王月歌二首
985 天にますつくよみをとこまひはせむこよひのながさ五百夜つぎこそ
天爾座月讀壯子幣者將爲今夜乃長者五百夜繼許増
 マヒハセムは卷五にもワカケレバ道行シラジマヒハセム〔五字傍点〕シタベノ使負ヒテトホラセとあり○ツギコソはツヅケカシの意にて畢竟アハレ月ノオモシロキニコヨヒノ長サ常ノ五百夜ノ程ナレカシと願へるなり
 
986 はしきやし不遠〔左△〕《マドホキ》里の君|來跡《コムト》大能備爾鴨《オホノビニカモ》月の照有《テリタル》
愛也思不遠里乃君來跡大能備爾鴨月之照有
 不遠を舊訓にマヂカキとよみ諸註之に從へり。卷四同王贈2娘子1歌(七三五頁)に
  はしけ〔右△〕やしまぢかき里を雲居にやこひつつをらむ月もへなくに
とあり。古義に『ハシキヤシは君と云へ係て云るなり』とあれど卷四なると同じく里にかゝれるに似たり○第四句の大能備爾鴨は舊訓にオホノビニカモとよめり。宣長は君|來跡之《コトシ》我待ニカモの誤にやといひ雅澄は云知信の誤にてキミコムトイフ(1098)シルシニカモなるべしといへり。又雅澄は略解に
  もし大野|方《ベ》の意か。考べし
といへるを斥けて
  略解に大野方の意かといへるは何事ぞや。大野を大能と書くべくもなし。また野方を野備といへることもなきをや
といへり。案ずるに君コムトオホノビニカモとよむべくカモは君コムトの下に移して心得べし。オホノビは大野邊なり。野はいにしへはヌといひしこと勿論なれど卷五梅花歌(九〇七頁)にハルノ能ニキリタチワタリフルユキトとあるを見れば當時はやくノともいひしなり。野邊をノビといふは岡邊、濱邊、山邊、河邊をヲカビ(卷五【九〇六頁】)ハマビ(同卷【九四七頁】)ヤマビ(卷十)カハビ(卷二十)といへると同例なり。カモは元來君コムトの下におくべきを言數に制せられて大ノビニの下におけるなり○照有は略解の如くテリタルとよむべし(古義には舊訓の如くテラセルとよめり)○再案ずるに不遠はもと不近とありてマドホキとよむべかりしを卷四なるハシケヤシ不遠《マヂカキ》里ヲにまがへて不遠と寫しひがめたるならむ。さて一首の意は大野ヲ越エテハ(1099)ルバルト通ヒ來ル人ノ便ニトソノ大野ニ月ノ照リタルニヤと喜びいへるならむ。此歌は女の情になりてよめるにや
 
   藤原八束朝臣月歌一首
987 まちがてにわがする月は(妹が著《キル》)三笠の山に隱而有來《コモリテアリケリ》
待難爾余爲月者妹之著三笠山爾隱而有來
 初二はワガマチカヌル月ハといふ意なり。著を舊訓にキルとよめるを古義にケルに改めたり。上なるワガセコガケルキヌウスシの如く目の前に著たるを見ていへるにあらねばなほキルとよむべし○結句は略解にコモリテアリケリとよみ古義にコモリタリケリとよめり。いづれにても可なり
 
   市原王宴祷〔左△〕2父安貴王1歌一首
988 春草〔左△〕《ハルハナ》はのちは落易《ウツロフ》いはほなす常盤にいませたふとき吾君《ワガキミ》
春草者後波落易巖〔左△〕成常盤爾座貴吾君
 落易は舊訓にカレヤスシとよみ略解にウツロフとよめり。又契沖は春草を春花の(1100)誤とし落易をチリヤスシとよめり。案ずるに人の榮をよそふるには春草よりは春花の方ふさはしければ春草は春花の誤とすべし。然らば第二句は如何といふにノチハといひてチリヤスシといふべきにあらず。されば落易はウツロフとよむべし。さて易は音エキ訓カハルの意に用ひたるにて音イ訓ヤスシの意に用ひたるにあらじ。但變易、遷易などの熟字は用ひなれたれど落易といへる例を知らねば或は誤字にてもあるべし○こゝのイハホナスは枕辭にあらず○題辭は市原王ウタゲシテ父安貴王ヲホギシ歌などよむべし。祷は或は壽の誤字にあらざるか○嚴、盤は諸本に巖、磐に作れり
 
   湯原王打〔左△〕酒歌一首
989 (やきだちの)かど打放《ウチハナチ》ますらをの祷《ノム》とよ御酒《ミキ》にわれゑひにけり
燒刀之加度打放大夫之祷豐御酒爾吾醉爾家里
 題辭の打酒について宣長は『打は祈の誤か。さらばサカホガヒとよむべし』といひ古義には『中山嚴水、打(ノ)字は折の誤なるべし。しか云故は古事記に八鹽折之酒と有て酒を醸《カム》事を折ともいひしと見えたり云々と云り』といへり。此説ども未穩ならざれば(1101)余も試に一説を述べむに打酒は行酒の誤か。行酒は十八史略西晋愍帝の紀に
  帝出降。漢將劉曜送2平陽1。聰享2群臣1。命v帝著2青衣1行v酒洗v爵
とありて獻酬を佐くる事なり。反りて思ふに湯原王たとひ宴席の主人なりとも自酒を行《タス》くまじきが上に、歌にマスラヲノ祷トヨ御酒ニワレヱヒニケリとあると相かなはず。されば行酒の誤字ともすべからず。更に案ずるに打酒は置酒などの誤字にて打の字は歌の中よりまぎれ來れるにあらざるか。次行よりまぎれ來れるとおぼゆる例本集に少からず○祷は舊訓にツクとよめり。さるは擣とある本によれるなるべし。類聚古集などにはノムとよめり。こは飲の借字とせるにや。記傳卷三十一(全集第二の一八九九頁)に
  打酒は祈酒《サカホガヒ》の誤なるべし。祷もホグとよむべし。ネグ(○仙覺抄)又ノムなど訓るはわろし。又初の二句は誤字あるべし
といへり。第二句の意の明ならざる限はいづれをよしとも定むべからず○ヤキダチノカド打放を契沖は(放を舊訓の如くハナツとよみて)丈夫《マスラヲ》の形容とし記傳には放をハナチとよみて
(1102)  此初二句も壽態《ホグワザ》をよめるなるべし
といへり。案ずるにカドウチハナチは禮節ヲウチ棄テテといふことにあらざるか。果して然らばヤキダチノはカドの枕にて祷は飲の借字又は誤字とすべし。卷十九なる家持の爲v應v詔儲作歌に
  豐のあかりめすけふの日は、もののふの八十とものをの、島山にあかる橘、うずにさし紐ときさけて〔六字傍点〕、千とせほぎ保伎吉とよもし、ゑらゑらに仕へまつるをみるがたふとさ
とあるも打解けたるさまなり
 
   紀朝臣鹿人見2茂岡之松樹1歌一首
990 しげ岡にかむさびたちてさかえたる千代まつの樹のとしのしらなく
茂岡爾神佐備立而榮有千代松樹乃歳之不知久
 略解に一本によりて題辭の見の上に跡の字を補ひ古義も之に從へり。これによらば跡見《トミ》ノ茂岡ノ松ノ樹ノ歌とよむべし
 
(1103)   同鹿人至2泊瀬河(ノ)邊1作歌一首
991 石走《イハバシリ》たぎちながるるはつせ河たゆることなくまたもきてみむ
石走多藝千流留泊瀬河絶車無亦毛來而將見
 卷一にミレドアカヌ吉野ノ河ノトコナメノタユルコトナクマタカヘリミムといふ歌あり。上(一〇二六頁)にもミヨシ野ノ秋津ノ川ノヨロヅ世ニタユルコトナク又カヘリミムとあり。初句は契沖のイハバシルとよめるを雅澄はイハバシリに改めたり。タギチは動詞なればげにイハバシリとよむべし。イハバシリは石上ヲ走リとなり
 
   大伴坂上郎女詠2元興寺之里1歌一首
992 ふるさとの飛鳥はあれど(あをによし)ならの明日香をみらくしよしも
古郷之飛鳥者雖有青丹吉平城之明日香乎見樂思奴〔左△〕裳
 元興《グワンコウ》寺一名法興寺は高市郡飛鳥眞神原にありき。よりて又飛鳥寺といふ。寧樂遷都の後新に一寺を寧樂に建てゝ之を單に元興寺といひ高市郡なるを本《ホン》元興寺とい(1104)ひき。
 崇峻天皇紀に
  元年蘇我馬子宿禰壞2飛鳥(ノ)衣縫(ノ)造(ノ)祖|樹葉《コノハ》之家1始作2法〔右△〕興寺1。此地名2飛鳥(ノ)眞神(ノ)原1。亦名飛鳥(ノ)苫田
 推古天皇紀に
  四年冬十一月法興寺造竟
 貞觀四年八月廿五日の太政官符(類聚三代格卷二所載)に
  應v令3本元〔右△〕興寺法華供得業僧預2維摩會竪義1事 右得2彼寺傳燈住位僧金耀牒1※[人偏+再]、謹檢2案内1此寺佛法元興之場、聖教最初之地也。去和銅三年帝都遷2平城1之日諸寺隨移、件寺獨留。朝庭更造2新寺1備2其不v移之闕1。所v謂元興寺是也云々
 古義に右の文を引きたるには脱字誤字衍字誤讀あり。續紀元正天皇靈龜二年五月の條に
  始徙2建《ウツシタテハジム》元〔右△〕興寺于左京六條四坊1
 同養老二年八月の條に
(1105)  遷2法〔右△〕興寺於新京1
とあり。即靈龜二年に建始め二年餘を經て養老二年に造畢へしなり。但遷2法興寺於新京1とあるを見れば飛鳥なるは廢せられし如くなれど實は新舊ともに存ぜられし事貞觀の官符にて明なり。古義に元興法輿を二寺としたるは非なり。日本書紀通釋卷之五十二(第四の二九〇八頁以下)に
  さて此法興寺元興寺を一寺にあらず二寺なりと云る説あれども非なり。……まづ元亨釋書に元〔右△〕興寺者上宮太子又誓營v寺故於2飛鳥地1創v之推古四年成始曰2法〔右△〕興寺1とあり。又拾遺記に引る本元興寺縁起に本元興寺四門額面各異也西門元興寺〔三字右△〕、南門飛鳥寺、東門|品幡《ホンマン》寺、北門法興寺〔三字右△〕云々とあり(行嚢抄に元興寺豐等邑の内なり東門飛鳥寺、西門法興寺、南門元興寺、北門法滿寺……)。これらにて法興、元興、飛鳥みな一寺數名ありしことを知べし
といへり。又七大寺巡禮記元興寺の條に
  諸門額事 東門額飛鳥寺、西門法興寺、北門建通寺
 又古圖に
(1106)  南大門額元興寺、北門飛鳥寺東門法滿寺、西門法興寺
とあり。因にいふ古今集夏歌の端書に
  ならのいそのかみ寺にて郭公のなくをよめる
とあり。石上《イソノカミ》寺は山邊郡石上にありて奈良とは二里許相離れたるをナラノイソノカミ寺といへる誰も不審とする事なり。案ずるにこれも元興寺の如く奈良に新寺を建てられてそれを山邊郡なると別たむ爲に奈良の石上寺といひしにこそ(此事は眞淵はやくいへり)
さて歌にナラノアスカといへるを見れば元興寺の域内を其舊地の名を取りて飛鳥といひしにて題辭に元興寺之里といへるは其寧樂の飛鳥(ノ)里なり○フルサトノアスカといへるは高市郡なる飛鳥は天武天皇の舊都なればなり。アスカハアレドはオモシロケレドとなり。卷三登2神岳1山部宿禰赤人作歌に
  あすかの、ふるきみやこは、山たかみ、河とほじろし云々
といへるを見ればげにおもしろかりし處とおもはる。二三の間に又といふ語を挿みて聞くべし。古義に『なほ平城に及ばず』と釋けるは非なり。さる調にあらず○奴は(1107)好の誤なり
 
   同坂上郎女初月歌一首
993 月たちてただ三日月の眉根かきけながくこひし君にあへるかも
月立而直三日月之眉根掻氣長戀之君爾相有鴨
 略解に
  三日月は眉といはん序のみ。是を初月歌と端書せるはいかにぞや。相聞の歌也
といへる如し。ツキタチテタダは三日月にかゝれる序中の枕辭なり○眉根はマヨネともマユネともよむべし。眉根をかくは戀人に逢はむ呪と見ゆ。古義に
  人に戀らるれば眉皮のかゆきといふ諺のありしこと四上にはやくいへり
とあれど卷四なる
  いとまなく人の眉根をいたづらにかかしめつつもあはぬ妹かも
も眉根を掻きて呪すれどしるしなきによりてイタヅラニといへるなり(卷四【六八四頁】參照)
 
(1108)   大伴宿禰家持初月歌一首
994 ふりさけてみか月みれば一目みし人の眉引おもほゆるかも
振仰而若月見者一目見之人之眉引祈念可聞
 フリサケテはこゝに振仰而と書きたれどそは意を得て書けるにてフリサケテに仰く意は無し。フリは添辭、サケは見サクルのサクルに同じ。さればフリサケミルは見遣ルといふことなり○マヨビキは眉の恰好なり
 
   大伴坂上郎女宴2親族(ト)1歌一首
995 かくしつつあそびのみこそ草木すら春は生《オヒ・サキ》つつ秋は散去《チリユク》
如是爲乍遊飲與草木尚春者生管秋者落去
 ノミコソは飲メカシなり。生の字を舊訓にモエ、略解にオヒ、古義にサキとよめり。就中古義にサキとよむべき證として卷七なるヲミナベシ生澤ノ邊ノ、卷十六なる七重花佐久八重花|生跡《サクト》などを擧げたり。卷十に春サレバマヅサキ草ノサキクアラバとありて生ふる事をサクとも云ひきとおぼゆれば古義の訓も惡からず○落去は(1109)舊訓にチリユク略解にカレユクとよめり(古義にチリヌルとよめるは論外なり)。舊訓の如くチリユクとよむべし○初句の上に盛ナル間ハなどいふことを補ひて聞くべし
 
   六年甲戊海《アマ》(ノ)犬養(ノ)宿禰岡麿應v詔歌一首
996 御民われいけるしるしあり天地のさかゆる時にあへらくおもへば
御民吾生有驗在天地之榮時爾相樂念者
 略解に歌の上に作の字あるべしといへり○シルシは詮、アメツチは世中、アヘラクは逢ヘルコトヲとなり
 
   春三月幸2于難波宮1之時歌六首
997 すみのえの粉濱のしじみあけもみず隱耳哉《カクシテノミヤ》こひわたりなむ
住吉乃粉濱之四時美開藻不見隱耳哉戀度南
     右一首作者未詳
 初二はアケの序なり。アケモミズはウチ明ケテモ見ズなり○隱耳哉を契沖コモリ(1110)テノミヤとよみ略解古義にコモリノミヤモとよみたれどさてはアケモミズと自他相副はず。さればカクシテノミヤとよむべし○古義にアケモミズを色に顯はさぬ事として本郷にある妹を戀ふる事としたるは非なり。略解に『從駕の女房を戀るなるべし』といへるに從ふべし
 
998 眉のごと雲居にみゆる阿波の山かけてこぐ舟とまりしらずも
如眉雲居爾所見阿波乃山懸而※[手偏+旁]舟泊不知毛
     右一首船王作
 カケテは契沖のいへる如く目ニカケテにてやがて目ザシテなり。眞に阿波國に行かむとするにはあらず。ただ遙に見ゆる阿波の山の方向に漕行く船を見てしか云へるなり。略解に『阿波の方へ懸て行也』といへるは非なり。難波より海上を望まむに阿波の山のこなたに淡路の山見ゆべく又難波より船の見えむには陸上よりの距離いくらばかりもあらざらむをいかで阿波の方へゆく船とは推定めむ○トマリシラズモはイヅクニ泊《ハ》ツベキニカといふ意なり
 
(1111)999 千沼囘《チヌミ》より雨ぞふりくるしはつのあま網手〔左△〕《アミヲ》綱〔□で圍む〕ほしたり沾將堪《ヌレアヘム》かも
從千沼囘雨曾零來四八津之泉郎網手綱乾有沾將堪香聞
    右一首遊2覧住吉濱1還v宮之時|道上《ミチニテ》守部王應v詔作歌
 チヌは和泉の茅渟なり。囘は舊訓にワとよみ古義にミとよめる事例の如し○網手綱は略解に綱手繩の誤としてツナデナハとよみ古義に網を綱の誤字、下の網を衍字としてツナデとよめり。宜しく手を乎の誤、綱を衍字としてアミヲホシタリとよむべし○結句を略解にヌレバタヘムカモとよみ古義にヌレアヘムカモとよめり。古義に從ふべし。ヌレコラヘヨウカ、即濡レテモ平氣デアラウカ、アナ心モトナといへるなり
 
1000 兒等|之《シ》あらばふたりきかむをおきつすになくなるたづの曉の聲
兒等之有者二人將聞乎奥渚爾鳴成鶴乃曉之聲
     右一首守部王作
 コラとは故郷の妹をさせり(略解)○之の字三註共にガとよみたれどシとよむべく(1112)や
 
1001 ますらをはみかりにたたしをとめらは赤裳すそびく清き濱備を
大夫者御※[獣偏+葛]爾立之未通女等者赤裳須素引清濱備乎
    右一首山部宿禰赤人作
 ミカリニタタスは御獵に出立つなり。濱備の備を木村博士の字音辨證上卷十頁以下に韻鏡によりてべ〔右△〕とよむべしといへり(はやく卷五【九七四頁】にも大伴(ノ)御津(ノ)濱備爾とあり)。すべて韻鏡によりて云々する説は文字に通音あるを認めて言語に轉呼あるを忘れたる言なり。もし中世に馬梅をムマ、ムメとかき烏玉をウバタマとかけるを見て中世はムの字をウの音にも用ひ又ウの字をヌの音にも用ひきといふものあらば人之を何とか評せむ。されば字音辨證、磧鼠漫筆等の説は打任せては採るべからず
 
1002 馬のあゆみおさへとどめよすみのえの岸のはにふににほひてゆかむ
馬之歩押止駐余住吉之岸乃黄土爾保比而將去
(1113)    右一首安倍朝臣豐繼作
 初二の語例は卷三家持の長歌(五七四頁)に大御馬ノ口オサヘトメとあり。今は從者におほするなり○第三句以下の語例は卷一(一一〇頁)に草マクラタビユク君トシラマセバ岸ノハニフニニホハサマシヲ此卷にも上(一〇四二頁)に白浪の千重ニキヨスルスミノエノ岸ノハニフニニホヒテユカナとあり。ニホヒテは染ミテにて畢竟衣ヲソメテといふ意なり○黄土の下に脱字あるか。卷一には岸之|埴布爾《ハニフニ》、上には岸之|黄土粉《ハニフニ》とあり
 
   筑後守從五位下葛井《フヂヰ》(ノ)連《ムラジ》大成遙見2海人釣船1作歌一首
1003 あまをとめ玉求むらしおきつ浪かしこき海に船出爲利《セリ》みゆ
海※[女頁感]嬬玉求良之奥浪恐海爾船出爲利所見
 此歌の玉は略解にいへる如く鰒玉即眞珠なり。契沖いはく
  落句船出セル見ユと云はずしてセリと云へるは古語なり。武烈紀に天皇の御製にもシビガハタテニツマ陀※[氏/一]理ミユとあり。此集第十五にもアマノイザリハト(1114)モシ安敝里ミユとよめり
といへり。字音辨證に右のフナデ爲利ミユとトモシ安敝里ミユとを引出でて
  これらの利里はかならずルとよむべき也。呉(ノ)轉音なり。類聚國史卷三十一に大同二年九月神泉苑に行幸の時の御製を載て袁理〔右△〕比度能ココロノマニマフヂバカマウベイロフカクニホヒタリケリとあり。袁理比度能はヲルヒトノとよむべし。折人之也。理は里と同音の字なればこれ明證也(○類聚國史の袁理比度能は一本に美那比度能とあり)
といひ又同書に利里は又ロともよむべしといひ(ヒ利ヒテ、ヒ里ヒトリの類)碩鼠漫筆にハ利は又ラともレともよむべしといへり(御井ヲ見ガテ利、アシガ利ノの類、またコエハナ利ナバの類)。案ずるにもし二書に云へる如く利の字をラリルレロ共に假り用ひたりとせば假字は其音符たる用を失ふべし。されば韻鏡學者の説を採るは一程度にとどむべく、今の歌はなほ舊訓の如くセリミユとよみて契沖の説の如く古語の格とすべし
 
  ※[木+安]作《クラツクリ》(ノ)村主《スグリ》益人《マスヒト》歌一首
(1115)1004 おもほえず來座《キマシシ》君を佐保川のかはづきかせずかへしつるかも
不所念來座君乎佐保川乃河蝦不令聞還都流香聞
    右内匠寮大屬※[木+安]作(ノ)村主益人聊設2飲饌1以饗2長官|佐爲《サヰ》王1、未v及2日斜1王既還歸。於v時益人怜2惜不v厭之歸1仍作2此歌1
 來座を三註ともにキマセルとよめるはかなはず。キマシシとよまではカヘシツルカモと時相かなはず○ヲはナルニのヲなり。略解に『カヘシツルカモと隔てつづく也』と云へるは非なり
 
   八年丙子夏六月幸2于芳野離宮1之時山部宿禰赤人應v詔作歌一首并短歌
1005 (やすみしし) わがおほきみの 見給《メシタマフ》 芳野の宮は 山たかみ 雲ぞたなびく 河はやみ せのとぞ清き かむさびて みれば貴く よろしなべ みればさやけし 此山の つきばのみこそ 此河の たえばのみこそ (ももしきの) 大宮所 やむ時もあらめ
(1116)八隅知之我大王之見給芳野宮者山高雲曾輕引河速彌湍之聲曽清寸神佐備而見者貴久宜名倍見者清之此山乃盡者耳社此河乃絶者耳社百師紀能大宮所止時裳有目
 見給は古義の如くメシタマフとよむべし○略解にいへる如くカムサビテの二句は山をたゝへ、ヨロシナベの二句は河をほめたるなり○ヨロシナベは卷一(九三頁)に
  みみなしの、あをすげ山は、そともの、大御門に、よろしなべ、かむさびたてり
 卷三(三九二頁)に
  よろしなべ吾背乃君之おひきにしこのせの山を妹とはよばじ
 卷十八に
  しかれこそ、神の御代より、よろしなべ、此橘を、ときじくの、かくの木實と、なづけけらしも
とあり。フサハシクなどいふ意とおぼゆ〇二つのノミは例の辭を強むるテニヲハなり
 
(1117)   反歌一首
1006 神代より芳野の宮にありがよひたかしらせるは山河をよみ
自神代芳野宮爾蟻通高所知者山河乎吉三
 神代はただ上古といふことなり。ヨミはヨキ故ニにて其下にナリを略せるなり。アリガヨヒ高シラセルハは通ヒツツ住ミ給ヘルハとなり○契沖いはく
  赤人の歌に年を記せるは此八年六月を終とす。これより程なく死去せられけるにや
といへり
 
   市原王悲2獨子(ナルヲ)1歌一首
1007 ことどはぬ木すら妹とせあり【とち】ふをただ獨子にあるがくるしさ
不言問木尚妹與兄有云乎直獨子爾有之苦者〔左△〕
 光仁天皇紀(續紀)に
  天應元年二月丙午三品能登内親王薨。内親王天皇之女也。適2正五位下市原王1生2五(1118)百井女王、五百枝王1。薨時年四十九
とあり。かく御子は少くとも(即能登内親王の御腹のみにも)二柱おはするにこゝにタダヒトリ子ニアルガクルシサとあるを怪しみて契沖は
  能登内親王は御年を以て逆推するに天平五年の誕生なれば此八年には僅に四歳にならせたまふ。されば市原王には内親王を迎へたまふ前に御妻又は妾ありてそれに獨子のありしにや(採要)
といひ千蔭は
  人の子の上をよみましゝなるべし
といへり。雅澄の
  獨子は五百井女王なるべし。五百枝王の未生坐ざる前の事なるべし
といへるは論ずるに足らず。此時御母内親王なほ四歳におはせし事契沖のいへる如くなればなり。按ずるにタダヒトリ子ニアルガクルシサとは御子の上をのたまへるにはあらで自身の事をのたまへるなり。即市原王に兄弟のなかりしなり○イモトセはこゝにては兄弟姉妹なり。木の一根より叢り生ひたるを見て木スラ妹ト(1119)セアリトフヲとのたまへるなり○者は一本に左とあり
 
   忌部(ノ)首《オビト》黒麿恨2友※[貝+余]《オソク》來1歌一首
1008 山のはにいざよふ月のいでむかとわがまつ君|之〔左△〕《ヲ》夜はくだちつつ
山之葉爾不知世經月乃將出香常我待君之夜者更降管
 上三句はワガマツの序なり○君之を從來キミガとよめり。之は乎などの誤にあらざるか。然らばワガマツ君ナルニ夜ハフケユキツツ君ハ來マサヌといふ意とすべし
 
   冬十一月左大臣〔左△〕葛城王等賜2姓橘氏1之時御製歌一首
1009 たちばなは實さへ花さへ其葉さへ枝に霜ふれどいや常葉《トコハ》の樹
橘花者實左倍花左倍其葉左倍枝爾霜雖降益常葉之樹
    右冬十一月九日從三位葛城王、從四位上佐爲王等辭2皇族之高名1賜2外家之橘姓1已訖。於v時太上天皇皇后〔二字左△〕共在2于皇后宮1。以爲2肆宴1而即御2製賀v橘之歌1并賜2御酒宿禰等1也。或云。此歌一首太上天(1120)皇御歌。但天皇々后御歌各有2一首1者。其歌遺落未v得2探求1爲〔左△〕。今※[手偏+檢の旁]2案内1八年十一月九日葛城王等願2橘宿禰之姓1上v表。以2十七日1依2表乞1賜2橘宿禰1
 葛城王は即橘諸兄にて敏達天皇の玄孫なり。佐爲王は諸兄の弟なり。外家は二人の母三千代夫人なり。此人の姓はもと縣(ノ)犬養(ノ)宿禰なりしに元明天皇の時更に橘宿禰の姓を賜はりしなり。辭2皇族之高名1賜2外家之橘姓1は天平八年十一月壬辰(十七日)の詔詞の句によれるなり(但詔詞には請〔右△〕2外家之橘姓1とあり)。太上天皇は元正天皇(天皇は聖武天皇)なり。皇后は即光明皇后にて諸兄佐爲の異父妹なり。契沖は
  太上天皇皇后は今按皇后は天皇を誤れるなるべし。共在2于皇后宮1とあれば上に皇后と云に及ばずして、申べき天皇を申さねばなり。或云以下は此集勅撰ならず又撰者橘左大臣にあらぬ明證なり。探求の下の爲は焉に作るべし
といひ又
  九日は聖武紀の丙戌歟。然らば壬辰の日勅答を賜はれるは十五日なるを此に十七日とあるは五を七に誤れる歟
(1121)といへり。續紀に丙戌上表曰云々壬辰詔曰云々とあり。丙子の朔なれば丙戌は十一日にて壬辰は十七日なり。されば左註に以2十七日1云々とあるは誤にあらず。もし續紀を正しとせば十一月九日とあるが十一月十一日の誤なり。今※[手偏+檢の旁]2案内1とある案内は文書なり
 題辭の左大臣を契沖は左大辨の誤として
  官本に臣を改て辨に作れり。天平元年九月に左大辨となられたれば此に依るべし。左大臣は同じ十五年に拜して極官なれば此に擧る事理なし
といへり
 第三句の下にメデタクテなどいふことを補ひてきくべし○第四句は古義に
  エニシモフレドと本居氏(○記傳卷二十五)のよめるぞよろしき。枝をエダと訓てはこゝはわろし
といへれどエダとよみてわろかるべき道理なし○イヤはナホを強くいへる辭なり○トコハの事は卷三(四〇九頁)にいへり。さて結句はイヤトコハナル樹とあるべきをイヤトコハノ樹とのたまへる、そのかみはかくも云ひしなるべし
 
(1122)   橘宿禰奈良麻呂應v詔歌一首
1010 奥山のまきの葉しぬぎふる雪のふりはますともつちにおちめやも
奥山之直〔左△〕木葉凌零雪乃零者雖益地爾落目八方
 奈良麻呂は諸兄の子なり。略解に『例によるに詔の下作の字あるべし』といへり。代匠記に
  眞木の上にふりつむ雪の如く臣が家世々を重ぬとも君の御爲に清き心を持て仕へ奉て敢て父祖の風をおとして家を汚さじと云意なるべし
といへり。即契沖は上三句を序とせるなり。古義には
  表には奥山の檜(ノ)葉を押なびけてふる雪の甚くふりまさるとも橘のなれる其實は地に落むやはと云るにて裏には……もと皇族なればたとひ年經て舊《フリ》は益るとも御恩頼の薄くなる代はあるまじければおちぶることはあらじ、さてもありがたくたのもしや、との意なるべし
といへり。即雅澄は譬喩歌と見たるなり。橘ノナレル其實ハといへるは歌に無き事なり。案ずるに上三句は序にて四五は世ヲ重ヌトモ家聲ヲ墜サムヤといへるなり。(1123)○直は眞を誤れるなり
 
   冬十二月十二日歌※[人偏+舞]所之諸王臣子等集2葛井《フヂヰ》(ノ)連《ムラジ》廣成家1宴歌二首
  此來古※[人偏+舞]盛興、古歳漸晩、理宜d共盡2古情1同唱c此〔左△〕歌u、故擬2此〔左△〕趣1輙獻2古曲二節1、風流意氣之士※[人偏+黨]有〔右△〕2此|集《ツドヒ》之中1爭發v念心々和2古體1
1011 わがやどの梅さきたりとつげやらばこちふに似たりちりぬともよし
我屋戸之梅咲有跡告遣者來云似有散去十方吉
 小序中の二つの此の字は古の誤なるべし。古の字を重ねてあやとせる文なればなり○有は我邦の古書に在と通用せり
 第三句以下の意は略解にいへる如く
  かく告やりたらば來れかしといふ事とかなたにも思ひはかりて必訪ひ來るべし。さて後は花は散ぬともよし
といふことなるべくおぼゆれど四五の間に辭足らず。さて思ふにかく辭を略しておぼろげにいへるが適に古趣に擬したる所なるべし○ツゲヤラバといはばコチ(1124)フニ似タラムといふべく、コチフニ似タリと云はむとにはツゲヤレバといふべし。されば第三句の告遣者はツゲヤレバとよむべきかといふに此歌をもととせりとおぼゆる古今集戀四の歌に
  月夜よし夜よしと人につげやら〔右△〕ばこてふに似たりまたずしもあらず
とあればなほツゲヤラバとよむべく、さてそは結句のチリヌトモヨシ又かのカサネバウトシイザフタリネムなどの類にて未來を現在にて受くる變格又は古格なり
 
1012 春さればををりにををりうぐひすのなくわが島ぞやまずかよはせ
春去者乎呼理爾乎呼里鶯之鳴吾島曾不息通爲
 ヲヲリニヲヲリは花の盛りなるさまなり。されど花といはでは辭足らず。これもしか辭の足らざるがやがて古趣に擬したる所なるべし。此事ははやく卷四(六一六頁)にもいへり○島は庭園なり(卷五【九三六頁】參照)○ヤマズカヨハセは絶エズ訪來ヨとなり
 
   九年丁丑春正月橘少卿并諸大夫等集2彈正|尹《カミ》門部王家1宴歌二首
(1125)1013 あらかじめきみきまさむとしらませば門にやどにも珠しかましを
豫公來座武跡知麻世婆門爾屋戸爾毛殊敷益乎
    右一首主人門部王【後賜姓大原眞人氏也】
 契沖いはく
  少卿は諸兄を大卿としてそれに對して佐爲を云へり
と。佐爲《サヰ》は前に見えたる佐爲王なり。ヤドは庭なり。門ニモヤドニモといふべきをかくいへるは卷三なる蟲ニ鳥ニモワレハナリナム(四四四頁)と同例なり○珠はうつくしき小石なり
 
1014 をとつひもきのふもけふもみつれども明日さへ見まくほしき君かも
前日毛昨日毛今日毛雖見明日左倍見卷欲寸君香聞
    右一首橘宿禰文成【即少卿之子也】
 代匠記に
  目録の注に文明と云ひ又他本にも文明とあれども文成然るべきか。考課紀云天(1126)平勝寶三年正月賜2文成王甘南備眞人姓1とあるはもし此橘文成に再たび改めて姓を賜ひけるにや
といへり。案ずるに橘氏系圖に佐爲の子に綿裳あり其子に繼成(又枝主)あり其子に春成高成あれば文明は誤にて文成とあるが正しかるべく其文成は綿裳の前名なるべし。然思はるゝは續紀に天平寶字元年(○天平九年より二十年後)閏八月正六位上橘朝臣綿裳改2本姓1賜2廣岡朝臣1とあればなり。甘南備眞人の姓を賜はりし文成王とは別人なり。此人もし佐爲の子ならば天平八年に其父に橘宿禰の姓を賜ひし後には王と稱すまじきが故なり
   榎井王後追和歌一首
1015 玉しきて待益〔左△〕よりは多鷄蘇香仁來たるこよひしたぬしくおもほゆ
玉敷而待益欲利者多鶏蘇香仁來有今夜四樂所念
 待益は舊訓にマタマシとよめり。なほ後にいふべし○タケソカニは契沖、久老(信濃漫録上卷四丁)千蔭等の説あれどいづれもげにとおばえず。古義には
  タケソカは不意の謂と聞えたり
(1127)といひて千蔭及久老の説を斥けたり○此歌は主人側の歌にや客側の作にや。久老は
  玉敷て待設るよりはおもひもかけぬ所へおしかけて凌ぎ來ませる今夜がかへりてはたのしくおぼゆると云意也
といひて主人側の歌とせり。げに第二句を舊訓の如くマタマシヨリハとよめば主人側の歌のやうにも聞ゆ。されど主人側の歌としてもマシといふべき處にあらざる上に玉シキテ云々といへるは主人の門ニヤドニモ玉シカマシヲといへるに答へたるなれば客側の歌とせざるべからず。而して客側の歌とすればマタマシヨリハとあらむは愈かなはず。雅澄は益を衣四の二字の誤としてマタエシヨリハとよめり。いかなる文字の誤ともさしていひ難けれどマタエムヨリハといふべき處なり。さてキタルコヨヒシとあるを見れば榎井王も當日の客のうちにありしが席上にては答歌は得よまで後日によめるなり
 
   春二月諸大夫等集2左少辨巨勢宿奈麻呂朝臣家1宴歌一首
1016 うな原の遠きわたりをみやびをの遊ぶをみむとなづさひぞこし
(1128)海原之遠渡乎遊士之遊乎將見登莫津左此曾來之
    右一首書2白紙1懸2著屋壁1也。題云蓬莱仙媛所v嚢蘰〔二字左△〕處2風流秀才之士1矣。斯凡客不所望見哉〔左△〕
 左註には誤字ありとおぼゆ。村田春海は一本によりて嚢の上に作の字を補ひ嚢を焉の誤、蘰を※[言+曼]の誤とせり。嚢は賚の誤、蘰は純の誤、哉は焉の誤か○契沖の
  あるじの方の女房などの……物の隙より酒宴の席にある人をかいまみて時の興に蓬莱仙媛など書付て懸けるにや
といへるはいりほがなり
 ワタリは航路なり。ナヅサフは辛苦して來る事なり(五二四頁及五四七頁參照)。宣長の水に著くことゝせる説は非なり
 
   夏四月大伴坂上郎女奉2拜賀茂神社1之時|便《ツイデニ》超2相坂山1望2見近江海1而晩頭還來〔五字左△〕作歌一首
1017 (ゆふだたみ)手向の山をけふこえていづれの野邊にいほりせむ子〔左△〕等《ワレ》
(1129)木綿疊手向乃山乎今日越而何野邊爾廬將處子等
 題辭の便はツイデニとよむべし(記傳卷四十三【二四五一頁】參照)○契沖いはく
  此手向山と云はすなはち相坂山なり
といへり
 子等は一本に吾等とあり。契沖いはく
  子等とは供にある人を指せり。吾等とあるにつかばワレと讀むべし。其故は第十五にも大伴ノミツニフナノリコギ出テハイヅレノシマニイホリセム和禮、此例ある故なり
といへり。吾等の誤としてワレとよむべし。集中にワレ、ワガを吾等と書ける例あり」
 題辭に晩頭還來作歌とあると歌にイヅレノ野ベニイホリセム吾等とあると相副はず。案ずるに而晩頭還來の五字はもと註なりしを誤りて本行に入れたるなり。即イヅレノ野ベニイホリセム吾等とあれば途中にて一泊せし如く見ゆれど實は晩頭に還來りしなれば而晩頭還來と註したるなり
 
   十年戊寅元興寺之僧自嘆歌一首
(1130)1018 白玉は人にしらえず知らずともよし、しらずとも吾し知れらば知らずともよし
白玉者人爾不所知不知友縦、雖不知吾之知有者不知友任意
    右一首或云。元興寺之僧獨覺多智未v有2顯聞1。衆諸狎侮。因此僧作2此歌1自嘆2身才1也
 旋頭歌なり。シラタマは自譬へたるなり
 
   石上《イソノカミ》(ノ)乙麻呂卿配2土左國1之時歌三首并短歌
1019 いそのかみ ふるの尊は たわやめの 惑によりて (馬じもの) 繩とりつけ (ししじもの) ゆみやかくみて おほきみの みことかしこみ (あまざかる) ひなべにまかる (ふる衣) まつちの山ゆ かへりこぬかも
石上振乃尊者弱女乃惑爾縁而馬自物繩取附肉自物弓※[竹/矢]圍而王命恐天離夷部爾退古衣又打山從還來奴香聞
(1131) 石上卿の事をイソノカミフルノミコトといへるはいかなる故にか。伴信友の上野國三碑考(全集第二の六八七頁)に
  フルは大和國石上の布留にて乙麿の居地にかけていへるなるべし
といひ又(同上七〇六頁)
  乙麻呂の居地の布留に在けるによりて然は稱《イ》へるなるべし。石上布留と複ねたる氏の如くいへるにはあらず。おもひ混ふべからず
といへり。もし布留《フル》を地名とせば布留の石上尊とこそ云ふべけれ。案ずるに乙麻呂の父麻呂の代までは物部(ノ)連《ムラジ》なりしに天武天皇の御代に朝臣のカバネを賜はり更に氏を改めしなるが元來|石上布留《イソノカミフル》といふ氏なるを常には略して石上と云ひしにあらざるか。さて人を尊びてミコトといへるさへあるに尊の字を書ける聊異やうにおぼゆれど集中にチチノミコト、ハハノミコト、ツマノミコト、イモノミコトなどいへるを思へばミコトは今殿又は樣などいふにひとしき敬稱にて文字はもとより借物なれば命とも尊とも書くべきなり。げに日本紀には尊と命とをつかひわけて至貴曰v尊、自除曰v命、並訓2美巨等《ミコト》1也としるされたれどそは國史の上にての定にこ(1132)そあれ、これより後も内内には臣下にも尊字を用ひしこと正倉院に藏せる天平年中の文書に謹上道守尊座下また乙麻呂尊御從側など(共に三碑考に引けり)あるにて知るべし○タワヤメノ惑ニヨリテは聖武夫皇紀に
  天平十一年三月庚申石上朝臣乙麻呂坐v姦2久米連|若賣《ワカメ》1配2流土左國1若賣配2下總國1焉
とありて此集に十年の歌とせると合はず○惑を古義にサドヒとよめり。舊訓の如くマドヒとよみて可なり○繩トリツケ弓ヤカクミテは繩ヲトリツケラレ弓矢ニ圍マレテといふべきを辭長くてさはいひ難ければかくいへるにて歌には許されもすべし○ナハトリツケとあるを契沖は
  實にさる事はなけれどかゝる時には乘物などにも綱などをもかくべければそれをかくは云なるべし
といへり○ヒナベニマカルは土左國に赴くをいへり。ヒナべは夷の方なり。マツチ山は大和と紀伊との界にあり。カヘリコヌカモはカヘリコヨカシの意にて古義に
  眞土山より赦免を蒙りていかで歸り來よかしとの謂なり
(1133)といへる如し
 
おほきみのみことかしこみ(さしなみの)國にいでます耶わがせのきみを
 或本に之を一首の歌としたるは誤にて宣長の
  或人の説にこの王命恐云々は次なる長歌の初なり
といへる如し
1020・1021 おほきみの みことかしこみ (さしなみの) △△《トサ》(ノ)國に いでます耶《ヤ》 わがせのきみを かけまくも ゆゆしかしこし すみのえの あら人神 ふなのへに うしはきたまひ つきたまはむ 島のさきざき よりたまはむ 礒のさきざき あらき浪 風にあはせず 草〔左△〕管見《ツツミナク》 身〔□で圍む〕疾不△有《ヤマヒアラセズ》 すむやけく かへしたまはね  本《モトツ》國べに
王命恐見刺並之國爾出座耶吾背乃公矣
繁〔左△〕卷裳湯湯石恐石住吉乃荒人神船舳爾牛吐賜付賜將島之埼前依賜將(1134)礒乃埼前荒浪風爾不令遇草管見身疾不有急令變〔右△〕賜根本國部爾
 契沖は
  此歌は……人の紀州までなごりを惜みて送りてよめるに依て兩國は共に南海にてさしも遠からねばサシナミノ國とはよめるなるべし
といへり。案ずるに紀伊と土左とは海を隔てゝ相對したれど其距離頗遠きが上に今は近きをも遠しとはいふべく實際より近げにいひては哀ならず。古義に
  吉田正準が考にサシナミノの下に土左の二字を脱せしなるべし。さてサシナミノは枕辭にて戸といふ意に云係たるならむ。九卷にサシナミノトナリとよめるも同じ意のつづきなり。刺並之、土左國爾、出座耶を五言六言五言と句を絶てよみて調をなすべしと云へり。此説面白きことなり。されどしかしては出座耶の耶は助辭となるをかゝる處に耶の助辭ある例なく且いたく耳立て聞ゆれば今少しいかがなり。近江ノヤ湊ノヤなど云る例はあれども其とは異なればなり。猶考べし
といへり。右の正準の説いとおもしろし。雅澄はイデマスヤのヤを例なしといへれ(1135)どヲトメノナス夜《ヤ》イタドヲ(古事記上卷)サヒヅル夜《ヤ》カラ碓ニツキ(本集卷十六)カシコキ也《ヤ》ミハカツカフル(本集卷二)などと同例なるにあらずや○キミヲのヲは下なるカヘシと照應したるなり○アラ人神は形を現したまふ神をいふ。ウシハキは鎭座をいふ。ツキタマハム、ヨリタマハムは乙麻呂を敬して云へるなり○アラキ浪、風ニアハセズはアラキ浪、アラキ風ニ逢ハシメズなり。卷十九に出でたる贈2入唐使1歌には浪風を顛倒してアラキ風、浪ニアハセズと云へり。さて浪風を二句に割き然もトを以て繋がずしてアラキ浪風ニアハセズといへるは卷三なる安積皇子薨時歌(五七五頁)に梓弓ユギトリオヒテとあるに似、又同卷なる山前王哀傷作歌(五一五頁)にアヤメグサ花タチバナヲ玉ニヌキカヅラニセムトとあるに似たれど今はアラキといふ形容詞が浪と風とにかゝりたるなれば本來は二句に割くべからざるなり○草管見を宣長(玉勝間十二卷五丁)は草を莫の誤としてツツミナクとよめり。ツツミナクは後世のツツガナクなり○身疾不有を舊訓にヤマヒアラセズとよめるを契沖はミヤマヒアラセズと改訓せり。身は衍字、不の下に令の字おちたるにてなほ舊訓の如くヤマヒアラセズとよむべくおぼゆ○尾句は略解の如くモトツクニ(1136)ベニとよむべし。古義の如くモトノとよまむはわろし。さてモトツクニベニは本國ノ方ニなり○略解に
  此長歌の中イソノカミフルノ尊ハといへると其次なるは乙麻呂妻作歌と有べきを端詞の文字落しなるべし
といひ古義にも右の二首を乙麻呂の妻の歌とせり。乙麻呂の歌にあらざるは明なれど妻の歌とは斷定すべからず○繁は繋の誤なり。變は古書に反と通用せり
 此歌は卷十九に見えたる天平五年贈2入唐使1歌(作者不詳)と辭句いとよく似たり。思ふに今はそれに據れるなり
 
1022 父ぎみに われはまな子ぞ はは刀自に われは愛兒《マナゴ》ぞ 參昇《マヰノボル》 八十氏人の たむけ爲《スル》等 かしこの坂に ぬさまつり 吾はぞ追〔左△〕《マカル》 とほき土左ぢを
父公爾吾者眞名子叙妣刀自爾吾者愛兒叙參昇八十氏人乃手向爲等恐乃坂爾幣奉吾者叙追遠杵土左道矣
(1137) 此歌は乙麻呂の作なり○マナゴは古義にいへる如く愛兒といふ事なり。略解に實の子といふ也といへるは非なり。愛兒を略解に卷十六なる長歌に目豆兒之負とあるによりてメヅコとよめるを古義にメヅコといふこと倒もなきことなりといひて舊訓にマナゴとよめるに從ひ又卷十六なる目豆兒を女《メ》ツ兒《コ》の義とせり。さてそのマナゴゾの次にサルヲといふことを補ひてきくべし。略解に(古義にも)『メヅ子ゾの句の下猶句有べきを落しゝなるべし』といへるはうべなはれず○參昇は或はマヰノボリとよみ或はマヰノボルとよめり。契沖の改訓に從ひてマヰノボルとよむべし○手向爲の下なる等の字一本に無しといふ。其本によりてタムケスルとよむべし○カシコノ坂は即天武天皇紀に見えたる懼坂にて大和より河内に越ゆる峠なり。大日本地名辭書に『立野の西なる峠と字する坂なるべし』といへり。さて宣長は八十氏人ノ云々の二句をカシコノ坂の序としマヰノボルはカシコノ坂へつづく詞にて乙麻呂のまゐのぼるなりといひ雅澄は參昇をマヰノボリとよみて八十氏人ノマヰノボリテ手向スルカシコノ坂といふ意とせり。案ずるに兩説ともに非なり。參昇は前にも云へる如くマヰノボルとよむべくそのマヰノボルは八十氏人に(1138)屬せる辭にて鄙ヨリ大和ノ朝廷ニマヰノボル八十氏人ノ手向シテ越ユルカシコ坂ニといへるにてマヰノボルはやがて下なるマカルと對せるなり○追は宣長の退の誤としてマカルとよめるぞよろしき○土左ヂヲのヲは東海道ヲ下ルなどのヲなり(古義にはナルモノヲの意とせり)。土左ヂは土左に行く道なり
 
   反歌一首
1023 大埼の神の小濱は雖小《セマケドモ》百船純《モモフナビト》もすぐといはなくに
大埼乃神之小濱者雖小百船純毛過迩云莫國
 大埼は古義に
  紀伊國|海部《アマ》郡にありてよき湊なり。……今も土左の舟の往來に常に泊る所なり。古へも土左へ通ふにはかならず此大埼を通りしならむ
といへり。此長歌并に反歌によれば眞土山をば越えずしてかしこ坂を越えて河内を經て紀伊に出でしなり○雖小を舊訓にセバケレドとよめるを古義にセマケドモとよめり。いづれにてもあるべし○百船純は從來モモフナビトとよめり。(下にも百船純乃サダメテシとあり)。略解に『純一の意にてヒトのかなに借たるか』といへり。(1139)人を一と書ける例は卷九に一可知美《ヒトシリヌベミ》とあり○スグトイハナクニは古義に
  スギヌコトナルニの意なり。イフはオモフといふに同じく例の輕く添たる辭なり
といへる如く一首の意も古義にいへる如く
  此處は狹けれどいとおもしろくて百船も過ぎがてにするを我は罪ありて追ひやらるゝ身なればこゝに留まることもかなはず
と嘆けるなり○懷風藻に
  石上中納言者左大臣第三子也。地望清華人才穎秀。雍容間〔日が月〕雅、甚善2風儀1。雖v勗2典墳1亦頗愛2篇翰1。嘗有2朝譴1飄2寓南荒1。臨v淵吟v澤寫2心文藻1。逐有2銜悲藻〔三字傍点〕兩卷1。今傳2於世1云々
とありて
  五言飄2寓南荒1贈2在v京故友1一首 遼夐遊2千里1、徘徊惜v寸心、風前蘭送v馥、月後桂舒v陰、斜雁凌v雲響、輕蝉抱v樹吟、相思知2別慟1、徒弄2白雲琴1
など四首の詩を擧げたり
 
   秋八月二十日宴2右大臣橘家1歌四首
(1140)1024 長門なるおきつかり島おくまへてわがもふ君は千歳にもがも
長門有奥津借島奥眞經而吾念君者千歳爾母我毛
    右一首長門守|巨曾倍《コソベ》(ノ)對馬朝臣
 初二は序。任國の名所を以て序とせるなり○オクマヘテは卷十一にアフミノミオキツシマヤマオクマヘテワガモフ妹ガコトノシゲケクとあり。大切ニといふ事なり(契沖は奥フカク、千蔭雅澄は深メテと譯せり)。卷三(四六二頁)にアキツ羽ノ袖フル妹ヲタマクシゲオクニオモフヲミタマヘ吾君とあるオクニオモフと同じ○チトセニモガモは千年モオハシマセとなり。はやく卷五(九九〇頁)にも千トセニモガトオモホユルカモとあり
 
1025 おくまへて吾をおもへる吾背子は千とせ五百とせありこせぬかも
奥眞經而吾乎念流吾背子者千年五百歳有巨勢奴香聞
    右一首右大臣和歌
 巨曾倍對馬にむかひてワガセコといへるなり。アリコセヌカモはアツテクレヨカ(1141)シとなり
 
1026 ももしきの大宮人はけふもかも暇をなみと里にゆかざらむ
百磯城乃大宮人者今日毛鴨暇無跡里爾不去將有
    右一首右大臣傳云故豐島采女歌
 前の二首は席上の贈答なれど此歌と次の歌とは當日の作にあらず。談話の間に主人右大臣が故豐島(ノ)釆女の作なりといひて此歌を客に傳へ、それに次ぎて高橋安麻呂がこれも亦其釆女の作なりといひて次の歌を誦せしなり。代匠記に
  此は釆女が此宴の時讀けるを釆女が死して後右大臣の家持に語りたまへるなり云々
といひ古義に
  これは此宴席に誦けるを右大臣後に家持にかたられけるを記したるなり(○雅澄は釆女が其舊作を誦せし如く心得たるなり)
といへるは右大臣傳云とあると次の歌の左註に然則豐島釆女當時當所口2吟此歌1(1142)歟とあるとを誤解せるなり
 イトマヲナミトのトは例の如く省きて見べし○里は古義にいへる如く宮城の外なり〇一首の意は今日モ公事ノ暇ガナサニ宮城ノ外ヘ出デザラムカといへるなること古義にいへる如し○結句は一本に里再不出〔右△〕將有(サトニイデザラム)とあり
 
1027 橘のもとに道履《ミチフム》やちまたに物をぞおもふ人にしらえず
橘本爾道履八衢爾物乎曾念人爾不所知
    右一首右大弁高橋安麻呂卿語云。故豐島采女之作也。但或本云。三方沙彌戀2妻苑臣1作歌也。然則豐島采女當時當所口2吟此歌1歟
 初二は序なり。道履の二字、從來多くはミチフミとよみたれど略解の如くミチフムとよむべし。ミチフムソノヤチマタニといふ意なり○左註に三方沙彌の歌とあるは卷二(一七三頁)に出でたるタチバナノ蔭フム道ノヤチマタニモノヲゾオモフ妹ニアハズテといふ歌なり○又左註に當時當所といへるは安麻呂ノ聞キシ時聞キシ處といふ意なり。天平十年秋八月右大臣橘卿家ニテといふ意にあらず。又左註は(1143)後人の書けるにあらず。もし後人の書けるものならば但或本云といはで但本集卷第二云といふべければなり
 
   十一年己卯天皇遊2※[獣偏+葛]高圓野1之時小獣泄2走堵里之中1於v是適値2勇土1生而見v獲即以2此獣1獻2上御在所1副歌一首【獣名俗曰牟射佐妣】
1028 ますらをのたかまと山にせめたれば里におり來流《ケル》むささびぞこれ
大夫之高圓山爾迫有者里爾下來流牟射佐妣曾此
    右一首大伴坂上郎女作v之也。但未v逕《ヘ》v奏而小獣死斃。因v此獻v(コトハ)歌停v之
 題辭の俗曰の俗は邦語といふことなり。漢文にて書ける故に俗とはいへるなり○セメタレバはオヒツメタレバといふこと○來流を舊訓にクルとよめるを古義にケルと改めたるは可なれど『ケルはキケルのつづまりたるなり』といへるは非なり。後世の來タルにあたれり
 
   十二年庚辰冬十月依2太宰少貮藤原朝臣廣嗣謀v反發1v軍幸2于伊勢(1044)國1之時河口(ノ)行宮(ニテ)内舍人大伴宿禰家持作歌一首
1029 河口の野邊にいほりて夜のふれば妹がたもとしおもほゆるかも
河口之野邊爾廬而夜乃歴者妹之手本師所念鴨
 夜ノフレバは夜ノカサナレバなり(略解)
 
   天皇御製歌一首
1030 (妹にこひ吾《ワガ》)乃〔左△〕松原《マツバラユ》みわたせばしほひの潟にたづなきわたる
妹爾戀吾乃松原見渡者潮干乃潟爾多頭鳴渡
    右一首今案吾松原在2三重郡1。相2去河口行宮1遠矣。若疑御2在朝明行宮1之時所v製御歌(ニテ)傳者誤v之歟
 第二句は舊訓にワガノマツバラとよめるを宣長は乃を自の誤としてワガマツバラユとよめり。此説によるべし。イモニコヒワガの七言は二句に跨りてマツにかゝれる枕辭なり。卷十七にもワガセコヲ安我《アガ》松原|欲《ヨ》ミワタセバといふ歌あり○古義に
(1145)  河口行宮作とあるは初家持卿のよめる一首の題にこそあれ此大御歌より次下なるは伊勢國に行幸し時のを廣くいへるにて何處にての作といふことを細に記さざればみよみませ〔左△〕し處をばさだかにはしるべからず
といへり○左註は吾松原といふ地名とし又御製ありし處をおばつかなみたるを思へば家持の筆にあらで後人の筆なること明なり
 
   丹比《タヂヒ》屋〔左△〕主眞人歌一首
1031 おくれにし人を思久《シヌバク》しでの埼ゆふとりしでてゆかむとぞおもふ
後爾之人乎思久四泥能埼木綿取之泥而將住〔左△〕跡其念
 古義に續紀に丹治比眞人屋主と丹治比眞人家主とある家主は此度の行幸に從駕せし由見え屋主は見えざればこゝに屋主とあるは家主の誤なりといへり
 オクレニシ人は故郷ニ殘ツタ人といふ意にて妻を指せるなり○思久は舊訓にオモハクとよめるを古義にシヌバクに改めて慕フヤウハといふ意なりといへり。さらば卷三(五一五頁)なるカヨヒケマクハと同格とすべけれど余は卷四(七七〇頁)なるツミテコフラクワガ心カラのコフラクと同格としてシノブコトヨと譯すべし(1146)と思ふなり○シデノ埼は四日市の東北なる羽津の海岸なりといふ。シデノ埼は枕辭におけるにあらず。シデノ埼とトリシデテと音の重なれるは自然の文《アヤ》なり〇一首の意は古義にいへる如く志※[氏/一]神ニ幣ヲ奉リテ恙ナク家ニ歸ラムコトヲ祈リテ往カムといへるなり。しでの埼には志※[氏/一]神社あるなり○住は往の誤なり
 此歌の次に
  右案、此歌者不v有2此行宮之作1乎。所2以然言1v之勅2大夫1從2河口行宮1還v京勿v令2從駕1焉。何有d詠2思泥埼1作歌u哉
とあり。後人の書添なる事しるし
 
   狹〔左△〕殘2行宮1大伴宿禰家持作歌二首
1032 おほきみのいでましのまにわぎもこがたまくらまかず月ぞへにける
天皇之行幸之隨吾味子之手枕不卷月曾歴去家留
 題辭の狹殘を久老はササムとよみて古書に見えたる狹々牟江宮と同處なりとせり。されど音訓を取合せたりとせむは快からざる上に殘の音はサンにてサムにあらねば此説は信じがたし。關|政方《マサミチ》の傭字例【十三丁】にも『殘は舌内聲なり。佐牟と脣内には(1147)呼べからず』といへり。古義には狹を獨の誤として獨行宮ニ殘リテとよめり。しばらく此説に從ふべし。さて此行宮はいづくのにか知りがたし○第二句のマニは即マニマニなり。卷四(六六七頁)にもオホキミノイデマシノマニとよめり
 
1033 みけつ國しまのあまならし眞熊野の小船にのりておきべこぐみゆ
御食國志麻乃海部有之眞熊野之小船爾乘而奥部榜所見
 上(一〇四四頁)にもミケツ國ヌジマノアマノ船ニシアルラシとあり。御饌ヲ奉ル國といふ意にて志麻にかゝれり○マクマ野ノ小船も上(一〇五四頁)にヤマトヘノボルマクヌノ船とあり。熊野式の船といふことなり
 
   美濃國多藝行宮大伴宿禰東人作歌一首
1034 いにしへゆ人のいひ來流《クル》おい人の變若《ヲツ》ちふ水ぞ名におふ瀧の瀬
從古人之言來流老人之變若云水曾名爾負瀧之瀬
 所謂養老瀧をよめるなり○來流を古義にケルとよめるはわろし。なほ舊訓の如くクルとよむべし○變若は舊訓にワカユとよめれど古義にヲツとよめるに從ふべ(1148)し。但語意は若返る事なり(卷三【四三六頁】參照)○名ニオフは實の名に副ふなり。古義に『ここの地名に負ると云ことなり』といへるは自他さへたがひていみじき誤なり
 
   大伴宿禰家持作歌一首
1035 たど河の瀧をきよみかいにしへゆ宮つかへけむたきの野の上《ヘ》に
田跡河之瀧乎清美香從古宮仕兼多藝乃野之上爾
 ミヤツカヘケムは宣長のいへる如く行宮ヲ造リ奉リケムといふ意なり○ヌノヘは野邊なり。卷二(三一九頁)にも野上《ヌノヘ》ノウハギスギニケラズヤとあり
 
   不破行宮大伴宿禰家持作歌一首
1036 關なくばかへりにだにもうちゆきて妹がたまくらまきてねましを
關無者還爾谷藻打行而妹之手枕卷手宿益乎
 關は不破關なり○カヘリニダニモは契沖の『俗に立皈リニ行テ來ムなど云詞なり』といへる如し。ウチは添辭、マクは枕にする事○卷十七に見えたる同じ人の述2戀緒1歌にも近カラバ、カヘリニダニモ、ウチユキテ、妹ガタマクラ、サシカヘテ、ネテマシモ(1149)ノヲとあり
 
   十五年癸未秋八月十六日内舍人大伴宿禰家持讃2久邇京1作歌一首
1037 今つくる久邇のみやこは山河の清見者《サヤケキミレバ》うべしらすらし
今造久邇乃王都者山河之清見者芋倍所知良之
 遷都は十二年十二月に行はれしにて今ツクルといへると合はざるやうに聞ゆるによりて雅澄は例を引きてイマは新ニといふ意なりといへり○第四句は舊訓にキヨクミユレバ、略解にキヨキヲミレバ、古義にサヤケキミレバとよめり。上(一〇三三頁)に河瀬乃淨乎見者とあるを思へばキヨキヲミレバとよむべきに似たれどここには乎の字なく又卷二十に夜麻加波乃佐夜氣吉見都都とあればサヤケキミレバとぞよむべからむ○結句はウベ大宮トシロシメスラシとなり
 
   高丘(ノ)河内《カフチ》(ノ)連歌二首
1038 故郷は遠くもあらず一重山こゆるがからにおもひぞわがせし
(1150)故郷者遠毛不有一重山越我可良爾念曾吾世思
 フルサトは契沖のいへる如く寧樂なり。寧樂より久邇の新京に來る途にてよみて寧樂なる友に寄せしなり○コユルガカラニは越ユルカラニなり。卷十四にも惠麻須我可良爾とあら。今も云々スルガ〔右△〕故ニなどいふと同格なり。さてコユルカラニはコユルママニなり○オモヒゾワガセシは故郷ヲコヒシクゾ思ヒシとなり。思ヘバ故郷ハ遠クモアラヌヲ云々の意なり
 
1039 吾背子とふたりし居者《ヲラバ》山たかみ里には月はてらずともよし
吾背子與二人之居者山高里爾者月波不曜十方余思
 第二句の居者を從來ヲレバとよみたれど改めてヲラバとよむべし。山といへるは春日山なるべし。舊都ハ新都トチガツテ東ニ高山ガアツテ月ノ出ガ遲イガ君卜一緒ニ居ルナラソレモ不足ニ思フマイといへるなるべし○ヨカラムといふべきをヨシといへるは當時の辭遣なり
 
   安積親王宴2左少辨藤原八束朝臣家1之日内舍人大伴宿禰家持作(1151)歌一首
1040 (ひさかたの)雨は零敷《フリシケ》おもふ子がやどにこよひはあかしてゆかむ
久堅乃雨者零敷念子之屋戸爾今夜者明而將去
 卷三の末に此安積皇子の薨ぜし時家持の悲みて作りし歌を載せたり○零敷は舊訓にフリシクとよめるを古義にはフリシケとよめり。之に從ふべし○オモフ子は契沖『八束朝臣を指せり』といひ略解古義共に之に從ひたれど接待に出でたる侍女を指して云へるにあらざるか。略解に
  又おもふに相聞の古歌なるを其時誦したるならむか
といへれど本集の編者が自己の歌を記すに誦せしを誤りて作歌と書くべけむや
 
   十六年甲申春正月五日諸卿大夫集2安倍蟲麿朝臣家1宴歌一首(作者不審)
1041 わがやどの君まつの樹にふる雪のゆきにはゆかじまちにしまたむ
吾屋戸乃君松樹爾零雪乃行者不去待而將待
(1152) 上三句は序なり。四五句はムカヘニハユカジ居ナガラ待タムといふ意なり。ユクをユキニユクといひマツをマチニマツといふは意を強めていふなり。上(一一一四頁)に春サレバヲヲリニヲヲリといへる類なり○題辭の下に作者不審とあるは後人の附記なり。ワガヤドノ君マツノキといひマチニシマタムといへるを見れば主人即安倍蟲麻呂の歌なる事明なり。古義に宴にあづかれる人の歌とせるは附記の四字に誤られたるなり。歌釋も誤れり。古事記輕大郎女のムカヘヲユカム、マ都ニハマタジを藍本とせる事前註にいへる如し(卷二【一三二頁】參照)
 
   同月十一日登2活道《イクヂ》岡1集2一株松下1飲歌二首
1042 ひとつ松いく代かへぬるふく風の聲の清者《キヨキハ》年ふかみかも
一松幾代可歴流吹風乃聲之清者年深香聞
    右一首市原王作
 ヒトツ松は一本松○年フカシは卷三(四六三頁)に年フカミ池ノナギサニミクサオヒニケリ又卷四(七一七頁)に年フカク長クシイヘバとあり。年久シクといふ事なり(1153)○第四句は從來コヱノスメルハとよみたれど聲ノキヨキハとよむべし
 
1043 (たまきはる)いのちはしらず松が枝をむすぶこころは長くとぞもふ
靈剋壽者不知松之枝結情者長等曾念
    右一首大伴宿禰家持作
 卷一なる君ガ世モアガ世モシラムイハシロノ岡ノ草根ヲイザムスビテナ(二二頁)卷二なるイハシロノ濱松ガエヲヒキムスビマサキクアラバマタカヘリミム(一九五頁)などの例を思へばいにしへ草木を結びて喪なく事なからむを冀ふ呪ありしなり。漢土にて別に臨みて柳を綰ぎし(離別河邊綰2柳條1、千山萬水玉人遙などいへり)と同系統なる俗信なるべし○イノチハシラズは天壽ハイカバカリカ知ラネドといふ意なるべく、ナガクトゾモフは長カレカシト冀フナリといふ意なり
 
   傷2惜寧樂京荒墟1作歌三首(作者不審)
1044 (くれなゐに)ふかく染にしこころかも寧樂のみやこに年之歴去倍吉〔二字左△〕
紅爾深染西情可母寧樂乃京師爾年之歴去倍吉
(1154) クレナヰニは前註にいへる如くフカク染ニシの枕辭なり○染は舊訓にソメとよめるを契沖は
  第二十に之美爾之許己呂とあれば今も然よむべきか
といへり。結句はこのまゝならば舊訓の如くトシノヘヌベキとよまむ外なし。さて略解にそのヘヌベキを經ヌベク思ハルルと譯し古義にココロカモを心カラカモの意なりと註せり(はやく代匠記に心ユヱカと譯せり)。案ずるに歴去倍吉は歴去禮者などの誤字にあらざるか。もし然らば二三は辭のまゝにカク深ク染ミニシ心カモと心得べく、そのココロノシムは寧樂ノ都ニ心ノ染ムなり
 
1045 世のなかを常なきものと今ぞしる平城《ナラ》のみやこのうつろふみれば
世間乎常無物跡今曾知平城京師之移徙見者
 ウツロフはカハルなり
 
1046 (いは綱の)また變若反《ヲチカヘリ》(あをによし)奈良のみやこを又|將見鴨《ミナムカモ》
石綱乃又變著〔左△〕反青丹吉奈良乃都乎又將見鴨
(1155) 變若反(著は若の誤)は久老のヲチカヘリとよめるに從ふべし。こゝにてはわかがへる事なり(卷三【四三六頁】參照)○結句を舊訓にマタモミムカモとよめるを古義にマタミナムカモに改めたり。之に從ふべし、〇代匠記に
  我身老て蔦(○岩づな)の如く得若ゆまじければ寧樂京のもとの如く立かへり榮ゆるを見ざらむ事を歎てよめるなり
といへり○此歌にマタといふ語二つあり○卷三(四三五頁)にワガサカリマタヲチメヤモホトホトニナラノミヤコヲミズカナリナムといふ歌あり
 
   悲2寧樂故京〔□で圍む〕郷1作歌一首并短歌
1047 (やすみしし) わがおほきみの 高しかす 日本《ヤマト》の國は すめろぎの 神の御代より しきませる 國にしあれば あれまさむ 御子のつぎつぎ 天の下 しろし座跡《イマスト》 八百よろづ 千年をかねて 定めけむ 平城《ナラ》のみやこは (かぎろひの) 春にしなれば かすが山 御笠の野邊に 櫻花 このくれがくり かほ鳥は まなくしば鳴 (露霜(1156)の) 秋さりくれば 射鉤山 とぶひが塊〔左△〕《ヲカ》に はぎのえを しがらみちらし さをしかは 妻よび令動《トヨム》 山みれば 山もみがほし 里みれば 里もすみよし (もののふの) 八十とものをの うちはへて 思〔左△〕《サト》なみしけば 天地の よりあひの限《カギリ》 よろづ世に さかえゆかむと 思ひにし 大宮すらを たのめりし ならのみやこを 新《アラタ》世の 事にしあれば おほきみの ひきのまにまに (春花の) うつろひかはり (むら鳥の) あさたちゆけば (さす竹の) 大宮人の ふみならし かよひし道は 馬もゆかず 人もゆかねば あれにけるかも
八隅知之吾大王乃高敷爲日本國者皇組乃神之御代自敷座流國爾之有者阿禮將座御子之嗣繼天下所知座跡八百萬千年矣兼而定家牟平城京師者炎乃春爾之成者春日山御笠之野邊爾楼花木晩牢貌鳥者間無數鳴露霜乃秋去來者射鉤山飛火賀塊丹芽乃枝乎石辛見散之狹男牡鹿者妻(1157)呼令動山見者山裳見貌石里見者里裳住吉物負之八十件緒乃打經而思並敷者天地乃依會限萬世丹榮將牲迹思煎石大宮尚矣恃有之名良乃京矣新世乃事爾之有者皇之引乃眞爾眞荷春花乃遷日易村鳥乃旦立往者刺竹之大宮人能蹈平之通之道者馬裳不行人裳往莫者荒爾異類香聞
 題辭の京の字諸本に無し。目録には悲寧樂京故郷作歌とあり
 タカシカスはタカシクの敬語、そのタカシクはヒロシク、フトシクなどと同じくて領じたまふ事なり○ヤマトは日本と書きたれど大和なり○スメロギノ神は御祖先なり○シキマセルはタカシカスと同意○アレマサム御子ノツギツギは生レ給ハム御子ノ御代々なり。座跡は從來マサムト、メサムトとよめり。イマストとよむべきか○ヤホヨロヅチトセヲカネテは永キ代ヲカケテといふこと○御笠ノ野邊ニはカホドリノマナクシバナキにかかれり○サクラバナはサクラ花ノとノを補ひて聞くべし○コノクレガクリはコノクレ即木陰ニカクレテとなり。卷三なる長歌(三六八頁)にもサクラ花コノクレシゲミとあり○鳴の字は略解にナキとよめるに(1158)從ふべし(舊訓及古義にはナクとよめり)○射鉤山は舊訓にイコマヤマとよめり。鉤の字一本に駒とありといふ。契沖は伊駒山に烽《トブヒ》を置かれし事なしといひ、眞淵はもとのまゝにてヤツリヤマとよみ、宣長は羽飼の誤字として『卷十に春日ナル羽買ノ山ユ云々とよめり』といへり。元明天皇紀に始置2……大倭國春日烽1と見え又古今集にカスガ野ノトブ火ノ野守云々とよみたれば春日にとぶ火を置かれしは確なれどその春日山のうちに羽買といふ山ありといふのみの理由にて射鉤を羽飼の誤字とせむはあまりに武斷なり。なほ下にいふべし○塊は一本に※[山/鬼]とありといふ。略解に之をヲカとよみ古義にタケとよめり。奈良附近にタケといひつべき山はあらねば否此山は春日連山中の一丘陵なるべければ略解に從ひてヲカとよむべし。
  古義に『さて此山は鹿野苑《ロクヤヲン》の東にありて今鉢伏といふとぞ』といへるは並河永の大和志に烽火山者在2鹿野苑東1山中有2民居1名2鉢伏1とあるによれるなるべけれど志の文意にては鉢伏は村の名なり
 此山今何といふ山に當るにか。果して大和志にいへる如く鹿野苑の東なる山なりや。そはなほ研究を要すれど射鉤は文字のままにイツリとよみて其山の古名とす(1159)べく
  釣はツリバリなり。ツリバリをいにしへツリといひき。箋註倭名類聚抄卷五調度部漁釣具の下に
   按ずるにツリは魚を釣るを謂ふ。紀、字鏡是なり。轉じて以て釣る所の鉤を謂ひて亦ツリと謂ふ。曾我物語にツリを含む魚と云へる是なり。神代紀に鉤をチと訓めり。即ツリの急呼なら。古説にチを以てツリバリの急呼とし本居氏のトリの急呼とせる並に非なり。後俗ツリバリと呼ぶ。神功紀に鉤をツリバリと訓める恐らくは古に非ざるなり(○もと漢文)
といへり
 さてイツリに射鉤の文字を當てたるは左傳※[人偏+喜]公廿四年に齊(ノ)桓公置2射《セキ》鉤1而便2管仲(ヲ)相(タラ)1とあり又文選劉※[王+昆]重(ネテ)贈2廬※[言+甚]1詩に重耳任2五賢1小白相2射《セキ》鉤1とあるなどによれるならむ○シガラムといふこと今の情にては萩ガ鹿ヲシガラムとはいふべく鹿ガ萩ヲシガラムとはいふべからざるに似たれどこゝにハギノエヲシガラミチラシとあり又古今集秋上に秋ハギヲシガラミフセテナク鹿ノとあるを思へばシガラム(1160)といふ語の意今日とは少し異なるにてオサヘツケなど譯すべきに似たり。さてシガラミチラシは古義に『或ハシガラミ或ハ散シの意なり』といへるは非なり。シガラミテチラスなり○令動は舊訓以下トヨメとよめれどトヨムとよみてこゝにて切るべし。今の字は衍字にてもあるべく又ありても妨なし○ヤソトモノヲは文武百官なり○ウチハヘテはハルバルトなり。之を時間の延長と見て代匠記にユク末ヲ兼テ長ク云々といへるは非なり(略解古義には説なし)。ゆく末の事は下にアメツチノ云々といへり○思の字一本に里とありといふ。里は上にイトマヲナミト里ニユカザラムとある里にて私邸の意、ナミシクは相並びて占むるなり○アメツチノヨリアヒノカギリは卷二(二二二頁)にアメツチノヨリアヒノ極とあるに同じ(略解古義にこゝをもキハミとよめり)。永久ニといふことなり○大宮スラヲのスラは主語を強むる辭なり(卷五【九七〇頁】サムキ夜スラヲ參照)。オホ宮スラヲ、ナラノミヤコヲの二つのヲはナルヲなり○新世《アラタヨ》は現代をたゝへて云へるなり(卷三【五八〇頁】參照)。さてアラタ世ノ事ニシアレバは卷三(五八二頁)及卷五(八六七頁)に世ノ事ナレバとあるとおなじく世ノ習ナレバといふことなり〇ヒキノマニマニは記傳卷十一(六二三頁)に
(1161)  こゝは京を引遷したまふを云に非ず。引率テ往タマフマニマニといふことなり
といへり。卷十九にもウツセミノ、ヨノコトワリト、マスラヲノ、ヒキノマニマニ、シナザカル、コシヂヲサシテ云々とあり○ウツロヒカハリは移轉する事なり。さてウツロヒカハリといひアサタチユケバといへるは諸人の上なり。自身の上にあらず○フミナラシのナラシは道の高低を平均する事なり○此歌は奈良にとどまれる人のよめるなり
 
   反歌
1048 たちかはりふるきみやことなりぬれば道のしば草長くおひにけり
立易古京跡成者道之志婆草長生爾異梨
 略解に『長歌に春花ノウツロヒカハリといふをくり返してよめり』といへるは非なり。長歌のウツロヒカハリは人が移るなり。ここのタチカハリは都が替るなり。古義に『タチカハリは建替といふなり』といへるは非なり。タチは略解にいへる如く添辭なり
 
(1162)1049 なづきにし奈良のみやこのあれゆけばいでたつごとになげきしまさる
名付西奈良乃京之荒行者出立毎爾嘆思益
 ナヅキニシはナジミニシといふ事にて卷一(一二〇頁)なるニキビニシに同じ○ナゲキシマサルは嘆ガマサルなり○イデタツは道ニ出立ツなり
 
   讃2久邇新京1歌二首并短歌
1050 あきつ神 わがおほきみの 天の下 八島の中に 國はしも 多くあれども 里はしも さはにあれども 山並の よろしき國と 川次の たちあふさとと 山代の 鹿脊山のまに 宮柱 太敷奉〔左△〕《フトシキタテテ》 たかしらす 布當《フタギ》の宮は 河ちかみ せのとぞ清き 山ちかみ 鳥がね慟〔左△〕《トヨム》 秋されば 山もとどろに さを鹿は 妻よびとよめ 春されば 岡邊もしじに 嚴には 花さきををり 痛※[立心偏+可]怜《アナアハレ》 ふたぎの原 甚貴《イトタフト》 大宮どころ うべしこそ 吾おほきみは 君之〔二字左△〕隨《カムナガラ》 きこした(1163)まひて (さす竹の) 大宮ここと 定めけらしも
明津神吾皇之天下八島之中爾國者霜多雖有里者霜澤爾雖有山並之宜國跡川次之立合卿〔左△〕跡山代乃鹿脊山際爾宮柱太敷奉高知爲布當乃宮者河近見湍音叙清山近見鳥賀鳴慟秋去者山裳動響爾左男鹿者妻呼令響春去者罔〔左△〕邊裳繁爾巖者花開乎呼理痛※[立心偏+可]怜布當乃原甚貴大宮處諾己曾吾大王宮君之隨所聞賜而刺竹乃大宮此跡定異等霜
 アキツ神は准枕辭。ワガオホキミノは十二句を隔てて宮柱大敷奉高知爲にかゝれり○山ナミノヨロシキ國トのクニは郷なり○川次は略解に
  山並といふに同じく川々のつづけるをいふ也。されば立合サトといへり。立は詞のみ
といへり。されどこのわたり川々といふばかり川は多からす。此都は泉川の沿岸にありしなるが附近には和束川といふ川ありて北より南へ流れて右の泉川に入れるのみ。上(一〇三四頁)なる山部宿禰赤人作歌に河次ノキヨキ河内ゾとある河次は(1164)河波の意にて次と書けるは誤字とおぼゆ。されどこゝは山並に對したればなほ文字の如き意ともおぼゆ。輕々しく定めがたし。追ひて考へてむ○山ノマは卷一(三四頁)にナラノ山ノ山ノマニイカクルマデ、卷三(五七九頁)に山シロノサガラカ山ノ山ノマヲユキスギヌレバとあり。山の間なり○フトシキ奉の奉を舊訓にタテテとよめり。訓は然るべし。字は誤にあらざるか○フタギノ宮は略解に『此地瀧川の二すぢ落合所にて二たきの意なるべし』といへり。名の起は右の如くにもあれ下にフタギノ原ともフタギノ野ベともあるを見れば、もとより地名をフタギといひしにて宮の名はその地名によれるなり。否宮の公稱は大ヤマトクニノ大宮なるを略してクニノ宮ともいひ又私にフタギノ宮ともいひしなり○慟は略解に動の誤なるべしといへり。トヨムとよむべし。トヨムはトドロクにて次なるトヨメはトドロカシなり○イハホニハ花サキヲヲリは巖ノ上ニハ花サキナビキテとなり○痛※[立心偏+可]怜は略解にアナアハレ又アナニヤシとよみ古義にアナオモシロとよめり。卷三(五〇三頁)にコノタビト※[立心偏+可]怜《アハレ》とあるを例としてアナアハレとよむべし○甚貴は古義に從ひてイトタフト、とよむべし(略解にはアナタフト)○君之隨は略解にキミノマニとよ(1165)みて神ナガラといふに同じといへり。神隨《カムナガラ》の誤字にあらざるか○大宮ココトは大宮ヲ此處トとなり
 
   反歌二首
1051 三日の原ふたぎの野邊をきよみこそ大宮どころさだめけらしも
三日原布當乃野邊清見社太〔左△〕宮處定異等霜
 大宮ドコロは大宮とは異なり。大宮の處にて即都なり。異本に一云ココトシメサセとあるシメサスもやがて定むるなり
 
1052 弓〔左△〕高來〔左△〕《ヤマタカミ》川のせきよし百世まで神之味《カムシミ》ゆかむ大宮所
弓高來川乃湍清石百世左右神之味將往大宮所
 初句は舊訓にヤマタカクとよめり。略解に
  先人(○枝直)云。山の草書の弓となれる也といへり。此集もと今の如く楷書ならねば草書より見誤れることすくなからず
といへり。之に從ふべし。來は未の誤なるべし○神之味は契沖『カミシミとよみて神(1166)サビと同じう意得べし』といへり。字音辨證上卷二四頁に
  之の呉(ノ)原音サイを省呼したるにてサビとよむべし
といへるは從はれず
 
1053 わがおほきみ 神の命の たかしらす ふたぎの宮は (百樹成《モモキモリ》) 山はこだかし おちたぎつ せのとも清し うぐひすの きなく春べは 嚴には、山したびかり (錦なす) 花さきををり さを鹿の 妻よぶ秋は (あまぎらふ) しぐれをいたみ (さにづらふ) 黄葉ちりつつ 八千とせに 安禮衝之乍《アレツガシツツ》 天の下 しろしめさむと 百代にも かはるべからぬ 大宮處
吾皇神乃命乃高所知布當乃宮者百樹成山者木高之落多藝都湍音毛清之鶯乃來鳴春部者巖者山下耀錦成花咲乎呼里左壯〔左△〕鹿乃妻呼秋者天霧合之具禮乎疾狹丹頬歴黄葉散乍八千年爾安禮衝之乍天下所知食跡百代爾母不可易大宮處
(1167) 百樹成は舊訓にモモキナスとよめり。然ナスとよまむに下なるニシキナスなどのやうにゴトクと譯して通ぜざれば誤字又は誤訓にあらざるかとは誰も思ふことなり。宣長は成を盛の誤字としてモモキモル(略解に引けり)又はモモキモリ(詔詞解二卷七丁)とよみて『モルは茂る事にて森の用語なり』といへり。されど成と盛とはいにしへ通用したれば(訓義辨證上卷一三頁)強ひて誤字とするに及ばず。ただこのままにてモルともモリともよむべし。然らばモルとよまむかモリとよまむかといふにこゝは山の枕辭と見ゆればイサナトリ海などの例に倣ひてモモキモリとよむべし○コダカシは木が高きなり○山下ヒカリはふと見れば山ノ下ガヒカリといふことの如くおもはるれど山下ノアケノソホ舟といひて山下をアケの枕辭としたる例あり(卷三【三七九頁】)又にほふ事をシタブルといひ(卷二【三一〇頁】)神の名にも秋山ノシタビヲトコといふあり(これもシタブル男といふ意なり)。よりて宣長(記傳三十四【全集七二頁】)は
  シタビはアシタビのアを省けるにて紅葉が朝の天の如く赤きをいふ。山シタノアケノソホ舟又こゝの山シタヒカリの如くただシタといふは更にシタビのビ(1168)を省けるなり(採要)
といへり。シタがアシタビの首尾を省けるなりといふ説はうなづかれねど、げに山シタヒカリは山の下が光るといふ事にはあらで山が照りかがやく事と思はる。されば山シタ、ヒカリとは切らでヤマ、シタヒカリと切りてよむべく、なほシタデルの例にならひてシタビカリとヒを濁りて唱ふべし。さて宣長はシタビカリを紅葉にのみいふこととし、さては今の歌に春の花をいへるにかなひがたければ
  ただニシキナスの序にて歌の意には與からず
といへり。今格調を案ずるにヤマシタビカリは花サキヲヲリにかゝれり。されば宣長がニシキナスの序とせる説は斥くべく從ひて雅澄のいへる如く山シタビカリは秋の紅葉にも春の花にもいふ辭とすべし○アマギラフは空の曇る事、サニヅラフは赤く匂ふ事にて共に枕辭なり○安禮衝之乍は卷一(九六頁)にもフヂ原ノ大宮ヅカヘ安禮衝哉〔左△〕《アレツガム》ヲトメガトモハトモシキロカモとあり。契沖は生繼なりといひ宣長(玉勝間卷十一)は
  アレは……奉仕るをいへる言也。衝は……イツキのイを省ける言なり。…(1169)…然るに此言を生繼と解たるはいみじきひがごと也。……繼と衝とはクの清濁も異なるをいかでか借用ひむ
といへり。件信友の瀬見の小川卷二(全集第二の二五八頁)にも一説あり。就いて見るべし。案ずるに安禮衝はなほ生繼の意とすべし。即天皇ノ生レ繼ギ給ヒツツといふ意なり。抑繼はもとツクと清みてとなへしにあらざるか。さて此集の出來し頃には既にツグと濁るやうになれるをなほアレツクなどいふ古語の時にはもとのまゝにツクと清みて唱へしかば繼とは書かで衝の字を借り用ひたるにはあらざるか。又清音を濁音に借り用ひたるにてもあるべし(卷一【九六頁】參照)。因にいふ本集に見えたる歌語を悉く其世に行はれし語と思はむは非なり。本集の歌には往々古語を用ひたり。否長歌にはつとめて古に擬したる跡あり○モモ代ニモカハルベカラヌは契沖のいへる如く文選枚乘諫2呉王1書に臣願王熟計而身行v之、此百代不易之道也とある百代不易を邦語にうつせるなり○壯は牡の誤なり
   反歌五首
1054 泉川ゆく瀬の水のたえばこそ大宮どころうつろひゆかめ
(1170)泉川往瀬乃水之絶者許曾大宮地遷往目
 水ノ絶エザラム限コノ大宮地モウツロヒユカジとなり。ウツロヒユクは上なるタチカハルにおなじ
 
1055 ふたぎやま山なみみれば百代にも易るべからぬ大宮どころ
布當山山並見者百代爾毛不可易大宮處
 フタギ山はカセ山の別名とおぼゆ
 
1056 をとめらがうみをかく【とち】ふ鹿脊の山時|之《シ》ゆければみやことなりぬ
娘嬬等之續麻繋云鹿脊之山時之往者京師跡成宿
 ヲトメ等ガ續麻《ウミヲ》ヲカクルカセといひ下して序とせりと略解にいへる如し。※[木+峠の旁]はより合せたる麻絲をかくる具なり。又カセヒ又カセギといふ○時之は古義に從ひてトキシとよむべし。トキシユケレバは時シ來ヌレバの意なり(契沖)
 
1057 かせの山樹立をしげみ朝さらずきなきとよもすうぐひすのこゑ
鹿脊之山樹立矣繁三朝不去寸鳴響爲※[(貝+貝)/鳥]之音
(1171) 朝サラズは朝ゴトニなり(略解)。トヨモスはトヨムルにおなじくてトドロカスといふことなり
 
1058 こま山になくほととぎす泉河わたりをとほみここにかよはず【一云わたりとほみやかよはざるらむ】
狛山爾鳴霍公鳥泉河渡乎遠見此間爾不通【一云渡遠哉不通有武】
 霍公の聲の遠く聞ゆるを故ある如くいひなせるなり。ワタリは河の渡津なり○カヨハズといふよりはカヨハザルラムといふ方まされり。然るにカヨハザルラムといへば文字餘りてココニの三言を割愛せざるべからず。されば一云の方にも定めかねて二つながら存せるなり○略解に
  長歌は春秋をのみいへるを反歌にほととぎすをよめるはつきなし。此一首別の歌なるべし。反歌五首とはじめにあれどもすべて歌數を書るにはとられぬ事處處にあり
といひ古義にも同じやうなる事を云へり。案ずるに長歌は一年中の事をいふとて代表的に春と秋との事を云へるのみなれば反歌に霍公をよめる歌ありても怪し(1172)むに足らず。ただ春よめるならば春の歌のみあるべく夏よまば夏の歌のみあるべきを鶯をよめると霍公をよめるとならびてあるが訝しきなり。更に思ふに此歌どもは初夏の頃にやよみけむ。山邊には初夏の頃も鶯の盛になくものなればなり
 
   春日悲2傷三香原荒墟1作歌一首并短歌
1059 三香の原 久邇のみやこは 山|高《タカミ》 河の瀬|清《キヨミ》 在〔左△〕吉《スミヨシ》と 人はいへども 在吉《アリヨシ》と われはおもへど ふりにし里にしあれば 國みれど 人もかよはず 里見れば 家もあれたり はしけや△《シ》 △ かくありけるか (三諸著) かせ山のまに さく花の 色めづら敷《シキ》 百鳥の こゑなつか敷《シキ》 有※[日/木]石《アリガホシ》 すみよき里の あるらくをしも
三香原久邇乃京師者山高河之瀬清在吉迹人者雖云在吉跡吾者雖念故去之里爾四有者國見跡人毛不通里見者家裳荒有波之異耶如此在家留可三諸著鹿脊山際爾開花之色目列敷百鳥之音名束敷在※[日/木]石住吉里乃荒樂苦惜哭〔右△〕
(1173) 山高河之瀬清は略解にヤマタカク〔右△〕カハノセキヨミとよみ古義にはタカミ、キヨミと共にミとよめり。古義の訓に從ふべし○アリヨシはアルニヨシなり○下なる在吉跡は或人の説(略解に引けり)に住吉跡の誤にてスミヨシトとよむべしといへり。類聚古集に上なるを住〔右△〕吉迹と書けり○フリニシはウツロヒユキシなり。即都を難波に遷されて故郷となりし意なり○ハシケヤシは例として名詞にかかれり。然るにこゝにはハシケヤシを受くべき名詞なし。又ハシケヤシカクアリケルカとありては何の意とも聞えず。略解に或人の説を引きて『ハシケヤシの下二句許句の脱たるか』といへり。げに然り。ハシケヤシ、サカエシ宮ヲ、イカニシテ、カクアリケルカなどありしにあらざるか〇三諸著は冠辭考に三を天の誤としてアモリツクとよみ、宣長(略解)は生緒繋の誤としてウミヲカクとよみ、久老雅澄はもとのまゝにて舊訓の如くミモロツクとよめり(久老の説は信濃漫録上卷七丁に見えたり)。就中雅澄は神社をいつく意とせり。枕辭の研究は余の企てざる所。今はただ諸説を列擧するのみ○敷を舊訓には上下二つながらシクとよめるを古義には下の敷をシキとよみ改めたり。宜しく古格に從ひて共にシキとよむべし。共に下なる里にかゝれるなり○(1174)在※[日/木]石の下に久などをおとしたるにか。アリガホシクといはではとゝのはず。或はアリガホシを枕辭のやうに用ひたるか。さてアリガホシはミガホシの類語にてアリタシといふ事なり○アルラクヲシモは荒レムコトガヲシとなり。哭を古義に喪の誤とせり。但卷七にもアマタカナシモを數悲哭と書けり○此歌は天平十六年二月に都を難波に遷されし後によめるなり
 
   反歌二首
1060 三香の原久邇のみやこはあれにけり大宮人の遷去禮者《ウツロヒヌレバ》
三香原久邇乃京者荒去家里大宮人乃遷去禮者
 結句は舊訓にウツリイヌレバとよめるを古義にウツロヒヌレバに改めたり。このウツロフは移轉にて上にハル花ノウツロヒカハリといへるにおなじ。略解に『紫香樂《シガラギ》(ノ)宮所へ移去レバといふ也』といへるは非なり。難波宮へなり
 
1061 さく花の色はかはらず(ももしきの)大宮人ぞたちかはりぬる
咲花乃色者不易百石城乃大宮人叙立易去流
(1175) このタチカハルも亦人の移轉するにて上なるタチカハリフルキミヤコトナリヌレバのタチカハリとは異なり。略解に『大宮人は在しにかはれる也』といへるは非なり
 此都の跡は山城國の南端相樂郡のうちにて泉川の附近なることのみは明なれどくはしき事は從來未知られず。泉川は東より西へ流れ今川の北に瓶原《ミカノハラ》、高麗《コマ》などいふ村あり川の南に鹿脊山ありて其東に加茂村、西に木津町あり。抑恭仁宮は河北にありしか、河南にありしか。
  山代の、鹿脊山のまに、宮柱、ふとしきたてて、たかしらす、ふたぎの宮は
とあり又
  鹿背の山時しゆければみやことなりぬ
とあるを見れば少くとも宮は河南にありし事明なり。又
  こま山になくほととぎす泉河わたりをとほみここにかよはず
とありて狛山と川を隔てたる趣なれば南岸とせではかなはず。狛は河北にあればなり
(1176) 或は云はむ。然らば
  三日の原ふたぎの野べをきよみこそ大宮處さだめけらしも
といひ又
  三香の原、久邇のみやこは
といへるはいかが。瓶原は河北の地名なるをやと
 答へて云はむ。ミカノ原はいにしへ川の南岸に亘れる廣き地の名なりきとおぼゆ。今河北の一村を瓶原といふは大名の小名となれるなり。かゝる例は少からず。ミカノ原フタギノ野ベとあるを見てもいにしへミカノ原の区域の廣かりし事を察すべし。古今集覊〔馬が奇〕旅歌にケフミカノ原イヅミ川といへるも大名なる證なり。さて
  あなあはれふたぎの原、いとたふと大宮處
といひ
  三日の原ふたぎの野べをきよみこそ大宮處さだめけらしも
といへるを思へば大宮處即都はフタギノ原即フタギ野にありしなり。而してそのフタギ野は思ふに鹿背山の東北西三方の平地なるべし
(1177) 上にいふ如くなれば今の瓶原即河北の一村を恭仁宮の祉に擬するは誤れり
 更に續紀中より恭仁宮及都が河南に在りし證を擧げむにまづ天平十三年九月丙辰の下に  從2賀世山(ノ)西(ノ)道1以東爲2左京1以西爲2石京1
とあり。賀世山の西の道を左右兩京の界としたるを見れば都は河南にありしなり。次に十七年五月癸亥の下に
  車駕到2恭仁宮泉橋1……是日到2恭仁宮1
とあり。泉川は伊賀國より流れ來る川なれば恭仁宮もし河北にあらば近江國甲賀宮よりの巡幸には泉川を渡り給ふべきにあらず。今泉橋を渡りて宮に入り給ひしを見れば宮は河南にありしなり
 或は云はむ。續紀天平十三年五月乙卯の下に
  天皇幸2河南1觀2狩獵1
とあるは如何。河北にましましゝが故に河南に幸し給ひしにあらずやと
 答へて云はむ。げに此時はなほ河北の行宮にましましゝなり。事情を明にせむ爲に(1178)左に續紀の。文を抄せむに
  天平十二年十二月戊午(〇六日)從2不破1發至2坂田都横川頓宮1。是日右大臣橘宿禰諸兄|在前而《サキダチテ》發經2略山背國相樂郡恭仁郷1。以v擬2遷都1故也
  丙寅(○十四日)從2禾津《アハヅ》1發到2山背國相樂郡玉井頃宮1
  丁卯(○十五日)皇帝在前幸2恭仁宮〔三字傍点〕1始作(ラシム)2京都1矣。太上天皇皇后|在後而《オクレテ》至
 これは諸兄の經略(踏査)後僅に九日
  十三年春正月癸未朔天皇始御2恭仁宮1受v朝。宮垣未v就。繞以2帷帳1
 これは諸兄の經略後僅に二十五日なれば未宮城を造營する暇あらじ。されば此恭仁宮は一時の行宮にて彼の大養コ恭仁《オホヤマトクニ》(ノ)大宮とは別なり
  因にいふ。同月戊戌(○十六日)の下に御2大極殿1賜2宴百官主典已上1とある大極殿はた假殿なり。十四年春正月丁未朔の下に百官朝賀、爲2大極殿未1v成権造2四阿殿1於v此受v朝とあるによりて然りと知らる
 此恭仁宮即一時の行宮はいづくにありしか、くはしくは知り難けれど泉川の北にありし故にこそ五月乙卯に河南に幸して狩獵を觀給ひしなれ。新宮即大養コ恭仁(1179)大宮に移り給ひしはいつにか。これもくはしくは知り難けれど
  秋七月戊午(〇八日)太上天皇移2御新宮1。天皇奉2迎河頭1
とあれば五月六日(乙卯)と七月八日との間に移り給ひしを紀には記し漏せるなり
 或は又云はむ。續紀天平十八年八月戊寅の下に
  恭仁宮大極殿施2入國分寺1
とあり。而して今の瓶原村大字河原の東|登大路《ノボリオホヂ》の西南に國分寺の遺址あり。これ恭仁宮が今の瓶原村即河北にありし證とすべきにあらずやと
 答へて云はむ。續紀の文を見るに大極殿をそのまゝ國分寺とせられしとは定むべからず。おそらくは大極殿を壞ちて國分寺に施入せられしならむ。國分寺は天平十三年の勅建なれば此年を待ちて始めて造營すべきにあらず
 なほ二三此宮及都に關係ある事を云はむ。諸書に甕原宮を恭仁大宮の別名としたれど續紀天平十四年八月乙酉の下に
  宮城以南大路西頭歟2甕原宮(ノ)東1之間令v造2大橋1
とあれば宮城即恭仁大宮とは別なり。此甕原宮は本集卷四(六七二頁)に(1180)神龜二年乙丑春三月幸2三香原離宮1之時云々
とあると同處にて以前よりありし離宮なり。それにつきてなほいはまほしき事あれど枝に枝を生ずれば今は云はず。右の文によれば甕原宮は宮城の西方即宮城とおなじく河南にありしなり。これによりてもいにしへのミカノハラが河の南北に亘れる廣き地の名なりしことを知るべし
 上なる長歌に
  山代の、鹿脊山際《カセヤマノマ》に、みやばしら、ふとしきたてて、たかしらす、ふたぎの宮は
とあれど續紀の文に宮城以南大路とあるを見れば宮城と鹿背山とは少くとも大路一條を隔てたりしにて山ノマニといへるは歌の文《アヤ》なり。さて宮城は南面したりしなり。さてこそ鹿背山の西の道より以東を左京とし以西を右京とせられしなれ
 
   難波宮作歌一首并虚歌
1062 (やすみしし) わがおほきみの ありがよふ 名庭の宮は (いさなとり) 海かたづきて 玉ひろふ 濱邊をちかみ 朝はぶる 浪のとさ(1181)わぎ ゆふなぎに かぢのときこゆ あかときの 寐覺にきけば 海石〔左△〕之《ワタツミノ》 塩干のむた うらすには 千鳥つまよび あしべには 鶴鳴動《タヅガネトヨム》 みる人の かたりにすれば きく人の 視まくほりする (御けむかふ) 味原《アヂフ》の宮は みれどあかぬかも
安見知之吾大王乃在通名庭乃宮者不知魚取海片就而玉拾濱邊乎近見朝羽振浪之聲※[足+參]夕薙丹擢〔左△〕合之聲所聆曉之寐覺爾聞者海石之塩干乃共納〔左△〕渚爾波千鳥妻呼葭部爾波鶴鳴動硯人乃語丹爲者聞人之視卷欲爲御食向味原宮者雖見不飽香聞
 アリガヨフは卷三(四〇四頁)にもオホキミノトホノミカドトアリガヨフ島門ヲミレバ神代シオモホユとあり。こゝにては度度行幸し給ふ事なり○海カタヅキテは海ニ寄リテといふ事。集中に山カタヅキテ、谷カタヅキテなどいへり。今の語にカタヅケルといふは此語の他動詞形なり○朝羽振は卷二(一八〇頁)に朝ハブル、風コソヨセメ、夕ハブル、浪コソ來ヨレとあり。ハブルは振動する事なり○海石之は古義に(1182)『海近三の誤なりと本居氏の云るぞ宜しき』といへれど上にハマベヲチカミとあるを更にこゝにウミチカミとあるべきにあらず。略解には
  石は原の誤れるにや。ウナバラノとあるべし。又は若の誤にてワタツミならんか
といへり。しばらく若の誤としてワタツミノとよむべし。シホヒノムタは塩干ト共ニなり○鶴鳴動は舊訓にタヅガネトヨミ、略解にタヅナキトヨミ、古義にタヅガネトヨムとよめり。古義に從ふべし。上なる讃2久邇新京1歌に鳥賀鳴動とありて鳴の字をネに用ひたり。いづれにもあれこゝは上なるカヂノトキコユに對してトヨムと切るべき處なり○カタリニスレバのカタリは話なり○アヂフノ宮は上(一〇三八頁)なる神龜二年冬十月幸2于難波宮1時笠朝臣金村作歌に
  うみをなす長柄の宮に、眞木柱ふとたかしきて、をす國ををさめたまへば、おきつとりあぢふの原に、もののふの八十とものをは、いほりして都をなせり、旅にはあれども
とあれば即長柄宮の事なるべし。味經も今は大坂市内に入りたり○納は※[さんずい+内]の誤なり。又擢は櫂の誤なり。但カヂに櫂合を充てたるはなほ攷ふべし
(1183)  追考 喜田貞吉博士は味經を江口の附近として大坂城南とせる舊説を斥けたり(大坂文化史)
 
   反歌二首
1063 ありがよふ難波の宮は海ちかみあまをとめらがのれる船みゆ
有通難波乃宮者海近見漁童女等之乘船所見
 
1064 塩ひれば葦邊にさわぐ白鶴《アシタヅ》の妻よぶこゑは宮もとどろに
塩干者葦邊爾※[葦+參]白鶴乃妻呼音者宮毛動響二
 初句は第二句と照應せるなり。妻ヨブにかゝれるにあらず○宮モトドロニは宮ヲモトドロニトヨモスなどいふべきを略せるなり
 
   過2敏馬浦1時作歌一首并短歌
1065 八千桙の 神の御世より 百船の はつるとまりと 八島國 百船純《モモフナビトノ》の 定めてし みぬめの浦は 朝風に 浦浪さわぎ 夕浪に 玉藻はきよる 白沙《シラマナゴ》 清き濱べは ゆきかへり みれどもあかず う(1184)べしこそ みる人ごとに かたりつぎ しぬびけらしき 百世へて しぬばえゆかむ 清《キヨミ・キヨキ》白濱《シラハマ》
八千桙之神之御世自百船之泊停跡八島國百船純乃定而師三犬女乃浦者朝風爾浦浪左和寸夕浪爾玉藻者來依白妙清濱部者去還雖見不飽諾石社見人毎爾語嗣偲家良思吉首世歴而所偲將往清白濱
 八千桙の神はオホナムヂノ命の又の名なり。始めて國土を開き給ひし神なれば特に此神の名を擧げたるなり。初二句は畢竟ムカシヨリといはむにひとし〇八島國ははやく八千桙神の御歌にもヤシマグニ妻マギカネテとあり。淡路、四國、隱岐、九州、壹岐、對馬、佐渡、本州を總稱して大八島國といふといふ事古事記神代の卷に見えたり。但こゝは全國といふ事なり○百船純の事は上(一一三八頁)にいへり○砂は新撰字鏡及和名抄にイサゴ又スナゴとあり。然るに本集には眞名子、麻奈胡と假字書にし又愛子の字を假借せり。又古事記に地名に眞名子谷と書けるを書記には繊沙谿と書けり。さればマナゴの方イサゴ及スナゴより古しと見ゆ。狩谷望之の倭名抄箋(1185)注(卷一の七二丁)に
  按マナゴ蓋マスナゴ之省。或謂2マサゴ1。亦マスナゴ之急呼。或マイサゴ之義
といへるは從はれず。さてこゝは白沙と書けるをはやく舊訓にシラマナゴとよめり○シヌビケラシキのシヌブは例の如くめづる事なり。次なるシヌバエもメデラレなり○コソといひてケラシキといへるは卷一(二八頁)にいへる如し。ラシは今ははたらかでハの係の時もコソの係の時も共にラシなれど上代にはコソの時はラシキとはたらきしなり○清白濱は上(一〇四八頁)なる山部宿禰赤人作歌にも見えたり。從來キヨキシラハマとよめれどキヨミシラハマともよむべき事又シラハマは白砂の濱なる事彼處にいへる如し
 
   反歌二首
1066 (まそかがみ)みぬめの浦は百船のすぎてゆくべき濱ならなくに
眞十鏡見宿女乃浦者百船過而可往濱有七國
 スギテユクベキは泊ラズニ行クベキとなり○ハマナラナクニは濱ナラヌ事ヨといふばかりの調なり
 
(1186)1067 濱きよみ浦うるはしみ神世より千船のはつる大わだの濱
濱清浦愛見神世自千船湊大和太乃濱
    右二十一首田邊福麿之歌集中出也
 神世ヨリは昔ヨリといふこと○攝津國西成郡に神崎川の下流の東岸に今千船村大字大和田といふ處あり。されど此歌なる大ワダノ濱はミヌメノ浦の續と思はるれば西成郡なる大和田にあらず。ミヌメノ浦は前にもいひし如く神戸の東なる西灘の附近なればこの大ワダノ濱は神戸兵庫の沿岸なるべし。兵庫の南の端《ハナ》を和田岬といふも大和田濱によれる名ならむ。三善清行の意見封事に
  臣伏見山陽西海南海三道舟船海行之程自2※[木+聖]生《ムロフ》泊1至2韓泊1一日行、自2韓泊1至2魚住泊1一日行、自2魚住泊至2大輪田泊1一日行、自2大輪田泊1至2河尻1一日行
 かく播磨の室津より攝津の河尻に至る船路を四日の行程に分ちたるに自2大輪田1至2河尻1一日行といへるを見ても西成郡なる大和田にあらざる事明なり。河尻は即神崎川の河口にて彼千船村大和田の附近なればなり〇一首の中に濱といふ語重出せり。當時はかゝる事に拘はらざりしなり
(1187) 二十一首といへるは悲2寧樂故郷1作歌(一一五五頁)以下なり
             (大正七年一月十二日脱稿)
(流布本目録省略)
          2004.11.13(土)午後2時45分、卷六、入力了、米田進
          2005年3月28日(月)午後2時28分、校正終了
 
萬葉集新考第三、井上通泰、國民圖書株式会社発行、1928年(昭和3年)5月30日、
 奈良県立高市教育博物館付屬圖書館舊藏本
 
    圖 版 解 説
賀茂眞淵書翰。行數六十七。切つて二段に貼つてある。上段三十五行縦四寸九分五厘横一尺八寸、下段三十二行横一尺五寸六分である譯文
一われら先月何の事ともなく
腹工合損少々渇いたし其後
氣むづかしき樣にも有之所に
全快いたし候惣て丈夫に候まゝ
少々之事は早速平愈に及候
か樣に候はゞまだよほどながらへ
候はんわれら血脈惣て五十餘歳
とも成候へば終に長命に及候へば
たのもしく候近年萬葉注を
はじめ寸暇に一二卷をいたし
終三卷を今いたし候われら
中年より之學問に候故此節に
いたりて漸成就いたし天下
古今之意味に通、和漢之大意
明に成候哥會當年は毎月と
申事にて髓分かるく毎月いたし
書會も一月十二ケ日有之候
貴殿哥を御情可被入候出来候はゞ
よしあしかまはず見せ可被申候
あしきにつけて難を書つけ候へば却てよき事を
得候もの也哥をよく得候へば古人の
人情に通じ古語に通、天下に情と
語の▲は無之候へば千萬の事も通候もの也
からの學問四角に候故早速得
らるゝものにて理屈成樣に候へども
書物にいふは學者のいひ事のみ天下
の臣民の政事は學者にては埒明
申ものにあらず四角なる事を學候へばそれがかた
と成候て不窮之工夫は不出來もの也
日本の神道はひろし天下の
民をおのがまゝの樣にしてつゞむる
大むね有て治め給ふ故に天下
よく治り天皇の御末もつゞき給ふ也
此心も古哥を詠候にてしられ候
事也
(次頁の圖版)
當月は題
 さみだるゝ頃 是は去年死候河津伊右衛門妻はわれら
 養子分にていかふれんごろ成しを一周忌に
 伊右衛門會主に侯へば皆いたみの哥よみ候
 さみだれの心少しよせていたみをよみ申候
六月
 納涼《スヾミトル》 いつもの題也
七月
 葛のはに風のふくをみて
  是もくずの葉に常有事也
八月
 海べの家にて月を見て
九月
 山里へもみぢ見にまかりて
十月
 時雨   落葉
十一月
 氷むすびそめたるを
十二月
 雪のふりける日
右の通りにて皆やすき題也たゞ
古今集をよく見てよみ給へ又萬葉集を
心得ずとも五へん通して見給へ左候へば
語どもに近付出來て半分ばかりは心得
らるゝもの也その上にてわれら書候もの
を見錚々はゞしれ候はん必心がけ候へ
右の題の事あはどのおはんどのへも
御物がたり候てよみて御こし候へ
かの二所よりも御こし候様にと
御申可有之候以上
   五月廿四日      衛士
    市左衛門殿
充名の人市左衛門は濱松の人梅谷氏で眞淵の實子である。第十八行の情は精の誤である。第廿三行語のの下は外であらう。河津伊右衛門は後の加藤大助宇萬伎である。其妻河津氏の歿せしは森銑三君の發見に據れば寶暦十年五月十六日であるから此書状は寶暦十一年六十五歳の時に書いたものである。此書状には考證すべき事が澤山あるが餘白が無いからすべて省略する
 
(目次省略)
 
 
(1219)萬葉集新考卷七
                 井上通泰著
  雜謌
 
   詠v天
1068 天《アメ》の海に雲の波たち月の船星の林にこぎかくる見ゆ
天海丹雲之波立月船星之林丹※[手偏+旁]隱所見
右一首柿本朝臣人麿之歌集出
 星を林に比したるはその繁きこと林木に似たる故なり。他の三者の見立の形似によれるとは異なり。さて海及波と林とは相集まりて一の景を組み立つべきものにあらず。又大海を渡る船の林の中に漕ぎ隱れむことあるべからず。されば初句の天海丹は天河〔右△〕丹の誤にあらざるか(六帖には天ノ河〔右△〕雲の波タチ月ノ舟星ノハヤシニコギカヘルミユとあり)とも思へど卷十に
(1220)  天の海に月の船うけ桂梶かけてこぐみゆ月人をとこ
といふ歌あれば輕々しく誤とは定むべからず。但此歌をたゝへて『人麻呂の心詞也』などいへるは古人に阿るものなり
 
   詠v月
1069 常はかつておもはぬものを此月のすぎかくれまくをしきよひかも
恒者曽不念物乎此月之過匿卷惜夕香裳
 カツテは更ニなり○コノ見ル月ノ過ギ隱レムガ惜キヨハナルカナ、今マデハ更ニ月ヲ惜シト思ハザリシモノヲといへるにて古義に
  宴席などの興に乘てよめるか又はめづらしき友などにあへる夜よめるならむ
といへる如し。但同書に『常ハ曾テ露ホドモ何トモ思ハヌ此月ナレド』と釋けるは非なり。コノ月はコノ見ル月といふ意にて畢竟コヨヒノ月といふ意なり
 
1070 ますらをのゆずゑふりおこし借高の野邊さへきよくてる月夜《ツクヨ》かも
大夫之弓上振起借高之野邊副清照月夜可聞
(1221) 初二はカリの序○カリタカノ野は大和添上郡東市村にある野なりといふ。○サヘといふ辭心得がたし。略解には
  サヘは輕く意得べし。野ベモイヅクモといふが如し
といひ古義には
  野邊マデ清くと云意にて遠く借高野を望てよめるさまなり
といへり。略解の説によれば其野邊にてよめるにて古義の説によれば他處にありてよめるなり。案ずるにこは高き處たとへば高圓山(卷六【一〇九三頁】にカリタカノ高マト山ヲタカミカモといふ歌あり)に立ちてよめるにて爰モトノミナラズ遙カニ見ユル借タカノ野邊サヘといへるなり○ツクヨは月といふに同じ
 
1071 山のはにいさよふ月をいでむかとまちつつをるによぞくだちける
山末爾不知與歴月乎將出香登待乍居爾與曽降家類
 イサヨフは出でむとして出でざるなり。クダツはフクルなり。○卷六(一一一九頁)に   山のはにいさよふ月のいでむかとわがまつ君之〔左△〕夜はくだちつつ
 下にも
(1222)  山のはにいさよふ月をいつとかもわがまちをらむ夜はふけにつつ
とあり
 
1072 あすのよひてらむつく夜は片よりにこよひによりて夜長からなむ
明日之夕將照月夜者片因爾今夜爾因而夜長有
 ヨヒは後世のヨハにて即ただ夜といふに同じ。コヨヒといふが今夜といふに同じきを思ふべし○カタヨリニコヨヒニヨリテはコヨヒニ片ヨリテといふ意なり。卷二(一六三頁)にも
  秋の田の穗向のよれるかたよりに君によりななこちたかりとも
とあり○夜ナガカラナムはコヨヒノ月ノ夜長ナレカシとなり
 
1073 (たまだれの)小簾《ヲス》のま通《トホシ》ひとりゐて見るしるしなきゆふづく夜かも
玉垂之小簾之間通獨居而見驗無暮月夜鴨
 通の字は舊訓にトホシとよめるを略解にトホリに改めて『二の句より結句へつづく』といへり。古義には舊訓によりて
(1223)  次句を隔て小簾ノ透間ヨリ見ルとつづく心持なり。略解に二の句より結句へつづくと云るは誤なり
といへり。下に
  しづけくもきしには波はよせ家〔左△〕《ク》るかこのいへとほしききつつをれば
とあると合せて思へば舊訓の如くトホシとよむべし○シルシはカヒなり。獨見ては飽足らずと云へるなり。卷三(四五五頁)にも
  草まくら、たびにしあれば、獨して、みるしるしなみ……かけてしぬびつ、やまと島根を
とあり
 
1074 春日山おして照有《テラセル》この月は妹が庭にも清有家里〔二字左△〕《サヤケカルラシ》
春日山押而照有此月者妹之庭母清有家里
 照有は舊訓并に古義にテラセルとよめるに從ふべし(略解にテリタルとよめるは非なり)。春日山を照らせるなり。オシテを眞淵はオシナベテと譯せり○結句は字のまゝならばサヤケカリケリとよむべけれどさては意通ぜず。古義に家里を良思又(1224)は羅思の誤としてサヤケカルラシとよめり。之に從ふべし。春日山にて妹が家を思遣りてよめるなり
1075 うなばらの道とほみかもつくよみの明少〔二字左△〕夜はくだちつつ
海原之道遠鴨月讀明少夜者更下乍
 第四句は代匠記にヒカリスクナキとよみて
  ヒカリスクナキとは光輝の少きと云にはあらず。照間の少きなり。道トホミカモと云にて知べし
といひ古義には
  夜が更行かば月もますますさやかなるべきに然はなくて夜は更つゝ月の光のすくなく朧なるは海原の道が遠き故にこゝに月の至るが遲きなるべしとなり。中山巖水此歌は海邊にて朧なる月を見てよめるなるべし。月の朧なるとはいはずして海原の遙なる故に月の光すくなきと云なしたりと云り
といへり。案ずるに此歌は月を遠方より來るものと假定しさて凡遠方より來るものは海を渡りて至るが故にウナバラノ道トホミカモといへるなり。海邊にてよめ(1225)る歌とせるは歌人の心境を知らざる説なり〇さて遠方より來ると光の少きとは相關せざる事なり。されば第四句の明少は照遲などの誤としてテラサクオソキとよむべきか
 
1076 (ももしきの)大宮人のまかりでてあそぶこよひの月のさやけさ
百師木之大宮人之退出而遊今夜之月清佐
 マカリデテは宮より里ニ罷出デテなり。作者は素より大宮人の中にこもれるなり〇サヤケサはサヤケキコトヨといふ意なり。古義に『月ノサヤケサイカバカリゾヤカギリモナシと云意なり』といへるはサヤケサを玉緒などの説に從ひて名詞と見たるなれど此格は少くとも本集にては名詞とは見べからず(卷六【一〇九四頁】參照)
 
1077 (ぬばたまの)夜わたる月をとどめむに西の山べにせきもあらぬかも
夜干玉之夜渡月乎將留爾西山邊爾塞毛有糠毛
 アラヌカモはアレカシなり〇トドメムニは卷五なるシロガネモ金モ玉モナニセムニなどと同格にてトドメム爲ニといふ意なり(八五九頁參照)
 
(1226)1078  此月のここにきたればいまとかも妹がいでたちまちつつあらむ
此月之此間來者且今跡香毛妹之出立待乍將有
 略解に
  宣長云。おのが家にて月の影のさす所を見てハヤココマデ月ノ影ノ來ツレバ夜ハ更タリ、妹ガ待ランといふ意なり。といへり
と云ひ古義も此説を是認せり。案ずるにココニキタレバの下に夜ハフケタリといふ辭を補ひて釋けるは妄なり。コノ月ノは作者の辭、ココニキタレバイマの九言は妹の心なり。即  この見る月を妹が其家にて見て月ハハヤココ(たとへば軒端)マデ來タレバ我背子ハ今來ムと門に出立ちて我を待ちつつあらむか
といへるなり。今トカモのトはト思ヒテなり。カは例の如く下にめぐらして心得べし。モは助辭
 
1079 (まそかがみ)てるべき月をしろたへの雲かかくせるあまつ霧かも
(1227)眞十鏡可照月乎白妙乃雲香隱流天津霧鴨
 月ヲは月ナルニなり○アマツキリカモは天ツ霧カ隱セルといふべきを略せるなり。モは助辭○さて略解には月のまだ出でぬ趣とし古義には月の朧なる趣とせり。案ずるに月既に出でてただおぼろなるのみならむには其光を蔽へるは雲にや霧にや一目して辨ふべければ雲カ隱セル天ツキリカモなど疑ふべきにあらず。されば略解の説に從ひて月のまだ出でぬ趣とすべく又二三の間にマダ照ラヌハといふ辭を補ひて聞くべし。元來空を仰ぎてよめる歌にあらず。山端に向ひてよめる歌なり
 
1080 (久方の)あまてる月は神代にか出反等六《イデカヘルラム》としはへにつつ
久方乃天照月者神代爾加出反等六年者經去乍
 代匠記に
  月の光のみ昔にかはらずめでたく照をほむる詞なり
といひ略解に
  年を經て月の光のかはらぬは神代へ立かへりては出るならんといふなり
(1228)といひ古義には
  人はいくほどもなくはかなきものなれば未來の事はいかならむ見知べき理ならぬを月は幾萬世經てもかはらず同じ光に照ものなれば又あまた年經行つゝ後遂には昔の神代の如き世にも立かへりつゝ出て照すらむかと月を羨むやうによめるなるべし
といへり。古義の説の如くならばイデカヘリナムといふべく結句も年ノヘナバと云はずばかなはじ。さればまづ略解の説に從ふべし。但イデカヘルは卷四(七〇九頁)なるシニカヘルの例によればいく度もいく度も出づるなり。カミ代ニのニはユに通ずるニなり。略解に神代へかへる意としたるはひがごとにていく度も神代より出直すなり
 
1081 (ぬばたまの)夜わたる月をおもしろみわがをる袖に露ぞおきにける
烏玉之夜渡月乎※[立心偏+可]怜吾居袖爾露曽置爾鶏類
 ワガヲルは我見ツツ居ルといふべきを略せるなり(略解)。四五の間に夜ガ更ケテといふ辭を挿みて聞くべし
 
(1229)1082 みなぞこの玉さへ清く可見裳《ミユベクモ》てるつく夜かも夜のふけゆけば
水底之玉障清可見裳照月夜鴨夜之深去者
 玉は小石なり。第三句を舊訓にミツベクモとよめるを略解にミユベクモと改めたるを古義に舊訓に復したり。キヨシトとあらばこそミツベクモとよむべけれ、今はキヨクを受けたれば略解の如くミユベクモとよむべし。キヨシト見ル、キヨク見ユといふが定格なり
 
1083 霜ぐもりすとにかあらむ(久堅の)夜わたる月の不見念者《ミエヌオモヘバ・ミエナクモヘバ》
霜雲入爲登爾可將有久堅之夜度月乃不見念者
 シモグモリは霜のふる前に水蒸氣の空に漲るをいふ○ストニカアラムはストテ然ルニヤアラムとなり○結句を舊訓にミエヌオモヘバとよみ古義にミエナクモヘバとよめり。いづれにても可なり
 
1084 山のはにいさよふ月をいつとかもわがまちをらむ夜はふけにつつ
山末爾不知夜經月乎何時母吾待將座夜者深去者
(1230) イツトはイツ出デムカトなり
 
1085 妹があたりわが袖ふらむ木間よりいでくる月に雲なたなびき
妹之當吾袖將振木間從出來月爾雲莫棚引
 略解に
  妹ガアタリヘ向ヒテ吾フル袖ヲ木間ヨリ月ニ見ルランニ雲ナタナ引ソと也
といへり。木間ヨリイデクル月ニとあるを妹ガ木間ヨリ月ニ見ルランと釋くべきならむや。古義には
  妹があたりへ向ヒテ袖フラバ月影に妹ガソレト見ベキナレバイザ吾袖振ラムヲ木間ヨリ出來ル月ニ雲棚引コトナカレとなり
いへり。即雅澄は第二句にて切りて心得たるなり。此説うべうべしけれど二三はなほワガ袖フラムコノマヨリとつづきて聞ゆるをいかがせむ(雅澄の説の如くならば第二句はソデフリテムヲなどあるべし)。案ずるにこは卷二なる
  石見のや高つぬ山の木間よりわがふる袖を妹みつらむか
といふ歌を本歌とせるにて初二はコノマの序にて一首の意には與からざるなり。(1231) あまりに奇拔なる序なるによりて前人のききまどひしなり。序中の妹ガアタリは辭足らぬこゝちすれど卷十一に
  しろたへの袖はまよひぬ我妹子が家のあたり乎《ヲ》やまず振りしに
とあれば妹ガアタリヲ目當ニ袖ヲ振ルといふことを妹ガアタリヲ袖フルといひて通ぜしなり
 
1086 靱《ユギ》かくる伴のを廣き大伴に國榮えむと月はてるらし
靱懸流伴雄廣伎大伴爾國將榮常月者照良思
 靱は矢を盛る器なり。ユギカクルトモノヲは武官なり。ヒロキは今眷屬ガ廣イ、親類ガ廣イなどいふヒロイにて多き事なり○さて略解には
  大伴ニといふは衛門府の陣をさしていへるならん。心は大伴氏ノ護レル御門ニカク月ノ隈ナク明ラカナルヲ見レバマスマス國榮エマサンと大御國をも我家をも祝ひてよめるなるべし
といひ古義は全く此説に據れり。此説の穩ならざるは一見して知らるべければ今は批評の煩を避けて直に餘の説を述べむに此歌の大伴は本集に大伴ノ高師ノ濱、(1232)大伴ノ御津ノ濱、大伴ノ御津ノ松原などある大伴とひとしく攝津の地名にて歌の初二は序なり。國は即大伴ノ國なり。いにしへは一郡一郷をも國といひしなり。クニサカエムトは國榮ユベクといはむが如し。卷十八にもスメロギノ御代サカエムトアヅマナルミチノク山ニクガネ花サクとあり。されば此歌の意は前人の心得しとはいたく異なり。クニサカエムトは面白き辭なり
 參照 美夫君志卷一下(九四頁)大伴乃御津乃濱松の下に上田秋成の冠辭考|續貂《ゾクテフ》の説を取捨して
  大伴は下の歌に大伴乃高師能濱ともありて此ほとりの大名なり。……これを枕詞とするは非也。上古大伴氏は代々大連の重職にありて攝津河内の兩國を食地に賜りて領し居りしなるべし。……故に其地(○住吉難波など)の大名を大伴とはいひしならん。本集卷七に靱懸流云々とある是此氏人の榮えむ事を祝たる歌にて大伴即地名なり
といへり。秋成の原説には採られぬこと(大伴と雄伴とを同視せるなど)もあれど大伴を地名と認めたるは活眼なり
 
(1233)   詠雲
1087 あなし河河浪たちぬ卷目《マキモク》のゆつきがたけに雲居立《タツ》有〔□で圍む〕良思《ラシ》
痛足河河浪立奴卷目之由月我高仁雲居立有良思
 穴師川は大和國磯城郡にあり。卷向山より出でて初瀬川に入る小流なり。ユツキガタケは卷向山の一峯なり○卷目は舊訓にマキモクとよめるを略解古義にマキムクに改めて古義に
  卷向とも纏向とも書り。こゝに目ノ字を書るに依てマキモクと訓は非なり
といへれどマキム〔右△〕クをマキモ〔右△〕クともいふはミム〔右△〕ロをミモ〔右△〕ロといひ、コヨル〔右△〕ギ(風俗歌)をコヨ〔右△〕ロギ(古今集)ともいふが如し。ここはマキモクとよみて可なり○クモヰはただ雲といふにひとし。卷三にも朝サラズ雲ヰタナビキ又アリマ山雲ヰタナビキとあり(四五九頁及五六〇頁參照)○雨ふらむとしてまづ風のおこる樣なり○此歌にタツといふ語二つあり。有は衍字とすべし。此字なき本あり
1088 (足引きの)山河の瀬のなるなべにゆつきがたけに雲たちわたる
(1234)足引之山河之瀬之響苗爾弓月高雲立渡
 ナルナベニはナルニツレテなり(卷二【二九七頁】參照)。ナベに苗の字を當てたれどへはなほ濁るべし○山河の瀬の鳴るは風の強き爲なり。前の歌とおなじく夕立の趣なり。略解に
  右二首ともに雨降といはずして知らせたり
といへるは非なり。雨はいまだ降らぬなり○二首ともに雄渾にしてめでたし
 
1089 大海に島もあらなくにうなばらのたゆたふ浪にたてる白雲
大海爾島毛不在爾海原絶塔浪爾立有白雲
 大和の狹き國原に住みて雲の山にたなびけるを見馴れたる目に島山も無き大海の末に雲の立てるを見て訝しみたるなり。諸註の釋徹底せず○大海と海原と重複せり
 
(1235)   詠雨
1090 吾妹子が赤裳の裾の將染※[泥/土]《ヒヅチナム》けふのこさめに吾さへぬれな
吾妹子之赤裳裙之將染※[泥/土]今日之※[雨/脉]※[雨/沐]爾吾共所沾者〔左△〕
 第三句は略解にヒヅチナムとよめるに從ふべし(古義にはヒヅツラムとよめり)。ヌレナはヌレムなり○一首の意は吾妹子ノ裳ノ小雨ニ濡レナムガイトホシキニイザ我モ附合ニ濡レムといへるなり○者は名の誤なり。※[雨/脉]※[雨/沐]《バクボク》は詩經小雅北山に見えたる熟字なり。文選呉都賦にも見えたり
 
1091 とほるべく雨はなふりそ吾妹子がかたみのころもわれ下に著有《キタリ・ケリ》
可融雨者莫零吾妹子之形見之服吾下爾著有
 著有はキタリともケリともよむべし。ケリはキタリにおなじ。古義にキケリと云ふに同じといへるは非なり。カタミノの下に大切ナといふ辭を挿みて聞くべし。旅中にてよめるなり。卷三(四五二頁)にも
  秋風のさむきあさけをさぬの崗こゆらむ君に衣かさましを
(1236)といふ歌あり
 
   詠山
1092 (なる神の)おとのみききし卷向《マキムク》の檜原の山をけふみつるかも
動神之音耳聞卷向之檜原山乎今日見鶴鴨
 オトノミは後世のオトニノミにてそのオトは噂なり。卷六(一〇二七頁)にも
  なる神の、おとのみききし、み吉野の、眞木たつ山ゆ云々
とあり
 
1093 みもろの、その山なみに(こらが手を)まきむく山は繼之《ツグガ》よろしも
三毛侶之其山奈美爾兒等手乎卷向山者繼之宜霜
 ミモロノ山は三輪山なり。ソノは言の足らざるによりて補へるなり。卷三(四九七頁)なるナデシコノ其花ニモガの類なり。山ナミは山ツヅキなり。卷六(一一六二頁及一一七〇頁)にも山並ノヨロシキ國ト、フタギ山ヤマナミミレバとあり。卷向山は三輪山の北に續けり○繼之を略解古義にツギノとよみたれど山ナミニを受けたれば(1237)ツグガとよむべし。さてツグガヨロシモはツヅケルガメデタシとなり
 
1094 我衣《ワガコロモ》色服〔左△〕染《イロニシメテム》(味酒《ウマザケ》)三室の山はもみぢしにけり
我衣色服染味酒三室山黄葉爲在
 契沖宣長は色服を服色の顛倒として服の字を初句に屬せり。さて宣長は色染をイロニソメナムとよめり。又雅澄は服を將の字の誤としてイロニシメナムとよめり(ソメとシメとはいづれにても可なり。古事記八千矛神の御歌に曽米〔二字傍点〕紀ガシルニ斯米〔二字傍点〕ゴロモヲとあり)。字はいづれにもあれイロニシメテ〔右△〕ムとよむべし。イロニとは黄葉ノ色ニとなり○第三句は古義に
  十一に味酒之三毛侶と見えたり。こゝは之(ノ)字なければウマザケと四言に訓べし
といへり
 
1095 (三諸就《ミモロツク》)三輪山みれば(こもりくの)はつせの檜原おもほゆるかも
三諸就三輪山見者隱口乃始瀬之檜原所念鴨
(1238) ミモロツクは古義に
  三室|齋《ツク》なり。大神の爲に御室を齋《イツ》き造り奉れる謂なり
といへり(卷六【一一七三頁】參照)○三輪と初瀬とは相隣れり
 
1096 いにしへの事は知らぬをわが見ても久しくなりぬ天《アメ》のかぐ山
昔者之事波不知乎我見而毛久成奴天之香具山
 シラヌヲは知ラヌガなり。古今集なる
  わが見ても久しくなりぬ住の江の岸のひめ松いくよへぬらむ
は相手が壽命に限あるものなればこそをかしけれ、山はもとより無生物なれば今の歌は辭のまゝに聞きては何の感もなし。案ずるにこは香具山の山色のかはらぬを即樹木のいつも繁り榮えたるをたゝへたるなり
 
1097 (わがせこを乞《コチ》)こせ山と人はいへど君も來まさず山の名ならし
吾勢子乎乞許世山登人者雖云君毛不來益山之名爾有之
 ワガセコヲはワガ背子ヨといはむが如し(玉緒卷七及古義)。卷四(七一一頁)なるミナ(1239)人ヲネヨトノカネハウツナレドのヲにおなじ○第二句は舊訓にコチコセヤマトとよめるを古義にイデコセヤマトと訓み改めて
  乞はかならずイデと訓べきことなり。これ余が初て訓出たるなり
といへり。こは卷二(一七八頁)なるコヒタムワガセ乞《コチ》カヨヒコネの乞を契沖のイデに改めたるによれるなれど、なほコチとよむべし。コチコセはコチラヘ來タマヘといふ意にて巨勢山にいひかけたるなり。コスはクルの敬語なり。俗語にオコシといふコシはやがて是なり○一首の意は
  人は此山を呼びて巨勢山といふ。コセ山はワガ背子ヨコチコセ山ときこえてたのもしき名なれど其名におひて君も來まさぬを見ればコセ山といふはただ徒なる山の名なるらしといへるなり。集中に名ニコソアリケレ、言ニシアリケリなどよめり。間宮永好云はく
  いづれもノミ、バカリなどの言を省きたるなり
と(犬※[奚+隹]隨筆上卷五八頁)
 
(1240)1098 きぢにこそ妹山ありといへ(△櫛上《タマクシゲ》)ふたがみ山も妹こそありけれ
木道爾社妹山在云櫛上二上山母妹許曽有來
 第三句は一本に櫛上の上に三の字ありといふ。冠辭考及略解には其本の點によりてミクシゲノとよめれど三は玉の誤にてタマクシゲなるべし。はやく冠辭考の頭書に
  又思に三は玉の誤か。然らばこれもタマクシゲなり
といへり○二上山は大和國北葛城郡(大和河内兩國の界)にありて二峯相ならびて今一を雄嶽といひ一を雌嶽といふとぞ。菅笠日記下卷に
  又その(○葛城山の)北にやゝへだたりて二がみ山、峯ふたつならびて見ゆ。これも今はニジャウガダケと例の文字のこゑにいひなせるこそにくけれ
とあり。二上は二神の借字にて山に二峯ある謂なり(卷三【四七〇頁】參照)○妹山の名はいにしへは無かりしかど此頃はやく出來たりしなり(卷三【三九二頁】參照)○一首の意は
  紀國にこそ妹山といふがありと聞け此二神山にも妹があるよ
(1241)といへるなり。元來フタガミ山とは二峯の總稱なるを今は雄嶽をさしていへるなり。案ずるに此歌は妻を喪ひし人のよめるなるべし。さらでは感なし○此歌にはコソ二つあり
   詠岳
1099 片をかのこのむかつをに椎まかばことしの夏の陰に將比〔左△〕疑《ナラムカ》
片崗之此向峯椎蒔者今年夏之陰爾將比疑
 片岡は大和|添下《ソフノシモ》郡の地名。ムカツヲは正面の岡なり○將比疑は舊訓にナミムカとよめれどナミムカにては通ぜず。古義には
  比は化の誤にてナラムカにてもあらむか
といへり。此説に從ふべし○契沖のいへる如く喩ふる所ありてよめるなるべし。ナラムカの下に否ナリハセジといふことを補ひてきくべし
 
   詠河
1100 まきむくのあなしの川ゆゆく水のたゆることなく又かへりみむ
(1242)卷向之病〔左△〕足之川由往水之絶事無又反將見
 河ユのユは後世のヲなり。ユク水ノはユク水ノ如クなり。マタカヘリミムは又立返リ見ムとなり。卷一(六二頁)に
  みれどあかぬ吉野の河のとこなめのたゆることなくまたかへりみむ
又卷六(一〇二六頁)に
  みよし野の秋津の川のよろづ世にたゆることなく又かへりみむ
とあると相似たり○病は痛の誤ならむ
 
1101 (ぬばたまの)よるさりくればまきむくの川音《カワト》たかしもあらしかもとき
黒玉之夜去來者卷向之川音高之母荒足鴨疾
 ヨルサリクレバは夜ニナレバなり。マキムクノ川は即穴師川なり
 
1102 (おほきみの)御笠の山の帶にせる細谷川の音のさやけさ
大王之御笠山之帶爾爲流細谷川之音乃清也
(1243) オビニセルは腰ニマトヘルとなり。川が山の腰をめぐれるなり○細谷川は固有名詞にあらず。宜寸《ヨシキ》川の川上なるべし○古今集大歌所御歌なる
 まがねふく吉備のなか山おびにせる細谷川のおとのさやけさ
は之をなほせるなり○サヤケサを清也と書けるは卷二にアサツユノゴト、ユフツユノゴトを朝露乃如也、夕露乃如也と書き卷八にミルガカナシサを見之悲也と書けると同例なり。以下にも例あり
 
1103 今敷者《イマシキハ》見めやともひし三芳野の大川よどをけふ見つるかも
今敷者見目屋跡念之三芳野之大川余杼乎今日見鶴鴨
 續日本紀第三十一詔に
  今(之紀之)間(方)念見定(牟仁)
とあり宣長の解(全集第五の三三三頁)に
  之紀は添えたる詞と聞ゆ。今之《イマシ》ともいへり。さればこれも上に今(乃)間とあると同じことなり。萬葉七に今|敷《シキ》者ミメヤトオモヒシこれもただ今者の意なり。本にこの敷をシクと訓たれどこゝと照してシキと訓べし
(1244)といへり。即舊訓にイマシクハとよめるを宣長は續紀の宣命によりてイマシキハに改めてイマハの意とせるなり。此説に從ふべし。されば初二は今ハ再見ムヤハト思ヒシといふ意なり
 
1104 馬なめてみよし野河をみまくほり打越來てぞ瀧にあそびつる
馬並而三芳野河乎欲見打越來而曽瀧爾遊鶴
 馬ナメテは第三句の下におろして心得べし。ウチコエキテは山ヲウチコエ來テなり。瀧は吉野川の早瀬なり
 
1105 音にきき目にはまだ見ぬ吉野河むつ田のよどをけふ見つるかも
音聞目者未見吉野河六田之與杼乎今日見鶴鴨
 第二句は過去にいふべきを現在にいへるなり。卷一(八九頁)卷二(一七一頁)卷三(五七六頁及五七七頁)等について例を求むべし
 
1106 かはづなく清き川原をけふ見てはいつか越〔左△〕《マタ》來て見つつしぬばむ
河豆鳴清川原乎今日見而者何時可越來而見乍偲食
(1245) キヨキ川原は卷六(一〇三六頁)にもヒサ木オフル清キヨキ河原ニチドリシバナクとあり○見而者のハはかのナガレテハ妹背ノ山ノ中ニオツルのハとおなじき助辭なるべし。君ガ御船ノ綱シトリテバなどの如くタラバといふ意にはあらじ。古義にはミテバと濁り訓みて今日見テアラバと譯せり○一首の意は略解に
  今日見て又いつか見んといふ也
といへる如くなるべしと思へど又といふ辭なき爲にきこえがたし。第四句の越の字は又の誤にあらざるか(上なる打越來而曽の越のうつれるにてもあるべし)○シヌバムは賞美セムとなり
 
1107 はつせ川しらゆふ花におちたぎつ瀬をさやけみと見にこしわれを
泊瀬川白木綿花爾墮多藝都瀬清跡見爾來之吾乎
 卷六(一〇二五頁)に
  山たかみしらゆふばなにおちたぎつ瀧のかふちはみれどあかぬかも
とあり。シラユフ花は木綿もて作れる花、ハナニのニは後世のトなり○セヲサヤケミトのトは例の省きて見べきトなり○ワレヲはワレゾといふに近し。上(一二三八(1246)頁)なるワガセコヲコチコセ山トのヲとは異り。略解に『卷六サシナミノ國ニイデマスヤワガセノ君ヲといへる類也』といへるは非なり。こはナルヲのヲなり(一一三三頁參照)
 
1108 はつせ川ながるるみをのせをはやみゐでこす浪の音のさやけく
泊瀬川流水尾之湍乎早井堤越浪之音之清久
 ミヲは水路、ヰデは今のヰセキなり○サヤケクは所謂略辭格にてサヤケクアルヨといふ意なり。終止格にてサヤケシといふべき處を連用格にてサヤケクといへるは辭を略したるなり
 
1109 さひのくまひのくま川の瀬をはやみ君が手とらば將縁言《ヨセイハム》かも
佐檜乃熊檜隈川之瀬乎早君之手取者將縁言※[毛三つ]
 サヒノクマのサヒノクマは添辭。サヒノクマ、ヒノクマ川といふはなほミヨシ野ノヨシ野ノ山といふが如し○結句を略解にヨセイハムカモとよめるを古義にコトヨセムカモと改めたり。略解の訓に從ふべし。ソレヲ種トシテ二人ノ中ヲイヒハヤサムカと(1247)なり
 
1110 ゆだねまくあらきの小田を求めむと足結出〔左△〕所沾《アユヒゾヌルル》このかはのせに
湯種蒔荒木之小田矣求跡足結出所沾此水之湍爾
 ユダネは和訓栞に齋種の義なるべしといひアラキは同書に新墾の義なるべしといへり。ユダネのユはユザサのユ、ユツイハムラのユツにて數多き意ならむ○第四句は宣長の説に出は者の誤にてアユヒハヌレヌなるべしといへり。出は曽の誤にてアユヒゾヌルルとよむべきならむ。アユヒは袴の裾を結ぶ紐なり○カハを水と書けるは夙く卷二(三二三頁)にイシカハを石水と書き卷三(四一四頁)にカハカラシを水可良思と書けり
 
1111 いにしへもかくききつつやしぬびけむこの古河のきよき瀬の音《ト》を
古毛如此聞乍哉偲兼此古河之清瀬之音矣
 イニシヘモはイニシヘノ人モなり○シヌブは上(一二四四頁)なるイツカ越來テ見ツツシヌバムのシヌブとおなじく賞美する事なり。略解にシタフと譯せるは非な(1248)り○フルガハは石上《イソノカミ》の布留《フル》川なるべし
 
1112 はねかづら今する妹をうらわかみいざいざ河の音のさやけさ
波禰※[草冠/縵]今爲妹乎浦若三去來率去河之音之清左
 はやく卷四(七七五頁)にもハネカヅラ今スル妹ヲと見えたり。その歌の題辭に贈2童女1歌とあり、こゝにもウラワカミとあれば童女の頭の飾とおぼゆ。額髪を掻上げてその垂れ下るを防ぐ爲に鉢卷やうのものをしけむをいふにや。卷二(一七一頁)に
  たけばぬれたかねば長き妹が髪このごろみぬにかかげつらむか
とあるも今ハ額髪ヲ掻上ゲテハネカヅラシツラムと云へるにや○上三句と第四句の初のイザとは序なり。いざなふ意にてイザ川にいひかけたるなる事略解古義にいへる如し○イザ川は春日山より出でて奈良の市中を西に流れて佐保川に入る小川なり
 
1113 この小川|白氣結《キリゾムスベル》瀧至〔左△〕《タギチユク》八信井《ハシリヰ》の上《ヘ》に事上〔二字左△〕《ナゲキ》せねども
此小川白氣結瀧至八信井上爾事上不爲友
(1249) 第二句は舊訓にキリゾムスベルとよめるを古義に『此方にて雲霧の類にムスブといふことあることなし』といひてキリタナビケリとよめり。案ずるにタナビケリを結とは書くべからず。其上ムスブはムスビノ神のムスビと同じくて物の生ずるをいひて露ムスブなどもいへば霧にもいはれざるにあらじ。さればなほキリゾムスベルとよむべし○瀧至は舊訓にタギチユクとよめり。契沖は
  至は去の字を誤れるか。至の字集中にユクとよめる事なし
といへり。古義には落瀧または墮瀧の誤としてオチタギツとよめり。しばらく契沖の説によりて瀧去の誤としてタギチユクとよむべし○第四句は舊訓にハシリヰノウヘニとよめるを雅澄は『信ノ字シリの假字に用ひし例なし』といひてハシヰとよめれど信をシリの音に借るは平群《ヘグリ》のクリの類なれば怪しむべからず(男信《ナマシナ》上卷二十九丁參照)。さてハシリヰはホトバシル泉といふ事なり。伊豆にハシリ湯とてあるそのハシリに同じ。古義に
  いにしへ凡て井と云しは流水にてもまた穿まうけたるにても清冷にして人の飲料に用る處の水をいへりし稱なり
(1250)といへれど飲料水は古語にモヒとこそいへ。井は湧水にてモヒとは別なり○事上は字のまゝならばコトアゲとよむべし。コトアゲは卷六(一〇八三頁)にもありて揚言などいふ意なり。されどコトアゲにては一首の意通ぜず。古義に
  霧は人の嘆息、言擧などの氣より出て立たなびくよし古へ多く讀みたれば今もその意なり
といひて卷五(八四九頁)なる
  大野山きりたちわたるわがなげくおきその風にきりたちわたる
といふ歌を引きたり。案ずるに言擧《コトアゲ》によりて霧の立つ由によめる歌は未見及ばず。之に反して長息《ナゲキ》によりて霧の立つ由によめるは右の卷五の歌の外に卷十五に
  君がゆく海邊のやどにきりたたばあがたちなげくいきとしりませ
  秋さらばあひみむものをなにしかもきりにたつべくなげきしまさむ
  わがゆゑに妹なげくらし風早のうらのおきべにきりたなびけり
  おきつかぜいたくふきせばわぎもこがなげきのきりにあかましものを
などあれば事上は嗟の字の誤としてナゲキとよむべし。ナゲキに嗟の字を用ひた(1251)る例はたとへば卷十三に吾嘆八尺之嘆《ワガナゲクヤサカノナゲキ》とあり○ハシリヰは水上にて小川はその下流なり。ナゲキセネドモは人ガナゲキセネドモと心得べし
 
1114 吾紐を妹が手もちて結八《ユフハ・ユフヤ》川又かへりみむ萬代までに
吾紐乎妹手以而結八河又還見萬代左右荷
 初二はユフにかゝれる序なり○マデニは後の世にはただマデといふ○略解に
  結八川吉野の内にあり。……元暦本にユフヤとよめり
とあり。いかなる證によりて吉野の内にありとは定めたるにか
 
1115 (妹が紐)ゆふ八《ハ・ヤ》がふちをいにしへの并〔左△〕人見等《ヨキヒトミキト》此乎誰知
妹之紐結八川内乎古之并人見等此乎誰知
 古義に
  妹之紐は枕詞なり。右の歌に同じく紐ヲ妹ガユフとつづけたり
といへるは非なり。こは妹ガユフ紐ヲワガユフとかゝれる枕辭なり。前の歌の序とは自他相反せるなり○四五に誤字あるべし。舊訓には
(1252)  ミナヒトミキトコレヲタレシル
とよみ代匠記には『并人見等は今按ミナビトミメドと和すべきか』といひ略解には并を淑の誤として
  ヨキヒトミキトコヲタレカシル
とよみ古義には人并〔二字右△〕見管〔右△〕此乎偲吉〔二字右△〕の誤として
  ヒトサヘミツツココヲシヌビキ
とよめり。しばらく略解の説に從ふべし。卷一(四四頁)なる淑《ヨキ》人ノヨシトヨク見テヨシトイヒシ芳野ヨク見ヨといふ歌と似通へり
 
1116 (ぬばたまの)わが黒髪にふりなづむ天《アメ》の露霜とれば消乍《キエツツ》
烏玉之吾黒髪爾落名積天之露霜取者消乍
 消乍は舊訓にキエツツ、古義にケニツツとよめり。いづれにても可なり○フリナヅムは降りて黒髪にとまるなり○アメノツユジモは卷四(七四三頁)にも久方ノアメノツユジモオキニケリとあり。天より降るものなればアメノといへるなり。卷一(一(1253)二六頁)にもアメノシグレとよめり。ツユジモは露なり
 
   詠花
1117 島|廻《ミ》すと礒にみし花風ふきて波は雖縁《ヨルトモ》とらずばやまじ
島廻爲等礒爾見之花風吹而波者雖縁不取不止
 島廻は卷六(一〇五二頁)なる玉藻カルカラニノ島ニといふ歌の島囘と共に舊訓にアサリとよめるを古義にシマミに改めたり(こは卷三【四五七頁】なる礒廻を舊訓におなじくアサリとよめるを久老のイソミと改めたるに倣へるなり)。げに島廻はシマミとよみて島を廻る意とすべし○雖縁は舊訓にヨルトモとよめるを古義にヨストモとよめり。こはいづれにてもあるべし○譬喩歌なるべし
 
   詠葉
1118 いにしへにありけむ人もわがごとかみわの檜原にかざしをりけむ
古爾有險人母如吾等架彌和乃檜原爾挿頭折兼
 初二はただ古人モといふ事。ワガゴトカはワガ如クニヤなり○略解に『さす人あり (1254)てよめるなるべし』と云へるは非なり。下にいふべし○卷四(六二五頁)に
  いにしへにありけむ人もわがごとか妹にこひつついねがてずけむ
といふ歌あり
 
1119 (ゆく川の)過去《スギユク》人のたをらねばうらぶれたてりみわの檜原は
往川之過去人之手不折者裏觸立三和之檜原者
 過去は舊訓にスギユクとよめるを契沖は
  スギニシ人ともよむべし。……上の歌にイニシヘニアリケム人といへる人なり。タヲラネバは再たをらぬなり
といひ略解古義共に之に從へり。案ずるになほスギユクとよむべし。此處をすぎ行く人なり。當時はやく人心あだめきて花もなき常葉木ををりかざす事などはせざりしなり。作者は古風なる人にて三輪の檜原にかざしを折るとて古人を偲び又檜原の今は人に折られぬを憐めるなり○ウラブレは卷五(九五〇頁)にも人母禰ノウラブレヲルニとあり。悄然たる事なり
 
(1255)   詠蘿
1120 み芳野の青根が峯《タケ》のこけむしろたれかおりけむたてぬきなしに
三芳野之青根我峯之蘿席誰將織經緯無二
 峯を古義にはタケとよめり。舊訓の如くミネとよみてはアヲネのネと重なる故なり。卷三(四七五頁)なるキシミガタケも高嶺と書けり○ナシニはナキヤウニといふ意にはあらでナクテといふ意なり。經ノ絲、緯ノ絲モナクテとなり
 
   詠草
1121 妹がりと我通路《ワガカヨフミチ》のしぬすすきわれし通はばなびけしぬ原
妹所等我通路細竹爲酢寸我通靡細竹原
 第二句は舊訓にワガカヨヒヂノとあれど然よみては妹ガリトの収まる處なし。妹ガリトと云はばそれを受けくる動詞なかるべからず。されば第二句はワガカヨフミチノと八音によむべし(古義にも『ワガカヨヒヂノと訓ては體言となれば妹ガリトと云よりのつづきわろし』といひてワガユクミチノとよめり)○シヌハラは古義に(1256)いへる如くこゝにてはシヌススキ原の意なり(今シノとは細竹を云へど元來シノはしなやかなる物には何にもいふ辭なりき。細竹に限りてシノといふやうになれる今の情を以て古を論ずるなかれ)
 
   詠鳥
1122 山のまにわたるあきさのゆきてゐむその河の瀬に浪たつなゆめ
山際爾渡秋沙乃往將居其河瀬爾浪立勿湯目
 ヤマノマニのニはユ(即後世のヲ)に通ふニなり。ワタルはトビワタルなり。古義に『常に山際《ヤマノマ》にかよひ渡りてすむ』と譯せるはニを常のニの如く心得たるよりの誤なり○アキサは今アイサといふ。小鴨の一種なり○ヰムはクダリヰムなり
 
1123 佐保河のきよき河原になくちどりかはづとふたつ忘れかねつも
佐保河之清河原爾鳴千鳥河津跡二忘金都毛
 チドリトカハヅといふべきを上のトを略したるはナマヨミノ、甲斐ノ國、ウチヨスル、駿河ノ國トの類なり(卷三【四一九頁】及卷五【八九七頁】參照)○宣長の
(1257)  カハヅは蛙にあらず。河津にて千鳥の声と其處のけしきと二つ也(略解)
といへるが非なる事は古義に辨じたる如し。カハヅは今いふカジカなり
 
1124 佐保河に小〔□で圍む〕※[馬+聚]《サワギシ》千鳥夜ぐたちてなが聲きけばいねがてなくに
佐保河爾小※[馬+聚]千鳥夜三更而爾音聞者宿不難爾
 第二句は舊訓にアソブチドリノとよめるを略解に六音によむべしといひ(げにノを添ふべき處にあらず)古義には中山巖水の説に從ひてサヲドルチドリとよめり。案ずるにヨグタチテナガコヱキケバとあれば第二句にはまづ晝鳴きし事をいひおくべきなり。されば小を衍字としてサワギシチドリとよむべきか○イネガテナクニはイネアヘナクニ即寐カヌル事ヨとなり
 
   思2故郷1
1125 清きせに千鳥つまよび山のまに霞たつらむかむなびの里
清湍爾千鳥妻喚山際爾霞立良武甘南備乃里
 甘南備の里は飛鳥の里の中なるべし
 
(1258)1126 年月もいまだ經なくにあすか河せぜゆわたりしいはばしもなし
年月毛未經爾明日香河湍瀬由渡之石走無
 初句の前に此處ノ舊都トナリテヨリといふ事を加へて聞くべし○イハバシば略解に『川瀬を渡るべく石を並べおくをいふ』といへる如し。即川瀬の飛石なり○セゼユとあれば一處の石橋にはあらざるなり。さて此歌は前の歌とはちがひて其地に臨みてよめるなり
 
   詠v井
1127 おちたぎつ走井水之《ハシリヰノミヅノ》、清有者《キヨケレバ》、度〔左△〕者吾者《オキテハワレハ》ゆきがてぬかも
隕田寸津走井水之清有者度者吾者去不勝可聞
 第二句は略解にハシリヰノミヅノとよめるに從ふべし(舊訓ハシリヰミヅノ、古義ハシヰノミヅノ)○第三句は舊訓のキヨケレバと略解古義のキヨクアレバといづれにてもあるべし。クアレバの約カレバを転じてケレバともいふなり。なほシアリの約はサリなるを轉じてセリといふが如し○度者は略解にワタリハとよみ古義(1259)には者を布の誤としてワタラフとよめれどいづれも從はれず。正宗敦夫いはく。廢者の誤としてオキテハとよむべきかと
 
1128 あしびなす榮えし君がほりし井のいは井の水はのめどあかぬかも
安志妣成榮之君之穿之井之石井之水者雖飲不飽鴨
 アシビは今のボケなり(卷二【二二〇頁】參照)○サカエシとあれば其人は今は世に無きなり
 
   詠2和琴1
1129 琴とればなげきさきだつけだしくも琴のした樋につまやこもれる
琴取者嘆先立蓋毛琴之下樋爾嬬哉匿有
 ケダシクモはモシ或ハといふ意なり○琴ノシタヒは略解に琴の腹のうつろなる處をいふといへり○考に妻を失ひたる人の歌とせり
 
   芳野(ニテ)作《ヨメル》
1130 神《カム》さぶる磐根こごしきみよし野のみくまり山をみればかなしも
(1260)神左振磐根己凝敷三芳野之水分山乎見者悲毛
 カムサブルは神サビタルにて太古ノといふほどの意なり。コゴシキはゴロゴロトシタルとなり。サガシとは異なり○こゝのカナシは古義にいへる如くオモシロシなり。例は古義を見よ○ミクマリ山は宣長の菅笠日記に今子守の神のまします山にて子守はミクマリを御子守となまり更に略して子守といふやうになれるなりといへり
 
1131 皆人のこふる三吉野けふみればうべもこひけり山川きよみ
皆人之戀三吉野今日見者諾母戀來山川清見
 ウベモコヒケリはウベモ皆人ハコヒケリとなり。この山川は山と川となり
 
1132 いめのわだことにしありけりうつつにも見てこしものをおもひしおもへば
夢乃和太事西在來寤毛見而來物乎念四念者
 イメノワダは吉野川の淵の名なり。はやく卷三(四三八頁)に見えたり○コトニシア (1261)リケリは名バカリヂヤといふ意。古義に『夢のわだといへばただ夢にのみ見る處かと思ひしに云々』と釋せる、よろし○オモヒシオモヘバは見テ來ムト一心ニ思ヘバとなり。古義に『今つくづくと思へばと云なるべし』といひてコトニシアリケリにかゝれるやうに釋けるは非なり。ミテコシモノヲにかゝれるなり
 
1133 すめろぎの神の宮人(冬薯蕷《トコロヅラ》)いやとこ敷《シク》に吾〔左△〕《また》かへりみむ
皇祖神之神宮人冬薯蕷葛彌常敷爾吾反將見
 第三句は舊訓にサネカヅラ、六帖にマサキヅラとよめるを記傳卷二十九(第二の一七二六頁)に田中道麻呂の説を擧げてトコロヅラとよむべしといへり。トコシクニにかゝれる枕辭なり○敷を舊訓にも略解にもシキとよみたれど副詞とおぼゆれば記傳の傍訓の如くトコシク〔右△〕ニとよむべし○スメロギノ神は卷一以下に屡見えて御代々の天皇の御事なり。ミヤ人は即大宮人なり。トコシクニは永久ニなり○結句の吾は又亦などの誤字にあらざるか。果して然らば一首の主格は宮人なり。
 
1134 よし野川|石迹柏等《イハトカシハト》ときはなす吾はかよはむよろづ世までに
(1262)能野川石迹柏等時齒成吾者通萬世左右二
 イハトカシハトは集中難義の一なり。まづ契沖は景行天皇紀の故事(本書五〇九頁に引けり)によりてカシハを岩の事として『イハトガシハは岩門|岩《ガシハ》にて岩ある河門の岩なり』といひ宣長は『岩常磐《イハトコシハ》なり。イハをシハといふは稻をシネといふに同じ』といひ(略解)守部は『磐常堅磐《イハトコカタシハ》といふことの約まれる也』といへり(鐘の響六十二丁)。またイハトカシハトのトは古義に
  トは與なり。さて石《イハ》ノ常磐《トコシハ》ト共ニの意なり
といへり。いづれの説も穩ならず。就中宣長の『岩常磐《イハトコシハ》なり』といへるは雅澄もうべなひたる説なれど、もしトカシハが常磐の意ならば上なるイハは無くてあるべし。又常磐はトキハとこそいへれ、トコシハといへる例なし。又トコシハのコはカシハに転ずべからず。宣長は又『イハをシハといふ』といへり。こは堅磐をカタシハといふ(雄畧天皇紀に堅磐此云柯陀之波とあり。又和名抄筑前國穗浪郡の下に堅磐(加多之方)とあり)を思へるならめど堅磐をカタシハといふはカタシイハの畧にて(カタシといふ語いにしへはウマシ、オホシなどと同じくカタシ、カタシキとはたらきしなり)磐を(1263)シハといふにはあらじ。とまれかくまれカシハは守部のいへる如くカタシハの約轉なり(カタシハの約カチハを轉じてカシハといへるなり)但守部がイハトを磐常《イハトコ》の意としたるは從はれず。案ずるにイハトカシハトのト〔右△〕(下なる)はテニヲハにはあらでイハトカシハトは石門堅磐門《イハトカシハト》にてイハトもカシハトも同事なるを辭の文に重ねいへるにあらざるか。こはいづれの説も穩ならざるによりて試にいふのみ。もし此説の如くならば初二はトキハナスの序辭なり○略解古義にはトキハナスをも枕辭としたれどこは主文中の辭にて卷五(八六七頁)なるトキハナスカクシモガモトオモヘドモのトキハナスとおなじくてトキハニといふに齊し
 
   山背作
1135 うぢ河はよどせなからしあじろ人舟よばふこゑをちこちきこゆ
氏河齒與杼湍無之阿自呂人舟召音越乞所聞
 古義に水の淀む處を淀瀬といふなるべしといへり。卷十七に
  かみつ瀬に、うち橋わたし、余登瀬には、うき橋わたし云々
とあるを見ればヨドセは古義にいへる如く水の淀める瀬にて早瀬のうらとおぼ(1264)ゆ。さてヨドセナカラシは徒渉スベキ淀瀬ガナイサウナといふ意なり。古義に『網代かまふるに宜き淀瀬のなき故にあるらし』と釋せるは從はれず○アジロ人は網代を構へて魚を取る人なり○ヲチコチは下なるヲチコチノイソノ中ナルシラ玉ヲのヲチコチとおなじくてソコラといふ事なり。遠近數處の謂にあらず○無之は無の下に有を脱せるかと契沖云へり
 
1136 うぢ河におふる菅藻を河はやみとらず來にけりつとにせましを
氏河爾生菅藻乎河早不取來爾家里※[果/衣]爲益緒
 菅藻は仙覺抄に
  菅に似たる河藻なり。人のくふ物といへり
といへり○結句の前にモシ出來ル事ナラバといふことを補ひて聞くべし。セマシヲとあればなり
 
1137 うぢ人の譬《タトヒ》のあじろ吾在者《ワレナラバ》、今齒王〔左△〕良増《イマハサラマシ》、木積不來友《コツミコズトモ》
氏人之譬乃足白吾在者今齒王良増木積不來友
(1265) 譬はタトヒ〔右△〕とよむべし。結句の木積は集中に許都美とも書けり。樹木を製材したる屑なり。宣長は吾を君の誤とし略解には王を与、來を成の誤とせり。雅澄は此等の説によりて
  うぢ人のたとひのあじろきみしあらば今はよらましこつならずとも
とよめり。コツとよめるは卷十四にナルセロニ木都ノヨスナス云々とあるによりてなり。さて
  歌意は宇治の里人が事とある時はやゝもすれば物の譬喩に取りてかにかくにいふなる其宇治川の網代を守る人の中に君があるぞならば木積ならぬ吾も譬へば木積の如くにその網代木を慕ひて今は依かゝらましと一すぢに思へる謂ならむ
といへり。案ずるに王を去の誤とし吾と來とはもとのまゝにて
  うぢ人のたとひのあじろわれならば今は去らましこつみこずとも
とよむべく元來宇治人の信《マコト》ある譬として人の語り傳ふる所(網代に木積の流れ來るまで待たむと契りて終に身うせきなどいふ【尾生の故事に似たる】物語)ありけむに拠りてよ(1266) めるならむ。イマハは歌を作りし時をいへるにあらず。木積の流れ來むを待ち待ちし後を指せるなり○或は云はむ。去は集中ユクまたはイヌとよみてサルとよめる事なしと。答へて云はむ。卷四(七三〇頁)に枕片去イメニミエコシとあり。又春去者、夜去來者など書けるも去を當時サルともよみしによりてハルサレバ、ヨルサリクレバのサルに借れるにあらずやと
 
1138 うぢ河を船わたせをとよばへどもきこえざるらしかぢの音も不爲《セズ》
氏河乎船令渡呼跡雖喚不所聞※[楫+戈]音毛不爲
 略解にワタセヲはワタセヨといふに齊しといへり○不爲を舊訓、略解、古義共にセズとよめるはわろし。セヌとよむべし。セヌハを畧せるなり
 
1139 (千早人)うぢ川浪をきよみかもたびゆく人のたちがてにする
千早人氏川浪乎清可毛旅去人之立難爲
 二三は宇治川浪ガ清さにかとなり。タビユク人は旅人なり。タチガテニスルは去リアヘズスルとなり。ガテニは不敢なり
 
(1267)   攝津《ツノクニ》作
1140 (しなが鳥)ゐな野をくれば有間山【一本云猪名の浦廻をこぎくれば】夕霧たちぬ宿はなくして
志長鳥居名野乎來者有間山夕霧立宿者無爲
    一本云猪名乃浦廻乎榜來者
 略解に『一本はヤドハナクシテといふにかなはざればわろし』といへり○猪名野は今の伊丹の付近なり。有馬は其西方に當れり。西下の途にてよめるなり。卷三(三八二頁)なる
  いづくにかわれはやどらむたかしまのかち野の原にこの日くれなば
と相似たり
 
1141 武庫河の水尾急嘉〔左△〕《ミヲヲハヤミカ》あか駒のあがく激《タギチ》にぬれにけるかも
武庫河水尾急嘉赤駒足何久激沾祁流鴨
 初句を古義にムコノカハとよめり。なほ舊訓の如くムコガハノとよむべし○第二句は舊訓にミヅヲハヤミカとよめるを古義に嘉を三等の二字の誤としてミヲヲ(1268)ハヤミトとよめり。案ずるに嘉を三加の誤とし水尾をミオとよみその下にテニヲハのヲをよみそへてミヲヲハヤミカとよむべし。雅澄は『ハヤミカとよみてはとゝのひがたし』と云へれどミヲヲハヤミカにて切れたりと見ればとゝのはざることなし○アガクは馬の前脚を下すは物を掻寄するに似たればいふ○激は舊訓にソソギとよめるを古義にタギチに改めたり。之に從ふべし。駒ノ足掻ニセカレテ激スル水にといふ意なり○卷十七に
  うさかがはわたる瀬おほみこのあが馬《マ》のあがきのみづにきぬぬれにけり
といふ歌あり
 
1142 いのちを、幸久吉〔左△〕《サキクアラムト》(石流〔左△〕《イハバシル》)たるみの水をむすびてのみつ
命幸久吉石流垂水水乎結飲都
 宣長の説に吉は在の誤なりといへり石流は卷八に垂見の枕辭に石激と書けるを見ればこゝも石激とありしを誤れるかと古義にいへり。いづれにもあれサキクアラムトイハバシルとよむべし○垂水は瀧なり。三注共に攝津國豐島郡の地名としたれど從はれず。卷十二に(1269)  石走《イハバシル》垂水《タルミ》の水のはしきやし君にこふらくわがこころから
とあり○此歌は名水を飲めば無病なりといふ俗信によれるなり。今も殘れる俗信なり
 
1143 さよふけてほり江こぐなる松浦《マツラ》船梶の音《ト》たかし水尾《ミヲ》はやみかも
作夜深而穿江水手鳴松浦船梶音高之水尾早見鴨
 松浦船を契沖は肥前の松浦の船なりと云へり。松浦式の船なり。眞熊野の船、伊豆手船の類なり○結句は古義に『水派の流の急きに逆ひてこぎ泝るが故にかあるらし』と釋せるが如し
 
1144 くやしくもみちぬるしほかすみの江の岸の浦|囘《ミ》ゆゆかましものを
悔毛滿奴流鹽鹿墨江之岸之浦囘從行益物乎
 ウラミユは浦ニ沿ウテなり。例の如くモシ出來ル事ナラバといふことを補ひてきくべし○古義に
  かくては岸の方に行きがたし、汐の干たる内に岸の裏めぐりに行て岸の風景を愛(1270)べかりしものを、となり。汐の滿來て面白き住吉の岸の方を行きがたきを悔るなり
といへるは岸ノウラミといふことを心得たがへたるなり。岸ノウラミは岸下の曲浦なり。いにしへ住江の海辺は斷崖を成したりし。而してその斷崖漸く浪に侵されてめざましき粘土層を露はしたりしかば渚より仰見て
  白浪の千重にきよするすみの江の岸のはにふににおひてゆかな(卷六【一〇四二頁】)
  馬なめてけふわが見つるすみのえの岸のはにふを萬世に見む(次下)
など歌ひしなり
 
1145 妹がため貝を拾ふとちぬの海にぬれにし袖はほせどかわかず
爲妹貝乎拾等陳奴乃海爾所沾之袖者雖凉常不干
 チヌの海は和泉攝津兩國に亘ると契沖のいへる如し
 
1146 めづらしき人|乎〔左△〕《ト》吾家にすみのえの岸のはにふを見むよしもがも
目頬敷人乎吾家爾住吉之岸乃黄土將見因毛欲得
(1271) 初二は序なれど人ヲスミとかゝれる不審なり。乎《ヲ》は与《ト》の誤にあらざるか。卷八にもおなじ誤とおぼゆる處あり(ノコレル雪乎マガヘツルカモ)○メヅラシキはメデタキなり。卷三(三四九頁)にハル草ノイヤメヅラシキワガオホキミカモ、卷五(九〇二頁)に人毎ニヲリカザシツツアソベドモイヤメヅラシキウメノ花カモとあり○住吉《スミノエ》の岸の黄土生《ハニフ》ははやく卷一(一一〇頁)卷六(一〇四二頁及一一一二頁)に見えたり。ハニは粘土、ハニフは粘土の存ずる處なり
 
1147 暇あらばひろひにゆかむ住吉《スミノエ》の岸によるとふ戀忘貝
暇有者拾爾將往住吉之岸因云戀忘貝
 結句は忘貝といふ貝の名に戀ヲ忘ルといふ事をいひかけたるなり
 
1148 馬なめてけふわが見つるすみのえの岸のはにふをよろづ世にみむ
馬雙而今日吾見鶴住吉之岸之黄土於萬世見
 見飽かぬ餘に萬世もいきながらへてしばしば來り見むと願へるなり○黄土の下の於はヨロヅヨニのニに借れるなり。下にもオクヤマノ於石《イハニ》コケムシ、於君《キミニ》ニルク(1272)サトミシヨリなど書けり
 
1149 すみのえに往云〔左△〕《ユキニシ》道にきのふみしこひ忘貝ことにしありけり
住吉爾往云道爾朔日見戀忘貝事二四有家里
 往云ははやく契沖が往去の誤としてユキニシとよめるに從ふべし○一首の意は
  昨日戀忘貝ヲ見シガヤハリ妻ノ事ノ忘ラレヌヲ思ヘバ戀忘貝トイフハ名バカリナリケリ
といへるにてほぼ古義にいへる如し。略解に『住吉のけしきのわすられぬと也』といへるは契沖の誤解を繼げるなり
 
1150 すみのえの岸に家欲得《イヘモガ》おきにへによする白浪みつつしぬばむ
墨〔左△〕吉之岸爾家欲得奥爾邊爾縁白浪見乍將思
 家欲得は古義にイヘモガとよめるに從ふべし(略解にはイヘモガモとよめり)○シヌバムは賞美セムとなり
 
1151 大伴の三津の濱邊をうちさらし因來《よりこし》浪のゆくへしらずも
(1273)大伴之三津之濱邊乎打曝因來浪之逝方不知毛
 大伴ノを從來枕辭としたれど上田秋成の説に從ひて地名とすべき事上(一二三二頁)にいへる如し○ウチサラシは略解にアラフといふに同じといへり○因來は從來ヨセクル(舊訓、古義)又はヨリクル(略解)とよめり。ヨセとヨリとはいづれにても可なれど來は必コシとよむべし。ヨリ來テカヘリシ浪ノといふ意なり。こなたへ寄來る浪にはユクヘシラズモといふべからざればなり
 
1152 梶の音《ト》ぞほのかにすなる【一云ゆふさればかぢの音すなり】あまをとめおきつ藻苅に舟出すらしも
梶之音曽髣髴爲鳴海未通女奥藻苅爾舟出爲等思母
一云暮去者梶之音爲奈利
 
1153 すみのえの名兒の濱邊に馬立て玉拾ひしく常わすらえず
住吉之名兒濱邊爾馬立而玉拾之久常不所忘
 名兒は今の大阪市の内なり○立の字一本に並とありといふ○玉ヒロヒシクは玉(1274)ヲ拾ウタノガ又は玉ヲ拾ウタ事がと譯すべし。玉ヒロヒシにクの添へるなり。このクの事は卷四(八〇一頁)にくはしくいへり
 
1154 雨は零《フル》かりほはつくるいつのまに吾兒《アゴ》の塩干に玉はひろはむ
雨者零借廬者作何暇爾吾兒之塩干爾玉者將拾
 零を舊訓にフルとよめるを古義にフリと改めたれど古今集秋下に
  秋は來ぬもみぢは宿にふりしきぬ道ふみわけてとふ人はなし
とあるに準じてなほフルとよむべし○吾兒は略解に
  住吉の名児をアゴともとなへしにや。次にも阿胡とよめり
といへり○雨ハ、カリホハといひて更に玉ハといへるはわざとハを重ねたるなり
 
1155 奈呉の海の朝開《アサケ》のなごり今日もかも礒のうら囘《ミ》にみだれてあらむ
奈呉乃海之朝開之奈凝今日毛鴨礒之浦囘爾亂而將有
 朝開は從來アサケとよめり。さて略解古義に『朝潮の引たる餘波也』といへれど朝潮の引きたるなごりをアサケノナゴリとはいふべからず。案ずるに朝開は潮干の誤(1275)字にや。再案ずるに次に朝ノシホヒをアサケノシホと云へるを思へばなほアサケノナゴリにて朝ノ塩干ノナゴリを略してアサケノナゴリと云ひならひしにや○ナゴリは三註共に餘波の意としたれど實はただ殘といふことにてこゝなどは潮の干て魚介海藻の潟に殘れるをいへるなり。くはしくは卷六(一〇八七頁以下)に云へるを見べし
 
1156 すみのえの遠里小野の眞榛以《マハリモチ》すれるころもの盛すぎ去《ヌル》
住吉之遠里小野之眞榛以須禮流衣乃盛過去
 トホザト小野は中世の瓜生野にて今の墨江村なりといふ(大日本地名辭書)。記傳卷二十三(全集第二の一四三八頁)に
  攝津國住吉郡に遠里小野村と云ありて今現にヲリヲノといへば萬葉七又十六に住吉之遠里小野之とある今本の訓は誤にてヲリノヲヌノと六言によむべきなり
といへるはいかが、遠里と書ける文字につきて後にヲリとよむやうになれるならむ(中世ウリフ野といひしはそのヲリ小野を訛まりしにこそ)○舊訓に以をモテ、去(1276)をユクとよめるを古義にモチ、ヌルに改めたり。之に從ふべし○サカリスギヌルは衣の色のあするなり
 
1157 ときつ風ふかまく不知《シラズ》阿胡の海の朝明《アサケ》のしほに玉藻かりてな
時風吹麻久不知阿胡乃海之朝明之塩爾玉藻苅奈
 トキツ風はさし潮に伴なふ風なりといふ(一〇七〇頁參照)○不知を略解古義共にシラニとよめり。さて初二を略解に『汐時の風の吹んもしらねば』と釋し古義に『潮時の風の吹むと云心がかりもなしに』と釋せり。案ずるにこは潮時ノ風ノ吹來ムモ知レズイザ其風ノ吹來ヌ間ニといへるなり。さればシラズとよみて第二句にて切りて心得べし。卷六(一〇七〇頁)にも
  時つ風ふくべくなりぬかしひ潟しほひのうらに玉藻かりてな
といふ歌あり○正宗敦夫いはく。アサケノシホは朝ノシホ干なり。今もいふ辭なりと
 
1158 すみのえのおきつ白浪風ふけば來よする濱をみればきよしも
(1277)住吉之奥津白浪風吹者來依留濱乎見者淨霜
 フケバはキヨスルにかゝれり。一誦して調のわろきはフケバとミレバと重なれる爲なり
1159 すみのえの岸の松が根うちさらし縁《ヨリ・ヨセ》くる浪の音の清羅〔左△〕《サヤケサ》住吉之岸之松根打曝縁來浪之音之清羅
 清羅は舊訓に從ひてサヤケサとよむべし。羅は紗などの誤か(卷十にアヲヤギノイトノ細紗《クハシサ》とあり)○上(一二七二頁)に
  大伴の三津の濱邊をうちさらしよりこし浪のゆくへ知らずも
といふ歌あり
 
1160 難波がた塩干にたちて見わたせば淡路の島にたづわたる見ゆ
難波方塩干丹立而見渡者淡路島爾多豆渡所見
 
   覊旅(ニテ)作
1161 家さかり旅にしあれば秋風のさむきゆふべに雁なきわたる
(1278)離家旅西在者秋風寒暮丹雁喧渡
 タビニシアレバは旅ニアルニなり。卷二(二七六頁)なる春鳥ノサマヨヒヌレバなどと同格なり
 
1162 まとかたの湊のすどり浪|立巴〔左△〕《タテヤ》妻よびたてて邊にちかづくも
圓方之湊之渚鳥浪立巴妻唱立而邊近著毛
 圓方《マトカタ》は伊勢國多氣郡にあり。今の東黒部なり○渚鳥《スドリ》は洲にゐる鳥なり○略解に第三句の巴を也の誤としてナミタテヤとよめり。類聚古集に也とあれば略解の説に依るべし。タテヤはタテバヤなり○ヨビタテテは喚催シテなり
 
1163 あゆちがた塩ひにけらし知多の浦に朝こぐ舟もおきによるみゆ
年魚市方塩干家良思知多乃浦爾朝※[手偏+旁]舟毛奥爾依所見
 古集に『知多浦は年魚市潟に隣れるなるべし』といへれど歌の調によればアユチガタは廣くチタノウラは狹くてアユチ潟のうちにチタノ浦はこもれるに似たり○オキニヨルは沖ノ方ヘトホザカルなり
 
(1279)1164 塩ひれば共〔左△〕潟爾出《ヒガタニイデテ》なくたづのこゑとほざかる礒|囘《ミ》すらしも
塩十〔左△〕者共潟爾出鳴鶴之音遠放礒囘爲等霜
 第二句を略解にトモニカタニイデ、古義にトモニカタニデとよみて古義に『鶴が己が友率ひて共に潟に出てと云なり』といへり。案ずるに共は干の誤ととおぼゆ。さればヒガタニイデテとよむべし○礒囘は舊訓にアサリとよめり。卷三(四五七頁)にいへる如くイソミとよむべし
 
1165 ゆふなぎにあさりするたづ塩みてばおき浪たかみ己妻喚《オノガツマヨブ》
暮名寸爾求食爲鶴塩滿者奥浪高三己妻喚
 結句は舊訓に從ひてオノガツマヨブとよむべし(契沖はオノヅマヲヨブとよみ雅澄はオノヅマヨブモとよめり)
 
1166 いにしへにありけむ人のもとめつつ衣にすりけむ眞野のはり原
古爾有監人之※[不/見]乍衣丹摺牟眞野之榛原
 モトメツツはオノヅカラナラデコトサラニとなり。卷十なるワガ衣スレルニハア(1280)ラズ高松ノ野辺ユキシカバハギノスレルゾとうらうへなり○結句はソノ眞野ノハリ原カ、ココハといへるなり。卷一(二八頁)なるタチテ見ニコシイナミ國原と同格なり○ハリは萩なり。上(一二五三頁)にもイニシヘニアリケム人モワガゴトカ云々といふ歌あり
 
1167 あさりすと礒にわがみしなのりそをいづれの島のあまか將刈《かりけむ》
朝入爲等礒爾吾見之莫告藻乎誰島之泉郎可將刈
 略解にいへる如く女をナノリソにたとへたるにて旅歌には入れがたし○將刈を三註共にカルラムとよみたれど未來の事をいへるなればカリナムとよむべし
 
1168 けふもかもおきつ玉藻は白浪の八重をるがうへにみだれてあらむ
今日毛可母奥津玉藻者白浪之八重折之於丹亂而將有
 契沖は 第四の句は……いくへも浪のたゝめるを云へり
といひ略解には
(1281) ヤヘヲルはいやをりしく意也。浪は物を折かへすさまに見ゆるものなればいへるならん
といひ古義には
  浪の彌重《ヤヘ》に折返すその上にと云なり
といへり。案ずるにヲルは折の意の転じてタタムの意となれるなり。否此歌及古今集なる沖ニヲレ浪などは復己動詞として用ひたるなればタタマルの意とすべし。但他動詞として用ひたる例もあり○アラムはアルラムにおなじ。上(一二七四頁)にもイソノウラミニミダレテアラムとあり
 
1169 近江の海みなと者《ハ》八十《ヤソヂ》いづくにか君が舟はて草むすびけむ
近江之海湖者八千〔左△〕何爾加君之舟泊草結兼
 第二句は舊訓にミナトハヤソヂとよめるを略解に
  周防守康定主(○濱田侯、松平氏、宣長の門人、萬葉八重疊の著あり)の考に者は有の誤にてミナトヤソアリ也とあり。……此説によるべし
といひ古義に
(1282)  千賀眞恆、者〔右△〕字は有の誤歟と云へり。此説はいはれたり
といへれどなほ舊訓に從ふべし○君ガ舟ハテは君ガ、舟ヲ駐メテなり。君ガ舟とつづけるにあらず。こゝのハツは自動詞とはおぼえず○草ムスビケムを略解に
  草を結ぶは旅行道の標なり。いづれの湊に船著ていづくの道をか行らんと旅行人をおもひてよめる也
といへり(古義同説)。案ずるに卷一(二二頁)にイハシロノ岡ノ草根ヲイザムスビテナ、また卷十二に
  妹が門ゆきすぎかねて草むすぶ風ふきとくな又かへりみむ
とあるを思へばいにしへ無事ならむ呪に草を結びしなり(卷六【一一五三頁】參照)。このクサムスブを近世の歌人は草枕の事と心得たるめり。卷五(九五七頁)なるタマホコノ、道ノクマミニ、草タヲリ、シバトリシキテとあるはげに野に臥すさまなれど野に臥すことをクサムスブ〔三字傍点〕といへる例なし
 
1170 ささなみのなみくら山に雲ゐれば雨ぞふるちふかへりこ吾背
佐左浪乃連庫山爾雲居者雨曽零智否反來吾背
(1283) ナミクラ山は近江滋賀郡なる山の名とはしるけれど今の何山にか明ならず○千蔭は
  家にとどまれる妻の歌なるべし
といひ雅澄は
  家にとどまれる妻のおもひやりてよめるなるべし
といへり。二氏はけだし奈良にてよめる歌とせるにか。果して然らば余の思ふ所と同じからず。ササナミノナミクラ山ニ雲ヰレバといへる、その連庫《ナミクラ》山の見やらるゝ處にてよめる調なる上に雨ゾフルチフカエリコワガセといへるも暫時にして家に歸らるゝ程の處にゆきたりとせではかなはず。されば妻も夫に從ひて近江にありしにて妻を旅宿又は船中におきて夫の數時間程の處に行きたりし程によめるなり
 
1171 大御舟はててさもらふ高島の三尾の勝野《カチヌ》のなぎさしおもほゆ
大御舟竟而佐守布高島之三尾勝野之奈伎左思所念
 大御舟は天皇の御舟なり○サモラフは風のしづまるを待つなり。卷六(一〇五四頁) (1284)にも
  風ふけば浪かたたむとさもらひにつたの細江に浦がくりをり
とあり○勝野は今の大溝なり。略解に
  和名抄近江高島郡三尾郷あり。同郡角野といふもあり。按に角野いにしへカド野といひしにや。さらば此勝野はそこなるべし
といへるは非なり○ナギサシオモホユは卷一(一七頁)なるウヂノミヤコノカリホシオモホユの類にてソノ渚ノオモシロカリシ事ガ忘レラレヌとなり。古義に
  此歌は近江國へ行幸ありしほど京にて思ひやりてよめるなるべし
といへるは非なり。從駕の人の後によめるなり○第二句はサモラヒシといふべきを言數に制せられてサモラフといへるなり。此例上にも多し
 
1172 いづくにかふな乘しけむ高島の香取の浦ゆこぎ出來《デクル》船
何處可舟乘爲家牟高島之香取乃浦從己藝出來船
 來を古義にコシとよみ改めたるは中々にわろし。もとの如くクルとよむべし
 
1173 斐太《ヒダ》人の眞木ながすとふにふの河ことは通へど船ぞかよはぬ
(1284)斐太人之眞木流云爾布乃河事者雖通船曽不通
 ヒダ人はこゝにては木工をいへるなり。いにしへ飛騨の國人は木工に巧なりしかば木工の事を打任せてヒダ人といふやうになりしなる事前註に云へる如し○丹生川は吉野山より發し宇智郡に入りて吉野川に注げり○略解に
  これは譬喩歌なるべし。旅の歌にてまのあたり見るさまならば眞木流ストフとはよむべからず
といひ難波江卷一上(百家説林續編下一の五六三頁)に
  此萬葉の歌は相聞の歌にて羇旅の歌にあらず。旅の歌にあらぬよしは橘千蔭の略解にもはやくいへり
といへるは非なり。丹生川に臨みてよめるなれど眞木を流すさまは人言にきゝたるのみにて目のあたり見しにあらねば眞木ナガストフといへるなり○さて川幅はさばかり広からねばあなたの岸と言語は通へど急流なるによりて渡船は通はぬなり。略解に
  其河は眞木流すによりて舟のかよはぬを云々
(1286)といへるはあしく心得たるなり○古義はよく心得ながらなほ譬喩歌とせり。コトハカヨヘドといへるが相聞めきて聞ゆるのみ。譬喩歌にはあらず
 
1174 (あられふり)鹿島の崎を浪たかみすぎてやゆかむこひしきものを
霰零鹿島之崎乎浪高過而夜將行戀敷物乎
 常陸の鹿島なり○スギテは寄ラズニなり。卷六(一一八五頁)なる
  まそかがみみぬめの浦はもも船のすぎてゆくべき濱ならなくに
のスギテにおなじ。但今は浪が高くて船が寄せられぬなり。古義に
  其崎に留り居ること叶はずしてこぎ放れてや行むとなり
といへるは非なり○コヒシキは常の意、即みまほしき事なり。古義に『メデタキモノヲと云むが如し』といへるはスギテヤを誤解せる餘波なり
 
1175 足柄の筥根とびこえゆくたづのともしきみれば日本《ヤマト》しおもほゆ
足柄乃筥根飛超行鶴乃乏見者日本之所念
 トモシキはメヅラシキなり。略解にマレニと譯せるは非なり。卷三(四五七頁)なる 
  こしの海のたゆひの浦を旅にしてみればともしみやまとしぬびつ
(1287)に似たり。旅の空にてめづらしき物を見るにつけても故郷人の偲ばるゝなり。古義に『我もあのごとく京の方へ行たきことぞとうらやましくして云々』と譯せり。トモシをウラヤマシの意と見たりとおぼゆ。ユクタヅヲ見レバトモシミとあらばこそ然はうつさめ○日本は大和の借字なり
 
1176 (夏|麻《ソ》ひく)うながみがたのおきつ洲に鳥はすだけど君は音もせず
夏麻引海上滷乃奥津洲爾鳥者簀竹跡君者音文不爲
 契沖いへらく
  上總にも下總にも海上郡あれども此は上總なり。第十四東歌の中の上總國歌に上句今の歌と全同なるあり。此にて知べし
といへり。間宮永好(犬鶏隨筆上卷五一頁)も上總國海上郡の海濱なりとして
  抑此海濱には洲埼いと多かるをその洲埼を浦より見れば遙に遠く見やらるゝからオキツスとは呼べるなりけり。此海濱はすべて滷のみにてかの澳津洲にもなほ滷ありて種種の貝つもの多かれば鳥も常にいみじく群集へり
といへり。上總の海上郡は今の市原郡のうちなり○スダクは卷十一に多集と書け(1288)る如く集る意なれどこゝは集り鳴く意に用ひたり○君ハオトモセズは君ノ聲ハキコエズとなり。こは海上滷を行く人のよめるにて君とは契沖のいへる如く故郷なる妻を指せるなり。略解に
  旅行君は音信もせぬといふ也
といひ古義に
  旅行し君はすべて音信もせずいかがなりけむおぼつかなしとなり
といひて海上滷なる女のよめりとせるは非なり
 
1177 若狹なる三方の海の濱きよみいゆきかへらひ見れどあかぬかも
若狹在三方之海之濱清美伊往變良比見跡不飽可聞
 イユキカヘラヒのイユキカヘラヒは添辭。卷六(一一八三頁)にも
  しらまなご、清き濱べは、ゆきかへり、みれどもあかず云々
とあり○三方の海は湖水なり。名義の事は伴信友の若狹舊事考(全集卷五の二百五頁)に見えたり
 
1178 印南野はゆきすぎぬらし【一云しかま江はこぎすぎぬらし】(あまづたふ)日笠の浦に波たてり(1289)みゆ
印南野者往過奴良之天傳日笠浦波立見
一云思賀麻江者許藝須疑奴良思
 日笠浦は今の播磨國印南郡大鹽村及曽根町の付近なるべし。推古天皇紀に見えたる赤石(ノ)檜笠(ノ)岡は今の大鹽と曽根との間なる日笠山なり。之を赤石(ノ)檜笠岡といへるは今の印南郡以東はいにしへの明石(ノ)國なればなり○結句の浪立所見はナミタテルミユとはよまでナミタテリ〔右△〕ミユとよむべし(卷三【三六五頁】ミダレイヅミユ參照)。或はナミタチテミユとよむべきかとも思へど下に浪立有〔右△〕所見とも書けり○底本によれば西下の海路にてよめるにて一本に依れば東上の時によめるなり。シカマ江は飾磨川の河口なり
 
1179 家にしてわれはこひむないなみ野の淺茅がうへにてりしつく夜を
家爾之※[氏/一]吾者將戀名印南野乃淺茅之上爾照之月夜乎
 家ニシテは家ニ歸リテ後ニなり。テリシは今を後よりいへるなり(契沖)○此歌は(1290)陸路東上の時のなり
 
1180 ありそこす浪をかしこみ淡路島みずやすぎなむここだ近きを
荒礒超浪乎恐見淡路島不見哉將過幾許近乎
 ミズヤは見ズテヤなり。ココダは俗語のタイサウなり。古義にソコバク間遠ニアラズと譯せるはココダの意を了解せざるなり○上(一二八六頁)なる
 あられふり鹿島の崎を浪たかみすぎてやゆかむこひしきものを
と相似たり
 
1181 朝霞やまずたなびく龍田山船出せむ日は吾《ワガ》こひむかも
朝霞不止輕引龍田山船出將爲日者吾將戀香聞
 ヤマズはツネニなり。第三句以下はコノ龍田山ヲ浪華ヨリ船出セム日ニワガ戀ヒムカとなり
 
1182 あま小船帆かもはれると見るまでに鞆の浦|囘《ミ》に浪たてりみゆ
海人小船帆※[毛三つ]張流登見左右荷鞆之浦囘二浪立有所見
(1291) 浪にはタテリといはでタツといふべきなれば浪立有所見の有は衍字かとも思へど下に
  粟島にこぎわたらむと思へどもあかしのとなみいまだ佐和來《サワゲリ》
 又卷九に
  うちたをり多武の山ぎりしげみかも細川のせに波の※[馬+聚]祁留《サワゲル》
とあり。これも本來サワグとあるべきなり
 
1183 好去而《サキクユキテ》またかへりみむますらをの手にまきもたる鞆の浦|囘《ミ》を
好去而亦還見六大夫乃手二卷持在鞆之浦囘乎
 初句は舊訓にヨクユキテとよめるを略解に『義を以マサキクテと訓べし』といひ古義も之に從へり。案ずるにサキクユキテとよむべし。卷五なる好去好來歌の結尾(九七四頁)にツツミナク佐伎久伊麻志弖ハヤカヘリマセとあればなり。さてサキクユキテは無事ニ往キテなり○三四は鞆の序なり
 
1184 (鳥じもの)海にうきゐておきつ浪さわぐをきけばあまたかなしも
(1292)鳥自物海二浮居而奥津浪※[馬+參]乎聞者數悲哭
 ウミニウキヰテは船ニワガ乘リ居テなり
 
1185 朝なぎに眞梶こぎでて見つつこし三津の松原浪ごしにみゆ
朝菜寸二眞梶※[手偏+旁]出而見乍來之三津乃松原浪越似所見
 マカヂは兩側の艪なり。マは片に對する語なり
 
1186 あさりするあまをとめらが袖とほりぬれにしころもほせどかわかず
朝入爲流海未通女等之袖通沾西衣雖干跡不乾
 上(一二七〇頁)にも
  妹がため貝を拾ふとちぬの海にぬれにし袖はほせどかわかず
といふ歌あり
 
1187 あびきするあまとやみらむ飽浦《アクウラ》の清きありそを見にこしわれを
網引爲海子哉見飽浦清荒礒見來吾
(1293) 飽浦を略解に卷十一にキノ國ノ飽等《アクラ》ノ濱ノとあるによりて四言にアクラノとよみたれどなほアクウラノと五言によむべし。アクウラといひしをつづめてアクラとも云ひしのみ○玉勝間卷九『紀の國の名所ども』といふ條に
  飽等濱は海士《アマ》(ノ)郡|賀田《カタ》(ノ)浦の南の方に田倉崎といふ所ある是なりと里人のいひ傳へたりとぞ
とあり。加太、田倉は共に和泉界に近き地なり○卷三(三六二頁)に
  あらたへの藤江の浦にすすきつるあまとか見らむ旅ゆくわれを
とあると相似たり○上の見の上に將をおとしたるか
 
1188 山こえて遠津の濱の石《イハ》つつじ迄吾〔左△〕來《カヘリクルマデ》ふふみてありまて
山越而遠津之濱之石管自迄吾來含而有待
 第三句を雅澄はイソツツジとよみたれどなほ舊訓の如くイハツツジとよむべし(卷二【二四二頁】參照)○第四句は舊訓にワガキタルマデとよめるを雅澄は吾を返の誤としてカヘリコムマデとよめり。げに次下に見えたる
  足代《アテ》すぎていとかの山のさくら花ちらずあらなむ還來萬代《カヘリクルマデ》(1294)と照し合するにカヘリクルマデとあるべし(さて古義の如くカヘリコム〔二字右△〕マデとよまむも可なれど卷十五にタカシキノウラミノモミヂワレユキテカヘリ久流マデチリコスナユメとあればカヘリクル〔二字右△〕マデとよみて可なり)○遠津の濱は紀伊の地名なるべしといふ○初句はいづくにかけて見べきか。契沖は
  遠津と云ための枕詞歟。又山コエテクルマデと句を隔てゝつづくるか
といひ宣長は遠にかゝれる枕辭とし雅澄は『第四句の上に移して心得べし』といへり。案ずるに今の歌とかの足代スギテといふ歌とは全く同想同格にて一は他を模したりと見ゆ。さてその足代スギテは足代スギテユク絲鹿ノ山ノ云々といふべきを畧して足代スギテイトカノ山ノといへりとおぼゆる理由あり(其歌の處にていふべし)。されば今の山コエテも山コエテユク遠津ノ濱ノ云々といふべきを畧して山コエテトホツノ濱ノとはいへるなり。然るにユクといふ動詞は語格上必要なる語にて常の文辭にては之を畧すべからざること言ふを待たず。ただ枕辭の時にはシラ浪ノヨスル濱といひ大船ノ泊ツル津といひシラ菅ノ生フル眞野といふべきヨスル、ハツル、オフルを畧してシラ浪ノ濱松ガエノ(卷一【五五頁】)オホ船ノ津守ノ占ニ(1295)(卷二【一九五頁】)といひシラスゲノ眞野ノハリ原(卷三【二八一頁】)といへる如く必要なる語を略することあり。さらば山コエテは枕辭と認むべきかといふにもし山コエテを枕辭とせば足代スギテも枕辭とせざるべからず。前に云へる如く二首は全然同格なればなり。然も山コエテを枕辭とせる宣長もおそらくは足代スギテを枕辭とするに憚らむ(足代は地名なり)。されば山コエテは打任せて枕辭とはいふべからず。もし強ひて名稱を附すべくば一種の准枕辭といふべし
 
1189 大海にあらしなふきそ(しながどり)ゐなのみなとに舟はつるまで
大海爾荒莫吹四長鳥居名之湖爾舟泊左右手
 猪名は今は海より遠けれどいにしへは海深く彎入して湊をなしゝなり
 
1190 舟はててかしふりたてて廬利爲《イホリセム》、名子江の濱邊すぎがてぬかも
舟盡可志振立而廬利爲名子江乃濱邊過不勝鳧
 カシは舟を繋ぐ杙なり。今船をつなぐ處をカシといふは語意の轉ぜるなり(和訓栞)。河岸の文字を當つるよりカハギシの中略と思はむは非なり○フリタテテのフリ(1296)は添辭なるべし。但卷二十なる家持の歌には杙を建つる事をカシフルとよめり○廬利爲の三字を略解にイホリセムとよめるを古義には名を上に附けてイホリセナとよみ子江の江を潟の誤としてコガタとよめり。略解の訓に從ふべし。さて名子江を契沖は
  越中國射水郡に名子江はあれども此歌は前後のつづきを見るに名子の海にて津國の名所なるべし
といひ又
  仙覺も攝津と註し好忠もスミ吉ノナゴエノ岡とよめり
といへり○スギガテヌは過ギ敢ヘヌなり
 
1191 (妹が門|出《イデ》)入乃河《イリノガハ》の瀬をはやみ吾馬つまづく家|思《モフ》らしも
妹門出入乃河之瀬速見吾馬爪衝家思良下
 第二句は舊訓にイデイリノカハノとよめるを略解にイを省きてデイリノカハノとよめるはあさまし。さて略解に卷九にイモガ門入出見川ノトコナメニとあるに據りて此歌の出入乃河の誤とせるは從はれず。古義に
(1297)  もし本のまゝならば入野河なるを集中にフル山をヲトメラガ袖フル山とよめる類にて枕詞の連《ツヅキ》によりてかく云るなるべし
といへり。げにイデイリ河といふ河の名ならばことさらに乃を挿みてイデイリノ河ノとは云はじ。されば妹ガ門イデイリをイリノ河にいひかけたるなり。さてイリノ川ならば入野川にてイリヌ川とよむべきを乃の字を借り用ひたるはいかにといふに卷五にハルノ能ニキリタチワタリ。卷十四に信濃ナルスガノアラ能ニ、卷十八に夏ノ能ノサユリヒキウヱテとありて當時はやく野をノともとなへしこと明なれば古義の説の如く誤寫とするには及ばず(卷五【九〇七頁】及【一〇九七頁】參照)。入野は山城國なるべし○結句の思一本に戀とあるは次の歌よりうつれるなるべし。思にても通ぜざるにあらず(現に卷九に家念良武可とあり)。イヘモフラシモは家人ガ我ヲ思フサウナとなり。卷三なる
  しほつ山うちこえゆけばわがのれる馬ぞつまづく家こふらしも
の處(四五五頁)を參照すべし○セヲハヤミは瀬ガ早キニと譯すべし(一〇二六頁參照)。此種のミにサニと譯すべきと、キニと譯すべきとの別あることを知らで悉(1298)くサニと譯せむとするより瀬が早き爲に馬がつまづくと云へるにか家人が思ふ爲に馬がつまづくと云へるにかとまどはるゝなり。古義に
  この渡る川の瀬が急き故に吾乘れる馬のつまづきてなづむにや、いや家人にこひしく思はるれば乘れる馬のつまづくことありといへば家人の吾をこひしく思ふ故なるらし云々と釋けるは適に右の惑に陷れるなり
 
1192 (白栲ににほふ)まつちの山川に吾馬なづむ家こふらしも
白栲爾丹保布信土之山川爾吾馬難家戀良下
 シロタヘニニホフの八字はマツチの枕辭又は序なり。山の名のマツチは眞土に通ひ其眞土は白色を帶びたるものなればかくは云へるなり○ナヅムはユキナヤムなり。前の歌と相似たり
 
1193 せの山にただにむかへる妹の山ことゆるせやもうち橋わたす
勢能山爾直向妹之山事聽屋毛打橋渡
(1299) 宣長いへらく(玉勝間卷十二【全集第四の二七五頁】)
  紀國の伊都《イト》郡橋本駅より四里ばかり西に背山村といふ有て其村の山ぞ即背山なりける。いとしも高からぬ山にて紀の川の北の辺に在て南の方の尾崎は川の岸まで迫れり。村は此山の東面の腹にあり。大道は川岸の彼尾崎のやゝ高き處を村を北に見てこゆる云々
といへり。今和歌山県伊都郡の西端に紀ノ川を挾みて北に背山、南に妹山といふあり。背山は適に宣長のいへるに當れり。妹山も亦果して古歌殊に本集の歌に見えたる妹山とすべきか。げに契沖の勝地吐懷篇上卷に
  紀の川を隔てゝ兄《セ》山は北に、妹山は南にあり
といへり。然るに宣長は
  さて又川の南にも岸まで出たる山有て背山と相對ひたればこれや妹山ならむともいふべけれど其山は背山よりやゝ高くて山のさまも背の山よりをゝしく見えて妹山とはいふべくもあらず。其上河のあなたにて大道ニアラズ越ゆる山にあらざれば妹ノ山セノ山コエテといへるにもかなはざるや(同卷【全集二七六頁】)
(1300)といひ、終に斷案を下して
  とにかくに妹山といへるはただ背の山といふ名につきての詞のあやのみにていはゆる序、枕詞の類にぞありける(同上)
といひ又
  妹山といふは兄山あるにつきてただ設けていへる名にて實に然いふ山あるにはあらじとぞ思ふ(卷九【全集二一三頁】)
といへり。案ずるに卷三(三九一頁)に
  たくひれのかけまくほしき妹の名をこのせの山にかけばいかにあらむ【一云かへばいかにあらむ】
とあるを見れば當時までは妹山といふ山無かりし事明なり。然るに卷四(六七一頁)に
  おくれゐてこひつつあらずば木國の妹背の山にあらましものを
 此卷に
  木ぢにこそ妹山ありといへ云々(一二四〇頁)
(1301)  せの山にただにむかへる妹の山ことゆるせやもうち橋わたす
  妹にこひわがこえゆけばせの山の妹にこひずてあるがともしさ
  人ならば母のまな子ぞあさもよし木の川の邊の妹とせの山
  吾妹子にわがこひゆけばともしくもならびをるかも妹とせの山
 卷十三に
  妹の山せの山こえて云々
などあるを見れば此頃には既に妹山といふ山の出來たりしなり。思ふにセノ山のセノは元來|夫《セ》の意にはあらざりけむを夫《セ》の意としそれに對して或山を妹山と呼びそめしにこそ。さて其山は
  せの山にただにむかへる妹のやまことゆるせやもうち橋わたす
とあるを見れば背(ノ)山と一渓流を隔てたる山とおぼゆ(もし紀(ノ)川の如き大河を隔てたる山ならばウチ橋ワタスとは云はじ)。また木ノ川ノヘノ妹トセノ山といひナラビヲルカモ妹トセノ山といひイモノ山セノ山コエテといへるを見れば背(ノ)山と相並びて紀(ノ)川の北岸にあるなり。或は云はむ。北岸に相並べりとすればセノ山ニタダ(1302)ニムカヘル妹ノ山とあるに合はざるにあらずやと。答へて云はむ。北岸に相並べりとせむに南面より見てはナラビヲルカモ妹トセノ山といふべく兩山の中間〔日が月〕にしてはタダニムカヘルといふべし。又難じて云はむ。現に古今集にはナガレテハ妹背ノ山ノ中ニオツル吉野ノ川ノ云々とありて紀(ノ)川を隔てたる山としたるにあらずやと。答へて云はむこは宣長の
  すべて歌に名所をよめること其處に到りて見たる樣をよめるなどこそ後世のといへども據とすべきはあれ。さらぬ戀の歌などによめるはいにしへのもただ古き歌によめることをとりてあやにしたること多ければ多くは其名所の考の證にはなりがたきわざなるを云々(玉勝間卷九【全集四の二一四頁】)
といへる如く兩山紀(ノ)川の南北に相對せりといふ證とはしがたし。
  因にいふ。宣長が
  古今集なるナガレテハの歌は……ヨシヤと重ねん料に紀の川を、同じ川なればヨシノノ川ともよみなせるものなり(同上)
といへるは所謂妹背の山のあたりに身をおきてよめりとせるにて從はれず。こ(1303)は流レテ紀(ノ)國に到リテハ妹背ノ山ノ中ニオツル此吉野川ノ云々といへるにて身を吉野川のほとりにおきてよめるなり。又吉野ナル妹背ノ山ノなど後世の歌によめるも右の歌を誤解してのわざなり
 さて背山の隣山を妹山といひしは都人の私に名づけしにて其山の本名にあらねば(別に土人の呼びし名あるべし)行はるること久しからずして絶えしにこそ。されば妹山の所在は萬葉の歌について求むべく土人に就いて尋ねむは愚なる事なり○コトユルセヤモは古義に
  夫《セ》のいざあはむと云言を妹のゆるしうけひけばにや
と釋して男ノ言ヲ許スの意としたれど續紀第九詔に
  此事いざせといざなふによりていざせむとことは許して
とあるは言ニハ許シテの意なればこゝも女ガ言葉ニハ許セバニヤといふ意とすべし。即コトユルスといふ動詞と認むべし○ウチハシワタスはワタセリの意なり。即相逢フ設ニ移橋《ウチハシ》を渡シテアリとなり
 
1194 木の國のさひがの浦にいでみればあまのともしび浪間從所見《ナミノマユミユ》
木國之狹日鹿乃浦爾出見者海人之燈火浪間從所見
(1304) サヒガは雜賀なり。結句は古義にナミノマユミユとよめるに從ふべし(舊訓はナミマヨリミユ)
 
1195 麻ごろも著者《ケレバ》なつかし木の國の妹背の山に麻|蒔〔左△〕《カル》わぎも
麻衣著者夏樫木國之妹背之山二麻蒔吾妹
 略解に
  宣長云。ナツカシは俗に云とは異にて、したしくむつまじき意也。吾も麻衣を著てあれば麻まく妹よ、縁ありてむつまじくおもはるゝといふ也。といへり
といひ古義には
  己がさきに妹背山を往しほど其山に麻蒔し妹が目につきてうるはしかりしが今わが麻衣を取著ぬればいとどかの麻蒔居し妹が面影の思ひ出られてなつかしく慕はしと云へるなるべし
(1305)といひて著者《キレバ》をケレバと改訓せり。雅澄の説の如くば却りてキレバとあるべく宣長の説の如くば寧ケレバとあるべし。ケレバはキタレバといふことなればなり(卷十五にコノアガ家流《ケル》イモガコロモノアカヅク見レバとあり又上【一二三五頁】にカタミノ衣ワレ下ニ著有《ケリ》とあり。はやく記傳卷二十八【一六七七頁】にも『著而有《キテアル》を古言に祁流《ケル》と云』といへり)。さて今は著者をケレバとよみ、一首の意は宣長の解釋に從ふべし○麻蒔は麻刈の誤ならむ。麻の實を蒔くは目につくわざにあらねばなり○契沖いはく
  藤原卿といへるは藤原北卿と云へる北の字の落たる歟。大織冠ならば内大臣藤原卿と云べし。藤原卿とのみ云ひては南卿北卿わかれず。南卿は武智麻呂なり。武智麻呂は和歌に不堪なりける歟集中一首もなければ北卿なるべしとは云なり
といへり。北卿は房|前《サキ》なり
 
1196 つともがと乞はばとらせむ貝拾ふ吾をぬらすなおきつ白浪
欲得※[果/衣]登乞者令取貝拾吾乎沾莫奥津白浪
 家人ノツトモガナト乞ハバ取ラセムソノ貝ヲ拾フ吾ヲといふ意なり。古義に
(1306)  己が濱辺に出て貝を拾へば沖つ浪も※[果/衣]《ツト》もがな欲しきとて此貝を取むと打縁來るらむ、もし※[果/衣]ほしくは汝にも取らせむぞ、吾をば沾すことなかれ、沖つ白浪よ、と云るなるべし
といへるは從はれず。トラセム貝とつづきたるを古義にはトラセムにて切りて心得たるなり。貝の下にヲといふ辭なき爲に一層きゝまどはるゝなり
 
1197 手取之《テニトルガ》からに忘るとあまのいひし戀忘貝言にしありけり
手取之柄二忘跡礒人之曰師戀忘貝言二師有來
 初句を舊訓にテニトリシとよめるを古義にテニトルガと改めたり。之に從ふべし。テニトルガカラニは手ニ取ルママニとなり。卷六(一一四九頁)に
  ふるさとは遠くもあらずひとへ山越我可良爾《コユルガカラニ》おもひぞわがせし
 又卷十四にニハニタチ惠麻須我可良尓とあり。例とすべし○四五は上(一二七二頁)なる
  すみのえにゆきにし道にきのふみし戀わすれ貝ことにしありけり
と全く相同じ
 
(1307)1198 あさりすと礒にすむたづあけゆけば濱風さむみおの妻よぶも
求食爲跡礒二住鶴曉去者濱風寒彌自妻喚毛
 上(一二七九頁)なる
  ゆふなぎにあさりするたづ塩みてばおき浪たかみおのが妻よぶ
と相似たり
 
1199 藻刈舟おきこぎくらし妹が島かたみの浦にたづかけるみゆ
藻刈舟奥※[手偏+旁]來良之妹之島形見之浦爾鶴翔所見
 古義に
  藻を刈舟の沖の方より漕來らし。其舟に驚きたりと見えて云々
と釋ける如し○カタミは今の加太なりといふ。妹ガ島形見ノ浦と二つの地名を並べ擧げたる相互の關係は如何。妹ガ島ト形見ノ浦トといふ意か。妹ガ島ナル形見ノ浦といふ意か。參考のため先哲の説を見むと思ふに代匠記、略解、考、古義共に更に言へる所なし。案ずるに妹ガ島と形見ノ浦と相近き二つの地の、名の上にても縁なきに(1308)あらねば(妹が形見といふやうに聞えて)妹ガシマをカタミノ浦の枕のやうにつかへるにて鶴の翔るは形見の浦なり。さればイモガシマの五言は准枕辭と認むべし。古今集賀部なるかの
  しほの山さしでの礒になく千鳥君が御代をばやちよとぞなく
といふも今と同例なり
 
1200 吾舟はおきゆなさかり向舟《ムカヒブネ》かたまちがてり浦ゆこぎあはむ
吾舟者從奥莫離向舟片待香光從浦※[手偏+旁]將會
 オキユのユは例のニにかよふユなり(卷三【三六七頁及四一七頁】卷五【八四五頁】參照)。略解に沖ヨリナコギ行ソと譯せるは非なり○向舟を略解には舊訓に從ひてムカヘブネとよみ古義にはムカヒブネとよみて『『迎舟なり』と釋けり。古義の説に從ふべきか。卷十八に
  はまべよりわがうちゆかばうみべよりむかへもこぬかあまのつりぶね
とあり○カタマツは專待のうらにて傍待の意なり。卷十にも
  梅のはなさきちる苑にわれゆかむ君が使をかたまちがてり
とあり。古義に『『偏に待よしなり』といへるは余の説と正反對なるが下にガテリとい(1309)ふ辭を添へたるを見ても偏待の意にあらざるを知るべし○ウラユコギアハムは浦ニ沿ウテ漕行合ハムとなり
 
1201 大海之みなぞことよみたつ浪の將依《ヨラム》ともへる礒のさやけさ
大海之水底豐三立浪之將依思有礒礒之清左
 上三句は序なり。將依を古義にヨセムとよみ改めて吾舟ヲコギ依セムト思ヘル礒ノ云々と譯せり。下に船ヲ寄セムといへるにてはあれどフネヲといはでヨセムとはいふべからず。さればなひ舊訓の如くヨラムとよむべし
 
1202 ありそゆもまして思へや玉の浦|離小島《ハナレヲジマ》のいめにしみゆる
自荒礒毛益而思哉玉之浦離小島夢石見
 アリソユモは荒礒ヨリモとなり。オモヘヤは思ヘバヤにてそのヤとミユルと照應せるなり○玉ノ浦は玉勝間卷九(全集第四の二一六頁)に
  那智山の下なる粉白浦といふところより十町ばかり西南にあり。離小島といへるは玉の浦の南の海中にちりぢりに岩あればそれをいへるなるべし
(1310)といへり○第四句は舊訓にハナレコジマノとよめるを古義にサカルコジマノとよめれど一名詞とせでは調よろしからねばハナレヲジマノとよむべし○歌の意は略解に
  荒礒よりもまさりて離小島をめで思へばにや夢に見ゆるといふ也
といへる如し
 
1203 礒の上につま木をりたき汝《ナ》がためとわがかづきこしおきつ白玉
礒上爾爪木折燒爲汝等吾潜來之奥津白玉
 こゝの白玉は鰒玉なり。カヅキコシは潜キ取來シとなり。いにしへは人に物を贈るとてそを獲るにいたづきしやうにいふ習なりしなり。今の鰒玉も作者自身に取りしにあらざる事勿論なり○今も海人が水に潜《カヅ》くには礒に火を焚きて海より上りては身を煖むといふ
 
1204 濱きよみ礒にわがをれば見△者《ミムヒトハ》あまとか見らむ釣もせなくに
濱清美礒爾吾居者見者白水郎可將見釣不爲爾
(1311) 第三句は略解にミムヒトハとよみて『人の字脱たるか』といへり。上(一二九二頁)にもアビキスルアマトヤ見ラムといふ似たる歌あり
 
1205 おきつ梶|漸々志夫乎〔五字左△〕《シマシクナコギ》みまくほりわがする里のかくらくをしも
奥津梶漸々志夫乎欲見吾爲里乃隱久惜毛
 オキツカジは卷二(二〇三頁)にオキツカイについて云へる如く沖漕ぐ船の艪なり。古義に『船の左旁に貫たる楫なり』といへるは非なり○第二句に誤字あること明なり。宣長は志夫乎を尓水手の誤としてヤヤヤヤニコゲとよめり(詔詞解卷四【全集第五の三三三頁】)古義には莫水手の誤としてヤウヤウナコギとよみ(ヤヤヤヤとヤウヤウとの事は卷五【九九五頁】にいへり)さて『こゝのヤウヤウはカクラクの上にめぐらして意得べし。ナコギといふへ直に續ては聞べからず』といへり。このヤウヤウを下へ移して見べしといふ説はあまりに稚し。案ずるに漸々志夫乎は暫奈水手の誤としてシマシクナコギとよむべし。即シバラク漕グナとなり○三四はワガ見マクホリスル里ノといへるなり
 
1206 おきつ波へつ藻まきもち依來《よりく》とも【一云おきつ浪邊波しくしく縁來とも】君にまされる玉|將縁《ヨセメ》(1312)やも
奥津波部都藻纏持依來十方君爾益有玉將縁八方
    一云奥津浪邊波布敷縁來登母
 一云のシクシクは頻ニなり。第三句の依來また縁來はヨリクとよみ結句の將縁はヨセメとよむべし
 
1207 粟島にこぎ渡らむと思へども赤石の門浪《トナミ》いまださわげり
粟島爾許枳將渡等思鞆赤石門浪未佐和來
 粟島は卷三(四五〇頁)にも卷四(六三八頁)にも見えたり。記傳卷四(全集第一の二二一頁)に
  淡路の西北に在島と見えたり
といへり。卷四なる丹比眞人笠麻呂下筑紫國時作歌(六三六頁)に
  ただむかふ、淡路をすぎ、粟島を、そがひにみつつ云々
とあるを見ればげに宣長の云へる如くなるべし。されど今それに當る島なし。はや(1313)く海底に陷りしにや。今淡路の岩屋浦なる小島をアハシマといふ由なれど本集によめるはそれにはあらじ。雅澄の萬葉集名所考に『讃岐の海中にあり』といへるは地理にかなはず○アカシノ門は卷三にもアカシ大門ニ入ラム日ヤ(三六四頁)アカシノトヨリヤマト島ミユ(三六五頁)とあり○以上十四首(キノ國ノサヒガノ浦ニ以下)は元暦校本等に依れば次なるイモニコヒ以下十五首(タマツ嶋ミレドモアカズまで)と顛倒せる如し
 
1208 妹にこひわがこえゆけばせの山の妹にこひずてあるがともしさ
妹爾戀余越去者勢能山之妹爾不戀而有之乏左
 契沖が『妹ニコヒズテとは妹山に指向ひてあればなり。落句のトモシサは羨シサなり』といへる如し
 
1209 人ならば母のまな子ぞ(あさもよし)きの川のへの妹とせの山
人在者母之最愛子曽麻毛吉木川邊之妹與背之山
 妹トセノ山といへるは妹山背山を併稱せるなり。かゝる時には妹ト背トといひて(1314)背の下にもトを附するが本則なれど集中には下のトを省ける例ある事既にいへる如し(八九七頁參照)○さて今は二山を夫婦にたとへずして兄弟にたとへたるなり。マナゴは本に最愛子と書けり。古義に『かくあるは言の意を得たる書樣なり。略解ににマナゴは眞子なりと云るは大ろかなり』といへり(卷六【千百三十七頁】參照)
 
1210 吾妹子にわがこひゆけばともしくもならびをるかも妹とせの山
吾妹子爾吾戀行者乏雲並居鴨妹與勢能山
 コヒユクはコヒツツ行クなり。こゝのトモシも羨マシなり
 
1211 妹があたり今ぞわがゆく目のみだに吾に見《ミエ》こそことどはずとも
妹當今曽吾行目耳谷吾耳見乞事不問侶
 略解に『メノミダニは目ニノミのニノミを省けり』といへるは非なり。目は主格なり。さてそのメは古義に『ミエの縮りたる言にてこゝは妹ガ容顏ナリトモと云なり』といへり。見を舊訓にミエとよめるを古義にミセに改めたり。舊訓に從ふべし○略解に
  按に此歌はただ恋の歌にて心明らけきを妹とあるを妹山の事と見誤りてこゝ(1315) に載せたりと見ゆ
といへる如し
 
1212 足代《アテ》すぎて絲鹿の山の櫻花|不散在南還來萬代《チラズアラナムカヘリクルマデ》
足代過而絲鹿乃山之櫻花不散在南還來萬代
 足代を舊訓にアシロとよめるを宣長は
  持統紀子三年八月云々紀伊國阿提〔二字傍点〕郡云々また續紀大宝三年の所に阿提、同紀天平三年の所に阿※[氏/一]〔二字傍点〕と見ゆ。是今の有田郡也。されば此足代はアテとよむべし。糸鹿は在田郡に今も有
といへり。代をテとよめる一例は新撰姓氏録大和國皇別の處に
  井代《イデ》(ノ)臣……居2大和國添上郡井手〔右△〕村1因負2姓井代〔右△〕臣1
とある是なり。今の歌にマデを萬代と書けるも代をテに借れるなり。然るに考には代は太か打を誤る歟。又代にてもダイのイを略きてダとよむべし
といひ黒川春村(碩鼠漫筆二八頁)は
  足代は次の歌に安太部去とある安太に同じく紀伊國阿提郡の郷名|英多《アタ》とある(1316)地なるべし。足代、阿提(續紀)阿※[氏/一](同)安諦(後紀)等をアテとおぼえたる人もあめれどさては安太部とあるに協はず。かつ此郡名は英多の郷名より出たらむ事|決《ウツナ》く又在田と改名せられたるもアタなればこそ打あひては聞こゆれ。アテにては頗不合なるべし。提、※[氏/一]、諦等をタの假字とせしは太伊の呉音の省呼なり(○採要)
といへり。案ずるに日本後紀に
  大同元年秋七月戊戌……改紀伊國安諦郡爲在田郡1以3詞渉2天皇諱1也
とあり。こは安諦《アテ》といふ郡名が平城天皇の御諱|安殿《アテ》とおなじきが故に改められしなり。
 春村は此御諱をもアタとよみて
  安殿をアタとは讀がたきに似たれど上件に辨ふる如く郡名のアタなるに合せてしかよまざれば理り協はず。按ふに殿の古音は多奴なるべければ省呼して多の假字ともしつべし
といへれど疑問中なる郡名に合せて御諱の訓を改定すべからざるは言を待たず
(1317) 又弘仁七年の太政官符(日本書紀通釋第五の三八五〇頁に引けり)に高野山の四至の事を云へる處に當《アテ》河又阿手河とありといふ(このアテ河は今の有田川の上流なり)。されば足代はなほアテとよむべし。或は云はむ。次下の歌に安太部去とある安太とこゝの足代と同一の地なるべきを一をアタとよみ一をアテとよまむこといかがと。答へて云はむ。安太もアテとよむべし。其事は其歌の處にて云ひてむ。或は又云はむ。和名抄紀伊國在田郡の郷名に英多《アタ》あり。やがて此歌の足代、次下の歌なる安太なりとおぼゆ。足代、安太をアテとよむべくば英多もアテとよむべきか。否さはよまれじと。答へて云はむ。英多はアタとよむべし。但もとはアテなりしを大同元年の郡名のアテをアリタと改められし時郷名のアテをアタと改められしならむ。天皇の御諱に通へりとて郡名を改めながら郷名をさしおくべきにあらねばなり。さて御諱のアテに通へるを忌まば郡名も郷名とひとしくアタと改めて然るべきをアリタとしも改めしは如何。此につきてもすこし考へし所あれどなほ考へ定めていふべし○この歌のアテは郡の名にあらで郷の名なり。古義に『さらずは絲鹿山も在田郡の内なればアテスギテとは云べきに非じ』といへり○イトカ山は玉勝間卷九(全(1318)集第四の二一二頁)に
  糸鹿山は熊野の道の坂にてこれも在田郡なり。北の麓に糸我の里又糸我王子社といふも有とぞ
といへり○第四句は古義にチラズアラナムとよめるに從ふべし(舊訓及略解にはモを添へてチラズモアラナムとよめり)○結句は古義にカヘリコムマデとよめれど卷十五に
  たかしきのうらみのもみぢわれゆきてかへり久流までちりこすなゆめ
といへる例あれば舊訓のまゝにカヘリクルマデとよむべし○初二の續おぼつかなし。古義に『一五二三四と句をついでて見べし』といへるは從はれず。下に安太《アテ》ヘユクヲステノ山ノマキノ葉モとあると參照するに足代スギテユクイトカノ山といふべきユクを略せるなり。さてそのユクは常の文辭にては略すべきにあらねばアテスギテは一種の枕辭(准枕辭)と認むべき事上(一二九四頁)なる山コエテトホ津ノ濱ノイハツツジといふ歌の處にいへる如し
 
1213 名草山ことにしありけり吾戀《ワガコヒノ》ちへの一重もなぐさめなくに
(1319)名草山事西在來吾戀千重一重名草目名國
 名草山は紀伊國名草郡(今|海部《アマ》郡と合せて海草郡といふ)にあり。紀三井寺の上方なる山なりといふ○卷六(一〇七三頁)なる
  名のみを、名兒山とおひて、吾戀の、千重の一重も、なぐさめなくに
と辭句相似たり○第三句は舊訓にワガコヒノとよめるを古義にワガコフルに改めたり。卷四と卷十三とに吾戀流〔右△〕チヘノヒトヘモとあり卷六には吾戀之〔右△〕チヘノヒトヘモとあればいづれにてもあるべし○ナグサメナクニは慰メヌカナ、慰メヌコトヨなどいふ意なり。第二句に返るにあらず
 
1214 安太《アテ》ヘゆくをすての山の眞木の葉も久しく見ねばこけむしにけり
安太部去小爲手乃山之眞木葉毛久不見者蘿生爾家里
 安太は郷名にて和名抄なる英多なり。その英多は大同以前にはアテといひけむこと上にいへる如し。さるをこゝに安太と書けるは誤寫にやと云ふに集中に太をテに借れる例あればもとのまゝにてアテともよむべし。その例とは卷十、七夕歌のうちなるワレハ干〔左△〕可太奴《アリカテヌ》アハム日マツニまた卷十二正述2心緒1のうちなる五十殿寸(1320)太《イトノキテ》ウスキ眉根ヲといふ歌どもなり。字音辨證下卷(二〇頁)に五十殿寸太といふ歌を掲げて
  略解に太は天の字の誤なるべしとあれど各本同じければ誤に非ず。太をテと呼は同転の藝をゲ、世をセ、蔽をヘ、曳をエの假字としたる事古書に多くありて此転の呉音古くは第四音に呼びしとみゆれば今此例とすべし
といへり○ヲステは玉勝間卷九(全集第四の二一五頁)に
  小爲手の山は在田郡山保田(ノ)庄に推手村といふあり。これか。其村は伊都郡の堺にて山の奥なり
とあり。今安諦村(こは新村名なるべし)の大字に押手といふ處ありとぞ○眞木ノ葉といへるはただ眞木なり。葉に意なし。なほサカキを榊葉といふが如し(神垣ノミムロノ山ノサカキ葉ハ神ノミマヘニ茂リ合ヒニケリなど)。さて眞木は檜なり。コケはただの苔なり。略解に日かげのかづらなりといへるはわろし。ヒカゲは樹上に生ふるものにあらず○此歌は伊都郡より在田郡に越ゆる山路にてよめるにて作者は久しき前に此處を通りし事あるなり
 
(1321)1215 玉津島よく見ていませ(あをによし)平城《ナラ》なる人の待問はばいかに
玉津島能見而伊座青丹吉平城有人之待問者如何
 四五は若ヨク見テイマサズバ平城人ノ待問ハムニイカガ答ヘ給ハムとなり(契沖)
 
1216 しほみたばいかにせむとか方便〔左△〕海之神我手〔左△〕渡《ムロノウミノカミガテワタル》あまをとめども
塩滿者如何將爲跡香方便海之神我手渡海部未通女等
 普通の海は潮滿ちても渡るに悩ましきことなし。潮の滿ちて渡るに悩ましきは迫門《セト》なり。されば第四句の神我手は迫門の事ならざるべからず。こゝに契沖は
  第十六に黄染乃屋形神之門渡とよめり。第十三にサカトを過テとサカトを坂手とかけり(○こはなほサカテとよむべし)。然れば今も神ガトワタルと讀て門渡と意得べきか
といひ雅澄は
  按に手は戸(ノ)字の誤なり。さて戸は借字にて神ガ門《ト》なり。十六の末、怕(シキ)物(ノ)歌にオキツ國シラセル君ガ染屋形黄染ノ屋形|神之門《カミガト》渡とよめる神之門に同じ
(1322)といへり。此等の説に從ひてカミガトとよむべし。但手の字は戸の誤にあらで等などの誤なるべし。さてそのカミガトを古義に
  凡て神とは何にまれいとかしこきものを云名にてこゝは海上の波荒くて甚|恐《カシコ》き所と云るなり
といへれどカム門《ト》などいはで神ガ門《ト》といへるを見れば普通名詞にはあらで地名なり。即神ノ御坂(卷九及卷二十)神ノ渡(卷十三)などの類なり○カミガ門の地名なる上は方便海も亦海の名ならざるべからず。從來之をワタツミノとよみて契沖は
  方便海とかけること其意を得ず。もし諸大龍王等は諸佛菩薩の善權方便なるも多ければ其意にてかけるにや
といへれど(雅澄は契沖の別説を引けり)前述の如く海の名として別に訓を求めざるべからず。案ずるに方便海は方丈海の誤字なるべし。方丈はまた丈室といひて維摩居士の石室の方一丈なりしに基づける熟語にて一般に室の意に用ひたり。されば方丈海はムロノウミノとよむくムロノウミノは牟婁ノ海にて牟婁は紀伊國の郡名なり
(1323)  或は云はむ。孟子に食前方丈侍妾數百人とある方丈は室の義にあらず。室の義なる方丈は釋氏要覧に唐の顯慶年中王玄策といふ者勅にによりて西域に往きし時維摩居士が示疾の遺址を訪ひし事を記して疊v石爲v之、玄策窮以2手版1縦横量v之得2十笏1、故號2方丈1といへり。唐の顯慶年中は皇國の齊明天皇の御時に當れり。奈良時代の文士果してはやく右の故事を知りたりしかおぼつかなしと。答へて云はむ。釋氏要覧の説の正否は余の知る所にあらねど奈良時代の文士は既に維摩方丈の故事を知れりき。たとへば本集卷五なる山上憶良悲2傷死妻1作詩の序(八四〇頁)に所以維摩大士在2乎方丈1有v懷2染疾之患1とあり又同人の悲2歎俗道假合即離v易去難1v留詩の序(九八四頁)に所以維摩大士疾2玉体于方丈1とあり又經國集(群書類從卷百二十五)なる淡海(ノ)三船の聽2維摩經1詩に演化方丈室、談玄不二門とあり。されば本集の撰者がムロに方丈を宛てたるは訝るに足らず
 
1217 玉津島見てしよけくも吾は無しみやこにゆきてこひまくもへば
玉津島見之善雲吾無京往而戀幕思者
 結句の恋幕を略解にコハマクとよめるはわろし。ヨケクモはヨキ事モなり。代匠記(1324)以下にいへる如くあまりの面白さに後日思の種とならむことを恐れたる趣なり
 
1218 黒牛の海くれなゐにほふももしきの大宮人しあさりすらしも
黒牛乃海紅丹穗經百礒城乃大宮人四朝入爲良霜
 玉勝間卷九(全集第四の二一一頁)に
  黒牛潟は今は黒江といひて若山の方より熊野に物する大路にて黒江、干潟、名高とつぎつぎに相つらなりて三里《ミサト》いづれも町づくりて物うる家しげく立つづきにぎはゝしき里共なり。皆入海のほとりにて氣しきよし。黒江などは山にもかたかけたるところなり。此わたり昔は名草郡なりしを今は海士郡といへり。此紀の國の或書に此黒江の礒べに昔いと大きにて色黒き石の牛の形したるがありて潮みてばかくれ干ぬれば顯れけるをいつの頃よりかやうやうに土に埋れゆきて見えずなりぬるを一とせ里人どもあまたたちて掘顯はさむとせしかど大きにして遂に得掘出さで止みぬるを今はそのあたりまで里つづきて彼石は民の家の地の下にある由記したり
とあり。即今の黒江の舊名なり。略解に『今黒瀬といふ處なり』といへるは誤れり○ク(1325)レナヰニホフは赤ク見エルとなり。古義に『女房等の裝束の海面に映るを云り』といへる如し○大宮人は無論宮女たちなり
 
1219 若の浦に白浪たちておきつ風さむきゆふべはやまとしおもほゆ
若浦爾白浪立而奥風寒暮者山跡之所念
 四五は卷一(一〇六頁)なる葦邊ユクカモノハガヒニ霜フリテといふ歌の四五と同じ
 
1220 妹がため玉を拾ふときの國のゆらのみ埼に此日くらしつ
爲妹玉乎拾跡木國之湯等乃三埼二此日鞍四通
 ユラノミサキは日高郡なる由良なり
 
1221 わが舟の梶はな引きそやまとよりこひこし心いまだあかなくに
吾舟乃梶者莫引自山跡戀來之心未飽九二
 カヂハナヒキソを略解に
  ※[楫+戈]をあらゝかにつかふをカヂ引ヲリと集中に多くよめるに同じ
といひ古義に
(1326)  梶をとりて船をこぐは引撓むるやうなれば引と云り。※[楫+戈]引折などよめるに同じといへり。
案ずるにカヂヒクは今艪ヲ押スといふに同じ。カヂは今の艪にて押しては引くものなればいにしへはヒクといひ今はオスといふなり。かのカヂヒキヲルは強くかぢを押すことにてただヒクといふとは異なり(卷二【三一七頁】參照)。さて今は船ヲヤラデシバシ停メヨといへるなり
 
1222 玉津島みれどもあかずいかにしてつつみ持《モチ》ゆかむ見ぬ人のため
玉津島雖見不飽何爲※[果/衣]持將去不見人之爲
 第四句の持は古義に從ひてモチとよむべし
 
1223 (わたの底)おきこぐ舟を邊によせむ風もふかぬか波|不立而《タテズシテ》
綿之底奥己具舟乎於邊將因風毛吹額波不立而
 邊ニ寄セム風とつづけて心得べし。フカヌカは吹ケカシなり。結句は古義にタテズシテとよめるに從ふべし(舊訓はタタズシテ)
 
1224 大葉山霞たなびきさよふけてわが船はてむとまり知らずも
(1327)大葉山霞蒙狹夜深而吾船將泊不知文
  カスミといへるは夜霧なり。大葉山の所在考へがたし
 
1225 さよふけて夜〔左△〕中《トナカ》の方におほほしくよびしふな人はてにけむかも
狹夜深而夜中乃方爾欝之苦呼之舟人泊兼鴨
 オホホシクは陰氣になり○夜中を宣長は度中の誤字とせり。トナカは古事記高津宮(ノ)段にユラノトノ、トナカノ、イクリニ云々とありて傳卷三十七(全集第四の二二二三頁)に
  トナカノは門中之なり。凡て水門《ミナト》、島門《シマト》、迫門《セト》などの門《ト》は船の出入る口にてそこの海を云なり。されば門中《トナカ》とはそこの海上を云なり
といへり。こゝにまた一説あり。即守部(山彦冊子卷一の四十一丁)は其門人書上勝智といふものゝ説を助けて近江の地名とせり。勝智の説に『高島の東方にまさしく夜中といふ地ありときけり』といへり。案ずるに卷九に高島作歌二首と題して
  高島の阿渡河波はさわげども吾は家もふやどりかなしみ
  たびなれば三更刺而てる月の高島山にかくらくをしも
(1328)とあり。その三更刺而を舊訓にヨナカヲサシテとよめり。サシテといへるを思へば古義にいへる如く地名のやうに聞ゆ。さらば守部雅澄の説に從ひてヨナカは近江の地名とすべきか。返りて思ふに勝智は『高島の東方〔二字傍点〕にまさしく夜中と云地ありときけり』といへれど今近江にさる地名ある事を聞かず。げに温故録といふ書(大日本地名辭書に引けり)に『夜中は高島郡なり』とあれどそは本集卷九の歌によりていへりとおぼゆれば證とはしがたし。其上三更ヲサシテといへる、もし地名とせば作者は高島山より東方にあるにてヨナカは高島山より西方〔二字傍点〕にありとせざるべからず。山より西にある地は山より東にある人に見ゆまじきにその見えざる地を擧げてヨナカヲサシテテル月ノとはいふべきにあらず。又地名殊に普く人の知らざる地名を三更など物遠き借字を以て書くべきにあらず。更に思ふに卷九なる三更刺而の刺は誤字にてもあるべし。とまれかくまれヨナカを地名とする説は守部雅澄の擧げたる證のみにては成立せず。さればしばらく宣長の度中の誤字とせる説に從ふべし。但トナカは門中なりといふ説について一言せざるべからず。古書に用ひたるトといふ語には海峡又は渡津の意なると航路の意なると二つある如し。而して(1329)トナカノのトは迫門河門などのトにはあらでアマノ原トワタル光(卷六【一〇九五頁】)アマノ川トワタル船ノ(古今集雜上)などのトに齊しかるべし
 
1226 神前《ミワノサキ》ありそもみえず浪たちぬいづくゆ行かむよきぢはなしに
神前荒石毛不所見浪立奴何處將行與奇道者無荷
 初句は舊訓にミワノサキとよめるを古義にはカミノサキとよめり。卷三(三七六頁)クルシクモフリクル雨カの處にていひし如くなほミワノサキとよむべし○四五はヨケ道ハ無クテセムスベモナキニイヅコヲカトホリ行カムといへるなり
 
1227 礒にたちおきべを見ればめかり舟あまこぎづらし鴨〔左△〕《タヅ》かけるみゆ
礒立奥邊乎見者海藻苅舟海人※[手偏+旁]出良之鴨翔所見
 鴨とかけるは鶴の誤にあらざるか。上にも
  藻かり舟おきこぎくらし妹が島かたみの浦に鶴かけるみゆ
とあり。又卷四(七〇二頁)なる小松ガシタニタチナゲキ鶴《ツル》を流布本に鴨と書けり
 
1228 風《カザ》早の三穗の浦|廻《ミ》をこぐ舟のふな人|動《トヨム》浪たつらしも
(1330)風早之三穗乃浦廻乎榜舟之船人動浪立良下
 卷三(五三六頁)にもカザハヤノ三穗ノ浦廻ノシラツツジとよめり。紀伊の地名なり○卷十四に
  かつしかのままのうら未《ミ》をこぐふねのふなびと佐和久なみたつらしも
とあれば第四句の動はサワグとよむべきに似たれど動は集中に多くはトヨムとよめる上に同一の歌の集中二箇處に出でたるは必しも語々相同じからざればここはトヨムとよむべし(舊訓以下皆サワグとよめり)
 
1229 わが舟は明且〔□で圍む〕石の潮《ミナト》にこぎはてむおきへなさかりさよふけにけり
吾舟者明且石之潮爾※[手偏+旁]泊牟奥方莫放狹夜深去來
 明石の間の且の字元暦校本には無し。衍字と認むべし○潮は湖に作れる本あり。さてその湖の字は集中にミナトに當てたり。卷三(三八二頁)に
  わが船はひらの湖《ミナト》にこぎはてむおきへなさかりさよふけにけり
とあり。今の歌とただ地名の異なるのみ(上にもヰナノ湖《ミナト》ニフネハツルマデとあり)。さて湖の字を舊訓にハマとよめるも、宣長が浦の字の誤とせるも共に非なり。アカ(1331)シノミナトニとよむべし。アカシノミナトは即播磨國風土記に見えたる林(ノ)潮《ミナト》にていにしへの明石川の河口ならむ
 
1230 (ちはやぶる)金のみ埼をすぎぬとも吾者《ワレハ》わすれじしかのすめ神
千磐破金之三埼乎過鞆吾者不忘牡鹿之須賣神
 鐘(ノ)岬は筑前國|宗像《ムナガタ》郡の地名なり。歌の趣によれば海路の難處と見ゆ。シカは同國糟屋郡なる志賀なり。シカノスメ神は所謂志加(ノ)海神《ワタツミ》(ノ)社にて海上を守り給ふ神なり(記傳卷六【三五〇頁】を參照すべし)○一首の意はタトヒ難處ハ過グトモ神ノ御恩ハ忘レジとなり。いまだ鐘岬を過ぎぬ程の歌なり。もし過ぎての後の歌とせば第三句はスギヌレドとあらざるべからず。さてかく云へるは畢竟志賀の神に海路の安全を祈る心なり。古義に第四句の吾者をアヲバと改訓せるは歌の意を誤解せるなり
 
1231 あまぎらひひかたふくらし(水ぐきの)崗のみなとに波たちわたる
天霧相日方吹羅之水茎之崗水門爾波立渡
 アマギラヒは空の曇る事。ヒカタは袖中抄に巽風なりといひ、考に
(1332)  土佐の俗、日中の南風を日方といふといへり
といひ古義に
  今土左人は六月の頃日中に南風の吹を日方吹と云り
といへり○水グキノはヲカの枕辭なり(玉勝間卷一【全集第四の六頁】)○岡ノミナトは今の筑前國|遠賀《ヲカ》郡なる遠賀川の河口に當るべし。但今は地形かはりて堪v容2大船1といふべき湊はなしとぞ
 
1232 大海の波はかしこし然れども神乎齊禮〔左△〕而《カミヲイノリテ》ふなでせばいかに
大海之波者畏然有十方神乎齊禮而船出爲者如何
 卷九に
  わたつみのいづれの神乎齊祈者歟ゆくさも來〔右△〕《ク》さもふねのはやけむ
といふ歌あり。今の歌の齊禮は齊祈の誤にあらざるか。さて略解には共にイハフとよみ(即こゝをカミヲイハヒテ、卷九なるをカミヲイハハバカとよみ)古義にはこゝをカミヲイハヒテとよみ卷九なるをカミヲイノラバカとよめり。案ずるにこゝも卷九も同訓たるべし。さてイハフとイノルといづれかかなふといふに勸請スルと(1333)いふにはあらで祈念スルといふ意とおぼゆればこゝはカミヲイノリテ、卷九なるはカミヲイノラバカとよむべし。辭の例は卷六(一〇三三頁)に天地ノ神乎ゾイノルカシコカレドモ、卷十三にアメツチノ神乎イノリテワガコフル君ニ必アハザラメヤモ、同卷にアメツチノ神乎イノレドワレハモヒマス、卷二十にアメツチノカミ乎伊乃里弖サツヤヌキツクシノシマヲサシテイクワレハなどあり○一首の意は古義に『云々して船出したらば如何にあらむと楫取などに問かくるよしなり』といへる如し
 
1233 をとめらがをる機の上を眞櫛|用《モチ》かかげたく島|波間從所見《ナミノマユミユ》
未通女等之織機上乎眞櫛用掻上拷島波間從所見
 カカゲまでは序なり。即カカゲタクをタク島にいひかけたるなり。タクはカカグと同意なり(卷二【一七一頁】參照)。略解にタグルの約言と云へるは非なり○結句は舊訓にナミマヨリミユとよめるを古義にナミノマヨリミユに改めたり。上(一三〇三頁)にもアマノトモシビ浪間從所見とあり○タク島は略解古義に出雲國島根郡多久なるべしといへれど出雲の多久は島にあらず。案ずるにこのタク島は肥前國平戸島の北(1334)方なる度《タク》島なるべし
 
1234 しほ早み礒|囘《ミ》にをればあさりする海人とやみらむたびゆくわれを
塩早三礒囘荷居者入潮爲海人鳥屋見濫多比由久和禮乎
 シホハヤミは潮流ノ早キニヨリテ舟行ヲ見合セテとなり○上(一二九二頁及一三一〇頁)に似たる歌あり
 
1235 浪高しいかにかぢとり(水とりの)うきねやすべきなほやこぐべき
浪高之奈何梶取水鳥之浮宿也應爲猶哉可※[手偏+旁]
 二三に同音をかさねたる、調よろし
 
1236 夢耳《イメノミニ》つぎて所見小〔左△〕《ミユレバ》、竹島の礒こす波のしくしくおもほゆ
夢耳繼而所見小竹島之越礒波之敷布所念
 初句は舊訓の如くイメニノミとよむべきに似たれど卷十四に伊米能未爾モトナミエツツと假字書にしたる例あれば略解古義の如くイメノミニとよむべし〇二三は舊訓に小を第三句に附けてミユレバササジマノとよめるを宣長は小を八の(1335)誤としてミユレバタカシマノとよみ、雅澄は卷九に
  曉の夢に所見乍《ミエツツ》梶島のいそこす浪のしきてしおもほゆ
とあるを證として小を乍の誤としてミエツツタカシマノとよめり。宣長の説に從ふべし。タカシマは近江の高島なり(卷九なるはミエツツといはでは反復の意あらはれず。今はツギテとあればツツといふを待たで反復の意はあらはれたり)〇三四はシクシクの序なり。シクシクは頻ニなり。オモホユは思出サルなり○此歌は旅先より妻におくれるなり。一首の主格は汝なり。即汝ガ度々夢ニ見エルカラ頻ニ思出サレルとなり
 
1237 しづけくもきしには波は縁家〔左△〕留香《ヨセクルカ》このいへとほしききつつをれば
靜母岸者波者縁家留香此屋通聞乍居者
 略解に浪のよする音の、家のうちまで聞ゆるをよめりといへる如し。卷三(三四八頁)
  大宮のうちまできこゆあびきすとあごととのふるあまのよび聲
とある類なり○第三句は略解にヨリケルカとよみ古義にヨセケルカとよめり。ヨ(1336)リとヨセとはいづれにても可なれどケルカはクルカとあるべきなり。家は來の誤ならむ
 
1238 たか島の阿戸白〔左△〕波《アドカハナミ》は動《トヨメ》ども吾は家もふいほりかなしみ
竹島乃阿戸白波者動友吾家思五百入※[金+施の旁]染
 卷九に
  高島のあど河波は※[馬+聚]《サワゲ》ども吾は家もふやどりかなしみ
とあり。略解に『白は河の草書より誤れる歟』といへり。第二句はアド川ノ波ハといへるなり○第三句は舊訓にトヨメドモとよめるを略解古義にサワゲドモと改めたるは卷九によれるなれどヤドリとイホリと結句のかはれるを見れば第三句はた必しも同じきを要せず。集中に動は多くトヨムとよめればこゝもトヨメドモとよむべし。三四の間にソノ音ニモマギレズといふことを挿みて聞くべし。カナシミはカナシサニなり○卷二(一八六頁)に
  ささが葉はみやまもさやに亂《サヤゲ・サワゲ》どもわれは妹もふわかれ來ぬれば
とあると似たり
 
(1337)1239 大海のいそもとゆすりたつ浪のよらむともへる濱のさやけく
大海之礒本由須理立波之將依念有濱之淨奚久
 上(一三〇九頁)にも
  大海のみなぞことよみたつ浪のよらむともへる礒のさやけさ
とあり。上三句は序なり。サヤケクはサヤケサとおなじくてサヤケクアル事ヨといふ意なり(卷六【一〇九五頁】參照)
 
1240 (珠くしげ)みもろと山をゆきしかば面白くしていにしへおもほゆ
珠匣見諸戸山矣行之鹿齒面白四手古昔所念
 ミモロト山は山城國字治郡にあり。即三室戸山なり○ユキシカバはユキシニといはむにひとし。卷三(三九〇頁)なる
  燒津へにわがゆきしかば駿河なる阿倍の市路にあひし子らはも
 卷八なる
  かすみたつ野のへの方にゆきしかば鶯なきつ春になるらし
(1338) 此外にも同例あり○イニシヘオモホユは古義に『此山につきたる故事などあるを思ひてよめるならむ』といへり
 
1241 (ぬばたまの)くろ髪山を朝こえて山下露にぬれにけるかも
黒玉之玄髪山乎朝越而山下露爾沾來鴨
 代匠記に『玄髪山下野なり』といへるを略解古義に『こゝのついで東國にあらざるべし』といへり。備中國阿賀郡にも黒髪山あり。是にや
 
1242 (足引の)山ゆきくらし宿からば妹たちまちて宿かさむかも
足引之山行暮宿借者妹立待而宿將借鴨
 妹といへるは若く美しき女といふばかりの意なり。心にゑがきし空想をそのまゝにうたへるなり。略解に『此妹はくぐつなどいふ類昔も有しか』といへるは空想といふものを知らざる人の言なり
 
1243 みわたせばちかき里|廻《ミ》をたもとほり今ぞ吾來《ワガコシ》禮〔左△〕巾《ヒレ》ふりし野に
視渡者近里廻乎田本欲今衣吾來禮巾振之野爾
(1339) 舊訓に禮を第四句につけて今ゾワガクレヒレフリシ野ニとよめるを略解に
  吾コシとかクルとかなくては詞もつづかず。ヒレを巾一字のみ書る例もなし
といひて禮を領の誤として下へ附けて吾來をワガコシとよめり〇一首の意は略解に
  故郷へ歸るにみわたしは近けれど廻りこし故やうやく今ぞ別れし野まで來りしと也
といへり。古義の説も之に同じ。案ずるにヒレフリシは別離の時にはあらで即今の事ならむ。即旅より歸るとてまづ從者を走らせて家人に知らせしによりて妻は郊外の野まで立出でて領巾振り招くに早く其處へ行かむと思へど道の囘りたれば心いられしつゝ今適に其處に到り著きぬる趣なるべし○サトミは郭なり。古義にサトノアタリと譯せるは非なり。ヲはナルヲ、タモトホリはマハリテなり
 
1244 をとめらがはなりの髪をゆふの山雲なたなびき家のあたりみむ
未通女等之放髪乎木綿山雲莫蒙家當將見
 初二は序○ユフノ山は卷十に
(1340)  思出る時はすべなみ豐國の木綿山雪のけぬべくおもほゆ
とあり。豐後國速見郡なる由布嶽の事なり
 
1245 しかのあまの釣船之綱不△堪《ツリブネノツナタヘガテニ》こころにもひていでてきにけり
四可能白水郎乃釣船之綱不堪情念而出而來家里
 舊訓に綱までを第二句としてツリブネノツナタヘズシテとよめるを略解には綱を第三句に屬してツリスルフネノツナタヘズとよめり。古義には不堪の間に勝の字を補ひてツリブネノツナタヘガテニとよみて上二句をタヘにかゝれる序とせり。しばらく古義に從ふべし○さて同書に『此歌は相聞の歌なるを誤てこゝに載しなるべし』といへり
 
1246 しかのあまの塩やく煙風をいたみたちはのぼらず山にたなびく
之加乃白水郎之燒塩煙風乎疾立者不上山爾輕引
    右件歌者古集中出
 卷三(四四七頁)に
(1341)  繩の浦にしほやくけぶりゆふさればゆきすぎかねて山にたなびく
といふ歌あり○左註の古集は古歌集の誤かと代匠記にいへり
 
1247 おほなむちすくな御神のつくらししいもせの山《ヤマヲ》みらくしよしも
大穴道少御神作妹勢能山見吉
 古義に第四句の山の下にハをよみそへたり。卷六(一一〇三頁)にナラノ明日香乎〔右△〕ミラクシヨシモまた卷八にオトノミニキキシ吾妹乎〔右△〕ミラクシヨシモとあれば契沖千蔭の如く山ヲとよむべし○穴の下に六の字などを落したるか
 
1248 吾妹子《ワギモコト》みつつしぬばむおきつ藻の花さきたらば我につげこそ
吾妹子見偲奥藻花開在我普與
 契沖、吾妹子にトをよみ添へたり。略解古義共に之に從へる中に千蔭は其花ヲダニ妹ト思ヒテシノバムの意とし雅澄は妹ト共ニ見ツツ賞セムの意とせり。案ずるに覊旅の歌なれば妹ト共ニ見ツツ賞セムの意とすべきにあらず。卷二十に
  あしがらのやへ山こえていましなばたれをか君とみつつしぬばむ
(1342)といふ歌あり。此例によれば今は沖ツ藻ノ花ヲ妹ト見テ妹ヲシノバムといへるなり
1249 君がためうきぬの池の菱|採《トル・ツム》と我染袖《ワガシメゴロモ》ぬれにけるかも
君爲浮沾〔左△〕池菱採我染袖沾在哉
 ウキヌノ池は八雲御抄に石見とあり。げに石見出雲に跨れる三瓶《サンベ》山に浮沼《ウキヌ》(ノ)池といふがありて三瓶川の水源なり○採を舊訓にトルとよめるを古義にツムに改めたり。いづれにてもあるべし○第四句は舊訓にワガソメシソデとよめるを古義に袖を衣の誤としてアガシメゴロモとよめり。染メタル袖といふべく染メシ袖とはいふまじき處なれはまづ雅澄の説に從ふべし。シメゴロモは古事記八千矛神の御歌にソメキガシルニ、シメゴロモヲ云々とあり○卷十六に
  豐國の企玖《キク》の池なる菱のうれを採とや妹が御袖ぬれけむ
といふ歌あり○浮の下の沾は沼を誤れるなり
 
1250 妹がため菅の實|採《トリ・ツミ》にゆくわれを山路惑《ヤマヂニマドヒ》この日くらしつ
(1343)妹爲菅實採行吾山路惑此日暮
     右四首柿本朝臣人麿之歌集出
 採はトリともツミともよむべし(古義にもこれはトリとよめり)○第三句は舊訓にユクワレヲとよめるに從ひて行ク我ナルヲの意とすべし(古義に之を斥けてユキシアレとよめるは却りてわろし)○第四句は古義に從ひてヤマヂニマドヒとよむべし(舊訓はヤマヂマドヒテ)
 
   間答
1251 佐保河になくなるちどり何しかも川原をしぬびいや河のぼる
佐保河爾鳴成智鳥何師鴨川原乎思努比益河上
 千鳥に問ひかけたるなり。シヌブは賞美する事。河ノボルは河ヲノボルを一語としていへるなり
 
1252 人こそはおほにも言〔左△〕目《モハメ》わがここだしぬぶ川原をしめゆふなゆめ
人社者意保爾毛言目我幾許師奴布川原乎標結勿謹
(1344)     右二首詠v鳥
 言目は念目の誤か。然らばモハメとよむべし。オホニオモフはナホザリニ思フなり。ココダは大ヘンニなり。川原ヲのヲはナルヲなり。シメユフは我物と領じて他を入れぬをいふ○これは千鳥の答に擬せるなり
 
1253 ささなみのしが津のあまは吾なしにかづきはなせそ浪たたずとも
神樂浪之思我津乃白水郎者吾無二潜者莫爲浪雖不立
 卷二(三一三頁)にササナミノシガツノ子ラガとあり。滋賀津は今の大津の北方に當れりといふ。タトヒ波立タズヨキ日和ナリトモ我見ル時ナラズバ水ニ潜リ入ルナといへるにて海人のかづきを見ておも白く思ふ餘にそを我物と領ぜむと思ふ心なり。今も幼兒にはしばしば見る心理状態なり
 
1254 大船に梶しも有奈牟《アリナム》君なしにかづきせめやも波たたずとも
大船爾梶之母有奈牟君無爾潜爲八方波雖不起
     右二首詠2白水郎1
(1345) 三註ともに舊訓の如くアラナムとよめり。さて略解には
  今君がおはする時にかづきして見せ奉らむものを舟かぢもがなといふ意也
といひ古義には
  いかで大船に楫もがなあれかし、さらば沖中に出てよき貝玉をかづき出來て心だらひにみせ奉らむものを、大船に楫なければこそ云々
といへり。潜をして見するに大船の梶は入用ならず。又略解古義にいへる如くにては初二は贈歌と因縁なし。案ずるに有奈牟はアリナムとよむべく、さて大船ニ梶シモアリナムは海人の常に用ふる誓辭ならむ
 
   臨時
1255 月草にころもぞ染流《ソムル》君がため綵色衣《マダラノコロモ》すらむともひて
月草爾衣曾染流君之爲綵色衣將摺跡念而
 臨時は今のヲリニフレテなり○綵色衣は略解にマダラノコロモとよめり。下にマダラノコロモ著ホシキカ島ノハリ原時ニアラネドモとあるを見ればマダラノ衣はさまざまの色に染めたる衣にはあらで處々染めたる衣なり○染流を略解古義(1346)にソメルとよみて『我衣ゾ色ニソミタルとなり』といへるは非なり。染流はソムルとよむべく第二句の衣も亦人の衣にて君ガ爲ニ斑ニ衣ヲスラムト思ヒテ月草ニゾ衣ヲ染ムルといへるなり。スルもソムルも同事なり
 
1256 (春霞)ゐの上《ヘ》ゆただに道はあれど君にあはむとたもとほり來も
春霞井上從直爾道者雖有君爾將相登他囘來毛
 三註共に(詔詞解卷六にも)井上を地名としたるは非なり。ヰはヰ中、田ヰなどのヰにて俗にいふタンボなり。タンボヲ貫キテ行ケバ道ハ近ケレド君ニ逢ハム爲マハリ道ヲスルといへるなり
 
1257 道のへの草深《クサフカ》ゆりの花ゑみに咲之柄《ヱミシガカラ》に妻といふべしや
道邊之草深由利乃花咲爾咲之柄二妻常可云也
 初二は花ヱミニの序なり。草深ユリは雜草中にさける百合なり。略解にクサフケ〔右△〕ユリとよめるはわろし○花ヱミは花の如くゑむをいふ。略解に『花のさくを人の笑ふになぞらへてハナヱミといへり』といへるは本末顛倒せり○第四句は略解古義共にヱマシシカラニとよめれどヱミシガカラニとよむべし(卷四【七二五頁】天皇思2酒人女(1347)王1御製歌なる咲之柄爾はいづれにてもあるべし)○一首の意は我ヲ見テ打ヱミキトイフノミニテ我ニ心ヲ許シツト認ムベケムヤといへるなり
 
1258 默然《モダ》あらじとことのなぐさにいふことを聞知れらくは少可者〔三字左△〕有來《カラクゾアリケル》
默然不有跡事之名種爾云言乎聞知良久波少可者有來
 黙然はナホともよむべし。モダアラジトは黙ツテ居ルマイト思ウテとなり○コトノナグサは俗にいふ世辭なり(七四七頁參照)古義に『事のなぐさめにと云意なり』といへるは從はれず○キキシレラクハは先方ガ言ノナグサト聞知リタル事ハとなり○結句は古義に『或人の考に苛曽有來の誤にてカラクゾアリケルなるべし』といへるに從ふべし。苛を小可の二字に、曽を者に誤れるなり。卷十一にも類似の誤あり。カラクはツラクなり
 
1259 佐伯〔左△〕《サツキ》山うの花|以之〔左△〕《モチテ》かなしきが手をし取りてば花はちるとも
佐伯山于花以之哀我子〔左△〕鴛取而者花散輌
 佐伯山は八雲抄に摂津とせり。略解には
(1348)  伯は附の字の草より誤りてサツキ山ならんか。サツキ山は地名に非ず
といへり。げに佐附山の誤字にてただ五月の山といふことならむ○カナシキガはカハユキ女ノとなり。下に
  廣瀬川袖つくばかり淺きをや心ふかめてわがおもへらむ
とある淺キヲヤも心淺キ人ヲヤといへるにて今と相似たり○手ヲトルは女を扶くるなり。テバはタラバなり。花ハチルトモの下にヨシといふ辭を加へて聞くべし○以之は舊訓にモタシとよめるを略解古義にモチシに改めたり。案ずるに手ヲシ取リテバ花ハチルトモといへるを見れば卯花は作者の持てるにて相手の女の持てるにあらず。さればモチシとよみてカナシキ(女)に續くべからず。之は弖の誤字にてそのモチテは持ナガラの意ならむ○子は手の誤とすべし
 
1260 不時《トキナラヌ》まだらのころもきほしきか衣服〔二字左△〕《シマノ》はり原時にあらねども
不時班〔左△〕衣服欲香衣服針原時二不有鞆
 初句は舊訓の如くトキナラヌとよむべし。結句と呼應せるなり。略解古義にトキジクニとよみ古義に『トキナラズとよみてもよし』といへるは從はれず。もしトキジク(1349)とよまむとならばトキジクノとよむべし○キホシは著マホシなり。下にも
  つるばみのきぬきる人は事なしといひし時よりきほしくおもほゆ
 又卷十四にキミガミケシシアヤニ伎保思モとあり○弟四句は元暦校本に島針原とあり。類聚古集にはただ針原とありてシマノハリハラと點ぜり。衣服針原とあるは誤なるべし。袖中抄に此歌を引けるにも島ノ針原とあり。島は大和國高市郡の地名なり。卷二(二三八頁)にタチバナノ島ノ宮とあるも、下に橘ノ島とあるも同處なり。推古天皇紀に
  大臣(○蘇我馬子)……家2於飛鳥河之傍1、乃庭中開2小池1、仍興2小島於池中1、故時人曰2島大臣1
とあり。島といふ名はこれより起れるなり。大名を橘といへるは其地に橘樹多かりしによれるなり○ハリ原は萩原なり〇一首の意はマダ萩ノ花ノサク頃ナラネド萩ノ花モテ摺リタル衣ガ著タシとなり○班は斑の誤なり
 
1261 山守の里へかよひし山道ぞしげくなりける忘れけらしも
山守之里邊通山道曾茂成來忘來下
(1350) 第三句は山道ノ草木ゾ、結句は我ヲ忘レケラシモにて山守は男をたとへたるなり
と略解古義にいへり。余の案は次の歌の下に云はむ
 
1262 (あしひきの)山つばきさく八岑《ヤツヲ》こえ鹿《シシ》まつ君がいはひづまかも
足病之山海石榴開八岑越鹿待君之伊波此嬬可聞
 ヤツヲはあまたの岡なり。イハヒヅマは大切にする妻なり。いにしへは猪をも鹿をも共にシシといひき○宣長はシシマツまでを序として『狩人の鹿をうかがひねらひて待如くに大切にするいはひ妻といふ意也』といへれど決して序歌の體にあらず。もし宣長の説の如くならばシシマツ如クイハフ妻カモなどあらざるべからず。案ずるに君ガイハヒヅマカモとあるを見れば夫の作にもあらず妻の作にもあらで第三者の作なり。よりて更に思ふに前の歌と此歌とは二首相聯れる歌にて山中に住みし男の里に住みし女に通ひけむ故事を聞きてよめるにて山道ニ草木ノ茂レルヲ見レバカノ里ヘ通來シ山守ハ女ヲ忘レテ通來ズヤナリシといひ後の歌はソノ女ハ八丘《ヤツヲ》コエツツ鹿ヲ伺ヒ待チシ人ノ大切ニセシ妻ニコソといへるなり。人といふべきを君といへるは卷三(五一八頁)にも例あり
 
(1351)1263 あかときと夜烏なけどこの山上《ミネ》のこぬれの於《ウヘ》はいまだしづけし
曉跡夜烏雖鳴此山上之木末之於者未靜之
 夜明のさまにていとめでたし。山上は舊訓にヲカとあり。幽齋本にはミネとよめりといふ。契沖千蔭はミネとよめるに從ひ雅澄はヲカとよめるに從へり。文字によればミネとよまむ方穩なり。但いづれにしても高山の趣にあらず。代匠記及古義に遊仙窟の可憎病鵲夜半驚v人の文を引けるは用なし。夜半のさまにあらねばなり
 
1264 西の市にただ獨いでて眼不並《メナラバズ》買師《カヒテシ》絹の商自〔左△〕許里鴨〔左△〕《アキニコリツル》
西市爾但獨出而眼不並買師絹之商自許里鴨
 奈良の都には東の市西の市とてありしなり。東(ノ)市は卷三(四一〇頁)に見えたり○眼不並は舊訓にメナラバズとよめり。語例は古今集戀五に
  花がたみめならぶ人のあまたあれば忘られぬらむ數ならぬ身は
とあり。略解に『古今集に花ガタミメナラブ人といへるうらうへにて見くらぶるもののなき也』といへるは非なり。メナラバズは自動詞なれば見クラブルモノノナキ(1352)とは譯すべからず。さる意とせむには古義の如くメナラベ〔右△〕ズとよまざるべからず。否メはミエの約なれば(キエを約してケといひハヘを約して綜《ヘ》といひ蹴《クエ》を約してケといひ似《ノリ》を約してニといふが如し)メナラブ(ミエナラブ)とはいふべくメナラブル(ミエナラブル)とはいふべからず。案ずるにメナラブは顏を並ぶる事なり。さればメナラバズは人ト伴ハズといふ事なり。もし之を見くらぶるものゝ無き事とせば第二句のタダヒトリイデテといふ事は徒となるべし○買師は從來カヘリシとよめれどカヒテシとよむべし○商自許里は從來アキジコリとよめり。さて略解に『シコルはシミコルにて物に執する意なるべし』といひ古義に『商のしそこなひを云なるべし』といひ稿本片廂卷九に『商人の醜賣なりといへる也。俗に云買かぶりにて賣人のおしかぶせと云たぐひ也』といへり。いづれもげにとおぼえず。商自許里鴨は商耳〔右△〕許里鶴〔右△〕の誤にてアキニコリツルとよむべきにあらざるか。アキは賣買なり。卷十六なる商變領爲跡之〔左△〕御法《アキガハリシレトフミノリ》アラバコソの商におなじ。コリツルは懲リツルなり。鶴を鴨と誤れる例は上(一三二九頁)にも見えたり
 
1265 ことしゆく新島守が麻ごろも肩のまよひは許〔□で圍む〕誰取見《タレカトリミム》
(1353)今年去新島守之麻衣肩乃間亂者許誰取見
 新島守を舊訓にニヒサキモリとよみ三註共に之に從へり。案ずるに防人は島のみを守るものにあらねば島守とは書くべからず。其上卷四(七〇四頁)に島守と書きてシマモリとよめる例あり。されば今もニヒシマモリとよむべし、但島守は防人のうちとおぼゆ○マヨヒは布帛のいためるをいふ。トリミルは世話する事にてこゝにては繕ふ事なり。許は衍字なり。前の歌なる商自許里鴨の許のうつり入れるならむ
 
1266 大舟を荒海《アルミ》にこぎいで八船|多氣△《タケド》わが見し子らがまみはしるしも
大舟乎荒海爾※[手偏+旁]出八船多氣吾見之兒等之目見者知之母
 卷十五に大船ヲ安流美ニイダシとあれば荒海はアルミとよむべし〇八船タケは土左日記(二月五日の條)に
  ゆくりなく風ふきてたけどもたけどもしりへしぞきにしぞきてほとほとしくうちはめつべし
とあるタケドモと同語なり。さて宣長は
  ヤフネタケは危き所にていろいろとはたらきて舟をこぐをいひて色々と心を(1354)つくして女を逢見たるをたとへたるなり
といへれどげにとはおぼえず○マミは俗にいふ目モトなり○案ずるに第三句に云々スレドといふ事あらでは四五と打合はず。されば八船タケの下に杼の字などのおちたるなるべし。さてヤは船にかゝれるにはあらでフネタクといふ辭にかゝれるなり(かのヤクモタツのヤも雲タツにかゝり、卷十一なるヤウラザシのヤもウラザシにかゝれるにて今と同例なり)。さればヤフネタクはコギスサムといふばかりの意なり〇此歌は前の歌と共に防人を詠ぜるにて否此歌は防人に代りて懷を述べたるにて大船ヲ荒海ニ漕出デテ漕ギスサメド、ナホ女ノ顏ガ面影ニ立チテイチジルク見ユといへるなり
 
   就v所發v思 (旋頭歌)
1267 (ももしきの)大宮人のふみし跡所、おきつ浪來よらざりせばうせざらましを
百師木乃大宮人之蹈跡所奥浪來不依有勢婆不失有麻思乎
(1355)     右十七△古歌集出
 代匠記に『十七首なるべきを首の字脱たり』といへり○略解に『近江の宮をうつされし後志賀(ノ)辛崎などのさまをよめるなるべし』といへる如し。卷一なるササナミノシガノ辛崎サキクアレド、ササナミノシガノ大ワダヨドムトモなどと同趣の歌なり。然も彼歌どもにもまさりてめでたし
 
1268 (兒らが手を)まきむく山は常なれどすぎにし人に往卷〔左△〕目《ユキアハメ》やも
兒等手乎卷向山者常在常過往人爾往卷目八方
 ツネナレドは始終變ラザレドとなり。人は妻をさせり。結句を從來ユキマカメヤモとよみてそのマクを略解には求の意とし古義には交の意としたれど求にても交にても人ヲといふべく人ニとはいふべからず。されば卷は相などの誤にてユキアハメヤモなるを卷向山の卷の字のうつりてこゝに入れるならむ
 
1269 卷向の山邊とよみてゆく水のみなわのごとし世の人われは
卷向之山邊響而往水之三名沫如世人吾等者
(1356)    右二首柿本朝臣人麿歌集出
 略解に『本(○上三句)は序也』といへれど序にはあらず
 
   寄v物發v思
1270 (こもりくの)泊瀕の山にてる月|者〔左△〕《ノ》みちかけ爲烏《シテゾ》人の常なき
隱口乃泊瀕之山丹照月者盈※[呉の口が日]〔左△〕爲烏人之常無
     右一首古歌集出
 烏は焉の俗體なり。さて爲烏を舊訓にシテゾ、略解にシテヲ、古義にシケリ、訓義辨證(下卷八一頁)にスルモとよめり。烏はげに集中にゾとよむべきも(ソノ山ノ水ノタギチ烏《ゾ》など)ヲとよむべきも(秋風サムクフキナム烏《ヲ》など)モとよむべきも(七日ノヨヒハワレモカナシ烏《モ》など)あれどこゝは舊訓の如くシテゾとよむべく第三句の者は誤字にてテル月ノならむ。上三句は序なり。即テル月ノ如ク盈缺シテといへるなり○※[呉の口が日]は※[日+缺の旁]の誤か
 
   行路
(1357)1271 遠くありて雲居にみゆる妹が家《ヘ》にはやく至らむ歩め黒駒
遠有而雲居爾所見妹家爾早將至歩黒駒
     右一首柿本朝臣人麿之歌集出
 卷十四に重出せるに伊毛我敝爾とあれば家はエの如くよむべし
 
   旋頭歌
1272 (たちのしりさやに)いり野に葛引吾味、眞袖|以〔左△〕《ヌヒ》きせてむとかも夏|草苅〔二字左△〕母《クズヒクモ》
※[金+刃]後鞘納野邇葛引吾味眞袖以著點等鴨夏草苅母
 タチノシリサヤニは二句に跨れる枕辭なり○イリ野は冠辭考に
  山城國乙訓郡入野神社と有に同じ所にてかの入野ノススキとよめるもこゝ成べし
といへり。上(一二九六頁)に妹ガ門出入乃河ノ瀬ヲハヤミとある入乃河も同處なるべし。略解に
  草は葛の字の誤也。古訓クズとせり。宣長云。刈は引の誤也
(1358)といへり○眞袖以キセテムトカモを略解に
  我に織て著せんとてか眞手もて夏葛引といふ也。左右の手を眞手といひ眞手を眞袖といへり
といひ古義には己ガ夫ニ令著テムトテカ兩袖モテ引ラムと譯せり。卷九に
  小垣内の、麻を引干し、妹なねが、つくりきせけむ、白たへの、紐の緒とかず云々
とあると合せて思ふに眞袖以は衣ニ縫ヒなどいふ意ならざるべからず。以は作などの誤にてマソデヌヒとよむにあらざるか
 
1273 すみのえの波豆麻君〔三字左△〕之《ハリスリツケシ》馬乘〔左△〕衣《マダラノコロモ》、雜豆臘漢女《サヒヅラフアヤメ》を座《マセ》てぬへる衣ぞ
住吉波豆麻君之馬乘衣雜豆臘漢女乎座而縫衣叙
 宣長は二三句の波豆麻君之を波里摩著之の誤、乘を垂の誤としてハリスリツケシマダラノコロモとよめり。上(一三四五頁及一三四八房)にも
  月草にころもぞそむる君がためまだらのころもすらむともひて
  時ならぬまだらのころもきほしきか島のはり原時にあらねども
とあり○雜豆臘は舊訓三註共にサニヅラフとよめれど關|政方《マサミチ》の傭字例(十七丁)に
(1359)  雜は音サフなればサハ、サヒ(〇伊雜《イサハ》、雜賀《サヒガ》)など轉用したる例あれどサニとは轉用すべからず。さればこゝはサニヅラフとはよまでサヒヅラフとよむべし。ラフはルの延言なればサヒヅルヤ辛碓ニツキなどの同例なり(○採要)
といへるに從ひてサヒヅラフとよむべし○第五句は舊訓にヲトメヲスヱテとよめり。契沖は之に從ひて
  毛詩にも漢之有女と云ひて美女ある處なれば彼處に准じて書なり
といひ宣長(記傳卷二十七【一六〇五頁】)はアヤメヲマセテとよみて
  此をヲトメヲスヱテと訓るは誤なり。漢女は漢《アヤノ》國の女を云
といひ又(記傳卷三十三【二〇一二頁】)に
  漢を阿夜と云こといかなる由にか詳《サダカ》ならず。漢織《アヤハトリ》を書紀に穴織《アナハトリ》ともあるを以て思へば阿那と云と同く此も阿夜と歎く聲より出たるか
といひ又(略解)
  マセテは俗言に招待シテといふ意也。此訓、紀に例多し
といへり。漢をアヤといふは漢人が綾を織るに巧なりしより云ふならむ○一首の(1360)意は宣長の説に
  此歌は摺衣を人に贈るとて戲てよみやれるにて彼紀に見えたる漢國の衣縫女を呼て縫はせたる衣ぞといひやる也
といへり
 
1274 すみのえの出見《イデミ》の濱の柴莫苅曾尼《シバナカリソネ》、をとめ等《ラガ》赤裳下閏將往見《アカモノスソノヌレテユカムミム》
住吉出見濱柴莫苅曾尼未通女等赤裳下閏將往見
 出見濱は舊訓にイデミノハマとよめり。略解に
  イヅミノハマ歟。又イデミルハマノ歟。考べし
といひ古義に
  地名なるべし。イデミノハマかイヅミノハマかなほ尋ぬべし
といへり。無論地名なり。地名辭書に
  イデミノハマ 住吉森の西に松林あり。細江淺澤の水、林際を過ぎ海に入る。此邊を出見濱と呼ぶ。住吉の獻火高燈籠あり
といへり。田子ノ浦ユウチイデテ見レバといへる如く打出でて見る意にてイデミ(1361)ノ濱とは名づけしにこそ○第三句について略解に
  濱に柴刈こといかが。尼をネの假字に用たる例なし。是は字のいたく誤れるなるべし。試にいはば三の句莫乘曾苅尼とや有けん。ナノリソカリニと訓べし
といひ、古義には濱菜苅者尼《ハマナカラサネ》の誤とし又集中に尼をネの假字に用ひたる例を擧げたり。字音辨證(上卷十八頁)にも尼をネの假字に用ひたる例を擧げて
  尼はネの假字にてネは呉轉音なり
といへり。案ずるに舊訓のまゝにシバナカリソネとよむべく、次の句との間にソノ柴ニタチカクレテといふことを補ひてきくべし○第四句以下を契沖はヲトメラガアカモノスソノヌレテユカムミムとよめり。千蔭は將往見は往將見の誤にてユクミムなるべしといひ雅澄はヲトメドモアカモスソヒヂユカマクモミムとよめり。契沖の訓に從ふべし
 
1275 すみのえの小田を苅らす子やつこかもなき、奴あれど妹が御爲に私〔左△〕田苅《アキノタヲカル》
住吉小田苅爲子賤鴨無奴雖在妹御爲私田苅
(1362) カルをカラスといふは多少の敬意を帶びたり。されば此格は自には云はず(高貴なる御方は別なり。たとへば古事記なる八千矛神の御歌)○ヤツコは下男なり○私田は略解に
  或説に私は秋の誤ならんといへり。さもあるべし
といへり。さて略解にはアキノタカラスとよみ古義にはアキノタカルモとよめり。上三句は問、下三句は答なれば下の苅はカラスとはよむべからず。小田ヲ〔右△〕カラス子にむかへて秋ノ田ヲ〔右△〕カルとよむべし○御爲ニといへるについて三註に説なきは怪しむべし。案ずるに問者は女にて答に妹ガ御爲ニといへるは君ノ御爲ニといふ意なり。畢竟アナタニ差上ゲヨウト思ウテ自身デ稻ヲ刈リマスといへるにて戀情を含める戲言なり
 
1276 池の邊の小槻《ヲツキ》がもとの細竹△苅嫌《シヌナカリソネ》、それをだに君が形見にみつつしぬばむ
池邊小槻下細竹苅嫌其谷君形見爾監乍將偲
 契沖のいへる如く細竹の下に莫の字のおちたるなり。略解に
(1363)  池ノヘノヲ槻は地名にあらず。ただ槻ノ木ノモトといふ也。君は男をさす。其槻の木のもとにて相見し事などの有しならんといへり○カタミニのニは後世のトなり
 
1277 (天在《アメナル》)ひめ菅原の草〔左△〕《スゲ》なかりそね、(みなのわた)かぐろき髪にあくたしつくも
天在日賣菅原草莫苅嫌彌那綿香烏髪飽田志付勿
 契沖はアメナルをアメナル日とづづける枕辭としヒメ菅原を地名とせり。宣長はアメナルを枕辭とせずして
  天上にあるひめすが原なり。然らざれば髪に芥のつくといふ事なし。是は天ナルササラノ小野のたぐひにてただ設けていふのみ也といへり。即宣長は天上の菅原にて草を刈るによりて芥の落來て此土の人の髪につく趣に見たるなり。雅澄は契沖の説を是認して
  在は傳の誤にてもあらむ。天傳《アマツタフ》日笠(ノ)浦などもよめればなり
といへり。契沖の説に從ふべし○雅澄は又『草は菅の草書を誤れるなるべし』といへり。
(1364) げに然るべし○ヒメスガ原はいづくにか知られず。上代より名高き美濃國可兒郡久々利の近傍に姫といふ處あり。是か○此歌は若き男の菅を刈るを見て女のよめるなり
 
1278 夏影房〔左△〕之下庭〔左△〕《ナツカゲノマドノモトニ》きぬたつわぎも、裏〔左△〕儲《アキマケテ》わがためたたば差大裁《ヤヤオホニタテ》
夏影房之下庭衣裁吾妹裏儲吾爲裁者差大裁
 一二の句を舊訓にナツカゲノネヤノシタニテとよめり。庭は元暦校本によれば邇の誤なり。契沖は一二の句を釋して
  夏は木にもあれ何にもあれ陰の涼しき處にふすを女は北の方に深く住ものなればナツカゲノネヤと云なるべし
といへり。房は窓の誤字にて房之下はマドノモトとよむべきにあらざるか○第四句は契沖の説に『衣の裏を儲置てと云へるか』といへり。裏儲は金儲の誤にてアキマケテなるべし。集中に秋儲而、春儲而、春設而などあり。マケテはカタマケテと同意にて秋マケテは秋近ヅキテといふことゝおもはる○結句を契沖は『ヤヤオホニタテとよみてヤヤオホキニと意得べし』といひ雅澄は『こゝは義を得てイヤヒロニタテ(1365)とよまむか』といへり。字のまゝにオホとよみて可なり
 
1279 (梓弓)引津の邊なるなのりその花、及採〔左△〕《サクマデニ》あはざらめやもなのりその花
梓弓引津邊在莫謂花及採不相有目八方勿謂花
 引津は今の筑前國糸島郡の地名なり。及採は舊訓にツムマデハとよみ略解古義にツムマデニとよめり。採は咲の誤字にあらざるか。さらばサクマデニとよむべし○アハザラメヤモは逢ハザラムヤ否逢フ折アルベシとなり。古義にアハズテアラムヤハ、アハズニハ得アラジト思フヲと譯せるは非なり○第六句は古義に
  其間よくしのびてわが名を勿謂《ナノリ》そ、人に知られてはあふことかたからむぞ、と云意を勿謂花にいひかけたるなるべし
といへる如し
 
1280 (うちひさす)宮路をゆくに吾裳はやれぬ、(玉の緒の)念委〔左△〕《オモヒミダレテ》家にあらましを
撃日刺宮路行丹吾裳破玉緒念委家在矣
 元暦校本にも念委とありて訓はオモヒミダレテとあり。略解に『元暦本にミダレテと有からはもと念亂と有しを草書より誤れる成べし』といへり〇一首の意は略解に
(1366)  家に在てわびてのみあらんを戀ふる人に逢やと宮仕にことよせて宮路通ふ程に裳も破れぬるよと也
といへり。案ずるに此歌は卷十一なる
  うちひさす宮道にあひし人妻ゆゑに、玉の緒の念亂れてぬる夜しぞおほき
といふ歌と、もと二首一聯の歌にてウチヒサス宮ヂニアヒシ、ウチヒサス宮路ヲユクニとつづきたりしに相離れて一は人麿歌集中に入り一は古歌集中に傳はりて本集にも卷を異にして収められたるにあらざるか
 
1281 君がため手ぢからつかれ織在衣服斜〔左△〕《オリタルキヌヲ》春さらば何何〔左△〕《イカナルハナニ》すりてばよけむ
君爲手力勞織在衣服斜春去何何摺者吉
 スリテバヨケムは摺リタラバヨカラムなリ○宣長いへらく
  斜は料の誤、何何は何色の誤也。織たる絹は衣服の料なればかく書てキヌとよませたり。何色を何何と誤れるは何色と書るを何々と見たる也
といへり。案ずるに何何は何花の誤にてイカナル花ニならむ。イカナル色ニにては(1367)春サラバといへる詮なし。斜は叫の誤か。此二十三首の旋頭歌にはニ、ヲなどのテニヲハは多くは略したれど又サヤニイリヌ邇、アヤメ乎マセテ、キミガカタミ爾、ミヤヂヲユク丹なども書けり
 
1282 (はしだての)くらはし山に立《タツヤ》白雲、みまくほりわがするなべに立《タツヤ》白雲
橋立倉椅山立白雲見欲我爲苗立白雲
 倉|椅《ハシ》山は大和國にありて今礒城郡に屬せり。多武峰の音羽山の事なり○契沖は
  立白雲とはうるはしき物から目にのみ見て手にも取られぬを女のさすがに目には見えて逢べくもなきによそへたるにや
といひ雅澄も此説に從へり。案ずるにミマクホリワガスルは白雲を見むと欲するにあらず。倉椅山を見むと欲するなり。一首の意は倉はし山を見むと思ふに生憎に白雲の立ちて眺望を妨ぐるを嘆ぜるなり○立白雲は舊訓三註共にタテルシラクモとよみたれどタテルにてはワガスルナベニと動靜相かなはず。改めてタツヤシラクモとよむべし
 
1283 (はしだての)くらはし川の石のはしはも、壯子時我度爲《ヲザカリニワガワタリセシ》いはのはしはも
(1368)橋立倉椅川石走者裳壯子時我度爲石走者裳
 イハノハシは上(一二五八頁)に瀬々ユワタリシイハバシモナシとあるイハバシにおなじ○ハモはいづらと尋ぬる辭なる事前人のいへる如し○壯子時は略解にヲザカリニとよめるに從ふべし。男盛ニなり○度爲は前註にワタリテシ又ワタリシ又ワタセリシとよめり。ワタリセシとよむべし。意はワタリシといはむに齊し○倉椅川は音羽山よリ出で西北に流れ櫻井にて忍坂《オサカ》川と合ふ川なり
 
1284 (はしだての)倉椅川の河の靜菅、わが苅りて笠にも編まず川の靜菅
橋立倉椅川河靜菅余苅笠裳不編川靜菅
 シヅスゲは略解に
  下《シヅ》菅の意にて菅の小きをいふか。又は一種の菅の名か
といひ古義に
  靜は借字にて石著《シヅキ》菅なり
といへり。案ずるにシヅスゲは縞《シマ》ある菅ならむ。いにしへ縞布を倭文《シヅ》といひしを思(1369)ふべし(卷三【五二六頁】參照)
 
1285 春日すら田にたちつかるきみはかなしも、(若草の)つまなききみが田にたちつかる
春日尚田立羸〔左△〕公哀若草※[女+麗]無公田立羸
 ハル日スラは代匠記に『春の日の心のどかなるべき時さへなり』といひ略解古義に『長き春の日すら』と譯せり。契沖の説に從ふべし○第二句は今の格ならば田ニタチツカルルといふべし。こゝに田ニタチツカル君とつづけたるは連體格の代に終止格をつかへるなり(此卷附録參照)
 
1286 やましろのくせの社の草なたをりそ、己《ワガ》時とたちさかゆとも草なたをりそ
開木代來背社草勿手折己時立雖榮草勿手折
 己時は眞淵、宣長(記傳卷三十六【二一五五頁】)の説に從ひてワガとよむべし。オノガといふべきをワガといへる例少からず。草ガオノガ時ト立榮ユトモといへるなり〇一首(1370)の意は略解に
  社をもていふを思へば主有女に係想する〔左△〕ともあながちなる業なせそといふなるべし。己時立榮トモとは其女のみさかりなるを草の時を得て榮るにたとへたるか
といへる如くなるべし
 
1287 あをみづらよさみの原に人相鴨《ヒトモアハヌカモ》(いはばしの)あふみあがたの物語せむ
青角髪依網原人相鴨石走淡海縣物語爲
 アヲミヅラは略解に枕辭とし、古義に
  依網《ヨサミ》は碧海郡なれば碧海面依網といへるなるべしと門人南部嚴男いへり。さもあるべし
といへり○相鴨は略解に
  宣長云。アハヌカモと訓べし。アヘカシの意也。相の上不の字なきにアハヌとよむ事はいかがと誰も思ふ事なれど集中に例多し
といへり。セヨカシの意なるヌカモに不の字を書けるは集中に一首もある事なし(1371)(卷四【六二七頁】參照)○アガタは任國なり。古義にこの淡海《アフミ》を遠江の事として
  歌の意は京ヘ上ル道中ノ參河國依網原ニイカデ思フ人モガナアヘカシ、サラバアガ任《マケ》ラレテアリシ遠江國ノアリシヤウヲ物語シテキカセムヲとなるべし。此歌は遠江國の司、任はてゝ上る道、參河のよさみの原にてよめるにて實は思ふ人に逢まほしきをさといはでただおほよそにいへるなり
といへり。案ずるにこは近江國司なりし人の東國に轉任せられしが三河の依網(ノ)原にてよみしにて近江はなほ今の近江なり。ヒトモはシル人モなり。今行かむとする國のおぼつかなきにつけて今まで在りし近江のなつかしければもし知る人に逢はば近江の物語して自慰めむと思へるなり○略解に
  人モは人ニモといふべきをかくいへり。後に花見テ歸ル人モアハナンとよめるも同じ
といへるは非なり。いにしへ他を主としては人ノアフといひ自を主としては人ニアフといひしなり。たとへば古今集春下の詞書に
  志賀の山ごえに女の多くあへりけるによみて遣しける
(1372)とあり。今も他を主として人モといへるなり。人ニモを略せるにあらず
 
1288 みなとの、葦のうら葉をたれかたをりし、吾背子が振△手《フルソデ》見むと我ぞたをりし
水門葦末葉誰手折吾背子振手見我手折
 ウラバは先端の葉なり。略解に
  按に振の下衣の字を脱せしか。ソデフルミントと有べし
といへり。フルソデミムトとよむべし。上三句は問、下三句は答なり
 
1289 (垣こゆる)犬よび越〔左△〕《タテテ》とがりするきみ、青山の葉しげき山|邊〔左△〕《ニ》馬やすめきみ
垣越犬召越鳥獵爲公青山葉茂山邊馬安君
 第二句は舊訓にイヌヨビコシテとよめり。略解に
  宣長云。垣コユルはただ犬といはん枕詞也。ヨビコシテは呼令來テ也。といへり
といひ古義には越をコセテとよめり。案ずるに越は垣越の越の字のうつれるにてもとはヨビタテテとありしならむ。ヨビタテテは喚ビ催シテといふ事にて上(一二(1373)七八頁)にも妻ヨビタテテ邊ニチカヅクモとあり○山邊の下にニの辭なくてはかなはず。即略解古義の如くハシゲキヤマベとよみてはあるべからず。舊訓にはハシゲキヤマベニと八言によみたれどさては調よろしからず。又アヲ山〔右△〕ノ葉シゲキ山〔右△〕邊と山の字のかさなれるも心よからず。思ふに邊は邇の誤なるべし。邊を邇の誤とすれば山の字のかさなれるも難とならず○ヤスメはヤスメヨなり。いにしへは二段活の命令格にもヨを添へざる事ありしなり
 
1290 (わたの底)おきつ玉藻のなのりその花、妹と吾《ワレ》此何〔左△〕《ココニ》ありとなのりその花
海底奥玉藻之名乘曾花妹與吾此何有跡莫語之花
 二三は沖ツ玉藻ノ中ノナノリソといふ意なるべし○妹與吾を舊訓にイモトワレトとよめれど下のトを略してイモトワレといへるにてもあるべし○此何の何は荷の誤なるべしと契沖のいへるに木村博士(訓義辨證上卷四八頁)は
  何荷はいにしへ通用の文字なり。……されば何(ノ)字此まゝにてニの假字とすべし
といへり。卷二(二五九頁)なるワガオホキミノ、カタミ何《ニ》ココヲの何と共になほ荷の(1374)誤とすべくや。さて略解にシをよみ添へてココニシアリトとよめれどシをよみそへむは無理なり。なほ六言によむべし○結句はアリトナノリソをナノリソノ花にいひかけたるなり
 
1291 此崗に草かる小子《ワラハ・コドモ》しかなかりそね、ありつつも君が來まさむ御馬《ミマ》草にせむ
此崗草苅小子然苅有乍君來座御馬草爲
 小子を舊訓にワラハとよめるを古義にコドモに改めたり。いづれにてもあるべし○卷四にも
  佐保河のきしのつかさのしばなかりそね、ありつつも春しきたらばたちかくるがね
とあり。アリツツモはソノママニテといふ意とおぼゆ○然苅の間に莫をおとせるならむ
 
1292 江林に次《ヤドル》ししやも求吉《モトムルニヨキ》、しろたへのそでまきあげてししまつわがせ
(1375)江林次完也物求吉白栲袖纏上完待我背
 江林を契沖千蔭は地名とし雅澄は奥深からぬ林の義なるべしといへり。共に從ひがたし。おそらくは江は誤字なるべし○次は舊訓にヤドルとよみ求吉は契沖モトムルニヨキとよめり。宣長は次を伏の誤、求吉を來告の誤としてフセルシシヤモキヌトツゲケムとよめり。語格上フセルといひてキヌとはいふべからず。但次は伏の誤にてもあるべし。求吉はなほ字のままにモトムルニヨキとよむべし○袖マキアゲテはまくり手して待つ意なりと契沖いへり○完は宍の俗體、宍は肉の古宇、肉《シシ》は猪鹿《シシ》の借字なり
 
1293 (丸雪《アラレ》ふり)遠江《トホツアフミ》のあど川やなぎ、雖苅《カリツレド》またもおふちふあど川やなぎ
丸雪降遠江吾跡川楊雖苅亦生云余跡川楊
 初二を略解にアラレフリ〔右△〕トホツアフミノとよめり。アラレフリは枕辭なり。略解に
  あど川は近江高島郡也。遠江にも同じ地名有か土人に問べし
といひ久老の信濃漫録(二二丁)に
  遠江にあど河をよみ合せたるいかにぞやおぼゆるに門人御園常言がいはく日(1376)本靈異記に近江國坂田郡遠江の里とあるを見れば坂田郡と高島郡とはもと隣れる郡にてあど川は兩郡に跨る川にてやありけむ。故にトホツアフミノアド川ともタカ島ノアド川ともよめるなるべし
といひ古義に
  遠江は中山嚴水が近江國にも遠江といふ地あり。そこなりと云るが如し、靈異記下卷に近江國坂田郡遠江里有2一富人1姓名未v詳也と見えたり云々
といへり。案ずるにアド川は上にもタカ島ノアド川波ハサワゲドモなどありて琵琶糊の西方なる高島郡を貫きて湖水に注げり、靈異記下卷第八に坂田郡遠江里とある坂田郡は湖水の東方にありて高島郡とは湖水を隔てたれば果して遠江といふ里ありとも吾跡川とは風馬牛なり。雅澄の萬葉名所考アドの條に
  近江國高島郡遠江といふ里にある地なり
と斷定して云へるは人まどはしなり(地名辭書にも右の文をそのまゝに載せたり)。近江國のうち奈良より遠き地方をそのかみトホツアフミといひならひしならむ○雖苅は略解古義にカレレドモとよみたれどカレド又はカレドモといふべくカ(1377)レレドモとはいふまじき處なり。ヲリツレバタブサニケガルなどの例によりてカリツレドとよむべきか○卷十四にヤナギコソキレバハエスレ云々とあり
 
1294 (朝づく日)むかひの山に月|立《タテリ》みゆ、遠妻を持在《モチタル》人し看つつしぬばむ
朝月日向山月立所見遠妻持在人看乍偲
     右二十三首柿本朝臣人麿之歌集出
 月立の立は古義に從ひてタテリとよむべし。契沖の『立とは出るなり』といひ雅澄の『いにしへ月の出るをタツといへり』といへるはいかが。ただ山上に月の見えたるを月タテリといへるならむ○持在を略解にモチタルとよみ古義には舊訓に從ひてモタラムとよめり。略解に從ふべし○トホヅマヲ云々の意は遠き處に妻をおきたる人は此月を見てその妻を偲びなむとなり。卷十一に
  遠づまのふりさけ見つつしぬぶらむこの月の面に雲なたなびき
とあると主客はたがへど意は一なり
 
1295 かすがなる三笠の山に月の船いづ、みやびをののむさかづきにかげに(1378)みえつつ
春日在三笠乃山二月船出遊士之飲酒杯爾陰爾所見管
 古義に『歌の意、表はきこえたるまゝにて裏はうつくしき女の顏の云々』といへるは非なり。裏の意などある事なし
 
  譬喩歌
   寄衣
1296 今造《イマツクル》まだらのころも面就、吾爾《ワレニ》おもほゆいまだきねども
今造斑〔左△〕衣服面就吾爾所念未服友
 今造は契沖のいへる如く字のまゝにイマツクルとよむべし(略解にはアタラシキとよめり)○面就を契沖はメニツキテとよみ宣長はオモヅキテとよみて
  オモヅキテ云々はワレニヨク似アヒタル衣ト思ハルといふ意なり
といひ雅澄はメニツキテをよしとせり○吾爾を雅澄は吾者の誤としてアレハと(1379)よめり。又雅澄は
  歌意はイマダ逢見ザレドモ女ノウルハシサニ目ニツキテ我ハ常ニコヒシク思ハルルといふことを衣に譬ていへるなり
といへり。案ずるに面就と吾爾とをおきかへ面就を似合ふ意とすればよく聞ゆ。但面就はオモヅキテならでなほよみやうあるべし。再案ずるに似就の誤としてニヅカヒテとよむべきか
 
1297 紅にころも染めまくほしけども著てにほはばや人の知るべき
紅衣染雖欲著丹穗哉人可知
 キテニホハバは其衣ヲ著テカガヤキテ見エバとなり。ヤは疑のヤなり。バヤとつづけるにあらず〇一首の意は古義に
  うるはしき女を戀しくは思へどもそれに逢見ば早くあらはれむかと云をたとへたるなり
といへり。案ずるにクレナヰニ衣シメマクホシケドモは妹ニ逢ハマホシケレドといふことの譬、キテニホハバは逢ヒテウレシサノ色ニ顯ハレナバといふことの譬(1380)にて結句は戀の方に附きたる辭なり。又シメマクはこゝにては染メテ著マクの意なるを著は下に讓れるなり○丹穗の下に脱字あるべし
 
1298 千名〔二字左△〕《カニカクニ》人はいふともおりつがむわがはたもののしろ麻ごろも
千名人雖云織次我二十物白麻衣
 初句を舊訓にチナニハモとよめるを古義に千を干の誤とし名は古寫本の傍書に各とかけるによりて干各に改めてカニカクニとよめり。案ずるに卷四(七九〇頁)に
  わが名はも千名の五百名にたちぬとも君が名たたばをしみこそなけ
といふ歌あり。もしそれと同例ならばワガ名ハモ千名ニタツトモなどあるべく千名ニハモ人ハイフトモとはいふべからず。さればしばらく古義の説に從ひてカニカクニとよむべし。干はカニの訓に(卷十二イザリスルアマノカヂノト湯鞍干《ユクラカニ》)各はカクの訓に借れる例あり(卷十三|各鑿社吾《カクノミコソワガ》コヒワタリナメ)。又思ふに千名は左右の誤にあらざるか。さらば愈安んじてカニカクニとよむべし〇一首の意は人ハ色々ニイヒサワグトモ心ヲ變ゼズシテツギテ逢ハムといへるにて既に逢ひての後の歌なり。卷四(七九三頁)にも
(1381)  かにかくに人はいふとも若狹ぢののちせの山ののちもあはむ君
とあり
 
   寄玉
1299 あぢむらの十依《トヲヨル》海に船うけてしら珠|採《トルト》人にしらゆな
安治村十依海船浮白玉採入所知勿
 十依は舊訓にトヲヨルとよめり。トヲヨルは卷二(三一〇頁)にナヨ竹ノトヲヨル子ラハ、卷三(五〇六頁)にナユ竹ノトヲヨル御子とありて靡き寄ることなり。雅澄はここには然いふべくもなしといひて十を群の字の誤寫としてムレヨルとよめり。されど海上に浮べるあぢの村鳥の浪風にすまはずして一方に靡き寄る事とすればトヲヨルにて通ぜざるにあらず。略解に『あぢむらの群飛ぶ列をかくいへり』といへるは從はれず○第四句を舊訓にシラタマトラムとよめるを代匠記に『白玉トルトとも讀ぬべし』といひ古義に『シラタマトルトとよむべし』といへり。げにシラタマトラムならば結句は人ニ知ラエズとあらざるべからず。さればシラ玉トルトとよむべし。さて上四句はただ相逢フトといふことをたとへたるなり。略解に『さて上は序(1382)のみ』といへるは妄なり。白玉を採る形容なりとこそいふべけれ
 
1300 をちこちの礒の中《ナカ》なる白玉を人にしらえず見むよしもがも
遠近礒中在白玉人不知見依鴨
 集中にヲチコチといへるには遠及近(即今の世にいふ所)と遠或近との二種あり。ここは俗語にソコラ、といふ意にて遠近數處の謂にあらず。上(一二六三頁)にも舟ヨバフコヱヲチコチキコユとあり○イソは大石なり。古書に石と書きてイソとよませたり。ナカナルは其大石ノ間ナルとなり。卷二(三一四頁)に石中死人とある石中もここのイソノナカと同義なるべし○此歌のシラタマは美しき小石なり。鰒珠にあらず〇一首の意は窃に女に逢はむといへるなり
 
1301 わたつみの手にまきもたる玉ゆゑにいその浦廻《ウラミ》にかづきするかも
海神手纏持在玉故石浦廻潜爲鴨
 ワタツミは海神なり。マキモタルは玉に紐をとほして手にまきてもてるなり。ユヱニはナルニなり。卷一(三九頁)にも人ヅマユヱニワレコヒメヤモとあり。三四の間に(1383)ソヲ得ムトシテといふことを補ひて聞くべし。略解古義に夫ある女をこふるなりと見たれど親の守れる女をこふる譬ならむ
 
1302 わたつみのもたる白玉みまくほり千遍告《チタビゾツゲシ》かづきするあま
海神持在白玉見飲干遍告潜爲海子
 第四句を契沖はチタビゾツゲシとよみ略解にはチタビゾノリシとよめり。契沖の訓に從ふべし。さて四五はアマタタビ海人即媒ニイヒキとなり。古義に『海人をたのみて千返告しといふならむ』といへるは非なり。海人ヲタノミテといふことをアマとはいひ放つべからず
 
1303 かづきするあまは雖告《ツグレド》わたつみの心不得所見不云《ココロシエネバミエムトイハナク》
潜爲海子雖告海神心不得所見不云
 雖告はツグレドとよむべし(略解にはノレドモとよめり)〇四五は略解にココロシエネバミユトイハナクニとよみ古義にココロシエネバミエムトモイハズとよめり。案ずるにココロシエネバミエムトイハナクとよむべし〇一首の意は(1384)海人(媒)ハ白玉(女)ニ我見マクホリスル事ヲ告グレド海神(即親)ノ心ヲハカリカヌレバ我ニ見エムト玉ノ云ハヌコトヨといへるなり。以上二首一聯の歌なり。前々の歌は自かづきする趣にいへるなれば此二首とは相與からず。又前の歌の告は作者が海子に告ぐるにて此歌の告は海子が白玉に告ぐるなり。相混ずべからず
 
   寄木
1304 あま雲のたなびく山のこもりたる吾忘〔左△〕《ワガシタゴコロ》木葉|知《シルラム》
天雲棚引山隱在吾忘木葉知
 宣長の説に
  忘は下心二字の誤て一字と成たる也。上二句はコモリの序也
といへり○知は舊訓の如くシルラムとよむべし(略解には『知の下一本良武の二字有』といへり)。木葉は女をたとへたるなり。古義には知をシリケムとよめり。こは卷三(三九五頁)にマキノ葉ノシナフセノ山シヌバズテワガコエユケバ木葉知家武とあるによれるなれど此歌と今の歌と相通へる所なし。今は序に山をいへる縁にて女(1385)を木葉にたとへたるのみ
 
1305 みれどあかぬ人國山の木葉《コノハヲバ》己〔左△〕心《シタノココロニ》なつかしみもふ
雖見不飽人國山木葉己心名著念
 契沖いへらく
  人國山は大和なり。下の歌に秋津野とつづけて云へるにて芳野に有なるべし
といへり○第三句はコノハヲバとよむべし(略解古義にはコノハヲシとよめり)○第四句は舊訓にオノガココロニとよめるを宣長は
  是も己は下の誤にてシタノココロニと訓べし
といへり。之に從ふべし。シタノココロは心ノウチなり○契沖いはく『ミレドアカヌ木葉とはもみぢを云なるべし』と。黄葉ならばただにモミヂといふべし。コノハといへるを見ればなほ緑葉なり○ナツカシミモフはナツカシガリ思フとなリ。この木葉も女をたとへたること勿論なり。略解に『他妻をこふるにたとふ』といへり
 
   寄花
(1386)1306 この山の黄葉下《モミヂノシタノ》、花矣我《ハナヲワガ》、小端見《ハツハツニミテ》、反戀《カヘリテコヒシ》
是山黄葉下花矣我小端見反戀
 第二句以下を契沖は
  もみぢのしたの、はなをわが、はつはつにみて、かへりてこひし
とよみ宣長は花矣を咲花の誤とし反を乍の誤として
  もみぢのしたに、さくはなを、われはつはつに、みつつこひしも
とよみ雅澄は宣長の誤字説に從ひてただ結句をミツツコフルモとよみ改めたり。案ずるにハツハツニはチトバカリといふことなれば(卷四【七七四頁】にもハツハツニ人ヲアヒ見テ云々とあり)ミツツといはむと相かなはず。しばらく契沖の訓に從ふべし。さてモミヂノ下ノ花は契沖のいへる如くかへり花なり。さてこそハツハツニミテとはいへるなれ
 
   寄川
1307 この川ゆ船はゆくべくありといへどわたり瀕ごとにもる人|有《アリテ》
(1387)從此川船可行雖在渡瀬別守人有
 コノ川ユは此川ヲなり。ユクベクは渡リユクベクなり。上三句は妹の許して逢ふべくなれるをたとへ云へるなり〇有を略解古義にアルヲとよめり。アリテとよみてモル人アリテ渡リ行カレズといふべきを略したりとすべし。卷十一に
  玉緒のあひだもおかずみまくほりわがもふ妹は家遠在而《イヘトホクアリテ》
とあり。是例とすべし
 
   寄海
1308大海《オホウミヲ》候水門《マモルミナトニ》ことしあらば從何方君吾率陵〔左△〕《イヅクユキミヲワガヰカクレム》
大海候水門事有從何方君吾率陵
 初二を略解にオホウミヲマモルミナトニとよみ宣長はオホウミハミナトヲマモルとよめり。さて略解には
  太宰の津は西蕃を候《マモ》るなればかくいへるならん
といひ古義は宣長の訓に從ひて
(1388) 大海は大海(ノ)神をいふべし。即大綿津見(ノ)神なり
といへり。なほ下に云ふべし○第四句は略解にイヅクユ君ガとよめるを古義にイヅヘヨ君ガに改めてイヅクヘゾと譯せり○結句の陵は略解に『恐らくは隱の誤なるべし。しからばヰカクサンと訓べし』といひ古義に隱字の誤といふ説に從ひてヰカクレムとよめり〇案ずるに集中にマモリとあるに目守の意なると間守の意なるとあり。こゝは前者の方なるべし。さて初二は略解の如くオホウミヲマモルとよむべし。但其意は舟に乘りて港にありて大海の樣子を目守りをる事とすべし○第四句はイヅクユキミヲ〔左△〕とよむべし。このユは上(一三〇八頁)なるワガ舟ハ沖ユナサカリのユとひとしくニにかよふユなり○結句はワガ〔右△〕ヰカクレムとよむべし。君ヲ率テワガ隱レムといへるなり○譬喩は初二のみにて逢フベキ時ヲ待ツ程ニといふことなるべし
 
1309 風ふきて海はあるともあすといはば久しかるべし君がまにまに
風吹海荒明日言應久君隨
 初二はサハリアリトモといふことをたとへたるなり。此一列の譬喩歌の中に一首(1389)すべての譬喩なると數句のみの譬喩なるとあり。心得おかざるべからず○ヒサシカルベシは待遠ナラムとなり。君ガマニマニは強ヒテ逢ハムトナラバ逢ハムとなり○こは前の歌の答なり
 
1310 雲がくる小島の神のかしこけば目間心間哉《メハヘナルトモココロヘナレヤ》
雲隱小島神之恐者目間心間哉
    右十五首柿本朝臣人麿之歌集出
 クモガクルのカクルは四段活につかひたるなり。小島はいづくのにてもあるべし。初句は准枕辭にて第二句は女の親などをたとへたるなり〇四五は契沖はやくメハヘダツレドココロヘダツヤとよみ略解古義共に之に從へり。案ずるにメは上にもいひし如くミエの約なればメハヘダタルとはいふべくメヲバヘダツルとはいふべからず。而してヘダタルは古語にヘナルといへば(たとへば卷四【八一六頁】にヒトヘ山|重成《ヘナレル》モノヲとあり)こゝはメハヘナルトモとよむべし○結句を(前にいひたる如くココロヘダツヤとよみて)略解には心ハ隔テムヤと譯し古義には心マデ隔ツラムヤハと譯せり。いづれにしてもさる意をココロヘダツヤとはいふべからざる上(1390)にこゝは心ヲ隔テムヤといふべき處にあらで心ハ遠ザカラムヤといふべき處なればココロヘナラメヤとよむべし。否さては言餘りて調よからねばココロヘナレヤとよむべし(ラメヤをレヤといへるは集中に例多し)○古義に初二を雲隱光鳴神之の誤ならむといへるは從はれず
 
   寄衣
1311 つるばみの衣△人者《キヌキルヒトハ》事なしといひし時よりきほしくおもほゆ
橡衣人者事無跡曰師時從欲服所念
 第二句は舊訓にキヌキル人ハとよめり。宣長は衣者人の誤としてコロモハヒトノとよめり。舊訓に從ふべし。衣の下に一字をおとせるなり○イヒシはキキシにおなじ。下なる
  葦の根のねもころもひてむすびてし玉の緒といはば人とかめやも
  つき草にころも色どりすらめどもうつろふ色といふがくるしさ
といふ歌のイハバ、イフガも人ノ云ハバ、人ノ云フガにてやがてキカバ、キクガなり○ツルバミノコロモはツルバミ即ドングリのかさにて染めたる黒衣なり。略解に
(1391)  ツルバミはいにしへ賤者の服也。……貴人は所せき身にていさゝかの事も言しげくいひなされなどすれば賤者の中中に事なきを羨てさて賤女を戀る事有てよめるなるべし
といへり。『さて賤女を』以下は從はれず。我モ賤者ニナリタシト思フといへるなり。キホシはキマホシなり。上(一三四八頁)にも見えたり。ミマホシを見ガホシと云へると類例なり
 
1312 凡爾《オホロカニ》吾しおもはばしたにきてなれにし衣をとりてきめやも
凡爾吾之念者下服而穢爾師衣取而將著八方
 卷十二にも
  凡爾われし念はば人妻にありといふ妹にこひつつあらめや
とあり。凡爾は舊訓略解古義にオホヨソニとよめれどオホロカニとよむべし。卷六(一〇八六頁)に凡可爾オモヒテユクナマスラヲノトモとあり又卷十九慕v振2勇士之名1歌に於保呂可爾、ココロツクシテ、念フラム、ソノ子ナレヤモ又卷二十喩族歌に於煩呂加爾、ココロオモヒテとあればなり。意はオホヨソニ、ナホザリニといふに同じ(1392)○第三句以下は下ニ著テ著古シタル衣ヲ上ニ取著ムヤとなり○裏の意を古義に『これはいやしき婢などを久しくなれうつくしみて妻とする時よめるか』といへれどただしのびて馴れたりし女を表だちて妻とする時の歌ならむ
 
1313 くれなゐのこぞめのころも下に著て上にとりきばことなさむかも
紅之深染之衣下著而上取著者事將成鴨
 コゾメは濃く染めたるなり。下ニキテ云々は今マデ下ニ著タリシヲコタビ上ニ取著バとなり。コトナスはイヒタテハヤスなり。卷四(六四二頁)にもソコモカ人ノワヲコトナサムとあり○裏面の意はシノビテ馴レタリシ女ヲ表ダチテ妻トセバ定メテ人ノイヒタテハヤサムとなり。以上二首一聯の歌なり
 
1314 つるばみのときあらひぎぬのあやしくも殊欲服《コトニキホシキ》このゆふべかも
橡解濯衣之恠殊欲服此暮可聞
 第四句を舊訓にコトニキホシキとよめるを古義にケニキホシケキとよめるは非なり。ホシケキといふ辭は無し○こは上なるツルバミノキヌキル人ハといふと二(1393)首相聯れる歌にて賤者ニナリテ心ノママニフルマヒタシト此夕ハ殊ニ思フといへるならむ。略解に『中絶たる人をまたおもひ出るをたとふ』といひ古義に『一たび中絶たる人を又おもひいだして云々』といへるは從はれず○恠は怪の俗體なり
 
1315 橘の島|爾之△居者《ニシイネバ》河とほみさらさずぬひしわがしたごろも
橘之島爾之居者河遠不曝縫之吾下衣
 橘は大名、島は小名にて大和國高市郡の地名なリ。上(一三四九頁)にくはしくいへり○譬喩は四五句のみにて上三句は第四句をいはむ爲に云へるのみ。さて裏面の意は古義にいへる如く媒ヲ立テナドモセズシテ逢ヒソメツといへるならむ。但古義に上三句をも譬喩に加へて人遠クハナレタル地ニヰタル故ニと譯せるは從はれず○さて島は飛鳥河の右岸にあれば河トホミとはいふべからず。第二句の島爾之居者は島爾之不居者《シマニシヰネバ》とありし不のおちたるにあらざるか
 
   寄絲
1316 河内女《カフチメ》の手染の絲をくり反《カヘシ》片絲にあれどたえむともへや
(1394)河内女之手染之絲乎絡反片絲爾雖有將絶跡念也
 カフチメは河内國の女なり。タエムトモヘヤは卷二(二八二頁)なるスギムトモヘヤと同例にてただタエメヤといへるにてオモフは例の輕く添へたるなり。一首の意は略解に
  片思ながらさすがに絶えんとは思はんやと也
といひ古義に
  片思にてはあれどしかすがに思ひ絶果むと思はむやは、絶むとはおもはず、くりかへしくりかへしえ思ひわすれず、と云をたとへたるなり
といへり○第三句は從來クリカヘシとよめれど聊心得がたし。古今集なるカリクラシタナバタツメニ宿カラム、ワガセコガコロモノ裾ヲフキカヘシのカリクラシ、フキカヘシと同格にてクリカヘシツといふばかりの意にや○さて片絲はいまだより合せぬ絲なればカタイトニアレドはヰマダ逢ハネドといふことの譬なり。略解古義の釋は共に從はれず
 
   寄玉
(1395)1317 わたの底しづくしら玉風ふきて海はあるとも取らずばやまじ
海底沈白玉風吹而海者雖荒不取者不止
 シヅクを宣長(遠鏡卷五【四十一丁】は『物の水の中に見ゆること也。……只沈むことなどをシヅクといへることなし』といひ守部(催馬樂入綾)は『シヅミスクといふ言の約れるなり』といへり。案ずるにシヅクはなほシヅムと同源の語なり。此歌、次の歌、又一首おきて次なる歌に沈と書けるを見ても沈むことなるを思ふべし。ただ音の似たる故のみにて沈の字を書くべけむや。但シヅクは沈み居る意に用ひて沈み行く意には用ひず。しかも略解にこゝのシヅクを『シヅケルを約云にて沈みて有也』といへるはいみじきひが言なり。梅サケル宿といふべきをウメサク宿といふは常の事にあらず。ウメサク宿とあるを見てサクはサケルをつづめいへるなりといふべけむや。さてシヅクの語源は古義に
  石著《シヅク》なり。次下の歌に石著玉と書たる如し。……海底の石に著てあるをシヅクといへり。催馬樂にカヅラキノ云々白玉シヅクヤ云々を靈異記には礒著と書り。思合すべし
(1396)といへり。げに石著《シヅク》の義なるをそれよりシヅムといふ語は出來れるならむ
 因にいふ。古今集哀傷部に
  水の面にしづく花の色さやかにも君がみかげのおもほゆるかな
といふ歌あり。シヅクを沈の意とせむに水ノ面ニシヅムとは云はれぬことなれば『水にうつれることなり』とか『水中に見ゆることなり』とかいふ説も起れるなれど萬葉、催馬樂などなるはみな沈み居ることとしてよく通ずるを此歌のみ其意にかなはざるを思へば作者があらぬ意に心得てよめりとするか又は誤字ありとせざるべからず。然るに作者小野篁は萬葉時代を去ること遠からざる人なれば萬葉時代にしばしばつかはれて普く人の知れる語の意を誤解すべきにあらず。一方には流布の古今集には誤字頗多ければ(世人の思へるよりは遙に多し)余は初二は水ゾコ〔二字傍点〕ニシヅク花ノ色とありしを誤れるものと認む。萬葉にワタノ底シヅク白玉、底キヨミシヅケル玉ヲ、水底ニシヅクシラ玉、底キヨミシヅク石ヲモなどある、皆例證とすべし
 
1318 底清みしづける玉をみまくほりちたびぞつげしかづきするあま
(1397)底清沈有玉乎欲見千遍曾告之潜爲白水郎
 此歌に底|清《キヨミ》沈有玉ヲミマクホリとあり又卷十九に藤ナミノカゲナル海ノ底|清《キヨミ》之都久石ヲモ珠トゾワガミルとある底キヨミを底ガ清サニと心得たるより旁シヅクを見ゆることゝせではかなはぬやうに宣長守部等は思ひしなり。しばしばいひし如くこのミにはサニと譯すべき外にキニと譯すべきあり。こゝのキヨミもキヨキニと譯すべくシヅクと原因結果の關係あるにあらざるなり○さて上(一三八三頁)にも
  わたつみのもたる白玉みまくほりちたびぞつげしかづきするあま
といふ歌あり
 
1319 大海のみなぞこてらし石著《シヅク》玉いはひてとらむ風な吹行年《フキソネ》
大海之水底照之石著玉齊而將採風莫吹行年
 イハヒテを略解に神ニ乞祈テと譯し古義に齋祈《イハヒゴト》シテと譯せり。案ずるにこゝのイハヒテは卷五詠2鎭懷石1歌(八八一頁)なるイトラシテ、イハヒタマヒシ、マタマナス、フタツノ石ヲまた上(一三五〇頁)なるシシマツ君ガイハヒヅマカモのイハヒと同例(1398)にて大切ニシテといふ事なり○行年は舊訓にコソとよめるを宣長は所年の誤としてソネとよめり。之に從ふべし
 
1320 みな底にしづく白玉|誰《タガ》故に心つくしてわがもはなくに
水底爾沈白玉誰故心盡而吾不念爾
 第三句は濱成の歌經標式に他我由惠爾と書けり。さればタレユヱニとよまでタガユヱニとよむべし○白玉ヨ汝ナラヌ外ノモノノ爲ニといふ意なり。第三句以下は下なる
  朝霜のけやすき命たがために千歳にもがとわがもはなくに
 また古今集戀四なる
  みちのくのしのぶもぢずり誰故にみだれむとおもふ我ならなくに
と同格なり
 
1321 世のなかは常かくのみかむすびてし白玉の緒のたゆらくもへば
世間常如是耳加結大王白玉之結〔左△〕絶樂思者
 カクノミカのノミは例のカクを強むる辭なり。さればカクノミカはカクヤアラム(1399)となり。一首の意は結ビテシ白玉ノ緒ノ絶ユルコトヲ思ヘバ世ノ中ハ常ニカクヤアラムといへるなり。略解に『此歌は譬喩とはきこえず』といへり○下の結は諸本に緒とあり
 
1322 伊勢の海の白水郎之《アマノ》島津我あはび玉とりて後もか戀のしげけむ
伊勢海之白水郎之島津我鰒玉取而後毛可戀之將繁
 第二句を從來アマノシマヅガとよめり。契沖の説に
  島津は昔有けむ伊勢の海人の名にや
といひ古義に
  中山嚴水此は伊勢の島津てふ海人がめづらしき眞珠をかづき得しと云傳の有しなるべし
といへり。アマノ〔右△〕島津とあれば人名にはあるべからず。又故事によりてよめるならば結句はシゲカリケムとやうにいはざるべからず。略解には鳥〔右△〕津流〔右△〕の誤としてトリツルとよめり。トルチフとはいふべくトリツルといふべき處にあらず。案ずるにこは島津之白水郎我とありしを下上に寫し誤れるにて島津は志摩津にてやがて(1400)志摩國なり。舊事本紀卷十國造本紀に伊勢(ノ)國造と尾張(ノ)國造との間に
  島津國造 志賀高穴穗(ノ)朝(○成務天皇御代)出雲(ノ)臣(ノ)祖佐比禰(ノ)足尼《スクネ》(ノ)孫出雲笠夜命(ヲ)定2賜國造(ニ)1
とあるはやがて日本紀持統天皇紀に見えたる志摩(ノ)國造なり。されば志摩國はいにしへ島津(ノ)國といひしなり。さてその島津國は伊勢海に臨みたれば無論伊勢ノ海ノ島津といひつべし○玉を取るを女に逢ふに譬へたるなり。されば四五は女ニ逢ヒテノ後ニ却リテ戀ノシゲカラムカといへるなり
 
1323 (わたの底)おきつ白玉よしをなみ常かくのみやこひわたりなむ
海之底奥津白玉縁乎無三常如此耳也戀度味試
 ヨシヲナミは取ラム由ヲナミといふことなるべけれど辭足らず
 
1324 (葦の根の)ねもころもひてむすびてし玉の緒といはば人とかめやも
葦根之※[動/心]〔左△〕念而結義之玉緒云者人將解八方
 ネモコロモフは懇ニ思フにて一つの語となれるなり。熟慮シテといふ意なり○玉(1401)ノ緒は男女の契にたとへたるなり○イハバはキカバといはむに同じ。上にもツルバミノ衣キル人ハコトナシトイヒシ時ヨリ著ホシクオモホユとあり○人トカメヤモは人ガ其緒ヲ解カムヤハとなり○※[動/心]は懃の誤なり
 
1325 白玉を手には不纏爾《テニハマカズニ》匣《ハコ》のみに置有《オキタル》之〔□で圍む〕人ぞ玉|令泳〔左△〕流《ハフラスル》
白玉乎手者不纏爾匣耳置有之人曾玉令泳流
 第二句の爾を略解に底の誤として
  マカズシテといふべきをマカズニといふは俗語なり。マカズテと有べし
といへるに對して古義に
  かやうにズニと云も古言なり
といひて卷九なるイモ不宿二《ネズニ》ワレハゾコフルなどあまたの例を擧げたり○ハコノミニは今匣ニノミといふに同じ○置有之は從來オケリシとよみたれどシといふべき處にあらず。之の字を衍字としてオキタルとよむべし○結句は舊訓にタマオボレスルとよめるを略解古義にタマオボラスルとよめり。さて略解に
  いたづらに物を水に入て溺れしむるに似たり
(1402)と釋き古義に
  その玉を水中に捨ておぼらしめつると同じ
と釋けり。案ずるに泳を溢の誤としてタマハフラスルとよむべし。ハフルは物の無用となるをいふ(記傳卷三十九【二三〇二頁】參照)。石崇の王明君辭の匣中玉を思へるにてもあるべし
 
1326 照左豆〔三字左△〕我《ワタツミガ》手にまきふるす玉もがも其緒はかへてわが玉にせむ
照左豆我手爾纏古須玉毛欲得其緒者替而吾玉爾將爲
 初句を舊訓にテルサツガとよめり。眞淵は
  テルサツは玉商人を云か。サツは幸人《サツビト》の意もて賣る人をも云へるか云々
といひ略解古義には誤字なるべしといへり。なほ下にいふべし○女を玉にたとへたる事言ふまでもなし。ソノ緒ハカヘテはワガ玉ニセムといふにつきてそへ云へるのみ。眞淵が『其緒とは先夫を云ならん』といひ雅澄が『其緒とは先の夫をたとふるなり』といへるは非なり。先夫は既に照左豆にたとへたるにあらずや○照左豆について再云はむ。古義に
(1403)  ワタツミノなどあるべき所なり。猶考べし
といへり。此説恰も余の思得たる所と一致せり。他の手にまき古したる玉(女)を獲て我玉(我妻)とせむといへる、相手は超人間の物ならざるべからず。而して超人間の物にて玉(鰒珠)に縁あるは海神即ワタツミなり。されば初句はワタツミガとあるべし。文字は緜都美我などありしを誤れるならむ(ワタツミは集中に海若、海神、渡津海、綿津海、和多都美、和多都民など書けり)
 
1327 秋風はつぎてなふきそ(わたの底)おきなる玉を手にまくまでに
秋風者繼而莫吹海底奥在玉乎手纏左右二
 ツギテはツヅキテなり。こゝのマデニはマデハと心得べし。卷十一にも
  國とほみただには逢はずいめにだに吾にみえこそあはむ日までに
とあり。集中にマデニといへるにはただマデの意なるとマデハの意なるとあり
 
   寄2日本琴1
1328 膝にふす玉の小琴の事なくば甚幾許《イトココバクニ》わがこひめやも
(1404)伏膝玉之小琴之事無者甚幾許吾將戀也毛
 第四句を契沖はイトココダクハ、略解にはイトココバクニ、古義にはハナハダココダとよめり。まづ略解の訓に從ふべし○初二は序のみ。即コトにかゝれる序なり。コトナクバは故障ナクバ、イトココバクニはカク甚シクなり
 
   寄弓
1329 みちのくのあだたら眞弓|著絲〔左△〕而《ツラハケテ》ひかばか人のわをことなさむ
陸奥之吾田多良眞弓著絲而引者香人之吾乎事將成
 アダタラは陸奥の地名なり。關|政方《マサミチ》の傭字例に
  このァダタラは地名にて後にアダチノ眞弓ともよみて今の安達なることは先達の説にて知られたり。さてアダタラを安達と書けるよしは地名を二字に定められし時などに安達の二字に定めて猶アダタラとぞよめりけむ。そも安字は灘と同韻なれば舌内聲の例にてンをダに轉し用たるなるべし。河内國の郡名タヂヒを丹比とかきタヂマノ國を但馬と書るが如し。丹但ともに舌内聲の字なれば(1405)ンをヂに轉したるなり。後世になりて古言を失ひしより安達の字のままにたやすくアダチと唱ることゝはなれりけむ。さて達字をタラとよむよしは達磨をダルマともダラマともよむが如し。ダルマもダラマも梵語なるを唐山《モロコシ》にてやゝ近き音の字を充て達磨と書るなり。今の安達もこの例なり。又達は寒桓韻の入聲字なれば舌内聲にてタラナの三行に轉し用べき例上にいへるが如し
といひ古義に
  アダタラ眞弓とはアダタラてふ地より造り出せる眞弓にていにしへの名物にぞありけむ
といへり。同書に
  アダタを安達とかきてラを省けることムザシを武藏とかきてシを省きたる例なり
といへるは疎漏なり○第三句の絲の字一本に絃とありといふ。さて第三句を略解古義にツラハケテとよめり。卷十四(東歌)に
  みちのくのあだたらまゆみはじきおきてせらしめきなば都良波可|馬《メ》可毛
(1406)とあるによれるなり。ツルはいにしへツラといひきと見えて卷二(一四八頁)にも都良絃取波氣《ツラヲトリハケ》とあり。コトナサムはイヒハヤサムとなり〇一首の意は
  弓に弦をかけて引く如く女にすみ始めたく思へど、もしすみ始めなば世人のうるさく云ひはやさむ
といへるなり。古義に
  思ふ女を吾方に引よせたくは思へども、もし引よせたらば云々
と譯せるは從はれず。もとより序歌にあらねばヒカバは語のまゝには譯すべからず
 
1330 南淵《ミナブチ》の細川山にたつまゆみ弓束級〔左△〕《ユヅカマクマデ》人にしらえじ
南淵之細川山立檀弓束級人二不所知
 契沖いはく
  南淵山細川山共に大和國高市郡なり。……南淵は總名にて寛く細川山は別にて狹きにや
といへり。南淵《ミナブチ》山は今稻淵山といふ。高市郡の東南隅にありて飛鳥川の水源なり。其(1407)麓なる稻淵は皇極天皇紀に見えたる南淵《ナンエン》先生即南淵《ミナブチ》(ノ)漢人《アヤヒト》請安《シヤウアン》の居し處なり○弓束は弓の中央なり。即ニギリなり○級は舊訓にマクマデとよみたれどしかよむべき由なし。略解に纏及の誤字かといへり(一本にかく書けり)。さてユヅカマクマデは悉ク成就スルマデといふことを譬へ云へるなり
 
   寄山
1331 いはだたみかしこき山としりつつも吾はこふるか同等不有爾《トモナラナクニ》
磐疊恐山常知菅〔左△〕毛吾者戀香同等不有爾
 貴人を戀ふる意なる事契沖等のいへる如し。イハダタミノとノを補ひてきくべし。イハダタミカシコキ山は岩ほかさなりてさがしき山なる事略解にいへる如し○結句を舊訓にトモナラナクニとよめるを略解古義にナゾヘラナクニと改め訓めれどナゾフは下二段活なればナゾヘリとははたらかず。從ひてナゾヘラナクニとは訓むべからす。舊訓も未穩ならねどしばらく之に從ふべし(或はナミナラナクニとよむべきか)○菅は管の誤なり
 
(1408)1332 いはがねのこご敷《シキ》山にいりそめて山なつかしみいでがてぬかも
石金之凝木敷山爾入始而山名付染出不勝鴨
 第二句を舊訓にコゴシキヤマニとよめるを古義にはコゴシクとよめり。コゴシ、コゴシキとはたらく形容詞なればなほコゴシキとよむべし(卷三【四〇二頁】參照)〇一首の意は契沖が
  此歌も貴人を思ひ懸て及びなき事とは知ながら戀しき心に引かれてえ思ひやまぬに喩たり
といへる如し
 
1333 佐保山をおほにみしかど今みれば山なつかしも風ふくなゆめ
佐保山乎於凡爾見之鹿跡今見者山夏香思母風吹莫勤
 オホニミシカドは氣ヲツケテモ見ナカツタガとなり。オホニミルといふ辭ははやく卷二及卷三(三一〇頁、五七四頁)に出でたり○風フクナユメは古義に
  ユメユメ此山ニ風吹荒テ花紅葉ナドヲ散シ亂スナとなり
(1409)といへり
 
1334 奥山のいはにこけむしかしこけど思ふこころをいかにかもせむ
奥山之於石蘿生恐常思情乎何如裳勢武
 初二はカシコシの序なり。はやく卷六(一〇七二頁)にも
  奥山のいはにこけむしかしこくも問ひたまふかも念ひあへなくに
とあり○略解に『今は貴人をこふるをたとふ』といへる如し
 
1335 おもひ※[騰の馬が貝]《アマリ》いたもすべなみ(たまだすき)うねびの山に吾《ワガ》しめゆひつ
思※[騰の馬が貝]痛文爲便無玉手次雲飛山仁吾印結
 初句は舊訓にオモヒアマリとよめるを古義には一本に思勝とあるに從ひてオモヒガテとよめリ。案ずるにガテは敢なればオモヒカネの意ならばオモヒガテズ、オモヒガテニなどこそいふべけれ。オモヒガテとはいふべからず〇一首の意は契沖が
  及なき人をいかにしてがなと思ふを高く大きなる山を※[片+旁]示さして我物と領ぜ(1410)むとするによするなり
といへる如し
 
   寄草
1336 (冬ごもり)春の大野をやく人はやき不足《タラネ》かもわがこころやく
冬隱春乃大野乎燒人者燒不足香文吾情熾
 不足を舊訓にタラヌ、略解にアカヌ、古義にタラネとよめリ。古義に從ふべし。ヤキタラネバカモの意なり○おのが心の思にもゆるを人ありて燒くやうによめるなり
 
1337 かづらきの高間の草野《カヤヌ》はやしりてしめささましを今悔拭〔左△〕《イマシクヤシモ》
葛城乃高間草野早知而※[手偏+栗]〔左△〕指益乎今悔拭
 カヅブラキノ高間は葛城山中の高原なり。ハヤシリテはハヤク領ジテなり○結句は舊訓にイマゾクヤシキとよめるを略解に
  或人云。拭は茂の誤か。しからばイマシクヤシモと訓べしと。是然べし
といへり○※[手偏+栗]は標の俗字なり
 
(1411)1338 わがやどにおふる土針こころゆもおもはぬ人の衣にすらゆな
吾屋前爾生土針從心毛不想人之衣爾須良由奈
 ツチハリは倭名抄に王孫一名黄孫|沼波利久佐《ヌハリグサ》此間云|都知波利《ツチハリ》とあり。古義にはこれと和名本草に王孫和名奴波利久佐一名乃波利とあるとに據りて卷一(三四頁)に綜麻形ノハヤシノ始ノサヌハリノとあるサヌハリとこのツチハリとを同視したれど卷一なるサヌハリは萩の事なること彼卷にいへる如し。さてツチハリは今のツクバネ草なりと云ふ。ツクバネ草は莖の上部に四葉めぐり生じ其中より更に莖出でて其頂に初夏の頃淡黄緑色の四瓣花のさく草なり○ココロユモのモは無意義の助辭なり。古義に
  ココロユモは心ノ裏ヨリモと云が如し。モは表《ウヘ》はさるものにて裏《シタ》よリも眞實に思ふよしなり
といへるは從はれず○ココロユモオモハヌ人は汝ヲ〔右△〕心カラ思ハヌ人となり。古義に汝ガ〔右△〕心ノ裏ヨリモ眞實ニ思フ人ハ云々と譯せるは非なり〇一首の趣は若き女を土針にたとへて母などの之を誡めたるなり。略解に
(1412)  我領ぜしなれば外に心より深くもおもはぬ人にうつるなといふ也
といひ古義に
  とかくいひかゝづらふ人ありとも我をおきて人にうつるなと誡むるなり
といへるは余の所見と異なり
 
1339 つき草にころも色どりすらめどもうつろふ色といふがくるしさ
鴨頭草丹服色取摺目伴移變色登※[人偏+稱の旁]之苦沙
 スラメドモは摺ラム、サレドモなり。イフは人のいふにて我よりいはばキクなり。上(一三九〇頁及一四〇〇頁)にもキキシといふべきをイヒシ、キカバといふべきをイハバといへる例あり。クルシサはツラサなり○女の歌にて逢ヒソメムトハ思ヘドソノ人ノ心アダニテ頼ミガタシト聞ク、嗚呼ツラキ事ヨといへるなり○※[人偏+稱の旁]は稱の古宇
 
1340 紫の絲をぞわがよる(あしひきの)山たちばなをぬかむともひて
紫絲乎曾吾※[手偏+義]〔左△〕足檜之山橘乎將貫跡念而
(1413) 山タチバナはヤブカウジなり。古義に
  これは人を深くおもひ入てさまざまに心をつくすをたとへたり
といへる如し○※[手偏+義]は※[手偏+差]の誤なり
 
1341 (またまつく)をちのすが原|吾《ワガ》からず人のからまくをしきすが原
眞珠付越能菅原吾不苅人之苅卷惜菅原
 ヲチは大和高市郡なる越智なるべし
 
1342 山たかみ夕日かくりぬ淺茅原のち見むためにしめゆはましを
山高夕日隱奴淺茅原後見多米爾標結申尾
 譬へたる意明ならねど後日を契る暇なくして別れしを悔ゆる心ならむ
 
1343 こちたくば左右《カモカモ》せむをいはしろの野邊の下草われしかりてば
    一云くれなゐのうつし心や妹にあはざらむ
事痛者左右將爲乎石代之野邊之下草吾之刈而者
    一云紅之寫心哉於妹不相將有
(1414) 左右は古義にカモカモとよめるに從ふべし。略解にトモカモとよめるは妄なり。さる辭は無し○イハシロノ野ベは卷二(一九五頁)にイハシロノ濱松ガエヲとよめると同處即紀伊の地名ならむ○女に逢ふを下草を刈るにたとへたる事前註にいへる如し。カリテバはカリタラバにて其次にウレシカラマシなどいふことを略せるなり。前註はここに心附かざる爲コチタクバを略解には人言ノシゲクトモ〔二字傍点〕古義には人ノ物イヒノシゲクトモ〔二字傍点〕など釋き曲げたり。一首の意は
  いはしろの野べの下草を刈りたらばうれしからむ、さて後もし人言のうるさくば如何やうにもしてむを
といへるなり
 一云とある三句は此歌につきなし。略解には
  是は右と別の歌也。一云と有はいぶかし
といひ古義には
  これは右の歌とは別なり。一云とあるはあたらず。これは十一にタマノヲノウツシゴコロヤ年月ノユキカハルマデ妹ニアハズアラムとある歌の亂れてこゝに(1415)入しものにやあらむ
といへり
 
1344 眞鳥すむうなでのもりの菅根〔左△〕《スガノミ》をきぬにかきつけきせむ兒もがも
眞鳥住卯名手之神社之管〔左△〕根乎衣爾書付令服兒欲得
 眞鳥は仙覺の説に鷲なりといふ。さて略解に
  ウナデは大和高市郡|雲梯《ウナデ》にていと神さびたる杜にて鷲のすむ故に何となくよめるならん。枕詞にはあらず
といへり。このマトリスムは花チラフ秋津ノ野ベニ(卷一【五八頁】)珠藻カル敏馬ヲスギテ(卷三【三五九頁】)千鳥ナク佐保ノ河門ノ(卷四【六五六頁】)カハヅナクカムナビ河ニ(卷八)などと同じくて余の准枕辭と名づけたるものなり。又略解に
  根は實の字の誤れるにや。山菅の實を以衣に摺らんといふなるべし。上にも妹ガ爲菅ノ實採ニユク我ヲとよめればかたがた菅の實ならん。カキは詞のみ。是は譬喩の歌にあらず
といへり。右の説すべてよろし。古義に
(1416)  カキツケは摺著と云むが如し。眉カキ繪カキなど云カキなり
といへるは從はれず。菅ノ實ヲ衣ニカクとはいふべからぬ事なればなり○キセムは我ニ著セムなり
 
1345 (常不△《ツネシラヌ》)人國山の秋津野のかきつばたをしいめに見しかも
常不人國山乃秋津野乃垣津幡鴛夢見鴨
 常不の二字を舊訓にツネナラヌとよめるを略解には
  不の下、知の字を脱せり。ツネシラヌとよむべし
といへり。此説に從ふべし。さてそのツネシラヌは人國の枕辭なり。卷五(九六二頁)にもツネ知ラヌ道ノ長手ヲ云々とあり。カキツバタは女をたとへたるなり。略解に人國山に心をあらせて『他妻を戀て夢に見しをよめり』といへるはいかが
 
1346 をみなべし生澤邊之《サキサハノヘノ》まくず原いつかもくりてわが衣にきむ
姫押生澤邊之眞田葛原何時鴨絡而我衣將服
 第二句を舊訓にオフルサハベノとよめるを古義に
(1417)  サキサハノヘノとよむべし。生をサクとよむ例は……十六にヤヘ花|生《サク》トなどあるが如し
といへり。此説に從ふべし。ヲミナベシは准枕辭なり。卷四(七五九頁)にくはしくいへるを見よ。クリテはクリヨセテなり。四五の間に絲ヲ取リテ布ニ織リナシテなどいふことを略せるなり。これと同じく辭を略せる例は卷九に
  小垣内の、麻を引ほし、妹名根が、つくりきせけむ、しろたへの、紐をも解かず云々
とあり○ヲミナベシを姫押と書けるはいにしへ押す事をヘスとも云ひしによりてなり。今もヘシ折ルなどいふヘスなり
 
1347 君に似る草と見しよりわがしめし野山の淺茅人なかりそね
於君似草登見從我※[手偏+栗]〔左△〕之野山之淺茅人莫苅根
 君ニ似ルは君ニ似テウツクシキとなり。此淺茅を略解古義にもみぢせる淺茅としたれど紅葉と見べき理由なし。シメシは占領セシなり。野山は野及山なり。契沖が野中の山なるべしといへるは從はれず(古義には野山を野上《ヌノヘ》の誤とせり)○卷十九に
  妹に似る草と見しよりわがしめし野邊の山吹たれかたをりし
(1418)といふ歌あり。今の歌と相似たり
 
1348 三島江の玉江のこもをしめしよりおのがとぞもふいまだからねど
三島江之玉江之薦乎從標之己我跡曾念雖未苅
 三島江ノ玉江は攝津にあり。三島江のうちの玉江にあらず。玉江といふは江の名、その江三島にあるが故に三島江ともいふなり。卷十一に三島江ノ入江ノコモヲカリニコソ云々とある入江もやがて三島江なり。三島江のうちに更に入江あるにあらず○イマダカラネドはイマダ其女ニ逢ヒソメネドとなり
 
1349 かくしてやなほやおいなむみゆきふる大荒木野の小竹《シヌ》ならなくに
如是爲而也尚哉將老三雪零大荒木野之小竹爾不有九二
 カクシテヤとナホヤとヤの言かさなれり。かくヤの重なれる例は卷四(七七三頁)に
  かくしてやなほやまからむ近からぬ道のあひだをなづみまゐきて
 又卷十一に
  かくしてやなほやなりなむ大荒木の浮田の杜のしめならなくに
(1419)とあり。案ずるにカクシテヤのヤはヤハの意なり。ナホヤのヤは助辭にてナホヤはタダニといはむに齊し。されば初二はカクシツツ徒ニ老イムヤハとなり○ミユキフルは准枕辭なり。大荒木野は所在不明なり。契沖は大和宇智郡ならむといへり
 
1350 淡海のや八橋《ヤバセ》のしぬをやはがずて信《マコト・サネ》ありえむやこひしきものを
淡海之哉八橋乃小竹乎不造矢而信有得哉戀敷鬼乎
 アフミノヤのヤは助辭なり。第三句は矢ニ矧グのニを略してヤハグといふ動詞としてつかひたるなり○信はマコトともサネともよむべし。下に世ノナカハ信《マコト》フタ代ハユカザラシとあり又卷十五にオモハズモ麻許等アリエムヤとあり又同卷にアガゴトクキミニコフラムヒトハ左禰アラジとあればなり(此外にも集中に核《サネ》ワスラエズ、左禰ミエナクニなどあり)。さて第四句の意は略解に『マコトニ世ニエ在ナガラフベケンヤといふ也』といへる如し○契沖及千蔭の矢橋ノ小竹ナレバ矢ニ造ルベキヲ云々と釋けるは非なり。矢橋といふ名を思へるにあらず。古義に
  矢橋といふにはかゝはらぬなるべし。所はいづくにもあれただ小竹を矢にするを云へるならむ
(1420)といへる如し
 
1351 月草にころもはすらむ朝露に沾而後者《ヌレテノチニハ》うつろひぬとも
月草爾衣者將摺朝露爾所沾而後者徙去友
 第四句は舊訓にヌレテノノチハとよめるを略解にヌレテノチニハとよみ改めたり。卷五(八九六頁)に能彌弖能能知波チリヌトモヨシとあれど今は而の下にはノをよみ添へがたければヌレテノチニハとよむべし。卷八にも飲而後者チリヌトモヨシとあり
 
1352 わがこころゆたにたゆたにうきぬなは邊にもおきにも依勝益士《ヨリガツマシジ》
吾情湯谷絶谷浮蓴邊毛奥毛依勝益士
 ユタニタユタニは今いふブラリブラリトなり。ウキヌナハは蓴菜なり。ノヤウニといふことを加へて聞くべし。ヘニモ沖ニモはドチラヘモといふことなり○結句はヨリガツマシジとよむべし(三三五頁以下參照)。ヨリアヘジといふ意なり〇一首の意はおのが心の定まらぬを悲めるなり
 
(1421)   寄稻
1353 いそのかみふるのわさ田をひでずとも繩《シメ》だに延與〔左△〕《ハヘテ》もりつつをらむ
石上振之早田乎雖不秀繩谷延與守乍將居
 第二句のヲは結句のモリツツにかゝれるなリ。但修辭上こゝはテニヲハなき方まされり。ヒヅは穗の出づる事にてやがてホイヅのつづまれるなり。縄は舊訓にシメとよめるに從ふべし(略解にはナハとよめり)○第四句の延與は延弖の誤ならむ(延而とある本ありといふ)。卷十なる
  あしひきの山田つくる子ひでずともしめだに延與もるとしるがね
の第四句のうつれるにこそ○少女を戀ひてまだきに我物と領ぜむとする意なり
 
   寄木
1354 白菅の眞野のはり原こころゆもおもはぬ君がころもに摺《スリツ》
白菅之眞野乃榛原心從毛不念君之衣爾摺
 眞野は攝津の地名。シラスゲノは白菅ノ生フルといふ意にて所謂准枕辭なり(卷三(1422)【三八七頁】參照)○ハリは萩なり○ココロユモの心は上(一四一一頁)なる
  わがやどにおふる土針こころゆもおもはぬ人の衣にすらゆな
といふ歌の處にいへる如く相手の心なり。此方の心にあらず。もし此方の心ならば結句は必スラレツとあるべくスリツとはいふべからざればなり。ココロユモのモは助辭にてココロユモオモハヌは心カラ思ハヌといふ意なる事彼歌の處にいへる如し。君ガは俗語の君ガにて君ノにあらず○結句の摺は古義にスリツとよめるに從ふべし(略解にはスリヌ)〇此歌は女の作にて己を榛原にたとへたるなり
 
1355 眞木柱つくるそま人いささめにかりほの爲とつくりけめやも
眞木柱作蘇麻人伊左佐目丹借廬之爲跡造計米八方
 マキバシラは檜の柱なり○イササメニは率爾ニまたは不圖と譯すべし。卷十に
  率爾いまもみがほし秋はぎのしなひてあらむ妹がすがたを
 卷十一に
  かきつばたにほへる君を率爾おもひいでつつなげきつるかも
(1423) 古今集物名に
  いささめに時まつまにぞ日はへぬる心ばせをば人にみせつつ
とあり。今は假庵ノ料ニ率爾ニ作リケムヤハ、否心ヲ用ヒテ作レルナリ、といへるなり。略解古義に契沖がイササカなりといへるに從ひ、其上カリホにつづけてイササカナル借廬ノ爲ニ、イササカナルカリホナドノ柱ノタメニと譯せるは非なり。三四句は寧顛倒して心得べし○初二はソマ人ノ作ル此眞木柱ハといふ意と迎へ見べし。杣人をもて己にたとへ眞木柱作る事をもて女に物いひそむるにたとへたるなり
 
1356 むかつをにたてる桃の樹|△成哉等《ナラムヤト》人ぞささめきしながこころゆめ
向峯爾立有桃樹成哉等人曾耳言爲汝情勤
 ムカツヲは向の岡なり。やがて三首下には向岡と書けり。初二は序なり○第三句は舊訓にナリヌヤトとよみ略解古義共に此訓によれり。さて略解に
  ワガ中ノナリヌヤト人モササヤキアヘバツトメテ忍ビテ人ニ知ラルナといふ也
(1424)と釋けり。古義も同説なり。案ずるに愼ミテ人ニ知ラルナといふ意ならばナガココロとは云はじ。こゝに元暦校本に成の上に將の字ありてナラムヤとよめり。よりて思ふにこは作者がはやく或女と親みたるに或男のそれを知らで我ハ某郎女ニ思ヲカケタリ、此恋成リナムヤと密に作者に謀りしにてそれを作者が女に告げてタトヒ某ガイヒ寄ルトモ汝ガ心ユメ動クナといひ固めたるなり○ササメクはササヤクに同じ
 
1357 たらちねの母が其業桑尚《ソノナルクハスラモ》ねがへは衣に著〔左△〕《ナル》とふものを
足乳根乃母之其業桑尚願者衣爾著常云物乎
 其業は舊訓にソノナルとよめり。略解に
  其業は借字にて園ニ有〔三字傍点〕也
といひ更に
  借字はさまざまに書て定れることなしといへども業をナルに用る事いかが也。是はソノワザノとよむべき也
といひ、古義は舊訓の如くソノナルとよみて
(1425)  ナルとは何事にまれその産業《ナリハヒ》をするを云詞なり。業をナリとよむ、即ナルの体言となれるなり。二十卷にサキムリニタタムサワギニイヘノイモガ奈流ベキコトヲイハズキヌカモとあるにても知べし
といへり。案ずるにナルを動詞とせば(即産業トスルといふ意とせば)ソノといふ語は添ふべからず。又ナルを受けてはコガヒといふべく桑とはいふべからず(ソノワザノとよむべからざる事は辨ずるに及ばず)されば異樣にはあれどなほ園在《ソノナル》の借字とすべし○第三句は略解古義共に契沖の『桑の下に子の字の落たるなるべし』といへる(契沖の説は初稿本に見えたり)に從ひてクハコスラとよめり。既にいへる如くソノナルは園在の意なれば第三句はもとのまゝにてクハスラモとよむべし○四五は略解古義共にネガヘバキヌニキル【トチ】フモノヲとよめり。案ずるにネガヘバを母ニネガヘバといふことゝせばキストフモノヲといふべくキルトフといひては自他相副はず。おそらくは著は變などの誤にてキヌニナルトフモノヲとよむべきならむ。蠶兒が桑葉を食みて吐きたる絲を取りて衣に織成すを桑葉のやがて衣になるやうにいへるなり○ネガヘバは心ニ願ヘバといふことなるべし一首の(1426)意は桑ノ葉ガ衣ニナラムトハオモヒカケヌ事ノヤウナレドソレスラ成就ストイフモノヲイカデカ我戀ノ成ラザラムといへるならむ
 
1358 (はしきやし)吾家《ワギヘ》の毛桃もと繁《シゲミ》花のみさきてならざらめやも
波之吉也思吾家乃毛桃本繁花耳開而不成在目八方
 ハシキヤシは親愛の意の准枕辭にて吾家にかゝれり。上三句は叙なり○第三句は從來モトシゲクとよみたれどモトシゲミとよむべし。そのミはかの山タカミ河トホジロシなどのミにてサニとはうつさでキニと譯すべきミなり。さて此句は空間を埋みたるまでにて大切なる辭にあらず。又モトとあるに拘はるべからず。契沖はやく
  本とは木なり。必しも本末の本に限て云にはあらず
といへり○ハナノミサキテナラザラメヤモの辭例は下に
  見まくほりこひつつまちし秋はぎは花のみさきて成らずかもあらむ
 卷八に
  吾妹子がかたみのねぶは花のみにさきてけだしく實にならじかも
(1427)とありて意は處によりて小異あり。こゝは言ノミ通ヒテ逢フ事ナカラムヤハといへるならむ
 
1359 むかつをの若《ワカ》楓|木《ノキ》しづえとり花まつ伊間爾《イマニ》なげきつるかも
向岡之若楓木下枝取花待伊間爾嘆鶴鴨
 第二句の若楓を舊訓にワカカツラとよみ三註共に之に從へり。案ずるにカツラはヲカツラにもあれメカツラにもあれめづべき花あるものにあらず。されば楓は櫻などの誤字にあらざるか○シヅエトリは我物ト占メテといふ意に外ならず。辭に泥みて實に下枝を握り持つことゝ思ふべからず○花マツ伊間ニの伊は助辭なり。されば第四句は伊を省きて花待ツ間ニの意と見るべし。例は卷十に春風ニ亂レヌ伊間爾ミセム子モガモとあり。ナゲキツルカモは花さくことの遲きを嘆くなり○一首の意は契沖が
  童女にちぎりて盛を待に喩へたり
といへる如し
 
   寄花
(1428)1360 いきのをにおもへる吾を(山ぢさの)花にか君がうつろひぬらむ
氣緒爾念有吾山治左能花爾香君之移奴良武
 イキノヲニオモフは命ニカケテ思フといふことなるべし。卷四(七三八頁)にもイキノヲニオモヒシ君ヲユルサクモヘバとあり。ワレヲは我ナルニなり○山ヂサノ花ニカは略解に
  花ニカは花バカリニカといふ意也
といひ古義に
  君は山ぢさの花のうつろふやうにはや心がはりしぬらむか
と釋けり。案ずるに山ヂサノは花にかゝれる枕辭にてハナニは卷八に
  かすみたつかすがの里のうめの花はなに問はむとわがもはなくに
  風まじり雪はふるとも實に不成わぎへの梅をはなにちらすな
とあるハナニとおなじくてアダニといふ意ならむ。ウツロフは心のかはるなり○山ヂサは今もチサノ木といふものなりと契沖いへり。チシヤノ木は又エゴノ木又ロクロ木といひて初夏に白きちひさき花のさくものなりといふ
 
(1429)1361 すみのえの淺澤小野のかきつばた衣にすりつけきむ日しらずも
墨吉之淺澤小野之垣津幡衣爾摺著將衣日不知毛
 淺沢小野は地名なり。事の成らむを待遠に思ふ意なり。キム日シラズモは著ム日ヲイツト知ラズとなり
 
1362 秋さらば影〔左▲〕毛《ニホヒモ》せむとわがまきし韓藍《カラヰ》の花をたれかつみけむ
秋去者影毛將爲跡吾蒔之韓藍之花乎誰採家牟
 韓藍はこゝにてはカラヰと三言によむべし。卷三(四七三頁以下)にいへる如くベニバナなり○影毛を宣長は
  影は移の誤にてウツシモセントとよむべし。ウツスは染る事をいふ也
といへり。案ずるに艶の誤としてニホヒモとよむべし。衣を染むることをニホフといへる例は卷六(一一一二頁)に岸ノハニフニニホヒテユカムとあり。又艶をニホフとよむ例は卷十にサキ艶者《ニホヘルハ》サクラバナカモとあり○童女を我物と占めたりしを人に取られしを恨みたる歌なること前註にいへる如し
 
(1430)1363 春日野にさきたるはぎは片枝はいまだふふめり言なたえ行〔左△〕年《ソネ》
春日野爾咲有芽子者片枝者未含有言勿絶行年
 片枝は舊訓に從ひてカタエダとよむべし(略解にはカタツエとよめり)。カタエダハイマダフフメリは女のまだ十分に生長せぬ譬なり○行年は宣長の説に所年の誤にてソネとよむべしといへり。コトナタエソネは音ヅレハ絶エルナとなり。四五の間にサレドといふことを補ひてきくべし
 
1364 見まくほりこひつつまちし秋はぎは花のみさきて成らずかもあらむ
欲見戀管待之秋芽子者花耳開而不成可毛將有
 表の意は花ダケサイテ實ガナルマイカといへるにて裏の意は折角女ガ生長シタガ我戀ハカナフマイカといへるなり。上(一四二六頁)なる花ノミサキテナラザラメヤモとは意異なり。略解に
  イツカマホニ見テント待々テ見ハ見ツレドモ終ニ事成ズヤアランといふをそへたり
(1431)といへるは非なり。古義に
  タダウハベノ花々シキ事ノミニテ實ニナラズテハ得アルマジキニナホ實ニナラズシテアラムカ、サテモ本意ニカナハザルコトヤと云々
と釋けるも非なり
 
1365 吾妹子がやどの秋はぎ花よりは實になりてこそこひまさりけれ
吾妹子之屋前之秋芽子自花者實成而許曾戀益家禮
 純然たる譬喩歌なり。古義に『第一二句は序の如くいひたるにて』といへるは非なり。花は逢初めぬ前、實ニナルは逢初めての後の譬なり○略解に『三首同じ人の歌なるべし』といへり。げにカスガ野ニの歌は女のまだ十分に生長せぬ程の歌、ミマクホリは女ははやく生長したれどまだ逢初めぬ程の歌、ワギモコガは逢初めての後の歌にて共に萩に寄せたればふと見れば同人の歌の如く思はるれど第一首と第三首との問に少くとも一二年の間隔あるべきを一昨年も昨年も今年も共に萩によせてよまむことは、特に萩に寄せてよむべき理由無からむ限、あるべくもおぼえず。否初に萩に寄せてよみしに因みて中ごろも終もひとしく萩によせてよまむには初(1432)に春日野の萩によそへたれば後にも春日野の萩によそへざるべからざるを第三首にはワギモコガヤドノアキハギとよめり。されば此三首はもと作者不同の歌なるをそをついづるに當りて戀の山踏の路なみに從ひたるまでなり
 
   寄島
1366 明日香川七瀬のよどにすむ鳥もこころあれこそ波たてざらめ
明日香川七瀬之不行爾住鳥毛意有社波不立目
 ナナセは七とは限らず。ただアマタといふ意なり。所詮セゼノヨドニといはむに齊し。又瀬はこゝにては水のたぎちおつる處より次にたぎちおつる處までの間なり(卷五【九二二頁】參照)○ココロアレコソ波タテザラメを契沖は
  鳥の浪を立る羽音を聞てそこもとにわなをさし網を張などして捕れば人に知られじとて浪を立ずに下に通ふを人に知られじとするに喩へたり
といひ略解には
  波タテヌとは其鳥のさわがぬ事にてわが言出るに心あればこそいなともいはであれといふをたとへたる也
といへり。略解の説に從ふべし。畢竟鳥モ内心捕ラルルコトヲ願ヘルナラムといふ意なり
   寄獣
1367 三國山こぬれにすまふむささびの此〔□で圍む〕鳥まつがごと吾まち將痩《ヤセム》
三國山木末爾住歴武佐左妣乃此待鳥如吾俟將痩
 三國山は諸國にあり。今はいづくのにか知られず。此〔右△〕の字は前註にいへる如く衍字なり○吾を舊訓にワガ、略解にワヲ、古義にアレとよめり。舊訓に從ひてワガとよむべし○マチヤセムは待疲レムといふことを切言せるなり。略解に『將痩は借字のみ』といひて待哉將無《マチヤセム》の意としたるは非なり
 
   寄雲
1368 いはくらの小野【ゆよ】秋津にたちわたる雲にしもあれや時をし待たむ
石倉之小野從秋津爾發渡雲西裳在哉時乎思將待
 雲ニシモアレヤ時ヲシ待タムは雲ニモアレカシ、サラバ時ヲ待タムとなり。卷六(一(1434)〇五二頁)なる
  玉藻かる辛荷の島に島囘するうにしもあれや家もはざらむ
の四五と同格なり。時ヲシマタムは行キテ逢フベキ時ヲ待タムとなり。古義に
  雲ニテモガナ吾身ノアレカシ、サラバ通路遠キ中ヲモタハヤスク通ヒ行テ逢フコトノナルベキヲ、サル雲ニシモアラネバアフベキ時ノ來ルヲ待居ムとなげきたるなり
といへるは時ヲシマタムを心得誤れり〇石《イハ》倉はいづくにか。山城の愛宕郡にも紀伊の有田郡にもイハクラといふ地名あり。秋津は吉野の秋津ならむ。契沖は『石倉の小野といふも大和國なり』といへり。然も大和國の某地とは云はず。案ずるに秋津は吉野のうちの一小區域に過ぎざれば岩倉といふ地たとひ大和國の内なりとも、もし秋津より遠く離れたる處ならむには吉野ニタチワタルとこそいふべけれ秋津ニと限定してはいふべからず。吉野のうちに岩倉といふ處あらばこそ同じ吉野のうちにて岩倉ヨリ秋津ニ雲ノタチワタルとはいふべけれど吉野の内に岩倉といふ處あるを聞かざる上に二處共に果して吉野のうちにあるならむにはさばかり(1435)遠からずて人の往來の難かる程にもあらざるべければ雲の自由に往來するを羨むにも及ばじ。更に案ずるにイハ倉ノ小野といひ秋津といへる、空にいひ出づべきにあらず。さればイハ倉ノ小野といへるは今作者の居る處、秋津は妹の居る處にてイハ倉は紀伊國有田郡のならむ(山城のは吉野とはあまりに隔たれり)。おそらくは秋津宮に行幸ありし程作者は御用にて行宮より紀伊國に下りて其旅先にて行宮なる愛人を慕ひてよめるならむ
 
   寄雷
1369 天雲に近く光りてなる神のみれば恐《カシコク》みねばかなしも
天雲近光而響神之見者恐不見者悲毛
 恐の字を三註共にカシコシとよみたれどカシコクとよむべし。上三句はカシコクにかゝれる序なり。高貴の人を戀ふる喩なりと契沖のいへる如し
 
   寄雨
1370 甚多毛《ハナハダモ》ふらぬ雨ゆゑ庭たつみいたくなゆきそ人のしるべく
(1436)甚多毛不零雨故庭立水大莫逝人之應知
 初句は舊訓にハナハダモとよめるを古義にココダクモに改めたり。なほ舊訓に從ふべし。さてハナハダモならば甚毛にてよかるべきを多の字を添へたるはなほココダクモを幾許雲と書きセキトセクトモを雖塞々友〔右△〕と書きシメシヨリ、コヒヌベシを從標之〔右△〕、可戀奴〔右△〕と書ける如し○ニハタツミは雨後のたまり水をいふ。イタクナユキソはイタクナ流レソなり〇一首の意は略解に
  逢見る事のすくなきに人の知るばかり色にいづなといふをそへたり
といへる如し
 
1371 (久堅の)雨にはきぬをあやしくもわがころもではひる時なきか
久堅之雨爾波不著乎怪毛吾袖者干時無香
 雨ニハ著ヌヲは雨降ニ著ルニアラヌヲとなり。ナキカはナキカナなり○略解に
  涙にほしあへぬをよめるのみにて譬喩歌にあらず
といへる如し
 
(1437)   寄月
1372 みそらゆくつくよみをとこ夕さらず目には見れどもよるよしもなし
三空往月讀壯士夕不去目庭雖見因縁毛無
 ツクヨミヲトコは月を人めかしたるなり。卷六(一〇九七頁)にもアメニマスツクヨミヲトコとよめり○夕サラズは毎晩なり。はやく卷三(四四八頁)にも見えたり。ヨルヨシモナシは近ヅク由モ無シとなり○古義に月のおもしろくなつかしきをよひよひ目には見はすれども親しくよりそひてかたらふ爲方《スベ》もなしとなり
といへり。君ハ恰ソノ月ヨミ男ノヤウナリといふことを副へて聞くべし
 
1373 かすがやま山たかからし石上菅根《イソノウヘノスガノネ》みむに月|待難《マチガテヌ》
春日山山高有良之石上菅根將見爾月待難
 三四句は舊訓にイハノウヘノスガノネミムニとよみたるをさては意通ぜずとて宣長は菅根を舊郷の誤としてイソノカミフルサトミムニとよめり。案ずるに石上は卷二(二二〇頁)に礒之上爾オフルアセミヲ、卷三(五五二頁)に礒上爾ネバフムロノ(1438)木とあり又卷十九に
  礒上のつままを見れば根をはへて年深からしかむさびにけり
とあるによりてイソノウヘノとよむべし。そのイソノウヘはやがて石上の義なり。右のツママの歌の題辭に過2澁渓埼1見2巖上樹〔三字傍点〕1歌とあるを見て然るを知るべし○菅根はもとのまゝにて可なり。ただ菅といひてよきをスガノ根といへるは草を草根といひ眞木を眞木の葉といへる類なり(一三二〇頁參照)。はやく略解に
  かゝる所に菅ノ根とよめる歌、集中に多し。根にはや〔右△〕うなけれどただいひなれたるによりていへるのみにて菅根とて菅の事なるべくおぼゆ
といへり○結句は略解に從ひて月マチガテヌとよむべし。月マチガテヌハのハを略せるなり。古義に月マチガタシとよめるはわろし〇一首の意は
  石上に生ひたる菅を見むと思ふに月の出づることの遲きは春日山の高き故にや
といへるなり
 
1374 闇の夜はくるしきものをいつしかとわがまつ月毛〔左△〕《ハ》はやもてらぬか
(1439)闇夜者辛苦物乎何時跡吾待月毛早毛照奴賀
 イツシカトはマツにかゝれり。月毛は月波の誤なるべし。早毛の毛のうつれるならむ(考には月之の誤ならむといへり)。テラヌカは照レカシなり○契沖が
  闇夜は逢はぬ程の心にたとへ待月は待人に喩ふ
といへる如し。古義の釋の如くば譬喩歌とはいふべからず
 
1375 朝霜のけやすき命たがために千歳もがもとわがもはなくに
朝霜之消安命爲誰千歳毛欲得跡吾念莫國
     右一首者不v有2譬喩歌類1也。但闇夜歌人所心之故並作2此歌1。因以2此歌1載2出此次1
 一首の意は
  朝霜ノ如ク消エヤスキ命ヲ千歳ニモガナトワガ思フハタガ爲ナラナクニ
といへるにてタガ爲ニ云々は上(一三九八頁)なる
  みな底にしづく白玉たが故に心つくしてわがもはなくに
(1440) 又古今集なる
  みちのくのしのぶもぢずりたれゆゑに亂れむとおもふ我ならなくに
の第三句以下と同格にて餘人ノ爲ナラズ其許ノ爲ナリといふ意なり
 左註について略解に
  譬喩の歌にはあらざれども闇夜の歌よめる同人の歌なればこの次でにのする
といふ也。心は思の誤か
といひ古義には
  略解に心は思の誤かといへるはわろし。所心と云こと集中におほく見えたるをや
といへり。案ずるに此歌は譬喩歌にあらざるのみならず寄月歌にもあらざれば他の三首と並べ擧ぐべきにあらず。さて闇夜歌人は闇(ノ)夜ノ歌ノ人とよみて闇(ノ)夜ノ歌ヲ作リシ人といへるなり。所心之故は所心ノ故アリテとよむべきか。所心は卷十七の初に於v是悲2傷※[羈の馬が奇]旅1各陳2所心1作歌とあるを始めてあまた見えたり。所思、所感などの意なり。並作此歌は此歌ヲモ作リツの意にて並はモに當れり
 
(1441)   寄2赤土1
1376 やまとの、宇陀の眞赤土《マハニ》のさに著△《ツカバ》そこもか人のわをことなさむ
山跡之宇※[コザト+施ノ旁]乃眞赤土左丹著曾許裳香人之吾乎言將成
 ハニは今のネバツチなり。赤土とも黄土とも書けり○略解に
  サは發語。赤土の色のしみつく也。ちかく其人に觸れなばそれをも人のいひたてんといふ也
といひ古義に
  もし眞赤土の衣に着《ツキ》たらばと云なり
といへり。案ずるに初二は序。サニツクのサは添辭にてニツクは似附なり。ニツクといふ語は卷四(八二〇頁)にも見えたり。序よりは土著《ニツク》とかゝれるなり(はやく考にワレソノ人ニ似ツカバ云々と釋せり)○こは女の歌にて
  もし君の癖に似附かばそれにつけても人の我をいひたてはやさむか
といへるなり。女は往々男の癖に似附くものなり〇四五の辭例は卷四(六四二頁)に
  秋の田の穗田のかりばかかよりあはばそこもか人のわをことなさむ
(1442)とあり○著の下に者をおとせるなり
 
   寄神
1377 ゆふかけて祭《マツル》みもろのかむさびていむにはあらず人目おほみこそ
木綿懸而祭三諸乃神佐備而齋爾波不在人目多見許増
 祭を古義にイハフとよめり。舊訓のまゝにマツルとよみて可なり。ユフは幣なり。ミモロは神社なり○略解に
  本(○初二)はカムサビといはむ序のみ。サダ過タリトテイトフニハアラズ、人目ノ多ケレバコソ通ハネといふなるべし
といひ古義に
  カムサビテは御室にいつきまつる神のかうがうしき由にいひ下して古めきたるよしにいひつづけたり。人ヲフルキモノニシテと云意なり。イムニハアラズは神をばいみつゝしみ畏れさくればいへるにて人ヲフルキモノニシテ神ヲオソレ避クルゴトクトホザクルニハアラズと云ふなり
といへり。案ずるに序は上三句にてイムにかゝれるなり(考にも神サビテまではイ(1443)ムといはん序なりといへり)。而してイムは序よりのつづきにては忌愼む意、下へつづきては忌嫌ふ意なり。なほいはば三四の間にイマルルゴトクといふことを補ひて聞くべし。略解の説はカムサビテを卷四(八一二頁)なるカムサブトイナニハアラズのカムサブと同例としたるなれど年タケタリトテといふことをカムサビテとは云ふべからず(カムサビタリト又はカムサブトとこそいふべけれ)。又古義にカムサビテを人ヲフルキモノニシテと譯せるは自他の混同を忘れたる説なり○さて此歌は女の歌とおぼゆれば人目オホミコソは人目ノオホサニコソ得逢ハネと譯すべし(略解にカヨハネと譯せるは男の歌と思へるなり)
1378 ゆふかけて齋此神社《イムコノモリモ》こえぬべくおもほゆるかも戀のしげきに
木綿懸而齋此神社可超所念可毛戀之繁爾
 第二句を契沖はイムコノモリモとよみ雅澄はイハフコノモリとよめり。契沖の訓によるべし。かならずモといふ辭あるべき處なればなり。さて上四句は無理不法ナ事ヲシテマデモ逢ヒタシト思フといふ意なり。モリヲコユとは杜ノイガキヲ越ユとなり○契沖いはく
(1444)  此歌上と問答せるやうに見ゆる歟
と。げに贈答なるべし。いにしへの答歌には贈歌の意を承けずして辭を受けたる例あることはやくいへる如し(四〇頁、四九五頁、四九九頁、七五七頁などを見べし)
 
   寄河
1379 たえずゆく明日香の川の不逝者《ヨドメラバ》故しもあるごと人の見まくに
不絶逝明日香川之不逝有者故霜有加人之見國
 第三句は舊訓にヨドメラバとよめり。契沖は初句に不絶逝とあるを思へばユカザラバとよむべきかといへり。これも一説なり。さて上三句は通路ノトダエナバといふことの譬なり○古今集戀四に
  たえずゆくあすかの川のよどみなば心ありとや人のおもはむ
とあるは今の歌のかはれるなり
  因にいふ。古今の歌の第四句一本に心アルトヤとあり。かくあるにつきて遠鏡に『アルトヤはアルゴトヤのゴのおちたるなり。アルトヤにては語とゝのはず』といへるは非なり。アルトヤは略辭格なり。即アルナリトヤといふべきナリを省ける(1445)なり。さてアリトヤとアルトヤといづれかまされるといふにアルトヤとあらむ方まされり。思ふに、もと有トヤと書きたりしをよく思はでアリとよみうつししが世に廣まりしならむ
 
1380 明日香川せぜに玉藻はおひたれどしがらみあればなびき不相《アハナク》
明日香川湍瀬爾玉藻者雖生有四賀良美有者靡不相
 シガラミは障碍の譬なり。不相を略解古義にアハナクニとよみたれどニをよみ添ふるに及ばず。卷四(八二九頁)にも
  春のあめはいやしきふるに梅の花|未咲久《イマダサカナク》いとわかみかも
とあり。さてアハナクは逢ハヌコトヨとなり
 
1381 廣瀬川袖つくばかり淺きをや心深めてわがおもへらむ
廣瀬川袖衝許淺乎也心深目手吾念有良武
 初二は序なり。廣瀬川は大和にあり。大和川の支流にて礒城郡と北葛城郡との界を流れたり。袖ツクバカリは徒渉スルニ僅ニ長キ袖ノ袖口ニ漬クバカリとなり○ア(1446)サキヲヤは心淺キ人ヲヤとなり。古義に『人の我上を思ふ心の淺きをやと云なり』といへるは非なり。上(一三四七頁)にウノハナ以之《モチテ》カナシキガ手ヲシトリテバとあり。又卷十四に
  にほどりのかつしか早稻をにへすともそのかなしきを外《ト》にたてめやも
とあるカナシキはカナシキ人といふことなれば今と同例なり○上三句は廣瀬川の袖ニ漬《ツ》クバカリ淺キガ如ク心淺キ人ヲといへるにて四五は古義に吾ハナホ心ニ深ク思ヒテアラムカと譯せる如し
 
1382 はつせ川流水沫〔左△〕之《ナガルルミヲノ》たえばこそわがもふ心とげじと思《モ》はめ
泊瀬川流水沫之絶者許曽吾念心不遂登思齒目
 第二句は舊訓にナガルミナワノとよめり。然るに雅澄は
  今おもふに沫は脈の誤なり、ナガルルミヲノとよむべし。上に泊瀬川流水尾之云云と見えたり。これはわがはじめて考へ得たるなり
といへり。之に從ふべし○すこしこみ入りたる歌なれば之を簡単にする爲まづトオモフといふことを省き見べし(トオモフといふことは無くても同じ事なればな(1447)り)。之を除けばハツセ川ナガルルミヲノ絶エバコソワガ思フ心トゲザラメとなりて卷六なる
  泉河ゆく瀬の水のたえばこそ大宮どころうつろひゆかめ
と同格となるなり。更に簡単にする爲に裏を表にかへして譯すればハツセ川ノ流ノ絶エザラム限ワガ思フ心ノ遂ゲザル事無カラムとなり。さてトグは卷四(六六六頁)なるワガセコシトゲムトイハバとおなじくて中止のうらなり。されば一首の意は畢竟泊瀬川ノ流ノ絶エザラム限我心ハカハラジといへるなり
 
1383 なげきせば人しりぬべみ(山川の)たぎつこころをせかへたるかも
名毛伎世婆人可知見山川之瀧情乎塞敢而有鴨
 ナゲキスルはため息をつくこと、人シリヌベミは人ガ知ルベキニヨリテとなり。タギツはハヤルにてセカヘはセキアヘの約なり
 
1384 みごもりにいきづきあまり早川の瀬にはたつとも人にいはめやも
水隱爾氣衝餘早川之瀬者立友人二將言八方
(1448) 契沖は
  初の二句は忍びに嘆ずる喩なり。次の二句は早川の瀬のたけき水に疲れて立つ事はいと安からぬ事なるをそれがやうなる思を堪忍びて苦しくとも人にかくとはいはじとなり
といひ古義には
  ミゴモリはしのびかくすにたとへたり
といひ第三句以下を
  早川の瀬の如くたぎる心のたとひわきかへるとも人にそれといはむやは云々
と釋けり。案ずるにイキヅキアマリはやがて長息《ナゲキ》シ足ラヌなり。さて上四句は淵にくぐりたりし漁人の水より出でて長息しつつ早川の苦しき瀬に立てるにおのが境遇を譬へたるなり。ミゴモリニは水ニ潜リテといふ意なり。卷三(三九四頁)なる夜ゴモリニイデクル月ノ光トモシキの夜ゴモリニが夜ニコモリテといふ意なると同例なり○人ニイハメヤモは我ハカカル境遇ニアリト人ニ言ハムヤハとなり。もとより忍びたる戀なればなり
(1449)   寄埋木
1385 (眞※[金+施ノ旁]《マガナ》もち)弓削の河原のうもれ木のあらはるまじき事|等《ト》あらなくに
眞※[金+施ノ旁]持弓削河原之埋木之不可顯事等不有君
 弓削は河内の地名。今の八尾附近なりといふ。上三句は序。其中にて又初句はユゲの枕なり。カナは今いふカンナなり○結句の等の字諸本に爾とあり。今ニといふべきをいにしへトといへる例あれば誤字とするに及ばず。略解にも
  卷三ナカナカニ人トアラズバ酒ツボニ、卷十二ナカナカニ人トアラズバ桑子ニモとよめる類にて爾といふべきをトといへるもありといへり。卷三(五四一頁)なる世ノナカハムナシキ物跡アラムトゾのモノトもモノニなり。卷八にも
  をとめらが、かざしのため爾、みやびをが、かづらのため等
とありてニとトとを對用せり。字音辨證(下卷十頁)に等にニの音ありといへるは從はれず〇一首の餘意は古義に
  もしあらはれなば其時いかにかせむとなり
(1450)といへる如し
 
   寄海
1386 大船に眞梶しじぬきこぎでにしおきは深けむしほはひぬとも
大船爾眞梶繁貫水手出去之奥將深潮者干去友
 フカケムは深カラムなり。三註共にコギデニシを作者自身の事としたれど他人の上をいへる辭とおぼゆ○人の前途をおぼつかなみたる意とはきこゆれどくはしき事は知るべからず
 
1387 伏超《フシゴエ》ゆゆかましものを間守爾《マモラフニ》うちぬらされぬ浪よまずして
伏超從去益物乎間守爾所打沾浪不數爲而
 フシゴエは略解に
  土左國安藝郡海邊の山道に今伏越といふ地名有と彼國人いへり。是にや
といひ古義に
  中山嚴水我土左國安藝郡に伏超《フシゴエ》と云る坂あり。そは飛石はね石ころころ石など(1451)云て名高き難所を行過て此坂を超ることなり。此坂いとけはしくして立てあゆみがたければ伏超と云なるべし。此伏超の山の岬は海に臨みて今は行かよふべき處にあらず。いにしへは浪間をうかがひて道行人もかよひしにやあらむ。扨此歌によめるは土左國とも定めてはいひがたし。總て地名はいづくにも同じきがあるものなればなり。されども伏超と云る處はいづくにてもかゝる所なるべき據とはなりぬべしと云り
といへり。げに立ちては越えがたき程さがしき山の名ならむ。葛城山中(河内國南河内郡平石村字伏越)にも伏越峠といふがありとぞ○第三句を略解にヒマモルニとよみて『打寄る波のひまをうかがひて通り行に』と釋し古義にはマモラフニとよみて『浪の打よせ引とる間をうかがふにの意なり』といへり。古義の如くマモラフニとよむべし。抑マモルには間守と目守との別あり(はやく一三八八頁にいへり)。今は卷十一なる人ゴトノシゲキ間〔日が月〕守リテアヒヌトモまた人ゴトノシゲキ間守ルトアハズアラバまた人間守リテアシ垣ゴシニワギモコヲアヒミシカラニなどのマモルとおなじくて間守の方なり。さればマモラフニは浪ノ間〔日が月〕ヲウカガフニとなり○結(1452)句を略解には波ノヒマヲウカガヒソコナヒテと譯し古義には
  ナミヨムは浪の數をかぞへて打よせたる浪の引たる間をうかがふことなり。さてこゝはふつに浪をよまざりし詞つきなれどさにはあらず。浪をよみはしつれどもよくせずしてかぞへそこねて浪に沾されたるを謂なり
といへり。げに此等の説の如くなるべし○さて初二の意はカクト知ラバタトヒサガシクトモ寧伏越ノ方ヲユクベキヲとなり
 
1388 石※[さんずい+麗]《イソサラシ》きしのうら廻《ミ》によする浪、邊に來依者《キヨラバ》か言のしげけむ
石※[さんずい+麗]岸之浦廻爾縁浪邊爾來依者香言之將繁
 初句を舊訓にイハソソグとよみ契沖はイハソソギとよめるを略解に
  ※[さんずい+麗]は隱の字の誤にてイソガクレなるべし
といひ古義は之に據りてただイソガクリと修正せり。案ずるに字はもとのまゝにてイソサラシとよむべし。上(一二七二頁及一二七七頁)にも
  大伴の三津の濱邊を打曝《ウチサラシ》よりこし浪のゆくへしらずも
  すみのえの岸の松が根打曝よりくる浪のおとのさやけさ
(1453)とあり。さてそのイソサラシはただ裝飾にいへるのみ○キシノウラミは上(一二六九頁)にも
  くやしくもみちぬるしほかすみの江の岸の浦囘ゆゆかましものを
とあり。岸下の曲浦なり○上三句は序なり○第四句を舊訓にヘニキヨレバカとよめるを古義にキヨラバカに改めたり。之に從ふべし。コトノシゲケムは人言ノ繁カラムとなり。さてヘニ來ヨラバは古義に思フ人ノ邊ニ依近ヅキタラバと譯せる如し。ユキヨラバといはではかなはぬこゝちすべけれど卷一(一一一頁)なるヤマトニハナキテカクラムヨブコドリの處にいへる如く又下なる世ノナカハマコト二代ハユカザラシの處にいはむ如くいにしへクルとユクとは通用せしなり
 
1389 礒の浦にきよる白浪かへりつつ過不勝者《スギシアヘズバ》雉〔左△〕《キシ》にたゆたへ
礒之浦爾來依白浪反乍過不勝者雉爾絶多倍
 カヘリツツを略解には歸リナガラと譯し古義には立カヘリ立カヘリと譯せり。案ずるにこのカヘリは沖に歸るにあらず。岸にかへるなり。立戻リ立戻リシテと譯すべし(即古義の説の如し)○第四句を契沖は
(1454) スギシカテズバと讀て過アヘズバと意得べし
といひ、略解古義にはスギガテナクハとよめり。案ずるにこゝはスギガテズバとこそいふべけれスギガテヌハといふべき處にあらねばスギガテナクハとはいふべくもあらず。然らば契沖の訓によるべきかといふにカテと主動詞との間にシを挿める例あるを知らねばしばらくスギシアヘズバとよむべし。意は過ギカネナバといはむに齊し○結句の雉を略解に
  雉は岸の借字ともすべけれどさはあらず。宣長云。雉は涯の誤也。卷四にも涯《キシ》ノツカサと書り。といへり
といへり。然るに古義には此説を斥けて
  雉は岸の借字なるべし。雉をもいにしへはキシとシを清て唱へしなるべしと吾徒南部嚴男云り(金葉に雨フレバキシモシトトニ成ニケリカササギナラバカカラマシヤハとあり。キシのシを清て唱へし故にこれも岸を雉によせたるにや)
といへり。案ずるに金葉集なる歌は連歌の部に出でて
  鳥を籠に入て侍けるがよこ雨にぬれけるをみて 雨ふればきじもしととにな(1455)りにけり かささぎならばかからましやは
とあり。シトトは物のいたく濡るゝ形容なるを鳥の名にシトトといふがあれば雉の雨にぬれたるを戲に雉ガ※[巫+鳥]ニナツタと云へるにて、末の句の方はカササギナラバ笠トイフ名ガツイテヲルカラ濡レハスマイニといへるなり。されば雅澄が『岸を雉によせたるにや』といへるはあらぬ言なり。さて今は宣長の説に從ひて涯の誤字とすべし。碩鼠漫筆卷十五(二六六頁)にはこゝに岸を雉と書けるを萬葉集の時代にはやくキギシを略してキシといひ又そのシを清みて唱へし證とせり。かゝる説を立つるにはなほ傍證を要す
 
1390 あふみの海|浪恐等《ナミカシコミト》風まもり年はやへなむこぐとはなしに
淡海之海浪恐登風守年者也將經去※[手偏+旁]者無二
 第二句を舊訓にナミカシコシトとよめるを古義にナミカシコミトに改めたり。古義に從ふべし。カシコミトのトは例の省きて見べきトなり。さればナミヲカシコミといはむにひとし○風マモリは名詞にあらず。風ヲ守リツツの略なり。その風マモリは風間を待つなり。はやく卷三(四六九頁)にも見えたり○年ハヤヘナムは年ハ經(1456)ナムカとなり。コグトハナシニは漕ハセズテなり
 
1391 朝なぎに來よる白浪みまくほり吾はすれども風こそ不令依《ヨセネ》
朝奈藝爾來依白浪欲見吾雖爲風許増不令依
 朝ナギニといへると來ヨル白浪とあると矛盾せるに似たれどこは和ギタル朝ノ海ニ來寄ラム白浪ヲといふ意なり○又結句のヨセネはただ不依と書きてあるべく令の字を加ふるに及ばざる如くなれどこはトヨムルの意なるトヨムを令動(卷六【一一五六頁】)令響と書けると同例なり
 
   寄2浦(ノ)砂1
1392 (紫の)名高の浦の愛子地〔左△〕《マナゴニシ》袖のみ觸《フリ・フレ》てねずかなりなむ
紫之名高浦之愛子地袖耳觸而不寐香將成
 玉勝間卷九(全集第四の二一一頁)に
  名高の浦は名草郡(○紀伊)にて今はそのわたり海士《アマ》(ノ)郡に入れり。今も名高とも名方ともいふ里にて藤白のすこし北の方なり。ある時若山にて人々物語しけるつ(1457)いでに一人がいふやう、名高の里中にむらさき川といふちひさき川のあるなりといふ。……もしこれ古き名ならばかの萬葉にムラサキノ名高とつづけたるはいにしへこのわたりを村崎などいひてそこなる名高の浦といへるにはあらじか
といへれどムラサキノはなほ枕辭にてかのムラサキ川は本集の歌によりてつけたる名ならむ○第三句を舊訓にマナゴヂニとよみ古義にマナコヅチとよめり。文字に誤なくばマナゴヅチとよむべし〇四五は袖ヲ觸レルダケデ寢ズニシマフ事カとなり○上三句は序なる如く見ゆれどマナゴヅチより袖ノミフレテにかゝる因縁なし。案ずるに第三句はもと愛子西とありしを次の歌の第三句のうつりて愛子地となれるならむ。さて序は初二句のみにてマナゴは序よりつづきては砂、主文にては人のいつき娘なり○ソデノミフレテの語例は卷十一に
  しろたへの袖觸てよりわがせこにわがこふらくはやむ時もなし
とあり
 
1393 とよ國のきくの濱邊の愛子地《マナゴヅチ》眞直にしあらば何如《ナニカ》なげかむ
(1458)豐國之間〔左△〕之濱邊之愛子地眞直之有者何如將嘆
 豐前國の企救(ノ)濱なり○愛子地を略解には舊訓に從ひてマナゴヂノとよみて砂道の意とし古義にはマナゴヅチとよみて織沙《マナゴ》のある地をいふといへり。訓釋ともに古義に從ふべし○何如は舊訓にナニカとよめり。古義にイカデに改めたれど集中にイカデといふ辭を用ひたる例證なき事卷二(一五六頁)にいへる如くなれば舊訓の如くナニカとよむべし○上三句は序なり。第四句は汝ガ心ニ邪ナル所ナクバとなり○間は聞を誤れるなり
 
   寄藻
1394 塩みてば入流〔左△〕《カクルル》礒の草なれや見らくすくなくこふらくのおほき
塩滿者入流礒之草有哉見良久少戀良久乃太〔左△〕寸
 入流を從來イリヌルとよめり。ただイルといひては言足らざるによりてイリヌルといへるにて古今集秋下なる
  みる人もなくてちりぬるおく山のもみぢはよるのにしきなりけり
(1459)のチリヌルなどとひとしきか。更に案ずるにこゝはカクルルとありて然るべき處なれば入流は入没などの誤にあらざるか○契沖いはく
  寄藻と題したれば草と云は藻なり
と○草ナレヤは草ナラメヤ否草ナラヌニとなり(卷六【一〇五三頁】參照)。草ナレバニヤの意にあらず○ミラクは見ルコトガ、コフラクは戀フルコトガとなり
 
1395 おきつ浪よするありそのなのりそ者《ハ》こころのうちに疾〔左△〕跡成有《モヘトナリケリ》
奥浪依流荒礒之名告藻者心中爾疾跡成有
 古義「第三句の者を之の誤としてナノリソノとよめり○結句は舊訓にトクトナリケリとよめるを契沖は『有の字をケリとよむべき理なければ』とてヤマヒトナレリに改め、考には疾跡を靡の誤としてナビクナリケリとよみ、古義には
  中山嚴水、次の歌によるに疾跡の二字は靡の一字を誤、成は來とありけむを草書にて誤り、さてもとは有來とありしを下上に寫誤れるならむ。さらばナビキタリケリなるべし。と云り。今按に成は相か合かの誤なるべし。靡相有《ナビキアヒニケリ》とありしならむか
(1460)といひ又『本の句は序なるべし』といへり。案ずるに第三句の者はなほもとのまゝにてハとよむべく疾跡成有は念跡成有の誤としてモヘトナリケリとよむべし。有の字はケリともよむべし。はやく古義此卷ミムロノ山ハモミヂ爲在《シニケリ》の下に
  在有などの字ケリと訓べき例集中に多し。此下に沾在哉《ヌレニケルカモ》、十卷に開有可毛《サキニケルカモ》また月經在《ツキゾヘニケル》また雪曾零有《ユキゾフリケル》、十一に猶戀在《ナホコヒニケリ》また塞耐在《セカヘタリケリ》また後悔在《ノチクイニケリ》また乘在鴨《ノリニケルカモ》などあり
といへり〇一首の意は『このナノリソは心ノ内ニ思ヒテアレ、ユメ人ニナ告《ノ》リソといふ名なりけり』といへるならむ
 
1396 (紫の)名高の浦の名のりその礒になびかむ時まつ吾を
紫之名高浦乃名告藻之於礒將靡時待吾乎
 吾ヲは上(一二四五頁)なる
  はつせ川しらゆふ花におちたぎつ瀬をさやけみと見にこし吾を
のワレヲにおなじくてワレゾといふ意なり〇一首の意は略解に『妹が近くよりなびかん時を待にそへたるのみ』といへる如し。古義に『本(ノ)句は序にて云々』といへるは非なり
 
(1461)1397 ありそこす浪はかしこししかすがに海の玉藻のにくくはあらぬを
荒礒超浪者恐然爲蟹海之玉藻之憎者不有手〔左△〕
 アリソコス浪は契沖のいへる如く人言のこちたきを譬へたるなり。略解古義に女の父母を譬へたりとせるは從はれず○シカスガニは然オソロシケレドとなり○手は乎の誤なり
 
   寄船
1398 ささ浪のしが津の浦のふなのりにのりにしこころ常わすらえず
神樂聲浪乃四賀津之浦能船乘爾乘西意常不所忘
 ササナミは郷名。シガ津は又大津といふ。但今の大津市よりは北方に當れりといふ○上三句は序なり。大津ノ浦ニテ船乘スルヤウニといふ意なり○第四句の語例は卷二(一四九頁)に
  あづま人ののさきのはこの荷のをにも妹がこころにのりにけるかも
 卷四(七六八頁)に
(1462)  ももしきの大宮人はおほかれどこころにのりておもほゆる妹
とあり。卷十以下にも妹ガ心ニノリニケルカモ、思妻ココロニノリテ、ココロニノリテココバカナシケなどよめり。妹が此方の心に乘ると此方の心が妹に乘るとの別あり。今の歌はノリニシココロとあれば此方の心が妹に乘りしなり
 
1399 (ももづたふ)八十の島廻《シマミ》をこぐ船にのりにしこころ忘れかねつも
百傳八十之島廻乎※[手偏+旁]船爾乘西情忘不得裳
 上三句は序なり。第三句の下に乘ルガ如クといふ辭を補ひて見べし。上(一四四二頁)なる
  ゆふかけてまつるみもろのかむさびていむにはあらず人目おほみこそ
と同例なり(これもイマルル如クといふことを加へて聞くべきなり)
 
1400 島づたふ足速《アバヤ》の小舟風まもり年はや經なむあふとはなしに
島傳足速乃小舟風守年者也經南相常齒無二
 上(一四五五頁)に
(1463)  あふみの海浪かしこみと風まもり年はや經なむこぐとはなしに
といふ歌あり。アバヤは略解に『疾行舟を云』といへり
 
1401 みなぎらふおきつ小《ヲ・コ》島に風をいたみ船よせかねつ心はもへど
水霧相奥津小島爾風乎疾見船縁金都心者念杼
 ミナギラフは水煙のたつ事○小島はヲジマともコジマともよむべし○ココロハはココロニハなり(卷四【六二五頁】參照)。心ニハ船ヲ寄セタク思ヘドとなり
 
1402 殊放者《コトサケバ》おきゆ酒甞《サケナム》湊よりへつかふ時にさくべきものか
殊故者奥從酒甞湊自邊著經時爾可放鬼香
 初句は略解にコトサケバとよめるに從ふべし。古義にコトサカバと改めたるは非なり。自動詞サク(四段活)他動詞サクル(下二段活)なればなり(卷二【二〇三頁】及卷三【五五三頁】參照)○第二句も契沖のサケナムとよめるぞよろしき(古義にはサカナムとよめり)。さてコトサケバは如サケバなり。如は外の語の下につづく時はゴトと濁りて唱ふれど、さらぬ時はコトと清みて唱ふべきなり。古義に『かくの如く吾を遠ざけむとなら(1464)ばの意なり』といへる如し。古今集にコトナラバとあるもカクノ如クナラバなり○ヘツカフは卷四(七三六頁)に
  たゆといはばわびしみせむとやきだちのへつかふことはよけくや吾君
とあり。契沖が『岸につくを云』といへるは此歌にはよく當れど卷四なるには當らず。されば契沖も『第四にヤキダチノヘツカフとよめるは詞は同じやうにて意殊なり』といへり○譬喩の意は略解に
  いまだ事成らぬ程には避ずしてやゝ事なるべく成て避んものかといふをたとへたり
といへる如し。但避ズシテ、避ンの代に遠ザケズシテ、遠ザケムといふべし
 
   旋頭歌
1403 みぬさとり神のはふりがいはふ杉原、たきぎきりほとほとしくに手斧とらえぬ
三幣帛取神之祝我鎭齋杉原燎木伐殆之國手斧所取奴
(1465) 神の字を舊訓にミワとよめるを古義にカミに改めて『神をミワとよむは大神《オホミワ》にかぎりたることとおぼゆ』といへり。神をミワとよむは大神に限らねどこゝはなほカミとよむべし。三輪とは限るべからねばなり○イハフはイツクにおなじ。ホトホトシクニ云々はスデノ事ニ手斧ヲ取上ゲラレル所デアツタとなり○いにしへ盗伐者を罰するには斧を取上ぐる例なりきと見ゆ。宇治拾遺物語卷三にも
  今は昔木こりの山守によき〔二字傍点〕(○小斧)を取られてわびし心うしと思ひてつら杖うち衝きて居りける。山守見て『さるべき事を申せ。取らせん』と云ひければ
  あしきだに無きはわりなき世の中によき〔二字傍点〕を取られてわれいかにせむ
とよみければ山守返しせんと思ひてここここと呻きけれど得せざりけり。さてよき返し取らせてければうれしと思ひけりとぞ。人はただ歌をかまへてよむべしと見えたり
とあり○以上譬喩の歌なり
 
   挽歌
(1466)   雜挽
1404 (鏡なす)わが見し君を阿婆の野の花橘の珠にひろひつ
鏡成吾見之君乎阿婆乃野之花橘之珠爾拾都
 代匠記に鏡ノ如ク飽カズ我見ツル君といひ、略解に鏡ノ如ク日々ニ我見シ君といひ古義に鏡ノ如ク大切ニワガ見シ君といへる皆非なり。鏡ナスは見シの枕辭なり。見シ君は卷四(七〇八頁)なるミシ人ノコトドフスガタオモカゲニシテとおなじくて妹背ノカタラヒセシ君といふことなり○阿婆の野を契沖は
  皇極紀の童謡にもヲチカタノ阿婆努ノキギシとよめり。延喜式に大和國添上郡に率川阿波神社あり。もし春日野のつづきに阿婆野ありて彼處に坐す神にや
といへり○タマニはタマトなり。シラユフハナニオチタギツ(卷六【一〇二五頁】)瀧ノミナワニサキニケラズヤ(同【一〇二七頁】)ヨシ野ノ河ノキリニタチツツ(同【一〇二九頁】)などと同例なるニなリ。花タチバナノタマとは橘の實の小さき程をいふ〇四五の意は略解に『火葬して骨を拾ふをいへり』といへる如し。阿婆野にて火葬せしにて其野に橘樹あれば其實ヲ拾フヤウニ骨ヲ拾ヒツといへるなり
 
(1467)1405 あきつ野を人のかくれば朝〔左△〕蒔《アサマキシ》君がおもほえてなげきはやまず
蜻野※[口+リ]人之懸者朝蒔君之所思而嗟齒不病
 アキツ野は吉野にあリ○人ノカクレバは『言に懸て云なり』と契沖のいへる如し。アキツ野ノ事ヲ人ノ語レバとなリ。其野にて妹を火葬せしなり○略解に
  朝マキシは火葬にしたる灰をあしたに蒔散らす事にて宣長委しく考へたり
といへり。下にも清キ山ベニマケバチリヌルまたコノ山カゲニマケバウセヌルとあればマクはさもあるべけれど、朝といふことおちつかず。案ずるに朝は吾の誤にあらざるか○オモホエテはシノバレテなり(卷六【一〇三二頁及一〇七六頁】參照)○※[口+リ]は叫の俗體なり
 
1406 秋津野に朝ゐる雲の失去者《ウセユケバ》前裳今裳《ムカシモイマモ》なき人おもほゆ
秋津野爾朝居雲之失去者前裳今裳無人所念
 去者を舊訓にユケバとよめるを古義にヌレバに改めたり。こは朝ヰル雲ノウセユクヲ見レバ火葬ノ烟ノウセユキシガ思出サレテ云々といふ意なればなほユケバ(1468)とよむべし(略解古義の説共に非なり)○第四句を舊訓にムカシモイマモとよめるを契沖は『キノフモケフモとよみて今の歎きに合すべきにや』といひ略解古義ともに契沖の改訓に從へり。契沖は新喪と心得てキノフモケフモと改訓したるなれど新喪と見ざるべからざる理由なし。さればなほムカシモイマモとよむべし。さてムカシモイマモは當時ハ勿論今トイヘドモとなり
 
1407 (こもりくの)はつせの山に霞たちたなびく雲は妹にかもあらむ
隱口乃泊瀬山爾霞立棚引雲者妹爾鴨在武
 卷三(五二三頁)にも人麿のよめる
  こもりくのはつせの山のやまのまにいざよふ雲は妹にかもあらむ
といふ歌あり。略解古義に火葬の煙を雲霞に見なしてよめりといへる如し○アラムとアルラムと通用することははやくいひつ(一〇二四頁參照)
 
1408 たはごとかおよづれ言|哉《カ》(こもりくの)はつせの山にいほりせりとふ
枉〔左△〕語香逆言哉隱口乃泊瀬山爾廬爲云
(1469) 哉を古義にヤとよみたれどなほ舊訓の如くカとよむべし〇二三の間〔日が月〕に妹ハといふことを加へて聞くべし。略解にいへる如く泊瀬山に葬られたるをイホリセリといひなせるなり。卷三石田王卒之時丹生王作歌(五〇六頁)にも
  さにづらふ、わがおほきみは、こもりくの、はつせの山に、かむさびて、いつきいますと、玉づさの、人ぞいひつる、およづれか、わがききつる、たはごとか、わがききつるも
とあり○枉は狂を誤れるなり
 
1409 秋山のもみぢ※[立心偏+可]怜《アハレト》うらぶれて入りにし妹はまてど來まさず
秋山黄葉※[立心偏+可]怜浦觸而入西妹者待不來
 ※[立心偏+可]怜を舊訓にアハレトとよめるを略解古義にアハレミに改めたり。なほアハレトとよむべし。來マサズはイデ來マサズなり。これも山に葬りたるをいへるなり○卷二(二九七頁)に人麻呂のよめる
  秋山のもみぢをしげみまどひぬる妹をもとめむ山路しらずも
といへる歌あり
 
1410 世のなかはまこと二代は不往有之《ユカザラシ》すぎにし妹に不相念老《アハヌオモヘバ・アハナクモヘバ》
(1470)世間者信二代者不往有之過妹爾不相念者
 第三句を古義にユカザリシと改め訓みたれどユカヌサウナ(否、來ヌサウナ)といふべき處なれば舊訓の如くユカザラシとよむべし○スギニシはウセニシなリ。結句はアハヌオモヘバ(舊訓)ともアハナクモヘバ(古義)ともよむべし○上三句の意は世中ハゲニ二度來ラズト見ユとなり。ユクはクルといはむにおなじ。卷四(七九一頁)に
  うつせみの代やもふたゆくなにすとか妹にあはずてわがひとりねむ
とあり
 
1411 さきはひのいかなる人か黒髪の白くなるまで妹がこゑをきく
福何有人香黒髪之白成左右妹之音乎聞
 はやく妻を失ひしを嘆く餘に老いぬるまで妻にたぐへる人を羨めるなり
 
1412 吾背子をいづくゆかめと(さき竹の)そがひにねしく今しくやしも
吾背子乎何處行目跡辟竹之背向爾宿之久今思悔裳
(1471) イヅクユカムトといふべきムを調の爲に轉じてメといへるなり。アラムヤをアラメヤといふ類なり○ネシクは寢タ事ガといふ意なり。卷四(八〇一頁)にオモヘリシクとあり。又上(一二七三頁)に玉ヒロヒシクとあり。いにしへ行はれし一つの格なり○略解の譯を補ひて
  夫はいづくへも行かざらむものと思ひきはめて打恨むる事などありしをり後向に寢しことありしがうせにし後の今になりて悔しやと譯すべし
 
1413 (にはつ鳥)かけのたり尾の亂尾《ミダレヲ》の長き心もおもほえぬかも
庭津島可鷄乃垂尾乃亂尾乃長心毛不所念鴨
 上三句は序にてニハツドリは枕辭なり。カケは※[奚+隹]の本名なり。家※[奚+隹]の字音にあらず。鳴聲より出でたる名なり。古事記八千矛神の御歌にもサヌツドリ、キギシハトヨム、ニハツドリ、カケハナクとあリ○亂尾はミダレヲとよむべし(古義にはミダリ〔右△〕ヲとよめり)〇四五は略解に
  ナガキ心とはのどかなる心をいふ。妹が死しよりのどかなる心もなしといふ也
(1472)といへる如し。ユツタリトシタ心モ持タレヌとなり。今の辭に心ヲ持ツといふをいにしへは心ヲ思フといひしなり
 
1414 こもまくらあひまきし兒もあらばこそ夜のふくらくもわがをしみせめ
薦枕相卷之兒毛在者社夜乃深良久毛吾惜責
 古義に『コモマクラはマキの枕詞なり』といへるは非なり。コモ枕ヲ相マクとつづけるなり。マクは枕とする事。アヒマキシ兒モは共ニ枕トシテ寢シ女モとなり〇四五は夜ノ更クルコトモワガ惜マメとなり。畢竟妻ノウセニシ今ハ何ノ樂モナケレバ夜ノ更クル事モ惜マジとなり
 
1415 (玉づさの)妹は珠かも(あしひきの)清き山邊にまけばちりぬる
玉梓能妹者珠氈足氷木乃清山邊蒔散染〔左△〕
 略解に
  宣長云。マケバは上の朝蒔シと同じくて火葬して其灰をまき散す事也。清キ山ベ(1473)といへるも此故なり云々
といへり。所謂散骨なり○染は漆の誤
 
   或本歌曰
1416 (玉づさの)妹は花かも(あしひきの)この山かげにまけばうせぬる
玉梓之妹者花可毛足日木乃此山影爾麻氣者失留
 
   羈旅歌
1417 名兒の海を朝こぎくればわたなかにかこぞ鳴〔左△〕《ヨブ》なるあはれそのかこ
名兒乃海乎朝榜來者海中爾鹿子曾鳴成※[立心偏+可]怜其水子
 力コは舟子なり。鳴は略解に喚の誤とし古義に呼の誤とせり
                     (大正七年十一月二十二日脱稿)
 
(1475)附録
   連體格の代に終止格をつかひたる
 本集に往隱《ユキカクル》島乃埼々、秋山爾|黄反《モミヅ》木葉乃、等里弖久麻弖爾、和可流乎美禮婆など連體格にユキカクルル島ノサキザキ、モミヅルコノハノ、クルマデニ、ワカルルヲミレバといふべきを終止格にいへる又は云へりと認むべき例あり。此等は果して悉く語格學者のいへる如く二段の傍四段にはたらきしなりと定むべきか
 げに今二段活なる(又は當時既に二段活につかへる)語を四段活につかへる例あり。其例左の如し
     隱
  こぎたむる、浦のことごと、往隱《ユキカクル》、島の埼々(卷六過2辛荷島1時作歌)
 隱は連體格にてはカクルルなればユキカクルルとあるべきなれどこゝはユキカクルとよまざるべからず。但卷十四にウマグタノネロニ可久里爲、卷十五にヤソシマ我久里またクモヰ可久里奴とあり又古事記沼河日賣《ヌナカハヒメ》の歌にアヲヤマニ、ヒガ迦久良婆とあれば隱は四段にもはたらきしなり
(1476)     懸
  馬にこそ、ふもだし可久物《カクモノ》、牛にこそ、鼻繩はくれ(卷十六乞食者詠)
 フモダシカクルモノといふべきをカクモノといへると卷二(明日香皇女殯宮時作歌)に御名ニ懸世流《カカセル》アスカ河云々といへるとを思へば懸は四段にもはたらきしなり(四段活ならではカカスとならず。從ひてカカセルとは活かず)
     黄變
  秋山に黄反《モミヅ》木葉乃うつりなば更にや秋を見まくほりせむ(卷八)
  わがやどに黄變蝦手《モミヅカヘルデ》みるごとに妹をかけつつこひぬ日はなし(卷八)
  わがせこがしろたへ衣ゆきふればにほひぬべくも黄變《モミヅ》山|可聞《カモ》(卷十)
  足引の山さなかづら黄變及《モミヅマデ》妹にあはずやわがこひをらむ(卷十)
  こもちやまわかかへるでの毛美都麻※[氏/一]ねもとわはもふなはあどかもふ(卷十四)
 これらもモミヅルコノハノ、モミヅルカヘルデ、モミヅル山カモ、モミヅルマデといふべきなれど卷十九に毛美知多里家利、毛美知阿倍牟可聞とあり又卷八に
  わがやどのはぎの下葉は秋風もいまだふかねばかくぞ毛美照《モミデル》
(1477)とあれば黄變は四段にもはたらきしなり
     忘
  玉ほこの道にいでたち別れこし日よりおもふに忘時無《ワスルトキナシ》(卷十二)
 これもワスルルトキナシとはよまれず。さて忘を四段につかひたる例は卷二十に
  和須良武砥《ワスラムト》ぬゆきやまゆきわれくれどわがちちははは和須例せぬかも
 又日本紀彦火々出見尊の御歌にイモハ和素邏珥《ワスラジ》とあれば今も四段活と認めてワスルトキナシとよむべし(卷二十の歌の結句は二段活なる、注目すべし)
 右の外觸、留、馳などもイソニ布理、等々尾《トドミ》カネ、コマヲ波佐世※[氏/一](又イハバシを石走と書けり)などつかひたれど此論に要なければくはしくは述べず
 かく今二段活なる(又は當時既に二段活につかへる)語を四段につかへる例あれば
  取與、物しなければ(卷二)
  取委、物しなければ(同)
  ころもでの別今夜從(卷四)
  黒馬來夜者(同)
(1478)  黒馬之來夜者(卷十三)
  田立羸きみはかなしも(卷七)
  にひむろを蹈靜子之(卷十一)
  まつら舟、亂穿江之(卷十二)
 これらもトリアタフ、トリマカス、ワカルコヨヒユ、クロマノクヨハ、田ニタチツカル、フミシヅム子ノ、ミダルホリ江ノとよみて四段活につかへるなりとせむか。又は各句の言數を超えてアタフル、マカスル、ワカルル、クル、ツカルル、シヅムル、ミダルルとよむべきか。集中に假字書にせる例に
  耆矣奴《オイハテヌ》わが身ひとつに(卷十六)
  伊波流毛能から(卷十四)
  いはず伎奴可母(卷二十)
  こよて伎怒加牟(同)
  安良波路|萬代《マデ》も(卷十四)
  かひり久麻弖に(卷二十)
(1479)  とりて久麻弖に(同)
  かへり久麻低に(同)
  ゆきて久麻弖と(同)
  和可流乎みれば(同)
  なきしぞ母波由(同)
  おきてぞ伎怒也(同)
 などある(初一首の外は皆東歌又は防人の歌なり)を見ればなほ言數のまゝにトリアタフ、トリマカス、ワカルコヨヒユ、クロマノク夜ハ、田ニタチツカル、フミシヅム子ノ、ミダルホリ江ノとよむべきなり。然もかの隱、懸、黄變、忘などの如く四段にも活ききといふ證なければ率爾に四段活につかへるなりとは認むべからず
 返りて思ふに集中にカモをもて形容詞を受けたるに
  極此疑《コゴシカモ》(卷三)
  許其之《コゴシ》可毛(卷十七)
  久夜斯可母(卷五)
(1480)  事乏可母(卷八)
  多頭多頭思鴨(卷十一)
といへる例あり。これらは連體格にコゴシキカモ、クヤシキカモ、トモシキカモ、タヅタヅシキカモといふべきを終止格にいへるなり。之を思へばいにしへ連體格を用ふべき場合に終止格をつかふ事ありしなり〔二十八字傍点〕
 卷六過2辛荷島1時作歌に
  許伎多武流、浦のことごと
といふ句あり。余は新考(一〇五二頁)に
  コギタムルはコギメグルなり。但オキツ島コギタム舟ハ、武庫ノ浦ヲコギタム小舟などいへる例によればこゝもコギタム浦ノコトゴトとありて然るべきなり
といひき。然るに右の『いにしへ連體格を用ふべき場合に終止格をつかふ事ありしなり』といふ發明によりてコギタムルとコギタムとの關係をも明にすることを得き。即オキツ島コギ囘《タム》舟は(卷三)ムコノ浦ヲコギ轉《タム》小舟(同)はコギタムル舟ハ、コギタムル小舟といふべきを連體格の代に終止格をつかひてコギタムといへるなり。さて卷一に(1481)コギ多味ユキシ棚ナシ小舟とあるを思へば囘《タム》は上二段にはたらく語なり。但卷三(四八五頁)にミヌメノ埼ヲコギ廻者とあるをタメバとよまば四段にもはたらきしものとすべし
 タムルとタムとの關係にひとしきはククルとククとの關係なり。即卷八に
  足引の許乃間立八十一《コノマタチクク》ほととぎすかくききそめて後こひむかも
 又卷十七に
  はるの野の、しげみとび久久、うぐひすの云々
とあるは卷四に枕ユ久久流ナミダニゾとあると同語にてタチククルホトトギス、トビククルウグヒスといふべきを連體格の代に終止格を用ひてタチクク、トビククといへるなり。先哲がククルとククとを別語とせるは誤れり。さて古事記に自2手俣《タナマタ》1漏出《クキデテ》【訓漏云久岐】また自2我手俣1久岐斯子也とあるを見ればククルも亦上二段にはたらく語なり(大正七年九月三日稿)
 更に進みて臆説を述べむに連體格の代に終止格をつかひたる例は枕辭には頗多し。たとへば釧著《クシロツ》クル手節《タブシ》といふべきをクシロツクタブシノ崎ニといひ、掻數フル二《フタ》と(1482)いふべきを可伎加蘇布フタガミヤマニといひ、眞玉|著《ツ》クル緒といふべきをマタマツクヲチコチカネテなどいひ、百ニ足ラヌ八十といふべきをモモタラズ八十ノチマタニなどいひ、名グハシキ狹岑ノ島といふべきを名細之《ナグハシ》サミネノ島ノといひ、花グハシキ櫻といふべきを波那具波辭《ハナグハシ》サクラノメデといへり(この名グハシ狹岑ノ島、花グハシ櫻はかのナガナガシ夜、カナシ妹、オナジ人などと同視すべからず。此等の語の如く一語となれるにあらねばなり)。冠辭考などに就いて點檢せば此類なほ多く出來べし。又右の例の東歌及防人の歌に多きは既に本論にいへる如し
 かく連體格の代に終止格をつかへる例の特に枕辭并に邊土の歌即太古の遺風を見つべきものに多きを思へば太古には語法も後世の如く精細ならざりしを時遷りてやうやう連體格をつかふべき場合の定まりしにはあらざるか
 又案ずるにいにしへ終止格を受けし辭の世下りて連體格を受くるやうになりしものあり。見ユ、ガニなど然り。此間題につきては學者の研究すべき事多かるべし。我も研究せむ。人も研究せよ(十月十二日追記)
            1995年2月7日(火)午後7時12分入力終了。
            2004年12月22日(水)午後2時21分、修正入力終了。
            2005年4月6日(水)午後12時50分、校正終了
 
 
(1483)萬葉集新考卷八               
                    井上通泰著
  春雜謌
   志貴皇子懽(ノ)御歌一首
1418 (いはばしる)たるみの上のさわらびのもえいづる春になりにけるかも
石激垂見之上乃左和良妣乃毛要出春爾成來鴨
 三註共にタルミを地名としたれどタルミは卷七(一二六八頁)にいへる如く瀧の事なり。タルミノウヘは瀧の上の山なり○蕨のもえいづるに托して御運の開けし喜をうたひ給へるなり
 
   鏡王女歌
1419 かむなびのいはせの杜のよぶ子鳥いたくななきそわがこひまさる
(1484)神奈備乃伊波瀕乃杜之喚子鳥痛莫鳴吾戀益
 鏡王女の事は卷四(六一九頁)にいへり。ヨブコ鳥はカンコ鳥なり○カムナビノイハセノモリは古義に『大和國平群郡にあリ』といひ龍田考(四二丁)に
  磐瀬(ノ)杜は今の龍田川(○鹽田川)の川下、眞の神南備の三室の山本にかゝるところ川の東傍に松の老木ども村立殘れる森を今も土人の普く岩瀬(ノ)杜といふなるこれ則古歌の趣にもよくかなひたり
といへり〇四五の間〔日が月〕に汝ガ聲ヲキケバといふことを省きたるなり
 
   駿河采女歌一首
1420 沫雪かはだれにふると見るまでにながらへちるはなにの花ぞも
沫雪香薄太禮爾零登見左右二流倍散波何物花其毛
 ハダレについて契沖は
  ハダレはマダラなり。第十と第十九とには雪をハダレとのみもよめり。又第十にハダレ霜フリともよめれば雪に限る言にもあらず(1485)といひ雅澄は
  雪のはなればなれに散て降よしなり
又(古義卷四の八八丁)
  集中雪の歌にホドロともハダレとも通はしよめる、ダとナと又殊に親く通へばホドロ、ハダレ、ハナレは皆|全《モハラ》同言なり
といひ久老の信濃漫録(六丁)こには
  ハダはハナと通言にして……そのハナ、ハダは初をいふ言にて……雪の次第にふり積るべき始にふれる雪をハダレ雪、霜の次第にふり覆ふべき始に置わたしたるをハダレ霜とはいふなるべし。下のレはすべてふるものにつけていふ言葉なり。今も北國の方言に雪のはじめてふりつもれるをハダレ雪といへり
といひ守部の鐘の響(六八丁)には
  雪はもはら沫のむらがれたるさまにしていともやはらかにはららぎやすき物なれば其形に就てハダレ雪とはいひつづけけるが體語となりつるからただハダレとのみもいひし也。……ハララと同言なり。……故《カレ》雪のみならず霜にも(1486)よめり
といへり。案ずるにハダレはマダラとおなじくて梵語マンダラの音義共に轉ぜるならむ。而して雪といはで、ただハダレとのみもいふはなほサミダレノ雨、サザレ石を略してサミダレ、サザレといふが如くなるべし○ナガラフルはまたナガルルといふ。空より物の降ることなり(卷五【八九八頁】參照)
 
   尾張(ノ)連《ムラジ》(ノ)歌二首 名闕
1421 春山の開乃乎爲黒〔二字左△〕爾《サキノヲヲリニ》春菜《ハルナ》つむ妹がしら紐みらくしよしも
春山之開乃乎爲黒爾春菜採妹之白紐見九四與四門
 第二句について略解に
  翁(○眞淵)の云。乎爲黒は乎烏里の誤也。卷六ハルベニハ花咲乎遠里といふに同じ。といはれき。されど此歌にてはヲヲリは叶へりともきこえず。宣長云手鳥里の誤にて開は崎の借字なるべしといへり。……サキノタヲリは山の崎のたわみたる所をいへれば宣長説に從ふべき也
といへり。眞淵の説に從ふべし。春山ノ花ノサキヲヲレルニといふ意なり。花といふ(1487)べきを略せるは三和山ハイマダフフメリ、三笠ノ山ハサキニケルカモなどと同例なり。さて黒を里の誤とするについては反對せる人なけれど爲を烏の誤とするについては木村博士は異論を唱へたり。即博士は集中よりヲとよむべき處に爲の字を書ける五例を擧げて
  かくいくらもある爲を皆烏の誤とはいひがたし。按にこは爲にヲの音ありてやがて其音を用ゐたるなるべし。……爲をヲとよぶは意字愛字にオ、以字にヨの音あるたぐひ也云々
といへり(字音辨證上卷八頁)○春菜は字のまゝにハルナとよむべし(舊訓及略解にはワカナとよめり)○ミラクシヨシモは近くは卷七(一三四一頁)にイモセノ山ヲミラクシヨシモとあり。見ルニ興アリといふ意なり
 
1422 (うちなびく)春きたるらし山のまの遠きこぬれの開往《サキユク》みれば
打靡春來良之山際遠木末乃開往見者
 結句は舊訓にサキユクミレバとよめるを略解にサキヌルミレバに改めたり。卷十八に
(1488) ふぢなみの佐伎由久みればほととぎすなくべきときにちかづきにけり
とあればなほサキユクとよむべし○トホキコヌレは俗語にていはば木ノテッペンなり。卷十に
  うちなびく春さりくらし山のまのとほきこぬれのさき往みれば
とありてそのトホキコヌレは最木末と書けり。古義に『花の木のつぎつぎにさきゆくを見れば云々』といへるは誤解せるなり。一樹についていへるなり
 
   中納言阿倍(ノ)廣庭卿歌一首
1423 こぞの春いこじてうゑしわがやどの若樹の梅は花さきにけり
去年春伊許自而植之吾屋外之若樹梅者花咲爾家里
 イコジテは契沖が
  イは發語の詞(○余のいふ添辭)コジテは掘テなり
といへる如し
 
   山部宿禰赤人歌四首
(1489)1424 春の野にすみれつみにとこし吾ぞ野をなつかしみ一夜ねにける
春野爾須美禮採爾等來師吾曾野乎奈都可之美一夜宿二來
 スミレは今いふスミレ即スマウトリ草なり。景樹はレンゲなりといへれどレンゲはおそらくは近き昔に外國より渡りしものならむ○略解に『菫つむは衣摺ん料なるべし』といへる如し。野ヲナツカシミは野ガシタハシサニとなり
 
1425 (あしひきの)山櫻花日ならべてかくさきたらば甚《イト》こひめやも
足此奇乃山櫻花日並而如是開有者甚戀目夜裳
 日ナラベテはアマタ日ヲ重ネテなり。サキタラバはサキテアルナラバとなり○甚を略解にイタモとよめり。イトをいにしへイタともいひしかどこゝはモとよむべき字なし。さればイトコヒメヤモ又はイタコヒメヤモとよむべし
 
1426 わがせこに見せむともひし梅の花それとも見えず雪のふれれば
吾勢子爾令見常念之梅花其十方不所見雪乃零有者
 ワガセコは友をいふと略解にいへる如し
 
(1490)1427 あすよりは春菜《ハルナ》つまむとしめし野にきのふもけふも雪はふりつつ
從明日者春菜將採跡※[手偏+栗]〔左△〕之野爾昨日毛今日毛雪波布利管
 
   草香山(ノ)歌一首
1428 (おしてる) 難波をすぎて (うちなびく) 草香の山を ゆふぐれに わがこえくれば 山もせに さける馬醉木《アセミ》の 不惡《ニクカラヌ》 君をいつしか ゆきてはや見む
忍照難波乎過而打靡草香乃山乎暮晩爾吾越來者山毛世爾咲有馬醉木乃不惡君乎何時往而早將見
    右一首依2作者(ノ)微(ナルニ)1不v顯2名字1
 草香山は即生駒山にて大和河内兩國に跨れり(卷六【一〇八七頁及一〇九一頁】參照)○山モ狹ニは山一面ニとなり。アセミは今もアセミ(又アセビ又アセボ)といひて白き花のむらがりて穗にさくものなり。現に奈良などにはいと多く生ひたり(卷二【二二〇頁】參照)〇(1491)サケルアセミノはアセミゾサケル、ソノアセミノといふべきをつづめたるなり○不惡を古義にアシカラヌと改訓せるはわろし。なほニクカラヌとよむべし。卷七(一四六一頁)にもウミノ玉藻ノ憎者《ニククハ》アラヌヲとあり。ニクカラヌといへばやや水くさく聞ゆれど實はカハユシといふにかはらぬなり○ユキテはこゝにてはカヘリテなり
   櫻花歌一首并短歌
1429 をとめらが かざしのために みやびを之《ガ》 かづらのためと △しきませる 國のはたてに さきにける 櫻の花の にほひはもあなに
※[女+感]嬬等之頭挿乃多米爾遊士之※[草冠/縵]之多米等敷座流國乃波多弖爾開爾鶏類櫻花能丹穗日波母安奈何〔左△〕
 タメニとタメトとをむかはせたるに注意すべし。ニとトとはいにしへ通用せしなり。さてタメトは句を隔てゝサキニケルにかかれるなり○代匠記に
(1492)  シキマセル此句の上には二句ばかり落たる歟。……試に補て云はばヤスミシシワガオホキミノなるべし
といへり○ハタテは果なり。古義に
  國の中央はいふまでもなし極《ハテ》までもといふほどの心なるべし
といへり○ニホヒは色なり。アナニはメデタヤとなり。略解に
  紀に妍哉をアナニヱヤとよめる如くほめいへるなり
といへり○何は諸本に尓とあり
 
   反謌
1430 こぞの春あへりし君にこひに手師〔二字左△〕《シヲ》さくらの花は迎來《ムカヒク》らしも
去年之春相有之君爾戀爾手師櫻花者迎來良之母
     右二首若宮(ノ)年魚《アユ》麻呂誦v之
 略解に
  宣長は右の長歌は脱句有て春山を人の越行事の有しなるべし。さて此反歌に迎(1493)とはよめる也。然らざれば迎といふことよしなしといへり。さも有べし
といひ古義に
  戀爾手師は思ふに師は伎(ノ)字を草體より誤れるものにてコヒニテキなるべし。迎來良之母はムカヘケラシモと訓むべし。待迎ヘケルラシの謂なり
といへり。案ずるにコヒニテシとはいふべからざる辭なり(コヒニシ又コヒテシとこそいふべけれ)。おそらくは戀爾手師は戀爾師乎の誤ならむ○次に結句について云はむに卷一(七八頁)に馬ナメテ御獵タタシシ時ハ來向とあるにて思へば櫻ノ花ノサク時ガムカヒ來ルサウナといへるなるべし。さらば迎はムカヒとよむべし。迎は古書にムカヒにも借れり〇一首の意は
  去年ノ春櫻ノモトニテ逢ヒシ君ニ我ハ戀ヒニシヲ今年又櫻ノサクべキ時ニナリヌ
といへるならむ
 
   山部宿禰赤人歌一首
1431 くだら野のはぎの古枝に春まつと居之《ヲリシ》うぐひすなきにけむかも
(1494)百済野乃芽古枝爾待春跡居之※[(貝+貝)/鳥]鳴爾鶏鵡鴨
 百済野は卷二(二七六頁)なる人麿の長歌に見えたるクダラノ原におなじ。今の北葛城郡のうちなり○居之は略解の一訓の如くヲリシとよむべし。古義に來の字を補ひてキヰシとよめるはわろし。一時とまりゐし意にあらざればなり
 
   大伴(ノ)坂上《サカノヘ》(ノ)郎女柳歌二首
1432 わがせこが見らむ佐保ぢの青柳を手折りてだにもみむ綵〔左△〕《ヨシ》もがも
吾背兒我見良牟佐保道乃青柳乎手折而谷裳見綵欲得
 古義に『吾は太宰府にありて行て見る事もかなはざれば云々』と釋せる如し。略解に次の歌の處に『是は太宰府に在てよめるなるべし』といへるは非なり。二首共に太宰府にてよめるなり○ワガセコといへるは親しき男なり。おそらくは一族中の人ならむ。郎女の本家は佐保にありしなり。卷六に大伴坂上郎女與d姪家持從2佐保1還c歸西宅u歌あり又下にも佐保宅作とあり。郎女が太宰府にありしは夫の無かりし程なる事卷四(八〇九頁)にいへる如し。さればワガセコといへるは夫にあらず○佐保ヂは(1495)奈良より佐保へ行く路なるべし(但佐保の路をもサホヂといひつべし。卷五【九三六頁】奈良遲を見よ)○第四句は正しくはヲラセテダニモ、タヲラセテダニなどいふべし。手折而は令折而の誤にてもあるべし。結句の綵は契沖のいへる如く縁の誤なり
 
1433 (打上《ウチノボリ》)佐保の河原のあをやぎは今は春べとなりに※[奚+隹]類〔左△〕鴨《ケムカモ》
打上佐保能河原之青柳者今者春部登成爾鶏類鴨
 打上は舊訓にウチアグルとよめるを契沖眞淵はウチノボルに改めたり。雅澄は
  ウチアグルと訓べし。……又はウチノボルとも訓べきにや
といへり。ウチノボルとよみて准枕辭とすべし○結句はナリニケムカモとあらではかなはず。されば類は誤字なり
 
   大伴宿禰三林〔左△〕梅歌一首
1434 霜雪もいまだすぎねばおもはぬにかすがの里に梅の花みつ
霜雪毛未過者不思爾春日里爾梅花見都
 略解に三林は三依の誤歟といへり○スギネバは過ギヌニなり。ネバは古く、ヌニは(1496)新しくて當時は並び行はれしなり。たとへば卷二なる人麿の長歌(二七六頁)に
  嘆も、いまだすぎぬに、おもひも、いまだつきねば云々
とあり。さてそのスギヌニは降止マヌニとなり
 
   厚見王歌一首
1435 かはづなくかむなび河にかげみえて今哉さくらむ山ぶきの花
河津鳴甘南備河爾陰所見今哉開良武山振乃花
 他處に居て想像せるなり。甘南備河にてよめるにあらず。この歌のカムナビ河はいづくにか知りがたし。六人部是香は龍田川の事とせり(龍田考三七丁)○カハヅナクは准枕辭なり○今哉は諸本に今香とあり
 
   大伴宿禰村上梅歌二首
1436 ふふめりといひし梅がえけさふりし沫雪にあひてさきぬらむかも
含有常言之梅我枝今旦零四沫雪二相而將開可聞
 古人は雪がふれば梅花が促されてさくやうに思ひしならむ。下にも沫雪ニフラエ(1497)テサケル梅ノハナ云々といふ歌あり
 
1437 (かすみ立《タツ》)かすがの里の梅の花山下風《ヤマノアラシ》にちりこすなゆめ
霞立春日之里梅花山下風爾落許須莫湯目
 初句はカスミタツとよむべし(略解にはカスミタチとよめり)。枕辭なり。今霞がたてりとにはあらず○山下風を略解古義共にアラシノカゼとよみたれど(和名抄に孫※[立心偏+面]云、嵐山下出風也、和名阿良之とあるによれるなり)卷一(一一五頁)に
  みよし野の山下風のさむけくにはたやこよひもわがひとりねむ
 卷十に
  あしひきの〔五字傍点〕山下風はふかねども君なきよひはかねてさむしも
とあるを共にヤマノアラシとよみてこゝのみアラシノカゼとよむべきにあらず。否山下風と書きて或はヤマノアラシとよませ或はアラシノカゼと訓ますべきにあらず。さればこゝもヤマノアラシとよむべしさてその山は即春日山なり○チリコスナは散ツテクレルナとなり
 
   大伴宿禰駿河麻呂歌一首
(1498)1438 かすみ立《タツ》かすがの里のうめの花はなにとはむとわがもはなくに
霞立春日里之梅花波奈爾將問常吾念奈久爾
 上三句、前の歌とひとしければ打見には和歌かともおぼゆれど歌の意を案ずるにさにはあらず。ただ上三句の相ひとしきによりて並べ擧げたるならむ(さらずは相聞の部に收むべきなり)○上三句は序なり○ハナニを契沖以下アダニの意とせり。即契沖は
  あだなる意にて人を問はむとは思はずとなり
といひ宣長は
  花ニトフとははなばなしくあだにとふ意也。卷廿マヒシツツキミガオホセルナデシコガハナノミトハムキミナラナクニといふと同じ
といひ雅澄は
  ハナニトハムトはアダニ問ハムトと云が如し。ハナは集中にシラガツク木綿ハ花物また人ハハナ物ゾなどよめる花物もはなばなしくあだなる物をいへり。ここもそのハナなり。廿卷にマヒシツツ……とあるも同じ
(1499)といへり。案ずるにハナニは副詞にてげにアダニといふにおなじ(卷二十なるハナノミはハナノミヲなり)。はやく卷七(一四二八頁)に
  いきのをにおもへる吾を山ぢさのはなにか君がうつろひぬらむ
とあり、下にも
  風まじり雪はふるとも實に不〔左△〕成《ナラム》わぎへの梅をはなにちらすな
とあり〇一首の意はアダアダシキ心ニテ妻ドヒセムトハワガ思ハヌコトヨといへるなり
 
   中臣朝臣|武良自《ムラジ》歌一首
1439 時は今は春になりぬとみ雪ふる遠山邊爾〔左△〕《トホヤマノヘモ》かすみたなびく
時者今者春爾成跡三雪零遠山邊爾霞多奈婢久
 第四句を舊訓と古義とにはトホキヤマベニとよみ略解にはトホヤマノヘニとよめり。略解に從ふべし。山邊を遠しといへるにあらねばなり。但爾はおそらくは毛などの誤なるべし
 
(1500)   河邊朝臣|東人《アヅマビト》歌一首
1440 春雨のしくしくふるに高|圓《マト》の山の櫻は何如有良武《イカニカアルラム》
春雨乃敷布零爾高圓山能櫻者何如有良武
 シクシクニは頻ニなり。結句は舊訓三註共にイカニアルラムとよみたれど卷四(八〇〇頁)なる何如將爲《イカニカモセム》人目シゲクテ、卷七(一四〇九頁)なるオモフココロヲ何如裳勢武《イカニカモセム》の如くカに當る字なくてもイカニカとよむべし○略解に『花の長雨にうつろはん事をおもふ也』といへるよりは古義に『此頃いかにかあるらむ、今はさき出ぬらむ云々』と釋せる方に心引かる
 
   大伴宿禰家持※[(貝+貝)/鳥]歌一首
1441 うちきらし雪はふりつつしかすがにわぎへの苑にうぐひすなくも
打霧之雪者零乍然爲我二吾宅乃苑爾※[(貝+貝)/鳥]鳴裳
 ウチキラシは後のカキクラシにおなじ。シカスガニは然雪ハ降レドとなり(一四六一頁參照)
 
(1501)   大藏少輔|丹比《タヂヒ》(ノ)屋主(ノ)眞人歌一首
1442 難波べに人のゆければおくれててゐ春菜つむ兒をみるがかなしさ
難波邊爾人之行禮波後居而春菜採兒乎見之悲也
 兒は若き女、人はその女の夫なり。ユケレバはユケルニ、オクレヰテは跡ニ殘リテなり○カナシサを悲也と書けるは卷七(一二四二頁)にサヤケサを清也と書けると同例なり
 
   丹比(ノ)眞人乙麻呂歌一首
1443 かすみたつ野のへの方にゆきしかばうぐひすなきつ春になるらし
霞立野上乃方爾行之可波※[(貝+貝)/鳥]鳴都春爾成良思
 ヌノヘは即野邊なり○ユキシカバは後世のユキシニなり。卷三(三二九〇頁)なる
  やきつべにわがゆきしかば駿河なるあべの市路にあひしこらはも
 卷七(一三三七頁)なる
  たまくしげみもろと山をゆきしかばおもしろくしていにしへおもほゆ
(1502)のユキシカバにおなじ
 
   高田女王歌一首
1444 やまぶきの咲有野邊乃《サケルヌノヘノ》つぼすみれこの春の雨にさかりなりけり
山振之咲有野邊乃都保須美禮此春之雨爾盛奈里鷄利
 第二句は舊訓三註ともにサキタルヌベノとよめれどサケルヌノヘノともよむべし。さてヤマブキノサケルは野ノヘの裝飾にいへるのみ○ツボスミレは一種の名にあらず。すみれの花を形容してツボスミレともいひしなり。ツボの義は未明ならず。契沖の説にすみれの花は下の方に圓くて壷の如くなる處あればツボスミレとはいふなりと云へり
 
   大伴坂上郎女歌一首
1445 風まじり雪はふるとも實に不〔左△〕成《ナラム》わぎへの梅をはなにちらすな
風交雪者雖零實爾不成吾宅之梅子花爾令落莫
 卷五(九六六頁)貧窮問答歌に
(1503)  風まじり、雨ふる夜の、雨まじり、雪ふる夜は云々
とあり○ハナニは上(一四九八頁)にいへる如くアダニなり。即イタヅラニなり。古義に花ノミニテと譯せるは非なり○第三句の不成を舊訓三註共に字のまゝにナラヌとよめれどさては意通せず。不を將の誤としてミニナラムとよむべし
 
   大伴宿禰家持養〔左△〕※[矢+鳥]歌一首
1446 春の野にあさるきぎしの妻戀におのがあたりを人にしれつつ
春野爾安佐留※[矢+鳥]乃妻戀爾己我當乎人爾令知管
 義※[矢+鳥]は諸本に春雉とあるをもて正すべし○第三句は妻ヲ戀ヒテナク聲ニの意なり○人ニシレツツのシレはシラレの約かと思ふに本に人爾令知〔二字左△〕管とかけり。シラレならば所知とあるべきなり。代匠記に
  令知をシレとよむ事不審なり。シレはシラレなれば所知とぞ書ぬべき。但第十三の長歌の中にも人不令知(○人不令知モトナヤコヒムイキノヲニシテ)と書るをヒトシレズと點ぜり。知らしむる故に知らるゝ意にかくも書にや
といひ略解に
(1504)  シレツツはシラシメツツをつづめいふ也
といへり。シラセツツの約とすべきか
 
   大伴坂上郎女歌一首
1447 よのつねにきくはくるしきよぶ子鳥こゑなつかしき時にはなりぬ
尋常聞者苦寸喚子鳥音奈都炊時庭成奴
    右一首天平四年三月一日佐保宅作
 契沖が
  ヨノツネとは春ならぬ他時なり。此歌喚子鳥のいつも鳴く證なり
といへる如し○さてクルシキを釋して代匠記に
  キクハクルシキはキキグルシキにてキキニクキなり。見にくきを見苦シと云が如し
といひ古義に
  キクハクルシキはキカマウキといふ意なり。俗にキキトモナイと云に同じ
(1505)といへるは非なり。クルシキは後世のワビシキなり。クルシクモフリクル雨カなど皆然り。ここにてはナツカシキのうらなり
 
  春(ノ)相聞
   大伴宿禰家持贈2坂上家之大孃1歌一首
1448 わがやどにまきしなでしこいつしかもはなに咲奈武《サキナム》なぞへつつみむ
吾屋外爾蒔之瞿麦何時毛花爾咲奈武名蘇經乍見武
 第四句の咲奈武を舊訓にサカナムとよめるを契沖は難じて
  六帖にもサカナムとあれどサカナムは願ふ詞なればイツカと云にかけあひがたき歟。サキナムと點じ換べきにや
といひ古義に之を敷衍して
  すべて希ふ意のナムの上のかゝりはゾヤ何等の辭をおくこといにしへに例なきことなり。十七にホトトギスキナカムツキニイツシカモハヤク奈里ナムと云(1506)るをも思合すべし。しかるを後撰集にイツシカサクラハヤモサカナム、拾遺集にイツシカモツクマノマツリトクセナムなど上にイツシカといひて希ふ意のナムにて受けたるはいにしへにたがへり
といへり。案ずるに咲奈武は契沖雅澄の説の如くサキナムとよむべく、さてイツシカモ花ニサキナムはハヤ咲ケカシと譯すべし。イツ鳴カウカと疑ふ時もハヤ鳴ケカシと願ふ時も共にイツカ來ナカムといふを思ふべし。(願ふ意の時といへどもイツカ來ナカナムとは云はず)、疑ふ意の時も願ふ意の時も承くる辭はかはらぬなり。後撰拾遺なるはイツシカをハヤモ、トクを強むる辭のやうにつかへるなり。萬葉時代には例なき事なれどこれも一種の語法と認むべし○ハナニは花トなり。ナゾヘはヨソヘなり。四五の間〔日が月〕にサキナバ妹ニといふことを補ひて聞くべし
 
   大伴田村家之大孃與2妹坂上大孃1歌一首
1449 つばなぬく淺茅が原のつぼすみれ今盛なりわがこふらくは
茅花拔淺茅之原乃都保須美禮今盛有吾戀苦波
 上三句はイマサカリナリの序、ツバナヌクは淺茅ガ原の准枕鮮なり。カハヅナクカ(1507)ムナビ川のカハヅナクにおなじ。コフラクは戀フル事ハとなり
 
   大伴宿禰△△△2坂上郎女1歌一首
こころぐきものにぞありける春がすみたなびく時に戀のしげきは
1450 情具伎物爾曾有鷄類春霞多奈引時爾戀乃繁者
 題辭の宿禰の下に家持贈の三字をおとせるなる事略解にいへる如し○ココログキははやく卷四に二處(七九二頁及八三一頁)見えたり。ジレッタイ、シンキナなどいふ意とおぼゆ
 
   笠女郎贈2大伴家持1歌一首
水鳥の鴨の羽色の春山のおぼつかなくもおもほゆるかも
1451 水鳥之鴨乃羽色乃春山乃於保束無毛所念可聞
 上三句は序、又其中にて初二は春山の形容なり。さて春山をオボツカナシの序としたるは春山は霞かゝりてさやかならぬ物なればなり。オボツカナシは心の晴れやらぬなり
 
(1508)   紀女郎歌一首
1452 やみならばうべも來まさじ梅の花さけるつく夜にいでまさじとや
闇夜有者宇倍毛不來座梅花開月夜爾伊而〔左△〕麻左自常屋
 第二句は來マサザラムモ道理ナりと云へるなり。イデマサジトヤは來マサジトヤなり。上に來マサジといひたれば辭を換へたるのみ○而は誤字か。但下にもミセム麻而爾波、アフトキ麻而波とあり
 
   天平五年癸酉春閏三月笠(ノ)朝臣|金村《カナムラ》贈2入唐使1歌一首并短歌
1453 (玉だすき) かけぬ時なく いきのをに わがもふきみは (うつ蝉の) △ みことかしこみ 夕されば たづがつまよぶ 難波がた 三津の埼より 大舶に まかぢしじぬき 白浪の たかき荒海《アルミ》を 島づたひ いわかれゆかば とどまれる 吾はぬさ引〔左△〕《トリ》 いはひつつ きみをば將往〔左△〕《マタム》 はやかへりませ
玉手次不懸時無氣緒爾吾念公者虚蝉之命恐夕去者鶴之妻喚難波方三(1509)津埼從大舶爾二梶繁貫白浪乃高荒海乎島傳伊別往者留有吾者幣引齊乍公乎者將往早還萬世
 題辭の閏はウルヒとよむべし。貫之集にウルヒサヘアリテユクベキ年ダニモ云々
とあり。後の書にウルフ月と書ける
  古今集春下サクラ花春クハハレルといふ歌の詞書の閏月は古寫本に漢字にて閏月と書けりや假字にてウルフ月と書けりや知らまほし
 もしウルヒ月の音便ならばウルウ〔右△〕月と書くべきなり。否こは閏《ウル》フ月とウルフを動詞のまゝにて用ひたりとも見らるべけれどただ閏といはむは必ウルウ〔右△〕と書かでは正しからざるに似たり。然らばウルフと書けるは信友等のいへる如く誤なりやといふに輕々しく然りとはいふべからず。かのカギロヒをカゲロフと書きスマヒをスマフと書きムカヒをムカフと書く類あるを見ればウルヒテをウルウテ、カゲロヒテをカゲロウテ、スマヒテをスマウテ、ムカヒテをムカウテと書く類とは別にてヒの音をフに轉じても唱へしなるべし。さればウルヒと書くが正しきはいふ迄も無けれど、ウルフと書けるをひたぶるに誤として斥くべからず
(1510) カケヌ時ナクは心に懸ケヌ時ナクなり。イキノヲニは近くは卷七(一四二八頁)にもイキノヲニオモヘル吾ヲ云々とあり。大事ニといふことと思はる○契沖の説にウツセミノの下に世ノ人ナレバオホキミノの二句を落せりといへり。之に從ふべし○イワカレのイは添辭なり○幣引の引は略解に『取の字の誤なるべし』といへり。イハヒツツは神ヲ祭リツツなり○將往は將待の誤ならむと契沖いへり
 追考 所藏の鎌倉時代の書寫とおぼゆる古今集にはウルフ月と書けり
 
   反歌
1454 波の上ゆみゆる兒島の雲隱《クモゴモリ》あないきづかし相別去者《アヒワカレユケバ》
波上從所見兒島之雲隱穴氣衝之相別去者
 兒島は代匠記、略解に備前の兒島なりといへれど兒島と書けるは借字にて實は小島なり。而して其小島は古義に『何地にある島とも定めがたし』といへる如し○雲隱は從來クモガクリとよめれど小島の方よりいへる辭なれば(下にいふべし)クモゴモリとよまではかなはず。さてそのクモゴモリは雲ニコモリテといふことなるをちぢめて一語とし又テを略せるなり○イキヅカシはおのづから息づきせらるゝ(1511)にてナゲカハシといはむにひとし○相別去者を舊訓にアヒワカレナバとよめるを略解に
  アヒワカレナバとよめばイキヅカシカラムといはではかなはず
といひてアヒワカレイネバとよみ古義には又アヒワカレナバとよめり。案ずるにアヒワカレナバとよむべからざる事勿論なれどアヒワカレイネバともよむべからず。イヌは變格にてイヌレバといひてイネバといはざればなり。さてこゝはアヒワカレユケバとよむべし。長歌にもイワカレ往者とあり。義門の活語雜話三編の説は非なり○卷七(一四四七頁)にミゴモリニイキヅキアマリ云々とあり卷十四に
  あぢのすむ須沙のいり江のこもりぬのあないきづかしみず久にして
とあるに合せて思へば上三句はアナイキヅカシの序なり。されば一首の意はただ相別レユケバアナイキヅカシといへるなり。さて何故に波ノ上ユミユル兒島の雲ゴモリをアナイキヅカシの序とせるかといふに雲にこもれば息がつまるによりてなり
 
1455 (たまきはる)命にむかひこひむゆはきみがみ船の梶|柄《カラ・ツカ》にもが
(1512)玉切命向戀從者公之三舶乃梶柄母我
 卷四(七六二頁)に
  ただにあひて見てばのみこそたまきはる命にむかふわが戀やまめ
とあり。イノチニムカヒは命ニ匹敵スル程ニといふ意なり。コヒムユハは戀ヒムヨリハなり○梶柄は舊訓にカヂカラとよめり。契沖は『太刀の柄《ツカ》、鎌柄《カマツカ》の例を思へばカヂツカともよむべきか』といひ雅澄は『弓束といふ例によらばカヂツカともいふべきものなり』といへり。いづれともよむべし。寧君ガ御船ノ梶ノ柄トナリテ君ニタグヒ行カマシといへるなり
 
   藤原朝臣廣嗣櫻花(ヲ)贈2娘子1歌一首
1456 此花の一よの内に百種《モモクサ》の言ぞこもれるおほろかにすな
此花乃一與能内爾百種乃言曾隱有於保呂可爾爲莫
 契沖は『一與とは今按葩を云歟』といひ千蔭は『一ヨは一瓣の事をかくいふなるべし』といへり〇三四はモモクサノ言ヲゾコメタルと直して心得べし。即御身ニ語ラマホシキサマザマノ言ヲ込メオキタリとなり。オホロカニスナは粗末ニスナ、大切ニ(1513)セヨとなり
 
   娘子和歌一首
此花の一よのうち波〔左△〕《ニ》ももくさの言もちかねて所折《ヲレニ》けらずや
1457 此花乃一與能裏波百種乃言持不勝而所折家良受也
 波は爾などの誤なるべし○所折を從來ヲラレとよめれどヲレニとよむべし。ケラズヤはケリを強くいへるなり。卷五(八九四頁)にもアヲヤギハカヅラニスベクナリニケラズヤとあり。思ふに廣嗣より贈れる櫻花の娘子の手に入りし時折れたる莖のまじりたりしにてそれを巧に利用したるなり○初句は此花ハソノとうつすべし。言持のモチはタモチなり。卷二(一六二頁)に
  みよし野の山松がえははしきかも君が御言をもちてかよはく
とあり。草木を折りてそれに言を托《ツ》けて人に贈るといふ思想、今の歌とおなじ
 
   厚見王贈2久米女郎1歌一首
1458 屋外在《ヤドナル》さくらの花は今もかも松風|疾《ハヤミ》地に落《チル》らむ
(1514)屋戸在櫻花者今毛香聞松風疾地爾落良武
 初句はヤドナルと四言によむべし。古義には舊訓に從ひてヤドニアルとよめり。略解にも在の上に爾を脱せるかといへり。げにナルはニアルの約なれどニをあらはしてヤドニアルとよみてはニの言耳に立ちてかへりてよからず。もし強ひて五言とせむとならばヤドナルヤとこそ云ふべけれ。さてヤドは久米女郎の家なり○第四句の疾を舊訓にハヤミとよめるを古義にイタミに改めたり。卷十五に風波夜美オキツミウラニヤドリスルカモとあればハヤミとよみて可なるのみならずこゝは漢文直譯調なるが面白きなればなほハヤミとよむべし○結句の落を舊訓にチルとよめるを略解にはオツに改めたり。なほ舊訓に從ふべし
 
   久米女郎報贈歌一首
1459 世のなかも常にしあらねば屋外爾有《ヤドナル》さくらの花の不所比日かも
世間毛常爾師不有者屋戸爾有櫻花乃不所比日可聞
 此歌の第三句もヤドナルとよむべし。文字には爾をあらはして書けるを訓にはナ(1515)ルとつづめてよめる例集中に多し○結句を舊訓にチレルコロカモとよみたれどチルコロとはいふべくチレルコロとは云ふべからず。否こゝはコロといふべき處にあらず。おそらくは誤は比日にあるべし。試にいはば不所折可聞にてヲレザラムカモか。もし然らばワガ宿ノ櫻ノ花ノ獨折レズニアラムヤハの意とすべし
 
   紀女郎贈2大伴宿禰家持1歌二首
1460 戲奴《ワケ》がため吾手もすまに春の野にぬける茅花《ツバナ》ぞめしてこえませ
戲奴【變云和氣】之爲吾手母須麻爾春野爾拔流茅花曾御食而肥座
 ワケは奴といふ事にて自稱なると對稱なるとある事、こゝに戲奴と書けるはもと戲れてワケといへるなれば其意をさとさむが爲に戲奴と書けるなる事、さては又ワケとよまれねば註を挿みたるなる事卷四(六七六頁)にいへる如し。初句を俗語にうつさばソチノタメとうつすべし○註の變は即反なり。卷五好去好來歌にも反云2大命1、反云2布奈能閇爾1とあり。いにしへ變反を通用せしなり。木村博士の訓義辨證にくはしく云へり。就いて見べし。さて反はカヘシテとよむべし。飜譯の飜と同意なり○手モスマニを契沖は『手モヤマズと云意なるべし』といひ宣長は『數《シバ》ニの意歟』とい(1516)へり。スマニは不休にて(不知をシラニといふを思へ)いにしヘヤスムをスムといひしか○いにしへ茅花を食へば肥ゆといふ俗信ありしなるべし
 
1461 晝はさきよるはこひぬるねぶの花君〔左△〕《ワレ》のみ見めやわけさへに見よ
晝者咲夜者戀宿合歡木花君耳將見哉和氣佐倍爾見代
    右攣2折合歡花并茅花1贈也
 コヒヌルは戀ヒテ寢ルなり。ヌルはテニヲハにあらず。そのコヒヌルを代匠記に
  合歡木の葉の暮に卷くは人を戀る人の獨寢るやうなれば夜ハコヒヌルといへり
といへるはいかが。葉の兩半の相合ふを男女の相寢るにたとへたるなり。さて男女の相寢るにたとへつべきは葉にして花にあらず。さればヨルハコヒヌルネブノハナとはつづくべからず。或はヨルハコヒヌルはネブのみにかゝりてハナまではかからぬにやと思ふに初句のヒルハサキはハナまでかゝれる辭なればヨルハコヒヌルも亦ハナまでかゝれりと見ざるべからず。所詮措辭の當を得ざるなり。強ひて釋かば晝ハサキ夜ハ葉ノコヒヌルネブノ花といふべき葉ノを略したるなりとも(1517)いふべし○第四句の君は略解に吾の誤なる事しるしといへり
 紀女郎と家持との贈答は卷四の末にも見えたり。女郎は家持より年長けたる婦人にて家持のねもころにいひ寄るには從はで然も常に之に戲れしなり。二人の贈答を見るには此事を知りおかざるべからず○攀は折に通用せるなり。下にも攀2橘花1など書けり
 
   大伴家持贈和歌二首
1462 吾君に戲奴《ワケ》はこふらし給有《タバリタル》つばなを雖喫《クヘド・ハメド》いややせにやす
吾君爾戲奴者戀良思給有茅花乎雖喫彌痩爾夜須
 こゝのワケは自稱なり。略解に『そのワケとのたまふ我はといふ意也云々』と釋き古義に『其方のワケとのたまふ我は云々』と釋けるは非なり○給有を舊訓略解にタマヒタルとよめるを古義にタバリタルに改めたり。タマフの古言タブなる事はやく卷二(一七七頁)にいへり。卷十八にもハリブクロコレハ多婆利奴とあり○雖喫は舊訓にクヘドとよめるを代匠記に『ハメドとも讀べし』といひ古義に『ハメドとよむべし』といへり。いづれにてもあるべし
 
(1518)吾妹子が形見のねぶは花のみにさきてけだしく實にならじかも
1463 吾妹子之形見乃合歡木者花耳爾咲而蓋實爾不成鴨
 こゝのカタミノはクレタルといはむが如し。卷十六なる商變領爲跡之御法アラバコソ吾下衣カヘシタマハメの左註に寵薄之後還2賜寄物〔二字右△〕1云々とありて寄物の註に俗云2可多美1とあり○花ノミニは後世の花ニノミなり。ケダシクは或ハなり○ナラジカモは成ラザラムカとなり。卷三(四六四頁)に君ニアハジカモとあると同例なり(四六七頁及六二八頁參照)
 茅花と合歡花とは時節齊しからず。これについて略解には
  茅花は三月、合歡の花は六月比さくなれば時異なり。是は藥に服せんために拔てたくはへ置たるを贈れるなるべし
といひ考には
  前の歌は茅花にて春なり。合歡木の花は六月咲ければ夏なり。仍て一時の歌ならねど同じ人と同じ意をよみかはせるなれば思ひ出る序にかくかゝれしならん
といひ古義は略解の説に從へり。もし春拔きて貯へたる茅花を合歡花と共に贈り(1519)しならむには此贈答の歌は夏相聞に入るべきなり。略解古義の説はうべなひがたし。しばらく考の説に從ふべし
 
   大伴家持贈2坂上大孃1歌一首
1464 春霞たなびく山の隔者《ヘダタレバ・ヘナレレバ》妹にあはずて月ぞへにける
春霞輕引山乃隔者妹爾不相而月曾經爾來
    右從2久邇京1贈2寧樂宅1
 第三句を舊訓にヘダタレバとよみ略解古義にへナレレバとよめり。ヘダツレバといふべきが如くなれど集中の例によればなほヘダタレバ(又はヘナレレバ)とよむべし。更に下なるタブテニモナゲコシツベキ天ノ河といふ歌の處にいふべし
 
  夏雜歌
   藤原夫人歌【明日香清御原宮御宇天皇之夫人也字曰大原大刀自即新田部皇子之母也】1465 ほととぎすいたくななきそながこゑを五月の玉に相貫左右二《アヘヌクマデニ》
(1520)霍公鳥痛莫鳴汝音乎五月玉爾相貫左右二
 古義に『夫人はキサキとよむべからず。オホトジとよむべし』といふ論あり。案ずるに音にてフジンとよむべし。晴には藤原(ノ)夫人といひ褻《ケ》には大原(ノ)大刀自といひしなり。夫人をオホトジとよむべしといふはなほ閣下をトノサマとよむべしといはむが如し。萬葉時代には人物事物の名稱を悉く訓讀せし如く思はむは非なり。此時代の人は今人の思ふ如く保守的にはあらざりしなり○夫人歌の下に一首の二字を補ふべし
 契沖いへらく
  五月(ノ)玉は藥玉なり。……相貫はアヘヌクと讀べし。古語の例なり。……霍公鳥の聲は貫交へらるゝ物にあらねど賞する餘にさるはかなき事をも讀ことに侍り
といへり。相貫は契沖の説の如くアヘヌクとよむべし。卷十七に
  わがせこはたまにもがもなほとゝぎすこゑに安倍奴伎、手にまきてゆかむ
 卷十八に
  白玉をつつみてやらなあやめぐさはなたちばなに安倍母奴久我禰
(1521)とあり。さて玉ニアヘヌクは玉トシテ外ノ物ト交へテ貫クなり○マデニはマデハと心得べし。集中にマデニといへるはただマデの意なるとマデハの意なるとあり(卷七【一四〇三頁】參照)
 
   志貴皇子御歌一首
1466 神なびの磐瀬の杜のほととぎす毛無《ナラシ》のをかにいつか來なかむ
神名火乃磐瀬乃杜之霍公鳥毛無乃岳爾何時來將鳴
 カムナビノイハセノ杜ははやく上(一四八三頁)に見えたり○毛無は舊訓にナラシとよめり。漢籍に植物を毛といへり(左傳に土之毛、史記鄭世家、出師表などに不毛とあり)。今は人のふみならす地は草木の生ぜざるによりてナラシに毛無と書けるなりといふ。さて龍田考(四二丁)に
  奈良思岡とよめるは岩瀬杜のあたりより東南をかけて弘く南さがりの岡なるを古くより悉畑にすきかへしていと弘き畑あり。此あたりを古へよりひろくナラシノ岡といへりしなるべし
といへり○イツカ來ナカムはハヤ來ナケカシとなり
 
(1522)   弓削皇子御歌一首
1467 ほととぎすなかる國にもゆきてしがそのなくこゑをきけばくるしも
霍公鳥無流國爾毛去而師香其鳴音乎聞者辛苦母
 クルシはワビシなり
 
   小治田《ヲハリダ》(ノ)廣瀬王霍公鳥歌一首
1468 ほととぎすこゑきく小野の秋風にはぎさきぬれや聲のともしき
霍公鳥音聞小野乃秋風芽開禮也聲之乏寸
 ここのトモシは少シなり○略解に
  此歌は今秋風立て芽子《ハギ》咲るにあらず。いまだ夏なるにほととぎすの聲の少く乏しきは夏の中より秋風立てはぎが花など咲るにやあらむといふ意也
といへるは代匠記によれるにて全然誤れり。もとより仲夏の歌にはあらで晩夏又は初秋の歌なり。第二句のコヱキクはコヱキキシといふべきを現在格にいへるなり。此例集中に多し。キクをキキシと心得れば通ぜざる所無きなり○コヱといふ語(1523)二つあり。下の聲をソノコヱと譯すべし
 
   沙彌《サミ》霍公鳥謌一首
1469 (足引の)山ほととぎすながなけば家なる妹し常におもほゆ
足引之山霍公鳥汝鳴者家有妹常所思
 代匠記に
  沙彌とのみあるは誰ぞ。………集中に三方沙彌、沙彌滿誓、沙彌女王あり。歌に家有妹とあれば滿誓と女王との歌にあらぬ事明なれば三方沙彌なるを三方の二字を脱せる歟
といへり○オモホユはシノバルなり
 
   刀理《トリ》(ノ)宣令《センリヤウ》歌一首
1470 (もののふの)いはせの杜のほととぎす今もなかぬ△《カ》山の常影《トカゲ》に
物部乃石瀬之杜乃霍公鳥今毛鳴奴山之常影爾
 ナカヌカはナケカシなり○トカゲを眞淵は本蔭の略にて木蔭の意なりといひ、谷(1524)川士清は常陰《トコカゲ》の義なりといひ、宣長は『タヲ陰也。山のたわみたる處をタヲともタワともいふ』といへり(タヲといふ語今も中國などに殘れり。但そは峠の事なり)。しばらく和訓栞の常陰といふ説に從ふべし○奴の下に香をおとせるか
 
   山部宿禰赤人歌一首
1471 こひしけば形見にせむとわがやどにうゑし藤浪今さきにけり
戀之家姿形見爾將爲跡吾屋戸爾殖之藤浪今開爾家里
 コヒシケバはコヒシカラバなり。契沖は
  此歌は前後霍公鳥をよめる中にあれば發句は霍公鳥を指て云なり
といひ古義には
  形見は女の形見を云るなるべし。契沖がほととぎすをいへりと云るはあらじ
といへり。案ずるにホトトギスガ戀シカラバと云へるなり○さて此歌は元來長歌の反歌なるを長歌の失せて反歌のみ殘れるならむ
 
    式部大輔|石上《イソノカミ》(ノ)堅魚《カツヲ》(ノ)朝臣歌一首
(1525)1472 ほととぎす來なきとよもすうの花の共也來之登《トモニヤコシト》とはましものを
霍公鳥來鳴令響宇乃花能共也來之登問麻思物乎
    右神龜五年戊辰太宰帥大伴卿之妻大伴郎女遇v病長逝焉。于v時勅使式部大輔石上朝臣堅魚(ヲ)遣2太宰府1弔v喪并贈〔左△〕2物色1。其事既畢驛使乃〔左△〕府(ノ)諸卿大夫等共登2記夷城1而望遊之日乃作2此歌1
 第四句は舊訓にトモニヤコシトとよめり。代匠記に
  霍公鳥は卯花にしたしき鳥なればなき人の魂と共にや來しと云はむ爲に來鳴令響宇乃花能とは云へり
といひ略解に『妻のなき魂も共に來りしやといふなるべし』といひ又
  宣長云。又思ふに來(○第四句の)は成の誤にて、さて二の句にて切て三四の句はムタヤナリシトと訓べくも見ゆ。帥卿の妻は卯花の散失たると共にうせて行へもなく成しやと郭公に問はんものを也といへり
といへり。案ずるに此歌は第二句にて切りて心得べく、第四句はもとのまゝにて舊(1526)訓の如くトモニヤコシトとよむべし。又ウノハナノトモニヤはウノ花ト〔右△〕共ニヤといはむに齊し。例は卷五(八八三頁)にアメツチノトモニヒサシク云々とあり。元來旅人の妻の事をかけていへるにあらず。ただ子規の啼くを聞きて
  子規ゾ啼クナル、モシ言ドフベクハ卯花ノサキシト共ニヤ來リシト問ハムモノヲ
といへるのみ
 左註の贈は賜、乃は及の誤なるべしと契沖いへり。物色は物品なり。祈年祭の祝詞に種々色物と書けるとおなじかるべし。下にも物色とあるそれとは異なり○記夷城は代匠記に
  紀國を紀伊と云如く記の韻の夷を加へて城山の邊のただキと云所なるべし
といへり。天智天皇紀四年に
  秋八月遣2達率憶禮福留、達率四比福夫(○百済人)於筑紫國1築2大野及|※[木+縁の旁]《キ》二城1
とあり文武天皇紀二年に
  五月甲申令3太宰府繕2治大野、基※[疑の左+肆の旁]《キイ》、鞠智三城1
(1527)とあるキノ城にて卷四(六九一頁)及卷五(八九八頁)に見えたるキノ山にありき。城(ノ)山は筑前肥前兩國に跨れる山にて太宰府の西南に當れり。今坊中山といふ
 
   太宰帥大伴卿和歌一首
1473 橘の花ちる里のほととぎす片戀しつつなく日しぞおほき
橘之花散里乃霍公鳥片戀爲乍鳴日四曾多寸
 代匠記に
  橘の花の散をば死せる妻によそへ霍公鳥の鳴をばみづから譬ふ
といひ略解古義共に之に從へるは非なり。ただ子規に己をよそへたるのみ。三註の説の如くならば少くともタチバナノチリニシ里ノといはざるべからず
 
   大伴坂上郎女思2筑紫大城山1歌一首
1474 今もかも大城《オホキ》の山にほととぎすなきとよむらむ吾なけれども
今毛可聞大城乃山爾霍公鳥鳴令響良武吾無禮杼毛
 坂上郎女の筑紫にありしは天平二年にて其年の冬京に還り上りしなり(一〇七二(1528)頁參照)○大城山は元暦校本卷十大城(ノ)山者色付爾家里の註に
  謂2大城1者在2筑前國御笠郡之大野山頂1號曰2大城1者也
とあり。大野山とも四王寺山ともいふとぞ。大野ははやく卷四(六八三頁)に、大野山も卷五(八四九頁)に見えたり
 
   大伴坂上郎女霍公鳥歌一首
1475 なにしかもここばくこふるほととぎすなくこゑきけば戀こそまされ
何哥毛幾許戀流霍公鳥鳴音聞者戀許曾益禮
 略解に
  上のコフルは郭公を戀ふるにて下のコヒは人をこふる也。何故にかく郭公をこふるぞ、聲きけば人こひしさのまさると也
といへる如し。ココバクは大サウなり
 
   小治田《ヲハリダ》(ノ)朝臣廣耳歌一首
1476 獨ゐて物おもふよひにほととぎすこゆなきわたる心しあるらし
(1529)獨居而物念夕爾霍公鳥從此間鳴渡心四有良思
 略解に
  コユはココヨリ也物思をなぐさめがほに鳴わたるは心有るに似たりと也
といへる如し。但コユは此處ヲなり。古義は心シアルラシを誤解せり
 
   大伴家持霍公鳥歌一首
1477 うの花もいまださかねばほととぎす佐保の山邊《ヤマベヲ》來なきとよもす
宇能花毛未開者霍公鳥佐保乃山邊來鳴令響
 サカネバはサカヌニなり。山邊を舊訓略解にヤマベヲとよめるを古義にヤマベニとよめり。げに卷十五に
  あまごもりものもふときにほととぎすわがすむさと爾きなきとよもす
とあれどそは乎の誤とおぼゆればここもヤマ邊ヲとよむべし
 
   大伴家持橘歌一首
1478 わがやどの花たちばなのいつしかも珠にぬくべく其實|成奈武《ナリナム》
(1530)吾屋前之花橘乃何時毛珠貫倍久其實成奈武
 成奈武は舊訓の如くナリナムとよむべし(一五〇五頁參照)○タマニヌクのニはトにかよふニにて橘の實の小さきを絲に貫きて藥玉とするなり
 
   大伴家持晩蝉歌一首
1479 こもりのみをればいぶせみなぐさむといでたちきけば來なく日ぐらし
隱耳居者欝悒奈具左武登出立聞者來鳴日晩
 晩蝉は夕方に鳴く蝉の意にて書けるにて即ヒグラシなり○イブセミはウツタウシサニなり。ナグサムトは心ヲ慰メムトテなり○餘意は古義に
  外に出立て聞ば又ひぐらしの來鳴てあはれを催すよとなり
といへる如し
 
   大伴|書持《フミモチ》歌二首
1480 わがやどに月おしてれりほととぎす心有今夜《ココロアラバコヨヒ》きなきとよもせ
(1531)我屋戸爾月押照有霍公鳥心有今夜來鳴令響
 ヤドは庭前なり。オシテレリは押並ベテ照リタリとなり。卷七(一二二三頁)にもカスガ山オシテテラセルコノ月ハ云々とあり○第四句は從來ココロアルコヨヒとよみたれど有の下に者を補ひて(又はもとのまゝにて)ココロアラバコヨヒとよむべし(はやく考にはかくよめり)。九言となるは快からねど
 
1481 わがやどの花橘にほととぎす今こそなかめ友にあへる時
我屋前乃花橘爾霍公鳥今社鳴米友爾相流時
 第四句は啼カバ今コソ啼カメとなり
 
   大伴清繩歌一首
1482 皆人のまちしうの花ちりぬともなくほととぎす吾わすれめや
皆人之待師宇能花雖落奈久霍公鳥吾將忘哉
 子規を卯花と終始を共にするものと定め、さて卯花散リテ子規啼カズナルトモ我ハ子規ヲ忘レジといへるにや。心得がたきは歌の拙きなり
 
(1532)   庵(ノ)君|諸立《モロダチ》歌一首
1483 わがせこがやどのたちばな花をよみなくほととぎす見にぞわがこし
吾背子之屋戸乃橘花乎吉美鳴霍公鳥見曾吾來之
 花ヲヨミはナクにかゝれり。ワガセコは友に對していへるなり
 
   大伴坂上郎女歌一首
1484 ほととぎすいたくななきそ獨ゐていのねらえぬにきけばくるしも
霍公鳥痛莫鳴獨居而寐乃不所宿聞者苦毛
 イは睡眠、クルシはワビシ、獨ヰテは夫ト共ナラデといふ意
 
   大伴家持唐※[木+隷の旁]花歌一首
1485 夏まけてさきたるはねず(久方の)雨うちふらばうつろひなむか
夏儲而開有波禰受久方乃雨打零者將移香
 夏マケテは夏ニチカヅキテなり。卷七夏影房之下庭の處(一三六四頁)にいへり○ハ(1533)ネズは木蓮なるべし(卷四【七四七頁】參照)毛詩召南の唐※[木+隷の旁]之華をキバチスノハナとよみならひたるも木蓮と心得ての事ならむ。木蓮は今モクレンといひてキバチスといはず。今はムクゲの事をキバチスといへどいにしへは木蓮をキバチスといひ更にそれより前はハネズといひしなるべし。木蓮の形はげに連花に似たり○ウツロフは色のかはるなり。モクレンは風雨に逢へば黒くなるものなり
 
   大伴家持恨2霍公鳥|晩喧《オソクナク》1歌二首
1486 わがやどの花橘をほととぎす來なかず地に令落常香《チラシメムトカ》
吾屋前之花橘乎霍公鳥來不喧地爾令落常香
 結句は契沖のチラシメムトカとよめるに從ふべし。第四句は來ナカズシテイタヅラニ地ニとなり
 
1487 ほととぎすおもはずありきこのくれのかくなるまでに奈何《ナドカ》來なかぬ
霍公鳥不念有寸木晩乃如此成左右爾奈何不來喧
 奈何は卷十九にヤマホトトギス奈騰可キナカヌと書きたれば舊訓の如くナドカ(1534)とよみて可なり(古義にはナニカに改めたり)。コノクレは樹陰なり○木ノクレノカクナルマデ來ナカザラムトハ思ハザリキ、ナドカ來ナカヌといふべきを略せるなり。略解古義の釋わろし
 
   大伴家持懽2霍公鳥1歌一首
1488 何處者《イヅクニハ》なきもしにけむほととぎす吾家《ワギヘ》の里にけふのみぞなく
何處者鳴毛思仁家武霍公鳥吾家乃里爾今日耳曾鳴
 初句は略解古義共にイヅクニハとよみ略解にはヨソニハといふが如しといひ古義には何處ゾニハといふなりといへり。果してイヅクニハとよむべくばげにドコゾヨソニハといふ意と見べし○ケフハジメテなどあるべきをケフノミゾといへる耳だちて聞ゆ。古義にはノミとはすぎし日に對へていへるなりといへり
 
   大伴家持惜2橘花1歌一首
1489 わがやどの花橘はちりすぎて珠にぬくべく實になりにけり
吾屋前之花橘者落過而珠爾可貫實爾成二家利
(1535) チリスギテはチリウセテ、珠ニは珠トなり
 
   大伴家持霍公鳥歌一首
1490 ほととぎすまてど來なかずあやめ草玉にぬく日をいまだ遠みか
霍公鳥雖待不來喧蒲草玉爾貫日乎未遠美香
 アヤメヲ珠ト貫カム日ガマダ遠キ故ニカとなり。菖蒲を玉と貫くといへるは菖蒲の根を小さく切りて絲に貫きしなるべし○蒲の上に菖をおとせるならむ
 
   大伴家持雨日聞2霍公鳥|喧《ナク》1歌一首
1491 うの花のすぎばをしみかほととぎす雨間《アママ》もおかずこゆなきわたる
宇乃花能過者惜香霍公鳥雨間毛不置從此間喧渡
 スギバは散ラバなり。略解に盛ノスギンガ惜シサニカと譯せるは非なり。さてスギバといはばヲシカルベミといふべきを今の如くいへるは當時許容の語法にてはやく卷二以下に見えたり。卷四(七九〇頁)なる君ガ名タタバヲシミコソナケの處にいへるを參照すべし○雨間モオカズは代匠記に雨のふる間をもおかずなりとい(1536)ひ古義に
  こゝの雨間※[日が月]は雨のふる間をいへるなり。此下に久竪ノ雨間モオカズ雲ガクリナキゾユクナルワサ田雁ガネとある、もはら同じ。十二にカミナヅキ雨間モオカズフリニセバタガ里ノマニ宿カカラマシとある雨間は雨の晴間をいへるなり。歌によりて意異なり
といへり
 
   橘歌一首 遊行女婦
1492 君が家の花たちばなはなりにけり花乃有《ハナノアル》時にあはましものを
君家乃花橘者成爾家利花乃有時爾相益物乎
 遊行女婦は和名抄によりてウカレメともアソビともよむべし○ナリニケリは實ニナリニケリとなり○第四句を契沖始めてハナナルトキニとよみ略解古義共に之に從へり。案ずるにハナナルトキニとよむべくは花爾〔右△〕有時爾とあらざるべからず。即乃を爾の誤字とせざるべからす。乃とあるを正しとせばハナノアルトキニとよむべし〇四五はマダ花ノアル時ニ來ベカリシヲとなり○古今集春下よみ人し(1537)らずの
  蛙なく井手の山吹ちりにけり花の盛にあはましものを
と相似たり。但歌は古今なる方遙にまされり
 
   大伴村上(ノ)橘歌
1493 わがやどの花たちばなをほととぎす來なきとよめて本にちらしつ
吾屋前乃花橘乎霍公鳥來鳴令動而本爾令散都
 本を古義に土の誤とせり。もとのまゝにて可なり。モトは木ノモトなり
 
   大伴家持霍公鳥歌二首
1494 夏山のこぬれの繁爾《シゲニ》ほととぎすなきとよむなる聲のはるけさ
夏山之木末乃繁爾霍公鳥鳴響奈流聲之遙佐
 繁爾を契沖はシジニとよみ略解古義共に之に從へり。卷三(五七五頁)なる同じ人の作歌にイクヂ山、木立ノ繁ニ、サク花モ、ウツロヒニケリとある處にいへる如くシゲニとよみてシゲミニの意とすべし。因にいふ。シゲミも後世の語にあらず。集中に例(1538)あり。たとへば下に夏ノ野ノ繁見ニサケル姫ユリノ云々とあり
 
1495 (足引の〕このまたちくくほととぎすかくききそめて後こひむかも
足引乃許乃間立八十一霍公鳥如此聞始而後將戀可聞
 アシヒキはこゝにては山の換語なり。卷三(五〇二頁)にもアシヒキノイハ根コゴシミとあり○タチククはタチクグルなり。クグルといふべきをククといへるは連體格の代に終止格をつかへるなり(一四八一頁參照)。さて略解に
  上のクをすみ下のクを濁るべけれど……上を濁るはいひ下せる音便の例也
といへるは非なり。いにしへはクチクク、タチククルともに清みてとなへしなり。ククリノ宮、クキデテ、クキシなど皆濁らぬを思ふべし〇四五は寧キキソメズバコヒム事モアルマジキニといふ意を含めり
 
   大伴家持石竹花歌一首
1496 わがやどのなでしこの花さかりなりたをりて一目みせむ兒もがも
吾屋前之瞿麦乃花盛有手折而一目令見兒毛我母
(1539) 古義に
  この盛なる間手折てただ一目見せまほしく思ふにその見すべき女もがな、いかで早く來れかしと也
といへり。案ずるにミセム兒モガモといへばただ見スベキ女モアレカシといふやうに聞ゆれど卷九なる
  いゆきあひの坂のふもとにさきををるさくらの花をみせむ兒もがも
と合せ考ふるに今ココニアレカシといふ意にて畢竟妹ニ見セマホシといふ意なり。さればイカデ早ク來レカシとは釋くべからず。但卷十なる
  青柳のいとのくはしさ春風にみだれぬ伊まにみせむ子もがも
はミダレヌ伊マニ(亂レヌウチニ)とあれば來レカシとも釋くべし
 
   惜v不v登2筑波山1歌一首
1497 筑波ねにわがゆけりせばほととぎす山びことよめなかましやそれ
筑波根爾吾行利世波霍公鳥山妣兒令響鳴麻志也其
(1540)    右一首高橋(ノ)連《ムラジ》蟲麻呂之歌△中出
 略解に
 宣長云。ナカマシヤは鳴ハセジといふ意也。此歌は筑波根に行し人の郭公のしげく鳴たる事を語りたるを聞てよめるにて吾行タランニハシカ繁クハナクマジキニ恨メシキ郭公カナとよめる也。といへり
といへり。此説の如くなるべし○ソレは子規をいへるなり。第三句にホトトギスとあれば更にソレといはむは不用なるを、かく云へるは卷七(一二三六頁)にミモロノソノ山ナミニ云々といへる類なり○左註の歌の下に集の字おちたるか
 
  夏相聞
   大伴坂上郎女歌一首
1498 いとまなみ不來之〔左△〕《キマサヌ》君にほととぎすわがかくこふとゆきて告げこそ
無暇不來之君爾霍公鳥吾如此戀常往而告社
(1541) ツゲコソは告ゲナムなり。子規にあつらへたるなり○略解に
  新千載集戀に二句キマサヌキミニとてのせたり。之は座の字の誤なるべし
といへり。げに然らむ
 
   大伴四繩宴(ニ)吟(ヒシ)歌一首
1499 事しげみ君は來まさずほととぎすなれだに來なけ朝戸開かむ
事繁君者不來益霍公鳥汝太爾來鳴朝戸將開
 アサ戸ヒラカムは朝ノ戸ヲ開キテ迎ヘムとなり。君ハ來マサズは此頃來マサズといふにはあらで昨夜ハツヒニ來マサザリキといふ意なり。然見ざれば朝戸ヒラカムと云はむ由なし。三註みな徹底せず。さてアサ戸とはあれど夜の明果てゝよめるにはあらで曉深くよめるなるべし○集中にコトシゲシといへるにはイトマナシといふと人ノ口ガウルサシといふと二樣ある如し。但コトを事とかけると、辭とかけるとあれど文字には拘はるべからず。人言の意とおぼしきに事とかき、人事の意とおぼしきに辭とかける處もあればなり。さて下なるコトシゲキ里ニスマズバ云々は人言ノウルサキといふ意なること明なれどこゝはイトマナミの意なるべし。(1542)古今集の序にも世ノ中ニアル人、事ワザシゲキモノナレバとあり
 
   大伴坂上郎女歌一首
1500 夏の野のしげみにさける姫ゆりの知らえぬ戀はくるしきものを
夏野乃繁見丹開有姫由理乃不所知戀者苦物乎
 上三句は序、シラエヌは相手ニ知ラレヌなり
 
   小治田朝臣廣耳歌一首
1501 ほととぎすなく峯《ヲ》の上のうの花のうき事あれや君が來まさぬ
霍公鳥鳴峯乃上能宇乃花之厭事有哉君之不來益
 上三句は序、ウキコトアレヤは我ニ對シテ不快ナル事アレバニヤとなり
 
   大伴坂上郎女歌一首
1502 五月之《サツキノ》、花橘を君がため珠に△《コソ》ぬけ零卷《チラマク》をしみ
五月之花橘乎爲君珠爾貫零卷惜美
 初句の之を古義に山の誤としてサツキヤマとよめり。誤ならずとは斷定せられざ(1543)れど、もとのまゝにて通ずればなほサツキノとよむべし○零卷を舊訓にチラマクとよめるを略解にオチマクに改めたり。これももとのまゝにてあるべし○爾の下に社をおとしたるならむ
 
   紀朝臣豐河歌一首
1503 わぎもこが家の垣内《カキツ》のさゆり花ゆりと云者不謌〔左△〕二似《イヘルハイナチフニニル》
吾妹兒之家乃垣内乃佐由理花由利登云者不謌云二似
 上三句は序なり○ユリは卷十八に
  ともし火のひかりに見ゆるさゆりばな由利毛あはむとおもひそめてき
  さゆりばな由利毛あはむとおもへこそいまのまさかもうるはしみすれ
  なでしこが、そのはなづまに、さゆり花、由利母あはむと云々
  さゆり花由利母あはむとしたばふるこころしなくば今日もへめやも
とあり。宣長いはく
  集中に後ニといふ事をユリといへる例これかれ有。此歌のユリも後ニといふ事にて後ニアハムといふ也
(1544)といへり。げにノチニといふことゝおぼゆ○不謌を宣長は不許の誤として
  或人|不許云二似《イナチフニニツ》なるべし。後ニアハントイフハ不許《イナ》トイフニ似タリと也
といへり。下にもイナニハアラズを不許者不有と書けり○さて四五を古義にユリトイヘレバイナチフニニツとよめり。宜しくユリトイヘル〔右△〕ハイナチフニニル〔右△〕とよむべし。下なるキキツヤト君ガトハセルホトトギスのトハセルと同格なり。妹ノ答ニ後ニトイヘルハイナ逢ハジトイハムニ似タリとなり。似はノルともよむべし
 
   高安(ノ)歌一首
1504 いとまなみ五月をすらに吾妹兒が花橘を見ずか過ぎなむ
暇無五月乎尚爾吾妹兒我花橘乎不見可將過
 略解に『卷三高安大島といふ是か』といひ古義に『一卷に高安大島とあると同じきか。又は高安王なるべきが王字落たるか』といへりサツキヲスラニは略解に橘ノ時ナル五月ヲスラと譯せり〇三四は我妹子ガ家ノ花橘ヲとなり
 
(1545)   大神《オホミワ》(ノ)女郎贈2大伴家持1歌一首
1505 ほととぎすなきし登時《スナハチ》君が家にゆけと追ひしは至りけむかも
霍公鳥鳴之登時君之家爾往跡追者將至鴨
 略解に
  君が待らんとおもひて郭公にとくゆけといひをしへ追やりつるはいたりきやと戯れてよめり
といへる如し。こゝのオヒシは嫌ひて追ふ意にあらず
 
   大伴(ノ)田村(ノ)大孃與2妹坂上(ノ)大孃1歌一首
1506 古郷のならしのをかのほととぎす言つげやりしいかにつげきや
舌〔左△〕郷之奈良思之岳能霍公鳥言告遣之何如告寸八
 ナラシノ岡は上(一五二一頁)に見えたり。このあたり大伴氏の本郷なりし故にフルサトノといへるなり(一〇七七頁參照)。さて田村大孃は此時故郷に歸りたりしなり○第四句の下にハを補ひて聞べし。即子規ニ言菓ヲ告ゲテ遣リシハとなり○結(1546)句はツゲキヤイカニといふべきを調の爲に顛倒して今の如くいへるなり。イカニツゲキヤとつづけては聞くべからず。イカニといはば告ゲシゾ、告ゲシカなどいふべくツゲキヤとはいふべからざればなり。はやく古義に
  告シヤ如何ニアリシといふ意なり。何如の言を下に置て心得べし。イカヤウニ告シヤといふ意にきゝては甚わろし
といへり。但同書に
  ツゲキヤはツゲシヤといふ意なり。かやうにシヤといふ意なる所をキヤと云は古歌の格なり
といへるはいみじきひが言なり。昔も今もキヤとこそいへ、シヤとは云はず
 
   大伴家持攀2橘花1贈2坂上大孃1歌一首并短歌
1507 いかといかと 有〔左△〕《マツ》わがやどに 百枝さし おふる橘 玉にぬく 五月を近み あえぬがに 花さきにけり 朝にけに 出見る毎に いきのをに わがもふ妹に (まそ鏡) 清き月夜に ただひとめ みせ(1547)むまでには ちりこすな ゆめといひつつ ここだくも わがもる物を うれたきや しこほととぎす 曉の うらがなしきに おへどおへど なほし來鳴きて いたづらに 地にちらせば すべをなみ よぢてたをりつ 見ませ吾妹兒
伊加登伊可等有吾屋前爾百枝刺於布流橘玉爾貫五月乎近美安要奴我爾花咲爾家里朝爾食爾出見毎氣緒爾吾念妹爾銅鏡清月夜爾直一眼令覩麻而〔左△〕爾波落許須奈由米登云管幾許吾守物乎宇禮多伎也志許霍公鳥曉之裏悲爾雖追雖追尚來鳴徒地爾令散者爲便乎奈美攀而手折都見末世吾妹兒
 攀は攀登、攀縁など用ひてトリツクなどいふに當る文字なれど我國にてヨヅとよみたるそのヨヅは青柳ノホツエ與治トリ(卷十九)などいひて折る意なればこゝも折橘花と書く代に攀橘花と書けるなり。されば橘花ニヨヂテとはよまで橘花ヲヨヂテとよむべし(1548)イカトイカトのイカはイカニにてイカトはイカニトといはむにおなじ。今イカとのみは云はざればイカトとありては辭足らざるやうに思はるれど元來イカニのニは添へたる辭に過ぎずして主語はイカなればマコトニ、ノチニをマコト、ノチとのみもいふが如くイカニをイカとのみいひてもよき理なり。さればイカトイカトはドウカトドウカトとうつすべし。大平が伊追之可等の誤とせるは從はれず○有は大平が待の誤とせるに從ふべし。モモエサシはアマタノ枝ガ出デテなり○アエヌガニのガニはバカリニなり(卷四【七〇三頁】參照)。ヌはサキヌベシ、チリヌバカリニなどのヌなり。アユを宣長(玉勝間卷十三)千蔭が或は實のなる事とし或は實の熟することゝせるに對して久老(信濃漫録【二十九丁】は西國にて菓の類の梢にあるを落し取るをアヤスといひおのづから落るをアユルといふ。すべてものゝ落こぼるゝをいふといへり。是古言なり云々
といひ(守部の山彦冊子卷三【四十三丁】に自説のやうに書けるは人わろし)廣足(かしの朽葉卷三【九丁】)は
  此語は西國には今も殘りて常いふことなればアユル實といへば落る實なる事(1549)註をまたずして兒童もよく知る事なるを近ごろやうやう聞しりて久老が病床漫録にいへるをとりて橘守部がくはしくいひたればアユルは落るなる事世に明らかになりぬ云々
といへり。我播磨にても菓などの落つるをアユルといふ。さればアエヌガニはオチルホドとなり○アサニケニは毎日なり。イキノヲニは大切ニなり。ココダクモは少カラズなり○ウレタキヤのヤは助辭にてウレタキシコホトトギスとつづけるなり。そのウレタキはイキドホロシキなり。シコは杜鵑を罵りていへるなり。シコノマスラヲ、シコノシコ草などはやくありき。ウラガナシは心の衷の悲しきなり○イタヅラニ地ニチラセバ云々は子規の來鳴く頃恰橘花の散るを子規の鳴きて橘花をちらすやうにいへるなり。上にも
  わがやどの花たちばなをほととぎす來なきとよめて本にちらしつ
とよめり。スベヲナミは散ルヲ防グスべナケレバとなり
 
   反歌
1508 もちくだち清きつく夜に吾妹兒にみせむともひしやどの橘
(1550)望降清月夜爾吾妹兒爾令觀常念之屋前之橘
 モチクダチは十五日以後ノとなり。結句はヤドノ橘ゾ是ナルといふべきを省けるなり
 
1509 妹が見て後もなかなむほととぎす花橘を地に落津《チラシツ》
妹之見而後毛將鳴霍公鳥花橘乎地爾落津
 落津は略解にオトシツとよみ古義には舊訓によりてチラシツとよめり○第二句は後ニ啼ケバヨイニとなり。卷十にも
  默然《ナホ》もあらむ時母鳴奈武《トキモナカナム》ひぐらしの物もふ時になきつつもとな
とあり
 
   大伴家持贈2紀(ノ)郎女1作〔□で圍む〕歌一首
1510 なでしこはさきてちりぬと人はいへどわがしめし野の花ならめやも
瞿麥者咲而落去常人者雖言吾標之野乃花爾有目八方
 題辭の作の字は桁
(1551) 第二句のサキテはただ輕く添へたるにてチリヌといふが主なり○卷三(四九一頁)なる駿河麻呂の
  うめの花さきてちりぬと人はいへどわがしめゆひし枝ならめやも
を學べるにてなつかしからず〇一首の意は略解に
  心ノカハレルト人ハイヘド吾思フ妹ガ事ニハアラデ他人ノ上ヲイフナランと紀郎女をさしてよめる譬喩歌なり
といへる如し。古義の釋はわろし
 
  秋雜歌
   崗本天皇御製歌一首
1511 ゆふされば小倉の山になく鹿のこよひはなかずいねにけらしも
暮去者小倉乃山爾鳴鹿之今夜波不鳴寐宿家良思母
 崗本天皇は舒明天皇なり。卷九に重出せるには雄略天皇の御製とせり(1552)小倉ノ山は卷九なる春三月諸卿大夫等下2難波1時歌にシラ雲ノ、タツ田ノ山ノ、瀧ノ上ノ、小鞍ノミネニとある小鞍(ノ)嶺とひとしきか○古義に釋ける如く四五の間に漸ク妻ヲ得テといふことを挿みて聞くべし
 
   大津皇子御歌一首
1512 たてもなくぬきもさだめずをとめらがおれる黄葉に霜なふりそね
經毛無緯毛不定未通女等之織黄葉爾霜莫零
 第四句はオレルにつづけてはニシキニといふべく霜ナフリソネに續くるにはモミヂニといふべし。代匠記に
  具足せる詞ならば黄葉ノ錦ヲ織といふべし。されどかゝる事は詩歌の習なれば算術などのやうにはきびしからぬが還て面白き事なり
といへり。さてニシキニといはむか、モミヂニといはむかと云ふにオレルニシキニ霜ナフリソネと云はむ方おもしろけれど黄葉と書けるをニシキとはよみがたければなほモミヂとよむべし
 
(1553)   穗積皇子御歌二首
1513 けさのあさけ雁がねききつ春日山もみぢにけらしわがこころいたし
今朝之旦開鴈之鳴聞都春日山黄葉家良思吾情痛之
 結句はワガ心ナヤマシとなり。悲秋の意なり
 
1514 秋はぎはさきぬべからしわがやどの淺茅が花の散去《チリヌル》みれば
秋芽者可咲有良之吾屋戸之淺茅之花乃散去見者
 散去は略解に從ひてチリヌルとよむべし。ベカラシはべカルラシなり
 
   但馬皇子〔左△〕御歌二首【一書云子部王作】
1515 ことしげき里にすまずば【一云國にあらずば】けさなきし雁にたぐひて去《イナ》ましものを
事繁里爾下〔左△〕住者今朝鳴之鴈爾副而去益物乎 一云國爾不有者
 但馬皇子〔右△〕とあるは但馬皇女〔右△〕の誤なり。類聚古集には皇女とあり。此皇女と穗積皇子と贈答したまひし御歌卷二(一六三頁以下)に見えたり。此御歌は皇子のケサノアサ(1554)ケ雁ガネキキツといふ御歌の和なるべし○スマズバは住マムヨリハなり。初句に事繁とある事〔右△〕は言の借字にてコトシゲキは人言ノシゲキなり。卷二(一六六貢)なる此皇女の御歌にも人言ヲシゲミコチタミとあり。古義に『世間の繁務をいとはせ給へるときよみたまへるなるべし』といへるは借字に誤られたるなり○結句は略解にイナマシモノヲとよめるに從ふべし。ヨソニ行カムモノヲとなり。雁ニタグヒテは雁卜一シヨニなり○下は不の誤なり
 
   山部王惜2秋葉1歌一首
1516 秋山に黄反《モミヅ》木葉のうつりなば更にや秋を見まくほりせむ
秋山爾黄反木葉乃移去者更哉秋乎欲見世武
 黄反は下に黄變とあるにおなじ。變反は集中に通用せり(但反を變を書けるは多く、變を反と書けるは少し)。さて黄反を舊訓にキバム、略解にモミヅ、古義にニホフとよめり。略解に從ふべし。モミヅルコノハノといふべきをモミヅコノハノといへるは四段活に從へるにてもあるべく連體格の代に終止格をつかへるにてもあるべし(一四七六頁參照)○ウツリナバは散リナバとなリ。四五は更ニ秋色ヲ見タシト思ハ(1555)ムカとなり
 
   長屋王歌一首
1517 (味酒《ウマザケ》)三輪乃|祝〔左△〕之《ヤシロノ》山照《ヤマテラス》秋のもみぢばちらまくをしも
味酒三輪乃祝之山照秋乃黄葉散莫惜毛
 二三は舊訓にミワノハフリガヤマテラスとよめり。略解に
  二三の句は祝等が齋《イハヒ》まつる山を照らすといふを略るか。されど句のつづき穩ならず。宣長云。三輪ノイハヒノヤマヒカルと訓べし。イハヒノ山は神を齋まつる山といふ事也。といへり。是然るべきか
といひ古義には第二句のみ宣長の訓に從へり。案ずるに類聚古集に三輪乃社〔右△〕之とあるに從ひてミワノヤシロノとよむべし
 
   山上《ヤマノウヘ》(ノ)臣憶良七夕歌十二首
1518 あまのかはあひむきたちて【一云向河】わがこひし君きますなり紐ときまけな
天漢相向立而吾戀之君來益奈利紐解設奈 一云向河
(1556)    右養老八年七月七日應v令
 ワガは織女になりていへるなり。紐トキマケナは紐ヲ解設ケムにて卷五(九七八頁)なる同じ作者の歌に紐トキサケテタチハシリセムと云へる如く襟の紐を解きて接待の準備をせむと云へるなり。古義に紐を下紐とせるはにがにがし
 養老八年二月に神龜元年と改號せられしなれば八年七月とある八年は七年などの誤ならむ(一〇〇四頁參照)。代匠記には八は六の字の上の二畫を失へるにやといへり。又同書に
  應令は聖武天皇いまだ東宮にてましましける時の令旨に依てよまるゝなり
といへり。續紀によれば憶良當時東宮の侍臣たりき。因にいふ。應令は皇太子にいひ、天皇の命によつて詠進するは應詔又は應制といふなり
 
1519 (久方の)あまのかはせに船うけてこよひか君が我許《ワガリ》きまさむ
久方之漢瀬爾船泛而今夜可君之我許來益武
     右神龜元年七月七日夜左大臣家
(1557) 左大臣は長屋王なり○古義に漢の上に天を補ひたれど漢の字のみにてもアマノカハとよみつべし。下にもアマノカハラを漢原と書けり
1520 ひこぼしは たなばたつめと 天地の 別れし時ゆ (いな宇〔左△〕《ム》しろ) 河にむきたち おもふ空 安からなくに 嘆く空 安からなくに 青浪に 望はたえぬ 白雲に なみだは盡きぬ かくのみや いきづきをらむ かくのみや こひつつあらむ さにぬりの 小船もがも 玉まきの 眞かいもがも【一云小棹もがも】 朝なぎに いかき渡り 夕しほに【一云夕べにも】 いこぎわたり (久方の) 天の河原に あまとぶや 領巾《ヒレ》かたしき 眞玉手の 玉手さしかへ 餘△△《アマタヨモ》 いもねてしがも【一云いもさねてしが】 秋にあらずとも【一云秋またずとも】
牽牛者織女等天地之別時由伊奈宇之呂河向立意空不安久爾嘆空不安久爾青浪爾望者多要奴白雲爾H者盡奴如是耳也伊伎都枳乎良牟如是耳也戀都追安良牟佐丹塗之小船毛賀茂玉纏之眞可伊毛我母【一云小棹毛可毛】朝(1558)奈藝爾伊可伎渡夕塩爾【一云夕倍尓毛】伊許藝渡久方之天河原爾天飛也領巾可多思吉眞玉手乃玉手指更餘毛寐而師可聞【一云伊毛左禰而師加】秋爾安良受登母 一云秋不待登毛
 アメツチノワカレシ時ユはただ大昔ヨリといふことなり○イナ宇シロの宇は牟の誤なり。顯宗天皇紀にもイナムシロカハゾヒヤナギとあり。河にかゝれる枕辭なり○オモフ空ナゲク空の空は古義にココチと譯せり(卷四【六六一頁】參照)○青浪ニ望ハタエヌ白雲ニHハツキヌはわざと漢文の調を學びたるなり。三註共に之を發揮せざるは不審なり。さてノゾミハタエヌとはいかなる意か。略解には
  立浪にさへぎられて望見ることも絶る也
といひ古義には
  遙々の蒼浪を望み見やるに遠くして見届かねば目のつきたるをいふならむ
といへり。案ずるにノゾミは希望の義にて蒼波渺々トシテ河ヲ渡ラムノ望ハ絶エヌといへるならむ。もし略解古義にいへる如く眺望の義にて目モトドカズナリヌといふことならむには相別れ相離るゝ時ならずばノゾミハタエヌとはいふべか(1559)らず。其上眺望の義のノゾミは古書には見えず。次に白雲ニナミダハツキヌは白雲ヲナガメヲルニ涙ハ盡キヌとなるべし。辭を略して漢文調にいひたれば作者の意を忖度する外は無し。さてHは滴水にて涙の義なし。我邦にて啼の口扁を水扁に代へてナミダに充てたるにや○カクノミヤのヤはヤハなり○サニヌリのサは添辭、タママキは玉モテ飾レルなり。イカキ、イコギのイは添辭。カキは楫もて水をかくをいふと略解にいへる如し○アマトブヤは古義にいへる如く空飛ブ料ナルといふことなれど今は輕く枕辭のやうにつかひたるなり○カタシクは衣を敷きて寢具とするをいふ○餘宿毛云々は宣長の説に
  宿の字の上に一句落たるにて餘の字は其中の一字なるべし
といへり。古義には餘の下に多の字を補ひてアマタタビとよみて
  多字舊本になきは脱たるなり。今は岡部氏の考によりてくはへつ
といへり。案ずるに餘夜毛〔二字右△〕宿毛寐而師可聞とありけむ夜毛をおとせるならむ。アマタヨモの語例は卷十五に
  あすかがはせくとしりせば安麻多欲母ゐねてこましをせくとしりせば
(1560)とあり
 
   反歌
1521 風雲はふたつの岸にかよへどもわが遠づまの【一云はしづまの】ことぞかよはぬ
風雲者二岸爾可欲倍杼母吾遠嬬之【一云波之嬬乃】事曾不通
 風雲ハ云々も漢文の調をまなべるなり。代匠記に
  發句は風ト雲トハなり。……風と雲とは兩岸に往來すれども實の使ならねば織女の言を傳へずと牽牛に成てよまれたり。注の波之嬬はハシキ妻と云へるに同じ
といへる如し。コトはタヨリなり
 
1522 たぶてにもなげこしつべきあまのかはへだてればかもあまたすべなき
多夫手二毛投越都倍伎天漢敝太而禮婆可母安麻多須辨奈吉
    右天平元年七月七日夜憶良仰觀2天河1△【一云帥家作】
(1561) 長歌と第一の反歌とに大河のやうにいへるを此歌の趣にてはさばかり大きなる河とは聞えず。所詮狂言綺語なれば口に任せて深く意を致さざりしなり○タブテはツブテなり。初句タブテ二毛とあるを古義に
  二(ノ)字はもと乎なりけむを手とまがへて多夫手々毛と書しをつひに二に誤れるなるべしと別府信榮は云り。然する時はタブテヲモと訓べし
といへり。案ずるにタブテニモはコスにかゝれるなればなほ二とあるべし○ヘダテレバカモは今の情にて云はばヘダツレバカモといふべきをかく自動詞もて云へるは當時の辭づかひと見えて集中にあまた例あり。則卷四なる
  こころゆも吾はもはざりき山河もへだたらなくにかくこひむとは(七〇八頁)
  海山もへだたらなくになにしかも目言をだにもここだともしき(七六七頁)
  ひとへ山へなれるものをつく夜よみ門にいでたち妹かまつらむ(八一六頁)
など是なり○アマタスベナキは古義に
  アマタは甚しく殊にすぐれたるをいふ。かやうの處に用ひたるは七卷に鳥ジモノ海ニウキヰテオキツ浪サワグヲキケバアマタカナシモ、十二に草枕タビユク(1562)君ヲ人目オホミ袖フラズシテアマタクヤシモなどある是なり
といへり。前に引けるココダトモシキのココダと同意同格なり
 左註の天河の下に作の字落たるかと契沖いへり。帥家は太宰帥大伴旅人の宅なり
 
1523 秋風のふきにし日よりいつしかとわが待戀ひし君ぞきませる
秋風之吹爾之日從何時可登吾待戀之君曾來座流
 これと次のとは織女になりてよめるなり
 
1524 あまのかはいと河浪はたたねどもさもらひがたし近き此瀬を
天漢伊刀河浪者多多禰杼母伺候難之近此瀬乎
 イトは彼のイタクにあたれるか。後世の語法にてはイト立ツとは云はず○第四句のサモラヒガタシを略解に
  川瀬をうかがひ渡りがたきといふ也
といひ古義に
  牽牛のもとにさぶらひがたし
(1563)と釋けり。古義の説非なり。卷六(一〇五四頁)に
  風ふけば浪かたたむと伺候《サモラヒ》につたの細江に浦がくりをり
 卷七(一二八三頁)に
  大御舟はてて佐守布《サモラフ》たかしまの三尾の勝野のなぎさしおもほゆ
などありてサモラフはうかがふ事なれば今も渡ルベキ機會ヲ伺ヒ得難シといへるなり○コノ瀬ヲのヲはナルニなり
 
1525 袖ふらば見もかはしつべく雖近《チカケレド・チカケドモ》わたるすべなし秋にしあらねば
袖振者見毛可波之都倍久雖近度爲便無秋西安良禰波
 初句は互ニ袖ヲ振ラバとなり
 
1526 (玉蜻※[虫+廷]《タマカギル》)ほのかにみえてわかれなばもとなやこひむあふ時までは
玉蜻※[虫+廷]髣髴所見而別去者毛等奈也戀牟相時麻而波
    右天平二年七月八日夜帥家集會
 初句は雅澄の説に從ひてタマカギルとよむべし(卷二【二九三頁】參照)○第二句はチヨット(1564)逢ウテとなり。相逢ふ時の短きにあかぬ餘にホノカニといへるなり○モトナを契沖はヨシナク、宣長はメッタニ雅澄はムザムザと譯せり(卷二【三三〇頁】參照)。あらずもがなと思ふ時にいふ辭とおぼゆ。心外ニなどうつすべし
 
1527 ひこぼしのつまむかへ船こぎづらしあまのかはらに霧のたてるは
牽牛之迎嬬船己藝出良之漢原爾霧之立波
 霧を漕出づる船の水烟と見なしたるにや
 
1528 霞たつあまの河原に君まつといかよふ程に裳のすそぬれぬ
霞立天河原爾待君登伊往還程爾裳襴所沾
 霞といへるは即霧なり。卷二(一三四頁)にも
  秋の田の穗のへにきらふ朝がすみいづへの方にわが戀|將息〔左△〕《ヤラム》
とあり○イカヨフのイは添辭、カヨフは往復するなり
 
1529 天の河|浮〔左△〕津之浪音《ワタツノナミト》さわぐなりわがまつ君し舟出すらしも
天河浮津之浪音佐和久奈里吾待君思舟出爲良之母
(1565) 第二句は舊訓にウキツノナミトとよめり。眞淵は『浮は御の誤にて御津ノナミノトならん』といへり。案ずるに浮津は渡津の誤ならむ。ワタツといふ普通名詞は見及ばねど卷二なる人麿の長歌にワタツノ、アリソノウヘニとあるワタツも江の川の渡津より出でたる地名なり
 
   太宰(ノ)諸卿大夫宮人等宴2筑前國蘆城(ノ)驛家1歌二首
1530 をみなべし秋はぎまじる蘆城《アシキ》の野今日を始めて萬代にみむ
娘部思秋芽子交蘆城野今日乎始而萬代爾將見
 蘆城驛家は太宰府の東方にあり(卷四【六七四頁】參照)○初二は女郎花ト秋萩ト相交レルとなり。ケフヲハジメテは今日ヨリ始メテなり。ヨリがヲにかはれるなり
 
1531 (たまくしげ)葦木の河を今日|見者《ミテバ》よろづ代までにわすらえめやも
珠匣葦木乃河乎今日見者迄萬代將忘八方
 アシキ川は寶滿川の上流なり。見者を舊訓にミレバとよめるを古義にミテバに改めたり。古義に從ふべし。ミテバはミタラバなり。マデニはただマデといはむにひと(1566)し
 
   笠(ノ)朝臣金村伊香山(ニテ)作歌二首
1532 (草枕)たびゆく人|毛〔左△〕《ノ》ゆきふ【れら】ばにほひぬべくもさけるはぎかも
草枕客行人毛往觸者爾保此奴倍久毛開流芽子香聞
 伊香《イカゴ》山は近江にあり○人毛は人乃などの誤とおぼゆ○第三句は四段活に從はばユキフラバとよむべく下二段活に從はばユキフレバとよむべし。意は行キツツ觸レナバとなり○ニホフは染マルなり
 
1533 いかご山野邊にさきたるはぎ見ればきみが家なる尾花しおもほゆ
伊香山野邊爾開有芽子見者公之家有尾花之所念
 第二句の野邊爾開有は上(一五〇二頁)なるヤマブキノ咲有野邊乃ツボスミレの處にいへる如くヌノヘニサケルともよむべし○キミといへるは故郷人なり。結句は尾花ガシノバレルとなり○伊香はイカグともよむべし。神名帳に伊香具〔右△〕神社とあ(1567)り
 
   石川朝臣|老夫《オキナ》歌一首
1534 をみなべし秋はぎ折禮〔左△〕《ヲラナ》(たまほこの)道ゆきづとと乞はむ兒のため
娘部志秋芽子折禮玉鉾乃道去※[果/衣]跡爲乞兒
 折禮は舊訓にタヲレとよめり。宣長は折那の誤にてヲラナならむといへり。此説に從ふべし。ヲラナは折ラムにおなじ。ミチユキヅトは途中ノミヤゲなり
 
   藤原|宇合《ウマカヒ》卿歌一首
1535 わがせこをいつぞいまかとまつなべに於毛也者將見〔左△〕秋風吹《オモヤハヤセムアキノカゼフク》
我背兒乎何時曾旦〔左△〕今登待苗爾於毛也者將見秋風吹
 第四句は舊訓にオモヤハミエムとよめり。契沖は面ヤハ見エムなりといひ千蔭は『オモヤは面輪にてヤとワと通ふなり』といひ宣長は於を聲、也を世の誤としてオトモセバミム秋ノ風フケとよみ雅澄は千蔭の説に左※[衣+旦]せり。案ずるに將見は將痩の誤にてオモヤハヤセムにて面ヤ痩セムなるべし。ヤハといふは普通はうらへかへる辭なれど又ただヤといふにおなじきもあり(玉緒四卷十二丁參照)。否うらへかへ(1568)る辭なるヤハは本集にてはヤモといひてヤハとは云はず(卷九なる松反四臂而有八羽のヤハの事は其歌の處にていふべし)。されば今は面ヤ痩セムといふに調の爲にハを挿めるのみ。或は者は衍字にてもあるべし。さらばオモヤヤセナムとよむべし○結句は古義に從ひてアキノカゼフクとよむべし(舊訓及略解にはアキカゼノフクとよめり)○此歌は女になりてよめるにて一首の意は
  我背兒ヲイツ來マサムゾ今カ來マサムト待ツニツケテ我面ハ痩セナム、ウラサビシキ秋ノ風サヘ吹ケバといへるならむ。略解に七夕の歌なるべしといへり。げに然らむ。もしただの相聞歌ならば秋相聞の部に入るべければなり。題辭に藤原宇合卿七夕歌一首とありけむ七夕の二字をおとせるにや○旦は且の誤なり。イマを且今と書ける例は卷七(一二二六頁)に且今《イマ》トカモとあり。又卷二(三二二頁)にはケフを且今日と書けり
 
   縁達師謌一首
1536 よひにあひてあしたおもなみなばり野のはぎはちりにき黄葉はやつげ
(1569)暮相而朝面羞隱野乃芽子者散去寸黄葉早續也
 初二はナバリの序なり。卷一(一〇三頁)にも
  よひにあひてあしたおもなみなばりにか、けながき妹がいほりせりけむ
とあり。ナバリは伊賀の名張なり○モミヂは木々の紅葉なり。契沖が『即|芽子《ハギ》の黄葉なり』といへるは非なり。秋ハギノ花ハチリニキとあらばこそしかも見め。ハギハに對してモミヂといへるをいかでか萩の黄葉とは見む○訓むまじき也を添へて書ける例は卷二(三一〇頁)にアサツユノゴト、ユフツユノゴトのゴトを如也と書き、卷七(一二四二頁)にオトノサヤケサを清也と書き、上(一五〇一頁)にミルガカナシサを悲也と書き、卷十にもコヒコソマサレを益也と書けり○縁達は契沖の云へる如く僧の名ならむ
 
   山上憶良詠2秋野花1二首
1537 秋の野にさきたる花をおよびをりかきかぞふればななくさの花 其一
秋野爾咲有花乎指折可伎數者七種花 其一
(1570)オヨビは指なり。カキは添辭なり
 
1538 はぎが花を花くずばななでしこの花、をみなべし又ふぢばかま朝貌の花 其二
芽之花乎花葛花瞿麦之花姫部志又藤袴朝貌之花 其二
 文選の励〔萬が萬〕志詩、關中詩などに倣ひて其一、其二としるせるなリ○このアサガホを先哲或は牽牛子とし或は木槿とし或は桔梗とし或は旋花《ヒルガホ》とせり。岡不崩氏の阿佐加保源流考にいへらく
  山上憶良の秋野花の詠歌中なる阿佐加保は牽牛花に非ざることは岡村氏の説の如し。即牽牛花は漢種なれば野生することなき筈なり。○岡村尚謙の説は古今要覧稿卷弟四百二十一(國書刊行會本第五の三九九頁)及箋註倭名類聚抄十卷二四丁に見えたり
  而も木槿ならんとの説に對しても非認するに躊躇せざるべし。そは木槿も亦漢種にして我國に自生せざればなり。……しかも木槿は木類なり
  之によりて此朝貌の花は牽牛花にも非ず木槿花にも非ざること知らるべし。然(1571)れども此歌の朝貌は何にか或一種の草花を指したるものなるは論を待たざるなり。されば田中道麻呂、藤井高尚、高田與清等は桔梗なりとし狩谷※[木+夜]齋、岡村尚謙等は旋花なりと云へり
  桔梗を阿佐加保とせる論者は新撰字鏡の和訓を以て唯一の諭據とせるが如し。……其論據の最薄弱なるを知るべし
  予は萬葉以後に於ける阿佐加保は牽牛花の和名なりと斷言するを得るも萬葉集中の阿佐加保は遺憾ながら未其何たるかを考究すること能はず。ただ或は旋花ならんかと私考するのみなり
  或は桔梗なるか或は龍膽花にてもやと思はるれどいかがにや。岡村尚謙等の旋花説は古典に就ての考證は得べからざるも事實に於て或は然らんか
といへり。右の説に加ふべき事はなけれど、なほ私案を述べむに牽牛子と木槿とは我邦にては野に生ふるものにあらず。又牽牛子こそ古書(但延喜以後)にまさしくアサガホと見えたれ、木槿をアサガホとするは朗詠集に槿といふ題の下に牽牛子の歌を録したるが始にてそれより以前に木槿をアサガホと訓める書なし。されば今(1572)の歌のアサガホが木槿にあらざるは勿論牽牛子にあらざる事は明なり。次に桔梗は古今集物名に
  きちかうのはな 友則 秋ちかう野はなりにけり白露のおける草葉も色かはりゆく
とあり。又本草和名以下にアリノヒフキ(又ヲカトトキ)とあり。かくアリノヒフキといふ和名のあるに拘はらずキチカウといへるはいかにといふにアリノヒフキといふ名は雅馴ならざれば、あてなる人たちは之を嫌ひて寧漢名をやはらげてキチカウと云ふを好みしならむ。こゝに新撰字鏡に桔梗(阿佐加保又云岡止々支)また同享和本に桔梗(加良久波又云阿佐加保)とあり。アサガホを桔梗とする人等は之を唯一の證としたれど元來字鏡は打任せて信ずべき書にあらざる上に字鏡の著者は果して漢語の桔梗が如何なる物なるかを詳にして和名を充てしにやいとおぼつかなくおぼゆる事あれば此書のみによりて物の名を定めむは極めて危き事なり。
  因にいふ。字鏡に阿佐加保又云岡止々支とあるは必しもアサガホ一名岡トトキといふ意に解すべからず。漢語の桔梗は邦語のアサガホに當り又岡トトキに當(1573)るといふ意にも解すべし
 次に旋花は本草和名以下にハヤヒトグサ(一名カマ)とありてアサガホの訓なし。されば信ずべき古書(本草和名以下)にアサガホと訓めるは牽牛子の外にある事なし。然もその牽牛子は野生するものにあらねば今の歌のアサガホを牽牛子と認むべからざるは前にいへる如し。思ふに本集に見えたるアサガホはなほ旋花の事にて初此花をアサガホといひしを牽牛子西土より渡り來りしに其花旋花に似たればそれをもアサガホといひし程にアサガホの名は終に牽牛子に奪はれしにぞあらむ。但アサガホの名が牽牛子の專有となると共にそれに對して旋花がヒルガホと名づけられしにはあらじ。ヒルガホといふ名の古き書に見えざるを思へばヒルガホといふ名は遙に後になりておほせしならむ。即アサガホが旋花の古名なる事を忘れたる世になりてただ牽牛子に似て日中を盛とさく花なればヒルガホと名づけしならむ。なほ旋花と旋覆花との相まぎれたる事につきても云はまほしき事あれど煩はしければこゝには云はず。又カホ花につきては下に至りて云ふべし
 
   天皇御製歌二首
(1574)1539 秋の田の穗田をかりがね闇爾《クラケクニ》夜のほどろにもなき渡るかも
秋田乃穗田乎鴈之鳴闇爾夜之穗杼呂爾毛鳴渡可聞
 ホダヲまで、二句に跨れる枕辭なり○穗田は卷四(六四二頁)に秋ノ田ノ穗田ノカリバカとあり。夜ノホドロは同卷(八〇一頁)に夜ノホドロワガイデクレバとあり。夜の明けぬさきなりといふ○第三句は略解にヤミナルニ又クラケキニとよみたれどクラケキといふ辭は無し。古義にはクラケクニとよみて『クラクアルニといふほどの意なり』といへり。此訓此説に從ふべし。卷一(一一五頁)なるミヨシ野ノ山ノアラシノサムケクニのサムケクニと同格なり
 
1540 けさのあさけ雁がね寒くききしなべ野邊の淺茅ぞ色づきにける
今朝乃且〔左△〕開鴈之鳴寒聞之奈倍野邊能淺茅曾色付丹來
 第三句はキコエシナベの意としてあるべし。上(一五五三頁)にもケサノアサケカリガネキキツ春日山モミヂニケラシ云々とあり○且は旦を誤れるなり
 
   太宰(ノ)帥《ソツ・ソチ》大伴卿歌二首
(1575)1541 わが岳にさをしかきなく(先芽《サキハギ》の)花づまとひに來鳴棹牡鹿《サヲシカキナク》
吾岳爾棹牡鹿來鳴先芽之花嬬問爾來鳴棹牡鹿
 先芽を略解にサキハギとよみて
  サキハギは初芽子《ハツハギ》なり。物は異なれどサイバリといへるも此サキに同じといへり。サイバリといへるは神樂歌なる
  さいばりにころもはそめむ雨ふれどうつろひがたしふかくそめてば
とあるを指せるなり。物も異ならず。サイはサキの音便にてハリはやがて萩なればなり(卷一【三七頁及一〇〇頁】參照)○花ヅマを略解に
  芽子の咲ころ鹿の其芽子原に馴るゝものなれば芽子を鹿の妻として花ヅマとはいへり
といへり。古義にはハナ、ツマドヒニと切りて花ヲ妻問ニといふなり。ツマをすみてよむべし。花妻ヲトヒニと云にはあらず
といへり。案ずるに ハナヅマは新妻なり。そのハナはハナヨメ、ハナムコのハナに同じ。又サキハギノは花ヅマの花にかゝれる枕辭なり。卷十四にもニコ草ノハナヅマ(1576)ナレヤとあり○結句は棹牡鹿來嶋とありしを顛倒せるならむ。キナクサヲシカといふべき處にあらず
 
1542 わがをかの秋はぎの花風をいたみちるべくなりぬ見む人もがも
吾岳之秋茅花風乎痛可落成將見人裳欲得
 
   三原王歌一首
1543 秋の露はうつしなりけり(水鳥の)あをばの山の色づくみれば
秋霜者移爾有家里水鳥乃青羽乃山能色付見者
 第三句は枕辭なり。アヲバは枕よりかゝりては青き羽にて下へつづきては青き木葉なり○ウツシは略解に
  いにしへよりまづ色を紙などに染置てさていつにてもきぬにうつすをウツシといふなるべし
といへり。ただ他を染むる物をウツシといひしなるべし。鴨跖草《ツキクサ》の事をウツシ草又ウツシ花といふを思へ
 
(1577)   湯原王七夕歌二首
1544 ひこぼしのおもひますらむ從情《ココロヨリ》みるわれくるし夜のふけゆけば
牽牛之念座良武從情見吾辛苦夜之更降去者
 從情を舊訓及略解にココロユモとよみ古義にココロヨモとよめり。モとよむべき字なければココロヨリとよむべし○結句は夜ノフケユキテ別レマスベキ時ノ近ヅケバといふ意なリ。古義に『夜の更ゆけば今は程なく逢給らむと思ひやリて云々』と釋きたれど、もしさる意ならばクルシとはいふべからず○更降はクダチともよむべし
 
1545 たなばたの袖|續〔左△〕三更之五更《マクヨヒノアカトキ》は河瀬のたづはなかずともよし
織女之袖續三更之五更者河瀬之鶴者不鳴友吉
 第二句を契沖千蔭はソデツグヨヒノとよめり。さて契沖は袖をかはすなりといひ千蔭は袖サシカヘと譯せり。然るに雅澄は續を纏の誤としてソデマクヨヒノとよめり。此説に從ふべし。牽牛ガ織女ノ袖ヲ枕トスルといへるなり〇三更之五更とあ(1578)る、文字の上にては奇異なれど三更はただヨヒに借れるのみ(三更とかけるをヨヒとよむべき例は卷十にハツセ風カクフク三更《ヨヒ》ハとあり)。さてそのヨヒはいにしへ初夜の意にも、ただ夜といふ意にもつかひたり。こゝはただ夜といふ意なり〇四五はケサバカリハ天ノ川ノ河瀬ノ鶴ハ曉ヲ告ゲテ鳴クニ及バズといへるなり
 
   市原王七夕歌一首
1546 妹がりとわがゆく道|乃《ニ》、河有者《カハシアレバ》、附〔左△〕《ア》目〔□で圍む〕緘結跡《ユヒムスブト》、夜更降家類《ヨゾクダチケル》
妹許登吾去道乃河有者附目緘結跡夜更降家類
 二三句を略解にワガユクミチノカハシアレバとよみ古義にアガユクミチノカハナレバとよめり。案ずるに乃を爾の誤字として、或はもとのまゝにてワガユクミチニ〔右△〕カハシアレバとよむべし。乃はニともよむべきこと卷三(三五九頁及四九六頁)にいへる如し○第四句は略解に一本に目を固とせるに據り又附を脚の誤としてアユヒツクルトとよみ、宣長は雄略天皇紀の歌に據りてアユヒナダストとよめり。案ずるにナダスの語例は雄略天皇紀に圓《ツブラ》(ノ)大臣が庭上にて戰死せむとして其妻に脚帶《アユヒ》を求めし時妻の悲しみてうたひし歌に
(1579)  おみのこはたへのはかまをななへをし、にはにたたしてあよひ那陀須も(臣ノ子ハ帛《タヘ》ノ袴ヲ七重|著《ヲ》シ庭ニタタシテ……)
とあり。契沖の説に『ナダスはタダスなり。那と陀と通ふなり』といへれどナダスは撫《ナヅ》の敬語ならむ。ナヅをナダスといふは懸《カク》をカカスといふ(卷二【二五九頁】御名ニカカセル)と同例なり。さて緘結をナヅとよむべき由なければ宣長の説は從はれず。次にツクルの語例は皇極天皇紀に蘇我|蝦夷《エミシ》が臣下の分を忘れて祖廟を葛城(ノ)高宮に立てゝ八|※[人偏+(八/月)]《イツ》の舞をせし時の歌に
  やまとのおしのひろせをわたらむとあよひたづくりこしつくらふも(大和ノ、忍ノ廣瀬ヲ渡ラムト脚帶手作リ腰作ラフモ)
とあり又本集卷十七なる大伴池主の長歌に
  わかくさの、あゆひたづくり、むらとりの、あさだちいなば、おくれたる、あれやかなしき、たびにゆく、きみかもこひむ云々
とあり。右のタヅクリを千蔭守部等がツクロフの意としたるは非なり。ただ作ルといふ意なり。さて緘結はツクルとよむべき由なければ千蔭の説も從はれす。然らば(1580)今の歌の弟四句はいかによむべきか。試に云はば附を脚の誤とし目を衍字として脚緘をアユヒ、結跡をムスブトとよむべし〈考同説)。アユヒムスブトは袴ヲ塞〔土が衣〕ゲテ紐モテソノ裾ヲ縛《ユハ》フトテとなり○結句は三註ともにヨゾフケニケルとよめれどヨゾクダチケルとよむべし
 
   藤原朝臣八束歌一首
1547 さをしかのはぎにぬきおける露の白珠、相左和仁《アフサワニ》たれの人かも手にまかむちふ
棹四香能芽二貫置有露之白珠相佐和仁誰人可毛手爾將卷知布
 アフサワニの語例は卷十一に
  やましろのくせの若子がほしといふわを、相狹丸《アフサワニ》わをほしといふやましろのくせ
とあり。契沖は
  此二首を引合て案ずるに非分の物を押て領ぜむとする意をアフサワと云なる(1581)べし
といひ宣長は
  物語ぶみにオホザフといふ詞あり。これこのアフサワの訛れるにてそのオホザフといへる詞の意とアフサワと全同じ
といひ信友(比古婆衣卷十八【全集第四の三九六頁】)は
  勢語なるアフナアフナオモヒハスベシナゾヘナクタカキイヤシキクルシカリケリのアフナアフナと同言なるべし。身の分に隨ひて似合しきの意なり。オホザフと同じ言なりといふ説は非じ(○採要)
といへり。案ずるに源氏物語などに見えたるオホザフは尋常といふ意と思はるれば別語なり。アフナアフナとも同意の語にあらず。アフナアフナは隨v分の意なるにアフサワニは契沖のいへる如く非分の意にて後世のオホケナクと同意と見ゆればなり○手ニマカムチフは取リテ其手ニ纏キ持タムトハ云フとなり
 
   大伴坂上郎女晩芽子歌一首
1548 さく花もうつろ△《フ》はうしおくてなる長意爾《ココロナガキニ》なほしかずけり
(1582)咲花毛宇都呂波厭奥手有長意爾侍不如家里
 題辭の晩芽子を古義にオクテノハギとよめリ。げに然るべし○サク花モは人にむかへていへるなり。さてこゝにてはまだ萩を指していへるにあらず。ただ一般にサク花モといへるなり○第二句は或ハ散リ或ハシボムハイヤナモノヂヤとなり。二三の間〔日が月〕にコノ萩ノヤウニといふことを補ひてきくべし。オクテは晩熟なり○弟四句は長と意と顛倒したるにてココロナガキニなるべし。卷七(一四七一頁)にも
  にはつ鳥かけのたり尾のみだれ尾の長き心もおもほえぬかも
とあれどそはアサキ心ヲワガモハナクニなどと同例なればもとのまゝにて然るべし〇一首の意は俗諺にサカヌウチガ花ヂヤといふに同じ。古義の釋は同意しがたし○宇都呂の下に布をおとせるなり
 
   典鑄《テンジユ》(ノ)正《カミ》紀朝臣|鹿人《カビト》至2衛門(ノ)大尉《ダイジヤウ》大伴宿禰|稻公《イナキミ》(ノ)跡見《トミ》(ノ)庄1作歌一首
1549 (いめたてて)跡見のをかべのなでしこの花、ふさたをりわれは△《モチ》いなむ寧樂人のため
(1583)射目立而跡見乃岳邊之瞿麥花總手折吾者將去寧樂人之爲
 典鑄正はテンジュノカミとよむべし。和名抄に鑄錢司を樹漸乃司と訓ぜり。是例とすべし(古義にはイモノシノカミと全部訓讀せり)。さて典鑄正は典鑄司の長官、衛門大尉は衛門府の判官なり○稻公は旅人の庶弟なり。其事は卷四(六八六頁)に、跡見庄の事も卷四(七八三頁)にいへり○フサタヲリは卷十七なる家持の歌にも
  秋の田の穗むき見がてりわがせこが布佐多乎里けるをみなべしかも
とあり。契沖は『ふさやかに多く手折なり』といへり。古義に物語どもに見えたる例を集めたり。フサニのニを省きたるなり。今も物の多きをフッサリといふ○將去の上に持の字を補ふべし
 
   湯原王鳴鹿歌一首
1550 秋はぎのちりのまがひに△よびたててなくなる鹿のこゑのはるけさ
秋芽之落乃亂爾呼立而鳴奈流鹿之音遙者
 チリノマガヒニははやく卷二人麻呂の長歌(一八七頁)に見えたり。古今集春下にも
(1584)  此里にたびねしぬべしさくら花ちりのまがひに家路わすれて
とあり。チルマギレニといふことなり○ヨビタテテは卷七(一二七八貢)にも
  まとかたの湊のすどり浪たてや妻よびたてて邊にちかづくも
とあり。よび催すことなり〇二三の間に辭足らず。おそらくは元來旋頭歌にて
  秋はぎのちりのまがひに妻やまどへる〔六字傍点〕、よびたててなくなる鹿のこゑのはるけさ
とありし第三句のおちしならむ
 
   市原王歌一首
1551 時まちて落鐘禮之雨《フリシシグレノアメ》令〔□で圍む〕零収《フリヤミヌ》△あさかの山之|將黄變《モミヂシヌラム・モミダヒヌラム》
待時而落鐘禮能雨令零収朝香山之將黄變
 略解には舊訓と契沖の訓とを折衷して
  オツルシグレノアメヤメテ……モミヂシヌラム
とよみ古義には落を衍とし一本に収の下に開の字あるを採り令を之の誤、収開を敷耳の誤として
(1585)  落〔□で圍む〕鐘禮之雨令零収開《シグレノアメノフリシクニ》……モミダヒヌラム
とよめり。案ずるにこれもおそらくは旋頭歌ならむ。第二句の落鐘禮能はフリシシグレノとよむべし。第三句の雨令零収は令を衍字としてアメフリヤミヌとよむべし(令を今の誤としてアメイマヤミヌとよむべきかとも思ひしかどなほさにはあらじ)○さてアメフリヤミヌの次に今日毛可聞といふ一句ありしをおとしゝならむ。一本に収の下に開の字あるは今日毛可聞とありし今日毛可の四字をおとし聞を開に誤れるなるべし。かく一句おちたるならむといふことは今の第四句アサカノ山者とあらでアサカノ山之とあるによりて推定したるなり○將黄變は契沖に從ひてモミヂシヌラムとも(卷十に黄葉爲《モミヂスル》時ニナルラシとあり)雅澄に從ひてモミダヒヌラムとも(卷十五にシグレノアメニ毛美多比爾家里とあり)よむべし○朝香山は所在明ならず。古義に
  攝津住吉郡なる淺香山なるべし。難波の古き圖に住吉社(ノ)南の方に細江とて沼ありてその南の方に淺香山あり。浦はその西の方にあり。淺香浦は二卷に出。又は此なるは陸奥の安積山にてもあらむか。さらば此市原王は陸奥へ下り賜へること(1586)ありしか
といへり。案ずるに卷二(一七〇頁)にスミノエノ淺香ノ浦ニ玉藻カリテナとよめり。淺香山は今の和泉國泉北郡にありといふ
 
   湯原王蟋蟀歌
1552 ゆふづく夜心もしぬに白露のおく此庭にこほろぎなくも
暮月夜心毛思努爾白露乃置此庭爾蟋蟀鳴毛
 ココロモシヌニは心モシナフバカリ則氣ガメイルヤウニといふことなり(卷三【三七七頁】參照)○初句のユフヅクヨは全體にかゝれり。又第二句のココロモシヌニは結句のコホロギナクモにかゝれるなり。第三句につづけては心得べからず
 
   衛門大尉大伴宿禰稻公歌一首
1553 しぐれの雨まなくしふれば三笠山こぬれあまねく色づきにけり
鐘禮能雨無問零者三笠山木末歴色附爾家里
 
   大伴家持和歌一首
(1587)1554 (おほきみの)御笠の山のもみぢ葉はけふのしぐれにちりかすぎなむ
皇之御笠乃山能黄葉今日之鐘禮爾散香過奈牟
 
   安貴王歌一首
1555 秋たちていくかもあらねばこのねぬるあさけの風はたもとさむしも
秋立而幾日毛不有者此宿流朝開之風者手本寒母
 アラネバはアラヌニなり。コノネヌルは准枕辭なり
 
   忌部(ノ)首《オビト》黒麻呂歌一首
1556 秋田かるかりほもいまだこぼたねばかりがねさむし霜もおきぬがに
秋田苅借廬毛未壞〔左△〕者鴈鳴寒霜毛置奴我二
 コボタネバはコボタヌニなり。霜モオキヌガニは霜モ降ルバカリとなり。上(一五四六頁)なるアエヌガニと同格なり○壌は壞の誤なり
 
   故郷(ノ)豐浦寺之尼(ノ)私房(ニテ)宴歌三首
1557 あすか川逝囘岳《ユキタムヲカ》の秋はぎはけふふる雨にちりかすぎなむ
(1588)明日香河逝囘岳之秋芽子者今日零雨爾落香過奈牟
    右一首|丹比《タヂヒ》(ノ)眞人國人
 豐浦寺は大和國|高市《タケチ》郡|飛鳥《アスカ》村|豐浦《トヨラ》にあり。推古天皇の小墾田《ヲハリダ》(ノ)豐浦宮の跡なれば故郷といへるなり。此寺別名を櫻井寺又建興寺又|向原《ムクハラ》寺といふ。本邦最初の尼寺なり。宣長の菅笠日記下卷(二一丁)に
  その道を(○あすか川の南のそひの道を)……十町ばかり川上の方へゆけば豐浦の里、豐浦寺のあとはわづかに藥師の堂あり。今も向原寺といふ(○今は廣嚴寺と書くとぞ)。ふるき石ずゑものこれり。えのは井はいづこぞと尋ぬれど知れる人もなし。……さて此里は飛鳥川の西のそひにて川のむかひはすなはち雷村なり
といへり○略解に持統天皇紀を引きて大宮、飛鳥川原、小墾田、豐浦、坂田と書けるはわろし。飛鳥寺と川原寺とは別なれば飛鳥、川原、小墾田(ノ)豐浦とあるべきなり。又略解には大官を大宮と誤れり
 逝囘岳は舊訓にユキキノヲカとよめり。宣長いはくユキタムヲカとよむべしと。げ(1589)に此説の如し。ただ宣長が『岡の行廻れる所をいふ』といへるはふと思誤れるなり(古義も其誤を繼げり)。飛鳥川が岡を行廻れるにてその岡はやがて飛鳥(ノ)岡なり。菅笠日記下卷(八丁)に
  岡の里にやどる。かの寺(○たちばな寺)より近し。此あひだに土橋をわたせる川あり。飛鳥川はこれ也とかや。いまの岡といふ所はすなはち日本紀に飛鳥岡とある所にや
といへり。かくさだかに考定めながらいかにしてアスカ川ユキタムヲカノとあるを心得たがへけむ。さてユキタムヲカはユキタムル岳《ヲカ》といふべきを當時はかく終止格にてもいひしなり(一四八〇頁參照)○飛鳥岡は飛鳥川の右岸、豐浦寺の地は左岸にありて甲は乙より川上なり。豐浦寺地の對岸は雷岡なり
 
1558 うづらなくふりにしさとの秋はぎをおもふ人どちあひみつるかも
鶉鳴古郷之秋芽子乎思人共相見都流可聞
 アヒミツルカモは共ニ見ツルカナとなり。卷七(一四七二頁)にコモマクラアヒマキシ兒モといへるは薦枕ヲ共ニ枕《マ》キシ兒なり。今のアヒも之におなじ
 
(1590)1559 秋はぎは盛すぐるをいたづらにかざしにささずかへりなむとや
秋芽子者盛過乎徒爾頭刺不搖〔左△〕還去牟跡哉
     右二首沙彌尼等
 イタヅラニは結句にかかれるなり
 比丘尼が男子を引きて私房にて宴せしだにあるに沙彌尼をしてかゝる歌をよましめしはあさましともあさまし。當時の僧尼は一般にいたく墮落したりけむかし○搖は挿の俗體なる※[手偏+垂]を誤れるなり
 
   大伴坂上郎女跡見《トミ》(ノ)田庄作歌二首
1560 (妹が目を)始〔左△〕見之埼乃〔左△〕《トミノサキナル》あきはぎは此月ごろはちりこすなゆめ
妹目乎始見之埼乃秋芽子者此目〔左△〕其呂波落許須莫湯目
 第二句は六帖にミソメノサキノとよめり。契沖は之に從ひて『ミソメノ埼、跡見庄に有歟』といへり。然るに冠辭考には
  此歌の端に跡見田庄作歌と書つれば他し所を思ひてよめる歌ともいふべから(1591)ず。はた同卷に紀朝臣鹿人至2大件宿禰稻公跡見庄1作歌とて射目立而跡見乃岳邊之とよみたるも端の詞今とひとしくて則跡見の岳邊をよめるを思ふに今も跡見之※[山+丘]邊などやうに例の草の手にて有しを跡を始に誤りてミソメとよみたればその下の訓がたきにさかしら人※[山+丘]邊は埼の一字よとて字も訓もあらためてミソメノサキとはしけんかし
といひ古義には跡〔右△〕見之埼有〔右△〕の誤としてトミノサキナルとよめり。古義の説に從ふべし。チヨット見る事をトミといふ(トミカウミなどいふトミにはあらず)そのトミに地名の跡見《トミ》を取成して妹ガ目ヲといひ冠らせたるなり。さて山にも埼といひつべきは論なし。卷十四にもヲツクバネロノ山ノサキとよめり。但古義に『海邊ならでも埼といへる例あり』とて上(一四八六頁)なる春山ノサキノヲヲリニを擧げたるはあさまし。サキノヲヲリは花のさきなびける事なるをや○コノツキゴロは卷四(六九九頁)に  しら鳥のとば山松のまちつつぞわがこひわたるこの月ごろを
とあれど今と意異なる如し。今はおなじ卷(七八三頁)に見えたる此郎女の長歌に
(1592)  かくばかり、もとなしこひば、ふるさとに、此月ごろも、ありがつましじ
とあると同意にて我ココニ留ラム今月中ハ散ラデアレといへるなり○目は月の誤なり
 
1561 よなばりの猪がひの山にふす鹿のつまよぶこゑをきくがともしさ
古〔左△〕名張乃猪養山爾伏鹿之嬬呼音乎聞之登聞思佐
 ヨナバリノヰガヒノ山は跡見(卷四【七八三】參照)とおなじく礒城郡にあれど其間いたく隔たれば跡見の田庄にゐながら猪養の山の鹿の聲をきゝしにはあらで田庄より遊びに出でしをりにきゝしならむ○フスは輕く見るべし。ヰルといはむに異ならず○こゝのトモシサはメヅラシサの意なるべし(卷七【一二八六頁】參照)○古は吉の誤なり
 
   巫部《カムコベ》(ノ)麻蘇《マソ》娘子雁歌一首
1562 たれききつこゆなきわたるかりがねのつまよぶこゑの之知左寸〔四字左△〕《トモシクモアルカ》
誰聞都從此間鳴渡雁鳴乃嬬呼音乃之知左寸
(1593) タレキキツは誰カ聞キツルといはむに同じ。いにしへはタレカといはでただタレといへばキキツルといはでキキツといひしなり。卷五なる石ヲタレ見キと同格なり(九四〇頁參照)。さてタレキキツといへるは畢竟君モヤキキツルとなり○コユナキワタルは上(一五二八頁)にホトトギスコユナキワタル心シアルラシ、又(一五三五頁)ホトトギス雨間モオカズコユナキワタルとあり。ココヲ啼イテ通ルとなり○結句を舊訓にユクヲシラサズとよめるを契沖は
  之をユクヲと點ぜるは調弱く聞ゆ。ユクヘにて之方なりけむ方の字の失たるか
といひ宣長は
  乏蜘在可と有しが誤れるならん。トモシクモアルカと訓べし
といひ雅澄は乏左右爾《トモシキマデニ》の誤字とせり。宣長の説に從ふべし。トモシの意は前の歌なると同じかるべし
 
   大伴家持和歌一首
1563 ききつやと妹が問はせるかりがねはまことも遠く雲がくるなり
聞津哉登妹之問勢流雁鳴者眞毛遠雲隱奈利
(1594) マコトモはマコトニといはむにひとし。モは輕く添へたるなり〇四五の意は
  げに遠く雲に隱れて姿を見せず
といへるにて逢ふ事の絶えたるを恨みたるなり。ケリといはでナリといへるを見ればよそふる意あるなり
 
   日置《ヘキ・ヒキ》(ノ)長枝娘子歌一首
1564 秋づけば尾花が上におく露のけぬべくも吾《ワ》はおもほゆるかも
秋付者尾花我上爾置露乃應消毛吾者所念香聞
 上三句は序なり○秋ヅケバについて契沖は
  秋付者は此より後あまたよめり。秋ニ至レバの意なり
といひ略解には
  秋ヅケバは朝附日、夕附日のツクにおなじく秋に附なり
といへり
 
   大伴家持和〔左△〕歌一首
(1595)1565 わがやどの一村はぎをおもふ兒にみせずほとほとちらしつるかも
吾屋戸乃一村芽子乎念兒爾不令見殆令散都類香聞
 古義に題辭の和の字を削りて『和字は衍なり』といへり。そは一首のうちに返しらしき趣なければなり。秋歌とありしを和歌と誤れるにてもあるべし
 
   大伴家持秋歌四首
1566 (久堅の)雨間もおかず雲がくりなきぞゆくなるわさ田かりがね
久堅之雨間毛不置雪隱鳴曾去奈流早田雁之哭
 このアマ間は上(一五三五頁)に見えたる同じ作者の
  うの花のすぎばをしみかほととぎす雨間もおかずこゆなきわたる
のアママとおなじく雨のふる間なり。雲ガクリは雲ニ隱レテなり○ワサ田は句中の枕辭なり
 
1567 雲がくりなくなる雁のゆきてゐむ秋田の穗立しげくしおもほゆ
雪隱鳴奈流雁乃去而將居秋田之穗立繁之所念
(1596) 上四句はシゲクにかゝれる序なり。辭の例は卷七(一二五六頁)に
  山のまにわたるあきさのゆきてゐむその河の瀬に浪たつなゆめ
とあり○穗ダチは穗ナミに對せる語なり。穗のたちたるを穗ダチといひ靡けるを穗ナミといふ○シゲクシオモホユとはシバシバ妹ヲコヒシク思フとなり
 
1568 あまごもりこころいぶせみいでみれば春日の山は色づきにけり
雨隱情欝悒出見者春日山者色付二家利
 初句の意は雨ニコモリテとなり。イブセミはウットシサニなり
 
1569 雨はれて清く照りたるこの月夜《ツクヨ》又|△更而《ヨクダチテ》雲なたなびき
雨晴而清照有此月夜又更而雲勿田菜引
     右四首天平八年丙子秋九月作
 又更而は又夜更而の夜をおとせるならむ。從來マタサラニシテとよめるは從はれず
 
   藤原朝臣八束歌二首
(1597)1570 ここにありて春日やいづく雨障《アマザハリ》いでてゆかねばこひつつぞをる
此間在而春日也何處雨降出而不行者戀乍曾乎流
 卷三(三九三頁)に
  ここにして家やもいづくしら雪のたなびく山をこえてきにけり
 又卷四(六九一頁)に
  ここにありて筑紫やいづくしら雲のたなびく山の方にしあるらし
とあり〇二三の間※[日が月]に遠クモアラヌヲといふことを挿みて聞くべし。古義に『遠き方にあるなるべし』といふ辭を挿みて釋せるは從はれず○雨障はアマザハリとよむべし。雨ニサハリテとなり
 
1571 春日野にしぐれふるみゆあすよりはもみぢかざさむ高まとの山
春日野爾鐘禮零所見明日從者黄葉頭刺牟高圓乃山
 高圓ノ山ガ紅葉ヲカザサムとなり
 
   大伴家持白露歌一首
(1598)1572 わがやどの草花《ヲバナ》が上の白露をけたずて玉にぬくものにもが
吾屋戸乃草花上之白露乎不令消而玉爾貫物爾毛我
 結句はヌク由モガナといはむにひとし。シラツユヲはケタズテにかゝれるなり。古今集戀一にも
  心がへするものにもが片戀はくるしきものと人にしらせむ
とあり○ケタズを不令消と書ける、いかがとおぼゆれど下にもケタズタバラムを不令消賜良牟と書きケタズテオカムを不令消將置と書けり。或は當時はやくケタズをケサズとも云ひしか
 
   大伴利〔左△〕上歌一首
1573 秋の雨にぬれつつをればいやしけど吾妹がやどしおもほゆるかも
秋之雨爾所沾乍居者雖賤吾妹之屋戸志所念香聞
 利上は村上の誤なるべしと契沖いへり○略解に
  是は旅にしてよめるなるべし。しからば吾妹ガヤドとは則我郷の家をいふべし。(1599)さなくては雖賤の詞穩ならず
といへる如し○イヤシケドはムサクロシケレドなり
 
   右大臣橘家宴歌七首
1574 雲の上になくなる雁のとほけども君にあはむとたもとほり來つ
雲上爾鳴奈流鴈之雖遠君將相跡手囘來津
 初二は序なり○道は眞直につきたるものならねばタモトホリ來ツといへるなり。卷七(一三四六頁)に
  春がすみゐのへゆただに道はあれど君にあはむとたもとほり來も
とあり
 橘家を古義にタチバナノイへとよみたれどおそらくは音にてキツケと唱へしならむ。タチバナノイヘにてはなめげに聞ゆればなり
 此七首と同時の歌どもはやく卷六(一一三九頁以下)に見えたり
 
1575 雲の上になきつる雁のさむきなべはぎの下葉は黄變可毛《モミヂツルカモ》
(1600)雲上爾鳴都流鴈乃寒苗芽子乃下葉者黄變可毛
     右二首
 結句は略解古義に從ひて、モミヂツルカモとよむべし(契沖はモミヂセムカモとよめり)○右二首は作者の名のおちたるなり
 
1576 このをかにをしかふみおこしうかねらひ可聞可開〔左△〕爲良久《カモカモスラク》、君故にこそ
此岳爾小牡鹿履起宇加※[泥/土]良此可聞可開爲良久君故爾許曾
    右一首長門守|巨曾倍《コソベ》朝臣津島
 第二句の語例は卷三(五七四頁)及卷六(一〇三七頁)に
  朝獵に、ししふみおこし、ゆふがりに、とりふみたて
とあり○ウカネラフを契沖はウカガヒネラフなりといひて推古天皇紀の間諜者《ウカミビト》、天武天皇紀の候《ウカミ》を例に引けり○又契沖は第四句の開を聞の誤としてカモカモスラクとよめり。カモカモはトモカウモなり。スラクはスルコトハとなり○さて古義に第三句以上を序としたり。もし序とすれば下に秋ハギニオキタル露ノ風フキテ(1601)オツル涙ハとあるとひとしき一種の序なり。尋常の序にはあらず。略解に或人の誤字説を擧げて
  さらば戀の歌なるを此時誦せしなるべし
といへり。誤字説は從ひがたけれど、げにはやくよめる又は聞保てる歌なるをカモカモスラク君故ニコソといふ辭のをりに合ひたれば誦して主人に聞えしならむ
 
1577 秋の野の草花《ヲバナ》がうれをおしなべてこしくもしるくあへる君かも
秋野之草花我末乎押靡而來之久毛知久相流君可聞
 オシナベテはオシナビケテなり。卷一(七三頁)にもイハガネノシモトオシナべとあり。上三句は秋の野をこえて旅行く趣なり。コシクモは來シコトモなり。卷七にも玉ヒロヒシク(一二七三頁)ソガヒニ寐シク(一四七〇頁)とあり。コシクモシルクは來シ詮アリテとなり○此歌前後の中にて最めでたし
 
1578 けさなきてゆきしかりがねさむみかも此野の淺茅いろづきにける
今朝鳴而行之鴈鳴寒可聞此野乃淺茅色付爾家類
(1602)    右二首阿倍朝臣蟲麻呂
 サムミカモは寒ケレバニヤとなり。古義に『雁が音の寒くて霜などもふれる故にや此野の淺茅の色付にけるならむ』と辭を挿みて譯せるは非なり。ただ雁ノ聲ガ寒カツタカラ淺茅ガ色付イタノデアラウカといへるのみ。即上なる
  雲の上になきつる雁の寒きなべはぎの下葉はもみぢつるかも
と同一なる思想なり
 
1579 あさとあけて物もふ時に白露のおける秋はぎみえつつもとな
朝扉開而物念時爾白露乃置有秋芽子所見喚鶏本名
 モトナはあらずもがなと思ふ時にいふ辭なり。さればミエツツモトナはアヤニクニ見エツツなど譯すべし〇一首の意は白露ノオケル秋萩ガ見エテ一入物ヲ思ハスルとなり○※[奚+隹]を呼ぶに今はトトといへどいにしへはツツといひしかばツツを喚鶏と書けるなり
 
1580 さをしかの來たちなく野の秋はぎは露霜負ひてちりにしものを
(1603)棹牡鹿之來立鳴野之秋芽子者露霜負而落去之物乎
     右二首文《フミ》(ノ)忌寸《イミキ》馬養《ウマカヒ》
     天平十年戊寅秋八月二十日
 一首の意はサヲ鹿ガ來タチ鳴クガソノ野ノ秋萩ハ云々といへるなり。かく見ざればモノヲといふ辭をり合はず。略解古義共に誤解せり
 
   橘朝臣奈良麻呂結集宴歌十一首
1581 たをらずて落者惜常《チリナバヲシト》わがもひし秋の黄葉をかざしつるかも
不手折而落者惜常我念之秋黄葉乎挿頭鶴鴨
 題辭の結集婁を略解に結2集宴1と點じ古義にウタゲスルトキノと訓ぜり。案ずるに結集シテ宴セシトキノといふ意なり。音讀と訓讀とは隨意なれど集宴ヲ結ビシとはいふべからず
 第二句を舊訓にチリナバヲシトとよめり。チリナバといはばヲシカラムといふべきなれどいにしへはかくヲシともいひしなり。古義にはチラバヲシミトとよみ改(1604)めて散失ナバイカニ後悔シク惜カラムト思ヒシ黄葉ヲ云々と譯せり。チラバヲシミトとよまむも可なれど然よめば卷三(五〇二頁)なる
  あしひきのいは根こごしみすがの根をひかばかたみとしめのみぞゆふ
と同格となるが故に、即ヲシミトのトは例の省きて見べきトとなるが故にそのトをはたらかしてト思ヒシとは釋くべからず。辭を換へていはばチラバヲシミトは散ラバヲシサニといふにひとしければワガモヒシにはつづかず。さればなほチリナバヲシトとよむべし
 
1582 布〔左△〕將見《メヅラシキ》ひとにみせむともみぢばをたをりぞわがこし雨のふらくに
布將見人爾令見跡黄葉乎手折曾我來師雨零久仁
     右二首橘朝臣奈良麻呂
 初句はシキミムとよみ來りしを宣長は
  布は希の誤にてメヅラシキと訓べし。卷十モトツ人ホトトギスヲヤ希將見《メヅラシク》、卷十一|希將見《メヅラシキ》君ヲミムトゾ、卷十二大王ノシホヤクアマノ藤衣ナレハスレドモイヤ希將見毛《メヅラシモ》など皆メヅラシとよめり
(1605)といへり。此説によりてメヅラシキとよむべし。さて希將見とは書きたれどこのメヅラシキはメデタキ(又はメデタクオボユル)なり○フラクニはフルニを延べたるなり
 
1583 もみぢ葉をちらすしぐれにぬれて來て君がもみぢをかざしつるかも
黄葉乎令落鐘禮爾所沾而來而君之黄葉乎挿頭鶴鴨
     右一首久米女王
 第四句を略解に君ガ園ノモミヂヲと譯し古義に君ガ家ノ黄葉と譯せるは從はれず。此歌は前の歌の答にて君ガモミヂヲとは君ガタヲリ來シ黄葉ヲといへるなり
 
1584 布〔左△〕將見跡《メヅラシト》わがもふ君は秋山のはつもみぢ葉に似てこそありけれ
布將見跡吾念君者秋山始黄葉爾似許曾有家禮
     右一首長《ナガ》(ノ)忌寸《イミキ》(ノ)娘
 これも主人の歌に對する答歌なり。さるからに主人の歌なるメヅラシといふ語を應用したるなり。さてこのメヅラシもメデタシなり
 
(1606)1585 なら山の峯のもみぢばとればちるしぐれの雨しまなくふるらし
平山乃峯之黄葉取者落鐘禮能雨師無間零良志
      右一首内舍人縣(ノ)犬養(ノ)宿禰吉男
 今ならばチルナリといふべし
 
1586 もみぢ葉をちらまくをしみたをり來てこよひかざしつ何物可《ナニカ》おもはむ
黄葉乎落卷惜見手折來而今夜挿頭津何物可將念
     右一首縣(ノ)犬養(ノ)宿禰持男
 ヲシミはヲシサニなり。何物可は舊訓にナニカとよめるに從ふべし(略解にはナニヲカとよめり)。此上ニ何事ヲカ思ハムとなりと契沖のいへる如し
 
1587 (足引の)山のもみぢ葉こよひもか浮去良武《ウカビイヌラム》、山河の瀬に
足引乃山之黄葉今夜毛加浮去良武山河之瀬爾
     右一首大伴宿禰|書持《フミモチ》
(1607) 第四句はウカビイヌラムとよむべし(舊訓にはウキテイヌラム、古義にはウカビユクラムとよめり)。古義に契沖云とて云へるは穿鑿に過ぎたり。ただ山の黄葉を思遣りてよめるなり○此歌前後の中にて最よろし
 
1588 なら山を令丹《ニホス》もみぢばたをりきてこよひかざしつちらばちるとも
平山乎令丹黄葉手折來而今夜挿頭都落者雖落
     右一首|之〔左△〕手代《ミテシロ》(ノ)人名《ヒトナ》
 令丹を舊訓にニホスとよめるを古義にニホフに改めて
  ニホフと訓てにほはす意となるは令響をトヨム、令靡をナビクといふともはら同例なり
といへるはいみじき誤なり。かならずニホスとよむべし。令響をトヨムとよみ令靡をナビクとよむはトヨムル、ナビクルの終止格なり。今の例とはすべからず。さてニホスはニホハスとおなじくて染むる事なり。語例は卷十六竹取翁の歌にスミノ江ノ、遠里小野ノ、眞ハリモチ、丹穗之爲《ニホシシ》キヌニとあり○結句は今ハ散ラバ散ルトモヨシとなり○作者之〔右△〕手代人名の之は契沖の説に三の誤なりといへり。人名は名なり
 
(1608)1589 露霜にあへるもみぢをたをり來て妹挿頭都《イモトカザシツ》のちはちるとも
露霜爾逢有黄葉乎手折來而妹挿頭都後者落十方
     右一首秦(ノ)許遍《コヘ》麻呂
 第四句を舊訓にイモニカザシツとよめるを略解にイモガカザシツとよめり。宣長は
  妹の字今夜なりしを今を落し夜を妹に誤れるなるべし
といへり。古義にもとのまゝにてイモトカザシツとよめるに從ふべし。但古義に『妹とは宴席に出あひたる侍女などをいふならむ』といへるは從はれず。久米女王、長(ノ)忌寸(ノ)娘などをいへるなり
 
1590 かみな月しぐれにあへるもみぢばのふかばちりなむ風のまにまに
十月鐘禮爾相有黄葉乃吹者將落風之隨
     右一首大伴宿禰池主
 四五は風吹カバソノマニマニ散リナムの意なり○代匠記に
(1609)  下句は黄葉に寄せてともかくも君に隨はむの意ある歟。げにも寶字元年の躁動の時此歌主も奈良麻呂に與せられたるはさきより得意(○懇意におなじ)なりけるにや
といへるは穿鑿に過ぎたり。因にいふ。寶字元年の躁動とは孝謙天皇の天平寶字元年に橘奈良麻呂、大伴古麻呂等相謀りて皇太子大炊王を廢し奉り権臣藤原仲麻呂を殺さむとせしをいへるなり
 
1591 もみぢばのすぎまくをしみおもふどちあそぶこよひはあけずもあらぬか
黄葉乃過麻久惜美思共遊今夜者不開毛有奴香
     右一首内舍人大伴宿禰家持
     以前冬十月十七日集2於右大臣橘卿之舊宅1宴飲也
 スギマクヲシミは散ラムガヲシサニなり。アケズモアラヌカは明ケズモアレカシとなり(1610)冬十月十七日とあるは天平十年なり。前に天平十年戊寅秋八月二十日とありてここに年を記さねば前なると同年と認むべきなり。契沖が『天平十三年十四年兩年の間〔日が月〕なり』といへるは從はれず○以前は以上といはむにひとし
 
   大伴坂上郎女竹田庄作歌二首
1592 △然不有《モダアラズ》、五百代小田をかりみだり田廬《タブセ》にをればみやこしおもほゆ
然不有五百代小田乎苅亂田應爾居者京師所念
 竹田庄の事は卷四(八一一頁)にいへり
 初句を契沖はシカトアラヌとよめり。略解に此訓に據りて
  初句より隔てゝ田ブセニヲレバといふへかゝる
といへるは語法を無視したる説なり。宣長は
  然は黙の誤にてモダアラズならん
といへり。案ずるにもと默然とありしを字形の相似たるより黙の字をおとしゝならむ。集中にモダには多くは黙然と書けり。さてモダアラズはジットシテヰズニとなり(卷四【六七〇頁】參照)。古義に枕辭とせるは非なり○拾芥抄田籍部に五十代爲2一段1と(1611)あるによれば五百代は一町に當れどこゝにイホシロ小田といへるはただ廣き田といふことなり。小田の小は添辭のみ。畢竟小田は田といふにひとしき歌語なり。『五百代あらば小田とはいふべからず』などいへるは小の添辭なること、小田の歌語なることを知らざる人の言なり○カリミダリは刈リ亂シなり。卷一(一〇〇頁)にヒクマ野ニニホフハリ原イリミダリとよめり○田廬は卷十六なる可流羽須波田廬ノモトニといふ歌の註に田廬者多夫世(ト)反(ス)とあり。田面の庵なり。ヲレバはヲルニなり〇ミヤコシオモホユは都ガシノバレルとなり。上(一五九八頁)にも吾妹ガヤドシオモホユルカモとあり○郎女は女子なる上に貴人なればみづから稻を刈りなどする事はもとより無けれど今田庄にあればわざとみづから農事にいそしめるやうにいへるなり
 
1593 (こもりくの)はつせの山はいろづきぬしぐれの雨はふりにけらしも
隱口乃始瀬山者色附奴鐘禮乃雨者零爾家良思母
     右天平十一年己卯秋九月作
 
(1612)   佛前唱歌一首
1594 しぐれの雨まなくなふりそくれなゐににほへる山のちらまくをしも
思具禮能雨無間莫零紅爾丹保敝流山之落卷惜毛
     右冬十月皇后宮之維摩講(ノ)終(ノ)日供2養大唐高麗等種々音樂1爾乃《スナハチ》唱2此謌1。彈琴者市原王、忍坂《オサカ》王【後賜姓大原眞人赤麻呂也】歌子者田口朝臣|家守《ヤカモリ》、河邊朝臣|東人《アヅマヒト》、置始《オキソメ》(ノ)連|長谷《ハツセ》等十數人也
 皇后宮は聖武天皇の皇后即所謂光明皇后なり。維摩《ユヰマ》講は維摩經を講ずる法會なり。歌子は歌をうたふ人なり。又歌者又歌人と書けり。因にいふ歌を作る人を歌人と書けるは拾遺集卷十七に
  三條太政大臣(ノ)家に歌人めしあつめてあまたの題よませ侍けるに
とあるを最古しとす○爾乃は文選にいと多く見えたり。二字を聯ねてスナハチとよむべし
   大伴宿禰|像見《カタミ》歌一首
(1613)1595 秋はぎの枝もとををに降《フル》露のけなばけぬとも色にいでめやも
秋芽子乃枝毛十尾二降露乃消者雖消色出目八方
 トヲヲニはタワワニにおなじ。畢竟撓ムバカリニとなり○降を舊訓にオクとよめれどオクとはよみがたし。古義の如くフルとよむべし○上三句は序なり。タトヒ死ヌトモ色ニアラハサムヤハとなり
 
   大伴宿禰家持到2娘子門1作歌一首
1596 妹が家の門田をみむとうち出來しこころもしるくてる月夜かも
妹家之門田乎見跡打出來之情毛知久照月夜鴨
 實は妹を見む爲に來しなれど門田をみむ爲に來しやうに寄せ言へるなり。ウチデコシのウチは添辭なり。タゴノ浦ユタチデテミレバと同例なり。古義に馬ニ鞭打テと譯せるは非なり〇三四はイデ來シ心ノカヒアリテとなり。上(一六〇一頁)にも
  秋の野のをばなが末をおしなべてこしくもしるくあへる君かも
とあり○門田は野田山田などに對せる稱にて門前の田なり。吾妻鏡安貞二年七月(1614)廿日の條に
  駿河前司義村輕服ノ日數已ニ過ギ訖ンヌ。今ニ於テハ田村ノ山庄ニ入御アルベキノ由案内ヲ申ス。日來《ヒゴロ》彼家ニ修理ヲ加へ御所一宇ヲ新造セシメ其砌ヨリ門田〔二字右△〕ニ至ルマデ渡廊ヲ造リ草花|員《カズ》ヲ盡シテ東南兩庭ニ殖ウ云々
とあり
 
   大伴宿禰家持秋歌三首
1597 秋の野にさける秋はぎ秋風になびける上に秋の露おけり
秋野爾開流秋芽子秋風爾靡流上爾秋露置有
 わざと秋といふ語を重ねたるなり
 
1598 さをしかの朝だつ野邊の秋はぎに玉とみるまでおける白露
棹牡鹿之朝立野邊乃秋芽子爾玉跡見左右置有白露
 アサダツは朝立行くなり。下に秋ノ野ヲ朝ユク鹿ノとあり。アサダツとタを濁りて唱ふべし
 
(1615)1599 さをしかの胸別にかも秋はぎのちりすぎにける盛かもいぬる
狹尾牡鹿乃胸別爾可毛秋芽子乃散過鶏類盛可毛行流
     右天平十五年癸未秋八月見2物色1作
 ムナワケは胸にて押分くる意。サヲシカノムナワケはたが云ひそめしにか。いとをかしき辭なり。結句の上にマタハといふことを補ひて聞くべし
 こゝの物色は景色なり。上なるホトトギス來ナキトヨモスウノ花ノといふ歌の左註の物色とは異なり
 
   内舍人石川朝臣廣成歌二首
1600 妻戀に鹿なく山べの秋はぎは露霜さむみ盛すぎゆく
妻戀爾鹿鳴山邊之秋芽子者露霜寒盛須疑由君
 
1601 めづら布《シキ》君が家なる波奈《ハダ》すすき穗にいづる秋のすぐらくをしも
目頬布君之家有波奈須爲寸穗出秋乃過良久惜母
 初句を舊訓にメヅラシキとよめるを略解にメヅラシクとよみて
(1616)  メヅラシクはもと愛る詞にて花薄といふへかゝる隔句とすべし
といへるは非なり。なほメヅラシキとよむべし。そのメヅラシキはメデタキといふ事にて君にかゝれるにてなほハシキヤシといはむが如し○波奈須爲寸をハナススキとよまむに集中にこゝの外は見えぬ語なり。但新撰萬葉集には
  花薄そよともすれば秋風のふくかとぞきく衣なき身は
  秋の野の草の袂か花薄穗に出て招く袖とみゆらむ
とあり。されば略解に
  神功紀神託の詞に幡荻《ハタススキ》穗出吾也云々。集中皆ハタススキ也。此一首のみハナススキと有はもし奈は太の字の誤か。新撰萬葉に花薄とかき其のちみな花薄とのみいへば奈良の朝の末にはさもいひしにや
といへり。ハタススキ、ハダススキは卷一なる長歌(七三頁)に旗ススキシ能《ヌ》ヲオシナベ、卷三〈四〇六頁)に皮《ハダ》ススキ久米ノワク子ガ、下にも
  波太《ハダ》すすき尾花さかぶき黒木もちつくれる室《ヤド》は萬代までに
とあり。古義には『奈は太の字の誤なるべし』といひ字音辨證下卷(二九頁)には
(1617)  今本ハナススキとよめるは非なり。ハタススキとよむべし。集中ハナススキといへる事なし。ハナススキは延喜以來の詞なり。奈にはダナの兩音あり(○採要)
といへり。案ずるに初清みてハタススキといひしを〈幡、旗など書けり)ハダススキと濁り(皮、波太なども書けり)更にハナススキと唱ふるやうになりしなり。さて今は本のままにてハダススキとよむべし。ハタススキとは薄の穗のさま旗をたてたる如くなればいへるにてそのハタススキはシノススキとおなじく薄の歌語なり。一種の薄をいふにはあらず(葉の本にて茎を包みたればそれを皮と見て皮《ハダ》薄といふなりといへる説は從はれず)〇一首の意は薄ノ穗ニ出ヅルソノアハレナル時節ノ過去ルガ惜シとなり
 
   大伴宿禰家持鹿鳴歌二首
1602 山びこのあひとよむまで妻戀に鹿なく山邊に獨のみして
山妣姑乃相響左右妻戀爾鹿鳴山邊爾獨耳爲手
 題辭の鹿鳴の上に聞の字を脱せる歟と契沖いへり。上(一五八三頁)に湯原王鳴鹿歌とあるを思へば鹿鳴は鳴鹿の顛倒にてもあるべし○アヒトヨムは響應なり。ヒト(1618)リノミシテは獨ノミニテなり。イト苦シなどいふ事を略せるなり
 
1603 このごろのあさけにきけば(あしひきの)山をとよもしさをしかなくも
頃者之朝開爾聞者足日木※[竹冠/昆]山乎令響狹尾牡鹿鳴哭
    右二首天平十五年発未八月十六日作
 
   大原眞人今城傷2惜寧樂故郷1歌一首
1604 秋されば春日の山の黄葉みる寧樂のみやこのあるらくをしも
秋去者春日山之黄葉見流寧樂乃京師乃荒良久惜毛
 都を久邇に遷されし後によめるなり(卷六【一一四九頁一一五三頁一一五五頁】參照)
   大伴宿禰家持歌一首
1605 高圓の野邊の秋はぎこのごろのあかとき露にさきにけむかも
高圓之野邊乃秋芽子此日之曉露爾開葉〔左△〕可聞
 これも久邇宮にて寧樂を思遣りてよめるなり。寧樂にて高圓野を思遣れるにあらず○葉は兼を誤れるなり
 
(1619)  秋相聞
   額田王思2近江天皇1作歌一首
1606 君まつとわがこひをればわがやどのすだれうごかし秋の風ふく
君待跡吾戀居者我屋戸乃簾令動秋之風吹
 
   鏡王女作歌一首
1607 風をだに戀者《コフルハ》ともし風をだにこむとし待たば何如《ナニカ》なげかむ
風乎谷戀者乏風乎谷將來常思待者何如將嘆
 以上二首共にはやく卷四(六一九頁)に出でたり○第三句の風ヲダニは宣長が
  上なる詞を重ねたるのみ也。風ヲダニ戀ルハトモシといふ二句を重ねいふ意也
といへる如し○何如を舊訓と略解とにイカガとよみたれど當時いまだイカガといふ辭はなければナニカとよむべし。卷四には何香と書けり
 
   弓削皇子御歌一首
(1620)1608 秋はぎの上におきたる白露のけかもしなましこひつつあらずば
秋芽子之上爾置有白露乃消可毛思奈萬思戀管不有者
 上三句は序、四五は消エヤセマシ、戀ヒツツアラムヨリハとなり
 
   丹比《タヂヒ》(ノ)眞人歌一首 名闕
1609 宇陀の野の秋はぎしぬぎなく鹿も妻にこふらく我にはまさじ
宇陀乃野之秋芽子師弩藝鳴鹿毛妻爾戀樂吾我者不益
 シヌグは押分くるなり。コフラクは戀フル事ハとなり
 
   丹生《ニフ》(ノ)女王贈2太宰帥大伴卿1歌一首
1610 たかまとの秋野上乃《アキヌノウヘノ》なでしこの花、うらわかみ人のかざししなでしこの花
高圓之秋野上乃瞿麥之花于壯〔左△〕香見人之挿頭師瞿麥之花
 秋野上乃は古義の如くアキヌノウヘノとよむべし(略解にはアキノヌノヘノとよめり)○略解に
(1621)  なでしこを我身にたとへ人とは大伴卿をさして若かりし時にめでられし事も有しをといふ也
といへる如し。但同書に『卿も此頃いと老たりし也』といへるはいかが。旅人の享年は史に見えねど天平三年に薨ぜし時長男家持のなほ少年なりしを思へばおそらくは五十歳前後なるべし(懷風藻に年六十七とあるは遽に信ずべからず)。されば此歌たとひ旅人の晩年に贈りしなりとも『卿も此頃いと老たりし也』などはいふべからず。まして丹生女王は辭意の未全く風情を脱せざるを思へばおそらくは白頭の人にはあらざりけむ○卷四(六七七頁)に此女王の旅人に贈りし
  あま雲のそきへのきはみとほけどもこころしゆけばこふるものかも
  いにしへの人のたばせるきびの洒やめばすべなし貫簀たばらむ
といふ二首の歌あり○壯は良和を誤れるか
 
   笠縫女王歌一首
1611 (あしひきの)山下とよみなく鹿の事乏可母《コトトモシカモ》わがこころづま
足日木乃山下響鳴鹿之事乏可母吾情都末
(1622) 略解に
  上はトモシといはん序のみ。事は言にてトモシはこゝはめづらしき意也
といひ古義に
  事乏可母もとのまゝにてはきこえ難し。今按に事は聲の誤か。さらばコヱトモシカモとよみて聲|愛《ウツク》シキ哉の意とすべし
といへり。案ずるに事は如の借字なり。されば上三句は序にあらず
  因にいふ。如に事を借りたるを思へばいにしへ之の下の如はコトと清みて唱へしなり。コトサケバ、コトナラバなど辭の初なるコトは清みて唱ふる事人の知れる所なり
 ○トモシカモは連體格にてトモシキカモといふ代に終止格にてトモシカモといへるなり。さてこゝのトモシはユカシの意なるべし○ココロヅマは略解に『わが心につまとおもひ定めたる人をいふべし』といへり
 
   石川賀係女郎歌一首
1612 神《カム》さぶといなにはあらず(秋草の)むすびし紐を解者《トクハ》かなしも (1622)神佐夫等不許者不有秋草乃結之紐乎解者悲哭
 初二は卷四(八一二頁)なる
  かむさぶといなにはあらずはたやはたかくしてのちにさぶしけむかも
におなじ。年タケヌトテ君ニアフ事ヲ嫌フニアラズとなり○秋クサノは枕辭なり。なほ後にいふべし○解者を舊訓にトケバとよみ契沖、千蔭、義門(活語雜話三編八丁)などはトカバとよめり。雅澄に從ひてトクハとよむべし○四五は今ハ男ニ逢ハジト結ビシ紐ヲ解クハ悲シとなり。ムスビシ紐は卷四(七一七頁)坂上郎女怨恨歌及同卷(七五八頁)同じ人の歌なるトギシココロにひとし。略解の説非なり○秋クサノを古義にムスビシの枕辭としたり。げに草ヲムスブといふことあれど、もしさる縁の枕辭ならば特に秋クサノとは云はじ。案ずるに秋クサノは紐ヲトクの枕辭なり。後ながら古今集秋上よみ人しらずの歌に
  百草の花の紐とく秋の野におもひたはれむ人なとがめそ
といふがあり○哭をモに充てたる例は卷七(一二九二頁)にアマタカナシ哭《モ》とあり上(一六一八頁)にもサヲシカナク哭《モ》とあり。輕々しく喪の誤とは定むべからず
 
(1624)   賀茂女王歌一首【長屋王之女母曰阿倍朝臣也】
1613 秋の野をあさゆく鹿のあともなくおもひし君にあへるこよひか
秋野乎且〔左△〕往鹿乃跡毛奈久念之君爾相有今夜香
    右歌或云|椋橋部《クラハシベ》(ノ)女王、或云笠縫女王作
 上二句はアトモナクの序なり。略解に『跡といはん序のみ』といへるは從はれず。そのアトモナクはユク方知ラレズとなり○且は旦の誤なり
 
   遠江守櫻井王奉2 天皇1歌一首
1614 なが月のそのはつ雁の使にもおもふ心はきこえこぬかも
九月之其始鴈乃使爾毛念心者可〔左△〕聞來奴鴨
 略解に
  後大原眞人の姓を賜ひ名を大浦といへり〔八字傍点〕
といへるはいみじき誤なり。こは續日本紀卷十五に
  天平十六年二月丙申以2太政官事從二位鈴鹿王、木工頭從五位下小田王、兵部卿(1625)從四位上大伴宿禰牛養、大藏卿從四位下大原眞人櫻井、大輔〔二字右△〕正五位上穗積朝臣老五人1爲2恭仁宮留守1
とありて大輔とあるは大藏大輔にて穗積(ノ)老の官名なるを大輔を大浦と見誤り又それを上に附けてよめるなり。古義にも大輔を上に附けて大原眞人櫻井大輔と擧げて頭註に
  大輔とあるは疑はし。櫻井大輔と名のりたまへるにや尋ぬべし
といへるは粗忽なり
 雁の使は彼蘇武の故事によれるなり○略解に
  任國に在て御音づれのなきをよめる也
といひ、古義に
  歌意はつばらに承る事はかなはずとも九月の其初雁の使になりともおもほしめす御心の御消息《ミアリサマ》の片端ばかりはいかできこえ來よかしと願ふなり。これは遠江の任國にありて御音づれを希ひ給へるなり
といへり。余の案は後にいふべし○可は所の誤ならむ
 
(1626)   天皇(ノ)賜(ヘル)報和御歌一首
1615 大の浦のその長濱によする浪ゆたけくきみをおもふこのごろ
大乃浦之其長濱爾縁流浪寛公乎念此日
 天皇は聖武天皇なり
 オホノ浦を八雲御抄に遠江と註し給へるは此歌に據りたまへるにて證とはしがたけれどげに遠江の地名とおぼゆ○上三句は序なり○ユタケクを古義に
 寛字は借字にてユタケクは御心のゆたゆたとして安からずねもころにおもほしめす御意なり
といへれどユタケクは卷三(三九八頁)にも
  いほ原の清見が埼のみほの浦のゆたけきみつつ物念もなし
とありて大キニといふ意なり○第二句にソノといひ結句にオモフといへるは贈歌の辭を取れるにていにしへの答歌の體なり
 さて此贈答の歌につきていぶかしき事あり。即
  贈歌にオモフ心ハキコエコヌカモといへるが天皇に奉る歌としてはなめげな(1627)る事
  雁は邊土より來るものによみならへるに此歌にては京師の方より來るやうによめる事
 以上二つの不審あり。よりて思ふにこは本集の編者が誤りて贈答者を顛倒せるにて天皇が
  なが月のそのはつ雁の使にもおもふ心はきこえこぬかも
といふ御製を下し給ひしにつきて櫻井王がおのが任國の地名をつかひて
  おほの浦のその長濱によする浪ゆたけくきみをおもふこのごろ
とよみて答へ奉りしならむ。さて契沖のいへる如く大乃浦、長濱といふ地名のユタケクにひびきあひて聞ゆるは心なくてにや心ありてにや
 
   笠女郎賜〔左△〕2大伴宿禰家持1歌一首
1616 朝ごとに吾見《ワガミル》やどのなでしこの花にも君はありこせぬかも
毎朝吾見屋戸乃瞿麥之花爾毛君波有許世奴香裳
 以下三首の題辭の賜は皆贈の誤なる事契沖のいへる如し(1628)吾見を古義に見吾の顛倒ならむといへり。もとのまゝにてもあるべし。アリコセヌカモはアレカシなり
 
   山口女王賜〔左△〕2大伴宿禰家持1歌一首
1617 秋はぎにおきたる露の風ふきておつる涙はとどめかねつも
秋芽子爾置有露乃風吹而落涙者留不勝都毛
 上三句は一種の序なり。三四の間〔日が月〕に落ツル如クといふことを挿みて聞くべし。卷七(一四四二頁)なる
  ゆふかけて祭るみもろのかむさびていむにはあらず人目おほみこそ
又(一四六二頁)
  ももづたふ八十の島廻をこぐ船にのりにしこころ忘れかねつも
と同格の序なり
 
   湯原王賜〔左△〕2娘子1歌一首
1618 玉にぬきけたずたばらむ秋はぎのうれ和和良葉《ワワラハ》における白露
(1629)玉爾貫不令消賜良牟秋芽子乃宇禮和和良葉爾置有白露
 ウレは末なり。契沖いはく
  和和良は第五貧窮問答にワワケサガレルカガフノミとよめるワワケと同じ。末《ウラ》葉のそゝけたるなり
と。古義は之に從へり。案ずるにワワラとワワケと同意なりとも末ノワワケタル葉といふことをウレワワラ葉とはいふべからず(ワワラウラ葉などこそいふべけれ)。和々良葉の葉は借字にてワワラハニといふ副詞なりとおぼゆ。略解には
  ワワラバは卷五ミルノゴトワワケサガレルとも有、卷二|生《オヒ》乎烏禮留、其外ヲヲリニヲヲリなどいふに同じ語にてこゝは萩の末にしげくおき亂れたる露をいふ
といへり。案ずるにワワラハニがもし露の形容ならばウレニとあるべくただウレとはあるべからず。さればワワラハニはウレの形容なり。さてワワラハニはタワワ、ヲヲリなどと同源の語にてワワケとは異なるべくウレワワラハニは末タワワニといふことにて萩の末の打靡ける形容なるべし。ワワラハのハはワの如く唱ふべし。濁るべからず
 
(1630)   大伴家持至2姑《ヲバ》坂上郎女(ノ)竹田(ノ)庄1作歌一首
1619 (たまほこの)道はとほけど(はしきやし)妹をあひ見にいでてぞわがこし
玉桙乃道者雖遠愛哉師妹乎相見爾出而曾吾來之
 ハシキヤシは妹、君などにそへいふ准枕辭なり。大君にヤスミシシといふ類なり○略解に
  妹は郎女のむすめをさす
といひ古義に
  妹は直に坂上郎女を戲れてさしたるか。又は郎女のむすめをいふにもあらむ
といへり。案ずるに妹は戀情を帶びざる場合にもいひしは勿論、目上の人に對してもいひしなり。たとへば卷三なる大伴駿河麻呂が坂上郎女に答へたる歌(四九九頁)に
  わぎもこがやどの橘いとちかくうゑてしゆゑにならずばやまじ
とあり。郎女は駿河麻呂の父の從妹にて(卷四【七四一頁】參照)その次女は駿河麻呂の妻なり。所詮妹は當時婦人を親愛して呼ぶ稱なりしなり○契沖いはく
(1631)  此歌並に次の和歌は……秋よまれたれどひたぶるの雜歌なれば左に注する年月に依らば第六に入べく相聞に依らば第四に入べかりしにや
といへり。秋の詮無き歌なれば第六卷なる雜歌の中か又は第四卷なる相聞の中に入るべく此處即秋相聞の中に入るべきならずと云へるなり
 
   大伴坂上郎女和歌一首
1620 (あらたまの)月たつまでに來まさねばいめにし見つつおもひぞわがせし
荒玉之月立左右二來不益者夢西見乍思曾吾勢思
     右二首天平十一年己卯秋八月作
 月タツマデニを古義に『一月の日の立まで』と譯してタツを經過の意としたれど月のかはりし日をツイタチといへば月タツは月のかはることなるべし
 
   巫部《カムコベ》(ノ)麻蘇《マソ》娘子歌一首
1621 わがやどの芽子花咲有《ハギノハナサケリ》みにきませ今二日ばかりあらばちりなむ
(1632)吾屋前乃芽子花咲有見來益今二日許有者將落
 第二句を舊訓にバギノハナサケリ、略解にハギハナサケり、古義にハギガハナサケリとよめり。テニヲハを添へてハギノハナサケリともハギガハナサケリともよむべし。本集卷二十にはハギ能ハナ、古今集秋上にはハギガハナとあり
 
   大伴田村大孃與2坂上大孃1歌二首
1622 わがやどの秋のはぎさく夕影に今もみてしが妹がすがたを
吾屋戸乃秋之芽子開夕影爾今毛見師香妹之光儀乎
 坂上大孃は田村大孃の異母妹なり(卷四【八〇五頁以下】參照)○ユフカゲは夕方なほ明るき程をいふ(七〇三頁參照)○今モはタダ今なり。モは輕く添へるにて亦の意にあらず。卷五(八六九頁)に
  たつの馬も今もえてしがあをによし奈良のみやこにゆきてこむため
 上(一五二三頁)に
  もののふのいはせの杜のほととぎす今もなかぬか山のとかげに
(1633) 下にもメヅラ布今モミテシガ妹ガヱマヒヲなどある、皆即今の意なり。古義に『さきに相見し時の如く今も云々』と譯せるは非なり
 
1623 わがやどに黄變蝦手《モミヅカヘルデ》みるごとに妹をかけつつこひぬ日はなし
吾屋戸爾黄變蝦手毎兄妹乎懸管不戀日者無
 第二句を舊訓と略解とにはモミヅルカヘデとよみ、契沖はモミヅカヘルデとよみ、古義にはニホフカヘルデとよめり。契沖の訓に從ふべし。カヘルデを略してカヘデといふやうになりしはいつの頃にか知らねど本集卷十四にワカ加敝流※[氏/一]ノモミヅマデと假字書にせるのみならずこゝも蝦手とかきたれば(本集にはカハヅに蝦、河蝦など書けり)カヘルデとよむべし。さてモミヅルカヘルデといふべきをモミヅカヘルデといへるは連體格の代に終止格をつかへるにてもあるべく、モミヅを四段にはたらかしたるにてもあるべし○カケツツは心ニ懸ケツツなり
 
   坂上大娘秋稻(ノ)※[草冠/縵](ヲ)贈2大伴宿禰家持1歌一首
1624 吾之蒔有《ワガマケル》わさ田の穗|立〔左△〕《モチ》つくりたるかづらぞ見つつしぬばせ吾背
(1634)吾之蒔有早田之穗立造有※[草冠/縵]曾見乍師弩波世吾背
 初句を舊訓にワガワザナルとよめる上に一本に蒔を業に作れりといふ。略解には業に從ひてワガナレルとよみ契沖と雅澄とはもとのまゝにてワガマケルとよめり。ワガマケルとよむべし。而してそのマケルは答歌のナリトツクレルに當れるなり○第二句を從來ワサダノホダチとよみたれど立は用、以などの誤ならむ。然らばワサダノホモチとよむべし。下にも
  はたすすきをばなさかぶき黒木|用《モチ》つくれる室《ヤド》は萬代までに
とあり○第四句はカヅラゾにて切りて心得べし。之ヲ見ツツ我ヲシノビタマヘとなり○田庄より贈れる歌なれば戯れてワガ蒔ケル早稻田ノ穗といへるなり。上に見えたる母坂上郎女の歌にモダアラズ五百代小田ヲ刈リミダリといへると同巧なり
 
   大伴宿禰家持報贈歌一首
1625 吾妹兒が業《ナリ》とつくれる秋の田のわさ穗のかづら見れどあかぬかも
(1635)吾妹兒之業跡造有秋田早穗乃※[草冠/縵]雖見不飽可聞
 業を略解にナルとよめるは非なり。古義に
  業跡はナリトと訓べし。産業トシテ造レルの意なり
といへる如し。又代匠記に『業トツクレルは田を造るにあらず。※[草冠/縵]を作るなり』といへるは非なり。これも古義に
  業は田を作るに係れり。※[草冠/縵]を造るにはあらず
といへる如し
 
   又報d脱2著v身衣1贈c家持u歌一首
1626 秋風のさむきこのごろ下にきむ妹がかたみとかつもしぬばむ
秋風之寒此日下爾將服妹之形見跡可都毛思努播武
    右三首天平十一年己卯秋九月往來
 四五は又妹ガ形見トシノバムとなり。カツモのモは助辭、カツは又なり○往來は贈答なり
(1636)   大伴宿禰家持攀2非時藤花并芽子黄葉二物1贈2坂上大孃1歌二首
1627 わがやどの非時《トキジキ》藤のめづら布《シキ》今も見てしが妹がゑまひを
吾屋戸之非時藤之目頬布今毛見牡鹿妹之咲容乎
 第二句を略解古義にトキジクフヂノとよめり。案ずるに古事記に常世(ノ)國ノ登岐士玖能カクノ木實とあり又本集卷十八なる長歌に
  よろしなべ、この橘を、等伎自久能、かくの木實と、なづけけらしも
とあれば題辭の非時こそトキジクノともよむべけれ。右を例として第二句をトキジクフヂノとはよむべからず。ノの有無は語法に關すればなり。案ずるに非時藤之はトキジキフヂノとよむべし。此形容詞はトキジシ、トキジクとはたらくにか又はオナジ、イミジ、スサマジなどと同じくトキジ、トキジクとはたらくにか未考へず。さて初二は序なり○第三句を從來メヅラシクとよみたれどメヅラシク今モ見テシガとはつづくべからず。案ずるにもとメヅラ布《シキ》妹ガヱマヒヲ今モ見テシガとありしが顛倒せるならむ。メヅラシキはメデタキなり(但序よりのつづきは今もいふメヅラシキなり)。今モはタダ今、即刻ニなり。古義に『さきに相見し時の如くに今も云々』(1637)と譯せるが非なる事は上(一六三二頁)に指摘せる如し
 
1628 わがやどのはぎの下葉は秋風もいまだ吹かねばかくぞ毛美照《モミデル》
吾屋前之芽子乃下葉者秋風毛末吹者如此曾毛美照
    右二首天平十二年庚辰夏六月往來
 フカネバは吹カヌニなり○モミヂタルといふべきをモミデルといへるは四段にはたらかしたるなり。古義に
  モミデルは常にモミヅルといふとはいさゝか異にしてモミヂテアルの意なり。チリテアルをチレル、サキテアルをサケル、モチテアルをモテルなど云と同格なり
といへり。げに然り。されどかくいふ前にまづモミヅがいにしへ四段にもはたらきしことを明にしおかざるべからず
 
   大伴宿禰家持贈2坂上大孃1歌一首并短歌
1629 叩々《ネモコロニ》 物をおもへば いはむすべ せむすべもなし 妹と吾《ワガ》 手た(1638)づさはりて あしたには 庭にいでたち ゆふべには 床うちはらひ しろたへの 袖さしかへて さねし夜や 常にありける (足ひきの) 山鳥こそは 峯《ヲ》むかひに つまどひすといへ (うつせみの) 人なる我や なにすとか 一日一夜も さかりゐて なげきこふらむ ここもへば 胸こそいため そこゆゑに こころなぐやと 高圓の 山にも野にも うちゆきて 遊往杼《アソビアルケド》 花耳《ハナノミシ》 にほひてあれば 見るごとに まして所思《オモホユ》 いかにして 忘れむものぞ 戀とふ物乎
叩々物乎念者將言爲便將爲爲便毛奈之妹與吾手携拂〔□で圍む〕而旦者庭爾出立夕者床打拂白細乃袖指代而佐寐之夜也常爾有家類足日木能山鳥許曾婆峯向爾嬬問爲云打蝉乃人有我哉如何爲跡可一日一夜毛離居而嘆戀良武許己念者胸許曾痛其故爾情奈具夜登高圓乃山爾毛野爾毎〔左△〕打行而遊往杼花耳丹穗日手有者毎見益而所思奈何爲而忘物曾戀心云物乎
 叩々を舊訓にイタミイタミとよめるを略解に
(1639)  叮の誤にて叮嚀の意もてネモコロニなるべし
といへり。木村博士(訓義辨證下卷一五頁)は廣雅釋訓及廣雅疏證を引きて
  かゝれば叩々は懇々と同義にて誠也とあればもとよりネモコロと訓べき文字なりけり。かくて又靈異記中卷に叩《ネンゴロ》求v之とあり。板本には此訓は削られたれど其原本とある高野本の旁訓にかくあり。これらによりて今も叩々を、ネモコロとよむべきなりといへり。博士の説の如く字はもとのまゝにてネモコロニとよむべし。後のものながら朱※[喜/心]の詩に叩々陳2苦詞1とあるも懇懇の意なり○サシカヘテはサシカハシテなり。サネシのサは添辭。サネシ夜ヤ常ニアリケルは寐シ夜ヤハ常ナリケルにて所詮寐シ夜ハ常ナラズシテ今ハカク離レ居リとなり。此處は卷五なる憶良の哀2世間難1v住歌(八六四頁)なる
  ますらをの、をとこさびすと、つるぎたち、腰にとりはき、さつ弓を、たにぎりもちて、赤駒に、しづ鞍うちおき、はひのりて、あそびあるきし、世の中や、常にありける
を學べるなり○山鳥は六帖(第二帖)に
(1640)  秋風のふくよるごとに山鳥のひとりしぬればものぞかなしき
新古今集戀五に
  晝は來てよるは別るゝ山どりの影みる時ぞねはなかれける
などありて雌雄相別れて寢るものといひ傳へたり。ヲムカヒニは相向ヘル山ニヰテといふ意なり。略解に『山鳥の峯へだててすむ事云々』といへるはわろし。谷ヲヘダテテとこそいふべけれ。ツマドヒはこゝにては相挑む事なり○ワレヤは我ヨなり。このヤを古義に疑辭と見て
  我ヤとありてナニストカといへるはヤとカの疑辭徒に重なりていかがなることなれど古歌にをりをり例あることなり
といへるは非なり○ナニストカは近くは卷四(七九一頁)に
  うつせみの代やもふたゆくなにすとか妹にあはずてわがひとりねむ
とあり。イカデカといはむにひとし〇一日ヒト夜モのモはダニの意也。卷十五にも
  とほくあれば一日一夜もおもはずてあるらむものとおもほしめすな
とあり。サカリはハナレなり。ナゲキコフラムはカクハ嘆キ戀フラムとなり○ウツ(1641)セミノ以下六句の意は
  彼山鳥は生涯雌雄相離れ居りとさへいふを人と生れたる我のただ一日一夜だに相離れ居ればいかでかかくは嘆き戀ふらむ
といへるなり○ココといひソコといへるは離《サカ》り居ることを指せるなり。ココロナグヤトは心ノナゴムヤトとなり。ナギム、ナグルと上二段にはたらく語なり。卷十九なる長歌にミルゴトニ、ココロ奈疑牟等とあり○ウチユキテのウチは添辭なり。遊往杼を舊訓にアソビテユケド、略解にアソバヒユケドとよめるを古義に卷五にアカゴマニ、シヅクラウチオキ、ハヒノリテ、阿蘇比阿留伎斯とあり、又卷六に雖行往をアルケドモとよみ、天武天皇紀に巡行をアルクとよめるを證としてアソビアルケドとよめり。古義に從ふべし○花耳を略解にハナノミと四言によみ古義にハナノミシとよめり。これも古義に從ふべし。シは集中にヲ、ニなどの如くよみ添へさせたる例少からず。さて花ノミシニホヒテアレバは花ノミニホヒテ君シ見エネバとなり。古義の説は從はれず○見ルゴトニは其花ヲ見ル毎ニとなり。マシテは一層なり○所思を舊訓にオモホユ、古義にシヌバユとよめり。オモホユとよみてシノバルの(1642)意とすべし。卷七(一二八三頁及一三二五頁)にも
  大御舟はててさもらふ高島の三尾のかち野のなぎさし所念《オモホユ》
  わかの浦に白浪たちておきつ風さむきゆふべはやまとし所念《オモホユ》
とあり○携拂の拂は衍字ならむ。戀云物乎の乎は者の誤か
 
   反歌
1630 たかまとの野邊のかほ花おもかげにみえつつ妹はわすれ不勝裳《ガテズモ》
高圓之野邊乃容花面影爾所見乍妹者忘不勝裳
 不勝裳は從來カネツモとよめり。改めてガテズモとよむべし○カホバナは集中になほ
  いはばしの間々生有《ママニサキタル》貌花の花にしありけりありつつみれば(卷十)
  うちひさつみやのせがはの可保婆奈のこひてかぬらむきそもこよひも(卷十四)
  みやじろのをかべにたてる可保我波奈なさきいでそねこめてしぬばむ(同卷)
とあり。略解に眞淵がオモダカ又はムクゲなるべしといひし由をいひ、さて
  或人は今晝顏といふものならんといへり。いづれもより所なし
(1643)といひ、雅澄の萬葉集品物解には
  或説に今(ノ)世に晝顏といふものならむといへる、よろし
といひ又
  さて又今も備後にては此花をカッポウといふよし小野博云り。これすなはち可保といふをなまれるものにて古名の田舍に遺れるものなり。又一種海濱及江湖、沙地に生るをハマヒルガホといひ一にカッポウバナと云よしこれも小野博云り
といへり。然るに又ただうるはしき花をたゝへていへるにて一つの草の名にあらずといふ説あり(たとへば伴信友の比古婆衣卷十八)。案ずるにガを挿みてカホガハナともいひ又カホバナノコヒテカヌラム(容花が夕方にしぼむやうに妹は我をしたひて寢らむといふ意)といへるを思へばカホバナはなほ一種の草の名なり。而してヒルガホと名の似たる又ミヤノセ川ノカホバナノ、イハバシノ間々ニサキタルカホバナノ〈水涸れたる川瀬の飛石の間々にさきたるといふ意)などいひて好みて河原にさく趣なるを思へばおそらくは今いふ晝顏(即上なる憶良の歌に見えたる(1644)朝貌)の事ならむ。畢竟今いふヒルガホをいにしへカホバナともアサガホともいひしなるべく、花の色微紅なれば紅顏に比してカホバナといひ其花朝さけばアサガホともいひしなるべし。但品物解に小野蘭山の説を引きて今も備後にてヒルガホの事をカッポウといふはカホを訛れるにて古言の殘れるなりといへるはなほよく糺さざるべからず。試に東安藝出身なる門人千日亮に問ひしに
  ヒルガホほ我郷里にてもなほヒルガホといふ。カッポウ又コッポウといふは山草類にて全然ヒルガホと異なり
と答へ又備後國沼隈郡草戸村なる門人小林重道に尋ね遣りしに
  ヒルガホは我地方にてもヒルカホといふ。ガッポウといふものは知らず。尾道人に尋ねしに同地方にてもカッポウ又コッポウといふものを知れる人なしといふ。更に安藝賀茂郡三津町の人に問ひしに同地方にては山椿のことをガッポウといふとぞ。いづれの地方にてもヒルガホの事をカッポウといふを聞かず
と答へおこせき
 
   大伴宿禰家持贈2安倍女郎1歌一首
(1645)1631 今つくる久邇のみやこに秋の夜の長きに獨ぬるがくるしさ
今造久邇能京爾秋夜乃長爾獨宿之苦左
 卷六(一一四九頁)にも同じ作者の今ツクル久邇ノミヤコハ云々といふ歌あり○クルシサはワビシサなり
 
   大伴宿禰家持從2久邇京1贈d留2寧樂宅1坂上大娘u歌一首
1632 (足ひきの)山邊にをりて秋風の日にけにふけば妹をしぞもふ
足日木乃山邊爾居而秋風之日異吹者妹乎之曾念
 日ニケニは毎日なり。卷三(四六三頁)以下に見えたるアサニケニとおなじ
 
   或者贈v尼歌二首
1633 手もすまにうゑしはぎにやかへりては見れどもあかずこころつくさむ
手母須麻爾殖之芽子爾也還者雖見不飽情將盡
 手モスマニは上(一五一五頁)に見えたり○カヘリテハのハは輕く添へたるにて却(1646)リテなり○ココツクスは集中にココロツクシテコフル我カモ(卷四【七六四頁】ココロツクシテワガモハナクニなどよめり〇一首の意は
  我骨折りて植ゑし萩の爲に却りて心を盡し思を費すことか
といへるなり。略解に次の歌の處に
  右二首、親とはなくてそだてし女の尼になりたる後戀てよめるにや
といへる如し。古義の説は從はれず
 
1634 衣手にみしぶつくまでうゑし田を引板《ヒキタ》吾《ワガ》はへまもれるくるし
衣手爾水澁付左右殖之田乎引板吾波倍眞守有栗子
 初二は田づくりの形容にて女をおほしたてし勞をたとへ云へるなり○第四句は田を守るさまなり〇一首の意は
  骨折りて植ゑし田を鳥獣にはませざるは勿論我さへ手を著けずして守り居るがわびし
となり
 
   尼作2頭句1并《マタ》大伴宿禰家持所v誂v尼續2末句1等〔□で圍む〕和歌一首
(1647)1635 さほ河の水をせきあげてうゑし田を(尼作)苅流《カレル》早飯者《ハツヒハ》ひとり奈流〔左△〕《ナム》べし(家持續)
保佐〔二字左△〕河之永乎塞上而殖之田乎(尼作)苅流早飯者獨奈流倍思(家持續)
 頭句は後世にいふ上(ノ)句にて上三句をいへるなり。抑短歌は三段より成れるものなれば上三句を頭句、上(ノ)句などいひ下二句を末句、下(ノ)句などいふべきにあらねど、こゝに頭句末句といへるを見れば當時はやく誤り心得たりしなり○等は衍字ならむ。此字無き本あり。目録にも無し
 初二はいたづきしことの譬なり○第四句を舊訓と古義とにカルワサイヒハとよみ略解にカルハツイヒハとよみたれどさては意通ぜず。苅流はカレルとよみ早飯はハツヒとよむべし。早をハツとよむは卷十なる
  來て見べき人もあらなくにわぎへなる梅の早《ハツ》花ちりぬともよし
と同例なり。飯をヒとよむは常の事なり。さて苅リテ炊ゲル初飯といひつべきをカレルハツヒといへるは卷七(一四一六頁)なるマクズ原イツカモクリテ我衣ニキムなどの如く中間〔日が月〕の所作を略せるなり○第四句の奈流を古義に奈武の誤なるべし(1648)といへるは一發明なり。さてそのナムは新嘗のナメにて食ひ試みる事なり(記傳卷八【四三五頁】にニヒナベをニヒノアへの約とせるは從はれず)〇一首の意は
  君ガイタヅキ給ヒシ田ナレバ其稻ヲ苅リテ炊ゲル初飯ハ君獨コソ嘗メ給フベケレ
といへるにて御心ノマニマニ從ヒ奉ラムといへるに似たれど實は相手を弄びたるなり○保佐は佐保の顛倒なり
 
  冬雜歌
   舍人娘子雪歌一首
1636 (大口の)眞神の原にふる雪はいたくなふりそ家もあらなくに
大口能眞神之原爾零雪者甚莫零家母不有國
 大口ノは眞神(狼)の枕辭なり。眞神ノ原は飛鳥郷にありて廣く東西に亘りきと見ゆ。結句の上にヤドルベキといふことを補ひて聞くべし。卷三(三七六頁)にも
(1649)  くるしくもふりくる雨かみわの埼さぬのわたりに家もあらなくに
とあり
 
   太上天皇御製歌一首
1637 はだすすき尾花さかぶき黒木|用《モチ》つくれる室△《ヤド》は萬代までに
波太須珠寸尾花逆葺黒木用造有宝者迄萬代
 太上天皇は元正天皇なり。次なる天皇の御製と共に左大臣長屋王の佐保の家にてよみたまへるなり○契沖いはく
  ススキも尾花も同じ物なるをかくつづけさせ給へるは庭ツ鳥カケノ垂尾などの類なり。黒木とは削りたるを白木《シラキ》と云に對して削らぬを云なり
と。案ずるにハダススキヲバナは卷一(七三頁)なるハタススキ、シ能《ヌ》ヲオシナベまた卷三(五一五頁)なるアヤメグサ、ハナタチバナヲなどと同例としてハダススキ及ヲバナの意とすべきかとも思へど尾花はやがて薄の穗なればハダススキノ尾花といふべきノを省きたりとすべきなり。されば庭ツ鳥ナルカケといふべきナルを省きたるニハツトリカケとも同一視すべからず。此は枕辭とも認むべく今はさは見(1650)るべからざればなり○千蔭が
  サカブキは穗のかたを下にして葺くをいふ
といひ契沖が
  室は次の御製に室戸《ヤド》とあれば今は戸の字の落たる歟
といへるは共にげにもと思はる○用は古義に從ひてモチとよむべし
 
   天皇御製歌一首
1638 (あをによし)奈良の山なる黒木|用《モチ》つくれる室戸《ヤド》は雖居座《マセド》あかぬかも
青丹吉奈良乃山有黒木用造有室戸者雖居座不飽可聞
     右聞v之御2在《マシマシテ》左大臣長屋王(ノ)佐保(ノ)宅1肆宴御製
 天皇は聖武天皇なり。結句は一般ならばヲレドアカヌカモといふべきを天皇にましませば御自、尊びてマセバとのたまへるなり。卷一(一頁)なる雄略天皇の御製にも
  シキナベテ吾コソマセとあり。なほ御自敬語をつかひたまへる例は卷六(一〇八四頁)にもあり○肆宴の肆はつらぬる事なり。毛詩大雅に肆筵設席とあり
(1651) 右二首の御製を代匠記に
  左大臣の宅の倹約なるをほめて遊ばされたるなり
といひ略解に
  王の家作りの古しへざまなるをほめたまへるなり
といひ古義に
  王の家すべて黒木もて作れるにはあるべからず。天皇の行幸あれば常の家の外に假に黒木もて御座をつくりしなるべし
といへり。案ずるに長屋王佐保宅は別業かとも思へど懷風藻に於2長王宅1宴2新羅客1といふ事あまた見え(長王は長屋王の略なり。長皇子にあらず)又同書なる長屋王の詩の題辭に於2寶宅1宴2新羅客1とあれば
  寶宅は作寶宅の略にてやがてこゝに云へる佐保宅なり。同王の他の詩の題辭に初春於2作寶樓1置酒とあり
 新羅の客を招きしは所謂佐保宅なり。然るに懷風藻に其家を長王宅、左僕射長王宅、左僕射長屋王宅といひて別業と云へるは一處だに無ければ佐保宅は王の本邸な(1652)らむ(卷三【四〇一頁】佐保スギテ寧樂ノタムケニオクヌサハの註を參照すべし)。さて此王は高市皇子の御子なる上、左大臣として知太政官事舍人親王を助けて、否温厚なる親王に代りて國政を執りしかば(靈異記中卷には誤りて太政大臣とさへ書けり)其生活の豪奢なりし事懷風藻に出でたる諸家の詩を見て推知すべし。されば契沖が「左大臣の宅の倹約なるをほめて」といひ千蔭が「王の家作りの古しへざまなるをほめ」と云へるは共に適當せず。おそらくは行幸を迎へ奉らむ爲にみやびたる新屋を作りてませ奉りしを中々にめで給ひてかくは天皇ののたまへるならむ。古義の説はた徹底せず
 
   太宰抑大伴卿冬日見v雪憶v京歌一首
1639 沫雪のほどろほどろにふりしけばならのみやこしおもほゆるかも
沫雪保杼呂保杼呂爾零敷者平城京師所念可聞
 沫《アワ》雪と淡《アハ》雪との別ありて春ふる雪を淡雪といふとの説あれど本集に見えたるは皆アワユキなり。アハユキは後世の無識者の造語なり。用ふべからず。さてアワユキは沫の如く消えやすき雪をいふ○ホドロは上(一四八四頁)なるハダレにおなじ。卷(1653)十に
  夜をさむみ朝戸をひらきいでみれば庭も薄太良爾《ハダラニ》みゆきふりにけり一云庭も保杼呂爾《ホドロニ》ゆきぞふりたる
とあり〇四五の語例は上(一六一〇頁)にも田ブセニヲレバミヤコシオモホユとあり
 
   太宰帥大伴卿梅歌一首
1640 わが岳《ヲカ》にさかりにさける梅の花のこれる雪乎〔左△〕《ト》まがへつるかも
吾岳爾盛開有梅花遺有雪乎亂鶴鴨
 上にも同じ人の歌にワガ岳ニサヲシカ來ナク(一五七五頁)またワガヲカノアキハギノ花(一五七六頁)とよめり。雪乎は雪与の誤なるべし。卷七(一二七〇頁)にも同例あり○古義に
  此歌は春部に収べし。雪とあるにまがひて冬雜歌にいりたるなるべし
といへるは非なり。下の歌どもと合せ考ふるに此卷には梅花を冬にも春にも屬したるなり
 
(1654)   角《ツヌ》(ノ)朝臣廣辨雪梅歌一首
1641 沫雪にふらえてさける梅の花君がりやらばよそへ弖〔左△〕《ナ》むかも
沫雪爾所落開有梅花君之許遣者與曽倍弖牟可聞
 上(一四九六頁)に
  ふふめりといひし梅がえけさふりし沫雲にあひてさきぬらむかも
 下に
  けふふりし雪にきほひてわがやどの冬木の梅は花さきにけり
とあると、こゝにアワユキニフラエテサケル梅ノ花とあるとを思へば古人は雪がふれば梅花が促されてさくやうに信ぜしなり○ヨソヘ弖牟カモは卷十にも
  梅の花まづさく花をたをりてはつととなづけてよそへ手六かも
とあり。まづ此歌より釋かむにタヲリテハのハは無意の助辭にて
  梅花のまづさく花を手折りて裹と稱して彼人に贈りて我思を托《よそ》へむか
といへるなり(古義の釋は誤れり)。今の歌のヨソヘは之とは異にて卷七(一二四六頁)なる
(1655)  さひのくまひのくま川の瀬をはやみ君が手とらばよせいはむかも
のヨセイフにおなじ。されば一首の意は
  梅花を君がり遣らばそれに托《ヨソ》へて人がいひはやさむか
といへるなり(即古義の説の如し)○結句の弖は奈などの誤にや。ヨソヘナ〔右△〕ムカモとあるべき處なればなり(卷十なるはヨソヘテ〔右△〕ムカモとあるべし)。テムとナムとの別は卷四(六七二頁)なる紀の關守イトドメナムカモの處にも云へり
 
   安倍朝臣|奥道《オキミチ》雪歌一首
1642 たなぎらひ雪もふらぬか梅の花さかぬが代《シロ》にそへてだに見む
棚霧合雪毛零奴可梅花不開之代爾曾倍而谷將見
 タナギラヒ、タナグモリ(卷十三)トノグモリ(卷十二)アマギラヒ(卷七【一三三一頁】)アマギラシ(次下)カキキラシ(卷九)ウチキラシ(此卷【一五〇〇頁】)など皆同意の語なり○代《シロ》ニはカハリニなり。ソヘテは擬シテなり
 
   若櫻部(ノ)朝臣君足(ノ)雪歌一首
(1656)1643 あまぎらし雪もふらぬかいちじろくこのいつしばにふらまくをみむ
天霧之雪毛零奴可炊〔左△〕然此五柴爾零卷乎將見
 イツシバは卷四(六四三頁)に大原ノコノイチシバノとあるイチシバとおなじくて芝生なり。略解に櫟井柴なりといへるは非なり。フラマクヲはフラムヲを延べたるなり○炊は灼の誤なり
 
   三野(ノ)連|石守《イソモリ》梅歌一首
1644 ひきよぢてをらばちるべみ梅の花袖にこきれつ染《シマ》ば染《シム》とも
引攀而折者可落梅花袖爾古寸入津染者雖染
 梅花は冬春の交にさくものなればげに冬にも春にも屬すべけれど此歌は紅梅を詠ぜる歌とおばゆるに紅梅は白きよりはおくれてさくものなれば外のはいかにもあれ此歌は春雜歌に收むべきなり
 弟二句は折ラバ散ルベキニヨリテとなり○袖ニコキ入《レ》ツは枝ヨリコキオロシテ袖ニ入レツとなリ。卷十九なる家持の長歌に
(1657)  藤浪の、花なつかしみ、ひきよぢて、袖にこきれつ、ちらばちるとも
 卷二十なる同じ人の
  池水にかげさへみえてさきにほふあしびの花を袖にこきれな
 卷十八なる同じ人の橘をよめる長歌に
  はつ花を、枝にたをりて、をとめらに、つとにもやりみ、しろたへの、袖にもこきれ
 古今集秋下なる素性の歌に
  もみぢ葉は袖にこきいれてもて出なむ秋をかぎりとみむ人のため
とあるは皆今の歌に基づけるなり○結句は染マバ染ムトモヨシといふべきを略せるにてその染ムは色ニ染ムなり
 
   巨勢朝臣|宿奈《スクナ》麻呂(ノ)雪歌一首
1645 わがやどの冬木の上にふる雪を梅の花かとうち見つるかも
吾屋前之冬木乃上爾零雪乎梅花香常打見都流香裳
 ウチは添辭なり
 
(1658)   小治田朝臣|東麻呂《アヅママロ》雪歌一首
1646 (ぬばたまの)こよひの雪にいざぬれなあけむあしたに消者《ケナバ》をしけむ
夜干玉乃今夜之雪爾率所沾名將開朝爾消者惜家牟
 消者は舊訓の如くケナバとよむべし。イザは人を誘ふ辭にはあれど古義に『家(ノ)内の人をいざいざといざなふよしなり』と釋し『いざさらば妻や子よ急出む云々』と譯したるはあまりに深く踏込みたり
 
   忌部《イミベ》(ノ)黒麻呂雪歌一首
1647 梅の花枝にかちるとみるまでに風にみだれて雪ぞ落《フリ》くる
梅花枝爾可散登見左右二風爾亂而雪曾落久類
 落を略解に舊訓に從ひてチリとよめるはわろし。契沖に從ひてフリとよむべし○第二句を釋して略解古義に枝ニ散ルカトの意なりといへるはいまだし。このニは卷六(一〇四三頁)山部赤人作歌なる
  わたの底、おきついくりに〔右△〕、あはびたま、さはにかづきで
(1659)のニとおなじくてユにかよふニなり。されば枝ニカチルトは枝ヨリ散ルカトとなり
   紀(ノ)少鹿《ヲシカ》女郎梅歌一首
1648 しはすには沫雪ふると不知《シラネ》かも梅の花さくふふめらずして
十二月爾者沫雪零跡不知可毛梅花開含不有而
 第三句は古義にシラネカモとよめるに從ふべし。シラネバヤといふ意なり。花サクは花サケリの意と見るべし
 
   大伴宿禰家持雪梅歌一首
1649 けふふりし雪にきほひてわがやどの冬木の梅は花さきにけり
今日零之雪爾競而我屋前之冬木梅者花開二家里
 キホヒテはハリアヒテなり。マケズニなり
 
   御2在《マシマシテ》西池邊1肆宴歌一首
1650 池の邊の松のうら葉にふる雪は五百重ふりしけ明日さへもみむ
(1660)池邊乃松之末葉爾零雪者五百重零敷明日左倍母將見
     右一首作者未詳。但豎子阿倍胡臣蟲麻呂傳誦之
 契沖以下續紀天平十年の
  秋七月癸酉天皇御2大藏省1覧相撲1晩頭御2西池宮1。因指2殿前梅樹1勅2右衛士督|下道《シモツミチ》朝臣|眞備《マキビ》及諸才子1曰。人皆有v志、所v好不同。朕|去《イニシ》春欲v翫2此樹1而未v及2賞翫1花葉遽落。意甚惜焉。宜d各賦2春意1、詠c此梅樹u。文人三十人奉v詔賦v之
といふ文を下略して引きたれど此歌は其時のにあらず。冬の歌にて、梅樹を詠じたるにあらず春意を賦したるにもあらざればなり。但右の文によれば、西(ノ)池(ノ)宮といふがありしなり
 フル雪とあるは今し雪のふるなり。されば西(ノ)池(ノ)宮にて雪見の御宴を催されしなり。而して今の歌は其時の歌なるを其席に侍り豎子の傳へて後に誦せしなり
 豎子は和名抄職宮部、局の下に内豎俗云知比佐和良波とあるものなるべし。卷二十ハツ春ノハツネノケフノ玉ハハキといふ歌の題辭にも召2侍從豎子王臣等1令v侍2於内裏之東屋垣下1云々とあり
 
(1661)   大伴坂上郎女歌一首
1651 沫雪のこのごろつぎてかく落者《フレバ》梅のはつ花ちりかすぎなむ
沫雪乃此日續而如此落者梅始花散香過南
 落者は舊訓及略解に從ひてフレバとよむべし。古義にフラバに改めたるは却りてわろし。チリカスギナムは散失セムカとなり。カクはヅギテの上におきかへて心得べし○歌の上に雪梅を略したるか
 
   池田(ノ)廣津娘子梅歌一首
1652 梅の花をりもをらずも見つれどもこよひの花になほしかずけり
梅花折毛不折毛見都禮杼母今夜能花爾尚不如家利
 二三は折リテモ見、折ラズテモ見ツレドとなり。卷三(五〇七頁)に杖ツキモツカズモユキテトいへると同例なり。第四句はコヨヒ見ルニハとあらむに同じ
 
   縣(ノ)犬養(ノ)娘子依v梅發v思歌一首
1653 今のごと心を常におもへらばまづさく花の地におちめやも
(1662)如今心乎常爾念有者先咲花乃地爾將落八方
 心ヲオモフは俗に心ヲ持ツといふに同じ。されば上三句は今ノ如キ心ヲ君ガ常ニモチタマハバとなり○マヅサク花は即梅花にて自喩へたるなり。花ノは花ガなり。略解に『花ノといひて如クといふをこめたり』といへるは非なり。さてマヅサク花ノツチニオチメヤモは我零落失意スル時アラムヤといふ意を梅花に托していへるなり。古義に『まづさきがけて早く咲花の四方に先だちて地に落る如く早く見捨らるゝ事あらむやは』と譯せるは從はれず
 
   大伴坂上郎女雪歌一首
1654 松かげの淺芽〔左△〕が上の白雪をけたずておかむ言者〔二字左△〕可聞奈吉《ヨシモカモナキ》
松影乃淺茅之上乃白雪乎不令消將置言者可聞奈吉
 結句を千蔭はコトハカモナキとよみ、宣長は
  言は吉の誤にて由の借字なるべし。ヨシハカモナキと有べし
といへり。ハとカと相重なれるは例を知らず。ヨシモカモナキとありしを誤れるに(1663)あらざるか
 
  冬相聞
   三國眞人|人足《ヒトタリ》歌一首
1655 高山のすがの葉しぬぎふる雪のけぬとか曰毛《イハモ》戀のしげけく
高山之菅葉之努藝零雪之消跡可曰毛戀乃繁鶏鳩
 上三句はケヌの序なり○曰毛は舊訓にイフモとよめるを契沖は
  今按イハモと讀てイハムと意得べし
といへり。玉緒卷七(十四丁)にンの意のモと標して本集より
  あひ念はぬ人をやもとなしろたへの袖ひづまでにねのみし泣裳《ナカモ》(卷四)
  高山のすがの葉しぬぎふる雪のけぬとか曰毛《イハモ》こひのしげけく(卷八)
  人目おほみただにあはずてけだしくもわがこひしなば誰名將有裳《タガナニカアラモ》(卷十二)
  かみつけぬ佐野田の苗のむら苗にことは定めつ今はいかに世母《セモ》(卷十四)
(1664)  よそにのみ見てや和多良毛なにはがた雲ゐにみゆる島ならなくに(卷二十)
 以上五首の歌を擧げたり。右のうち卷十二なるは古義の訓の如くタガ名ナラムモとよむべければ同例と認むべからず。又古義卷四(五十丁)に引ける
  吾のみしきけばさぶしもほととぎす丹生の山べにいゆき鳴爾毛
はもし古義の訓の如くナケヤモとよむべくばこゝの例には引くべからず。又同書卷八(六十八丁)に『二卷にタガ戀ナラ目とあるに同じ』といへれどこはタガコヒナラメ〔右△〕とよむべき事其卷の新考(一五一頁)にいへる如し。さて字音辨證下卷(二三頁)には
  曰毛はイハムと訓べし。……玉緒卷七に……イハモとよまれたり。されどイハムをイハモといへる事他に例もなき事なれば毛はムの音を用ゐたるものとしてイハムとよむべき也。……十四卷なると二十卷なるとはともに毛(ノ)字をかかれたれば今と同じぢやうなれど(○十四卷なるは母とかけり)別の二首は裳(ノ)字なればムとは訓べきにあらず。これよりおもへば毛とあるもなほモと訓て玉緒の説の如く心得べきに似たれども然らず。そは卷四……卷十二……此二首の裳はともに歎息のモにてムの意のにはあらざる也。一首をよみ味はひて知る(1665)べし(○博士は泣裳、將有裳を舊訓に從ひてナクモ、アラムモとよめり)
といひて毛をムに用ひたる例、毛にムの音ある證を擧げたり。案ずるに
  卷四なるは相手ハ相念ハヌ人ナルヲ心外ニカク袖ヒヅバカリ泣カムヤといふ意なればナカモ(ナカムにおなじ)とはいふべくナクに歎辭のモを添へてナクモとはいふべからず(七一五頁參照)
 卷十四なるは母と書けり(毛にあらず)
 ミムロをミモロ、マキムクをマキモクといへるなどはやくムをモと訛《ナマ》れる例あり
 四例(卷十二なるを除きて)のうち二例(卷十四及卷二十)は訛音のおほき東歌なりさればなほイハモとよみてイハムの訛《ナマリ》とすべし○コヒノシグケクは戀ノ繁カルニとなり。卷七(一二四五頁及一三三七頁)なる
  はつせ川ながるるみをの瀬をはやみゐでこす浪の音のさやけく
  大海のいそもとゆすりたつ波のよらむともへる濱のさやけく
などと同格なれど上に返る時は今の如くアルニと譯すべく返らぬ時はアルコト(1666)ヨと譯すべし○古今集戀一なる
  おく山のすがの根しぬぎふる雪のけぬとかいはむ戀のしげきに
は今の歌のかはれるなり〇四五の意は
  戀のしげくて得堪へぬに今死ぬといひ遣らむか
となり
 
   大伴坂上郎女歌一首
1656 さかづきに梅の花|浮《ウケ》おもふどち飲而後者《ノミテノチニハ》ちりぬともよし
酒杯爾梅花浮念共飲而後者落去登母與之
 浮を舊訓にウケテとよめるを古義にウカベに改めたり。ウケとよむべし○第四句も舊訓にノミテノノチハとよめるを古義にノミテノチニハとよめり。古義に從ふべし。而の下にはノをよみ添へがたければなり。ノを省ける例はたとへば卷七(一三九九頁)にアハビ玉、取而後毛可、戀ノシグケムとあり○卷五(八九六頁)に
  あをやなぎうめとのはなををりかざしのみてののちはちりぬともよし
とあるに似たり
 
(1667)   和歌一首
1657 つかさにもゆるしたまへりこよひのみのまむ酒かもちりこすなゆめ
官爾毛縦賜有今夜耳將飲酒可毛散許須奈由米
    右酒者官禁制|稱〔のぎへんが人偏〕《イハク》京中閭里不v得2集宴1。但親親一二飲樂(スルハ)聽許(ストイヘリ)者。縁v之|和《コタフル》人作2此發句1焉 初二はカク親シキ族兩人打寄リテ酒飲ムコトハ官ニモ禁ジ給ハズとなり。カモは後のカハなり。なほヤハをいにしへヤモといひし如し。三四は近キ内ニ又飲ム事モアラムニとなり。梅花といふことは原歌に讓れるなり
 
   藤原后奉2 天皇1御歌一首
1658 わがせことふたり見ませばいくばくかこのふる雪のうれしからまし
吾背兒與二有見麻世波幾許香此零雪之懽有麻思
 后の上に皇をおとせるならむ。藤原皇后は所謂光明皇后なり○見マセバは卷四(七〇九頁)なる
(1668)  おもふにし死するものにあら麻世波ちたびぞ吾はしにかへらまし
のアラマセバと同格なり。見ナバといはむに近し。敬語のマスのはたらけるにはあらず。もし敬語の方ならばミマサバとあらざるべからざればなり○御一人雪のおもしろくふるを見たまひて天皇の共にましまさざるを惜みたまへるなり
 
   池田(ノ)廣津娘子歌一首
1659 眞木のうへにふりおける雪のしくしくもおもほゆるかも佐夜問《サヨドヘ》わがせ
眞木乃於上零置有雪乃敷布毛所念可聞佐夜問吾背
 初二は序なり。シクシクモは頻ニなり○サヨドヘは略解に(古義にも)
  サは發語にて夜訪へといふか。されど此語穩ならず。誤字なるべし
といへり。夜《ヨル》訪フといふを一語としてヨドフといひそれにサを添へたるならむ
 
   大伴宿禰駿河麻呂歌一首
1660 梅の花ちらすあらしのおと耳《ノミニ》ききしわぎもを見らくしよしも
(1669)梅花令落冬風音耳聞之吾味乎見良久志吉裳
 初二は序、オトは噂なり。ミラクシヨシモは見ルガウレシとなり。古義に『今目前に親く見ればまことに聞し如くさても愛《ウルハ》しやとなり』と釋せるは非なり(卷六【一〇九五頁】同【一一〇三頁】卷七【一三四一頁】卷八【一四八六頁】參照)
 
   紀|少鹿《ヲシカ》女郎歌一首
1661 (久方の)月夜をきよみ梅の花心開而《ココロヒラキテ》わがもへるきみ
久方乃月夜乎清美梅花心開而吾念有公
 心開而を舊訓にココロヒラケテとよめるを古義にココロニサキテと改めたり。案ずるに心開而はココロヒラキテとよむべく即心ヲ開キテにて披懷などいふ漢語の飜譯なるべし。披懷は誠をあらはす事なり。さて上三句はヒラキテにかゝれる序なり。眼前の景を以て序とせるなり。梅花にはヒラクルといふべければヒラキテには(即ヒラケテならでは)いひかけがたき事なれど序なれば許さるべし○古義に又いへらく
(1670)  花にヒラクといふは古言にあることなし。後に開(ノ)字に就ていへることなり
といへり。げに花にヒラクルといふは本來我却にては云はざりし事なれどこの頃よリぞ漢字を直譯してヒラクルともいひならひけむ。こゝに菅家萬葉集下卷に
  開者且散可惜芝春之方見丹摘曾駐鶴
といふ歌あり。又寛平后宮歌合に
  ひくるれば〔五字傍点〕かつちる花をあたらしみ春のかたみにつみぞいれつる
といふ歌あリ。品田太吉氏いはく
  菅家萬葉なるは散の下に花を脱せるなり。而して后宮歌合にヒクルレバとあるは管萬と對照するにヒラクレバの誤なり
といへり(書苑十卷六號)。これも亦はやくより花にヒラクルといひし一證とすべし
 
   大伴田村大娘與2妹坂上大娘1歌一首
1662 沫雪のけぬべきものを今までに流經者《ナガラヘヌルハ》妹に相曽《アハムトゾ》
沫雪之可消物乎至今流經者妹爾相曽
 アワユキノはケヌベキにもナガラヘにもかゝれり。辭を換へていはばアワユキノ(1671)はケヌベキの枕辭にてナガラヘは沫雪の縁語なり。雪のふるをナガラフといへばなり。當時の歌にはめづらしき格なり○第四句を略解にナガラヘヌレバとよみ、古義にナガラヘフルハとよめり。ナガラヘヌルハとよむべし○相曾は略解古義にアハムトゾとよめるに從ふべし(舊訓にはナガラヘヌレバ妹ニアヘルゾとよめり)。妹ニアハムトゾ長ラヘヌルといふべきを略せるなり○略解に
  このモノヲは常とは少し異にて消ヌベカリシヲといふ程の事也
といへり。消エヌベキ筈ナルニといふ意なり。消エヌベカリシヲと譯して過去の事とはすべからず○此歌は重き病に罹りし程妹坂上大孃に逢ひてよめるにや
 
   大伴宿禰家持歌一首
1663 沫雪の庭にふりしきさむき夜を手枕まかずひとりかもねむ
沫雪乃庭爾爾零敷寒夜乎手枕不纏一香聞將宿
 第四句は妹が手ヲ枕トセズシテとなり
                        (大正八年十月講了)
           2005年1月2日(日)午後12時34分、卷八入力終了
           2005年4月9日(土)午後1時15分、校正終了。
 
 
(1673〜1680新製目録省略)
 
(1681)萬葉集新考卷九
                     井上通泰著
 
  雜歌
泊瀬朝倉宮御宇天皇御製歌一首
1664 ゆふさればをぐらの山に臥鹿のこよひはなかずいねにけらしも
暮去者小椋山爾臥鹿之今夜者不鳴寐家良霜
右或本云。崗本天皇御製。不v審2正指1。因以累載
 卷八秋雜歌冒頭に崗本天皇御製歌一首として載せたると同じ歌なり。第三句、卷八には鳴鹿之とあり。その方よろし。ナクガ例ナルといふ意なり。四五の間に妻ニ逢ヒテといふことを挿みてきくべし。略解に
  卷八に崗本天皇(○舒明)御製歌とせるを正しとすべし。雄略の御時の御歌のさまにあらず。小ぐら山は此卷に龍田ノ山ノ滝ノ上ノヲグラノ嶺ニとよめる所なる(1682)べし
といへる如し○正指は下にも作歌兩主不2敢正指1とあり
 
    崗本宮御宇天皇幸2紀伊國1時歌二首
1665 妹がためわれ玉拾ふおきべなる玉よせもちこおきつ白浪
爲妹吾玉拾奥邊有玉縁持來奥津白浪
 代匠記に
  舒明記を考るに紀伊國に行幸し給へる事見えず。……後(ノ)崗本宮と云へる後の字を落せるにや。齊明天皇の紀(ノ)温湯へ行幸せさせ給へる事は第二卷有間皇子の御歌に付て注せり
といへり○玉は美しき小石なり。考に鮑玉とせるは非なり〇一首を隔てゝ下に
  妹がためわれ玉求むおきべなる白玉よせこおきつしら浪
といふ歌あり
 
1666 朝霧にぬれにし衣、不干而《ホサズシテ》ひとりや君が山ぢこゆらむ
(1683)朝霧爾沾爾之衣不干而一哉君之山道將越
     右二首作者未詳
 從駕の人の妻の都に殘れるがよめるなる事前註にいへる如し○第三句は舊訓の如くホサズシテとよむべし。略解にカワカズテと改めたるはわろし
 
   大寶元年辛丑冬十月太上天皇大行天皇幸2紀伊國1時歌十三首
1667 妹がためわれ玉求むおきべなるしら玉よせこおきつしら浪
爲妹我玉求於伎邊有白玉依來於岐都白浪
     右一首上見既畢。但歌辭小換、年代相違。因以累載
 卷一に大寶元年辛丑秋九月太上天皇幸2于紀伊國1時歌としてコセ山ノツラツラツバキといへるとアサモヨシ木人トモシモといへるとを擧げたり。それと同じき時の歌なり。太上天皇は持統、大行天皇は文武なり。さて文武天皇を大行天皇即故帝といへるにてこの題辭は元明天皇の時にしるしゝまゝなることを知るべし。略解に『大行二字は全衍文なり』といへるは妄なり○左註の上見既畢は上既見畢の誤なる(1684)べしと代匠記にいへり
 
1668 しら崎はさきくありまて大船に眞梶しじぬき又かへりみむ
白崎者幸在待大船爾眞梶繁貫又將顧
 白崎は玉勝間卷九『紀の國の名所ども』といふ條(全集第四の二一五頁)に
  白崎は日高郡衣奈《エナ》(ノ)莊衣奈(ノ)浦の東南の方に衣奈八幡といふある其社の縁起に白崎といふこと見えたり
とあり○サキクアリマテは無事デ待渡レカシとなり。卷一(五二頁)に
  ささなみのしがの辛崎さきくあれど大宮人の船まちかねつ
とあり。辛崎、白崎といふよりわざと音を重ねてサキクといへるなり。マタカヘリミムは又立返リテ見ムとなり
 
1669 三名部の浦しほなみちそね鹿島なる釣する海人を見てかへりこむ
三名部乃浦塩莫滿鹿島在釣爲海人乎見變來六
 玉勝間(全集第四の二一六頁)に
(1685)  三名部は岩代の南なり。三名部村、みなべ浦あり。其十町ばかり海中に島あり。これ鹿島なり
といへり。いにしへ潮干には鹿島まで徒歩にて行かれしなり。さればこそシホナ滿チソネといへるなれ○變は反の通用なり
 追考 鹿島は今の日高都|南部《ミナベ》町大字|埴田《ハネダ》に屬せり。南北二島より成り砂濱によりて相連れり
 
1670 朝びらきこぎでて我はゆらのさきつりする海人をみてかへりこむ
朝開榜出而我者湯羅前釣爲海人乎見變將來
 朝ビラキは卷三(四四六頁)にいへり。朝に船を出す事なり
 
1671 ゆらのさきしほひにけらししら神の礒の浦箕《ウラミ》を敢而《アヘテ》こぎとよむ
湯羅乃前塩乾爾祁良志白神之礒浦箕乎敢而※[手偏+旁]動
 地名辭書有田郡の條に
  白上 栖原山の一名にして磯をも白神(ノ)磯と呼べりとぞ
(1686)とあれどさては日高郡なる湯羅(ノ)前《サキ》といたく相隔れり。いかが○浦箕は浦囘の借字なり○アヘテは卷三にイザコドモ安倍而コギデムニハモシヅケシとあり。其處(四八四頁)にいへる如くアヘテは敢テにて喘ぐ事にはあらず。即キホヒテといふやうなる意なり。古義にアヘギテの意とし、アベテと濁り、宇治拾遺のアメキテと同言としたる、皆從ひがたし○前なるとはちがひてゆらの埼に潮干狩に行かむとて舟に乘りて白神の浦囘を漕行く人を傍より觀たる趣なり
 
黒牛がたしほひの浦をくれなゐのたまもすそびきゆくはたが妻
1672 黒牛方塩千乃浦乎紅玉裙須蘇延往者誰妻
 卷七(一三二四頁)に
  黒牛の海、くれなゐにほふももしきの大宮人しあさりすらしも
とあり○略解に『たが妻とは供奉の女房を指せるならん』といへるはいかが。おそらくは土地の人の妻ならむ
 
1673 風莫〔左△〕《カザハヤ》の濱のしら浪いたづらにここに依《ヨリ》くる【一云ここに依來も】みる人なしに
(1687)風莫乃濱之白浪徒於斯依久流見入無
    一云於斯依來藻
    右一首山上臣憶良類聚歌林曰。長《ナガ》(ノ)忌寸《イミキ》意吉麻呂《オキマロ》應v詔作2此歌1
 略解に
  莫は早の字か暴の誤にてカザハヤか。卷七風早ノミホノウラマヲコグ舟ノとよめり。ミホは紀伊也
といへり○第四句は一本にココニ依來《ヨリク》モとあるを採るべし。依を古義にヨセとよめり。ヨリにて可なり○結句は心なき海人ならでは見る人なきが故にミル人ナシニといへるのみ。古義に
  家の妻など率て來て共に見はやさばいかに樂しからむと思ふをさる人もなきによせくるは鳴呼をしやいたづらの白浪にてあるぞとなり
といへるは行過ぎたり
 
1674 わがせこが使こむかと出立のこの松原をけふかすぎなむ
(1688)我背兒我使將來歟跡出立之此松原乎今日香過南
 初二はイデタチの序にて出立の松原は地名なり。無論海中へ出立てる松原なればさる名を負へるなり。略解古義に出立を普通名詞と見、松原のみを地名とせるは非なり。ケフカスギナムは今日ヤ去リナムとなり
 
1675 藤白のみ坂をこゆとしろたへのわが衣手はぬれにけるかも
藤白之三坂乎越跡白栲之我衣手者所沾香裳
 玉勝間卷九『黒牛潟、藤白、絲鹿山』といふ條(全集第四の二一二頁)に
  藤白も同じ郡(○當時の海士郡、今の海草郡)なり。名高の里をはなれて南ざまにすこし行けば其坂のふもとにてふぢしろ村といふありて……さて十八町がほど藤白の御坂をのぼりて峠に寺あり云々
といへり。齊明天皇紀に
  四年十一月庚寅遣3丹比(ノ)小澤(ノ)連|國襲《クニソ》絞2有間皇子於藤白坂1
とある處なり○代匠記に
  四十餘年の前有間皇子此坂にて絞られ給ひけるを慟みて泣く意なり
(1689)といへる如し。略解に『故郷を思ひてよめるか』といひ古義に
  本郷こひしく思はるゝにまして有間皇子の御事をさへ思ひ出つゝいよいよ涙を深く落して云々
といへるは非なり。ただ有間皇子が蘇我|赤兄《アカエ》に誑かれて殺され給ひしを悼めるなり○所沾の下に來《ケル》をおとせるか
 
1676 せの山に黄葉|常〔左△〕敷《チリシク》かみをかの山の黄葉はけふかちるらむ
勢能山爾黄葉常敷神岳之山黄葉者今日散濫
 第二句の常は落又は散の誤にてチリシクなるべしと宣長いへり。さてそのチリシクは古義に云へる如く散り頻る事なリ○カミヲカは雷岳にて即飛鳥の神奈備山なリ
 
1677 やまとにはきこえもゆくか大我〔左△〕野《オホヤヌ》の△竹葉《ササバ》かりしきいほりせりとは
山跡庭聞往歟大我野之竹葉苅敷廬爲有跡者
 略解に
(1690)  和名抄紀伊國名草郡大屋又大宅郷あり。宣長は我は家の誤也といへり。さらばオホヤとよむべし。官本竹の上小の字あるをよしとす。從駕の人の假屋造りて居るさま也
といへる如し。ヤマトニハとは大和ナル妻ノ許ニハとなリ
 
1678 木の國の昔弓雄之〔四字左△〕《サツヲガムカシ》、響矢用《カブラモチ》、鹿取靡《カトリナビケシ》、坂の上《ヘ》にぞある
本國之昔弓雄之響矢用鹿取靡坂上爾曾安留
 略解に弓雄を舊訓の如くユミヲとよみて『弓よく射る人をさす』といひ古義には
  弓雄ユミヲと訓たれどもいかゞなり。人名ならばさもあるべし。もし後世弓取と云如く弓を善射る者をいふことゝせば甚いかがなり。刀雄《タチヲ》、矛雄などやうに云る例いにしへ無きをも思へ云々
といひて弓を幸の誤字としてサツヲとよみ改めたり。しばらく古義の説に從ふべし○さてムカシサツヲノとよみては辭とゝのはず。おそらくはもと木國之弓雄之昔(又は幸雄之昔)とありしを傳寫の際に昔の字をおとし、後にそれを補ふ時下の之〔右△〕の次に入るべきを上の之〔右△〕の次に入れしなるべし。さればサツヲガムカシとよむべ(1691)し○響矢は舊訓にカブラとよめるを略解にナリヤと改めたリ。然るに古義に『ナリヤてふ物凡てものに見えたることなし』といひて又カブラとよめり。之に從ふべし。用は古義の如くモチとよむべし○鹿取靡を略解にシカトリナメシとよみて『あまたとりならべし意なるべし』といひ、古義にはカトリナビケシとよみて
  昔時この坂の上にて幸雄の鹿を取靡けしと云故事ありてよめるならむ。今考るものなし
といへり。古義の説に從ふべし○結句はココゾソノ坂上ナルとなり。代匠記に坂上は地の名なるべしといへり。地名にはあらじ
 
1679 きの國にやまずかよはむつまの社《モリ》妻依來西尼《ツマヨシコサネ》、妻と言長柄〔二字左△〕《イフカラハ》【一云つま賜爾毛つまといひ長柄】
城國爾不止將往來妻社妻依來西尼妻常言長柄 一云嬬賜爾毛嬬云長柄
     右一首或云坂上(ノ)忌寸|人長《ヒトヲサ》作
 本居内遠の伊太祁曾三神考(全集五九六頁)に
(1692)  ※[木+爪]津《ツマツ》神社……もしは平尾村(○名草郡)の妻御前社是ならんか。今も妻の森といひ妻の御前、妻の宮ともいふ。又田の字にも妻ノマヘ、妻ノワキなどいへる所もあり。和名抄|都麻《ツマ》(ノ)神戸《カムベ》も是か。然らば萬葉集にキノクニニヤマズカヨハム……かくよめるも此處なるべくおぼゆ
といへり○第三句はツマヨセコサネ又はツマヨシコサネとよむべし。西は省呼にてサともよむべければなり(略解古義にはツマヨシコセ〔右△〕ネとよめり)○結句はツマトイフカラハとあらでは通ぜず。言長柄は言柄者などの誤寫ならむ。第三句以下の意は妻ノ杜ノ神ヨ妻トイフカラハ妻ヲ給へといへるなり
 一本の嬬賜爾毛の爾を略解古義に南の誤としてツマタマハナモとよめり。又字音辨證(上卷四頁)には爾のまゝにてナとよめり。もしタマハナモとよむべくは結句は亦ツマトイフカラハの誤とせざるべからず。結句をこのまゝとせばツマタマハズモなどあらざるべからず。もと不賜毛とありしを賜爾毛と誤れるにあらざるか。さて初二とむかへ見るに底本の方まされり
 追考 卷十九にもイユキナカナモを鳴爾毛と青けり
 
(1693)   後人歌二首
1680 (あさもよし)木方《キヘ》ゆく君がまつち山こゆらむけふぞ雨なふりそね
朝裳吉木方往君我信士山越濫今日曾雨莫零根
 こゝの後人はオクレタル人とよむべし。都に殘れる妻などなり。卷五(九二三頁)なる後人追和の後人とは異なり
 木方《キヘ》は古義にいへる如く紀へにてへは辭なり。邊にあらず。略解にキベと濁をさしたるは邊と心得たるにてわろし○信をマに充てたるは眞をマとよむに同じ
 
1681 おくれゐてわがこひをれば白雲のたなびく山をけふかこゆらむ
後居而吾戀居者白雲棚引山乎今日香越濫
 ヲレバはヲルニなり
 
   獻2忍壁《オサカベ》皇子1歌一首 詠仙人形
1682 とこしへに夏冬ゆけやかはごろも扇はなたぬ山にすむ人
常之陪爾夏冬往哉裘扇不放山住人
(1694) 形はカタとよむべし。圖《カタ》なり
 トコシヘニはイツモなり。夏冬ユクヤは夏ト冬トガナラビ往ケバニヤとなり。ユケヤとハナタヌと照應せり。されば第四句にて切れたるなり。冬の物なる裘と夏の物なる扇とを身にそへたりとなり○裘及扇ヲ放タヌといふ事をカハゴロモアフギハナタヌといへるは卷一(七三頁)にハタススキシ能《ヌ》ヲオシナベといひ、卷三(五一五頁)にアヤメグサ花タチバナヲといひ、同卷(五七五頁)にアヅサ弓ユギトリオヒテといへると同例なり
 
   獻2舍人皇子1歌二首
1683 (妹が手をとりて)ひきよぢうちたをり吾△刺可《ワガカザスベキ》花さけるかも
妹手取而引與治※[手偏+求]手折吾刺可花開鴨
 妹ガ手ヲトリテはヒキにかゝれる枕辭なり。ヒキヨヂもウチタヲリも同事なり○宣長は
  吾は君の誤にてキミガサスベキと訓べし。サスは即かざす事也。しかよまざれば皇子に獻るといふに當らず
(1695)といへり。吾の下に頭の字を補ひてワガカザスベキとよむべし。皇子に奉らむとてよめるにあらず。よみ保てる歌を皇子に見せまつりしなり。もしキミがならばカザスを片言にサスなど云はでキミガカザサムと云ふべきなり
 
1684 春△山《かすがやま》はちりすぎ去鞆《ヌレドモ》三和山はいまだふふめり君まちがてに
春山者散過去鞆三和山者未含君待勝爾
 第二句は古義に從ひてチリスギヌレドモとよむべし(略解にはユケドモとよめり)○初句は三和山に對したれば地名ならではかなはず。略解に
  春山は地名にあらず。こゝは大かたの春の山をいへり
といひ古義に
  なべての春山の花は散過ぬれどもの意なり
といへるは從ひ難し。おそらくは春日山とありし日の字をおとせるならむ○藤原の都の人が花を見めぐりて歸りて奉りし歌なるか
 
   泉河邊|間人《ハシビト》宿禰作歌二首
(1696)1685 河の瀬のたぎつをみれば玉もかもちりみだれたる此|河常鴨〔左△〕《カハドコニ》
河瀬激乎見者玉藻鴨散亂而在此河常鴨
 玉モカモは玉カモといはむにひとし。藻はモの借字にてそのモは助辭なり○結句はもとのまゝにては通ぜず。鴨は爾の誤にてコノカハドコニとぞよむべからむ。玉カモ此河床ニ散亂レタルとなり
 
1686 彦星のかざしの玉のつまごひにみだれにけらし此河の瀬に
彦星頭刺玉之嬬戀亂祁良志此河瀬爾
 三四は妻戀ニ亂レテ散落チニケラシとなり○前なると二首相聯れる歌にて此歌のみにては意通ぜず。即前なるは早瀬の水玉を見てマコトノ玉ヤ川床ニチリ亂レタルといひ此歌は更に進みてソノ玉ハ彦星ノカザシノ玉ノ散落チタルナラシといへるなり○古義に
  彦星を云るは此歌よめる時七夕などにやありつらむ
といへり。げに然るべし。初句の彦星はタナバタの誤にあらざるか
 
(1697)   鷺坂作歌一首
1687 (しらとりの)鷺坂山の松かげにやどりてゆかな夜もふけゆくを
白鳥鷺坂山松影宿而往奈夜毛深往乎
 山城國久世郡の山の名なり
 
   名木河作歌二首
1688 あぶりほす人もあれやもぬれ衣を家にはやらなたびのしるしに
※[火三つ]干人母在八方沾衣乎家者夜良奈覊〔馬が奇〕印
 アレヤモは後世のアラメヤハなり。略解に
  ナキ川といふ名に依て涙にぬるゝをいふ
といへるは非なり。元來此歌は下に見えたる名木河作歌三首と一つづきなる歌にてヌレギヌといへるは雨にぬれたるなり。而して雨にぬれたる事は他の歌に讓れるなり○名木河は山城久世郡に那紀といふ處あるそこなる川なりといふ
 
1689 ありそべにつきて榜尼《コガサネ》、杏人、濱を過者《スギナバ》こひしく在奈利〔左△〕《アリナム》
(1698)在衣邊著而榜尼杏人濱過者戀布在奈利
 アリソは小川にも(たとへば卷一【一一九頁】に佐保川ニイユキイタリテワガネタルアリソノ上ユ云々)池にも(たとへば卷二【二三九頁】にミタチセシ島ノアリソヲ云々)いひなれたれど今は濱とさへいへるを見ればおそらくは名木河にてよみし歌にはあらじ。
 略解に
  アリソ、濱などよめるからは名木河の歌にはあらず。アブリホスの歌の次に同じく名木河の歌一首ありてこのアリソベの歌には別に端詞ありしが共に脱しなるべし。こゝはいと亂れたりと見ゆ
といへり○さて二三を舊訓にツキテコグアマ、カラビトノとよめり。略解に
  尼を海人に借て書るは心得がたし。杏人カラビトと訓べくもなし。字の誤あらん。宣長云。杏は京の誤にてツキテコガサネミヤコビトなるべしといへり
と云へり。第二句はげにコガサネとよむべし。第三句は考へがたけれどおそらくは地名ならむ○元來此歌は陸上の人が舟中の人にいひかけたるにはあらで舟に乘れる人が舟子にいひかけたるならむ。而して結句の奈利は奈武の誤ならむ。然らば(1699)四五はハマヲスギナバコヒシクアリナムとよむべし。畢竟此濱ヲユキスギナバ戀シカラムニ岸ニ近ヨリテ船ハ漕ゲといへるなり
 
   高島作歌二首
1690 高島のあど河波はさわげども吾は家もふやどりかなしみ
高島之阿渡河波者※[馬+聚]鞆吾者家思宿加奈之彌
 はやく卷七(一三三六頁)に
  たか島のあどかは波はとよめども吾は家もふいほりかなしみ
とあると同歌なり。三四の間にソノ音ニモマギレズといふことを補ひてきくべし。ヤドリカナシミはココニヤドリスル事ガカナシサニとなり。ヤド、イホとヤドリ、イホリとの異なるは家、宮と家居、宮居との異なるが如し
 
1691 たびなれば三更刺〔左△〕而《ヨナカヲスギテ》てる月の高島山にかくらくをしも
客在者三更刺而照月高島山隱惜毛
 第二句を從來ヨナカヲサシテとよめり。そのヨナカを守部雅澄は地名としたれど(1700)地名にあるまじきは卷七(一三二七頁)にいへる如し。おそらくは刺は過などの誤なるべし。一首の意はテル月ノ半夜ヲ過ギテ高島山ニ隱ルルガ旅ナレバ殊ニ惜ク思ハルとなり
 
   紀伊國作歌二首
1692 わがこふる妹《イモハ》相佐受《アハサズ》玉の浦にころもかたしきひとりかもねむ
吾戀妹相佐受玉浦丹衣片敷一鴨將寐
 第二句を舊訓にイモニアハサズとよみたれどアハズをアハサズといふは人の上にいふ辭なれば略解古義の如くイモハアハサズとよむべし。さて其妹は故郷に殘したる妻にはあらで旅さきにて思をかけたる女ならむ
 
1693 (玉くしげ)あけまくをしきあたら夜を△袖《イモガソデ》かれてひとりかもねむ
玉匣開卷惜※[立心偏+(メ/広)]夜矣袖可禮而一鴨將寐
 袖を從來コロモデとよめり。袖の上に妹の字のおちたるにてイモガソデならむ。カレテは離レテなり。二三は前註にいへる如く家ニアリテ妹ト相寢セバ明ケムガヲ(1701)シカルベキアタラ夜ナルニといへるなり○※[立心偏+(メ/広)]は悋の俗體にて悋は吝に同じ
 
   鷺坂作歌一首
1694 (細《タク》ひれの)さぎ坂山のしらつつじ吾ににほは※[氏/一]〔左△〕《ネ》いもに示さむ
細此禮乃鷺坂山白菅〔左△〕自吾爾尼保波※[氏/一]妹爾示
 初句を舊訓にタクヒレノとよみ曾根好忠の歌にもタクヒレノサギサカ岡ノツツジ原とよめり。契沖は『細の字をタクと和すべきに非ず』といひ六帖にホソヒレノとあるに從ひて  鷺の頭には立あがりたる長き毛のあるが細き領巾に似たればかくはおけり
といへり。冠辭考の説に從ひて細布の略としてなほタクヒレノとよむべし○※[氏/一]は契沖の説に尼を誤れるにてニホハネとよむべしといひ木村博士(字音辨證下卷八頁)はこのまゝにてニホハネとよむべしといへり。ワレニニホハネは我衣ニソマレとなり○菅は管の誤なり
 
   泉河作歌一首
(1702)1695 (妹が門いり)いづみ河の床なめにみ雪のこれりいまだ冬かも
妹門入出見河乃床奈馬爾三雪遺未冬鴨
 妹ガ門イリまでが枕辭なり。イリ出ヅをイヅミ河にいひかけたるなり○床奈馬は岩並《トコナメ》にて河を渡る料に岩をならべおきたるにてイハバシ(一二五八頁)イハノハシ(一三六七頁)といへるも同物なり。おのづから並びたるはトコナミといひしにや。今も床波(周防)常浪川(越後)などいふ地名、床次《トコナミ》といふ氏あるを思ふべし○まことに雪の殘れるを見てイマダ冬カモと疑はむは迂遠なり。されば波の床なめにかゝるを雪の殘れるに見たてたるなるべし。はやく契沖も
  下の句の意、雪と云は實の雪にはあらじ。白沫の巖の許に積れるを綺《イロヘ》て云へるなるべし
といへり。但白沫といへるはいかが。浪のうちかくるを遠くより見ばげに雪とも見えぬべし
 
   名木河作歌三首
(1703)1696 (ころも手の)名木の河邊乎〔左△〕《ノ》春雨に吾立沾《ワガタチヌル》と家念〔左△〕良武可《イヘシルラムカ》
衣手乃名木之河邊乎春雨吾立沾等家念良武可
 コロモデノはいかにかゝれるにか知らねど名木の枕辭なる事明なり。略解に
  衣手ガ春雨ニヌルルといふつづきなり
といひ古義に
  第四句の上にうつして心得べし
といへるは非なり。立沾の主格は吾にあらずや○第二句と第四句と打合はず。ナギノ河邊ヲといはばワガヌレユクトなどいはざるべからず。又ワガタチヌルトといはむとならばナギノ河邊ノ〔右△〕ハルサメニと云はざるべからず。されば宣長は乎を之の誤とせり○家念良武可は家人ガ思フラムカとなり(略解に『家ニのニを省ける也』といへるは非なり)。そのイヘモフラムカは卷七なる
  妹が門出入の川の瀬をはやみ吾馬つまづく家もふらしも(一二九六頁)
  しろたへににほふまつちの山川に吾馬なづむ家こふらしも(一二九八頁)
の語例によれば家人ガ我ヲ戀思フラムカといふ意にてこゝにかなはず。或は家知(1704)良武可の誤にあらざるか
 
1697 家人の使なるらし春雨のよくれど吾をぬらすおもへば
家人使在之春雨乃與久列杼吾乎沾念者
 カクツキマトフヤウニ吾ヲヌラスハといふ意なり
 
1698 あぶりほす人も在八方〔二字左△〕《アラナクニ》家人の春雨すらを間使にする
※[火三つ]干人母在八方家人春雨須良乎間使爾爲
 間使は卷六(一〇五五頁)にマヅカヒモヤラズテ我ハイケリトモナシとあり。今の語に小間使といふがあるはこの間使に小の添へるなるべし。細使の意にはあらじ○スラは主語を強むる辭なり(卷六【一一六〇頁】參照)○第二句を從來アレヤモとよめれどアレヤモはアラムヤハといふことなればこゝにかなはず。おそらくは人モアラナクニとありしを今一首のアブリホスといふ歌よりまぎれてアレヤモとはなれるならむ○略解に
  上に此一二の句同じき歌ありて此歌の方ことわり明らけし
(1705)といへるは笑ふべし。彼と此とは別の歌なるをや。さてかのヌレ衣ヲ家ニハヤラナ旅ノシルシニといふ歌は此歌の次にあるべきなり。四首聯作にて弟一首の家|念《シル》ラムカを受けて第二首に家人ノ使ナルラシといひ、そを受けて第三首に春雨スラヲ間使ニスルといひ、第三首のアブリホス人モ在八方《アラナクニ》を受けて第四首にアブリホス人モアレヤモヌレ衣ヲといへるなり
 
   宇治河作歌二首
1699 おほくらの入江とよむなり(いめ人の)伏見が田ゐに鴈わたるらし
巨椋乃入江響奈理射目人乃伏見何田井爾鴈渡良之
 タヰは田地なり。タヰのヰはヰナカ、ヰノヘなどのヰにおなじ。略解に
  田井は借字にて田居の意、里離れたる田どころに秋假庵作りて居る所をいへり
といへるは非なり。集中にもハルガスミタナビク田居ニイホリシテ、カニハノタヰニ芹ゾツミケル、赤駒ノハラバフタヰヲミヤコトナシツなどよめるにあらずや。假庵にあらず秋に限らざる事此等の歌にて明なり〇四五は伏見ノタンボヘ雁ガユクサウナといへるなり。古義には
(1706)  今や伏見の田面に雁がわたるらし、その雁の聲の響にこの人江が鳴るならむ
と釋せり。もし此釋の如き意ならばフシミガ田井ヲ〔右△〕雁ワタルラシとこそあるべけれ
 
1700 金風《アキカゼニ》山吹の瀬のとよむなべ天雲翔《アマグモカケリ》鴈相〔左△〕鴨《カリワタルカモ》
金風山吹瀬乃響苗天雲翔鴈相鴨
 初句を宣長は舊訓の如くアキカゼノとよみて山吹の瀬の枕辭としたれど從はれず。略解の如くアキカゼニとよむべし○山吹の瀬は宇治にありしなり。トヨムナベはヒビクニツレテとなり〇四五を舊訓にアマグモカケルカリニアヘルカモとよみたれどアヘルといふべき處にあらず。宣長は相を亘の誤としてアマグモカケリカリワタルカモとよめり。此説に從ふべし〇一首の格やゝ卷七(一二三三頁)なる
  足引の山河の瀬のなるなべにゆつきがたけに雲たちわたる
に似たり
 
   獻2弓削皇子1歌三首
(1707)1701 さよ中と夜はふけぬらし雁がねのきこゆる空に月わたるみゆ
佐宵中等夜者深去良斯鴈音所聞空月渡見
 何の巧もなくてしかもいとめでたき歌なり。天衣無縫とや評すべき。はやく人口に傳はりきと見えて『萬葉集に入らぬ古き歌みづからのをも奉らしめ給ひて』と序文に書ける古今集の秋上にも出でたり
 
1702 いもがあたり茂〔左△〕苅音《コロモカリガネ》ゆふぎりにきなきてすぎぬともしきまでに
妹當茂苅音夕霧來鳴而過去及乏
 初二を舊訓にイモガアタリシゲキカリガネとよめるを宣長は茂を衣の誤としてイモガアタリコロモカリガネとよめり。これによらば下なる
  妹らがり今木のみねにしみたてるつま〔二字右△〕まつの木はふる人みけむ
のツマとひとしく句中の枕辭と稱すべし○こゝのトモシはユカシの意ならむ
 
1703 雪がくり雁なく時《トキハ》秋山の黄葉かたまつ時は雖△過《スギネド》
雲隱鴈鳴時秋山黄葉片待時者雖過
(1708) 第二句の時の下に略解の如くハをよみそふべし。古義にトキニとよめるはわろし○カタマツは集中にカタマチガテラともいひたれば元來傍待の意なるを轉じてただ待つ意にもつかひきとおぼゆ。此歌并に次の歌などのカタマツはただ待つ意なり。古義に『偏に待よしなり』といへるは從はれず(七卷【一三〇八頁】參照)。さてカタマツにて切りて心得べし○結句は宣長が不の字を脱せりとしてスギネドとよめるに從ふべし。マダ其時ナラネドとなり
 此等の歌は必しも皇子に奉る爲によみしにはあらで、かねてよめるを皇子に見せ奉りしもあるべければ獻△△皇子歌とあればとて必下に含める心又は皇子に申す心あるべしと思はむはかたくななり。契沖いはく
  右の三首ともに皇子に獻る歌なれば含める意あるか。又別意を含めるにはあらねど皇子より秋の歌を召給ふに讀て奉れる歟
と。古義の著者はわりなくも前説に從ひて無用の辭を費せり
 
   獻2舍人皇子1歌二首
1704 (うちたをり)多武の山霧しげみかも細川の瀬に波のさわげる
(1709)※[手偏+求]手折多武山霧茂鴨細川瀬波※[馬+聚]祁留
 初句は枕辭なり。打手折撓《ウチタヲリタム》とかゝれるなり。多武の山は今タウノ峯といふ。細川は谷川の名なり。多武峯より出でて、南淵山より出でたる飛鳥川に注げり
 
1705 (冬ごもり)春べをこひてうゑし木の實になる時をかたまつわれぞ
冬木成春部戀而殖木實成時片待吾等叙
 春ベヲコヒテと實ニナル時と相かなはず。されば三四の間に花ニサキといふことを加へてきくべし○此歌はよそへたる所あるべし。但皇子に訴ふる事とは限らず
 
   舍人皇子御歌一首
1706 (ぬばたまの)夜霧ぞたてる(衣手《コロモデヲ》)高屋のうへにたなびくまでに
黒玉夜霧立衣手高屋於霏※[雨/微]麻天爾
 第三句は冠辭考に從ひてコロモデヲとよむべし(舊訓はコロモデノ)。衣手ヲタクとかゝれるなり。タクはかゝぐる事なり(卷七【一三三三頁】參照)○高屋を三註共に地名としたれど地名にはあらで高殿の事ならむ。さて一首の趣は殿の内にてよみ給ひしに(1710)はあらで外より殿を仰ぎてよみ給ひしなるべし
 
   鷺坂作歌一首
1707 山代の久世のさぎ坂神代より春ははりつつ秋はちりけり
山代久世乃鷺坂自神代春者張乍秋者散來
 ハルは芽の出づる事なり。代匠記に
  第十秋歌の中の詠山歌に同意の作あり。神代ヨリと云は山をほむる意あり
といへれど卷十なる
  春はもえ夏はみどりにくれなゐのにしきにみゆる秋の山かも
とおなじやうに山をほめたる歌とはおぼえず。おそらくは天然物の千年を經れども變らざるに感じての作ならむ。卷六(一一〇八頁)に
  かくしつつあそびのみこそ草木すら春は生《サキ》つつ秋はちりゆく
とあると四五相似たり
 
   泉河邊作歌一首
(1711)1708 (春草を馬)くひ山ゆこえくなる雁の使は宿過奈利《ヤドヲスグナリ》
春草馬咋山自越來奈流鴈使者宿過奈利
 冠辭考に
  こは咋《クヒ》山てふ山を馬クヒといひかけしなるべし。楢山をフル衣著ナラノ山、振山を袖フル山などいひ下せ〔右△〕し類ひ也。……咋山は神名式に山城國綴喜郡に咋岡神社と有に同じ所歟
といへり。地理もかなひたればしばらく此説に從ふべし。山ユは山ヲなり○結句を略解古義にヤドリスグナリとよみたれどヤドヲ〔右△〕スグナリに改むべし。故郷ノ便ヲ待渡ルニ雁ノ使ハワガ居ル宿ヲヨソニ見テ過グナリといへるなり
 
   獻2弓削皇子1歌一首
1709 (みけむかふ)みな淵山のいはほにはふれるはだれかきえのこりたる
御食向南淵山之巖者落波太列可削〔左△〕遺有
    右柿本朝臣人麻呂之歌集所出
(1712) 初句は御食《ミケ》ムカフ蜷《ミナ》とかゝれる枕辭なり。南淵山は大和國高市郡の南部にあり○ハダレは斑なる雪なり(卷八【一四八四頁】參照)。略解に
  ハダレカといへるを思へば南淵山の花を見てよめるなるべし
といひ古義に
  歌意は南淵山の石秀《イハホ》には去冬ふれる雪のはだれの春まで消遺りたるならむかとなり。これは浪の白く散を雪と見なしてよめる表の意なり云々
といへり。略解の説に從ふべし○削は消の誤ならむ
 左註に右といへるは獻2忍壁皇子1歌以下二十八首を指せるならむ。○右二十八首の順序はいたく亂れたる如し。試に題辭によりてついでなば
 獻忍壁皇子歌
  とこしへに夏冬ゆけや
 獻舍人皇子歌
  妹が手をとりてひきよぢ
  春山はちりすぎぬれども
(1713)  うちたをり多武の山ぎり
  冬ごもり春べをこひて
 舍人皇子御敬
  ぬばたまの夜ぎりぞたてる
 獻弓削皇子歌
  さよ中と夜はふけぬらし
  いもがあたり茂かりがね
  雲がくり鴈なくときは
  みけむかふみなぶち山の
 泉河作歌
  妹が門いりいづみ河の
  はる草をうまくひ山ゆ
 泉河邊間人宿禰作歌
  河のせのたぎつを見れば
(1714)  彦星のかざしの玉の
 鷺坂作歌
  しら鳥のさぎさか山の
  細ひれのさぎ坂やまの
  山しろの久世のさぎ坂
 名木河作歌
  ころもでの名木のかはべ乎
  いへ人のつかひなるらし
  あぶりほす人も在八方
  あぶりほす人もあれやも
  ありそべにつぎてこがさね
 宇治河作歌
  おほくらの入江とよむなり
  あき風にやまぶきの瀬の
(1715)  高島作歌
  たかしまの阿渡かはなみは
  たびなればよなかを刺而
 紀伊國作歌
  わがこふる妹はあはさず
  玉くしげあけまくをしき
 右の如くすべけれどオホクラノ以下五首は雁の歌を集めたりと見ゆれば引離すべからず。又題辭は同じくても同時の作とおぼえざるものあり。ともかくも名木河作歌二首のアブリホスは同三首の次にあるべく又アリソベニはおそらくは紀伊國作歌の中に加ふべからむ。さて作者の名の無き二十五首は皆人麻呂の作とすべきか
    ○
1710 吾妹兒が赤裳ひづちてうゑし田を苅りてをさめむ倉なしの濱
吾味兒之赤裳泥塗而殖之田乎苅將藏倉無之濱
(1716) 第三句の田は秋田カルなどいふ田にて田の稻といふ事なり。ヒヅチテはヌレテなり○倉なしの濱は豐前國中津町なる龍王濱の古名なりといふ。こは處の名をクラナシノ濱といふをきゝて其名に興を催してよめるならむ○此歌の前に題辭あるべきなり。卷三(四〇三頁)に柿本朝臣人麻呂下2筑紫國1時海路作歌二首あり
 
1711 (ももつたふ)八十の島|廻《ミ》をこぎくれど粟の小島者〔左△〕《シ》みれどあかぬかも
百傳之〔□で圍む〕八十之島廻乎榜雖來粟小島者雖見不足可聞
     右二首或云柿本朝臣人麻呂作
 粟ノ小島は卷三以下に見えたる粟島の事なりといふ○第三句をコギ來ツレドとし四五の間に殊ニといふことを加へて心得べし。者は異本に志とあり。もとのまゝにても、ととのはざるにあらねどシとあらむ方まされり。古義に第三句の榜雖來をコギキケドとよめるはトホケレド、カシコケレドなどをトホケド、カシコケドといふ例によれるならめど遠ケレド、カシコケレドのケレと來ケレドのケレとは別なれば此は彼の例に據るべからず○第三句と第四句とレドといふ辭かさなりて調(1717)よろしからず○百傳之の之は無き本あり
 
   登2筑波山1詠v月△一首
1712 あまの原雲なきよひに(ぬばたまの)よわたる月の入らまくをしも
天原雲無夕爾烏玉乃宵度月乃入卷※[立心偏+(メ/広)]毛
 月の下に歌の字おちたるかと契沖いへり○ヨヒニは夜ナルヲなり。ヨヒヲといはでヨヒニといへるめづらし
 
   幸2芳野離宮1時歌二首
1713 瀧の上のみ船の山ゆ秋津べに來なきわたるはたれよぶ子鳥
瀧上乃三船山從秋津邊來鳴度者誰喚兒鳥
 瀧ノ上ノミフネノ山の事は卷六(一〇二二頁)に云へり
 
1714 おちたぎちながるる水の磐に觸りよどめるよどに月の影みゆ
落多藝知流水之磐觸與杼賣類與杼爾月影所見
     右三首作者未詳
(1718) 三註共に三は二を誤れるなるべしといへれど三首とあるはアマノ原以下を指せるなり〇三四の間にサテといふことを補ひて聞くべし
 
   槐〔左△〕本歌一首
1715 ささなみの平山風の海ふけばつりするあまのそでかへるみゆ
樂波之平山風之海吹者釣爲海人之袂變所見
 槐本について契沖は辭なし。略解には
  槐和名惠爾須
とのみ註し古義には
  槐本は人名なるべし。考るところなし。和名抄に槐惠爾須とあり
と註せり。案ずる迄もなく槐本は柿木の誤にて柿本人麿の氏のみをかけるなり。次下に山上(ノ)憶良、春日(ノ)老、高市(ノ)黒人などの歌を山上歌、春日歌、高市歌とのみ書けるを思ふべく又卷三に出でたる人麿の覊〔馬が奇〕旅歌八首の内なる
  あはぢの、野島がさきの濱風に妹がむすびし紐ふきかへす
と類想同調なるを思ふべし○變は反の通用なり
 
(1719)   山上歌一首
1716 白なみの濱松の木のたむけ草いく世までにか年はへぬらむ
自那彌之濱松之木乃手酬草幾世左右二箇年薄經濫
     右一首或云河島皇子御作歌
 卷一(五七頁)に
  幸2于紀伊國1時川島皇子御作歌、或云山上臣憶良作、白浪の濱松が枝〔二字右△〕の手向草いく代までにか年の〔右△〕へぬらむ【一云年はへにけむ】
とあり。海邊の松が枝に古き幣のかゝれるを見てイクラノ年ヲカ經ニケム、イツノ世ニタガタムケシモノゾといへるなり。初句はシラ浪ノヨスルといふべきを略したる准枕辭にて大船の津守(卷二【一五九頁】)白菅ノ眞野ノハリ原(卷三【三八七頁】)などと同例なり
 
   春日歌一首
1717 三〔左△〕河《ヤマガハ》の淵瀬もおちずさでさすに衣手ぬれぬほす兒はなしに
(1720)三河之淵瀬物不落左提刺爾衣手湖〔左△〕干兒波無爾
 春日(ノ)藏首《クラビト》老《オユ》の歌なるべし〇契沖は『三河《ミツカハ》は比叡の山の東坂本にありとかや』といひ千蔭雅澄も地名とせり。おそらくは山河の誤ならむ○オチズは不漏なり。サデサスニは手網サストなり。ナシニは無クテなり○湖は沾の誤ならむ
 
   高市歌一首
1718 あともひてこぎゆく舟は高島のあどのみなとに極爾濫〔左△〕鴨《ハテニケムカモ》
足利思代※[手偏+旁]行舟薄高島之足速之永門爾極爾濫鴨
 高市《タケチ》(ノ)連《ムラジ》黒人なるべし○アトモヒテは相率テなり。コギユクはコギユキシなり。足速《アド》の水門《ミナト》は近江高島郡の地名なり○結句は濫を監の誤としてハテニケムカモとよむか又は爾を奴などの誤としてハテヌラムカモとよむべし(類聚古集には監とあり)
 
   春日藏〔□で圍む〕歌一首
1719 てる月を雲なかくしそ島陰にわが船はてむとまり知らずも
(1721)照月遠雲莫隱島陰爾吾船將極留不知毛
     右一首或本云小辯作也
     或記2姓氏1無v記2名字1或※[人偏+稱の旁]2名號1不v※[人偏+稱の旁]2姓氏1。然依2古記1便以v次載。凡如v此類下皆効v焉
 春日(ノ)藏首《クラビト》老《オユ》の歌なるべし。さて春日は姓、藏首はカバネなれば春日藏とは書くべからず。されば藏は衍字なる事明なり
 四五は月ガ隱ルレバ船ヲハテム泊ガ分ラズとなり。卷七(一三二六頁)にも
  大葉山かすみたなびきさよふけてわが船はてむとまりしらずも
とあり
 左註を略解古義に『これは後人の裏書なるべし』といへり。されど依2古記1便以v次載といへる、編者の註ならざるべからず。さて或記2姓氏1無v記2名字1とは以上の歌並に下なる丹比眞人歌、石河卿歌などをいひ或稱2名號1不v稱2姓氏1とは次下の歌をいへるなり
 
   元仁歌三首
(1722)1720 馬なめてうちむれこえき今日見つる芳野の川をいつかへりみむ
馬屯而打集越來今日見鶴芳野之川乎何時將願
 イツカヘリミムはイツカ再見ムとなり。卷七(一二四四頁)なる
  馬なめてみよし野河をみまくほり打越來てぞ瀧にあそびつる
に似たり
 
1721 くるしくもくれゆく日かも吉野川清き河原を見れどあかなくに
辛苦晩去日鴨吉野川清河原乎雖見不飽君
 クルシは後世のワビシ、ツラシなり。略解に
  初句(○辛苦とかけり)カラクモとよむべし
といへるは非なり。上にもクルシカルベシ、クルシカリケリ、クルシキモノヲなどのクルシを辛苦と書けるにあらずや
 
1722 吉野川河浪高みたきの浦〔左△〕《セ》をみずかなりなむこひしけまくに
吉野川河浪高見多寸能浦乎不視歟成嘗戀布眞國
(1723) コヒシケマクニは戀シカラムニなリ。モシ見ズバ後ニ至リテ戀シカルベキニとなリ○タキノ浦について契沖は
  瀧の浦なリ。瀧のあたりの入江のやうなる處なり
といひ千蔭は
  浦は借字にて裏なり。礒ノウラ(○下に三重ノ河原ノイソノウラニとあリ)などといへり
といひ雅澄も
  瀧の裏なり。大瀧の裏なり
といへり。案ずるに浦は湍の誤にあらざるか。タキノセは下なる長歌にも瀧之瀬ユタギチテナガルとあり
 
   絹歌一首
1723 かはづなく六田の河の川楊《カハヤギ》のねもころみれどあかぬ君かも
河蝦鳴六田乃河之川楊乃根毛居侶雖見不飽君鴨
 上三句は序、カハヅナクは准枕辭なリ。第三句は舊訓の如くカハヤナギノとよめば(1724)六言となれば略解古義にはカハヤギノとよめリ。ヤナギは元來|矢之木《ヤナギ》なれば
  延喜式民部省下に凡兵庫寮造箭柳(ノ)篦《ノ》四百廿隻云々とあリ
矢木ともいひつべし。青柳もアヲヤギといひなれて集中に阿乎夜奈義(卷五【八九六頁】)とあるが却りてめづらしく聞ゆめり○略解に
  柳ノ根とつづけたり。さて所のけしきをやがてアカヌといはん序とせり
といへるは自家撞着なり。上三句はネモコロにかゝれる序なれば更にアカヌの序となるべきにあらず
 
   島足歌一首
1724 見まくほりこしくもしるく吉野川おとのさやけさみるに友敷《トモシク》
欲見來之久毛知久吉野川音清左見二友敷
 コシクモシルクは來シ詮アリテとなり。卷八にも
  秋の野のをばながうれをおしなべてこしくもしるくあへる君かも(一六〇一頁)
  妹が家の門田をみむとうちでこし心もしるくてる月夜かも(一六一三頁)
とあり○結句は從來ミルニトモシキとよめり。案ずるに卷七に
(1725)  大海のみな底とよみたつ浪のよらむともへるいその清左《サヤケサ》
  大海の礒もとゆすリたつ波のよらむともへる濱の淨奚久《サヤケク》
とありてサヤケサもサヤケクと共にサヤケクアル事ヨといふ意なる事其卷(一三〇九頁及一三三七頁)にいへる如くなれば今もミルニトモシクとよみてオトノサヤケサに對せしむべし。即音ノサヤケキ事ヨ、見ルニメヅラシキ事ヨとならべ云へるなり
 
   麻呂歌一首
1725 いにしへの賢人《サカシキヒト》のあそびけむ吉野の川原みれどあかぬかも
古之賢人之遊兼吉野川原雖見不飽鴨
    右柿本朝臣人麻呂之歌集出
 賢人は舊訓にサカシキヒトとよめるに從ふべし(略解にはカシコキヒトに改めたり)。さてそのサカシキ人とは誰ぞ。おそらくは史上の人にはあらで當時外來思想に基づきて起りたりし傳説の中の半仙的人物ならむ
 
(1726)   丹比《タヂヒ》(ノ)眞人歌一首
1726 難波がた塩干にいでて玉藻かるあま未通△《ヲトメ》どもなが名のらさね
難波方塩干爾出而玉藻苅海未通等汝名告左禰
 作者の名は知られず○卷一卷頭なる雄略天皇御製にコノ岡ニ、菜ツマス兒、イヘキカナ、名ノラサネとあると趣相似たり。代匠記に『名をのれとは我に逢への意なり』といひ古義に
  汝が名を吾に告知して吾妻とならむことを許してよと戲れて云やりたるなり
といへり。戀情を帶びて問ひしにはたがはねど吾妻トナレとまで迫れるにはあらず○未通の下に女をおとせるなり
 
   和歌一首
1727 あさりする△人《アマ》とを見ませ(草枕)たびゆく人に妻〔左△〕△者不敷〔左△〕《ワガナハノラジ》
朝入爲流人跡乎見座草枕容〔左△〕去人爾妻者不敷
 略解に
(1727)  朝入爲流人跡乎見座とある流の下海の字をおとせるか。又は海を流に誤れるか。アマトヲミマセとあるべし
といへり。此説の如し。アマトヲのヲは助辭なり○結句は舊訓には字のまゝにツマニハシカジとよめり。千蔭は敷を教の誤としてツマトハノラジとよみ雅澄は之に從へり。案ずるに妻者不敷は妾名者不教の誤としてワガ名ハノラジとよむべし。初二はタダアサリスル海人ト見タマヘとなり○容は客の誤なり
 
   石河卿歌一首
1728 なぐさめてこよひはねなむ明日よりはこひかもゆかむこゆわかれなば
名草目而今夜者寐南從明日波戀鴨行武從此間別者
 作者の名は知られず○ナグサメテは己を慰メテなり(卷五【九八八頁】參照)。第四句のコヒユクは戀ヒツツ行クなり。コユはココヲなり○契沖は
  此歌は明日旅に出たゝむとての夜よまれたるなり
(1728)といひ千蔭は
  旅にして女に逢てよめるなるべし
といへり。案ずるに家より旅に出でむとしての作ならばコユワカレナバとは云ふべからず。おそらくは任地にて親しみし女に別るとてよめるならむ
 
   宇合《ウマカヒ》卿歌三首
1729 曉の夢にみえつつ梶島のいそこす浪のしきてしおもほゆ
曉之夢所見乍梶島乃石越浪乃敷弖志所念
 卷七(一三三四頁)なる
  いめのみにつぎてみゆればたか島のいそこす波のしくしくおもほゆ
と同歌なるを一は傳へ誤れるならむ○此歌は旅先より妻におくれるにて曉ノ夢ニ其許ガ度々見エテ頻ニシノバレルとなり。三四はシキテの序なり。シキテは頻ニなり
 
1730 山しなのいは田の小野のははそ原みつつやきみが山ぢこゆらむ
(1729)山品之石田乃小野之母蘇原見乍哉公之山道越良武
 山科ノ岩田ノ小野は山城にあり。ハハソは今ハウソともカシハともいふ。ハハソ原はカシハノ林なり
1731 山科のいは田のもり爾〔左△〕《ヲ》、布靡越者《フミコエバ》けだし吾味にただにあはむかも
山科乃石田社爾布靡越者蓋吾味爾直相鴨
 ケダシは或ハなり。タダニはヂカニなり。但タダニアフは熟語にてただアフといはむにひとし○第三句について略解に
  布麻勢者の誤にてタムケセバなるべし
といひ古義に
  或人の考に布靡越は幣帛獻の誤にや。さらばタムケセバと訓べしと云り
といへり。案ずるに卷十二に
  山しろのいは田の杜にこころ鈍《オソ》く手向したれや妹にあびがたき
とあれば此神は手向すれば却りて男女の相逢ふことを妨げたまふなどいふ傳説ありきとおぼゆ。もし今の歌の第三句をタムケセバとよまば適に右の傳説と相背(1730)くべし。更に案ずるに第二句なる石田社爾の爾を乎の誤とし、第三句は舊訓のまゝにてイハタノモリヲフミコエバとよむべくや。さて一首の意は岩田ノ杜ヲ踏越エバ神ノ怒ニ遭ヒテ却リテ妹ニ逢ハムカといへるにもや
 
   碁師《ゴシ》(ノ)歌二首
1732 △母山《オホバヤマ》かすみたな引《ビキ》さよふけて吾舟はてむとまりしらずも
母山霞棚引左夜深而吾舟將泊等萬里不知母
 碁師につきて代匠記に
  第四に碁檀越あり。此にや。師は第八に縁達師と云者の名に付て注せしが如し
といひ卷八縁達師の下に
  縁達は僧の名にて師は法師の師にや。第九に碁師と云者あり。第四坂上郎女歌六首の第三にシルシと云を知僧(○オモヘドモ知僧モナシトシルモノヲ)とかけるに依に師は僧なり
といへり。碁ノ檀越は卷四に
  碁檀越往2伊勢國1時留妻作歌一首
(1731)とあれば僧にはあらじ。從ひて碁師といふべからず。古義の『圍碁をよくせし故に負ひたる人の異名』といふ説もげにと思はれず。ただ碁打といふことにて其人の名は傳はらぬなり。碁打を碁師といへる例は三代實録卷十三紀夏井傳中に見えたり
 第二句の引を略解にヒクとよめるはわろし。舊訓の如くヒキとよむべし。さて卷七(一三二六頁)に
  大葉山かすみたなびきさよふけてわが船はてむとまりしらずも
といふ歌あり。今の歌と異なるは初句のみなり。されば宣長は
  此歌母の上に祖の字の落たるにてオホバ山也
といへり。げに然るべし。上なるテル月ヲ雲ナカクシソ島カゲニといふ歌とも四五全く相おなじ○カスミといへるは夜霧なり
 
1733 思乍《オモヒツツ》くれど來かねてみをが崎眞長の浦を又かへりみつ
思乍雖來來不勝而水尾崎眞長乃浦乎又顧津
 初句を古義にシヌビツツとよみ改めたれど卷六(一〇六八頁)なる佐保ノ山ヲバ思フヤモ君などのオモフとひとしければなほオモヒツツとよむべし。水尾崎、眞長浦(1732)を思ふなり〇三四は水尾崎及眞長浦なるべし。水尾といふ處近江高島郡にあり。眞長浦も同郡なるべし。カヘリミツは立返リテ見ツとなり
 
   小辯歌一首
1734 高島のあどのみなとをこぎすぎて塩津菅浦|今者將榜《イマカコグラム》
高島之足利湖乎※[手偏+旁]過而塩津菅浦今者〔左△〕將※[手偏+旁]
 結句を舊訓にイマハコグラムとよめるを古義には改めてイマハコガナムとよみ、さて
 こはみづから船にてよめるなり。……アドノミナトを漕過來つれば今はかねて見まほしくなつかしく思ひし塩津菅浦を漕なむぞとなり
といへり。もし此説の如くならばイマハコギナムとこそいふべけれ。コガナムとはいふべからず。案ずるに此歌は人の旅行を思遣りて作れるにて結句は類聚古集などに今香とあるに從ひてイマカコグラムとよむべし。契沖も
  此歌は友などの越前守に成て下るをおもひやりてよめるか
といへり。もし雅澄の説の如くみづから船にてよめるならば第三句はコギスギヌ(1733)とあるべきなり
 
   伊保麻呂歌一首
1735 (吾たたみ)三重の河原の礒のうらに如是鴨跡なくかはづかも
吾疊三重乃河原之礒裏爾如是鴨跡鳴河蝦可物
 礒ノウラは大石ある浦か(卷七【一三八二頁】參照)。海ならでもウラといひつべき事は卷二(二四二頁)にいへり○第四句を舊訓にカバカリカモトとよみ古義にカクシモガモトとよめり。案ずるにこも亦旋頭歌にてもと
  吾疊、三重乃河原之、礒裏未〔右△〕爾、萬代爾〔三字右△〕、如是鴨跡、鴫河蝦可物
とありて
  吾たたみ、みへのかはらの、いそのうらみに、よろづよに、かくしもがもと、なくかはづかも
とよむべかりしを爾の字二つあるより萬代爾を寫しおとしさて後、未を衍字としてさかしらに削り去りたるならむ。卷三(五七五頁)卷六(一〇三三頁)などに萬代爾カクシモガモトとあり又卷九に礒之裏未之と書けり。如是はこのまゝにてもカクシ(1734)モとも訓まるべく又その下に毛の字をおとしたるにてもあるべし。更に案ずるに初句の吾の字もうたがはし
 
   式部大倭芳野作歌一首
1736 山たかみしらゆふ花におちたぎつ夏身の河門みれどあかぬかも
山高見白木綿花爾落多藝津夏身之河門雖見不飽香聞
 式部大倭は式部省の官人大倭某といふ事か○第四句の外は卷六(一四二五頁)笠(ノ)金村の長歌の反歌におなじ。ハナニは花トなり
 
   兵部川原歌一首
1737 大瀧をすぎて夏箕に傍爲〔左△〕而《ソヒユキテ》きよき河瀬を見河明〔左△〕沙《ミルガトモシサ》
大瀧乎過而夏箕爾傍爲而淨河瀬見河明沙
 兵部省の官人川原某か○こゝの夏箕は夏箕川をいへるにてそのナツミ川は吉野川の上流なり○傍爲而を舊訓にソヒテヰテとよみ千蔭はソハリヰテとよみ宣長は爲を居の誤としてソヒヲリテとよめり。爲は往などの誤にてソヒユキテとよむ(1735)べきにあらざるか○結句を從來ミルガサヤケサとよみたれどサヤケサはこゝにはかなはず。乏沙とありしを寫し誤れるにあらざるか○見河の河は諸本に何とあり
 
   詠2上總(ノ)末(ノ)珠名娘子1一首并短歌
1738 (しながどり) 安房につぎたる (梓弓) 末の珠名は 胸別《ムナワケ》の 廣吾妹《ヒロキワギモ》 腰細の すがる娘子《ヲトメ》之〔□で圍む〕 その姿《カホ》の きらきらしきに 花のごと ゑみてたてれば (玉桙の) 道ゆく人は おのがゆく 道はゆかずて よばなくに 門にいたりぬ (指並《サシナミノ》) 隣の君は 預《アラカジメ》 おの妻かれて 乞はなくに 鎰《カギ》さへ奉《ササグ》 心乃皆〔二字左△〕《ヒトミナノ》 かくまどへれば 容艶《ウチシナヒ》 よりてぞ妹は たはれてありける
水長鳥安房爾繼有梓弓末乃珠名者胸別之廣吾妹腰細之須輕娘子之其姿之端正爾如花咲而立者玉桙乃道行人者己行道者不去而不召爾門至奴指並隣之君者預己妻離而不乞爾鎰左倍奉人乃皆如是迷有者容艶縁(1736)而曾妹者多波禮弖有家留
 アハニツギタルは安房郡ノ隣ノといふ意にてスヱにかゝれり。安房郡は初上總に屬せしなり。末は周淮《スヱ》郡なり。今の君津郡の内なり。珠名は※[女+搖の旁]婦の名なり○ムナワケは胸面なり。廣吾妹を舊訓及古義にヒロケキワギモとよみたれどヒロケキといふ語は無し。宜しく六言にヒロキワギモとよむべし○スガルナス腰細ヲトメといはで腰ボソノスガルヲトメといへるを見ればそのかみ美人の細腰なるをスガルヲトメといひなれしなり。スガルは一種の小さき蜂なり。娘子の下の之は衍字なり。ノといふべき處にあらねばなり。此句も六言なり。キラキラシキはうるはしきなり○オノガユク道ハユカズテは自分ノ行クベキ方ニハ行カズシテなり。ヨバナクニは招カヌニなり○指並を古義にサシナラブとよめるはわろし。契沖の如くサシナミノとよむべし。卷六(一一三三頁)には刺並之〔右△〕と書けり○預は略解の如くアラカジメとよむべし(舊訓にはカネテヨリとよみ、古義には頓の誤としてタチマチニとよめリ)。豫の誤字又は通用なリ。娘子ノイマダウベナハザルニ己ノ妻ヲ離レテといへるなり○奉を舊訓にマダシとよみ略解にマダスとよめるを古義には卷十八にヨロ(1737)ヅツキ麻都流ツカサトとあるに據りてマツルとよみ『物を奉献するをマダスと云ことなし』といへり。されば古義に從ひてマツルとよむべきかといふにマツルにては尊敬に過ぎたり。宜しくササグとよむべし。代匠記に
  鎰は人の家に大事とする物なり。それをさへ娘子が乞ぬに打與へて家の内をさながら任せて妻とせむと心底を顯はす由なり
といへる如し。よく惑溺の状をうつせり○人乃皆は古義に『もし人皆乃とありしか』といへり。現に類聚古集には人皆乃とあり○容艶は舊訓にカホヨキニとよめり。然るに宣長は
  ウチシナヒとよむべし。卷十四にシナヒニアラム妹ガスガタヲ、卷二十にタチシナフキミガスガタヲとあり。妹が其人に縁てたはるゝ也。反歌に其意見ゆ
といへり。又古義に引きたる中山巖水の説に
  容艶はかたちつくろひする意なればトリヨソヒと訓べきか。古事記八千矛神の御歌にトリヨソヒとあり
といへり。案ずるに上にソノカホノキラキラシキニといひたれば更にカホヨキニ(1738)といふべからず。こゝはたはるゝ形状ならではかなはざれば文字には親しからねどしばらくウチシナヒとよむべし
 追考 宣命などに奉出獻出と書き貞觀儀式奉2山陵(ニ)幣(ヲ)1儀に貴所(ニ)稱2献出1凡所稱2奉出1とあればタテマダス、マダスのダスは出の義なり。おそらくはマツリダスのツリをチとつづめ更にそのチを省きたるならむ。宣長も本集卷十五に麻都里太須カタミノモノヲとあるに依りて「マダスはマツリダスの省言なるべし」といへり。更に云はばマダスはマツルの古言にはあらでマツリにイダスの添ひたるなり。されば獻出奉出とあらばこそあらめ、ただ奉とあるをことさらにタテマダス又はマダスとよむべきにあらず。獻出奉出と書けるをこそ(ダスは輕く添ひたるなれば)タテマツル、マツルともよまめ。奉入をタテマツリイルとよまでただタテマツルとよむを思ふべし。因にいふ宣長が引ける三代實録卷三十一(元慶元年四月八日の宣命の中)なる奉出流の流は須の誤なり。現に諸本に奉出須とあり(記傳卷十六【九三六頁】參照)
 
   反歌
1739 かなどにし人の來たてば夜中にも身はたなしらずいでてぞあひける
(1739)金門爾之人乃來立者夜中母身者田菜不知出曽相來
 カナドは門なり。身ハタナシラズは卷一藤原宮之役民作歌(八一頁)に家ワスレ身モタナシラズとあり。夢中ニナツテといふこととおぼゆ
 
   詠2水江浦島子1一首并短歌
1740 春の日の かすめる時に すみのえの 岸にいで居て 釣船の とをらふみれば いにしへの 事ぞおもほゆる
春日之霞時爾墨吉之岸爾出居而釣船之得乎良布見者古之事曽所念
 雄略天皇紀に丹波國(○後の丹後)餘社郡|管《ツツ》川人水江浦島子とあるを始めて諸書皆丹後國與謝郡の人とせるに此歌にスミノエノ岸ニイデ居テ釣船ノトヲラフミレバ云々といひスミノエニカヘリ來リテ家ミレドイヘモミカネテ云々といへるを見れば丹後にもスミノエといふ處ありとするか又は浦島子を津國住吉の人とする一説ありて此歌はそれによりてよめるなりとせざるべからず。但丹後にスミノエといふ地名ありしことを聞かず○トヲラフは即タユタフなり。大平が多湯多布(1740)の誤ならむといへるはいかが。思ふにいにしへ船などのとざまかうざまに動くを形状してトヲラフともタユタフともタダヨフともいひしうちトヲラフははやく廢れしならむ。オモホユルはシノバルルなり
 
水の江の 浦島(ノ)兒が かつをつり 鯛つりほこり 七日まで 家にも來ずて うなさかを すぎてこぎゆくに わたつみの 神の女に たまさかに いこぎ※[走+多]《ムカヒテ》 相誹良此《アヒトブラヒ》 言成りしかば かきむすび 常世にいたり わたつみの 神の宮の 内のへの たへなる殿に たづさはり 二人いりゐて おいもせず しにもせずして 永世爾《ナガキヨニ》 ありけるものを
水江之浦島兒之堅魚釣鯛釣矜及七日家爾毛不來而海界乎過而榜行爾海若神之女爾邂爾伊許藝※[走+多]相談良此言成之賀婆加吉結常代爾至海若神之宮乃内隔之細有殿爾携二人入居而老目〔二字左△〕不爲死不爲而永世爾有家留物乎
(1741) 水江之浦島兒は從來ミヅノエノウラシマノコとよみたれど丹後國風土記(釋日本紀卷十二所引)に筒川(ノ)嶼子またただ嶼子とあればミヅノエノウラノシマコとよむべきにてその水江の浦は地名にやあらむとは人も思ふ所なるべし。現に伴信友は
  浦島子の浦島を引合せて字良志麻とよむは誤なり。浦の島子と唱ふべし
といへり。されど彼風土記にその嶼子の歌として出だせるに(實は後人の所謂嶼子を詠じたる歌なり)
  とこよべにくもたちわたる美頭能睿能宇良志麻能古賀こともちわたる
とあり又後人追和歌として擧げたるに
  美顏能睿能宇良志麻能古我たまくしげあけずありせばまたもあはまし
とあればなほミヅノエノウラシマノコとよむべきなり。信友は
  風土記の歌に宇良志麻能古とあるは能(ノ)字を錯置たるか
といへれど二首共に能の字を錯置すべきにあらざる上、天慶六年の日本紀竟宴歌にも
  宇羅志麻のこころにかなふつまをえてかめのよはひをともにぞへける
(1742)とあり。さて水ノ江は氏、浦島(ノ)子は名にて浦島(ノ)子を略して島子ともいひしならむ。或は云はむ。名はげにウラシマノ子なれど水江は地名ならざるかと。答へて云はむ。島子の故郷は筒川(今の歌にては墨吉)なればもし水江を地名とせば筒川又は墨吉のうちに水江といふ處ありとせざるべからず。又風土記の文に
  郷人答曰……吾聞古老等相傳曰先世有2水江浦嶼子1
とあるも先世水江有2浦嶼子1の顛倒とせざるべからず。さればなほ契沖が『水江は氏と見えたり』といへるに從ふべし。本朝神仙傳の
  浦島子者丹後水江浦人也
といふ記事については契沖はやく
  彼は湯川の玄圓と云僧の後代にかける書なれば必らずしも證としがたし
といへり○ツリホコリは釣リスサビなり。ウナサカは古事記神代(ノ)卷にも見えたり。記傳卷十七(全集一〇〇九頁)に
  サカは堺の義にて海神の國と此上國との間の隔ある處を云なり
といへり。磐境をイハサカとよむをも思ふべし。畢竟海の果なり○神之女を舊訓略(1743)解古義共にカミノヲトメとよめり。宜しくカミノムスメとよむべし。タマサカニは偶然ニなり○※[走+多]を先輩はワシリテ、ハシリテ、ムカヒテ、ムカヒなどよめり。元來趨の俗字にてハシルともムカフともよむべし。こゝはムカヒテとよむを可とす。イコギのイは添辭○相誂良比を舊訓にアヒカタラヒとよみたれど契沖はやく之を斥けて『字書にカタラフと訓べき義なし』といへり。略解にアヒカガラヒとよめるは下なる筑波嶺|※[女+濯の旁]歌《カガヒ》(ノ)會の歌にカガフカガヒニとあるそのカガフが挑む意とおもはるゝによりてなれどカガフといふ語例によりて妄にカガラヒといふ訓を製すべきにあらず。案ずるに此句はアヒトブラヒとよむべし。下なる見2菟原處女墓1歌にも人之誂時とかきてヒトノトフトキとよませたり。そのトフ又こゝのトブラヒは妻ドヒのトヒに齊しかるべし○言成リシカバの言は事の借字なり。否事のコトと言のコトとは根本は一つなれば相通じても書きつべし○カキムスビは連立チテなり。カキは添辭なり。トコヨは異國なり。内ノヘノタヘナルトノニは奥マッタ結構ナ御殿ニとなり。タヅサハリは一ショニなり○永世爾を略解古義にトコシヘニとよめり。字のまゝにナガキヨニとよみて通ずるにあらずや。なほ此卷の末なる見2菟原處女(1744)墓1歌の處にていふべし○老目は諸本に耆とあるに從ふべし。一字を二字に誤れるなり
 
世のなかの 愚《カタクナ》人の 吾妹兒に のりてかたらく しま【らし】くは 家に歸りて 父母に 事毛告良此《コトモノラヒ》 明日のごと 吾は來なむと いひければ 妹がいへらく 常世べに またかへり來て 今のごと あはむとならば この篋《クシゲ》 開くなゆめと そこらくに かためしことを 墨吉《スミノエ》に かへりきたりて 家みれど 家もみかねて 里みれど 里もみかねて 怪常《アヤシミト》 そこにおもはく 家ゆ出《イデ》て 三とせの間《ホド》に 墻もなく 家うせめ八跡〔左△〕《ヤモ》 此筥を 開きて見てば もとのごと 家はあらむと 玉くしげ すこしひらくに 白雲の 箱よりいでて 常世べに たなびきぬれば たちはしり さけび袖ふり こいまろび 足ずりしつつ たちまちに こころけうせぬ 若かりし 皮《ハダ》もしわみぬ 黒かりし 髪もしらけぬ 由奈〔左△〕由奈〔左△〕波《ユリユリハ》 いきさへたえて (1745)後つひに いのちしにける 水の江の 浦島(ノ)子が 家どころみゆ
世間之愚人之吾妹兒爾告而語久須臾者家歸而父母爾事毛告良此如明日吾者來南登言家禮婆妹之答久常世邊爾復變來而如今將相跡奈良婆此篋開勿勤常曾己良久爾堅目師事乎墨吉爾還來而家見跡宅毛見金手里見跡里毛見金手恠常所許爾念久從家出而三歳之間爾墻毛無家滅目八跡此※[草冠/呂]〔左△〕乎開而見手齒如來〔□で圍む〕本家者將有登玉篋小披爾白雲之自箱出而常世邊棚引去者立走叫袖振反側足受利四管頓情清〔左△〕失奴若有之皮毛皺奴黒有之髪毛白班〔左△〕奴由奈由奈波氣左倍絶而後遂壽死祁流水江之浦島子之家地見
 愚人を舊訓にシレタル人とよみ、略解にウルケキ人とよまむかといひ、古義にカタクナビトとよむべしといひてあまたの例を擧げて
  さればカタクナと云は愚(ノ)字の古言にぞありける
といへり。古義の訓によるべし。さて世ノナカノカタクナ人とは浦島子を指せるな(1746)り
  因にいふ。略解に『神代紀愚をウルケキと訓たれば云々』といへるは癡※[馬+矣]鉤此云2于樓該膩《ウルケヂ》1とあるをさせるか。このウルケヂはウルケキ鉤《チ》といふことにてそのウルケキはげに後世のオロカナルに當るべけれど、まさしく愚をウルケキと訓める例は少くとも神代紀には見えず
 ○事毛告良比を略解古義にコトヲモノラヒとよみたれどコトモノラヒと六言によむべし。ヲに當る字なければなり○アスノゴトは明日ト云ハムバカリ速ニとなり。來ナムは還リ來ナムなリ。アハムトナラバは連添ハウト思ヒタマハバとなり。クシゲはただ小さき筥なリ。ソコラクニはこゝにてはクレグレモと譯すべし。カタメシは所謂龜比賣が浦島子にいひ固めしなり。古義に堅ク契リカハシと譯せるは當らず。コトヲはコトナルニなり○ミレド、ミカネテのミは見附くる事、前の見カネテのテは對句なる爲に添へたるなり○怪常を舊訓にアヤシトとよめるを古義にアヤシミトとよめり。之に從ふべし。アヤシミトはアヤシサニといはむに齊し。ソコニオモハクのソコは後世の茲ニなり〇八跡は古義に八裳の誤とせり。雅澄のいへる(1747)如くこゝはまだトといひ収むべき處にあらざれば跡を誤字としてヤモとよむべし。ミテバは見タラバなり○トコヨベニタナビキヌレバのトコヨベニはただアナタザマニといふ事なり○袖フリは白雲を招き返したく思ふ心より思はず袖の振らるゝなり。コイマロビはフシマロビなり。心ケウセヌは正氣を失ひしなり○由奈由奈波は古義に
  或人の考に由李々々波の誤なるべしと云るぞよき。ユリユリは後々と云に同じ
といへり。此説に從ふべし。ユリの事ははやく卷八(一五四三頁)にいへり。ユリユリハ以下は二句にて足るべきを四句を費せるは調の爲なり○家ドコロは大宮ドコロ、オクツキドコロと同例にて家跡なり(卷三【五三五頁】參照)○※[草冠/呂]は筥、清は消、班は斑の誤なり。如來本の來は衍字か
 
   反歌
1741 常世べにすむべきものを(つるきだち)己之《ナガ》心からおそやこの君
常世邊可住物乎※[金+刃]刀己之心柄於曾也是君
 己之を舊訓にサガとよめるを略解にシガに改めて
(1748)  シガとよめるは古事記斯賀アレバ、雄略紀志我ツクルマデニまた旨我ナケバなど有て己ガをすべてシガといへり
といひ古義にもシガとよめり。己之は果してシガとよむべきか。記傳卷三十六(全集二一五四頁)なる大后|石之日賣《イハノヒメ》(ノ)命の御歌の註の中に
  斯賀斯多邇は其之下《シガシタ》ニなり。斯賀は其|上《カミ》に云る物を指てソレガと云ことなり。此御段下なる歌にも斯賀アマリ、甕栗《ミカクリ》(ノ)宮の段の歌に斯賀アレバ、書紀雄略の卷の歌に志我ツクルマデニまた旨我ナケバ、萬葉五に志我カタラヘバ、十八に之我ネガフ、十九に之我ハタハ又之賀サシケラシ又之我イロイロニなどある皆同じ。朝倉宮の段の大后の御歌こゝともはら同じつづけなるを曾賀ハノ云々又曾能ハナノ云々とあるにて斯賀は其之《ソガ》と同きことを知べし(然るを契沖が『斯賀は己之なり。萬葉にサガと云に己之と書り。佐と斯と通ずれば斯賀とも佐賀とも云り』と云るは萬葉十三に己之母ヲトラクヲシラニ己之父ヲトラクヲシラニ、十二にコマツルギ己之|景述故《カゲユヱニ》、十三に己之家スラヲ、十六に己妻スラヲなどある己之をサガと訓るに依れるなれど佐賀と云こと古言にあることなし。右の己之は皆師【○眞淵】(1749)も云れたる如く和賀と訓て宜きをいかなる由にてサガとは訓けむ。いと心得ず。そのうへ右の己之は皆字の如くオノガと云意、我之《ワガ》と云意なれば斯賀と云とはいさゝか意異なるをや)
といへり。斯賀、志我、旨我、之我、之賀など書るは皆其之〔二字傍点〕の意としてよく通ずれど今の歌の己之ココロカラ、下なる詠霍公鳥歌の己父ニ似テハ鳴カズ己母ニ似テハ鳴カズなど己之または己とかけるはシガとよみて其之の意としては皆穩ならず。其上シガとよみては今の歌にツルギダチ己之心カラといひ卷十二の歌にコマツルギ己之景迹故といへる、いかにかゝれる枕辭とも心得られず。一方にツルギダチ名ノヲシケクモとよめる歌、集中に三首あれば(卷四【七一六頁】參照)己之または己とかけるはナガとよみツルギダチ、コマツルギをナにかゝれる枕辭と認むべし。はやく冠辭考にも
  萬葉卷四にツルギダチ名ノヲシケクモ吾ハナシ、卷九にツルギダチ己之《ナガ》ココロカラオソヤコノ君こは聚雲草薙などやうに劔には古へより名をつくれば名といはんとて冠らせたる也(古(ノ)部 【○本書のコの部なり】 にコマツルギ已之《ワガ》カゲユヱニといへ(1750)るはコマツルギ輪とつづけし例に依て同じ己の字ながらワガカゲとよみし也。今此歌の己之心は卷四の例によりてこゝの劍には輪有例もなければナガ心とよみて名の語とす)
といひ木村博士の※[木+觀]齋雜攻卷一なる大巳貴命といふ條にも
  神代紀上卷に大巳貴此云2於褒婀〔右△〕※[女+那]武智1とありて古事記傳卷九に『大己貴と書れたる文字いと心得ず。己(ノ)字は於能を阿那に借用ひたるか。又汝と云べきを於能禮とも云こともある故に汝《ナ》に用ひたるか』又神代紀|※[髪の上/舌]華《ウズ》(ノ)山蔭に云『大己貴と書れたる己(ノ)字心得ぬことなり』。正辭按に右の説の中『汝《ナ》の意に用ひたるか』とあるに從ふべし。己を汝の意に用ゐたるは反訓の例也。按に萬葉集卷九に己《ナガ》父ニ似テハナカズ己《ナガ》母ニ似テハナカズ云々又卷十三に己之《ナガ》母ヲトラクヲシラニ己之《ナガ》父ヲトラクヲシラニ云々とあるは汝の意なれば己《ナ》と訓べきなり。これを舊訓にサガ云々とあるはいかなる意ともしられず。きはめて誤なるべし。又略解にシガ云々とよまれたるもいかがなり。汝と云ことをシといへることあることなし。さて萬葉集卷九にツルギダチ己之《ナガ》心カラオソヤコノ君とあるは己をナとよむべき證也。そ(1751)は卷四にツルギダチ名ノヲシケクモ吾ハナシ云々、卷十一にツルギダチ名ノヲシケクモオモホエヌカモ、卷十二にツルギダチ名ノヲシケクモ吾ハナシ云々などある(冠辭考云『衆雲草薙など樣に劍には古へより名をつくれば名といはんとて冠らせたるなり』とあるが如し)と同じつづけがらなるを以て必ずナガ云々と訓べきことをさとるべし。且これにて上に擧たる己、己之等もナガとよむべきことをおもひ定べし。かゝれば大己貴の己はナに充たる文字なること疑べきにあらず。又これによりて萬葉の己をナとよむべきことをも證すべし(訓註の婀(ノ)字はうたがはし。髻華(ノ)山蔭には後人のさかしらに添へたるにやあらむといはれたり。さもあるべし)といへり。されば余の思得たるははやく眞淵と木村博士との云へる所なり(舊訓にサガとあるはワガを寫誤れるならむ)○第四句の下に住マズナリニキといふことを省けるなり
 
   見2河内大橋獨|去《ユク》娘子1歌并短歌
1742 (しなてる) 片足羽《カタシハ》河の さにぬりの 大橋の上ゆ くれなゐの 赤(1752)裳すそびき 山藍《ヤマヰ》もち すれる衣きて ただひとり いわたらす兒は (若草の) つまかあるらむ (かしのみの) 獨かぬらむ とはまくの ほしき我妹が 家のしらなく
級照片足羽河之左丹塗大橋之上從紅赤裳數十引山藍用摺衣服而直獨伊渡爲兒者若草乃夫香有良武橿實之獨欺歟將宿問卷乃欲我妹之家乃不知
 題辭の娘子の下に作の字おちたるか○古事記浮穴宮の段に坐2片鹽(ノ)浮穴(ノ)宮1治2天下1也とあるを釋して記傳卷二十一(全集一二四六頁)に
  片鹽はカタシハと訓べし。……堅磐《カタシハ》の意の地名にて片鹽とかけるは借字ならむか。さて此は萬葉九にシナテル片足羽河ノ云々とよめる地なりと師のいはれつる信に然るべし
といへり(但片鹽浮穴宮は大和平野のうちなりといふ説あり)。河内國中河内郡の南端に片鹽といふ處ありて大和川に臨めり。片鹽即片足羽ならば大和川をこのあたりにてカタシハ川といひしなるべし○上ユは上ヲにて句を隔てゝイワタラスに(1753)かゝれるなり○ヤマヰモチスレル衣は白き布に山藍もて物の形を摺れるなり。イワタラスのイは添辭、兒は若き女なり○ヒトリカヌラムはただマダ夫ヤ無キといふ意、シラナクは知ラレヌなり。卷三にもフナノリシケム年ノシラナク(四二六頁)ヲミナニシアレバスベノシラナク(五〇五頁)卷六にも千代マツノキノ年ノシラナク(一一〇二頁)とあり
 
   反歌
1743 大橋のつめに家あらばまがなしくひとりゆく兒にやどかさましを
大橋之頭爾家有者心悲久獨去兒爾屋戸借申尾
 マガナシクはヒトリユクにかゝれるなり。カハイサウニなど譯すべし。古義に
  此一句は結句の上にめぐらして心得べし
といひて『心よりかなしくめで思ふとほりに宿を借して云々』と釋せるは非なり○マガナシク獨ユク兒ニヤドカサマシヲといへるを見ればその女に行逢ひしは夕暮なりしなり
 
(1754)   見2武藏小埼沼鴨1作歌一首
1744 さき玉のをさきの沼に鴨ぞはねきる、おのが尾にふりおける霜をはらふとならし
前玉之小埼乃沼爾鴨曾翼霧己尾爾零置流霜乎掃等爾有斯
 ハネキルは羽たゝきする事なり○小埼沼の跡は武藏國北埼玉郡にあり。そこにある碑の拓本なりとて遠山英一君のおくれるを見るに表に武藏小埼沼と題し裏に此歌と卷十四なるサキタマノ津ニヲルフネノといふ歌とを記し側面に寶暦三年癸酉歳九月望、武忍城主玉褐阿部正因建、文國平岩知雄書と刻めり
 
   那賀郡曝井歌一首
1745 (みつ栗の)中爾向〔二字左△〕有《ナカノクニナル》さらし井のたえず通はむそこに妻もが
三栗乃中爾向有曝井之不絶將通彼所爾妻毛我
 中は那賀の借字なり。常陸國風土記に
  那賀郡云々自v郡東北挾2粟河1而置2驛家1、當2其以南1泉出2坂中1水多流尤清、謂2之曝井1、縁v(1755)泉所v居村落婦女夏月會集浣v布曝乾
とありて驛家の註に
  本近2粟河1謂2河内驛家1、今隨v本名v之
とあり。今水戸市の附近に河内《カフチ》といふ村ある是なり。水戸の人栗田寛博士の古風土記逸文考證に
  この曝井は今茨城郡袴塚村愛宕祠の西なる坂の中段にあり。瀧坂といふ所なり。……そのわたりを曝臺といふ。その裾の田を曝田といひて今も坂の半に清水の湧出るあり
といへり○中爾向有を舊訓にナカニムカヘルとよめるを略解にナカニムキタルと改めたり。宣長いはく
  向有いかが。囘有ならん
と。古義には宣長の説によりてメグレルとよみて『那珂郡に流れ廻れると云なるべし』といへり。ナカは郡の名にて驛の名にあらざれば那賀ニムカヘル又は那賀ニムキタルといふべからざる事勿論なれど那賀ニメグレルとあらむもいかが。中(ノ)國|爾(1756)有《ナル》とありしを國と爾とを顛倒し更に國を向と誤れるにあらざるか。ササナミノ國、ヨシ野ノ國、ハツセノ國などいふ如く那賀郡をナカノ國ともいひつべし○上三句は其處をもて序とせるなり。ソコニは其サラシ井ノ處ニとなり
 
   手綱濱歌一首
1746 遠妻し高《タカ》にありせばしらずともたづなの濱のたづねきなまし
遠妻四高爾有世婆不知十方手綱乃濱能尋來名益
 トホヅマは遠き處に住める妻なり。卷四(六六一頁)にもトホヅマノココニアラネバ、卷七(一三七七頁)にもトホヅマヲモチタル人シミツツシヌバムとあり○略解に高を其の誤として第二句をソコニアリセバとよめるは非なり。この高は古義の頭書にいへる如く常陸の郡名多珂の借字なり。古風上記逸文考證卷三に
  信名云。萬葉に曝井の次に手綱濱の歌をのせたり。この手綱濱も當國多珂郡なるを八雲御抄等には曝井を紀伊國とせられしによりこれをも紀伊の名所にせれたり。殊に據なき僻事也
といへり○シラズトモは道ヲ知ラズトモなり。タヅナノ濱ノは地名をタヅネの序(1757)につかへるなり
 
   春三月諸卿大夫等下2難波1時歌二首
1747 (白雲の) たつ田の山の 瀧の上の 小鞍の嶺に さきををる 櫻の花は 山高み 風しやまねば 春雨の 繼而零者《ツギテシフレバ》 ほつえは ちりすぎにけり しづえに のこれる花は しま【らし】くは ちりなみだれそ (草枕) たびゆく君之《キミガ》 及還來《カヘリクルマデ》
白雲之龍田山之瀧上之小鞍嶺爾開乎爲〔左△〕流櫻花者山高風之不息者春雨之繼而零者最末枝者落過去祁利下枝爾遺有花者須臾者落莫亂草枕客去君之及還來
 瀧とあるは契沖のいへる如く川の早瀬なるべし。例の龍田考(十丁)にも
  萬葉の歌に瀧(ノ)上之とある瀧は尋常のにはあらでいにしへはたぎち流るゝ速川の事を打まかせて瀧とぞいへりける。今も此川龍田山なる龜が瀬といふあたりにては岩にせかれ落瀧ち流るゝが故にしか云るなり。彼卷九の歌には既にタキ(1758)ノセユタギチテナガルとさへよめり。然るを萬葉略解に『實に瀧ある所なればなり』といへるは非なり
といへり○小鞍ノミネについて契沖は、
  小鞍嶺は立田社あるは立野より一里許西北に當りて毘沙門のおはする信貴につづけり。世に役《エン》(ノ)優婆塞の鬼を促へて役使せられたりとて鬼取と云所のあなるあたりにて小倉寺とて此も優婆塞の開かれたる所と云傳へて今も形ばかりの山寺あり
といひ、記傳卷四十一(全集二三六三頁)には
  くらがり峠を萬葉にいはゆる立田山小鞍嶺なりと云は非なり。かの小鞍嶺は龍田越の事なり
といひ、龍田考(十一丁)には
  小鞍(ノ)嶺は此歌どもによるに彼龜が瀬の邊の一の山の名には有ける(總名は龍田山なる事いふも更なり)。大和志に小倉峯有v二、一在2立野村西1、一在2小倉寺村上方1とみえたれば今も此龍野の西にしかいふ山あるなるべし
(1759)といへり。契沖のいへるは在2小倉寺村上方1とある方、今の歌なるは在2立野村西1とある方なるべし○サキヲヲルはサキ靡クなり。繼而零者を舊訓にツギテシフレバとよめるを契沖、千蔭、雅澄のツギテフレレバと改めたるはシに當る字なきが故ならめど雪にこそフレリといへ雨にはフレリといはねば、なほツギテシフレバとよむべし○落莫亂の亂を古義には例の如くミダリとよめり。宜しくミダレとよむべし○及還來を舊訓にカヘリクルマデ、略解にカヘリクマデニ、古義にカヘリコムマデとよめり。舊訓又は古義に從ふべし(卷七【一二九三頁】參照)○此歌は旅ゆく人のよめると聞ゆるにタビユク君之カヘリクルマデといへる相かなはざる如し。されば契沖は
  我も難波へ下る身ながら卿大夫のしりへにしたがへる人の貴人のためにタビユク君ガカヘリコムマデといひ、みづからもゆく故に反歌にアガユキハ七日ハスギジとも云るなり
といへり(此説は代匠記の初稿本に見えたるなり。すべて古義に引けるは初稿本なり)。しばらく此説に從ふべし。歌の作者は高橋(ノ)連《ムラジ》蟲麻呂ならむ。なほ下にいふべし。略解には
(1760)  君といへるは同じく旅ゆく人をさせるか。されど穩ならず。君は吾の誤にてタビユクワレガカヘリクマデニなるべし
といへれどワレガ、ワレノなどいへる例を知らず○爲は烏を誤れるなり。下なるも同じ
 
   反歌
1748 わがゆきは七日はすぎじ龍田彦ゆめ此花を風に莫落《チラスナ・ナチラシ》
吾去者七日不過龍田彦勤此花乎風爾莫落
 ユキは旅行なり。龍田彦は此處をうしはける神なる上、恰風神なれば之にあつらへたるなり○莫落を略解古義にナチラシとよめり。舊訓のチラスナも決して後世の辭にあらず
 
1749 (白雲の) たつ田の山を ゆふぐれに うちこえゆけば 瀧の上の 櫻の花は さきたるは ちりすぎにけり ふふめるは さきつぎぬべし こちごちの 花の盛に 雖不見〔左△〕《アハネドモ》 △ 左右《カモカクモ》 君がみゆきは(1761) 今にしあるべし
白雲乃立田山乎夕晩爾打越去者瀧上之櫻花者開有者落過祁里含有者可開繼許智期智乃花之盛爾雖不見左右君之三行者今西應有
 ウチコエユケバのウチは添辭なり。古義に例の如く『馬に鞭を打て山を行越ばと云なるべし』といへるは從はれず○コチゴチノは兩方ノといふことにて守部が
  其言のさま上に物二つを先いひて其一をコチと指し今一をコチと指ていふ詞なり
といへる如し(卷二【二九九頁】參照)○雖不見は雖不相の誤としてアハネドモとよむべし○左右を從前の訓に從ひてカニカクニとよまむに其上に七言一句あらでは調ととのはす。宣長は
  左右の字上下に落字多く有べし。試に補はばマタモ來ン左右《マデ》チリコスナ君ガ云々と有べし
といひ雅澄は
  雖不見の下に脱句あるべし。落莫亂などの三字を失へるか。さらばミセズトモチ(1762)リナミダリソと訓べし
といへり。いづれも穩ならず。案ずるにアハネドモの下にナホシタヌシモなどいふ意の一句あるべきなり○左右は略解古義にカニカクニとよみたれどカモカクモとよむべし。カニカクニはトザマカウザマといふ事にてこゝにはかなはず○今ニシアルベシは今ナルベシにて天皇ノ行幸シタマハムハ今ゾヨロシカルベキとなり。雅澄が追付行幸ガアルデアラウといふ意と見たるは誤れり
 
   反歌
1750 いとまあらばなづさひわたりむかつをの櫻の花もをらましものを
暇有者魚津柴此渡向峯之櫻花毛折末思物緒
 長歌なるコチゴチノ花ノサカリニアハネドモの下にナホシタヌシモなどいふ意の一句ありてこそかゝる反歌も出來べけれ。今本のまゝにては長歌と反歌と没交渉なり○宣長いはく
  ナヅサヒは集中皆水に浮む事或は水を渡る事などにて水に著《ツク》事ならではいはず。是のみ水のよしなくきこゆれど長歌に瀧ノウヘノとあればこゝも瀧河を渡(1763)る事なるべし。中古の物語文などに至りて人になれむつぶ事にいへるはいたくうつりたるものなり
といへり。此説の從はれざるははやく云へる如し。案ずるにナヅサフはナヅムと同意にて物に妨げられて進み煩ふ事なり。後世人に馴れむつぶ事をナヅサフといへるは其人の許より離れかぬるよりいへるにて、もとの意は一なり○ムカツヲノサクラノ花モはココモトノ櫻ノ花ノミナラズ向ノ山ノ櫻ノ花ヲモとなり。古義に
  サクラノハナモといへるに心を付べし。吾自見てめづるのみならず折取來て後れ居たる本郷人にも見せまほしく思ふよしなり。さらずば櫻花乎と云て事足りぬべき處なり。櫻花ヲ折テモ來マシモノヲとモを下にめぐらして見るときはよく聞ゆるなり
といへるはひが言なり
 
   難波(ニ)經宿(シ)明日還來之時歌一首并短歌
1751 島山を いゆき廻流《モトホル》 河ぞひの をか邊の道ゆ きのふこそ わがこえこしか 一夜のみ ねたりしからに をのうへの さくらの花(1764)は 瀧の瀕ゆ 落墮而《オチテ》ながる 君がみむ 其日までには 山下之《アラシノ》 風なふきそと うちこえて 名におへる杜〔左△〕《モリ》に かざまつりせな
島山乎射往廻流河副乃丘邊道從昨日己曾吾越來牡鹿一夜耳宿有之柄二岑上之櫻花者瀧之瀕從落墮而流君之將見其日左右庭山下之風莫吹登打越而名二負有杜爾風祭爲奈
 經宿は一夜ネテといふ意○島山について契沖は
  第五に奈良路ナル島ノ木立とよめる處なり
といひ千蔭は
  島山は大和也。卷五奈良路ナル島ノコダチ、卷十九島山ニアカル橘とよめり。故郷の島山のあたりを出しは昨日なりしをといふ也
といひ雅澄は
  この島山は地名にはあるべからず。前の長歌どもにも龍田山をよみ此歌にも立田川の瀧をよみ名ニオヘル杜とよめるも立田彦神社のことなればこれは立田川に臨める山を島山といふなるべし
(1765)といひ龍田考(十一丁)には
  島山とよめるは彼川のをれめぐりて島となれる處をさして島山とはいへるなり(必しも四方ともに縁を放れて川中にある島ならでもいにしへは川の折廻れるところは島といへり)
といへり。げにいにしへは川のゆきめぐれる山をシマ山といひきとおぼゆ。當時の宮人が海なき國に住みて海をゆかしむあまりに池川の事をも海めかしていひけむ事ははやく卷二(二四〇頁)にいへり。參照すべし。つくり庭をシマといふも山を作り水を引きてその裾をめぐらしめし爲なるべく必しも池をほりて其中に島を作りしにはあらじ(つくり庭をシマといひし事はくはしく玉勝間卷十三、島といふ條にいへり)○伊往迴流を舊訓と古義とにはイユキモトホルとよみ略解にはイユキメグレルとよめり。いづれにてもあるべし。さてシマ山ヲイユキモトホルの二句、河の一語にかゝらざるべからざるに語格の上にては河ゾヒにかゝれり。集中には外にも例あれど正しからぬ事なれば範とはすべからず○ネタリシカラニは寐タリシモノヲとなリ。略解に神代紀に一夜間をヒトヨノカラニとよめるを例に引きて(1766)カラを間の意としたりげなれど間をカラといふべきかおぼつかなし○ヲノウヘは即ヲノヘなり。卷二十にタカマトノ乎能宇倍ノミヤハ云々とあり○君ガミムについて契沖は
  此君は上の歌に君之三行者とよめる天子なり
といひ略解古義共に之に從へり。案ずるに反歌にサクラノハナヲ見セム兒モガモとあれば此歌の君は妻をさせるなり○山下之を舊訓にヤマオロシノとよめるを古義に
  アラシノと四言によむべし。ヤマオロシとよめるは後めきたり
といへり。げにヤマオロシは古書には見及ばぬ語なり○名ニオヘルモリは今の龍野村なる龍田神社なり。略解に
  こゝの名ニオフは常にいふとは少したがへり。風神ト名ニタテル神ノ社といふ也
といひ古義に
  名ニオヘル杜は風神ト名ニ負タル杜といふなり。これ龍田社なり
(1767)といひ龍田考(六丁)に
  ウチコエテとは難波より歸るとて立田山を打越てといふ事にて立野は立田山の東の麓なればよくかなへり
といへり。名ニオヘルは名ニ副ヒテ風ヲ掌ルとなり。名ニシオハバイザコトトハムミヤコ鳥の名ニオフと異なる事なし○杜は諸本に社とあるに從ふべし。いにしへ社をモリとよみしを後に示扁を木扁に更へしなり
 
   反歌
1752 いゆきあひの坂上《サカ》のふもとにさきををるさくらの花を見せむ兒もがも
射行相乃坂上之蹈本爾開乎爲〔左△〕流櫻花乎令見兒毛欲得
  ミセム兒モガモは今ココニアレカシといふ意にて所詮妹ニ見セマホシといふ意なり(卷八【一五三九頁】參照)○初句について契沖は
  道にて人にゆきあふはいづくもあれど坂を登るはてに彼方此方よりゆくりもなくおかしき人に行相たらむは殊にめづらしかるべければ坂といはむとて射(1768)行相乃とおける歟。坂とのみはかゝずして坂上とかけるも彼互に登りはててふと行あふ意にや
といひ、宣長は
  行相乃は坂の枕詞の如し。坂はこなたかなたより登てゆきあふ所なれば也。界をサカヒといふも坂合の意也。坂の下の上〔右△〕はイユキアヒノといふから添たるもの也
といへり。坂の准枕辭と認むべし。上は衍字にてもあるべし。此字無き本あり
 
   檢税使大伴卿登2筑波山1時歌一首并短歌
1753 (衣手《コロモデ》) 常陸《ヒダチ》(ノ)國 二並《フタナラブ》 筑波の山を 見まくほり 君來座登《キミキマシヌト》 熱爾《アツケクニ》 汗かき奈氣△《ナゲキ》 木根《コノネ》とり うそむきのぼり をのうへを 君に見すれば 男《ヲ》(ノ)神も 許したまひ 女《メ》(ノ)神も ちはひたまひて 時となく 雲ゐ雨ふる 筑波嶺を さやにてらして 言借石〔左△〕《イブカシキ》 國のまほらを つばらかに 示したまへば うれしみと 紐の緒ときて 家のごと (1769)とけてぞ遊ぶ (うちなびく) 春見ましゆは 夏草の 茂くはあれど 今日のたぬしさ
衣手常陸國二並筑波乃山乎欲見君來座登熱爾汗可伎奈氣木根取嘯鳴登岑上乎君爾令見者男神毛許賜女神毛千羽日給而時登無雲居雨零筑波嶺乎清照言借石國之眞保良乎委曲爾示賜者歡登紐之緒解而家如解而曾遊打靡春見麻之從者夏草之茂者雖在今日之樂者
 略解に
  大伴卿は安麻呂卿ならんかと契沖いへり。いづれにもあれ歌の意は大伴卿の歌にはあらず。外に作者有しなり
といひ(精撰本代匠記には大伴卿を旅人とせり)又
  此歌は大伴卿の歌ならずして其國の守又は介※[木偏+掾の旁]などのよめるならん。君とは大伴卿をさす
といへり。高橋連蟲麻呂の作なり。なほ下にいふべし
(1770) 衣手は枕辭なり。古義に『乎乃等の字なければコロモデと四言に訓べし』といへり○常陸國の下に舊訓略解にはノを添へてよみ古義にはヒダチノクニと六言によめり〇二並を舊訓にフタナミノとよめるを古義にフタナラブと改め訓めり。今はフタツナラブといへどいにしへはフタナラブともいひけむかし(七人行くをナナユクといへるを思へ)。さてフタナラブは兩峯なるを云へるなり○君來座登を三註共にキミキマセリトとよみたれどキミキマシヌトと改むべし○熱爾を舊訓略解にアツケキニとよみたれどアツケキニといふ辭は無し。卷一(一一五頁)なるミヨシ野ノ山ノアラシノ寒久爾《サムケクニ》の例によりてアツケクニとよみてアツクアルニの意とすべし(卷八【一五七四頁】クラケクニ參照)○汗可伎奈氣の下に伎の字をおとせるならむと契沖いへり。之に從ふべし。汗カキ又息ヅキなり○木根は古事記朝倉宮(ノ)段なる三重(ノ)※[女頁采]の歌にタケノネノ、ネダルミヤ、許能泥能《コノネノ》、ネバフミヤ(竹ノ根ノ根足ル宮、木ノ根ノ根延フ宮)とあるによりてコノネとよむべし。ウソムクも長息するなり○男《ヲ》(ノ)神、女《メ》(ノ)神は男體山、女體山なり(卷三【四七〇頁】參照)。チハヒタマヒテは佑ケ給ヒテなり○時トナクは時ジクにおなじくて不斷始終といふ意なり。卷十二にも時常無《トキトナク》オモヒワタレバ(1771)とあり。古義に『いつといふ時の定まりもなく』と譯せるは當らず。雲ヰ雨フルは雲ガカカリ又雨ガ降ルとなり。ツクバネヲのヲはナルニの意なり。ツクバネヲサヤニテラシテとつづけるにあらず○サヤニテラシテは國ノマホラをさやかに照すなり。さてサヤニテラシテ、示シタマヘバの主格は男神及女神なり○言借石を略解古義にイブカリシとよめれどイブセシをイブシといふことなければ鬱《イブ》カリシとはいふべからず。宣長は『石は木の誤にてイブカシキならむ』といへり。卷四にも
  あひみずてけながくなりぬこのごろはいかにさきくや言借《イブカシ》わぎも
と書けり。さてイブカシキは明ナラザルなり。國ノマホラは國中なり(卷五【八五五頁】參照)○ウレシミトはウレシサニなり。トは例の無くても同じきトなり。紐ノ緒トキテは襟の紐を解くにて打解くるさまなり(卷五【九七九頁】參照)。古事談第一に
  一條院幼主(ノ)御時夏(ノ)公事(ノ)日公卿等徘2徊露臺1披2南殿(ノ)北(ノ)戸1帶2涼風1。其時大入道(○兼家)爲2攝政1放v袵奉v抱2主上1自2掖戸1令2指出1給
といひ又放2御袵1云々指v袵令2禮節1給云々といへり。紐ノ緒トキテはやがて右の放袵に當るべし○春見マシユハは春見シ事ハ無ケレド春見ムヨリハとなり。さればマ(1772)シにてよく適ひたるを古義に
  見麻之の之は久(ノ)字を誤寫せるものか。ハルミマクヨハとあらば理さだかなり
といへるはいかに心得たがへたるにか○夏草ノ茂クハアレドとは夏草ノ茂キガ不快ナレドとなり○タヌシサを樂者と書けるは卷八にコヱノ遙者《ハルケサ》と書けると同例なり
 
   反歌
1754 けふの日に何如《イカニカ》將及《シカム》筑波嶺に昔の人の來けむ其日も
今日爾何加將及筑汲嶺昔人之將來其日毛
 第二句を舊訓と略解とにイカガオヨバムとよみ、古義にイカデシカメヤとよみて『オヨバムといふは古言に非ず』といへり。イカガもイカデも共に後世の辭なればここはイカニカシカムとよむべし(又イカデシカメヤとはいふべからず。イカデカシカムとこそいふべけれ)。このイカニカのつづまりたるがやがてイカガなり(卷七【一四五八頁】參照)○昔ノ人は略解に『誰とさす所なし』といへり。案ずるに以前の檢税使などを指せるならむ
 
(1773)   詠2霍公鳥1一首并短歌
1755 うぐひすの かひこのなかに ほととぎす 獨生れて 己《ナガ》父に 似てはなかず 己《ナガ》母に 似ては鳴かず うの花の さきたる野邊ゆ 飛翻《トビカヘリ》 來なきとよもし 橘の 花をゐちらし ひねもすに なけどききよし 幣《マヒ》はせむ 遐くなゆきそ わがやどの 花橘に すみ度《ワタリ》鳥〔左△〕《ナケ》
※[(貝+貝)/鳥]之生卯〔左△〕乃中爾霍公鳥獨所生而己父爾似而者不鳴己母爾似而者不鳴宇能花乃開有野邊從飛翻來鳴令響橘之花乎居令散終日雖喧聞吉弊〔左△〕者將爲遐莫去吾屋戸之花橘爾住度島
 カヒコは卵なり。杜甫の杜鵑(ノ)詩に
  生v子百鳥巣、百鳥不2敢瞋1、仍爲|《ヤシナフ》2其子1、禮若v奉《ツカフル》2至尊1
 本集卷十九なる家持の詠2霍公鳥并時花1謌にも
  四月《ウヅキ》したてば、よごもりに、なくほととぎす、むかしより、かたりつぎつる、鶯のうつ(1774)し眞子かも云々
とあり○己父己母を略解古義にシガチチ、シガハハとよめれどナガチチ、ナガハハとよむべき事上(一七四九頁)にいへる如し。父母といへるは鶯をいへるなり○古義に開有野邊從の從《ユ・ヨ》を『乎と云が如し』といへるは非なり。ただのヨリなり○飛翻を舊訓にトビカヘリとよめるを略解古義に理由は云はでトビカケリに改めたり。案ずるに翻はカケルとはよみがたければなほトビカヘリとよむべし。さて卷二(二四〇頁)にも
  とぐらたてかひしたかのこすだちなばまゆみのをかにとび反《カヘリ》こね
とあり。相合せて考ふるにトビカヘリは飛還の意にあらで飛翻の意なりけり○ヰチラシはトマリテ散ラスなり○ヒネモスニナケドより上は杜鵑のいとはしきことを述べ、さて語を轉じてキキヨシといへるなり。マヒは贈物なり。卷五(九九六頁)にも見えたり○住度鳥を舊訓及略解にスミワタレトリとよめるを古義に
  鳥は鳴(ノ)字の偏の滅てかくなれるならむ。スミワタリナケと訓べし
といへり。此説に從ふべし。卷十に、
(1775)  橘の林をうゑむほととぎす常に冬まですみわたるがね
といふ歌あり○卯は卵、弊は幣を誤れるなり
 
   反歌
1756 かききらし雨のふる夜をほととぎすなきてゆくなりあはれ其鳥
掻霧之雨零夜乎霍公鳥鳴而去成※[立心偏+可]怜其鳥
 カキキラシはカキクモリにおなじ(卷八【一六五五頁】參照)。他動詞の如く見ゆれど實は自動詞なり○アハレは略解におもしろき也といへる如し
 
   登2筑波山1歌一首并短歌
1757 (くさまくら) たびの憂《ウレヒ》を なぐさ漏《モル》 ことも有武〔左△〕跡《アリヤト》 つくばねに 登りてみれば 尾花ちる しづくの田井に かりがねも さむく來なきぬ 新治《ニヒハリ》の 鳥羽の淡海《アフミ》も 秋風に 白浪たちぬ 筑波嶺の よけくをみれば ながきけに おもひつみこし 憂《ウレヒ》はやみぬ
草枕客之憂乎名草漏事毛有武跡筑波嶺爾登而見者尾花落師付之田井(1776)爾鴈泣毛寒來喧奴新治乃鳥羽能淡海毛秋風爾白浪立奴筑波嶺乃吉久乎見者長氣爾念積來之憂者息沼
 憂を舊訓にウレヘ、略解にウレヒとよめるを古義にウケクに改めたり。こゝは特にウケクヲ即ウクアルコトヲといふを要せざればなほウレヒとよむべし。終句の憂も然り。ウレヘにあらでウレヒなることははやく卷五(九七一頁)にいへり○名草漏を舊訓古義にはナグサムル、略解にはナグサモルとよめり。字のまゝにナグサモ〔右△〕ルとよむべし。ナグサム〔右△〕ルの轉訛なり(卷四【六三五頁】參照)○事毛有武跡を舊訓及略解にコトモアラムトとよめるを古義に有武を有哉の誤としてアレヤトとよめり。こは卷二(二九四頁)なる千重ノヒトヘモナグサムルココロモ有八〔右△〕等に據れるなるがその有八等をアリヤトとよみしが如く今もアリヤトとよむべし。アラムカといふべき處にてアレカシといふべき處にあらねばなり(アレヤの事は卷六【一〇五三頁】にくはしくいへり)○シヅクノタヰはシヅクといふ處の田地なり。今の新治郡に志筑といふ村ありて筑波山の東方に當れり○新治ノ鳥羽ノアフミは新治郡の鳥羽の湖なり。常陸風土記筑波郡の條に
(1777)  郡西十里有2騰波江1(長二千九百歩、廣一千五百歩)
とある是なり。鳥羽といふ處は筑波山の西方に當りて今は眞壁郡に屬せり。其鳥羽の西に大寶沼とてあるがいにしへの鳥羽ノアフミすなはち騰波《トバ》(ノ)江なりといふ○キナキヌ、タチヌは來ナク、タツといふべきを調の爲にかくいへるなり○ツクバネノヨケクヲミレバはカク筑波山ノ風景ノヨカルヲ見レバとなり。ナガキケニオモヒツミコシは長キ月日ニ心ニツモリシといふ事なり○ウレヒハヤミヌは物思ハ失セヌといふ事を漢文調にていへるにて冒頭と呼應せるなり
 
   反歌
1758 つくばねのすそ廻《ミ》の田井に秋田かる妹がりやらむ黄葉たをらな
筑波嶺乃須蘇廻乃田井爾秋田苅妹許將遣黄葉手折奈
 スソミは麓なり。長歌にも反歌にも田井とかけるは借字なり。誤りて井の事と思ふべからず。山に登る時に見し農婦たちに黄葉を折りてみやげに遣らむといへるなり。略解に『此山よりふもとを見おろして田ゐに稻刈妹がもとへやらんために云云』といへるは非なり。筑波山の頂上より麓田の農婦の見えむやは
 
(1778)   登2筑波嶺1爲2※[女+燿の旁]歌會1日作歌一首并短歌
1759 鷲のすむ 筑波の山の 裳《モ》羽〔□で圍む〕|服津〔左△〕《キサハ》の 其|津〔左△〕《サハ》の上に 率而《アトモヒテ》 をとめをとこの ゆきつどひ かがふ※[女+燿の旁]歌《カガヒ》に ひと妻に 吾も交牟《アハム》 わが妻に 人もことどへ 此山を うしはく神の 從來《ムカシヨリ》 いさめぬわざぞ けふのみは めぐしもな見そ 事もとがむな
鷲住筑波乃山之裳羽服津乃其津乃上爾率而未通女壯士之往集加賀布※[女+燿の旁]歌爾他妻爾吾毛交牟吾妻爾他毛言問此山乎牛掃神之從來不禁行事叙今日耳者目串毛勿見事毛咎莫
    ※[女+燿の旁]歌者東俗語曰2賀我此1
 賀我比は常陸國風土記※[女+燿の旁]歌之會の註に俗曰2宇多我岐1又曰2加我毘1也とあれば歌垣と同一なり。歌垣の事は攝津國風土記(釋日本紀卷十三に引けり)、古事記甕栗宮段、日本紀武烈天皇紀等に見えて日本紀には歌場とかけり。そのウタガキは歌カガヒの約にて垣と書き場とかけるは借字なり。はやく記傳卷四十三(全集二四六六頁)に
(1779)  歌垣と云名の意は(垣は借字なり。書紀に歌場とかゝれたるも名の義には當らず。……此名は其事を云る名にこそ有れ。其處を云名には非れば場とは云べきに非ず)歌加賀比にて賀比をつづめて伎とは云なり
といひ又
 加賀比と云は右の長歌に加賀布とある如く本用言なるを體言になしたる名なり。其名は又|加具禮交《カグレアヒ》のつづまりたるなるべし。されば歌賀伎《ウタガキ》とは互に歌をよみて加具禮|交《カハ》すよしの名なるべし
といへり。右のうちカガヒをカグレアヒの約としたるはいかが。古義には
  香賀比は久那賀比の約れる言にてそのもと婚合を云よりはじまれる古言なり。……久那賀比といふことは古言と思はれて現報靈異記にも婚クナガヒスと注し又鶺鴒をニハクナブリと云も急婚貌《ニハクナブリ》の意の稱ときこえ又※[虫+蔑]をマクナギと云も目婚《マクナギ》の意の稱ときこえたり
といひ栗田博士は之に左袒せり(栗里先生雜著卷八|闘鶏《ツゲ》國造得罪考)。此説もうべなひがたし。歌ガキすなはち東國にていひしカガヒは歌を唱へて相挑む事とおぼゆ(1780)ればなり(相挑むと相交るとは同事にあらす。その上もしクナギにひとしくば直にクナギといふべくクナギをクナガヒと延べ更に其をカガヒとはつづむべからず)。古義に
  かくて同事を都方にては昔のまゝに歌垣といひ傳へ東語には加賀比とぞいへりけむ。されば左に東俗語云々と注せり
といへるはまづ可なれど常陸風土記に俗曰2字太我岐1又曰2加我毘1也とあるを訝りて
  歌垣をも一におしこめて俗云と云るはいかがなり
といへるは誤解なり。風土記※[女+燿の旁]歌之會の註に俗曰といへるは邦語云といふ意なり○※[女+燿の旁]歌《テウカ》は文選なる左太沖の魏都賦に明發《ヨアカシ》而※[女+燿の旁]歌とありて蛮人の歌なり。それをカガヒに借り用ひたるなり。カガヒに似たる風俗は琉球のモーアシビを始めて近頃迄往々邊境に殘りきといふ。但それ等は近來民俗研究家が記述して殘せるもの無ければこゝにはただ西隣の文籍より一節を抄出せむに趙翼(即甌北。清朝中世の學者又詩人)の簷曝《エンボク》雜記卷三邊郡風俗と云へる條に
(1781)  粤《エツ》西(○今の廣西)ノ土民及※[さんずい+眞]※[黒+今]《テンキン》(○今の雲南、貴州)ノ苗※[獣偏+果]ノ風俗大概皆醇樸ナリ。惟《タダ》男女ノ事ハ甚別アラズ。春日毎ニ墟《ヲカ》ヲ※[走+軫の旁]《オ》ヒテ歌ヲ唱ヘ男女各一邊ニ坐ス。其歌ハ皆男女相悦ブ詞ナリ。其、合ハザル者モ亦歌アリテ之ヲ拒ム。※[人偏+爾]ハ我ヲ愛スレドモ我ハ※[人偏+爾]ヲ愛セズノ類ノ如シ。若兩ナガラ相悦ベバ則歌畢リテ輙手ヲ携へテ酒棚ニ就キ並坐シテ飲ミ彼此各物ヲ贈リ以テ情ヲ定メ期ヲ訂《チギ》リテ相會ス。甚シキハ酒後即潜ニ山洞中ニ入リテ相|昵《ナ》ルル者アリ。……墟場ニテ歌ヲ唱フル時ニ當リテ諸婦女雜坐ス。凡遊客素ヨリ相識ラザル者モ皆之ト嘲弄スベシ。甚クシテ相※[人偏+畏]《ナレ》抱クモ亦禁ゼザル所ナリ。并《マタ》夫妻アリテ同ク墟場ニ在ラムニ夫、ソノ妻ノ、人ノ爲ニ調笑セラルルヲ見テモ瞋ラズシテ反リテ喜ブハ妻美ニシテ能ク人ヲシテ悦バシムト謂《オモ》ヘルナリ。否《シカラザ》レバ或ハ歸リテ相|※[言+后]《ノノシ》ル……(○私譯)
とあリ。我邦のカガヒも凡かゝるさまなリけむかし
 鷲ノスムは卷七(一四一五頁)なる眞鳥スムウナデノモリノのマトリスムとおなじき准枕辭なリ○裳羽〔右△〕服津〔右△〕乃其津〔右△〕乃上爾とある羽は衍字、津は澤の誤字にて裳服《モキ》澤ノ其澤ノ上《ヘ》ニにあらざるか。山に津といはむはふさはしからざればなリ。サハは谿(1782)流なり○率而を舊訓にイザナヒテとよめるを古義にアトモヒテと改めたり。之に從ふべし。意は相ヒキヰテとなり○カガフカガヒニはイドム挑ニとなり。古義に
  ※[女+燿の旁]歌會をするをはたらかして加賀布と云り
といへるは本末を顛倒せり。カガフといふ動詞よりカガヒといふ名詞は出來れるなり○交牟を舊訓にカヨハム、略解にマジラムとよめるを古義に改めてアハムとよめり。クナガムともよむべけれどまづ古義の訓に從ふべし(因にいふ。クナグはもと自動詞にて其意は合フなるべし。古義にマクナギを目婚と譯せるは穩ならず。目合《マクナギ》と譯すべし)○コトドヘは物言へとなり。後世にも女に逢ふことをモノイフといへり○從來を略解にハジメヨリ、古義にイニシヘヨとよめり。舊訓の如くムカシヨリとよむべし。イサメヌワザゾは禁ゼザル事ゾとなり○目串毛勿見について契沖は
  メグシは愛の字愍の字などをメグシとよめる意には今はあらず。見苦シクモ見ルナと云なり。第十七にアヒミレバ、トコハツハナニ、情具之眼具之《ココログシメグシ》モナシニ、ハシケヤシ、アガオクツマ云々此|眼具之《メグシ》と同じ
(1783)といひ千蔭は
  メグシモナミソは他妻に交るとも其夫も目に苦しくも見ることなかれ也
といひ古義には
  中山嚴水云。……按にメグシ、心グシはみなめでなつかしむ意の言にて愍(ノ)字よくあたれり。十八に父母ヲミレバタフトク妻子《メコ》ミレバカナシクメグシ、十七にココログシイザミニユカナ、同妹モ吾モココロハオヤジタグヘレドイヤナツカシクアヒミレバトコハツハナニ情具之眼具之モナシニ、この餘四卷に春日山霞タナビキ情具久テレル月夜ニ獨カモネムとあるも霞タナビキ月テリテイトウラナツカシキ夜ニヒトリカモネムのよしなり。又同卷に情八十一《ココログク》オモホユルカモ春霞タナビク時ニ事ノカヨヘバとあるも霞たなびきてうらがなしき時に君が言のかよへばいよいようらなつかしく戀しき意なり。又八卷に情具伎モノニゾアリケル春ガスミタナビク時ニ戀ノシゲキハと有も同意なり。こゝも右の意にてタトヒ他妻ヲ吾コトドヒカハストモ今日ノミハヨソニノミ見テ別テカナシクメグシクナミソと云意にてよく聞えたり
(1784)といへり。案ずるに古義の説の如くばメグク〔右△〕モナ見ソ否メグシト〔二字右△〕モナ見ソとあらざるべからず。然るにこゝに目串毛とあるを見ればメグシニモといふべきニを省けるにてその目グシニは副詞にて心いられする事にて俗にジレッタクなどいふ意なるべし。卷四(七九二頁及八三一頁)卷八(一五〇七頁)なるココログキは懊悩、ジレッタイ、シンキナなどいふ意なるべき事はやくいへる如し。契沖のいへる如くカハユシの意なるメグシ(たとへば卷五【八五三頁】)とは異なり。卷十七なるココログシ、メグシモナシニのココログシ、メグシは名詞としてつかへるにて意は今のメグシモとおなじく懊悩といふ事なり。古義に
  十七のメグシモナシニのナシはカテをカテヌと云と同意なる例にて心ぐく目ぐくあることをいひナシは無の意にはあらず
といへるはいみじきひが言なり。カテヌをカテといふは後世の轉訛なり。カテヌとカテと并び行はれしことなし。右にいへる如くなれば目グシモナ見ソは見テジレッタク思フナとなり○コトモトガムナはこれも言ニモのニを省けるなり
 
   反歌
(1785)1760 男(ノ)神に雲たちのぼりしぐれふりぬれとほるともわれかへらめや
男神爾雲立登斯具禮零沾通友吾將反哉
    右件歌者高橋(ノ)連《ムラジ》蟲麻呂歌集中出
 右件歌者云々は詠2上總末珠名娘子1以下長歌十首短歌歌十三首に亘れる左註なるべし○男神は所謂男體山なり。但こゝは男體山には限らず。ただタカネニといはむにひとし○カヤウニ面白キヲ半ニシテ歸ラムヤハとなり
 
   詠2鳴鹿1歌一首并短歌
1761 みもろの 神邊《カムナビ》山に たちむかふ 三垣の山に 秋はぎの △ 妻をまかむと 朝月夜 あけまくをしみ (あしひきの) 山びことよめ よびたてなくも
三諸之神邊山爾立向三垣乃山爾秋芽子之妻卷六跡朝月夜明卷鴦視足日木乃山響令動喚立鳴毛
 神邊は舊訓にカミナビとよめり。略解には此訓に從ひて
(1786)  ミモロはミムロに同じく雷岳《カミヲカ》なり。神邊は海邊を海備《ウナビ》ともいふ例を以書り
といへり。然るに古義には
  邊字にてはナビと訓べき謂なし。今按に邊は連の誤字なるべし。七卷にササナミノ連《ナミ》庫山ニ云々とあるを相例すべし。さて神連《カムナビ》は高市郡飛鳥のなり
といへり。案ずるにもとのまゝにてカムナビとよむべし。ナは渡邊、神邊《カムナベ》(備後)川邊《カワナベ》(播磨)などのナとおなじくてノのうつりてナとなれるなり。さればそれに當る字は無くとも添へてよみつべし。邊をいにしへヒともいひし事は卷六濱備の處(一一一二頁)にいへる如し。さてミモロノカムナビ山は大和高市郡飛鳥の雷|岳《ヲカ》なる事二書にいへる如し。タチムカフは相向ヘルなり○秋ハギノ妻ヲマカムト、此二句について契沖は
  是は芽子《ハギ》を鹿の妻とよめるには替りて秋芽子ノ如クメヅラシキ妻ヲ卷寢ムトと云なり
といひ、宣長は
  妻卷六跡の六跡二字は鹿の一字の誤れるならん。ツママクシカノとよむべし
(1787)といひ、雅澄は
  鹿は萩原にむつれてよく鳴ものなれば萩を妻と云り。今は鹿のまことの妻をなぞらへていへるなり
といへり。されば古義の説は契沖のにおなじ。案ずるに卷八に
  わが岳にさをしかきなくさきはぎの花づまとひにさをしかきなく
といふ歌あり。その花ヅマのハナは花ヨメ、花ムコなどのハナにおなじく、サキハギノは花にかゝれる枕辭なり。今は秋ハギノ妻とありて花妻とは無ければ卷八なると同例ならず。然らば契沖雅澄の説の如くなりやといふに萩ノ如クメデタキ妻などいふことを打任せてアキハギノ妻とはいふべからず。よりて更に思ふにアキハギノと妻ヲマカムトとの間〔日が月〕にサキノサカリニ、サヲシカノなどいふ二句のおちたるならむ。又今本のまゝにては此歌に主格なし。それについて古義に
  此歌一首の中に鹿と云ずして自鹿の事と聞せたり
といへり。反歌にこそ主格を略して長歌に讓りてもあるべけれ。長歌には主格を擧ぐるが至當なる上にアキハギノ妻ヲマカムトにては辭つづかざる故にサキノサ(1788)カリニサヲシカノなどいふ二句のおちたるならむとはいふなり○ヨビタテは喚ビ催スなり(卷七【一二七八頁】參照)
 
   反歌
1762 明日のよひあはざらめやも(足日木の)山彦とよめよびたてなくも
明日之夕不相有八方足日木之山彦令動呼立哭毛
    右件歌或云柿本朝臣人麻呂作
 初二は今夜アハズトモ明夕アヒモスベキニとなり。略解の釋よろし。古義は誤解せり。サヲシカノといふ語は長歌に讓れるなり
 
   沙彌女王歌一首
1763 倉橋の山をたかみか夜ごもりにいでくる月のかたまちがたき
倉橋之山乎高歟夜※[穴/牛]爾出來月之片待難
    右一首間人《ハシビト》宿禰大浦歌中既見。但末一句相換、亦作歌兩主不2敢正指1。因以累載
(1789) 夜ゴモリニは夜フカクなり。カタマチガタキはただ待チガタキといはむにひとしく、やがて待遠ナルといふ意なリ○左註の間人宿禰大浦歌中既見とは卷三(三九四頁)に
  くらはしの山をたかみか夜ごもリにいでくる月の光ともしき
とあるを云へるなり。作歌兩生不2敢正指1とは作者二人ありていづれとも定むべからずとなり○※[穴/牛]は牢の俗字なり
 
   七夕歌一首并短歌
1764 (久堅の) あまのかはらに かみつ瀬に 珠橋わたし しもつせに 船浮居《フネウケスヱツ》 雨ふりて 風|不〔左△〕吹《ハフク》とも 風ふきて 雨|不〔左△〕落《ハフル》とも 裳ぬらさず やまず來ませと 玉橋わたす
久堅乃天漢爾上瀬爾珠橋渡之下湍爾船浮居雨零而風不吹登毛風吹而雨不落等物裳不令濕不息來益常玉橋渡須
 船浮居を略解にフネヲウケスヱまたフネヲウケスウとよみ古義にフネウケスヱ(1790)と六言によめり。こゝはいひ切るべき處なれどウケスウとよみてはおちつかねばフネウケスヱツとよむべし(卷二【二五四頁】參照)。さて船ウケスヱツは辭の文《アヤ》に、すなはち珠橋ワタシにたぐへて云へるのみ。さればこそ結末にはただ玉橋ワタスとのみいへるなれ○略解に
  雨フリテ風吹カズトモ云々の句穩ならず。宣長云。或人(ノ)説、二つの不の字は者の誤にてカゼハフクトモ、アメハフルトモならんといへり。是然るべし
といへり。此説に從ふべし。ヤマズはツヅイテなり○漢の下に原をおとせるか。卷八(一五六四頁)にアマノカハラを漢原と書けり
 
   反歌
1765 天のかは霧たちわたるけふけふとわがまつ君が船出すらしも
天漢霧立渡且今日且今日吾待君之船出爲等霜
    右件歌或云中衛大將藤原(ノ)北(ノ)卿宅作也
 第二句にてよみ切るべし。ワガは織女になりていへるにて銀河ニ霧ノ立渡リテ見(1791)ユルハ彦星ノ船出ノ水煙ナルラシといへるなり。卷八にも
  ひこぼしのつまむかへ船こぎづらしあまのかはらに霧のたてるは
などいふ歌あり。北卿は北家の祖|房前《フササキ》なり
 
  相聞
   振(ノ)田向(ノ)宿禰|退《マカル》2筑紫國(ヲ)1時歌一首
1766 わぎもこはくしろにあらなむ左手のわが奥の手にまきていなましを
吾味兒者久志呂爾有奈武左手乃吾奥手爾纏而去麻師乎
 任地にて親しみし女に別るゝ時の歌なり○クシロは本集及古事記に釧の字を充てたり。肘後に纏く金環なり。曹植の美女篇に攘《カカゲテ》v袖|見《アラハス》2素手1、皓腕約2金環1とある是なり。和名抄には釧をヒヂマキとよませたり。當時はやくクシロといふ名は絶えたりしにこそ。おそらくは元來佛像に倣へる裝身具なるべく又今の腕貫はそのなごりなるべし。本集に玉釧とあるは之に玉を嵌めたるものならむ。新撰字鏡釧の下に金契(1792)也、久自利又太萬支とあれど釧と手纏とは全く別なり。手纏の事は古事記高津宮の段なる玉釧の事と共に卷十五に至りていふべし○契沖が『奥(ノ)手は臂なり』といひ雅澄が『奥(ノ)手は袖にかくるゝ方の臂を云』といへるは非なり。古事記神代上、伊邪那岐(ノ)大神がみそぎはらひ給ひし條に
  次に投棄《ナゲウ》つる左の御手の手纏に成りましゝ神の名は奥疎《オキザカル》神……次に投棄つる右の御手の手纏に成りましゝ神の名は邊疎《ヘザカル》神……とあるによりて察せらるゝ如く古人は右の手を邊(ノ)手、左の手を奥(ノ)手といひしなり(記傳三三八頁以下參照)。さればヒダリ手ノのノは例のニシテ又の意なるノなり。今もいふ辭に奥ノ手ヲ出スといふは右手にて足らざる場合にとりおきの左手を出すといふことにて古言の遺れるなり。なほ卷三(四六二頁)なるオクニオモフヲミタマヘ吾君といふ歌の下にいへる所と參照すべし。さて左の手ニマカムといへるを思へば釧は左のみにまきしかと思ふにあまたの佛像を見るに皆左右共に纏きたり。されど右の手は使ふこと多く從ひてまける物をそこなふ恐あれば少くとも不對の釧は左の手にぞ卷きたりけむ。今も腕守は左のみに卷くめり○イナマシヲは(1793)行カウモノヲとなり
 
   拔氣(ノ)大首《オホビト》任2筑紫1時娶2豐前國娘子紐(ノ)兒1作歌三首
1767 豐國の加波流はわぎへ紐(ノ)兒にいつがりをれば革流は吾家《ワギヘ》
豐國乃加波流波吾宅紐兒爾伊都我里座者革流波吾家
  豐前國風土記に
   田河郡鹿春郷、此郷之中有v河。……此河瀬清淨。因號2清河原村1。今謂2鹿春郷1誤
とあれば鹿春香春など書くは河原の借字なり。而して風土記に鹿春と書き今の歌に加波流、革流と書けるを思へば九州の一部にてははやく上代より原をハルとなまりしなり○ワギヘはこゝにてはワガ故郷といはむにひとし○イツガリは卷十八なる家持の長歌に
  射水河、ながる水沫の、よるべなみ、左夫流其兒に、ひもの緒の、移都我利あひて、にほどりの、ふたりならびゐ云々
とあり。イツガリのイは添辭、ツガリは和名抄に※[金+巣]、日本紀私記云、加奈都賀利とあり又仁コ天皇紀四十一年に
(1794)  百済王懼v之以2鐵鎖1縛2酒(ノ)君1附2襲津《ソツ》彦1而進上
とある鎖をツガリとよめる本あり。箋註倭名抄(卷五の四九丁)に
  按ツガリ連鎖之謂。……舞人摺袴有2ツガリ組1。今俗茶入袋有2スガリ1。又以v絲造v嚢亦謂2之スガリ1。並※[言+爲]2ツガリ1也。ツガリ與2ツガフ1同語、聯綴之義也
とあり。案ずるにツガリは自動詞とおぼゆればツガフと同語といへるは從はれず。ツガリは繼有にてツラナルと同意なるべし。略解にイツガリヲレバをツナガレヲレバと譯し古義に『イツガルは即自紐兒にぬひつけたる如くつきそひをるを云ならむ』と釋せるは共にうべなはれず○紐(ノ)兒といふ名の縁にてイツガリといへる、當時の歌にはめづらし
 
1768 いそのかみふるのわさ田の穗にはいでず心のうちにこふるこのごろ
石上振乃早田乃穗爾波不出心中爾戀流此〔左△〕日
 初二は穗ニハイデズまではかゝらで穗ニイヅまでにかゝれる序なり。又第二句の下に穗に出ヅルガ如クといふことを補ひてきくべき一種の序ともいひつべし。略解古義に穗にのみかかれる序としたるは從はれず。さて穗ニハイデズとは外ニハ(1795)アラハサズとなり。即心ノウチニといへるにひとし○此日は比日の誤なり
 
1769 かくのみしこひしわたれば(たまきはる)命も吾はをしけくもなし
如是耳志戀思渡者靈刻命毛吾波惜雲奈師
 ワタレバはワタルニ、ヲシケクモは惜カル事モなり○以上二首は最初のとは別時の歌なり
 
   大神《オホミワ》(ノ)大夫任2長門守1時集2三輪河邊1宴歌二首
1770 三諸の、神のおばせるはつ瀬河みをしたえずばわれわすれめや
三諸乃神能於婆勢流泊瀕河水尾之不斷者吾忘禮米也
 古義に續紀に大寶二年正月乙酉從四位上大神朝臣高市麻呂爲2長門守1とあるに據りて大神大夫を大神《オホミワ》ノ高市《タケチ》麻呂とせり〇三輪河は即泊瀬河なり三輪山の下を過ぐる處を三輪河といひしにこそ
 ミモロノ神ノは此三輪ノ神ノにて神といへるはやがて山なり。卷十三なる長歌に
(1796)  かむなびの三諸の神の、帶にせる、あすかの川の云々
とあり。但それは高市郡なる神岳なり(卷三【四二八頁】參照)。オバセルはオビタマヘルとなり〇四五は水脈ノ絶エザラム限諸君ヲ忘レジとなり。古義に今日ノ宴ノ面白サヲ忘ルル世ハアルマジと譯せるは非なり○此一首は大神大夫のよめるとおぼゆ
 
1771 おくれゐて吾はやこひむ春霞たなびく山を君がこえいなば
於久禮居而吾波也將戀春霞多奈妣久山乎君之越去者
    右二首古集中出
 オクレヰテはアトニ殘リテとなり。吾ハヤのヤは助辭なり○これは送る人のよめるなり○左註の古集は古歌集の誤ならむ。『他處には古歌集とあり。歌の字落たる歟』と契沖もいへり
 
   大神大夫任2筑紫國1時阿倍大夫作歌一首
1772 おくれゐて吾はやこひむ稻見野の秋はぎ見つついなむ子故に
於久禮居而吾者哉將戀稻見野乃秋芽子見都津去奈武子故爾
(1797) 大神高市麻呂が筑紫國司に任ぜられし事國史に見えず。阿倍大夫は廣庭なるべしと古義にいへり
 子ユヱニは子ナルニとなり。即名ニオフ印南野ノ萩ヲ見ツツオモシロク旅ユカム子ナルニとなり。卷一(三九頁)に人ヅマユヱニワレコヒメヤモ、卷七(一三八二頁)にワタツミノ手ニマキモタル玉ユヱニとあり○さて子は親愛の稱にはあれど大神大夫を指して子といへるはいぶかし。略解に
  男をさしてイザ子ドモなどいふはあれど只子とのみいふは專ら女をさせり。上の歌の轉ぜしにやおぼつかなし
といへり。子といふがたとひ古義にいへる如く男女にわたりて人をよぶ時の稱なりとも先輩をさして子とはいふべからず。二大夫の年紀を考ふるに大神高市麻呂は壬申の亂に功ありし人にて慶雲三年に薨ぜし人、阿倍廣庭は之より二十六年の後天平四年に卒せし人なり。されば高市麻呂は廣庭より遙に年長けたりしならむ。更に別方面より見るに此歌と前の歌とは初二全く相同じ。此等の事情によりて思ふに此歌の題辭に大神大夫とあるは前の歌の題辭よりまぎれ來れるにて實は大(1798)神大夫ならぬ別人の筑紫國司に任ぜられし時の餞の歌ならむ
 
   獻2弓削皇子1歌一首
1773 かむなびの神依板《カムヨリイタ》にする杉のおもひもすぎず戀のしげきに
神南備神依板爾爲杉乃念母不過戀之茂爾
 上三句はスギズにかゝれる序にて神縁板ニスル神南備ノ杉ノといへるなり。神南備ノ神依板とつづけては心得べからず。カムナビは神の座す杜なり。但いづくのとも知るべからず○神依板は舊訓の如くカムヨリイタとよむべし。古義にカムヨセイタとよみ改めたるは非なり。その神依板について略解に
  宣長云。杉を神より板にするといふ事は琴の板とて杉の板をたゝきて神を請招する事あり。今も伊勢の祭禮には此事あり。琴頭《コトガミ》に神の御影の降り給ふなり
といひ、足代弘訓の説をしるしたる神依板といふ書に
  いにしへ占をするに琴をひきて神をおろし奉り其神の御教を乞し事は古事記、日本紀仲哀天皇神功皇后の御卷にみえて皆人のよくしる處なり。又琴のかはりに板をたたゝきて神をおろし奉るわざもあり。その板を神依板といふ。萬葉集卷(1799)九に神ナビノ……又續後拾遺集戀三藤原基俊ハフリ子ガ神依板ニヒクスギノクレユクカラニシゲキ戀カナとあるこれなり。此古風今に伊勢にのこりて六月九月十二月内宮御卜祭に板をたゝきて參勤の人の淨不淨を占ふ事あり。其板を琴板といふ。則古の神依板なり
といひ、伴信友の正卜考卷三琴占の條(全集第二の五三二頁)に
  さてこの御占の事を内宮の神官に尋問たるにこの御占神事今も御占神態《ミウラカウザ》とてわづかにかたばかり行ふに琴板とて凡長二尺五寸ばかり幅一尺餘、厚一寸餘なる檜板を用ふ。其を笏にてたゝく態をす。と云へり。そは後に琴を板に代へ(○琴ノ代ニ板ヲの意)笏もて敲くことゝせるなるべし。さて又鈴屋翁の説に萬葉集に見えたる神ナビノ……とよめる神依板の事を『今の世にも古き神社には琴の板とて杉の板をたゝきて神を降し奉るかたを行ふ事往々あるにおもひ合すべし』とてこの琴占の神事のことを引出られたり。但し己がおもふ所は萬葉集に載たる歌のころ、はやくより琴を杉板に代へて(○琴ノ代ニ杉板ヲの意)神依板と呼てものすべくは思はれず。歌にスギといふ序に神依板ニスル杉と定めてよめるを(1800)思へば古よりかならず杉板をもて造る例ときこゆる、はた思合すべし。然れば神依板はもとより別なる卜事なり。大神宮の琴占に事そぎて板もてものするはおのづから似たるにて古き神社にて琴の板といふは大神宮にてことそぎてするをまねびたるものなるべしといへり。即信友は神依板と所謂琴の板とを別とせるなり。此説に從ふべし。ともかくもいにしへ杉の板を用ひて神を招き奉るわざありて其板を神依板と稱せしなり○オモヒスグは卷三(四三一頁)に
  あすか川かはよどさらずたつきりのおもひすぐべき戀ならなくに
 同卷(五一四頁)に
  いそのかみふるの山なる杉村のおもひすぐべき君にあらなくに
 卷四(七五五頁)に
  朝に日にいろづく山のしら雲のおもひすぐべき君にあらなくに
とあり。オモヒスギズは即オモヒワタルなり。忘るゝ間なく思續くるなり。略解に『思をやり過しがたき也』といひ古義に『思のはるけぬをいふ』といへるは共に非なり○(1801)獻といへるは俗語の御目ニカケルなれば其人に申すべき事をよめるもあるべく、ただよめるを見せ奉れるもあるべし。卷五に憶良謹上とあるに右の兩種あるを思ふべし。古義に一々其人に申すべき事をよめるやうに釋きたるは牽強なり(一六九五頁及一七〇八頁參照)
   獻2舍人皇子1歌二首
1774 (たらちねの)母の命《ミコト》の言爾△有者《コトニアラズバ》△年の緒長くたのみすぎむや
垂乳根乃母之命乃言爾有者年緒長憑過武也
 母ノ命は今母上などいふにひとし(卷六【一一三一頁】參照)○此歌、古義にはいたく釋僻めたり。略解には
  女の歌なるべし。言爾有者は此女の母の終に末はと許せる詞をきゝしかば末を頼過んといふ意ときこゆ
といへり(言爾有者を舊訓と古義とにはコトニアラバとよめり)。案ずるに略解の説はなほ一簣の功を缺けり。言爾の下に不の字をおとし年緒の上にアラタマノをおとせるならむ。即
(1802)  たらちねの母の命の言にあらずばあらたまの年の緒長くたのみすぎむや
といふ旋頭歌なるべし○此歌は皇子に申す意ありてそれを戀の歌にとりなせるにや
 
1775 泊瀬河夕わたり來て我妹兒が家の門《カナド》にちかづきにけり
泊瀬河夕渡來而我妹兒何家門近春〔左△〕二家里
    右三首柿本朝臣人麻呂之歌集出
 ユフワタルは夕べニ渡ルといふを一語とせるなり○これはただ皇子に見せ奉りしなり○春は舂の誤なり
 
   石河大夫遷v任上v京時播磨娘子贈歌二首
1776 絶等寸《タユラキ》の山のをのへのさくら花さかむ春べは君をしぬばむ
絶等寸※[竹/矢]山之岑上乃櫻花將開春部者君乎將思
 石川大夫は續紀に
  靈龜元年五月壬寅從五位下石川朝臣君子爲2播磨守1
(1803)とある人なるべし○播磨の國府は今の姫路の東方なればタユラキ山も姫路附近の丘陵なるべけれど今しかいふ山なし。おそらくは今の姫山即播磨風土記の日女道《ヒメヂ》丘ならむ(絶等寸に誤字あるか)
 
1777 君なくばなぞ身よそはむくしげなるつげのをぐし毛《モ》取らむと毛〔□で圍む〕|念《モ》はず
君無者奈何身將裝※[食+芳]匣有黄楊之小梳毛將取跡毛不念
 毛詩衛風伯兮に
  自2伯之東1、首如2飛蓬1、豈無2膏沐1、誰(ヲ)適《メザシテ》爲v容
とあると同想なり○此歌を贈られし石川君子のよめる
  しかのあまはめかり塩やきいとまなみ髪梳乃|少櫛《ヲグシ》とりもみなくに
といふ歌卷三(三八五頁)に出でたり。四五は今の歌と相似たり○下の毛は衍字ならむ
 
   藤井(ノ)連遷v任上v京時娘子贈歌一首
(1804)1778 明日よりは吾はこひむな名欲《ナホリ》山いはふみならし君がこえいなば
從明日者吾波孤悲牟奈名欲山石蹈平之君我越去者
 上(一七九六頁)に
  おくれゐて吾はやこひむ春がすみたびく山を君がこえいなば
といふ歌あり○名欲山は舊訓にナホリヤマとよめり。契沖千蔭は此訓に從ひて豐後國|直入《ナホリ》郡の山かといへり。然るに雅澄は欲を次の誤として攝津國|名次《ナスギ》山とせり。名次山ははやく卷三(三八六頁)に見えたれど越えて行くべき山にはあらじ。なほ通本と舊訓とに據るべし○藤井連は卷六(一〇七二頁)に見えたる葛井《フヂヰ》(ノ)連廣成なるべしと契沖いへり
 
   藤井(ノ)連和歌一首
1779 命をし麻勢〔左△〕久可〔左△〕願△《マタクモガモナ》名欲山いはふみならし復亦毛〔二字左△〕來武《マタカヘリコム》
命乎志麻勢久可願名欲山石践平之復亦毛來武
 命ヲシのシは助辭なり○第二句を眞淵は麻狹伎久母願の誤としてマサキクモガ(1805)モとよみ古義に麻幸久母願の誤としておなじくマサキクモガモとよめり。音訓を交へて麻幸と書けりとせむは雅澄自身もいへる如くいさゝか快からず。卷十五にイノチヲシ麻多久之阿良婆云々とあるに合せて思ふに麻多〔右△〕久母〔右△〕願名〔右△〕などありしを多を勢、母を可と誤り又名欲山の首と名の字の重れる一つをおとしゝならむか。さらばマタクモガモナとよむべし。願は卷六の長歌(一〇三三頁)にもガモとよめり(萬代爾|如是霜願跡《カクシモガモト》)○結句を舊訓にマタマタモコムとよめるを略解には復を後の誤としてノチマタモコムとよみ古義には亦毛を變の略字の誤としてマタカヘリコムとよめり。これは必古義の説の如くなるべし。集中に變反を通用せる事既にいへる如し
 
   鹿島郡苅野橋〔左△〕別2大伴卿1歌一首并短歌
17780 牝〔左△〕牛《コトヒウシ》の 三宅の酒〔左△〕《カタ》に さしむかふ 鹿島の崎に さに塗の 小船儲《ヲブネヲマケ》 玉まきの 小梶しじぬき 夕しほの 滿《ミチ》のとどみに みふな子を あともひたてて よびたてて み船いでなば 濱もせに おくれ奈(1806)△居而《ナミヰテ》 こいまろび こひかもをらむ 足垂〔左△〕之《アシズリシ》 ねのみやなかむ 海上《ウナガミ》の 其津|於〔左△〕《ヲ》さして 君がこぎゆかば
牝牛乃三宅之酒爾指向鹿島之崎爾挾〔左△〕丹塗之小船儲玉纏之小梶繁貫夕塩之滿乃登等美爾三船子呼阿騰母比立而喚立而三船出者濱毛勢爾後奈居而反側戀香裳將居足垂之泣耳八將哭海上之其津於指而君之己藝歸者
 契沖いへらく
  上に檢税使大伴卿登2筑波山1時歌あり。常陸國の檢税事果て下總國海上(ノ)津を指て渡らるゝ時の歌なり
といへり
 牝牛乃を舊訓にコトヒウシノとよめり。コトヒウシならば牡牛とあらざるべからず。契沖は
  牝は仙覺抄にも此まゝにありて諸本牡に作る事なし。然ればメウシと讀べし
(1807)といひ、さてそのメウシを地名とせり。然るに眞淵は舊訓の如くコトヒウシノとよみてミヤケの枕辭とせり。元暦校本にはまさしく牡〔右△〕牛乃とあり。さればコトヒウシノとよむべし。但そのコトヒウシはおそらくは地名なるべし○ミヤケノ酒ニの酒を契沖は浦、眞淵は滷、雅澄は※[さんずい+内]《ウラ》の誤とせり。しばらく滷の誤とする説に從ふべし○サシムカフ鹿島ノ崎ニサニヌリノ小船儲、玉マキノ小梶シジヌキ サニヌリノ小船は赤く塗れる船、玉マキノ小梶は玉もて飾れる楫なり。さてサニヌリは實事なれど玉マキは空想なるべし。卷八憶良の七夕長歌(一五五七頁)にも
  さにぬりの、小船もがも、玉まきの、眞かいもがも
とあり。小船小梶の小《ヲ》は添辭のみ。小船儲を略解にヲブネヲマケテとよみたれど下の句を見るにテとよむべき處には而の字を添へて書けるにこゝは而の字なければ古義の如くヲブネヲマケと六言によむべし○ユフシホノミチノトドミニ 滿ノトドミについて契沖は『滿はてて湛|へ〔左△〕《ヒ》たる時なり』といひ略解には
  汐の滿終たるをいふべし。トドマリの約言か。東國にて今タタヘ〔左△〕といふ也
といひ古義には
(1808)  汐のみちたゝ|へ〔左△〕《ヒ》たるを云。今も土左國にて潮汐の堪|る〔左△〕《フ》を常にトドヒと云り。登蓮法師集にアハヂ島シホノトドヒヲマツホドニスズシクナリヌセトノ夕風
といへり。略解にいへる如くトドマリの約なるべし。キハマリをつづめてキハミといふを思ふべし。但タタヒとは別語ならむ。さて意は滿潮の盛といふことならむ○ミフナ子ヲアトモヒタテテヨビタテテミフネイデナバ 大伴卿を敬してそのあともふ舟子をミフナゴ、その乘る船をミフネといへるなり。アトモフはヒキヰルなり○濱モセニオクレ奈居而 濱モセニは濱一パイニなり。濱は鹿島(ノ)崎の濱なり。奈居而は略解に『奈の下美の字を脱せり』といへり。げにナミヰテとあるべきなり○コイマロビコヒカモヲラム コイマロビはフシマロビなり。略解にコイはコヤシに同じといへるは非なり。コヤスは人の上にいふ辭なり○足垂之ネノミヤナカム 足垂之は契沖の如くアシズリシとよむべし。略解に垂は摩の誤かといへり。げに然るべし○ウナガミノ其津於サシテ 於は乎を誤れるなり。木村博士の刻本萬葉集復舊に原於〔右△〕作v乎〔右△〕とあり。即通行本の原本なる所謂活字附訓本には乎とありといへるなり。博士は又右の書の序文中に
(1809)  さて今一つ仙覺律師の序跋も成俊等が跋文も皆有て、しかも傍訓のある本あり。これ今世通行本の原本にして今本はすなはち此本を飜刻せしものにて此活本の外に別に傳本ありて刊行せしにあらず。かくて飜刻のをり刊者のために誤られたるもの少なからねばもし訓にまれ文字にまれ疑はしきがあらばまづ此活本に對校してその舊に復してさてのちに可否をば論ずべき也。しかるに世々の萬葉家契沖師縣居翁をはじめとして鈴屋翁も略解の作者も、また本どもをあまた集めて校異をものしたる橘經亮等も今本の外に此活版ありてしかもその、原本なることを知らざりけり。こゝにいとをかしきは卷九に其津於〔右△〕指而とある於(ノ)字につきて義門師の於乎輕重義といふものにいとむつかしき辨論あり。されどこは今本の誤刻にして(原本の活本には其津乎〔右△〕とあり)さる傳本のあるにはあらぬをさばかりものにくはしかりし義門すら此原本のあることを知らざりしによりて誤刻なることをさとらずして於乎輕重義を著して諸人の惑を生ぜしめたり
といへり。さてただにウナガミノ津ヲサシテといふべきを五七にかなへむが爲に(1810)ソノを挿めるなり。卷三ナデシコノソノ花ニモガ(四九七頁)卷七ミモロノ、ソノ山ナミニ(一二三六頁)などの類なり。古義に『ソノとは人の知りたるものを正しくさす詞なり』といへるはこゝに當らず
 地圖を披きて利根川の河口の處を見よ。川の東北岸は常陸國鹿島郡の南端にして西南岸は下總國香取郡なり。香取郡の東に海上郡ありて海に臨めり。其東北角は即|本《モト》銚子なり。鹿島郡の南部に輕野村あり。今の歌の題辭なる苅野《カルヌ》(ノ)橋と關係ある地名なり。三宅といふ地名は海上郡にも同國印幡郡にもあれど共に輕野と相對せず。おそらくはいにしへ香取郡に牡牛《コトヒウシ》(ノ)屯倉《ミヤケ》といふ處ありしならむ。鹿島(ノ)崎といへるは利根川にさし出でたる處なるべし。抑利根川尻の地形は自然に又人工によりていく度も變化せし事なれば今を以て古を測るべからず。さて題辭に苅野橋とある橋は濱などの誤字ならざるか。歌に鹿島之崎爾といひ濱毛勢爾といへる、橋邊の趣にあらざればなり。海上(ノ)津といへるは本《モト》銚子附近なるべし○挾は狹の誤なり
 
   反歌
1781 海つ路のなぎなむ時もわたらなむかくたつ浪に船出すべしや
(1811)海津路乃名木名六時毛渡七六加九多都波二船出可爲八
    右二首高橋連蟲麻呂之歌集中出
 時モは時ニダニなり○略解に『蟲麻呂常陸國官にてよめるなるべし』といへり。さもあるべし
 
   與v妻歌一首
1782 雪こそは春日△消良米《ハルビニキユラメ》、心さへきえうせたれや言もかよはぬ
雪己曾波春日消良米心佐閉消失多列夜言母不往來
 第二句を從來ハルビキユラメとよみたれどさては辭足らず。春日の下に爾の字おちたるならむ○コトモカヨハヌはオトヅレモナキとなり
 
   妻和歌一首
1783 (松反《マツガヘリ》)四臂而有八羽〔左△〕《シヒテアレヤモ》(みつ栗の)中上〔左△〕不來《ナカデテコヌ》、麻呂〔左△〕等言八子《マツトイヘヤコ》
松反四臂而有八羽三栗中上不來麻呂等言八子
     右二首柿本朝臣人麿之歌集中出
(1812) 集中の難解歌の一なり○初二を舊訓にマツガヘリシヒニテアレヤハとよめり。こは本集卷十七なる家持の思2放逸鷹1夢見感悦作歌に
  麻追我弊里之比爾底安禮可母〔二字右△〕さやまだのをぢが其日にもとめあはずけむ
とあるに合せてよめりとおぼゆ。さてヤハ(又カハ)といふテニヲハは本集の時代にはいまだ無かりし辭なり。後世ヤハ(又カハ)といふ處を本集にてはみなヤモ(又カモ)といへり。されば略解に
  卷十七の歌を合せ考るにこゝもヤモといふべし。さらば羽は母などの誤ならんか。猶考べし
といひ古義にも
  羽は物(ノ)字などの誤なるべし。十七の歌を合考べし
といへり。古義には右のつづきに又
  そのうへ凡て云々ヤモ云々カモなどいふべき所をヤハ、カハと云は今(ノ)京已降のにのみあることにて此集の頃の歌には一もあることなし(但し續紀宣命に後世の歌にいへるごとくヤハといへること一二見えたるを思へば歌詞の他にはは(1813)やく彼頃もいひし詞にや)。さて強《シヒ》タルコトニテアレヤモ、鳴呼強タルコトニテハナシと云意なり
といへり。羽を誤字としてアレヤモとよみ改めたるは可なれどそのヤモを反語と見たるはいまだし。こゝは反語を用ふべき處にあらで後世ならばアレバヤといふべき處なればなり。此歌のアレヤモは第四句の不來《コヌ》と照應し卷十七なる歌のアレカモはモトメアハズケムと契合せるなり○マツガヘリは古義にいへる如く枕辭とおぼゆ。但いかにかゝれるかは未得考へず。四臂而はシヒテとよむべし。卷十七に之比爾〔右△〕底とあればとてそれに拘はりてニをよみ添ふべきにあらず。さてそのシヒテは俗語のスネテに當らむか○ミツ栗ノは中《ナカ》にかゝれる枕辭なり。中上不來を眞淵はナカスギテコズとよみてそのナカを月の半の意とし古義は之を是認せり。案ずるに月の半をただナカとはいふべからず。さればナカは他の意とせざるべからず。試にいはば中上を中止の誤としてナカダエテとよみて中絶の意とすべきか。古今集戀五に
  わすらるる身をうぢ橋のなかだえて人もかよはぬ年ぞへにける
(1814)とあるも中絶の意なるべく、男女の中の絶ゆる意にはあらじ。不來はシヒテアレヤモの結なればコヌとよむべき事上にいへる如し○麻呂等言八子について眞淵は呂を追の誤、子を方の誤としてマツトイハムヤモとよみ雅澄は
  呂は追の誤ならむとこれも岡部氏云り。さもあらむか。さらばマツトイヘヤコとよむべし。ヤはナケヤ鶯(○古今春下、聲タエズナケヤウグヒス一年ニフタタビトダニクベキ春カハ)などのヤなるべし。子は使の童をさして云ならむ
といへり。しばらく古義の説に從ふべし
 
   贈2入唐使1歌△△
1784 わたつみのいづれの神を齊祈者歟《イノラバカ》、往方毛來方毛《ユクサモクサモ》ふねのはやけむ
海若之何神乎齊祈者歟往方毛來方毛舶之早兼
    右一首渡海年紀未詳
 題辭の下に一首の二字を補ふべし
 齊は齋の通用なり。その第三句を略解にイハハバカとよみ古義にイノラバカとよ(1815)めり。いづれにてもあるべけれど卷二十にアメツチノ神ヲ伊乃里弖とあるを例としてイノラバカとよむべし(卷七【一三三二頁】參照)○第四句は舊訓にユクサモクサモとよめるに從ふべし(古義にはユクヘモクへモとよめり)。卷三(三八八頁)に往左來左君コソ見ラメ眞野ノハリ原とあり。ユキシナモ來シナモとなり
 
   神龜五年戌辰秋八月△歌一首并短歌
1785 人となる 事はかたきを わくらばに なれる吾身は 死《シニ》も生《イキ》も 君がまにまと おもひつつ ありしあひだに (うつ蝉の) よの人なれば おほきみの みことかしこみ (あまざかる) 夷《ヒナ》をさめにと (朝鳥の) 朝だたしつつ (むら鳥の) 群立《ムラダチ》ゆけば とまりゐて 吾はこひむな 見ず久ならば
人跡成事者難乎和久良婆爾成吾身者死毛生毛君之隨意常念乍有之間爾虚蝉乃代人有者大王之御命恐美天離夷治爾登朝鳥之朝立爲管群島之群立行者留居而吾者將戀奈不見久有者
(1816) 略解に
  月の下作の字を脱せり。越の國の守に任て行人に別るゝ時よみて贈れる歌也
といへり
 人トナル事ハ難キヲは佛説に據れるなり。即四十二章經に佛言、人離2惡道1得v爲v人難とありと代匠記に云へり○ワクラバニナレル吾身ハ ワクラバニはタマタマニなり。卷五貧窮問答歌(九六七頁)にも
  わくらばに、人とはあるを、人なみに、あれもなれるを云々
とあり。ナレルは人ト成レルといふべきを省きたるなり。古義に
  ナレル吾身ハは上のいひかけならばナレル吾身ナレドモとあるべきを吾身者といへるは吾身ハイト惜ケレドモといふ意を言の外に含ませたるにてこれ程大切なる吾身なれども君の爲には死生を委する由にいへり
といへるは娩曲に過ぎたり。ナレルソノ吾身ハといふべきをナレル吾身ハといへるなり。卷二十なるヲシキアガミハキミガマニマニと同例なり○シニモイキモ君ガマニマトは略解に
(1817)  この君は別行友をさして生死をも君に任するといふ也。卷十六シニモイキモ同ジ心トムスビテシとよめり
といへる如し○オモヒツツアリシ間ニウツセミノヨノ人ナレバオホキミノミコトカシコミ ウツセミノ以下は此世ニ住メル人ナレバ天皇ノ大命ニ背カレズシテといへるにて卷五令v反2惑情1歌(八五一頁)に
  あめへゆかば、ながまにまに、つちならば、おほきみいます……かにかくに、ほしきまにまに、しかにはあらじか
といへると同趣なり○アマザカルヒナヲサメニト ヒナは反歌によれば越國なり○朝鳥ノ朝ダタシツツムラ鳥ノ群ダチユケバ アサダタスは朝立チ給フとなり。群立は舊訓にムラダチとよめるに從ふべし(古義にはムレ〔右△〕タチとよめり)。從者ト共ニ群ガリ行ケバとなり○トマリヰテ吾ハコヒムナ 上(一八〇四頁)にも明日ヨリハ吾ハコヒムナとあり○ミズヒサナラバは見ザル事久シカラバとなり
 
   反歌
1786 みこしぢの雪ふる山をこえむ日はとまれる吾をかけてしぬばせ
(1818)三越道之雪零山乎將越日者留有吾乎懸而小竹葉背
 ミコシヂのミはミヨシ野、ミクマ野などのミにおなじ○契沖が
  八月の歌に雪零山とよめるは彼國は雪國にて外より雪の早くふる故に路次の艱難を思ひ遣て云へるなり
といへるは誤解なり。雪フレル山といふべきを雪フル山といへるなり○カケテは心ニカケテなり。一首の意は途中デ難儀ニ逢ヒタマハバ都ニ殘リテ心配シテ居ル我ヲ思ヒテ自愛シ給ヘといへるなり
 
   天平元年己巳冬十二月△歌一首并短歌
1787 (うつせみの) 世の人なれば 大王の みことかしこみ (しきしまの) 日本《ヤマト》(ノ)國の いそのかみ ふるの里に 紐とかず まろ寢をすれば 吾衣有《ワガキタル》 ころもはなれぬ みる毎に こひはまされど 色に山上復有山者《イデバ》 ひとしりぬべみ 冬の夜之〔左△〕《ヲ》 明毛不得呼〔左△〕《アカシモカネテ》 いもねずに 吾はぞこふる 妹が直香《タダカ》に
(1819)虚蝉乃世人有者大王之御命恐彌礒城島能日本國乃石上振里爾紐不解丸寐乎爲者吾衣有服者奈禮奴毎見戀者雖益色二山上復有山者一可知美冬夜之明毛不得呼五十母不宿二吾齒曾戀流妹之直香仁
 歌の上に作の字あるべし
 シキシマノヤマトノ國ノイソノカミフルノ里ニ 石上郷布留(ノ)里は奈良の東南方、山邊郡にありて奈良を去ること遠からず○紐トカズマロ寐ヲスレバは上著ヲ脱ガデ丸寐ヲスレバとなり。古義に『丸寐は獨宿のさまをいへるなり』といへるは非なり。又
  今の俗にもマルネといへることあり。いにしへにいはゆるマロネの轉れるものか別か知がたし云々
といへるはマロネを獨宿の事と誤解せし爲にいらざる事をいへるなり。マロネは即今いふマルネなるをや○吾衣有を舊訓にワガキタルとよめるを古義にアガケセルに改めたるは非なり。ケセルは著タルの敬語なれば自の上にいふべきにあらず○コロモハナレヌ 衣にナルといふは穢るゝなり○ミルゴトニ戀ハマサレド (1820)ミルゴトニは古義にいへる如く其衣ノナレタルヲ見ルタビニとなり。略解に『京ヲ見ルタビニといふ也』といへるは非なり○色ニ山上復有山者ヒトシリヌベミ 山上復有山者を契沖が始めてイデバとよみしは一功績なリ。こは古絶句に
  藁砧今何在、山上復有v山、何《イツカ》當《ベキ》2大刀頭(ナル)1破鏡飛上v天
とあるに據れるなリ
 因にいふ。藁砧は即※[石+夫]にて夫の隱語、山上復有山は出の隱語、大刀頭は環にて還の隱語、破鏡飛上天は半月の隱語にて一首の意は夫ハ今出行キテイヅクニ在ルカ知ラネド半月ノ後ニハ還ルベシといへるなり
 ○冬夜之明毛不得呼を舊訓にフユノヨノアカシモエヌヲとよめり。然るに宣長は
  冬夜之とあれば明はアカシとは訓がたし。もしアカシならば冬夜乎といはでは調はず
といひて或人の呼の下に※[奚+隹]を補ひて明毛不得※[奚+隹]呼《アケモカネツツ》とよめるを採れり。案ずるに冬夜乎〔右△〕明毛不得手〔右△〕などの誤としてフユノヨヲアカシモカネテとよむべし○イモネズニ吾ハゾコフル妹ガタダカニ タダカははやく卷四(七七一頁)に
(1821)  わがききにかけてないひそかりごもの亂れておもふ君がただかぞ
とあり。玉勝間卷八(全集卷四の一八四頁)に
  多太加とは君また妹をただにさしあてていへる言にて君妹とのみいふも同じことに聞ゆるなり
といへり。直所《タダカ》の義にや
 
   反歌
1788 ふる山ゆただにみわたすみやこにぞいもねずこふる遠からなくに
振山從直見渡京二曾寐不宿戀流遠不有爾
 タダニはヂカニなり。ミヤコニゾはコフルにかゝれるなり。ミヤコニゾイモネズとつづけるにあらず
 
1789 吾妹兒がゆひてし紐をとかめやもたえばたゆともただにあふまでに
吾妹兒之結手師紐乎將解八方絶者絶十方直二相左右二
     右件五首笠(ノ)朝臣金村之歌中出
(1822) 紐は上著の紐なり。こゝのマデニはマデハと譯すべし(卷七【一四〇三頁】及卷八【一五二一頁】參照)○左註の歌の下に集の字を補ふべし
 
   天平五年発酉遣唐使舶發2難波1入v海之時親母贈v子歌一首并短歌
1790 秋はぎ乎〔左△〕《ニ》 妻とふ鹿《カ》こそ 一子二子〔二字左△〕《ヒトリゴヲ》 もたりといへ 鹿兒じもの わが獨子の (草枕) たびにしゆけば 竹珠《タカダマ》を しじにぬきたれ いはひべに 木綿とりしでて いはひつつ 吾思吾子《ワガモフワガコ》 眞好《マサキク》去〔□で圍む〕有欲得《アリコソ》
秋芽子乎妻問鹿許曾一子二子持有跡五十戸鹿兒自物吾獨子之草枕客二師往者竹珠乎密貫垂齊戸爾木綿取四手而忌日管吾思吾子眞好去有欲得 奴者多本奴去古本
 遣唐使隨員の母が子に贈れるなり
 秋ハギ乎妻トフ鹿コソ 古義に
  鹿はよくはぎ原にむつれて鳴ものなれば萩を妻としてつまどふよしに云ること集中に多し
(1823)といへれど鹿が萩を妻としてつまどふ由にいへる事集中に無し。さる趣に見ゆるは皆後人の誤解なり。たとへば卷八(一五七五頁)に
  わが岳にさをしか來なくさきはぎの花づまとひにさをしか來なく
とあるサキハギノは花ヅマのハナにかゝれる枕辭にて萩を鹿の妻によそへたるにあらず(一七八六頁參照)。卷十四に
  あしがりのはこねのねろのにこぐさのはなづまなれや紐とかずねむ
とあるを見ても前説の誤なる事を知るべし。又上(一一八五頁)に
  みもろの、神邊《カムナビ》山に、たちむかふ、み垣の山に、秋はぎの妻をまかむと云々
とあるは秋ハギノの下にサキノサカリニサヲシカノなどいふ二句をおとせるにて萩を鹿の妻といへるにあらず。案ずるに秋芽子乎は秋芽子爾とありしを誤れるならむ。即秋ハギノサカリニなどいふべきをただ秋バギニといへるがいさゝか心得かぬるより筆者がさかしらに爾を乎に改めしなるべし。ツマトフのトはこゝにては清みて唱ふべし。妻ヲ問フのヲを省けるなり。ツマドフといふ一つの語となれるにあらず。卷十なる
(1824)  奥山にすむとふしかのよひさらず妻とふはぎのちらまくをしも
のツマトフも然り。さて秋ハギニ妻トフは鹿の形容に過ぎず。之に反して卷十の歌にては萩の形容に鹿ノ妻トフといへるなり
  因にいふ。一つの語となれるツマドフの事はくはしく卷三(五二七頁)にいへり
 〇一子二子モタリトイヘ 一子二子を舊訓にヒトツゴフタツゴとよめるを古義に今村樂が一子乎の誤寫としてヒトツゴヲとよめるを採り、更に
  鳥獣にヒトツゴといひ人にヒトリゴといひて差別あることゝ思ふはあらず
といひてヒトリゴヲとよみ改めたり。古義の説に從ふべし○鹿兒ジモノワガヒトリ子ノ草枕タビニシユケバ ソノ鹿兒ノヤウナルとなり○タカダマヲシジニヌキタレイハヒベニ木綿トリシデテは卷三坂上郎女祭神歌(四六四頁)に
  奥山の、さかきの枝に、しらがつけ、ゆふとりつけて、いはひべを、いはひほりすゑ、たか玉を、しじにぬきたれ云々
 又同卷石田王卒之時歌(五一〇頁)に
  わがやどに、みもろをたてて、とこのへに、いはひべをすゑ、たか玉を、まなくぬきた(1825)れ、ゆふだすき、かひなにかけて云々
といへると相似たり。タカ玉ヲシジニヌキタレとは竹を短く切りて緒に貫けるを頸にかけたるなり○イハヒツツワガ思フ吾子 吾子を舊訓にワガコとよめるを略解にアゴに改めたり。いづれにても可なれど反歌にワガ子ハグクメとあるに合せて寧ワガコとよむべし○眞好去有欲得を宣長始めてマサキクアリコソとよみ
  好去の去の字は餞の歌なる故に添て書るのみにて語はマサキクアリコソと訓む外なし。字に泥む事なかれ
といへり。案ずるに去の字はいにしへの通本には無かりしを古人の一本より補ひ入れたるなり。そは此歌の下の註に去(ハ)古本とあるによりて知らる。さてマサキクアリコソは無事デアレカシとなり○此歌の下に註して奴者多本奴去古本といへるを先輩皆誤解せり。たとへば雅澄は
  さて舊本こゝに奴者多本、奴去古本と註せり。此二字多本には奴者、古本には奴去と作れるよしなり云々
(1826)といへり。案ずるに右の八字の初の奴は好の誤にて好|者《ハ》多本(ニ)奴、去(ハ)古本と訓むべきにて
  眞好去〔二字右△〕有欲得の好は多本に奴とあれど今は好とあるを採る。去は通本に無けれど古本より補ひ入れつ
といへるなり
 
   反歌
1791 たび人のやどりせむ野に霜ふらば吾子はぐくめ天《アメ》の鶴《タヅ》むら
客人之宿將爲野爾霜降者吾子羽※[果/衣]天乃鶴群
 タビ人は一行をいへるなり。略解に『則吾子をさしていふ』といへるは非なり。羽グクメは羽ニテ包メヨとなり。やがて漢語の覆翼に當れり。鳥は其雛を羽にて包めばソレガ如ク我子ヲ包ミイタハレといへるなり。鶴村は古義の如くタヅムラとよむべし(舊訓にはツルムラとよめり)。ツルを歌語にてタヅといひしなり。アメノといへるは空飛ぶものなればなり。めでたき歌なり。作者の名の傳はらぬはくちをし。或は大伴坂上郎女の代作にあらざるか
 
(1827)   思2娘子1作歌一首并短歌
1792 白玉の 人の其名を 中々に 辭緒不〔左△〕延《コトヲシタバヘ》 あはぬ日の まねくすぐれば こふる日の かさなりゆけば おもひやる たどきをしらに (きもむかふ) 心くだけて (たまだすき) かけぬ時なく 口やまず わがこふる兒を (玉くしろ) 手に取〔左△〕持而《マキモチテ》 (まそかがみ) ただ目に不視者《ミズバ》 したび山 したゆく水の うへにいでず わがもふこころ 安虚〔左△〕歟毛《ヤスカラメカモ》
白玉之人乃其名矣中々二辭緒不延不遇日之數多過者戀日之累行者思遣田時乎白土肝向心摧而珠手次不懸時無口不息吾戀兒矣玉※[金+爪]〔左△〕手爾取持而眞十鏡直目爾不視者下檜山下逝水乃上丹不出吾念情安虚歟毛
 白玉ノ人ノ其名ヲ シラ玉ノ人は卷五(九九一頁)に白玉之吾子といひ源語に玉ノヲノコ御子といへるとおなじくて白玉ノヤウナ人といへるなり○ナカナカニ辭緒不延 舊訓にコトノヲノベズとよめるを契沖はコトノヲハヘズと改めて
(1828)  しのぶ故に名をも中々えいはぬを辭緒不延と云なり。……思ふ事を云はぬは緒をわがねておけるが如くなればたとへてコトノヲハヘズとは云へり
といひ、宣長は契沖の改訓に左袒して
  卷十四にコトオロバヘテイマダネナフモとあればこゝもコトノヲハヘズとよむべし
といひ、千蔭は代匠記の初稿本を引きて
  契沖云。コトノヲ不延は思ふ事をいはぬはたとへば物の緒を束ねておけるが如くそれをいひいづるは引延へてのぶるが如し。人ノ其名ヲ中々ニコトノヲ不延とは名をそれともえいひ顯はさぬ也。不延はハヘズとよむが緒といふにつきてまさるべし。といへり
とのみいひ雅澄は右の契沖の説を擧げて
  今おもふに此説の如し。中々ニはナマナカと云意なれば辭(ノ)緒|延《ハヘ》ずしてなまなかに戀る心のやすからぬ意にいひ下したり云々
といへり。右の説ども皆非なり。まづ白玉ノ人ノソノ名ヲ中々ニコトノ緒ハヘズを(1829)を連續したる辭と見又コトノ緒ハヘズをコトノ緒ヲハヘズのヲを省けるものとせむにソノ名ヲとコトノ緒ヲとヲを重ねて可ならむや。案ずるにシラ玉ノ人ノソノ名ヲは遙に下なるタマダスキカケヌ時ナクにかゝれるなり。すなはちシラ玉ノヤウナ人ノ名ヲ口ニ懸ケテ言ハヌ時ナクといへるなり。次に不延は元暦校本及類聚古集に下延とあるに據りてシタバヘとよむべし。不延にてはナカナカニと相かなはざればなり。シタバヘは此卷の末なる見2菟原處女墓1歌に
  しじくしろ、黄泉に待たむと、こもりぬの、下ばへおきて、うちなげき、妹がいぬれば云々
 卷十四に
  あしがらの御坂かしこみくもり夜のあがしたばへをこちでつるかも
  なつそひくうなびをさしてとぶ鳥のいたらむとぞよあがしたばへし
 卷十八に
  さゆり花ゆりもあはむとしたばふるこころしなくば今日もへめやも
 者二十に
(1830)  すみの江のはま松が根のしたばへてわがみる小野の草なかりそね
などありて心に契る事なり。さて今はナマナカニ逢ハムト内々言ヲカヨハシナガラ逢ハデ日數ノ經ヌレバといへるなり。反歌と對照するに下バフルも逢ハヌも共に妹の所爲なり。即妹が逢はむと契りながら逢はぬなり。次に辭緒はコトヲとよみて緒をテニヲハの借字とすべし。緒の字をテニヲハに借れる例は集中に多し。たとへば下なる過2足柄坂1見2死人1歌にも紐ヲモを紐緒毛と書けり○アハヌ日ノマネクスグレバコフル日ノカサナリユケバ マネクは多クなり○オモヒヤルタドキヲシラニキモムカフ心クダケテ オモヒヤルタドキヲシラニははやく卷一(一三頁)なる軍王見v山作歌にオモヒヤルタヅキヲシラニとあり。又卷四(七七六頁)にオモヒヤルスベノ不知者《シラネバ》とあり。さてオモヒヤルタドキヲシラニとは思ヲ遣リ失フベキスベヲ知ラズとなリ○タマダスキカケヌ時ナク口ヤマズワガコフル子ヲ カケヌ時ナクは口ニ懸ケテ言ハヌ時ナクにて冒頭のシラ玉ノ人ノソノ名ヲは此句にかかれるなリ。クチヤマズはカケヌ時ナクと同意なリ。卷十四にも
  はるの野に草はむ駒のくちやまずあをしぬぶらむ家の兒ろはも
(1831)とあリ○玉クシロ手爾取持而の取を冠辭考タマクシロの條に蒔の誤としてテニマキモチテとよみ古義は之に從へり。蒔の誤字とせむはいかがなれどげに手ニマキモチテとあるべきなり○マソカガミタダ目ニ不視者 タダ目ニ見ルはヂカニ見ルなり。不視者を舊訓にミズバとよめるを略解古義にミネバに改めたり。かならずミズバとよむべし。尾句と照應せるなり○シタビ山シタユク水ノはウヘニイデズの序なり。下檜山と書ける檜は樋の借字にて下樋山は攝津國風土記に見えたり。シタユク水は地下をとほる水なり。攝津の地名を序につかひたるは故ある事ならむ○ウヘニイデズワガモフココロはワガ外ニアラハサズシテ思フ心となり○安虚歟毛を舊訓にヤスキソラカモとよめるを古義に虚を不在の二字の誤としてヤスカラヌカモと改め訓めり。案ずるに虚を在などの誤としてヤスカラメ〔右△〕カモとよむべし。タダ目ニ見ズバ安カラメカモと照應せるなり。ヤスカラメカモは安カラムヤハにおなじ○※[金+爪]は釧の俗體なり
 
   反歌
1793 (垣ほなす)人のよこごと繁香裳《シゲミカモ》あはぬ日まねく月の經ぬらむ
(1832)垣保成人之横辭繁香裳不遭日數多月乃經良武
 ヨコゴトは中傷なり。第三句を舊訓にシゲキカモとよめるを古義にシゲミ〔右△〕カモに改めたり。之に從ふべし。カキホナスはこゝにてはシゲミにかゝれる枕辭なり
 
1794 立易《タチカハリ》月かさなりて雖不逢《アハザレド》さね忘られず面影にして
立易月重而雖不遇核不所忘面影思天
    右三首田邊|福《サキ》麻呂之歌集出
 古義に『タチカハルとは立は月の立を云』といへれどタチは添辭に過ぎず。さて三註共にタチカハルとよみたれどタチカハリとよむべし。月ガ易リ重ナリテとなり○雖不遇を舊訓にアハザレドとよめるを古義に
  アハネドモと訓べし。アハザレドと訓はわろし
といへり。こゝは本來繼續格にてアハザレドといふべきを一時格を代用してアハネドモといひても可なるなり。アハザレドを非としアハネドモを是とすべき由なし〇サネはマコトニなり(卷七【一四一九頁】參照)。眞の字を名乘にサネとよむもサネとマ(1833)コトと同意なればなり。オモカゲニシテは面影ニ見エテとなり
 
  挽歌
   宇治若郎子宮所歌一首
1795 (妹等許《イモラガリ》いま)きの嶺にしみたてるつままつの木は古人《フルヒト》見けむ
妹等許今木乃嶺茂立嬬待木者古人見祁牟
 ミヤドコロは宮のある處なり。轉じて宮のありし跡の意にもつかひたり。卷一(五一頁)大宮ドコロ、卷三(五三五頁〉オクツキドコロ、卷六(一〇三四頁及一一六五頁)大宮ドコロ、此卷(一七四九頁)家ドコロなど參照すべし
 初句を舊訓にイモラガリとよめるを古義に
  七卷に妹所等、八卷に妹許登。十卷に妹許跡などある例によらばこゝももとは妹許等とありけむを例のおきたがへたるにやあらむといひてイモガリトとよめり。もとのまゝにてもあるべし。さてそのイモラガリは(1834)イマキにかゝれる枕辭なり○ツママツノ木ハのツマは句中の枕辭なり○古人を舊訓にフルヒトとよめるを古義に『フル人とは今、世にある人をいふ稱にてすぎにし昔の人を云ことにあらず』又『俗に云古參のことなり』といひ古を吉の誤としてヨキヒトミケムとよみ改めたり。案ずるに平安朝時代の物語などに見えたるフルビトはげにフリタル人といふことなれど言語の意義には變遷あれば奈良朝時代には昔の人をフルヒトといひけむも知るべからず。或は漢語の古人を直譯してフルヒトといひもしけむ。舒明天皇の御子古人《フルヒト》(ノ)皇子もふりたる人の意によれる御名にはあらで、いにしへの人の意によれる御名ならむ。ともかくも今は字のまゝに舊訓に從ひてフルヒトとよむべし。さてフルヒトとは無論|若郎子《ワキイラツコ》をさせるなり。略解に『古人は誰をさすか知られず』といへるは迂遠なり○菟道(ノ)稚郎子は仁コ天皇紀に既而興2宮室於菟道1而居とありて宇治にましまし御名も地名に因れるなれば今木(ノ)嶺は宇治にあるならむとは誰も思ふ事なるべし。現に宇治の離宮山を以て今木嶺とせる説もあれど古書に見えたる今木は皆大和の地名なり。されば契沖は
  今木の嶺は大和國高市郡なり。齊明紀云皇孫建王墓、今城谷上起v殯而収……輙(1835)作v歌曰イマキナルヲムレガウヘニ……乃口號曰イマキノウチハワスラユ麻自珥、欽明紀云倭國今來郡言云々、此外雄略紀、皇極紀、孝コ紀等に見えたり
 又
  應神天皇輕島(ノ)豐明《トヨアキラ》(ノ)宮にして御世を知らせ給ひける時此宇治若郎子のましましける宮今木の邊に在けるが荒て後其宮所とて跡の殘れるを見てよめるなるべし
といひ、宣長(記傳卷三十三【全集二〇四七頁】)は
  今木(ノ)嶺疑はし。もしくは宇治宮の外に今木にも宮ありしにや。今木と云處は欽明紀に倭國今來郡と見え皇極紀、齊明紀、孝コ紀などに見えたるも倭なり。萬葉十に今城(ノ)岳とあるも倭と聞えたり。又續紀卅七に田村(ノ)後宮、今木(ノ)大神とある田村は奈良にあり。然るに山城志に今木嶺在2宇治(ノ)彼方《ヲチカタ》町(ノ)東南1今曰2離宮山1と云るは此萬葉の歌に依てのおしあてごとなるべし。姓氏録に山城國に今木(ノ)連又今木など云姓はあれども宇治のあたりに此地名古書に見えたることなし
といへり。案ずるに山城風土記に謂宇治者……本名曰2許之國1矣とあり。許は杵の(1836)誤なるべし。杵《キ》の名は今も郡名に殘れり。和名抄山城國郡名に紀伊 岐 とある是なり。宇治は後の世には久世郡に屬すれどもいにしへは紀伊《キ》(ノ)郡に屬せしなるべし。否宇治を中心とせる一區域をキノ國と解し而して宇治山をキノ嶺と解せしなるべし。さらば今の歌は妹等ガリイマまでをキノミネにかゝれる枕辭とすべし
 
   紀伊國作歌四首
1796 (もみぢばの)すぎにし子らとたづさはり遊びし礒麻《イソヲ》みればかなしも
黄葉之過去子等携遊礒麻見者悲裳
 スギニシ子ラはウセシ妻なり。タヅサハリは相伴ナヒテなり○礒麻を舊訓にイソマとよめるを古義にイソヲに改めて
  麻をヲの假字に用ひたること集中にいと多し。略解にイソマと訓て礒囘と云義と心得たるはいみじき誤なり。凡ていにしへはイソミ、ウラミなど云てイソマ、ウラマなど云ることかつてなし。そのうへこゝは必イソヲといはではかなはぬところなるをや
といへり。古義の如くイソヲとよむべし。麻をテニヲハのヲに借りたる例は卷十に
(1837)  シマシマ君麻《キミヲ》オモフコノゴロ、卷十三にシキ浪ノタチソフ道麻《ミチヲ》などあり。但『こゝは必イソヲといはではかなはず』といへるは妄なり
 
1797 塩氣たつ荒礒《アリソ》にはあれど(ゆく水の)すぎにし妹がかたみとぞこし
塩氣立荒礒丹者雖在往水之過去妹之方見等曾來
 シホゲは塩ケブリなり。卷二(二一六頁)にもシホゲノミカヲレル國ニとあり。さて初句は塩烟ガタチテ殺風景ナルと辭を補ひて釋くべし○卷一(七七頁)なる人麿の
  まくさかる荒野にはあれどもみぢばのすぎにし君がかたみとぞこし
と相似たり
 
1798 いにしへに妹とわが見し(ぬばたまの)くろ牛がたをみればさぶしも
古家丹妹等吾見黒玉之久漏牛方乎見佐府下
 結句、見佐府下と書けるを舊訓にミレバサブシモとよめり。見の下に者の字のありしをおとせるか。さてミレバは見ルニの意、サブシはオモシロカラズの意なり
 
1799 玉津島いその裏末〔左△〕《ウラミ》のまな△《ゴ》にもにほひ|△《テ》ゆかな妹觸險《イモノフリケム》
(1838)玉津島礒之裏末之眞名仁文爾保比去名妹觸險
    右五首柿本朝臣人麻呂之歌集出
 裏末は舊訓にウラマとよめるを古義に末を未の誤としてウラミとよみ改めたり。マナゴは砂なり。ニホヒテはソマリテにてやがて衣ヲ染メテなり(卷六【一〇四二頁及一一一三頁】參照)○結句を舊訓にイモモフレケムとよめるを略解古義にはイモガフリケムとよめり。宜しくイモノ〔右△〕フリケムとよむべし。此砂ニハ妹ガ觸レタラウニといふ意なり
 左註の五首を古義には四首に改めたり。宇治若郎子宮所歌をもこめて五首といへるなるをや
 
   過2足柄坂1見2死人1作歌一首
1800 小垣内《ヲカキツ》の 麻をひきほし 妹なねが つくりきせけむ しろたへの 紐をも解かず 一重ゆふ 帶を三重ゆひ 苦しきに 仕へまつりて 今だにも 國にまかりて 父|妣《ハハ》も 妻をもみむと 思ひつつ ゆき(1839)けむ君は (鳥がなく) あづまの國の かしこきや 神のみ坂に 和靈〔左△〕《ニギタヘ》の ころもさむらに (ぬばたまの) 髪は亂れて くに問へど 國をものらず 家とへど 家をもいはず ますらをの ゆきのすすみに ここにこやせる
小垣内之麻矣引干妹名根之作服異六白細乃紐緒毛不解一重結帶矣三重結苦侍伎爾仕奉而今谷裳國爾退而父妣毛妻矣毛將見跡思乍往祁牟君者鳥鳴東國能恐耶神之三坂爾和靈乃服寒等丹烏玉乃髪者亂而郡問跡國矣毛不告家問跡家矣毛不云益荒夫乃去能進爾此間偃有
 東人が京に上りて朝廷に仕へしが病に罹りて國に歸らむとして途中にて死にしものと認めて作れるなり○足柄(ノ)坂は駿河國竹(ノ)下より相模國矢倉澤に越ゆる峠にて今足柄峠といふ
 ヲカキツノ麻ヲヒキホシ ヲカキツのヲは添辭、カキツはヤシキ内なり。ヒキホシは麻ヲ引拔キ日ニ干シテとなり。絲ヲ取リソレヲ織リテといふことは略せるなり。(1840)略解に『引ホシは敷ならべてほす故にいへり』といへるは怪しむべし。よもヒキとシキとを混同せるにはあらじ。卷四(六四九頁)にも庭ニタツ麻ヲカリホシ云々とあり〇妹ナネガツクリキセケム ナネは人を親しみていふ辭なり(卷四【七八五頁】參照)。夫《セ》を東語にセナといふ、そのナと同類ならむ。而して妹をイモナネといふはおそらくは亦東語ならむ○シロタヘノ紐ヲモトカズ シロタヘノはこゝにては枕辭にあらざるは勿論布帛を指せるにもあらで衣服をさせるなり。即シロタヘゴロモといふべきをただシロタヘといへるなり。古義に紐の枕辭とせるは非なり。さてシロタヘノ紐ヲモ解カズとは丸寐する事なり。上(一八一八貢)にも紐トカズ、丸寐ヲスレバ、ワガキタル、コロモハナレヌとあり。打解けて寢る夜なきをいへるなり〇一重ユフ帶ヲ三重ユヒは痩衰へたる形容なり。はやく卷四(七九六頁)にも
  一重のみ妹がむすばむ帶をすら三重むすぶべくわが身はなりぬ
とあり○クルシキニ仕ヘマツリテ かくのみいひてさる間に病にさへ罹りし事をきかせたるなり○今ダニモ國ニマカリテ 今ダニモは集中に用ひたるにセメテ今ナリトモの意なるとセメテ今カラナりトモの意なると二つある如し。こゝな(1841)るは今カラナリトモの意とおぼゆ。國ニマカリテを古義に『公事竟て本國に罷り還りてと云なり』と釋せるは非なり。病によりて官を罷めて國に歸らむとせるなり○父ハハモ妻ヲモ見ムトオモヒツツユキケム君ハ鳥ガナクアヅマノ國ノカシコキヤ神ノミ坂ニ 神ノミサカは嶮岨なる峠をいひしにて足柄坂に限りていひしにあらず。神ノはやがてカシコキといふ意とおぼゆ。略解に『神は則山をいふ』といへるは非なり○和靈ノコロモサムラニ 和靈乃を眞淵は和細布乃の誤としてニギタヘノとよめり。しばらく此説に從ふべし。ニギタヘは精布なり。サムラニはサムシといふ形容詞の語幹にラニを添へたるにてワビシラニ、サカシラニなどと同例なり。サムサウニと譯すべし○ヌバタマノ髪ハ亂レテクニ問へド國ヲモノラズ家トヘド家ヲモイハズマスラヲノユキノ進ニココニコヤセル マスラヲノは壯ナル男ガとなり。マスラヲノユキノススミニとつづけるにあらず。ユキノススミニは行進ミテとなり。卷四(六八〇頁)なるコギノススミニと同格なり。所詮道中デとなり。コヤセルは臥シタルヨとなり。實ははやく死にたるを病み臥せるやうに云へるなり
 
   過2葦(ノ)屋|處女《ヲトメ》墓1時作歌一首并短歌
(1842)1801 いにしへの ますら丁子《ヲノコ・ヲトコ》の あひ競《キホヒ》 妻どひしけむ あしの屋の 菟名日《ウナヒ》をとめの おくつきを わがたち見れば 永き世の かたりにしつつ 後人《ノチノヒト》 しぬびに世武〔左△〕等《セヨト》 (たまほこの) 道のへちかく 磐がまへ 作れる冢《ツカ》を あま雲の 退部乃限《ソキヘノカギリ・ソキヘノキハミ》 この道を ゆく人毎に ゆきよりて いたちなげかひ 惑〔左△〕《アル》人は ねにもなきつつ かたりつぎ しぬびつぎ來《クル》 をとめらが おくつき所 吾さへに みればかなしも 古思者〔左△〕《イニシヘオモフニ》
古之益荒丁子各競妻問爲祁牟葦屋乃菟名日處女乃奥城矣吾立見者永世乃語爾爲乍後人偲爾世武等玉桙乃道邊近磐構作冢矣天雲乃退部乃限此道矣去人毎行因射立嘆日惑人者啼爾毛哭乍語嗣偲繼來處女等賀奥城所吾并見者悲裳子思者
 津(ノ)國なる葦(ノ)屋の菟名日處女を宇奈比|壯士《ヲトコ》と智奴壯士一名|小竹田丁子《シヌダヲトコ》と相競ひて妻問せしに處女はいづれにも靡きかねて水に入りてうせしかば二人の壯士も跡(1843)をおひて海に投ぜしを親族どもの憐みて三つの墓を造りて處女《ヲトメ》冢、壯士《ヲトコ》冢と名づけきといふ傳説によりて作れるなり。下にも見2菟原處女墓1歌あり。卷十九にも家持の追和歌あり。合せ見べし。大和物語にも此事を書けり。但その内容、本書の歌のとは異なり○攝津國菟原郡(今は武庫郡の内)住吉川の西より生田川の東に亘りて三箇の瓢形古墳あり。東なるは呉田《ゴデン》に、中央なるは東明《トウミヤウ》に、西なるは味泥《ミドロ》にあり。共に舊西國海道に近く其下手に在りて中央なるは南面し東西なるは中央なるに向ひ各十五六丁を隔てたり。東なるは明治年間に破壌せられき。古來東なるを智奴壯士、中央なるを宇奈比處女、西なるを宇奈比壯士の墓とし又次なる見2菟原處女墓1歌によれば中央なるを處女冢、東西なるを壯士冢といふべきを誤りて共に處女冢と稱し更に訛りて求冢と稱せり(求冢の名ははやく太平記に見えたり)。案ずるに三墳は上代に此地方を領せし人などの墓なるべきを其主たちの明ならずなりし後傳説中の士女の墓といひなしゝか又は三墳の同形同距にして然も東西兩墓の中墓に向へるによりて彼傳説を作りしなり○アシノヤはいにしへアシヤともいひき。今は專アシヤといふ。昔の菟原郡内の郷名なり(1844)イニシヘノマスラヲ【ノト】コノアヒ競ツマドヒシケム 競は舊訓に從ひてキホヒとよむべし。略解にはキソヒに改めたり。ここのツマドヒは即申入にてヨバヒといはむにひとし。妻とならむことを求むるなり(卷三【五二七頁】參照)○アシノ屋ノ菟名日ヲトメノ ウナヒは郡名、アシノヤは郷名なればウナヒノアシノヤ處女といふべきをこゝにも下なる歌にもアシノヤノウナヒ處女といへるは調の爲にしか云へるか又は葦屋の内に更に菟名日といふ處ありてそれが郡名の基となりしか。さてウナヒは海邊の義なるべし。いにしへ邊をヒともいひしことは近くは此卷(一七八六頁)にいへり。さればカムナビの如くウナビとよむべきに似たれど菟會なども書きたればなほヒを清みてウナヒとよむべし。但イブカシを言借と書きナベを苗と書ける類の例に依らばウナビを菟會と書くまじきにもあらず○オクツキヲワガタチミレバ タタズミテ見レバとなり○ナガキ世ノカタリニシツツ後人シヌビニ世武等 カタりニシツツは語草トシツツとなり。後人を舊訓にノチノヒトとよめるを略解古義にノチヒトノとよめり。後世の人といふことをノチヒトといへる例を知らず。さればなほノチノヒトとよむべく其次なる偲爾世武等は武を誤字として(1845)シヌビニセヨ〔右△〕トとよむべし。卷十九なる家持の追和歌に
  のちの代の、ききつぐ人も、いやとほに、思努比爾勢餘〔右△〕等
とあるは以て傍證とすべし(もし偲爾世武等をもとのまゝにおかば後人を後世の誤としてノチノヨノとよまざるべからず)○玉桙ノ道ノヘチカク磐ガマヘツクレル冢ヲ イハガマヘはイハガマヘシテのシテを略せるなり。さればカは濁るべし。磐を構ふるにあらず。磐にて構ふるなり。冢を古義にハカとよみ改めたれどもとのまゝにツカとよみて可なり○アマグモノ退部乃限 契沖はソキヘノキハミ、千蔭はソキヘノカギリ、雅澄はソクヘノカギリとよめり。ソキヘにてもソクヘにてもよく、キハミにてもカギリにてもよし(卷三【五〇八頁】卷四【六七七頁】參照)。ドコマデモといふ意なり○此道ヲユク人毎ニユキヨリテイタチナゲカヒ イは添辭なればタタズミ嘆キといへるなり○惑人ハネニモナキツツ 惑人を舊訓にワビビトとよめり。略解には
  翁(○眞淵)の説に惑一本或に作る。ともに誤にて感の字ならん。卷十惑者ノアナココロナトオモフラン、是も感の誤にていづれもワビビトと訓べし。といはれき。宣(1846)長云。惑人は惑は借字にて里人也。卷十八に惑ふをサドハセルといへり。ワビ人といふべき處にあらず。十の卷なるも同じ。といへり。猶考べし
といひ古義は宣長の説に左袒せり。案ずるに兩説ともにうべなひがたし。惑を或の誤としてアルヒトハとよむべし(元暦校本、類聚古集共に或人に作れり)。此冢ヲ見テ嘆カヌモノナク中ニハ泣クモノサヘアリといへるなり。ネニモのモといふ辭を味ふべし○カタリツギ偲繼來 舊訓にシノビツギクルとよめるを略解古義にツギコシに改めたり。なほシヌビツギクルとよむべし。卷十三に
  神代より、いひつぎ來たる、かむなびの、みもろの山は云々
とあるが如くシヌビツギ來タルといふべきなれど言餘るが故にツギクルといへるなリ。次なる詠2勝鹿眞間娘子1歌なる
  今までに、たえず言來《イヒクル》、かつしかの、眞間の手兒奈が云々
の來は略解古義共にクルとよめり。それとこれと同格にあらずや。さてカタリツギシヌビツギクルは上なるナガキ世ノカタリニシツツ後ノ人シヌビニセヨトと照應せるなリ○ヲトメラガオクツキドコロ ラはいにしへは二人以上ならでも添(1847)へいひしなリ○ワレサヘニミレバカナシモ古思者 三註共にイニシヘオモヘバとよみたれどミレバといひて更にオモヘバとはいふべからず。者を誤字としてイニシヘオモフニとよむべし(文字辨證下卷四二頁參照)
 
   反歌
1802 いにしへの小竹田丁子《シヌダヲトコ》のつまどひし菟會《ウナヒ》をとめのおくつきぞこれ
古乃小竹田丁子乃妻問石菟會處女乃奥城叙此
 小竹田は古義に從ひてシヌダとよむべし。シヌダヲトコは即|血沼《チヌ》壯士なり。シヌダは和泉國|信太《シノダ》なり。血沼は廣きに亘れる稱にて小竹田は血沼の内なりしなり
 
1803 かたりつぐからにもここだこひしきをただ目に見けむいにしへ丁子《ヲトコ・ヲノコ》
語繼可良仁文幾許戀布矣直目爾見兼古丁子
 カラニはママニなり。葦屋ヲトメハ傳説ヲ聞キテダニコヒシクオボユルヲ直ニ見知リシ二人ノ壯士ハイカバカリコヒシクオボエケムとなり
 
   哀2弟死去1作歌一首并短歌
(1848)1804 父母が なしのまにまに △ (はしむかふ) 弟《オト》の命は (あさ露の) けやすきいのち 神のむた あらそひかねて 葦原の みづ穗の國に 家なみや 又かへりこぬ 遠つ國 よみの界に (はふつたの) 各各向向《オノガムキムキ》 (あま雲の) わかれしゆけば (闇夜なす) おもひまどはひ (いゆししの) こころをいたみ (あし垣の) おもひみだれて (春鳥の) ねのみなきつつ (味澤相《アヂサハフ・ウマサハフ》) △ よるひるいはず (かぎろひの) 心もえつつ 悲悽別〔左△〕焉《カナシブワレゾ》
父母賀成乃任爾箸向弟乃命者朝露乃※[金+肖]易杵壽神之共荒競不勝而葦原乃水穗之國爾家無哉又還不來遠津國黄泉乃界丹蔓都多乃各各向向天雲乃別石往者闇夜成思迷匍匐所射十六乃意矣痛葦垣之思亂而春鳥能啼耳鳴乍味澤相宵晝不云蜻※[虫+廷]火之心所燎管悲悽別焉
 父母ガナシノマニマニ ナシは生《ウミ》にてナシノマニマニは生ミシママニなり。ナシノマニマニの下に脱句あるべし。ナシノマニマニとのみにては下へつづかざれば(1849)なり。その脱句は年マネク相ムツバヒシといふばかりの意ならむ○ハシムカフ弟《オト》ノミコトハ 弟ノ命は敬していへるなり。集中に父ノミコト、母ノミコト、妻ノミコト、妹ノミコトなどいへり○アサツユノケヤスキイノチ神ノムタアラソヒカネテ イノチの下にはナレバなどを略せるなり。神ノムタは神ノマニマニなり。共と書きたれどトモニと譯してはこゝなどは通じがたし。卷十なる
  をのうへにふりおける雪の風之共《カゼノムタ》ここにちるらし春にはあれども
などのムタも然り。風は散るものにあらねばなり。さて此二句は卷二(二〇一頁)なるウツセミシ、神ニアヘネバと同意なり○葦原ノ水穗ノ國ニ家ナミヤ又カヘリコヌ 家ナミヤは家ナケレバニヤとなり○トホツ國黄泉ノ界ニハフツタノ各各向向アマ雲ノワカレシユケバ 各々向々を舊訓にオノガムキムキとよめるを契沖はオノオノムキムキとよむべきにやといひ雅澄はオノモオノモに改めたり。案ずるに一人に對してあまたの人の別れて黄泉にゆく場合ならばこそオノモオノモといふべけれ、今は一人は此國に留り一人は黄泉に行く趣なればオノモオノモといひてはかなはず。さればなほオノガムキムキとよむべし。そもそもオノガムキムキ(1850)はオノガ向オノガ向といふべきを略せるにて(さればこそ各々向々と書けるなれ。各々向々は後世の書法に從へば各向各向なり)たとへば一人は北へ、一人は南へ行く時にいふべきなれば今の如く一人は留り一人は離るゝ場合には適當せざれど、さばかりの事は看過してもあるべし。否ワカレの形容語として用ひたりとも見るべし○ヤミ夜ナスオモヒマドハヒイユシシノココロヲイタミ マドハヒはマドヒを延べたるなり。イユシシノはイタミにかゝれる枕辭なり。イユシシは射ラルル猪鹿《シシ》にて手負ジシといふ事、イユはイラルの古語にて終止格なればシシにかくべからざるに似たれどしばしば云ひし如く連體格の代につかへるなり○葦垣ノオモヒ亂レテハル鳥ノネノミナキツツ味澤相ヨルヒルイハズ 味澤相をアヂサハフとよみ來れるを雅澄はウマサハフに改めて
  卷二に味澤相|目辭《メコト》モタエヌ、卷六に味澤相イモガメカレテ、卷十一に味澤相メヅラシ君ガ、卷十二に味澤相目ニハアケドモ 味澤相はアヂサハフと訓來れどもその意解得がたし。冠辭考に味鳧《アヂガモ》の多《サハ》に經渡る意にて目とつづくは群の意なりと云るはいかが。さらばただに村鳥之とか味群之《アヂムラノ》とかあるべし。多經《サハフ》と云ては群(1851)とは續きがたきをや。今按これをばウマサハフと訓べきにや。さらばウマシ粟田《アハフ》の義なるべし。……さて目とかゝるは群生《ムラハエ》といふ意なるべし。ムラの切マ、ハエの切ヘにてそのマヘを縮むればメとなれり。粟はあるが中にも群りておひたつものなればかくつづくるならむか
といへり(枕辭解)。ムラハヘを約めてメといへるなりと云へるは採るに足らねど(羣《ムレ》の約と見て可ならずや。草木に羣といはずばこそあらめ、草村、樹村《コムラ》といふそのムラはやがてムレならずや)味澤相をウマシ粟生の意としてウマサハフとよめるは傾聽すべき一説なり。雅澄は又
  味澤相は集中に何處にても目と云にのみつづきたればヨルヒルとはつづきがたし。故《カレ》熟考るにこゝも此間に二句ばかり脱たるにてこゝろみにいはば味澤相《ウマサハフ》、目辭毛絶而《メゴトモタエテ》、野干玉乃《ヌバダマノ》、宵晝不云《ヨルヒルイハズ》などぞありけむ。二卷に味澤相目辭毛絶奴とあり。見ルコトモ聞言モ絶テといふなり
といへり。さもあるべし○カギロヒノココロモエツツ悲悽別焉 結句を舊訓にナゲクワカレヲとよめり。古義に別焉を我爲の誤としてナゲキゾアガスルとよみて
(1852)  別るゝことは上にいひ終たれば今更ワカレヲとはいふべくも非ず。詞もいと穩當ならず。かゝるを今まで注者この沙汰せし人の獨だになきはいかにぞや
といへり。案ずるに別を我の誤としてカナシブワレゾまたはフレヲとよむべし。カナシブは卷二十陳2防人悲別之情1歌に
  ちちのみの、ちちのみことは……けふだにも、ことどひせむと、をしみつつ、可奈之備いませ
とあり。焉をゾともヲともよむべきことは卷七(一三五六頁)にいへり。悲悽はナゲクとよむよりはカナシブとよむ方穩なるべし
 
   反歌
1805 わかれてもまたもあふべくおもほえば心みだれて【一云こころつくして】吾《ワガ》こひめやも
別而裳復毛可遭所念者心亂吾戀目八方
    一云意盡而
(1853) 吾を三註ともにワレ(又はアレ)とよみたれどワガとよむべし○ワカレテモのモは無意の助辭なり。雖の意のモにあらず。もし雖の意ならばワカルトモとあるべきなればなり
 
1806 (あしひきの)荒山中におくりおきてかへらふ見〔左△〕者《モヘバ》こころぐるしも
蘆檜木※[竹/矢]荒山中爾送置而還良布見者情苦裳
     右七首田邊福麻呂之歌集出
 もとのまゝならば略解の如く『葬送の人の家に歸るを見る也』と釋すべけれど見者は思者の誤にあらざるか。もし然らばカヘラフはおのが上をいへるなり
 
   詠2勝鹿(ノ)眞間|娘子《ヲトメ》1歌一首并短歌
1807 (とりがなく) 吾妻の國に いにしへに ありける事と 今までに たえずいひくる かつしかの 眞間の手兒奈が 麻衣に 青衿著《アヲクビツケ》 ひたさをを 裳にはおりきて 髪だにも かきは梳《ケヅ》らず 履をだに はかず雖行《アリケド》 錦綾の なかに裹有《ククメル・ツツメル》 いはひ兒も 妹にしかめや (望(1854)月の) 滿有《タレル》おもわに 花のごと ゑみてたてれば 夏蟲の 火に入るがごと みなといりに 船こぐごとく 歸香具禮 人のいふ時 幾時毛《イクバクモ》 不生《イケラジ》ものを 何すとか △ 身をたなしりて 浪の音《ト》の さわぐ湊の おくつきに 妹がこやせる 遠き代に ありける事を 昨日しも 見けむがごとも おもほゆるかも
鶏鳴吾妻乃國爾古昔爾有家留事登至今不絶言來勝牡鹿乃眞間乃手兒奈我麻衣爾青衿著直佐麻乎裳者織服而髪谷母掻者不梳履乎谷不看〔左△〕雖行錦綾之中丹裹有齊兒毛妹爾將及哉望月之滿有面輪二如花咲而立有者夏蟲乃入火之如水門入爾船己具如久歸香具禮人乃言時幾時毛不生物乎何爲跡歟身乎田名知而浪音乃※[馬+聚]湊之奥津城爾妹之臥勢流遠代爾有家類事乎昨日霜將見我其登毛所念可聞
 卷三(五二五頁)なる過2勝鹿眞間娘子墓1時山部宿禰赤人作歌と合せ見べし
 トリガナク吾妻ノ國ニイニシヘニアリケル事ト今マデニタエズイヒクル勝牡鹿(1855)ノ眞間ノ手兒奈ガ タエズイヒクルは直にカツシカノ眞間ノ手兒奈につづけるなり。上(一八四二頁)なる過2葦屋處女墓1時作歌にカタリツギ、シヌビツギクル、ヲトメラガといへると同格なり○アサギヌニ青衿著を契沖は和名抄に衿音領コロモノクビとあればとてアヲクビツケテとよみ、千蔭はおなじく和名抄に衿音襟ヒキオビ小帶也とあるを證としてアヲオビツケとよみ、雅澄はアヲエリツケとよめり。案ずるに和名抄には衿の字をコロモノクビとよみ又ヒキオビと訓めるにあらず。ヒキオビには衿を充てコロモノクビには※[衣+令]を充てたるなり。※[衣+令]は元來領の俗字なり。而して契沖の引ける本に衿音領とあるは※[衣+令]を衿と誤れるなり。然らば衿を今もエリとよむは誤なりや。即衿はヒキオビに當る字にてエリに當る字にあらざるかといふに毛詩子衿(ノ)章に
  青々(タル)子(ガ)衿、悠々(タル)我心、縱《タトヒ》我不(トモ)v往、子|寧《イカンゾ》不(ラン)2嗣音1
とありて註に衿音金、領也とあればはやくより衿をエリにも充てたるなり。訓義辨證(下卷二十頁)に
  襟の字を説文には※[衣+金]に作(レ)り。これを後に襟又は衿ともかけるなり。比岐於比とよ(1856)める衿(ノ)字と其形同じくて製字の原同じからず
といへり。さて此歌の青衿は小帶即紐とすべきか領《エリ》とすべきかといふに青衿と書けるは毛詩に據れりと見ゆるに其毛詩なるは領《エリ》の事なればこゝも領の事とすべし。次にクビとよむべきかエリとよむべきかといふにエリは古語にあらざれば無論エリとはよむべからず。所詮此一句はアヲクビツケと六言によむべし○直佐麻ヲ裳ニハオリキテ ヒタサヲについて契沖は
  サはそへ云詞、ヒタスラノ麻なり
といひ雅澄も
  ヒタはヒタ土などいふ如くヒタスラの義なり。サはそへたる辭にてひたすらの麻《ヲ》をそのまゝ裳に織て著るを云り。衣裳の麁くてよからぬよしをいへり
といひて麻絲のみの織物といふ意としたるやうなれど輕々しくうべなはれず。なほ考ふべし○髪ダニモカキハケヅラズ履ヲダニハカズ雖行 雖行は古義に從ひてアリケドとよむべし(舊訓はユケドモ)〇ニシキアヤノナカニ裹有イハヒ兒モ妹ニシカメヤ 裹有を舊訓にツツメルとよめるを古義にククメルに改めたり。新撰(1857)字鏡に裹、豆々牟とあればツツメルとよみても可なり。イハヒ兒は大切ニスル女子といふ事にて今箱入娘といふにおなじ。古義に『良家《ウマビト》の女を云』といへるは當らず。齊は齋の通用なり○望月ノ滿有オモワニ花ノゴトヱミテタテレバ 滿有は略解古義に從ひてタレルとよむべし(舊訓はミテル)。卷二視2石中死人1作歌(三一五頁)に
  あめつち、日月とともに、滿將行、神のみおもと云々
とあるもタリユカムとよめり。オモワは顏面の輪廓なり。契沖が
  輪は車輪などの如く圓滿して缺たる處なき意なり
といへるは非なり。さてオモワニは面輪ニテなり。この處、上なる詠2末(ノ)珠名娘子1歌に
  そのかほの、きらきらしきに、花のごと、ゑみてたてれば
とあるに似たり○夏蟲ノ火ニ入ルガゴトミナト入ニ舟コグゴトクは身を忘れ相競ふ形容なり○歸香具禮人ノイフ時 舊訓にはユキカクレとよみ、略解にはヨリカグレとよみて『いどみよる古語と聞ゆ』又『今懸想といふに同じ語也』といひ、宣長(記傳卷四十三【全集二四六六頁】)はかのカガヒの語原を説きて
  カグレアヒのつづまりたるなるべし。萬葉九勝鹿(ノ)眞間(ノ)娘子を詠る長歌に歸香具(1858)禮《ヨリカグレ》人ノイフ時云々是なり
  カグレと云言此外には見えざれども妻をよばふ事を然云る古言のありしなるべし
といひ、雅澄は
  本居氏ヨリカグレとよみてカグレは婚をする古言なりと云れど覺束なし。又歸は歸依とつらぬる字なればヨリとよまむはさることながら此集中にはユクと訓べき處にのみ用ひてヨリとよむべき所につかへることなし。心を付て考べし。今按に具禮は賀比の誤にてユキカガヒなるべし。カガヒはクナガヒの約れる言にてそのもと婚合を云よりはじまれる古言なり
といへり。いづれもうべなひがたし。なほ考ふべし○幾時毛不生モノヲ 幾時毛を舊訓にイクトキモとよめるを略解に
  イクトキモといへる語例なし。時は許の誤なる事しるし
といひてイクバクモとよみ改め、古義にも
(1859)  イクバクモなり。時は許の誤ならむか。又もとのまゝなりとも
といへり。卷十二に
  幾不生有命乎こひつつぞ吾はいきづく人にしらえず
とある初二を諸註共にイクバクモイケラジイノチヲとよめり。されば今もイクバクモとよむべく不生物乎もイケラジモノヲとよむべし(舊訓と略解とにはイケラヌ〔右△〕モノヲとよめり)。澤山生キテモヰマイモノヲとなり○何ストカ身ヲタナシリテ
 略解には『何ストカにて句なり』と云へれどこゝにて切れたりとすれば辭足らず。又下に續きたりとせば妹ガコヤセルと照應せりと見ざるべからざれど、さては意義を成さず。さればナニストカの下に脱句ありと認めざるべからず。古義に『歟は知而の下にめぐらして心得べし』といへるが非なる事は辨ずるを要せじ。試に其脱句を補はば人ニアハムトカナシクモなどならむか。次の長歌に
  しづたまき、いやしきわが故、ますらをの、あらそふみれば、いけりとも、あふべくあれや
とあるに據りて人ニアハムトの七言を補へるなり。その下の五言はなほ思ふべし。(1860)身ヲタナシリテは卷一なる藤原宮之役民作歌(八一頁)に
  そをとるとさわぐ御民も、家わすれ身もたなしらず、かもじもの水にうきゐて云々
又上なる詠2末(ノ)珠名娘子1歌の反歌(一七三八頁)に
  かなどにし人の來たてば夜中にも身はたなしらずいでてぞあひける
とあり。身【モハ】タナシラズは夢中ニナツテといふことゝおぼゆれば身ヲタナシリテは分別シテといふことゝおぼゆ○浪ノ音ノサワグ湊ノオクツキニ妹ガコヤセル カク妹ガ臥シタルとなり。死にて横たはれるをただコヤセルといへるなり。此句にて切りて心得べし○看は著の誤なり
 
   反歌
1808 かつしかの眞間〔日が月〕の井みればたちならし水くましけむ手兒奈しおもほゆ
勝牡鹿之眞間之井見者立平之水※[手偏+邑]家牟手兒名之所念
(1861) タチナラシは其井ノ邊ヲ蹈ミテとなり○清宮秀堅の下總舊事考に
  眞間(ノ)井葛飾郡にあり。今其所在を知らず。或は云ふ。小井、弘法寺下鈴木庵の傍にある是なりと。蓋亦好事の假托に出でたるなり(○原漢文)
といひ如蘭社話後篇卷十五附録村岡良弼氏著千葉日記に
  眞間山弘法寺は……石坂を降り果れば銅の屋を葺てさべき祠たてり。これなむ※[氏/一]胡奈(ノ)明神とて山部(ノ)赤人の歌よまれし墓所《オクツキ》なりける。……文龜元年に寺主日興上人かく社を建てこの寺の守護神と定め給ひきとなむ。水クマシケムと詠れし眞間(ノ)井は龜井坊の傍に在り。ヤマズ通ハム(○卷十四)と詠れし繼橋は二つわたせる橋の小き方のなりけり。山下《フモト》をうち囘れる沼なん例の入江にて勝鹿ノ眞間ノ浦囘ヲコグ舟ノ舟人サワグ(○卷十四)と詠れたればいにしへは甚廣かりしことの知らるゝや
 六所神社は眞間寺の北に六段田といふ所に木立深くたゝせたまふ。……祠官桑原ぬしが須和田の家を訪ふ。……この家は例の入江を門近う見やりて風致よき所なり。此江は眞間〔日が月〕よりこの里まで引はへたり。……さて眞間の井と云は(1862)やがて此入江なりけり。いにしへに井といひしは水をせきたる池沼などの事にて今の堀井戸ちふものにはあらざりき。さるからに伏見ノ田井ニ雁ワタルラシ又師付ノ田井ニカリガネモ寒ク來ナキヌなどよまれてからもじの堰塘の義なれば※[氏/一]胡奈のくましけんはかの龜井にはあらでこの入江なりし事の知らるゝや
といへり。眞間〔日が月〕(ノ)井が堀井ならざる事、又弘法寺崖下の堀井がいにしへの眞間(ノ)井にあらざざる事は二書にいへる如し。但千葉日記に『やがて此入江なりけり』といへるはいかが。おそらくはいにしへ良水のおのづから湧出づる處ありて里人の汲みて用ひしを眞間(ノ)井といひしならむ。又同書にフシミノ田井、シヅクノ田井を水を汲む井とし又堰塘の義とせるはいみじき誤なり。田井は田處なるをや(一七〇五頁及一七七六頁參照)
  因にいふ。實地を踏査するに國府《コフ》(ノ)臺の東北に蓴菜池といふ細長き池あり。是いにしへの眞間〔日が月〕(ノ)入江のなごりなるべし。而して其南方なる弘法寺の岡の前を流るゝ眞間川ぞ入江の入口なりしならむ。又蓴菜池の南端より起りて弘法寺の岡の東(1863)方に亘れる低地ありて今田となれり。繼橋のありしはそのわたりなるべし。今弘法寺の前に繼橋とてあるはいにしへの跡にはあらじ
 
   見2菟原處女《ウナヒヲトメ》墓1歌一首并短歌
1809 葦(ノ)屋の 菟名負《ウナヒ》をとめの 八年兒の 片生《カタオヒ》の時ゆ をばなり爾〔左△〕《ノ》 髪たくまでに ならびをる 家にも見えず (うつゆふの) こもりて座在者《ヲレバ》 見てしがと いぶせむ時の 垣ほなす 人のとふ時 智奴壯土《チヌヲトコ》 宇奈此壯士の (廬八〔二字左△〕燎《アシビタク》) 須酒師〔左△〕競《ススミコホヒ》 あひよばひ しける時|者〔左△〕《ニ》 燒太刀の 手預〔左△〕《タカヒ》おしねり しらま弓 靭《ユギ》とりおひて、水入《ミヅニイラバ》 火にもいらむと たちむかひ 競時爾《キホヒシトキニ》 吾妹子が 母にかたらく (しつたまき) いやしきわが故 ますらをの あらそふみれば いけりとも あふべく有哉《アレヤ》 (しじくしろ) 黄泉《ヨミ》にまたむと (こもり沼《ヌ》の) したばへおきて うちなげき 妹が去者《イヌレバ》 血沼壯士 其夜いめに見 とりつづき おひゆきければ おくれたる 菟原壯士伊《ウナヒヲトコイ》 仰天《アメアフギ》 さけび(1864)おらび ※[足+昆]地《ツチヲフミ》 牙《キ》かみたけびて 如己男爾《モコロヲニ》 まけてはあらじと かきはきの 小劔《ヲダチ》とりはき (ところづら) 尋去祁禮婆《トメユキケレバ》 やから共《ドチ》 射歸集《イユキツドヒ》 永代爾〔左△〕《ナガキヨノ》 しるしにせむと とほき代に かたりつがむと 處女墓《ヲトメヅカ》 中につくりおき 壯士墓《ヲトコヅカ》 こなたかなたに つくりおける ゆゑよしききて 知らねども にひものごとも ねなきつるかも
葦屋之菟名負處女之八年兒之片生乃時從小放爾髪多久麻庭爾並居家爾毛不所見虚木綿乃※[穴/牛]而座在者見而師香跡悒憤時之垣廬成人之誂時智奴壯士宇奈比壯士乃廬八燎須酒師競相結婚爲家類時者燒大刀乃手預押禰利白檀弓靭取負而入水火爾毛將入跡立向競時爾吾妹子之母爾語久倭父〔左△〕手纏賤吾之故大夫之荒爭見者雖生應合有哉完串呂黄泉爾將待跡隱沼乃下延置而打嘆妹之去者血沼壯士其夜夢見取次寸追去祁禮婆後有菟原壯士伊仰天叫於良妣※[足+昆]他〔左△〕牙喫建怒而如己男爾負而者不有跡懸佩之小劔取佩冬※[草冠/叙]蕷都良尋去祁禮婆親族共射歸集永代爾標將爲(1865)跡遐代爾語將繼常處女墓中爾造置壯士墓此方彼方二造置有故縁聞而雖不知新裳之如毛哭泣鶴鴨
 菟原と書けるに就いて略解に
  宇奈比壯士とも菟原壯士とも又は菟會處女とも書たれば菟原をも宇奈比とよみて同じく地名也。原を夫《ブ》とよめば夫《ブ》と比と通へる故ならん
といひ古義に
  菟原は和名抄に攝津國菟原郡 宇波良 とあるはやゝ後の唱にて古へは宇奈比(ノ)郡とのみ云しなり。……原はいにしへ生と通し用て茅生《チフ》、茅原《チフ》、室原《ムロフ》、室生などかけり。されば原も其義にて書るなり
といへり。案ずるにウナフといふ地名ならばこそ菟原の字をも充てめ。原にフの訓あり又フとヒと通ずればとてウナヒを菟原とは書くべからず。はやくウナヒを訛りて(山城の地名|向日《ムカヒ》を訛りてムカフといへる如く)ウナフといひしによりて菟原の字を著けしにあらざるか
 アシノヤノウナヒヲトメノ八トセ兒ノ片生ノ時ユ 片生は舊訓に從ひてカタオ(1866)ヒとよむべし。略解にカタナリに改めたるはいがが。カタオヒといへる例なくばこそあらめ古義に擧げたる如くあまたの例あるをや。さてカタオヒはカタナリにおなじくて形の未とゝのはぬをいふ○ヲバナリ爾髪タクマデニ ヲバナリは卷七(一三三九頁)にもヲトメラガハナリノ髪ヲユフノ山とありて童女の髪を放ち垂れたるをいひて漢籍の垂※[髪の友が召]《スヰテウ》に當るべし。髪タクは卷二(一七一頁及一七二頁)に
  たけばぬれたかねば長き妹がかみこのごろみぬにかかげつらむか
  人みなは今は長しとたけといへど君がみし髪みだれたりとも
とあり。年長じて髪をかき上ぐる事にて漢籍に十有五而笄とある笄《ケイ》にぞ當るべき。さて從來字のまゝにヲバナリニカミタクマデニとよみて怪まざれどニといひて通ぜむや思ふべし。ヲバナリ爾はヲバナリノ〔右△〕の誤なる事明なり○ナラビヲル家ニモ見エズは近處ノ人ニモ見ラレズとなり○ウツユフノコモリテ座在者 舊訓及古義にマセバとよめれど略解に從ひてヲレバとよむべし○見テシガトイブセム時ノ イブセムは卷八(一五九六頁)にアマゴモリ心イブセミイデミレバとあり。ヤキモキスルといふ意なり○カキホナス人ノ誂《トフ》時 カキホナスはシゲクといふこ(1867)とにてトフの形容なり。上(一八三一頁)なるカキホナス人ノヨコゴトシゲミカモのカキホナスはシゲミにかゝれる枕辭なれば、こゝなると意は齊しけれど格は異なり。誂は略解にトフとよみて『妻どひの意也』といへるに從ふべし(舊訓にはイドムとよめり)。戰國策秦上に
  楚人ニ兩妻ヲ有セル者アリ。人其|長《トシタ》ケタル者ヲ誂《ト》フ。長ケタル者之ヲ詈ル。其|少《ワカ》キ者ヲ誂《ト》フ。少キ者之ニ許ス。居ルコト幾何モ無クシテ兩妻ヲ有セル者死ス。客|誂《ツマド》ヒシ者ニ謂ヒテ曰ク。汝長ケタル者ヲ取ラムカ。少キ者ヲカト。曰ク。長ケタル者ヲ取ラムト。客ノ曰ク。長ケタル者汝ヲ詈リ少キ者汝ニ和ス。何爲レゾ長ケ爲ル者ヲ取ルト。曰ク。彼人ノ所ニ居レバソノ我ニ許サムコトヲ欲ス。今我妻トナレバソノ我爲ニ人ヲ詈ラムコトヲ欲スト
とある三箇の誂の字とつかひ樣全く相齊し。さて見テシガトイブセム時ノ垣ホナス人ノトフ時のノは卷六(一〇八一頁)なる
  につつじのにほはむ時の〔右△〕、さくら花さきなむ時に
などのノにおなじくてこゝは見テシガト人ノイブセミ垣ホナストフ時といはむ(1868)に同じ○智奴ヲトコ宇奈比ヲトコノ廬八燎須酒師競 廬八燎は略解にフセヤタキとよめり。須酒師のススにかゝれる枕辭なる事は明なれど伏屋ヲタクとはいふべからず。古義には大神(ノ)景井の説を擧げて
  廬八は蘆火の誤ならむか。アシ火タキ凝烟《スス》とつづきたるなり。アシ火タク屋ノスシテアレド(○卷十一)と云るを考合べし
といへり。此説よろし。但アシビタク〔右△〕とよむべし。須酒師競を舊訓にススシキホヒテ、略解にススシキソヒテとよめるを古義にはススシキホヒと六言によめり。須酒師は進む事とおぼゆれどスススといふ語あるを聞かず。須酒師の師は味などの誤にあらざるか。しばらくススミキホヒとよみつ○アヒヨバヒ、シケル時者 アヒは添辭、ヨバヒはやがてツマドヒなり。時者は略解に時煮の誤としてトキニとよめるに從ふべし○ヤキダチノ手預オシネリ 手預を契沖は一本に據りて手頴の誤としてタカヒとよみて
  神代紀上云、急握|劍柄《タチカヒ》、今の日本紀にはかく點ぜれど釋日本紀にはタカヒと有て日向風土記を引て云、宮埼郡高日村昔者自v天降神以2御劔柄1置2於此地1因曰2劔柄村1(1869)後人改曰2高日村1也、かゝればタチを下略して柄をカヒと云へるなり
といひ雅澄は
  手預は手頭の誤としてタカミと岡部氏のよめるぞ宜しき。タカミは古事記に手上、書紀に劍頭と書て今云|柄《ツカ》なり。又神武天皇紀に撫劔此云2ツルギノタカミトリシバル1と見えたり(又紀中に劔柄と書て多加比と訓る所もあり。そはいみじきひがごとなり。其は風土記に日向國宮埼郡高日村昔者自v天降神以2御劔柄1置2於此地1因曰2劔柄《タカミ》村1後人改曰2高日村1也とあるを本よりタカヒノ村とは云つれども劔柄と書しを改めて高日とせしと、云ことぞとひが心得してつひに劔柄をしか訓るものなり。此風土記の意はもとタカミ〔右△〕ノ村と云るを後人タカビと改めつと云ことにて劔柄をタカヒと云べきよしは更に無し。ミとヒの濁音と通ふまゝに後人改めて然いへるのみにこそあれ。よく考べし)
といへり。諸本に手頴とあればなほタカヒとよむべし。オシネリは契沖
  押ヒネリと云へる歟。又物を練る如くたゆまずして返す返すとりしばる意にや
といへり。後の解の如くならむ。即太刀の柄をとりしばりとりしばりする事なるべ(1870)し(略解古義は前説に從へり)○シラマユミユギトリオヒテは眞弓ト靭トヲ帶ビテとなり。卷三(五七五頁)なる家持の長歌にもアヅサ弓ユギトリオヒテとあり。オヒテは必しも背に負ふこととは心得べからず。今帶ビテといふをもいにしへは負ヒテと云ひしなり。萩、黄葉などにツユジモオヒテとよめるも寧帶ビテと解すべし。彼長歌の反歌にも大伴ノ名ニオフユギオヒテのオヒテを帶而と書けり。以上四句は二壯士が互に威を示す状なり○入水火爾毛將入跡 從來此三句をミヅニイリヒニモイラムトとよめり。案ずるにこはミヅニイラバヒニモイラムトとよむべし。すなはち汝、妹ノ爲ニ水ニ入ラバ我ハ妹ノ爲ニ火ニモ入ラムトといへるなり○タチムカヒ競時爾 タチムカヒは二壯士相對シテとなり。競時を舊訓にイソヒシトキニとよみ略解にキソヘルトキニ、古義にキホヘルトキニとよめり。キホヒシトキニとよむべし。但舊訓の如くイソヒシトキニとよまむも可なり。イソフは卷一藤原宮之役民作歌に伊蘇波久ミレバとありて競ふ事なればなり(八二頁參照)○吾妹子ガ母ニカタラクシヅタマキイヤシキワガユヱ 古義に『イヤシキ吾ナルモノヲの意なり。吾故ニヨリテといふ意にはあらず』といへり。もし然らばワレ故とこそあるべけ(1871)れ。吾之故《ワガユヱ》とは云はざらむ○マスラヲノアラソフミレバイケリトモアフベク有哉を舊訓にアレヤとよめるを古義にアラメヤに改めたり。案ずるに集中に
  いにしへの人にわれあれやささなみのふるき都をみればかなしも(卷一)
  あぶりほす人もあれやもぬれ衣を家にはやらな旅のしるしに(此卷)
などアラメヤをアレヤといへる例あれば今もアフベクアレヤとよみて逢フベクアラメヤの意とすべし(一〇五三頁參照)○完串呂ヨミニマタムト 完串呂は繼體天皇紀の歌に矢自矩矢廬とあるに據りてシジクシロと第二のシを濁りてよむべし。そのシジクシロヨミを契沖は繁櫛《シジクシ》ロ黄泉《ヨミ》の意としてイザナギノ尊が黄泉にてユツツマ櫛を投げ給ひし故事に據れりとし眞淵は繁釧好《シジクシロヨミ》の意とし、雅澄は繁酒甘美《シジクシロヨミ》の意とし、飯田武郷翁(日本書紀通釋二六〇一頁)は啜酒美水《ススクシロヨミ》の意とせり。案ずるに繁串《シジクシ》ロ數《ヨミ》の意なるべし。ロは助辭にて串は矢なり(古事記|白檮原《カシバラ》(ノ)宮の段に五瀬《イツセ》(ノ)命御手ニ登美毘古ガ痛矢串《イタヤグシ》ヲ負ハシキとあるを思ふべし)。かの繼體天皇紀にシジクシロウマイニネシトニとあるはウマイのイに繁串《シジクシ》ロ射《イ》とかゝれるなり○コモリ沼《ヌ》ノシタバヘオキテ 契沖は
(1872)  シタバヘは下の心にあらまし置意なれば今隱沼に身を投て死なむと思ひ定むる事をやがてコモリヌをシタバヘの枕詞のやうに云なり
といひ古義に
  シタとは裏《シタ》にてしのび隱してひそかに物するを云ことなり。ハヘとは思をかけてつまどひするを云。シノビ隱シテ人シレズヒソカニ思ヲカケ置テといふなるべし
といへり。上なるコトヲシタバヘの處(一八二九頁)にいへる如く心に契るをいふ。黄泉にて待たむと智努壯士に内々心を通はしおくなり。はやく略解に
  反歌を合せ見るに知努をとこに心ありしかどかく爭ふ故に逢難きをいふなるべし
といひ、古義に
  血沼ヲトコ其夜夢ニ見云々といひ又反歌にキキシゴトチヌヲトコニシ依倍ケラシモとあるを合せ見るにこの處女、血沼壯士に心よせたれど相競ふ壯士のある故に得あふこともせざれば夜見に行て血沼壯士を待むと心の内に契りおき(1873)て自害せるよしなり
といへり。さて契沖は隱沼に身を投げて死にしと見たれど卷十九なる家持の追和歌に
  家さかり、海邊にいでたち、朝よひに、みちくるしほの、やへ浪に、なびく珠藻の、ふしの間も、をしき命を、つゆじもの、すぎましにけれ
といへるを見れば海に身を投げて死にしにてコモリ沼《ヌ》ノは尋常の枕辭に過ぎず○ウチ嘆キ妹ガ去者 去者を舊訓にイヌレバとよみ古義にユケレバとよめり。ユケバ、ユキシカバなどこそいふべけれ、ユケレバといふべき處にあらず。されば舊訓に據るべし○血沼ヲトコ其夜イメニ見、トリツヅキオヒユキケレバ オヒユキケレバは殉死セシカバとなり○オクレタル菟原ヲトコ伊仰天サケビオラビ 舊訓略解にウナヒヲトコモ、イアフギテとよめるを古義に伊を上に附けてウナヒヲトコイ、アメアフギとよみ改めたるは一發明なり。伊は例の助辭にて仰天は下なる※[足+昆]地と相對せるなり。オラブは日本紀に哭聲、哀號、叫、啼などをオラブとよませたり。契沖は
(1874)  今も筑紫の方の詞にサケブをオラブと云へり
といひ雅澄も
  今も土左國などにてはなきさけぶをオラブと云り
といへり○※[足+昆]地、牙《キ》カミタケビテ 舊訓にツチニフシとよみたれど※[足+昆]は普通の字書には見えざる字なり。されば略解に
  或人は※[足+差]※[足+它]の誤にてアシズリシなるべしといへり。上の浦島子が長歌にも足受利四ツツまた次に(○苅野橋別2大伴卿1歌に)足垂之《アシズリシ》などあり
といひ古義には訓は舊訓に從ひて
  もしは※[足+易](ノ)字の誤にはあらざるか
といひ、考には※[足+(曰/羽)]地の誤としてアシフミシとよめり。※[足+(曰/羽)]は踏の異體なり。案ずるに※[足+昆]の字通常の字書には見えざれど新撰字鏡(天治本卷二の二六丁)に
  ※[足+昆](……後也)※[足+艮](上字同……平踵也久比々須)
とありて※[足+艮]と同字とせり。之に基づきて濱臣(略解改正本頭註)は
  地に※[足+昆]つくるはやがて足ずりすることなれば義もてアシズリシとよむべし
(1875)といひ、木村博士(訓義辨證下卷二十頁)は出雲風土記意宇郡の條に號天踊地とありてアメニヨバヒ、ツチニヲドリとよめるにそのさま似たればタチヲドリとよむべしといへり。アシズリシにてもアシブミシにてもタチヲドリにても上なるアメアフギに對せず。※[足+昆]の字もし誤ならずば※[足+昆]《クビス》を地につくるは足ずりするにはあらで地をふむにしあればツチヲフミとよむべきならむ。もし又考の説の如く※[足+(曰/羽)]の誤ならば無論ツチヲフミとよむべし。そのツチヲフムは俗に地ダンダ蹈ムといふ状ならむ○モコロヲニマケテハアラジト モコロは如シの古言なり。さて如《コト》を名詞に附屬せずして直に如《コト》フラバ、如《コト》ナラバなどいふ如くモコロも必しも何ノモコロとは云はざりしなり。然もこゝにモコロヲを如己男と書けるはこゝにモコロヲといへるは己卜同等ナル男といふ意なるを示さむとてなり○懸佩ノヲダチトリハキ 舊訓にカケハキとよめるを略解にカキハキに改めたり。然も懸をカキともよむべき所以を云はず。古義には
  懸はカキなり。懸を古へは多くはカキと云りし故に此字を書るなり。古事記に掛《カキ》2出胸乳1、又應神天皇(ノ)條に掛《カキ》2出其骨1などもあり
(1876)といへり。案ずるに卷二(二五九貢)に御名ニ懸世流《カカセル》アスカ河云々とあるを思へば懸はいにしへ四段活なりしにてさればこそこゝにカキに懸の字を借用ひたるなれ。さてカキハキのカキは添辭にて古義にいへる如く取佩といはむに同し。なほいはば常ニ取佩ク小太刀ヲ取佩キといへるなり○トコロヅラ尋去祁禮婆 契沖と雅澄とはタヅネユケレバとよみ略解にはトメユキケレバとよめり。略解に從ふべし。ユケレバといふべき處にあらざること前にいへる如し。そのトメユキケレバも亦殉死セシカバといふ意なり○親族共射歸集 親族共を舊訓にヤカラドモとよみ古義にヤカラドチとよめり。古義に從ふべし。卷八(一五八九頁)にもオモフ人|共《ドチ》アヒミツルカモとあり。射歸集は舊訓にイユキアツマリ、代匠記にイユキツドヒテ、略解にイヨリツドヒテ、古義にイユキツドヒ(六言)とよめリ。さて古義に
  歸は歸依とつらぬる字なればヨリとよまむはさることながら此集中にはユクと訓べき處にのみ用ひてヨリとよむべき所につかへることなし
といへり。集は卷十なる梅ヲカザシテココニ集有《ツドヘル》などの例によりてツドヒとよむべし。さてテをよみそふべきか否かといふにテとよむべき處は靭取負而、下延置而、(1877)建怒而《タケビテ》、負而、聞而とやうに而の字を書けるに、こゝには而の字なければ古義の如くイユキツドヒと六言によむべし○永代爾シルシニセムトトホキ代ニカタリツガムト 略解に
  永代トコシヘニともよむべし。トホキ代ニと同じ語重なりたれば也
といへるは作者の本意にたがふべし。作者はわざとナガキ代とトホキ代とをならべたるなり。さて永代爾の爾は乃などの誤なるべし○ヲトメ墓ナカニツクリオキヲトコ墓コナタカナタニツクリオケル故ヨシキキテ知ラネドモニヒモノゴトモネナキツルカモ 墓を舊訓にツカとよめるを古義にハカに改めたり。いにしへよりヲトメヅカといひなれたれば墓と書けるに拘はらでなほツカとよむべし。シラネドモは其人ヲ知ラネドモとなり。ニヒモは新喪なり○父は文、他は地の誤なり
 
   反歌
1810 葦(ノ)屋のうなひ處女のおくつきをゆきくと見ればねのみしなかゆ
葺屋之宇奈此處女之奥槨乎往來跡見者哭耳之所泣
 ユキクトミレバは往クトテ見、來トテ見レバとなり
 
(1878)1811 墓《ツカ》の上の木枝《コノエ》なびけり如聞《キクガゴト》ちぬをとこにし依倍〔左△〕《ヨラシ》けらしも
墓上之木枝靡有如聞陳努壯士爾之依倍家良信母
    右五首高橋(ノ)連蟲麻呂之歌集中出
 コノエナビケリとは木ノ枝ガ智奴壯士ノ墓ノ方ヘ靡ケリとなり。如聞を舊訓にキクガゴト、古義にキキシゴトとよめり。舊訓に從ふべし。キキシゴトとよみてはカネテ聞キシ如クといふ意に聞えて長歌にユヱヨシキキテ云々といひて今聞く趣なると相かなはす。さて墳上の古木はもとより一株にはあらざるべけれど卷十九なる追和歌に
  後の代の、ききつぐ人も、いや遠に、しぬびにせよと、つげ小櫛、しがさしけらし、おひてなびけり
といひ、反歌に
  をとめらが後のしるしとつげ小櫛おひかはりおひてなびきけらしも
といへるを思へば黄楊の老樹ありて特に目だちたりしなり。さればこゝに木枝といへるも其黄楊の枝ならむ○結句を舊訓と略解とにはヨルベケラシモとよみた(1879)れどヨルベケラシモといふ辭は無し(玉緒六卷二十丁及玉緒繰分|波《ハ》(ノ)卷二十四丁右に見えたる説はうべなはれず)。古義には
  倍は仁の誤なりと或説に云り。さもあるべし
といひてヨリニケラシモとよめり。案ずるに依倍を依信の誤として(又は倍を衍字として)ヨラシケラシモとよむべし(元暦校本には依家良陪〔右△〕母、類聚古集には依家良倍〔右△〕母とあり。即依の下の倍は無くて信母の信を陪又は倍に誤れり)。ヨラシケラシモは處女ハ茅渟男ニ傾イテ居ラレタサウナとなり
                             (大正九年十月講了)
          2005年1月20日(木)、午後5時40分、入力終了。
          2005年3月7日(月)、午後7時25分、校正終了。
 
 
(1905)萬葉集新考第四   1928.7.8発行
 
   圖版解説
本居宣長書。料紙唐紙。縦一尺強。横一尺六寸五分
譯文
 たなつ物|百《モモ》の
 木草も天照す
 日の大神のめ
 ぐみえてこそ
 朝よひに物|喰《クフ》
 毎に豊うけの
 神のめぐみを
 思へ世の人
     宣長
前の歌は内宮即皇大神宮、後の歌は外宮をたゝへ奉つたのであるが共に玉鉾百首の中に出て居る。此百首の中の歌は往々かやうに眞假字《マガナ》即萬葉假字で書いて居る。常の假字で書いたものも無論ある。余は
 日神《ヒノカミ》の本つ御国と皇國《ミクニ》はし百八十《モモヤソ》國の秀《ホ》國おやぐに
と書けるものを持つて居る
(圖版の文字―入力者記す、能のみ異体字
多那都物百之
木草母天照須
日乃大神之米
具美延弖許曽
朝與比尓物喰
毎尓豐宇氣能
神乃米具美袁
思閇世之人
    宣長)
 
(凡例省略)
(目次省略)
 
(1905)萬葉集新考卷十
                    井上通泰著
 
  春雜歌
此部にはまづ無題歌七首を載せさて次々に詠鳥、詠雪、詠霞等を収めたり。その冒頭の無題歌は皆霞をよめる歌なれば詠霞三首と一つにして詠霞十首とすべきをさはせざるはいかなる故にかとは誰も訝る所なるべしし。現に古義には
  總標に春雜歌とあるは下の旋頭歌、譬喩歌とあるまでを總たれば今の七首の題詞別に擧ずしては足はず。春相聞もをはりの問答十一首までの總標なればはじめの七首別に題を擧べきに舊本になきは足はず。秋相聞の下の相聞五首、冬雜歌の下の雜歌四首、冬相聞の下の相聞二首みな此に准ふべし。さて今この七首はみな霞の歌なるを下に詠霞三首といへると別てるは所由あるにや
といひて通本に附屬せる目録に從ひて七首の題辭として雜歌の二字を補へり。案(1906)ずるに冒頭に無題歌を載せたるは此部の外春相聞、秋相聞、冬雜歌、冬相聞にして其歌は皆人麿歌集に出でたる歌なり。さればこは本集の編者がことさらに類を分たずして各部の首におけるにて、もし題辭を補ふべくは左註を移して柿本朝臣人麿歌集所出歌と標すべきなり
    ○
1812 (久方の)天《アメ》のかぐ山このゆふべ霞たなびく春たつらしも
久方之天芳山此夕霞霏※[雨/微]春立下
 第四句にて切りて心得べし
 
1813 卷向の檜原にたてる春霞おほにしもはばなづみ△米《コメ》やも
卷向之檜原丹立流春霞欝之思者名積米八方
 上三句はオホニにかゝれる序にてそのオホニは尋常ニなり。ナヅムは物に妨げらるる事にてやがて艱難する事なり○こは戀の歌なり○米の上に來をおとしたるか
 
(1907)1814 いにしへの人のうゑけむ杉枝〔左△〕《スギムラニ》霞たなびく春は來ぬらし
古人之殖兼杉枝霞霏※[雨/微]春者來良之
 第四句にて切りて心得べし。杉枝とあるは杉村の誤ならむ。卷三(五一四頁)にもイソノカミフルノ山ナル杉村ノとあり○略解に
  古へノ人ノウヱケンとは只年經たるをいふのみ
といへれど、もし天然林ならばたとひ年經たりともイニシヘノ人ノウヱケムとは云ふべからず。殖林のはやく神代より行はれし事は日本紀に見えたり
 
1815 (子らが手を)まきむく山に春されば木葉しぬぎて霞たなびく
子等我手乎卷向山丹春去者木葉凌而霞霏※[雨/微]
 子ラガ手ヲはマキにかゝれる枕辭なり。マキムク山ニはカスミタナビクにつづけるなり。春サレバにつづけるにあらず。木葉シヌギテは木葉ノヒマヲ貫キテとなり。略解に『常葉木ノ葉ノアハヒマデモの意なり』といひ古義に『木葉の處を凌ぎ奪ひ吾處として押なびけて』など釋せるは共によろしからず○卷向山は初瀬山の西につ(1908)づけり
 
1816 (玉蜻《タマカギル》)夕さりくれば(さつ人の)ゆつきがたけに霞たなびく
玉蜻夕去來者佐豆人之弓月我高荷霞霏※[雨/微]
 玉蜻はタマカギルとよむべし。カギロヒノとよむは非なり(二九三頁參照)○ユツキガタケは卷七(一二三三頁)にマキモクノユツキガタケニとあり
 
1817 けさゆきてあすは來牟等云子鹿〔二字左△〕《キナムトイヒテユク》丹〔□で圍む〕あさづま山に霞たなびく
今朝去而明日者來牟等云子鹿丹且〔左△〕妻山丹霞霏※[雨/微]
 略解に來牟等の下の云を第三句に附けてアスハキナムトイフコカニとよみたれど、さては何の事とも聞えず。古義には云を上に附け子鹿丹を愛也子の誤としてアスハコムチフハシキヤシとよめり。案ずるに子鹿を手去の誤とし丹を衍字として(元暦校本には丹の字なし。されば旦妻山丹の丹をかきおとしたりと思ひて、誤りて第三句の次に書入れたるにてもあるべし)アスハキナムトイヒテユクとよむべきか○山の名のアサヅマが朝ノ夫《ツマ》といふに通ずればケサユキテ明日ハ來ナムトイ(1909)ヒテユクといふ序を設けたるなり。今朝旅立チテ明日ハ歸來ムとなり。朝妻山は大和國南葛城郡葛城村の大字に朝妻あるそれなるべし。卷五(九四四頁)にもケフユキテアスハキナムヲナニカサヤレルとあり。又司馬相如の長門賦に言《イフ》我朝往而暮來兮とあり○且は旦の誤なり
 
1818 子らが名にかけのよろしき朝妻の片山ぎしに霞たなびく
子等名丹開〔左△〕之宜朝妻之片山木之爾霞多奈引
     右柿本朝臣人麿歌集出
 このアサヅマは妻の意にとれり○子ラガ名ニは妹ノ名トシテなり。カケノヨロシキは懸クルニ宜シキにてそのカクルは口ニ唱フルなり。卷一(一二頁)にも
  たまだすき、かけのよろしく、とほつ神、わがおほきみの、いでましの、山こす風の云々
とあり○片山岸は山の斷崖なり、開は關の誤なり
 
   詠鳥
(1910)1819 (うち霏〔左△〕《ナビク》)春たちぬらし吾門の柳のうれにうぐひすなきつ
打霏春立奴良志吾門之柳乃宇禮爾鶯鳴都
 霏は靡の誤か
 
1820 梅の花さける崗邊に家をれば乏しくもあらずうぐひすのこゑ
梅花開有崗邊爾家居者乏毛不有鶯之音
 イヘヲルは一つの動詞なり。略解に『イヘヰシヲレバを略ける古言の例也』といへるは妄なり。意は家居《イヘヰ》スルといはむに同じ。トモシクモは少クモなり
 
1821 春霞流るる共《ナベ》に青柳の枝|啄〔左△〕持而《トリモチテ》うぐひすなくも
春霞流共爾青柳之枝啄持而鶯鳴毛
 春霞ナガルルは春霞タツといはむにひとし。本条には空より物の降るをナガルといへり。ナガラフル雪フク風ノ(一〇二頁)アメノシグレノナガラフミレバ(一二六頁)アメヨリ雪ノナガレクルカモ(八九八頁〕ナガラヘチルハナニノ花ゾモ(一四八四頁)などいへるを見べし○共は略解に從ひてナベとよむべし。初二の意は霞ノタツ折(1911)カラとなり○第四句を從來エダクヒモチテとよみたれど枝をくはへては鳴かれず。枝取持而の誤にて枝ニトマリテの意ならむ
 
1822 わがせこを莫越山《ナコセノヤマ》のよぶ子鳥君よびかへせ夜のふけぬとに
吾瀕子乎莫越山能喚子息君喚變瀕夜之不深刀爾
 第二句を舊訓にナコシノ山ノとよめるを契沖は
  第三にサザレ浪イソ越道ナルとよめるは巨勢路なれば今も巨勢山を云ふとてかくはよそへたるにや
といひ略解には訓を改めてナコセノヤマノとよみて『大和の巨勢山をナコセといひかけたり』といへり。案ずるにワガセコヲのヲを卷七なるワガセコヲコチコセ山ト人ハイヘドのヲとおなじくヨの意とせば莫越山はナコシ〔右△〕ノヤマとよまざるべからず。又ワガセコヲ莫《ナ》までを巨勢山にいひかけたる枕辭とせば莫越山はナコセ〔右△〕ノヤマとよまざるべからず。從ひてワガセコヲのヲを常のヲとしコセを令越の意とせざるべからず。しばらく後者に從ふべし○結句のトニについて契沖は
  時ニなり。時ニを略してトニとよめるは繼體紀に勾《マガリ》(ノ)大兄《オホエ》(ノ)皇子のウマイネシトニ(1912)とよませたまへるもウマ寢宿《イネ》シ時ニなり。此集にもあまたよめり。第十六爲v鹿述痛作歌に塩漆給時賞毛《シホヌリタベトマヲサモ》とある時〔右△〕は和語を下略してトといへり
といひ、宣長は古事記穴穗宮の段に未日出之時とあるをイマダヒモイデヌトニとよみ、さて
  この時〔右△〕は刀爾と訓べし。書紀繼體(ノ)卷(ノ)歌にウマイネシトニ、萬葉十に夜ノフケヌトニ、十五にコヒシナヌトニ、十九にサヨフケヌトニ、廿にワガカヘルト禰などあり(これらの刀《ト》を時の略と心得るは非ず。此は俗言に夜ノ更ヌウチニなどいふウチニと同意にて外《ト》ニなり。其を俗に内ニといふは此方を内にし彼方を外にして云言、外ニと云は彼方を内にし此方を外にして云言にて意は同じ。行を來と云も通ふが如し。此は既に日出たる後を内にして未出ざる前を外とは云なり)
といへり(記傳二三四九頁)。案ずるにトニは契沖のいへる如く時ニなり。但處によりては程ニと譯すべし。いにしへは時をも處をもトといひけむ。さて之を相分つとて時にはキを添へてトキといひ處にはコロを添へてトコロといひしならむ。今は夜ノ更ケヌ程ニと譯すべし
 
(1913)1823 朝井〔左△〕代爾《アサトデニ》きなくかほどりなれだにも君にこふれや時不終〔左△〕《トキワカズ》なく
朝井代爾來鳴※[日/木]鳥汝谷文君丹鯉八時不終鳴
 初句は眞淵が井を戸の誤としてアサトデニとよめるに從ふべし。代をテとよむべき事は卷七(一三一五頁)にいへり○古義に『來ナキシといふべきを來ナクといへり』といへるは非なり○時不終を從來トキヲヘズとよめり。さて略解に『鳴やまずして頻になくをいふ』といひ古義に『止時なく頻りに鳴と云むが如し』といへれどトキヲヘズとよみて時ヲ終へズの略とせむに鳴止マズなどいふ意にはなりがたし。案ずるに卷六(一〇七一頁)に
  湯の原になくあしたづはわがごとく妹にこふれや時不定鳴《トキワカズナク》
とある下にも
  ひぐらしは時となけども於△戀《キミニコフル》たわやめわれは△不定哭《トキワカズナク》
とあれば今も時不定鳴などありしを誤れるならむ。さればトキワカズナクとよむべし
 
1824 (冬ごもり)春さりくらし(あしひきの)山にも野にもうぐひすなくも
(1914)冬隱春去來之足此木乃山二文野二文鶯鳴裳
 ナクモは今のナクヨなり
 
1825 紫の根ばふ横野の春野には君をかけつつ鶯なくも
紫之根延横野之春野庭君乎懸管鶯名雲
 紫は草の名、横野は河内の地名とも上野の地名ともいふ。契沖はムラサキノ根バフを横の枕辭としたれど枕辭にはあらず。構野の形容辭なり。根バフは蔓る事なり。横野ノ春野は即春ノ横野なり○ニハのハはただ輕く添へたるにはあらざれど古義に『他所ハシラズといふほどの意なり』といへるばかりは重からず○カケツツは心ニカケツツなり
 
1826 春されば妻を求むとうぐひすの木ぬれをつたひなきつつもとな
春之去者、妻乎求等鶯之木末乎傳鳴乍本名
 ナキツツモトナはアヤニクニ鳴キ鳴キスルヨとなり。妻をこひしみをるにあやにくに鶯の妻を求むる聲がするよといへるなり
 
(1915)1827 春日なる羽賀の山ゆさほの内へなきゆくなるはたれよぶ子鳥
春日有羽買之山從猿帆之内敝鳴往成者孰喚子鳥
 サホノ内は卷六(一〇六五頁)にも佐保ノ内ニアソビシコトヲ宮モトドロニとあり。當時佐保の郷内をサホノウチといひなれしならむ。齊明天皇紀に皇孫建王を今城谷(ノ)上に葬りし後に天皇の悲しみて口號したまひし御歌にオモシロキ、イマキノ禹知ハ、ワスラユマシジとあるウチと同例ならむ。古義に佐保山の内と釋けるは從はれず
 
1828 答へぬになよびとよめそよぶ子鳥佐保の山〔左△〕《カハ》邊をのぼりくだりに
不答爾勿喚動曾喚子鳥佐保乃山邊乎上下二
 契沖いはく『同じ作者の上と二首にて意を云ひ盡せるなるべし』と。初句は喚ビテモ誰モ答へヌニとなり○山邊は川邊の誤ならむ。山邊はノボリクダリ、といはむにふさはしからざればなり
 
1829 (梓弓)はる山ちかく家居之《イヘヲラシ》つぎてきくらむうぐひすのこゑ
(1916)梓弓春山近家居之續而聞良牟鶯之音
 家居之を舊訓にイヘヰシテとよめり。契沖は之に從ひて『之の下に※[氏/一]等の字あるべし』といひ宣長は『之は者の字を誤れるなり』といひてイヘヲレバとよみ雅澄はイヘヲラシとよみて『家居ヲシタマヒテと云ほどの意なり』といへり。案ずるに古義の如くよむべし。宣長の如くイヘヲレバとよみて己が事とせば第四句はツギテキキナム又はツギテキクベシといふべく聞良牟とはいふべからざればなり。さてイヘヲルは家居スルといはむにひとし。上(一九一〇頁)にもウメノ花サケルヲカベニ家ヲレバとあり。それを今は人の上なれば家ヲラシといへるなり。ツギテキクラムは現ニ打續イテ聽キタマフラムとなり
 
1830 (うちなびく)春さりくれば小竹之米〔左△〕丹《シヌノウレニ》、尾羽うち觸《フリ》てうぐひすなくも
打靡春去來者小竹之米丹尾羽打觸而鶯鳴毛
 契沖は第三句の米を末の誤としてササノウレニとよめり。現に類聚古集に末とかけり。されば契沖の説に基づきてシヌノウレニとよむべし(集中に小竹をササともよめれど)。古義は舊訓に從ひてシヌノメニとよみて小竹之群の義としたれど從は(1917)れず。尾羽ウチフリテは尾ト羽根トヲ小竹ノ末ニ觸レテとなリ
 
1831 朝霧にしぬぬにぬれてよぶ子息三船の山ゆなきわたるみゆ
朝霧爾之怒怒爾所沾而喚子鳥三船山從喧渡所見
 シヌヌは後世のシトトなリ。但古義に
  シトトはもとこの之怒怒をシトトと訓誤りたるより出來たる詞なるべし。怒(ノ)字にはトヌの兩音あればなり。されど集中にはヌの假字にのみ用ひてトには用ひざる例なるを委く考へざりしものなり
といへるは非なり。シヌヌがシノノに轉じ更にシトトに轉ぜしなり
 
   詠雪〔二字右△〕
1832 (うちなびく)春去來《ハルサリニケリ》者〔□で圍む〕しかすがにあま雲|霧相《キラヒ》雪はふりつつ
打靡春去來者然爲蟹天雲霧相雪者零管
 通本に題辭を脱せり。今補ひつ
 霧相を略解にキラフとよめるは非なり。古義の如くキラヒとよむべし。キラヒはク(1918)モリテなり。シカスガニは然モなり○第二句を從來字のまゝにハルサリクレバとよみたれど、さては一首とゝのはず。者を衍字としてハルサリニケリとよむべし
 
1833 梅の花ふりおほふ雪をつつみ持《モチ》君にみせむと取れば消《ケニ》つつ
梅花零覆雪乎※[果/衣]持君爾令見跡取者消管
 
1834 梅の花さきちりすぎぬしかすがにしらゆき庭に零重管《フリシキニツツ・フリシキリツツ》
梅花咲落過奴然爲蟹白雪庭爾零重管
 第二句のサキは輕く添へたるのみ。第四句の調なつかしからず。結句は略解に從ひてフリシキニツツともよむべく又古義に從ひてフリシキリツツともよむべし。シクはやがてシキルなり。シキルの例は卷六(一〇四七頁)にナキズミノ船瀬ノ濱ニ四寸流《シキル》シラナミとあり
 
1835 今更に雪ふらめやもかぎろひのもゆる春べとなりにしものを
今更雪零目八方蜻火之燎留春部常成西物乎
 カギロヒは後世のカゲロフなり。雪フラメヤモは雪フルベシヤとなり。わりなく雪(1919)のふるを見ていへるなり。ハルベは春時なり
 
1836 風まじり雪はふりつつしかすがに霞たなびき春さりにけり
風交雪者零乍然爲蟹霞田菜引春去爾來
 卷八(一五〇〇頁)にも
  うちきらし雪はふりつつしかすがにわぎへのそのにうぐひすなくも
とあり
 
1837 山のまにうぐひすなきて(うちなびく)春とおもへど雪ふりしきぬ
山際爾鶯喧而打靡春跡雖念雪落布沼
 フリシクは頻ニ降ルなり
 
1838 をのうへにふり置《オケル・オク》雪し風のむたここにちるらし春にはあれども
峯上爾零置雪師風之共此間散良思春者雖有
     右一首筑波山作
 風ノムタは風ノマニマニなり(卷九【一八四九頁】參照)。古義に
(1920)  これは實は春ふる雪を見て去年の冬ふりおきたる雪を風の吹具しもて來て此間〔日が月〕《ココ》にちらすらしといへるなり
といへる如し○置を從來オケルとよめり。オクとよみても可なり。梅サケル宿を梅サク宿ともいひ雪フレル山を雪フル山(一八一八頁)ともいふと同例なればなり
 
1839 君がため山田の澤にゑぐ採《ツム》と雪げの水に裳のすそぬれぬ
爲君山田之澤惠具採跡雪消之水爾裳裾所沾
 ヱグは卷十一にも
  あしひきの山澤ゑぐを採《ツミ》にゆかむ日だにもあはむ母はせむとも
とあり。舊説には芹の事とせるを眞淵(萬葉考別記)は今地方によりてヱグともヱゴともヨゴともゴワヰともいふものにて葉は藺に似、根は芋を成して食用に堪ふるものなりといひ(眞淵のいへるは莎草科の植物にてクログワヰ漢名烏芋といふものなり)雅澄は此歌の下にては芹の類なりといひ品物解にては眞淵の説に左袒せり。案ずるにもしクログワヰならばヱグホルなどこそ云はめ、採《ツム》とはいはじ。然るに二處共に採《ツム》といへるを見れば葉又は茎を食用とするものにてクログワヰの如く(1921)根を食ふものにあらざる事明なり。又雪ゲノ水ニ裳ノスソヌレヌといへる、芹の季節にはかなへどおそらくはクログワヰの旬には合はじ。クログワヰの旬はよくは知らねど萬葉考別記に女の田(ノ)草曳に出づとて兒に向ひて『けふはゴワヰとりて來む』といひしこと見え又品物解の頭書に秋田の稻を刈りたる跡にあるものゝ由見えて夏秋の頃のものと思はるればなり。されば今ヱグともヱゴともヨゴともゴワヰともグヤ(品物解頭書)ともいふものと本集の惠具とは類名異物にて本集の惠具はなほ舊説の如く芹の事ならむ。六帖に芹とヱグとを別に擧げたるは顯昭(袖中抄卷十六)の
  ふるき文はくはしく明らめずして物の異名をもたださず名のかはりたれば別にかけることもあれば一定にあらず
といへる如く芹、惠具二物なりといふ證とするには足らず。さて芹をも烏芋をもヱグといふは其味ゑぐければなるべし
 
1840 梅が枝になきてうつろふうぐひすのはねしろたへに沫雪ぞふる
梅枝爾鳴而移徙鶯之翼白妙爾沫雪曾落
(1922) ウツロフは枝より枝に移るなり
 
1841 山たかみふりくる雪を梅の花ちりかもくるとおもひつるかも
    一云梅の花さきかもちると
山高三零來雪乎梅花落鴨來跡念鶴鴨
    一云梅花開香裳落跡
 一云の方まされり。底本の方にてはクルといふ語重なればなり。さてそのサキは例の如く輕く添へたるなり
 
1842 雪をおきて梅をなこひそ(足曳の)山かたづきて家居須《イヘヲラス》流〔□で圍む〕君《キミ》
除雪而梅莫戀足曳之山片就而家居爲流君
     右二首問答
 前の歌の、梅の花かと思ひしにさならぬに失望したる語調なるを不滿に思ひてよめるなり○カタヅキテははやく卷六の長歌(一一八〇頁)に
  いさなとり、海かたづきて、玉ひろふ、海べをちかみ
(1923)とあり。今物を片寄することをカタヅクルといふ。カタヅクは其自動詞形なり。されば山カタヅキテは山ニ片寄リテといふことなり。ツは濁りて唱ふべし○結句は古義の説に從ひて流を衍字としてイヘヲラス君とよむべし
 
   詠霞
1843 きのふこそ年ははてしか春霞かすがの山にはやたちにけり
昨日社年者極之賀春霞春日山爾速立爾來
 
1844 ふゆすぎてはるきたるらしあさひさすかすがの山に霞たなびく
寒過暖來良思朝烏指滓鹿能山爾霞輕引
 
1845 うぐひすの春成良思《ハルニナルラシ》かすが山霞たなびく夜目にみれども
鶯之春成良思春日山霞棚引夜目見侶
 ウグヒスノ春は古義に
  鶯ノ囀ル春といふ意なり。シラ浪ノ濱といひて白浪ノヨスル濱と云意になると同例なり
(1924)といへる如し○春成良思は一本に春來良思とありといふ○第四句にて切りて心得べし
 
   詠柳
1846 霜干《シモガレノ》冬の柳は見〔左△〕人之《ヨキヒトノ》かづらにすべく目〔左△〕生《モエ》にけるかも
霜十〔左△〕冬柳者見人之※[草冠/縵]可爲目生來鴨
 略解古義に初句をシモガレシとよめれど霜枯をはたらかしてシモガルルといふは後世の事なればなほ舊訓に從ひてシモガレノとよむべし○第三句を眞淵は良人之の誤としてヨキヒトノとよみ雅澄は見の下に八の字を補ひてミヤビトノとよめり。卷一(四七頁)にも良人ヨクミツとかける例あれば眞淵の説に從ふべし○十は干の誤なり
 
1847 淺緑そめかけたりとみるまでに春のやなぎはもえにけるかも
淺緑染懸有跡見左右二春楊者目〔左△〕生來鴨
 初句はアサミドリニとニを補ひて心得べし。ソメカクは此歌にては染めて懸くる(1925)事なり。但後の歌にソメカク、オリカクなど云へるにはカクの意失はれてただ染め出す意、おり出す意ときこゆるもあり○以上二首又二首下なる歌の結句、目生來鴨とある目は自の誤ならむ
 
1848 山のまに雪はふりつつしかすがにこの河楊《カハヤギ》はもえにけるかも
山際爾雪者零管然爲我二此河楊波毛延爾家留可聞
 カハヤギといふべき事ははやく卷九(一七二三頁)にいへり
 
1849 山のまの雪はけざるを水飯〔左△〕合《ミナギラフ》川之副〔左△〕者《カハノヤナギハ》もえにけるかも
山際之雪不消有乎水飯合川之副者目〔左△〕生來鴨
 略解に第三句の飯を激の誤としてミナギラフとよみ、古義には
  飯は激字の誤ならむと岡部氏が云る是はさもあるべし。但しミナギラフと訓るはわろし。霧《キラ》ふ意ならば激字は遠からむ。此はタギチアフと訓べし。一卷に珠水激タキノミヤコハとある珠も隕字の誤にてオチタギツと訓べければ相例すべし
といへり。案ずるにタギチアフは寒げにきこえてこゝにふさはず。水殺合の誤とし(1926)てミナギラフとよむべし。ミナギラフは水煙の立つ事なり(卷七【一四六三頁】參照)。殺をキリに借れる例は卷四(七六七頁)に横殺雲之《ヨコギルクモノ》、卷十二に殺目山《キリメヤマ》とあり○弟四句を舊訓にカハノソヘレバとよめれど副は春滿のいへる如く楊の誤なるか又は柳の誤ならむ。さればカハノヤナギハとよむべし、〇代匠記に『此は右の歌の作者二首にて意をいひはたすなり』といひ略解に『右の歌の問答なるべし』といへるは第四句をカハノタグヘバ、カハノソヘレバとよみて柳といふことを前の歌に讓れりと見たるよりの誤なり
 
1850 あさなさなわがみる柳うぐひすの來居てなくべき森にはやなれ
朝且〔左△〕吾見柳鶯之來居而應鳴森爾早奈禮
 若木の柳をよめるなり。且は旦の誤なり
 
1851 青柳のいとの細紗《クハシサ》、春風にみだれぬいまにみせむ子もがも
青柳之絲乃細紗春風爾不亂伊間爾令視子裳欲得
 第二句を舊訓にイトノホソサヲとよめるを古義にイトノクハシサとよみ改めた(1927)り。古義に從ふべし。クハシサはウルハシサなり○ミダレヌ伊マニの伊は例の助辭なり卷七(一四二七頁)なる花マツ伊マニナゲキツルカモの伊におなじ○結句の意は妹ニ見セマホシといはむに同じ(卷八【一五三九頁】參照)
 
1852 (ももしきの)大宮人のかづらけるしだり柳はみれどあかぬかも
百磯城大宮人之※[草冠/縵]有垂柳者雖見不飽鴨
 カヅラケルは※[草冠/縵]ニシタルとなり
 
1853 梅の花とりもちみればわがやどの柳の眉しおもほゆるかも
梅花取持見者吾屋前之柳乃眉師所念可聞
 旅にてよめるなり○ヤナギノマユは柳の芽なり。漢語にては柳眼といふ。開くるものなるによりて眉にたとへ眼によそふるならむ。代匠記に『柳ノマユは妻を兼て云なるべし』といひ古義に『妻の美貌を思ひ出る意は言外にあるべし』といへるは共に非なり。ただ旅中にて梅花を折りて故郷の柳も今かもゆらむと思遣れるのみ。卷十九に
  春の日にはれる柳をとりもちてみればみやこの大路おもほゆ
(1928)とあり。參照すべし
 
    詠花
1854 うぐひすのこづたふ梅のうつろへばさくらの花の時かたまけぬ
鶯之木傳梅乃移者櫻花之時片設奴
 ウツロヘバはこゝにては散方ニナレバとなり。時カタマケヌは時チカヅキヌといふ意とおぼゆ
 
1855 さくら花時はすぎねどみる人の戀盛《コヒノサカリ》と今しちるらむ
櫻花時者雖不過見人之戀盛常今之將落
 戀盛を舊訓にコヒノサカリとよめるを略解にコフルサカリに改めたり。コフルとよまむにミルとコフルと同格かさなりて心ゆかねばなほ舊訓に從ふべし。さてコヒノサカリとはメヅル盛なり
 
1856 我刺《ワガサシシ》やなぎの絲をふきみだる風にか妹が梅のちるらむ
我刺柳絲乎吹亂風爾加妹之梅乃散覧
(1929) 我刺を舊訓にワガカザスとよめるを略解古義にワガサセルに改めて略解に
  集中刺柳ともよみて柳は枝を地に刺てよく生たつものなれば、かくいへり
と云へり。ワガサシシとよむべし。古義に
  九卷に妹ガ手ヲトリテヒキヨヂウチタヲリ君刺可《キミガサスベキ》花サケルカモとあれば云々
といへれどこは通本に吾刺可とあるを宣長の説に從ひて吾を君の誤として引きたるにてその吾刺可は吾頭刺可の頭をおとせるにてワガカザスベキとよむべき事彼卷(一六九四頁)にいへる如し。されば今の例には引くべからず○イモガ梅は妹ガ宿ノ梅なり
 
1857 年のはに梅はさけども(うつせみの)世の人|君〔左△〕《ワレ》し春なかりけり
毎年梅者開友空蝉之世人君羊蹄春無有來
 トシノハは毎年なり。君は吾の誤ならむ。契沖はやく『君は吾を書誤れる歟』といへり。さて世人吾とは世ノ人ナル吾となり
 
1858 うつたへに鳥ははまねどしめはへてもらまくほしき梅の花かも
(1930)打細爾鳥者雖不喫繩延守卷欲寸梅花鴨
 ウツタヘニはヒタスラニなり。專なり(六四六頁及八二四頁參照)。二三の間に大切ニオボユルママニといふことを補ひて聞くべし
 
1859 馬〔左△〕並而《オシナベテ》高山部乎《タカヤマノヘヲ》しろたへににほはしたるは梅の花かも
馬並而高山部乎白妙丹令艶色有者梅花鴨
 初二を舊訓にウマナメテタカキヤマベヲとよめり。さて契沖は馬ナメテをタカキの枕辭とせり。宣長は馬を忍の誤としてオシナベテとよめり。宣長の説に從ふべし○第二句の舊訓は先哲皆之を是認したれど高きは山にて山邊にあらねばタカヤマノヘとこそいふべけれ、タカキヤマベとはいふべからず○略解には
  梅は櫻の字の誤なるべし。梅はもと吾御國の木ならねば高山におのづから生るはなき也
といへるに從ひて古義にもサクラバナカモとよめるは第二句の誤訓と誤解とに基づけるなれば論ずるに足らず。もとのままにてウメノハナカモとよむべし○第四句を略解古義にニホハセ〔右△〕タルハとよめるは非なり。ニホハスは卷一(一一〇頁)に(1931)キシノハニフニニホハ散マシヲとありて四段活なればニホハシタルハとよむべし
 
1860 花さきて實はならねどもながきけにおもほゆるかもやまぶきの花
花咲而實者不成登裳長氣所念鴨山振之花
 ナガキケは長日月といふこと、オモホユルはシノバルルなり○略解に
  按に此歌女のうけひきていまだ逢はぬをそへたる譬喩歌なるがまぎれて入たるなるべし
といへる如し○さて山吹の一重なるは實を結ぶものなればこゝにいへるは八重山吹ならむ
1861 能登河のみな底さへにてるまでに三笠の山はさきにけるかも
能登河之水底并爾光及爾三笠之山者咲來鴨
 能登川は春日山の渓間より出づる小流なり。第四句は三笠ノ山ノ花ハといふべきを略せるなり。此格集中におほし
 
(1932)1862 雪みればいまだ冬なりしかすがに春霞たち梅はちりつつ
見雪者未冬有然爲蟹春霞立梅者散乍
 卷九にも
  妹が門いりいづみ河のとこなめにみゆきのこれりいまだ冬かも
とあり
 
1863 こぞ咲〔左△〕之《ウヱシ》久〔左△〕木《ワカキ》今さくいたづらに土にや將墮《オチム》みる人なしに
去年咲之久木今開徒土哉將墮見人名四二
 略解に
  久は冬の字の誤にてフユキなるべし。……また之久木(ノ)三字左久樂の誤にてコゾサケルサクライマサクか。いづれにも久木には有まじき也と翁(○眞淵)いはれき
といひ、古義には久木を足氷《アシビ》の誤とせり。案ずるに咲は殖、久は若の誤にてコゾウヱシワカキイマサクならむ。卷八に
(1933)  こぞの春いこじてうゑしわがやどの若樹の梅は花さきにけり
とあり○將墮を古義にチラムとよみたれどなほオチムとよむべし
 
1864 (あしひきの〕山間〔日が月〕《ヤマノマ》てらすさくら花この春雨に散去鴨《チリユカムカモ》
足日木之山間照櫻花是春雨爾散去鴨
 山間を舊訓にヤマノマとよめるを古義にヤマカヒに改めて
  ヤマカヒと訓べし。ヤマノマとよむはひがごとなり。ヤマノマならば山際とかく例なり。十七に夜麻可比ニサケルサクラヲとあるに同じ
といへれどヤマノマ即山の峡にあらずや。なほヤマノマとよむべし○結句は舊訓にチリユカムカモ、略解にチリヌラムカモ、古義にチリニケルカモとよめり。チリユカムカモ又はチリイナムカモとよむべし
 
1865 (うちなびく)春さりくらし山のまの最〔左△〕《トホキ》木末之《コヌレノ》咲往《サキユク》みれば
打靡春避來之山際最木末之咲往見者
 卷八に
(1934)  うちなびく春きたるらし山のまの遠木末乃開往みれば
とあり。略解に今の歌の第四句をトホキコヌレノとよめるは卷八の歌に據れるなり。之に對して訓義辨證下卷(二二頁)に
  最(ノ)字に遠の意ある事なし。最の俗字※[うがんむり/取]と叢の古宇※[わがんむり/取]と相似たれば漢土にてもはやくより誤りて最を叢の義に用ゐたり。されば最木末は叢木末の誤としてシゲキコヌレ又はシゲキガウレとよむべし(○採要)
といへり。最を遠の誤字としてトホキコヌレノとよむべし○こゝの咲往をも、卷八の開往をも略解にサキヌルとよめれどサキユクとよむべき事彼卷(一四八七頁)にいへる如し
 
1866 きぎしなく高圓邊〔左△〕《タカマトノヌ》にさくら花|散流歴《チリテナガラフ》、見《ミル》人もがも
春※[矢+鳥]鳴高圓邊丹櫻花散流歴見人毛我裳
 第四句は舊訓にチリナガラフルとよめるを古義にチリテナガラフに改めたり。之に從ひて第四句にて切りて心得べし。ナガラフは空より物の降るをいふ。はやく上(一九一〇頁)にいへり○見人を略解古義にミムヒトとよめり。ミムとよまむはあし(1935)からねどこゝをミムとよまば、上(一九三二頁)なる見人名四二、次なる見人無二もミムヒトとよむべきなり○高圓邊は高圓野の誤ならむ
 
1867 阿保山の佐宿木〔二字左△〕花《サクラノハナ》はけふもかもちりみだるらむみる人なしに
阿保山之佐宿木花者今日毛鴨散亂見人無二
 阿保山は佐保村なる不退寺の丘陵なりといふ○佐宿木は舊訓にサネキとよめるを略解に作樂の誤としてサクラノとよめり。げに誤字にてはあるべし
 
1868 かはづなく吉野の河の瀧の上の馬醉之花曾《アセミノハナゾ》、置末〔左△〕勿勤《ツチニオクナユメ》
川津鳴吉野河之瀧上乃馬醉之花曾置末勿勤
 馬醉を舊訓にツツジ、略解古義にアシビとよめり。宜しくアセミとよむべし(卷二【二二〇頁】參照)○略解に
  結句いかにとも解がたく訓もよしなし。古今六帖にアセミノ花ゾ手ナフレソユメと有を思へば置は觸の字の誤、末は手の字の誤にして手ナフレソユメと訓んか。あしびの花を愛て手ナ觸ソとよめる也と翁いはれき。宣長云。花曾の曾のこと(1936)ば聞えず。曾は者の誤なるべし。又勿云々曾といひてユメといへる例なし。ユメと云時は必云々|勿《ナ》といふ例也。六帖は改めて入れたるもの也。又或人は末は土の誤にてツチニオクナユメと訓べしといへるよしいへり。猶考べし
といひ、古義に
  大神眞潮翁の説に末は土の誤なり。ツチニオクナユメと訓べしといへり。是よろし
といひ、又
  本居氏『曾の詞聞えず。曾は者の誤なるべし』と云り。信にさもあるべし。アシビノハナハとよむべし
といへり。案ずるに曾を聞えずといへるは千慮の一失なり。末を土の誤としてアセミノハナゾ、ツチニオクナユメとよみて
  こは吉野川の瀧の上より折來たるあせみの花ぞ、ゆめ直土《ヒタツチ》に置くな、大切にせよ
といふ意とすべし。卷五に
  ことどはぬ木にもありともわがせこが手馴の御琴つちにおかめやも
(1937)といふ歌あり。參照すべし
 
1869 春雨にあらそひかねてわがやどの櫻の花はさきそめにけり
春雨爾相爭不勝而吾屋前之櫻花者開始爾家里
 アラソヒカネテはスマヒカネテなり
 
1870 春雨はいたくなふりそさくら花いまだみなくにちらまくをしも
春雨者甚勿零櫻花未見爾散卷惜裳
 
1871 春去者《ハルサラバ》ちらまくをしき櫻〔左△〕花《ウメノハナ》しばしはさかずふふみてもがも
春去者散卷惜櫻花片時者不咲含而毛欲得
 初句を三註共にハルサレバとよみたれどチラマクと照應したるなればハルサラバとよむべし○第三句は幽齋本に梅花とありとぞ。契沖は
  腰句は第八にも梅ノ花サクフフメラズシテ、フフメリトイヒシ梅ガ枝などよめるを思ふに赤人集を證として幽齋本に付べきにや(○赤人集にハルサメニチラマクヲシキウメノ花シバシサカエムヲシミテシガナとあるをいへるにや)
(1938)といひ略解古義には字のまゝにサクラバナとよみて註に『櫻一本梅に作る』とのみあり。案ずるにハルサラバ散ラマクヲシキとあるを思へば冬よりさきたるなり。冬よりさきたるなれば櫻花にあらで梅花なる事明なり○フフミテモガモはツボミテモアレカシとなり
 
1872 見わたせばかすがの野べに霞たちさきにほへるは櫻花かも
見渡者春日之野邊爾霞立開艶者櫻花鴨
 
1873 いつしかも此夜の明けむうぐひすのこづたひちらす梅の花みむ
何時鴨此夜之將明鶯之木傳落梅花將見
 初二はハヤ此夜ノ明ケヨカシとなり
 
   詠月
1874 春がすみたなびくけふの暮三伏一向夜《ユフヅクヨ》、不穢照良〔左△〕武《キヨクテリナム》、高松《タカマツ》の野に
春霞田菜引今日之暮三伏一向夜不穢照良武高松之野爾
 第三句の暮三伏一向夜を舊訓にユフヅクヨとよめり。されば三伏一向はツクに當(1939)れるなり。此類と見べきは卷十三なる長歌にスガノネノ、ネモ一伏三向凝呂爾《コロゴロニ》ある一伏三向なり。又卷十二に梓弓未中一伏三起とあるを舊訓にスヱナカタメテとよみたれど宣長の説に從ひてスヱノナカゴロとよむべし。一伏三起は一伏三向と異ならざればなり。さて三伏一向をツクとよみ一伏三向又は一伏三起をコロとよむは如何なる故か。箋註倭名抄樗蒲の註に
  皇國爲ス所ノ樗蒲其詳ヲ得ル能ハズト雖然モ其采蓋四木ヲ用フルナリ。故ニ萬葉ニ折木四、切木四並ニ加里ト訓メリ。又三伏一向ヲ都久ト訓ミ一伏三向ヲ古路ト訓ミ一伏三起ヲ多米ト訓ムハ當ニ是鄭チテ得ル所ノ采名ナルベシ
といへり(一伏三起をタメとよむが非なる事は上にいへり。又美夫君志卷二別記附録にツクをもコロをも采の名とせずして樗蒲其物の名とせるは從はれず)。畢竟カリといふ博奕に四箇の木片を擲ちて三つ伏し一つ仰ぎたるをツクといひ一つ伏し三つ仰ぎたるをコロといひしよりツクの借字に三伏一向と書きコロの借字に一伏三向又は一伏三起と書けるなり(卷六【一〇五八頁】參照)。十訓抄中卷に
  御門(○嵯峨帝)一伏三仰不來待云々とかゝせ給ひて是をよめとて給はせけり。(1940)月ヨニハコヌ人マタル云々とよめりければ御氣色なほりにけりとなん。……
  わらはべのうつむきざい〔六字傍点〕といふ物に一つ伏して三あふぬけるを月よ〔二字傍点〕と云也
といへるは三伏一仰を誤れるにや○高松之野は即高圓(ノ)野なり。之について略解に
  都《ツ》と登《ト》と通へば松をマトの假字にかりたり
といひ古義に
  高松はタカマトと訓べし。松は言を轉して借用る例なり
といへれどマトに假るべき字なくばこそあらめ、圓とも麻登ともいかやうにも書かるべきを物遠く松をマトに借用ひむやは。當時タカマトをタカマツとも(ミモロ、マキモクをミムロ、マキムクともいひし如く)いひし故に高松と書けるにこそ○第四句を從來キヨクテルラムとよみたれどこは卷一に
  わたつみのとよはた雲にいり日さしこよひのつく夜あきらけくこそ
とある如く、歌よみしは晝の程にて夜の樣を豫想せしなればテラムとはいふべくテルラムとはいふべからず。されば良を奈の誤としてキヨクテリナムとよむべし
 
(1941)1875 春されば紀之〔二字□で圍む〕|許能暮之《コノクレオホミ》〔左△〕ゆふづくよおぼつかなしも山陰にして
    一云はるされば木陰多《キノカゲオホミ》ゆふづくよ
春去者紀之許能暮之夕月夜欝束無裳山陰爾指天 一云春去者木陰多暮月夜
 コノクレは樹陰なり。卷八にも
  ほととぎすおもはずありきこのくれのかくなるまでになどかきなかぬ
とあり。木ノコノクレといふ語はあるべくもあらず。されば第二句は許能暮多とありしを誤れるならむ。又一本の木陰多を從來コガクレオホキとよみたれどまづコガクレは後世こそあれ本集の語例に據れば木ニ隱レテといふことにて樹陰といふことにあらず。されば木陰はキノカグとよむべし○次にキノカゲオホキとよまむにユフヅクヨにつづきて義通せず。されば木陰多はキノカゲオホミとよむべし○オボツカナシはタドタドシなり
 
1876 (朝霞〔二字左△〕《カスミタツ》)春日の晩者《クレハ》このまよりうつろふ月をいつとか待たむ
(1942)朝霞春日之晩者從木間移歴月乎何時可將待
 略解に
  宣長云。一二の句は春日の朝に霞みてくらきを云。クレの詞はコノクレなどいふに同じ。さて其朝霞ノクラキ時分ハといふ意也。朝霞のくらき時分より夜までのまち久しきよし也といへり。此クレの詞を日の暮の事としては一首解がたし。クレハのハを濁るはわろし
といへり。案ずるに初句は霞立の誤としてハル日の枕辭とすべく晩者はクレハとよみてユフ暮ハの意とすべし。又二三の間〔日が月〕に木ノ陰シゲケレバといふことを補ひて心得べし○コノマヨリウツロフ月の語例は卷十一に
  木間〔日が月〕よりうつろふ月の影ををしみたちもとほるにさよふけにけり
とあり。古今集秋上なる
  木間〔日が月〕よりもりくる月の影みればこころづくしの秋は來にけり
と語勢相似たればコノマヨリウツロフはやがて木間〔日が月〕ヨリモリクルといはむにひとしからむ○イツトカマタムは何時ウツロハムトカ待タム、嗚呼待遠ナルカナと(1943)なり
 
   詠雨
1877 春の雨にありけるものをたちかくり妹が家ぢに此日くらしつ
春之雨爾有來物乎立隱妹之家道爾此日晩都
 妹ガイヘヂは妹ガ家ニユク道なり。村雨ナラヌ春雨ナルモノヲ雨避《アマヨケ》ストテ途中ニテ日暮ニ及ビヌとなり
 
   詠河
1878 今ゆきてきくものにもがあすか川はるさめふりてたぎつ湍音《セノオト》乎〔□で圍む〕
今往而※[米/耳]〔左△〕物爾毛我明日香川春雨零而瀧津湍音乎
 結句は乎を衍字としてタギツセノオトとよむべし。何々ヲ〔右△〕……モノニモガといへる例なければなり。キカム由モガとあらばこそタギツセノトヲとはいふべけれ○※[米/耳]は諸本に聞とあり
 
   詠煙
(1944)1879 かすが野に煙たつみゆをとめらし春野のうはぎつみてにらしも
春日野爾煙立所見娘嬬等四春野之菟芽子採而※[者/火]良思文
 ウハギははやく卷二(三一九頁)に野ノヘノウハギスギニケラズヤとあり。よめ菜の事なり。ニラシモは煮ルラシモとなり。見ルベシを正しくは見ベシといふと同格なり
 
   野遊
1880 かすが野の淺茅が上におもふどち遊《アソビシ》今日《ケフノ》わすらえめやも
春日野之淺茅之上爾念共遊今日忘目八方
 第四句を舊訓にアソブケフヲバ、略解にアソベルケフハ、古義にアソブコノヒノとよめり。ワスラエメヤモに對してヲといふべからざるは論なし。案ずるにアソビシケフノとよむべし
 
1881 春霞たつ春日野をゆきかへり吾はあひみむいや年のはに
春霞立春日野乎往還吾者相見彌年之黄土
(1945) ユキカヘリは往クトテ還ルトテなり。卷六に
  ゆきかへり常にわが見し香椎がた明日ゆ後にはみむよしもなし
 同卷過2敏馬浦1時作歌にもユキカヘリ見レドミアカズとあり○吾ハアヒミムは春日野ヲアヒ見ムといへるなり。卷五(九〇五頁)にも
  春さらばあはむと思ひし梅の花けふのあそびにあひみつるかも
とあり。略解に『相見ンは友ニ相見ン也』といひ古義に『相見は思フ友ドチト〔右△〕共ニ見ムとなり』といへるは非なり。イヤ年ノハニは毎年なり
 
1882 春の野にこころ將〔左△〕述《ヤラム》とおもふどち來之《キタリシ》今日者《ケフハ》くれずもあらぬか
春野爾意將述跡念共來之今日者不晩毛荒粳
 述は遣の誤ならむ。舊訓にもヤラムトとよめり。ココロヤルは思ヲ慰ムルなり。第四句は舊訓に從ひてキタリシケフハとよむべし
 
1883 (ももしきの)大宮人はいとまあれや梅をかざしてここにつどへる
百礒城之大宮人者暇有也梅乎挿頭而此間集有
(1946) ココといへるは野邊なり
 
   歎v舊
1884 ふゆすぎて暖來者《ハルノキタレバ》、年月は雖新有《アラタナレドモ》、人はふりゆく
寒過暖來者年月者雖新有人者舊去
 第二句を從來ハルシキヌレバ又ハルシキタレバとよめり。宜しくハルノ〔右△〕キタレバとよむべし。第四句を舊訓にアラタマレドモとよめるを契沖は
  本の點有〔右△〕の字を忘れたり。アラタナレドモと讀べし
といひ、略解は契沖の説に從へるを古義は舊訓に從へり。アラタマレドモといはでアラタナレドモといへるは漢文訓讀の語法に據れるならむ
 
1885 物皆は新《アラタ》しきよしただ人は舊△之應宜《フリタルヒトシヨロカルベシ》
物皆者新吉唯人者舊之應宜
 第二句は新シキガ佳シとなり。四五を舊訓にフリヌルノミゾヨロシカルベキとよみ略解にフリタルノミシヨロシカルベシとよめり。されどノミとよむべき字無き(1947)が故に雅澄は之の字を耳の誤として舊訓の如くよめり。案ずるにノミといふべき處にあらず。されば舊の下に人の字を補ひてフリタルヒトシヨロシカルベシとよむべし○年老いたる人の自慰めたるにて前の歌と一聯なり
 
   懽v逢
1886 すみのえの里|得〔左△〕《ユキ》しかば(春花の)いやめづらしき君にあへるかも
住吉之里得之鹿齒春花乃益希見君相有香聞
 待は略解にいへる如く行などを誤れるなり。ユキシカバは行キシニなり(卷八【一五〇一頁】參照)○メヅラシキはメデタクオボユルとなり(卷八【一六〇四頁】參照)
 
   旋頭歌
1887 春日なる三笠の山に月もいでぬかも、佐紀山にさける櫻の花の見ゆべく
春日在三笠乃山爾月母出奴可母佐紀山爾開有櫻之花乃可見
 イデヌカモは出デヨカシなり。佐紀山は佐保山の西の山にていにしへの寧樂の北   (1948)に當れり。三笠山は佐紀山より東南に當れり
 
1888 しら雪の常〔左△〕敷《フリシク》冬はすぎにけらしも、春霞たなびく野邊のうぐひす鳴烏《ナクモ》
白雪之常敷冬者過去家良霜春霞田菜引野邊之鶯鳴烏
 常敷は古義に落敷の誤としてフリシクとよめるに從ふべし。卷九(一六八九頁)なるセノ山ニ黄葉常敷の常も宣長雅澄は落の誤とせり。さてフリシクは降頻なり○鳴烏を舊訓にナクモ略解古義にナキヌとよめり。舊訓に從ふべし。烏は焉の俗體なる事又モともよむべき事は卷七(一三五六頁)にいへる如し
 
   譬喩歌
1889 わがやどの毛桃の下〔左△〕《ハナ》に月夜さし下心吉〔二字左△〕《シタオホホシモ》うたてこのごろ
吾屋前之毛桃之下爾月夜指下心吉菟楯頃者
 宣長の説に
  心吉は誤字にて心苦なるべし。上の句は下心をいはん爲の序のみ也。さて下心苦はシタナヤマシモ又はシタニゾナゲクなども訓んか
(1949)といへり。古義は此説に從ひてシタナヤマシモとよみ略解には『シタココログシともよむべくおぼゆ』といへり。案ずるに毛桃之下は毛桃之花〔右△〕の誤とすべく、下心吉は下悒などの誤としてシタオホホシモとよむべし。シタは心なり。上三句は下オホホシの譬喩なり
 
  春相聞
   ○
1890 春日野《カスガヌノ》、犬〔左△〕鶯《トモウグヒスノ》なきわかれかへりますまもおもほせ吾を
春日野犬鶯鳴別眷益間思御吾
 初二を舊訓にカスガノニイヌルウグヒスとよめり。略解には犬を去の誤として訓は通本に從ひ古義には犬を哭の誤としてナクウグヒスノとよめり。又宣長は犬を友の誤として『カスガ野ノトモウグヒスノならん』といへり。類聚古集に友鶯とあれば宣長の説に從ふべし。トモウグヒスのトモは後世友千鳥、友鶴、友船などいふトモ(1950)なり。初二は序なり。即第二句の下に如クといふことを加へて聞くべし。三四の意はナキ別シテ歸リマス途中モとなり○以下無題七首は人麿歌集に出でたりし歌なり
 
1891 冬ごもり春さく花をたをりもち千たびのかぎりこひわたるかも
冬隱春開花手折以千遍限戀渡鴨
 冬ゴモリはここなどは枕辭とせずして冬ゴモリシテの意とすべし○略解に
  花のいくたびもあかずめでらるゝ如く君を戀るといふ也
といへるはもとよリ採り難し。古義には
  咲花を折持て或は女に見せたく思ひ或は共にかざしたく思ひなどして際しられず戀しく思ひて月日を送る哉となり
といへり。此説に從ふべし。但『月日を送る哉』といへるはこちたし。コヒワタルといひたればとてさばかり長き時を指せるにあらず
 
1892 春山の霧にまどへる鶯も我にまさりて物念はめや
(1951)春山霧惑在鶯我益物念哉
 代匠記及略解にこの霧を霞の事としたれど鶯のわびたる趣なれば霞にてはふさはず。靄の事なるべし
 
1893 いでてみるむかひの崗に本繁《モトシゲミ》さきたる花〔左△〕《モモノ》ならずばやまじ
出見向崗本繁開在花不成不止
 第三句は從來モトシゲクとよみたれどモトシゲクにてはサキタルにつづきて意通ぜざればモトシゲミとよむべし。又花ノナルといふことなし。されば宣長は花を桃の誤字とせり。そは卷七に
  はしきやしわぎへの毛挑もとしげみ花のみさきてならざらめやも
とあるに據れるなり○上四句はナルの序にて一首の意は願フ事成ラズバ止マジといへるのみ
 
1894 かすみたつ春永日《ハルノナガビヲ》こひくらし夜深去妹相鴨《ヨノフケユキテイモニアヘルカモ》
霞發春永日戀暮夜深去妹相鴨
(1952) 第二句を舊訓にハルノナガビヲとよめるを古義に卷一軍王の歌(一二頁)にカスミタツ長春日ノとあるを例として永春日《ナガキハルビ》の誤とせり。卷十二にカスミタツ春(ノ)長日ヲオクカナク云々とあればもとのまゝにてあるべし○宣長(玉勝間卷十三)は四五をヨノフケユクヲイモニアハヌカモとよめり。相鴨をアハヌカモともよむべき事は卷四(六二七頁)にいへる如くなれどヌカモにはセヌカナの意なるとセヨカシの意なると二種ありて不の字の無きヌカモはセヨカシの方なり。さてこゝなるをセヨカシの意とせむにヨノフケユクヲイモニアハヌカモとは云はれねば略解古義の如くヨノフケユキテイモニアヘルカモとよみて四五の間に始メテといふことを補ひて心得るか又は相鴨を不相鴨の脱字としてヨノフケユクヲ妹ニアハヌカモとよみてアハヌカナの意とすべし
 
1895 (春さればまづ)さきくさのさきくあらば後にもあはむなこひそ吾妹
春去先三枝幸命在後相莫戀吾味
 春サレバマヅの七言はサキクサにかゝれる枕辭にて春サレバマヅサクサキ草ノといふべきをつづめたるなり。而して花といはざるを見ればそのサクは生ふる事、(1953)萠ゆる事と認むべきなり。本集には生をサキとよめる例少からざる事古義卷七(六十九丁)にいへるが如し(本書一四一六頁に引けり)。さてサキクサは如何なるものとも未定まらず。三枝とかけると、サキ草といふと、今の歌に春サレバマヅサキクサノとあるとによりて三叉を成せる草にて春初に萠ゆるものと知らるるのみ。古來檜又山百合又蒼朮又三椏又靈芝又沈丁花又福壽草なりなどいへれどいづれもうべなひがたし。案ずるにサキクサは今のミツバ即三葉芹ならむ。而して催馬樂の歌に
  この殿はうべもとみけりさきくさのみつばよつばのなかに殿づくりせり
とあるサキクサノはただ三ツにかゝれるにはあらでミツバまでかゝれる枕辭ならむ
 
1896 春されば爲垂《シダル》柳のとををにも妹が心にのりにけるかも
春去爲垂柳十緒妹心乘在鴨
    右柿本朝臣人麿歌集出
 第二句を舊訓にシダリヤナギノとよめるを古義にシダルヤナギノに改めたり。之に從ふべし。初二はトヲヲにかゝれる序にてトヲヲニは撓ムバカリといふ意にて(1954)こゝにては乘の形容辭なり。妹ガ心ニノルとは妹ガ此方ノ心ニ乘ルとなり。當時いひなれし一種の辭づかひなり。はやく卷二にも
  あづま人ののざきのはこの荷の緒にも妹がこころにのりにけるかも
とあり。下にも多し
 
   寄鳥
1897 春さればもずの草ぐき見えずとも吾は見やらむ君があたりは
春之在者伯勞鳥之草具吉雖不所見吾者見將遣君之當婆
 モズノ草グキは百舌鳥ノ草クグリなり。初二はミエズにかゝれる序なり。上三句の意は春ニナレバ草ガ萠エテモズノ草グキガ見エザル如ク見エズトモとなり○第三句以下は君ガアタリハココヨリ見エズトモ我ハ心アテニソノアタリヲバ見ヤラムといへるなり
 
1898 かほ鳥のまなくしばなく春の野の草根のしげき戀もするかも
容鳥之間無數鳴春野之草根之繁戀毛爲鴨
(1955) 草根ノまでは序なり
 
   寄花
1899 春されば宇△乃花具多思〔三字左△〕《ウメノハナウツリ》わがこえし妹が垣間はあれにけるかも
春去者宇乃花具多思吾越之妹我垣間者荒來鴨
 第二句を從來字のまゝにウノハナグタシとよみ其語例として卷十九なるウノ花ヲ令腐《クタス》ナガメノといふ歌を引けり。さて略解には此歌を釋して
  卯花垣を忍越ゆとて其花を散しなどせしが久しく通はずして某所の荒たるさまを見てよめる也
といへり。卯花は夏の物にて春の物にあらねば春サレバ卯ノ花グタシとはいふべからず。まして其卯花をとかくせしことを久しき後に思出でてよめる歌を春相聞には入るべからず。又卯花を散らしなどする事をクタスとはいふべからず。次に古義には
  わがこえし妹が垣間は春されば字乃花具多思あれにけるかも
と句の次第を更へてきくべしといひて
(1956)  わが親しく通ひなれて常に越て來し妹が家の垣間は此ごろわが遠ざかりて來ざりしかばたださへあるに卯花を雨に腐らしなどいやましにあれまされるかなと云か
といへり。即歌よみし時を卯花の朽つる時とせるなり。前にもいへる如く春サレバ卯ノ花クタシといふべからぬ上に卯花ヲ雨ニ腐ラシといふことをただウノ花クタシといふべきにあらず。案ずるに宇乃花は略解に引きて斥けたる或説の如く宇米乃花の米をおとしたるにて具多思は有都里などありしを誤れるならむ。即原作は
  春されば梅の花うつりわがこえし妹が垣間はあれにけるかも
とありしならむ。ウツリはウツロヒなり。たとへば卷八に秋山ニモミヅコノ葉ノウツリナバ、古今集春下にハナノ色ハウツリニケリナとあり○こゝの垣間は築地のくづれをいへるならむ。アレニケルカモは殺風景ニナツタデアラウナとなり
 
1900 梅の花さきちる苑にわれゆかむ君が使をかたまちがてり
梅花咲散※[草冠/宛]〔左△〕爾吾將去君之使乎片待香花〔□で圍む〕光
(1957) 卷十八に重出せるにはカタマチ我底良とあり。ガテリはガテラにおなじ。サキチルのサキはただ輕く添へたるなり○※[草冠/宛]ほ苑とあるべし。結句の花は衍字か
 
1901 藤なみのさける春野に蔓葛《ハフカヅラ》、下夜之戀〔左△〕者《シタヨシハヘバ》、久〔左△〕雲在《トモシクモアラム》
藤浪咲春野爾蔓葛下夜之戀者久雲在
 第三句を從來ハフクズノとよみさて略解に『初句は春野をいはん爲のみ』といへれど春野の葛《クズ》をいはむとて添物に藤浪を繰出さむだにあるに其添物によりて寄花の題に収めむこと穩ならず。案ずるに第三句はハフカヅラとよむべし。そのカヅラはやがて藤ノカヅラなり○次に第四句を略解古義にシタヨシコヒバとよみ、さて略解に
  シタヨは下從の意なり。シは助辭なり。葛の下はふを以て下ヨリといはん序とせり
といひ古義にも
  本の句はシタを云む料の序なり
といへれどクズにまれカヅラにまれ下ハフなどの序とこそすべけれ、単に下又は(1958)下ヨリの序とはすべからず。よリて案ずるに下ヨシ戀バは下ヨシ延《ハヘ》バの誤ならむ。古事記仁コ天皇の段に
  やまとへにゆくはたがつまこもりづの志多用波閇都都《シタヨハヘツツ》ゆくはたがつま
とありてシタヨハフは竊に心を通はすをいふ(一八二九頁及一八七一頁シタバフ參照)。されば上三句は下ヨハフにかゝれる序なり○結句の久雲在を略解古義共にヒサシクモアラムとよみたるはわろし。宣長の
  久は乏の誤にてトモシクモアラムなるべし
といへるに從ひてシノビシノビニ心ヲ通ハサバ飽足ラザラムの意とすべし
 
1902 春の野に霞たなびきさく花のかくなるまでにあはぬ君かも
春野爾霞棚引咲花之如是成二手爾不逢君可母
 略解に『ナルは實になるをいふ』といひ古義も之に同じたれど、もし此説の如くならばサクをサキシの意とし又夏相聞に入るべき歌を誤りて春相聞に入れたりとせざるべからず。卷八に
  ほととぎすおもはずありきこのくれの如此成左右爾《カクナルマデニ》などか來なかぬ
(1959)とあると合せて思ふにこゝのカクナルマデニはカク盛ニナルマデといふ意なり
 
1903 わがせこにわがこふらくは奥山の馬醉《アセミ》の花の今盛なり
吾瀬子爾我戀良久者奥山之馬醉花之今盛有
 コフラクハは戀フル事ハとなり。三四は序なり。アセミノ花ノ如クといふ意なり。卷三に
  あをによしならのみやこはさく花のにほふがごとく今さかりなり
 卷八にも
  つばなぬく淺茅が原のつぼすみれ今さかりなりわがこふらくは
とあり
 
1904 梅の花しだり柳にをりまじへ花〔左△〕爾《ブツニ》たむけば君にあはむかも
梅花四垂柳爾折雜花爾供養者君爾相可毛
 第四句の花爾は花トシテの意ときかれざるにもあらねど初句のウメノ花とかさなればなほ誤字とすべし。さて略解には
(1960)  或人花は神の誤也といへり。さも有べし
といへれど仏の誤として音にてブツとよむべし。タムケバを供養者とかけるも佛なればこそなれ
 
1905 (をみなべし)さき野におふるしらつつじ知らぬ事もちいはれし吾背〔左△〕《ワガミ》
姫部思咲野爾生白管自不知事以所言之吾背
 ヲミナベシはサキ野の枕辭、サキ野は佐紀野にていにしへの寧樂の北にあり。卷四にも
  をみなべしさき澤におふる花がつみかつてもしらぬ戀もするかも
とあり○上三句は序なり。シラヌ事はオボエナキ事なり。略解古義にイハレシヨといひて男に訴ふる意としたれどイハレシ吾背とつづきて聞え、イハレシにて切れては聞えず。おそらくは吾身とありしを吾背に誤れるならむ。卷十三に
  ひこづらひ、ありなみすれど、いひづらひ、ありなみすれど、ありなみえずぞ、いはれにし我身
とあり。イハレシはイヒ騷ガレシなり
 
(1961)1906 梅の花吾はちらさじ(あをによし)平城之〔左△〕人《ナラナルヒトノ》、來つつ見るがね
梅花吾者不令落青丹吉平城之人來管見之根
 チラサジはこゝにては大切ニ保護セムとなり○第四句を舊訓にナラナル人ノとよみたれど之の字にてはナルとよみがたきによりて略解に
  人の上在の字を脱せしか又は之は在の誤かなるべし
といへり。ミルガネは見ル爲ニなり○略解に又
  按にただ梅花を奈良人に見せんとのみいふ樣に聞ゆれどこゝのついで皆相聞なればさにはあらじ。奈良人の我娘にすむべきよし有て娘を梅にたとへて其人の來りすむまでは他し人に逢はせじといふ意なるべし
といへり。此説の如し。譬喩歌なればこそウメノ花ワレハチラサジといへるなれ。まことの梅花は開落を心に任すべきにあらず
 
1907 如是有者〔左△〕《カクナルニ》何如《ナニカ》うゑけむ(山ぶきの)やむ時もなくこふらくおもへば
如是有者何如殖兼山振乃止時喪哭戀良苦念者
(1962) 初句を舊訓にカクシアラバとよみ、略解にカクシアレバとよみ、古義にコトナラバよめり。アラバ、ナラバと未來にいひてウヱケムと過去にはいふべからず。カクシアレバとよめる、はた何如ウヱケムと打合はず。又何如は略解古義にイカデとよめれど當時いまだイカデといふ語は無ければナニカとよむべし(一七七二頁參照)。さてナニカウヱケムと相副はしむるにはコトナルヲ、コトナルニ、カクナルヲ、カクナルニなどいはざるべからず。しばらく者を煮の誤としてカクナルニとよむべし。カクナルニの語例は卷一(二六頁)に神代ヨリカクナルラシ、イニシヘモ、シカナレコソとあり○ヤマブキはヤム時モナクにかゝれる枕辭にて又一首の對象物なり。一首の意は
  山吹ノ花ヲ見レバ止ム時モナク妹ノ戀ヒラルル事ヨ、カカルヲイカデ此花ハ植ヱケム
といへるなり。山吹は卷十九に
  妹に似る草とみしよりわがしめし野邊の山吹たれかたをりし
とさへよめり
 
(1963)   寄霜
1908 春されば水草《ミクサ》の上におく霜のけつつも我はこひわたるかも
春去者水草之上爾置霜之消乍毛我者戀度鴨
 上三句は序なり。水草について契沖は
  水は只借てかける歟。春になりてもまだ霜のふる比は水草はなき物なり
といひ略解には『ミクサは眞草也』といひ古義には『水草は字の如く水に生たる草なり』といへり。卷八に
  秋づけば尾花が上におく露のけぬべくも吾《ワ》はおもほゆるかも
 又下に
  秋づけば水草の花のあえぬがにおもへど知らじただにあはざれば
とあるを思へば水と書けるを借字として卷一なるアキノ野ノ美草カリフキのミクサとおなじく薄の事とすべし○ケツツは心消エツツなり
 
   寄霞
(1964)1909 春霞〔左△〕《ハルヤマニ》、山〔左△〕棚引《カスミタナビキ》おほほしく妹をあひみて後こひむかも
春霞山棚引欝妹乎相見後戀※[毛三つ]
 初二を契沖がハルガスミヤマニタナビキとよめるを古義には春山霞棚引の誤としてハルヤマニカスミタナビキとよめり。卷十一にカグ山ニ雲ヰタナビキオホホシクとあれば古義の説に從ふべし○オホホシクは漠然トなり。アヒ見テはただ見テといはむにひとし。相寢る意にはあらず
 
1910 春霞たちにし日よりけふまでにわがこひやまず本〔左△〕之繁家波〔左△〕《コヒノシゲケク》
     一云かたもひにして
春霞立爾之日從至今日吾戀不止本之繁家波 一云片念爾指天
 結句は戀之繁家玖などの誤ならむ。もし然らばコヒノシゲケクとよみて戀ノ繁カルニといふ意とすべし(一六六五頁參照)
 
1911 (さにづらふ)妹をおもふと霞たつ春日|毛〔左△〕《ノ》晩爾《クレニ》こひわたるかも
佐丹頬經妹乎念登霞立春日毛晩爾戀度可母
(1965) サニヅラフは准枕辭なり○第四句を從來ハルビモクレニとよめり。さテクレニは宣長の説に
  齊明紀の歌にウシロモ倶例尼《クレニ》オキテカユカムとあるクレニに同じく心のはれぬ事也
といへり。案ずるに齊明天皇の御製歌なるウシロモクレニは熟語にてウシロメタクといふことなれば今の例には引くべからず。今は春日能〔右△〕晩爾などありし能を毛に誤れるならむ。上(一九四一頁)にも朝霞《カスミタツ》春日之晩者とあり
 
1912 (靈〔左△〕寸春〔左△〕《ハシキヨシ》)吾山〔左△〕之於爾《ワギヘノウヘニ》たつ霞、雖立雖座《タツトモウトモ》、君がまにまに
靈寸春吾山之於爾立霞雖立雖座君之隨意
 初二もとのまゝならばタマキハルワガヤマノウヘニとよみてタマキハルを枕辭とすべし。宣長(記傳二二一二頁)は吾山を春山の誤としたれどタマキハルより吾にも春にもかゝれる例なし。案ずるに吾山は吾家《ワギヘ》の誤ならむ。袖中抄に此歌を引けるにワガヤとあり又卷九に
  ぬばたまの夜霧ぞたてるころも手をたか屋の於《ウヘ》にたなびくまでに
(1966)とあり。次に靈寸春は愛寸吉《ハシキヨシ》の誤ならむ。卷七(一四二六頁)に波之吉也思《ハシキヤシ》吾家乃毛桃《ワギヘノケモモ》また景行天皇紀に波辭枳豫辭和藝幣能伽多由《ハシキヨシワギヘノカタユ》とあり。されば初二はハシキヨシワギヘノウヘニとよむべし○弟四句は略解に從ひてタツトモウトモとよむべし。ヰルをいにしへウといひしなり。さて四五の意を古義に『立居起臥をいはずとにもかくにも君が心まかせにせむとなり』と釋したれど、もしさる意ならばタツモヰルモとこそいふべけれ。おそらくは去ラムト思ハバ去ルベべク留ラムト思ハバ留ルベクスベテ君ガ心ニ任セタマフベシといふ意ならむ○上三句は序なり
 
1913 見わたせばかすがの野邊に立霞〔二字左△〕《カスミタチ》みまくのほしき君がすがたか
見渡者春日之野邊爾立霞見卷之欲君之容儀香
 略解には
  野邊の霞の見あかぬ如く常に見まほしむ也
といひ古義には
  本(ノ)句は霞の立るけしきの見まほしきとつづきたる序にてかくれたるところなし
(1967)といへり。案ずるに第三句を霞立の顛倒としてカスミタチとよみてカスガノ野ベニ霞タチテ見マホシキガ如ク見マホシキ君ガ姿カといふ意とすべし。上なる
  わがやどの毛桃の花に月夜さし下おほほしもうたてこのごろ
などと同格なり
 
1914 こひつつも今日はくらしつ(霞たつ)明日の春日を如何《イカニ》くらさむ
戀乍毛今日者暮都霞立明日之春日乎如何將晩
 カスミタツは明日ノを隔ててハル日にかかれる枕辭なり。如何を古義にイカデとよめるはわろし。イカニとよむべし
 
   寄雨
1915 吾背〔左△〕子《ワギモコ》にこひてすべなみ春雨のふる別《ワキ》しらにいでてこしかも
吾背子爾戀而爲便莫春雨之零別不知出而來可聞
 略解に『背は妹の字を誤れるならん』といへり。之に從ふべし○ハルサメノフル別シラニとは春雨ノ降ルヲモ辨へズといふ意なり
 
(1968)1916 今更に君〔左△〕《ワレ》はいゆかじ春雨のこころを人の知らざらなくに
今更君者伊不往春雨之情乎人之不知有名國
 略解に
  此歌女の歌としては一首穩ならず。宣長云。君は吾の誤也。さて是も右なると同人の歌にてこれは道中にて思ひ返してよめるなるべし。春雨ノ降ワキヲモシラズ出テハ來ツレドモ今ヨリ又イカニ甚クフルベキモシラレネバコレヨリ歸ルベシ、今更ユカジと也。人ノといへるは雨ノ事ハ人間〔日が月〕ノハカリ知べキナラネバの意也。シラザラナクニはシラザルニ也といへり
といへり。げに君は吾の誤ならむ。但前のと別なる歌なるべし。人ノは妹ノなり。シラザラナクニはシラザルニにあらず、知ラザルニアラヌニにてやがて知レルニなり。春雨ノココロとは春雨の樣子にてふりそむれば速には晴れぬ事なり。古義に宣長の『右なると同人の歌』といふ説に從ひて
  春雨のふるのふらぬのと云差別をもしらず思に堪かねて出で來し情の深さを妹は知らねば來しかひもなし、今更に來ることを吾はせじ、と恨みたるなるべし
(1969)といへるは宣長と同じくイマサラニとあるを聞誤れるなり。今サラニは今ニナツテといふばかりの意なり。されば雨ノフリソメシ頃ニコソユカバ行カメ今ニナツテハ我ハ行カジといへるなり。古義に又
  シラザラナクニはシラザルコトナルヲの意なり。コヒシキコトナルヲと云意なるをコヒシケナクニといふと同例にて古風の一の格なり
といへるはいみじき誤なり。コヒシケナクニといふ辭は無し
 
1917 春雨に衣はいたくとほらめや七日しふらば七夜こじとや
春雨爾衣甚將通哉七日四零者七夜不來哉
 こは前の歌に對する答なり。されば本來下なる問答の中に収むべきなり。略解に『右とはこと時の歌ながら云々』といへるはくちをし。三四の間〔日が月〕にイタクトホリモセネバ來ムト思ハバ來ラルベキニなどいふ意を含めるなり。四五めでたし
 
1918 梅の花ちらすはるさめ多零△《サハニフルヲ》たびにや君がいほりせるらむ
梅花令散春雨多零客爾也君之廬入西留良武
(1970) 第三句を舊訓にサハニフルとよみ略解に『多は痛の草書より誤りてイタクフル歟』といひ古義に『重(ノ)字の誤なるべし』といひてシキテフルとよめり。字のまゝにサハニフルとよみてもあるべけれど、フルヲとあらではタビニヤにつづきてとゝのはず。されば零の下に乎をおとせりと認むべし
 
   寄草
1919 國栖等之《クニスラガ》春菜將採《ハルナツムラム》司馬《シマ》の野の數《シマシマ》君をおもふこのごろ
國栖等之春菜將採司馬乃野之數君麻思比日
 初句を舊訓にクニスラガとよめるを略解にクズラガ或はクズドモガとよめり。案ずるにクニスと假字書にせる例こそみえね國栖、國巣、國主、國※[木+巣]などかけるを見れば、もとはクニスとぞいひけむ。はやく記傳卷十八(一一一七頁)に
  昔より久受と呼來れゝども此記の例、もし久受ならむには國(ノ)字は書くまじきをこゝにも輕島(ノ)宮(ノ)段にも又他の古書にも皆國(ノ)字をかけるを思ふに上代にはクニスといひけむをやゝ後に音便にて久受とはなれるなるべし
といへり○春菜を舊訓及略解にワカナとよめれど字のまゝにハルナとよむべし(1971)(卷八【一四八七頁】參照)○司馬乃野を舊訓にシバノ野、略解にシメノ野とよみたれどシマシマの序としたるを思へば古義に從ひてシマノ野とよむべし。さて略解に將採をツマムトとよめるはツマムトシメといひかけたるものとせるなれど司馬をシメとよむが非なる事今いひし如くなれば將採は舊訓の如くツムラムとよむべし。シマノ野は吉野山中にあり。古義には島之野の意なるべしといへり。此説よろし。川のゆきめぐれる處を島といひし事は卷九(一七六四頁)にいへる如し。數はシマシマとよむべし(從來シバシバとよめり)。上三句はシマシマにかゝれる序なり
 
1920 (春草の)しげき吾戀、大海の方往〔左△〕《ヘニヨル》浪の千重につもりぬ
春草之繁吾戀大海方往浪之千重積
 略解に『往は依の字の誤也』といへるに從ふべし。へを方とかけるは無論借字にてへは岸なり。三四は序なり
 
1921 おほほしくきみをあひみて(すがの根の)長き春日をこひわたるかも
不明公乎相見而菅根乃長春日乎孤戀〔左△〕渡鴨
(1972) 上(一九六四頁)にもオホホシク妹ヲアヒミテ後コヒムカモとあり。戀は悲の誤か
 
   寄松
1922 梅の花さきてちりなばわぎもこを來むか來じかとわがまつの木ぞ
梅花咲而落去者吾妹乎將來香不來香跡吾待乃木曾
 こは句をも辭もおきかへて
  梅の花さきてちりなば來じか來むかと我妹子をわがまつの木ぞ
として心得べし。サキテは例の如く輕く添へたるなり。さて此歌は松の一枝に附けて贈れるなり。さらずばワガマツノ木ゾとはいふべからず。古義に之を釋して『其梅花の散失たらば其跡は松木のみにて見に來べき物もなければ云々』といへるはいみじき誤なり
 
   寄雲
1923 (しらまゆみ今)春山にゆく雲のゆきやわかれむこひしきものを
白檀弓今春山爾去雲之逝哉將別戀敷物乎
(1973) 契沖の説に
  シラマユミはイマを隔てゝハルにかゝれるなり。シラマ弓射とつづけるにあらず
といへる如し。雅澄が
  春山ニ今ユク雲ノと云意なるべし。今の言は下に移して心得る例なり
といへるは非なり。もしさる意ならばハル山ニ今とあるべければなり。今までを枕辭とすべし。今の字は押などの誤にてもあるべし○ハル山ニのニはユ又はヲにかよふニなり。ハル山ヘの意ならばヘとあるべければなり○上三句は序なり。別に臨みてよめる歌なり
 
   野v※[草冠/縵]
1924 ますらを之《ガ》ふしゐなげきて造りたるしだり柳|之《ノ》※[草冠/縵]爲〔左△〕《カヅラゾ》吾妹《ワギモ》
大夫之伏居嘆而造有四垂柳之※[草冠/縵]爲吾味
 マスラヲは作者自言へるなり○フシヰナゲキテを略解に
  柳のかづら造りたるいたづきを強くいふか。又は伏を夜とし居るを晝として夜(1974)晝妹を思ひなげくといふ歟
と釋し古義に
  伏しては嘆き居ては嘆き色々心をつくしてつくりたるしだり柳のかづらぞよ
と釋せり。古義の釋に從ふべし。ナゲクはため息する事にてフシヰナゲキテは所詮根氣ヲ盡シテと云ことなり○結句を舊訓にカヅラセヨワギモ、略解にカヅラセワギモとよみ古義には柳の下の之を曾の誤としてシダリヤナギゾカヅラケワギモとよめり。案ずるに爲を焉の誤としてシダリヤナギノカヅラゾワギモとよむべし
 
   悲v別
1925 朝戸出の君がすがたをよく見ずて長き春日をこひやくらさむ
朝戸出之君之儀乎曲不見而長春日乎戀八九良三
 契沖いはく
  朝戸出ノ云々は明ぬとて戸を押明て別て出るさまなり。夜戸出ノスガタ(○卷十二)ともよめり
といへり
 
(1975)   問答
1926 春山の馬醉《アセミ》の花の不惡《ニクカラヌ》きみにはしゑやよせぬともよし
春山之馬醉花之不惡公爾波思惠也所因友好
 初二は序なり。不惡は舊訓の如くニクカラヌとよむべし。古義にアシカラヌとよめるがわろき事は卷八(一四九一頁)なるサケルアセミノ、ニクカラヌ、君ヲイツシカ、ユキテハヤミムの處にいへる如し○シヱヤは間投詞なり。ヨセヌトモは我ヲタグヘイフトモとなり。略解に
  たとひ人の言依せいひさわぐともよしと也。女の歌也
といへる如し
 
1927 いそのかみふるの神杉かむさびて吾や更更戀にあひにける
石上振乃神杉神備而君八更更戀爾相爾家留
    右一首不v有2春歌1而猶以v和故載2於茲次1
 初二は序、カムサビテは年老イテといふ事なり○第四句を從來フレヤサラサラと(1976)よめり。卷十二に
  我背子が來むとかたりし夜はすぎぬ思咲八《シヱヤ》更更しこりこめやも
といへる例あれどなほ穩ならず。今更の誤か○卷十一にも
  いそのかみふるの神杉かむさびて戀をも我は更にするかも
といふ歌あり○此歌は前の歌の答とはおぼえず。おそらくは前の歌との間〔日が月〕に二首落ちたるならむ○左註の不有は非とあるべきなり
 
1928 狹野方は實にならずとも花耳△《ハナノミモ》さきて見えこそ戀のなぐさに
狹野方波實爾雖不成花耳開而所見社戀之名草爾
 略解に
  此下に沙額田乃野邊ノアキハギともよめればこゝも野の名也。其所の梅桃などもていふ也
といひ古義にも『此下に沙額田乃野邊とあると同所なるべし』といへれどここの狹野方は地名とはおぼえず。もと狹野榛とありて榛の字のよみがたくなれりしを傳寫の際に下に沙額田乃云々とあるよりサヌカタと推定めて方の字を填めたるに(1977)はあらざるか。狹野榛は卷一(三六頁)に見えたり○第三句の花耳を契沖以下ハナノミモとよめり。訓はげに然るべし。但そのモは緊要なるテニヲハなれば母の字をおとせるなりと認めざるべからず○逢フ迄ハナクトモ戀ノ慰ニ辭ダニ通ハセヨといへるなり○此歌は答歌に春雨フリテとあるによりて春相聞に入れたるなり。誤りて所謂狹野方を春、花さくものと思ふべからず
 
1929 狹野方〔左△〕は實になりにしを今更に春雨ふりて花さかめやも
狹野方浪實爾成西乎今更春雨零而花將咲八方
 答歌の方は譬喩ならで狹野方其物につきていへるなり。略解古義共に譬喩と見たれば其釋は當らず〇一首の意はノタマヘル狹野方ハ夙ク實ニナリニシヲ今更春雨フリテ花サカムヤハといへるなり
 
1930 (梓弓)引津の邊なるなのりそ之《ノ》花さくまでにあはぬ君かも
梓弓引津邊有莫告藻之花咲及二不會君※[毛三つ]
 略解には誤りて引津邊有の津の下に野の字を加へたり。卷七(一三六五頁)に
(1978)  梓弓引津の邊なるなのりその花、及採あはざらめやもなのりその花
とありて及採を從來ツムマデニとよめるを採を咲の誤としてサクマデニとよむべき由其歌の處にていひつ。略解に卷七なるといづれかもとならむといへれど旋頭歌の第六句に意義あるを思へば旋頭歌の方もとなる事明なり○第三句の之は略解の如くノとよむべし(舊訓と古義とにはガとよめり)
 
1931 川上のいつもの花のいつもいつも來ませ吾背子、時じけめやも
川上之伊都藻之花之何時何時來座吾背子時自異目八方
 此歌はやく卷四(六二一頁)に出でたり。イツモは群レル藻、イツモイツモはイツニテモ、時ジケメヤモは時ジカラムヤモにて畢竟時ナラザラムヤハなり○右の二首果して問答ならば前の歌は古歌を作更へ後の歌は古歌を借りたるならむ
 
1932 春雨のやまず零零〔左△〕《フリツツ》わがこふる人の目すらを不令相見《アヒミシメナク》
春雨之不止零零我戀人之目尚矣不令相見
 零零を舊訓にフルフルとよめるを宣長は零乍の誤としてフリツツとよみ古義は(1979)舊訓に從へり。今いふフリフリを古くはフルフルといへどそはフリナガラといふ義にてこゝにかなはざる上に答歌にも不止零乍とあれば宣長の誤字説に從ふべし○スラは主語を強むる辭なり(卷九【一七〇四頁】參照)○結句を舊訓にアヒミセザラムとよめるを雅澄はアヒミセナクニに改めたり。宜しくアヒミシメナクとよむべし。アヒミシメナクは相見セヌコトカナと云はむに似たり
 
1933 吾妹子にこひつつをれば春雨の彼《ソレ》もしるごとやまずふりつつ
吾妹子爾戀乍居者春雨之彼毛知如不止零乍
 彼毛を從來カレモとよめれどソレモとよむべし。さて三四は春雨モ知ルゴトといふべきを言足らぬが故にソレを挿めるなり。ソレ、ソノ、を加へて言數を滿せる例は集中に多し(者八【一五四〇頁】卷九【一八〇九頁】などを見べし)。又彼の字をソノ、ソなどよめる例はた集中に見えたり。地名にも彼杵と書きてソノキとよむ例あり
 
1934 相念はぬ妹をやもとな(すがのねの)ながき春日をおもひくらさむ
相不念妹哉本名菅根之長春日乎念晩牟
(1980) 妹ヲヤのヤはオモヒクラサムと照應せり。さればクラサムの下に引下げてクラサムカと直して心得べし。妹ヲヤのヲはナルニのヲなり。一本にアヒオモハズアルラム兒ユヱ〔二字傍点〕とあると卷四に
  相おもはぬ人を〔右△〕やもとなしろたへの袖ひづまでにねのみしなかも
とあるとを合せ見て心得べし○ハルビヲはクラサムにかゝれり。されば一首の意は
  相念ハヌ妹ナルニ心ノ外ニ其ヲ思ヒテ長キ春日ヲ暮サムカ
となり
 
1935 春さればまづなく鳥のうぐひすの事先立之〔左△〕《コトサキダチテ》、君をし待たむ
春去者先鳴鳥乃鶯之事先立之君乎之將待
 略解に第四句をコトサキダチシとよみて
  春鳥の中に鶯はことにとく來鳴けばコトサキ立といはん序とせり。心は言出初シ君ヲ待ミンといふ也。卷四、言出シハタガコトナルカ小山田ノナハシロ水ノ中ヨドニシテ、神代紀如何婦人反|先言乎《コトサキダチシ》(1881)といひ古義には舊訓に從ひてコトサキダテシとよめり。案ずるに事は如の借字にて卷八(一六二一頁)なる
  あしひきの山下とよみなく鹿の事〔右△〕ともしかもわがこころづま
の事にひとし。次に先立之の之は弖の誤としてサキダチテとよむべし。即アヒオモハヌ妹ヲヤ云々といへるに對して我ヨリ先ンジテ君ヲ待タムといへるなり。第二句のトリノは鳥ナルといふ意なり
 
1936 あひおもはずあるらむ兒ゆゑ(玉の緒の)長き春日をおもひくらさく
相不念將有兒故玉緒長春日乎念晩久
 略解古義にいへる如く上なるアヒオモハヌといふ歌の傳のかはれるなり。別の歌にあらず。されば上なる歌の次に或本歌曰または一云として掲ぐべきなり
 兒ユヱは子ナルニなり。クラサクはクラス事ヨとなり
 
  夏雜歌
(1982)   詠鳥
1937 大夫丹〔左△〕《マスラヲノ》 出〔左△〕《キ》たちむかふ 故郷の 神名備山に あけくれば 柘《ツミ》のさえだに ゆふされば 小松がうれに 里人の ききこふるまで 山彦の 答響《アヒトヨム》まで ほととぎす △ つま戀すらし さ夜中になく
大夫丹出立向故郷之神名備山爾明來者柘之左枝爾暮去者小松之若末爾里人之開戀麻田山彦乃答響萬田霍公鳥都麻戀爲良思左夜中爾鳴
 一二句を舊訓にマスラヲニイデタチムカフとよみたれどさては意通ぜざれば或人は大夫丹を走出丹《ハシリイデニ》の誤とし(略解に據る)雅澄は丹を乃の誤としてマスラヲノとよめり。ハシリイデニイデタツとはいふべきならねば雅澄の説の方まされり。さるにてもイデタチムカフといふこと穩ならず。イデタツは門より出づる事なればなり。雅澄も自安んぜざる所ありきと見えて
  さてイデタツは男女にかぎるべからぬが如くなれども男は日々に外に出、女は内にのみこもり居て常に出る事なき故に取分てマスラヲノイデタチムカフと(1983)いへるにやあらむ
といへり。案ずるに出は來の誤字にてマスラヲノキタチムカフならむ。マスラヲは作者自云へるなり。さて來タチムカフとすれば作者は他郷に住める人、もとの如く出タチムカフとすれば作者は此里に住める人なり。其いづれとするが穩なるべきかは反歌と對照して思定むべし○フルサトは飛鳥にて神名備山は雷岳なり。ツミは野桑なり(四七八頁參照)。答響は契沖に從ひてアヒトヨムとよむべし(略解にはコタヘスルとよめり)。さてアケクレバ、ユフサレバといひてサヨナカニナクとは収むべからず。又ツミノサエダニ、小松ガウレニを受くる辭なかるべからず。さればおそらくはホトトギスの次に來ナキトヨモシ、旅ナガラなどの二句おちたるならむ
 
   反歌
1938 たびにして妻どひすらしほととぎす神なび山にさよふけてなく
客爾爲而妻戀爲良思霍公鳥神名備山爾左夜深而鳴
     右古歌集中出
(1984) 作者を他郷の人として子規モ我如ク旅ニシテ妻戀スラシといふ意とせむ方哀深からずや
 
1939 ほととぎすながはつこゑは於吾〔左△〕欲得《ハナニモガ》、五月の玉にまじへてぬかむ
霍公鳥汝始音者於吾欲得五月之珠爾交而將貫
 古義に
  於吾欲得は吾はもし花などの誤にはあらざるべきか。さらばハナニモガと訓べし。もとのまゝにては心ゆかず
といへり。此説に從ふべし。サツキノ玉は藥玉なり。卷八にも
  ほととぎすいたくななきそながこゑを五月の玉にあへぬくまでに
とあり
 
1940 朝霞たなびく野邊に(あしひきの)山ほととぎすいつか來なかむ
朝霞棚引野邊足檜木乃山霍公鳥何時來將鳴
 春に限りてカスミといふは後の事なり。いにしへは時に拘はらずいひき。卷八にも
(1985)  霞たつあまの河原に君まつといかよふ程に裳のすそぬれぬ
とあり。古義に
  此歌は春よみし歌ときこえたれば春部に入べきなれど霍公鳥を主としてよめる歌なるゆゑにこゝに載たるなるべし
といへるは從はれず。さていにしへカスミといひしは薄霧にこそ
 
1941 (あさ霞)八重山こえて喚孤〔左△〕島《ヨブコドリ》、吟八汝來《ナキヤナガコシ》やどもあらなくに
旦霞八重山越而喚孤鳥吟八汝來屋戸母不有九二
 アサガスミは八重にかゝれる枕辭なり○略解に
  孤はもと子と有しが誤れるか。此歌は春の部に入べきを誤てこゝ入たり
といへり。げに孤は子の誤と認むべし○第四句を舊訓にナキヤナガクルとよめるを古義には吟を喚、呼などの誤としてヨビとよめり。舊訓の如くもとのまゝにてナキヤとよむべし。但汝來はナガコシとよみ改むべし○ヤドモアラナクニといへるを思へば山中にて此鳥の聲をきゝてよみしなり。さて此歌は略解古義の如く移して春雜歌に入るべきなり
 
(1986)1942 ほととぎすなくこゑきくやうの花のさきちるをかにくずひくをとめ
霍公鳥鳴音聞哉宇能花乃開落岳爾田草引※[女+感]嬬
 
1943 月夜よみなくほととぎす欲見《ミマクホリ》、吾草取有《ワレクサトレリ》、見人〔左△〕《ミムヨシ》もがも
月夜吉鳴霍公鳥欲見吾草取有見人毛欲得
 三四を略解にミマクホリワガクサトレルとよみ、さて宣長の説を擧げて
  吾は今の誤にてイマクサトレリなり。草トルは凡て鳥の木の枝にとまり居る事也。ミマクホリはほとゝぎすが月を見まくほりて今木の枝にゐるを來て見ん人もがな也。卷十九ホトトギスキナキトヨマバ草トラン花橘ヲヤドニハウヱズテとよめるもほとゝぎすの來てとまるべき橘をうゑんといふ也といへり
といへり。古義には三四をミガホレバイマクサトレリとよみ、さて
  中山嚴水云。此歌大方は本居翁の説の如し。但し霍公鳥が月を見まくほりする意に説れたるはいかがなり。欲見はミマホレバとよむべし。見マクホリスレバなり。なくほとゝぎすを見まほしと思ひて見やりたれば草取て鳴居たるを見出した(1987)るなりと云り。その意ならばミガホレバとよむべし。さてこゝは欲見者とありしを、もしは者(ノ)字の脱たるにもあらむか
といへり。案ずるに欲見は舊訓の如くミマクホリとよみ第四句は契沖に從ひてワレ〔右△〕クサトレリとよみ、結句は人を由の誤としてミムヨシモガモとよむべし。
  月夜ニナク子規ノ影ノ地上ニウツルヲ見ムト欲シテ庭前ノ草ヲ取除キタリ。イカデ見ム由モガナ
といへるなり。卷十九なる
  ほととぎす來なきとよまば草とらむ花たちばなを屋戸爾波不〔右△〕殖而
は此歌に據れるにて結句は不を省きてヤドニハウヱテとよむべし
 
1944 藤浪のちらまくをしみほととぎす今城のをかをなきてこゆなり
藤浪之散卷惜霍公鳥今城岳※[口+リ]鳴而越奈利
 今城は大和の地名なり。略解に『ホトトギス今來といふ心につづけたり』といひ、古義にも今城ノ岳ヲ今鳴テ云々と釋けるは非なり。いひかけにあらず。もし今來テ今城ノといふべきをつづめたるならむにはただ今城ノ岳ニナクナリといふべく、コユ(1988)ナリとまではいふべからず。さて今城(ノ)岳《ヲカ》は藤の多かりし處とおぼゆ
 
1945 (旦霧《アサギリノ》)八重山越《ヤヘヤマコユル》而〔□で圍む〕ほととぎすうの花邊から鳴越來〔左△〕《ナキテコユラシ》
且〔左△〕霧八重山越而霍公鳥字〔左△〕能花邊柄鳴越來
 上にアサガスミヤヘ山コエテヨブコドリといへる歌あるによりて略解には『霧は霞の誤なるべし』といひ、古義も此説に從ひてアサガスミとよみ、訓義辨證下卷(二五頁)には
  此歌霧にてもきこえぬにはあらねど猶此上にアサガスミヤヘヤマコエテヨブコドリとあると全く同じつづきの歌なれば霞とせんこそよからめ。されど各本皆霧とありて霞とかける本はあることなし。故按ふに文字をば此まゝにてカスミとよむべきにや。然いふは承暦三年の鈔本金光明最勝王經音義といふ書に霧【音武、加須美】とあればなり。本集卷二に秋ノ田ノ穗ノヘニキラフアサ霞とあるも霧をカスミといへり。古へ霧と霞とは言の上にては春秋共に通はしいへることあれば文字もまた通はしかけるなるべし
といへり。上なる歌と同一ならざるべからざる理由なし。字のまゝにアサギリノと(1989)よみて可なるにあらずや○結句を舊訓にナキテコユラシとよめるを契沖はコエケリに改め、略解はコエキヌに改め、古義は來を成の誤字としてコユナリとよめり。いづれにしても上に越而といひて更に越とはいふべきにあらず。案ずるに越而の而を衍字、來を良之などの誤として
  あさぎりのやへやまこゆるほととぎすうのはなべからなきてこゆらし
とよむべし○カラはヨリに同じ。古義にヨリの意なる例又ヨリと對用せる例を擧げたり。さればウノハナベカラは山中ノ卯ノ花ノホトリヲといふ意なり○且は旦、字は宇の誤なり
 
1946 木《コ》だかくはかつて木うゑじほととぎす來なきとよめてこひまさらしむ
木高者曾木不殖霍公鳥來鳴令響而戀令益
 カツテは決シテなり。されば初二は決シテ高キ木ハ植ヱジとなり。子規は好みて高き木にとまりて鳴くが故にしかいへるなり。結句の上に我ヲシテといふことを加へて聞くべし
(1990)1947 あひがたき君にあへる夜△《ヨゾ》ほととぎすあだし時ゆは今こそなかめ
難相君爾逢有夜霍公鳥他時從者今社鳴目
 第二句はキミニアヘル夜ゾとあらではととのはず。夜の下に曾、焉などの字をおとしたるならむ
 
1948 このくれの暮闇《ユフヤミ》なるに【一云なれば】ほととぎすいづくを山となきわたるらむ
木晩之暮闇有爾【一云有者】霍公鳥何處乎家登鳴渡良哉〔左△〕
 コノクレは木陰なり。暮闇を古義にクラヤミとよめれど舊訓の如くユフヤミとよむべし。卷四(七七七頁)に夕闇ハ路タヅタヅシ、卷十一にも夕闇ノコノハガクレル月マツガゴトとあり○第四句はイヅクヲオノガ家トとなり。ココニトドマレカシといふ意を含めり○哉は武の誤なり
 
1949 ほととぎすけさのあさけになきつるは君將聞可《キミキキケムカ》、朝宿疑將寐《アサイカネケム》
霍公鳥今朝之且〔左△〕明爾鳴都流波君將聞可朝宿疑將寐
 四五を舊訓にキミキクラムカ、アサイカヌラムとよめるを略解に第四句のみキミ(1991)キキケムカに改め、古義には結句をもアサイカネケムに改めたり。古義に從ふべし。ネタリケムをネケムともいふべければなり○且は旦の誤なり
 
1950 ほととぎす花橘の枝にゐてなきとよもせば花はちりつつ
霍公鳥花橘之枝爾居而鳴響者花波散乍
 トヨモスは上なるキナキトヨメテのトヨムルにおなじ
 
1951 うれたきやしこほととぎす今こそはこゑのかるがに來なきとよまめ
慨哉四去霍公鳥今社者音之干蟹來喧響目
 ウレタキヤのヤは助辭にてウレタキはシコホトトギスにかかれり。イヤナホトトギスメといはむが如し。子規のなかぬを罵りていへるなり。語例は卷八家持の長歌(一五四七頁)にあり○カルガニは嗄ルバカリなり。上なるキナキトヨメテの例によればこゝはキナキトヨメメといふべきなれど、かく來ナキトヨマメともいひなれしなり。トヨムはヒビク、トヨムルはヒビカスにて自他の別あるなり
 
1952 この夜らのおぼつかなきにほととぎす喧△△奈流《ナキテユクナル》聲之《コヱノ》音乃〔二字□で圍む〕はるけさ
(1992)今夜乃於保束無荷霍公鳥喧奈流聲之音乃遙左
 夜ラのラは助辭にて意なし。初二は今夜ノ暗クシテタドタドシキニとなり〇四五を從來ナクナルコヱノオトノハルケサとよめり。さて古義に
  聲はなく聲につきていひ音は風響《ヒビキ》につきて云るか。又ただコヱノハルケサとて事足れるを調のために音といへるか。オキベノ方或はコヌレガ上などやうにいへること多ければなり
といひ、中島廣足の橿のくち葉卷三(八丁)に
  こはめづらしきいひざまなり。こは聲を體にしてオトは用にいへるなり。オトはヒビキといはんがごとし云々
といへり。案ずるにこは喧而去〔二字右△〕奈流聲之遙左とありしを誤れるならむ。くはしく云はば一本によりて音乃を聲之の傍に記したるがまぎれて本行に入りて十七言となれるよりさかしら人が而去の二字を削去りて今の如くなれるならむ。卷九に
  かきくらし雨のふる夜をほととぎすなきてゆくなりあはれその鳥
とあるに似たる所あり
 
(1993)1953 五月山うの花月夜ほととぎすきけどもあかず又なかぬかも
五月山宇能花月夜霍公鳥雖聞不飽又鳴鴨
 ウノ花ヅクヨは古義にいへる如く卯花に月のさしたるをいへるなり。略解に『卯花のさかりなるは月夜の如く見ゆるをいへり』といへるは非なり。五月ノ山ノ卯花月夜ニ子規ノナクヲキキシカドといふべきをテニヲハを略して上三句共に體言どめにしらべなしたる、範とはすべからず。キキシカドといふべきを現在格にてキケドモといへる、これも今は許されねど集中には例多し。マタナカヌカモは又ナケカシとなり。略解に『不鳴と書べきを略き書るは集中例多し』といへれどセヨカシの意なるヌカモに不の字を添へて書けるは中々に集中に例なし(六二七頁及一九五二頁參照)
 
1954 ほととぎす來居裳鳴香《キヰモナカヌカ》わがやどの花橘のつちに落六見牟《チラムミム》
霍公鳥來居裳鳴香吾屋前乃花橘乃地二落六見牟
 弟二句を舊訓にはキヰテモナクカとよめり。古義の如くキヰモナカヌカとよむべ(1994)し。來居テモ鳴ケカシとなり○落六見牟を宣長の『落左右手の誤か。オツルマデと訓べし』といへるは鳴香のナカヌカとよむべきに心附かざりし爲なり。雅澄が落六を落文の誤としてチルモとよめるもよろしからず。もとのまゝにてチラムミムとよむべし。子規のなく頃恰花橘の散るを子規の散らすやうに當時の歌人のいひならひし事卷八(一五四九頁)にいへる如し
 
1955 ほととぎす厭時《イトフトキ》無《ナシ》あやめぐさかづらにせむ日こゆなきわたれ
霍公鳥厭時無菖蒲※[草冠/縵]將爲日從此鳴度禮
 略解に『いつとてもいとふ時はなけれども同じくは五月五日の比こゝに鳴わたれかしと也』と釋せり。さては第二句に辭足らねば厭時無はイトフトキナシならで外によみやうあるべきかとも思へど卷十八に此歌の重出せるに伊等布登伎奈之と假字書にしたればなほイトフトキナシとよみて略解の釋の如く心得べし
 
1956 やまとにはなきてか來らむほととぎすながなくごとに無〔左△〕人《イヘビト》おもほゆ
山跡庭啼而香將來霍公鳥汝鳴毎無人所念
(1995) 卷一にも
  やまとにはなきてか來らむよぶこどりきさの中山よびぞこゆなる
とあり○ヤマトニハのハは輕く添へたるのみ。クラムはユクラムにおなじ。旅先にてよめるなり○無人は家人の誤ならむ
 
1957 うの花のちらまくをしみほととぎす野出《ヌニデ》山入《ヤマニリ》きなきとよもす
宇能花乃散卷惜霍公島野出山入來鳴令動
 舊訓に野ニデ山ニイリとよめるを古義にヤマニリとよめり。ニにイの韻あればヤマニリとよみても可なり
 
1958 橘の林を殖《ウヱム》ほととぎす常に冬まですみわたるがね
橘之林乎殖霍公鳥常爾冬及住度金
 第二句は舊訓の如くウヱムとよむべし(略解にはウヱツとよめり)。ツネニといひて更に冬マデといへるなり。ガネはベクなり
 
1959 雨はれし雲にたぐひてほととぎす春日《カスガ》をさしてこゆなきわたる
(1996)雨晴之雲爾副而霍公鳥指春日而從此鳴度
 初句は雨晴レテ山ニ歸ル雲ニといふべきを略せるなり。タグヒテは一ショニなり○※[日+齊]は晴又は霽の誤ならむ
 
1960 物もふといねぬあさけにほととぎすなきてさわたるすべなきまでに
物念登不宿旦開爾霍公鳥鳴而左度爲便無左右二
 イネヌアサケニは夜スガライネヌ曉ニとなり。サワタルのサは添辭、スベナキマデニは得堪ヘヌマデニなり
 
1961 わがころも君にきせよとほととぎす吾乎領《ワレヲウナガス》、袖に來居つつ
吾衣於君令服與登霍公鳥吾乎領袖爾來居管
 第四句を舊訓にワレヲシラセテとよみ、古義に中山嚴水の説に從ひて領を頷の誤としてアレヲウナヅキとよめり。なほ後にいふべし○契沖は
  尋常の鳥だに袖に來居るものにあらず。まして霍公鳥は人に馴ぬ鳥なれば此は夏衣を竿に懸干せる其袖に來居てと云なるべし。さるにても君ニ著セヨト知ラ(1997)スルと云意いかにとも得がたし
といひ、眞淵は右の説に枝を添へて
  四句の乎は干の誤にて領は衣一領などいへばキヌと訓べければワガホスキヌノ云々なるべし。此歌かけほしたる衣の袖に來ゐてなくといはんより外なし
といひ、雅澄は中山嚴水の説を擧げて
  領は頷の誤なるべし。ワレヲウナヅキなるべし。吾乎は吾爾といふ意の古言なり。さて頷はうなづきてしらする意にて霍公鳥の鳴とき頭の動くがうなづくが如くなれば云るなり。さて袖は契沖云る如く竿にかけてほせる衣なるべし
といへり。案ずるにこは子規の形を摺れる衣を人に贈るとて子規ガ吾袖ニトマリツツ此衣ヲ君ニ贈レト我ヲ云々スといへるなり。第四句の領は今の通用としてウナガスとよむべし。孝コ天皇紀に凡京毎v坊置2長一人1四坊置2令一人1とありて令をウナガシとよめり。又仁コ天皇紀十年に百姓不領とあるをウナガサレズシテとよみ大寶令に國郡領造、付領訖、國司領送などあるを皆ウナガシとよめり。又天武天皇紀十四年に周芳《スハウ》ノ總令とあるはやがて總領にて欽明天皇紀四年に百済郡令とあるは(1998)やがて郡領なり。否總領郡領などは寧總令郡令と書くべきなり。かゝればいにしへ令と領とは通用せしなり。はやく續日本紀考證卷二大寶元年正月相樂郡令の下に
  郡令見2欽明紀1。令即領字。古或以2音近1借2用之1。天武記有2周防總令所1。即總領所也。案令領通用。通雅楊子曰。君子純終2領聞1。※[赤+おおざと]京謂。即令聞
又同年四月田領の下に
  貞觀三年二月田券有2田領紀(ノ)直《アタヒ》牧成1。案欽明紀云。十七年秋七月云々以2葛城山田(ノ)直瑞子1爲2田令1(田令此云2舵豆歌※[田+比]1)。田領即田令
と云へり
 
1962 もとつ人、霍公鳥〔三字左△〕乎八《メヅラシキヲヤ》、希將見〔三字左△〕《ホトトギス》、今〔左△〕哉汝來《ナキヤナガコシ》こひつつをれば
本人霍公鳥乎八希將見今哉汝來戀乍居者
 略解古義にホトトギスヲヤメヅラシクイマヤナガコシとよみ、さて略解に
  ほとゝぎすをさしてモトツ人といへり。集中(○卷十七)トホツ人雁ガ來ナカムとよめるトホツ人は雁をいへるにひとし。ヲヤはヨヤの意也と宣長いへり。呼かくる詞也
(1999)といひ、古義に
  歌の意は昔の友にてある、やよほとゝぎすよ、汝にあひたしとこひしく思ひつゝ居れば待しかひありてめづらしく今來りしやといふならむか
といへれど二三の句と今哉といふことゝ穩ならず。よりて案ずるに霍公鳥と希將見と入りかはり又今哉は吟哉を誤れるならむ。されば
  もとつ人、希將見乎八、霍公鳥、吟哉汝來こひつつをれば
にてメヅラシキヲヤホトトギスナキヤナガコシとよむべし。上にもヨブコドリ吟八汝來《ナキヤナガコシ》とあり○さてヲヤはニ(名詞を受くればナルニ)にかよふヲに無意義のヤの添へるにて當時行はれし一種の辭ならむ。卷四(七一五頁)なる
  相おもはぬ人をやもとなしろたへの袖ひつまでにねのみしなかも
 又上(一九七九頁)なる
  相念はぬ妹をやもとなすがのねのながき春日をおもひくらさむ
のヲヤも今のヲヤとおなじきか。即ヤはナカモ、クラサムの下にめぐらして見べき疑辭にはあらで無意義の助辭なるか。こはなほ研究すべし〇一首の意は
  古キナジミハユカシキヲアハレナル子規ヨ、ワガコヒツツヲレバ汝ハ鳴イテ來(2000)タカ、ヨクゾ鳴イテ來タ
といへるならむ
 
1963 かくばかり雨のふらくにほととぎすうの花山になほかなくらむ
如是許雨之零爾霍公鳥宇之花山爾猶香將鳴
 フラクニはフルニを延べたるなり
 
   詠蝉
1964 黙然《モダ》もあらむ時もなかなむ日ぐらしの物もふ時になきつつもとな
黙然毛將有時母鳴奈武日晩乃物念時爾鳴管本名
 初二は何モセヌ時ニ鳴ケカシとなり。モダの事は卷八(一六一〇頁)にいへり。結句はアヤニクニナキツツとなり。卷四に
  さよ中に友よぶ千鳥物もふとわびをる時になきつつもとな
卷八に
  朝戸あけてものもふ時にしらつゆのおける秋はぎみえつつもとな
(2001)とあり○古義に題の蝉をヒグラシとよめるは非なり。常の如くセミとよむべし。日ぐらしも蝉の一種なれば題には蝉と書けるなり。日ぐらしは卷八(一五三〇頁)に晩蝉とかけり
 
   詠榛
1965 おもふ子が衣すらむににほひこそ島の榛原秋たたずとも
思子之衣將摺爾爾保此與島之榛原秋不立友
 ハリに榛をかけるは借字にてこゝのハリは萩なり(三七頁及一〇〇頁參照)。略解に『秋に成て此木の皮は剥なるべし』といへるは誤りてハンノ木と思へるなり○ニホヒコソはニホヘカシにて花サケカシとなり。此句を見てもハンノ木にあらざるを知るべし○島は大和高市郡の地名なり。卷七(一三四八頁)なる
  時ならぬまだらのころもきほしきか島のはり原時にあらねども
といふ歌の處にくはしく云へり
 
   詠花
(2002)1966 風にちる花橘を袖にうけて爲君御跡《タテマツラムト》、思《オモヒ》つるかも
風散花橘※[口+リ]袖受而爲君御跡思鶴鴨
 第四句を舊訓にキミガミタメトとよめり。さて契沖は
  君御爲或は御爲君とかきけむを傳寫を經て今の如くなれる歟
といひ、略解には
  君御爲跡と有つらんをあやまりて君の上へ爲の字の入しなるべし
といひ、古義には君御爲跡と改めて
  舊本に爲君御跡とあるはまぎれたるなるべし。今改めつ
といへり。キミガミタメトといふべき處にあらねば然よむべきにあらず。案ずるにタテマツラムトとよむべし。即タテマツルを戲に爲2君(ノ)御(ト)1とかけるなり○思は舊訓の如くオモヒとよむべし。古義にシヌビとよめるは第四句を誤り訓みてそれに合せむと試みたるなり
 
1967 かぐはしき花橘を玉にぬき將送《オクラム》妹はみつれてもあるか
香細寸花橘乎玉貫將送妹者三禮而毛有香
(2003) 將送は舊訓にオクラムとよめり。略解は此訓に從ひて
  こゝはオクレルといはずオクランといへるは病てつかれ居る時ゆゑに贈り不來歟といふなるべし
といひ、古義にはオコセムとよみ改めて
  いつものごと吾におこし〔右△〕示すべきにさもなきはおもふに其妹はこのごろ病羸《ミツレ》てあるにてもあらむかといふならむ
といへり。將送をオコセムとはよみがたければ、なほオクラムとよみて送來ラム妹ノ送來ラヌハの意とすべし○ミツレは卷四に
  ますらをとおもへる吾やかくばかりみつれにみつれ片もひをせむ
とあり。弱る事なり(七八一頁參照)
 
1968 ほととぎす來なき響《トヨモシ》たちばなの花ちる庭を見む人やたれ
霍公鳥來鳴響橘之花散庭乎將見人八孰
 略解古義に第二句をキナキトヨモスとよみたれどトヨモシとよむべし。トヨモシテの意にて花チルにかゝれるなり。ミム人ヤタレとは君コソ來テ見メとなり
 
(2004)1969 わがやどの花橘はちりにけりくやしき時にあへる君かも
吾屋前之花橘者落爾家里悔時爾相在君鴨
 アヘル君とは來リ訪ヘル君となり
 
1970 見渡者〔左△〕《ミワタシノ》向野邊乃《ムカヒノノベノ》なでしこのちらまくをしも雨なふり行〔左△〕年《ソネ》
見渡者向野邊乃石竹之落卷惜毛雨莫零行年
 初二を從來ミワタセバムカヒノ野ベノとよみたれど瞿麦の散るは見渡して見ゆるものにあらねばミワタセバとよみてチラマクと照應せしむべきにはあらず。されば者を乃の誤としてミワタシノとよむべし
 
1971 雨|間開〔二字左△〕而《ハレテ》國見もせむをふるさとの花橘はちりにけむかも
雨間開而國見毛將爲乎故郷之花橘者散家牟可聞
 初句を從來アママアケテとよみたれどさる辭あるべくもあらず。間開はおそらくは霽の一字を誤れるならむ。さらばアメハレテとよむべし○クニミモセムヲはここにては國見アリキモセムヲとなり。略解古義に國見を一處にゐて眺望する事と(2005)心得たるより此歌を釋き煩へり。フルサトといへるは飛鳥ならむ
 
1972 野邊みればなでしこの花さきにけりわがまつ秋はちかづくらしも
野邊見者瞿麦之花咲家里吾待秋者近就良思母
 
1973 (吾妹子に)あふちの花はちりすぎず今さけるごとありこせぬかも
吾妹子爾相市乃花波落不過今咲有如有與奴香聞
 ワギモコニは枕辭なり。チリスギズは散ラデなり。四五は今サケル如クイツモ盛デアレカシとなり
 
1974 春日野の藤は散去而〔左△〕《チリニキ》なにをかも御狩の人のをりてかざさむ
春日野之藤者散去而何物鴨御狩人之折而將挿頭
 古義に『而は吉(ノ)字などの誤か』といへるに從ひてチリニキとよむべし
 
1975 時ならず玉をぞぬけるうの花の五月をまたば久しかるべみ
不時玉乎曾連有宇能花乃五月乎待者可久有
 まづ略解には
(2006)  上三句一三二と次第して見べし。時ナラズ卯花ノ玉ヲヌケルといふ意也、藥玉をぬくべき五月よりも先に四月にうの花を玉にぬけば時ナラズといへり
といへり。抑ノに二種あり。たとへば花ノ〔右△〕サクのノと花ノ〔右△〕枝のノとなり。千蔭はウノ花ノ〔右△〕のノを花ノ枝のノとせるなれどこのノはかゝる處にては玉より下にはおくべからず。次に古義には
  ウノ花ノ五月は卯花ノサク五月の意にて鶯ノ春(○本書一九二三頁)といふと同例なり
といへり。即ウノ花ノ五月ヲとつづけて心得たるなり。卯花は卯月の花なればウノ花ノ五月とはいふべからず。案ずるに上三句は卯花が枝にさき連れるを玉を貫けるに見立て、さて玉を貫くは五月のわざなればトキナラズといひサツキヲマタバヒサシカルベミといへるなり。さればウノ花ノ〔右△〕のノは花ノサクのノにて主格の辭なり。ヒサシカルベミは待遠ナルベキニヨリテとなり
 
   問答
1976 うの花のさきちる岳ゆほととぎすなきてさわたるきみはききつや
(2007)宇能花乃咲落岳從霍公鳥鳴而沙渡公者聞津八
 サキチルのサキは例の如く輕く添へたるなり。上にも
  ほととぎすなくこゑきくやうの花のさきちる岳にくずひくをとめ
とあり。サワタルは上(一九九六頁)にホトトギスナキテサワタルスベナキマデニとあり
1977 ききつやと君がとはせるほととぎすしぬぬにぬれてこゆなきわたる
聞津八跡君之問世流霍公鳥小竹野爾所活〔左△〕而從此鳴綿類
 シヌヌは上(一九一七頁)に見えたり。初二は卷八なる
  ききつやと妹が問はせるかりがねはまこともとほく雲がくるなり
に似たり
 
   譬喩歌
1978 たちばなの花ちる里にかよひなば山ほととぎすとよもさむかも
橘花落里爾通名者山霍公鳥將令響鴨
(2008) 略解に
  本《モト》は妹許かよふにたとへ末は人にいひさわがれんといふにたとへたり
といへる如し。古義の釋は誤れり
 
  夏相聞
   寄鳥
1979 春さればすがる成〔左△〕《ナク》野のほととぎすほとほと妹にあはず來にけり
春之在者酢輕成野之霍公鳥保等穗跡妹爾不相來爾家里
 スガルは蜂の一種にて常の蜂よりは小さし。略解に『俗ジガバチといふものと見ゆ』といへるは非なり○略解に第二句をスガルナス野ノとよみて
  春巣を借て生る故にスガルといふなるべし。ほとゝぎすも鶯の巣を借て生たてればカノ春ノスガルノ如クといふ意にてスガルナスとはいへるなるべし
といひ古義にもスガルナス野ノとよみて
(2009) 成は古語にクラゲナス、螢ナスなど多く云るナスにて如の意なるべし。さて春サレバとあるを思ふに霍公鳥の春のころ巣だちてなく聲はかのスガルに似たる故にスガルナスホトトギスといふ意につづきたるか
といへり。案ずるに春サレバスガル成は野の裝飾辭にて霍公鳥には與からず。成は鳴などの誤としてナクとよむべし○上三句はホトホトにかゝれる序なり。ホトホトは卷七(一四六四頁)にホトホトシクニ手斧トラエヌとあり。四五はスデノ事ニ妹ニ逢ハズニ來ル所デアツタといふ意なり
 
1980 さつき山花たちばなにほととぎすかくらふ時にあへるきみかも
五月山花橘爾霍公鳥隱合時爾逢有公鴨
 古義に
  本(ノ)句は序にて……さて人目をしのび隱るゝをりに思はず君にあひて思ふ心を語らふ事も得爲ずさても悔しやと云るか
といへるは非なり。五月山ノ花橘ニ霍公鳥ノ隱レテ鳴ク頃シモウレシクモ逢ヘル君カナといへるなり○上(二〇〇四頁)にも
(2010)  わがやどの花橘はちりにけりくやしき時にあへる君かも
とあり○第二句と第四句との終の共にニなるが爲に調わろきなり
 
1981 ほととぎす來なく五月のみじか夜も獨しぬればあかしかねつも
霍公鳥來鳴五月之短夜毛獨宿者明不得毛
 
   寄蝉
1982 ひぐらしは時となけども△我〔左△〕戀《キミニコフル》手弱女《タワヤメ》われは△不定《トキワカズ》なく
日倉足者時常雖鳴我戀手弱女我者不定哭
 初二は日グラシハ己ガナクベキ時トナケドモとなり○第三句を略解古義には一本に物戀とあるに據りてモノコフルとよみ宣長は我を君の誤としてキミコフルとよめり。案ずるに於君戀の誤としてキミニコフルとよむべし(元暦校本及類聚古集には於戀とあり)。下にも於君戀《キミニコヒ》ウラブレヲレバまた於君戀《キミニコヒ》シナエウラブレとあり○手弱女は卷十六に多和也女と假字書にせるに據りてタワヤメとよむべし○結句は契沖が
(2011)  我者の下に時の字落たる歟。第六帥大伴卿宿2次田温泉1聞2鶴喧1作歌の落句に時不定鳴をトキワカズナクと點ぜり。今も此と同じかるべき證には六帖にトキワカズナクとあり
といへり。之に從ひて時の字を補ひてトキワカズナクとよむべし
 
   寄草
1983 人言は(夏野の草の)しげくとも妹と吾としたづさはりねば
人言者夏野乃草之繁友妹與吾携宿者
 第二句はシゲクの枕辭なり。結句の下にウレシカラムといふばかりの意を略せるなり。古義に『タヅサハリネバといひのこしたるはヨシヤソレハサモアラバアレと云意を含ませたるなり』といへるは非なり。さる意は第三句の下にこそ補ひてきくべけれ
 
1984 このごろの戀のしげけく夏草のかりはらへども生布如《オヒシクゴトシ》
迺者之戀乃繁久夏草乃苅掃友生布如
(2012) シゲケクはシゲカル事ハとなり○結句を舊訓にオヒシクガゴトとよめるを古義にオヒシクゴトシと改めたり。古義に從ふべし。卷十一にも
  吾背子にわがこふらくは夏草のかりはらへども生及如
とあり。そのオヒシクほ生頻なり。略解に『及ぶ意』といへるは誤れり
 
1985 まくずはふ夏野のしげくかくこひばさねわが命常ならめやも
眞田葛延夏野之繁如是戀者信吾命常有目八方
 マクズハフ夏野ノはシゲクにかゝれる二句末滿の序なり。されば二三はカクシゲクコヒバとなり。サネはマコトニなり。吾命云云はワガ命長カラジとなり
 
1986 吾のみやかく戀すらむ(かきつばた)にづらふ妹は如何將有《イカニカアラム》
吾耳哉如是戀爲良武垣津旗丹類令〔二字左△〕妹者如何將有
 初二は吾ノミカク戀スラムカとなり。ニヅラフは紅顏ナルとなり。結句を略解にイカニアルラムとよみ古義にイカニカアラムとよめり。古義の如くカをよみそふべくアラムはアルラムの意とすべし。アルラムをいにしへはアラムともいひき○此(2013)歌次なる寄花のうちなりしがまぎれたるにかと思ふになほ然らじ。卷七にカキツバタの歌は寄草の中にも寄花の中にもあればなり○類令は頬合の誤なり
 
   寄花
1987 片よりに絲をぞわがよる吾〔左△〕背子之《セコガタメ》花橘をぬかむともひて
片※[手偏+差]爾絲※[口+リ]曾吾※[手偏+差]吾背兒之花橘乎將貫跡母日手
 片ヨリニヨルとは絲を合せずしてよるをいふならむ。代匠記に『片※[手偏+差]は片思の譬』といひ古義に『あひ手なしにからくして』と辭を補ひて釋ける共に從ひがたし○第三句を從來ワガセコガとよみさて古義に『吾夫子が家のうるはしき花橘の花を』と釋けリ。上(一九二八頁)にも妹ガ家ノ梅を妹之梅といへる例あれどここは吾背子之を爲背子之の誤としてセコガタメとよむべし。セコガタメを爲2背子之1とは書くまじきに似たれど下にもコヒヌベシを可2戀奴1と書けり。又卷七にもシメシヨリを從2標之1と書けり○略解に寄花歌なれば花橘とあるは花をいへるなりと云へり
 
1988 鶯のかよふ垣根のうの花のうき事あれや君が來まさぬ
(2014)鶯之往來垣根乃宇能花之厭事有哉君之不來座
 卷八(一五四二頁)なる
  ほととぎすなく峯《ヲ》の上のうの花のうき事あれや君が來まさぬ
と第三句以下全く相同じ○ウキ事アレヤは我ニ對シテオモシロカラヌ事アレバニヤとなり○略解に『鶯はくれども君は我をうしといとふ心あればにや君が來ぬと也』といへるは誤れり。上三句は無意の序なるのみ
 
1989 うの花のさくとはなしにある人にこひやわたらむかたもひにして
宇能花之開登波無二有人爾戀也將渡獨念爾指天
 ウノハナノは卯花ノ如クなり。サクは女の靡くをたとへたるなり。略解に卷九(一七九四頁)なるフルノワサ田ノ穗ニハイデズを例に引きたれど彼と此とは同例にあらず
 
1990 吾こそはにくくもあらめわがやどの花橘を見には來じとや
吾社葉憎毛有目吾屋前之花橘乎見爾波不來鳥屋
(2015) 結句の格上(一九六九頁)なる七日シフラバ七夜コジトヤ又卷八(一五〇八頁)なる
  やみならばうべも來まさじ梅の花さける月夜にいでまさじとや
に似たり
 
1991 ほととぎす來なきとよもすをかべなる藤浪見には君は來じとや
格公鳥來鳴動崗部有藤浪見者君者不來登夜
 前の歌と四五句相似たれば並べて出せるならむ。一聯の歌にはあらず○契沖此歌を評して
  雨のふる日ならば蓑も笠も著でしとどにぬれて人來さすべき歌なり
といへり。此叟風情に昧からず
 
1992 こもりのみこふればくるしなでしこの花にさきでよあさなさな見む
隱耳戀者苦瞿麦之花爾開出與朝旦將見
 コモリノミはシノビテノミなり。ハナニは花トにてやがてナデシコノ花ノ如クとなり。サキデヨは表向ニセヨといふことをたとへたるなり○これも女の歌なり
 
(2016)1993 よそのみに見筒戀牟《ミツツコヒナム》くれなゐの末つむ花の色不出友〔左△〕《イロニイデズテ》
外耳見箇〔左△〕戀牟紅乃未〔左△〕採花乃色不出友
 第二句を契沖以下ミツツヲコヒムとよみたれどヲはよみそへがたし。宜しくミツツコヒナムとよむべし〇三四は色ニ出ヅの序なり。此序の例にこそかのフルノワサ田は引出づべけれ○結句を從來イロニイデズトモとよめり。案ずるに友を而の誤としてイロニイデズテとよむべし○箇は筒の誤、未は末の誤なり
 
   寄露
1994 夏草の露別衣《ツユワケシキヌ》不著爾《キタラヌニ》わが衣手のひる時もなき
夏草乃露別衣不著爾我衣手乃干時毛名寸
 第二句を從來ツユワケゴロモとよみたれどさてはナツ草ノといふこと衣までかかるが上に、かの古今集雜上なる
  きよ瀧の瀬々のしらいとくりためて山わけ衣おりて著ましを
の山別衣の如く露を分くる料に特製したる衣をいへるなりともおぼえねば訓を(2017)改めてツユワケシキヌとよむべし○第三句を舊訓にキモセヌニとよみ略解にキセナクニとよみて
  キセナクニのセは老セヌ、タエセヌなどのセにひとしく古言なり
といへれどオイヌ、タエヌは自動詞にて上に承くる語なければ連用格を變じて名詞としてオイセヌ、タエセヌといふべけれど、キヌは他動詞にてこゝにては衣を承けたればキを名詞としてキセヌといふべからざる上に、キセヌといはば不令著とまぎれぬべし。又古義にはケセナクニとよみたれどキルをケスといふは人の上にいふことなり。案ずるに不著爾はキタラヌニとよむべし。或は著の下に有の字ありしをおとせるか
 
   寄日
1995 みな月のつちさへさけててる日にも吾袖ひめや君にあはずして
六月之地副割而照日爾毛吾袖將乾哉於君不相四手
 
(2018)  秋雜歌
   七夕
1996 あまのかは水△左閉而《ミナゾコサヘニ》、照舟《テラスフネ》、竟舟人《ハテシフナビト》妹とみえきや
天漢水左閉而照舟竟舟人妹等所見寸哉
 略解に
  古本水の下底の字有。しかれば二三四の句ミナゾコサヘニテルフネノハテテフナビトと訓べし
といひ、古義にはミナゾコサヘニヒカルフネハテシフナビトとよめり。第二句は二書に從ふべし。上(一九三一頁)にもノト河ノ水底サヘニテルマデニとあり。次に第三句はテラスフネとよむべく第四句は古義の訓に從ふべし○フナビトは牽牛、イモは織女なり。ミエキヤは相見エキヤなり。こゝのハテシは他動詞なり
 
1997 (久方の)あまのかはらに(ぬえどりの)裏歎《ウラナゲキ》ましつ乏〔左△〕《カナシキ》までに
久方之天漢原丹奴延鳥之裏歎座津乏諸手丹
(2019) 卷一軍王見v山作歌(一二頁)にヌエコドリ卜歎居者とあり又此卷の下に
  よしゑやしただならずともぬえ鳥の浦嘆|居《ヲリト》つげむ子もがも
 又卷十七なる述2戀緒1歌にヌエ鳥ノ宇良奈氣之都追とあり。さて卷一なる卜歎居者を舊訓にウラナケヲレバとよめり。契沖は此訓に從ひて
  奴要子鳥は子は添へたる字にて唯ヌエ鳥なり。ウラナケヲレバとは下なげく也。高く聲をも立ず喉聲にてつぶやくやうに啼鳥なれば我故郷を戀とて打うめかるゝに喩て云へり。後にも今のごとく喩てよめる歌多し。或點にウラナキとあるは同じ心なれど第十に七夕の歌の中に二首今と同じく歎の字を用、十七には奴要鳥能宇良奈氣之都追とあればウラナケなり
といひ、眞淵の冠辭考にはウラナキヲレバ、ウラナケマシツ、ウラナケシツツとよみて
  こはかれが聲のかなしくうらめしげなるを人のを〔左△〕らびなくに譬ておけり。古事記にアヲヤマニヌエハナキとよみ給ふも物おもふ時に此聲を聞ていよゝ愁ましたまへる意なり○卷五にヌエ鳥ノノドヨビヲルニ云々これも哭にたとへた(2020)る意は右に同じ。さて裏嘆とかきノドヨビともいへるをもて或人は隱聲になく鳥ならんといひしを……よりておもふに和名抄に※[空+鳥]怪鳥也とあれば梟などの類にて夜鳴ならん。且喉呼とも書るは隱聲なるにはあらでからごゑに鳴かたにていふ也けり。ウラ鳴は恨鳴也
といひ、おなじ人の萬葉考に
  ※[空+鳥]のなく音は恨を〔左△〕らぶが如きよし冠辭考にいひつ。人のウラナキは下に歎くにて忍音をいへり。然れば※[空+鳥]よりは恨鳴といひ受る言は下歎なり
といひ、宣長の玉(ノ)小琴には
  卜歎居者 本のまゝ(○ウラナケ)に訓べし
といひ、略解にもウラナケとよめり。御杖の燈には『ウラナゲヲレバとよむべし』といへり。即ケを濁りてよめり。古義にも濁りてウラナゲとよみ、さて
  卜歎、浦歎など書るはともに借字、裏歎と書るぞ正字にてしのびに歎きてあらはさぬを云り。……裏はウラガナシ、ウラグハシなどのウラと同意なり。歎は字(ノ)意の如し。さればケの言濁て唱べし(但し十七に宇良奈氣之都追と氣の清音の假字(2021)を用ひたるは正しからじ)
といへり。案ずるに眞淵の如くウラナキヲレバとよまば又ウラナキマシツ、ウラナキシツツとよまざるべからず。即此をウラナキとよみ彼をウラナケとよむべきにあらず。次にウラナクルといふ語あるべしともおぼえねば舊訓、契沖、宣長、千蔭の如くウラナケヲレバ、ウラナケマシツ、ウラナケシツツとよむべきにあらず。次にナゲキはもと長息の約なれば略してナゲとはいふべからず。されば御杖雅澄の如くウラナゲとよむべきにあらず。然らばウラナキヲレバとよむべきかといふに假字書なるを除きて三箇處ともに歎の字を書きて哭の字を書かざる事、卷十七に字良奈氣とかける氣はキとよみがたき事以上二つの理由によればウラナキともよむべからず。されば字のまゝにウラナゲキとよみて卷十七なる宇良奈氣之都追は氣の下に伎をおとせりとすべし。本集には濁音の語に清音の字をあてたる例少からざればゲに氣を宛てたるは訝るに足らず。又ウラナゲキとよめば四箇處ともに八言の句となれどこれはた疚しとすべからず。さてそのウラナゲキは裏歎にてかのノドヨビとおなじく呻吟の意なり。眞淵が恨鳴の意としたるは非なり。ウラミを略し(2022)てウラといふべけむや○結句の乏は哀などの誤としてカナシキマデニとよむべし○この歌は織女のさまをよめるなり
 
1998 吾戀《ワガコヒヲ》、嬬者知遠《ツマハシレルヲ》ゆく船のすぎて來べしや事毛告火《コトモツゲナム》
吾戀嬬者知遠往船乃過而應來哉事毛告火
 略解には第二句の知を一本によりて彌の誤とし又結句の火を哭の誤と認めてワガコフルツマハイヤトホク……コトモツゲナクとよみ、さて
  イヌルを來ルといふ例有。嬬は借れるにて彦星をさす。彦星ハ舟コギ出テ言ヲモノリ給フ事ナクテ彌遠クタダ過ニ過行ハナサケナシ、サハ過去ベキ事カハといふなり
といひ、古義には初二を舊訓(紀州本)によりてアガコヒヲツマハシレルヲとよみ結句を眞淵の説によりて コトモツゲナクとよみ、さて
  中山嚴水、嬬は彦星を云。往船とはただ天漢を漕行舟にて彦星の舟にあらず。過而は時過而の意なり。ワガ待ツツ戀ルコトヲ彦星ハヨク知給ヒヌルヲ舟ノ過往ゴトク時過テ來マスベシヤハ、モシ時過ムトナラバ事ノヨシヲ告來スベキニシカ(2023)ジカト言モツゲ來ズテアレバ時過テ今更來座ベキヤウハナシといへるにてかのこぎ行舟を見て彦星の來り給ふにやと附添ふ女どものいふに答ふるさまなりといへり
といへり。嚴水は第三句を枕辭とせるにや然らずや。いとおぼつかなし。舟ノ過往ゴトク時過テと釋せるを見れば枕辭とせるにてカノコギユク舟ヲ見テ彦星ノ來リ給フニヤト附添フ女ドモノイフニといへるを見れば枕辭とはせざるなり。雅澄が
  今按(フ)に此説の如くならば往船之はただ天漢のちなみに枕辭の如くに云るものともすべきか
といへるはた事理に明なる言とは稱しがたし。訓義辨證(下卷二四頁)には卷十三に二二火四《シナムヨ》吾妹とあるを例として結句をコトモツゲナムとよみ、さて
  按に火は南の意に借たるにてツゲナムと訓べきなり。四句クベシヤはユクベシヤの意にて過テ往ベキ事カハ、暫時ハトドマリ給へ、セメテ吾オモフ言ナリトモ告知センモノヲといふなり
といへり。臨別の歌とせるは誤解なれど結句はげにツゲナムとよむべし。又初二は(2024)舊訓の如くワガコヒヲツマハシレルヲとよむべし。ユクフネノは枕辭にあらず。來ベシヤはユクベシヤにおなじ。此歌は織女になりてよめるにて
  ワガカク戀フル事ヲ彦星ハヨク知レルヲ今天ノ河ヲ舟ニテユクトナラバ傳言ダニスベキヲ素通リニシテ往クベシヤ
といへるなり
 
1999 あからひく色妙子《イロタヘナルコ》しば見者《ミナバ》人妻ゆゑにわれこひぬべし
未羅引色妙子數見者人妻故吾可戀奴
 アカラヒクは集中にアカラヒク日モクルルマデ、アカラヒク朝ユクキミヲ、アカラヒクハダモフレズテとあり。日と朝とにつづきたるは純粹の枕辭なれど肌につづきたるとこゝなるとは准枕辭と認むべし。アカクニホフといふ意とおぼゆ(古義にはヒを濁りてアカビカルの約とせり)○第二句を舊訓にシキタヘノコヲとよめるを契沖はイロタヘノコヲに改め眞淵、千蔭、雅澄は舊訓に從へり。さて冠辭考には
  アカラヒクシキタヘノコヲ云々こは子につづけて上の赤ネサス君てふに同じ。色妙は借字にて下に擧るシキタヘノ妹といふに同じく敷細布てふ意也。さてそ(2025)の敷は物の繁くうつくしきをいひ細布もよき絹布をいふ古語にて女のうつくしく和《ナゴ》やかなるに譬へたる語也
といひ、古義には
  シキタヘノコは十三にもヤマトノツゲノヲグシヲオサヘサス刺細(ノ)子(ハ)ソレゾワガツマとあり。刺細は敷細の誤なればここも舊本にシキタヘとよめる、よろし。二卷に色妙乃枕トマキテとあるをも考合べし。シキは重浪《シキナミ》のシキにてタヘは微妙なる謂ならむ。美女を稱ていふなるべし
といへり。色妙をシキタヘノとよみて子にかゝれりとせむには枕辭と認めざるべからず。既にアカラヒクといふ枕辭を戴き更にシキタヘノといふ枕辭を戴くべきならむや思ふべし。これのみにてシキタヘノとよむべからざる事明なれば其上は云ふにも及ばざる事なれど尚云はむに冠辭考に例として引けるシキタヘノ妹は卷二に敷妙ノ妹ガタモトヲとあるを云へるにてそのシキタヘノは眞淵自も(シキタヘノの下に)『こは語を隔てタモトにつづく』といへるにあらずや。又古義に卷十三なる
(2026)  みなのわた、かぐろき髪に、眞木綿もち、あざねゆひ垂り、やまとの、つげの小櫛を、おさへさす、刺細の子は、それぞわがつま
の刺を敷の誤として今の例とせるは妄とも妄なり。刺はおそらくは腰の字の誤ならむ。なほ彼處に至りていふべし。然らば契沖の如くイロタヘノ子ヲとよむべきかと云ふに語法上イロタヘノ子とはいふべからず。宜しくイロタヘナル子とよむべし。さて初二はクレナヰノ色ウツクシキ子といへるなり○シバは屡なり。見者を從來ミレバとよみたれどミナバとよまではコヒヌベシと照應せす。人妻ユヱニは人ノ妻ナルニとなり(卷七【一三八二頁】參照)○此歌は略解古義にいへる如く元來七夕の歌にあらざるがまぎれてこゝに入れるなり
 
2000 あまのかは安のわたりに船うけて秋立《アキタツ》まつと妹につげこそ
天漢安渡丹船浮而秋立待等妹告與具〔左△〕
 支那傳説の銀河と我傳説の天(ノ)安河と相似たる所あればわざと相混じてアマノカハヤスノワタリニといへるなり。ワタリは渡津なり○第四句を舊訓にアキタチマツトとよみ、眞淵は立をタツとよみ改め、宣長は秋を我の誤としてワガタチマツト(2027)とよめり。さて略解古義共に宣長の説に從へり。案ずるにこは眞淵の説に從ふべし。ワガタチマツトとよまむに待つべきものをいはでは物足らず又タチは不用なればなり。アキタツマツトとよみて秋ノ立ツヲ待テリトの意とすべし。さてこは風雲などにおほせたるなり○與具は與其の誤、與のみにてコソとよむべきを更に其を添へたるか。其をソに借れる例は卷四にイヅクノコヒ其《ゾ》(七七〇頁)イヅレノイモゾ(七七六頁)とあり。下にもそれとおぼゆる例あり
 
2001 蒼天《オホゾラ》ゆかよふわれすらなが故に天漢道《アマノカハヂヲ》なづみてぞこし
從蒼天往來吾等須良汝故天漢道名積而叙來
 牽牛が織女に告ぐる趣なり。第四句を舊訓にアマノカハミチとよみ、契沖は卷十四にカミツケノヲドノタドリノ可波治ニモとあるを例としてアマノカハヂヲとよめり。契沖の訓に從ふべし。卷二(三一三頁)に川瀬ノ道とあるも同意なり○ナヅミテはナヅサヒテにひとし(卷九【一七六二頁】參照)。一首の意は
  大空ヲ飛ブ通力アル我ナレド汝ニ心底ヲ見セムトテ辛苦シテ天ノ川瀬ノ道ヲ渡ツテ來タ
(2028)といへるなり
 
2002 八千戈の神の御世よりともしづま人しりにけり告思者《ツギテシモヘバ》
八千戈神自御世乏※[女+麗]人知爾來告思者
 初二はただ遠キ昔ヨリといはむにひとし(卷六【一一八四頁】參照)。さて
  ともし嬬人しりにけり八千矛の神の御世より告思者
と句をおきかへて心得べし。トモシヅマはユカシキ妻なり。卷八(一六二一頁)にもナク鹿ノ、如トモシカモワガココロ妻とあり。略解に
  トモシヅマはたまたま逢てめづらしみおもふ意といひ、古義に
  年に一度ならでは相見る事なければ見る事の稀に乏しき妻と云なるべし
といへるは非なり○結句を舊訓にツギテシオモヘバとよみ略解に
  告は借れるにて意は繼也。卷三長歌語告もカタリツギと訓べければこゝもツギとよめり
といへり(古義にもツギテシモヘバとよめり)。げに卷三(四一五頁)山部赤人望2不盡山1(2029)歌に語告イヒ繼ユカムとありてカタリツギとよむべくおぼゆ。但告の今の活は下二段にてツギとはたらかねばツギに告の字を借るべくはあらず。よりて思ふに告《ツグ》はいにしへ四段にはたらきしならむ。一説に告は苦の誤にてネモコロニモヘバなりといへれど八千矛ノ神ノ御世ヨリを受けたればツギテといはむ方まさるべし
 
2003 わがこふる丹穗《ニノホ》の面《オモテ》こよひもかあまのかはらに石枕卷《イソマクラマカム》
吾等戀丹穗面今夕母可天漢原石枕卷
 ニノホは赤土ノニホヒなり。面を舊訓にオモハとよめるを略解古義にオモワに改めたれどオモワは顏の輪廓なればオモテとよむべし。さてニノホノオモテはやがて紅顏なり。卷五(八六一頁)にもニノホナス、オモテノウヘニ、イヅクユカ、シワカキタリシとあり〇二三の間にソノ人トといふことを挿みてきくべし。コヨヒモカのモは助辭にてコヨヒカといはむにひとし○石枕は舊訓の如くイソマクラとよむべし。イソは大石なり(卷九【一七三三頁】參照)。結句は古義に從ひてイソマクラマカムとよむべし
 
2004 己※[女+麗]《オノヅマノ》、乏子等者《トモシムコラハ》、竟津《ハテムツノ》、荒磯卷而寐《アリソマキテネム》、君まちがてに
(2030)己※[女+麗]乏子等者竟津荒磯卷而寐君待難
 初二を舊訓にオノガツマトモシキコラハとよみたれどトモシムといはでは語脉とほらず。略解にはシガツマノトモシキコラハとよみたれど己をシガとよむべからざる事は卷九(一七四七頁)にいへる如し。宜しくオノヅマヲトモシムコラハとよむべし。宣長はオノガツマトモシムコラハとよめり。それもあしからず。トモシムはユカシガルにてやがて戀ふるなり。子ラは織女を指せり○第三句を舊訓にアラソヒツとよみ眞淵が立見津の誤としてタチテミツとよめる共に由なし。宣長はハツル津ノとよめり。更に一歩を進めて古義の如くハテム津ノとよむべし。君ガ舟ノ泊テム津ノとなり。終の意なる竟《ハテ》を泊《ハテ》に借れるなり。卷七(一二八三頁)にも大御舟竟而サモラフとあり又上(二〇一八頁)にも竟《ハテシ》舟人妹ト見エキヤとあり○第四句を宣長がアリソマキテヌとよみ雅澄が之に從へるはわろし。略解の如くアリソマキテネムとよむべし○マチガテニは待敢ヘズにて即待兼ネテなり。君といへるは牽牛なり。此歌は第三者としてよめるなり。織女になりてよめるにあらず
 
2005 天地とわかれし時ゆ白※[女+麗]《オノヅマト》、然叙手〔左△〕而《シカゾタノミテ》在〔□で圍む〕金《アキ》まつ吾は
(2031)天地等別之時從自※[女+麗]然叙手而在金待吾者
 三四を從來オノガツマシカゾテニアルとよみたれどさては何の意ともきこえず。略解に『四の句誤字あらん。解がたし』といへるは率直なり。案ずるに手を恃などの誤字、在を衍字としてオノヅマトシカゾタノミテとよむべし。シカゾはカクゾなり
 
2006 彦星《ヒコボシハ》なげかすつまにことだにも告余〔左△〕叙來鶴《ノラムトゾキツル》△見者苦彌《ミズバクルシミ》
彦星嘆須※[女+麗]事谷毛告余叙來鶴見者苦彌
 初句を舊訓と略解とにはヒコボシノとよみ契沖と雅澄とはヒコボシハとよめり。後者に從ふべし○第四句を舊訓にツゲニゾキツルとよみ又異本に余を爾に作れるによりて契沖以下皆余を爾の誤とせり。案ずるにコトダニモを受けたればツゲムトゾキツルとあらざるべからず。否ノラムトゾキツルとよむべし。されば余を等の誤とすべし。コトダニモノラムは話ナリトモセムとなり。卷九詠2水江浦島子1歌(一七四四頁)にチチハハニコトモノラヒとあると參照すべし○結句を從來ミレバクルシミとよみたれどさては意通ぜず。宜しく見の上に不の字を補ひてミズバクルシミとよむべし〇一首の意は
(2032)  彦星ハ嘆カス妻ニ(相寢ル事ハカナハズトモ)話ナリトモセムトテ來ツ、見ネバツラキニヨリテ
といへるなり
 
2007 (久方の)あまつしるしと水無《ミナシ》河へだてておきし神世しうらめし
久方天印等水無河隔而置之神世之恨
 アマツシルシのシルシは畫なり。莊子人間世に畫v地而趨とあり孫子虚實に雖2畫v地而守1v之云々とあり文選の西京賦に畫v地成v川とあるシルシなり。こゝに天印とかき下なる長歌に天驗とかけるは共に借字なり。後世の歌にアマノオシデとよめるはこの天印を誤讀せるなりと契沖及濱臣(答問雜稿)おどろかせり○ミナシ何といへるは天上の河なればしか云へるにや。ミナシ河は卷四に水瀬川、卷十一に水無瀬川と書きたればミナセ河ともいひしなり(アナシ河をアナセ河ともいふ如く)。但こゝは水無と書きたればミナセとはよみがたし
 
2008 (ぬばたまの)宵霧隱《ヨギリガクリテ》、遠くとも妹傳△《イモガツテゴト》はやくつげこそ
(2033)黒玉宵霧隱遠鞆妹傳速告與
 略解古義にヨギリゴモリテとよみたれど下なるヌバタマノ夜霧隱トホヅマノ手ヲはヨギリガクリテとよまざるべからねばこゝもヨギリガクリテとよむべし。道ガ夜霧ニ隱レテといふ意なり〇道といふことを略せるなり〇さて霧に隱れたりとも道の遠近はかはるべからねど霧たてば道たどたどしくて恰道の遠きが如くに時費ゆればしばらく借りてトホクトモといへるなり○第四句を舊訓にイモガツタヘハとよめるを古義に言の字のおちたるなりとしてイモガツテゴトとよめるは卓見なり。卷十九なる長歌にも玉桙ノ、道クル人ノ、傳言ニ、吾ニ語ラク云々とあり
 
2009 汝《ナ》がこふる妹の命は飽足〔左△〕爾《アクマデニ》袖ふるみえつ雲がくるまで
汝戀妹命者飽足爾袖振所見都及雲隱
 第三句を舊訓にアクマデニとよめるを略解にはアキタリニとよみ、古義には足を迄の誤字として再アクマデニとよめり。古義に從ふべし○此歌は第三者としてよめるなり。結句は汝彦星ガ別レ去リテ雲ニ隱ルルマデとなり
 
(2034)2010 ゆふづつ毛《モ》かよふ天道《アマヂ》をいつまでかあふぎてまたむ月人をとこ
夕星毛往來天道及何時鹿仰而將待月人壯
 月人ヲトコヲ〔右△〕待タムとなり。初句の毛を古義に之の誤字とせり。こは待つ事久しうして長庚の運行も感知せらるゝ趣なればなほ毛とあるべし。古義に
  此歌は月を待歌なるがまぎれて七夕の歌の中に入たるならむ
といへる如し。契沖は『月人ヲトコは牽牛の異名と聞ゆ』といひたれどアフギテマタムとあれば地上の人の空を仰げるにて織女が牽牛を待てる趣にあらず
 
2011 あまのかは已《イ》むかひたちて戀等△爾《コフラムニ》ことだに將告《ツゲナム》※[女+麗]言及者
天漢已向立而戀等爾事谷將告※[女+麗]言及者
 第二句の已を己と見誤り又卷十八にヤスノカハ許〔右△〕牟可比太知※[氏/一]とあるに誤られて舊訓及略解に第二句をコムカヒタチテとよみたれどコムカヒといふ語は無し。已の音はイなり。されば活語雜話(卷二の四十一丁)及古義に從ひてイムカヒとよむべし。現に集中にミヅトリノタチノ已蘇伎爾またカヒ〔右△〕リクマデニ已波比弖マタム(2035)(共に卷二十)など已をイの假字に用ひたり○第三句を舊訓には字のまゝにてコフラクニとよみ、略解には等を樂の誤としてコフラクニとよみ、古義には等爾を從者又は自者の誤としてコヒムヨハとよめり。宜しく戀等六爾の脱字としてコフラムニとよむべし。ラムを等六と書ける例は卷一(一〇頁)にアサフマス等六《ラム》ソノクサフカヌ又卷七(一二二七頁)にカミヨニカイデカヘル等六とあり。さてコフラムニは織女ガ戀フラムニと云へるなり○第四句は從來コトダニツゲムとよみたれど、さては意通ぜず。コトダニツゲナムと八言によむべし。牽牛に對して便ダニシテヤレと勸むるなり○結句を舊訓にはツマトフマデハ、略解にはツマトイフマデハとよみ、古義には言を元暦校本に奇とせるに據りて寄の誤としてツマヨスマデハとよめり。古義の説宜しき如くなれどツマヨスと云はむとには卷九(一六九一頁)なるツマノ社《モリ》ツマヨシコサネの如くツマを寄する者(此歌ならば風など)を擧げてそれに對してコトダニ告ゲナムと云へるやうにせざるべからず。又假に風などいふ事を略したりとしてもコトダニツテヨと云はざるべからず。されば※[女+麗]言の言はもとのままとし、及を柄の誤としてツマトイフカラハとよむべきか
 
(2036)2012 しら玉のいほつつどひを解もみず吾者干〔左△〕可太奴《ワレハアリガテヌ》あはむ日まつに
水良玉五百都集乎解毛不見吾者干可太奴相日待爾
 略解に『干は在の誤にてアリガタヌか』といひ、古義に
  白玉の五百つ集の手玉を裝ひ飾てかたちづくりして今か今かと彦星の來座てあはむ日を立待によりてその飾の手玉を再び解て試むることをも得せず心を安むる間もなくして待に在にも在られず堪がたしとなるべし
といへり。案ずるに干はげに在の誤ならむ。太はテとよむべし。卷七に安太《アテ》ヘユクヲステノ山ノ、卷十二にイトノキ太《テ》ウスキ眉根ヲとあればなり(一三一九頁參照)。さてアリガテズといはでアリガテヌといへるはアリアヘヌコトヨといふ意なればなり。卷十四にもフルユキノユキスギ可提奴イモガイヘノアタリとあり○トキモミズは手に卷きたるを解きも見ずといふ事かと思へどなほ穩ならず。解は卷の誤にあらざるか
 
2013 あまのかは水陰〔左△〕草《ミゴモリグサ》のあき風に靡見者《ナビクヲミレバ》時きたるらし
(2037)天漢水陰草金風靡見者時來之
 水陰草を舊訓にミヅカゲグサとよめるを眞淵は陰を隱の誤としてミゴモリグサとよみ、さて
  祝詞に水分をミクマリともミコモリとも訓如くみなまたに生たる草をいふ也
といひ雅澄は之に從へり。隱とある本あればそれに從ひてミゴモリグサとよむべし。但ミゴモリグサは水中に生ひたる草とすべし。祝詞の水分は配水《ミクバリ》にて水派《ミナマタ》の意にあらず○第四句を古義にナビカフミレバとよめり。舊訓の如くナビクヲミレバとよみて可なり○こは織女になりてよめるなり。されば時の上に彦星ノ來タマハムといふことを添へて心得べし
 
2014 わがまちしあきはぎさきぬ今だにもにほひにゆかなをち方人に
吾等待之白芽子開奴今谷毛爾寶此爾往奈越方人邇
 此歌の今ダニモは今カラナリトモなり。即下なる
  露霜にころもでぬれて今だにも妹がりゆかむ夜はふけぬとも
のイマダニモにおなじ(卷九【一八四〇頁】參照)。夕方にふと萩のさきたるを見附けて今カ(2038)ラナリトモといへるなり。さて萩のさけるを見て妹がり行かむと思立ちぬるは妹に逢ふべく定まれる時節なればなり○ヲチカタ人は即遠妻にて織女をさせるなり。ニホフは染マルなり。但こゝにては色に染まるにあらで香に染まるなり。宣長雅澄がニホヒをナマメキと釋せるは從はれず
 
2015 わがせこにうらごひをれば天の河夜船こぎとよむ梶の音きこゆ
吾世子爾裏戀居者天河夜船※[手偏+旁]動梶音所聞
 ウラゴヒは心ニ戀ヒなり
 
2016 まけながくこふる心ゆあき風に妹〔左△〕音《カヂノト》きこゆ紐とき往〔左△〕名《マケナ》
眞氣長戀心自白風妹音所聽紐解往名
 マケナガクはケナガクにマの添へるにてケナガクは久シクなり。心ユは心ヨリなり○妹音は梶音の誤なる事しるし○往名を宣長は待名の誤としてマタナとよみ雅澄は枉名の誤としてマケナとよめり(卷十一にユフカタマケテを夕方枉とかけり)○卷八(一五五五頁)に
(2039)  あまのかはあひむきたちてわがこひし君きますなり紐ときまけな
 又下に
  あまのかは川門にたちてわがこひし君きたるなり紐ときまたむ
とあり
 
2017 こひしくはけながきものを今△谷《コヨヒダニ》ともしむべしやあふべき夜だに
戀敷者氣長物乎今谷乏牟可哉可相夜谷
 コヒシクハはコヒシカル事ハとなり。卷十八にも戀之久爾イタキ吾身ゾ云々、卷二十に故非之久能オホカルワレハミツツシヌバムとあり。トモシムベシヤは飽クバカリモノセザラムヤとなり○第三句を從來イマダニモとよみたれどこは今夜谷とありし夜をおとせるにてコヨヒダニとよむべし。結句は第三句を反復せるなり。否第三句にアフベキコヨヒダニといふべきをさは云はれざるによりてまづ第三句にコヨヒダニといひ更に結句にアフベキ夜ダニといへるなり。古義に『今ナリトモ心ダラヒニ速ク相見ムとなるべし』といへるは夜を脱せるに心づかざりしにて又『谷二(ツ)ありていかが』といへるは互文なる事を悟らざりしなり
 
(2040)2018 あまのかはこぞの渡(ノ)伐〔左△〕遷《ウツロ》へば河(ノ)瀬ふむに夜ぞふけにける
天漢去歳渡伐遷閉者河瀬於蹈夜深去來
 彦星が天河を徒渉する趣によめるなり。渡伐を契沖千蔭はワタリバとよみたれど場は當時はニハといひていまだバといはねばしかよむべきにあらざる事明なり。古義には伐を代の誤として(類聚古集には代とあり)ワタリデとよみて應神天皇紀の歌にチハヤビトウヂノワタリニ和多利涅珥《ワタリデニ》とあるを例に引きたれど此歌古事記には和多理|是《ゼ》邇とありて紀の涅は果して誤字ならざるか、即果してワタリデといふ語ありやいまだ確ならぬ事なれば之に據りて今を定めむは頗危し。案ずるに伐を代の誤とし代遷閇者をウツロヘバとよみ渡にノをよみ添ふべし、ウツロヘバはカハレバなり〇河瀬はカハノセとよむべし。從來カハセヲとよみたれどカハノセとよまむ方調まされり。第四句のフムはよくつかひたり。たどり渡るさま此一語にてあらはれたり
 
2019 いにしへゆ擧げてしはたをかへりみず天の河津に年ぞへにける
(2041)自古擧而之服不顧天河津爾年序經去來
 古義に
  往古より機にはあげおきたれども彦星をこひしく思ふ心の切なる故に天(ノ)河津にのみ立出て其機物をかへりみずして年ぞ經にけるとなり
と釋せる如し
 
2020 天のかは夜船をこぎてあけぬともあはむと念《も》ふ夜、袖かへず將有△《アレヤ》
天漢夜船※[手偏+旁]而雖明將相等念夜袖易受將有
 將有を舊訓にアレヤとよめり。契沖は此訓に基づきて『落句の終に哉の字あるべし。落たるにや』といへり。然るに千蔭はもとのまゝにてアラムとよみ雅澄は哉を補ひてアラメヤとよめり。ソデカヘズアラメヤとよめば九言となりて調わろければ舊訓の如くアレヤとよむべし。さて四五は逢ハムト思フ夜ナルヲ袖ヲカハサザラムヤといへるなり。カハシをカヘといへるは玉手サシカヘの類なり
 
2021 とほづまと手枕|易《カヘテ》ねたる夜はとりがね莫動《ナトヨミ》あけばあくとも
(2042)遙※[女+莫]等手枕易寐夜※[奚+隹]音莫動明者雖明
 トホヅマは上なるヲチカタ人とひとしくて即織女なり。第二句を舊訓にタマクラカヘテとよめるを古義にカハシに改めたれど略解に『上の袖カヘテと同じくカハシテ也』といへる如くなれば舊訓に從ふべし。卷五(八六四頁)卷八(一五五七頁)にも玉手サシカハシを玉手サシカヘといへり○第四句は舊訓にトリガネナクナ、略解古義にトリガネナナキとよみたれどトリガネナトヨミと八言によむべくや○※[女+莫]は異本に※[女+漢の旁]とあり。※[女+莫]《ボ》は醜婦、※[女+漢の旁]《カン》は老嫗の貌にて共に穩ならず。※[女+英]又は※[女+美]の誤か
 
2022 相見久《アヒミラク》あきたらねども(いなのめの)あけゆきにけりふなでせむいも
相見久厭雖不足稻目明去來理舟出爲牟※[女+麗]
 初句を舊訓と古義とにアヒミマクとよみたれど略解に從ひてアヒミラクとよむべし。さてアヒミラクは相見ル事ガとなり
 
2023 さねそめていくだもあらねばしろたへの帶乞ふべしや戀もつきねば
左尼始而何太毛不在者白栲帶可乞哉戀毛不遏者
(2043) サネソメテは寢ソメテなり。イクダモアラネバはイクバクモアラヌニなり。卷五(八六四頁)にもマタマデノ玉手サシカヘサネシ夜ノ、イクダモアラヌニとあり。但こゝは一夕の事なり。略解に
  イクダはイクバクの略也。ココダクをココダといふに同じ
といへるは何の意か。イクバクを略してもイクダとはならざるにあらずや〇コヒモツキネバは戀モ盡キヌニなり。下にもあり。このネバも上のネバも全く相同じ。古義に
  不在者は字の意の如し。次のツキネバはツキヌニの意にて異なり
といへるは誤解なり。元來サネソメテイクダモアラズ戀モツキヌニシロタヘノ帶ヲ乞フベシヤといふべきをしらべわけたれば聊きこえにくきなり〇三四は契沖が
  きぬぎぬになる時其帶取て給はれと織女に乞べしやはとなり
といへる如し。寫實に過ぎてなつかしからず
 
2024 よろづ世にたづさはりゐてあひみともおもひすぐべき戀ならなくに
(2044)萬世携手居而相見鞆念可過戀奈〔左△〕有莫國
 アヒミトモは相見ルトモなり。オモヒスグは思止ムなり○奈は尓の誤ならむ
 
2025 よろづ世にてるべき月も雲がくりくるしきものぞ將相登《アハムト》雖〔□で圍む〕|念△《モヘバ》
萬世可照月毛雲隱苦物叙將相登雖念
 雲ガクリはこゝにては雲ガクレテといふ意にはあらで雲ガクレスルハといふ意ならむ。クルシキはワビシキなり○結句を字のまゝにアハムトモヘドとよみては一首の意通ぜず。雖念は念者の誤ならむか。さて一首の意は萬世ニ逢フベキ契ナガラ妹ニ逢ハムト思ヘバシバシノ障モツラキモノゾといへるにや
 
2026 白雲のいほへ隱《カクシテ》とほけどもよひさらず見む妹があたりは
白雲五百遍隱雖遠夜不去將見妹當者
 隱を略解古義にカクリテとよみたれど舊訓の如くカクシテとよむべし。ヨヒサラズは毎夕なり
 
2027 わがためとたなばたつめ之《ガ》そのやどに織白布《オルシロタヘハ》、織弖《オリテ》けむかも
(2045)爲我登織女之其屋戸爾織白布織弖兼鴨
 之はガとよむべし(從來ノとよめり)。第四句を古義にはオレルシロタヘとよめり。ここはオレルといふべき處にあらず。オルシロタヘハとよむべし。織弖を古義に縫弖の誤とせるは妄なり。もとのまゝにてオリテとよむべし。織上ゲタラウカとなり。略解にケムカモのケに濁をさしたるはわろし。すみてよむべし
 
2028 君にあはず久時〔左△〕《ヒサシクナリヌ》、織服《オリキセシ》しろたへごろも垢づくまでに
君不相久時織服白栲衣垢附麻弖爾
 第二句を從來字のまゝにヒサシキトキニ、ヒサシキトキユなどよめり。久成奴または久成宿の誤としてヒサシクナリヌとよむべし○第三句を略解古義にオルハタノとよめるは非なり。オリキセシとよむべし○略解に織女になりてよめりといひ古義に織女のいへる意にやといへるも非なり。無論牽牛の語なり
 
2029 あまのかは梶の音《ト》きこゆひこ星とたなばたつめとこよひあふらしも
天漢梶音聞孫星與織女今夕相霜
 
(2046)2030 秋されば河霧|△《キラス・キラフ》あまの川河にむきゐてこふる夜ぞおほき
秋去者河霧天川河向居而戀夜多
 第二句に落字ある事明なり。千蔭は後撰集にカハギリワタルとあるによりて渡の字を補ひたれどタチワタルとこそいふべけれ、ただワタルとはいふべからず。古義には古寫本に據りて立の字を補ひてカハギリタテルとよめれどこゝはタツといふべき處にてタテルといふべき處にあらず。雅澄は一時の現在と繼續の現在との別を知らざりし如し。案ずるに河霧々の々をおとせるにてカハギリキラス又はカハギリキラフとよむべし。河といふ語の三たび出でたるはわざと重ねたるなり
 
2031 よしゑやしただならずとも(ぬえどりの)浦嘆居《ウラナゲキヲリト》つげむ子もがも
吉哉雖不直奴延鳥浦嘆居告子鴨
 ヨシヱヤシはヨシヤにおなじ。タダナラズトモは古義にタダニ逢ハズトモの意なりといへる如し。或は雖不直の下に相の字をおとせるにてもあるべし。略解にタダニイハズトモと譯せるは誤解なり。第四句はウラナゲキヲリトとよむべし(二〇一(2047)九頁參照)。ワガ心ニ嘆イテヲルト夫ニ告ゲム人モアレカシといへるなり。織女の語なり
 
2032 一とせになぬかのよのみあふ人の戀もつきねば夜はふけゆくも
    一云さよぞあけにける
一年邇七夕耳相人之戀毛不遏者夜深往久毛
    一云不盡者佐宵曾明爾來
 上にもシロタヘノ帶コフベシヤ戀モツキネバとあり。底本の夜深往久毛を略解に又ヨフケユカクモとよめるは非なり。ユカクはユクコトといふことなり。濫にユクを延べてユカクといふにはあらず
 
2033 あまのかは安川原《ヤスノカハラハ》、定而《サダマリテ》、神競者《カミノキホヘバ》、磨待〔二字左△〕無《ワタルトキナシ》
天漢安川原定而神競者磨待無
    此歌一首庚辰年作v之
    右柿本朝臣人麿歌集出
(2048) 舊訓には
  あまのかはやすのかはらのさだまりてこころくらべはときまつなくに
とよみ、略解には『競集同じ意に落れば』とて第四句をカムツツドヒハとよみ結句をトキマタナクニとよめり。又宣長は
  或人説に而は西の字の誤、競は鏡の誤にてヤスノカハラニサダメニシカミノカガミハトグマタナクニと訓べし。これは月を神代の鏡に見なして此鏡ハ磨事ヲマタズシテイツモクモラヌといふ也
といひ、雅澄は
  今強ておもふに神競は競字舊本の訓に從てツドヒと訓まむか。競字はあらそひあつまる義をめぐらしてツドヒと訓せたるならむ。つどふは集ることなればなり。さて磨待は禁時の誤にて第三句以下はサダマリテカミノツドヒハイムトキナキヲと訓むか
といへり。案ずるに磨待を度時の誤として
  あまのかはやすのかはらはさだまりて神のきほへばわたるときなし
(2049)とよむべし。初二は天上ノ河ナル安(ノ)河原ハとなるべし。天漢は天有哉《アメナルヤ》の誤かとも思へど下なる長歌にも天漢安乃川原乃とあれば誤にはあらじ。第四句の競は第三句のサダマリテを受けたれば動詞ならざるべからず。よりて神ノキホヘバとよめるなり。キホヘバは舟競スレバとなり。フナギホヒは卷一(五九頁)にも卷二十にも見えたり○此歌は牽牛の語なり。庚辰は天武天皇の白鳳九年なるべしと契沖いへり(○白鳳九年はただ九年とあるべし)
 
2034 たなばたの五百機たてておる布|之〔左△〕《ヲ》、秋去衣〔左△〕《アキサリクレバ》たれかとりみむ
棚機之五百機立而織布之秋去衣孰取見
 イホハタはあまたの機なり。機織は此神女の業とする所なり。さるから織女といひタナバタツメといふなり○秋去衣は字のままならば無論アキサリゴロモとよむべし。さて契沖は
  春ハ來ニケリと云事を春サリニケリとよめるやうに秋來テノ衣と云意に名付たり。袷と云説あり。然るべし
といへり。然るに秋著る衣を秋サリゴロモといはむは穩ならねば宣長は
(2050)  秋去は和布の字の誤にてニギタヘゴロモならん
といひ雅澄は之に從へり。案ずるに第三句の之を乎の誤とし秋去衣を秋去來者の誤としてオルハタヲアキサリクレバとよむべし。右の誤字に據りて後世アキサリゴロモとよみならへるはにがにがし○タレカトリミムを契沖は『彦星こそ取見めの意なり』といひ略解には『彦星ならで誰か著ても見んといふ也』といひ古義にも『彦星ならで孰か取見て服むぞと云るなるべし』といへり。案ずるにトリミルの語例は卷五(九五七頁)に
  國にあらば、父とりみまし、家にあらば、母とりみまし
 又(九六四頁)
  家にありて母がとりみばなぐさむるこころはあらまし死なば死ぬとも
 卷七(一三五二頁)に
  ことしゆくにひ島守が麻ごろも肩のまよひはたれかとりみむ
とありて世話する事なり。今は秋ニナレバ彦星ヲ待ツトテ他事ヲ顧ミネバ機ノ世話ハ誰ガスルダラウといへるなり。上なるイニシヘユアゲテシハタヲカヘリミズ(2051)云々と相似たる意なり
 
2035 年にありて今かまくらむ(ぬばたまの)夜霧隱《ヨギリガクリテ》とほ妻の手を
年有而今香將卷烏玉之夜霧隱遠妻手乎
 トシニアリテの語例は卷十一に
  大船にまかぢしじぬきこぐ間だに極太《ココダク》こひし年にあらばいかに
 卷十五に
  等之爾安里弖ひとよいもにあふひこぼしもわれにまさりておもふらめやも
とあり。一年中待チテといふ意なり○第四句を略解古義にヨギリガクリニとよみたれど本集に雲ガクリ、礒ガクリなどいへる皆雲ニ隱レテ、礒ニ隱レテなどいふ意なればこゝも夜ギリガクリテとよむべし
 
2036 わがまちし秋はきたりぬ妹與吾《イモトワレ》なに事あれぞ紐とかざらむ
吾待之秋者來沼妹與吾何事在曾紐不解在牟
 第三句を略解にはイモトワトとよみ、古義にはイモトアレとよめり。中世はかなら(2052)ず妹の下にも吾の下にもトを添へていひしかどいにしへは下のトを省きてもいひしこと卷五(八九七頁)にいへる如し〇四五は略解に何事有テカ紐解テネヌ事ノアルベキと譯せる如し。古義に何事ノ障アレバニヤ〔右△〕紐解テ相宿ズアルラムと譯せるは非なり。さて紐トクは帶を解くなり
 
2037 年の戀こよひつくしてあすよりは常の如くやわがこひをらむ
年之戀今夜盡而明日從者如常哉吾戀居牟
 年ノコヒは一年中の戀情なり
 
2038 あはなくはけながきものをあまのかはへだてて又やわがこひをらむ
不合者氣長物乎天漢隔又哉吾戀將居
 アハナクハは逢ハヌ事ハとなり
 
2039 こひしけくけながきものをあふべかるよひだに君が來まさざるらむ
戀家口氣長物乎可合有夕谷君之不來益有良武
 コヒシケクは戀シクアル事ハにて上(二〇三九頁)にコヒシクハとあるにおなじ。ヨ(2053)ヒダニの次にイカデといふことを補ひてきくべし
 
2040 ひこぼしとたなばたつめと今夜相《コヨヒアハム》あまのかはとに波たつなゆめ
牽牛與織女今夜相天漢門爾波立勿謹
 第三句を略解古義にコヨヒアフとよみたれど二星は天ノ河門にて相逢ふにあらねばコヨヒアフアマノカハトニとはつづけいふべからず。されば舊訓の如くコヨヒアハムとよみて今夕逢ハムニの意と見べし
 
2041 秋風のふきただよはすしら雲はたなばたつめのあまつ領巾《ヒレ》かも
秋風吹漂蕩白雲者職女之天津領巾※[毛三つ]
 
2042 しばしばもあひみぬ君をあまのかは舟出はやせよ夜のふけぬ間《マニ》
數裳相不見君矣天漢舟出速爲夜不深間
 君ヲは君ナルゾとなり。集中にゾと心得べきヲあり。たとへば卷七なる
  はつせ川しらゆふ花におちたぎつ瀬をさやけみと見にこし吾乎
  むらさきの名高の浦の名のりその礒になびかむ時まつ吾乎
(2054)などの如し(卷九【一八五二頁】參照)○結句の間〔日が月〕の字を古義にアヒダとよめり。舊訓の如くマニとよむべし
 
2043 秋風の清夕《キヨキユフベニ》あまのかは舟こぎわたる月人をとこ
秋風之清夕天漢舟榜度月人壯子
 月の歌にて七夕の歌にあらず。第二句を略解古義にサヤケキユフベとよみたれど、さては第二句、第三句、結句ともに名詞どめとなりて調よからねばなほ舊訓の如くキヨキユフベニとよむべし
 
2044 あまのかは霧たちわたりひこぼしのかぢの音《ト》きこゆ夜のふけゆけば
天漢霧立度牽牛之※[楫+戈]音所聞夜深往
 
2045 君が舟今こぎくらしあまのかは霧たちわたるこの川の瀬に
君舟今※[手偏+旁]來良之天漢霧立度此川瀬
 コノ川ノセといへるは別の川にあらず。アマノ川ノコノ瀬ニとなり。古義にいへる如く霧を舟の水烟と見なしたるならむ。卷八にも
(2055)  ひこぼしのつまむかへ船ごぎづらしあまのかはらに霧のたでるは
とあり
 
2046 秋風に河浪たちぬしま【らし】くは八十の舟津にみ舟とどめよ
秋風爾河浪起暫八十舟津三舟停
 七夕の事はもとより本事あるにあらねば作者の心に任せてさまざまによみなせり。たとへば天河を渡るさまも常には對岸に渡るやうによめるを此歌にては楊子江などの如き大河を傳ひゆくやうによめり。まづ此事を知りて此歌を見べし〇八十ノフナ津はをちこちの泊なり。古義に『八十舟津は安之舟津にて安河なるべし』といへるは非なり
 
2047 あまのかは川聲《カハト》さやけしひこぼしの秋〔左△〕《アヘ》こぐ船の浪のさわぎか
天漢川聲清之牽牛之秋榜船之浪※[足+參]香
 秋といふこと無用なるこゝちす。宣長は
  秋は速の誤か。次下に早榜船ノカイノチルカモとあり
(2056)といへり。案ずるに敢榜の誤ならむ。卷三(四八二頁)にアヘテコギデム、卷九(一六八五頁)に敢而コギトヨム、卷十七にアヘテコギデメとありてアヘはキホヒテといふことなり。因にいふ。集中には文字の滅えて分かずなれるを傍訓の殘に據りて擬《ア》て填めたるにあらざるかと思はるゝ處往々あり
 
2048 あまのかは川門にたちてわがこひし君|來《キタル》なり紐ときまたむ
    一云あまのかは河にむきたち
天漢川門立吾戀之君來奈里紐解待 一云天川河向立
 卷八なる憶良の七夕歌のうちなる
  あまのかはあひむきたちて【一云河にむかひて】わがこひし君きますなり紐ときまけな
のうつれるなり。結句の語例は上に
  まけながくこふるこころゆ秋風に妹音《カヂノト》きこゆ紐ときまけな
とあり。ヒモトキマタムは襟ヲクツロゲテ待タウとなり。來を古義にはキマスとよめり
 
(2057)2049 あまのかは川門にをりて年月《トシツキヲ》こひこし君にこよひあへるかも
天漢川門座而年月戀來君今夜會可母
 第三句を舊訓にトシツキヲとよみ略解にトシツキニとよめり。時の下にはヲをそへたるもニをそへたるも共に例あれど(たとへば卷九にナガキケ爾オモヒツミコシ、卷二十にナガキケ遠マチカモコヒムとあり)ここは第四句の末のニとさしあへばトシツキヲとよむべし
 
2050 あすよりはわが玉床をうちはらひきみといねずてひとりかもねむ
明日從者吾玉床乎打拂公常不宿孤可母寐
 タマドコヲウチハラヒはキミトイネまでにかゝりてズまではかからず
 
2051 あまのはら往〔左△〕射跡△《ナニヲイムトカ》しらまゆみ挽而隱〔左△〕在《ヒキテハリタル》、月人をとこ
天原往射跡白檀挽而隱在月人壯子
 弟二句第四句を舊訓にユキテヤイルト……ヒキテカクセルとよみ、その第二句を眞淵はユクユクイムトに改め、雅澄は往を注の誤としてサシテヤイルトに改め(2058)たり。案ずるに往を何の誤とし跡の下に香を補ひ隱を張の誤として
  あまの原何をいむとかしらま弓ひきてはりたる月人をとこ
とよむべし。月を弓に譬へたる例は卷三に
  あまの原ふりさけみればしらま弓はりてかけたり夜路はよけむ
とあり○月人壯子は月なり。略解に
  月人ヲトコは上によめるは皆彦星の事ときこゆるを是のみ月の事とせんもいかが也云々
といへるは評すべき辭を知らず。彦星を月人男といへる事曾て無し。さて此歌は七夕のにあらず。まぎれてこゝに入れるなり
 
2052 このゆふべふりくる雨はひこ星のはやこぐ船のかいの散鴨《チリカモ》
此夕零來雨者男星之早※[手偏+旁]船之賀伊乃散鴨
 ハヤコグといふ一の動詞にてイソギ漕グといふ意なるべし。散鴨を舊訓にチルカモとよめるを古義にチリカモに改めたり。櫂の散るにはあらで櫂より水の散るなればげにチリカモとよむべし。なほ云はばカイノチリと云へばカイヨリノ〔三字右△〕散物《チリモノ》と(2059)もきこゆれどカイノチルと云はむにそのノはガといふにひとしければなり
 
2053 あまのかは八十瀬|霧合《キラヒヌ》ひこ星の時まつ船は今しこぐらし
天漢八十瀬霧合男星之時待船今榜良之
 霧合は略解に從ひてキラヒヌとよむべし。古義にキラヘリとよめるは語格にかなはず。さてキラヒヌはクモリヌなり。時マツ船は漕出ヅベキ時ヲ待ツ舟にてやがて八十瀬のきらふを待ちしなり。古義には『其船のかぢのはじきに天河の水がみなぎりたちて云々』と釋せり。げに上なる
  君が舟今こぎくらしあまのかは霧たちわたるこの川の瀬に
と似たる趣なれどコノ瀬ニ霧タチワタルといへると八十瀬キラフといへるとは同一視すべからず。されば古義の説は從ひがたし
 
2054 風ふきて河浪たちぬ引船にわたりも來《キタレ》、夜不降間爾《ヨクダタヌマニ》
風吹而河浪起引船丹度裳來夜不降間爾
 ヒキフネニは引船ニテといふ事なり。卷十一にもハユマ路ニ引舟ワタシ云々とあ(2060)り。來を從來キマセとよみたれど座の字なければキタレとよむべし。上(二〇五六頁)にも例あり○結句は略解に從ひてヨクダタヌマニとよむべし(舊訓はヨノフケヌマニ)
 
2055 あまのかはとほきわたりはなけれどもきみが舟出は年にこそまて
天河遠度者無友公之舟出者年爾社候
 二三いさゝか聞えがたきによりて古義は誤解し略解は黙せり。第二句はトホキワタリニハといふべきニを略せるなり。六帖と拾遺とにトホキアタリニアラネドモとあるはもとのまゝにては耳遠きによりて改めて出せるなり。ワタリは渡津なり。界隈の意にあらず○年ニは一年ニ亘リテとなり
 
2056 天の河うち橋わたせ妹が家ぢやまずかよはむ時またずとも
天河打橋度妹之家道不止通時不待友
 三四は妹ガ家ヲタエズ訪ハムとなり。結句は訪フベシト定マレル時ヲ待タズトモとなり。卷十八に家持の
(2061)  あまのかは橋わたせらばその上《ヘ》ゆもいわたらさむを秋にあらずとも
とあるは之を學べるなり。卷九(一七八九頁)なる七夕歌にも
  久かたの、あまのかはらに、かみつ瀬に、珠橋わたし云々
とあり
 
2057 月かさねわがもふ妹に會夜者《アヘルヨハ》、今之之夕《イマノナナノヨ》つぎこせぬかも
月累吾思妹會夜者今之七夕續巨勢奴鴨
 第二句は舊訓の如くアヘルヨハとよむべし(略解にはアフヨヒハとよめり)○第四句を舊訓にコノナヌカノヨとよみ略解古義にはイマシナナヨヲとよめり。ツギコセヌカモはツヅケカシとなり。さで語法上ナナヨツヅケカシとは云はるれどナナヨヲツヅケカシとは云はれず。されば第四句はイマノナナノヨとよみて今夜ノ七倍ノ夜といふ意とすべし。而してナナがアマタといふことにて七に限りたる事にあらざるは古義にいへる如し
 
2058 年によそふ吾舟こがむ天のかは風はふくとも浪たつなゆめ
(2062)年丹裝吾舟榜天河風者吹友浪立勿忌
 年ニヨソフは一年ニ亘リテ準備スルとなり
 
2059 天の河浪はたつとも吾舟はいざこぎいでむ夜のふけぬ間〔日が月〕に
天河浪者立友吾舟者率※[手偏+旁]出夜之不深間爾
 
2060 ただこよひあひたる兒等にことどひもいまだせずしてさよぞあけにける
直今夜相有兒等爾事問母未爲而左夜曾明二來
 タダコヨヒのタダはタダ今のタダなり。唯にあらず。直《タダ》なり。但コヨヒにかゝれるにてアヒタルにかゝれるにあらず。古義にタダコヨヒは今夜|直《タタ》に相見たるよしなり。タダは直《タダチ》に相見る謂なり
といへるは非なり。コトドヒは談話なり
 
2061 天の河しら浪たかしわがこふるきみが舟出は今しすらしも
天河白浪高吾戀公之舟出者今爲下
(2063) 浪の高きは君が舟に激するならむといへるなり。上に
  君が舟今こぎくらし天のかは霧たちわたるこの川の瀬に
とあると相似たる趣なり
 
2062 はたもののふみ木|持《モチ》ゆきてあまの河うち橋|度《ワタセ》君がこむため
機※[足+(日/羽)]木持往而天河打橋度公之來爲
 ハタモノは即機なり。アミ木は機の具にて機織る時足にて蹈む板をいふ。契沖は『機織る者の尻打懸る板なり』といひ雅澄は之に從ひたれど尻うちかくる板を蹈木といふべけむや思ふべし○第四句を從來ウチハシワタスとよみたれどワタスといはば上をモチキテといふべく、モチユキテといはば下をワタサム又はワタセといふべし。さればこゝはワタセとよみ改むべし
 
2063 天のかは霧たちのぼるたなばたの雲の衣のかへる袖かも
天漢霧立上棚幡乃雲衣能飄袖鴨
 上にも
(2064)  秋風のふきただよはすしら雲はたなばたつめのあまつ領巾かも
とあり
 
2064 古《イニシヘニ》、おりてしはたをこのゆふべころもにぬひて君まつ吾を
古織義之八多乎此暮衣縫而君待吾乎
 古は舊訓の如くイニシヘニとよむべし。夙クといふ意なり。略解にイニシヘユとよみ改めたれど語法上ユ……テシとは云はれず。さてこゝのハタは布帛なり○吾ヲは吾ゾなり。上(二〇五三頁)にもシバシバモアヒ見ヌ君ヲとあり。古義に『今か今かと君をまつ吾なるものを云々』と釋せるは非なり
 
2065 足玉も手珠《タダマ》もゆらにおるはたをきみがみけしにぬひあへむかも
足玉母手珠毛由良爾織旗乎公之御衣爾縫將堪可聞
 足玉手玉は手足に纏ける玉なり。ユラニはユラユラトとなり。神代紀下一書に手玉《タダマ》モユラニハタオル少女とあり○ミケシは御服なり。三四の間〔日が月〕に君ノ來タマフマデニといふことを補ひてきくべし。ヌヒアヘムカモは縫果テムカとなり
 
(2065)2066 月日えりあひてしあれば別乃〔左△〕《ワカレマク》をしかる君|者〔左△〕《ヲ》あすさへもがも
擇月日逢義之有者別乃惜有君者明日副裳欲得
 アヒテシアレバはアヒタレバにシを挿めるなり。さて此辭は別乃ヲシカルにかゝれり。七月七日ト月日ヲ擇定メテ漸ク逢ヒタルナレバとなり○乃は久の誤なるべしと略解にいへり。げにワカレマクとあるべきなり○君の下の者は乎などの誤ならむ。別レム事ノ惜キ君ヲ明日サへ留メテ見ムとなり。略解に『明日も又來ませとねがふ也』と釋けるは月日エリアヒテシとあるを打消ちてよろしからず
 
2067 あまのかはわたり瀬ふかみ船うけてこぎくる君がかぢの音《ト》きこゆ
天漢渡瀬深彌泛船而棹來君之※[楫+戈]之音所聞
 棹をコギとよませたるは榜をコギとよませたるに同じ。榜はカヂにてコグは※[手偏+旁]なるを集中には木篇なるをもコグに借りたり
 
2068 あまの原ふりさけみれば天のかは霧たちわたる君は來ぬらし
天原振放見者天漢霧立渡公者來良志
(2066) 略解に『下つ國にて思やりてよめる也』といへる如し。古義に織女の語とせるはキミとあるによれるならめど相對してならずとも君といひつべし。たとへば卷七に
  あしひきの山つばきさく八岑《ヤツヲ》こえししまつ君がいはひづまかも
とあるは古人を君といへるなり。又古今集に
  一とせに一たびきます君まてばやどかす人はあらじとぞおもふ
とあるは牽牛を君といへるなり○さて今の歌は卷八なる
  ひこぼしのつまむかへ船こぎづらしあまのかはらに霧のたてるは
とあると相似たる所あり
 
2069 あまのかは瀬ごとに幣をたてまつるこころは君をさきく來ませと
天漢瀬毎幣奉情者君乎幸來座跡
 二三の句、瀬毎幣奉とかけるを古義に瀬の上に渡の字を補ひてワタリセゴトニヌサマツルとよみたれど、もとのまゝにて可なり。さてタテマツルにて切らずしてタテマツルココロハとつづけて心得べく又結句の次にナリを添へて心得べし○ココロハはワケハとなり。君ヲは君ヨなり。○卷三(四〇一頁)なる
(2067)  佐保すぎて寧樂のたむけにおくぬさは妹を目かれずあひみしめとぞ
と相似たり
 
2070 (久方の)あまの河津に舟うけて君まつ夜らは不明〔左△〕毛《フケズモ》あらぬか
久方之天河津爾舟泛而君待夜等者不明毛有寐鹿
 七夕の歌は各人、意の趣くまゝによみたれば其趣さまざまなれど織女が舟を浮べて牽牛を待つ趣によめるはめづらし○夜ラのラは妹ラなどのラにおなじくて助辭なり。結句は字のまゝならば前註の如くアケズモとよむべけれどおそらくは明は深の誤ならむ。さらばフケズモとよむべし。さてフケズモアラヌカは更ケズモアレカシとなり
 
2071 天の河|足沾《アシヌレ》わたり君が手もいまだまかねば夜のふけぬらく
天河足沾渡君之手毛未枕者夜之深去良久
 足沾は舊訓に從ひてアシヌレとよむべし(略解にはアヌラシに改めたり)。足ヌレテ天ノ河ヲ渡りとなり。徒渉する趣なり○マカネバは枕《マ》カヌニ、フケヌラクは更ケヌ(2068)ル事ヨとなり
 
2072 わたり守船わたせをとよぶこゑのいたらねばかも梶之聲〔二字左△〕不爲《カヂノトノセヌ》
渡守船度世乎跡呼音之不至者疑梶之聲不爲
 渡船にて牽牛の渡るさまによめるなり。四五は渡守ノ耳ニ屆カヌト見エテ舟ヲ出ス音ガキコエヌとなり。卷七(一二六六貢)にも
  うぢ河を船わたせをとよばへどもきこえざるらしかぢの音もせぬ
とあり。これらのヲを古義に
  度せ叫々《ヲヲ》と呼聲なり。集中に叫字をヲの假字に用たるは其意なり
といひ訓義辨證(下卷八三頁)にも呼音としたれどなほ略解に『ワタセヲはワタセヨといふにひとし』といへるに從ふべし。ワタリ守ヲヲトヨベドモなどあらばこそ古義辨證の説の如くには心得め○結句を從來カヂノオトセヌとよみたれど元暦校本及類聚古集に梶聲之不爲とあるに從ひてカヂノトノセヌとよむべし
 
2073 まけながく河にむきたちありし袖|今夜卷跡《コヨヒマカムト》、△念之吉沙《シタモフガヨサ》
(2069)眞氣長河向立有之袖今夜卷跡念之吉沙
 アリシ袖はアリシ人ノ袖ヲとなり。四五を舊訓にコヨヒマカムトオモヘルガヨサ
とよめり。オモヘルといふべからざる事はいふまでもなし。略解にはコヨヒマキナム、トオモフガヨサとよみ古義にはコヨヒマカレム、トオモフガヨサとよめり。案ずるに念の上に下の字を補ひてコヨヒマカムトシタ念《モ》フガヨサとよむべし。シタモフは心ニ思フなり
 
2074 天のかはわたりせごとにおもひつつこしくもしるしあへらくおもへば
天漢渡湍毎思乍來之雲知師逢有久念者
 オモヒツツは君ヲ思ヒツツなり。アヘラクはカク逢ヘル事ヲとなり。コシクモシルシは來シ詮アリとなり。卷八に
  秋の野のをばながうれをおしなべてこしくもしるくあへる君かも
 又卷九に
(2070)  見まくほりこしくもしるく吉野川おとのさやけさみるにともしく
とあり
 
2075 人さへや見つがずあらむひこぼしのつまよぶ舟のちかづきゆくを
    一云見つつあるらむ
人左倍也見不繼將有牽牛之嬬喚舟之近附往乎 一云見乍有良武
 こは牽牛が舟にて織女を迎へ歸りて寢る趣によめるなり。卷八(一五六四頁)にもヒコボシノツマムカヘ船とよめり。さて初二は織女ハ勿論傍人サヘマモリ見ザラムヤとなり。初句のヤを第二句の下へまはして心得べし
 
2076 天のかは瀬をはやみかも(ぬばたまの)夜はふけにつつあはぬひこぼし
天漢瀬乎早鴨烏珠之夜者闌爾乍不合牽牛
 アハヌは來リ逢ハヌとなり
 
2077 わたり守舟はやわたせ一とせにふたたびかよふ君ならなくに
渡守舟早渡世一年爾二遍往來君爾有勿久爾
(2071) 上にも
  しばしばもあひ見ぬ君をあまのかはふなではやせよ夜のふけぬまに
とあり
 
2078 (玉かづら)たえぬものからさぬらくは年のわたりにただ一夜のみ
玉葛不絶物可良佐宿者年之度爾直一夜耳
 妹背ノ契ハ絶エヌモノナガラとなり。サヌラクハは寢ル事ハといふ事、トシノワタリニは一年經過スルウチニといふ事なり
 
2079 こふる日はけながきものをこよひだにともしむべしや可相物乎〔二字左△〕《アフベキヨダニ》
戀日者氣長物乎今夜谷令乏應哉可相物乎
 上(二〇三九頁)に
  こひしくはけながきものを今△谷《コヨヒダニ》ともしむべしやあふべき夜だに
といふ歌あり。それのうつれるなり。さて今の歌は結句アフベキモノヲとありてはとゝのはず。案ずるにもと可相夜谷とありて第三句と結句と末の二字齊しかりし(2072)を誤りて第二句の末と齊しと見て物乎と寫し誤れるならむ
 
2080 たなばたのこよひあひなば常のごと明日乎〔左△〕阻而《アスハヘナリテ》、年者〔左△〕將長〔左△〕《トシヲワタラム》
織女之今夜相奈婆如常明日乎阻而年者將長
 四五を從來アスヲヘダテテトシハナガケムとよめり。さて略解に
  明日の一日をへだてゝそれより末の長からんといふ也
といひ、古義に
  又明日を隔にして今來む年の今夜まであふべからねば一年の月日長く、來し方の如く戀しく思ひつゝあらむぞとなり
といへり。明後日再逢はむものならばこそアスヲヘダテテといはめ。案ずるに明日乎阻而は明日者阻而の誤としてアスハヘナリテとよむべし。即明日カラハ離レテとなり。又年者將長は年乎將度の誤としてトシヲワタラムとよむべし。されば乎と者と入りかはり又度の長にうつれるなり
 
2081 あまのかは棚橋わたせたなばたのいわたらさむにたな橋わたせ
(2073)天漢棚橋渡織女之伊渡左牟爾棚橋渡
 こは織女の方よりかよふ趣によめるなり
 
2082 天のかは河門八十ありいづくにか君がみ船をわがまちをらむ
天漢河門八十有何爾可君之三船乎吾待將居
 河門は河の狹くなりて渡るに便よき處なり。即渡瀬なり。雅澄が湊と認めて
  天河の湊は八十と數多くあればいづれの湊に夫(ノ)君が御船のはてたまはむもしるべからず
と釋けるはいみじき誤なり
 
2083 秋風のふきにし日より天のかは瀬〔左△〕爾出立《ハマニイデタチ》まつとつげこそ
秋風乃吹西日從天漢瀬爾出立待登告許曾
 瀬とある穩ならず。古義に河の字を補ひてカハセニデタチとよみたれど穩ならざるは河瀬にてもかはることなし。おそらくはもと濱とありしを河に濱といはむこといかがと思ひて傳寫の際に改めしならむ。河に濱といへる例はたとへば卷九(一(2074)八〇五頁)なる鹿島郡苅野橋別2大件卿1歌に
  みふねいでなば、濱もせに、おくれなみゐて、こいまろび、こひかもをらむ云々
とあり
 
2084 あまのかはこぞのわたりせ有〔左△〕二家里《ウセニケリ》、君が將來《キタラム》道のしらなく
天漢去年之渡湍有二家里君將來道乃不知久
 第三句を舊訓にアレニケリとよめり。略解には
  有を荒に借たるはいぶかし。絶の草書より誤(○れるに)てタエニケリならん
といひ古義は之に從へり。案ずるに荒を有とかくべからざるはいふ迄もなし。又渡瀬に荒、絶などいはむも穩ならず。おそらくは失とありしを有に誤れるならむ。さて上にもアマノカハコゾノワタリノウツロヘバとあり○ミチノシラナクは道ノ知ラレヌ事ヨとなり
 
2085 天のかは湍瀬爾〔左△〕白波《セゼノシラナミ》、高けどもただわたりきぬ待者苦三《マタバクルシミ》
天漢湍瀬爾白浪雖高直渡來沼待者苦三
(2075) 第二句を從來セゼニシラナミとよみたれどセゼノシラナミとよむべし。爾をノとよむべき處又は乃などの誤とすべき處集中に少からず(四九六頁及五六八頁參照)○タダワタリキヌはカマハズニ渡ツテ來タとなり○結句は古義に從ひてマタバクルシミとよむべし。上(二〇三一頁)なるミズバクルシミと同例なり。さてマタバクルシミは白浪ノ和ギナムヲ待タバワビシカルベキニヨリテとなり。略解に
  待は織女のむかへ來るを待也
といひ古義に
  これは彦星の妻迎舟を遣て織女を待に堪がたくて自渡り來しといへるにや
といへる共に非なり
 
2086 ひこぼしのつまよぶ舟の引綱のたえむと君をわがおもはなくに
牽牛之嬬喚舟之引綱乃將絶跡君乎吾念勿國
 上三句は序なり。こゝの引綱は舟をひきのぼる綱手にて上(二〇五九頁)に引舟ニワタリモ來タレといへるとは異ならむ〇四五は君ガ絶エムトハ信ゼズといへるなり。古義に
(2076)  いつまでも君と契の絶えむとわが思ひはせぬことなるを末長くたのもしくおぼしたまへ
と釋せるは誤解なり。此説の如くならば君トタエムトワガオモハナクニとこそいふべけれ。さて此歌は寄七夕戀歌にて七夕を詠ぜるにはあらず。ヒコボシノツマヨブ舟ノといへる、織女の語調にあらざればなり
 
2087 わたり守|舟出爲將出〔左△〕《フナデシイナム》こよひのみあひみて後はあはじものかも
渡守舟出爲將出今夜耳相見而後者不相物可毛
 第二句は略解に一本に據りて出を去に改めてフナデシイナムとよめるに從ふべし。古義に出を來に改めてフナデシテコムとよめるはわろし。一首の意は
  渡守ヨ、ナゴリ惜ケレドイザ舟出ヲシテ去ナム、今夜相見テ後ニハアハザラムモノカハ、否後ニモ逢フベケレバ
といへるなり
 
2088 わがかくせるかぢ棹なくてわたり守|舟將惜〔左△〕八方《フネカサメヤモ》しばしはありまて
(2077)吾隱有※[楫+戈]棹無而渡守舟將借八方須臾者有待
 前の歌の和歌なり。第四句の惜は諸本に借とあり。出の誤ならざるか
 
2089 あめつちの はじめの時ゆ あまの河 いむかひをりて 一とせに ふたたび不遭 妻戀に 物おもふ人』 あまのかは やすのかはらの ありがよふ 出出のわたりに 具穗船の ともにもへにも ふなよそひ 眞梶しじぬき』 旗荒本葉裳具世爾 秋風の ふきくるよひに あまの川 白浪しぬぎ おちたぎつ はやせわたりて (わか草の) 妻手まかむと (大船の) おもひたのみて こぎくらむ そのつまの子が (あらたまの) 年のを長く おもひこし 戀將盡 ふみ月の なぬかのよひは われもかなしも
乾坤之初時從天漢射向居而一年丹兩遍不遭妻戀爾物念人天漢安乃川原乃有通出出乃渡丹具穗船乃艫丹裳舳先丹裳船裝眞梶繁拔旗荒木葉裳具世丹秋風乃吹來夕丹天川白浪凌落沸速湍渉稚草乃妻手枕迹大船乃(2078)思憑而※[手偏+旁]來等六其夫乃子我荒珠乃年緒長思來之戀將盡七月七日之夕者吾毛悲烏
 此歌を一讀してまづ心づくは三度までアマノカハといへる事なり。是一般にはあるまじき事なり。次に句を逐ひて細に觀るに第八句にモノオモフ人といひ放ちて下に之を受くる辭なし。又具種船ノトモニモ舳ニモフナヨソヒ眞梶シジヌキといへるは大船の趣なるにアマノ川シラ浪シヌギオチタギツハヤセワタリテといへるは小舟の調なり。よりて思ふに此歌はもと三首なりしが混じて一首となれるにて第一首と第二首とは共に第九句以下の失せたるなり
 
あめつちの はじめの時ゆ あまの河 いむかひをりて 一とせに ふたたび不遭《アハズ》 妻戀に 物おもふ人
  不遭を從來アハヌとよみてツマゴヒにつづけたるはわろし。アハズとよむべし
 
あまのかは やすのかはらの ありがよふ 出出〔二字左△〕《ヨヨ》のわたりに 具〔左△〕穗《ソホ》船の ともにも舳《ヘ》にも ふなよそひ 眞梶しじぬき
(2079) 略解に『出出は歳の字の誤にてトシノワタリなり』といひ古義にも之に從ひたれど、ヤスノカハラ乃とあるを受けたればワタリは渡津の意ならではかなはず。從ひて出出は歳の誤とは認むべからず。案ずるに出出は世世の誤にて世々アリガヨフワタリといふべきをかくいへるにあらざるか○具の字一本に其とありといふ。さればソホブネとよむべし(はやく宣長は其〔右△〕の誤ならむといへり)。ソホは又ソホニ又單にニといふ。赤色の土なり。ソホブネは其土もて塗れる船なり。卷三(三七九頁)にアケノソホブネとあり。卷九(一八〇五頁)にサニヌリノ小船とあるもおなじ。フナヨソヒは船裝シテを略せるなり
 
旗荒〔左△〕《ハタススキ》本〔左△〕葉裳具〔左△〕世爾《ウラバモソヨニ》 秋風の ふきくるよひに あまの川 白浪しぬぎ おちたぎつ はやせわたりて (わか草の) 妻|手〔左△〕《ヲ》まかむと (大船の) おもひたのみて こぎくらむ そのつまの子が (あらたまの) 年のを長く おもひこし 戀將盡《コヒヲツクサム》 ふみ月の なぬかのよひは われもかなしも
(2080) 具は一本に其とあるに從ふべし。略解には旗荒の荒を荻の誤としてハタススキモトハモソヨニとよみ古義には本を木の誤として上に附け又其下に末の字を補ひてハタススキウラバモソヨニとよめり。宜しく荒を芒の誤、本を末の誤とすべし。荒をススとはよみがたければなり(はやく考にも訓義辨證【下卷二六頁】にも荒を芒の誤とせり)○妻手枕迹を略解にツマガテマカムトとよめるを古義に手を乎の誤としてツマヲマカムトとよめり。古義に從ふべし。オモヒタノミテは妻を思頼むなり。コギクラムは漕行クラムといはむにおなじ。ツマノ子は夫《ツマ》の子にて牽牛なり○戀將盡を略解古義にコヒツクスラムとよみたれど上にコギクラムとありて今方に漕行く趣なれば戀を盡す事は未來なり(反歌にも得行而ハテム河津シオモホユとありて船泊つる事を未來にいへり)。さればコヒヲツクサムとよむべし。語例は上(二〇四七頁)にも戀モツキネバまた(二〇五二頁)年ノ戀コヨヒツクシテとあり○ワレといへるは作者なり
 
   反歌
2090 (こま錦)紐ときかはし天人《アメビト》の妻どふよひぞわれもしぬばむ
(2081)狛錦紐解易之天人乃妻問有叙吾裳將偲
 コマニシキは枕辭なり。初は高麗錦の紐といふ意にてコマニシキ紐とつづけしにもあるべけれど後には無意義の枕辭となれるなり○天人は無論彦星の事なれど舊訓に直にヒコボシとよめるは作者の趣味を没却したり〇宜しく契沖に從ひてアメビトとよむべし。アメビトは卷十八に安米比度と假字書にせる例あり。古今集以後にはアマビトといへり○略解に卷三なるシヅハタノ帶解替而を例に引きたれど彼と此と同趣ならざる事は彼卷(五二七頁以下)にいへる如し
 
2091 彦星の川瀬をわたるさを舟の得〔左△〕行而《イユキテ》はてむ河津しおもほゆ
彦星之川瀬渡左小舟乃得行而將泊河津石所念
 サ小舟のサは添辭なり。サとヲと二つの辭を添へたるはサヲシカと同例なり。得行而を契沖以下エユキテとよめれど得は伊の誤ならむ
 
2092 天地と わかれし時ゆ (久方の) あまつしるしと 弖〔左△〕《サダメ》てし 天の河原に (あらたまの) 月をかさねて 妹爾相《イモニアハム》 時さもらふと たちま(2082)つに わが衣手に  秋風の 吹反者《フキシカヘレバ》 立坐《タチテヰム》 たどきをしらに (村肝の) 心不△欲△《ココロイザヨヒ》 (とき衣の) おもひみだれて いつしかと わがまつこよひ 此川の 行△長《ユクセノナガク》 有△得鴨《アリコセヌカモ》
天地跡別之時從久方乃天驗常弖大王天之河原爾璞月累而妹爾相時侯跡立待爾吾衣手爾秋風之吹反者立坐多士伎乎不知村肝心不欲解衣思亂而何時跡吾待今夜此川行長有得鴨
 アマツシルシは上(二〇三二頁)に見えたり。ここより越ゆなといふしるしなり○弖は略解に定の誤としてサダメとよめる如し。元暦校本及類聚古集にも定とあり○月ヲカサネテはタチマツニにかゝれるなり○妹爾相時サモラフト 略解古義にイモニアフとよみたれどイモニアハムとよむべし。サモラフはウカガフにてやがてマツなり○吹反者は古義にフキシカヘレバとよめるに從ふべし(略解にはフキカヘラヘバとよめり)。秋風のくりかへし衣手を吹くなり。卷一軍王見v山作歌(一二頁)にも
(2083)  山こす風乃、ひとりをる、わが衣手|爾《ノ》、あさよひに、かへらひぬれば
とあり○立坐を舊訓と略解とにはタチテヰテとよみ古義にはタチテヰルとよめり。宜しくタチテヰムとよむべし。タドキヲシラニはセムスベヲ知ラズとなり。卷十二に立而|居《ヰム》スベノタドキモ今ハナシまた立居《タチテヰム》タドキモシラニとあり○心不欲 宣長は欲を歡の誤としてココロサブシクとよみ、雅澄は卷三(四六〇頁)に雲居奈須心射左欲比とあるに據りて字を補ひて心不知欲比としてココロイサヨヒとよめり。古義の説に從ふべし。ココロイサヨヒは心シヅマラズなり○ワガマツコヨヒのマツは待チシの意と見べし○行長有得鴨 略解に行々不有得鴨の誤としてユクラユクラニアリガテヌカモとよみ試み、古義には字を補ひて行瀬〔右△〕長有欲〔右△〕得鴨としてユクセノナガクアリコセヌカモとよめり。これも古義の説に從ふべし。今夜ガ此天ノ川ノ瀬ノヤウニ長クアツテクレヨカシといへるなり
 
   反歌
2093 妹爾相《イモニアハム》、時かたまつと(久方の)あまのかはらに月ぞへにける
妹爾相時片待跡久方乃天之漢原爾月叙經來
(2084) 初句はイモニアハムとよむべし。從來イモニアフとよめり
 
   詠花
2094 さをしかの心あひおもふあきはぎのしぐれのふるに落僧惜毛《チラクシヲシモ》
竿志鹿之心相念秋芽子之鐘禮零丹落伶惜毛
 ココロアヒオモフは心ニ相念フのニをはぶけるなり。本集の歌には後世ならば省くべからざるニを省ける例少からず。たとへば山ニ片就キテ、島ニ隱リ、心ニ戀ヒを山カタヅキテ、島ガクリ、ウラゴヒといへるそのニは後世ならば皆省くべからざるなり。心アヒオモフといへるも然り○結句の僧を略解には倶の誤としてチラマクとよみ、古義には信の誤としてチラクシとよみ、字音辨證(下卷五三頁)には僧にシの音ありといひてもとのまゝにてチラクシとよめり。卷四(七四八頁)にシルシモナシトのシルシを知僧とかけり。されば辨證の説に從ふべし。但師と書くべきを僧と書けるにて一種の義訓なるべし
 
2095 ゆふされば野邊の秋はぎうらわかみ露枯〔左△〕《ツユニゾヲルル》、金待難《アキマチガテニ》
(2085)夕去野邊秋芽子末若露枯金待難
    右二首柿本朝臣人麿之謌集出
 ウラワカミは末若とは書きたれどウラワカミネヨゲニミユルワカ草ヲなどのウラワカミにてただワカサニといふことなり〇四五を宣長は〈枯を沾の誤として)ツユニヌレツツとよみ、略解にツユニシヲレテアキマチガテヌとよみ、古義にツユニカレツツアキマチガタシとよめり。宜しく枯を折の誤としてツユニゾヲルルアキマチガテニとよむべし。すなはちマダ若ク弱キニヨリテ秋マチアヘズ露ニゾ折ルルとなり
 
2096 まくず原なびく秋風ふくごとにあだの大野のはぎが花ちる
眞葛原名引秋風吹毎阿太乃大野之芽子花散
 古義に『このナビクもナビカスの意なり』といへるは非なり。眞葛原ガナビクとなり。阿太は大和國字智郡にありて吉野川に跨れり
 
2097 かりがねの來なかむ日まで見つつあらむ此はぎ原に雨なふりそね
(2086)鴈鳴之來喧牟日及見乍將有此芽子原爾雨勿零根
 三四は相續けるなり。さて上三句は契沖等がいへる如く雁の來る頃には萩の散るものと定めていへるなり。下にその趣によめる歌多し。古義に雁ガ來ナカバ雁ニ心ヲウツシテナグサムベキナレド云々と釋けるはいみじき誤なり
 
2098 奥山にすむとふしかのよひさらず妻とふはぎのちらまくをしも
奥山爾住云男鹿之初夜不去妻問芽子之散久惜裳
 ヨヒサラズは毎夜なり。ヨヒをこゝに初夜とかけるは一種の借字なり(集中にヨヒといへるに初夜の意なると、ただ夜の意なるとあり)○第四句はやゝまぎらはしけれど萩ノモトニ來テ妻ヲ間フなり。さればトフのトはすみて唱ふべくツマドフとは濁るべからず。後世には萩を鹿の妻とよめる歌あれど本集にはさる歌なし(卷九【一八二三頁】參照)
 
2099 しら露のおかまくをしみ秋はぎを折耳折而《ヲリノミヲリテ》おきやからさむ
白露乃置卷惜秋芽子乎折耳折而置哉枯
(2087) 第四句を舊訓には字のまゝにてヲリノミヲリテとよめり。さて略解に釋して
  露にしをれ枯るををしみて折て置て枯さんといふ也
といへるを古義には而を六又は旡の誤としてヲリノミヲラムとよみ、オキヤカラサムをソノママニ置キテ枯レシメムヤハの意とせり。案ずるに古義の説の如くならばヲリノミとはいふべからず。露ノオキテ折レナムガヲシサニタヲリノミハシツレドサテ花ノ命ヲ保タムスベナケレバ遂ニオキ枯サムカ嗚呼といふ意なり。ヲリノミヲリテは折ノミシテとなり。略解に『露にしをれかるゝを』といへれど露の爲に萩のかるゝことは無し
 
2100 秋田かるかり廬《ホ》の宿《ヤドノ》にほふまでさける秋はぎみれどあかぬかも
秋田苅借廬之宿爾穗經及咲有秋芽子雖見不飽香聞
 宿を從來ヤドリとよみたれど屋舍はヤドとこそいへヤドリとはいはねば辭を添へてヤドノとよむべし。ニホフはそまる事なり。古義に『花の色にひかりかがやくまで』といへるは歌に合せたる釋なり
 
2101 吾衣《ワガキヌハ》すれるにはあらず高松《タカマツ》の野邊行之△者《ヌベユキシカバ》はぎのすれるぞ
(2088)吾衣摺有者不在高松之野邊行之者芽子之摺類曾
 初句は契沖に從ひてワガキヌハとよむべし。ハといふ辭入用なればなり(略解古義にはワガコロモとよめり)○第二句はワレト求メテスレルニアラズとなり○高松は上(一九四〇頁)にいへる如くタカマツとよむべし。第四句は契沖の説の如く之の下に香などを補ひてユキシカバとよむべし。ユキシカバは後世のユキシニなり(一九四七頁參照)
 
2102 このゆふべ秋風ふきぬしら露にあらそふはぎのあすさかむ見む
此暮秋風吹奴白露爾荒爭芽子之明日將咲見
 略解に
  花はさかんとするを露の重りて咲せじとするに似たればアラソフとはいふ也
といひ、古義に
  アラソフとは花のやゝ開出むとする間〔日が月〕に露のしげく置亂れて咲せじとするに似たればいへるなり
といへるはうらうへなり。上にも
(2089)  春雨にあらそひかねてわがやどのさくらの花はさきそめにけり
とあり下にも
  しら露にあらそひかねてさけるはぎちらばをしけむ雨なふりそね
とあるにあらずや。露はさかせむとし萩はさかじとして相爭ふなり
 
2103 秋風はすずしくなりぬ馬なべていざ野にゆかなはぎが花みに
秋風冷成奴馬並而去來於野行奈芽子花見爾
 
2104 朝がほは朝露負ひてさくと雖云《イヘドモ》△ゆふかげにこそさきまさりけれ
朝※[日/木]朝露負咲雖云暮陰社咲益家禮
 三註共にもとのまゝにてアサガホハアサツユオヒテサクトイヘドユフカゲニコソサキマサリケレとよめり。本集にアサガホといへるは今いふヒルガホなる事卷八(一五七〇頁以下)にいへる如し。さてその朝顏は夕照の頃にはしぼむものなるをユフカゲニコソサキマサリケレといへるは如何。藤井高尚の松の落葉卷二には
  アサガホとはあしたにさくかほ花をなべていへるにてひとつの草の名にはあ(2090)らず。……まづ新撰字鏡に桔梗カラクハ又云アサガホとあるもその證なり
といひ、さて
  萬葉集十の卷の歌にアサガホハアサツユオヒテ云々といへるも桔梗なり
といへるを神谷永平のかける松の落葉追考には
  清水翁(○宣昭)の物語にユフガホハといふ下の一句をおとしたるにて旋頭歌ならんといはれき。めづらしくおもしろくおぼえつゝ本書を見るに旋頭歌もある卷なればいとよくあたれるを前後短歌にて旋頭歌は別に標したれば萬葉集撰ばれたる以前に一句をおとせるなるべし。本文に暮※[日/木]《ユフガホハ》の二字を補はまほし。暮二字あれば見まがへおとせる事常に多し
といへり。此説よろしげにきこゆれどユフガホといふ語、本集はもとより奈良朝以前の書に見えざればうべなひがたし。齋藤彦麿の片廂卷七には
  萬葉集にアサガホハアサツユオヒテ云々とある朝顏はユフカゲニサクといへるに迷ひて或は日あたりなき山蔭などには夕方にさく事も有べしといひ或は槿花の一日の榮朝に咲て夕に落るといへる木槿也といへる説も有。みなよくも(2091)辨へざるおしはかり也。こは萩の歌あまたある中の一首也。朝ガホハアサ露オヒテ咲トイヘド此萩ノ花ハユフカゲニコソ咲マサリケレと云義也。眼前萩を見ながらよめるなれば後世の題詠とは趣異也
といへり。即彦麿はアキハギハなどいふべき四五句の主格を略せりとせるなり。主格を畧せる例は近くは卷九にも
  明日のよひあはざらめやもあしひきの山彦とよめよびたてなくも
 上にも
  ぬばたまの夜ぎりがくりてとほくとも妹がつてごとはやくつげこそ
とあり(卷六【一一二四頁】及卷七【一三三五頁】參照)。されど此等はサヲシカハ、道ハといふことを畧せること直に知らるゝを今は上にアサガホハとあるよりそが四五までかゝれるやうに聞えて第四句の前にアキハギハといふことを略せりとは聞えず。辭を換へて云はば例に引ける歌の主格は略すべく今の歌の主格は略すべからず。されば此歌はもと
  あさがほはあさつゆおひてさくといへども、あきはぎは〔五字右△〕ゆふかげにこそさきま(2092)さりけれ
といふ旋頭歌なりしが神谷永平のいへる如く本集編纂以前に一句おちて短歌の形となれりしならむ。本集には旋頭歌の一句おちて短歌の形となれるもの少からず○アサツユ負ヒテの語例は卷八に
  さをしかの來たちなく野の秋はぎはつゆ霜おひてちりにしものを
とあり
 
2105 春去者《ハルサレバ》かすみがくりてみえざりし秋はぎ咲《サキヌ》をりてかざさむ
春去者霞隱不所見有師秋芽子咲折而將挿頭
 初句は從來字のまゝにハルサレバとよめり。ハルベニハといふべき如くなれど上に春|之在者《サレバ》スガルナク野ノホトトギス云々とあればなほハルサレバとよむべし○咲を從來サケリとよみたれどサキヌとよみ改むべし
 
2106 さぬか田の野べの秋はぎ時有者《トキナレバ》いま盛なりをりてかざさむ
沙額田乃野邊乃秋芽子時有者今盛有折而將挿頭
(2093) 契沖はサヌカ田を大和平群郡なる額田として『サは例の添へたる詞なり』といへり。檜隈をサヒノクマといへるなど地名にもサを添へたる例はあり○第三句を舊訓と古義とにはトキシアレバとよみ略解にはトキナレバとよめり。略解に從ふべし。卷七に
  時ならぬまだらのころもきほしきか島のはり原時ならねども
といふ歌あり
 
2107 ことさらに衣はすらじ(をみなべし)さき野のはぎににほひて將居〔左△〕《ユカム》
事更爾衣者不摺佳人部爲咲野之芽子爾丹穗日而將居
 ヲミナベシはサキにかゝれる枕辭、サキ野は佐紀野なり。卷四(七五九頁)にもヲミナベシサキ澤ニオフル花ガツミ、上(一九六〇頁)にもヲミナベシサキ野ニオフルシラツツジとあり○ニホヒテは染リテなり。將居を從來字のまゝにヲラムとよみたれど將往などの誤としてユカムとよむべきか
 
2108 秋風は急之吹來《ハヤクシフキク》はぎが花ちらまくをしみ競竟〔左△〕《キホヒテゾミム》
秋風者急之吹來芽子花落卷惜三競竟
(2094) 第二句はハヤクシフキクとよむべし。略解古義に之の字を久の誤としてハヤクフキキヌとよみたれどさては調弱くて一首の趣にかなはず○競竟を眞淵は競立見の誤としてキホヒタツミムとよみ、千蔭は竟を弖見の誤としてアラソヒテミムとよみ、雅鐙は眞淵の改字に從ひてキホヒタチミムとよめり。案ずるに竟を覧の誤としてキホヒテゾミムとよむべし。即風ニハリアヒテ見ハヤサムとなり。さて第四句のヲシミはヲシサニと譯せずしてヲシキニと譯すべし(卷七【一四二六頁】參照)
 
2109 わがやどのはぎのうれ長《タケヌ》、秋風のふきなむ時にさかむとおもひて
我屋前之芽子之若末長秋風之吹南時爾將開跡思乎〔左△〕
 長を契沖以下みなナガシとよみたれどタケヌとよみ改むべし○乎は手の誤ならむ
 
2110 人みなははぎを秋といふよしわれはをばながうれを秋とはいはむ
人皆者芽子乎秋云縦吾等者乎花之末乎秋跡者將言
 秋トイフ、秋トハイハムの秋は今の語にていはば秋の王なり。さてただヲバナヲと(2095)いひて足るべきをヲバナガウレといへるは尾花の穗先の蘇芳なるが殊に目を牽けばなり
 
2111 (玉づさの)きみが使の手〔□で圍む〕|折〔左△〕來有《モチキタル》このあきはぎはみれどあかぬかも
玉梓公之使乃手折來有此秋芽子者雖見不飽鹿裳
 第三句を略解古義にタヲリケルとよみさて略解に『ケルは則來タルの意也』といひ 古義には『ケルは來ケルのつづまりたるなり』といへり。ケルを來ケルの約といへるは上なるハヤクシフケリにつきて契沖が『フキケリのキケを反して約むればケとなる』といへると共に取るに足らず。キタルをケルとはいひもすべけれど(卷六【一一四三頁】參照)しか耳遠く云はずともヲリ來タルといひてあるべき處なり。されば手を衍字としてヲリキタルとよむべし。更に案ずるにヲリキタルとありては使が折りて來たる事となりて結句にミレドアカヌカモとめでいへると相親しからず。されば手折の二字は持の誤とすべきか。然らばモチキタルとよむべし。語例は卷四に
  いたぶきのくろ木の屋根は山ちかしあすの日とりてもちまゐりこむ
とあり
 
(2096)2112 わがやどにさける秋はぎ常有者《ツネナラバ》わがまつ人にみせましものを
吾屋前爾開有秋芽子常有者我待人爾令見※[獣偏+陵の旁]物乎
 第三句を略解にツネニアラバとよみ古義にツネシアラバとよめる共に非なり。舊訓の如くツネナラバとよむべし。散ラヌモノナラバとなり。語例は古今集春下にも
  花のごと世の常ならばすぐしてし昔は又もかへり來なまし
 又上(二〇一二頁)にもサネワガイノチ常ナラメヤモとあり○※[獣偏+陵の旁]は猿を誤れるか又は※[獣偏+媛の旁]を誤れるか。元暦校本及類聚古集には※[獣偏+陵の旁]と書けり
 
2113 手|寸十名相〔四字左△〕《モスマニ》殖之名〔左△〕知久《ウヱシクシルク》いでみればやどの早《ハツ・ワサ》芽子《ハギ》さきにけるかも
手寸十名相殖之名知久出見者屋前之早芽子咲爾家類香聞
 初句は仙覺以前の舊訓にはテモスマニとよめるを仙覺は字のまゝにタキソナヘとよみ契沖干蔭も之に從ひたれどタキソナヘといふ辭あるべくもあらず。寸以下を誤字としてなほテモスマニとよむべし。手モスマニは手モ休マズといふ意なり(卷八【一五一五頁】參照)○第二句の名を略解古義に毛の誤としてウヱシモシルクとよめ(2097)り。宜しく久の誤としてウヱシクシルクとよむべし。ウヱシ詮アリテとなり○早芽子は舊訓に從ひてハツハギともよむべく契沖の説に從ひてワサハギともよむべし。卷八(一五七五頁)には先芽《サキハギ》とあり
 
2114 わがやどにうゑおほしたる秋はぎをたれか標《シメ》さす吾に知らえず
吾屋外爾殖生有秋芽子乎誰標刺吾爾不所知
 シメサスは札を立てゝ我物と領ずるなり。卷七(一四一〇頁)にもハヤシリテシメササマシヲ今シクヤシモとあり。アキハギヲは萩ナルヲとなり○こは譬喩歌にて契沖の
  いつく娘を守るに密によばふ男あるを聞付てよそへよめる歟
といへる如し。略解に『これは我物にせんとおもひし女を我にしらえぬやうにして人の領じたるたとへ云々』といへるは從はれず
 
2115 手にとれば袖さへにほふをみなべし此白〔左△〕露《コノオクツユ》にちらまくをしも
手取者袖并丹覆美人部師此白露爾散卷惜
(2098) ニホフは染マルなり。此白露爾とあるいぶかし。おそらくは白は置の誤ならむ。コノフル雪ノなどいへる例あり
 
2116 しら露にあらそひかねて咲《サキシ》芽子《ハギ》ちらばをしけむ雨なふりそね
白露爾荒爭金手咲芽子散惜兼雨莫零根
 第三句を從來サケルハギとよみたれどサキシハギとよむべし。すまひまけしは過去の事なればなり○上(二〇八八頁)にもシラツユニアラソフハギノアスサカム見ムとあり
 
2117 (※[女+感]嬬等《ヲトメラニ》)ゆきあひのわせをかる時になりにけらしもはぎが花さく
※[女+感]嬬等行相乃速稻乎苅時成來下芽子花咲
 略解にヲトメラガとよみ古義にヲトメドモとよみて第三句のカルにつづけりとせるは非なり。ヲトメラニとよみてユキアヒにかゝれる枕辭とすべし(古義には此説を擧げて之を斥けたり)○ユキアヒノワセは略解に
  夏と秋と行あふころみのる早稻をいふなるべし
(2099)といへるぞよろしからむ。古人は四季はかたみにゆきちがふやうに想像せしなり。されば古今集夏部にも夏ト秋トユキカフ空ノカヨヒ路ハとよめり。因にいふ。略解には或はハギガハナとよみ或はハギノハナとよみ古義には專ハギガハナとよめり。いづれにてもあるべし
 
2118 朝霧のたなびく小野のはぎが花今やちるらむいまだあかなくに
朝霧之棚引小野之芽子花今哉散濫未厭爾
 
2119 こひしくばかたみにせよとわがせこがうゑし秋はぎ花さきにけり
戀之久者形見爾爲與登吾背子我殖之秋芽子花咲爾家里
 略解に『夫の遠き所にすめるか、あるは旅行しなるべし』といへる如し○卷八に
  こひしけば形見にせむとわがやどにうゑしふぢ浪今さきにけり
とあると似たり
 
2120 秋芽子《アキハギニ》戀〔左△〕不盡跡《ココロツクサジト》おもへどもしゑやあたらし又あはめやも
秋芽子戀不盡跡雖念思惠也安多良思又將相八方
(2100) 初二を從來アキハギニコヒツクサジトとよめり。然るにそのコヒツクスといふ語、上なる七夕歌の中に年ノコヒコヨヒツクシテ又年ノヲ長クオモヒコシ戀ヲツクサム(二〇五二頁及二〇七九頁)とあるコヒツクスと同意にあらず。一方には本集にココロツクスといふ語を用ひたり。即卷四(七六四頁)にココロツクシテコフルワレカモ、卷七(一三九八頁)に心ツクシテワガモハナクニとあり又卷十九に
  世のなかの常なき事はしるらむをこころつくすなますらをにして
とあり。よりて思ふに初二はもと秋芽子爾心不盡跡とありしを爾の畧字と心とを戀の一字に誤れるならむ○シヱヤは一種の歎辭なり。こゝなどは嗚呼といふ意にきこゆ。古義に『ヨシヤといふに近し』といへるは從はれず(卷四【七四九頁】參照)。アタラシは惜《ヲ》シなり○又アハメヤモは來年ノ萩ノ盛ニ又逢ハムヤハ、オソラクハ逢《アヒ》ハセジとなり
 
2121 秋風は日にけにふきぬたかまとのぬべの秋はぎちらまくをしも
秋風者日異吹奴高圓之野邊之秋芽子散卷惜裳
 ヒニケニは毎日なり
 
(2101)2122 ますらをの心は無而《ナシニ・ナクテ》あきはぎの戀にのみやもなづみてありなむ
大夫之心者無而秋芽子之戀耳八方奈積而有南
 無而を舊訓、略解、古義共にナシニとよめり。さて古義に『ナクテとよみてはいたくおとれり』といへり。ナクテをいにしへナシニともいひき。又而の字は集中にニにも借用ひたり。さればここの無而をナシニとよまむは可なり。現に卷五(九八八頁)にナグサムル心ハ奈之爾、卷六(一〇四五頁)にマスラヲノココロハ梨荷とあり。然も『ナクテとよみてはいたくおとれり』といへるは妄なり。卷三(三六八頁)なる梶棹モ無而サブシモ、同卷(三七二頁)なる竿梶モ無而サブシモなどの無而は古義にもナクテとよめるにあらずや。されば契沖の『無而はナクテともよむべきか』といへるぞ穩なる○第四句のヤモは結句の下に下して心得べし。丈夫ノ身ヲ忘レテ萩ヲ戀フルニノミ拘ハリテアラムヤハとなり
 
2123 わがまちし秋は來りぬしかれどもはぎが花ぞもいまださかずける
吾待之秋者來奴雖然芽子之花曾毛未開家類
(2102) ゾモのモは助辭
 
2124 みまくほりわがまちこひし秋はぎは枝もしみみに花さきにけり
欲見吾待戀之秋芽子者枝毛思美三荷花開二家里
 シミミニは卷三(五五八頁)にもウチ日サスミヤコシミミニとあり。シゲクといふことなり
 
2125 春日野のはぎしちりなば朝ごちの風にたぐひてここにちりこね
春日野之芽子落者朝東風爾副而此間爾落來根
 
2126 秋はぎは雁にあはじといへればか【一云いへれかも】こゑをききては花にちりぬる
秋芽子者於鴈不相常言有者香【一云言有可聞】音乎聞而者花爾散去流
 略解に
  雁の來る比はぎの散るなれば雁に逢まじきと契れるかの意にてかくいへり
といへる如し。但一云|言有可聞《イヘレカモ》をイヘルカモとよめるはわろし。イヘレバカ、イヘレ(2103)カモは共に契レバニヤといふ意なり○ハナニの語例は卷七(一四二八頁)卷八(一四九八頁及一五〇二頁)にあり。アダニなり
 
2127 秋さらば妹にみせむとうゑしはぎつゆじも負ひてちりにけるかも
秋去者妹令視跡殖之芽子霧〔左△〕霜負而散來※[毛三つ]
 卷八(一六〇二頁)にもツユジモオヒテチリニシモノヲとあり○霧は露を誤れるなり
 
   詠鴈
2128 秋風に山跡部《ヤマトヘ》越《コユル》かりがねはいやとほざかる雲がくりつつ
秋風爾山跡部越鴈鳴者射失遠放雲隱筒
 第四句にて切りて心得べし。第二句を舊訓にヤマトビコユルとよめるを略解にヤマトヘと改めて
  此下に秋風ニ山飛越ル雁ガネノ聲遠ザカル雲隱ルラシといへるは此歌の一本なるべし。いづれかもとならんごれは山跡部と書たれば大倭へにて山トビコユ(2104)ルとは異也。部は江のごとくよむべし
といへり。之に對して字音辨證下(四五頁)に部をヒとよむべしと唱へて
  舊訓のまゝにて山飛越る意とすべし。此卷下に秋風爾山飛越云々とあるにおなじ。また卷十五にアシヒキノ山等妣古由留カリガネハ云々などあるをもて今も山飛越る意とすべし。……按にこは呉原音ビユの省呼なるべし。同轉の牟をミ、久をキ、留流をリに用ゐたること古書に多し。これ同例なり
といへり。案ずるに下なる秋風爾山飛越云々といふ歌と第二句同一ならざるべからざる理由なく卷六(一〇六七頁)なる
  あしたには海邊にあさりしゆふされば倭部越かりしともしも
の倭部越はヤマトヘコユルとよむべければ(こは辨證の著者も是認せり)今もヤマトヘコユルとよむべし
 
2129 あけぐれ之《ノ》朝霧かくりなきてゆく鴈者言戀《カリハワガコフト》妹につげこそ
明闇之朝霧隱鳴而去鴈者言戀於妹告社
 アケグレは略解に『明方のまだほのぐらきをいふ』といへる如し。夜の明けむとして(2105)一たび暗くなるをいふといへるは俗説なり○アサギリカクリは外の例によらばアサ霧ニ隱レテにてアサギリガクルといふ一の動詞と認むべきなれどアケグレノを受けたればなほ朝霧とカクリと二語に分れたるものと見ざるべからず。又しか見ればアサギリの下にニを畧せりと見ざるべからず。しかもそのニを畧することは後世の語法にては許されざる事なれば明闇之とある之は或は爾の誤にあらざるかと思ふに卷四(六三四頁)なる長歌にも明晩乃、旦霧隱、ナクタヅノ、ネノミシナカユ云々とあれば之とあるは誤にあらず。そもそも集中には後世ならば省くまじきニを省ける例いと多し○第四句の言を略解に吾の誤とせり。されど漢籍(たとへば毛詩)に言をワレとよませ集中にもワレ、ワガとよむべき處に言とかける例多ければ
  たとへば卷十一のみにても言者《ワレハ》シカネツ、言《ワガ》コヒヲラム、言《ワレ》ユヱ人ニなどあり。下なる吾客有跡も元暦校本には言客有跡とあり
 誤字にはあらず。はやく契沖も『言、我也と注せり』といひ、訓義辨證下卷(三四頁)には
  まづ爾雅釋詁また玉篇に言(ハ)我也と註し毛詩(ノ)葛覃また※[丹+さんづくり]弓の傳にも言(ハ)我也とあ(2106)り。さて欽明紀に言《ワレ》念d先組與2舊旱岐1和親之詞u、靈異記下卷訓釋に言(和禮)類聚名義抄に言(禾レ)以呂波字類抄に言(ワレ)などあるをや。但此は言我其音近きによりていにしへかの國にて通し用ゐしを本邦にてもそれに習ひしなり
といへり。さて言戀を略解にワガコフルとよみ古義にアガコフとよみて妹につづけたれど結句の妹につづけては調よろしからざる上に何を妹に告げよといへるにか意とほらず。されば言戀はワガコフトとよむべし。卷八(一五四〇頁)にも
  いとまなみ來まさぬ君にほととぎすわがかくこふとゆきてつげこそ
とあり
 
2130 わがやどになきしかりがね雲の上にこよひなくなり國方可聞遊群《クニヘカモユク》
吾屋戸爾鳴之鴈哭雲上爾今夜喧成國方可聞
 通本に遊群を引離ちて次の歌の題の如くに書きたれば舊訓には國方可聞を全句としてクニツカタカモとよめるを荷田東丸始めて遊群を此句に屬せる文字と認めてクニヘカモユクとよみき。一發見とたゝふべし
  追記 校本萬葉集に據れば遊群の二字はいづれの古寫本にも引離ちて書けり。原(2107)本に近き本の獲がたき事之にても知らるべし。從ひて本集の研究は偏に古寫本に倚頼すべからず
 
2131 さをしかの妻とふ時に月をよみ切木四《カリ》がねきこゆ今しくらしも
左小牡鹿之妻問時爾月乎吉三切木四之泣所聞今時來等霜
 こゝの妻トフのトは清みて唱ふべし。切木四をカリとよむ由は卷六(一〇五八頁以下)にいへり
 
2132 あま雲のよそにかりがね從聞〔左△〕之《ナキシヨリ》はだれ霜ふりさむしこの夜は
     一云いやますますに戀こそまされ
天雲之外鴈鳴從聞之薄垂霜零寒此夜者
     一云彌益益爾戀許曾増焉
 ハダレは斑なり(卷八【一四八四頁】參照)。ハダレジモとシを濁りて唱ふべし○第三句を從來字のまゝにキキシヨリとよみたれどキコエシヨリ又はナキシヨリとあるべき處なり。おそらくは從聞之は從喧之の誤ならむ。さらばナキシヨリとよむべし
 
(2108)2133 秋の田のわがかりばかのすぎぬればかりがねきこゆ冬かたまけて
秋田吾苅婆可能過去者鴈之喧所聞冬方設而
 カリバカの事は卷四(六四二頁)に諸家の説を擧げたり。案ずるにもしカリシホ、カリ時などの意ならばワガを添へてはいふべからず。又鎌入るゝ所の意ならばスグとは承くべからず。さればカリバカは時にも處にも關せざる語にて苅分《カリブン》の意ならむ。 即こゝよりそこまではたが苅る分と定めてそをカりバカといひしならむ。而してスギヌレバは終りヌレバの意とすべし。雜誌同人第四十一に載せたる伊藤一隆氏の談話に
  秋田地方の農家では一つの仕事を請負はせる風習がありこれをワッパカと申ます。給料でも中々働かないがこのワッパカだと一生懸命に仕上げる。このワッパカが一家の中でも行はれる。たとへば農家は明日は田打だといふと親爺はおれはどこの田を二枚打たう、かかアは一枚打て、總領と次男とは何枚うてと分擔をきめる。さうすると翌日は親爺は暗いうちから出かけて行つてセッセと働いて九時頃迄にはすまして歸つて來てあとは家の中にゴロゴロとしたりどこか(2109)へ遊びに行つたりして了ふ。女房は食事の仕度もしなければならず、いろいろ家の事を片付けて出かけるから田一枚うつのでさへ夕方おそくならなければしまへない。……このワッパカと申す語源を御考へになりましたらどうぞ御教を願ひます
とあり。ワッパカのパカは今のカリハカのハカとおなじく、ワッパカは割分《ワリハカ》にてカリハカはやがて稻苅のワッパカならむ○スギヌレバはヲハリヌレバと心得べし○カタマケテは自動詞にてチカヅキテといふことゝおもはる(卷二【二四八頁】及卷七【一三六四頁】參照)
 
2134 葦邊なる荻の葉さやぎ秋風のふきくる苗《ナベ》に雁なきわたる
     一云秋風にかりがねきこゆ今しくらしも
葦邊在荻之葉左夜藝秋風之吹來苗丹雁鳴渡
    一云秋風爾雁音所聞今四來霜
 サヤギはサワギなり。第四句は苗と書きたれどナベと濁りて唱ふべし。本集には濁音の語に清音の字をも借用ひたり(苗と書きたる處は上にも多し)
 
(2110)2135 (おしてる)難波ほり江の葺邊には雁ねたる疑《ラシ》、霜のふらくに
押照難波穿江之葦邊者鴈宿有疑霜乃零爾
 疑を舊訓及略解にはカモ、古義にはラシとよめり。此字は集中にカモともよみたれどこゝは古義に從ひてラシとよむべし
 
2136 秋風に山とびこゆるかりがねの聲とほざかる雲がくるらし
秋風爾山飛越鴈鳴之聲遠離雲隱良思
 第四句にて切りて心得べし
 
2137 朝爾往〔左△〕《アサニケニ》かりのなくねはわがごとく物おもへかも聲のかなしき
朝爾往鴈之鳴音者如吾物念可毛聲之悲
 初句を從來ツトニユクとよめり。往は殊の誤にあらざるか。もし然らばアサニケニとよむべし。アサニケニは毎朝なり。下にもワガヤドノクズ葉|日殊《ヒニケニ》とかけり
 
2138 たづがねのけさなくなべにかりがねはいづくさしてか雲がくるらむ
多頭我鳴乃今朝鳴奈倍爾鴈鳴者何處指香雪隱良哉〔左△〕
(2111) ナクナベニは鳴クト共ニなり。雁ははやく本集にしばしばカリガネといひたれど鶴をタヅガネといはむは異樣なり。されば略解には
  おもふにタヅガネも雁ガネも音《ネ》なるがはやく其鳥の名の如くなれるなるべし
といへり。案ずるに下に
  いもが手をとりしの池の浪の間ゆ鳥音異鳴《トリガネケニナク》、秋すぎぬらし
とあり又卷二十なる長歌にタヅガネノカナシク鳴婆《ナケバ》とあればタヅガネノスル、トリガネノスルといふことをいにしへタヅガネノナク、トリガネノナクといひしならむ。もし然らば卷三(四四六頁)なる
  あしべにはたづがねなきてみなと風さむくふくらむつをの埼はも
の第二句もタヅガ、ネナキテと切らでタヅガネ、ナキテと切りても心得らるべし
 
2139 (ぬばたまの)夜わたる雁は鬱《オボツカナ》いく夜をへてかおのが名をのる
野干玉之夜度鴈者欝幾夜乎歴而鹿己名乎告
 第三句を舊訓にオボツカナとよめるを略解古義にオホホシクに改めたるは却りてわろし。なほオボツカナとよむべし。そのオボツカナは漢語の不知に當るべし○(2112)後撰集にクル秋ゴトニカリカリトナク、聲ニタテツツカリトノミナク、カリカリトノミナキワタルラムとある如く雁はカリとなくものなれば(否カリと鳴くよりカリといふ名を負へるなり)オノガ名ヲノルといへるなり。イク夜ヲ歴テカは幾夜ツヅキテとなり○以下二首は問答なり
 
2140 (あらたまの)年のへゆけばあともふと夜わたる吾をとふ人やたれ
璞年之經往者阿跡念登夜渡吾乎問人哉誰
 こは雁に代りて問に答へたるなり。略解に
  年經れば古き友もなくなりぬるまゝに友をいざなひわたるを問人もなきよしにてトフ人ヤタレとはよめり
といひ、古義に
  年の經ゆけば親しかりしも疎くなりなど、ありしにかはるならひなればそれがうれたさに心がはりのせざらむ爲己が友をさそひいざなふとて夜中に己が名をのりつゝ飛わたる吾なるものをいぶかしげに問給ふ其人は誰なるぞ
と釋せり。案ずるに一首の意は
(2113) カリカリと己等が名をのりつゝ夜渡るは今は滞留久しきに亘りて歸るべき時になりぬれば友をいざなふとてなり、さるをいぶかしみて問ひたまふは誰なるぞ
となり。年ノヘユケバはただ久シクナレバと心得べし。上にも雲ノ上ニコヨヒナクナリ國ヘカモユクとありて歸雁をも此部に収めたり
 
   詠鹿鳴
2141 このごろの秋のあさけに霧がくり妻よぶしかのこゑのさやけさ
此日之秋朝開爾霧隱妻呼雄鹿之音之亮左
 
2142 さをしかの妻ととのふとなくこゑのいたらむきはみなびけはぎ原
左男牡鹿之妻整登鳴音之將至極靡芽子原
 トトノフルは卷三にも
  大宮のうちまできこゆあびきすとあごととのふるあまのよび聲
とありて呼立つる事なり○結句の語例は卷二(一八〇頁)に
(2114)  しぬぶらむ、妹が門みむ、なびけこの山
 又卷七に
  妹がりとわがかよふ路のしぬすすきわれしかよはばなびけしぬ原
とあり
 
2143 君にこひうらぶれをればしきの野の秋はぎしぬぎさをしかなくも
於君戀裏觸居者敷野之秋芽子凌左牡鹿鳴裳
 シキノ野は磯城(ノ)野なり。シヌギは押分ケテなり○ウラブレは近くは卷七に
  ゆく川のすぎゆく人のたをらねばうらぶれたてりみわの檜原は
  秋山のもみぢあはれとうらぶれていりにし妹はまてど來まさず
とあり。感傷などいふことなり○下なる左牡鹿者と共に左の下に小を脱したるか。シカは雄鹿にてヲシカのヲは添辭なればなり
 
2144 鴈來《カリノキテ》はぎはちりぬとさをしかのなくなるこゑもうらぶれにけり
鴈來芽子者散跡左小牡鹿之鳴成音毛裏觸丹來
(2115) 初句を舊訓と古義とにはカリハキヌとよみ略解にはカリキタリとよめり。さては意通ぜず。宜しくカリノキテとよむべし。雁ガ來テ大事ナ萩ガ散ツタトといふ意なり。上にも雁が來れば萩がちる趣によめり
 
2145 秋はぎの戀もつきねばさをしかの聲いつぎいつぎ戀こそまされ
秋芽子之聲裳不盡者左小鹿之聲伊續伊繼戀許増益焉
 ツキネバは盡キヌニなり。アキハギノ戀は萩をこふる心なり。上(二一〇一頁)にも
  ますらをの心はなしに秋はぎの戀にのみやもなづみてありなむ
とあり。下の戀は物思なり○イツギイツギのイは添辭なり。コヱイツギイツギは頻に鹿の聲が聞ゆるなり。聲が聲に繼ぐなり。鹿の聲が萩に繼ぐにあらず。萩はいまだ散らざるなり。略解に
  秋はぎをちるまでめでし心もつきぬに其萩につづきて鳴故に云々
といひ古義に
  秋芽子のちりて程も經ねばその芽子をこひしく思ふ心も未盡はてぬに鹿の聲がつぎて聞ゆる故に云々
(2116)といへるはわろし
 
2146 山ちかく家やをるべきさをしかのこゑをききつついねがてぬかも
山近家哉可居左小牡鹿乃音乎聞乍宿不勝鴨
 イヘヲルはスマフといふ事なり。語例は上にあり
 
2147 山のへにいゆくさつをはおほかれど山にも野にもさをしかなくも
山邊爾射去薩雄者雖大有山爾文野爾文沙小牡鹿鳴母
 古義に
  山邊に入立てうかがふ獵人の多くあればしのび隱れて音も出さすしてあるべきに云々
といへるは從はれず。もしさる意ならばオホカルヲといはざるべからず。オホカレドは多ケレドナホとなり
 
2148 (あしひきの)山より來せばさをしかの妻よぶこゑをきかましものを
足日木※[竹冠/矢]山從來世波左小鹿之妻呼音聞益物乎
(2117) 山ヨリ來セバは山ヲトホッテ來タラバとなり
 
2149 山邊にはさつをのねらひかしこけどをしかなくなり妻のめをほり
山邊庭薩雄乃禰良此恐跡小牡鹿鳴成妻之眼乎欲焉
 カシコケドはオソロシケレドとなり。妻ノメヲホリは妻ノ見エムコトヲ欲シテにて所詮妻ニ逢ヒタクテとなり
 
2150 秋はぎの散去見鬱三《チリヌルミレバオホホシミ》つまどひすらしさをしかなくも
秋芽子之散去見欝三妻戀爲良思棹牡鹿鳴母
 第二句を略解にチリユクヲミテとよみ古義にチリヌルヲミテとよめり。又第三句を從來イブカシミとよめり。チリヌルミレバオホホシミとよむべし。チリヌルミレバはオホホシミにかゝれるにて卷三(四五七頁)にミレバトモシミとあると同格なり。オホホシミはウッタウシサニなり
 
2151 山とほき京《ミヤコ》にしあればさをしかの妻よぶこゑはともしくもあるか
山遠京爾之有者狹小牡鹿之妻呼音者乏毛有香
(2118) 京を略解にミヤコとよめるを古義に宣長(詔詞解第五詔)の
  ミヤコといふは廣くわたれる名なれども其中に皇大宮《スメラオホミヤ》にあづからでただ京の内のことを云にはミサトと云り
といふ説に從ひてミサトと改め訓めり。案ずるに卷三(五五八頁)なる長歌にウチ日サス、京《ミヤコ》シミミニ、里家ハ、サハニアレドモとあれば少くとも歌にては宣長のいへる如きけぢめは無きなり。さればこゝもミヤコとよむべし○トモシはメヅラシなり
 
2152 秋はぎの散過去者《チリスギヌレバ》さをしかはわびなきせむな不見者《ミズバ》ともしみ
秋芽子之散過去者左小牡鹿者和備鳴將爲名不見者乏焉
 第二句を略解にチリスギユケバ、古義にチリテスギナバとよめり。宜しくチリスギヌレバとよむべし。今既に散過ぎぬるなり○ワビナキセムナはワビテ鳴カムとなり。不見者は略解に從ひてミズバとよむべし(古義にはミネバとよめり)○此歌のトモシはユカシなり
2153 秋はぎのさきたる野邊はさをしかぞ露をわけつつつまどひしける
(2119)秋芽子之咲有野邊者左小牡鹿曾露乎別乍嬬問四家類
 ヌベハは野邊ニハの意なり
 
2154 奈何牡鹿之〔左△〕《ナニシカモ》わびなきすなるけだしくも秋野のはぎやしげくちるらむ
奈何牡鹿之和備鳴爲成蓋毛秋野之芽子也繁將落
 初句を略解にはナゾシカノとよみ古義にはナドシカノとよめり。いづれにしても穩ならぬ句なり。案ずるにもとは奈何牡鹿母〔右△〕とありてナニシカモとよむべかりしを傳寫の時牡鹿の借字なるに心附かで字のままに鹿の事と心得て母を之〔右△〕に改めしならむ。ナニシカモはナニシカといはむに同じ。或は云はむ。ナニシカモに牡鹿を副へたるにあらざるかと。答へて云はむ。大和物語に我モシカナキテゾ人ニコヒラレシといひて然《シカ》に鹿をそへたる例あれどそは後世の風にて古風にあらざれば今の歌の作者はナニシカモに鹿を副へしにはあらじ。さて鹿をよめる今の歌のナニシカモに牡鹿の字を借りてかけるは戲ぶれてにもあるべけれど卷十二にイマサラニ何牡鹿《ナニシカ》オモハムとあるは全く無心にてかけるなり○右にいへる如くなれば此歌の初二には主格を略せるなり。古歌に往々主格を略せるものあるは上にいへ(2120)る如し○ケダシクモは或ハなり
 
2155 秋はぎの開有野邊《サキタルヌベニ》△さをしかはちらまくをしみなきぬるものを
秋芽子之開有野邊左牡鹿者落卷惜見鳴去物乎
 第二句を略解にはサキタルノベノとよみ古義にはサキタルヌベニとよめり。後に定むべし○略解には
  モノヲに心なし。此例外にもあり
といひ古義には
  はぎの咲てある野邊に出てその花の散失なむ事の惜さに鹿の鳴ぬるものをこのおもしろき野の景色をうつくしみにいかでわが思ふ人の來座ざりけむとなり
といへり。略解の租笨は指摘を要せず。古義はモノヲとあれば餘意あるものと認めてコノオモシロキ野ノ云々を釋添へたるなれど、もとのまゝにて古義の釋の如く聞えむやおぼつかなし。案ずるに此歌は旋頭歌の一句のおちて短歌の如くなれるなり。即開有野邊の下に風莫吹所年などいふ一句をおとせるなり。されば
(2121)  あきはぎのさきたるぬべにかぜなふきそね、さをしかはちらまくをしみなきぬるものを
と復原して解釋すべし。本集には往々旋頭歌の一句のおちて短歌の形となれるものあり(一五八三頁、一五八四頁。一八〇一頁、二〇八九頁參照)○左の下に小をおとしたるか
 
2156 (あしひきの)山のとかげになく鹿の聲きかすやも山田もらす兒
足日木乃山之跡陰爾鳴鹿之聲聞爲八方山田守酢兒
 山のトカゲは卷八(一五二三頁)に見えたり。キカスヤモのモは助辭、キカスヤは聞キ給フヤなり。山田モラス兒は假廬作リテ山田ヲ守リ給フ人となり。語例は卷七(一三六一頁)にスミノエノ小田ヲ苅ラス子とあり○古義に
  假廬に居て秋の山田を守り賜ふ其人よ、いざ物申さむ、今其山のたを陰に來てなく鹿の聲をきゝ賜ふや、嗚呼さてもあはれなる聲にてもありしをとなり
と釋けるは從はれず。もしさる意ならばナク鹿ノ聲ヲキキツヤ山田モラス兒などあるべきなり。卷八(一五九三頁)にキキツヤト妹ガトハセルカリガネハとあり此卷(2122)(二〇〇六頁)にホトトギスナキテサワタル君ハキキツヤ又(二〇〇七頁)キキツヤト君ガトハセルホトトギス、とあるを思ふべし。こゝにコヱキカスヤモといへるは聲ヲキキ給フ事アリヤといへるなり。上(一九八六頁)に
  ほととぎすなくこゑきくやうの花のさきちるをかにくずひくをとめ
とあると相似たり
 
   詠蝉
2157 ゆふかげに來なく日ぐらしここだくも日ごとにきけどあかぬこゑかも
暮影來鳴日晩之幾許毎日聞跡不足音可聞
 ココダクは澤山なり
 
   詠蟋蟀
2158 秋風のさむくふくなべわがやどの淺茅がもとにこほろぎなくも
秋風之塞吹奈倍吾屋前之淺茅之本蟋蟀鳴毛
 
(2123)2159 影草のおひたるやどのゆふかげになくこほろぎはきけどあかぬかも
影草乃生有屋外之暮陰爾鳴蟋蟀者雖聞不足可聞
 略解に『物の陰に生るをカゲ草といふ』といへり。此説に從ひて影とかけるを借字とすべし
 
2160 庭草に村雨ふりてこほろぎのなくこゑきけば秋づきにけり
庭草爾村雨落而蟋蟀之鳴音聞者秋付爾家里
 はやく卷八(一五九四頁)にも秋ヅケバとよめり
 
   詠|蝦《カハヅ》
2161 三吉野乃石もとさらずなくかはづうべもなきけり河をさやけみ
三吉野乃石本不避鴨川津諾文鳴來河乎淨
 カハヅは夙くしばしば出でたり。今カジカといふものなり。カジカ(河鹿)は音訓を交へたる俗語にて快からぬ語なるを近來何とも思はで歌に用ふることゝなれるはかたはらいたし○石は古義にイソとよめるに從ふべし(略解にはイハとよめり)。大(2124)石なり。さてイソモトサラズは大石ノ下ヲ離レズシテなり○初二の續穩ならず。初句はもと吉野河とありしを後人のさかしらに改めたるにあらざるか
 
2162 かむなびの山下とよみゆく水にかはづなくなり秋といはむとや
神名火之山下動去水丹河津鳴成秋登將云鳥屋
 卷八(一六二一頁)を始めて集中に山下動又は山下響とあるを從來ヤマシタトヨミとよめり。げに卷十四にウヱタケノモトサヘ登與美イデテイナバとあればヤマシタトヨミとよみて可なり。されど卷七なるオホ海ノイソモトユスリタツ浪ノ(一三三七頁)などの例によらばヤマシタトヨメともよむべきに似たり。
  卷七(一三〇九頁)なるオホ海ノミナゾコ豐三タツ浪ノは水底ガ鳴リサテ立ツ浪ノといへるなれば無論トヨミとあるべきなり
 現に卷十五にヤマビコ等余米サヲシカナクモとあり。又卷八、卷九なるヤマビコ令響(又令動)も從來トヨメとよめり。されば山下動(又山下響)もトヨミともトヨメともよむべく、ただトヨミの時はヤマシタガと心得、トヨメの時はヤマシタヲと心得べし○秋トイハムトヤを略解に秋トイフトテヤと譯し古義に秋ノ來リシト云コト(2125)ヲ人ニ告知セムトテニヤと譯せり。古義に從ひて秋ト告ゲムトヤとして心得べし中島廣足の相良日記に
  友尻といふを船渡して一勝地といふにいたる。……しばしやすらふほどかはづこゝらなくをなほこゝにてもとへばこは春の末つかた若鮎とるころもはら鳴ものにて此里人は此聲をきゝて鮎ののぼるを知るなりといふ。阿蘇の山川にては秋のはじめつ方なきて萬葉に秋トイハントヤとよめるによくかなへるを所ことなればなく時もことなるにやあらむ かはづなく時をまちえてくま人は川の瀬ごとにわかゆくむなり
とあり
 
2163 (草枕)たびに物念吾聞者〔左△〕《モノモフワガキクニ》ゆふかたまけてなくかはづかも
草枕客爾物念吾聞者夕片設而鳴川津可聞
 ユフカタマケテは夕暮近クナリテとなり。上(二一〇八頁)にも冬カタマケテとあり〇二三を略解古義にタビニモノモヒワガキケバとよみたれど然よまば結句はカハヅナクナリなどあるべきなり。宜しく者を煮の誤としてタビニモノモフワガキ(2126)クニとよむべく又三四の間にアヤニクニといふことを補ひて聞くべし
 
2164 瀬をはやみ落當知足〔左△〕《オチタギチユク》しら浪にかはづなくなり朝よひごとに
瀬呼速見落當知足白浪爾川津鳴奈里朝夕毎
 第二句を從來オチタギチタルとよみたれどタルといふべき處にあらず。足を逝などの誤としてオチタギチユクとよむべし
 
2165 かみつ瀬にかはづ妻よぶゆふされば衣手さむみ妻まかむとか
上瀬爾河津妻呼暮去者衣手寒三妻將枕跡香
 第二句にて切りて心得べし。蝦を人に擬してコロモデサムミといへる、おもしろし
 
   詠鳥
2166 (妹が手を)取石《トリシ》の池の浪の間ゆ鳥がねけになく秋すぎぬらし
妹手乎取石池之浪間從鳥音異鳴秋過良之
 初句は妹ガ手ヲ取リとつづける枕辭なり○取石池は續日本紀聖武天皇神龜元年十月に行還至2和泉國取石(ノ)頓宮1とあり。從來トロシとよみたれど、こゝにも續紀にも(2127)姓氏録にも取石と書きたる上、今の歌に妹ガ手ヲトいひかけたるを思へば宜しくトリシとよむべし。そを後にトロシと訛り更にトロスと訛れるなり○秋スギヌラシは秋暮レヌラシなり。鳥ガネ異《ケ》ニナクといへるに初めて水鳥の聲を開きし趣よくあらはれておもしろし。トリガネナクの語例は上(二一一一頁)にあり
 
2167 秋の野のをばながうれになくもずのこゑきくらむか片聞吾〔二字左△〕味《カタヅキヲルイモ》
秋野之草花我末鳴舌百〔二字左△〕鳥音聞濫香片聞吾味
 片聞の誤字なる事はしるけれど宣長が片待の誤とせるは從はれず。もしカタマツならば我ヲカタマツとあるべきなり。古義にはワガ待居ル吾妹ヤと譯したれどさる意には尚更聞えず。案ずるに片聞吾妹はおそらくは片附居妹の誤ならむ。海カタヅキテ、山カタヅキテ、谷カタヅキテなどは皆海ニ、山ニ、谷ニのニを省きたるなればただカタヅキヲルともいひつべし。されば一首の意は秋ノ野ニ沿ヒテ住メル妹ハ今ゴロ尾花ノ末ニナクモズノ聲ヲ聞クラムカ、アナユカシといへるなり○舌百は百舌の顛倒ならむ
 
   詠露
(2128)2168 あきはぎにおけるしら露あさなさな珠とぞみゆるおけるしら露
冷芽子丹置白露朝朝珠斗曾見流置白露
 
2169 ゆふだちの雨ふるごとに【一云うちふれば】春日野の尾花が上の白露おもほゆ
碁立之雨落毎【一云打零者】春日野之尾花之上乃白露所念
 代匠記に
  夕立を昔は秋の物とせり。されど夕立と云べき雨は七月下旬までこそ降侍るを古は仲秋の比までも云ひけるにや
といへり。仲秋ノ比マデモといへるは尾花は仲秋以後の物なればなり
 
2170 秋はぎの枝もとををに露じもおき、さむくも時はなりにけるかも
秋芽子之枝毛十尾丹露霜置寒毛時者成爾家類可聞
 
2171 しら露と秋芽子者戀〔二字左△〕亂《アキハギノハナトイリミダレ》わくことかたきわがこころかも
白露與秋芽子者戀亂別事難吾情可聞
 從來二三をアキノハギトハコヒミダレとよみたれどハとありコヒとある穩なら(2129)ず。おそらくは秋芽子花與入〔三字右△〕亂とありしを誤れるならむ。然らばアキハギノハナトイリミダレとよむべし。さて上三句はワクコトカタキの序にてそのワクコトカタキは分別スルコト難キといふ意なり
 
2172 わがやどのをばなおしなべおく露に手ふれ吾味兒ちらまくもみむ
吾屋戸之麻花押靡置露爾手觸吾味兒落卷毛將見
 テフレは手ヲ觸レヨとなり
 
2173 白露をとらばけぬべしいざ子ども露にきほひてはぎの遊せむ
白露乎取者可消去來子等露爾爭而芽子之遊將爲
 ツユニキホヒテはアトカラアトカラオク露ニ負ケズニとなり。古義に『露のちらむに爭ひ先だちての意なり』といへるは非なり。ハギノアソビは萩の宴なり
 
2174 秋田苅《アキタカルト》かりほをつくりわがをれば衣手さむく露ぞおきにける
秋田苅借廬乎作吾居者衣手寒露置爾家留
 初句を從來アキタカルとよみたれどトをよみそふべし
 
(2130)2175 このごろの秋風さむしはぎが花ちらすしら露おきにけらしも
日來之秋風寒芽子之花令散白露置爾來下
 
2176 秋田かる※[草冠/店]〔左△〕手搖〔左△〕《ソデソホヅ》なりしら露はおく穗田なしとつげにきぬらし
    一云つげにくらしも
秋田苅※[草冠/店]手搖奈利白露者置穗田無跡告爾來良思
    一云告爾來良思母
 弟二句を舊訓にトマデウゴクナリとよめるを宣長が衣手淫の誤としてソデヒヂヌナリとよみしは一發明なり。但ソデソホヅナリとよまむ方まさるべし。ソホヅは集中には見えねど武烈天皇紀影媛の歌にナキ曾哀〔口の中に一〕遲《ソホヂ》ユクモとあれば新しき語にあらず○露を人に擬してサウ穗田ヲ苅ラレテハワガ置クベキ處ナシト露ガ告ゲニ來ルト見エテ秋田ヲ苅ル袖ガ濡レルといへるなり
 
   詠山
2177 春はもえ夏はみどりにくれなゐの綵色《マダラ》にみゆる秋の山かも
(2131)春者毛要夏者緑丹紅之綵色爾所見秋山可聞
 夏ハミドリニの下にミエといふ語を略せるなり○綵色を舊訓と略解とにはニシキとよみ古義にはマダラとよめり。卷七(一三四五頁)なる
  月草にころもぞそむる君がため綵色衣すらむとおもひて
は略解にもマダラノコロモとよめり。こゝもマダラとよむべし
 
   詠黄葉
2178 (つまごもる)矢野の神山露じもににほひそめたりちらまくをしも
妻隱矢野神山露霜爾爾寶比始散卷惜
 卷二(一八七頁)にもツマゴモル屋上《ヤカミ》ノ山|乃《ニ》とあり。矢野といふ山は諸國にあれど人麿謌集に出でたる歌なれば出雲國神門郡のならむ
 
2179 朝露に染始《ニホヒソメタル》秋山にしぐれなふりそありわたるがね
朝露爾染始秋山爾鐘禮莫零在渡金
    右二首柿本朝臣人麿之謌集出
(2132) 第二句を舊訓略解にソメハジメタルとよめるを古義にニホヒソメタルに改め、さて『ソメハジメタルと訓るは甚わろし』といへり。げにこゝはニホヒソメタルとよむべし(下にもニホヒヌベクモを應染毛とかけり)。されどソメハジメタルとよまむにも妨なきにあらずや。下にも今コソモミヂハジメタリケレとあるをや○アリワタルガネは散ラズシテナガラフベクとなり
 
2180 なが月のしぐれの雨にぬれとほり春日の山はいろづきにけり
九月乃鐘禮乃雨丹沾通春日之山者色付丹來
 
2181 かりがねのさむきあさけの露ならし春日の山を令黄《モミダス・ニホハス》ものは
鴈鳴之寒朝開之露有之春日山乎令黄物者
 命黄をモミダスとよめるもの(後撰集以下)とニホハスとよめるもの(元暦校本)とあり。略解にはニホハスとよみ古義にはモミダスとよめり。いづれともよむべし」但古義に『モミダスはモミヂサスのつづまりたるなり』といへるは非なり。モミヅはいにしへ四段にもはたらきしなれば(一四七六頁參照)チルなどと同格なり。されば令散(2133)をチラスといふが如くに令黄變をモミダスともいひつべきなり。雅澄の説の如くならばチラスもチリサスの約とせざるべからざるにあらずや○卷八(一六〇七頁)にニホスを令丹と書けり。ニホスはニホハスに同じ
 
2182 このごろのあかとき露にわがやどのはぎの下葉はいろづきにけり
比日之曉露丹吾屋前之芽子乃下葉者色付爾家里
 
2183 かりがねは今者《イマシ》きなきぬわがまちし黄葉はやつげまてばくるしも
鴈鳴者今者來鳴沼吾待之黄葉早繼待者辛苦母
 今者を從來イマハとよみたれどハの言耳に立ちて聞ゆ。こは漢籍に今といふことを今者ともいへるに倣ひてかけるにて意を酌みてイマシとよむべきにあらざるか。上(二一〇九頁)にも秋風ニカリガネキコユ今四來ラシモ、又卷十一にもホトトギス今之來ナカバとあり○ツゲは雁ニ繼ゲとなり
 
2184 秋山をゆめ人かくなわすれにしそのもみぢ葉のおもほゆらくに
秋山乎謹人懸勿忘西其黄葉乃所思君
(2134) カクナは口ニカケテ言フナとなり。オモホユラクニはシノバルルニとなり
 
2185 大坂をわがこえくれば二上《フタガミ》にもみぢ葉ながるしぐれふりつつ
大坂乎吾越來者二上爾黄葉流志具禮零乍
 大坂は和名抄に大和國葛下郡大坂とあり。記紀にも見えたる處なり(記傳卷二十五【一五一二頁】參照)。二上は山の名なり。即卷二(二一九頁)なる
  うつそみの人なるわれやあすよりはふたがみ山をわがせとわがみむ
といふ歌の題辭に見えたる葛城(ノ)二上山なり。大坂はその北方の峠なり。今穴蟲|越《ゴエ》といふ○ナガルは空より物の降る事なり。古義に『見るやうなり』と評せる如くめでたき歌なり
 
2186 秋さればおくしら露にわが門の淺茅がうら葉いろづきにけり
秋去者置白露爾吾門乃淺茅何浦葉色付爾家里
 
2187 (妹が袖)卷來乃〔二字左△〕《マキムク》山の朝露ににほふ黄葉のちらまくをしも
妹之袖卷來乃山之朝露爾仁寶布黄葉之散卷惜裳
(2135) 卷來乃山を舊訓に字のまゝにマキキノヤマとよめるを宣長は來乃を牟久の誤としてマキムクヤマとよめり。之に從ふべし
 
2188 もみぢ葉の丹穗日者繁〔左△〕《ニホヒハウスシ》しかれども妻梨の木をたをりかざさむ
黄葉之丹穗日者繁然鞆妻梨木乎手折可佐寒
 第二句を從來字のまゝにニホヒハシゲシとよめり。さて略解に
  紅葉せる木は多けれども妻といふ名に依てつまなしを殊更に折かざさんと也
といひ古義に
  さまざまの木にうるはしき色のもみぢはしげけれどもわきて梨の木の黄色のすぐれたるを折てかざさむとなり
といへり。モミヂセル木ハ多ケレドモ又はサマザマノ木ニウルハシキ色ノモミヂハシゲケレドモといふことをモミヂバノニホヒハシゲシといふべしや思ふべし。宜しく第二句の緊を薄の誤としてニホヒハウスシとよむべし。一首の意は
  黄葉ノ色ハ薄ケレドモ妻トイフ名ヲ負ヒタルガナツカシケレバ妻梨ノ木ヲ手折リテカザサム
(2136)といへるのみ
 
2189 露霜|聞〔左△〕《ノ》さむきゆふべの秋風にもみぢにけりも妻梨の木は
露霜聞寒夕之秋風丹黄葉爾來毛妻梨之木者
 初句の聞は元暦校本、類聚古集などに從ひて乃の誤とすべし○ケリにモを添へてケリモといへるはめづらし。このモはユキクトミラム紀人トモシモ、竹ノハヤシニウグヒスナクモなどのモとおなじき嘆辭ならむ
 
2190 わが門の淺茅いろづくよなばりの浪柴の野のもみぢちるらし
吾門之淺茅色就吉魚張能浪柴乃野之黄葉散良新
 ヨナバリは大和礒城郡の地名なり。初瀬の東に當れり。古義に
  浪柴も吉隱の内にある地名なり。大和志に猪飼山在2城上郡吉隱村上方1其野曰2浪芝野1とあり
といへり。ヨナバリノ猪飼(ノ)山は卷八(一五九二頁)に、ヨナバリノヰガヒノ岡は卷二(二八六頁)に見えたり。下にもヨナバリノ夏身ノ上とあり
 
(2137)2191 かりがねをききつるなべに高松《タカマツ》の野のへの草ぞいろづきにける
鴈之鳴乎聞鶴奈倍爾高松之野上之草曾色付爾家留
 
2192 わがせこがしろたへ衣ゆき觸者《フレバ・フラバ》にほひぬべくももみづ山かも
吾背兒我白細衣往觸者應染毛黄變山可聞
 觸者は四段活に從ひてフラバともよむべし〇ユキフルは行ク行ク觸ルルなり。ニホヒヌベクモは染ルべクモなり
 
2193 秋風の日にけにふけば(みづぐきの)岡の木葉もいろづきにけり
秋風之日異吹者水茎能岡之木葉毛色付爾家里
 岡は地名にあらず
 
2194 かりがねの來なきしなべに(からごろも)たつ田の山はもみぢそめたり
雁鳴乃來鳴之共韓衣裁田之山者黄始有
 
2195 かりがねの聲きくなべにあすよりはかすがの山はもみぢそめなむ
雁之鳴聲聞苗荷明日從者借香能山者黄始南
(2138) 初二今ならばカリガネノキコエルナベニといふべく上なる
  かりがねをききつるなべに高まつの野のへの草ぞいろづきにける
も今ならばカリガネノキコエシナベニといふべし。されば昔は今と物のいひざま異なりしなり。春日ノ山、野ノヘノ草を人に擬へたるにかと思へどさにはあらず
 
2196 しぐれの雨まなくしふれば眞木の葉もあらそひかねていろづきにけり
四具禮能雨無間之零者眞木葉毛爭不勝而色付爾家里
 マキノハモは常葉木ナル檜ノ葉サヘとなり
 
2197 いちじろくしぐれの雨はふらなくに大城の山はいろづきにけり
灼然四具禮乃雨者零勿國大城山者色付爾家里
 イチジロクは略解にフルトイフ程と譯せる如し○元暦校本等にこゝに註して
  謂2大城1者在2筑前國御笠郡之大野山頂1號曰2大城1者也
といへり。又六帖に此歌を改めて
(2139)  いちじるくしぐれのふればつくしなる大野の山〔九字傍点〕もうつろひにけり
として擧げたり。大城山ははやく卷八(一五二七頁)に見えたり
 
2198 風ふけば黄葉ちりつつ小雲《シマラクモ》吾〔左△〕《キミ》松原は清からなくに
風吹者黄葉散乍小雲吾松原清在莫國
 小雲は舊訓に基づきてシマラクモとよむべし。宣長がスクナクモとよみ改めたるはわろし。
  卷十一なるスクナクモ心ノウチニワガモハナクニは少カラズ思フ事ナルニといふ意なればスクナクモ清カラナクニは少カラズ清キニといふ意となるべきをや
 小は少に通じ(元暦校本などには少とあり)その少は漢籍にては暫の意につかへり○吾松原の吾は君の誤なる事宣長のいへる如し。卷九(一八三三頁)なるツママツノ木ハのツマとおなじく句中の枕辭なり
 
2199 物もふと隱座而《コモラヒヲリテ》今日みればかすがの山は色づきにけり
(2140)物念隱座而今日見者春日山者色就爾家里
 第二句を古義にカクロヒヲリテとよめるはわろし。略解の一訓に從ひてコモラヒヲリテとよむべし。卷八(一五九六頁)に
  あまごもり心いぶせみいでみればかすがの山は色づきにけり
とあると相似たり
 
2200 なが月のしら露負ひて(あしひきの)山のもみぢむ見幕下吉《ミマクシモヨシ》
九月白露負而足日木乃山之將黄變見幕下吉
 上にもツユジモ負ヒテ、アサ露負ヒテなどあり○結句を略解古義にミマクシモヨケムとよめり。舊訓に從ひてミマクシモヨシとよむべし。山ノモミヂセムヲ見ムガウレシといへるなり。卷八(一六六八頁)なるミラクシヨシモと對照すべし
 
2201 妹がりと馬に鞍おきていこま山うちこえくれば紅葉ちりつつ
妹許跡馬鞍置而射駒山撃越來者紅葉散筒
 代匠記に馬ニ鞍オキテイクといふいひかけとし略解古義に其誤を繼げり。ユクは(2141)初句のトの上に略せるなり。即妹ガリトは妹ガリ行クトの略なり。初二は序にあらず○ウチコエのウチは添辭なり。古義には例の如く僻説を述べたり○モミヂは集中に皆黄葉とかけるをこゝのみ紅葉とかけり。因にいふ。モミヅも黄、黄變などかけるが例なるに下にアキハギノシタ葉|赤《モミヂヌ》とかけり
 
2202 もみぢする時になるらし月人〔左△〕《ツキノウチノ》かつらの枝のいろづくみれば
黄葉爲時爾成良之月人楓枝乃色付見者
 第三句の月人をツキヒトノとよみ來れるを古義に月内の誤としてツキヌチノとよみ改めたるは一發見なり。卷四(七三〇頁)にも月内之カツラノゴトキ妹ヲイカニセムとあり○初句の前に世上一般ノ草木モといふことを加へて聞くべし。月の光の清くなる事を月ノウチノカツラノ枝ノイロヅクといへる、當時にはめづらしき技巧なり
 
2203 里〔左△〕異《アサニケニ》霜はおくらし高松《タカマツノ》野〔□で圍む〕|山司《ヤマノツカサ》のいろづくみれば
里異霜者置良之高松野山司之色付見者
(2142) 初句は宣長が里を旦の誤としてアサニケニとよめるに從ふべし〇三四はいかによむべきか。野はいにしへヌといひてノの假字には用ひがたければタカ松ノ山ノツカサノとはよみがたきに似たり。されば契沖は野を第四句に附けてタカ松ノ野山ヅカサノとよみ雅澄は之に從へり。案ずるに卷五(九〇七頁)にハルノ能ニキリタチワタリと書きて當時はやく野をノともいひしが如くなれど、なほ野をノの假字に用ひむことは穩ならず。又野山ヅカサといはむも穩ならず。されば野を衍字又は乃の誤字としてタカマツノヤマノツカサノとよむべし
 
2204 秋風の日にけにふけば露重《ツユヲシゲミ・ツユヲシミ》はぎの下葉はいろづきにけり
秋風之日異吹者露重芽子之下葉者色付來
 弟三句を舊訓にツユオモミ、略解にツユヲオモミ、古義にツユシゲミとよめり。ツユヲシゲミ又はツユヲシミとよむべし
 
2205 秋はぎの下葉もみぢぬ(あらたまの)月の歴去者《ヘユケバ》風をいたみかも
秋芽子乃下葉赤荒玉乃月之歴去者風疾鴨
(2143) 歴去者はヘユケバとよむべし(略解古義にはヘヌレバとよめり)。さて月ノヘユケバはただ時ガタテバといふ意なり。上(二一一二頁)にも時ガタテバといふことをアラタマノ年ノ經往者《ヘユケバ》といへり。略解に『はぎの生し時より日をへて』と釋けるは辭に拘はれり
 
2206 (まそ鏡)みなぶち山は今日もかも白露おきて黄葉ちるらむ
眞十鏡見名淵山者今日鴨白露置而黄葉將散
 
2207 わがやどの淺茅いろづくよなばりの夏身の上にしぐれふる疑《ラシ》
吾屋戸之淺茅色付吉魚張之夏身之上爾四具禮零疑
 第二句にて切りて心得べし。このナツミは吉野のとは別なり。ウヘといへるは山なり。疑を略解にはカモとよめり。舊訓と古義とに從ひてラシとよむべし。上(二一一〇頁)にも云へり
 
2208 かりがねのさむくなきしゆ(水莖の)岡の葛葉はいろづきにけり
鴈鳴之寒鳴從水茎之岡乃葛業者色付爾來
(2144) 上(二一三七頁)にもミヅグキノ岡ノ木葉モ色ヅキニケリとあり
 
2209 秋はぎの下葉のもみぢ花に繼《ツグ》時すぎゆかば後こひむかも
秋芽子之下葉乃黄葉於花繼時過去者後將戀鴨
 繼を略解古義にツギとよめリ。ツグとよみて時につづけて心得べし。黄葉ガ花ニツグ此時ガ過行カバとなり。卷八(一五六八頁)なる
  よひにあひてあしたおもなみなばり野のはぎはちりにき黄葉はやつげ
と打見には相似たれど卷八なるは一般の黄葉、今のは萩の黄葉なり
 
2210 あすか川もみぢ葉ながるかづらきの山の木葉者今しちる疑《ラシ》
明日香河黄葉流葛木山之木葉者今之散疑
 葛城山は無論明日香川の水源にあらで兩者全く没交渉なればカヅラキノ山ノコノハモとあらざるべからず。者は母などの誤なるべし○疑は舊訓に從ひてラシとよむべし
  追考 山田孝雄氏(雜誌あららぎ第十六卷)は『この飛鳥川は河内國古市郡飛鳥里(○(2145)今南河内郡駒ケ谷村の内)の傍を流るゝ川なり。その川上に沿ひたる道路は古の大坂なり。水源三つのうち二つは二上嶽の西より出づ』と云はれたり〔然らばフタガミノ山ノ木葉ハといふべきに似たれど二上山は卷二なるウツソミノ人ナルワレヤといへる歌の題辭に葛城(ノ)二上山とありて葛城連峰のうちなればカヅラキノ山ノ木葉ハと云へるか。なほ考ふべし
 
2211 妹が紐|解〔左△〕登結而《イザトムスビテ》たつ田山今こそもみぢはじめたりけれ
妹之紐解登結而立田山今許曾黄葉始而有家禮
 初二がタツにかゝれる序なる事は明なり。第二句を舊訓にトクトムスビテとよめり。されどさては解しがたきによりて契沖千蔭雅澄共に後撰集に
  妹が紐とくとむすぶとたつ田山今ぞもみぢの錦おりける
とあるに從ひて結而をムスブトの誤とし字音辨證上卷(二六頁)には而のまゝにてトとよむべしとして
  而をトに借れるは轉音を用ゐたる也。而にトの音あるは同轉の治にト、姫にコ、忌にゴ、志之にソ、以にヨ、意矣にオの音ある響也云々
(2146)といへり。案ずるに初句に妹ガヒモとあれば解くも結ぶも我の所爲なり。されば右の訓に從ひてタツまでを釋すれば妹ガ紐ヲワガ解クトテ立チワガ結ブトテ立ツといふことゝなるなり。さて通ぜむや思ふべし。奥儀抄には
  はかまのこしは結ぶとてもたち、とくとてもたてばトクトムスブトタツ田山とつづくるなり
といへりといふ。此釋の如くならばトク、ムスブ、タツの主格を妹とせざるべからざれど妹ガソノ紐ヲといふことをイモガ紐といふべきならむや又思ふべし。おそらくは第二句の解は率などを誤れるにてイモガヒモイザトムスビテタツ田山とよむべきならむ。即男の起きて歸るとて俗信に從ひて女の紐を結びて出立つといふ意の序なり〇四五はモミヂハジムといふ語を二句に割けるなり。範とすべからず
 
2212 かりがねの喧之△從《ナキニシヨリ》かすがなる三笠の山はいろづきにけり
鴈鳴之喧之從春日有三笠山者色付丹家里
 第二句は契沖が日の字を補ひてナキニシヒヨリとよめるに從ふべし。上(二一三七頁)にも
(2147)  かりがねの來なきしなべにから衣たつ田の山はもみぢそめたリ
とあり
 
2213 このごろのあかとき露にわがやどの秋のはぎ原いろづきにけり
此者之五更露爾吾屋戸乃秋之芽子原色付爾家里
 第四句なつかしからず。上(二一三三頁)なる
  このごろのあかとき露にわがやどのはぎの下葉はいろづきにけり
を傳へ誤れるならむ
 
2214 ゆふされば鴈のこえゆくたつ田山しぐれに競《キホヒ》いろづきにけり
夕去者鴈之越往龍田山四具禮爾競色付爾家里
 キホヒはハリアヒテなり。古義に『しぐれのふるに否うつろはじと爭ふにつひに爭ひ得ずして』と釋せるは上なるアラソヒカネテと混同せるなり。競を略解にキソヒとよめるはわろし
 
2215 さよふけてしぐれなふりそ秋はぎのもと葉の黄葉ちらまくをしも
(2148)左夜深而四具禮勿零秋芽子之本葉之黄葉落卷惜裳
 モト葉は下葉におなじと略解にいへる如し
 
2216 ふるさとのはつもみぢ葉をたをり以《モチ》而〔□で圍む〕けふぞわが來《クル》みぬ人のため
古郷之始黄葉乎手折以而今日曾吾來不見人之爲
 以而の而の字元暦校本及類聚古集に無し。而を削りてモチとよむべし○來を古義にコシとよみたれどなほ舊訓の如くクルとよむべし
 
2217 君之家乃《キミガイヘノ》〔□で圍む〕|黄葉早者落〔二字左△〕《モミヂハハヤクチリニケリ》しぐれの雨にぬれにけらしも
君之家乃之黄葉早者落四具禮乃雨爾所沾良之母
 第二の之の衍字なる事は明なり。者落は一本に落之者とありといふ。略解古義共に之に從ひてモミヂバハヤクチリニシハとよみたれどチリニシハにてはヌレニケラシモとの照應よろしからず。おそらくは落來の誤ならむ。さらばモミヂハハヤクチリニケリとよむべし。モミヂハのハは辭なり
 
2218 一とせにふたたび行かぬ秋山乎《アキノヤマヲ》こころにあかずすぐしつるかも
(2149)一年二遍不行秋山乎情爾不飽過之鶴鴨
 ユカヌは來ヌなり。第三句を從來アキヤマヲとよみたれどアキノヤマヲとノを挿みてよむべし。一トセニフタタビユカヌは秋のみにかゝれるなればなり○ヲはナルヲなり。ココロニアカズは十分ニ賞玩セズシテなり。スグシは秋ヲスグシなり
 
   詠|水田《コナタ》
2219 (足曳の)山田つくる子ひでずとも繩《シメ》だにはへよもるとしるがね
足曳之山田佃子不秀友繩谷延與守登知金
 和名抄に漢語抄云水田古奈太〔三字傍点〕とあり。新撰字鏡には墾をコナタとよめり。和訓莱に『倭名抄に水田をよむは熟《コナ》田の義也』といへり○ヒデズは穗ニ出デズなり。穗ニ出ヅを略してホイヅといひ更にそれをつづめてヒヅといふなり。モルトシルガネは人ノ守ルト知ルベクとなり。眞に田を詠ぜる歌ならば第五句の如き無用の辭は費さじ。されば略解に
  譬喩歌なり。……今はまだをさなくとも今より領じたりと知られんといふを(2150)そへたり
といへる如し。卷七(一四二一頁)に
  いそのかみふるのわさ田をひでずともしめだにはへてもりつつをらむ
とあるも譬喩歌なり
 
2220 さをしかの妻よぶ山のをかべなるわさ田はからじ霜はふるとも
左小牡鹿之妻喚山之岳邊在早田者不苅霜者雖零
 契沖千蔭雅澄ともに鹿ガ早稻田ノ陰ヲ便トスレバとやうに釋きたれどさる意は歌に見えず。又山には草木あるべければ早稻田の陰を頼とはすべからず。案ずるにこはワサ田ヲ刈ラバ鹿ガオドロクベケレバといへるなり
 
2221 わが門にもる田をみれば沙穗《サホ》の内の秋はぎすすきおもほゆるかも
我門爾禁田乎見者沙穗内之秋芽子爲酢寸所念鴨
 初二は我門ニ穗ニ出デテ人ノ守ル田ヲ見レバとなり。サホノ内は近くは上(一九一五頁)に
(2151)  かすがなる羽買の山ゆさほの内へなきゆくなるはたれよぶ子鳥
とあり。佐保の郷内なり。オモホユルカモはシノバルルカナなり
 
   詠河
2222 ゆふさらずかはづなくなるみわ河の清き瀬の音をきかくしよしも
暮不去河蝦鳴成三和河之清瀬音乎聞師吉毛
 キカクシヨシモは聞クガウレシとなり
 
   詠月
2223 天の海に月の船うけ桂梶かけてこぐみゆ月人をとこ
天海月船浮桂梶懸而※[手偏+旁]所見月人壯子
 カツラカヂは楚辭九歌の桂櫂《ケイタウ》を譯せるにて略解に『月中の桂の縁もあればかくよめり』といへる如し。卷七(一二一九頁)に
  天の海〔右△〕に雲の波たち月の船星の林にこぎかくる見ゆ
とあると相似たる所あり
 
(2152)2224 この夜らはさよふけぬらしかりがねのきこゆる空ゆ月たちわたる
此夜等者沙夜深去良之雁鳴乃所聞空從月立度
 卷九(一七〇七頁)なる
  さよ中と夜はふけぬらし雁がねのきこゆる空に月わたるみゆ
のかはれるにて到底原歌に及ばず
 
2225 わが背子が挿頭之《カザシノ》はぎにおく露をさやかに見よと月はてるらし
吾背子之挿頭之芽子爾置露乎清見世跡月者照良思
 第二句を略解にカザシシとよめるはわろし。古義に
  此は酒宴などの興に依て芽子をかざせる人のあるを見てよめるなるべし
といへるはよき心づきなり。ワガセコガとあれど男子のよめるならむ。男子どちもワガセコといひし事ははやくいへる如し
 
2226 心なき秋の月夜の物もふといのねらえぬにてりつつもとな
無心秋月夜之物念跡寐不所宿照乍本名
(2153) ツク夜はやがて月なり。句をおきかへて
  物もふといのねらえぬに心なき秋のつく夜のてりつつもとな
として心得べし。テリツツモトナはアヤニクニ照りツツとなり
 
2227 おもはぬにしぐれの雨は零有〔左△〕跡《フリケレド》あまぐもはれて月夜清烏《ツクヨキヨシモ》
不念爾四具禮乃雨者零有跡天雲霽而月夜清烏
 第三句を從來フリタレドとよみたれど零來跡の誤としてフリケレドとよむべし。清烏は契沖以下サヤケシとよみたれどキヨシモとよむべし〇四五は雨前より却りて月光の清き趣なり。略解古義にオモハヌニをアマグモハレテにかけて釋きたるは非なり。句のままに心得べし○烏は焉の俗體なり
 
2228 はぎが花さきの乎再入《ヲヲリ》を見よとかも月夜のきよき戀まさらくに
芽子之花開乃乎再入緒見代跡可聞月夜之清戀益良國
 略解に乎再入をヲヲリとよめるはよろしけれど再を烏の誤とし雅澄が之に同意したるは誤れり。はやく守部の鐘の響第四十段に『乎再は乎(ノ)字を再び重ねたる義を(1254)以て書るなり』といひ、又訓義辨證下卷(三五頁)に
  古書に再讀すべきをりは其文字をば復書せずして其字の下に二(ノ)字を小書せり。皇國にても古へ專此法を用ゐて二とも、ゝゝとも、々ともかけり。ゝゝは二の草書なるべし。々は仝(ノ)字の草體ならむ。これらの書法によりて思へば乎乎入を乎再入とかける事よしありていとおかしくさへおぼゆるなり
といへり。此等の説の如し。播磨國風土記に田田利《タタリ》を田又利と書けり○さてサキノヲヲリは卷八(一四八六頁)に
  はる山のさきのををりにはる菜つむ妹がしら紐みらくしよしも
とあり。こゝにてはサキナビケルサマヲと譯すべし○戀マサラクニは妹ヲシタフ心ガマサルニとなり。略解に其花ヲ戀メヅル心ノ増ルニと譯したるは從はれず
 
2229 しら露を玉になしたるなが月のありあけの月夜みれどあかぬかも
白露乎玉作有九月在明之月夜雖見不飽可聞
 玉ニナシタルは玉ニ變ジタルなり
 
   詠風
(1255)2230 こひつつも稻葉かきわけ家居〔二字左△〕者《ワガクレバ》ともしくもあらず秋のゆふ風
戀乍裳稻葉掻別家居者乏不有秋之暮風
 第三句は字のまゝならば古義の如くイヘヲレバとよむべし。家居シヲレバの意なり。上(一九一〇頁)にも
  梅の花さける崗邊にいへをればともしくもあらずうぐひすのこゑ
とあり。さて案ずるにコヒツツ家ヲルとあるもイナ葉カキワケ家ヲルとあるも共に穩ならず。弟三句はもと我來者などありしを原本の文字のさだかならざりしを讀分くとて上に家居者トモシクモアラズとあるよりそれに准じて家居者としたるにあらざるか。もし我來者の誤ならば一首の意は
  殘暑ニワビ風ニコヒテ稻葉ヲ掻分ケツツワガ來レバ秋ノ夕風ハ少クモアラズ
といふ意とすべし
 
2231 はぎが花さきたる野邊にひぐらしのなくなるなべに秋の風ふく
芽子花咲有野邊日晩之乃鳴奈流共秋風吹
(2156) 日グラシノ聲ノキコユルニツレテとなり。上にもカリガネヲキキツルナベニ、カリガネノ來ナキシナベニ、カリガネノ聲キクナベニなどあり
 
2232 秋山の木葉も未赤者《イマダモミヂネバ》けさふく風は霜も置應久《オキヌベク》
秋山之木葉文未赤者今日〔左△〕吹風者霜毛置應久
 未赤者を舊訓と古義とにはイマダモミヂネバとよみ略解にはモミデネバとよめり。モミヂネバとよめるは上二段活とせるにてモミデネバとよめるは下二段活とせるなり。古今集にシラツユノ色ドル木々モモミヂアヘナクニ、モミヂツツウツロヒヌルヲ限トオモヘバ、ツヒニモミヂヌ松モミエケレなどあれば上二段活としてこゝもイマダモミヂネバとよむべし。さてモミヂネバはモミヂヌニなり○置應久を舊訓と古義とにはオキヌベクとよみ、略解には久を之の誤としてオキヌベシとよめり。もとのまゝにてオキヌベクとよむべし。オキヌベクアル事ヨといふ意にて卷九(一七二四頁)なる
  見まくほりこしくもしるく吉野川おとのさやけさみるにともしく
のトモシクと相似たる格なり
 
(2157)   詠芳〔左△〕
2233 高松のこの峯もせに笠立而《カサダチテ》、盈盛有《ミチサカリタル》、秋の香のよさ
高松之此峯迫爾笠立而盈盛有秋香乃吉者
 玉勝間卷十三『梅の花の歌に香をよむ事』といふ條(全集第四の三〇一頁)に此歌を擧げて
  こは松茸をよめるにぞ有ける。はしに詠芳とある芳(ノ)字は茸を寫しひがめたるなり
といへり○第三句を舊訓と略解とにはカサタチテとよみ、宣長と雅澄とはカサタテテとよめり。笠ヲタテテといはむよりは笠トタチテといはむ方穩なればカサダチテとよむべし(タは濁るべし)○盈盛有を從來ミチサカリナルとよみたれどミチテサカリナルといふことをテを省きてミチサカリナルとはいふべからず。さればミチサカリタルとよむべし○秋(ノ)香は茸の歌語ならむ。語のまゝに香の事としてはカサダチテと相副はず
 
(2158)   詠雨
2234 一日《ヒトヒニモ》ちへしくしくにわがこふる妹があたりにしぐれ零禮〔左△〕見《フルミユ》
一日千重敷布我戀妹當爲暮零禮見
    右一首柿本朝臣人麿之歌集出
 初句は古義の如くヒトヒニモとよむべし(舊訓と略解とにはヒトヒニハとよめり)。一日ノ中二モ幾百遍トナクとなり○結句を舊訓にシグレフレミムとよめるを略解に禮を所の誤としてシグレフルミユとよめり。此説に從ふべし(字音辨證には例の如く禮をルともよむべしといへり)。第三句に辭を補ひてワガ戀ヒテ見遣ルとして心得べし
 
2235 秋田苅〔二字左△〕《アキヌユク》たびのいほりにしぐれふりわが袖ぬれぬほす人なしに
秋田苅客乃廬入爾四具禮零我袖沾干人無二
 略解古義に『かりそめにをる所をタビといふべし』といひたれど秋の田の番小屋に居る事を旅とはいふべからず。初句の秋田苅はおそらくは秋野行の誤ならむ
 
(2159)2236 (たまだすき)かけぬ時無《トキナク》吾戀《ワレハコフルヲ》△しぐれし者〔左△〕者《フラバ》ぬれつつもゆかむ
玉手次不懸時無吾戀此具禮志者者沾乍毛將行
 カケヌ時無は心にかけぬ時なきにて即思はぬ間なきなり○二三を略解古義にカケヌトキナキワガコヒヲとよみて吾戀ナルモノヲの意としたれど、さては辭足らず。案ずるにこはもと旋頭歌にて吾戀の下に吉哉などありしにて
  たまだすきかけぬ時なくわれはこふるを、よしゑやししぐれしふらばぬれつつもゆかむ
とよむべきなりしならむ。妹が許に行かむとするをりしも空のけしきしぐれぬべくなりしかばヨシヤ時雨ニヌレテモ行カムといへるなり○上の者は零を誤れるなり
 
2237 もみぢ葉をちらすしぐれのふるなべに夜副衣寒《フスマゾサムキ》ひとりしぬれば
黄葉乎令落四具禮能零苗爾夜副衣寒一之宿者
 第四句を舊訓にヨサヘゾサムキとよみ類聚古集などには夜副衣をフスマとよみ(2160)又ゾをよみそへてフスマゾサムキとよめり。さて契沖千蔭は舊訓に從ひ雅澄は『ヨサヘゾサムキとよみてはサヘの詞平穩ならず』といひて一訓に從へり。古義の説よろし
 
   詠霜
2238 あまとぶや鴈のつばさの覆羽《オホヒバ》のいづくもりてか霜のふりけむ
天飛也鴈之翅乃覆羽之何處漏香霜之零異牟
 略解に
  雁はあまた羽打ひろげてつらなり飛ものなればかくをさなくよめり
といひ古義に
  天を高く飛渡るあまたの雁の翅をひろげならべたればそれにさへられて霜は得ふるまじき理なるに云々
といへるは未徹底せず。いかに雁の多く渡ればとて夜すがら絶間〔日が月〕なく渡るものにあらず又空もせに渡るものにあらず。誇張は詩歌の常とはいふとも霜の漏りて降るべき空間も時間もなき趣によむべけむや。案ずるにこは雁の聲をきゝし端に木(2161)草などに霜のきらめくを認めし趣にて其霜をただ今ふりしものと假定して
  今眞上ヲ連ッテ通ッタ雁ノ翼ノドコヲ漏レテ此霜ハフッタノデアラウカ
といへるなり○オホヒ羽はやがて翼の事なり。されば翅乃のノは例のニシテ又の意なるノなり
 
  秋相聞
   ○
2239 あき山のしたびがしたになく鳥の音△聞《コヱダニキカバ》なにかなげかむ
金山舌日下鳴鳥音聞何嘆
 シタビは紅葉のかがやく事なり(卷二【三一〇頁】參照)。略解にアキ山ノを枕辭とせるはいみじき誤なり。上三句は序なり。ナク鳥ノヤウナ聲ヲナリトモといへるなり○元暦校本にも類聚古集にも音の下に谷の字あり
 
2240 たぞかれと我をな問ひそなが月の露にぬれつつ君まつ吾を
(2162)誰彼我莫問九月露沾乍君待吾
 タゾカレは彼ハ誰ゾとなり。タゾとソを濁りてよむべし。君といへるは我ヲナトヒソといへる相手にあらず。第三者なり。結句のワレヲは我ナルニとなり
 
2241 秋夜《アキノヨニ》きりたちわたり夙夙〔二字左△〕《オホホシク》いめにぞ見つる妹がすがたを
秋夜霧發渡夙夙夢見妹形矣
 初句を從來アキノヨノとよめり。宜しくアキノヨニとよむべし。初二は序なり○夙夙を略解古義に凡々の誤としてオホホシクとよめり
 
2242 秋の野の尾花がうれの生〔左△〕靡《ウチナビキ》心は妹によりにけるかも
秋野尾花末生靡心妹依鴨
 略解に生を打の誤として第三句をウチナビキとよめり。之に從ふべし。但『上はヨルといはん序のみ』といへるは非なり。序は初二のみ。卷四(六三二頁)にもウチナビキココロハ君ニヨリニシモノヲとあり
 
2243 秋山《アキヤマニ》、霜ふりおほひ木葉ちり歳妹行《トシハユクトモ》我忘八《ワレワスレメヤ》
(2163)秋山霜零覆木葉落歳雖行我忘八
    右柿本朝臣人麿之歌集出
 初句を從來アキヤマニとよめり。アキヤマヲとよむべきに似たれど下にササノ葉爾〔右△〕ハダレフリオホヒまたヨナバリノ野木爾〔右△〕フリオホフシラ雪ノとあればなほアキヤマニとよむべし〇四五は舊訓にトシハユクトモワレワスレメヤとよめるに從ふべし。略解にトシハユケドモワレワスルレヤとよみ改めたるはいみじき誤なり〇一首の意は契沖のいへる如く秋山の紅葉を女の盛にたとへてタトヒ年老ユトモ我ハ忘レムヤといへるなり
   寄水田
2244 すみのえの岸を田にはり蒔稻《マキシイネ》乃〔左△〕而及苅《ヒデテカルマデ》あはぬきみかも
住吉之岸乎田爾墾蒔稻乃而及苅不相公鴨
 宣長のいへる如く乃を秀の誤として三四をマキシイネヒデテカルマデとよむべし
 
(2164)2245 (たちのしり)玉纏田井《タママクタヰ》にいつまでか妹をあひみず家〔左△〕《ワガ》こひをらむ
※[金+刃]後玉纏田井爾及何時可妹乎不相見家戀將居
 初句は枕辭なり。珠玉を劍鞘に飾る事あれば玉纏の枕辭とせるなり。玉纏田井を舊訓にタママクタヰとよめり。此訓に從ひて略解に
  纏田居《マクタヰ》といふ地に玉マクといひ下したり
といひ、古義には
  稻種を蒔く田と云なるべし。稻種を玉といふことは一説あるによれり。其事はやく云り(○卷三なるアラタマノ年フルマデニの下に『タマノは田物か田實之かの意にて稻實をいふならむ』といへり)
といへり。又契沖は
  此玉纏は地の名ときこえたればタママキノタヰなるべきにや
といへり。案ずるに穗田にしげく露のおきたるを玉と看做して玉撤ク田居といへるにあらざるか○略解に
  是は班田使などにて其田居に月を經てよめるならん
(2165)といへるは非なり。假廬を結びて穗田を守る趣なり。さればこそ秋相聞には入れたるなれ○結句の家は我の誤ならむ
 
2246 秋の田の穗の上におけるしら露のけぬべく吾はおもほゆるかも
秋田之穗上爾置白露之可消吾者所念鴨
 上三句は序なり。卷八(一五九四頁)にも
  秋づけば尾花が上におく露のけぬべくも吾はおもほゆるかも
とあり
 
2247 秋の田の穗むきのよれる片よりに吾は物もふつれなきものを
秋田之穗向之所依片縁吾者物念都禮無物乎
 はやく卷二(一六三頁)に
  秋の田の穗むきのよれるかたよりに君によりななこちたかりとも
とあり。初二は序なり。君ハツレナキニ我ハ君ニ心ヲ傾ケテカク物ヲゾ思フといへるなり
(2166)2248 秋田※[口+リ]〔左△〕《アキタカルト》かりほをつくりいほりしてあるらむ君をみむよしもがも
秋田※[口+リ]借廬作五百人爲而有藍君※[口+リ]將見依毛欲將〔左△〕
 初二もとのまゝならばアキノタヲカリホヲツクリとよむべけれど※[口+リ]は刈を誤れるならむ。秋ノ田ヲ刈ルをカリホにいひかけたるにあらじ。さて初句を略解にアキタカリとよみ古義にはアキタカルとよめり。トを添へてアキタカルトとよむべき事上(二一二九頁)なる秋田苅カリホヲツクリワガヲレバの處にいへる如し。こは穗田を守れる人の妻のよめる趣なり○將は得を誤れるなり
 
2249 たづがねのきこゆる田井にいほりして吾客有〔二字左△〕跡《ワレイヘコフト》妹につげこそ
鶴鳴之所聞田井爾五百入爲而吾客有跡於妹告社
 上にいへる如く番小屋ずまひをタビとはいふべからざる上、イホリシテワレタビナリトとはいふべからず。されば客有を家戀の誤としてワレイヘコフトとよむべし。さてツゲコソといへるは道ゆく人などにあつらへたるなり
 
2250 春霞たなびく田居に廬付〔二字左△〕而《タネマキテ》秋田かるまで思はしむらく
(2167)春霞多奈引田居爾廬付而秋田刈左右令思良久
 第三句を舊訓にイホリシテとよめり。略解古義には之に從ひて付を爲の誤とせり。案ずるにもしイホリシテとよむべくばイホリシソメテといはざるべからず。否春季に假廬ずまひをする事はあるべからず。されば廬付而を種蒔而の誤としてタネマキテとよむべし○オモハシムラクは物思ヲセシムル事ヨとなり。女を思始むるより事成るまで物思の絶えぬを農夫の劬勞の間斷なきに譬へたるなり
 
2251 (たちばなを)守部乃五十戸之《モリベノサトノ》門田わせ苅る時すぎぬこじとすらしも
橘乎守部乃五十戸之門田早稻苅時過去不來跡爲等霜
 初句はタチバナヲ守ルとかゝれる枕辭なり。守部は地名とおぼゆれど所在知られず〇五十戸は古義にいへる如く里の借字なり。戸令に凡戸以2五十戸1爲《セヨ》v里とあり。はやく卷五(九六七頁)にサトヲサを五十戸長と書けり〇四五は刈ル時スギヌルニ刈リニ來ザルハ來ヌツモリニヤとなり。こは譬喩歌にて女の生長せば娶らむと契りし人の約を果さぬをおぼつかなみたるなり
 
(2168)   寄露
2252 秋はぎのさきちる野べのゆふ露にぬれつつ來ませ夜はふけぬとも
秋芽子之開散野邊之暮露爾沾乍來益夜者深去鞆
 
2253 色付相秋のつゆじもなふりそね妹がたもとをまかぬこよひは
色付相秋之露霜莫零妹之手本乎不纏今夜者
 初句を從來イロヅカフとよみて略解には
  色ヅカフは色ヅクを延言也。……露霜をいはん爲のみ
といひ、古義には『イロヅカフはイロヅクをのべたる詞也』といひて草木ノ葉ノ色付ワタル秋ノ露霜ハ云々と釋したれど木草ノ色ヅク露といふことを色ヅカフ秋ノツユジモとはいふべからず。おそらくは誤字あらむ
 
2254 秋はぎの上におきたるしら露のけかもしなまし戀爾〔左△〕《コヒツツ》あらずば
秋芽子之上爾置有白露之消鴨死猿戀爾不有者
 爾の字、元暦校本の傍書に乍とあり。此歌ははやく卷八(一六二〇頁)に出でて弓削皇(2169)子御歌とあり。上三句は序、四五は戀ヒツツアラムヨリハ消エヤセマシとなり。下に四五今とおなじき歌二首あり
 
2255 わがやどの秋はぎの上におく露のいちじろくしも吾《ワレ》こひめやも
吾屋前秋芽子上置露市白霜吾戀目八面
 上三句は序なり。略解に『顯れては戀じといふ也』といへる如し
 
2256 秋の穗をしぬにおしなべおく露のけかもしなましこひつつあらずば
秋穗乎之努爾押靡置露消鴨死益戀乍不有者
 秋ノ穗は稻、シヌニはシナフバカリニなり。上三句は序なり
 
2257 露霜にころもでぬれて今だにも妹がりゆかな夜はふけぬとも
露霜爾衣袖所沾而今谷毛妹許行名夜者雖深
 今ダニモは今カラナリトモなり(二〇三七頁參照)
 
2258 秋はぎの枝もとををにおく露のけかもしなましこひつつあらずば
秋芽子之枝毛十尾爾置露之消※[毛三つ]死猿戀乍不有者
 
(2170)2259 秋はぎのうへに白露おくごとに見つつぞしぬぶ君が光儀を
秋芽子之上爾白露毎置見管曾思努布君之光儀乎
 略解にハギノ上ニ露オキテタワメルヲ見テモ云々と釋せるは非なり。露ノオキテカガヤクヲ見ル毎ニといふ意なり。第二句の調よろしからず○集中に光儀と書けるを略解古義にほ皆スガタとよめり。げに卷二なる
  なにはがたしほひなありそねしづみにしいもが光儀をみまくくるしも
 又此卷なる
  いささめにいまもみがほしあきはぎのしなひてあらむいもが光儀を
は必スガタとよむべけれどこゝなるは露を見て容貌を憶ふにはあらで古事記にアカダマハ緒サヘヒカレドシラタマノキミガ余曾比シタフトクアリケリとある如き裝飾の白玉を憶ふなればスガタとよまでヨソヒとよむべきに似たリ。或は云はむ。同じ書の中にて同じ字を或はヨソヒとよみ或はスガタとよまむはいかがと。答へて云はむ。げに然り。されど集中には同じ字を二樣にも三樣にもよませたる例あり。たとへば※[立心偏+可]怜はウマシとよむべきと、アハレとよむべきと、オモシロシとよむ(2171)べきとあり。又委曲はヨクとよませたるとツバラカニとよませたるとありと
 
   寄風
2260 わぎもこはきぬにあらなむ秋風のさむきこのごろしたに著ましを
吾妹子者衣丹有南秋風之寒此來下著益乎
 二三の間にモシ衣ナリセバといふことを挿みて聞くべし
 
2261 はつせ風かくふく三更者〔左△〕《ヨヒヲ》いつまでかころもかたしきわがひとりねむ
泊瀬風如是吹三更者及何時衣片敷吾一將宿
 三更はヨヒとよむべし(從來ヨハとよめり)。さて三更者とあるを舊訓にヨハハとよみたれどハの言おちつかざるによりて略解には『者は乎の誤ならん』といひ、文字辨證下卷(四三頁)には煮の略字としてニとよめり。略解の説に從ふべし○衣片敷は集中になほ
  妹が袖別れし日よりしろたへの衣かたしきこひつつぞぬる(卷十一)
  わかれにし、いもがきせてし、なれごろも、そでかたしきて、ひとりかもねむ(卷十五(2172)長歌)
とあり。身を衣に包みて寐るにて俗にカシハ餅といふさまにするなり。但卷八(一五五七頁)に
  あまとぶや、領巾かたしき、眞玉手の、玉手さしかへ、あまたよも、いもねてしがも
とあれば獨宿ならでもいひしなり
 
   寄雨
2262 秋はぎをちらす長雨《ナガメ》のふるころはひとりおきゐてこふる夜ぞおほき
秋芽子乎令落長雨之零此者一起居而戀夜曾大寸
 
2263 ながづきのしぐれの雨の山霧のいぶせき吾《ワガ》告〔□で圍む〕|胸《ムネ》たれをみばやまむ
     一云かみなづきしぐれの雨ふり
九月四具禮乃雨之山霧煙寸吾告胸誰乎見者將息
     一云十月四具禮乃雨降
 上三句は序なり。一云の方二三のつづき穩なり。タレヲ見バヤマムは君ヲ見ズバ止(2173)マジといはむにひとし。告は衍字なり。煙寸《イブセキ》の寸の傍に吉とかきたりしがまぎれて吾の下に入り更に告とあやまられたるならむ。元暦校本には吉とあり
 
   寄蟋
2264 こほろぎのまちよろこべる秋の夜をぬるしるしなし枕與吾〔左△〕者《マクラトヌレバ》
蟋蟀之待歡秋夜乎寐驗無枕與吾者
 蟋の下に蟀の字のおちたるかと前註にいへり。但下なる草フカミといへる歌にも蟋とのみ書けり○マチヨロコベルは待附ケテイサミ鳴クとなり○結句を從來マクラトワレハとよみ、そを釋してたとへば略解に
  吾は妹が手枕まかずして枕とのみぬればぬるかひもなきと也
といへれど枕トノミヌレバといふことを枕ト吾ハといひて通ぜむや思ふべし。案ずるにもと枕與寐者などありしが卷四(七四四頁)なる枕與吾者イザフタリネムに引かれて今の如くなれるならむ。さればマクラトヌレバとよみて妹(又は夫子)ト寐ズシテ枕トノミ寐レバの意とすべし。ヌルシルシナシは寐ル詮ナシとなり
 
(2174)   寄蝦
2265 (朝霞)鹿火〔左△〕屋《カヒヤ》が下になくかはづ聲だにきかばわれこひめやも
朝霞鹿火屋之下爾鳴蝦聲谷聞者吾將戀八方
 上三句は序、其中にて又初句は枕辭なり、四五の意はほぼ上(二一六一頁)にコヱダニキカバ何カナゲカムとあるに同じ○卷十六にも
  朝霞香火屋が下乃《シタニ》なくかはづしぬびつつありとつげむ兒もがも
といふ歌あり。こは今の歌を學べるなりとおぼゆ。鹿火屋については山田などにて鹿を追ふ爲に火を焚くなりといふ説と蚊遣火を焚くなりといふ説とあり。まづ鹿火屋ガ下ニとある下は床下の事とおもはるゝをたとひ鹿を追ふ爲に特に屋を構へて火を焚くことありとも床を張りて其上にては焚くべからず。又蚊遣火を焚く爲には特に屋を構へむことあるべからねば蚊火屋とはいふべからず。次にカハヅは今のカジカにて清流にのみ棲むものなれば火を焚きて鹿を追ふ處又は蚊を遣らふ處にては鳴くべからず。別に鹿火屋は飼屋にて江河の岸に小屋を設けて魚を飼附くるなりといふ説あり。さる事果してありやおぼつかなし。又さる設をするに(2175)便よき處はおそらくはカハヅの好みて棲む處にはあらじ。又たとひさる設をして其小屋に名をつくとも飼屋とは名づくべからず。されば此説も信じがたし。案ずるにカハヅは前述の如く清流にのみ棲むもの、而して鹿火屋ガ下ニナクカハヅとあれば鹿火屋は河上に造り設けたるものならざるべからず。されば鹿火屋又は香火屋とあるは鹿半屋(香半屋)などの誤にて河屋にあらざるか。
  厠もいにしへ河上に造り設けしかばカハヤと名づけしなりといふ説あり
 山家にてほ今も家屋の一部を河上に造り設くる事あり。否東京の郊外にも河上に造りかけたる家屋あり
 
   寄鴈
2266 いでていなばあまとぶ鴈のなきぬべみけふけふといふに年ぞへにける
出去者大〔左△〕飛鴈之可泣美且今日且今日云二年曾經去家類
 うき事ありて立去らむと思ふに立去らば妻の啼きなむがいとほしさにたゆたひ(2176)たる趣にて契沖のいへる如く古事記なる八千矛ノ神の御歌に似たる所あり。第二句は天トブ雁ノヤウニといふ意、第四句のイフニは思フニといふ意なり○大は天の誤なり
 
   寄鹿
2267 さをしかの朝ふす小野の草若みかくろひかねて人にしらゆな
左小牡鹿之朝伏小野之草若美隱不得而於人所知名
 上三句は序なり。こは女の男にいひかけたるにて往來ニ心シテ人ニ見附ケラルナ
といへるなり。略解に『忍びかねてあらはれんさまになせそといふ也』といひ古義に『そこと吾との中を世人に知られじとしのぶとすれどしのびえずしてつひに人に知られたまふなと禁めたるなるべし』といへれど、もしさる意ならばカクサヒカネテとこそいふべけれ○草ワカミとあれば此歌は春相聞に屬すべきなり
 
2268 さをしかの小野の草伏いちじろくわが問はなくに人の知れらく
左小牡鹿之小野草伏灼然吾不問爾人乃知良久
(2177) 上の歌の答にて初二は序なり。三四はアラハニワガ訪來ヌニとなり。古義にトハナクニをコトドハナクニの意としてシノビテカリニモ人ニハイハヌ事ナルヲと釋せるは誤れり。シレラクは知レルコトヨとなり
 
   寄鶴
2269 このよらのあかときくだちなくたづのおもひはすぎずこひこそまされ
今夜乃曉降鳴鶴之念不過戀許増益也
 上三句は序なり。アカトキクダチは曉が降つにあらず。曉トクダチテとなり。第三句に辭を加へて妻ヲ戀ヒテ思止マズナク鶴ノヤウニと釋くべし。オモヒスギズはオモヒ止マズなり(卷九【一八〇〇頁】參照)○古義の釋は誤れり
 
   寄草
2270 道のへのをばなが下《モト・シタ》のおもひ草|今更爾△《イマサラニハタ》なにかおもはむ
道邊之乎花我下之思草今更爾何物可將念
(2178) 上三句は序なり。下はシタともモトともよみつべし○第四句イマサラニとよまむに二言足らねば略解古義に今更々爾の脱字としてイマサラサラニとよめり。卷四(六三二頁)に
  今更に何をか念はむうちなびきこころは君によりにしものを
 卷十二に
  今更になにしか念はむ梓弓ひきみゆるべみよりにしものを
などあれど今サラサラニといへる例を知らず。宜しく爾の下に當の字などを補ひてイマサラニハタとよむべし○思草は學名「エギネチア、インヂカ」俗にキセルサウ又はナンバンギセルといふものなり。圖はいづれの植物圖譜にも見えて今はめづらしからず
 
   寄花
2271 草ふかみこほろぎ多《サハニ・ココダ》なくやどのはぎ見にきみはいつか來まさむ
草深三蟋多鳴屋前芽子見公者何時來益牟
 多を古義にスダキとよみたれどココダとよむか又は略解の如くサハニとよむべ(2179)し
2272 秋づけば水草《ミクサ》の花のあえぬがにおもへど不知《シラジ》ただにあはざれば
秋就者水草花乃阿要奴蟹思跡不知直爾不相在者
 秋ヅケバは卷八(一五九四頁)に
  秋づけば尾花が上におく露のけぬべくも吾はおもほゆるかも
 又上(二一二三頁)に
  庭草に村雨ふりてこほろぎのなくこゑきけば秋づきにけり
とあり。秋サレバといふに近かるべし。水草《ミクサ》は上(一九六三頁)にも
  春されば水草の上におく霜のけつつも吾はこひわたるかも
とあり。略解に『水は借字にて眞なり』といへる如くにて薄の事なり。上二句は序なり○アエヌガニはコボルル程となり(卷八【一五四八頁】參照)○不知は舊訓に從ひてシラジとよむべし。略解にはシラズとよめり。我ハ思ヘド君ハ知ラジとなり
 
2273 何すとか君をいとはむ秋はぎのそのはつ花のうれしきものを
(2180)何爲等加君乎將厭秋芽子乃其始花之歡寸物乎
 萩ノ始花《ハツハナ》ノ如クとなり。ソノは言の足らざるによりて補へるなり。例は卷七(一二三六頁)なるミモロノ、ソノ山ナミニ、卷九(一八〇六頁)なるウナガミノ、其津ヲサシテなど
 
2274 こいまろびこひはしぬともいちじろく色には出でし朝容貌之花〔左△〕《アサガホノゴト》
展轉戀者死友灼然色庭不出朝容貌之花
 コイマロビはフシマロビなり。略解に『コイマロビはコヤシマロビにて云々』といへるは非なり。コヤシは他人の上にいふ語なり。さて略解に
  朝ガホノ花は色ニイヅといはんたとへにおけるにて云々
といひ古義に
  朝貌ノ花のたが目にもそれといちじるき如く色に出てはこひじとなり
といへれどさる意ならばアサガホノ花といひ棄つべからず。無論マダフミモミズ天ノハシダテの如き倒置の枕辭とは見るべからず(倒置の枕辭の事は此卷の末に附載すべし)。按ずるに花を如の誤としてアサガホノゴトとよむべきなり
 
(2181)2275 言にいでていはばゆゆしみ(朝貌の)穗にはさきでぬ戀爲鴨《コヒシスルカモ》
言出而云忌染朝貌乃穗庭開不出戀爲鴨
 初二は口外セバ憚アルベキニヨリテとなり。アサガホノは穗ニサキイヅにかゝりてイデヌまではかゝらず。卷九(一七九四頁)なる
  いそのかみふるのわさ田の穗にはいでず心のうちにこふるこのごろ
と同格なり。さてホニハサキデヌはアラハレテハサカヌとなり○結句を略解にはコヒモスルカモとよめり。語例は上(一九五四頁)にも
  かほ鳥のまなくしばなく春の野の草根のしげき戀毛爲鴨
などあれどこゝはモをよみそへがたければ舊訓の如くコヒヲスルカモとよむべし
 
2276 かりがねのはつこゑききてさきでたるやどの秋はぎ見に來《コ》わがせこ
鴈鳴之始音聞而開出有屋前之秋芽子見來吾世古
 上には雁の聲きこゆれば萩は散るやうによめり
 
(2182)2277 (さをしかの)入野のすすき初尾花何時加《イヅレノトキカ》妹之將手〔二字左△〕枕《イモガテマカム》
左小牡鹿之入野乃爲酢寸初尾花何時加妹之將手枕
 初句はサヲ鹿ノ入ル入野《イリヌ》とかゝれる枕辭なり。上三句は序なり〇四五を舊訓にイツシカイモガタマクラニセム、略解にイツシカイモガタマクラヲセムとよみ古義には結句を衣手將枕の誤としてイツシカイモガソデマクラカムとよめり。さて序との關係については略解に
  上は序にていつか新手枕をせんといふ意也。初といふ詞にのみかゝりてよめり
といひ古義にも『本(ノ)句は序にて初と云にちなみて云々』といへり。さるあやなき事あらむや。妹之將手枕は元暦校本にも類聚古集にも妹之手將枕とあり。されば通本には手と將と顛倒せるなり。訓は契沖のイヅレノトキカイモガテマカムとよめるに從ふべし。さて序のかゝりは入野ノススキニ初尾花ガイヅとかゝれるなり
 
2278 こふる日のけながくしあればみそのふの辛藍《カラヰ》の花の色にいでにけり
戀日之氣長有者三苑圃能辛藍花之色出爾來
(2183) 第二句は久シケレバとなり。三四は序なり○カラヰは紅花《ベニバナ》なり(四七三頁及一四二九頁參照)
 
2279 吾郷〔左△〕爾《ワガヤドニ》今〔左△〕咲花乃《サカセムハナノ》をみなべしたへぬこころになほこひにけり
吾郷爾今咲花乃女郎花不堪情尚戀二家里
 初二は從來ワガサトニイマサクハナノとよめり。さて宣長は
  今サクは新に咲たるをいふ。ハネカヅラ今スルイモといふも同じ
といへれど、もとのまゝにては心得られず。郷を屋前などの誤とし今咲を令咲の誤としてワガヤドニサカセムハナノとよむべきか。さて一首の意は我宿ノ物トスベク定マレル女郎花ナレド堪ヘヌ心ニハナホ戀ヒラルと釋すべきか
 
2280 はぎが花さけるを見れば君にあはずまことも久になりにけるかも
芽子花咲有乎見者君不相眞毛久二成來鴨
 
2281 朝露にさきすさびたる鴨頭草《ツユクサ》の日たくるなべに可消《ケヌベク》おもほゆ
朝露爾咲酢左乾垂鴨頭草之日斜共可消所念
(2184) 略解に『スサビは進也』といひ、古義に『咲荒而有にて咲ミダレタルと云意なり』といひ、清水濱臣の月齋雜稿(圖書刊行會本百家隨筆第二の三五三頁)には
  このスサビタルは朝露に催されて咲わたるをいふにておのれが心より咲みだれたるをいふにあらず。されば心を入たるにあらぬなればスサビといへり
といへり。案ずるにスサビタルは興ニ乘ジタルとなり。千蔭が進なりといへる、まづよろし○つき草のしぼむをケヌといへる異樣なるいひざまなれば可消の消は誤字かとおもふに下にも
  あしたさきゆふべは消流鴨頭草の可消戀も吾はするかも
とあればなほ誤字にあらじ。抑鴨頭草は萬葉集以前にはツキクサとのみいひ、ツユクサともいふは平安朝以來の事なりとは一般に信ぜらるゝ所なれども右の歌どもに其花のしぼむことを消といへるを思へばはやく寧樂朝時代にもツユクサともいひしにて、今は契沖のいへる如くその名の縁にてしぼむ事を消といへるならむ
 
2282 長き夜を君にこひつついけらずばさきてちりにし花ならましを
(2185)長夜乎於君戀乍不生者開而落西花有益乎
 イケラズバは生キテアラムヨリハとなり。サキテは輕く添へるなり。卷二(一六九頁)なる
  吾妹兒にこひつつあらずば秋はぎのさきてちりぬる花ならましを
と相似たり
 
2283 (わぎもこに)あふ坂山のはだすすき穗にはさきでずこひわたるかも
吾味兒爾相坂山之皮爲酢寸穗庭開不出戀渡鴨
 上三句は序、其中にて初句は枕辭なり。上(二一八一頁)に
  言にいでていはばゆゆしみ朝がほの穗にはさきでぬ戀をするかも
とあり○古今集|墨消《スミケシ》(ノ)歌に
  わぎもこにあふ坂山のしのすすき穗にはいでずもこひわたるかな
とあるは此歌のかはれるなり
 
2284 いささめに今も見がほし(秋はぎの)しなひ二〔左△〕《テ》あらむ妹がすがたを
(2186)率爾今毛欲見秋芽之四※[手偏+差]二將有妹之光儀乎
 イササメニは不圖《フト》なり(卷七【一四二二頁】參照)。二は宣長の説に弖の誤なりといへり。さてシナヒテアラムはタヲヤギタラムとなり。※[手偏+差]はヨルとよむべき字なれば(卷四にタマノヲヲアワヲニ※[手偏+差]而《ヨリテ》ムスベレバ、此卷の上にカタ※[手偏+差]《ヨリ》ニイトヲゾワガ※[手偏+差]《ヨル》と書けり)ナヒにも充つべし。陸放翁の詩に柳細(クシテ)※[手偏+差]難v似といへる、この※[手偏+差]などもヨレドモともナヘドモとも訓ずべし
 
2285 秋はぎの花野のすすき穗にはいでずわがこひわたるこもりづまはも
秋芽子之花野乃爲酢寸穗庭不出吾戀度隱嬬波母
 初二は序なり。穗ニハ出デズシテ我戀渡ル妻ハ如何ニクラスラムとゆかしみたる趣なり。ハモの事は卷三(三九〇頁、五五六頁など)にくはしくいへり。コモリヅマはカクシ妻なり
 
2286 わがやどにさきし秋はぎちりすぎて實になる及丹〔左△〕《マデモ》君にあはぬかも
吾屋戸爾開秋芽子散過而實成及丹於君不相鴨
(2187) 及丹をマデニとよみたれど及母の誤ならむ
 
2287 わがやどのはぎさきにけりちらぬ間にはや來て可見《ミベシ》ならの里人
吾屋前之芽子開二家里不落間爾早來可見平城里人
 可見を略解古義にミマセとよみたれど舊訓の如くミベシとよむべし
 
2288 いはばしのままにおひたるかほ花の花にしありけりありつつみれば
石走間間生有貌花乃花西有來在筒見者
 上三句は序にて四五の意は古義にいへる如くヨク見テ居ルトアダナル性分ナリケリとなり。女の歌なり。ハナニの意は近くは此卷(二一〇三頁)にいへり。略解の釋は誤れり○イハバシは河中の飛石、ママは間々、カホバナは晝顏なり(卷八【一六四二頁】參照)
 
2289 藤原のふりにしさとの秋はぎはさきてちりにき君まちかねて
藤原古郷之秋芽子者開而落去寸君待不得而
 元明天皇の御時都を藤原より奈良に遷し給ひしかばフヂハラノフリニシサトといへるなり。大原ノフリニシサト(一五三頁)香具山ノフリニシサト(四三七頁)などい(2188)へる例あり
 
2290 秋はぎをちりすぎぬべみたをりもち見れどもさぶし君|西〔左△〕《シ》あらねば
秋芽子乎落過沼蛇手折持雖見不怜君西不有者
 西は四の誤ならむ
 
2291 あしたさきゆふべは消流《キユル》鴨頭草《ツユクサ》のけぬべき戀もわれはするかも
朝開夕者消流鴨頭草可消戀毛吾者爲鴨
 上三句は序なり。消流はキユルとよむべし。鴨頭草はツユクサとよむべき事上(二一八四頁)にいへり
 
2292 あきつ野の尾花かりそへあきはぎの花をふかさね君がかりほに
※[虫+廷]野之尾花苅副秋芽子之花乎葺核君之借廬
 第二句はヲバナニカリソヘのニを略したりと見るべきか○古義に『云々シテ旅ノ心ヲナグサメタマヘヨとなり』といへる如し。又略解に
  此歌は旅のさまにて寄たる意なし。紛れてこゝに入たるもの也
(2189)といへる如し。卷一(一七頁)にも
  あきの野の美草かりふきやどれりしうぢのみやこのかりほしおもほゆ
とあり
 
2293 さきぬとも知らずしあらばもだもあらむこの秋はぎをみせつつもとな
咲友不知師有者黙然將有此秋芽子乎令視管本名
 モダモアラムヲとヲを添へて心得べし。モダモアラムヲはジットシテ居ラレヨウニとなり。略解に『これは相見て中々に物思ひのます心をそへたり』といへる如し。古義の釋は誤れり
 
   寄山
2294 秋されば鴈とびこゆるたつ田山たちてもゐても君をしぞもふ
秋去者鴈飛越龍田山立而毛居而毛君乎思曾念
 上三句は序なり
 
(2190)   寄黄葉
2295 わがやどの田葛葉《クズバ》日にけに色づきぬ不△座《キマサヌ》君は何ごころぞも
我屋戸之田葛葉日殊色付奴不座君者何情曾毛
 元暦校本に葉の字なけれどなほ葉を存じてクズバとよむべし。第四句は今マデ來マサヌ君ハと辭を補ひて心得べし○不の下に來の字のおちたるなり
 
2296 (足引の)山さなかづらもみづまで妹にあはずやわがこひをらむ
足引乃山佐奈葛黄變及妹爾不相哉吾戀將居
 サナカヅラは即|五味《サネカヅラ》なり。四五は妹ニ逢ハデ我戀ヒ居ラムカとなり
 
2297 (もみぢ葉の)すぎがてぬ兒を人妻と見つつやあらむこひしきものを
黄葉之過不勝兒乎人妻跡見乍哉將有戀敷物乎
 略解に『スギガテヌは思ひ過し難き也』といひ古義に『過しがてにする意にてわが思を得やりすぐさず心の切なるをいへり』といへるは非なり。ワガ棄テテハ得行過ギヌ女ヲ人妻トヨソニ見ツツアラムカといへるなり
 
(2191)   寄月
2298 君にこひしなえうらぶれわがをれば秋風ふきて月かたぶきぬ
於君戀之奈要浦觸吾居者秋風吹而月斜烏
 シナエウラブレは弱リ衰ヘなり。烏は焉の俗字なり
 
2299 秋の夜の月かも君は(雲がくり)しましも見ねばここだこひしき
秋夜之月疑意君者雲隱須臾不見者幾許戀敷
 第三句は月の縁語をシマシ見ヌの枕辭につかへるなり○疑意はカモに充てたるなり。下にも例あり
 
2300 なが月のありあけの月夜ありつつも君が來まさばわれこひめやも
九月之在明能月夜有乍毛君之來座者吾將戀八方
 初二は序、アリツツモは引續イテなり
 
   寄夜
2301 よしゑやしこひじと爲〔左△〕跡《モヘド》あき風のさむくふく夜は君をしぞもふ
(2192)忍〔左△〕咲八師不戀登爲跡金風之寒吹夜者君乎之曾念
 ヨシヱヤシコヒジといふ文を承けたれば爲跡は念跡の誤なる事しるし○忍は誤字か
 
2302 惑者之あな情無跡《ココロナト》おもふらむ秋の長夜を寐師耳〔二字左△〕《ネテアカスベシヤ》
惑者之痛惜無跡將念秋之長夜乎寐師耳
 惑者は元暦校本には或者とあり。舊訓にワビビトノとよめり。契沖千蔭は此訓に從ひて卷九なる過2葦屋處女墓1時作歌の惑人ハネニモナキツツを例に引きたれどその惑人は或人の誤としてアルヒトとよむべき事彼歌の處(一八四五頁)にいへる如し。宣長は卷十八にマドハセルを左度波世流といへるを證としてこゝの惑者をもサトビトとよみ、雅澄は此説に從ひて惑者之をサトビトシとよめり。案ずるに有心者之の誤としてミヤビヲガとよむべきか○情無跡は舊訓に從ひてココロナトとよむべし(古義にはココロナシトとよめり)。語尾のシを略せる例は集中にもアナミニク、アナタフトなどあり○オモフラムは上なるサキヌトモシラズシアラバモダモアラムに准じてオモフラムヲとヲを添へて心得べし○寐師耳を契沖は一本に(2193)寐臥可とあるに據りてイネフスベシヤとよみ千蔭は不寐師在の誤としてイネズシアレバとよみ雅澄は寒師有の誤としてサムクシアレバとよめり。案ずるに契沖の引ける別校本及類聚古集に寐臥可とあるに基づきて臥を明の誤としてネテアカスベシヤとよむべし。されば一首は
  みやびをがあなこころなとおもふらむ秋の長夜をねてあかすべしや
となりて古今集秋上なる躬恒の
  かくばかりをしとおもふ夜をいたづらにねてあかすらむ人さへぞうき
といへるに似たる歌となるなり
 
2303 秋の夜を長しといへどつもりにし戀をつくせばみじかかりけり
秋夜乎長跡雖言積西戀盡者短有家里
 戀ヲツクスは上に年ノ戀コヨヒツクシテ(二〇五二頁)また年ノヲ長クオモヒコシ戀ヲツクサム(二〇七七頁)とあり
 
   寄衣
(2194)2304 秋つ葉ににほへる衣吾はきじ於君奉者〔左△〕《キミニマツラナ》夜毛著金《ヨルモキルガネ》
秋都葉爾爾寶敝流衣吾者不服於君奉者夜毛著金
 略解に
  卷三秋津羽ノ袖フル妹ともよみて蜻蛉の羽也。其蜻蛉の羽のうるはしきをニホフといへり
といへるは非なり。契沖のいへる如く秋相聞の部に入れたればこゝに秋ツ葉といへるは紅葉なり。而してニホヘルは染レルにてやがて紅葉をすれる衣なり。契沖雅澄が紅色の衣とせるは非なり〇四五を舊訓略解にキミニマダサバヨルモキルガネとよみ古義にキミニマツラバヨルモキムガネとよめり。集中に伊比都具ガネト、登母之夫流ガネ、安倍母奴久ガネ、可多里都具ガネなどありてイヒツガムガネ、トモシビムガネ、アヘヌカムガネなどいへる例なければここもキル〔右△〕ガネとよむべし。又第四句は者を名などの誤としてキミニマツラナとよむべし。一首の意は
  紅葉ヲ摺レルコノ美シキ衣ヲ我著ムハ惜シケレバ我ハ著ズシテ君ニ奉ラム、セメテ夜ナリトモ著タマフベク
(2195)といへるなリ。ヨルモは夜ダニの意なり。夜モ亦の意にあらず。諸註このモを解煩へり
 
   問答
2305 旅にすら襟《ヒモ》とくものを事しげみまろねわがする長きこの夜を
旅尚襟解物乎事繁三丸宿吾爲長此夜
 代匠記に
  襟はコロモノクビにて衿の字と同じ。字書を見るにヒモとよむべき義なし。不審なり。若字を書たがへたるにや
といひ略解に
  ヒモトクは專ら帶を解事をいへるを襟の字を用ひたるは襟《クビ》にも紐あればなり
といひ古義に
  襟(ノ)字ヒモと訓外なし。紐の義あることをしらず。襟にも紐あれば用たるか
といへるは非なリ。襟はクビともヒモともよむべき字なリ。訓義辨證下卷(四〇頁)に
  按に襟は※[糸+今]の俗字なり。説文に※[糸+今](ハ)衣系也と見え廣韻に※[糸+今](ハ)※[糸+今]帶、或作v襟とある是也。(2196)かくて此※[糸+今](ノ)字を或はまた衿ともかけり。……これ襟衿は※[糸+今]の俗字にてヒモと訓べきことは其字注にて明らかなり。但し※[糸+今](ノ)字偏旁を變じて衿に作り後また諧聲して襟とはかけるなり
といへり。クビの衿襟とヒモの衿襟と字の成りし由來は異なれど衿襟共にクビ(エリ)ともヒモ(オビ)とも訓むべし(卷九【一八五五頁】參照)○歌の意は
  旅ニテスラ帶ヲ解キテ女ト寢ル事ハアルヲ家ニアリナガラ此頃ハ障多クシテ妹ノ許ニ得行カズシテコノ長キ夜ヲ丸寐スル事ヨ
といへるにて古義にいへる如し。略解に『コトシゲミは事は言にてこちたくいひさわがるゝをいふ』といへるは非なり
 
2306 しぐれふるあかときづくよ紐とかずこふらむ君とをらましものを
四具禮零曉月夜紐不解戀君跡居益物
 初二はコノヲリヲリシグルル曉月夜ニと譯すべく三四は丸寐ヲシテ我ヲ戀フラムソノ君ト共ニと譯すべし○以上問答なり
 
2307 もみぢ葉におくしら露の色葉二〔二字左△〕毛《イロニハモ》いでじと念者〔左△〕《モフニ》ことのしげけく
(2197)於黄葉置白露之色葉二毛不出跡念者事之繁家口
 初二はイロニイヅにかゝれる序なり。第三句を略解にはニホヒニモとよみ宣長は葉二を顛倒としてイロニハモとよめり。後者に從ひてモを助辭とすべし○念者を雅澄は念煮の誤とせり。コトノシゲケクは人ノ口ノウルサキ事ヨとなり
 
2308 雨ふればたぎつ山川|石《イハ》にふり君之摧〔左△〕《キミガクユベキ》こころは不持《モタジ》
雨零者瀧都山川於石觸君之摧情者不持
     右一首不v類2秋謌1。而以v和載v之也
 上三句は序なり。なほ後にいふべし○不持は舊訓の如くモタジとよむべし。略解にモタズと改めたるはわろし○第四句は從來字のまゝにキミガクダカムとよみて君ガ心ヲ摧カムの意とせり。案ずるに結句のココロは作者の心なれば第四句を君ガ心ヲ碎キ給フラムの意とせむに心といふ語足らざるにあらずや。辭を換へて云はむに君ガ心ヲ碎キ給ヒナムといふことをただに君ガクダカムといふべきならむや。又イハニフリはクダケムにかゝるべくクダカムにはかゝるべからず。轉じて(2198)語例を求むるに卷三(五三六頁)に
  妹も吾もきよみの河のかはぎしの妹がくゆべき心はもたじ
 又卷十一にワガセコガオモヒクユベキ心ハモタジ又卷十四にイハグエノキミガクユベキココロハモタジとあれば今も君之可悔とありしを誤れるなり。さて上三句はキミガを隔ててクユにかゝれるなり○略解に
  右二首は問答にあらず。此二首の間に別に答と贈と有けむを脱せしなるべし
といへり。げに前の歌の答とはおぼえず
 
   譬喩歌
2309 はふりらがいはふ社のもみぢ葉もしめ繩こえてちるといふものを
祝部等之齋經社之黄葉毛標繩越而落云物乎
 略解に『親の守る少女などにしひてあはんの心にたとへたり』といへる如し。さてここのシメ縄は忌垣に相當するものにて神社の境界線なり。略解古義にユフカケテイムコノモリモコエヌベクまたチハヤブル神ノイガキモコエヌベシを例に引けるを見れば千蔭雅澄はこの歌の趣を誤解せるなり。契沖のいへる如く彼歌どもの(2199)コエヌベク、コエヌベシは外より内へ越ゆるにて今の歌のコエテは内より外へ越ゆるなれば例に引くべきにあらず
   旋頭歌
2310 こほろぎのわがとこのへになきつつもとな、おきゐつつ君にこふるにいねがてなくに
蟋蟀之吾床隔爾鳴乍本名起居管君爾戀爾宿不勝爾
 コフルニはコフトテなり。略解に『イネガテナクはイネガテといふに同じ詞也』といへるはいみじき誤なり。イネガテナクニは寐敢ヘヌニなれば兩語の相異なるはチルとチラズとの相異なる如し
 
2311 (はだすすき)穗にはさきでぬ戀をわがする(玉蜻《タマカギル》)ただ一目のみ視し人ゆゑに
皮爲酢寸穗庭開不出戀乎吾爲玉蜻直一目耳視之人故爾
 穗ニハサキデヌは外ニハ顯レヌとなり。はやく上(二一八一頁)に見えたり。ワガスル(2200)は我爲ル事ヨとなり。人ユヱは人ナルニなり
 
  冬雜歌
   ○
2312 我袖にあられたばしるまきかくし不消有《ケタズテアラム》、妹が見むため
我袖爾雹手走卷隱不消有妹爲見
 弟四句は契沖に從ひてケタズテアラムとよむべし。略解にケタズモとよめるはわろし。マキカクシは卷包ミの意なり
 
2313 (足曳の)山鴨高〔左△〕《ヤマカモサムキ》まきむくのきしの子松にみゆき落來《フリクル》
足曳之山鴨高卷向之木志乃子松二三雪落來
 マキムクノキシは卷向川の岸ならむ○從來第二句を山カモタカキ、結句をミユキフリケリとよめり。高を寒の誤として第二句を山カモサムキとよむべく結句はミユキフリクルとよむべし。山といへるは無論卷向山なり
 
(2201)2314 卷向の檜原もいまだ雲ゐねば子松がうれゆ沫雪ながる
卷向之檜原毛未雲居者子松之末由沫雪流
 雲ヰネバは雲ヰヌニにて雲ガカカラヌニとなり
 
2315 (足引の)山ぢもしらずしらがしの枝もとををに雪のふれれば
     或云枝もたわたわ
足引山道不知白杜※[木+戈]〔二字左△〕枝母等乎乎爾雪落者
     或云枝毛多和多和
     右柿本朝臣人麿之歌集出也。但一首(ハ)或本云三方沙彌作
 シラズはシラレズなり(卷九【一七五三頁】參照)○杜※[木+戈]は宣長の説に※[状の犬が戈]※[状の犬が可]の誤なりと云へり。※[状の犬が戈]※[状の犬が可]《サウカ》は和名抄に加之《カシ》とありて舟を繋ぐ杙なり
 左註の但の下に元暦校本に件の字あり。多和多和は多和和爾の誤か
 
   詠雪
2316 奈良山の峯尚霧合《ミネナホキラフ》うべしこそまがき之《ガ》下《モト》の雪はけずけれ
(2202)奈良山乃峯尚霧合字倍志社前垣之下乃雪者不消家禮
 下を舊訓古義にはシタとよみ略解にはモトとよめり。モトとよむべし。ケズケレは消エザリケレとなり○第二句を舊訓略解にはミネナホキラフとよみ古義にはミネスラキラフとよめり。前者に從ふべし。ナホはヤハリなり。キラフはクモルなり。否こゝにてはクモレリなり
 
2317 ことふらば袖さへぬれてとほるべくふりなむ雪の空にけにつつ
殊落者袖副沾而可通將落雪之空爾消二管
 コトフラバはカク降ル程ナラバなり。コトは如なり。略解に『コトニフラバ也』といへるは非なり〇四五はフリナムソノ雪ノアタラ空ニキエツツとなり
 
2318 夜をさむみ朝戸をひらき出見《イデミ》れば庭もはだらにみゆきふりたり
     一云庭もほどろに雪ぞふりたる
夜乎寒三朝戸乎開出見者庭毛薄太良爾三雪落有 一云庭裳保杼呂爾雪曾零而有
(2203) 第三句を略解にイデテミレバとよめり。舊訓に從ひてイデミレバとよむべし。ハダラは斑にてホドロはハダラの轉ぜるなり
 
2319 ゆふさればころもで寒之〔左△〕《サムミ》高松の山の木毎に雪ぞふりたる
暮去者衣袖寒之高松之山木毎雪曾零有
 宣長は之を久の誤としてサムクとよめり。三の誤としてサムミとよむべし。そのサムミはサムキニの意なり。或は寒之はもとのまゝにて零有が零良之の誤ならむかとも思へど、さらば木毎とまではいふべからず。木ゴトニといへるは目に見ていへる調なればなり
 
2320 わが袖にふりつる雪|毛〔左△〕《ノ》ながれゆきて妹がたもとにいゆきふれぬか
吾袖爾零鶴雪毛流去而妹之手本伊行觸糠
 雪毛は雪之の誤とすべし。古義に『毛は第四句の下にめぐらして妹ガタモトニモと心得べし』といへるは妄とも妄なり○イユキフレヌカは行行《ユクユク》觸レヨカシとなり。語例は上(二一三七頁)に
(2204)  わがせこがしろたへごろも行觸ればにほひぬべくももみづ山かも
とあり。袖に雪のちりかゝるに興じたる趣なり
 
2321 沫雪はけふはなふりそしろたへの袖《コロモデ》纏〔□で圍む〕|將干《ホサム》人毛不有惡〔左△〕《ヒトモアラナクニ》
沫雪者今日者莫零白妙之袖纏將干人毛不有惡
 四五は舊訓にソデマキホサム人モアラナクニとよめり。さて略解に『我袖を纏寢、あるはほさんよしのなきと也』といへるを斥けて古義には纏を衍字としてコロモデホサムとよめり。卷九(一七一九頁)にも衣手ヌレヌホス兒ハナシニとあれば古義の説に從ふべし○結句の惡の字について契沖は
  惡は集中に此歌ならでは借て用たる所なきに不有惡をアラナクニとはよみがたし。君は例多ければ書たがへたる歟
といひ略解には
  結句はアラナクとも訓べけれど惡はヲのかなに用ひしならん
といひてヒトモアラヌヲとよめり。類聚古集にはまさしく人毛不有君とあり(元暦校本の傍書にも)
 
(2205)2322 はなはだもふらぬ雪ゆゑ言〔左△〕多毛《ココダクモ》、天三空者《アマノミソラハ》、隱〔左△〕相管《クモラヒニツツ》
甚多毛不零雪故言多毛天三空者隱相管
 雪ユヱは雪ナルニとなり。言多毛は舊訓にコチタクモとよめるを略解に許多毛の誤としてココダクモに改めたり。之に從ふべし○天三空は舊訓にアマノミソラとよめるを略解にアマツミソラと改めたるを古義に卷五好去好來歌に阿麻能見虚とかけるを證としてアマノミソラとよむべしといへり○結句は舊訓にクモリアヒツツとよめるを古義にクモラヒニツツとよめり○雪の降の乏しきをあかず思へる趣なり○隱は陰の誤なり
 
2323 わがせこを今か今かといでみれば沫雪ふれり庭もほどろに
吾背子乎且今且今出見者沫雪零有庭毛保杼呂爾
 ワガ夫子ヲ今來ムカ今來ムカト思ヒテ庭ニ出見レバとなり
 
2324 (足引の)山爾白者《ヤマノシロキハ》わがやどにきのふのゆふべふりし雪かも
足引山爾白者我屋戸爾昨日暮零之雪疑意
(2206) 第二句を從來ヤマニ〔右△〕シロキハとよみたれどヤマノシロキハとよみ改むべし。爾は乃の誤にてもあるべく又このまゝにてもノとよむべし(二〇七五頁參照)
 
   詠花
2325 たが苑の梅の花ぞも(久堅の)きよき月夜にここだちりくる
誰苑之梅花毛久堅之清月夜爾幾許散來
 花の下に曾をおとしたるか
 
2326 梅の花まづさく枝をたをりてはつととなづけてよそへてむかも
梅花先開枝手折而者裹常名付而與副手六香聞
 タヲリテハのハは助辭なり。梅花ノ早咲ノ枝ヲ折リテ裹ト稱シテ人ニ贈リテワガ其人ヲ思フ心ヲ托セムカといへるなり(卷八【一六五四頁】參照)。略解に妹ガ方ニテ我ツトト名付テ我ニヨソヘテダニ思ヒコシテンカと譯し、古義に
  梅花のまづ魁に開たる初花を折て彼が許に贈りて見せたくはあれども、もし折て贈りたらば人が見て彼方へ裹物をさへ贈りたりと名付て彼人と吾との中に(2207)ゆゑある如くよそへていひたてさわがむか、嗚呼見せたき梅の初花ぞとなり
といへり。此等の説の如くならばヨソヘナ〔右△〕ムカモといはざるべからず
 
2327 たが苑の梅にか有家〔左△〕武《アルラム》ここだくも開有可毛《サキニタルカモ》、見我欲左右手二《ミガホシキマデニ》
誰苑之梅爾可有家武幾許毛開有可毛見我欲左右手二
 有家武は宣長のいへる如く有良武の誤なり。開有可毛は略解に從ひてサキニタルカモとよむべし(古義にはサキニケ〔右△〕ルカモとよめり)○結句を略解古義にミガホルマデニとよみたれどミガホルといふ語は無し。宜しくミガホシキマデニと八言によむべし○略解に『右の答なるべし』といへるは非なり
 
2328 來て視べき人もあらなくに吾家《ワギヘ》なる梅のはつ花ちりぬともよし
來可視人毛不有爾吾家有梅早花落十方吉
 
2329 雪さむみ咲者不開《サキニハサカズ》うめの花よしこのごろはさてもあるがね
雪寒三咲者不開梅花縱比來者然而毛有金
 第二句を契沖はサキハヒラケズとよみ雅澄はサキニハサカズとよめり。後者に從(2208)ふべし。ヲヲリニヲヲリなどと同例なり。但古今集戀五なるアキ風ノフキトフキヌルムサシ野ハの例に據りてサキトハサカズともよむべし。意はズンズン咲カズとなり○アルガネはアルベクなり。四五の意は此頃ハサヤウニグヅグヅシテヰル方ガ却リテヨイとなり
 
   詠露
2330 妹がためほつえの梅をたをるとはしづえの露にぬれにけるかも
爲妹末枝梅乎手折登波下枝之露爾沾家類可聞
 タヲルトハはタヲルトテハなり。タヲルトテとあるべきが如くなれどトテといふ辭は當時いまだ行はれざりき
 
   詠黄葉
2331 八田《ヤタ》の野の淺茅いろづくあらち山峯の沫雪さむくふるらし
八田乃野之淺茅色付有乳山峯之沫雪寒零良之
 八田《ヤタ》野は大和國|添下《ソフノシモ》郡(今の生駒郡の内)に、有乳《アラチ》山は越前にあり。代匠記に
(2209)  寧樂(ノ)京の時官事などに付て秋の末に越前へ赴きける人を或は留れる妻、或は親族朋友等の八田野の淺茅の色付行を見て彼越路は聞ゆる寒國なれば今は荒乳山に雪の寒く降らむを凌てや越らむとおもひやりてよめる歌なるべし
といへる如し。上(二一三六頁)なる
  わが門の淺茅いろづくよなばりの浪柴の野の黄葉ちるらし
と同格類想なり
 
   詠月
2332 さよふけばいでこむ月を高山の峯白雲〔左△〕《ミネノシラユキ》將△隱鴨《ミガクラムカモ》
左夜深者出來牟月乎高山之峯白雲將隱鴨
 四五を略解古義にミネノシラクモカクスラムカモとよみ、さて略解に
  夜更ケバ出ベキ月ノ出ヌハ高キ山ノ雲ノ隱スカといふ也。此歌冬の歌ともなし。紛れて入れるか
といひ古義にも『冬の歌としもなきを混れてこゝに収しにや』といへり。案ずるにサヨフケバイデコム月ヲと未來にいひたればいまだ夜も更けず月も出でざるなり。(2210)而して月のいまだ出でざるにはミネノシラ雲カクスラムカモとはいふべからず。されば雲を雪の誤とし又將の下に水の字を補ひて將水隱鴨としてミガクラムカモとよむべし。月を鏡などに比して峯ノ白雪ガ磨クラムカといへるなり
 
  冬相聞
   ○
2333 ふる雪のそらにけぬべくこふれども相依無《アフヨシナクテ》、月ぞへにける
零雪虚空可消雖戀相依無月經在
 フル雪ノソラニは二句末滿の序なり。略解に『フル雪ノ如クといふをはぶけり』といへるは非なり。フル雪ノ空ニ消ユルガ如クといふ意の序なり。ケヌベクは死ヌベクなり〇四五を舊訓にアフヨシヲナミ、古義にアフヨシモナクとよめり。アフヨシナクテとよむべし
2334 沫雪は千重にふりしけこひしくのけながき我《ワレハ》みつつしぬばむ
(2211)沫雪千里零敷戀爲來食永我見偲
    右柿本朝臣人麿之歌集出
 千重ニフリシケは干重ニ降重ナレとなり。我を舊訓にはワレヤとよめり。略解に從ひてワレハとよむべし。三四は戀シクアル事ノ久シクテ慰ム事ナキ我ハとなり。ミツツシヌバムはソヲ見ツツ愛デムとなり。慰む事のなきによりて雪の久しく消えざらむことを願へるなり。シヌブの事は卷三(五六四頁)にいへり○卷二十に
  はつ〔二字傍点〕ゆきはちへにふりしけこひしくのおほかる〔四字傍点〕われはみつつしぬばむ
とあるは今のといさゝかかはれるのみ
 
   寄露
2335 咲出《サキイヅル》照〔左△〕梅《ウメ》のしづえにおく露のけぬべく妹にこふるこのごろ
咲出照梅之下枝置露之可消於妹戀頃者
 濱臣は照を烏の誤として下につづけてサキイヅルウメとよみ、雅澄は上(二一八一頁)に開出有ヤドノアキハギとあるに據りて照を有の誤として上に附けてサキデ(2212)タルウメとよめり。濱臣の説に從ふべし。上三句は序なり
 
   寄霜
2336 はなはだも夜ふけてなゆき道のへのゆざさが上に霜のふる夜を
甚毛夜深勿行道邊之湯小竹之於爾霜降夜烏
 夜フケテナユキは契沖が
  夜深ぬさきにゆけとにはあらず。明して行けと留る意なり
といへる如し。ナユキは歸ルナと譯すべし。ユザサは繁き笹なり。フル夜ヲはフル夜ゾとなり
 
   寄雪
2337 ささの葉にはだれふりおほひけなばかもわすれむと云者〔左△〕《イフニ》ましておもほゆ
小竹葉爾薄太禮零覆消名羽鴨將忘云者益所念
 初二は序なり。ハダレはハダレ雪なり(卷九【一七一二頁】參照)○云者はイヘバとよみて通(2213)ぜざるにあらねど、なほ云煮の誤としてイフニとよむべし。ケナバカモワスレムトイフニとは死ナバ忘レムカト女ノ云來レルニとなり。カモのモは助辭なり。マシテオモホユは一入ソノ女ガシノバルとなり
 
2338 霰〔左△〕落《ミユキフリ》、板敢〔左△〕《イタモ》かぜふきさむき夜や旗〔左△〕野爾〔左△〕《ヌノヘニ》こよひわがひとりねむ
霰落板敢風吹寒夜也旗野爾今夜吾獨寐牟
 初句を舊訓にミゾレフリとよめるを(和名抄にも霰を美曾禮とよめり)契沖以下アラレとよみ改めたり。案ずるに寄雪歌の中なればミゾレにてもアラレにてもかなはず。おそらくは霰は三雪の誤ならむ○板敢を舊訓にイタマとよめるを古義に板聞の誤としてイタモとよめり。イタモはイタクモなり○ヨヤは夜ヲヤなり○旗野爾は於野上の誤としてヌノヘニとよむべし○卷一(一一五頁)なる
  みよし野の山のあらしのさむけくにはたやこよひもわがひとりねむ
に似たるは偶然のみ
 
2339 よなばりの野木《ヌギ》にふりおほふ白雪のいちじろくしもこひむ吾かも
(2214)吉名張乃野木爾零覆白雪乃市白霜將戀吾鴨
 野木は野に立てる木なり。上三句は序なり。ワレカモは我カハなり。上(二一六九頁)にもイチジロクシモワレコヒメヤモとあり
 
2340 ひとめ見し人にこふらくあまぎらしふりくる雪の可消所念〔四字左△〕《ケナバケヌベク》
一眼見之人爾戀良久天霧之零來雪之可消所念
 コフラクに二義あり。卷三(四三二頁)なる
  みわたせば明石の浦にともす火のほにぞいでぬる妹にこふらく
などはコフル事ハといふ意、卷四(七七〇頁)なる
  戀草をちから車にななくるまつみてこふらくわがこころから
などは戀フル事ヨといふ意なり。今はいづれの意としても結句と相かなはず。可消所念《ケヌベクオモホユ》といはむとならば人ニコフトなど云はざるべからざればなり。結句はおそらくは消者可消などありしを次なる可消所念また次なるアマギラシフリクル雪ノ可消所念とまぎれて今の如くなれるならむ。さて第二句は人ニコフル事ヨの意とすべし。三四は無論序なり
 
(2215)2341 おもひいづる時はすべなみ豐國のゆふ山雪のけぬべくおもほゆ
思出時者爲便無豐國之木綿山雪之可消所念
 ユフ山は卷七(一三三九頁)にもヲトメラガハナリノ髪ヲユフノ山とありて豐後國なる由布嶽の事なり。三四は序なり○契沖が
  此は豐後に官事などにて下れる人の故郷の妻を思出てよめるなるべし
といへる如し
 
2342 いめのごと君をあひ見てあまぎらしふりくる雪のけぬべくおもほゆ
如夢君乎相見而天霧之落來雪之可消所念
 イメノゴトはホノカニなり
 
2343 わがせこが言愛美《コトウルハシミ》、出去者〔左△〕《イデユクニ》、裳引〔左△〕將知〔左△〕《モノスソヌレヌ》、雪なふりそね
吾背子之言愛美出去者裳引將知雪勿零
 言愛美を舊訓と古義とにはコトウツクシミとよみ略解にはコトウルハシミとよめり。メデタサニといふ意とおぼゆればウルハシミとよむべし〇三四を契沖始め(2216)てイデユカバモヒキシルケムとよみ、さて
  裳引は裳のすそを引なり。雪に跡のつきて人に知らるべきとなり
といひ、略解古義に之を敷衍して
  わがせこが思ふてふ言のうるはしければ逢んとて出行んに雪降なば裳を引たる跡のしるくて人に知らるべければ降ことなかれと也(○文は略解に據る)
といへり。案ずるに裳引將知は裳下將沾などの誤としてモノスソヌレムとよむべし。又略解古義には出行ンニ。今出テ行ムト思ヘドといひ雪降ナバ、雪フラバといひていまだ出行かずいまだ雪降らざる趣と見たれど雪は夙く降始め人ははやく出行きぬる趣なり。されば第三句を出行煮の誤としてイデユクニとよみ結句をシカ雪ナフリソの意とすべし
 
2344 梅の花それともみえずふる雪のいちじろけむな間使やらば
     一云ふる雪に間便やらばそれとしらむな
梅花其跡毛不所見零雪之市白兼名間使遣者 一云零雪爾間使遣者其(2217)將知名
 上三句は序なり。第二句は第三句に續けて心得べし〇四五の意は古義に
  思ふ人の許へ間使遣たらばたが目にもそれとしるくて人に知られむな、さりとて使を遣ずして止べき事にあらぬをいかがはせむと嘆きたるなり
といへる如し○間使は卷九(一七〇四頁)にも見えたり
 
2345 あまぎらひふりくる雪の△消友《キエメドモ》君にあはむとながらへわたる
天霧相零來雪之消友於君合常流經度
 初二は序なり。第三句は將消友の將のおちたるならむ。略解古義にケナメドモとよめれどキエメドモとよむべし。意は命ウセメドモとなり○略解に
  世ニナガラヘ居ルといふ也。降を流ルともいへば相兼ていへり
といひてナガラヘを雪の縁語としたるは非なり○卷八(一六七〇頁)なる
  沫雪のけぬべきものを今までにながらへぬるは妹にあはむとぞ
と相似たり
 
2346 (うかねらふ)跡見《トミ》山雪のいちじろくこひば妹が名、人しらむかも
(2218)窺良布跡見山雪之灼然戀者妹名人將知可聞
 初二は序、其中にて又ウカネラフは鳥見《トミ》にかゝれる枕辭なり。ウカネラフといふ語ははやく卷八(一六〇〇頁)に見えたり。跡見山の雪をトミ山雪といへるは上なる木綿山雪の類なり。第三句以下はアラハニ戀ヒナバ妹ガ名ヲ人ノ知ラムカとなり○窺の下にネに當る字をおとしたるか
 
2347 (あま小船)はつ瀬の山にふる雪のけながくこひし君が音ぞする
海小船泊瀬乃山爾落雪之消長戀師君之音曾爲流
 上三句はケにかゝれる序にてアマヲブネはハツにかゝれる枕辭なり。ケナガクは久シクなり○音ゾスルは音ヅレガアッタとなり。略解に『音は音信也』といへる如し。古義に『君が來るとて馬車などの音するをいへるならむ』といへるは非なり
 
2348 わざみの嶺|△《ワガ》ゆきすぎてふる雪の厭〔左△〕毛無跡《ツツミモナシト》まをせその兒に
和射美能嶺往過而零雪乃厭毛無跡白其兒爾
 契沖以來ワザミノ、ミネユキスギテとよみて初句を四言とせり。そのワザミノ嶺は(2219)卷二高市皇子尊殯宮之時歌(二六六頁)に見えたるワザミガ原と同處にて美濃國不破都の山ならむ○第四句を契沖はウケクモナシトとよみ、千蔭はイトヒモナシトとよみ、宣長は消長戀跡の誤としてケナガクコフトとよみ、雅澄は敷手念跡《シキテオモフト》または厭時無跡《アクトキナシト》の誤とせり。又契沖は『此歌は美濃に妻を置て使を遣はす人の使にむきて云意なり』といひ宣長雅澄も此説を是認せり。即三家はユキスギテを使のあなたへ越行く意とせるなり。なほ云はば三家は
  ふる雪の厭毛無跡わざみの、嶺ゆきすぎてまをせ其兒に
の意とせるなり。案ずるに厭を恙の誤として第四句をツツミモナシトとよむべきか。ツツミは障《サハリ》なり難なり。卷十五に
  大船をあるみにいだしいます君つつむことなくはやかへりませ
 又卷二十に
  ありめぐり、事しをはらば、つつまはず、かへりきませと
  あをうなばらかぜなみなびきゆくさくさつつむことなくふねははやけむ
とあるは皆、サハル事ナクなり。なほツツミの語意は玉勝間卷十二(宣長全集第四の(2220)二七七頁)及大祓詞後釋上卷(同第五の四五〇頁)にくはしく云へるを見てさとるべし。さてツツミモナシトとよむべくばユキスギテは作者の事にてワザミノ嶺をこなたへ越來るなり。更に思ふに嶺の下、往の上に我の字をおとせるならむ。もし然らば
  わざみの嶺、わがゆきすぎてふる雪のつつみもなしとまをせその兒に
といふ歌にて美濃の國府(今の不破都府中)を立ちて京に上る人の途中にて國府より送り來れる者に向ひて
  今ハワザミノ嶺モ越エハテテ降ル雪ノサハリモナシト還リテ彼女ニ白セ
といへるならむ。このソノは卷三(四八七頁及四九八頁)なる
  ぬばたまの其夜の梅をたわすれてをらず來にけり思ひしものを
  ひと日には千重浪しきにおもへどもなぞ其玉の手にまきがたき
のソノと同例なり
 
   寄花
2349 わがやどにさきたる梅を月夜よみ夕夕《ヨヒヨヒ》みせむ君をこそまて
(2221)吾屋戸爾開有梅乎月夜好美夕夕令見君乎祚〔左△〕待也
 夕夕は古義に從ひてヨヒヨヒとよむべし(略解にはヨルヨルとよめリ)。さてヨヒヨヒはミセムにかゝれるにあらず。マテにかゝれるなリ。見セム君ヲコソヨヒヨヒ待テと辭をおきかへて心得べし○祚は社の誤ならむ。マテを待也と書けるは上(二一七七頁)にコヒコソ益也《マサレ》と書けると同例なリ。此外にもアサツユノ如也《ゴト》ユフギリノ如也《ゴト》(三一〇頁)オトノサヤケサ(一二四二頁)ミルガカナシサ(一五〇一頁)モミヂハヤツゲ(一五六九頁)など也を添へて書ける例あり
 
   寄夜
2350 (あしひきの)山下風《ヤマノアラシ・アラシノカゼ》はふかねども君なきよひはかねてさむしも
足檜木乃山下風波雖不吹君無夕者豫寒毛
 山下風を略解にヤマノアラシとよめるを古義にアラシノカゼとよみ改めたリ。案ずるに集中にアラシを山下ともかき下風ともかけリ。即山下とかけるは
  山下之《アラシノ》、風なふきそと(卷九【一七六四頁】)
  ころもでに山下吹而《アラシノフキテ》(卷十三)
(2222)などにて、下風とかけるは
  佐保の内ゆ下風之吹《アラシシフケ》禮〔□で圍む〕|波《バ》(卷十一)
  あしひきの下風吹夜者《アラシフクヨハ》(同上)
などなり。さればこゝの山下風、また卷一(一一五頁)なるミヨシ野ノ山下風ノ、また卷八(一四九七頁)なる山下風ニチリコスナユメなどはヤマノアラシともよむべくアラシノカゼともよむべし
  アシヒキノといふ枕辭を戴きたるを證としてヤマノアラシとよまむかといふに卷十一に山を畧してアシヒキノ下風《アラシ》フク夜ハといへる例あり
 ○結句にカネテとあれば第三句はマダ〔二字傍点〕吹カネドモと辭を補ひて心得べし。カネテは吹カヌサキヨリとなり。さてこは一夜の趣なり。略解に
  カネテといへるはいまだ冬にも入りたたぬほどの歌にてあらかじめ寒き意なるべし
といへるは誤なり○君ナキヨヒハとは君ト相寢セヌ夜ハとなり
                             (大正十年九月講了)
 
(2223)附録
   倒置の枕辭
 枕辭は上に置くものなれば枕辭といふ名はあるなり。さるを之を下に置く事あり。たとへば百人一首なる小式部内侍の
  大江山いく野のみちのとほければまだふみもみずあまのはしだて
といふ歌のアマノハシダテはやがて上なるフミといふ語の枕辭なり。天の橋立は母和泉式部の住める國の名所、橋立即梯子は蹈みてものする物なればフミ(消息)の枕辭につかへるなり。百首異見に
  天の橋立とさしつけていへるはやがて橋立のあたりは母の在所なればなるべし
などいひ又
  さて此歌、詞書をはなれて聞く時は道の程遠ければかの橋立をばまだ行きて蹈み渡りたる事なしといふ意に聞ゆ
などいへるは眼を蔽ひて人を捉へむとするに似ていと齒痒くおぼゆれど終に
  母よりの文を見ずといふが表なれば天の橋立はかへりてフミモミズの序のやう(2224)の意ばへにきゝとるべし
と云へるは活眼よく布を透すものといふべし。されどなほ景樹は當時枕辭を下におく一格の行はれしを知らざるなり。さて此格は無論小式部内侍の創意にあらず。八代集を檢するに此格の始めて見えたるは拾遺集にて
  天禄四年五月廿一日圓融院のみかど一品の宮にわたらせ給ひてらん碁とらせ給ひけるにまけわざを七月七日にかの宮より内の臺盤所に奉られける扇にはられて侍りけるうす物におりつけて侍りける 元輔 天のかは扇のかぜにきりはれて空すみわたるかささぎの橋といふ歌なるべし。此歌の結句も一首の意に與からず。即第四句なるワタルといふ語の枕に七夕に縁あるカササギノ橋といふ語を用ひたるなり。之と同じく後拾遺なる
  題しらず 和泉式部 津の國のこやとも人をいふべきにひまこそなけれ蘆の八重ぶき
といふ歌のアシノヤヘ葺はヒマの枕辭(ヒマは歌の表にては人目のひま、枕よりかゝりては屋根のすき間〔日が月〕なり)同じ集なる
(2225)  やよひの月龍門に參りて瀧のもとにてかの國の守義忠朝臣が桃の花の侍りけるをいかが見るといひ侍りければ 辨の乳母 物いはば問ふべきものをももの花いく世かへたる瀧のしらいと
といふ歌の結句はへといふ語の枕辭なり。機の縱糸をそろへ張るをフル(綜)といふ。其語のはたらけるヘタルを世ヲ經タルに副へたるなり。但此歌は瀧の白絲が幾世を經たるかを桃の花に問ひてむといへるやうにも聞ゆれど、よく思ふにもし其意ならば瀧の方主となりてはし書に
  桃の花の侍りけるをいかが見るといひ侍りければ
とあるにかなはじ。此文の意は
  桃ノ花ノサイテ居タニツイテ其桃ノ花ノ歌ヲヨメト云ウタカラ
といふ事なれば歌にても桃花の方主とならざるべからず。はし書に
  龍門にまゐりて瀧のもとにて
とあるはタキノシラ絲といふ語を枕に用ひたる縁由を説明せるに過ぎず。されば此歌も今の格に屬すべきなり
(2226) さて此格を創案せしは誰にか。そは容易に知りがたけれど此格は拾遺、後拾遺、金葉の時代に亘りて行はれしものと見ゆ。
  小式部内侍の歌は金葉に出でたり。フミモミズのズを一本にヌに作れるは結句の枕辭なるに心附かでさかしら人の改めたるなり
 此時代の家集を閲しなば右四首の外にも猶發見する所あるべし。否勅撰集の中にも余が眼を逸したる歌あるべし
  右は明治四十年の春常磐會例會にて談話せしを後に筆録して雜誌たづ園に出だせる舊稿なり。廣く世に知られざめれば此卷(二一八〇頁)に倒置の枕辭といふことを云へる因によりて此卷に附載するなり
       2005年2月16日(水) 午後2時55分 入力終了
       2005年2月20日(日) 午後12時40分 校正終了
       2016年12月9日(金) 午後7時20分 国歌大観番号をつけおわる