井上通泰 萬葉集新考第一   國民圖書株式會社 1928.3.6  
 
 
   圖版解説
平安朝時代に書寫した萬葉集は仙覚が書いた本集の奥書を見ても少くは無かつたやうに思はれるが今も傳はれるは五種に過ぎぬ。然もいづれも完本では無い。此藍紙萬葉は其五種の一つである
藍紙萬葉と云ふのは其料紙が銀砂子を撒いた薄藍色の紙であるからである。筆者は所謂古筆家即舊派の鑑定家は藤原公任と云つて居るが公任ではあるまじきが上に時代も公任よりは大分後であらうと思はれる。此本の今までに世に出たのは卷九の大部分と卷十八の一部分とのみである。他の卷は恐らくは断片にならぬ前に燒失などしたのであらう
圖版に現したるは縱八寸八分横一尺一寸七分の一紙で、卷十八のうちで、右四首十日大伴宿禰家持作之とある歌である。元來長歌一首反歌三首なるが此一紙にをさまれるは長歌一首反歌一首である。されば反歌二首八行と右四首云々の一行とは次の紙にまはつて居るのである。もし其紙が此發表に促されてどこからか現れて來たらどんなに面白からう
 
 
 
(1)萬葉集新考   
   緒  言
 
此書は明治四十三年十月より始めて昭和二年四月に終りし萬葉集講義の稿本を補訂したるなり。その稿本は大正四年五月より正宗敦夫君の手にて一册づつ稿成るに從ひて出版せしがそは非賣品として少數の會員に頒ちしのみ。その上出版に長年月を要せし爲會員とい へども卷一より具して持てるは少き由なればこたび諸氏の慫慂、與謝野寛、正宗敦夫兩君の盡力によりて國民圖書株式會社より公刊して廣く世上の好學者に頒つ事とせしなり
こたびの本は私刊本を補訂したる處少からざれば篤學の士はたとひ私刊本を所有せらるとも更に新本を一讀せられむ事を希望す
(2)私刊本に附したる歌の栞、辭の栞は讀者の便を圖りて一册に蒐むべし」余は元來書を見し事多からず。萬葉註釋書中此書を作るに當りて一讀せしは
 圓珠庵契沖の代匠記
 賀茂眞淵の考
  著者の原著は 一、二、十一、十二、十三、十四のみ
 本居宣長の玉の小琴(卷四まで)
 荒木田久老の槻の落葉(卷三のみ)
 富士谷御杖の燈《アカシ》(卷一のみ)
 加藤千蔭の略解《リヤクゲ》
 香川景樹の※[手偏+君]解稿本(卷四まで)
 鹿持雅澄《カモチマサズミ》の古義
 近藤芳樹の註疏(卷三まで)
(3) 木村|正辭《マサコト》博士の美夫君志《ミブクシ》(卷二まで)
以上十書のみ。さて余の説と同じきがはやく右の書どもに見えたるは何々にしか云へりと書き改め又は誰同語と書き加へて萬葉集註釋家の通弊を避くるにつとめき。されどなほ心附かずして先哲の説とことわらぬ處もあるべし
 右の書どもゝ燒失後未再獲ざるもの多かればこたびの補訂には一切參考せず。されば補訂には古人の説を冒したる處あるべし
萬葉集註釋家の通弊は他人の説を他人の説とことわらず讀者をして其人の説と誤信せしむる事なり。試に燈と古義卷一とを較べ槻の落葉と古義卷三とを較べ古義と註疏とを較べなば思半に過ぐべし。後の學者願はくは余の例に倣へ
    昭和二年四月
                                                                井 上 通 泰 識
 
(1)  凡  例
漢字のみにて書けるが萬葉集の原文にて假字がきにせるは譯文なり」原文は寛永版本に依りたり。但誤字なる事明白なるものは指摘の煩を避けて直に改めたる處あり。又俗字を正字に改めたる處あり
譯文中傍訓を施したるは諸家(特に略解古義)の訓の一定せざりし處と、諸家の訓を斥けて余が新に訓ぜし處と、讀者が讀み悩み又は讀み誤るべき恐ある處となり。その別は註解を讀まばおのづから明ならむ
歌の中に□を以て圍めるは衍字、即宜しく除くべき字
字間に△を挿みたるは脱字又は脱文ある處
字の左傍に小さき△を附したるは誤字
字の右傍に△を附したるは注意すべき字なり
又歌の中に( )を以て括したるは枕辭なり
萬葉集新考第 一
 
    目  次
 
 卷一
  雜歌………………………………………………………一頁
 卷二
  相聞…………………………………………………………一三一頁
  挽歌…………………………………………………………一九四頁
  橋本進吉氏のガテヌ、ガテマシ考の大意(追考)……三三五頁貝
 卷三
  雜歌…………………………………………………………三四五頁
  譬喩歌………………………………………………………四八五頁
  挽歌…………………………………………………………五〇一頁
(2) 流布本卷第一至卷第三目録………………………………五八五頁
  流布本卷第三附録…………………………………………六〇九頁
 
(1)萬葉集新考卷一
                   井 上 通 泰 著
 
 雜歌
  泊瀬朝倉《ハツセアサクラ》(ノ)宮(ニ)御宇天皇代
   天皇御製歌
1 籠《コ》もよ 美籠《ミコ》もち ふぐしもよ みぶくしもち 此|岳《ヲカ》に 菜つます兒 いへ吉閑《キカナ》 名のらさね (そらみつ) やまとの國は おしなべて われこそをれ しきなべて われこそませ 我許|者《□》背齒告目《ワレコソハノラメ》 いへをも名をも
籠毛與美籠母乳布久思毛與美夫君志持此岳爾菜採須兒家吉閑名告沙根虚見津山跡乃國者押奈戸手吾許曾居師告〔左△〕名倍手吾己曾座我許者背(2)齒告目家乎毛名雄母
 御宇はアメノシタシロシメシシとよむべし。又略してシラシシ又はシロシシともいふべし。此天皇は雄略天皇なり
 籠は雅澄の説に從ひてコと訓み吉閑は木村博士の説に從ひてキカナとよむべし。コはカゴなりブグシは草などを掘る具なり。今も之をフグセといふ地方あり。モヨは助辭なり。ミコといひミブクシといはむとてその先容《マウケ》にコモヨ、フグシモヨとのたまへるなり。美夫君志はミブクシとよむべし。ミにつづける爲に濁音が上に移れるにてなほ日ノカゲルをヒガケルといひ夜ノクダツをヨグタツといふが如し。ツマスはツムの敬語なり。否敬語といふばかりにはあらねど人の事にいひて己が事にいはぬ格なれば以下もしばらく敬語と解せむ。俗語にうつさばツマッシャルなど譯すべし。キカナは聞カムに同じノラサネはノルの敬語なるノラススの命令格なり。されば名ノラサネは名ノラッシャイなどうつすべし。ソラミソは空ニ見ツの古格にてヤマトにかゝれる枕辭なり。こゝのヤマトは日本なり。オシナベテのオシは無意義の添辭にあらず。オシナベテは齊シク壓《オサ》ヘテなり。又シキナベテは齊シク(3)敷キテなり。さればオシナベテとシキナベテとは略同意なり。ワレコソマセは再ワレコソヲレとのたまはむは平板なれば語を換へてマセとのたまへるなるが天皇はかく御自身にも敬語を用ひたまひしなり○我許者背齒告目の訓從來一定せす。まづ眞淵は許の下に曾の字おちたりとして
  われこそは せとしのらめ
とよみ宣長は者を曾の誤として
  わをこそ せとしのらめ
とよみ雅澄は我の下に乎を補ひ者を宣長の説の如く曾の誤とし背の下に跡を補ひて
  あをこそ せとはのらめ
と訓み芳樹は許の下に曾を補ひて
  あをこそは せとしのらめ
とよめり。即眞淵と宣長との説を折衷したるなり。木村博士は許の下に曾を補ひ背の下に止を補ひて
(4)  われこそは せとはのらめ
と訓めり。即眞淵の又の説に同じ(眞淵は背の下に登を補ひてセトハノラメと詠むべきかと云へり)
 次に釋はいかにと見るにまづ眞淵は
  吾をこそは夫として住所をも名をも告しらすべきことなれ
と釋けり。かくては釋と訓と相|副《カナ》はず。もし釋の如き意ならばワレヲコソといはずばかなはじ。次に雅澄は
  朕をこそ夫として家をも名をもつゝまはず告り知らすべき事なれ
と釋けり。訓と對照するに釋の夫トシテは訓のセトハに當れり。夫トシテといふことをセトハとはいふべからず。前にも云へる如く木村博士の訓は
  われこそは せとはのらめ いへをも名をも
にて眞淵の第二説と同じ。然るに其釋は大に眞淵とたがひて
  汝はいかに思ふとも我こそは夫とはのらめといふ意にて結句のイヘヲモ名ヲモも天皇の御自の御事なり
(5)と云へり。家をも名をものらむとあるを天皇の御自の事としたるは富士谷御杖の説によれるなり。但木村博士の説の如くにてはイヘヲモ名ヲモといふ辭のかゝる處なし。たとひ上代の調なりとも我コソハ夫トノリテ家ヲモ名ヲモノラメといふべきを我コソハセトハノラメイヘヲモ名ヲモと略すべきにあらず。されば諸家の説一も穩なるものなし
 按ずるに
  我許者背齒告目家乎毛名雄母
とあるを從來三句と見たるが誤にて實は二句なり。又許の下の者は誤りて入りたるにて
  われこそはのらめ 家をも名をも
とよむべきなり。背をソとよむは正訓にてなほ齒をハとよむが如し。抑此御製は夙く契沖の云へる如く二段より成れるなり。而して第一段の末に
  家きかな 名のらさね
とのたまへるに對して第二段の末に
(6)  われこそはのらめ 家をも名をも
とのたまへるにて又前々の句にワレコソヲレ、ワレコソマセとのたまへるを承けてワレコソハノラメとハの辭を添へてしたたかにのたまへるなり。ソノワレコソハといふばかりの調なり
 追考 類聚古集には許の下の者の字無し。元暦校本には朱にて者の字を書入れたり。美夫君志に古葉類聚抄なる一訓にワレコソハツゲメイヘヲモナヲモとありと云へり
 
   高市《タケチ》(ノ)崗本(ノ)宮御宇天皇代
    天皇登2香具《カグ》山1望v國之時御製歌
2 やまとには むら山あれど とりよろふ あめのかぐ山 のぼりたち 國見をすれば 國原は けぶり立籠〔左△〕《タチタツ》 うなばらは かまめたちたつ うまし國ぞ あきつ島 やまとの國は
山常庭村山有等取與呂布天乃香具山騰立國見乎爲者國原波煙立籠海(7)原波加萬目立多都怜※[立心偏+可]國祚蜻島八間跡能國者
 此天皇は舒明天皇なり
 ヤマトニハのハは輕く添へたるなり。外ノ國トチガヒテ澤山山ガアルガとまでいふ調にあらず○アレドの下にソノ中デモといふことを補ひて聞くべし。又カグヤマの下に芳樹の云へる如くソノ山ニといふことを加へて心得べし。取ヨロフの取は打に似たる添辭なり。ヨロフはヨロヘルにて具足セルといふことなり〇アカヌ所ナキなり國見は眺望なり。○ハラは眞淵の云へる如く廣くして平なる處をいふ○立籠は一本に立龍とあり。舊訓にタチタツとよめるに從ふべし。考にタチコメと改めたるはこちたくて一首の趣にかなはず。さてタチタツはそこにもこゝにもたつなり。たつことの絶えざるをいふにはあらず○カマメは鴎なり○ウマシグニは結構ナル國といふことなり。ウマシは今はウマキ、ウマクとはたらけど、いにしへはウマシキ、ウマシクとはたらきしなり。さればこそこゝもウマグニとは云はでウマシグニと云へるなり
 
   天皇遊2獵内野1之時|中《ナカツ》皇|命〔左△〕使2間人《ハシビト》(ノ)連《ムラジ》老《オユ》1獻歌
(8)3 (やすみしし) わがおほきみの あしたには とりなでたまひ ゆふべには 伊縁立之《イヨリタタシシ》 みとらしの あづさの弓の 奈加〔左△〕《ナリ》はずの 音すなり あさがりに 今たたすらし ゆふがりに 今たたすらし みとらしの 梓の弓の 奈加〔左△〕《ナリ》はずの 音すなり
八隅知之我大王乃朝庭取撫賜夕庭伊縁立之御執乃梓弓之奈加弭乃音爲奈利朝獵爾今立須良思暮獵爾今他田渚良之御執梓能弓之奈加弭乃音爲奈里
 古義に中皇命は中皇女の誤にて間人《ハシビト》(ノ)皇女の御事なるべしと云へり。間人皇女は天皇の御女なり。ヤスミシシは大君にかゝれる枕辭なり。ヤスミは大ヤスミ殿小ヤスミ殿などのヤスミにて御坐といふこと、シシは知ラシなり。いにしへシラスをシスとも云ひしなり。さればヤスミシラスといふべきをヤスミシシといへるは枕辭の一格にてイサナトリ海などと同格なり(古義略同説。)○伊縁立之は雅澄のイヨリタタシシとよめるに從ふべし。イヨリタタシシのイは添辭、ヨリは倚、タタシシはタチ(9)シの敬語なり。ミトラシは執リタマフ物といふ事なり。弓は執るものなればミトラシといふなり。なほ劔は佩《ハ》くものなれば之をミハカシといふが如し○アサユフニトリナデタマヒイヨリタタシシといふべきを二つに分けて云へるは辭の文《アヤ》なり。而して二つに分けしにつきておのづからハの言は出來れるなり○アヅサは今ヨグソミネバリ又はハンザなどいふ木なりといふ白井光太郎博士の説によるべし○弭は弓の兩端の弦を受くる處をいへば中弭といふべき由なし。されば宣長は奈加を奈利の誤とせり(玉の小琴の外古事記傳二十三卷にも)。然るに谷森善臣翁は加奈の顛倒として、金弭とせり。案ずるに奈加弭ノ音スナリといへる、弭の音の遠く聞ゆる趣なればなほ弭に音を立つる設をしたるものとして奈利弭の誤即鳴弭とすべし○アサガリニ、ユフガリニとある朝夕は上なるアシタニハ、ユフベニハの朝夕とは異なり。まづイマタタスラシの今は一つの時をさして云ふ語なれば朝と夕と二つをかけては云ふべからず。さらば今とさしたるは朝にや夕にやといふに反歌にアサフマスラムとあれば今とさしたるは朝の方なる事明なり。さればアサガリニイマタタスラシといふが主意にてユフガリニイマタタスラシは其副に云へる(10)のみ○古義に
  御かりに出賜はむとて御弓とりしらべ賜ふが弓弭の鳴さわぐ音の後宮へきこゆるなりと云へるはまだ宮を出で給はぬ程に奉りし歌とせるなり。美夫君志に
  後宮より御獵所に奉れりしなり…かかれば後宮にて其鞆の音をきゝ給ひて今こそ御獵し給ふならめと御羨しく思ほしめすなり
といへるはいかが。高市崗本宮と字智野とはいたく離れたれば宇智野にて弓の響くが高市崗本宮なる後宮に聞ゆべくはあらず。案ずるに此時の御獵は字智野に行宮を作りて連日御獵し給ひしにて中(ノ)皇女も其行宮まで御供し給ひしなるべし○此歌十八句より成り上十句と下八句と二段に分れたり。但上十句のうち初二句は上下二段にならびかゝりたれば實は二段各八句にて其下四句全く相同じ
 
    反歌
4 (たまきはる)うちの大野に馬なめて朝ふますらむその草深野《クサブカヌ》
珠刻春内乃大野爾馬數而朝布麻須等六其草深野
(11) 反歌は先輩或はカヘシウタとよみ或はミジカウタとよみたれど木村博士のハンカとよめるに從ふべし。古人は古學者の如くに字音を嫌はざりけむとおぼゆ
 タマキハルはウチにかゝれる枕辭なり。野は古くはヌと云へり。但集中に能と書きたる處もあれば寧樂時代よりはやくノに轉じそめしなり。千蔭は
  アカネサスムラサキ野ユキシメ野ユキなどはヌと唱へがたければ調によりてノともよみたりと見ゆ
と云へれど唱へがたく思ふはムラサキノユキシメノユキとよみなれたればなり。何の唱へ難き事かあらむ。固より調にも意にもかはりなければヌとよみてもノとよみてもあるべし○雅澄は六の卷に朝ガリニシシフミオコシ夕ガリニ鳥フミタテ馬ナメテ御獵ゾタタス春ノシゲ野ニとあるを引きてフマスは鳥獣をふみたておどろかし給ふ事なりと云へれどフミオコシフミタテなどあらばこそしか釋かめ、ただフムとあるをいかがはふみたておどろかす事と釋かむ。ただ野を蹈むことにこそ○結句を眞淵千蔭は舊訓にクサフケヌとよめるに從ひて
  夜ノフケユクといひ田の泥深きをフケダといふが如し
(12)と云へれど木村博士の云へる如く夜ノフケユクのフケはフクルといふ語のはたらきたるなれば今の例とすべからず。フケダは例として可なれどフカ何といふを轉してフケ何といふは此他に類なくそのフケダはた古書には見えぬ語なれば證とはしがたし。古義の如くクサブカヌとよみて何の妨もなきをや。古語といへばつとめて今唱ふるとは異さまによむべきものぞと心得たるはをさなし○結句クサフカヌと云ひすてたる故に餘意ありて聞ゆるなり。即オイサマシイ事カナなどいふ餘意あるなり。古義歌意の條にいへる事は燈の説によれるにて從ひがたし(上なるフマスの釋も燈の説によれるなり)
 
   幸2讃岐(ノ)國|安益《アヤ》(ノ)郡1之時軍王見v山作歌
5 かすみたつ ながき春日の くれにける 和《ワ》|豆《□で圍む》肝《キモ》しらず (むらぎもの) 心をいたみ (ぬえこどり) 卜嘆居者《ウラナゲキヲレバ》 (たまだすき) かけのよろしく (とほつ神) わがおほきみの いでましの 山越風乃〔左△〕《ヤマコスカゼニ》 ひとりをる わが衣手爾〔左△〕《ノ》 あさよひに かへらひぬれば ますらをと お(13)もへる我も (草まくら) たびにしあれば おもひやる たづきをしらに 綱《ツヌ》のうらの あまをとめらが やく鹽の おもひぞやくる わがしたごころ
霞立長春日乃晩家流和豆肝之良受村肝乃心乎痛見奴要子鳥卜歎居者珠手次懸乃宜久遠神吾大王乃行幸能山越風乃獨座吾衣手爾朝夕爾還比奴禮婆大夫登念有我母草枕客爾之有者思遣鶴寸乎白土綱能浦之海處女等之燒塩乃念曾所燒吾下情
 和豆肝は舊訓にワヅキモとよみたれどワヅキモといふ辭他に例なければとて古義には豆を衍字として六言にワキモシラズとよめり。しばらく之に從ひて界モ知ラズの意とすべし○卜嘆居者は舊訓にウラナケヲレバとよめるを眞淵ウラナキヲレバに改め宣長は十七卷にヌエドリノ宇良奈氣之都追とあるを證としてもとのまゝによむべしと云へり。案ずるにウラナケシツツの例によらばウラナケシヲレバといはざるべからず。ウラナクルといふ動詞あらばこそウラナケヲレバとい(14)ふべけれどさる動詞ある事を聞かず。さればウラナゲキヲレバとよむべし。ウラナゲクは呻吟するなり○カケノヨロシクは略解に
  卷十子ラガ名ニカケノヨロシキ朝妻ノ云々とよみて言にかけていふもよろしきといふ意にて下のカヘラヒといふ詞へかゝる也
と云へれどカヘラヒは設けて云へる語なればそれにかけてカケノヨロシクと云はむは詮なきこゝちする上にかくてはトホツカミワガオホキミノイデマシノといふ三句無用となる如し。案ずるにいにしへ安益《アヤ》(ノ)郡にいでまし山といふ山ありしにて天皇の行幸先にいでまし山といふ山ありしによりてカケノヨロシクと云へるなるべし。もし然らば玉ダスキカケノヨロシク遠ツ神ワガオホキミノの四句はイデマシノ山の序とすべし○山越風は御杖のヤマコスカゼとよめるに從ふべし。山コス風乃の乃とワガコロモデ爾の爾と顛倒せるにあらざるか。もし然らばイデマシ山ヲフキ越ユル風ニ我袖ノ朝夕ニヒルガヘレバといへるなり○上にナガキ春日ノクレニケルワキモシラズ云々ウラナゲキヲレバといへるは薄暮又は初更の事とおぼゆるに下にアサヨヒニカヘラヒヌレバとあるは矛盾せるに似たれど(15)助けて釋かれざるにもあらず。即歌をよみしは薄暮又は初更の事なれど山こす風の吹くは反歌にヤマゴシノ風ヲトキジミと云へる如く始終の事なればアサヨヒニと云へるなり○オモヒヤルタヅキヲシラニは鬱ヲ散ズル方法ヲ知ラズとなり○綱はツヌとよむべし。さて綱ノウラノアマヲトメラガヤク鹽ノの三句はヤクルにかゝれる序なり○オモヒゾヤクルは思が燒くるにはあらず。オモヒヤクルといふ複動詞の間にゾをはさみたるなり。此事は御杖はやく云へり○括弧を施したるは枕辭なり
 追考 ※[手偏+君]解に
  カケノヨロシクは…案ずるに行幸能山とつづくべき事おぼつかなし。こは名所なるべくみゆ。さらばミユキ山など成べし。イデマシ山と云はんもことごとしければ也。さる時はカケノヨロシクは行幸ノヤマにかゝる也さて此たびの行幸をもこめたりと云べけれど猶案ずるにこは只行幸と云はん序のみ成べし。この句によりて端詞の幸讃岐國安益郡之時軍王見山作歌とはかきなしたる歟。又は見行幸山作歌などありけんをさかしらに直したるなど成べし。すべてはし詞(16)は違へる事のみ多し。見山とのみあるも足はぬこゝちす。且舒明天皇此國に行幸のことものに見えず。さはとまれかくまれ行幸能山とつづくべき事名所ならでは更に有まじきわざ也。諸説はるか下なるカヘラヒヌレバと云にかけたるは語勢を失へる也云々
といへり
 
   反歌
6 山ごしの風をときじみぬる夜おちず家なる妹をかけてしぬびつ
山越乃風乎時自見寐夜不落家在妹乎懸而小竹櫃
    右※[手偏+驗の旁]2日本書紀1無v幸2於讃岐國1。亦軍王未v詳也。但山上憶良大夫類聚歌林曰。紀曰天皇十一年己亥冬十二月己巳朔壬午幸2于伊豫温湯宮1【云々】。一書云。是時宮前在2二樹木1。此之二樹斑鳩此米二鳥大集。時勅多掛2稻穗1而養之。乃作歌【云々】。若疑從2此便1幸之歟
 トキジミはトキジといふ形容詞のはたらきたるなり。四卷にトキジケメヤモとあ(17)るはトキジカラメヤモといふに齊しければ亦トキジのはたらけるなり。之に反してトキジクノカグノコノミ、トキジク藤などのトキジクは副詞なり。さて風ヲトキジミは風ガ常ニ吹ケバとなり○ヌル夜はただ夜と云ふことなり。ヌルは輕く添へたるのみ。所謂歌語なり。さてヌル夜オチズは毎夜といふことなり○カケテといふに辭にかくると心にかくるとの別あり。カケテシヌビツのカケテは心にかくるなり。長歌にカケノヨロシクとあり又祝辭などにカケマクモアヤニカシコキといへるカケは辭にかくるなり
 
   明日香《アスカ》(ノ)川原《カハラ》(ノ)宮御宇天皇代
    額田《ヌカタ》王歌
7 あきの野の美草《ミクサ》かりふきやどれりしうぢのみやこのかりほしおもほゆ
金野乃美草苅葺屋杼禮里之兎道乃宮子能借五百磯所念
    右※[手偏+驗の旁]2山上憶良大夫類聚歌林1曰。一書戊申年幸2比良宮1大御歌。但(18)紀曰。五年春正月己卯朔辛巳天皇至v自2紀温湯1。三月戊寅朔天皇幸2吉野宮1而肆宴焉。庚辰日天皇幸2近江之|平《ヒラ》(ノ)浦1
 此天皇は皇極天皇なり
 美草は古くミクサとよみ又ヲバナ(元暦校本)とよめり。宣長は薄の事と見えたればヲバナとよめるに從ふべしといひ雅澄は文字のまゝにミクサとよみて薄の事と心得べしと云へり。雅澄の説に從ふべし○ウヂノミヤコといへる、宇治に都のありし事なければいかがといふにこは曾て宇治に行宮を作りてしばしいましゝ事あるなり(下にも吉野離宮を瀧ノミヤコといへり)。日本紀に其事の見えぬは記しおとせるなり。雅澄は
  近江に行幸ありし度こゝに行宮をたてて一夜とまらせ給ひしなるべし
と云へれどたとひ數度の御とまりなりともただ一夜の御とまりなるを都と云はむこといかが。雅澄は豐前の京、豐後の宮處《ミヤコ》野、肥前の宮處郷を風土記に景行天皇の行幸し給ひて行宮を造り給ひしによると云へるを證に引きたれどやがてそれらも風土記を味ふにしばらく其處々にいましゝなるをや。ヤドリシ、ヤドリツルなど(19)云はでヤドレリシ即トマツテヲツタといへるにても一夜のやどりならざりし事知らる○カリホとあるを舊註に天皇の假廬と見たるを雅澄は
  こは從駕の人々の借廬を云り。…もし天皇命の借廬ならむには尊みてヤドラシシなどこそあるべきをあなかしこヤドレリシなどいふべしやは
と云へれど天皇をもこめ奉りて我々ノとか一同ノとかいふ意と見て可なるべし〇一首の意は曾テ秋ノ頃御供ニテシバラク宇治ニトドマルトテ假廬を造ツテ其野ノ薄ヲ刈リテソレヲ屋根ニ葺イテトマツタ事ガアツタガソノメヅラシクオモシロカツタ事ガ今ダニ忘レラレヌとなり
 
   後(ノ)崗本(ノ)宮御宇天皇代
    額田王歌
8 にぎた津にふなのりせむと月まてば潮もかなひぬ今はこぎ乞菜《デナ》
熱田津爾船乘世武登月待者潮毛可奈此沼今者許藝乞菜
    右※[手偏+驗の旁]2山(ノ)上(ノ)憶良大夫(ノ)類聚歌林曰。飛鳥(ノ)岡本宮御宇天皇元年己丑(20)九年丁酉十二月己巳朔壬午天皇大后幸2于伊豫温湯(ノ)宮1。後(ノ)岡本(ノ)宮馭宇天皇七年辛西春正月丁酉朔壬寅御船西征始就2于海路1。庚戊御船泊2于伊豫(ノ)熟田津(ノ)石(ノ)湯(ノ)行宮1。天皇御2覧昔日猶有之物1當時忽起2感愛之情1。所以《ユヱニ》因製2歌詠1爲2之哀傷1也。即此歌者天皇(ノ)御製焉。
    但額田王歌者別有2四首1
 此天皇は齊明天皇(即皇極天皇の重祚)なり
 ニギタ津は伊豫の國人半井梧庵の愛媛面影に今の三津の濱なるべしと云へり○ツキマテバを古義に
  これ實には潮まちし賜ひしなるべきを月を主としてのたまへるがをかしきなり
と云へるは御杖の説によれるにてわろし○シホモカナヒヌといへるにて月出でぬとはきこゆるなり。モの言の用方いと巧なり○結句は燈にコギイデナとよめり之に基づきてコギデナとよむべし。イデナはイデムといふに近し
 
(21)   幸2于紀温泉1之時額田王作歌
9 莫囂圓〔左△〕隣之大相七兄爪《四字左△》△△謁〔左△〕氣吾瀬子之射立爲兼五可新何本《マツチヤマミツツコソユケワガセコガイタタシケムイツカシガモト》
 莫囂圓は眞淵に從ひて圓を國の誤として大和國の事とすべし。又大相七は大堆土の誤として山の事とすべし。
  荀子に積土成v山風雨興焉とあり。但堆土といへる例は知らず
さて莫囂國隣之大堆土の八字をマツチヤマとよむべし(以上は守部の説に同じ。ただ相を堆の誤としたるのみ)。マツチ山は紀路ニイリタツ眞土山ともありて大和と紀伊との界にあれば戲れて大和國隣之山とだに書くべきを更にあざれて莫囂國《ヤマト》(ノ)隣之大堆土《ヤマ》と書けるなり○兄爪謁氣は春海のいへる如く見乍湯氣《ミツツユケ》の誤とすべし。但ユケとあればミツツの下にコソを補はざるべからず。されば見乍許曾湯氣の誤脱とすべし○吾瀬子之は舊訓の如くワガセコガとよむべし。射立爲兼は古義の如くイタタシケムと六言によむべし。イは添辭、タタシケムは立チ給ヒケムなり。五可新何本は契沖等に從ひてイツガシガモトとよむべし。イツガシは神聖ナル樫といふことなれば神の坐す樫の杜ならむ。モトはテニヲハを添へてモトヲと心得べし。(22)○こは御とも先より京なる人に贈りしにて
  アナタガ前方眞土山デ樫ノ杜ノ下デ御眺望ナサレタト承リマシタガ唯今私モ眞土山ヲ見ナガラソノ樫ノ杜ノ下ヲトホリマス
といへるなり
 
   中皇命〔左△〕往2于紀伊温泉1之時御歌
10 君がよもわがよも所知哉〔左△〕《シラム》いはしろの岡の草根をいざむすびてな
君之齒母吾代毛所知哉磐代乃岡之草根乎去來結手名
 中(ツ)皇女は齊明天皇にも御女なり。齊明天皇は舒明天皇の皇后なればなり
 所知哉は舊訓にシレヤとよめるを宣長は、哉を武の誤としてシラムとよめり○草根は舊訓にクサネとよめるに從ふべし。其草根は御杖の云へる如くただ草の事なり。但草根を結ばむとのたまへる、世の常の短き草とは思はれねば薄の事なるべし○君ガヨ、吾代とのたまへるヨは將來なり。シラムは掌《ツカサド》ラムなり。草木を結びおけば其草木の解けざる限身に恙なしといふ俗信ありしなり。磐代は紀伊の地名なり。君(23)とのたまへるは次の歌にワガセコとのたまへると同じき人にて此時同伴したまひし人なり。此皇女は御叔父孝コ天皇の皇后となりたまひしが此時は天皇の崩御後なれば御同伴者は別人なり
 
11 わがせこはかりほつくらす草《カヤ》なくば小松が下の草《クサ》をからさね
吾勢子波借廬作良須草無者小松下乃草乎苅核
 三句と結句との草の字舊訓に共にカヤとよみ略解古義共にそれによりたれど上の草こそカヤとよまめ下なるはことさらにカヤとよむべき理由なければ宣長の説の如くクサとよむべし。カヤは薄を屋根に葺く時の名なり○下の字は舊訓にシタとよめるに從ひて可なり○古義に
  小松はおひさきこもれる物なれば云々
といへるは燈の説によれるにてわろし(すべて御杖の燈の説はいりほがにて從はれざる事おほし)。小松は今の世には二三尺以下なるをいへどいにしへはやゝ大なるも云ひきとおばゆ。小松ガ下ノクサと云へる其草を薄と見れば松は少くとも一間以上ならざるべからず。卷四にナラ山ノ小松ガ下ニタチナゲキツルといふ歌も(24)あり(美夫君志に擧げたる間宮永好の説に『小は美稱にてただ松といふことなり』といへるはいかが)○カラサネは刈リ給ヘにて上なる名ノラサネと同格なり。ツクラスは作リ給フなり。但こゝにては假廬ヲ作リタマフガとうつすべし
 追考 間宮永好の犬※[奚+隹]隨筆卷二(歌文珍書保存會本上卷五十七頁)に小松は小さき松をのみいふ事と思ふは懷狹し。大きやかなる松をも然いひて其例古にこれかれあり。萬葉集卷一にワガセコハカリホツクラスカヤナクハ小松ガ下ノクサヲカラサネ
   此御歌に小松が下とよませ給へるは松蔭の薄萱などをさし給へるにて廬を葺かむ料にとおもほすばかりなれば其たけ四五尺ばかりはありつらむ
  卷四にキミニコヒイタモスベナミナラヤマノ小松ガ下ニタチナゲキツル
   木の下にたつといはるゝ松ならむには小さき木とは云べからず
  卷二ノチミムトキミガムスベルイハシロノ小松ガウレヲマタミケムカモ
   これは有馬皇子自傷結松枝歌イハシロノハママツガエヲヒキムスビ云々とよみ給へる松を見てよめる歌にてそは四十三年前のことなり。しかるをいま小(25)松とよめるを思へばいよいよ大きなる松をもなほ小松と云ひけむことを明らむべし
  卷十五にワガイノチヲナガトノシマノ小松原イクヨヲヘテカカムサビワタル
   神さびたりけむ松をいかで小さき松とすべき
  抑此小〔右△〕てふ詞はただかろく添てもいひ女などのやさしく云はむとても云ふことにてヲといへるに同じかるべし。然るにヲ某は多くコ某は少なければたまたま小松小菅などいへるはヲにかよふコなることを知らでただ小さきものを云へる稱とのみ思ふはよくもたどらぬなりけり(採要)
といへり(正宗敦夫のいひおこせし)
 
12 わがほりし野島はみせつ底深きあこねの浦の玉ぞ不拾《ヒロハヌ》
吾欲之野島波見世迫底深伎阿胡根能浦乃珠曾不捨〔左△〕
    或(ハ)頭(ヲ)云吾欲子島羽見遠《ワガホリシコジマハミシヲ》
    右※[手偏+驗の旁]2山上憶良大夫類聚歌林1曰。天皇御製歌【云々】
(26)ミセツは見セテクレタガとなり○不拾を契沖古風に依りてヒリハヌとよめり。いづれにてもあるべし○契沖のいへる如くアコネノ浦ノ玉ヲ拾ハント思へド水ガ深サニ拾ハレヌといふ意なり。或説にあこねの浦には行き給はざりしにてアコネノ浦ヲゾミザリシといふ意を今の如くのたまへるなりといへれどかくてはソコフカキといふこといたづりなり○玉とは美しき小石なり。海なき大和の人の海濱の小石を珍重しけむさま集中に屡見えたり
 
   中大兄三山《ナカツオホエノミツヤマノ》歌一首
13 かぐ山は うねびををしと 耳梨と あひあらそひき 神代より かくなるらし いにしへも しかなれこそ うつせみも つまをあらそふらしき
高山波雲根火雄男志等耳梨與相諍競伎神代從如此爾有良之古昔母然爾有許曽虚蝉毛嬬乎相格良思吉
 中大兄は天智天皇の御事なり。されば歌の上に御の字を補ふべし(27)ウネビヲヲシは契沖は畝火を男山としてヲヲシキウネビといふことなりと云へり。さらばヲヲシウネビといふべくヲヲシを下には附くべからず。谷|眞潮《マシホ》、木下|幸文《タカブミ》等畝火を女山としてヲヲシのヲはてにをは、ヲシはカハユシといふ意なりと釋けり。卓見といふべし
  因にいふ。幸文の説は其著さやさや草紙に見えたるが古義には大神眞潮の説として此説を擧げたり。木下幸文の説も之に同じなどいはざるを見れば雅澄は亮々《サヤサヤ》草紙を見ざりしなり。こゝに又いぶかしき事あり。即幸文の師なる景樹の※[手偏+君]解に
   この意は香山は畝火山を愛《ヲシ》と思ひかけて耳梨山と爭ひたりと云にて香山を畝火耳梨の爭ひしとは見えず云々
  といへり。暗合にや然らずやたやすく考ふべからず
 ○イニシヘモは神代ニモといひてもよきを辭を換へてのたまへるなり○ウツセミモを古義には現在ノ身モと釋き美夫君志には現存ノ身モと釋けり。即今アル人モといふ意に取れるなり。されどもし神代又はイニシヘに對してのたまへるなら(28)ばイマノ世モなどのたまふべし(契沖はウツセミはこゝにては今ノ世といふ事なりといへり)。物遠くイマアル人モとやうにはのたまふべからず。案ずるにウツセミモは神靈に對してのたまへるにて人間モといふ意にのたまへるなり。三山の爭は人間の事にあらざればなり。二卷の長歌にもウツセミシ神に不勝者とあり○ラシは今ははたらかぬ辭となれれど此御歌にシカナレコソ…アラソフラシキとあり本集六卷にウベシコソミル人ゴトニカタリツギシヌビケラシキとあり又推古紀なる御歌にウベシカモ蘇我ノコラヲ大君ノツカハスラシキとあるを見れば(ハとかかりてラシキと結ばれたる例は見えず)いにしへはラシキとはたらきしにて其はたらきはカの係の時もコソの係の時も同一なりしなり(玉緒七卷七丁と參照すべし)
 
   反歌
14 かぐ山と耳梨山とあひし時たちて見にこしいなみ國はら
高山與耳梨山與相之時立見爾來之伊奈美國波良
(29) 此反歌はたたへて云はば古雅ともいふべけれど一首の中に主格なければ誰が立ちて見に來しにか分らず播磨風土記の文によりて始めて出雲なる阿菩《アボ》(ノ)大神が立ちて見に來しなりとは知らるゝなり。因にいふ。風上記に
  出雲國阿菩大神聞2大倭〔右△〕國畝火香山耳梨三山相闘1此欲2諌止〔右△〕1上來之時到2於此處1乃聞2闘止1覆2其所v乘之船1而坐之。故號2神阜〔右△〕1。阜形似v覆(古義に引けるには倭を和、止を山、形を之と誤り又一の阜を脱せり。原文似覆の下に船の字を脱せるか)
とある神阜を仙覺の萬葉鈔の流布本に神集とせるによりて眞淵はカヅメとよみ狛(ノ)諸成、伴信友等は今の印南郡|神爪《カヅメ》(神爪は石の寶殿の後に當りて街道に沿へる村の名なり。美夫君志に『さる里の名ある事なし』といへるは妄なり)に當てたれど鈔に神集又は神隼とあるは神阜の誤にて其神阜は今の揖保郡林田の南方なる神岡に當れり。されば風土記の趣は今の御製の趣と異なり。即天皇の據り給へる傳説にては阿菩大神は印南國原まで來給ひし事となり風土記に擧げたる傳説にては揖保郡の神阜まで來給ひし事となれり。固より神話の事なればいづれ眞實なりとも定められず
 
(30)15 わたつみの豐旗雲にいりひさしこよひのつく夜|清明《アキラケク》こそ
海津海乃豐旗雲爾伊理比沙之今夜乃月夜清明己曾
    右一首歌今案不v似2反歌1也。但。舊本以2此歌1載2於反歌1。故今猶載v此歟。亦紀曰。天豐財重日足姫《アメトヨタカライカシヒタラシヒメ》(ノ)天皇(ノ)先《サキ》(ノ)四年乙巳立2天皇1爲2皇太子1
 三山歌の反歌にあらざる事左註に云へる如し。思ふに題辭のおちたるなるべし。雅澄は考の説によりて
  三山の反歌にあらざることはいふに及ばず。されど同じ度此印南の海邊にてよませ給ふなるべし
といへれど前述の如く題辭のおちたるなるべければ中(ツ)大兄の御歌とだに定むべからず。いかにぞ印南の海邊にての作と定めむ○結句舊訓にスミアカクとよめるを眞淵はアキラケクコソとよみ雅澄は明を照の誤字としてキヨクテリコソとよめり。又雅澄はコソを希ひ望む辭のコソと見、三句のイリヒサシをイリヒサシテといふ意にとりて
(31) 入日の曇れるを見てかくてはこよひの月もさやかならじをいかで彼入日の影の心よく照りて雲もはれゆき今夜の月しもさやかに有れかしとよみませるなり
といへり(こは御杖の説によれるなり)。もし此説の如く月のあかからむ事を望むが目的にて其仲介として雲に入日のさゝむ事を望むならば
  わたつみのとよはた雲に入日させこよひのつくよあかくててるがね
などいふべく今の如くまぎらはしくはいふべからず。されば清明は眞淵のアキラケクとよめるに從ふべくコソはコソアラメの略と見るべし。又イリヒサシといへるは古格にて今ならばイリヒサシヌといひ切るべきをイリヒサシといひすてたるにて古今集なるカリクラシタナバタツメニヤドカラムのカリクラシと同格なり○トヨハタグモは旗なす雲なり。トヨはたたへ辭にて大といはむが如し
 
 近江大津宮御宇天皇代
  天皇詔2内大臣藤原朝臣1競2憐春山萬花之艶、秋山千葉之彩1時、額田王以v歌判v之歌
(32)16 冬ごもり 春さりくれば なかざりし 鳥もきなきぬ さかざりし 花もさけれど 山を茂《シミ》 いりても不取〔左△〕《キカズ》 草ふかみ 執手《トリテ》もみず 秋山の この葉をみては 黄葉《モミヂ》をば とりてぞしぬぶ 青きをば おきてぞなげく そこし恨〔左△〕之《タヌシ》 秋山△吾者《アキヤマヲワハ》
冬木成春去來者不喧有之鳥毛來鳴奴不開有之花毛佐家禮杼山乎茂入而毛不取草深執手母不見秋山乃木葉乎見而者黄葉乎婆取而曾思奴布青乎者置而曾歎久曾許之恨之秋山吾者
 近江大津宮御宇天皇は天智天皇なり。鎌足をして春秋いづれかよきと群臣に問はしめ給ひし時群臣或は春をよしと申し或は秋ををかしと申しゝ中に額田王は歌をよみて答へ給ひしなり。判とあるは人々の議論を判せしにあらず春秋の優劣を判せしなり(燈同説)。一篇十八句三段に分れたり。即上十句、中六句、下二句なり
 冬ゴモリは冬ゴモリシテなり。春サリクレバは春ガ來レバなり。鳥モキナキヌは辭は切れ意は下へつづけり。キナキといふに意は同じ。ヌを省きて心得べし○不取は(33)古義に取を聽の誤としてキカズとよめるに從ふべし○執手を略解に考に從ひてタヲリテとよめるはいはれなし○アキヤマノの上に之ニ反シテといふことを補ひて聞くべし。しか聞かるゝはトリテゾシヌブが上なるトリテモミズに應じたればなり○黄葉を考以下モミヅよめり。されどモミヂタルヲバ(或はモミデルヲバ)といふことをモミヅヲバと云ひては辭足らず。案ずるにもみちたるものは即モミヂなればこゝは舊訓に從ひてモミヂヲバとよむべし。元來モミヂはモミヂタルモノといふことにて木葉といふ意は無し。前註者モミヂバを略してモミヂとのみ云ふをききなれて、ふとモミヂに木葉といふ意あるやうに誤解して上のコノハと重ならむを恐れて強ひてモミヅヲバとよめるにこそ○シヌブは契沖の云へる如くここにては賞美する事なり。オキテは採ラズシテなり○恨之は舊訓にウラメシとよめるを宣長は怜之の誤としてオモシロシとよみ雅澄は同じく怜之の誤としてタヌシとよめり。後者に從ふべし。○ソコシのシは助辭、ソコはソレなり○秋山の下に曾又は乎の字あるべし。此句つとめて簡潔にいひたるなれど今本の如くにては秋山そのものがワレと云へるやうにきこゆればなり。しばらく乎をおとしたりと(34)してアキヤマヲワハをよみて我ハ秋山ヲアハレトオモフといふべきを略したりとすべし
 
   額田王下2近江國1時作歌井戸王即和歌
17 (うまざけ) みわの山 (あをによし) ならの山の 山際《ヤマノマニ》 伊隱《イカクル》まで みちのくま 伊積《イツモル》までに 委曲毛《ツバラニモ》 みつつゆかむを しばしばも 見放武《ミサケム》やまを こころなく雲の かくさふべしや
味酒三輪乃山青丹吉奈良能山乃山際伊隱萬代道隈伊積流萬代爾委曲毛見管行武雄數數毛見放武八萬雄情無雲乃隱障倍之也
 題辭の井戸王の上に并の字ありしが下なる井の字に紛れて落ちたるならむ。なほ下にいふべし○ミワノヤマの下にソノヤマガといふことを加へて聞くべし、契沖が『ミワノヤマの下にヲ文字を入れて心得べし』と云へるは非なり。しか心得むに下なるミサケムヤマヲと相かなふべしやは○山際は木村博士のヤマノマニとよめるに從ふべし○伊隱は古義にイカクルとよめるによるべし。カクルは古くは四段(35)にはたらきし語なり。イは添辭なり○ミチノクマは道の曲角なり○伊積は舊訓イツモルなるを春滿のイサカルに改めたるはわろし。道の隈にサカルとは云ふべからず。マデニは今のマデなり。ニに拘はるべからず○委曲毛の毛を雅澄は爾の誤字とし『下なるシバシバモのモの字にてこゝをも兼ねたり』といひてツバラカニとよめるは非なり。下のモこゝまで及ぶべけむや。なほ舊訓の如くツバラニモとよむべし○ミツツユカムヲはミツツユカム山ヲといふべきを言餘れば下なるミサケムヤマヲに讓りてヤマといふ語を略したるなり○見放武を古義に本集卷三に
  ゆくさにはふたりわがみしこのさきをひとりすぐればみもさかずきぬ
とあるに據りてミサカムとよめれど普通の格によりてなほミサケムとよむべし。ミサケムは見遣ラムなり○契沖は題辭に拘泥して即題辭に遷2都近江國1時などしるさざるによりて遷都以前に故ありて近江に下り給ひし時の歌なるべしと云へり。されど一首の調しばらく他國にものする旅の調にあらず。されば余はなほ遷都の時の歌と認む(芳樹同説)。左註には類聚歌林を引きて遷2都近江國1時御2覧三輪山1御歌焉としるせり
 
(36)   反歌
18 三輪山をしかもかくすか雲だにもこころあらなむかくさふべしや
三輪山乎然毛隱賀雲谷裳情有南畝可苦佐布倍思哉
    右二首歌山上憶良大夫類聚歌林曰。遷2都都近江國1時御2覧三輪山1御歌焉。日本書紀曰六年丙寅春三月辛酉朔己卯遷2都于近江1
 三輪山ノユクユク手前ノ山ニ隱レンハ是非モナイガセメテ雲ナリトモ心アリテ三輪山ヲ隱サザレと云へるなり。シカモはカクモなり
 
19 綜麻形乃《ヘソガタノ》林始乃さぬ榛のきぬにつくなす目につくわがせ
綜麻形乃林始乃狹野榛能衣爾著成目爾都久和我勢
    右一首歌今案不v似2和歌1。但舊本載2于此次1。故以猶載焉
 雅澄は前の長歌の題辭中なる井戸王即和歌の六字を此歌の前に附けたり。然るに額田王は女王なればそをさしてワガセといはむ事ふさはず。これによりて御杖は前の長歌を井戸王作歌とし此歌を額田王和歌とせり。されどそは意に任せたる改(37)竄にてこゝろよからず(因にいふ。加納諸平は額田王を男王とせり。其説嚶々筆語一編に見えて美夫君志卷一上七十二頁にも引けり)。井戸王の和歌は別にありしにて其歌と今の歌の題辭と共におちたるにあらざるか○綜麻形乃を契沖はヘソガタノとよみ春滿はミワヤマノとよめり。雅澄は契沖の訓によりたれどなほ三輸山の古の異名なるべきかと云へり。案ずるに古事記に見えたる三輪大神の神話によれば麻の絲の三勾《ミワ》殘れるによりて彼神のいます山を三輪といへるなり。ヘソヲ即麻絲を卷きたるものゝ形と山の形と相似たるによりてミワヤマと名づけつといふ傳説はある事なし。されば綜麻形と書きてミワヤマとよむべき理由なく又ヘソガタを三輪山の異名と認むべき理由なし。然も訓はヘソガタとよむ外はなく其ヘソは地名ガタは縣なる事雅澄の云へる如くなるべし○林始乃は契沖ハヤシノサキノと訓み春滿シゲキガモトノと訓めり。しばらく契沖の訓によるべし。或は十九卷にウノ花ヲクタスナガメノ始水ニとある始水をミヅバナとよめるに倣ひてハヤシノハナノとよむべきか○榛は枝直、宣長のハリとよめるに從ふべし。今いふハンノキの古名をハリといひ又萩の古名をハリといふ。榛は元來ハンノキのハリに當(38)る字なれど又萩のハリに借用ひたる事あり。こゝにサヌハリと云へるは野萩にてサは添辭なり。雅澄は和名抄に王孫和名ヌハリグサといへるものなりと云へれど從はれず
 
    天皇遊2獵蒲生野1時額田王作歌
20 (あかねさす)紫野ゆきしめ野ゆき野守はみずや君が袖ふる
茜草指武良前野逝標野行野守者不見哉君之袖布流
 額田王は女子にて初|大海人《オホシアマ》(ノ)皇子の妾なりしが此時皇子の御兄なる天智天皇に召されたりしなり。蒲生野は近江の地名なり。カマフのカは清みて唱ふべし
 紫野とシメ野とは別の處にあらず。こは紫ノオヒタルシメ野ヲユキツツといふべきを七五の調に從ひて二つに分けて云へるなり○ソデフルは挑むさまなり。紫の生ヒタル禁野ヲユキツツ君ガ袖フリ我ヲ挑ミタマフヲ野守ハ見ズヤハ、野守ノ見咎ムベキニ愼ミ給ヘといふ意なり○野守は眞淵は司人たちをそへたるなりと云ひ守部は天智天皇を申せるなりといひ雅澄は額田王の警衛のものをたとへたるなりと云へり。案ずるにこはただ傍人ノといふ意なるを野にての事なるからに野(39)守といへるのみ。眞淵守部などは野づらに群臣百官の立ちたる中にての事と思ひたりげなれど群臣百官の立ちたる中ならば女王は誡め給はずとも大海人《オホシアマ》(ノ)皇子の袖を振り給ふ事はあらじ。固より野といふとも林もありつかさもありて一目に見渡すべくもあらざめれば皇子の遙に女王を見附けて周圍に人の少きを見て挑み戲れ給ひしなるべし。雅澄は野守を女王の警護のものと見たれど警護のものありてそれに見咎められむことを恐れなばただ知らぬ顏にて行過ぐべし。何ぞことさらに此歌をよみて皇子の處に持たせ遣さむや。されば野守はただ傍人といふ意に釋くべし〇四五を倒置せるは結句の七字はもと三四より成りたれば野守ハ見ズヤを結句に遣れば三四にあつるに四三を以てするになりて口調よろしからねばなり。かく辭の順序を亂りてまでも古人は口調を大切にせしなり。世間に口調わろき歌をよみて萬葉の歌に擬し得たりと思へるものあるは笑ふべし
 
    皇太子答御歌
21 (むらさきの)にほへる妹をにくくあらば人づま故にわれこひめやも
紫草能爾保敝類妹乎爾苦久有者人嬬故爾吾戀目八方
(40)    紀曰天皇七年丁卯夏五月五日縱2獵於蒲生野1。于v時大皇弟諸王内臣及羣臣皆悉從焉
 ムラサキノは贈歌にムラサキヌユキといへるを承けたるなり。ソノ紫ノと釋くべし〇四五は贈歌と同じく倒置したり。倒置の理由はなほ口調の爲なり(三四に當つるに四三を以てするよりは二五を以てする方口調よろし)○ヒトヅマユヱニは人の妻なるにといふ意。ソナタハ今ハ人ノ妻ナルニモシニクク思ハバコヒメヤハ、今モニクク思ハネバコソカクハ袖フリコフルナレ、ソヲ諌ムルコトノワリナサヨとのたまへるなり
 
  明日香(ノ)清御原《キヨミハラノ》宮(ニ)御宇天皇(ノ)代
   十市《トヲチ》(ノ)皇女參2赴於伊勢神宮1時見2波多(ノ)横山(ノ)巖1吹黄《フキキ》(ノ)刀自作歌
22 河上《カハカミ・カハノヘ》のゆついはむらに草むさず常にもがもなとこをとめにて
河上乃湯都盤村二草武左受常丹毛冀名常處女※[者/火]手
     吹黄刀自未v詳也。但紀曰。天皇四年乙亥春二月乙亥朔丁亥十市(41)皇女、阿閉皇女參赴於伊勢神宮1
 此天皇は天武天皇なり
 河上は舊訓にカハカミとよめるを略解にカハノへに改めたり。いづれにてもあるべく又いづれにても河邊といふことなり(本集卷五詠2鎭懷石1歌なるウナガミの海邊といふことなるを思へ)。ユツイハムラはアマタノ岩群なり〇古義に
  年ふり古びたる巖上に草の生たるをいへるにてムサズのズの言までは關らず
といへるは非なり。草のむしたるをいかでかクサムサズとはいふべき。こは巖壁の滑にして鏡の如くなるを見て此石の如く顏色とこしへに衰へざらなむと願へるなり〇三句の下にツネナルガゴトといふ辭を補はではとゝのはず。古歌なれば是非なけれど之を範とはしがたし
 此皇女は天武天皇の御女(生み奉りしは彼額田女王なり)にて大友皇子即弘文天皇の皇后なり。御夫帝が御父帝に殺され給ひし後御父帝の許にいましゝなり
 追考 中島廣足の橿のくち葉卷二に
  猶こは舊訓のまゝにカハカミノとよむべくおぼゆ。さるは古言にカハカミとい(42)へるは今いふみなかみの事にはあらず河のほとり岸のあたりの事にて同卷に河上ノツラツラ椿云々、卷四に河上ノイツモノ花ノ云々、卷五にタマシマノコノ可波加美ニイヘハアレド云々、卷十四に河波加美ノネジロタカガヤ云々など多くカハカミとよめるさらにミナカミの事にはあらず。みな岸のほとりの事にしてよく聞ゆるなり。又卷五鎭懷石の歌の序に臨海丘上とあるを歌には宇奈加美ノとよめり。此ウナガミも地名にはあらず。ただ海のほとりの丘上を宇奈可美といへるなり。カミはただ其邊をいへるなれば河上もなずらへてしるべきなり
といへり
 
    麻續《ヲミノ》王流2於伊勢(ノ)國|伊良虞《イラゴ》ノ島1之時時人哀傷作歌
23 (うちそを)をみのおほきみあまなれやいらごがしまの珠藻かります
打麻乎麻續王白水郎有哉射等籠荷四間乃珠藻苅麻須
 麻續の續は積の誤なる事勿論なれど古書には續の字を書きならへり。焉を烏と書ける類にて殆通用ともいふべし
 日本紀に因幡に流さるとありて此歌の題辭と合はず。されば左註には題辭を後人(43)の誤記ならむと疑へり。されど因幡にイラゴガ島といふ處あるを聞かねばはやく守部の云へる如く初因幡に流さるべしと定まりしが伊勢にかはりしを紀には初の定について因幡と書けるなるべし。或は初因幡に流され後に伊勢に移されしにもあるべし。ともかくも題辭に伊勢國とあるを後人の誤記と定むるは輕率なり。さてそのイラゴノ島は今は三河に屬せり○藻を刈るは食料とする爲なる事答歌にて明なり○カルラムといはでカリマスと云へるを見れば大和の都にて人のよめるにはあらで親しく麻積《ヲミ》(ノ)王の生計に勞せるを見し人のよめるなり。恐らくは其國の司人などのよめるなるべし○アマナレヤはアマヂヤト見エテと戲れていへるにはあらでアマデモナイノニと同情して云へるなり。さればオイタハシイコトヂヤといふことを補ひて心得べし
 
    麻續王聞v之感傷|和《コタヘシ》歌
24 (うつせみの)命ををしみ浪に所濕《ヌレ》いらごの島の玉藻|苅食《カリハム》
空蝉之命乎情〔左△〕美浪爾所濕伊良虞能島之玉藻苅食
(44)    右案2日本紀1曰。天皇四年乙亥夏四月戊戊朔乙卯三品麻績王有v罪流2于因幡1、一子流2伊豆島1、一子流2血鹿《チカ》(ノ)島1也。是云v配2于伊勢國伊良虞島1者若疑後人縁2歌辭1而誤記乎
 所濕を略解にヌレとよめるは考によれるにて古義にヒデとよめるは舊訓によれるなり。自動詞のヒヅは四段又は上二段の活なればヌレテといふ意の處にヒデといふべき由なし。さればヌレとよむべし○苅食を略解にカリヲスとよめるは眞淵に從へるにて古義にカリ ハムとよめるは契沖に從へるなり。ヲスは人の上にいふべき語なればハムとよむべし○命ヲヲシミは命ヲシサニなり。命ヲ惜ミテにあらず
 
   天皇御製歌
25 みよしぬの 耳我嶺《ミミガノミネ》に 時なくぞ 雪はふりける 間なくぞ 雨はふりける その雪の 時なきがごと その雨の 間《マ》なきがごと くまもおちず 思乍叙來《モヒツツゾクル》 その山道を
(45)三吉野之耳我嶺爾時無曽雪者落家留間無曽雨者零計類其雪乃時無如其雨乃間無如隈毛不落思乍叙來其山道乎
 耳我嶺を守部雅澄はミガネノタケとよみたれど理由薄弱なり。なほ考に字のまゝにミミガノミネとよめるに從ふべし〇間を舊訓にヒマとよみ古義にマとよめり。後者に從ふべし。クマモオチズは山道ノ一曲モ漏サズにてやがて始終といふことなり○思乍叙來を略解に考に從ひてモヒツツゾクルとよめるを古義には句の頭にてオを省ける例なしといひてオモヒツツゾクルとよめり。オモフの古語はモフなり。集中の歌にモヒ、モフを以て始まれる句無きは偶然のみ。美夫君志に(元暦校本にも)コシとよめるは非なり。途上の御製なればクルとよむべくそのクルは古義に云へる如く今ならばユクと云ふべきなり○此御製は春滿季吟などの説に東宮を辭して吉野に入り給ひし時のとせるを古義に戀の御歌とせるは活眼なり。東丸等の説は史實に泥めるなり。若モヒツツゾクルの八字に後世の註者の穿鑿する如く重大なる意義あらば皇太弟は此御歌の流布すると同時に命を奪はれ給はまし。歌は時人の耳を欺き、しかも後人の心に通ずるやうにはよまれぬものぞかし
 
(46)  或本(ノ)歌
26 みよしぬの 耳我山《ミミガノヤマ》に 時じくぞ 雪はふる等言《トフ》 間《マ》なくぞ 雨はふる等言《トフ》 その雪の 不時如《トキジキガゴト》 その雨の 間なきがごと 隈もおちず 思乍《モヒツツ》ぞくる その山道を
三芳野之耳我山爾時自久曾雪者落等言無間曾雨者落等言其雪不時如其雨無間如隈毛不墮思乍叙來其山道乎
    右句々相換。因v此重載焉
 等言は考及略解にトフ古義にチフ代匠記及美夫君志にトイフとよめり。いづれにてもあるべし○不時如を略解古義にトキジクガゴトとよめるは非なりしトキジクノカグノコノミなどいふ時のトキジクは副詞なり。體言にてこそトキジクなれ。ヤマゴシノ風ヲトキジミなどあれば形容詞にも用ふるにて形容詞にてはトキジ、トキジキ、トキジクとはたらくなり。今は勿論形容詞に用ひたるなればトキジキガゴトとよむべきなり。燈、美夫君志にもしか訓めり
 
(47)   天皇幸2于吉野(ノ)宮1時御製歌
27 よき人のよしとよくみてよしといひし芳野よくみよよき人|四來三《ヨクミツ》
淑人乃良跡吉見而好常言師芳野吉見與良人四來三
     紀曰。八年己卯五月庚辰朔甲申幸2于吉野宮1
四來三は舊訓にヨキミ(ヨキ人ヨ君)とよめるを荷田春滿はヨクミに改め同|御風《ノリカゼ》は又ヨクミツに改め宣長は春滿の訓に從ひて『ミとのみいひてもミヨといふ意になる古言の例なり』といへり。東丸、宣長の訓に從へば結句のヨキヒトは御供のうちなる人となり御風の訓に從へば結句のヨキヒトも古の君子となるなり。御風の訓の方穩なり
 
  藤原(ノ)宮(ニ)御宇天皇代
   天皇御製歌
28 はるすぎて夏きたるらししろたへのころもほしたりあめのかぐ山
春過而夏來良之白妙能衣乾有天之香來山
(48) 藤原宮御宇天皇とあるは持統文武兩天皇にて天皇御製歌とあるは持統天皇なり。キタルは來到ルの約なり○シロタヘノは古義に云へる如く此御歌にては枕辭にあらず。シロタヘノコロモは白布の衣なり。白き衣なるが故に遙に新緑のひまに見えしなり。古は常の服としては貴賤ともに白きを用ひしなり。くはしくは松の落葉二卷五十丁と五十八丁とにいへるを見べし
 
    過2近江(ノ)荒都1時柿本朝臣人麿作歌
29 (たまだすき) 畝火の山の 橿原の ひじりの御世ゆ【みやゆ】 あれましし 神のことごと (つがの木の) いやつぎつぎに あめのした しろしめししを【めしける】 (そらにみつ)【そらみつ】 倭をおきて【やまとをおき】 (あをによし) なら山をこえ【ならやまこえて】 いかさまに おもほしめせか【おもほしけめか】 (あまざかる) 夷者雖有《ヒナニハアレド》 (石走《イハバシノ》) あふみの國の ささなみの 大津の宮に あめのした しろしめしけむ すめろぎの 神のみことの 大宮は ここときけども 大殿は ここといへども はる草|之《カ左△》【かすみたつ】 しげくおひ(49)たる【はる日かきれる】 かすみたつ【なつ草か】 はる日|之《カ左△》きれる【しげくなりぬる】 (ももしきの) 大宮どころ みればかなしも【みればさぶしも】玉手次畝火之山乃橿原乃日知之御世從【或云自宮】阿禮座師神之盡樛木乃彌繼嗣爾天下所知食之乎【或云食來】天爾滿倭乎置而青丹吉平山乎越【或云虚見倭乎置青丹吉平山越而】何方御念食可【或云所念計米可】天離夷者雖有石走淡海國乃樂浪乃大津宮爾天下所知食兼天皇之神之御言能大宮者此間等雖聞大殿者此間等雖云春草之茂生有霞立春日之霧流【或云霞立春日香霧流夏草香繁成奴流】
百磯城之大宮處見者悲毛【或云見者左夫思母】
 近江荒都は天智弘文兩天皇の舊都なり
 アレマシシは生レマシシ、神は天皇なり。イヤツギツギニの下にヤマトニテコソといふことを省きたり。そは下なるヤマトヲオキテに讓れるなり。文章ならばヤマトニテコソ天ノ下ヲシロシメシシカ、サルヲイカサマニオモホシメセバカソノヤマトヲオキテ云々といふべきなり(燈にも『こゝに倭爾而といふ事あるべき事なるに(50)上の從、下の倭乎置而にしるければはぶかれたる也』といへり)〇一本にアメノシタシロシメシケルとあり。眞淵は之を採りてシロシメシケルヤマトヲオキテと續くなりといへり。『此處もし續くにあらずばイカサマニオモホシメセカは此處にあるべきなり。然るに此二句の下にあるは此處に入れがたき所以あるべくそはシロシメシケルソラニミツヤマトヲオキテと續きて彼二句を挿む餘裕なき爲なるべし』とも云ふべけれどなほさにあらじ。まづシロシメシシヲとシロシメシケルとを誦しくらぶるに乙は甲に比して調弱くて一首の※[しんにょう+酋]勁なるにかなはず。次にシロシメシケルソラニミツとつづきて其間に餘裕なき爲にイカサマニ云々の二句をあとにまはしたりとせばヤマトヲオキテの直下にもおくべきをなほその中間にアヲニヨシナラ山ヲコエといふ二句をおけるを見ればイカサマニ云々の二句をあとにまはしたるは已むを得ざる爲にはあらでわざとものしたりとおぼゆ。所詮ヤマトニテコソ天ノ下ヲシロシメシシヲソノ倭ヲオキテ云々といふ意なり○ナラヤマヲコエは一本にナラヤマコエテとある方まされり○オモホシメセカも古義には或云オモホシケメカとあるに從へり。もとより過去にいふべきなれど下なるア(51)メノシタシロシメシケムのケムにて過去にきかせたるにて一の格なり。古義の説は頑なり。○オモホシメセカは下なるアメノシタシロシメシケムと相應ぜるなり(燈にも下のシロシメシケムのうちあひなりといへり)。古義の説は從ひがたし。ササナミは廣き地名なり。大津も志賀もそのササナミの内なりしなり○アメノシタシロシメケムはイカサマニオモホシメセカの結にて上なるアメノシタシロシメシシヲと呼應せり。此二句下なるスメロギノカミノミコトノと辭は切れ意はつづけり。俗語にて釋くにはソノといふ語を加へて釋くべし○古義に燈の説を承けて
  上に宮といひこゝに殿と云るはいひかへたるなり。かく同じやうの事を二句いひかへてよめること古歌に多し。此は事を懇にいはむとする時のわざなり
といへるは非なり。辭を文《カザ》れるにこそあれ○春草之シゲクオヒタル、カスミタツ春日之キレルの二ツの之は可の誤ならざるか。春草ノ繁ク生ヒテヤ見エヌ、春日ノ霞ミテヤ見エヌといへるなり。美夫君志に『宮殿は燒亡して此時は無かりしなるべし』といへり。カスミタツは春日の准枕辭、キレルは即カスメルなり。大宮ドコロは大宮の跡なり。サブシは樂からざるなり
 
(52)   反歌
30 ささなみのしがの辛崎さきかれど大宮人の船まちかねつ
樂浪之思賀乃辛崎雖幸有大宮人之船麻知兼津
 本集卷四大伴坂上郎女の怨恨歌にキミガツカヒヲマチヤ兼手六とあり。宣長は
  待兼は爰は俗にいふ待かぬる意には非ず。集中不得と書る意にて待得ざる也
といひ雅澄は
  マチカネツとはまてどもまてども待得ざるをいふ。カネは集中に多く不得とかけり。しかあらむと心にねがふことのつひにその本意を得ざるをいふ
といへり。辛崎を人に擬したるなり
 
31 ささなみのしがの【ひらの】大わだよどむとも昔の人にまたもあはめやも【あはむともへや】
左散難彌乃志我能【一云比良乃】大和太與杼六友昔人二亦母相目八毛【一云將會跡母戸八】
 ワダは※[さんずい+彎]にて岸の曲りこめる處なり。※[さんずい+彎]内の水は淀みてゆきやらぬもの、行きやら(53)ぬものは物を待つ如く思はるればシカ淀ミテ待ツトモ昔ノ大宮人ニ又逢ハムヤハ、逢ヒハセジといへるなり○ヨドメドモとあらでヨドムトモとあるより足代弘訓は
  淀むべき理はなき事なるにそはたまたま淀む事ありとも云々
といへれど(御杖同説)そは誤なり。ヨドムトモといへるはさる意にて云へるにあらず。今いふヨドミテモなり
 
   高市連黒人《タケチノムラジクロヒト》感2傷近江(ノ)舊堵1作歌
32 いにしへの人にわれあれやささなみのふるきみやこをみれば悲しき
古人爾和禮有哉樂浪乃故京乎見者悲寸
 初二はワレハイニシヘノ人ニアラナクニといふばかりの調なり。上なるウチソヲヲミノオホキミアマナレヤと參照すべし。略解に
  ワレココノイニシヘ人ニヤ有ランとをさなく疑ひてよめるなり
といへるは語調をさとらざる説なり。堵は都の通用なり
 
(54)33 ささなみの國つみ神のうらさびてあれたるみやこみればかなしも
樂浪乃國都美神乃浦佐備而荒有京見者悲毛
 雅澄は考の説に據りて
  さ々なみの地をうしはきます御神の心のあらびによりて遂に世の亂もおこりて全盛なりし京都の荒たるよしなり
といへれど二卷なる長歌に
  晝はもうらさびくらしよるはもいきづきあかし嘆けどもせむすべしらに
と云へるなど心の荒ぶることゝ釋きて聞えむや。ウラサビのサビはカチサビ、ヲトコサビなどのサビとは異にてサブシ(後世のサビシ)のサブと同じ。さればウラサブルは衰ふる事なり。今はササナミノ神ノ廣前ノサビシクナリテといふべきを(大津に都のありし程はさ々なみの國つ御神はうぶすなの神なれば崇敬淺からず廣前もにぎはしかりけむ)ただにササナミノ國ツ御神ノといひたればそれに準じてウラサビテといへるなり。ササナミノ國ツ御神は大山|咋《クヒ》神即|日吉《ヒエ》神社なり。太平記卷九尊氏著2篠村1國人馳參といふ條に
  卯月十六日は中の申の日なりしかども日吉の祭禮もなければ國津御神もうらさびて御贄の錦鱗徒に潮水の浪に溌剌たり
とあり
 
   幸2于紀伊國1時川島皇子御作歌
34 (しら浪の)濱松がえのたむけぐさいく代までにか年のへぬらむ【年はへにけむ】
白浪乃濱松之枝乃手向草幾代左右二賀年乃經去良武 一云年者經爾計武
    日本紀曰。朱島四年庚寅秋九月天皇幸2紀伊國1也
 シラ浪ノは寄スルを省きたる准枕辭なり。タムケグサは考にいへる如く手向の具といふことにて即幣の事なり。海邊の松が枝に古き幣のかゝれるを見ていくらの年をか經にけむ即いつの世にたがたむけしものぞとのたまへるなり。布を以て作れる幣の朽ちずして殘れる程なれば非常に古き事にはあらぬをさも古き事のやうに云へるがおもしろきなり。古義に齊明天皇の行幸ありし時又は中(ツ)皇女のおは (56)せし時の手向草としさては今まで殘るべくもあらねば
  そのかみたむけ給ひし具のなほあるがごとく見そなはして云々
と云へるは非なり。其物の眼前に存ずる調なる事いちじろきをや○結句一にトシハヘニケムとあり。いづれにても意は一なり。木村博士は『ヘヌラムとあるとへニケムとあるとは意異にてヘヌラムとあるに從へば今ヨリ後モナホイク代マデニカ經行ラムといふ意なり』と云へるはいみじき誤なり。ヘヌラムはフラムといふと同じとは云ひもしつべけれどそのフラムは未來の辭にあらざるをや
 
   越2勢能《セノ》山1時阿閉《アベ》(ノ)皇女御作歌
35 これやこの倭にしてはわがこふる木路に有云《アリトフ・アリチフ》名におふせの山
此也是能倭爾四手者我戀流木路爾有云名二負勢能山
 阿閉皇女は持統天皇の御妹にて後の元明天皇なり
 有云を考にアリトフとよみ古義にアリチフとよめり。いづれにてもあるべし○ナニオフといふ辭今人も歌文に用ふれどよく其意をさとらざる如し。古義にあまたの例を擧げたるにも名ヲオフといふと名ニオフといふとを混じたり。されど此二(57)つは混ずべからず。名ヲオフは名ヲ負フにて名稱を帶する事なり。たとへば六卷なる名ノミヲ、ナゴ山トオヒテ吾戀ノ千重ノヒトへモナグサマナクニは名バカリナゴ山ト稱セラレテといふ事なり。ナニオフは名ニ副《オ》フにて實の名に副《カナ》ふ事なり。これに二種ありて甲は彼名ニシオハバイザコトトハムミヤコ鳥の類、乙は十五卷なるコレヤコノ名ニオフナルトノウヅシホニの類なり。後世名高しといふ義にナニオフといふ辭を用ふるは乙の方の轉ぜるなり。まづ右の區別をよく心に銘すべし。さて今の歌は名ニオフとあれば略解古義の如くには釋くべからず。この歌の格は極めて複雜なればまづ二三の句即ヤマトニシテハワガコフルといふ十二字を除きて釋くべし。右の二句はセといふ語の序に過ぎざればなり。ナニオフは此歌にては名聲の實際に反せざる意にて彼コレヤコノナニオフナルトノウヅシホニのナニオフに同じ。されば始めて紀の國なるせの山を見たまひて
  これやかの紀路にありときく、虚名にはあらざるせの山なる
とのたまへるなり。一首の意はこれにて盡きたれどこれのみにてはただ言にて更に詩趣なし。ヤマトニシテハワガコフルといふ序を挿み給へるによりて始めて詩(58)趣は生ぜるなり。此行御夫草壁皇子は大和にとどまり給ひて御身のみものし給へれば御夫皇子を慕ひ給ふ御心折にふれて現れてセノヤマときゝ給ふにつけてもまづ御夫皇子を思出で給ひてヤマトニシテハワガコフルとのたまへるなり。ヤマトニシテはヤマトニテといふに同じくハは七字の調に從ひて填め給へるのみ。ことなる意あるにあらず。略解古義にワガコヒ奉ル夫ノ君ノソノセトイフ言ヲ名ニ負ヘルセノ山カと釋けるは非なり(古義に『そのセといふ名に負ふ山』といへるは辭だにとゝのはず。略解の如く『セといふ言を』といはざるべからず)。さる意ならばセト名ヲオフヤマといはざるべからず。畢竟ナニオフとナヲオフとを混同せるより右の如き説は起りしなり
 
   幸2于吉野宮1之時柿本(ノ)朝臣人麿作歌
36 (やすみしし) わがおほきみの きこしをす 天の下に 國はしも さはにあれども 山川の きよきかふちと (御心を) 吉野の國の (花ちらふ) 秋津の野邊に (宮柱) ふとしきませば (ももしきの) 大(59)宮人は 船なめて あさ川わたり ふなぎほひ 夕かは渡《ワタル》 此川の たゆることなく 此山の 彌高良之 珠水激《イハバシル・オチタギツ》 たきのみやこは みれどあかぬかも
八隅知之吾大王之所聞食天下爾國者思毛澤二雖有山川之清河内跡御心乎吉野乃國之花散相秋津乃野邊爾宮柱太敷座波百磯城乃大宮人者船並氏且〔左△〕川渡舟競夕河渡此川乃絶事奈久此山乃彌高良之珠水激瀧之宮子波見禮跡不飽可聞
 キコシヲスはシロシメスなり。カフチは河に抱かれたる地なり○御ココロヲのヲは普通のヲとは異にて無意義の助辭なり。ハナチラフは准枕辭○ミヤバシラはフトにかゝれる枕辭なり。もし枕辭ならずばミヤバシラフトシクとは云ふべからず。柱にシクといはむやうなければなり○フトシキマセバのフトは稱辭にてヒロ又はタカと通ひシクは領する事にてシルに同じ。さればフトシル、ヒロシル、タカシルといひ又フトシク、ヒロシク、タカシクといふなり○フナギホヒはフネナメテの對(60)なれば名詞にはあらず。フナギホフといふ動詞のはたらけるなり。現に二十卷にフナギホフホリ江ノ河ノといふ歌あり○夕河渡の渡は舊訓にワタリとよめるを宣長はワタルに改めたり。之に從ふべし○此川ノタユルコトナク此山ノイヤタカカラシ此四句細に見るに不審なる事一ならず。まづコノ川ノ如ク絶ユルコトナクといへるは何が絶ゆる事なきにか、コノ山ノ如クイヤ高カラシといへるは何が高きにか。契沖は
  臣下の仕ふる吉野川のたえぬが如く君高みくらにいます事は吉野山の高きが如くならんと也
といひ眞淵は
  山川にそへて幸と宮とをことぶけるなり
といひ千蔭は之を敷衍して
  此川の絶えざるが如く常に幸し給ひ此山の高く動なきが如くいつまでも宮ゐし給はん事をことぶける也
といひ雅澄は
(61) タユルコトナクとは此離宮の此後もたゆる事なく榮えまさむといふなり
といひ木村博士は
  此川の水のたゆる事なきが如く此山のいよゝ高く成り重なりて崩るゝことのなきが如く大宮の榮えまさむことを祝ぎたるなり
といへり。かく諸説一致せざる上にいづれの説によりても辭足らず。次にコノ山ノイヤタカカラシといひきりては次なる三句と意に何の相あづかる所もなし。歌聖豈さる拙辭を吐かむや。されば此四句には誤脱あるべし。少くとも彌高良之の一句はなほ研究せざるべかりず。因にいふ。本集十八卷なる家持の長歌に
  この河のたゆることなくこの山のいやつぎつぎにかくしこそつかへまつらめいやとほながに
とあり。かくてこそいふべき所なけれ。更に案ずるに彌高良之の之は牟の誤か。もし然らばコノ川ノ云々の四句はタキノミヤコにかゝれるなり(なほ思ふに高も固などの誤か)○珠水激は考にイハバシルとよめるを古義に殊を隕の誤としてオチタギツとよめり○タキノミヤコは瀧川の邊にあるが故に云へるなれど當時稱して(62)タキノ宮またタキノ都とぞいひけむ
 
   反歌
37 みれどあかぬ吉野の河のとこなめのたゆることなくまたかへりみむ
雖見飽奴吉野乃河之常滑乃絶事無久復還見牟
 トコナメは集に常滑と書けるにつきて諸家皆文字の如き意とせり。就中眞淵は
  常しなへに絶えぬ流の石にはなめらかなるものゝ附けるものなり。そを即體にトコナメといひなして事の絶せぬ譬にせり
といへり。石をトコといはばこそそれに附きたる滑なる物をトコナメともいはめ。とこしへに絶えぬ流の石に附きたるをトコナメといふべけむや。千蔭は
  とこしへにいつもかはることなく滑なる由なり
といへれど卷九に妹ガ門イリイヅミ河ノトコナメニミユキノコレリイマダ冬カモとある、滑なる物とせざれば(即略解にいへる如く滑なる事としては)かなはず。雅澄は底滑の義とし水底の石に生ずる植物の名とせり。されど川ノ流ノ如クタユル事ナクといはで物遠く其川ノ水底ニ生ジタル或植物ノ如クタユル事ナクと云は(63)むはいかがなり。案ずるにトコナメのトコはトコイハの略にて頂平なる岩の事なるべくナメは並なるべし。木曾川に寢覺の床とてあるも頂平なる岩なり。本集十一卷にコモリクノトヨハツセヂハトコナメノカシコキミチゾオコタルナユメといふ歌あり。さればトコナメは川中に頂いささか平なる岩を竝べて川を渡る科としたるなり。集中に又之をイハバシと云へり。畢竟飛石なり○上三句はタユルにかかれる序なり。眼前の物を以て序としたるなり○マタカヘリミムは又立歸リテ見ムにて此後モ度々來テ見ヨウと云へるなり
 追考 嚶々筆語二編に
  萬葉三に常磐成石室、同十一に常石有命哉など常磐常石とかきてあればトコイハをつづめてトキハといへる事諭なし。されど常(ノ)字に泥(ム)べからず。同六に人皆ノ壽《イノチ》モ吾モミヨシヌノタギノ床磐《トキハ》ノツネニアラヌカモとある床磐の文字に隆正はこころひかるるなり。さてトコイハをトキハとつづめいふたぐひは合語の一格にて例おほかり。カキハを堅石ともあるにより誰もカタキイハといふ詞のつづまりと心得めれどこれはいかにいひ試てもさはつづまらず。例もなし。垣磐の(64)イをはぶきたる合語の格とおもはるる也。キの前イなればカキイハをカキハといふは事もなし。しか思ふよしは古今集にオク山ノイハガキモミヂチリヌベミ云々の歌なるイハガキ、カキイハともに壁立せる大石をいふめれば横にたひらかなるを床磐といひ縦に聳たるを垣磐といひてそれを合語の格にてトキハカキハといへる物とみれば語釋いとやすし。堅石とかけるは義をとれる物ならむ。又|壁磐《カキイハ》のうつしあやまりにてもあるべし
とあり(野之口隆正ときはかきは)
 柳田國男云はく。地名に床波、床鍋、床編、常滑あり。トコは祭壇即岩にてナミは並なり。上古岩を道路の傍又は邑里の境に立て或は天然の岩を利用して地鎭の祭を行ひき。其祭壇をクラ又はトコといふ。石の數二箇より十數箇に及ぶ。播磨加西郡に鎭石と書きてトコナミと呼ぶ村ありと
 
38 (やすみしし) わが大きみ かむながら かむさびせすと 芳野川 たきつかふちに 高殿を たかしりまして のぼりたち 國見をすれば (疊有〔左△〕《タタナヅク》) 青垣山 山つみの まつるみつぎと 春べは 花かざ(65)しもち 秋たてば もみぢかざせり【もみぢばかざし】 ゆふ川の 神も 大みけに つかへまつると かみつ瀬に 鵜川を立《タチ》 しもつ瀕に さでさし渡《ワタシ》 山川も よりてつかふる 神の御代かも
安見知之吾大王神長柄神佐備世須登芳野川多藝津河内爾高殿乎高知座而上立國見乎爲波疊有青垣山山神乃奉御調等春部者花挿頭持秋立者黄葉頭刺理【一云黄葉加射之】遊副川之神母大御食爾仕奉等上瀕爾鵜川乎立下瀬爾小網刺渡山川母依※[氏/一]奉流神乃御代鴨
 カムナガラを契沖は神ソノママニテの意なりといひ眞淵は神ニオハスルママニといふ意なりといひ雅澄は御杖の説によりて
  ナガラといふ詞は俗言にソレナリニといふほどの意なり
といへり。案ずるに神トマシマシテといふばかりの意なり。獨語のゲットリッヒ(英語のゴットライク)や之に當らむ。因にいふ。日本紀孝コ天皇の卷に
  詔曰|惟神《カミナガラモ》我子|應v治故寄《シラサムトコトヨサシキ》是以|與《ヨリ》2天地之初1君臨之國也
(66)とありて惟神の註に
  惟神者謂d隨2神道1亦自有c神道u也
とあり。これによりて神ながらの道といひならへり。案ずるにカミナガラモはこゝにては天皇(即本文の我子)の御所爲に云へるにあらで天照大神の御所爲に云へるなり。即カミナガラモはシラサム〈應治)にかゝれるにあらでコトヨサシキ(故寄)にかかれるなり。カミナガラモのモはシラサムにかゝれりと誤り心得てよみそへたるなれば除くべく又カミナガラはカムナガラに改むべし。進みて案ずるに詔曰と惟神との間に
  豐葦原|千五百秋《チイホアキ》之瑞穗(ノ)國者天照大神
などいふ辭のおちたりとおぼゆ。即もとは
  豐葦原(ノ)千五百秋の瑞穗(ノ)國は天照大神かむながら『我子しらさむ』とことよさしき
などいふ文なりしなるべし。さて註なる惟神者云々の十三字はカムナガラをシラサムにかゝれりと心得たる後人の心得ぬままに書加へし註にて實に筋も通らぬ拙文なり。恐らくは神道者流のさかしらなるべし。之を深き心ありげに釋きなすは(67)いとをこなる事なりかし○カムサビは二義あり。今のカムサビはカムサビヲルカコレノミヅシマなどのカムサビとは異にて進みて事を行ふ意にて引籠り居る事のうらなり○タキツカフチは瀧川即急流の河内なり。タキツは動詞にあらず。タキノの意なり○タカドノヲタカシリマシテはわざと同音を重ねたるなり○疊有を舊訓にタタナハルとよめるを眞淵宣長は有を付の誤とし雅澄は有を著の誤として共にタタナヅクとよめり(眞淵の説は冠辭考に見えたり。考にはなほタタナハルとよめり。宣長の説は記傳二十八卷に出でたり)○アヲガキ山は連山なり。連山は青き垣に似たればかく云へるなり。おそらくはいにしへいけ垣をアヲガキといひしならむ。古事記神代之卷に青|紫《フシ》垣とあるも柴のいけ垣ならむ。さて宣長は青垣山の下にノをよみそへずして六言の句としたり。げに青垣山が花をかざし紅葉をかざす意ときこえたればノをよみつくべきにあらず○考、略解、美夫君志はモミヂカザセリといひ切るべしといひ燈、古義はモミヂバカザシの方を採れり。案ずるに此長歌は左圖の如き構造なれば
  やすみしし…國見をすれば たたなづく青垣山…もみぢばかざし 山川も
               ゆふ川の……さでさしわたし    
(68)モミヂバカザシとよむべし○ユフ川は考に地名なるべしといへり○カミモを從來三字の句としたれど云ふべき事をおもひ得ずて三字のまゝにさしおきたるやうにて拙し。恐らくは落字あるべし。景樹は『ユフ川ノ川門ノ神モとありしか』といひ芳樹は遊副川之神母とある之を々の誤としてユフカハ、カハノカミモとよめり。しばらくユフ川ノカハセノ《四字傍点》神モの脱字とすべし。川門は川の渡場にて魚を捕るにふさはしき處にあらねばなり○鵜川乎立を諸註ウガハヲタテとよみたれど十七卷にウナビガハキヨキセゴトニ、宇加波多知カユキカクユキ、ミツレドモソコモアカニト同卷にメヒガハノハヤキセゴトニカガリサシヤソトモノヲハ字加波多知家里、十九卷にシクラガハセヲタヅネツツワガセコハ宇河多々佐禰ココロナグサニなどあればウガハヲタチとよむべくそのウガハヲタチは鵜を使ひての漁獵を催す事なり。諸註のうち考のみはウガハヲタチとはよみたれど
  川の上下を多くの人もて斷《タチ》せきて中らにて鵜を飼ものなれば斷といふべし
と云へるはくちをし。宣長の
  鵜川をする人共をたゝするを云也
(69)と云へるはタテとよみての上の説なれば評するに及ばず。此タツは四段にはたらく他動詞にてミカリタタスとあるタツも是なり。前に云へる如く催スと釋すべし○サデサシの下なる渡を古義、美夫君志にワタスとよめるは非なり。上に圖示して云へる如くワタシとよみて下へ續くべし○サデサシはさでを張る事なり。サデは果して今いふサデにやおぼつかなし。サシワタシといへる此方の岸より彼方の岸にはりわたす事ときこゆればなり。芳樹も亦不審を抱けり○ヨリテツカフルにて上なるクニミヲスレバを受けたり。又カミノ御代カモは上なるカムナガラカムサビセストと呼應せり
 
   反歌
39 山川もよりてつかふ流〔左△〕《レ》かむながらたきつ河内に船出せすかも
山川毛因而奉流神長柄多藝津河内爾船出爲加母
    右日本紀曰。三年己丑正月天皇幸2吉野宮1、八月幸2吉野宮1、四年庚寅二月幸2吉野宮1、五月幸1吉野宮1、五年辛卯正月幸2吉野宮1、四月幸2(70)吉野宮1者《トイヘリ》。未3詳知2何月從駕作歌1
 雅澄が山川モヨリテツカフルタキツ河内ニカムナガラ《十一字傍点》船出セスカモといふべきを下上に云へるなりといへるはあやなし。因而奉流の流は禮の誤にてそのツカフレはツカフルニの意ならむか○カフチは河の行廻れる裏をいふ。されば陸の名なり。さるをその河内に船出すといへるはいかが。恐らくは河内ニは河内ユの意ならむ。即卷六なるワタノソコ、オキツイクリニ、アハビタマ、サハニカヅキデのニと同例ならむ
 
   幸2于伊勢國1時留v京柿本朝臣人麿作歌
40 あごの浦にふなのりすらむをとめらが珠裳のすそにしほみつらむか
嗚呼兒乃浦爾船乘爲良武※[女+感]嬬等之珠裳乃須十二四寶三都良武香
 古義に御杖の説を承けて
  ヲトメラとは數人をさしていふごとく聞ゆれども猶心にさす女ありけるなるべし
(71)といひその女をおもひやり憐みてよめるなるべしと云へるはいかが、女房たちの物めづらしさに定めて喜び騷ぎて遊びをる事ならむと云へるなり。長き裳をかかげて船に乘らむとたゆたふほどにみちくる潮に裳の据をぬらしまどふらむさま目に見ゆるが如くならずや
 
41 (釧著《クシロツク》)たふしの崎に今もかも大宮人の玉藻かるらむ
劔〔左△〕著手節乃崎二今毛可母大宮人之玉藻苅良武
 釧著は春滿始めてクシロツクとよめるを雅澄は著を卷の誤としてクシロマクに改めたり。前者に從ふべし○雅澄は例の御杖の説に據りて此歌の大宮人をも必さす人ありてよめるなるべしといへり。うべなひ難し○又タマモカルラムをいかにわびしくやあるらむとおもひやらたる意なりといへるは殆常識を外れたり。これも物めづらしさに大宮人が藻刈りなどして遊ぶらむと云へるのみ○今モカモは今ヤといふことなり
 
42 しほさゐにいらごの島邊こぐ船に妹のるらむかあらき島回《シマミ》を
潮左爲二五十等兒乃島邊※[手偏+旁]船荷妹乘良六鹿荒島回乎
(72) シホサヰは眞淵は滿潮の時波の騷ぐをいふといひ御杖は滿潮の音をいふといへり。音の事としてはニといへる穩ならず。なほ眞淵の説に從ふべし○島回は舊訓にシマワとよめるを雅澄シマミに改めたり。雅澄の訓によるべし。但ミをモトホリの約とせるはいかが。語はしか限なくつづまるものにあらず。ミはメグリといふことなり○ヲは燈に云へる如くナルニの意なり〇三首の調を思ふに人麿は曾て此地方に遊びしならむ
 
   當麻《タギマ》(ノ)眞人《マヒト》麿(ノ)妻作歌
43 わがせこはいづくゆくらむ(おきつもの)なばりの山をけふかこゆらむ
吾勢枯波何所行良武巳津物隱乃山乎今日香越等六
 ナバリは伊賀國名張なり○これも京に留りてよめるなるを留京といふことは前の歌の題辭に讓りて書かざるなり。さればこそ次の歌には特に從駕と書けるなれ
 
   石上《イソノカミ》(ノ)大臣從v駕作歌
44 (わぎもこを)いざみの山をたかみかもやまとのみえぬ國とほみかも
(73)吾妹子乎去來見乃山乎高三香裳日本能不所見國遠見可聞
    右日本紀曰。朱鳥六年壬辰春三月丙寅朔戊辰以2淨廣肆廣瀬王等1爲2留守宮1。於v是中納言三輪朝臣高市麿脱2其冠位1フ2上於朝1重諌曰。農作之前車駕未v可2以動1。辛未天皇不v從v諌遂幸2伊勢1。五月乙丑朔庚午御2阿胡行宮1。
 伊勢國にイザミノ山といふ山あるべし。結句は又ハ國遠ミカモ大和の見エヌとなり。石上大臣も名を麿といひき
 
   輕(ノ)皇子宿2于安騎《アキ》野1時柿本朝臣人麿作歌
45 (やすみしし) わがおほきみ (高照) 日のみこ かむながら かむさびせすと ふとしかす みやこをおきて (こもりくの) はつせの山は 眞木たつ 荒山道を いはがねの しもとおしなべ (さかとりの) 朝こえまして (玉限《タマカギル》) ゆふさりくれば み雪ふる 阿騎《アキ》の大野に はたすすき 四能〔左△〕乎《シヌヲ》おしなべ (草枕) たびやどりせす 古昔念(74)而《イニシヘオモヒテ》
八隅知之吾大王高照日之皇子神長柄神佐備世須登太敷爲京乎置而隱口乃泊瀬山者眞木立荒山道乎石根禁〔左△〕樹押靡坂鳥乃朝越座而玉限夕去來者三雪落阿騎乃大野爾旗須爲寸四能乎押靡草枕多日夜取世須古昔念而
 高照を舊訓にタカテラスとよめるを眞淵古事記景行天皇の段の歌にタカ比迦流ヒノミコヤスミシシワガオホキミとあるによりてタカヒカルと改めよめり。されどタカヒカルならば高光とかくべし。ことさらに高照とは書くべからず。其上タカテラスといひて通ぜざるにあらず。タカは前にもいへる如く天といふ事(今も空をタカといふ地方あり)テラスはテルの敬語にてタカテラスは即アマテラスといふに同じ。辭はさまざまにいふべし。必しも一には限るべからず。さればなほタカテラスとよむべし。さてそのタカテラスは無論日の枕辭なり(燈同説)○カムサビセスの事は前に云ひたれどなほ此處につきて云はば靜に藤原(ノ)宮に居給はで安騎野にい(75)でますが即かむさびし給ふなり。フトシカスは住ミタマフなり○マキを檜とするは眞淵の説なり。アラ山道ヲのヲはナルヲなり○玉限は舊訓にタマキハルとよめるを眞淵は限を蜻の誤としてカギロヒノに改め雅澄はもとのまゝにてタマカギルとよめり。雅澄の訓に從ふべし○ハタススキ四能乎オシナベはハタススキを枕辭とする説とはたすゝきのしなひとする説と、はたすゝき及小竹とする説とあり。又契沖は萬葉にはヲとニと互に通はしたりといひてハタススキヲシノニオシナムルなりといへり。されど處にこそよらめかゝる處にニをヲといふべきにあらず。雅澄は四能乎を四奴爾の誤字としてシヌニとよめり。案ずるに下なる梓弓、ユギトリオヒテまた卷十九なるアラキ風、浪ニアハセズと同格にてハタススキ及小竹ヲオシナベと云へるならむ。四能は四奴の誤字とすべし。當時未シノと云はねばなり○尾句は舊訓ムカシオモヒテ眞淵イニシヘオボシテ千蔭イニシヘオモヒテ雅澄イニシヘオモホシテとよめり。反歌にも古部《イニシヘ》オモフニとあれば古昔はイニシヘとよむべし。オボシテは後世の音便なれば論の外なり。オモヒテとオモホシテといづれか可なるといふに反歌のイニシヘオモフニは臣下の心なればオモフニにて可(76)なれど今は皇子の御心なれば敬語なくてはかなはずと思ひてオモホシテと雅澄等はよめるなれど歌は言數に限あれば語毎に敬辭を用ふべきにあらず。今は敬辭はタビヤドリセスのセスに讓りてあるべきなり。さればイニシヘオモヒテとよむべし○上なるカムナガラカムサビセストはタビヤドリセスまでにかゝれり○オシナベの重出せる、心ゆかず。おそらくは傳の誤れるならむ。禁樹は楚樹の誤か
 
   短歌
46 阿騎《アキ》の△《ヌ》に宿旅人《ヤドレルタビビト》うちなびきいもぬらめやもいにしへおもふに
阿騎乃爾宿旅人打靡寐毛宿良目八方古部念爾
 短歌は一般の例によらば反歌とあるべきなり。但下にも例あり
 二句舊訓にヤドルタビビトとよめるを雅澄ヤドレルタビトに改めたり。雅澄の訓やすこしまさらむ○旅人は輕皇子の一行にて其中に作者もこもれるかと思へどさらばイモネメヤモと云はざるべからず。然るにイモヌラメヤモと云へるを思へばタビトは皇子御一人を指し奉れるなり。ウチナビキは横になる事にて寢る事の形容なり。イは睡眠なり。現今はただヌルといへど、いにしへはイヲヌルといひしな(77)り
 
47 まくさかる荒野にはあれど(△葉《モミヂバノ》)すぎにし君がかたみとぞこし
眞草苅荒野者雖有葉過去君之形見跡曾來師
 燈に
  人ぢかき野は草も常に刈れば荒野ならではよき草も生ひねばなり。かゝる荒野はただ草かるをのこなどこそは來れ。なべてのものゝ來べき野にはあらねどとの心也
といへるを例の如く雅澄の承けて
  人氣遠き野は草も生繁りてあればさる荒野に行て草を刈ゆゑにいへるなり
といへるは非なり。マクサカルのカルは一種の代語なり。もし言數に制限なくばマクサシゲレルといはまし。カルとあるに泥むべからず○スギニシはウセシなり。君は草壁皇子を指せるなり
 
48 ひむかしの野にかぎろひのたつみえてかへりみすれば月かたぶきぬ
東野炎立所見而反見爲者月西渡
(78) ヒムカシノ空ニといはでヒムカシノ野ニといへるを思へばこゝのカギロヒはかの遊絲繚亂碧羅天など云へる類にはあらで地中よりのぼる水蒸氣の陰なるべし○カヘリミスレバは西ノ方ヲ見レバとなり
 
49 日雙斯△《ヒナミシヌ》みこのみことの馬なめて御獵たたしし時はきむかふ
日雙新星子命乃馬副而御獵立師斯時者來向
 日雙斯を契沖はヒナメシと四言によみ千蔭はヒナメシノとよみ雅澄は斯を能の誤としてヒナミノと四言によめり。案ずるに日雙はヒナミとよむべし。ヒナミは准日にて天皇ト齊シクといふことなり。草壁皇子は御父天武天皇の御晩年より御母持統天皇の御代にかけて萬機を攝したまひしかば本集卷二に日並《ヒナミノ》皇子といひ他の古典古文に日並知《ヒナミシラス》皇子、日並|所知《シラス》皇子、日並|御宇《シラス》東宮など云へるなり。さて此處はもと日雙斯須《ヒナミシス》とありし須をおとせるならむ。ヤスミシラシをヤスミシシといへるを思へばいにしへシラスをシスとも云ひしなり○ミカリタタシシは三卷長皇子遊2獵路池1之時柿本朝臣人麿作歌に
  馬なめて三獵立流わかごもをかりぢの小野に云々
(79)とあるを久老は釋して
  立は鵜川タツなどいふ立にて御獵人の立をいふ
といへり。こは此卷幸2于吉野宮1之時柿本朝臣人麿作歌の中に鵜川乎立とあるを宣長の釋して
  立は本のまゝにタテと訓べし(○眞淵のタチと改め訓めるに對して云へるなり)。是は御獵立又は射目立などのタテと同くて鵜に魚とらする業を即鵜川といひて其鵜川をする人共を立するを云也
といへるを學べるなり。雅澄は之に對して
  立は皇子の上に限りて申せるなり。御|列子《カリコ》を立せ賜へると云にはあらず。供奉の列卒の事はいふまでもなし
といへり。細に思へば此辭たやすく解すべからず。立を皇子にまれ獵人にまれ人の立つこと々せむにミカリタツとはいふべからず。或は云はむミカリタツはミカリニタツのニを省けるなりと。げに六の卷なるウマナメテミカリゾタタスハルノシゲ野ニの如きはニを省けりとも見るべし。されどミカリニタタスといふべきをニ(80)を省きてミカリタタスと云はむに御獵に出立つことゝ心得べく御獵場に立つ事とは心得べからず。されば宣長、久老、雅澄の説は從はれず。今集中に此辭を用ひたる例を集むるに
 一 日雙斯みこのみことの馬なめて御獵立師斯ときはきむかふ 即今の歌
 二 馬なめて三獵立流わかこもをかりぢの小野に 卷三長歌
 三 朝がりにししふみおこし夕狩にとりふみたてて馬なめて御※[獣偏+葛]曾立爲はるのしげぬに 卷六長歌
 四 朝がりに今たたすらし夕がりにいまたたすらし 卷一長歌
 五 ますらをは御※[獣偏+葛]爾立之をとめらは赤裳すそびくきよきはまびを 卷六
 六 たつか弓手にとりもちて朝がりに君は立之奴たなくらの野に 卷十九
 右のうち四五六にはニの言あり。而して六にタタシヌとあれば(即タタセリといはねば)四五六のカリニタタスは獵に出立つ事なること明けし。三はミカリニゾタタスのニを省けりとして四五六に同じき意と見られざるにもあらねどアサガリニシシフミオコシユフガリニトリフミタテテといふことミカリゾタタスより前に(81)あればなほ狩に出立つといふ意にあらじ。即ミカリニのニを省けるにあらじ。されば三はなほ一二に同じ。案ずるにミカリタタスとミカリニタタスとはもとより別意なる辭にてミカリタタスは御獵を催し給ふといふ事なり。ウガハタツ(又ウガハタタス)が鵜を使ひての漁獵を催す事なることははやく上に云へり○時ハ來ムカフは時節ニハナリヌとなり
 
   藤原宮之役民作歌
50 (やすみしし) わがおほきみ (たかてらす) 日のみこ (あらたへの) 藤原がうへに をす國を めしたまはむと 都宮《ミアラカ・オホミヤ》は たかしらさむと かむながら おもほすなべに あめつちも よりてあれこそ (磐走《イハバシノ》) あふみの國の (衣手の) たなかみ山の (まきさく) ひのつまでを (もののふの やそ)うぢ河に (玉藻なす) うかべながせれ そをとると さわぐ御民も 家わすれ 身もたな不知《シラズ》 (鴨じもの) 水にうきゐて わがつくる 日の御門に しらぬ國 よりこせぢより (82)わが國は とこ世にならむ ふみおへる あやしき龜も 新代《アラタヨ》と いづみの河に もちこせる 眞木のつまでを (ももたらず) いかだにつくり 泝須良武 いそはく見れば 神隨爾有之《カムカラナラシ》
八隅知之吾大王高照日之皇子荒妙乃藤原我宇倍爾食國乎賣之賜牟登都宮者高所知武等神長柄所念奈戸二天地毛縁而有許曾磐走淡海乃國之衣手能田上山之眞木佐苦檜乃嬬手乎物乃布能八十氏河爾玉藻成浮倍流禮其乎取登散和久御民毛家忘身毛多奈不知鴨自物水爾浮居而吾作日之御門爾不知國依巨勢道從我國者常世爾成卒圖負留神龜毛新代登泉乃河爾持越流眞木乃都麻手乎百不足五十日太爾作泝須良牟伊蘇波久見者神隨爾有之
    右日本紀曰。朱鳥七年癸巳秋八月幸2藤原宮地1。八年甲午春正月幸2藤原宮1。冬十二月庚戊朔乙卯遷2居藤原宮1。
 日ノミコは即オホキミにてこゝにては共に天皇を申し奉れるなり。フヂハラガウ(83)ヘのウヘはタカヌハラノウヘなどのウヘと同じく高地といふ意なる事考にいへる如し。ヲスグニは御領國なり。メスは治ムなり○都宮を眞淵はミアラカ又オホミヤとよみ雅澄はオホミヤを採れり。いづれともよむべし。タカシラスのタカはたゝへ辭、シラスはこゝにては占むる事なり○カムナガラは前に云へる如くカミトマシマシテといふ事にて其意茫漠たれば處によりてふさはしく釋くべし。こゝは神慮ニなど釋きて可なり○オモホスナベニまで十二句の大意は天皇ガ藤原ニ皇居ヲ造營セムトオボスママニといふ事なり
 ヨリテアレコソは天神地祇モ依リ從ヒタレバコソなり。契沖以下多くはヨリテアレバコソアラメのアラメを略したるやうに心得たるは非なり。コソの結はナガセレなり(御杖景樹同説)。古義に
  このコソを下のウカベナガセレにてとぢめたるものとせむは非ず。さては宮材を浮べ流すことのみを天神地祇のしろしめし給ふ由にて大宮づくりのなべての上をば神祇のしろしめさぬ意になれば協ひがたし
といへるは却りて非なり。近江の田上山にて伐り出したる材木を大和の藤原に送(84)るに瀬田川に投ずれば自然に流れて宇治河を經て木津川との落合に到るをここに役民が待取りて筏に組みて木津川をさかのぼせ今の木津あたりにて陸に揚げて陸路を藤原に運ぶなり。彼落合よりさきは人力によりて運送する事なれど瀬田川より落合即今の八幡の附近までは天然の力による事なればそれを天神地祇の手傳とは云へるなり。さればウカベナガセレは神祇のしわざにて田上の杣人のしわざにあらず○タナカミヤマは近江國の西南隅にありて瀬田川の東方に當れり。ツマデは角材なり○アメツチモよりウカベナガセレまで十二句の大意は天神地祇モ天皇ニ依リ從ヒタレバコソ御造營ノ御手傳トシテ近江國ノ田上山ノ檜ノ材木ヲ瀬田川ヨリ宇治川ニ浮ベ流シタレとなり
 ソヲトルトは其材木ヲトリトドムトテなり。略解に『陸へあげて』といひ古義に『陸地に取上れば』といへるは非なり○サワグ御民モのモはモ亦のモにて天神地祇に對していへるなり○不知を舊訓にシラズとよめるを古義にシラニとよめり。もとのまゝにても然るべし。さて身モタナシラズは夢中ニナツテ、己を忘レテなどいふ意とおぼゆ○ワガツクルより下九句はイヅミノ川の序とおぼゆれば煩はしきを避(85)けて後に讓るべし○モチコセルはモチキタレルなり。自然に任せなば淀河の川下へ流れゆくべきによりて人の力にていづみ川の川口へもちゆくなり。このモチコセルをあしく心得て略解古義などに一旦陸に引上げて更に泉川に浮ぶる事としたるなり。水利のよきに從はずして何ぞ煩はしく陸上を運搬せむや思ふべし○イヅミノカハニモチコセル眞木ノツマデヲモモタラズイカダニツクリはただイヅミノカハニモチコシテイカダニツクリといふべきを上にヒノツマデといひし後既にあまたの句をつらねたるにワガツクル云々の九句をさへ挿みたればこゝに更にマキノツマデといふ語を用ひたるなり。モチコセル彼マキノツマデヲとカノといふ語を加へて釋くべし。さて上にヒノツマデといひこゝにマキノツマデといへるにてもマキ即檜なる事を知るべし○ノボスラムは泉川ヲノボスラムなり。さて考に
  ラムといふは田上の宮材に仕へ奉るものゝおしはかりていへるなり
と云へるは上なるウカベナガセレを誤りて田上山にて材木を切出すものゝしわざと見、從ひて此歌を田上山にて役民の作れるなりと見たるなれば論ずるに足ら(86)ず。宣長、雅澄は藤原より思遣りてよめるなりとせり。此説は穩なるに似たれどなほイソハクミレバのミレバにかなはず。イソハクはイソフの延言にてイソフは木村博士の發明によれば競ひ爭ふことなり。キソヒアラソフヲミレバとは藤原にて想像していふ辭にあらず。必現場にていふ辭なり。されば宣長もイソハクは藤原にての事としたれどモモタラズイカダニツクリノボスラムイソハク見レバと續きたる辭を斷切りてノボスは他處にての事、イソハクは藤原にての事とは見るべからず○さてノボスラムイソハクミレバといふ續すこし穩ならず。試にいはばノボセムトイソハクミレバとありしを今の如く傳へ誤れるにはあらざるか。果して然らば此長歌は淀川と木津川との落合にてよめるなり○神隨爾有之を考にカムナガラナラシとよめるを燈にカムガラナラシに改めたり。燈の訓に從ふべし。さてそのカムガラナラシはゲニ天皇ハ神ニマシマストオボユといふ意なり。木村博士は神隨ナラシをヨリテアレコソの結としたり。其説の非なる事は前に述べたる所にて明なるべし○ソヲトルト以下の意はソノ材木ヲトリトドムトテ立騷グ御民ハタ家ヲ忘レ身ヲ顧ミズ水ニウキヰテ彼材木ヲ泉川ニ持來リソヲ筏ニ作リテ川上ニ(87)ノボセムト競ヒ爭フヲ見レバゲニ天皇ハ神ニマシマストオボユといへるなり
 ワガツクル以下九句古義は殆全く宣長の玉勝間の説に據れり。さればまづ玉勝間(十三卷八丁)の説を抄せむに
  シラヌ國ヨリの七言はコセヂの序、又ワガ國ハトコ世ニナラムフミオヘルアヤシキカメモ新代ト以上五句はイヅミ河の序にて本文はワガツクル日ノ御門ニコセヂヨリイヅミノ河ニモチコセルマキノツマデヲイカダニツクリノボスラムとつづくなり。さて巨勢は藤原の南方に當れば泉川をのぼせて北方より運送するには巨勢を經べからず。されば近江より宇治川に流れ來れる材木を一旦泉川にもちこして筏に作りそを再宇治川にかへし淀河を經て海に流し今の攝津和泉の海を經て紀伊の紀ノ河の河口に到りその河をさかのぼせて大和に到り巨勢路を經て藤原に運ぶなり。ノボスラムは紀(ノ)河をノボスラムなり
 宣長の説は大略右の如し。運送の便否は必しも途の遠近によらねば大まはりにまはりたる方或は便よきにや知らねどイヅミノ河ニモチコセルマキノツマデヲイカダニツクリノボスラムとあるをいかでか紀河ヲノボスラムとは釋かむ。又泉川(88)にて筏に作り淀川、海路、紀ノ川を經て巨勢より藤原に運ぶならむにはコセヂヨリといふ事最後にこそあるべけれ。いかでかイヅミノ河より前に云はむ。されば宣長の説は例にはたがひて穩健ならず。いで余の説を述べむにワガツクル、日ノ御門ニ、シラヌ國、ヨリコセヂヨリ、ワガ國ハ、トコ世ニナラム、フミオヘル、アヤシキ龜モ、新代ト以上九句はイヅミノ河の序、その中にて更にワガツクル、日ノ御門ニ、シラヌ國、ヨリの三句二言はコセヂの序なり。日本紀には見えざれど持統天皇の御治世の初に大和の巨勢路より神龜の出でしことあるなり。今は其事實を述べてイヅミノ河の序とし更に外蕃來貢といふ祝意をコセヂの序としたるなり。立返りて句々の意を釋かむにワガツクル日ノ御門ニは今我々ノ造營スル皇居ニなり。吾は或は今の誤にもやあらむ。シラヌクニ、ヨリコセヂは聞知ラヌ外蕃ガ寄リ來レといふことを巨勢路にいひかけたるなり。トコヨはトコトハナル世なり。トコ世ニナラムフミはトコ世ニナルベキ瑞文なり。ワガ國ハのハはノの誤にはあらざるか。フミオヘルアヤシキ龜は甲に吉瑞の文字ある神龜なり。新代は舊訓にアタラヨとよめるを久老アラタヨとよみ改めたり。そのアラタヨを古義に藤原の新宮とせるは非なり。此天皇の(89)新御代なり
 さて此歌は夙く宣長の云へる如く眞の役民の作歌にはあらで名ある歌人の名を役民に托して作れるものなる事言ふを待たず。おそらくは柿本朝臣人麿の作ならむ
 
   從2明日香宮1遷2居藤原宮1之後志貴(ノ)皇子御作歌
51 ※[女+采]女乃《タワヤメノ》そでふきかへすあすか風みやこをとほみいたづらにふく
※[女+采]女乃袖吹反明日香風京都乎遠見無用爾布久
 初句は考には※[女+采]を※[女+委]の誤としてタワヤメノとよみ(舊訓はタヲヤメノ)古義には媛の誤としてヲトメノとよめり。字はいかにもあれ訓は考に從ふべし○ソデフキカヘスは略解古義に云へる如く、フキカヘシシといふべきを言數に制せられて、フキカヘスと云へるなり。木村博士が宣長の説を引きてフキカヘスベキの意と認めたるは非なり。過去を現在にいへる例は二卷にもタケバヌレタカネバナガキ妹ガ髪コノゴロミヌニカカゲツラムカとあり○題辭に遷居とあるを考に『居は此皇子をさすのみ』といひ古義にも『此皇子の遷り座しをさして云』といへれどイタヅラニフ(90)クと決定してのたまへる、明日香にてよみ給ひし調なれば遷居とあるはなほ天皇の御上をいへるにて皇子は遷都後なほしばらく明日香に殘り給ひしか又は藤原に遷り給ひし後明日香にかへり給ひしことありてよみたまひしなり。なほ下なるトブトリノアスカノサトヲといふ御製の註を見合すべし〇一首の意は此處に都ノアリシ時ハ風モ美女ノ袂ヲ吹返シシガ今ハタダ徒ニ吹ク事ヨといへるにて舊都の衰へたるを嘆けるなり
 
   藤原(ノ)宮(ノ)御井《ミヰ》歌
52 (やすみしし) わごおほきみ (たかてらす) 日のみこ (あらたへの) 藤井が原に 大御門 はじめたまひて はにやすの 堤のうへに ありたたし 見之《メシ》たまへば やまとの 青かぐ山は 日のたての 大御門に 春〔左△〕《アラ》山と しみさびたてり 畝火の このみづ山は 日の緯《ヨコ》の 大御門に みづ山と 山さびいます 耳高〔左△〕《ミミナシ》の あを菅《スゲ》山は そともの 大御門に よろしなべ かむさびたてり (名ぐはし) よ(91)しぬの山は かげともの 大御門|從《ユ・ヨ》 雲居にぞ とほくありける (たかしるや) あめの御蔭 (あめしるや) 日のみかげの 水こそは 常爾有米《トコシヘナラメ》 御井のましみづ
八隅知之和期大王高照日之皇子麁妙乃藤井我原爾大御門始賜而埴安乃堤上爾在立之見之賜者日本乃青香具山者日經乃大御門爾春山跡之美佐備立有畝火乃此美豆山者日緯能大御門爾彌豆山跡山佐備伊座耳高之青菅山者背友乃大御門爾宜名倍神佐備立有名細吉野乃山者影友乃大御門從雲居爾曾遠久有家留高知也天之御蔭天知也日御影乃水許曾波常爾有米御井之清水
 ワゴオホキミといへるはワガのガが下なるオに引かれたるなり。フヂヰガハラは記傳三十四卷に
  藤原宮はもと藤井が原と云地なればそを略きて藤原とも云しなるべし
といひ燈に
(92) 藤井が原は即藤原なり。もとは藤井が原といひけむをつづめて藤原といひなりしなるべし
といへり。げに然るべし。さてフヂ井は所謂藤原宮(ノ)御井の名ならむ○大御門といふ語五つ見えたる初の大御門はやがて大宮なり○ハニヤスノツツミは埴安ノ池ノ堤なり。アリタタスはアリタツの敬語、アリタツは後のタテリと同じ。タテリはタチアリの約なり。古はアリを上に附けてもいひしなり。さればアリタタシはタタズミタマヒなり。考に『天皇はやくより此堤に立して物見放給へりしをいふなり』と云へるは非なり○見之は古義にメシとよめるに從ふべし。ミルを敬語にはメスといふ。タマヘバは後世のタマフニなり。ミワタセバヤナギサクラヲコキマゼテなどのミワタセバと同格なり○ヤマトノ以下二十四句は六句づつに分れて對を成せり○アヲカグ山は香具山の樹木茂りて青きをたゝへて云へるなり。之に特にヤマトノといふ事を冠らせたるも亦此山をたゝへたるならむ。春山は宣長『青山の誤なるべし』といへり○シミサビのシミは茂なり。サビはカムサビ、ヲトメサビなど名詞の下に附けて進みものする樣子を示す語なり。考、略解に『カムサビを略きいふなり』と云(93)へるは非なり。なほ云はばシミサビのシミは名詞なり。さればシミのみにてはしげる事とは釋かれず。シミサビとつづきて始めてしげる義とはなるなり○ミヅ山は此山のみづみづしきをたゝへて云へるなり。緯の字舊訓にヌキとよめるを考にはヨコとよめり。考に從ふべし○ヤマサビといへるは上にシミサビといひたれば辭を換へたるのみ○耳高は考に耳爲の誤とし古義に耳無の誤とせり○青菅山は菅の生ひたる青山といふ意ならむ。さればアヲスガ山とはよまでアヲスゲ山とよむべし。ソトモは北方なり。ヨロシナベはフサハシクなり。カムサビはモノフリなり○ナグハシヨシヌノヤマハ云々此芳野山をも前出三山の如くほめたゝふるかと思へば思ひもかけずクモヰニゾトホクアリケルといへるが平凡ならでめでたきなり。但トホクアリケルは今ならばトホクミエケルなどいふべし。カゲトモは南方なり○以上新宮の地勢のすぐれたるをいひさて始めて本題に人りて御井の事をいへり。初より御井の事をいひては今の如き雄篇は得がたきなり。長歌を作らむとする人は注目すべし。さて大宮には東西南北の四門あるべく今は其東門に香具山を、西門に畝火山を、北門に耳無山を、南門に遠き吉野山を配したるにやと思ふに日經《ヒノタテ》(94)は東西なれば東門を日ノタテノ大御門ともいふべけれど日緯《ヒノヨコ》は南北なれば西門を日ノヨコノ大御門とはいふべからず。古義には枉げて然いへるなりと云へれどもし對辭を以て云はむとならば朝日サス大御門、夕日テル大御門などもいふべきを正しく日經《ヒノタテ》に向へるを日ノヨコノ大御門といふべけむや。之によりて思ふに四門は東西南北の方位を正して設けしにはあらで四山、特に三山を正面に見るやうに設けしにて畝火山は大宮の西南に當ればそれに向へる門は西南に向はしめしならむ。西南門ならば少し枉げて日ノヨコノ大御門ともいふべきなり○タカシルヤのタカは空といふ事なり。古義に『タカク知マス天といふ意につづけたり』といへるは非なり。空ヲ領スル天、ソノ天ヲ領スル日といへるなり○タカシルヤアメノミカゲ、アメシルヤヒノミカゲノ、水コソハといへる解し難し。契沖はウツルといふ語を補ひて『高き天の影日の影もうつる水』と釋き(タカキと云へるは誤なる事古義につきて云ひし如し)眞淵はミカゲを今いふオカゲの義と見て『天の御蔭日の御影のなし出る水』又『天の御蔭日の御蔭に依て自ら涌出る水』と釋けり。宣長(記傳二十二卷)は『萬葉なるは天之影と云こと、其餘(○祝詞、推古紀等)は天の御蔭と云ことなり』と云(95)へれば契沖と同説なるなり。天は雨雪ヲ降して井の源を養へば井の水の湧出づるをアメノミカゲともいふべけれど日は井の水を涸らすものなれば日の御蔭によりて湧出づる水とはいふべからず。されば眞淵の説は從はれず。又湧出づる水は靜ならざれば天又は日のうつるにふさはしからず。されば契沖宣長の説も從はれず。古義には
  一説に高知也云々の四句は正しく云はば此天皇ノ天ノ御蔭日ノ御蔭ト隱リマスコノ美豆ノミアラカノ水コソハといふべきを推古天皇紀蘇我大臣の歌并祝詞などの古言をいひなれて唯アメノミカゲとのみ云てやがて御舍《ミアラカ》のこととはなしたるなり云々
といへり。案ずるに天ノミカゲ日ノミカゲは天に對スル陰、日ニ對スル陰にて井に屋を設けたるを云へるならむ○常爾有米を舊訓トキハニアラメとよめるを考にトコシヘナラメと改めよめり。さるを古義には又舊訓に復せり。さるは仙覺注本に常の下に磐の字あるによりつとなり。さる本あらば知らず今の如く常とのみありてはトキハとはよまれず。いづれにもあれ意は同事にてカルル世アラジとなり○(96)ミヅコソハトコシヘナラメといひさて再ミヰノマシミヅといひて稱嘆の意を表したり。かくミヅコソハトコシヘナラメといへる中に新宮のとこしへならむ事を祝する意は十分にこもれる事古義に発揮せるが如し
 
   短歌
53 藤原の大宮づかへあれ衝哉〔左△〕《ツガム》をとめがともは之〔左△〕吉召〔左△〕《トモシキロ》かも
藤原之大宮都加倍安禮衝哉處女之友者之吉召賀聞
    右歌作者未詳
 田中道麻呂之〔左△〕を乏〔右△〕、召〔右△〕を呂〔右△〕の誤としてトモシキロカモとよみ(玉(ノ)小琴に見えたり)宣長哉〔右△〕を武〔右△〕の誤としてアレツカムとよめり(但宣長はアレを奉仕の意としツクをイツクの略としたればツカムのカを濁らず。宣長の説は小琴の外玉勝間十一卷に見えたり)アレツクは契沖の説に從ひて生繼《アレツグ》の意とすべし。さてツギとスキと通ふを思へばツグは古くは清みて唱へしならむ。又清音の語なる衝を濁音の語なる次に借るまじきにあらず。集中にシジクシロのシジに宍の字を充て又ナベに苗を充て(97)イブカシのイブに言を充てたる例あり○大ミヤヅカヘは契沖等の云へる如く大宮に奉仕する事なり。雅澄の大宮を作る事なりといへるは非なり。ヲトメガトモのトモハ輩なり。トモシキロのロは助辭、トモシキはウラヤマシキなり。さればトモシキロカモは羨シキ哉となり〇一首の意は天皇ハ長壽ヲ保チ給フベケレバ我等ハ御代ノ限仕ヘ奉ル事ハカナハジ、我等ニ生レ繼ギテ宮仕セム少女等ゾウラヤマシキと云へるにて恐らくは女官のよめる歌なるべし○契沖が『此歌御井の反歌とは見えず』といひ眞淵が『必右の反歌ならず』といへるは非なり。御杖が
  もと端作に御井歌とある故にさる惑も生ずるなれど長歌を釋せるが如く御井をもて此藤原都の遠長かるべき事をほぎ奉れる歌なれば御井は表にて此都をほぎ奉れるが本情なり。されば此歌はなほ同じことほぎなり。さらに別時の歌にあらず。此歌表に御井をよまずとて端作にまどひて眞をそこなふまじき也
といへるぞ我心を獲たる
 
   大寶元年辛丑秋九月太上天皇幸2于紀伊國1時歌
54 こせ山のつらつら椿つらつらにみつつ思奈《シヌバナ》こせの春野を
(98)巨勢山乃列列椿都長都良爾見乍思奈許湍乃春野乎
    右一首|坂門《サカト》(ノ)人足《ヒトタリ》
 以下文武天皇の御代の歌なり。太上天皇は持統天皇なり
 ツラツラは今いふツルツルなり。さればツラツラツバキは葉ノツヤツヤシキ椿といふことなり。二十卷にも足引ノヤツヲノツバキツラツラニとよめり。椿は邦製字なり○思奈を舊訓にはオモフナとよみ齋藤彦麿(片廂稿本卷一)はオモハナとよみ雅澄はシヌバナとよめり。オモフナとよめる人は或はオモフヨの意とし(契沖眞淵)或はオモフナカレの意とせり(御杖)。雅澄は題辭に秋九月幸2于紀伊國1時歌とあるを誤とし同年春二月吉野宮にいでましゝ時の歌としてシヌバナを將2賞愛1の意とせり(此卷額田王の長歌にモミヂヲバトリテゾシヌブとあるを例として)○契沖は
  巨勢野の春になりて萬面白からんに此椿さへ山を照して咲かん時を思ひやるなり
といひ眞淵は
  今は九月にて花さかむ春を戀るなり
(99)といひて題辭のまゝに秋の歌としたれどコセ山のツラツラツバキといふ二句はツラツラニの序にて一首の意に與からねば契沖眞淵等の説の如く椿にかけて釋くべからざるは勿論秋の歌とは見るべからず。されば雅澄の説の如く題辭の秋九月を誤として春の歌とすべし。但雅澄の
  さらぬだにあるをまして椿の花さへ咲にほひたる巨勢の野の春のけしきのあかずおもしろく思はるればつらつらに見つゝ一向にめでしのびをらむとなり
といへるはなほ初二の純然たる序なる事に心附かざりしなり
 
55 (あさもよし)木人ともしもまつち山ゆきくと見らむきびとともしも
朝毛吉木人乏母亦打山行來跡見良武樹人友師母
    右一首|調《ツキ》(ノ)首《オビト》淡海《アフミ》
 トモシはウラヤマシなり。ユキクトミラムは往クトテ見、來トテ見ルラムとなり。キビトハ紀伊國人なり
 
   或本歌
(100)56 河上のつらつら椿つらつらにみれどもあかず巨勢の春野は
河上乃列列椿都良都良爾雖見安可受巨勢能春野者
    右一首春日(ノ)藏首《クラビト》老《オユ》
 此歌の春の歌なる事は疑ふ人なかるべし
 
   二年壬寅太上天皇幸2于參河國1時歌
57 ひくま野ににほふ榛《ハリ》はらいりみだり衣にほはせたびのしるしに
引馬野爾仁保布榛原入亂衣爾保波勢多鼻能知師爾
    右一首|長《ナガ》(ノ)忌寸《イミキ》奥麿《オキマロ》
 榛を契沖はハギとよみてハンノ木の事とし眞淵はハギとよみて萩の事とし枝直、宣長、久老、守部、御杖、雅澄等はハリとよみてハンノ木とせり。ニホフ榛原といひイリミダリテ衣ヲニホハセといへるハンノ木の調ならむや。宜しくハリとよみて萩の事とすべし(慈延、弘訓、芳樹同説。慈延の説は隣女※[日+吾]言卷二に見えたり)。抑榛はハンノ木、萩はハギなるをいにしへ共にハリといひしかば此處の如くバギのハリに榛の(101)字を借り用ひたる例あり。又ハンノ木ト別たむ爲に※[草冠/秦]の字を充てたる例あり又さかさまにハンノ木のハリに萩の字を借り用ひたる例あり○イリミダリは眞淵の云へる如く人りて亂すなり。古義に『入てまじはることなり』といへるは從はれず○コロモニホハセは衣を萩の花に染めよとなり。命令法を用ひたれば異樣に聞ゆれどニホハサム(一シヨニニホハサウ)といふと甚しく異なる事はなきなり。字數に制限せられて申合を命令に轉じたるのみ○シルシニは記念ニなり。古義に『旅ノ得分ニといはむがことし』と云へるは非なり○引馬野は遠江國にありて今の三方が原なり。三河國に御幸ありしついでに御伴人たちの此わたりまで遊びに來たりしならむ
 
58 いづくにかふなはてすらむあれの崎こぎたみゆきしたななし小舟
何所爾可船泊爲良武安例乃崎榜多味行之棚無小舟
    右一首|高市《タケチ》(ノ)連《ムラジ》黒人《クロヒト》
 フナハテスラムは舟ハハツラムといふに同じ。但結句に小舟とあればフナハテスラムとはいふべく舟ハハツラムとは云ふべからざるなり。御杖の(102)何所とは此舟のとまるらむ《五字傍点》所をしらむとする心なり
といへるはよけれど木村博士の
  舟のとまらむ《四字傍点》ところを知らまくする意なり
といへるはスラムとセムとの別を辨へざる釋なり。スラムは現在の想像なればここは今頃舟ハハテタデアラウガドコニハテタデアラウカといふ意なり○コギタミはコギ廻りなり。タナナシ小舟は舷《タナ》を打たぬ淺き小舟なり
 
   譽謝《ヨサ》女王作歌
59 ながらふる妻〔左△〕《ユキ》ふく風のさむき夜にわがせの君はひとりかぬらむ
流經妻吹風之塞夜爾吾勢能君者獨香宿良武
 ナガラフルは古義に云へる如くナガルルの延びたるにて空より物の降ること、妻は久老(槻の落葉上卷十三丁頭書)の云へる如く雪の誤字なり○以下二首は京に殘れる人の作歌なり
 
   長《ナガ》(ノ)皇子御歌
(103)60 よひにあひてあしたおもなみなばりにかけながき妹がいほりせれけむ
暮相而朝面無美隱爾加氣長妹之慮利爲里計武
 ヨヒはこゝにては初夜にあらず。ただ夜といふことなり(眞淵はやく云へり)。ナバリは伊賀國名張なり。古語に隱るゝ事をナバルといへば若き女の前夜に始めて男に逢ひて翌朝はづかしさにもの陰に隱《ナバ》るといふ事を序につかひたるなり○ケナガクの事は記傳(二十八卷)にくはしくいへり。コゝは旅に出でて日を經たる事をいへるなり。イホリは假宿なり。更に案ずるに發駕は十月十日にて還幸は十一月廿五日、名張御宿泊は其前日なれば此歌は還幸の日の朝よみ給ひしならむ。かく見てこそケナガキとのたまひ又イホリセリケムと過去にのたまへる所以も知らるゝなれ
 
   舍人《トネリ》(ノ)娘子從v駕作歌
61 ますらをがさつ矢たばさみたちむかひいるまとがたはみるにさやけし
(104)大夫之得物矢手挿立向射流圓方波見爾清潔之
 古義に二句をサツヤダハサミとよみて
  ダを濁るはタバサミといふべきをバの濁音を上へうつして云古語の一例にて云々
といへり。げに二語の連合する時下の語の濁音の處をかへて上に移る例はあれど(日のかげるをヒガケルといふ類)そは調の爲におのづから然るにて云はば古人のなまりなり。今の歌の二句など少くとも今人の口に唱ふるにサツヤタバサミと唱へて調のあしきことなし。ことさらに古に阿りてサツヤダハサミと唱ふるに及ばず○イルまではマトガタにかゝれる序なり。マトガタは伊勢の地名なり。以上五首參河國に御幸し給ひし時の歌なり
 
   三野《ミヌ》(ノ)連《ムラジ》人唐(ノ)時春日(ノ)藏首《クラビト》老作歌 62 (在根良《三字左△》《オホフネノ》)對馬のわたりわたなかに幣とりむけてはやかへりこね
在根良對馬乃渡渡中爾幣取向而早還許年
(105) 此歌も大寶二年の作なり。遣唐使の發船せしは此年六月なればなり
 在根良は誤字とおぼゆ。眞淵は布根盡又は百船能又は百都舟の誤としてフネハツル又はモモブネノ又はモモツフネとよみ宣長は布根竟の誤としてフネハツルとよみ雅澄は大夫根之の誤としてオホブネノと訓めり。大船能か○ツシマノワタリは對馬海峡なり。トリムケテは手向ケテなり〇三野(ノ)連名は岡麿。明治五年大和國平群郡萩原村にて其墓志を掘出でき。墓志の全文は美夫君志及山田孝雄氏の續古京遺文に出でたり(遺文には拓本の寫眞も)
  
   山上臣憶良在2大唐1時憶2本郷1歌
63 いざ子ども早《ハヤク》日本邊《ヤマトヘ》おほとものみつの濱松まちこひぬらむ
去來子等早日本邊大伴乃御津乃濱松待戀奴良武
 遣唐使の歸朝は慶雲元年なり。されば此歌は大寶二年の作にはあらざるべきを前の歌の因にてこゝに載せたるならむ
 コドモは從者をさして云へるなり○早日本邊は舊訓にハヤヒノモトヘ又ハヤクヤマトヘ略解にハヤモヤマトヘ古義にハヤヤマトヘニとよめり。官本の訓に從ひ(106)てハヤクヤマトへとよむべし。三卷にもイザ子トモヤマトヘハヤクとあり。但こゝのヤマトは日本なり。古義に大和とせるは非なり。大伴は攝津の地名なり○古義に『ミツノハママツはマツと云はむとて云るなり』と云へるは代匠記の説によれるにてオホトモノミツノハママツをマツの序とせるなり。案ずるにこは辭の如く御津の濱松がまちこふらむと云へるにて家人を松に擬したるのみ
 
   慶雲三年丙午幸2于難波宮1時志貴皇子御作歌
64 葦邊ゆく鴨のはがひに霜ふりてさむきゆふべは和《ヤマト》しおもほゆ
葦邊行鴨之羽我比爾霜零而寒暮夕和之所念
 アシベユクのユクは浮ビユクなり○ハガヒは契沖のいへる如く羽を打ちがへたる處なり○和は諸本に倭とあり
 
   長(ノ)皇子(ノ)御歌
65 (霰うつ)あられ松原すみのえのおとひをとめとみれどあかぬかも
霞打安良禮松原住吉之弟日娘與見禮常不飽香聞
(107) アラレウツを雅澄は燈に據りて
  此時九十月の頃なれば御まのあたり霰のふりけるをやがて枕詞におかせ給へるなるべし
と云へれどアラレウツは考にいへる如くただの枕辭にて一首の意に與からず。霰のふるは※[雨/妾]時の事にてミレドアカヌカモと云へるにかなはざればなり○オトヒは古義に云へる如く娘子の名なるべし○オトヒヲトメトのトについて兩説あり。一はヲトメト共ニとし(契沖)一はヲトメトマツバラトとせり(眞淵)。ヲトメト共ニの意ならばミレバと云はざるべからず。さればヲトメト松原ト二ツナガラといふ意と見べし
 
   太上天皇幸2于難波宮1時歌
66 大伴のたかしの濱の松が根を枕宿抒〔左△〕《マキテシヌレバ》いへししぬばゆ
大伴乃高師能濱乃松之根乎枕宿杼家之所偲由
     右一首|置始《オキソメ》(ノ)東人《アヅマビト》
(108) 太上天皇の崩ぜしは大寶二年十二月なれば以下五首の歌は慶雲年間の歌より前にあるべきなれど難波への御幸も吉野への御幸も何年にか知られねば束ねてここに載せたるならむ
 四句は眞淵マキテシヌレドとよみたれどドにては穩ならず。マキテシヌレバなどあるべきなり。宣長は杼を夜の誤としてマキテヌルヨハとよめり○シノバルをシヌバユといへるにつきて思ふに古のラリルレロは今一般に唱ふる如くにはあらで薩摩人などの唱ふる如くにぞありけむ。果して然らば古のラリルレロはRには當らでLに當れり○家シのシはゾに似て特殊なる結を要せざる便利なるテニヲハなり
 
67 旅にして物戀之伎乃鳴〔二字左△〕事毛《モノコヒシキニイヘゴトモ》きこえざりせばこひてしなまし
旅爾之而物戀之伎乃鳴事毛不所聞有世者孤悲而死萬思
    右一首高安(ノ)大島
 二三句舊訓にモノコヒシキノナクコトキとよめり。契沖眞淵が此訓に從ひて『鴨に云ひかけたり』といへるは論ずるに値らず。古義には乃を爾の誤とし美夫君志には(109)乃をもとのまゝにしてニとよみ又二書共に鳴を家の誤とせり。古義に燈に從ひてコヒシキをコホシキとよみ改めたるは日本紀の歌にキミガメノ姑※[鍋ぶた/臼/衣ノ下]之枳《コホシキ》カラニとあるに依れるなれどそはもとのまゝにてよし○燈に
  マシ 上のセバのうちあひにて虚に設出たる事の末をいふ詞なり。脚結《アユヒ》抄將倫(○ムの類といふ事)のうちにマシを屬したる事もとムといふに同じ類の詞なればなり。されどムはその事實なる事の末をいふ詞なり。マシは虚設したる事の末なるがたが へり
といへり。此説後に敷衍していふべし
 
68 大伴のみつの濱なる忘貝家なる妹をわすれておもへや
大伴乃美津能濱爾有忘貝家爾有妹乎忘而念哉
    右一首|身人部《ムトベ》(ノ)王
 ワスレテオモヘヤはただワスレムヤといふに同じき事眞淵の云へる如し。上三句は序なり○此歌は故郷なる妻よりアマリ久シク外ニオハスルニ我ヲ忘レヤシタマフラムなど問ひおこせしに答へたるなるべし。古義に『歌意は』とて二説を擧げた(110)るそはさながら燈の説に據れるなるが中に第二説の方ぞよき
 
69 (草枕)たびゆく君としらませば岸のはにふににほはさましを
草枕客去君跡知麻世婆岸之埴布爾仁寶播散麻思乎
   右一首|清江娘子《スミノエヲトメ》進2長皇子1 姓氏未詳
 ハニフニは實はハニフノハニニといふべきなれどしかいひては煩はしきが故にしばらく理を捨てたるなり。古義に
  直に埴のことをハニフといふはただ草を草根といひただ月を月夜といへる類にや
といへるはいかが(右の説は實は御杖のなり)○上三句はイツマデモ御トドマリニナルヤウニ思ウテヰマシタガ御立ニナルト存ジマシタラといひ四五は御衣ヲ當地ノ名物ナル埴デ染メテアゲマシヨウモノヲといへるなり。衣といふことは無けれど衣の事とよくきこゆるなり。古は意通ずれば足るとしたりしなり。されどそはあかぬ事なれば今にして學ぶべきにはあらざるなり○作者は即長皇子の御歌に見えたるオトヒヲトメなり。進はタテマツレルとよむべし
 
   太上天皇幸2于吉野宮1時|高市《タケチ》(ノ)連《ムラジ》黒人(ノ)作歌
70 やまとにはなきてかくらむよぶこどりきさの中山よびぞこゆなる
倭爾者鳴而歟來良武呼兒鳥象乃中山呼曾越奈流
 クラムは燈に
  ある注(○略解)にクラムはユクラムに同じとあれどユクラムにひとしくするはくはしからず。後世にてはユクラムといふべき所なるをクラムとよめるは必その別なくてはかなはぬ事ならずや。大かたユキクといふ事こなたに心をおきてはユクといひかなたに心をおけばクルと云。これ古人ユキクを用ふる法也
といへり。此歌の如き處は今はユクラムとのみいへど今もヤマ路ヲユケバなどはヤマ路ヲクレバともいひて人怪まず。又今もユクをクルといふ地方あり。西洋にてはユクをクルといふこと常の事なり。こなたを本とするとあなたを本とするとによりて或はユクといひ或はクルといふ事御杖の云へる如し○ヤマトニハのハは輕く添へたるのみ。ヤマトは吉野より北方なる大和平野を指していへるなり。吉野は大和平野とは別天地を成したれば吉野國ともいへり。ヨブコドリはホトトギス(112)の類なり。俗にカンコドリといふ〇一首の意はキサノ中山ヲナキツツコユル呼子鳥ノ聲ノスルハナツカシキ故郷ノ方へナキテユクノデアラウカとなり
 
   大行天皇幸2于難波宮1時歌
71 やまとこひいのねらえぬにこころなくこのすの崎にたづなくべしや
倭戀寐之不所宿爾情無此渚崎爾多津鳴倍思哉
    右一首|忍坂部《オサカベ》(ノ)乙麿
 大行天皇は故天皇といふことにて文武天皇を指し奉れるなり
 シヌバユのユ、ネラエヌニのエなどは今のユ又はエの如く唱へしにあらず。ユはユとルとの中間〔日が月〕の音、エはエとレとの中間〔日が月〕の音にて唱へしなり。イは睡眠なり。いにしへはイヲヌル、イノネラルなどいひしなり
 
72 玉藻かるおきべはこがじ(しきたへの)枕の邊《アタリ》わすれかねつも
玉藻苅奥敝波不榜敷妙之枕之邊忘可禰津藻
    右一首式部卿藤原(ノ)宇合《ウマカヒ》
 枕之邊は舊訓にマクラノアタリとよめるを古義にマクラノホトリとよみ改めたり。舊訓によるべし○タマモカルを代匠記には(古義にも)枕辭としたるを御杖は此辭に意あらせて玉藻のなびけるさまを見れば家にて妹とねたりし枕のあたりの思はるれば玉藻かる奥方は漕がじといふ意なりとせり。奇説のやうなれど此説最穩なり。熊谷直好も枕の邊を故郷なる妹の枕なりといひたれど(直好の説は※[手偏+君]解に見えたり)一首の意は釋き得ず。右の御杖の説に從へばタマモカルのカルはかのマクサカルアラ野ニハアレドのカルと同じく一種の代語にてナビクといふべきをカルと云へるなり
 
   長(ノ)皇子御歌
73 (わぎもこを)はやみ濱風やまとなる吾松椿ふかざるなゆめ
吾味子乎早見濱風倭有吾松椿不吹有勿勤
 二句はハヤミムをハヤミハマカゼに云ひかけたる事は明なれどもそのハヤミハマカゼといふ事さとりやすからず。眞淵は難波わたりに早見といふ濱あるなるべしと云へれどさらばハヤミの下にノの言あらでは調よろしからす。宣長はただ濱(114)風といふに御の言を添へたるなるべしと云ひたれど固よりの語にいひかけてこそをかしからめ、云ひかけむが爲にみだりにミの言をそふべくもあらず。契沖は十一の卷にハヤキ早瀬といふことをハヤミハヤセといへる類にてハヤキ濱風といふ事なりといへり。是最穩なり。案ずるに年號の朱鳥をアカミトリとよむを(天武天皇紀に戊午改v元曰2朱鳥元年1とありて註に朱鳥此云2阿河美苔利《アカミトリ》1とあり)從來の説には赤御鳥の義としたれどなほハヤミハマカゼの類にてアカキを名詞にしてアカミといへるなり。宮の名のキヨミハラ、本集卷五詠2鎭懷石1歌なるクシミタマなど細に檢しなば此類なほ多かるべし〇四句は眞淵以來ワヲマツツバキとよめるを古義に『マツツバキと連ね言ふべきにあらず』といひて椿を樹の誤とし樹の下に爾の字をおとしたりとしてワヲマツノキニとよめり。マツツバキはウメヤナギなどいふと何の差かあらむ。難者或はウメヤナギとはいひなれたれどマツツバキは云ひなれずと云はむに答へて云はむ。ウメヤナギもマツツバキも云ひそめし時には何の擇ぶ所もなかりしをウメヤナギは次々に人の云ひて云ひなれマツツバキは次いで云ふものなかりしによりて云ひなれざるのみ。されば眞淵の訓の如くワヲマ(115)ツツバキとよみて可なり。ワレヲマツをマツツバキにいひかけたまへる事論なし。ワヲは句中の枕辭とも云ふべし○フカザルナはきゝなれねど今吹く濱風の故郷の方へ吹きゆくを故郷なる松椿にふきかよへるものと假定し、さて然吹きつづけよとのたまへるなり。何故にかくはのたまへるかといふに故郷のこひしさにこゝの濱風の故郷に吹き通ふをだに慰としたまへばその風の通路だに絶えざらむことを願ひたまへるなり。古義に『この寒さを家人に知らせて云々』といへるは御杖の牙後を承けたるにて從ひがたし
 
   大行天皇幸2于吉野宮1時歌
74 みよし野の山のあらしのさむけくにはたやこよひも我ひとりねむ
見吉野乃山下風之寒久爾爲當也今夜毛我獨宿牟
    右一首或云天皇御製歌
 サムケクニは寒カルニといふことなり。古義に『後世の詞にてはサムケキニといふべきをかくいへるは古言なり』といへれどサムケキニといふ語は無し。後世のサム(116)キニなりとはいひもすべし○燈に
  ハタはせむこゝちもなき事のやごとなくせらるゝ歎なり。されば亡父(○成章)脚結抄にハタは里言にセウコトモナイコトといふ義ありといへり…ヤは疑なり
といへり。古義に云へる所はこれより出でたるなり。ハタヤは更に又なり○我の宇舊訓にワレとよめるを眞淵ワガに改めたり。眞淵の訓に從ふべし○此歌御製の調にあらず
 
75 うぢま山あさ風さむし旅にして衣かすべき妹もあらなくに
宇治間〔日が月〕山朝風塞之旅爾師手衣應借妹毛有勿久爾
     右一首長屋(ノ)王
 旅ニシテは旅ニテなり。妹モアラナクニは妻モアラヌニとなり
   
   和銅元年戊申天皇御製歌
76 ますらをの鞆の音すなりもののふのおほまへつぎみ楯たつらしも
(117)大夫之鞆乃音爲奈利物部乃大臣楯立良思母
 此天皇は元明天皇なり。此天皇の御代に都を藤原より寧樂に遷し給ひしなれば題辭の前に寧樂宮御宇天皇代とあるべきなり
 鞆ノ音スナリは弓ヲ射ル音ガスルといふこと、モノノフノオホマヘツギミは將軍といふこと、楯タツラシモは楯ヲ立テテ弓ヲ射シメルサウナといふことなり。嗚呼イサマシイ哉とのたまへるにあらで嗚呼心配ナ事ヂヤとのたまへるなり。さればこそ御名部皇女の御|和《コタヘ》にワガオホキミモノナオモホシとのたまへるなれ。眞淵の云へる如く蝦夷の叛けるを討たむ爲の軍ならしの音をきこしめしてよませたまへるなり
 
   御名部《ミナベ》(ノ)皇女奉v和御歌
77 わがおほきみものなおもほしすめ神のつぎてたまへる吾なけなくに
吾大王物莫御念須賣神乃嗣而賜流吾莫勿久爾
 吾を宣長の君の誤としたるはツギテタマヘルの意を釋きかねたる爲なり。ツギテ(118)は君ニツギテにてタマヘルは蒼生ニタマヘルなり。ワレナケナクニはワレナキナラヌニなり。元明天皇の女帝にて事に當りて御心よわくましますを慰め奉りて事アラバ御力トナリ奉ルベキヲ御心安クオハシマセとのたまへるなり○モノナオモホシはモノ思ヒ給フナとなり。御名部皇女は天皇の御姉なり。ををしき御本性にぞおはしけむ
 
   和銅三年庚戌春二月從2藤原宮1遷2于寧樂(ノ)宮1時御輿(ヲ)停2長屋(ノ)原1※[シンニョウ+向]《ハルカニ》望2古郷1御作歌 一書云太上天皇御製
78 (とぶ鳥の)あすかの里をおきていなば君があたりは【君があたりを】みえずかもあらむ【みずてかもあらむ】
飛鳥明日香能里乎置而伊奈婆君之當者不所見香聞安良武【一云君之當乎不見而香毛安良牟】
 持統天皇の明日香より藤原に遷りたまひし時の御製なるべく題辭に元明天皇が藤原より寧樂に遷り給ひし時の御製とせるは誤なるべき由宣長いへり○君とのたまへるは明日香に殘りたまへる皇親たちなるべし。オキテイナバはアトニ殘シ(119)テ行カバとなり○四五の句は一云の方穩なるに似たり
 
    或本從2藤原京1遷2于寧樂宮1時歌
79 天皇《オホキミ》の みことかしこみ にきびにし 家乎擇《左△》《イヘヲサカリ》 (こもくりの) はつせの川に ふねうけて わがゆく河の 川隈の やそくまおちず よろづたび かへりみしつつ (玉桙の) 道ゆきくらし (あをによし) ならのみやこの 佐保川に いゆきいたりて わが宿有《ネタル》 △衣乃上從《アリソノウヘユ》 あさづくよ 清爾見者《サヤニミユレバ》 たへのほに よるの霜ふり 磐床と 川之氷凝《カハノヒコホリ》 さゆる夜乎〔左△〕《モ》 息〔左△〕《イコフ》ことなく かよひつつ つくれる家に 千代二手來〔左△〕《チヨマデニ》 座多〔左△〕公與《イマサムキミト》 われもかよはむ
天皇乃御命畏美柔備爾之家乎擇隱國乃泊瀕乃州爾※[舟+共]浮而吾行河乃川隈之八十阿不落萬段顧爲乍玉桙乃道行晩青丹青楢乃京師乃佐保川爾伊去至而我宿有衣乃上從朝月夜清爾見者栲乃穗爾夜之霜落磐床等川之氷疑〔左△〕冷夜乎息言無久通乍作家爾千代二手來座多公與吾毛通武
(120) 久老の説にオホキミとは當代天皇以下諸王までをいひスメロギは皇祖をいひ又皇祖より受繼ませる大御位につきては當代をもいふといへり(槻の落葉)。今は當代を申せるなればオホキミとよむべし。雅澄の天皇は大皇の誤なるべしと云へるに對して芳樹は『三處まで天皇とあれば大皇の誤とはすべからず。そのまゝオホキミとよむべし』と云へり○ミコトカシコミはミコトヲカシコミテにあらず。ミコトガカシコサニといふことなり○ニキブは御杖の云へる如くアラブの反なり。但意は安んずる事なり○家乎擇の擇は誤字なることしるし。眞淵は放又は釋の誤とせり。それによりてイヘヲモサカリ(眞淵)、イヘヲサカリ(千蔭、木村博士)イヘヲサカリテ(御杖)イヘヲモオキテ(眞淵一訓)イヘヲオキ(雅澄)イヘヲステテ(芳樹)などさまざまによめり。しばらく放の誤としてイヘヲサカリとよむべし○藤原より寧樂に到る爲泊瀬川に舟を浮べて其川を北方に下るなり。ヤソクマオチズはあまたある川の曲角毎にといふ意なり。古義に燈の説によりて
  比はただ隈の多かるをいふにはあらで川路のいと遠き状を思はせむが爲なり
といへるはいかが。三輪わたりにて舟に乘りぬとも泊瀬川の川路の長さいかばか(121)りかあらむ○ミチユキクラシのミチは舟路なり。陸路にあらず。さばかり遠き道にはあらねども川の曲角毎に故郷のなごりを惜みてかへりみかへりみして途中にて日暮になりぬとなり(燈同説)。さて泊瀬川をさし下りて佐保川との落合に到りてそこより更に佐保川をさしのぼりて寧樂に到りしなる事考に云へる如し○イユキイタリテワガネタルを古義に『船にて寢ながら佐保川にゆきつきたるさまなり』といへるは非なり。ユキイタリテネタルとあればゆきつきて寢たるなり。さてその寢たるは舟中(雅澄)にや假屋(眞淵)にやといふにそれを決するにはまづ衣乃上從の訓を定めざるべからず。これを字のまゝにコロモノウヘユとよみては何の事とも聞えず。寢たる衣の上より月を見る(又は月が見ゆ)といふ事あるべきにあらねばなり。又ネタルコロモとも續かず。されば眞淵は衣を床の誤としてトコノウヘヨリとよみ普請いまだ成就せざる假屋に寢たるなりといへれど次にイハトコト川之氷凝サユル夜ヲといへるは川邊の景なれば眞淵は又『川に遠からぬなるべし』と云へれどそはあまりに意に任せたる解釋なり。但衣とあるはともかくも誤字なり。上野常朝といふ人我宿有衣乃上從とある有の字を下の句につけてワガイネシアリソ(122)ノウヘユとよみし由註疏に見えたり。此説おもしろし。但イネシは必ネタルといはざるべからず。よりて思ふに有の下に今一字有の字のありしがおちたるにてワガネタルアリソノウヘユなるべし。或は云はむ。今の佐保川は勿論の事古の佐保川といふとも細き流にすぎざるべければアリソといはむこといかがと。答へて云はむ。アリソはいにしへただ岸といふ義につかひたりと見えて卷二にもミタチセシ島ノアリソヲケフミレバなど池の中島の岸をもアリソと云へれば怪むべからず○清爾見者はサヤカニミレバ(舊訓、燈、古義、美夫君志)サヤニミユレバ(考)サヤニミレバ(略解)などよめり。雅澄は『アサヅクヨはサヤカニの枕詞にもあるべし』といひながら一方には又『コロモノウヘヨは引被りて寢たるながらに曉月を見る貌なり』といへり。もしアサヅクヨを枕辭とせばサヤカニはいはであるべし。ただアリソ(或はコロモ)ノ上ヨリミレバといひて足るべくサヤカニミルとまで云ふべき要なければなり。さらば枕辭とせでアサヅクヨヲと心得べきかといふにそもなほ不可なり。月は固より細に精しく見る要なきものなればなり(たとひさる要ありともツバラニミルなどいふべくサヤカニミルとは云ふべからず)。さればこゝは考の訓の如くサヤニ(123)ミユレバとよむべし。さて萬葉の時代には後にいふミユルニをもミユレバといへれば(藤原宮御井歌なるメシタマヘバの註と參照すべし)アサヅクヨサヤニミユレバはアサヅクヨガサヤカニ見ユルニなり○タヘノホニのニはシラユフバナニオチタギツ又シラユフバナニナミタチワタルなどのニと同じく後世のトに當れり。さればタヘノホニはタヘノホノゴトクといふ意なり。タヘノホのタヘは眞淵の云へる如く白布にてホは丹《ニ》ノホのホと同じく色澤なり○ヨルノシモフリのヨルノはただ輕く心得べし。古義に『朝霜夕霜にならべていふ』などいへるはことごとし○イハトコは代匠記に『磐石の平にて床の如くなるを譬へて名付たるにや』と云へり。此説よろし。燈に
  磐床は磐を床にしたるを云……太古は穴居しければ石を座とも床ともしたるなるべし
といひ古義に
  磐床は磐をもて臥具の床につくれるをいふ。石坐石船の類なり
といへるは非なり○川之氷凝の凝を舊訓にはコリテ考にはコゴリ古義にはコホ(124)リとよみ燈には氷を水の誤としてカハノミヅコリとよめり。氷ガコル又はコホルといふべきにあらざる如くなれど播磨風土記|讃容《サヨ》郡凍野の下に凍v冰《ヒコホル》とあればもとの儘にて川ノヒコホリとよむべし○サユル夜乎はサユルヨヲとよむべけれどヲの言難儀なり。ナルニの意かと思へどイコフコトナクカヨヒツツと云へる一夜の調にあらず。然もいつもいつも途中にて日が暮れ又月がさえ霜がふり川の水が氷るべくもあらねばナルニのヲとは思はれず。古義にはヨヲを夜頃ナルモノヲと釋きたれど糊塗の譏を免かれず。案ずるに乎は或は毛などの誤にてサユル夜モならざるか。モとすればよく通ず○息コトナクの息を考にイコフとよめるを古義にはヤスムとよみて『イコフともよむべし』と云へり。いづれにてもあるべし○千代二手來〔右△〕座多〔右△〕公與は考に來を爾、多を牟の誤としてチヨマデニイマサムキミトと訓めり。キミトのトはトトモニ(燈の説)の意にはあらでトシテ(古義の説)の意なり。ワレモカヨハムは人モ我モと云へるにあらず。燈に云へる如くキミとさしたる人を主とたててモといへるなり。即ワレモチヨマデニカヨハムと云へるなり。いこふ事なく家づくりせしは主人にあらで其一族又は出入のものなり。さて其人も主人と同じ(125)く藤原をばすみ棄てたれど寧樂には住まぬなり。そは反歌にアヲニヨシナラノ家ニハヨロヅヨニワレモカヨハムといへるにて知らる
 
  反歌
80 (あをによし)寧樂の家には萬代にわれもかよはむ忘跡〔左△〕念勿《ワスレテオモフナ》
青丹吉寧樂乃家爾者萬代爾吾母將通忘跡念勿
     右歌作主未詳
 忘跡念勿は或はワスルトオモフナとよみ或はワスルトモフナとよめり。オモフナとモフナとはいづれにてもあるべけれどワスルトとよみては結句の意通ぜず。案ずるに跡は而などの誤にてワスレテオモフナなるべし。ワスレテオモフナは只ワスルナといふに同じ。上なる大伴ノミツノ濱ナルワスレ貝イヘナル妹ヲワスレテオモヘヤもただワスレメヤといふに同じき事その條下にて云へる如し
 
   和銅五年壬子夏四月遣2長田王于伊勢(ノ)齊宮1時山邊(ノ)御井(ニテ)作歌
81 山邊乃《ヤマノヘノ》御井を見がてり(かむかぜの)いせをとめどもあひみつるかも
(126)山邊乃御井乎見我※[氏/一]利紙風乃伊勢處女等相見鶴鴨
 齊は齋の通用なり
 初句は從來ヤマノベノとよめるを宣長玉勝間三卷の山邊は鈴鹿郡にありて今ヤマベといふと云へるにもとづきて雅澄はノを削り又ヘを清みてヤマヘノと四言によめり。されどかゝるノは後世省きて唱ふる例往々あることなればなほヤマノヘノと五言によむべし○イセヲトメドモは一人にや數人にや。一人と數人とにて結句のアヒミルの意もかはるべし。古義には一人として『一人をヲトメドモと云ふはなほ一人をイモラ、ヲトメラといふが如し』と云へれどラとドモとは一つに見るべからず。案ずるにこはなほ數人にて御井のもとにてか又は休み給ひし家などにて美人等の目にかかりたるを興じてよみたまへるなるべし
 
82 うらさぶる心さまねし(ひさかたの)あめのしぐれのながらふみれば
浦佐夫流情佐麻彌〔左△〕之久堅乃天之四具禮能流相見者
 ウラサブルは意氣の衰ふる事、サマネシは多シといふ事にて初二はイトイタク心ゾシヲルルといふ事なり。又ナガラフは空より物の降る事なり○以下二首は題辭(127)のおちたるなり。たとひ長田王の歌なりとも山邊御井作歌といふ題辭の下に此二首をば收むべからず。古義次の歌の處に或説とて擧げたるは御杖の説なるが從ひ難し
 
83 (わたの底)おきつしらなみたつた山いつかこえなむ妹があたりみむ
海底奥津白浪立田山何時鹿越奈武妹之當見武
    右二首今案不v似2御井所1v作。若疑當時|誦《トナヘシ》之古歌歟
 初二はタツタ山の序、その中にて又ワタノソコはオキにかゝれる枕辭なり
 
  寧樂宮〔三字□で囲む〕
   長(ノ)皇子與2志貴《シキ》(ノ)皇子1於2佐紀(ノ)宮1倶宴歌
84 秋去者今毛見如《アキサレバイマモミルゴト》つまごひに鹿將〔二字左△〕鳴《シカナク》やまぞたかぬはらの宇倍《ウヘ》
秋去者今毛見如妻戀爾鹿將鳴山曾高野原之宇倍
     右一首長(ノ)皇子
 寧樂宮の三字は削るべし。佐紀は今の奈良市の西北に當れる地なり
(128) 略解古義ともにアキサラバ今モミルゴト妻ゴヒニカナカム山ゾタカヌハラノウヘとよめり。鹿をカとよみ改めしは宣長なり。まづ右の訓によりて釋かむにアキサラバといひ鹿ナカムと云へるは春又は夏の調なり(現に御杖は『春夏のほどなりけるなるべし』といへり)。然るに春又は夏の歌としてはイマモミルゴトといふこと通ぜざるによりて考と古義とには秋の歌とせり。さては又アキサラバと未來に云へるがかなはぬによりて考には
  今も見る如くにゆく末の事もかはらじと云なり
といひ古義には
  畢竟は今眼前に見る如く又も秋になりなばとのたまへるなり
といへり。もし果してマタモアキニナリナバといふ意ならば極めて修辭の拙き歌なり。つらつら思ふにアキサラバ……鹿ナカムと未來にいへるとイマモミルゴトと現在に云へるといかにしても相かなはず。されば初句四句に誤訓あるか又は二句に誤訓あるなり。然るに二句の今毛見如はイマモミルゴトとよむ外なく又誤字ありとも見えず。轉じて初句の秋去者を見るにこはアキサレバともよむべし(現に(129)舊訓及考には鹿ナカムとのうちあひを忘れて誤りてアキサレバとよめり)又四句を見るにもとのまゝにてはカナカムヤマゾとよむ外はなけれど鹿將の將を衍字とするか又は鹿將を牡鹿の誤とする時はシカナクヤマゾとよむべし。即此歌は
  秋され〔右△〕ば今もみるごと妻ごひにしかなく〔四字右△〕山ぞたかぬはらのうへ
とよむにて向の山に鹿の聲のするをきゝて主人は指もて山をさし客は目を擧げて山を見るさま一幅の畫を見る如くならずや○ツマゴヒニの五言無用に似て無用にあらず。尋常の歌人のおもひもつかぬ五言にて此五言あるが爲に一首の調悠然として迫らざるなり。留意すべし○タカヌハラノウヘは高野原の高地にて即高野山なり。高野山の麓が高野原にて佐紀宮はその續にありきとおぼゆ。古義に
  宇倍は上にてそのあたりといふ意なること既くいへるがごとし
といへるはアタリの意なるへの借字に上と書けるを見てウヘ即アタリの意と誤解せるなり。鹿將鳴ヤマゾタカヌハラノウヘと云へるウヘはやがてヤマならではかなはざるをや○此歌の題辭に長皇子與志貴屋子於佐紀宮供宴歌とありて此歌の次に右一首長皇子とあり。その書樣をおもへばもと此次に志貴皇子の歌ありし(130)が失せたるなり。此事は木村博士既に心附けり
                          (大正三年十二月六日脱稿)
              2005年3月13日(日)午後8時20分校正終了
 
(131)萬葉集新考卷二
                    井 上 通 泰 著
 
  相聞
   難波(ノ)高津(ノ)宮(ニ)御宇(シシ)天皇代
    磐姫《イハノヒメ》皇后思2天皇1御作歌四首
85 君がゆきけながくなりぬ山多都|禰〔左△〕《ヤマタヅノ》むかへかゆかむまちにかまたむ
君之行氣長成奴山多都禰迎加將行待爾可將待
    右一首(ノ)歌(ハ)山上(ノ)憶良(ノ)臣(ノ)類聚歌林(ニ)載焉
 仁コ天皇の御代なり
 相聞を眞淵はアヒギコエとよめるを雅澄はシタシミウタとよめり。たとひ本集の撰者シタシミウタとよませむ心なりともシタシミウタとよむべしなどいふ註を(132)加へざる限その世の人といふともシタシミウタとは得讀まじ。木村博士、間〔日が月〕宮永好(犬※[谿の左+隹]隨筆上)などの説の如く音にてサウモンとよむべし。萬葉の頃は後世の古學者の思へるよりは音を用ひしこと多かるべくおぼゆ○古事記なる輕《カル》(ノ)大郎女《オホイラツメ》の
  岐美賀由岐氣那賀久那理奴夜麻多豆能牟加閇袁由加牟麻都〔右△〕爾波麻多士
と同一なる歌といふ事はあきらかなれど(木村博士の暗合としたるは從はれず)記に輕(ノ)大郎女の歌としたるや正しき、此集に磐之姫の御歌としたるや眞なる。そは輕々しく定むべからず○山多都禰の禰は彼古事記の歌又本集六卷高橋(ノ)連《ムラジ》蟲麿の歌に山多頭能〔右△〕迎參出六キミガキマサバとあるによればノの誤字なる事しるし○加納諸平は古事記輕太郎女の歌の註に此云2山多豆1者是今造木者也とある造木をミヤツコギとよみ和名抄に接骨木和名美夜都古木とあり伊呂波字類抄に接骨木【ミヤツコキ】とあるを證としてヤマタヅを接骨木《ニハトコ》の事とせり(山多豆考)。なほ木村博士の美夫君志卷一二別記附録山多豆考補正又高田與清の松屋筆記卷九十五を參考すべし○ムカヘカユカムはムカヘニカユカムのニを略したるなり。否上古にはニを挿まざりしなり。さて諸平は
(133)  此木、葉も枝も對ひ生るものなればムカヘといふ詞の發語に置れしならむ。但しムカヒは四段の活にて自然むかふ詞、ムカヘは下二段の活にてこなたよりむかふる詞にて活たがへば山多豆の葉の對ひたるが如く迎へゆかむといふ意也
といへり
 
86 かくばかりこひつつあらずば高山のいは根しまきてしなましものを
如此許戀乍不有者高山之磐根四卷手死奈麻死物乎
 宣長の説にコヒツツアラズバはコヒツツアラムヨリハといふ意なりといへり(記傳三十一卷及玉の緒七卷にくはし)○タカヤマノイハネシマキテを考に『葬てあらんさまをかくいひなし給へり』といひ略解、美夫君志共に之に從ひたれど、もし葬の事ならばシナマシより後にあるべきなり。されば辭のまゝに岩根ヲ枕トシテと心得べし、マクは枕とする事○イハネは岩の下端にて岩の上端をイハホといふに對せり。なほカキネとカキホとの如し。但岩そのものをもイハネといふ。こゝなど然り
 
87 ありつつも君をばまたむ(うちなびく)わが黒髪に霜のおくまでに
(134)在管裳君乎者將待打靡吾黒髪爾霜乃置萬代日
 一首の趣を思ふに庭などにたちつゝよみ給ひしなり。アリツツモはカウシタママデといふこと即カク庭ニ立テルママデといふことなり。眞淵のアリツツモをナガラヘアリツツの意としクロカミニ霜ノオクを髪の白くなることゝせるは非なり。シモノオクマデニは雅澄のいへる如く夜フケテ霜ノフリオクマデといふ意なり。ウチナビクは黒髪にかゝれる准枕辭なり
 
88 秋の田の穗のへにきらふ朝がすみいづへの方にわがこひ將息〔左△〕《ヤラム》
秋之田穗上爾霧相朝霞何時邊乃方二我戀將息
 秋之田とあるは秋田之を誤れるなり。將息は從來ヤマムとよみて疑へる人なけれどヤマムとありてはイヅヘノカタニと打合はず。案ずるに將息は將遣の誤字にてヤラムなるべし。集中に思を放ち遣ることをオモヒヤルといへり。今も其類にて秋の田の稻穗の上に滿ち渡れる朝霧のいづ方にか我戀を放ち遣らむとよみ給へるなるべし。こゝのカスミは霧なり。キラフはクモルなり○更に案ずるに霧はいづくともなく消えゆくものなれば上三句はイヅヘノ方の序とせるか。但序とせむに辭足(135)らねど古歌の序には後世の法に照すに辭の足らぬが少からず。下なるアヅマ人ノノサキノハコノ荷ノ緒ニモ、神山ノ山ベマソユフ短ユフなども然り
 
   或本(ノ)歌曰
89 居明而《ヰアカシテ》きみをばまたむ(ぬばたまの)わが黒髪に霜はふるとも
居明而君乎者將待奴婆珠乃吾黒髪爾霜者零騰文
     右一首古歌集中(ニ)出
 初句を宣長はヲリアカシテとよめり(玉勝間十四卷)。されどなほ舊訓の如くヰアカシテとよみて可なり。但そのヰはトノヰのヰに同じく『ただ一わたり輕く常にいふとはかはりて夜寢ずに起て居る意』なる事宣長のいへる如し○此歌は前のアリツツモといふ歌と相似たるが故に擧げたるなり
     古事記曰。輕太子奸2輕(ノ)大郎女《オホイラツメ》1故其太子|流《ナガサル》2於伊豫湯1也。此時|衣通《ソトホリ》(ノ)王不v堪2戀慕1而迫往時歌曰。君之行氣長久成奴山多豆乃迎乎將往待爾者不待。此云2山多豆1者是今(ノ)造木也
(136)     右一首歌古事記與2類聚歌林1所v説不v同。歌主亦異焉。因檢2日本紀1曰。難波(ノ)高津(ノ)宮御于|大鷦鷯《オホササキ》(ノ)天皇二十二年春正月天皇語2皇后1納2八田《ヤタ》(ノ)皇女1鷦v爲v妃。時皇后不v聽。爰天皇歌以乞2於皇后1之。三十年秋九月乙卯朔乙丑皇后遊2行紀伊國1到2熊野岬1取2其之|御綱葉《ミツナガシハ》1而還。於v是天皇伺2皇后不1v在而娶2八田皇女1納2於宮中1。時皇后到2難波(ノ)済1聞3天皇合2八田皇女1大恨之【云云】。亦曰。遠飛鳥《トホツアスカ》宮御宇|雄朝嬬稚子宿禰《ヲアサツマワクコスクネ》(ノ)天皇二十三年春正月甲午朔庚子|木梨《キナシ》(ノ)輕《カル》(ノ)皇子爲2太子1。容姿佳麗。見者自感。同母妹輕(ノ)大娘《オホイラツメ》皇女亦艶妙也【云云】。遂竊通。乃悒懷少息。二十四年夏六月御羮汁凝以作v氷。天皇異v之卜2其所由1。卜者曰。有2内亂1。蓋親親相姦乎【云云】。仍移2大娘皇女於伊與1者《トイヘリ》。今案二代二時(トモニ)不《ミエザル》v見2此歌1也
 
近江(ノ)大津(ノ)宮御宇天皇代
 天皇賜2鏡王女1御歌一首
(137)91 妹がいへも【一云いもがあたり】つぎてみましを【一云つぎてもみむに】やまとなる大島のねに家もあらましを【一云いへをらましを】
妹之家毛繼而見麻思乎山跡有大島嶺爾家母有猿尾【一云妹之當繼而毛見武爾一云家居麻之乎】
 鏡王女は鏡王ノ女とよむべし。眞淵以來鏡女王の誤としたれど集中いづくにも鏡王女とあればなほもとのま々たるべし。おそらくは其名の傳はらざりしならむ
 初二は一云の方によるべし。結句はいづれにてもあるべし○考、古義に大津宮にての御製とせるは標に近江大津宮御宇天皇代とあり歌にヤマトナルとあるによれるなるべし。案ずるにイモガアタリツギテモミムニとのたまへるを思へば女王の家にいでまして女王に逢ひ給ひしなり。此女王は鎌足大臣の嫡室にて天皇の都を大津に遷し給ひしは御宇六年、鎌足の薨去は同八年。天皇の崩御は同十年なれば行幸は九十兩年の間〔日が月〕とせざるべからず。それもあるまじき事にはあらねど此時女王の御妹なる額田王にすら十歳ばかりなる御孫(葛野王)おはすれば鏡王女の御齢は少くとも四十餘歳なりけむ。さる老女に逢はむ爲にふりはへて近江より大和に行幸し給ひ、なほあき給はでイモガアタリツギテモミムニなどのたまはむやいとお(138)ぼつかなし。恐らくは皇子にて孝コ天皇の御代に津(ノ)國豐埼宮にましましゝ程(女王のいまだ鎌足の妻となり給はざる程)大和にかへりて女王を訪ひ給ひし後の御歌なるべし。とまれかくまれオホシマノネニとさし定めてのたまへるを見れば御かへるさに其大島嶺にてよみ給ひしなり。たとひ大和國にてよみ給ふとも他國にましましゝ程ならばヤマトナルとのたまふべきなり。標はあまりに重く見べからず。本集の撰者詳によみ給ひし時を知らずば其御代の標下に掲ぐべし。否たとひ皇子とましましゝ時の御歌といふ事明なりとも皇極孝コ齊明御三代のうちいづれの御代のと知られずばなほ其御代の標下に掲ぐる外なからむかし。次なる内大臣藤原卿娉2鏡王女1時歌も恐らくは此御代のにあらじ(玉勝間二卷にくはしく此女王の事をいへり)○大島(ノ)嶺にて鏡王女の家を顧み給ひてモシ此峠ニ住マバ引續キテ妹ノ家ヲ見ヨウモノヲとのたまへるなり
   鏡王女奉v和歌一首
92 秋山のこのしたがくりゆく水の吾許曽益目御念從者《ワレコソマサメオモホサムヨハ》
秋山之樹下隱逝水乃吾許曾益目御念從者
(139) 流布本に題辟の下に鏡王女又曰額田姫王也とあるは誤なり。おそらくは家持ならぬ後人の註ならむ。此女王は鏡王の女、額田女王の姉にて始天智天皇に寵せられ後に鎌足の夫人となりし人なり
 四五舊訓にワレコソマサメミオモヒヨリハとよめるを古義にアコソマサラメオモホサムヨハとよみ改めたれどアコソはきゝなれずマサメとマサラメとはいづれにてもあるべし(キミガミカゲニマスカゲハナシのマスなり)。宜しくワレコソマサメ、オモホサムヨハとよむべし。オモホスを御念と書けるは卷一なる御念《オモホシ》メセカ、モノナ御念《オモホシ》を始めて例多し。正しくはワレコソマスラメ、オモホスラムヨハと云ふべきなれど言數餘りてさは云ひ難きによりて、かくは云へるならむ。否上古はスラムをセムとも云ひし如し。アルラムをアラムといふは歌には今も許さるゝ事なり○上三句はマサメにかゝれる序にや。コノシタガクリは木《コ》ノ下ニ隱レテなり。カクレをいにしへカクリといひしなり。又いにしへはかゝる所のニをも省きしなり
 
   内大臣藤原卿娉2鏡王女1時鏡王女贈2内大臣1歌一首
93 玉しくげ覆乎安美《オホフヲヤスミ》あけて行者《ユカバ》君名《キミガナ》はあれど吾名《ワガナ》しをしも
(140)玉匣覆乎安美開而行者君名者雖有吾名之惜毛
 内大臣藤原卿は鎌足なり
 二句舊訓にオホフヲヤスミとよめるを雅澄はカヘルヲイナミに改めたれどなほ舊訓に從ふべし○初二はアケテの序なり。タマクシゲをオホフの枕辭と思ふべからず。タマクシゲを枕辭とすれば第二句の意義通ぜざるのみならずアケテは枕辭の縁語となりて此時代の歌の風にかなはざればなり。考に
  匣の蓋は覆ふこともやすしとてアケテとつづけたり。さて夜の明ることにいひかけたる序のみ
といひながらタマクシグの下に冠辭と註したるは矛盾せり。ヤスミは怠リの古言にあらざるか。玉クシゲは手箱なり○行者は舊訓にユカバとよめるを略解には一本の舊訓によりてイナバとよめり。いづれにてもあるべし○契沖は六帖に此歌を載せてワガ名ハアレドモ君ガ名ヲシモとしたるを引きて『古本は上は吾、下は君なりけるを今の本誤て引替たるか』と云へれど比歌は題辭に娉2鏡王女1時とあるを見(下にも娉と娶とを別てり)又答歌の調を見ても女王の未鎌足に靡き給はぬ程なれ(141)ば我名ハヲシカラネド君ノ名ガヲシイといひたまふべくもあらず。さればもとのまゝにてあるべし。古義、美夫君志に女王の靡き給ひし後の歌とせるは誤なり○君ガ名ハアレドは君ハ男子ナレバ御迷惑ニナラネドといへるなり
 
   内大臣藤原卿報2贈鏡王女1歌一首
94 (玉くしげ)みむろの山のさなかづらさねずばつひに有勝麻之目
玉匣將見圓山乃狹名葛佐不寐者遂爾有勝麻之目【或本歌云玉匣三室戸山乃】
 上三句は序なり。サネズのサは添辭なり。四五の意は相寢ズバ逐ニ堪ヘ得ジといへるなり○結句を從業アリガテマシモとよめり。さて宣長(記傳十二卷)いはく『カテのカは書紀の歌によるに清むべし』と。又いはく『カテは難き意なり。又カネと云にも通ひて聞ゆ』と。案ずるに原格カツ(連體格カツル)にてカテヌとはたらくを見れば下二段活の動詞なり。さてアリカテマシモはアリカネムといふ意にや。このマシ御杖の定義(一卷一〇九頁參照)に合はず。サネズは事實にて虚設にあらねばなり。なほ考ふべし○集中にカテを又不勝と書けり。宣長(同上)いはく
  カテを不勝と書るはタヘズと云意を取れるなるべし。タヘヌは難キと同意なれ(142)ばなり。然るを其不字を省きて勝とのみ書るはいさゝか意得がたけれど……不勝を勝とのみ書るも所以あるにや
 岡本保孝の難波江三卷上(百家説林續編下一の六五六頁)に
  こゝにまぎらはしき事あり。勝はカツ、カテとよむべければ不勝《カテ》の意の時に勝とかけるあり。是はただカテとよむ字なれば不勝の意のカテの詞の假字に勝を用ひたるなり
とあり。保孝は『勝と書けるは不勝と書くべき不を略せるにあらず。カテに不勝と書けるは義訓、勝と書けるは借訓にて固より別なり』と云へるなり。古義にいはく
  勝とのみ書るは不字を略きたる如見ゆれどもよくおもへば勝のカツの訓を轉用ひたるものにて略けるにあらず。もとより理異なり。思紛ふべからず(さればカテには不勝とも勝とも書れどもカネには不勝と書て勝とのみ書る例なきにて勝は不勝の不字を省きたるにはあらず固より理異なること著し)
木村博士(美夫君志卷二別記)は
  不勝とあると勝とのみあるとはもとより文字の用ゐざまの異なるにて勝との(143)みあるはカツの訓を通はして借用ゐたるにて字義には關からず。松をマト酒をサキ高をタケなどに借れると同例なり
といへり。即保孝雅澄の説と異なる所なし【此卷を印刷に附すべく正宗敦夫の許におくりし後同人より橋本進吉氏のカテヌカテマシ考を送りおこせつ。一讀するに極めておもしろき創見なり。此卷印刷の間に精讀して卷末追考の部に抄出すべし】
 
   内大臣藤原卿娶2采女|安見兒《ヤスミコ》1時作歌一首
95 吾者毛也《ワレハモヤ》やすみこえたり皆人《ミナビト》のえがてにすとふ安見兒えたり
吾者毛也安見兒得有皆人乃得難爾爲云安見兒衣多利
 初句舊訓にワレハモヤとよみ雅澄はアハモヤとよめり。いづれにてもあるべし。モヤは助辭なり○皆人を古義に人皆の誤としてヒトミナとよめり。ヒトミナの古くミナビトの新しきは論なけれど集中皆人と書けるこゝのみにもあらねば誤字とも定むべからず。鎌足の時代は知らず本集を編みし時代にはヒトミナともミナビトともいひしなるべし。言語の變遷には新舊ならび行はれし時代あること言を俟たず○古義に
  ヤスミコエタリとは安見兒は名ながらこゝはたやすく得たる意をかねたり
(144)と云へるは代匠記に
  ヤスミコエタリは幸にて易く相見ると云心を名にそへたり
とあるによれるにてワレハモヤをなほ新しとしてアハモヤと改めよめる雅澄の言ともおぼえず
 
   久米禅師娉2石川(ノ)郎女1時歌五首
96(水薦《ミスズ》かる)しなぬの眞弓わがひかばうま人さびていなといはむかも
禅師
水薦苅信濃乃眞弓吾引者宇眞人佐備而不言常將言可聞
 冠辭考に水薦を水篶の誤としてミスズとよめるを古義にはもとのまゝにてミコモとよめり。木村博士は
  薦字此まゝにてスズとよむべし。書紀神代紀に野薦をヌスズと訓るを證とすべしへ○冠辭考にはこれをも野篶に改めたり)。これを篶に改るはわろし。篶字は金の承安年間に成れる五音篇海といふものに始て見えて篶(ハ)黒竹也とありて舍人親(145)王の日本紀を撰び給へる時はもとよりにて萬葉集撰集の時も未だ此文字はあらざりし也。いかで日本紀、萬葉集等に用ゐらるゝ事のあるべき(撮要)
といへり。此説によるべし○ウマビトサビテは種姓ニ誇リテといふこと○初二は序なり。ワガヒカバは我挑マバとなり。禅師は人名なり。僧にあらず
 
97 (三薦《ミスズ》かる)しなぬの眞弓ひかずして強作留行事をしるといはなくに
郎女
三薦苅信濃乃眞弓不引爲而強作留行事乎知跡言莫君二
 契沖は強を弦の誤としてツルハグルワザとよみ契沖の改字に從ひて眞淵は弦をヲとよみ芳樹はツラとよめり。雅澄は弦を眞淵の如くヲとよみハクルのクをすみて令著(俗にいふハケル)の意とせり。案ずるに初二はヒカズの序に過ぎざれば四句に至りて必しも弓に縁あることをいふべきにあらず。否四句に至りて弓に縁あることをいふは寧後世の風なり。一首の調より見ても四句はただスマハムコトヲ又はイナマムコトヲなどいふべきなり。されば強は輕々しく弦の誤字と定むべからず。再按ずるに強作はもとのまゝにて留行は或は留住の誤か。さてイナマムコトヲ(146)とよむべきか○結句のイハナクニの主格は第三者なり。下にもアリトイハナクニとあり。こゝは知リ給ハザラムヲの意とすべし
 
98 (梓弓)ひかばまにまによらめどものちの心をしり勝奴鴨《カテヌカモ》 郎女
梓弓引者隨意依目友後心乎知勝奴鴨
 カテヌのヌは打消のヌか又は完了のヌか。宣長は打消のヌとして
  カテヌはカテの反對なる詞なるを同意によめり
といひ(記傳十二卷)保孝は『オハンヌのヌなり。不のヌにあらず』といひ(難波江三卷上【百家説林續篇下一の六五六頁】)雅澄は
  ヌは不の意にあらず。已成《オチヰ》のヌにてトリモキナキヌなどいふヌに同じ。さてカテヌはカネツに通ひてユキスギカテヌはユキスギカネツといふ意に通ひて聞ゆる其餘も此定をもて准ふるに集中ひとつも疑ふことなし。……『もしカテヌをカネツに通ふとせばシリカテヌカモ、イリカテヌカモなど云むこといかが。たとへばカネツルカモと云てカネツカモとは云はるまじきにて知べし。しかるをカテヌルカモと云ることはなくしてカテヌカモとのみ連云たるはいかに。不字の(147)意のヌよりカモと連ねてヌカモと云は常なればなほカテヌのヌをも已成のヌとせむことおぼつかなし』と思はむか。十四にヨダチ伎努可母。又オキテ伎努可母、二十卷にイハズ伎奴可母。又コエテ伎怒加牟などあるキヌはキツと云に通ふ意なるを其もキツルカモと云ひてキツカモとは云はるまじければオキテキヌルカモ、イハズキヌルカモなどいふべきにヌカモとのみ云たるをや。カテヌカモといへるもこれと同じ例なり
といひ(古義二上)木村博士は
  かくてカテヌカモとあるヌは去の意のにて連用言を受るヌなり。將然をうくる不のヌにはあらず。卷四にイモニコヒツツイネカテニケム、卷十一にマチシヨノナゴリゾイマモイネカテニスルなどニとも活かしいへるにて去の意のなること明らけし。但去の意のヌは截斷言なればカモとは受まじきやうなれども此ヌは古くは連體をもかねたるなり。其證は卷十四にイキヅクイモヲオキテ伎奴可毛とある是今と全く同例なり
といへり(美夫君志卷二別記二頁)〇一首の意はモシ君ガ我ヲ引カバ引クガママニ(148)寄ラム、サレド但後々ノ事ガ知ラレズといへるなり
 
99 梓弓つらをとりはけひく人はのちの心をしる人ぞひく 禅師
梓弓都良絃取波氣引人者後心乎知人曾引
 この歌などは頗拙し。弓ニ弦ヲトリカケテヒク人ハ豫後々ノ事ヲ思定メテヒクといふ意なるべけれど(梓弓は此の歌にては枕辭にあらず)シルヒトゾヒクと云へるヒクヒトハと云へると相かなはず。シリテコソヒケなどあるべきなり。抑本集の歌をことごとくとゝのひたりと思はむは誤なり。本集の歌にはとゝのはぬも少からず。其中に誤字誤訓ありてとゝのはぬもあるべけれど又もとよりよみ方拙くてとゝのはぬもあり。元來後世とはちがひて歌よむ人少く其上時又は處の異なるは傳聞することも後世に比して少かるべきを偏に多きを冀ひてきくに從ひ見るに從ひて集めたるめれば玉石同架の恨はもとよりあるべきなり。さるを誤りてよき歌のみを集めたるものと信じてわろきをもよろしと思ひなし又わろきをわろしといふを憚るは愚の至なり○ツラヲは弦緒にてやがて弦なり。都良絃と書ける絃は弦の通用なり。トリハケはカケテなり
 
(149)100 東人《アヅマビト》ののさきのはこの荷の結〔左△〕《ヲ》にも妹がこころにのりにけるかも 禅師
東人之荷向篋乃荷之結爾毛妹情爾乘爾家留香問
 東人は古義に從ひてアヅマビトとよむべし。アヅマドとはよむべからず。ノサキは貢物の初荷なり。結は諸本に緒とあり。代匠記に
  緒の上に函の乘たる如く我心に妹が乘るとなり
といへり。右の釋の如くば此歌も頗拙しといふべし○再案ずるに荷ノ緒ニモは荷ノ緒ニ乘ルナスと心得べきか。又妹ガココロニは妹ガ、我心ニといふ意なるべし
 
   大伴宿禰娉2巨勢郎女1時歌一首
101 (玉かづら)みならぬ樹には(ちはやぶる)神ぞつくとふならぬ樹ごとに
玉葛實不成樹爾波千磐破神曽著常云不成樹別爾
 大伴宿禰は家持の祖父安麻呂なり
 考に
(150)  葛は子《ミ》の成もの故に次の言をいはん爲に冠らせしのみなり。且子の成てふまでにいひて不成の不《ヌ》まではかけぬ類ひ集に多し
といひ古義に
  玉葛は實の成ものなるゆゑに次の句をいはむ料にいへるなり。實の成てふまでにかゝりて不成の不まではかけて見べからず。フルノワサダノ穗ニハイデズなどいふ類なり
といひ美夫君志に
  此は實〔右△〕の一言にかけたるにてフルノワサダノ穗ニハイデズとあるもワサ田ノ穗とかけたるにて同例なり(採要)
といへり。此歌のみについて見ば木村博士の説を穩當とすべけれど答歌に至りて忽窮すべし。されば余は玉葛は實の成らぬ又は實のなり難きものにて此歌にてはミナラヌにかゝれりと認む○ミナラヌ樹は考にいへる如く男せぬ女にたとへたるなり。此神は無論邪神なり○結句は蛇足なり
 
   巨勢《コセ》(ノ)郎女《イラツメ》報贈歌一首
(151)102 玉かづら花のみさきてならざるは誰戀爾有目《タガコヒナラメ》わはこひもふを
玉葛花耳開而不成有者誰戀爾有目吾孤悲念乎
 誰戀爾有目は舊訓にタガコヒニアラメ(眞淵はタガコヒナラメ)とよめり。契沖は
  有目をアラメとよみては今のテニヲハに叶はねど此集には此類あり。音をも用ひたればアラモとよみてアラムと心得べきか
といひ玉緒七卷には『同集の中テニヲハ違へるに似て違へるにあらざる歌』と標して今の歌の外に
  見えずともたれこひざらめ山のはにいざよふ月をよそに見てしが(三卷)
  あらかじめ人言しげしかくしあらばしゑやわがせこおくもいかにあらめ(卷四)
など十一首の歌(但そのうち五首は下にカ又はヤの辭あれば今のと一つにはしがたし)を出して
  件の歌どもン、ラン、ケンといふべきところをメ、ラメ、ケメといへる、たがへるに似たれども集中にかくのごとく例おほく又上に出せるごとく日本紀の歌にも見え後の歌にもこれかれ例あり
(152)といへり。雅澄は今のタマカヅラの歌の處にては
  タガコヒナラモと訓べし。目をメとよむはわろし
といひながら四卷なるアラカジメ人ゴトシゲシの處にては
  上にコソなどいふ辭なくまた下に受る辭なてしてムといふべきをメと云るはいとめづらしけれど古語の偏格の一なり。二卷にタマカヅラ……三卷にミエズトモ……十四にシダノウラヲアサコグフネハヨシナシニコグラメカモヨヨシコザルラメなどある此等ムと云べきをメと云たるなり。又七卷にワガセコヲイヅクユカメト、十四にカナシイモヲイヅチユカメトなどあるもムといふべきをメと云へるにて同じ。此餘下に續く辭あるときムといふべきをメといへることは甚多し。委くは余が歌詞三格例に云り。披考べし
といへり(宣長の玉緒を見て説を改めしなり)。されば一種の格としてタガコヒナラメとよむべし○タマカヅラハナノミサキテはナラザルハの序なり。ナラザルハは戀の成らざるなり。古義に『實ノ成ラザルハといふなり』と云へるは非なり。贈歌にミナラヌといへるを受けてナラザルハといへれど贈歌にナラヌといへるは實の成(153)らぬにて然も女の男せぬ譬なるを答歌にナラザルハとへるは譬にはあらで戀の成らぬを云へり。即辭相似て意相異なり。本集の贈答には此躰多し○タガ戀ナラメはアナタノ方ノ戀デハゴザイマスマイといへるなり
 
   明日香(ノ)清御原宮(ニ)御宇天皇代
    天皇賜2藤原夫人1御歌一首
103 わが里に大雪ふれり大原のふりにしさとにふらまくはのち
吾里爾大雪落有大原乃古爾之郷爾落卷者後
 天皇は天武天皇なり。藤原夫人は天皇の宮人にて鎌足の女なり
 フリニシサトは代匠記に
  此所さきに都のありし邊などにてやフリニシサトとはよませ給ひけむ
といひ記傳三十四卷に
  天皇初此夫人の家に通ひ住賜へりし故にフリニシサトとはよみ給へるなるべし。十一卷の歌にも大原ノフリニシ里とあり
(154)といへり。大原を卑め給へる調なれば少くとも此歌のフリニシサトは昔ナジミノナツカシキ里といふ意にはあらで昔盛ナリシガ今ハサビシクナレル里といふ意なり○夫人の、事ありて一時大原に歸り給へる程にのたまひ遣しし御製なるべし○フラマクハ後はマダフルマイといふ意なり。戯れて雪をたふとくめでたきもののやうにのたまへるなり
 
   藤原夫人奉v和歌一首
104 わがをかのおかみに言而令落ゆきのくだけしそこにちりけむ
吾崗之於可美爾言而令落雪之摧之彼所爾塵家武
 オカミは龍なり。古義に言而を乞而に改めて
  乞字舊本言〔右△〕とあるは寫誤なることうづなければ今改めつ。コヒテとよむべし。言而とありてはきこえぬ事なるをいかでかも今まで註者等の心はつかざりけむ
といひたれどイヒテとありてきこえたり。否イヒテとコヒテと語調異なり。こゝはイヒツケテといふ意にてネガヒテといふ意にあらねば必イヒテとあるべし○令落を考にフラセタルとよめるを古義にフラシメシとよみ改めたり。古義に從ふべ(155)し○略解に『クダケシのシは過去のシなり』といへるはいみじき誤なり。シは助辭にてクダケは今いふカケラなり。はやく契沖の『クダケは物の摧けたるかたはしの意なり』と云へる如し○天皇の御戲に答へて御里ニ散リマシタノハ私ガココノ山ノ龍ニイヒ附ケテフラシマシタ雪ノ片ハシデゴザイマセウといへるなり
 
   藤原宮御宇天皇代
    大津皇子竊下2於伊勢(ノ)神宮1上來時|大伯《オホク》(ノ)皇女御作歌
105 わがせこをやまとへやるとさよふけてあかとき露に吾《ワガ》たちぬれし
吾勢枯乎倭邊遣登佐夜深而※[奚+隹]鳴露爾吾立所霑之
 藤原宮は持統文武兩天皇の御代なり
 吾を略解にワレとよめるはわろし。舊訓の如くワガとよむべし。美夫君志に古事記中卷の歌に和賀布多理泥斯とあるを例に引けり○大津皇子は天武天皇の御子、大伯皇女はその同母の御姉にて時に伊勢の齋宮にましましき。大津皇子、御父天皇の崩ぜし後大事を思立ちて祈願の爲に竊に伊勢へ下りて還ります時御姉の見送り(156)て此歌は、よみたまひしなり。ワガセコは兄弟間にもいひしなり。ヤルトは還シ遣ルトテなり
 
106 ふたりゆけどゆきすぎがたき秋山を如何君がひとり越武《コエナム》
二人行杼去過難寸秋山乎如何君之獨越武
 初二はフタリユクトモユキスギガタカラムと釋くべしフタリユクトモとのたまはでフタリユケドとのたまへるはユキスギガタキに合せ給へるにて古今集なるチリヌレバコフレドシルシナキモノヲケフコソサクラヲラバヲリテメなどの類なり(これも本來は散リナバ戀フトモシルシナカラムモノヲといふべきなり)○如何は從來イカデとよめり。正宗敦夫いはく
  集中假字書の歌を檢するに伊可爾可由迦牟、伊可爾可和可武などあれどイカデとあるを見ず。されば萬葉時代にはイカデといふ辭は未無かりけむ
と。山田孝雄氏の奈良朝文法史二五七頁にも
  イカは先にあげし如くイカト、イカニの二形あり。イカトは後世には耳なれぬものなり。イカデといふは續日本後紀の長歌にみえたるを始とす。然るに萬葉集中(157)の如何、何如等をイカデとよめるは時代を辨へざるものなり。又イカガといふよみ方も當時のものにあらず。かく假字書にせるもの一もあることなし
といへり。二氏の説に從ひて如何はイカニカとよむべし○越武は舊訓にコユラムとよめるを考にコエナムに改めたり○美夫君志に
  しのびて下らせ給ふともなどか御供の人もなからむ。然るにかくのたまふは歌の上の常なり
といへれどこは皇女の御身に對してヒトリとのたまへるなり。即我ト二人打連レ物語シツツユクトモサビシクテ行過ギガタカラム秋ノ山ヲ云々といふ意なり〇二首共に別に臨みてよみたまへるにはあらで別れし後によみたまへるなり
 
   大津皇子贈2石川郎女1御歌一首
107 (あしひきの)山のしづくに妹まつと吾たちぬれぬ山のしづくに
足日木乃山之四付二妹待跡吾立所沾山之四附二
 シヅクは露なり。吾の字舊訓にワレとよめるを考にワガとよみ改めたり。舊訓によるべし〇二句と五句とに同辭を用ひたる格なり。此格に二句にて切るゝと四句に(158)てきるゝとの別あり。二句にて切るゝは前なるワレハモヤヤスミ兒エタリミナ人ノエガテニストフヤスミコエタリの類にてまづ初二に大要をいひ下三句にやゝくはしくいふなり。四句にてきるゝ方は四句までにすべての意をいひ終へて更に二句をくりかへすにて五句はなくてもよきなり。なほ一格二句にて切れ更に四句にてきるゝあり。五卷ウメノハナ今サカリナリオモフドチカザシニシテナ今サカリナリの類なり
 
   石川女郎奉v和歌一首
108 わをまつと君がぬれけむ(あしひきの)山のしづくにならましものを
吾乎待跡君之沾計武足日木能山之四附二成益物乎
 ナラルルコトナラバといふことを補ひて釋くべし。セバ、ズバなどの照應なきマシはかゝる辭を略したるなりと知るべし○ニナルとトナルとは別あり。ニナルは變じて成るなり。今はナラルルコトナラバ變ジテ雫ニナラマシヲといへるなり
 
   大津皇子竊婚2石川郎女1時津守(ノ)連《ムラジ》通《トホル》占2露其事1皇子御作歌一首
(159)109 (大船の)つもりの占に將告〔左△〕《イデム》とは益爲爾《マサシニ》しりてわがふたりねし
大船之津守之占爾將告登波益爲爾知而我二人宿之
 占露はウラヘアラハシシニとよむべし○將告を舊訓にツゲムとよめるを考にノラムとよめり。案ずるに占の告《ノ》らむ意ならばツモリノウラノ〔右△〕ノラムトハとあるべくウラ爾とはいふべからず。十四卷に
  武藏野にうらへかたやきまさてにものらぬきみが名うらにでにけり
とあるを思へば將告は將出の誤にてイデムとよむべし○益爲爾は舊訓にマサシニとよめるを雅澄は兼而乎の誤としてカネテヲとよめり。舊訓によるべし。そのマサシニを考には『正シニなり。正シは專占にいふ言』といひ美夫君志には
  正シ也。卷十一にユフゲトフウラマサニノレ妹ニアヒヨラム、卷十四にムザシヌニウラヘカタヤキマサテニモなどあるマサと同じ。正シのシはシク、シ、シキの活詞のシにて終止言なるを體言にいひなしてそれをニと受たる也。ク、シ、キの活用の無字にあたる詞のナシをナシニと受るにて心得べし(採要)
といへり。案ずるにマサシニは形容詞の語幹にニを添へたるにてナシニとは同一(160)視すべからず。ナシの語幹はナなればなり。古事記應神天皇の御製なるマヨガキコニカキタレの濃《コ》ニ、此卷人麿從2石見國1別v妻上來時歌の彌遠爾サトハサカリヌ彌高爾ヤマモコエキヌのイヤトホニ、イヤタカニなどの類と見べし。さてマサシニはマサシクなり
   日並《ヒナミ》(ノ)皇子(ノ)尊贈2賜石川女郎1御歌一首【女郎字曰大名兒】
110 大名兒ををちかたぬべにかるかやの束のあひだもわれわすれめや
大名兒彼方野邊爾苅草乃束間〔日が月〕毛吾忘目八
 此石川女郎は久米禅師と贈答せし石川郎女とは時代異なれば別人なれど大津皇子と贈答せしとは同人なるべし。此御歌の題辭の註に女郎宇曰大名兒とあるは御歌にオホナゴヲとよませ給へればそのオホナゴは即石川女郎の名なることを知らせむ爲に註せるにて大津皇子と贈答せしと別なることをさとさむの註にはあらじ〇二三句は序なり。ヲチカタヌベは遠クノ野なり
 
   幸2于吉野宮1時弓削《ユゲ》(ノ)皇子贈2與|額田《ヌカタ》王1歌一首
(161)111 いにしへにこふる鳥かもゆづるはのみ井の上よりなきわたりゆく
古爾戀流鳥鴨弓絃葉乃三井能上從鳴渡遊久
 額田王の御供つかへずして藤原の都に留まれるに贈り給ひしなり○ユヅル葉ノ御井は泉の名なり。ミヰノウヘのウヘは空なり。アタリにあらず○ヨリは今ヲといふ。すべて今自動詞の上に附くるヲ即ミチヲユク、カハヲナガルなどのヲはいにしへみなヨリといひしなり○弓削皇子は天武天皇の御子なり。御父天皇の此處に行幸ありし時を偲びて天皇の寵人たりし額田女王にいひつかはしゝなり
 
   額田王奉v和歌一首
112 いにしへにこふらむ鳥はほととぎすけだしやなきしわがこふるごと
古爾戀良武鳥者霍公鳥蓋哉鳴之吾戀流其騰
 此歌あまたの辭を略したり。まづ三句の下にナラムといふ辭を補ひさて其次にソノホトトギスハイカサマニナキシゾといふ辭を補ひて聞くべし。御歌ニハタダ鳥トノミノタマヘルガ古ニコフラム鳥ハ霍公鳥ナルベシ、ソノ霍公ハイカサマニナ(162)キシゾ、モシワガ古ニコヒテナクヤウニナキシカと云へるにてケダシヤのケダシはモシに當りヤはナキシカのカに當れり。ケダシの事は玉勝間八卷に云へり
 
   從2吉野1折2取蘿生松柯1遣時額田王奉入歌一首
113 みよしぬの玉松がえははしきかも君が御言をもちてかよはく
三吉野乃玉松之枝者波思吉香聞君之御言乎持而加欲波久
 蘿はコケとよむべし。和名抄に松蘿一名マツノコケ一云サルヲガセとあり。ヒカゲにはあらず。ヒカゲは地上に生ふるものなればなり
 玉の小琴に
  玉松と云こと此外に例なし。玉の字は山の誤也。十六卷にも足曳之山縵之兒とある山の字を玉に誤れり。是明らかなる例證なり
と(記傳八卷及玉勝間十三卷にも)いへるを美夫君志には誤字にあらずとして
  玉勝間に玉は山の誤にて山松ガ枝なりといへるもわろし。其由は猶此卷なる玉カヅラカゲニミエツツとある所にいふべし
といへれど玉カヅラカゲニミエツツの處(卷二中十五頁)には
(163)  この玉縵の玉は山の誤り也と古事記傳卷二十五又玉勝間卷十三にいはれつるは非也。其由は上の玉マツガエの所にもいへり
といひて玉松をよしとせる所以を云はず。案ずるに今の歌三句に至りてハシキカモとほめむとするには二句に豫ほむべきにあらねば玉松は山松の誤なる事論なし。ハシキカモは愛スベキ哉となり○ミコトはおそらくは歌にて其歌は傳はらざりしなるべし。カヨハクは通フ事ヨにてやがて來レル事ヨとなり○芳樹は『ハシキカモは下なる君につづきたり。此頃は三句にて切るる歌なければなり』といへれど現に前の歌も三句にて切れたるにあらずや(次なるオクレヰテコヒツツアラズバオヒシカムも三句にて切れたり)
 
   但馬皇女在2高市《タケチ》皇子宮1時思2穗積皇子1御歌一首
114 秋の田のほむきのよれるかたよりに君によりななこちたかりとも
秋田之穗向乃所縁異所縁君爾因奈名事痛有登母
 二皇子一皇女は共に天武天皇の御子にて異母の御兄弟なり
 初二は序、カタヨリニは偏ニ、ヨリナナは依ラムにて心ヲ傾ケムといふ事、コチタカ(164)リトモは世間ノ批評ガヤカマシクトモといふ事なり
 
   勅2穗積皇子1遣2近江(ノ)志賀(ノ)山寺1時但馬皇女御作歌一首
115 おくれゐてこひつつあらずばおひしかむ道の阿囘《クマミ》にしめゆへわがせ
遺居而戀管不有者追及武道之阿囘爾標結吾勢
 考に
  左右の御歌どもを思ふにかりそめに遣さるゝ事にはあらじ。右の事顯れたるに依て此寺へうつして法師に爲給はんとにやあらん
と云へり。法師にし給はむ爲か否かは知られねど罪にあてて崇福寺には遣はされしなり。穗積皇子と但馬皇女とは異母兄弟なるが異母兄弟の相婚するは當時罪とせられず(下にも弓削皇子思2紀皇女1歌あり。弓削皇子と紀皇女とも異母の兄弟なり)。されば之によりて罪を獲給ひしにはあるべからず。美夫君志に
  輕太子と輕大郎女とたはけ給へるによりて太子を伊豫に流し給ひし事など思ひ合すべし
といへれど輕太子の事は同胞兄弟の相婚なれば今の例とはすべからず。前の歌の(165)題辭に但馬皇女在2高市皇子宮1時思2穗積皇子1御作歌とあり又次なる歌の題辭に但馬皇女在2高市皇子宮1時竊接2穗積皇子1事既形而後御作歌とあり。眞淵は
  但馬皇女この宮におはす故はつばらならず
といへり。高市皇子と但馬皇女とも同母兄弟にあらねば皇女が皇子の宮にましましゝ事故なくてはかなはず。案ずるに但馬皇女は高市皇子の妃たりしにて其前より穗積皇子と通じたりしが高市皇子に娉せられし後もなほ穗積皇子を思ふことやまずして秋ノ田ノホムキノヨレル云々の御作歌ありそれのみならず宮にましましながら竊に穗積皇子に逢ひ給ひしかばその咎によりて穗積皇子は近江に遣られ給ひしにこそ○註疏に例の三句切を嫌ひてオヒシカム道とつづけて見るべしと云へれど、もしオヒシカムを四句へ續けて見ばオクレヰテコヒツソアラズバはシメユヘにかゝりて一首の意通ぜざるに至らむ○オクレヰテはアトニ殘リテ、アラズバはアラムヨリハ、オヒシカムは追附カム、クマミは道ノマガリ角、シメユヘはシヲリセヨとといふ事なり
 
   但馬皇女在2高市皇子宮1時竊接2穗積皇子1事既形而御作歌一首
(166)116 人ごとをしげみこちたみ己《オノガ》母〔□で圍む〕世爾《ヨニ》いまだわたらぬ朝川わたる
人事乎繁美許知痛美己母世爾未渡朝川渡
 初二は人ノ口ガウルササニとなり。三句母の字なき本多し。されば舊訓にオノガヨニにとよめるに從ふべし。オノガ世ニは生來といふ事○結句については諸説あるうち考に
  事あらはれしにつけて朝明に道行給ふよし有て皇女のなれぬわびしき事にあひ給ふをのたまふか
といへるぞ最穩なる。跡を晦まし給ふ途中などの御歌なるべし。美夫君志に考の説を補ひて
  こひしさにたへかね給ひて遂に追ゆき給ひし道に小川などありて橋もあらざれば裾ひきかゝげて渡り給ひしわびしさをの給へるなるべし
といへるはヒトゴトヲシゲミコチタミとのたまへるにかなはず。一旦はオクレヰテコヒツツアラズバオヒシカムとまで思立ち給ふとも人言を憚り給はば跡おふことは寧中止し給ふべければなり○夕顏の卷に源氏が夕顏を霧深き朝何がしの(167)院につれゆきし後夕顏に向ひていひしことばに
  まだかやうなることをならはざりつるを心づくしなることにもありけるかな『いにしへもかくやは人のまどひけむわがまだ知らぬしのゝめの道』ならひ給へりや
とあるは今の歌と趣の似たる所あり
 
   舍人皇子御歌一首
117 ますらをや片戀せむとなげけどもしこのますらをなほこひにけり
大夫哉片戀將爲跡嘆友鬼乃益卜雄尚戀二家里
 マスラヲヤは丈夫ヤハなり。上三句の意は片戀二悶ユルハ丈夫トシテ恥ヅベキ事卜思へドとなり○シコは自嘲りてのたまへるなり。されば第四句はイヤナ丈夫デとうつすべし。ナホはヤハリなり
 
   舍人(ノ)娘子奉v和歌一首
118 なげきつつますらをのこのこふれこそわがもとゆひのひぢてぬれけれ
(168)歎管大夫之戀禮許曾吾髪結乃漬而奴禮計禮
 舍人は氏なり。乳母の氏を皇子の名とせる例多かれば舍人(ノ)娘子は舍人皇子の乳母の女にや
 モトユヒは本に髪結とあるを契沖モトユヒとよみて髪の事としてより諸家皆其説によれり。案ずるにもし髪の事ならば結の字を添へて髪結とは書くべからず。否直にワガクロカミノといふべし。されば此歌のモトユヒは古今集なる君コズバ閨ヘモイラジコムラサキワガモトユヒニ霜ハオクトモのモトユヒと同じくなほ髪のもとを結ふ紐の事とすべし○考に
  ヒヂはあぶらづきてぬるぬるとしたる髪をいふ。ヌレとはたがねゆひたる髪のおのづかろぬるぬるととけさがりたるをいふ。此下にタケバヌレとよめる是なり
といへれど膏づかば髪は却りてとけさがらざるべし。されば古義にいへる如くヒヂテヌレケレはただぬるゝ事にて當時人に戀ひらるればもとゆひ紐の濡るといふ諺ありしにこそ(古義には契沖の説に從ひてモトユヒを髪の事とせり)○コフレ(169)コソは後世のコフレバコソなりヒヂテはヌレテにおなじ
 
   弓別皇子思2紀(ノ)皇女1御歌四首
119 芳野河ゆくせ之〔左△〕《ヲ》はやみしましくもよどむことなくありこせぬかも
芳野河逝瀕之早見須臾毛不通事無有巨勢濃香毛
 初二は序なり。之は乎の誤字なり。シマシクモはシバラクモなり○アリコセヌカモのモは助辭にてアリコセヌカは雨モフラヌカのフラヌカなどと同格なればアリコスル(連體)といふ動詞のはたらきたるにてヌは打消のヌなり。さてそのアリコスルはアツテクレルといふ義にてアリコセヌカモはアツテクレヌカナア、アツテクレカシといふ義なり。ヨドムコトナクは絶ユル事ナクなり○紀皇女は弓削皇子の異母妹なり
 
120 吾妹兒にこひつつあらずば秋はぎのさきてちりぬる花ならましを
吾妹兒爾戀乍不有者秋芽之咲而散去流花爾有猿尾
 アキハギを古義に『秋さくものなればいへるものなり』といひ美夫君志に『ハギは秋(170)さくものなるからアキハギといふ』といへるは精しからず。アキハギはハルガスミなどと同じく所謂歌語にて文には用ふまじき語なり○萩の散るを見てよみ給ひしなるべし。サキテはただ輕く添へたるなり○磐(ノ)姫皇后のカクバカリコヒツツアラズバタカヤマノ岩根シマキテシナマシモノヲと同格なり
 
121 ゆふさらばしほみちきなむすみのえの淺香の浦に玉藻かりてな
暮去者鹽滿來奈武住吉乃淺香乃浦爾玉藻苅手名
 ユフサラバは夕ベニナラバとなり。シホミチキナムは潮滿チ來テ苅ラレズナリナムといふ意にて其下にサレバ今ノ程ニといふ事を省きたまへるなり。相聞歌に入れたるを見れば譬喩の歌ならむ
 
122 大船のはつるとまりのたゆたひにものもひやせぬ人の兒ゆゑに
大船之泊流登麻里能絶多日二物念痩奴人能兒故爾
 初二は序なり。タユタヒニは序よりかゝりては船の動搖する事、主文の方にてはグヅグヅトシテといふ意なり。○ヒトノコは人ノシメタル婦人なり。人ノムスメの意(171)と見るべからず。皇女は皇子の異母妹なれば人ノムスメの意とせば皇子が父帝を指して人とのたまふやうになるべければなり○以上四首は無論同時の御作にあらず
 
   三方《ミカタ》(ノ)沙彌《サミ》娶2園(ノ)臣|生羽《イクハ》之女1未v經2幾時1臥v病作歌三首
123 たけばぬれたかねば長き妹が髪このごろみぬに掻入〔左△〕《カカゲ》つらむか 三方沙彌
多氣婆奴禮多香根者長寸妹之髪此來不見爾掻入津良武香
 沙彌は人名なり。僧にあらず。上に見えたる禅師の類なり
 記傳三十一卷に頂髪をタギフサとよみてタギは髪を揚たるを云、フサは其揚て集めたる髪の繁きを束ねたる處を云。……萬葉に髪タグと多くよめり。揚ることなり
といへり。七卷の歌にヲトメラガオルハタノ上ヲマグシモチカカゲタク島ナミマヨリミユとあり又今の歌にカカゲツラムカと云へるに對して答歌に人ミナハ今(172)ハナガシトタケトイヘドと云へるなどを見ればタク(クは清むべし)はげにかきあぐる事なり。古義に『總束ぬるをいふ語』といへるは非なり○ヌレは考に『たがねゆひたる髪のおのづからぬる/\ととけさがりたるをいふ』といへり。畢竟すべる事なり○ナガキはナガカリシといふべきを五七の調の爲にナガキと云へるなり。三卷安積皇子薨之時内舍人大伴家持作歌にもサキシ花をサク花といひサワギシ舍人をサワグ舍人といへり。外にも例あり。揚グレバ滑リ揚ゲネバ長キといへるは童女の額髪のさまなるべし○掻入を宣長は入を上の誤としてカカゲとよめり(宣長の説は略解に見えたり)。之に從ふべし○結句はモハヤ髪ノビテカキアゲツラム、アナユカシといへるなり
 
124 人みなはいまは長跡《ナガシト》たけといへど君がみし髪|亂有《ミダレタリ》とも 娘子
人皆者今波長跡多計登雖言君之見師髪亂有等母
 いにしへは童女の間は髪を結はずして後に垂れ成人して始めて髪を揚げしなり。古義に『男して〔三字傍点〕髪をたきあぐるを髪揚といふ』といへるは非なり。江家次第第十二齋王群行の條に依v未2成人1不v可2上v髪給1歟とあるを見るべし○長跡を古義にはナガミ(173)トとよみて『ながさにと云はむが如し』といへれどなほ舊訓の如くナガシトとよみてナガシトテの意と見るべし○亂有を古義、美夫君志にミダリ〔右△〕タリとよめれど自動詞のミダルは二段活なればなほ考の如くミダレ〔右△〕タリとよむべし○結句の下にタカジといふことを略したるなり○古義に『女の髪を上ぐるは夫たるものゝする事にて贈歌は我病みて訪らはぬ内に他男をして髪あげせしめつらむといふ意、答歌は他夫にあげしめむやはといふ意』と云へるは非なり。未男せぬ女の髪あげたる例竹取を始めてあまたあり。古義に引ける伊勢物語の君ナラズシテタレガアグベキは高尚の説にタレカナヅベキの誤なりといへり
 
125 橘のかげふむ路のやちまたに物をぞおもふ妹にあはずて 三方沙彌
橘之蔭履路乃八衢爾物乎曾念妹爾不相而
 初二は序なり。橘は道の並木なり。ヤチマタは序よりかゝりては縦横に通じたる道、主文の方にてはサマザマニといふことなり。めでたき歌なり○古義に歌意を釋きて『あるまじきことをもとかく考へ出し娘子の心をまで探りて云々』といへるはひが言なり
 
(174)   石川女郎贈2大伴(ノ)宿禰《スクネ》田主《タヌシ》歌一首
126 みやびをとわれはきけるをやどかさずわれを還利〔左△〕《カヘシツ》おそのみやびを
遊士跡吾者聞流乎屋戸不借吾乎還利於曾能風流士
    大伴田主字曰2仲郎1。容姿佳艶風流秀絶。見人聞者|靡《ナシ》v不2歎息1也。時有2石川女郎1。自成2雙栖之感1恒悲2獨守之難1。意欲v寄v書未v逢2良信〔左△〕1。爰作2方便1而|似《ニセテ》2賤嫗1已提2鍋子1而到2寢側1※[口+更]音跼足叩v戸諮〔左△〕曰。東隣貧女將v取v火來矣。於v是仲郎暗裏|非v識《シラズ》2冒隱之形1慮外不v堪2拘接之計1。任v念〔左△〕取v火就〔左△〕v跡歸去也。明後《アケテノノチ》女郎既恥2自媒之可1v愧復恨2心契之弗1v果因作2斯歌1以贈(リテ)諺〔左△〕戲焉
 還利はカヘセリとよむ外はなけれどカヘセリにては格かなはず。利は都などの誤にてカヘシツならざるか○オソは俗にいふトンマなり
 自成2雙栖之感1と恒悲2獨守之難1と顛倒せるか。良信は良媒の誤か。己はミヅカラとよむべきか。寢はツマヤなり。※[口+更]はムセブ、跼はヨロボフなり。諮は※[言+念]《ツグ》の誤か。非識はシラ(175)ズとよむべし。慮外は女郎の慮外にて暗裏云々は中郎ガ美女ノ賤嫗ニ似セタルナルヲ知リテ拘《トラ》ヘムカト計リシニ中郎ハ暗サニ冒隱ノ形ヲ認メズシテ女郎ノ計ニ墮チザリキと云へるにや。任念は任※[言+念]の誤、就跡は※[(口/耳)+戈]跡の誤か。もし然らばツゲシマニマニ、跡ヲヲサメテとよむべし。心契は心期なり。俗にいふアテなり。諺戲は元暦校本に謔戲とあるに從ふべし
 
   大伴宿禰田主報贈歌一首
127 みやびをにわれはありけりやどかさず令遣《カヘシシ》われぞ風流土者〔左△〕有《ミヤビヲニアル》
遊士爾吾者有家里屋戸不借令遣吾曾風流土者有
 令還を舊訓にカヘセルとよめれど過去に云ふべき處なればカヘセルにてはかなはず。カヘシシとよむべし(古義にカヘセ〔左△〕シとよめるは非なり)○者有を考にニハアルとよめるを古義に者を煮の誤としてニアルとよめり○本集にはかく拙き歌も交れり
 
   石川女郎更贈2大伴宿禰田主1歌一首
(176)128 わがききし耳に好似《ヨクニツ》(葦若未〔左△〕乃《アシカビノ》)足痛《アシナヘ》わがせつとめたぶべし
吾聞之耳爾好似葦若未乃足痛吾勢勤多扶倍思
    右依2中郎足疾1贈2此歌1問訊也
 好似は舊訓にヨクニバとよめり。されど我キク如クナラバといふことをヨクといふ辭をさへ添へて耳ニヨク似バといふべくもあらず。古義には耳ニヨク似ツとよめり。之に從ふべし。即カネテ御足ノ病ガアルト聞イテヰマシタガ昨夜御目ニカカリマシタニ其通デゴザイマシタといふ意なり。中郎がたちあがり來ズして女郎の謀成らざりしかばくやしまぎれに躄といひなしたるなり○葺若未を舊訓にアシカビとよめるを宣長は
  若末(○未を末の誤としていへるなり)をカビとは訓がたし。卷十長歌に小松之若末爾とあるはウレとよめればこゝもアシノウレノとよみて足痛はアナヘグとよまむか。蘆芽《アシカビ》はなゆるものにあらず。一本若生とあるによらばカビとよむべし
といへり(此説は略解に引きたり)○足痛は舊訓にアナヘグとよめるを考にアシナヘとよみ改め古義には
(177)  アナヤムとよむべし。舊本にアナヘグとよめる是もあしからじ。又官本にアシヒクとよめり。さも訓べし
といへり。古義の訓の如くアシノウレノアナヤムワガセとよまむにアシノウレノをいかなる枕辭とかせむ。案ずるに足痛はアシナヘとよみ第三句は葦若生〔右△〕乃の誤としてアシカビノとよむべきか。アシカビは即葦苗なれば躄の枕辭にアシカビノといへるならむ○ツトメは考に『紀に自愛の字をツトメと訓しが如し』といへるが如し○タブは玉勝間一卷に
  古言にタマフをタブとも云
といひ山田孝雄氏の奈良朝文法史に
  タブは古來の學者タマフの約言なりといへり。余惟ふに斷じて然らず。かへりてこれが古の形にてこれより波行四段形の複語尾に連なりてタマフとなりしものならむとおもはるゝなり
といへり。余は此説に左袒す
 
   大津皇子(ノ)宮(ノ)侍《マカダチ》石川女郎贈2大伴宿禰宿奈麻呂1歌一首
(178)129 ふりにし、おみなにしてやかくばかり戀にしづまむ【一云こひをだにしぬびかねてむ】たわらはのごと
古之嫗爾爲而也如此許戀爾將沈如手童兒
    一云戀乎太爾忍金手武多和郎波乃如
 題辭に大津皇子宮侍石川女郎といへるは田主と贈答せし石川女郎と別人なるを示さむが爲なり。大津皇子宮侍の上に前ノといふことを加へて見べし。大津皇子の在世中の作にあらじ。マカダチは侍女なり○フリニシ嫗《オミナ》は老女なり。タワラハはワラハに同じ。但こゝはただうら若き女をいへるなり。前註これを幼童の事と思へるより幼童の戀に沈まむことあるべからねばナクといふ語を加へて幼童ノナクガ如ク戀ニ沈ミテナカムヤハなど釋き僻めたるなり〇一云のカネテムハカネテアラムヤなり。ヤはオミナニシテヤのヤをこゝに引下して釋くべきなり
 
   長(ノ)皇子與2皇弟1御歌一首
130 にふの河瀬はわたらずてゆくゆくと戀痛吾弟《コヒタムワガセ》乞《コチ》かよひこね
(179)丹生乃河瀬者不渡而由久遊久登戀痛吾弟乞通來禰
 皇弟は同母の御弟弓削皇子ならむ
 古義に
  ユクユクトは次のコヒタムへ直につづけては聞べからず。尾句の上にめぐらして意得べし
といへるは非なり。ユクユクトはユクラユクラニと同語にて心のおちゐぬ状なり。初句よりコヒタムまで長皇子の御上なり。さればコヒタムの上にワガといふことを補ひて心得べし○戀痛を略解にはコヒタキとよめれどなほ考にコヒタムとよめるに從ふべし。コヒタムは戀ヒ惜ムなり○吾弟は舊訓にワガセとよめるを雅澄はアオトに改めたり。舊訓に從ふべし。いにしへは年の長幼にかゝはらずワガセといひしなり。吾弟とあるは意を得て書けるのみ○乞は舊訓にコチとよめるを契沖イデに改めたり。舊訓によるべし。コチラヘなり○美夫君志にいへる如く病に罹りなどしてこちらより訪ひ給ふことかなはざりしによりてかくのたまひ遣ししなり○古義にセハワタラズテを『カシコキ河瀬ヲ渡ラバソコナヒモヤ侍ラム、瀬ハ渡(180)ラズシテ來マセといふなり』といへるは非なり。丹生川を隔てて住み給ひけむにこれよりにもあれ彼よりにもあれ瀬をば渡らでいかにしてか通はむ
 
   柿本朝臣人麿從2石見國1別v妻上來時歌二首并短歌
131 いはみのみ つぬの浦囘《ウラミ》を 浦なしと 人こそみらめ かたなしと【一云磯なしと】 人こそみらめ よしゑやし 浦は無友《ナクトモ》 よしゑやしかたは【一云いそは】 無鞆《ナクトモ》 (いさなとり) 海邊《ウナビ》をさして 和《ワ》たづの ありそのうへに かあをなる たま藻おきつ藻 朝はぶる 風こそ依米《ヨセメ》 夕はぶる 浪こそ來縁《キヨレ》 浪のむた かよりかく依《ヨル》 玉藻なす よりねし妹を【一云はしきよしいもがたもとを】 (露霜《ツユジモ》の) おきてしくれば この道の やそくまごとに よろづたび かへりみすれど いやとほに 里はさかりぬ 益《イキ》たかに 山もこえきぬ (夏草の) おもひしなえて しぬぶらむ 妹が門みむ なびけこの山
石見乃海角乃浦囘乎浦無等人社見良目滷無等【一云礒無登】人社見良目能咲(181)八師浦者無友縦畫屋師滷者【一云礒者】無鞆鯨魚取海邊乎指而和多豆乃荒磯乃上爾香青生玉藻息津藻朝羽振風社依米夕羽振流浪社來縁浪之共彼縁此依玉藻成依宿之妹乎【一云波之伎余思妹之手本乎】露霜乃置而之來者此道乃八十隈毎萬段顧爲騰彌遠爾里者放奴益高爾山毛越來奴夏草之念之奈要而志怒布良武妹之門將見靡此山
 浦囘は例の如く久老雅澄の説に從ひてウラミとよむべし○無友、無鞆は舊訓に共にナクトモとよめるを宣長ナケドモとよみ改めたり。こはなほナクトモとよむべし。本集十五卷にアマノハラフリサケミレバヨゾフケニケル、ヨシヱヤシヒトリヌルヨハ安氣婆安氣奴等母とあればなり○以上一段にてタトヒ浦ハナクトモ、タトヒ瀉ハナクトモ我ナツカシク思フアタリナリといふ意を略せるなり。此あたり海深く又海岸は直線をなせりと思はる○イサナトリ以下十三句はヨリネシイモの序なり○海邊は舊訓にウナビとよめるに從ふべし。ウナビはやがてウミベなり○和タヅは舊訓にニギタヅとよめるを宣長はワタヅとよめり。宣長の説に從ふべし。(182)今の都濃の東に江川《ゴウノカハ》といふ川を隔てて渡津《ワタツ》といふ處あり。カアヲナルはただ青キといふことなり○ハブルは契沖のいへる如くもと鳥の羽たゝきする事にて今は風及浪を鳥によそへたるなり。風及浪につきては振動の義とすべし○依米は舊訓にヨラメとよめるを略解にヨセメに改めたり。略解に從ふべし。古義に來依の誤としてキヨセとよみたれどヨセクとはいふべくキヨスとはいふべからず(ヨスルはいにしへ四段にはたらきしとおぼゆればヨスレをヨセとはいふべけれど)○來縁は舊訓にキヨレとよめるに從ふべし(古義にはこれもキヨセとよめり)。浪ニコソ來ヨレのニを略したるなり。前聯にはタマモオキツ藻ヲ〔右△〕風ガヨスといひ後聯にはただ浪ニキヨルといひて何ガといふ事を云はねどなほおのづから浪にたぐひて玉藻沖つ藻の來寄るやうに聞ゆるは調の所爲なり
  こゝにまぎらはしき事あれば一言せむ。古義に來縁をキヨスとよみて其例に後撰集なる住吉ノ岸ニ來ヨスルオキツナミ間ナクカケテモオモホユルカナと拾遺集なるモカリ船今ゾナギサニ來ヨスナル汀ノタヅノ聲サワグナリとを擧げたり。雅澄すら『これらもキヨスといへる例なり』といへる程なれば之を見て余が(183)前に『キヨスとはいふべからず』といへるを怪む人あるべし。右の二首の歌にキヨスといへるは浪又は船の來寄る事にてこのヨスは露霜にオクといひ紅葉にソムルといひ浪にカクルといふ類にて一種の自動詞なり。即おのれをよするにて物をよするにあらず(本居春庭の詞の通路上卷三十八丁にいへる説は從はれず)。されば此等を例として今の歌の來縁をキヨセとはよむべからず
 ○ナミノムタの上にソノといふ辭を加へて聞くべし。ナミノムタは浪卜共ニなり○カヨリカク依の依を舊訓にヨリとよめるを古義にヨルと改めよめるはよろし。但『しばらく此處にて絶て心得べし』といへるは非なり。カヨリカクヨル玉藻とつづけるなり。カヨリカクヨルはカウ寄リアア寄ルとなり○イサナトリよりタマモナスまではヨリネシ妹ヲのヨリの序なり。ヨリネシはヨリソヒネシなり。一云ハシキヨシイモガタモトヲはこゝにかなはず○露霜はただ露の事なること宣長(玉勝間十四卷)の云へる如し。ツユジモと濁りて唱ふべし○里ハサカリヌの里は妹をおきたる里なり○益高は舊訓マスタカ、考の訓マシタカなるを宣長はイヤタカに改めたり。之に從ふべし。さてイヤタカニ山モコエキヌといひナビケコノ山といひ反歌(184)にもササガハハミヤマモサヤニサヤゲドモといへるを見れば此歌は始めての山路にてよめるなり。其山は何といふ山にかなほ後にいふべし○オモヒシナエテは物思ニ弱リテなり。シヌブラムは我ヲ思フラムなり○妹ガカドは妹ガイヘといふことなれど印象を明にせむが爲にカドと云へるなり○ナビクは横になるなり。山にナビケと云へるは低クナレとなり。此七字は鬼神の辭なり。凡慮の及ぶ所にあらず
 
   反歌
132 石見のやたかつぬ山のこのまよりわがふる袖を妹みつらむか
石見乃也高角山之木際從我振袖乎妹見都良武香
 句のまゝに三句を四句につづけて心得むにヨリといふ辭おちつかぬこゝちす。之が爲ともいかにとも理由は云はねど契沖は四五をおきかへてタカツヌ山ノコノマヨリ妹ミツラムカワガフルソデヲとして心得べしといひ眞淵、千蔭、雅澄、木村博士等皆之に從へり。案ずるにコノマヨリのヨリを穩ならず思ふは一わたりの考にて元來袖をふるは自慰むる爲にはあらで惜別の情を人に示す爲なればコノマニ(185)などはいはれず必コノマヨリといはではかなはざるなり。されば此反歌は句のまゝに心得べし。即人麿が高角山の木間より袖を振りて見せしなり。はやく熊谷直好も『人丸の木のまより振たる袖なり』といへり(※[手偏+君]解稿本に見えたり)○今石見國高津といふ處に人麿の社あり。古義及美夫君志には此高津即高角山なりといへり。地圖を案ずるにまづ古の國府は今濱田の東に當りて下府《シモゴフ》、國分などいふ地名ある處なりとおぼゆ。その東方に都濃あり。共に那賀郡の東部にて海に沿ひたり。されば人麿は國府より海濱の平地を東行して都濃に到りそれより高角山にかゝりて此長歌及反歌はよみしなり。さて今柿本社のある彼高津はいかにといふに那賀郡の西方に當れる美濃郡の海岸の中部にありて國府とは、いたく相はなれたるのみならず國府を立ちて都濃屋上などを經て京に上らむに方向全く相反せり。されば今の高津は古の高角山にあらず。さらば古の高角山は今のいづくに當るかといふに國府より遠からず都濃を過ぎての山なるべければ恐らくは都濃に近き連山のうちなるべし。なほ云はば都濃といふ地名と高角山といふ山の名との間に關係あるべし。或本の歌にはワガツマノコガ夏草ノオモヒシナエテナゲクラムツヌノ里ミムナ(186)ビケコノ山とあり。此歌によらば人麿の妻は都濃の里に住みしなり
 
133 ささが葉はみやまもさやに亂友《サヤゲドモ》われは妹もふわかれ來ぬれば
小竹之葉者三山毛清爾亂友吾者妹思別來禮婆
 亂友は舊訓にミダレドモとよめるを考にはサワゲドモに改め古義は舊訓に從へり。されど語格上ミダレドモとはいはれず。サヤニといふを受けたれば美夫君志に云へる如くサヤゲドモとよむべし。サヤグはさやさやと騷ぎ鳴ること又サヤニはサヤサヤといふ事なり。ササはこゝにては熊笹なるべし。一首の意は考に
  こゆる山こぞりて笹吹風のさやぐには大かた物もまぎれ忘るべくかしましけれど別れし妹こひしらは猶まぎれずといふなり
といへるが如し
 
   或本(ノ)反歌
134 石見なるたかつぬ山のこのまゆもわがそでふるを妹みけむかも
石見爾有高角山乃木間從文吾袂振乎妹見監鴨
 
(187)135 (つぬさはふ) 石見の海の (ことさへぐ) からの埼なる いくりにぞ 深みるおふる ありそにぞ 玉藻はおふる (玉藻なす) なびきねし兒を (深みるの) ふかめてもへど 左宿夜者《サネシヨハ》 幾毛《イクタモ・イクラモ》不有《アラズ》(はふつたの) わかれしくれば (きもむかふ) 心をいたみ おもひつつ かへりみすれど (大舟の) わたりの山の もみぢばの ちりの亂《マガヒ》に 妹が袖 さやにもみえず (つまごもる) やかみの【一云室上山】山|乃〔左△〕《ニ》 雲間よりわたらふ月の をしけども かくろひ來者《クレバ》 (あまづたふ) 入日さしぬれ ますらをと おもへるわれも (しきたへの) ころもの袖は とほりてぬれぬ
角障經石見之海乃言佐敝久辛乃埼有伊久里爾曾深海松生流荒礒爾曽玉藻者生流玉藻成靡寐之兒乎深海松乃深目手思騰左宿夜者幾毛不有延都多乃別之來者肝向心乎痛念乍顧爲騰大舟之渡乃山之黄葉乃散之(188)亂爾妹袖清爾毛不見嬬隱有屋上乃【一云室上山】山乃自雲間渡相月乃雖惜隱此來者天傳入日刺奴禮大夫跡念有吾毛敷妙乃衣袖者通而沾奴
 イクリは記傳三十七卷に
  イクリは海なる石なり。小き石を云と云説は非なり。又海の底なる石を云と云も非なり。海底なるをも又上に出たるをも云ひ又小きをも云大なるをも云名なり(採要)
といへり○フカメテは心ヲ深メテなり。左宿夜者は舊訓にサヌルヨハとよめるを雅澄はサネシヨハと改めよめり。上にナビキネシ兒ヲとあるに對して必サネシヨハとあるべし○幾毛不有を略解にはイクラモアラズ古義にはイクダモアラズとよめり。伊久陀、伊久良ともに集中に例あり○ワタリノヤマは渡津の附近の山にやあらむ○亂は舊訓にマガヒとよめるを古義にミダリと改めよめれどなほ舊訓に從ふべし。チリノマガヒニはチルマギレニなり○ヤカミノヤマは大日本地名辭書に邇摩郡の地名の中に擧げて『渡津の東なる丘陵にして今下松山村に屬し大字八神と云ふ地是なり』といへるを豐田八十代氏は
(189)  八神村には山といふべき程のものなし。これを余が實地踏査の結果に徴するに都濃《ツノ》津より東に向ひて進めばまづ人の注目を牽くは那賀郡淺利村の北なる室上山(小富士ともいふ)なることは言ふを待たざれば人麿が此山をおきて殊更に山らしくもあらぬ八神村の丘陵を取りて歌ふべくもあらず
といへり(雜誌心の華第十九卷第三號)○クモマヨリワタラフ月ノヲシケドモの三句はカクロヒにかゝれる序なり○ヤカミノ山乃の乃は爾の誤なるべし(木村博士が美夫君志一下百五頁に述べたる説によれば乃のま々にてもニとよむべけれど)○カクロヒは妹が袖の屋上山に隱るゝなり。渡山わたりまでくれば黄葉はちりまがはずとも妹がふるらむ袖はみゆべからず。屋上山わたりまでくれば山は隱さずとも妹がふるらむ袖は見ゆべからず。さるを見ゆべきものゝ落葉に妨げられ山に遮られて見えぬやうにいへるがをかしきなり○來者を古義に來乍の誤としてキツツとよめり。もとのま々にてあるべし。クレバは今のクルニなり。否ユクニなり○入日サシヌレは代匠記に
  サシヌレバと云はざるは古語なり。バを加て意得べし
(190)といひ言葉の玉緒七卷に『長歌の一つの格の詞』と標して上にコソとかゝらずしてヌレ、レ、セといひて切れたる例どもを擧げて
  此レ、セは皆長歌のなかばに在て事の他へうつるきはにいふ一つの格にて下へバを加へてレバ、セバと見ればよく聞ゆる也。右に引る大雪ノミダレテキタレ(○高市皇子尊城上殯宮之時柿本朝臣人麿作歌)を一云アラレナスソチヨリクレバともあるにて心得べし
と云へり。ヌレはヌレバの略にあらず。一つの辭にてヌルニ又はヌレバといふに當れり
 追考 大日本地名辭書に
  渡の山とは此|江《ゴウ》(ノ)川の渡の邊の山を指す。江津《ゴウツ》の島星山などにあらずや
といへり
 
   反歌二首
136 あを駒のあがきをはやみ雲居にぞ妹があたりをすぎてきにける【一云あたりは(191)かくりきにける】
青駒之足掻乎速雲居曾妹之當乎過而來計類【一云當者隱來計留】
 クモヰニはハルカニなり。考に『此言をかく遠き事にいふは轉じ用るなり』といへり○此歌のスギテは春スギテ夏キタルラシなどのスギテとは異にて遠ざかる事なり
 
137 秋山に落《チラフ》黄葉《モミヂバ》しましくはなちりみだれそ【一云ちりなみだれそ】妹があたりみむ
秋山爾落黄葉須臾者勿散亂曾妹之當將見【一云知里勿亂曽】
 落黄葉は舊訓にオツルモミヂバとよめるを古義にチラフモミヂバとよめり。須臾者はシマラクハともよむべし〇四句を考、古義、美夫君志などにナチリミダリ〔右△〕ソとよめれど自動詞のミダルは昔も二段活なり
 
   或本(ノ)歌一首并短歌
138 石見のみ 津乃浦乎無美 浦なしと 人こそみらめ 滷なしと 人こそみらめ よしゑやし 浦はなくとも よしゑやし 滷はなくと(192)も (いさなとり) 海邊《ウナビ》をさして 柔田津《ニギタヅ》の ありその上に かあをなる 玉藻おきつ藻 あけくれば 浪こそ來依《キヨレ》 ゆふされば 風こそ來依《キヨレ》 浪のむた かよりかく依《ヨル》 玉藻なす なびきわがねし しきたへの 妹がたもとを (露霜の) おきてしくれば この道の 八十隈ごとに よろづたび かへりみすれど いやとほに 里さかりきぬ 益《イヤ》たかに 山もこえきぬ はしきやし わがつまの兒が (夏草の) おもひしなえて なげくらむ つぬの里みむ なびけこの山
石見之海津乃浦乎無美浦無跡人社見良目滷無跡人社見良目吉咲八師浦者雖無縱惠夜思滷者雖無勇魚取海邊乎指而柔田津乃荒磯之上爾蚊青生玉藻息都藻明來者浪己曾來依夕去者風己曾來依浪之共彼依此依玉藻成靡吾宿之敷妙之妹之手本乎露霜乃置而之來者此道之八十隈毎萬段顧雖爲彌遠爾里放來奴益高爾山毛越來奴早敷屋師吾嬬乃兒我夏草乃思志萎而將嘆角里將見靡此山
(193) 津乃浦乎無美は津野乃浦囘乎などの誤脱ならむ○柔田津は底本の和多豆に當れり。されば底本の和多豆は之と相照してなほニギタヅとよむべきかといふにおそらくは和多豆をニギタヅと誤り訓みて柔田津と書きたるならむ○來依はキヨレとよむべく浪コソ、風コソは浪ニコソ、風ニコソのニを略したりと認むべし
 
   反歌
139 石見のみ打歌山乃このまよりわがふる袖を妹|將見香《ミツラムカ》
石見之海打歌山乃木際從吾振袖乎妹將見香
    右歌體雖v同句句相替。因v此重載
 打歌《タカ》の下に都濃《ツヌ》をおとしたるか
 
   柿本朝臣人麿妻|依羅娘子《ヨサミノイラツメ》與2人麿1相別歌一首
140 勿念跡《ナオモヒト》きみはいへども相時《アフトキヲ》いつとしりてかわがこひざら乎〔左△〕《ム》
勿念跡君者雖言相時何時跡知而加吾不戀有乎
 初句を考にナモヒソトとよめるを古義にオモヒのオを略するは處にこそよれか(194)かる處に略することはなしと論じてナオモヒトとよめり(景樹同訓)。ナモヒソトとも云はれざるにあらず〇三句は舊訓にアハムトキとあるを木村博士はアフトキヲとよめり。げにヲといふ辭あらまほしきなり○乎は牟を誤れるなり。諸本に牟とあり
 
 挽歌
  後崗本宮御宇天皇代
   有間(ノ)皇子自傷結2松枝1歌二首
141 いはしろの濱松がえをひきむすびまさきくあらばまたかへりみむ
磐白乃濱松之枝乎引結眞幸有者亦還見武
 挽歌は考にカナシミノウタとよみ古義にカナシミウタとよめれどなほ音讀すべし
 有間皇子は前代孝コ天皇の御子にて當代|齋明《サイメイ》天皇の御甥なり。天皇が紀伊國|牟婁《ムロ》(ノ)(195)湯にましましし程御謀叛の聞《キコエ》ありしかば牟婁に召して糺し給ひ京に還し給ふ途中なる藤白坂にて絞殺せしめ給ひしなり。此御歌は歸路によみ給ひしならむ。御歌の調によれば京に還るべき仰は承り給ひしかど無事ならざらむ事を察し給ひしなり○マサキクは無事デといふこと、カヘリミムは再來リテ見ムといふことなり
 
142 家にあればけにもるいひを(草まくら)旅にしあれば椎の葉にもる
家有者笥爾盛飯乎草枕旅爾之有者椎之葉爾盛
 笥《ケ》は物を入るゝ器の總稱なれど狹義にては特に飯を盛る器をいふ○いにしへは食物は木葉に盛る習なりき。さてそれには大きなる木葉を擇びき。椎の葉は細にてふさはしからす。或は椎の字はナラに借れるにはあらざるか。新撰字鏡に椎(ハ)奈良乃木也となり。ナラガシハといふも一種の植物にあらで楢の葉ならむ。カシハは木葉を所謂|飯盛器《イヒモルウツハ》とする時の稱なり
 
   長《ナガノ》忌寸《イミキ》意吉麿《オキマロ》見2結松1哀咽歌二首
143 いはしろの岸のまつがえむすびけむ人はかへりてまた見けむかも
(196)磐代乃岸之松枝將結人者反而復將見鴨
 次の歌にムスビマツとよみ今の歌の題辭にも見2結松1と書けるを見れば皇子の歌よみ給ひし後其松名木となりてムスビマツと稱せられたりしなり○カヘリテは還リ來テなり
 
144 いはしろの野中にたてるむすび松こころもとけずいにしへおもほゆ
磐代乃野中爾立有結松情毛不解古所念 未詳
 ココロモのモは亦なり。松のむすぼれたる上に意吉麿の心もむすぼるといへるなり。美夫君志に『その結びし人の心も解ずぞありけむとなり』といへるは非なり○濱マツガ枝といひ岸ノ松ガ枝といへるにこゝに野中ニタテルと云へるを見れば此松は海邊の野中にありしなり
 
   山上《ヤマノウヘ》(ノ)臣《オミ》憶良《オクラ》追和歌一首
145 鳥翔成ありがよひつつみらめども人こそしらね松はしるらむ
鳥翔成有我欲比管見良目杼母人社不知松者知良武
(197)    右件(リ)歌等雖v不2挽柩之時所1v作唯擬2歌意1故以載2于挽歌類1焉
 初句契沖は舊訓にトリハナスとよめるに從ひて『鳥の羽の如なり』と釋き眞淵はツバサナスとよみて『羽して飛ものをツバサといふ』といへり。即鳥の如くといふ意とせるなり。千蔭は眞淵の訓に從ひて『翔は翅の誤なるべし』といへり。いづれも從ひがたし。鳥ノ飛ブ如クといふ意なるべければトトビナスとよむべきか。翔はトブともよむべし。卷三なる詠不盡山歌にもトブ鳥モトビモノボラズを翔毛不上と書き卷四なる長歌にもアマトブヤを天翔哉と書けり○アリガヨフはカヨフの持續なり。カヨフは一時の現在、アリガヨフは持續の現在ともいふべし。さてアリガヨフの主格は有間皇子なり
 
   大寶元年辛丑幸2于紀伊國1時見2結松1歌一首
146 のちみむと君がむすべるいはしろのこまつがうれを又みけむかも
後將見跡君之結有磐代乃子松之宇禮乎又將見香聞
 考に『即右の意寸麻呂の始めの歌を唱へ誤れるなるを後人みだりに書加へしもの(198)なり』といへれど彼歌をかくは唱へ誤るべからず。おそらくは同時別人の作ならむ。ウレは梢なり。○間宮永好の犬※[奚+隹]隨筆卷二に
  有馬皇子自傷結松枝歌イハシロノハママツガエヲヒキムスビ云々とよみ給へる松を見てよめる歌にてそは齊明天皇四年なれば大寶元年より四十三年前のことなり。しかるをいまコマツとよめるを思へばいよいよ大きなる松をもなほ小松と云ひけむことを明らむべしといへり○此歌はイハシロノ野中ニタテルといふ歌の次にあるべし。さて其歌の下なる未詳の二字はもと此歌の下にありしにあらざるか
 
   近江大津宮御宇天皇代
    天皇聖躬不豫之時太〔左△〕后奉御歌一首
147 あまの原ふりさけみればおほきみの御壽者△長久天足有《ミヨハタナガクアマタラシタリ》
天原振放見者大王乃御壽者長久天足有
 太后は大后を誤りたるなり。オホギサキとよむべし。オホギサキは即皇后なり。皇太(199)后にあらず
 四五は舊訓の一にミイノチハナガクアマタラシタリとありて宣長、千蔭、雅澄、木村博士は之に從へり。又契沖はオホミイノチハナガクアメ〔右△〕タレリとよみ景樹はオホミイノチハナガクアマ〔右△〕タレリとよめり。長の上に手を補ひてミヨハタナガクアマタラシタリとよむべきか。アマタラシタリは天ノ如ク滿チ足リ給ヘリとなり○初二は天ヲ仰ギテ占ヘバといふ意にや
 
   一書曰。近江天皇聖體不豫御病急時太〔左△〕后奉獻御歌一首
148 (青旗の)木旗の上をかよふとは目には雖見ただにあはぬかも
青旗乃木旗能上乎賀欲布跡羽目爾者雖視直爾不相香裳
 美夫君志に
  この處錯亂あり。右のアヲハタノ云々の歌は天皇崩御の後の歌なれば右の一書曰云々の端詞の御歌にあらず。されば此一書の大后の御歌一首脱て次の天皇崩御之時云々の端書は青旗乃云々の前に在しが錯亂したるなるべし
といへるが如し○契沖はコハタを地名としアヲハタノをコハタの枕辭とせり。ア(200)ヲハタノカヅラキ山又アヲハタノオサカノ山の例によれるなり。眞淵はアヲハタノ木旗とある木を小の誤としてヲハタとよみて大殯の旗とせり。案ずるに木旗は契沖の云へる如く地名にて即今の山城の木幡ならむ。其山の上を人像に似たる白雲の過ぐるを見て宮人のアレコソ天皇ニオハスラメなどいひ騷ぐをきこしめしてよみ給へるならむ。さらば青ハタノは枕辭とすべし○雖見は舊訓ミレドモなるを古義にはミユレドとよめり○タダニアフはマトモニ相見ルなり
 
   天皇崩御之時倭太〔左△〕后御作歌一首
149 人はよしおもひやむとも(玉〔左△〕《ヤマ》かづら)影にみえつつわすらえぬかも
人者縱念息登母玉※[草冠/縵]影爾所見乍不所忘鴨
 倭太后は倭姫皇后なり
 オモヒヤムは即ワスルなり。同じ語の二度いでくる一つをいひ換へたるにて所謂換辭格なり○宣長は本集十四にヤマカヅラカゲとあるを證として玉カヅラの玉を山の誤字とし『山カヅラはヒカゲノカヅラのことにて影の枕詞における也』といへり(玉勝間十三卷、記傳八卷、同二十五卷)○ワスラエヌカモの上に我ニハといふこ(201)とを補ひて聞くべし
 
   天皇崩時婦人作歌一首 姓氏未詳
150 うつせみし 神に不勝者《アヘネバ》 離居《サカリヰ》て 朝なげく君 放居《ハナレヰ》て 吾〔左△〕《ユフ》こふる君 玉ならば 手にまきもちて きぬならば ぬぐときもなく わがこひむ 君ぞきそのよ いめにみえつる
空蝉師神爾不勝者離居而朝嘆君放居而吾戀君玉有者手爾卷持而衣有者脱時毛無吾戀君曾伎賊乃夜夢所見鶴
 ウツセミは人間なり○不勝者は從來タヘネバとよめれどアヘネバとよむべくや。アフ(連體格アフル)はキホフにてこゝにては伴ナフなり○離居、放居共に舊訓にハナレヰとあるを契沖は放居をサカリヰとよみ雅澄は離居をサカリヰとよめり。いづれにても一つはサカリヰとよむべし○放居而の下の吾は夕の誤なるべし。キソノ夜は昨夜なり
 
(202)   天皇大殯之時歌二首
151 かからむとかねてしりせば大御船はてしとまりにしめゆはましを
如是有刀豫知勢婆大御船泊之登萬里人標結麻思乎
 一首の調を思ふに御不豫の直前に御船を湖上に浮べ給ひし事あるなり○結句はシメ縄ヲ結ヒテ留メ奉ラマシヲといへるなり○歌の下に額田王とある本あり
 
152 (やすみしし)わごおほきみの大御船|待可將戀《マチカコフラム》しがの辛崎
八隅知之吾期大王乃大御船待可將戀四賀乃辛崎
 待可將戀は略解にマチカコフラムとよめるに從ふべし。志賀の辛崎を人に擬したるなり○歌の下に舍人吉年とある本あり
 
   大后御歌一首
153 (いさなとり) あふみの海を おき放而《サキテ》 こぎくる船 へつきて こぎくる船 おきつかい いたくなはねそ へつかい いたくなはねそ (若草の) つまの念〔左△〕《ミコトノ》 △鳥立《メデシトリタツ》
(203)鯨魚取淡海乃海乎奥放而※[手偏+旁]來船邊附而榜來船奥津加伊痛勿浪禰曾邊津加伊痛莫波禰曾若草乃嬬之念鳥立
 放而は從來サケテとよめり。沖ノ方ニトホザカリテといふ意とおぼゆ。然るにサケテは他動詞なればこゝにかなはず。よりて思ふにサカルはサキアルの約なればいにしへ自動詞にてはサク又はサカルといひ他動詞にてはサクルといひしなるべし。されば今はサキテとよむべし。さてオキサキテは沖ニ〔右△〕サカリテ、ヘツキテは邊ニ〔右△〕附キテなり○オキツカイ、ヘツカイは契沖のいへる如く沖コグ船ノカイ、邊コグ船ノカイなり。雅澄の『オキツカイは舟の左にぬけるをいひヘツカイは舟の右にぬけるをいふべし』といへるは非なり○結尾を舊訓にツマノ、オモフトリタツとよみて三言七言の句とせり。袖中抄にはツマノオモヘル、トリモコソタテとよめれど契沖のいへる如くモコソとよむべき字なし。宣長はツマノの下に命之の二字をおとせりとしてツマノミコトノオモフトリタツとよめり。念を命之の誤とし其下に愛の字を補ひてツマノミコトノメデシ鳥タツとよむべきか○考に此鳥を『めで飼せ給ひし鳥を崩まして後放たれしがそこの湖に猶をるをいとせめて御なごりに見給(204)ひてしかのたまふならむ』といひ雅澄も此説を採りたれど放鳥ならずとも近江の海には自然に水鳥多かるべし
 
   石川夫人歌一首
154 ささなみの大山守はたがためか山にしめゆふ君も不有國《アラナクニ》
神樂浪乃大山守者爲誰可山爾標結君毛不有國
 石川夫人は天皇の宮人なるべし
 大山守は宣長の説(記傳三十三山守部の註)に
  大山守とよめる大はささなみの山は大津宮の邊なる山にてことなる由をもてこの山守をたたへていふ也。大御巫などの大の如し
といへるに從ふべし。古義に考の説によりて『大山守者とは大山は御山なり云々』といひて大を山につけたるは非なり。山守は山番にて雜人の入りて山を荒すを防ぐ役人なり○不有國は舊訓にマサナクニとあれど字のま々に(六帖袖中抄などによめるやうに)アラナクニとよむべし
 
(205)   從2山科御陵1退散之時額田王作歌一首
155 (やすみしし)わごおほきみの かしこきや みはかつかふる 山科の 鏡の山に よるはも 夜のことごど 晝はも 日のことごと ねのみを なきつつありてや (ももしきの) 大宮人は ゆきわかれなむ
八隅知之和期大王之恐也御陵奉仕流山科乃鏡山爾夜者毛夜之盡晝者母日之盡哭耳呼泣乍在而哉百礒城乃大宮人者去別南
 ミハカツカフルを雅澄は『造奉るなり』といへり○ネノミヲは本に哭耳呼とあり。十四卷にもツクバネニカガナクワシノ禰乃未乎加ナキワタリナムアフトハナシニとあればげにネノミヲとよむべけれどノミはネにはかゝらでナクにかゝれるなれば今の情を以て見ればネヲノミといふべくおぼゆ。されば後の歌にはネヲノミゾナク、ネヲノミナケバなどよめり(因にいふ。續紀第六十二詔に官《ツカサ》冠ヲノミ取賜ヒ又官ヲノミ解《トリ》賜ヒとある、このノミは官位又は官にかゝりたれば今ならば官位ノミヲ、官ノミヲといふべきなり)○アリテヤのヤはユキワカレナムの下に引下して(206)今シユキ別レムカと心得べし
 
   明日香(ノ)清御原(ノ)宮御宇天皇代
    十市《トヲチ》(ノ)皇女薨時高市(ノ)皇子(ノ)尊御作歌三首
156 みもろの神の神《カム》すぎ已具〔左△〕耳矣〔左△〕自得〔二字左△〕見監乍〔左△〕共《イメニダニミムトモヘドモ》いねぬ夜ぞおほき
三諸之神之神須疑巳具耳矣自得監乍共不寐夜叙多
 十市皇女と高市皇子とは異母の御兄弟なり。いにしへは異母の男女は相婚して可なりし程なれば今の世の異母の男女の如く御兄弟として相親しみ給ふべきにあらず。然も此三首の御歌の調によればいと親しき御中ならざるべからず。よりて思ふに大友皇子(弘文天皇)崩じ給ひし後十市皇女は高市皇子と逢ひ給ひしならむ
 ミモロはこゝにては三輪山の事なるべし。下の神は古義にカムとよめるに從ふべし。同書に
  神之神と重ね云たるはふかくうやまひたまへるなり。さてカムスギは皇女の薨《スギ》給ふをよそへ賜へり
(207)といへるは非なり。上なる神はただの神にて下なる神は神聖ナルといふことなり又初二は(三四よみがたけれど)考にいへる如く序とおぼゆ〇三四を舊訓にはもとのままにてイグニヲシトミケムツツトモとよみたれどかくては何の事ともきこえず。きはめて誤字あるべし。されば眞淵以下さまざまに字を改めさまざまに訓をつけたり。就中守部(鐘の響第四十段)は
  已具耳の三字は上のスギと云言に具したるにて義以て聞せたる書法なる歟。さらば三四の句は已具耳之〔左△〕自影〔左△〕見疊〔左△〕乍共《スギシヨリカゲニミエツツ》にて云々
といひ木村博士は具は一本めとあるに從ひ得を將、乍を爲の誤として
  さて三四の句はイメニヲシミムトスレドモと讀べし。トの辭は讀そふるなり。矣をヲに用ゐるは漢文の助辭の意を以てなり
といひて監を見に用ひたる例、同意の文字を重ね書ける例(博士は見監の二字をミとよめり)自を清音につかへる例を擧げて
  上二句はイといはむ料の枕詞にて神杉|齋《イ》といふ意のつづき也。又はイミといふべきを活かしてイメといひくだしたるにもあらむ
(208)といへり。案ずるに巳具耳矣自は巳賣〔右△〕耳多耳〔二字右△〕の誤、得見監乍共は將〔右△〕見念〔右△〕共の誤(監は衍字)ならむか。さらばイメニダニミムトモヘドモとよみて初二をイメにかゝれる序とすべし
 
157 神山《カミヤマ》のやまべまそゆふみじかゆふかくのみ故《ユヱ・カラ》にながくとおもひき
神山之山邊眞蘇木綿短木綿如此耳故爾長等思伎
 神山は舊訓にミワヤマとよめるを契沖カミヤマに改め木村博士は再ミワヤマに改めたり。契沖に從ひてカミヤマとよむべし○ヤマベマソユフはヤマベの下にノを挿みて心得べし。マソは眞小緒《マサヲ》にて繊維、ユフは木の名なり。
  地名にユフゾノ、ユフキ、ユノキなどあればユフは木の名なる事しるし。但本名は別にありて其木のすぢにてユフといふ布を織れば其木の別名をユフといひしなり。其木はカヂにやタクにや確には定め難けれどおそらくはカヂをもタクをも共にユフといひしなるべし。宣長はカヂとタクとを同物としたれどカヂは今のカヂ、カウゾなどの總名にてタクとは別物なるべし(仙覺鈔によれば筑紫風土記に長木綿、短木綿といふことありとぞ。惜むべし其文傳はらず)
(209) マソユフはマソを産するユフといふことなるべし。マソユフとミジカユフとは二物にあらず。ミジカユフはやがて長低きマソユフなり。さればカミヤマノヤマベマソユフミジカユフといへるはクサカ江ノ入江ノハチスハナバチスと同格にてただにカミヤマノヤマベノミジカユフといふべきを調の爲に今の如く云へるなり○故を舊訓にユヱとよめるを略解にカラに改めたり。五卷に加久乃未加良爾シタヒコシイモノココロノとあればカラともよむべし。いづれにもあれカクミジカキモノヲといふ意なり。但ミジカユフといふ序を承けながら辭にミジカキといはざる、外の例にたがひてめづらし。守部(鐘のひびき第四十一段)の
  三句の短木綿を受けて如此耳と重ね合せたるにあらじか。もしさらばミジカユフミジカキカラニとよむべきなるべし
と云へるは鑿説なり〇一首の意はカク御命ハ短キモノヲ長カレト思ヒシヨといへるなり
 追考 日本紀通釋第一の四八三頁に
  池邊眞榛云。ユフはカヂノキの事にて今もカヂノ木又カウゾと云ひ和名抄に楮(210)穀木也和名加知とあるにて知べし。さてユフをカヂノ木と云ふは何世の頃よりならん。カヂノ木の本名はタクにて其をユフといひ又カヂと云は別名なり。此木皮にて布を織る事少く紙を漉く事多くなれるより即|紙麻《カウゾ》の木とは呼しならん。故後には此木皮のみをユフと呼て木名はカヂと稱へしか。和名抄にも木部には楮穀木也和名加知と擧てユフは祭祀具部に記して木綿和名由布、折v之多2白絲1者也とあればなり云々
といへり
 
158 山ぶきの立儀足《タチヨソヒタル》やましみづくみにゆかめど道のしらなく
山振之立儀足山清水酌爾雖行道之白鳴
 立儀足は契沖のタチヨソヒタルとよめるに從ふべし○上三句を契沖は皇女の御墓の景とし古義には皇女の住み給ひ皇子の通ひ給ひし宮の景としたれどいづれにもミチノシラナクとのたまふべきにあらず。信友(長等の山風上卷)は
  此上の御句は皇女の身まかり給ひてよみの國に往ておはしますべき上をの給はむにただに豫美との給はむ事のゆゆしきをそのかみ早くより漢語の黄泉と(211)いふを豫美に當てゝ用ひなれたるをおもほしよりてその漢語にめぐらして山振の花の黄なるが泉にうつろひたる所におはします趣にとりなして其處に追いでまさまくおもほせど道行しろしめさねばいたづらに慕ひてのみおはすことよと嘆き給へるなるべし
といひ守部(鐘の響第四十二段)も
  三句迄の意は後世の歌に黄泉を黄なる泉とよめる類にて山振を黄にとり山清水を泉になして黄泉の據字のまゝに夜見國といふをめぐらして巧みにつづけさせ給へるなり。四句クミニユカメドとは泉の縁に宣へるにて結句と合せて夜見國までたづね行たかれど其道のしられなくにと嘆かせ給へる也。此皇女は天武天皇七年四月宮中にして頓薨し給ひて葬所も定かなれば御墓を指てミチノシラナクなどはいかでのたまはん。此ほどにては高市皇子命こそ御墓何くれの事ははからせたまふべきものなるをや
といひ齋藤彦麿(傍庇稿本卷一)も
  よく思ふに葬所は添上郡赤穗なればミチノシラナクとはいかでよみ給ふべき。(212)またく上の句は黄泉の二字をよみ給へるにて……萬葉集の頃はかゝる工みなる歌はあるべくもおもはねどみさかりに漢さまのおこなはるゝ時なればきはめてなしともいひがたくなむ
といへり。此等の説よろし。皇女の薨去は四月なれば御前にちり殘れる山吹を見給ひて上三句はおもひより給ひしなるべし
 
   天皇崩之時太〔左△〕后御作歌一首
159 (やすみしし) わが大きみの ゆふされば めし賜良〔左△〕之《タマヒシ》 あけくれば とひ賜良〔左△〕志《タマヒシ》 かみをかの 山のもみぢを けふもかも とひたまはまし あすもかも めしたまはまし 其山を ふりさけみつつ ゆふされば あやにかなしみ あけくれば うらさびくらし あらたへの ころもの袖は ひる時もなし
八隅知之我大王之暮去者召腸良之明來者問賜良志神岳乃山之黄葉乎今日毛鴨問給麻思明日毛鴨召賜萬旨其山乎振放見乍暮去者綾哀明來(213)者裏佐備晩荒妙乃衣之袖者乾時文無
 太后は大后の誤にて後の持統天皇の御事なり
 賜良之、賜良志を契沖が仙覺のタマヘラシと點ぜるに從ひて『タマヘリシと云を古語に、通じてタマヘラシといへり』といへるは非なり。タマヒシといふべき處にてタマヘリシといふべき處にあらねばなり。宣長いはく
  十八卷にミヨシヌノ此大宮ニアリガヨヒ賣之多麻布良之モノノフノ云々是と同じ格なり。常のラシとは意かはりて何とかや心得にくき云ざま也。二十卷に大キミノツギテ賣須良之タカマトノ野邊見ルゴトニネノミシナカユ。此メスラシも常の格にあらず。過し方を云ること今と同じ。是等の例に依て今もタマフラシと訓べきこと明けし。本にタマヘラシと訓るは誤也
と。古義にも例として右の二首の歌を擧げたれど十八卷なるメシタマフラシは常のラシにて今の例とはすべからず。案ずるに賜良之は賜比之の誤ならむ。またメスは古義にいへる如くミルの敬語なり。さて二つのタマヒシは共に神岳に續けり。神(214)岳は即雷岳なり○トヒタマハマシ、メシタマハマシとあるマシは屡いひし如く條件附の場合につかふ辭なり。されば今はモシ世ニマシマサバといふことを補ひてきくべし○カナシミは古義にいへる如くカナシガリなり。アヤニはイミジクなり。ウラサビはシヲレなり。クラシはワタリにてカナシミとウラサビと雙方にかかれるなり○ふたゝびユフサレバ、アケクレバとのたまへるは辭の文なり。○アラタヘは粗布にてこゝにては御喪服なり
 
   一書曰。天皇崩之時太上天皇御製歌二首
160 もゆる火もとりてつつみてふくろにはいるといはずや面智〔左△〕男雲《アフヨシナクモ》
燃火物取而裹而福路庭入登不言八面智男雲
 太上天皇は大后とあるべし
 眞淵は面を四句につけ智を知曰の誤としてイルトイハズヤモシルトイハナクモとよみ守部(鐘の響第四十三段)は智を知日の誤とし面知をアフの義訓としてアハムヒナクモとよめり。しばらく面知因の誤としてアフヨシナクモとよむべし。一首(215)の意は世ニハ燃ユル火ヲ取リテ袋ニ入ルル如キ幻術モアルヲ天皇ハ再見奉ル由無キ事カナといへるなり
 
161 きた山に陣《ツラナル》雲の青雲の星〔左△〕《ヒモ》さかりゆき月|牟〔左△〕《モ》さかりて
向南山陣雲之青雲之星離去月牟離而
 陣は從來タナビクとよみて疑ひし人なけれどタナビクとよまむやうなし。ツラナルとよむべし。北山の峯に所謂青雲のつらなりて見ゆるなり(類聚古集にはツラナルとよめり)○青雲を眞淵は白雲の事とし宣長は虚空の事とせり。本集十六に
  いや彦、おのれかむさび青雲のたなびく日すらこさめそぼふる
とあるを見ればアヲグモは晴天に見ゆる白雲なり。タナビクは虚空にいふべき語にあらねばなり(宣長は記傳十八卷に、雅澄は古義十六卷下に虚空にタナビクといひて可なる所以を縷述したれどげにもとおばえず)。白雲をアヲグモといへるは晴天の白雲は青みを帶びたればなり。青雲のアヲは獨語のブラウ(英語のブリュ―)にはあらで獨語のブラ―ス(英語のペール)なり。祈年祭祝詞にアヲグモノタナビクキハミ、シラクモノオリヰムカブスカギリといひてアヲグモとシラクモとをむかは(216)せ本集十三にタナビク、ムカブスの所屬をかへてシラクモノタナビク國ノ、アヲグモノムカブス國ノといひ記に青雲ノ白肩ノ津といひて青雲を白の枕辭としたるにても青雲即白雲なる事を知るべし○キタヤマニツラナル雲ノアヲグモノとはキタ山ニツラナル青雲ノといふべきを調の爲に今の如く云へるにてかのクサカ江ノイリ江ノハチス花バチス、カミ山ノ山ベマソユフミジカユフの類なり。さて此三句はサカリの序なり。峯につらなる雲の、峯より離《サカ》るを以て序とせるなり○星は日毛の誤字にて下二句は天皇崩御の後月日のやうやうに經行くを嘆き給へるなるべし。イヤ年サカルなどあれば月日にサカルといはむこと論なし○月モサカリテの下にイトド戀シクオボユなどいふことを補ひて承るべし。月牟は月毛の誤なり
 
   天皇崩之後八年九月九日奉2爲御齊〔左△〕會1之夜夢裏習賜御歌一首
162 あすかの きよみはらの宮に あめのした しろしめしし (やすみしし) わがおほきみ (たかてらす) 日の御子 いかさまに おもほしめせか (かむ風の) 伊勢の國は おきつ藻|毛〔左△〕《ノ》 靡足波〔二字左△〕爾《ナビカフクニニ》 しほけ(217)のみ かをれる國に △ (うまごり) あやにともしき (たかてらす) 日の御子
明日香能清御原乃宮爾天下所知食之八隅知之吾大王高照日之皇子何方爾所念食可神風乃伊勢能國者奥津藻毛靡足波爾塩氣能味香乎禮流國爾味凝文爾乏寸高照日之御子
 九月九日は天皇の御忌日なり。御齊曾《ゴサイヱ》の齊は齋の通用なり。奉爲はツカヘシとよむべし。習ヒ賜ヒシは人の誦《トナ》へしをおぼえ給ひしなり
 キヨミハラのミはハヤミハマカゼ、アカミトリ、卷五詠2鎭懷石1歌なるクシミタマなどのミに同じ。さればキヨミハラはキヨキ原といふことなり。伴信友(長等の山風附録一)が淨海原の義とせるは非なり。此宮號を清原、淨原と書き又キヨミノミヤといひて淨之宮と書ける(本集此卷日並皇子尊殯宮之時柿本朝臣人麿作歌)を見てもミが助辭に過ぎざるを知るべし(十五卷なるアキサレバ故非之美伊母ヲイメニダニヒサシクミムヲアケニケルカモのコヒシミもコヒシキを名詞にしたるにて今の(218)類なり)〇オキツ藻毛の毛は古義に從ひて之の誤とすべし、靡足も古義に從ひて靡合の誤とすべし。波は國の誤ならむ○鹽氣は潮煙なり。カヲレルはクモレルなり。國爾は國乎といふにひとしくて國ナルニとなり○契沖の云へる如くカヲレルクニニの下に落句あるべし。トモシキはユカシキなり
 
   藤原宮御宇天皇代
    大津皇子薨之後|大來《オホク》(ノ)皇女從2伊勢(ノ)齊宮1上京之時御作歌二首
163 (かむ風の)いせの國にもあらましをなにしか來けむ君も不有爾《アラナクニ》
神風之伊勢能國爾母有益乎奈何可來計武君毛不有爾
 御弟の殺され給ひし事は京に歸り給ふまで知り給はざりしなり。美夫君志に『皇子の薨じ給ひし事を始めて知り給ひし如く疑ひ給へるにていと哀深く聞ゆるなり』といへるは非なり○カクトナラバといふ辭を補ひてきくべし。マシとあるにて右の辭を省けりとは知らるゝなり○不有爾は古義にマサナクニとよめれど舊訓の如くアラナクニとよみて可なり
 
(219)164 見まくほりわが爲《スル》君もあらなくになにしか來けむ馬疲爾《ウマツカラシニ》
欲見吾爲君毛不有爾奈何可來計武馬疲爾
 爲を舊訓にセシとよめるを考にスルとよみ改めたる、よし○馬疲爾を舊訓にウマツカラシニとよめるを宣長はウマツカルルニとよめり。なほ舊訓に從ふべし。徒ニ馬ヲ疲ラシテとなり
 
   移2葬大津皇子(ノ)屍於葛城(ノ)二上山1之時大來皇女哀傷御作歌二首
165 うつそみの人なるわれやあすよりはふたがみ山を弟世〔二字左△〕《ワガセ》と吾〔左△〕《ヲ》みむ
宇都曾見乃人爾有吾哉從明日者二上山乎弟世登吾將見
 ウツソミノは枕辭にあらず。ウツソミノ人とつづきて靈魂ナラヌ現身ノ人といふ意なり○弟世は舊訓にイモセとあるを雅澄は吾世の誤としてワガセとよめり。案ずるに上なる長皇子與皇弟御歌にワガセを吾弟と書けり。今の弟世も吾弟の誤字なるべし○吾將見の吾は乎の誤か。もし然らばヲは助辭とすべし○人ニシテ山ヲ弟トシモ見ムアサマシサヨと歎きたまへるなり
 
(220)166 礒のうへにおふる馬醉木をたをらめどみすべき君がありといはなくに
礒之於爾生流馬醉木乎手折目杼令視倍吉君之在常不言爾
    右一首今案不v似2移葬之歌1。蓋疑從2伊勢神宮1還v京之時路上見v花感傷哀咽作2此歌1乎
 イソは巖なり。ウヘの意は語の如し。ホトリにあらず○馬醉木を舊訓にツツジとよめり。眞淵はアシミ又アシビとよみてボケ、シドミの總稱とし(萬葉考及冠辭考アシビナスの條)黒川春村は『安志妣、安之婢と書ける妣婢は美と同じくミの假字なれば正しくはアシミといふべし』といへり(碩鼠漫筆卷一)。雅澄はアシビとよみてアセボノ木の事とせり(馬醉木をアシビとよめるは眞淵の説によれるにてそのアシビをアセボとせるは舊説によれるなり)。木村博士は
  馬醉木はアシビとよむべからず。アセミとよみて今のアセボの事なり。アシビと假字書にしたるは馬醉木とは別にて今のボケなり(採要)
(221)といへり(美夫君志卷二別記)。博士の説に從ふべし○アリトイハナクニはアラナクニといふに同じ。いにしへの一つのものいひなり。古事記下卷輕太子の眞玉ナス、アガモフ妹、鏡ナス、アガモフツマ、アリトイハバコソニ、家ニモユカメ、國ヲモシヌバメといふ御歌の傳(三十九卷)に
  アリト、イハバコソニの二句はただアラバコソと云意にてイフと云ことは添たる辭なり。此例常に多し
といへり○カム風ノ、ミマクホリ二首の御歌の調によれば大津皇子の殺され給ひし事は京に上りて始めて知り給ひしなり。されば左註の説は從はれず。或はアリトイハナクニをアラズトイフニと誤解してかくは云へるにや
 
   日並《ヒナミ》(ノ)皇子《ミコ》(ノ)尊(ノ)殯宮之時柿本朝臣人麿作歌一首并短歌
167 あめつちの はじめの時し (ひさかたの) 天のかはらに 八百萬 ちよろづ神の かむつどひ つどひいまして 神分《カムクマリ》 分之時《クマリシトキ》に あまてらす【一云さしのぼる】 ひるめの命 天をば しろしめすと 葦原の み(222)づ穗の國を あめつちの よりあひのきはみ しろしめす 神の命と あま雲の やへかきわきて【一云やへぐもわきて】 神下《カムクダシ》 いませまつりし △(たかてらす) 日のみこは あすかの きよみの宮に かむながら ふとしきまして すめろぎの しきます國と あまのはら いはとをひらき かむ上《アガリ》 上《アガリ》いましぬ【一云かむのぼりいましにしかば】 わがおほきみ みこの命の 天の下 しろしめしせば (春花の) たふとからむと (望月の) たたはしけむと 天の下【一云をすぐに】 よもの人の (大船の) おもひたのみて (あまつ水) あふぎてまつに いかさまに おもほしめせか つれもなき 眞弓の崗に 宮柱 ふとしき座〔左△〕《タテ》 みあらかを たかしりまして 明言爾 御言とはさず 日月《ツキヒ》の まねくなり塗《ヌレ》 そこゆゑに みこの宮人 ゆくへしらずも【一云さすたけのみこのみやびと歸邊不知爾爲】
天地之初時之久堅之天河原爾八百萬千萬神之神集集座而神分分之時爾天照日女之命【一云指上日女之命】天乎波所知食登葦原乃水穗之國乎天地之依相(223)之極所知行神之命等天雲之八重掻別而【一云天雲之八重雲別而】神下座奉之高照日之皇子波飛鳥之淨之宮爾神隨太布座而天皇之敷座國等天原石門乎開神上上座奴【一云神登座尓之可婆】吾王皇子之命乃天下所知食世者春花之貴在等望月乃滿波之計武跡天下【一云食國】四方之人乃大船之思憑而天水仰而待爾何方爾御念食可由縁母無眞弓乃崗爾宮柱太布座御在香乎高知座而明言爾御言不御問日月之數多成塗其故皇子之宮人行方不知毛【一云刺竹之皇子宮人歸邊不知爾爲】
 日並皇子は准天皇といふ意の御名にて皇太子草壁皇子の御事なり。はやく上にいへり
 時シのシは助辭なり。アメノカハラは天(ノ)安河の河原なり。ヤホヨロヅ千ヨロヅ神はただアマタノ神といふ事なり。カムツドヒは神の所爲なればカムを冠らせたるなり○分の字を舊訓にハカリとよめるを雅澄は分にはかる義なければとてアガチに改めたれど木村博士は字鏡集に分をハカルとよめりといへり。げに分にハカリの訓はあるべし。されど今は信友の説(長等の山風附録三【全集第四ノ六〇五頁】)に從ひてカム(224)クバリとよむべし。否カムクマリとよむべし。高天原と瑞穗國とを配り分けたまふなり。信友が
  さて其外にもあだし國々を諸神にくばりよさし給へる由の古傳説のありけるによりて然はよめるなるべし
といへるは云過ぐしたり○ヒルメノ命は即天照大御神なり。アメヲバシロシメストはシロシメストテにて天照大神ガ天ヲシロシメスニヨツテ即御自葦原ノ穗瑞ノ國ヲシロシメサヌニヨツテといふ意なり○アメツチノヨリアヒノキハミは天地ノ相接スル果マデとなり。神ノ命トは神トシテなり。ヤヘカキワキテは八重ナルヲ掻別ケテなり○神下を從來カムクダリとよめれどカムクダシとよまではイマセと對せず。マツルはクダシにもイマセにもかゝれり。イマセマツリシはスエ奉リシなり○さてこのイマセマツリシといふ句、格は次なるタカテラス日ノミコにつづきたれど意は切れてつづかず。之によりて雅澄は上にゾノヤ何等の言無ければマツリキといふこと辭のとゝのひの正格なれどこゝは然云ては宜しからざる所以にわざとことざまにマツリシと云へるなる(225)べし
といへれどげにもとおぼえず。(雅澄の引ける例は多くは當らず。そは其歌々の下に云ふべし)。或はこゝに句のおちたるにはあらざるか。いづれにもあれ次なるタカテラスヒノミコは瓊瓊杵尊の御事にはあらで天武天皇の御事なれば(契沖、宣長、干蔭、信友、木村博士の草壁皇子の御事とせるは見誤れり)マツリシにて一段をいひ収めたりとしてはタカテラス云々の出方俄なり。日ノミコハのハの言もおちつかず。云々ナル日ノミコハなどあるべき語勢なればなり。又高照(光とも輝とも)日ノミコは集中の長歌には皆ヤスミシシワガオホキミとたぐひて單濁にタカ照日ノミコといへる例無し(古事記日本紀にはあれど)。おそらくはイマセマツリシの次にスメロギノ、神ノ御世ヨリ、ツガノ木ノ、イヤツギツギニ、天ノ下、シロシメシ來テ、ヤスミシシ、ワガオホキミなどいふ句のありしが落ちたるならむ○フトシクは卷一にフトシカスミヤコヲオキテ、下にサダメテシミヅホノ國ヲカムナガラフトシキマシテとあるを見れば他動詞なり。然るにこゝにアスカノキヨミノ宮ニカムナガラフトシキマシテといひ又卷一にハナチラフアキツノミヤニミヤバシラ《五字傍点》フトシキマセバ、(226)卷六にウミ麻《ヲ》ナスナガラノ宮ニマキバシラ《五字傍点》フトタカシキテといへるなど補語《オブエクト》なきがあるは(ヽを附けたるは枕辭なり。補語にあらず)みなヲスグニヲなどいふことを略せるなり。即ヲスグニヲフトシキマスといふべきを云ひ慣れて補語を略しても通ぜしなり。フトシキマシテの下にマシシヲといふことを補ひて心得べし○スメロギは歴代の天皇の御事なり。古義に天武天皇の御事とせるは非なり。シキマス國はイマス國なり。アマノハラの下にノを添へて聞くべし。天に石門《イハト》ありと認めて天に昇ります事をかくいへるなり。神上は舊訓のまゝにカムアガリとよむべし。〇一本にカムノボリイマシニシカバとありて下へ續けるはわろし○前註者はタカテラスよりアガリイマシヌまでを第二段としたれど余の見る所にてはタカテラスの前に脱句ありて上よりつづけるなればイマシヌまでぞ第一段なる
 ワガオホキミ、考にいへる如くこれより日並皇子尊の御事を申すなり○アメノシタ以下は此皇子天位ニ即キ給ハバイカバカリ結構ナラムト天下ノ人ノ待渡リシニといへるなり。タフトカラムトはメデタカラムトといふ意なり。タフトキモノハ酒ニシアルラシなどメデタキをタフトキといへる例多し。タタハシケムトはタタ(227)ハシカラムトにてタタフは滿つ事なれば滿チ足ラヒアラムトと心得べし。アマツ水は天水にて即雨なり。アフギテ待ツの枕辭なり○イカサマニオモホシメセカの結はいかにといふに打見にはマネクナリヌルにて結びたるが如くなれどイカサマニオモホシメセカ……月日ノマネクナリヌルといひては義理通ぜざればマネクナリヌルにて結びたるにはあらで給を省けるなり。即イカサマニオモホシメセバニカアラムといふべきを略したるなり。○ツレモナキは縁故モナキといふこと○祝詞にシタツイハネニ宮柱フトシキ…テ(又ヒロシキタテ又フトシリタテ又ヒロシリタテ)タカマノハラニ千木タカシリテとあるを見ればこゝにミヤバシラフトシキ座ミアラカヲタカシリマシテとある座は立の誤にてミヤバシラフトシキタテなり。而してこゝのミヤバシラはフトシキタテの補語なり。ミヤバシラは一卷(五九頁)に云へる如くフトの枕辭として用ひたるもあれど又今の如く補語として用ひたるもあり。祝詞の語例、本集六卷ヤマシロノカセ山ノマニ宮柱フトシキタテテタカシラスフタギノ宮ハ、二十卷カシバラノウネビノミヤニ宮柱フトシリタテテアメノシタシラシメシケルなどの宮柱は皆補語なり。心をふかめてわきまふべ(228)し○ツレモナキ以下は眞弓ノ岡に御墓を造りしを云へるなり○明言爾を從來アサゴトニとよみて言を毎の借字としたれどみこととはす方ならではアサゴトニといはれず。おそらくは今モモノハノタマフベケレド幽明界異ナレバ此世ノ人ニキコユルヤウニハモノノタマハズといふことにて言は字のまゝの意なるべし。その訓はアラハゴトニとよまむに六言になりて調よからず。或はアラ人神などを例としてアラゴトニなど訓むべきにあらざるか○マネクナリ塗の塗を宣長(玉の小琴及玉緒七卷)はヌルとよみてツキヒノとあるノの結としたれどこは古義にヌレとよめるに從ふべし。ヌレは前に云へる如くヌルニの意なり
  因にいふ。宣長のノは必ヌルとやうに結ぶべきものと定めたるは誤なり。ノは元來ハモの類の係にてゾノヤの類の係にあらず。ノといひてヌルとやうに結ぶは略辭格なり。此事は文法家の間にははやく知られたる事なるべけれど歌學者の徒は今も紐鏡の分類を株守せるやうなれば一言おどろかしおくなり
 ○ユクヘシラズモを古義の如く『ゆくかたも知らず退き散りぬるはさても/\かなしき事』と釋きては即作者が宮人の行方を知らぬ事としてはソコユヱニといへ(229)るにかなはず。案ずるにユクヘは高市皇子の薨ぜし時に同じ作者の作りし長歌の反歌にハニヤスノ池ノ堤ノコモリヌノユクヘヲシラニトネリハマドフとあるユクヘと同じく今の語にていはば方向といふことなり。さればユクヘ知ラズモは宮人たちがおのがゆくべき方を知らぬにてセムスベヲ知ラズと云はむに齊し。さて作者も宮人の一人とおもはるれば皇子ノミヤ人は我々宮人ガと譯すべし〇一本の歸邊不知爾爲を略解にヨルベシラニシテとよみ美夫君志にユクヘシラニスとよめり。古義にはシラニスルとよみて
  一云の方は用べからず。マネクナリヌレといふよりのつづきも必ソコユヱとあるべくはたシラニスルといふもてにをはとゝのひがたければなり
といへり。てにをははよくとゝのひたり。何故にとゝのひがたしといへるにか。上にノなどなくてはヌルとはいはれずと思へるにか
 
   反歌二首
168 (ひさかたの)あめみるごとく仰ぎ見しみこの御門のあれまくをしも
(230)久堅乃天見如久仰見之皇子乃御門之荒卷惜毛
 ミカドは芳樹の
  こは皇子のすみ給ふ大殿を御門といへるなり。そは朝庭の字をミカドと訓るにて其義を知べし。次の舍人等の歌にタカヒカルワガ日ノミコノイマシセバシマノミカドハアレザラマシヲ、ヨソニミシマユミノ岡モ君マセバトコツ御門トトノヰスルカモ、ワガ御門チヨトコトハニサカエムト思ヒテアリシワレシカナシモなどの御門はみな御殿のことなり
と云へる如し。考以下に語のまゝに門の事とせるは非なり
 
169 (あかねさす)日は雖照有《テリタレド》(ぬばたまの)夜わたる月のかくらくをしも
茜刺日者雖照有烏玉之夜渡月之隱良久惜毛
    或本云〔□で圍む〕以2件《コノ》歌1爲2後(ノ)皇子(ノ)貴〔左△〕(ノ)殯宮之時(ノ)歌反1也
 雖照有を從來テラセレドとよみたれど宜しくテリタレドとよむべし。持統天皇を日に比し奉り草壁皇子を月に比し奉りて天皇ハ恙ナクマシマセド皇子ハ惜クモ(231)ウセ給ヒヌといふ意なる事古義に云へる如し。さて何故に日と月とに比したるかと云ふに皇子の御通稱を日並と申し奉りて天皇との御關係恰月と日との如くなるが故なり。日ナミは准日の義なり。夜ワタルのワタルは運行なり
 左註の云は衍字なり。又貴は諸本に尊とあるに從ふべし。後(ノ)皇子(ノ)尊は草壁皇子に次ぎて皇太子に立たせ給ひし高市《タケチ》(ノ)皇子なり。或本は高市皇子薨時の歌の反歌とせるなれど此歌は日並皇子の時のとせではかなひがたし
 
   或本歌一首
170 しまの宮まがりの池のはなち鳥人目にこひて池に不潜《カヅカヌ》
島宮勾乃池之放鳥人目爾戀而池爾不潜
 島宮は日並皇子のましましし宮なり。マガリノ池は即天武紀に周芳國貢2赤龜1乃放2島宮池1とある島宮池にてマガリは其形によれる名なるべし。美夫君志に『こは御庭の中の池ながらマガリは地名也』といへるはいかが○結句は從來カヅカズとよめれど譬ふる所ある歌にもあらぬをカヅカズといひ放しては餘情少きに似たり。(224)宜しくカヅカヌとよむべし。ゾ、ヤ、何の係なくてカヅカヌといふは略辭格なり
 
   皇子(ノ)尊(ノ)宮(ノ)舍人等慟傷作歌二十三首
171 (たかひかる)わが日のみこの萬代に國しらさまし島の宮はも
高光我日皇子乃萬代爾國所知麻之島宮婆母
 クニシラサマシのマシは下へつづきたり。今の歌又詞花集ツネヨリモナゲキヤスラムタナバタハアハマシ暮ヲヨソニナガメテなどの例は少かれどモノといふ名詞につづけてシナマシモノヲ、アハマシモノヲなどいふは常の事なり。さて今のマシには世ニマシマサバなどいふことを省きたるなり○シマノミヤハモといへるに無量の感慨を帶びたり。元來ハモはドウナツタラウとゆかしむ意のテニヲハなればこれは島(ノ)宮にありての作にあらで同處に參らずなりし後の作なり
 
172 島の宮|上池〔二字左△〕有《イケノウヘナル》はなちどりあらびなゆきそ君まさずとも
島宮上池有放鳥荒備勿行君不座十方
 二句考には池上有の誤として池ノウヘナルとよみ古義には勾池之の誤としてマ(225)ガリノイケノとよみ美夫君志にはもとのままにてウヘノイケナルとよみて『島の宮の山上にある池にて勾乃池とは別なるべし』といへり。考の説に從ふべし○アラブルはナルルのうら、野性に復する事にて畢竟飛ビ去ルナとなり〇ハナチドリは芳樹の云へる如くかねてはなち飼にしてありし鳥なり
 
173 (たかひかる)わが日のみこのいましせば島の御門はあれざらましを
高光吾日皇子乃伊座世者島御門者不荒有益乎
 シマノミカドを考に御門の事として『舍人の守る所なれば專らと云』といへるは非なり。美夫君志に
  島の宮の宮殿をいふ。本集卷一にワガツクル日ノミカドニ云々フヂヰガ原ニ大御門ハジメタマヒテ云々などありてこの前後にあるミカドもみな宮殿をいへり
といひ註疏に『島御殿といはむが如し』と云へるぞよき○イマシセバはイマサバにおなじ
174 よそにみしまゆみの岡も君ませばとこつ御門ととのゐするかも
(234)外爾見之檀乃岡毛君座者常都御門跡侍宿爲鴨
 このミカドも御殿なり。トノヰのヰはヰアカシテのヰにて夜起きて居る事なり○ヨソニ見シはコレマデ心ニトメナカツタといふ事、二三はソノ眞弓ノ岡ニ御墓ガ出來タカラといふ事、トコツミカドは永久ニマシマスベキ宮殿なり
 
175 いめにだにみざりしものをおほほしく宮出もするか作日〔二字左△〕《サダ》のくま囘《ミ》を
夢爾谷不見在之物乎鬱悒宮出毛爲鹿作日之隅囘乎
 見ザリシは思ハザリシなり。オホホシの上のホは多くは清音を當てたれど本集十七卷に於煩保之久とあればオボホシと云ひしにや。さて其意は心の晴れざるにて今いふウツトシに當れり(記傳十七卷オボチの條と參照すべし)。考に『忘れてはこはいかなる故にて此日のくまの宮を出入するにやとおぼめかるゝといふなり』といひてボンヤリトなどいふ意とせるは非なり○ミヤデは契沖の云へる如く出仕なり○結句は舊訓にサヒノクマワヲとよめり。契沖は此訓に從ひて
  サヒノクマは第七にサヒノクマヒノクマ川とよめる所なり。三吉野ノ吉野などよめるやうにヒノクマにサもじを添へて再いへるなり。和名云高市郡檜前【比乃久末】(235)眞弓岡同じ郡なれば檜隈のあたりにや
といひ宣長は
  作日は一本に佐田とあるを用べし
といひ雅澄は
  檜隈なり。隈囘はクマミとよむべし
といひ木村博士は
  檜隈なり。隈囘《クマワ》はクマグマといはむが如し
といへり。ヒノクマは固有名詞なればヒノクマノ隈囘といふべきをちぢめてヒノクマ囘とはいふべからず。宣長の説に從ひて佐田の誤字とすべし。佐田は下に見えたり。クマミヲのヲはヨリのヲにてクマミヲトホリテなり。クマミは道の曲なり○眞弓岡に宿直に行く途の作なり
 
176 あめつちと共にをへむとおもひつつ仕へまつりしこころたがひぬ
天地與共將終登念乍奉仕之情違奴
 ヲヘムは仕ヲ終ヘムなり(芳樹同説)。されば初二はトコシヘニ仕ヘ奉ラムトといふ(236)意なり。美夫君志に『君が代は天地と共にこそ終らめと思ひつゝ云々』といへるは歌にヲヘムとあると自他相かなはず
 
177 (朝日てる)佐太の岡べにむれゐつつわがなく涙やむときもなし
朝日弖流佐太乃岡邊爾羣居乍吾等哭息時毛無
 考に『朝日夕日をもて山岡宮殿などの景をいふは集中また古き祝詞などにも多し。是にしくものなければなり』といへれどさては第三句以下の調と相かなはず。宜しく准枕辭と認むべし。下にもアサ日テル島ノ御門ニとあり○又考に
  檜隈の郷の内に佐太眞弓はつづきたる岡なり。さて此御陵の侍宿所は右の二岡にわたりて在故に何れをもいふなりけり
とあるはいかが。上にヨソニミシマユミノ岡モ君マセバとあり下にツレモナキサダノ岡ベニ反居者《キミマセバ》とあれば佐太の岡即眞弓の岡とおぼゆ。はやく契沖も『佐太の岡は眞弓岳の別名か』といへり。なほ云はば佐太は岡のある土地の名にて岡の名は眞弓岡ならむ
 
178 御立爲之《ミタチセシ》島をみる時(にはたづみ)流るる涙とめぞかねつる
(237)御立爲之島乎見時庭多泉流涙止曾金鶴
 御立爲之を舊訓にミタチセシとよめるを眞淵はミタタシシに改め略解古義共に之に從へり。甲いはく。動詞にはミを冠らする事なければ卷五にミタタシセリシとあるを例として舊訓の如くミタチセシとよむべしと。
  ミタチ、ミタタシは共に名詞にてタタシはタチの敬語なり
 乙いはく。ミタチセシとよまむは固より可なり。されど又ミタタシシともよむべし。下なる御立之島ニオリヰテナゲキツルカモ又十九卷なるフナドモニ御立座而はミタチセシ、ミタチシマシテとは訓むべからず。ミタタシシ、ミタタシマシテと訓まむ外なからずやと。甲又いはく。下なる御立之は上に三處まで御立爲之とあるに依れば爲の字をおとしたるなり。又十九卷なる御立座而はタタシイマシテとよむべし。御立をタタシとよむべきは上にオモホシを御念と書きトハサズを不御問と書けるを證とすべしと。甲は今の余、乙は前の余なり○島は島(ノ)宮の池の中島なり。此島によりて宮の名を島(ノ)宮といひしなり。地の名は橘なり。さてミタチセシは皇子ノ立チ給ヒシとなり
 
(238)179 橘の島の宮にはあかねかも佐田の岡邊にとのゐしにゆく
橘之島宮爾者不飽鴨佐田乃岡邊爾侍宿爲爾往
 代匠記に『橘寺と云も彼地にあれば橘も所の名なるべし』といひ木村博士も之に從へり。然も博士は上のシマノミヤマガリノ池ノハナチドリの處に『勾は地名なり』といへり。マガリを地名とせばタチバナは地名とすべからず。博士の説は矛盾せり。タチバナはげに契沖のいへる如く地名なり〇一首の意は美夫君志に『島ノ宮ニハトノヰヲナシタラネバニヤアラム佐田ノ岡邊ヘモトノヰシニユクコトヨとなり』と云へるが如し。但橘之島宮の上に皇子ノマシマサヌといふことを加へて聞くべし。代匠記に『ナニノ飽足ラヌ所有テカ此宮ヲ除テ佐田ノ岡邊ニトノヰシニハ行と悲しみの餘に設て云なり』といひ古義に之によれるは非なり。宮ニハとあるを味ひて美夫君志の説の如くなるを知るべし。アカネカモは飽カネバヤなり○今橋寺と飛鳥川を隔てて飛鳥岡の麓に島(ノ)庄といふ處あり。眞弓岡は其西方廿町許の處にあり
 
180 御立爲之《ミタチセシ》島|乎母〔左△〕《ヲシ》家とすむ鳥もあらびなゆきそ年かはるまで
御立爲之島乎母家跡住鳥毛荒備勿行年替左右
(239) 年カハルマデを考には『來らむ年の四月までも』と釋き(草壁皇子の薨去は四月十三日なり)美夫君志には『せめて年かはるまで』と釋けり。考の説に從ふべし。そのかみ年カハルマデといひて周年の事と聞えしなるべし。今周年の事をムカハリといふもよしありげなり○島乎母の母は誤字にあらざるか。シマヲシとあるべき處なり。契沖が『水の外、島をも』と釋けるは服し難し。スム鳥モは人に對してモと云へるなり
 
181 御立爲之《ミタチセシ》島のありそを今みればおひざりし草おひにけるかも
御立爲之島之荒礒乎今見者不生有之草生爾來鴨
 代匠記に
  磯は海に限らず川にも池にもよめり。されば歌の習なれば必あら浪のよする所ならずとも大形に磯をアライソといへるか。若は海邊を學びて作らせ給へば云か
といひ考に
  御池に岩をたて瀧おとしてあらき磯の形作られしをいふなるべし
といへり。たとひさる事ありとも打任せてシマノアリソとはいふべからず。おそら(240)くはアリソをただイソといふ意につかへるなるべし。更に案ずるに當時の宮人は海なき國に住みて海をゆかしむあまりに(海邊の小石を玉とめでて家づととし池中に島をつくりしなどによりて海をゆかしみけむとおしはからる)池川の事をも海めかしていひしにはあらざるか。今の歌の外ウナバラハカマメタチタツ(埴安の池に)、サホ川ニイユキイタリテワガネタルアリソノウヘユ、水ツタフ磯ノウラ囘ヲ、アラ山中ニ海ヲナスカモなどいへるを思ふべし○今の字を舊訓にケフとよめり。今の下に日の字ある本ありといひ(一卷クシロツクタフシノサキニ今モカモ大宮人ノ玉藻カルラムの今も類聚古集には今日とあり)美夫君志には『重石を重と書き背向を背と書ける類にて脱字にあらず。今の字のみにてケフとよむべし』といへれどイマとよみて可なり。卷三昔ミシキサノ小河ヲ今ミレバイヨヨサヤケクナリニケルカモ、卷七佐保山ヲオホニミシカド今ミレバ山ナツカシモ風フクナユメなど例とすべし(此等も木村博士はケフとよむべしといはめど)
 
182 とぐらたてかひし鴈〔左△〕《タカ》のこすだちなばまゆみのをかにとび反《カヘリ》こね
鳥※[土+(而/一)]立飼之鴈乃兒栖立去者檀崗爾飛反來年
(241) 木村博士の説に※[土+(而/一)]は栖の俗體なりといへり○鴈は鷹の古宇雁の誤とする説(契沖)とカリとよみてカルガモの事とする説(契沖一説又眞淵)とあり。案ずるにカモの類は直に水に放つべく鳥座を立てては飼ふまじく結句などの調もカモめかねば鷹〔鳥なし〕《タカ》の誤といふ説に從ふべし○結句舊訓にトビカヘリコネとよめるはトビユキサテカヘリコヨといふ意とすべきか。木村博士は反は變の通用なればトビウツリコネとよむべしといへれどげにともおぼえず。再案ずるに九卷なる詠霍公鳥歌にウノ花ノサキタル野邊ユ、飛飜《トビカヘリ》來ナキトヨモシとあるを見ればトビカヘリは飜り飛ぶ事ならむ。さらば結句はただ飛ビ來ヨと心得べし
 
183 わが御門千代とことはにさかえむとおもひてありしわれしかなしも
吾御門千代常登婆爾將榮等念而有之吾志悲毛
 ワガミカドは代匠記に『此ミカドは宮の意なり』といへるが如し。千代トコトハニは永久ニといふ事
 
184 ひむかしのたぎの御門にさもらへどきのふもけふもめすこともなし
(241)東乃多藝能御門爾雖伺侍昨日毛今日毛召言毛無
 此ミカドは眞の御門なり。門のほとりに瀧ありしにて其瀧はまがりの池の水の落口なるべし。はやく註疏にも
  タキは今の瀑布のたぐひにはあらず。ただ勾の池の水の瀬をなして流るゝを瀧といへるなり。禁中に瀧口とて清涼殿の御|溝《カハ》水に流れいづる處あるが如きたぐひなり。そこにある御門ゆゑに此名あるなり
といへり○メスコトは召ス事なり。言と書けるは借字なり
 
185 水つたふ磯の浦囘《ウラミ》の石《イハ》つづし木丘《ムク》さく道をまたみなむかも
水傳礒乃浦囘乃石乍自木丘開乎又將見鴨
 水ツタフは水がつたひ流るゝなり。美夫君志に水ヲツタフイソとやうに釋けるは自他たがへり○ウラミはもと海にいふ語なれどアラ山ナカニ海ヲナスカモ(卷三)など池の廣きをたたへて海といへる例あれば今も池の汀の曲線を成せるを海めかして浦囘と云へるなるべし。海邊の景趣を模したるが故にはあらじ○石を舊訓にイハとよみ古義にイソとよめり。舊訓に從ふべし。イソツツジ、といふ一種あらば(242)こそあらめ磯ニオヒタルツツジといふ意ならば(雅澄の品物解には『常のつつじの礒べにさきたるを云へるにて云々』といへり)上にイソノウラ囘ノとあればイソとふ事再言はであるべし○ウラ囘ノはミチにかゝれり○木丘を諸註にモクとよめるを伴信友はムクとよみて
  木字の呉音ムクなるを牟〔右△〕の音に用たるなり。木字の呉音ムクなる由は予がこの考によりて僧義門が委しく考たる説あり。さて本言はムシなるを後世には多くモシといへりとぞきこゆる。モシと云ふ言詞にたまたま茂の字の音の似たるをもて字音ならむとおもひまがふべからず。モキ、モクまたモシ(○以上形容詞)モス、モセリ(○以上動詞)などはたらく言なり
といへり。くはしくは松の藤靡(伴信友全集第三の一一三一頁以下)及義門の活語雜話(第三篇四十丁)を見べし○さればムクはシゲクなり。又ミナムカモは又此宮ニ參リテ見ル事ハアラジとなり
 
186 ひと日にはちたびまゐりしひむかしの大寸御門《タギノミカド》をいり不勝鴨《ガテヌカモ》
一日者千遍參入之東乃大寸御門乎入不勝鴨
(244) ヒト日ニハのハはヤマトニハムラヤマアレドのハと同じく無意の助辭なり○大寸御門を舊訓にタギノミカドとよめるを考に
  寸《キ》は假字なり。假字の下に辭を添るよしなし
といひてオホキミカドとよみ改めたり。然るに美夫君志には『十卷|沙穗内之《サホノウチノ》など人名地名の類には假字の下にノの辭をよみそふる例あり』といへり。此説よろし。なほ舊訓の如くタギノミカドとよむべし。前々の歌と併せて考ふるにヒムカシノタキノミカドは内門の名にて其外に舍人の番所はありしなり○宣長(記傳十二卷)は不勝をカテヌとよみて
  カテヌにも不勝と書れば云々
といひ。岡本保考は
  入不勝鴨(イリカテヌ〔右△〕カモ)寢乃不勝宿者(イノネカテネ〔右△〕バ)宿不勝家牟(イネカテニ〔右△〕ケム)寢不勝鴨(イネカテヌ〔右△〕カモ)去不勝可聞(ユキカテヌ〔右△〕カモ)出不勝鴨(イデカテヌ〔右△〕カモ)月待難(ツキマチカテヌ〔右△〕)過不勝者(スギカテナク〔二字右△〕ハ)以上の歌どもにヲハンヌを省きて書かぬはいかにといふにもと虚語なれば本字なし。されば其處の前後、(245)字義をもてかける歌にはかならず此ヲハンヌのヌは別に文字なくてよみつけておくなり。前後、文字の音のみかれる假字ならばそのナニヌネノにあたる假字をかく也。たとへばスギ加弖奴〔右△〕可母とあり
といひ(難波江三卷上、奈行の言を添へてかかざる例)木村博士は
  勝をカテヌとよむ此ヌは已に云如く去の意のにてよみそへたるものなり。上に出したる宿不勝家牟(イネカテニ〔右△〕ケム)また宿不勝爲(イ子カテニ〔右△〕スル)とあるニと合せ見てそのよみそへたる辭なることを知べし
といへり(美夫君志卷二別記三頁)○さて今の歌のイリガテヌカモはイリカヌルカモといふ意にて召さるゝ御用なければ入ることなきなり
 
187 つれもなき佐太の岡べに反〔左△〕居者《キミマセバ》しまのみはしにたれかすまはむ
所由無佐太乃岡邊爾反居者島御橋爾誰加住舞無
 ツレモナキは此歌に所由無と書き人麿の長歌に由縁母無と書けるを見ても前に云へる如く關係モナキと云ふことなるを知るべし○反居者を舊訓にカヘリヰバとよめれどかくては義通ぜず。古義に反を君の誤としてキミマセバとよめり。これ(246)ぞよろしき。木村博士は反を變の通用としてウツリヰバとよみて舍人の移り居る事とせり。舍人の佐太の岡邊に居るは皇子の御墓のある處なればツレモナキといふきべきにあらず。即三句を舍人の事としては初句と相かなはず○シマノミハシを契沖は御階の意と見たれど島の宮の御階を打任せてシマノミハシとは云ふべからず。契沖并に其説に從へる人々はシマノミカドを例としたるならめどそのミカドは宮の御門といふことにはあらで御殿といふ事なる由既に云へり。案ずるにシマノミハシは勾の池の中島に渡せる橋にてかのをかしき島の御橋にも誰かとどまらむと云へるなるべし。スマハムはトドマラムといふ意にこそ。住居の意とすれば御階にてもかなはず
 
188 且覆、ひの入去者《イリヌレバ》御立△之《ミダチセシ》島におりゐてなげきつるかも
且覆日之入去者御立之島爾下座而嘆鶴鴨
 且覆を舊訓にアサグモリとよみ眞淵は天靄の誤としてアマグモリとよみ雅澄は茜指に改めてアカネサスとよみ木村博士は且を旦の誤としてタナグモリとよめり。ともかくも且覆は誤字なるべし(天傳などの誤か。且は次の歌の初なる旦の字の(247)うつりしにもあるべし)○入去者は雅澄のイリヌレバとよめるに從ふべし〇二句は皇子の薨ぜしを譬へたるなるべし。夜になるを待ちて池の中島におりゐて嘆かむことあるべきにあらねばなり。眞淵は『二句を今の過ませる譬と見て末をいかに心得んとすらん』と云へれど二句を譬と見ても末と矛盾することなし○シマニオリヰテは御殿より島におりたつなり。眞淵は『日暮ゆけば宮の外方の池島のほとりの舍へ下ゐる故にしかよめり』といへれどミタチセシ島ニオリヰテとあるを見れば皇子の立ち給ひし處即舍人のおりゐる處なり。皇子豈舍人の舍のある處に立ち給はむや。否皇子の立ちて眺したまはむ中島に舍人の舍を設けむや
 
189 あさ日てる島の御門におほほしく人音もせねばまうらがなしも
旦〔左△〕日照島乃御門爾鬱悒人音毛不爲者眞浦悲毛
 オホホシクは上にいへり。陰氣ニなり。ウラガナシは心悲なり。マは添辭
 
190 (まき柱)ふとき心はありしかどこのわがこころしづめかねつも
眞木柱太心者有之香杼此吾心鎭目金津毛
(248)二三は平生ヲヲシキ心ヲ持チタリシカドとなり。コノワガ心はワガ此悲なり。シヅメはオサヘなり
 
191 (毛ごろもを)春冬〔□デ圍む〕かたまけていでまししうだの大野はおもほえむかも
毛許呂裳遠春冬片設而幸之宇陀乃大野者所念武鴨
 ケゴロモヲは古義に云へる如く枕辭なり○カタマケテを古義に『片附設《カタヅキマウク》るよしなり』といひ美夫君志に『其時を待まうくるなり』といひて共に他動詞と見たれど十卷にアキノ田ノワガカリバカノスギヌレバカリガネキコユ冬カタマケテとあるを見れば自動詞なり。語意はチカヅキテといふ事ならむ○春冬の冬の字は衍字なるべし。即春の字一本に冬とあるより春の字の傍に書きたるがまぎれて本行に入れるなるべし○オモホエムカモはシノバレムカなり。卷一アキノ野ノミクサカリフキヤドレリシウヂノミヤコノカリホシオモホユのオモホユに同じ
 
192 朝日てる佐太の岡べになく鳥の夜鳴|變〔左△〕布《ワダラフ》この年ごろを
朝日照佐太乃岡邊爾鳴島之夜鳴變布此年己呂乎
(249) 上三句は考にいへる如く序なり。鳥ノ鳴クガゴトクニ我等ハ夜鳴云々スルといへるなり○變布を舊訓にカヘラフとよめるを契沖はカハラフと改めよめり。案ずるに變布は度布の誤にて夜毎ニナキテ此年ゴロヲワタルコトヨといへるなるべし○トシゴロは考に、『去年の四月より今年の四月まで一周の間御陵づかへすれば年ゴロと云へり』といへるが如し○玉緒七卷(二十八丁)にヨナキカハラフ此トシゴロヲとよみて『右のヲはたすけたる辭にてヨといふに同じ』といへれど右に釋せる如く四句にかへるヲなり
 
193 八多〔左△〕籠良《ヤツコラ》がよるひるといはずゆく路をわれは皆悉《サナガラ》宮道叙爲《ミヤヂニゾスル》
八多籠良家〔左△〕夜晝登不云行路乎吾者皆悉宮道叙爲
    右日本紀曰三年己丑夏四月癸未朔乙未薨
 八多籠良は舊訓にヤタゴラとよめり。タとツと通ずれば奴等なりといふ説(契沖)とハタゴは和名抄に飼馬器、籠也とあれば馬を追ふ男をハタゴといへるなりといふ説(契沖一説)と良は馬の誤字にてハタゴウマガなりといふ説(宣長)とあり。多を豆などの誤字としてヤツコラガと訓むべし。下人等之となり。家は諸本に我とあり○皆(250)悉は舊訓にサナガラとよめるを考にコトゴトとよめリ。舊訓によるべし。ソノママニといふことなり○宮道叙爲を舊訓にミヤヂトゾスルとよめるを考にニゾスルに改めたり(はやく類聚古集にはニゾスルとよめり)。後世の語法に從はばトゾスルといふべけれど下にナミノトノシゲキハマベヲシキタヘノ枕爾シテとよみ三卷にヒサカタノアメユク月ヲ綱ニサシワガオホキミハキヌガサ爾セリとよめる例によりてなほニゾスルとよむべし○宮道は出仕の道路なり。一首の意は下人ノ往來繁キ道ヲトホリテ我ハ毎日眞弓岡ノ御陵ニ出仕スルといへるなり
 
   柿本朝臣人麿獻2泊瀬部《ハツセベ》皇女1忍坂部皇子〔五字を□で圍む〕歌一首并短歌
194 (とぶとりの) あすかの河の かみつ瀕に おふる玉藻は しもつ瀕に ながれ觸經《フラバフ》 (玉藻なす) かよりかくより なびかひし つまのみことの (たたなづく) 柔膚《ニキハダ》尚《スラ》を (つるぎだち) 身にそへねねば (ぬばたまの) 夜床もあるらむ【一云何れなむ】 そこゆゑに 名具鮫魚〔左△〕天《ナグサメカネテ》 氣留〔左△〕敷藻《ケダシクモ》 相屋常念而《アフヤトモヒテ》【一云きみもあふやと】 (たまだれの) をちの大野の あさ露に (251)たまもはひづち 夕霧に ころもはぬれて (草枕) たびねかも須留《スル》 あはぬ君ゆゑ
飛鳥明日香乃河之上瀬爾生玉藻者下瀬爾流觸經玉藻成彼依此依靡相之嬬乃命乃多田名附柔膚尚乎劔刀於身副不寐者烏玉乃夜床母荒良無【一云何禮奈牟】所虚故名具鮫魚天氣留敷藻相屋常念而【一云公毛相哉登】玉垂乃越乃大野之旦露爾玉藻者※[泥/土]打夕霧爾衣者沾而草枕旅宿鴨爲留不相君故
 題辭のうち忍坂部皇子の五字は考にいへる如く衍なり。削るべし。おそらくはもとは註文にて忍坂部皇子同母妹などぞありけむ○流觸經を宣長は古事記雄略天皇の段の歌に
  ほつえの、えのうらばは、なかつえに、おち布良婆閇《フラバヘ》、なかつえの、えのうらばは、しもつえに、おち布良婆閇
とあるに依りてナガレフラバヘとよめり。此説に基づきてナガレフラバフ〔右△〕とよむべし。經はハフとはよまれねばもしハフとよむべくば經の上に羽を補ふべしと云(252)へる人もあれど日ヲフ〔右△〕、絲ヲフ〔右△〕などのフは元來ハフの約なれば經の字は安んじてハフとも訓むべし。さてフラバフはフリバフにて接觸といふ意ならむ。源氏物語などにフレバヒといへるは同語の活の轉じたるなり○ナビカヒシは考にいへる如くナビキアヒシなり。次に出來るもの夫の君なればナビキシの延とは見るべからず。嬬は借字にて實は夫なり○柔膚を舊訓にヤハハダとよめるを古義にニキハダに改めたり○尚を舊訓にスラとよめり。スラにては通ぜざるに似たれど五卷貧窮問答歌にサムキ夜須良乎とあるも今と同じければなほスラとよむべきなり。案ずるに此スラは普通のスラとは異にて主語を強むる辭なるべし○ヨドコモアルラムは御夫婦相寢給ハデ掃ヒ給フコトモ少ケレバ夜ノ御フシドモ荒レルデアラウとなり。一云何レナムの何は阿の誤字なり○名具鮫魚〔右△〕天氣留〔右△〕敷藻は久老の説に魚は兼の誤、留は田の誤にてナグサメカネテケダシクモとよむべしと云へり(類聚古集を檢するに留は田とあり)。そのナグサメカネテは己をなぐさめかぬるにてタレコメテ春ノユクヘモシラヌマニのタレコメテなどと同格なり。ケダシクモは或ハなり。モシヒョットといふことなり○雅澄はただアフヤトモヒテといひては不敬(253)なりといひて念の上に御を補ひてオモホシテとよみたれど芳樹もいへる如く歌は毎辭必しも敬語を用ふべきものにあらず一首の上にて敬意を失はざれば可なるものなり。裳に玉を添へてタマモといへるはたたへたるなり。ヒヅチはヌレテなり〇タビネカモ爲留をも雅澄は爲須《セス》の誤とせり。拘泥すべからず○アハヌ君ユヱは逢ハレヌモノヲといふ意にて上なるアフヤトモヒテと呼應せり。結句例の如く力あり○タビネカモスルとあるを味ふにいにしへは新喪には墓の傍に廬を作りて往き宿りしことあるなり(草壁皇子の御新喪に舍人等が眞弓岡の陵に宿直せしをも思ふべし)。今も遠き處なるが故に越智野にやどり給ひしにあらず。タビネといふ語の今の調につきて遠き處のやうに思ふべからず。考に『ユフギリニコロモハヌレテは其野をくれぐれと分過て夕べに宿り給ふまでを云』といへるは遠き處と思へるよりの誤なり。越智野は藤原と同郡なれば遠き處にはあらじ
 
   反歌一首
195 (しきたへの)袖かへし君(たまだれの)越野過去《ヲチヌヲスギヌ》【一云をちぬにすぎぬ】又もあはめやも
敷妙乃袖易之君玉垂之越野過去亦毛將相八方【一云乎知野爾過奴】
(254)   右或本曰。葬2河島(ノ)皇子(ヲ)越智野(ニ)1之時獻2泊瀬部皇女1歌也。日本紀曰朱鳥五年辛卯秋九月己已朔丁丑淨大參皇子川島薨
 ソデカヘシのカフは後世のカハスなり〇四句を考にヲチヌニスギヌとよみて『スギヌとは既薨ましてをち野に葬たる事をつづめていふなり』といへれどさては辭足らず。ヲチヌヲ〔右△〕スギヌとよみ改むべし。をち野をすぎてある丘陵に葬《カク》され給ひしなり
   明日香皇女|本※[瓦+缶]《キノヘ》殯宮之時柿本朝臣人麿作歌一首并短歌
196 (とぶとりの) あすかの河の かみつ瀬に いはばし【一云石浪】わたし しもつせに うち橋|渡《ワタス》 いはばしに【一云石浪】 おひなびける 玉藻もぞ たゆればおふる うち橋に おひををれる 川藻もぞ かるればはゆる
飛鳥明日香乃河之上瀬石橋渡【一云石浪】下瀬打橋渡石橋【一云石浪】生靡留玉藻毛叙絶者生流打橋生乎爲〔左△〕禮流川藻毛叙干者波由流
(255) 明日香皇女は天智天皇の御女なり。木※[瓦+缶]《キノヘ》殯宮は御墓の外に殯宮を營みしにはあらで木※[瓦+缶]の御墓を新葬の程殯宮といひしなり。されば木※[瓦+缶]殯宮之時は新葬2于木※[瓦+缶]1之時と心得べし
 一云石浪とある、は石並の借字なり。イハバシもイシナミも共に飛石にてやがてトコナメなり○渡は舊訓にワタシとよめり。景樹雅澄のワタスとよめるに從ふべし○ヲヲルはたわむ事にてナビクといふに似たり。宣長は『ヲヲリはワワリにてわ々わ々と繁く生ひあるを云也』といひ木村博士は『ヲヲレルは生繁るさまをいへる也』といへれどなほ眞淵の『とを々に靡くをいふ』といへるに從ふべし○タマモモゾ、川藻モゾのモゾを雅澄が後世のシモゾと同じくカヘリテといふ意を含めりといへるはいかが。こはタマ藻モ、川藻モといふに常のゾをそへたるのみ。此事はやく玉の緒七卷十五丁にもいへり
 
 なにしかも わがおほきみの、立者《タタセバ》 玉藻の如許呂《モコロ》 臥者《コヤセバ》 川藻のごとく なびかひし よろしき君|之《ノ》 朝宮を わすれたまふや 夕宮を そむきたまふや
(256)何然毛吾王乃立者玉藻之如許呂臥者川藻之如久靡相之宜君之朝宮乎忘賜哉夕宮乎背賜哉
 常情を以て云はば上をうけてはナニシカモワガ大君ノ云々イニテカヘラヌなどいふべきを、しかあらはなる照應法を用ひずただうせたまひし事のみをいひ然も前に對照に用ひたる玉藻川藻をはたらかして立者玉藻之如許呂臥者川藻ノゴトクといへるが文藻のめでたきにて又よくせでは解し難き所以なり○立者を契沖はタタセレバとよみ眞淵はタタスレバとよめり。千蔭のタタセバとよめるに從ふべし。玉藻之如許呂臥者を從來如の下を句として玉藻ノゴトク、コロフセバと訓みたりしを山田孝雄氏が始めて呂の下を句として如許呂をモコロとよまれしはいみじき發見なり。金澤本には現に母〔右△〕許呂とあり。モコロは如クの古語なり
  右の山田氏の説は大正十年十月發行の雜誌アララギに出でたるを正宗敦夫の注意によりて今囘の補訂に際して補ひ入れたるなり
 ○臥者はコヤセバとよむべし。コヤセバは臥シ給ヘバなり○川藻ノゴトクにて切るるにあらず。タタセバ玉藻ノ如《モコロ》ナビカヒ臥《コヤ》セバ川藻ノゴトクナビカヒシといふ(257)べきを略せるなり。ナビカフは前にも云へる如くナビキアフにてかたみによりそふことなり○ヨロシキキミ之の君も亦皇女なり(芳樹同説)。上にワガオホキミノといひたれば再キミ之とはいふまじきなれどかく打返していふは一つの格なり。畢竟まづワガオホキミノといひさて立歸りて云々ノ君之といへるなり。ヨロシキは眞淵の云へる如く容貌の具足せるをいふ。君之の之は上に君乃とあるに對照してノとよむべし○アサミヤヲ云々の四句はただイカナレバスミマシシ宮ヲ忘レ背キタマフゾと云ふべきを分けて對句にいふにつきて朝と夕とを配したるまでなり○さて雅澄の心づける如く
  ナニシカ〔右△〕モ……忘レタマフヤ〔右△〕背キタマフヤ〔右△〕
といひてはカとヤと疑の辭かさなるなり。案ずるにこのヤは常のヤよりは輕くて一種の助辭なり。雅澄の擧げたる例の中今昔物語なる何ノ益カアラムヤといふのみ今と同じき格なり。後世常用ふる辭の中にも何トカヤといふことあり。此ヤ今の歌のヤに近し(なほ玉の緒四卷三十二丁に擧げたる例を見べし)。玉の緒七卷八丁に(258)これはナニシカモにて切れたり。さる故に下に何の結びなし。タマフヤのヤへかけて見べからず
といへるは非なり
 
うつそみと おもひしときに 春べは 花をりかざし 秋たてば もみぢばかざし (しきたへの) 袖たづさはり (鏡なす) 見れども不厭《アカズ》 (もち月の) いやめづらしみ おもほしし 君と時時《トキドキ》 いでまして あそびたまひし (みけむかふ) きのへの宮を とこみやと さだめたまひて (あぢさはふ) めこともたえぬ
宇都曾臣跡念之時春部者花折挿頭秋立者黄葉挿頭敷妙之袖携鏡成雖見不厭三五月之益目頬染所念之君與時時幸而遊賜之御食向木※[瓦+缶]之宮乎常宮跡定賜味澤相目辭毛絶奴
 ウツソミトオモヒシトキニは考に『顯の身にておはせし時といふのみ。念の言は添ていふ例』といへり。オモフを添へていふはそのかみ行はれし一種のものいひとお(259)ぼゆ。上にもアハメヤをアハムトモヘヤといへり○袖タヅサハリは袖ヲツラネなり○不厭を雅澄はアカニとよみたり。舊訓に從ひてアカズとよむべし。オモホシシにかゝれるなり○メヅラシミはメヅラシガリなり。雅澄のメヅラシウと釋せるは當らず○君與時時とある君は夫《セ》(ノ)君なり。時時を眞淵のヲリヲリとよめるを雅澄は古言にヲリヲリといへる例なしと云ひて舊訓の如くトキドキとよめり。トコ宮は御墓なり○メコトを眞淵は見ル事といふ意としてコを濁り雅澄は目ト辭トなりとしてコを清めり。しばらく後者に從ふべし
 
しかれかも【一云そこをしも】 あやにかなしみ (ぬえどりの) かたこひ嬬【一云しつつ】 (朝鳥の)【一云朝露の】 かよはす君が (夏草の) おもひしなえて (ゆふづつの) かゆきかくゆき (大船の) たゆたふみれば 遣悶流《ナグサムル》 こころもあらず そこゆゑに 爲便知之也〔三字左△〕《スベヲシラニト》 おとのみも 名のみもたえず (あめつちの) いやとほながく しぬびゆかむ 御名にかかせる あすか河 よろづよまでに (はしきやし) わがおほきみの かたみ何〔左△〕《ニ》ここ(260)を
然有鴨【一云所己乎之毛】綾爾憐宿兄鳥之片戀嬬【一云爲乍】朝鳥【一云朝露】往來爲君之夏草乃念之萎而夕星之彼往此去大船猶預不定見者遣悶流情毛不在其故爲便知之也音耳母名耳毛不絶天地之彌遠長久思將往御名爾懸世流明日香河及萬代早布屋師吾王乃形見何此焉 シカレカモは一にソコヲシモとあるによるべし○美夫君志にアヤニカナシモ〔右△〕とよみて句としたるはわろし○底本にカタコヒ嬬とあるは誤なり。カタコヒシツツのツツは事の反復又は持續を示す辭なり。古義に『ツツは此をも爲ながら彼をもする言にてこゝは片戀し賜ひながら城上宮にかよひ賜ふよしなり』と云へるは非なり。片戀は一方のみ戀ふるをいふ。こゝは皇女はうせたまひたれば皇子の戀を片戀といへるなり〇一云アサツユノはわろし○カヨハス君とは眞淵の云へる如く皇女の御墓所へ夫君忍坂部《オサカベ》(ノ)皇子の參り給ふをいふ。美夫君志に『皇女のおはしましゝ折皇子の通ひ給ひしをいふ』と云へるは非なり。シナエテはシヲレテなり○ユフツ(261)ツは和名抄に由布郁々(一本に由布豆々)とあり。前註或はユフヅヽと書き或はユフヅツと書き或はユフツヅと書けり。狩谷望之の箋注倭名抄に
  按毛詩大東篇、西有2長庚1。傳(ニ)庚(ハ)續也。正義云。日既入之後有2明星1。言《イフハ》其長能續2日之明1。故謂2明星1爲2長庚1也。是(ニ)知、由布都々(ハ)夕續之義
といひ伴蒿蹊の閑田耕筆卷之一に
  長庚星を常に夕豆都と中のツもじを濁る。和名抄由布豆々とあるは二字共に濁音によめとにや。しかるに此訓の出所は詩小雅大東篇西有長庚の下の毛傳に日既入謂2明星1爲2長庚1庚續也とあるによれるか。しからばツヅクの意にて下の一もじをのみ濁るべきものなり
といへり。即ユフツツの漢名長庚は長續の義なればユフツツは夕續の義なりと云へるなり。此説によりてユフツヅとよむべきかとも思へど日ガケル、ミブクシなどの例によらば濁音を上に移してユフヅツともいふべし〇カユキカクユキはアチラヘイツタリコチラヘイツタリなり。タユタフはグヅグヅトシテススマヌなり。古義に『カユキカクユキは御道に附ていひタユタフは御心の悩み給ふことをいへる(262)なり』といへるは非なり○遣悶流は雅澄のナグサムルとよめるに從ふべし。此ナグサムルは前の長歌のナグサメカネテと同じくおのれを慰むるなり。さてナグサムル以下は作者自身の上なり。ソコユヱニはソレ故ニなり○爲便知之也は宣長の説にここはセムスベヲナミとかセムスベシラニとかいふべき處なれば誤字なるべしといへり。爲便不知之止の誤としてスベヲシラニトとよむべきか。シラニトは知ラズなり○オトはこゝにてはやがて名なり。ノミモはダニといふに同じ○カカセルは明日香川ヲ御名ニカケタマヘルと云へるなり。古義に『明日香皇女と申す御名に懸賜へる』といへるはいひざまわろし○結尾の一句宣長は何を荷の誤としてカタミニココヲとよみ『ココヲカタミニシノビユカムと上へ返る意なり』といひ(略解に引けり)雅澄之に從へり。されどよく思ふにシヌビユカムを結句の結とせば上なるオトノミモ名ノミモは何にて受けたりとかせむ。受くるものなくなるにあらずや。
  オトノミモ名ノミモはオトダニ名ダニにてそをシヌビユカムと受けさてシヌビユカム其御名とつづけたるなり
(263) 宣長の一説(玉の小琴)には『ココヲのヲは輕くしてヨと云はむが如し』といへり。されば宣長はツマゴメニヤヘガキツクルソノヤヘガキヲのヲと見たるなり(玉緒七卷二十八丁『ヨに似たるヲ』といふ條をも見べし)。又景樹は
  カタミカココヲは君ガカタミカモと云へるにてココヲはうち返して處をさしてとぢむるにて云流せる詞にてヲに意なし
といへり。即宣長の一説の如し。もし此等の説の如くヲをヨに近きヲとしてワガオホキミノカタミカといひすてたりとせば上なるヨロヅ世マデニはいづれの辭にて受けたりとかせむ。ヨロヅ世マデニのをさまる處なきにあらずや。案ずるにカタミ何の何は略解に引きたる宣長の説の如く荷の誤字としてニとよみココヲはココヲセムの略とすべし。かく見ればヨロヅ世マデニはセムにて受けたるにてかけ合はぬ處なし。美夫君志にも
  ヨロヅヨマデニこは下のカタミニココヲといふへかゝりてこの皇女の御名にかかれる川の名なればこの川を萬代までも吾王の御形見とは見むと也
といへり。カタミニのニは下なる君ガカタミニミツツシヌバムのニと同例にて後(264)世のトに當れり○さればソコユヱニ以下はソレ故ニセムスベヲ知ラズ、セメテ御名ダニイツマデモシノビ行カウト思フソノ御名(明日香トイフ御名)ニカケ給ヘル明日香川ヲ我皇女ノ御形見ニ致シマセウ、此明日香川ヲといへるなり
 
   短歌二首
197 あすか川しがらみわたしせかませばながるる水ものどにかあらまし【一云水のよどにかあらまし】
明日香川四我良美渡之塞益者進留水母能杼爾賀有萬思【一云水乃與杼爾加有益】
 こは譬喩歌にてモシ御壽ニ然ルベキ柵ヲ渡シタナラバカク早クオカクレニハナラナカツタラウといへるならむ。一云のミヅノは水ガの意なるべし。但底本の方まされり
 
198 (あすか川)あすだに【一云さへ】みむとおもへやも【一云おもへかも】わがおほきみの御名わすれせぬ【一云御名わすらえぬ】
明日香川明日谷【一云左倍】將見等念八方【一云念香毛】吾王御名忘世奴【一云御名不所忘】
(265) アスカ川はアスの枕辭なり○オモヘヤモはオモヘバヤモにてモは助辭なり。オモヘバヤ御名ワスレセヌと照應せるにてヌはヤの結なり。古義に『ヤは後世のヤハと同じ』といへるは非なり。明日香皇女ノ御名ヲ忘レヌハ此後モ御目ニカカルコトガアラウト我心ニ思フノデアラウとなり。古義に
  明日香川を明日さへも又見むと思はむやは、又も見むとはおもはれぬことぞ、なぞといはば明日香川をみると皇女の明日香と申す御名がわすられねば戀しきこゝろにいよいよたへられぬ故に、となり
といへるは代匠記の誤を敷衍したるにて人まどはしなり
 
   高市皇子尊|城上《キノヘ》殯宮之時柿本朝臣人麿作歌一首并短歌
199 かけまくも ゆゆしきかも【一云ゆゆしけれども】 いはまくも あやに畏伎〔左△〕《カシコシ》 あすかの 眞神の原に (ひさかたの) あまつ御門を かしこくも 定めたまひて かむさぶと いはがくります (やすみしし) わがおほきみの きこしめす そともの國の (眞木たつ) 不破山こえて (266)(こまつるぎ) わざみが原の かり宮に あもりいまして 天の下 をさめたまひ【一云はらひたまひて】 をすぐにを 定めたまふと (とりがなく) 吾妻の國の みいくさを めしたまひて ちはやぶる 人をやはせと まつろはぬ 國ををさめと【一云はらへと】 みこながら 任《マケ》たまへば
挂文忌之伎鴨【一云由遊志計禮杼母】言久母綾爾畏伎明日香乃眞神之原爾久堅能天津御門乎懼母定賜而神佐扶跡磐隱座八隅知之吾大王乃所聞見爲背友乃國之眞木立不破山越而狛劔和射見我原乃行宮爾安母理座而天下治賜【一云拂賜而】食國乎定賜等鳥之鳴吾妻乃國之御軍士乎喚賜而千磐破人乎和爲跡不奉仕國乎治跡【一云掃部等】皇子隨任賜者
 一首二段百四十九句より成れる雄篇大作なり。高市皇子は天武天皇の庶皇子なり。天武天皇と弘文天皇と叔姪相戰ひ給ひし時此皇子軍事を統べ給ひき。弘文亡び給ひて天武位に即き天武崩じて皇后持統天皇位を繼ぎ給ひし初には草壁皇子皇太子たりしが同天皇の三年に草壁の薨じ給ひし後は此高市皇子皇太子に立ち給ひ(267)又太政大臣に任ぜられて國政を執り給ひしが持統の十年に薨じ給ひき。まづ以上の事を心得おくべし
 カケマクモは古義に云へる如く口ニカケテイハムモといふことにて次なるイハマクモに同じ。考に『いやしき心にかけて慕奉らむも』といへるは非なり〇一云ユユシケレドモとあるはわろし。ユユシキカモのユユシはこゝにては次なるカシコシと同じ。古義に『恐多クユユシキ哉となり』といへるが如し○アヤニ畏伎といふ辭、語格の上にてはアスカノ眞神ノ原にかゝれり。されど地名をいふにイハマクモアヤニカシコキとはいふべからず。案ずるに伎は之の誤にてアヤニカシコシと切りたるにこそ。さらでは第二句をユユシキカモと切りたるも不審なり。現に三卷安積皇子薨之時家持作歌にも
  かけまくもあやに恐之〔右△〕いはまくもゆゆしきかもわがおほきみ御子の命の云々
とあり(因にいふ。家持の歌には古歌殊に人麿憶良の歌を學びたる處多ければ相照して古歌を釋き又は古歌の誤を正すべきこと少からず)○アマツミカドは古義に云へる如く御陵の事なり。下なる弓削皇子薨時歌にもヒサカタノアマツ宮ニカム(268)ナガラ神トイマセバとあり。略解に考の説によりて天にのぼります事と見て『右にアマノ原イハトヲヒラキカムアガリアガリイマシヌと云にひとしく崩給ふ事をいふ』といへるは非なり○イハガクリマスは契沖の云へる如く葬《カク》されたまふをいふ。さてイハガクリマスにて切るゝにはあらでイハガクリマスワガオホキミノとつづくなる事も契沖の云へる如し。そのオホキミは天武天皇なり。右によれば天武天皇の御陵は明日香の眞神ノ原にありしなり。然るに日本紀及諸陵式に依れば此天皇の御陵は檜隈《ヒノクマ》(ノ)大内(ノ)陵なり。されば代匠記には『大内陵の處を眞神(ノ)原とも云か』といひ略解は大内を眞神(ノ)原の小名とせり。されど眞神(ノ)原は崇峻天皇紀に
  元年……始作2法興寺1。此地名2飛鳥(ノ)眞神(ノ)原1。亦(ノ)名(ハ)苫田
とあり本集卷十三に
  みもろの、神なび山ゆ、とのぐもり、雨はふりきぬ、あまぎらひ、風さへふきぬ、大口の、眞神の原ゆ、しぬびつつ、かへりにし人、家にいたりきや
とあり又今の歌にも明日香ノ眞神ノ原とあれば眞神(ノ)原は大内陵とは同郡ながら檜隈《ヒノクマ》にはあらで飛鳥《アスカ》にあるなり。大日本地名辭書にも『眞神原は飛鳥法興寺の地に(269)て鳥形山の下なり」といひ又
  飛鳥寺 法興寺又元興寺と號す。今|安居院《アグヰ》(眞言宗號2鳥形山1、飛鳥大佛と稱するもの)の北に本寺址礎石數多あり
といへり。大内陵の地は檜隈の北端にて飛鳥の西隣に當れば古は此地をかけて明日香の眞神(ノ)原といひしを後に檜隈に屬せられしならむ○ヤスミシシワガオホキミ以下は壬申の亂の事を云へるなり○ソトモは裏手なり。前註に云へる如く美濃は大和の東北方に當るが故にソトモノクニと云へるなり○ワザミガ原は上田秋成の膽大小心録に「美濃國わざみが原とは今いふ關が原也」と云へり○アモリは天降なれどこゝにてはただクダリと心得べし。ヲサメタマヒとハラヒタマヒテとはヲサメタマヒをとるべし。此時天武はいまだ天子におはしまさねど此長歌は天子と見奉りてよめるなり。さればこそ上にもキコシメスソトモノクニとは云へるなれ○チハヤブルを考、略解、美夫君志に枕辭とせるは非なり。こゝにては枕辭にあらで狂暴ナルといふことなり。ヤハスは懷柔する事○ヲサメトとハラヘトとはいづれにてもあるべし。宣長の云へる如くヲサメヨトといふをいにしへはヨの言なく(270)てヲサメトともいひしなり○ミコナガラは考に云へる如く皇子ノママニテといふことなり。大將軍には任じたまへど皇子を下して臣下とし給ひしにあらねばミコナガラといへるなり○任を雅澄は自動詞としてマキとよめれどこ々は天皇が皇子を大將軍に任じ給ふなれば考の訓の如くマケとよむべし。以下高市皇子の御上をいへり
 
大御身に たち取帶之《トリハカシ》 大御手に 弓とりもたし みいくさを あともひたまひ ととのふる 鼓の音は いかづちの 聲ときくまで ふき響《ナス》流〔□デ圍む〕 くだのおと母〔左△〕《ハ》【一云ふえの音は】 あたみたる 虎かほゆると もろ人の おびゆるまでに【一云ききまどふまで】 ささげたる 幡のなびきは (ふゆごもり) 春さりくれば 野ごとに つきてある火の【一云ふゆごもりはる野やく火の】 風のむた 靡如久《ナビクガゴトク》 取持流《トリモタル》 ゆはずのさわぎ みゆきふる 冬の林に【一云ゆふの林】 飄《ツムジ》かも いまきわたると おもふまで ききのかしこく【一云もろびとのみまどふまでに】 ひきはなつ 矢のしげけく (大雪の) 亂而《ミダレテ》きたれ【一云あられなすそちよ(271)りくれば】
大御身爾大刀取帶之大御手爾弓取持之御軍士乎安騰毛比賜齊流皷之音者雷之聲登聞麻低吹響流小角乃音母【一云笛乃音波】散見有虎可※[口+リ]吼登諸人之協流麻低爾【一云聞惑麻低】指擧有幡之靡者冬木成春去來者野毎著而有火之【一云冬木成春野燒火乃】風之共靡如久取持流弓波受乃驟三雪落冬乃林爾【一云由布乃林】飄可毛伊卷渡等念麻低聞之恐久【一云諸人見惑麻低尓】引放箭繁計久大雪乃亂而來禮【一云霰成曽知余里久禮婆】
 取帶之は美夫君志にトリハカシとよめるに從ふべし。佩ビ給ヒとなり○トトノフル以下三十句を以て五種の軍器を形容せり。即皷四句、角《クダ》六句、幡八句、弓八句、矢四句なり。而して幡と弓との形容は略相對せり○アトモヒは率ヰなり。トトノフルは宣長の云へる如く呼び集むるなり(玉の小琴の外、記傳三十卷五十六丁、詔詞解第一詔を見べし)○吹響流の流は或は衍字か。さらばフキナスと四言によむべし。クダノオトモとあるモの言いぶかし。前にツヅミノオトハとあり後にハタノナビキハとあ(272)ればこ々もクダノオトハとあるべきなり(はやく考にも『小角ノ音母とある母の辭前後の辭の例に違』といへり)。一本にはフエノオトハとあり。フエとクダとはいづれにてもよけれどモはハの誤とすべし○アタミタルを古義に寇而有《アタミタル》なり。寇ンダルと云むが如し。ミはカタミシテなど云ミに同じ。敵にはりあひいかれるをいふなり
といひ美夫君志に
  敵見は新撰字鏡に怏於高反、※[對/心]也、強也、心不服也、字良也牟、又阿太牟とありてアダミ、アダムと活く詞也。これを虎が敵を見たる意とするは非也。こは虎が心不v服して怒れるをいふ也
といへれどアタムは字鏡に『心に服せざるなり』とある如く心のうちにて恨むる義にて(字鏡に宇良也牟とある也は衍字なるべし)敵にはりあひ向ふ義にあらず。さればアタミタルはなほ舊説の如く敵を見たる意とすべし○オビユルマデニは一本にキキマドフマデとあり。第一節のとぢめにキクマデといひ第二節のとぢめに又キキマドフマデといはむは拙なれば底本に從ふべし。マデニは後世のマデなり。ニ(273)を添へたるに拘はるべからず○フユゴモリ以下四句一本にフユゴモリハルヌヤク火ノとあれど此一節は次の一節と對を成せるに次の節八句なれば此節も八句なるべし。一本の方によれば六句となればなほ底本に從ふべし○風ノムタは風ニツレテなり。靡如久を眞淵ナビケルゴトクとよめるを雅澄は舊訓に從ひてナビクガゴトクとよめり。此方調強くてこゝにかなへり○長等の山風附録一(信友全集第四の五五一頁)に
  幡の靡を春野燒く火にたとへたるは古事記序に此御軍のさまを賛へたる文に杖矛擧v威、猛士烟起、絳旗耀v兵、凶徒瓦解と作るに符《カナ》へり。絳旗は赤旗なり。赤旗兵士を耀して殊に勢を益して見えたるさまをいへるなり云々
といへり○取持流を眞淵トリモテルとよめるを雅澄は又舊訓によりてトリモタルとよめり。こはいづれにてもよし○ユバズノサワギの下にハを補ひてきくべし。宣長の説(記傳二十三卷八十七丁)に
  一にアヅサノ弓ノナリバズノオトスナリ、二にトリモテルユバズノサワギ云々キキノカシコクなどあるは射るに音高く鳴るがありしことゝ聞ゆ
(274)といひ雅澄は此説を敷衍して
  さていかなれば弭の鳴やうにつくれるぞといふに其音以て威すが料なりけり
といへり。右の説然るべし○飄は眞淵のツムジとよめるに從ふべし○イマキワタルのイは添辭なり。さてそのマキを雅澄の『木葉フキマクなどいふマキなり』といへるは非なり。木葉フキマクは風が木葉をふきまくにてイマキワタルのマクは風が己を卷くなり。混同すべからず。このマクは紅葉にソムルといひ浪にヨスル、カクルといふ類にて余の假に復己動詞又准自動詞と名づけたるものなり○キキノカシコクを考にミノカシコクに改めて『こゝは聞ことならず。見を誤れる事明かなれは改めつ』といひ略解にも『こゝは見る事なれば一本の見マドフマデニと有かた然るべし』といへれど古義に云へる如く上にユハズノサワギとあればキキノカシコクとありてよくかなへり○シゲケクはシゲカルヤウハとなり○亂而を古義には例の如くミダリテとよめり。なほミダレテとよむべし。キタレはキタルニなり。御方よりいはばユキタレといふべきを次に敵のさまを云はむためわざとキタレといひて巧に自他を轉じたるなり。一本のアラレナスソチヨリクレバは劣れり。大ユキノ(275)は大雪ノ如クなり
 
まつろはず たちむかひしも (露じもの) けなばけぬべく (ゆく鳥の) あらそふはしに【一云あさしもの消者消言爾うつせみとあらそふはしに】 わたらひの 齊〔左△〕宮《イツキノミヤ》ゆ かむ風に いふきまどはし 天雲《アマグモ》を 日の目もみせず とこやみに おほひたまひて 定めてし みづ穗の國を
不奉仕立向之毛露霜之消者消倍久去鳥乃相競端爾【一云朝霜之消者消言爾打蝉等安良蘇布波之爾】渡會乃齊宮從神風爾伊吹惑之天雲乎日之目毛不令見常闇爾覆賜而定之水穗之國乎
 マツロハズタチムカヒシモといへるは敵軍にて頑強ニ抵抗セシ者モ亦となり○ケナバケヌベクは終ニハ死ナバシヌベクなり。ハシニは俗語のトタンニなり○齊宮を舊訓にイツキノミヤとよめるを眞淵イハヒノミヤに改め雅澄も亦『イツキノミヤとよまば齋王のまします處とまぎるべし』といひてイハヒノミヤとよめり。そはいかにもあれこ々に齋宮とあるは書紀垂仁天皇紀に因興2齋宮于五十鈴川上1と(276)ある齋宮と同じく皇大神宮の御事なり○カムカゼニは神風ヲ以テなり。考、略解、古義、美夫君志共にイフキマドハシのイフキを息吹としたれどイは契沖の云へる如く添辭にてフキマドハシは敵を吹惑はすなり○アマグモは大ゾラなり。天の字流布本に大に誤れり○サダメテシは天照大御神の定め給ひしなり
 
かむながら ふとしき座而《マシテ》 (やすみしし) わがおほきみの 天の下 まをしたまへば よろづ代に しかしもあらむと【一云如是毛あらむと】 (ゆふ花の) さかゆる時に わがおほきみ みこの御門を【一云サス竹のミコノ御門を】 かむ宮に よそひまつりて つかはしし 御門の人も しろたへの 麻ごろもきて はにやすの 御門の原に (あかねさす) 日の盡《コトゴト》 (ししじもの) いはひふしつつ (ぬばたまの) ゆふべになれば 「大殿をふりさけみつつ」 (うづらなす) いはひもとほり さもらへど さもらひ不得者〔左△〕《カネテ》 (はるとりの) さまよひぬれば 嘆も いまだすぎぬに おもひも いまだつきねば (ことさへぐ) くだらの原ゆ かむはふり はふり(277)伊座而《イマセテ》 (あさもよし) きのへの宮を とこみやと 高之〔二字左△〕《サダメ》まつりて かむながら しづまりましぬ
神隨太敷座而八隅知之吾大王之天下申賜者萬代然之毛將有登【一云如是毛安良無等】木綿花乃榮時爾吾大王皇子之御門乎【一云刺竹皇子御門乎】神宮爾裝束奉而遣使御門之人毛白妙乃麻衣著埴安乃御門之原爾赤根刺日之盡鹿自物伊波此伏管烏玉能暮爾至者犬殿乎振放見乍鶉成伊波比廻雖侍候佐母良比不得者春鳥之佐麻欲此奴禮者嘆毛未過爾憶毛未盡著言左倣久百済之原從神葬葬伊座而朝毛吉木上宮乎常宮等高之奉而神隨安定座奴
 ミブホノ國ヲカムナガラフトシキ座而とつづけるなり。さてミヅホノクニヲ以下七句自他極めて不明なり。抑壬申の亂は紀元一三三二年なり。紀によれば此年天武位に即き給ひ十四年の後即一三四六年に崩御し給ひ皇后持統位に即き給ふ。而して高市皇子の太政大臣に任せられ給ひしは一三五〇年なり。さればミヅホノクニ以下七句に十八年二代間の事をたゝみこめたり。いたく辭を省きたるはやむを得(278)ざるなり。さて天ノ下マヲシタマヘバは高市皇子が大政を執り給ひし事なること疑ふべからず。次にヤスミシシワガオホキミノは天皇を指し奉れるにや皇子を指し奉れるにや。略解、古義、美夫君志は天皇の御事とせり。オホキミノを天皇の御事とせばオホキミノ天ノ下とつづけて天皇ノ天下ヲ高市皇子ガ治メタマヘバと見ざるべからず。而してかく見ればフトシキマシテといふ句のをさまる處なくなるなり。されば雅澄は座而の而を衍字としてフトシキイマスヤスミシシワガオホキミノ天ノ下とつづけて心得たり。案ずるに座而はなほマシテとよむべくヤスミシシワガオホキミは高市皇子とすべくミヅホノクニヲの下に天皇ガといふことを略したりと見るべし。はやく記傳三十二卷二十二丁にワガオホキミノアメノシタマヲシタマヘバの三句を引きて
  此オホキミは高市皇子尊を申せり
といひ註疏に
  ヤスミシシワガオホキミノは高市皇子をさす。さるは定マリシ天下ヲ天武天皇ノ神ナガラフトシリマシテソノ後吾大王高市皇子ノ天下ノ政ヲタスケ申シ玉(279)ヘバといふことなり。この吾大王を諸註天武の御事として次なる申賜者よりを高市の御事とおもへる故に古義の衍字の説もおこれるなり
といへり。なほ云はば瑞穗國ヲ天武ガ太シキマシ次イデ持統ガ太シキマシテ我高市皇子ガ太政大臣トシテ政ヲ行ヒタマヘバといへるなり○如是毛を考にはシカモ、古義にはカクシモ、美夫君志にはカクモとよめり。美夫君志によるべし。底本のシカシモといづれにてもあるべし。シカシモアラムトは然アリナムトなり○ユフバナノは枕辭なり。冠辭考にこは木綿もて造れる衣を實に咲榮ゆる花のごとくにいひなして皇子尊の御齢の盛なりしをいふ冠辭とせり。さて集中に春花ノ榮ル時とよめる如く實の花をもいふべけれどその比ユフもて作れる花をいとめづる事ありてよめるなるべし云々
といへり○サカユルトキニを古義、美夫君志に皇子の御事としてミサカリニ榮エ給フ時ニと釋き『皇子のさかえ給ふを木綿花にたとへて云々』と釋きたれどヨロヅヨニシカシモアラムトユフバナノサカユルトキニとつづけるシカシモアラムト(280)はカヤウニアラウト思ウテといふことにて世の人の思ふ心なればサカユルトキニも世の人の事とせざるべからず○ワガオホキミミコノミカドヲは一本にサスタケノミコノミカドヲとあり。底本の方まされり。御門は御殿なり。古義に『殯宮の御門なるべし』といへるは非なり(美夫君志同説)○カムミヤニヨソヒマツリテはカム宮ニヨソヒ改メマツリテなり。このニは上なるアマグモヲ日ノ目モミセズトコヤミニ〔右△〕オホヒタマヒテのニと同じく變ジテといふ意を含めり○ミカドノ人のミカドも御殿なり。考、古義、美夫君志に御門を守る舍人とせるは誤れり。薨じての後に御階の下を去りて御門を守る舍人等をツカハシシミカドノ人といふべけむや○芳樹いはく
  白色は元來神事の服なり。喪服は白色にあらず、みないはゆる墨染、鼠色、鈍色の衣にて論語の朱注に喪主v素、吉主v玄といへる漢國の制とはうらうへなり。天智天皇の頃などより漢ぶりの素服の制をまね上古よりの制にまじへられたれどなほ皇國に素服を用るは漢國の如く喪中の常服とするにはあらず、ただ御送葬の時などに用るのみ。されば素服は喪中の禮服、喪服は喪中の常服と知るべし(採要)
(281)といへり○ハニヤスノミカドノ原は考に『香久山の宮の御門の前なる野原をいへり』といへり。原は廣場なり○アカネサス以下十句のうち
  あかねさす、日のことごと、ししじもの、いはひふしつつ
  ぬばたまの、ゆふべになれば、△△△△△、△△△△△△△、うづらなす、いはひもとほり
と相對せるなればユフベニナレバの下にオホトノヲフリサケミツツの二句を挿入すべきにあらず。其上フリサケミツツといふ句下なるとかさなりツツといふ辭も上なるイハヒフシツツとかさなりておもしろからず。恐らくは此二句は下なる天ノゴトフリサケミツツの下に一云として書入れられたりしがまぎれてこゝには入れるなるべし○日ノコトゴトは終日といふ事、イハヒのイは添辭、モトホリは徘徊なり。不得者は舊訓にエネバとよめるを宣長は者〔右△〕を天の誤としてカネテとよみ改めたり○サマヨフは呻吟すること○ヌレバはヌルニ、次なるツキネバはツキヌニなる事宣長の云へる如し(記傳十一卷十丁に『ネバはヌニと云意なり。此例古歌(282)には多し』といひて例を擧げたり)○クダラノハラユはクダラノ原ヲ經テなり○高之の二字を宣長は定〔右△〕の字の誤としてサダメとよめり。之に從ふべし○さてカムハフリ以下自他頗まぎらはし。まづハフリは他動詞なればハフリイマシテとはいふべからず。されば伊座而はイマセテとよむべきか。犬※[奚+隹]隨筆上十六頁にも
  伊座而を諸本イマシテと訓り。此訓惡し。イマセテと訓べし。令v座テの意なればなり
といへり。又思ふに伊座而は奉而の誤にてハフリマツリテなるか。本集十三卷にも神葬葬奉者とあり。シヅマリマシヌもサダメマツリテと自他相かなはぬこ々ちすれどこはサダメマツリテの下にて主格のかはれるなり。即人が定めまつりて皇子がしづまりましぬるなり。テの前後にて主格のかはれる例は上にも天皇の瑞穗(ノ)國をふとしきまして皇子の天の下を申し給ふをカムナガラフトシキマシテ〔右△〕ヤスミシシワガオホキミノ天ノ下マヲシタマヘバといへり
 
しかれども わがおほきみの 萬代と おもほしめして つくらしし かぐ山の宮 萬代に すぎむともへや 天のごと ふりさけみ(283)つつ (たまだすき) かけてしぬばむ かしこかれども
雖然吾大王之萬代跡所念食而作良志之香來山之宮萬代爾過牟登念哉天之如振放見乍玉手次懸而將偲恐有騰文
 シカレドモはワガ大王ハシヅマリマシヌレドモなり○萬代トはヨロヅヨニマシマサムトテなり。古義に『萬代ニモ易ルべカラヌ宮トオモホシメシテの意なり』といへるはよく思ふにかなはず。さてこのヨロヅヨトは次なるヨロヅヨニと偶然相かさなれるにはあらでわざと重ねたるなり。即ヨロヅヨニマシマサムトオモホシテ宮ヲ作リ給ヒシ御身ハスギ給ヒシカド其宮ハ萬代ニウセジといへるなり○スギムトモへヤは古義に云へるごとくスギウセムヤハの意にてオモフは例の如く當時のものいひのま々に輕く添へたるなり○アメノゴトフリサケミツツ、上なるオホトノヲフリサケミツツは此二句の異傳なるべし
 
   短歌二首
200 (ひさかたの)あめしらしぬる君ゆゑに日月《ツキヒ》もしらにこひわたるかも
(284)久堅之天所知流君故爾日月毛不知戀渡鴨
 アメシラシヌルは前註に云へる如く薨ジ給ヒシといふこと○君ユヱニは宣長『君ナルモノヲといふ意なり』といへり。人ヅマユヱニのユヱニと同じ。ソコユヱニミコノ宮人ユクヘシラズモのユヱニとは異なり○シラニはシラズなり
 
201 はにやすの池の堤の隱沼《コモリヌ》のゆくへをしらに舍人はまどふ
埴安乃池之堤之隱沼乃去方乎不知舍人者迷惑
 考に
  こは堤にこもりて水の流れ行ぬを舍人の行方をしらぬ譬にいへればコモリヌとよむなり。今本カクレヌと訓たるはここにかなはず。後世あし蒋などの生しげりて水も見えぬをカクレヌといふと心得てこ々を訓つるはひがごとなり
といへり。即眞淵は池ノツツミノコモリヌを埴安ノ池ノ水ノ堤ニ圍マレタル部分とせるなり。雅澄は
  コモリヌとは草などの多く生茂りて隱れて水の流るゝ沼なり
といひてそのコモリヌと堤又は池との關係を説かず。案ずるに本集にコモリヌノ(285)シタユコフレバ、コモリヌノシタユコヒアマリなどあるを見ればコモリヌは雅澄のいへる如く草にうづもれたる沼なり。而して其コモリヌは池の一部にて堤に接したる處ならむ、其處の水はいづ方へぬくるにか知られねばユクヘヲシラニの序とせるなり○ユクヘは行クべキ方にて今いふ方向なり。上なるミコノ宮人ユクヘシラズモのユクヘに同じ。皇子におくれ奉りて今後いかがすべきと舍人の惑ふさまなり。特に舍人を擧げたるは作者も舍人の一人なればなり。さればトネリハは我々舍人ハと心得べし。人麿は初草壁皇子の舍人たりしが皇子の薨ぜし後、高市皇子の舍人たりしなり
 
   或書(ノ)反歌一首
202 なき澤のもりにみわすゑ雖祷祈《イノレドモ・コヒノメド》わがおほきみは高日しらしぬ
哭澤之神社爾三輪須惠雖祷祈我王者高日所知奴
    右一首類聚歌林曰。檜隈《ヒノクマ》(ノ)女王怨2泣澤(ノ)神社1之歌也。案2日本紀1曰。持統天皇十年丙申秋七月辛丑朔庚戌後(ノ)皇子(ノ)尊薨
 前の歌の反歌にあらず
(286) モリは樹木茂りて神のいます處をいふ。故に本にモリに神社と書けり○ミワは眞淵のいへる如く酒をかめる※[瓦+長]《ミカ》をいふ。神酒とするは非なり○雖祷祈を舊訓にイノレドモとよめるを宣長コヒノメドに改めたり。いづれにてもあるべし。イノリツレドといふ事なれば雅澄の如くノマメドモとはよむべからず〇三四の間にソノカヒナクテといふ辭を加へて聞くべし○タカ日シラスはアメシラスに同じ
 
   但馬皇女薨後穗積皇子冬日雪|落《フリシニ》遙望2御墓1悲傷流涕御作歌一首
203 ふる雪はあはになふりそよなばりのゐがひの岡の塞爲卷爾《セキトナラマクニ》
零雪者安幡爾勿落吉隱之猪養乃岡之塞爲卷爾
 アハの事略解(宣長の説)、橘南谿の東遊記後篇一の十五丁(古義に『越の國にアハといふものありて云云』といへるは東遊記の文をすこしかへたるなり)、件蒿蹊の閑田耕筆卷一、村田春海の織錦舍隨筆上卷『海量がものがたり』といふ條(百家説林續篇上五四八頁)
  蒿蹊は大菅中養父よりきくといひ春海は村田泰足よりきくといひて其事全く相同じ。泰足は中養父の門人なれば師よりきゝしにこそ。海量の説は別なり
(287) 北越雪譜、田中大秀の荏野冊子などに見えたり。荏野冊子は版本なくて見し人少かるべければ今は其説のみを擧げむに
  飛騨にて雪のおつるを阿保《アヲ》(○傍訓はもとのま々)といふ。アハは淡しき雪といふことなるべし。寒強くてふる時は雪いと細末にて水氣なく輕ければ、さる時は積ることも甚深し。山の險しき地につもりたるが水氣なければ凍固まる事なくてなだれ落つるを樹を殖て防ぐ事なり
と云へり。右の諸書の説によれば近江、美濃、飛騨、越後などにてナダレの一種をアワ又はアヲといふと見ゆ(諸書にアハと書けるは今の歌のアハに據りたるにて口にてアハと唱ふるにはあらじ。北越雪譜にはアワと書けり)。案ずるに今の歌のアハもし崩雪の事ならばアハニフルとはいふべからず。されば今の歌のアハと彼方言なるアワとは關係なし。考には本に安幡とあるを佐幡に改めて
  多くふることなかれと云言なり。今本佐を安を誤れり。今改む
といへり。案ずるにアハはサハの誤にあらでアハ即サハなるべし(古今集墨滅歌の中なるクモノアハダツ山ノフモトニのアハダツもサハニタツなるべし)○ヨナバ(288)リノヰガヒの岡は契沖の云へる如く地名にて但馬皇女の御墓のある處なり○塞爲卷爾を考にはセキナラマクニとよみ古義にはセキナサマクニとよめり。又守部は塞爲を寒有の誤としてサムカラマクニとよみて彼サレバトテ石ニフトンモキセラレズの類とせり(鐘の響第四十四段)。案ずるに古義の如くよまばヰガヒノヲカガといふにきこゆべく、さるまぎれを防ぐには少くともセキの下にヲの言を加へざるべからず。又考の如くよみては意通ぜず。恐らくは塞の下に跡などのありしがおちたるにてセキトナラマクニにて皇女の御墓に詣で給はむ妨とならむにとのたまへるなるべし○古義に但馬皇女の薨ぜしは和銅元年なれば此歌は下なる寧樂宮の下にあるべしと云へり。此歌の調を思へば穗積皇子此皇女に通じて罪を蒙り給ひしが高市皇子の薨ぜし後は公然と同棲し給ひしならむ
 
   弓削皇子薨時|置始《オキソメ》(ノ)東人《アヅマヒト》歌一首井短歌
204 (やすみしし) わがおほきみ (たかひかる) 日のみこ (久かたの) あまつ宮に かむながら 神といませば そこをしも あやにかしこ(289)み ひるはも 日のことごと よるはも 夜のことごと ふしゐなげけど あきたらぬかも
安見知之吾王高光日之皇子久堅乃天宮爾神隨神等座者其乎霜文爾恐美晝波毛日之盡夜羽毛夜之盡臥居雖嘆不足香裳
 アマツミヤニ云云を略解に『神となりて天路しろしめすといふ意なり』といひ古義に『薨《スギ》賜ひては神魂《ミタマ》高天原に上りまして天津宮におはします由にいへり』といへり。案ずるに上にアスカノマカミノ原ニヒサカタノアマツ御門ヲカシコクモサダメタマヒテとあると對照するにアマツミヤは御墓所なり○カシコミはカシコミテなり。古義にカシコサニと釋せるは非なり。又古義に
  カシコミは皇子のすぎたまへるを下ざまの者よりして悲み奉るはいともかたじけなくかしこき意にて云るなるべし
といへれど高貴の人に對し奉りては悲しき事にもうれはしき事にもカシコシといふべし。今もオソレ入ツタ事などいふにあらずや。雅澄の説はいりほがなり○フ(290)シヰナグケドは古義に云へる如くフシテ嘆キ居テナグケドなり
 
   反歌一首
205 おほきみは神にしませばあま雲のいほへが下〔左△〕《ウヘ》にかくりたまひぬ
王者神西座者天雲之五百重之下爾隱賜奴
 眞淵は下を上の誤とし宣長はもとの如くなるをよしとして
  下は裏にてウチと云に同じ。ウヘは表なれば違へり。表に隱る々と云ことやはあるべき
といへり。案ずるに俯して見るものには上を表とすべし。天空は上方にありて仰ぎ見るものなれば下を表とし上を裏とすべし。なほ床板と天井との表裏を異にするが如し。されば今の下〔右△〕はなほ眞淵の説の如く上の誤なるべし
 
   又短歌一首
206 ささなみのしがさざれなみしくしくにつねにと君が所念有《オモホセリ》ける
神樂波之志賀左射禮浪敷布爾常丹跡君之所念有計類
(291) 初二句は契沖の云へる如くシクシクニの序なり○シクシクニはタビタビといふ事にて雅澄の云へる如く所念有ケルの上へうつして心得べし。契沖及木村博士のツネニトにつづけて心得たるはシガサザレナミまでを序とせると矛盾せり。兩大人の説の如くばシクシクニまでを序とせざるべからず○所念有は宣長のオモホセリとよめるに從ふべし。四五の意はイツマデモ生キテヰタイト屡仰セラレタノニといへるなり。オモホセリケルは畢竟ノタマヒケルなり。契沖がオモホエタリとよみて
  常にましまして久しく仕へ奉らむと思ひし事のはかなかりけるよと東人がみづからの心を述たるなり
と釋し雅澄が訓釋ともに(シクシクニのかかり處を除きて)之によれるは誤なり○古義にいへる如く志賀をよめるは何ぞ所縁ありてのことなるべし○シガサザレナミは契沖『志賀の浦に立小浪なり』といへり。大膽に過ぎたるはぶき方にて彼ユフナミチドリの如くはなつかしからず。古義に『古人ならではあるまじきなり』とたゝへたるは適に余の感と反せり
 
(292)   柿本朝臣人麿妻死之後泣血哀慟作歌二首并短歌
207 (あまとぶや) かるの路は わぎもこが 里にしあれば ねもころに 見まくほしけど やまずゆかば 人目をおほみ まねくゆかば 人しりぬみ (さねかづら) 後もあはむと (大船の) おもひたのみて (玉蜻《タマカギル》) いは垣淵の こもりのみ こひつつあるに
天飛也輕路者吾妹兒之里爾思有者懃欲見騰不止行者人目乎多見眞根久往者人應知見狹根葛後毛將相等大船之思憑而玉蜻磐垣淵之隱耳戀管在爾
 古義に『カルノミチハは大和國高市郡輕といふ地の道路はなり』といへるはいかが。カルノミチは輕にかよふ路なり。今は輕ハ〔二字右△〕吾妹兒ノ里ニシアレバネモコロニ見マクホシケド其道ヲ〔三字右△〕ヤマズ行カバ人目ヲ多ミマネク往カバ人知リヌベミ云々といふべきをたゝめるなり。即ミチは下なる二つのユカバと相應ぜるなり○マネクユカバ人シリヌベミの例によらばヤマズユカバ人目ヲオホカルベミといふべけれ(293)ど本集十五卷にイモニアハズ安良婆須敝奈美、二十卷に和可例奈波イトモ須倍奈美などあれば必しも未來格を以て受けざりしなり。然らば未來格を以て受くるが新しく現在格を以て受くるが古きかといふに允恭天皇紀なる木梨(ノ)輕(ノ)皇子の御歌にイタ儺介麼《ナカバ》ヒト資利奴倍※[サンズイ+彌]《シリヌベミ》とあるを見れば(日本紀には介をカの假字に用ひたる事宣長の記傳、さき竹の辨などにいへる如し)又必しも然らざるなり。但後世はイデテイナバカギリナルベミ(伊勢物語)アケバ君ガ名タチヌベミ(古今集)色ニイデバ人シリヌベミ(同上)など必べミといふことゝなれり○マネクは眞淵『間無なり』といへるを宣長は『無間の意にはあらず繁クの意也』といへり。卷一ウラサブル心サマネシの處を見合すべし○ノチモは俗語のソノウチニなり○玉蜻イハガキブチノはコモリの序なり。玉蜻は舊訓にカゲロフノとよみ眞淵はカギロヒノとよめり。伴信友は玉蜻考(比古婆衣卷四【全集第四の九十一頁】)を作りてタマカギロとよむべしといひ雅澄も亦玉蜻考(萬葉集枕詞解下卷附録)を作りてタマカギルとよむべしといへり。雅澄の説に從ひてタマカギルとよむべくくはしくは各本書について見べし(美夫君志別記附録なる木村博士の鹿持雅澄玉蜻考補正も共に)
 
(294)わたる日の くれ去《ユク・ヌル》がごと てる月の 雲がくるごと (おきつ藻の) なびきし妹は (もみぢばの) すぎて伊去等《イニキト》 (たまづさの) 使のいへば
度日乃晩去之如照月乃雲隱如奥津藻之名延之妹者黄葉乃過伊去等玉梓之使乃言者
 ワタル日ノ以下四句は古義に云へる如くナビキシイモハの下にうつして心得べし○ワタル日のワタル、テル月のテルはただ輕く添へたるのみ。畢竟ワタル日、テル月といふは歌語なり○晩去を眞淵のクレヌルとよめるを雅澄は舊訓に從ひてクレユクとよめり。いづれにてもあるべし○ナビキシは女の形容なり○伊去等は考、古義にイニシトとよめれど美夫君志に云へる如くイニキトとよまでは語格かなはず○イヘバはイフニなり
 
(あづさ弓) おとにききて【一云おとのみききて】 いはむすべ せむすべしらに おとのみを ききてありえねば わがこふる 千重のひとへも 遣(295)悶流《ナグサムル》 こころも有《アリ》やと わぎもこが やまずいでみし 輕の市に わがたちきけば
梓弓馨爾聞而【一因聲耳聞而】將言爲便世武爲便不知爾聲耳乎聞而有不得者吾戀千重之一隔毛遣悶涜情毛有八等吾妹子之不止出見之輕市爾吾立聞者
 オトニキキテとオトノミキキテとは底本の方よろし。考、古義にオトノミキキテの方を採れるは非なり。次に至りてこそオトノミといふべけれ。オトは噂なり○遣悶流は古義にナグサムルとよめるに從ふべし。ココロはコトと心得べし○有八を舊訓にアレヤとよめるを古義にアリヤに改めたり。アレカシの意にはあらでアルカといふことなればアリヤとよむべし○ヤマズイデミシを契沖の『人丸のかよひくるやと出見るなるべし』といひ雅澄の『女の現世に人麻呂の通ひ來るやと出見しを云るにや』といへるはいかが。ただ市を出でて見しにこそ○キケバはキクニなり
 
(たまだすき) 畝火の山に なく鳥の 音《コヱ》もきこえず (たまぼこの) (296)道ゆく人も ひとりだに 似てしゆかねば すべをなみ 妹が名よびて 袖ぞふりつる
玉手次畝火乃山爾喧鳥之音母不所聞玉梓道行人毛獨谷似之不去者爲便乎無見妹之名喚而袖曾振鶴
    或本有d謂2之|名耳聞而有不得者《ナノミキキテアリエネバ》1、句u
 タマダスキ以下三句は音の序なること考にいへる如し○音は舊訓にオトとよめるを(本集には鶯、子規の聲をも於登といへる例あり)雅澄はコヱに改めたり。序よりかゝりてこそ鳥の聲なれ本文にては妹の聲なれば必コヱとよむべし○上なるタチキケバはコヱモキコエズにかゝれり。さればタマボコノの上に又といふ語を加へて聞べし○似テシユカネバのシは助辭なれば似テユカネバと云へるにて今の耳には異樣に聞ゆれど畢竟似タルガユカネバといふことなり○結二句は悲の極まりたるさまにて例の如くめでたし
 
   短歌二首
(297)208 秋山のもみぢをしげみ迷流《マドヒヌル》妹をもとめむやまぢしらずも【一云みちしらずして】
秋山之黄葉乎茂迷流妹乎將求山道不知母【一云路不知而】
 迷流を舊訓にマドヒヌルとよめるを考にマドハセルとよみ改めたり。いづれにても。結句は底本の方よし○うせて山に葬られたるを山に迷ひ入りしやうに云へるなり
 
209 もみぢばの落去《チリヌル》なべに(たまづさの)使をみれば相日《アヒシヒ》おもほゆ
黄葉之落去奈倍爾玉梓之使乎見者相日所念
 落去は考にチリヌルとよめるに從ふべし○ナベニはツケテ(契沖)又はツレテ(雅澄)と譯すべし○相日は考にアヘル日とよめれどなほ舊訓にアヒシ日とよめるに從ふべし〇一首の意は曾テ妻ノ許ヨリ迎ノ人ヲオコセシ時恰秋ニテ紅葉ノチリシコトアレバ今日喪ヲ告グル使ノ來レル時ヤハリ紅葉ノチルニツケテ彼日ガ思ヒ出デラルルとなり(考、古義)。反歌のうちに入れたれどこは長歌より前に作りしならむ○美夫君志に『大和より來たる使を見るにつけて』といひ長歌ツカヒノイヘバの(298)處に『使は大和より來たる使なり』といへれど人麿は此時藤原にありしにこそ
 
210 うつせみと おもひし時に【一云うつそみとおもひし】 取持而《タヅサヒテ》 わがふたりみし ※[ソウニョウ+多]出《ハシリデ》の 堤にたてる つきの木の こちごちのえの 春の葉の しげきがごとく おもへりし 妹にはあれど たのめりし 兒等にはあれど 世のなかを そむきしえねば かぎろひの もゆる荒野に しろたへの あまひれがくり (とりじもの) 朝たちまして (入日なす) かくりにしかば
打蝉等念之時爾【一云宇都曽臣等念之】取持而吾二人見之※[ソウニョウ+多]出之堤爾立有槻木之己知碁智乃枝之春葉之茂之如久念有之妹者雖有憑有之兒等爾者雖有世間乎背之不得者蜻火之燎流荒野爾白妙之天領巾隱鳥自物朝立伊麻之弖入日成隱去之鹿齒
 二首の長歌を兼ねて一の題辭を加へたれど初の長歌は忍びて通ひし妻、此長歌は公の妻の、子さへありしが死にしをかなしめる作なることはやく眞淵のいへる如(299)し。ウツセミトオモヒシトキニはコノ世ニアリシ時ニといふことにて明日香皇女殯宮之時歌にも見えたり○取持而を眞淵雅澄共にタヅサヘテとよめれどタヅサヘテは他動詞にて今は自動詞ならではかなはざればタヅサヒテとよむべし(木村博士同説)○※[ソウニョウ+多]出は舊訓にワシリデとよめるを眞淵はハシリデに改めたり。之に從ふべし。下に擧ぐる或本の歌にイデタチノとあるに當りたれば家ヨリ走リ出デ(又はイデタチ)タル處といふことゝおぼゆ(橘守部の山彦冊子卷三の三十六丁を參考すべし)○ツキノ木はケヤキなり。コチゴチノは兩方ノなり。山彦冊子卷三(三十八丁)に久老宣長の説(つきの落葉上卷三十四丁、古事記傳四十一卷廿一丁)を斥けて
  コチゴチはヲチコチとは元より別にて其言のさま上に物二つを先いひて其一をコチと指し今一をコチと指ていふ詞なり。今の心にてはふたつながらコチといはんは差別なくいかがなるやうなれど今の俗言にも兩方にある物を指ざしてコチラモヨイ此方モヨイ又コチラガオモシロイ否コチラガオモシロイなど常にいふと同じいひざまなり。さればかのヲチコチといふ語はうちつけにもよみ出せるを此コチゴチは一首の初にうち出せる例はあらずして必先上に物二(300)を云て其次にのみいへり云々
といへり○シゲキガゴトクはオモヘリシとタノメリシとにならび係れり。畢竟オモヒタノメリシといふべきを二つに割きたるなり○コラは妹に同し。對とするにつきて語を換へたるのみ○ヨノナカヲソムキシエネバは古義に云へる如く常ナラヌ世間ノコトワリヲ背キエザレバとなり○カギロヒノモユルはカゲロフノ立ツにて荒野の形容に云へるのみ○アマヒレを宣長は
  葬送の時の旗を領巾と云るにて字のまゝにヒレと訓べきか。領巾と旗と其さま似たればかくも云べし
といひ雅澄は歩障を見立てたるなりといへり。宣長の説の方穩なり
 
わぎもこが かたみにおける 若兒《ミドリコ》の こひなくごとに とりあたふ ものしなければ 鳥穗〔二字左△〕《ヲトコ》じもの わきばさみもち わぎもこと ふたりわがねし (まくらづく) つまやの内に ひるはも うらさびくらし よるはも いきづきあかし なげけども せむすべしらに (301)こふれども あふよしをなみ (おほとりの) はがひの山に 吾〔左△〕《ナガ》こふる 妹はいますと 人のいへば いは根さくみて なづみこし よけくもぞなき うつせみと おもひし妹が (たまかぎる) ほのかにだにも みえぬおもへば
吾妹子之形見爾置若兒乃乞泣毎取與物之無者鳥穗自物腋挾持吾妹子與二人吾宿之枕付嬬屋之内爾晝羽裳浦不樂晩之夜者裳氣衝明之嘆友世武爲便不知爾戀友相因乎無見大鳥羽易乃山爾吾戀流妹者伊座等人之云者石根左久見乎〔左△〕名積來之吉雲曾無寸打蝉跡念之妹之珠蜻髣髴谷裳不見思者
 若兒は舊訓にミドリゴとよめるを雅澄はワカキコに改めたり。或本の歌に緑兒之とあり本集十八卷にも彌騰里兒ノチコフガゴトクとあればなほ舊訓のまゝにてあるべし。コヒナクは乳を乞ひて啼くなり○アタフはいにしへ四段活にはたらきしなり。記傳十卷ミトアタハシツの註に『人に物をあたふと云はアタハスルのハス(302)を約たる例の言にて云々』といへるは非なり。ミトアタハシツのアタハスはアタフの敬語にてそのアタフと今の世にいふアタフともとは一なり○鳥穗自物は或本ノ歌に男自物とあれば眞淵が鳥穗を烏コの誤とせるに從ひてヲトコジモノとよむべし。さて續紀歴朝詔詞解二第六詔の解(本居宣長全集第五の二四五頁)に
  萬葉に鹿子ジモノ、鳥ジモノ、鴨ジモノ、馬ジモノ、犬ジモノ、鵜ジモノなどあるはいづれもソレガヤウニといふ意と聞え又同二にヲノコジモノ、三に雄ジモノ、十一にヲノコジモノなどあるは男のすまじきわざをする意にいへりと聞ゆるを、……こゝに稻掛大平が萬葉に就て考へたるはジモノはザマノなるべし。ザマとジモと音通へり。シシジモノは鹿状之《シシザマノ》にて此類みな同じ。ヲノコジモノは男ノ状トシテといふ意にて聞ゆ。といへり。此考さもあるべし
といへり。雅澄の
  ヲトコジモノは常に某ジモノといふとはいさゝか異りて男のすまじきわざをするをいふ意にいへり
といへるも右の宣長の説によれるなり。なほ考ふべし○子をわきばさむといふ事(303)は今はせぬことなれどいにしへはせし事なり。三卷にワキバサム子ノナク毎ニヲトコジモノオヒミウダキミとあり。古語拾遺にも天照大神育2吾勝尊1特甚鍾愛常懷2腋下1稱曰2腋子1云々とありて註に今俗號2稚子1謂2和可古1是其轉語とあり○ツマヤは寢屋なり。ウラサビはシヲレにてイキヅキは嘆息なり。シラニは知ラズなり○吾コフルは或本(ノ)歌に汝コフルとあり。眞淵雅澄は汝をよしとせり。ワガともいふまじきにあらねどなほナガの方まさるべし○イハネサクミテは岩根ヲ蹈ミトホリテなり。ナヅミコシはナヅミコシヲといふ意なり。ナヅミはナヤミなり。○ヨケクモゾナキのヨケクモはヨキ事モなり。此句は最終にまはして心得べし。モゾは宣長(玉緒七卷十五丁)のいへる如くただモとゾと重なれるのみ。雅澄の『モゾといふ辭にカヘリテといふ意を含めたり』といへるは非なり○結尾のウツセミトオモヒシ妹ガは冒頭のウツセミトオモヒシトキニと呼應せり
 
   短歌二首
211 こぞみてし秋のつくよは雖照《テラセドモ》あひみし妹はいや年ざかる
去年見而之秋乃月夜者雖照相見之妹者彌年放
(304) 三句は舊訓にテラセドモとよめるを考にテラセレドとよみ改めたれどなほ舊訓に依るべし○アヒ見シは共ニ見シなり。卷三なる
  鞆(ノ)浦の礒のむろの木みむごとに相見し妹は忘らえめやも
の相見之に同じ○イヤトシザカルのトシザカルは一の動詞なり。さて年ザカルはただ月日ガタツといふことなり。年と云へるに泥むべからず○考に
  妻の死たる明る年の秋よめる歌なり
といひ古義に
  歌意は去年ノ秋ニ月ハカハラズ照セルヲ別レシ妻ハ彌年|遠放《トホザカ》リヌルヨとなりさて此歌にて見ればこの長歌短歌は妻の死て一周忌によまれしなり。拾遺集の詞書に『妻にまかりおくれて又の年の秋月を見侍りて』とあるはさる事なり
といへれど去年の秋妻のなほ世にありし事こそ確なれ去年の秋より今年の秋までの間のいつ比にうせしにか知るべからず。否長歌の調を思へばうせし後程を經ての作にあらじ。但此歌は次の歌より後の作ならむ
 
212 ふすまぢ乎〔左△〕《ノ》ひきての山に妹をおきてやまぢをゆけば生跡《イケリト》もなし
(305)衾道乎引手乃山爾妹乎置而山徑往者生跡毛無
 フスマは地名、フスマヂは衾ヘ行ク道にて乎は之の誤ならむ。集中に之を乎と誤れる例少からず。ヒキデノ山は契沖の云へる如くハガヒノ山と同處なるべし○ヤマヂヲユケバのユケバは古義にいへる如くクレバなり。妻の墓ある山より家に歸り來るなり○生跡は宣長いはく
  イケルトと訓べし。此トはてにをはにあらす。ヤキダチノト心又ココロ利モナシなど云る利《ト》にてイケルトモナシは心のはたらきもなくほれて生る如くにもなきを云也。此言集中に多し。皆同じこと也。十九卷に伊家流等毛奈之とある流の字を前に若くは理の誤かと云るは僻事也けり云々
 又いはく(玉勝間十三卷五丁)
  本にイケリトモナシと訓るは誤なり。イケルトとはトはトゴコロ、ココロトなどの利にて生る利心もなく心のうつけたるよしなり。さればトはてにをはのトにはあらず。これによりてイケルトといへる也云々
といへり。案ずるに生ける利心といふ事あるべきにあらず。なほイケリトとよみ十(306)九卷なる伊家流等の流は誤字とすべし
 
   或本(ノ)歌曰
213 うつそみと おもひしときに 携手《タヅサハリ》 わがふたりみし いでたちの ももえつきの木 こちごちに 枝させるごと 春の葉の 茂如《シゲキガゴトク》 おもへりし 妹にはあれど たのめりし 妹にはあれど 世の中を そむきしえねば かぎろひの もゆるあら野に しろたへの あまひれがくり (鳥じもの) 朝たちいゆきて (入日なす) かくりにしかば 吾妹子が かたみにおける みどりこの こひなくごとに 取委《トリマカス》 ものしなければ をとこじもの わきばさみもち わぎもこと ふたりわがねし (まくらづく) つま屋の内に 且〔左△〕者《ヒルハ》 うらさびくらし よるは いきづきあかし なげけども せむすべしらに こふれども あふよしをなみ (大とりの) はがひの山に ながこふる 妹はいますと 人のいへば いはねさくみて なづみこし よけく(307)もぞなき うつそみと おもひし妹が 灰にてませば
宇都曾臣等念之時携手吾二見之出立百兄槻木虚知期知爾枝刺有如春葉茂如念有之妹庭雖在恃有之妹庭雖有世中背不得者香切火之燎流荒野爾白栲天領巾隱鳥自物朝立伊行而入日成隱西加婆吾妹子之形見爾置有緑兒之乞哭別取委物之無者男自物脅挿持吾妹子與二吾宿之枕附嬬屋内爾且者浦不怜晩之夜者息衝明之雖嘆爲便不知雖戀相縁無大鳥羽易山爾汝戀妹座等人云者石根割見而奈積來之好雲叙無宇都曾臣念之妹我灰而座者
 携手は略解の一訓の如くタヅサハリとよむべし○取委を舊訓の如くトリマカスとよむべくばマカスは四段活とすべきか。且者は日者の誤か○灰而座者はハヤク火葬シテ灰ニナリタレバとなり。考(眞淵全集二二二六頁)に
  此反歌は葬の明る年の秋まゐでてよめるなるをひとめぐりの秋までも骨を納めず捨おけりとせんかは
(308)といへるを美夫君志に辨じて
  こゝは火葬して埋めたるをやがて灰ニテ云々といへるなり。火葬して埋めたりとも既に火葬せしは灰ならずや
といへる共に非なり。眞淵以下一周年の作としたれどさる證いづくにかある。一周年の作としたるはコゾ見テシといふ歌を誤解したる爲にこそ
 
   短歌三首
214 こぞみてし秋のつくよはわたれどもあひみし妹はいや年ざかる
去年見而之秋月夜雖度相見之妹者益年離
 
215 衾路《フスマヂノ》引出の山に妹をおきてやまぢ念〔左△〕邇いけりともなし
衾路引出山妹置山路念邇生刀毛無
 念邇は往邇などの誤ならむ
 
216 家にきて吾〔左△〕《ツマ》屋をみれば玉どこの外向來《ホカニムキケリ》いもがこまくら
家來而吾屋乎見者玉床之外向來妹木枕
(309) 考に『吾はもし妻の字にや』といへり。げにイヘニキテワガ屋ヲミレバとはいふべからず。考の説の如く吾屋は妻屋の誤なるべし○タマドコを眞淵の靈床の義とせるを雅澄は『タマはほむる詞にて妹が座し床なればたゝへ云なり』といへり。此説によるべし○諸註此歌をコゾミテシ、フスマヂヲと同列なる反歌と見たれどイヘニキテツマヤヲミレバ云々といへる、久しく其家に住みたりけるが墓に詣でて歸り來てよめる調にあらず。他處にありけるが妻の死にし後に始めて其家に歸り來てよめる調にて長歌に
  わぎもこと、ふたりわがねし、まくらづく、つまやの内に、ひるはも、うらさびくらし、よるはも、いきづきあかし
などいへると調相かなはず。されば今の歌は右の長歌の反歌にあらず○外向來を考にホカニムキケリ(舊訓はホカニムキケル)とよめるを古義にはトニムカヒケリに改めたり。内外の外と見ては何の事とも聞えず。アラヌ方といふ意とみゆればなほもとの如くホカニムキケリとよむべし○コマクラは本の字の如く木枕なり
 
   吉備津(ノ)采女《ウネベ》死時柿本朝臣人麿作歌一首并短歌
(310)217 (秋山の) 下部留《シタブル》妹 (なよ竹の) とをよる子らは いかさまに おもひ居《マセ》か (たく紲《ナハ》の) ながき命を 露こそは あしたにおきて 夕者《ユフベニハ》 消《キユ》といへ 霧こそは ゆふべにたちて 明者《アシタハ》 失《ウス》といへ (あづさ弓) おときくわれも 髣髴《オホニ》みし ことくやしきを (しきたへの) 手枕まきて (つるぎだち) 身にそへねけむ (若草の) そのつまの子は さぶしみか おもひてぬらむ クヤシミカ オモヒコフラム 時ならず すぎにし子ら我〔左△〕《カ》 朝露の如也《ゴト》 夕霧の如也《ゴト》
秋山下部留妹奈用竹乃騰遠依子等者何方爾念居可栲紲之長命乎露己曾婆朝爾置而夕者消等言霧己曾婆夕立而明者失等言梓弓音聞吾母髣髴見之事悔敷乎布栲乃手枕纏而劔刀身二副寐價牟若草其嬬子者不怜彌可念而寐良武時不在過去子等我朝露乃如也夕霧乃如也
 題辭の吉備津釆女を宣長は反歌によりて志我津釆女の誤とせり。志我津(ノ)釆女は近江國志賀の郡領の女なるべし○下部留を舊訓にシタベルとよめるを紀傳三十四(311)卷三十三丁にシタブルとよみて『部留をベルとよむは非なり』といへり。下二段活の動詞なり。さて其義はニホフといふことなり○トヲヨルはナビクといふ意にて女の姿の形容なり○第六句略解にオモヒヲレカとよめるを雅澄はオモヒマセカに改めたり。オモヒヲルといふべき處にあらず、ただオモフといふべき處なれば雅澄の訓に從ふべし○第七句舊訓にタクナハノとよめるを契沖タクヅヌノに改めたり。紲《セツ》はツナともナハとも訓むべき上にタクヅヌは白の枕辭、タクナハは長の枕辭につかひなれたれば舊訓のまゝにタクナハとよむべし○ナガキイノチヲは長キ命ナルニなり。さてイノチヲといひさして之を受くる辭なし。景樹は『ナガキ命ヲの次に一二句おちたる也』といへり○夕者、明者を舊訓にユフベニハ、アシタニハとよめれどニの言耳だちて聞ゆれば古義の如くユフベハ、アシタハとよむべし○消と失とを舊訓にキエヌ、ウセヌとよめるを略解にキユ、ウスとよめり○イカサマニオモヒマセカ以下十二句の調を思ふにおそらくは自然の死にあらじ○オトキクはウハサニキクなり○髣髴は眞淵のオホニとよめるに從ふべし○オホニミシコトクヤシキヲは契沖の
(312)  打きくには、見ぬ人にはかゝる事を聞ても悲すくなき習なれば見たる事ありしを悔ゆるやうに聞ゆれど第二の短歌に合せて見れば能見おかざりしが悔しき意なり
といへる如し○ソノツマノ子は釆女の夫をいへるなり。クヤシミカオモヒコフラムは底本になきを契沖の一本より補ひ入れたるなり。サブシミ、クヤシミはサブシガリ、クヤシガリなり○時ナラズスギニシを略解に『上の長キ命と云にむかへてゆくりなく死しといふ也』といひ古義に『若く盛にてしぬべき時にあらずとの意なり』といへれどこは天壽ノ終ル時ニアラズシテといへるなり。此一句によりても釆女の死の自殺なりしこと知らる。三卷長屋王賜死之後倉橋部女王作歌にオホアラキノ時ニハアラネド雲ガクリマスとあり丈部龍麿自經死之時大伴宿禰三中作歌にウツセミノヲシキコノ世ヲツユジモノオキテイニケム時ナラズシテとあると參照すべし○其次の句舊來スギニシ子ラガとよみたれど子ラガといはば下に之を受くる辭なかるべからず。古義に我〔右△〕を誤字として子ラカと清みて訓めるは卓見なり。カナの意に近きカなり○アサツユノゴト、ユフギリノゴトは上なるツユコソハキ(313)リコソハと照應せり○結末五七七七となれり。變格なり○宣長いはく
  如也はゴトと訓べし。也の字は焉の字などの如く只添て書るのみ也。ゴトヤと訓てはヤ文字とゝのはず
といへり。木村博士の云へる如く嘆息のヤと見れば語格はとゝのはざることなけれど訓はなほ宣長の説によるべし
 
   短歌二首
218 ささなみのしがつの子らが【一云しがつの子が】まかり道〔左△〕之《ニシ》かはせの道をみればさぶしも
樂浪之志我津子等何【一云志我津之我】罷道之川瀬道見者不怜毛
 三句を考に續紀第五十一詔にミマシ大臣ノ罷道モウシロ輕ク心モオダヒニ念テ平ク幸ク罷トホラスベシ云々とあるを引きてマカリヂノとよみて『葬送る道をいふ』と云へり。宣長は道は邇の誤にてマカリニシなるべしと云へり。續紀第五十八詔に罷マサム道ハ平幸クツツム事ナクウシロモ輕ク安ク通ラセ云々とあり拾遺集(314)に出でたるもマカリニシとあれば宣長の説に從ふべし○カハセノ道は川瀬を渡りてゆく道なり。契沖の『身を投げむとて行しを云なるべし』といへるは非なり。釆女は身を投げしにもあるべし。カハセノミチは送葬の道なり○サブシはおもしろからざるなり
 
219 (天數《ソラカゾフ》)おほつの子が相日《アヒシヒニ》おほにみしかば今ぞくやしき
天數凡津子之相日於保爾見敷者今叙悔
 初句は眞淵のソラカゾフとよめるに從ふべし。空ニ數フのニを省けるにて凡《オホ》にかかれる枕辭なり。古義に天數を誤字としてササナミノとよめるは非なり
  古義に『ソラと云言は古は蒼天をのみ云ことにて暗推に物することをソラ某と云しことは一もあることなし』といへり。時代はすこしおくれたれど貫之集第一にカラゴロモウツ聲キケバ月キヨミマダネヌ人ヲソラニシルカナとよめり
 ○相日は考にアヒシ日ニとよめるに從ふべし
 
   讃岐|狹岑《サミネ》(ノ)島(ニテ)視2石中(ノ)死人1柿本朝臣人麿作歌一首并短歌
220 (たまもよし) さぬきの國は 國からか 見れどもあかぬ 神《カム・カミ》からか (315)ここだたふとき あめつち 日月と共に たりゆかむ 神のみおもと 次〔左△〕來《アフギクル》 中のみなとゆ 船うけて わがこぎくれば ときつ風 雲居にふくに おきみれば しき浪たち へ見れば しら浪さわぐ
玉藻吉讃岐國者國柄加雖見不飽神柄加幾許貴寸天地日月與共滿將行神乃御面跡次來中乃水門從船浮而吾榜來者時風雲居爾吹爾奥見者跡位浪立邊見者白浪散動
 狹岑島は代匠記に『那珂郡にあり。所の者サミジマと云』といへり。今の鹽飽《シワク》群島のうち與島の屬島なる沙彌島なり。反歌に佐美乃山とあるによりて契沖、眞淵共に狹岑島をサミノシマとよめれどなほ舊訓の如くサミネノシマとよむべし。サミネの、ネは峯にてツクバをツクバネといふに齊し○石中を契沖は『石の中に交るなり』といひ眞淵は『石中を窟の事といふはかたくなし。ただ磯邊をいふとすべし』といへり。又拾遺集二十には讃岐ノサミネノ島ニシテ石屋ノ中ニテナクナリタル人ヲ見テとあり。案ずるに石中は岩の間ならむ
(316) クニカラカは國ノスグレタル故ニカとなり。カラは古義に云へる如く故なり(考にナガラの略とせるは非なり)。神カラカの神は國をさして直に神といへるなり。我邦上古の思想にては山川國土をも神としたりし事古書を見て知るべし。古事記に此國を男神として飯依比古といへり。神柄は本集十七卷に可牟加良也ソコバタフトキ又ミレドモアカズ加武賀良ナラシなどあればカムカラともよむべく又續紀元正天皇の御歌に可未可良斯タフトクアルラシとあればカミカラともよむべし。但カムカラとよむともカラのカは雅澄のいへる如く清みて唱ふべし○ココダは俗にタント、タイサウなどいふに近し。多き方の不定數なり○タリユクは段々立派ニナルといふこと○古事記に今の四國の事を伊豫の二名(ノ)島といひ此島に四面ありといひて讃岐を其一面とせり。眞淵は『神ノミオモは其事を云へり』といへり。案ずるにこゝは二名(ノ)島四面の事と關係あるにあらず。即讃岐全國をカミノミオモといへるにあらで那珂の港を神(即讃岐國)の面といへるなり。而して那珂の港を讃岐の面と云へるは當時此地、一國の咽喉たりしによりてなり○次來を舊訓にツギテクルとよめるを雅澄は上に云の字を脱せるなりとしてイヒツゲルとよめり。宜しく仰(317)來の誤としてアフギクルとよむべし○ナカノミナトユのユを古義に『ニといはむが如し』といへれどこはただのユ即ヨリなり。那珂の港より沖の方へこぎ來るなり○トキツカゼは考に『海潮の滿來る時は必風の吹おこるをトキツ風とはいへり』と云へり○シキナミは重浪なり
 
(いさなとり) 海をかしこみ ゆく船の 梶ひきをりて をちこちの 島はおほけど (なぐはし) 狹岑の島の ありそ面〔左△〕《ミ》に いほりてみれば
鯨魚取海乎恐行船乃梶引折而彼此之島者雖多名細之狹岑之島乃荒礒面爾廬作而見者
 ユクフネは人麻呂の乘れる船なり○カヂヒキヲリテは強く艪を押すことゝおぼゆ。強く押すことゝ見ざればウミヲカシコミの一句いたづらなり○ナグハシはヨキ方ニ名ダカシといふ意なれどこゝは枕辭として用ひたり○アリソ面の面を契沖が囘の誤とせるを木村博士は誤字にあらずとして『アリソノオモのオを略ける(318)にて磯のおもてをいふ』といへれどなほ囘《ミ》の誤字とすべし。さてそのミは輕く添へたるのみ○イサナトリ以下十句の意は海ノ荒模樣ナルニ強ク船ヲ漕ギテ狹岑ノ島ニ漕ギ寄セテ上陸シテ假庵ヲ作リテソノ假庵ニヤドリテ打見レバといへるなり。景樹も『こは俄なる海のあれに會て思はぬ佐美の島に榜よせて庵さしてをるほど浪にあげられたる屍を見いでていたみよめりし也』といへり
 
浪のとの しげき濱邊《ハマビ》を (しきたへの) 枕|爾爲而《ニシテ》 あらとこに 自〔左△〕伏《コイフス》君が 家しらば ゆきてもつげむ 妻しらば 來毛《キモ》問はましを (玉梓の) 道だにしらず おほほしく まちかこふらむ はしき妻らは
浪音乃茂濱邊乎敷妙乃枕爾爲而荒床自伏君家知者往而毛將告妻知者來毛問益乎玉桙之道太爾不知鬱悒久待加戀良武愛伎妻等者
 枕爾爲而は從來マクラニナシテとよめれどマクラニシテとよむべし。ナスはツクリナスにてスといふとは別なればなり○アラトコはアララカナル床なり。古義に(319)『荒き海邊を寢床になしたるなり』といへるは漠然たり○自伏は臥伏の誤としてコイフスとよむべし。はやく死にたるをただ臥したるやうにいへるなり。さて上なるイホリテミレバを受けてはコイフス人アリと云ひをさめ、さて君ガ云々と云ひ起すべきなれど長歌には文章とちがひて一の事を云ひ収めずして次に移る句法あるなり○來毛を舊訓にキテモとよめるを略解にキモに改めたり○イヘシラバは家ヲシラバにてツマシラバは嬬ガシラバなり。辭ノ相似て格の相異なるが人の意表に出でておもしろきなり○オホホシクはウツウツトなり。ハシキは愛スベキなり
 
   反歌二首
221 つまもあらば採而《ツミテ》たげまし佐美乃山《サミノヤマ》ぬのへのうはぎすぎにけらずや
嬬毛有者採而多宜麻之佐美乃山野上乃宇波疑過去計良受也
 ツマモアラバは妻ダニココニアラバなり○採而は考にツミテとよめるに從ふべし○タゲマシは食ハセマシなり
 上宮聖コ法王帝説にイカナクニ多義弖《タゲテ》マシモノトミノヰノミヅとあるは命助(320)カラヌ程ナラバ飲ミタシト乞ヒシ水ヲ飲マセマシヲといへるにて今の類なり
 又食ふことをもタグといふ
  皇極紀童謡のコメダニモ多礙底トホラセカモシシノヲヂのタゲテを眞淵はやく『給《タ》ベテなり』といへり。雄略紀十四年及推古紀十八年に共食者とありてアヒタゲビトとよめり(美夫君志卷二別記十三頁にこのアヒタゲビトをウタゲビトの略言とせるは非なり。アヒタゲビトは相伴役なり)
 ○佐美乃山を舊訓にサミノヤマとよめるを雅澄は題辭に狹岑島とあるによりて乃を誤字としてサミネヤマとよめれどなほ字のまゝにサミノヤマとよむべし○ヌノヘは野邊なり。ウハギは嫁菜なり○スギニケラズヤは摘ミテ食料トスベキ時ガ過ギタデハナイカといふ意なり。玉の緒七卷二十丁に
  此ヤはヤハの意にてケラズヤハ、ケリといふ意におつるなり
といへり○海岸の屍をしばらく餓死したるものと斷定し、その傍によめ菜の多く生ひて盛過ぎたるを見てモシ妻ヲ具シタラバ此ヨメ菜ヲツミテクハスベクサラバ餓死ニモ及バジヲといへるなり。前註殊に代匠記、略解、美夫君志の説は誤れり
 
(321)222 おきつ波きよるありそを(しきたへの)枕とまきてなせる君かも
奥波來依荒磯乎色妙乃枕等卷而奈世流君香聞
 ナセルはナスのはたらけるにてそのナスは雅澄のいへる如くヌ(寢)の敬語なり。因にいふ雅澄が埃嚢抄なるヤスクシナスナ、君ヲシナシテのナスナ、ナシテを寢タマハスナ、寢タマハシテと釋せるは非なり。余の説は五卷思2子等1歌のヤスイシナサヌの處にていふべし
 
   柿本朝臣人麿在2石見國1臨v死時自傷作歌一首
223 かも山の磐根しまけるわれをかも不知等《シラニト》いもがまちつつあらむ
鴨山之磐根之卷有吾乎鴨不知等妹之待乍將有
 カモ山は所在今明ならず。眞淵は『常に葬する山ならむ』といへれど、もしカモ山ノイハネシマケルが鴨山に葬《カク》さるゝ意ならば今はまだ死にだにせざるなればイハネシマカムとこそいふべけれ。おそらくは旅にて病に罹りて鴨山の山べに假庵を作りて臥したりけむをカモ山ノイハネシマケルといへるなるべし。マケルハ枕ニセ(322)ルなり○ワレヲカモのカモは結句の下にうつして心得べし(古義)○不知等は宣長シラニトとよめり。古義に
  凡そシラニといふ言の下にあるトは皆助辭にて語勢を助けたるのみにて意には關らねば捨て聞くべし云々
といへり。こゝは知ラズシテと譯すべし
 
   柿本朝臣人麿死時妻|依羅《ヨサミ》(ノ)娘子《イラツメ》作歌二首
224 けふけふとわがまつ君は石かはの貝に【一云谷に】交りてありといはずやも
且今日且今日吾待君者石水貝爾【一云谷爾】交而有登不言八方
 石川は鴨山の下を流るゝ川とおぼゆ○イシカハノ貝ニマジリテは旅さきにてうせぬとも從者もあるべく都へしらせ來れる程なれば厚く葬《カク》ししなるべきを葬す人もなくて屍をそのまゝにしたるやうにわざといへるなり。久老(槻の落葉下卷二十七十)は『火葬せしその骨をいへる言と聞ゆ』といへれど、もし火葬せば遺骨はしらせの使携へ來るべし○結句はアリト人ノ告グルヨといふ意にてモは助辭なり。古義にヤモをヤハと釋したるは非なり○ケフケフトを且今日且今日と書ける例は(323)九卷に
  天のかはきりたちわたり且今日且今日わがまつ君が船出すらしも
 又十卷に
  いでていなばあまとぶ鴈のなきぬべみ且今日且今日《ケフケフト》いふにとしぞへにける
とあり
 
225 直相者相不勝《タダノアヒハアヒガツマシジ》いしかはに雲たちわたれみつつしぬばむ
直相者相不勝石川爾雲立渡禮見乍將偲
 初句舊訓にタダニアハバとありて契沖、眞淵、雅澄等共に之に從ひたれど直接ニ逢フナラバといふ意ならで直接ニ逢フ事ハといふ意なれば宣長に從ひてタダノアヒハとよむべし。タダニアフハともよむべけれどしかよまば二句の相、不用となるべし〇二句は舊訓にアヒモカネテムとよめるを考にアヒカテマシヲと改めよめり。宣長は考の訓を評して『マシヲの辭こゝに叶はず』といへり。げにマシは打合なくては云はぬ辭なり。卷末なる橋本氏の説に從ひてアヒガツマシジと訓むべし。アヒガツマシジは得逢ハジといふ事
 
(324)   丹比《タヂヒ》(ノ)眞人《マヒト》擬2柿本朝臣人麿之意1報〔左△〕歌一首
226 あらなみに縁來《ヨリクル》玉を枕爾置〔左△〕《マクラニシ》われ此間有跡《ココニアリト》たれか將告《ツゲナム》
荒浪爾線來玉乎枕爾置吾此間有跡誰將告
 題辭に報歌とあるによりて代匠記、古義には依羅娘子に和したる歌としたれどよく思ふに答歌の調にあらず。ただ人麿の心になりてよめるなり。されば報字は衍字又は誤字とすべし。はやく考にも
  今本こゝに報歌とあれど報と云べき所に非ず。後人さかしらに加へし言と見ゆ
と云へり○縁來を舊訓にヨリクルとよめるを考にヨセクルに改め古義之に從へり。アラナミノヨセクル玉とはいふべくアラナミニヨセクル玉とはいふべからず。されば舊訓に從ふべし。玉は美しき小石なり○枕爾置は考に置を卷の誤としてマクラニマキとよみ略解古義には字のまゝにてマクラニオキとよめり。オキといふこと穩ならず。舊訓にマクラニテとよめれば枕爾而の誤にやとも思へどトシテをニテといへるは此集の時代に例なき事なれば(後撰集には既《ハヤ》くヘニケル年ヲシルベニテ、イヒシバカリヲ命ニテなどよめり)枕爾爲の誤とすべきか。上なる人麿の長(325)歌にもナミノトノシゲキハマビヲシキタヘノ枕ニシテとよめり。とまれかくまれ置とあるは次の歌の三句に君乎置而とあるよりうつりしにこそ○此間有跡は舊訓にココナリトよめるを古義にココニアリトに改めたる、よろし○將告は舊訓にツゲナムとよめり。雅澄は一本の舊訓によりてツゲケムとよめれど前に云へる如く依羅娘子に和したる歌にあらねばツゲケムとよむべき由なし○此歌にアラ浪ニヨリクル玉ヲといへると娘子の歌に石川ノ貝ニマジリテといへるとによりて人麿の死にしは海に近き處なるを知るべし
 
   或本(ノ)歌曰
227 (あまざかる)ひなの荒野に君をおきておもひつつあればいけりともなし
天離夷之荒野爾君乎置而念乍有者生刀毛無
 左註に右一首歌作者未v詳但古本以2此歌1載2於此次1也とあり。考に
  上の一首は人麿が意になぞらへ此一首は其妻依羅娘子が意にあてゝ同じ丹比(326)眞人のよみたることしるし
といへり。此説よろし。丹比眞人は誰にか知られねど後の人とおぼゆ。雅澄が時人の中に求めたるは前の歌の題辭中の報の字に誤られたるなり○此歌は前に出でたる人麿のフスマヂノヒキデノ山ニ妹ヲオキテ山路ヲユケバイケリトモナシの格を學べるなり
 
   寧樂《ナラ》(ノ)宮
    和銅四年歳次辛亥河邊(ノ)宮人姫島(ノ)松原(ニテ)見2孃子屍1悲歎作歌二首
228 妹が名は千代にながれむ姫島のこまつがうれにこけむすまでに
妹之名者千代爾將流姫島之子松之末爾蘿生萬代爾
 ナガレムは前註に云へる如くツタハラムなり。古人はおしなべて深く名の後世に傳はらむことを希ひきとおぼゆ。これによりて死者を慰めて身ハウセヌトモ名ハ千代ニ傳ハラムと云へるなるべし。考に『今は姫島の松もて言擧すれば千代に名をいひ傳へゆかんぞとなり』といへれどいかでかうけばりてワガ歌ニヨリテ汝ノ名(327)ハ後世ニ傳ハラムなど云はむ○第三句以下は第二句の千代爾を詳言せるなり
 
229 難波がた鹽干なありそねしづみにし妹がすがたを見まくくるしも
難波方鹽干勿有曾禰沈之妹之光儀乎見卷苦流思母
 ミマクはミムを延べたるにて勿論將來を云へるなれど今はしほ干に際して孃子の屍を見しなり○シヅミニシは身ヲ投ゲシなり。屍の水底に沈めることゝせばシヅミタルといはざるべからず○如何なる戀にか知らねど美しき孃子が身を風光明媚なる姫島の海に投げしはげに少くとも其里の傳説となりて千代に流るべし
 
   靈龜元年歳次乙卯秋九月志貴(ノ)親王薨時作歌一首并短歌、
230 梓弓 手にとりもちて ますらをの さつ矢たばさみ たちむかふ たかまと山に 春野やく 野火とみるまで もゆる火を いかにと問へば (玉ぼこの) 道くる人の なく涙 ひさめにふれば しろたへの ころもひづちて たちとまり われにかたらく なにしかも もとな言《イフ》 きけば ねのみしなかゆ かたれば 心ぞいたき すめ(328)ろぎの 神の御子の いでましの たびの光ぞ ここだてりたる
梓弓手取持而大夫之得物矢手挿立向高圓山爾春野燒野火登見左右燎火乎何如間者玉桙之道來人乃泣涙※[雨/沛]霖爾落者白妙之衣※[泥/土]漬而立留吾爾語久何鴨本名言聞者泣耳師所哭語者心曾痛天皇之神之御子之御駕之手火之光曾幾許照而有
 志貴親王の薨は續紀に靈龜二年八月とありてこゝの題辭と合はねば契沖は志貴親王とあるは續紀に薨去の年月の見えざる磯城《シキ》皇子の誤ならむといひ(雅澄は之によれり)眞淵は題辭の元年九月を二年八月の誤とし木村博士は
  本集に記せるは其實にて紀は故ありて延期したる薨奏の年月を記したるなり
といひ又眞淵が親王を皇子の誤としたるを辨じて親王にて可なりと云へり○題辭に并短歌とあれど此歌の次に擧げたる短歌二首は眞淵の云へる如く今の歌の反歌にはあらで別の歌なり
 初五句は序なり(契沖)。一卷にもマスラヲガサツ矢タバサミタチムカヒ射ルマトガ(329)タハ見ルニサヤケシといふ歌あり。サツ矢はサチ矢にてそのサチは狩獵の獲物なり。高圓《タカマト》山は奈良市の東南にあり
  因にいふ。古義に野火を『野間の畑に物の種をまきつけむ料』といへるは燒畑をつくらむ爲といふ意なるべけれどいひざままぎらはし。又若菜の萠えむを促さむ爲に野を燒くことも古くよりありし事なり。拾遺集にもアスカラハ若菜ツマムトカタ岡ノアシタノ原ハケフゾヤクメルとあり
 ○ヒサメに二義あり。雹と大雨となり。こゝは大雨の方なり。大雨の方のヒサメはヒタメの轉じたるなり。タ行のサ行にかはれる例多し。ヒサメニのニはタヘノホニヨルノ霜フリなどのニと同じくトに通ふニなり。當時既にトとも云ひき。たとへば右の二句の對に岩床卜〔右△〕川ノヒコホリといへり。思ふにニは古くトは新しく當時新舊並び行はれしなり。否對句に辭を換ふる必要より古きをも捨てざりしなり。こはニとトとの上に限らず○ミチクル人ノはタチトマリワレニカタラクに續きナクナミダ以下四句は挿句にてフレバはヒヅチテにかゝれり○ナニシカモ以下道くる人の語辭なり。考にワレニカタラクの下に『其かたれる言はこゝに略て下にてしら(330)せたり』といひ古義に『カタラクよりしばらく句を隔て下のスメロギノ云々といふへつづけて意得べし』といひ又
  ナニシカモより以下六句は自己の上を悔て云るなり。何シニ物ノ分別モナク問ツルゾ、ソノ由縁ヲ聞バイヨイヨ悲シクテネニノミ泣カルルとの意なり
といへるは共に非なり。美夫君志には
  ナニシカモ以下六句はかの道來人の答へ言へる詞なり
といへり。六句のみならず終まで道くる人の答へ言へる辭なり○モトナを契沖は『ヨシナの古語なり』といひ宣長は
  本名《モトナ》と云は何れも皆今世の俗言にメツタニと云と同じ。メツタニは猥ニと云と同意にてミダリ、メツタ、モトナ皆通言にて元同言也
といへり。案ずるにモトナは俗語のアイニクに當れる處多し○本名言を眞淵はモトナイヒツルとよみ千蔭、雅澄、木村博士はモトナイヘルとよめり。モトナイフとよむべし。道くる人の作者に答へて何ゾ聞キタクモ無キ事をイフといへるなり。此處七言なるべきを五言にいひ次なるキケバ、カタレバは五言なるべきを三言、四言に(331)いへり。かく五七の數に滿たざる短句を續けたる爲|鳴咽《ヲエツ》して語る能はざる状見るが如くおぼゆるなり。木村博士も
  こは胸せまりてのどやかにいひかぬる也。すべて哀傷の歌には句つづきの切れ切れなる又言の足らぬものあり。これ自然の勢ひのしからしむるなるべし
といへり○キケバは君ノ問フヲ聞ケバといふ意、美夫君志に
  かの高圓山にもゆる火の故由をきけばわれも音をのみぞなかるゝとなり
といへるは非なり○スメロギノ神ノ御子ノとあるを眞淵『神之は上へつけて意得よ』といへり。なほ句のまゝに下へつけて心得べし○イデマシを古義に『御葬送のよしをあらはにそれとは申さずて常のいでましのやうにいひたるなり』といひ美夫君志には『親王の御葬送をいへるなり』といへり。特に御葬を隱していへるにあらず。木村博士の説に從ふべし○手火《タビ》は契沖神代紀に秉炬とありて訓註に秉炬此云2多妣1とあるを引き木村博士は『今ツイマツ又タイマツなどいふものなり』といへり。此等の説の如し○ココダの上にカクハといふことを加へテリタルの下にトカタリヌといふことを添へて心得べし
 
(332)   短歌二首
231 たかまとの野べの秋はぎいたづらにさきかちるらむみる人なしに
高圓之野邊秋芽子徒開香將散見人無爾
 考に『此皇子の宮こゝにありし故にかくよめり』といへり○イタヅラニは主としてサキにかゝれるなり。古義に『サキチルはただちることなり』といへるは處にこそよれ○チルラムといへるを思へば高圓(ノ)野ならぬ他處にてよみしなり
 
232 みかさ山野べゆく道はこきだくも繁あれたるか久にあらなくに
御笠山野邊往道者己伎太雲繁荒有可久爾有勿國
    右歌笠(ノ)朝臣金村歌集出
 繁を舊訓にシゲクとよめるを考にシジニとよめり。又考に
  コキダクは事の多きことなり。然れば繁の言は事重れり
といへるに對して美夫君志は本集卷十七にココダクモシゲキコヒカモとあるを引きて『重言にあらず』といへり。さてこゝはいかによむべきかと云ふにシゲク、シジ(333)ニなどよめばアレタルの形容となるが故に動詞と認めてシゲリ、シゲミなどよむべし。ともかくも或本にアレニケルカモとある方穩なり○御笠山は高圓と相近し。皇子の薨ぜざる間は高圓宮に往來する人多かりしかば御笠山の野邊をゆく道は荒るゝに暇なかりしに皇子薨じて未久しからぬにはやく荒れにけるよといへるなり。美夫君志の説はわろし○左註は長歌一首短歌二首にかゝれるにや
 
   或本(ノ)歌曰
233 たかまとの野べの秋はぎなちりそね君がかたみにみつつしぬばむ
高圓之野邊乃秋芽子勿散禰君之形見爾見管思奴幡武
 こはイタヅラニサキカチルラムといふ歌とはもとより別なり○カタミニのニは後のトにてコロモニホハセ旅ノシルシニのニと同例なり
 
234 みかさ山ぬべゆゆく道こきだくもあれにけるかも久にあらなくに
三笠山野邊從遊久道己伎太久母荒爾計類鴨久爾有名國
 二句底本にはヌベユクミチハとあり。ハの言ある方よろし
(334)                      (大正四年二月二十日脱稿)
 
(335) 追考
 
   橋本進吉氏のガテヌ、ガテマシ考の大意
 シリガテヌカモなどのガテヌのヌは了の意なりといふ説(○本書一四一頁、一四六頁、二四四頁參照)の可否を檢するに
  いつしかも此夜のあけむとさもらふに寢乃不勝宿者《イノネガテネバ》たきの上の淺野のきぎしあけぬとしたちとよむらし(三卷)
 かくの如く已然形のネなるは不の意のものに限り了の意のものに例無し。又
  つくばねのねろにかすみゐ須宜可提爾《スギガテニ》いきづくきみをゐねてやらさね(十四卷)
  むら鳥の伊※[泥/土]多知加弖爾《イデタチガテニ》とどこほりかへりみしつつ(二十卷)
 かくニより用言に續くる事は了のニには絶えて其例なく唯不の意のニにのみ例ある事なり。又
  うぐひすの麻知迦弖爾勢斯《マチガテニセシ》うめがはなちらずありこそおもふこがため(五卷)
  あかごまがかどでをしつつ伊※[氏/一]可天爾《イデガテニ》せしをみたてしいへの兒らはも(十四卷)
(336) かくの如くニよりスといふ語に續く事は了のニには決して例無くただ不の意のニにのみ例あり(ミレドアカニセムの類)。又
  しろたへのそでなきぬらしたづさはり和可禮加弖爾等《ワカレカテニト》ひきとどめしたひしものを(二十卷)
 ニよりトに續く事は不のニには例あれど(ソコモアカニトの類)了のニには一つも例無し
 以上述べ來れる所によればガテヌのヌ及其活用形なるネ、ニ、ナクは其活用及用法より見て了の意とするよりは不の意とする方穩なりと云はざるべからず
 然らばガテマシのマシはいかに説くべきか。まづガテマシの實例は
  一 有不得(十一卷)
  二 在勝申目〔右△〕(十一卷)
  三 有勝麻之目〔右△〕(二卷)
  四 有不勝自〔右△〕(四卷)
  五 由吉可都麻思自〔右△〕(十四卷)
(337)六 有勝益士(四卷)
  七 依勝益士(七卷)
 集中の例はこれにて盡きたり。右のうち二の目は諸本皆目となれり。三の目は元暦本には自に作れり。又拾穗妙によれば一本に乎とある由なり。四の自は代匠記以後の諸註には目の誤としたれど諸本いづれも自に作り目に作れるは一つも無し。五の自は管見の及ぶ所目に作れる本の一も無きは注意すべき事なり
 今や起り來べきは目とある方正しきか自とある方正しきかといふ問題なり。少くとももし自の方を正しとせばいかがといふことを一考せざるべからず。從來の學者の如く此等の事を顧みず自の字を見れば直に目の字の誤とするは甚輕率にして危險なる業なり
 先三の麻之目の目は一本に自とあるを正しとすればマシジと讀むことを得。四の有不勝自は自を誤にあらずとすればこれも亦マシジと讀まるゝ理なり、五の麻思自はそのまゝマシジとよまる。かくの如く從來ガテマシモの例としたりしものは第二の例の外は皆マシジと讀み改むることを得
(338) 六及七の勝益士はマシヲと讀み來れるが士をジの假字に用ゐるは普通の事なればこれもマシジとよむことを得。否しか讀む方穩なるこゝちす
 かくの如く自を正しとしてマシジと讀むとすればガテマシの例としたりしものは唯一つ即第二を除く外悉くマシジと讀み改むる事を得るなり。然らばマシジといふ語ありや否や
 マシジといふ語は續日本紀の宣命にアフマシジトテ又|忘得《ワスレウ》マシジミナモとあり。右の形より見ればマシジは形容詞的の活用を有するものなり。さて常に動詞を承けて其説述の意義を修飾するものにてザルベシ、マジといふやうなる意を有せり。即否定推量の助動詞なり
 此語は從來續紀宣命以外のものには発見せられざりき。されど日本紀の
  やまこえてうみわたるともおもしろきいまきのうちはわすらゆ麻旨珥
もマシジとよむことを得べく(珥は紀には多くはニの假字に用ゐたれどまたジの假字に用ゐたりと認むべき例あり)又萬葉集の中にては
  ほりえこえとほきさとまでおくりけるきみがこころはわすらゆ麻之目〔右△〕(二十卷)
(339) 此歌の尾句は古來ワスラユマシモとよみたれど目の字元暦本には自とあり又目をモの假字に用ゐたる確なる例は奈良朝の文献には殆無き事なればこの目はおそらくは自の誤なるべしと推測せらる。されば亦マシジとよむべきなり
 かくの如くマシジといふ語は續紀の宣命のみならず日本紀又萬葉集にもありて其意はいづれの場合にてもマジと同じく否定推量なり 然らば前に述べたる如くガテマシの諸例に於てマシモ、マシヲをマシジとよみ改めそのマシジを右に擧げたるマシジと同語とせば如何
 抑ガテマシモ、ガテマシヲはいづれも肯定の形にて然もその意は否定形なるガテヌ、ガテニなどと同樣なるが故に從來説明に困難を感ぜしなり。然るに今マシモ、マシヲをマシジとよみ改むればやがてガテヌ、ガテニなどと同じく否定形となれば此等と同樣の意を有することは何等の困難もなく説明することを得るなり
 次に考ふべきはマシモ、マシヲをマシジとよみ改むると共にカテをもよみ改むる必要なきかといふ事なり。もしマシならば將然言を承くる格なればカテヌの例によりてカテマシとよむべきなれど之をマシジとよみ改めし後もなほカテといふ形より(340)續くやいかにといふ事を一考せざるべからず
 前にガテマシの例として擧げしものゝうち一字一音なるは
  あらたまのきへのはやしになをたてて由吉可都麻思自《ユキカツマシシ》いをさきだたね(十四卷)
のみにて其他は勝の字を書きたればカタとよむべきかカテとよむべきか、はたカツとよむべきか明ならず
 右の第十四卷の歌は東歌なり。東歌には往々語法上の特例ありて大和詞と異なる所あれば直に大和詞の語法の證としがたき事あり。よりて轉じてカテの活用を檢するに不の意のヌ、ニ、ネにはカテよりつづく事は已に擧げたる例にて明なり。其他
  おほさかにつぎのぼれるいしむらをたごしにこさばこし介※[氏/一]務《カテム》かも(崇神紀)
といふ例ありて未來のムにもカテよりつづくこと知らる。否定のヌ、ニ、ネも未來のムも共に將然形を承くるものなれば明にカテの將然形なることを知るを得。然るに將然形のテなるは下二段式の活用に限れば恐らくはカテは下二段式にカテ、カツ、カツル、カツレと活用せしなるべし
 次にマシジはいかなる活用形を承くるかといふに
(341)  いまきのうちは倭須羅※[マダレ/臾]《ワスラユ》ましじ(齊明紀)
  きみがこころは和須良由ましじ(二十卷)
 此等はマシジが終止形を承くる確證なり。さればカテの場合にはカツマシジとなるべき理なり。而してこれを彼弟十四卷なるユキカツマシジに比較するに適に符節を合せたる如し
 以上の理由によりて吾人は從來アリガテマシモ、アリガテマシヲ、ヨリガテマシヲと訓じたりしものは悉くアリガツマシジ、ヨリガツマシジとよみ改むべきものなりと推定するなり
 ガテヌとガツマシジとが共にガテ、ガツの否定形にていづれも難シ、カヌ、タヘズ、アヘズといふやうなる意を有せりとすればガテ、ガツの意もおのづから明なり。即これは堪フ、敢フ又は得といふやうなる意を有せること疑ふべからず
 さてガテ、ガツといふ語は其活用の不完全なるのみならず其用法はた限られたり。即殆常に他の動詞の下にのみ用ゐられて其連用形に接せり。ただ古今集なるアハ雪ノタマレバカテニクダケツツはタマレバ得堪ヘズの意なればカテの獨立して用ゐら(342)れたる例なれど平安朝に於ても奈良朝及其以前に於ても他にかゝる例の無きより考ふればこれは恐らくは古き時代の用法の特殊の場合に殘れりしものにて當時普通一般の用法にはあらざりけむと思はる
 吾人はこれまで普通の讀方に從ひてガテ、ガツの頭音を濁音によみ來りしが此音の清濁については從來學者間に議論ある事なり。吾人は奈良朝に於ては既に濁音にてありけめど本來は濁音にあらでカテ、カツといふ語なりけむと考ふるなり。さるを濁るやうになりしは此語が他の動詞の下に來りて其意義を助くることゝなりし爲之と複合して連濁を起しゝなるべし
 ガテ、ガツは其上に來る語の種類が限られたりしのみならず其下に來る語も亦大に限られたりしなり。即ガテ、ガツが肯定に用ゐられたるは日本紀に唯一つ
  たごしにこさばこし介※[氏/一]務《カテム》かも
といふ例あるのみにて其他はすべてヌ、ネ、ニ、ナク、マシジなど否定の助動詞にのみ續けり
 平安朝に至りてはガテ、ガツの肯定形は勿論否定形も他のものは皆滅びはてゝ唯カ(343)テニのみ殘れり。又此時代にはガテニナルといふ新しき用例見えたり
 鎌倉時代以後となりてはガテニの外にガテノ及ガテヲといふ形あらはれ來たり。このガテノ及ガテヲは明にカテを難《カタ》シ又はカヌの意に用ゐたるにてガテの本來の意義に比すれば正反對となるなり。かゝる意義の變化はいつの頃にか起りけむ。平安朝の末には既にもとの意義失はれたりと斷言すべき證あり(明治四十三年発行國學院雜誌第十六卷)
 通泰いふ。右の説に從ひて新考二卷(一四一頁)なる
  玉くしげみむろの山のさなかづらさねずばつひに有勝麻之目〔右△〕
はアリガツマシジとよみ又同卷(三二三頁)なる
  ただのあひは相不勝いしかはに雲たちわたれみつつしぬばむ
はアヒガツマシジとよみて(不の字をマシジ即後世のマジに充てたるなり)甲はアリアヘジ(ヲラレマイ)乙は逢ヒ敢ヘジ(アハレマイ)の意と解すべし
2005年3月19日(土)11時55分、校正終了
 
(345)   萬葉集新考卷三
                    井 上 通 泰 著
 雜歌
   天皇|御2遊《イデマシシ》雷岳1之時柿本朝臣人麻呂作歌一首
235 おほきみは神にしませば(あまぐもの)いかづちの上にいほり爲流〔左△〕《セス》かも
皇者神二四座者天雲之雷之上爾廬爲流鴨
    右或本云。獻2忍壁皇子1也。其歌曰。王神座者雲隱伊加土山爾宮敷座
 左註に右或本云。獻2忍壁皇子1也。其歌曰
  おほきみは神にしませば雲|隱《ゴモル》いかづち山に宮しきいます
とあり○題辭の天皇は眞淵の新採百首解に持統天皇とし略解にも『持統天皇なる(346)べし。次の歌ども持統の大御時の歌なれば也』といへり○雷岳は宣長、久老、雅澄、永好(犬鷄隨筆上卷二一頁)等の説によりてイカヅチノヲカとよむべし。飛鳥《アスカ》(ノ)神奈備山の事にて飛鳥川の右岸なる雷《イカヅチ》村の後の岡なり○アマグモノは枕辭なり。枕辭と見ざれば續穩ならず○イカヅチは古義に『岳の名をまことの雷のごといひなしたるなり』といへる如し○上は舊訓にウヘとよめるを雅澄はヘとよめり。なほウヘとよむべし。ホトリといふ意にあらざればなり○爲流を久老はセルとよめれどなほ舊訓の如くスルとよむべし。否爲須の誤としてセスとよむべし。セスはシタマフなり○或本にイカヅチ山ニとあるによりて久老は『イカヅチノ上ニの上は山の誤にあらぬにや』と云へれど山にてはカミニシマセバといへる詮なし。山上には常人も住むべければなり。或本の雲隱はクモゴモルとよむべし
 
   天皇賜2志斐《シヒ》(ノ)嫗《オミナ》1御歌一首
236 いなといへどしふる志斐能がしひがたりこのごろきかずてわれこひにけり
不聽跡雖云強流志斐能我強語此〔左△〕者不聞而朕戀爾家里
(347) 志斐は嫗の氏なればただシヒガといふべきをシヒノガといへる誰も訝る事なり。契沖に從ひて志斐ノ嫗ガの嫗を略したるものと認むべし
  前註に十四卷にヒノクレニウスヒノ山ヲコユル日ハセナ能我ソデモサヤニテラシツとあるを同例としたれどこのセナノはセナネ(夫といふこと)を訛れるなり。同卷にセナナとも云へり。又宣長は十八卷なるシナザカルコシノキミ能等カクシコソヤナギカヅラキタヌシクアソバメをも同例としたれどこは左註に右郡司已下子弟已上諸人多集2此會《六字傍点》1因守大伴宿禰家持作2此歌1也とあればコシノキミラトとあるべく現に類聚古集、元暦校本等にキミ良等とあればキミ能等とあるは誤字とすべし
 ○此者は比者の誤字なり
 
   志斐(ノ)嫗奉v和《コタヘ》歌一首 嫗名未詳
237 いなといへどかたれかたれとのらせこそ志斐いはまをせ強話《シヒガタリ》とのる
不聽雖謂話禮話禮常詔許魯志斐伊波奏強話登言
 ノラセコソは後世のノラセバコソなり○シヒイのイは契沖(厚顏抄)宣長の云へる(348)如く一種の助辭なり。山田孝雄氏の奈良朝文法史三一一頁似下にくはしき説あり、就いて見るべし。志斐は私といふ代に氏を用ひたるなり
 
   長《ナガノ》忌寸《イミキ》意吉《オキ》麻呂應v詔歌一首
238 大宮のうちまできこゆあびきすとあごととのふるあまのよび聲
大宮之内二手所聞網引爲跡網子調流海人之呼聲
 アゴは本に網子と書けり。網ひく男どもなり○トトノフルはヨビアツムルなり。二卷(二七一頁)にいへり○アゴはもとより海人のうちなれどこゝにアマといへるはアゴに對したれば海人のうちにをさだちたるものを云へるなり○こゝの大宮は難波の離宮なるべし
 
   長《ナガ》(ノ)皇子遊2獵路池1之時柿本朝臣人麿作歌一首并短歌
239 (やすみしし) わがおほきみ (たかひかる) わが日のみこの 馬なめて みかりたたせる (わかごもを) かりぢの小野に ししこそは いはひをろがめ うづらこそ いはひもとほれ (ししじもの) いは(349)ひをろがみ (うづらなす) いはひもとほり かしこみと つかへまつりて (久かたの) 天みるごとく (まそかがみ) 仰ぎてみれど (はる草の) いやめづらしき わがおほきみかも
八隅知之吾大王高光吾日乃皇子乃馬並而三獵立流弱薦乎獵路乃小野爾十六社者伊波此拜目鶉己曾伊波此囘禮四時自物伊波此拜鶉成伊波比毛等保理恐等仕奉而久堅乃天見如久眞十鏡仰而雖見春草之益目頬四寸吾於富吉美可聞
 久老は題辭を遊2獵々〔右△〕路野〔右△〕1之時と改めて
  今本ひとつの獵の字を脱し野を池に誤れり。獵は活本古本によりて補《クハ》へ野は私に改つ。さるは池に遊獵すといふ事のあるべくもあらず歌にも小野とよみたればなり
といへり○ミカリタタセルは御獵ヲ催シタマヘルといふ事なり。くはしくは一卷(七十八貢)に云へり○シシは猪鹿の總稱なり(久老)○イハヒのイは添辭(契沖)。久老の(350)アリの約とせるは非なり。イハヒヲロガメは猪鹿の頸を地に附けて伏したるを形容せるなり。イハヒモトホレは這ヒマハレなり○初よりイハヒモトホレまでは一種の序なり。御獵場の光景を以て序とせるなり○カシコミトは雅澄『トは助辭にてカシコサニの意なり』といひて例を擧げたりシラニト(三二二頁)の類なり○イヤメヅラシキのイヤは益なり○此長歌人麿呂の作としては平凡なり。但反歌はめでたし
 
   反歌一首
240 (久堅の)あめゆく月を綱にさしわがおほきみはきぬがさにせり
久堅乃天歸月乎網〔左△〕爾刺我大王者蓋爾爲有
 きぬがさは絹張のさしかけ傘にて貴人のみ用ひしもの、傾蓋|故《フルキ》が如しなどいふ蓋にて其きぬがさは大にして傾きやすければ左右に綱をとほして其綱を左右より引きて平均を保ちしなり。ツナニサシのニはモテにて月ヲ綱モテトホシテといへるなり。古義に『ツナニと云るは君を戀る意をキミニコヒと云ると同意なり』といへるはいみじきひが言なり○キヌガサ爾セリの爾は今のトなり。今何々トスといふ(351)をいにしへは何々ニスといひしなり。二卷狹岑島視石中死人作歌なるナミノトノシゲキハマ邊ヲシキタヘノマクラ爾シテ、五卷ウメノハナサキタルソノノアヲヤギハカヅラ爾スベクナリニケラズヤなども今ならばマクラト〔右△〕シテ、カヅラト〔右△〕スベクといふべきなり。古義に『キヌガサニセリは蓋ニ化《シ》ケリと云が如し』といひ又『天の月を即御輿の蓋に化《ナ》して云々』といへるは新舊の語格を混同せるなり○略解に『蓋を月に見なしたる也』といひ古義に『圓蓋を月に見なしたるなり』といへるは非なり。こは御獵場にて日暮れて頭上に月の昇れるを見てその月をきぬがさに見なしたるなり。久老も『夕ぐれの月の出るまで御狩しあそびませるによりてかくはよめるなり』といへり。さらばツナニサシといへるはいかにといふにそはキヌガサトスといへるにつきて云へるのみ。たとへば雲ヲ衣トスといふべきを雲ヲ裁チテ衣トスといはむがごとし○網は綱の誤なり
 
   或本(ノ)反歌一首
241 おほきみは神にしませば眞木のたつ荒山なかに海をなすかも
皇者神爾之坐者眞木之立荒山中爾海成可聞
(352) 略解に
  是は右の反歌とはきこえず。歌のさま皇子に申にあらず。此池をほらせ給て幸有し時の歌にて別に端詞有しが落失しなるべし
といへり。此歌のオホキミは無論天皇を指し奉れるなり。されど池成りて行幸ありけむ時の歌と定めたるは妄なり。されば古義に
  此度遊獵に御供奉りて此池を見て皇コを稱奉りてよめるなるべし。さて此は右の反歌には似ざるやうなれども同度によめる故にかく次でたるなり
といへるに從ふべし○アラ山ナカのアラはアラ野のアラに同じく眞淵の『アラは生《アレ》ナガラのことにて人氣になれぬをいふ』といへる如し。一卷にもマキタツ荒山ミチヲとよめり。眞木ノタツは准枕辭なり○海といへるは獵路(ノ)池なり
 
   弓削《ユゲ》(ノ)皇子遊2吉野1時御歌二首
242 瀧上《タキノウヘ》のみふねの山にゐる雲のつねにあらむとわがもはなくに
瀧上之三船乃山爾居雲乃常將有等和我不念久爾
 瀧上を舊訓にタキノウヘとよめるを略解にタキノヘに改めたり。ホトリといへる(353)にはあらで上方といへるなれば仍ウヘとよむべし。さて其瀧を久老雅澄は宮瀧の事とせり。因にいふ宮瀧は急湍なり。瀑布にあらず。誤解すべからず。いにしへは瀑布をも急湍をもタキといひしなり○上三句は序なり。契沖の
  雲の起滅定めなきが如くなる世なれば我も常にあらむ物とは思はずとよみ給へり
といへるは非なり。略解に
  現身の事なれば此山の雲の常なる如くには在經まじきと歎給へる也
といへるに從ふべし(古義の説之に同じ)○勝景を見て人壽の短きを嘆ずるは詩人の常情なり(久老はやくいへり)
 
   春日王奉v和歌一首
243 おほきみは千とせにまさむしら雲もみふねの山にたゆる日あらめや
王者千歳爾麻佐武白雲毛三船乃山爾絶日安良米也
 三句以下は此白雲ノ三船ノ山ニタエザル如クといへるなり
 
(354)   或本(ノ)歌一首
244 みよし野の御船の山にたつ雲のつねにあらむとわがもはなくに
三吉野之御船乃山爾立雲之常將在跡我思莫苦二
    右一首柿本朝臣人麿之歌集出
 
   長田王被v遣筑紫1渡2水島1之時歌二首
245 ききしごとまことたふとくくすしくも神《カム》さび居《ヲル》かこれの水島
如聞眞貴久奇母神在備居賀許禮能水島
 題辭の渡2水島1を久老雅澄の水島ヲ渡ルとよめるは誤れり。水島ニ渡ルとよむべし○略解に和名抄なる菊池郡水島を引き古義に
  水島はかの泉(○景行天皇紀に見えたる)のある島によりて後に廣く郷名になれるなり
といへるは非なり。此歌の水島(景行紀に葦北(ノ)小島といへり)は島の名にて肥後の南部にあり和名抄なる水島は郷の名にて同國の北部にありて別なり。中島廣足の相(355)良日記に
  船にて白島にわたる。……南にさうそう島、水島あり。此水島は書紀にも風土記にもしるされ萬葉集の歌にも見えたるくすしき島にて今もいときよき水わき出めり。ふるくは葦北郡とあるを今は葦北八代の郡境にありて八代の方につけり。年をへて海もあせぬるにやあらむ今はしほひにはかちよりもものすめり。野坂の浦はさだかならねど今の佐敷の浦のあたりならむと或人のいへるげに此水島までの海路五里ばかりもあればかの船出シテとよみ給へるにもかなふべし。又和名抄に菊池郡に水島といへる地名のあるを此水島におもひまがへて萬葉略解の註に引たるはあやまり也。菊池郡なるは川のほとりにて今も水島村といひてあなる、此海よりは二十里も隔りて山にそひたる所なり
といへり(同じ人の著せる不知火考の附圖に水島をあらはして萬葉集所詠之水島是也と記せり)○マコトはゲニなり○居は舊訓に從ひてヲルとよむべし○カは哉《カモ》の意(略解)
 
246 葺北の野坂の浦ゆ船出して水島にゆかむ浪たつなゆめ
(356)葦北乃野坂乃浦從船出爲而水島爾將去浪立莫勤
 相良日記の頭書に
  野坂浦は水俣の邊に野坂村といへる所あるそこなるべしと或人いへり。可尋
といへり。水俣は佐敷よりは南方にありて薩摩の境に近し
 追考 禰富濱雄が廣足の日記野阪のうらづとをもて來て見せしを見るに
  野坂のうらは今其名はのこらねど此浦(○佐敷)也といへり。げにさがしきさかどものあなるはよしありて覺ゆ。こゝより舟出して水島にわたらんにはうみの上おほよそ六里にもあまるべし。水島は八代葦北の郡のさかひなるうみの一里ばかり沖のかたにあなればただに行見んには日奈久の里より舟出するなんいとちかゝるを此浦に物する人はかの山路のさがしきにくるしみて行さも來さも大かた舟にて物するを其舟ぢのついでにはまたいとよき見どころなればいにしへ長田王の此浦より舟出し給ひけんさまもおもひやらるかし。又和名抄に肥後國菊池郡水島とてあなるをあだし國の人はそれ也とおもへるもあめる、そは國がたをしらねば也。菊池は北のかたの山にそへる郡にてあし北までは中に三(357)の郡をへだてて海にはいとはるか也。その水島といへるは地名にて今も菊池郡に水島村といふがあなるやがてそれ也けり。こはついでにいへるなり
といへり。野阪の浦づとは文政四年の作、相良日記は同十三年の作なれば日記の頭註即水俣説は後出なれど未推究めざる説なれば打任せては從ひ難し
 
   石川(ノ)大夫|和《コタフル》歌一首 名闕
247 おきつ浪へなみたつともわがせこがみ船のとまりなみたためやも
奥浪邊波雖立和我世故我三船乃登麻里瀾立目八方
    右今案從四位下石川宮麻呂朝臣慶雲年中任2大貮1又正五位下石川朝臣|吉美侯《キミコ》神龜年中任2少貮1。不v知兩人誰作2此歌1焉
 ヘナミは沖ツ浪の反對にて岸近くたつ浪、タタメヤモはタタムヤハといふことなること前註にいへる如し○考に『男どちも互にしたしみあがめて吾セコと云事集中に多し』といへり○トマリの下にニを加へて心得べし。略解に『みことのりをうけたまはりて行ますたびなれば云々』と釋きたれど水島に渡りしは遊覧の爲なるべ(358)し。用あるべき處ならねばなり
 
   又長田王作歌
248 はや人の薩摩のせとを(雲居なす)とほくもわれはけふ見つるかも
隼人乃薩摩乃迫門乎雲居奈須遠毛吾者今日見鶴鴨
 ハヤビトノを契沖、眞淵(冠辭考)は枕辭とせるを宣長(記傳十六卷四十二丁)は
  隼人は國名なり。薩摩は國名にはあらず。隼人國の中の地名なり。後まで薩摩郡あれば其あたりの名にぞ有けむ。國名の薩摩と改まりしは大寶より靈龜までの間なるべし(採要)
といへり。六卷にハヤビトノセトノイハホモとあれば枕辭ならざる事は明なり○此瀬戸は薩摩國なる下|出水《イヅミ》と長嶋との間なる海峡にて今黒瀬戸といふ。野坂浦より水嶋に渡る海路より遙に此海峡を望み見しなり
 
   柿本朝臣人麻呂羈〔馬が奇〕旅歌八首
249 みつの埼浪をかしこみ隱江乃舟公宣奴島爾
(359)三津埼浪矣恐隱江乃舟公宣奴島爾
 舟公宣奴島爾は誤字なることしるし
  宣長は舟八毛何時寄奴島爾《フネハモイツカヨセムヌシマニ》
  久老は舟八毛|不通《ユカズ》奴島(ガ)埼爾
  千蔭は舟令寄敏馬崎爾《フネハヨセナムミヌメノサキニ》
  雅澄は舟寄金津《フネヨセカネツ》奴島埼爾
の誤とせり。三津埼は難波、ヌジマは淡路の地名にて三津埼よりヌジマに到るには敏馬を經ることなればミヌメをいはずして直にヌジマをいふべきにあらず。されば奴島は敏馬の誤とおぼゆ。公宣の二字は未考へず○隱江乃は舊訓にコモリエノとよめり。久老は『コモリヲルをやがてコモリ江にいひつづけたり』といひ雅澄も此説に從ひたれど此時代にさるいひかけあるべしとはおぼえず。再案ずるに隱江乃舟下而泊奴美奴馬爾《コモリエニフネヲオロシテハテヌミヌメニ》の誤脱か。乃はニともよむべし
 
250 珠藻かる敏馬を過《スギテ》(なつぐさの)野島|之《ガ》埼に舟ちかづきぬ
珠藻刈敏馬乎過夏草之野島之埼爾舟近著奴
(360)   一本云處女をすぎて夏草の野島が埼にいほりすわれは
   一本云處女乎過而夏草乃野島我埼爾伊保里爲吾等者
 タマモカルは一卷ハナチラフ秋津ノ野邊ニのハナチラフの類にて准枕辭なり○ミヌメは今の攝津國西灘村にて神戸の東に接せり○過を古義にスギとよみて六字の句としたれどもとの如くスギテとよみて可なり○ヌジマは淡路の北端の西岸にあり○之を舊訓にはガ、古義にはノとよめり。一本には我と書けり
 一本の歌は十五卷なる新羅に遣されし使人等が所に當りて誦詠せし古歌の中にも出でたり。宣長は
  處女と云地名有べくも非ず。是はミヌメを傳へ誤れる僻事也
といへれどこゝに處女とあるのみならず十五卷にも乎等女と書きたれば誤にはあらじ。契沖は
  第九に葦屋處女墓をよめる歌あり。彼由緒によりて兎原郡葦屋浦を處女とのみもいへるなり
といへり
 
(361)251 あはぢのぬじま之《ガ》さきの濱風に妹が結《ムスビシ》紐ふきかへす
粟路之野島之前乃濱風爾妹之結紐吹返
 結を舊訓にムスビシとよめるを宣長はムスベルに改め久老は
  卷廿に兒等我牟須敝流とあり。ムスビシとよむは非也
といへれど卷十四には筑紫ナルニホフ兒ユヱニミチノクノカトリヲトメノ由比之比毛等久とあり。さればムスビシともムスベルとも處によりていふべく今は妹ガムスブといふに力を入れたるなればムスビシとよむべし○紐は略解に
  こゝは風フキカヘスとよみたれば下紐にはあらで旅の衣の肩に付たる紐也。古事記口子(ノ)臣|紅紐《アカヒモ》つきたる青摺(ノ)衣をきる故|水潦《ニハタヅミ》紅紐を拂て皆|紅色變《アケニナ》るよし有
といへれど赤紐は肩に縫ひ着けて前後に垂るゝものにて(雅亮裝束抄による)晴着の飾とおぼゆれば旅衣にはつくべからず。今の歌の紐はおそらくは襟の紐ならむ〇三句と結句とうち合はず。即ハマカゼニとあるを受けてはフキカヘサルといはざるべからず。古義及藤井高尚の『歌のしるべ』にいへる所あれどそは牽強傅會の辯のみ。案ずるに古今集に
(362)  山かぜにさくらふきまきみだれなむ花のまぎれにたちとまるべく
とあると同じくて一の格なり
 
252 (あらたへの)藤江の浦にすすきつるあまとかみらむ旅ゆくわれを
荒栲藤江之浦爾鈴寸釣白水郎跡香將見旅去吾乎
    一本云しろたへの藤江の浦にいざりする
    一本云白栲乃藤江能浦爾伊射利爲流
 藤江は明石の西方にあり○ワレヲはワレナルヲなり○藤江の浦の勝景にめでてゆきすぎがたくするを鱸つる海人の舟とや人の見るらむと云へるなり〇一本にシロタヘノとあるはきはめて誤なりと久老いへり○因にいふ久老は
  藤のチは必すむべきにやとおぼしき事あり。古今集にワガヤドノ池ノ藤浪とあるも淵に通はしたるつづけなるに後撰集にもカギリナキ名ニオフ藤ノ衣ナレバソコヒモシラヌ色ノフカサカ、棹サセド深サモシラヌフチナレバ色ヲバ人モシラジトゾオモフとあり。土佐國にては今猶フヂのチはすむと其國人いへり
(363)といへり。備前國和氣郡穗浪村に藤浪氏と淵浪氏とあり。おそらくは初は共に藤浪なりしを古音のまゝにフチナミと唱ふるにつきて藤にてはかなひ難しと思ひて淵と書きそめし人ありて終に二氏となれるなるべし。同國兒嶋の地名藤戸も底深きわたり場といふ意にて淵門と名づけたるを藤戸と書くことゝなり終にフヂトと濁りて唱ふるやうになれるにあらざるか
 
253 いなび野もゆきすぎがてにおもへれば心こひしきかこの島みゆ【一云潮見】
稻日野毛去過勝爾思有者心戀敷可古能島所見 一云潮見
 ガテはアヘにてガテニは不敢なり。ガテズをガテニといふはシラズをシラニといふに同じ○オモヘレバはオモヘルニなり(略解)○契沖は
  印南野の面白くて過ぎうきに又かこの島も見ゆれば彼へも早く行きて見まくほしければ彼方此方に引かるゝ心をよめり。イナビ野ヲといはずして野モといへるは可古の島も見ゆと云ふ心を兼ねたり
といへり。三句の次に又ユク手ニハといふことを挿みて心得べし○さて今カコノシマといふ島なきによりて考には一本に潮見とあるに從ひ其潮を湖の誤として(364)カコノミナトミユとよめり(はやく契沖も『此の潮の字、下にミナトともハマとも訓じたればカコノミナト見ユといへるか。カコノハマとよめるか』いへり)。案ずるに今高砂といふは加古川の河口のデルタなり。是いにしへのカコノシマの變形したるものならむ○潮は播磨風土記、日本靈異記などにもミナトに借りたり。さて可古ノミナトは加古川の河口なり
 追考 大日本地名辭書|南※[田+比]都《ナビツ》島の條に
  風土記、萬葉集の所載を審按するに蓋印南川の河口なる堆洲にして中世以降高砂といふ者是なり。……加古の島と曰へるも又此ならん
といへり。南※[田+比]都は南※[田+比]都麻とあるべし
 
254 (ともしびの)明大門《アカシオホト》に入日哉《イラムヒヤ》こぎわかれなむ家のあたり不見《ミズ》
留火之明大門爾入日哉※[手偏+旁]將別家當不見
 明大門を眞淵(冠辭考)はアカシノオトとよみ久老はアカシオホトとよめり。雅澄のいへる如くイコマタカネ、イナサホソエなどを例としてアカシオホトとよむべし○入日哉は宣長のイラムヒヤとよめるに從ふべし。日ヤは日ニヤなり○不見は古(365)義に不を所の誤としてミユとよむべき説を擧げたれど(舊訓には不見のまゝにてミユとよめり)なほ宣長のミズとよみて『四の句の上へうつして見べし』といへるに從ふべし。雅澄は
  あかしの門に入む其日に榜別れて見えずなりなむかとおもふ我家のあたりが見ゆるはさてさて名ごりをしきことかなと云るなり
といへれどコギワカレナムはイラム日ヤの結なればイヘノアタリへはつづかず
 
255 (あまざかる)ひなのながぢゆこひくればあかしのとより倭島見ゆ【一本云家門當見由】
天離夷之長道從戀來者自明門倭島所見
    一本云家門當見由
 以下二首東上の時の歌なり。ナガヂユのユは中世のヨリ今のヲなり。倭島は大和の山なり〇一本家門當の門字は乃の誤かと契沖いへり
 
256 けひの海のにはよくあらし(かりごもの)亂出所見《ミダレイヅミユ》あまのつりぶね
(366)飼飯海乃庭好有之苅薦乃亂出所見海人釣船
 ケヒノウミは久老『淡路に飼飯野《ケヒノ》といふ地ありと吾友度會正柯いへり』といひ大日本地名辭書淡路國三原郡の條に『今松帆村に大字|笥飯野《ケヒノ》あり。或は慶野に作る』とあり○ニハは海面、ヨクは穩ニなり。アラシは集中に又アルラシといへり〇四句を久老はミダレイデミユとよみ千蔭はミダレイヅルミユとよめるを雅澄はミダレイヅミユに改めたり。之に從ふべし。ミユの上、後世は連體格を用ふれどいにしへは終止格を用ひしなり
 
   一本云
むこの海|舶爾波〔三字左△〕有之《ニハヨクアラシ》いざりするあまのつりぶねなみの上ゆみゆ
武庫乃海舶爾波有之伊射里爲流海部乃釣船浪上從所見
 二句を宣長はフナニハナラシとよみて『舟庭とは舟を海上に榜出すによき日和をいへり』といひ雅澄はムコノウミノフネニハアラシとよみて『ニハと云るは他方の海人の船にはあらじとの意なり』といへる共に非なり。なほ契沖のいへる如くニハ(367)ヨクアラシの誤とすべし。十五卷、遣新羅使人等當所誦詠古謌の中に
  たまもかる乎等女をすぎてなつぐさのぬじまがさきにいほりすわれは
  しろたへのふぢえ能うらにいざりするあまと也みらむたびゆくわれを
  あまざかるひなのながち乎こひくればあかしのとよりいへ乃あたりみゆ
  むこのうみの爾波余久安良之いざりするあまのつりぶねなみの宇倍ゆみゆ
以上四首の歌を擧げたり。此卷に右の歌どもを擧げたる次に一本云として擧げたるは全く十五卷なるに同じ(第二首の四句此卷に白水郎跡香〔右△〕とあり。十五卷には安麻等也〔右△〕とあるを一本云安麻等也と書かざるはおとせるなるべし)。契沖いへらく
  一本云とある四首の注は後人第十五を見て意を得ず此に注せるか。其故は新羅の使或は句を替へ又飼飯海などは時に叶はねば武庫(ノ)海と改めて誦しける故に彼卷に柿本朝臣人麿歌曰とて一々に注せり。彼時に叶へて假に誦したるを以て撰者何ぞ此に注せむや。君子これを思へ
といへり。げに然り○ナミノ上ユのユは輕く用ひてニの助辭に似たりと久老いへり
 
(368)   鴨(ノ)君|足人《タリヒト》香具山歌一首并短歌
257 (あもりつく) あめのかぐ山 (霞たつ) 春にいたれば 松風に 池浪たちて、櫻花 木晩|茂爾〔左△〕《シゲミ》 おきべには 鴨|妻喚《ツマヨバヒ》 へつへに△《ハ》 あぢむらさわぎ (ももしきの) 大宮人の まかりでて 遊船爾波《アソブフネニハ》 かぢさをも なくてさぶしも こぐ人なしに
天降付天之芳來山霞立春爾至姿松風爾池浪立而櫻花木晩茂爾奥邊波鴨妻喚邊津方爾味村左和伎百磯城之大宮人乃退出而遊船爾汝梶棹毛無而不樂毛己具人奈四二
 カスミタツは准枕辭○イケナミは埴安の池の波なり。ノを省きてイケナミといへるめづらし。所謂歌語なり。復活して今も用ふべし○サクラバナの次の句舊訓にコノクレシゲニとよめるを雅澄は爾を彌の誤としてコノクレシゲミと改め訓めり。此説おもしろし。但『シゲミは俗にシゲンデといはむが如し』といへるは非なり。此ミは下なる山タカミ河トホジロシ又五卷マツラガハカハノセハヤミクレナヰノモ(369)ノスソヌレテアユカツルラムのミと同じくてキニと譯すべきミなり。さればこゝのシゲミはシゲサニとは譯せずしてシゲキニと譯すべし。又案ずるに一卷の長歌に山乎|茂《シミ》イリテモキカズとあり、次の長歌にシキイマスを茂座と書けると照らし合せてもとのまゝにてコノクレシキニとよむべきか。又は二卷にイハツツジムクサク道ヲとあるに依りてコノクレムキニとよむべきか。コノクレはコカゲなり。サクラバナコノクレシゲミといへるは山櫻のさまなり○鴨妻喚を舊訓にカモメヨバヒテとよめるを契沖カモ、ツマヨバヒに改めたり○ヘツヘは岸の方なり。ヘツヘニの下に波《ハ》をおとせるならむ。アヂムラは水鳥の名なり○遊船爾波は從來アソブフネニハとよめり。往時の事を云へるなれば爾は衍字にてアソビシフネハとよむべきかとも思へど一卷タワヤメノソデフキカヘス〔五字傍点〕アスカ風ミヤコヲトホミイタヅラニフク、二卷タケバヌレタカネバナガキ妹ガ髪コノゴロミヌニカカゲツラムカなど過去を現在にいへる例少からねばなほ舊訓の如くアソブフネニハとよむべし。略解に『アソブ舟ニハとはアソブベキ舟ニハと云也』といへるは非なり○サブシはオモシロカラズなり○コグ人ナシニは漕ギテ遊ブ大宮人ナクテとなり。略解(370)に『舟人のなき事をいへる也』といへるは誤れり
 
   反歌二首
258 人こがずあらくもしるし(かづきする)をしとたかべと船の上にすむ
人不※[手偏+旁]有雲知之潜爲鴦與高部共船上住
 カヅキスルは准枕辭。アラクはアル事の意なり。タカべは水鳥の名なり。スムは居ルなり
 
259 いつのまもかむさびけるかかぐ山のほこすぎが本にこけむすまでに
何時間毛神左備祁留鹿香山之鉾椙之本爾※[草冠/辟]生左右二
 イツノマモはイツノマニモにてそのモは助辭なり。カムサビは物フリなり○ホコスギは考に『若木の細く長きをホコといへり』といひ古義に『杉の若木の鉾の長さばかりあるがまた鉾の形にも似たれば云なるべし』といへれどなほ代匠記に『※[木+温の旁]は直き木にて鉾を立てたるさまに見ゆればなり』といへるに從ふべし(はやく兼載雜談にも牟杉とはほこのやうにすぐなる杉なりといへり)。又考に『若木のすぎの鉾立な(371)りしも木末に(○考には本を末の誤とせり)ひかげの生るまで古びしは云々』といひ古義も此釋に(本を末の誤とする外は)從ひたれどモト若木ナリシ木といふ事を打任せてワカ木といふべけむや。しか云はれぬを見てもホコスギといふ稱が樹齢の老弱によらぬことを知るべし○此歌と二卷イモガ名ハ千代ニナガレムヒメ島ノ小松ガウレニ苔ムスマデニと本末相對せり。但モトといひウレといふは必ずしも木の根方又は梢といふ意にあらず。輕く上方といひ下方といへるのみ○前註にコケを日カゲとせるは誤なり。日カゲは地上に生ふるものなり
 
   或本歌云
260 (あもりつく) 神のかぐ山 (うちなびく) 春さりくれば さくら花 木晩茂《コノクレシゲミ》 松風に いけなみ※[風+犬三つ]《タチ》 邊津返者《ヘツヘニハ》 あぢむら動《トヨミ》 奥邊者《オキヘニハ》 かも妻《ツマ》よばひ (ももしきの) 大みや人の まかりでて こぎ來《ケル》舟は さをかぢも なくてさぶしも こがむともへど
天降就神乃香山打靡春去來者櫻花木晩茂松風丹池浪※[風+犬三つ]邊都返者阿遲(372)村動奥邊者鴨妻喚百式乃大宮人乃去出※[手偏+旁]來舟者竿梶母無而佐夫之毛※[手偏+旁]與雖思
      右今案遷2都寧樂1之後怜v舊作2此歌1歟
 木晩茂は舊訓にコノクレシゲミとよめり。そのミはかの山タカミ河トホジロシなどのミと同じき事前に云へる如し○※[風+犬三つ]は舊訓にタチテとよめるを略解にサワギに改め古義にタチとよめり。雅澄に從ふべし○邊津返者、奥邊者は舊訓にニをよみ添へて ヘツヘニハ、オキヘニハとよみ雅澄はニを省きてヘツヘハ、オキヘハとよめり。いづれにてもあるべし○動の字舊訓にサワギとよめるを略解にはトヨミと訓めり。下なる羈〔馬が奇〕旅歌の瀧ノウヘノ淺野ノキギシアケヌトシ立動ラシをタチトヨムとよむがごとく今もトヨミとよむべし。雅澄はあぢむらにトヨミといへる例なしといへれどいひて可ならば例の有無に拘はるべからず○來は舊訓にコシ略解にケルとよめるを雅澄は久老の來を去の誤としてニシとよめるに從へり。案ずるに往時此地ニテ漕ギシ舟ハといへるにてヨソヘ漕ギ去リシ舟ハといへるにあらねばコギケルとよむべくコキニシとはよむべからず
 
(373)   柿本朝臣人麻呂獻2新田部《ニヒタベ》(ノ)皇子1歌二首并短歌
261 (やすみしし) わがおほきみ (高|輝《テラス・ヒカル》) 日の皇子 茂座《シキイマス》 大殿のうへに (久方の) あまづたひくる ゆきじもの 往來乍益及常〔左△〕世《ユキカヨヒツツイヤシキイマセ》
八隅知之吾大王高輝日之皇子茂座大殿於久方天傳來自〔左△〕雪仕物往來乍益及常世
 高輝はタカテラス(舊訓)タカヒカル(久老)いづれにても可なり○茂座は略解にシキマスとよめり。結句にイヤシキイマセといへるに對してげにシキイマスとよむべし。シクは占むるなり○オホトノの上にコノといふことを加へて聞くべし。作者矢釣山なる御別邸に參りてよめるなり(大殿於と書ける於はウヘとよむべし)○往來乍益及常世を舊訓にユキキツツマセトコヨナルマデとよめるは固より當らず。考に常を萬の誤としてユキキツツマセヨロヅヨマデニとよみ久老は常を座の誤とし乍の下を句としてユキカヨヒツツイヤシキイマセとよめり。久老の訓によるべし。イヤシキイマセは彌敷座にてシキイマセは上なるシキイマスと照應せるなり。(374)雅澄がイヤシキは彌重なりといへるは非なり○ヒサカタノ以下三句はユキカヨヒにかゝれる序なり。自は白の誤なり。ユキを白雪と書けるなり
 
   反歌一首
262 やつり山こだちもみえず落亂《フリマガフ》雪※[馬+麗]朝樂毛《ユキニキホヒテマヰリクラクモ》
矢釣山木立不見落亂雪※[馬+麗]朝樂毛
 落亂はフリマガフ(久老)とよむべし。フリミダルとよみては切れて下へ續かず○雪※[馬+麗]は眞淵※[馬+麗]の字の扁の馬を足に改めてユキニキホヒテとよめり。訓はさもあるべし○朝樂毛は眞淵の論に從ひてマヰリクラクモとよむべし。朝の字をマヰリクに充てたるなり。さてマヰリクラクモは參り來ル事ヨとなり
 
   從2近江國1上來時|刑部《オサカベ》(ノ)垂麿《タリマロ》作歌一首
263 馬莫〔□で圍む〕疾《イタク》うちてなゆきそけならべてみてもわが歸《ユク》しがにあらなくに
馬莫疾打莫行氣並而見※[氏/一]毛和我歸志賀爾安良七國
 初句を舊訓にウマナイタクとよめれどナといふこと二句と重なれば初句の莫は(375)衍字なるべし(景樹芳樹同説)。さらばウマイタクとよむべし○ケナラベテは宣長のいへる如く日數ヲ重ネテなり。此辭はミテにかゝれり○歸は宣長のユクとよめるに從ふべし。上なるユクはただゆく事、こゝなるは藤原の都に歸る事なれば意を得て歸と書けるなり○古義に『ウチテナユキソは馬の口とれる者におほするなり』といへるは非なり。同行者にいへるなり。四句のワガはワレラガと見べし○ケナラベの下にテの言ある爲ワガユクまでにかゝれるやうに聞え、從ひて滞る所あるやうに聞ゆるなり
 
   柿本朝臣人麻呂從2近江國1上來時至2宇治河邊1作歌一首
264 (もののふのやそ)うぢ河のあじろ木にいざよふ浪のゆくへしらずも
物乃部能八十氏河乃阿白木爾不知代經浪乃去邊白不母
 モノノフノヤソは二句に跨れる七字の枕辭なり○イザヨフナミは網代にさへぎらるゝ波なり。しばしいざよひぬる後流れ去り流れ去りするが故にユクヘシラズモといへり。見る目のおもしろきをよめるのみ。他に意はなきこと古義にいへる如し
 
(376)   長《ナガ》(ノ)忌寸《イミキ》奥麻呂《オキマロ》歌一首
265 くるしくもふりくる雨か神之《ミワノ》埼さぬのわたりに家もあらなくに
苦毛零來雨可神之埼狹野乃渡爾家裳不有國
 三句を舊訓にミワノサキとよめり。宣長いはく(玉勝間九卷)
  三輪が崎は新宮より那智へゆく道の海べなり。新宮より一里半ばかりありてけしきよき所なり。佐野は佐野村といふ有て三輪が崎の一つづきなり
といへり。今紀伊國東牟婁郡に三輪崎村ありて其村の字に佐野の名殘れりといふ。久老のカミノサキとよみ改めたるは從ふべからず○ワタリは久老アタリの意にはあらで渡津の意なるべしといひ雅澄は『アタリをワタリといふ事は此集の比はすべてなかりき』といへり○クルシクモはワビシクモなり。雨カは雨カナなり。アラナクニはアラヌニなり
 
   柿本朝臣人麻呂歌一首
266 あふみの海ゆふなみ千鳥ながなけばこころもしぬにいにしへおもほ(377)ゆ
淡海乃海夕浪千鳥汝鳴者情毛思努爾古所念
 ユフナミチドリは夕浪に亂るゝ千鳥にて人麿の造語なり。古人はかくも大膽なりしぞ○シヌニはシナユバカリニなり○イニシヘは契沖の云へる如く近江の宮の昔なり 
 
   志貴皇子御歌一首
267 むささびはこぬれもとむと(あしひきの)山のさつをにあひにけるかも
牟佐佐婢波木末求跡足日木乃山能佐都雄爾相爾來鴨
 コヌレモトムトは都合ヨキ木末ヲ求メムトテなり。久老の『すむべきこぬれをもとむるをいふなり』といへるはすこし當らず。山ノサツヲは獵師なり○こはむさゝびを見てよみ給へるにてたとへ給へる事あるべけれど其事は知るべからず
 
   長屋王故郷歌一首
268 わがせこが古家《フルヘ》の里のあすかにはちどりなくなり島〔左△〕《キミ》まちかねて
(378)吾背子我古家乃里之明日香庭乳鳥鳴成島待不得而
    右今案從2明日香1遷2藤原宮1之後作2此歌1歟
 古家は五卷、十四卷に我家、妹家をワガヘ、イモガヘと假字書にせるを例としてフルヘとよむべし○上三句は君ノ舊宅アル里ノ明日香ニハといへるなり○島は君の誤にて藤原都より舊都明日香にゆけるほど藤原なる或人に贈れるなる事略解にいへる如し
 
   阿倍(ノ)女郎(ノ)屋部坂歌一首
269 人不見〔二字左△〕者《ヒトナラバ》わが袖もちてかくさむを所燒乍〔左△〕可將有《ヤカレテカアラム》不服而來〔左△〕來《キズテヲリケリ》
人不見者我袖用手將隱乎所燒乍可將有不服而來來
 屋部坂は契沖『三代實録第三十七云高市郡夜部村云々此處歟未考得』といひ大日本地名辭書磯城郡の條に『多《オホ》村大字矢部あり此歟』といへり○初句は考の頭註に『一説に人爾有者の誤かと云り』といへり。しばらく之に從ひてヒトナラバとよむべし○所燒乍可將有は諸註みなヤケツツカアラムとよめれど乍は手などの誤にてヤカ(379)レテカアラムなるべし○來來は略解に坐來に改めてヲリケリとよめるに從ふべし○屋部坂の野火にやかれなどして草木もなく赤裸なるを見て人ナラバ我袖モテ隱サムニ火ニ燒カレテカアラム衣モ着ズテヲリケリといへるなるべし(ほぼ略解の説に同じ)
 
   高市《タケチ》(ノ)連《ムラジ》黒人《クロヒト》羈〔馬が奇〕旅歌八首
270 たびにしてもの戀敷に(山下の)あけのそほぶね奥榜《オキヲコグ》みゆ
客爲而物戀敷爾山下赤乃曾保般奥※[手偏+旁]所見
 古義には戀敷を例の如くコホシキとよめり。いづれにてもよし○山下は舊訓にヤマモトとよめるを宣長はヤマシタに改めてヤマシタは秋山ノシタビとあると同言にて山の赤く照ることなりといへり(玉の小琴及記傳三十四卷三十三丁)。語源はともかくも枕辭とせではかなはず○アケノソホ船は略解に赤土もて塗りたる船にて官船なりといへり○奥※[手偏+旁]は從來オキニコグとよみて沖へこぎ出づることゝしたれどオキヲコグとよみ改むべし。沖の方を漕ぎ行くが見ゆるなり○一首の意は官船の都の方へ行くを羨ましく思ふなる事前註にいへる如し
 
(380)271 櫻田へたづなきわたるあゆちがたしほひにけらしたづなきわたる
櫻田部鶴鳴渡年魚市方鹽干二家良進鶴鳴渡
 和名抄尾張國愛智郡の條に作良郷あり又催馬樂の歌にサクラ人とあれば諸註櫻田を櫻郷の田の事としたれどよく思ふに作良の郷のうち海近く廣き田地のあるを地名のやうにサクラダと稱せしなるべし(はやく新採百首解にも『さくら田てふ所』といへり)。さらではアユチガタシホヒニケラシとあるとかなはず。さればサクラダへは作良ノ田へといふ意にはあらでサクラ田ノ方へといふ意なり。鶴のおりむ先はもとより愛智潟なり
 
272 しはつ山うちこえみれば笠縫の島こぎかくるたななし小舟
四極山打越見者笠縫之島※[手偏+旁]隱棚無小舟
 シハツ山、カサヌヒノ島は眞淵(百首解)のいへる如く攝津の地名にて笠縫の島は今陸地となれり。くはしくは古事記傳三十五卷及玉勝間六卷を見て心得べし○ウチコエミレバはウチコエツツ見レバなり。シマコギカクルはコギツツ島ニ隱ルなり。(381)四句にて切るべし。棚なし小舟が笠縫島にこぎつゝ隱ると云へるなり○タナナシ小舟は傍板《ワキイタ》を打たざる淺き小舟にて所謂獨底船なり。タナは續日本後記に柁折棚落とある棚にて正しくは舷と書くべし
 
273 礒前《イソノサキ》こぎたみゆけば近江の海やそのみなとにたづさはになく
礒前榜手囘行者近江海八十之湊爾鵠佐波二鳴 未詳
 磯前は舊訓にイソザキヲとめるを略解にイソノサキに改めたり。地名とせずばイソノサキとよまむ方まさるべし。コギタミはコギメグリなり○略解に近江國坂田郡に磯崎村といふ今もありて湊也。彦根に近し。八十の湊は今|八坂《ハツサカ》村といふ所也と云り。いかさまにも此歌の八十の湊は一所の名ときこゆるよし宣長いへり
といひ近江人大寂庵立綱のうきくさの跡にも『磯崎は坂田郡なる磯崎村、八十之湊は犬上郡|八坂《ハツサカ》村なるべし』といへり。案ずるに磯崎はなほ磯の崎にてヤソノミナトはなほアマタノミナトといふことなり。彼坂田郡なる磯崎は地形によりて名を負へるにこそ。八坂《ハツサカ》村をヤソノミナトに當てたるは特に辨ずるに足らず
 
(382)274 わが船はひらのみなとにこぎはてむおきへなさかりさよふけにけり
吾船者枚乃湖爾※[手偏+旁]將泊奥部莫避左夜深去來
 久老のオキベナサカリとよめるは非なり。ヘはテニヲハなり。沖ヘナサカリソのソは略してもよきなり○註疏に他船ハトモアレと釋けるはワガフネハのハを重く見すぎたるなり。さる意にあらず○結句を初句の上へまはして心得べし
 
275 何處吾將宿《イヅクニカワレハヤドラム》たかしまのかち野の原に此日くれなば
何處吾將宿高島乃勝野原爾此日暮去者
 初二を久老はイヅクニ【四言】ワレハヤドラムとよみ千蔭はイヅクニカワレハヤドラムとよめり。何處とありてカとよむべき字はなけれどよみそへてもあるべし。二句を雅澄のアハヤドラナムとよめるはあさまし。ヤドリナムとこそよまばよまめ○高島は近江の地名にてこは陸行の歌なり。勝野は今の大溝なり
 
276 妹も我もひとつなれかも三河なる二見の道ゆわかれかねつる
妹母我母一有加母三河有二見自道別不勝鶴
(383) ヒトツナレカモは一體ナレバニヤといふ意なり。契沖久老などの相思フ心ノヒトツナレバニヤといへるは非なり。又契沖が
  二見を二身になしたるか。さらずともフタミと云名よりヒトツナルカモとはいへり
といひ千蔭が『ヒトツナレカモといひ又三河二見など求て數を重ねよめる也』といひ雅澄の『三河二見といへる因にヒトツと云るなり』といへるは共に鑿説なり○考に
  三河の任などはてゝ大和へのぼる時よしありて尾張近江山背攝津をめぐりて歸るべければ妻は直に大和へ歸る時の別ををしめるならん
といへれどさては三河にては別るべからず。案ずるにこは三河より更に東なる國に赴かむとせし時によめるなり。抑三河より遠江に到るには御油《ゴユ》より吉田(豐橋)二川、白須賀、新居《アラヰ》、舞坂、濱松を經て天龍川に出づる道と御油より本《ホン》野原、嵩山《スセ》、本《ホン》坂越、氣賀《ケガ》、三方(ガ)原を經て天龍川に出づる道とあり。甲は東海道の大路にて乙は所謂姫海道なり。甲には途に今切の險あれば女子は好みて乙の道に由りけむ故に姫海道とい(384)ふにこそ。今も黒人は本道を行き妻は姫海道をゆかむとする故にフタミノミチユワカレカネツルとよめるなり。大日本地名辭書(御油の條)に
  按に二見路は後世姫海道と稱したり
といへるはいかが。フタミノ道ユワカレカネツルといへるを思へば本道と姫海道とを併稱してフタミノミチといひしに似たり。而して二見とかけるは蓋盒《フタミ》の借字にて離れては合ふといふ意にて名づけたるにあらざるか
 
   一本云
水河乃《ミカハノ》二見のみちゆわかれなばわがせもわれも獨かもゆかむ
水河乃二見之自道別者吾勢毛吾毛獨可毛將去
 考に
  是は妻の和たる歌なり。然れば端に黒人歌八首としるせし中に載べきにあらず。思ふに比八首の次に高市黒人妻和歌とて此歌有つらんを今本には脱、一本には亂てこゝに入つらん
といへり○古義に初句の乃を有の誤としてミカハナルとよめり。もとのまゝにて(385)ミカハノと四言によみてもあるべし
 
277 速《ハヤ》きてもみてましものを山しろのたかつきの村ちりにけるかも
速來而母見手益物乎山背高槻村散去奚流鴨
 速は舊訓にトクとよめるを久老ハヤとよみ改めたり。之に從ふべし。後世ハヤクといふに同じ○タカツキノ村は今は攝津國に屬せり。久老の『高く槻の生たる木群《コムラ》なるべし』といへるは非なり○チリニケルカモは考に『こは花か赤葉か。花といはで咲といへる類ひ古への常なればなり』といひ略解にカスガノ山ハサキニケルカモを例に出せり。契沖久老等の槻のもみぢの散るをいふといへるは誤れり
 
   石川少郎歌一首
278 しかのあまはめかり鹽やきいとまなみ髪梳《クシゲ》のをぐしとりもみなくに
然之海人者軍布苅鹽燒無暇髪梳乃少櫛取毛不見久爾
 左註に右今案石川朝臣君子號曰2少郎子1也とあり。考に題辭の少を女の誤として
  今本少郎と書て左の注に石川の字ぞといへるは甚しきひがごとなり。こは必女(386)の歌なるを男女の歌の分ちをだに見しらずや
といへり(新採百首解にも)。女の歌といへるはおのが上をよめるなりと心得たればなり。もし人の上をよめる歌とせば女の歌とは定むべからず。又左註を見ればはやくより少郎とありしなり。輕々しく改むべからず。少郎は兄を大郎、仲郎といふに對して云ふなり。いにしへは少小通用なりき○新勅撰集雜歌四に此歌を出だせるに四句クシゲノヲグシとあり又本集九卷にクシグナルツゲノヲグシモトラムト念ハズとあれば第四句はクシゲノヲグシとよむべし。但髪梳はクシゲとはよまれねば誤字にてもあるべし○考に『我上をよめるならん』といへれどなほ筑前に下りて志珂の女海人を見てよめるなり○ミナクニはミヌニの延言なれど今ミヌニといふとは異にてミヌヨなどいふに近し○軍布は久老の説に葷布の誤かと云へり
 
   高市《タケチ》(ノ)連《ムラジ》黒人歌二首
279 わぎもこに猪名野はみせつなすき山つぬの松原いつかしめさむ
吾妹兒二猪名野者令見都名次山角松原何時可將示
 西下の途にてよめるなり。猪名野以下皆攝津の地名にて猪名野は伊丹のあたりな(387)り。名次《ナスキ》ヤマ、つぬの松原共に今の西宮の近傍なり。ツヌは今の津戸か。代匠記に『和名を考るに武庫郡に津門【津止】あり』といひ閑田耕筆卷之一に
  名次山は西宮のうしろの山といふ。式にみゆる名次神社今は石もて作れる小社ながらやや大なる鳥井を建、其柱に其名を記す。……角の松原は此西宮の東の端尼(ガ)崎道にツトと訛れる所なりといふ
といへり○イツカ示サムはハヤク見セタシとなり
 
280 いざこどもやまとへはやく(しらすげの)眞野の榛原たをりてゆかむ
去來兒等倭部早白菅乃眞野乃榛原手折而將歸
 コドモは從者をさしていへるなり。古義に『妻女などを呼かけて云るなるべし』といへるは非なり〇二句にて切るべし。ヤマトヘハヤクユカムといふべきユカムを下なるユカムに讓れるなり○シラスゲノマヌは契沖『眞野ノ浦ノ小菅、眞野ノ池ノ小菅とよめるも今と同所にて菅に名ある所なる故にかくつづくるにや』といへり。シラスゲノは所謂准枕辭にて白菅ノ生フルを略したるなり。眞野は今神戸市の中に入れり〇此歌のハリは萩なり。此歌にタヲリテユカムといひ妻の答歌にユクサク(388)サ君コソ見ラメ眞野ノ榛原といへる、ハンノ木の調にあらざればなり○此歌は東上の時の歌なり
 
   黒人妻答歌一首
281 しらすげの眞野のはり原ゆくさくさ君こそみらめまぬの榛はら
白菅乃眞野之榛原往左來左君社見良目眞野之榛原
 ユクサクサは久老
  このサはアフサギルサ、カヘルサなどいひて其時をもはらといふにそふる言也。ユクトキ、クルトキ、歸ルトキなどいはんが如しといひ語源については久老は
  このサはもとよりセより轉れる言と見えて古事記に落2苦瀬《ウキセ》1而云々とみえ後の歌にアフセ、ココヲセニセンなどいへるセとひとしかりけり
 雅澄は
  古言に時といふことをシダともサダとも云るをそのシダもサダも約ればともにサとなれり云々
(389)といへり。語源の研究は余の企てざる所。人よく定めてよ○君コソ西國往返ノ途ニテ度々見給フラメ、吾ハ女ニテ再見ム事モ難カルベケレバヨク見テ行カムニ然イソギ給フナと云へるなり
 
   春日(ノ)藏首《クラビト》老《オユ》歌一首
282 (つぬさはふ)いはれもすぎずはつせ山いつかもこえむ夜はふけにつつ
角障經石村毛不過泊瀬山何時毛將超夜者深去通都
 第二句は磐余《イハレ》ダニ未過ギズとなり。結句の下にワビシクモアルカナといふことを加へて心得べし。一首三節に切れたるなり
 
   高市(ノ)連黒人(ノ)歌一首
283 すみのえのえな津にたちてみわたせばむこの泊ゆいづるふなびと
墨吉乃得名津爾立而見渡者六兒乃泊從出流船人
 エナツは今の住吉附近なり。武庫の泊はいにしへの武庫郡の内にて武庫川の河口か(河口の状は恐らくは今と異なるべし)。今の武庫郡は明治年間に兎原《ウバラ》郡と八部《ヤタベ》郡(390)とを合せられたるなり。但下に
  武庫の浦をこぎたむをぶね粟島をそがひに見つつともしき小舟
とある粟島は淡路島に附きたる小島とおぼゆれば武庫(ノ)浦は武庫川の河口附近としてはかなはず。されば武庫(ノ)浦は遙に西の方今の兵庫附近に亘れる稱か。さらば敏馬《ミヌメ》(ノ)浦といへるは武庫(ノ)浦の一部か
 
   春日(ノ)藏首老歌一首
284 やきつへにわがゆきしかば駿河なるあべの市ぢにあひしこらはも
燒津邊吾去鹿齒駿河奈流阿倍乃市道爾相之兒等羽裳
 阿倍は今の靜岡にて燒津はその西南にあり。ユキシカバは今ユキシニといふばかりの調なり○アベノイチヂは安倍の市の道なり○コラは一人にてもいひ又主として女にいふことははやく云ひき○ハモのモは嘆辭なり。さればコラハモは女ハナアといふばかりの調にて其女の消息をゆかしく思ふ意なり。記傳二十七卷ホナカニタチテトヒシ君ハモの註に『とぢめにかくハモと云は歎息の辭にてハヤと云と似ていさゝか異なり。ハモは戀慕ひていづらと尋求むる意ある辭なり』といへり
 
(391)   丹比《タヂヒ》ノ眞人《マヒト》笠麻呂往2紀伊國1超2勢能山1時作歌一首
285 (たくひれの)かけまくほしき妹名をこのせの山にかけば奈何《イカニ》あらむ【一云かへばいかにあらむ】
栲領巾乃懸卷欲寸妹名乎此勢能山爾懸者奈何將有【一云可倍波伊香爾安良牟】
 カケマクホシキのカクは口にする事○妹名は舊訓にイモガナとよめるを宣長久老はイモノナとよめり。何媛とか何の郎女とかいふ名にはあらで妹トイフコトヲといふ意なればげにイモノナとよむべし○結句は一云の方まされり。久老は兩者を存じて
  ヤガテ妹山トイフ名ニカヘバイカニアランとこたへかへしたる也。かく終の一句をうたひかへたる例集中の歌にも處々みえたり(○たとへば卷五和爲能熊凝述其志歌の反歌などをいへるなるべし)。佛足石の歌は歌ごとに皆然り
といへるを古義には集中にさる例なしといへり○故郷ナル妹ノコヒシサニ折ガアツタラ妹トイフコトヲ口ニシタイト思フ處デアルカラ今越ユルコノセノ山ノ(392)名ヲ代へテ妹ノ山トシテ妹ノ山妹ノ山トイハバイカガ、定メテ心が慰ムデアラウとなり。抑紀伊に吉野川を隔てて妹山と背山とありといふ事は夙くよりいふ事なれど宣長(玉勝間九卷及十二卷)は妹山の方は實は無き山なりと斷定し本居内遠の妹山背山辨には『もとは迫山の意なりけむを峯二つあるより風騷の士迫山の名を※[女+夫]《セ》の義にとりなして一の峯を背の山、今一の峯を妹山といひそめしならむ』といへり。げにもし妹山といふ山あらば妹ノ名ヲコノセノ山ニカヘバイカニアラムとは云はじ。されば妹山といふ山は少くとも此時には無かりしなり
 
   春日藏首老即和歌一首
286 よろしなべ吾背乃君之△《ナ》おひきにしこのせの山を妹とはよばじ
宜奈倍吾背乃君之負來爾之此勢龍山乎妹者不喚
 ヨロシナベは一卷にもあり。フサハシクといふことにてオヒキニシにかゝれり。ワガセノ君にかゝれるにあらず〇二句は從來ワガセノ君ガとよみたれどさては意通ぜず。案ずるにもと吾背乃君之名とありしが名といふ字のおちたるなるべし。さて其名は笠麻呂といふ名にはあらでセといふ名なれば之〔右△〕は前のイモノ名の例に(393)ならひてガとはよまでノとよむべし○イモトハヨバジは妹トハカヘジなり。即今マデ吾背ノ君ノ背トイフ名ヲ負ヒ來リテ恰好ナル山ノ名ヲ今サラ妹ノ山トカヘムヤといひて相手をたゝへたるなり
 
   幸2志賀1時|石上《イソノカミ》卿作歌一首 名闕
287 ここにして家やもいづくしら雲のたなびく山をこえてきにけり
此間爲而家八方何處白雲乃棚引山乎超而來二家里
 作者は考及槻の落葉には麻呂公とし古義には乙麻呂卿とせり○志賀にて故郷大和の方を顧み望みたる趣なり○ココニシテはココニテなり。三句の上にオモヘバカノといふことを補ひてきくべし
 
   穗積(ノ)朝臣老歌一首
288 吾命之《ワガイノチシ》まさきくあらばまたもみむしがの大津によするしら浪
吾命之眞幸有者亦毛將見志賀乃大津爾縁流白浪
    右今案不v審2幸行年月1
(394)初句舊訓にワガイノチシとよめるを久老雅澄のワガイノチノとよみ改めたるは中々にわろし○此歌は行幸の時の作にあらじ。おそらくは養老六年に佐渡國に流されし時の作ならむ。なほ卷十三に至りて云ふべし
 
   間人《ハシビト》(ノ)宿禰大浦|初月《ミカヅキ》(ノ)歌二首
289 あまのはらふりさけみればしらま弓はりて懸有《カケタリ》よみちは將吉《ヨケム》
天原振離見者白眞弓張而懸有夜路者將吉
 懸有はカケタリ(契沖)將吉はヨケム(舊訓)とよむべし〇三日月の空にかゝれるを白木の眞弓を張りかけたりとみなしたるなり。代匠記に三四の譬を結句に及ぼして『白眞弓を張て天に懸けつれば山賊などの恐なくして今行夜道はあしからじとなるべし』といへるを古義の路襲せるはをさなし。ただ月ガアルカラ夜道ハヨカラウといへるのみ
 
290 くらはしの山をたかみか夜ごもりにいでくる月の光ともしき
椋橋乃山乎高可夜隱爾出來月乃光乏寸
(395) 古義にヤマヲタカミカのカを『尾句の下にうつして意得べし』といへるは非なり。山ヲタカミカは山ヲ高ミニカアラムにてそのカはヨゴモリニイデクルにかゝれるなり。ヒカリトモシキにかゝれるにあらず○夜ゴモリニは夜フカクといふことなり(久老)。四卷にもコヒコヒテアヒタルモノヲ月シアレバ夜ハコモルラムシバシハアリマテとよめり○この歌のトモシは物足ラヌなり○久老のいへる如く此歌は初月の歌にあらず。されば上の歌の前に初月歌二首とあるは誤なり
 
   小田事(ノ)勢能山(ノ)歌一首
291 まきの葉のしなふせの山しぬばずてわがこえゆけば木葉しりけむ
眞木葉乃之奈布勢能山之奴波受而吾超去者木葉知家武
 契沖いはく『六帖に此歌を載せたるに作者を小田コトヌシといへり。事主なりけるを後の本に主の字を落せるか』といへり○シナフは靡く事なり。○シヌバズテを契沖は『故郷を戀ふる心にえたえしのばで』と釋し宣長はめで偲ばぬ意とせり。なほ考ふべし〇二句にて切りて心得べし
 
(396)   角《ロク》(ノ)麻呂歌四首
292 (久方の)あまのさぐめがいは船のはてし高津はあせにけるかも
久方乃天之探女之石船乃泊師高津者淺爾家留香裳
 作者の名は契沖『是は角兄麻呂を兄の字を落せるか』といひ又追考に
  續紀に惠耀といふ僧勅によりて還俗せり。姓は録、名兄麻呂を賜へり。録と※[用の上に点]《ロク》と同音なればそのころ相通して※[用の上に点]《ロク》(ノ)兄麻呂《エマロ》とも書たるを其文字の目なれねば後人角に誤つるなるべし
といへり(追考は槻の落葉に引けり)。按ずるに角の一音ロクなり。ロクの角を※[用の上に点]とも書くはカクの角と別たむが爲ならむ。されば商山四皓一人なる角里《ロクリ》先生は又※[用の上に点]里先生と書けり。四首共に難波にてよみし歌なり
天(ノ)探女《サグメ》が磐舟に乘りて難波の高津に着きし事は攝津國風土記の逸文にも見えたり。ハテシはハテケムと心得べし
 
293 鹽干乃〔左△〕《シホヒガタ》みつの海女《アマメ》のくぐつもち玉藻かるらむいざゆきてみむ
(397)塩干乃三津之海女乃久具都持玉藻將苅率行見
 初句舊訓にシホガレノとよめるを考及槻の落葉に四言の句としてシホヒノとよめり。案ずるにシホヒノ三津といふ續こゝろよからず。乃は方の誤にて潟の借字ならざるか○海女は舊訓にアマメとよめるを雅澄はアマメといへる例なしといひてアマとよみて二句を六言としたれど海人と書かで海女と書きたるを見ればなほアマメとむよべきなり〇四句の下にヲの辭を補ひてきくべし○クグツは編袋なり
 
294 風をいたみおきつ白浪たかからしあまの釣船濱にかへりぬ
風乎疾奥津白浪高有之海人釣船濱眷奴
 
295 すみの江の木△※[竹/矢]《キシノ》松ばら(とほつ神)わがおほきみのいでましどころ
清江乃木※[竹/矢]松原遠神我王之幸行處
 二句の下にハの辭を入れて心得べし○古義に木の下に志を補へり。※[竹/矢]はノの借字なり
 
(398)   田口(ノ)益人《マスヒト》大夫任2上野國司1時至2駿河淨見埼1作歌二首
296 いほはらの清見|之《ノ・ガ》埼乃〔左△〕みほの浦のゆたけきみつつものもひもなし
廬原乃清見之埼乃見穗乃浦乃寛見乍物念毛奈信
 清見之埼の之は舊訓にノとよめるを考にガに改めたり○清見埼は大日本地名辭書に
  今興津町の西大字清見寺の磯崎なるべし
といひ見穗浦は同書に
  清水港の舊名也。即清水、江尻と三保埼の間なる江※[さんずい+彎]をいふ
といへり○埼乃の乃は由又は從の誤にてサキユにあらざるか
 
297 晝みれどあかぬ田兒の浦おほきみのみことかしこみよるみつるかも
晝見騰不飽田兒浦大王之命恐夜見鶴鴨
 ヒルミレドは今ならばヒル見テモといふべき處なり。いにしへはミテモといふ辭はなかりしが後世物いひ細になりて出來たるなり。此歌の上二句は二卷なるフタ(399)リユケドユキスギガタキ秋ヤマヲと同格なり○槻の落葉に
  オホキミノミコトカシコミ此言集中にいとおほし。いにしへ人の天皇をかしこみ奉る意いたくつゝしめり。……心をとどめて此ひと言をだによく味へば大御國の古意を思ひ得つべし
といへり
 
   辨基(ノ)歌一首
298 まつち山ゆふこえゆきていほざきの角太《スミダ》(ノ)河〔□で圍む〕原《ハラ》に獨かもねむ
亦打山暮越行而廬前乃角太河原爾獨可毛將宿
     右或云辨基者春日藏首老之法師名也
 ユフコエユキテはユフベニコエユキテなり。ユフコエユクといふは歌語なり。文にはつかふべからず○マツチ山以下の地を契沖は駿河とし眞淵、宣長、久老、雅澄等は紀伊とせり。さて宣長は
  此角大河を古よりスミダ川と心得たるも僻事也。角を古スミと訓る例なし。スミ(400)には隅の字をのみ用ひたり。然ば爰はツヌダかツヌホかなるべし
といひ雅澄は角太河原の河の字類聚抄に無しといひて
  河字無き本に依ば原は眞神之原などいふ原にてスミダノハラニとよむべく又河原とあるも河は借字、之《ガ》の意にて角田之原なるべし(古來河とのみ心得來つれども河にてはあらじとぞおもはるゝ)。さて角田は眞土山の隣にありと云り(本居氏隅はスミ角はツヌにて事違へりと云り。されど續紀廿八詔に東南之角《タツミノスミ》云々|西北角《イヌヰノスミ》などあればなほ角田はスミダなるべき證とすべし)
といへり。雅澄の説に從ふべし。角太(ノ)原は後世の隅田《スダ》(ノ)莊にて紀伊國伊都郡の地名なり
 
   大納言大伴卿歌一首 未詳
299 奥山のすがの葉しぬぎふる雪のけなばをしけむ雨なふり行〔左△〕年《ソネ》
奥山之菅葉凌零雪乃消者將惜雨莫零行年
 シヌギはツキヌキなり。古義に久老の説によりてオシナビケテと譯せるは非なり○行年は舊訓にコソとよめるを宣長は所年の誤としてソネとよめり。ヲシケムは(401)惜カラム、フリソネは降ルナなり
 
   長屋王駐2馬(ヲ)寧樂山1作歌二首
300 佐保すぎて寧樂のたむけにおくぬさは妹を目かれずあひみしめとぞ
佐保過而寧樂乃手祭爾置幣者妹乎目不雖〔左△〕相見染跡衣
 契沖『佐保は長屋王の宅ある所なり』といへり。さらばサホスギテのスギテは二卷なるアヲ駒ノアガキヲハヤミ雲居ニゾ妹ガアタリヲスギテキニケルのスギテとおなじくて遠ざかる事とすべし○ナラノタムケは久老『奈良坂の峠なり』といへり。奈良坂は今の歌姫越にて今の奈良より山城に越ゆる般若寺坂の西方に當れり。契沖は之を若草山の一名なる手向山と混同せり。目カレズは恒ニなり○用ヲ終ヘテ無事ニ歸リテ末永ク妹ヲ見テムと願へるなり。アヒミシメトゾはアヒミシメヨトテオク幣ゾといふべきを略せるなり○雖は離の誤なり
 
301 いはがねの凝敷《コゴシキ》山をこえかねて哭者《ナキハ》なくとも色にいでめやも
磐金之凝敷山乎超不勝而哭者泣友色爾將出八方
(402) 凝敷を舊訓にコゴシキとよめるを雅澄はコゴシクとよみ改めたり。即雅澄は動詞とせるなり。案ずるに下に極此疑《コゴシカモ》イヨノタカネノとあり又十七卷に許其志可毛イハノカムサビとあり。此等のコゴシカモはコゴシキカモといふことゝおぼゆ。もしコゴシクといふ動詞ならばコゴシカモとはいふべからず。さればなほコゴシ、コゴシキとはたらく形容詞なり。さて其意は凹凸不平なる事なるべし〇四五は腹ニテハ泣クトモ男子ナレバ顏ニハ出サジといふ意なれば哭者をネニハとよみてネニハナクトモといひてはかなはず。久老の初思ひしやうにナキハナクトモとよむべし○此歌はただ山路のさがしき事をいへるのみなるを契沖は『別の悲しければしのびしのびにねにはなくとも』といひ久老は『おくれたる妹をこひつゝ山路を行がてなるに』といひ雅澄は『家なる妹に心は引れかた/”\超むと思へども得超あへずして』といへるは皆前の歌に引かれたるなり
 
   中納言安倍(ノ)廣庭卿歌一首
302 こらがいへぢややまどほきを(ぬばたまの)夜わたる月に競《キホヒ》あへむかも
兒等之家道差間遠烏野干玉乃夜渡月爾競敢六鴨
(403) コラを前註者皆妹の事としたれどいかが。こは五卷思子等歌にウリハメバコドモオモホユとあるコドモとおなじとおぼゆ○イヘヂは家ニユク道なり。古義に『妹が家の當(リ)近き道をいふ』といへるはいかに思へるにか○ヤヤは比較的といふ事なり。久老はヤウヤウと混同せり○ヨワタル月は夜の空をゆく月なり。契沖が『明るまである月を云ふ』といひ久老が『夜すがら大空をわたる月をいふ』といへるは非なり○競は舊訓にキホヒとよめるに從ふべし。略解にキソヒに改めたるは却りてわろし。月ニキホヒアヘムカモとは月の入らぬ間に到り得むやいかがとなり○雅澄のいへる如くおのが家に歸り來る途にての作なり
 
   柿本朝臣人麻呂下2筑紫國1時海路作歌二首
303 (名ぐはしき)稻見の海のおきつ浪ちへに隱奴《カクシヌ》やまと島根は
名細寸稻見乃海之奥津浪千重爾隱奴山跡島根者
 隱奴を舊訓にはカクレヌとよみ久老以下はカクリヌとよめり。此等の訓によれば沖ツナミノ千重といふものに大和島根が隱ると見ではかなはねどオキツ浪の下にノの言無ければ然は見られず。されば沖つ浪が千重に大和島根をかくすこととし(404)て隱奴をカクシヌとよむべし。播磨の印南の沖まで來て東の方を顧みるに蒼波渺茫として大和の山だに見えずといへるなり。ヤマトシマネは波の上に見ゆる大和の山々なり
 追考 槻の落葉に
  カクリヌとよみては沖つ波のかくるゝ事と聞ゆればカクシヌとよむべきにやとおもへどさてはいやし。千重に立へだつ沖つ波に倭島根は隱りぬといふ意なればカクリヌとよむべき也。卷五にコヌレガクリテとあり
といへれどオキツナミの下にニを略せりとは見られず。げに卷五梅花歌なるコヌレガクリテはコヌレニカクレテといふことなれどこれは一語となれゝば今の例とはすべからず
 
304 おほきみのとほのみかどとありがよふ島門をみれば神代しおもほゆ
大王之遠乃朝庭跡蟻通島門乎見者神代之所念
 トホノミカドは此歌にては太宰府を指せり(契沖)○古義に
  島門は難波より筑紫までの間の島々をすべ云なり。さてかの島々の依合たる島(405)門のあやしくなりいでしを見るにつけては神の國造らしゝ時いかにしてかかくはつくり出給ひけむと神の御代の事までおもはるゝと云ふなるべし
といへり。此説の如くならばトホノミカドトのトの言穩ならず。宜しくミカドニといふべきなり。又アリガヨフとシマトとの間にミチノといふこと無かるべからず。今の如くトホノミカドトアリガヨフシマトと云へるを味へばシマト即トホノミカドならざるべからず。否シマトは島と島との間なる船路なるべければシマトにトホノミカドのあるべきならねど少くともシマトは其遠ノミカドの入口などならざるべからず。さればこゝにシマトといへるは福岡※[さんずい+彎]内ならざるか。題辭に海路作歌とあるには拘はるべからず○アリガヨフは一時的にあらで續いて通ふこと
 
   高市連黒人近江(ノ)舊都(ノ)歌一首
305 かくゆゑにみじといふものをささなみのふるき都をみせつつもとな
如是故爾不見跡云物乎樂浪乃舊都乎令見乍本名
    右謌或本曰小辨作也。未v審2此小弁者1也
(406)カクユヱニはカク悲シカルベシト知リシユヱニなり。二三の間にシヒテサソヒテなどいふことを補ひて聞くべし○ミセツツモトナはアヤニク見セツツとなり
 
   幸2伊勢國1之時|安貴《アキ》王作歌一首
306 いせの海のおきつ白浪花にもがつつみて妹が家づとにせむ
伊勢海之奥津白浪花爾欲得裹而妹之家裹爲
 花ニモガは花ニモアレカシとなり
 
   博通法師往2紀伊國見2三穗|石室《イハヤ》1作歌三首
307 (はだすすき)久米のわくごがいましける【一云ケム】三穗のいはやはみれどあかぬかも【一云あれにけるかも】
皮爲酢寸久米能若子我伊座家留【一云家牟】三穗乃石室者雖見不飽鴨【一云安禮家留可毛】
 ハダススキは枕辭なり。但クメの枕といふ説(契沖、眞淵、山彦冊子二卷【五十二丁】)と句を隔てゝミホにかゝれりといふ説(眞淵一説、宣長、雅澄)とあり。おそらくはクメの枕なる(407)べし○ワクゴは小兒にも青年にもいへり○顯宗天皇御名は弘計《ヲケ》、日本紀に更《マタ》(ノ)名|來目《クメ》(ノ)稚子《ワクゴ》といへり。これによりて眞淵(冠辭考)は此歌のクメノワクゴを天皇の御事とせり。然るに天皇の紀伊にましましし事物に見えねば宣長(記傳四十卷)は
  萬葉三にハタススキ……此歌端書によるに紀伊國なり。然るに袁祁《ヲケ》王(○即後の顯宗天皇)は紀國に坐けること見えざれば此久米若子は別人にやとも思はるれどもなほ此御子なるべきか。もし播磨より前に紀國にもしばし坐しゝことありしが二紀に其事は漏たるにや。なほ詳ならず。又同卷にカザハヤノミホノウラ廻ノ白ツツジミレドモサブシナキ人オモヘバ、ミヅミヅシ久米ノワクゴガイフレケムイソノ草根ノカレマクヲシモこれもかの紀國の三穗石室のあたりの海邊にてよめるなるべし。端書は亂れたる誤なり。さて萬葉の同卷に生石《オフシ》(ノ)村主《スクリ》眞人歌オホナムチスクナ彦名ノイマシケムシヅノイハヤハイク代へニケム、或説に此志都(ノ)石室は今播磨國にある石之寶殿と云物にて其前に社ありて生石子《オフシコ》と云と云り。此説に就て己さきに思へるは『かの三穗石室の歌と此志都石室の歌と互に末句の入紛ひたるにて久米若子の坐しゝは播磨の志都石室なるべし。生石子(408)と云も御兄王の大石《オボシ》てふ御名に由あり』と思へりし(○記傳十二卷九丁及玉の小琴)はひかごとにぞありける。かの石寶殿と云物を志都石室なりと云ももとより非なり。彼は人の入居るべき物のさまにはあらず
といひ又本居内遠の三穗(ノ)窟考には
  億計《オケ》弘計《ヲケ》二王は實は市邊|押磐《オシハ》皇子の御孫にて久米若子は二王の御父の名なるを誤りて弘計王の更《マタ》(ノ)名《ナ》とせしなるべし。三穗は今の日高郡三尾か(採要)
といへり。眞淵宣長等の説に對して久老は
  スミケル人ゾツネナカリケル、ムカシノ人ヲアヒミル如シ又久米ノワク子ガイフレケムなどいへる日嗣しろしめしし王を申し奉りし事としてはいとなめきいひざまなり。されば久米ノワクゴは遠祁王を申し奉れるにはあらで神武天皇の率ましゝ久米部の、天皇紀伊國を經て内つ國に入りましゝ時紀伊國に殘れりけむその壯士《ワクゴ》をいへるなるべし(採要)
といへり。少くとも此久米(ノ)若子は顯宗天皇の御事にあらじ〇三句はいづれにてもあるべけれど結句は一云の方かなへり。遊賞の作にはあらで弔古の歌なればなり(409)○久米若子といふ人うちわびて此窟に住みしにはあらで窟を住處として豪奢なる生活を營みしなるべし。一首の調の然聞ゆるによりても弘計王の御事にあらざる事知らるべし。岩屋の在所の事は内遠の考の外玉勝間九卷にもいへり
 
308 常磐成《トキハナル》いはやは今もありけれどすみける人ぞ常なかりける
常磐成石室者今毛安里家禮騰住家類人曽常無里家留
 初句舊訓にトキハナルともトキハナスともよめり(宣長、久老、雅澄もトキハナスとよめり)。常磐の常は床の借字なり。記傳十六卷に常を正字とし床を借字とせるは非なり。後に木の常葉《トコハ》を訛りてトキハといふやうになりしより床磐と常葉とを混同して普く常磐と書くことゝなれり。さて常磐成をトキハナスとよめば床磐ノゴトクの意なり。岩屋を岩にたとふべきにあらねば此訓はかなひ難し。宜しくトキハナルとよみて永久不變ナルの意とすべし。トキハを永久不變の意に用ふるは轉義なり。床磐は永久不變なるものなれば(六卷にも人ミナノイノチモ吾モミヨシヌノタキノ床磐《トキハ》ノツネナラヌカモとよめり(轉じて永久不變の義になれるなり。かくトキハといふ語を永久不變の義に轉用するは後世に至りて始まりし事にはあらず。祝(410)詞にトキハニカキハニといひ本集十一卷にシラマユミイソべノ山ノ常石《トキハ》ナル命ナレヤモコヒツツヲラムといひ同六卷に春草ハノチハウツロフイハホナス常磐ニ〔八字傍点〕イマセタフトキ吾君とさへいへるを見ればはやくより轉義は行はれしなり○ツネナカリケルはトキハナルと照應せり
 
309 いはやとにたてる松の樹|汝《ナ》をみれば昔の人をあひみるごとし
石室戸爾立在松樹汝乎見者昔人乎相見如之
 初句石室戸爾と書ける戸は假字にて外なりと久老のいへる如し。略解に『イハヤドは石室の門也』といへるは非なり。五卷にも閨外をネヤトといへり
 
   門部王詠2東(ノ)市之樹1作歌一首
310 ひむかしの市の殖木のこだるまであはずひさしみうべ吾〔□デ圍む〕こひにけり
東市之殖木乃木足左右不相久美宇倍吾戀爾家利
 題辭に詠とありて更に作とあるは重なれるに似たれど卷六に詠2思泥崎1作歌とある類にて作をあまれりと見てヨメルウタとよむべきにやと久老いへり○コダル(411)マデの上にカタナリナリシヨリといふことを補ひて聞くべし○コダルは久老の木の年ふりて枝葉の足れるをいふといへる如し(契沖は木垂なりといへり)○アハズヒサシミは逢ハザル事久シサニなり。古義にアハズシテと譯せるはかなはず〇いにしへ京師には東西兩市ありしなり。こは市にて見そめし女を思ひてよめるならむ○吾は衍字なり
 
   ※[木+安]作《クラツクリ》(ノ)村主《スクリ》益人從2豐前國1上v京時作歌一首
311 梓弓|引《ヒキ》とよ國のかがみ山みず久ならばこひしけむかも
梓弓引豐國之鏡山不見久有者戀敷牟鴨
 アヅサユミヒキまではトヨクニの枕なり。契沖久老は引をヒクとよみてヒク音《ト》とつづけたりといひ眞淵(冠辭考)は引|撓《タヨ》ムといふ語を略き通はせてヒキトヨとつづけたるなりといひ雅澄は引|響《トヨム》といふ意にてつづけたるなるべしといへり。古義の説可なり○鏡山は豐前國田川郡香春村の東北に今も鏡山とてある是なるべし。久老が小倉に近き處にありといへるは其國人の説なりといへれど信じ難し○久老が
(412)  わがこふる人を鏡山によせ且鏡の縁語にてミズ云々といへり
といひ略解にも相聞の歌とせるは非なり。『鏡山ヲ見ズテ久シクアラバと云なり』と古義にいへる如し。但ミズヒサナラバは見ザル事久シカラバなり。ミズテとは譯すべからず。又古義に『見は鏡の縁に云るなり』といへるは鏡山ヲミズテといへると矛盾せり
 
   式部卿藤原|宇合《ウマカヒ》卿被v使v改2造難波堵1之時作歌一首
312 昔こそ難波ゐなかといはれけめ今者京引〔左△〕都備仁※[奚+隹]里《イマハミヤコトミヤコビニケリ》
昔者社難波居中跡所言奚米今者京引都備仁鷄里
 題辭の堵は都の通用なり。一卷イニシヘノ人ニワレアレヤの題辭にも感2傷近江舊堵1作歌とあり○ヰナカは今いふタンボなり〇四五句はイマハミヤコトミヤコビニケリとよむべし。村田春海は引を斗又は刀の誤とし(略解に引けり)雅澄は利《ト》の誤とせり○ミヤコビのビは久老がそのさまをいふ言にて後に何メクといふメクに同じといへる如し○難波宮を改造せられしは聖武天皇の神龜四年なり
 
   土理《トリ》(ノ)宣令歌一首
(413)313 みよしぬの瀧の白浪しらねどもかたりしつげば古おもほゆ
見吉野之瀧乃白浪雖不知語之告者古所念
 初二は序のみ〇三句の上にイニシヘノ事ハといふことを補ひて聞くべし○カタリシツゲバは人ノイヒツタフルヲ聞ケバといふこと○古の字は久老のイニシヘとよめるを可とす(舊訓はムカシ)
 
   波多《ハタ》朝臣|少足《ヲタリ》歌一首
314 さざれなみ礒こせぢなるのとせ河|音之清左《オトノサヤケサ》たきつ瀬ごとに
小浪礒越道有能登湍河音之清左多藝通瀬毎爾
 サザレナミイソまでがコセヂの枕なり。イソコスとかゝれるなり。既出の例はモノノフノヤソウヂ河。アヅサ弓ヒキトヨ國○コセヂは巨勢路にて寧樂より巨勢にゆく道なればノトセ川は契沖の大和と定めたるぞよろしき。近江といふ説(たとへば閑田耕筆卷之一に見えたる僧百如の説)は從はれず。今の重坂《ヘサカ》川なり。〇四句は音ノサヤケキ事ヨとなり。このサの用法は後の世なると少し異なり
 
(414)暮春之月幸2芳野離宮1時中納言大伴卿奉v勅作歌一首并短歌 未v※[しんにょう+至]2奏上1歌
315 みよしぬの 芳野の宮は 山からし 貴有師《タフトクアラシ》 水《カハ》からし 清有師《サヤケクアラシ》 あめつちと 長く久しく よろづ代に かはらずあらむ いでましの宮
見吉野之芳野乃宮者山可良志貴有師水可良思清有師天地與長久萬代爾不改將有行幸之宮
 ※[しんにょう+至]は逕の俗躰にて逕は經に通用せり○ヤマカラシ、カハカラシのカラは故、シは助辭なり○貴有師は舊訓にタフトカルラシとよめるを久老タフトクアラシに改めたり。之に准じて清有師もサヤケクアラシとよむべし。アラシはアルラシに同じ。こゝのタフトシはメデタシなり。卷二にも春花ノタフトカラムトとあり○此大伴卿は旅人《タビト》なり
 
   反歌
(415)316 昔みしきさの小河を今みればいよよさやけくなりにけるかも
昔見之象乃小河乎今見者彌清成爾來鴨
 
   山部宿禰赤人望2不盡山1歌一首并短歌
317 あめつちの わかれし時ゆ かむさびて 高くたふとき 駿河なる ふじの高嶺を あまのはら ふりさけみれば わたる日の かげもかくろひ てる月の 光もみえず 白雲も いゆきはばかり 時じくぞ 雪はふりける かたりつぎ いひつぎゆかむ ふじのたかねは
天地之分時從神在備手高貴寸駿河有布土能高嶺乎天原振放見者度日之陰毛隱此照月乃光毛不見白雲母伊去波伐加利時自久曾雪者落家留語告言繼將往不盡能高嶺者
 タカクタフトキは句を隔てゝフジノタカネにかゝれり○このアマノハラフリサケミレバは外の例とは異なり。即外の例なるはアマノハラヲのヲを略したるなれ(416)ど今はアマノハラニのニを略したるなり○ワタル日のワタルはテル月のテルと同じくて輕く添へたる語なり○カタリツギイヒツギユカムを契沖は『將來も此山の事は言ひつづけむとなり』といひ後の註家多くは之に雷同せり。案ずるに其世にありて後世まで殘らぬものならば後ノ世マデ語リ繼ガムと云ふべし。山の如き永久不滅のものは人の語り繼ぎ言ひ繼ぐを待たじ。さればカタリツグといへるには二種ありて一は後の世にかたりつぐ方、一は同時の人の未見ぬ人にかたりつぐ方にて今は後の方なり。六の卷なる過2敏馬浦1時作歌にウベシコソミル人ゴトニカタリツギシヌビケラシキとあるカタリツグも同時の人の未見ぬ人にかたりつぐ方なり○題辭の不盡山の下に久老は作の字を補ひたり
 
   反歌
318 たごの浦ゆうちでてみれば眞白衣《マシロニゾ》ふじのたかねに雪はふりける
田兒之浦從打出而見者眞白衣不盡能高嶺爾雪波零家留
 初二を眞淵の新採百首解にはタゴノ浦ノ山カゲノ道ヨリ打出テアフギミレバと釋き同じ人のうひまなびには
(417)  古への海道は今のさつた坂の山陰の磯傳ひにてそのさつた山の東の倉澤てふところに來れば富士は見さけらる。此邊みな田子の浦也。……かくて過こし磯もこゝも同じ田子の浦ながらかの山陰を打出て望し故に田兒ノ浦ユ打出テミレバといへる也
といへり。此説の如くばユの辭穩ならず。久老は『このユは常いふヨリといふ言には違ひて輕く、ニの手爾波に似たり』といひて田兒の浦に打出づる事とし考には『打出テ田兒ノ浦ヨリ見レバと心得べし。かく言を上下にして云事、集にも古今歌集にも多し』といひ(景樹の百首異見の説之に同じ)雅澄はタチイデテを船漕ぎ出づる事とせり。ユはニに通ふ事あれば(其例どもは槻の落葉三之卷別記二十八丁、犬※[奚+隹]隨筆【歌文珍書保存会本上卷一六頁】などに擧げたるを見よ)久老の説に從ふべし〇三句を雅澄はマシロクゾとよめれどマシロシといふ語あることを知らず○フリケルはフレリケルにてフツテヲルといふ事なり。新古今集、百人一首などにフリツツに改めたるは今ふることゝ思ひたがへたるなり
 
   詠2不盡山1歌一首并短歌
(418)319 (なまよみの) 甲斐の國 (うちよする) 駿河の國と こちごちの 國のみなかゆ いでたてる ふじのたかねは 天雲も いゆきはばかり とぶ鳥も とびものぼらず もゆる火を 雪|以《モチ》けち ふる雪を 火|用《モチ》けちつつ 言不得《イヒモカネ》 なづけもしらに 靈母《クズシクモ》 います神かも せの海と なづけてあるも その山の つつめる海ぞ ふじ河と 人のわたるも 其山の 水の當△《タギチ》ぞ 日本《ヒノモト》の やまとの國の しづめとも います神かも 寶とも なれる山かも 駿河なる ふじのたかねは みれどあかぬかも
奈麻余美乃甲斐乃國打縁流駿河能國與己知其智乃國之三中從出之〔左△〕有不盡能高嶺者天雲毛伊去波伐加利飛鳥母翔毛不上燎火乎雪以滅落雪乎火用消通都言不得名不知靈母座神香聞石花海跡名付而有毛彼山之堤有海曾不盡河跡人乃渡毛其山之水乃當烏日本之山跡國乃鎭十方座神可聞寶十方成有山可聞駿河有不盡能高峯者雖見不飽香聞
(419) 此長歌の次に反歌とありてフジノネニフリオケル雪ハといふ短歌ありそれに接して更にフジノネヲタカミカシコミといふ短歌ありて其左註に右一首高橋連蟲麻呂之歌中出焉以類載之とあり。右一首とあれば蟲麻呂の歌集中に出でたるはフジノネヲ高ミ恐ミといふ歌のみなり。さて此長歌と反歌とは誰の作にか。前の長歌と同じく赤人の作なるべしといふものあり。藤井高尚(歌のしるべ)の如きは赤人の作と押定めたり。されど本集に作者を記さざれば實は作者不詳の歌なり(もし赤人の作ならばアマグモモイユキハバカリなどいふ複句は寧用ひじ)。拾穗本には題辭の下に笠朝臣金村とあれど書式自餘の例に異なれば後人の書添なる事しるし
 今ならばカヒノクニトスルガノクニトといふべきを上のトを省きたるは一卷アラレウツアラレ松原スミノエノオトヒヲトメトミレドアカヌカモ、七卷サホ河ノキヨキ河原ニナクチドリカハヅトフタツワスレカネツモの類なり。下のトを省ける例も集中にあり。そは四卷に至りていふべし○コチゴチは此方此方にて即双方なり。くはしく本書二卷(二九九頁)にいへり○雪以、火用を舊訓に雪モテ火モテとよめるを雅澄はモチに改めたり。雅澄のモチモテの説は一卷コモチミコモチの歌の(420)處にくはし。モチは古くモテは新しきなり○言不得は契沖のイヒモカネとよめるに從ひ靈母は久老のクスシクモとよめるに從ふべし○神とはただに富士山をさしていへるなり。十六卷にも彌彦山の麓をイヤヒコノ神ノフモトといへり○セノウミは犬※[奚+隹]隨筆(珍書會本下卷十八頁)に
  こゝに甲斐國人名取繁樹といへる人の話にいま甲斐に西《ニシ》(ノ)湖《ウミ》といへる湖ありて是萬葉の石花海《セノウミ》なりと。按に西はかの書(○萬葉)にセの假名に用ゐたればそを甲斐人のニシと訓あやまりけむうつなし。……また略解に(○實は契沖の説)石花海とは鳴澤の事也といへるはいかに心得ひがめけるにか。澤と湖とはいと異なるものなるをや
といへり。西の湖は甲斐國東八代郡にあり。俗にセイコといふ。其西方に精進湖《シヤウジコ》あり。西八代郡に屬せり。共に富士八湖のうちにて海面上凡三千尺の高さにありといふ。三代實録にいはく
  貞觀六年七月十七日辛丑甲斐國言。駿河國富士大山忽有2暴火1、燒2碎崗巒1、草木焦熱土※[金+樂]石流、埋2八代郡|本栖《モトス》并※[賤の旁+立刀]《セ》兩水海1水熟如v湯魚鼈皆死云云
(421) 此時|石花湖《セノウミ》兩斷せられて今の西の湖と精進湖とに分れしなりといふ。西湖の周圍は三里十八町、精進湖の周圍は二里十六町、二湖相へだたる事二里ばかりなりといへば古の石花湖の大きさほぼ推測るべし○フジガハトのトはトテなり。タギチは瀬を成す事○宣長いはく『古書にヒノモトと云るは是のみ也。餘は日本と書てもヤマトと唱ふること也』と○ナレルはデキタルといふこと○カモといふ辭を三つ重ね用ひたるにて感歎の意殊に深く聞ゆ
 
   反歌
320 ふじのねにふりおける雪はみなづきのもちにけぬれば其夜ふりけり
不盡嶺爾零置雪者六月十五日消者其夜布里家利
 仙覺抄に富士の山には雪の降積りてあるが六月十五日に其雪の消て子の時より下には又隆替ると駿河國の風土記に見えたりといへり。果して然りとも其風土記の説は今の歌にもとづきて書けるにあらざるか。即仙覺の引けるは果して和銅の古風土記なりや。略解にも『かゝる諺の有を其國人の語けむまゝによめるなるべし』といへれどもしさる諺のあるによりてよめるならば結句はソノ夜フルトフなど(422)あるべきなり
 
321 ふじのねをたかみかしこみあま雲もいゆきはばかりたなびくものを
布土能嶺乎高見恐見天雲毛伊去羽計田莱〔左△〕引物緒
    右一首高橋(ノ)連《ムラジ》蟲麻呂之歌〔右△〕中出焉。以v類載v此
 略解に歌の字の下に集の字を補ひたり○タナビクモノヲのヲは『ヨといふに同じくよび捨たるヲなり。須佐乃雄命の大御歌にソノヤヘガキヲとあるをはじめて集中にもいとおほかり』と久老いへり。タナビクコトヨなど譯すべし。古義にアヲマツト君ガヌレケムアシヒキノ山ノシヅクニナラマシモノヲとあるモノヲに同じといへるは非なり○此歌前二首よりは品下れり
 
   山部宿禰赤人至2伊豫温泉1作歌一首并短歌
322 すめろぎの 神のみことの しきます 國のことごと 湯はしも さはにあれども 島山の よろしき國と (こごしかも) 伊豫の高嶺の いさにはの 崗にたたして 歌|思《オモヒ》 辭思爲師《コトオモハシシ》 みゆの上の こ(423)むらをみれば おみの木も おひつぎにけり なく鳥の こゑもかはらず とほき代に かむさびゆかむ いでましどころ
皇神祖之神乃御言乃敷座國之盡湯者霜左波爾雖在島山之宜國跡極此疑伊豫能高嶺乃射狹庭乃崗爾立之而歌思辭思爲師三湯之上乃樹村乎見者臣木毛生繼爾家里鳴島之音毛不更遐代爾神左備將徃行幸處
 伊豫の湯は即道後の湯なり。此長歌及反歌は聖コ太子の曾て此處に行啓していさにはの岡に碑を建てゝ文を録し給ひし事、舒明天皇の此處に行幸せし時大殿戸に椹《ムクノキ》【栗田氏訓】と臣(ノ)木とありていかるがといふ鳥としめといふ鳥と其二つの木に集りし事、齊明天皇の此處に行幸せし時額田王のニギタヅニフナノリセムト月マテバシホモカナヒヌ今ハコギデナとよみし事、その外はやく景行仲哀二帝の此處に行幸せし事を思ひてよめるなり
 スメロギノ神ノミコトは歴代の天皇なり(久老)。シキマス國ノコトゴトは領ジ給フ國ノ到ル處ニとなり○シマ山ノヨロシキクニトの上にコノ伊豫國ヲシモといふ(424)ことを補ひてきくべし。トはトテなり。久老雅澄のシマヤマを四國の事とせるはいかが○コゴシカモはコゴシキカモにて伊豫ノタカネにかゝれる准枕辭なり○伊豫ノタカネは久老今の石※[金+夫]《イシヅチ》山なりといひ古義、註疏、愛媛の面影なども此説に從へり(久老は※[金+夫]を鐵に誤り古義註疏共に其誤を襲へり)。案ずるに石槌山としては地理かなはず、歌の趣にてはイヨノタカネは道後の温泉に近く又イサニハノ岡はイヨノ高嶺の一部分ならざるべからざるに石槌山は温泉の東南十教里にあればなり。愛媛の面影の著者|半井《ナカラヰ》梧庵之について説を成したれど從はれず○イサニハノ岡といふ地名は今殘らず。國人の説に今義安寺といふ寺ある岡それなりといひ又今の湯月八幡宮の後方柿木谷より古城の邊まで昔は山つづきにて之を總てイサニハノ岡といひしを河野氏築城の時山を開き堀を穿ちて地勢全く變ぜしなりといふ(愛媛の面影)。雅澄の
  今伊佐庭といふ岡に社ありて伊佐庭神、湯月八幡神と申すを相祭れりと云り
といへるは非なり。伊佐爾波神社はもと伊佐爾波岡にありしを湯月八幡宮の傍に遷せるなり○ヲカニタタシテは宣長の説に聖コ太子の御事をいへるなりと云へ(425)り。此説よろし。崗ニタタシテの下に聖コ太子ガといふことを補ひてきくべし。抑此湯泉ははやく神代に著はれ景行、仲哀、舒明、齊明の天皇たちの行幸せしことあり。之に聖コ太子の行啓を合せて五度の行幸と云へり。就中太子は文を作りて碑を湯(ノ)岡(即伊佐爾波岡か)に建て給ひき。其碑は今殘らざれども碑文は幸に釋日本紀に傳はれり○歌思云々宣長雅澄の訓によりてウタオモヒコトオモハシシとよむべし。略解にウタシヌビコトシヌビセシとよめるは非なり。さてウタに對してコトと云へるは文辭なり。其文節はやがて碑の文なるべし。碑の文には
  我法王大王與2惠總法師及葛城臣1逍2遙夷與村1云々
とありて太子ならぬ人の書ける趣なれど少くとも太子も撰文に與り給ひきとおぼゆ。ウタオモヒとあれば歌もありしにてただ今は傳はらぬなり○ミユは御湯、上は雅澄の訓の如くヘとよみて近傍の義とすべし○コムラは樹の群なり。此語復活して用ふべし○オミノ木は仙覺の説にモミノ木なりといへり。風土記舒明天皇行幸の處に
  于v時於2大殿戸1有3椹與〔右△〕2臣木1
(426)とあれば伊豫の温泉には名高きおみの木ありしなり。さて今は昔名高カリシ臣ノ木モ年所ヲ經テ枯レ果テテヒコバエガ生ヒ繼ギタリといへるなり。彼文の次に
  於2其上1集3鵤與〔右△〕2此米鳥1
とあり(二つの與〔右△〕もと云とあり。今は契沖及栗田寛氏の意改による)。今は之を思ひてナク鳥ノコヱモカハラズといへるなり。さて臣の木は今と昔と異なる方、鳥の聲は今も昔にかはらぬ方にて表裏の事なるをオミノ木ハオモガハリシヌレドナク鳥ノコヱハカハラズなどいはでオミノ木モオヒツギニケリナクトリノコヱモカハラズと偶叙したるがおもしろきなり○トホキ代は末代にてカムサビユクはフリユクなり。畢竟遠キ後マデ傳ハラムといふ意なり。イデマシドコロは所謂五度の行幸の遺蹟なり
 
   反歌
323 (ももしきの)大宮人の飽〔左△〕田津《ニギタヅ》にふなのりしけむ年のしらなく
百式紀乃大宮人之飽田津爾船乘將爲年之不知久
 飽田津は舊訓にニギタヅとよみ眞淵は飽を饒の誤とせり。久老雅澄は今もアキタ(427)ヅといふ處ありといひてアキタヅとよめり。されど此歌は齊明天皇行幸の時額田王のよみしニギタヅニフナノリセムト月マテバシホモカナヒヌ今ハコギデナといふ歌によれりとおぼゆればなほ飽田津は饒田津の誤とすべし。國人の著せる愛媛の面影にはアキタヅといふ處はなしといへり。槻の落葉と古義とに見えたる西村大久保二人の説は疑ふべし○シラナクはシラレナクにてシラレナクと云へるに其かみの事を偲ぶ情あり
 
   登2神岳1山部宿禰赤人作歌一首并短歌
324 みもろの 神なび山に いほえさし しじにおひたる つがのきの いやつぎつぎに (玉かづら) たゆることなく ありつつも 不止《ヤマズ》かよはむ あすかの ふるきみやこは 山たかみ 河とほじろし 春の日は 山しみがほし 秋の夜は 河しさやけし あさ雲に たづはみだれ 夕霧に かはづはさわぐ みるごとに ねのみしなかゆ いにしへおもへば
(428)三諸乃神名備山爾五百枝刺繁生有都賀乃樹乃彌繼嗣爾玉葛絶事無在管裳不止將通明日香能舊京師者山高三河登保志呂之春日者山四見容之秋夜者河四清之旦雲二多頭羽亂夕霧丹河津者驟毎見哭耳所泣古思者
 神岳《カミヲカ》は雷岳の一名なり
 初五句はツギツギの序なり。イヤツギツギニと云はむとして今のぼれる山のつがの木を以て序とせるなり○ミモロは三輪にも神岳にもいふ。又カムナビといふ地名は大和のみならず山城にもあり。されどミモロノカムナビ山又は神ナビノミモロノ山とよめるは神岳に限れり。否平群郡にもミモロノカムナビ山といふ山あれどそは彼神岳社(高市郡飛鳥なる)を此山に遷し祭りたれば山の名をも遷したるなりといふ○イホエサシはアマタノ枝ガイデテといふこと、シジニオヒタルはオヒシゲリタルといふことなり。ツガは栂《トガ》なり○イヤツギツギニとタユルコトナクとほぼ同意なり。さて共に一句を隔ててヤマズカヨハムにかゝれり○アリツツモは(429)カクシツツなり○不止を略解にツネニとよめり。なほ舊訓の如くヤマズとよむべし○アスカノフルキミヤコは久老の『淨御原宮をいへる也。今は奈良へ都を遷されたればフルキミヤコとはいへる也』といへる如し○山タカミのミはサニとは譯すべからず。五卷なるマツラガハカハノセハヤミクレナヰノモノスソヌレテアユカツルラムのハヤミなどの類にて強ひて譯せばキニなど譯すべし。ともかくもサニといふばかりは次の事と親しからず○さて山とは神岳、川とは明日香川なり○トホジロシといふ語契沖は『大にゆたけき意なり』といひ宣長、久老、千蔭等は顯著の義とせり。こは一には語源より考へ一には續世繼に『その大納言の御車の紋こそきらゝにとほじろく侍りけれ』とあるに據れるなり。案ずるに此語書紀神代の卷に大小之魚とあるをトホジロクチヒ〔二字右△〕サキイヲドモ(チヒの二言私記によりて補ひつ)とよめると本集に二處(こゝと十七卷と)見えたるとの外には古きものには見えず。今鏡、愚管抄、悦目抄、長明無名抄などに用ひたるを【雅言集覧に集めたるを】見るに今鏡なると愚管抄なるとは顯著の義としてかなへど悦目無名に歌の姿を沙汰して
  たけ高くとほじろきを第一とすべし
(430)  限なくとほじろくなどはあらねど優にたをやかなり
  姿きよげにとほじろければ
などいへるは雄大の義とせでは通ぜず。されば中世の書に用ひたるは顯著の義なると雄大の義なると二種ありと謂ふべし。千蔭は神代紀の訓を評して
  かへりて轉りたるなるべし
といひ景樹は
  こは大也とおもひたがへし後の人の付たる假字にてよみざまもいと拙し
といへり。即二翁は本集の河トホジロシを川の大なることゝ思ひ誤れる人が神代紀の大小之魚についてトホジロク云々といふ訓を附けたるなりとせるなり。此見方によらば悦目無名のトホジロシは再神代卷の訓に誤まられたるものともすべけれど又見方によりては
  トホジロシは雄大といふ事の古語にてたまたま神代紀の訓に殘れるを遠くいちじろき義と誤り心得たる人の顯著といふべき處に用ひたれどなほ本義のまゝに用ひたる人もあるなり
(431)ともいはるべし。所詮見る人の心々なり。余は從來雄大の義として用ひたり○ミガホシは契沖の見之欲《ミガホシ》なりといへる如し。古義に後にミマホシといふに同じといへるはいかが。後世はミガホシといふ語絶えてミガホシといふべき時にもミマホシといふやうになりぬとは云ふべし○タヅハミダレのミダレは亂れ飛ぶなり。鳴く事は云はねど鳴きつゝ亂れ飛ぶさまなり○カハヅは今のカジカなり○ミルゴトニは古キ都ヲ見ルゴトニなり○此長歌は河トホジロシ、山シミガホシ、河シサヤケシ、カバヅハサワグとやうに數句づつにて切りたれば一首の調殊に遒勁なるなり
 
   反歌
325 あすか河かはよどさらずたつ霧のおもひすぐべき戀にあらなくに
明日香河川余藤不去立霧乃念應過孤悲爾不有國
 上三句は序。この歌のコヒは男女の戀にあらず。舊都を戀ふる心なり○オモヒスグベキを久老『おもひを過しやるべきといふ意』といひ雅澄も『念を遺失ふべきことなり』といへれどオモヒヲスグスベキとあらばこそさも釋かめ。オモヒスグといふ複動詞なるをいかがはオモヒヲスグシヤルと釋かむ。此語は下にもイソノカミフル(432)ノ山ナル杉村ノオモヒスグべキ君ニアラナクニとありて一時オモヒテ止ムといふこととおぼゆ
 
   門部王在2難波1見2漁父燭光1作歌一首
326 みわたせば明石の浦にともす火のほにぞいでぬる妹にこふらく
見渡者明石之浦爾燒火乃保爾曾出流妹爾戀久
 上三句はホの序なり。明石の漁火浪華まで見ゆべくもあらず。ただ遠方に見ゆる漁火をおしあてに明石の浦のと定めたるにて彼スミノ江ノエナ津ニタチテミワタセバムコノ泊ユイヅルフナビトの類なり○ホは物の先端なり。植物の穗もやがて其意にて名を獲たるなり。ホニイヅは内にこもりし事の外にあらはるゝをいふ。コフラクは戀フル事なり
 
   或娘子等賜〔左△〕2裹《ツツメル》乾蝮1戲請2通觀僧之呪願1時通觀作歌一首
327 わたつみのおきにもちゆきてはなつともうれむぞこれが將死還生《ヨミガヘリナム》海若之奥爾持行而雖放宇禮牟曾此之將死還生
(433) 賜は贈の誤なるべし(契沖)○ウレムゾは本集十一卷に今一つある外には例なし。契沖はナンゾ、イカンゾなど云に同じく聞ゆといへり○將死還生は宣長のヨミガヘリナムとよめるに從ふべし。略解にはヨミガヘラマシとよめれど辭の上か意の上かに云々ナラバ又は云々ナラズバといふことなくてはマシとはいはれず○略解に
  此僧死たるものを呪ひいかす術する聞え有ける故にほしあはびをもて來て戲に呪を請しなるべし
といへる如し。久老が
  この僧の死灰の心はいかでか思ひ返さむといふ意を含めり
といひ雅澄が之に從ひて
  色々すかしのたまふとも出離の心をば再おもひ返さじをといふ意を含めたるなり
といへるは非なり
 
   太宰少式小野(ノ)老朝臣歌一首
(434)328 (あをによし)ならのみやこはさく花のにほふがごとく今盛なり
青丹吉寧樂乃京師者咲花乃薫如今盛有
 
   防人《サキモリ》(ノ)司(ノ)祐〔左△〕大伴(ノ)四繩《ヨツナ》歌二首
329 (やすみしし)わがおほきみのしきませる國中者〔左△〕京師所念《クニノナカナルミヤコシオモホユ》
安見知之吾王乃敷座在國中者京師所念
 四句は雅澄の者を在の誤としてクニノナカナルとよめるに從ふべし。舊訓にクニノナカニハとよめるは國を大名《オホナ》の國と見ずして國々の意とし其國々の中には取分けて京を思ふといふ意と見たるならめど打任せて國々を思ふべきならねばそれに對してミヤコヲオモフといふべきならず○結句も雅澄のミヤコシオモホユとよめるに從ふべし。ミヤコオモホユとよむべしといふ説もあれどシの言なくては力足らず。京師の師は助辭のシに當れり(芳樹同説)○祐は佑の誤なり。防人司の佑は判官なり。マツリゴトビトとよむべし 
330 藤浪の花は盛になりにけりならのみやこをおもほすや君
(435)藤浪之花者盛爾成來平城京乎御念八君
 君とさせるは太宰帥大伴旅人卿なり(契沖)○寧樂の京の附近に藤の名所ありしなるべし。さらでは通ぜず(春日の藤は夙く此頃より名たゝりしか)。筑紫といふとも藤なくはあるまじきが故なり。因にいふ。フヂナミのナミは靡の意なり(眞淵はやくいへり)。後世浪をそへてよめる歌多く且定まりて浪の字を借り用ふれば深く察せざるものは浪の意と思ふめり。フヂナミのナミは穗ナミのナミと同じ。穗の立ちたるを穗ダチといひ穗のなびけるを穗ナミといふによりてフヂナミのナミもなびく意なるを知るべし。又フヂナミノ花と云ふは所謂歌語なり。秋ハギ春ガスミなどに同し。文にはただフヂノ花といふべし○オモホスを御念と書けるはトハスを御問と書けると同例なり。オモホスはオモフの敬語なるオモハスの轉ぜるなり
 
   帥大伴卿歌五首
331 わがさかり復將變△八方《マタヲチメヤモ》ほとほとにならのみやこをみずかなりなむ
吾盛復將變八方殆寧樂京師乎不見歟將成
(436) 帥は太宰府の長官なり。ソチともカミともよむべし
 二句は宣長の説に從ひてマタヲチメヤモとよむべし(宣長の説は玉の小琴の外玉勝間八卷に見えたり)。久老は他の例によりて變の下に若の字を補ひヲツを盛にかへることゝせり。案ずるにヲツはただカヘル又はモドルといふことなるべし。ほととぎすにヲチカヘリナクといへるヲチも同じ。さて轉じて若きにかへることをもワカキニヲツとはいはでただヲツと云ひしなるべし。久老はヲチカヘリナクのヲチを今のヲツと同語としたれど轉意の前後をいはず。余がヲツはもとはただカヘル又はモドルといふ意なるべしといふは今の歌にアガサカリマタヲチメヤモとあればなり。もしヲツがもとより若きにかへる意ならば今の歌はワガヨハヒマタヲチメヤモとこそいふべけれ。ワガサカリとはいふべからず。ほとゝぎすにヲチカヘリナクといふもヲツが元來ただもどる意なればなり。さて久老の説の如く若の字を補ふべきか否かといふに四卷にも六卷にも變若と書きたればこゝはなほ若の字をおとせるなるべし。即ヲツは元來ただかへりもどることなれど今は意を得て變若と書きたりしなるべし。因にいふ變は反の通用なり〇二三の間にモシ若ガ(437)ヘラズバといふことを補ひて聞くべし。ホトホトニは十中八九といふこと○此歌は前の歌のかへしなるべし。少くともかへしと見らるべし
 
332 わが命も常にあらぬか昔みしきさの小河をゆきてみむため
吾命毛常有奴可昔見之象小河乎行見爲
 アラヌカはアレカシなり(契沖)。キサノ小河は吉野にあり。毛と常と入りちがへるにあらざるか
 
333 (淺茅原)つばらつばらにものもへばふりにしさと之《ノ》おもほゆるかも
淺茅原曲曲二物念者故郷之所念可聞
 ツバラツバラは細ニなり。第四句の之を古義にシとよめれどなほ舊訓によりてノとよむべし。フリニシサトは次の歌によれば奈良にはあらず○オモホユルカモはシノバルルカナなり
 
334 わすれ草わがひもにつくかぐ山のふりにし里をわすれぬがため
萱草吾紐二付香具山乃故去之里乎不忘之爲
(438) ワスレヌガタメはワスレザル故ニソヲ忘レムトシテとなり。忘草を衣に附くれば憂を忘るといふ諺あればかく云へるなり。ワスレグサは百合科の植物にて黄なる花のさくものなり。今もワスレグサといひ又クワンザウといふ○香具山附近に作者の田莊ありしにや
 
335 わがゆきは久にはあらじいめのわだ湍者《セニハ》ならずて淵有毛〔左△〕《フチニアリコソ》
吾行者久者不有夢乃和太湍者不成而淵有毛
 ユキは旅行にて太宰府の任にあるをいふ。略解に歸らんも久にはあらずと釋してユキを歸り上ることゝ見たるは非なり○湍者は舊訓にセトハとよめるを久老のセニハに改めたるに從ふべし。六卷に見えたる同じ人の作にもシマラクモユキテミテシガカムナビノ淵ハアセニテ瀬ニ〔右△〕香ナルラムとあり○淵有毛は古義に毛を乞の誤としてフチニアリコソとよめるに從ふべし。フチニアリコソは淵デアツテクレとなり。イメノワダは吉野にあり。ワダは志賀ノ大ワダのワダにて水の淀める處なり
 
   沙彌滿誓詠v緜歌一首
(439)336 (白縫《シラヌヒ》)つくしのわたは身につけていまだはきねど暖所見《アタタケクミユ》
白縫筑紫乃綿者身著而未者伎禰杼暖所見
 初句舊訓にシラヌヒノとよめるを眞淵(冠辭考)はシラヌヒとよみて『古へは皆シラヌヒと四言によみつ』といへり○イマダハのハは意なし○結句は舊訓にアタタカニミユとよめり。記傳三十七卷に
  アキラカ、サヤカ、ノドカ、ユタカなどの類古言にはアキラケシ、サヤケシ、ノドケシ、ユタケシと云てアキラカ、サヤカ、ノドカ、ユタカなどは云(ハ)ぬ格なる故に……萬葉三なる筑紫乃綿者暖所見などもアクタケクと訓べきことなり
といへるに從ふべし○此綿は蠶綿即眞綿にて當時はたやすく手に入らざりしなり。筑紫の名産なりしが故にツクシノ綿と云へるなり
 
   山上臣憶良|罷《マカル》v宴歌一首
337 憶良らは今はまからむ子なくらむ其彼〔左△〕母毛吾乎將待曾《ソノコノハハモワヲマツラムゾ》
憶良等者今者將罷子將哭其彼母毛吾乎將待曽
(440) 無論戲れてよめるなり。四五殊にをかし〇四句は舊訓にソノカノハハモとよめれどカノといふこと餘れり。久老はソモソノ母モとよみて子ドモモ子ドモノ母モといふ意としたれど子の方はナクラムにて盡きたり。更にマツラムといふべきにあらず。類聚抄には彼〔右△〕の字子〔右△〕に作れりとぞ。袋草紙にもソノ子ノハハモとあれば清輔の見し本にも彼の字は子とありしなり。之に從ふべし○結句は久老のワヲマツラムゾとよめるをよしとす
 
   太宰帥大伴卿讃v酒歌十三首
338 しるしなきものを念はずばひとつきのにごれる酒を可飲有良師《ノムベクアルラシ》
驗無物乎不念者一坏乃濁酒乎可飲有良師
 念ハズバはオモハムヨリハなり(宣長)○シルシナキはイタヅラナルと云ふ事〇ニゴレルサケハは糟を漉さざる麁酒なり。當時も清酒はありしなり○結句はアルラシとよむべし。但十五卷にヒサシク安良之、二十卷にアスニシ安流良之とありてアラシ、アルラシ兩樣ともに例あり
 
339 酒の名をひじりとおほせしいにしへのおほきひじりの言のよろしさ
(441)酒名乎聖跡負師古昔大聖之言乃宜左
 魏の時酒を禁ぜられしより酒徒隱語を作りて清酒を聖人といひ濁酒を賢人といひしこと諸註にいへる如し。今は此故事によれるなり。李白獨酌の詩にも已聞清比v聖、復|道《イフ》濁如v賢とあり○久老いふ『オホキヒジリとは誰にまれ酒をたふとみて聖といふ名をおふ〔二字右△〕しゝ人をほめていへり』と
 
340 いにしへの七賢人等毛欲爲《ナナノサカシキヒトドモモホリセシ》ものはさけにし有良師《アルラシ》
古之七賢人等毛欲爲物者酒西有良師
 七賢人等毛欲爲はナナノサカシキ(雅澄)ヒトドモモ(幽齋本)ホリセシ(久老)とよむべし
 
341 賢跡物言從者《サカシミトモノイフヨリハ》さけのみてゑひなきするし益有良之《マサリタルラシ》
賢跡物言從者酒飲而醉哭爲師益有良之
 賢跡は古義にサカシミトとよめるによるべし。カシコガリの意なり。サカシミトのトは二卷シラニトイモガマチツツアラム又此卷長皇子遊2獵路池1時歌にカシコミ(442)トツカヘマツリテとあるトに同じ(古義總諭七十九丁參照)○結句はマサリタルラシとよむべし
 
342 いはむすべせむすべしらにきはまりてたふときものは酒にし有良之《アルラシ》
將言爲便將爲便不知極貴物者酒西有良之
 イハムスベセムスベは相偶ひたる熟語なり。こゝにてはイハムスベに意ありてセムスベには意なし
 
343 なかなかに人とあらずばさか壷に成而師鴨《ナリテシガモ》さけにしみなむ
中々二人跡不有者酒壷二成而師鴨酒二染嘗
 人トアラズバは人トアラムヨリハといふこと○成而師鴨は舊訓にナリテシガモと六言によめるを略解にナリニテシガモとよみ改めたれどさる辭はなし。其上二十卷にアサナサナアガルヒバリニ奈里弖之可ミヤコニユキテハヤカヘリコムとあればなほ舊訓の如くナリテシガモとよむべし○結句の上にサテといふ語を補ひてきくべし。略解にいへる如く呉の鄭泉といひし人の死に臨みて『必我を陶家の(443)後に葬れ。化して土になり幸に取られて酒壷とならば實に我心を獲む』といひし故事によれるなり
 
344 あなみにくさかしらをすと酒不飲人乎熟見者猿二鴨似《サケノマヌヒトヲヨクミバサルニカモニム》
痛醜賢良乎爲跡酒不飲人乎熟見者猿二鴨似
 サカシラヲストはカシコダテヲストテといふことなり(契沖)〇三句以下契沖のサケノマヌ人ヲヨクミバサルニカモ似ムとよめるを略解に改めてヒトヲヨクミレバサルニカモニルとしたれどサルニカモといふ語勢を受けてはニムといふべく下をニムといはば上はミバといはざるべからず。されば契沖の訓によるべし。さてサルニカモ似ムといへるは容貌の上にはあらでふるまひの上にて云へるなり。即猿のかしこぶりと異ならじといへるなり
 
345 あたひなき寶といふともひとつきのにごれる酒に豈益目八△《アニマサメヤモ》
價無寶跡言十方一坏乃濁酒爾豈益目八
 結句類聚古集に豈益目八方とあり。これによりてアニマサメヤモとよむべし
 
(444)346 よるひかる玉といふとも酒のみてこころをやるにあにしかめやも
夜光玉跡言十方酒飲而情乎遣爾豈若目八目〔左△〕【一云八方】
 ココロヲヤルは氣を散ずる事〇八目は八方の誤なり。集中にモに目の字を借れる例無し 
347 世のなかのあそびの道に冷〔左△〕者《タヌシキハ》ゑひなきするに可有良師《アルベカルラシ》
世間之遊道爾冷者醉哭爲爾可有良師
 三句は宣長の怜者の誤としてタヌシキハとよめるに從ふべし。アソビノミチニはアソビノ道ノ中ニテの意なり○結句は舊訓にアリヌベカラシとよめれどアルベカルラシとよむべし
 
348 このよにしたぬしくあらばこむ世には蟲に鳥にもわれはなりなむ
今代爾之樂有者來生者蟲爾島爾毛吾羽成奈武
 初二の間に酒ヲノミテといふことを補ひてきくべし。第四句は蟲ニモ鳥ニモなり。上のモを略したるなり
 
(445)349 生者《イケルモノ》つひにもしぬる物爾有者今生在間者《モノナレバコノヨナルマハ》たぬしくを有名《アラナ》
生者途毛死物爾有者今生在間者樂乎有名
 生者は考にイケルモノとよめるに從ふべし。楊子に有生者必有死、有始者必有終、自然之道也とあるによれるなり〇三句はモノナレバ(久老)四句はコノヨナルマハ(舊訓)有名はアラナ(宣長)とよむべし。四五の間に例のサケヲノミテといふことを挿みてきくべし
 
350 黙然居而《モダヲリテ》さかしらするは酒のみてゑひなきするになほしかずけり
獣然居而賢良爲者飲酒而醉泣爲爾尚不如來
 初句は宣長のモダヲリテとよめるに從ふべし(記傳三十卷二十一丁參照)。因にいふ俗語のダマルはモダル(モダアルの約)のモがマに轉じ更にマダが下上となれるなるべし(カラダ、ツゴモリを方言又は俗語にカダラ、ツモゴリといひ又アラタシを後世アタラシといふ類)
 
   沙彌滿誓歌一首
(446)351 よのなかをなににたとへむあさびらきこぎにし船の跡無如《アトナキゴトシ》世間乎何物爾將譬旦開※[てへん+旁]去師船之跡無如
 アサビラキは冠辭考及新採百首解にあしたに湊を船出するをアサビラキといへりと云へり。ヒラキは發船の發に當れり。さて今はアサビラキシテといふべきを略せるなり○結句はアトナキゴトシと久老のよめるに從ふべし。雅澄の云へる如くゴトはゴトクの略にてゴトシを略してゴトといふことなければなり
 
   若湯座《ワカユヱ》王歌一首
352 あしべにはたづがねなきてみなと風さむくふくらむつをの埼はも
葦邊波鶴之哭鳴而湖風寒吹良武津乎能埼羽毛
 二句はタヅガ、ネナキテなり。ネヲナクのヲを略してネナクともいひしなり(オノガモノカラネナクなど)○此歌サムクフクラムとあればつをの埼にてよめるにあらず。ハモも思ひ遣る辭なり○ツヲノ埼の所在は明ならず
 
   釋通觀歌一首
(447)353 みよしぬのたかきの山にしら雲はゆきはばかりて棚引所見《タナビケリミユ》
見吉野之高城乃山爾白雲者行憚而棚引所見
 ユキハバカリテはコエカネテなり○結句は雅澄に從ひてタナビケリ〔右△〕ミユとよむべし。ルといはでリといへる例は古義に擧げたり。上なるミダレイヅ見ユと同格なり
 
   日置《ヘキ》(ノ)少老《ヲオユ》歌一首
354 繩の浦にしほやくけぶりゆふさればゆきすぎかねて山にたなびく
繩乃浦爾塩燒火氣夕去者行過不得而山爾棚引
 縄(ノ)浦を眞淵久老は綱《ツヌ》(ノ)浦の誤として攝津の地名とせり○ユキスギカネテを雅澄は得消失ズシテと釋したれど前の歌なるユキハバカリテ又七卷なるシカノアマノシホヤクケブリ風ヲイタミタチハノボラデ山ニタナビクのタチハノボラデと似たる意とおぼゆ。即晝の間は上方にたちのぼりし烟の夕方になりて風が起りて横になりて山にたなびけるさまなり
 
(448)   生石《オフシ》(ノ)村主《スクリ》眞人歌一首
355 おほなむちすくな彦名のいましけむしづのいはやはいく代へぬらむ
大汝小彦名乃將座志都乃石室者幾代將經
 シヅノイハヤは小篠|敏《ミヌ》の説(玉勝間九卷三十一丁)に岩見國|邑知《オホチ》郡岩屋村にありといふ。閑田耕筆一之卷には圖をも出だせり。なほ記傳四十卷【四十五丁】翁草卷百五十二などをも參照すべし○此窟を播磨國の石(ノ)寶殿とする説はひが言なり 
   上《カミ》(ノ)古麻呂《コマロ》歌一首
356 今日〔左△〕可聞《イマモカモ》あすかの河のゆふさらずかはづなく瀬の清有良武《サヤケカルラム》【或本歌發句云あすか川今もかもとな】
今日可聞明日香河乃夕不離川津鳴瀬之清有良武【或本歌發句云明日香川今毛可毛等奈】
 初句は日を誤字としてイマモカモとよむべし(略解に日は目の誤かといへれど目をモの假字に用ひたる確なる例は未見當らず)○アスカノ河ノは四句の瀬にかゝれり。河ノユフサラズとつづくにあらず○ユフサラズは毎夕なり。三句にユフサラ(449)ズとあるにても初句のケフモにあらざる事を知るべし○結句はサヤケカルラム(久老)とよむべし
 
   山部宿禰赤人歌六首
357 繩の浦ゆそがひにみゆるおきつ島こぎたむ舟は釣爲良下《ツリセスラシモ》
繩浦從背向爾所見奥島※[てへん+旁]囘舟者釣爲良下
 眞淵久老は例の如く綱ノ浦の誤とせり○ソガヒは後方なり。前方に見ゆるといはで後方に見ゆるといへる異樣なるに似たれどよく思ふに作者は海邊に立てるにあらで船に乘りて或方向に進みをるなり。さるによりてソガヒニミユルといへるなり○結句宣長以下ツリセスラシモとよめるを雅澄は『ツリセスはツリシ給フといふ意なり。然るにこゝはツリシタマフと尊みいふべき處ならねばツリセスとよむはわろし』といひてツリシスラシモとよめり。案ずるに此格(ツリスをツリセスといひタツをタタスといふ類)は自の上にはいはで他の上にのみいふ辭なれば多少の敬意はあれど打任せたる敬辭にあらず(ふさはしき名稱を思ひ得ねば後にも、しばらく敬辭といふべけれど實は他の上にいふ辭といふべし)。されば今もツリセス(450)ラシモとよみて不可なる事なし
 
358 むこの浦をこぎたむをぶね粟島をそがひにみつつともしき小舟
武庫浦乎※[てへん+旁]轉小舟粟島矣背爾見乍乏小舟
 粟鳥は淡路に屬せる小島とおぼゆ。七卷にも粟島ニコギワタラムトオモヘドモ赤石ノトナミイマダサワゲリとあり○小舟とあるを略解に『こゝのトモシキは……舟をいふにはあらず粟島をともしくおもふ也。コギタム小舟は此作者の乘れる舟にて結句の小舟も同じ』といへるは非なり。海路にて小舟を見て其小舟をうらやましく思へるなり○久老雅澄が作者は西に下るに他の舟の倭の方へこぎのぼるがうらやましきなりと釋けるも非なり。作者は今粟島の邊をすぐとて此粟島を後に見つゝ武庫ノ浦をこぎめぐる小舟は定めておもしろかるべしと羨めるのみ。小舟は其わたりの漁舟なり。倭の方へこぎのぼる舟にあらず○さてアハシマヲソガヒニミツツといひてトモシキ小舟とは續けられず。ミツツは彼小舟の人の見るにてトモシキは作者が思ふなれば四五の間に辭無くてはかなはず。案ずるに二句と尾句と同語にてとむる格あり。こはは誰も知れる所なり。さて今の歌は右の格の中の又一(451)格にて初二を更に四五の間に挿みてきくべき格なり。辭を換へていはば
  アハシマヲソガヒニミツツムコノ浦ヲコギタム小舟トモシキ小舟
かくいふべきなれど、さては四五を同語にてとむる事となりて調よろしからねば其三四と初二とを倒置して彼二句と尾句とを同語にてとむる格にかなへたるなり
 
359 あべの島うのすむいそに依浪《ヨスルナミ》まなくこのごろ日本《ヤマト》しおもほゆ
阿倍乃島宇乃住石爾依浪間無比來日本師所念
 アベノシマは攝津といふ説あれど確ならず〇三句は久老に從ひてヨスルナミとよむべし。さて上三句は序なり
 
360 しほひなばたまも苅藏《カリツメ》家妹之《イヘノイモガ》はまづとこはば何をしめさむ
塩干去者玉藻苅藏家妹之濱裹乞者何矣示
 苅藏はカリツメ(舊訓)カラサム(久老)カリコメ(雅澄)などよめり。いづれも穩ならず。但例とも見べきは卷十六に荒城田ノシシ田ノ稻ヲ倉ニ擧藏而とありてこれをも舊(452)訓にツミテとよめり。又軍防令營繕令などの貯v庫の貯を古訓にツムとよめり。今もしばらくカリツメとよみてそのツメを俗語のシマヘの意とすべし○家妹之は舊訓にイヘノイモガとよめるを雅澄は二十卷に以幣乃母ガキセシコロモニとあるによりてイヘノモガとよめり。もとのまゝにてもあるべし○ハマヅトは海邊のみやげなり〇二三の間にシカセズバといふことを挿みてきくべし
 
361 秋風のさむきあさけをさぬの崗|將越《コユラム》きみにきぬかさましを
秋風乃寒朝開乎佐農能崗將越公爾衣借益矣
 此歌は考及略解にいへる如く女の歌とおぼゆ。されば題辭に山部宿禰赤人歌六首とあるはいぶかし。考には此歌を赤人の妻の歌として『上の黒人の八首と有中に妻の歌一首書入たる類ならん』といひ宣長は旅宿の遊女などのよめるなるべしといへり〇二句のヲを久老は後世にニといふ助辭なりといへり。時の下に添ふるヲなり○サヌの岡は上にサヌノワタリとあると同處なりといふ○將越を略解にコエナムとよめれど大和なる女の遙に思ひやりてよめるなりとおぼゆればなほ舊訓の如くコユラムとよむべし○キヌカサマシヲは例の如くモシデキルコトナラバ(453)といふ事を加へてきくべし。セバ、ズバなどの打合なきマシは皆然り、前に擧げたる宣長の説の如く旅宿の遊女の作とせば四句の將越はコエナムともよむべけれどさてはマシといへるにかなはず
 
362 みさごゐる石轉《イソミ》におふるなのりその名はのらし五〔左△〕《テ》よおやはしるとも
美沙居石轉爾生名乘藻乃名者告志五余親者知友
 上三句は序なり。石轉は舊訓にイソワとよめるを久老イソミと改めよめり。磯ノメグリなり○ナノリソはホンダハラなり(久老)○久老は五を弖の誤とせり。ノラシテヨはノラセ、ノラサネと同意にて告ゲタマヘとなり。オヤハシルトモは親ノ咎ヲ受クトモとなり。いにしへは人の娘は妄に他人に名を告げざりしにて誰の娘誰と名のるは身を許すに齊しかりしなり○此歌はまぎれてこゝに入りたるにこそ。相聞の歌にて初四首とたぐふべきにあらず
 
   或本歌曰
363 みさごゐるありそにおふるなのりその告〔左△〕《ヨシ》名はのらせおやはしるとも(454)美沙居荒礒爾生名乘藻乃告名者告世父母者知友
 千蔭は告を吉の誤としてヨシナハノラセとよめり。十二卷にはミサゴヰルアリソニオフルナノリソノ吉名者不告《ヨシナハノラジ》オヤハシルトモとあり
 
   笠朝臣金村鹽津山作歌二首
364 ますらをのゆずゑ振起《フリオコシ》いつる矢をのち見む人はかたりつぐがね
大夫之弓上振起射都流失乎後將見人者語繼金
 振起を略解にフリタテとよみたれど久老のいへる如く十八卷に梓弓須惠布理於許之とあればなほ舊訓の如くフリオコシとよむべし。調もその方をゝしく聞ゆ○ガネとガニとの別は古義にくはしく云へり。ガネは
  マスラヲハ名ヲシタツベシノチノ代ニキキツグ人モカタリツグガネ佐保河ノキシノツカサノシバナカリソネ、アリツツモハルシキタラバタチカクルガネ
などありてタメニとかベクとか譯すべし○第三句のイツル矢ヲは射ツル矢ゾと(455)いふことなり。射ツル矢ヲ後見ムとつづけるにあらず。アシヒキノ山ヨリイヅル月マツト人ニハイヒテ君マツ我ヲなどのヲなり
 
365 しほつ山うちこえゆけばわがのれる馬ぞつまづく家こふらしも
鹽津山打越去者我乘有馬曾爪突家戀良霜
 家コフラシモは家ガ(即家人ガ)コフルサウナとなり。奥義抄に
  旅人を家にてこふる妻あれば乘馬つまづきなづむ
といへるは此歌などによりていひ出でたるにて證とすべくはあらねど歌の調を思ふになほさる諺ありしにこそ
 
   角鹿《ツヌガ》(ノ)津乘v船時笠(ノ)朝臣金村作謌一首并短歌
366 こしの海の つぬがの濱ゆ 大舟に 眞梶ぬきおろし (いさなとり) 海路にいでて あへぎつつ わがこぎゆけば (ますらをの) たゆひが浦に あまをとめ 塩やくけぶり (草枕) たびにしあれば 獨して みるしるしなみ わたつみの 手にまかしたる たまだすき (456)かけてしぬびつ やまと島根を
越海之角鹿乃濱從大舟爾眞梶貫下勇魚取海路爾出而阿倍寸管我※[てへん+旁]行者大夫乃手結我浦爾海未通女塩燒炎草枕客之有者獨爲而見知師無美綿津海乃手二卷四而有珠手次懸而之努櫃日本島根乎
 ツヌガは敦賀なり○眞梶は兩方の櫓、ヌキオロシはヌキサゲなり○アヘグを久老、千蔭、雅澄ともに舟子の喘ぐことゝしたれどアヘギツツワガコギユケバとあるを舟子の喘ぐ事とは釋かれす。案ずるにまことは喘ぐも漕ぐも舟子のする事なれど歌にては作者自身が舟を漕ぐやうによめるなり。さればアヘグも作者の事と見べし○アマヲトメシホヤクケブリはアマヲトメノ塩ヤクケブリヲと辭を添へて心得べし○ヒトリシテミルシルシナミは獨見テハ見ル詮ガナイカラとなりワタツミノ手ニマカシタルタマダスキはカケテの序、又その初二句はタマの序なり○ヤマトシマネは大和國をいへり。旅先にておもしろき景色を見て故郷の妻や友やを思へるなり
 
   反歌
(457)367 こしの海のたゆひの浦をたびにしてみればともしみやまとしぬびつ
越海乃手結之浦矣客爲而見者之〔左△〕見日本思櫃
 こゝのトモシミはものたらぬ意なり(契沖がメヅラシキなりと云へるは從はれず)。旅先にてただ獨して見るが故に物足らぬなり
 
   石上《イソノカミ》(ノ)大夫歌一首
368 大船にまかぢしじぬきおほきみのみことかしこみ礒廻《イソミ》するかも
大船二眞梶繁貫大王之御命恐礒廻爲鴨
    右今案石上朝臣乙麻呂任2越前國(ノ)守1。蓋此大夫歟
 礒廻を舊訓にアサリとよめるを久老はイソミとよめり。そのイソミは雅澄のいへる如く礒を廻りて漕ぎ行くことゝおぼゆ(久老は『いそべに船がかりするをいふ言なり』といへり)。嗚呼ツライ事ヂヤといふ餘意あり
 
   和歌一首
369 もののふのおみのをとこはおほきみのまけのまにまにきくといふも(458)のぞ
物部乃臣之壯土者大王任乃隨意聞跡云物曾
    右作者未v審。但笠(ノ)朝臣金村之歌中出也
 モノノフノオミは廷臣、ヲトコは丈夫なり。マケは差遣なり。キクは承ルなり。古義にいへる如く同船の人のよめるなるべし
 
   安倍(ノ)廣庭卿歌一首
370 雨不〔二字左△〕零《コサメフリ》とのぐもるよ之〔左△〕《ヲ》、潤濕跡《ヌレヒデド》、戀つつをりき君まちがてり
雨不零殿雲流夜之潤濕跡戀乍居寸君待香光
 雨不零の零を宣長は霽の誤としてアメハレズとよみ久老は宣長の説に從ひ又或人の説とて雨不を※[雨/沐]の誤としてコサメフリとよめり。後説に從ふべし。トノグモルはただ曇る事なり○之の字を雅澄は乎の誤としてナルニのヲとせり○潤濕跡を契沖はヌレヒツとよみたれどなほ舊訓に從ひてヌレヒデドとよむべし。ヒヅは四段にも活きしなり
 
(459)   出雲守門部王思v京歌一首
371 飫△海〔左△〕乃《オウガハノ》河原のちどりながなけばわが佐保河のおもほゆらくに
飫海乃河原之乳鳥汝鳴者吾佐保河乃所念國
 契沖は飫の下に宇の字おちたりとし眞淵(槻落葉に引けり)は海を河の誤とせり。此等の説に從ひて飫宇河乃の誤とすべし。國府は今の八束郡|出雲郷《アダカヤ》村にありて意宇《オウ》川即今の熊野川に近かりしなり○オモホユラクニはオモハルルヨといふばかりの意なり。此ニは常のニと齊しからず。古義に心シテサノミ鳴コトナカレといふ意を含めたるなりといへるは非なり
 
   山部宿禰赤人登2春日野1作歌一首并短歌
372 (はる日を) かすがの山の (高くらの) 御笠の山に 朝さらず 雲ゐたなびき かほ鳥の まなくしばなく (雲ゐなす) 心いざよひ (其鳥の) 片戀のみに 晝はも 日のことごと よるはも 夜のことごと たちてゐて おもひぞわがする あはぬ兒ゆゑに
(460)春日乎春日山乃高座之御笠乃山爾朝不離雲居多奈引容鳥能間無數鳴雲居奈須心射左欲此其鳥乃片戀耳爾晝者毛日之盡夜者毛夜之盡立而居而念曾吾爲流不相兒故荷
 クモヰは記傳二十八卷【五十三丁】に『クモヰとは常には雲の居る處を云へども古へは又ただに雲を云ることも多し』といひて例を擧げたり○カホドリは眞淵の説によぶ子鳥と同じくて今のカツポ鳥なりといひ久老、守部(山彦冊子三卷五十九丁)岡部東平(嚶々筆語初篇七丁)などは之に左袒し契沖、信友(比古婆衣十八卷)などは一つの鳥の名にあらずといへり。なほ考ふべし○ココロイザヨヒは心シヅマラズなり○タチテヰテは或ハ立チ或ハ居テなり。アハヌ兒ユヱニは我ニナビカヌ女ナルニといふ事○さて初より十二句のうちココロイザヨヒ、片コヒノミニの二句の外はすべて文飾にてまづ眼前の景を叙しさて其辭の縁によりて感情を述べたるなり。人麿の
  ツヌサハフ石見ノ海ノ、コトサヘグカラノ埼ナル、イクリニゾ深ミルオフル、アリソニゾ玉藻ハオフル、玉藻ナスナビキネシ兒ヲ、フカミルノフカメテモヘド
(461)の格をまなべりとおぼゆ
 
   反謌
373 (たかくらの)三笠の山になく鳥のやめばつがるる戀もするかも
高※[木+安]之三笠乃山爾鳴島之止者繼流戀哭〔左△〕爲鴨
 上三句は序にてヤメバツガルルは長歌のマナクシバナクにあたりて怠る間なきをいへり○哭を眞淵は喪の誤とせり
 
   石上《イソノカミ》(ノ)乙麻呂朝臣歌一首
374 雨ふらば將蓋跡念有《キムトオモヘル》かさの山人にな令蓋《キシメ》ぬれはひづとも
雨零卷將蓋跡念有笠乃山人爾莫令蓋霑者漬跡裳
 二句は六帖にキムトオモヘルとよめるに從ひ令蓋は古義にキシメとよめるによるべし。又二句の前にワガといふことを加へヌレハヒヅトモの前にヨシヤ其人ガといふことを加へてきくべし○譬へたる所あるべし。古義の宮地其の説はうべなはれず
 
(462)   湯原王芳野作歌一首
375 吉野なるなつみの河の川よどに鴨ぞなくなる山かげにして
吉野爾有夏實之河乃川余杼爾鴨曾鳴成山影爾之※[氏/一]
 ニシテはニテの意なり。ニシテの事玉緒七卷三十五丁にくはし
 
   湯原王宴席歌二首
376 あきつはの袖ふる妹を(たまくしげ)おくにおもふをみたまへ吾君《ワガキミ》
秋津羽之袖振妹乎珠匣奥爾念乎見賜吾君
 アキツハノソデはうすものゝ袖なり。比古婆衣四卷(信友全集第四の九六頁)に秋津葉の意とせるはいかが。なほ蜻蛉羽の意なるべし○オクニオモフは俗にいふトツトキにて大切ニオモフなり○オモフの下に妹といふ語を挿みて聞くべし。即ソデフル妹ヲといひて更にオクニオモフ妹ヲといへるなり○吾君は久老のアギミとよめるに從ふべきかと思へど十九卷にサカエイマサネタフトキ安我吉美とあればなほアガキミ又はワガキミとよむべし。千蔭はワギミとよめれどワギミは新し(463)(奈良朝文法史四十八頁參照)
 
377 青山のみねのしら雲あさにけにつねにみれどもめづらし吾君《ワガキミ》
青山之嶺乃白雲朝爾食爾恒見杼毛目頬四吾君
 初二は序なり。略解に上は序なりといへるはまぎらはし○アサニケニは毎日なり
 
   山部宿禰赤人詠2故太政大臣藤原家之山池1歌一首
378 昔|者〔左△〕之《ミシ》ふるきつつみは年深《トシフカミ》いけのなぎさにみくさおひにけり
昔者之舊堤者年深池之瀲爾水草生家里
 贈太政大臣は不比等公なり。藤原家は藤原氏といふことなり。集中に橘家、坂上家、丹比家なども見えたり。古義に『高市郡藤原の別莊なるべし』といへるは非なり。山池は庭園なり○昔者之の者は看の誤にてムカシミシならむと田中道麻呂いへり(玉の小琴)〇三句は六帖にトシフカミとあるに從ふべし(舊訓はトシフカキ)。年久しき事をトシフカシといへるは古今のナガキオモヒ〔六字傍点〕ハワレゾマサレルなどと同じく漢語に胚胎したるにあらざるか(四卷大伴坂上郎女怨恨歌にもトシフカクナガクシ(464)イヘバとあり)○ツツミとイケノナギサとかさなれるこゝちす。案ずるにイケノはツツミの前にいふべきなれど餘地なきが故に下へまはしたるにてナギサはツツミの一部分と見べし
 
   大伴(ノ)坂上《サカノヘ》(ノ)郎女祭v神歌一首并短歌
379 (久堅の) あまの原より 生來《アレコシ》 神の命 奥山の さかき之《ノ・ガ》枝に 白香付《シラガツケ》 ゆふとりつけて いはひべを いはひほりすゑ たか玉を しじに貫垂《ヌキダレ》 (ししじもの) 膝をりふせ たわやめの 押日《オシヒ》とりかけ かくだにも われはこひなむ 君に不相《アハジ》かも
久堅之天原從生來神之命奥山乃賢木之枝爾白香付木綿取付而齊〔左△〕戸乎忌穿居竹玉乎繁爾貫垂十六自物膝折伏手弱女之押日取懸如此谷裳吾者祈奈牟君爾不相可聞
 生來は舊訓にアレキタルとよめるを久老雅澄はアレコシに改めたり。さてそのアレを雅澄はアラヒト神のアラと同言にて現はれ出づといふ事なりといへり。此説よろし。高天原カラ生レテ來タとはいふべきにあらねばなり○神ノ命は即大伴氏の祖神天(ノ)忍日《オシヒ》(ノ)命なり。略解にいへる如くミコトの下にヨの辭を添へてきくべし。ミコトヲのヲを省けるなりといふ説あれどさてはその照應すべきコヒナムとあまりに離れたり〇オク山ノは准枕辭なり。之はノ(舊訓)ともガ(槻の落葉以下)ともよむべし○サカキは眞淵の説(冠辭考マサキヅラの條)に一の木の名にあらでいにしへ松杉橿などの常葉木を神事などに用ひし時たゝへてサカキ(榮樹)といひしにてそが中に取り分けて鏡、幣をかけなどせしは橿なりといへり。宣長(記傳八卷)守部(神樂入綾上卷二十丁)など此説に左袒せり。久老は之に反してシキミなりといひ高尚(松の落葉四卷三丁)中山|美石《ウマシ》(後撰集新抄八卷九丁)熊谷直好(梁塵後抄神樂上一)などの説は久老に同じ。その外雅澄は今のサカキなりといひ六人部是香(すずの玉ぐし二卷三十二丁)は槻なりといへり。いにしへは一木の名にあらざりきといふ説は信ずべく又和名抄の頃には既に一木の名となれりしは確なり○白香付は舊訓にシラガツケとよめるを眞淵はシラガツクとよみて枕辭とせり。後の註者皆枕辭説に從へる中に獨是香は枕辭にあらずとし舊訓の如くシラガツケとよみて榊の枝にシ(466)ラガを附け又ゆふを附くる意とせり(すずの玉串二卷三十八丁)。是香の説に心引かる。シラガは本居大平の説に白紙なりといへり。されば白紙にて作れる幣と木綿布にて作れる幣とを榊に取附くるなり○イハヒベは清淨なる土器にてこゝにては酒を盛れるなり。イハヒホリスヱは清めて土中に堀りすうるなり○タカダマは眞淵の説(槻の落葉に引けり)に神代紀にスズノ八十玉グシといふあれば玉をすず竹に附けて神を祭るなりといへり。案ずるにタカ玉は竹を短く切りて緒に貫けるなり(仙覺の説に竹を玉のやうに刻みて神供の中にかけて飾ることあるそれなりといへり)。所謂スズノ玉グシとは別なり。竹に玉を附けたるをタカダマとはいふべからず。琉球諸島には今も細き竹管を紐にとほして頸にかくる風習ありといふ。但そは玉の獲がたき爲なるべく今は清淨を貴ぶ神事の具にて二たび用ふべきものならねば竹にて作れるにこそ。シジニは繁クなり。ヌキタレは緒ニ貫キテ頸ニ垂レとなり。垂はタレとよむべし○タワヤメは作者自身をいへり。なほ男子の自稱してマスラヲといふが如し○押日は諸註オスヒとよめり。記傳十一卷に
  此名はオソヒと通ひてオシオホヒを約めたるなり。さて其状は一幅にまれ二幅(467)にまれ幅《ハタバリ》のまゝにいと長き物なるを後世の婦人の被衣《カヅキギヌ》などの如く頭より被て衣の上を掩ひ下は襴まで垂ると見ゆ。さて其は上代は男女共に人に誰と知れじと面貌を隱す料の服と見えたり、然るを奈良の頃などになりては男の着ることははやく絶て女の古の禮服の如くなりて神を祭るときなどにのみ着けるなるべし(採要)
といへり。黒川春村(碩鼠漫筆卷之十意須比考)は
  古書中に押比、押日、忍比など有を見るにオスヒと訓べき文字ならず。必オシヒとよまゝほしきこゝちす
といへり。今は押日とあれば右の説に從ひてオシヒとよむべし。オシヒともオスヒともいひしにこそ。春村が意須比とかきたるをもオシヒとよむべしといへるは從はれず○カクダニモは代匠記にはカクサヘ略解にはカクバカリ古義にはカクマデモと譯せり。こゝは積極的の所作を云へるなれば今ならばサヘといふべくダニとはいふべからず。ダニの用法後世とは異なりきとおぼゆ○コヒナムのナムは契沖の説にノムにひとしと云へり。ノムは祈る事○結句は舊訓にキミニアハジカモ(468)とよめるを久老はアハヌカモに改めたり。げにワガ命モツネニアラヌカ、雨モフラヌカなどと同格なる如く見ゆれどよく思ふにこれらはみな相手につきたるはたらきにてフラヌカはフラナム、アラヌカはアラナムと譯してよく通ずれど君ニアハヌカモはアハナムとは譯せられず。アハナムといふ意ならば君ノとか君モとか云はすばかなはじ。たとへば十五卷に
  あはずしてゆかばをしけむまくらがのこがこぐふねに伎美毛〔右△〕安波奴可毛
とあるを思ふべし。さればなほ舊訓のまゝにアハジカモとよみてアハザラムカマアと譯し其前にサテモナホなどいふ辭を補ひて聞くべし
 
   反謌
380 ゆふだたみ手にとりもちてかくだにもわれはこひなむ君に不相鴨《アハジカモ》
木綿豐手取持而如此谷母君波乞嘗君爾不相鴨
    右歌者以2天平五年冬十一月1供2祭大伴氏神1之時制作2此謌1。故曰2祭v神歌1
(469) ユフダタミはたゝみたる木綿なり
 
   筑紫娘子《ツクシヲトメ》贈2行旅1歌一首
381 家もふと情進莫《ココロススムナ》かぜまもりよくしていませあらき其路
思家登情進莫風侯好爲而伊麻世荒其路
 二句は舊訓にココロススムナとよめるに從ふべし。ハヤルナといふことゝおぼゆ○カゼマモリヨクシテはヨク風待ヲシテといふ事なり○行旅は旅行者にて京に還る人なり。此娘子は所謂遊行女婦ならむ
 
   登2筑波岳1丹比眞人國人作歌一首并短歌
382 (とりがなく) あづまの國に 高山は さはにあれども 明〔左△〕《フタ》神の たふとき山の なみたちの 見がほし山と 神代より 人のいひつぎ 國見する 筑羽の山を (冬ごもり) △時〔左△〕敷時〔左△〕《トキジキヤマ》と みずて往者《ユカバ》 ましてこひしみ ゆきげ爲《スル》 山道すらを なづみぞわが來前〔左△〕二《コシ》
※[奚+隹]之鳴東國爾高山者左波爾雖有明神之貴山乃儕立乃見※[日/木]石山跡神代從人之言嗣國見爲筑羽乃山矣冬木成時敷時跡不見而往者益而戀石見(470)雪消爲山道尚矣名積叙吾來前二
 筑波山には二峯あり。一は高く一は低し。高きを男體といひ低きを女體といふ。いにしへ男體を男《ヲ》(ノ)神といひ女體を女《メ》(ノ)神といひ總稱してフタガミといひしなり。紀に※[木+患]日二上峯《クシビフタガミタケ》とあるを始めて諸國に二上山といふがあるは皆二神にて二峯あるによれる名なり(記傳十五卷七十四丁參照)○ナミタチはならび立てるさまなり○ミガホシは上(四三一頁)にいへり。ミガホシキ山をつづめてミガホシ山といへるなり○フタガミノ以下四句はフタガミノタフトキ山ニシテナミタチノミガホシキ山ナリトテとうつすべし。記傳四十五卷外宮之度相の註にも二三の例を擧げたり○クニミスルの上にノボリテといふ辭を加へて見べし○ツクバノ山ヲはツクバノ山ナルヲなり○フユゴモリ時敷トキトとては意通ぜず。又フユゴモリは春の枕辭なれば時敷とは受けられず。契沖はフユゴモリ春サリクレドシラユキノ時敷トキトとありしが二句おちたるなるべしと云へり。げに然り○時敷時跡を契沖は幽齋本の點に從ひてトキジクトキトとよめり。雅澄いはく
  白雪ノトキジクフリシク時トテの意とは聞ゆれどもいささかいひ足はぬ詞な(471)り
といへり。げに辭足らず。案ずるに契沖以來此句をトキジクトキとよめるはトキジクノカグノコノミ、トキジク藤などいふ例によれるならめど此等のトキジクはカグノ果又は藤の形容なり。然るに今のトキジクは雪の形容にて時の形容にあらねばトキジク藤などを例としてトキジク時とはよむべからず。此トキジクといふ語を上なる白雪の形容とするには如何にすればよきかといふにトキジキ時とよめば可なり。かくよめばトキジキは白雪の形容となりて下なる時の形容とならず又雅澄のいひ足はずといへる難もなくなるなり。本居春庭の詞の通路(中卷三十四丁)に『トキジシ、トキジキとはたらくことなし』といへれどトキジ、トキジキとはたらく事は本書一卷(一六頁及四六頁)にいへる如し。更に案ずるにシラユキノトキジキ時トといへる下の時といふ語穩ならず。おそらくはシラユキノトキジキ山トとありしを誤れるなるべし○往者は舊訓にイナバとよめるを久老雅澄はユカバに改めたり○ミズテユカバといへるを受けてはコヒシカルベミといふべきが如くなるをコヒシミといへる、此格の事くはしく本書二卷(二九二頁)にいへり(犬鷄隨筆上卷(472)七十二頁『未來言の下を現在言にて結格』參照)○ユキゲ爲の爲を舊訓にスルとよめるを略解にセルに改めたるは中々にわろし○スラは主語を強むる辭なり。本書二卷(二五二頁)を見合すべし○ナヅムはゆきなやむなり○明は朋の誤又前二は竝二の誤にてシに充てたるなりと前哲云へり。案ずるに明は双の誤か
 
   反歌
383 つくばねをよそのみ見つつありかねて雪げの道をなづみ來有《ケル》かも
筑羽根矣四十耳見乍有金手雪消乃道矣名積來有鴨
 ヨソノミは契沖ヨソニノミといはぬは例の古語なりといへり○來有は舊訓にクルとよめるを宣長ケルに改め後人みな之に從へり。さてそのケルを宣長は來タルの意とし雅澄は來ケルの切とせり。宣長の説に從ふべし。有は或は衍字にあらざるか。もし然らばクルとよむべし
 
   山部宿禰赤人歌一首
384 わがやどに韓藍《カラヰ》まき生之《オホシ》かれぬれどこりずてまたもまかむとぞおもふ
(473)吾屋戸爾幹藍種生之雖千不懲而亦毛將蒔登曾念
 韓藍は卷十一|隱《コモリ》ニハコヒテシヌトモミソノフノ※[奚+隹]冠草ノ花ノ色ニイデメヤモ(舊訓に鷄冠草をカラアヰとよめり。又卷十にコフル日ノケナガクシアレバミソノフノ辛藍ノ花ノ色ニイデニケリといふ歌あり)といふ歌の註に
  類聚古集云。鴨頭草又作2※[奚+隹]冠草1云々。依2此義1者可v和2月草1歟とあるを(今本の類聚古集第七を檢するに鴨頭草亦作2鷄冠草1亦作2唐棣1可v考とあり)契沖は斥けて
  和名集云楊氏漢語抄云鴨頭草……此中に※[奚+隹]冠草と云はず。それは猶漏たる事も有なむを和名集海菜類云楊氏漢語抄云※[奚+隹]冠菜……又木類云楊氏漢語抄云※[奚+隹]冠木……此兩種色も形も※[奚+隹]冠に似たる故に名づく。※[奚+隹]冠木を※[奚+隹]頭樹とも云へば※[奚+隹]冠草は※[奚+隹]頭花なるべき義明なり。……※[奚+隹]冠と鴨頭と色も形も異なるを何ぞ一草に名付むや。其上六帖にもカラアヰとよみたれば今の注用べからず(〇六帖には人シレズコヒハシヌトモミソノフノカラアヰノ花ノ色ニ出メヤとあり)
といへり。然るに眞淵は(474)此呉藍といひ韓藍と云も共に其種は同じもの也。さるをむかし中末までクレナヰてふ名の專らあるをおもへば始の呉の國よりこし時クレナヰと名づけ後に韓國よりもこしをカラアヰといふならん。さて縫殿式に韓紅花と有はただ深紅の事也。韓にて染るが濃(キ)に依てそれが樣に染るを云にて染種はただ紅花のみ。此左に類聚古集云……とあり。さて是を鴨頭草とするはひがごと也。そは多く生るものなれば殊に御圃に植らるべからず。……或人は此卷に※[奚+隹]冠草花と有によりて後世見ゆる※[奚+隹]冠草の事ぞといへるはいふにもたらず。先紅花は茎立の末に丸き房あつまり成て其房ごとの赤き花のさき出ぬるさま※[奚+隹]冠といふべし……といひ(萬葉考卷四別記)宣長は
  萬葉集の歌にクレナヰをカラアヰともよめり。そもそもクレナヰといふは此物もと呉の國より渡りまうできたるよしにて呉の藍といふをつづめたる名なるをそは韓國よりつたへつる故に又韓藍ともいへるなりといへる説のごとし。但しカラといふは西の方の國々のなべての名なれどこれは呉國をさしていへるにて呉藍といふと同じことにもあるべし。さるを萬葉の十一の卷には※[奚+隹]冠草と(475)も書るにつきて鴨頭草也とも※[奚+隹]頭花也ともいふ説どもの有てまぎらはしきやうなれどもツキ草とも※[奚+隹]頭花ともいふはみなひがごとにて紅花《クレナヰ》なること疑ひなし
といへり(玉勝間六卷一丁)。案ずるにカラアヰのツキクサにあらざる事は眞淵が『そは多く生るものなれば殊に御圃に植らるべからず』といひ契沖の『※[奚+隹]冠と鴨頭と色も形も異なるを何ぞ一草に名づけむや』といへる如し。然らば※[奚+隹]頭花と紅花といづれぞといふに本集卷七に秋サラバ影〔左△〕毛《ニホヒモ》セムトワガマキシ韓藍ノ花ヲタレカツミケムといふ歌あり。タレカツミケムといへる※[奚+隹]頭花の調とはおぼえず。されば眞淵宣長の説に從ひてクレナヰ即ベニバナの事とすべし○生之はオホシ、オフシ兩訓のうちオホシを正しとす。本集に於保之、於保佐牟、於保世流など書けり
 
   仙|柘枝《ツミノエ》歌三首
385 (あられ零《フリ》)きしみがたけをさがしみと草取|可奈和〔二字左△〕《カネテ》妹が手をとる
霰零吉志美我高嶺乎險跡草取可奈和妹手乎取
(476)    右一首或云。吉野人味稻與2柘枝仙媛1歌也。但見2柘枝傳1無v有2此歌1
 古事記|速總別《ハヤフサワケ》王の歌に
  はしだてのくらはし山をさがしみといはかきかねてわが手とらすも
といふ歌あり。又肥前風土記に肥前|杵島《キシマ》郡杵島山に郷閭の士女が毎歳春秋に登望して樂飲歌舞する歌詞とて
  あられふ縷〔右△〕きしまがたけをさがしみとくさとり我泥※[氏/一]《カネテ》いもがてをとる
といふ歌を載せたり。こは彼速總別王の歌を作りかへたるものとおぼゆ。栗田寛氏は肥前風土記にアラレフルの歌を擧げて是|杵島曲《キシマブリ》といひ又常陸風土記に崇神天皇の御代の事を記して杵島唱曲七日七夜とあるによりてアラレフルの歌は夙く崇神天皇の御代にありしなれば速總別王の歌の方後なりといへり。されど其論據確ならず。殊にアラレフルの方は尾句に不審あればなほ宣長の説の如くキシマガタケはクラハシ山を作りかへたるなり。キシマガタケの方は尾句に不審ありといふは彼クラハシ山の歌は男王の御歌にてワガ手トラスモとのたまへるは男王ま(477)づ登り女王(女鳥《メトリ》王)ついで登らむとして男王の御手にとりつきたまふにてよく聞えたれど草トリカネテ妹ガ手ヲトルといひては女まづ登り男ついで登らむとして女の手にとりつくにて理かなひがたし。かくの如く調に任せて理を忘れたるはやがて此歌の後出なる一證といふべし。これより本集の歌について云はむに此歌は題辭に仙柘枝歌三首とある第一首にて左註にも右一首或云吉野人味稻與2柘枝仙媛1歌也とあれど風土記の杵島曲と辭すこしかはれるのみにて柘枝に關れることなく又吉野の内にキシミガタケといふ山あることを聞かず。されば宣長久老等のいへる如く題辭の亂れたるなるべし○初句の霰零は風土記にはアラレフル〔右△〕とあれど眞淵は二十卷にアラレフ理カシマノカミヲと假字書にせるに據りてアラレフリとよめり○キシミはキシマを訛れるなり○サガシミトは上なるカシコミト、サカシミトなどと同格なり○可奈和は久老の説の如く可禰手などの誤字としてカネテとよむべし
 
386 このゆふべつみのさえだのながれこば梁はうたずてとらずかもあらむ
(478)此暮柘之左枝乃流來者梁者不打而不取香聞將有
    右一首
 此歌と次の歌とほ柘枝仙媛の事なれば一首前の題辭は此二首にかゝるべきなり。されど仙柘枝歌とありては柘枝のよめる歌の如く聞えてふさはしからず。されば略解には『仙の上に詠の字を脱せしか又略きてかける歟』といへり。二首共に後人の柘枝の事を詠じたる歌なること論なし。此女仙のことを記せる書に柘枝傳といふものありし趣前の歌の左註に見えたれど今傳はらず。ただ懷風藻に見えたる詩若干首と此二首の歌とによりて大略の事を察知すべし。即昔吉野に味稻《ウマシネ》(又美稻)といふ漁夫あり或時川瀬に梁を打ちて魚を待ちしに女仙、柘の枝に化し川上より流れ下りて其梁にかかりて云々しきといふ傳説ありしなり。續後紀卷十九興福寺大法師等奉v賀3天皇寶算滿2于四十1長歌にも三吉野爾有志熊〔右△〕志禰云々とあれど傳すこし異なりと見ゆ
 ツミは雅澄桑の一類にて今野桑といふものなりといへり。是然るべし〇四五の句の意心得がたし。略解古義には(479)或人云此歌の意昔ノ人ハヨクコソ梁ヲ打テ柘枝ヲ得タレ今時ハ梁ハウタズテアレバタトヒ柘ノ流來ルトモ取得ザランカとなりといへり
といへり。此説の如くば三句はナガレクトモといはざるべからず。おそらくはコノユフベ、モシソノカミノ如ク柘ノ枝ノ流レ來ラバイカニシテム、取ラズニヤオカム味稻ノ如ク梁ハ打タズシテといへるなるべし
 左註に『右一首 此下無詞諸本同』となり。右一首某作とあるべきにいづれの本にも某作といふ事無ければ後人『此下無v詞。諸本同』と註したるなり
 
387 いにしへにやなうつ人のなかりせば此間毛《イマモ》あらましつみの枝はも
古爾梁打人乃無有世伐此間毛有益柘之枝羽裳
    右一首若宮(ノ)年魚麻呂《アユマロ》作
 此間毛は舊訓にココモとよみ宣長雅澄はココニモとよめり。案ずるに意を得てイマモとよむべし(景樹同説)〇四句にて辭は切れて意は切れず。ソノツミノ枝ハモといふ意なり。ハモは目前に無きものを慕ふ意の辭なり○此歌の調を味はふに女仙が柘の枝に化して吉野川を流れ下りしは一旦の事にあらず。日々又は時々かくせ(480)しうち或時|美稻《ウマシネ》の梁にかゝりそれより其事絶えしなり。さればイマモアラマシは今モ流レ下ラマシといふ意なり。眞淵が
  彼味稻が梁打し故に柘枝がとどまりて遂に仙女も人間と成しかばながらへざりしをいへり
といひ(略解に引けり)宣長が
  古に川上に梁打てとどめし人のなかりせば此あたりまでも其柘は流來てあらましをといふならむ
といへるは共に非なり
 
   羈〔馬が奇〕旅歌一首并短歌
388 わたつみは あやしきものか 淡路島 なかにたておきて 白浪を伊與に囘之《メグラシ・モトホシ》 (ゐまち月) あかしの門《ト》ゆは ゆふされば しほをみたしめ あけされば しほをひしむ
海岩者靈寸物香淡路島中爾立置而白浪乎伊與爾囘之座待月開乃門從(481)者暮去者塩乎令滿明去者鹽乎令干
 ワタツミは前註或は海をさせりとし或は海神をいへりとせり。アヤシキモノカと受けたるを見れば略解の説の如く海をさせるなり○略解にモノカのカはカモに同じといひ古義にモノカはモノカナとなりと云へり。こは契沖のモノカはモノカナなりと云へるに從へるなり。又下なるヒシムを略解に
  ヒシムといひて上のアヤシキモノカといふを結べり
といひ古義に
  こゝにて上のアヤシキモノカをとぢめたり
といへり。こは宣長の
  シホヲヒシムと訓切て上のアヤシキモノカと云へるを結ぶなり
といへる從へるなり。案ずるにヒシムをモノカの結と見ればモノカはモノカモ又はモノカナの意にあらず。モノカモ又はモノカナといへば結を要せざればなり。されば略解古義もしモノカを契沖の説によりて釋かばヒシムは宣長の説によりて釋くべからず。即甲を取らば乙を捨つべく乙を取らば甲を捨つべし。兩者を併せ取(782)れるは千蔭雅澄の誤なり。さてモノカはモノカナの意にてヒシムはモノカの結にあらず(古今なるウツセミノ世ニモ似タルカ花ザクラサクトミシマニカツチリニケリなどと同格なり)〇ナカニタテオキテは海ノ中ニ立タセオキテなり。もしワタツミを海神とすれば何の中にたておくにか義理通ぜず。これにてもワタツミの海をさせるなる事を知るべし○囘之は舊訓にメグラシとよめるを久老はモトホシとよめり。意は同じ○伊與は宣長の説(記傳五卷四丁)の如く今いふ四國なり。今の伊豫と淡路とは遙に相隔れり。以上六句の意は白浪ガ淡路島ニ沿ウテ四國ノ方へメグルといへるなり○アケサレバは朝サレバといふに齊し。十九卷に安氣左禮婆と假字書にしたり。ユフサレバ以下四句は明石の瀬戸に潮の干滿あるを云へるなり○以上十二句は海の概叙なり。以下とは辭は全く切れて意は聊相關せり。されば次なるシホサヰノはソノシホサヰノと譯すべし
 
しほさゐの 浪をかしこみ 淡路島 いそがくりゐて いつしかも この夜のあけむと さもらふに いのねがてねば 瀧の上の 淺野のきぎし あけぬとし たちとよむらし いざ兒ども あへてこぎ(783)でむ にはもしづけし
塩左爲能浪乎恐美淡路島礒隱居而何時鴨此夜乃將明跡侍從爾寢乃不勝宿者瀧上乃淺野之雉開去歳立動良之率兒等安倍而※[手偏+旁]出牟爾波母之頭氣師
 シホサヰは潮の騷ぎ鳴る事なり○イソガクリヰテは礒ニ隱レ居テなり○サモラフはウカガフなり○イノネガテネバのイは名詞にて睡眠といふこと、カテネバは不敢者にてアヘヌニなり○淺野は地名。今淡路津名郡の北部に播磨灘に面して淺野といふ村ある是なり。此村に濱より十町ばかり入りて淺野(ノ)瀧とて大なる瀧ありといふ。古義に瀧は明石の近隣にあるなるべしと云へれどアハヂ島イソガクリヰテとあれば淡路なる事明なり。タキノウヘは瀧の上方なり。野之口隆正の書ける淺野原記に
  飛泉上《タキノウヘ》(ノ)淺野原者……今尚在2淡路國津名郡机南村之山際1其下〔二字右△〕有2飛泉1言2飛泉上1者眞然矣云々
(484)といへり○キギシは古くはキギシといひてキギスといはず(宣長、久老)。古事記八千矛神の歌にもサヌツ鳥キギシハトヨムとあり○アケヌトシのシは助辭。トヨムは音を発する事にて動物にいへるはやがてナクといふ事なり。彼神の歌にもサヌツトリキギシハトヨムの對句にニハツトリカケハナクといへり。タチトヨムのタチは添辭なり。古義にトビタチナキサワグラシといふなりといへるはいかが。目前に見たるにはあらで遙に鳴く聲をきけるなればトビタチとはいふべからず。目の前に見たるにあらねばこそラシといへるなれともいふべけれどラシはタチトヨムにつけるにあらでアケヌトシにつけるなり。即ラシは鳴く事につきて云へるにあらで鳴く所以につきていへるなり。前註此ラシの所屬を誤り心得たる如し○イザコドもはこゝにては舟人に向ひて云へるなり。アヘテは敢テにてキホヒテなり。喘ぐ事にはあらず○ニハはただ海上といふ事なるべし。契沖は海上のどかなるをいふといひ久老は海上の平らかなるをいふと云へれど、もしさる意ならばニハモシヅケシ、ニハヨクアラシなどは云ふべからず○此歌は四國より淡路島の西に沿ひて京に上りし人のよめるなり
 
(485)   反歌
389 しまづたひ敏馬の埼をこぎ迴者《タメバ》やまとこひしくたづさはになく
島傳敏馬乃埼乎許藝迴者日本戀久鶴左波爾鳴
    右歌若宮(ノ)年魚麿誦v之。但未v審2作者1
 いにしへの敏馬《ミヌメ》今の西灘の附近には島なし。野島乃埼なりしを年魚麿の唱へ誤りしにはあらざるか
 
  譬喩歌
   紀皇女御歌一首
390 かるのいけの納〔左△〕囘往轉留《ウラミユキメグル》かもすら爾〔左△〕《モ》たまものうへにひとりねなくに
輕池之納囘徃轉留鴨尚爾玉藻乃於丹獨宿名久二
 輕池は大和高市郡にあり。納は一本に※[さんずい+内]とあるに從ふべし。久老は※[さんずい+内]囘をウラミとよめり○往轉留は所謂官本にユキメグルとよめるに從ふべし(雅澄のモトホルと(486)よめるは久老の一訓に從へるなり)○爾は『或人毛の誤ならんと云り』と久老いへり。スラニは卷八にイトマナミ五月乎|尚爾《スラニ》といへる例あれどスラニと云はむに三四五の句ともにニどまりとなりて調わろし
 
   造筑紫觀世音寺別當沙彌滿誓歌一首
391 とぶさたて足柄山にふな木きり樹爾伐歸都あたらふなきを
鳥總立足柄山爾船木伐樹爾伐歸都安多良船材乎
 久老はトブサタテを足柄の枕としたれど十七卷にトブサタテフナ木キルトイフ能登ノシマ山といふ歌あれば枕辭にあらず。トブサの事童蒙抄、袖中抄、八雲抄、歌林良材、代匠記等に説あり(古義に袖中抄にも云々といへるは童蒙抄の説なり)。案ずるに木を伐りて其梢を切株の本に立てて山神にたむくるをトブサタツといふなり〇四句は舊訓にキニキリヨセツとよめるを宣長はキニキリユキツとよみてキはフナギといふべきを略したるなりといへり。船材を船材にきりゆきたらむにはアタラとはいふべからず。他の用に供したらむにこそアタラとはいふべけれ。されば宣長の説は從ひ難し。おそらくは第四句に誤字あらむ。題辭に造筑紫觀世音寺別當(487)とあるによりて契沖は觀世音寺造營の事と結びつけて釋きたれど船材は船材にて建築の材にあらねば彼寺の造營の事とは相關せず。固より標目に譬喩歌とあれば眞の意あるべく其眞の意は戀に關する事なるべくおもはるれど明には知られず。因にいふ。相模風土記に足柄山の杉を伐りて船に造りし事あり。さればいにしへ足柄山よりよき船材を出だしゝなり○再案ずるに第四句はヨソニモチユキツなどあるべきなり
 
   太宰《ダザイ》(ノ)大監《タイゲン》大伴(ノ)宿禰|百代《モモヨ》梅歌一首
392 (ぬばたまの)其夜の梅をたわすれてをらずきにけり思ひしものを
烏珠之其夜乃梅乎手忘而不折來家里思之物乎
 タワスレテのタは添辭なり。ソノ夜ノウメといへる、思ふに數日前或女の家にて梅を見しなるべし。オモヒシは折ラムト思ヒシなり
 
   滿誓沙彌月歌一首
393 みえずともたれこひざら米《メ》、山之末《ヤマノハ》にいざよふ月をよそに見てしが
(488)不所見十方孰不戀有米山之末爾射狹夜歴月乎外爾見而思香
 宣長は米を牟の誤とせる由略解に見えたれど玉の緒七卷にいへる所によればもとのまゝにてタレコヒザラメとよみて一種の格とせるなり(一卷【一五一頁】參照)○山之末は舊訓にヤマノハとよめるに從ふべし。末は略音にあらで義訓なり。ヨソニはヨソナガラなり○第二句はタレ戀ヒザラム、サレドといへるか
 
   金《コム》(ノ)明軍《ミヤウグン》歌一首
394 しめゆひてわがさだめてしすみのえの濱の小松はのちもわが松
印結而我定義之住吉乃濱乃小松者後毛吾松
 サダメテシはワガ物ト定メシといふこと(古義)○作者は大伴旅人の資人《ツカヒビト》なり。歸化人の子孫ならむ
 
   笠(ノ)女郎贈2大伴宿禰家持1歌三首
395 つくまぬにおふるむらさき衣染《コロモシメ》いまだきずして色にいでにけり
託馬野爾生流紫衣染未服而色爾出來
(489) ツクマは近江國坂田郡の地名にて米原の附近にあり○衣染を舊訓にキヌニソメとよめるを雅澄はコロモシメとよめり。紫に衣をそむとはいふべくむらさきを衣にそむとはいはねば古義の訓によるべし○眞ニ逢ハヌ前ニハヤク名ガ立ツタといふ事を譬へ云へるなり
 
396 みちのくの眞野のかやはらとほけどもおもかげにしてみゆとふものを
陸奥之眞野乃草原雖遠面影爲而所見云物乎
 眞野は今の福島縣相馬郡にあり○ニシテにはただニの意なるとニテの意なるとあり。今はニの意なり○初二を宣長トホシの序とし久老以下之に從ひたれどいづくはあれどミチノクノ眞野ノカヤ原をトホシの序とせむこともの遠し。又二句を序として家持ト遠ク隔タレド面影ニ見ユといふ意とせむにトフモノヲといふ辭蛇足なるべし。案ずるに此歌は其世の人口に膾炙せる歌ありてそれを本歌とせるにて彼陸奥ノ眞野ノカヤ原ノ遠キスラナホ面影ニ見ユトイフモノヲ、イカデカ君ノ影ニ見エザラムといへるなるべし
 
(490)397 奥山のいはもとすげ乎〔左△〕《ノ》ねふかめてむすびしこころわすれかねつも
奥山之磐本管乎根深目手結之情忘不得裳
 初二はネフカメテの序なれば乎は雅澄のいへる如く之の誤字なるべし○ムスビシは約束セシなり。ネフカメテはただ深クと心得べし
 
   藤原朝臣|八束《ヤツカ》梅歌二首
398 いもが家にさきたる梅のいつもいつもなりなむ時に事はさだめむ
妹家爾開有梅之何時毛何時毛將成時爾事者將定
 久老が初二をイツモの序として梅花ノ※[辛+瓜+辛]ノイツツとかゝれるなりといへるは非なり。初二は三句を隔てゝナルにかゝれる序なり○イツモイツモはイツニモを重ねたるにてそのイツニモは今のイツニテモなり。ナリナムは次の歌と見合するに實ニナリナムを省き言へるなり〇一首の意は女ノマメヤカニナリタラム時ニ眞ノ妻トハ定メムといへなるべし
 
399 妹が家にさきたる花のうめの花實にしなりなばかもかくもせむ
(491)妹家爾開有花之梅花實之成名者左右將爲
 上三句は序にて北山ニツラナル雲ノアヲ雲ノなどと同格なり○略解に或本(ノ)歌なりといへれど意こそ一つなれ辭は全くかはりたれば或本の歌にあらず。一卷なる人麿の過近江荒都時作歌の反歌なども二首全く同意なり○カモカクモは今のトモカクモなり。さればカモカクモセムはドウトモシヨウとなり
 
   大伴宿禰駿河麻呂梅歌一首
400 うめの花さきてちりぬと人はいへどわがしめゆひし枝ならめやも
梅花開而落去登人者雖云吾標結之枝將有八方
 サキテチリヌトはウツロヒヌなどいふに同じ。サキテは輕く添へたるのみ。されば第二句は心ガハリシタといふ事を譬へ言へるなり○枝は木の換語なり○略解古義などの次々の歌と閲聯せしめたる説は採るに足らず。女に贈りて之を誡めたるなり
 
   大伴(ノ)坂上(ノ)郎女宴2親族1之日吟歌一首
(492)401 山守のありけるしらにその山にしめゆひたててゆひのはぢしつ
山守之有家留不知爾其山爾標結立而結之辱爲都
 席上に駿河麻呂のありしによみかけしなり。既ニ契レル女ノアルヲ知ラデ我娘ノ夫トセムト思ヒテ耻ヲ見ツといへるなり。略解に『弟女を駿河麻呂の戀ふるまゝに母も許さんとせしを云々』といへるは當らず。ハヂシツは今いふ耻見ツなり。ユヒノハヂは結ヒテノ耻なり
 
   大伴宿禰駿河麻呂即和歌一首
402 山もりはけだしありともわぎもこがゆひけむしめを人とかめやも
山主者蓋雖有吾妹子之將結標乎人將解八方
 ケダシはモシ、或ハなど譯すべし○ワギモコは坂上郎女(即娘の母)をさせり○人トカメヤモはダレガトカウゾといふ事なり。人といふ語を何人にあてたるかといふまでを穿鑿するに及ばず。一首の意は外ニイヒカハセル女ナドアリハセネド、モシアリトモ御志ニイカデ違背セムといへるなり
 
(483)   大伴宿禰家持贈2坂上家之大孃1歌一首
403 あさにけに欲見《ミマクホリスル》そのたまをいかにしてかも手ゆ不離有牟《サケザラム》
朝爾食爾欲見其玉乎如何爲鴨從手不離有牟
 大孃は坂上郎女の長女なり○欲見を舊訓にミマクホリスルとよめるを古義にミマクホシケキに改めたれどホシケキといふ辭は無し○不離有牟を舊訓にサケザラムとよめるを久老カレザラムに改め千蔭雅澄之に從へり。而して略解にハナタズアランヤと釋き古義にハナサズニアラムと釋けり。されば少くとも千蔭雅澄はタマヲのヲを受けたる他動詞と見たるなり。案ずるに本集以下に見えたるカルは皆自動詞にてハナルといふ事なり。稀に他動詞の如く見ゆるもあれどよく見ればなほ然らず。即後撰に君ガ手ヲカレユク秋ノ末ニシモ云々、源氏若紫に年比ノ蓬生ヲカレナムモサスガニ心ボソク云々などあるヲはヨリのヲ即道ヲユク、門ヲスグなどのヲに齊しければ此等の例のカルはなほ自動詞なり。コロモ手カレテ、宿カレテなどもヨリのヲを省きたるにて異なる事なし。されば今は舊訓に從ひてサケザラムとよむべし○第三句以下の意は手ヨリ放タザラムスベモガナと云へるなり
 
(494)   娘子報2佐伯宿禰赤麿贈歌1一首
404 (ちはやぶる)神の社しなかりせば春日のぬべに粟まかましを
千磐破神之社四無有世伐春日之野邊粟種益乎
 次の歌の題辭に佐伯宿禰赤麿更贈歌とあれば久老の『前に赤麿が贈れる歌の有つるが漏たるならん』と云へる如し。久老が粟を會の意に取なせりといひ雅澄が粟といふに會《アフ》意を相兼ていひたるなりといへるは仙覺の説によれるにてひがごとなり。表の意はもし春日野が神の占めたまへる地ならずばそこに粟畑をつくらむものをと云へるなり
 
   佐伯宿禰赤麿更贈歌一首
405 かすが野に粟まけりせば待鹿爾《シシマチニ》つぎてゆかましを社師留鳥〔二字左△〕《ヤシロシアリトモ》
春日野爾粟種有世伐待鹿爾繼而行益乎社師留鳥
 ツギテユクは間をおかず度々行く事なり。三句は古義にシシマチニとよめるに從ふべし。つぎて行く事の目的をいへるなる事は明なり。結句も古義に留鳥を誤字と(495)してヤシロシアリトモとよめる最穩なり。但歌釋は古義の説には從ひ難し。案ずるにモシ春日野ニ粟ヲマキテアラバ其粟ヲハミニクル鹿ヲ待チニ度々行カウモノヲ、タトヒソコヲ領ジタマヘル社ハアリトモと云へるにて女を鹿にたとへたるなり。元來いにしへの贈答には辭を承けて意を承けざるものあり。さるを意を承けたりと見ては釋き誤る事多し。今も娘子の歌にカミノ社といへるは赤麿の妻をさして云へるを赤麿の歌にては娘子の情人をさしてヤシロといへるなり
 
   娘子復報歌一首
406 吾祭神〔左△〕者不有《ワガマツルヤシロハアラズ》ますらをに認有《ツキタル》かみぞよくまつるべき
吾祭神者不有大夫爾認有神曾好應祀
 初句は舊訓に從ひてワガマツルとよむべく(宣長はワハマツルとよめり)二句は略解に從ひて神を社の誤としてヤシロハアラズとよむべし。認有は古義にツキタルとよめるぞ穩なる。但認は誤字にてもあるべし○初二は我ニハ夫ハ無シといふ意、マスラヲは赤麿、マスラヲニツキタル神とは赤麿の妻にてヨクマツルベキとはヨク祭リ和メテ咎ヲ受ケヌヤウニシタマヘといふ意なり
 
(496)   大伴宿禰駿河麻呂娉2同坂上家之二孃1歌一首
407 (はるがすみ)春日のさと爾《ノ》うゑこなぎ苗なりといひしえはさしにけむ
春霞春日里爾殖子水葱苗有跡云師柄者指爾家牟
 二孃は古義にいへる如く坂上郎女の次女なり。略解に此二孃は則坂上大孃也といへるは非なり。二句の爾は一本に之とあり。此方穩におぼゆれば爾は乃などの誤字かと思ふになほ十四卷にカミツケヌイカホノヌマ爾ウヱコナギともあれば輕輕しく誤字とも定むべからず。とまれかくまれこゝの爾も下なる妹ガ見シヤド爾花咲の爾も共にノとよむべし。木村博士(字音辨證上卷七丁)は
  爾汝乃の三字は共にナムヂと訓る文字にて漢籍には常に通じ用ゐたり。音圖(〇大田全齋の漢呉音圖)を閲するに汝呉原音ニヨ次音ノ也。又乃は此方にて常にノの假字とせり。されば爾もノにも用ゐるべき文字なるを曉るべし
といへり。今の例とは反對に乃と書けるをニとよむべき(又は爾の誤とすべき)虞あり(二卷【一八九頁】參照)。これも木村博士(字音辨證下十四頁)は
  漢呉音圖によるに乃は呉原音ネイ次音ニの音なればニとよむべき字なり
(497)といひ黒川春村(碩鼠漫筆百六十頁)は
  乃にニの音も亦ある由は呉の直音(〇ニ)はさるものにて轉呉の拗音(○ニヨ)を省呼としてもニの假字とせむ事妨なし
といへり。乃と爾とをニにもノにも用ひむ事はいとまぎらはしけれどげに乃をノ爾をニに限りて用ふるは後の事にて初には乃をニ爾をノに用ひし事(又は用ひし人)もあるべし○コナギは一種の水菜なり。いにしへ好みて羮とせしなり。ウヱコナギは栽培したるコナギなり○イヒシの下にハを略せり。エは枝にてサスはイヅルなり○彼時マダ幼女ナリトノタマヒシハ今ハ生長シ給ヒタラムといふ事をたとへ言へるなり
 
   大伴宿禰家持贈2同坂上家之大孃1歌一首
408 なでしこの其花にもがあさなあさな手にとりもちてこひぬ日なけむ
石竹之其花爾毛我朝旦手取持而不戀日將無
 前なるアサニケニミマクホリスルといふ歌と同じく逢ひそめての後の歌なり。故に聘とは書かで贈と書けり。ナデシコノ花ニモガといふべきを言足らざるにより(498)てソノといふことを補へるなり。此歌のコヒヌは契沖の云へる如く常のコヒヌとは異にてメデヌといふ意なり○花ニモガは花ニモアレカシとなり。アサナアサナは毎日なり。二三の間にモシ石竹ノ花ナラバといふことを挿みて聞くべし
 
   大伴宿禰駿河麻呂歌一首
409 ひと日には千重浪しきにおもへどもなぞ其玉の手にまきがたき
一日爾波千重浪敷爾雖念奈何其玉之手二卷難寸
 ヒト日ニハのハは輕く見べし。シキニは頻ニなり。チヘナミは一種の枕なり。ソノ玉のソノといふ語一首のうちに指す處なし。契沖が
  其玉といへるは上に千重浪シキといへる海の意なれば眞珠は海にあればソノといひて玉を女にたとへて云々
といへるは從はれず○玉はいにしへタマキ、クシロなどとして手にも卷きしなり
 
   大伴坂上郎女橘歌一首
410 橘をやどにうゑおほせたちてゐて後にくゆともしるしあらめやも
(499)橘乎屋前爾殖生立而居而後雖悔驗將有八方
 家持に贈れる歌にや駿河麻呂に贈れる歌にや明ならず。久老雅澄は駿河麻呂に贈れる歌とせり。さもあるべし。初二ははやく妻を定めよといへるなり。諸註皆非なり。三四は雅澄が『後ニ立テ悔、居テ悔トモの意なり』と釋ける如し
 
   和歌一首
411 わぎもこがやどの橘いとちかくうゑてしゆゑにならずばやまじ
吾妹兒之屋前之橘甚近殖而師故二不成者不止
 ユヱニは宣長モノヲの意とせり。ワギモコといへるは二孃の母の坂上郎女なり。此歌も辭を受けて意を受けず。されば郎女の歌のタチバナと此歌のタチバナとは指す所異なり。即郎女の歌のタチバナは嫡妻といふことにて此歌のタチバナは二孃の事なり。一首の意はカク近ヅキ馴レシモノヲ二孃ヲ妻ニ申シ乞ハズバ止マジといへるなり。諸註の説當らず
 
   市原王歌一首
(500)412 いなだきにきすめる玉はふたつなしかにもかくにも君がまにまに
伊奈太吉爾伎須賣流玉者無二此方彼方毛君之隨意
 イナダキは頂、キスメルは宣長着統の意とせり。然るにその統《スマル》は集め總ぶる事にてフタツナシとあるにかなはねばフタツナシをタグヒナシの意とせり。されどフタツナシはなほ唯一無二の意とせでは四五の意とかけ合はず。さればキスメルの釋は他に求むべし(契沖久老は令著の意とせり。令著ならばキシムルといはざるべからず)。案ずるに播磨風土記賀毛郡の下に
  伎須美野 右號2伎須美野1者品太天皇之世大伴(ノ)連等請2此處1之時喚2國造黒田別1而問2地状1。爾時對曰。縫《ヌヘル》衣(ヲ)如v藏2櫃(ノ)底1。故曰2伎須美野1
とあり。此文中の藏の字はキスミタルとよむべければキスムは藏《ヲサ》むる事なり。さて髻中に珍玉を藏せし事經文に見え又髻珠といふ語、詩文に見え又本集卷廿にアモトジ母《ハ》タマニモガモヤイタダキテミヅラノナカニアヘマカマクモといふ歌見えたれど實に我邦にてさる事行はれしにやおぼつかなし。景行天皇紀四十年に箭藏2頭髻1とあり神功皇后紀に儲弦藏2于髪中1とあるも聖コ太子が白膠木《ヌリテ》の佛像を頂髪(501)に置き給ひしも皆髻珠とは目的を異にせり○譬喩の意は代匠記に
  女を髻珠の二つなきに譬へて君ガイハムコトヲバ水火ニ入ルコトヲモ辭セズトモカクモ君ガ意ニ隨ハムとなり。又按ずるに第六に市原王悲2獨子1歌一首あり。それを可然人の得んと云時に髻珠ノ如ク愛スル娘ナレドモ君ガノタマフ事ナレバ仰ニ從ヒテ參ラセムとにや
といへり。六卷なる獨子云々は市原王の子のただ獨なる謂にあらず。市原王自身が父の獨子にて兄弟なき謂なり。くはしくは六卷に至りて云ふべし。四五の意はソノ大切ナ玉モドウナリトモ御隨意ニといへるにて御入用ナラバ差上ゲマシヨウと云へるなり
 
   大綱〔左△〕《オホアミノ》公《キミ》人主《ヒトヌシ》宴吟歌一首
413 すまのあまのしほやきぎぬの藤ごろも間遠之《マドホクシ》あればいまだきなれず
須麻乃海人之塩燒衣乃藤服間遠之有者未著穢
 大綱は大網の誤なり○上三句は序なり。間遠之は舊訓にマドホニシとよめるを古義にマドホクシとよみ改めたり。古義によるべし。さて四五の意は逢フ事ガ稀ナレ(502)バ未ナジマズといへるにて畢竟モツト度々逢ヒタイモノヂヤナアと云へるなり。ただ馴レズといふべきを著馴レズといへるは序の縁に因れるなり○此歌は古歌なるを間遠クシアレバ未著馴レズとあるが己がさまに似たれば人に招かれたる宴席にて吟誦せしならむ
 
   大伴宿禰家持歌一首
414 あしひきのいは根こごしみすがの根を引者《ヒカバ》かたみとしめのみぞゆふ
足日木能石根許其思美菅根乎引者難三等標耳曾結烏
 アシヒキは山の換語なり。引者は舊訓にヒケバとよめるを久老ヒカバに改めたり。ヒカバカタミはミズテユカバマシテコヒシミと同格にてカタミトのトはサガシミトのトに同じ。されば第四句は引カバ難カルベキニヨリテとなり
 
  挽歌
   上宮聖コ皇子出2遊竹原井1之時見2龍田山死人1悲傷御作歌一首
(503)415 家にあらば妹が手まかむ(草枕)たびにこやせるこのたびとあはれ
家有者妹之手將纏草枕客爾臥有此旅人※[立心偏+可]怜
 雅澄の説にコヤスはただ臥す事にはあらでフスの古語コユの敬語なりといへり。二句にて切りて心得べし○此歌は書紀に見えたる皇子が大和の片岡にて飢人を見てよみたまひし歌の辭をも事實をも誤り傳へたるなり
 
   大津皇子|被v死《コロサエシ》之時|磐余《イハレ》池(ノ)般《ツツミ》流涕御作歌一首
416 (百傳《モモヅタフ》)いはれの池になく鴨をけふのみ見てや雲がくりなむ
百傳磐余池爾鳴鴨乎今日耳見哉雲隱去牟
    右藤原宮朱鳥元年冬十月
 題辭の般の字目録及一本に陂に作れり。契沖いはく
  般は史記封禅書云、鴻|漸《ススム》2于般1【漢書音義曰般水涯堆也】かくはあれども目なれぬ字用べき所にあらず。目録に陂に作れり。今は陂を誤て般に作れるなるべし
と。古義には右の説に從ひて直に陂に改めたり。木村博士の訓義辨證(上卷七十六頁)(504)には
  按に史記孝武紀の鴻漸2于般1とある注に漢書音義を引て般(ハ)水涯堆也とあればツツミと訓べき事もとよりのことなり
といひて契沖等の説を擧げ、さて
  されど集中物遠き文字を用ゐたる事これのみならずいと多かれば目なれぬ字なればとて誤なりとはいふべきにあらず。いかにもしてよまるゝかぎりはもとのままにて訓べきこと也。これらを常の通用の字に書改めむは古書の面目を失するわざにてさはすまじき事ぞかし
といへり。木村氏の説に從ふべし
 初句の百傳は記傳三十二卷にいはく
  百傳は角障を寫誤れるものなり。凡て磐余の枕詞は書紀繼體卷又萬葉三卷に今ニ(ツ)十三卷に二(ツ)見えたる何れも皆|角障經《ツヌサハフ》とありて百傳と云るは一もあることなきを以て誤なることを知べし。但しいづれも角障經と三字にのみ書るを經字の無きは本《モト》は有けむを百傳と誤れるから經字は衍と心得て後に削れるか。又此字(505)はなくともあるべし
といへり。モモヅタフ五十《イ》とかゝれるにや
 
   河内王葬2豐前國鏡山1之時|手持《タモチ》女王作歌三首
417 おほきみのむつたまあへや豐國のかがみの山を宮とさだむる
王之親魄相哉豐國乃鏡山乎宮登定流
 河内王は太宰帥にて卒せしなり。豐前に葬りしは故あるべし。いにしへムツタマアフといふ語ありしにてそは今氣ニ人ルといふことなるべくおぼゆ。アヘヤはアヘバニヤなり
 
418 とよ國のかがみの山のいは戸たて隱《コモリ》にけらしまてどきまさぬ
豐國乃鏡山之石戸立隱爾計良思雖待不來座
 隱を久老雅澄は古事記天の石屋戸の條に刺コモリマシキとあるによりてコモリとよめり。タテは閉ヂテなり○葬られしを自、窟に隱れしやうに云へるなり
 
419 いは戸わるたぢからもがも手弱寸《タヨワキ》女有者《ヲミナニシアレバ》すべのしらなく
(506)石戸破手力毛欲得手弱寸女有者爲便乃不知苦
 手弱寸を契沖タヨワキとよめるを雅澄タワヤメ、タワヤカヒナなどある例によりてタワヤキとよめり。もとのまゝにてあるべし○女有者は舊訓にヲトメニシアレバとよめるを宣長久老等はメニシアレバとよみ(古事記須勢理毘賣命の御歌にアハモヨ、メニシアレバとあるによれるなり)千蔭はヲミナニシアレバとよめり。略解の訓に從ふべし○シラナクはシラレヌなり
 
   石田王卒之時丹生王作歌一首并短歌
420 (なゆたけの) とをよるみこ さにづらふ わがおほきみは (こもりくの)はつせの山に かむさび爾〔左△〕《テ》 いつきいますと 玉づさの 人ぞいひつる およづれか わがききつる たは言か わがききつるも
名湯竹乃十縁皇子狹丹頬相我大王者隱久乃始瀬乃山爾髪左備爾伊都伎坐等玉梓乃人曽言鶴於余頭禮可我聞都流枉〔左△〕言加我聞都流母
 通本に丹生王の王を脱せり
(507) 二卷吉備津釆女死時歌にもナヨ竹ノトヲヨル子ラハとあり。トヲヨルのトヲはタワヤメのタワに同じくてトヲヨルは即タワミ寄ルなり。○サニヅラフは赤く匂ふことにてこゝにては紅顏なるをいふ。略解に枕辭とせるは非なり。抑此挽歌を作れる丹生王も、うせし石田王も共に其傳の知られざるうち丹生王は四卷八卷に丹生女王とあれば此も同人にて女王なるべきかと古義にいへり。石田王は諸註に男子としたれどトヲヨル皇子といへる女王めきて聞ゆ。なほ次の長歌及其反歌の下にいふべし○カムサビ爾の爾を宣長は而か※[氏/一]かの誤ならむといひ雅澄は手の誤なるべしといへり○伊都伎坐はイツカレイマスといはではかなはざるに似たり。石田王が人をいつくにはあらで人が石田王をいつくなればなり。もしイツカレイマスをイツキイマスといふことを得べくば二卷高市皇子尊城上殯宮之時歌のカムハフリ、ハフリ伊座而も從來の訓の如くイマシテとよむべし(余はイマセテとよみつ)○タマヅサノは使の枕辭なれど今は使の事をタマヅサノ人といへるなり○オヨヅレ、タハコトは共に妄言なり。キキツルモのモは助辭
 
天つちに くやしき事の 世のなかの くやしきことは あま雲の そくへのきはみ 天地の いたれるまでに 杖つきも つかずもゆ(508)きて ゆふけとひ いしうら以而《モチテ》
天地爾悔事乃世間乃悔言者天雲乃曾久敝能極天地乃至流左右二枚策毛不衝毛去而夕衢占問石卜以而
 アメツチニクヤシキ事は天地ノ間ニ悔シキ事といふ意にて次なるヨノナカノクヤシキ事と同意なり。さて辭を重ねていふ時今ならば天地ニクヤシキ事デといふべきをクヤシキ事ノといふは古の辭遣なり。上なる登2筑波岳1作歌に
  ふた神のたふとき山の〔右△〕なみたちのみがほし山と
といへると同格なり。なほ彼歌の處を見べし。さてコトハのハのをさまる處は後にいふべし。クヤシキコトハアマ雲ノとつづくにあらず○ソクヘは又ソキヘといへり。ソクはシリゾクなどのソク、ヘは方の意にてアナタといふことなり○アメツチノイタレルマデニは天地ノ達セル處マデといふことにて上二句と同意を重ねたるなり○ツヱツキモツカズモユキテは杖ハツカウガツクマイガトモカクモ行キテといふこと。十三卷にも杖ツキモツカズモ吾ハユカメドモとあれば當時の熟語なり○ユフケトヒは契沖(代匠記拾遺)の
(509)  つじうらを問ふ也。占をきかむとあるものはゆふさりつかたちまたに出て聞也。よりてユフケトフとも又ユフウラともよめり。又此集にミチユキ占ともよめり。ユフケは此集末に多し
といひ伴信友の正卜考(全集第二の五三九頁)に
  さてこの占を由布氣といふは夕に衢に出て往來人の言を聽てその言をもて神教として占問ふ事に合せ判斷《サダム》る術にて……といへる如し○イシウラは代匠記に
  景行紀云。十二年天皇初將v討v賊次2于|柏峡《カシハヲ》大野1其野有v石長六尺廣三尺厚一尺五寸天皇祈之曰朕得v滅2土蜘蛛1者將蹶2茲石1如2柏葉1而擧焉因蹶v之則如v柏上2於大虚1故號2其石1曰2踏石1也これや石占の初ならむ
といひ正卜考(信友全集第二の五四三頁)には
  道の傍なる道祖神の社内に置ける石につきて其輕重を定めて占ふるなり(採要)
といへり。案ずるに景行天皇の御わざはもとより石占と云ふべけれどこれは普通の例にはあらでなべては信友のいへる如く神靈の憑れる石塊を吉ならば擧《アガ》れな(510)ど祝ひてもち上げて占へしにこそ○古義に人の説を擧げて『以而は問而の誤にてはあらぬにや』といへり。なほ下に云ふべし
 
わがやどに みもろをたてて 枕〔左△〕《トコノ》へに いはひべをすゑ たか玉を 無間《マナク・シジニ》ぬきたれ ゆふだすき かひなにかけて 天なる ささらの小野の 七〔左△〕相菅《イハヒスゲ》 手にとりもちて (久かたの) 天の川原に いでたちて みそぎてましを 高山の いはほのうへに いませつるかも
吾屋戸爾御諸乎立而枕邊爾齊戸乎居竹玉乎無間貫垂木綿手次可比奈爾懸而天有左佐羅能小野之七相菅手取持而久堅乃天川原爾出立而潔身而麻之乎高山乃石穗乃上爾伊座都流香物
 ミモロは神殿なり。枕邊の事は後にいふべし。イハヒベ、タカダマは既に云ひき。無間は字のまゝにマナクともよむべく又意を得てシジニともよむべし。ユフダスキは木綿もて作れる襷、ササラノ小野は當時人の天上にありと信じたりし野なり○七相菅を宣長はナナフスゲとよみて古歌のトフノスガゴモを例とせり。久老は此訓(511)に從ひナナフのフを節の義としナナフスゲとは長高き菅をいふと云へり。されどもしトフノスガゴモのフに同じとせばそのフは信友(比古婆衣二十卷【全集第四の四五〇頁】)の云へる如く編の義にてトフノスガゴモは十節に編み分けたる菅薦なればナナフも七編の義とせざるべからず。されど薦の幅をいふ時こそあれ草のまゝなる菅の長さを云ふにイクフとは云ふべくもあらず。さればなほ雅澄の説に從ひて石相菅の誤字としてイハヒスゲとよむべし。祓に菅を用ひしことは諸註に例を引きていへる如し○天ノ川は天上の川なり。いにしへみそぎは水邊に出でてものせしなり○アマグモノよりミソギテマシヲまで二十四句の意は君ノ壽命ヲ保タム爲ニハイカニ難キ事ナリトモシテムヲといふ意にて天地の果まで行かむことも、天上に生ひたる菅を採りて祓に用ひむことも、天上の川におりたちてみそぎはらひせむことも皆成し難きことなるをその成し難き事をもしてむをと云へるなり○高山は即泊瀬山なり。はつせ山に葬りしをイハホノ上ニ云々と云へるなり○古義に歌意かくれたるところなしと事もなげに云へるはいかが。此歌につきて不審なる事一ならず。第一には
(512)  あめつちにくやしき事の世のなかのくやしきことは
といふ四句のをさまる處なり。もとよりクヤシキ事ハ天雲ノとつづくにはあらず。然らば此辭はいづくにかゝるにかといふにクヤシキ事ハは俗のクヤシキ事ニハの意にてアマグモノ以下二十四句を隔ててタカヤマノ云云にかゝれりと見るより外なし。さればアマ雲ノ以下二十四句は一種の挿句とみるべし
 次にアマ雲ノの前にアラカジメカクト知リセバといふことを補はでは通ぜず。さればクヤシキコトハのハは誤字にて其次に數句おちたるにかと思へどそは輕々しく云ふべくもあらず
 次に石占以而は古義に云へる如く問而に改むれば穩なる如くなれど、なほ思ふにテといふ辭こゝにかなはず。元來テは甲乙の二事相次ぐか又は甲の結果として乙の起る場合に用ふるテニヲハなり(此外にはツツの代に用ふることあり)。今は夕けとひ石占とふ事と神を祭りて之に祈請する事とは全然別事なればテといふ辭を以て連ぬべきにあらず
 次にユフダスキカヒナニカケテのテも然り。前註者は漠然と心得たりげなれどワ(513)ガヤドニよりカヒナニカケテまでの八句は神を祭りて之に祈請する事又アメナル以下八句はみそぎして罪をはらふ事にて全然別事なれば是亦テを以て相連ぬべきにあらず。案ずるに初の方は石ウラモチテウラドヒといひて始めて全く、後の方はカヒナニカケテコヒノミといひて始めて全きなり。かく二處同樣に辭の足らざる處なれば一をさしおきて一を改むべきにあらず。否たとひ石ウラモチテを石ウラトヒテと改めても未穩ならざるは前に云へる如し。今云ひつる如くウラドヒコヒノミといふ二語を補ひアラカジメカクト知リセバ云々シテウラドヒテマシヲ又云々シテノコヒノミテマシヲ又云々シテミソギテマシヲといふ意とすればよく通ずるなり。かやうに辭の足らざるは果して句の落ちたるにや。案ずるに一處ならばともかくも三處まで辭の足らざる處あり然も石ウラモチテといひさしカヒナニカケテと云ひさしたる同じ樣なる處の二處まであるを思へば句のおちたるにはあらで作者固有の口つきと見る方穩なるべし。彼クヤシキコトハと云ひさして長々と他の事を云へるも尋常の句法にあらざるを思ふべし
 なほ一つ云ふべき事あり。そはマクラベニといふ句なり。死者の家にもあらぬ作者(514)の家にみもろを立ててたが枕べにかいはひべをすゑむ。されば枕の字は誤字なるべくおぼゆ。諸注此點に不審を挿まざる中に獨、考には十七卷にイハヒベスヱツアガトコノヘニ、二十卷にイハヒべヲトコベニスヱテなどあるを證として枕邊を牀邊の誤とせり。此説然るべし
 
   反歌
421 およづれのたはごととかも高山のいはほのうへに君がこやせる
逆言之枉〔左△〕言等可聞高山之石穗乃上爾君之臥有
 タハゴトトカモはタハゴトトアルカモの略にてそのトは後世のニなり,結句の下にト使ノイフハといふことを補ひて聞くべし
 
422 いそのかみふるの山なる杉村のおもひすぐべき君にあらなくに
石上振乃山有杉村乃思過倍吉君爾有名國
 上三句は序なり。オモヒスグは上(四三一頁)にいへる如くタダ一時思ヒテ止ムといふ事なるべし○丹生王はおそらくは石田王の同母姉妹なるべし
 
(515)   同石田王卒之〔五字を□で圍む〕時|山前《ヤマクマ》王哀傷作歌一首
423 (つぬさはふ) いはれの道を 朝さらず ゆきけむ人の おもひつつ かよひけま四〔左△〕《ク》は ほととぎす 鳴五月者《ナクサツキニハ》 あやめぐさ 花たちばなを 玉にぬき【一云ぬきまじへ】 かづらにせむと なが月の しぐれの時は もみぢばを をりかざさむと
角障經石村之道乎朝不離將歸人乃念乍通計萬四波霍公鳥鳴五月者菖蒲花橘乎玉爾貫【一云貫交】※[草冠/縵]爾將爲登九月能四具禮能時者黄葉乎折挿頭跡
 略解には題辭の同を衍字とし古義には石田王卒之の五字を削れり。寧古義に從ふべし○イハレノ道は石村を經て或處へゆく道なり。その或處は雅澄の説には即泊瀬なりといへり。此説よろし。なほ下に云ふべし○アササラズは日毎の意なり(契沖)○第六句の四の字又口とあり(たとへば類聚古集)。久老は口とあるに從ひてカヨヒケマクハと訓めり。雅澄は久老の訓によりてカヨヒケムヤウハの意なりと云へり。ケマクハはケムハの延言なり○第八句を舊訓にナクサツキニハとよめるを雅澄(516)は鳴の上に來の字をおとせりとしてキナクサツキハとよめり。舊訓に從ふべし○アヤメグサ花タチバナヲ玉ニヌキとは菖蒲と橘花とを絲に貫き交ふるなり。カヅラは頭に挂くるにてカザスは頭にさすなり
 
(はふくずの)いやとほながく【一云くずの根のいやとほながに】よろづ世に たえじとおもひて【一云おほふねのおもひたのみて】 かよひけむ 君をばあすゆ【一云君を從明日香】よそにかもみむ
延葛乃彌遠永【一云田葛根乃彌遠長爾】萬世爾不絶等念而【一云大船之念憑而】將通君子婆明日從【一云君乎從明日香】外爾可聞見牟
    右一首或云柿本朝臣人麻呂作
 タエジトオモヒテのオモヒテはタエジトのみを受くるにあらず。上なるカヅラニセムト、ヲリカザサムトの二つをも受くるなり。辭を換へていはばカヅラニセムト思ヒ云々カザシニセムト思ヒ云々タエジト思ヒテ云々とやうにいふべきを最後なるオモヒテに讓りて上なる二つのオモヒを省けるなり。されば一本にオホブネ(517)ノオモヒタノミテとあるは採るべからず○雅澄いはくカヨヒケムといひて上にカヨヒケマクハとある首尾を相調へたりと。げに然り○君ヲバアスユと一本の君ヲアスユハ(香の字一本に者とありといふ)とは君ヲといふに力を入るゝかアスユといふに力を入るゝかの差なるがサバカリ熱心ニ通ヒシ君ヲバといふ意なれば君ヲバアスユの方まされるに似たり○ヨソニカモミムは四卷にも
  はつはつに人をあひみていかならむいづれの日にか又よそにみむ
などありて物いひかはしもせずなるなり。さて今のヨソニカモミムは或人がよそに見るなり。その或人は誰ぞ。古義には初瀬に石田王の通ひし美人ありけるが石田王の卒せしによりて其美人が石田王をよそに見るなりとせり。余の案は或人は即なくなりし人、而してなくなりしは石田王なれば石田王(女王)の許に通ひし人を石田王がよそに見るなりといふ説なり。なほ次々にいふべく今はまづ一首の意を通釋せむに
 泊瀬ナル石田女王ノ許へ(泊瀬と定めたる理由は次の一短歌の處にていふべし)石村《イハレ》ヲ經テ毎日ユキケム人ノ女王ヲ思ヒツツ通ヒケムサマハ霍公ノ鳴ク五月ニ(518)ハ女王ト共ニ菖蒲花橘ヲ貫キ交ヘテ鬘ニシテ遊バムト思ヒ長月ノ時雨ノ時ニハ女王ト共ニモミヂ葉ヲ折リカザシテ興ゼムト思ヒカクシツツイヤトホ長ク萬年モ絶エジト思ヒテ通ヒケム人〔右△〕ヲバ明日ヨリ女王ガヨソニ見タマハム嗚呼カナシキ哉
といへるなり。さてカヨヒケム君ヲバとある君といふ語が人まどはしなるなり。君とあるによりて石田王をさしたる如く思はるゝなり。もし君とあらで人とあらばその石田王を指すにあらざる事余の説を待たで心づく人あらむ。然も細に此歌を見るに上にユキケム人〔右△〕ノオモヒツツカヨヒケマクハとある人はやがてカヨヒケム君ヲバアスユとある君と同一人なれば今は第三者を君といへるなり。反歌に
  河風のさむきはつせをなげきつつ君があるくに似る人もあへや
とある君も全く今と同じくて第三者を指せり。なほ例を求むれば二卷明日香皇女木※[缶+瓦]殯宮之時柿本朝臣人麻呂作歌に
  もち月のいやめづらしみおもほしし君と時々いでましてあそびたまひし
(519)  ぬえどりの片こひしつつ朝とりのかよはす君が
とある君は明日香皇女にあらで夫の君|忍坂部《オサカベ》皇子なるも全く今と同じ。抑今の歌は彼長歌を學べるにあらずやと思はるる所あり。即彼長歌に
  うつそみとおもひし時に春べは花をりかざし秋たてばもみぢ葉かざし
とあるは今の歌に
  ほととぎすなく五月にはあやめ草花たちばなを玉にぬきかづらにせむとなが月のしぐれの時はもみぢ葉ををりかざさむと
とあるに當り又彼長歌に
  朝とりのかよはす君が夏草のおもひしなえてゆふづつのかゆきかくゆき大ぶねのたゆたふみれば
とあるは今の歌の反歌に
  河風のさむきはつせをなげきつつ君があるくに
とあると趣相似たり。さて立歸りてさらば何故に弟三者を君といふかと云ふに元來挽歌を見る人は死者にあらで生者なれば人の妻を哭するに際して其夫を君と(520)云はむこと必しも物遠からず。否彼長歌は明日香皇女の薨ぜし時其夫君忍坂部皇子に奉り今の歌は石田王の卒せし時其夫の君某王におくれる歌ならむも知るべからず、若然らむには生き殘れる夫君を指して君と云はむ事勿論なり。以上述べ來れる如くに釋かば此歌は氷の如くに釋け又石田王の女王なる事益明なるべし
 
   或本反歌二首
424 (こもりくの)はつせをとめが手にまける玉はみだれてありといはずやも
隱口乃泊瀬越女我手二纏在王者亂而有不言八方
 
425 河風のさむきはつせをなげきつつ君があるくに似る人もあへや
河風寒長谷乎歎乍公之阿流久爾似人母逢耶
    右二首者或云紀皇女薨後山前王代2石田王1作之也
 右二首或本には石田王の卒せし時山前王の悲しみて作りし長歌の反歌とし或説には紀皇女の薨ぜし後山前王が石田王に代りて作りし歌とせるなり
(521) 久老は初の一首を右の長歌の反歌とし後の一首を石田王卒之時山前王贈2紀皇女1歌としたり。千蔭は二首共に反歌にあらずとし雅澄は二首共に反歌なりとせり。余の説は二首ともに今の長歌の反歌とする事は雅澄の説に齊しけれど歌の釋は大に雅澄のと異なり。さるは石田王を女王と認めたる結果なり。諸註を批評せむことは極めて煩はしければ今は直に余の説を述べむにハツセヲトメは即石田王なり。泊瀬にましましし故にハツセヲトメといへるなり○アリトイハズヤモは二卷なる
  けふけふとわがまつ君は石川の貝にまじりてありといはずやも
とあるアリトイバズヤモに同じ。女王卒シテ其手ニマキ給ヘル手玉ノ緒ガ朽チ絶エテ其玉ガ狼藉タリトイフニアラズヤといふ意なり。まことに卒後さばかり程經たるにはあらざらめど都合によりては數日前の事をただ今の事の如くにも又あまたの月日を經たる如くにも云ふは古歌の常なり。今も長歌には君ヲバアスユヨソニカモ見ムといへり。之を辭のまゝに解すれば其日卒せしが如くなれど必しも然らじ
(522)河風のさむきはつせを
 君ガアルクニの君は石田女王の夫君なり。ニル人は石田女王に似たる人なり。アヘヤはアヘカシなり。結句は人麻呂の妻を失ひし時の長歌に
  たまほこの道ゆく人もひとりだに似てしゆかねば
とあるに似たり
 
   柿本朝臣人麻呂見2香具山屍1悲慟作歌一首
426 (草まくら)たびのやどりにたがつまか國わすれたる家待莫〔左△〕國《イヘマタマクニ》
草枕覊〔馬が奇〕宿爾誰嬬可國忘有家待莫國
 尾句は舊訓にイヘマタナ〔右△〕クニとよめるを眞淵久老莫を眞の誤としてイヘマタマ〔右△〕クニとよみて家待タムニの延言とせり。此説に從ふべし(類聚古集には家待眞〔右△〕國とあり)。宣長の説は從はれず。家は上にワガノレル馬ゾツマヅク家コフラシモとある家にて家人の事なり。タガツマは誰夫なり
 
   田口(ノ)廣麿死之時|刑部《オサカベ》(ノ)垂《タリ》麻呂作歌一首
(523)427 (ももたらず)八十隅坂〔左△〕《ヤソノクマヂ》にたむけせばすぎにし人にけだしあはむかも
百不足八十隅坂爾手向爲者過去人爾蓋相牟鴨
 八十隅坂の坂を眞淵は路の誤としてヤソノクマヂとよみ(久老の訓はヤソノクマデ)そのヤソノクマヂを宣長(記傳十四卷四十三丁)は黄泉路の事とせり。案ずるにうつつに尋ね行く路を云へるならむ○隅は隈の誤字にあらず。木村博士の訓義辨證(上卷四十六頁)に
  按に廣雅釋邱に隅(ハ)隈也と見え類聚名義抄にも隅(クマ)とあれば隅字クマと訓べき事論なし
といへり○タムケセバはタムケシツツ尋ネ行カバといふ事、ケダシは或ハなり
 
   土形《ヒヂカタ》(ノ)娘子(ヲ)火2葬泊瀬山1時柿本朝臣人麻呂作歌一首
428 (こもりくの)はつせの山のやまのまにいざよふ雲は妹にかもあらむ
隱口能泊瀬山之山際爾伊佐夜歴雲者妹鴨有牟
 雲といへるは火葬の烟なり(契沖)。イザヨフは動けども處を變ぜざるなり
 
(524)   溺死(ニシ)出雲娘子(ヲ)火2葬吉野1時柿本朝臣人麿作歌二首
429 (山のまゆ)いづもの子らは霧なれやよしぬの山のみねにたなびく
山際從出雲兒等者霧有哉吉野山嶺霏※[雨/微]
 山ノマユは枕辭なり(契沖)。ナレヤは後世のナレバニヤなり。さてそのナレヤを後世の歌にも用ひたるをハとニとを略せるなりとせむはわろし。上代の辭のさながら傳はれるなり
 
430 (やくもさす)出雲の子らが黒髪はよしぬの川のおきになづさふ
八雲刺出雲子等黒髪者吉野川奥名豆颯
 略解に『溺死の歌ありてさて火葬の歌有べきを此二首前後せり』といへる如し○ナヅサフは宣長いはく
  萬葉に見えたるナヅサフは或は海川などに浮べること或は船より渡る事などにいひいづれも水に著くことにのみいへり。中昔の物語書などにいへるはいたく意異にしてなれしたしむことにいへり
(525)といへり(記傳四十二卷三十五丁及玉勝間六卷二十七丁)。此説非なり。次々に言ふべし。こゝは滞る事なり。流れ失せざるなり
 
   過2勝鹿(ノ)眞間娘子墓1時山部宿禰赤人作歌一首并短歌
431 いにしへに ありけむ人の しつはたの 帶解替而 ふせ屋たて つまどひしけむ かつしかの 眞間の手兒名が おくつきを こことはきけど 眞木の葉や 茂有《シゲリタル》らむ 松が根や △ とほくひさしき ことのみも 名のみもわれは わすらえなくに
古昔有家武人之倭文幡乃帶解替而廬屋立妻問爲家武勝壯鹿乃眞間之手兒名之奥槨乎此間登波聞杼眞木葉哉茂有良武松之根也遠久寸言耳毛名耳母吾者不所忘
 イニシヘニアリケム人は即眞間娘子をよばひし人なり。九卷なる詠2勝鹿(ノ)眞間娘子歌に
  夏蟲の火にいるがごとみなと入に舟こぐごとくよりかくれ人のいふ時云々
(526)とあるに見合すれば唯一人を云へるにあらず。前註に単數と見たるは後の句の解釋が余のと異なる爲なり○シは織物の名なり。一名をシドリといふはシヅオリの約なり。古代工業の開けざりし程の織物は概無地なりし中に此布のみ文ありしかば頗珍重せられて又アヤヌノ(文布)と稱せられき。然るに後に外國よりさまざまの文ある織物輸入せられしかばそれと分たむ爲倭の字を加へて倭文布と書くこととなりしにて倭文とかくはその倭文布の略なり。さて其シヅの文は今いふシマなるべしと白石、眞淵、宣長、篤胤等いへり。げに然るべし。但篤胤が『青筋の文ある布を云』といへるはいかが。篤胤の引ける伯家部類に青筋乃文布といふことありと云へり。もしシヅの筋青色に限らば特にアヲキスヂノとは云はじ。されば筋の色は青に限らざるなり
  追考 はやく宣長の神壽《カムヨゴト》後釋(七十二丁)に『考に倭文を青筋ある布といはれたれど筋の色は青にはかぎるべからす。かの釋日本紀にいへるはたまたま青筋なるが殘れりしなるべし』と云へり
 シヅハタのハタは織物といふ事。さて此物ははやくすたれきと見ゆ。そは十一卷に(527)イニシヘノシヅハタ帶ヲムスビタレとあるを見又和名抄に之を擧げざるを見て知るべし。此布を帶とせし事は今の歌、十一卷の歌又武烈天皇紀の大君ノ御帶ノシヅハタムスビタレといふ歌にて證すべし。されど篤胤が『いにしへ專帶に用たりと聞えて』云々といへるはなほ考ふべし○帶トキカヘテを久老は『トキカヘテはトキカハシテなり』といひ雅澄は『帶解|交《カハ》シテといふに同じ。互ニ帶解テといはむが如し』といへり。されど眞間娘子は九卷の長歌によればいづれの男にも逢はで死にしなれば帶トキカハシテ又は互ニ帶解テなど云ふべからず。或は赤人は九卷の長歌とは異なる傳説によりて此歌を作れるなりとせむか。さてもなほ互に帶ときて寢る事はふせ屋を建てゝ妻問する事より後に云はざるべからず○フセヤは陋屋なり。古は妻を迎ふとて新に家を建てしなり。諸註殊に古義にくはしく云へるを見べし○次にツマドヒといふ語を研究せむ。もしツマドヒを男女相逢ふ意とせば上にオビトキカヘテとあるを久老雅澄のいへる如く帶トキカハシテの意とすべく又中間なるフセヤタテは誤字とするか又は冠辭考に云へる如くフセヤタツなどよみてツマの枕辭とせざるべからず。其故は帶をときかはす事と男女相逢ふ事との間(528)に家を造る事を挿むべきにあらねばなり。さて前註にツマドヒといふ語を釋けるやうを見るに略解には『男女相逢をいへり』といひ古義には『夫婦相|誂《トフ》をいふ詞なり』といへり。ツマドヒは果して男女の相逢ふに限りていふ語なりや。案ずるに古事記朝倉宮の段に
  即其|若日下部《ワカクサカベ》王の許にいでまして其犬を賜入れてのらしめたまはく是物は今日道に得つるめづらしき物なり故津麻杼比の物と云ひて賜入れき
とあるツマドヒノモノは今いふ結納なり。又本集九卷に
  いにしへのますらをのこのあひきほひつまどひしけむ〔七字傍点〕あしのやのうなびをとめのおくつきをわがたちみれば云々
  いにしへのしぬだをとこのつまどひし〔五字傍点〕うなびをとめのおくつきぞこれ
といひ十九卷に
  いにしへにありけるわざのくすはしきことといひつぐちぬをとこうなびをとこのうつせみの名をあらそふとたまきはるいのちもすててあひきほひつまどひしける〔七字傍点〕をとめらが云々
(529)といへる葦屋處女は二人の男にあひしにはあらで二人のうちいづれにも逢はでうせしなれば此等の歌のツマドフは男女相逢ふことゝは見べからず。されど又七夕を詠じて十卷に
  こまにしき紐ときかはし天人のつまどふよひぞ我もしぬばむ
などいへるは正しく男女相逢ふことゝ見ゆ。さればツマドフは今いふ申入といふが本義にて轉じては男女相逢ふ意ともなれるなり。今はフセヤタテツマドヒシケムとあり又九卷の長歌によれば眞間娘子は男せで死にしなれば今のツマドヒは申入の義とすべし。さてフセ屋クタテツマドヒシケムを新に家を造り女を迎へて妻とせむことを言ひ入れしことゝすれば上なるシヅハタノ帶トキカヘテを(上に擧げたる十卷の歌なるコマニシキ紐トキカハシに準じて)帶をときかはす意としては否オビトキカヘテとありては通ぜず。案ずるに日本紀に大君ノ御帶ノシヅハタムスビタレとありて太子すら倭文の帶を着けたまひしを見れば東の賤の男、ふせ屋に住むばかりの賤の男が倭文の帶を着けけむは決して平時の裝にあらじ。試に云はば武烈紀に
(530)  大君の御帶のしつはたむすびたれ
 又本集十一卷に
  いにしへの倭文はたおびをむすびたれたれとふ人も君にまさらじ
とあるを見れば帶解替而は帶結垂而の誤字にて妻どひせむとて賤の男の盛裝しけむを云へるにあらざるか。果して然らば
  しづはたの帶ゆひたれてふせやたてつまどひしけむ
と訓みて倭文の帶を結び垂れ又新に家を立てて娘子をよばひし事とすべし。或は字訓共にもとのまゝにて舊キヲ解キ新シキ倭文ノ帶ニ替ヘテの意即帶シメ替ヘテの意とすべきか○さて略解に『さてこれ迄は男の方をいふなり』といへるはツマドヒシケムにて切れたりとせるやうに聞えてまぎらはし。とまれかくまれツマドヒシケムは次なるカツシカノ眞間ノテコナガにつづけるなり○次に手兒名の義は如何。雅澄は之を娘子の名とし眞淵、宣長、久老等は普通名詞とせり。案ずるに本集十四卷にツルギダチ身ニソフ妹ヲトリ見カネネヲゾナキツル手兒ニアラナクニといふ歌あり。四五は幼キ兒ニアラヌニ聲ヲアグテ泣キツといふ意なれば手兒は(531)手ヨリ釋《オ》カヌ兒の意にて古語拾遺に
  天照大神育2吾勝《アカツ》尊1特甚鍾愛常懷2腋下1稱曰2腋子1
とある類なり(眞淵が末子《ハテコ》の意とし宣長が愛子《アテコ》の意とせるはうべなはれず)。さて同卷に人皆ノ言ハ絶ユトモ埴科ノ石井ノ手兒ガ言ナ絶エソネ又澤渡ノ手兒ニイユキアヒ赤駒ガアガキヲハヤミ言問ハズ來ヌなど幼兒ならで人となれるにも云へるは愛稱なり。されば手兒は普通名詞にて右の三首共に東歌なるを思へば少くとも多く東國に行はれし語なり。さらば今の手兒名も亦普通名詞なりやと云ふにこは雅澄の云へる如く固有名詞なるべくテコナのナは名の意にて(集中には手児名とも手児奈とも書けり)テコと云ふ事を名におほするにつきて添へたる言なるべし(眞淵のナは女なりといへるは從はれず)。九卷に上總(ノ)末(ノ)珠名娘子とあるも(末は周准《スヱ》にて郡名、珠名は娘子の名)珠といふ事を名におほするにつきて名といふ言を添へたるなり。從來手兒と手兒名とを同一視したれど珠(物名)と殊名(人名)と別なるを知らば又手兒と手兒名と別なるを知るべし
  和訓栞には『東國の俗、女の美なるものを稱してテコナといふといへり』又『奥洲津(532)輕の邊にて蝶をテコナといふ』といひ古川古松軒が人に贈りし書に眞間にて蝶又は美しき物をテコナといふといひ(雜誌國歌第十四號)井上文雄の伊勢の家苞(二卷七丁)には上野國草津にて末の女子をテコといふ由記せり。此等の説皆採らず。因にいふ。夫木抄卷七好忠の歌にウツギ原テコラカ布ヲサラセルト見エシハ花ノ盛ナリケリとあるは(曾丹集の一本にはテコナとあり)本集卷十四に多摩河ニサラステヅクリサラサラニ何ゾ此兒ノココダカナシキとあるに據れるにてテコをアヅマヲトメの意に使へるなり
  追考 垂仁天皇紀に是以改2汝(ノ)本國(ノ)名1追負2御間城《ミマキ》天皇(ノ)御名1便《スナハチ》爲2汝國名1……故號2其國1謂2彌摩那(ノ)國1其是之縁也とあるも御間名なり
 ○茂有良武は、略解にシゲリタルラムとよめるに從ふべし。マキノ葉ヤ以下四句ははやく契沖の云へる如く一卷人麿の過近江荒都作歌に
  大宮はここときけども大殿はここといへどもはる草|之《カ》しげくおひたるかすみたつ春日|之《カ》きれる【或云かすみたつ春日かきれる夏草かしげくなりぬる】ももしきの大宮どころみればかなしも【或云みればさぶしも】
(533)とあるに似たり。さるは之を學べるなり。さて眞木ノ葉ヤシゲリタルラムといへるは眞木ノ葉ガ茂レル爲ニヤ其墓ノ見エヌといふ意と聞ゆ。さては當時墓は跡もなくなれりしなり○松ガ根ヤトホクヒサシキを略解に
  代々遠く久しき老木の松の根の這わたりて墓を隱せる也。また也〔右△〕は之〔右△〕の誤にてマツガネノならんと宣長いへり
といへり。松ノ齢ヤ遠ク久シキといふ事を松ガネヤ云々とは云ふべからず。たとひ然云ふべくとも松の齢の長久なる事を云へるのみにてはココトハキケドと云へると照應せじ。略解には『松の根の這わたりて墓を隱せる也』と云へれどそは註者が妄に加へたる辭にて歌には見えざる所なり。マツガネヤのヤをノに改むればマツガネは枕となりトホク久シキは娘子の年代の遠く久しき事となれどさてはそのトホクヒサシキといふ一句のかゝる處なし。古義には
  松之根也は松根の遠く根延ふを云てトホクヒサシキの言を興せり。也は久寸《ヒサシキ》の下に轉じて意得べし
といへり、こは支離滅裂なる説にて辨ずるまでもなけれどなほ一わたり辨ぜむに(534)トホクヒサシキの言を興せるものならばマツガネヤは枕なり。而して枕ならば宣長の説の如くマツガネノといふべくヤとはいふべからず。又雅澄はヤはヒサシキの下にうつして心得べしといへれど名詞の下より形容詞又は動詞の下へうつして心得るヤは疑問のヤなり。而して疑問のヤは枕に添ふることあるべからず。案ずるに遠久の上に脱句あるべし。その脱句はツツミタルラム、シカバカリなどか。もし然らばトホク久シキは次の事と名とにかゝれるなり○コトノミモ名ノミモワレハワスラエナクニの主格は何なるか。ワスレナクニとあらでワスラエナクニとあればワレハは主格にあらでワレニハのニを省けるなり。されば主格はコト及名なり。從ひてコトノミモ名ノミモを言ノミニテモ名ノミニテモ(略解)言ニノミモ名ニノミモ(古義)など釋くべからず。又契沖以下コトを言の意としたれど言と書けるは借字にて實は事〔右△〕の意なり。即九卷にイニシヘニアリケル事トといひ遠キ代ニアリケル事ヲといへる事〔右△〕なり。さて事ノミ名ノミといへるノミはバカリの意にて事の方にては名に對して事ノミといひ名の方にては事に對して名ノミといへるなり○オクツキヲココトハキケドの下にソノオクツキノ見エヌハなどいふことを補(535)ひて聞くべし○ワスラエナクニはワスラレヌカナといふに近し。後世ワスラレヌニといふとは異なり
 
   反歌
432 われもみつ人にもつげむかつしかのままの手兒名がおくつきどころ
吾毛見都人爾毛將告勝牡鹿之間間能手兒名之奥津城處
 オクツキドコロはオクツキノ處なり。ただオクツキといふとは異なり。一卷人麿の長歌に大ミヤドコロといへると參照すべし
 
433 かつしかのままの入江にうちなびく玉藻かりけむ手兒名しおもほゆ
勝牡鹿乃眞々乃入江爾打靡玉藻苅兼手兒名志所念
 略解に契沖の第二説によりて『眞間の江に身を沈めたるをかくいへるにも有べし』といへるは非なり。玉藻ヲ見レバとあらばこそ然釋かめ。現に眞間の入江に玉藻の靡き生ひたるを見て其玉藻を手見名が苅りいたづきけむ昔をしのべるなり
   
   和銅四年辛亥河邊宮人見2姫島松原美人屍1哀慟作歌四首
(536)434 かざはやのみほの浦廻のしらつつじみれどもさぶしなき人おもへば【或云みればかなしもなき人おもふに】
加麻〔左△〕※[白+番]夜能美保乃浦廻之白管仕見十方不怜無人念者 或云見者悲霜無人思丹
 
435 (みづみづし)久米の若子がい觸《フリ》けむ礒の草根のかれまくをしも
見津見津四久米能若子我伊觸家武礒之草根乃干卷情〔左△〕裳
 
436 人言のしげきこのごろ玉ならば手にまきもちてこひざらましを
人言之繁比日玉有者手爾卷以而不戀有益雄
 
437 妹も吾も清之《キヨミノ》河のかはぎしの妹がくゆべき心はもたじ
妹毛吾毛清之河乃河岸之妹我可悔心者不持
    右案、年紀并所處及娘子屍作歌人名已見v上也。但歌辭相違是非難v別。因以累2載於茲次1焉
 二卷に題辭今と同じくてイモガ名ハ千代ニナガレム云々といふ歌あり。加之今の歌のうちはしの二首は處も事も題辭にかなはず。又奥二首は純然たる相聞歌にて此部即挽歌に入るべきにあらず。おそらくは家持の據りし原本に題辭(初二首と終二首との)歌(妹ガ名ハの歌)の脱して今の如くなれりしを其まま採れるにてこも亦本卷が精選を經ざる證なり。雅澄は題辭のうち和銅四年辛亥の六字を存じたれどこれも殘ずべきにあらず
 
かざはやのみほのうらみの
 以下二首は久米若子をしのべる歌なり。上(四〇六頁)なる博通法師の歌と參看すべし○カザハヤは略解に云へる如く紀伊の地名なるべし。サブシはおもしろからざるなり。さればこそ本に不怜と書きたるなれ
 
みつみづし久米のわくごが
 觸を雅澄は二十卷にイソニ布理と假字書にせるによりてフリとよめり○草根を略解にカヤネとよめれど草をカヤとよむは刈りて屋に葺くにつきていふなり。打任せて草をカヤといふべきにあらず。なほ水を飲料に供するにつきてはモヒといへど常にはミヅといふが如し
(538)人ごとのしげきこのごろ
妹もわれもきよみの河の
 キヨミハラノ宮を二卷(本書二二二頁)にキヨミノミヤといへるを思へばキヨミガハといひしをキヨミノ河といへるなり。契沖は『飛鳥河を淨御原の邊にてはキヨミノ川とも申べし』といへり○上三句はクエにかゝれる序、イモモアレモはキヨミにかゝれる枕辭なり。クエは主文にては悔、序よりのかゝりにては崩なり
 
   神龜五年戊辰太宰(ノ)帥大伴(ノ)卿思2戀故人1卿〔左△〕三首
438 愛《ウツクシキ》人のまきてし(しきたへの)わが手枕をまく人あらめや
愛人纏而軒敷細之吾手枕乎纏人將有哉
    右一首別去而經2數旬1作歌
 五卷太宰帥大伴卿報凶問歌、八卷式部大輔石上堅魚朝臣歌、太宰帥大伴卿和歌、下なる天平二年庚午冬十二月太宰帥大伴卿向v京上v道之時作歌五首、還入2故郷家1即作歌三首と參看すべし○愛は舊訓にウツクシキとよめるに從ふべし。今のカハユキな(539)り。略解にウルハシキとよめるは非なり。マクは枕とする事○題辭のうち下の卿は歌の誤なり 
439 かへるべき時者成來〔左△〕《トキニハナリヌ》みやこにてたがたもとをかわがまくらかむ
應還時者成來京師爾而誰手本乎可吾將枕
 宣長は來を去の誤として舊訓の如くトキニハナリヌとよみ雅澄は成來を來來の誤としてトキハキニケリとよめり。宣長の説の方に心引かる○マクラクは枕とする事にてそのクはカヅラク、ワナクなどのクに同じき事雅澄のいへる如し
 
440 みやこなるあれたる家にひとりねば旅にまさりてくるしかるべし
在京師荒有家爾一宿者益旅而可辛苦
    右二首臨2近向v京之時1作歌
 題辭の神龜五年戊辰云々は此二首にもかかれりと見ゆるに下に天平二年庚午冬十二月太宰帥大伴卿向v京上v道之時作歌とあり又六卷に冬十二月(○天平二年庚午)太宰帥大伴卿上v京時云々とあり又十七卷に天平二年庚午冬十一月太宰抑大伴卿(540)被v任2大納言1上v京之時云々とあると相かなはず。これによりて契沖は
  第二に後岡本宮御宇と標して有問皇子の歌を載るに因て意吉麻呂、憶良等の歌をも一所における例にや
といへれど實に天平二年の作ならば少し下なる天平二年庚午冬十二月太宰帥大伴卿向v京上v道之時作歌の前におくべし。強ひて神龜五年の作と一所におくべからず。案ずるに神龜五年の春妻大伴郎女を喪ひし後京に上らむとせしが故ありて上らずなりしにて右の二首の歌はその上らむとせしをりによめるなり
 
   神龜六年己巳左大臣長屋王賜v死之後倉橋部女王作歌一首
441 おほきみのみことかしこみ大あらきの時にはあらねど雲がくります
太皇之命恐大荒城乃時爾波不有跡雲隱座
 神龜六年は其八月に天平元年と改められき。長屋王が自盡を命ぜられしは其年二月なり。倉橋部女王は長屋王の女、妹などか
 記傳三十卷にアラキは新に死にたるまゝ未葬りあへぬほどまづ姑く収置く處をいふといひ又
(541)  時ニハアラネドとは大荒城仕奉るべき時ならぬを云。そは此長屋王は謀反賜ふよし聞えありしによりて窮2問其罪1令2王自盡1と續紀に見えて今世武家にて切腹仰付らるゝが如し。されば御命の限りにて薨坐るには非ざりしを時ニハアラネドと云るなり
といへり
 
   悲2傷|膳部《カシハデベ》王1歌一首
442 世のなかはむなしき物とあらむとぞこのてる月はみちかけしける
世間者空物跡將有登曾此照月者滿闕爲家流
    右一首作者未詳
 膳部王は長屋王の子にて父王の自盡を命ぜられし時自|縊《ワナ》きて卒せしなり○ムナシキはツネナキといふべきに似たり。モノトのトはオヨヅレノタハゴトトカモ(五一四頁)のトと同じく後世のニに當れり。アラムトゾはアラムトイヒテゾなり。此辭の下にソレヲ示スベクなどいふことを挿みて聞くべし
 
(542)   天平元年己巳摂津國班田史生|丈部《ハセツカベ》龍麿自經死之時判官大伴宿禰三中作歌一首并短歌
443 あま雲の むかふす國の 武士《マスラヲ》と いはれし人は すめろぎの 神の御門に とのへに たちさもらひ 内のへに つかへ奉《マツリテ》 (玉かづら) いやとほながく おやの名も つぎゆくものと おも父に 妻に子どもに かたらひて たちにし日より (たらちねの) 母のみことは いはひべを 前にすゑおきて 一手には 木綿とり持《モタシ・モチ》 一手には にぎたへまつり たひらけく まさきくませと あめつちの 神にこひのみ 何在《イカナラム》 とし月日にか (つつじ花) にほへる君が (牛留〔二字左△〕鳥《ニホドリノ》) なづさひこむと たちて居て まちけむ人は おほきみの みことかしこみ (おしてる) なにはの國に (あらたまの) 年ふるまでに しろたへの ころもでほさず あさよひに ありつる君は いかさまに おもひませか (うつせみの) をしきこの世を (露じも(543)の) おきていにけむ 時ならずして
天雲之向伏國武士登所云人者皇組神之御門爾外重爾立侯内重爾仕奉玉葛彌遠長祖名文繼往物與母父爾妻爾子等爾語而立西日從帶乳根乃母命者齋忌戸乎前坐置而一手者木綿取持一手者和細布奉乎〔左△〕間幸座與天地乃神祇乞祷何在歳月日香茵花香君之牛留鳥名津匝來與立居而待監人者王之命恐押光難波國爾荒玉之年經左右二白栲衣不干朝夕在鶴公者何方爾念座可鬱蝉乃惜此世乎露霜置而往監時爾不在之天
 天平元年は即神龜六年なり。此歌は八月改元の後の作なれば更に天平元年己巳とは標せるなり○古は六年に一囘づつ天下の公民に田地を頒與せられき。そを文字には班田と書きてアガチダ又はタマヒダといひき。アガチはワカチなり。畿内には特に班田使を置かれ其他の諸國にては國司班田の事を掌りき。班田使には長官、次官、判官、主典、史生ありき。略解にトシフルマデニとは畿内の班田多く事成りて攝津國に到りて死たるなるべしといへるは非なり。攝津は攝津の班田使を任ぜられし(544)なり。さて班田は十一月一日に始まりて翌年二月の末に終るが故に年フルマデニといへるならむ〇一首の趣によれば丈部龍麿といふ人鄙に生れしが朝廷に仕へて身を立て家を起さむの志ありて妻子に別れて京に上り班田使の史生となりて勤労せしが故ありて縊れて死にし時に上官なる大伴三中が憫みて此歌を作りしなり
 アマ雲ノムカフス國は契沖のいへる如く遠國といふことなり。前註に祝詞にシラ雲ノオリヰムカフス限とあるを引きて
  天地の限竝なき武士といふ意也(略解)
  天地の間に二なき武士といふ意(古義)
などいへるは非なり。こは祝詞にはカギリとあり今は國とある別を忘れたる説なり○武士ほ舊訓にモノノフとよめり。古義にマスラヲとよめるに從ふべし。スメロギノ神ノ御門は朝廷といふことなり。略解に
  龍麿先祖より傳へて仕奉りし故に前つ御代々々をかねてかくいへる也
と云へるは非なり○トノヘ、ウチノヘは宮城の内外郭なり○奉は契沖のテを添へ(545)てマツリテとよめるに從ふべし○オヤノ名は父祖の誉なり。父祖も朝廷に仕へし事あるならむ○ツギユクモノトはツギユカムモノトテの意○オモチチは父母の古語○初よりタチニシ日ヨリまでの十八句は龍麿が都に上りて朝廷に仕へ奉りて父祖の誉を繼がむと思ひ立ちて父母妻子に其意中を語りて國を立ちし日よりと云へるなり。略解に
  かく御門守をせし上に班田使に附きて他國に出立つによりて功を立て先祖の名をも繼ぎなむと父母妻子に語りて都を立ちしをいふといへるは非なり。トノヘニタチサモラヒ、ウチノヘニツカヘマツリテはただ御膝元ノ官吏トナリテといふことなり。さるを前註者辭のまゝに禁裏の三門を守る衛士の事としさては攝津國の班田史生となれる事歌中に見えざるが故に略解には右の如き註釋を下し古義は仕奉をツカヘマツリとよみてタマカヅラ以下と引離しタマカヅラ以下の四句に班田史生となりし事を含ませたりとしたるなり。龍麿國より出でて直に班田史生となりしか又はその前に他の官を經しか知られねど班田使は内官なればその史生となりし事はトノヘニタチサモラヒ、ウチノヘニツ(546)カヘマツリテとあるにこもりたれば別に述ぶるに及ばざるなり○タラチネノ以下十二句は故郷なる母の龍麿の無事ならむ事を神に祈るさまなり○取持を略解にトリモタシとよめるを古義にトリモチに改めたり。いづれにてもあるべし〇一手ニハユフトリモタシ一手ニハニギタヘマツリとあるを見ればユフとニギタヘとは別物なり。案ずるに式に布若干端、木綿《ユフ》若干斤、麻若干斤といふことあり。即布には端といひて木綿と麻とには斤といへり。されば今ユフトリモタシニギタヘマツリといへるユフは絲のまゝなるをいひニギタヘは織りたるをいへるなり。絲のまゝにても神に奉りし事は記傳にいへり。さてそのユフは廣義のユフ即かぢの皮のすぢと麻絲とを總稱せるなるべし。それに對したるニギタヘは青白兩種を兼ねたりと聞ゆればなり。トリモタシとマツリとは辭の文《アヤ》に二つに別けて云へるのみ。即絲と布とを兩手に取持ちて奉るなり○何在はイカナラム(舊訓)ともイカニアラム(古義)ともよむべし○ニホヘルは紅顏ナルにてわかく壯なる形容なり○牛留鳥を久老は爾富鳥の誤としてニホドリノとよめり。十二卷に爾保鳥ノナヅサヒコシヲ人見ケムカモ、十五卷に柔保ドリノナヅサヒユケバとあればしばらく久老の説に(547)從ふべし。木村博士(字音辨證下卷六六頁)は『こはもとより字の誤れるにはあらで今本のまゝにてクロトリノとよむべきなり』といひて牛にクの音ある證と留をロとよめる例とを擧げたり。げに牛留はクロともよむべし。然もクロを牛留と書きはせじ○ナヅサヒコムトは記傳四十二卷(三十五丁)に
  ナヅサヒは或は水に浮ぶをもいひ或は底に沈むをも云ひ或は渡るをもいひていづれも水につくことに云へり
といへり。上なる八雲サス出雲ノ子ラガクロカミハ吉野ノ川ノオキニナヅサフの如きは宣長の説の如くにても通ずるに似たれど今のナヅサヒコムトなどは通ぜず。玉勝間六卷に此歌を擧げて
  これは上にも下にも海川などの事見えねども他の例をもて思ふに海路を經て歸り來べき國の人なるべし
といへるは牽強なり。案ずるにナヅサフは艱むことなり。ここはただ來ムトとのみ云ひて可なるを上代の旅行は艱難なるものなればナヅサヒを添へたるなり○タチテヰテは或ハタチ或ハ居テなり上(四九八頁)にもみえたり○マチケム人ハは母(548)ノ命ノ待チケム人ハなり。さて此句次なるオホキミノにかかるにあらず。下なるアリツル君ハと共にイカサマニオモヒマセカにかかるなり○オホキミノ以下は攝津國の班田史生となりて難波に下れりしをいふ。ナニハノ國の國は郡郷などの意なる狹義の國なり○年フルマデニはコロモデホサズにかゝれり。アリツルにかゝれるにあらず。コロモデホサズは旅にして世話する人もなければ雨露にぬれたる衣を干しもあへずといふ事なり(古義)○アリツルは見エシなり○時ナラズシテは天壽ノ終ナラズシテにて即自殺せしをいふ
 
   反歌
444 きのふこそ君はありしかおもはぬに濱松|之《ノ》上〔□で圍む〕於《ウヘニ》雲《クモト》棚引
昨日社公者在然不思爾濱松之上於雲棚引
 キノフコソはツイ此間といふこと〇四五舊訓にハママツノウヘニクモトタナビクとよめるを『もしウヘニとよむべくば於の字上の字の下にあるべからず。さればハママツノウヘノ〔右△〕雲ニ〔右△〕タナビクとよむべし』と田中道麿の云へるに宣長、久老、干蔭、雅澄共に從ひたれど然よみては意通ぜず。雲烟などに比せずして打任せてタナビ(549)クとは云はれざればなり。さればなほ舊訓に從ひてハママツノウヘニ雲トタナビクとよむべし。おそらくは上は衍字ならむ。於は集中にもウヘとよめり
 
445 いつしかとまつらむ妹に玉づさのことだにつげずいにしきみかも
何時然跡待牟妹爾玉梓乃事太爾不告往公鴨
 玉ヅサはこゝにては使の代語にて玉ヅサノ言とは傳言の意とおぼゆ。上なる石田王卒之時歌にも玉ヅサノ人ゾイヒツルとあり
 
   天平二年庚午冬十二月太宰帥大伴卿向v京上v道之時作歌五首
446 わぎもこがみし鞆の浦の天木香樹《ムロノキ》は常世にあれどみし人ぞなき
吾妹子之見師鞆浦之天木香樹者常世有跡見之人曽奈吉
 トコヨニアレドはカハラズニアレドといふ事とおぼゆ。ミシ人ゾナキはソヲ見シ人ゾ今ハ此世ニ無キとなり○天木香樹は舊訓にムロノキとよめり。新撰字鏡に
  ※[木+聖]※[木+呈] 楊類。加波也奈支又牟呂乃木
  ※[木+慈]※[木+総の旁] 二字牟呂乃木
(550)  ※[木+香]   上同。又加豆良
とあり。又倭名抄に
  ※[木+聖]一名河柳 牟呂乃岐
とあり。右の如く楊類カハヤナギ又一名河柳とあるによりてはやくムロノ木を柳の類とする説あり。然るに田中道麻呂の説(玉勝間三卷)には今ネズムロなどいふ木なりといへり。其説によれば漢土の杜松にて今ネヅミサシ、ネズノ木、ブロン、モロなどいふ木にて蚊遣にたくものなり。久老、千蔭、雅澄など皆道麻呂の説に從へり。されど後に至りてもなほ柳の類とする説なきにあらず。たとへば信友の動植物名彙には
  此ムロノ木江戸わたりにてはギヨリウと云へど若狹などにてはジヨリウと云へり。……肥後熊本人長瀬眞幸云。備後の鞆の浦の磯近き海中に泉水岩とて奇巖種々ありて景色よき所あり。そこを舟にてゆくに磯の方の岩上に今江戸にてジヨリウ又ギヨリウといふもの大木にて數株あり。枝葉もはら海上へ垂れ覆ひたるさまいとめづらし。是萬葉によめるムロノ木なること疑なし。里人は其名をも知らであるなりといへり
(551)と云へり。案ずるにこゝに天木香樹とあり(十六卷なる玉ハハキカリコ鎌麻呂室ノ樹ト棗ガモトヲカキハカムタメといふ歌の題辭には天水〔右△〕香とあり)新撰字鏡に※[木+香]ムロノ木とあり法隆寺資財帳に※[木+聖]筥、捌拾貮合云々とあればムロは香木とおぼゆ。然るに御柳は香木にあらず(其上本草家の説によれば近古に渡來せしものなりといふ)。之に反して杜松は香氣ある木なり。さればネヅミサシをもカハヤナギをもいにしへは共にムロといひしにて※[木+聖]はカハヤナギのムロ(否ギヨリウ)にあたる漢字なるをネヅミサシのムロにも轉用せしなり(なほいにしへは萩をもハンノ木をも共にハリといひしよりハンノ木のハリに當る榛の字を萩のハリにも轉用せし如し)。さて此歌のムロは杜松の方なるべし。否おそらくは今イブキ又はビヤクシンといふ木なるべし。イブキは杜松と同類にて海岸に多きものなり
  因にいふ。播磨の室(ノ)泊も此木の茂りしによりて名を獲つるなるべし。いにしへは※[木+聖]生《ムロフ》(ノ)泊といひき
 
447 鞆の浦の礒の室木《ムロノキ》みむごとにあひみし妹はわすらえめやも
鞆浦之礒之室木將見毎相見之妹者將所忘八方
(552) ミムゴトニは將來見ム度毎ニなり(古義)○アヒミシは其木ヲ共ニ見シなり(略解)
 
448 礒のうへにねはふ室木《ムロノキ》みし人を何在《イヅラ》ととはばかたりつげむか
礒上丹根蔓室木見之人乎何在登問者語將告可
    右三首過2鞆浦1日作歌
 二三四の意はムロノ木ガソヲ見シ人ヲ我ニ問ハバとなり○何在を舊訓にイカナリとよみ契沖、久老、千蔭、雅澄之に從へれどこは考の訓の如くイヅラとよむべし。本集卷十五にも
  いはた野にやどりする君家人の伊豆良とわれをとはばいかにいはむ
とあり○カタリツゲムカはムロノ木ニ云々ト語リ告ゲムカ、イカニセムとなり
 
449 妹とこしみぬめの埼をかへるさに獨而《ヒトリシ》みればなみだぐましも
與妹來之敏馬能埼乎還左爾獨而見者涕具末之毛
 獨而の而の字一本に之とありとぞ。舊訓にヒトリシテとよめれど久老のヒトリシとよめるに從ふべし○ナミタグムといふ動詞を形容詞にしてナミダグマシとい(553)ふはなほコノム、ノゾム、ツツムをコノマシ、ノゾマシ、ツツマシといふ類なり
 
450 ゆくさにはふたりわがみし此埼をひとりすぐればこころがなし哀〔左△〕《モ》【一云みも左可受きぬ】
去左爾波二吾見之此埼乎獨過者情悲哀【一云見毛左可受伎濃】
     右二首過2敏馬埼1日作歌
 ユクサは上(三八八頁)に見えたり。ユキシナなり〇一云のミモサカズキヌは外の例によらばミモサケ〔右△〕ズキヌといふべきなり。奈良朝文法史には此例によりてサクをいにしへ四段にはたらきしなりとし木村博士の字音辨證下卷には此句并に十四卷なるウツヤヲノトノトホ可ドモ、同卷ヨラノヤマベノシケ可クニ、同卷アズノウヘニコマヲツナギテアヤホ可ドなどを擧げて『入聲借音の渇(ノ)字カツ、ケツ兩音の字なれば可にもケの音あるべき事おして知べし』と云へり。前者の説に從ふべし○久老はココロガナシモとうたひて更にミモサ可ズキヌとうたひかへたるなりとして『上にも例あり』といへり(三九一頁參照)。案ずるに見モサカズ來ヌは第四句と相副(554)はず。さればココロガナシモの方を採るべし。哀は喪の誤ならむ
 
   還2入故郷家1即作歌三首
451 人もなきむなしき家は(草枕)旅にまさりてくるしかりけり
人毛奈吉空家者草枕旅爾益而辛苦有家里
 代匠記に
  上に臨2近向v京之時1作歌に『都なるあれたる家にひとりねば旅にまさりてくるしかるべし』とある歌を蹈たるなり。案の如く旅に益てくるしとなり
といへる如し。クルシは後世のワビシなり
 
452 妹としてふたりつくりしわが山齋《シマ》はこだかくしげくなりにけるかも
與妹爲而二作之吾山齋者木高繁成家留鴨
 妹トシテフタリは妹ト二人シテの意なり(古義)○山齋を舊訓にはヤマ、六帖にはヤド、宣長(玉勝間十三卷四丁)はシマとよめり。案ずるに二十卷に二月於2式部大輔中臣清麿朝臣之宅1宴歌……屬2目山齋〔二字右△〕1作歌三首とありて
(555)  をしのすむきみがこのしまけふみればあしびの花もさきにけるかも
  池水にかげさへみえてさきにほふあしびの花を袖にこきれな
  いそかげのみゆるいけ水てるまでにさけるあしびのちらまくをしも
とあるみな庭園のさまをよめり。今もコダカクシグクといへる、庭園のさまなり。而して庭園の事をいにしへシマといひし事宣長のいへる如くなれば山齋は宣長雅澄に從ひてシマとよむべし○コダカクは木高クなり
 
453 吾妹子がうゑし梅のきみるごとにこころむせつつ涕しながる
吾妹子之殖之梅樹毎見情咽都追涕之流
 
   天平三年辛禾秋七月大納言大伴卿薨之時謌六首
454 (はしきやし)さかえし君のいましせばきのふもけふもわをめさましを
愛八師榮之君乃伊座勢波昨日毛今日毛吾乎召麻之乎
 二卷日並皇子の薨じ給ひし時の歌に
  ひむかしのたきのみかどにさもらへどきのふもけふもめすこともなし
(556)とあるに似たり
 
455 かくのみにありけるものをはぎが花さきてありやととひし君はも
如是耳有家類物乎芽子花咲而有哉跡問之君波母
 初二はカクハカナクアリケルヲといふことなり。ノミニはカクを強めたるのみ○ハモは宣長(記傳二十七卷)の『戀慕ひていづらと尋求むる意ある辭なり』といへる如し
 
456 君にこひいたもすべなみ(あしたづの)ねのみしなかゆ朝よひにして
君爾戀痛毛爲便奈美蘆鶴之哭耳所泣朝夕四天
 イタモはイトモなり。アサヨヒニシテのシテは二言ともに助辭なり
 
457 とほながくつかへむものとおもへりし君しまさねば心神《ココロド》もなし
遠長將仕物常念有之君師不座者心神毛奈思
 心神は舊訓にタマシヒとよめるを久老ココロドに改めたり。十七卷にキミニコフルニ許己呂度モナシともあればげにココロドなるべし。さてそのココロドを久老(557)は心所と釋き千蔭、雅澄は心利と解けり。おそらくは久老の説の如くにて意はなほタマシヒといふことなるべし
 
458 (若子《ミドリゴ・ワカキコ》の)はひたもとほりあさよひにねのみぞわがなく君なしにして
若子乃匍匐多毛登保里朝夕哭耳曾吾泣君無二四天
    右五首仕人金(ノ)明軍不v勝2犬馬之慕心1中〔右△〕2感緒1作歌
 初句舊訓にミドリゴノとよめるを宣長は齊明紀によりてワカキコノに改めたり。舊訓のまゝにてもあるべし(二卷【三〇一頁】參照)○君ナシニシテはシのみ助辭○左註の中〔右△〕は久老申〔右△〕の誤とせり。さらばノベテとよむべし○仕人は資人に同じ。資人は朝廷より身分に應じて賜はる從士なり
 
459 みれどあかずいましし君が(もみぢばの)うつり伊去者《イユケバ》かなしくもあるか
見禮杼不飽伊座之君我黄葉乃移伊去者悲喪有香
    右一首勅2内禮《ナイライ》(ノ)正《カミ》縣(ノ)犬養(ノ)宿禰|人上《ヒトカミ》1使v檢2護卿病1。而醫藥無v驗逝水(558)不v留。因斯悲慟即作2此歌1
 伊去者を宣長はイヌレバとよめれど、なほ舊訓の如くイユケバとよむべし。さて雅澄はそのイを上に附けてウツリイ、ユケバとよみて
  伊はマツ伊、タエジ伊などの伊にてウツリの下に附たる助辭なり。去の上に附てはよむべからず
といへり。げにもし添辭のイならばイユキハバカリ、イハヒモトホリなどの例にてイウツリユケバとあるべきなり
 
   七年乙亥大伴坂上郎女悲2嘆尼理願死去1作歌一首并短歌
460 (たくづぬの) しらぎの國ゆ 人ごとを よしときかして とひさくる うがらはらから なき國に わたりきまして 太皇《オホキミ》の しきます國に (うちひさす) みやこしみみに 里家は さはにあれども いかさまに おもひけめかも つれもなき 佐保の山べに (なく兒なす) 慕ひきまして (しきたへの) いへをもつくり (あらたまの) (559)年のを長く すまひつつ いまししものを
栲角乃新羅國從人事乎吉跡所聞而問放流親族兄弟無國爾渡來座而太皇之敷座國爾内日指京思美禰爾里家者左波爾雖在何方爾念鶏目鴨都禮毛奈吉佐保乃山邊爾哭兒成慕來座而布細乃宅乎毛造荒玉乃年緒長久住乍座之物乎
 人ゴトは人ノ言なり。人ゴトヲヨシトキカシテを略解に
  左註にいへる遠感2王コ1歸2化聖朝1といふにあたれり
といひ古義に
  皇朝の事を三寶をたふとむよき風俗ぞと他人の語るを聞きてまゐ來れる由なり
と云へり。ヨシとあるが果して皇國の形容ならば人ゴトニヨシトキカシテとあらざるべからず。今の如く人ゴトヲとあるにはヨシは人言の形容と認めざるべからず。されば人ノ言ヲゲニモトキキ給ヒテといふ意とすべし○トヒサクルはトヒヤ(560)ルといふことにてやがて向ヒ問フといふことならむ。十九卷にもカタリサケ見サクル人目トモシミトとあり○太皇は古義の如くオホキミとよむべし○里は家群なり。都のうちにあまたの里があるなり。今を離れて古の樣を思ひやるべし(六卷に元興寺之里といへるも奈良の内なり)○ツレモナキは縁故モナキなり。佐保ノ山ベは即郎女の父安麻呂卿の家のある處なり〇トシノヲは歴年なり
 
生者《イケルモノ》 しぬてふ事に 不免《マヌカレヌ》 ものにしあれば たのめりし 人のことごと (草枕) たびなるほどに 佐保河を 朝川わたり 春日野を そがひにみつつ (あしひきの) 山べをさして 晩闇《ユフヤミ》と かくりましぬれ いはむすべ せむすべしらに たもとほり ただ獨して (しろたへの) ころもでほさず 嘆きつつ わがなく涙 ありま山 くもゐたなびき 雨にふりきや
生者死云事爾不免物爾之有者憑有之人乃盡草枕客有間爾佐保河乎朝川渡春日野乎背向爾見乍足永木乃山邊乎指而晩闇跡隱益去禮將言爲(561)使將爲須敝不知爾徘徊直獨而白細之衣袖不干嘆乍吾泣涙有間山雲居輕引雨爾零寸八
 生者は舊訓の如くイケルモノとよむべし(本書四四五頁參照)○不免も舊訓に從ひてマヌカレヌとよみて可なり(久老はノガロエヌとよめり)○タノメリシ人ノコトゴトはタヨリニシタリシ人ミナといふことなり。此辭によれば郎女は他に住めりしなり。當時郎女は藤原朝臣麻呂の妻たりき。左註に郎女獨留葬2送屍柩1とある獨留を以て佐保の家を留守したりけむ證とはすべからず。こはただ母等と共に有馬には赴かで京に留りたりしことゝ見るべし○佐保河ヲ以下八句は送葬のさまなり。二卷に
  ささなみのしがつの子らがまかりにしかはせの道をみればさぶしも
とあるも送葬の道筋をいへるなり○朝川ワタリははやく一卷長歌に船ナメテアサ川ワタリとあり又二卷に人ゴトヲシゲミコチタミオノガ世ニイマダワタラヌ朝川ワタルとあるこれらは朝川ヲワタルのヲを略したるなれど今はアサカハワタリと一語のやうに用ひたるなり。ソガヒは後方なり○晩闇は舊訓にユフヤミと(562)よめるを宣長はクラヤミとよめり。クラヤミ、クレヤミ共に例あれどなほもとのままにてあるべし。トは如クといふ意なりと略解にいへる如し○タモトホリはウロウロトシといふ意。略解に『思ひ迷ふさまなり』といへるはいかが○クモヰタナビキは上なる赤人の長歌(四六〇頁)にもあり。クモヰとは常には空の事をいへど又ただに雲をいふこともあり。今のクモヰも然り。記傳二十八卷【五十三丁】クモヰタチクモの處に例を擧げていへり○雨ニフリキヤのニは後の世にはトといふ。二卷なるタカマトノ野ベノ秋ハギナチリソネ君ガカタミニ〔右△〕ミツツシヌバム、六卷なるハツセメガツクルユフ花ミヨシヌノ瀧ノミナワニ〔右△〕サキニケラズヤなどのニと同例なり○此歌結末殊にめでたし。小町伊勢などは到底此作者の儔にあらず
 
   反歌
461 とどめえぬいのちにしあれば(しきたへの)家ゆはいでて雲がくりにき
留不得壽爾之在者敷細乃家從者出而雲隱去寸
    右新羅國尼名曰2理願1也。遠感2王コ1歸2化聖朝1。於v時寄2住大納言大(563)將軍大伴卿家1既逕2數紀1焉。惟以2天平七年乙亥1忽沈2運病1既趣2泉界1。於v是《ココニ》大家石川命婦依2餌藥事1往2有間温泉1而不v會2此喪1。但郎女獨留葬2送屍柩1既訖。仍作2此歌1贈2入温泉1
 運病は重病にや。石川命婦は安麻呂の妻にて坂上郎女の母なり。大家は大姑の通用にてタイコとよむなり。漢籍に女子之尊稱といひ又婦稱v姑爲2大家1と云へり。さてここは家刀自を尊みていへるなるべし。古義に『母を尊みて稱《イヘ》るなるべし』といへるはいかが○死ぬることをクモガクルといふ。上にも
  ももづたふいはれの池になくかもをけふのみみてや雲がくりなむ
  おほきみのみことかしこみ大あらきのときにはあらねど雲がくります
などあり
 
   十一年己卯夏六月大伴宿禰|家持《ヤカモチ》悲2傷亡妾1作歌一首
462 今よりは秋風さむくふきなむを如何《イカニカ》ひとりながき夜をねむ
從今者秋風寒將吹烏〔左△〕如何獨長夜乎將宿
(564) 如何は從來イカデカとよめり。イカニカと改めよむべし(二卷【一五六頁】參照) 
   弟大伴宿禰|書持《フミモチ》即和歌一首
463 ながき夜を獨やねむと君がいへばすぎにし人のおもほゆらくに
長夜乎獨哉將宿跡君之云者過去人之所念久爾
 上三句は長キ夜ヲ獨寢ムカト君ガ嘆キイヘバとなり。又四五は我モソノウセシ人ヲ思フとなり。略解に
  黄泉の人も獨いねがてにすらむといふ也
といひてオモホユラクニを亡き人の思ふ事としたれど前にも
  おう河のかはらのちどりながなけばわが佐保河のおもほゆらくに
とあるを見て千蔭の説の非なるを知るべし
 
   又家持見2砌《セイ》上(ノ)瞿麥花1作歌一首
464 秋さらばみつつしぬべと妹がうゑしやどのなでしこさきにけるかも
秋去者見乍思跡妹之殖之屋前之石竹開家流香聞
(565) シヌベは我ヲ思ヘとの意にあらず。賞美セヲとの意なり。一卷額田王の長歌(本書三三頁)なる
  秋山のこのはをみてはもみぢをばとりてぞしぬぶ青きをばおきてぞなげく
のシヌブに同じ
 
   移v朔而後悲2嘆秋風1家持作歌一首
465 (うつせみの)よは常なしとしるものを秋風|寒《サムミ》しぬびつるかも
虚蝉之代者無常跡知物乎秋風寒思努妣都流可聞
 移朔は朔ヲウツシテとよむべきか。月カハリテといふことなり。こゝにては七月ニナリテと云へるなり。※[衣+者]淵(ノ)碑に
  泰始之初入爲2侍中1、曽不v移v朔遷2吏部尚書1
とあり○此歌のシヌビはなき人をしのぶなり。寒は契沖宣長の改訓に從ひてサムミとよむべし
 
   又家持作歌一首并短歌
(566)466 わがやどに 花ぞさきたる そをみれど こころもゆかず (はしきやし) 妹がありせば (み鴨なす) ふたりならびゐ たをりても みせましものを うつせみの 惜〔左△〕有《カレル》身なれば 霜霑〔二字左△〕《ツユジモ》の けぬるがごとく (あしひきの) 山ぢをさして (入日なす) かくりにしかば そこもふに 胸こそいため いひもかね なづけもしらに 跡もなき 世のなかなれば せむすべもなし
吾屋前爾花曾咲有其乎見杼情毛不行愛八師妹之有世婆水鴨成二人雙居手折而毛令見麻思物乎打蝉乃惜有身在者霜霑乃消去之如久足日木乃山道乎指而入日成隱去可婆曽許念爾胸己所痛言毛不得名付毛不知跡無世間爾有者將爲須辨毛奈思
 花といへるは石竹なり。ココロモユカズは氣ガナグサマズとなり○タヲリテモのモは助辭なり。亦のモにあらず。古義に
  折らずても見せ折りても見せましものなるをといふ意なり
(567)といへるは非なり○ウツセミノは枕辭にあらず。人間ノといふばかりの意なり○惜は借の誤なり。カレル身は假借の身にて佛教思想に基づきたる辭なり○霜霑は露霜の誤なり。アシヒキノ云々は死にて葬られしをいふ○胸コソイタメの下にサレドといふ辭を加へて聞くべし○イヒモカネ名ヅケモシラニは跡モナキにかかれるなり。云ハウヤウナク跡モナキといふ意なり。跡モナキはハカナキなり。元來ハカナシのハカはイヅクヲハカトなどいふハカと同じくて踪跡といふ事なり。獣の逃げし跡にひきたる血をハカリといふも同源の語なるべし
 
   反歌
467 時はしもいつもあらむをこころいたく伊去《イユク》わぎもか若子《ミドリゴ・ワカキコ》をおきて
時者霜何時毛將有乎情哀伊去吾妹可若子乎置而
 ココロイタクは悲シクなり。伊去は舊訓に從ひてイユクとよみ若子はミドリゴ又はワカキコとよむべし
 
468 出行《イデテユク》みちしらませば豫《アラカジメ》いもをとどめむせきもおかましを
(568)出行道知末世波豫妹乎將留塞毛置末思乎
 初句は舊訓にイデテユクとよめるを古義にイデユカスに改めたり。舊訓のまゝにてもあるべし○豫の字舊訓にカネテテヨリとよめるを久老アラカジメに改めたり。説は『つきの落葉』にくはし。セキヲオクは關を設くるなり
 
469 妹が見しやど爾〔左△〕《ノ》花|咲《サキ》時はへぬわがなく涙いまだひなくに
妹之見師屋前爾花咲時者經去吾泣涙末干爾
 二句舊訓にヤドニ花サクとよめるを宣長花サキとよみ改めたり。其説に花さく時が過ぎぬるにはあらで花さくまで時の經ぬるなれば花サキとよむべしといへり○妹ガミシヤドニとよまむにニの言穩ならず。爾は乃などの誤とするか又はこのまゝにてノとよむべし(四九六頁參照)○時ハヘヌは宣長のいへる如く死にて時を經たるなり
 
   悲緒未v息更作歌五首
470 かくのみにありけるものを妹も吾もちとせのごとくたのみたり來《ケル》
(569)如是耳有家留物乎妹毛吾毛如千歳憑有來
 力クを強めてカクノミニといへるなり○來は舊訓にケルとよめるを久老雅澄ケリに改めたれどカモなどいふ嘆辭を略したる格なればなほケルとよむべし
 
471 家さかりいます吾妹《ワギモ》を停不得《トドメカネ》山がくりつれ情神《ココロド》もなし
離家伊麻須吾味乎停不得山隱都禮情神毛奈思
 停不得は舊訓にトドメカネとよめるを宣長はトドミカネと改訓せり。こは五卷にトキノサカリヲトド尾カネ、ヨノコトナレバトド尾カネツモ、ユクフネヲフリトド尾カネなどあるによれるなれど尾はメともよむべしといふ説(字音辨證上卷三二頁)ある上に集中にナゲカクヲトド米モカネテ(十七卷)ナガルルナミダトド米カネツモ(十九卷)など後世の如く下二段活に用ひたるまさしき例あればなほ舊訓の如くトドメカネとよみてあるべし。今の停不得を宣長の説に雷同してトドミカネとよめる古義も上(五六二頁)なる留不得壽爾之在者をばトドメ〔右△〕エヌイノチニシアレバとよめり〇山ガクルは山ニカクルを一つの語とせるにてイソガクル、コヌレガクルなどの類なり。カクルのカは濁りてとなふべし。ツレはツルニなり。第四句の主(570)格は吾妹なり○情神は田中道麿のココロドとよめるに從ふべし。語ははやく(五五六頁に)見えたり
 
472 よのなかし常かくのみとかつしれどいたきこころは不△忍都毛《シヌビカネツモ》
世間之常如此耳跡可都知跡痛情者不忍都毛
 ツネはツネニなり。カツシレドは一面ニハ知ツテヲルガとなり○契沖に從ひて不の下に得を補ふべし
 
473 佐保山にたなびく霞みるごとに妹を思出なかぬ日はなし
佐保山爾多奈引霞毎兄妹乎思出不泣日者無
 思出は舊訓にオモヒイデテとよめるを久老雅澄はオモヒデ千蔭はオモヒデテとよめり。いづれにてもあるべけれどまづオモヒデとよむべし○此一列の歌秋の歌なるにカスミをよめり。二卷にも秋ノ田ノ穗ノ上ニキラフ朝ガスミとよめり。所詮霧をいへるなり
 
474 昔こそよそにも見しかわぎもこがおくつきともへばはしきさほ山
(571)昔許曾外爾毛見之加吾妹子之奥槨常念者波之吉佐寶山
 ハシキはカハユキなり。ナツカシキなり
 
   十六年甲申春二月|安積《アサカ》皇子薨之時|内舍人《ウチトネリ》大伴宿禰家持作歌六首
475 かけまくも あやにかしこし いはまくも ゆゆしきかも わがおほきみ みこの命 萬代に 食《ヲシ》たまはまし 大日本 久邇のみやこは (うちなびく) 春さりぬれば 山邊には 花さき乎爲〔左△〕里《ヲヲリ》 河せには あゆこさばしり いや日けに さかゆる時に およづれの たはごととかも しろたへに 舍人よそひて わづか山 御輿たたして (ひさかたの) 天しらしぬれ こいまろび ひづちなけども せむすべもなし
掛卷母綾爾恐之言卷毛齋忌志伎可物吾王御子乃命萬代爾食賜麻思大日本久邇乃京者打靡春去奴禮婆山邊爾波花咲乎爲里河湍爾波年魚小〔左△〕(572)狹走彌日異榮時爾逆言之枉言登加聞白細爾舍人裝束而和豆香山御輿立之而久堅乃天所知奴禮展轉泥土打雖泣將爲須便毛奈思
 安積皇子は聖武天皇の御子なり。題辭を見れば皇子の薨去は二月なるやうなれど實は閏正月十一日なり○カクルには心にかけて思ふと口にかけて言ふと目にかけて見るとの別あり。今は言ふ方なり。さればカケマクモは言ハムモといふことなり。次なるイハマクモに對して語を換へたるのみ○ユユシはこゝにてはカシコシにひとし○ワガオホキミミコノ命、ヨロヅ代ニヲシタマハマシ、大ヤマトクニノミヤコハと云へるを見れば此皇子は皇太子にましまししやうに思はる。されば二註にも『此皇子は儲がねにぞおはしけむ』と云へれど當時の皇太子は御姉|阿閇《アベ》(ノ)皇女なり。よりて思ふに皇太子は女性にて御繼嗣あるべき筈なければ此皇子ぞ唯一の御弟として終に皇位を繼ぎ給ふべきものと世人は期待せしならむ○食は舊訓にメシとよめるを契沖ヲシに改めたり。ヲシタマフはシロシタマフなり〇マシは常の如くには切れずして下なるオホヤマトに續けり。二卷にも
  たかひかるわが日のみこの萬代に國しらさまし島の宮はも
(573)とあり。ミコノミコトの下に世ニマシマサバなどいふことを略せるなり。そはマシといへるによりて知らる○オホヤマトは私に添へたるにあらず。當時久邇に冠らせてオホヤマトクニノ宮といひしなり○乎爲里の爲は烏の誤なり。サキヲヲリはサキナビキなり。古義に花のしげく咲きたる容をいふといへるはたがへり〇イヤ日ケニは日々ニなり○サカユル時ニはクニノミヤコハとあるを受けたれば久邇の京の榮ゆる事なること論なし。略解に『春の榮を皇子の御榮にいひよせたり』といへるはいかに思へるにか○タハゴトトカモのトカモは後世のニヤなり。トとニと相通へること多し○シロタヘニは白クといふこと。トネリヨソヒテは身ヲヨソヒテの身ヲを略したるなり。古義に『喪服をよそふを云へり』といへる如し。次なる長歌にもサワグ舍人モシロタヘニコロモトリキテとあり○和豆香山は瓶原《ミカノハラ》の東方に當れる群山なり○ミコシタタシテは御輿ガタチタマヒテにてそのタチタマヒテはトマリ給ヒテなり。古義に『出立賜ヒテと云なり』といへるは非なり。現に皇子の墓は和束村の内にあり○コイは臥シなり。ヒヅチはぬるゝ事。但今はヒヅチナクといふ一つの語となれるなり
 
(574)   反歌
476 わがおほきみあめしらさむと思はねばおほにぞみける和豆香そま山
吾王天所知牟登不思者於保爾曾見谿流和豆香蘇麻山
 吾王ガ薨ジテ此山ニ葬ラムト思ハネバ今マデハ云々の意をたゝみてかくは云へるなり
 
477 (足ひきの)山さへひかりさく花の散去《チリヌル》ごときわがおほきみかも
足檜木乃山左倍光咲花乃散去如寸吾王香聞
    右三首二月三日作歌
 散去を略解にチリニシとよめれどこゝは譬のうちなれば過去にはいふべからず。ただチルといひてよき處なれば宣長の訓の如くチリヌルとよむべし
 
478 かけまくも あやにかしこし わがおほきみ みこの命 (もののふの) 八十とものをを めしつどへ あともひたまひ 朝獵に ししふみおこし ゆふがりに とりふみたて 大|御馬《ミマ》の 口|抑駐《オサヘトメ》 御心(575)を 見爲《メシ》あきらめし いくぢ山 木立の繁《シゲ》に さく花も うつろひにけり 世のなかは かくのみならし ますらをの 心ふりおこし 劍刀 腰にとりはき 梓弓 ゆぎとりおひて 天地と いやとほながに 萬代に かくしもがもと たのめりし 皇子の御門の (さばへなす) さわぐ舍人は しろたへに ころもとりきて 常なりし ゑまひふるまひ いや日けに かはらふみれば かなしきろかも
掛卷毛文爾恐之吾王皇子之命物乃負能八十伴男乎召集聚率此賜比朝獵爾鹿猪践起暮獵爾鶉雉履立大御馬之口抑駐御心乎見爲明米之活道山木立之繁爾咲花毛移爾家里世間者如此耳奈良之大夫之心振起劔刀腰爾取佩梓弓靭取負而天地與彌遠長爾萬代爾如此毛欲得跡憑有之皇子乃御門乃五月蝿成※[馬+聚]騷舍人者白栲爾服取著而常有之咲此振麻此彌日異更經見者悲召〔左△〕可聞
 アトモヒは率ヰなり。シシを鹿猪と書けるに對してトリを鶉雉と書けり○抑駐は(576)舊訓にオサヘトメとよめるを宣長オシトドメに改めたり。なほ舊訓に從ふべし。馬を控ふる事なり。六卷にも馬ノアユミオサヘトドメヨとあり○見爲は雅澄のメシとよめるに從ふべし。ミルの敬語なり(古義卷一下九丁參照)。メシアキラメを契沖は『物を見て心にふさがれる思を遣るなり』といへり○イクヂ山は六卷にも見えて恭仁の宮人の好みて遊覧せし地とおばゆ○木立ノ繁ニサク花モを古義に
  シジニは俗にシゲウニといはむが如し。木立ノ繁ミニサクといふには非ず
といへり。案ずるになほ木立ノシゲミニサク花モといふ意とおばゆれば繁の字はシジとよまで名詞としてシゲとよむべし(シジニは副詞なり)。はやく久老もシゲとよめり。今もシゲといふ語は方言に殘れり。但十八卷なるコノクレ之氣爾は爾を彌の誤とすべきに似たり○サク花ノは言數に制せられてサクとは云ひたれどサキシの意と見るべし。さらではウツロヒニケリと相副はず。即皇子ノ曾テ活道山ニ遊ビ給ヒシ時木立ノ茂ミニサキタリシ花ハウツロヒニケリ。ゲニ世ノ中ハカクノミナラシ云々といへるなり。略解に『ウツロヒニケリは薨じたまふをいふ』といへるは非なり○世ノナカハカクノミナラシはゲニ世ノ中ハカクハカナキモノナラシの意(577)にて皇子の薨ぜし事を匂はせたるなり。以上六句頗巧なり。○梓弓ユギトリオヒテといへるすこし不明なり。まづ梓弓ト靭トヲ取負ヒテといふ意かと思へど、さてはいひざま穩ならざる上靭こそあれ弓は取負ヒテとはいふべからず。さればアヅサユミはユギノ枕と見るべきか。再案ずるに卷十九なる天平五年贈入唐使歌にアラキ風浪ニアハセズとあるはアラキ風及浪ニ逢ハセズと云へるなり。今も之を例としてなほ梓弓及靭ヲ取負ヒテと心得べきか。もし然らば取負ヒテは取帶ビテと心得べし○カクシモガモはカク仕ヘタシといふ意○御門は御殿なり。古義に『宮門をさして申せり』とあるは非なり○サワグ舍人のサワグは實はサワギシなり。今サワグにあらず○シロタヘニコロモトリキテは喪服を着るをいふ○ヱマヒフルマヒのヱマヒは語の如く、フルマヒは悲喜いづれにも就かざる語にてヱマヒと對せざるが故にすこし異樣におぼゆれど意を酌みて平素快活ナリシ顏附フルマヒガと釋くべし○召は呂の誤字なり。カナシキロのロは助辭なり
   反歌
479 (はしきかも)皇子の命のありがよひ見之《メシシ》いくぢの路はあれにけり
(578)波之吉可聞皇子之命乃安里我欲此見之活道乃路波荒爾鶏里
 ハシキカモはミコノ命にかゝれり。コゴシカモイヨノタカネノの類なり(四二二頁參照)○アリガヨヒはカヨヒツツなり。メシシ(雅澄の訓に從ふ)は見給ヒシなり
 
480 大伴の名におふ靭おひてよろづ代|爾〔左△〕《ト》たのみし心いづくかよせむ
大伴之名負靭帶而萬代爾憑之心何所可將寄
     右三月二十四日作歌
 名ニオフは名ニカナフなり。名は職なり(歴朝詔詞解第十一詔の解及記傳三十九卷十二丁參照)。大伴はもと武官の職名なりしが終に氏となれるなり。家持時に内舍人たり。内舍人は大刀をはき靭を負ひて仕へ奉る職なれば大伴ノ名ニオフユギオヒテとはいへるなり〇三句はヨロヅヨニトとあるべし。即萬代ニ仕ヘ奉ラムトといふべきを略せるなり。トの辭なくてはユギオヒテといふことタノミシにかゝりて筋通らず。おそらくは爾は跡などの誤にてヨロヅヨトなるべし。ヨロヅヨニトをヨロヅヨトとはいふべし。二卷(本書二八二頁)にもワガオホキミノ萬代トオモホシメシテツクラシシカグ山ノ宮云々とあり○イヅクカヨセムは誰ニカ寄セムといふ(579)意なり
 
   悲2傷死妻1高橋朝臣作歌一首并短歌
481 しろたへの 袖さしかへて なびきねし わが黒髪の ましらがに 成極《ナラムキハミ》 新世《アラタヨ》に 共にあらむと (玉の緒の) たえじい妹と 結びてし 事ははたさず 思へりし こころはとげず しろたへの  たもとをわかれ にきびにし 家ゆもいでて 緑兒の なくをもおきて (朝霧《アサギリノ》) 髣髴爲乍《オホニナリツツ》 山しろの さがらか山の 山際《ヤマノマヲ》 ゆきすぎぬれば いはむすべ 將爲△便《セムスベ》しらに 吾妹子と さねし妻屋に 朝庭《アシタニハ》 いでたちしぬび 夕には いりゐなげかひ わきばさむ 兒のなく母〔左△〕《ゴトニ》 雄《ヲトコ》じもの おひみ抱見《イタキミ・ウダキミ》 (朝鳥の) ねのみなきつつ こふれども しるしをなみと ことどはぬ 物にはあれど わぎもこが いりにし山を よすがとぞおもふ
白細之袖指可倍氏靡寢吾黒髪乃眞白髪爾成極新世爾共將有跡玉緒乃(580)不絶射妹跡結而石事者不果思有之心者不遂白妙之手本矣別丹杵火爾之家從裳出而緑兒乃哭乎毛置而朝霧髣髴爲乍山代乃相樂山乃山際往過奴禮婆將云爲便將爲便不知吾妹子跡左宿之妻屋爾朝庭出立偲夕爾波入居嘆舍〔左△〕腋狹〔左△〕兒乃泣母〔左△〕雄自毛能負見抱見朝鳥之啼耳哭管雖戀効矣無跡辭不問物爾波在跡吾妹子之入爾之山乎因鹿跡叙念
 ナビキネシアガ黒髪といふつづきすこし穩ならず○成極を略解にナラムキハミとよめるを古義にカハラムキハミに改めたれど、なほナラムキハミとよむか又はナリナムキハミとよむべし。化とかけるをナルとはよむべし。成とかけるをカハルとはよむべからず。さてナラムキハミはナラムマデなり○新世は舊訓にアタラヨとよめるを久老雅澄アラタヨとよみ改めたり。アラタ世は現代をたゝへていへるにか○タエジイ妹トのイは助辭なり。ヨなどを用ふると同じ心もちにて用ひたる助辭なり。何か無くては調に物足らぬ所あるなり○ムスビテシはチギリテシなり○事〔右△〕を槻の落葉及略解に事は言なりといひ古義に言ヲバ果サズなりと云へれど字の如く事と心得て可なり。トゲズはトホラズなり○タモトヲワカレのヲはヨリ(581)のヲなり。作者ノ袂ヨリワカレなり○ニキブはアラブの反對にて馴るる事、オキテは跡ニ殘シテなり○朝霧髣髴乍は略解にアサギリニホノニナリツツとよめるを古義に宣長の説に從ひてアサギリノオホニナリツツとよみてアサギリノを枕とせり。此説是なり。オホニは不明ニなり○山際は舊訓にヤマノマヲとよめるに從ふべし(略解にはヤマノマニとよみ古義には下に從の字をおとせりとしてヤマノマユとよめり)○將爲便の便の上に今一つ爲の字ありしをおとせるにや○朝庭を舊訓にアシタニハとよめるを雅澄はアサニハニとよみ改めて
  妻屋ノ朝庭ニなり。ニハは語辭にあらず。次のユフベニハのニハと異なり
といへり。こは久老の説によれるなるがかく云へるは朝ニハの意としてはツマヤニイデタチシヌビとは續かざるによりてかく云へるなれど、こは元來
  わぎもことさねしつまやをあしたにはいでたちしぬび、わぎもことさねしつまやに〔右△〕ゆふべにはいりゐなげかひ
といふべきなれど然同じ事を二度いひては煩はしくもあり手づつにてもあればイデタチの方はヲといふべくイリヰの方はニといふべき語格をさしおきて一方(582)のニを以て二つをふさねたるなり。されば朝庭はなほ舊訓の如くアシタニハとよみて朝ニハの意とすべし○ワキバサム以下は二卷人麿の長歌(三〇〇頁)に
  若兒のこひなくごとにとりあたふものしなければをとこじものわきばさみもち云々
とあるを學べるなり○雄を舊訓はヲノコとよみ久老はヲトコとよめり○泣母の母は毎を誤れるなり。抱見は舊訓にイダキミとよめるを雅澄はウダキミとよめり。いづれにてもあるべし。ウダクはイダクの古語なり○シルシヲナミトのトは除きて見るべし。後世はただナミといひてナミトと云はず。コトドハヌは物言ハヌなり○ヨスガは心を寄する對象なり
 
   反歌
482 うつせみの世の事なればよそにみし山をや今はよすが爾〔左△〕《ト》思はむ
打背見乃世之事爾在者外爾見之山矣耶今者因香爾思波牟
 世ノコトナレバは世ノナラヒナレバといふ事。二三の間に今ハ是非ナシといふ辭(583)を補ひて聞くべし○爾は跡の誤か
 
483 (朝鳥の)啼耳《ネノミヤ》なかむわぎもこに今またさらにあふよしをなみ
朝鳥之啼耳鳴六吾妹子爾今亦更逢因矣無
    右三首七月廿日高橋朝臣作歌也。名字未v審。但云2奉膳之男子1焉
 一本に啼耳の下に也の字ありといふ。さらば舊訓の如くネノミヤとよむべし○奉膳《ブゼン》は内膳司の長官にて高橋|安曇《アヅミ》二氏の世職なり。もし他氏之に任ぜらるれば奉膳と云はで上《カミ》と云ひしなり
                           (大正五年二月十六日脱稿)
(流布本目録省略)
 
 昭和三年三月三日 印 刷
 昭和三年三月六日 發 行
 (非 賣 品)
 著 者         井  上  通  泰
 
         東京市麹町区内幸町一丁目六番地
 發 行 者       中 塚 榮 次 郎
         東京市下谷區二長町一番地
 印 刷 者       守   岡     功
         東京市下谷區二長町一番地
 印 刷 所       凸版印刷株式會社
         東京市麹町区内幸町一丁目六番地
 
 發行所         國民圖書株式會社
               電話銀座七八三番
                   二一八八番
               振替東京五二二九八番
 
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萬葉集新考第二   1928.4.30
 
   圖版解説
紙本、縦一尺二寸七分、横一尺七寸八分。契沖阿闍梨の自畫賛である
契沖は元來眞言宗の高僧なるが萬葉集代匠記の著者で又近世歌學の開組とも云ふべき人である
  鴈啼てきくのはなさく秋はあれど春のうみ邊にすみよしのはま 沙門契沖
と書ける歌は伊勢物語に見えたる古歌である。契沖は畫をかいた事が無いといふ人があるさうであるが少いだけで、無い事は無い。此圖版の歌と畫と同筆なるは如何なる懐疑者といふとも首肯するであらう。然し若自作の歌であるならば尚耳を掩うて鈴を盗む輩があるかも知れぬが其輩の口をなも塞ぐべきは古歌を書ける事である。人のかいた繪に加へた賛ならば古歌を書きはすまじく、たとひ故あつて人の繪の賛に古歌を書くとも沙門契沖とばかり識しはすまいでは無いか
契沖の沖は多数の眞蹟に就いて檢するに冲と見えるもある。されば或は冲を正しとし或は沖を是とすろ事であるが元來冲と沖とは同字であるから自身も或は冲と書き或は沖と曹いたであらう
 
(凡例省略)
(目次省略)
 
(613)萬葉集新考卷四
                    井上通泰著
 
   相聞
    難波天皇(ノ)妹|奉d上《タテマツリシ》在2山跡1皇兄u御謌一首
484 ひと日こそ人|母《モ》待告〔左△〕《マツベキ》ながきけを如此所〔左△〕待者《カクノミマテバ》有不得勝〔左△〕《アリガテヌカモ》
一日社人母待告長氣乎如此所待者有不得勝
 契沖いはく
  妹とのみあるは何れの皇女と知れざるなるべし。……仁コ天皇の御代に此皇女も難波にましまして異腹の皇兄等の御中に御心を通はされたるが常は難波に坐ますが假初に大和へおはしましたるを待佗て贈らせ給ふと見えたり
といへり。難波天皇妹とありて奉上皇兄とあればその皇兄は難波天皇即仁コ天皇ならむ○第二句は舊訓に人モマチツゲと訓めり。契沖は此訓に從ひて告を繼の借(614)字とせり。又雅澄は告を志の誤字として人ヲモマチシとよめり。案ずるに告は吉の誤にてその吉の上に倍などをおとしたるにて人モマツベキにあらざるか。コソとかゝれるをベケレと結ばでベキと結ぶは古格にてオノガ妻コソトコメヅラシキの類なり(玉緒七卷七丁參照)○ナガキケのケはケナガクのケにて日數といふことなり○第四句は宣長の所を耳の誤としてカクノミマテバとよめるに從ふべし○結句を眞淵はアリガテナクモとよみ田中道麻呂は勝を鴨の誤としてアリガテヌカモとよめり。卷十一に君ニコヒツツ有不勝鴨《アリガテヌカモ》とあるを例とし有不得鴨の誤としてアリガテヌカモとよむべし。カテヌはアヘヌといふ事なれば不勝とも不得とも書くべし
 追考 第二句の告は諸本に吉とあり
 
   岳本天皇御製一首并短歌
485 神代より あれつぎくれば 人さはに 國にはみちて (あぢむらの) 去來者《カヨヒハ》ゆけど わがこふる 君にしあらねば 晝は 日のくるるまで (615)よるは 夜のあくるきはみ おもひつつ いねがてに登《ト》 あかしつらくも ながき此夜を
神代從生繼來者人多國爾波滿而味村乃去來者行跡吾戀涜君爾之不有者晝波日乃久流留麻弖夜者夜之明涜寸食念乍寐宿難爾登阿可思通良久茂長此夜乎
 左註に云へる如く高市岳本《タケチヲカモト》(ノ)宮即舒明天皇の御製にや後(ノ)岡本(ノ)宮即齊明天皇の御製にや明ならず。古義に
  今御製詞に依て考るに後岡本宮齊明天皇の皇后に立せ賜ひて後か、またはいまだ皇后に立せ賜はぬ前か舒明天皇を思奉りて御製《ミヨミ》ませるにやあらむ
といへり。婦人の作とおぼゆれば此説に從ふべし○略解に題辭なる御製の下に歌の字を補へり
 アレツギは生レ繼ギなり○去來者は宣長のカヨヒハとよめるに從ふべし○キハミはマデといふに同じ。上なるマデに對して語を換へたるのみ○寐宿難爾登《イネガテニト》は宣(616)長の説にイネガテニシテキミマツト〔六字傍点〕とありしが中間の六言おちたるなるべしといへり。もとのまゝにて可なり。イネガテニをイネガテニトとのたまへるはシラニをシラニトといふと同格なり○アカシツラクモはアカシツルモなり
 
   反歌
486 山のはにあぢむらさわぎゆくなれど吾はさぶしゑ君にしあらねば
山羽爾味村騷去奈禮騰吾者左天思惠君二四不在者
 上三句は山ノハニ味村ノサワギユク如ク人サハニサワギユクナレドといふ意とおぼゆ。さらば山ノハニアヂムラの九言はサワギの序とすべけれどさる序は異樣なる上にサワギユクの主格無ければ辭足らず。案ずるにいにしへの歌殊に反歌は意だに通ずればよしとして強ひて辭の足らざるを嫌はざりしにや。一卷三山歌なる反歌もタチテ見ニコシイナミ國ハラとのみいひて阿菩大神ノといふことを云はねば
  二山の闘諍を伊奈美の國が見に來りし由の傳ありて其方に據てよませ給へるにぞあるべき(犬※[奚+隹]隨筆下卷三十三頁)
(617)などいふ説も出來たれどなほ主格を略せるなり。又卷六歌※[人偏+舞]所之諸王臣子等集2葛井《フヂヰ》(ノ)連《ムラジ》廣成家1宴歌の小序に
  比來古※[人偏+舞]盛興、古歳漸|晩《クル》、理宜d共盡2古情1同唱c古〔右△〕歌u故擬2古〔右△〕趣1輙獻2古曲二節1云々(△を添へたる二つの古の字は本に此とあり。今改めつ)
とありて
  春さればををりにををりうぐひすのなくわが島ぞやまずかよはせ
とあるもヲヲリニヲヲリの前に花ノといふべきを略せり。而してかく主格を略せるがやがて古趣に擬したる所なるべし○サブシヱのヱは助辭、サブシは不樂なり
 
487 あふみぢのとこの山なるいさや川けのこ呂《ロ》ごろはこひつつ裳〔左△〕《カ》あらむ
淡海路乃烏龍之山有不知哉川氣乃己呂其侶波戀乍裳將有
    右今案高市岳本宮、後(ノ)岡本宮二代二帝各有v異焉。但※[人偏+稱の旁]2岡本天皇1未v審2其指1
 第四句のケは例のケなり。宣長は呂を乃の誤字としたれどなほもとのまゝにてあ(618)るべくケノコロゴロはコノ日頃といふ事なるべし○契沖は上三句をケの序として序よりつづきたるケは水の氣にて霧なりといひ略解には
  これはいさや河といふ地の名をやがて女の情をいさ不知といふにとりなし給へり(○千蔭は舒明天皇の御製とせるなり)
といへり。案ずるにこは千蔭のいへる如くケノコロゴロハコヒツツ裳アラムイサといふべきイサを序に讓れるにて三首下なる
  眞野の浦のよどの繼橋こころゆもおもへや妹がいめにしみゆる
 又卷二(二〇八頁)なる
  神山のやまべまそゆふみじかゆふかくのみ故にながくとおもひき
などと同體なり○コヒツツ裳アラムの裳は誤字にてコヒツツカ〔右△〕アラムなるべく四五の意は君モ此日頃我ヲ戀ヒ給フデアラウカとのたまへるなり○此御製に近江の地名を序につかひたまへるを見れば此長歌及反歌は夫の皇子(又は帝)の近江にいでませる程によみたまひしなるべし
 
   額田王思2近江天皇1作歌一首
(619)488 君まつとわがこひをればわがやどのすだれうごかし秋の風ふく
君待登吾戀居者我屋戸之簾動之秋風吹
 近江天皇は天智天皇なり〇人まどはしに秋風が簾を動かすよとなり
 
   鏡王女作歌一首
489 風をだに戀流者《コフルハ》ともし風をだにこむとしまたば何かなげかむ
風乎太爾戀流波乏之風小谷將來登時待者何香將嘆
 此女王の名こゝと卷二(四處)と卷八とに見えたる皆鏡王女とあり。眞淵の説(考別記二)によればそは皆鏡女王の誤なりといへどなほもとのまゝにて鏡王の女とよむべき由上(一三七頁)に云へり○此歌は眞淵のいへる如く前の歌の和歌とおぼゆ。略解に
  宣長云三の句の風ヲダニは上なる詞を重ねたるのみ也。風ヲダニ戀ルハトモシといふ二句を重ねいふ意也といへり
といへり。案ずるにこゝのトモシは飽かぬ意としてソノ風ヲダニ我戀フルハイト(620)飽カヌ事ナリと釋くべし。即一首の意は
  君は人まどはしに秋風の簾を動かすを憎みたまへどその風をだに我戀ふる事の乏しさよ。天皇の來給はむ事を期して待ち給はば遲くとも何か嘆き給ふべき。我は寵衰へて入御を仰がむ望も無し
といへるなるべし
 
   吹黄(ノ)刀自歌二首
490 眞野の浦のよどの繼橋こころゆもおもへや妹がいめにしみゆる
眞野之浦乃與騰乃繼橋情由毛思哉妹之伊目爾之所見
 初二は序なる事明なれど三句以下にツギテなどいふ事無ければ常の例とは異なり。宣長いはく繼橋ノツギテオモヘバニヤ云々といふ意なりと。然らばツギテといふことを略せるにて前なるアフミヂノトコノ山ナルイサヤ川といふ歌の類なり○眞野は卷三に眞野ノハリ原とあると同處にて神戸市の西部にあり。ツギハシは略解に『中に島の如き所有てまた懸渡せるをいふ也』といへり。處々に柱を立てゝ板を繼ぎたる橋ならむ○ココロユモのモは助辭にてココロユはココロニなり。而し(621)てそはオモヘヤにかゝれるなり。下にもココロユモアハ思ハザリキ、ココロユモオモハヌアヒダニなどよめり。宣長が『心から妹が夢に見ゆるといふ意なり』といひ雅澄が『情裏ヨリモといふが如し。モは表はさるものにて裏よりも眞實に思ふよしなり』と云へるは共に非なり。オモヘヤは思ヘバニヤなり○第四句に妹とあるにつきて契沖は『吹黄刀自は女なり。然るを此歌に妹之とあるはもし君ガ、セナガなどよめるを誤て傳へたるにや』といひ宣長は女どちも妹といふといひ雅澄は女どち妹といへる例を擧げたり。男どちセコといへば女どちイモといふべきは論なけれど、なほ略解にいへる如く此歌は男より吹黄刀自に贈れるにて次の歌こそ吹黄刀自の歌ならめ
 
491 河上のいつもの花のいつもいつもきませわがせこ時じけめやも
河上乃伊都藻之花乃何時何時來益我背子時自異目八方
 卷一にも此人の歌に河上と書けるをカハカミともカハノヘともよむべき由云へり。河ノホトリといふ意なればカハノヘとよまむ方穩なる如くなれど卷十四に可波加美ノネジロタカガヤと假字書にせる例あり(四一頁參照)○イツ藻のイツは河(622)上ノユツイハムラのユツに同じくて澤山といふ事なり。五百ツをつづめてユツともイツともいふを今はイツモイツモをさそひ出さむが爲にイツといへるなり(契沖、千蔭)○イツモイツモはイツニテモといふ事(卷三參照)○トキジケメヤモのヤモは後世のヤハ、トキジケメヤはトキジカラムヤにて古義にいへる如く何時トテモ時ナラズトイフ事アラムヤハといふ意なり
 
   田邊(ノ)忌寸《イミキ》櫟子《イチヒコ》任2太宰1時歌四首
492 衣手にとりとどこほりなく兒にもまされる吾〔左△〕《キミ》をおきていかにせむ
衣手爾取等騰己保里哭兒爾毛益有吾乎置而如何將爲
 一本に舍人吉年の作とせり○契沖千蔭雅澄共に櫟子の任に下りし時に其妻又は一婦人のよみし歌とし又上三句を母ノ袖ニスガリテナク子ニモといふ意とせり。されどよく思ふに他人の作れる歌とせむには結句のオキテイカニセムといふ事かなはず(他人の作ならばオキテイカニセムトカスルといはざるべからず)。辭を換へていはば結句は旅だつ人自身のいふ辭にて之を送る人のいふ辭にあらず。ただ不審なるは四句なり。即四句に吾ヲとあるを正しとせば送る人の歌ならざるべか(623)らず。よりて思ふに吾ヲは君ヲの誤なるべく而して或本に舍人吉年(又千年)の歌とせるは後人のさかしらにて實は櫟子の歌なるべし。はやく玉の小琴に
  吾は君の誤といはれたる考の説よろし
といひ景樹も亦吾を君の誤とせり。右の如くなれば以下四首共に櫟子の作なり○トリトドコホリはトリツキテなり。マサレルはマサリテナクの略と見べし
 
493 置きてゆかば妹こひむかも(しきたへの)黒髪しきてながき此夜を
置而行者妹將戀可聞敷細乃黒髪布而長此夜乎
 一本に田部忌寸櫟子と註せるは例のさかしらなり。結句は置キテユカバの下におきかへて心得べし○シキタヘノは枕辭とはしるけれど何にかゝれるにか明ならず。冠辭考に
  こは末の意みな夜床のさまなれば總てに冠らせてシキタヘの語を置たる物にて云々
といへるはうけられず。シキテの枕と見るべきか。クロ髪シキテは女の寢る状なり
 
494 わぎもこをあひしらしめし人をこそ戀のまさればうらめしみおもへ
(624)吾妹兒矣相令知人乎許曽戀之益者恨三念
 上三句は契沖等のいへる如く媒セシ人ヲとなり○ウラメシミは形容詞の語幹にム(ミ)を添へたるにてヲシム、カナシム、イツクシムなどの類なり。ウラメシガリと譯すべし。古義總論八〇丁、同二卷下一一九丁にあまたの例を擧げてウラメシウと譯したるはいかが
495 朝日影にほへる山に(てる月の)あかざる君を山ごしにおきて
朝日影爾保敝流山爾照月乃不厭君乎山越爾置手
 結句の下にスギユカムガカナシなどいふ辭を省きたるなり。千蔭雅澄は上三句をアカザルの序としたれど三句を序とすれば不審なる事あり。即朝日のにほはむには月は照るべからず。されば宣長のいへる如く第三句のみを枕として卷十二なるアラタマノ年ノ緒ナガクテル月ノアカザル君ヤアス別レナムと同格とすべし○朝日カゲニホヘル山ノ山ゴシニアカザル君ヲオキテといふべきをさはいひがたきによりてまづ山ニといひ結句に至りて更に山ゴシニといへるなり○此歌は前三首とはちがひて既に途に上りての後の作なり
 
(625)   柿本朝臣人麻呂歌四首
496 三熊野の浦のはまゆふ百重なす心はもへどただにあはぬかも
三熊野之浦乃濱木綿百重成心者雖念直不相鴨
 初二は序。ハマユフは濱オモトといふもの。其葉あまた重なりたればモモヘナスの序とせるなり(略解)○モモヘナス心ハモヘドは本集卷十六アサキ心乎ワガモハナクニの例によればモモヘナスはココロにかゝりココロハはココロヲバの略なり。即そのかみココロヲオモフといふ熟語ありしなり。但集中にココロハモヘドとよめるにココロニハのニを省きたりと見べきあり。なほ其歌の處に至りていふべし○タダニアフは直接に逢ふ事、こゝのアハヌカモはアハヌカナといふ意なり
 
497 いにしへにありけむ人もわがごとか妹にこひつつ宿不勝家牟《イネガテズケム》
古爾有兼人毛如吾歟妹爾戀乍宿不勝家牟
 結句、舊訓にイネガテニケムとよみ略解古義共に之に從ひたれどシを挿みてイネガテニシ〔右△〕ケムといはでは語格とゝのはず(卷二にミナ人の得難爾爲云《エガテニストフ》ヤスミ兒エ(626)タリとあるを思へ)。されば契沖の説に從ひてイネガテズケムとよむべし。ズケムは集中にナニスレゾハハトフハナノサキデ己受祁牟《コズケム》(卷二十)サヤマダノヲヂガ其日ニモトメ安波受家牟《アハズケム》(卷十七)など假字書にせる例あり。今はザリケムとのみ云へどいにしへはズケムとも云ひしなり。卷三(四四五頁)にもヱヒナキスルニナホシカズケリとあり
 
498 今のみのわざにはあらずいにしへの人ぞまさりて哭左倍《ネニサヘ》なきし
今耳之行事庭不有古人曽益而哭左倍鳴四
 初二は今ノ世ノミノ事ニアラズとなり。哭左倍は略解にナキサヘとよみたれど、なほ舊訓の如くネニサヘとよむべし。聲ヲアゲテナキサヘシタとなり
 
499 ももへにも來及※[毛三つ]常《キシカヌカモト》おもへかもきみが使のみれどあかざらむ
百重二物來及※[毛三つ]常念鴨公之使乃雖見不飽有哉〔左△〕
 二句は舊訓にキオヨベカモとよめるを契沖はオヨブといふ古言なければとてキシケカモとよみ雅澄は
(627)  キシカヌカモトと訓べし。シカヌといふはヌは希望の辭のネの轉れるなり(不の字の意にあらず)。アレカシ、アヘカシとねがふ意をアラヌカモ、アハヌカモなど云る例にてこゝの意をわきまへつべし。さて及の一字にてはシカヌと訓べからねばこゝは字の脱たるものかとも云べけれどねがふ意のヌの辭は省きて書る例集中に多し。七卷にアヲミヅラ云々人|相鴨《アハヌカモ》、十卷にカスミタツ云々妹|相鴨《アハヌカモ》、又サツキ山云々マタ鳴鴨《ナカヌカモ》またホトトギスキヰモ鳴香《ナカヌカ》、十一にワガセコハ云々人|來鴨《コヌカモ》又日クレナバ云々有與鴨《アリコセヌカモ》又カクシツツ云々|有鴨《アラヌカモ》又シキタヘノ云々急明鴨《ハヤモアケヌカモ》これら皆ヌの辭にあたる字を略きて書り(○玉勝間十三卷二丁『萬菓集に不字を略きて書る例』を參照すべし)。……本居氏のシケカモとよめるは(○契沖はやく然よめり)及の訓はよろしけれどアレをアレカモ、アヘをアヘカモなど云べき語格なければなほあしかりけり
といへり。案ずるにヌカモといへるにセヌカナの意なるとセヨカシの意なるとあり。甲は瀧ノミヤコハミレドアカヌカモ、君ヲシモヘバイネガテヌカモの類にて乙の例はタユルコトナクアリコセヌカモ、三笠ノ山ニ月モイデヌカモなどなり。而し(628)て乙の意なるヌカモに不の字を書けるは集中に一首もあること無し。然も雅澄が此ヌを希望のネの轉ぜるなりと云へるはなほ研究を要す。又乙の意なるはヌカとのみも云へり(ヒサカタノ雨モフラヌカ、人モナキ國モアラヌカなどの如し)。
  因にいふ。不△カモと書けるにはヌカモとよむべきとジカモとよむべきとあり。ジカモとよむべきは卷三(四六四頁及四六八貢)なる君ニアハジカモの類なり。此例集中に六七首あり
 又セヨカシの意なる中にはヌに當れる文字無きもある事雅澄の云へる如し。但雅澄の擧げたる例の中にはアハムカモ(アハジカモの反對)とよむべきものあるに似たり。なほ其歌々の處に至りていふべし〇一首の意はオヒカケオヒカケ使ノ來レカシト心ニ願ヘバニヤアラム、カクシバシバ來ル君ノ使ノナホ見レドアカヌといへるなり○哉は武の誤ならむ
 
   碁《ゴ》(ノ)檀越《ダンヲチ》往(ケル)2伊勢國1時留(レル)妻作歌一首
500 (かむ風の)伊勢の濱をぎをりふせてたびねやすらむあらき濱邊に
神風之伊勢乃濱荻折伏客宿也將爲荒濱邊爾
(629) ハマヲギは濱におひたる荻なり。伊勢にてハ葦の事をハマヲギといふといふは此歌によりて後人のいひいでたる俗説なり(契沖)
 
   柿本朝臣人麻呂歌三首
501 をとめらが袖ふる山のみづがきの久しき時ゆおもひきわれは
未通女等之袖振山乃水垣之久時從憶寸吾者
 上三句はヒサシキの序、その中にて又ヲトメラガソデの七言はフル山の枕なり。梓ユミヒキトヨ國などの類なり
 
502 夏野ゆくをしかの角《ツヌ》のつかのまも妹が心をわすれてもへや
夏野去小牡鹿之角乃束問毛妹之心乎忘而念哉
 初二は序なり。夏は鹿の角おひかはりてまだ短ければツカノマの序としたるなり(契沖)。此序なども新にいひ出でむは容易ならじ○ワスレテモヘヤは一つの辭づかひにてただワスレムヤといふに同じ、卷一にも大伴ノミツノハマナル忘貝イヘナル妹ヲワスレテモヘヤといふ歌あり
 
(630)503 (珠衣《タマギヌ》の)さゐさゐしづみ家の妹にものいはず來而《キテ》おもひかねつも
珠衣乃狹藍左謂況家妹爾物不語來而思金津裳
 卷十四に
  安利伎奴乃佐惠佐惠之豆美いへのいもにものいはず伎爾※[氏/一]おもひぐるしも
といふ歌あり。柿本朝臣人麻呂歌集中出とさへあればもとは今の歌と一つなりし事しるし。右の卷十四なる歌によりて眞淵(冠辭考)はアリ〔二字右△〕ギヌノ……モノイハズキニ〔右△〕テとよみたれど珠衣をアリギヌとよむべき由なし。なほ舊訓のまゝにタマギヌとよむべく(玉勝間六卷【三十丁】に四の卷なるはタマギヌにて裳に玉裳といふ類なりといへり)そのタマギヌは玉を着けたる衣なり(古義に珠を蟻の誤としてアリギヌとよみオリギヌの義とせるは鑿説なり)。さてタマギヌノはサヰサヰの枕辭なり○第二句は冠辭考に『妻がなげきさやめくをしづめんとて』云云と釋き略解古義共に此説に從ひたり。案ずるにサヰサヰはシホサヰのサヰにて騷といふこと、シヅミはシヅマリの約なり。當時の俗語方言にはかく異常に語をつづめたる例少からず。なほ後にいふべし
(631)  因にいふ。シヅマリをつづめてシヅミともいへばこそ下にナミダニシヅミのシヅミに定の字を借りたるなれ。定は安定の定にてシヅマリともよむべし
 ○來而はなほ舊訓の如くキテとよむべし。此歌と卷十四なると辭句ひとしからず。此歌は此歌として訓を施すべく卷十四なるに拘はるべからず○オモヒカネツモは思ニタヘカネツモなり。オモヒカネ妹ガリユケバのオモヒカネに同じ〇一首の意ハ騷にマギレテヰタガ女房トヨク話ヲセズニ來テ騷ガ靜マツテカラ思ニ堪ヘカネルといへるなり。こはおそらくは防人の歌にて人麻呂の作にはあらじ
 
   柿本朝臣人麻呂妻歌一首
504 君が家にわれ住坂の家ぢをもわれは不忘《ワスレジ》いのちしなずば
君家爾吾住坂乃家道乎毛吾者不忘命不死者
 キミガイヘニワレの八言はスミ坂の枕辭なり(宣長)。いにしへ夫婦となれば男の方より女の家にゆきて宿りしなり。之をスムといふ。此歌の趣にては女の方より男の家にゆきてやどるやうにきこゆ。此事千蔭雅澄もはやく不審せり。案ずるに題辭に柿本朝臣人麻呂妻歌とあるは誤にて妻の上に贈の字のありしがおちたるにはあ(632)らざるか○住坂は地名。書紀神武天皇紀、古事記水垣宮の段などに墨坂といふ地名見えたるを宣長(記傳二十三卷)は宇陀郡萩原《ハイバラ》驛の西にありといひ而して此歌のスミ坂は『宇陀の墨坂とは思はれず。坂は誤字ならむか』といへり(略解に引けり)○スミサカノイヘヂは住坂を經て彼家に到る道なり(古義)○不忘を雅澄はワスラジとよめり。ワスレジにて可なり
   安倍(ノ)女郎歌二首
505 今さらに何をかおもはむうちなびきこころは君によりにしものを
今更何乎可將念打靡情者君爾縁爾之物乎
 ウチナビキは寄ルの形容なり。何ヲカオモハムは考ヘル事ハ無イとなり
 
506 わが背子は物なおもひそ事しあらば火にも水にもわれなけなくに
吾背子波物莫念事之有者火爾毛水爾毛吾莫七國
 第四句はいたく辭を略したり。タトヒ火ニ入リ水ニ入ル事アリトモの意なり○ナケナクニはナカラナクニにて畢竟吾アルニといふことなり。卷一にもワガオホキ(633)ミ物ナオモホシスメ神ノツギテタマヘル吾ナケナクニといふ歌あり
 
   駿河※[女+采]女歌一首
507 (しきたへの)枕ゆくぐる涙にぞうきねをしける戀のしげきに
敷細乃枕從久久流涙二曾浮宿乎思家類戀乃繁爾
 水に浮びて寢るをウキネといへば枕をくぐりおつる涙に浮寐をしつといひて涙の多き事を形容したるなり。上四句の形容の誇大なる、頗古今集時代の歌に近し
 
   三方《ミカタ》(ノ)沙彌《サミ》歌一首
508 (ころもでの)別今夜從《わかるこよひゆ》、妹も吾もいたくこひむなあふよしをなみ
衣手乃別今夜從妹毛吾母甚戀名相因乎奈美
 第二句を契沖宣長共にワカルコヨヒユとよめり。之によればワカルはいにしへ四段活なりしなり。但卷十八なる長歌にコロモデノワカ禮之トキヨとあればはやく今の如く二段にもはたらきしなり○コヒムナのナは嘆辭にて集中に多くつかひたり
 
(634)   丹比《タヂヒ》(ノ)眞人《マヒト》笠麻呂下2筑紫國1時作歌一首并短歌
509 臣女《タワヤメノ》の くしげに乘有《ノレル》 鏡なす みつの濱邊に さにづらふ 紐ときさけず 吾妹兒に こひつつをれば あけぐれの あさ霧がくり なくたづの ねのみしなかゆ わがこふる 千重のひとへも なぐさ漏《モル》 こころも有哉跡《アリヤト》 家のあたり わがたち見れば
臣女乃匣爾乘有鏡成見津乃濱邊爾狹丹頬相紐解不離吾妹兒爾戀乍居者明晩乃旦霧隱鳴多頭乃哭耳之所哭吾戀流千重乃一隔母名草漏情毛有哉跡家當吾立見者
 臣女は略解に『此二字は姫の字の誤れるにてタヲヤメとよまんか』といひ木村博士(美夫君志卷一下六六頁及訓義辯證上卷二六頁)は『官女の意をもてタヲヤメとよむべきなり』といへり。恐らくは姫の字を戲に二つに割きて書けるなるべし○乘有を宣長のノレルとよめるを雅澄は『鏡は匣の内にこそ納べきを乘とはいかでいはむ』といひて齋の一字の誤としてイツクとよみ改めたり。用なき時は匣の内に納むべ(635)く用ある時は匣の上に載せもすべければもとのまゝにてノレルとよむべし。實は舊訓の如くノスルとよまゝほしけれど有の字を添へ書きたればノスルとはよまれず。さて初三句はミツノハマビのミにかゝれる序なり○サニヅラフは赤く匂ふ事○紐トキサケズは上着をぬがでまろ寐をする事なり。卷九にヒモトカズマロネヲスレバワガキタルコロモハ馴レヌといひ卷二十にクサマクラタビユクセナガマルネセバイハ《ヘ》ナルワレハヒモトカズネムといへり。以て證とすべし○アケグレノ云々の三句はネノミシナカユのネにかゝる序なり。但略解に『其朝のけしきをやがて序に設て云々』といへるは非なり。アケグレは略解に云へる如く夜の明方まだほのぐらき程をいふ。代匠記には『明んとする折に却てしばらくくらがるを云』といひ古義にも『夜の明はてむとしてかへりてくらくなる時をいふ』といへり。さる事果してありやおぼつかなし○名草漏は舊訓にナグサムルとよめるを契沖は
  ナグサモルとも讀べし。三室の山を三諸とも云に同じ
といひ雅澄は
  ナグサムルとよむべし。漏はムルに借て書るなり。集中に高松《タカマト》、小豆無《アヂキナク》、足常《タラチネ》、間結《マヨヒ》な(636)ど書ると同類なり
といへり。字のまゝにナグサモルとよみてナグサムルにひとしと心得べし。ナグサムルをナグサモルといふは轉訛なり。轉訛を地方に限り後世に限る事と思はむは迂遠なり。神名の往往書によりて少しづつ相異なるを思へ○有哉跡を舊訓にアリヤトとよめるを宣長はアレヤトに改め略解古義共に之に從ひたれど、なほアリヤトとよむべし(二九五頁參照)。以上四句は卷二なる人麿妻死之後沈血哀慟作歌の中なるをさながら取れるなり○イヘノアタリは故郷ノ見當ヲなり
(あを※[弓+其]《ハタ・ヤギ》の)かづらき山に たなびける 白雲隱 (あまざかる) ひなの國邊に 直向《タダムカフ》 淡路をすぎ 粟島を そがひにみつつ 朝なぎに かこのこゑよび ゆふなぎに 梶のとしつつ 浪の上《ウヘ》を いゆきさぐくみ いはのまを いゆきもとほり いなびつま 浦みをすぎて (鳥じもの) なづさひゆけば
青※[弓+其]乃葛木山爾多奈引流白雲隱天佐我留夷乃國邊爾直向淡路乎過粟(637)島乎背爾見管朝名寸二水手之音喚暮名寸二梶之聲爲乍浪上乎五十行左具久美磐間乎射往廻二稻日都麻浦箕乎過而島自物魚津佐此去者
 青※[弓+其]は舊割にアヲハタとよみたり(文字辯證上卷三二頁に※[弓+其]は旗の俗體なるべしといへり)。冠辭考には楊の誤としてアヲヤギノとよめり○白雲隱の一句に誤字あるか又は此句の下に脱句あるべし。さらでは上なるワガタチミレバのをさまる處なし○直向を舊訓にタダムカフとよめるを宣長のタダムカヒに改めたるはヒナノ國ベニを受けたりと見たるなり。されどヒナノ國ベニは遙に下なるナヅサヒユケバにつづきたるなればタダムカヒと相受くべきにあらず。雅澄はタダムカフとよみて淡路につけりと見たるはよろしけれどヒナノクニベを『四國邊をさしていへり』といひて四國ニタダニムカヘル淡路といふ意に釋きたるは非なり。播磨と淡路との間なる明石海峡を過ぐとて遙に天末に見ゆる四國を拉し來りて四國ニタダムカフ淡路などいふべけむや。こは卷十五なる屬v物發v思歌に
  朝されば妹が手にまく、鏡なすみつの濱びに、大船に眞梶しじぬき、から國に渡りゆかむと、ただむかふ敏馬をさして、しほまちてみをびきゆけば云々
(638)とあるタダムカフに同じくて行手の地が作者にただむかふなり。之に反して卷六なる
  みけむかふ淡路の島に、ただむかふみぬめの浦の云々
とあるは甲の地に乙の地がただむかふなり。よくせずばまぎれぬべし。今は正面ニミユルといふにひとし○粟島は淡路國津名郡岩屋浦にあり。粟島ヲソガヒニ見ツツは粟島ヲスギといはむに同じ○朝ナギニ云々の四句は例の辭のあやに二つに分てるのみ○イユキサグクミ,イユキモトホリのイは添辭。サグクミは卷二なる岩根サクミテナヅミコシ(三〇三頁)卷六なるイホヘ山イユキサクミなどのサクミと同じ。ユキモトホル(囘避の意)の對に用ひたればゆきとほる事(突破の意)とおぼゆ。卷十一にイハホスラユキトホルベキマスラヲモともよめり○イナ日《ビ》ツマは卷六にイナ美《ミ》ツマとあり。又卷十五に印南《イナミ》ツマと書けり。契沖はただ印南をさしていふといひ千蔭は播磨印南郡につける海中の島なるべしといひ雅澄は印南郡の海邊なりといへり。こゝに播磨風土記賀古印南二郡の條に南※[田+比]都麻といふ島の名見えて印南郡の條に郡(ノ)南(ノ)海中有2小島1名曰2南※[田+比]都麻1と見えたり。又景行天皇賀古(ノ)松原より(639)此島に渡り給ひし趣同書に見えたれば賀古印南の郡境の延長線に近しとおぼゆ。然も今これに相當する島なし。大日本地名辭書には此ナビツマとイナビツマ(又イナミツマ)とを一つとして今の高砂に當てたり。高砂は加古印南二郡の界を流るゝ加古川の河口のデルタにて今は島のやうには見えねどいにしへは島ともいふべかりけむ(三六二頁カコノシマ參照)。ナビツマのナビはイナビに同じくツマは端の意にて元來イナビツマ島といひけむを略してナビツマといひしにこそ
  因にいふ。風土記の一本に即遁2度於南※[田+比]都島1とあるは都の下に麻の字をおとせるなり
○ウラミは浦つづきなり。○ナヅサヒユケバは艱ミ往ケバとなり
 
家の島 ありそのうへに うちなびき しじにおひたる 莫告我〔左△〕《ナノリソノ》 などかも妹に のらずきにけむ
家乃島荒磯之宇倍爾打靡四時二生有莫告我奈騰可聞妹爾不告來二計謀
(640) 家ノシマの前に脱句あるべし。さらではナヅサヒユケバといふ句のをさまる處なければなり。案ずるにもと
  鳥じものなづさひゆけば、家の島くもゐに見えぬ、その島のありその上に
などありしが二句おちたるにや。彼卷十五なる屬v物發v思歌(即今の歌と辭句頗相似たる歌)に
  朝なぎに船出をせむと、船人もかこもこゑよび、にほどりのなづさひゆけば、いへじまはくもゐにみえぬ
とあり。今は此歌によりてクモヰニミエヌソノ島ノの二句を補はむとはするなり。もしもとの如くばイヘノシマはイヘジマノとあるべし。然もことさらに地名の中間にノを挿みて調を成したるを見ても原作は今の如くならざりけむことを知るべし○家ノシマは屬v物發v思歌にはイヘジマとあり。今エジマといふ。播磨灘なる島々の中にては最大なる島なり○シジニはシゲクなり。莫告我を略解には宣長の説によりて我を毛の誤としてナノリソモとよみ古義には能の誤としてナノリソノとよめり。一句を隔てゝノラズにかゝれる枕なればナノリソノとよむべし○ノラ(641)ズキニケムは故ありて別を告げずて來りしなり。反歌と照らし合せて心得べし、古義に『たちのいそぎして家の妹に語るべきことをも語らず來にしを今悔しみて鳴呼何トテカ告ズ來ニケムコトヨといふなり』といへるは非なり
 
   反歌
510 しろたへの袖ときかへてかへりこむ月日をよみてゆきてこましを
白妙乃袖解更而還來武月日乎數而往而來猿尾
 ソデトキカヘテは宣長『男女別れて旅に行く時に袖を解放ちて互に更へてかたみとする事のありしなるべし』といへり。袖をときかへもせず還り來らむ月日を數へもせで別れ來りしを悔めるなり○ソデトキカヘテのテは除きて心得べし。袖を解き更ふる事と月日をよむ事とは別事なればなり。卷三(二七四頁)悲2傷死妻1歌なるニキビニシ家ユモイデテ〔右△〕緑兒ノナクヲモオキテ朝霧ノオホニナリツツ云々の上なるテと同類なり
 
   幸2伊勢國1時當麻《タギマ》(ノ)麻呂(ノ)大夫(ノ)妻作歌一首
(642)511 わがせこはいづくゆくらむ(おきつもの)なばりの山をけふかこゆらむ
吾背子者何處將行巳津物隱之山乎今日歟超良武
 既に卷一に出でたり(七二頁)。ナバリノ山は伊賀國名張郡の山なり(宣長)
 
   草孃歌一首
512 秋の田の穗田のかりばかかよりあはばそこもか人のわをことなさむ
秋田之穗田乃刈婆加香縁相者彼所毛加人之吾乎事將成
 草孃は略解に『草の下香を落せしか。しからばクサカノイラツメと訓べし』といひ雅澄は輟耕録に娼婦の事を草娘といへりといひてウカレメとよめり。草野の娘子即村孃といふことにあらざるか○カリバカはこゝの外に卷十に
  秋の田のわが苅婆可のすぎぬればかりがねきこゆ冬かたまけて
 又卷十六に
  あめなるやささらの小野にちがやかりかや苅婆可に鶉|乎〔左△〕《シ》たつも
とあり。宣長は門人道麻呂の説によりて『稻を刈る時田を若干の區に分ちてそを一(643)ハカ二ハカと今もいふ、そのハカにて一はかづつ數人にて寄合ひて刈る故にカヨリアフの序とせり』といひ千蔭雅澄はカリシホ、カリ時の意とせり。又久老は『カリバは鎌をいひカは處をいふ言にて鎌入る所をカリバカといへるなるべし』と云へり(信濃漫録二卷二七丁)。案ずるにカリバカは一定の廣さを一人の苅分《カリブン》と定めたるをいふ。卷十六の苅婆可は誤字なるべし。さて今はカリバカの下にニを補ひて見べし○初二は序とおぼゆ○穗田は穗の出でたる田、カヨリアフのカは添辭、ソコモカはソレニツケテモ、コトナスはイヒタテハヤスなり○一首の意は男ハソノ苅分《カリバカ》ヲ苅リ進ミ我ハワガ苅分《カリバカ》ヲ苅リ進ミテ偶然寄リ合ハムニソレヲモ心アル如ク人ノイヒハヤサムカといへるならむ
 
   志貴皇子御歌一首
513 大原のこの市柴のいつしかとわがもふ妹にこよひあへるかも
大原之此市柴乃何時鹿跡吾念妹爾今夜相有香裳
 初二は序なり。市柴は舊訓にイツシバとよみ雅澄も之に從へり。げに卷八、卷十一に五柴とあり。又イツシカトをさそひおこすにもイツシバといはむ方まされる如し。(644)されど字のまゝにイチシバとよみても亦イツシカトの序とせられざるにあらず。オキ〔右△〕ツ島山オクマヘテなどの例あればなり。案ずるに當時イツシバをなまりてイチシバともいひしかば其唱のまゝに市柴と書けるなるべし。さてイツシバのイツは上なる河上ノイツ藻ノ花のイツに同じくて物の數の多きをいふ。柴は雅澄のいへる如く芝の借字なり。イツシカトはイツシカ逢ハムトなり
 
   阿倍(ノ)女郎歌一首
514 わがせこがけせるころもの針目おちず入爾家良之△《イリニケラシナ》わがこころさへ
吾背子之蓋世流衣之針目不落入爾家良之我情副
 古義に『吾背子は中臣東人をさすなるべし。次にも東人とこの女郎と贈答たる歌あればなり』といへり○ケセルは着給ヘルなり。キルを敬語にケスといふなり。そはなほミルを敬語にメスといふが如し(古義)○ハリメオチズは針目毎ニなり(契沖)○家良之の下に奈の字の落ちたるなるべし(同上)。ナは嘆辭なり。上(六三三頁)にもイタクコヒムナ〔右△〕アフヨシヲナミとあり○ワガココロサヘのサヘは絲に對して云へるなり。かく云へるを見れば其衣は阿倍女郎の縫ひたるなり〇一首の意は君ノ爲ニワ(645)ガ縫ヒテ君ノ今著給ヘル衣ノ一針毎ニ絲ト共ニ我心サヘ入リニケラシ、ウベ我心ノ君ガ身ヲ離レヌといへるなり
 
   中臣朝臣東人贈2阿倍女郎1歌一首
515 獨ねてたえにし紐をゆゆしみとせむすべしらにねのみしぞなく
獨宿而絶西紐緒忌見跡世武爲便不知哭耳之曾泣
 旅さきより女に贈れるなり○ユユシミトはカシコミト、サガシミト、シルシヲナミトなどと同格にてそのトは省きて見べきトなり(本書三五〇頁、四七七頁、五八二頁參照)。古義にユユシカラムトテの意なりといひモシヤ他人ナドヲシテ著《ツケ》シメバユユシカラム云々と釋せるは非なり。紐の絶えにしがゆゝしきなり。ユユシミは俗にいふ縁起ガワルイカラなり。さてユユシミト、ネノミシゾナクなどこちたく云へるを思へばただ紐の絶えしに困《コウ》じたるにあらじ。おそらくは當時獨寢て衣の紐の絶ゆれば夫婦の契に不祥なる事ありなどいふ俗信ありしにこそ
 
   阿部女郎答歌一首
(646)516 わがもたるみつあひによれる絲もちてつけてましもの今ぞくやしき
吾以在三相二※[手偏+差]流絲用而附手益物今曾悔寸
 ミツアヒニヨレルイトとは三すぢより合せたる丈夫なる絲をいふ。出雲風土記に三身之綱とあり孝コ天皇紀大化元年に三絞之綱とあるもミツアヒの事ならむ。君ガ旅ニ出立ツ時丈夫ナル絲ニテ紐ヲ縫附ケオカマシモノヲとなり
 
   大納言兼大將軍大伴卿歌一首
517 神樹《カムキ》にも手はふる【とち】ふをうつたへに人妻といへばふれぬものかも
神樹爾毛手者觸云乎打細丹人妻跡云者不觸物可聞
 作者は大伴安麻呂にて旅人、坂上郎女などの父なり○神樹を舊訓にサカキとよめるを宣長はカムキと改訓せり。即神木なり○ウツタヘニはヒトヘニなり(契沖)〇一首の意はサシモカシコキ神木ニモ手ヲ鯛ルル事アルヲ人妻卜云ヘバ絶對ニ觸レラレヌモノカ、ナアと云へるにて人妻に思をかけたるなり
 
   石川郎女歌一首
(647)518 春日野の山邊の道をよそりなくかよひし君がみえぬころかも
春日野之山邊道乎與曾理無通之君我不所見許呂香裳
 作者は大伴安麿の妻なり(本書五六三頁參照)。ヨソリは卷十三なる問答歌に
  汝をぞも吾によすちふ、吾をぞも汝によすちふ、荒山も人しよすればよそるとぞいふ
とあれば寄る事なるは確なれどこゝはいかに釋すべきか。契沖は
  ともなひてより所とする人もなきなり
といひ千蔭は
  よるべきたよりもなき意なり
といひ雅澄は
  隨身もなく唯獨通ふ意なるべし
といひ景樹は
  ひたよりにかよひ來るを云。外によりなく一すぢに通ひし也
といへり。タヨリ、手ヅルの意にて古今集戀三なるヨルベナミ身ヲコソ遠クヘダテ(648)ツレのヨルベと同意なるか
 
   大伴女郎歌一首
519 雨障《アマザハリ》つね爲《スル》きみは(ひさかたの)昨夜《キソノヨノ》の雨にこりにけむかも
雨障常爲公者久堅乃昨夜雨爾將懲鴨
 元暦校本の註に今城王之母也今城王後賜2大原眞人氏1也とあり。略解、古義に大伴旅人の妻なる大伴郎女と同人、とせり。いかが○雨障は舊訓にアマザハリとよめるを宣長は大平のアマヅツミとよめるを採れり。案ずるにアマザハリとアマヅツミとは略同意なれど今はなほアマザハリとよむべく下なるフルトモ雨ニ將關哉もまた舊訓の如くサハラメヤとよむべし○爲は舊訓にスルとよめるを古義にはセスとよめり。もとのまゝにて可なり○昨夜は略解にキノフとよみ古義にキソとよめり。六言によみては口調よろしからず。寧キソノヨノアメニと八言によむべきか。卷二に君ゾキソノ夜イメニミエツル(二〇一頁)とあり○古義にいへる如くコヨヒハ來マサヌナラムといふ意を含めり
 
   後人迫同歌
(649)520 ひさかたの雨もふらぬか雨乍見《アマヅツミ》君にたぐひて此日くらさむ
久堅乃雨毛落糠雨乍見於君副而此日令晩
 題辭の同を諸註に和の誤とせり。但前の歌のかへしに擬したるにあらず。前の歌を見て寄雨相聞の意をよめるなり○フラヌカはフレカシ(六二八頁參照)アマヅツミはアマゴモリなり。その下にシテを補ひて心得べし。アサビラキコギニシ船ノ跡ナキゴトシのアサビラキと同格なり。タグフはナラブなり
 
   藤原|宇合《ウマカヒ》大夫遷v任上v京時常陸娘子贈歌一首
521 庭立《ニハニタツ》麻|乎〔左△〕《ヲ》かりほししきしぬぶあづまをみなを忘れたまふな
庭立麻乎刈干布慕東女乎忘賜名
 宇合常陸國守たりしなり。初二はシキの序なり。庭ニタツ麻ヲカリホシシクとかゝれり。シキシヌブは頻に思ふなり。初二は賤女のしわざを以て序としたり。されど此女が實際しかするなりとは思ふべからず。國の守に思はれ又歌をよむばかりの女なればまことの賤女にはあらず。自謙して無下の賤女のやうにいひなせるなり〇(650)庭立はニハニタツとよむべし。卷十四にニハニタ都アサテコブスマとあり。ニハニタツは庭ニ生フルにてそのニハは垣内《カキツ》なり
 
   京職(ノ)大夫《カミ》藤原(ノ)大夫賜〔左△〕2大伴良〔左△〕女1歌三首
522 をとめらがたまくしげなる玉櫛の神氣武毛《タマシヒケムモ》、妹にあはず有者《アラバ》
※[女+感]嬬等之珠筺有玉櫛乃神家武毛妹爾阿波受有者
 上の大夫はカミとよみて官職なり。下の大夫はマヘツギミとよみて爵位なり。名を麻呂といふ。賜は諸本に贈とあり。古義に郎女の上に坂上の二字を補ひたれど、もとのまゝにてあるべし○第四句を契沖はカミサビケムモとよみて『逢見ヌ事ノ久シキヲ思へバアタラシキ櫛モフリヌラムとなり』といへり。案ずるに初句にヲトメラガといひ尾句にイモといへる、重複していふべきにあらねば上三句は序と見ざるべからず。さて之を序と見るにタマグシノカミサビケムモとよみては序とならねば第四句はなほよみやうあるべしと思ひしに今村樂、神の字をタマシヒとよみし由古義にいへり。いみじき發明なり。之に從ふべし。即タマグシノタマシヒと音を重ねたる序なり。さてケムモは古義にいへる如くキエムモにてモは嘆辭なり○有者(651)はアラバとよむべし(從來アレバとよめり)
 
523 よくわたる人は年にもあり【ちと】ふを何時間曾毛《イツノホドゾモ》、吾戀爾來《わがこひにけり》
好渡人者年母有云乎何時間曾毛吾戀爾來
 卷十三に年ワタルマデニモ人ハアリトフヲイツノ間曾母、ワガコヒニ來といふ歌あり○初二は契沖『戀ニ能ク堪忍シテ有渡ル人ハ一年アハデモサテコソアルヲと云なり』といへり。年ニモは一年中モなり〇四五代匠記にはイツノホドゾモワガコヒニケリとよみ略解にはイツノマニゾモワガコヒニケルとよめり(古義にはイツノホドゾモアガコヒニケルとよめれどイツノホドゾモとよまば第四句にて切りて心得べくさてはコヒニケル〔右△〕と結ぶべき由なし)。契沖の訓によりて四五の間にワガ妹に逢ハザルハタダシバシノ間ナルヲハヤといふことを補ひてきくべし
 
524 蒸〔草冠なし〕〔左△〕《ムシ》ぶすま奈〔左△〕胡也《ニコヤ》がしたに雖臥《フセレドモ》、妹としねねば肌しさむしも
蒸〔草冠なし〕被奈胡也我下丹雖臥與妹不宿者肌之寒霜
 蒸〔草冠なし〕は蒸の誤字なり。古事記須勢理比賣命の御歌にムシブスマ爾古夜ガシタニとあ(652)りて熟語となれるをさながら用ひたるなり。久老は『奈胡也の奈は爾を書ひがめたるものなり』といへり(信濃漫録三十四丁)。爾の略字尓と奈とは相似たればさもあるべし。記傳卷十一に
  ムシブスマは暖なる由の稱《ナ》なり。ニコヤガシタニは柔之下《ニコヤガシタ》ニなり。ニコヤカのカを省けるなり
といへり。ニコヤガシタといへる異樣なれど神代の古語なれば今の語法にては律し難し。畢竟アタタケキ衾ノ軟ナルガ裏ニといふことと心得べし〇三句は舊訓にフセレドモとよめるを略解にフシタレドと改めたり。もとのまゝにてあるべし
 
   大伴郎女和歌四首
525 さほ河の小石ふみわたり(ぬばたまの)黒馬之來夜者《クロマノクヨハ》年にもあらぬか
狹穗河乃小石践渡夜干玉之黒馬之來夜者年爾母有糠
 此歌は麻呂のヨクワタル人ハ年ニモアリチフヲといひしに答へたるなり○小石を契沖は
  サザレ浪サザラ荻などいへるもちひさきをササヤカと云より出たる詞なれば(653)サザレとのみ讀ては用ありて體なければ東歌にチクマノ河ノ左射禮思モとよめるを證として今もサザレシと讀べきにや。但……雪をハダレとのみよめる例證、明なればさて有べきにや
といひ清水濱臣(答問雜稿)は
  必コイシとよむべし。サザレにては更に其意を得ず。いかにとなればササ、ササラ、ササレ皆細小の義にて何事にもちひさき事にそへていふ詞也。サザレとのみいひて小石の事にはなりがたし
といひ其子光房(同書書入)は
  舊訓のまゝサザレとよむべき歟。サザレイシと云べきを略きてサザレとのみ云は小竹をササともシヌとも云に同じ。ササも只小の義シヌも垂《シナフ》義にて小竹にのみかぎりたる詞ならねど小竹の名におほせて云。此類猶あるべし
といひ井上文雄(伊勢の家苞卷二【十八丁】)は
  サザレ石を省きてサザレとのみいへるは言語の常にて、しかいぶかしむべきことならず。本集にハダレ雪をハダレとのみいひ大黒の鷹を我オホグロ、舟やかた(654)ある舟を黄ゾメノヤカタとのみよめり。源氏物語にあづま琴をアヅマとのみいへるも同じ定なり
といへり。古くはサザレイシ又サザレシ又サザライシといひてサザレとのみ云へる例なければコイシとよむべし。但後に小石をサザレとのみいふやうになりしは言語の變轉にて誤とはいふべからず○第四句は舊訓にコマノクルヨハとよめり。
 宣長いはく
  コマを黒馬と書るはただ字音をとれる假字のみ也。ウメを烏梅と書る類也。黒の字に意なし。道麻呂が云。ヌバ玉ノは來夜の夜にかゝれる枕詞也
と。されど卷十三にヌバタマノ黒馬《クロマ》ニノリテとあり又こゝは夜の枕などおくべき爲にあらねば契沖雅澄の説に從ひてクロマとよむべし。又來夜は雅澄がクヨとよめるに從ふべし。クル夜をクヨといへるは古格に依れるなり。くはしくは後に云ふべし○年ニモアラヌカは一年中ニ一度ナリトモアレカシとなり(略解)。贈歌にては屡逢ヘドモ久シク逢ハヌヤウニ思フといひ答歌にては年に一度も來ぬやうにいへるなり。宣長は『年の字は常の誤なるべし』といへり。こは卷十三に
(655)  川の瀬の石ふみわたりぬばたまの黒馬之來夜《クロマノクヨ》は常〔右△〕にあらぬかも
とあるによりて云へるなれど誤字とせでも心得らるなり
 
526 千鳥なく佐保の河瀬のさざれ浪やむ時もなしわがこふらく爾〔左△〕《ハ》
千鳥鳴佐保乃河瀬之小浪止時毛無吾戀爾
 上三句は序。コフラクハはコフルコトハとなり。爾の字は元暦校本にも類聚古集にも者とあり
 
527 こむといふもこぬ時あるをこじといふをこむとはまたじこじといふものを
將來云毛不來時有乎不來云乎將來常者不待不來云物乎
 初句を略解にコムトイフ人ダニと釋けるはわろし。コムトイフ時ダニと釋くべし。結句は
  たまかづら實ならぬ木にはちはやぶる神ぞつくとふならぬ木ごとに
  よき人のよしとよくみてよしといひし吉野よくみよよき人よくみつ
(656)などと同じくて當時行はれし一つの體にはあれどなつかしからず。蛇足と謂ふべし
 
528 千鳥なく佐保の河門の瀕をひろみうち橋わたすなが來《ク》とおもへば
千鳥鳴佐保乃河門乃瀬乎廣彌打橋渡須奈我來跡念者
    右郎女者佐保大納言卿之女也、初縁2一品穗積皇子1被v寵無v儔、而皇子薨之後時〔右△〕藤原麻呂大夫娉之郎女〔二字右△〕焉、郎女家2於坂上里1、仍族氏〔二字右△〕號曰2坂上郎女1也
 カハトは河のわたり場なり。舊説の如く河峡とせばカハトノ瀬ヲヒロミとはいふべからず○チドリナクは准枕辭なり○ウチハシを宣長は
  打渡す橋と心得るはいかが。打渡さぬ橋やはあるべき。故思ふに打は借字にてウツシの約りたる也。爰へもかしこへも遷しもてゆきて時に臨みて假そめに渡す橋也
といへり(玉の小琴二)○左註の時の字の上に脱字あるべし(下なる大伴田村家之大(657)孃贈2妹坂上大孃1歌四首の處に至りて云はむ)。郎女の二字はあまれるにや。族氏號曰を古義にウヂヲ……トイフナリとよめり。族氏は氏族の顛倒にや。さらば氏族號シテ……トイフとよむべし
 
   又大伴坂上郎女歌一首
529 佐保河のきしのつかさの小歴木莫刈鳥〔左△〕《シバナカリソネ》、ありつつもはるしきたらばたちかくるがね
佐保河乃涯之官能小歴木莫刈鳥在乍毛張之來者立隱金
 歌は二種の句より成る。甲は五七言の句、乙は七言の句なり。甲二乙一なるを短歌といひ甲三以上乙一なるを長歌といひ甲一乙一甲一乙一と次第せるを旋頭歌といふ。今の歌は旋頭歌なり○ツカサは高き處なり。契沖『官をツカサといふに同じ』といへり。案ずるにツカとも語源を同じうせり〇三句の鳥は焉の俗字なる烏の誤なり(桂宮御本即所謂桂萬葉には焉とあり。なほ訓義辨證上卷七七頁を見よ)。さて此句を舊訓にシバナカリソとよめるを雅澄はシバナカリソネとよめり。之に從ふべし○(658)アリツツモは己があるにあらず柴ヲソノママアラセツツなり。ソノママニシテと譯すべし○結句を契沖は諸共ニ立隱レテ逢事モアルガニと釋せり。ガネはベクなり。ガニとは異なり。ハルシキタラバは春ガ來テ葉ガ出テ木シグクナリタラバとなり
 
   天皇賜2海上《ウナガミ》女王1御歌一首
530 赤駒之〔左△〕越馬柵《アカゴマノコサヌウマセ》のしめゆひし妹がこころはうたがひもなし
赤駒之越馬柵乃緘結師妹情者疑毛奈思
    右今案擬〔右△〕古之作也、但以2往當〔二字右△〕便1賜2斯歌1歟
 馬柵は舊訓にウマヲリとよめるを宣長ウマセに改めたり。信友は舊訓の如くウマヲリとよみ又之の字を不の誤としてアカゴマノコサヌとよめり(比古婆衣卷十一【全集第四の二三六頁】)。之を不の誤とするは信友の説に從ふべく馬柵はなほ宣長の改訓によるべし。さてウマセのセは同じ人のいへる如くセキなるべく卷六にナキズミノ船瀬とあるフナセのセもこれと齊しかるべし○天皇は聖武天皇なり。初二は序。シメ(659)ユヒシは我物ト領ゼシといふ事にて妹にかゝれり○左註には誤脱ある如し。信夫道別(略解)は擬を疑の誤字とせり。なほ古の下に人字を脱せるか。道別は又往當を當時の誤字とせり(桂萬葉には時〔右△〕當とあり)。こはなほ考ふべし
 
   海上女王奉v和歌一首
531 梓弓つまびく夜音《ヨト》の遠音《トホト》にも君が御幸〔左△〕《ミコト》を聞之《キカクシ》よしも
梓弓爪引夜音之遠音爾毛君之御幸乎聞之好毛
 初二はトホトの序なり。契沖いふ『隨身が夜の陣にて弦打する音なり』と〇四句の御幸は眞淵の説に御事の誤にて御言の借字なりと云へり(記傳十一卷四丁にも)○聞之は舊訓にキクハシとよめるを契沖キカクシに改めたり。シは助辭なり〇一首の意はタトヒ遙ナリトモ君ノ御言ヲ承ルハウレシといへるなり。天皇の妹ガココロハウタガヒモナシとのたまひ女王のトホトニモ云々といへるを思へば故ありて女王は里にありて久しく内に參らざりしなり
 
   大伴|宿奈《スクナ》麻呂宿禰歌二首
(660)532 (うちひさす)宮にゆく子をまがなしみ留者《トムレバ》くるし聽去者《ヤレバ》すべなし
打日指宮爾行兒乎眞悲見留者苦聽去宮爲便無
 考の説に宿奈麻呂は續記に管2安藝周防二國1とあればその管國より女を宮仕に出だしゝ時の歌かといへり○マガナシミはカハユサニなり○留者、聽去者は舊訓にトムレバ、ヤレバとよめるに從ふべし(古義はトドムハ、ヤルハとよめり)
 
533 難波がた鹽干のなごりあくまでに人の見兒《ミルコ》をわれしともしも
難波方鹽干之名凝飽左右二人之見兒乎吾四乏毛
 初二はアクマデニ見ルの序なり○見兒は舊訓にミルコとよめるを古義にはミムコとよめり。未女を奉らぬさきの歌とせばミムコとよむべけれど結句を清く釋したる上ならでは女を奉らぬ程の歌とも定められず○トモシは略解にワレハ見ル事ノスクナシと也といひ古義に『トモシは少き意、モは歎息の辭なり』といへり。案ずるにここのトモシは上なる風ヲダニコフルハトモシのトモシにて飽かぬ意なり。されば此歌は女を京に上せし後の歌にて見兒はなほ舊訓の如くミルコとよむべ(661)し。人は廷臣を指せり。ワレシトモシモは卷二なるワレシカナシモ(二四一頁)の類にてワレハアカズ思フといふ意なり
 
   安貴王謌一首并短歌
534 とほづまの ここにあらねば (玉桙の) 道をたどほみ おもふ空 安莫國《ヤスカラナクニ》 なげくそら やすからぬものを みそらゆく 雲にもがも 高飛《タカトブ》 鳥にもがも あすゆきて 妹にことどひ わがために 妹も事なく 妹がため われも事なく 今裳見如 たぐひてもがも
遠嬬此間不在者玉桙之道乎多遠見思空安莫國嘆虚不安物乎水空往雲爾毛欲成高飛鳥爾毛欲成明日去而於妹言問爲吾妹毛事無爲妹吾毛事無久今裳見如副而毛欲得
 トホヅマほ夫と遠く離れて住める妻にて今は因幡國の本郷に歸れる八上(ノ)采女を指せり○アラネバはアラヌニなり○タドホミのタはタワスレテのタ(四八七頁)と同じくて添辭なり○オモフソラ、ナグクソラのソラは古義にココチと譯せるまづ(662)當れり(略解にサマとうつせるはふさはず)○安莫國を宣長のヤスケクナクニとよめるは非なり。ヤスケクナキ〔右△〕ニとはいへどナク〔右△〕ニとは云はず。なほヤスカラナクニと舊訓によめるに從ふべし○雲ニモガモは雲ニモ化《ナ》ラマホシとなり。ニモはニテモの意にあらず○高飛は宣長に從ひてタカトブと四言によむべし。タカトブのタカは名詞にて空といふ事なり。今も方言に空をタカといふ處あり。タカクトブを略してタカトブといへるにあらず○アスユキテは今日行カデ明日行キテといふにはあらでアスニモユキテといふ意なり。コトドヒはモノヲ言ヒなり〇事ナクはモノオモヒナクといふ意にあらざるか。下にも事モナクアリコシモノヲオイナミニカカル戀ニモ吾ハアヘルカモといふ歌あり○今裳見如は舊訓にイマモミルゴトクとよめるを宣長はイマモミシゴトに改めて『京ニアリシ時見シ如ク今モといふ意也』といへり。さらばミシゴト今モといはむが辭の順なり。もと五七の二句なりしが脱字を生じて一句となれるにはあらざるか。タグヒテモガモは相副ヒテモアラマホシとなり
 
   反歌
(663)535 (しきたへの)手枕まかず間置而《ヘダタリテ》としぞへにける不相念者《アヒオモハネバ》
敷細乃手枕不纏間置而年曾經來不相念者
    右安貴王娶2因幡八上采女1係念極甚愛情尤盛、於v時勅斷2不敬之罪1退2却本郷1焉、于v是王意|悼怛《タウダツ》聊作2此歌1也
 間置而を舊訓にへダテオキテとよめるを宣長はアヒダオキテとよめり。さてそのアヒダは時間にや空間にや宣長の思へるやうは知られねど雅澄は明に時間の事とせり。もし時間の事とせばアヒダオキテは年ゾヘニケルと重複すべし。案ずるに間置而は義訓にてヘダタリテとよみて處の隔たる事とすべきか○不相念者を宣長はアハヌオモヘバとよみ雅澄はアハナクモヘバとよめり。いづれにしてもこれもタマクラマカズと重複すべし。さればアヒオモハネバとよみて妹ガ相思ハネバといふ意と見るべくや。アヒオモハヌは集中に多くは相不念と書きたれど又下なる不相念《アヒオモハヌ》人ヲオモフハ大寺ノ餓鬼ノシリヘニヌカヅクゴトシの如く不相念と書けるもあり
 
(664)   門部王戀歌一首
536 おうの海の鹽干の滷のかたもひにおもひやゆかむ道のながてを
飫宇能海之鹽干乃滷之片念爾思哉將去道之永手呼
    右門部王任2出雲守1時娶2部内娘子1也、未v有幾時1既絶2往來1、累v月之後更起2愛心1仍作2此歌1贈2致娘子1
 飫宇《オウ》(ノ)海は即出雲の中(ノ)海なり。宍道《シシヂ》湖と美保※[さんずい+彎]との間〔日が月〕にあり。初二はカタモヒの序なり。卷三(四五頁)にも此王のよめるオウ河ノ河原ノチドリ云々といふ歌あり〇オモヒヤユカムはオモヒツツヤユカムのツツを省けるなり。ナガテは長路といふに同じ○略解に『出雲の任より歸る時道にて更におもひ出てよみて贈れる歌なるべし』といひ古義も此説に從ひたれどさては左註と合はず。千蔭雅澄はミチノナガ手を語のまゝに心得たるにはあらざるか。僅に一二里なるをも歌にはミチノナガテといふべし
 
   高田女王贈2今城王1歌六首
(665)537 こときよく甚毛莫言《イトモナイヒソ》ひと日だに君いしなくば痛寸取物
事清甚毛莫言一日太爾君伊之哭者痛寸取物
 コトキヨクはサツパリトといふことならむ甚毛莫言は契沖イタクモイフナとよめれどコトキヨクとイタクと重なりて調わろければ略解古義に從ひてイトモナイヒソとよむべし○君イシの伊は志斐伊ハマヲセ(三四七頁)の伊に同じ○結句を雅澄は偲不敢物の誤としてシヌビアヘヌモノとよめり。誤字とはおぼゆれど古義の説にも從はれず。有不敢物の誤としてアリアヘヌモノとよむべきか
 
538 人ごとをしげみこちたみあはざりき心あるごとなおもひわがせ
他辭乎繁言痛不相有寸心在如莫思吾背
 初二は人ノ口ガウルササニといふこと(一六六頁參照)○ココロアルゴトはオモフ心アル如クとなり(略解古義にはアダシ心アル如クと釋せり)。卷七に
  たえずゆくあすかの川のよどめらば故しもあるごと人のみまくに
とあるを古今集戀四に
(666)  たえずゆくあすかの川のよどみなば心ありとや人のおもはむ
と改めて出せり。之と參照して心アルゴトの意をさとるべし
 
539 わがせこしとげむといはば人ごとはしげくありともいでてあはましを
吾背子師遂常云者人事者繁有登毛出而相麻志呼
 トゲムは逢ヒトゲムなり
 
540 わがせこにまたはあはじかと思基〔左△〕《オモヘバカ》けさの別のすべなかりつる
吾背子爾復者不相香常思基今朝別之爲便無有都流
 アハジカはアハザラムカなり。基は墓の誤なり
 
541 この世には人ごとしげしこむよにもあはむわがせこ今ならずとも
現世爾波人事繁來生爾毛將相吾背子今不有十方
 コムヨニモは來世ニダニといふ事、今ナラズトモは此世ナラズトモといふ事なり
 
542 常やまずかよひし君が使こず今はあはじとたゆたひぬらし
(667) 常不止通之君我使不來今者不相跡絶多此奴良思
 イマハはモハヤにてアハジにかゝれり。タユタヒヌラシはタユタヒハジメタサウナといふばかりの意なり。古義に『此マデハアフベキカアフマジキカト二方ニ思ヒマドヒシガ今ハ一方ニアハジト決メヌラシの意なり』といへるは非なり○以上六首もとより一時の作にあらず
 
   神龜元年甲子冬十月幸2紀伊國1之時爲v贈2從駕人1所v誂2娘子1笠朝臣金村作歌一首并短歌
543 おほきみの いでましのまに (もののふの) 八十とものをと いでゆきし うつくしづまは (あまとぶや) かるの路より (たまだすき) 畝火をみつつ (あさもよし) きぢに入立《イリタツ》 まつち山 こゆらむきみは もみぢばの ちりとぶみつつ 親《ムツマシク》 わをばおもはず (草枕) たびをよろしと おもひつつ きみはあらむと あそそには かつは知れども しかすがに もだもえあらねば わがせこが ゆきのま(668)にまに おはむとは ちたびおもへど たわやめの 吾身にしあれば 道守の とはむ答を いひやらむ すべをしらにと たちてつまづく
天皇之行幸乃隨意物部乃八十件雄與出去之愛犬者天翔哉輕路從玉田次畝火乎見管麻裳吉木道爾入立眞土山越良武公者黄葉乃散飛見乍親吾者不念草枕客乎便宜常思乍公將有跡安蘇蘇二破且者雖知之加須我仁獣然得不在者吾背子之徃乃萬萬將追跡者千遍雖念手幼女吾身之有者道守之將問答乎言將遣爲便乎不知跡立而爪衝
 マニはママニなり。マニを重ねてマニマニといひ又中なるニを省きてママニともいふなり。續紀宣命にオノガホシキ末仁、字鏡にホシキ末爾などあり○ヤソトモノヲはアマタノ部《ムレ》ノ長《ヲサ》といふ意にてやがて百官といふ事なり(記傳十五卷十八丁參照)。ヤソトモノヲトのトはト共ニなり〇ウツクシヅマはイトシキ夫といふこと○キヂはここにては紀州の道なり。抑地名に路《ヂ》を添へたる(紀路、巨勢路、大和路の類)に(669)は其處の路なると其處へゆく路なると二樣あり。何々の路(輕の路、磐余《イハレ》の路の類)といへるも然り。其處へゆく道とのみ思へるは(たとへば小夜時雨廿二丁)かたくななり。此卷に淡海路ノトコノ山ナルイサヤ川といへるを思ふべし。鳥籠《トコ》、山は近江の内ならずや○入立を代匠記、略解にはイリタツとよみ舊訓、古義、※[手偏+君]解などにはイリタチとよめり。キヂはこゝにては紀(ノ)國といふ意なればイリタツとよむべし〇親を宣長のシタシクモとよめるを古義にシタシケクに改めてハシクをハシケクといふ類なりといへれどシタシケク、ハシケクなどいふ語は無し。げに上にもミヨシ野ノ山ノアラシノ寒久爾《サムケクニ》(本書一一五頁)イハネサクミテナヅミコシ吉雲曽無《ヨケクモゾナキ》云々(本書三〇一頁)といふ例あれどそは然いふべき理由あるにてただサムク、ヨクを延べてサムケク、ヨケクといへるにあらず。舊訓にはムツマシキとよめり。キとよみて下なる吾につづくべからざるはいふまでもなけれど此訓に基づき又皇親と書きてスメラガムツとよむ例に倣ひてムツマシクとよむべきか。宣長の如くモの辭を添へてよまむは心安からざればなり。いづれにもあれ我ヲコヒシクハ思ハデ君ハ旅ヲオモシロシト思ヒツツアラムト云々といへるなり○アソソニハはシレドモにか(670)かれり。絶えたる古語にて例も無ければ其意詳にしがたし。契沖は『推量し意得たる詞なるべし』といひ鐘の響(一三三丁)には『淺々にてウスウスといはむがごとし』といへり○カツは半面ニハ、カタヘニハなどの意なり。古義にいへる如くシレドモカツハと下にめぐらして見るに及ばず。シルにかゝれるにてモダモエアラズにかゝれるにあらず○モダモエアラネバはジットシテモヲラレヌカラといふこと、ユキノマニマニはドコヘユカウガユイタサキヘといふこと、オハムはオヒユカムなり○道守は道番なり。反歌の關守もやがて道守のうちなり。神代紀の一書に泉守道とありてヨモツチモリと訓じ和名抄道路具に※[しんにょう+貞]邏をチモリとよめり(但記傳【二十二卷七十八丁】には※[しんにょう+貞]邏は斥候にてチモリにかなはずといへり)○イヒヤルは俗にいふイッテノケルなり。シラニトのトは例の如く省きて見べし○タチテツマヅクは番十三にも
  ものいはずわかれしくれば、はや川のゆかくもしらに、ころもでのかへるもしらに、うまじものたちてつまづき
とあり。契沖は『心のうはの空なる故なり』といひ古義(卷十三)には『心も空にて歸りくる故に物につまづくなり』といへり。げに卷三なるワガノレル馬ゾツマヅク(四五五(671)頁參照)卷十一なるワガマツキミガ馬ツマヅクニなどのツマヅクは今もいふツマヅクなれどこゝのツマヅクは別なる如し。抑ツマヅクは爪ヲ突クなればそのツマヅクにことさらにするとおのづからせらるゝとの別あるべし。而してそのおのづからせらるゝ方は即今いふツマヅクにて、ことさらにする方は今いふツマダツなるべし。今はせむすべなさに或は夫の行けるさきの見えもやするとたちあがりてつまだつといへるなるべし。考に『そば立て望さまなり』と云へる、我意を獲たり
 
   反歌
544 おくれゐてこひつつあらずば木の國の妹背の山にあらましものを
後居而戀乍不有者木國乃妹背乃山爾有益物乎
 コヒツツアラズバはコヒツツアラムヨリハといふ意〇四五は妹背ノ山ナラマシヲといふことにて妹背ノ山ナラバ別ルル事モアルマイニといふ意を含めり
 
545 わがせこが跡ふみもとめおひゆかばきの關守い將留鴨《トドメナムカモ》
吾背子之跡履求追去者木乃關守伊將留鴨
(672) 紀ノセキモリ伊の伊は上(六六五頁)なる君伊シナクバの伊に同じ○將留鴨を略解にトドメテムカモとよみ古義にトドメナムカモとよめり。テムは自己のはたらきにいふ辭なればトドメナムカモとよむべし
 
   二年乙丑春三月幸2三香原離宮1之時得2娘子1作歌一首并短歌 笠朝臣金村
546 みかの原 たびのやどりに (たま桙の) 道のゆきあひに (あま雲の) よそのみみつつ ことどはむ よしのなければ こころのみ むせつつあるに あめつちの かみ辭因而《コトヨシテ》 (しきたへの) 衣手かへて おのづまと たのめるこよひ 秋の夜の 百夜の長く ありこせぬかも
三香之原客之屋取爾珠桙乃道能去相爾天雲之外耳見管言將問縁乃無者情耳咽乍有爾天地神祇辭因而敷細乃衣手易而自妻跡憑有今夜秋夜之百夜乃長有與宿鴨
 代匠記に『作者の名幽齋本に娘子の下にあり。例尤然るべし』といへり○タビノヤド(673)リニは旅ヤドリノホドニにてミチノユキアヒニは途ニテユキアフ際ニなり○ヨソノミは今ニを挿みてヨソニノミといふ。さてミツツとあればただ一度ならで度度行逢ひしなり○ココロムセツツは卷三(五五五頁)に吾妹子ガウエシ梅ノ木ミル毎ニココロムセツツ涕シナガルとあり○辭因而は從來コトヨセテとよめり。語意は略解古義共に宣長の『コトヨサシと同意にて神ノヨセ給ヒテなり』と云へるに從へり。案ずるにコトヨシ〔右△〕テとよむべくそのコトは辭、ヨシテはオホセテにて辭モテオホセテといふ意なり(記傳四卷八丁に言依《コトヨサシ》の言は借字にて事なりといへるは從はれず)○コロモデカヘテは袖ヲカハシテ、モモ夜ノナガクは百夜ノ如ク長ク、アリコセヌカモはアレカシなり
 
   反歌
547 (あま雲の)よそにみしより吾妹兒に心も身さへよりにしものを
天雪之外從見吾妹兒爾心毛身副縁西鬼尾
 心モ身サヘは心サヘ身サヘなり。古義に云へる如く今ハ何事ヲカ思ハムといふ意を含めり
 
(674)548 このよらの早開者《ハヤクアケナバ》すべをなみ秋の百夜をねがひつるかも
今夜之早開者爲便乎無三秋百夜乎願鶴鴨
 此夜ラのラはただ添へたる辭なり。野をノラといふが如し○第二句は契沖のいへる如くハヤクアケナバとよむべし。ハヤクアケナバといはばスベナカルベミと承くべきが如くなれどスベヲナミともいひしなり。上にもヤマズユカバ人目ヲオホミ(二九二頁)ミズテユカバマシテコヒシミ(四七一頁)ヒカバカタミト(五〇二頁)などあり○秋ノ百夜ヲは此夜ノ秋ノ百夜ノ如クナラムコトヲとなり
 
   五年戊辰太宰少武石川足人朝臣遷任(セシトキ)餞2于筑前國|蘆城《アシキ》(ノ)驛家《ウマヤ》1歌三首
549 あめつちの神もたすけよ(草枕)たびゆく君が家にいたるまで
天地之神毛助與草枕覊〔馬が奇〕行君之至家左右
 三首は皆送りし人の作れるにて作者は各別なるべし○蘆城は今の筑前國筑紫郡阿志岐にて大宰府の東方にあり
 
(675)550 (大船の)おもひたのみし君がいなばわれはこひむなただにあふまでに
大船之念憑師君之去者吾者將戀名直相左右二
 タダニアフはヨソナガラ逢フのうらにてマトモニ逢フといふことなれどこゝにてはタダニを輕く添へたるなり。マデニはマデといふに同じ
 
551 やまとぢの島の浦廻《ウラミ》に縁浪《ヨスルナミ》あひだもなけむわがこひまくは
山跡道之島乃浦廻爾縁浪間無牟吾戀卷者
     右三首作者未詳
 ヤマトヂは大和へ上る道なり〇島は契沖の説に筑前國志摩郡志摩郷なりといへり。おそらくは普通名詞の島ならむ○緑浪を宣長はヨルナミノとよみたれど卷十五にカムサブルアラツノサキニ與須流奈美マナクヤイモニコヒワタリナムとあればなほ舊訓に從ひてヨスルナミとよむべし。以上三句は序なり○アヒダモナケムは絶間モナカラム、コヒマクハはコヒムコトハなり。上(六五五頁)なるチドリナク佐保ノ河瀬ノサザレ浪ヤム時モナシワガコフラクハと相似たり
 
(676)   大伴宿禰三依歌一首
552 わがきみはわけをばしねとおもへかもあふ夜あはぬ夜二走〔左△〕良武《ナラビユクラム》
吾君者和氣乎波死常念可毛相夜不相夜二走良武
 ワガ君は女をあがめて云へるなり〇ワケを契沖眞淵は自稱の語とし宣長は對稱の語とせり。集中を檢するに自稱なると對稱なるとあり。案ずるにワケは奴といふことなるべし。さればこそ人にも自にもいふなれ。卷八なる紀女郎贈2大伴宿禰家持1歌に戲奴と書きて反云2和氣1と書けるはワケに奴の字を當てたれどその歌にては、もと戲れてワケと云へるなればその意をさとさむが爲に戲奴と書き、さては又ワケとよまれねば反云2和氣1といふ註を挿みたるなるべし。宣長(記傳卷二十六、玉勝間卷八、玉の小琴)はワケを汝といふ意とし今の歌を釋して
  汝ハ死ネト君ハオモフニヤといふ也
といへれど、さてはワケハシネトオモヘカモとこそ云ふべけれ。ワケヲ〔右△〕バと云へるを見れば自稱としてワレヲバと釋かでは語格とゝのはず○結句の走の字幽齋本には去とありといふ。略解にはフタユキヌラムとよみて『逢夜とあはぬ夜と經行を(677)いふ』といひ古義にはフタツユクラムとよみて『あふ夜とあはぬ夜と二(ツ)ながらに經行なり』といへり。案ずるに二は漢籍に功無v二2於天下1また親尊莫v二などある二にて二去はナラビユクとよむべし。古義に語例として下なるウツセミノ代ヤモフタユク又卷七なる世ノナカハマコト二代ハユカザラシを擧げたれどそは二度アル、二度來ルといふことにて今の歌の二去とは相與からず
 
   丹生女王贈2太宰帥大伴卿1歌二首
553 あま雲の遠隔《ソキヘ・ソクヘ》のきはみとほけどもこころしゆけばこふるものかも
天雲乃遠隔乃極遠鷄跡裳情志行者戀流物可聞
 達隔は契沖ソキヘ又はソクヘとよむべしといひ略解にはソキヘ古義にはソクヘとよめり。卷三にソ久ヘノ極とかき卷十九にソ伎ヘノキハミとかけり。さればいづれにてもあるべし。但木村博士(字音辨證下卷四七頁)は『久と書けるはキの音を用ゐたるものなり。久にキの音あり』といへり。語意は卷三(五○八頁)にいへり○キハミはハテなり〇四五句の意は此方ノ心ガ到レバサキデモ此方ヲ戀フルモノカとなり(古義)○宣長いはく二首ともに戲れなる歌なりと
 
(678)554 古《イニシヘノ》人の令食有《タバセル》きびの酒やめばすべなしぬきすたばらむ
古人乃令食有吉備能酒痛〔左△〕者爲便無貫箕賜牟
 古の字は舊訓にイニシヘノとよめるに從ふべし。イニシヘノ人はハヤクヨリ知レル人といふことなるべし○令食有は古義にタバセルとよみて『賜有《タバセル》なり』といへるぞ穩なる。タバスは後のタマハスなり○キビノ酒は黍を以て造れる酒といふと、吉備國産の酒といふと二説あり。吉備能酒と書ける、借字ともおぼえねば契沖の云へる如く吉備國の酒とすべし○ヤメバスベナシはヤマバスベナカラムといふにひとし○ヌキスは竹を編みて盥の上にかけわたして水のちらぬ用意にする物なり(契沖)〇一首の意は
  故人ノ賜ヘル吉備ノ酒ヲ飲ミテ酒ニ中リテ嘔吐ヲ催サムニセムスベナカルベケレバ願ハクハ吐物ヲ受クル盥ノ上ニカケワタス貫簀ヲモ賜ハラム
と戲れて云へるなり○痛は病を誤れるなり
 
   太宰帥大伴卿贈3大貮|丹比《タヂヒ》(ノ)縣守《アガタモリ》卿遷2任民部卿1歌一首
(679)555 君がためかみしまち酒やすの野にひとりやのまむ友なしにして
爲君醸之待酒安野爾獨哉將飲友無二思手
 カムは酒を造ることなり。今カモスといふはカミナスの約カマスの轉ぜるなり。卷十六にもウマ飯《イヒ》ヲ水ニ醸成《カミナシ》ワガマチシ云々とあり。古義に『カミスルといふべきを訛れるなり』といへるは非なり○待酒は古事記※[言+可]志比(ノ)宮の段に
  こゝに還上りましゝ時に(○應神天皇の越前より)その御おや息長帶日賣《オキナガタラシヒメ》(ノ)命(〇神功皇后)待酒をかみてたてまつらしき
とありて記傳卷三十一に『待酒は物より來る人に飲しめむ料にかみまうけて待つ酒なり』といへり〇二三の間に君ガ京ニ上リ去ラバといふ辭を加へてきくべし○ヤスノ野は今の筑前國朝倉郡安野なり。此地に旅人卿の山莊などありしなるべし
 
   賀茂女王贈2大伴宿禰三依1謌一首
556 筑紫船いまだもこねばあらかじめあらぶるきみを見之《ミルガ》かなしさ
筑紫船未毛不來者豫荒振公乎見之悲左
(680) 桂萬葉に題辭の下に故左大臣長屋王之女也とあり。コネバはコヌニなり。アラブルは卷二なるアラビナユキソ君マサズトモ(二三二頁)アラビナユキソ年カハルマデ(二三八頁)のアラビにて疎くなる事なり〇一首の意は宣長の
  三依、筑紫船のくるを待て筑紫に下らむとする程のことなるべし。然るに其筑紫船も未だ來ざる先に早よそになりて吾方へはうとうとしくなれるが悲と也
といへる如し。古義に
  君が船はいまだ來もせぬに心かはりて我方へはうとび荒びて依附かぬ君を見むとおもふがかねて悲きこといふばかりなしとなり。三依の筑紫より上らむとするほどによみて京より贈りたまひし歌なるべし
といひて見之をミムガとよめるは非なり
 
   土師《ハニシ》宿禰水通從2筑紫1上v京海路作歌二首
557 大船をこぎのすすみに磐にふりかへらばかへれ妹により而者《テハ》
大船乎※[手偏+旁]乃進爾磐爾觸覆者覆妹爾因而者
 コギノススミニはコギハヤリテなり。そのススミは卷三なる家モフトココロスス(681)ムナ(四六九頁)のススムに同じ○フリは觸レテ、カヘルはクツガヘルなり○而者を略解古義にテバとよみて千蔭は『テバはタラバなり』といひ雅澄は『吾思ふ妹に一日もはやく依らばこひしく思ふ心の安からむぞとなり』といへり。案ずるにこの妹ニヨリ而者は妹ノ爲ニハといふ意なり。さればテハのハは清みて唱ふべし。はやく景樹も
  この而者はタラバ、タレバいづれに見てもうまくかなはぬこゝちす。さらば者は澄てよみて妹ニヨリテナラバと云常のてにをはにきくべきか
といへり
 
558 (ちはやぶる)神の社にわがかけし幣はたばらむ妹にあはなくに
千磐破神之社爾我掛師幣者將賜妹爾不相國
 契沖いはく
  これは渡海の安くて疾く都に到らむ祈して出立來るににはのわるくて海路に日を經れば妻に逢ことの遲きに心いられしてさらば彼幣を返し給はらむと神を少恨み奉るやうによまれたるなり
(682)といへり
 
   太宰大監大伴宿禰百代戀歌四首
559 事もなく生〔左△〕來之《アリコシ》ものを老なみにかかる戀にも吾はあへるかも
事毛無生來之物乎老奈美爾如此戀于毛吾者遇流香聞
 太宰府にて大伴坂上郎女におくれる歌なり○事モナクは物思モナクなり(六六二頁參照)〇生來之は舊訓にアリコシとよめり。宣長は生を在の誤字とせり。雅澄は契沖の説に從ひてアレコシとよみて生レ來シの意とせり。宣長の説に從ふべし○オイナミは契沖の説に『ナミは列の字なり』といひ又『年次月次のナミなり』といへり。老境といふことゝおぼゆ。景樹は『後に老ノ波といふはこれより出でたるべし』といへり
 
560 こひしなむ後はなにせむいける日のためこそ妹をみまくほりすれ
孤悲死牟後者何爲牟生日之爲社妹乎欲見爲禮
 初二は戀死ナム後ニハ妹ヲ見ルトモ何カセムとなり。ノチハは後ニハなり○卷十(683)一にもコヒシナムノチハ何セムワガ命イケラム日コソミマクホシケレといふ歌あり
 
561 おもはぬを思ふといはば大野なる三笠の杜の神ししらさむ
不念乎思常云者大野有三笠杜之神思知三
 大野ナル三笠ノ杜は今の筑紫郡大野の附近なりといふ○神シシラサムはいにしへの誓の辭にて神ガ證人ニ立チ給ヒテ罸ヲ下シ給ハムとなるべし齊明天皇紀四年に若爲2官軍1以儲(ケタルナラバ)2弓矢1※[齒+咢]田《アギダ》(ノ)浦(ノ)神|知《シリナム》矣また天智天皇紀十年に
  泣血誓盟曰。臣等五人隨2於殿下1奉2天皇詔1。若有v違者四天王打、天神地祇亦復誅罸。三十三天|證2知《アキラメシロシメセ》此事1。子孫當v絶家門必亡云々
とあり○下にも卷十二にも似たる歌あり
 
562 暇なく人の眉根をいたづらにかかしめつつもあはぬ妹かも
無暇人之眉根乎徒令掻乍不相妹可聞
 イトマナクは絶間ナクなり○眉根は古義にマヨネとよめり。マユネにても可なり(684)〇略解に『人に戀らるれば眉のかゆきといふ諺有りて集中に多し』といひ古義に『人に戀らるれば眉皮の癢きといふ諺によりてよめるなり』といへれど卷六なる
  月たちてただ三日月の眉根かきけながくこひし君にあへるかも
 卷十二なる
  いとのきてうすき眉根をいたづらにかかしめつつもあはぬ人かも
などと合せ考ふるに眉根を掻くは戀人に逢はむ呪なり
 
   大伴坂上郎女歌二首
563 黒かみにしろ髪まじりおゆるまでかかる戀にはいまだあはなくに
黒髪二白髪交至耆如是有戀庭未相爾
 老ナミニカカル戀ニモ吾ハアヘルカモに和したる歌なり○第三句を古義にオユマデニとよめるは語格とゝのはず○次の歌によるに郎女は百代の挑に應ぜしにあらず。されば此歌の戀はおのが戀にあらで人の戀なり。從ひて此歌のカカル戀はカク切ナル戀など譯すべし。古義にカカル苦シキ戀と譯せるは郎女自身の戀と心得たるなり
 
(685)564 (山すげの)實ならぬことをわれによせいはれし君はたれとかぬらむ
山菅乃實不成事乎吾爾所依言禮師君者與孰可宿良牟
 山スゲノは實《ミ》の枕辭(略解、古義)ミナラヌはマコトナラヌなり。ヨセの下にテを補ひて心得べし。吾ニ托《ヨ》セテ實ナラヌ事ヲ人ニ云ハレシ君ハといへるにて畢竟吾ト無キ名ノ立チシ君ハといふ意なり
 
   賀茂女王歌一首
565 (大伴の)みつとはいはじ(あかねさし)てれる月《ツク》夜にただにあへりとも
大伴乃見津跡者不云赤根指照有月夜爾直相在登聞
 タダニはヨソナガラのうらなり
 
   太宰(ノ)大監《タイゲン》大伴(ノ)宿禰百代等贈2驛使1歌二首
566 (草まくら)たびゆく君を愛見《ウツクシミ》たぐひてぞこししかの濱邊を
草枕羈行君乎愛見副而曾來四鹿乃濱邊乎
     右一首大監大伴宿禰百代
(686) 愛見を略解にウルハシミとよめれど舊訓にウツクシミとよめる方まされり。旅ダチユク君ガシタハシサニ、となり。タグフはツレダツなり○志賀《シカ》は福岡※[さんずい+彎]口に當れる島にて其東南は所謂海の中道に連れり
 
567 周防《スハウ》なる磐國山をこえむ日はたむけよくせよあらきその道
周防在磐國山乎將超日者手向好爲與荒其道
    右一首少典山口(ノ)忌寸《イミキ》若麻呂
    以前天平二年庚午夏六月帥大伴卿忽生2瘡(ヲ)脚(ニ)1疾2苦枕席1、因v此馳v驛上奏望2請庶弟|稻公《イナキミ》姪|胡麻呂《コマロ》1欲v語2遺言1者《トイヘレバ》勅2右兵庫助大伴宿禰稻公治部少丞大伴宿禰胡麻呂兩人1給v驛發遣令v看2卿病1、而※[しんにょう+至]2數旬1幸得2平復1、于v時稻公等以2病既療1發v府上v京、於v是大監大伴(ノ)宿禰百代少典山口(ノ)忌寸《イミキ》若麻呂及卿(ノ)男家持等相2送驛使1共到2夷守《ヒナモリ》(ノ)驛家《ウマヤ》1聊飲悲v別乃作2此歌1
 岩國山は岩國町の北方に當れる山にて昔の中國街道の峻坂なり○夷守《ヒナモリ》は今の筑(687)前國糟屋郡|仲原《ナカバル》なりとも多多羅なりともいふ
 
   太宰帥大伴卿被v任2大納言1臨2入v京之時1府(ノ)官人等餞2卿筑前國蘆城《アシキ》(ノ)驛家1歌四首
568 みさき廻《ミ》のありそによする五百重浪たちてもゐてもわがもへるきみ
三埼廻之荒礒爾縁五百重浪立毛居毛我念流吉美
    右一首筑前(ノ)掾《ジヨウ》門部(ノ)連《ムラジ》石足《イソタリ》
 蘆城は上(六七四頁)に見えたり○廻の字略解には例の如くワ又はマとよみ古義にはミとよめり。ミサキは岬、ミはメグリなり。上三句はタチテの序なり○歌の意は古義に『云々の君にてましませば別れまゐらせむはいともせむすべなしとなり』といへる如し
 
569 辛人のころも染《ソム・シム》とふ紫のこころに染而《シミテ》おもほゆるかも
辛人之衣染云紫之情爾染而所念鴨
 上三句は序なり。契沖は
(688)  此國にも紫色を貴て衣を染なむをカラビトノとしもいへる意得がたし
といひ略解には
  辛は借字にて韓なり。又は辛人は淑人の誤にてヨキ人か。宣長は辛は宇万(ノ)二字歟といへり
といひ古義には
  辛は宮(ノ)字の寫誤なるべし
といへり。案ずるにヨキ人、ウマ人、ミヤ人の紫の衣を着るは作者目前に見て知りたるべければコロモソムトフとはいはじ。なほ韓人の借字とすべし○上の染を舊訓にソムとよめるを古義にシムに改めたり。説は同書三卷九六頁に見えたり。いづれにてもよし(四八九頁參照)
 
570 やまと邊《ヘ》君がたつ日のちかづけば野にたつ鹿もとよみてぞなく
山跡邊君之立日乃近者野立鹿毛動而曾鳴
    右二首大典《タイテン》麻田(ノ)連《ムラジ》陽春《ヤス》
 略解には邊をへとよみて辭とし考及古義にはヘニとよめり。卷一なるイザ子ドモ(689)早日本邊《ハヤクヤマトヘ》の例(一〇五頁)に從ひてヤマトヘとよむべし〇三四の間に人ハ勿論といふことを挿みて聞くべし○典は太宰府の第四等官なり。太宰府の四等官は帥《ソツ》、貮、監《ゲン》、典にて貮以下に大少ありしなり
 
571 月夜《ツクヨ》よし河音《カハノト》清之《キヨシ》いざここにゆくもゆかぬもあそびて將歸《ユカム》
月夜吉河音清之率此間行毛不去毛遊而將歸
    右一首|防人《サキモリ》(ノ)佑《ジヨウ》大伴|四綱《ヨツナ》
 第二句は略解にカハノトキヨシとよみ古義にカハトサヤケシとよめり。いづれにてもよし○ユクモユカヌモは京ニユク人モ、ユカデ筑紫ニ留ル人モなり○將歸は舊訓のまゝにユカムとよむべし(略解にはユカナとよめり)。ユカムは分レユカムとなり。上なるユクとは意異なり○防人佑は防人司の判官なり
 
   太宰帥大伴卿上v京之後沙彌滿誓賜〔左△〕v卿歌二首
572 (まそ鏡)みあかぬ君におくれてやあしたゆふべにさびつつをらむ
眞十鏡見不飽君爾所贈哉旦夕爾左備乍將居
(690) サビツツはシヲレツツなり。ウラサブといふに同じ(本書五四頁及一二六頁參照)○オクレテヤのヤはサビツツの下におくべきを言數の都合にてオクレテの下におけるなり○賜は贈の誤なり
 
573 ぬばたまの黒髪|變白髪手裳《シロクカハリテモ》いたき戀にはあふ時ありけり
野干玉之黒髪變白髪手裳痛戀庭相時有來
 二三句を宣長はクロカミシロクカハリテモとよみ雅澄は舊訓に從ひてクロカミカハリシラケテモとよめり。宣長の説の方穩なり。シロクカハリを變2白髪1と書きもすべけれどシラケを白髪とは書くまじきが故なり。テモのモは亦なり。オイテモ亦といふ意なり○こゝの戀は男女の戀にあらず。老イテ心淡クナリヌレドナホ君ヲ思フ情ノ切ナルニ堪ヘズといへるなり。略解に
  年經ても男女の戀は逢ふ時あるを此別は再逢ひ難きを歎くなり
といへるは非なり。上なるクロカミニシロカミマジリオユルマデカカル戀ニハイマダアハナクニと辭は似たれど意は似たる所なし
 
   大納言大伴卿和歌二首
(691)574 ここにありて筑紫やいづくしら雲のたなびく山の方にしあるらし
此間在而筑紫也何處白雲乃棚引山之方西有良思
 卷三(三九三頁)にココニシテ家ヤモイヅクシラ雲ノタナビク山ヲコエテキニケリ
といふ歌あり。ココニアリテはココニシテと同じくてココデといふ事、畢竟ココカラ見ルトといふ意なり
 
575 草香江の入江にあさるあしたづのあなたづたづし友なしにして
草香江之入江二求食蘆鶴乃痛多豆多頭思友無二指天
 草香江は河内の地名。上三句は序○タヅタヅシは契沖おちつかぬやうの心なりといへり。今いふタヨリナイの意なり。友ナシニシテは友ナクテなり
 
   太宰帥大伴卿上v京之後筑後守葛井《フヂヰ》(ノ)連《ムラジ》大成悲嘆作歌一首
576 今よりはきの山みちは不樂牟《サブシケム》わがかよはむとおもひしものを
從今者城山道者不樂牟吾將通常念之物乎
 第三句を舊訓にサビシケムとよめるを宣長はサブシケムに改めたり。オモシロカ(692)ラザラムとなり。四五はイツマデモ君ニマミエ奉ラム事ヲ樂ミツツ通ハムト思ヒシモノヲといふ意なり。古義に
  今より後は吾通ふべきよしもなくて城(ノ)山道はいよいよさぶしからむ、卿の太宰府におはして吾つねにかよひし時は人馬の通行絶ずてにぎはしくおもしろかりしを、となるべし
といへるは非なり○木の山は筑前國筑紫郡原田の南方にありて肥前に跨れり。いにしへ筑後肥前より太宰府に通ふには此山を踰えしなり
 
   大納言大伴卿新袍(ヲ)贈2攝津(ノ)大夫《カミ》高安王1歌一首
577 わがころも人にな著《キ》せそあびきする難波をとこの手には雖觸《フレドモ》
吾衣人莫箸曾網引爲難波壯士乃手爾者雖觸
 雖觸は舊訓にフルトモとよめれどさては意通せざるによりて宣長は
  雖の下不(ノ)字落たるか。しからばテニハフレズトモと訓べし。三四の句は高安王をたはぶれていへる也
(693)といへり。之によればタトヒ氣ニ入ラズシテ御手ニ觸レタマハズトモ人ニハ與ヘタマフナといへるなり。雅澄は雖觸をフレレドとよみ難波壯士を王自云へりとし、さては題辭と合はざるによりて高安王より旅人卿に贈れるなりとせり。案ずるにこの新袍は筑紫のつととして攝津職の長官たる高安王に贈りしにてもとより然るべき人をもて贈りけむを三津に船のはてし時そこらに居合せたる漁夫に托して贈りしやうにいひなして賤ノ男ノ手ニハ觸レヌレドといへるにや。さらば雖觸はフルレド又はフレドモ(四段活とせば)とよむべし
 
   大伴宿禰三依悲v別歌一首
578 あめつちと共に久しくすまはむとおもひてありし家の庭はも
天地與共久住波牟等念而有師家之庭羽裳
 任地を離れむとする時その家に別るゝ事を悲みてよめるなりと略解古義にいへれど京人が任國に下りたらむにたとひ其家いとめでたかりとも京に歸るうれしさを忘れてかくばかり其家の別を惜まむは人情にあらず。恐らくは家の庭に寄せて情人の別を惜めるなるべし○ハモは屡云ひし如く思ひ遣る調の辭なれば此歌(694)はその家にてよめるにあらで旅だちし後又は京に歸りての後によめるなり
 
   金《コン》(ノ)明軍與2大伴宿禰家持1歌二首
579 見まつりていまだ時だにかはらねば年月のごとおもほゆる君
奉見而未時太爾不更者如年月所念君
 明軍は家持の父旅人卿の資人《ツカヒビト》なり○時は雅澄のいへる如く四時の時なり。カハラネバとあるによりて常の意の時にあらざる事知らる。カハラネバはカハラヌニなり○見マツリテは最後ニ御目ニカカリテなり
 
580 (足引の)山におひたるすがの根のねもころみまくほしき君かも
足引乃山爾生有菅根乃懃見卷欲君可聞
 上三句は序なり。ネモコロは今いふクレグレなり。代匠記には男色關係の歌とせり
 
   大伴(ノ)坂上《サカノヘ》家之大娘報2贈大伴宿禰家持1歌四首
581 生而有着《イキテアラバ》みまくも不知《シラニ》なにしかもしなむよ妹といめにみえつる
生而有者見卷毛不知何如毛將死與妹常夢所見鶴
(695)略解にいふ
  契沖云。今コソ逢ガタケレ、カタミニナガラヘバ又相見ムモ知ラレヌヲナドカ吾夢ニ君ガ入來テカク逢ハデアランヨリハ戀死ナント見エツランとよめり(○代匠記の初稿本に出でたるなり)
 古義にいふ
  生存ヘテアリトモ現在ニテハ相見ム由モ知ズ、來世ニテ逢ベシ、サアレバ生テアラムハ中々ニ物ウシ、イザ死(ナ)ムヨ妹トノタマフト夢ニ見エツルコトヨ、何シカモカクハ見エツルゾとなり。第三四句をおきかへて意得べしと。雅澄は初二四を家持の辭とせるなり。句を前後するは處にこそよれナニシカモといふ地の辭を話辭の中に挿むべけむや。其上此説の如くば第二句の不知はシラニとはよむべからず。必シラジとよむべきなり。雅澄又いはく
  本居氏の詞(ノ)瓊綸《タマノヲ》てにをはたがへる歌の中に此歌をいれしはいかにぞや
と。玉緒七卷四丁に
  いきてあ【られ】ば見まくもしら【にず】……
(696)と擧げて
  これは、ゾノヤ何などなくしてツルと結べるかなはず。上のナニシカモは此語へはかゝらねばなり。但初句をイキテアラバと訓むときは二の句の意かはりてナニシカモの言、ツル迄かゝれば難なし
といへり。宣長の第一説は
  『いきてあれ〔右△〕ばみまくもしらず〔右△〕何しかも死なむよ妹』といめにみえつる
界中の辭を皆家持の話辭と見れば何シカモは死ナムと照應するが故に『ツルの係なし』といへるなり。第二説(玉の小琴なるは此方なり)は契沖の説の如く
  いきてあら〔右△〕ばみまくもしらに〔右△〕何しかも『死なむよ妹』といめにみえつる
シナムヨイモのみを家持の話辭と見ればナニシカモと見エツルと照應するが故に『難なし』といへるなり。説の當否は措きて宣長の語格論はよく通れり。訝るべきにあらず。さて歌の釋はしばらく契沖の説によるべし。此釋に從へばイキテアラバはミマクと、ナニシカモはミエツルと照應せるなり
 
582 ますらをもかくこひけるをたわやめのこふるこころにたぐへらめや(697)も
丈夫毛如此戀家流乎幼婦之戀情爾比有目八方
 男デサヘカク戀慕フガナホ女ノ戀慕フ心ニ匹敵セムヤといふ意なり。タグヘラメヤモはタグヒテアラムヤハなり
 
583 (月草の)うつろひやすくおもへかもわがもふ人のこともつげこぬ
月草之徙安久念可母我念人之事毛告不來
 二三はウツロヒカハリヤスキ心ナレバニヤといふ意、結句は便モセヌといふ意なり
 
584 春日山朝たつ雲のゐぬ日|無《ナミ》みまくのほしき君にもあるかも
春日山朝立雲之不居日無見卷之欲寸君毛有鴨
 第三句を從來ヰヌ日ナクとよめれどさては序とならず。よろしくヰヌ日ナミとよむべし○歌の意は契沖の云へる如く春日山ニ雲ノヰヌ日ナクテサヤカニ見エネバイカデ見マホシト思フ如ク見マホシクオボユル君カナといへるなり
 
(698)   大伴(ノ)坂上(ノ)郎女歌一首
585 いでていなむ時しはあらむをことさらに妻ごひしつつたちていぬべしや
出而將去時之波將有乎故妻戀爲乍立而可去哉
 初二は出デユク時ハアラウニといふ意、コトサラニはタチテイヌにかゝれり○こは郎女の夫の郎女に通ひそめし頃事ありて地方に行きし時によめるにあらざるか
 
   大伴宿禰稻公贈2田村(ノ)大孃1歌一首
586 あひ見ずばこひざらましを妹を見てもとなかくのみ戀者奈何將爲
不相見者不戀有益乎妹乎見而本名如此耳戀者奈何將爲
    右一首〔右△〕姉坂上郎女作
 稻公は旅人卿の庶弟、田村大孃は大伴宿奈麻呂の女、坂上郎女は田村大孃の繼母なり○モトナはアヤニクなり○結句は略解古義にコヒバイカニセムとよみたれど(699)コヒバと假設的にいふべき處にあらず。誤字あるにあらざるか○略解に左註の首は云の誤なるべしといへり。坂上郎女が田村大孃に贈りし歌とせば姉とは云ふべからず。姉は稻公に對して云へるなれば右一首とあるはもとのまゝにして作とあるを代作と心得べし
 
   笠女郎贈2大伴宿禰家持1歌廿四首
587 わがかたみ見つつしぬばせ(あらたまの)年の緒ながくわれも將思《シヌバム》
吾形見見管之努波世荒珠年之緒長吾毛將思
 將思は古義にシヌバムとよめるに從ふべし○シヌバセはシノビタマヘなり○年ノ緒は年數なり。第一年第二年とやうにいふがトシナミ、十年二十年とやうにいふがトシノヲなり○古義に『これは家持卿に別れゆくとき女郎より何にもあれ形見のものを贈りてそへたるなるべし』といへる如し
 
588 (しら鳥の)とば山松のまちつつぞわがこひわたる此月比を
白鳥能飛羽山松之待乍曾吾戀度此月比乎
(700) 初二は序。コノ月ゴロヲのヲは助辭なり
 
589 (ころもでを)打廻乃里にあるわれを知らずぞ人はまてどこずける
衣手乎打廻乃里爾有吾乎不知曾人者待跡不來家留
 第二句は舊訓にウチワノサトとよめり。契沖は右の訓に從ひて地名とせり。卷十一にも神ナビノ打廻前乃イハブチニとあり。宣長は打を折の誤とし乃を衍字としてヲリタムサトと訓みて近き事とせり。雅澄は之に從へり。初句をウチにかゝれる枕辭とし打廻はウチミとよみて近隣の義とすべきか。下にもマヂカキ君ニコヒワタルカモまた山河モヘダタラナクニカクコヒムトハとよめり○シラズゾはシラデゾ、コズケルはコザリケルなり
 
590 (あらたまの)年の經去者《ヘヌレバ》今しはとゆめよわがせこわが名のらすな
荒玉年之經去者今師波登勤與吾背子吾名告爲莫
 經去者は古義にヘヌレバとよめる、よろし(舊訓はヘユケバ)○歌の釋も雅澄の
  年の經にたれば今はくるしからじと心許して吾名を人に告知らしめたまふな、(701)ゆめゆめ吾夫子よといふなり
といへる如し
 
591 わがおもひを人に令知哉《シラスレヤ》たまくしげひらきあけつといめにし所見《ミユル》
吾念乎人爾令知哉玉匣開阿氣津跡夢西所見
 令知哉は略解古義共に宣長のシラセヤとよめるに從ひ略解に『知ラセバニヤなり』といひ古義に『知ラシムレバニヤの意なり』と云へり。げに我思ヲ君ガ人ニ知ラセタマヘバニヤ櫛笥ヲ開キツト夢ニ見ユといへるなれどシラセヤとよみてはかなはず。シラスルは二段活にてシラセは其將然格なればなり。必シラスレヤとよむべきなり○所見は舊訓のまゝにミユルとよむべし。略解にミエツとよめるは非なり
 
592 闇夜《ヤミノヨ》になくなるたづのよそのみにききつつかあらむあふとはなしに
闇夜爾鳴奈流鶴之外耳聞乍可將有相跡羽奈之爾
 闇夜は舊訓にクラキヨとよめるを契沖はやくヤミノヨともよむべしと云ひ雅澄は卷二十に夜未乃欲能と假字書にせるを證としてヤミノヨとよめり。初二は序な(702)り○ヨソノミニはヨソニノミなり
 
593 君にこひいたもすべなみなら山の小松が下に立嘆鴨〔左△〕《タチナゲキツル》
君爾戀痛毛爲便無見楢山之小松下爾立嘆鴨
 イタモはイトモなり。結句の鴨一本に鶴とあり。之によりてタチナゲキツルとよむべし。ツルの係の無きは略辭格なればなり○下の字舊訓にシタとよめるを考に
  小松といはんからに立寄るばかりの陰なるはいはじ。然れば其松のもとべに立ちて嘆きしをいふなればモトと訓べし云々
といひ略解古義共にモトとよめり。卷一の小松下乃草乎苅核も考、古義にはコマツガモトノとよめり。案ずるに小松といふもの、もし今いふ如く小さきもののみを云はば小マツガモトとも云ふべからず。小松ガナカニなどこそいふべけれ。然いはざるを見れば小松は今云ふよりは遙に大なるをもいひし事明なり。從ひてこゝは安んじてコマツガシタニとよむべし(卷一【二三頁】參照)
 
594 わがやどのゆふかげ草のしら露のけぬがにもとなおもほゆるかも
(703)吾屋戸之暮陰草乃白露之消蟹本名所念鴨
 上三句は序なり○ユフカゲグサは契沖いはく
  草の名にあらず。……陰草といはむとて幸露も夕におくものなれば夕陰草など云へり
 文意明ならねど夕カゲを陰草にいひかけたりとせるに似たり。略解には
  草の名にあらず。水陰草、山陰草といへるに同じく庭の夕陰の草なり
といひ古義には
  契沖云。草の名にあらず。夕の陰草なり。アシ引ノ山ノ陰草、天ノ河ミヅカゲ草などよめるたぐひなり
といへり。案ずるに本に暮陰草とは書きたれどカゲは陰にはあらで影の意なり。略解古義の字面に泥みたるは非なり。山、水などにこそ陰はあれ夕に陰あらむや。さて夕影は本集卷十九にコノユフカゲニウグヒスナクモ、古今集秋下にキリギリスナクユフ影ノヤマトナデシコなどありて夕日山に沈みて餘光なほ天にある程をいふ○ケヌガニはキエヌガニにてそのガニは略解にホドと譯し古義にバカリニと(704)譯せる如し。古義には又宣長のガニとガネとを混同せるを辨拆しガニをバカリニ、ガネをタメニと譯し古今集以後やうやうガネの方は用ひられずなりきと云へり。くはしくは今の歌の註下を見べし
 
595 吾命のまたけむかぎりわすれめやいや日にけにはおもひますとも
吾命之將全幸限忘目八彌日異者念益十方
 マタケムは全カラムなり。イヤ日ニケニは日ヲ追ウテマスマスといふことなり。さて上三句と下二句と打見には相親しからず。案ずるに第四句の上にムシロといふことを補ひて聞くべきなり
 
596 八百日《ヤホカ》ゆく濱の沙《マナゴ》もわが戀にあにまさらじかおきつ島守
八百日往濱之沙毛吾戀二豈不益歟奥島守
 ヤホカユクは略解に『多くの日數をあゆみ行といふにてかぎりなく遠き濱といふ意なり』といへる如し○沙を舊訓にマサゴとよめるを雅澄は和名抄と集中の例とを引きてマナゴとよめり○第四句アニマサラジカといへる異樣に聞ゆ。續紀歴朝(705)詔詞解四卷三十三丁に第二十八詔に豈障倍岐物仁方不在《アニサハルベキモノニハアラズ》とある註に
  豈云々三十八詔に豈障事|波不在止《ハアラジト》、四十二詔に豈敢云々事|波無止《ハナシト》、仁コ紀大后の御歌に阿珥豫區望阿羅儒《アニヨクモアラズ》、萬葉四に豈不益歟など有。古言の豈は漢文のいひざまといさゝかかはれり。萬葉十六に豈藻不在《アニモアラズ》ともあるは何ノ論モアラズなりと師のいはれし其意也。さてこゝにかく詔給へる意は……ナデフコトカアラム、サハルコトアラジと也
といへり。本集卷三にアニマサメヤモ、アニシカメヤモ(四四三頁及四四四頁)といへるは今の世にいふと同じ。されば古言のアニは今のいひざまと異なるもありとこそいふべけれ。さて今の歌にアニマサラジカといへるは續紀第三十八詔に豈サハル事ハアラジトといへると似たり。今はそのアラジの下にカの加はれるのみ。さて諸例に試みるに右のアニはオソラクハと譯して通ずるに似たり。されば今も恐ラクハマサラジと譯すべし。アラジカはアラジといふに同じ。なほ卷五に至りて云ふべし○オキツシマモリと云へるは海邊の趣なれば島守のさし向ひてある體にて問ひかけたるなり
 
(706)597 (うつせみの)人目をしげみ(いはばしの)まぢかき君にこひわたるかも
宇都蝉之人目乎繁見石走間近君爾戀度可聞
 ウツセミノは枕辭なり。代匠記にウツセミノ人目とは世ノ人目なりといへるは非なり。何に對してか特にウツセミノと云はむ○マヂカキ君はマヂカク住ム君なり
 
598 戀にもぞ人はしにする(みなせ河)したゆわれやす月に日にけに
戀爾毛曾人者死爲水瀬河下從吾痩月日異
 戀ニモゾは戀ニモ亦といふにゾを添へたるのみ。雅澄がモゾの辭にカヘリテといふ意を含めたるなり云々といへるは非なり○シニスルのシニは名詞なり。今も犬ジニなどいふシニなり。古今集にシニハヤスクゾアルベカリケル、榮花物語に殿ノ御シニなどあり○ミナセ河は宣長の説に河の名にあらで水無き河なりといへり。水なし河のシがセにうつれるなり。やがてミナシ〔右△〕河とも云へり。其みなせ河は砂の下を水の流るゝものなればシタユの枕とせるなり○シタユは略解古義共に人知レズと釋けり。こはヤスとあるに合せたるなれどまことに痩せむには人に知られ(707)ざることあらむや。案ずるにシタユは心ヨリの意にて心ヨリオトロヘユクといへるなり○月ニ日ニケニは日ヲオヒ月ヲオヒテにて之ヲオモヘバ人ハ戀ニモ亦死ヌルモノナリと云へるなり
 
599 (朝霧の)おほにあひみし人ゆゑに命しぬべくこひわたるかも
朝霧之欝相見之人故爾命可死戀渡鴨
 人ユヱニは人ナルニなり○オホニは漠然トなり。目モトドメズなり。卷二にオホニ見シカバ今ゾクヤシキ(三一四頁)卷三にオホニゾミケルワヅカ杣山(五七四頁)などあり○アラタマノ年ノヘヌレバといふ歌よりは前の歌なるべし。抑此二十四首はもと一時におくりし歌にはあらで度々におくりし歌なるを順序には拘はらでしるし留めたるなり
 
600 伊勢の海の濱もとどろによする浪|恐《カシコク》人にこひわたるかも
伊勢海之礒毛動爾因流浪恐人爾戀渡鴨
 上三句は序なり○恐の宇舊訓にカシコキとよめるを代匠記拾遺に
(708) カシコキとよめば人の上、カシコクとよめばわが上也。人の物いひなどをさしてカシコシとは云へり
と云へり。宣長もカシコクとよむべしと云へり
 
601 こころゆも吾はもはざりき山河も隔莫國かくこひむとは
從情毛吾者不念寸山河毛隔莫國如是戀常羽
 ココロユモはココロニモにて(上【六二〇頁】なるココロユモオモヘヤ妹ガイメニシミユルの註を見合すべし)ココロユモワハモハザリキはオモヒカケザリキといふことなり○山河は山と河となり○隔莫國は從來へダタラナクニとよめれどヘダテナクニといふべき處なり。下にもウミ山モ隔莫國とあり。これも六言によむべきか。なほ考ふべし
 
602 ゆふさればものもひまさるみし人の言問爲形《コトドフスガタ》おもかげにして
暮去者物念益見之人乃言問爲形面影爲而
 第四句は契沖のコトドフスガタとよめるに從ふべし。コトドフは物イフなり。スガ(709)タの下にヲを省けるなり○オモカゲニシテのシは助辭なり。雅澄がシテは其事をうけばりて他事なく物する意の時いふ詞なりと云へるはこゝにはかなはず。こゝのニシテは月影ヲ色ニテサケル卯花ハなどのニテに同じ
 
603 おもふにししにするものにあらませば千たびぞ吾はしにかへらまし
念西死爲物爾有麻世波千遍曾吾者死變益
 シニカヘルのカヘルは反復なり。さればシニカヘルは幾度も死ぬる事なり○變は反の通用なり
 
604 つるぎだち身にとりそふといめにみつなにの怪《シルシ》ぞも君爾相爲〔左△〕《キミニアハムカモ》
劍太刀身爾取副常夢見津何如之怪曾毛君爾相爲
 怪の字を略解にサガとよめるを雅澄はサガは前表といふことにあらずと云ひてシルシと改めよめり。いにしへ婦人が劍を身に副ふと夢に見れば男に逢ふ前表、男子が鏡を身に副ふと夢に見れば女に逢ふ前表とせしなり。六帖にウチナビキ獨シヌレバマス鏡トルトユメミツ妹ニアハムカモといふ歌あり○結句は從來キミニ(710)アハムタメとよめれどすこし穩ならず。爲は鴨の誤にあらざるか
 
605 あめつちの神理《カミニコトワリ》なくばこそわがもふ君にあはずしにせめ
天地之神理無者社吾念君爾不相死爲目
 神理は從來カミシコトワリとよめれどカミニ〔右△〕コトワリとよむべきか。コトワリナクバコソは感應ガナイモノナラバとなり。畢竟神ニハ感應アレバ祈ル驗アリテ必逢フ事アラムと自慰めたるなり
 
606 吾もおもふ人もなわすれ多奈和丹うらふく風のやむ時|無有〔左△〕《ナシニ》
吾毛念人毛莫忘多奈和丹浦吹風之止時無有
 多奈和丹は誤字とおぼゆ。宣長は
  三の句アサニケニの誤ならむか。旦爾氣丹か
といひ雅澄は
  此歌六帖には君モオモヘ我モ忘レジアリソ海ノ浦フク風ノ止時モナク(後撰には吾モ思フ人モ忘ルナ有磯海ノ云々とあり)とあるを思へばもと有曾海乃など(711)ありしをよりよりに寫し誤れるにや
といへり○結句の無有は舊訓にナカレとよめるを宣長は『無爾《ナシニ》の誤ならむか』といへり。後撰にも六帖にもヤム時モナクとあればげに本集なるはナシニとぞありけむ。さてそのナシニは初句に還りかゝれるなり
 
607 皆人をねよとのかねはうつ△《ナ》れど君をしもへばいねがてぬかも
皆人乎宿與殿金者打禮杼君乎之念者寐不勝鴨
 ミナビトをいにしへヒトミナといへり。されば雅澄はこゝも人皆の顛倒なりといへり。されど卷二(一四三頁)にも皆人とあるを彼も此も顛倒なりとせむはいかが○ミナ人ヲのヲは今のヨなり。卷七なるワガセコヲコチコセ山ト人ハイヘドのヲに同じ。ネヨトノ鐘は今の午後十時なり。イネガテヌカモはイネアヘヌカナなり
 
608 あひおもはぬ人をおもふは大寺の餓鬼のしりへにぬかづく如《ゴトシ》
不相念人乎思者大寺之餓鬼之後爾額衝如
 かひなき事のたとへに云へるなり。契沖いはく
(712)  昔は伽藍とある所には慳貪の惡報を示さむ爲に餓鬼を作り置けるなるべし。……寺に詣でば佛菩薩等ををがまむこそ滅罪生善の益はあるべけれ由なく餓鬼の許に行て尚其しりへをさへをがまむは何の益かあらむ云々
といへり。卷十六にも寺々ノ女餓鬼マヲサク大ミワノ男餓鬼タバリテ其子ウマハムといふ歌あり。いにしへ寺々に餓鬼の像をおきたりし事これにて明なり○如の字舊訓にゴトとよめるを雅澄はゴトシに改めたり。ゴトはゴトクの略にてゴトクはこゝにかなはざればなり○いにしへは女もかゝることを云ひき。かくいふは今の女に學べとにはあらず。人情の變遷を見るべしとなり
 
609 こころゆも我はもはざりき又更にわがふるさとにかへりこむとは
從情毛我者不念寸又更吾故郷爾將還來者
 略解に『此歌と次の歌は左に相別後更來贈とあれば近く女の來り住るが又故有て遠く隔りて後よみておくれるなるべし』と云へる如し
 
610 近有者《チカカラバ》雖不見在乎《ミズトモアラムヲ》いやとほく君が伊座者有不勝自《イマセバアリガツマシジ》
(713)近有者雖不見在乎彌遠君之伊座者有不勝自
    右二首相別後更來贈
 略解古義共に舊訓に從ひてチカクアレバミネドモアルヲとよめれど故郷へ歸りし後の歌なればチカカラバミズトモアラムヲとよむべきなり○伊座者を略解古義にイマサバとよめるは誤れり(舊訓はイマシナバ)。イヤトホク君ガイマスは事實にして假設にあらねばイマセバとよむべし○結句はアリガツマシジとよむべし。有|敢《ア》フマジ即得アラジの意なり
 
   大伴宿禰家持和歌二首
611 今更に妹にあはめやとおもへかもここだわが胸おほほしからむ
今更妹爾將相八跡念可聞幾許吾胸欝悒將有
 ココダは澤山、オホホシはウットシにて胸のふさがれるをいふ
 
612 なかなかにもだもあらましを何すとかあひみそめけむ不遂等〔左△〕
中々者〔左△〕黙毛有益呼何爲跡香相見始兼不遂等
(714) モダモアラマシヲはタダニアラマシヲにてアヒソメザラマシヲといふ意なり。ナカナカニは第四句にかかれり。中々者の者は一本に爾となり○結句は從來トゲザラナクニとよめり(等は一本に爾とありといふ)。トゲザラナクニはトゲザラヌニなり。然るに今はトゲザルニとあるべくトゲザラヌニといひてはトゲザルを更に打消したる事となりて義理通ぜず。宣長は
  トゲザラナクニと云ひてトゲヌニと云意になる古言の一格也。此例多し。別に委く云り
といへれどこれのみにてはげにとはおぼえず。雅澄は
  ナクは輕く添へたる辭にて家待莫國《イヘマタナクニ》など云へる類なり
といへり。家待莫國は卷三なる草マクラタビノヤドリニタガツマカ國ワスレタルといふ歌の尾句にて莫は眞淵等の説の如く眞の字の誤にてイヘマタマクニとよむべきこと彼歌の處(三卷【五二二頁】)にいへる如し。されば今の歌の例には引くべからず。案ずるに不遂爾の上に一字(相の字など)ありしが落ちたるにはあらざるか
 
   山口女王贈2大件宿禰家持1歌五首
(715)613 物もふと人にみえじとなまじひに常におもへどありぞかねつる
物念跡人爾不見常奈麻強常念弊利在曾金津流
 略解にナマジヒニを初句の上におきかへて釋き古義には三四の句はおきかへて意得べしと云へり。まづナマジヒニといふ語の意を明にせむに雅澄はカリソメニと釋きたれどこれは當らず。用例を考ふるに黽勉シテといふ意ときこゆ。されば句をおきかふる要は無し。即ナマジヒニオモフと續けるなり○アリゾカネツルは人ニ見エズニハアリカヌルとなり
 
614 相おもはぬ人をやもとなしろたへの袖ひづまでにねのみし泣裳《ナカモ》
不相念人乎也本名白細之袖漬左右二哭耳四泣裳
 モトナはアヤニクニなり。心外ニなり○契沖いはく『泣裳はナカモとよむべし。モはムに通じてナカムなり。集中例多し』と(例は古義に擧げたり)。人ヲヤ……ナカモと照應せり。人ヲヤのヲはナルヲのヲなり
 
615 わがせこはあひもはずとも(しきたへの)君が枕はいめにみえこそ
(716)吾背子者不相念跡裳敷細乃君之枕者夢爾見乞
 ミエコソはミエヨカシなり○第四句心得がたし。試に云はばいにしへ、人が我をこふれば其人が我夢に見ゆといふ俗信ありしなり。そは下なる東人の妻の歌を見ても知るべし。今は君ハ我ヲコヒタマハネバ我夢ニ見ユタマハズ、ソレハ是非ナケレドセメテ君ノ枕ハ夢ニ見エヨカシ、ソレヲダニ慰ニセムといへるにや
 
616 (つるぎだち)名のをしけくも我はなし君にあはずて年のへぬれば
劍太刀名惜雲吾者無君爾不相而年之經去禮者
 ツルギダチは名の枕辭〇一首の意は雅澄の今ハタツ名ノ惜キコトナク人目憚ラシキコトモナシといへる如し
 
617 蘆べよりみちくるしほのいやましにおもへか君がわすれかねつる
從蘆邊滿來塩乃彌益荷念歟君之忘金鶴
 アシベヨリはアシベヲにて初二はイヤマシの序なり○君ガは君ノ事ガとなり。ここのワスレはワスラレの約なり。オモガタノ和須禮牟シダハなどワスラルをワス(717)ルといへる例多し。略解に『君ヲワスレカヌルといふを君が云々といふは例也』といひ古義に『君ヲといふこゝろを君|之《ガ》と云は古言の例なり』といへるは妄なり
 
   大神《オホミワ》(ノ)女郎贈2大件宿禰家持1歌一首
618 さよ中に友よぶ千鳥ものもふとわびをる時になきつつもとな
狹夜中爾友喚千鳥物念跡和備居時二鳴乍本名
 第二句の下にカナを附けて聞くべし○ワブルは當惑する事○ナキツツモトナは雅澄のモトナナキツツといふが如しと云へる、よろし
 
   大伴坂上郎女怨恨歌一首并短歌
619 (おしてる) 難波の菅の ねもころに 君がきこして 年ふかく ながくしいへば (まそ鏡) とぎしこころを ゆるしてし 其日のきはみ 浪のむた なびく玉藻の かにかくに こころはもたず (大船の) たのめる時に (ちはやぶる) 神やさけけむ (うつせみの) 人かさふらむ 通爲《カヨハシシ》 君もきまさず (たまづさの) 使もみえず なりぬ(718)れば いたもすべなみ (ぬばたまの) よるはすがらに (あからひく) 日もくるるまで なげけども しるしをなみ おもへども たづきをしらに たわやめと いはくもしるく たわらはの ねのみなきつつ たもとほり 君が使を まちやかねてむ
押照難波乃菅之根毛許呂爾君之聞四乎〔左△〕年深長四云老眞十鏡磨師情乎縦手師其日之極浪之共靡殊藻乃云云意者不持大船乃憑有時丹千磐破神哉將離空蝉乃人歟禁良武通爲君毛不來座玉梓之使母不所見成奴禮婆痛毛爲便無三夜干玉乃夜者須我良爾赤羅引日母至闇雖嘆知師乎無三雖念田付乎白二幼婦常言雲知久手小童之哭耳泣管徘徊君之使乎待八兼手六
 初二句は序なり○玉の小琴に
  キコスはノタマフと云意に用ひたる詞也。下に云者《イヘバ》とあるに重なるやうなれどもかく重て云が古語の常也。さてノタマフと云ことをキコスと云こと例多し
といひ記傳卷三十七ヨシトキコサバの註に
  ヨシトノタマハバなり。……ノタマフと云べきをキコスと云へる例云々
といひて書紀萬葉の中よりあまたの例を擧げたり。げに本集卷十一なるイヌカミノトコノ山ナルイサヤ河イサトヲキコセワガ名ノラスナなどノタマフをキコスといふことあるは疑なけれど今のキコシテをイヒテとすれば下なるイヘバと重なるなり。宣長は『かく重ねていふが古語の常なり』といひたれどかゝる例あるを知らず。元來こゝのキコシテを宣長が辭のまゝに解せざるはネモコロニと親しからざる故なるべし。案ずるにネモコロニはキコシテにかゝれるにあらず。ネモコロニ年フカクナガクシイヘバといふ間に君ガキコシテを挿めるなり。即我事ヲ君ガキキ給ヒテネモコロニ年深ク長クノタマヘバと云へるなり。さればキコシテ(キカシテともよむべし)は辭のまゝにキキタマヒテと解すべし○年フカクの例は古義に擧げたり。略解に
  こゝは末々長ク絶ジトイヘバと也
(720)といひ古義に
  こゝは今よりゆくさきの久しく長きをかねていふなり
といへるは非なり。年フカクは年久シクにて年フカクもナガクも共に既往の事を云へるなり。卷三にも昔ミシフルキツツミハ年フカミ池ノナギサニミクサオヒニケリとあり(四六三頁參照)○トギシココロは再男ニ逢ハジト思固メシ心といふことなり。漢籍に※[礪の旁]2志操1といへるに當れり。大伴宿奈麻呂に死別して寡居したりし程の事と思はる。下にもおなじ人のよめるマソ鏡トギシ心ヲユルシテバノチニイフトモシルシアラメヤモといふ歌あり○ソノ日ノキハミを宣長は
  こは其日ノ盡ルマデと云意にて其日ノ毎日毎日過行テ極マリ盡ルマデにてイツ迄モと云意になる也。十七卷に來シ日ノキハミとも又其日ノキハミともあり。其日ヨリシテ今日迄と云ことに用ひたり
といひ略解古義共に之に從ひたれどソノ日カギリの意とすべし。卷十七述2戀緒1歌なる別來シソノ日ノキハミアラタマノ年ユキカヘリ春花ノウツロフマデニアヒミネバイタモスベナミ云々も其日カギリと釋きて滞る所なし○浪ノムタナビク(721)玉藻ノはカニカクニの序なり。ムタはトモニなり。藻は浪のまゝに、とゆきかくゆき處を定めねばカニカクニの序とせるなり。カニカクニ心ハモタズは迷ふ所なきをいふ○タノメル時ニはタノメル間〔月が日〕ニなり。サクルは離すこと、サフルは邪魔する事なり○通爲を略解にカヨハセルとよめるはわろし。宣長のカヨハシシとよめるに從ふべし○君モのモは使に對していひ使モのモは君に對していへり○スガラは始より終までの間をいふ。さればヨルハスガラニはヨルハ夜ドホシといふことなり○日モクルルマデの日モは夜ハスガラニの夜ハに對せるなり○タヅキは手段○タワヤメはタワヤキ女といふことにてそのタワヤシはタワムなどと同じくタワといふ語のはたらきたるにて剛毅ならざる事なり。タワヤメトイハクモシルクはタワヤメトイフ由モシルクといふ意なり○タワラハは卷二(一七八頁)にも戀ニシヅマムタワラハノゴトとあり。略解に『掌にのする許のわらはと云也』といへるは非なり。手に抱くばかりのわらはといふことなり(卷三【五三〇頁】なる手兒の語釋と合せ見べし)○タモトホリのタは添辭なり。タワスル(卷三【四八七頁】)のタに同じ○マチヤカネテムはマチカネテアラムカの意なり。カネタラムをカネテムといふはカラムをケ(722)ムといふと同例なり
 
   反歌
620 はじめより長くいひつつたのめずばかかるおもひにあはましものか
從元長謂管不念〔左△〕恃者如是念二相益物歟
 初二は長歌にネモコロニ君ガキコシテ年フカクナガクシイヘバといへるに當れり。略解に『長クトイヒテタノマセズバといふ也』といへれど長クトイフといふ事をナガクシイヘバ又ナガクイヒツツとは云ふべからず。長クトといふべき處は本集にもナガクトといへり。たとへば下にコヒコヒテアヘル時ダニウルハシキ言ツクシテヨナガク常《ト》モハバといへる如し。案ずるにナガクイフは年月を經ていひわたるなり○タノムルはタノマシムルにて畢竟約束する事、カカルオモヒニアハマシモノカは夫の通はずなりしを恨みてカヤウナ嘆ニ逢ハウヤと云へるなり○不念恃の念は令の誤なり
 
   西海道節度使(ノ)判官佐伯(ノ)宿禰|東人《アヅマビト》(ノ)妻贈2夫君1歌一首
(723)621 あひだなくこふれにかあらむ(草枕)たびなる君がいめにしみゆる
無間戀爾可有牟草枕客有公之夢爾之所見
 略解には夫の戀ふる事とし古義には作者の戀ふる事とせり。略解の説可なり。そのかみ人が我を戀ふれば其人が夢に見ゆといふ俗信ありしなり。下にもワガセコガカクコフレコソヌバタマノイメニミエツツイネラエズケレといふ歌あり
 
   佐伯宿禰東人和歌一首
622 (草枕)たびに久しくなりぬれば汝をこそおもへなこひそわぎも
草枕客爾久成宿者汝乎社念莫戀吾妹
 古義に
  旅にありて久しく相見ずあれば吾こそ汝を思ふ事の甚しけれ、されば吾思ふほど汝は吾を思ふまじければ汝のみ吾を戀しく思ふとはいふことなかれ吾妹よ
となり
と云へるサレバ以下はひが言なり
 
(724)   池邊王宴(ニテ)誦《トナヘシ》歌一首
623 松の葉に月はゆつりぬ(もみぢばの)過哉《スギヌヤ》君があはぬ夜|多鳥〔左△〕《オホク》
松之葉爾月者由移去黄葉乃過哉君之不相夜多鳥
 作者は不詳なるなり○多鳥は舊訓にオホクとよめるを宣長は
  結句はアハヌヨオホミと訓べし。鳥は身の誤か又焉の字にてもよし
といへり。鳥は烏の誤なり。さて烏が焉の俗體なる事は訓義辨證に見えて上に引ける如し○ユツルは古義に依移るといふ事なりといへり。案ずるにコノクレノ時ユツリナバアハズカモアラム(卷十四)など時にもいへるを見ればただウツルといふに齊しくて(イウツルをつづめてユツルといふか)月にいへるは傾く事なり。初二は女の來ぬ人を徒に待明しつるさまなり。初にコヨヒモマタといふことを加へて聞くべし。古義の説非なり○過哉は舊訓にスギヌヤとよめるを古義にスギシヤに改めたり。されどスギシヤにては語格とゝのはず。なほスギヌヤとよむべく釋は略解に『君ニアハヌ夜ノアマタ過ギヌルヨト也』といへるに從ふべし(古義にヤを疑辭としたるはわろし)。君ガアハヌは君ガ逢ウテクレヌとなり。君を主格とせるによりて(725)さる意とは聞ゆるなり○略解古義ともに多烏を宣長の説に從ひてオホミとよめれどスギヌヤと(古義の説の如くヤを疑辭としても)相かなはず。なほもとのまゝにオホクとよむべし。焉には意なし(例は訓義辨證上卷七九頁以下に擧げたり)○略解に『松を待にいひなして云々』といへるは鑿説なり
 
   天皇思2酒人女王1御製歌一首
624 道にあひてゑまししからに(ふる雪の)けなばけぬがに戀云〔左△〕《コヒモフ》わぎも
道相而咲之柄爾零雪乃消者消香二戀云吾妹
 天皇は聖武天皇なり○カラニは今いふカラなり。道ニユキアヒテ君ノウチヱミシヲ見シカラニとのたまへるなり○ケナバケヌガニは消エムバカリとなり○戀云は宣長の説に戀念の誤にてコヒモフなりといへり。之に從ふべし○ワギモの下にヨを添へて聞くべし
 
   高安王裹(メル)鮒(ヲ)贈2子1歌一首
625 おきべゆき邊去《ヘヲユキ》伊麻夜妹がためわがすなどれる藻ふしつか鮒
(726)奥幣徃邊去伊麻夜爲妹吾漁有藻臥束鮒
 オキベユキのヘは助辭にあらず。沖べヲユキのヲを省けるなり。河池などにもいにしへは沖といひき○邊去は從來ヘニユキとよめれどヘヲユキと改むべし○伊麻夜は誤字にあらざるか。もし誤字ならずばヤは助辭とすべし○藻臥束鮒は『藻に臥て一束許ある小鮒なり』と契沖云へり。なほ考ふべし。記傳卷三十四(六三丁)惠賀《ヱガ》之|裳伏《モフシ》(ノ)岡の註に
  田仲道麻呂云。萬葉四の歌に吾漁有藻臥束鮒とあるは誰もただ藻にかくれたる鮒と心得たるめれども若は此裳伏の地よりいづるよしにはあらじか
といへり
 
   八代女王獻2 天皇1歌一首
626 君により言のしげきをふるさとの明日香の河にみそぎしにゆく
君爾因言之繁乎古郷之明日香乃河爾潔身爲爾去
    一尾云龍田こえ三津の濱邊にみそぎしにゆく
(727)    一尾云龍田超三津之濱邊爾潔身四二由久
 言は人言なり。シゲキヲのヲは後のニなり。當時の都は奈良なれば明日香をフルサトといへるなり
 
   娘子報2贈佐伯宿禰赤麻呂1歌一首
627 わがたもとまかむともはむますらをは戀水《ナミダ》にしづみしらが生二有
吾手本將卷跡念牟大夫者戀永定白髪生二有
 題辭に報贈とありて初に赤麻呂の歌なければ略解には『報は衍字か又別に贈歌有しが落たるか』と云へり。古義には二首次なる赤麻呂のハツ花ノといふ歌を此歌の上におきかへ此歌を以てそれにこたへたる歌とせり○マカムは枕ニセムなり。生二有を舊訓にオヒニタリとよめるを雅澄はオヒニケリに改めたり○此歌解しがたし。宣長は三一二四五と句をついでて見べくさて四句の頭へ我ハといふことを添へて心得べきなりといひ(契沖同説)古義もその説に從へり。第二句と尾句とに誤字あるべし(第二句はマカムトカオモフ、尾句はシラガオヒニタルヲなどあらでは(728)通ぜず)
 
   佐伯宿禰赤麻呂和歌一首
628 しらがおふることは不念《オモハズ》なみだをばかにもかくにも求めてゆかむ
白髪生流事者不念戀水者鹿煮藻闕二毛求而將行
 不念を舊訓にオモハズとよめるを雅澄はオモハジとよめれどなほオモハズとよむべし。但辭はこゝにて切れたり。オモハズニといふ意と見て下へ續けては心得べからず○カニモカクニモはトニカクニなり。モトメテはソノ戀水ヲ目アテトシテとなり
 
   大伴四綱宴席歌一首
629 なにすとか使の來流《キツル》君をこそかにもかくにもまちがてにすれ
奈何鹿使之來流君乎社左右裳待難爲禮
 略解に
  此宴に來らぬ人におくれる也。障ありて來ぬよしの使を何にかせむ、君をこそ待(729)てと也
といへる如し。來流は略解古義にキタルとよめれどなほ舊訓の如くキツルとよむべし○マチガテニスレは待チカネタレとなり
 
   佐伯宿禰赤麻呂歌一首
630 初花のちるべきものを人ごとのしげきによりてよどむころかも
初花之可散物乎人事乃繁爾因而止息比者鴨
 花とのみいひて可なるを初花といへるは賞美の言なり○ヨドムは躊躇にてこゝにては行キテ得メデヌと云へるなり○古義に此歌をワガタモトといふ歌の前におきて其歌を此歌の和とせるはいかが
 
   湯原王贈2娘子1歌二首
631 うはへなきものかも人はしかばかりとほき家路を令還念者《カヘスオモヘバ》
宇波弊無物可聞人者然許遠家路乎令還念者
 ウハヘナシはツレナシといふこととおぼゆ。結句は略解にカヘスオモヘバとよめ(730)り。下なるウハヘナキ妹ニモアルカモカクバカリ人ノ心ヲツクスオモヘバとあると參照するにげにカヘスオモヘバとよむべし。イヘヂヲのヲはヨリのヲなり
 
632 目には見て手には不所取月内《トラレヌツキノウチ》のかつらのごとき妹をいかにせむ
目二破見而手二破不所取月内之楓如妹乎奈何責
 雅澄は不所取を古風にトラエヌとよみ月内をツキヌチとよめり。人の口に熟したる歌なる上舊訓もあながちに後世風といふにあらねばなほ常の如くよみて可なり。さて手ニハトラレヌは我物とせられぬ譬なり
 
   娘子報贈歌二首
633幾許《ココダクニ》おもひけめかも(しきたへの)枕|片去《カタサリ》いめにみえこし
幾許思異目鴨敷細之枕片去夢所見來之
 略解にいへる如く前の二首は未うけひかざりしほどの歌にて此歌は既に逢ひての後のなり。オモヒケメカモは君ガ思ヒケメバカとなり。古義に作者の思ふ事とせるは非なり。片去は契沖以下皆カタサルとよめり。さて契沖は
(731)  枕の片つ方をば君が爲に分ちおける夜の夢に見ゆると意得べきか
といひ宣長も
  夫の他處にあるほどは夜床を片避りて寢るなり。……さて片去りてぬる夜の夢にと云ふことなる故にカタサルイメとよむべきなりと云へれどさる意を枕カタサル夢といひては(枕カタサリヌル夜ノ夢などいはでは)辭足らず。案ずるに片去は舊訓の如くカタサリとよむべく枕カタサリは床の中央より一側に枕のずる事なり。枕が一側にずれ且夢に男が見えしなり○幾許を從來イカバカリとよめり。ココダクニ、ココダクモなどよむべからむ
 
634 家にしてみれどあかぬを(草まくら)たびにも妻與《ツマト》あるがともしさ
家二四手雖見不飽乎草枕客毛妻與有之乏左
 宣長雅澄は妻を夫《ツマ》の借字とし與を乃又は之の誤としたれど、もとのまゝにて舊訓の如くツマトとよむべし。次の歌と照らし見るに此時湯原王別の妻を伴ひて旅にありしなり。トモシは飽かざる事なり(六一九頁參照)。家ニテ見ルダニナホ飽カヌ所アルヲアダシ妻ヲ伴ヒテ旅ニアレバ愈不足ニ思フと云へるなり
 
(732)   湯原王亦贈歌二首
635 (草枕)たびにはつまは雖率有《ヰタレドモ》くしげのうちの珠とこそおもへ
草枕客者嬬者雖率有匣内之珠社所念
 第三句は舊訓にヰタレドモとよめるを宣長は大平の説によりてヰタラメドと改めたり。案ずるにゲニ旅ニアダシ妻ヲ伴ヒタレドソハ櫛笥ノウチナル玉ト同樣ニ用フル事モナシ、マコトニ妻トシテ戀シク思フハ御身ナリといふ意とおぼゆれば第三句はなほヰタレドモとよむべし。文選なる石崇の王明君(ノ)辭に昔爲2匣中(ノ)玉1、今爲2糞上(ノ)英《ハナ》1とあり。匣中玉は進御を得ざる譬なり
 
636 わがころもかたみに奉《マツル》(しきたへの)枕不離《マクラヲサケズ》まきてさねませ
余衣形見爾奉布細之枕不離卷而左宿座
 奉を舊訓にマタスとよめるを古義にはマツルとよみて
  マツルは即後世のタテマツルなり。十八卷に麻都流と假字書にせり。マタスとよむは非なり。物を獻ずるをマタスといふことなし(733)といへり(一卷下三四丁、及九卷二一丁)○枕不離は舊訓にマクラカラサズとよめるを契沖はマクラヲサケズとよめり。次の歌にワガ身ハサケジとあるに合せて契沖のよめる如くよむべし。マクラヲサケズは枕カラハナサズなり。サネマセのサは添辭なり
 
   娘子復報贈歌一首
637 わがせこがかたみのころも嬬問爾わが身はさけじことどはずとも
吾背子之形見之衣嬬問爾余身者不離事不問友
 第四句は我身ヲバハナサジとなり。コトドフはものいふ事なり。第三句は從來ツマドヒニとよめれど(ツマドヒの語義は五二七頁以下にいへり)意通ぜず。三四を顛倒して心得べきか
 
   湯原王亦贈歌一首
638 ただ一夜へだてしからに(あらたまの)月かへぬると心遮〔左△〕《ココロマドヒヌ》
直一夜隔之可良爾荒玉乃月歟經去跡心遮
(734) 心遮は舊訓にオモホユルカモとよめり。略解に
  道別云。所思※[毛三つ]など有しがかく心遮二字に誤たるならんといへり
と云へり。遮を迷の誤としてココロマドヒヌとよむべし
 
   娘子復報贈歌一首
639 わがせこがかくこふれこそ(ぬばたまの)いめに見えつついねらえずけれ
吾背子我如是戀禮許曾夜干玉能夢所見管寐不所宿家禮
 古義に
  カクコフレコソは夫(ノ)君がかく〔二字傍点〕戀とのたまふ如くしか〔二字傍点〕戀ればこその心なり
といへるはカクとシカとの後世の区別に泥めり。本集にはカクとシカとを通用せり。たとへば卷二高市皇子殯宮之時の長歌(二七六頁)にシカシモアラムトとあるを一本にカクモアラムトとせり。又今の歌また下なる
  朝髪のおもひみだれてかくばかり〔五字傍点〕なねがこふれぞいめにみえける
(735)  かむさぶといなにはあらずはたやはたかくして〔四字傍点〕のちにさぶしけむかも
はシカをカクといへるにて卷一なる
  三輪山をしかも〔三字傍点〕かくすか雲だにもこころあらなむかくさふべしや
 又上(七二九頁)なるシカバカリトホキ家路ヲカヘスオモヘバなどはカクをシカといへるなり。はやく記傳卷六(全集第一の三二一頁)にも
  凡てカクとシカとはくはしく云へば差あり。カクは我につきたる事又さし當りたる事を指て云、シカは向ふ人又向ふ物につきたる事又そのいふ事などを指て云。コレとソレとの差の如し。されど又カクとシカとを通はして云ることも記中にもあり。萬葉四にワガセコガカクコフレコソ云々などのたぐひはシカと云べきをカクと云り
といへり○イネラエズケレはイネラレザリケレの古格なり
 
   湯原王亦贈歌一首
640 はしけやしまぢかき里を雲居にやこひつつをらむ月もへなくに
波之家也思不遠里乎雲居爾也戀管將居月毛不經國
(736) 古義にハシケヤシはこゝは里と云ふに係りて妹が住里なればめで思ふよしなり
といひ又マヂカキサトヲは間近き里なるものをといふなりといへる如し。クモヰニは天外ノ如クニといふ意とおぼゆ
 
   娘子復報贈和歌一首
641 たゆといはばわびしみせむと(やきだちの)へつかふことは幸也吾君《ヨケクヤワガキミ》
絶常云者和備染責跡燒太刀乃隔付經事者幸也吾君
 ワビシミセムトはワビシガラウトとなり。ヘツカフを宣長は『絶もせず逢もせぬをいふ』といひ雅澄は
  ヘツラフといふと同言にてうはべには親しく依りたるごとくに見えて信實に依れるにあらぬを云ふ言なり
と云へり。へだたる事にはあらざるか。幸也は宣長は辛也の誤字としてカラシヤとよみ千蔭はもとのまゝにてヨケクヤとよめり。略解の訓に從ふべし。吾者はワガキミとよむべし(三卷【四六二頁】參照)
 
(737)   湯原王歌一首
642 わぎもこにこひてみだればくるべきにかけてよせむとわがこひそめし
吾妹兒爾戀而亂在〔左△〕久流部寸二懸而縁與戀始
 ミダレバはミダレナバにてヨセムと照應せり。クルベキは糸を繰る器具なり。ワギモコニ戀ヒテ我心モシ絲ノ如ク亂レナバクルベキ〔四字傍点〕ニカケテ繰リ集メムト覺悟シテワガコヒソメシナリといへるなり。略解にヨセムトを妹ガ方ヘヨセムトコソ(古義には妹ガ方ヘクリヨセムトテ)と譯せるは非なり○在は者の誤ならむ
 
   紀女郎怨恨歌三首
643 世のなかの女《ヲミナ》にしあらば吾渡《ワガワタル》痛背《アナセ》の河をわたりかねめや
世間之女爾思有者吾渡痛背乃河乎渡金目八
 契沖の説の如く離別を恨みたる歌なり。女は略解のヲミナとよめにる從ふべし(古義にはメとよめり)○吾渡を宣長は君波の誤として君ガワタルとよみ雅澄は直渡(738)の誤としてタダワタリとよめり。此事は後にいふべし。痛背は略解に痛足の誤としてアナシとよみ古義も之に從へり。集中にミナシ河をミナセ河ともいへればアナシ河をアナセ河とも云ひつべし。されば誤字と見るに及ばず。さて宣長雅澄が吾渡の吾を誤字としたるはワガワタルにては結句と打合はぬ如く見ゆるによりてなり。即『世ノ中ノ女ニシアラバ渡リカネメヤとあるを見れば紀女郎は渡りかねしなり。さらばワガワタルとはいふべからず』と思へるなり。案ずるに紀女郎は實に夫(古寫本に安貴王之妻也とあり)の跡を慕ひてあなせ河を渡りしなり。されどいたく渡りなやみしよりおのれのかよわきを嘲りて世間一般ノ婦人ナラバ今ワガ渡ル此アナセ川ヲ我如ク渡リカネムヤ、我如クハ渡リナヤマジといへるにて一首の意よく聞えたり。されば字のまゝにワガワタルとよみて不可なる所なし。アナセ川は卷向山より出でて初瀬川に入る小流なり
 
644 今はわはわびぞしにけるいきのをにおもひし君をゆるさ△《ク》思へば
今者吾羽和備曾四二結類氣乃緒爾念師君乎縦左思者
 夫の跡を慕ひてたわやめの身にしてあなせ川さへ渡り行きしかど終に別れざる(739)を得ざるに至りて此歌はよみしなり。イマハとあるにてさる事と知らる。ワビゾシニケルはアキラメタといふ意ならむ。くはしくは下なるオモヒタエワビニシモノヲの處にいふべし。イキノヲは命なり。イキノヲニオモフは命ヲカケテ思フなり。ユルスはゆるしはなちて別れいなしむるなり。卷十二にもシロタヘノソデノワカレハヲシケドモオモヒミダレテユルシツルカモとあり
 
645 しろたへの袖|可別《ワカルベキ》日をちかみ心にむせびねのみしなかゆ
白妙乃袖可別日乎近見心爾咽飲哭耳四所流〔左△〕
 二句はソデワカツベキとよむべき如くなれど卷十二に白妙ノ袖ノ別ハヲシケドモまた白妙ノ袖ノ別ヲカタミシテとあればなほソデワカルベキとよむべきなり。袖ガ分ルベキといふ意なり○此歌は前二首よりはさきの歌なるべし。流は泣の誤ならむ
 
   大伴宿禰駿河麻呂歌一首
646 ますらをのおもひわびつつたびまねくなげく嘆をおはぬものかも
(740)丈夫之思和備乍遍多嘆久嘆乎不負物可聞
 タビマネクは度々なり。結句は妹ガオハヌモノカハ、妹ガ負フベキモノゾとなり。カモはカハなり。古義にカモをカナとうつせるは非なり
 
   大伴坂上郎女歌一首
647 こころには忘るる日なくおもへども人のことこそしげき君にあれ
心者忘日無久雖念人之事社繁君爾阿禮
 古義に
  人言の繁きによりて思ふ如く得あはぬ君にこそあれ
と譯したれどさらば人之事繁君爾社阿禮とあるべし(事は言の借字)。されど卷十二にも
  極而、吾もあはむとおもへども人の言こそしげき君なれ
とあれば誤寫にはあらじ。かくコソの置處のたがへるに似たる例は卷十六にもハチス葉ハカクコソアル物とあり。これも常識によらばカクアルモノニコソといふ(741)べきなり
 
   大伴宿禰駿河麻呂歌一首
648 あひみずてけながくなりぬこのごろはいかに好去哉《サキクヤ》いぶかし吾妹
不相見而氣長久成奴此日者奈何好去哉言借吾妹
 ケナガクは久シクなり。好去哉を略解にヨケクヤとよめるを古義にサキクヤに改めたり。平安ナリヤイカニと云へるなり。イブカシはオボツカナシといはむが如し
と古義にいへり
 
   大伴(ノ)坂上(ノ)郎女歌一首
649 (夏〔左△〕葛《ハフクズ》)のたえぬ使のよどめればことしもあるごとおもひつるかも
夏葛之不絶使乃不通有者言下有如念鶴鴨
    右坂上(ノ)邸女者佐保(ノ)大納言卿(ノ)女也。駿河麻呂此〔左△〕高市(ノ)大卿之孫也。兩卿兄弟之家、女孫姑姪之族。是以題v歌送答相2問起居1
 古義に
(742)  佐保大納言は安麻呂卿なり。駿河麻呂の下の此は者の誤なるべし。高市大卿は安麻呂卿の兄御行卿なり。女孫姑姪とは坂上郎女は安麻呂卿の女、駿河麻呂は御行卿の孫なれば女孫といひ、さて坂上郎女は父のいとこなれば駿河麻呂より姑《ヲバ》といひ駿河麻呂はいとこの子なれば坂上郎女より姪と云るが故に姑姪とあるならむ
といへり○宣長の説に夏葛は蔓葛の誤にてハフクズとよむべしといへり。卷二十に波布久受ノタエズシヌバム、卷十に蔓葛《ハフクズ》とあれば之に從ふべし。ヨドメルは滞レルにて來らざるなり。タエヌはタエザリシの意と見べし。コトシモアルゴトは上(六六五頁)なる心アルゴトナオモヒワガセ、卷七なる故シモアルゴト人ノ見マクニの心アルゴト、故シモアルゴトと同義なり
 
   大伴宿禰三依|離《ワカレテ》復|相《アヘルヲ》歡(ブ)歌一首
650 わぎもこは常世の國にすみけらし昔みしより變若《ヲチ》ましにけり
吾妹兒者常世國爾住家良思昔見從變若益爾家利
 坂上郎女に贈れるなり。太宰府より歸り上りし時によめるか。常世國はこゝにては(743)仙郷なり。變若は舊訓にワカエとよめるを古義にヲチに改めたり。之に從ふべし。ヲツは若がへる事なり(卷三【四三六頁】參照)。マシは敬語のマシなり。益《マシ》とかけるは借字のみ
 
   大伴坂上郎女歌二首
651 (ひさかたの)あめの露じもおきにけりいへなる人もまちこひぬらむ
久堅乃天露霜置二家里宅有人毛待戀奴濫
 略解に太宰府にありし程の歌なるべしと云へり。さもあるべし。露ジモは露なり(卷二【一八三頁】參照)。アメノと云へるは古義に『天より降ものなればいふ。天ノシグレなど云が如し』といへり。家ナル人は都に殘せる娘たちなり。略解に『家ナル人は駿河麻呂の妻をいふなるべし』といひ古義にも之を學びて『宅有人毛は京ノ家ニアル人モといふにて駿河麻呂の妻をいふなるべし』といへれど郎女の娘は二人ありて郎女の太宰府にありし頃(天平二年)は二人共になほ幼かりき。長女の家持に、次女の駿河麻呂に嫁せしは遙に後の事なり。人モといへるは己に對していへるなり(古義)○白露のふれるを見て他郷にある事の久しきに驚き且故郷こひしく思へる趣なり。卷六に(744)天平二年庚午冬十一月大伴坂上郎女發2帥家1上v道とあれば此歌を作りし後間もなく還り上りしなり
 
652 玉主《タマモリ》に珠はさづけてかつがつも枕と吾はいざふたりねむ
玉主爾珠者授而勝且毛枕與吾者率二將宿
 玉主を略解にはタマヌシとよみ宣長雅澄は舊訓の如くタマモリとよめり。マタ雅澄は神名帳に玉主天神社と書きてタマモリとよめる例を擧げたり。宣長は
  カツガツは事の未慥ならずはつはつなるをいふ辭なり。……未うけばりて授け畢りぬるにはあらざれども先はつはつに授けそめたる意なり
といひ又
  玉主ニの上へ移して見べし
といへり。此説に從ふべし。カツガツモは俗語のソロソロなり。もし珠を授け畢りし後の作ならばカツガツモとはいふまじく又第二句はサヅケツとこそ云ふべけれ○玉は娘、玉主は婿なる事契沖のいへる如し。但契沖は家持駿河麻呂の二人としたれど略解古義にいへる如く駿河麻呂のみならむ。右の二首はもとより同時の作に(745)あらず。本集の編者の人よりきゝしが同時なれば並べ擧げたるにこそ
 
   大伴宿禰駿河麻呂歌三首
653 こころには忘れぬものをたまたまも不見日數多《ミヌヒサマネク》月ぞへにける
情者不忘物乎儻不見日數多月曾經去來
 第四句は略解にミザル日マネクとよめるを古義には卷十八に美奴日佐末禰美と假字書にせるに據りてミヌヒサマネクとよめり。之に從ふべし。卷十七にも見奴日佐麻禰美とあり。タマタマモは略解に『思ヒカケズ不意ニなり』といひ古義にはタマサカの意としてタマタマニサヘと譯したり。按ずるにタマタマモはタマタマニモにてそのモはダニに通ずれば雅澄の説に從ふべし
 
654 あひみては月もへなくにこふといはばをそろと吾をおもほさむかも
相見者月毛不經爾戀云者乎曾呂登吾乎於毛保寒※[毛三つ]
 アヒミテハのハは助辭,ヲソロのロは添辭なり○ヲソは今いふウソなりと契沖も宣長(玉勝間十一卷三五丁)もいへり
 
(746)655 念はぬを思ふといはばあめつちの神もしらさむ邑靈左變
不念乎思常云者天地之神祇毛知寒邑禮左變
 前なると二首一聯の歌なり。オモハヌヲオモフトイハバ何ガシノ神シラサムといふ事當時戀する人のいひなれたる誓言と見ゆ。上にも
  おもはぬをおもふといはば大野なる三笠のもりの神ししらさむ
とあり卷十二にも
  おもはぬをおもふといはば眞鳥すむうなでの杜の神ししらさむ
とあり○結句は考に
  歌飼名齋かくありしを草の手より見誤しか
といひ(此説或は宇萬伎のとし或は魚彦のとし或は眞淵のとせり)古義には
  言借名齋などありしを寫誤れるにてイブカルナユメならむか
といへり。邑禮は悒憤の誤か。卷九なる見2莵原處女墓1歌にイブセムを悒憤と書けり。イブセムはヤキモキスルといふ事なり
 
   大伴坂上郎女歌六首
(747)656 われのみぞ君にはこふるわがせこがこふとふ事は言のなぐさぞ
吾耳曾君爾者戀流吾背子之戀云事波言乃名具左曾
 三四の間にワレニといふことを補ひて聞くべし。コトノナグサは今いふ氣ヤスメなるべし。卷七にも例あり。雅澄は卷七の歌の註に事ノナグサメニと譯したれど今の歌に言〔右△〕とあるが正しくて卷七に事〔右△〕ノナグサニと書けるは借字なるべし
 
657 おもはじといひてしものを(はねず色の)うつろひやすきわがこころかも
不念常曰手師物乎翼酢色之變安寸吾意可聞
 ウツロヒヤスキはカハリヤスキなり。ハネズは卷八に
  夏まけてさきたるはねず久方の雨うちふらばうつろひなむか
 又卷十一に
  はねずいろのあか裳のすがた
とあり又日本紀卷二十九に朱花|此《ココニ》云2波泥須1とあれば暮春にさく赤き花にて變色(748)しやすきものと見ゆ。仙覺抄に或云庭櫻或云李花或云木蓮花といへりとあり。案ずるにニハザクラの花は特色あるものにあらず又うつろひやすきものにあらず。之に反して木蓮の花は青を帶びたる一種固有の赤色にて又風雨に逢ひて黒色にかはりやすきものなればニハザクラよりは當れり。件信友の動植名彙(全集第五)にも『木蓮花なるべし。詳説別にあり』といへり。其詳説は未見ず(略解には庭梅とし古義には庭櫻とせり)
 
658 おもへどもしるしもなしとしるものを奈何幾許《ナニカココバク》わがこひわたる
雖念知僧裳無跡知物乎奈何幾許吾戀渡
 初二はオモフトモシルシモナカラムトと釋くべし。第四句を契沖はナニカココバク、千蔭はナゾココバクモ、雅澄はイカデココダクとよめり。集中にナニカとナゾとは假字書にせる例あれどイカデは例なし(卷二【一五六頁】參照)。契沖に從ひてナニカココバクとよみてむ
 
659 あらかじめ人ごとしげし如是有者《かくしあれば》しゑや吾背子おくもいかにあらめ
(749)豫人事繁如是有者四惠也吾背子奥裳何如荒海藻
 弟三句は舊訓にカクシアラバとよめるを(略解古義共に之に從へり)契沖は
  有者は今按アレバともよむべし。シヱヤはヨシヤなり。奥は……後の心にいへり
といひ宣長は
  シヱヤはヨシヤと見ては此歌きこえず。歎息の聲也
といへり。案ずるにもしユク末ハイカナラムといふ意ならばオクハとこそいふべけれ、オクモとは云ふべからず。オクモはサシオクモにてヤマムモといふ事にあらざるか(置クに奥の字を借りたるは異樣なれど)○第二句はカクシアレ〔右△〕バとよむべく又四五をおきかへ、シヱヤはヨシヤの意としシヱヤワガセコの下にアヒソメテムといふことを加へて心得べし。一首の意はアヒソメヌ先ニハヤ人言ゾウルサキ、カカレバ止マムモイカナラム、タトヒコノママニ止ムトモナホ人言ハウルサカルベシ、ヨシヤ我背子アヒソメテムといへるなるべし。アラムといふべきをアラメといへるは一の格なり(卷二【一五一頁】參照)
660 汝《ナレ》乎〔□で圍む〕與《ト》吾乎《ワレヲ》人ぞさくなるいで吾君《ワガキミ》人のなか言ききこすなゆめ
(750)汝乎與吾乎人曾離奈流乞吾君人之中言聞起〔左△〕名湯目
 初句は舊訓にナヲトワヲとよめり。契沖は上のヲは助語なりといひ雅澄も汝乎の乎は助辭なりといへれどかゝる處にヲを挿める例を知らず。おそらくは上の乎は衍字なるべし。然らばナレトワレヲとよむべし。ナレトワレト〔右△〕ヲといふべき下のトを略せる例は集中にも玉ハハキカリコ鎌麻呂ムロノキトナツメノモトヲカキハカムタメ(卷十六)大伴|等《ト》佐伯(ノ)氏者(卷十八賀陸奥國出金詔書歌)君|與《ト》吾へダテテコフル(卷十九、四月三日云々の歌)などあり。サクハ離間〔日が月〕する事、ナカゴトハ即離間〔日が月〕の言辭なり。吾君は舊訓にワギミとよめるを代匠記に
  吾君はアガキミと讀べきか。ワギミは和殿原《ワトノハラ》、和御前《ワゴゼ》などいふ類の新語か。集中に例見えず
といへり。なほ卷三(四六二頁)を見るべし。キキコスナは古義に
  コスはアリコソ、ユキコソなどいふ乞望辭のコソと同じきを莫《ナ》と云に續くに引れてコソを轉じてコスといへるなり
といへり。キキコスナはキイテクレルナと譯すべし○起は越の誤なり
 
(751)661 こひこひてあへる時だにうるはしきことつくしてよ長くともはば
戀戀而相有時谷愛寸事盡手四長常念者
 略解に『コトは言なり。末句は長ク逢ハントオモハバとなり』といへる如し。コトツクシテヨは言ヲ極メヨカシとなり
 
   市原王歌一首
662 あごの山五百重かくせる佐堤《サデ》の埼さではへし子がいめにしみゆる
網兒之山五百重隱有佐堤乃埼左手蠅師子之夢二四所見
 アゴノ山は略解に志摩|英虞《アゴ》郡の山なるべしといへり。佐堤ノサキの所在は不明なり。宣長は佐を信又は詩の誤字として伊勢朝明郡の地名とせり。案ずるに宣長の説の如くサデをシデの誤とすれば第三句以上は序とならず。雅澄は
  歌の意は佐堤ノ埼ニテ小網サシ延《ハヘ》テ漁業セシ女ノウルハシカリシガ忘ラレズシテ夢ニサヘサダカニ見ユルとなり。契沖が序歌とせるはあらず
とさへ云へり。もとより少女の小網はへていざりせしは佐堤の埼なれど今は其サ(752)デノ埼を序につかへるなり。もし雅澄の云へる如くならばサデノ埼の下に必ニの辭あらざるべからず。今ニの辭を添へざるは序なるが故なり。アゴノ山は一山の名にあらず。英虞郡の群山なり。さればこそイホヘカクセルといへるなれ。さて英虞郡は志摩國の南部なれば佐堤(ノ)埼は南志摩の海岸にありとせざるべからず。宣長のいへる志※[氏/一]埼は伊勢の北方にありて地理かなはず。サデハフは小網を廣ぐる事
 
   安都《アト》(ノ)宿禰年足歌一首
663 佐穗わたり吾家《ワギヘ》の上になく鳥のこゑなつかしきはしき妻の兒
佐穗度吾家之上二鳴鳥之音夏可思吉愛妻之兒
 サホワタリは佐保ノ里ヲ渡リテなり。古義に
  佐保河ヲ渡リテの意なり。河をいはねどワタリと云れば河なることしるし
といへるは非なり。又略解古義ともにナク鳥ノまでを序とせるは非なり。序はコヱまでなり。妻之兒は即妻なり。今ならばナツカシク〔右△〕ハシキ妻ノ兒といふべきをナツカシキといへるはいにしへの語法なり。たとへば續紀宣命に清(支)明《アカ》(支)正(支)直(支)心|以《モチテ》などあり
 
(753)   大伴宿禰|像見《カタミ》歌一首
664 (いそのかみ)ふるとも雨に將關哉《サハラメヤ》妹にあはむといひてしものを
石上零十方雨二將關哉妹似相武登言義之鬼尾
 第三句は舊訓にサハラメヤとよめるを雅澄はツツマメヤとよめり。アマザハリといはむとアマヅツミと云はむとはほぼ同意なれど今はなほサハラメヤとよむべし。なほ卷八なる雨|障《ザハリ》イデテユカネバ、卷十一|雨乍見《アマヅツミ》トマリシ君ガの處にもいひてむ
 
   安倍朝臣蟲麻呂歌一首
665 むかひゐてみれどもあかぬ吾妹子にたちわかれゆかむたづきしらずも
向座而雖見不飽吾妹子二立離往六田付不知毛
 次の歌の左註によれば大伴坂上郎女に贈れるにて戲にただならぬ中の如くに云へるなり○タヅキはスベなり。卷一(一三頁)にもオモヒヤルタヅキヲシラニとあり
 
(754)   大伴坂上郎女歌二首
666 不相見者《アヒミヌハ》いくばくひさもあらなくにここばくわれはこひつつもあるか
不相見者幾久毛不有國幾許吾者戀乍裳荒鹿
 初句は記傳(三十卷二十六丁)及略解に從ひてアヒミヌハとよむべし(古義に者を而の誤としてアヒミズテとよめるは非なり)。イクバクヒサモは久ニモとニを補ひてきくべし。ココバクはココダともココダクともいふ。澤山といふ義(卷二【三一六頁】參照)
 
667 こひこひてあひたるものを月しあれば夜はこもるらむしましはありまて
戀戀而相有物乎月四有者夜波隱良武須臾羽蟻待
    右大伴坂上郎女之母石川(ノ)内命婦《ナイミヤウブ》與2安倍朝臣|蟲滿《ムシマロ》之母|安曇《アヅミ》(ノ)外《ゲ》命婦1同居。姉妹同氣之親焉。縁v此郎女蟲滿相見不v疎、相談既密。聊(755)作2戲歌1以爲2問答1也
 右二首も戲に事ありげにいへるなり。但二首別時の作なり。三四は月ノアルヲ思ヘバ夜ハマダ深カラムとなり。卷三にもクラハシノ山ヲタカミカ夜ゴモリニ云々とよめり
 
   厚見王謌一首
668 朝爾日爾《アサニヒニ》いろづく山の白雲のおもひすぐべき君にあらなくに
朝爾日爾色付山乃白雲之可思過君爾不有國
 初句は略解にアサニケ〔右△〕ニとよみたれどなほ舊訓の如くアサニヒ〔右△〕ニとよむべし。『朝毎ニ日毎ニなり。アサニケニと云へる意に同じ』と契沖いへり。上三句はスグの序にてオモヒスグベキは一時思ヒテ止ムベキといはむに齊し(四三一頁及五一四頁參照)
 
   春日王歌一首
669 (足引の)山たちばなの色にいでて語言〔左△〕《カタラバ》つぎてあふこともあらむ
(756)足引之山橘乃色丹出而語言繼而相事毛將有
 初二は序。ヤマタチバナはヤブカウジなり。語言は宣長が語者の誤としてカタラバとよめるに從ふべし。色ニ顯ハシテ心ノ中ヲ語ラバ引續キテ逢フ事モアラム、イデヤ色ニ出デテ語ラムといへるなり○第三句をイロニ出与とせる本あれど取らず
 
   湯原王歌一首
670 月讀《ツクヨミ》の光にきませ(あしひきの)山をへだててとほからなくに
月讀之光二來益足疾乃山乎隔而不遠國
 ツクヨミは月なり。山ヲモ隔テズ遠クモアラヌ處ナレバ月ノ光ニ通ヒ來マセといへるなり。今ならば山モ隔テズ遠カラナクニといふべし
 
   和歌一首
671 つくよみの光は清《キヨク》てらせれど惑情不堪念《ココロゾマドフタヘヌオモヒニ》
月讀之光者清雖照有惑情不堪念
 清の字、略解にサヤニとよめれど舊訓に從ひてキヨクとよみて可なり。四五は略解(757)にマドヘルココロタヘジトゾオモフとよみたれどさては意通ぜず。宜しく惑情を情惑の顛倒として六帖の如くココロゾマドフタヘヌオモヒニとよむべし。月ノ光ノ清サニ身ハ惑ハネド堪ヘヌ思ニヨリテ心ゾ惑フといへるなり。贈歌にツクヨミノヒカリといふ辭あるを取りてよめるにて後世の答歌とは趣を異にせり○雅澄は前の歌を娘子の湯原王に贈れる歌とし此歌を湯原王の歌とせり。げに然るべし
 
   安倍朝臣蟲麻呂歌一首
672 (しづたまき)數にもあらぬ壽〔左△〕持《ミヲモチテ》奈何幾許《ナニカココバク》わがこひわたる
倭父〔左△〕手纏數二毛不有壽持奈何幾許吾戀渡
 略解に
  壽は身の草書より誤れるにてミヲモチテならん。又吾身二字の誤にてワガミモテにても有べし
といへり。しばらくミヲモチテとよむべし。第四句は契沖のナニカココバクとよめるに從ふべし
 
(758)   大伴坂上郎女歌二首
673 (まそ鏡)とぎし心をゆるしてばのちにいふともしるしあらめやも
眞十鏡磨師心乎縦者後爾雖云驗將在八方
 上に出でたる此人の怨恨歌にもマソカガミトギシココロヲユルシテシとあり。トギシ心は節ヲ守ラムト思固メシ心、ユルスは人に委するなり(七一七頁參照)○テバはタラバ、イフトモは悔ユトモなり
 
674 (眞玉つく)をちこちかねて言《コト》はいへどあひてのちこそくい二〔□で圍む〕はありといへ
眞玉付彼此兼手言齒五十戸常相而後社悔二破有跡五十戸
 ヲチコチは略解に『今と後とをいふ』といへる如し。言を舊訓にイヒとよめるを略解にコトに改めたり。二の字は略解に衍字かといへり。ノチコソはノチニコソにてそのノチは副詞なり。之を名詞とせばアヒテノ〔右△〕ノチといはざるべからず
 
   中臣(ノ)女郎贈2大件宿禰家持1歌五首
(759)675 (をみなべし)さき澤におふる花がつみかつても知らぬ戀もするかも
娘子部四咲澤二生流花勝見都毛不知戀裳摺可聞
 上三句はカツテの序、其中にて又ヲミナベシはサキ澤の枕なり。或は舊訓の如くサク澤ニオフルとよむべきにて(本には咲澤と書けり)花勝見と女郎花とさき交れるにやとも思へど卷十にヲミナベシ咲野ニオフルシラツツジとありて躑躅と女郎花とは固よりさき交るべくもあらねばなほ契沖の説の如くサキ澤とよみて地名とすべし。さて契沖は『大和國添下郡の佐紀なるべきにや』と云へり。さてもなほヲミナベシをサキ澤又はサキ野の枕につかひたるは異樣にて故なくてはかなはぬここちす。轉じて例を尋ぬるに卷十一にカキツバタサキ沼《ヌ》ノ菅ヲ笠ニヌヒ云々、卷十二にカキツバタサキ澤ニオフル菅ノ根ノ云々とあり又菅家萬葉集(下卷女郎花の部)にヲミナベシ拆野《サキノ》ノサトヲ秋クレバ云々とあり。よりて案ずるにサキ野(澤も沼も其中にあり)は女郎花、燕子花などの多かる處なれば花チラフアキツノ野ベ、千鳥ナク佐保ノ河原、カハヅナクカムナビ川といふが如くにヲミナベシサキ野、カキツバタサキ澤などいへるなれどサキにいひかけたる爲ふと見てはかの花チラフ秋(760)津ノ野邊などの類とは見えぬなり。右の如くなれば今の歌のヲミナベシは所謂准枕辭なり○花勝見は野生の花菖蒲にて日光にては赤沼アヤメといふ。寫眞は三好博士の日本植物界(三四九頁)に出だし著色圖は日光といふ書の中なる白井博士の論文に添へたり。あやめより小さく五六月頃に花さくものにて花の色は紫赤にて今も或地方にては花ガツミといふとぞ。略解に
  陸奥にて今花菖蒲に似て花の四ひらなるものをカツミといへり。これぞまことの物なるべき
といへれどカツミは菰にて花カヅミと同物にあらず。又花勝見の花は三瓣にて四瓣にあらず(黒川春村の碩鼠漫筆に始めてカツミと花ガツミとを区別し花ガツミを野生の花菖蒲とせり。春村は其花ガツミを庭に植ゑて見し趣なるになほ四瓣花なりといへり。いといぶかし)○カツテモ知ラヌは曾テオボエヌとなり。カツテは更ニ、フツニなり
 追考 仙臺叢書第十卷に収めたる藤塚知明の花勝見考に
  宗仲(○陸奥淺香郷の人)曰。常のあやめの花に似て少し小ぶりなり。色は京紫の少(761)し赤み強し。此花二本松、淺香の里に澤山野山にもあり。五六月も花あり
 この花がつみおのれ仙臺の民なべてあやめと呼、池沼水澤に多し
 此春子の三郎なる知能……淺香の郷に入り人つどひたる民家に花がつみを問求むるにむくつけき男ふたりみたり口つどひてあやめの花にして四ひらなるこそまことの花がつみにあるぞ、五月來らば取てません、などいらへり
 さらば四ひらのあやめまぎ求めんと池沼に臨むに多く得たり
など云へり。いと拙き擬古文にて語格の誤さへいと多かれど大意は知らるべし。花ガツミを四ひらと云へるは之にもとづきたるなり。四ひらなるはおそらくは變種ならむ。此書には千蔭の序添ひたり
 
676 (わたの底おきを)ふかめてわがもへる君にはあはむ年はへぬとも
海底奥乎深目手吾念有君二波將相年者經十方
 略解に『初はフカメテといはん料のみ』といひてオキヲまでを序とせり。之に從ふべし。卷十六にもヰナ川ノ沖ヲフカメテワガモヘリケルといひ卷十八にもナゴノ海ノ沖ヲフカメテサドハセル君ガココロノスベモスベナサといへり。ココロヲフカ(762)クシテ即心フカクといふ事とおぼゆ。但卷十一にワタノ底オキヲフカメテオフル藻ノとあるは辭のまゝに沖ヲフカクシテ即沖深クの意とすべし
 
677 かすが山あさゐる雲のおほほしく知らぬ人にもこふるものかも
春日山朝居雲乃欝不知人爾毛戀物香聞
 オホホシクは心の晴れざる事にて(卷二【二三三頁】參照)コフルにかゝれり。初二は序。シラヌ人とあるを見れば女郎は家持を見し事なきなり
 
678 ただにあひてみてばのみこそ(たまきはる)命にむかふわがこひやまめ
直相而見而者耳社靈剋命向吾戀止眼
 タダニアヒテはヂカニ逢ヒテなり。ミテバはミタラバなり。命ニムカフ吾戀とつづけるなり。コヒヤムといふ動詞にあらず。命ニムカフは命ニ匹敵スルといふ事にて畢竟命ニトリカヘルホドナといふ事なり。戀の下にモの辭おちたるやうに見ゆれど卷十二にもマソカガミタダ目ニ君ヲミテバコソ命ニムカフワガ戀ヤマメとあればいにしへはかくても耳に立たざりしなり○剋は刻の通用なり
 
(763)679 いなといはばしひめや吾背(すがのねの)おもひみだれてこひつつもあらむ
不欲常云者將強哉吾背菅根之念亂而戀管母將有
 明ニ否逢ハジトイヒ放タバ強ヒテ逢ハムト云ハムヤとなり。オモヒミダレテの上にタダといふことを加へて心得べし
 
   大伴宿禰家持與2交遊1△別歌三首
680 けだしくも人の中言|聞可毛《キカセカモ》幾許《ココダ》雖待《マテドモ》君がきまさぬ
蓋毛人之中言聞可毛幾許雖待君之不來益
 目録に別久歌とあるは久別を顛倒したるにて、ここには久の字を落したるならむ。別の下にも脱字あるべし。ケダシクモはモシ或ハといふこと。第三句は古義にキカセカモとよめるに從ふべし(舊訓はキケルカモ)。聞キ給ヘバニヤなり。第四句は考のココダマテドモと舊訓のココダクマテドといづれにてもよし
 
681 なかなかに絶《タユ》としいはばかくばかりいきのをにしてわがこひめやも
(764)中々爾絶年云者如此許氣緒爾四而君將戀八方
 絶は略解にタエム。古義にタユとよめり。古義に從ふべし。イキノヲニシテのシテは助辭、イキノヲニは懸命ニといふこと。上(七三八頁)にイキノヲニオモフとあり。相照して心得べし
 
682 將〔左△〕思《アヒオモフ》人にあらなくにねもころにこころ盡してこふるわれかも
將念人爾有莫國懃情盡而戀流吾※[毛三つ]
 將思は一本に相思とありといふ。それに從ひてアヒオモフとよむべし。或は將相思《アヒオモハム》の誤にてもあるべし(訓義辨證上卷八八頁には將相通用せしなりといへり)
   大伴坂上郎女歌七首
683 謂言之《モノイヒノ》かしこき國ぞ(くれなゐの)色にないでそおもひしぬとも
謂言之恐國曾紅之色莫出曾念死友
 謂言之は古義にモノイヒノとよめるに從ふべし(舊訓にはイフコトノ)。カシコキはオソロシキなり。國は世ときくべし(古義)
 
(765)684 今は吾《ワ》はしなむよわがせいけりともわれによるべしといふといはなくに
今者吾波將死與吾背生十方吾二可縁跡言跡云莫苦荷
 第二句は上(六九四頁)に
  いきてあらばみまくもしらに何しかも死なむよ妹といめに見えつる
とあるに似たり。結句、打見にはイフトといふ辭餘れるに似たり。さるによりて宣長はイフトは添へたる詞なりといへり。案ずるにイフトイハナクニは仰セラルトモ承ハラヌニといふことにて上のイフは男のいふにて下のイフは傳ふる人のいふなり。はやく契沖も『君がいふとも人のいはねば』と釋せり
 
685 人ごとをしげみや君を(ふた鞘の)家をへだててこひつつをらむ
人事繁哉君乎二鞘之家乎隔而戀乍將座
 シゲミヤはシゲサニヤなり。フタサヤノはイヘヲヘダテテの枕なり。フタサヤは二鞘刀の畧にてその家は即鞘なり。二鞘刀は鞘の腹を連ね作れるをいふ。正倉院の御物に圖の如き刀子あり。一幹三室にて本太く末細し。刀は柄の色の各異なるを見れ(766)ば用ふる所はた各異なるべし。神功皇后紀五十二年に七枝刀とありて七枝にナナツサヤと傍訓せるはいぶかし。こは石上布留《イソノカミフル》神社の神寶の如く本來の鋒の外に左右に各三枝あるを云へるにあらざるか(彼神寶をやがて神功皇后紀なる七枝刀に擬する説もあり)
686 比者《コノゴロニ》ちとせやゆきも過與《スギニシト》われやしかもふ欲見鴨《ミマクホレカモ》
比者千歳八往裳過與吾哉然念欲見鴨
 諸訓を折衷して
  このごろに(舊略)すぎにしと(古)みまくほれかも(略)
とよむべし。ワレヤはワレヨなり。シカモフにて切れたり。ミマクホレカモは見マクホリスレバカモなり
 
687 愛常《ウツクシト》わがもふこころ(はや河の)雖塞々友《セキトセクトモ》なほや將崩《クヅレム・クエナム》
愛常吾念情速河之雖塞々友猶哉將崩
 こは略解に從ひて
  うつくしと……せきとせくとも……くづれむ
とよむべし。セキトセクトモはセキニセクトモといはむに同じ。古義に友の字は餘れるに似たれど雖干常《ホセド》と書けると同例なりといへり。クヅレムは古義の如くクエナムともよむべし。ウツクシトはイトホシトなり。上(六八五頁)にもタビユク君ヲウツクシミとあリ
 
688 青山をよこぎる雲のいちじろくわれとゑまして人にしらゆな
青山乎横殺雲之灼然吾共咲爲而人二所知名
 初二は序。ワレトはワレニ對ヒテなり(略解)
 
689 海山も隔莫國《ヘダタラナクニ》なにしかも目言《メゴト》をだにもここだともしき
海山毛隔莫國奈何鴨目言乎谷裳幾許乏寸
 隔莫國は上(七〇八頁)にいへり○目言を眞淵はメゴトと濁りて見る事といふ意とし雅澄は目ト辭トとせり(卷二【二五九頁】參照)。目言ヲダニモのヲは古今集なるアヤナクアダノ名ヲ〔右△〕ヤタチナム、香ヲ〔右△〕ダニニホヘ人ノシルベクなどと同じ類なるヲなり。ココダはこゝにてはタイサウなど譯すべし
 
(768)   大伴宿禰三依悲v別歌一首
690 照日〔左△〕《テルツキ》を闇にみなしてなく涙ころもぬらしつほす人なしに
照日乎闇爾見成而哭涙衣沾津干人無二
 初句を宣長は日を月の誤としてテルツキヲとよめり。之に從ふべし。ミナスは古義に云へる如く見變《ミナス》なり。なく涙に眠くもりて照る月を見れども闇の如しとなり。ナクナミダの下にニを省きたり。ホス人ナシニは妹ニ別レテハ干シテクルル人ナクテとなり。ナシニはナクテなり。古義にはナキニと同一視せる如し
 
   大伴宿禰家持贈2娘子1歌二首
691 ももしきのおほみや人は雖多有《オホカレド》こころにのりておもほゆる妹
百礒城之大宮人者雖多有情爾乘而所念妹
 第三句はオホカレド(舊訓)とオホケドモ(古義)といづれにてもよし。ココロニノリテは卷二(一四九頁)にも妹ガココロニノリニケルカモとあり。妹ガ我心ニ乘リテなり。オモホユルは我オモホユルなれば自他相背けるに似たれど當時はかやうにいひ(769)て怪しまざりしにこそ
 
692 うはへなき妹にもあるかもかくばかり人のこころを令盡念者《ツクスオモヘバ》
得羽重無妹二毛有鴨如此許人情乎令盡念者
 上(七二九頁)なるウハヘナキモノカモ人ハシカバカリトホキ家路ヲカヘスオモヘバとあるを學べるなり。ウハヘナキは彼歌の處にていひし如くつれなき意と思はる。結句は略解にツクスオモヘバとよめるに從ふべし。畢竟人ニ其心ヲ盡サスルヲ思ヘバといふ意なり
   大伴宿禰千室歌一首 未詳
693 如此耳《カクノミニ》こひやわたらむ秋津野にたなびく雲のすぐとはなしに
如此耳戀哉將度秋津野爾多奈引雲能過跡者無二
 初句は古義にカクノミニとよめるに從ふべし。三四は序なり。スグは上(七五五頁)なるアサニ日ニイロヅク山ノシラ雲ノオモヒスグべキ君ニアラナクニのオモヒスグに同じ。スグトハナシニはタダ一時ナラデといふ意にてスグとワタルとはうらうへなり
 
(770)   廣河女王歌二首
694 戀草をちから車になな車つみてこふらく吾心から
戀草呼力車二七車積而戀良苦吾心柄
 コヒグサのクサは料とか種とかいふ意なり。但今は草にとりなしてコヒ草トイフ草ヲ云々といへるなり。力車は榮華物語にも見えたり。考に『人の力もてやる車なり』といひ古義に『力人の引く車なり』といへるは共に非なり。力ある車といふ意にて重きものを運ぶべき車なり。コフラクは今いはばコフルコトヨなどいふべき語勢なり。ワガ心カラは略解に云へる如くワガ心ヅカラなり。古義に心ノ裏ヨリ眞實ニと譯せるは非なり。或人いはく此歌各句の首尾に韻をふめりと。おもしろき心づきなれどそは偶然のみ
 
695 戀は今はあらじとわれは念乎《オモヘルヲ》いづくの戀ぞつかみかかれる
戀者今葉不有常吾羽念乎何處戀其附見繋有
 第三句は古義にオモヘルヲとよめるに從ふべし。上三句の意は今ハ戀ハ殘ラジト(771)思フヲとなり。ツカミカカレルの下にハを補ひて聞くべし。ツカミカカルは襲フなり。卷十六にもコヒノ奴ノツカミカカリテとあり
 
   石川朝臣廣成歌一首
696 家人にこひすぎめやも(かはづなく)泉の里に年のへぬれば
家人爾戀過目八方川津鳴泉之里爾年之歴去者
 コヒスグはオモヒスグベキ戀ニアラナクニ、オモヒスグベキ君ニアラナクニなどのオモヒスグに似てコヒワタルのうらなり。初二の意は畢竟家人ヲ戀渡ルカナとなり。イヅミノ里は和名抄山城國相樂郡の下に水泉【以豆美】とある是なり。略解に『久邇の都へ遷されし後奈良の故郷に妻をおきてよめるならん』といへり
 
   大伴宿禰|像見《カタミ》謌三首
697 吾聞《ワガキキ》にかけてないひそ(かりごもの)亂れておもふ君がただかぞ
吾聞爾繋寞言刈薦之亂而念君之直香曾
 吾聞は舊訓にワガキキとよめるに從ふべし。カケテを契沖は『君が上の事をかけて』(772)と譯し雅澄は『言の葉にかけて』と譯せり。案ずるにカケテを右の如く譯すればワガキキニ、ナイヒソとつづきて辭を成さず。さればワガキキニカケテとつづけてワレニ聞カセテの意とすべし。人に物を見するを御目ニカクといふ類なり○タダカは玉勝間卷八(全集四卷一八四頁)に
  多太加とは君また妹をただにさしあてていへる言にて君妹とのみいふも同じことに聞ゆるなり
といへり。君ガタダカは君ノ御上と譯すべし
 
698 春日野に朝ゐる雲のしくしくに吾戀益《ワハコヒマサル》月に日にけに
春日野爾朝居雲之敷布二吾者戀益月二日二異二
 初二は重々《シクシク》ニの序。第四句は古義に從ひてワハコヒマサルとよむべし。月ニ日ニケニはイヤマシニなり
 
699 一瀬にはちたび障《サハ》らひゆく水の後毛將相《ノチモアヒナム》いまならずとも
一瀬二波千遍障良此逝水之後毛將相今爾不有十方
 川の水の高きより低きにおつる處を瀬といひ、瀬と瀬との間をも瀬といふ。今の瀬(773)は後者の意なり。一セニハのハは無意の辭なり。障を古義にサヤラヒとよめれど舊訓の如くサハラヒとよみて可なり。上三句は序なり。云々シテ逝ク水ノ後ニ合フガ如ク後ニ逢ハムといへるなり。第四句はノチモアヒナムとよむべし。ノチモは後ニモなり
 
   大伴宿禰家持到2娘子之門1作歌一首
700 かくしてやなほやまからむ近からぬ道のあひだをなづみまゐきて
如此爲而哉猶八將退不近道之間乎煩參來而
 カクシテは即近カラヌ道ノ間〔日が月〕ヲナヅミ來テなり。まづカクシテといひ、下に至りてくはしく云へるなり。カクシテヤのヤとナホヤのヤと重なれるはいかが。古義には上のヤは輕く添へたる辭なりといへり。案ずるにカクシテヤのヤはヤハの意。ナホヤのヤは助辭にてナホヤはタダニといはむに齊し○マカラム、マヰ來テといへるにて娘子に贈れる歌なる事を知るべし。マカル、マヰルは敬語なればなり
 
   河内百枝娘子贈2大伴宿禰家持1歌二首
(774)701 はつはつに人をあひみて何將有《イカナラム》いづれの日にか又よそにみむ
波都波都爾人乎相見而何將有何日二箇又外二將見
 ハツハツはチトバカリなり。第三句は舊訓にイカナラムとよめるに從ひてあるべし(古義にはイカニアラム)。ヨソニ見ムは略解古義にヨソナガラニモ見ムと譯したれどさては少くともヨソニの下にモといふ辭無かるべからず。ホンノ此頃人ニ逢ヒソメタガトテモアヒトグル事ハ成ルマジキニ知ラズイヅレノ日ニカ又ヨソニ見ム、イヅレ遠カラズ外ニ見デハカナハヌ事ナルベシといへるなり
 
702 (ぬばたまの)其夜のつくよけふまでにわれは忘れずまなくしもへば
夜干玉之其夜乃月夜至于今日吾者不忘無間苦思念者
 前なるとは別時の歌なるべし。其夜とは逢ひし夜なり。このソノは歌中に指す所なし。ヌバタマノソノ夜ノ梅ヲタワスレテヲラズキニケリ思ヒシモノヲ(四八七頁)ヒト日ニハ千重浪シキニオモヘドモナゾソノ玉ノ手ニマキガタキ(四九八頁)のソノと同類なり
 
(775)   巫部《カムコベ》(ノ)麻蘇娘子《マソヲトメ》歌二首
703 わがせこをあひみし其日けふまでにわが衣手はひる時もなし
吾背子乎相見之其日至于今日吾衣手者乾時毛奈志
 其日の下にヨリを補ひてきくべし
 
704 (たく繩の)ながき命をほしけくはたえずて人を欲見社《ミマクホレコソ》
栲繩之永命乎欲苦波不絶而人乎欲見社
 ホシケクハはホシク思フハとなり。結句は略解にミマホシミコソ、古義にミマクホリコソとよめり。按ずるにミマクホレコソとよむべし。チラデアレカシといふことをチラズアリコソといふ類にはあらで常の(係辭の)コソなればなり。さてミマクホレコソは見マクホレバコソ長キ命ヲホシク思フナレとなり
 
   大伴宿禰家持贈2童女1歌一首
705 はねかづら今|爲《スル》いもをいめにみてこころの内にこひわたるかも
葉根※[草冠/縵]今爲妹乎夢見而情内二戀度鴨
(776) ハネカヅラは女の漸く人となるほどにものする髪の飾とおぼゆれど其製明ならず。爲の字は舊訓にスルとよめるに從ふべし。雅澄はセスに改めたれど答歌にも今爲妹とありてその爲はセスとよむべからねばこゝもスルとよむべし。此歌なるをセス、答歌なるをスルとよむべくば書樣を別にすべければなり
 
   童女來報歌一首
706 はねかづら今|爲《スル》いもは無四〔左△〕《ナキモノ》をいづれの妹其《イモゾ》ここだこひたる
葉根※[草冠/縵]今爲妹者無四乎何妹其幾許戀多類
 爲を古義にセルとよめるはわろし。無四を宣長は無物の誤としてナキモノヲとよめり。之に從ふべし。妹其は舊訓の如くイモゾとよむべし。略解にイモカとよめるはわろし。四五は上なるイヅクノ戀ゾツカミカカレルと同格なり。即君ノ大サウ慕ヒ給ヘルハイヅレノ妹ゾとなり。上三句の釋は古義の如し
 
   粟田娘子贈2大伴宿禰家持1歌二首
707 おもひやるすべの不知者《シラネバ》(かたもひの)底にぞわれはこひなりにける
(777)思遣爲便乃不知者片※[土頁完]之底曽吾者戀成爾家類
 オモヒヤルは思を遣り失ふなり。不知者を舊訓にシラネバとよめるを古義にシレネバに改めたり。なほシラネバとよむべし。シラネバはシラレネバの略なり。カタモヒは略解にいへる如く蓋なき椀にてこゝにては底の枕なり。ソコニコヒナルとは『戀ノ至リ極レルといふなり』と宣長のいへる如し
 
708 またもあはむよしもあらぬかしろたへの我衣手にいはひとどめむ
復毛將相因毛有奴可白細之我衣手二齋留目六
 アラヌカはアレカシなり。略解に『今一度逢てあらばいはひとどめむと云也』といへる如し。第二句の次にサラバといふ辭を補ひてきくべし。いにしへ衣手に人の心をいはひとどむるまじなひありしにこそ
 
   豐前國(ノ)娘子《ヲトメ》大宅女《オホヤケメ》歌一首
709 夕闇は路たづたづし月まちていませわがせこそのまにも見む
夕闇者路多豆多頭四待月而行吾背子其間爾母將見
(778) イマセはこゝにてはユキマセなり。タヅタヅシは、タドタドシなり。ソノ間ニモのモはダニに齊し
 
   安都《アト》(ノ)扉娘子《トビラヲトメ》歌一首
710 みそらゆく月の光にただ一目あひみし人のいめにしみゆる
三空去月之光二直一目相三師人之夢西所見
 安都扉娘子を古義にアトノトビラヲトメとよみて
  安都は氏なり。此上に安都宿禰年足とも見えたり。扉は字《アザナ》なるべし、上に巫部《カムコベ》(ノ)(氏)麻蘇《マソ》(字)娘子《ヲトメ》などある類なり。扉はトビラと訓べきか。女の字にはめづらし云々
といへり
 
  丹波《タニハ》(ノ)大△娘子《オホノヲトメ》歌三首
711 かもとりのあそぶこの池にこのは落而《オチテ》うかべる心わがもはなくに
鴨鳥之遊此池爾木葉落而浮心吾不念國
 目録及諸本に大女〔右△〕娘子とあり○上三句は序なり。ウカベル心はウキタル心なり。落(779)而は舊訓に從ひてオチテとよむべし
 
712 (うま酒を)みわのはふりがいはふ杉手|觸《フリ》し罪か君にあひがたき
味酒呼三輪之祝我忌杉手觸之罪歟君二遇難寸
 三輪ノハフリは三輪(ノ)大神の神主なり。イハフは穢を避けて大切に守る事。觸はいにしへは四段にはたらきたればフリとよむべし。當時三輪の神杉に手を觸るれば神罸にて男に逢はれずなどいふ俗信ありしなり。カク君ニ逢ヒ難キヲ思ヘバ前方三輪社ニ參詣セシヲリ知ラズ知ラズ神杉ニ手ヲヤ觸レケムといへるなり。略解古義にイノルカヒナクシテなど云へるは非なり。歌の上には見えぬ事なり
 
713 垣ほなす人ごとききてわがせこがこころたゆたひあはぬこのごろ
垣穗成人辭聞而吾背子之情多由多此不合頃者
 垣ノ如ク中ヲ隔ツル人ノ言ヲ吾セコガキキテ云々と略解に譯せる如し。ワカセコガはアハヌにかゝれり。古義に吾セコガ心ヲユタユタト危ミ疑ヒテ云々と譯せるは非なり
 
(780)   大伴宿禰家持贈2娘子1歌七首
714 こころにはおもひわたれどよしをなみよそのみにしてなげきぞわがする
情爾者思渡跡縁乎無三外耳爲而嘆曾吾爲
 ヨシヲナミは逢フ由ガ無サニなり。ヨソノミニシテはヨソニノミ見テなり
 
715 (千鳥なく)佐保の河門のきよき瀬を馬うちわたしいつかかよはむ
千鳥鳴佐保乃河門之清瀬乎馬打和多思何時將通
 河門は河の渡場なり。馬ウチワタシのウチは添辭なり。古義に『鞭にて打て』といへるは從はれず
 
716 よるひるといふわき不知《シラニ》わがこふるこころはけだしいめにみえきや
夜晝云別不知吾戀情蓋夢所見寸八
 不知は古義にシラニとよめるに從ふべし。ケダシは或ハなり
 
717 つれもなくあるらむ人をかたもひに吾はおもへば惑毛《ワビシクモ》あるか
(781)都禮毛無將有人乎狩〔左△〕念爾吾念者惑毛安流香
 ツレナシはほだされぬ事にてこゝなどは氣ヅヨク(古義)など譯すべし。結句の惑毛は契沖はもとのまゝにてワビシクモとよみ略解には感の誤として同じくワビシクモとよめり。古義に愍の誤としてメグシクモとよめるはいかが。メグクとはいへどメグシクとは云はず。又そのメグシは父母ヲミレバタフトク妻子ミレバカナシクメグシなどいひて他よりいふ語にて自いふ語にあらず○狩は獨を誤れるなり
 
718 おもはぬに妹がゑまひをいめに見て心のうちにもえつつぞをる
不念爾妹之咲※[人偏頁舞]乎夢見而心中二燎管曾呼留
 オモハヌニはオモヒカケズなり。モエツツゾヲルは妹こひしさに心の悶ゆるなり
 
719 ますらをとおもへる吾乎〔左△〕《ワレヤ》かくばかりみつれにみつれ片もひをせむ
丈夫跡念流吾乎如此許三禮二見津禮片思男責
 ミツレはヤツレなり。略解に『ワレヲはワレナルヲといふ意か。されどワレヤとなくては末句にかなはず。乎は也の誤か』といへり。げに卷六なるマスラヲトオモヘルワ(782)レヤ水グキノ水城ノ上ニ涙ノゴハムなどの如くワレヤとあるべきなり
 
720 (むらぎもの)こころくだけてかくばかりわがこふらくをしらずかあるらむ
村肝之於〔左△〕摧而如此許余戀良苦乎不知香安類良武
 コフラクヲはコフルコトヲなり○於は情の誤なり
 
   戲2 天皇1歌一首
721 (足引の)山にしをれば風流《ミヤビ》なみわが爲類《スル》わざをとがめたまふな
足引乃山二四居者風流無三吾爲類和射乎害目賜名
 作者の名のおちたるなり。風流は契沖に從ひてミヤビ(古義にはミサヲ)とよむべく爲類は舊訓に從ひてスル(古義にはセル)とよむべし。ミヤビは俗にいふ氣ノキイタ事なり。契沖の一説にいへる如く山里より物を奉るにそへたる歌なり
 
   大伴宿禰家持歌一首
722 かくばかりこひつつあらずばいは木にもならましものを物もはずし(783)て
如是許戀乍不有者石木二毛成益物乎物不思四手
 岩ニモ木ニモ化リテ物思ハズシテアラマシモノヲといふべきを五七七にとゝのへむとてかく云へるなり
 
   大伴(ノ)坂上(ノ)郎女從2跡見《トミ》(ノ)庄1贈(リ)2賜(ヘル)留v宅女子大孃1歌一首并短歌
723 とこよにと わがゆかなくに 小金門《ヲガナド》に ものがなしらに おもへりし 吾兒の刀自を (ぬばたまの) よるひるといはず おもふにし 吾身はやせぬ なげくにし 袖さへぬれぬ かくばかり もとなしこひば ふるさとに 此月ごろも 有勝益土《アリガツマシジ》
常呼二跡吾行寞國小金門爾物悲良爾念有之吾兒乃刀自緒野干玉之夜晝跡不言念二思吾身者痩奴嘆丹師袖左倍沾奴如是許本名四戀心者古郷爾此月期呂毛有勝益士
 跡見は今|外山《トミ》と書きて大和國|磯城《シキ》郡|城島《シキシマ》村に屬せり。卷八に紀朝臣鹿人至2大伴宿(784)禰稻公(ノ)跡見庄1作歌とあると合せて思へば(稻公は坂上郎女の弟なり)跡見(ノ)庄は大伴氏の別業なり。庄はナリドコロとよむべし。留宅とある宅は坂上(ノ)家なり
 トコヨニトはトコ世ニ行カムトにてただトコヨニといふよりは力あり。さてトコヨは通常極めて遠き國をいへどその意ならばトコ世ニモ〔右△〕などいふべきを今トコヨニト〔右△〕と云へるを見れば契沖の
  一二の句は死シテ冥途ニモユカヌヲなり
といひ紀傳卷十二(全集第一の六六〇頁)に
  さて又後には人の死るを常世國にゆくと云しことあり。こは極めて遠き所にて便もなく往來《カヨ》ふこともかなはぬ意にて……萬葉四にトコヨニトワガユカナクニ云々これら其意なり
と云へる如きなり○ヲガナドは門なり。モノガナシラニを契沖はモノガナシゲニの意なりといへり。オモヘリシは物思ヲシテアリシといふ意にてこのオモフは下なる吾妹子ガオモヘリシクシ面影ニミユまたヨシヲナミオモヒテアリシ吾兒ハモアハレまた人ノコトシゲミオモヒゾワガスルのオモフと同じくて常のオモフ(785)とはすこし異なり○大孃既に人の妻たればトジといへるなり○モトナシのシは助辭、モトナはアヤニクニなり(卷二【三三〇頁】參照)○フルサトは跡見庄なり。コノ月ゴロモは行末久シクハ勿論ノ事當分ダニとなり○有勝益士は橋本進吉氏のアリガツマシジとよまれたるに從ふべし。意はアルニ堪ヘジとなり
 
   反歌
724 (朝髪の)おもひみだれてかくばかりなねがこふれぞいめにみえける
朝髪之念亂而如是許名姉之戀曾夢爾所見家留
    右歌報2賜大孃1歌也
 ナネは人を親み尊びていふ稱なり。略解にネは姉の意と云ひ古義にネは字の如く姉なりと云へれど然らず。古事記中卷に神|沼《ヌナ》河耳(ノ)命が御兄神八井耳(ノ)命にのたまふ辭に
  なね、なが命《ミコト》つはものをとりて入りて當藝志美美《タギシミミ》を殺《シ》せたまへ
とありて傳(全集第二の一二一六頁)に
  ナネは女にかぎるべきに似たれども、ここに兄命をのたまへれば男にもわたる(786)稱にてネは天津日子根など常多かるネなり
といへり○此歌汝ガ我ヲ戀フレバゾ我夢ニ汝ノ見エケルといふ意とおぼゆるをカクバカリといふ辭かなはぬこゝちす。されば宣長はコフレゾナネガと打返して心得べくカクバカリ我戀フレバゾ汝ガ我夢ニ見エケルといふ意なりといひ略解古義共に之に從へり。案ずるにもし宣長の説の如くば初よりコフレゾナネガとあるべし。何ぞまぎらはしくナネガコフレゾといはむ。又ナネガコフレゾイメニミエケルとあるをいかでか我戀フレハゾ我夢ニ汝ガ見エケルと釋かむ。上(七三四頁)にいへる如く本集にはカクとシカとを通用したれば今もシカバカリとうつして心得べし。さていにしへ、人が我をこふれば其人が我夢に見ゆといふ俗信ありしなり。上なる
  あひだなくこふれにかあらむ草まくら旅なる君がいめにしみゆる(七二三頁)
  ここだくにおもひけめかもしきたへの枕かたさりいめにみえこし(七三〇頁)
  わがせこがかくこふれこそぬばたまのいめにみえつついねらえずけれ(七三四頁)
(787)などを見るべく又此等の歌を見て今の歌も汝がこふをといふ意なる事を知るべし
 
   獻2 天皇1歌二首
725 にほどりのかづく池水こころあらば君にわが戀《コフル》こころしめさね
二寶鳥乃潜池水情有者君爾吾戀情示左禰
 戀を略解古義共にコフとよみたれど卷二にもイニシヘニ戀流トリカモ、又マスラヲノコノ戀禮コソとありてコフはいにしへも二段活なればこゝはコフルとよむべし〇一首の意たどたどし。略解には
  其池の如く深く思奉る心をしらせ奉れと池水にいふ意なり
といひ古義には
  君に深き心をしめし奉らねとなり
と云へり。かく釋けば意味は、生ずれどそは辭をはなれたる釋にて辭の上にはさる意味なし。案ずるに第三句と結句とにココロ(文字は共に情と書けり)といふ語のかさなれる下の方のココロはフカサなどの誤にあらざるか
 
(788)726 よそにゐてこひつつあらずば君が家の池にすむとふ鴨にあらましを
外居而戀乍不有者君之家乃池爾住云鴨二有益雄
 コヒツツアラズバはコヒツツアラムヨリハなり。略解に云へる如く天皇に獻る歌に君ガ家ノなど云はむはいとなめげなり。外に題辭のありしがおちて上なるアシヒキノ山ニシヲレバと云ふ歌の題辭の誤りて再出でたるにあらざるか。類聚古集には獻天皇歌とありて其下に大伴坂上郎女在春日里作とあり。おそらくは坂上郎女が大孃におくれる歌なるべし。とまれかくまれ二首共に相手の家の池をよめれば二首一聯の歌なる事は疑を容れず
 
   大伴宿禰家持贈2坂上家大孃1歌二首【雖絶數年後會相聞往來】
727 わすれ草わがした紐につけたれどしこのしこ草ことにしありけり
萱草吾下紐爾著有跡鬼乃志許草事二思安利家理
 シコノシコ草は忘草を忌み罵りていへるなり。なほ子規を罵りてシコホトトギスといひ※[奚+隹]を惡みてクダカケといふが如し。コトニシアリケリは名ノミナリケリといふに同じ。ワスレ草はクワンザウなり○題辭の下の分註なる後の字は諸(789)本に復とあり。數年絶ユトイヘドモ後會ヒテ相聞往來ストよむべきか
 
728 人もなき國もあらぬかわぎもことたづさひゆきてたぐひてをらむ
人毛無國母有※[米+更]吾妹兒與携行而副而將座
 アラヌカはアレカシ、タヅサヒはツレダチ、タグヒテは相添ヒテなり
 
   大伴坂上大孃贈2大伴宿禰家持1歌三首
729 玉ならば手にもまかむを(うつせみの)世の人なれば手にまきがたし
玉有者手二母將卷乎鬱膽〔左△〕乃世人有者手二卷難石
 モシ玉ナラバ緒ニトホシテ腕ニマキテ身ヲハナサザラムヲ云々の意なり。ウツセミノ世ノ人は俗にいふ人間なり○膽は瞻の誤なり
 
730 あはむ夜はいつもあらむをなにすとかそのよひあひてこと之《ノ》しげきも
將相夜者何時將有乎何如爲常香彼夕相而事之繁裳
 初二はアハム夜ハアノ夜ニ限ル事モナカリシニといふ意。結句の之は舊訓に從ひ(790)てノとよむべし(略解にはシとよめり)。コトノシゲキは人ノ口ノウルサキとなり。第四句のソノは例の歌中に見えざるものをさせるソノなり(七七四頁參照)
 
731 わが名はも千名の五百名にたちぬとも君が名|立者《タタバ》をしみこそなけ
吾名者毛千名之五百名爾雖立君之名立者惜社泣
 初句のモは助辭なり。千名ノ五百名ニタチヌトモは名ガシバシバ立ツトモといふこと。おもしろき造語なり。タチヌトモの下にヲシカラザラメドといふことを略せり。立者を舊訓にタタバとよめるを古義にタテバに改めて
  畧解に君ガ名タタバとよめるは未來を云る言なればヲシミコソナケと云るにかけ合ず
といへるは不思議なり。本集にはミズテユカバマシテコヒシミ、イモニアハズアラバスベナミ、ハヤクアケナバスベヲナミとやうに云へることを雅澄はよく知りたらむにいかでかゝることを云へるにか(二九二頁、四七一頁、五〇二頁、六七四頁參照)
 
   又大伴宿禰家持和歌三首
(791)732 今しはし名のをしけくもわれはなし妹によりてはちたびたつとも
今時有〔左△〕四名之惜雲吾者無妹丹因者千遍立十方
 イマシハシは略解に『ふたつのシは助辭にてイマハなり』と(代匠記にも)いへれどおそらくは當時イマシハといふ辭ありしにこそ。上(七〇〇頁)にもイマシハトユメヨワガセコワガナノラスナとあり。ヲシケクモは惜キコトモといふ意にて一種の格なり。之に準じてヲシキをヲシケキとはいふべからず。妹ニヨリテハは上(六八〇頁)にもカヘラバカヘレ妹ニヨリテハとよめり。古義にヨリテバと濁りてよみたれど古今集離別歌なるワカレテハ程ヲヘダツト思ヘバヤカツ見ナガラニカネテコヒシキのワカレテハと同格なれば清みてとなふべき事前にいへる如し○有は者の誤なり
 
733 (うつせみの)代やもふたゆくなにすとか妹にあはずてわがひとりねむ
空蝉乃代也毛二行何爲跡鹿妹爾不相而吾獨將宿
 フタユクはフタツユクといふ意にて神武天皇の御製なる彼ヤマトノ高佐士野ヲナナユクヲトメドモタレヲシマカムのナナユクの類なり。初二の意は此世ハ二タ(792)ビヤハ來ルとなり
 
734 わがおもひかくてあらずば玉にもがまことも妹が手に所纏牟《マカレナム》
吾念如此而不有者玉二毛我眞毛妹之手二所纏牟
 アラズバはアラムヨリハ、玉ニモガは玉ニモナリナム、マコトモはマコトニモなり。結句を略解にマトハレムとよめるは拙し。玉ナラバ手ニモマカムヲといふ歌の答なれば舊訓の如くマカレナムとよむべし。牟の字乎とある本ありと古義にいへり。げに類聚古集にも乎とあれどそはなほ牟の誤とすべし
 
   同坂上大孃贈2家持1歌一首
735 春日山かすみたなびきこころぐくてれるつくよに獨かもねむ
春日山霞多奈引情具久照月夜爾獨鴨念
 略解に初二を序とせるは非なり。月下の霞のさまなり。ココログシを略解に『くぐもるにておぼつかなき事にいへり』といひ古義に中山嚴水の説を擧げてめでなつかしむ意の言なりといへり。此卷の末にも
(793)  こころぐくおもほゆるかも春霞たなびく時にことのかよへば
とあり。俗にジレツタイ(懊悩)といふ意にあらざるか
 
   又家持和2坂上大孃1歌一首
736 つくよには門にいでたちゆふけとひあうらをぞせしゆかまくをほり
月夜爾波門爾出立夕占問足卜乎曾爲之行乎欲焉
 ユフケの事は卷三(五〇八頁)にいへり。就いて見るべし。足占《アウラ》は信友の正卜考(全集第二の五四五頁)に
  俗に童子などのする趣にてまづ歩きて踏止るべき標を定めおきてさて吉凶の辭(○ヨイカワルイカの類)をもて歩く足に合せつゝ踏わたり標の處にて踏止りたる足に當りたる辭をもて吉凶を定むるわざにもやあらむ
といへり。結句は初句の次におきかへて心得べし。ユカマクヲはユカムコトヲなり
 
   同大孃贈2家持1歌二首
737 かにかくに人はいふとも若狹道の後瀬の山ののちもあはむ君
(794)云々人者雖云若狹道乃後瀬山之後毛將念〔左△〕君
 三四はノチの序なり。初二は人ハトイヒカクイフトモとなり。ノチモはノチニモなり。今の情を以て見れば寧モを省くべきなり○念は會の誤ならむ
 
738 世のなかのくるしきものにありけらく戀にたへずてしぬべきもへば
世間之苦物爾有家良久戀二不勝而可死念者
 初句の上に戀トイフモノハといふ辭を補ひて心得べし。アリケラクはアリケルコトヨとなり
 
   又家持和2坂上大孃1歌二首
739 (のちせ山)のちもあはむとおもへこそしぬべきものをけふまでもいけれ
後瀬山後毛將相常念社可死物乎至今日毛生有
 二三の間に我モといふ辭を挿みて聞くべし。イケレはイキテアレなり
 
740 ことのみを後もあはむとねもころに吾をたのめて不相△可聞《アハヌイモカモ》
(795)事耳乎後手〔左△〕相跡懃吾乎令憑而不相可聞
 コトノミヲのヲは普通のヲにあらで調の爲における助辭なり。上(七六七頁)にも目言ヲダニモココダトモシキとあり。コトノミはコトバニノミなり。タノメテはタノマセテにてアテニセサセテなり。結句は宣長の説に不相の下に妹の字おちたるにてアハヌイモカモとよむべしといへり
 
   更大伴宿禰家持贈2坂上大孃1歌十五首
741 いめのあひはくるしかりけりおどろきてかき探れども手にもふれねば
夢之相者苦有家里覺而掻探友手二毛不所觸者
 イメノアヒは夢に逢ふ事。クルシは今のツラシ、オドロキテは目サメテなり。契沖の説に遊仙窟の
  少時坐睡則夢見2十娘1驚覺撹v之忽然空v手
といふ文によりて作れるなりといへり
 
(796)742 一重のみ妹がむすばむ帶をすら三重むすぶべくわが身はなりぬ
一重耳妹之將結帶乎尚三重可結吾身者成
 これも遊仙窟の文に日々衣寛朝々帶緩、又文選に衣帶日已緩とあるによれるなり
と契沖云へり。スラといへるは手弱女ナル妹ガタダ一重結バム帶ヲスラとなり
 
743 わが戀は千びきの石をななばかり頸にかけむも神之諸伏
吾戀者千引乃石乎七許頚二將繋母神之諸伏
 石は古義に從ひてイハとよむべし。結句は心得がたし、雅澄は隨似の誤としてマニマニとよめり。今上四句を續ぎ試みるにカクバカリヤモといひて其下にクルシキといふことを略したりとすべきなり。よりて思ふに神之諸伏は如是許諸伏の誤にてヤモを諸伏と書けるは彼|切木四《カリ》といふ博奕の采の三伏一向なるをツクといひ一伏三向なるをコロと云ひし如く四片皆伏したるを即諸伏なるをヤモ又はカモと云ひしにあらざるか
 
744 ゆふさらばやどあけまけてわれまたむいめにあひ見にこむといふ人(797)を
暮去者屋戸開設而吾將待夢爾相見二將來云比登乎
 此歌のヤドは屋の戸なり。アケマケテは明ケ設ケテなり。四五の意によりて思ふに坂上大孃より夢ニアヒ見ニユカムといふ意の歌を贈れるに答へたるなり。さて此歌も遊仙窟の文に今宵莫v閉v戸、夢裏向2渠《キミガ》邊1とあるによれるなりと契沖云へり
 
745 朝よひに見む時さへや吾妹△《ワギモコ》が雖見《ミレド》みぬごとなほこひしけむ
朝夕二將見時左倍也吾妹之雖見如不見由戀四家武
 コヒシケムはコヒシカラムなり。雖見を略解古義にミトモとよみたれどミトモといはばミザラムゴトといふべく今の如くミヌゴトとはいふべからず。されば雖見はなほ舊訓の如くミレドとよむべし〇一首の意は朝夕ニ我妹子ヲ見ム時サヘ(アカヌ心ニハ見テモ見ヌヤウニ)コヒシカラムヲ、マシテ今ハ打絶エテ見ネバコヒシキハ理ナリといへるなり○由は猶の通用なり。孟子に例多し
 
746 いける代に吾《ワ》はいまだ見ずことたえてかくおもしろくぬへる嚢は
(798)生有代爾吾者未見事絶而如是※[立心偏+可]怜縫流嚢者
 大孃よりおくれる嚢を見てよめるなり。イケル代ニは現世ニなり。コトタエテは言ガタエテなり。言語ニ絶シテと今いふ意なり。オモシロクにかゝれるなり
 
747 吾妹兒がかたみのころも下に著てただにあふまではわれぬがめやも
吾妹兒之形見乃服下著而直相左右者吾將脱八方
 カタミノ衣は忘れぬ爲にと妹の贈れる衣なり。タダニアフは直接ニ逢フなり。契沖いはく下に著るとはなつかしみて身にそふるなりと
 
748 こひしなむ其毛同曾《ソレモオナジゾ》なにせむに人目ひとごとこちたみわがせむ
戀死六其毛同曾奈何爲二人目他言辭痛吾將爲
 第二句は舊訓にソレモオナジゾとよめるを古義には古風にソコモオヤジゾとよめり。いづれにてもあるべし。ナニセムニを略解に何ゾヤと譯し古義に何故ニと譯せる共に當らず。何ノ爲ニと譯すべし。卷五にシロガネモクガネモ玉モナニセムニマサレルタカラ子ニシカメヤモ、卷十七にナニセムニ我《ワ》ヲメスラメヤなどあり。コ(799)チタミはこちたがり憚るなり○初二は身ヲ亡サムコトヲ恐レテ人目人言ニ憚ラバ終ニ戀死ナム、サレバ其モ此モ同一ナリといへるなり
 
749 いめにだにみえばこそ有《アラメ》かくばかり不所見△有者《ミエズテアルハ》こひてしねとか
夢二谷所見者社有如此許不所見有者戀而死跡香
 有は舊訓にアラメとよめるに從ふべし。アレとよみてはミエバと打合はざればなり。さてそのアラメはコフル心モナグサマメとなり。第四句は略解にミエズシアルハとよめり。宣長は有の下に念を補ひてミエザルモヘバとよみ雅澄は見の下に而を補ひて舊訓の如くミエズテアルハとよめり。雅澄の説に從ふべし
 
750 おもひたえわびにしものをなかなかに奈何《ナニカ》くるしくあひみそめけむ
念絶和備西物尾中々爾奈何辛苦相見始兼
 奈何を舊訓にナニカとよめるを古義にイカデに改めたり。されど集中にイカデといふ辭を用ひたる例なければ(卷二【一五六頁】參照)なほナニカとよむべし。宣長の説に此歌のワビニシは下に遠カラバワビテモアラムヲとあるワビに同じと云ひ千蔭は(800)古今集なるイマシハトワビニシモノヲササガニノ衣ニカカリワレヲタノムルのワビニシにも同じといへり。案ずるに常のワビならばニシとは受くべからず。ワビニシはアキラメタと譯すべし。上(七三八頁)なる紀女郎怨恨歌なる
  今はわはわびぞしにけるいきのをに思ひし君をゆるさくおもへば
のワビも常のワビとするよりアキラメの意とする方穩に聞ゆ
 
751 あひみてはいくかもへぬを幾許久毛《ココバクモ》くるひにくるひおもほゆるかも
相見而者幾日毛不經乎幾許久毛久流此爾久流必所念鴨
 第三句は舊訓にココバクモとよめるを古義にココダクモと改めたり。集中に許己婆久毛とも許己太久母ともかければいづれにてもあるべし。アヒミテハのハは清みて唱ふべし。助辭なり
 
752 かくばかり面影のみにおもほえばいかにかもせむ人目しげくて
如是許面影耳所念者何如將爲人目繁而
 第四句を略解にハテハテハイカニセンと譯せり。三四のあたりすこし穩ならずおぼゆれど卷十七なる假字書の歌にイマノゴトコヒシクキミガオモホエバイカニ(801)カモセムスルスベノナサ(大伴坂上郎女贈2家持1歌)とあれば誤字にはあらず。結句の上にサレドといふ辭を加へて聞くべきか
 
753 あひ見てば頃臾《シマシク》戀はなぎむかとおもへどいよよこひまさりけり
相見者須臾戀者奈木六香登雖念彌戀益來
 初句のハは濁りてとなふべし。ミテバはミタラバなり。須臾は古義にシマシクとよめるに從ふべし。略解にシマシモとよめれどテニヲハ無き方まされり。ナギムカはナゴマムカなり。ナグはいにしへ二段活なりしなり。オモヘドはオモフニなり
 
754 夜のほどろわがいでてくれば吾妹子がおもへりしくし面影にみゆ
夜之穗杼呂吾出而來者吾妹子之念有四九四面影二三湯
 ヨノホドロは宣長の説に夜明なりといふ。但語源については宣長と雅澄と説を異にせり。クレバはクルニなり○オモヘリシクシの下のシは助辭なり。オモヘリシクはいにしへ行はれし一の格にてオモヘリシにクといふ辭の添へるなり。古事記|明《アキラ》(ノ)宮(ノ)段なる太子|大雀《オホササキ》(ノ)命の御歌に
(802)  みちのしりこはたをとめはあらそはずねしくをしぞもうるはしみおもふ
 本集卷七に
  すみのえの名兒の濱邊に馬なめて玉ひろひしく常わすらえず
  わがせこをいづくゆかめとさき竹のそがひにねしく今しくやしも
などあり。記傳卷三十二(全集第三の一九七五頁)に
  シは過|去《ニ》しことを云シの如く聞ゆれど然らず
といひて卷十に戀敷ハケナガキモノヲ、卷廿に故非之久ノオホカルワレハとあるを引きて
  さては右の戀之久、過去し方を云るに非れば聞えがたし
と云へれどオモヘリシク、ネシク、ヒロヒシクのクはコヒシクノなどのク又イハク、イヘラク、イヒケラク、イヒツラク、イハマクなどのクとは齊しからず。さてオモヘリシクなどの(則動詞の過去格のシに添ふる)クの語源は未明ならねどオモヘリシクは思ウテヰタノ〔右△〕ガ、ネシクヲはネタノヲ、玉ヒロヒシクは玉ヲ拾ウタノ〔右△〕ガ、ソガヒニネシクはウシロ向ニ寢タノ〔右△〕ガと譯して心得べし
 
(803)755 夜のほどろいでつつくらくたびまねくなれば吾胸|截燒如《タチヤクゴトシ》
夜之穗杼呂出都追來良久遍多數成者吾胸截燒如
 給句は古義にタチヤクゴトシとよめるに從ふべし。タチヤクゴトシは刀ニテ斷チ火ニテ燒ク如シといへるにてこれも遊仙窟に
  未2曾飲1v炭腹熱如v燒、不v憶v呑v刃腸穿似v割
とあるによれること契沖のいへる如し。クラクはクルの延言にてこゝは來ル事ガと譯すべし。このクはオモヘリシクなどのクとは別なり。タビマネクナレバの下に古義に云へる如くナゴリヲシサノツモリツモリテといふことを補ひて釋くべし。タビマネクはタビタビニなり
 
   大伴田村家之大孃贈2妹坂上大孃1歌四首
756 よそにゐてこふればくるし吾妹子をつぎてあひ見むことはかりせよ
外居而戀者苦吾妹子乎次相見六事計爲與
 大伴(ノ)田村(ノ)大孃は坂上(ノ)大孃の異母(ノ)姉なり。田村と坂上とは住處の地名なり。ヨソニヰ(804)テは別ニ居テなり。ワギモコは女どちもいふ。ツギテはタエズなり。アヒ見ムコトハカリとつづけるなり。コトハカリは工夫なり
 
757 遠からばわびても有乎《アラムヲ》里ちかくありとききつつ見ぬがすべなさ
遠有者和備而毛有乎里近有常聞乍不見之爲便奈沙
 このワビテは上(七七九頁)にいへる如くアキラメテなり。常のワビならばワビツツとあるべきなり。有乎を略解にアラムヲとよめるを古義には乎を牟の誤としてアラムとよめり。もとのまゝにてあるべし。里チカクは我住ム里近クなり。案ずるにかく相近く住みながら相逢はざりしは何にか事情ありしなり
 
758 しら雲のたなびく山のたかだかにわがもふ妹をみむよしもがも
白雲之多奈引山之高々二吾念妹乎將見因毛我母
 初二はタカダカニの序なり。タカダカニは集中にタカダカニ君マツ夜ラハ、タカダカニコムトマツラム、タカダカニマツラム君ヤなど多くは待ツに副へたり(例外は卷十二なるタカダカニ君ヲイマセテ)。契沖は『遠き處を高く望みて待つ心なり』とい(805)ひ宣長は『仰ぎ望む意なり』と云へり。案ずるに人の來るを待つとてそのまだ見えぬをもどかしみてつまだち望むことあり。史記に可2翹公v足而待1と云へる是なり。つまだつはやがて身を高々にするなれば終にタカダカニといひて待つ事をいふ事とはなりにけむ。されば今もワガモフはワガ待チ思フといふ意と見るべし
 
759 いかならむ時にか妹をむぐらふの穢《キタナキ》やどに將入座《イリイマセナム》
何時爾加妹乎牟具良布能穢屋戸爾入將座
    右田村大孃坂上大孃并是右大辨大伴宿奈麻呂卿之女也。卿居2田村里1號曰2田村大孃1。但妹坂上大孃者母居2坂上里1。仍曰2坂上大孃1。于v時姉妹諮問以v歌贈答
 穢の字を略解に卷十九にムグラハフ伊也之伎ヤドモとあるによりてイヤシキとよみ古義も之に從ひたれど彼は彼なり此は此なり。記傳卷六(全集第一の三四三頁)の如く字のまゝにキタナキとよむべし。結句は略解にイリマサセナムとよみ古義にイリイマセナムとよめり。古義に從ふべし。我家ニ請ジ入レムとなり
 左註に右大辨大伴宿奈麻呂卿とあるにつきて古義に
(806)  右大辨は四位相當なれば卿といふべきにあらず。されどそは官制にて、私にはさらぬ位階の人等をも貴みて卿といへりしことありとおぼえたり。宿奈麻呂は大伴安麻呂卿の第三子にて家持脚の爲には小父なれば家持卿より貴みてしるされたること理なり(採要)といへり
 ここに一二考へたる事をいひてむ
   大伴宿禰宿奈麻呂は果して安麿の子なりや
 此卷大伴郎女和歌四首の左註(六五六頁)に
  右郎女者佐保大納言卿(○安麻呂)之女也)……郎女家2於坂上里1。仍族氏號曰2坂上郎女1也
 又ここの左註に
  右田村大孃坂上大孃并是右大辨大伴宿奈麻呂卿之女也。卿居2田村里1號曰2田村大孃1。但妹坂上大孃者母居2坂上里1。仍曰2坂上大孃1
とあり。されば大伴坂上郎女は安麿の女にて宿奈麿の妻なり。但田村大孃には繼母(807)とおぼゆ。系圖にて示さば左の如し
         田村大孃
 宿奈麻呂
 坂上郎女――――坂上大孃〔宿奈麻呂から田村坂上兩大孃に斜線あり〕
 宿奈麿は元暦校本卷二大津皇子宮侍石川女郎贈2大伴宿禰宿奈麻呂1歌一首の小註に
  宿奈麻呂宿禰者大納言兼大將軍卿之第三子也
とあり。大納言兼大將軍卿は即安麻呂なれば此説によれば宿奈麿と坂上郎女とは兄弟なり。上代は異母兄弟の相婚を忌まざりしかど(郎女の母は卷三及卷四の左註【五六三頁七五四頁】によれば石川内命婦なり。宿奈麿の母は詳ならず)なほ疑なきにあらず。古寫本の註文は打任せて信ずべきものにあらねばなり
  大伴坂上郎女は藤原朝臣麻呂と大伴宿禰宿奈麻呂といづれにさきに嫁せしか
 此卷大伴郎女和歌四首の左註(六五六頁)に
(808)  右郎女者佐保大納言卿之女也。初嫁2一品穗積皇子1被v寵無v儔而皇子薨之後時藤原麻呂大夫娉v之郎女〔二字左△〕焉
とあり。されば大伴坂上郎女は大伴宿奈麿の外に藤原麻呂にも嫁せしなり。其先後は如何
 鹿持雅澄の萬葉集人物傳には大伴坂上郎女の下に
  初一品穗積皇子にめされ皇子薨賜へる後藤原朝臣麻呂の妻となりて幾程なく麻呂みまかられければ大伴宿奈麿に再嫁て田村大孃坂上大孃など生たり
といへり(田村大孃は坂上郎女の所生にあらじ)。案ずるに穗積皇子の薨ぜしは靈龜元年七月藤原朝臣麻呂の薨ぜしは天平九年七月にて相距たる事二十二年なり。されば人物傳に『幾程なく麻呂みまかられければ』といへるは非なり。さて天平九年に麻呂の薨ぜし後大伴宿奈麿に嫁せしなりとせむか。宿奈麿との間に生みし坂上大孃同二孃の長じて人に嫁せむははやくとも天平勝寶の中比ならざるべからず
 こゝに卷八に坂上大娘秋稻※[草冠/縵]贈2大伴宿禰家持1歌などありて左註に右三首天平十一年己卯秋九月往來とあり。坂上郎女もし藤原麻呂の薨ぜし後に大伴宿奈麿に嫁(809)せしならむには、たとひ前夫のうせし年に後夫に嫁し其翌年に大孃を生むとも天平十一年には大孃僅に二歳なれば右の左註と合はず
 然らば郎女の大伴宿奈麿に嫁せしは藤原麻呂に嫁せしより前なるか。果して然らば上に擧げたる左註に皇子薨之後とある次に嫁2大伴宿奈麻呂卿1卿卒之後などいふこと無かるべからず。又彼左註に皇子薨之後時藤原麻呂大夫娉v之郎女〔二字左△〕焉とある後時のつづき穩ならず。おそらくは
  皇子薨之後嫁2大伴宿奈麻呂卿1卿卒之後寡居經v年〔嫁から一六字傍点〕
などありしがおちたるならむ。さて宿奈麿の卒せしはいつにか明ならねど(續紀に此人の事の見えたるは神龜元年二月までなり)おそらくは天平二年以前なるべし。何故にかくはいふぞと云はむに卷六によれば天平二年には郎女太宰府なる兄大伴旅人の許にあり。夫をもたる婦人の獨遠國に下りて長く留る事あるべくもあらねば此時は宿奈麿に死別して寡居せし程なるべし。太宰府にて大監大伴百代にこひられし(六八二頁)も當時寡婦なりし傍證とすべし
 或はいはむ。太宰府よりの歸路にて郎女のよみし歌に吾戀ノ千重ノ一重モナグサ(810)メナクニといひ吾背子ニコフレバクルシ暇アラバヒロヒテユカム戀ワスレ貝とあればなほ夫ありしにあらずやと。答へて云はむ。初の歌は寧樂なる幼兒をこひしにてもあるべく後の歌は後れて筑紫を立たむとせる兄をこひしにてもあるべし。ワガセコといふは夫に限らず。たとへば卷六なるおなじ人の歌にワガ背子ガ着ル衣ウスシとあるは姪家持を指し卷二(一五五頁)なる大伯《オホク》(ノ)皇女の御歌にワガセコヲヤマトヘヤルトとあるは御弟大津皇子を指したまへるなり
 右にいへる如くなれば卷三(四六四頁)祭神歌(天平五年冬十一月作)なる君ニアハジカモは藤原麻呂を戀ひたるなり。此卷なる怨恨歌(七一七頁)も同じ人におくれるに似たり
 因にいふ。難波江卷七下(百家説林續篇下一の八三二頁)に『宿奈麿は藤原麻呂大夫とも云ふか』といひ『大伴宿奈麿即藤原麻呂大夫』といへるは輕率なる推定なり。續紀を見よ。藤原麻呂は不比等の弟四子にて大伴宿奈麿とは閲歴も全く異なるをや。又いふ。すべて草稿といふものは思寄れるまゝにいまだよく考へぬ事をも記しおくものなれば岡本保考の如き學者にも右の如き失錯はあるなり。故人の草稿をさなが(811)らに公刊するは一種の罪惡なり。愼まざるべからず
 
   大伴坂上郎女從2竹田庄1贈2賜女子大孃1歌二首
760 うちわたす竹田の原になくたづのまなく時なしわがこふらくは
打渡竹田之原爾鳴鶴之間無時無吾戀良久波
 卷八に大伴坂上郎女竹田庄作歌及大伴家持至2姑坂上郎女竹田庄1作歌あり。跡見庄の外にこゝにも別業ありしなり。大和志料(下卷一三六頁)にいはく
  竹田 東西二處あり。東竹田は耳成村に屬し西竹田は平野村の大字たり
と。彼郎女の歌にコモリクノハツセノ山ハイロヅキヌなどあれば耳成村のうちなる東竹田の方なるべし。ウチワタスは前方ニミユルといふ事。上三句は序なり
 
761 早河のせにゐる鳥のよしをなみおもひてありし吾兒はもあはれ
早河之湍爾居鳥之縁乎奈彌念而有師吾兒羽裳※[立心偏+可]怜
 初二は序なり。早河はいづくのにてもあるべし。いま寺川といふ川、東竹田を貫きたれどそれにはあらじ。契沖の云へる如く早河の瀬にゐる鳥はよりどころなければ(812)ヨシヲナミの序とせるなり。さて略解に『我子の便なきに譬ふ』といへるは非なり。オモヒテアリシと過去にいへるをいかで今便なくてある事とはすべき。案ずるにヨシヲナミはスベナサニなり。上(七八〇頁)なる家持のココロニハオモヒワタレドヨシヲナミヨソノミニシテナゲキゾワガスルのヨシヲナミに同じ。三四の句は坂上郎女が故ありて娘をあとに殘して坂上の家を出でし時の事を云へるなり。さればヨシヲナミは引止メムヨシヲナミにてオモヒテアリシは物思ヲシテアリシなり。郎女が跡見庄より大孃に贈りし歌に常世ニトワガ行カナクニ小金門ニモノガナシラニ思ヘリシ吾兒ノ刀自ヲ云々、と云へるを參看すべし。ハモは目前に無きものを慕ふ意のテニヲハなり
 
   紀女郎贈2大伴宿禰家持1歌二首【女郎名曰小鹿也】
762 かむさぶといなにはあらず八△也多八〔二字左△〕《ハタヤハタ》かくしてのちにさぶしけむかも
神左夫跡不欲者不有八也多八如是爲而後二佐夫之家牟可聞
 カムサブトは年タケヌトテなり。初二の間に君ニ逢ヒソムル事ハといふことを挿(813)みて聞くべし(以上契沖の説による)。第三句を宣長は八多也八多の誤とせり。ハタヤハタはただハタと云はむを強く云ひたるにてシカシ又など譯すべし。カクシテはシカシテなり。カクとあれば既に逢ひぬるやうに聞ゆれど逢ひぬる後の歌とすればカムサブトイナニハアラズとあると相副はず。今ならばシカといふべきを集中にはカクといへる例あり(七三四頁及七八六頁參照)。されば今はシカ逢ヒテと譯すべく下なるウヅラナクフリニシ里ユオモヘドモといふ歌を見ても此時未逢はざりし事を知るべし。サブシケムはサブシカラムにてそのサブシは面白からぬ事。四五の間〔日が月〕に神サビタルヲイトハレナドシテといふことを補ひて心得べし。紀女郎は市原王の父安貴王のもとの妻なりといへば家持よりは年遙に長けたりけむ
 
763 玉の緒を沫緒によりてむすべればありてのちにもあはざらめやも
玉緒乎沫緒二※[手偏+差]而結有者在手後二毛不相在目八方
 略解に
  アワ渚は後に訛りてアハビ結ビ又アハヂ結ビなどいへり。玉ノ緒ヲヨリテアワ緒ニ結ビタレバといふ也
(814)といひ藤井高尚の伊勢物語新釋に
  アワヲはアワといふ結の名なり。後にアワビムスビ、アハヂムスビなどいふは此アワムスビをよこなまれるなるべし。此歌の上の句、玉ノ緒ヲヨリテアワ緒ニムスベレバといふ意に見るべし
といへり。案ずるに此等の説皆非なり。玉緒は壽命といふことなり。壽命を玉緒といふについて玉緒トイフ緒ヲ沫緒ニヨリテ結ブといへるなり。沫緒はくはしくは今は知りがたけれど縒方についての名とおぼゆ。結方についての稱にあらじ。もし結方についての稱ならば玉ノ緒ヲアワ緒ニムスブとこそいふべけれ。アワ緒ニヨリテとは云ふべからず。略解、勢語新釋などにアワヲニとヨリテとを下上して玉ノ緒ヲヨリテアワ緒ニムスビタレバの意とせるは右の矛盾に安んぜざればなり。然ももしさる意ならば初より玉ノ緒ヲヨリテアワ緒ニムスベレバとこそいふべけれ。何ぞまぎらはしく沫緒ニヨリテ結ベレバと云はむ。殊にまさしく(アワ結とはあらで)アワ緒とあるをいかでか結の事とせむ。さるを前人が結の事とせるは貫之の歌、枕草子の歌などにまどはされたるなり。其歌どもの事は後にいふべし。さて沫緒の(815)さまは既に云へる如く詳には知りがたけれど世の常の緒とはちがひて結びては解け難きなるべし。今は我玉ノ緒ハ沫緒ニ縒リテ結ビ固メタレバといへるにてやがて我ハ長命スル筈ナレバと戲れ云へるなり。拾遺集貫之の歌に
  春くれば瀧のしらいといかなれや結べどもなほあわにみゆらむ
といひ枕草子に
  うす氷あわにむすべる紐なればかざす日影にゆるぶばかりぞ
とあるはアワニヨルとはあらでアワニムスブとあり。又強く固き意ならで弱くはかなき意なれば今の歌のアワ緒とは更に相與からず。彼と是とを一つにするはあまりにをさなし。又山彦冊子、片廂などにこのアワ緒を魂しづめの事に結び附けたるは牽強傅會にて辨ずるに足らず(再案ずるにアワは緩き意か。絲又は紐を緩く結べるはもとより解けやすく緩く縒りたる緒を結べるはなかなかに解けがたきものなり)〇一首の意は我ハ長命スル筈ナレバ今日逢ハズトモ他年逢フ事モアルベシといへるなり
 
   大伴宿禰家持和歌一首
(816)764 ももとせにおい舌いでてよよむともわれはいとはじこひはますとも
百年爾老舌出而與余牟友吾者不厭戀者益友
 古義に『カムサブト云々と云るにこたへたり』といへれどカムサブト云々は現在の事をいひ玉ノ緒ヲ云々は末來の事を云へるなれば此歌は寧タマノヲヲ云々にこたへたる歌とすべし。モモトセニのニはトに通ふニなり。畢竟百歳ニナリテといふ意なり。第二句は老人の齒の無ければ物言ふとて口中に舌の見ゆるを云へるなるべし。イデテとあるに拘泥すべからず。ヨヨムは老人の言語の不明なるをいふなるべし。結句はムシロ戀ヒ増ストモとなり
 
   在2久邇(ノ)京1思d留2寧樂(ノ)宅1坂上(ノ)大孃u大伴宿禰家持作歌一首
765 ひとへ山へなれるものをつく夜よみ門にいでたち妹かまつらむ
一隔山重成物乎月夜好見門爾出立妹可將待
 聖武天皇の都を山城國相樂郡|恭仁《クニ》に遷し給ひしにつきて家持は恭仁にゆき妻はなほ寧樂に留りしなり。恭仁は奈良の北方にありて大和山城國境の山に隔てられたり。ヘナレルはへダタレルなり。略解に『山を隔てゝ住めばたやすく通ひがたきを』
(817)と釋ける如し
 
   藤原郎女聞v之即和歌一首
766 路とほみこじとは知れるものからにしかぞまつらむ君が目をほり
路遠不來常波知有物可良爾然曽將待君之目乎保利
 藤原郎女は恭仁宮の宮女なるべし。古義に
  藤原郎女は藤原朝臣麻呂の子にて母は坂上郎女なるべし。さて藤原郎女と呼なせるならむといへり。さらば坂上大孃には異父姉なり
といへれど坂上郎女の藤原麻呂に嫁せしは大伴宿奈麻呂に嫁せしより後なれば(八〇七頁參照)藤原郎女もし坂上郎女の娘ならば坂上大孃には異父妹なり。否坂上郎女が藤原麻呂に嫁せしは天平三年より後とおぼゆるに(郎女天平二年十一月に太宰府を發して京に上りし由卷六に見えたり)都を恭仁に遷されしは同十二年十二月なれはたとひ坂上郎女と藤原麻呂との間に女兒ありとも此時いまだ歌をよむには至らじ
 二三はコジトハ知リナガラといふ意。シカゾはサヤウニゾにて即月夜ヨミ門ニイ(818)デタチなり。略解に『サゾといふに同じ』といへるは非なり。君ガ目ヲホリは記傳卷二十六(全集第二の一五七八頁)に『目は所見《ミエ》のつづまれるにて君ガミエムコトヲ欲《ホル》と云意なり』といへり。畢竟君ニ逢ヒタガツテといふ意なり
 
   大伴宿禰家持更贈2大孃1歌二首
767 都路をとほみや妹がこのごろはうけひてぬれどいめにみえこぬ
都路乎遠哉妹之比來者得飼飯而雖宿夢爾不所見來
 都路は久邇の京にかよふ道なり。トホミヤは遠ケレバニヤにてそのヤはコヌにて結べり。ウケフは神に祈る事。第四句を初にめぐらして心得べし
 
768 今しらす久邇のみやこに妹にあはず久しくなりぬゆきてはやみな
今所知久邇乃京爾妹二不相久成行而早見奈
 初二は久邇ノ新京ニといふことなり。今シラスの今は雅澄のいへる如く新ニの意なり。ミヤコニは都ニテにて久シクナリヌにかゝれり。見ナは見ムなり
 
   大伴宿禰家持報2贈紀女郎1歌一首
(819)769 (ひさかたの)雨のふる日をただひとり山邊にをればいぶせかりけり
久堅之雨之落日乎直獨山邊爾居者欝有來
 山邊は鹿背山の邊なり。イブセシはウツトシといふこと。此時新京いまだ成りとゝのはず。げにかゝる情も起りけむかし
 
   大伴宿禰家持從2久邇京1贈2坂上大孃1歌五首
770 人めおほみ不相《アハザル》のみぞこころさへ妹を忘れてわがもはなくに
人眼多見不相耳曾情左倍妹乎忘而吾念莫國
 不相を舊訓にアハザルとよめるを古義にアハナクに改めたり。アハナクはアハヌの延言なり。世人は一般にアハザルとアハヌとを混同したれど兩者の間には差別あることなり。即アハヌは辭のまゝなれどアハザルはアハズアルの約なればただアハヌといふとは異なり。なほアフとアヘルとの異なる如し。而してアハザルの代にアハヌとはいふべくアハヌの代にアハザルとは云ふべからず。今は元來アハザルとあるべく、もし言數餘る時はアハヌとのみ云ふ事も許さるれど言を延べてま(820)でアハヌといはざるべからざる道理なし。されば今は舊訓に從ひてアハザルとよむべし。ワスレテモハナクニは忘レヌニといふことなり。ワスレメヤといふべきをワスレテモヘヤといへる類なり(一〇九頁及一二五頁參照)
771 偽も似つきてぞするうつしくもまこと吾妹兒われにこひめや
偽毛似付而曾爲流打布裳眞吾妹兒吾爾戀目八
 以下四首坂上大孃を恨むることありてよめりと見ゆ。初二は契沖の説に『偽をいふにも似つかはしき事をするなり』と云へる如し。古義に『似モツカヌ偽ヲスル妹ニテモアル哉と云ふべきを倒語にいへるなり』と云へるは非なり。おもふにイツハリモ似ツキテゾス ルは當時行はれし諺なり○ウツシクは古事記に宇都志伎青人草とあり又宇都志意美とあり。ウツシキ青人草とは目に見えぬ神に對してあらはれたる世人をいひウツシオミとはウツシキ御身といふことにて一言主大神の姿を現し給へるを見て雄略天皇の宣ひし辭なり。さればこゝのウツシクは實際ニなど譯すべし
 
772 いめにだに將所見《ミエナム》とわれは保〔左△〕杼毛《ウケヘドモ》友〔□で圍む〕不相《アヒオモ》志〔□で圍む〕思△《ハネバ》うべみえざらむ
(821)夢爾谷將所見常吾者保杼毛友不相志思諾不所見武
 第二句の將所見は從來ミエムとよめれど希望の辭とおばゆればミエナムとよまではかなはず。保杼毛友の友は衍字、保は誤字なるべし。訓は古義にいへる如くウケヘとあるべし。不相忘思は宣長の説に志は者の誤にて不相思者を下上に又誤れるかといへり。さらばアヒオモハネバ又はアヒモバザレバとよむべし(桂宮本には思の下に者の字あり)
 
773 ことどはぬ木すらあぢさゐ諸茅等之練乃村戸二あざむかえけり
事不問木尚味狹藍諸弟〔左△〕等之練乃村戸二所詐來
 何の事とも解しがたし。契沖の説に
  古人二首を以て一意を云へる事多ければ此歌は次の歌を云はむ爲なるべし
といへり。案ずるに何にか傳説あるに據りてよめるにて練乃村戸二は練乃言羽二の誤、そのネリはオモネリのネリにあらざるか。又木スラアヂサヰ諸茅ラノは木スラ紫陽花及諸茅ラノといふ意か
 
(822)774 百千たびこふといふとも諸茅等が練のことば志〔左△〕《ハ》われは不信《タノマジ》
百千遍戀跡云友諸茅等之練乃言羽志吾波不信
 略解に不信をタノマズとよめるはわろし。契沖の云へる如くタノマジとよまではイフトモと相副はず。志の字元暦校本等に者とあり
 
   大伴宿禰家持贈2紀女郎1歌一首
775 (鶉なく)ふりにしさとゆおもへどもなにぞも妹にあふよしもなき
鶉鳴故郷從念友何如裳妹爾相縁毛無寸
 ウヅラナクは枕辭。フリニシサトユは故郷ニアリシ時ヨリといふ意。久邇の京にてよめるなれば寧樂をフリニシサトといへるなり
 
   紀女郎報2贈家持1歌一首
776 ことでしはたがことなるか小山田の苗代水の中よどにして
事出之者誰言爾有鹿小山田之苗代水乃中與杼爾四手
 契沖いはく
(823)  一二の句は戀シキ由云ヒソメタルハ何レヨリゾ、君ガ先立チテ云ヘルニハアラズヤなり
といひ略解古義共に此説を採れり。案ずるにコトデシは言ニイデシにてその言ニイデシは集中にコトニイデテイハバユユシミ、古今集にコトニイデテイハヌバカリゾなどありて口ニ出シシといふことなり。神代紀の先言(コトサキダツ)をコトデシテとよめる一説ありともそを證としてコトデに先だち言ふ義ありとはすべからず。又第二句を諸註にタレナルゾの意としたれど、もしさる意ならばタレナルカとこそいふべけれ。タガコトナルカといへる、コトといふこと餘れり。案ずるにタガコトナルカはタガ上ナルカといふ意なり〇三四はナカヨドの序なり。ナカヨドニシテは一タビタユミナガラとなり。タエヌ使ノヨドメレバ(七四一頁)ワレハヨドマズ君ヲシマタム(卷五)などのヨドムと同意なり。上(八一二頁)なる贈答によれば家持は寧樂にてはやく此女を思ひかけしなり。さて久邇の新京に假住ひせしほど此女も供奉したりしかばウヅラナクなど再なまめきたることをいひおこせしかばそれに答へて一タビタユミナガラ『アフヨシモナキ』ナド今更言ニ出デテノタマフハ(824)タガ上ナルカ、ヨモ我事ニアラジといへるなり
 
   大伴宿禰家持更贈2紀女郎1歌五首
777 わぎもこがやどの※[竹冠/巴]をみにゆかばけだし門よりかへしなむかも
吾妹子之屋戸乃※[竹冠/巴]乎見爾往者蓋從門將返却可聞
 五首のうち第一は第二と、第三は第四と關聯せり○※[竹冠/巴]の字諸本に籬とあり○此時女郎始めて新京に家を造りしなり。さるによりてマガキヲ見ニユクといへるなり。契沖が『此をりふし郎女が家の損じたる處などつくろひたるなるべし』といへるは非なり。ケダシは或ハなり
 
778 うつたへにまがきのすがた見まくほりゆかむといへや君をみにこそ
打妙爾前垣乃酢堅欲見將行常云哉君乎見爾許曾
 ウツタヘニはヒタブルニなり(六四六頁參照)。マガキノスガタは籬の恰好なり。古義に※[竹冠/巴]の草木のすがたと釋せるは非なり。ユカムトイヘヤはユカムトイハメヤにてそのイフは輕く添へたる辭なり。さればユカムトイヘヤはユカメヤに齊し(卷二【二二(825)一頁】アリトイハナクニ參照)〇一首の意は『ヤドノマガキヲ見ニユカム』ト云ヒツレド專籬ノサマヲ見ニ行カムヤ、君ヲ見ニコソ行カメとなり
 
779 いたぶきの黒木の屋根は山ちかし明日《アスノヒ》とりて持將參來《モチマヰリコム》
板蓋之黒木乃屋根者山近之明日取而持將參來
 イタブキは板屋、クロ木は皮つきの木なり。屋根ハは第四句に續けるなり。山チカシにつづけるにあらず。明日の二字は古義に從ひてアスノヒとよむべし。結句も古義にモチマヰリコムとよめるに從ふべし○第三句は辭つまりたれど幸ニ山ガ近イカラといふ意と見るべし。山は鹿背山なり。初二は板ブキノ屋根ノ黒木ハとありしを下上に誤れるにあらざるか
 
780 黒木とり草《クサ》もかりつつつかへめど【一云つかふとも】いそしき知〔左△〕氣《ワケ》とほめむとも不在《アラズ》
黒樹取草毛刈乍仕目利勤知氣登將誉十方不在【一云仕登母】
 草とあるは薄にて常にはクサとよみ屋根を葺く料なる時はカヤとよむ習なり。さてこゝの草の字を舊訓にカヤとよめるを古義にクサに改めて『板ぶきなれば草は(826)屋根葺く料にはあらじ。蔀或は壁代などにすべて草を用ひしこと古書にあまた見えたれば其料なるべし』といへり。今も竹の乏しき地方にては壁下地のこまひに薄を用ふとぞ(西遊記續篇卷二の五丁參照)○知氣は考に和氣の誤とせるに從ふべし。イソシキワケは勤勉ナル奴といふこと(六七六頁參照)。ツカヘメドは仕ヘム、サレドなり。不在は舊訓にアラズとよめるを雅澄のアラジと改めたるは何の意なるかを知らず(一云の方に從はばこそアラジとはよむべけれ)
 
781 (ぬばたまの)昨夜《きそ》はかへしつこよひさへわれをかへすな路の長手を
野干玉能昨夜者令還今夜左倍吾乎還莫路之長手呼
 昨夜は契沖のキソとよめるに從ふべし。略解にヨベとよみたれどヨベは新しくて當時の物に例なし。さてキソは卷二(二〇一頁)に君ゾ伎賊乃夜《キソノヨ》イメニミエツルとあるを見ればただ昨日といふ意にて夜の意は無きが如くなれど今の歌につきて見るに、もし昨夜の意にあらずばヌバタマノといふ枕辭を冠らすべからず。卷十四(東歌)に
  うちひさつ〔右△〕みやのせがはのかほばなのこひてかぬらむ伎曾もこよひも
(827)  ひたがたのいそのわかめのたちみだえわをかまつなも〔二字右△〕伎曽もこよひも
  伎曾こそは子ろとさねしかくものうへゆなきゆくたづのまどほくおもほゆ
  おしていなといねはつかねどなみのほのいたぶらしもよ伎曾ひとりねて
とあるも皆昨夜の意なり。さればキソといひて既に昨夜の意なるをキソノ夜とも云ひしなり。仁コ天皇紀に
  復當2昨日臣妻産時1鷦鷯入2于産屋1
とある昨日の傍訓にキスとあれどこは後人の加へたるものなれば證とはし難し○ナガテのテはやはり道といふことにてミチノナガテは熟語なり(六六四頁參照)。ナガテヲのヲはヨリのヲなり
 
   紀女郎裹v物贈v友歌一首【女郎名曰小鹿】
782 風たかくへには雖吹《フケドモ》妹がため袖さへぬれてかれる玉藻ぞ
風高邊者雖吹爲妹袖左倍所沾而刈流玉藻烏
 人に物を贈るとてそを獲るに骨折れし趣にいふはいにしへの習なり。雖吹を略解古義にフケレドとよめるはわろし。舊訓の如くフケドモとよむべし。正しく云はば(828)フキシカドなり。袖サヘは裳にむかへて云へるなり○風タカクとあるはいかが。波タカク邊ニハタテドモとか風アラク邊ニハフケドモとかあるべきなり○烏は焉の俗體なり
 
   大伴宿禰家持贈2娘子1歌三首
783 をとどしのさきつ年よりことしまでこふれどなぞも妹にあひがたき
前年之先年從至今年戀跡奈何毛妹爾相難
 初二はハヤクヨリといふ意のみ
 
784 うつつにはさらにも不《イ》得〔□で圍む〕言《ハズ》いめにだに妹がたもとをまきぬとし見ば
打乍二波更毛不得言夢谷妹之手本乎纏宿常思見者
 不得言の得は契沖のいへる如く衍字なり。不言はイハズとよむべし。イハジとはよむべからず。ウツツニ逢ハムハ言フモ更ナリと云へるなり。結句の次にウレシカラマシといふことを補ひて聞くべし
 
785 わがやどの草の上白くおく露の壽〔左△〕《ミ》もをしからず妹にあはざれば
(829)吾屋戸之草上白久置露乃壽母不有情〔左△〕妹爾不相有者
 上三句は序なり。壽は宣長の説に身の誤ならむといへり。上(七五七頁)にもおなじ誤あり。イノチとよみては九言になりて調よろしからず○情は惜の誤なり
 
   大伴宿禰家持報2贈藤原朝臣久須麻呂1歌三首
786 春の雨はいやしきふるに梅の花いまださかなくいとわかみかも
春之雨者彌布落爾梅花未咲久伊等若美可聞
 題辭に報贈とあればとて必贈歌のありしがおちたるなりとは思ふべからず。又輕輕しく報を衍字とは定むべからず。集中報贈とありて贈歌を載せざるものゝうちには歌ならで書状を受けてそれに答へたるもあるべし○イヤシキフルはフリツヅクなり。サカナクはかゝる處にてはサカヌ事ヨといはむばかりの調なる事既に云へる如し。又ニを添へてナクニともいへり○契沖いはく
  此三首より、下の久須麻呂の報贈の歌までを通はし見るに久須麻呂の家に童女の有を家持の思ひ懸て其由を久須麻呂へ讀てつかはされたりと見ゆ。此つづき(830)天平十二三年までの歌と見ゆれば久須麻呂の娘には有べからず
といひ略解古義共に之に從ひ略解には久須麻呂の妹などなるべしと云へり。さるにこゝに一つの不審あり。そは久須麻呂の來報歌に
  春雨をまつとにしあらしわがやどの若木の梅もいまだふふめり
とある事なり。もし前註に云へる如くただ久須麻呂の家なる童女を梅にたとへて家持のウメノ花イマダサカナクイト若ミカモと云へるならば久須麻呂の答歌にはワガヤドノ若木ノウメハ〔右△〕とあるべくウメモ〔右△〕とはいふべからず。よりて案ずるに家持の歌は未開の梅花を折りてそれに添へて贈りしにて無論下の心は久須麻呂の家なる童女の事を云へるなれど歌の表にては其梅花の事を云へるにてコレ御覧ナサイ、マダサキマセヌといへるなるべく久須麻呂はその下の心をくみとりて私方ノ若木ノ梅モ〔右△〕マダ莟デゴザイマスと云へるなるべし
 
787 いめのごとおもほゆるかもはしきやし君が使のまねくかよへば
如夢所念鴨愛八師君之使乃麻禰久通者
 マネクは度々なり。アマリノウレシサニ現ノ事ナラズオボユといふ意にや
 
(831)788 うらわかみ花さきがたき梅をうゑて人のことしげみおもひぞわがする
浦若見花咲難寸梅乎殖而人之事重三念曾吾爲類
 梅ヲウヱテは女ヲ思ヒカケテといふをよそへたるなり。人ノコトシゲミは人ガ彼是ト噂ヲスルノデといふこと。オモヒゾワガスルは上(八一一頁)なるオモヒテアリシ吾兒ハモアハレなどと同例にてワガ物思ヲスルとなり
 
   又家持贈2藤原朝臣久須麻呂1歌二首
789 こころぐくおもほゆるかも春霞たなびく時にこと之《ノ》かよへば
情八十一所念可聞春霞輕引時二事之通者
 之を舊訓にノとよめるを略解にシに改めたるはかへりてわろし。ココログクは上(七九二頁)にも見えたり。懊悩の意なるべし。コトノカヨフとはおとづれのあるをいふ
 
790 (春風の)おとにしでなばありさりて今ならずとも君がまにまに
(832)春風之聲爾四出名者有去而不有今友君之隨意
 初句は枕辭なり。オトニイヅルは上なるコトデシハのコトデと同じく口に出して言ふ事、アリサリテは時ヲ經テといふ意なり。彼童女ヲ我ニ逢ハセムトダニ言擧シタマハバ時ハイツナリトモ君ノ御心ニ任セムといへるなり
 
   藤原朝臣久須麻呂來報歌二首
791 奥山のいはかげにおふる菅の根のねもころ吾もあひもはざれや
奥山之磐影爾生流菅根乃懃吾毛不相念有哉
 上三句は序。アヒモハザレヤは相思ハザラメヤなり。ザラメヤをザレヤといふはなほ思ハメヤを思ヘヤといふが如し(六二九頁參照)○古義に『これは童女の心にかはりてよめるなるべし』といへるは非なり
 
792 春雨をまつとにしあらしわがやどの若木の梅もいまだふふめり
春雨乎待常二師有四吾屋戸之若木乃梅毛未含有
 アラシはアルラシなり。君ノ見セ夕マヘル梅花ノ如ク我家ノ若木ノ梅モマダツボ(833)メリといひて童女のまだ世心づかざるにたとへたるなり
               (大正六年七月廿二日脱稿)
              2004年12月2日(木)午後9時、卷四入力終了
              2005年3月27日(日)午後4時、校正終了
 
(巻第五新製目録省略)
(839)  萬葉集新考卷五
                    井上通泰著
 
  雜歌
   太宰帥大伴卿|報《コタフル》2凶問(ニ)1歌一首
  禍故重疊、凶問累集、永懷2崩心之悲1、獨流2斷腸之泣1、但依2兩君大助1、傾命纔繼耳、筆不v盡v言、古今所v嘆
793 よのなかはむなしきものとしるときしいよよますますかなしかりけ
余能奈可波牟奈之伎母乃等志流等伎子伊與余麻須萬須加奈之可利家理
  神龜五年六月二十三日
(840) 太宰府にて妻を失ひし時人の弔ひしに答へたるなり。卷三なる神龜五年戊辰太宰帥大伴卿思2戀故人1歌三首、同じく天平二年庚午冬十二月太宰帥大伴卿向v京上v道之時作歌五首、還入2故郷家1即作歌三首、卷八なる式部大輔堅魚朝臣歌一首、太宰帥大伴卿和歌一首と見合すべし
 序なる兩君は弔ひおこせし人なり。但誰とも知られず
 初句の前に實際ニ當リテ、第四句の前にふたたびヨノナカハといふ辭を補ひて聞くべし
   ○
  蓋聞四生起滅、方2夢皆空1、三界漂流、喩2環不1v息、所以維摩大士在2乎方丈1、有v懷2染疾之患1、釋迦能仁坐2於雙林1、無v免2泥※[さんずい+亘]之苦1、故知二聖至極不v能v拂2力負之尋至1、三千世界誰能逃2黒闇之捜來1、二鼠競走、而度v目之鳥旦飛、四蛇爭侵、而過v隙之駒夕走、嗟乎痛哉、紅顏共2三從1長逝、素質與2四コ1永滅、何圖偕老違2於要期1、獨飛生2於半路1、蘭室屏風徒張、斷腸之哀彌痛、枕頭明鏡空懸、染※[竹冠/均]之涙逾落、泉門一掩、無v由2再見1、鳴呼哀哉
(841)  愛河波浪已先滅、苦海煩悩亦無v結、從來厭2離此穢土1、本願託2生彼淨刹1
 四生は胎卵濕化の四生類なり。起滅は生死なり。方夢皆空は夢ノ皆空シキニクラブとよみて空シキガ如シと心得べし。喩環不息は環ノ息マザルニタトフとよみて環ノ端ナキガ如シと心得べし○所以はソレユヱニとよむべし。方丈は十尺四方の室にて維摩《ユヰマ》大士即|淨名居士《ジヤウミヤウコジ》の居りし處なり。染疾は罹病なり○能仁は梵語なる釋迦の漢譯なり。雙林は沙羅雙樹林の略稱なり。泥※[さんずい+亘]《デイクワン》はナイヲンとも訓むべし。涅槃《ネハン》と同じく梵語の音譯なり。ネハンは即死なり〇二聖は維摩釋迦二人の聖人なり。二聖至極は二聖ノ至極ナルスラと訓むべきか。下なる思2子等1歌の序にも至極大聖とあり。力負は莊子大宗師篇に有v力者負v之而走とあるに據れるにて次なる黒闇と共に死を譬へたるなり。尋至はタヅネイタルとよむべし。次なる捜來に同じ〇二鼠は黒白兩鼠にて晝夜を譬へ、四蛇は地水火風に譬へたるにて共に經文中の語なり。度目之鳥は文選張景陽雜詩第二首の忽タルコト鳥ノ目ヲ過グル如シに據り過隙之駒は莊子の知北遊篇に人、天地ノ間ニ生クル、白駒ノ郤《ヒマ》ヲ過グル若ク忽然タルノミといひ漢書張良傳に人、一世ノ間ニ生クル白駒ノ隙ヲ過グル如シと云へるに據れるなり。(842)且飛夕走は互文なり。畢竟光陰ハ鳥ノ目ヲ度リテ飛ビ駒ノ隙ヲ過ギテ走ル如シと云へるなり〇三從は從父、從夫、從子なり。四コは文選なる後漢書皇后紀論に九殯掌v教2四コ1とあり。婦コ、婦言、婦容、婦功をいふ。又四教といへり○素質は白肌なり。洛神賦にも白き肌のあらはれたるを皓質呈露といへり○要期は所期なり。獨飛生2於半路1は中年にして偶を失ひたる事を鳥に譬へたるなり。此句は潘安仁の悼亡詩に如2彼|翰《トブ》v林鳥、雙棲一朝隻1とあるに倣へるか。生はオコルと訓むべきか○蘭室はカグハシキ室にて即閏なり。染※[竹冠/均]之涙は舜の妻が夫に後れて其ナミダ、竹を染めて所謂斑竹を生じきといふ故事に依れるなり。夫が妻を失ひしには適當せざれど、しばらく偶ヲ失ヒシ涙と心得べし。※[竹冠/均]《キン》は竹に同じ。泉門は冥途の人口なり
 愛河苦海は共に經文の語なり。愛は人之に溺るるが故に河に譬へたるなり。文選なる頭陀寺碑文にも愛流成v海情塵爲v岳とあり。亦はナホと心得べし。無結は無終にていまだ終に到らざるなり。結はトヂメとよむべし○厭離穢土も經文の語にて欣求《ゴング》淨土の對文なり。本願はモトヨリネガフと訓むべし。淨刹《ジヤウセツ》は即淨土なり。託は托の通用なり。托生は淨土に生れて身を蓮花に托するなり○刹は音サツにて※[(黒+吉)/れっか]韻なれど、(843)いにしへ屑韻に通用せしか。刹那、刹帝刹、羅刹など皆セツと唱ふるを思ふべし。なほ通用の例あるべし
 
   日本挽歌一首
794 大王《おほきみ》の とほの朝庭《ミカド》と (しらぬひ) 筑紫(ノ)國に (なく子なす) したひきまして いきだにも いまだやすめず 年月も 伊摩他〔二字左△〕《イクダモ》あらねば こころゆも おもはぬあひだに うちなびき △△《ヤミ》こやしぬれ いはむすべ せむすべしらに 石《イハ》木をも 刀此〔二字左△〕《ユキ》さけしらず いへならば かたちはあらむを うらめしき いものみことの あれをばも いかにせよとか (にほ鳥の) ふたりならびゐ かたらひし こころそむきて いへさかりいます
大王能等保乃朝庭等期〔左△〕良農此筑紫國爾泣子那須斯多比枳摩斯提伊企陀爾母伊摩陀夜周米受年月母伊摩他阿良禰婆許許呂由母於母波奴阿此陀爾宇知那此枳許夜斯努禮伊波牟須弊世武須弊斯良爾石木乎母刀(844)比佐氣斯良受伊弊那良婆迦多知波阿良牟乎宇良賣斯企伊毛乃美許等能阿禮乎婆母伊可爾世與等可爾保鳥龍布多利那良批爲加多良此斯許許呂曾牟企弖伊弊社可利伊摩須
 反歌の後に筑前國守山上憶良上とあれば前なる詩も此長歌も共に憶良の作なり。さて之を日本挽歌といへるは前なる詩に對して云へるなり
 トホノミカドは卷三にオホキミノトホノミカドトアリガヨフ島門ヲミレバ神世シオモホユとあり。遠國の朝廷といふことにて即太宰府なり。ミカドトのトはトシテなり○イキダニモイマダヤスメズは到りて間〔日が月〕の無き事を極端にいへるなり。卷十七なる家持の長歌にもイキダニモイマダヤスメズ年月モイクラモアラヌニとあり○伊摩他アラネバのアラネバはアラヌニなり。雅澄はイマダアラネバにては言足らずとして
  故案ふにもとは伊久陀毛とありしなるべきを上の伊摩陀ヤスメズの伊摩陀に見まがへて寫誤れるなるべし
と云へり。此説よろし。イクダモはイクバクモなり○ココロユモオモハヌアヒダニ(845)は略解に『心ヨリモ也。オモヒカケズの意也』といひ古義に『從v心モなり。心ノ裏ヨリモといはむが如し』とありて兩者の説一致せず。案ずるにココロユのユはニにかよふユにてココロユオモフはココロニオモフといふ事なり。漢文に竊惟といふ義なり。ココロノウチヨリ思フといふ意にあらず。さればココロユモオモハズはオモヒモカケズといふ意に落つるなり(卷四【六二〇頁及七一二頁】參照)○ウチナビキは横になるをいふ。コヤシヌレと五言に云へるは調よろしからず。略解には『レの下バの字おちたるなるべし』といへれど古義に云へる如く古格にてはかゝる處にバの辭を加へず。おそらくはコヤシヌレの上にヤミなどいふ語のおちたるならむ。さてコヤスは臥すことなればヤミコヤシヌレは病臥シヌレバにて死ぬる事にはあらず。死ぬる事はあらはに云はで言外に匂はしたるなり○イハキヲモ刀比サケシラズを宣長は『トヒサケはことどひて思をはらしやる意なるべし』といへれどげにとはおぼえず。刀比は由伎などの誤にて妻を失ひし悲に魂うせて道の岩木をも行き避くる事を知らずといふ意なるべし。此句の次にイヘナラバ云々とあるを思へば此歌は送葬の時に作りしなり○イヘナラバカタチハアラムヲは宣長の説に『葬せずしてあらば(846)せめて屍なりともあらむにといふ也』といへり○ココロソムキテは心カハリテなり。古義に心ヲ背キテと譯したれどソムクは自動詞なればヲを略したるにあらず。略解には世ヲソムクといふに同じといへれど世ヲソムクのヲはかの道ヲユク、川ヲ流ルなどの類にてヨリのヲなればそを例としてココロヲソムクとは云ふべからず○イヘサカリイマスは葬らるゝをいふ。イマスは契沖の説の如く行の敬語なり。雅澄は居の敬語とせり。もし居の敬語とせば此歌は墓まうでのをりの作とせざるべからず。然るに雅澄は反歌の第一首の註に『葬送に行てかへるほどよめるなるべし』といひて其言矛盾せり
 
   反歌
795 いへにゆきていかにかあがせむ(まくらづく)つまやさぶしくおもほゆべしも
伊弊爾由伎弖伊可爾可阿我世武摩久良豆久都摩夜佐夫斯久於母保由倍斯母
(847) ツマヤは閨、サブシクはサビシクなり。略解に『葬送て歸るをりの歌なり』といへるよろし
 
796 はしきよしかくのみからにしたひこしいもがこころのすべもすべなさ
件之枝〔左△〕與之加久乃未可良爾之多此己之伊毛我己許呂乃須別毛須別那左
 ハシキヨシはカハユキにて妹にかゝれり。カクノミカラニはこゝにてはカクハカナキ契ナルニとなり(卷二【二〇九頁】參照)。スベモスベナサはイハムスベナサといふ意にて辭を重ねたるは意を強めたるなり。略解古義共にセムスベナサと譯せるは非なり
 
797 くやしかもかく△※《ト》しらませば(あをによし)くぬちことごとみせましものを
久夜斯可母可久斯良摩世婆阿乎爾與斯久奴知許等其等美世摩斯母乃(848)乎
 クヤシカモはクヤシキカモにおなじ。卷三(四二二頁)にもコゴシカモとあり。カクの下にトの言おちたりとおぼゆ。即カクト〔右△〕シラマセバとあるべし。アヲニヨシを契沖、眞淵、雅澄は寧樂の換語とし久老はアナニヤシと同意として『妹ノ切ニ思ヘル筑紫國といふ意にてクヌチに冠らせしにや』と云へり(久老の説は槻の落葉卷三別記に見えたり。略解には久老の説を引き誤れり)。案ずるに筑紫にてみまかりしに故郷なる寧樂の國内をことごとく見せましものをとはいふべきにあらず。さればクヌチは筑紫の國内なり。更に思ふに今コネルといふ語の古形クヌにて今は青土《アヲニ》ヲクヌとかゝれるにあらざるか(例は紀國の枕辭に麻裳ヨシ著とかゝれる)
 
798 いもがみしあふちのはなはちりぬべしわがなくなみだいまだひなくに
伊毛何美斯阿布知乃波那波知利奴倍斯和何那久那美多伊摩陀飛那久爾
(849) 略解に『奈良の家のあふちをよめるなるべし』といへるは第一首なるイヘニユキテの家を筑紫の館なりといへると矛盾せり。古義に云へる如く國府にて見しあふちなる事論なし。ミシはメデシなり
 
799 大野山きりたちわたるわがなげくおきそのかぜにきりたちわたる
大野山紀利多知和多流和何那宜久於伎蘇乃可是爾紀利多知和多流
  神龜五年七月二十一日筑前國守山上憶良上
 オキソはタメイキなり。カゼは氣なり。此歌と卷六なるヲノコヤモ空シカルべキ萬代ニカタリツグベキ名ハタテズシテといふ歌とを見れば憶良は寧樂時代の歌人の中にても殊にををしきさがなりけむ。其事蹟のくはしく傳はらず其歌の多く殘らざるは惜しとも惜しき事にこそ
 或人の説に右の長歌及短歌は憶良が旅人の妻の死を悲しみて作れるなりといへり。げに憶良は旅人の部下なる上共に太宰府にありしなれば旅人の妻のうせし時追悼の歌を作りて旅人に贈らむはあるべき事なり。されど此歌はそれにはあらでなほおのが妻のうせしを悼めるなり。或人は歌中に慕ヒ來マシテ、家サカリイマス(850)などあるをおのが妻のうせしを悼める歌にあらざる第一の證としたれど卷二なる柿本朝臣人麿妻死之後泣血哀慟作歌にもアサタチ伊麻之弖入日ナスカクリニシカバ、又或本ノ歌に灰ニテマセバとあり卷三なる大伴宿禰家持悲2傷亡妾1作歌にも家サカリ伊麻須ワギモヲとあれば或人の説は立ちがたし。進みて旅人の妻を弔へる歌にあらざる證を擧げむにまづ旅人の妻の死は契沖のいへる如く春夏の間とおぼゆるに同じ太宰府に住める憶良が七月二十一日に至りて始めて弔歌を贈るべきにあらず。次にアレヲバモイカニセヨトカといひ、家ニユキテイカニカアガセムといひ、妹ガミシアフチノ花ハチリヌベシアガナク涙イマダヒナクニといへる豈人の妻の死を悼める調ならむや。次にシラヌヒ筑紫ノ國ニ、ナク子ナスシタヒ來マシテ、息ダニモイマダ休メズ、年月モイクダモアラネバとあればうせし人は夫と共に下らで夫の跡より下りしなり。然るに卷三なる天平二年庚午冬十二月太宰帥大伴卿向v京上v道之時作歌に
  妹とこしみぬめの埼をかへるさに獨し見ればなみだぐましも
  ゆくさにはふたりわが見し此埼を獨すぐればこころがなしも
(851)とありて(五五二頁及五五三頁參照)旅人の妻大伴郎女は夫と共に筑紫に下りしなり。さればナク兒ナスシタヒ來マシテとある人は旅人の妻にあらず。從ひて此日本挽歌は詩と共に舊説の如く憶良が其妻の喪を悲しみし作とすべし
 
   令v反2惑情1歌一首并序
  或有v人、知v敬2父母1忘〔左△〕2於侍養1、不v顧2妻子1輕2於脱※[尸/徙]1、自稱2畏〔左△〕俗先生1、意氣雖v揚2青雲之上1、身體猶在2塵俗之中1、未v驗2修行得道1之聖、蓋是亡2命山澤1之民、所以《ソレユヱニ》指2示三綱1更開2五教1遺v之以v歌令v反2其惑1、歌曰
800 父母を みればたふとし 妻子《メコ》みれば めぐしうつくし よのなかは かくぞことわり (もちどりの) かからはしもよ ゆくへしらねば 
うけぐつを ぬぎ△《ウ》つるごとく ふみぬぎて ゆくちふひとは いはきより なりでしひとか なが名のらさね あめへゆかば ながまにまに つちならば 大王《オホキミ》います このてら(852)す 日月のしたは あまぐもの むかぶすきはみ たにぐくの さわたるきはみ きこしをす くにのまほらぞ かにかくに ほしきまにまに しかにはあらじか
父母乎美禮婆多布斗斯妻子美禮婆米具斯宇都久志余能奈迦波加久叙許等和理母智騰利乃可可良波志母與由久弊斯良禰婆宇既具都遠奴伎都流其等久布美奴伎提由久智布此等波伊波紀欲利奈利提志比等迦奈何名能良佐禰阿米弊由迦婆奈何麻爾麻爾都智奈良婆大王伊麻周許能提羅周日月能斯多波阿麻久毛能牟迦夫周伎波美多爾具久能佐和多流伎波美企許斯遠周久爾能麻保良叙可爾迦久爾保志伎麻爾麻爾斯可爾波阿羅慈迦
 忘2於侍養1の忘は怠の誤にあらざるか。畏俗の畏は疑はくは異の誤かと契沖いへり。歌に漢文の序を加ふることはおそらくは憶良より始まりしにて旅人以下は之に倣ひしならむ
(853) 佛老に惑溺して五倫に戻れる輩を誡めたる歌なり○メグシもウツクシも共にカハユシなり。メグシといふ形容詞のまゝなるは今の耳にうとけれど之を名詞としたるは即メグミなり〇一本にウツクシの次に
  遁路得奴 兄弟親族 遁路得奴 老見幼見 朋友之 言問交之
の六句二十三字あれど外の假字音なると書樣異なる上に次とのつづきもわろければ※[手偏+巉の旁]入として削り去るべし○カクゾコトワリはカクアルゾコトワリナルとなり。今ならばカクアルゾといふべきをカクゾといへるはカクアルユヱニをカクユヱニといふ類なり(卷三【四〇五頁】參照)○モチドリは鳥もちにかゝれる鳥にてカカラハシの枕なり○カカラハシはワヅラハシといふ意、モヨは助辭○ユクヘシラネバは古今集雜下なるアフ坂ノアラシノ風ハサムケレドユクヘシラネバワビツツゾヌルのユクヘシラネバと同じ。避行クベキ方ヲシラネバといふ意にてその上にシカシといふ辭、その下にイカニセムといふ辭を加へて心得べし。イカニセムなどいふことを略したるはあまりなる省き方なれど結尾にカニカクニホシキマニマニといひさしたると同格にてわざとの事なり○契沖は『ユクヘシラネバ若此上に一句(854)五字のおちたるか』といひ雅澄はハヤカハノといふ五言を補ひたり。案ずるに此長歌は三段より成れる異體の長歌なり。即ユクヘシラネバまでが一段、ナガ名ノラサネまでが一段、アメヘユカバ以下が一段にて各段の末に七言の句を重ねたるなり。さればユクヘシラネバの上に脱句あるにあらず
 ウケグツは孔のあきたる沓○ヌギツルゴトクは宣長『ヌギウツルゴトクなり。辭のツルにてはかなはず』といへり。おそらくは都流の上に宇をおとしたるにて。ウツルはウチ棄ツルの約ならむ。下にウチステテハといふことをウツテテハと云へり○ユクチフは出家ストイフといふ意○ナリデシは生レ出デシなり
 アメヘユカバ云々はモシ天上ニ昇ルナラバ汝ノホシキママニスベシといふ意○ツチナラバは此土ニ居ルナラバ天皇ノイマセバ汝ガホシキママニハスベカラズといふことを省きいへるなり○コノは日月にかゝれり。古義に『此照す日月を云時にはヒツキといひ年月日時を云時の日月はツキヒといひて分てりとおぼえたり』と云へる、よろし○アマグモノ以下四句は祝詞の熟辭に據れるにて遙ナル果マデモ、山澤ノ隅々マデモといふ意なり。谷グクはヒキガヘルなり○キコシヲスは天皇(855)ノシロシメスとなり。クニノマホラは元來國の中央といふことなれどこゝは廣義につかひたるにて支那人がおのが國を中國といふそれと同意なり○カニカクニは彼ノ是ノトといふ意○結尾を略解には『欲するまゝにさはあるまじきことにてはなきかといふなり』といひ古義には『然欲き隨にはあるまじき事かとなり』といひてホシキマニマニシカニハアラジカを續けて釋けり。案ずるにアラジカは近世の人は多くはアルマイカ、アラウの意に用ふれど(古事記傳にはあまたたび此語を用ひたるうちただ一箇處のみ【四十三卷四十一丁】アラウの意に用ひたり)いにしへはアルマイカ、アルマイの意に用ひたり。アルマイの意に(即近世人の用ふるとはうらうへに)用ひたるまさしき例は續日本紀第十三詔に盧舍那《ルサナ》佛を作らせ給ふ事をのたまへる處に
  衆人《モロビト》は不成《ナラジ》かと疑ひ朕《ワレ》は金少《クガネスクナ》けむと念憂《オモホシウレヒ》つつ在に
とある又本集卷四(七〇四頁)に
  八百日《ヤホカ》ゆく濱のまなごもわが戀に豈|不益歟《マサラジカ》おきつ島もり
とあるなどなり(アニマサラジカはオソラクハマサルマイといふこと)。次にシカニ(856)ハは今いふサウデハなり。さればシカニハアラジカはサウデハアルマイといふことなればホシキマニマニに續けては聞くべからず。ホシキマニマニの下にイカデセムといふ辭を省き、物ノコトワリサウデハアルマイといふことをシカニハアラジカといひて上なる世ノ中ハカクゾコトワリとむかはせたるなり○略解に
  おのれひとり高ぶり家をはなれてみづから某先生と稱てゐたる人に示されたるなり
といへれどこはまことに異俗先生など稱せる人ありしにあらず。當時往々さる類の人ありしかば異俗先生といふ人を設けてそれにおくれる歌に擬して廣く世人を誡めたるなり。或一人に贈りしにあらざることは、ユクチフ人ハといへる句の調を味ひて知るべし。考に妻のうせし時の歌として『自の惑をはるけし歌なり』といへるはいみじき僻見なり
 
   反歌
801 ひさかたのあまぢはとほしなほなほにいへにかへりてなりをしまさ爾〔左△〕《ネ》
(857)此佐迦多能阿麻遲波等保斯奈保奈保爾伊弊爾可弊利提奈利乎斯麻佐爾
 アマヂは天に上る路、初二は天ハ遙クシテ登ルベカラズの意、ナホナホニは尋常ニなり世間並ニなり。ナリは家業なり。爾は禰の誤ならむ。シマサネはシマセにてなほ汝ガ名ノラセをナガ名ノラサネといへる如し
 
   思2子等1歌一首并序
  釋迦如來金口正説、等(シク)思2衆生1如2羅※[目+候]羅《ラゴラ》1、又説、愛無v過v子、至極大聖尚有2愛v子之心1、況乎世間蒼生誰不v愛v子乎
802 うりはめば こどもおもほゆ くりはめば ましてしぬばゆ いづくより きたりしものぞ まなかひに もとなかかりて やすいしなさぬ
宇利波米婆胡藤母意母保由久利波米婆麻斯提斯農波由伊豆久欲利枳多利斯物能曾麻奈迦此爾母等奈可可利提夜周伊斯奈佐農
(858) 釋迦云々は釋迦如來ノ金口《コンク》ノ正説ニ、等シク衆生《シユジヤウ》ヲ思フコト羅※[目+候]羅《ラゴラ》ノ如シトノタマヘリとよむべし。最勝王經に據りて書けるなり。金口は説迦の口をたたへて云へるなり。金口の正説は即直説なり。ラゴラは釋迦の實子なり。至極大聖は即釋迦なり」考に『都にとどめたる子を筑前の國にておもふなり』といへる如し○代匠記に陶淵明責v子詩に通子重2九齢1但※[爪/見]2梨與1v栗とあるを引けり。げに此詩に據りて梨を瓜にかへたるなり○イヅクヨリキタリシモノゾは代匠記に二説を出して
  宿世の因縁に依て親となり子となるとは聞けど宿命、智なければ知られぬ故なり。又故郷に留めたる子どもの夢に見え面影に立を云歟
といへり。前説に從ふべし○マナカヒは略解に眼之間なりといへる如し○ヤスイシのシは助辭、ヤスイは安眠、ナサヌはナスのはたらけるにてネシメヌなり。ナスはヌを敬語にナスといふ(古事記|沼《ヌナ》河日賣の歌にモモナガニ、イハ那佐牟ヲまた須勢理毘賣命の御歌にモモナガニ、イヲシ那世とあるナサム、ナセの如く)と格同じくして意異なり。古義に『ナはネサの縮りたる言なり』といへるは非なり。さてはナセヌといはざるべからず
 
(859)   反歌
803 銀《シロガネ》も金《クガネ》も玉もなにせむにまされるたからこにしかめやも
銀母金母玉母奈爾世武爾麻佐禮留多可良古爾斯迦米夜母
 金をクガネとよむは古語なり○ナニセムニはナニセムといふとは異にて何ノ爲ニ、イカニセム爲ニなどいふ意なり。例は卷四にコヒシナムソレモオナジゾ奈何爲二《ナニセムニ》人目ヒトゴトコチタミワガセム又卷十六に何爲牟爾ワヲメスラメヤとあり。此等の例によれば今の歌は第三句の下にタカラトセムなどいふ辭を省きたるなり。古義にナニ故ニと譯せるは當らず。マサレルタカラの下にモを補ひて心得べし。マサレル寶は結構ナル寶といふ事にて即金銀珠玉の類なり。憶良が此歌を作りしより二十年餘を經て天平二十一年に年號を(感寶と改め更に)勝寶と改められしもマサレルタカラといふ義にて此年二月に陸奥國より始めて黄金を奉りしによりてかくは名づけられしなり
 
   哀2世間難1v住《トドマリ》歌一首并序
(860)  易v集難v排八大辛苦、難v遂易v盡百年賞樂、古人所v歎、今亦及〔左△〕v之、所以因作2一章之歌1以撥2二毛之歎1、其歌曰
804 世間《ヨノナカ》の すべなきものは 年月は ながるるごとし とりつづき おひくるものは ももくさに せめよりきたる
世間能周弊奈伎物能波年月波奈何流流其等斯等利都都伎意此久留母能波毛毛久佐爾勢米余利伎多流
 排はシリゾケなど訓むべし。八大辛苦は即四苦八苦の八苦なり。四苦は生老病死なり、第五苦以下經によりて少異あれど中阿含經に據れば怨憎會、愛別離、求不得、五盛陰なり○百年賞樂は人生の快樂なり。及之は少し心得がたし。及は同の誤か。所以因は三字を連ねてソレユヱニ、ソコユヱニなどよむべきか〇二毛は左傳文選などに見えたり。黒髪に白髪の交れるなり。撥はハラフともヤルともよむべし
 スベナキモノハ年月ハとはスベナキモノハ年月ニテソノ年月ハとなり○トリツヅキはウチツヅキなりと契沖いへり○オヒクルは契沖追求と生來と二説を擧げ(861)て前の方なるべしといへり。なほ考ふべし○以上一篇の大意なる事契沖のいへる如し
 
をとめらが をとめさびすと からたまを たもとにまかし シロタヘノ 袖フリカハシ クレナヰノ アカモスソビキ よちこらと 手たづさはりて あそびけむ ときのさかりを とど尾《ミ》かね すぐしやりつれ (みなのわた) かぐろきかみに いつのまか しものふりけむ くれなゐの【一云にのほなす】 おもてのうへに いづくゆか しわかきたりし【一云つねなりし ゑまひまよびき さくはなの うつろひにけり よのなかは かくのみならし】
遠等呼〔左△〕良何遠等呼〔左△〕佐備周等可羅多麻乎多母等爾麻可志【或有此句云之路多倍乃袖布利可伴之久禮奈爲乃阿可毛須蘇備伎】余知古良等手多豆佐波利提阿蘇此家武等伎能佐迦利乎等等尾迦禰周具斯野利都禮美奈乃和多迦具漏伎可美爾伊都乃麻可斯毛乃布利家武久禮奈爲能【一云尓能保奈酒】意母提乃宇倍爾伊豆久由可新和何伎多利斯【一云都禰奈利之惠麻比麻欲毘伎散久伴奈能宇都呂比尓家里余乃奈可伴可久乃未奈良之】
(862) ヲトメサビは古義に云へる如く若き女のだてをする事なり。遠等呼の呼は※[口+羊]を誤れるなり○本朝月令の逸文より諸書に引きて天武天皇の御製とも天女の作とも傳へたるヲトメドモヲトメサビスモカラタマヲタモトニマキテヲトメサビスモといふ歌は今の歌の四句を取りて第二句を返して一首となしたるものなるべし
と契沖いへり○カラタマは韓玉なり。タモトはこゝにては衣の袂にはあらで手ノモト即手頸なり○タモトニマカシの次に一本にシロタヘノ云々の四句あり○ヨチコラは仙覺抄に同じ程の子等といふ意なりといへり。なほ考ふべし。手タヅサハリテは手ヲヒキアヒテなり○トキノサカリは盛の時なり。トト尾の尾果してミとよむべくばトドムはいにしへ四段にはたらきしなり。字音辨證(上卷三二頁)には
  古本どもにメとよめるに從ふべし。尾をメと呼は同轉の肥にべ穢にヱの音あると同例なり云々
といへれど此歌の下にもカクノ尾《ミ》ナラシと書き下なる鎭懷石歌にもカ尾《ミ》ノミコトと書けり○ヤリツレのツレは後世のツルニなり○カグロキのカは添辭なり。卷二なる長歌(一八〇頁)にもカアヲナルタマ藻オキツ藻とあり〇一本のニノホナス(863)のニは赤土、ホは色澤○シワカキタリシのカキは添辭。タリシは自動詞なればシワガと心得べくシワヲと心得べからず○ミナノワタ以下八句一本に
  つねなりし ゑまひまよびき (さくはなの) うつろひにけり よのなかは かくのみならし
とあり。こゝは第二段のとぢめなるが第三段のとぢめに
  たつかづゑ こしにたがねて かくゆけば 人にいとはえ かくゆけば 人ににくまえ 意余斯遠波 かくのみならし
とあるに對したれば一云の方を採るべし。おそらくは作者の改作ならむ、さてマヨビキは眉の恰好にてツネナリシヱマヒマヨビキは平生艶麗ナリシ容貌といふ程の事なり。カクノミナラシのノミはカクを強むる辭なり。卷三なる安積皇子薨之時家持作歌に
  いくぢ山、木立のしげに、さく花も、うつろひにけり、世のなかは、かくのみならし……つねなりし、ゑまひふるまひ、いや日けに、かはらふみれば、かなしきろかも
とあるは右の一節を學べるなり○以上若き女の忽に老ゆるを云へり
 
(864)ますらをの をとこさびすと つるきだち こしにとりはき さつゆみを たにぎりもちて あかごまに しづくらうちおき はひのりて あそびあるきし よのなかや つねにありける をとめらが さなすいたどを おしひらき いたどりよりて またまでの たまでさしかへ さねしよの いくだもあらねば たつかづゑ こしにたがねて 可久《カク》ゆけば ひとにいとはえ 可久《カク》ゆけば ひとににくま延〔左△〕《ユ》 意余〔左△〕新遠〔左△〕波《オホシヨハ》 かくのみならし (たまきはる) いのちをしけど せむすべもなし
麻周羅遠乃遠刀古住備周等都流岐多智許志爾刀利波枳佐都由美乎多爾伎利物知提阿迦胡麻爾志都久良宇知意伎波比能利提阿蘇比阿留伎斯余乃奈迦野都禰爾阿利家留速等呼〔左△〕良何佐都周伊多斗乎意斯比良伎伊多度利與利提摩多麻提乃多麻提佐斯迦閉佐禰斯欲能伊久陀母阿羅禰婆多都可豆惠許志爾多何禰提可久由既婆比等爾伊等波延可久由既(865)婆此等爾邇久麻延意余斯遠波迦久能尾奈良志多摩枳波流伊能知遠志家騰世武周弊母奈斯
 サツユミは狩獵に用ふる弓なり。シヅクラは契沖の説に『倭文を以てまつひたる鞍を倭文鞍といふ歟』といへり○ハヒノリテを契沖の『匍騎なり。よくも得のらぬ意なり』といへるは非なり。ハヒノルはハヒノボルなり。ノルは乘行く事にあらず○略解に『アソビアルキシこゝは句なり』といへるはわろし。アソビアルキシ世ノ中ヤとつづけるなり。ヤはヤハなり。遊ビアルキシハヒト時ニテ其世ハアハレ常ナラズといへるなり○サナスイタドヲは古事記八千矛神の御歌にヲトメノ、ナスヤイタドヲ、オソブラヒ、ワガタタセレバとありて傳卷十一(全集第一の六〇〇頁)に『ナスヤイタドヲは鳴ス板戸ヲなり。ナスはナラスにて即戸をさすことを然言りと聞ゆ』とあり。之に從ふべし。サナスのサは添辭なり。雅澄がサナスはサシナラスなりといへるはいかが、サシはサと省くべからず○イタドリヨリテは代匠記に『伊は發語の詞。タドリヨリテなり』といへり○マタマデノタマデサシカヘは沼河日賣《ヌナカハヒメ》の歌に(須勢理比賣命の御歌にも)眞玉手玉手サシマキとあるによれるなり。但サシカヘはカハシ、サ(866)シマキは枕にする事にてすこし異なり。サシは添辭○イクダモアラネバはイクバクモアラヌニなり。タツカヅヱを契沖は『手に握る杖と云意也』といへり。太さ一握なるを云ふか。卷十九に手束弓とあり○タガネテは契沖、千蔭、雅澄共に束ネテの意とせり。案ずるにタガネテのタは添辭にてカネテはこゝにては添へテの意にあらざるか○初の可久の久を古義に衍字とせり。げにかゝる處は一つはカといひ一つはカクといふが例なれど續紀第六詔に
  加久や答賜はむ加久や答賜はむと
とあれば二つ共にカクともいひしなり○意余斯遠波を契沖は
  ヲは助語にてシとソと通ずればオヨソハなり
といひ雅澄は
  凡者なり。シヲの約ソなればオヨシヲはオヨソといふに同じ
といへり。ヲを助辭とする説も、ソを延べてシヲといへりとする説も共に穩ならず。案ずるに第二段の末にヨノナカハカクノミナラシとあるとこゝに意余斯遠波カクノミナラシとあるとを合せ思ふにまづ波はテニヲハなり。さてオヨシヲはヨノ(867)ナカに對する語なれば名詞ならざるべからず。然るにオヨシヲといふ名詞ある事なければ意余斯遠は意保斯余などの誤字なるべくおぼゆ。そのオホシヨも例は見及ばねどヨは世、オホシはオホシ、オホシキとはたらく語にて大、汎などいふ意なれば後世大カタノ世などいふことをいにしへオホシ世といひしにあらざるか。意余斯遠波の前なるヒトニニクマ延《エ》の延は由とある方穩なるに似たり○カクノミナラシといふ句にて第三段をとぢめたるにて以上壯なる男の忽老ゆるをいへり○タマキハル、イノチヲシケド、セムスベモナシの三句は男女雙方にかゝりて一篇の収束なり
 
   反歌
805 ときはなすかくしも△△《ガモ》とおもへどもよのことなればとど尾《ミ》かねつも
等伎波奈周迦久斯母等意母閉騰母余能許等奈禮婆等登尾可禰都母
  神龜五年七月二十一日於2嘉摩都1撰定、筑前國守山上憶良
(868) トキハナスは枕辭にあらず。トキハニといふに同じ。卷七にもトキハナスワレハ通ハム萬代マデニとあり。カクシモガモはカクワカク盛ニテアレカシとなり。ヨノコトナレバは卷三(五八二頁)にもウツセミノ世ノコトナレバヨソニ見シ山ヲヤ今ハヨスガト思ハムとあり。世ノ習ナレバといふことなり。トドミカネツモは何をとどめかぬるにか分らず。反歌なればこそよけれ獨立の短歌ならば辭足らずと云はれむ。否反歌の、獨立の短歌と異なる點はこゝにあり。反歌は長歌と連ね見て意通ずれば可なるものなり○迦久斯母の下に諸本に從ひて何母を補ふべし
 以上長歌反歌各三首、神龜五年七月二十一日於2嘉摩郡1撰定とあるは此日に作りしにはあらず。はやく作りて草稿のまゝなりしを此日に簡《エラ》び定めしなり。前なる詩及日本挽歌と同じ日附なれば共に大伴旅人に見せしにかとも思へどごれには名の下に上の字なければ彼詩歌を旅人に見すべく簡び定むるついでに此歌どもも簡び定めしならむ。嘉摩郡は筑前の内なり。但國府のある處にあらず。國府は御笠郡にありて別の處なり
    ○
(869)  伏辱2來書1具承2芳旨1、忽成2隔漢之戀1、復傷2抱梁之意1、唯羨〔左△〕去留無v恙、遂待2披雲1耳
   歌詞兩首【太宰帥大伴卿】
806 たつの馬もいまもえてしが(あをによし)奈良のみやこにゆきてこむため
多都能馬母伊麻勿愛弖之可阿遠爾與志奈良乃美夜古爾由吉帝己牟丹米
 
807 うつつにはあふよしもなし(ぬばたまの)よるのいめにをつぎてみえこそ
宇豆都仁波安布余志勿奈子奴波多麻能用流能伊昧仁越都伎提美延許曾
 
   答歌二首
808 たつのまをあれはもとめむ(あをによし)奈良のみやこにこむひとの多(870)仁
多都乃麻乎阿禮波毛等米牟阿遠爾與志奈良乃美夜古邇許牟此等乃多仁
 
809 ただにあはずあらくもおほ久(しきたへの)まくらさらずていめにしみえむ
多陀爾阿波須阿良久毛於保久志岐多閉乃麻久良佐良受提伊米爾之美延牟
 略解に
  是は大伴旅人卿より京に在人の許へ歌を贈られし時京の人の答の歌と書牘なるを旅人卿よりの贈歌をも後に一つなみに書記せしもの也。末に淡等と有は則旅人卿の事にて……タビトとよむべし云々
といひ古義に
  此書牘は必此間(○贈歌と答歌との間)にあるべきを舊本にはいたくみだれたり(871)その故はまづ初二首は旅人より都の朋友の許へ贈られし歌なり、さてそれに書牘も有つらむをそは漏たるなり。かくてその旅人卿の書牘并歌詞に答へられて京の人の此書牘と次の答歌とある二首とを旅人卿の許へ贈られけるものなり。さて上に大伴淡等謹状とあるも(○アルベキモの意か)舊本にはみだれしこと前に云る如し
といへり。答歌の次なる大伴旅人謹状の六字は次なる日本琴の歌に屬せるなり
 隔漢は銀河ヲ隔テタルといふこと。抱梁は抱2梁柱1の略にて梁は橋なり。尾生が女と橋下に待たむと約して水至れども其處を去らずして橋柱を抱きて死にし故事に據りて信義の意に用ひたるなり。披雲は徐幹の中論に
  文王遇2姜公(○太公望〉於渭陽1、灼然如2披v雲見2白日1
とあるなどに依りて面會の意に使へるなり。徐幹は所謂建安七子の一にて又文選作者の一なればその名著中論は我邦にも行はれしならむ。懷風藻に見えたる調《ツキ》(ノ)古麻呂が新羅の客に贈りし詩にも江海波潮靜、披雲何難v期と作れり。羨の字は冀の誤かと契沖いへり
 
(872)たつの馬《マ》も今もえてしが(あをによし)ならのみやこにゆきてこむため
 タツノマは龍馬にて理想の駿馬なり。ただに駿馬を云ふにはあらず。考に『こゝにタツノマとは只良馬をいふのみ』と云へるは非なり
 
うつつにはあふよしもなし(ぬばたまの)よるのいめにをつぎてみえこそ
 イメニヲのヲは助辭にて露霜ニヌレテヲユカム、タチトマリ見テヲワタラムなどのヲと同類なり。ツギテミエコソは絶エズ見エヨカシなり
 
たつのまをあれはもとめむ(あをによし)ならのみやこにこむひとの多仁《タニ》
 多仁は一本に多米とあれば誤字かともおもはるれどタメニをタニといへる、外にも例あり。即續紀第十三詔に
  くさぐさの法のなかには佛の大御言し國家《ミカド》まもるが多仁波すぐれたりときこしめして云々
(873)とありて宣長(全集第五の二五〇頁)は
  多仁波はタメニハなり。萬葉五に云々。佛足石歌にはノリノ多能ヨスガトナレリとある多能はタメノなり
といへり。佛足石歌には又比△乃多爾といふ句あり。このタニもタメニならむ。さればいにしへタメニをタニといひきとおぼゆ。但ノリノタノは法ノ田ノといふ事ならむ。契沖は
  多仁はタメニと云略語なり。第十四にもあり。今の世は賤しき者のみ云詞となれり
といへり。略語といへるはいかが。賤シキ者ノミ云詞といへるは山川正宣の佛足石和歌集解に類林に『今俗にもタニナル物と云は爲ニナルモノなり』とあるを引き古義に膝栗毛にワシガタニヤア命ノ親ダとあるを引ける類にや
 
ただにあはずあらくもおほ久〔左△〕《シ》(しきたへの)まくらさらずていめにしみえむ
 宣長ほオホ久の久は之の誤ならむといへり。さてそのオホシを古義に多シの義と(874)して直ニ相見ル事ハ叶ハズシテ戀シク思ヒテ經渡ル年月多シと釋したれどオホホシの同語なるか又は於保々之とありしを於保久と寫し誤れるにてもあるべし。オホホシは心の晴れざるをいふ。マクラサラズテイメニシミエムは君ノ枕ヲ離レズ始終君ノ夢ニ見エムとなり
 大伴淡等謹状
 梧桐日本琴一面【對馬結石山孫枝】
 此琴夢化2娘子1曰、余託2根(ヲ)遙島之崇巒1、晞2幹(ヲ)九陽之休光1、長帶2煙霞1逍2遙山川之阿1、遠望2風波1出2入雁木之間1、唯恐五百年之後空朽2溝壑1、偶遭2良匠1散爲2小琴1、不v顧2質麁音少1、恒希2君子左琴1、即歌曰
810 いかにあらむ日のときにかもこゑしらむひとのひざのへわがまくらかむ
伊可爾安良武日能等伎爾可母許惠之良武比等能此射乃倍和我摩久良(875)可武
 
   僕報v詩詠曰
811 ことどはぬ樹には安里等母うるはしききみが手なれのことにしあるべし
許等等波奴樹爾波安里等母宇流波之吉伎美我手奈禮能許等爾之安流倍志
  琴娘子答曰、敬奉2コ音1、幸甚幸甚、片時覺、即感2於夢言1、慨然不v得2獣止1、故附2公使1、聊以進御耳(謹状不具)
  天平元年十月七日附v使進上
  謹通2中衛高明閣下1謹空
 大伴旅人が日本琴一面を中衛大將藤原房前に贈りし時の書牘及歌なり。淡等は旅人を唐めかして書けるにて唐時には例ある事なり。なほタビトとよむべし。結石山はユヒシ山とよむべし。今ユヒイシといふ。孫枝は文選※[禾+(尤/山)]康の琴賦に見えたるに據(876)れるまでにて眞のヒコエにはあらじ。崇巒《シユウラン》は高山なり。琴賦には峻嶽之崇岡とあり。託は托の通用なり。晞《サラス》2幹(ヲ)九陽之休光1は琴賦に且晞2幹於九陽1といひ吸2日月之休光1とあるに據れるなり。九陽は旭日、休光は美光なり。逍遙は自適なり。阿はクマと訓むべし。出2入雁木之間1は莊子山木篇に莊周が山木の用ふべき所無きが爲に伐られずして其天年を終へ又雁の鳴く能はざる爲に殺されしを見て周ハ夫《カノ》材ト不材トノ間ニ處《ヲ》ラムトスと云へるに據れるにて保身といふ意に用ひたるなり。百年之後は死後、溝壑は谷なり。左琴は劉|向《キヤウ》の列女傳卷二※[林/之]之於陵(ノ)妻の傳に左v琴右v書樂亦在2其中1矣とあるによりて手馴の琴の意とせるなり。報詩詠矣とあるは詩ニ報《コタ》ヘテ詠ジテイハクとよむべし。遊仙窟に報2余詩1曰、五嫂即報v詩曰、十娘報v詩曰などあり
 
いかにあらむ日のときにかもこゑしらむひとのひざのへわがまくらかむ
 琴の娘子に化してよみしに擬せるにて實は旅人の作なる事論なし。初二はイツカといふこと、コヱシラムは伯牙鍾子期の故事なり。マクラクは枕とする事。古義に『イカデハヤク君子ノ手ニ觸マホシとなり』といへる如し
 
(877)ことどはぬ樹には安里〔左△〕等母《アレドモ》うるはしききみが手《タ》なれのことにしあるべし
 夢中にて琴(ノ)娘子に答へしに擬せるなり。コトドハヌはモノイハヌなり。ウルハシは性質にいへるなり。温雅といふ程の意なり。キミガは第三者をいへるなれば正しくはヒトノといふべきなれど人に贈る歌にはかやうにも云ひしなり。古今集春下貫之の歌に一目ミシ君モヤクルトサクラ花ケフハマチ見テチラバチラナムとあり。これも正しくは人モヤとあるべきなり(卷三【五一八頁】參照)。琴ニのニは後世のトにてシは助辭なれば琴ニシアルベシは琴タルベシとなり。案ずるに第二句のアリトモは結句のアルベシと照應せる如くにて實は照應せず。木デハアルガといふべき處にて木デハアツテモといふべき處にあらざればなり。さればもと樹爾波安禮〔右△〕等母とありしを答歌にキニモアリトモとあるにまがへて樹爾波安里〔右△〕等母と傳へ誤り又は寫し誤れるにあらざるか(等はドにも當てたり。たとへば下なる梅花歌三十二首中の第十四首と第二十二首とに阿蘇倍等〔右△〕母と書けり)
  因にいふ。伊勢物語、古今集などに見えたるかの見ズモアラズ見モセヌ人ノコヒ(878)シクバアヤナクケフヤナガメクラサムといふ歌もコヒシクバとナガメクラサムとよく照應せる如く見ゆれば從來疑を挿みし人なきやうなれどこゝはコヒシキニといふべき處にてコヒシカラバといふべき處にあらねば(格のみを知りて調を知らざる人はかくいふともなほ悟らざるべし)今の如くコヒシクバとありては中々に結句と照應せず。こはもとコヒシクニとありしをクニといふ辭に耳馴れざる世となりてニをハの誤としてさかしらに改めたるなり。クニといふ辭を用ひたる例は本集卷一(一一五頁)にミヨシ野ノ山ノアラシノ寒久爾《サムケクニ》ハタヤコヨヒモワガヒトリネムとあり。業平の歌はやがてこのミヨシ野ノといふ歌の格を學べるなり
 奉はウケタマハルとよむべし。コ音はアリガタイオホセなり。李陵の答2蘇武1書に時因2北風1復惠2コ音1とあるを始めて文選には多く見えたり。敬奉2コ音1は次に跪承2芳音1とあるに同じ。公使は公用にて上京する使なり。進御はタテマツルなり。これも彼琴賦に進2御君子1とあるを用ひたるなり。高明は楊雄の解嘲に高明之家鬼瞰2其室1とあれど、それに據れるにはあらで夏侯湛の東方朔畫賛に高明|克《ヨク》柔とあり陸機の弔2魏(879)武帝1文序に資《ヨリ》2高明之質1とあるなどに據れるにて相手のコをたたへたるならむ。謹空は相手を敬ひて書翰に白紙を餘すをいふ。本朝|文粹《モンズヰ》卷七報2呉越王1書にも呉越殿下謹空とあり
  近ごろ世に知られし北白川宮御所藏の圓珍贈2觀中院政所1書(智證大師贈2僧正遍照1書)を見るに謹空の二字、一紙の末行を成して上下の中程にあり
    ○
跪承2芳書1嘉懽交深、乃知2龍門之恩復厚2蓬身之上1、戀望殊念、常心百倍、謹和2白雲〔左△〕之什1、以奏2野鄙之歌1、房前謹状
 
812 ことどはぬきにもありともわがせこがたなれのみことつちにおかめやも
許等騰波奴紀爾茂安理等毛和何世古我多那禮乃美巨騰都地爾意加米移母
  十一月八日附2還使|大監《タイゲン》1
(880) 謹通2尊門記室1
 キニハといはでキニモといへるはノタマフ如ク言ドハヌ木ニモアルベシ、サリトモといふ意にていへるなり
 龍門は登龍門の略、李膺の故事にて名士に知らるるを云ふ。白雲は白雪の誤ならむ、所謂陽春白雪にて旅人の歌調の高きをたたへたるなり。什は作なり。記室は今の秘書なり
    ○
  筑前國|怡土《イト》郡深江村|子負《コフ》(ノ)原臨v海丘上有2二石1、大者長一尺二寸六分、圍一尺八寸六分、重十八斤五兩、小者長一尺一寸、圍一尺八寸、重十六斤十兩、並皆※[木+隋]圓、状如2鶏子1、其美好|者《ナルハ》不v可2勝論1、所v謂徑尺璧是也、【或云此二石者肥前國彼杵郡平敷之石當占而取之】去2深江驛家1二十許里、近在2路頭1、公私往來莫v不2下v馬跪拜1、古老相傳曰、往者|息長足日女《オキナガタラシヒメ》命征2討新羅國1之時、用2茲兩石1、挿2著御袖之中1、以爲2鎭懷1、【實是御裳中矣】 所以行人敬2拜此石1、即作v歌曰
(881)813 かけまくは あやにかしこし たらしひめ かみのみこと からくにを むけたひらげて みこころを しづめたまふと いとらして いはひたまひし またまなす ふたつのいしを 世(ノ)人に しめしたまひて よろづよに いひつぐがねと (わたのそこ おきつ)ふかえの うながみの こふのはらに みてづから おかしたまひて かむながら かむさびいます くしみたま いまのをつつに たふときろかも
可既麻久波阿夜爾可斯故斯多良志比※[口+羊]可尾能彌許等可良久爾遠武氣多比良宜弖彌許々呂遠斯豆迷多麻布等伊刀良斯弖伊波此多麻此斯麻多麻奈須布多都能伊斯乎世人爾斯※[口+羊]斯多麻比弖余呂豆余爾伊此都具可禰等和多能曾許意枳都布可延乃宇奈可美乃故布乃波良爾美弖豆可良意可志多麻比弖可武奈何良可武佐備伊麻須久志芙多麻伊麻能遠都豆爾多布刀伎呂可※[人偏+舞]
(882) 筑前國|恰土《イト》郡深江村|子負《コフ》(ノ)原なる二靈石をよめるなり。相傳ふ神功皇后三韓征伐の時産期に近づきしかば占によりて肥前國|彼杵《ソノキ》郡平敷にありし此石を取りて御身に附けたまひて産期を延べたまひ凱旋の時此原に到りて應神天皇を生みたまひしなりと。石の名は筑前國風土記(釋日本紀卷十一所v引)に時人號2其石1曰2皇子産石《ミコウミイシ》1今訛謂2兒饗《コフ》石1とあり(野を子負《コフ》(ノ)原とも兒饗《コフ》(ノ)野ともいふは此石あるによれるなり)。後世專鎭懷石と稱するは此序の中に以爲2鎭懷1とあると歌にミココロヲ、シヅメタマフト、イトラシテ、イハヒタマヒシ、マタマナス、フタツノイシヲとあるに基づけるなりカケマクハはカケムコトハにて口ニカケテ申サムコトハとなり。アヤニはイミジクなり。タラシヒメは息長足《オキナガタラシ》姫の略にて神功皇后の御事○ムケタヒラゲテは征服シテなり。こゝにて切りて句を隔てゝマタマナスフタツノ石ヲへつづけて心得べし。即ミココロヲの上にコレヨリ先ニといふことを補ひて聞くべし○ミココロは御腹なり。古事記には即爲v鎭2御腹1取v石以纏2御裳之腰1とあり。イトラシテのイは添辭。イハヒタマヒシは大切ニシタマヒシといふ事なり○イヒツグガネは語リ傳フベクといふこと○ワタノソコオキツの八言は深江の序なり。ウナガミノは代匠記に(883)『唯海邊なり。處の名にはあらず』といへる如し。序に臨v海丘上とある臨海に當れり○オカシタマヒテは置キ給ヒテなり○カムナガラ以下は二石の事に係れり。オカシタマヒテにて主格かはれるなり。テの前後にて主格のかはれる例は卷二にもあり(二八二頁參照)。イマスは石を神として敬語を用ひたるなり○クシミタマはサキミタマ、クシミタマといふクシミタマとは別なり。記傳卷三十(第二の一八五六頁)に
  クシミタマとよめるは石をほめて奇き御玉と云るなり。御魂にはあらず
といへり。さてクシミタマのミを契沖宣長共に玉に附けて美稱としたれどクシミタマはクシキ玉といふことを古言の格にてクシミ玉といへるにてハヤミハマ風、アカミ鳥、キヨミ原などと同例なり(卷一【一一四頁】及卷二【二一七頁】參照)○イマノヲツツは今ノウツツにてマノアタリといふこと、タフトキロカモのロは助辭なり
 
   反歌
814 あめつちのともにひさしくいひつげとこのくしみたま志〔左△〕《オ》かしけらしも
(884)阿米都知能等母爾比佐斯久伊比都夏等許能久斯美多麻志可志家良斯母
  右事傳言那珂郡伊知郷蓑島人|建部《タケルベ》(ノ)牛麻呂是也
 アメツチノのノは玉緒卷七(十六丁)に
  これらのノはトに通ひて聞ゆ
といひて例を擧げたり。その例どもを見るに皆トモニといふ辭に續きたり。さればいにしへ何々卜共ニといふことを何々ノ共ニといひならひきとおぼゆ(但何々ト共ニといへる例もあり)○志〔右△〕可志の上の志は田中大秀の説に意の誤なりといへり。げに長歌にもオカシを意可志と書けり
 右の鎭懷石は記傳卷三十(全集第二の一八五七頁)に
  石は二つながら盗人のぬすみ持ゆきて今は無しと彼國人云り
とあり○此石を取り給ひし肥前國|彼杵《ソノキ》郡平敷は今の長崎に遠からざる處にて近き世までも鎭懷石の類なるめでたき石出できといふ。中島廣足の時津紀行(文政十年)に
(885)  平野(ノ)宿といへるを過行。萬葉五卷鎭懷石をよめる歌の序に或云此二石者肥前國彼杵郡平敷之石當v占而取v之といへる平敷やがてこゝなりといへり。此郷の長《ヲサ》某が園に鎭懷石とよびて昔よりいはひすゑたる赤石ありて此里の女ども子うむ時にあたりて此石にねぎ事すればいとやすらかなりといひ傳へたり。さるを先つ年長崎人某とかくはかりごちて此|長《ヲサ》をいみじく酒にゑはしめ我もゑひて戲にことよせてやがて其石を盗みもていきてあまたにわり碎きていにしへ好む人々にわかち與へぬるをはやく獲たりとて青木大宮司(○永章)おのれにも一つ贈られたるはいとめづらかにうれしきものからその某がしわざはいとほしからずぞおぼゆる。伊勢人のひがことよりも長崎人のさかしらは罪いと深かるべし。されどかの眞の鎭懷石は筑前國怡土郡深江村子負原にありと記し其形も並皆※[木+隋]圓状如2※[奚+隹]子1其美好者不v可2勝論1所v謂径尺璧是也とあればこの赤き石はよしなくおぼゆれど昔よりしかいはひすゑたりけむ石を私にわりたゝきけんいともいともうれたきわざなりけり。大宮司は※[奚+隹]子の如きをも里人に拾はせてひめたりといへり。今もさる石やあると見つゝゆけど似たるもなし
(886)  御こゝろをしづめまさむと此里にとらしゝ石ぞあやにくすしき
 いにしへしのぶついでには古めいたることぞいはれける。かの石のいでしところといへるもあるはいかならんおぼつかなし。なほくはしく尋ねまほしけれどけふはゆく先のいそがるれば又ことさらにをとて過行
とあり。安政五年長崎奉行荒尾成允、碑を此處に建てむとして國文と漢文とを以て事の由を記さしめき。其碑今もありや否や、刻めるは國漢いづれの方なるか知らまほし。さて漢文の方は難波江卷二上(百家説林續篇下一の六二一頁)に出でたれば摘録に止め國文の方はいまだ刊行の書に見えざれば長けれど全文を擧げてむ。まづ漢文の方には
  石之所v出平敷屬2肥前彼杵郡1、今長崎府北數里浦上村有2平野宿1、側有2小池1(○脱文あるにや)稱2鏡川1、相傳、后嘗鑒2容于此1、皆其地云、此間婦人妊v子者多賽2其處1、以祷2胎孕平安1、或獲2其石1挿2之衿神1若※[草冠/保]2祠之1、至2于今1不v渝、謂若v此則産泰、又以2其光塋麗澤類1v玉、好事者或磋爲2佩玩若※[石+遂]1、土人因呼2其處1曰2稜崎1、蓋國音稜通v燧也、……天保中文恭廟(○將軍家齊)命2邑之縣令高木君忠篤1采v之、縣令獲v石以輸焉、平敷之石※[徭の旁+系]v是復著2于世1、……鎭臺荒尾明府成允行v部抵v此西南瞰v海、慨然頗有2憂世之心1於v是 低回不v能v去、乃與2賓佐僚吏1議d立2碑其處1以永傳c于不朽u、永持君穀明首應2其議1、慫慂以成2其事1、實今上十二年安政五祀著雍敦※[片+羊]之歳春王正月也、……長崎府學助教長川※[にすい+煕]世※[白+皐]拜手稽首謹撰
とあり。國文の方は
   鎭懷石の碑
  息長帶姫命の新羅國をことむけ給へりしはかけまくもいともかしこき天照大御神の御教墨江三柱大神たちの導きませるによりてなりけり。かれ其御教の如くにして御軍を整へ雄のよそひをなし、いかしき御いづをしめして渡りたまひしかば大御船の浪新羅國なからまで到りぬ。こゝに其|國王《コニキシ》いたくおぢかしこみて皇命《オホミコト》のまにまに御馬かひとして年のはに貢を奉り百済國はたわたの屯家《ミヤケ》として仕へまつりしかば新羅國王の門《カナド》に其つかせる御矛を衝立て後世のしるしとし給ひき。これ神のちはひなる物から姫命の大御身としてさばかりたけき御しわざはそれはた神とも神とましませるところにてたゝへ奉らんに詞もなく(888)いともいともかしこき事になもありける。はじめ其海をわたりまさむとせし時はらませる皇子あれまさむとせしかば二の石をとらして御裳の腰にまかし大御身をいはひ鎭めつゝ歸りまして後になも生給ひける。其石の出つるは肥前國彼杵郡平敷といへる地にて占あへるまゝに取給ひし事古書どもに見えたるが如くなるを其平敷は此郡の山里村なる平野宿のことなりといへり。さるはかの命をいはひ祭れる祠よりはじめて古きゆゑよし傳へたる跡どもありて鎭懷石といへるが今も出づめるをそれ取りてはらめる女のいつきもたれば子うむ時まがことなしといふめるは正しくいにしへの跡なること疑ふべきにあらず。かくて今(ノ)世長崎の浦はこと國船どものまゐくる湊にしあればいやますますに此命の御いさををたふとみ其御靈をこひのみまつりてこの浦わのまもり神といつきまつり異國人どもをなづけをさむべき後世の鑑ともなさむとして其事どもを書記し遠長く傳へむものをとこたび長崎の里のつかさ荒尾(ノ)君よりおほせごとありて碑たてらるゝはまことにめでたき御しわざにて神の御心にもかなひぬべくいともよろこばしきことにこそありけれ。おのれおほせごとかがふり(889)て其故よしを一くだり記しつけぬるは安政の五とせといふ年の三月のなかば也。中島廣足
 又廣足の安政五年の詠草の中に
  鎭懷石の碑に書きそふる よろづ世にあふがざらめやとらしつる石の御たまのそのあとどころ
とありといふ(右の文は門人彌富濱雄が廣足の未定稿の中より求めいでて歌と共に送りおこせしなり)
 さてこの鎭懷石を詠ぜる長歌并反歌は目録に山上臣憶良詠2鎭懷石1歌一首并短歌とあり類聚古集(第十七)にも憶良とある上に辭藻はた憶良ならではとおぼゆれば此人の作と定むべし
 追考 長崎夜話草(享保年間西川如見著)に
  神功皇后異國征伐の御時胎内の皇子を壽き玉ひ二つの靈石を取せ玉ひて御鎧の上帶にさしはさみおはしましぬ。此石は御夢の告ありて彼杵《ソノキ》の郡平敷といふ所より得させ玉ひし石にて妙にうつくしかりしとかや。今筑前國|怡土《イト》郡深江村(890)八幡宮の御神體にて鎭懷石是なりとぞ、……いにしへより石もふとく成たるよし見えたり。扨もその平敷といふはいづこにやと余多年幾そばくの人に尋ねしかど知る人なし。然るに一とせ或人のいへるは長崎市町を去る事一里ばかりの北の山里に平宿といふ所あり。この村なる東の山より燧石赤白なる多く出、村人取て賣なるを玉人撰びて緒留の玉にすりたるは唐土の雲南石に異ならずとて人々價高く買とりぬ。則此石なり。とて見せ侍りしに實に美しきこといはん方なし。さらばその平敷といふ所は平宿の事にあらずや。敷と宿とまがひいとあやし。今は平の宿と訛れるもいぶかし。まして鎭懷石の留りまします所も深江村、長崎の古名も深江村といひしこそ又いとあやしけれ……
 又増補長崎略史(明治三十年金井俊行著)の年表第八に
  安政五年七月 平野宿神功皇后舊蹟に稚櫻神社を造り石碑を建つ(長川東洲・中島廣足碑文を作る。平野宿は神功皇后の鎭懷石を採り給ひし所にして平敷の訛傳なり……)
と云へり
 
(891)   梅花歌三十二首并序
  天平二年正月十三日萃2于帥老之宅1、申2宴會1也、于v時初春令月、氣淑風和、梅披2鏡前之粉1、蘭薫2珮後之香1、加以曙嶺移v雲、松掛v羅而傾v蓋、夕岫結vキリ、鳥對v穀而迷v林、庭舞2新蝶1、空歸2故雁1、於v是蓋v天坐v地、促v膝飛v觴、忘2言一室之裏1、開2衿煙霞之外1、淡然自放、快然自足、若非2苑1、何以※[手偏+慮]v情、詩紀2落梅之篇1、古今夫何異矣、宜d賦2園梅1聊成c短詠u
815 むつきたちはるのきたらばかくしこそうめををりつつたぬしきをへめ 大貮紀卿
武都紀多知波流能吉多良婆可久斯許曾烏梅乎乎利都都多努之岐乎倍米
 此序は誰の作にか。契沖は『憶良の作ならん』といへり。然るに近頃旅人の作とする説あり。案ずるに旅人の歌を三十二首中の第八即主賓とおぼしき人々の下、陪客とおぼしき人々の上に置き又作者を主人と註せるを思へば歌をついで又作者の名を(892)註せるは旅人なり。されど序はなほ憶良の作なるべし。其故はもし旅人の作ならば萃《アツマル》2于帥老之宅1の上に主格(諸人など)あるべく又帥老は自稱にあらで親愛の意を帶びたる他稱なるべく思はるればなり(もし或人のいへる如く自稱ならば第八首の下にも主人と書かで帥老と書くべきなり)
 契沖云はく
  此序發端は羲之が蘭亭記に永和九年歳在2癸丑1、暮春之初會2于會稽山陰蘭亭1、修2禊事1也とかけるに効へる歟。篇中に彼記の詞も見えたり
と云へり。萃はアツマルとよみ申はカサヌルとよむべし。于時初春令月氣淑風和の例に契沖は張衡の歸田賦なる仲春令月時和氣清を引けり。鏡前之粉は粉トとよむべし。鏡前ノオシロイノ如クとなり。珮後之香も香トとよみて香ノ如クと心得べし。珮は佩に同じくて帶なり。香はニホヒ袋ノニホヒなり。加以は加之に同じ。移雲は雲ウツリテとよむべし。雲ガ動キテとなり。掛v羅は雲に掩はれたる形容なり。蓋は松の梢をたとへたるなり。岫《シウ》は山穴なれどこゝは峯を云へるならむ。文選謝玄暉の和2王著作八公山詩1に雲聚岫如v複《カサナレル》とあり。結霧は霧ムスビテとよむべし。モヤガオリテと(893)なり。穀《コメ》は羅穀《ラコク》、霧穀とも云ひて一種の皺みたる薄絹にて霧をたとへたるなり。舞新蝶、歸故雁は共にヲを添へずして訓むべし。蓋v天は天ヲ蓋《カサ》トシテなり。契沖は淮南子の以v天爲v蓋を引けり。促膝は對座なり。觴はサカヅキなり。契沖は忘言の例に莊子の得v意而忘v言を引けり。卷十七なる大伴池主の歌の序にも淡交促v席得v意忘v言と書けり。開衿は披襟とも云へり。袷の紐を解きてうちくつろぐなり。煙霞はやがて霞なり。懷風藻に見えたる旅人の詩にも煙霞接2早春1とあり。煙霞は或は煙花の誤か。煙花は都市なり。此あたりもやや蘭亭記に似たり。特に快然自足は彼記中の語なり。翰苑の翰は筆なり。苑はこゝにては意無からむ。※[手偏+慮]はノベムとよむべし。詩紀2落梅之篇1は毛詩召南の※[手偏+票]有梅を指せるか。※[手偏+票]は落なり。但|※[手偏+票]有《オチタルヤ》梅の梅は梅實にて梅花にあらず
 ムツキタチの歌は初句の上に今ヨリ後モといふことを加へてきくべし。カクシコソのシは助辭なり。タヌシキヲヘメは眞淵宣長の説に樂シキコトヲ終ヘメにてヲヘメは極メメといふことなりといへり。契沖いはく『古今にアタラシキ年ノ初ニカクシコソチトセヲカネテ樂シキヲツメ此も今の歌の落句と同じかりけむを假名のへ〔右△〕の字とつ〔右△〕の字の似たるを書まがへたるべし』と
 
(894)816 うめのはないまさけるごとちりすぎずわがへのそのにありこせぬかも【少貮小野大夫】
烏梅能波奈伊麻佐家留期等知利須蒙〔左△〕受和我覇能曾能爾阿利己世奴加毛
 チリスギズは散リ失セズなり。二三の間に古義にいへる如くイツマデモといふ辭を補ひてきくべし。ワガヘは又ワギヘとあり。我家なり。アリコセヌカモはアツテクレヨカシなり。作者は卷三(四三四頁)に見えたる小野朝臣|老《オユ》なり○蒙は義の誤なり
 
817 うめのはなさきたるそののあをやぎはかづらにすべくなりにけらずや【少貮粟田大夫】
烏梅能波奈佐吉多流僧能能阿遠也疑波可豆良爾須倍久奈利爾家良受夜
 梅、傍の物となれり。契沖は梅と柳とを交へて鬘にするなりといへれどさる意とはきこえず。下にもウメノ花サキタルソノノアヲヤギヲカヅラニシツツ遊ビクラサ(895)ナとよめり、ケラズヤの例は卷二(三一九頁)にツマモアラバツミテタゲマシ佐美ノ山ヌノヘノウハギスギニケラズヤとあり。作者は續紀に見えたる粟田朝臣人上なるべしと古義にいへり
 
818 はるさればまづさくやどのうめのはなひとりみつつやはるびくらさむ【筑前守山上大夫】
波流佐禮婆麻豆佐久耶登能烏梅能波奈此等利美都都夜波流比久良佐武
 第四句のヤはヤハなり。思フドチ寄合見テコソ春ノ日ヲクラサメとなり(契沖)作者は即|山《ヤマ》(ノ)上《ウヘ》(ノ)臣|憶良《オクラ》なり
 
819 よのなかは古飛斯宜志惠夜《コヒシゲシヱヤ》かくしあらばうめのはなにもならましものを【豐後守大伴大夫】
余能奈可波古飛斯宜志惠夜加久之阿良婆烏梅能波奈爾母奈良麻之勿能怨
(896) 第二句を契沖コヒシゲシヱヤとよめり。さて宣長はコヒシゲシ、ヱヤと切りてヱヤを嘆息の辭とせり。コヒはモノオモヒといふことか。カクシアラバを雅澄の人トアラムヨリハと譯せるは非なり。もしさる意ならばカクシアラズバとこそいふべけれ(コヒムヨリハをコヒツツアラズバといへるを思へ)。案ずるにカクシアラバはカク戀ノ繁カラバとなり。三四の間〔日が月〕に寧といふ語を挿みて聞くべし
 
820 うめのはないまさかりなりおもふどちかざしにしてないまさかりなり【筑後守葛井大夫】
烏梅能波奈伊麻佐可利奈理意母布度知加射之爾斯弖奈伊麻佐可利奈理
 作者は卷四(六九一頁)に見えたる葛井《フヂヰ》(ノ)連大成なり
 
821 あをやなぎうめと〔右△〕のはなををりかざしのみてののちはちりぬともよし(笠沙彌)
阿乎夜奈義烏梅等能波奈乎遠理可射之能彌弖能能知波知利奴得母與(897)斯
 二つの名詞を連結するには各語の下にトを附くるが常規なり。たとへば下なるウチナビクハルノヤナギト〔右△〕ワガヤドノウメノハナト〔右△〕ヲイカニカワカムの如し。然るに集中右の常規に背きたる用例二つあり。甲は下のトを省きたるもの即今の時文の用例にひとしきものなり。たとへばムロノ木ト〔右△〕棗ノモトヲカキハカムタメ、大伴ト〔右△〕佐伯ノ氏ハ、君ト〔右△〕吾へダテテコフル(以上卷四【七五〇頁】に擧げたり)ウヅキト五月ノホドニ(卷十六乞食者詠)などの如し。乙は上のトを略せるものにてナマヨミノ甲斐ノ國ウチヨスル駿河ノ國ト〔右△〕、アラレ松原スミノ江ノオトヒヲトメト〔右△〕、ナクチドリカハヅト〔右△〕フタツなど是なり(以上卷三【四一九頁】に擧げたり)。今の歌は後者に屬せり。さて今の歌にアヲヤナギ梅トノ花ヲとあるを辭のまゝに解すれば柳ノ花ト梅ノ花トヲといふことゝなれどおそらくはアヲヤナギウメノハナ等《ト》ヲとありしを傳寫の際に誤りて等を烏梅《ウメ》の下に入れたるならむ○酒といふことをいはでただノミテといへるは此頃より始まりし辭遣なり。下にもウメヲカザシテタヌシクノマメとあり又卷八にもサカヅキニ梅ノ花ウカベオモフドチ飲ミテノチニハ散リヌトモヨシ (898)とあり○作者は卷三(四八六頁)に造筑紫觀世音寺別當沙彌滿誓とあると同人なり。出家入道の前に笠(ノ)朝臣麻呂といひしが故に笠沙彌と書けるなり。略解古義に沙彌を固有名詞として『沙彌は俗人の名なるべし』といへるは千慮の一失なり
 
822 わがそのにうめのはなちる(ひさかたの)あめよりゆきのながれくるかも(主人)
和何則能爾宇米能波奈知流比佐可多能阿米欲里由吉能那何列久流加母
 ナガレは降ることなり。卷一にもナガラフル雪フク風ノ(一〇二頁)アメノシグレノナガラフ見レバ(一二六頁)とあり。主人は即大伴宿禰旅人なり
 
823 うめのはなちらくはいづくしかすがにこのきのやまにゆきはふりつつ【大監大伴氏百代】
烏梅能波奈知良久波伊豆久志可須我爾許能紀能夜麻爾由企波布理都々
(899) 古義に
  梅花の盛過て散事は何處にあるぞ。未散花はいづくにも有まじ。梅花の咲たるながらに此城(ノ)山に雪はふりつゝ猶甚寒ければ未散時には至らじ。心しづかに賞愛しつゝ遊宴せむぞ。となり
 といへるはキノ山を帥老の家と思へるなれどキノ山は契沖等のいへる如く卷四(六九一頁)に今ヨリハ木ノ山道ハサブシケムワガ通ハムト思ヒシモノヲとある木ノ山ミチと同處なるべし(果して然らば其山は筑前肥前に跨れる山にて太宰府とはいたく離れたり。されば古義の如くには釋くべからず。案ずするに一首の意は
  梅ノ花ノ既ニ散ル處ガアルサウデアルガソレハイヅクゾ。サヤウニ散ル處モアルトイフニ此我越ユル木ノ山ハ今ナホ雪ガフリフリスル
といへるにて目前に梅花の散るを見ながらわざと身を木(ノ)山道におきてよめるなり。かの古今集春上なる春ガスミタタルヤイヅクミヨシ野ノ吉野ノ山ニ雪ハフリツツは適に今の歌の格を學べるなり。相照らして歌の意を會得すべし
 
824 うめのはなちらまくをしみわがそののたけのはやしにうぐひすなく(900)も【少監阿氏奥島】
烏梅乃波奈知良麻久怨之美和家曾乃乃多氣乃波也之爾于具此須奈久母
 此一列の歌は序には賦2園梅1とあれど實は梅花を題としてよめるのみ。されば三十二首中には目前の景をよめるもあり、目前の景を離れてただ梅花をよめるもあるなり。之を皆嘱目の作とせむは非なり。此歌のワガソノ、上なるワガヘノソノ、下なるワガヤド、イモガヘなど、もし嘱目の作ならばコノ園、君ガ家ノ園、此宿、君ガヘなどあるべきなり。またハルノ野ニキリタチワタリフル雪トなどはよむべからず○以下多くは作者の氏を修《チヂ》めたり
 
825 うめのはなさきたるそののあをやぎをかづらにしつつあそびくらさな【少監土氏百村】
烏梅能波奈佐岐多流曾能能阿乎夜疑遠加豆良爾志都都阿素※[田+比]久良佐奈
 
826 (うちなびく)はるのやなぎとわがやどのうめのはなとをいかにかわか(901)む【大典史氏大原】
有知奈※[田+比]久波流能也奈宜等和家夜度能烏梅能波奈等遠伊可爾可和可武
 ワカムといへるは卷一(三二頁)に額田王以v歌判v之とある判の意にて優劣を判するなり
 
827 はるさればこぬれがくりてうぐひすぞなきていぬなるうめがしづえに【少典山氏若麻呂】
波流佐禮婆許奴禮我久利弖宇具此須曽奈岐弖伊奴奈流烏梅我志豆延爾
 コヌレガクリテはコガクレテといふに齊し(コヌレは木末なれどこゝにては末には意なし)。古義には許奴禮我久利弖の弖を之の誤として『冬の程は木に隱れて見えざリしと云なり』と云へれどコヌレガクリテは花又は木葉に隱るゝ事なれば寧春の趣なリ。イヌナルを契沖宣長はユクナルの意とし眞淵雅澄は寐《イ》ヌナルの意とせ(902)り。又宣長は『コヌレは他の木の梢にて梅の下枝に居たる鶯の他の梢へかくれていぬるを云』といへり。案ずるにウメガシヅエニとあれば他の木の葉蔭などより梅の下枝に遷り來るなり○此歌などは古歌なるが故に解し難きにあらず。作の拙き爲に心得かぬるなり。作者は卷四(六八六頁)に見えたる山口(ノ)忌寸《イミキ》若麻呂なリ
 
828 ひとごとにをりかざしつつあそべどもいやめづらしきうめのはなかも【大判事舟氏麻呂】
此等期等爾乎理加射之都都阿蘇倍等母伊夜米豆良之波〔左△〕烏梅能波奈加母
 イヤは後世のナホなり○波は岐の誤なり
 
829 うめのはなさきてちりなば△《サ》くらばなつぎてさくべくなりにてあらずや【藥師張氏福子】
烏梅能波奈佐企弖知理奈婆久良婆那都伎弖佐久倍久奈利爾弖阿良受也
(903) ナリニテアラズヤはナリニタリといふことを強く云へるなり。上なるナリニケラズヤの類なり。藥師は即醫師なり○久良婆那の上に佐をおとせるなり。作者は男子なり。いにしへも今も男子の名にも子を添ふる事あり
 
830 萬世にとしはきふともうめのはなたゆることなくさきわたるべし【筑前介佐氏子首】
萬世爾得之波岐布得母烏梅能婆奈多由流己等奈久佐吉和多流倍子
 キフトモは雖來經にてスグトモと云はむに同じ。ヨロヅヨニのニは後世のトなり○子首はコビトとよむべし
 
831 はるなればうべもさきたるうめのはなきみをおもふとよいもねなくに【壹岐守板氏安麻呂】
波流奈例婆宇倍母佐枳多流烏梅能波奈岐美乎於母布得用伊母禰奈久爾
 ウメノハナの下にカナといふ辭を補ひて聞くべし。卷四(七一七頁)なるサヨ中ニ友(904)ヨブ千鳥モノモフトワビヲル時ニナキツツモトナと同格なり。君とは契沖のいへる如く梅花をさせるなり。ヨイは眞淵の云へる如く夜寢なり。さて梅花を思ふとて寢《イ》もねずといへるはいかなる意か。契沖が花のさくを待ちわぶる意とせるを雅澄は排斥して雨風ニアタラ盛ノ散過ムカト心ヲナヤマシツツ汝ヲ思フトテ夜モ寢ズシテ云々と譯したれどさまでの意はあるべからず。ただ梅花を人に擬して君ガ見タクテオチオチトハ寢ヌと云へるにこそ。作者は古義に續紀に見えたる板|茂《モチ》(ノ)連安麻呂なるべしといへり
 
832 うめのはなをりてかざせるもろびとはけふのあひだはたぬしくあるべし【神司荒氏稻布】
烏梅能波奈乎利弖加射世留母呂此得波家布能阿此太波多努斯久阿流倍斯
 ケフ一日ハ思フコトナカルベシとなり
 
833 としのはにはるのきたらばかくしこそうめをかざしてたぬしくのま(905)め【大令史野氏宿奈麻呂】
得志能波爾波流能伎多良婆可久斯己曾烏梅乎加射之弖多努志久能麻米
 トシノハは毎年なり
 
834 うめのはないまさかりなりももとりのこゑのこほしきはるきたるらし【少令史田氏肥人】
烏梅能波奈伊麻佐加利奈利毛毛等利能己惠能古保志枳波流岐多流良斯
 コホシキはコヒシキの轉ぜるなり○肥人はクマビトとよむべし
 
835 はるさらばあはむともひしうめのはなけふのあそびにあひみつるかも【藥師高氏義通】
波流佐良婆阿波武等母比之烏梅能波奈家布能阿素※[田+比]爾阿比美都流可母
(906) アハムトモヒシ、アヒミツルカモといへる、梅花を人に擬せるなり
 
836 うめのはなたをりかざしてあそべどもあきたらぬひはけふにしありけり【陰陽師礒氏法麻呂】
烏梅能波奈多乎利加射志弖阿蘇倍等母阿岐太良奴比波家布爾志阿利家利
 
837 はるのぬになくやうぐひすなづけむとわがへのそのにうめがはなさく【※[竹/下]師志氏大道】
波流能努爾奈久夜※[さんずい+于]隅比須奈都氣牟得和何弊能曾能爾※[さんずい+于]米何波奈佐久
 ナクヤのヤは助辭、ナヅケムトは招キ寄セムトなり。ウメガ〔右△〕ハナといへるめづらし。※[竹/下]は※[竹/弄]に同じ
 
838 うめのはなちりまがひたるをか肥《ビ》にはうぐひすなくもはるかたまけて【大隅目榎氏鉢麻呂】
(907)烏梅能波奈知利麻我此多流乎加肥爾波宇具此須奈久母波流加多麻氣弖
 チリマガフは散り亂るゝなり。ヲカビは岡邊なり。古義には畝傍《ウネビ》のヒを例とせり。但かの文字に通音あるを知りて言語に轉音あるを忘れたる音韻學者等は肥にはへの通音あればこゝもヲカベとよむべしといへり
 
839 はるの能にきりたちわたりふるゆきとひとのみるまでうめのはなちる【筑前目田氏眞人】
波流能能爾紀利多知和多利布流由岐得此得能美流麻提烏梅能波奈知流
 野を能と書ける注目すべし。此頃はやくノともいひしなり。キリタチワタリはカキクモリといふ意
 
840 (はるやなぎ)かづらにをりしうめのはなたれかう△《カ》べしさかづきのへに【壹岐目村氏彼方】
(908)波流楊奈那〔□で圍む〕宜可豆良爾乎利志烏梅能波奈多禮可有倍志佐加豆岐能倍爾
 ハルヤナギはカヅラの枕辭なり(眞淵、宣長)〇一首の意は契沖の『かづらの影の盃にうつるを盃の上にたが浮べたるぞといひなすなり』といへる如し○有の下、倍志の上に可をおとせり
 
841 うぐひすのおときくなべにうめのはなわぎへのそのにさきてちるみゆ【對馬目高氏老】
于遇此須能於登企久奈倍爾烏梅能波奈和企弊能曾能爾佐伎弖知留美由
 いにしへは鳥の聲をもオトといひしなり。ナベニはツレテなり。サキテはただ輕く添へたるのみ。卷三(四九一頁)なるウメノ花サキテチリヌト人ハイヘドワガシメユヒシ枝ナラメヤモの類なり
 
842 わがやどのうめのしづえにあそびつつうぐひすなくもちらまくをし(909)み【薩摩目高氏海人】
和家夜度能烏梅能之豆延爾阿蘇※[田+比]都都字具此須奈久毛知良麻久乎之美
 チラマクヲシミは散ラムコトガヲシサニなり
 
843 うめのはなをりかざしつつもろびとのあそぶをみればみやこしぞもふ【土師氏御通】
宇梅能波奈乎理加射之都都毛呂此登能阿蘇夫遠美禮婆彌夜古之叙毛布
 結句は京ガ思出サルルとなり。作者は卷四(六八〇頁)に見えたる土師《ハニシ》(ノ)宿禰|水通《ミミチ》なり
 
844 いもがへにゆきかもふるとみるまでにここだもまがふうめのはなかも【小野氏國堅】
伊母我陛邇由岐可母不流登彌流麻提爾許許陀母麻我不烏梅能波奈可毛
(910) イモガヘは妹ガ家、マガフは散り亂るゝ事〇モといふ辭三つまでかさなれるは口を衝いて發するに任せし當時の風なり
 
845 うぐひすのまちがてにせしうめがはなちらずありこそおもふこがため【筑前掾門氏石足】
字具此須能麻知迦弖爾勢斯字米我波奈知良須阿利許曾意母布故我多米
 マチガテニセシは待不敢セシにて即マチカネシなり。初二はただ梅花の修飾に云へるのみ。四五の意と交渉あるにあらず。思ふ女につぎて見せむ爲梅花の散らざらむことを希へるなり。作者は卷四(六八七頁)に見えたる門部(ノ)連|石足《イソタリ》なり
 
846 (かすみたつ)ながきはるびをかざせれどいやなつかしきうめのはなかも【小野氏淡理】
可須美多都那我比〔□で圍む〕岐波流卑乎可謝勢例杼伊野那都可子岐烏梅能波那可毛
(911) カスミタツは准枕辭○比は衍字なり
 
   員外思2故郷1歌兩首
847 わがさかりいたくくだちぬくもにとぶくすりはむともまたをちめやも
和我佐可理伊多久久多知奴久毛爾得夫久須利波武等母麻多遠知米也母
 この思2故郷1歌と後追和梅歌との作者については後にいふべし○員外とあるは同時の作にはあれど梅花を詠ぜる一列の歌の外なればなり。さて同時に思2故郷1歌を作れるは或は土師《ハニシ》(ノ)御通《ミミチ》のアソブヲミレバミヤコシゾモフと作れるに催されての事にもあるべし。次なると例の二首一聯の歌なり○クダツは傾くなり。雲ニトブクスリは仙藥にて淮南《ヱナン》王劉安の故事によれるなり。劉安の仙人となりて昇天せし時その棄置きし藥を※[奚+隹]犬の舐めて亦共に昇天せしこと列仙全傳にあり。雲ニトブとはその※[奚+隹]を思ひていへるなり。ハムトモはクラフトモなり。ヲツはこゝにては若返(912)る事なり(卷三【四三六頁】參照)
 
848 くもにとぶくすりはむよはみやこみばいやしきあがみまたをちぬべし
久毛爾得夫久須利波牟用波美也古彌婆伊夜之吉阿何微麻多越知奴倍之
 ヨはヨリなり。記傳卷十九(全集第二の一一六二頁)に
  記中の歌にヨリを一言に云るは凡て皆ヨとのみあリてユと云るは一も無し。然るを書記には此記と同歌なるも其餘も皆ユとのみありてヨといへるはなし。萬葉にはヨともユともあるなり
といへり。イヤシキワガミは仙人に對していへるにて凡夫といふばかりの意なり。
 古義に
  これを古來|卑賤《イヤシキ》吾身てふことに心得たれどもしからず。……今按ふにイヤシキは彌重《イヤシキ》なるべし。さらば吾身彌重々ニ又|變若《ヲチ》ヌベシといふ意なり
(913)といへるは非なり
 
   後(ニ)迫2和梅△歌1四首
849 のこりたるゆきにまじれるうめのはなはやくなちりそゆきはけぬとも
能許利多流由棄仁末自列留烏梅能半奈半也久奈知利曾由吉波氣奴等勿
 題辭中梅の下に花の字おちたるか
 
850 ゆきのいろをうばひてさけるうめのはないまさかりなりみむひともがも
由吉能伊呂遠有婆比弖佐家流有米能波奈伊麻左加利奈利禰牟必登母我聞
 
851 わがやどにさかりにさける牟〔左△〕《ウ》梅のはなちるべくなりぬみむひともがも
(914)和我夜度爾左加里爾散家留牟梅能波奈知劉倍久奈里奴美牟必登聞我母
 牟の字諸本に宇とあり
 
852 うめのはないめにかたらくみやびたるはなとあれもふさけにうかべこそ
    一云いたづらにあれをちらすなさけにうかべこそ
烏梅能波奈伊米爾加多良久美也備多流波奈等阿例母布左氣爾于可倍許曾
    一云伊多豆良爾阿例乎知良須奈左氣爾于可倍己曾
 三四は作者の改作せるならむ。一云の方を採るべし。契沖のいへる如く梅花の精靈の娘子などに化して夢に入りてかく告げしやうによめるなり
 思2故郷1歌と後追和梅歌とは同一人の作とおぼゆ。略解古義共に之を憶良の作とせるは舊説によりて此卷を憶良の集とし、さて此等の歌には特に作者の名を記さざ(915)る故に深くも思はずして憶良の歌と定めたるなり。されど此卷は卷末にいふが如く憶良の集にはあらず。されば作者の名を記さざる歌は一一細に考へざるべからず。上(八九一頁)に云へる如く梅花歌三十二首を整理排列せしは旅人なればこの員外追和六首の歌は必旅人の作なり。武田祐吉氏(雜誌『心の華』十九の六)も亦之を旅人の作とし(理由は余が云へると異なり)又
  員外思故郷歌二首と卷の三、帥大伴卿歌五首の中のワガサカリマタヲチメヤモホトホトニ寧樂ノ都ヲ見ズカナリナムとの間に於ける思想及歌詞の類似を以てその傍證となし得べし
と云へり。げにワガサカリといふ歌の員外歌に似たるのみならず追和梅歌のウメノハナイメニカタラクは上(八七四頁)なる日本琴を藤原房前に贈りし書牘に此琴夢化2娘子1曰云々とあると著想類似せり。されば武田氏のいへる如く此等の傍證によりても亦旅人の作と定むべし
 
   遊2於松浦河1序
 余以暫往2松浦之縣1逍遙、聊臨2玉島之潭1遊覧、忽値2釣v魚女子等1也、花容(916)無v雙、光儀無v匹、開2柳葉於眉中1、發2桃花於頬上1、意氣凌v雲、風流絶v世、僕問曰、誰郷家兒等、若疑神仙者乎、娘等皆咲答曰、兒等者漁夫之舍兒、草庵之微者、無v郷無v家、何足2稱云1、唯性便v水、復心樂v山、或臨2洛浦1而徒羨2王〔左△〕魚1、
乍臥2巫峡1以空望2烟霞1、今以3邂逅相2遇貴客1、不v勝2感應1、輙陳2※[疑の左+欠]曲1、而今而後豈可v非2偕老1哉、下官對曰、唯唯、敬奉2芳命1、于v時日落2山西1、※[馬+麗]馬將v去、遂申2懷抱1、因贈2詠歌1曰
853 あさりするあまのこどもとひとはいへどみるにしらえぬうまびとのこと
阿佐里須流阿末能古等母等比得波伊倍騰美流爾之良延奴有麻必等能古等
 
   答詩曰
854 たましまのこのかはかみにいへはあれどきみをやさしみあらはさずありき
(917)多麻之末能許能可波加美爾伊返波阿禮騰吉美乎夜佐之美阿良波佐受阿利吉
 
   蓬客等更贈歌三首
855 まつらがはかはのせひかりあゆつるとたたせるいもがものすそぬれぬ
麻都良河波可波能世此可利阿由都流等多多勢流伊毛河毛能須蘇奴例奴
 
856 まつらなるたましまがはにあゆつるとたたせるこらがいへぢしらずも
麻都良奈流多麻之麻河波爾阿由都流等多多世流古良何伊弊遲斯良受毛
 
857 (とほつひと)まつらのかはにわかゆつるいもがたもとをわれこそまかめ
(918)等富都此等末都良能加波爾和可由都流伊毛我多毛等乎和禮許曾末加米
 
   娘等更報歌三首
858 わかゆつるまつらのかはのかはなみのなみにしもはばわれこひめやも
和可由都流麻都良能可波能可波奈美能奈美邇之母波婆和禮故飛米夜母
 
859 はるさればわぎへのさとのかはとにはあゆこさばしるきみまちがてに
波流佐禮婆和伎覇能佐刀能加波度爾波阿由故佐婆斯留吉美麻知我弖爾
 
860 まつらがはななせのよどはよどむともわれはよどまずきみをしまたむ
(919)麻都良我波奈奈勢能與騰波與等武等毛和禮波與騰麻受吉美遠志麻多武
 題辭はもと遊2於松浦河1贈答歌并序などありしが脱字を生じて今の如くなれるなるべし。序の余以の下にも脱字あるべし。余以事〔右△〕などありしか。開はヒラケシメとよむべく發はサカシムとよむべし。開以下十二字は眉の形が柳葉の如く頬の色が桃花に似たるをあやなし云へるなり。意氣凌雲はこゝにては高尚なる事。便水は水ニ馴レといふ意か。樂山は論語の語なり。或臨以下は或臨v水云々或臥v山云々といふ意を曹植の洛神賦と宋玉の巫山神女賦とに據りて洛浦巫峡と云へるなり。さて契沖は或臨2洛浦1而徒羨2王魚1の粉本として淮南子の臨v河而羨v魚、不v如2歸v家織1v網を擧げたり。王魚は東京賦、呉都賦、陸機の擬古詩等に據りて王鮪の誤とすべきかとも思へど烟霞の對なれば玉魚の誤にて玉ト魚トならむか。邂逅はタマタマなり。オモヒガケズなり。毛詩鄭風、野有蔓章に邂逅相遇、適2我願1兮とあり。感應は感動と心得べし。※[疑の左+欠]曲は委曲なり。されば輙陳2※[疑の左+欠]曲1はコマゴマ御話ヲシマシタといふ事なり。非は不の如く訓むべし。下官は遊仙窟にあまた見えたり。文選にもあり。日落云々は文選なる應(920)休※[王+連]の與2滿公※[王+炎]1書に白日傾v夕、※[馬+麗]駒就v駕とあるを學びたる事契沖の云へる如し。※[馬+麗]馬は黒馬なり。一列の歌の作者の事は後にいふべし
 
あさりするあまのこどもとひとはいへどみるにしらえぬうまびとのこと
 人とは即娘等なり
 
たましまのこのかはかみにいへはあれどきみをやさしみあらはさずありき
 ヤサシはハヅカシに似たれどハヅカシは己についていひヤサシは他についていふの別あり
 
まつらがはかはのせひかりあゆつるとたたせるいもがものすそぬれぬ
 松浦川は即玉島川なり。今唐津の傍にて海に注げる松浦川とは別なり。カハノセヒカリは契沖の『仙女の容のかがやくなり』といへる如し○蓬客等の等の字類聚古集(921)には無し。蓬客の例は孟郊の詩に蓬客將2誰僚1とあり。蓬客は轉蓬、瓢蓬などの意にて蓬客は旅客の意か。とまれかくまれこゝは自謙して云へるなり
 
まつらなるたましまがはにあゆつるとたたせるこらがいへぢしらずも
 
(とほつひと)まつらのかはにわかゆつるいもがたもとをわれこそまかめ
 ワレコソといへるに雅澄のいへる如く他人ニハ逢ハシメジといふ意こもりて聞ゆ
 
わかゆつるまつらのかはのかはなみのなみにしもはばわれこひめやも
 上三句は序なり。ナミニシモハバは世ノ常ニ思ハバなり。古今集戀四なるミヨシ野ノ大カハノヘノフヂナミノナミニ思ハバワレコヒメヤハと四五ほぼ相齊し○娘等を娘子とせる本あり
 
(922)はるさればわぎへのさとのかはとにはあゆこさばしるきみまちがてに
 ワギヘノサトは我郷なり。サバシルのサは添辭。マチガテニは待不敢にてマチカネテに齊し。不敢をガテニといふは不知をシラニといふと同例なり(卷三【三六三頁】參照)
 
まつらがはななせのよどはよどむともわれはよどまずきみをしまたむ
 瀬は水のたぎちおつる處をいひ又その中間をもいふ(なほ竹の節をも節と節との中間をもフシ又ヨといふが如し)。こゝは後の方なり。ワレハヨドマズは我ハ撓マデなり。キミヲシマタムは君ノ再來ラムヲ待タムとなり
 以上一列の歌の作者は誰ぞ。契沖いはく
  此序并に仙女に贈る歌を古來憶良の作とす。今按是は旅人卿の作なるべし。其故は太宰帥は九國二島を管攝する故に都督と號すれば所部を檢察せむために何れの國にも到るべし。此故に第六には隼人ノセトノイハホモ吉野ノ瀧ニシカズ(923)とよまれたり。是一つ〔三字傍点〕。憶良は筑前守にて輙く境を越て他國に赴く事を得べからず。是二つ〔三字傍点〕。次の吉田(ノ)連宜が状に伏奉2賜書1といひ戀v主之誠と云ひ心同2葵※[草冠/霍]1と云へるは同輩に報ずる文體にあらず。憶良は從五位下、宜も此時從五位上なればかやうには書べからず。是帥殿への返簡なる證。是三つ〔三字傍点〕。亦兼奉2垂示1梅花芳席群英擒v藻といへるも帥主人なりける故に径に梅花芳席と云へり。松浦玉潭仙媛贈答も同人の體なり是四つ〔三字傍点〕。又彼次下の憶良の書并歌は帥卿の典法に依て部下を巡察せらるゝに贈らる。書尾に天平二年七月十一日とかゝれたる三首の歌何れも憶良は終に松浦河をも領巾麾山をも見られざること明なり。是五つ〔三字傍点〕。聊辨論して後人の發明を待のみ
といへり。此論よく當れり。なほ次下にいふべし
 
   後人追和之詩三首 都〔□で圍む〕帥老
861 まつむらがはかはのせはやみくれなゐのものすそぬれてあゆか△《ツ》るらむ
(924)麻都良河波河波能世波夜美久禮奈爲能母能須蘇奴例弖阿由可流良武
 第二句のハヤミは卷三なる山タカミ河トホジロシのタカミと同格なり。ハヤサニとは譯せずしてハヤキニと譯すべし(三六八頁及四二九頁參照)○可の下に都をおとせり
 契沖いはく
  此後人をばオクルル人とよむべし。此後にもあり。後世、後學などの意にはあらず。留後など云意なり。都帥老の三字は後の人の加へたるべし。其故は上に云が如し(○契沖は舊説に反して前の一列八首の歌を旅人の作とせるが故にこれを旅人の作にあらずとし從ひて都帥老の三字を後世の添加とせるなり)。帥の追和ならば都帥老聞之追和詩三首など云べし(〇一歩を讓りて前八首を旅人の作にあらずとし此三首を旅人の作とすともなほ後人とは書くべからずといへるなり)……都といへるは都督の都歟
といひ雅澄も亦後人をオクレタル人とよみ(雅澄は前の八首を憶良の作とし此三(925)首を旅人の作とせり)又
  都とは太宰府は西海九國の都督なればいへり
と云へり。案ずるに後人はノチニ〔右△〕ヒトノとよむべし。上なる後〔右△〕追2和梅歌1四首また下なる三島王後〔右△〕追2和松浦佐用嬪面歌1一首とある後に同じ。さて前の八首は契沖のいへる如く旅人の作にて此三首も亦旅人の作なり。即旅人が後に人の追和せしに擬して作れるなり。亦都帥老の帥老は後世の添加にあらず。此卷を筆録せし人の註せしなり。此註なくては旅人の擬作と知られがたきが故なり。都の字は諸本に無きを思へばおそらくは衍字ならむ
 
862 ひとみなのみらむまつらのたましまをみずてやわれはこひつつをらむ
比等未奈能美良武麻都良能多麻志末乎美受弖夜和禮波故飛都々遠良武
 古義に
(926)  此歌にミラムといひ次の歌にもミラムとあるにて思へば憶良等の逍遙せし跡にてよまれしさまなり。還りて(○憶良等の)後によまれし(○旅人の)ものならばミケムとあるべきものなり
といへり。ヒトミナノミラムマツラノはただ世間ノ人々ノ見ルラム松浦ノといへるにて特にかの仙女と贈答せし人を指せるにあらず。さればミラムにてよくかなへり。又此歌どもは題辭に後人追和之詩とありて前の八首を見ての後に作れるなり。古義に云ふ如くば題辭と相かなはじ。否次なる歌とも相かなはじ。人の歸來らぬさきに其人の旅先にて遭ひしことを豫知るべきにあらざればなり。但次の歌なる美良牟は美家牟などの誤字なるべし。こはミラムとありては通ぜず(雅澄のいへるやうにおくれ居る人の作としても)
 
863 まつらがはたましまのうらにわかゆつるいもらを美良〔左△〕武《ミケム》ひとのともしさ
麻都良河波多麻新麻能有良爾和可由都流伊毛良遠美良牟此等能等母(927)斯佐
 タマシマノウラニとある浦は河にいへるなり。前の八首の序には玉島之潭とあり。因にいふ。いにしへの玉島川は今の玉島のわたりより左に折れて海岸線に併行して領巾振《ヒレフリ》山と虹の砂原との間を西流して今の松浦川に注ぎしを後に濱崎の東を堀りて直に海に注がせしより玉島と滿島との間の河床は埋れしなり。但今も其跡と思はるゝ溝川ありといふ。玉島之潭といひ玉島ノウラといへるは今のいづくばかりにか知られず。トモシサはこゝにてはウラヤマシサなり
     ○
  宜啓、伏奉2四月六日賜書1、跪關2封函1、拜讀2芳藻1、心神開朗、似v懷2泰初之月1、鄙懷除※[衣+去]、若v披2樂廣之天1、至v若d覊〔馬が奇〕2旅邊城〔左△〕1、懷2古舊1而傷v志、年矢不v停、憶2平生1而落u涙、但達人安v排、君子無v悶、伏冀朝宣2懷《ナヅクル》v※[擢の旁]之化1、暮春存2放v龜之術1、架2張趙於百代1、追2松喬於千齢1耳、兼奉2垂示1、梅花芳席群英擒v藻、松浦玉潭仙媛贈答、類2杏壇各言之作1、疑2※[草冠/衡]皐税駕之篇1、耽讀吟諷、感謝歡怡、宜戀v(928)主之誠、誠逾《コエ》2犬馬1、仰vコ之心、心同2葵※[草冠/霍]1、而碧海分v地、白雲隔v天、徒積2傾延1、何慰2勞緒1、孟秋|膺《アタル》v節、伏願萬祐日新、今因2相撲部領使1謹付2片紙1、宜謹啓不次
 
   奉v和2諸人梅花歌1二首
864 おくれゐて那我古飛《ナガコヒ》せずばみそのふのうめのはなにもならましものを
於久禮砥爲天那我舌飛世殊波彌曾能不乃于梅能波奈爾母奈良麻之母能乎
 
   和2松浦仙媛歌1一首
865 きみをまつまつらのうらのをとめらはとこよのくにのあまをとめかも
伎彌乎麻都麻都良乃于良能越等賣良波等己與能久爾能阿麻越等賣可忘
 
(929)   思v君未v盡重題二首
866 はろばろにおもほゆるかもしらくものちへに邊多天留つくしのくには
波漏婆漏爾於忘方由流可母志良久毛能智弊仁邊多天留都久紫能君仁波
 
867 きみがゆきけながくなりぬならぢなるしまのこだちもかむさびにけり
枳美可由伎氣那我久奈理努奈良遲那留志滿乃己太知母可牟佐飛仁家理
  天平二年七月十日
 宜啓また宜謹啓不次とある宜《ヨロシ》は吉田(ノ)連の名なり。邊城は一本に邊域とありといふ。架は駕の誤か。奉は受なり。ウケタマハリとよむべし。芳藻の藻は文なり。泰初は魏の夏侯玄の字なり。似《ニスル》v懷2泰初之月1は時人が玄を評して朗々如2日月之入1v懷といひし(930)に據れるなり。樂廣は晋の世の人。若v披2樂廣之天1は衛※[王+懽の旁]が廣を評して若d披2雲霧1而覩2青天uといひしに依れるなり。但披2樂廣之霧1と云はでは通ぜず。現に菅家文草には孰非2樂廣披霧之士1と作れり(因に云ふ。懷風藻に見えたる刀利《トリ》(ノ)宣令《センリヤウ》の詩に披v雲廣樂天とあるは樂廣を顛倒せるならむ)。邊域は太宰府を指せるなり。年矢は千字文にも見えたり。年の徃く事の迅きを矢にたとへたるなり。平生は曩日なり。安排は莊子大宗師篇に見えたり。排は推移なり。されば安排は成行に任するなり。※[擢の旁]は雉なり。雉ヲ懷クル化は後漢の魯恭の故事にて龜ヲ放ツ術は晋の孔愉の故事なり。術は心術なり。駕2張趙1は漢ノ山陽太守張敝ト陽※[擢の旁]令趙廣漢トノ治ニマサレと。なり。文選北山移文に籠2張趙徃圖1とあり。潘岳の西征賦にも趙張と併稱せり。追2松喬1は赤松子、王子喬二仙人ノ齢ト※[人偏+牟]シカレとなり。班固の西都賦、張衡の西京賦、同思玄賦、魂文帝の芙蓉池作などにも松喬とあり。※[手偏+離の左]《チ》藻は文選に多し。たとへば※[手偏+離の左]v濠如2春華1(班國答2賓戲1)※[手偏+離の左]v藻※[手偏+炎]《オホフ》2天庭1(左思蜀都賦)などあり。※[手偏+離の左]はノベタルとよむべし。藻はここにては歌の文《アヤ》なり。玉潭は玉島河之潭を約したるなり。各言は孔子が門人をして各其志を言はしめしを云ふ。杏壇は莊子漁父篇に孔子遊2平緇帷之林1休2坐乎杏壇之上1とあり。もとは地名(931)なりしを後に壇の周に杏樹を栽ゑて名にかなへたるなりと云ふ。※[草冠/衛]皐税駕は曹植の洛神賦中の語なり(※[草冠/衛]皐は※[草冠/衛]といふ草の生ひたる澤、税駕は馬を車より解き放つなり)。されば※[草冠/衛]皐税駕之篇はやがて洛神賦なり。洛神賦は曹植が洛川にて神女に遇ひし事を作れる文なり。戀v主之誠誠逾2犬馬1は同じ人の上2責v躬應v詔詩1表に不v勝2犬馬戀v主之情1とあるに據れるなり。葵※[草冠/霍]は向日葵即ヒマハリの花と豆の葉となりといふ。之を一物とする説もあれど陸機の樂府《ガフ》詩、君子有所思行(曲名)に無《ナカレ》d以2肉食(ノ)資1、取c笑葵與uv※[草冠/霍]とあればなほ二物とすべし。曹植の求v通2親親1文に若2葵※[草冠/霍]之傾1v葉、太陽雖v不2爲v之囘1v光然向v之者誠也とあり。傾延は傾首延領の略かと云へり。勞緒は勞心なり。我邦上代の詩文には緒を心の如くつかへり。孟秋は初秋なり。萬祐日新は益御幸福ナレとなり。祐は幸なり
 右の歌の中にキミヲマツ〔五字傍点〕マツラノウラノヲトメラハとあれば此書牘の誰にあてたるものなるかを詳にせば遊2松浦河1贈答歌のたが作なるかはおのづから明なるべし。かくて契沖は
  宜が状に伏奉2賜書1といひ戀v主之誠といひ心同2葵※[草冠/霍]1と云へるは同輩に報ずる文(932)體にあらず。憶良は從五位下、宜も此時從五位上なればかやうには書べからず。是帥殿への返簡なる證なり
といひ武田氏は
  宜の和梅花歌にミソノフノ梅ノ花ニモナラマシヲとあるも旅人への報書として始めて意義を生ず
といへり。げに戀v主之誠、誠|逾《コユ》2犬馬1の一句にて旅人にあてたる書牘なる事明白なり。思ふに
  梅花歌三十二首并序 序は憶良
  員外思2故郷1歌兩首 旅人
  後2追2和梅歌1四首 旅人
 以上を一卷に
  遊2松浦河1贈答歌 旅人
  後人追2和之詩三首 旅人擬作
 以上を又一卷に清書して吉田(ノ)連宜に示しゝなり。さて宜の報書に
(933)  梅花芳席群英(ノ)※[手偏+離の左]《ノベタル》v藻、松浦玉潭仙媛(ト)贈答(セル)類2杏壇各言之作1擬(ハル)2※[草冠/衡]皐税駕之篇1といへる杏壇云々は梅花芳席にかゝり※[草冠/衡]皐云々は松浦玉潭にかゝれるにて彼は諸人の合作なれば孔子の門人たちの各其志を言ひけむ辭に似たりと褒め此は旅人一人の作なれば文選なる曹植の洛神(ノ)賦かと疑はるとたゝへたるなり
 右の歌の奥に天平二年七月十日とあるにつきて古義に
  或説に此月日は恐らくは右の二首(○思君末盡重題二首)許の自注ならむ。こゝの七月十日にては因2相撲部領使1と有にたがへり。書牘并歌を贈し(○相撲部領使に托して)其後又々此二首をよみて贈られしならむ。中務省式に前v節一月云々(七月二十五日相撲節日なり)などあるにかなはず。といへり。さもあるべし
といひ
  ○毎年七月天皇相撲を觀たまふ。其日を相撲(ノ)節《セチ》といふ。此日の設として毎年二三月頃に左右近衛府より使を諸國に遣はして相撲人を徴して領じ至らしむ。之を相撲(ノ)部領使《コトリヅカヒ》といふ(以上國史大辭典に據る)。中務省式に凡相撲(ノ)司前v節一月任2堪v事者1とあるは相撲(ノ)節の事務官の任命なり。部領使の事には與からず
(934) 之に對して武田氏は
  報書の中に孟秋膺v節とある以上、やはりこの日附に係るものと見なければならぬ。この報書を附せられた相撲部領使が七月に派遣せられる筈が無いといふ事は天平二年に在つては未だその明徴を見出し得ない事である
といへり。案ずるに左右近衛府より相撲|部領使《コトリヅカヒ》(コトリヅカヒは今いふ宰領なり)を諸國に遣はしゝは後世の定にて奈良朝時代には毎年六月二十日までに(當時の相撲(ノ)節は七月七日なり)諸國より部領使をして相撲人を領じて京に上らしめしなり。類聚國史第七十三(活字本五〇五頁)に
  嵯※[山/我]天皇大同五年丁未勅。進2膂力人1者常限2六月廿日以前1。自今以後隨v得即進莫v限2期月1
とあると下なる敬和d爲2熊凝1述2其志1歌u六首の序に
  以2天平三年六月十七日1爲2相撲使某國司官位姓名從人1參2向京都1
とあるとを味ひて余の言の妄ならざるを知るべし。さて今は太宰府より上りし相撲部領使の、節果てゝ筑紫に歸るに書牘を托せしにて天平二年七月十日といふ日(935)附は全部に係れる事勿論なり
 
おくれゐて那我古飛《ナガコヒ》せずばみそのふのうめのはなにもならましものを
 ナガコヒは宣長の説に長戀なりといへり。卷十二にもタマガツマ島熊山ノユフギリニ長戀シツツイネガテヌカモとあり。セズバはセムヨリハなり
 
きみをまつまつらのうらのをとめらはとこよのくにのあまをとめかも
 契沖のいへる如く娘子の歌に君ヲシマタムとあればそれを蹈みてキミヲマツといへるなり。トコヨノ國は仙郷、アマヲトメは海人の少女なり
 
はろばろにおもはゆるかもしらくものちへにへだ天〔左△〕《ツ》るつくしのくには
 第四句の邊多天留は類聚古集に敝太津留とあるに從ふべし。もとのまゝにては語格とゝのはず
 
(936)きみがゆきけながくなりぬならぢなるしまのこだちもかむさびにけり
 初二は君ノ旅ニアル事久シクナリヌとなり。こゝのナリヌはナリヌラシの意なリ。後世ケラシの意にケリといふに同じ。ケラシの意のケリとは西行のかの
  ふりつみしたかねのみ雪とけにけり〔二字右△〕清たき川の水のしら波
の類なり。くはしくは玉緒卷六を見て心得べし○契沖いはく
  ナラヂは奈良路なり。シマは地名なり。添上郡に八島あり。此處にや
といひ略解にも
  島は大和の地名也。奈良へ通ふ路なるべし
といへり。案るにこゝの奈良路はただ奈良といふに齊し。アフミ路ノトコノ山ナルイサヤ川などと同例なり。又シマは地名にあらず。旅人の家の庭園なり。いにしへ庭園をシマといひし事は卷三(五五五頁)にいへる如し。旅人の家の庭園は殊にめでたかりきと見ゆ。卷三(五五四頁)なる旅人が太宰府より故郷に歸りし時によみし歌にも妹トシテフタリツクリシワガシマハコダカクシゲクナリニケルカモとあリ。(937)カムサビニケリは契沖のいへる如くモノフリニケリなり。此歌も亦かの遊2松浦河1贈答歌が旅人の作なる事の傍證とすべし
     ○
  憶良誠惶頓首謹啓
  憶良聞、方岳諸侯都督刺史並依2典法1巡2行部下1察2其風俗1、意内多端口外難v出、謹以2三首之鄙歌1欲v寫2五藏之鬱結1、其歌曰
868 まつらがたさよひめのこがひれふりしやまの名のみやききつつをらむ
麻都良我多佐欲比賣能故何此列布利斯夜麻能名乃美夜伎々都々遠良武
 
869 たらしひめかみのみことのなつらすと【一云あゆつると】みたたしせりしいしをたれみき
多良志此賣可尾能美許等能奈都良須等美多多志世利斯伊志遠多禮美(938)吉
    一云阿由都流等
 
870 ももかしもゆかぬまつらぢけふゆきてあすはきなむをなにかさやれる
毛毛可斯母由加奴麻都良遲家布由伎弖阿須波吉奈武遠奈爾可佐夜禮留
  天平二年七月十一日筑前國司山上憶良謹上
 代匠記以下に方岳といふ文字の出典を擧げたれど三註(代匠記、略解、古義)共に方岳諸侯都督刺史の指す所を明言せす。ただ代匠記(卷之五下一頁)に
  太宰帥は九國二島を管攝する故に都督と號すれば云々
といひ又(同卷一七頁)
  判史依2今本1大判事史生等也。依2官本1肥前守也(○今本には判史とあり官本即禁裏の御本には刺史とあるなり)
(939)といへるのみ。或人は
  國守は唐制の刺史に當り太宰帥は唐制の都督に當れるが方岳諸侯と言ふも亦太宰帥を措きて他に宛つべきもの無し
といへり。されど方岳諸侯都督刺史並依2典法1巡2行部下1とあるを方岳諸侯都督の六字を太宰帥に充て刺史の二字を國守に充つべきにあらず。案ずるに方岳諸侯都督刺史は封建制の方岳を郡縣制の都督に、封建制の諸侯を郡縣制の刺史にむかはしめたるにて方岳都督を太宰帥に比し諸侯刺史を國守に比したるなり。文選の注に藩岳謂2諸侯1也とあるに泥むべからず○並依2典法1巡2行部下1察2其風俗1の並は各の義なり。太宰帥は九國二島を巡行し筑前守は筑前國を巡行するが典法に依るなり○意内多端口外難v出とある意内は三首の歌によりて察するに身、筑前守たれば界を踰えて隣國の勝地舊蹟を遊覧することを得ざるを嘆ぜるなり。之によりても亦かの遊2松浦河1贈答歌が憶良の作にあらざることを知るべし
 
まつらがたさよひめのこがひれふりしやまの名のみやききつつをらむ
(940) マツラガタは松浦縣なり(宣長)。サヨヒメノコといへるコは子にて親しみていふなり(雅澄)○ヒレはいにしへ婦人の領《クビ》より肩にかけし巾なり。山ノ名ノミヤキキツツヲラムは上(九二五頁)なるミズテヤワレハコヒツツヲラムと同意にて身を心に任せざるを嘆けるなり。古義にマノアタリ見ズシテ戀シク思ヒツツ居ムヤとなりといへるは山ノ名ノミ聞キツツヤハ居ルベキ、イデ見ニ行カムといふ意と誤解せるなり(雅澄はかの遊2松浦河1贈答歌を憶良の作とし『此三首は未松浦の地に到らざりし時の作と見ゆ』といへり。其説の非なることは上來辨拆る所を見て知るべし)○領巾振《ヒレフリ》山は肥前國東松浦郡鏡村の東にあリて一名を鏡山といふ。その北麓は即虹の松原なり
 
たらしひめかみのみことのなつらすとみたたしせりしいしをたれみき 一云あゆつると
 神功皇后の玉島川にて鮎を釣りたまひしこと記紀に見えたり。ナは魚の一名なり。雅澄は『魚をナと云は饌に用る時の稱なり』といへれど海中に魚の集れるをナムラといひ(これは雅澄自擧げたり)鯨をイサナといふなどを思へば必しも饌に用ふる(941)時に限りていふ名にもあらじ。ミタタシはタツの敬語タタスを名詞としてタタシといふそれにミを添へたるなり。イシヲタレミキとある石は古義に雲根志を引き
  肥前國松浦郡浮島と玉島川の間の松原に大石あり。其石方七尺ばかり。むらさき石と俗によべり。……昔神功皇后三韓退治の時此石上に立てうけひて釣し給ひしよし云傳へたり
といへり。今松浦郡に浮島といふ處あるを聞かず。げに源氏物語玉葛(ノ)卷に故少貮の子等姫君を具して肥前より遁げ上る處に
  ただ松浦(ノ)宮の前の渚と、かの姉おもとの別るゝとなんかへり見せられて悲しかりける 浮島〔二字右△〕を漕ぎはなれてもゆく方やいづくとまりと知らずもあるかな
とあれどさる地名實にあるにやおぼつかなし(松浦(ノ)宮とあるはやがて大夫(ノ)監《ゲン》の君ニモシ心タガハバ松浦ナルカガミノ神ニカケテチカハムとよめる神にて今も領巾振山の西麓に鏡宮とてましませり。祭神は神功皇后なり)。たとひさる處ありともそはいにしへの玉島川の川筋の附近なるべくさては今の玉島川とは遙に相隔た(942)れり。されば雲根志にいへる浮島と玉葛(ノ)卷なる浮島とは同處と見るべからず。書紀通證には
  玉島里在2松浦郡濱崎驛南半里1。或曰玉島川(ノ)岸有2大石1。方七尺許。俗名2紫石1。傳云2皇后垂釣之處1
といひ書記通釋(第三の一八四八頁)には
  或人云。川邊の小高き處に皇后の御社あり。其かたへに垂綸石碑あり。紫石は元和年中の洪水にて水底にうづもれたりといへり
といへり。此紫石は古事記に爾坐2其河中之礒1拔2取御裳之糸1以2飯粒1爲v餌釣2其河中之年魚1とある註に
  其河名謂2小河1亦其礒名謂2勝門比賣《カチドヒメ》1也
とあるカチド姫の事なりや(記傳第二の一八六二頁を參照すべし)。神后〔二字右△〕垂綸石碑の文は左の如し
  昔 神后將v有v事2于韓1、西巡至2于玉島1、立2水中石1、投v釣以祝、獲2細鱗魚《アユ》1、逐大致2戎于外荒1如v志、後人建2祠其河上1以祭、距v今千有六百年、水道渝易、石沒而不v見、今茲丁丑土人石(943)井助右衛門與2岡志者1謀、樹2碑其祠側1表v之、來|謁《コフ》2余文1、恭惟 后之靈聖威武、異域亦|籍《ツタフ》v之、況松浦靈蹟、耿2于國史1結2于民心1、陵谷雖v變、有2赫然不v變者1永存、夫碑存2不v存者1也、石有v時以※[さんずい+こざと+力]《コボル》、神明|攸《トコロ》v躔《フム》天地悠久、借《タトヒ》曰2爲埋2石表1、我小人竊畏焉、又何敢文、抑遠方之人彷徨惑2于無1v跡、若※[言+壽]張《チウチヤウ》爲v幻、則是擧亦無v罸、謹紀2其由1作v銘、姑以告2于往來弔v古者1爾鬱々紫石、神靈不v、厥蟄《ソノカクルル》不v遠、在2茲廟域1、後世千歳、隱見|胡《ナンゾ》識、生當2厥《ソノ》無1、鑒《ミヨ》2我石刻1
  文化十四年冬十月筑前龜井c敬撰并書
 龜井|c《イク》は即昭陽なり○タレミキとあるを玉緒卷七(三丁)に
  これは上にタレといへば見シと結ぶべきを見キといへるはたがへり。もしは志を吉に誤れる歟
といへるは非なり。いにしへはタレカといへばミシといひ、ただタレと云へばミキといひしなり。イツ見キ〔右△〕トテカコヒシカルラム、イク夜ネザメヌ〔右△〕スマノ關守などみな此格によれるなり。又山彦ノコタヘニコリヌ心ナニナリ〔右△〕、秋萩ノ花ノ色トハイヅレマサレリ〔右△〕などよめるを見るべし。古義にアメニフリキヤなどを例に引けるはいみじき誤なり。こはフリシヤとは云ふべからざる格なり。さてタレ見キはタレカ見(944)シといはむに齊しくて古義にいへる如くサテサテ羨マシキカナといふ意を含めり
 
ももかしもゆかぬまつらぢけふゆきてあすはきなむをなにかさやれる
 初二は百日ノ旅程ニモアラヌといふ意、アスハキナムヲは明日ハ歸ルベキヲなり。ナニカサヤレルは何事カ障《サハ》レルといふ意にて自|詰《ナジ》りたるなり
 
  大伴佐提比古(ノ)郎子《イラツコ》特被2朝命1奉2使藩國1、艤v棹|言歸《ココニユキ》、稍赴2蒼波1、妾也松浦【佐用嬪面】嗟2此別易1、歎2彼會難1、即登2高山之嶺1、遙望2離去之船1、悵然斷肝、黯然※[金+肖]魂、遂脱2領巾1麾v之、傍若寞v不2流涕1、因號2此山1曰2領巾麾之嶺《ヒレフリノネ》1也、乃作v歌曰
871 (とほつひと)まつらさよひめつまごひにひれふりしよりおへるやまのな
得保都必等麻通良佐用比米都麻胡非爾比例布利之用利於返流夜麻能(945)奈
 藩國は任那《ミマナ》なり。文選江賦にも※[木+義]榜とあれど棹は船と心得べし。史記項羽紀には※[木+義]船とあり。佐用嬪面《サヨヒメ》を分註とせるは誤れり。宜しく本文に復すべし。別易會難は遊仙窟の語、黯然※[金+肖]魂は江淹の別賦の辭なり。契沖は此歌并に序を旅人の作として
  右の憶良書中并和歌三首ともに憶良は松浦山玉島川ともに終に見られざる由をかけり。典法に依て巡察する次《ツイデ》に帥殿の見けるなるべし。歌も序も共に大伴卿の作なるべし。憶良は筑前國司なれば別勅などに依らずばたやすく境を出て他國に赴かるべきにあらず
といへり。此説に從ふべし○オヘルは負持テルなり
 
   後人追和
872 やまのなといひつげとかもさよひめがこのやまのへにひれをふりけむ
夜麻能奈等伊賓都夏等可母佐用此賣何許能野麻龍閉仁必例遠布利家無
(946) ヤマノナトは山ノ名トシテなり。略解にこのトをト共ニの意として『さよひめがおのが名も山の名と共に言繼げと思ひてか領巾をふりけんと也』といへるは非なり。ヤマノヘは山の上なり。上にヒトノヒザノ倍《ヘ》ワガマクラカムといひつ(八七四頁)タレカウカベシサカヅキノ倍《ヘ》ニといへる(九〇七頁)みな上の意のへなり
 
   最後人追和
873 よろづよにかたりつげとしこのたけにひれふりけらしまつらさよひめ
余呂豆余爾可多利都夏等之許能多氣仁比例布利家良之麻通羅佐用嬪面
 タケは今いふダケなり
 
   最最後人追和二首
874 うなばらのおきゆくふねをかへれとかひれふらしけむまつらさよひめ
(947)宇奈波良能意吉由久布禰遠可弊靈等加比靈布良斯家武麻都良佐欲比賣
 トカはトテカなり
 
875 ゆくふねをふりとど尾《ミ》かねいかばかりこほしくありけむまつらさよひめ
由久布禰遠布利等騰尾加禰伊加婆加利故保斯苦阿利家武麻都良佐欲此賣
 領巾フリトドメカネテといふべきを略してただフリトドミカネといへるなり(略解)○以上四首は皆旅人が(かの遊2松浦河1贈答歌の追和とおなじく)後人の追和に擬して作れるなり。後人追和、最後人追和、最々後人追和と重ねたるは適に眞の後人追和にあらざる事を語るものなり
 
   書殿餞酒日倭歌四首
876 (あまとぶや)とりにもがもやみやこまでおくりまをしてとびかへるも(948)の
阿摩等夫夜等利爾母賀母夜美夜故摩提意久利摩遠志弖等比可弊流母能
 うた〔二字傍点〕を倭歌といへる之を以て初出とす(集中に和歌と書けるは今いふ返歌か又は唱和なり)。略解にいはく
  こゝは送別の詩有し故にそれに對して倭歌とことわれるなるべし。前にも詩にならべて日本挽歌と書る事あり
といへり。作者については契沖は
  此は大伴卿都へ還り上らるゝを憶良の餞宴を設けらるゝ日の歌なり。……四首は此宴に預る人々のよめる歟。然らば一々の作者知がたし。終に(○次なる聊布2私懷1歌三首の後に)憶良上とあるは七首に通じて云へる歟。聊布2私懷1と云三首に限るべき歟。憶良も別を惜む一首をよまれざる事あるまじければ四首の中に有歟
といへり。『憶良の餞宴を設けらるゝ日の歌なり』とは何に基づきて云へるにか。もし(949)聊布2私懷1歌の後に憶良謹上とあるが故にとならば『四首は此宴に預る人々のよめる歟云々』の論は起るべきにあらず、案ずるに次なる聊布2私懷1歌三首は獨立の題辭と認むべからざれば即書殿餞酒日聊布2私懷1歌とあるべきを書殿餞酒日の五字を前の歌の題辭に讓りたるなれば憶良謹上とあるは兩題七首の歌に亘れるなり。即この書殿餞酒日倭歌四首は皆憶良の作なり○書殿はフミドノ(後にはフドノ)とよみて文書を置く處なり。この書殿につきて契沖は
  書殿と云事は筑前守(ノ)館は憶良の私の家にあらざる故なり
といひて筑前國司の官衙のうちとし略解には
  憶良の家にて馬のはなむけせらるゝ歌也。……書殿は書院といふが如し
といひ古義には
  書殿はフミトノと訓べし。後世の書院の事なり。和名抄に校書殿云々、江次第に文殿(ノ)官人云々。此等は公の文殿なり。今は私の書院なるべし。源氏物語に云々、紫式部日記に云々、十訓抄に云々なども見えて文殿は公にも私にもさるべき家には必ありしなり。……此は憶良の書院にて餞する時の歌なり
(950)といひて憶良の私邸とせり。案ずるにもし私邸又は國衙に招請しての餞宴ならばただ書殿とは書放すべからず(其上國司の私邸にはおそらくは書殿の設まではあらじ)。さればこゝに書殿とあるは太宰府の書殿にてそこに舊部下の人々集りて前帥の爲に餞宴を開きしならむ
  因にいふ書殿と後世の書院とは混同すべからず。書院はもと寺院の書齋を云ひしが後に建築上の名稱となりしなり。官學に對して私設の學校を書院といふは又別なり
 ガモヤのヤは助辭、二三句の間に鳥ナレバといふことを挿みて聞くべし
 
877 ひと母禰のうらぶれをるにたつたやまみまちかづかばわすらしなむか
此等母禰能宇良夫禮遠留爾多都多都〔四角で圍む〕夜麻美麻知可豆加婆和周良志奈牟迦
 宣長は初句の母禰を彌那の誤としてヒトミナノとよめり。人皆ノといふことなる(951)はほぼ疑なけれど輕々しく誤字とは斷ずべからず。例の字音辨證(下卷四四頁)にはまづ牟をミともよむべき事を論じて次に
  比等母禰能 これも母はミの假字にて人皆之なり。上の牟と互に證して共にミの音あることを知るべし
といひ又(下卷一六頁)
  禰をナと呼は呉音ナイを省呼したるものなるべし。其は同轉の乃をナに用ゐたると同例也
といへり。案ずるに當時筑紫の方言にヒトミナをヒトモネと訛《ナマ》りしによりてわざとかくはいへるにあらざるか○筑紫人ノ嘆キヲルニ大和ノ立田山ニ御馬ガ近ヅカバ筑紫ノ人々ヲ忘レ給ハムカとなり。ワスルの敬語はワスラスなり。さればワスラシナムカは忘レ給ハムカなり
 
878 いひつつものちこそ斯良米《シラメ》等乃〔二字左△〕斯久母〔左△〕《シマシクハ》さぶしけめやもきみいまさず斯〔□で圍む〕て
伊此都々母能知許曾斯良米等乃斯久母佐夫志計米夜母吉美伊麻佐受(952)斯弖
 宣長いはく
  或人(ノ)説に斯良米の斯は阿の誤、等乃は志萬の誤にてノチコソアラメシマシクモと訓べし。一首の意は戀シナドイヒツツモ後ニハサテモ有べケレド此シバラクノホドモ君イマサデサビシカラムカ也
といへり。案ずるに斯はもとのまゝ、等乃は宣長のいへる如く志萬などの誤、母は波などの誤にて
  口々ニサビシトイヒツツモマコトノサビシサハ後ニコソオモヒ知ラメ、別レ奉リテシバシノ程ハ君ガイマサズシテサビシカラムヤ、サビシカラジ
と人の意表に出でたることを云へるなるべし。又結句の斯は衍字なるべし
 
879 よろづよにいましたまひてあめのしたまをしたまはねみかどさらずて
余呂豆余爾伊麻志多麻此提阿米能志多麻乎志多麻波禰美加度佐良受(953)弖
 卷二長歌(二七六頁)にもアメノシタマヲシタマヘバとあり。臣下の政を執るは天皇に聞え上げてものするが故にアメノシタマヲスといふ
 
   聊|布《ノブル》2私懷1歌三首
880 (あまざかる)ひなにいつとせすまひつつみやこのてぶりわすらえにけり
阿麻社迦留此奈爾伊都等世周麻此都都美夜故能提夫利和周良延爾家利
 ヒナニイツトセスマヒツツは五年の間筑前守にてあるをいふ。テブリは風俗なり○聊は諸本に敢とあり
 
881 かくのみやいきづきをらむ(あらたまの)きへゆくとしのかぎりしらずて
加久能未夜伊吉豆伎遠良牟阿良多麻能吉倍由久等志乃可伎利斯良受(954)提
 カクノミヤはカクヤといふべきを強く云へるなり。イキヅキは嘆息なり。キヘユクは來經行にて過行く事なり○此歌を見れば當時國司の交替は四年を以て限とせしその年限を過ぎたれど召還されざりしなり。もし年限の内ならばキヘユク年ノカギリ知ラズテとはいはじ。契沖雅澄の年限の内とせるは從はれず。天平寶字二年十月の勅にも頃年國司交替スルコト皆四年ヲ以テ限トスとあり
 
882 あがぬしのみたまたまひてはるさらば奈良のみやこにめさげたまはね
阿我農斯能美多麻多麻比弖波流佐良婆奈良能美夜故爾※[口+羊]佐宜多麻波禰
  天平二年十二月六日筑前國司山上憶良謹上
 アガヌシは旅人をさしていへるなり。ミタマは御恩、メサゲは召上なり
 
   三島王後追2和松浦|佐用嬪面《サヨヒメ》歌1一首
(955)883 おとにきき目にはいまだ見ずさよひめがひれふりきとふきみまつらやま
於登爾吉岐目爾波伊麻太見受佐容比賣我必禮布理伎等敷吉民萬通良楊滿
 キミマツラヤマは君待ツを松浦山にいひかけたるにてキミは句中の枕辭ともいふべし。集中にツママツノ木ハ、キミマツ原ハなどもよめり○古義にフリキトフの處に
  キはシといふに近くて上にイシヲタレミキとあるキに同じ
といへるはいみじき誤なり。フリキトフこそ常の格なれ。フリシトフは所謂略辭格にてナリを略せるなり
 
   大伴(ノ)君|熊凝《クマゴリ》歌二首【大典麻田陽春作】
884 國遠き路の長手をおほほしく許〔左△〕布《ケフ》やすぎ南《ナム》ことどひもなく
國遠伎路乃長手遠意保保斯久許布夜須疑南己等騰比母奈久
(956) 次なる憶良の歌の題辭によれば麻田(ノ)連|陽春《ヤス》(卷四【六八八頁】に見えたる)が熊凝の辭世に擬して作れるなり。熊凝は肥後人にて京に上る途にて安藝國にて死にしなり
 國は故郷、路ノ長手は考及古義にいへる如く黄泉の道なり。ヲはヨリのヲなり。許布夜の許は諸本に計とあり。さればケフヤとよむべし。スギナムは行キナムなり。コトドヒモナクは途スガラ物言フコトモナクとなり。略解古義に『父母にものいふこともなきをいふ』といへるは非なり
 
885 朝露のけやすき我身ひと國にすぎがてぬかもおやの目をほり
朝露乃既夜須伎我身比等國爾須疑加弖奴可母意夜能目遠保利
 アサツユノは朝露ノ如クとなり。ヒト國は考にいへる如く黄泉なり。スギガテヌカモは行キカヌルカナとなり。オヤノ目ヲホリは親ニ逢ハマホシクテといふ意、卷四〈八一七頁)にもシカゾ待ツラム君ガ目ヲホリとあり
   筑前國司守山上憶良敬和d爲2熊凝1述2其志1歌u六首并序
  大伴君熊凝者肥後國|益城《マシキ》郡人也、年十八歳、以2天平三年六月十七日1(957)爲2相撲使某國司官位姓名從人1參2向京都1、爲v天不幸、在v路獲v疾、即於2安藝國佐伯郡高庭驛家1身故也、臨終之時長歎息曰、傳聞假合之身易v滅、泡沫之命難v駐、所以《ソレユヱニ》千聖己去、百賢不v留、况乎凡愚微者、何能逃避、但我老親並在2庵室1、待v我過v日、自有2傷心之恨1、望v我違v時、必致2喪明之泣1、哀哉我父、痛哉我母、不v患2一身向v死之途1、唯悲2二親在v世之苦1、今日長別、何世得v覲、乃作2歌六首1而死、其歌曰
886 (うちひさす) 宮へのぼると (たらちし夜〔左△〕《ノ》) ははが手はなれ 常しらぬ 國のおくかを 百重山 越てすぎゆき いつしかも 京師《ミヤコ》をみむと おもひつつ かたらひをれど おのが身し いたはしければ (玉梓の) 道の△麻尾《クマミ》に くさたをり しばとりしきて △等計〔左△〕自母能《ヲトコジモノ》 うちこいふして おもひつつ なげきふせらく 國にあらば 父とりみまし 家にあらば 母とりみまし 世間《ヨノナカ》は かくのみならし (いぬじもの) 道にふしてや いのちすぎなむ 一云わがよすぎ(958)なむ
宇知比佐受宮弊能保留等多羅知斯夜波波何手波奈例常斯良奴國乃意久迦袁百重山越弖須疑由伎伊都斯可母京師乎美武等意母比都々迦多良此袁禮騰意乃何身志伊多波斯計禮婆玉梓乃道乃麻尾爾久佐太袁利志婆刀利志伎提等計自母能宇知許伊布志提意母比都都奈宜伎布勢良久國爾阿良波父刀利美麻之家爾阿良婆母刀利美麻志世間波迦久乃尾奈良志伊奴時母能道爾布斯弖夜伊能知周疑南 一云和何余須疑奈牟
 これも熊凝の辭世に擬して作れるなり。六首とあるは長歌一首短歌五首なり。敬和とあれば大典麻田(ノ)陽春に贈れるなり。國司は守介※[掾の手偏が木偏]目の總稱にもいへば國司守とは書けるなり○以2天平三年六月十七日1……參2向京都1とある六月は誤字なるべし。上(九三四頁)に云へる如く當時の相撲節は七月七日にて諸國より相撲人を奉る期限は六月二十日なればなり○相撲使某國司官位姓名とある國司は總稱の方なり。守にはあらず。相撲使は微職にて守の自當るべきものにあらねばなり。さて某國(959)司官位姓名とおぼめかしたるは不審なり。うせし從僕の姓名年齢郷貫、うせし地、うせし年月日まで明なるに其男の主人の官位姓名の不明なる道理なきにあらずや。又何故に或國の相撲使の從人の京に上る途にて病みて死にしばかりの事を麻田連陽春が歌に作り憶良が之に和して長歌をさへ作りしにか、これも不審なる事なり(卷十六に見えたる筑前國志賀の白水郎荒雄の事は人の同情を惹くべき美談にて今と比すべからず)。此等の點を詳にせば或は得る所あらむと思へど今は考へ及ばねばただ後人の爲に目を著くべき處を示しおくのみ○身故は契沖、今按身(ノ)下脱v物耶といへり。爲天は略解に天ナルカナ(古義にはカモ)とよめり。喪明之泣は子夏が其子を失ひて失明せし故事なり
 宮は皇居なり。都とは同じからず○タラチシ夜の夜は一本に能とありといふ○ツネシラヌは平生ユキカヒセヌの意。ミチノオクカは筑紫を端として京に上る道の國々を云へるなり。古義に『國のゆきはての意なり』といへるは非なり。オクカヲはスギユキにかゝれり○カタラヒヲレドは傍輩ト語合ヒヲレドとなり○オノガミシは我身シといふべきを五言に足らねばオノガといへるのみ。イタハシはナヤマシ(960)なり○麻尾の上に諸本に久の字あり。クマミは曲角なり。卷二(一六四頁)にもミチノクマミニシメユヘワガセとあり。因にいふ。本集に見えたる歌語の中には漢籍を訓讀するにつきて出來たるにはあらざるかと思はるゝもの往々あり。ミチノクマ又ミチノクマミの如きも道周といふ漢語の飜譯にあらざるか。道周は毛詩有※[木+大]之杜に
  有2※[木+大](タル)之杜1生2于道周1【○※[木+大]之はテイタルとよむべし※[木+大]は音テイ木の特生せるさまなり杜は木の名】
 文選謝※[月+兆]和2徐都曹1詩に
  桃李成2蹊径1桑楡|蔭《オホフ》2道周1
とあり。又季歴(周ノ(ノ)文王の父)の作と傳ふる哀慕歌に
  梧桐萎々生2於道周1
とあり○クサタヲリ云々は途中にて病に罹りたれば道の傍に草を折り柴を取りて敷きて床を作るなり。クサタヲリの下にもシキといふことを加へて聞くべし〇等計ジモノは契沖計を許の誤としてトコジモノとよみ千蔭雅澄は之に據りて『床の如くといふなり』といへり。案ずるに床ニ臥ス如ク臥シテといふことを床ジモノ(961)ウチコイフシテとは云ふべからず。されど計はなほ許の誤なるべく又等許の上に乎の字などのおちたるにてヲトコジモノなるべし。うちこいふしなどは男のすまじき事、さるをヲトコジモノウチコイフシテといへるは卷二長歌(三〇〇頁)なるミドリ兒ノコヒナク毎ニトリアタフ物シナケレバヲトコジモノワキバサミモチと同例なり。コイフシテはただ臥シテといふに同じ○オモヒツツナゲキフセラクは嘆キ臥シツツ思ヘラクとさかさまにして心得べし○トリミルは世話する事なり。卷七にも肩ノマヨヒハ誰カトリミムとあり。略解に『とりあげ見る也』といへるは非なり○ヨノナカハカクノミナラシは上(八六三頁)にも見えたり。人事の避けがたきを云へるなり。イノチスギナムは死ナムとなり〇一云ワガヨスギナムとあるは次の短歌に屬すべきなり
 
887 (多良知遲〔左△〕能《タラチシノ》)ははが目みずておほほしくいづちむきてかあが和可留良〔二字左△〕武
多良知遲能波波何目美受提意保々斯久伊豆知武伎提可阿我和可留良(962)武
 遲の字諸本に子《シ》とあり。ハハガ目ミズテは母ニ逢ハズシテなり。結句はアガワカレナ〔二字右△〕ムとあるべきなり
 
888 つねしらぬ道の長手をくれぐれといかにかゆかむかりてはなしに 一云かれひはなしに
都禰斯良農道乃長手袁久禮久禮等伊可爾可由迦牟可利弖波奈斯爾 一云可例此波奈之爾
 ツネシラヌ道ノ長手は黄泉の道なり。クレグレトは卷十三なる長歌にもオキツ浪キヨル濱邊ヲクレグレト獨ゾワガクル妹ガ目ヲホリとあり。契沖は
  クレクレトとは悠なるに云詞也。俗にクレハルカと云も是なり
といひ宣長は
  齊明記にウシロモクレニとあるクレ也。クレは闇き意にておぼつかなきさま也。今俗言にもウシログラキなど云
(963)といへり。案ずるにこのクレグレトは杳々といふ漢語の直譯ならざるか。杳々は文選なる潘岳の寡婦賦に
  時曖々而向v昏兮、日杳々而西匿
 また飽明遠の樂府《ガフ》詩八首の東門行に
  遙々征駕遠、杳々落日晩
などあり。さればクレグレトは冥《クラ》き状なるべきを杳に冥の義の外に遙の義あるより轉じてハルバルトといふ意に用ひたるにあらざるか。なほ卷十三に至りて云ふべし○イカニカはイカデカなり○カリテは記傳卷二十七(全集第二の一六五六頁)に
  カリテはカレヒテの約りたるなり。カレヒテはカレヒノ料と云意なり(カレヒにする料の米と云ことなり。カレヒの價と云意にはあらず)。カテはカリテのリを省けるなれば此も同くカレヒテなり。さてカレヒは乾飯《カレイヒ》にて旅には飯を乾《ホシ》てもちゆくなり。それよりうつりて必しも乾たるならざれども旅にて食ふ飯をばカレヒと云なり(964)といへり
 
889 家にありてははがとりみばなぐさむるこころはあらまししなばしぬとも 一云のちはしぬとも
家爾阿利弖波波何刀利美婆奈具佐牟流許許呂波阿良麻志斯奈婆斯農等母 一云能知波志奴等母
 ノチハは後ニハにて終ニハの意なり
 
890 出《イデ》てゆきし日をかぞへつつけふけふとあをまたすらむちちははらはも 一云ははがかなしさ
出弖旦伎斯日乎可俗閉都都家布家布等阿袁麻多周良武知知波波良波母 一云波波我迦奈斯佐
 ハモほ尋ね慕ふ意の辭なり
 
891 一世には二遍《フタタビ》みえぬちちははをおきてやながくあがわかれなむ 一云相別|南《ナム》
(965)一世爾波二遍美延農知知波波袁意伎弖夜奈何久阿我和加禮南 一云相別南
 初二の意明ならず。試に云はば親ノ一代ノ間ニ生レカハリテ二度子トナルコトハ出來ヌといふ意にや。なほ考ふべし
 以上長歌一首短歌五首のうちタラチシノといふ歌を除きては皆結句の下に一云とあり。これについて略解に
  按に天平勝寶年中に奈良の藥師寺にたてられたる佛足石の碑の歌……などことごとく結句を二樣によめり。右の反歌此體に同と。此ごろかゝる體も有しにや。されば長歌の終に和何余須疑奈牟と有は次の多羅知遲能云々の短歌に添たるが誤て長歌の終に入しなるべしといへり。案ずるに卷三(三九一頁及五五三頁)に久老が佛足石體と認めたる歌二首あれど
  たくひれのかけまくほしき妹の名をこのせの山にかけばいかにあらむ 【一云かへばいにあらむ】
(966)の方は一本にカケバ、又一本にカヘバとあるにてもあるべく
  ゆくさにはふたりわがみし此埼をひとりすぐればこころがなしも【一云みもさ可ずきぬ】
とあるは作者の改作にてもあるべし。されどこゝの五首の歌は五首共に一云とあるを見ればわざと結句を調べ返せるなりとおぼゆ。さて佛足石の碑の歌は今の歌より後の作なれば今の歌に倣ひたるにこそ。憶良は從來の句法のみを守らで自機杼を出だしし人なれば(長歌を二段又は三段に分ちて各段の末に七言の句を重ねたるなど)今の體も憶良の創意なるべし
 
   貧窮問答歌一首并短歌
892 風|雜《マジリ》 雨ふるよの 雨雜《アメマジリ》 雪ふるよは すべもなく 寒《サムク》しあれば 堅塩《カタシホ》を 取つづしろひ 糟湯酒《カスユザケ》 うちすすろひて し可〔左△〕《ハ》ぶかひ 鼻ひしびしに しかとあらぬ ひげかき撫《ナデ》て あれをおきて 人はあらじと ほころへど 寒しあれば 麻被《アサブスマ》 引かがふり 布かた衣《ギヌ》 ありのことごと きそへども 塞夜《サムキヨ》すらを われよりも 貧《マヅシキ》人の (967)父母は 飢〔左△〕寒《ハダサムカ》らむ 妻子等《メコドモ》は 乞|乞〔左△〕《テ》泣らむ 此時は いかにしつつか 汝《ナガ》代はわたる
天地は ひろしといへど あがためは 狹《サク》やなりぬる 日月は あかしといへど あがためは 照やたまはぬ 人皆か 吾耳《アレノミ》やしかる わくらばに ひととはあるを ひとなみに あれも作《ナレル》を 綿もなき 布かた衣の みるのごと わわけさがれる かがふのみ 肩に打懸 ふせいほの まげいほの内に 直土《ヒタツチ》に 藁解敷て 父母は 枕のかたに 妻子《メコ》どもは 足《アト》の方《カタ》に 圍居《カクミヰ》て ウレヒサマヨヒ》 かまどには 火氣《ケブリ》ふきたてず こしきには くものすかきて 飯炊《いひかしぐ》 事もわすれて (ぬえ鳥の) のどよび居《ヲル》に いとのきて 短(キ)物を 端《ハシ》きると 云之如《イヘルガゴトク》 楚取《シモトトル》 五十戸良〔左△〕《サトヲサ》がこゑは 寢屋とまで 來立呼ひぬ かくばかり すべなきものか 世間《ヨノナカ》の道
風雜雨布流欲乃雨雜雪布流欲波爲部母奈久寒之安禮婆堅塩乎取都豆(968)之呂比糟湯酒宇知須須呂比弖之可夫可比鼻※[田+比]之※[田+比]之爾志可登阿良農比宜可伎撫而安禮乎於伎弖人者安良自等富己呂倍騰寒之安禮波麻被引可賀布利布可多衣安里能許等其等伎曾倍騰毛寒夜須良乎和禮欲利母貧人乃父母波飢寒良牟妻子等波乞乞泣良牟此時者伊可爾之都都可汝代者和多流天地者比呂之等伊倍杼安我多米波狹也奈理奴流日月波安可之等伊倍騰安我多米波照哉多麻波奴人皆可吾耳也之可流和久良婆爾比等等波安流乎此等奈美爾安禮母作乎綿毛奈伎布可多衣乃美留乃其等和和氣佐我禮流可可布能尾肩爾打懸布勢伊保能麻宜伊保乃内爾直土爾藁解敷而父母波枕乃可多爾妻子等母波足乃方爾圍居而憂吟可麻度柔播火氣布伎多弖受許之伎爾波久毛能須可伎弖飯炊事毛和須禮提奴延鳥乃能杼與比居爾伊等乃伎提短物乎瑞伎流等云之如楚取五十戸良我許惠波寢屋度麻※[人偏+弖]來立呼比奴可久婆可里須部奈伎物能可世間乃道
(969) 此歌二段よリ成れり。ナガ代ハワタルまでが問にてアメツチハ以下が答なり。各段の末に七言の句を重ねたる事令v反2惑情1歌に同じ○アメフル夜ノのノは卷三なるフタ神ノタフトキ山ノ〔右△〕ナミタチノ見ガホシ山ト(四六九頁)天ツチニクヤシキ事ノ〔右△〕世ノナカノクヤシキ事ハ(五〇八頁)などのノに同じくニシテ又と譯して心得べきノなり。されば風マジリ雨フル夜ノ〔右△〕雨マジリ雪フル夜は雨ノ夜或ハ雪ノ夜といふ意にはあらで雨雪ノ風ニタグフ夜といふ意なり○スベモナクは寒さを防がむすべなきなり○倭名抄廣本(箋註本四卷六四丁)に
  鹽 陶隱居曰、鹽有2九種1、白鹽 和名阿和之保 人常所v食也、崔禹錫(ノ)食經云、石鹽一名白鹽、又有2黒鹽1【今案俗呼黒鹽爲堅鹽日本紀私記云堅鹽岐多之是也】
とありて海塩の純良なるものをアワシホといひ不純なるものをカタシホ又キタシといふなり(崔禹錫食經なる白鹽は即岩鹽にて白鹽和名阿和之保とあると名は同じくて物は別なり)○ツヅシロヒはツヅシリの延言にて少しづつ食ふ事なりといふ。例は古義に擧げたり。トリは添辭なり○カスユザケは契沖酒の糟を湯に煎たるなりといへり○考に之可夫可比の上の可を波の誤とせり。シハブカヒはシハブ(970)キの延言なり。鼻ヒシビシニを略解に『鼻ビシビシは嚔《ハナヒ》也。ハナビシハナビシと重ねいふを略ていへり』といへるは非なり。鼻ガヒシビシトといふことにてそのヒシビシは鼻の鳴る音なるべし。ヒシビシト〔右△〕をヒシビシニ〔右△〕といふはかの鹽コヲロコヲロニ〔右△〕カキナシテと同例なり○シカトアラヌは雅澄の『今世にハカバカシカラヌといふ意なるべし』といへる如し○ホコロヘド寒クシアレバは前なる寒クシアレバに對してナホ寒クシアレバの意と見べし○ヌノカタギヌは袖なし羽織の如きものとおぼゆ。アリノコトゴトは有ル限なり。キソフはキオソフにて重ね着る事○サムキ夜スラヲの上にもナホといふ辭を加へて聞くべし。こゝのスラは卷二(二五二頁)なるニギ膚スラヲ、卷三(四七二頁)なる山道スラヲのスラと同類にて主語を強むる辭なり。以上問者自身の上にて以下は問者の心に思ふ所なり○飢寒良牟は從來ウヱサムカラムとよめれどウヱは動詞、サムシは形容詞なればそれを重ねてウヱサムカラムとは云ふべからず。考には飢を肌の誤としてハダサムカラムとよめり。しばらく之に從ふべし○乞乞は乞弖の誤ならむと契沖云へり。コヒテナクラムは卷二人麿の長歌(三〇〇頁)にもミドリ兒ノコヒナクゴトニとあり。但こゝは食のみな(971)らず衣をも乞ひて泣くなり○コノトキハはカカル時ハなり。下にイカニシツツカとあれば一囘の事にあらざるなり○ナガ代ハワタルの汝《ナ》は我より貧しき人に對して云へるなり
 アメツチハ以下はその貧しき人の心なり。古義に『次(ノ)句も自の上の事をいひて答たるにはあらず』と云へるは非なり。問者も貧しくはあれど、なほ堅鹽をつづしり糟湯酒をすゝり麻衾を被り布肩衣を重ぬる程の餘裕はあるを被問者はさる餘裕だになき樣なるを見ても以下は別人の上なる事をさとるべし○狹を舊訓にセバクとよめるを契沖『古語に任てサクとよむべし』といへり○吾耳は古義の如くアノミともよむべし。ワクラバニはタマタマニの意なりと契沖いへり。作乎は略解にナレルヲとよめるに從ふべし。生レタルヲの意なり○ワワクは前註に云へる如く亂るゝ事、カガフは繿褸の事とおぼゆ○フセイホノマゲイホとあるノは例のニシテ又のノなり。マガリイホといふべきをマゲイホといふは、なほフシイホと云ふべきをフセイホといふが如し○ヒタツチは今もヂビタといふ。足之方は舊訓によリてアトノカタニとよむべし(略解にはアトノベニとよめり)○憂を舊訓にウレヘ〔右△〕と點じた(972)るを古義にウレヒ〔右△〕に改めたり。記傳卷十(第一の五四五頁)に
  患の假字は三代實録(○國史大系本二二五頁)に憂禮比とあり。憂禮閇に非ず
といへり。いにしへ四段活なりしが今二段活となれるなり○サマヨフは呻吟する事なり。卷二なる長歌(二七六頁)にも春鳥ノサマヨヒヌレバとあり○コシキは即|蒸籠《セイロウ》なり。クモノスカキテはクモノと切りてよむべし。蜘蛛ガ巣ヲカキテなり。カクは作る事なり。軍書に井楼ヲカクなどいへり。ノドヨブは喉にて聲を發する事にて畢竟呻く事なり○イトノキテは甚避《イトノ》キテにて極端ニといふ事。イトノキテ以下四句は下なる沈痾自哀文に諺曰痛瘡灌v鹽、短材截v端とあれば當時さる諺ありしなり○シモトは笞。五十戸良は春滿《アヅママロ》の説に從ひて五十戸長の誤としてサトヲサとよむべし。コヱハの三言は餘れり。コヱハ來立呼ヒヌとは云はれざればなり。ネヤトは契沖は閨外なりといひ略解古義には寢屋處なりといへり。卷三(四一〇頁)にイハヤトニタテル松ノ樹とあるイハヤトの窟外なるを思へば契沖の説是なるに似たり○シモトトル以下は略解に『貧くて田租賦役等を責らるゝさま也』と云へる如し
 
893 世間〔日が月〕《ヨノナカ》をうしとやさしとおもへども飛立かねつ鳥にしあらねば(973)世間乎宇之等夜佐之等於母倍杼母飛立可禰都鳥爾之安良禰婆
  山上憶良頓首謹上
 二三は略解に『ウシト思ヒハヅカシト思ヘドモといふ也』といへる如くトビタチカネツは世ヲハナレカネツとなり。頓首謹上とあれど誰に贈りしにか知られず
 
   好去好來歌一首 反歌二首
894 神代より 云傳《イヒツテ》けらく (虚《ソラ》見つ) 倭(ノ)國は 皇神《スメガミ》の いつくし吉〔左△〕《ム》國 言靈《コトダマ》の さきはふ國と かたり繼《ツギ》 いひつがひけり 今(ノ)世の 人もことごと 目(ノ)前に 見在知在《ミタリシリタリ》 人さはに 滿てはあれども (高光《タカヒカル》) 日(ノ)御朝庭《オホミカド》 神《カム》ながら 愛《メデ》の盛に  天(ノ)下 奏《マヲシ》たまひし 家(ノ)子と 撰たまひて 勅旨《オホミコト》【反云大命】 戴持て 唐《モロコシ》の 遠(キ)境に つかはされ まかりいませ うな原の 邊《ヘ》にも奥《オキ》にも 神《カム》づまり うしはきいます 諸の大御神|等《タチ》 船舳《フナノヘ》に【反云布奈能閇爾】 道引|麻志《マシ》遠〔□で圍む〕 天地の 大御神|等《タチ》 倭(ノ)大國|靈《ミタマ》 (久堅の) あまのみ虚《ソラ》ゆ あまがけり 見渡たまひ 事|了還《ヲハリカヘラム》(974)日は 又更(ニ) 大御神|等《タチ》 船舳《フナノヘ》に 御手打掛て 墨繩を  はへたるごとく 阿庭〔左△〕可遠志 ちかの岬《サキ》より 大伴(ノ) 御津(ノ)濱|備《ビ》に  ただ泊《ハテ》に み船は將泊《ハテム》 つつみ無く さきくいまして 速《ハヤ》歸|坐《マ》せ
神代欲理云傳介良久虚見通倭國者皇神能伊都久志吉國言靈能佐吉播布國等加多利繼伊此都賀此計理今世能人母許等期等目前爾見在知在人佐播爾滿弖播阿禮等母高光日御朝庭神奈我良愛能盛爾天下奏多朝熊此志家子等撰多麻比天勅肯〔左△〕【反云大命】船載〔左△〕持弖唐能遠境爾都加播佐禮麻加利伊麻勢宇奈原能邊爾母奥爾母神豆麻利宇志播吉伊麻須諸能大御神等船舳爾【反云布奈能閇爾】道引麻志遠天地能大御神等倭大國靈久堅能阿麻能見虚喩阿麻賀氣利見渡多麻比事了還日者又更大御神等船舳爾御手打掛弖墨繩袁播倍多留期等久阿庭可遠志智可能岫〔左△〕欲利大伴御津濱備爾多大〔左△〕泊爾美船播將泊都都美無久佐伎久伊麻志弖速歸坐勢
 天平五年の春憶良が遣唐大使多治比(ノ)眞人《マヒト》廣成に餞したる歌なり。好去好來歌はサ(975)キクイマシテサキクカヘリマセトイフ歌といふ義なり。但字音によみて可なり
 イヒツテケラクは云傳ヘケルハなり。伊都久志吉國は字のままならば舊訓の如くイツクシキクニとよむべし。さて契沖は『嚴の字をイツクシとよみて嚴重にましますをいへり』といひ略解には『嚴《イツ》カシキ國といふなり』といひ古義には『嚴威《イツクシキ》なり』といひ鈴木重胤(書紀通釋第一の三三三頁所引)は『萬葉五にスメ神ノイツクシキ國とあるも神の御守の嚴重なる由也』といへり。按ずるに日本靈異記卷下第十に開v※[草冠/呂]見vレ之經色儼然文字宛然とありて儼然をイツクシクシテと訓ぜり。このイツクシは立派といふ事にて嚴重、嚴威などいふ事にあらず。嚴重嚴威などは古語にイカシとこそいへれ。さて今は嚴重といふ意としても辭足らず(神の御守の嚴重なるをスメ神ノイツクシキ國といふべけむや)立派といふ事とすれば義通ぜず。案ずるに伊都久志吉の吉は武などの誤なるべし。即イツクシム〔右△〕クニにて皇神ノ愛シ給フ國といへるなるべし。さてこそコトダマノサキハフ國との對もよろしけれ○コトダマは言語にくしき作用ありてたとへば祝へば吉事あるをいふ(犬※[奚+隹]隨筆上卷三五頁參照)。サキハフは助クルなり○初にイヒツテケラクといひて末にカタリツギイヒツガヒ(976)ケリといへるは某ノイヘラク云々トイヘリなどいふと同例なリ。ツガヒはツギの延言なリ○今ノ世ノ人モコトゴト目ノ前ニ見タリシリタリとは右ノ事ハタダ世ニ云傳フルノミナラズ今モ眼前ニ見聞スル所ナリといふ意にて下に神助によりて恙なく歸りリ來らむと祝はむ伏線なり○人サハニ滿チテハアレドモは天下ニ人多カレドとなリ。日ノミカドは天皇。天皇は神にてましませばおもほし又はのたまひ又はしたまふ事にみなカムナガラといふことを冠らせいふなリ。メデノサカリは宣命に例多し。御賞美の餘といふことなり。詔詞解第二十二詔の處(宣長全集第五の三〇五頁)に
  此萬葉なる愛能盛爾は撰タマヒテへ係れり。天下云々へ係ていへるにはあらず
といへり。天ノ下マヲシタマヒシ家ノ子とは天下ノ政ヲ執リシ人ノ子孫トシテといふこと。左大臣丹治比(ノ)眞人島といふ人の子孫なればなり。さて人サハニミチテハアレドモもカムナガラもメデノサカリニも皆エラビタマヒテにかゝれり。又エラビタマヒテより上の主格は天皇にて下の主格は廣成なり。テの前後にて主格のかはれる例は上(八八三頁)にもあり。マカリイマセはマカリイマスニなり○ウナバラ(977)ノより見ワタシタマヒまでの十六句は往路のさまなり○カムヅマリは記傳卷十一(全集第一の六三三頁)及大祓詞後釋上卷(全集第五の四二四頁)にいへる如くしづまります事なり。集りますことにあらず。ウシハクはおのが處と領するをいふ。ウナバラノ以下六句は畢竟海原ノ處々ニイマス神タチといふ意なり○ミチビキの下の麻志遠は一本に麻遠志とありといふ。千蔭雅澄は之を是としてマヲシとよみたれどマヲシといふべき處にあらず。遠を衍字としてミチビキマシとよむべし○アメツチノ以下四句は天地ノ神ト大和ノ大國御魂神トガといふ意。かく大國御魂神を取分けていへるは朝庭の御産土神なればなり。比神は今の官幣大社|大和《オホヤマト》神社の祭神なり○見ワタシタマヒは四方を見渡して大使の船を護りたまふなり○事ヲハリ以下は歸路のさまなり。スミ繩ヲハヘタルゴトクはマッスグニなり。こゝも御手ウチカケテのテの前後にて主格かはれり○阿庭可遠志の庭は一本に遲とありといふ。此二句オホトモノミツノハマビに對したればアヂカヲシはチカに冠らせたる辭とおぼゆ。宣長も智可の枕辭として
  アヂカ、チカと言の重なる枕詞也。さてアヂカは未考へず。ヲシはヨシといふに同(978)じ
といへり。なほ考ふべし○智可は記傳卷五(全集第一の二四九頁)に『今の五島平戸などの島々をすべいふなるべし』といへり。當時の日本の西のはてなり。ハマビは濱邊なり。上にもウメノ花チリマガヒタル岡ビニハとあり。タダハテは途中ニ泊ラズシテなり。ツツミナクは今のツツガナクなり。ツツムコトナクともツツマハズともいへればツツムといふ動詞よりツツミといふ名詞に轉じたるなり(玉勝間十二卷五丁參照)○肯は旨の誤、岫は岬の誤、大は太の誤なり
 
   反歌
895 (大伴ノ)御津(ノ)松原かき掃《ハキ》てわれ立|待《マタム》速歸|坐《マ》せ
大伴御津松原可吉掃弖和禮立待速歸坐勢
 カキハキテは掃除シテなり。カキは添辭○此頃憶良は筑紫より歸りて大和にあり
 
896 難波津にみ船|泊《ハテ》ぬときこえこば紐解さけてたちはしりせむ
難波津爾美舶泊農等吉許延許婆紐解佐氣弖多知婆志利勢武
(979)  天平五年三月一日良宅對面獻三日〔七字傍点〕山上憶良謹上
  大唐大使卿記室
 紐トキサケテは略解に『紐結ぶまでもなくいそぎ迎へてむといふ也』といひ古義は之に從へり。又タチハシリを古義に『いそぎ立走り行て迎へまゐらせむぞとなり』といへり。案ずるに紐トキサケテは襟の組を解きて活動に便にすることにて(卷四【六三五頁】參照)タチハシリは今いふ奔走なり。されば今は奴僕ト共ニ奔走セムといへるなり
 略解に良宅封面獻三日の七字を小字に書きて『今本に本行にせり〇もと小字に書るなるべし』といひ次に
  良は憶良の略、獻ルハ三日也とは朔日に此歌どもをよみてそれを大使に見せたるは三日といふ事なるべし
といへり。記室は今いふ秘書
 
   沈v痾自哀文 山上憶良作
竊|以《オモフニ》朝夕〔右△〕佃2食山野1者、猶無2災害1而得v度v世(謂常執2弓箭v避2六齋1、所※[がんだれ+自]〔左△〕禽獣(980)不v論2大小1孕及(ト)2不孕1並皆殺食、以v此爲v業〔右△〕者也)晝夜釣2漁河海1者、尚有2慶福1而
全經v俗(謂漁夫潜女各有v所v勤、男手把2竹竿1、能釣2波浪之上1、女者腰帶2鑿籠〔右△〕1、潜採2深潭之底1者也)況乎我從2胎生1迄2于今日1、自有2修善之志1、曽無2作惡之心1(謂聞2諸惡寞作諸善奉行之教1也)所以《ソレユヱニ》禮2拜三寶1、無2日不1v勤(毎日誦經發露懺悔也)敬2重百神1、鮮2夜有1v闕(謂敬2拜天地諸神等1也)嗟乎※[女+鬼]哉、我犯2何罪1遭2此重疾1(謂未v知2過去所v造之罪若是現前所v犯之過1、無v犯〔左△〕2罪過1何獲2斯病1乎)初沈v痾已來年月稍多(謂經2十余年也)是時年七十有四、鬢髪斑白、筋力※[八/机の旁+王]羸、不2但年老1、復加2斯病1、諺曰、痛瘡灌v塩、短材截v端、此之謂也、四支不v動、百節皆疼、身體太重、猶v負2鈞石1(二十四銖爲2一兩1、十六兩爲2一斤1、三十斤爲2一鈞1、四鈞爲2一石1、合一百二十斤也)懸v布欲v立、如2折翼之鳥1、倚v杖且歩、此2跛足之※[馬+盧]1、吾以身已穿俗、心亦〔右△〕累塵、欲v知2禍之所v伏祟之所1v隱、龜卜之門巫祝之室、無v不2往問1、若實若妄、隨2其所1v教、奉2幣帛1無v不2鬼頭1、然而彌〔右△〕有v増v苦、曾無2減差1、吾聞前代多有2良醫1救2療蒼生病患1、至v若2楡※[木+付]〔右△〕、扁鵲、華他、秦(ノ)和、緩、葛稚川、陶隱居、張仲景等1皆是在世良(981)醫、無v不2徐愈1也(扁鵲姓秦、字越人、勃海郡人也、割v胸採2心腸1而置v之、投以2髪藥1、即寤如v平也、華他字元化〔二字右△〕、沛國※[言+焦]人也、若有2病結積沈重者〔□で圍む〕在v内者1、刳v腸取v病、縫復摩v膏、四五日差之)追2望件醫1非2敢所1v及、若逢2聖醫髪藥1者、仰願割2刳五藏1、抄2探百病1、尋2達膏肓之※[こざと+奥]處1(肓鬲也、心下爲v膏、攻v之不v可、達v之不v及、藥不v至焉)欲v顯2二豎之逃匿1(謂晋景公疾、秦(ノ)醫緩視而還者可v謂2爲v鬼所1v殺也)命根既盡終2其天年1、尚爲v哀(聖人賢者一切含靈誰免2此道1乎)何況生録未v半爲2鬼枉殺1、顏色壯年爲2病横困1者乎、在世大患孰甚2于此1
  志怪記云、廣平前太守北海徐玄方之女年十八歳而死、其靈謂2馮馬子1曰、案2我生録1、當2壽八十餘歳1、今爲2妖〔右△〕鬼1所枉殺1、已經2四年1、此遇〔右△〕2馮馬子1、乃得2更活1、是也、内教云、瞻浮洲人壽百二十歳、謹案2此數1、非2必不1v得v過v此、故壽延經云、有2比丘1名曰2難達1、臨2命終時1詣v佛請v壽、則延2十八年1、但善爲〔二字左△〕者天地相畢、其壽夭者業報所v招、隨2其修短1而爲v半也、未v盈2斯※[竹冠/下]〔右△〕1而※[しんにょう+湍の旁]死去、故曰v未v半也、任徴〔右△〕君曰、病從v口入、故君子節2其飲食1、由v斯言v之人遇2疾病1不2必妖鬼1、夫醫(982)方諸家之廣説、飲食禁忌之厚訓、知易行難之鈍情三者盈v目滿v耳、由來久矣、抱朴子曰、人但不v知2其當v死之日1、故不v憂耳、若誠知2羽※[鬲+羽]可1v得v延v期者、必將v爲v之、以v此而觀乃知我病蓋斯飲食所v招、而不v能2自治1者乎
 帛公略説曰、伏思自※[礪の旁]以2斯長生1、生可v貪也、死可v畏也、天地之大コ曰v生、故死人不v及2生鼠1、雖v爲2王侯1一日絶v氣、積v金如v山、誰爲v富哉、威勢如v海、誰焉v貴哉、遊仙窟曰、九泉下人一銭不v直、孔子曰、受2之於天1、不v可2變易1】者形也、受2之於命1、不v可2請益2者壽也(見2鬼谷〔右△〕先生相人書1)故知、生之極貴、命之至重、欲v言言窮、何以言v之、欲v慮慮絶、何由慮v之、惟以人無2賢愚1、世無2古今1、咸悉嗟歎、歳月競流、晝夜不v息(骨子曰往而不v反者年也、宣尼臨川之嘆亦是矣也)老疾相催、朝夕侵動、一代歡樂末v盡2席前1(魏文惜2時賢1詩曰、未v盡2西苑〔右△〕夜1劇作2北※[亡+おおざと]塵1也)千年愁苦更繼2坐1(古詩云、人生不v滿v百、何懷2千年憂1矣)若夫群生品類、寞v不d皆以2有v盡之身1並求c無v窮之命u、所以道人方士自負2丹經1入2於名山1、而合藥〔右△〕之者養v性怡v髪以求2長生1、抱朴子曰、髪農云、百病不v愈、安得2長生1、帛公〔右△〕又曰、生好物也、死惡(983)物也若不幸而不v得2長生1者、猶以d生涯無2病患1者u爲2福〔左△〕大1哉、今我爲v病見v悩、不v得2臥坐1、向v東向v西、寞v知v所v爲、無福至甚、總集2于我1、人願天從、如有v實者、仰願頓2除此病1、頼得v如v平、以v鼠爲v喩、豈不v愧乎(已見v上也)
 弧を以て圍める處は通本の分註を便に從ひて書下したるなり。官本等によりて改め又は補ひたる字には右傍に△を加へつ○※[がんだれ+自]は官本に値とありといふ。古義に『有の誤ならむと云る説もあり』といへり○犯の上に造をおとしたるか○契沖は身已穿俗の已を未に改めねば理とほらずといへれど從はれず。穿は或は誤字ならむ○沈重の下の者は衍字か○攻v之不v可達v之不v及藥不v至焉の十二字は次の分註(即謂晋景各疾云々)の中にありしが紛れてここに入りしなり○視而の下脱字あるべし○善爲兩字倒かと契沖いへり○福大も顛倒か
 前に天平五年三月作の歌あり後に同年六月作の歌あれば此文も亦天平五年の作なり。而して憶良は此年に卒せしなるべし
 憶良の罹れりしはいかなる病なるか。初沈v痾已來年月稍多(謂經2十余年1也)是時七十有四といひ(年齢については聊思ふ所あり。後に至りて云ふべし)四支不v動百節皆疼(984)身健太重猶負2釣石1懸v布欲v立如2折翼之鳥1倚v杖且歩比2跛足之※[馬+盧]1といひ今我爲v病未v悩不v得2臥坐1といへるを見ればほぼ何の病なるかを察すべし
 
   悲2歎俗道假合即離易v去難1v留詩一首并序
 竊以釋慈之示教(謂2釋氏慈氏1)先開2三歸(謂v歸2依佛法僧1)五戒1而化2法界1(謂2不殺生、二不偸盗、三不〔右△〕邪姪、四不妄語、五不飲酒1也)周孔之垂訓前張2三綱(謂2君臣、父子、夫婦1)五教1以済2邦〔右△〕國1(謂2父義、母慈、兄友、弟順、子孝1)故知引導雖v二、得v悟惟一也、但以世无〔右△〕2恒質1、所以陵谷更變、人无〔右△〕2定期1、所以壽夭不v同、撃目之間百齢已盡、中臂之頃〔右△〕千代亦空、旦作2席上之主1、夕爲2泉下之客〔右△〕1、白馬走來、黄泉何及、隴上青松空懸2信劔1、野中白楊但吹2悲風1、是知世俗本無2隱遁之室1、原野唯有2長夜之臺1、先聖已去、後賢不v留、如《モシ》有2贖而可v免〔右△〕者1、古人誰無2價金1乎、未v聞d獨存遂見2世終1者u、所以維摩大士疾2玉體于〔右△〕方丈1、釋迦能仁掩2金容乎雙樹1、内教曰、不v欲2黒闇之後來1、寞v入2コ天之先至1(コ天者生也、黒闇者死也)故知生必有v死、死若不v欲不v如〔右△〕v不v生、(985)況乎縦覺2始終之恒數1、何慮2存亡之大期1者也
 俗道變化猶2撃目1、人事經紀如2申臂1、空與2浮雲1行2大虚1、心力共盡無v所v寄
 
  老身重病經v年辛苦及思2兒等1歌七首【長一首短六首】
897 (靈剋《タマキハル》) 内(ノ)限は(謂2瞻浮州人壽一百二十年1也) 平けく 安くもあらむを 事も無《ナク》 も無《ナク》もあらむを 世間《ヨノナカ》の うけくつらけく いとのきて 痛き瘡には 鹹塩《カラシホ》を 灌《ソソグ》ちふ何〔□で圍む〕ごとく  益益も 重《オモキ》馬荷に 表荷《ウハニ》うつと いふことのごと 老《オイ》にてある 我身(ノ)上に 病をら加《クハヘ》てあれば 晝はも 歎かひくらし 夜《ヨル》はも 息《イキ》づきあかし 年長く やみし渡れば 月|累《カサネ》 憂吟《ウレヒサマヨ》ひ ことどとは しななと思《モヘ》ど (五月蠅《サバヘ》なす) さわぐ兒等《コドモ》を うつてては 死《シニ》は不知《シラズ》 見|乍《ツツ》あれば 心はもえぬ かにかくに 思わづらひ ねのみしなかゆ 
靈剋内限者【謂瞻浮州人壽一百二十年也】平氣久安久母阿良牟遠事母無裳無母阿良牟遠世間能宇計久都良計久伊等能伎提痛伎瘡爾波鹹塩遠灌知布何其等久益(986)益母重馬荷爾表荷打等伊布許等能其等老爾弖阿留我身上爾病遠等加弖阿禮婆晝波母歎加此久良志夜波母息豆伎阿可志年長久夜美志渡禮婆月累憂今〔左△〕比許等許等波斯奈奈等思騰五月蝿奈周佐和久兒等遠宇都弖弖波死波不知見乍阿禮婆心波母延農可爾可久爾思和豆良此禰能尾志奈可由
 ウチノカギリは生涯といふことと思はる。記傳卷三十九(全集第三の二二一二頁)に
  注に謂2瞻浮州人壽一百二十年1也とあるはかの魂極の説に(○タマキハルを魂極の意とする説に)なれたる後世人のしわざにて此上の文に内教云とて此語のあるを取持來てここに書入たるなり。是を自注と思ふはひがごとなり
といへれど歌に漢文の註を挿める、後人のしわざとしてはあまりに大膽なり。なほ自註と見べし。ウチノカギリが一生といふ事なる故に經文を引きてしかじかと云へるなり。瞻浮州は即|閻浮提《エンブダイ》にて吾人の世界なり○モナクのモは記傳卷十三(全集第一の七三九頁)に『死たることのみにもあらず何事にまれ凶事をいふなり』といひ(987)又こゝのモナクは無恙といふ意なりといへり○ウケクツラケクは憂キ事ヨ、ツラキ事ヨといふ意にてこゝにて切れて下へは續かざるなり○イトノキテ痛キ瘡ニハ鹹塩ヲソソグチフ何〔右△〕如クは當時の諺なり。上なる貧窮問答歌にもイトノキテ短キ物ヲ端キルトイヘルガ如クとあり又上なる沈痾自哀文にも諺曰痛瘡灌v塩短材截v端ともいへり。イタキキズニハのハには意なし。何は古義にいへる如く衍字なるべし○マスマスモ重キ馬荷ニ云云は今のオモ荷ニ小附といふ諺に當れり。此歌にはウハ荷とあれど後撰集にはオモ荷ニハイトド小附ヲ云云とよめり。ウハ荷ウツのウツは添ふる事とおもはる。今の世にも小附ヲウツといふ由略解に見えたり○オイニテアルは老去《オイニ》タルなり。ヤマヒヲラのラは助辭なり。卷二十にも子ヲラ〔右△〕妻ヲラ〔右△〕オキテ等モキヌとあり○ヤミシワタレバのシも助辭○コトゴトハを契沖は異事の意として『異事とは子等を思ふ外の事なり』といへれどげにとはおぼえず。案ずるにコトゴトハは古今集離別なるカキクラシコトハ〔三字右△〕フラナム春雨ニヌレギヌキセテ君ヲトドメムとあるコトハと同じくてカクノ如クナラバといふ意なり。はやく中島廣足の海人のくぐつにも
(988)  萬葉五長歌コトゴトハシナナトオモヘド云々此コトゴトハはコトハを二つ重ねいへるなるべし。其意にてよく聞ゆ。これを悉の意に解たるはあたらず
といへり。シナナは死ナムなり○ウツテテハは契沖『ウチステテハにてチスをつづめてツといへるなり』といへり。或はウツツルはスツルといふ意にて、もとより一つの語にてかのナゲウツル御杖、フキウツルイブキノ狹霧などあるウツルはウツツルのツの一つはぶかりたるにや。シニハシラズは死ヌル事ハ知ラズなり。死ぬる事をシニといへる例は卷四(七〇六頁)に擧げたり○見ツツアレバはサワグ兒ドモヲ見ツツアレバなり。古義に『老身重病さまざまのうけくつらけき事を見つつ有ばといふなり』といへるは非なり(因にいふ。ツラキをツラケキといへる例なし)。カニカクニはイロイロなり○憂今の今は吟の誤なり
 
   反歌
898 なぐさむる心はなしに雲|隱《ガクリ》鳴往鳥のねのみしなかゆ
奈具佐牟留心波奈之爾雲隱鳴往鳥乃禰能尾志奈可由
 ナグサムルは己ヲナグサムルにてナグサムといふに同じ。ココロハナシニは心ハ(989)ナクテなり。三四は序
 
899 すべもなく苦しくあれば出《イデ》はしりいななと思《モヘ》どこらにさやりぬ
周弊母奈久苦志久阿禮婆出波之利伊奈々等思騰許良爾佐夜利奴
 イデハシリイナナトモヘドは長歌にシナナトモヘドといへるに當れり。サヤルはほださるる事
 
900 富人の家の子等《コドモ》のきる身なみくたしすつらむ※[糸+包]〔左△〕綿《キヌワタ》らはも
富人能家能子等能伎留身奈美久多志須都良牟※[糸+包]〔左△〕綿良波母
 身體は唯一つなれば衣服はあまたあれども著る身なきなり。クタシは腐ラシなり○※[糸+包]は※[糸+施の旁]の誤か
 
901 麁妙《アラタヘ》の布衣をだにきせ難《ガテ》にかくや歎|敢《カム》せむすべをなみ
麁妙能布衣遠※[こざと+施の旁]爾伎世難爾可久夜歎敢世牟周弊遠奈美
 アラタヘは粗布なり。ガテニは不敢なり。さればキセガテニは着セカネテなり。カクヤナゲカムはカクヤナゲキツツアルベキとなり。考、略解、古義に以上二首を貧窮問(990)答歌の反歌のまぎれてこゝに入れるなりとせり。げにこゝの反歌は第一首にまづ所謂經年辛苦の状をいひ第二首に苦しさの餘寧死なむと思へど子等に絆されて死なれぬ由をいひ第五首に子等の爲に却りて長壽のねがはるゝ趣を云へるなれば中間〔日が月〕に第三首と第四首とが介在しては思想連續せず。其上長歌に貧しきを嘆ける辭なきを反歌に到りて俄に子等に著すべき衣服を欲する意を述ぶべきにあらず。されば第三第四の二首は貧窮問答歌に屬すべきなり。題辭の下に長一首短六首とあるは後人のさかしらなり
 
902 (水沫《ミナワ》なす)微《モロキ》命も栲繩《タクナハ》の千尋にもがと慕《ネガヒ》くらしつ
水沫奈須微命母栲繩能千尋爾母何等慕久良志都
 ナガクモといふことをタクナハノ千ヒロニモといへるなり。ガは後世のガナなり
 
903 (倭文手纏《シヅタマキ》)數(ニ)も不在《アラヌ》身には在《アレ》ど千年にもがとおもほゆるかも【去神龜二年作之但以類故更載於茲】
倭父〔左△〕手纏數母不在身爾波在等千年爾母何等意母保由留加母
(991)  天平五年六月丙申朔三日戊戊作
 シヅタマキの歌は舊作にて今の長歌の反歌にとて作れるならねどミナワナスの歌の類なれば更に茲に書載せつといへるなり○父は文の誤なり
 
   戀2男子名(ハ)古日1歌三首【長一首短二首】
904 世(ノ)人の 貴慕《タフトミネガフ》 七種の 寶も我は 何爲《ナニセムニ》 △ わが中能〔左△〕《ニ》 産《ウマ》れ出有《イデタル》 白玉の 吾子|古日《フルヒ》は (明星《アカボシ》の 開朝《アクルアシタ》は (敷たへの) とこのへさらず 立《タテ》れども 居《ヲ》れどもともに △ 戲れ (夕星《ユフヅツ》の) ゆふべになれば いざねよと 手をたづさはり 父母も 表〔左△〕《トホク》者〔□で圍む〕なさかり (三枝《サキクサ》の) 中にをねむと 愛《ウツクシ》く しがかたらへば 何時《イツシ》かも ひととなりいでて あしけくも よけくも見むと (大船の) おもひたのむに おもはぬに 横風《ヨコシマカゼ》の 爾母〔左△〕布《ニハシク》敷可〔二字□で圍む〕爾《ニ》布敷可爾〔四字□で圍む〕 覆來《オホヒキヌ》れば せむすべの たどきをしらに しろたへの たすきをかけ まそ鏡 てにとりもちて 天神《アマツカミ》 あふぎこひのみ 地祇《クニツカミ》 ふして額拜《ヌカヅキ》 かからずも かかりも (992)△ 神|乃末爾麻《ノマニマ》仁〔□で圍む〕等《ト》 立阿射〔左△〕里《タチアガリ》 我《ワガ》例〔□で圍む〕乞のめど 須臾《シマシク》も よけくはなしに 漸漸《ヤウヤウニ》 かたち都久〔二字左△〕保里《クヅホリ》 朝朝《アサナサナ》 いふことやみ (靈剋《タマキハル》) いのちたえぬれ 立をどり 足すりさけび 伏仰《フシアフギ》 むねうちなげき 手に持《モタ》る あがことばしつ 世間《ヨノナカ》の道
世人之貴慕七種之寶毛我波何爲和我中能産禮出有白玉之吾子古日者明星之開朝者數多倍乃登許能邊佐良受立禮杼毛居禮杼毛登母爾戲禮夕星乃由布弊爾奈禮婆伊射禰余登手乎多豆佐波里父母毛表者奈佐我利三枝之中爾乎禰牟登愛久志我可多良倍婆何時可毛比等等奈理伊弖天安志家口毛與家久母見牟登大船乃於毛比多能無爾於毛波奴爾横風乃爾母布敷可爾布敷可爾覆來禮婆世武須便乃多杼伎乎之良爾志路多倍乃多須吉乎可氣麻蘇鏡弖爾登利毛知弖天神阿布藝許比乃美地祇布之弖額拜加良受毛可賀利毛神乃末爾麻仁等立阿射里我例乞能米登須臾毛余家久波奈之爾漸漸可多知都久保里朝朝伊布許登夜美靈剋伊()乃知多延奴靈立乎杼〔左△〕利足須里佐家婢伏仰武禰宇知奈氣吉手爾持流安我古登婆之都世間之道
 ナナクサノタカラは所謂七寶なり○ナニセムニは上(八五九頁)にいへる如く何ノ爲ニといふ意なり。此下に七言一句おちたりとおぼゆ。古義には臆を以てネガヒホリセムの七言を補へり○和我中能は古義に
  吾子といふへ續けて意得べし。爾と云はずして能と云るは此故なり。中とは夫婦の中のよしなり
といへれどワガ中ノワガ子と續くべくもあらねばなほ能は爾の誤とすべし○シラタマノワガ子は源氏物語桐壺(ノ)卷なる玉ノヲノコ御子の類なり○アカボシノはアクルニかゝれる枕辭なり。トコは家族の起臥すべく室内に一段高く作り設けたる處をいふ○略解に『ヲレドモトモニの下に一句半おちしならむ』といひ古義に『試にいはばカキナデテコトドヒタハレなどありしが落しにや』といへり。案ずるに父母トアソビタハブレとありしがタハブレのみ殘れるか○手ヲタヅサハリのヲは一種の助辭なり。上(八六一頁)にもヨチコラト、テタヅサハリテとあり○表者は舊訓(994)にウヘハとよめり。契沖の説に『ウヘハは彼方此方なり。古日が中にあるよりいへば兩方ともに表なり』といへり。おそらくは表は遠の誤にて者は衍字ならむ。考には表を遠の誤としてトホクハナサカリとよむべしといへれどハといふ辭なからむ方まされり○愛久は略解にウツクシクとよめるに從ふべし。カハユクといふ意なり○シガは古義にソレガなりといへり○アシケクモヨケクモは惡シクアラムモ善クアラムモとなり○横風は契沖のヨコシマカゼとよめるに從ふべし○爾母以下十字のうち終の布敷可爾は一本に無き由なれば契沖のいへる如く衍字とすべし。殘れる爾母布敷可爾を宣長は爾波可爾母の誤としてニハカニモとよめり。母を波の誤字とし敷可を衍字としてニハシクニとよむべきか。ニハシクニはニハカニに同じ○其次の句は舊訓にオホヒキヌ〔右△〕レバとよめるを雅澄はオホヒキタ〔右△〕レバに改めたり。もとのままにて可なり。さてヨコシマ風ノオホヒキヌレバを契沖は風邪に侵されしなりとせり○シロタヘノ以下四句は神を祭るさまなり○アマツ神アフギコヒノミを契沖の『天神なればアフギといふ。下の地祇をフシテと云相對なり』といへるは非なり。地祇なればとて足下にいますにあらねば伏して向ふべきにあら(995)ず。フシテはヌカヅキにかゝれるなり。さればアフギコヒノミとフシテヌカヅキとおきかへても妨なし○カカラズモカカリモは契沖『神の惠にかゝらずもかゝりも也』といへり○此あたり脱句ありと見ゆ。雅澄はカカリモの下に吉惠、天地乃の五字を補ひ末爾麻仁等の仁を削りてカカリモヨシヱ、アメツチノ神ノマニマトとせり。ヨシヱはヨシヤに同じ○立阿射里はこのまゝにては舊訓の如くツチアザリとよまむ外なし。そのアザリを契沖はアセリに同じとし雅澄は土左日記、源氏物語などのアザレに同じとせり。案ずるに阿射〔右△〕里は阿何里《アガリ》の誤字にあらざるか。我例の例は衍字ならむ○ヨケクハナシニはヨキ事ハ無クテとなり○漸漸は舊訓にヤクヤクニとよめるを宣長はヤヤヤヤニとよみ改めたり。さるを又雅澄はヤウヤウニとよみ改めて
  古言にヤヤといふことあれどそはヤを重ねたるなればそを再重ねてヤヤヤヤとはいふべからず。案ずるに今はヤヤを延べてヤウヤウといへるにてなほヤカをヤウカといふが如し。さて此集の頃にはかくさまに語を延ぶることあらじと思ふ人もあるべけれどマケズといふことをマウケズと延べたる例十八卷にあ(996)ればはやく此集の頃にもヤウヤウと延べいひけむ(採要)
といへり。マウケズと延べたる例といへるは卷十八なる家持の七夕歌にワタリモリ、フネモ麻宇氣受、ハシダニモ、ワタシテアラバとあるを云へるなり。雅澄の説に從ふべし○都久保里は契沖『都久は久都のさかさまに寫されてクヅホリにや』といひ雅澄は後世の書にクヅヲレとある例を擧げて『クヅヲレと書るもクヅホレの誤ならむにや』といへり。なほ考ふべし○足スリサケビのスは清みて唱ふべしと古義にいへる如し○手ニモタルアガコトバシツは子を玉にたとへたるにて冒頭なるシラ玉ノアガ子古日ハと照應せるにもあるべく又人麻呂の妹ガ門ミムナビケ此山、ウツソミトオモヒシ妹ガ灰ニテマセバなどを學びたるなるべけれどあまりに放膽なり○ヨノナカノ道はアハレ世ノ中ノ道ハセム方ナシといふべきを略したるなり
 
   反歌
905 わかければ道行しらじまひはせむしたべの使おひてとほらせ
和可家禮婆道行之良士末比波世武之多敝乃使於比弖登保良世
(997) 我子ハナホ稚ケレバ行クベキ道ヲ知ラジ、冥官ノ使ヨ贈物ヲスベケレバ負ヒテ行キテヨといへるなり。マヒは贈物なり。賄賂といふさがなき意を含まず
 
906 布施おきて吾はこひのむあざむかずただに卒去《ヰユキ》てあまぢしらしめ
布施於吉弖吾波許比能武阿射無加受多太爾卒去弖阿麻治思良之米
    右一首作者未v詳、但以3裁歌之體似2於山上之操1載2此次1焉
 布施は古義の如く音にてフセとよむべし(略解にはヌサとよめり)。コヒノムは佛ニなり。アマヂシラシメは上天ノ路ヲ知ラシメヨとなり
 操は調の義なリ。漢籍に風操などいへる操なり。略解、古義に『舊本ここに右一首云々とあるは例の後人の書加へしなり。此卷憶良の家集と見ゆれば自の名書ざりし處もありしなるをや』といへるは非なり。或人の老身重病云々までを筆録して一卷となせるに家持が他より此歌(戀2男子名古日1歌)を獲て作者は未詳なれど憶良の歌に似たればとて書添へたるなり。されば右一首云々は家持の註せるなり。代匠記に
  此歌は今按神龜年中に憶良のよまれたるを撰者類を以て此に載る歟。其故は上に憶良の妻は神龜五年死せられたるに今の歌に父母モ表者ナサカリ三枝ノ中(998)ニヲ寢ムとあればなり。神龜五年は憶良六十九歳なれば後妻を迎へらるべうもなし。下に(○題辭の下に)歌の數を注せるは後人の私にせるを本文かと思ひて書添へたり。其故は終に至て右一首と撰者の注せる意尤明なれば此に短二首とあるべきやうなし。此に准ずるに上にも員數を注せる中に作者撰者のせぬ事も交るべし
といへり。憶良の年齢については余の思ふ所あり。下にいふべし
 
 
(999)附録
   萬葉集卷第五の筆録者
 代匠記總釋首卷雜説(早稻田本二五頁)に
  第五は太宰帥大伴卿報2凶問1歌と云より山上憶良の戀2男子名古日1歌と云に至るまで神龜五年より天平五年迄の雜歌なり。此は憶良の記し置かれたるに〔十一字傍点〕家持の終の一首を加へて注せられたりと見えたり。其中に大伴熊凝が歌までは筑紫にての作、好去好來歌より終までは都にての作なり云々
といひ考別記に
  かくて今の五の卷は山上憶良大夫の歌集ならん
といひ略解(卷第五末)に
  此卷憶良の家集と見ゆれば自らの名書ざりし所も有べし
といひ古義(卷五の末)にも
  此卷憶良の家集と見ゆれば自の名書ざりし處もありしなるをや
といへり。本集卷第五は果して憶良の筆録又は家集なりや。まづ書殿餞酒日倭歌四首(1000)及聊布2私懷1歌三首の後、また和d遊2松浦河1贈答歌u三首の後に筑前國司山上憶良謹上とあり好去好來歌の後に山上憶良謹上大唐大使卿記室とあるは元來人に贈る爲に作れる歌又は書牘なれば家に殘すにも人に贈りしまゝに謹上等の文字及官名を存ぜるはさもあるべき事なり。されど詩及日本挽歌の後に筑前國守山上憶良上とあり貧窮問答歌の後に山上憶良頓首謹上とあり和d爲2大伴熊凝1述2其志1歌u六首に敬の字を添へたるは家集に記すべき文字にあらねば人ありて憶良が旅人、陽春《ヤス》等に贈れるまゝに寫し留めたるものとせざるべからず(和爲熊凝述其志歌にては筑前國司守山上憶良の九字は歌の後にありけむを題辭の上に移して)
 武田氏も
  謹上の文字は對手方に於て蒐集せられたものなることを示し云々
といへり
 殊に沈痾自哀文の題辭の下なる山上憶良作の五字は憶良の家集にあらざる事を證して餘あるものと謂ふべし。又神龜五年より天平五年まで六年の間に憶良の作りし歌はもとより此に止まらざるべし。此卷もし憶良の家集ならば外の歌をも擧げざら(1001)むや。現に天平元年及二年に作りし七夕歌ありて卷八に見えたるをや
 或は云はむ。もし憶良の家集にあらずとせば好去好來歌の奥に天平五年三月一日良宅對面献三日〔七字傍点〕山上憶良謹上云々とあり、シヅタマキ數ニモアラヌといふ歌の註に去神龜二年作v之但以v類故更載2於茲1とあるをいかがせむ。此等は憶良の自註にあらずやと。答へて云はむ。げに此等は自註なり。但卷中の自註は此等に止まらず。哀2世間無1v住歌の後なる神龜五年七月二十一日於2嘉摩郡1撰定筑前國守山上憶良とあるも、詠2鎭懷石1歌の後なる右事傳言那珂郡伊知郷簑島人建部牛麻呂是也とあるも、老身重病云々歌の後に天平五年六月丙申朔三日戊成作とあるも皆自註なり。此等の歌は憶良が表だたで此卷の筆録者に見せしにてもあるべく又此卷の筆録者が憶良の草稿について抄寫せしにてもあるべし
 近頃此卷を旅人の筆録とする説あれど其然らざるは卷頭に太宰帥大伴卿報2凶問1歌とあり、歌詞兩首の分註に太宰肺大伴卿とあり、後人追和之詩の下に帥老とあり(帥老は自稱にあらず)旅人の薨じて見るに及ばざりし歌(大伴熊凝歌以下)あるにて知るべし
(1002) 然らば此卷の筆録者は誰なるか。憶良の詩及日本挽歌、寧樂人、藤原房前、吉田宜、憶良の歌并に書牘、憶良の餞酒日歌及布2私懷1歌など旅人に贈れる詞藻を收録せるを見れば旅人の左右の人のしわざなること疑ふべからず。本集の編者にして旅人の子なる家持は天平二年に父の許にありしこと卷四に見えたれど當時なほ幼なりし明徴あれば決して此人のみやびにあらず。卷中に憶良の敬和爲熊凝述其志歌あり。敬和とあれば前にも云へる如く憶良が麻田陽春に贈れるまゝに寫し留めたるなり。さて此歌を憶良の作りしはいつにか詳ならねど熊凝の安藝國にて死せしは天平三年六月十七日なれば早くとも同年七月以後の作なるべし。而して旅人の薨ぜしは同年七月廿五日なればおそらくは旅人の許に送りしにはあらじ。されば此歌を筆録せしは旅人と共に京に歸りし人にはあらで旅人におくれて太宰府に留まれる人ならむ。旅人におくれて太宰府に留まれる人はあまたあるべけれど陽春は實に其一人なり。何によりて然はいふぞといはむに卷四に太宰帥大伴卿被v任2大納言1臨2入v京之時1府官人等餞2卿筑前國蘆城驛家1歌四首ありて其うちの二首の後に右二首大典麻田(ノ)連陽春とあればなり。假に陽春を此卷の筆録者とせむに憶良が陽春に贈りし歌のさながらに即敬の字(1003)の添ひたるまゝにて採録せられたるは自然の事なり。されど余は右の如き薄弱なる理由に基づきて陽春を以て此卷の筆録者なりと推定することを好まず。ただ此卷は旅人の左右の人の筆録にて陽春も亦其筆録者に擬せらるべき一人なりといふのみ
 
   山上(ノ)臣憶良年齢考
 天平五年の作とおぼゆる沈痾自哀文に
  是時年七十有四、鬢髪斑白、筋力※[八/机の旁+王]弱
とあれば天平五年に七十四歳なりしこと的確なるが如くなれど細に思へばなほ疑なきにあらず。まづ天平五年七十四歳として年譜を作らば左の如くならむ
  齊明天皇六年(紀元一三二〇年) 一歳
   此年誕生
  文武天皇大寶元年(一三六一年) 四十二歳
   正月遣唐使少録となさる。當時無位(續紀)
  同二年(一三六二年) 四十三歳
(1004) 六月發船(續紀)
 慶雲元年(一三六四年) 四十五歳
  七月歸朝(續紀)○在唐中憶2本郷1歌を作る(本集卷一)
 元明天皇和銅七年(一三七四年) 五十五歳
  正月正六位下より從五位下に陞せらる(續紀)
 元正天皇靈龜二年(一三七六年) 五十七歳
  四月伯耆守となる(續紀)
 養老五年(一三八一年) 六十二歳
  正月詔して人々と共に退朝の彼東宮に侍せしめらる(續紀)
 同七年(一三八三年) 六十四歳
  七月令に應じて七夕歌を作る(本集卷八)【本には八年とあれど養老八年を神龜元年と改められしは其年の二月なれば八年とあるは七年の誤とすべし】
 聖武天皇神龜元年(一三八四年) 六十五歳
  七月左大臣(長屋王)の家にて七夕歌を作る(本集卷八)
(1005) 同三年(一三八六年) 六十七歳
  此年筑前守となる二天平二年の作なる聊布2私懷1歌にアマザカル鄙ニ五年スマヒツツとあるを證とす)
 同五年(一三八八年) 六十九歳
  任地にて妻を失ひ之を悲しみて詩及日本挽歌を作る(本集卷五)〇七月筑前國嘉摩郡にて令v反2惑情1歌、思2子等1歌、哀2世間難1v住歌を撰定す
 天平元年(一三八九年) 七十歳
  七月太宰帥大伴旅人の家にて七夕歌を作る(本集卷八)○鎭懷石歌を作りしも此年か(本集卷五)
 同二年(一三九〇年) 七十一歳
  正月太宰帥の家にて梅花歌を作る(本集卷五)〇七月帥の家にて七夕歌を作る(本集卷八)○同月帥の遊2松浦河1贈る答歌を和す(本集卷五)○十二年書殿餞酒日倭歌及聊布2私懷1歌を作りて旅人に贈る(本集卷五)
 同三年(一三九一年) 七十二歳
(1006)  爲2熊凝1述2其志1歌を和す(本集卷五)
 同五年(一三九三年) 七十四歳
  三月好去好來歌を作りて遣唐大使多治比廣成に贈る○沈v痾自哀文を作る〇六月悲2歎俗道假合即離易v去難1v留詩及老身重病經v年辛苦及思2兒等1歌を作る(以上本集卷五)○病中藤原八束の使に訪はれてヲノコヤモ空シカルベキといふ歌を作る(本集卷六)○卒せしは此年か
 右によれば四十二歳まで無位にて此年遣唐使少録となりしなり。たとひ寒門の出なりとも四十二歳にして始めて官途に就かむは遲きに過ぎずや。是年齢に疑ある一なり。次に妻を失ひしは六十九歳なれば妻はた壯にはあるまじきに日本挽歌の調によれば老妻とは思はれず。殊に詩序中に嗟乎痛哉紅顏共2三從1長逝、素質與2四コ1永滅といへる豈老妻にいふべき辭ならむや。是二なり。又同年に作れる思2子等1歌に瓜ハメバコドモオモホユ、栗ハメバマシテシヌバユといひマナカヒニモトナカカリテといへる皆小兒の趣なり。これのみならず天平五年即七十四歳の作なる思2兒等1歌にもコトゴトハ死ナナト思ヘド、サバヘナスサワグ兒ドモヲ、ウツテテハ死ハ知ラズといへり。サ(1007)ワグ兒ドモといへるを十歳の小兒と假定せむに神龜元年即六十五歳の時に生ませし子とせざるべからず。是三なり。次に哀2世間難1v住歌は六十九歳の作なるべきに其序に因作2一章之歌1以|撥《ヤル》2二毛之歎1とあり。二毛は禮記檀弓下に古之侵伐者不v斬v祀、不v穀v※[がんだれ/萬]、不v獲《トラゲズ》2二毛1、左傳※[人偏+喜]公二十二年に君子不v重v傷、不v禽《トリコニセズ》2二毛1、文選潘岳秋興賦序に晋十有四年余春秋三十有二始見2二毛1とありて黒白二髪の相變れるなり。七十四歳の作なるべき沈痾自哀文の中にも鬢髪斑白とあり。たとひ憶良人よりすぐれて強健にして年齒懸絶せる婦人を娶り六十五歳にて子を生ませ七十四歳にてなほ二毛斑白なりとも沈痾自哀文は辭を極めて病衰を悲しめる趣なれば齢に比して壯なる事などは書くまじきなり。是四なり。次に天平五年に重き病に罹れりし時、人の來りてとぶらひしをりに作れる
  をのこやも空しかるべき萬代にかたりつぐべき名はたてずして
といふ歌本集卷六に見えたり。措辭豪壯、豈七十四翁の意氣ならむや。是五なり。以上五箇條の理由に基づきて思へば沈痾自哀文に是時歳七十有四とあるはおそらくは五十有四などの誤なるべし(草書の五の字は七の字にまがひぬべし)。しばらく天平五年(1008)五十四歳とすれば天武天皇八年の誕生にて始めて官途に就きしは二十二歳、筑前にて妻を失ひしは四十九歳、二毛を嘆じ斑白を哀しみしは四十九歳と五十四歳とにて卒せし時なほサワグ兒ドモのありし事はた怪しむに足らず
 或は云はむ。本集卷一藤原宮御宇天皇代の下に
  幸2于紀伊國1時川島皇子御作歌或云山上臣憶良作、白浪の濱松が枝の手向草幾代までにか年の經ぬらむ、一云年は經にけむ
とありて左註に
  日本紀曰朱鳥四年庚寅秋九月乙亥朔丁亥天皇幸2紀伊國1也
とあり又卷九に
  山上歌一首、白なみの濱松之木の手酬草幾世までにか年はへぬらむ、右一首或云河島皇子御作歌
とあり。憶良果して天武天皇八年の生誕ならば朱鳥四年には十一歳なり。十一歳の少年にして行幸のみともして右の歌をよむことを得むやと。答へて云はむ。卷一の題辭は持統天皇御宇幸2紀伊國1時に川島皇子の作り給ひし歌とも年月故事不詳憶良の作(1009)とも傳へたりといへるのみ。憶良の生誕よしや齊明天皇の六年なりとも、即持統天皇の紀伊行幸の時三十一歳なりとも此時なほ無位なれば從駕の列にはあるべからず』因にいふ。續紀大寶元年には山於億〔二字右△〕良とあり和銅七年、靈龜二年、養老五年には皆山上臣憶良と〔右△〕あれば姓は初|山於《ヤマノウヘ》とかきしを出仕の後山(ノ)上《ウヘ》と改めしなるべく億は誤字にてもあるべし
 又いふ。憶良の父祖は所見なし。本集卷十八に
  射水郡驛館之屋柱題著歌一首あさびらきいり江こぐなるかぢのおとのつばらつばらに吾家しおもほゆ右一首山上臣作、不v審v名、或云憶良大夫之男、但其正名未v詳也
とあり。績紀に神護景雲二年六月壬辰右京人從五位上山(ノ)上臣船主等賜2姓朝臣1とあるも憶良の子なるべし
                         (大正六年九月六日脱稿)
      2004年12月11日(土)午後1時55分、卷五入力終了
      2005年3月28日(月)午前10時56分、校正終了
 
(卷第六新製目録省略)
(1021)萬葉集新考卷六
                    井 上 通 泰 著
  雜歌
   養老七年癸亥夏五月幸2于芳野離宮1時笠(ノ)朝臣金村作歌一首并短歌
907 瀧の上の 御舟の山に みづえさし しじにおひたる 刀我《ツガ》の樹の いやつぎつぎに 萬代に かくししらさむ み芳野の あきつの宮は 神《カム》からか たふとかるらむ 國からか 見がほし將有《カラム》 山川を清清《キヨミサヤケミ》 △ うべし神代ゆ さだめけらしも
瀧上之御舟乃山爾水枝指四時爾生有刀我乃樹能彌繼嗣爾萬代如是二二知三三芳野之蜻蛉乃宮者神柄香貴將有國柄鹿見欲將有山川乎清清諾之神代從定家良思母
(1022) 續日本紀元正天皇紀に
  養老七年夏五月癸酉(〇九日)行2幸芳野宮○丁丑(○十三日)車駕還v宮
とあり
 瀧ノ上ノミフネノ山は夙く卷三(三五二頁)にも見えたり。宣長の菅笠日記(全集第四の四四六頁)に
  うしとらの方に(○吉野の里の入口の)御舟山といふ山見えたり。されど其山は瀧ノウヘノとよみたればこの近き所などにあるべくもおぼえず。これも例の(○吉野の妹背山とおなじく)なき名なるべし
といひ又(四五二頁以下)
  大瀧の里のあなたのはづれは即吉野川の川のへにて瀧といふもやがて川づらなる家の前より見やらるゝ早瀬にて上《カミ》よりただざまに落つる瀧にはあらず。……いにしへ吉野の宮と申て帝のしばしばおはしましゝ所、柿本人麿主の御供にさぶらひて瀧ノミヤコとよみけるも此大瀧によれる所なりけんかし。そのをりをりの歌どもに合せて思ふにアキヅノ小野などいひしも又瀧ノウヘノ御舟(1023)ノ山もかならずこのわたりなりけんこと疑もなければ今もさいふべきさましたる山やあると心をつけて見まはすにこの川づらより左のすこしかへり見る方にさもいひつべき山あり。船にしていはんには前しりへ平に長くてなからばかりに一きは高く屋形といひつべき所ある山なり。これやさならんとは思ひよれどいかにあらんおぼつかなし。そは瀧の所よりはすこし下《シモ》ざまにしあなればタキノウへといへるにはいさゝかたがへるやうにもあれどなべて此わたりならん山はなどかさ云はざらん。いにしへ忍ばん人またまたもここに來まさば必こゝろみ給へ。やがて此里の上なる山ぞかし
といへり。久老雅澄がいへる宮の瀧は大瀧よりは遙に川下にあり。懷風藻なる吉田(ノ)連《ムラジ》宜の從駕吉野宮詩に雲卷三舟谷と作れるも此山ならむ○ミヅエはミヅミヅシキ枝、サシは枝の出づる事、シジニは繁クなり○刀我は冠辭考にツガとよめり。略解に『刀は都の字のかたはら欠たるが刀となれるにもやあらん』といひ字音辨證(下卷二六頁)に『刀をツと呼は呉の轉音なるべし。同轉の毛をム、抱をフと呼べる事あると同例なり』といへり。卷三(四二七頁)赤人の登2神岳1作歌にも
(1024)  みもろの、神なび山に、いほえさし、しじにおひたる、つがのきの、いやつぎつぎに
とあり。今もツガノキノまでは序なり○カクシシラサムのシは助辭にて天皇ノカクシロシメサムとなり○カムカラカ云云は卷二(三一四頁)人麿の讃岐狹岑島作歌にも
  たまもよし、さぬきの國は、國からか、見れどもあかぬ、神からか、ここだたふとき
とあり。略解に
  カラは故の意、神とは此山を敷坐神をいふ
といひ古義に
  神とは即山をさしていへるなるべし
といへり。案ずるにカムカラカも國カラカも共に處ガラカといふ意なるを二樣に云へるならむ。もし山カラカの意ならば直に山カラカといふべければなり○ミガホシははやく卷三(四三一頁)に見えたり。此句の將有も貴將有《タフトカルラム》とおなじくカルラムとよむべきに似たれど或本(ノ)反歌に見欲賀藍《ミガホシカラム》と書けるを見ればなほ舊訓の如くカラムとよむべし。但そのカラムは今いふカルラムにひとしき事を忘るべからず。カ(1025)ルラムをカラムとも云ひしはアルラシをアラシともいひし如し○山川は山と川となり○清清を略解には清水濱臣の説に從ひて※[山+青]清の誤としてタカミサヤケミとよめり。古義に之を斥けて『さる目なれざる字を用ひしとは思はれず』といへるは宜なり。但同書に淳清の誤寫としてアツミサヤケミとよめるは從はれず。なほもとのまゝにてキヨミサヤケミとよむべし。略解古義にいへる如く清清の下に一句落ちたるなり。而して其句は古義の一説の如くトツ宮トなるべし○神代は契沖のいへる如く上古といふ意のみ
   反歌
908 としのはにかくもみてしがみ吉野のきよきかふちのたきつ白波
毎年如是裳見牡鹿三吉野乃清河内之多藝津白波
 トシノハは毎年、カフチは河に圍まれたる地、タキツのツは助辭にてノといふに同じ。契沖がタギルに同じといへるは非なり
 
909 山たかみしらゆふばなにおちたぎつ瀧のかふちは見れどあかぬかも
(1026)山高三白木綿花落多藝追瀧之河内者雖見不飽香聞
 こゝの山タカミは山ガ高キニなど釋すべく山ガ高サニとは釋すべからず(三六八頁及四二九頁參照)。シラユフ花は木綿もて造れる花なり。花ニのニは後世のトなり。卷一タヘノホニヨルノ霜フリ(一二三頁)卷二ナク涙ヒサメニフレバ(三二九頁)などのニと同例なり。此歌のタギツこそタギルに同じけれ
 
   或本(ノ)反歌曰
910 神からかみがほしからむみ吉野のたきつかふちは見れどあかぬかも
神柄加見欲賀藍三吉野乃瀧河内者雖見不飽鴨
 
911 み吉野の秋津の川の萬世にたゆることなく又かへり見む
三吉野之秋津乃川之萬世爾斷事無又還將見
 初二はクユルコトナクの序なり。マタカヘリミムはタチカヘリ此處ヲ見ムとなり。卷一(六二頁)なるミレドアカヌ吉野ノ河ノトコナメノタユルコトナクマタカヘリミムに似たり
 
(1027)912 泊瀬女のつくるゆふ花み吉野の瀧のみなわにさきにけらずや
泊瀕女造木綿花三吉野瀧乃水沫開來受屋
 ミナワニは水泡トなり。ケラズヤはケリを強くいへるなり
 
   車持朝臣千年作歌一首并短歌
913 (うまごり) あやにとも敷《シキ》 (なる神の) 音のみききし み吉野の 眞木たつ山ゆ 見くだせば 川の瀬毎に あけくれば 朝霧たち 夕されば かはづ鳴奈辨〔左△〕《ナクナリ》詳〔□で圍む〕 紐とかぬ たびにしあれば 吾《ア》のみして きよき川原を 見らくしをしも
味凍綾丹乏敷鳴神乃音耳聞師三芳野之眞木立山湯見降者川之瀬毎開來者朝霧立夕去者川津鳴奈辨詳紐不解客爾之有者吾耳爲而清川原乎見良久之情〔左△〕蒙
 車持はクルマモチとよむべし。後にクラモチとよむはルマのつづまりてラとなりしなり
(1028) 敷は古義にシキとよめるに從ふべし。アヤニトモシキはイトユカシキといふ意にてオトノミキキシと共にミヨシ野にかかれるなり。オトノミキキシは音ニノミ聞キシにてそのオトは噂なり○アケクレバは夜明クレバなり。鳴奈辨詳は一本に鳴奈利とあり○ヒモトカヌは旅の准枕辭なり。ミラクはミルコトガなり。シは助辭○卷三(四五五頁)なる金村が角鹿津乘v船時作歌に
  草枕たびにしあれば獨してみるしるしなみ云々
とよめると同意なり○情は惜の誤なり
 
   反歌一首
914 瀧の上のみ船の山は雖畏〔左△〕《ミツレドモ》おもひ忘るる時も日もなし
瀧上乃三船之山者雖畏思忘時毛日毛無
 第三句はこのまゝならばカシコケドとよむべし。契沖は
  腰の句は山神を敬てカケテ申モ恐レアルコトナレドと云なり
といひ宣長は
  雖畏にては聞えがたし。畏は見の誤にてミツレドモなるべし。下句は故郷人を忘(1029)れぬ也。長歌の末の詞又次なる反歌にて知べし
といへり。案ずるに契沖の説の如くならばオモヒ忘ルル時モナカラムなどいはざるべからず。さればまづ宣長の説に從ふべし
 
   或本反歌曰
915 千鳥なくみ吉野川の△音成《カハトナス》やむ時なしにおもほゆるきみ
千鳥鳴三吉野川之音成止時梨二所思公
 音の上に一本に川の字ありといふ。千蔭は之によりてカハトナスとよめり。上三句は序なり。キミといへるは家人なり
 
916 (茜さす)日ならべなくにわが戀は吉野の河の霧にたちつつ
茜刺日不並二吾戀吉野之河乃霧丹立乍
    右年月不v審。但以2歌類1載2於此次1焉。或本云。養老七年五月幸2于芳野離宮1之時作
 日並ベナクニは日ヲ重ネヌニなり。キリニは霧トなり。第三句以下の意三註(代匠記、(1030)略解、古義。以下も三註といはば右の三書と心得べし)皆嘆く息の霧と立つなりといへれどさらば第三句はワガナゲキなどあるべきなり。戀と霧とは懸絶せり。吾戀とあるは誤字にはあらざるか
 
   神龜元年甲子冬十月五日幸2于紀伊國1時山部宿禰赤人作歌并短歌
917 (やすみしし) わごおほきみの 常宮《トツミヤ》と つかへまつれる さひが野ゆ そがひにみゆる おきつ島 きよきなぎさに 風ふけば 白浪さわぎ しほひれば 玉藻かりつつ 神代より しかぞ尊き 玉津島やま
安見知之和期大王之常宮等仕奉流左日鹿野由背上爾所見奥島清波瀲爾風吹者白浪左和伎潮干者玉藻苅管神代從然曾尊吉玉津島夜麻
 聖武天皇紀に
  神龜元年冬十月辛卯(〇五日)天皇幸2紀伊國1○葵巳(〇七日)行至2紀伊國那賀郡玉垣(ノ)(1031)勾《マガリ》(ノ)頓宮1○甲午(〇八日)至2海部《アマベ》郡玉津島頓宮1留十有餘日○戊成(○十二日)造2離宮於岡東1○壬寅(○十六日)詔曰登v山望v海此間最好、不v勞2遠行1足2以遊覧1、故改2弱《ワカ》(ノ)浦名1爲2明光浦1、宜d置2守戸1勿v令2荒穢1、春秋二時差2遣官人1奠c祭玉津島之神、明光浦之靈u○己酉(〇二十三日)車駕至v自2妃伊國1
とあり
 常宮はトツミヤとよむべく常と書けるは借字なりと記傳卷十五(全集第一の八七二頁)にいへり○ツカヘマツレルの上にオミタチノといふことを補ひて聞くべし○サヒガ野は雜賀野なり。『弱浦よりは西の方なり』と契沖いへり。ソガヒは後方なり○オキツシマは沖中の島にて即玉津島なり。玉津島神社の在る處は今は陸地なれど此歌によれば昔は島なりしなり○玉藻カリツツのツツは白浪サワギにもかゝれり○シカゾはカクゾなり。いにしへシカとカクとを通用せし事本書卷四(七三四頁)に云へる如し
 
   反歌
918 おきつ島ありその玉藻|潮《シホ》干〔□で圍む〕滿《ミチテ》いかくろひなばおもほえむかも
(1032)奥島荒磯之玉藻潮干滿伊隱去者所念武香聞
 于は衍字ならむ。舊訓の如くシホミチテとよむべし。イカクロヒナバは隱レナバなり。オモホエムはシノバレムなり。卷二に毛ゴロモヲ春カタマケテイデマシシウダノ大野ハオモホエムカモ又下にヤマト路ノ吉備ノ兒島ヲスギテユカバ筑紫ノ子島オモホエムカモとあり
 
919 若の浦にしほみちくれば滷をなみあしべをさしてたづなきわたる
若浦爾塩滿來者滷乎無美葦邊乎指天多頭鳴渡
    右年月不v記。但※[人偏+稱の旁]從2駕玉津島1也。因今檢2注行幸年月1以載v之焉
 カタヲナミは干滷ガ無イカラとなり。玉津島の下に之時作の三字などおちたるにか。※[人偏+稱の旁]は稱に同じ
 
   神龜二年乙丑夏五月幸2于芳野離宮1時笠朝臣金村作歌一首并短歌
920 (足引の) 御山もさやに おちたぎつ 芳野の河の 河の瀬の きよ(1033)きを見れば 上邊《カミベ》には 千鳥しばなき 下邊《シモベ》には かはづつまよぶ (ももしきの) 大宮人も をちこちに △ しじにしあれば 見るごとに あやにともしみ (玉かづら) たゆることなく よろづ代に かくしもがもと 天地の 神をぞいのる かしこかれども
足引之御山毛清落多藝都芳野河之河瀬乃淨乎見者上邊者千鳥數鳴下邊者河津都麻喚百磯城乃大宮人毛越乞爾思自仁思有者毎見文舟〔左△〕乏玉葛絶事無萬代爾如是霜願跡天地之神乎曾祷恐有等毛
 此行幸の事績紀に見えず○サヤニは音の形容なり。ザアザアトなど譯すべし○ヲチコチニの下に落句あるか○アヤニトモシミはイトユカシキニなり。萬代ニカクシモガモトはイツマデモカク御トモシテ通ハムトとなり○舟は丹を誤れるなり
 
   反歌二首
921 萬代に見ともあかめやみ吉野のたきつ河内の大宮所
萬代見友將飽八三吉野乃多藝都河内之大宮所
(1034) 大宮所は大宮のある處なり。ただ大宮といふとは異なり
 
922 人皆のいのちも吾《ワガ》もみ吉野のたきの床磐《トキハ》の常ならぬかも
人皆乃壽毛吾母三吉野乃多吉能床磐乃常有沼鴨
 吾はワガとよむべし。我命モといふべきを略せるなり。三四はツネの序なり。床磐は古義に從ひてトキハとよむべし(略解にはトコハとよめり)。トキハは即字の如く床磐なり。今常磐とかく常は借字なり。ツネナラヌカモは常ナレカシとなり
 
   山部宿禰赤人作歌二首并底歌
923 (やすみしし) わごおほきみの たかしらす 芳野のみやは (たたなづく) 青墻ごもり 河次〔左△〕《カハナミ》の きよき河内《カフチ》ぞ 春べには 花さきををり 秋されば 霧たちわたり 其山の いやますますに 此河のたゆることなく (ももしきの) 大宮人は 常《ツネ》にかよはむ
八隅知之和期大王乃高知爲芳野離〔左△〕者立名附青墻隱河次乃清河内曾春部者花咲乎遠里秋去者霧立渡其山之彌益々爾此河之絶事無百石木能(1035)大宮人者常將通
 タカシラスは占有シ給フといふこと。アヲガキゴモリは青垣ニコモリを一語にちぢめたるなり。礒ニカクレヰテをイソガクリヰテといひ木末《コヌレ》ニ隱レテをコヌレガクリテといふと同例なり。さてその青墻は四方の群山なり○河次《カハナミ》は略解に山並に同じといへり。下なる讃2久邇新京1歌に山並ノヨロシキ國ト川次ノタチアフサトトとあるを見れば略解の説是なるが如くなれど又河次ノキヨキと續けるを見れば少くともこゝのカハナミは河波の意にて次と書けるは誤字とおぼゆ○サキヲヲリはサキナビキなり。常を略解にはトハとよめれどなほ舊訓の如くツネとよむべし○離は諸本に宮とあり。或は離宮とありし宮をおとせるか
 
   反歌二首
924 み吉野のきさ山のまのこぬれにはここだもさわぐ鳥の聲かも
三吉野乃象山際乃木末爾波幾許毛散和口鳥之聲可聞
 菅笠日記(宣長全集卷四の四五六頁)に
(1036)  川邊をはなれて(○樋口より吉野川を離れて)左の谷陰に入り四五丁も行きて道のほとりに櫻木の宮と申すあり。御前なる谷川の橋を渡りて詣づ。さて川邊をのぼり喜佐谷村といふを過て山路にかゝる。すこし登りて高瀧といふ瀧あり。……象《キサ》の小川といふは此瀧の流にて今過來し道よりかの櫻木の宮の前を經て大川に落つる川なり。象山といふもこのわたりのことなるべし
といへり○コヌレニハのハには意なし。古義に
  ニハは他に對へて云辭なり。他所ハ然ラズと云意を思はせたるなり
といへるは非なり。四五に吟じ續けてさるハをおくべき處にあらざるを知るべし○ココダモは澤山なり
 
925 (ぬばたまの)夜のふけ去者《ヌレバ》ひさ木おふる清き河原にちどりしばなく
鳥玉之夜乃深去者久木生留清河原爾知鳥數鳴
 去者は舊訓にユケバ、古義にヌレバとよめり。ヒサ木は今の赤芽ガシハなりといふ
 
926 (やすみしし) わごおほきみは み吉野の あきつの小野の 野上《ヌノヘ》には(1037) とみすゑおきて 御山には いめたてわたし 朝獵に ししふみおこし 夕狩に とりふみたて 馬なめて 御かりぞたたす 春の茂野に
安見知之和期大王波見芳野乃飽津之小野※[竹/矢]野上者跡見居置而御山者射固〔左△〕立渡朝獵爾十六履起之夕狩爾十里※[足頁搨の旁]立馬並而御※[獣偏頁葛]曾立爲春之茂野爾
 野《ヌ》ノヘは即野邊なり。トミは鳥獣の跡を求め見る人をいひイメは射部にて弓射る人をいふこと略解に云へる如し。野邊にも山にも跡見《トミ》をすゑ射部《イメ》を列ぬるを二つに分けていへるは辭の文なり○トミスヱオキテのテは例のあまれるテなり(卷四【六四一頁】參照)○ミカリゾタタスのタタスは催シ給フといふことなり(卷一【七八頁】參照)○固は諸本に目とあり
 
   反歌一首
927 (足引の)山にも野にも御獵人さつ矢たばさみ散動《ミダレ》たりみゆ
(1038)足引之山毛野毛御※[獣偏+葛]人得物矢手狹〔左△〕散動而有所見
     右不v審2先後1。但以v便故載2於此次1
 散動を舊訓にミダレとよめるを古義にサワギに改めたり。タリを添へたるを思へばなほミダレとよむべし○狹は挾の誤なり
 
   冬十月幸2于難波宮1時笠朝臣金村作歌一首井短歌
928 (おしてる) 難波の國は (葦垣の) 古郷《フリニシサト》と 人皆の おもひ息而《ヤスミテ》 つれもなく ありしあひだに (うみをなす) 長柄《ナガラ》の宮に (眞本柱) ふとたかしきて をす國を をさめたまへば (おきつ鳥) あぢふの原に もののふの 八十とものをは いほりして 都成有《ミヤコヲナセリ》 旅にはあれども
忍照難波乃國者葦垣乃古郷跡人皆之念息而都禮母爲〔左△〕有之間爾續麻成長柄之宮爾眞木柱太高敷而食國乎收賜者奥鳥味經乃原爾物部乃八十伴雄者廬爲而都成有旅者安禮十方
(1039) 聖武天皇紀に
  神龜二年冬十月庚申(○十日)天皇幸2難波宮1
とあり○古郷は舊訓に從ひてフリニシサトとよむべし。卷二に大原ノフリ爾之サトニとあり(略解にはフリヌルとよめり)○オモヒヤスムは放念なり。息而を略解にイコヒテとよめれどなほ舊訓の如くヤスミテとよむべし。ツレモナクは没交渉なり。古義に『トヒヨル人モナクと云意なり』といへるは非なり○マキバシラはフトタカにかゝれる枕辭なり(卷一【五九頁】卷二【二二七頁】參照)。ヲスグニヲ、フトタカシキテ、治メタマヘバといふべきを前後にいへるなり○長柄も味經《アヂフ》(ノ)原も今の大坂市のうちなり。モノノフノ八十伴(ノ)緒は百官なり○都成有は舊訓にミヤコトナセリ、略解にミヤコナシタリ、考及古義にミヤコトナレリとよめり。案ずるに上にアヂフノ原ヲ〔右△〕と無ければミヤコトナセリとはよむべからず。又アヂフノ原ハ〔右△〕と無ければミヤコトナレリとはよむべからず。されば略解の如くミヤコナシタリともよむべけれどヲの辭をよみそへてミヤコヲナセリトよむべし。即百官ガ此處ニ都ヲ造レリといへるなり。卷三なるオホキミハ神ニシマセバ眞木ノタツアラ山中ニ海(ヲ)成可聞《ナスカモ》を例とすべ(1040)し。略解に「旅トハイヘド都ノ如シといふ也」といへるは非なり。如の意のナスはナシタリともナセリともはたらかず○爲は無の誤ならむ
 
   反歌二首
929 荒野らに里はあれどもおほきみのしきます時は京師《ミヤコ》となりぬ
荒野等丹里者雖有大王之敷座時者京師跡成宿
 略解に
  此里ハ荒野ノ中ニ有シカドモといふ也
といひ古義に
  此里ハ曠野ニテハアレドモ云々
と釋けり。即アラ野ラニのニを略解は中ニの意とし古義はニテの意とせるなり。案ずるにモトヨリノ味經ノ里ハ荒野ナレドモといふ意なり
 
930 あまをとめ棚なし小舟こぎづらしたびのやどりに梶のときこゆ
海未通女棚無小舟※[手偏+旁]出良之客乃屋取爾梶音所聞
 
(1041)   車持朝臣千年作歌一首井短歌
931 (いさなとり) 濱邊をきよみ うちなびき おふる玉藻に 朝なぎに 千重浪より 夕なぎに 五百重浪よる △ 邊つ浪の いやしくしくに  月にけに 日日に雖〔左△〕見《ミガホシ》 今のみに あきたらめやも しらなみの いさき囘有《メグレル》 すみのえの濱
鯨魚取濱邊乎清三打靡生玉藻爾朝名寸二千重浪縁夕菜寸二百五〔二字左△〕重波因邊津浪之益敷布爾月二異二日日雖見今耳二秋足目八方四良名美乃五十開囘有往〔左△〕吉能濱
 イホヘ浪ヨルの下に雅澄はオキツ浪イヤマスマスニの二句を補ひて
  此歌アサナギニ千重浪ヨリと云とユフナギニ五百重浪ヨルと云と二句づつをもて雙べ對へたれば邊ツ浪ノイヤシクシクニと云る二句にも必對へたる詞のあるべき古歌の定格なり。故《カレ》今は十三に朝ナギニ、ミチクルシホノ、夕ナギニ、ヨセクル波ノ、ソノシホノ、イヤマスマスニ、ソノ波ノイヤシクシクニ云々とあるをも(1042)て姑く補たり
といへり。之に從ふべし○月ニケニは月々ニなり○雖見を舊訓にミレドモとよみ契沖はミルトモとよめるを略解に
  雖は欲の誤にて日々ニミガホシならん。ミルトモとては末へつづかず
といへり。之に從ふべし○今ノミニは今見ルノミニテとなり。囘有は舊訓のまゝにメグレルとよむべし(古義にはモトヘルとよめり)。イサキのイは添辭、サクは波を花にたとへたるなり
 
   反歌一首
932 白浪の千重にきよする住吉の岸のはにふににほひてゆかな
白浪之千重來縁流住吉能岸乃黄土粉二寶比天由香名
 ニホヒテは衣ヲニホハシテといふべきを言餘ればただニホヒテといへるなり。下にも馬ノアユミオサヘトドメヨスミノエノ岸ノハニフニニホヒテユカムとあり
 
   山部宿禰赤人作歌一首并短歌
(1043)933 天地の とほきがごとく 日月の 長きがごとく (おしてる) 難波の宮に わごおほきみ 國しらすらし みけつ國 日△《ヒビ》のみつぎと 淡路の 野島のあまの (海《ワタ》の底) おきついくりに 鰒珠 さはにかづきで 船なめて 仕奉之《ツカヘマツルシ》 貴見禮者《タフトシミレバ》
天地之遠我如日月之長我如臨照難波乃宮爾和期大王國研知良之御食都國日之御調等淡路乃野島之海子乃海底奥津伊久利二鰒殊左盤爾潜出船並而仕奉之貴見禮者
 國シラスラシにて一段なり○ミケツ國は御饌を奉る國の意なり。その下にノを添へて心得べし。日の下に々をおとしたるならむ○イクリは海石なり(卷二【一八八頁】參照)。イクリニのニはユにかよふニなり。いにしへユとニとを通はし用ひき○結二句を略解にはツカヘマツルガ、タフトキミレバとよみて『國シラスラシへ返して見べし』といへり。案ずるに海人ガ眞珠ヲ獻上スルヲ見レバ天皇ハ遠長ク國シラスラシとはいふべくもあらず。又仕ヘマツルヲ見レバとはいふべく仕ヘマツルガ貴キヲ見(1044)レバとはいふべからず。さればなほ契沖の
  ツカヘマツルシ、タフトシミレバとよみて仕ヘマツルシ見レバタフトシと意得べし。之は助語なり
といへるに從ふべし○この野島は淡路の南端なる今の沼島なりと大日本地名辭書に云へれど下なる山部赤人の歌に淡路ノ野島モスギイナミツマ辛荷ノ島ノ云々とあるを見ればなほ野島ガサキと同處にて淡路の北端なるべし
 
   反歌一首
934 朝なぎにかぢの音《ト》きこゆみけつ國野島のあまの船にしあるらし
朝名寸二梶音所聞三食津國野島乃海子乃船二四有良信
 
   三年丙寅秋九月十五日幸2於播磨國印南野1時笠朝臣金村作歌一首并短歌
935 なきずみの 船瀕《フナセ》ゆみゆる 淡路島 松帆の浦に 朝なぎに 玉藻かりつつ ゆふなぎに 藻塩やきつつ あまをとめ ありとはきけ(1045)ど 見にゆかむ よしのなければ ますらをの こころはなしに たわやめの おもひたわみて たもとほり 吾はぞこふる 船梶をなみ
名寸隅乃船瀬從所見淡路島松帆乃浦爾朝名藝爾玉藻苅管暮菜寸二藻塩燒乍海未通女有跡者雖聞見爾將去餘四能無者大夫之情者梨荷手弱女乃念多和美手徘徊吾者衣戀流船梶雄名三
 續日本紀に
  神龜三年秋九月壬寅(〇二十八日)以2正四位上|六人部《ムトベ》王……等二十七人1爲裝束司1以2從四位下門部王……等一十八人1爲2造頓宮司1。爲v將v幸2播磨國印南野1也○冬十月辛酉(○十七日)行幸○癸亥(○十九日)行還2難波宮1
 日本紀略に
  神龜三年冬十月辛亥(〇七日)行2幸播磨國印南野1○甲寅(○十日)至2印南野(ノ)邑美《オホミ》(ノ)頓宮1○癸亥(○十九日)還至2難波宮1
(1046)とありて共に今の歌の題辭なると合はず○邑美《オホミ》は明石郡なるに紀略の文に印南野(ノ)邑美(ノ)頓宮とあり又續紀の文に
  行宮(ノ)側近(ナル)明石賀古二郡百姓高年七十已上(ニハ)賜v穀各一斛
とあれば印南野は印南郡にとどまらで其東方なる賀古明石二郡に亘りしなり
 ナキスミは契沖久老(播磨下向日記)のいへる如く今の明石郡魚住なり。貞觀九年の官符(類聚三代格)に明石郡魚住船瀬とあるを見れば魚住即ナキスミなる事疑ふべき所なし。魚住は今はウヲズミと唱ふれど、もと魚來住《ナキスミ》など書きしを地名は二字に書くべき制によりて來を省きて魚住と書き初はなほナキスミとよみしを漸く字に從ひてウヲズミといふことゝなれるにこそ○フナセは即泊なり。彼官符に
  則知海路之有2船瀬1猶3陸道之有2逆旅1
といひ又魚住ノ船瀬といへるを受けて件泊といへるを見て船瀬はやがて泊なる事を知るべし。瀬と書けるは借字なり。フナセのセはウマセのセと同じからむ(卷四【六五八頁】參照)○松帆浦は淡路の北端なる松尾崎の沿岸なり○カリツツ、ヤキツツはアリにかゝれり。マスラヲノココロハナシニは丈夫ノ心ヲ失ヒテとなり○タワヤメ(1047)ノは手弱女ノ如クとなり。枕辭にあらず〇オモヒタワムは決行せざるなり。船梶はフネカヂとよむべしフナカヂとはよむべからず。古義にいへる如く船と梶となり。卷三にアソブ船ニハ梶棹モナクテサブシモコグ人ナシニ(三六八頁)又コギケル舟ハ竿梶モナクテサブシモコガムトモヘド(三七一頁)とあり
 
   反歌二首
936 玉藻かるあまをとめども見にゆかむ船梶もがも浪高くとも
玉藻苅海未通女等見爾將去船梶毛欲得浪高友
 第四句を初とし結句より初句へかへして心得べし
 
937 往囘《ユキメグリ》見ともあかめやなき隅の船瀬《フナセ》の濱にしきるしらなみ
往囘雖見將飽八名寸隅乃船瀬之濱爾四寸流思良名美
 初句は略解にユキメグリとよめるに從ふべし。舊訓にはユキカヘリとよみたれど下に往還常ニ我見シ香椎潟云々とあると意ひとしからず。シキルはくりかへし打寄するなり
 
(1048)   山部宿禰赤人作歌一首并短歌
938 (やすみしし) わがおほきみの かむながら 高しらせる 稻見野の 大海《オホミ》の原の (あらたへの) 藤井〔左△〕《フヂエ》の浦に しびつると あま船|散動《ミダレ》 塩やくと 人ぞさはなる 浦をよみ うべも釣はす 濱をよみ うべも塩やく ありがよひ 御覧《メサク》もしるし 清《キヨキ・キヨミ》白濱
八隅知之吾大王乃神隨高所知流稻見野能大海乃原※[竹/矢]荒妙藤井乃浦爾鮪釣等海人船散動塩燒等人曽左波爾有浦乎吉美宇倍毛釣者爲濱乎吉美諾毛塩燒蟻往來御覧母知師清白濱
 大海は三註共にオホウミとよめり。雅澄いはく
  大海乃原は地名にあらず。ただ海原をいへるなり
と。案ずるに大海はオホミとよむべくそのオホミは地名にて即日本紀畧に見えたる邑美《オホミ》なり○藤井は藤江の誤なる事略解に云へる如し。反歌にも藤江乃浦とあり○散動は舊訓にミダレ、略解古義にサワギとよめり。上なる足引ノ山ニモ野ニモと(1049)いふ歌の散動とひとしくミダレとよむべし○御覧は古義にメサクとよめるに從ふべし。ミルの敬語メス、それを延べてメサクといへるにてメサクモシルシは見給フコトモ宜ナリとなり○清白濱は又キヨミシラハマともよむべし(卷一はやみ濱風及卷二きよみ原參照)○白濱は白砂の濱なり。古義に『白浪のいちじるくよする濱を云』といへるは非なり
 
   反歌三首
939 おきつ浪へなみしづけみいざりすと藤江の浦に船ぞ動流《トヨメル》
奥浪邊浪安美射去爲登藤江乃浦爾船曾動流
 動流は舊訓にトヨメル、略解古義にサワゲルとよめり。卷三なる淺野ノキギシアケヌトシ立|動《トヨム》ラシ(四八二頁)の例によりてトヨメルとよむべし
 
940 いなみ野の淺茅おしなべさぬる夜の氣長在者《ケナガクアレバ》家ししぬばゆ
不欲見野乃淺茅押靡左宿夜之氣長在者家之小篠生
 卷一(七三頁)にもハタススキ、シヌヲオシナベとあり。オシナベは押伏《オシフセ》なり○氣長在(1050)者を略解古義に六帖に從ひてケナガクシ〔右△〕アレバとよめれどシといふ助辭結句なると重なれば舊訓の如くケナガクアレバとよむべし。ケナガクアレバは日數ツモレバとなり○續日本紀によれば行幸は十七日、還幸は十九日にて此歌にケナガクアレバとあると合はず。されば日本紀畧に從ひて七日の行幸とすべし。續紀には辛亥を辛酉と誤れるならむ
 
941 あかしがた潮干の道をあすよりは下咲異〔左△〕六《シタエミユカム》家ちかづけば
明方潮干乃道乎從明日者下咲異六家近附者
 下咲異六を契沖はシタヱマシケムとよみ略解古義共に之に從へり。さるはシタヱマシカラムの意とせるなり。されど然よみてはシホヒノミチヲのをさまる處なし。おそらくは異は往などの誤にてシタヱミユカムなるべし。シタヱムは心にゑむなり
 
   過2辛荷島1時山部宿禰赤人作歌一首并短歌
942 (あぢさはふ) 妹が目|不數見而《カレテ》 「しきたへの) 枕もまかず かにはまき 作れる舟に 眞梶ぬき わがこぎくれば 淡路の 野島もすぎ いなみつま △辛荷の島の 島のまゆ 吾宅《ワギヘ》をみれば 青山の そことも見えず 白雲〔左△〕《シラナミ》も 千重になりきぬ こぎたむる 浦のことごと 往隱る 島の埼々 くまもおちず おもひぞわがくる たびのけながみ
味澤相妹目不數見而數〔左△〕細乃枕毛不卷櫻皮纏作流舟二眞梶貫吾榜來者淡路乃野島毛過伊奈美嬬辛荷乃島之島際從吾宅乎見者青山乃曾許十方不見白雲毛千重爾成來沼許伎多武流浦乃盡往隱島乃埼埼隅毛不置憶曾吾來客乃氣長彌
 辛荷島は播磨風土記|揖保《イボ》郡の條に見えたる韓荷島なり。室津附近の海中にありて今もカラニジマと云ひて三小島より成れり○不數見而を宣長はカレテとよみ千蔭は數を衍字としてミズテとよめり。宣長の訓に從ふべし○カニハはハハカ一名カニハザクラ一名カバザクラの皮なり。くはしくは記傳卷八(全集第一の四五三頁)(1052)伴信友の正卜考卷二(全集第二の五一六頁以下)を見て知るべし。記傳にカニバと濁れるはわろし。カニワと唱ふべし。さて其カニハは舟のいづくにまきしにか古制さだかに知るべからねどおそらくは船底にまきて腐蝕を防ぎしなるべし○伊奈美嬬《イナミツマ》は今の高砂なり。くはしく卷四(六三八頁)にいへり。イナミツマ辛荷ノ島ノとつづける事不審なり。兩處はいたく相離れたればなり。おそらくはイナミツマの次に二句おちたるにぞあらむ○ワギヘは大和國なる故郷なり。青山ノソコトモミエズは遙ニ連ナリテ見ユル青山ノウチノイヅクトモ知ラレズとなり。略解に『淡路島を西へ過れば古郷の山も見えぬをいふ』といひてアヲ山ガの意としたるは非なり○白雲は白浪の誤か○コギタムルはコギメグルなり。但オキツ島コギタム舟ハ、武庫ノ浦ヲコギタム小舟などいへる例によればこゝもコギタム、浦ノコトゴトとありて然るべきなり。四段にも上二段にもはたらきしにや○ケナガミは日數ノ久シサニなり。此歌は西下の時の作なり
 
   反歌三首
943 玉藻かる辛荷の島に島囘《シマミ》する水烏《ウ》にしもあれや家もはざらむ
(1053)玉藻苅辛荷乃島爾島囘爲流水烏二四毛有哉家不念有六
 島囘を舊訓にアサリとよめるを古義に
  シマミスルとよむべし。島めぐりして食を求るを云なり
といへり。卷三(四五七頁)なるオホキミノミコトカシコミ礒廻スルカモも舊訓にはアサリとよめるを久老はイソミに改めたり。今は之に倣ひてシマミとよめるなり。此訓に從ふべし○アレヤにつきてまぎらはしき所あればすこし云ふべし。契沖は『アノ如クノモノニナリテアラバ』と譯して『アレヤは願の詞にはあらず』といへり。もし譯の如き意ならばアラバヤとあるべし。卷七にクレナヰニ衣ソメマクホシケドモ著テニホハバヤ人ノ知ルベキとあるを思ふべし。略解古義は共にアレカシの意とし古義には同例として卷七なるイハ倉ノ小野ユ秋津ニタチワタル雲ニシモアレヤ時ヲシ待タムといふ歌を擧げたり。案ずるに卷三(五二〇頁)なる河風ノサムキ長谷《ハツセ》ヲナゲキツツ君ガアルクニ似ル人モ逢耶《アヘヤ》とある、これもアヘカシの意なれば今のアレヤと同格なり。之に反して卷一(四二頁)ウチソヲ、ヲミノオホキミアマ有哉《ナレヤ》イラゴガ島ノタマ藻カリマス、同(五三頁)イニシヘノ人ニ我|有哉《アレヤ》ササナミノフル(1054)キ都ヲミレバカナシモこれらは海人ナラメヤ否海人ナラヌニ、イニシヘノ人ニアラメヤ否古ノ人ニアラヌニといふ意にて今のアレヤとは異なり
 
944 島がくりわがこぎくればともしかもやまとへのぼる眞熊野の船
島隱吾※[手偏+旁]來者乏※[毛三つ]倭邊上眞熊野之船
 島ガクリは島ニカクレテにて畢竟シマ陰ヲといふ意なり。古義に『海の沖遠く行て陸の方より見えずなるをいへり』といへるは非なり○こゝのトモシはウラヤマシなり。さてトモシキカモといはでトモシカモといへるは古格にて卷三(四二二頁)にコゴシカモ、五卷(八四七頁)にクヤシカモとあると同例なり○ヤマトヘは大和ノ方ヘなり。マクマヌノ船は熊野式の船なり。下にもミケツ國志摩ノアマナラシ眞熊野ノ小船ニノリテ沖ベコグミユとあり。又釋日本紀に引ける伊豫風土記逸文に野間郡熊野峯所v名2熊野1由者昔時熊野|止《ト》云船(ヲ)設v此(ニ)云々とあり
 
945 風ふけば浪かたたむと伺候《サモラヒ》につたの細江に浦がくりをり
風吹者浪可將立跡伺候爾都多乃細江爾浦隱往〔左△〕
(1055) 第三句は古義にサモラヒニとよめり之に從ふべし。サモラフベクの意にてそのサモラフはウカガフなり○ウラガクリは浦ニ隱レテなり○ツタノ細江は今の飾磨のあたりなり。今飾磨の西に津田村あり。又飾磨の内に細江町あり○飾磨は辛荷島より東にあれば歌の順序はたがへり○徃は諸本に居とあり
 
   過2敏馬浦1時山部宿禰赤人作歌一首并短歌
946 (みけむかふ) 淡路の島に ただむかふ みぬめの浦の おきべには 深みる採《ツミ》 浦囘《ウラミ》には なのりそ苅《カル》 (ふかみるの) 見まくほしけど (なのりその) おのが名をしみ 間使《マヅカヒ》も やらずて吾は 生友《イケリトモ》なし
御食向淡路乃島二直向三犬女乃浦能奥部庭深海松採浦囘庭名告藻苅深見流乃見卷欲跡莫告藻之己名惜三間使裳不遣而吾者生友奈重二
 三犬女《ミヌメ》は攝津國西灘村附近なり。タダムカフはタダニ向ヘルなり○採は舊訓にツミとよめるに從ふべし。苅は略解に從ひてカルとよみて句とすべし○オノガ名ヲシミは未練ト云ハレムガ口ヲシサニとなり○マヅカヒは契沖
(1056) 使は此方彼方の間〔日が月〕にかよふものなれば間〔日が月〕使といへり
と云へり○生友は舊訓にイケリトモとよめるを古義にイケル〔右△〕トモにかへたり。こは宣長の説によれるなれどなほイケリトモとよむべし(卷二【三〇五頁】參照)
 
   反歌一首
947 すまのあまの鹽やきぎぬのなれなばか一日も君を忘れておもはむ
爲間乃海人之鹽燒衣乃奈禮名者香一日母君乎忘而將念
     右作歌年月未v詳也。但以v類故載2於此次1
 初二はナレの序。ナレナバカのカは結句の下へまはして心得べし。ワスレテオモハムはただワスレムといふに同じ(卷一【一〇九頁】ワスレテオモヘヤ、卷二【二八八頁】スギムトモヘヤ參照)。さて一日モ忘レズとはいへど一日モ忘レムとは常云はざる所なり。案ずるにこのモはダニの意とすべし。即
  モシ離隔ニ馴レナバ一日ダニ君ヲ忘ルルコトアラム。今ハナホ一日ダニ君ヲ忘レズ
(1057)といへるなり。略解に『近く居て馴たらば』といひ古義に『君に近く向居て馴たらば』といへるは非なり
 
   四年丁卯春正月勅2諸王諸臣子等1散2禁於授刀寮1時作歌一首并短歌
948 (眞葛はふ) 春日の山は (うちなびく) 春さりゆくと 山(ノ)上に 霞たなびき 高圓に 鶯なきぬ もののふの 八十とものをは 折木四哭之《カリガネノ》 來繼皆〔左△〕《キツグコノゴロ》 石〔左△〕此續《コノゴロヲ》 常にありせば 友なめて 遊ばむものを 馬なめて ゆかまし里を まちがてに わがせし春を かけまくも あやに恐《カシコク》 いはまくも ゆゆしからむと あらかじめ かねて知りせば 千鳥なく 其佐保川に いそにおふる 菅の根とりて (しぬぶ草) 解除《ハラヒ》てましを ゆく水に みそぎてましを おほきみの みことかしこみ (ももしきの) 大宮人の (玉桙の) 道にもいでず こふるこのごろ
(1058)眞葛延春日之山者打靡春去住〔左△〕跡山上丹霞田名引高圓爾鶯鳴沼物部乃八十友能壯者折木四哭之來繼皆石此續常丹有脊者友名目而遊物尾馬名目而往益里乎待難丹吾爲春乎決卷毛綾爾恐言卷毛湯湯敷有跡豫兼而知者千鳥鳴其佐保川丹石二生菅根取而之努布草解除而益乎往水丹潔而益乎天皇之御命恐百礒城之大宮人之玉桙之道毛不出戀比日
 授刀寮は後の近衛府にて散禁は今いふ禁足なり。くはしく代匠記にいへり。就いて見るべし。左註によれば諸王諸臣禁中を空しうして春日野に遊びしによりて罪を蒙りしなり
 春サリユクトは春來ルトテなり。高圓は高圓《タカマト》の野なり○折木四哭之は契沖はやくカリガネノとよみたれど何故にかくは書けるかといふ事を明らめしは喜多村信節なり。狩谷望之の箋註倭名類聚抄卷二(九九丁)樗蒲の註に
  皇國所v爲樗〔手偏〕蒲〔さんずいが手偏〕雖v不v能v得2其詳1然其釆蓋用2四木1。故萬葉集折木四〔三字傍点〕、切木四〔三字傍点〕並訓2加里1。借2樗〔手偏〕蒲〔さんずいが手偏〕1爲v雁也、又三伏一向〔四字傍点〕訓2郡久1一伏三向〔四字傍点〕訓2古路1一伏三起訓2多米1。當d是所2擲得1之采(1059)名u。猶2廬白雉犢之稱1(○蘆白雉犢は皆五木の采名)其數以2三一1。亦可v證v用2四木1也。喜多村氏節信曰樗〔手偏〕蒲〔さんずいが手偏〕用2四子1一面白一面黒。其白者畫v雉二、不v畫二。黒者畫v犢二、不v畫二。以v之反復互換則九變而止。故又名2九采1……
 節信の萬葉集折木四考は未見ることを得ず。北愼言の梅園日記卷三に
  考ふるに折木四、切木四みな前條にいへる五木の類にて(〇五木とは一面黒く一面白き五枚の木片にてものする博奕なり)四木にてなす戲れ也【折字又切字を加へたるは長木ならぬをいへるなり】……さて四木をカリの假字に用ひたるは和名抄雜藝具に陸詞云※[木+梟]【音軒加利】※[木+梟]子(ハ)樗蒲采名也、又雜藝類に樗蒲和名加利宇知とあり。五木は廬(○采名)を貴采としたれども四木は※[木+梟]を貴采とせしなるべし。※[木+梟]をうちたるを勝とすれば樗蒲の名とせしにや。又萬葉十卷の三伏一向をツクとよませ十三卷の一伏三向をコロとよませたるも皆此四木の采の名なるべし
 木村正辭博士の美夫君志卷二別記附録に
  此折木四また切木四とかける事は先哲の説すべてひがごとのみにていかなる意とも知がたかりしを近きころ北村節信といへる人の考にて其義いと明かに(1060)なりたり。但其説いと長ければ今其意を採り約略してこゝにあぐ。和名抄雜藝部に兼名苑云樗蒲一名九釆【内典云樗蒲賀利宇智】又陸詞曰※[木+梟]【音軒和名加利】※[木+梟]子樗蒲釆名也とあるこれにて折木四は即樗蒲子の事にて其は小木を薄く削て兩邊を尖らしめて其形杏仁をそぎたるが如し。その半面は白く半面は黒く塗て白きかた二に雉を畫、黒き方二に犢を書てこれを投じて其釆色によりて勝負をなすなり。但西土にてはこれを五木といひて其釆五子なれども皇國にては四子を用ゐるなり。……かかれば折木四は樗蒲子の事にて加利の假字としたるなり
 正辭云。此説は實に千古の發明にてうごくまじき考なり¢Rるを北靜廬が梅園日記に自らの説として載たるはいとをこなる事なり。又按に樗蒲を加利といふは梵語なるべし。此戲はもと西域より傳しなれば其語をもて云ならへるならむ。其は飜譯名義集卷三帝王篇に歌利、西域記云羯利王、唐言2闘諍1、舊云2歌利1訛也とある是也。樗蒲の互に勝敗を諍ふは即闘諍するに同じければ加利とは呼べるなるべし
といへり。所詮いにしへ西土の五木に倣ひてものせし四木といふ戲ありてその釆(1061)(四枚の木片より成れり)をカリといふが故に戲れて雁《カリ》に切木四又は折木四の文字を當てたるなり(切レル木|四《ヨツ》又は折レル木|四《ヨツ》それ即|釆《カリ》なれば雁の借字としたるなり)
 按ずるに投子(博子ともいふ)をも釆といひ釆色(博打《バクチ》の目に當るもの)をも釆と云ひしにて和名抄に※[木+梟]子(ハ)樗蒲(ノ)釆(ノ)名也とあるは雜藝具〔右△〕に出で又※[木+梟]子〔右△〕とあれば投子をいへるなり。梅園日記に『四木は※[木+梟]を貴釆とせしなるべし。※[木+梟]をうちたるを勝とすれば樗蒲の名とせしにや』といひて※[木+梟]を釆色の名としたるは誤れり。又カリは投子の名にて樗蒲の名にあらざれば(樗蒲はカリウチといふ)木村博士の闘諍の梵語なりといふ説はかたがた信じ難し
 因にいふ。喜多村|信節《ノブヨ》一名を節信《セツシン》といふ。そは人の贈れる銅印に誤りて信節を顛倒したりしかば改め鋳させむも煩はしとてやがて一名とせしなり
さてカリガネに折木四哭と書けるはネに哭を當てガは添へてよませたるなり(契沖は哭之を之哭の顛倒とせり。果して然らばガネに之哭を當てノは添へてよませたるなり)○求繼皆石此續は眞淵は上の之の字を此句に附けて
(1062)  皆は春の誤にて之來繼春〔右△〕石五字をシキツギハルシとよむべし。さらばカリガネノはシキツギといはん枕詞とせん。意は春ノ及次《シキツギ》ツツ在物ナラバといふならん
といひ千蔭は
  皆は比日二字を一字に誤、石は如の誤にて來繼比日はキツギコノゴロと訓、如此續はカクツギテとよむべし。宣長の考も符合せり。さて意は宣長のいへる如く雁ガネノは來ツギといはん序にてキツギは春ノ來ツギテ此比ノゴトクカクツヅキテ常ニ春ナリセバといふ也
といひ美夫君志卷二別記附録には
  皆は留字、石は如字の誤りにて來繼留如此續《キツゲルゴトクココニツギ》なるべし(雁ノ來ツギ群レル如ク友ナメテイツモイツモ此所ニ遊バムモノヲ也)
といへり。案ずるに皆は比日の誤、石は如の誤なること略解にいへる如し。但訓は
  折木四哭之來繼比日如此續《カリガネノキツグコノゴロコノゴロヲ》
とあるべし。余が如此續の三字を意を待てコノゴロヲとよみしは守部の鐘の響(八五丁)に本集卷二なるミモロノ神ノ神スギ已具耳矣自云々の已具耳矣をスギシと(1063)よめるによりて思附きしなり。更に案ずるに如此續はこのまゝにても通ぜざるにあらねど續は或は讀の誤なるべし。カリガネノを宣長千蔭は枕辭としたれど枕辭にあらず。カリガネガ來ツグといへるにてその來つぐかりがねは即歸雁なり(卷五なる梅花歌(ノ)序は正月十三日に書けるものなるにその中に空歸2故雁1とあれば時候かなはずといふ難は起らじ)。以上再案によれば
  折木四哭之來繼比日如此讀《カリガネノキツグコノゴロコノゴロヲ》つねにありせば
とよむべくコノゴロヲのヲはツギテゾコフルコノ年ゴロヲなどの如く時の下に附くるヲなり○ユカマシ里ヲにて一段なり。里ヲは里ナルニなり。マシは下へつづけても用ふること卷三(五七二頁)にいへる如し。以上一段の意は
  春ニナリヌトテ春日山ノ山ベニ霞タチ麓ノ野ニ鶯啼クナリ。歸雁サへ來ツグ此頃ナレバ若禁足ノ罸ヲ蒙ラズバ我等宮人ハ友ヲサソヒ馬ヲ駢べテ野山ニ里ニ遊ビ行カムヲ
といへるなり
 春ヲは春ナルニにて十四句を隔てゝオホキミノミコトカシコミにかゝれるなり(1064)〇恐は略解古義にカシコシとよめれど、なほ舊訓にカシコクとよめるに從ふべし。カケマクモアヤニカシコクとイハマクモユユシとは同意にて散禁の罸を蒙るをいふ○千鳥ナクは准枕辭○略解に『シヌブ草はこゝは草にあらず。種《クサ》なり』といひ古義に『草は種なり。春野をしのぶ思ひ種《グサ》の意なり』といひて共にシヌブグサを補語としたれど、はらふべきものは禍なればシヌブグサは補語と見るべからず。否枕辭と見ざれば前後の意通ぜず。但いかにかゝれる枕にか未考へず○解除を略解にハラへとよめれど古義の如くハラヒとよむべし。記傳卷六(全集第一の三二八頁)にハラヒと云とハラヘと云と後にはまぎれて一に心得めれど本は別なり。ハラヒは自するをいひハラヘは令祓《ハラハセ》のつづまりたる言にて人にせしむるを云。罪咎ある人に負する祓《ハラヘ》など是なり
とあり○以上一段の意は
 カク畏クユユシキ仰ヲ豪ラムトカネテ知リナバハヤク罪ヲハラヒ穢ヲススギテムヲ悔シクモシカセズシテアタラ待兼ネシ春ナルニ天皇ノ仰ヲ畏ミテ外ニモ出デズ此授刀寮ニコモリテ徒ニ春ニ戀フル此頃カナ
(1065)といへるなり○住は徃を誤り官は宮を誤れるなり
 
   反歌一首
949 梅柳すぐらくをしみ佐保の内にあそびし事を宮もとどろに
梅柳過良久惜佐保乃内爾遊事乎宮動々爾
    右神龜四年正月數王子及諸臣子等集2於春日野1而作2打毬之樂1。其日忽天陰雨雷電。此時宮中無2侍從及侍衛1。 勅行2刑罸1、皆散禁於授刀寮1、而妄不v得v出2道路1。于v時悒憤即作2斯歌1 作者不詳
 サホノウチは佐保の郷内なり。コトヲはコトナルニなり。宮モトドロニの下にイヒサワガルルなどを略したり○此長歌并短歌にはアソバムモノヲ、ユカマシ里ヲ、ワガセシ春ヲ、ハラヒテマシヲ、ミソギテマシヲ、アソビシ事ヲなどナルヲのヲを多くつかひたり。作者の口ぐせなるべし
 
   五年戊辰幸2于難波宮1△作歌四首
950 おほきみのさかひたまふと山守すゑもる【ちと】ふ山に入らずばやまじ
(1066)大王之界賜跡山守居守云山爾不入者不止
 此行幸の事史に見えず○サカヒは古義にいへる如く用言につかひたるなり。略解に『是は親の守る女などを戀る譬喩歌也』といへる如し○宮の下に時の字を補ふべし
 
951 見渡せば近きものからいそがくりかがよふ珠をとらずばやまじ
見渡者近物可良石隱加我欲布珠乎不取不己
 チカキモノカラはイソガクリにかゝれり。イソガクリはイソガクルといふ用言のはたらけるにて礒ニ隱レテといふ意なり。モノカラはモノナルヲなり○近くて逢がたき妹に譬たりと略解にいへる如し
 
952 (からごろも、き)ならの里の島〔左△〕待《キミマツ》に玉をしつけむ好人〔左△〕欲得《ヨキタマモガモ》
韓衣服楢乃里之島待爾玉乎師付牟好人欲得
 カラゴロモ著までが枕なり。著馴といひかけたるなり○待は松の借字とおぼゆ。宣長は
(1067)  此卷の下吾宿ノ君松ノ樹ニとよめればこゝも島は君の誤にて好は取の誤ならん。……結句トランヒトモガとよむべし
といへり。君ヲ待ツを松にいひかけたるなり。君(ノ)字を島と誤れる例は卷三(三七七頁)にもあり。好人欲得の人を玉の誤としてヨキタマモガモとよむべし。女の歌なり
 
953 さをしかのなくなる山をこえゆかむ日だにや君《キミハ》はたあはざらむ
竿牡鹿之鳴奈流山乎越將去日谷八君當不相將有
    右笠朝臣金村之歌中出也。或云。車持朝臣千年作之也
 三註共に君にニをよみそへたり。案ずるに君ハとよむべし。こは秋の頃旅だつとてよめるにて
  鹿ノ妻ニ戀ヒテ鳴クナル山ヲ越行カム今日ダニ逢ヒタシト思フニヤハリ又君ハ逢ハザラムカ
といへるなり○以上四首行幸の御供にてよめるやうにはおばえず
 
   膳《カシハデ》(ノ)王歌一首
954 あしたには海邊《ウナビ》にあさりしゆふされば倭へこゆる雁しともしも
(1068)朝波海邊爾安左里爲暮去者倭部越鴈四乏母
    右作歌之年不審也。但以2歌類1便《スナハチ》載2此次1
 海邊を舊訓にウナビとよめり。然るに古義に
  十八に宇美邊ヨリムカヘモコヌカ、書紀竟宴歌にササナミノヨスル宇美倍ニ、古今土左にもウミベとよめり。十四にナツソヒク宇奈比ヲサシテとよめるは地名ならむ。山ビ河ビ岡ビ濱ビの例によらばウミビとこそいはめ。河ノビ。山ノビなど云はざるを見ればウナビとはいふべからず(○採要)
といへり。地名のウナビも元來海邊といふ義なればなほ古くはウナビとよむべし(彼カムナビも神之邊の義なるべし)。さて其海邊は旅先の海邊なり。トモシは羨シなり
 
   太宰少武石川朝臣|足人《タリヒト》歌一首
955 (さす竹の)大宮人の家とすむ佐保の山をば思ふやも君
刺竹之大宮人乃家跡住佐保能山乎者思哉毛君
(1069) 筑紫にて帥大伴旅人に贈りしなり。大宮人といへるは一般的なり。旅人の家も佐保山にありしなり。やがて卷三なる大伴坂上郎女悲2嘆尼理願死去1作歌(五五八頁)にウチヒサス都シミミニ。里家ハサハニアレドモ、イカサマニ思ヒケメカモ、ツレモナキ佐保ノ山邊ニ、ナク子ナス慕ヒ來マシテ云々といへる家なり
 
   帥大伴卿和歌一首
956 (やすみしし)わがおほきみのをす國は日本《ヤマト》もここも同じとぞおもふ
八隅知之吾大王乃御食國者日本毛此間毛同登曾念
 ヲスはシロシメスなり。第三句はシロシメス國ノ内ナレバといふ意なるべけれど辭足らず。日本は大和の借字なり。同の字を古義にオヤジとよめり。オヤジは古けれどオナジも集中に例あり(たとへば卷十八に月ミレバ於奈自クニナリとあり)
 
   冬十一月太宰官人等奉2拜香椎※[まだれ+苗]1訖退歸之時馬(ヲ)駐2于香椎浦1各述v懷作歌
    帥大伴卿歌一首
(1070)957 いざ兒ども香椎のかたにしろたへの袖さへぬれて朝菜つみてむ
去來兒等香椎乃滷爾白妙之袖左倍所沾而朝菜採手六
 略解に『子ドモは從者をさす。朝菜は朝食の料に礒菜つむ也。干潟にて裾ぬるゝをもととして袖サヘとはいへり』と云へる如し。カタニは滷ニテなり
 
     大武小野(ノ)老(ノ)朝臣歌一首
958 時つ風ふくべくなりぬかしひ潟潮干のうらに玉藻かりてな
時風應吹成奴香椎滷潮干※[さんずい+内]爾玉藻苅而名
 トキツ風は潮のさしくる時に吹く風をいふ(卷二【三一七頁】參照)。二三の間にシホノサシコヌ間ニといふことを補ひてきくべし○※[さんずい+内]《ゼイ》は文選海賦に沙※[さんずい+内]とあり
 
     豐前守宇努(ノ)首《オビト》男人《ヲヒト》歌一首
959 ゆきかへり常にわが見し香椎がたあすゆ後には見むよしもなし
往還常爾我見之香椎滴從明日後爾波見縁母奈思
 代匠記に『此男人は當年任の限はてけるなるべし』といへり。豐前ノ國府ヨリ太宰府(1071)ニ通フトテ常ニ見シ香椎潟ヲ云々といへるなり。古義に『いくたびも往かへり往かへりしつゝ見れども見あかずしておもしろき香椎潟なるを明日よりは任國にかへりゆきて後は見べき縁も無し云々』と釋したるは非なり。ユキカヘルは往クトテ還ルトテなり。上(一〇四七頁)なるユキメグリとは齊しからず
 
   帥大伴卿遙思2芳野離宮1作歌一首
960 隼人《ハヤビト》のせとのいはほも年魚はしる芳野の瀧になほしかずけり
隼人乃湍門乃盤母年魚走芳野之瀧爾尚不及家里
 隼人ノ瀬戸ノ巖ノオモシロサモ云々の意なり。隼人は國名なり。此瀬戸の事は卷三(三五八頁)にいへるを見よ○盤の字、諸本に磐とあり。但古書に盤を磐に通用せり
 
   帥大伴卿宿2次田《スキタ》(ノ)温泉《ユ》1聞2鶴(ノ)喧《ナクヲ》1作歌一首
961 湯の原になくあしたづはわがごとく妹にこふれや時わかずなく
湯原爾鳴蘆多頭者如吾味爾戀哉時不定鳴
 スキ田の湯は後にスイダの湯といひ今武藏の湯といふ。今の筑紫郡二日市村にあ(1072)り。天拜山の麓にありて太宰府より遠からず。湯の原は此温泉あるによりて名を得たるなり○此年旅人其妻を失ひき(卷五【八三九頁】參照)。故にワガゴトク妹ニコフレヤ時ワカズナクといへるなり
 
   天平二年庚午勅遣d擢《ヌク》2駿馬1使大伴|道足《チタリ》宿禰u時歌一首
962 奥山のいはにこけむしかしこくも問ひたまふかも念ひあへなくに
奥山之盤〔左△〕爾蘿生恐毛問賜鴨念不堪國
    右勅使大伴道足宿禰(ヲ)饗2于帥家1。此日會集(ノ)衆諸相2誘驛使|葛井《フヂヰ》(ノ)連廣成1言。須v作2歌詞1。登時《ソノトキ》廣成應v聲即吟2此歌1
 初二はカシコシの序なり。第三句以下の意はマダ歌ヲ思敢ヘヌニ歌ハイカニト畏クモ問ヒ給フカナとなり○登時はいにしへ支那に行はれし俗語にて即時、當時などの意なり
 
   冬十一月大伴(ノ)坂上《サカノヘ》(ノ)郎女發2帥家1上v道超2筑前國|宗形《ムナガタ》郡名兒山1之時作歌一首
(1073)963 おほなむち 少彦名の 神こそは 名づけそめけめ 名のみを 名兒山とおひて 吾戀の 千重の一重も なぐさ末〔左△〕《メ》なくに
大汝小彦名能神祀者名著始鶏目名耳乎名兒山跡負而吾戀之千重之一重裳奈具佐末七國
 宗形郡は通本に宗形部とあり。契沖は『官本に部を郡に改たり。此に依るべし』といへり。然るに訓義辨證下卷(二頁)には
  元本(○元暦校本)に郡字を部とかける事多くまた他の古書にも郡を部とかける事これかれあればもとのまゝにて有べき也。續日本紀卷三十二に信濃國水内部〔右△〕人……續日本後紀卷二に越後國蒲原郡〔右△〕伊夜比古(ノ)神預(ラシム)2之名神1以d彼部〔右△〕毎v有2早疫1致v雨救uv病也などある部の字即郡の意なり。零本丹後風土記にも郡を部とかけるがあり。また類聚名義抄に部コホリとあり。これ中世部をコホリと訓たる證なり
といへれどこれのみにてはコホリに部の字をも書きしといふ證は未十分ならず。諸本にも郡とあり
(1074) 名兒山は勝浦より田島へこゆる山なりといふ○卷二(二九四頁)に吾戀《ワガコフル》チヘノヒトヘモナグサムルココロモアリヤト、卷四(六三四頁)に吾戀流千重ノヒトヘモナグサモルココロモアリヤトとあり○末の字一本に米とありといふ。雅澄は之に從ひてナグサメ〔右△〕ナクニとよめり。訓義辨證上卷(三四頁)には
  今本に末とあるは誤也。未と改むべし。未にメの音のあることは上聲の尾(ノ)字にメの音のあるをもて知べし
といへり。いづれにしもナグサメ〔右△〕ナクニとよむべし。ナクニはヌカナといはむに近し○卷七に名草山コトニシアリケリ吾戀《ワガコフル》チヘノヒトヘモナグサ目ナクニとあるは今とよく相似たり
 
   同坂上郎女向v京海路見2濱(ノ)貝1作歌一首
964 わがせこにこふればくるし暇あらば拾ひてゆかむ戀わすれ貝
吾背子爾戀者苦暇有者捨〔左△〕而將去戀忘貝
 兄旅人をしたひてよめるなるべし(卷四【八一〇頁】參照)○捨は拾の誤なり
 
(1075)  冬十二月太宰帥大伴卿上v京時娘子作歌二首
965 おほならばかもかもせむをかしこみとふりたき袖をしぬびてあるかも
凡有者左毛右毛將爲乎恐跡振痛袖乎忍而有香聞
 初二は貴人ナラヌ尋常ノ人ナラバカウモアアモセンヲとなり。カシコミトのトは除きて心得べし○作者は遊女なり
 
966 やまとぢは雲がくりたり然れどもわがふる袖をなめしともふな
倭道者雲隱有雖然余振袖乎無礼登母布奈
    右太宰帥大伴卿兼〔右△〕2任大納言1向v京上v道。此日馬(ヲ)駐2水城1顧望府家1。于v時送v卿府吏之中有遊行女婦1。其字曰2兒島1也。於v是娘子傷2此易1v別嘆2彼難1v会拭v涕自吟2振v袖之歌1
 大和へ上ル道ハ雲ニ隱レテ君ノ一行ハ見エズナリヌ、サレド我ハナホ袖ヲゾ振ル、ソヲナメシト思ヒタマフナといふ意なるべし。無論まだ別れぬさきに取越してよ(1076)めるなり○左註の兼任は遷任の誤か。府家は太宰府の屋舍なり
 
   大納言大伴卿和歌二首
967 やまとぢの吉備の兒島を過ぎてゆかば筑紫の子島おもほえむかも
日本道乃吉備乃兒島乎過而行者筑紫乃子島所念香裳
 ツクシノ子島は即遊行女婦兒島なり。オモホエムはシノバレムなり。上(一〇三二頁)にいへり
 
968 ますらをとおもへる吾や(水茎の)水城《ミヅキ》のうへになみだのごはむ
大夫跡念在吾哉水茎之水城之上爾泣將拭
 ミヅグキノは枕辭なり(玉勝間卷一參照)○略解古義に『ミヅキのウヘは水城ノホトリといふが如し』といへり。案ずるに天智天皇紀に於2筑紫1築2大堤1貯v水名曰2水城1とありて水城といふはやがて大きなる堤にて其大堤ノ上ニテといへるなり。贈歌の左註に馬(ヲ)駐2水城1顧望府家1とあるも堤の上より顧みしたるさまなり
 
   三年辛未大納言大伴卿在2寧樂(ノ)家1思2故郷1歌二首
(1077)969 しま【らし】くもゆきて見てしがかむなびの淵は淺而《アセニテ》瀬にかなるらむ
須臾去而見牡鹿神名火乃淵者淺而瀬二香成良武
 カムナビといふ處大和國の處々にありて此歌の神名火はいづくのとも分き難きを六人部是香《ムトベヨシカ》の龍田考(三六丁)に
  そもそも神ナビとは神之森といふ言の約りつる言なりと賀茂翁のいはれつるは實に動まじき考にて、いづくの神の森にても然いふべきを大和にて古く三輪と飛鳥と葛城とに其名高かるはいづれもいみじく止事なき社どもなればなるべく後の書にこの龍田に近き神南備の其名高く成るはさばかり歌讀の多かりつる大伴氏の本居《モトヲリ》なりしまゝにおのづから歌にも多くよみいでたるうへ其後は龍田川の名高きに引かれて神ナビも三室も共に其名高くなれるなりけり
といひ又(三八丁)
  卷六大納言大伴卿在2寧樂家1思2故郷1歌にシバラクモユキテミテシガ神名火ノ淵ハアセビテ瀬ニカナルラムとあるを卷八に此旅人卿の孫〔右△〕なる大伴田村大孃が其妹坂上大孃に送れる歌にフルサトノ奈良思ノ岳《ヲカ》ノホトトギスとあるに考へ(1078)合すれば旅人卿までの本居《モトヲリ》は龍田の南なる奈良思(ノ)岡に在し事あきらかなり
といへり(田村大孃を旅人の孫といへるは非なり。宿奈麻呂を舊説の如く旅人の弟としても大孃は旅人の姪なり)○淺而は舊訓にアサビテとよめるを古義に
  淺而はアセニテと訓べし。……三卷に久方ノアマノサグメガイハ船ノハテシ高津ハ淺爾ケルカモ。こゝは淺の下に爾か去かの字など脱しか。又さらずともアセニテなり
といへり
 
970 指進〔二字左△〕乃|栗栖《クルス》の小野のはぎが花ちらむ時にしゆきてたむけむ
指進乃栗栖乃小野之茅〔左△〕花將落時爾之行而手向六
 初句を春滿はサシズミノとよみ雅鐙は村玉乃の寫誤としてムラタマノとよめり(こは卷二十に牟浪他麻之《ムラタマノ》クルニクギサシ云々とあるによれるなり)。代匠記、冠辭考、略解、古義共に枕辭とせり。余の案は後にいふべし○栗栖《クルス》は和名抄に大和國|忍海《オシノミ》郷栗栖とあるによりて略解古義共に忍海郡(今の南葛城郡)としたれど前の歌なる神名火の近傍ならざるべからず。而して神名火は龍田の神南なる事上にいへる如く(1079)なれば栗栖も亦|平群《ヘグリ》郡ならざるべからず○立返りて初句を吟味せむに結句のユキテタムケムと照應せしむるには初句にまづその行かむとする地名を云はざるべからず(栗栖ノ小野ニ行キテといへるにはあらざればなり)。もしその要なしとならば栗栖は類多き地名なれば郷名などを冠らすべくいづれにしても枕辭をおくべき余裕ある處にあらず。もし原字に拘はらで初句を填むべしといふ人あらば余はフルサトノといふべし
  或人此説を聞きていはく。然らば指進乃は振里乃の誤字にあらざるかと。案ずるにフルサトは集中に古郷、故郷などのみ書きたれど卷十一に古リタルを振有と書ける例(現ニモ夢二モ吾ハ思《モ》ハザリキ振有《フリタル》キミニココニアハムトハ)あれば振里と書くまじきにあらず。されどなほ安からざる所あり
 〇一首の意は略解に
  今萩の盛にはとても行事あたはざれば行て手向んころははや散ぬべしといふ也
といひ古義に
(1080)  末句は行て手向むとする頃はちりがたにならなむの意なり         といへり。もしさる意ならばチラム時ニカ〔右△〕とあるべきなり。思ふに萩の花散りなむ頃に故郷に歸らむあらましなりしならむ。然も旅人の薨ぜしは此年七月二十五日(丁未朔辛末)なれば果して志を遂げきや否やおぼつかなし○タムケムは略解に『故郷の神かまたは先租の墓などへ手向せんとなるべし』といひ古義にも『タムケムは土地《ウブスナ》(ノ)神などへ供養《タムケ》むの意にてよまれしなるべし』といへれどこは筑紫にて死別して故郷に還し葬りけむ妻大伴郎女の墓にたむけむと云へるなるべし。タムケムには何ヲといはでは物足らぬこゝちすれど酒ヲといはでただノムといふが如く(卷五【八九六頁】參照)補語を加へずしてただタムクとのみもいひなれしにこそ○茅は芽の誤なり。本集にハギを芽又は芽子と書けり
 
   四年壬申藤原|宇合《ウマカヒ》卿遣2(ルル)西海道節度使1(ニ)之時高橋(ノ)連《ムラジ》蟲麿作歌一首并短歌
971 (白雲の) 龍田の山の 露霜に 色づく時に うちこえて たびゆく(1081)きみは いほへ山 いゆきさくみ (あた守る) 筑紫に至り 山のそき 野のそき見世《ミヨ》と 伴部《トモノベ》を 班《アガチ》つかはし 山彦の こたへむきはみ 谷ぐくの さわたるきはみ 國がたを 見之《メシ》たまひて (冬ごもり) 春さりゆかば (とぶ鳥の) 早御來《ハヤクキマサネ》 龍田ぢの をか邊の路に につつじの にほはむ時の 櫻花 さきなむ時に (山たづの) 迎《ムカヘ》まゐでむ きみが來まさば
白雲乃龍田山乃露霜爾色附時丹打超而客行公者五百隔山伊去割見賊守筑紫爾至山乃曾伎野之衣寸見世常伴部乎班遣之山彦乃將應極谷潜乃狹渡極國方乎見之賜而冬木成春去行者飛鳥乃早御來瀧田道之岳邊乃路爾丹筒士乃將薫時能櫻花將開時爾山多頭能迎參出六公之來益者 續日本紀に
  天平四年八月丁亥正三位膝原朝臣房前ヲ爲2東海東山二道節度使1、從三位多治比眞人縣守爲2山陰道節度使1、從三位藤原朝臣宇合爲2西海道節度使1。道|別《ゴト》(ニ)判官四人、主典(1082)四人、醫師一人、陰陽師一人〇九月丁卯依2諸道節度使請1充《アツ》2驛鈴各二口1○十月辛巳給2節度使(ニ)白銅印1道別(ニ)一面
 懷風藻(群書類從卷百二十二)に正三位式部卿藤原朝臣宇合六首とありて
 五言奉2西海道節度使1之作 往歳東山役、今年西海行、行人一生裏、幾度倦2邊兵1
とあり
 露霜はツユジモと濁りて唱ふべし。ただ露といはむに齊し(卷二【一八三頁】參照)。イユキサクムは又イユキサグクムといふ。イは添辭ユキサクムは行避クのうらにて行通る事なり(卷四【六三八頁】參照)○アタマモルは敵の番をするなり。當時筑紫は外國より攻來る恐ありしによりて常に防備を嚴しくせられしなり○山ノソキ野ノソキは山ノアナタ野ノアナタにて所詮山奥野末なり○見世を舊訓にミヨとよめるを古義にメセに改めたり。宇合《ウマカヒ》が伴(ノ)部に命ぜむさまを叙したるなればミヨにて可なり。トモノベは屬僚なり。ベはワラハベなどのベなり。トモノヲ(部長)に對せる稱なり。班は古義にアガチとよめるに從ふべし。班田をアガチダとよむと同例なり。但カの清濁はなほ考ふべし○山彦ノ云々の四句は山野ノ果マデといふ意なり。國ガタは地形な(1083)り。見之は古義にメシとよめるに從ふべし。春サリユカバは春ガ來ラバとなり○早御來は略解にはハヤクキマサネとよみ古義には御を却の誤としてハヤカヘリコネとよめり。下なる來益者《キマサバ》と照應せるなれば略解の訓に從ふべし○タツ田ヂは卷四(六一七頁)なる淡海路、同卷(六六七頁)なる木路と同例にて龍田の道なり。龍田へ行く道にあらず○丹《ニ》ツツジノニホハム時ノ〔右△〕サクラ花サキナム時ニのノは例のニシテ又など譯して心得べきノなり(卷三【四七〇頁及五〇八頁】參照)○ムカヘマヰデムはムカヘニのニを略したるなり。マヰデムはマウデムなり
 
   反歌一首
972 千萬の軍なりとも言擧せずとりて來ぬべき男《ヲトコ》とぞもふ
千萬乃軍奈利友言擧不爲取而可來男常曾念
    右檢2補任文1八月十七日任2東山山陰西海節度使1
 イクサは兵士なり。コトアゲは心にをさめずして言に擧げていふを云ふ。我ヨク取リテ來ムなどいはむが言擧なり。さればコトアゲセズはダマツテといふことなり。(1084)トルは殺す事なり。説、記傳卷二十三(全集第二の一四一〇頁)にくはし
 
   天皇賜2酒(ヲ)節度使卿等1御歌一首并短歌
973 をすぐにの とほのみかどに 汝等か《イマシラガ・ナムヂラガ》 かくまかりなば たひらけく 吾は遊ばむ 手抱而《タウダキテ》 我はいまさむ 天皇朕《スメラワガ》 うづの御手|以《モチ》 かきなでぞ ねぎたまふ うちなでぞ ねぎたまふ 將還來日《カヘリコムヒ》 あひのまむ酒《キ》ぞ この豐御酒は
食國遠乃御朝庭爾汝等之如是退去者平久吾者將遊手抱而我者將御在天皇朕宇頭乃御手以掻撫曾禰宜賜打撫曾禰宜賜將還來日相飲酒曾此豐御酒者
 天皇は聖武天皇なり○汝等之はイマシラガともナムヂラガともよむべし(古義にはイマシラシ〔右△〕とよめり)○手抱而を契沖はタムダキテとよめり。記傳卷二十四(第二の一四八一頁)に
  抱は書記などにイダクともウダクともムダクとも訓るが中に萬葉十四にカキ(1085)武太伎とあればこれによりてムダキテと訓べしといひ古義卷三(一四〇丁)に
  抱はウダキと訓べし。靈異記に抱【于田伎】と見えたり。十四に武太伎とあるは東語にははやく訛れるなるべし。そもそもウダキといふ言の意は腕纏なり。……今モ土左人はウダキとのみいへり
と云へり。タウダキテとよむべし。さてタウグクは手を拱《コマヌ》く事なり○御身づからイマサム、スメラワガウヅノ御手、ネギタマフなどのたまへるはいともかしこき我邦の手ぶりにて他國には例なき事なり。古義にも
  かく御自の御うへの事を御自詔ふに尊みて詔へること天皇威稜の二なくありがたくかたじけなき事一卷初(〇九丁)に委辨たるが如し
といへり○ウヅは高貴といふ事。カキナデ、ウチナデのカキ、ウチは添辭。ネギは犒らふ事○將還來日は舊訓の如くカヘリコムヒとよむべし(略解にはカヘラム日とよめり)。アヒノマムの上にフタタビといふ語を加へて心得べし。トヨミキは酒をたたへてのたまへるなり      
 
(1086)   反歌一首
974 ますらをのゆくとふ道ぞおほろかに念ひて行くなますらをのとも
大夫之去跡云道曾凡可爾念而行勿大夫之伴
     右御歌者或云太上天皇御製也
 太上天皇は元正天皇なり○初二は大丈夫ナラデハ果シ難シトイフ任ゾとなり。オホロカニは尋常ニなり。かの王事靡※[監のような字]もうるはしくはオホロカナラズとよむべし
 
   中納言安倍廣庭卿歌一首
975 かくしつつあらくをよみぞ(たまきはる)短き命を長くほりする
如是爲菅〔左△〕在久乎好叙靈剋短命乎長欲爲流
 アラクヲヨミはアル事ガヨサニとなり。喜ありし時によめるにこそ○菅は管の誤なり
 
   五年癸酉超2草香山1時神社(ノ)忌寸《イミキ》老麿《オユマロ》作歌二首
976 難波がた潮干のなごりよく見てむ家なる妹がまち問はむため
(1087)難波方潮干乃奈凝委曲見在家妹之待將問多米
 草香山は大和河内國境の山の名なり。なほ下にいふべし○例の海をめづらしむ大和人の情を述べたるなり○ナゴリを普通の説には餘波の意とすめり。げに餘波の意として通ずる處もあれど今の歌又卷七なる
  奈呉の海の朝開のなごり今もかも礒の浦囘《ウラミ》にみだれてあらむ
といふ歌などは餘波の意としては通ぜず。餘波はさばかり見ておもしろきものにあらず又礒ノ浦囘ニミダレテアラムなどいふべきにあらざればなり。守部の鐘の響(一二〇丁)に
  萬葉七ナゴノ海ノアサケノナゴリケフモカモ礒ノウラミニ亂レテアラムまた六、難波ガタ潮干ノナゴリヨク見テム家ナル妹ガマチトハムタメこれらのナゴリは常の餘波のみの上をいふとは聞えぬやうなり。もしは汐干に殘る魚の事をいへるにはあらじか。守部稚きほど伊勢國朝明郡の海邊にしばし在けるに其邊にては汐の干るを待て礒の石間〔日が月〕、洲崎の窪みなどに殘りをる魚を捕にゆくをナゴリヲ拾フといひて何よりたのしきわざとせり。……元眞集にイセノ海ニナ(1088)ゴリヲ拾ヒ〔二字右△〕ワブル海人モ物思フ事ハエシモ増ラジ。かゝれば伊勢の海には殊に其名ありしにこそ。さてこれに合せて思ふに右の歌に礒ノウラミニ亂レテアラム、又潮干ノナゴリヨク見テムなど何とかや其事めきて聞ゆ。もしさらば是は魚殘《ナノコリ》、彼は波殘《ナノコリ》の意なるが唱へのおなじきままに混じたる歟。又ただ浪殘《ナゴリ》と云に魚もこもりて同じことなる歟といひ中島廣足の窓の小篠(中卷廿五丁)には
  ナゴリは風吹あれし海の風やみてもなほ浪のしづまらぬをいふ(餘波と書て今も海邊にはいふことなり)がもとにて其事其物の跡に殘りたるをいふ。……萬葉七ナゴノ海ノアサケノナゴリケフモカモ礒ノウラマニミダレテアルラム、催馬樂風シモフイタレバナゴリシモタテレバ、勢語其夜南ノ風フキテナゴリノ波イトタカシ、元眞集イセノ海ニナゴリヲタカミ〔三字右△〕ワブルアマモ物オモフ事ハエシモマサラジ(○此歌の第二句類從本などには守部の引ける如くヒロヒとあり本願寺本などには今の如くタカミとあり)これらは風にたちたる浪の風やみてもなほたつをいへる也(○ナゴノウミノといふ歌を此類に入れたるは誤なり)
(1089) 萬六ナニハガタシホヒノナゴリヨク見テナ家ナル妹ガマチトハムタメ、同四ナニハガタシホヒノナゴリアクマデニ人ノ見ル兒ヲワレシトモシモ。かくシホヒノナゴリとつづけ妹ガタメニヨク見テムなどいひ又アクマデニ見ル兒の序としたるなどは浪のたつことにてはあるまじくおもはる。こは貝や石や海松などのよりたるけしきのあかずおもしろきをシホヒノナゴリ、といへるにやあらむ
といへり。案ずるに浪殘《ナミノコリ》は音便といふことの無かりし世にナゴリとはつづまるべからず。又もしナゴリに波の意あらば勢語(八十六段)の如くナゴリノ波とはいふべからず。又波にいふを浪殘の約とせば魚、藻などにいふは魚殘《ナゴリ》又は菜殘《ナゴリ》の約とせざるべからず。否古今集春下に風ノナゴリ(さくらばなちりぬる風のなごりには水なき空になみぞたちける)とあるは何の約とかせむ。さればナゴリはただ殘といふことにて餘波にも餘風にも別後の餘情にも今の歌の如く潮の千て魚介海藻の潟に殘れるにも云ふべきなり
  契沖が『鹽の干潟に殘れるたまり水をナゴリといふ』といへるは餘波の意としては通ぜざる歌あれば彼にも此にもかなふべき釋をと拈り出でたるなり。雅澄が(1090)(萩原廣道も)浪凝の約とせるは緑衣を黒衣に代へたるまでにて浪殘の約とする説と共にふさはず
 
977 ただごえのこのみちにしておしてるや難波の海となづけけらしも
直超乃此徑爾師弖押照哉難波乃海跡名附家良長思裳
 古事記雄略天皇の段に日下《クサカ》之|直越《タダゴエ》(ノ)道とありて傳卷四十一(全集第三の二三六三頁)に
  倭の平群郡より伊駒山の内(南方)を越て河内國に至り(若江郡を經て)難波に下る道にして(今世に暗《クラガリ》峠と云是なり。……さて今の日下村は此道には非ず。やゝ北方なれども久佐加と云名は此坂より出て古は此坂のあたりをも日下とぞ云りけむ……)此道近き故に直越《タダゴエ》とは云なり
といへり。守部の鐘の響上卷(五丁)には
  此龍田越闇がり峠にかゝる道はいと久しき時よりの間道なり。……此山路甚近道なりければつひに龍田の直越(タダはタダ路など云タダなり。曲道《ヨキミチ》に對へて眞直に近く行を云)とは名に負しなり
(1091)といひて龍田越とくらがり峠とを混同せり。日下の直越とこそあれ、龍田の直越といへることは何の書にも見えざるをや(龍田考十一丁以下參照)。大日本地名辭書には
  草香山は生駒山に同じ。其北尾を云ふ。日根市村大字善根寺より登路あり。即古の孔舍衙《クサカ》坂にして又直越と稱したり
といひてくらがり峠より北方に當れる峠を以て日下の直越に擬したり。案ずるに北方なる峠は山路紆曲したればタダゴエとはいふべからず。後に其南方に一の峠(即くらがり峠)いで來てこの方近道なれば之をクサカノタダゴエといひしなり。草香山はげに生駒山の一名とおぼゆ〇一首の意は
  古ヨリおしてるや難波トイフハ此草香ノ直越道ニテ遙ニ難波ノ海ノ光レルヲ見テ云ヒソメシニコソ
といへるなり
 
   山上(ノ)臣|憶良《オクラ》沈v痾之時歌一首
978 士《ヲトコ・ヲノコ》やも空しかるべき萬代にかたりつぐべき名は不立《タテズ》して
(1092)士也母空應有萬代爾語續可名者不立之而
    右一首山上憶良臣沈v痾之時、藤原朝臣|八束《ヤツカ》使2河邊朝臣|東人《アヅマビト》1令v問2所v疾之状1。於v是憶良臣報語已畢、有v須〔左△〕拭v涕悲嘆口2吟此歌1
 不立は舊訓にタタズとよめり。古義にタテズとよめるに從ふべし。名ハは名ヲバを略せるなり○左註の有須は官本に有頃とありといふ。之に從ふべし。史記張儀傳に有頃《シバラクアリテ》而病とあり○卷十九に慕v振2勇士之名1歌一首并短歌といへる家持の歌ありて左註に
 右二首追2和山上憶良臣1作歌
とあり。合せ見べし
 
   大伴坂上郎女與d姪家持從2佐保1還c歸西宅u歌一首
979 わがせこが著衣《ケルキヌ》うすし佐保風はいたくなふきそ家にいたるまで
吾背子我著衣薄佐保風者疾莫吹及家左右
題辭を略解に與2姪家持1とよめるは非なり○家持は郎女の兄旅人の子なれば姪《ヲヒ》とはいへるなり○ケルは著タルなり○佐保風は卷一なるタワヤメノ袖フキカヘス(1093)アスカ風の類なり
 
   安倍朝臣蟲麿月歌一首
980 (あまごもり)三笠の山をたかみかも月のいでこぬ夜はくだちつつ
雨隱三笠乃山乎高御香裳月乃不出來夜者更降管
 クダチは卷五にもワガ盛イタククダチヌとあり。夜にクダツといふは更くる事なり○此歌卷三なるクラ橋ノ山ヲタカミカ夜ゴモリニイデクル月ノ光トモシキ又次なる歌と似たり〇三笠山は後世は春日山の手前なる小山をいへど
  はやく顯註密勘(定家)に『春日山に三笠山とてひき下りて小さき山に春日社おはします。春日山は總名なり。三笠山は別名なり』といへり
 當時三笠山といひしは連山の主峯なる今の春日山の事なり
 
   大伴坂上郎女月歌三首
981 かりたかの高圓《タカマト》山をたかみかも出來《イデクル》月のおそくてるらむ
※[獣偏+葛]高乃高圓山乎高彌鴨出來月乃遲將光
(1094) 代匠記に『※[獣偏+葛]高は第七に借高之野邊とよみて、地の名なれば石上布留と云如く※[獣偏+葛]高は總名にて高圓は別名なるべし』といへり○オソクテルラムの上にカクハといふ辭を添へて聞くべし。古義に月の出でぬ前の歌として出來をイデコムとよめるは非なり。出來は當夜の月のみについて云へるにあらず。されば舊訓の如くイデクルとよむべし。オソクテルラムは遲ク出來ラムといへるにてそのテルラムは當夜の月のみについて云へるなり
 
982 (ぬばたまの)夜霧のたちておほほしくてれる月夜のみればかなしさ
鳥玉乃夜霧立而不清照有月夜乃見者悲沙
 或人問ひて云はく。カナシサの如く形容詞の語幹にサを添へたるは名詞となれるなればミレバを受けてカナシサとはいふべからず。いかが。答へていはく。
  夕さればねにゆくをしのひとりして妻ごひすなる聲のかなしさ〔右△〕
  さく花におもひつくみのあぢきなさ〔右△〕身にいたつきのいるも知らずて
これらを見ればげに名詞なるが如くなり。古義に
  ミレバカナシサはミレバは初句の上にめぐらして心得べし。ミレバを隔てゝツ(1095)クヨノカナシサと續く意なり
といひてミレバに心をおきたるを見れば雅澄も問者の如くミレバカナシサとは續くべからずと思へるならむ。されど
  うつつにはさもこそあらめ夢にさへ人めをもると見るが〔右△〕わびしさ〔右△〕
などガを受けたる例あるを思へば此格は名詞にあらざる事明なり。案ずるに此格は元來形容詞の一格にてカナシサはカナシキコトヨと譯すべく他は之に準ずべし。因にいふ。形容詞の語幹にクを添へたるも文句の末にあるはコトヨと譯すべし。さればコトヨといふ意を古歌には或はサといひ或はクといへり。本集卷七なる
  大海のみな底とよみたつ浪のよらむと思へる礒の清左《サヤケサ》
  大海の礒もとゆすりたつ波のよらむと念へる濱の淨奚久《サヤケク》
これ例とすべし
 
983 山のはのささらえをとこあまの原とわたる光みらくしよしも
山葉左佐佳良榎壯子天原門度光見良久之好藻
    右一首歌或云。月別名曰2佐散良衣壯士1也。縁2此辭1作2此歌1
(1096) 略解に『ササラは小き意、エは美き意にて則月をほめいへり』と云へり。さらばササラエヲトコとエを下に附けでよむべし○ミラクは見ル事ガなり。シとモとは助辭○トワタルを古義に彼高天原ノ石屋戸ノ前ヲワタルと譯せるは非なり。トワタルのトは河ト、セト、トナカなどのトにて船の通ふ處なり。さればトワタルは古今集に
  わが上につゆぞおくなる天の川とわたる船のかいのしづくか
とある如く船にいふ語なるを今は天を海、月を船に擬してアマノ原トワタルと云へるなり
   豐前國娘子月歌一首【娘子宇曰大宅氏未詳也】
984 雪がくりゆくへをなみとわがこふる月をや君之〔左△〕みまくほりする
雪隱去方乎無跡吾戀月哉君之欲見爲流
 雲ガクリは雲ニカクリテのニとテとを省けるなり。ユクヘヲナミトのトはカシコミトなどのトにて除きて心得べきトなり。さてそのユクヘヲナミトは古義に『往方シレズナリヌル故ニといふ意なり』といへるごとし。君之《キミガ》は君毛《キミモ》の誤にあらざるか
 
(1097)   湯原王月歌二首
985 天にますつくよみをとこまひはせむこよひのながさ五百夜つぎこそ
天爾座月讀壯子幣者將爲今夜乃長者五百夜繼許増
 マヒハセムは卷五にもワカケレバ道行シラジマヒハセム〔五字傍点〕シタベノ使負ヒテトホラセとあり○ツギコソはツヅケカシの意にて畢竟アハレ月ノオモシロキニコヨヒノ長サ常ノ五百夜ノ程ナレカシと願へるなり
 
986 はしきやし不遠〔左△〕《マドホキ》里の君|來跡《コムト》大能備爾鴨《オホノビニカモ》月の照有《テリタル》
愛也思不遠里乃君來跡大能備爾鴨月之照有
 不遠を舊訓にマヂカキとよみ諸註之に從へり。卷四同王贈2娘子1歌(七三五頁)に
  はしけ〔右△〕やしまぢかき里を雲居にやこひつつをらむ月もへなくに
とあり。古義に『ハシキヤシは君と云へ係て云るなり』とあれど卷四なると同じく里にかゝれるに似たり○第四句の大能備爾鴨は舊訓にオホノビニカモとよめり。宣長は君|來跡之《コトシ》我待ニカモの誤にやといひ雅澄は云知信の誤にてキミコムトイフ(1098)シルシニカモなるべしといへり。又雅澄は略解に
  もし大野|方《ベ》の意か。考べし
といへるを斥けて
  略解に大野方の意かといへるは何事ぞや。大野を大能と書くべくもなし。また野方を野備といへることもなきをや
といへり。案ずるに君コムトオホノビニカモとよむべくカモは君コムトの下に移して心得べし。オホノビは大野邊なり。野はいにしへはヌといひしこと勿論なれど卷五梅花歌(九〇七頁)にハルノ能ニキリタチワタリフルユキトとあるを見れば當時はやくノともいひしなり。野邊をノビといふは岡邊、濱邊、山邊、河邊をヲカビ(卷五【九〇六頁】)ハマビ(同卷【九四七頁】)ヤマビ(卷十)カハビ(卷二十)といへると同例なり。カモは元來君コムトの下におくべきを言數に制せられて大ノビニの下におけるなり○照有は略解の如くテリタルとよむべし(古義には舊訓の如くテラセルとよめり)○再案ずるに不遠はもと不近とありてマドホキとよむべかりしを卷四なるハシケヤシ不遠《マヂカキ》里ヲにまがへて不遠と寫しひがめたるならむ。さて一首の意は大野ヲ越エテハ(1099)ルバルト通ヒ來ル人ノ便ニトソノ大野ニ月ノ照リタルニヤと喜びいへるならむ。此歌は女の情になりてよめるにや
 
   藤原八束朝臣月歌一首
987 まちがてにわがする月は(妹が著《キル》)三笠の山に隱而有來《コモリテアリケリ》
待難爾余爲月者妹之著三笠山爾隱而有來
 初二はワガマチカヌル月ハといふ意なり。著を舊訓にキルとよめるを古義にケルに改めたり。上なるワガセコガケルキヌウスシの如く目の前に著たるを見ていへるにあらねばなほキルとよむべし○結句は略解にコモリテアリケリとよみ古義にコモリタリケリとよめり。いづれにても可なり
 
   市原王宴祷〔左△〕2父安貴王1歌一首
988 春草〔左△〕《ハルハナ》はのちは落易《ウツロフ》いはほなす常盤にいませたふとき吾君《ワガキミ》
春草者後波落易巖〔左△〕成常盤爾座貴吾君
 落易は舊訓にカレヤスシとよみ略解にウツロフとよめり。又契沖は春草を春花の(1100)誤とし落易をチリヤスシとよめり。案ずるに人の榮をよそふるには春草よりは春花の方ふさはしければ春草は春花の誤とすべし。然らば第二句は如何といふにノチハといひてチリヤスシといふべきにあらず。されば落易はウツロフとよむべし。さて易は音エキ訓カハルの意に用ひたるにて音イ訓ヤスシの意に用ひたるにあらじ。但變易、遷易などの熟字は用ひなれたれど落易といへる例を知らねば或は誤字にてもあるべし○こゝのイハホナスは枕辭にあらず○題辭は市原王ウタゲシテ父安貴王ヲホギシ歌などよむべし。祷は或は壽の誤字にあらざるか○嚴、盤は諸本に巖、磐に作れり
 
   湯原王打〔左△〕酒歌一首
989 (やきだちの)かど打放《ウチハナチ》ますらをの祷《ノム》とよ御酒《ミキ》にわれゑひにけり
燒刀之加度打放大夫之祷豐御酒爾吾醉爾家里
 題辭の打酒について宣長は『打は祈の誤か。さらばサカホガヒとよむべし』といひ古義には『中山嚴水、打(ノ)字は折の誤なるべし。しか云故は古事記に八鹽折之酒と有て酒を醸《カム》事を折ともいひしと見えたり云々と云り』といへり。此説ども未穩ならざれば(1101)余も試に一説を述べむに打酒は行酒の誤か。行酒は十八史略西晋愍帝の紀に
  帝出降。漢將劉曜送2平陽1。聰享2群臣1。命v帝著2青衣1行v酒洗v爵
とありて獻酬を佐くる事なり。反りて思ふに湯原王たとひ宴席の主人なりとも自酒を行《タス》くまじきが上に、歌にマスラヲノ祷トヨ御酒ニワレヱヒニケリとあると相かなはず。されば行酒の誤字ともすべからず。更に案ずるに打酒は置酒などの誤字にて打の字は歌の中よりまぎれ來れるにあらざるか。次行よりまぎれ來れるとおぼゆる例本集に少からず○祷は舊訓にツクとよめり。さるは擣とある本によれるなるべし。類聚古集などにはノムとよめり。こは飲の借字とせるにや。記傳卷三十一(全集第二の一八九九頁)に
  打酒は祈酒《サカホガヒ》の誤なるべし。祷もホグとよむべし。ネグ(○仙覺抄)又ノムなど訓るはわろし。又初の二句は誤字あるべし
といへり。第二句の意の明ならざる限はいづれをよしとも定むべからず○ヤキダチノカド打放を契沖は(放を舊訓の如くハナツとよみて)丈夫《マスラヲ》の形容とし記傳には放をハナチとよみて
(1102)  此初二句も壽態《ホグワザ》をよめるなるべし
といへり。案ずるにカドウチハナチは禮節ヲウチ棄テテといふことにあらざるか。果して然らばヤキダチノはカドの枕にて祷は飲の借字又は誤字とすべし。卷十九なる家持の爲v應v詔儲作歌に
  豐のあかりめすけふの日は、もののふの八十とものをの、島山にあかる橘、うずにさし紐ときさけて〔六字傍点〕、千とせほぎ保伎吉とよもし、ゑらゑらに仕へまつるをみるがたふとさ
とあるも打解けたるさまなり
 
   紀朝臣鹿人見2茂岡之松樹1歌一首
990 しげ岡にかむさびたちてさかえたる千代まつの樹のとしのしらなく
茂岡爾神佐備立而榮有千代松樹乃歳之不知久
 略解に一本によりて題辭の見の上に跡の字を補ひ古義も之に從へり。これによらば跡見《トミ》ノ茂岡ノ松ノ樹ノ歌とよむべし
 
(1103)   同鹿人至2泊瀬河(ノ)邊1作歌一首
991 石走《イハバシリ》たぎちながるるはつせ河たゆることなくまたもきてみむ
石走多藝千流留泊瀬河絶車無亦毛來而將見
 卷一にミレドアカヌ吉野ノ河ノトコナメノタユルコトナクマタカヘリミムといふ歌あり。上(一〇二六頁)にもミヨシ野ノ秋津ノ川ノヨロヅ世ニタユルコトナク又カヘリミムとあり。初句は契沖のイハバシルとよめるを雅澄はイハバシリに改めたり。タギチは動詞なればげにイハバシリとよむべし。イハバシリは石上ヲ走リとなり
 
   大伴坂上郎女詠2元興寺之里1歌一首
992 ふるさとの飛鳥はあれど(あをによし)ならの明日香をみらくしよしも
古郷之飛鳥者雖有青丹吉平城之明日香乎見樂思奴〔左△〕裳
 元興《グワンコウ》寺一名法興寺は高市郡飛鳥眞神原にありき。よりて又飛鳥寺といふ。寧樂遷都の後新に一寺を寧樂に建てゝ之を單に元興寺といひ高市郡なるを本《ホン》元興寺とい(1104)ひき。
 崇峻天皇紀に
  元年蘇我馬子宿禰壞2飛鳥(ノ)衣縫(ノ)造(ノ)祖|樹葉《コノハ》之家1始作2法〔右△〕興寺1。此地名2飛鳥(ノ)眞神(ノ)原1。亦名飛鳥(ノ)苫田
 推古天皇紀に
  四年冬十一月法興寺造竟
 貞觀四年八月廿五日の太政官符(類聚三代格卷二所載)に
  應v令3本元〔右△〕興寺法華供得業僧預2維摩會竪義1事 右得2彼寺傳燈住位僧金耀牒1※[人偏+再]、謹檢2案内1此寺佛法元興之場、聖教最初之地也。去和銅三年帝都遷2平城1之日諸寺隨移、件寺獨留。朝庭更造2新寺1備2其不v移之闕1。所v謂元興寺是也云々
 古義に右の文を引きたるには脱字誤字衍字誤讀あり。續紀元正天皇靈龜二年五月の條に
  始徙2建《ウツシタテハジム》元〔右△〕興寺于左京六條四坊1
 同養老二年八月の條に
(1105)  遷2法〔右△〕興寺於新京1
とあり。即靈龜二年に建始め二年餘を經て養老二年に造畢へしなり。但遷2法興寺於新京1とあるを見れば飛鳥なるは廢せられし如くなれど實は新舊ともに存ぜられし事貞觀の官符にて明なり。古義に元興法輿を二寺としたるは非なり。日本書紀通釋卷之五十二(第四の二九〇八頁以下)に
  さて此法興寺元興寺を一寺にあらず二寺なりと云る説あれども非なり。……まづ元亨釋書に元〔右△〕興寺者上宮太子又誓營v寺故於2飛鳥地1創v之推古四年成始曰2法〔右△〕興寺1とあり。又拾遺記に引る本元興寺縁起に本元興寺四門額面各異也西門元興寺〔三字右△〕、南門飛鳥寺、東門|品幡《ホンマン》寺、北門法興寺〔三字右△〕云々とあり(行嚢抄に元興寺豐等邑の内なり東門飛鳥寺、西門法興寺、南門元興寺、北門法滿寺……)。これらにて法興、元興、飛鳥みな一寺數名ありしことを知べし
といへり。又七大寺巡禮記元興寺の條に
  諸門額事 東門額飛鳥寺、西門法興寺、北門建通寺
 又古圖に
(1106)  南大門額元興寺、北門飛鳥寺東門法滿寺、西門法興寺
とあり。因にいふ古今集夏歌の端書に
  ならのいそのかみ寺にて郭公のなくをよめる
とあり。石上《イソノカミ》寺は山邊郡石上にありて奈良とは二里許相離れたるをナラノイソノカミ寺といへる誰も不審とする事なり。案ずるにこれも元興寺の如く奈良に新寺を建てられてそれを山邊郡なると別たむ爲に奈良の石上寺といひしにこそ(此事は眞淵はやくいへり)
さて歌にナラノアスカといへるを見れば元興寺の域内を其舊地の名を取りて飛鳥といひしにて題辭に元興寺之里といへるは其寧樂の飛鳥(ノ)里なり○フルサトノアスカといへるは高市郡なる飛鳥は天武天皇の舊都なればなり。アスカハアレドはオモシロケレドとなり。卷三登2神岳1山部宿禰赤人作歌に
  あすかの、ふるきみやこは、山たかみ、河とほじろし云々
といへるを見ればげにおもしろかりし處とおもはる。二三の間に又といふ語を挿みて聞くべし。古義に『なほ平城に及ばず』と釋けるは非なり。さる調にあらず○奴は(1107)好の誤なり
 
   同坂上郎女初月歌一首
993 月たちてただ三日月の眉根かきけながくこひし君にあへるかも
月立而直三日月之眉根掻氣長戀之君爾相有鴨
 略解に
  三日月は眉といはん序のみ。是を初月歌と端書せるはいかにぞや。相聞の歌也
といへる如し。ツキタチテタダは三日月にかゝれる序中の枕辭なり○眉根はマヨネともマユネともよむべし。眉根をかくは戀人に逢はむ呪と見ゆ。古義に
  人に戀らるれば眉皮のかゆきといふ諺のありしこと四上にはやくいへり
とあれど卷四なる
  いとまなく人の眉根をいたづらにかかしめつつもあはぬ妹かも
も眉根を掻きて呪すれどしるしなきによりてイタヅラニといへるなり(卷四【六八四頁】參照)
 
(1108)   大伴宿禰家持初月歌一首
994 ふりさけてみか月みれば一目みし人の眉引おもほゆるかも
振仰而若月見者一目見之人之眉引祈念可聞
 フリサケテはこゝに振仰而と書きたれどそは意を得て書けるにてフリサケテに仰く意は無し。フリは添辭、サケは見サクルのサクルに同じ。さればフリサケミルは見遣ルといふことなり○マヨビキは眉の恰好なり
 
   大伴坂上郎女宴2親族(ト)1歌一首
995 かくしつつあそびのみこそ草木すら春は生《オヒ・サキ》つつ秋は散去《チリユク》
如是爲乍遊飲與草木尚春者生管秋者落去
 ノミコソは飲メカシなり。生の字を舊訓にモエ、略解にオヒ、古義にサキとよめり。就中古義にサキとよむべき證として卷七なるヲミナベシ生澤ノ邊ノ、卷十六なる七重花佐久八重花|生跡《サクト》などを擧げたり。卷十に春サレバマヅサキ草ノサキクアラバとありて生ふる事をサクとも云ひきとおぼゆれば古義の訓も惡からず○落去は(1109)舊訓にチリユク略解にカレユクとよめり(古義にチリヌルとよめるは論外なり)。舊訓の如くチリユクとよむべし○初句の上に盛ナル間ハなどいふことを補ひて聞くべし
 
   六年甲戊海《アマ》(ノ)犬養(ノ)宿禰岡麿應v詔歌一首
996 御民われいけるしるしあり天地のさかゆる時にあへらくおもへば
御民吾生有驗在天地之榮時爾相樂念者
 略解に歌の上に作の字あるべしといへり○シルシは詮、アメツチは世中、アヘラクは逢ヘルコトヲとなり
 
   春三月幸2于難波宮1之時歌六首
997 すみのえの粉濱のしじみあけもみず隱耳哉《カクシテノミヤ》こひわたりなむ
住吉乃粉濱之四時美開藻不見隱耳哉戀度南
     右一首作者未詳
 初二はアケの序なり。アケモミズはウチ明ケテモ見ズなり○隱耳哉を契沖コモリ(1110)テノミヤとよみ略解古義にコモリノミヤモとよみたれどさてはアケモミズと自他相副はず。さればカクシテノミヤとよむべし○古義にアケモミズを色に顯はさぬ事として本郷にある妹を戀ふる事としたるは非なり。略解に『從駕の女房を戀るなるべし』といへるに從ふべし
 
998 眉のごと雲居にみゆる阿波の山かけてこぐ舟とまりしらずも
如眉雲居爾所見阿波乃山懸而※[手偏+旁]舟泊不知毛
     右一首船王作
 カケテは契沖のいへる如く目ニカケテにてやがて目ザシテなり。眞に阿波國に行かむとするにはあらず。ただ遙に見ゆる阿波の山の方向に漕行く船を見てしか云へるなり。略解に『阿波の方へ懸て行也』といへるは非なり。難波より海上を望まむに阿波の山のこなたに淡路の山見ゆべく又難波より船の見えむには陸上よりの距離いくらばかりもあらざらむをいかで阿波の方へゆく船とは推定めむ○トマリシラズモはイヅクニ泊《ハ》ツベキニカといふ意なり
 
(1111)999 千沼囘《チヌミ》より雨ぞふりくるしはつのあま網手〔左△〕《アミヲ》綱〔□で圍む〕ほしたり沾將堪《ヌレアヘム》かも
從千沼囘雨曾零來四八津之泉郎網手綱乾有沾將堪香聞
    右一首遊2覧住吉濱1還v宮之時|道上《ミチニテ》守部王應v詔作歌
 チヌは和泉の茅渟なり。囘は舊訓にワとよみ古義にミとよめる事例の如し○網手綱は略解に綱手繩の誤としてツナデナハとよみ古義に網を綱の誤字、下の網を衍字としてツナデとよめり。宜しく手を乎の誤、綱を衍字としてアミヲホシタリとよむべし○結句を略解にヌレバタヘムカモとよみ古義にヌレアヘムカモとよめり。古義に從ふべし。ヌレコラヘヨウカ、即濡レテモ平氣デアラウカ、アナ心モトナといへるなり
 
1000 兒等|之《シ》あらばふたりきかむをおきつすになくなるたづの曉の聲
兒等之有者二人將聞乎奥渚爾鳴成鶴乃曉之聲
     右一首守部王作
 コラとは故郷の妹をさせり(略解)○之の字三註共にガとよみたれどシとよむべく(1112)や
 
1001 ますらをはみかりにたたしをとめらは赤裳すそびく清き濱備を
大夫者御※[獣偏+葛]爾立之未通女等者赤裳須素引清濱備乎
    右一首山部宿禰赤人作
 ミカリニタタスは御獵に出立つなり。濱備の備を木村博士の字音辨證上卷十頁以下に韻鏡によりてべ〔右△〕とよむべしといへり(はやく卷五【九七四頁】にも大伴(ノ)御津(ノ)濱備爾とあり)。すべて韻鏡によりて云々する説は文字に通音あるを認めて言語に轉呼あるを忘れたる言なり。もし中世に馬梅をムマ、ムメとかき烏玉をウバタマとかけるを見て中世はムの字をウの音にも用ひ又ウの字をヌの音にも用ひきといふものあらば人之を何とか評せむ。されば字音辨證、磧鼠漫筆等の説は打任せては採るべからず
 
1002 馬のあゆみおさへとどめよすみのえの岸のはにふににほひてゆかむ
馬之歩押止駐余住吉之岸乃黄土爾保比而將去
(1113)    右一首安倍朝臣豐繼作
 初二の語例は卷三家持の長歌(五七四頁)に大御馬ノ口オサヘトメとあり。今は從者におほするなり○第三句以下の語例は卷一(一一〇頁)に草マクラタビユク君トシラマセバ岸ノハニフニニホハサマシヲ此卷にも上(一〇四二頁)に白浪の千重ニキヨスルスミノエノ岸ノハニフニニホヒテユカナとあり。ニホヒテは染ミテにて畢竟衣ヲソメテといふ意なり○黄土の下に脱字あるか。卷一には岸之|埴布爾《ハニフニ》、上には岸之|黄土粉《ハニフニ》とあり
 
   筑後守從五位下葛井《フヂヰ》(ノ)連《ムラジ》大成遙見2海人釣船1作歌一首
1003 あまをとめ玉求むらしおきつ浪かしこき海に船出爲利《セリ》みゆ
海※[女頁感]嬬玉求良之奥浪恐海爾船出爲利所見
 此歌の玉は略解にいへる如く鰒玉即眞珠なり。契沖いはく
  落句船出セル見ユと云はずしてセリと云へるは古語なり。武烈紀に天皇の御製にもシビガハタテニツマ陀※[氏/一]理ミユとあり。此集第十五にもアマノイザリハト(1114)モシ安敝里ミユとよめり
といへり。字音辨證に右のフナデ爲利ミユとトモシ安敝里ミユとを引出でて
  これらの利里はかならずルとよむべき也。呉(ノ)轉音なり。類聚國史卷三十一に大同二年九月神泉苑に行幸の時の御製を載て袁理〔右△〕比度能ココロノマニマフヂバカマウベイロフカクニホヒタリケリとあり。袁理比度能はヲルヒトノとよむべし。折人之也。理は里と同音の字なればこれ明證也(○類聚國史の袁理比度能は一本に美那比度能とあり)
といひ又同書に利里は又ロともよむべしといひ(ヒ利ヒテ、ヒ里ヒトリの類)碩鼠漫筆にハ利は又ラともレともよむべしといへり(御井ヲ見ガテ利、アシガ利ノの類、またコエハナ利ナバの類)。案ずるにもし二書に云へる如く利の字をラリルレロ共に假り用ひたりとせば假字は其音符たる用を失ふべし。されば韻鏡學者の説を採るは一程度にとどむべく、今の歌はなほ舊訓の如くセリミユとよみて契沖の説の如く古語の格とすべし
 
  ※[木+安]作《クラツクリ》(ノ)村主《スグリ》益人《マスヒト》歌一首
(1115)1004 おもほえず來座《キマシシ》君を佐保川のかはづきかせずかへしつるかも
不所念來座君乎佐保川乃河蝦不令聞還都流香聞
    右内匠寮大屬※[木+安]作(ノ)村主益人聊設2飲饌1以饗2長官|佐爲《サヰ》王1、未v及2日斜1王既還歸。於v時益人怜2惜不v厭之歸1仍作2此歌1
 來座を三註ともにキマセルとよめるはかなはず。キマシシとよまではカヘシツルカモと時相かなはず○ヲはナルニのヲなり。略解に『カヘシツルカモと隔てつづく也』と云へるは非なり
 
   八年丙子夏六月幸2于芳野離宮1之時山部宿禰赤人應v詔作歌一首并短歌
1005 (やすみしし) わがおほきみの 見給《メシタマフ》 芳野の宮は 山たかみ 雲ぞたなびく 河はやみ せのとぞ清き かむさびて みれば貴く よろしなべ みればさやけし 此山の つきばのみこそ 此河の たえばのみこそ (ももしきの) 大宮所 やむ時もあらめ
(1116)八隅知之我大王之見給芳野宮者山高雲曾輕引河速彌湍之聲曽清寸神佐備而見者貴久宜名倍見者清之此山乃盡者耳社此河乃絶者耳社百師紀能大宮所止時裳有目
 見給は古義の如くメシタマフとよむべし○略解にいへる如くカムサビテの二句は山をたゝへ、ヨロシナベの二句は河をほめたるなり○ヨロシナベは卷一(九三頁)に
  みみなしの、あをすげ山は、そともの、大御門に、よろしなべ、かむさびたてり
 卷三(三九二頁)に
  よろしなべ吾背乃君之おひきにしこのせの山を妹とはよばじ
 卷十八に
  しかれこそ、神の御代より、よろしなべ、此橘を、ときじくの、かくの木實と、なづけけらしも
とあり。フサハシクなどいふ意とおぼゆ〇二つのノミは例の辭を強むるテニヲハなり
 
(1117)   反歌一首
1006 神代より芳野の宮にありがよひたかしらせるは山河をよみ
自神代芳野宮爾蟻通高所知者山河乎吉三
 神代はただ上古といふことなり。ヨミはヨキ故ニにて其下にナリを略せるなり。アリガヨヒ高シラセルハは通ヒツツ住ミ給ヘルハとなり○契沖いはく
  赤人の歌に年を記せるは此八年六月を終とす。これより程なく死去せられけるにや
といへり
 
   市原王悲2獨子(ナルヲ)1歌一首
1007 ことどはぬ木すら妹とせあり【とち】ふをただ獨子にあるがくるしさ
不言問木尚妹與兄有云乎直獨子爾有之苦者〔左△〕
 光仁天皇紀(續紀)に
  天應元年二月丙午三品能登内親王薨。内親王天皇之女也。適2正五位下市原王1生2五(1118)百井女王、五百枝王1。薨時年四十九
とあり。かく御子は少くとも(即能登内親王の御腹のみにも)二柱おはするにこゝにタダヒトリ子ニアルガクルシサとあるを怪しみて契沖は
  能登内親王は御年を以て逆推するに天平五年の誕生なれば此八年には僅に四歳にならせたまふ。されば市原王には内親王を迎へたまふ前に御妻又は妾ありてそれに獨子のありしにや(採要)
といひ千蔭は
  人の子の上をよみましゝなるべし
といへり。雅澄の
  獨子は五百井女王なるべし。五百枝王の未生坐ざる前の事なるべし
といへるは論ずるに足らず。此時御母内親王なほ四歳におはせし事契沖のいへる如くなればなり。按ずるにタダヒトリ子ニアルガクルシサとは御子の上をのたまへるにはあらで自身の事をのたまへるなり。即市原王に兄弟のなかりしなり○イモトセはこゝにては兄弟姉妹なり。木の一根より叢り生ひたるを見て木スラ妹ト(1119)セアリトフヲとのたまへるなり○者は一本に左とあり
 
   忌部(ノ)首《オビト》黒麿恨2友※[貝+余]《オソク》來1歌一首
1008 山のはにいざよふ月のいでむかとわがまつ君|之〔左△〕《ヲ》夜はくだちつつ
山之葉爾不知世經月乃將出香常我待君之夜者更降管
 上三句はワガマツの序なり○君之を從來キミガとよめり。之は乎などの誤にあらざるか。然らばワガマツ君ナルニ夜ハフケユキツツ君ハ來マサヌといふ意とすべし
 
   冬十一月左大臣〔左△〕葛城王等賜2姓橘氏1之時御製歌一首
1009 たちばなは實さへ花さへ其葉さへ枝に霜ふれどいや常葉《トコハ》の樹
橘花者實左倍花左倍其葉左倍枝爾霜雖降益常葉之樹
    右冬十一月九日從三位葛城王、從四位上佐爲王等辭2皇族之高名1賜2外家之橘姓1已訖。於v時太上天皇皇后〔二字左△〕共在2于皇后宮1。以爲2肆宴1而即御2製賀v橘之歌1并賜2御酒宿禰等1也。或云。此歌一首太上天(1120)皇御歌。但天皇々后御歌各有2一首1者。其歌遺落未v得2探求1爲〔左△〕。今※[手偏+檢の旁]2案内1八年十一月九日葛城王等願2橘宿禰之姓1上v表。以2十七日1依2表乞1賜2橘宿禰1
 葛城王は即橘諸兄にて敏達天皇の玄孫なり。佐爲王は諸兄の弟なり。外家は二人の母三千代夫人なり。此人の姓はもと縣(ノ)犬養(ノ)宿禰なりしに元明天皇の時更に橘宿禰の姓を賜はりしなり。辭2皇族之高名1賜2外家之橘姓1は天平八年十一月壬辰(十七日)の詔詞の句によれるなり(但詔詞には請〔右△〕2外家之橘姓1とあり)。太上天皇は元正天皇(天皇は聖武天皇)なり。皇后は即光明皇后にて諸兄佐爲の異父妹なり。契沖は
  太上天皇皇后は今按皇后は天皇を誤れるなるべし。共在2于皇后宮1とあれば上に皇后と云に及ばずして、申べき天皇を申さねばなり。或云以下は此集勅撰ならず又撰者橘左大臣にあらぬ明證なり。探求の下の爲は焉に作るべし
といひ又
  九日は聖武紀の丙戌歟。然らば壬辰の日勅答を賜はれるは十五日なるを此に十七日とあるは五を七に誤れる歟
(1121)といへり。續紀に丙戌上表曰云々壬辰詔曰云々とあり。丙子の朔なれば丙戌は十一日にて壬辰は十七日なり。されば左註に以2十七日1云々とあるは誤にあらず。もし續紀を正しとせば十一月九日とあるが十一月十一日の誤なり。今※[手偏+檢の旁]2案内1とある案内は文書なり
 題辭の左大臣を契沖は左大辨の誤として
  官本に臣を改て辨に作れり。天平元年九月に左大辨となられたれば此に依るべし。左大臣は同じ十五年に拜して極官なれば此に擧る事理なし
といへり
 第三句の下にメデタクテなどいふことを補ひてきくべし○第四句は古義に
  エニシモフレドと本居氏(○記傳卷二十五)のよめるぞよろしき。枝をエダと訓てはこゝはわろし
といへれどエダとよみてわろかるべき道理なし○イヤはナホを強くいへる辭なり○トコハの事は卷三(四〇九頁)にいへり。さて結句はイヤトコハナル樹とあるべきをイヤトコハノ樹とのたまへる、そのかみはかくも云ひしなるべし
 
(1122)   橘宿禰奈良麻呂應v詔歌一首
1010 奥山のまきの葉しぬぎふる雪のふりはますともつちにおちめやも
奥山之直〔左△〕木葉凌零雪乃零者雖益地爾落目八方
 奈良麻呂は諸兄の子なり。略解に『例によるに詔の下作の字あるべし』といへり。代匠記に
  眞木の上にふりつむ雪の如く臣が家世々を重ぬとも君の御爲に清き心を持て仕へ奉て敢て父祖の風をおとして家を汚さじと云意なるべし
といへり。即契沖は上三句を序とせるなり。古義には
  表には奥山の檜(ノ)葉を押なびけてふる雪の甚くふりまさるとも橘のなれる其實は地に落むやはと云るにて裏には……もと皇族なればたとひ年經て舊《フリ》は益るとも御恩頼の薄くなる代はあるまじければおちぶることはあらじ、さてもありがたくたのもしや、との意なるべし
といへり。即雅澄は譬喩歌と見たるなり。橘ノナレル其實ハといへるは歌に無き事なり。案ずるに上三句は序にて四五は世ヲ重ヌトモ家聲ヲ墜サムヤといへるなり。(1123)○直は眞を誤れるなり
 
   冬十二月十二日歌※[人偏+舞]所之諸王臣子等集2葛井《フヂヰ》(ノ)連《ムラジ》廣成家1宴歌二首
  此來古※[人偏+舞]盛興、古歳漸晩、理宜d共盡2古情1同唱c此〔左△〕歌u、故擬2此〔左△〕趣1輙獻2古曲二節1、風流意氣之士※[人偏+黨]有〔右△〕2此|集《ツドヒ》之中1爭發v念心々和2古體1
1011 わがやどの梅さきたりとつげやらばこちふに似たりちりぬともよし
我屋戸之梅咲有跡告遣者來云似有散去十方吉
 小序中の二つの此の字は古の誤なるべし。古の字を重ねてあやとせる文なればなり○有は我邦の古書に在と通用せり
 第三句以下の意は略解にいへる如く
  かく告やりたらば來れかしといふ事とかなたにも思ひはかりて必訪ひ來るべし。さて後は花は散ぬともよし
といふことなるべくおぼゆれど四五の間に辭足らず。さて思ふにかく辭を略しておぼろげにいへるが適に古趣に擬したる所なるべし○ツゲヤラバといはばコチ(1124)フニ似タラムといふべく、コチフニ似タリと云はむとにはツゲヤレバといふべし。されば第三句の告遣者はツゲヤレバとよむべきかといふに此歌をもととせりとおぼゆる古今集戀四の歌に
  月夜よし夜よしと人につげやら〔右△〕ばこてふに似たりまたずしもあらず
とあればなほツゲヤラバとよむべく、さてそは結句のチリヌトモヨシ又かのカサネバウトシイザフタリネムなどの類にて未來を現在にて受くる變格又は古格なり
 
1012 春さればををりにををりうぐひすのなくわが島ぞやまずかよはせ
春去者乎呼理爾乎呼里鶯之鳴吾島曾不息通爲
 ヲヲリニヲヲリは花の盛りなるさまなり。されど花といはでは辭足らず。これもしか辭の足らざるがやがて古趣に擬したる所なるべし。此事ははやく卷四(六一六頁)にもいへり○島は庭園なり(卷五【九三六頁】參照)○ヤマズカヨハセは絶エズ訪來ヨとなり
 
   九年丁丑春正月橘少卿并諸大夫等集2彈正|尹《カミ》門部王家1宴歌二首
(1125)1013 あらかじめきみきまさむとしらませば門にやどにも珠しかましを
豫公來座武跡知麻世婆門爾屋戸爾毛殊敷益乎
    右一首主人門部王【後賜姓大原眞人氏也】
 契沖いはく
  少卿は諸兄を大卿としてそれに對して佐爲を云へり
と。佐爲《サヰ》は前に見えたる佐爲王なり。ヤドは庭なり。門ニモヤドニモといふべきをかくいへるは卷三なる蟲ニ鳥ニモワレハナリナム(四四四頁)と同例なり○珠はうつくしき小石なり
 
1014 をとつひもきのふもけふもみつれども明日さへ見まくほしき君かも
前日毛昨日毛今日毛雖見明日左倍見卷欲寸君香聞
    右一首橘宿禰文成【即少卿之子也】
 代匠記に
  目録の注に文明と云ひ又他本にも文明とあれども文成然るべきか。考課紀云天(1126)平勝寶三年正月賜2文成王甘南備眞人姓1とあるはもし此橘文成に再たび改めて姓を賜ひけるにや
といへり。案ずるに橘氏系圖に佐爲の子に綿裳あり其子に繼成(又枝主)あり其子に春成高成あれば文明は誤にて文成とあるが正しかるべく其文成は綿裳の前名なるべし。然思はるゝは續紀に天平寶字元年(○天平九年より二十年後)閏八月正六位上橘朝臣綿裳改2本姓1賜2廣岡朝臣1とあればなり。甘南備眞人の姓を賜はりし文成王とは別人なり。此人もし佐爲の子ならば天平八年に其父に橘宿禰の姓を賜ひし後には王と稱すまじきが故なり
   榎井王後追和歌一首
1015 玉しきて待益〔左△〕よりは多鷄蘇香仁來たるこよひしたぬしくおもほゆ
玉敷而待益欲利者多鶏蘇香仁來有今夜四樂所念
 待益は舊訓にマタマシとよめり。なほ後にいふべし○タケソカニは契沖、久老(信濃漫録上卷四丁)千蔭等の説あれどいづれもげにとおばえず。古義には
  タケソカは不意の謂と聞えたり
(1127)といひて千蔭及久老の説を斥けたり○此歌は主人側の歌にや客側の作にや。久老は
  玉敷て待設るよりはおもひもかけぬ所へおしかけて凌ぎ來ませる今夜がかへりてはたのしくおぼゆると云意也
といひて主人側の歌とせり。げに第二句を舊訓の如くマタマシヨリハとよめば主人側の歌のやうにも聞ゆ。されど主人側の歌としてもマシといふべき處にあらざる上に玉シキテ云々といへるは主人の門ニヤドニモ玉シカマシヲといへるに答へたるなれば客側の歌とせざるべからず。而して客側の歌とすればマタマシヨリハとあらむは愈かなはず。雅澄は益を衣四の二字の誤としてマタエシヨリハとよめり。いかなる文字の誤ともさしていひ難けれどマタエムヨリハといふべき處なり。さてキタルコヨヒシとあるを見れば榎井王も當日の客のうちにありしが席上にては答歌は得よまで後日によめるなり
 
   春二月諸大夫等集2左少辨巨勢宿奈麻呂朝臣家1宴歌一首
1016 うな原の遠きわたりをみやびをの遊ぶをみむとなづさひぞこし
(1128)海原之遠渡乎遊士之遊乎將見登莫津左此曾來之
    右一首書2白紙1懸2著屋壁1也。題云蓬莱仙媛所v嚢蘰〔二字左△〕處2風流秀才之士1矣。斯凡客不所望見哉〔左△〕
 左註には誤字ありとおぼゆ。村田春海は一本によりて嚢の上に作の字を補ひ嚢を焉の誤、蘰を※[言+曼]の誤とせり。嚢は賚の誤、蘰は純の誤、哉は焉の誤か○契沖の
  あるじの方の女房などの……物の隙より酒宴の席にある人をかいまみて時の興に蓬莱仙媛など書付て懸けるにや
といへるはいりほがなり
 ワタリは航路なり。ナヅサフは辛苦して來る事なり(五二四頁及五四七頁參照)。宣長の水に著くことゝせる説は非なり
 
   夏四月大伴坂上郎女奉2拜賀茂神社1之時|便《ツイデニ》超2相坂山1望2見近江海1而晩頭還來〔五字左△〕作歌一首
1017 (ゆふだたみ)手向の山をけふこえていづれの野邊にいほりせむ子〔左△〕等《ワレ》
(1129)木綿疊手向乃山乎今日越而何野邊爾廬將處子等
 題辭の便はツイデニとよむべし(記傳卷四十三【二四五一頁】參照)○契沖いはく
  此手向山と云はすなはち相坂山なり
といへり
 子等は一本に吾等とあり。契沖いはく
  子等とは供にある人を指せり。吾等とあるにつかばワレと讀むべし。其故は第十五にも大伴ノミツニフナノリコギ出テハイヅレノシマニイホリセム和禮、此例ある故なり
といへり。吾等の誤としてワレとよむべし。集中にワレ、ワガを吾等と書ける例あり」
 題辭に晩頭還來作歌とあると歌にイヅレノ野ベニイホリセム吾等とあると相副はず。案ずるに而晩頭還來の五字はもと註なりしを誤りて本行に入れたるなり。即イヅレノ野ベニイホリセム吾等とあれば途中にて一泊せし如く見ゆれど實は晩頭に還來りしなれば而晩頭還來と註したるなり
 
   十年戊寅元興寺之僧自嘆歌一首
(1130)1018 白玉は人にしらえず知らずともよし、しらずとも吾し知れらば知らずともよし
白玉者人爾不所知不知友縦、雖不知吾之知有者不知友任意
    右一首或云。元興寺之僧獨覺多智未v有2顯聞1。衆諸狎侮。因此僧作2此歌1自嘆2身才1也
 旋頭歌なり。シラタマは自譬へたるなり
 
   石上《イソノカミ》(ノ)乙麻呂卿配2土左國1之時歌三首并短歌
1019 いそのかみ ふるの尊は たわやめの 惑によりて (馬じもの) 繩とりつけ (ししじもの) ゆみやかくみて おほきみの みことかしこみ (あまざかる) ひなべにまかる (ふる衣) まつちの山ゆ かへりこぬかも
石上振乃尊者弱女乃惑爾縁而馬自物繩取附肉自物弓※[竹/矢]圍而王命恐天離夷部爾退古衣又打山從還來奴香聞
(1131) 石上卿の事をイソノカミフルノミコトといへるはいかなる故にか。伴信友の上野國三碑考(全集第二の六八七頁)に
  フルは大和國石上の布留にて乙麿の居地にかけていへるなるべし
といひ又(同上七〇六頁)
  乙麻呂の居地の布留に在けるによりて然は稱《イ》へるなるべし。石上布留と複ねたる氏の如くいへるにはあらず。おもひ混ふべからず
といへり。もし布留《フル》を地名とせば布留の石上尊とこそ云ふべけれ。案ずるに乙麻呂の父麻呂の代までは物部(ノ)連《ムラジ》なりしに天武天皇の御代に朝臣のカバネを賜はり更に氏を改めしなるが元來|石上布留《イソノカミフル》といふ氏なるを常には略して石上と云ひしにあらざるか。さて人を尊びてミコトといへるさへあるに尊の字を書ける聊異やうにおぼゆれど集中にチチノミコト、ハハノミコト、ツマノミコト、イモノミコトなどいへるを思へばミコトは今殿又は樣などいふにひとしき敬稱にて文字はもとより借物なれば命とも尊とも書くべきなり。げに日本紀には尊と命とをつかひわけて至貴曰v尊、自除曰v命、並訓2美巨等《ミコト》1也としるされたれどそは國史の上にての定にこ(1132)そあれ、これより後も内内には臣下にも尊字を用ひしこと正倉院に藏せる天平年中の文書に謹上道守尊座下また乙麻呂尊御從側など(共に三碑考に引けり)あるにて知るべし○タワヤメノ惑ニヨリテは聖武夫皇紀に
  天平十一年三月庚申石上朝臣乙麻呂坐v姦2久米連|若賣《ワカメ》1配2流土左國1若賣配2下總國1焉
とありて此集に十年の歌とせると合はず○惑を古義にサドヒとよめり。舊訓の如くマドヒとよみて可なり○繩トリツケ弓ヤカクミテは繩ヲトリツケラレ弓矢ニ圍マレテといふべきを辭長くてさはいひ難ければかくいへるにて歌には許されもすべし○ナハトリツケとあるを契沖は
  實にさる事はなけれどかゝる時には乘物などにも綱などをもかくべければそれをかくは云なるべし
といへり○ヒナベニマカルは土左國に赴くをいへり。ヒナべは夷の方なり。マツチ山は大和と紀伊との界にあり。カヘリコヌカモはカヘリコヨカシの意にて古義に
  眞土山より赦免を蒙りていかで歸り來よかしとの謂なり
(1133)といへる如し
 
おほきみのみことかしこみ(さしなみの)國にいでます耶わがせのきみを
 或本に之を一首の歌としたるは誤にて宣長の
  或人の説にこの王命恐云々は次なる長歌の初なり
といへる如し
1020・1021 おほきみの みことかしこみ (さしなみの) △△《トサ》(ノ)國に いでます耶《ヤ》 わがせのきみを かけまくも ゆゆしかしこし すみのえの あら人神 ふなのへに うしはきたまひ つきたまはむ 島のさきざき よりたまはむ 礒のさきざき あらき浪 風にあはせず 草〔左△〕管見《ツツミナク》 身〔□で圍む〕疾不△有《ヤマヒアラセズ》 すむやけく かへしたまはね  本《モトツ》國べに
王命恐見刺並之國爾出座耶吾背乃公矣
繁〔左△〕卷裳湯湯石恐石住吉乃荒人神船舳爾牛吐賜付賜將島之埼前依賜將(1134)礒乃埼前荒浪風爾不令遇草管見身疾不有急令變〔右△〕賜根本國部爾
 契沖は
  此歌は……人の紀州までなごりを惜みて送りてよめるに依て兩國は共に南海にてさしも遠からねばサシナミノ國とはよめるなるべし
といへり。案ずるに紀伊と土左とは海を隔てゝ相對したれど其距離頗遠きが上に今は近きをも遠しとはいふべく實際より近げにいひては哀ならず。古義に
  吉田正準が考にサシナミノの下に土左の二字を脱せしなるべし。さてサシナミノは枕辭にて戸といふ意に云係たるならむ。九卷にサシナミノトナリとよめるも同じ意のつづきなり。刺並之、土左國爾、出座耶を五言六言五言と句を絶てよみて調をなすべしと云へり。此説面白きことなり。されどしかしては出座耶の耶は助辭となるをかゝる處に耶の助辭ある例なく且いたく耳立て聞ゆれば今少しいかがなり。近江ノヤ湊ノヤなど云る例はあれども其とは異なればなり。猶考べし
といへり。右の正準の説いとおもしろし。雅澄はイデマスヤのヤを例なしといへれ(1135)どヲトメノナス夜《ヤ》イタドヲ(古事記上卷)サヒヅル夜《ヤ》カラ碓ニツキ(本集卷十六)カシコキ也《ヤ》ミハカツカフル(本集卷二)などと同例なるにあらずや○キミヲのヲは下なるカヘシと照應したるなり○アラ人神は形を現したまふ神をいふ。ウシハキは鎭座をいふ。ツキタマハム、ヨリタマハムは乙麻呂を敬して云へるなり○アラキ浪、風ニアハセズはアラキ浪、アラキ風ニ逢ハシメズなり。卷十九に出でたる贈2入唐使1歌には浪風を顛倒してアラキ風、浪ニアハセズと云へり。さて浪風を二句に割き然もトを以て繋がずしてアラキ浪風ニアハセズといへるは卷三なる安積皇子薨時歌(五七五頁)に梓弓ユギトリオヒテとあるに似、又同卷なる山前王哀傷作歌(五一五頁)にアヤメグサ花タチバナヲ玉ニヌキカヅラニセムトとあるに似たれど今はアラキといふ形容詞が浪と風とにかゝりたるなれば本來は二句に割くべからざるなり○草管見を宣長(玉勝間十二卷五丁)は草を莫の誤としてツツミナクとよめり。ツツミナクは後世のツツガナクなり○身疾不有を舊訓にヤマヒアラセズとよめるを契沖はミヤマヒアラセズと改訓せり。身は衍字、不の下に令の字おちたるにてなほ舊訓の如くヤマヒアラセズとよむべくおぼゆ○尾句は略解の如くモトツクニ(1136)ベニとよむべし。古義の如くモトノとよまむはわろし。さてモトツクニベニは本國ノ方ニなり○略解に
  此長歌の中イソノカミフルノ尊ハといへると其次なるは乙麻呂妻作歌と有べきを端詞の文字落しなるべし
といひ古義にも右の二首を乙麻呂の妻の歌とせり。乙麻呂の歌にあらざるは明なれど妻の歌とは斷定すべからず○繁は繋の誤なり。變は古書に反と通用せり
 此歌は卷十九に見えたる天平五年贈2入唐使1歌(作者不詳)と辭句いとよく似たり。思ふに今はそれに據れるなり
 
1022 父ぎみに われはまな子ぞ はは刀自に われは愛兒《マナゴ》ぞ 參昇《マヰノボル》 八十氏人の たむけ爲《スル》等 かしこの坂に ぬさまつり 吾はぞ追〔左△〕《マカル》 とほき土左ぢを
父公爾吾者眞名子叙妣刀自爾吾者愛兒叙參昇八十氏人乃手向爲等恐乃坂爾幣奉吾者叙追遠杵土左道矣
(1137) 此歌は乙麻呂の作なり○マナゴは古義にいへる如く愛兒といふ事なり。略解に實の子といふ也といへるは非なり。愛兒を略解に卷十六なる長歌に目豆兒之負とあるによりてメヅコとよめるを古義にメヅコといふこと倒もなきことなりといひて舊訓にマナゴとよめるに從ひ又卷十六なる目豆兒を女《メ》ツ兒《コ》の義とせり。さてそのマナゴゾの次にサルヲといふことを補ひてきくべし。略解に(古義にも)『メヅ子ゾの句の下猶句有べきを落しゝなるべし』といへるはうべなはれず○參昇は或はマヰノボリとよみ或はマヰノボルとよめり。契沖の改訓に從ひてマヰノボルとよむべし○手向爲の下なる等の字一本に無しといふ。其本によりてタムケスルとよむべし○カシコノ坂は即天武天皇紀に見えたる懼坂にて大和より河内に越ゆる峠なり。大日本地名辭書に『立野の西なる峠と字する坂なるべし』といへり。さて宣長は八十氏人ノ云々の二句をカシコノ坂の序としマヰノボルはカシコノ坂へつづく詞にて乙麻呂のまゐのぼるなりといひ雅澄は參昇をマヰノボリとよみて八十氏人ノマヰノボリテ手向スルカシコノ坂といふ意とせり。案ずるに兩説ともに非なり。參昇は前にも云へる如くマヰノボルとよむべくそのマヰノボルは八十氏人に(1138)屬せる辭にて鄙ヨリ大和ノ朝廷ニマヰノボル八十氏人ノ手向シテ越ユルカシコ坂ニといへるにてマヰノボルはやがて下なるマカルと對せるなり○追は宣長の退の誤としてマカルとよめるぞよろしき○土左ヂヲのヲは東海道ヲ下ルなどのヲなり(古義にはナルモノヲの意とせり)。土左ヂは土左に行く道なり
 
   反歌一首
1023 大埼の神の小濱は雖小《セマケドモ》百船純《モモフナビト》もすぐといはなくに
大埼乃神之小濱者雖小百船純毛過迩云莫國
 大埼は古義に
  紀伊國|海部《アマ》郡にありてよき湊なり。……今も土左の舟の往來に常に泊る所なり。古へも土左へ通ふにはかならず此大埼を通りしならむ
といへり。此長歌并に反歌によれば眞土山をば越えずしてかしこ坂を越えて河内を經て紀伊に出でしなり○雖小を舊訓にセバケレドとよめるを古義にセマケドモとよめり。いづれにてもあるべし○百船純は從來モモフナビトとよめり。(下にも百船純乃サダメテシとあり)。略解に『純一の意にてヒトのかなに借たるか』といへり。(1139)人を一と書ける例は卷九に一可知美《ヒトシリヌベミ》とあり○スグトイハナクニは古義に
  スギヌコトナルニの意なり。イフはオモフといふに同じく例の輕く添たる辭なり
といへる如く一首の意も古義にいへる如く
  此處は狹けれどいとおもしろくて百船も過ぎがてにするを我は罪ありて追ひやらるゝ身なればこゝに留まることもかなはず
と嘆けるなり○懷風藻に
  石上中納言者左大臣第三子也。地望清華人才穎秀。雍容間〔日が月〕雅、甚善2風儀1。雖v勗2典墳1亦頗愛2篇翰1。嘗有2朝譴1飄2寓南荒1。臨v淵吟v澤寫2心文藻1。逐有2銜悲藻〔三字傍点〕兩卷1。今傳2於世1云々
とありて
  五言飄2寓南荒1贈2在v京故友1一首 遼夐遊2千里1、徘徊惜v寸心、風前蘭送v馥、月後桂舒v陰、斜雁凌v雲響、輕蝉抱v樹吟、相思知2別慟1、徒弄2白雲琴1
など四首の詩を擧げたり
 
   秋八月二十日宴2右大臣橘家1歌四首
(1140)1024 長門なるおきつかり島おくまへてわがもふ君は千歳にもがも
長門有奥津借島奥眞經而吾念君者千歳爾母我毛
    右一首長門守|巨曾倍《コソベ》(ノ)對馬朝臣
 初二は序。任國の名所を以て序とせるなり○オクマヘテは卷十一にアフミノミオキツシマヤマオクマヘテワガモフ妹ガコトノシゲケクとあり。大切ニといふ事なり(契沖は奥フカク、千蔭雅澄は深メテと譯せり)。卷三(四六二頁)にアキツ羽ノ袖フル妹ヲタマクシゲオクニオモフヲミタマヘ吾君とあるオクニオモフと同じ○チトセニモガモは千年モオハシマセとなり。はやく卷五(九九〇頁)にも千トセニモガトオモホユルカモとあり
 
1025 おくまへて吾をおもへる吾背子は千とせ五百とせありこせぬかも
奥眞經而吾乎念流吾背子者千年五百歳有巨勢奴香聞
    右一首右大臣和歌
 巨曾倍對馬にむかひてワガセコといへるなり。アリコセヌカモはアツテクレヨカ(1141)シとなり
 
1026 ももしきの大宮人はけふもかも暇をなみと里にゆかざらむ
百磯城乃大宮人者今日毛鴨暇無跡里爾不去將有
    右一首右大臣傳云故豐島采女歌
 前の二首は席上の贈答なれど此歌と次の歌とは當日の作にあらず。談話の間に主人右大臣が故豐島(ノ)釆女の作なりといひて此歌を客に傳へ、それに次ぎて高橋安麻呂がこれも亦其釆女の作なりといひて次の歌を誦せしなり。代匠記に
  此は釆女が此宴の時讀けるを釆女が死して後右大臣の家持に語りたまへるなり云々
といひ古義に
  これは此宴席に誦けるを右大臣後に家持にかたられけるを記したるなり(○雅澄は釆女が其舊作を誦せし如く心得たるなり)
といへるは右大臣傳云とあると次の歌の左註に然則豐島釆女當時當所口2吟此歌1(1142)歟とあるとを誤解せるなり
 イトマヲナミトのトは例の如く省きて見べし○里は古義にいへる如く宮城の外なり〇一首の意は今日モ公事ノ暇ガナサニ宮城ノ外ヘ出デザラムカといへるなること古義にいへる如し○結句は一本に里再不出〔右△〕將有(サトニイデザラム)とあり
 
1027 橘のもとに道履《ミチフム》やちまたに物をぞおもふ人にしらえず
橘本爾道履八衢爾物乎曾念人爾不所知
    右一首右大弁高橋安麻呂卿語云。故豐島采女之作也。但或本云。三方沙彌戀2妻苑臣1作歌也。然則豐島采女當時當所口2吟此歌1歟
 初二は序なり。道履の二字、從來多くはミチフミとよみたれど略解の如くミチフムとよむべし。ミチフムソノヤチマタニといふ意なり○左註に三方沙彌の歌とあるは卷二(一七三頁)に出でたるタチバナノ蔭フム道ノヤチマタニモノヲゾオモフ妹ニアハズテといふ歌なり○又左註に當時當所といへるは安麻呂ノ聞キシ時聞キシ處といふ意なり。天平十年秋八月右大臣橘卿家ニテといふ意にあらず。又左註は(1143)後人の書けるにあらず。もし後人の書けるものならば但或本云といはで但本集卷第二云といふべければなり
 
   十一年己卯天皇遊2※[獣偏+葛]高圓野1之時小獣泄2走堵里之中1於v是適値2勇土1生而見v獲即以2此獣1獻2上御在所1副歌一首【獣名俗曰牟射佐妣】
1028 ますらをのたかまと山にせめたれば里におり來流《ケル》むささびぞこれ
大夫之高圓山爾迫有者里爾下來流牟射佐妣曾此
    右一首大伴坂上郎女作v之也。但未v逕《ヘ》v奏而小獣死斃。因v此獻v(コトハ)歌停v之
 題辭の俗曰の俗は邦語といふことなり。漢文にて書ける故に俗とはいへるなり○セメタレバはオヒツメタレバといふこと○來流を舊訓にクルとよめるを古義にケルと改めたるは可なれど『ケルはキケルのつづまりたるなり』といへるは非なり。後世の來タルにあたれり
 
   十二年庚辰冬十月依2太宰少貮藤原朝臣廣嗣謀v反發1v軍幸2于伊勢(1044)國1之時河口(ノ)行宮(ニテ)内舍人大伴宿禰家持作歌一首
1029 河口の野邊にいほりて夜のふれば妹がたもとしおもほゆるかも
河口之野邊爾廬而夜乃歴者妹之手本師所念鴨
 夜ノフレバは夜ノカサナレバなり(略解)
 
   天皇御製歌一首
1030 (妹にこひ吾《ワガ》)乃〔左△〕松原《マツバラユ》みわたせばしほひの潟にたづなきわたる
妹爾戀吾乃松原見渡者潮干乃潟爾多頭鳴渡
    右一首今案吾松原在2三重郡1。相2去河口行宮1遠矣。若疑御2在朝明行宮1之時所v製御歌(ニテ)傳者誤v之歟
 第二句は舊訓にワガノマツバラとよめるを宣長は乃を自の誤としてワガマツバラユとよめり。此説によるべし。イモニコヒワガの七言は二句に跨りてマツにかゝれる枕辭なり。卷十七にもワガセコヲ安我《アガ》松原|欲《ヨ》ミワタセバといふ歌あり○古義に
(1145)  河口行宮作とあるは初家持卿のよめる一首の題にこそあれ此大御歌より次下なるは伊勢國に行幸し時のを廣くいへるにて何處にての作といふことを細に記さざればみよみませ〔左△〕し處をばさだかにはしるべからず
といへり○左註は吾松原といふ地名とし又御製ありし處をおばつかなみたるを思へば家持の筆にあらで後人の筆なること明なり
 
   丹比《タヂヒ》屋〔左△〕主眞人歌一首
1031 おくれにし人を思久《シヌバク》しでの埼ゆふとりしでてゆかむとぞおもふ
後爾之人乎思久四泥能埼木綿取之泥而將住〔左△〕跡其念
 古義に續紀に丹治比眞人屋主と丹治比眞人家主とある家主は此度の行幸に從駕せし由見え屋主は見えざればこゝに屋主とあるは家主の誤なりといへり
 オクレニシ人は故郷ニ殘ツタ人といふ意にて妻を指せるなり○思久は舊訓にオモハクとよめるを古義にシヌバクに改めて慕フヤウハといふ意なりといへり。さらば卷三(五一五頁)なるカヨヒケマクハと同格とすべけれど余は卷四(七七〇頁)なるツミテコフラクワガ心カラのコフラクと同格としてシノブコトヨと譯すべし(1146)と思ふなり○シデノ埼は四日市の東北なる羽津の海岸なりといふ。シデノ埼は枕辭におけるにあらず。シデノ埼とトリシデテと音の重なれるは自然の文《アヤ》なり〇一首の意は古義にいへる如く志※[氏/一]神ニ幣ヲ奉リテ恙ナク家ニ歸ラムコトヲ祈リテ往カムといへるなり。しでの埼には志※[氏/一]神社あるなり○住は往の誤なり
 此歌の次に
  右案、此歌者不v有2此行宮之作1乎。所2以然言1v之勅2大夫1從2河口行宮1還v京勿v令2從駕1焉。何有d詠2思泥埼1作歌u哉
とあり。後人の書添なる事しるし
 
   狹〔左△〕殘2行宮1大伴宿禰家持作歌二首
1032 おほきみのいでましのまにわぎもこがたまくらまかず月ぞへにける
天皇之行幸之隨吾味子之手枕不卷月曾歴去家留
 題辭の狹殘を久老はササムとよみて古書に見えたる狹々牟江宮と同處なりとせり。されど音訓を取合せたりとせむは快からざる上に殘の音はサンにてサムにあらねば此説は信じがたし。關|政方《マサミチ》の傭字例【十三丁】にも『殘は舌内聲なり。佐牟と脣内には(1147)呼べからず』といへり。古義には狹を獨の誤として獨行宮ニ殘リテとよめり。しばらく此説に從ふべし。さて此行宮はいづくのにか知りがたし○第二句のマニは即マニマニなり。卷四(六六七頁)にもオホキミノイデマシノマニとよめり
 
1033 みけつ國しまのあまならし眞熊野の小船にのりておきべこぐみゆ
御食國志麻乃海部有之眞熊野之小船爾乘而奥部榜所見
 上(一〇四四頁)にもミケツ國ヌジマノアマノ船ニシアルラシとあり。御饌ヲ奉ル國といふ意にて志麻にかゝれり○マクマ野ノ小船も上(一〇五四頁)にヤマトヘノボルマクヌノ船とあり。熊野式の船といふことなり
 
   美濃國多藝行宮大伴宿禰東人作歌一首
1034 いにしへゆ人のいひ來流《クル》おい人の變若《ヲツ》ちふ水ぞ名におふ瀧の瀬
從古人之言來流老人之變若云水曾名爾負瀧之瀬
 所謂養老瀧をよめるなり○來流を古義にケルとよめるはわろし。なほ舊訓の如くクルとよむべし○變若は舊訓にワカユとよめれど古義にヲツとよめるに從ふべ(1148)し。但語意は若返る事なり(卷三【四三六頁】參照)○名ニオフは實の名に副ふなり。古義に『ここの地名に負ると云ことなり』といへるは自他さへたがひていみじき誤なり
 
   大伴宿禰家持作歌一首
1035 たど河の瀧をきよみかいにしへゆ宮つかへけむたきの野の上《ヘ》に
田跡河之瀧乎清美香從古宮仕兼多藝乃野之上爾
 ミヤツカヘケムは宣長のいへる如く行宮ヲ造リ奉リケムといふ意なり○ヌノヘは野邊なり。卷二(三一九頁)にも野上《ヌノヘ》ノウハギスギニケラズヤとあり
 
   不破行宮大伴宿禰家持作歌一首
1036 關なくばかへりにだにもうちゆきて妹がたまくらまきてねましを
關無者還爾谷藻打行而妹之手枕卷手宿益乎
 關は不破關なり○カヘリニダニモは契沖の『俗に立皈リニ行テ來ムなど云詞なり』といへる如し。ウチは添辭、マクは枕にする事○卷十七に見えたる同じ人の述2戀緒1歌にも近カラバ、カヘリニダニモ、ウチユキテ、妹ガタマクラ、サシカヘテ、ネテマシモ(1149)ノヲとあり
 
   十五年癸未秋八月十六日内舍人大伴宿禰家持讃2久邇京1作歌一首
1037 今つくる久邇のみやこは山河の清見者《サヤケキミレバ》うべしらすらし
今造久邇乃王都者山河之清見者芋倍所知良之
 遷都は十二年十二月に行はれしにて今ツクルといへると合はざるやうに聞ゆるによりて雅澄は例を引きてイマは新ニといふ意なりといへり○第四句は舊訓にキヨクミユレバ、略解にキヨキヲミレバ、古義にサヤケキミレバとよめり。上(一〇三三頁)に河瀬乃淨乎見者とあるを思へばキヨキヲミレバとよむべきに似たれどここには乎の字なく又卷二十に夜麻加波乃佐夜氣吉見都都とあればサヤケキミレバとぞよむべからむ○結句はウベ大宮トシロシメスラシとなり
 
   高丘(ノ)河内《カフチ》(ノ)連歌二首
1038 故郷は遠くもあらず一重山こゆるがからにおもひぞわがせし
(1150)故郷者遠毛不有一重山越我可良爾念曾吾世思
 フルサトは契沖のいへる如く寧樂なり。寧樂より久邇の新京に來る途にてよみて寧樂なる友に寄せしなり○コユルガカラニは越ユルカラニなり。卷十四にも惠麻須我可良爾とあら。今も云々スルガ〔右△〕故ニなどいふと同格なり。さてコユルカラニはコユルママニなり○オモヒゾワガセシは故郷ヲコヒシクゾ思ヒシとなり。思ヘバ故郷ハ遠クモアラヌヲ云々の意なり
 
1039 吾背子とふたりし居者《ヲラバ》山たかみ里には月はてらずともよし
吾背子與二人之居者山高里爾者月波不曜十方余思
 第二句の居者を從來ヲレバとよみたれど改めてヲラバとよむべし。山といへるは春日山なるべし。舊都ハ新都トチガツテ東ニ高山ガアツテ月ノ出ガ遲イガ君卜一緒ニ居ルナラソレモ不足ニ思フマイといへるなるべし○ヨカラムといふべきをヨシといへるは當時の辭遣なり
 
   安積親王宴2左少辨藤原八束朝臣家1之日内舍人大伴宿禰家持作(1151)歌一首
1040 (ひさかたの)雨は零敷《フリシケ》おもふ子がやどにこよひはあかしてゆかむ
久堅乃雨者零敷念子之屋戸爾今夜者明而將去
 卷三の末に此安積皇子の薨ぜし時家持の悲みて作りし歌を載せたり○零敷は舊訓にフリシクとよめるを古義にはフリシケとよめり。之に從ふべし○オモフ子は契沖『八束朝臣を指せり』といひ略解古義共に之に從ひたれど接待に出でたる侍女を指して云へるにあらざるか。略解に
  又おもふに相聞の古歌なるを其時誦したるならむか
といへれど本集の編者が自己の歌を記すに誦せしを誤りて作歌と書くべけむや
 
   十六年甲申春正月五日諸卿大夫集2安倍蟲麿朝臣家1宴歌一首(作者不審)
1041 わがやどの君まつの樹にふる雪のゆきにはゆかじまちにしまたむ
吾屋戸乃君松樹爾零雪乃行者不去待而將待
(1152) 上三句は序なり。四五句はムカヘニハユカジ居ナガラ待タムといふ意なり。ユクをユキニユクといひマツをマチニマツといふは意を強めていふなり。上(一一一四頁)に春サレバヲヲリニヲヲリといへる類なり○題辭の下に作者不審とあるは後人の附記なり。ワガヤドノ君マツノキといひマチニシマタムといへるを見れば主人即安倍蟲麻呂の歌なる事明なり。古義に宴にあづかれる人の歌とせるは附記の四字に誤られたるなり。歌釋も誤れり。古事記輕大郎女のムカヘヲユカム、マ都ニハマタジを藍本とせる事前註にいへる如し(卷二【一三二頁】參照)
 
   同月十一日登2活道《イクヂ》岡1集2一株松下1飲歌二首
1042 ひとつ松いく代かへぬるふく風の聲の清者《キヨキハ》年ふかみかも
一松幾代可歴流吹風乃聲之清者年深香聞
    右一首市原王作
 ヒトツ松は一本松○年フカシは卷三(四六三頁)に年フカミ池ノナギサニミクサオヒニケリ又卷四(七一七頁)に年フカク長クシイヘバとあり。年久シクといふ事なり(1153)○第四句は從來コヱノスメルハとよみたれど聲ノキヨキハとよむべし
 
1043 (たまきはる)いのちはしらず松が枝をむすぶこころは長くとぞもふ
靈剋壽者不知松之枝結情者長等曾念
    右一首大伴宿禰家持作
 卷一なる君ガ世モアガ世モシラムイハシロノ岡ノ草根ヲイザムスビテナ(二二頁)卷二なるイハシロノ濱松ガエヲヒキムスビマサキクアラバマタカヘリミム(一九五頁)などの例を思へばいにしへ草木を結びて喪なく事なからむを冀ふ呪ありしなり。漢土にて別に臨みて柳を綰ぎし(離別河邊綰2柳條1、千山萬水玉人遙などいへり)と同系統なる俗信なるべし○イノチハシラズは天壽ハイカバカリカ知ラネドといふ意なるべく、ナガクトゾモフは長カレカシト冀フナリといふ意なり
 
   傷2惜寧樂京荒墟1作歌三首(作者不審)
1044 (くれなゐに)ふかく染にしこころかも寧樂のみやこに年之歴去倍吉〔二字左△〕
紅爾深染西情可母寧樂乃京師爾年之歴去倍吉
(1154) クレナヰニは前註にいへる如くフカク染ニシの枕辭なり○染は舊訓にソメとよめるを契沖は
  第二十に之美爾之許己呂とあれば今も然よむべきか
といへり。結句はこのまゝならば舊訓の如くトシノヘヌベキとよまむ外なし。さて略解にそのヘヌベキを經ヌベク思ハルルと譯し古義にココロカモを心カラカモの意なりと註せり(はやく代匠記に心ユヱカと譯せり)。案ずるに歴去倍吉は歴去禮者などの誤字にあらざるか。もし然らば二三は辭のまゝにカク深ク染ミニシ心カモと心得べく、そのココロノシムは寧樂ノ都ニ心ノ染ムなり
 
1045 世のなかを常なきものと今ぞしる平城《ナラ》のみやこのうつろふみれば
世間乎常無物跡今曾知平城京師之移徙見者
 ウツロフはカハルなり
 
1046 (いは綱の)また變若反《ヲチカヘリ》(あをによし)奈良のみやこを又|將見鴨《ミナムカモ》
石綱乃又變著〔左△〕反青丹吉奈良乃都乎又將見鴨
(1155) 變若反(著は若の誤)は久老のヲチカヘリとよめるに從ふべし。こゝにてはわかがへる事なり(卷三【四三六頁】參照)○結句を舊訓にマタモミムカモとよめるを古義にマタミナムカモに改めたり。之に從ふべし、〇代匠記に
  我身老て蔦(○岩づな)の如く得若ゆまじければ寧樂京のもとの如く立かへり榮ゆるを見ざらむ事を歎てよめるなり
といへり○此歌にマタといふ語二つあり○卷三(四三五頁)にワガサカリマタヲチメヤモホトホトニナラノミヤコヲミズカナリナムといふ歌あり
 
   悲2寧樂故京〔□で圍む〕郷1作歌一首并短歌
1047 (やすみしし) わがおほきみの 高しかす 日本《ヤマト》の國は すめろぎの 神の御代より しきませる 國にしあれば あれまさむ 御子のつぎつぎ 天の下 しろし座跡《イマスト》 八百よろづ 千年をかねて 定めけむ 平城《ナラ》のみやこは (かぎろひの) 春にしなれば かすが山 御笠の野邊に 櫻花 このくれがくり かほ鳥は まなくしば鳴 (露霜(1156)の) 秋さりくれば 射鉤山 とぶひが塊〔左△〕《ヲカ》に はぎのえを しがらみちらし さをしかは 妻よび令動《トヨム》 山みれば 山もみがほし 里みれば 里もすみよし (もののふの) 八十とものをの うちはへて 思〔左△〕《サト》なみしけば 天地の よりあひの限《カギリ》 よろづ世に さかえゆかむと 思ひにし 大宮すらを たのめりし ならのみやこを 新《アラタ》世の 事にしあれば おほきみの ひきのまにまに (春花の) うつろひかはり (むら鳥の) あさたちゆけば (さす竹の) 大宮人の ふみならし かよひし道は 馬もゆかず 人もゆかねば あれにけるかも
八隅知之吾大王乃高敷爲日本國者皇組乃神之御代自敷座流國爾之有者阿禮將座御子之嗣繼天下所知座跡八百萬千年矣兼而定家牟平城京師者炎乃春爾之成者春日山御笠之野邊爾楼花木晩牢貌鳥者間無數鳴露霜乃秋去來者射鉤山飛火賀塊丹芽乃枝乎石辛見散之狹男牡鹿者妻(1157)呼令動山見者山裳見貌石里見者里裳住吉物負之八十件緒乃打經而思並敷者天地乃依會限萬世丹榮將牲迹思煎石大宮尚矣恃有之名良乃京矣新世乃事爾之有者皇之引乃眞爾眞荷春花乃遷日易村鳥乃旦立往者刺竹之大宮人能蹈平之通之道者馬裳不行人裳往莫者荒爾異類香聞
 題辭の京の字諸本に無し。目録には悲寧樂京故郷作歌とあり
 タカシカスはタカシクの敬語、そのタカシクはヒロシク、フトシクなどと同じくて領じたまふ事なり○ヤマトは日本と書きたれど大和なり○スメロギノ神は御祖先なり○シキマセルはタカシカスと同意○アレマサム御子ノツギツギは生レ給ハム御子ノ御代々なり。座跡は從來マサムト、メサムトとよめり。イマストとよむべきか○ヤホヨロヅチトセヲカネテは永キ代ヲカケテといふこと○御笠ノ野邊ニはカホドリノマナクシバナキにかかれり○サクラバナはサクラ花ノとノを補ひて聞くべし○コノクレガクリはコノクレ即木陰ニカクレテとなり。卷三なる長歌(三六八頁)にもサクラ花コノクレシゲミとあり○鳴の字は略解にナキとよめるに(1158)從ふべし(舊訓及古義にはナクとよめり)○射鉤山は舊訓にイコマヤマとよめり。鉤の字一本に駒とありといふ。契沖は伊駒山に烽《トブヒ》を置かれし事なしといひ、眞淵はもとのまゝにてヤツリヤマとよみ、宣長は羽飼の誤字として『卷十に春日ナル羽買ノ山ユ云々とよめり』といへり。元明天皇紀に始置2……大倭國春日烽1と見え又古今集にカスガ野ノトブ火ノ野守云々とよみたれば春日にとぶ火を置かれしは確なれどその春日山のうちに羽買といふ山ありといふのみの理由にて射鉤を羽飼の誤字とせむはあまりに武斷なり。なほ下にいふべし○塊は一本に※[山/鬼]とありといふ。略解に之をヲカとよみ古義にタケとよめり。奈良附近にタケといひつべき山はあらねば否此山は春日連山中の一丘陵なるべければ略解に從ひてヲカとよむべし。
  古義に『さて此山は鹿野苑《ロクヤヲン》の東にありて今鉢伏といふとぞ』といへるは並河永の大和志に烽火山者在2鹿野苑東1山中有2民居1名2鉢伏1とあるによれるなるべけれど志の文意にては鉢伏は村の名なり
 此山今何といふ山に當るにか。果して大和志にいへる如く鹿野苑の東なる山なりや。そはなほ研究を要すれど射鉤は文字のままにイツリとよみて其山の古名とす(1159)べく
  釣はツリバリなり。ツリバリをいにしへツリといひき。箋註倭名類聚抄卷五調度部漁釣具の下に
   按ずるにツリは魚を釣るを謂ふ。紀、字鏡是なり。轉じて以て釣る所の鉤を謂ひて亦ツリと謂ふ。曾我物語にツリを含む魚と云へる是なり。神代紀に鉤をチと訓めり。即ツリの急呼なら。古説にチを以てツリバリの急呼とし本居氏のトリの急呼とせる並に非なり。後俗ツリバリと呼ぶ。神功紀に鉤をツリバリと訓める恐らくは古に非ざるなり(○もと漢文)
といへり
 さてイツリに射鉤の文字を當てたるは左傳※[人偏+喜]公廿四年に齊(ノ)桓公置2射《セキ》鉤1而便2管仲(ヲ)相(タラ)1とあり又文選劉※[王+昆]重(ネテ)贈2廬※[言+甚]1詩に重耳任2五賢1小白相2射《セキ》鉤1とあるなどによれるならむ○シガラムといふこと今の情にては萩ガ鹿ヲシガラムとはいふべく鹿ガ萩ヲシガラムとはいふべからざるに似たれどこゝにハギノエヲシガラミチラシとあり又古今集秋上に秋ハギヲシガラミフセテナク鹿ノとあるを思へばシガラム(1160)といふ語の意今日とは少し異なるにてオサヘツケなど譯すべきに似たり。さてシガラミチラシは古義に『或ハシガラミ或ハ散シの意なり』といへるは非なり。シガラミテチラスなり○令動は舊訓以下トヨメとよめれどトヨムとよみてこゝにて切るべし。今の字は衍字にてもあるべく又ありても妨なし○ヤソトモノヲは文武百官なり○ウチハヘテはハルバルトなり。之を時間の延長と見て代匠記にユク末ヲ兼テ長ク云々といへるは非なり(略解古義には説なし)。ゆく末の事は下にアメツチノ云々といへり○思の字一本に里とありといふ。里は上にイトマヲナミト里ニユカザラムとある里にて私邸の意、ナミシクは相並びて占むるなり○アメツチノヨリアヒノカギリは卷二(二二二頁)にアメツチノヨリアヒノ極とあるに同じ(略解古義にこゝをもキハミとよめり)。永久ニといふことなり○大宮スラヲのスラは主語を強むる辭なり(卷五【九七〇頁】サムキ夜スラヲ參照)。オホ宮スラヲ、ナラノミヤコヲの二つのヲはナルヲなり○新世《アラタヨ》は現代をたゝへて云へるなり(卷三【五八〇頁】參照)。さてアラタ世ノ事ニシアレバは卷三(五八二頁)及卷五(八六七頁)に世ノ事ナレバとあるとおなじく世ノ習ナレバといふことなり〇ヒキノマニマニは記傳卷十一(六二三頁)に
(1161)  こゝは京を引遷したまふを云に非ず。引率テ往タマフマニマニといふことなり
といへり。卷十九にもウツセミノ、ヨノコトワリト、マスラヲノ、ヒキノマニマニ、シナザカル、コシヂヲサシテ云々とあり○ウツロヒカハリは移轉する事なり。さてウツロヒカハリといひアサタチユケバといへるは諸人の上なり。自身の上にあらず○フミナラシのナラシは道の高低を平均する事なり○此歌は奈良にとどまれる人のよめるなり
 
   反歌
1048 たちかはりふるきみやことなりぬれば道のしば草長くおひにけり
立易古京跡成者道之志婆草長生爾異梨
 略解に『長歌に春花ノウツロヒカハリといふをくり返してよめり』といへるは非なり。長歌のウツロヒカハリは人が移るなり。ここのタチカハリは都が替るなり。古義に『タチカハリは建替といふなり』といへるは非なり。タチは略解にいへる如く添辭なり
 
(1162)1049 なづきにし奈良のみやこのあれゆけばいでたつごとになげきしまさる
名付西奈良乃京之荒行者出立毎爾嘆思益
 ナヅキニシはナジミニシといふ事にて卷一(一二〇頁)なるニキビニシに同じ○ナゲキシマサルは嘆ガマサルなり○イデタツは道ニ出立ツなり
 
   讃2久邇新京1歌二首并短歌
1050 あきつ神 わがおほきみの 天の下 八島の中に 國はしも 多くあれども 里はしも さはにあれども 山並の よろしき國と 川次の たちあふさとと 山代の 鹿脊山のまに 宮柱 太敷奉〔左△〕《フトシキタテテ》 たかしらす 布當《フタギ》の宮は 河ちかみ せのとぞ清き 山ちかみ 鳥がね慟〔左△〕《トヨム》 秋されば 山もとどろに さを鹿は 妻よびとよめ 春されば 岡邊もしじに 嚴には 花さきををり 痛※[立心偏+可]怜《アナアハレ》 ふたぎの原 甚貴《イトタフト》 大宮どころ うべしこそ 吾おほきみは 君之〔二字左△〕隨《カムナガラ》 きこした(1163)まひて (さす竹の) 大宮ここと 定めけらしも
明津神吾皇之天下八島之中爾國者霜多雖有里者霜澤爾雖有山並之宜國跡川次之立合卿〔左△〕跡山代乃鹿脊山際爾宮柱太敷奉高知爲布當乃宮者河近見湍音叙清山近見鳥賀鳴慟秋去者山裳動響爾左男鹿者妻呼令響春去者罔〔左△〕邊裳繁爾巖者花開乎呼理痛※[立心偏+可]怜布當乃原甚貴大宮處諾己曾吾大王宮君之隨所聞賜而刺竹乃大宮此跡定異等霜
 アキツ神は准枕辭。ワガオホキミノは十二句を隔てて宮柱大敷奉高知爲にかゝれり○山ナミノヨロシキ國トのクニは郷なり○川次は略解に
  山並といふに同じく川々のつづけるをいふ也。されば立合サトといへり。立は詞のみ
といへり。されどこのわたり川々といふばかり川は多からす。此都は泉川の沿岸にありしなるが附近には和束川といふ川ありて北より南へ流れて右の泉川に入れるのみ。上(一〇三四頁)なる山部宿禰赤人作歌に河次ノキヨキ河内ゾとある河次は(1164)河波の意にて次と書けるは誤字とおぼゆ。されどこゝは山並に對したればなほ文字の如き意ともおぼゆ。輕々しく定めがたし。追ひて考へてむ○山ノマは卷一(三四頁)にナラノ山ノ山ノマニイカクルマデ、卷三(五七九頁)に山シロノサガラカ山ノ山ノマヲユキスギヌレバとあり。山の間なり○フトシキ奉の奉を舊訓にタテテとよめり。訓は然るべし。字は誤にあらざるか○フタギノ宮は略解に『此地瀧川の二すぢ落合所にて二たきの意なるべし』といへり。名の起は右の如くにもあれ下にフタギノ原ともフタギノ野ベともあるを見れば、もとより地名をフタギといひしにて宮の名はその地名によれるなり。否宮の公稱は大ヤマトクニノ大宮なるを略してクニノ宮ともいひ又私にフタギノ宮ともいひしなり○慟は略解に動の誤なるべしといへり。トヨムとよむべし。トヨムはトドロクにて次なるトヨメはトドロカシなり○イハホニハ花サキヲヲリは巖ノ上ニハ花サキナビキテとなり○痛※[立心偏+可]怜は略解にアナアハレ又アナニヤシとよみ古義にアナオモシロとよめり。卷三(五〇三頁)にコノタビト※[立心偏+可]怜《アハレ》とあるを例としてアナアハレとよむべし○甚貴は古義に從ひてイトタフト、とよむべし(略解にはアナタフト)○君之隨は略解にキミノマニとよ(1165)みて神ナガラといふに同じといへり。神隨《カムナガラ》の誤字にあらざるか○大宮ココトは大宮ヲ此處トとなり
 
   反歌二首
1051 三日の原ふたぎの野邊をきよみこそ大宮どころさだめけらしも
三日原布當乃野邊清見社太〔左△〕宮處定異等霜
 大宮ドコロは大宮とは異なり。大宮の處にて即都なり。異本に一云ココトシメサセとあるシメサスもやがて定むるなり
 
1052 弓〔左△〕高來〔左△〕《ヤマタカミ》川のせきよし百世まで神之味《カムシミ》ゆかむ大宮所
弓高來川乃湍清石百世左右神之味將往大宮所
 初句は舊訓にヤマタカクとよめり。略解に
  先人(○枝直)云。山の草書の弓となれる也といへり。此集もと今の如く楷書ならねば草書より見誤れることすくなからず
といへり。之に從ふべし。來は未の誤なるべし○神之味は契沖『カミシミとよみて神(1166)サビと同じう意得べし』といへり。字音辨證上卷二四頁に
  之の呉(ノ)原音サイを省呼したるにてサビとよむべし
といへるは從はれず
 
1053 わがおほきみ 神の命の たかしらす ふたぎの宮は (百樹成《モモキモリ》) 山はこだかし おちたぎつ せのとも清し うぐひすの きなく春べは 嚴には、山したびかり (錦なす) 花さきををり さを鹿の 妻よぶ秋は (あまぎらふ) しぐれをいたみ (さにづらふ) 黄葉ちりつつ 八千とせに 安禮衝之乍《アレツガシツツ》 天の下 しろしめさむと 百代にも かはるべからぬ 大宮處
吾皇神乃命乃高所知布當乃宮者百樹成山者木高之落多藝都湍音毛清之鶯乃來鳴春部者巖者山下耀錦成花咲乎呼里左壯〔左△〕鹿乃妻呼秋者天霧合之具禮乎疾狹丹頬歴黄葉散乍八千年爾安禮衝之乍天下所知食跡百代爾母不可易大宮處
(1167) 百樹成は舊訓にモモキナスとよめり。然ナスとよまむに下なるニシキナスなどのやうにゴトクと譯して通ぜざれば誤字又は誤訓にあらざるかとは誰も思ふことなり。宣長は成を盛の誤字としてモモキモル(略解に引けり)又はモモキモリ(詔詞解二卷七丁)とよみて『モルは茂る事にて森の用語なり』といへり。されど成と盛とはいにしへ通用したれば(訓義辨證上卷一三頁)強ひて誤字とするに及ばず。ただこのままにてモルともモリともよむべし。然らばモルとよまむかモリとよまむかといふにこゝは山の枕辭と見ゆればイサナトリ海などの例に倣ひてモモキモリとよむべし○コダカシは木が高きなり○山下ヒカリはふと見れば山ノ下ガヒカリといふことの如くおもはるれど山下ノアケノソホ舟といひて山下をアケの枕辭としたる例あり(卷三【三七九頁】)又にほふ事をシタブルといひ(卷二【三一〇頁】)神の名にも秋山ノシタビヲトコといふあり(これもシタブル男といふ意なり)。よりて宣長(記傳三十四【全集七二頁】)は
  シタビはアシタビのアを省けるにて紅葉が朝の天の如く赤きをいふ。山シタノアケノソホ舟又こゝの山シタヒカリの如くただシタといふは更にシタビのビ(1168)を省けるなり(採要)
といへり。シタがアシタビの首尾を省けるなりといふ説はうなづかれねど、げに山シタヒカリは山の下が光るといふ事にはあらで山が照りかがやく事と思はる。されば山シタ、ヒカリとは切らでヤマ、シタヒカリと切りてよむべく、なほシタデルの例にならひてシタビカリとヒを濁りて唱ふべし。さて宣長はシタビカリを紅葉にのみいふこととし、さては今の歌に春の花をいへるにかなひがたければ
  ただニシキナスの序にて歌の意には與からず
といへり。今格調を案ずるにヤマシタビカリは花サキヲヲリにかゝれり。されば宣長がニシキナスの序とせる説は斥くべく從ひて雅澄のいへる如く山シタビカリは秋の紅葉にも春の花にもいふ辭とすべし○アマギラフは空の曇る事、サニヅラフは赤く匂ふ事にて共に枕辭なり○安禮衝之乍は卷一(九六頁)にもフヂ原ノ大宮ヅカヘ安禮衝哉〔左△〕《アレツガム》ヲトメガトモハトモシキロカモとあり。契沖は生繼なりといひ宣長(玉勝間卷十一)は
  アレは……奉仕るをいへる言也。衝は……イツキのイを省ける言なり。…(1169)…然るに此言を生繼と解たるはいみじきひがごと也。……繼と衝とはクの清濁も異なるをいかでか借用ひむ
といへり。件信友の瀬見の小川卷二(全集第二の二五八頁)にも一説あり。就いて見るべし。案ずるに安禮衝はなほ生繼の意とすべし。即天皇ノ生レ繼ギ給ヒツツといふ意なり。抑繼はもとツクと清みてとなへしにあらざるか。さて此集の出來し頃には既にツグと濁るやうになれるをなほアレツクなどいふ古語の時にはもとのまゝにツクと清みて唱へしかば繼とは書かで衝の字を借り用ひたるにはあらざるか。又清音を濁音に借り用ひたるにてもあるべし(卷一【九六頁】參照)。因にいふ本集に見えたる歌語を悉く其世に行はれし語と思はむは非なり。本集の歌には往々古語を用ひたり。否長歌にはつとめて古に擬したる跡あり○モモ代ニモカハルベカラヌは契沖のいへる如く文選枚乘諫2呉王1書に臣願王熟計而身行v之、此百代不易之道也とある百代不易を邦語にうつせるなり○壯は牡の誤なり
   反歌五首
1054 泉川ゆく瀬の水のたえばこそ大宮どころうつろひゆかめ
(1170)泉川往瀬乃水之絶者許曾大宮地遷往目
 水ノ絶エザラム限コノ大宮地モウツロヒユカジとなり。ウツロヒユクは上なるタチカハルにおなじ
 
1055 ふたぎやま山なみみれば百代にも易るべからぬ大宮どころ
布當山山並見者百代爾毛不可易大宮處
 フタギ山はカセ山の別名とおぼゆ
 
1056 をとめらがうみをかく【とち】ふ鹿脊の山時|之《シ》ゆければみやことなりぬ
娘嬬等之續麻繋云鹿脊之山時之往者京師跡成宿
 ヲトメ等ガ續麻《ウミヲ》ヲカクルカセといひ下して序とせりと略解にいへる如し。※[木+峠の旁]はより合せたる麻絲をかくる具なり。又カセヒ又カセギといふ○時之は古義に從ひてトキシとよむべし。トキシユケレバは時シ來ヌレバの意なり(契沖)
 
1057 かせの山樹立をしげみ朝さらずきなきとよもすうぐひすのこゑ
鹿脊之山樹立矣繁三朝不去寸鳴響爲※[(貝+貝)/鳥]之音
(1171) 朝サラズは朝ゴトニなり(略解)。トヨモスはトヨムルにおなじくてトドロカスといふことなり
 
1058 こま山になくほととぎす泉河わたりをとほみここにかよはず【一云わたりとほみやかよはざるらむ】
狛山爾鳴霍公鳥泉河渡乎遠見此間爾不通【一云渡遠哉不通有武】
 霍公の聲の遠く聞ゆるを故ある如くいひなせるなり。ワタリは河の渡津なり○カヨハズといふよりはカヨハザルラムといふ方まされり。然るにカヨハザルラムといへば文字餘りてココニの三言を割愛せざるべからず。されば一云の方にも定めかねて二つながら存せるなり○略解に
  長歌は春秋をのみいへるを反歌にほととぎすをよめるはつきなし。此一首別の歌なるべし。反歌五首とはじめにあれどもすべて歌數を書るにはとられぬ事處處にあり
といひ古義にも同じやうなる事を云へり。案ずるに長歌は一年中の事をいふとて代表的に春と秋との事を云へるのみなれば反歌に霍公をよめる歌ありても怪し(1172)むに足らず。ただ春よめるならば春の歌のみあるべく夏よまば夏の歌のみあるべきを鶯をよめると霍公をよめるとならびてあるが訝しきなり。更に思ふに此歌どもは初夏の頃にやよみけむ。山邊には初夏の頃も鶯の盛になくものなればなり
 
   春日悲2傷三香原荒墟1作歌一首并短歌
1059 三香の原 久邇のみやこは 山|高《タカミ》 河の瀬|清《キヨミ》 在〔左△〕吉《スミヨシ》と 人はいへども 在吉《アリヨシ》と われはおもへど ふりにし里にしあれば 國みれど 人もかよはず 里見れば 家もあれたり はしけや△《シ》 △ かくありけるか (三諸著) かせ山のまに さく花の 色めづら敷《シキ》 百鳥の こゑなつか敷《シキ》 有※[日/木]石《アリガホシ》 すみよき里の あるらくをしも
三香原久邇乃京師者山高河之瀬清在吉迹人者雖云在吉跡吾者雖念故去之里爾四有者國見跡人毛不通里見者家裳荒有波之異耶如此在家留可三諸著鹿脊山際爾開花之色目列敷百鳥之音名束敷在※[日/木]石住吉里乃荒樂苦惜哭〔右△〕
(1173) 山高河之瀬清は略解にヤマタカク〔右△〕カハノセキヨミとよみ古義にはタカミ、キヨミと共にミとよめり。古義の訓に從ふべし○アリヨシはアルニヨシなり○下なる在吉跡は或人の説(略解に引けり)に住吉跡の誤にてスミヨシトとよむべしといへり。類聚古集に上なるを住〔右△〕吉迹と書けり○フリニシはウツロヒユキシなり。即都を難波に遷されて故郷となりし意なり○ハシケヤシは例として名詞にかかれり。然るにこゝにはハシケヤシを受くべき名詞なし。又ハシケヤシカクアリケルカとありては何の意とも聞えず。略解に或人の説を引きて『ハシケヤシの下二句許句の脱たるか』といへり。げに然り。ハシケヤシ、サカエシ宮ヲ、イカニシテ、カクアリケルカなどありしにあらざるか〇三諸著は冠辭考に三を天の誤としてアモリツクとよみ、宣長(略解)は生緒繋の誤としてウミヲカクとよみ、久老雅澄はもとのまゝにて舊訓の如くミモロツクとよめり(久老の説は信濃漫録上卷七丁に見えたり)。就中雅澄は神社をいつく意とせり。枕辭の研究は余の企てざる所。今はただ諸説を列擧するのみ○敷を舊訓には上下二つながらシクとよめるを古義には下の敷をシキとよみ改めたり。宜しく古格に從ひて共にシキとよむべし。共に下なる里にかゝれるなり○(1174)在※[日/木]石の下に久などをおとしたるにか。アリガホシクといはではとゝのはず。或はアリガホシを枕辭のやうに用ひたるか。さてアリガホシはミガホシの類語にてアリタシといふ事なり○アルラクヲシモは荒レムコトガヲシとなり。哭を古義に喪の誤とせり。但卷七にもアマタカナシモを數悲哭と書けり○此歌は天平十六年二月に都を難波に遷されし後によめるなり
 
   反歌二首
1060 三香の原久邇のみやこはあれにけり大宮人の遷去禮者《ウツロヒヌレバ》
三香原久邇乃京者荒去家里大宮人乃遷去禮者
 結句は舊訓にウツリイヌレバとよめるを古義にウツロヒヌレバに改めたり。このウツロフは移轉にて上にハル花ノウツロヒカハリといへるにおなじ。略解に『紫香樂《シガラギ》(ノ)宮所へ移去レバといふ也』といへるは非なり。難波宮へなり
 
1061 さく花の色はかはらず(ももしきの)大宮人ぞたちかはりぬる
咲花乃色者不易百石城乃大宮人叙立易去流
(1175) このタチカハルも亦人の移轉するにて上なるタチカハリフルキミヤコトナリヌレバのタチカハリとは異なり。略解に『大宮人は在しにかはれる也』といへるは非なり
 此都の跡は山城國の南端相樂郡のうちにて泉川の附近なることのみは明なれどくはしき事は從來未知られず。泉川は東より西へ流れ今川の北に瓶原《ミカノハラ》、高麗《コマ》などいふ村あり川の南に鹿脊山ありて其東に加茂村、西に木津町あり。抑恭仁宮は河北にありしか、河南にありしか。
  山代の、鹿脊山のまに、宮柱、ふとしきたてて、たかしらす、ふたぎの宮は
とあり又
  鹿背の山時しゆければみやことなりぬ
とあるを見れば少くとも宮は河南にありし事明なり。又
  こま山になくほととぎす泉河わたりをとほみここにかよはず
とありて狛山と川を隔てたる趣なれば南岸とせではかなはず。狛は河北にあればなり
(1176) 或は云はむ。然らば
  三日の原ふたぎの野べをきよみこそ大宮處さだめけらしも
といひ又
  三香の原、久邇のみやこは
といへるはいかが。瓶原は河北の地名なるをやと
 答へて云はむ。ミカノ原はいにしへ川の南岸に亘れる廣き地の名なりきとおぼゆ。今河北の一村を瓶原といふは大名の小名となれるなり。かゝる例は少からず。ミカノ原フタギノ野ベとあるを見てもいにしへミカノ原の区域の廣かりし事を察すべし。古今集覊〔馬が奇〕旅歌にケフミカノ原イヅミ川といへるも大名なる證なり。さて
  あなあはれふたぎの原、いとたふと大宮處
といひ
  三日の原ふたぎの野べをきよみこそ大宮處さだめけらしも
といへるを思へば大宮處即都はフタギノ原即フタギ野にありしなり。而してそのフタギ野は思ふに鹿背山の東北西三方の平地なるべし
(1177) 上にいふ如くなれば今の瓶原即河北の一村を恭仁宮の祉に擬するは誤れり
 更に續紀中より恭仁宮及都が河南に在りし證を擧げむにまづ天平十三年九月丙辰の下に  從2賀世山(ノ)西(ノ)道1以東爲2左京1以西爲2石京1
とあり。賀世山の西の道を左右兩京の界としたるを見れば都は河南にありしなり。次に十七年五月癸亥の下に
  車駕到2恭仁宮泉橋1……是日到2恭仁宮1
とあり。泉川は伊賀國より流れ來る川なれば恭仁宮もし河北にあらば近江國甲賀宮よりの巡幸には泉川を渡り給ふべきにあらず。今泉橋を渡りて宮に入り給ひしを見れば宮は河南にありしなり
 或は云はむ。續紀天平十三年五月乙卯の下に
  天皇幸2河南1觀2狩獵1
とあるは如何。河北にましましゝが故に河南に幸し給ひしにあらずやと
 答へて云はむ。げに此時はなほ河北の行宮にましましゝなり。事情を明にせむ爲に(1178)左に續紀の。文を抄せむに
  天平十二年十二月戊午(〇六日)從2不破1發至2坂田都横川頓宮1。是日右大臣橘宿禰諸兄|在前而《サキダチテ》發經2略山背國相樂郡恭仁郷1。以v擬2遷都1故也
  丙寅(○十四日)從2禾津《アハヅ》1發到2山背國相樂郡玉井頃宮1
  丁卯(○十五日)皇帝在前幸2恭仁宮〔三字傍点〕1始作(ラシム)2京都1矣。太上天皇皇后|在後而《オクレテ》至
 これは諸兄の經略(踏査)後僅に九日
  十三年春正月癸未朔天皇始御2恭仁宮1受v朝。宮垣未v就。繞以2帷帳1
 これは諸兄の經略後僅に二十五日なれば未宮城を造營する暇あらじ。されば此恭仁宮は一時の行宮にて彼の大養コ恭仁《オホヤマトクニ》(ノ)大宮とは別なり
  因にいふ。同月戊戌(○十六日)の下に御2大極殿1賜2宴百官主典已上1とある大極殿はた假殿なり。十四年春正月丁未朔の下に百官朝賀、爲2大極殿未1v成権造2四阿殿1於v此受v朝とあるによりて然りと知らる
 此恭仁宮即一時の行宮はいづくにありしか、くはしくは知り難けれど泉川の北にありし故にこそ五月乙卯に河南に幸して狩獵を觀給ひしなれ。新宮即大養コ恭仁(1179)大宮に移り給ひしはいつにか。これもくはしくは知り難けれど
  秋七月戊午(〇八日)太上天皇移2御新宮1。天皇奉2迎河頭1
とあれば五月六日(乙卯)と七月八日との間に移り給ひしを紀には記し漏せるなり
 或は又云はむ。續紀天平十八年八月戊寅の下に
  恭仁宮大極殿施2入國分寺1
とあり。而して今の瓶原村大字河原の東|登大路《ノボリオホヂ》の西南に國分寺の遺址あり。これ恭仁宮が今の瓶原村即河北にありし證とすべきにあらずやと
 答へて云はむ。續紀の文を見るに大極殿をそのまゝ國分寺とせられしとは定むべからず。おそらくは大極殿を壞ちて國分寺に施入せられしならむ。國分寺は天平十三年の勅建なれば此年を待ちて始めて造營すべきにあらず
 なほ二三此宮及都に關係ある事を云はむ。諸書に甕原宮を恭仁大宮の別名としたれど續紀天平十四年八月乙酉の下に
  宮城以南大路西頭歟2甕原宮(ノ)東1之間令v造2大橋1
とあれば宮城即恭仁大宮とは別なり。此甕原宮は本集卷四(六七二頁)に(1180)神龜二年乙丑春三月幸2三香原離宮1之時云々
とあると同處にて以前よりありし離宮なり。それにつきてなほいはまほしき事あれど枝に枝を生ずれば今は云はず。右の文によれば甕原宮は宮城の西方即宮城とおなじく河南にありしなり。これによりてもいにしへのミカノハラが河の南北に亘れる廣き地の名なりしことを知るべし
 上なる長歌に
  山代の、鹿脊山際《カセヤマノマ》に、みやばしら、ふとしきたてて、たかしらす、ふたぎの宮は
とあれど續紀の文に宮城以南大路とあるを見れば宮城と鹿背山とは少くとも大路一條を隔てたりしにて山ノマニといへるは歌の文《アヤ》なり。さて宮城は南面したりしなり。さてこそ鹿背山の西の道より以東を左京とし以西を右京とせられしなれ
 
   難波宮作歌一首并虚歌
1062 (やすみしし) わがおほきみの ありがよふ 名庭の宮は (いさなとり) 海かたづきて 玉ひろふ 濱邊をちかみ 朝はぶる 浪のとさ(1181)わぎ ゆふなぎに かぢのときこゆ あかときの 寐覺にきけば 海石〔左△〕之《ワタツミノ》 塩干のむた うらすには 千鳥つまよび あしべには 鶴鳴動《タヅガネトヨム》 みる人の かたりにすれば きく人の 視まくほりする (御けむかふ) 味原《アヂフ》の宮は みれどあかぬかも
安見知之吾大王乃在通名庭乃宮者不知魚取海片就而玉拾濱邊乎近見朝羽振浪之聲※[足+參]夕薙丹擢〔左△〕合之聲所聆曉之寐覺爾聞者海石之塩干乃共納〔左△〕渚爾波千鳥妻呼葭部爾波鶴鳴動硯人乃語丹爲者聞人之視卷欲爲御食向味原宮者雖見不飽香聞
 アリガヨフは卷三(四〇四頁)にもオホキミノトホノミカドトアリガヨフ島門ヲミレバ神代シオモホユとあり。こゝにては度度行幸し給ふ事なり○海カタヅキテは海ニ寄リテといふ事。集中に山カタヅキテ、谷カタヅキテなどいへり。今の語にカタヅケルといふは此語の他動詞形なり○朝羽振は卷二(一八〇頁)に朝ハブル、風コソヨセメ、夕ハブル、浪コソ來ヨレとあり。ハブルは振動する事なり○海石之は古義に(1182)『海近三の誤なりと本居氏の云るぞ宜しき』といへれど上にハマベヲチカミとあるを更にこゝにウミチカミとあるべきにあらず。略解には
  石は原の誤れるにや。ウナバラノとあるべし。又は若の誤にてワタツミならんか
といへり。しばらく若の誤としてワタツミノとよむべし。シホヒノムタは塩干ト共ニなり○鶴鳴動は舊訓にタヅガネトヨミ、略解にタヅナキトヨミ、古義にタヅガネトヨムとよめり。古義に從ふべし。上なる讃2久邇新京1歌に鳥賀鳴動とありて鳴の字をネに用ひたり。いづれにもあれこゝは上なるカヂノトキコユに對してトヨムと切るべき處なり○カタリニスレバのカタリは話なり○アヂフノ宮は上(一〇三八頁)なる神龜二