(2227)  萬葉集新考 卷十一
                  井上通泰著
  旋頭歌
2351 新室の壁草かりに御座《イマシ》たまはね、草のごと依〔左△〕逢《シナフ》をとめはきみがまにまに
新宝壁草苅邇御座給根草如依逢未通女者公隨
 壁草は代匠記に
  新しく造れる屋はまづ壁をも草を刈てかこふなり
といひ、略解追加に
  陸奥南部の黒川盛隆がいはく延喜式七踐祚大嘗祭式云、所v作新殿一宇……並以2黒木及草1構葺、壁蔀以v草云々とあれば是壁草なるべしといへり。又同國鹽竃の(2228)藤塚知明がいへるは彼あたりにては新室造て壁などいまだ塗らざるほどは草を刈て其屋をかこひおくを壁草とはいふといへりきといへり。案ずるに壁を塗りて其乾くを待つ暇なき場合、勞を省き費を節する場合などには壁を塗る代に草を以て屋をかこふ事もあるべけれど一般には新室なりとて壁を塗る前にまづ草を以てかこふべきにあらず。卷四に
  黒木とり草もかりつつつかへめどいそしきわけとほめむともあらず
とある註にいへる如く今も竹の乏しき地方にては壁下地のこまひに薄をつかふといへばこゝに壁草といへるも薄にて壁下地のこまひの料ならむ○御座を略解にオハシとよめるを古義にイマシに改めたり。オハシは大座《オホマシ》の約にて當時いまだ用ひられざりし語なればさはよむべからず。さればイマシとよむべし。さてイマシタマハネは往キタマへとなり。來タマヘとにあらず。前註皆誤解せり○依逢を從來ヨリアフとよみたれどヨリアフはこゝにかなはず。信逢の誤としてシナフとよむべし。信の音シナ(シヌの轉)そのナにアの韻あれば逢《アフ》をフに充てたるにてユツルを由移と書けるなどと同例なり○さて契沖は一首を釋して
(2229)  新室の壁草刈に事よせておはしませ、其草の靡く如く心の依逢|未通女《ヲトメ》はともかくも君に任せむとなり
といひ、雅澄は
  吾造る新室の壁草を刈に來て給はれかし、其壁草にかる草の繁生てよりあひなびける如く容儀しなやかにしてうるはしき女は公が心のまゝにまゐらせむ、といふなるべし。さて此歌と次なると二首は女持たる人のもとへ心ありて通ふ男のあるを親の許して聟にせむと思ふ心を告てよめるなるべし。さてその折から此人新室つくりたる故にことよせて云るなるべし
といへり。案ずるにこれと次の歌とは新室造を促す歌にて主意は上三句にありて下三句は副物に過ぎず。即前の歌は草といふ語を取り後の歌は玉といふ語を取りて若き男女のめで喜びぬべき事を云へるのみ
 
2352 新室を蹈靜子《フミシヅムコ》が手玉《タダマ》ならすも、玉のごと所照《テリタル》きみを内へとまをせ
新室蹈靜子之手玉鳴裳玉如所照公乎内等白世
 蹈靜子を眞淵はフミシヅノコとよみて
(2230)  其男の名をシヅノ子といひしに蹈靜といひかけたる也。……男の名に妹子、紐子などいにしへはいひつ
といひ、雅澄はフミシヅムコとよみて
  此は新室の柱を築建て動くことなく搖ぐことなからしめむと堅固に蹈靜むるを云
といへり。雅澄の訓は正しけれど何故にフミシヅムル子といはでフミシヅム子といへるかを明にせざるはくちをし。案ずるにこはフミシヅムル子といふべきを連體格の代に終止格を用ふる古格に據りてフミシヅム子といへるなり(一四七八頁參照)。さてフミシヅムとは地固《ヂガタメ》をするなり。子は女子なり。前註に男子とせるは誤なり○所照を舊訓にテリタルとよめるを契沖はテラセルに改めて
  今テラセルと改むるは集中の例テリタルとよむべき時は照而有、照而在などやうにかける故なり
といひ略解は舊訓に從ひ古義は契沖に從へり。案ずるにテリタルとよむべし。次の歌にテレルを所光とかけるに同じからずや。もしこゝをテリタルとよむべからず(2231)ば次の歌の所光もテレルとはよむべからず〇一首を釋して眞淵は
  此男の來て手玉をならして妹にしらせんとするを聞て内へ入給へとさるべきまかだちにいひかけたる歌ならん
といひ、雅澄は
  吾造る新室の柱を蹈靜る壯子どもの手玉をゆらゆらとならすよ、さても面白や、中にその手玉のかがやくごとくうるはしき公ぞわが聟にせむと思ふ人なるをいで内へ入給へと白せと女に云るか又は從者などに云つくる意にもあるべし
といへり。案ずるに上三句と下三句と意に於て相與る所なし。兩段はただ玉といふ語によりて相聯れるのみ。格より云はば上三句は一種の序なり。然も主意は上三句にある事上にいへる如し
 
2353 はつせの、ゆつきがもとにわがかくせる妻、(あかねさし)てれる月夜に人|見點〔左△〕《ミケム》かも
    一云人見つらむか
長谷弓槻下吾隱在妻赤根刺所光月夜邇人見點鴨 一云人見豆良牟可
(2232) ユツキは茂れる槻なり。そのユは卷十(二二一二頁)なるユザサのユにおなじ○アカネサシは准枕辭なり。卷四(六八五頁)にもアカネサシテレル月夜ニタダニアヘリトモとあり○點は監の誤ならむ○古義に
  此歌は所由ありて長谷のあたりの山隱れる家に隱妻を率て行てかくしおけるほどよめるなるべし。ただに荒山中の槻の木陰に放ちおけるを云にはあらず
といへる如し
 
2354 ますらをの念亂而《オモヒミダレテ》かくせる其妻、あめつちにとほりてるともあらはれめやも
    一云ますらをのおもひたけびて
健男之念亂而隱在其妻天地通雖光所顯目八方 一云大夫乃思多鶏備※[氏/一]
 略解に『或人云。亂は武の誤にてオモヒタケビテならんかといへり』といひ、古義に
  念亂而は舊本に一云大夫乃思多※[奚+隹]備※[氏/一]とあるぞ理協へりとおぼゆる。こゝは或(2233)説に亂字は武の誤にてオモヒタケビテなるべしといへり
といへり。オモヒミダレテをイロイロニ思案シテと譯せむにオモヒタケビテよりは却りて穩なるにあらずや○略解に
  日の光の天地を照して隱れなき如く有ともあらはさじと也
といへるはいみじき誤なり。月ガ天地ニ云々、といふべきを前の歌に讓りて月とは云はざるなり○古義に『右の作者おしかへしてふたたびよめるにて云々』といへるは非なり。前の歌は男の歌にて此歌は女の答へたるなり。アラハレメヤモは人ニ見ラレムヤハとなり
 
2355 惠得《メグシト》わがもふ妹ははやも死耶《シネヤ》、いけりとも吾に應依《ヨスベシ》と人のいはなくに
惠得吾念妹者早裳死耶雖生吾邇應依人云名國
 惠得を略解にはウツクシトとよみ古義には息緒の誤としてイキノヲニとよめり。案ずるにもとのまゝにてメグシトと四言によむべし。メグシを體言にしてメグミといふはなほカナシを體言にしてカナシミといふが如し。而して悲の字をカナシミともカナシともよむべきが如く惠の字はメグミともメグシともよむべし。メグ(2234)シはカハユシといふことなり(八五三頁參照)○死耶を略解にスギネヤとよみ古義にモを添へてシネヤモとよめり。此句はハヤモシネヤと六言によむべし○應依を從來ヨルベシトとよみたれどヨスベシトとよむべし。ヨスはメアハスといふ意なり。はやく卷九にも
  きの國にやまずかよはむつまの杜妻よしこさね妻といふからは
とあり○人といへるは親などなり。古義に
  人ノイハナクニは妹ガイハヌコトナルヲといはむが如し。人は他人をさすにあらず
といへるは誤なり
 
2356 (こまにしき)紐のかたへぞ床落爾祁〔左△〕留《トコニオチニタル》、あすの夜し來なむといはば取置待《トリオキマタム》
狛錦紐片叙床落邇祁留明夜志將來得云者取置待
 コマニシキは枕辭なり(二〇八一頁參照)○紐ノカタヘは一對あるものの片方なり○床落爾祁留を從來トコニオチニケルとよみたれどトコニオチタルまたはトコ(2235)ニオチニタルとあるべし。祁は誤字ならむ○結句を從來トリオキテマタムとよみたれどテはよみ添ふるに及ばず○男の朝歸りし後に下紐の落ちたるを見附けし趣なり
 
2357 朝戸出のきみがあゆひをぬらす露原、早起《ツトニオキテ》いでつつ吾も裳下閏奈《モスソヌラサナ》
朝戸出公足結乎閏露原早起出乍吾毛裳下閏奈
 早起を從來ハヤクオキテとよめるはなつかしからず。ツトニオキテとよむべし○結句を略解にモスソヌラサナとよみ古義にモノスソヌレナとよめり。主格は吾なればモスソヌラサナとよむべし○男の苦を分たむと願へる趣なり。卷七に
  吾妹子が赤裳の裾のひづちなむけふの小雨に吾さへぬれな
とあるに似たり
 
2358 なにせむに命をもとな永く欲爲《ホリセシ》、雖生《イケレドモ》わがもふ妹にやすくあはなくに
何爲命本名永欲爲雖生吾念妹安不相
 ナニセムニは何ノ爲ニとなり(八五九頁及九九三頁參照)○欲爲を從來ホリセムと(2236)よみたれどホリセムにては上にモトナといへると相副はず。宜しくホリセシとよむべし○雖生はイケレドモとよむべし。略解古義の如くイケリトモとよみてはアハナクニと相副はず
 
2359 息の緒にわれはおもへど人目おほみこそ、ふく風にあらばしましまあふべきものを
息緒吾雖念人目多社吹風有數數應相物
 イキノヲニは懸命ニとなり。人目オホミコソの下に得逢ハネといふことを補ひて聞くべし○數數はシマシマとよむべし(一九七一頁參照)
 
2360 人のおやのをとめごすゑて守《モル》山邊から、あさなさなかよひしきみがこねばかなしも
人祖未通女兒居守山邊柄朝朝通公不來哀
 初二は序なり。スヱテは居サセテなり○卷十三に
  みもろは人のもる山、本邊はあせみ花さき、末邊は椿花さく、うらぐはし山ぞなく(2237)兒守山
とあり。契沖は此歌によりて守山は三諸山の別名なりといへり○モル山ベカラのカラはヲの意なり。卷九なる
  あさぎりの八重山こゆるほととぎす卯花邊からなきてこゆらし
のカラにおなじ。守山邊ヲトホリテとなり。守山邊カラ發シテとにあらず。アサナサナは日毎ニといはむにひとし
 
2361 あめなる一〔左△〕棚橋何將〔三字左△〕行《オトタナバタヲムカヘニヤユク》(わかくさの)妻所云足〔左△〕莊嚴《ツマガリトイヒテフネヨソハクモ》
天在一棚橋何將行穉草妻所云足莊嚴
 眞淵はアメナルを枕辭とし二三をヒトツタナバシイカデカモユカムとよみて
  足纏《アユヒ》は下を飾なれば歩行にまゝならぬ故に一棚橋はえ渡りかねなんといへり
といひ、宣長は
  これは人の上を見てよめる也。道に一つ棚橋の有をいかにしてゆかんとするに人が妻許ゆくといひてあゆひし出立つよと也
といひ、雅澄は行を障の誤としてヒトツタナバシナニカサヤラムとよみて
(2238)  一(ツ)棚橋はたださへあるにたとひ天上にある一棚橋の危きにも何かは障るべき、うつくしき妻が許へとならば脚帶《アユヒ》して出たゝむ、といふなるべし
といへり。まづ一(ツ)棚橋の語意はいかが。唯一つある棚橋といふことにや。又は棚一つ渡せる橋といふことにや。次にアメナルヒトツタナ橋とつづけるをいかが心得べき。眞淵の説はヒトツのヒ(日)にかゝれる枕辭とせるにてともかくも筋は通りたれど雅澄の如く天上ニアルといふ意とせむに棚橋の所在を示すにアメナルといひてはあまりに漠然たらずや。案ずるに一棚橋は乙棚機の誤字なるべく又何將行は迎耶行の誤字なるべし。もし然らば上三句はアメナルオトタナバタヲムカヘニヤユクとよむべし
 五六を眞淵はツマガリトヘバアユヒスラクヲとよみ、宣長は莊嚴を結發の誤としてツマガリトイヒテアユヒシ、タタスとよみ、雅澄は莊嚴を帶發の誤としてツマガリトイハバアユヒシ、タタムとよめリ。案ずるに足を船の誤としてツマガリトイヒテフネヨソハクモとよむべし。莊嚴は佛語にてよそひ飾る事なり〇一首の趣は若き男の妻がり行くといひて船よそひするを見て牽牛の妻迎船の故事を思浮べて(2239)サラバ織女ヲ迎ヘニ行クナラムといへるなるべし
 
2362 やましろの來背《クゼ》のわく子がほしといふわを、あふさわにわをほしといふ開木代來背〔五字左△〕《クゼノワクゴガ》
開木代來背若子欲云余相狹丸吾欲云開木代來背
    右十二首柿本朝臣人麿之歌集出
 來背は久世にて地名なり。ワク子は青年なり(四〇七頁參照)。アフサワニははやく卷八(一五八〇頁)にアフサワニタレノ人カモ手ニマカムチフとありて己ガ分ニ過ギテといふことなり○第六句はもと來背若子とありしを初二に開木代來背若子《ヤマシロノクゼノワクゴガ》とあるよりまぎれて開木代來背となれるならむ。さらばクゼノワクゴガとよむべし○古今集誹諧歌に
  足引の山田のそほづおのれさへわれをほしといふうれはしきこと
 又催馬樂の歌に
  やましろの狛のわたりの瓜つくりわれをほしといふいかにせむ
(2240)とあると相似たり○卷七にも開木代來背社《ヤマシロノクゼノヤシロノ》とあり。ヤマシロを開木代と書ける所以は未考へず。契沖の説あれどうべなひがたし
 
2363 崗前《ヲカザキノ》たみたる道を人莫通〔左△〕《ヒトナセキソネ》、ありつつもきみが來《キタラム》よき道にせむ
崗前多未足道乎人莫通在乍毛公之來曲道爲
 崗前は舊訓に從ひてヲカザキノとよむべし(古義にはヲカノサキとよめり)。岡の鼻なり。タミタルはコギタムルなどのタムルと同語にてメグレルなり。古義に『タはそへことば、ミはモトホリのつづまれるなり』といへるは非なり○第三句を從來字のまゝにて人ナカヨヒソとよめれど通は塞の誤にて人ナセキソネとよむべきならむ。不用トシテ塞《セ》キフサグナとなり○アリツツモは卷四に
  佐保河のきしのつかさのしばなかりそね、ありつつも春しきたらばたちかくるがね
 又卷七に
  此崗に草かるわらはしかなかりそね、ありつつも君が來まさむ御馬草にせむ
とあり。ソノママニシテ置イテとなり。雅澄が來にかけて『わが知れる人のありあり(2241)つつ吾方へ通ひ來ます時』と釋せるは誤れり○來はキタラムとよむべし。從來キマサムとよめり。君といはば必敬語を用ふべきものと思ふべからず。君ガ行クなどいへるを思へ。ヨキミチは人目をよくる道なり。即間〔日が月〕道なり
 
2364 (たまだれの)小簾之寸〔□で囲む〕|鶏〔左△〕吉仁〔左△〕《スキヨリ》いりかよひこね、(たらちねの)母がとはさば風とまをさむ
玉垂小簾之寸鶴吉仁入通來根足乳根之母我問者風跡將申
 女の男にいへる歌なり。第二句を從來ヲスノスケキニとよめり。さて眞淵は『スキを延てスケキといへり』といへれど語は妄に延ぶべきものにあらず。もし言足らずば六言にてもあるべく又ヲスノスキヨリとも云ふべし。又雅澄は『スキをスケキといふはシゲキをシゲケキ、アツキをアツケキ、サムキをサムケキなどいふに同じ』といへれどシゲキ、アツキ、サムキをシゲケキ、アツケキ、サムケキといふこと無きのみならず、たとひ然いふべくともシゲキなどとスキとは語品異なれば證例とはすべからず。おそらくはもと雛吉從などありて一本に據りて吉の傍に寸《キ》と書きたりしがやうやうに誤まられて今の如くなれるならむ
 
(2242)2365 (うち日さす)宮ぢにあひし人妻|※[女+后]《ユヱニ》(たまのをの)おもひみだれてぬる夜しぞ多き
内日左須宮道爾相之人妻※[女+后]玉緒之念亂而宿夜四曾多寸
 ミヤヂは宮城にかよふ道なり○※[女+后]を舊訓にユヱニとよめり。略解追加に濱臣が説を擧げて
  ※[女+后]は妬の訛なり。字書にユヱとよむべきよしはなけれど遊仙窟に故々を、ネタマシゲニと訓じ又字鏡に故々【ネタゲニ】とあるを思へばいにしへは故妬を通じ用ひしものと見ゆ。されば互に相通はしてユヱといふにも妬の字を用ひしなるべし(○撮意)といひ」訓義辨證下卷(四二頁)には
  妬を※[女+后]とかけるは六朝の俗字なるべし。……人妻の我おもふまゝならぬをねたくおぼゆる意をもてかける文字なるべし。さるによりて人子※[女+后]また人妻※[女+后]とある所にかぎりてただにユヱといふべき所に用ゐたるはなき也
といへり。なほ考へよ○此歌は卷七なる
(2243)  うち日さす宮道をゆくに吾裳はやれぬ玉の緒のおもひみだれて家にあらましを
といふ歌と、もと二首一聯なりしにあらざるか(一三六五頁參照)
 
2366 (まそかがみ)みしがと念妹相可聞《オモフイモモアハヌカモ》、(たまのをの)たえたる戀のしげきこのごろ
眞十鏡見之賀登念妹相可聞玉緒之絶有戀之繁此〔左△〕者
 ミシガは見テシガなり。古今集東歌にもカヒガネヲサヤニモ見シガとあり〇二三句を略解にはミシガトモヒシイモニアヘルカモとよみたれどアヘルカモとよみては五六句と相かなはず。古義にはミシガトオモフイモニアハヌカモとよめり。之に基づきてイモモとよむべし。こゝのアハヌカモはアヘカシの意なればなり○此者は比者の誤なり
 
2367 うなばらの路に乘れれやわがこひをりて、(大舟の)ゆたにあるらむ人の兒ゆゑに
(2244)海原乃路爾乘哉吾戀居大舟之由多爾將有人兒由惠爾
     右五首古歌集中出
 海原ノ路二乘リタレバニヤ人ノ娘故ニワガカクユタニアルラムとなり。此歌などはワガコヒヲリテの一句を省きて短歌とすべかりしなり。否旋頭歌とする爲に不用なる一句を挿みしによりて中々にきゝまどはるゝなり。ユタニアルラムはオチツカズアルラムとなり(卷七【一四二〇頁】ユタニタユタニ參照)
 
  正述心緒
   次なる寄物陳思に対して設けたる目なり。タダニ心緒《シンシヨ》ヲ述ベタルとよむべし。述心緒は陳思におなじくタダニは物ニ寄セテのうらなり。即物ニ寄セナドセズシテとなり。所謂六義に當てば正述心緒は賦に當り寄物陳思は比と興とに當るべし
 
2368 (たらちねの)母之手放《ハハガテハナレ》かくばかりすべなき事は未爲〔左△〕國《イマダアハナクニ》
(2245)垂乳根乃母之手放如是許無爲便事者未爲國
 第二句は舊訓に從ひてハハガテハナレとよむべし(略解にはカレテとよめり)。卷五和d爲2熊凝1述2其志1歌u(九五八頁)に波波何手波奈例とあればなり。母ノ手ヲ離レテヨリとなリ○結句を從來字のままにてイマダセナクニとよめり。案ずるに爲は相の誤ならむ。さらばイマダアハナクニとよむべし。アハナクニは逢ハヌ事ヨとなり。卷四に
  黒髪に白髪まじりおゆるまでかかる戀には未相爾《イマダアハナクニ》
とあり
 
2369 人《ヒトノ》所〔□で囲む〕|寐《ヌル》うまいはねずて(はしきやし)きみが目すらをほりてなげくも
     或本歌云きみを思ふにあけにけるかも
人所寐味宿不寐早敷八四公目尚欲嘆
    或本歌云公矣思爾曉來鴨
 初句を舊訓に人ノヌルとよめるを宣長は
  ヌルと訓ては所の字餘れり。ナスとよまん
(2246)といへり。ナスは寢タマフまたは寢シムといふ事なれば(八五八頁參照)こゝはナスとはいふべからず。宜しく古義に從ひて所を衍字とすべし。或は上なる所照《テリタル》、所光《テレル》の如く所をルに充てたりとも見べし○スラは主語を強むる辭なり(一九七九頁參照)。古義に『相宿するはさるものにてその目さへをといふ意なり』といへるは非なり。目ヲホルは逢ヒタガルといふ事なり(二一一七頁參照)
 
2370 ひ死なばこひもしねとや(玉桙の)路ゆく人の事告兼〔左△〕《コトモツゲナク》
戀死戀死耶玉桙路行人事告兼
 結句を略解にはコトモツゲケムとよめり。宣長の説に從ひて兼を無の誤として(一本に無とあり)コトモツゲナクとよむべし。君ノ傳言モキカセヌ事ヨとなり。事は言の借字なり。古義にツゲナキとよめるは非なり。ツゲナキといふ辭は無し
 
2371 心には千たびおもへど人にいはず吾戀※[女+麗]《ワガコフルツマ》みむよしもがな
心千遍雖念人不云吾戀※[女+麗]見依鴨
 略解古義にワガコフツマヲとよみたれどテニヲハの無き方まされり。宜しくワガ(2247)コフルツマとよむべし
 
2372 かくばかり戀物《コヒシキモノト》しらませば遠可〔左△〕見有物《トホクノミミテアラマシモノヲ》
是量戀物知者遠可見有物
 戀物を略解にはコヒムモノトシ、古義にはコヒムモノゾトとよめり。舊訓に從ひてコヒシキモノトとよむべし〇四五を略解にトホクミルベクアリケルモノヲとよみ、古義にトホクミツベクアリケルモノヲとよめり。可を耳の誤としてトホクノミミテアラマシモノヲとよむべし。マセバといひてアリケルモノヲといはむは語法上許されざる事なり
 
2373 何時《イツハシモ》こひぬ時とはあらねども夕かたまけて戀無乏《コヒハスベナシ》
何時不戀時雖不有夕方枉戀無乏
 初句を考にはイツハトハとよみ略解古義には卷十三に何時橋物《イツハシモ》コヒヌ時トハアラネドモとあるに據りてイツハシモとよめり。後者に從ふべし○結句を考には乏を爲の誤としてコヒハスベナシとよみ古義にはもとのまゝにてコフハスベナシ(2248)とよめり。もとのままにてコヒハスベナシとよむべし。下にもモトモ今コソ戀ハスベナキとあり○古今集秋上に
  いつはとは時はわかねど秋の夜ぞもの思ふことのかぎりなりける
とあると相似たり○枉を清音のマケテに借れるはめづらし
 
2374 是耳戀度《カクノミシコヒヤワタラム》(たまきはる)命もしらず歳經管《トシヲヘニツツ》
是耳戀度玉切不知命歳經管
 是耳を略解にカクシノミとよみ古義にカクノミシとよめり。集中に如此耳、如是耳とかけるを從來或はカクシノミ或はカクノミシ、或はカクノミニとよめり。右のうちカクノミニは卷十六に如是耳爾と書ける例あり、又カクノミシは卷九卷十に如是耳志、卷十三に如是耳師と書ける例あれどカクシノミは然よむべき適例なし。さればカクノミシ或はカクノミニとよむべし。但兩者の別は未研究を了せず。卷三(五五六頁及五六八頁)なる如是耳アリケルモノヲをカクノミニと訓めるは卷十六に如是耳爾アリケルモノヲと書けるに據り卷四(七六九頁)なる如此耳コヒヤワタラムをカクノミニと訓めるはカクノミニ、カクシノミ兩訓のうちカクシノミを斥け(2249)てカクノミニに就きたるのみ○弟二句及第五句を略解に
  こひやわたらむタマキハル命モシラズとしをへにつつ
とよみ古義に
  こひしわたればタマキハル命モシラズとしはへにつつ
とよめり。前者に從ふべし。イノチモシラズは逢フマデ命ガアルカ無キカモ知ラズとなり〇一首の語例は卷四に
  かくのみし戀哉將度《コヒヤワタラム》あきつ野にたなびく雲のすぐとはなしに
 又卷九に
  かくのみし戀思渡者《コヒシワタレバ》たまきはる命も吾はをしけくもなし
とあり
 
2375 吾ゆのち生れむ人はわがごとく戀する道にあひこすなゆめ
吾以後所生人如我戀爲道相與勿湯目
 アヒコスナユメは決シテ逢ウテクレルナとなり
 
2376 ますらをのうつし心も吾はなしよるひるといはずこひしわたれば
(2250)健男現心吾無夜晝不云戀度
 ウツシ心はウツツ心にて即正氣なり。古義に『つよくたしかなる心を云』といへるは當らず。コヒシのシは助辭なり
 
2377 何せむに命つぎけむわぎもこにこひざるさきにしなましものを
何爲命繼吾味不戀前死物
 ナニセムニは何ノ爲ニなり。命ツギケムは命ヲツナギケムとなり
 
2378 よしゑやしきまさぬきみを何せむに不厭《アカズモ》我はこひつつをらむ
吉惠哉不來座公何爲不厭吾戀乍居
 ヨシヱヤシはヨシに同じ。不厭を略解古義にイトハズとよめり。宜しくアカズモとよむべし○ナニノ爲ニワガ戀居ラム、ヨシヤコヒジとなり。ヨシヱヤシの下にコヒジを省けるなり
 
2379 見度《ミワタセバ》ちかき渡〔左△〕《サトミ》をたもとほり今や來ますとこひつつぞをる
見度近渡乎囘今哉來座戀居
(2251) 初句を略解にミワタセバとよめるを古義にミワタシノに改めて
  打向ひ見渡さるゝ處をミワタシといふなり。こゝはミワタセバとよむはわろし
といへり。又第二句の渡について略解に『アタリをワタリといふこと古有けん』といへるに對して古義に
  渡は河などのあるによりて云るなるべし。略解にアタリといふことに解なせるはひがごとなるべし。すべてアタリをワタリと云こと古になきことなればなり
といへり。案ずるに卷七に
  視渡者ちかき里廻をたもとほり今ぞわがこしひれふりし野に
といふ歌あり。今の歌の渡ももと里廻とありしが上なる見度の度よりまぎれて渡となれるにあらざるか。渡津のあなたに男のすめるをチカキ渡とはいふべからざる故なり。されば初二はミワタセバチカキサトミヲとよむべし。そのヲはナルニなり○タモトホリを釋して略解に『近きあたりながら人目をよくとて廻り道をして來るを云々』といひ古義に『人目をはばかりてよき道をしてまはり來ますにやと待つゝぞ居るとなり』といへれどタモトホリは道の囘りたればそれに從ひて行廻る(2252)なり
 
2380 早敷〔二字左△〕哉《ウレタキヤ》たがさふれかも(たま桙の)路見遺きみが來まさぬ
早敷哉誰障鴨玉桙路見遺公不來座
 初句を從來ハシキヤシとよめり。さて略解に『下のキミをいふ也』といひ古義にも『第一句は第五句の上にうつして心得べし』といへれど三句十九言を隔ててキミにいひかくべきにあらず。おそらくは慨哉などを誤れるにてウレタキヤとよむべきならむ。タガサフレカモはタガ妨グレバニカとなり○第四句を略解古義にミチミワスレテとよみたれどさては一首の筋通らず。人ありて妨ぐる時は道を見忘れずとも來らざるべく又道を見忘れば人が妨げずとも來らざるべければなり。されば略解には人の妨ぐると道を見忘れたるとを別事としてタガサフレカモ……道ミワスレテ君カ〔右△〕來マサヌとカを清みてよみたれど、もし別事とすべくば人カモサフル……道カワスルル君ガ來マサヌなどいひて人カモサフルと道カ忘ルルとを相向はせ、さて君ガ來マサヌといひて雙方を束ぬべきなり。おそらくは第四句に誤字あるべし。試にいはば見遺は不遠の誤にてミチハチカキヲならむか
 
(2253)2381 公目見欲《キミガメノミマクホシキンニ》この二夜千歳のごともわがこふるかも
公目見欲是二夜千歳如吾戀哉
 初二を略解にはキミガメヲミマクホリシテとよみ古義にはキミガメノミマクホシケミとよめり。ホシケミといふ辭は無し。宜しくキミガ目ノ見マクホシキニとよむべし
 
2382 (うちひさす)宮道を人はみちゆけどわがおもふ公〔左△〕《ヒトハ》ただひとりのみ
打日刺宮道人雖滿行吾念公正一人
 公を從來字のまゝにてキミハとよみたれど人の誤としてヒトハとよむべし○語例は卷四に
  人さはに國にはみちて、あぢむらのかよひはゆけど、わがこふる君にしあらねば云々
とあり
 
2383 世の中は常|如△《カク》のみとおもへども半〔左△〕手不忘《ウタテワスレズ》なほこひにけり
(2254)世中常如雖念半手不忘猶戀在
 第二句を眞淵はツネカクノミトとよめり。如の下に少くとも此をおとせるならむ○半手を眞淵は半多の誤としてハタとよみ、さて
  手は言下に置てタと訓む例なし
といひ、略解には
  按に人麿集にかな書なき例なれば半手など書べきいはれなし。全誤字ならん。一字の二字になれるものならんか
といひ、古義には
  吾者不忘などあるべきところなり
といへり。按ずるに哥手の誤としてウタテフスレズとよむべし。ウタテはイブカシヤなり
2384 わがせこはさきくいますと遍〔左△〕來《カヘリキテ》、我告《ワレニツゲナム》來〔□で囲む〕人來〔左△〕鴨《ヒトノナキカモ》
我勢古波幸座遍來我告來人來鴨
 第三句以下に來の字三つあり。誤字ある事明なり。千蔭は遍來を適喪の誤として
(2255)  たまたまも、われにつげこむ、人のこぬかも
とよみ雅澄は遍來を遍多の誤、告來を告乍の誤として
  たびまねく、あれにつげつつ、人もこぬかも
とよめり。按ずるに遍來を舊訓にカヘリキテとよめるによりて還來の誤とし、我告來の來を衍字とし(第三句よりうつれるならむ)結句の來を無の誤として
  かへりきて、われにつげなむ、人のなきかも
とよむべきか
 
2385 (あらたまの)五〔□で囲む〕年雖經《トシハフレドモ》わがこふる跡無戀不止怪《アトナキコヒノヤマヌアヤシサ》
麁玉五年雖經吾戀跡無戀不止恠
 清水濱臣は第二句の五を衍字としてトシハフレドモとよめり。げに然るべし〇四五を略解にはシルシナキ戀ノヤマズアヤシモとよみ古義にはアトナキ戀ノヤマヌアヤシモとよめり。案ずるに第四句は卷三なる大伴家持悲2傷亡妻1作歌に
  いひもかねなづけもしらに、跡無《アトモナキ》世のなかなればせむすべもなし
とあるに據りてアトナキ戀ノとよむべし。そのアトナキはやがてハカナキなり(五(2256)六七頁)。古義にアトナキコヒノとよみながら『しるしのなきことなり』といへるは未眞淵の雰囲氣を離れずといふべし○結句はヤマヌアヤシサとよむべし
 
2386 いはほすらゆきとほるべきますらをも戀ちふ事は後悔在《ノチノクイアリ》
石尚行應通建男戀云事後悔在
 結句を略解古義にノチクイニケリとよめり。案ずるにノチクイニケリと過去にいふべき處にあらず。されば舊訓の如くノチノクイアリとよむべし。さて一首の主格はノチノクイなればマスラヲモはマスラヲニモの略、コヒチフコトハは戀チフ事ニハの略とすべし。建男の建は健の通用なり。上にも二處(二二三二頁及二二五〇頁)マスラヲを健男と書けり○初二は巖スラ押分行キテ悔イザルベキとなり。こゝに悔イザルといふことを省きたりとせでは一首の筋通らず
 
2387 日位〔左△〕《ヒナラベハ》人しりぬべしけふの日の如千歳《チトセノゴトク》ありこせぬかも
日位人可知今日如千歳有與鴨
 第四句は舊訓に從ひてチトセノゴトクとよむべし(略解にはチトセノゴトモとよめり)○日位を舊訓にヒクレナバとよめり。さてその位の字一本に低とあり。略解古(2257)義には低を正しとせり。然も解釋に困じて『日暮て却て人目多き事のよし有て』などいへり。案ずるに日位は考にいへる如く日並の誤としてヒナラベバとよむべし。日ナラベバは卷六に
  茜さす日ならべなくにわが戀は吉野の河の霧にたちつつ
 卷八に
  あしひきの山ざくら花日ならべてかくさきたらばいとこひめやも
とありて日ヲ重ネバすなはち逢フ度ノ重ナラバとなり○ケフノ日といへるは夜に對する晝にあらず、ただ今日といふ事なればこゝにては今夜ノといはむにひとし
 
2388 立座態不知《タチテヰムタドキモシラニ》おもへども妹につげねば間使も來ず
立座態不知雖念妹不告間使不來
 初二を略解にタチヰスルワザモシラエズとよみ古義にタチテヰテタドキモシラズとよめり。卷十(二〇八二頁)なる七夕長歌の立坐多土伎乎不知と共にタチモヰモタドキヲシラニとよまむかと思へど卷十二に立而居|爲便《スベ》乃田時毛イマハナシと(2258)而の字を挿み書きたる例あればタチテヰムタドキモシラニとよむべし。立テリテサテスワラムスベモ知ラズといふ意ならむ
 
2389 (ぬばたまの)この夜なあけそ(あからひく)朝ゆくきみを待〔左△〕苦《ミムガクルシサ》
烏玉是夜莫明未引朝行公待苦
 待苦を略解古義にマテバクルシモとよみて略解に『朝に別れては又來るを待間のくるしき也』といへり。誤字ありとおぼゆ。待を看の誤としてミムガクルシサとよむべきか。拾遺集に
  うばたまのこよひなあけそあけゆかば朝ゆく君を待つくるしきに(一作まつがくるしき)
とあるは當時はやく結句に誤字ありし證とすべきのみ
 
2390 戀するに死《シニ》するものにあらませば我身は千たびしにかへらまし
戀爲死爲物有者我身千遍死反
 卷四なる笠女郎の歌に
(2259)  おもふにし死《シニ》するものにあらませば千たびぞ吾はしにかへらまし
とあるは今の歌を借りたるなり○シニカヘルはくりかへし死ぬるなり。死を反復するなり
2391 (玉響〔二字左△〕《ヌバタマノ》)きのふのゆふべ見しものをけふのあしたにこふべきものか
玉響昨夕見物今朝可戀物
 初句を略解にタマユラニとよめるを古義に『さる詞のあるべくもあらず』といひて烏玉の誤としてヌバタマノとよみ、さて
  然るを今まで注者等の舊本の誤をうけて解來れるはいかにぞや。あはれ古書に眼をさらす人の絶て久しくなりにけるこそあさましけれ
と且誇り且嘆きたり。雅澄の發見を是認すべく從ひて之を例としてタマユラニとよめる歌を抹殺すべし
 
2392 中々に見ざりし從《ヨリハ》、相見ては戀心《コヒシムココロ》、益《マシテ》おもほゆ
中中不見有從相見戀心益念
(2260) 從を略解にヨリモ、古義にヨリハとよめり。古義に從ふべし○戀心を略解古義にコヒシキ心とよめり。宜しくコヒシム心とよむべし○益を古義にイヨヨとよめり。舊訓に從ひてマシテとよむべし。卷八(一六三八頁)なる長歌に益而〔右△〕所思と書けり
 
2393 (玉桙の)道ゆかずしてあらませば惻隱〔二字□で囲む〕|此有戀不相《カカルコヒニハアハザラマシヲ》
玉桙道不行爲有者惻隱此有戀不相
 四五を略解古義にネモコロカカルコヒニハアハジとよめり。宜しく惻隱を衍字としてカカルコヒニハアハザラマシヲとよむべし○さて惻隱はもと前の歌の戀心に代るべき字にて前の歌の次に一云惻隱などありしが誤りて此歌の行中に入れるならむ。ネモコロゴロニとよむべし
 
2394 朝影に吾身はなりぬ(玉垣入《タマカギル》)ほのかにみえていにし子故に
朝影吾身成玉垣入風所見去子故
 朝影について契沖は
  朝には鏡を取て見れば朝影とは云へり。戀痩て影の如くに成るなり
(2261)といひ千蔭は
  朝影は痩衰へて朝日にうつりて見ゆる影の如くになれるをいふ
といへり。略解の説に從ふべし○清音の垣をタマカギルのカギに借れるはアレツガムのツグを衝と書きシジクシロのシジを完と書きイブカシを言借と書きナベを苗と書けると同例なり
 
2395 行行〔二字左△〕《マテドマテド》あはぬ妹ゆゑ(久方の)天《アメ》の露霜にぬれにけるかも
行行不相妹故久方天露霜沾在哉
 初句を從來ユケドユケドとよみたれど待待の誤としてマテドマテドとよむべし
 
2396 たまさかにわがみし人をいかならむよしをもちてか亦一目みむ
玉坂吾見人何有依以亦一目見
 タマサカニは偶然なり。卷九(一七四〇頁)なる詠浦島子歌にも
  わたつみの神のむすめに、たまさかにいこぎむかひて
とあり
 
(2261)2397 しま【らし】くも見ねばこひしきわぎもこを日日來事繁《ヒニヒニキナバコトノシゲケム》
暫不見戀吾妹日日來事繁
 ワギモコヲは我妹子ナルガとなり。四五を略解古義にヒニヒニクレバコトノシゲケクとよめり。宜しくヒニヒニキナバコトノシグケムとよむべし。キナバは行キナバなり。コトノシグケムは人ノ口ガウルサカラムとなり
 
2398 (年〔左△〕《タマ》きはる)及世定〔左△〕《ヨノハテマデト》、恃《タノミタル》、公依《キミニヨリテバ》、事繁《コトシゲクトモ》
年切及世定恃公依事繁
 第二句を從來ヨマデサダメテとよめり。定を竟などの誤としてヨノハテマデトとよむべし。身ノ終マデトの意なり○恃を略解古義にタノメタルとよみたり。改めてタノミタルとよむべし〇四五を略解古義にキミニヨリテシコトノシゲケクとよめり。宜しくキミニヨリテバコトシゲクトモとよむべし。君ノ爲ナラバヨシヤ人ノ口ガウルサカラウトモとなり。卷四なる
  今しはし名のをしけくも吾はなし妹によりてばちたびたつとも
(2262)の四五と同格なり○此歌は前の歌の答なり。年は略解に從ひて玉の誤とすべし
 
2399 (あからひく)はだもふれずて雖寐《ネヌレドモ》、心異〔二字左△〕《ケシキココロヲ》わがもはなくに
朱引秦不經雖寐心異我不念
 雖寐はネヌレドモとよむべし(從來ネタ〔右△〕レドモとよめり)。心異は古義に異心の顛倒としてケシキココロヲとよめるに從ふべし。心ヲオモフは今心ヲモツといふにひとし(一六六二頁參照)○女の許には行きしかど故ありて獨宿せしなり○經はフル、ヘズとはたらけばフレズを不經とは書くべからざるに似たれど大寶令に經本屬(本屬ニフレテ)經本部(本部ニフレヨ)などあるを見れば經はいにしへフルル、フレテともはたらきしなり。但フルル、フレテの方は今トドケルといふ意なる如し。國史大系本の如きはフル、ヘテとよむべきものと混同せり。たとへば公式令なる事經奏聞を奏聞ニフレテとよみたれどこは奏聞ヲヘテとよむべし。又選叙令なる其經八考者を八考ヲ經ラバとよみたれどフラバといふ活は無し。こはソノ八考ヲヘタル者ハとよむべし
 
2400 いでいかに極太甚〔左△〕《ココダクニワガ》、利心のうするまでもふ戀〔左△〕故
(2264)伊田何極太甚利心及失念戀故
 極太甚について宣長は
  此末に大船ニマカヂシジヌキコグホドモ極太コヒシ年ニアラバイカニといふもネモコロと訓べければこゝもネモコロゴロニと訓べし
といへり。案ずるにネモコロニ戀フとはいふべくネモコロニ戀シとはいふべからず。されば下なる大船の歌の極太はココダクとよむべく今は極太甚を極太吾の誤としてココダクニワガとよむべし○ウスルマデモフのモフはイデイカニの結なり。されば上四句の意はマア、ドウシテカク甚シク利心ノウスル迄ニ我思フ事ゾとなり。こゝのイデはマアと譯すべし。イカニは後世のイカデなり○結句を略解古義にコフラクノユヱとよみたれど上にオモフとあれば結句にその相手を出すべきなり(モノモフとあらばこそ結句はコフラクノユヱともあるべけれ)。されば戀故は不相子故などの誤にあらざるか
 
2401 こひしなばこひもしねとやわぎもこが吾家《ワギヘ》の門をすぎてゆくらむ
戀死戀死哉我妹吾家門過行
 
(2265)2402妹があたり遠見者《トホクミユレバ》あやしくも吾戀△《ワガコヒヤミヌ》相依無《アフヨシナキニ》
妹當遠見者怪吾戀相依無
 二四五を略解古義にトホクシミレバ……ワレハゾコフルアフヨシヲナミとよめり。第二句は舊訓に從ひてトホクミユレバとよむべく結句は考に從ひてアフヨシナキニとよむべし。又第四句は吾戀の下に息又は止を補ひてワガコヒヤミヌとよむべし
 
2403 玉久〔左△〕《タマキヨキ》世清〔二字左△〕河原《キヨキカハラニ》みそぎして齋命《イノルイノチモ》、妹が爲こそ
玉久世清河原身祓爲齋命妹爲
 初二を舊訓にタマクゼノキヨキカハラニとよめり。さて楫取魚彦の續冠辭考に
  四言の例も多ければタマクセとよむべし。……玉クセは玉クシロをつづめいへるならん。シロ(ノ)反ソをセに通はしたらん。……玉を飾れる釧は清くみゆればキヨキ河原とつづけしならん
といひ、宣長は山代〔二字右△〕久世能〔右△〕河原の誤として
(2266)  ヤマシロノクゼノカハラニと訓べし
といひ、千蔭は之に附記して
  されどこゝは能の字を添べき書ざまにあらず。考ふべし
といひ、雅澄は宣長の説に據り千蔭の説に顧みて
  山背(ノ)久世(ノ)河原(ニ)とありけむを山を玉に背を清に誤りたるよりつひにみだれしならむ
といへり。又山田孝雄氏は
  新撰字鏡に灘(加波良久世又和太利世又加太)とあるカハラとクセとは二語にてこゝのクセはその證とすべし。……久世は河原と同義にして水石相交る處をいふものと考へらる。その石の清きをたとへて玉クセといひやがて又キヨキ河原ニと繰返したるものならむ(大正五年五月私信)
といはれき。案ずるに久世清を清久世の顛倒としてタマキヨキクゼノカハラニとよむべし。玉は小石なり○第四句を略解にイハフイノチモとよみ古義にイハフイノチハ〔右△〕とよめり。案ずるにミソギシテを受けたれば齋はイノルとよむべく命は調(2267)を量りてイノチモとよむべし〇四五の語例は卷十二に
  ときつ風ふけひの濱にいでゐつつあがふ命者《イノチハ》妹之爲社《イモガタメコソ》
とあり
 
2404 思依見依物有ひと日へだつをわすると念はむ
思依見依物有一日間忘念
 上三句を略解にオモフヨリミルヨリモノハアルモノヲとよみ古義には有を何爲の誤としてオモヒヨリ見ヨリシモノヲナニストカとよめり。案ずるに思社〔右△〕依宿〔右△〕物何〔右△〕有の誤としてオモヘコソヨリネシモノヲイカナレカとよむべきか。こは試に言ふのみ○ヒト日ヘダツヲは後世ならばヒト日ヘダツルヲとあるべきなり
 
2405 かきほなす人はいへども(こまにしき)紐解開《ヒモトキアケシ》きみならなくに
垣廬鳴人雖云狛錦紐解開公無
 カキホナスはシゲクといふことなリ。卷九(一八六三頁)にもカキホナス人ノトフ時とあり○紐解開を略解古義にヒモトキアケシとよめリ。紐にアクルといはむは穩(2268)ならねど次にも紐解開《ヒモトキアケム》ユフベダニとあり又下に君キマセルニ紐不開寐また卷十二に裏紐開《シタヒモアケテ》コフル日ゾオホキまた卷十七にユヒテシ紐ヲ登伎毛安氣奈久爾また卷二十に比毛等伎安氣奈タダナラズトモとあり
 
2406 (こまにしき)紐解開《ヒモトキアケム》ゆふべ戸〔左△〕《ダニ》しらざる命こひつつかあらむ
狛錦紐解開夕戸不知有命戀有
 第二句を從來ヒモトキアケテとよめり。さて宣長は
  ユフベトモ知ラザル命コマニシキ紐トキアケテコヒツツカアラムと句の次第をかへて心得べし
といひ略解古義共に之に從ひたり。案ずるにヒモトキアケムとよみて句の順序のままに心得べし。即
  妹ガ紐ヲトキアケムソノ夕ヲダニハカリ知ラザル命モテ〔二字傍点〕カク戀ヒツツカアラム
といへるなり○戸は略解に谷の字の誤なるべしと云へり
 
2407 百さかの船潜〔左△〕納《フネコギイルル》やうらざし母はとふとも其名はのらじ
(2269)百積船潜納八占刺母雖問其名不謂
 モモサカは百尺にて船の長さなり。第二句を略解にフネカヅキイルルとよみ古義に潜を漕の誤としてフネコギイルルとよめり。古義に從ふべし。初二はヤウラザシのウラにかゝれる序なり○ヤウラザシは占なひて男の名を指すなり。サを濁りて唱ふべし。ヤは反復の意にてウラザシにかゝれるなり。占のみにかゝれるにあらず
 
2408 眉根かき鼻ひ紐解《ヒモトキ》、待哉《マツラムヤ》いつかもみむと念吾〔二字左△〕《ワガオモフ》君
眉根削鼻鳴紐解待哉何時見念吾君
 マヨネカキははやく卷四に
  いとまなく人の眉根をいたづらにかかしめつつも逢はぬ妹かも
 又卷六に
  月たちてただ三日月の眉根かきけながくこひし君にあへるかも
とあり。人に逢はむ呪なり。ハナヒはクサメシなり。紐解は舊訓の如くヒモトキとよむべし。略解古義にヒモトケとよめるはわろし。鼻ヒルも紐トクもおなじく人に逢はむ呪なり。契沖は毛詩終(?)風に寤メテ言《ワレ》寐ラレズ、言《ワレ》ヲ願《オモ》ヘバ則|嚔《ハナヒ》ルとあるを引き(2270)たれどそは人ガ我ヲ思ヘバ我ハクサメスといへるにて今の俗に一褒メラレ二クササレとかいふ諺の本源にてこゝにハナヒとあるとは相與からず〇三五を略解にマテリヤモ……オモヘルワギミとよみ、古義にマテリヤモ……オモヒシワギミとよめり。案ずるに第三句は舊訓に從ひてマツラムヤとよむべく、結句は吾念君の顛倒としてワガオモフキミとよむべし
 
2409 君にこひうらぶれをれば悔〔左△〕《アヤシクモ》我〔□で囲む〕|裏紐△《シタヒモトケテ》結手徒〔左△〕《ユフテタユシモ》
君戀浦經居悔我裏紐結手徒
 考に悔を怪の誤、徒を倦の誤としてアヤシクモワガシタヒモヲユフテタユシモとよみ略解古義は之に從へり(但古義にはシタヒモノ〔右△〕とよめり)。卷十二に
  みやこべに君はいにしをたれとけかわが紐緒乃ゆふ手たゆしも
 古今集戀一に
  おもふともこふともあはむものなれやゆふ手もたゆくとくる下紐
とあると參照すれば略意義はさとらるれどなほ筋のとほらざる所あり。即第四句にまづトクルといふことを言はざるべからず。されば我を衍字とし紐の下に解の(2271)字を補ひてシタヒモトケテとよむべし○さて此歌は前の歌の答ならむ○經をフレに借りたり
 
2410 (あらたまの)年者竟〔左△〕杼《トシハヘヌレド》(しきたへの)袖かへし子を忘れてもへや
璞之年者竟杼敷白之袖易子少(?)忘而念哉
 第二句を略解古義にトシハハツレドとよみさて略解に『春逢て其年は暮れども忘れぬといふ也』といへれどさては辭足らず。宜しく竟を經などの誤としてトシハヘヌレドとよむべし○ソデカヘシ子は袖ヲサシカハシシ女となり。ワスレテモヘヤはただ忘レムヤとなり(六二九頁參照)
 
2411 しろたへの袖をはつはつ見柄《ミシカラニ》かかる戀をも我はするかも
白細布袖小端見柄如是有戀吾爲鴨
 ハツハツは卷七(一三八六頁)にも小端《ハツハツ》ニ見テカヘリテ戀シとあり。意はハツカニに同じ○見柄は舊訓に從ひてミシカラニとよむべし(略解にはミテシカラとよめり
 
2412 わぎもこに戀無之〔左△〕《コヒテスベナミ》いめにみむと吾はおもへどいねらえなくに
(2272)我妹戀無之夢見吾雖念不所寐
 無之を略解に無爲の誤とせり。古義には無乏の誤として
  乏字スベとよむ義は未詳ならねど無乏《スベナカリ》、無乏《スベヲナミ》などあればいにしへスベと云に用ひし字なるべし
といへり(上【二二四七頁】なる何時不戀時の處に)。さて第二句を舊訓にコヒテスベナミとよめるを略解古義に卷十二に
  吾妹兒に戀爲便名鴈、胸をやき朝戸あくればみゆる霧かも
 又卷十七に
  わがせこに古非須弊奈賀利あしがきのほかになげかふあれしかなしも
とあるによりてコヒスベナカリとよみたり。案ずるにたとひコヒテスベナミといふことをコヒスベナカリといひしことありとも現に集中にコヒテスベナミといへる例あれば(たとへば卷十【一九六七頁】にワギモコニ戀而爲便莫とあり)今も耳近きに從ひてコヒテスベナミとよむべし○之はげに諸本に乏とあり
 
2413 故もなくわがした紐ぞ令〔左△〕解《イマトクル》、人莫△知《ヒトニシラユナ》ただにあふまで
(2273)故無吾裏紐令解人莫知及正逢
 第三句を略解にトケシムルとよめるを古義に中山嚴水の説に據りて令を今の誤としてイマトクルとよめり。之に從ふべし○第四句を略解にヒトニシラユナ、古義にヒトニナシラセとよめり。其の下に所の字を補ひてヒトニシラユナとよむべし。そのナは自禁めたるなり○下紐のおのづから解くるは戀人に逢ふ祥にて、もし其を人に知らるゝ時は驗なしなどいふ俗信ありしにこそ
 
2414 こふること意追〔左△〕不得《ナグサメカネテ》いでゆけば山川《ヤマヲモカハヲモ》、知らず來にけり
戀事意追不得出行者山川不知來
 第二句を舊訓にナグサメカネテとよめり。眞淵は舊訓に從ひて追を進の誤とし雅澄は追を遣の誤としてココロヤリカネとよめり。案ずるに追を遣の誤として義訓にてナグサメとよむべし。コフル事ヲ〔右△〕を受けて更に心ヲ〔右△〕ヤリカネとはいふべからざればなり。さて上三句は妹を訪ひて得逢はざりし趣なり。イデユケバは出來レバなり○山川を眞淵がヤマモカハヲモとよみ雅澄がその例に卷九過2足柄坂1見2死人1作歌(一八三八頁)なる父妣毛妻矣毛《チチハハモツマヲモ》ミムトを引ける、共によろし
 
(2274)  寄物陳思
2415 をとめら乎〔左△〕《ガ》袖ふる山のみづ垣の久しき時ゆ念來吾等者《モヒキツワレハ》
處女等乎袖振山水垣久時由念來吾等者
 卷四に柿本朝臣人麻呂歌三首とありて
  をとめら之袖ふる山のゐづ垣の久しき時ゆ憶寸吾者《オモヒキワレハ》
とあると同じき歌の少しかはりて傳はれるなり○略解に乎を之の誤とせるに對して古義に
  乎を之に改めしはいとみだりなり。之《ノ》に通ふ詞なり
といへり。なほ之の誤としてガとよむべし。上三句は序、其中にて又ヲトメラガソデまでの七言は布留の枕辭なり。布留山のみづ垣を久シキの序としたる所以は記傳卷二十三(一三六二頁)に
  石上(ノ)振(ノ)社はいと上代よりの神社にて其水垣は久しき世々を經たる故に久しき枕詞にせしなり。かくて後は振山といはでただ水垣ノ久シとのみもよむは右の(2275)歌にゆだねて省けるなり
といへる如し○結句を舊訓にオモヒキワレハとよめるを略解古義にモヒコシワレハ、オモヒコシアハとよめるは改惡なり。オモヒコシといはばワレヲ、フレゾなどいはざるべからざるをや。但舊訓の如くオモヒキとよみて來をテニヲハのキの借字とせむは穩ならねば宣長の如くモヒキツワレハとよむべし
 
2416 (ちはやぶる)神持在《カミノタモテル》、命《イノチヲバ》、誰爲《タガタメニカモ》、長欲爲《ナガクホリスル》
千早振神持在命誰爲長欲爲
 二三を舊訓にカミノタモテルイノチヲモとよめるを宣長は持を祷の誤としてカミニイノレルとよみ略解は舊訓に、古義は宣長に從へり。案ずるにこゝにてはイノリシとはいふべくイノレルとはいふべからず。さればもとのまゝにて又は持在の上に手の字を補ひてタモテルとよむべく命は古義の如くイノチヲバとよむべし〇四五を略解にタレガタメニカナガクホリセンとよみ古義にタレガタメニカナガクホリスルとよめリ。宜しくタガタメニカモナガクホリスルとよむべし。やがて君ノ爲ナラズヤといふ意なり
 
(2276)2417 いそのかみふるのかむ杉かむさびて戀をも我は更にするかも
石上振神杉神成戀我更爲鴨
 卷十に
  いそのかみふるの神杉かむさびて吾や更更こひにあひにける
とあり○初二は序なり。神杉ノヤウニとなり。カムサビテは年イタク老イテとなり○カムサブは神化する事なればカムサビテを神成と書けるか
 
2418 何名負神《イカナラムナヲオフカミニ》、幣嚮奉者《タムケセバ》わがもふ妹をいめにだに見む
何名負神幣嚮奉者吾念妹夢谷見
 上三句を略解にイカバカリ名ニオフ神ニタムケセバとよみ、宣長は何名負神を何在皇神の誤としてイカナラムスメガミニヌサタムケバカとよみ、古義にイカナラム名オヘル神ニタムケセバとよめり。宜しくイカナラム名ヲオフ神ニタムケセバとよむべし。タムケに幣(ヲ)嚮《ムケ》奉(ル)と書けるは義訓なり○古義に名オヘル神とよみながら釋には何處イカナル名ニ負ヘル神ニ奉幣シテといへり。名ヲ負フと名ニオフと(2277)は混同すべからず
 
2419 天地《アメツチニ》、言名絶《ワガナノタエテ》あらばこそ汝吾《ナレトワレトノ》あふことやまめ
天地言名絶有汝吾相事止
 初二を從來アメツチトイフ名ノタエテとよみたれど天地トイフ名といふこと穩ならず。宜しくアメツチニワガ名ノタエテとよむべし。言をワガとよむべき事は卷十(二一〇五頁)にいへり。又古人が名の絶えむ事を悲しみしは卷二なる妹ガ名ハ千代ニナガレムの處(三二六頁)にいへる如し。タエテアラバコソは絶エタラバコソなり○第四句を略解古義にイマシトワレトとよめり。宜しくナレトワレトノとよむべし
 
2420 月みれば國同《クニオナジキヲ》、山隔《ヤマヘダテ》、愛妹《ウツクシイモガ》へなりたるかも
月見國同山隔愛妹隔有鴨
 第二句を略解にクニハオナジゾ、古義にクニハオヤジゾとよめり。宜しくクニオナジキヲとよむべし。初二の意は月ノ樣子ヲミレバ異國ニハアラヌヲといへるなり(2278)〇第三句を略解古義共にヤマヘナリとよめり。ヤマヘダテとこそよむべけれ。作者と妹とを山が隔てたるなり○愛妹を略解にウルハシイモガとよめり。古義の如くウツクシイモガとよむべし。カハユキ妻ガといふ意なり
 
2421 ※[糸+參]〔左△〕路者《クルミチハ》石《イハ》ふむ山のなくもがもわがまつ君が馬つまづくに
※[糸+參]路者石蹈山無鴨吾待公馬爪盡
 初句を舊訓にクルミチハとよめるを古義に
  ※[糸+參]を來に借たるにて來ル道ハの意とする説は穩ならず。誤字なるべし。故考るに※[糸+參]は絲扁のあやまりて加はれるにて參にて參路者などありしにてもあるべきか。參路とは朝參の路を云べし
といへれど次なる和歌を見るに朝參の趣にあらず。さればマヰリヂハとはいふべからず。なほ舊訓に從ふべし。さてその※[糸+參]を契沖は繰の誤とせり。※[糸+參]は旗の附屬物なり。クルとはよむべからず
 
2422 いはね蹈《フム》重成山《カサナルヤマニ》あらねどもあはぬ日まねみこひわたるかも
(2279)石根蹈重成山雖不有不相日數戀度鴨
 第二句を舊訓にカサナル山ニとよみ古義にヘナレル山ニとよめり。舊訓に從ふべし。山がへだたれるにあらねばなり。さて初句を從來イハネフミとよみたれど石根蹈は山にかゝれるなればイハネフムとよむべし○こは前の歌の答なり。マネミは名多ミなり
 
2423 路のしり深島山しまらくも君が目みねばくるしかりけり
路後深津島山暫君目不見苦有
 こは吉備ノ道ノ後《シリ》にて備後なり。いにしへ入海即穴(ノ)海の中に深津島といふがありしにこそ○シマラクモはシバシダニなり
 
2424 (ひもかがみ)能登香山《ノトカノヤマト》、誰故〔左△〕《タレカイフ》、君來座在《キミキマセルヲ》、紐不開寐〔左△〕《ヒモアケザレヤ》
紐鏡能登香山誰故君來座在紐不開寐
 第二句以下を略解古義にノトカノ山ハタ【ガレ】ユヱゾ君キマセルニ紐アケズネムとよめり。まづ紐鏡は鏡の鈕に紐を通したるをいふ。而して紐を通すは手に持たむが(2280)爲なり。略解に『臺に懸ん料なり』といへるは非なり。さてヒモカガミノトカノ山とつづけたるは契沖の説にノトカは莫解《ナトキ》と通ずるが故なりといへり。げに此歌にてもノトカを莫解ときゝなして趣向を立てたるなり○さて契沖の説に
  紐鏡ナトキソと云山の名は誰故か。思ふ人の來たる夜、などか紐解開て寢ざらむ。と云意なり
といひ略解古義共に之に從ひたれど、もしさる意ならば紐鏡ノトカノ山トイフ名〔四字傍点〕ハといひイカニカ〔四字傍点〕紐トカズ寢ムといはざるべからず。案ずるに誰故を誰言などの誤、寐を耶などの誤としてノトカノ山トタレカイフ君キマセルヲ紐アケザレヤとよむべし。紐アケザレヤは紐ヲトカザラメヤとなり。
 
2425 山科の強田《コハタ》の山を馬はあれど歩吾來《カチユワガキツ》、汝念不得《ナヲモヒカネテ》
山科強田山馬雖在歩吾來汝念不得
 馬ハアレドは挿句なり。コハタノ山ヲ歩ニテ來ツといへるなり。コハタは即木幡なり○歩吾來を略解にカチヨリワガクとよみ古義にカチユアガコシとよめり。汝ヲとあれば妹に向ひて即妹がり到り著きていへるなり。されば過去格にてコシ否キ(2281)ツといふべきなり○結句は略解にナヲモヒカネテとよめるに從ふべし(古義にはナヲオモヒカネとよめり)。モヒカネテは思フニタヘカネテとなり
 
2426 遠山に霞たなびきいやとほに妹目不見《イモガメミズヲ》吾戀《ワガコフラクモ》
遠山霞被益遐妹目不見吾戀
 初二は序なり。イヤトホニは久シクといふことなるべし。四五を略解にはイモガ目ミズテワガコフラクモとよみ古義にはイモガ目ミネバアレコヒニケリとよめり。前者に從ふべし
 
2427 是川《ウヂガハ》の瀬々のしき浪しくしくに妹が心にのりにけるかも
是川瀬瀬敷浪布布妹心乘在鴨
 是川を舊訓にコノカハとよめるを春滿は氏(ノ)上《カミ》を是上とも書く例に據りてウヂガハとよむべしといひ谷川士清(和訓栞)は
  萬葉集に宇治川を是河と書る所あり。前漢地理志にも其事見え後漢書李雲傳の五氏來備(?)の注に是と氏と通ずるよし見えたり。橘氏の祖神梅ノ宮を攝家の人の管(2282)領するを是定といふ。西宮記には氏定とある同じ義也といへり
といひ訓義辨證下卷(四五頁)に
  是と氏とはもとより通用の文字なれば今も通じかけるものとしてウヂガハとよむべき也
といひて通用の例どもを擧げ、更に
  又漢書地理志下の注云古字氏是同、後漢書李雲傳の注云是與v氏古宇通といへり。これらにて是氏通用を曉るべし
といへり。されば是川はウヂガハとよむべし○初二は序なり。シキ浪は次々に寄來る波なり。シクシクニは頻ニなり○妹ガ心ニノリニケルカモは當時慣用の辭句にて妹ガ此方ノ心ニ乘ルとなり。はやく卷二に
  あづま人ののさきのはこの荷のをにも妹がこころにのりにけるかも
 卷四に
  ももしきの大宮人はおほかれど心にのりておもほゆる妹
 卷十に
(2283)  春さればしだる柳のとををにも妹が心にのりにけるかも
とあり。下にも多し。就中卷十三にはオモヒヅマ心ニノリテとよめり
 
2428 (ちはや人)宇治のわたりの速瀬〔二字左△〕《セヲハヤミ》あはずありとも後《ノチハ》わがつま
千早人宇治度速瀬不相有後我※[女+麗]
 初二は序なり。後の字は古義に從ひてノチハとよむべし(略解にはノチモとよめり)○第三句を從來ハヤキセニとよみたれど瀬速の顛倒としてセヲハヤミとよむべし。障る事のあるに譬へたるなり。アハズアリトモは契りのみして未逢はざるなり
 
2429 (はしきやし)あはぬ子故にいたづらに是川《ウヂガハ》の瀬に裳襴潤《モスソヌラシツ》
早敷哉不相子故徒是川瀬裳襴潤
 ハシキヤシは子にかゝれる准枕辭なり。子ユヱニは子ナルニなり。結句を略解古義にモノスソヌレヌとよめり。宜しくモスソヌラシツとよむべし。河を渡りて逢ひに行きしに逢得ざりしなり○下にも
  はしきやしあはぬ君故いたづらに此川の瀬に玉裳|沾津《ヌラシツ》
(2284)とあり
 
2430 是川《ウヂガハ》の水阿和《ミナワ》さかまきゆく水の事不反《コトカヘラズゾ》、思始爲《オモヒソメテシ》
是川水阿和逆纏行水事不反思始爲
 二三は水泡ヲサカマカセユク水ノといはむが如し。水の落つる勢にて生じたる水泡はすこし後へ戻るをミナワサカマキといへるなり〇四五を略解にコトハカヘサジモヒソメタレバとよみ、古義にコトカヘサズゾオモヒソメテシとよめり。宜しくコトカヘラ〔右△〕ズゾオモヒソメテシとよむべし。事は如なり。例は卷八に
  あしひきの山下とよみなく鹿の事〔右△〕ともしかもわがこころづま
 卷十に
  春さればまづなく鳥のうぐひすの事〔右△〕さきだちて君をしまたむ
とあり。ユク水ノ如ク返ラズゾ思始メテシといへるなり。カヘラズはオモヒカヘス事ナクとなり
 
2431 鴨川の後瀕靜《ノチセシヅケク》、後相《ノチモアハム》、妹者我《イモニハワレハ》、今ならずとも
(2285)鴨川後瀬靜後相妹者我雖不今
 二三四を略解にノチセシヅケクノチモアハムイモニハワレヨとよみ、古義にノチセシヅケシノチハアハムイモニハアレハとよめり。二三は略解の如くノチセシヅケクノチモアハムとよむべし。さて諸註に初二全部を序と見たるは誤れり。序はカモ川ノノチ瀬までの八言なり。即シヅケクを隔ててノチモにかゝれるなり○卷十二に
  高湍なる能登瀬の河の後もあはむ妹者吾者今ならずとも
とあり。古義に今の歌の第四句をイモニハワレハとよめるは之に據れるなり。しばらく此訓に從ふべし○卷四に
  この世には人ごとしげしこむ世にはあはむわがせこ今ならずとも
  ひと瀬にはちたびさはらひゆく水の後にもあはむ今ならずとも
とあると相似たり
 
2432 言にいでていはばゆゆしみ(山川の)たぎつ心を塞耐在《セキゾアヘタル》
言出云忌忌山川之當都心塞耐在
(2286) 初二は口ニ出シテ云ハバ憚アルベキニヨリテとなり。タギツ心はワキカヘル心なり○結句を略解にセキアヘテケリ、古義にセカヘタリケリとよめり。宜しくセキゾアヘタルとよむべし。アヘタルはコラヘタルなり
 
2433 水のうへに數かく如き吾命妹にあはむとうけひつるかも
水上如數書吾命妹相受日鶴鴨
 ワガ命は我命モテとなり。上に
  こまにしき紐ときあけむゆふべだに知らざる命こひつつかあらむ
とある命に同じ○ウケヒはこゝにては漢文の祝《シウ》にぞ當らむ
 
2434 ありそこえ外《ホカ》ゆく波のほかごころわれは思はじこひてしぬとも
荒磯越外往波乃外心吾者不思戀而死鞆
 初二は序なり。ホカユクは外ニユクなり。本集には後世の語法にては略すべからざるニをも省きたり。即山ニカタヅキテを山カタヅキテといひ雲ニカクリを雲ガクリといひ心ニ戀ヒをウラゴヒといへる類なり○ホカ心は上(二二六三頁)に見えた(2287)るケシキ心におなじ。心ヲ思ハジは心ヲ持タジとなり
 
2435 あふみの海おきつしら浪|雖不知《シラズトモ》妹所云《イモガリトイハバ》七日〔二字左△〕越來《コエコム》
淡海海奥白浪雖不知妹所云七日越來
 初二は序なり。第三句以下は舊訓にシラズトモ妹ガリトイハバ七日コエコムとよめるに從ふべし。古義にはシラネドモ妹ガリトイヘバ七日コエキヌとよめり。略解に四五は舊訓に從ひながら第三句をシラネドモとよめるは論外なり〇七日を宣長は
  或人説に七日は直の誤にてイモガリトイヘバタダニコエキヌ也といへり
といひ古義は全然之に從へり。案ずるに越ゆべき物を云はずしてタダニコエキヌ(又はナヌカコエコム)とはいふべからず。七日は山母などの誤ならざるか
 
2436 (大船の)香取の海にいかりおろしいかなる人か物もはざらむ
大船香取海チ下何有人物不念有
 上三句は序なり。この香取は下總のにはあらで近江のにて卷七に
(2288)  いづくにかふな乘しけむ高島の香取の浦ゆこぎでくる船
とあると同處なりと契沖いへり
 
2437 おきつ藻をかくさふ浪の五百重浪ちへしくしくにこひわたるかも
奥藻隱障浪五百重浪千重敷敷戀度鴨
 上三句は序なり。チヘシクシクニはイト頻ニなり
 
2438 人事《ヒトゴトヲ》、暫〔左△〕吾妹《シゲミトワギモ》つなでひく從海益《ウミユマサリテ》、深念《フカクシゾモフ》
人事暫吾妹繩手引從海益深念
 略解に
  ひとごとはしましぞわぎもツナデヒク海よりましてふかくおもほゆ
とよめり。宣長は暫を繁の誤として人ゴトノシゲケキワギモ(又はシゲキワギモコ)
とよむべしといひ、雅澄は之に基づきて
  ひとごとのしげけきわぎもツナデヒク海ゆまさりてふかくしぞもふ
とよめれどまづシゲケキといふ語は無し。又シゲキワギモコとはつづけいふべか(2289)らず。案ずるに下に
  人事茂君《ヒトゴトシゲミトキミニ》玉づさの使もやらずわするとおもふな
  人事乎|繁跡《シゲミト》君乎うづらなく人の古家にかたらひてやりつ
 又卷十二に
  人言|繁跡妹《シゲミトイモニ》あはずしてこころのうちにこふるこのごろ
とあれば宣長のいへる如く暫は繁の誤とすべし。但訓はヒトゴトヲシゲミトワギモとあるべし。人言ガシゲサニとなり。シゲミトのトは例の省きて見べきトなり。四五は古義に從ひてウミユマサリテフカクシゾモフとよむべし○更に思ふに結句のオモフは第二句なる吾妹を受けたれば吾妹の下にヲといふテニヲハあらむ方まされり。されば暫吾妹は繁跡妹の誤としてシゲミトイモヲとよむべきか
 
2439 あふみの海おきつ島山おくまけて吾念妹《ワガモフイモヲ》ことのしげけく
淡海奥島山奥儲吾念妹事繁
 初二は序、オキツ島は湖中の島の名なり○下に
  あふみの海おきつ島山奥間〔日が月〕經而、我念妹之ことのしげけく
(2290)とあり。オクマケテはオクマヘテにひとしからむ。そのオクマヘテははやく卷六にも
  長門なるおきつかり島おくまへてわがおもふ君は千歳にもがも
  おくまへて吾を念へる吾背子は千年五百年ありこせぬかも
とありて大切ニといふことなり○第四句を略解古義にワガオモフイモガとよめるは下に重出せるに我念妹之とあるに據れるなれどその之を乎の誤としてこゝをもワガモフイモヲとよむべし。妹ナルモノヲとなり○初句は淡海海とあるべし
 
2440 近江の海おきこぐ船《フネノ》いかりおろし藏〔左△〕公之《マモリテキミガ》ことまつ吾ぞ
近江海奥滂〔左△〕船重下藏公之事待吾序
 從來船の字にニをよみそへたれどノをよみそふべし。イカリオロシの主格は船なればなり○第四句を從來カクレテキミガとよみたれどカクレテにては意通ぜず。候などの誤としてマモリテとよむべし。マモルは船の方にては風ヲ待ツにて人事にては相手ノケシキヲウカガフなり。さてマモリテキミガコトマツワレゾとは此方ヨリハ何トモ云出デズシテ君ノ方ヨリ何トカ云出デムヲ待テルナリとなり○(2291)上三句は序なリ。宣長が『序にはあらじ』といへるは非なり○滂は手扁又は木扁を水扁に誤れるなり。重は重石の石をおとしたるか又は略したるか。下には重石と書けり
 
2441 (こもりぬの)したゆこふればすべをなみ妹が名のりつ忌物矣《ユユシキモノヲ》
隱沼從裏戀者無乏妹名告忌物矣
 シタユはシタニなり。ココロユオモハヌ(一四一一頁)などのユにおなじ。さてシタニは心ニなり○下に
  こもりぬの下にこふればあきたらず人にかたりつ可忌物乎《イムベキモノヲ》
 又卷十二に
  おもふにしあまりにしかばすべをなみ吾はいひてき應忌鬼尾《イムベキモノヲ》
とあるによりて略解古義に今の歌の忌物矣をもイムベキモノヲとよみたれど忌の上に可をおとせりとせずばイムベキモノヲとはよむべからず。このままならば舊訓の如くユユシキモノヲとよむべし。ユユシキはイマハシキなり
 
2442 大土もとればつくれど世の中に盡不得〔左△〕物《ツキセヌモノハ》、戀にしありけり
(2292)大土採雖盡世中盡不得物戀在
 オホヅチは大地の直譯ならむ。此語復活して用ふべし○第四句を略解にツキセヌモノハとよめるを古義にツキエヌモノハと改めたり。ツクシエヌとはいふべくツキエヌとは云ふべからず。されば得を爲の誤として略解即舊訓の如くよむべし
 
2443 隱處《コモリドノ》、澤泉〔左△〕在△《サハタツミナラバ》、石根《イハネヲモ》、△通念《トホスベクゾモフ》、わがこふらくは
隱處澤泉在石根通念吾戀者
 下に
  隱津之、澤立見爾有、石根從毛、遠而念、君にあはまくは
とあり。之に基づきて今の隱處をも從來コモリヅノとよみ、略解には『處はドとよめるを以て通はせてヅに用ひたり』といへれど處はヅには假用すべからず。はやく記傳卷二十五(二一三九頁)に
  隱處の處(ノ)字はもしは泉を誤れるにあらざるか。其故は處はドとこそよむべけれヅとはよみがたし。ヅに此字をかくべきに非ず。又ミヅを省きてはミとこそいへ。ヅといへる例を知らず。されば泉(ノ)字にてヅと訓てイヅミの省きならむか(2293)といへり。案ずるにもとのまゝにてコモリドノとよむべし。コモリドはコモリタル處なり(下なる隱津之は隱沼之の誤としてコモリヌノとよむべし)○第二句を從來サハイヅミナルとよみて略解に『澤泉は地名ならで澤水をいへり』といへれど澤水を澤泉とはいふべからず。又三四を略解にイハネユモトホシテゾオモフとよみ古義にイハネヲモトホシテゾモフとよめり。案ずるに下に澤立見とあるが正しくてこゝに澤泉とあるは澤立水の誤ならむ(卷二にニハタヅミを庭多泉と書ける例あれば澤の下泉の上に田などを落したるにてもあるべし)。而してタツミは渟水《タマリミヅ》の事ならむ。倭訓栞に『南伊勢の俗は淵をタヅミといふ』といへる、傍證とすべし。
  因にいふ。タツミは立水《タツミ》(止水)の義なるべければツは清みて唱ふべし。濁れるは訛なり。ニハタヅミのツも本來清みて唱ふべきなり。俄立水《ニハタツミ》の義なるべければなり
 さて在の下に者の字を補ひ又通の上に可の字を補ひて
  こもりどの澤立水《サハタツミ》ならば石根《イハネ》をも通すべくぞ念《モ》ふわがこふらくは
とよみて
  我モシ澤ニタマレル水ナラバワガ妹ヲ戀フルヤウハ岩根ヲサヘ通スベクゾ思(2294)フ
といふ意とすべし。下に
  わぎもこにわがこふらくは水ならばしがらみこえてゆくべくぞもふ
といふ歌あり。參照すべし
 
2444 (しらまゆみ)いそべの山のときはなる命哉《イノチニモガモ》こひつつをらむ
白檀石邊山常石有命哉戀乍居
 イソベノ山は地名ならむ。初二は序なり○命哉を略解古義にイノチナレヤモとよめり。宜しくイノチニモガモとよむべし。又四五の間にサラバ心ナガクといふことを挿みて聞くべし
 
2445 あふみの海しづくしら玉|不知《シラザリシ》△從戀者《トキヨリコヒハ》、今ぞまされる
淡海海沈白玉不知從戀者令〔左△〕益
 三四を略解古爲にシラズシテコヒツルヨリハとよめり。右の如くよまば今ゾマサレルは何が益るとかせむ。今ゾマサレルといはむにはその益るものを云はざるべ(2295)からざるにあらずや。宜しく從の上に時の字を補ひてシラザリシ時ヨリコヒハとよむべし。さてシラザリシは噂ニ聞キテ未顔ヲ見ザリシといふ事にて此歌は未逢始めぬさきの歌なり○代匠記に
  上のアフミノ海オキツシラ浪と云より此歌まで近江をよめる事多きは第一第三に人丸の近江にての歌、近江より歸り上らるゝ時の歌あれば近江守の屬官などにて彼國に有て見聞に任てしるされたるにや
といへり。よき心づきなれど『此歌まで』といへるは心ゆかず。次の歌と二首一聯なるをや○令は諸本に今とあり
 
2446 しら玉を△纏持《テニマキモチテ》、今よりはわが玉にせむ知時〔左△〕谷《シレルノチダニ》
白玉纏持從令〔左△〕吾玉爲知時谷
 略解古義に第二句をマキテゾモタル、結句をシレルトキダニとよめり。さて略解に
  この知は妹を相知也。妹にはじめて逢事を得て其母などにまだしらせねば末はしらねど今相知時をだに吾物と思ひ定めんと也
といひ古義は此釋に從へり。案ずるに纏の上に手の字を補ひ又時を後の誤として
(2296)  しら玉を手にまきもちて今よりはわが玉にせむしれる後だに
とよむべし。シレル後ダニは顔ヲ知レル後ダニとなり○此歌の令も今を誤れるなり
 
2447 しら玉を手にまきしより忘れじと念△何畢〔左△〕《オモフココロハイツカカハラム》
白玉從手纏不忘念何畢
 宣長は
  念の下心の字を脱し畢は異の誤にてオモフココロハイツカカハラムと有しなるべし
といへり。此説に從ふべし
 
2448 烏〔左△〕玉《シラタマノ》あひだあけつつぬける緒もくくりよすれば後あふものを
烏玉間開乍貫緒縛依後相物
 眞淵は烏玉を白玉の誤としてシラタマヲとよみ雅澄はシラタマノとよめり。ヲとよみてヌケルにつづくべし○下の意は我中モ後ニハイカデ相近ヅカザラムヤと(2297)なり
 
2449 かぐ山に雲ゐたなびきおほほしくあひみし子らを後こひむかも
香山爾雲位桁曳於保保思久相見子等乎後戀牟鴨
 初二は序なり。クモヰはただ雲といはむにひとし。はやく卷三(四六〇頁及五六〇頁)にもクモヰタナビキ、卷七(一二三三頁)にもクモヰタツラシとあり○オホホシクはサダカナラズ、といふことにてアヒ見シにかゝれり○タナを桁と書ける例は新撰姓氏録右京神別上に鳥取部《トトリベ》(ノ)連《ムラジ》ハ天(ノ)湯河桁(ノ)命ノ後ナリとあり。此湯河桁は垂仁天皇紀に鳥取(ノ)造《ミヤツコ》(ノ)祖天(ノ)湯河|板擧《ダナ》とあると同人なれば桁はタナとよむべし
 
2450 雲間よりさわたる月のおほほしくあひみし子らをみむよしもがも
雲間從狹徑月乃於保保思久相見子等乎見因鴨
 初二は序、サワタルのサは添辭なり
 
2451 あま雲のよりあひとほみあはずともあだし手枕|吾纏哉《ワレマカメヤモ》
天雲依相遠雖不相異手枕吾纏哉
(2298) 結句を舊訓にワレハマカメヤとよみ古義にアレマカメヤモとよめり。ワレハのハの無き方調まされり(略解に『アレマカンカモとも訓べし』といへるはいかに心得たるにか)○初二は序なり。ヨリアヒは雲と雲とゆき合ふ事ならむ。古義に
  天の雲と國土とはるかに離れ隔りて依合事の遠きよしのつづけなるべし
といへるは從はれず
 
2452 雲だにもしるくしたたば意追〔左△〕《ナグサメニ》、見乍爲〔左△〕《ミツツヲラムヲ》ただにあふまで
雲谷灼發意追見乍爲及直相
 意追を舊訓にナグサメニとよめるを眞淵は意遣の誤として訓はもとに從ひ雅澄はおなじく意遣の誤としてココロヤリとよめり。眞淵の説に從ふべし(二二七三頁參照)○見乍爲を眞淵は見乍居の誤としてミツツシヲラムとよめり。ミツツヲラムヲとよむべし○さて此歌は辭は齊明天皇の大御歌なる
  今木なる乎武例がうへに雲だにもしるくしたたば何か嘆かむ
に據り、想は彼巫山の女神が雲となり雨となりて楚の襄王に見えきといふ故事(文選高唐賦)に據れるなり
 
(2299)2453 (はるやなぎ)葛△《カヅラキ》山にたつ雲のたちてもゐても妹念《イモヲシゾモフ》
春楊葛山發雲立座妹念
 ハルヤナギははやく卷五(九〇七頁)に見えたり。上三句は序なり○結句を略解にイモヲシオモホユとよめるはいとわろし。語格上妹ノオモホユとはいふべく妹ヲ〔右△〕オモホユとはいふべからず。舊訓に基づきてイモヲシゾモフとよむべし〇葛の下に城又は木の字おちたるか
 
2454 かすが山雲ゐがくりてとほけども家はおもはず公念《キミヲシゾモフ》
春日山雲座隱雖遠家不念公念
 奈良の人の他郷にありてよめるなり。雲ヰガクリテは雲ニ隱レテなり。實は雲に隱れて遠きにあらず。遠きが故に見えぬなり○家は家なる妻なり。キミといへるは他郷にて相知りし女なり。公とかけるは借字なり○結句はキミヲシゾモフとよむべし。略解にキミヲシオモホユとよめるはいみじき誤なり
 
2455 わが故に所云妹《イハルルイモハ》たか山の峯の朝霧、過〔左△〕兼鴨《イブセケムカモ》(2300)我故所云妹高山之今朝霧過兼鴨
 第二句を從來イハレシイモハとよめるは結句のケムを過去のケムと誤解せる爲なり。宜しくイハルルイモハとよむべし。初二は我爲ニ世間ニイヒサワガルル妹ハとなり。語例は卷四に
  山菅の實《ミ》ならぬことを吾によせいはれし君はたれとかぬらむ
とあり○結句を從來字のまゝにてスギニケムカモとよめり。過を悒の誤としてイブセケムカモとよむべし。イブセカラムカとなり。三四はイブセシにかゝれる序なり
 
2456 (ぬばたまの)黒髪山の山草〔左△〕《ヤマスゲニ》に小雨零敷《コサメフリシケバ》、益益所思《マスマスオモホユ》
烏玉黒髪山山草小雨零敷益益所思
 四五を略解古義にコサメフリシキシクシクオモホユとよめり。宜しくコサメフリシケバマスマスオモホユとよむべし。旅路にてよめるにて四五の間に妹ガといふことを省けるなり。フリシケバは降頻レバなり
 
(2301)2457 大野らに小雨|被〔左△〕敷《フリシケバ》、木本《コノモトヲ》時〔左△〕依來《タノミヲヨリコ》わがおもふ人
大野小雨被敷木本時依來我念人
 二三四を略解古義にコサメフリシクコノモトニトキドキヨリコとよめり(第二句の被を誤字と認めて)。案ずるに時を恃の誤として
  大野らにこさめふりしけばこのもとをたのみてよりこわがおもふ人
とよむべし。タノミテまでは序なり。タノミテヨリ來ル如ク寄來ヨといふべきを略せる例の一種の序なり。語例は靈異記中卷第三に如2恃(ム)樹(ニ)漏1v雨とあり
 
2458 (朝霜の)けなばけぬべくおもひつつ何〔左△〕此夜明鴨《マツニコノヨノアケニケルカモ》
朝霜消消念乍何此夜明鴨
 四五を略解にイカデコノヨヲアカシナムカモとよめり。宣長は
  イカデといひてカモととむる事語とゝのはず。何は待の誤にてマツニコノヨヲと有つらん
といひ、雅澄は之に基づきてマツニコノヨヲアカシツルカモとよめり。宜しくマツ(2302)ニコノヨノアケニケルカモとよむべし
 
2459 わがせこが濱|行〔左△〕《フク》風のいやはやに急〔□で囲む〕|事△《コトツグレバカ》益不相有《イヤアハザラム》
吾背兒我濱行風彌急急事益不相有
 古義に第二句の行を吹の誤とせり。之に從ふべし〇四五を略解古義にハヤコトナサバイヤアハザラムとよめり。案ずるに彌急急事とある急の一字を衍とし事の下に告の字を補ひて
  わがせこが濱ふく風のいやはやにことつぐればかいやあはざらむ
とよむべし。ワガセコガはイヤアハザラムにかゝれるなり。ハマフク風ノはイヤハヤニの序なり。アマリセハシク云ッテヤルカラ却ッテ逢ニ來ヌノデアラウといへるなり
 
2460 とほづまのふりさけ見つつしぬぶらむこの月のおもに雲なたなびき
遠妹〔左△〕振仰見偲是月面雲勿棚引
 シヌブラムは我ヲシヌブラムとなり○妹は誤字か
 
(2303)2461 山葉《ヤマノハヲ》追出月《オフミカヅキノ》はつはつに妹をぞみつる及〔左△〕戀《ノチコヒムカモ》
山葉追出月端端妹見鶴及戀
 初二を舊訓にヤマノハニサシイヅルツキノとよめるを宣長は追を照の誤としてテリイヅル月ノとよめり。さて略解は舊訓に從ひ古義は宣長に從へり。案ずるにもとのまゝにてヤマノハヲオフミカヅキノとよむべし。ミカヅキの漢字は※[月+出](音ヒ)なるを二字に割きて出月とかけるなり。オフは土左日記に
  つとめて大湊より那波のとまりをおはむとてこぎ出にけり
などあるオフにてサシユクといふ意なり○及戀はげに宣長のいへる如く後戀の誤にてノチコヒムカモなり。上(二二九七頁)にも
  かぐ山に雲ゐたなびきおほほしくあひみし子らを後戀牟鴨
とあり
 
2462 わぎもこしわれをおもはば(まそかがみ)照出月《テルミカヅキノ》、影にみえこね
我妹吾矣念者眞鏡照出月影所見來
(2304) 第四句を從來テリイヅル月ノとよめり。宜しくテルミカヅキノとよむべし。三四は影の序なり○カゲニを考に
  面影にあらず。右のハツハツニといふ如くホノカニダニモ見ニ來ヨといふ也
といひ略解古義共に之に從へるは非なり。カゲニは面影ニ.なり
 
2463 (久方の)あまてる月の隱去《カクリナバ》なにになぞへて妹をしぬばむ
久方天光月隱去何名副妹偲
 第三句を略解にカクレイヌとよみ古義にカクロヒヌとよめるは共に非なり。カクリナバとよむべし。ナニニナゾヘテは何ニヨソヘテなり。古義の釋はいたく誤れり
 
2464 みか月のさやにもみえず雲がくりみまくぞほしきうたてこのごろ
若月清不見雲隱見欲宇多手此日
 上三句は序なり。三日月ノサヤカニモ見エズシテ雲ニ隱レテ見マクホシキ如ク見マクゾホシキといふべきを略せるなり○ウタテはアヤシクなり。妙ニ此頃逢ヒタク思フとなり
 
(2305)2465 わがせこにわがこひをればわがやどの△草佐倍思《オモヒグササヘ》〔□で囲む〕うらがれにけり
我背兒爾吾戀居者吾屋戸之草佐倍思浦乾來
 第四句を從來字のまゝにてクササヘオモヒとよみたれどオモヒウラガルルといふ語あるべくもあらず。又さる語ありとも半より割きて二句に分屬せしむべきにあらず。おそらくは傳寫の際に思の字をおとし、後にそを補ふとて第三句の下に入るべきを誤りて第四句の次に入れたるにこそ。さればワガヤドノオモヒグササヘウラガレニケリとよむべし。思草ははやく卷十(二一七八頁)に見えたり。我思ノミナラズ思トイフ名ヲ負ヘル草サヘとなり
 
2466 朝茅原《アサヂハラ》、小野印《ヲヌニシメユフ》、空事《ムナゴトヲ》、何在〔左△〕云《イカニイヒテカ》、公待《キミヲバマタム》
朝茅原小野印空事何在云公待
 舊訓に
  あさぢはらをのにしめゆふそらごとをいかなりといひてきみをばまたむ
とよめり。下に
(2306)  淺茅原かりじめ刺而空事も所縁之君がことをし待たむ
 又卷十二に
  淺茅原小野にしめ結、空言もあはむときこせ戀のなぐさに
とあり。參照すべし○さて二三句を古義にヲヌニシメユヒムナコトヲとよみ改め
  本(ノ)二句の意は淺茅生たるあら野原に標繩《シメ》ゆふは何の益《シルシ》なくいたづら事なる心にてムナコトといはむ爲の序とせるなり。かれ序の意は徒事の由にいひかけムナコトとうけたる上にては虚言《ムナコト》なり。……空事は十二に空言とある其字(ノ)意なり。さてこれをばムナコトと訓べし(古來ソラゴトと訓來れどもいみじきひがごとなり)。さるは廿卷に牟奈許等母オヤノ名タツナと假字書の見えたる、これしか訓べき確なる據なり
といへり。此説に從ひて初二を序と認むべし。但訓はヲヌニシメユフ〔右△〕ムナゴトヲとあるべし(略解に初句をアサヂフノとよみ改めたるはわろし)○第四句を從來イカナリトイヒテとよめり。在を如の誤としてイカニイヒテカとよむべし○結句は舊(2307)訓に從ひてキミヲバマタムとよむべし(古義にはキミヲシとよめり)〇一首の意は卷十二に
  あしひきの山よりいづる月まつと人にはいひて妹まつ吾を
とある如く人ニ如何ナル空言ヲイヒテカ君ヲ待タムといへるなり
 
2467 路の邊の草深百合の後云《ユリニチフ》妹がいのちを我知《ワレシラメヤモ》
路邊草深百合之後云妹命我知
 初二は序なり。卷七(一三四六頁)にミチノヘノ草深ユリノ花ヱミニとあり○第三句を舊訓にノチニテフとよめるを宣長はユリニチフとよみ改めたり。此説に從ふべし。ユリは後といはむに同じ。はやく卷八及卷九(一五四三頁及一七四七頁)にいへり○我知を略解にワレハシラメヤとよみ古義にアレシラメヤモとよめり。後者に從ふべし〇一首の意は後日逢ハムト妹ハ云ヘド人ノ壽ハ恃ミガタケレバ妹ガソレ迄生キテアラムヤ我ハ知ラジ、サテサテ心モトナキ事カナといへるなり
 
2468 みなと葦にまじれる草のしり草の人皆知《ヒトミナシリツ》わがしたおもひ
(2308)潮葦交在草知草人皆知吾裏念
 上三句は序、マジレル草ノは交レル草ナルとなり○第四句を從來ヒトミナシリヌとよみたれどシリツとよむべし。ヌは准現在、ツは准過去にて現在にツを代用すべからざる如く過去にヌを代用すべからざればなり○シリ草は契沖の説に
  知草は鷺(ノ)尻刺にて藺の事なり。和名集云、玉篇云、藺和名|爲《ヰ》、辨色立成云、鷺尻刺云々
といひ後人之に從ひたれど鷺(ノ)尻刺を略して尻草とはいふべからず。なほ考ふべし
 
2469 山ぢさのしら露おもみうらぶるる心深〔左△〕、吾戀不止〔二字左△〕
山萵苣白露重浦經心深吾戀不止
 山ヂサは卷七(一四二八頁)に見えたり。考に
  此木の事我友の豐後國に在が植置しとてしるして見せたり。木の皮は梨、木身は桐の如し。葉は大さ形ともに枇杷に似て薄し。春は採て食ふ。冬は葉落めり。花は秋梨の如く聚咲り。花びら梅のことくして大きに色少しうるみ有。しべはふさ楊枝のごとしといへりと云へり。九州中國などに多きチシヤノ木(學名エーレチア、アクミナ一タ)の事にや(2309)〇四五を略解古義にココロヲフカミワガコヒヤマズとよめり。おそらくは誤字あらむ。試にいはば心似吾鯉樂者などありしか。さらばココロニニタリワガコフラクハとよむべし。ココロは樣子なり。卷十二(一九六八頁)にもハルサメノ心ヲ人ノシラザラナクニとあり
2470 みなとに核〔左△〕延子菅不竊〔二字左△〕隱《ネハフコスゲノネモコロニ》きみにこひつつありがてぬかも
潮核延子菅不竊隱公鯉乍有不勝鴨
 二三を舊訓にネハフコスゲノシノビズテとよみ宣長は根〔右△〕延子菅之〔右△〕竊隱の誤としてネハフコスゲノネモコロニとよめり。之に從ふべし(竊隱は惻隱の誤ならむ)○初二は序なり。アリガテヌカモは在ルニ堪ヘヌ哉となり
 
2471 山代の泉の小菅おしなみに妹心《イモガココロヲ》わがもはなくに
山代泉小菅凡浪妹心吾不念
 初二は序にてオシナミニは並々ニといふことなる事契沖のいへる如し○第四句を略解にイモガココロハとよみ古義にイモヲココロニとよめり。宜しくイモガコ(2310)コロヲとよむべし。語例は卷四(六二九頁)に妹之心乎ワスレテオモヘヤとあり○泉は相樂郡出水郷にて泉川の兩岸に跨れる地域なり
 
2472 見渡《ミワタシノ》、三室の山のいはほ菅ねもころ吾は片念《カタモヒ》ぞする
    一云みもろの山のいはこすげ
見渡三室山石穗菅惻隱吾片念爲
    一云三諸山之石小菅
 初句を舊訓にミワタセバとよめるを略解に
  見渡は打ワタスと同じく打向ひ見る意ともおもへど猶|美酒《ウマザケ》の誤にて枕詞なり
といへれど、なほ字のまゝにてミワタシノとよむべし。ミワタシノはヲチカタノといはむにひとし。上三句は序なり
 
2473 (すがの根の)ねもころ君が結爲《ムスバシシ》、我紐緒《ワガヒモノヲハ》、解人不有《トクヒトアラジ》
菅根惻隱君結爲我紐緒解人不有
(2311) 第三句を略解にムスビタルとよみ古義にムスビテシとよめり。宜しくムスバシシとよむべし○四五を略解古義共にワガヒモノヲヲトク人ハアラジとよめり。改めてワガヒモノヲハトク人アラジとよむべし。所詮アダシ女ニ解カセジといへるなり
 
2474 (山背の)亂戀〔二字左△〕耳《コヒミダレノミ》せしめつつあはぬ妹かも年はへにつつ
山菅亂戀耳令爲乍不相妹鴨年經乍
 第二句を從來もとのまゝにてミダレコヒノミとよみたれど亂と戀とをおきかへてコヒミダレノミとよむべし○ツツ二つあり
 
2475 わがやどの甍《ノキ》の子太草《シタクサ》、雖生《オヒタレド》こひわすれ草、見未生《ミルニイマダオヒズ》
我屋戸甍子太草雖生戀忘草見未生
 子太草は契沖のいへる如く下草なり。眞淵以下シダ草とよみて草の名としたるは非なり。本集には清濁通用したる上、太は清音にも用ひたり。太と書きたればとて必しもダとよむべからず。さてそのノキノシタ草を契沖はシノブとせり。或は然らむ(2312)○雖生を略解にオフレドモとよみ古義にオヒタレドとよめり。後者に從ふべし○結句を從來ミレドイマダオヒズとよみたれどオヒタレドといひて更にミレドといはむは快からず。さればミルニイマダオヒズとよむべし
 
2476 打田《ウツタニハ》、稗數多《ヒエハココダク》ありといへど擇爲《エラシシ》我ぞ夜《ヨヲ》ひとりぬる
打田稗數多雖有擇爲我夜一人宿
 卷十二に
  水をおほみ上《アゲ》に種まきひえをおほみ擇擢之業曾吾ひとりぬる
といふ歌あり○初二は從來ウツ田ニモヒエハアマタニとよめり。宜しくウツ田ニハ〔右△〕ヒエハココダクとよむべし(但數多はアマタモともよむべし)。ウツ田のウツはワタル日のワタルなどとおなじくただ輕く添へたるなり。深き心あるにあらず○擇爲は從來エラエシとよみたれど上なる結爲の例に仍りてエラシシとよむべし。田ニハ稗ハアマタアルヲ君ガ特ニ擇リテ棄テ給ヒシ我ゾ云々となり。アリトイヘドはエラシシにかかれるなり○夜はヨヲとよむべし(從來ヨルとよめり)
 
2477 (あしひきの)名負山菅《ナニオフヤマスゲ》、押伏《オシフセテ》、きみしむすばばあはざらめやも
(2313)足引名負山菅押伏公結不相有哉
 二三を舊訓にナニオフヤマスゲオシフセテとよめり。然るに宣長は
  名負はかならず誤字なるべし。押は根の誤にてネモコロニならん
といひ、古義には
  足引ノ名ニオフとは即山といふことなれば義を得てヤマノヤマスゲと訓べくといへり。案ずるにアシヒキノは名ニオフを隔てゝ山菅にかかり又名ニオフは實ナルチフ名ニオフといふべきを略せるなり。卷四に山菅ノ實ナラヌ事ヲ、卷七に妹ガタメ菅ノ實トリニユク吾ヲなどありて山菅は實を結ぶを以て聞えたるものなり(今大なるをヤブランといひ小なるをリヨウノヒゲといふ)○宣長雅澄の如く初二を序とすれば第四句のムスババは何の事とも聞えず。されば初二は序にあらず。從ひて第三句はネモコロニの誤にあらず。宜しくもとのまゝにてオシフセテとよむべし〇一首の意は實ガナルトイフ名ニ負ヘルメデタキ山菅ナレバソレヲ押伏セ結ビテ祝ヒタマハバ再逢ハザラムヤ、必逢フ事アルベシといへるならむ。いに(2314)しへ木草を結びて自祝ふ習ありし事卷六(一一五三頁)にいへる如し
2478 (秋がしは)潤和川邊《ウルワガハベノ》しぬのめの人不顔〔左△〕面《ヒトニシヌベド》、公無勝《キミニタヘナク》
秋柏潤和川邊細竹目人不顔面公無勝
 考に
  アキガシハうるやがはべのシヌノメノ人にしぬべばきみにたへなく
とよめり。そは下に
  朝柏、閏八河邊之しぬのめのしぬびてぬればいめにみえけり
といふ歌あるによりて潤和とあるをもウルヤとよみ不顔面とあるをば字に拘はらでシヌベバとよめるなり○さて眞淵は上三句を序としシヌノメを小竹之群《シヌノムレ》の義とせり。又雅澄は潤和、閏八を潤比、閏比の誤とせり。此等の説に基づきて更に私案を述べむにカシハは食物を盛る料なる木葉をいふ。さて秋の木葉又朝つみたる木葉は露にうるひたれば秋ガシハウルワ川邊ノまた朝ガシハウルハ河邊ノといへるなり〇四五を眞淵は
  人目をしのぶ故に公に逢がたくして思ひに堪ざる也
(2315)と釋し雅澄は之に從へり。案ずるに不顔面の顔は顯の誤なり。シヌブを戯れて不顯面と書けるなり。なほマヂカクを不遠と書きカレを不數見と書きオホホシクを不清、不明と書きキヨクを不穢と書きヨド、ヨドムを不行、不通と書ける如し。さて四五はヒトニシヌベド〔右△〕キミニタヘナクとよみて餘人ニ對シテハ堪忍ベドモ君ニ向ヘバ堪忍バレヌ事ヨといふ意とすべし○潤和はいづくにか。今播磨國明石郡伊川谷村の大字に潤和と書きてジユンナと唱ふる處あり。或は是か
 
2479 (さねかづら)後《ノチモ》あはむと夢〔左△〕耳《シタノミニ》うけひわたりて年はへにつつ
核葛後相夢耳受日度年經乍
 後の字を略解にノチモとよみ古義にノチハとよめり。卷二(二九二頁)なる長歌にサネカヅラ後毛將相等、卷四(七九四頁)にノチセ山後毛將相常、卷十二にコヒコヒテ後裳將相等などあればノチモとよむべしノチニといはむにひとし○夢耳を略解にイメノミヲ、古義にイメノミニとよめり、夢耳はおそらくは裏耳の誤ならむ。さらばシタノミニとよむべし。ウケヒは祈る事なり
 
2480 みちのへのいちしの花のいちじろく人皆|知《シリツ》、我戀〔左△〕※[女+麗]《ワガコモリヅマ》
(2316)     或本歌云いちじろく人しりにけりつぎてしもへば
路邊壹師花灼然人皆知我戀※[女+麗]
    或本歌云灼然人知爾家里繼而之念者
 初二は序なり。第四句は人ミナシリツとよむべし。上(二三〇七頁)にも人皆知ワガシタオモヒとあり○結句を略解にワガコヒヅマハとよみ古義にアガコフルツマとよめり。戀を隱の誤としてワガコモリヅマとよむべきか○壹師(ノ)花は白井光太郎博士の説(雜誌心の華十九の三)に今チシヤ一名エゴ一名ロクロ木一名ヅサ一名ヂナイといふものなりといへり。此木は其材を傘の轆轤に用ふるが故にロクロ木とも云ふなり。上に見えたるヤマヂサのチシヤノ木とは同名異物なり。學名をステラツクス、ヤポニカといふ
 
2481 大野らに跡状《タヅキ》もしらずしめゆひて有不得△吾眷《アリガテナクモワガコフラクハ》
大野跡状不知印結有不得吾眷
 有不得を千蔭はアリガテマシモとよみ宣長雅澄はアリゾカネツルとよめり。得は(2317)ガテとはよまれざるにあらねどガテを得とのみ書ける例なければ有不得勝の脱字としてアリガテナクモとよむべし○吾眷を千蔭はワガカヘリミバとよみ宣長は眷を戀の誤としてワガコフラクハとよみ雅澄は『眷は戀と通はし用たり』といひて、もとのまゝにてワガコフラクハとよめり。古義の説に從ふべし〇一首の意は吾戀ハ大野ニ便ナク標ヲ結ヒテ滿足スルヤウナ戀デハ無イといへるならむ
 
2482 みな底におふる玉藻のうちなびき心依《ココロユヨリテ》こふるこのごろ
水底生玉藻打靡心依戀此〔左△〕日
 初二は序なり。略解に『水底は下に思ふをよせたり』といへるは非なり○第四句を從來ココロヲヨセテとよめり。ココロユヨリテとよみ改むべし○此は比の誤なり
 
2483 (しきたへの)衣手離而《コロモデカレテ》(たまもなす)なびきかぬらむわをまちがてに
敷栲之衣手離而玉藻成靡可宿濫和乎待難爾
 第二句を從來コロモデカレテとよめり。衣手《ソデ》片敷而の誤かとも思へど卷十二に  しきたへの衣手可禮天、吾《ワ》をまつとあるらむ子らは面影にみゆ
(2318)とあればなほ字のまゝにてコロモデカレテとよむべし○マチガテニは待不敢にて(ガテズをガテニといふはシラズをシラニといふが如し)やがてマチカネテといはむにひとし
 
2484 君こずばかたみに爲等《セムト》、我二人うゑし松の木君をまちで牟〔左△〕《ネ》
君不來者形見爲等我二人植松木君乎待出牟
 爲等は略解に從ひてセムトとよむべし(古義にはセヨトとよめり)○第三句を略解にワガフタリとよみ古義にワトフタリとよめり。フタリシテといふべきなり。卷十二に
  ふたりしてむすびし紐をひとりしてわれはときみじただにあふまでは
とあるフタリシテ、ヒトリシテは二爲而、一爲而と書けり○待出牟の牟は宣長に從ひて年の誤と認むべし。略解に『マチデネは待ツケヨカシの意也』といへる如し○卷三に
  妹としてふたりつくりしわがしまはこだかくしげくなりにけるかも
とあり
 
(2319)2485 袖ふるがみゆべきかぎり吾雖有〔左△〕《ワレハミレド》その松が枝に隱在《カクリタルラシ》
袖振可見限吾雖有其松枝隱在
 第三句を從來ワレハアレドとよめり。宜しく有を看の誤としてワレハミレドとよむべし○結句を略解にカクレタリケリ、古義にカクリタルラムとよめり。改めてカクリタルラシとよむべし。三四の間に袖振ルガ見エヌハといふことを補ひて聞くべし○略解古義に前の歌の和とせるは非なり
 
2486 ちぬの海《ウミノ》はま邊の小松根ふかめてわがこひわたる人の子|※[女+后]《ユヱニ》
    或本歌云ちぬの海の塩干の小〔左△〕松《ミルノ》ねもころにこひやわたらむ人の兒故に
珍海濱邊小松根深吾戀度人子※[女+后]
    或本歌云血沼之海之塩干能小松根母己呂爾戀屋度人兒故爾
 初句は古義の如く海にノをよみそふべし○序は初二なり。第三句はただフカメテといふべきを序に引かれて根フカメテといへるにて下なる
(2320)  まこもかる大野川原のみ〔右△〕ごもりにこひこし妹が紐とく吾は
  奥山のいはもと菅の根〔右△〕ふかくもおもほゆるかもわがおもひ妻は
 古今集戀一なる
  あしひきの山下水のこ〔右△〕がくれてたぎつ心をせきぞかねつる
のミゴモリニ、根フカクモ、コガクレテと同例にて當時行はれし一格なり。さてフカメテの語例は卷二(一八七頁)なる人麿が從2石見國1別v妻上來時歌の第二首にフカミルノフカメテモヘドとあり。心ヲ深メテとなり
 或本歌に塩干能小松とあるはいぶかし。小松は水松の誤にてシホヒノミルノならむか
 
2487 なら山のこまつがうれのうれむぞはわがもふ妹にあはず止みなむ
平山子松未〔左△〕有廉叙波我思妹不相止者〔左△〕
 初二は序なり。ウレムゾハはイカデといふこととおぼゆ。はやく卷三に
  わたつみのおきにもちゆきてはなつとも宇禮牟曾これがよみがへりなむ
とあり〇未は末の誤なり、者を眞淵は嘗の誤とせり
 
(2321)2488 いその上《ヘ》に立囘香瀧〔左△〕《タテルムロノキ》、心哀〔左△〕《ネモコロニ》、何《ナドカ》ふかめておもひそめけむ
礒上立囘香瀧心哀何深目念始
 第二句を眞淵は瀧を樹の誤としてタテルムロノキとよみて
  イソノヘニネバフ室(ノ)木ミシ人ヲ(○卷三)またワギモコガミシ鞆(ノ)浦ノ天木香樹《ムロノキ》ハ常世ニアレド(○同上)これを囘香ともいふべし
といひ、雅澄は
  天木香樹と書るも囘香樹と書るも其所由は詳ならねども、いにしへ所據ありてムロにあてし字にこそあらめ
といへり〇心哀を略解にココロイタクとよめり。こゝに卷十二にトヨ國ノキクノ濱松心喪云々といふ歌あり。その心喪を村田春海は心衷の誤としてネモコロニとよめり。雅澄は之に基づきて今の心哀をも心衷の誤としてネモコロニとよめり。しばらく之に從ふべし○何を略解にナニニとよみ古義にイカデとよめる共にわろし。ナドカとよむべし。フカメテは心ヲ深メテなり
 
2489 橘のもとに我《ワガ》たち下枝《シヅエ》とり成哉《ナラムヤ》君と問ひし子らはも
(2322)橘本我立下枝取成哉君問子等
 成哉を略解古義にナリヌヤとよめり。考に從ひてナラムヤとよむべし○略解に上三句を序としたれど序にあらず。はぢらひつつ言どふ形容なり○從來相思の男女が對立せる趣に心得たるは誤なり。我といへるは男子即作者にて君といへるは媒なり。即對立せるは若き男と老いたる女即媒となり。四五の意は成ラムヤイカニトワガ媒ニ問ウタ其本尊樣ハドウシタラウといへるなり。媒よりいまだ答の無きをおぼつかなみたるなり。卷七に
  むかつをにたてる桃の樹成らむやと人ぞささめきしながこころゆめ
といふ歌あり。一首の意も初二の格も今と異なれどナラムヤの意は相同じ○子等の下に脱字あるか
 
2490 あま雲にはねうちつけてとぶたづのたづたづしかも君不△座者《キミキマサネバ》
天雲爾翼打附而飛鶴乃多頭多頭思鴨君不座者
 上三句は序なり。タヅタヅシカモは連體格にてタヅタヅシキカモといふべきを例の如く終止格にていへるなり。さてタヅタヅシはタヨリナシとなり。卷四(六九一頁)(2323)にもアナタヅタヅシ友ナシニシテとあり○結句を從來キミシマサネバとよめり。さても可なれど或は不の下に來をおとせるにてキミキマサネバならむか
 
2491 妹にこひいねぬあさけにをし鳥の從是此〔左△〕渡《コユトビワタル》妹が使か
妹戀不寐朝明男爲鳥從是此度妹使
 イネヌアサケニはイネヌ夜ノ朝明ニなり。眞淵は此を飛の誤とせり
 
2492 おもふにしあまりにしかば(にほ鳥の)足沾〔左△〕來《アナヤミコシヲ》、人みけむかも
念餘者丹穗鳥足沾來人見鴨
 第四句を略解にアヌラシコシヲとよみ古義にアシヌレコシヲとよめり。又宣長は
  卷十四安奈由牟古麻能とよみたれば沾は惱の字の誤にてアナヤミコシヲならむ
といへり。卷十二にオモフニシアマリニシカバスベヲナミ云々といふ歌の次に
  柿本朝臣人麿歌集云にほ鳥の奈津柴比來乎《ナヅサヒコシヲ》人みけむかも
と書けり。こは今の歌と一つと見ゆるにナヅサヒコシヲとあるを見れば今の歌は(2324)宣長のいへる如くアナヤミコシヲの誤ならむ
 
2493 高山の岑ゆくししの友をおほみ袖ふらず來《キツ》忘るとおもふな
高山岑行完友衆袖不振來忘念勿
 初二は序。シシは鹿にも猪にもいへり。契沖は『後の歌に鹿のむら友ともよみて打つれ行物なれば云々』といへり。こは夫木抄第三十六に
  永久四年百首夏獵 二條太皇太后宮肥後 夏かり〔二字左△〕《クサ》のしげみを分てかりくればかくれもあへぬ鹿のむらとも
とあるを云へるなり。但猪もむれ行くものなりといふ。宣長が完《シシ》とあるは雁の誤ならむといへるは從はれず。めづらしき序なり○こは男の歌にて道にて女を見かけしかど伴へる友が多かりしかば其人たちに憚りてふりたき袖を振らで來つといへるなり○完は宍の俗字、宍は肉の古宇なり
 
2494 大船にまかぢしじぬき榜間《コグホドモ》、極太戀《ココダクコヒシ》、年にあらばいかに
大船眞※[楫+戈]繁拔榜間極太戀年在如何
(2325) 第三句を略解にコグホドモ、古義にコグマダニとよめり。前者に從ふべし。コギクル程ダニとなり○第四句を略解古義にネモコロコヒシとよめるは上(二二六三頁)にイデイカニ極太甚トゴコロノとある極太甚を宣長がネモコロゴロニとよめるに從へるなれど彼處にいへる如く極太はココダクとよむべければ今もココダクコヒシとよむべし○年ニアラバは一年中待タバとなり。語例は卷十(二〇五一頁)にも年ニアリテ今カマクラム云々とあり
 
2495 (足常《タラツネノ》)母がかふこの眉《マヨ》ごもりこもれる妹をみむよしもがも
足常母養子眉隱隱在妹見依鴨
 こゝに足常とかけるについて從來常をチネに借れるなりといへれどおそらくは然らじ。タラチネを訛りてタラツネともいひしかばやがて足常とかけるならむ○上三句は序にて眉は繭の借字なり。眉の古言はマヨなり。そを借用ひたるを見れば繭もいにしへはマヨとぞいひけむ。されば古義に從ひてマヨとよむべし
 
2496 肥人《クマビトノ》、額髪《ヌカガミ》ゆへる染木綿《ソメユフ》の染心《ソメテシココロ》我《ワレ》忘れめや
(2326)    一云わすらえめやも
肥人額髪結在染木綿染心我忘哉
    一云所忘目八方
 初句を舊訓にコマヒトノとよめり。之について契沖は
  肥人をコマヒトと點ぜるは高麗人の意か。肥をコマとよめる意いまだ知らず。朝鮮の人を見るにいたくふつつかなるまで肥たるが多ければさる意にや。古點にコエヒトとよめるは一向義なし。今按ウマヒトノと點ずべき歟。鳥獣の肉も肥たるはうまき理なり
といひ、眞淵は
  今本肥人と書てコマ人と訓しかど類聚國史異國額に肥人薩人をば高麗百済等の外に擧しかば肥人をコマ人と訓べからず。こは狛を肥に誤りしにて本は狛なりけり。然れば訓はよくて字を後誤りし也
といひ、伴信友の假字本末附録(全集第三の四八四頁)に
  釋日本紀に師説、大藏省御書中有2肥人之字六七枚許1、先帝於2L御書所1令v寫2其字1、皆用2(2327)假字1、或其字未v明、或乃川〔二字右△〕等字明見v之と見えたる乃川は吏道(○朝鮮の國字にて今の諺文の古體なり)の草體に乃川(○活字にては模しがたし。しばらく乃川とす)など書るがあるをおもへばもしくは吏道の草書にて書たるものなりしにや。さらば肥人はコマビトにて高麗人ならむか。萬葉集十一卷に肥人額髪結在染木綿染心我忘哉とある肥人を舊訓にコマビトと訓めり。肥をコマとよむべき義は心得がたけれど故なくて然訓べくもあらず。もしくは古は肥たる人をコマ人といひてさも書なれたりしにや。又は高麗人はなべてふとりたるによりてそのかみ肥たる人を高麗人のごとしといへるから戯書の例に肥人とかけるにもやあらむ
といひ、雅澄は契沖のウマビトとよめるに從ひ、さて
  今按中古肥人書と云ものあり。肥人とは肥前肥後の國の人をいへることゝおぼえたればこゝの肥人にはあづからぬ事なるべし。然るを平田篤胤が肥人書のことを論へる因に今の歌を引て『肥人はヒノヒトと訓べし。即肥(ノ)國人のことなり。ウマビトとよむ説はひが言なり』といへるは中々に謾なり。紀人《キビト》、吉備人《キビビト》などやうに多くいひて紀の人、吉備の人とやうに云ることかつて無し。またナニハ人、安太人《アダヒト》(2328)或はカラ人、シラギ人などいふも同じ。いづれもノの言を云る例なし。肥(ノ)國人ならぬ事しるきをや
といへり。古書古文書に肥人といふこと見え(たとへば播磨國風土記に日向國肥人〔二字右△〕朝戸君とあり)大寶令集解に肥人を夷人雜類の一とし、本朝書籍目録に肥人書、薩人書と並べ掲げ、此處にも隼人といふ歌と相次ぎたるを見れば肥人は大和民族に對せる異民族とし薩人《ハヤヒト》の類と見べきなり。然もヒノヒトとよむべからざる事古義にいへる如くなれば他に訓を求めざるべからず。こゝに吉田東伍、喜田貞吉の二博士は肥人をクマビトとよみ、さて吉田氏は大日本地名辭書|襲《ソ》(ノ)國の條(一七七四頁)に
  コマビトは熊人にて求磨の國人の謂のみ。舊説(○見林、白石、眞淵、秋成、信友等)肥人をば高麗人、狛人と解き高麗國より渡來したる蕃別の裔姓なりと曰ふは採り難し。其肥人とも書せるは正しく肥國を本據とせるが故にて熊人と同義異本なるを知る
といはれ、喜田氏は雜誌「歴史地理」第二十三卷第三號に
  肥人は實に隼人の華夏(○大和民族の間)に雜居せるものなるべし。……而して(2329)之を肥人と書するは彼等が多く中央人士の注意に上りたる頃には主として肥(ノ)國地方(重に肥後方面か)に住したりしが爲なるべく中にもその玖磨郡(○古の熊(ノ)縣)の山間は彼等の根據の地として比較的後の時代までもその種族を留めし處にてもあらん
といはれ又熊襲を熊人襲人(玖磨人|噌※[口+於]《ソ》人)の合稱とせられたり。此等の説に從ひて肥人はクマビトとよむべし。而して仙覺が古點にコエビトとありしをコマビトと改めたるはクマビトの轉訛なるコマビトといふ語が其世にはなほ殘れりし爲ならむ○額髪を舊にヒタヒガミとよめるを古義にヌカガミに改めたり。げに和名抄に沼加々美といふ語見えたればヌカガミとよむべし。但ヒタヒといふ語も新しからず。新撰字鏡に比太比乃加々保利といふ語見えたればなり。さてヌカガミは今いふ前髪なり○染を古義にはシメとよめり。染木綿について契沖は
  古今集にコムラサキ我モトユヒノとよみたれば染木綿も其類歟
といひ、雅澄は
  古今集にコムラサキワガモトユヒとよめるごとく染たる木綿もて額髪をゆひ(2330)しならむ。木綿もて髪を結しことは十三卷にミナノワタカグロキ髪丹眞木綿モチアザネユヒタリとあり
といひ、喜田博士は
  木綿にて頭を飾る風は古く九州地方の住民に存ず。魏志に倭人の俗を記したる中に木緜ヲ以テ招頭スといふもの是に當る。今も薩隅地方にこの風あり。かの太鼓踊、棒踊など稱する技を演ずる際に少年青年等が染めたる布帛を以て鉢卷をなす風あるもの參考とすべし
といはれたり。卷四(七七五頁)卷七(一二四八頁)及此卷の下に見えたるハネカヅラとは樣異なるべし○染心を略解にソメシココロハ、古義にシミニシココロとよめり宜しくソメテシココロ(又シメテシココロ)とよむべし。其人ニ染メシ心ヲとなり
 
2497 はや人の名におふ夜ごゑいちじろく吾〔左△〕名謂《キミガナノラバ》、※[女+麗]恃《ツマトタノマム》
早人名負夜音灼然吾名謂※[女+麗]恃
 初二は序なり。日本紀神代下海宮遊行章第二一書に
  是ヲ以テ火酢芹《ホスセリ》(ノ)命ノ苗裔ナル諸(ノ)隼人等今ニ至ルマデ天皇ノ宮墻ノ傍ヲ離レズ(2331)吠狗《ハイク》ニ代リテツカヘマツルナリ
とあり。又隼人司(ノ)式ニ發2吠聲1、爲v吠、發v吠、習v吠などあり。夜ゴヱは此吠聲を云へるなり〇四五を略解に宣長が吾を君の誤とせるに基づきてキミガ名ノラセツマトタノマンとよみ、古義にアガナハノリツツマトタノマセとよめり。吾を君の誤としてキミガ名ノラバツマトタノマムとよむべし。女の歌にて※[女+麗]とかけるは夫の借字なりハツキリト何ノ某卜名ノリタマハバ我夫ト頼ミ奉ラムといへるなり
 
2498 つるぎだち諸刃《モロハ》の利きに足ふみて死死《シナバシヌトモ》きみによりてば
釼刀諸刃利足蹈、死死公依
 モロハ兩刃なり。第四句を略解古義にシニニモシナムとよめり。卷四に
  今しはし名のをしけくも吾はなし妹によりてばちへに立十方《タツトモ》
とあるに據りてシナバシヌトモとよむべし。ヨリテバはヨリテナラバなり。上(二二六二頁)なる公依事繁もキミニヨリテバコトシゲクトモとよみつ
 
(2332)2499 も
我妹戀度剱刃〔左△〕名惜念不得
 刃は刀の誤ならむ
 
2500 (朝づく日)向〔左△〕《サスヤ》つげ櫛ふりぬれどなにしかきみが見不飽《ミルニアカレヌ》
朝月日向黄楊櫛雖舊何然公見不飽
 結句を略解古義にミルニアカザラムとよみたれどキミガといひてミルニアカザラムとは云はれず。宜しくミルニアカレヌとよむべし○フリヌレドは今ハフル人トナリヌレドとなり○初二は序なり。從來之を字のまゝにてアサヅク日ムカフツゲグシとよめり。その語例は卷七(一三七七頁)にアサヅク日ムカヒノ山ニ月タテリ見ユとあり。之によらばアサヅク日をムカフの枕辭とすべけれどムカフツゲグシといふこと穩ならず。略解には『朝に櫛匣に向ふ意にてかくつづけたり』といひ古義には『すべて櫛の歯はわが頭髪の方へむかへさすものなればいふなるべし』といへり。案ずるに向を射などの誤としてサスヤとよむべきか。卷十六にもユフヅク日指(2333)哉《ヤ》河邊ニツクル屋ノといふ歌あり
 
2501 里遠《サトトホミ》、眷浦經《コヒウラブレヌ》(まそかがみ)床のへさらずいめにみえこそ
里遠眷浦經眞鏡床重不去夢所見與
 舊訓には眷を初句に附けてサトトホミウラブレニケリとよみ略解には眷を吾の誤としてサトトホミワレウラブレヌとよみ雅澄は
  上(○本書二三一六頁)にも大ヌラニ……吾眷とありてワガコフラクハとよむべき處あり
といひて、もとのまゝにてコヒウラブレヌとよみて
  コヒとよむ故由は知らねども此處と合せて戀(ノ)字を書べき所にかよはし用たるを知べし、もしは眷み慕ふ義もて書るにや
といへり。下に
  里遠戀和備爾家里まそかがみおもかげさらず夢にみえこそ
とあれば古義に從ひてサトトホミコヒウラブレヌとよむべし○マソカガミは古義に『鏡は常に床の邊にかけおきて旦暮に取見るものなればつづけたり』といへれ(2334)ど下なるオモカゲサラズといふ歌と對照するに句を隔ててミエにかゝれるなり○フレヌを經と書けり
2502 まそかがみ手にとりもちてあさなさな見れども君はあく事もなし
眞鏡手取以朝朝雖見君飽事無
 上三句は序なり。三四の問にミル如クといふことを加へて聞くべし
 
2503 夕されば床のへさらぬつげ枕|射〔左△〕然《ナニシカ》なれが主まちがたき
夕去床重不去黄楊枕射然汝主待固
 射然は眞淵が何然の誤としてナニシカとよめるに從ふべし○ナレガ主は枕の主にて即夫なり。ナレガ主を二句に割きたるは快からず
 
2504 (とき衣の)こひみだれつつ浮沙〔左△〕《ウキジマノ》、生〔左△〕吾《ウキテモワレハ》こひわたるかも
解衣戀亂乍浮沙生吾戀度鴨
 眞淵は六帖(第六うき草)にウキクサノウキテモ吾ハアリワタルカナとあるに據りて浮沙生を萍浮の誤とし雅澄は浮草浮の誤とせり。案ずるに浮洲浮の誤としてウ(2335)キジマノウキテモワレハとよむべきか
  因にいふ。古事記に
   天ノ石位《イハクラ》ヲ離レ天ノ八重タナ雲ヲ押分テイツノチワキチワキテ天ノ浮橋ニ宇岐士摩理蘇理多多斯弖、竺紫ノ日向《ヒムカ》ノ高千穗ノ久士布流多氣ニ天降《アモリ》マシキ
とある宇岐士摩理蘇理多多斯弖について傳卷十五(八九四頁)に
  此語いと心得難し。まづ此處書紀には……浮渚在平處《ウキジマリタヒラ》ニタタシとあり。……宇岐士摩理は書紀の浮渚在と同じければ浮洲有《ウキシマアリ》と聞えたるに蘇理と云ることかの平處《タヒラ》とさらに似ずしていかなることとも解がたし。又|於《ニ》2天(ノ)浮橋1とある於《ニ》もこゝは聞えがたく……又タタシテの下にも何とかや言足ぬこゝちぞする。此わたりおちも亂れもしたる言やあらむ
といへり。案ずるにこは天ノ浮橋ニ浮洲《ウキジマ》アルソレニ立タシテの急言及訛音なるを心得ずながら耳より筆に移したるならむ(字蚊士摩理の理は類聚國史卷三十一に見えたる大同二年九月神泉苑行幸の時の御製なる袁理比度能《ヲルヒトノ》ココロノマニマフヂバカマウベイロフカクニホヒタリケリの理と照し合せてルとよむべ(2336)きかとも思へど書紀の註に立於浮渚在平地此云2羽企爾磨利陀毘羅而陀々志《ウキジマ△タヒラニタタシ》1とあればなほルといふべきをリと訛れるものと認むべし。或は太古にはかゝる處もアリと云ひしか)?
 
2505 梓弓ひきてゆるさずあらませばかかる戀にはあはざらましを
梓弓引不許有者此有戀不相
 アヅサ弓ヒキテまでが序なり。ユルサズは弓の方にては弛ベズ、戀の方にてはウベナハズなり
 
2506 事靈《コトダマニ》、八十のちまたに夕占問《ユフケトハム》、占正〔二字左△〕謂《マサウラニノレ》、妹相依〔左△〕《イモニアハムトキ》
事靈八十衢夕占問占正謂妹相依
 事靈は言靈の借字なり。コトダマは言語にあやしき作用あるをいふ(九七五頁參照)。さて略解にノをよみそへたるに古義にはコトダマヲと訓て『夕占間の上にうつして心得べし』といへり。ユフケトフはユフケ爾トフともユフケ乎トフともいへる例あれど少くともこゝはユフケヲ問フの略とおぼゆれば更にコトダマヲといひか(2337)くべからず。されば初句はコトダマニとよむべし○ユフケは夕方、衢に立ちて道ゆく人の言によりて吉凶を占ふわざなり。されば卷三なる石田王卒之時丹生王作歌には夕衢占《ユフケ》とかき次なる歌には路往占《ミチユキウラ》といへり。さて夕占問を從來ユフケトフとよみたれどユフケトハムとよむべくや○占正謂を從來ウラマサニイヘ又はウラマサニノレとよみたれどさては義通ぜず。占正を正占の顛倒としてマサウラニノレとよむべし。マサウラの語例は後のものながら堀河百首に龜ノマスラとよめり。マスラは正卜《マサウラ》の約なり○結句は略解古義にイモニアハムヨシとよみたれど依を時の誤としてイモニアハムトキとよむべし
 
2507 (たまぼこの)路ゆき占にうらなへば妹にあはむと我謂《ワレニノリツル》
玉桙路往占々相妹逢我謂
 結句を略解にワレニノリツル、古義にアレニノリテキとよめり。前者に從ふべし
 
  問答
(2338)2508 すめろぎの神の御門〔左△〕《ミコト》をかしこみとさもらふ時にあへるきみかも
皇祖乃神御門乎懼見等侍從時爾相流公鴨
 御門乎の乎はカシコミトにかゝりたれば二三は神ノ御門ガカシコサニと譯すべけれど御門ガカシコサニサモラフといはむは穩ならず。よりて思ふに御門は御言の誤ならむ。スメロギノ神は天皇の御事なり。ミコトはオホセなり○サモラフ時ニはいづくにもあるべし、ただアヤニクニ役目デ詰メテ居ル時ニとなり。さてさもらへるは作者なり。從來男のさもらへるを女が見てよめるなりとせるは無理なり「女が役目にて詰め居る時に男の過ぐるを見かけてよめるなり。御門が御言の誤寫なることを悟れば無理なる解釋を要せざるなり
 
2509 (まそかがみ)見ともいはめや(玉かぎる)いは垣淵の隱而在※[女+麗]《コモリタルツマ》
眞祖鏡雖見言哉玉限石垣淵乃隱而在※[女+麗]
     右二首
 三四は序なり。ミトモイハメヤは見ルトモソレト云ハムヤとなり。結句を略解にカ(2339)クレタルイモとよめるはわろし。さてコモリタルツマはシノビ妻なり○これは男の歌なり
2510 赤駒のあがきはやけば雲居にもかくりゆかむぞ袖|卷〔左△〕《フレ》わぎも
赤駒之足我枳速者雲居爾毛隱往序袖卷吾妹
 ハヤケバは早カレバなり。トホカレドをトホケドといふと同格なり。男の旅立たむとして女にいへるなり。クモヰニモはハルカニモなり○袖卷は宣長が袖擧の誤としてソデフレとよめるに從ふべし○はやく卷二に
  青駒のあがきをはやみ雲居にぞ妹があたりをすぎて來にける
とあり
 
2511 (こもりくの〕とよはつせぢは常済〔左△〕《トコナメ》のかしこき道ぞ戀〔左△〕由眼《オコタルナユメ》
隱口乃豐泊瀬道者常済乃恐道曾戀由眼
 トヨハツセといへるは泊瀬をたゝへて豐を添へたるなり。雅澄の名所考に『豐は豐葦原などいふ豐なり』といへり。ハツセヂは泊瀬へ行ク道なり。二三の間にアマタノ(2340)川アリテといふ事を挿みて聞くべし。たとへば藤原より初瀬に到らむに磐余《イハレ》川、倉|梯《ハシ》川、忍坂《オサカ》川、初瀬川を渡らざるを得ず。トコナメは川瀬の飛石なり(一七〇二頁參照)。カシコキはオソロシキなり○戀由眼を舊訓にコフラクハユメとよみ、眞淵は曉由鶏の誤としてアカシテヲユケとよみ、古義には爾心由眼の誤としてナガココロユメとよめり。案ずるに勿怠由眼の誤としてオコタルナユメとよむべし。油斷スナとなり○前の歌の答なり。略解に
  是は右の答にはあらず。ただ同じ夜の歌ならん
といへるは非なり
 此歌の次に右二首とあるべきなり
 
2512 (味酒之《ウマザケノ》)みもろの山に立《タツ》月のみがほし君が馬の足音《アト》ぞする
味酒之三毛侶乃山爾立月之見我欲君我馬之足音曾爲
     右三首
 上三句は序なり。眞淵は初句の之を乎に改めて『此冠辭に之といへる例なきよしは冠辭考にいへり』といへり。ミモロノ山にいひかけたる、如何なる故とも未確に知ら(2341)れねばしばらくもとのまゝにてウマザケノとよむべし。はやく卷七(一二三七貢)に味酒三室山とあり○立月を略解に光《テル》月の誤とせり。古義に之を無稽として
  七卷にアサヅク日ムカヒノ山ニ月タテリミユ云々とありて立昇る月なり
といへり。ただ月の山上に在るをタツといへるなり(一三七七頁參照)○ミガホシキ君をミガホシ君といへるは例の如く連體格の代に終止格をつかへるなり。卷十九にも見我保之君乎とあり
 此歌の後に右三首とあれど前二首とは没交渉なる歌なり。前又は後に一首ありしがおちたるならむ。但雅澄が上(二二七三頁)なる
  こふる事なぐさめかねていでゆけば山も川をも知らず來にけり
を此歌の答に擬へたるは上三句の意を誤解せるなり
 
2513 なる神の小〔左△〕動《ヒカリトヨミテ》さしぐもり雨もふれやも君をとどめむ
雷神小動刺雲雨零耶君將留
 小動は宣長が光動の誤としてヒカリトヨミテとよめるに從ふべし。フレヤは降レカシなり(一〇五三頁參照)
 
(2342)2514 なる神の小〔左△〕動《ヒカリトヨミテ》ふらずとも吾はとまらむ妹しとどめば
雷神小動雖不零吾將留妹留者
     右二首
 二三の間〔日が月〕に雨ハといふことあるべきを贈歌に讓りて省けるなり
 
2515 (しきたへの)枕動きて夜不寐《ヨルモネズ》おもふ人には後相物《ノチアハムモノヲ》
布細布枕動夜不寐思人後相物
 契沖は
  枕動は展轉反側する故なり。古今集にヨヒヨヒニ枕サダメム方モナシとよめるも同じ
といひ眞淵も
  我物思ひに寐がたく展轉《イネガヘリ》がちなるを枕の動に負せなす也
といへり○第三句を略解にヨヲモネズ、古義にヨイモネズとよめり。ヨルモネズとよむべし。ネズにて切れたるにあらず。ネズはネズシテなり○オモフ人ニハは我思(2343)フ人ニハにあらず我ヲ思フ人ニハとなり○結句を略解に物を疑の誤としてノチモアハムカモとよみ(又後をも復の誤としてマタモアハムカモとよみ)古義にノチアフモノヲとよめり。宜しくノチアハムモノヲとよむべし○通本に此歌を贈とし次なるを答としたれど此歌は下に見えたる
  しきたへの枕動きていねらえず物もふこよひはやもあけぬかも
の答にて彼は男、此は女の歌ならむ
 
2516 (しきたへの)枕人《マクラキシヒト》、事〔左△〕問哉《カレヌレヤ》その枕には苔生負爲《コケムシニタル》
敷細布枕人事問哉其枕苔生負爲
     右二首
 二三を略解古義にマクラニ人ハコトドヘヤとよめり。案ずるに事を不の誤としてマクラキシ人カレヌレヤとよむべきか。不問は義訓にてカレとよみつべし。卷六(一〇五〇頁)にもイモガメカレテのカレを不數見と書けり○結句を略解にコケオヒニタリとよみ、古義にはコケムシニタリとよみ又
  負はニの假字なり。荷とかけるに同じ。字書にも負(ハ)擔也、背荷也とあり
(2344)といへり。コケムシニタル〔右△〕とよむべし。カレヌレヤのヤを結ぶべきが故なり
 此歌の後に右二首とあれど前の歌の答にあらざる事上にいへる如し
   以前一百四十九首柿本朝臣人麿之歌集出
 タラチネノ母ガ手ハナレ(二二四四頁)より此歌まで適に一百四十九首なり
 
  正述心緒
2517 (たらちねの)母にさはらばいたづらにいましも吾も事應成△《コトナスベシモ》
足千根乃母爾障良婆無用伊麻思毛吾毛事應成
 結句を略解にコトナスベシヤ、古義にコトナルベシヤとよめり。成の下に毛を補ひてコトナスベシモとよむべし○男の女をそそのかせる歌なり。サハラバは遠慮セバなり。略解にサハラレナバの約とせるは非なり。事ナスは相|誂《トブ》らふ事なり。されば第三句以下はイタヅラニ相誂ラヒテ望ヲ遂グル事ナカルベシとなり。下に
  たららねの母にまをさばきみもわれもあふとはなしに年ぞへぬべき
(2345)とあり。それは女の歌なり
 
2518 吾妹子が吾を送るとしろたへのそでひづまでになきしおもほゆ
吾妹子之吾呼送跡白細布乃袂漬左右二哭四所念
 オモホユは思出サルとなり
 
2519 (奥山の)眞木の板戸をおしひらきしゑやいでこね後は何將爲《ナニセム》
奥山之眞木乃板戸乎押開思惠也出來根後者何將爲
 オク山ノは眞木にかゝれる枕辭なり。眞木は檜なり。オシヒラキのヒを二註に濁れるはわろし。シヱヤは嘆辭なり。ヨシヤとは異なり。はやく卷十(二〇九九頁)に見えたり○何將爲を略解にナニセム、古義にイカニセムとよめり。前者に從ふべし。卷四(六八二頁)に
  こひしなむ後は何爲牟《ナニセム》いける日の爲こそ妹を見まくほりすれ
 下にも
  こひしなむ後は何爲《ナニセム》わが命いける日にこそ見まくほりすれ
(2346)とあり。後日デハ何ニモナラヌとなり
 
2520 苅ごもの一重をしきてさぬれども君としぬればさむけくもなし
苅薦能一重※[口+リ]敷而紗眠友君共宿者冷雲梨
 上三句はタダ一重ノ薦席ヲ敷キテ寢レドとなり。サムケクモは寒キ事モとなり。サムクを延べてサムケクといへるにはあらず○君共君トシとよめるは共をトに充てたるにてシは訓み添へたるなり。共をトに充てたるは上にも例あれど下にもワレ共《ト》ヱマシテ人ニシラユナ、タレ共《ト》モネメドなどあり
 
2521 (かきつばた)丹頬經《ニヅラフ》君をいささめにおもひいでつつなげきつるかも
垣幡丹頬經君※[口+リ]率爾思出乍嘆鶴鴨
 丹頬經はニヅラフとよむべし。ニホヘルとはよむべからず。はやく契沖の云へる如く經はヘルとはよまれざればなり。さてニヅラフは紅顔ナルとなり○イササメニは不圖《フト》と譯すべし。古義にカモをカハの意として『紅顔の君の事を思出つつただかりそめに嗚呼と歎きつるかは云々』と譯せるはイササメニの意を誤解せるなり
 
(2347)2522 恨〔左△〕登思狹〔左△〕名盤△在〔左△〕之者よそのみぞ見し心はもへど
恨登思狹名盤在之者外耳見之心者雖念
 上三句を略解にウラミムトオモヒテセナハアリシカバとよみ、宣長は『狹名盤は必誤字ならむ』といひ、古義には第二句を思名積而《オモヒナヅミテ》の誤とせり。いづれもうべなひがたし。案ずるに思を初句に附け恨を惜の誤としてヲシトオモフとよむべきか。第二句の狹名盤は我名盤既《ワガナハハヤク》の誤脱ならざるか。在之者は立之者の誤にてタチシカバか。さらば卷十(二〇八七頁)なる野邊行之者の例によリて香などを補ふべきか○ヨソノミはヨソニノミ、心ハは心ニハなり
 
2523 (さにづらふ)色者不出《イロニハイデズ》すくなくも心のうちにわがもはなくに
散頬相色者不出小文心中吾念名君
 下に
  言にいへば耳にたやすしすくなくも心のうちにわがもはなくに
 又卷十二に
(2348)  人目おほみ眼こそしぬぶれすくなくも心のうちにわがもはなくに
とあり。スクナクモワガモハナクニは少カラズ我思フ事ヨとなり○第二句を略解にイロニハイデズとよみ古義にイロニハイデジとよめり。略解に從ひてイデズとよみてその下にサレドといふ辭を補ひて聞くべし○小は少と通用せり
 
2524 吾背子にただにあはばこそ名はたためこと之〔左△〕《ノミ》かよふに何《ナニゾ》そこゆゑ
吾背子爾直相者社名者立米事之通爾何其故
 第四句は文ノヤリ取スルノミナルニとなり。之は耳の誤ならむ○何を二註にナニカとよめり。ナニゾとよむべし。何ゾソレ故ニ名ハ立ツラムとなり
 
2525 ねもころに片|念《モヒ》すれかこのごろのわがこころどの生《イケリ》ともなき
懃片念爲歟比者之吾情利乃生戸裳名寸
 ココロドははやく卷三(五五六頁及五六九頁)に見えたり。精神といふことなり○生を宣長雅澄はイケルとよめり。なほイケリとよみてトをテニヲハとすべし(一〇五六頁參照)
(2349)2526 まつらむにいたらば妹がうれしみとゑまむすがたをゆきてはやみむ
將待爾到者妹之懽跡咲儀乎往而早見
 ウレシミトはウレシサニなり。下にも
  おもはぬにいたらば妹がうれしみとゑまむまよびきおもほゆるかも
とあり
 
2527 たれぞこの吾屋戸來喚《ワガヤドキヨブ》(たらちねの)母にころばえ物もふ吾を
誰此乃吾屋戸來喚足千根母爾所嘖物思吾呼
 第二句を二註にニを添へてワガヤドニキヨブとよめるはさる事なれど此歌の書樣にてはニはよみ添へがたし。さればワガヤドキヨブとよみてニを略せりと認むべし○コロブはまづ神代紀に
  稜成《イツ》ノ雄詰《ヲタケビ》ヲ奮ハシ稜威ノ嘖讓ヲ發《オコ》シテ徑《タダ》ニ詰問《ナジリト》ヒタマヒキ
とありて註に嘖議此云2擧廬毘《コロビ》1とあり。次に神武天皇紀に
  時ニ道(ノ)臣(ノ)命審ニ賊害ノ心アルコトヲ知リテ大ニ怒リテ詰嘖《タケビコロ》ビテ曰ク云々
(2350) 次に應神天皇紀に
  故《カレ》紀(ノ)角《ツヌ》(ノ)宿禰……ヲ遣リテ其禮ナキ状ヲ嘖讓《コロベ》シム
とあり。又本集卷十四にヲサヲサモネナヘ〔右△〕子ユヱニハハニ許呂婆要《コロバエ》とあり。今シカルといふ意なり○ワレヲは我ナルニなり
 
2528 さねぬ夜は千夜もありとも我背子がおもひくゆべき心はもたじ
左不宿夜者千夜毛有十方我背子之思可悔心者不持
 サネヌはただネヌと云へるにあらで共ニ寢ヌといへるなり○心ガハリシテ君ニ悔セサスル事アラジとなり。卷三に
  妹も吾もきよみの河の河岸の妹がくゆべき心はもたじ
 卷十に
  雨ふればたぎつ山川いはにふり君がくゆべきこころはもたじ
とあり
 
2529 家〔左△〕《サト》人は路もしみみに雖△來《カヨヘドモ》わがまつ妹が使こぬかも
(2351)家人者路毛四美三荷雖來吾待妹之使不來鴨
 家人は里人の誤ならむ○來の上に往を脱したり
 
2530 (あらたまの)寸戸《キヘ》が竹垣《タケガキ》あみ目ゆも妹しみえなばわれこひめやも
璞之寸戸我竹垣編目從毛妹志所見者吾戀目八方
 雅澄はキヘを孝徳天皇紀以下に見えたる柵戸《キノヘ》の意即蝦夷の備に置かれし城柵に屬《ツ》きたる民戸の意とし『さてその城外の竹垣をキヘガタカ垣とは云るなるべし』といへり。此説に從ふべし。キヘば城戸《キヘ》にて城下の民戸なり。但古義に『竹垣の編目の透間からなりとも妹が容儀の見えなば云々』と譯せるは非なり。上三句は序にて柵戸ノ竹垣ノ編目ヨリ柵戸ガ見ユル如ク妹ガ見エナバといへるなり。軍防今に
  凡東邊北邊西邊二緑レル諸郡ノ人居ハ皆城堡ノ内ニ安置セヨ。其營田ノ所ニハ唯庄舍ヲ置ケ。農時ニ至ラバ營作ニ堪ヘタラム者ハ出デテ庄田ニ就ケ。収斂シ訖ラバ勒シテ還セ云々
とあり。是柵戸なり。義解に堡ト謂ヘルハ土ヲ高クシ以テ堡※[土+章]ヲ爲《ツク》リテ賊ヲ防グナ(2352)リとあれば土手の上に竹垣をゆひたリしならむ○此等の歌は主として序の方に力を用ひたるなり
 
2531 吾背子が其名のらじと(たまきはる)命は棄《ステツ》わすれたまふな
吾背子我其名不謂跡玉切命者捨忘賜名
 ソノは例の如く言數を足はす爲に挿みたるなり。棄を古義にウテツとよめり。舊訓の如くステツとよみても可なり〇さて契沖は
  たとひ命を失ふ程の事ありとも夫の名をばいはじと思ひ定めたるを命ハステツといへり
といひ後の註者之に從ひたれど、もしさる意ならばタマキハル命スツトモワガ背子ガソノ名ハノラジといふべく又ことさらにワスレタマフナとはいふべからず。案ずるにこは處女が男の名をいへと親に責問はれてせむ方なさに身を棄てし時の歌ならむ
 
2532 凡者〔左△〕《オホロカニ》たがみむとかも(ぬばたまの)わがくろ髪を靡而《ナビケテ》をらむ
(2353)凡者誰將見鴨黒玉乃我玄髪乎靡而將居
 初句を考にはオホナラバ、古義にはオホカタハとよめり。いづれにても意義通ぜず。者を誤字としてオホロカニとよむべし。さてタガの上に君ナラデといふことを加へて聞くべし○靡而を眞淵はナビケテとよみ宣長はヌラシテとよめり。卷二(一七一頁)にタケバ奴禮タカネバ長キ妹ガ髪とあるヌレと同意としてヌレテは垂レテの意なりとも云ひつべけれどなほナビケテとよむべし○黒髪を靡くるは寢る時の樣なるべし。下にも
  ぬばたまの妹が黒髪こよひもか我なき床になびけてぬらむ
とあり。オホロカニとタガ見ムトカモとを顛倒して心得べし。オホロカニは漠然トなり
 
2533 面わすれいかなる人のするものぞ言《ワレ》はしかねつつぎてしもへば
面忘何有人之爲物鳥〔左△〕言者爲金津繼手志念者
 上三句は面忘トイフ事ハ如何ナル薄情者ノスル事ゾとなり。ツギテ念フは間〔日が月〕斷ナク思フなり○鳥は諸本に焉又は烏とあり。烏は焉の偽?字なり
 
(2354)2534 相思はぬ人の故にか(あらたまの)年の緒長く言《ワガ》こひをらむ
不相思人之故可璞之年緒長言戀將居
 卷十にも
  相念はぬ妹をやもとなすがのねの長き春日をおもひくらさむ
といふ歌あり。ユヱニカのカはコヒヲラムの下に引下して心得べし
 
2535 凡乃〔左△〕《オホロカニ》行〔左△〕者不念《イモハオモハズ》、言《ワガ》故に人にこちたくいはれしものを
凡乃行者不念言故人爾事痛所云物乎
 初句を二註にオホカタノとよめり。又第二句を略解にワザトハオモハズ、古義にワザトハモハジとよめり。案ずるに乃を爾の誤、行を妹の誤としてオホロカニイモハオモハズとよむべし。イモハは妹ヲバなり。上(二三〇九頁)にもオシナミニ妹ガ心ヲワガモハナクニとあり
 
2536 いきのをに妹をしもへば年月のゆくらむ別《ワキ》もおもほえぬかも
氣緒爾妹乎思念者年月之往覧別毛不所念鳧
(2355) 卷十(一九六七頁)にハルサメノフル別シラニとあり。又下に月シアレバアクラム別モシラズシテとあり。又卷十二に
  中々にしなばやすけむいづる日のいる別しらに吾しくるしも
とあり。別モオモホエズは辨ヘズとなり
 
2537 (たらちねの)母にしらえずわがもたる心はよしゑ君がまにまに
足千根乃母爾不所知吾持留心者吉惠君之隨意
 母ニスラ隱セル心ハとなり
 
2538 獨ぬとこもくちめやも綾むしろ緒になるまでに君をし待たむ
獨寢等※[草冠/交]朽目八方綾席緒爾成及君乎之將待
 アヤムシロは文ある筵なり。考に
  コモは中重なら。ムシロは上重なり。その上重の綾筵もそこなひて編緒のみに成ぬとも中重のこもまでは朽亂るまじければ夫子と共ねせし畳をばいつまでも取もかへず敷ねつゝ待なんとなり
(2356)といへり。案ずるにコモは菰、蒋と書くを例とすれど又※[草冠/交]とも書きしなり。漢籍に菰を江南の方言に※[草冠/交]草といふ由見え又菰菜即菰の薹《タウ》を※[草冠/交]白ともいふ由見えたり。因にいふ。菰菜は食ふべきものにてその和名をコモヅノ又コモノコといふ。さてこゝはコモムシロの義なれば契沖のいへる如く正字ならば薦と書くべきなり○いにしへは室内も板敷にて床《トコ》即寢處のみ菰、藁などを編みたるを敷き其上によき席を敷きしなり。よき席は今の疊の表に當り菰筵の類は今の畳の床に當れり。今の如き畳の出來しは遙に後なり
  因にいふ。水戸などにては近き世まで疊は敷かざりしなり。光圀の子綱條の代に三百石取の士が『近比聞に所々にて段々疊を敷由なり。疊を敷き起臥せしならばさぞ心よからん』といひしを用達の死を冒して諌めし話、家庭舊聞に見えたり
○ヒトリヌトは獨|寢《ヌ》トテなり。コモクチメヤモは薦サヘ〔二字傍点〕朽チムヤハにて薦ノ朽ツルマデ君ガ來ラザラムヤハといふ意なるか
 
2539 相見ては千歳やいぬるいなをかも我やしかもふきみまちがてに
相見者千歳八去流否乎鴨我哉然念待公難爾
(2357) アヒミテハのハは輕く添へたるなり○イナヲカモは卷十四に
  筑波ねにゆきかもふ|ら《レ》る伊奈乎可母かなしき兒|ろ《ラ》が|にぬ《ヌノ》ほ|さ《セ》るかも
とあり。ヲは助辭にて否カモなり。されば二三は千年過ギシカ否カとなり。古義に『否カ諾《ヲ》カと云むが如し』といへるは從はれず〇四五は君ヲ待兼ネテ我然思フニヤといへるにてイナヲカモを具體的にいへるなり○卷四に
  このごろに千とせやゆきもすぎにしとわれやしかもふ見まくほれかも
とあり
 
2540 振別の髪をみじかみ青《ワカ》草を髪にたくらむ妹をしぞおもふ
振別之髪乎短彌青草髪爾多久濫妹乎師曾於母布
 振別髪は童女が髪を左右に別けて垂れたるをいふ。青草は舊訓に從ひてワカクサとよむべし○髪ニは髪トシテなり。タクは揚げ結ぶ事なり(一七一頁參照)○妹ヲシゾモフは妹ヲカナシク思フとなり○考に
  いときなき女の兒の長き髪をうらやみてカヅラ草と名づけてわかく長き草をおのが髪にゆひそへなどする事今もあり
(2358)といへり。然るに天野政徳隨筆卷三には之を評して
  いにしへなりとも女兒の長髪をうらやみて髪に草をそへてゆひたがねん事有べしともおもはれず。此歌の心は女兒の振分髪のいまだのびずいと短き故我髪のいつかは長くのびてたく計にならんとうらやましく思ひてなす業なり。今の世もヒヒナ草などいふ長くやわ〔右△〕らか〔右△〕き草を取りてこまかに割きて髪の如くなし夫をさまざまにゆひて遊ぶ。こはおのれが髪の早く長くのびて如此ゆひて見たしとおもふ心よりなす遊び事也。いと後のものながら爲忠前百首に思フトハツミシラセテキヒヒナ草ワラハアソビノ手タハブレヨリ此歌などを思へば女兒のヒヒナ草など取りて髪のごとたがねて遊ぶ事古もあり。今も常にありて目なれたる事也。……草を髪にそへてたがねんことは昔も今もさる事はなし
といへり。案ずるに此歌に髪といふ語二つあり。もし眞淵の説の如く草を髪に添へて結ぶ趣ならば三四はワカ草ヲソヘテタクラムといひて意を明にし且髪といふ語の重出を避くべきなり。然るに今はカミニといへるそのカミニは髪トシテの意なれば政徳のいへる如く柔けき草を取りて髪たきたる樣を學ぶなり。されば初二(2359)は振別髪ガ短クシテ自分ノ髪ハユハレヌニヨリテと譯すべし。賀古鶴所氏の明治四十二年二月の書信に
  水地に生ずる麥のやうなる軟き草を摘みて濱松あたりにては春さき娘ら島田の根がけに致候。老人にきくにカヅラ草といふ草にて小兒等は訛りてカンヅラグサといふよし
とあり。こは別事なれど因に載せつ。カヅラ草一名カモジ草(カモジはカヅラの女語なり)學名をアグロビールム、セミコスターツムといふ
 
2541 (たもとほり)ゆきみの里に妹をおきて心空なり土はふめども
徊徘往箕之里爾妹乎置而心空在土者踏鞆
 初句はタモトホリユクとかゝれる枕辭なり。卷七に
  春がすみゐのへゆただに道はあれど君にあはむとたもとほり來も
 又卷八に
  雲の上になくなる雁のとほけども君にあはむとたもとほり來つ
とあり。ユキミノ里は所在知られず○妹ヲオキテは妹ヲ殘シオキテなり。こは女の(2360)許より歸來る道の作なり
 
2542 (若草の)にひ手枕をまきそめて夜をやへだてむにくくあらなくに
若草乃新手枕乎卷始而夜哉將間二八十一不在國
 夜ヲヤ隔テムは夜ヲ隔テムヤハにて畢竟夜ヲ隔テジとなり。略解に
  一たび逢て後障ありて通ひがたき也
といひ古義に
  早故ありて毎夜逢事もかなはねば夜を隔て相見むかとなり
といへるは誤解なり○ニククアラナクニはアナガチニククハアラヌニなどいふ意にあらず。カハユク思フニといふ意なり(卷八【一四九一頁】參照)。二註はまづ此句を誤解し延いて一首を誤解せるなり
 
2543 わがこひし事もかたらひなぐさめむ君が使をまちやかねてむ
吾戀之事毛語名草目六君之使乎待八金手六
 第三句は慰メムヲの意として解すべし○マチヤカネテムほ卷四大伴坂上郎女怨(2361)恨歌(七一八頁)の末に
  たわらはのねのみなきつつ、たもとほり君が使を、まちやかねてむ
とあり。テムはタラムなり。さればマチヤカネテムは待兼ネテアラムカとなり。略解に
  マチゾカネツルといふべきをかくおぼめかしいふも古へ也
といへるは妄なり
 
2544 うつつにはあふよしもなしいめにだに間〔日が月〕なく見君〔左△〕《ミエコソ》戀にしぬべし
寤者相縁毛無夢谷間無見君戀爾可死
 第四句を宣長は
  マナクミエコソとあるべき歌也。君は誤字なるべし
といひ略解にはミムキミとよみ古義にはミエキミとよめり。宣長の説に從ふべし○結句はサラズバ戀ニ死ヌベシとなり
 
2545 誰彼登《タゾカハト》とはば答へむすべをなみ君が使をかへしつるかも
(2362)誰彼登問者將答爲便乎無君之使乎還鶴鴨
 初句を二註にタソカレトとよみたれどタゾカハトとよむべくおぼゆ。男の使の來れるを見て家人の彼は誰ぞと問はむに答へむすべなければ空しく其使を還しつといへるなり。古義に『今しばしとどめてかたらはまほしけれども云々』と譯せるは從はれず
 
2546 おもはぬにいたらば妹がうれしみとゑまむ眉《マヨ》びきおもほゆるかも
不念丹到者妹之歡三跡咲牟眉曳所思鴨
 上(二三四九頁)なるマツラムニイタラバ妹ガといふ歌と、もと一つなりしが二樣に傳へられたるならむ○マヨビキは眉の樣子にて畢竟目ツキなり
 
2547 かくばかりこひむものぞと念はねば妹がたもとをまかぬ夜もありき
如是許將戀物衣常不念者妹之手本乎不纏夜裳有寸
 
2548 かくだにも吾は戀南《コヒナム》(玉づさの)君が使をまちやかねてむ
如是谷裳吾者戀南玉梓之君之使乎待也金手武
(2363) 卷三なる大伴坂上郎女祭神歌の反歌(四六八頁)に
  ゆふだたみ手にとりもちてかくだにも吾は乞嘗《コヒナム》君にあはじかも
 又下に
  かくだにも妹を待南さよふけていでこし月のかたぶくまでに
とあり。此等のナムがテニヲハにあらざる事は契沖等の云へる如し。但契沖雅澄がナムは祈《ノム》なりといひ宣長が『コヒナムは戀ナミスルといはんに同じ』といへるは共にうべなはれず。義門の男信《ナマシナ》下卷ノムの註に南の呉音本ノムなりと云ひて戀南をコヒノムとよみて祈祷《コヒノム》なりと云へり。なほ考ふべし○マチヤカネテムは上(二三六〇頁)にも見えたり。待兼ネテアラムカとなり
 
2549 妹にこひわがなく涙|敷妙木〔左△〕《シキタヘノ》、枕とほりて袖さへぬれぬ
     或本歌云枕とほりてまけばさむしも
妹戀吾哭涕敷妙木枕通而袖副所沾
     或本歌云枕通而卷者寒母
(2364) 考に木を之の誤とせり。或本歌のマケバサムシモは枕スレバツメタシとなり。古はツメタシを皆サムシといひき(ツメタキ水をサムキ水など)。ツメタシは爪痛シの約にて古は無かりし語なり
 
2550 たちて念ひ居てもぞ念ふくれなゐの赤裳すそびきいにしすがたを
立念居毛曾念紅之赤裳下引去之儀乎
 タチテモ〔右△〕念ヒ居テモ〔右△〕念フといふべきを下のモに讓りて上のモを省けるなり。語例は舒明天皇紀の初に立思矣居思矣《タチテオモヘドイテオモヘド》未v得2其理1とあり
 
2551 おもふにしあまりにしかばすべをなみいでてぞゆきし其門を見に
念之餘者爲便無三出曾行之其門乎見爾
 上(二三二三戻)にも
  おもふにしあまりにしかばにほ鳥のあなやみこしを人みけむかも
とあり。其門は妹が門なり
 
2552 こころには千遍敷及《チヘシクシクニ》おもへども使をやらむすべのしらなく
(2365)情者千遍敷及雖念使乎將遣爲便之不知久
 第二句を略解にチタビシクシクとよみ古義にチヘシクシクニとよめり。上(二二八八頁)に千重敷敷とあればチヘシクシクニとよむべし。遍をへにつかひたるは略音なり。卷十(二〇四四頁)にもイホヘカクシテを五百遍隱とかけり○シラナクは知ラレヌなり
 
2553 いめのみにみてすらここだこふる吾《ワレ》者〔□で囲む〕うつつに見てばましていかならむ
夢耳見尚幾許戀吾者寤見者益而如何有
 吾者は從來ワレハとよめり。者を衍字としてワヲとよむべし。我ナルヲとなり。ミテバは見タラバなり
 
2554 對面〔左△〕者《ムカヒテハ》面かくさるるものからにつぎて見まくのほしききみかも
對面者面隱流物柄爾繼而見卷能欲公毳
 初句を略解にアヒミレバ、古義にアヒミテハとよめり。面を而の誤としてムカヒテ(2366)ハとよむべし
 
2555 旦戸《アサト》遣〔□で囲む〕乎《ヲ》はやくなあけそ(味《アヂ・ウマ》澤相《サハフ》)目之乏流〔左△〕君《メヅラシキミガ》こよひ來座有《キマセル》
且戸遣乎速莫開味澤相目之乏流君令〔左△〕夜來座有
 初句を從來アサトヤリヲとよめり。おそらくはもと且戸乎速莫開とありて開の傍に遣と書きたりしが誤りて本行に入れるならむ。さればアサトヲとよむべし。或は卷十九なる悲2世間無常1歌に朝之|咲《エミ》ユフベカハラヒとあるに倣ひてアサノトヲとよむべきか○味澤相は雅澄の説にウマサハフとよむべしといへり(一八五〇頁參照)○第四句は宣長が目之乏視君の誤としてメヅラシキキミとよめるに基づきてメヅラシキミガとよむべく從ひて結句はコヨヒキマセルとよむべし。メヅラシキ君をメヅラシ君といへるは連體格の代に終止格をつかふ格に據れるなり○且は旦の誤、令は今の誤なり
 
2556 (たまだれの)をすの垂簾を往褐〔二字左△〕、寐者不眠友《イハナサズトモ》、君はかよはせ
玉垂之小簀之垂簾乎往褐寐者不眠友君者通速爲
(2367) 第三句を眞淵は持掲の誤としてモチカカゲとよみ雅澄は引掲の誤としてヒキカカゲとよめり。褐は掲の誤なる事しるし。往はなほ考ふべし○第四句を考にイヲバネズトモとよめるを略解にイハナサズトモと改めながら釋は考にイヲバネズ待ヲルトモといへるをさながらに取れるは惜むべし。ナスは寢《ヌ》の敬語なれば(卷五【八五八頁】參照)ナサズトモとよまば自身の事とはすべからざるをや。さて今はイハナサズトモとよみてタトヒ寢ハシタマハズトモと心得べし
 
2557 (たらちねの)母にまをさばきみもわれもあふとはなしに年ぞへぬべき
垂乳根乃母白者公毛余毛相鳥羽梨丹年可經
 女の歌なり。母ニマヲサバは母ニ打明ケナバとなり。ナシニは無クテなり。上(二三四四頁)にも
  たらちねの母にさはらばいたづらにいましも吾も事なすべしも
とあり
 
2558 愛等《ウツクシト》、思篇《オモヘリ》けらし莫忘《ナワスレ》とむすびし紐のとくらくもへば
(2368)愛等思篇來師莫忘登結之紐乃解樂念者
 ウツクシは俗語のイトシなり。略解にウルハシとよめるはわろし○思篇を始めてオモヘリとよみしは契沖なり。篇をヘリとよむは播磨をハリマ、平群をヘグリ、八信井をハシリヰとよむと同例なリ(卷七【一二四九頁】參照)○莫忘はワスルナ(舊訓)ともナワスレ(古義)ともよむべし○前註にいへる如く旅中にてよめるにて我ヲ忘ルナトイヒテ妹ガ結ビシ紐ノオノヅカラ解クルヲ思ヘバ妹ハ今我ヲイトシト思ヘルナルベシといへるなり
 
2559 きのふ見て今日こそ間《ヘダテ》、吾妹兒がここだくつぎて見卷欲毛〔左△〕《ミマクホシカモ》
昨日見而今日社間吾妹兒之幾許繼手見卷欲毛
 間は考、古義に從ひてヘダテとよむべし。間をヘダツとよむ例は上にも一日|間〔日が月〕《ヘダツヲ》ワスルトモハム(二二六七頁)又夜ヲヤ將間〔日が月〕《ヘダテム》ニクカラナクニ(二三六〇頁)とあり○結句を千蔭はミマクホシキモとよみ、雅澄は卷の下に之の字を補ひてミマクシホシモとよめり。案ずるにミマクホシキモは語格とゝのはず。又ミマクシホシモは第二句と調相かなはず。宜しく毛を毳の誤としてミマクホシカモとよむべし。ホシキカモを(2369)ホシカモといふは連體格に代ふるに終止形を以てするにてタヅタヅシキカモをタヅタヅシカモといへるが如し
 
2560 人も無《ナキ》ふりにしさとにある人をめぐくや君が戀に令死《シナスル》
人毛無古郷爾有人乎愍久也君之戀爾令死
 無を舊訓にナク、考にナキとよめり。ナキとよむべし。サトにかかれるなり。人ヲは我ヲなり○メグクは俗語のカハイサウニなり。東北の方言に今もカハユイをメゴイといふ。考以下に俗語のムゴクなりといへるは非なり。此處こそムゴクと譯しても通ずれ、あだし處(たとへば卷五【八五一頁】なる妻子《メコ》ミレバメグシウツクシ)には通ぜざるにあらずや○令死を契沖以下シナセムとよめり。宜しくシナスルとよむべし
 
2561 人ごとのしげき間もりて相十方《アヒヌトモ》八反〔左△〕《ハタ》わが上にことのしげけむ
人事之繁間守而相十方八反吾上爾事之將繁
 モリテはウカガヒテなり。相十方を從來アヘリトモとよめれどアヒヌトモとよむべし〇八反は雅澄が八多の誤としてハタとよめるに從ふべし。さてこゝは所詮な(2370)ど譯すべし
 
2562 里人の言縁《コトヨス》妻を(荒〔左△〕《アシ》垣の)よそにやわが見むにくからなくに
里人之言縁妻乎荒垣之外也吾將見惡有名國
 言緑妻を從來コトヨセヅマとよみて人ノイヒヨスル妻の意としたり。意は然り。訓はコトヨスツマとあるべし。ヨスルはいにしへ四段にはたらきしなり。さてコトヨスは言ニ寄スルなり○荒垣之は枕辭なり。その荒は葦又は蘆の誤ならむ○ニクカラナクニはカハユク思フモノヲとなり。上(二三六〇頁)にも
  わか草のにひたまくらをまきそめて夜をやへだてむにくからなくに
とあり
 
2563 ひとめもる君がまにまにわれさへに夙《ツトニ》おきつつものすそぬれぬ
他眼守君之隨爾余共爾夙興乍裳裾所沾
 夙を舊訓にツトニとよめるを考にハヤクに改めたり。なほツトニとよむべし○男ガ人ヤ見ルト氣ヅカヘバ我モ共ニ人目ヲウカガフトテ云々といへるなり。上(二二(2371)三五頁)なる
  朝戸出のきみがあゆひをぬらす露原、つとにおきていでつつ吾ももすそぬらさな
と辭は相似たれど趣は相異なり
 
2564 (ぬばたまの)妹が黒髪こよひもか吾《ワレ》なき床に靡而《ナビケテ》ぬらむ
夜干玉之妹之黒髪令〔左△〕夜毛加吾無床爾靡而宿良武
 吾は舊訓の如くワレとよむべし(古義にはアガとよめり)○靡而を考にナビケテ、古義にヌラシテとよめり。考に從ふべし○上(二三五二頁)にも
  凡者たが見むとかもぬばたまのわがくろ髪を靡而をらむ
とあり○令は今の誤なり
 
2565 (花ぐはし)あし垣ごしにただ一目あひみし兒ゆゑちたびなげきつ
花細葦垣越爾直一目相視之兒故千遍嘆津
 初句の語例は允恭天皇紀にハナグハシサクラノメデとあり。契沖は『蘆花の白くう(2372)るはしきをほむる意にいへり』といひて葦の枕辭とし雅澄は『第四句の兒といふへかゝりて女のうるはしき貌をハナグハシとほめたるにてもあらむか』といへり。しばらく契沖の説に從ふべし○略解に『人の家の花を垣ごしに見てうるはしむに譬て妹を物ごしに一目見たるをいふ也』といへるはいみじきひが言なり。タダ一目ミシ花ユヱニなどあらばこそさは釋かめ
 
2566 色にでてこひば人見てしりぬべみ情中之〔左△〕《ココロノウチニ》、隱妻波母《シヌブツマハモ》
色出而戀者人見而應知情中之隱妻波母
 四五を略解古義にココロノウチノコモリヅマハモとよめり。案ずるにさては第三句と相副はず。シリヌベミといはば心ノウチニ云々スル妻ハモといはざるべからず。されば之を爾の誤とし隱を借訓としてシヌブとよむべし
 
2567 相見ては戀なぐさむと人はいへど見て後に曾毛《ゾモ》こひまさりける
相見而者戀名草六跡人者雖云見後爾曾毛戀益家類
 略解に
(2373) 見テノチニ毛曾なるべきを誤て曾毛とせるなるべし
といひ古義に之を賛して
  さもあるべし。ミテノチニモゾと訓べし。モゾはカヘリテといふ意を輕く含める詞なり
といへるは非なり。ミテ後ニゾモにてよきなり。さてそのモは契沖のいへる如く無意義の助辭なり。雅澄が『モゾはカヘリテといふ意を含めり』といへるも非なり。カヘリテの意を含めるはシモゾなり○上(二二五九頁)に
  中々に見ざりしよりはあひ見てはこひしむ心ましておもほゆ
とあると相似たり
 
2568 凡《オホロカニ》、吾しおもはばかくばかり難き御門をまかりでめやも
凡吾之念者如是許難御門乎退出米也母
 凡を舊訓にオホヨソニ、略解にオホカタニ、古義にオホロカニとよめり。古義に從ふべし。はやく卷六(一〇八六頁)に凡可爾オモヒテユクナマスラヲノ伴、又卷八(一五一二頁)にモモクサノ言ゾコモレル於保呂可爾スナとあり○相似たるは卷七に
(2374)  凡爾吾しおもはばしたにきてなれにし衣をとりてきめやも
とあり〇一首の趣は略解に
  カタキミカドは禁裏の御門の出入安からぬをいふ。とのゐなどする人の忍びて妹がり行たる也
といへる如し
 
2569 將念其人なれや(ぬばたまの)夜ごとに君がいめにしみゆる
    或本歌云よるひるいはずわがこひわたる
將念其人有哉烏玉之毎夜君之夢四所見
    或本歌云夜晝不云吾戀渡
 此歌は人を思へば其人の夢に見ゆといふ俗信に基づきて女のよめるにて
  毎晩アナタガ私ノ夢ニ御見エナサイマスガ私ハアナタガ御念ニナル其人デハゴザイマスマイニ
といへるにていと巧なる歌なり。なほ云はば其人とあるは第三者なり。相手の男にあらず。又ナレヤはナラメヤなり。前註みな此歌を誤解せり。訓義辨證卷上(八九頁)に
(2375)  初句の將念をアヒオモフとよめるも非なり○或本歌云々はたが書加へたるにか知らねど其人も初二の意を正解せざりしなり。さらずば竹を木に接がむとは試みじ
 
2570 如是耳《カクノミシ》こひばしぬべみ(たらちねの)母にもつげつやまずかよはせ
如是耳戀者可死足乳根之母毛告都不止通爲
 初句を略解にカクシノミとよめるを古義にカクノミニとよみ改めて『カクシノミとよめるはいとわろし』といへり。集中にカクシノミとよむべき的例なし。但こゝはカクノミニとよまむよりはカクノミシとよむべし(二二四八頁參照)
 
2571 ますらをは友のさわぎになぐさ溢《モル》心も將有《アラム》我ぞくるしき
大夫波友之※[馬+參]爾名草溢心毛將有我衣苦寸
 第三句を古義には例によりてナグサムルとよめり。考に從ひてナグサモルとよむべし○將有を略解にアラムヲとよみたれど舊訓の如くアラムとよみてアラムヲと心得べし〇一首の意は代匠記に
(2376)  男は物思へど友どちの交に何くれと紛て慰みても過るを深閨に獨居る我思はやる方なく苦しきと也
といへる如し
 
2572 偽も似つきてぞする何時從〔左△〕鹿《イツノヨカ》みぬ人こふ爾〔左△〕《ト》人の死爲《シニセシ》
偽毛似付曾爲何時從鹿不見人戀爾人之死爲
 はやく卷四にも
  偽も似つきてぞするうつしくもまこと吾妹兒われにこひめや
とあり。初二は偽ヲイフニモ似ツカハシキ事ヲイフモノゾとなり。古義に
  サテサテヨク似合タル偽ヲモ爲賜フモノ哉となり。似合しからぬことをわざと似付たりと云は人の上を嘲るやうにいへるなり。聞にくきを聞よきといふと同類なり
といへるは非なり(八二〇頁參照)○第三句を考以下イツヨリカとよめり。宜しく從を代の誤としてイツノヨカとよむべし○弟四句は正しくはミヌ人ニコフルニと云ふべし。爾は登などの誤か。ヒトニのニは略したりとも見べし○死爲は略解に從(2377)ひてシニセシとよむべし。古義にシニスルとよめるはわろし○契沖が
  是は唯聞渡りてまだ見ぬ人にかくては戀死ぬべしと云へる時に返事によめる意なり
といへる如し
 
2573 こころさへ奉有《マツレル》君に何物乎鴨《ナニヲカモ》、不云〔左△〕言《イフベカラズ》此〔□で囲む〕跡《ト》、吾將竊食《ワガヌスマハム》
情左倍奉君爾何物乎鴨不云言此跡吾將竊食
 奉有を古義にマツレルとよみて
  マダセルと古くよりよみ來れどもすべてマダスと云こと古書にたしかなる假字書あることなければおぼつかなし。ここなどはマツレルとよむ方たしかなり
といへり○第三句を舊訓にナニヲカモとよめるを宣長は乎を之の誤としてナニシカモとよめり。なほもとのまゝにてナニヲカモとよむべし○不云言此跡を舊訓にイハズイヒシトとよみ、二註にイハズテイヒシトとよめり。云を可の誤、此を衍字としてイフベカラズトとよむべきか。ベカラズといふ辭は佛足石歌にも於豆閇可良受夜とあり。卷六(一一六六頁)にもモモヨニモ不可易《カハルベカラヌ》オホミヤドコロとあり○結(2378)句を從來ワガヌスマハムとよめり。下にも年ノ八トセヲ吾竊舞師とあればげに然よむべし。ヌスマハムは隱サムといふ意とおぼゆ。さて食をヌスマハムのハムに借りたりとすれば將の字は不用なれど卷四(七六六頁)にもセキトセクトモを雖塞々友と書けり。似たる例はなほ多し
 
2574 面わすれだにも得〔左△〕爲也登《セズヤト》手《タ》にぎりて雖打不寒《ウテドモコリズ》、戀の奴は
面忘太爾毛得爲也登手握而雖打不寒戀之奴
 得爲也登を略解にエスヤトとよみ古義にエセムヤトとよめり。得を不の誤としてセズヤトとよむべし。タニギリテは拳ヲ作リテとなり○第四句を舊訓にウテドモコリズとよみ契沖は寒を凝の通用、懲の借字とせり。然るに略解には
  寒一本塞に作る。ウテドサハラズとよむべし。一本の方まさるべし
といひ、古義にはサヤラズとよめり。しばらく舊訓に從ふべし○戀ノ奴は戀を人に擬し且そを罵りて云へるなり
 
2575 めづらしき君乎見常衣《キミヲミムトゾ》ひだり手の弓とる方の眉根掻禮〔左△〕《マヨネカキツル》
(2379)希將見君乎見常衣左手之執弓方之眉根掻禮
 メヅラシキはメデタキなり(一九四七頁參照)○舊訓に第二句をキミヲミムトゾ、結句をカキツレとよめり。さては語格とゝのはざるによりて略解には『禮は類の誤か』といひ、久老の信濃漫録(二九丁)には見常衣をミトコソとよみ、古義には乎を衍字とし衣を社の誤としてキミミムトコソとよめり。案ずるにカキツレのツを略して掻禮と書くべきにあらず。されば禮を鶴の誤としてカキツルとよむべく第二句はもとのまゝにて舊訓の如くキミヲミムトゾとよむべし○人に逢ふ呪に眉根を掻きし事は近くは此卷の上(二二六九頁)にも見えたり。此歌によれば左の方を掻きしにこそ。さて左の方を弓トル方といへる、武を尚びし習知られていとゆかし
 
2576 人間もりあし垣ごしに吾妹子をあひ見しからに事曾左太〔二字左△〕多寸《コトゾコチタキ》
人間守蘆垣越爾吾妹子乎相見之柄二事曾左太多寸
 結句を從來コトゾサダオホキとよみて『サダは此頃の意なり、定の意なり』などいへり。宜しく事曾古知多寸の誤として人ノ口ガウルサイといふ意とすべし。或は云はむ。コチタシは言痛の意なればコトゾコチタキといへばコトといふことかさなる(2380)にあらずや。答へて云はむ。コチタシは事痛の意にてもあるべし。そはともあれ集中に人言ヲシゲミコチタミといへる例あまたあるにあらずや
 
2577 今だにも目なともしめそ相見ずてこひむ年月、久家莫〔左△〕國《ヒサシケマクニ》
令〔左△〕谷毛目莫令乏不相見而將戀年月久家莫國
 目ナトモシメソは我ニ見ユル事ヲ少カラシムナにて畢竟逢フ事ヲ惜ムナとなり○結句は眞淵が莫を眞の誤としてヒサシケマクニとよめるに從ふべし。久シカラムニとなり(諸本に眞とあり)〇一首の趣は考に『此歌は旅に行別の時なるべし』といへる如し
 
2578 朝ね髪吾はけづらじうつくしき君が手枕|觸《フリ》てしものを
朝宿髪吾者不梳愛君之手枕觸義之鬼尾
 ウツクシは美シにあらず。俗語のイトシなり。上(二三六八頁)にもいへり。手枕の下にニを省きたり
 
2579 はやゆきていつしか君を相見むとおもひしこころ今ぞなぎぬる
(2381)早去而何時君乎相見等念之情令〔左△〕曾水葱少熱
 今ゾは相見ツル今ゾとなり。考に『君は妹の字か』といへるは君といへるは女より男をいへるが例なればなり。されど男より女を君といへる例もなきにあらず。たとへば上(二二九九頁)に
  かすが山雲ゐがくりてとほけども家はおもはず公をしぞもふ
とあるは他郷にある男子のよめるにて公《キミ》といへるは他郷にて相知りし女なり
 
2580 面形《オモガタ》の忘戸在者《ワスルトナラバ》、小豆鳴《アヅキナク》、男《ヲトコ・ヲノコ》じものやこひつつをらむ
面形之忘戸在者小豆鳴男士物屋戀乍將居
 面形は面影の誤かとおもふに卷十四に
  於毛可多能和須禮牟しだはおほぬろにたなびく雲をみつつしぬばむ
とあればなほ面形なり○第二句を舊訓にワスルトナラバとよめるを宣長は戸を弖の誤としてワスレテアラバとよみ雅澄は之に從へり。案ずるにもとのまゝにて舊訓の如くワスルトナラバとよむべし。そのワスルはワスラルの略なり(卷十四なるワスレムもワスラレムの略なり)○アヂキナクを小豆鳴とかけるを見ればいに(2382)しへアヂキナクをなまりてアヅキナクともいひしか又はアヅキをアヂキともいひしなり。諸註に上(二三二五頁)にタラチネを足常とかけるが如くアヅキをアヂキに借用ひたるなりといへれど外に書樣なくばこそあらめアヅキをアヂキに借用ふべくもあらず。さてアヂキナクを宣長は無益ナと譯し雅澄は遠慮ナクと譯せり。案ずるに俗語のツマラナクに當れり○男ジモノは男ノヤウニといふ意にはあらで男トシテといふ意なり。語例は卷二柿本人麿妻死之後作歌の第二首(三〇〇頁)に
  みどり兒のこひなくごとに、とりあたふものしなければ、をとこじものわきばさみもち
とあり。ヤはコヒツツヲラムの下にうつしてコヒツツヲラムヤハと心得べし
 
2581 言にいへば耳にたやすしすくなくも心のうちにわがもはなくに
言云者三三二田八酢四小九毛心中二我念羽奈九二
 初二は言葉ニイヘバ何デモナク聞ユとなり○スクナクモオモハズはアマタオモフといはむにひとし。上(二三四七頁)にも
  さにづらふ色にはいでずすくなくも心のうちにわがもはなくに
(2383)とあり
 
2582 小豆《アヅキ》なく何のたは言今更にわらは言するおい人にして
小豆奈九何枉〔左△〕言令〔左△〕更小童言爲流老人二四手
 第二句は何ノタハ言ゾのゾを省けるなり。アヅキナクは今更ニワラハ言スルにかかれるなり。ワラハ言スルはワラハ言スル哉となり○考以下に老人の自顧みて耻ぢたる趣とせるは非なり。契沖の第二説の如く老人のものいひかけしをのり辱めたるなり。もし考以下の説の如くならば少くともワラハ言セシとあらざるべからず○枉は狂を誤れるなり
 
2583 相見而△《アヒミテハ》、幾久毛《イクバクヒサモ》あらなくに年月のごとおもほゆるかも
相見而幾久毛不有爾如年月所思可聞
 卷四(七五四頁)に
  不相見者いくばくひさもあらなくにここばくわれはこひつつもあるか
とあり○初句を舊訓にアヒミテハとよめり。然るにこゝにはハに當る字なければ(2384)契沖は不相見而の不をおとせりとし、眞淵は不をおとせるか又は而の下に者をおとせるなりといひ、雅澄は不を補ひてアヒミズテとよめり。卷四(八〇〇頁)に
  相見而者いくかも經ぬをここばくもくるひにくるひおもほゆるかも
 上(二三五六頁)に
  相見者《アヒミテハ》千歳やいぬるいなをかも我やしかもふきみまちがてに
などあるに據りて而の下に者を補ひてアヒミテハとよみて相見テ後の意とすべし○第二句を宣長(記傳卷三十【一八〇四頁】)は
  イクヒササニモ或はイクバクヒサモなど訓べし
といへり。ヒサモはヒサニモなり〇四五の語例は卷四に
  見まつりていまだ時だにかはらねば年月のごとおもほゆる君
とあり
 
2584 ますらをと念へる吾をかくばかり戀せしむるは小可者〔三字左△〕在來《カラクゾアリケル》
大夫登念有吾乎如是許令戀波小可者在來
 眞淵は小可を苛の誤としてカラクハアリケリとよみ、雅澄は小可を不可の誤とし(2385)者を曾の誤としてカラクゾアリケルとよめり。苛曾在來の誤としてカラクゾアリケルとよむべし。卷七なる
  もだあらじとことのなぐさにいふことを聞知れらくは少可者有來
も苛曾有來の誤なるべき事彼卷(一三四七頁)にいへる如し
 
2585 かくしつつわがまつしるし有鴨《アラヌカモ》、世の人皆の常ならなくに
如是爲乍吾待印有鴨世人皆乃常不在國
 第三句を舊訓にアラムカモとよめるを略解にアラヌカモに改めたるはよろし。但不有とあるべき不の字を略せるなりとせるはわろし。こゝのアラヌカモはアレカシなり。而してアレカシのヌカモに不の字をかける例は有ること無し〇一首の意は
  世ノ人ハ皆無常ナルモノナレバ我モイツマデ生キムト知ラレヌニカクシツツ待ツ詮アリテハヤク妹ト逢ヘヨカシ
といへるなり古義に常を並の意としてワガ戀シク思フ心ハ世ノ常ナラヌ事ナルヲと譯せるは從はれず
 
(2386)2586 人事《ヒトゴトヲ》、茂君《シゲミトキミニ》(玉梓の)使も遣らず忘るともふな
人事茂君玉梓之使不遣忘跡思名
 初二を略解に人ゴトノシゲケキキミニとよみたれどシゲケキといふ語は無し。古義に從ひて人ゴトヲシゲミト君ニとよむべし。シゲミトは茂サニなり(二二八八頁參照)
 
2587 大原のふりにし郷に妹をおきてわれいねかねついめにみえこそ
大原古郷妹置吾稻金津夢所見乞
 卷二(一五三頁)に大原ノフリニシサトニフラマクハ後とありフリニシサトはやがてフル里なり。又第三句の語例は上(二三五九頁)にタモトホリユキミノ里ニ妹ヲオキテとあり。妹ヲ殘シオキテとなり。彼頼政の
  山城のみづのの里に妹をおきていくたび淀にふねよばふらむ
の妹ヲオキテは意異なり
 
2588 夕さればきみ來まさむとまちし夜のなごりぞ今もいねがてにする
(2387)夕去者公來座跡待夜之名凝衣令〔左△〕宿不勝爲
 卷十二にも
  玉梓の君が使をまちし夜のなごりぞ今もいねぬ夜のおほき
とあり。
  今もいねがてにするは夕されば君來まさむと待ちし夜のなごりぞ
と句をおきかへて心得べし。ゾはイネガテニスルの係にあらず。もし係ならばナゴリニゾ又はナゴリトゾとあらざるべからず。ナゴリは殘なり(卷七【一二七五頁】參照)
 
2589 あひ思はずきみはあるらし(ぬばたまの)いめにも見えずうけひてぬれど
不相思公者在良思黒玉夢不見受旱宿跡
 ウケヒテは夢ニ見ムト祝?シテとなり
 
2590 いはね踏《フム》夜道はゆかじとおもへれど妹によりてはしぬびかねつも
石根踏夜道不行念跡妹依者忍金津毛
(2388) 蹈を從來フミとよめり。フムとよみ改むべし。ヨリテハのハは清みて唱ふべし
 
2591 人ごとのしげき間もるとあはずあらばつひにや子らが面忘れなむ
人事茂間守跡不相在終八子等面忘南
 終ニ妹ガ我面ヲ忘レナムカとなり
 
2592 こひ死なむ後は何せむわが命いける日にこそ見まくほりすれ
戀死後何爲吾命生日社見幕欲爲禮
 ワガ命ノとノを加へて心得べし。卷四にも
  こひしなむ後はなにせむいける日の爲こそ妹を見まくほりすれ
といへる歌あり
 
2593 (しきたへの)枕うごきていねらえず物もふこよひ急明鴨《ハヤモアケヌカモ》
敷細枕動而宿不所寢物念此夕急明鴨
 枕ウゴキテは枕ガオチツカズシテとなり(二三四二頁參照)○結句の語例は卷十五にヌバタマノヨワタル月ハ波夜毛伊弖奴香文とあり。略解に『不明と有べきを不を(2389)略けるは例也』といへるは例の如き妄説なり(二三八五頁參照)
 
2594 ゆかぬ吾《ワ》をこむとかよるも門ささずあはれ吾妹子まちつつあらむ
不往吾來跡可夜門不閉※[立心偏+可]怜吾妹子待筒在
 
2595 いめにだに何《ナニ》かも見えぬ見ゆれども吾かもまどふ戀のしげきに
夢谷何鴨不所見雖所見吾鴨迷戀茂爾
 何は舊訓のまゝにナニとよみて可なり(略解にナドに改めたり)○夢ニハ見ユレド戀ニ心ノ惑ヒテ心附カザルニヤとなり
 
2596 なぐさ漏《モル》心はなしに如是耳《カクノミシ》こひやわたらむ月に日にけに
      或本歌云おきつ浪しきてのみやもこひわたりなむ
名草漏心莫二如是耳戀也度月日殊
      或本歌云奥津浪敷而耳八方戀度奈牟
 第三句はカクノミシとよむべし(二三七五頁參照)○月ニ日ニケニは夙く卷四(七〇六頁及七七二頁)に見えたり。月ヲ追ヒ日ヲ迫ヒテとなり。日ニケニ、朝ニケニといへ(2390)ると略同意なり
 或本歌のオキツ浪はシキテの枕辭、シキテは頻ニなり
 
2597 いかにして忘物《ワスルルモノゾ》、吾妹子にこひはまされど忘らえなくに
何爲而忘物吾妹子丹戀益跡所忘莫苦二
 第二句を舊訓にワスルルモノゾとよめるを古義に
  ワスレムモノゾと訓べし。ワスルルモノゾとよめるはわろし
といへり。イカニセバとあらばこそワスレムモノゾといふべけれ。今はイカニシテを受けたればなほワスルルモノゾとよむべし
 
2598 遠有跡《トホカレド》、公衣戀流《キミニゾコフル》(たまぼこの)里人皆爾、吾《ワガ》こひめやも
遠有跡公衣戀流玉桙乃里人皆爾吾戀八方
 初句はトホカレドとよむべし。第二句は古義に從ひてキミニゾコフルとよむべし。キミヲゾとよめるはわろし。キミヲゾコフルといふは古今集以後の語法なり○タマボコノ里人とつづきたる不審なり。考以下に『君ガ住ム方ノ道ノ里人といふべき(2391)をかくいへるなり』といへるは從はれず。道往人爾などの誤にあらざるか○此歌は男より『遠く隔りて住めば疎くやなり給はむ』などいひおこせしに答へたるならむ
 
2599 しるしなき戀をもするかゆふされば人の手まきてねなむ兒故に
驗無戀毛爲鹿暮去者人之手枕而將寐兒故
 シルシナキは無益ナルなり。兒ユヱニは女ナルニなり。人妻に戀ひたるなり
 
2600 百世しも千世しも生きてあらめやもわがもふ妹を置〔左△〕嘆《ミズテナゲガク》
百世下千代下生有目八方吾念妹乎置嘆
 結句を從來オキテナゲカムとよめり。さてはヤ、カなどいふ辭足らで意を成さざるより古義には『吾念といふ上へイカデと云詞を假に加へて心得べし』といへり。案ずるにオキテといふ語おちつかず。されば置嘆を不見嘆の誤としてミズテナゲカクとよむべし。ナゲカクは嘆ク事ヨとなり
 
2601 うつつにもいめにも吾は不思寸《モハザリキ》ふりたるきみにここにあはむとは
現毛夢毛吾者不思寸振有公爾此間將會十羽
(2392) 第三句を古義にオモハズキとよめり。いにしへオモハザリキをオモハズキともいひもしけむ。然もモハザリキとよまむも後世風にあらざれば強ひて耳遠くよむに及はず。又思は安んじてモフとよむべし○フリタル公は考に『はやき時あひし君をいふ』といへり
2602 黒髪の白髪〔左△〕左右跡《シロクナルマデト》むすびてし心一〔左△〕乎《ココロノヒモヲ》、今とかめやも
黒髪白髪左右跡結大王心一乎令〔左△〕解目八方
 第二句を舊訓にシラカミマデトとよめるを雅澄は卷十七に之路髪マデトとあるを證としてシロ〔右△〕カミマデトとよみ改めたり。宜しく白髪を白變の誤としてシロクナルマデトとよむべし。語例は卷七に
  さきはひのいかなる人か黒髪の白くなるまで妹がこゑをきく
とあり○ムスビテシは契リテシといふ事とおぼゆれど心ヲムスブといふこと穩ならず。おそらくは心一乎は心紐乎の誤にてムスビテシ心ノヒモヲ今トカメヤモならむ
 
2603 心をし君爾|奉跡〔左△〕《マツリテ》、念〔左△〕有者《アラザレバ》よしこのごろは戀乍〔二字左△〕乎將有《ワスレテヲアラム》
(2393)心乎之君爾奉跡念有者縱此來者戀乍乎將有
 舊訓に
  ココロヲシきみにまだすとおもへればヨシコノゴロハこひつつをあらむ
とよみ雅澄はマダスをマツルに改めたれど、さては意義通ぜず。案ずるに
  君爾奉而不〔二字右△〕有者……忘手〔二字右△〕乎將有
の誤として
  心をし君にまつりてあらざればよしこのごろは忘れてをあらむ
とよむべきか。ヨシはソレヲ幸ニなり
 
2604 おもひでてねにはなくともいちじろく人のしるべく嘆爲勿《ナゲカスナ》ゆめ
念出而哭者雖泣灼然人之可知嘆爲勿謹
 嘆爲勿を舊訓以下ナゲキスナとよめるを古義にナゲカスナに改めたり。之に從ふべし
 
2605 (玉ぼこの)道ゆきぶりにおもはぬに妹をあひ見てこふるころかも
(2394)玉桙之道去夫利爾不思妹乎相見而戀此鴨
 道ユキブリは道にて出合ふをいふ。略解に『フリといふはフラシを約云也』といへるは何を思へるにか。フリは觸《フレ》の古格のみ○オモハヌニは思ガケナクなり
 
2606 人目おほみ常かくのみしさもらはばいづれの時かわがこひざらむ
人目多常如是耳志侯〔左△〕者何時吾不戀將有
 人目ノヒマヲウカガハバとなり。常カクノミシは常ニカクノミなり。ワガコヒザラムは我戀ハ止マムなり○侯は候の誤なり
 
2607 (しきたへの)ころも手かれて吾《ワ》をまつとあるらむ子ら者面影にみゆ
敷細之衣手可禮天吾乎待登在濫子等者面影爾見
 上(二三一七頁)にも
  しきたへのころも手かれてたまもなすなびきかぬらむわをまちがてに
 下にも
  二上にかくろふ月のをしけども妹がたもとをかるるこのごろ
(2395)とあり。コロモデカレテは我袖ヲ離《カ》レテなり○者は志の誤か
 
2608 妹が袖わかれし日よりしろたへの衣かたしきこひつつぞぬる
妹之袖別之日從白細乃衣片敷戀管曾寐留
 いにしへ二人寢る時は 人の衣を下に敷き今一人の衣を上に著るに獨寢る時は衣の半を下に敷き半を上に著れば(今カシハモチといふやうに)その樣をコロモカタシク又袖カタシクといひしなり○妹ガソデの下にニ又はヲを略せり
 
2609 しろたへの袖は間結奴《マユヒヌ》わぎもこが家のあたりをやまずふりしに
白細之袖者間結奴我妹子我家當乎不止振四二
 從來第二句をソデハマヨ〔右△〕ヒヌとよめり。さて略解に『マヨヒに間結と書るはアヂキナクを小豆ナクと書るたぐひ也』といへり。案ずるにマヨヒをマユヒとなまりても云ひしによりて間結奴とかけるのみ。一音づつこそあれ連りて語となり句となれば古人といふとも必しも正確に發音すべきにあらず。たとへば眉をマヨと發音せしは或時代までにてマユと發音するやうになりしは或時代より後なりと思はむ(2396)はおそし。同一時代にてもマヨとも、マユとも、マヨとマユとの中間にも發音せしなり。而してマヨと發音せし人の多かりし間〔日が月〕はマヨを正とし、マユと發音する人の多くなりし後にはマユを正とせしなり。今のマヨフ、マユフも其類なれどマユフと唱ふる人は少數なりしかばマユフは正語とならで止みしのみ。さてマヨフは布帛の經緯の亂るるをいふ(卷七【一三五三頁】參照)○家ノアタリヲとありてそれを承くる辭なきは物足らねどいにしへ家ノアタリヲサシテといふべきをただ家ノアタリヲといひなれしにこそ。卷七(一二三〇頁)にも
  妹があたりわが袖ふらむ木間〔日が月〕よりいでくる月に雲なたなびき
とあり
 
2610 (ぬばたまの)わが黒髪をひきぬらし亂而反〔左△〕《ミダレテノミモ》こひわたるかも
夜干玉之吾黒髪乎引奴良思亂而反戀度鴨
 ヒキヌラシはスベラカシなり。卷二(一七一頁)にタケバヌレ〔二字右△〕タカネバナガキ妹ガ髪云々とあると參照すべし○第四句を舊訓にミダレテカヘリとよめるを宣長は亂留及の誤としてミダルルマデニとよみ、村田春海は亂而已の誤としてミダレテノ(2397)ミモとよみ、雅澄は亂而吾の誤としてミダレテアレバとよめり。訓は春海に從ふべし。但字は亂而耳の誤ならむ
 
2611 今更に君が手枕まきねめやわが紐の緒のとけつつもとな
今更君之手枕卷宿米也吾紐緒乃解都追本名
 男の絶えし後によめるなり。古人は紐の緒の自然に解くるを戀人に逢ふべき前兆としたりしなり
 
2612 しろたへの袖觸而夜〔左△〕《ソデフリテヨリ》わが背子にわがこふらくはやむ時もなし
白細布乃袖觸而夜吾背子爾吾戀落波止時裳無
 考に夜を從の誤としてソデフレテヨリとよめり。之に從ふべし。袖觸の語例は卷七(一四五六頁)に
  むらさきの名高の浦のまなごにし袖のみ觸《フリ》てねずかなりなむ
とあり
 
2613 ゆふけにも占にものれるこよひだに來まさぬ君をいつとか待たむ
(2398)夕卜爾毛占爾毛告有令〔左△〕夜谷不來君乎何時將待
 第二句の占を考、略解に鹿の骨をやく占なりといへれどこゝの占はさる重き占にはあらず。ノレルは來マサムトノレルとなり
 
2614 眉根《マヨネ》かきしたいぶかしみおもへるにいにしへ人を相見つるかも
眉根掻下言借見思有爾去家人乎相見鶴鴨
    或本歌曰眉根かき誰をか見むとおもひつつけながくこひし妹にあへるかも
    一書歌曰眉根かきしたいぶかしみおもへりし妹がすがたをけふ見つるかも
    或本歌曰眉根掻誰乎香將見跡思乍氣長戀之妹爾相鴨
    一書歌曰眉根掻下伊布可之美念有之妹之容儀乎令〔左△〕日見都流香裳
 シタイブカシミオモフは心《シタ》ニイブカシク思フとなり。當時はかゝるニをも省くを(2399)得しなり○イニシヘ人は故人なり。上(二三九一頁)にフリタル君といへるも同じ或本歌及一書歌は別の歌の相似たるまでなり
 
2615 (しきたへの)△枕《タマクラ》まきて妹與吾《イモトワレト》ぬる夜はなくて年ぞへにける
敷栲乃枕卷而妹與吾寐夜者無而年曾經來
 第二句を舊訓にマクラヲマキテとよめるを古義に手の字を補ひてタマクラマキテとよめり。之に從ふべし
 
2616 (おく山の)眞木の板戸を音速〔二字左△〕見《オシガタミ》、妹があたりの霜の上にねぬ
奥山之眞木之板戸乎音速見妹之當乃霜上爾宿奴
 上(二三四五頁)にもオク山ノ眞木ノ板戸ヲ押ヒラキ云々とあり。オク山ノは眞木にかゝれる枕辭なり○第三句を從來オトハヤミとよめり。おそらくはオシガタミとありしを誤れるならむ。字は人充てゝよ。本集の通本には文字の虫ばみなどして分らずなれるを傍訓の殘に據りて推し填みたりとおぼゆる處少からず。誤字を正さむとするには此事にも留意せざるべからず○妹ガアタリは妹ガ家ノアタリなり
 
(2400)2617 (足ひきの)山櫻戸を開置而《アケオキテ》わがまつ君をたれかとどむる
足日木能山櫻戸乎開置而吾待君乎誰留流
 山ザクラ戸は山櫻の材を以て作れる戸なり。定家が山ザクラ戸ヲアケボノノ空とよめるは辭は此歌より出でたれど櫻ノサケル門といふ意に用ひたるなり○第三句を舊訓にアケオキテとよめるを古義にヒラキオキテに改めたり。もとのまゝにて可なり
 
2618 月夜よみ妹にあはむとただぢから吾は來つれど夜ぞふけにける
月夜好三妹二相跡直道柄吾者雖來夜其深去來
 タダヂカラは近道ヲとなり
 
  寄物陳思
2619 朝影に吾身はなりぬ(から衣すその)合はずて久しくなれば
朝影爾吾身者成辛衣襴之不相而久成者
(2401) アサ影ニワガ身ハナリヌは夙く上(二二六〇頁)に見えたり。朝、物ニウツル影ノ如クとなリ。古今集戀一にはコヒスレバ我身ハ影トナリニケリとあり○カラゴロモスソノは卷九なる
  いそのかみふるのわさ田の穗にはいでず心のうちにこふるこのごろ
と同例にて合フまでにかゝれる枕辭なリ。又スソノの下にアフガ如クといふことを補ひてきくべき一種の枕辭ともいひつべし(一七九四頁參照)
 
2620 (とき衣の)おもひみだれてこふれども何如《ナニシ》汝〔□で囲む〕|之故跡《ノユヱト》とふ人も無《ナシ》
解衣之思襴而雖戀何如汝之故跡問人毛無
 卷十二にも
  とき衣のおもひみだれてこふれどもなにの故ぞととふ人もなし
とあり○第四句を舊訓にナゾナガユヱトとよみ、考には汝を俗の誤としてナニゾノユヱトとよめり(集中に俗をゾに借れる例はあり)。案ずるに汝を衍字とすべし。さて何如之故跡はナニゾノユヱトともよむべけれどナニゾノは後世めきたればナニシノユヱトとよむべし。ナニノ故をナニシノ故といふはナニカ、イツカをナニシカ、(2402)イツシカといひタレノ人をタレシノ人といふが如し○初二の語例は上(二三三四頁)にもトキ衣ノコヒミダレツツとあり
 
2621 すりごろも著有《ケリ》といめみつうつつには孰人之《タレシノヒトノ》言かしげけむ
摺衣著有跡夢見津寐〔左△〕者孰人之言可將繁
 スリゴロモは物の形を摺れる衣なり。著有は略解にケリとよめるに從ふべし。ケリは著タリにおなじ○第四句を舊訓にイヅレノ人ノとよめり。古義にタレシノ人ノとよめるに從ふべし。下に誰之能人とあり。四五は誰ニカイヒサワガレムとなり。いにしへかゝる俗信ありしにこそ○寐は寤の誤なり
 
2622 しかのあまの塩やきごろもなれぬれど戀ちふものは忘れかねつも
志賀乃白水郎之塩燒衣雖穢戀云物者忘金津毛
 志賀は肥前の地名なり。初二は序なり。第三句以下は馴レヌル後モ戀テフモノハ忘レ難シといへるなり
 
2623 くれなゐのやしほのころもあさなさななるとはすれどいやめづらし(2403)も
呉藍之八塩乃衣朝且〔左△〕穢者雖爲益希將見裳
 上三句は序なり。古義に『本の句は序』といひながらアサナサナを主文に加へて釋きたるは矛盾なり○ヤシホノ衣はいく度も染めたる衣なり。メヅラシはメデタシなり○且は旦の誤なり
 
2624 くれなゐのこぞめのころも色ふかく染《ソミ・シミ》にしかばかわすれかねつる
紅之深染衣色深染西鹿齒蚊遺不得鶴
 コゾメは濃染なり。第四句の染を古義には例の如くシミとよめり。舊訓の如くソミとよまむも可なり。もし必シミとよむべくば深染もコジメとよまざるべからざるにあらずや○初二までが序なり。さてただフカクといふべきを序の縁にて色フカクといへるにて上(二三一九頁)なる
  ちぬの海のはまべの小松根ふかめてわがこひわたる人の子ゆゑに
と同格なり。第三句以下の意は我妹子ヲ忘レカヌルハ我心ニ深ク染ミタレバニヤ(2404)アラムといへるなり
 
2625 あはなくに夕卜《ユフケ》をとふと幣におくにわが衣手は又|曾〔左△〕可續〔左△〕《カタツベキ》
不相爾夕卜乎問常幣爾置爾吾衣手者又曾可續
 從來アハナクニを戀人ニ逢ハザルニといふ意とせるは從はれず。夕卜ガ合ハザルニといへるならむ。ヌサニオクニは幣トシテ置クトテとなり○卷八にタナバタノ袖續ヨヒノといへる例あれどその袖續は袖|纏《マク》の誤なるべき事彼卷(一五七七頁)にいへる如し。こゝも可續にては通ぜず。おそらくは可絶の誤ならむ。古今集覊旅部素性の歌にタムケニハツヅリノ袖モキルベキニとあり。又曾〔右△〕はおそらくは香などの誤ならむ
 
2626 (ふるごろも)打〔左△〕棄人《ステラエビト》は秋風のたちくる時に物もふものぞ
古衣打棄人者秋風之立來時爾物念物其
 初句は古衣ノ如クといふ意の枕辭なり○打棄人を舊訓にウチステ人、二註にウテシ人とよめり。宜しく打を所の誤としてステラエ人又はウテラエ人とよむべし
 
(2405)2627 はねかづら今する妹|之〔左△〕《ヲ》うらわかみゑみみいかりみつけし紐とく
波禰※[草冠/縵]令〔左△〕爲妹之浦若見咲見チ見著四紐解
 はやく卷四(七七五頁及七七六頁)にハネカヅラ今スル妹ヲイメニ見テ(贈童女歌)ハネカヅラ今スル妹ハナキモノヲ(童女來報歌)とあり。又卷七(一二四八頁)にハネカヅラ今スル妹ヲウラワカミイザイザ川ノ音ノサヤケサとあり。ハネカヅラは童女の頭の飾なり○妹之を從來イモガとよめり。宜しく之を乎の誤としてイモヲとよむべし。妹ガウラ若サニとなり○ヱミミイカリミは作者がするなり。妹がするにあらず。從前の説は誤れり。さて其意は嚇シタリ賺シタリとなり。ツケシは正しくはツケタルとあるべし。當時はやくシとタルとを通用する事ありしなり
 
2628 いにしへのしづはた帶をむすびたれたれちふ人も君にはまさじ
去家之倭父〔左△〕旗帶乎結垂孰云人毛君者不益
    一書歌△いにしへの狹織の帶をむすびたれ誰しの人も君にはまさじ
(2406)   一書歌古之狹織之帶乎結垂誰之能人毛君爾波不益
 上三句はタレをいひ起すべき序なり。語例は卷三過2勝鹿眞間娘子墓1作歌〔五二五首)にシツハタノ帶解替而とあり。又武烈天皇紀の歌に大君ノ御帶ノシヅハタムスビタレとあり。シヅハタ帶は當時はやくすたれしが故にイニシヘノといへるなり。イニシヘノは古風ナルといふ意なり○父は文の誤なり
 一書歌の下に曰の字を補ふべし。サオリノ帶は契沖が『帶のためにことさらにせばく織れるなるべし』といへる如し
 
2629 あはずとも吾はうらみじ此枕われとおもひてまきてさねませ
不相友吾波不怨此枕吾等念而枕手左宿座
 枕を贈るとて添へたる歌なり。遊仙窟にも枕を女に贈り聊將代2左腕1、長夜枕2渠《キミガ》頭1といふ詩を作り添へし例あり
 
2630 ゆへる紐|解《トキシ》日とほみ(しきたへの)わが木枕《コマクラ》にこけむしにけり
結紐解日遠敷細吾木枕蘿生來
(2407) 解日は二註にトキシ日とよめるに從ふべし。ユヘルは不用なるに似たれどただ輕く添へたりと見べし○上(二三四三頁)にもソノ枕ニハ苔ムシニタルとあり。コケといへるは黴なり
 
2631 (ぬばたまの)黒髪しきて長き夜を手枕の上に妹まつらむか
夜干玉之黒髪色天長夜※[口+リ]手枕之上爾妹待覧蚊
 手枕ノ上ニはマツラムにかゝれるにはあらでクロカミシキテにかゝれるなれば
  長き夜をたまくらの上にぬばたまのくろ髪しきて妹まつらむか
とあらざるべからず
 
2632 (まそ鏡)ただにし妹をあひみずばわが戀やまじ年はへぬとも
眞素鏡直二四妹乎不相見者我戀不止年者雖經
 初句は見にかゝれるなり
 
2633 (まそかがみ)手にとりもちてあさなさな△見《ミム》人〔□で囲む〕時禁屋《トキサヘヤ》、戀のしげけむ
眞十鏡手取持手朝且〔左△〕見人時禁屋戀之將繁
(2408) 初二はアサナサナ見ムにかゝれる序なり○第四句を略解に人を衍字としてミルトキサヘヤとよみ、古義には見人を將見の誤としてミムトキサヘヤとよめり。類聚古集には雅澄のいへる如く將見時禁屋とあり○語例は上(二三三四頁)に
  まそかがみ手にとりもちてあさなさな見れども君はあく事もなし
とあり○且は旦の誤なり
 
2634 里とほみこひわびにけり(まそかがみ)おも影さらずいめにみえこそ
里遠戀和備爾家里眞十鏡面影不去夢所見社
    右一首上見2柿本朝臣人麿之歌中1也。但以2句句相換1故載2於茲1
 マソカガミは面影にかゝれる枕辭なり○上見云々は上(二三三三頁)なる
  里とほみこひうらぶれぬまそかがみ床のへさらずいめにみえこそ
を指せるなり
 
2635 劍だち身にはきそふるますらをや戀ちふものをしぬびかねてむ
劍刀身爾佩副流大夫也戀云物乎忍金手武
(2409) ヤはヤハなり。カネテムはカネタラムなり。されば四五は戀チフモノヲシノビカネテアラムヤハとなり。古義に『自勵ませどもなほ忍びえずとなり』といへる如し
 
2636 つるぎだち諸刃《モロハ》のうへにゆき觸《フリ》て所殺鴨將死《シニカモシナム》こひつつあらずば
劍刀諸刃之於荷去觸而所殺鴨將死戀管不有者
 モロハは兩刃なり。コヒツツアラズバはコヒツツアラムヨリハとなり○第四句を二註にシセカモシナムとよめり。舊訓の如くシニカモシナムとよむべし。殺サルルはやがて死ヌルなればシニに所殺とかけるなり。又|將死《シナム》は略解にいへる如く將爲《シナム》の借字なり○上(二三三一頁)に
  つるぎだちもろ刃のときに足ふみてしなばしぬともきみによりてば
といへるあり
 
2637 ※[口+酉]〔左△〕《ヒシビシニ》鼻をぞひつる(つるぎだち)身にそふ妹がおもひけらしも
※[口+酉]鼻乎曾嚔鶴釼刀身副妹之思來下
 初句を舊訓にウチナゲキとよみ、考に※[口+西]の誤としてウレシクモとよみ、宣長は
(2410) ※[口+煙の旁]の誤也。※[口+煙の旁]は咽と同字にてムセブと訓り。第五に之可〔右△〕夫可比ハナヒシビシニとあればこゝもシカブカヒとよまん
といひ、古義に
  五卷一本に之波〔右△〕夫可比とあるこれよろし。然ればこゝもシハブカヒと訓べし
といへり。然るに訓義辨證下卷(四六頁)には
  ※[口+酉]は舊刻本には※[口+西]とあり。今本に※[口+酉]とあるは覆刻のをりに彫り譌りたるなり。さて※[口+西]の字は古葉略類聚抄劍部に※[口+(而/一)]とあるを正とすべし。※[口+(而/一)]は龍龕手鑑に經音義作v※[口+捷の旁]、丁計反、鼻噴也とあり。こゝはウチハナヒと訓べきなり(○採要)
といへり。之によれば※[口+(而/一)]は嚔の古宇なり。案ずるにこゝにてはヒシビシニとよむべし(卷五【九六六頁】參照)○ハナヒは上(二二六九頁)に
  眉根かき鼻ひ紐ときまつらむやいつかも見むとわがおもふ君
とあり。クサメをする事なり○第四句の語例は卷十四に
  つるぎだち身にそふいもをとりみかねねをぞなきつる手兒にあらなくに
とあり。身ニソフは我身ニ偶《タグ》フといふことならむ。從來の説はうべなはれず。オモヒ(2411)ケラシモは我ヲ思フラシなり○さて此歌は毛詩終風に
  寤メテ言《ワレ》寐ラレズ言《ワレ》ヲ願《オモ》ヘバ則|嚔《ハナヒ》ル
とあるに據れるなり
 
2638 (梓弓)末の腹野に鷹田《トガリ》する君が弓食〔左△〕《ユヅラ》のたえむともへや
梓弓末之腹野爾鷹田爲君之弓食之將絶跡念甕屋
 上四句は序なり。契沖は
  弓の末を腹と云故に梓弓腹野とつづくべきを文字の足らねば末ノ腹野といへる歟。イソノカミ袖振川の類なるべし
といひ、宣長(記傳卷七【三九五頁】)は
  梓弓末之腹野とよめるは末之と云るまでは序にて腹野ぞ地名には有べき。これ弓(ノ)末に腹となづくる處の有し故に末之腹とはつづけたるなり
といへり。おそらくはスエノハラ野といふ地名にてアヅサ弓はスヱノハラまでかかれるならむ。卷十三にもアヅサユミ弓腹《ユハラ》フリオコシとあり○弓食を舊訓にユヅルとよめり。眞淵は舊訓に從ひて食を弦の誤とし宣長は弓葛の誤としてユヅラと(2412)よめり。弦をいにしへツラといひしかば少くとも訓は宣長の説に從ふべし○タエムトモヘヤは絶エムト思ハメヤなり
 
2639 かづらきのそつ彦眞弓|荒木〔二字左△〕爾毛《ヨルベニモ》、憑也《タノメヤ》君がわが名のりけむ
葛木之其津彦眞弓荒木爾毛、憑也君之吾之名告兼
 葛城(ノ)襲津彦は建内宿禰の子にて應神天皇の御代の武將なり。略解に
  勝れたるたけ男なれば弓力も勝れけむ。……されば弓の名に負せし也けり
といひ古義に
  さてその襲津彦の持たりし弓になずらへて後まで大弓を襲津彦眞弓と云しなり
といへるはいかが。おそらくは襲津彦の執りし弓とて當時に傳はりて人の普く知れるものありしならむ。以上二句は序なり○荒木爾毛を契沖は
  荒木はまだ手馴ぬ意なり。マダ我身ノ君ガ手ニ能モ馴ネドモとなり
といひ、眞淵は
  荒木ノ如ニモてふ意なり。さて新木の大弓は引どより難きを吾により難き人の(2413)よるに譬ふ
といひ、雅澄は
  荒木はいまだ手なれぬ意なり。又新木の意に見てもきこゆ
といひ、又
  その荒木の眞弓の如くにもたしかにたのもしきものに我を思ひたのめばにやとなり
といへり。案ずるにアラキノ眞弓は材のいまだかれざる弓をいふとおぼゆ。さればアラキノ眞弓とはいふべく眞弓を(殊にノを略して)荒木の枕辭とはすべからず。又アラ木ノ眞弓ノ如クといふことを荒木ニモとはいふべからず。おそらくはもと搓方爾毛などありてヨルベニモとよむべきを誤れるならむ。ニモはトモなり。弓をヨルの枕辭としたる例は卷十四にアヅサ弓ヨラノ山ベノとあり○憑也を舊訓にタノメヤとよめるを考にヨルトヤに改めたり。舊訓に從ふべし〇一首の意は
  身ヲ托スベキモノト我ヲ頼メバニヤ我名ヲ人ニ告ゲアラハシケム
といへるなり
 
(2414)2640 (梓引)ひきみゆるべみ不來者不來《コズバコザレ》、來者其〔左△〕其乎奈何《コバコソヲナゾ》、不來者來者其乎《コズバコバソヲ》
梓弓引見絶〔左△〕見不來者不來來者其其乎奈何不來者來者其乎
 第三句以下を舊訓に
  こずばこず、こばそそをなぞ、こずばこばそを
とよみ考以下はナゾをナドに改めたる外舊訓に從へり。案ずるにまづ第三句はコズバコザレとよむべし。次に第四句の來者其は來者來の誤としてコバコとよむべし。又其乎奈何はソヲナゾともソヲナドともよむべし。さて上四句は
  來ずは來ざれ、來ば來《コ》そをなぞ、梓弓、ひきみゆるべみ
と句をおきかへて心得べし。否もとかくの如くなりしが亂れて今の如くなれるならむ。もし初より今の如くならば結句は寧ヒキミユルベミを反復すべきなればなり。さてヒキミユルベミは下にスルを省けるにてイヅレトモ定マラヌといふ意なり○結句は
  來ずは來ざれ〔三字右△〕來ば來〔右△〕そをなぞ〔二字右△〕
と反復していふべきを略せるなり○絶は弛の誤なり
 
(2415)2641 時守のうちなす鼓よみみれば辰《トキ》にはなりぬあはなくもあやし
時守之打鳴鼓數見者辰爾波成不相毛怪
 ウチナスは打鳴ラスなり。ヨミミレバは數フレバといはむにひとし。トキは契りたる時なり。結句は來テ逢ハヌモ怪シとなり
 
2642 ともしびの影にかがよふうつせみの妹がゑまひし面影にみゆ
燈之陰爾蚊蛾欲布虚蝉之妹蛾咲状思面影爾所見
 カガヨフはカガヤクなり。さて考以下にカガヨヒシといふべきを現在格にていへるなりとしたるは非なり。現に燈光に輝ける妹の容儀が面影にみゆる趣なり○ウツセミノは考以下に云へる如く現身ノにて正物ノといふ意なり
 
2643 (玉|戈《ホコ》の)道ゆきつかれいなむしろしきても君をみむよしもがも
玉戈之道行疲伊奈武思侶敷而毛君乎將見因母鴨
 上三句はシキテにかゝれる序なり。イナムシロは藁席なり。いにしへの旅行のさまの知らるゝ序なり。古義に宿とる樣としたるはいかが。息ふ樣ならむ○シキテモは(2416)度々となり
 
2644 をはり田の板〔左△〕田《サカタ》の橋の壞者《コボレナバ》桁よりゆかむなこひそ吾味
小墾田之板田乃橋之壞者從桁將去莫戀吾味
 小墾田は大和高市郡の内にてほぼ飛鳥に同じ。略解に
  板は坂の誤にてサカタ也。サカタとせる事は小墾田の金剛寺を坂田尼寺といへり云々
といへり。こは谷川士清の説とおぼゆ(記傳卷四十四【二五六七頁】參照)○第三句を舊訓にコボレナバとよめるを二註にクヅレナバに改めたり。もとのまゝにて可なり○考に
  舒明天皇二年十月に飛鳥岡本宮へ遷ませ〔右△〕しより小墾田は故郷と成てそこの橋の板の朽たるほどなれば孝徳天皇の御代の頃の歌ならん
といひ二註共に之に從ひたれどコボレナバといへればいまだ壞れざるなり。又飛鳥(ノ)岡本宮は續日本紀卷二十三天平寶字五年正月癸巳の下に小治田ノ(ノ)岡本宮とあれば小墾田より飛鳥へ遷り給ふとは云ふべからず。されば考の説は的を外れたり。案(2417)ずるに此歌は女の許より
  君ガ此頃來タマハヌハ途中ナル坂田(ノ)橋ヤコボレケム
と戯れていひおこせしに對して
  モシ坂田橋ガ壞レナバ危キ橋桁ヲ踏ミテモ渡行クベケレバシカ戀ヒ給フナ
と答へたるなり
 
2645 宮木ひく泉のそまにたつ民の息時無《ヤスムトキナク》こひわたるかも
宮材引泉之迫馬喚犬二立民乃息時無戀渡可聞
 泉は南山城の地名なり。前にも見えたり。當時宮室の造營ありて木材を此處より採りしにこそ。上三句は序なり○第四句を舊訓にヤムトキモナクとよみ古義にイコフトキナクとよめり。序よりのかゝりにてはヤムとはいひがたく戀の方にてはイコフとはいひがたし。宜しくヤスムトキナクとよむべし。息をヤスムとよめる例は卷十六にウツバリニムカハギカケテ息《ヤスム》此君とあり
 
2646 すみのえの津守△網《ツモリガアミ》引〔□で囲む〕之《ノ》うけのをのうかれかゆかむこひつつあらずば
(2418)住吉乃津守網引之浮※[竹冠/矢]緒乃得干蚊將去戀管不有者
 上三句は序なり。ウケノヲは泛子の絲なり○第二句を從來ツモリアビキノとよめリ。さて津守を略解に地名とし古義に津守が徒と釋せり。案ずるに津守は津守の役人なり。然も津守ノ役人タチノ網引といふことをノを省きてツモリアビキとはいふべからず。又網ノウケとはいふべく綱引ノウケとはいふべからず。おそらくは津守之網之とありてツモリガアミノとよむべきを誤れるならむ○結句は家ニコモリテコヒツツアラムヨリハとなり
 
2647 よこぐもの空ゆ延越〔左△〕《ハヒワタリ》とほみこそ目言かるらめ絶跡間也《タユトヘダテヤ》
東細布從空延越遠見社目言疎良米絶跡間也
 延越を二註にヒキコシとよめり。延渡の誤としてハヒワタリとよむべきか。神代紀に蔓延をハヒワタレリとよめり。さて初二は序なり○目言は卷二明日香皇女殯宮之時作歌(二五八頁)を始めてしばしば見えたり。眞淵の説の如く見ル事といふ意としても雅澄の説の如く目ト辭トといふ意としても穩ならぬ辭づくりなり。或は漢語の瞻言(たとへば毛詩大雅桑柔の維此聖人、瞻言百里)の直譯にあらざるか○結句(2419)を從來タユトヘダツヤとよめり。タユトヘダテヤとよみて絶エムトテ隔《ヘダ》タルナラムヤハの意とすべきか
 
2648 かにかくに物はおもはず斐太人のうつ墨繩のただ一道に
云云物者不念斐太人乃打墨繩之直一道二
 カニカクニはトザマカウザマなり。三四は序なり。斐太人は木匠なり〇一ミチニは一スヂニなり。結句はタダ一スヂニ君ヲゾ頼マムといへるなり。卷四なる大伴坂上郎女怨恨歌に
  まそ鏡とぎしこころを、ゆるしてし其日のきはみ、浪のむたなびく玉藻の、かにかくにこころはもたず、大船のたのめる時に云々とあると相似たり
 
2649 (足日木の)山田もるをぢがおく蚊火のしたこがれのみわがこひをらく
足日木之山田守翁置蚊火之下粉枯耳余戀居久
 蚊火は蚊遣火なり。シタコガレノミは下ニコガレテノミのニとテとを省けるなり。(2420)下コガレといふ名詞にあらず。コヒヲラクは戀居ル事ヨとなり
 
2650 十寸板持《ソギタモチ》ふける板目〔左△〕《イタマ》の、不令相者《アハセズバ》いかにせむとかわがねそめけむ
十寸板持蓋流板目乃不令相者如何爲跡可吾宿始兼
 初句は舊訓に基づきて古義の如くソギタモチとよむべし。さてソギタはソギタル板にて今いふコケラの類なり○板目は目を間〔日が月〕の誤としてイタマとよむべし。ソギタモチフケル板間〔日が月〕はソギ板モチテ屋根ヲ葺ケルソノ板間〔日が月〕となり。板間〔日が月〕は屋根板の隙なり。初二は序なり○第三句を契沖はアハセズバとよみ考は令を衍字としてアハザラバとよみ二註はもとのまゝにてアハザラバとよめり。契沖の説に從ふべし。さてそのアハセズバの意は契沖が親ノ許サズシテアハシメズバと釋せる如し○初二はアフまでにかかれる序なり。上(二四〇〇頁)にカラ衣スソノアハズテ久シクナレバとあると參照すべし。ネソメケムは逢ヒ始メケムとなり○古今集戀三に
  名取川せぜのうもれ木あらはればいかにせむとかあひみそめけむ
とあり
 
2651 難波人葦火たく屋のすしたれどおのが妻こそ常《トコ》めづらしき
(2421)難波人葦火燎屋之酢四手雖有己妻許増常目頬次吉
 初二は序なり。スシタレドはススケタレドなり。すゝくる事をいにしへススといひきとおぼゆ○古義に常をツネとよみて『こゝはトコと訓べき處にあらず』といへり。トコにて可なり。トコメヅラシはトコトハニメデタシとなり○コソといひてキといへるは古格なり。いにしへはゾをもコソをもキと結びき
 
2652 妹が髪|上《アゲ》小〔□で囲む〕竹葉野之《タカバヌノ》はなち駒あらびにけらし不合思者《アハナクモヘバ》
妹之髪上小竹葉野之放駒蕩去家良思不合思者
 第二句を舊訓にアゲササバノノとよみ久老の信濃漫録(二一丁)に
  京師の門人木戸千楯がいひけるは是はアゲタカ葉野とよむべし。……アゲタカヌといふ意にかゝる詞なるべし
といひ古義には小を衍字としてカミタカバヌノとよめり。案ずるに小を衍字としてアゲタカバヌノとよむべし。地名はタカ葉野にて妹ガ髪ヲアゲタカム〔右△〕とかゝれるなり。アゲタクの語例は卷七(一三三三頁)にカカゲタク島波ノ間ユミユとあり。カ(2422)カゲタクはカキアゲタクなり○アラブルは疎くなる事なり(六八〇頁參照)○結句は古義にアハナクモヘバとよめるに從ふべし(舊訓はアハヌオモヘバ)
 
2653 馬音《ウマノト》のとどともすれば松陰にいでてぞ見つる若《ケダシ》君かと
馬音之跡杼登毛爲者松陰爾出曾見鶴若君香跡
 トドは馬蹄の音なり。二註に松に待をそへたりとせるは非なり。待といふべき處にあらざればなり○若を略解にモシモ、古義にケダシとよめり。後者に從ふべし。モシヤといふ事を古語にケダシといひしなり
 
2654 君にこひいねぬ朝明《アサケ》にたがのれる馬の足音《アノト》ぞ吾にきかする
君戀寢不宿朝明誰乘流馬足音吾聞爲
 上(二三二三頁)にも妹ニコヒイネヌ朝明ニとあり。アサケは曉なり○足音を略解にアオトとよめるを雅澄は卷十四に安能於登セズユカムコマモガとあるに據りてアノトとよめり。之に從ふべし。上(二三四〇頁)には馬ノ足音《アト》とよめり○キカスルはゾの結にあらず。吾ニキカスルハタガノレル馬ノ足音ゾと、もとにかへして心得べ(2423)きなり。上(二三八六頁)なるナゴリゾ今モイネガテニスルと同格なり。さてキコユルとのみはいはでワレニキカスルといへるはモトナといふ意を含めたるなり
 
2655 くれなゐのすそひく道を中におきて妾《ワレ》やかよはむきみや來まさむ
    一云すそつく河を、又曰まちにかまたむ
紅之襴引道乎中置而妾哉將通公哉將來座
    一云須蘇衝河乎又曰待香將待
 クレナヰノスソヒクは道の形容にいへるなり
 スソツク河の語例は卷七(一四四五頁)にヒロセ川袖ツクバカリ淺キヲヤとあり。この袖ツク、襴ツクを從來袖ノツク、裾ノツクといふ意としたれど袖ニツク、裾ニツクのニを略せるなり。いにしへは後世ならば省くまじきニをも省きたり。たとへば秋ヅク、山ガタヅク、クレナヰニホフ、雲ガクリなどは秋ニツク、山ニカタヅク、紅ニニホフ、雲ニカクレのニを省けるにて其中にてクレナヰニホフなどは今の歌人もつかふめり。少くとも今の語法にてはニの足らざるに心づかで??
 
(2424)2656 (あまとぶや)かるの社のいはひつきいく世まであらむこもりづまぞも
天飛也輕乃社之齋槻幾世及將有隱嬬其毛
 輕は大和國高市郡にあり。イハヒツキは人の齋く槻の神木なり。上三句は序なり。考に
  其木に譬て隱妻のわが妻となるべき時世の待遠きをいふ
といへり。イク世マデアラムはイツマデサテアラムの意とすべし
 
2657 神名火にひもろぎたてて雖忌《イハフトモ》、人の心はまもり不敢物〔左△〕《アヘジカモ》
神名火爾紐呂寸立而雖忌人心者間守不敢物
 第三句を考にイハヘドモとよめり。又不敢物を舊訓にもとのままにてアヘヌカモとよめるを眞淵は物を疑に改めてアヘヌカモとよみ、雅澄はもとのまゝにてアヘヌモノとよめり○神名火は神の杜なり。考以下に飛鳥の神奈備山とせるは非なり。ヒモロギは記傳卷十五(八六七頁)に
  ヒモロギと云物は榮樹《サカキ》をたてゝそを神の御室として祭るよりして云名にて柴(2425)室木《フシムロギ》の意なるをフシをつづめてヒと云なり。萬葉三にワガヤドニ御諸ヲタテテこれは榮樹を立るを云。又十一に神名火ニヒモロギタテテ又廿にニハナカノアスハノカミニコシバサシこれらも同じ
といへり。假初の神の御座《オマシ》なり。まづ祠と心得べし○略解に
  ヒモロギは……是は常有社の外に更に其神を崇祭る時に爲る事にて……思ふ人の心のかはり行を愁て神をいのれども神だに守り留めあへずといへり
といひ、古義に
  歌意は神南備山の神の御爲に神籬《ヒモロギ》をたてゝねもころにいはひ祭りて約のたがはぬやうにと祷白せどもうつろひやすき人の心は神だに守り留めたまふに得堪たまはぬものをとなり
といへり。まづ神ヲイハヘドモといはでヒモロギタテテイハヘドモ人ノ心ハといへるを思へば人ノ心ヲイハヘドモソノ人ノ心ハといへるなり。いかでか神ヲイハヘドモときゝなさるべき。次に神社より離れたる處ならば神籬を立てゝ神靈を分つ事もあるべけれど神社の所在地に就いて別に神籬をたてゝ其神を祭るべきな(2426)らむや。案ずるに雖忌はイハフトモとよむべく不敢物は不敢疑の誤としてアヘジカモとよむべし。一首の意は
  神聖ナル杜ニ祠ヲ立テテ男ノ心ヲイハヒ込ムトモソノ男ノ心ハヨソニハブレヌヤウニ守リ敢ヘザラムカ嗚呼
といへるなり
 
2658 あま雲の八重雲がくりなる神の音にのみやもききわたりなむ
天雲之八重雲隱鳴神之音爾耳八方聞度南
 上三句は序なり。ヤモのモは助辭なり。ヤハの意のヤモにあらず○語例は卷八(一六六八頁)にオトノミニキキシ吾妹ヲミラクシヨシモとあり
 
2659 あらそへば神もにくますよしゑやしよそふる君がにくからなくに
爭者神毛惡爲縱咲八師世副流君之惡有莫君爾
 ニクマスは惡ミ給フなり。ヨシヱヤシの下に爭ハジといふことを省きたるなり○ヨソフル君とは世ノ人ガ我ニヨソフル君となり。そのヨソフルは二人の間に心か(2427)よへりといひなすなり○第四句より起りて
  世ノ人ガ我ニイヒヨソフル君ガ内實ニククハアラヌヲ詐リテ否サル事アラズトアラガハバ神モ惡ミ給ハム、ヨシサラバアラガハジと心得べし。初二はもし字數に制限なくばアラソハバ神モニクマサムといふべきを今の如く云へるなり
 
2660 夜ならべて君を來ませと(ちはやぶる)神の社をのまぬ日はなし
夜並而君乎來座跡千石破神社乎不祈日者無
 夜ナラベテは夜ヲ重ネテなり。卷八(一四八九頁)以下に見えたる日ナラベテの類なり○君ヲのヲはヨの意とすべし○古義に『神ノ社ヲは神ノ社ニといはむが如し』といへるはいと妄なり。ノムはただ神ヲノムとも云々ノ事ヲ神ニノムともいふをここは前のいひ樣に據れるのみ
 
2661 (たまちはふ)神も吾をばうつてこそしゑやいのちのをしけくもなし
靈治波布神毛吾者打棄乞四惠也壽之※[立心偏+(メ/広)]無
(2428) ウツテコソは打棄テヨカシとなり。卷五老身重病云々の歌(九八五頁)にもサワグ兒ドモヲ宇都弖弖波シニモシラズとあり〇四五はカク戀人に逢ハズアレバ命ノ惜キ事モナシとなり
 
2662 吾妹兒に又もあはむと(ちはやぶる)神の社をのまぬ日はなし
吾妹兒又毛相等千羽八振神社乎不祷日者無
 第三句以下上なる歌におなじ
 
2663 (ちはやぶる)神のいがきもこえぬべし今は吾名〔左△〕《ワガナ》のをしけくもなし
千葉破神之伊垣毛可越令〔左△〕者吾名之惜無
 二三はモシ戀人ニ逢フベクバカシコキ神ノ忌垣ヲモ越エヌベシと辭を加へて心得べし。吾名は吾身の誤ならむ○卷七に
  ゆふかけていむこのもりもこえぬべくおもほゆるかも戀のしげきに
とあり
 
2664 ゆふづくよあかときやみの朝影に吾身はなりぬ汝乎念金丹〔左△〕《ナヲオモヒカネテ》
(2429)暮月夜曉闇夜乃朝影爾吾身者成奴汝乎念金丹
 初二は朝にかゝれる序、アサカゲニ吾身ハナリヌははやく上(二四〇〇頁)に見えたり○結句を眞淵はナヲモヒカネニとよみ、宣長は丹を衍字としてナヲオモヒカネとよみ、雅澄は丹を手の誤としてナヲモヒカネテとよめり。後者に從ふべし。オモヒカネテは思フニ堪兼ネテとなり
 
2665 月しあればあくらむ別もしらずしてねてわがこしを人みけむかも
月之有者明覧別裳不知而寐吾來乎人見兼鴨
 月ガアルノデ夜ノ明ケシモ辨ヘズ更ニ寢テ我還來シヲとなり。ワキシラズの語例は上(二三五五頁)にあり
 
2666 妹が目の見まくほしけく夕闇の木葉隱有《コノハガクレル》、月|待如《マツゴトシ》
妹目之見卷欲家口夕闇之木葉隱有月待如
 初二は妹ニ逢ヒタキ事ハとなり○第四句を略解にはコノハゴモレルとよめり。木ノ葉ニカクリタルといふべきを略したるなれば古義の如くコノハガクレルとよ(2430)むべし○又結句を略解に月マツガゴトとよみたれど、こゝはゴトクといふべき處にあらねばゴトとはいふべからす。これも古義に從ひて月マツゴトシとよむべし
 
2667 眞袖|持《モチ》、床《トコ》うちはらひ君まつとをりしあひだに月かたぶきぬ
眞袖持床打拂君待跡居之間爾月傾
 眞袖は兩袖なり。玉勝間卷十四(全集第四の三三〇頁)に
  萬葉二に居アカシテ君ヲバ待タム……十一に眞袖モチ……十八に乎里安加之コヨヒハノマム……廿に家オモフトイヲネズ乎禮婆……猶あり。大かた此たぐひのヲリはただ一わたり輕くつねにいふとはかはりて夜寢ずに起て居る意也。輕く見べからず
といへり(一三五頁參照)
 
2668 二上にかくろふ月のをしけども妹がたもとをかるるこのごろ
二上爾隱經月之雖惜妹之田本乎加流類比來
 二上山は大和河内の界にあり。近くは卷十(二一三四頁)に見えたり。初二は序なり○(2431)妹ガタモトヲカルルは妹ガ袖ヨリ離ルルにてやがて妹ヨリ離レ居ルとなり
 
2669 吾背子がふりさけ見つつなげくらむ清き月夜に雲なたなびき
吾背子之振放見乍將嘆清月夜爾雲莫田名引
 卷七に
  妹があたり吾袖ふらむ木間〔日が月〕よりいでくる月に雲なたなびき
 又上(二三〇二頁)に
  遠づまのふりさけ見つつしぬぶらむこの月の面に雲なたなびき
とあり
 
2670 (まそかがみ)清き月夜のゆつりなば念は不止《ヤマズ》、戀こそまさめ
眞素鏡清月夜之湯徙去者念者不止戀社益
 不止を二註にヤマジとよめるはわろし。ヤマズとよみてヤマズテの意とすべし○ユツリナバは傾カバとなり(七二四頁參照)
 
2671 この夜らのありあけづくよありつつもきみをおきてはまつ人もなし
(2432)今夜之在開月夜在乍文公乎置者待人無
 初二は序なり。アリツツモはカクシツツなり○前註はいづれも緊要なる事を脱せり。即アリツツモの下に君ヲバ待タムといふことを略せるなることを明にせざるべからず。上なる
  爭へば神もにくますよしゑやし(爭ハジ)よそふる君がにくからなくに
 又六帖なる
  あしのやのこやのしのやのしのびにも(逢ハムカ)いないなまろは人の妻なり
など古歌には此格少からず
 
2672 此山の嶺にちかしとわが見つる月の空なる戀もするかも
此山之嶺爾近跡吾見鶴月之空有戀毛爲鴨
 月ノまでは序なり。月は嶺を離れぬと見る間もなく空高くなるものなればかくは云へるなり。月ノの下にハヤといふ語を加へて聞くべし。古義は誤解せり○さて主文の方にては空ナルは夢中ナルとなり
 
(2433)2673 (ぬばたまの)夜わたる月のゆつりなば更にや妹にわがこひをらむ
烏玉乃夜渡月之湯移去者更哉妹爾吾戀將居
 略解に『マソカガミ云々の歌とおなじ意也』といへるは非なり。彼は女の歌、此は男の歌なり。故ありて女の許に行くを得ざる夜によめるなり。古義に『月のある限はなぐさむる方もあるをその月の傾きなば云々』といへる如き意とおぼゆれど少くとも單獨にてはさる意とまではきゝなしがたし。おそらくは上なるマソカガミといふ歌の答ならむ
 
2674 朽網《クタミ》山ゆふゐる雲の薄〔左△〕往者《タチユカバ》われはこひむなきみが目をほり
朽網山夕居雲薄往者余者將戀名公之目乎欲
 クタミ山は豐後國|直入《ナホリ》郡なる久住《クヂユウ》山一名九重山の古名なりといふ。クタミがクサミとなり(豐後國風土記に據ればクサミがクタミとなりしなりと云ふ)クサミがクスミとなりクスミがクヂユウとなりしにや。豐前國|企救《キク》郡にも朽網といふ地あり。渡邊重春の豐前志卷三にはこの朽網山を其地とし豐後國風土記に豐後國直入郡(2434)とせるを誤とせり。こは一説として擧げおくのみ○第三句を舊訓にウスラガバとよみ、眞淵は薄を轉の誤としてユツリナバとよみ、雅澄は發の誤としてタチテイナバとよめり。字はいかにもあれヰルのうらなればタツならざるべからず。さればタチユカバとよむべし。さて序よりのかゝりにては雲ノ朝タチユクにて主文にては君ガタチユカバなり
2675 (君が服《キル・ケス》)三笠の山にゐる雲の立者繼流《タテバツガルル》、戀爲鴨《コヒヲスルカモ》
君之服三笠之山爾居雲乃立者繼流戀爲鴨
 服を舊訓以下にキルとよめるを雅澄はケルに改めたり。キタルといふべき處にあらねば舊訓に從ふか又はケスとよむべし(ケルはキタルの古格なり)○第四句を舊訓にタテバツガルルとよめるを略解にタチテハツゲルと改めたるは却りてわろし。タテバまでが序なり。雲ノ立テバ後ヨリ續グガ如クといへるなり。卷三(四六一頁)なる
  たかくらの三笠の山になく鳥のやめばつがるる戀もするかも
と辭は似たれど格は異なり。彼歌にてはヤメバは主文に屬せり○結句はコヒヲス(2435)ルカモとよむべし(二註にはコヒモとよめり)
 
2676 (久堅の)あまとぶ雲に在〔左△〕《ナ》りてしが君にあひみむおつる日なしに
久堅之天飛雲爾在而然君相見落日莫死
 古義に
  飛といへること何とやらむ雲に似つかはしからぬやうなり。若は天飛雁と、もとはありけむをはやくより誤りとなへて此|次《ナミ》にいれたるにはあらざるか
といへり。もとのまゝにて可なり○卷六(一〇五二頁)なる鵜ニシモアレヤ家モハザラムと相似たる所あり○略解古義に在を成の誤とせり
 
2677 佐保の内ゆ下風之吹《アラシシフケ》禮〔□で囲む〕者《バ》還者〔二字左△〕《ヒトリネテ》△△《セムスベ》しらになげく夜ぞおほき
佐保乃内從下風之吹禮波還者胡粉歎夜衣大寸
 内ユは内ニなり。第二句を考に禮を衍字としてアラシノフケバとよみ、古義には之の字を除きてアラシフケレバとよめり。フケレバとは云はれざれば禮を衍字としてアラシシフケバとよむべし○還者を舊訓にカヘルサハとよみ、宣長は『必誤字な(2436)らん』といひ、雅澄は立還の誤とせり。宜しく獨宿の誤としてヒトリネテとよむべし○シラニの上に四言おちたる事明なり。契沖はサムサヲシラニとよみ眞淵は一本に爲便の二字ありといひてセムスベシラニとよめり。眞淵に從ふべし
 
2678 はしきやしふかぬ風ゆゑ(玉くしげ)△開而《トアケテ》さねし吾ぞくやしき
級子〔左△〕八師不吹風故玉匣開而左宿之吾其悔寸
 ハシキヤシは風にかゝれり。風は戀人をたとへたるなり○開而を二註にヒラキテとよみたれど戸といふことなくてはかなはず。おそらくは戸開而とありし戸をおとせるならむ。さらばトアケテとよむべし○子は支を誤れるならむ
 
2679 窓ごしに月おしてりてあしひきのあらしふく夜はきみをしぞ念《モ》ふ
窓超爾月臨照而足檜乃下風吹夜者公乎之其念
 オシを二註にオシナベべテの意としたれどオシナベテのオシは輕く添へるに過ぎざればこゝのオシはなほ壓シの意とすべし○代匠記に
  アシヒキノ山と云はずして下風《アラシ》とつづけたるは足引すなはち山の意なり。集中(2437)例多し
といへり。はやく卷三(五〇二頁)に足日木ノイハ根コゴシミ、卷八(一五三八頁)に足引ノコノ間タチグクホトトギスとあり
 
2680 (河千鳥)住〔左△〕澤《ナキサハ》の上にたつ霧のいちじろけむなあひいひそめてば
河千鳥住澤上爾立霧之市白兼名相言始而者
 上三句は序なり。住澤を契沖はスミサハとよみ其他はスムサハとよめり。案ずるに住といはむは穩ならず。住は泣の誤にてナキサハとよむべきならむ。泣澤は香山附近の地名にてはやく卷二(二八五頁)に見えたり○イチジロケムナは世ニアラハレムとなり。テバ はタラバなり
 
2681 吾背子が使をまつと笠も著ずいでつつぞ見し雨のふらくに
吾背子之使乎待跡笠毛不著出乍其見之雨落久爾
 卷十二に重出せり。フラクニはフルニの延言なり
 
2682 辛〔左△〕衣《ニヒゴロモ》君にうちきせ見まくほりこひぞくらしし雨のふる日を
(2438)辛衣君爾内著欲見戀其晩師之雨零日乎
 初句を從來カラゴロモとよめり。さて考に『文《アヤ》あるきぬを云』といひ二註は之に從へり。一首の意は考に
  よき衣をぬひて著せて見んとて待くらせ〔右△〕しに雨ふりて男の來ぬなるべし。女の情見えて哀なる歌なり
といへり。辛衣はおそらくは新衣の誤ならむ
 
2683 をちかたのはにふの少屋《ヲヤ》にこさめふり床《トコ》さへぬれぬ身にそへ我妹
彼方之赤土少屋爾※[雨/脉]霖〔左△〕零床共所沾於身副我妹
 ヲチカタはアナタなり。但こゝにては里離レタルといふばかりの意なり○ハニフノ少屋を契沖は『はに土にて塗たる小屋なり』といひ眞淵以下は『ただに土の上にわら筵などとり敷て住ふ片山里などのまづしき庵をいふ也』といへり。案ずるにこは埴生ニアル小屋即埴取場ノ小屋にて人の住む家にあらず。さて此次に女ヲ率テ寢タルニといふことを補ひて聞くべし○床は敷物なり。藁又は筵を敷きたるなり。身ニソヘは我ニ寄副へとなり○霖は※[雨/沐]の誤なり
 
(2439)2684 笠無登《カサナミト》、人にはいひてあまづつみとまりし君がすがたしおもほゆ
笠無登人爾者言手雨乍見留之君我容儀志所念
 初句を舊訓以下にカサナシトとよめるを古義にカサナミトとよみ改めたる、いとよろし。俗語にていはば笠ガ無イカラトとなり○アマヅツミはアマゴモリなり。はやく卷四(六四九頁)に出でたり。オモホユはシノバルなり
 
2685 妹が門ゆきすぎかねつ(久方の)雨もふらぬかそをよしにせむ
妹門去過不勝都久方乃雨毛零奴可其乎因將爲
 ヨシニセムは立寄ル口實ニセムとなり
 
2686 夜占《ユフケ》とふ吾袖におくしら露をきみにみせむととればけにつつ
夜占問吾袖爾置白露乎於公令視跡取者消菅〔左△〕
 シラツユヲの下にトリ置キテといふことを加へて心得べし。略解に『夕占とふとて道に立あかし〔三字傍点〕たる袖に』といひ古義に『夜すがら〔四字傍点〕ゆふけを問とて』といへるは非なり。ただ久シクタタズメル袖ニといへるなり○卷十に
(2440)  うめの花ふりおほふ雪をつつみもち君にみせむととればけにつつ
とあり
 
2687 櫻麻《サクラヲ》の苧原《ヲフ》の下草露しあればあかしてい去《ユケ》母は知るとも
櫻麻乃苧原之下草露有者令明而射去母者雖知
 櫻麻を契沖は舊訓に從ひてサクラアサとよみて
  立たるさま葉のさまの櫻にやゝ似たれば云なるべし
といひ眞淵はサクラヲとよみてサクラを地名としサクラヲノを枕辭とせり。又枝直はカニバヲとよまむかといひ、雅澄は舊訓の如くサクラアサとよみて
  櫻のさくころ蒔くものなる故にいふといへり
といへり。おそらくは一種の麻の名ならむ。訓はサクラヲとあるべし。ヲとよめばこそヲフのヲとの重複を嫌はざるなれ。さてサクラヲノヲフは櫻麻《サクラヲ》ノ畠といふことなり。新古今集雜上にサクラアサノヲフノ浦浪タチカヘリとあるは此歌に據りてサクラアサノをヲフノ浦の枕辭につかへるなり。混同すべからず○アカシテイマセは夜ヲ明シテ歸リマセとなり。記傳卷三十九(全集二三〇七頁)に道ヲ明ケテの意(2441)として
  こは露の干むを待ちてゆけと云るなり。衣ぬらす露の無くなるは道の明くなり。結句に母ハ知ルトモと云ればこは殊に夜ヲ明シテと聞ゆめれど然らず。夜は明ても朝のほどは露は干るものにあらず
といへるは從はれず○張平子の南都賦に客ハ醉ヒテ言《ココ》ニ歸ラムト賦スレバ主ハ露未|晞《カワ》カズト稱シ歡宴ヲ日夜ニ接シト樂ノ令儀ヲ終フとあるも主ガ夜ヲ明シテ歸リマセトイフと云へるなり
 
2688 まちかねて内へは入らじしろたへのわがころもでに露はおきぬとも
待不得而内者不入白細布之吾袖爾露者置奴鞆
 古今集戀四に
  君來ずば閨へも入らじこむらさきわがもとゆひに霜はおくとも
とあると相似たり
 
2689 (朝露の)けやすき吾身おいぬとも又|若反《ヲチカヘリ》、君をし待たむ
(2442)朝露之消安吾身雖老又若反君乎思將待
 若反を舊訓以下にワカガヘリとよめるを古義に若の上に變の字を補ひてヲチカヘリとよめり。もとのまゝにてヲチカヘリとよむべし。ヲチ又ヲチカヘリの事は卷三(四三六頁)及卷六(一一五五頁)にいへり。卷五(九一一頁及九一二頁)にもヲチとよめる歌あり
 
2690 しろたへのわがころもでに露は置△《オケド》妹にはあはずたゆたひにして
白細布乃吾袖爾露者置妹者相猶預四手
 置を略解にオキヌとよみ古義に其下に跡を補ひてオケドとよめり。後者に從ふべし○結句はサレドナホ還ラウカ留マラウカトタユタヒテヲルといふ意ならむ。ニシテの下に辭を略せるなり。ニシテより上に返るにあらず
 
2691 かにかくに物はおもはじ朝露の吾身ひとつは君がまにまに
云云物者不念朝露之吾身一者君之隨意
 アサツユノは朝露ノ如クハカナキとなり。上(二四一九頁)にも
(2443)  かにかくに物は念はじ斐太人のうつすみなはのただ一道に
 とあり。初二は二心ハモタジとなり
 
2692 夕ごりの霜おきにけり朝戸出に甚踐而《イタクモフミテ》、人にしらゆな
夕凝霜置來朝戸出爾甚踐而人爾所知名
 ユフゴリノは夕方ニ凍リシとなり。甚踐而を舊訓にアトフミツケテとよめり。之に據りて古義には跡踐附而の誤字とせり宣長は甚を其上の誤としてソノウヘフミテとよみたれど霜のおきわたせるに霜の上を踐までいづくを踐みてか行くベき。案ずるにもとのまゝにてイタクモフミテとよむべし
 
2693 かくばかりこひつつあらずば朝に日に妹がふむらむ地ならましを
如是許戀乍不有者朝爾日爾妹之將履地爾有申尾
 アサニ日ニは毎日なり
 
2694 (あしひきの)山鳥(ノ)尾〔左△〕乃《ヲノ》一〔□で囲む〕|峯越《ミネゴシニ》、一目見し兒にこふべきものか
足日木之山鳥尾乃一峯越一目見之兒爾應戀鬼香
(2444) 二三を從來ヤマドリノヲノヒトヲコエとよめり。さて眞淵は
  是は尾は用なけれど言をひびき重んために常いふ言なればいへるもの也
といひ又
  山の彼方の里などにて一目みしばかりの妹にかくしも戀べきものかはと自いぶかるなり
といへり。二註は眞淵の説に同ぜり。案ずるに山鳥尾乃の尾は雄の誤字なるべく一峯越の一は衍字ならむ。されば第三句はミネゴシニとよむべし。上三句は山鳥ノ雄ガ峯ゴシニ雌ヲ一目見ル如ク一目見シ兒ニとかゝれる序なり。山鳥の妻どひの事は卷八なる家持贈2坂上大孃1歌に足ヒキノ山鳥コソハ、峯《ヲ》ムカヒニツマドヒストイヘとある處(一六三八頁)にいへり
 
2695 吾妹子にあふよしをなみ駿河なるふじの高嶺のもえつつかあらむ
吾妹子爾相縁乎無駿河有不盡乃高嶺之燒管香將有
 三四は序なり。モエツツは心燃エツツなり
 
2696 荒熊のすむちふ山の一師〔□で囲む〕|齒迫《ハセメ》山せめて問ふとも汝が名はのらじ
(2445)荒熊之住云山之師齒迫山責而雖問汝名者不告
 從來師齒迫山をシハセ山とよめり。さて略解に
  シハセ山いづこにかしらず。宣長云。これはシハセといふをしばしば責る意にとりてシバシバ責メテ問フトモの意なるべしとい へり。さも有べし
といへり。案ずるに師は衍字、齒迫山はハセメ山にて長谷部山ならむ。長谷部といふ處は諸國にあり。さらばセメテをよび出さむ爲の序なり○上(二二六八頁)に母ハトフトモソノ名ハノラジとあり
 
2697 妹が名もわが名も立者《タタバ》をしみこそふじのたかねのもえつつわたれ
妹之名毛吾名毛立者惜社布仕能高嶺之燒乍渡
    或△歌曰君が名もわが名も立者《タタバ》をしみこそふじのたかねのもえつつもをれ
    或歌曰君名毛妾名毛立者惜己曾不盡乃高山之燒乍毛居
 フジノタカネノはモエにかゝれる序なり○立者は舊訓に從ひてタタバとよむべ(2446)し。さてタタバといはばヲシカルベミといふべきをヲシミといへるは當時通用の語法なり。古義に
  立者はタテバと訓べし。タタバとよめるはいみじき非なり。もし然よまば尾句をモエツツワタラメといはでは首尾ととのはざるをや
といへるは中々にいみじきひが言なり。立者はヲシミと首尾を成せるなり。モエツツワタレは立者の尾にあらず
 左註の或歌は或本歌の脱字なり
 
2698 ゆきて見てくればこひしき朝香方、山ごしにおきていねがてぬかも
往而見而來戀敷朝香方山越置代宿不勝鴨
 二註に初二を朝にかゝれる序とし、又古義に
  うるはしくおぼゆる人を朝香がたにおきて別來つるに山ごしにさへあればたやすくあふべきことも叶はねば云々
と釋ける共にうべなはれず。第三句はワギモコヲなどあるべき處なり。なほ考ふべし○クレバコヒシキは歸レバヤガテ戀シキとなり○此歌は旅にいでてよめるな(2447)り。第四句の語例は卷四(六二四頁)にテル月ノアカザル君ヲ山ゴシニオキテとあり
 
2699 安太《アダ》人のやなうちわたす瀬速《セノハヤキ》こころはもへどただにあはぬかも
安太人乃八名打度瀬速意者雖念直不相鴨
 古事記神武天皇の段に
  吉野河ノ河尻ニ到リマシキ。時ニ筌《ヤナ》ヲウチテ魚ヲ取ル人アリキ。ココニ天神ノ御子、汝ハ誰ゾト問ハシケレバ僕ハ國(ツ)神、名ハ贄持《ニエモツ》之子トマヲシキ
とありて註に此者阿陀〔二字傍点〕之鵜養《ウガヒ》之祖《オヤ》とあり○第三句を從來セヲハヤミとよめり。宜しくセノハヤキとよみて瀬ノまでを序とすべし。ハヤキココロハモヘドはハヤル心ヲバ持テドとなり。下にもトホキ心ハオモホエヌカモとあり。又卷十六にもアサキ心ハワガモハナクニとあり
 
2700 (玉蜻《タマカギル》)いは垣淵の隱庭《コモリニハ》、伏〔左△〕以死△《コヒテシヌトモ》なが名はのらじ
玉蜻石垣淵之隱庭伏以死汝名羽不謂
 初二は序なり。イハガキは磐のそびえて垣の如くなるなり。古語に垣を主としては(2448)イハガキといひ磐を主としてはカキハといへり(六三頁參照)〇三四を舊訓にカクレニハフシテシヌトモとよめり。さて千蔭は『伏以死の以は義訓にてテの詞にあてて書るか』といひ、雅澄は下に
  隱庭戀而死鞆みそのふのからゐの花の色にいでめやも
とあるに據りて戀雖死の誤としてシヌビニハコヒテシヌトモとよめり。案ずるにおなじく下にオトニハタテジ戀而雖死ともあれば第四句の訓は古義の説に從ふべし。但字は戀死鞆の誤脱とすべし。以はテに當てたるなり○上三句の語例は卷二(二九二頁)に玉カギル磐垣淵ノ隱《コモリ》ノミコヒツツアルニ、上(二三三八頁)に玉カギルイハ垣淵ノ隱而在※[女+麗]《コモリタルツマ》、下にもイハガキヌマノミゴモリニコヒヤワタラム又イハ淵ノ隱而《コモリテ》ノミヤワガコヒヲラムとあり。隱庭はコモリニハとよむべし。意はシヌビニハといはむにひとしくて竊ニとなり。ハには意なし
 
2701 明日香川あすも渡らむ(いはばしの)遠き心はおもほえぬかも
明日香川明日文將渡石走遠心者不思鴨
 初二はわざと音を重ねたるなり。さて其意は明日モ亦明日香川ヲ渡リテ妹ガリ行(2449)カムとなり○イハバシは河中の飛石なり。今は明日香川の岩ばしを枕につかへるなり。さて卷四(七〇六頁)にイハバシノ間〔日が月〕近キ君ニコヒワタルカモとありて間近キの枕につかひたるにこゝには遠キ心ハにつづきたるが異樣なれば契沖以下いとむつかしく釋き成せり。案ずるに岩橋には間〔日が月〕近きも間遠きもあるべければいかで遠キの枕辭とすべからざらむ。卷四なるは間ヂカキの枕につかひ今はトホキの枕につかへるのみ〇四五を直譯すれば悠長ナ心ハ持タレヌカナといへるにてそのトホキ心は卷七(一四七一頁)なるナガキ心モオモホエヌカモのナガキ心とおなじくて上なるハヤキ心とはうらうへなり
2702 あすか川水往増いや日けに戀のまさらば在勝申目〔左△〕《アリガツマシジ》
飛鳥川水往増彌日異戀乃増者在勝申目
 第二句を從來ミヅユキマサリとよめり。水如増の誤としてミヅマサルゴトとよむべきか○イヤ日ケニは日ヲ追ヒテなり。結句を契沖以下皆アリガテマシモとよめり。宜しく橋本進吉氏の説に從ひて目を自の誤としてアリガツマシジとよみて在|堪《ア》フマジの意とすべし(三三六頁參照)
 
(2450)2703 まこもかる大野川原のみごもりにこひこし妹が紐とく吾は
眞薦刈大野川原之水隱戀來之妹之紐解吾者
 初二は序なり。さてただコモリニといひて可なるをミゴモリニといへるは序に引かれたるにて上(二三一九頁)なる
  ちぬの海のはまべの小松根ふかめでわがこひわたる人の子ゆゑに
 又(二四〇二頁)
  くれなゐのこぞめのころも色ふかくそみにしかばか忘れかねつる
と同格なり。コモリニはシノビニなり
 
2704 (あしひきの)山下とよみゆく水の時ともなくもこひわたるかも
惡氷木之山下動逝水之時友無雲戀度鴨
 上三句は序なり。時トモナクは始終なり。ナクモのモは助辭なり。時ゾトモナクとも云へり。下に
  春日野の淺茅が原におくれゐて時ぞともなしわがこふらくは
(2451)とあり
 
2705 はしきやしあはぬ君ゆゑいたづらに此川の瀬に玉裳ぬらしつ
愛八師不相君故徒爾此川瀬爾王裳沾津
 ハシキヤシは君にかゝれる准枕辭なり○上(二二八三頁)にも
  はしきやしあはぬ子故にいたづらに是《ウヂ》川のせにもすそぬらしつ
とあり。彼歌の趣にては男の歌、此歌の趣にては女の歌なり。考にいへる如く男の歌ならむ方ふさはしければ此は彼を傳へ誤れるにこそ
 
2706 はつせ川|速見早湍《ハヤミハヤセ》をむすびあげてあかずや妹ととひしきみはも
泊湍川速見早湍乎結上而不飽八妹登問師公羽裳
 ハヤミハヤセは契沖が『早き早瀬なり』といへる如し。赤キ鳥をアカミトリ、クシキ玉をクシミタマ、ハヤキ濱風をハヤミハマ風といへると同例なり(八八三頁參照)。但速は淨などの誤にてもあらむか○作者と男と共に泊瀬川に遊びし事あるなり。其時男が早瀬の水を掬び上げて飲みもし飲ませもすとて此水ノ如ク我ニ飽カズヤイ(2452)カニと問ひし事ありしが後に其男の通はずなりしかばトヒシ君ハモといへるなり。考に『暑き頃など掬て呑水の飽こと無を譬て云々』といひ古義に上三句を序としたる、共に非なり
 
2707 青山のいは垣ぬまのみごもりにこひやわたらむあふよしをなみ
青山之石垣沼問〔左△〕乃水隱爾戀哉度相縁乎無
 初二は序なり。ただコモリニといふべきをミを添へたるは序に引かれたるなり。上(二四五〇頁)にも大野川原ノミゴモリニとあり○問は聞の誤なり
 
2708 (しながどり)ゐな山とよみゆく水の名耳所縁〔左△〕之《ナニナガサエシ》こもり妻はも
   一云|名耳《ナニ》之〔□で囲む〕所縁〔左△〕而《ナガサエテ》こひつつやあらむ
四長鳥居名山響爾行水乃名耳所縁之内妻波母
    一云名耳之所縁而戀管哉將在
 上三句は序なり。第四句を舊訓にナニノミヨセシとよみ古義にナノミヨセテシとよめり。さては序のかゝるべき由なし。宜しく縁を流の誤として名ニナガサエシと(2453)よむべし。ナガサエシは傳ヘラレシなり。語例は卷二(三二六頁)に妹ガ名ハ千代ニナガレムとあり。これも千代ニ傳ハラムとなり。さて上三句は名ニを隔てゝナガサエシにかゝれるなり○コモリヅマはシノビ妻なり。考以下に『父母の守こめて逢がたき妹をいふ』といへるは第四句を釋き煩ひし結果のみ。集中にコモリ妻といへるは皆シノビ妻なるをこゝのみ釋を異にすべけむや○爾は彌の誤なり
 一本の方は之を衍字として名ニナガサエテとよむべし
 
2709 吾味子にわがこふらくは水ならばしがらみこえてゆくべくぞもふ
    或本歌△句云あひもはぬ人をおもはく
吾妹子吾戀樂者水有者之賀良三超而應逝衣思
    或本歌句云相不思人乎念久
 諸本に左註の句の字の上に發の字あり○コフラクハは戀フルヤウハ、オモハクは思フヤウハとなり○考に
  或本歌云……これは右の歌によしなし。此二句の下は失て別事なりけん
(2454)といひ二註は之に雷同したれど
  あひもはぬ人をおもはく水ならばしがらみこえてゆくべくぞもふ
とつづけてもふさはぬ所なきにあらずや
 
2710 いぬがみのとこの山なるいさや河いさとを寸許須〔左△〕《キコセ》わが名のらすな
狗上之鳥籠山爾有不知也河不知二五寸許須余名告奈
 上三句は序なり。略解に第四句の須を一本によりて瀬に改めてキコセとよめり。之に從ふべし。キコセは聞カセヨにて(キカスをキコスといふは知ラスをシロスといふと同例なり)やがて云ヒタマヘといふにひとし〇四五の意はモシカク相逢フ事ヲ問フ人アリトモ覺ナシト云ヒタマヘ、決シテ我名ヲ人ニ告ゲタマフナといへるなり。略解にイサをイザ知ラズの略とせるは非なり。イサに知ラズといふ意あるなり。そのサは清みて唱ふべし。イサトヲのヲは助辭なり○古今集墨滅歌にイサト答ヘヨ我名モラスナとあるは改めたるなり
 
2711 奥山の木葉がくりてゆく水の音聞從《オトキキシヨリ》、常わすらえず
(2455)奥山之木葉隱而行水乃音聞從常不所忘
 上三句は序、コノハガクリテは木葉ニ隱リテのニを略せるなり○第四句を舊訓にオトキキシヨリとよめるを二註にオトニキキシ【ユヨ】と改めたり。卷二(三一〇頁)なる吉備津釆女死時歌にアヅサユミ音聞吾母《オトキクワレモ》オホニミシコトクヤシキヲとありてオトキクともいへば舊訓のまゝにてもあるべし。オトキク又オトニキクは噂に聞くといふ事なり。結句は常ニ忘ラレズとなり
 
2712 言とくば中はよど益《マセ》(水無《ミナシ》河)たゆちふ事|乎〔左△〕《ノ》ありこすなゆめ
言急者中波余騰益水無河絶跡云事乎有超名湯目
 益は宣長に從ひてマセとよむべし。水無河はミナシガハとよむべし(二〇三二頁參照)○宣長いへらく
  コトトキは人言のはなはだしきをいふ。歌の意は人言はなはだしくば中ごろはよどみて通ひ給ふな、されどつひに絶給ふ事はなかれと也
といへり。中は一時なり○事乎は事之の誤ならむ。上(二二五六頁)にもケフノ日ノ〔右△〕千歳ノゴトクアリコセヌカモとあり
 
(2456)2713 あすか河ゆくせをはやみ將速△登《ハヤミムト》まつらむ妹を此日|晩津〔左△〕《クレヌカ》
明日香河逝湍乎早見將速登待良武妹乎此日晩津
 初二は序なり。眞淵は舊訓に第三句をハヤミムトとよめるに基づきて見の字を補へり○妹ヲは妹ナルニなり。結句を從來字のままにてコノヒクラシツとよめり。さて略解に
  障有てとく行ずして其日をくらせ〔右△〕し也
と釋き古義にも
  來らば速く相見むと女の待らむものを障ることありてとく得行ずしてむなしく此日を暮しつとなり
と釋けり。案ずるに女の許には夜こそ行くべければ日暮れぬとて嘆くべきにあらず。されば晩津は晩糠《クレヌカ》の誤とすべし
 
2714 (もののふのやそ)うぢ河の急瀬〔二字左△〕《セヲハヤミ》たちえぬ戀も吾はするかも
    一云たちても君はわすれかねつも
(2457)物部乃八十氏川之急瀬立不得戀毛吾爲鴨
    一云立而毛君者忘金津藻
 弟三句を從來ハヤキセニとよめり。宜しく瀬急の誤としてセヲハヤミとよむべし(一本の方にてこそハヤキセニといふべけれ)○タチエヌは苦シクテ立ッテハ居ラレヌ程ノとなり。古義に
  タチエヌはアリエヌといふに似てたつにもをるにも得あられぬと云ほどの意なり
といへるは非なり
 
2715 神名火《カムナビヲ》、打廻前〔左△〕乃《ウチタムカハノ》いはぶちのこもりてのみやわがこひをらむ
神名火打回前乃石淵隱而耳八吾戀居
 上三句は序なり。初二を略解にカミナビノウチワノクマノとよみ、宣長は打を折の誤としてヲリタムクマノとよめり。宜しく前を河の誤としてカムナビヲ〔右△〕ウチタムカハノとよむべし。カムナビは飛鳥の神奈備山なり。ウチタムは打廻ルなり。川は飛(2458)鳥川なり。卷八(一五八七頁)にアスカ川ユキタム岳《ヲカ》ノとあるは明日香川ガユキメグル岡ノといへるにて今と主賓の位置の換れるのみ
 
2716 高山ゆいでくる水のいはにふりわれてぞおもふ妹にあはぬ夕《ヨ》は
自高山出來水石觸破衣念妹不相夕者
 上三句は序なり。ワレテを略解に『思ひくだくる也』と釋き古義に心モ千々ニワレクダケテと釋せり。ワレテはアナガチニといふ意なり。破裂シテといふ意にあらず
 
2717 朝東風にゐでこす浪の世蝶〔二字左△〕倣裳《ハツカニモ》あはぬ鬼故瀧|毛〔左△〕《ノ》とどろに
朝東風爾井提越浪之世蝶似裳不相鬼故瀧毛響動二
 初二は序なり。第三句を眞淵は世越《セゴシ》ニモ又は世染《ヨソメ》ニモの誤とし、宣長は且蛾津《カツガツ》モの誤とし、雅澄は左也蚊ニモの誤とせり。齒束《ハツカ》ニモの誤ならむ○鬼故を舊訓にモノユヱとよめるを宣長は兒故の誤としてコユヱニとよめり。もとのまゝにてよく通ずるにあらずや○結句の毛は之の誤なる事明なり。瀧ノ如クトドロニ人ノ云騒グ事ヨとなり
 
(2459)2718 高山のいはもとたぎちゆく水の音にはたてじこひてしぬとも
高山之石本瀧千逝水之音爾者不立戀而雖死
 上三句は序なり。岩本ヲ沸《タギ》チユク水ノ如クとなり○オトニハタテジは人ニ語リテ世ノ噂ニハ立テジとなり。古義ニ音ニタテテ名ニハアラハサジと譯せるはたどたどし○古今集戀一なる
  よし野川岩きりとほしゆく水の音にはたてじこひはしぬとも
は此歌に基づけるならむ
 
2719 (こもりぬの)したに戀者《コフレバ》あきたらず人に語りついむべきものを
隱沼乃下爾戀者飽不足人爾語都可忌物乎
 シタニは心ニなり。戀者を舊訓にコフレバとよめるを二註にコフルハに改めたるはわろし。アキタラズは後世のアキタラデなり○上(二二九一頁)にも
  こもちぬのしたゆこふればすべをなみ妹が名のりつゆゆしきものを
とあり
 
(2460)2720 (みづとりの)鴨のすむ池の下樋なみいぶせき君をけふ見つるかも
水鳥乃鴨之住池之下桶〔左△〕無欝悒君令〔左△〕日見鶴鴨
 上三句は序なり。第四句はイブセカリシ君ヲといふべきを現在格にていへるなり。イブセキは心モトナキとなり○桶は樋の誤、令は今の誤なり
 
2721 玉藻かるゐでのしがらみ△薄《アツミ》かも戀のよどめる吾〔左△〕情《ココロカラ》かも
玉藻刈井提乃四賀良美薄可毛戀乃余杼女留吾情可聞
 初二は序にて玉藻カルはヰデの准枕辭なり○從來結句をワガココロカモとよみ第三句を契沖眞淵はウスキカモとよみ、宣長雅澄はウスミカモとよめり。さて宣長は
  是は三の句にて切て四五とつづけて見べし。忍ぶ中の名のもれたるを歎きてよめりと聞ゆ。シガラミノ薄サニモレタル歟又ワガ忍ブ思ノヨドミミチテオノヅカラアフレタル歟となり
といひ、雅澄は
(2461)  シノビニ隱ス心ノウスサニモレタルカ又吾シノブ心ノヨドミ滿餘リテモレタル故ニ人ノ知タルカ、サテモセム方ナシヤと歎たるなり
といへり。案ずるに第三句は薄の上に不の字を補ひてアツミカモとよむべし。アツミを不薄とかけるはマヂカクを不遠と書きオホホシクを不清、不明と書きキヨクを不穢とかけると同例なり。上三句は障多ケレバニヤといふ意なり。さてそを譬喩にて玉藻カルヰデノシガラミアツミカモといひし縁によりて思の過ぎがたきを戀ノヨドメルといへるなり○結句は吾を自などの誤としてココロカラカモとよむべし〇一首の意は我思ノ過ギ難キハ外部ノ障ノ多ケレバニヤ又ハ我心カラニヤといへるにて卷一なる
  吾妹子をいざみの山をたかみかもやまとの見えぬ國遠みかも
などと同格なり
 
2722 吾妹子が笠のかり手のわざみ野に吾はいりぬと妹につげこそ
吾妹子之笠乃借手乃和射見野爾吾者入跡妹爾告乞
初二は序なり。契沖いへらく
(2462)  笠に小さき輪を著《ツケ》てそれに緒を著る其輪をカリテと云に依てワザミ野のワのひともじにつづく
といへり。カリテの事は堀河百首の抄などに見えたるにや○ワザミ野は卷二(二六六頁)にコマツルギワザミガ原ノとあるに同じ。美濃の地名なり○考に
  旅立し時か歸る時か何れにても有べし
といへり。遠ざかり行く時の歌ならむ
 
2723 あまたあらぬ名をしもをしみ(うもれ木の)したゆぞこふるゆくへ知らずて
數多不有名乎霜惜三埋木之下從其戀去方不知而
 初二は二ツトナキ名ノ音ニ立チナムガヲシサニとなり○宣長は
  結句は卷二にコモリヌノユクヘヲシラニトネリハマドフと有と同意にて埋木へかゝれり。三五四と句を次第して見べし
といへり。即ウモレ木ノをユクヘシラズテの枕辭とせるなり。案ずるにウモレ木ノは上なるコモリ沼《ヌ》ノ下ニコフレバのコモリヌノとおなじく下ニにかゝれる枕辭(2463)なり。さればウモレ木ノシタユゾコフルは句のまゝに心得べし。シタユは心ニなり○ユクヘシラズテを古義に終ニナリハテム程モハカリ知ラレズシテと譯せり。そもそもユクヘには行クベキ先の意なるとユキシ先の意なるとあり。こゝなどのユクヘは行クベキ方の意にてセムスベと云はむに齊し
 
2724 あき風の千江の浦|囘《ミ》のこつみなす心者依《ココロハヨセツ》、後はしらねど
冷風之千江之浦囘乃木積成心者依後者雖不知
 上三句は依にかゝれる序なり。考に
  秋風之のつづけおぼつかなし。もしチは風の古言なればいひ重ねたるか。又タチをはぶきてつづけたるか
といひ古義にも
  大神景井これはチの一言にかゝれる詞なるべし。さてそのチは風の用をいふことなるべし云々。と云り
といへり。案ずるに秋風ノ吹ク千江ノ浦囘といふべきを略したるなり○コツミは木屑なり。杣人が木作して屑を水中に棄てたるが流れ寄るなり。黒き白き緑なる打(2464)交りて目もあやなれば本集の歌人は好みて詩材としたるなり○第四句を從來ココロハヨリヌとよみて我心ハ君ニ依リヌの意としたれどさては後ハ知ラネドとはいふべからず。宜しくココロハヨセツとよみて妹ガ我ニ心ヲバ依セツの意とすべし
 
2725 (白細砂《シラマナゴ》)三津のはにふの色にいでて不云耳衣《イハザルノミゾ・イハナクノミゾ》わがこふらくは
白細砂三津之黄土色出而不云耳衣我戀樂者
 初二は序にて初句は枕辭なり。契沖は
  白キマナゴノ滿ツと云意に三津とはつづけたる歟
といひ雅澄は
  白砂シキハヘタル三津ノ濱といふ意につづきたり。又按に白細砂は白銅鏡《マソカガミ》とありしを誤れるにもあるべき歟
といへり。しばらく契沖の説に從ふべし○第四句を略解にはイハザルノミゾとよみ古義にはイハナクノミゾとよめり。いづれにてもあるべし。卷十四に
  まがねふくにふのまそほの色にでて伊波奈久能未曾あがこふらくは
(2465)とあり。第三句以下今の歌におなじ
 
2726 風ふかぬ浦に浪|立《タツ》なき名|乎△《ヲモ》吾はおへるかあふとはなしに
風不吹浦爾浪立無名乎吾者負香逢者無二
    一云女跡念而
 一本に乎の下に毛の字ありといふ○立を舊訓にタツとよめるを二註にタチに改めたり。浪タチテといへるにあらで浪タツソノ如クといへるなればなほタツとよむべし〇一本の方は女の上に字を補ふか又は女を誤字とすべし
 
2727 すが島の夏身の浦に依浪《ヨルナミノ・ヨスルナミ》あひだもおきてわがもはなくに
酢蛾島之夏身乃浦爾依浪間文置吾不念君
 依浪を舊訓にヨルナミノとよめるを古義にヨスルナミに改めたり。かならずヨスルナミとよまざるべからざる處もあれどこゝなどはいづれにてもあるべし〇四五は間〔日が月〕モオカズ我思フ事ヨとなり
 
2728 あふみの海おきつしま山おくまへてわがもふ妹|之〔左△〕《ヲ》ことのしげけく
(2466)淡海之海奥津島山奥間經而我念妹之言繁
 オクマヘテは大切ニといふ事、シグケクは繁キ事ヨとなり○妹之は妹乎の誤としてイモヲとよむべし○此歌ははやく上(二二八九頁)に出でて第三句のみオクマケテとかはれり
2729 (あられふり)遠津大浦によする浪、縱毛〔左△〕依十方《ヨシヱヨストモ》にくからなくに
霰零遠津大浦爾縁浪縱毛依十方憎不有君
 上三句は序なり。記傳卷二十三(一三六三頁)に
  遠津は紀國の地名なるべし。萬葉七に遠津之濱、十一に遠津大浦あり
といひて
  大浦の大(ノ)字は之の誤には非るか
といへり○第四句は古義に毛を惠の誤としてヨシヱヨストモとよめるに從ふべし。ヨシヱヨストモは世間ノ人ガ我ニイヒヨストモヨシヤとなり。ヱはヤに似たる助辭なり○上(二四二六頁)に
  あらそへば神もにくますよしゑやしよそふる君がにくからなくに
(2467)とあり
 
2730 きの海の名高の浦に依浪《ヨルナミノ・ヨスルナミ》音たかきかもあはぬ子故に
木海之名高之浦爾依浪音高鳧不相子故爾
 上三句は序なり
 
2731 牛窓の浪のしほさゐ島とよみ所依之《ヨサエシ》君にあはずかもあらむ
牛窓之浪乃塩左猪島響所依之君爾不相鴨將有
 牛窓は備前海岸の地名なり。その前面に前島といへるがあり。シホサヰは潮の音なり。はやく卷一(七一頁)及卷三(四八二頁)に見えたり○所依之を契沖以下ヨセテシとよめり。宜しくヨサエシとよむべし。アハズカモは逢ハズヤハなり○上三句は序にて牛窓ノ浪ノ潮騒《シホサヰ》ニ島ガトヨムガ如ク音高クイヒ寄セラレシ君ニ逢ハズニ止ムベシヤハといへるなり
 
2732 おきつ浪邊浪のきよるさだの浦の此さだすぎて後こひむかも
奥波邊浪之來縁左太能浦之此左太過而後將戀可聞
(2468) 上三句は序なり。サダノ浦はいづくにか知られず。契沖いへらく
  此左太過而は年の盛の比の過るなり。源氏物語などに多き詞なり
といへり。もし物語ぶみに多きサダにて壯時の意ならばコノを添へてはいふべからず。されば宣長は此の字をカクとよみ改めたれどなほ穩ならず。雅澄は
  左太は之太と同じく時の古言なり
といへり。此説に從ふべし。壯時をサダといふは語意の廣きより狹きにうつれるにこそ
 
2733 しら浪の來よする島のありそにもあらましものをこひつつあらずば
白浪之來縁島乃荒礒爾毛有申物尾戀乍不有者
 三四を略解にサルオソロシゲナル荒礒ト成テモアラマシモノヲと譯せるは非なり。古義に
  こひしく思ひつゝあらむよりは何の物思もなき大海のあら礒にてもあらましものをとなり
と釋けるが如し。意は卷六(一〇五二頁)なる
(2469)  玉藻かる辛荷の島に島囘する鵜にしもあれや家もはざらむ
に類し、辭は上(二四四三頁)なる
  かくばかりこひつつあらずば朝に日に妹がふむらむ地ならましを
に似たり
 
2734 しほみてば水沫にうかぶまなごにも吾は生鹿《ナリシカ》こひはしなずて
塩滿者水沫爾浮細砂裳吾者生鹿戀者不死而
 生鹿を二註にイケルカとよめり。宜しく舊訓に從ひてナリシカとよむべし。ナリシカはナリテシカにおなじ。ナリテシカをナリシカといへるは上(二二四三頁)なる
  まそかがみ見しかとおもふ妹にあはぬかも、たまのをのたえたる戀のしげきこのごろのミシカと同例なり○おなじく寄海歌の中ながら前後寄浪歌なる中に此歌を挿めるは前の歌と趣相似たる爲ならむ
 
2735 すみのえのきしの浦箕にしく浪の數《シクシク》妹を見《ミム》よしもがも
(2470)住吉之城師乃浦箕爾布浪之數妹乎見因欲得
 上三句は序なり。浦囘とかけるを從前ウラワ又はウラマとよみしを久老雅澄はウラミとよみ改めたり。こゝに浦箕とかけるは二者の説の一根據なり。シクは頻ニ寄ルなり○數は略解に從ひてシクシクとよむべく(古義にはシバシバとよめり)見は古義に從ひてミムとよむべし(略解にはミルとよめり)
 
2736 風をいたみいたぶる浪のあひだなくわがもふ君はあひもふらむか
風緒痛甚振浪能間無吾念君者相念濫香
 イタブルは前註にいへる如くイタク振フなり。卷十四にナミノホノイタブラシモヨキゾヒトリネテとあり。初二は序なり
 
2737 (大伴の)三津のしら浪あひだなくわがこふらくを人のしらなく
大伴之三津乃白浪間無我戀良苦乎人之不知久
 初二は序なり。四五は我戀フル事ヲ人ノ知ラヌ事ヨとなり
 
2738 大船のたゆたふ海に重石《イカリ》おろしいかにせばかもわがこひやまむ
(2471)大船乃絶多經海爾重石下何如爲鴨吾戀將止
 上三句は序なり。上(二二八七頁)に
  大船の香取の海にいかりおろしいかなる人か物もはざらむ
とあり
 
2739 みさごゐる奥麁磯《オキツアリソ》に縁浪《ヨルナミノ・ヨスルナミ》ゆくへもしらずわがこふらくは
水沙兒居奥麁礒爾縁浪往方毛不知吾戀久波
 略解にオキツアリソとよみ古義にオキノアリソとよめり。遙ナル荒礒といふ意とおぼゆればオキツアリソとよむべし○ユクヘモシラズはセムスベモ知ラズとなり。上(二四六二頁)にも下ユゾコフルユクヘ知ラズテとあり
 
2740 大船のへにもともにもよする浪よすとも吾は君がまにまに
大船之舳毛艫毛依浪依友吾者君之任意
 上三句は序なり。略解に人ハイカニイフトモといひ、古義にココヨリモソコヨリモサマザマニイヒ寄セラルレドモといへるはヘニモトモニモを譯せるなれどヘニ(2472)モトモニモは序のうちにて主文の意とは没交渉なり。主文即四五句の意はただ人ガ我ヲ君ニイヒ寄ストモ我ハ爭ハジ、タダ君ガ意ニ任セムといへるのみ
 
2741 大海にたつらむ浪はあひだあらむきみにこふらくやむ時もなし
大海二立良武浪者間將有公二戀等九止時毛梨
 アヒダアラムはアラムヲとヲを添へて心得べし。上(二三六〇頁及二三七五頁)に例あり○キミニコフラクは君ニ戀フル事ハとなり
 
2742 しかのあまの火氣《ケブリ》たきたててやく塩のからき戀をも吾はするかも
牡鹿海部乃火氣燒立而燒塩乃辛戀毛吾爲鴨
    右一首或云石川君子朝臣作v之
 上三句は序、カラキはツラキなり。卷十五に至2筑紫館1遙望2本郷1悽愴作歌四首とありて
  しかのあまの一日もおちずやくしほのからきこひをもあれはするかも
とあるは今の歌を作りかへたるならむ○卷三なる石川大夫和歌の左註(三五七頁)(2473)に
  正五位下石川朝臣吉美侯神龜年中任2少貮1
とあり又同卷(三八五頁)に
  石川少郎歌一首 しかのあまはめかり塩やきいとまなみ髪梳《クシゲ》のをぐしとりもみなくに 右今案石川朝臣君子號曰2少郎子1也
とあれば今の歌を君子の作と云傳へたるは由ある事なり(一八〇三頁參照)。略解に此左註を評して
  此卷すべて作者しられぬを集めしからは此註おぼつかなし
といひ古義が之に左袒したるはかたくなし。作者不明の歌を集めたる卷なりともなにがしの作といふ説をきゝたらむに、そを註して何の不可なる事かあらむ。但余は此左註を家持の筆と斷定するにはあらず。家持の筆としても妨なしと云ふのみ
 
2743 中々に君にこひずばひらの浦のあまならましを玉藻かりつつ
中中二君二不戀者牧〔左△〕浦乃白水郎有申尾玉藻刈管
    或本歌曰中々に君にこひずば留鳥浦のあまならましを珠藻(2474)かるかる
    或本歌曰中中爾君爾不戀波留鳥浦之海部爾有益男珠藻刈刈
カリツツは刈リツツ思フ事ナクテ世ヲ渡ラムといふべきをはぶけるなり。刈リツツ白水郎ナラマシヲとかへるにはあらず。カルカルは今の語にていへばカリカリにてやがてカリツツにおなじ。卷十四にもヒカバヌルヌルをヒカバヌレツツとも云へり○卷十二に
  おくれゐてこひつつあらずば田籠の浦のあまならましを珠藻かるかる
とあるは傳の異なるなり○牧は枚の誤ならむ
 或本歌なる留鳥浦を舊訓にアミノウラとよめるを古義に卷十二の歌に據りて田兒浦の誤とせり。卷一なる綱《アミ》浦(綱と書きてアミと傍訓せり)嗚呼見《アミ》浦こそ綱《ツヌ》(ノ)浦、嗚呼兒《アゴ》(ノ)浦の誤なるべけれ(一三頁及七〇頁參照)又卷三なる長歌(五四二頁)に牛留鳥ナヅサヒコムトとあるを舊訓にヒクアミノとよめるこそ爾富鳥などの誤にてあるべけれ、ヒラノウラノともタゴノウラノとも唱へ傳へて一定せざるを、留鳥を田兒の誤と認めむは妄斷と謂ふべし
 
(2475)2744 すずきとるあまのともし火よそにだに見ぬ人ゆゑにこふるこのごろ
鈴寸取海部之燭火外谷不見人故戀比日
 初二はヨソニ見ルの序なり。ヨソニダニはヨソナガラダニなり。ミヌ人ユヱニは見ヌ人ナルニとなり
 
2745 湊入の葦|別《ワキ》小舟さはりおほみわがもふきみにあはぬころかも
湊入之葦別小舟障多見吾念公爾不相頃者鴨
 初二は序なり。別はワキとよむべし
 
2746 にはきよみおきへこぎづるあま舟のかぢとる間なき戀爲鴨《コヒヲスルカモ》
庭淨奥方※[手偏+旁]出海舟乃執梶間無戀爲鴨
 ニハは海上といふことなり(三六六頁及四八四頁參照)。オキヘのヘはテニヲハなり。略解にベと濁れるはわろし○第四句のカヂトルまでを序とすべし○結句を略解にコヒモスルカモとよめるを古義にコヒヲに改めたり。集中にコヒモとよむべき處には戀毛、戀裳など書きたればこゝはコヒヲとよむべし(二四三四頁參照)
 
(2476)2747 あぢかまの塩津をさしてこぐ船の名はのりてしをあはざらめやも
味鎌之塩津乎射而水子船之名者謂手師乎不相將有八方
 上三句は序、アヂカマノ塩津は所在知られず。いにしへも舟に名をつくる事ありしかばユク船ノを名の序とせるなり○卷頭なる雄略天皇の御製又卷十二なる
  紫に灰さすものぞつば市の八十のちまたにあひし兒やたれ
  たらちねの母がよぶ名をまをさめど路ゆく人を誰と知りてか
といふ問答歌又卷三なる
  みさごゐるいそみにおふるなのりその名はのりしてよおやはしるとも
といふ歌(卷十二にも似たる歌あり)などによりて知らるゝ如くいにしへは未知の女をつまどふとてはまづ其名を問ひしなり。而して女が答へて其名をいふ時は我に意あるものとせしなり。さて今は女ガ我問ニ應ジテ其名ヲノリテシヲツヒニ逢ハザラムヤハ、必逢フベシといへるなり○卷十二にも
  すみの江の敷津の浦のなのりその名はのりてしをあはなくもあやし
  しかのあまのいそにかりほすなのりその名はのりてしをなどあひがたき
(2477)とあり
 
2748 大舟に葦荷〔左△〕《ヲ》かりつみしみみにも妹が心にのりにけるかも
大舟爾葦荷刈積四美見似裳妹心爾乘來鴨
 初二は序なり。從來葦荷をアシニとよみて葦刈ツミタル荷ノ、舟ニ刈積タル葦荷ノなど譯したれど葦荷といふ語あるべしとはおぼえず。又葦荷ヲ刈ルとは云ふべからず。荷は苧などの誤にてテニヲハならむ○シミミニはシゲクなり。イモガ心ニノリニケルカモの例は近くは此卷(二二八一頁)にあり
 
2749 驛路《ウマヤヂ》に引舟わたしただのりに妹がこころにのりにけるかも
驛路爾引舟渡直乘爾妹情爾乘來鴨
 驛路を二註にハユマヂとよめり。宜しく古義に引ける中山嚴水の説に從ひてウマヤヂとよむべし。契沖いへらく
  驛をおかるゝに河ある所には水驛とて舟をおかるゝなり。令(ノ)義解卷八厩牧令云、凡水驛不v配v馬處量2閑繁1驛|別《ゴトニ》置2船四隻以下二隻以上1隨v船配v丁、驛長准2陸路1置
(2478)といへり。案ずるに水驛と渡津とは異なるべく又ウマヤとウマヤ路とは異なるべし。ウマヤ路は驛を置かれたる官道ならむ○引船は卷十〈二〇五九頁)に
  風ふきて河浪たちぬ引船にわたりもきたれ夜くだたぬまに
とあり。こゝは、行程をいそぐが故に引船にて渡るにこそ○序は初二にて結句のノリにかゝれるなり。タダノリニのノリはノリニケルカモとの照應に云へるのみ。結句もしコエニケルカモならばタダゴエニといふべく又ワタリケルカモならばタダワタリといふべし。されば今はノリといふ語を棄てゝヒタスラニとうつすべし
 
2750 吾妹子にあはずひさしも(うましもの)阿倍《アヘ》たちばな乃《ニ》こけむすまでに
吾妹子不相久馬下乃阿倍橘乃蘿生左右
 ウマシモノは阿倍橘の枕辭にてウマシキモノのキをはぶきたるなり(カナシキ妹をカナシ妹といふが如く)。そのウマシキはやがてウマキなり。ウマシ、オホシなど今はウマキ、オホキとはたらけどいにしへはウマシキ、オホシキとはたらきしなり○阿倍タチバナは和名抄に橙(安倍太知波奈)似v柚而小者也とあり。契沖は『俗に衣柚と云物にやとおぼし』といひ、眞淵は『是即今ある橘の事也』といひ、狩谷望之(箋注倭名抄(2479)卷九の六十九丁)は『是今俗九年母ト呼ブ者ニ充ツベシ』といひ、岡部東平(※[口+嬰]々筆語卷一)は眞淵の『アベタチバナは甘タチバナなり』といへる説と記傳に見えたる『いにしへのタチバナは今の蜜柑なり』といへる説とに基づきて
  さやうに柚に似て柚よりちひさく甘味多かる菓今の蜜柑をおきてあるべくも思はれねばこの蜜柑ぞうたがひなくアベタチバナと同菓にて花サヘ實サヘなどたゝへいふをりのすべ名はタチバナ、食料の方にとりては甘《アベ》橘といひわかちしなるべし
といひ、井上文雄(家集なる阿倍橘之賦)は
  阿倍タチバナは饗タチバナの意也。聖武のみかどの詔に橘は菓子(ノ)長上とのたまはせ大臣の大饗にも此ものを菓子とせらるゝなど專ら饗膳の料にいみじきよしなれば也けり
といひて阿倍はアベならでアヘなるべき證文を擧げたり。案ずるに阿倍タチバナのアヘはげに饗の義なるべし。さればアヘのヘは清みて唱ふべし。但橘を打任せてアヘタチバナといひしにはあらで、いにしへ橘には少くとも二種ありて一は味よ(2480)ろしくて主として食料に供し一は味さばかりならで主として観賞用に充てけむ、その味よろしき方を取分きてアヘタチバナといひしならむ。さればアヘタチバナは後の蜜柑に當り常の橘は後の橘に當るべし。眞淵が『いと古き代にタチバナに二種あらめや』といへるはいとかたくなし。當時漢土に柑橘の種類少からず又彼我の交通稀ならざりしをいかでか田道間守以後柑橘の第二種の渡來せし事無しと斷定せむ。否かゝる事實の記載に疎なる國史にすら神龜二年十一月に佐味朝臣蟲麻呂、播磨(ノ)直《アタヒ》弟兄《オトエ》に從五位下を授けられし由見えて
  弟兄初※[十の左右に口/ワ冠/貝]2甘子1從2唐國1來1、蟲麻呂先殖2其種1結v子。故有2此授1焉
と記したるをや○弟四句の乃は耳などの誤とするか又はもとのまゝにてニとよむべし(卷八【一五七八頁】參照)○考に
 コケは日影をいへり。日影は奥山の木に生て橘などの里の木には生ざれど年久しき事の譬には何にもいふ類多し
といへれどたとひ譬喩なりとも橘樹にヒカゲノカヅラを取合すべけむや、案ずるにこゝにアヘタチバナといへるは樹にあらで菓にて橘子の樹上に殘れる事久し(2481)くて青黴のむしたるをコケといへるにこそ。黴をコケといへる例は上(二四〇六頁)にあり。即ワガコマクラニコケムシニケリとあるも黴なり
 
2751 あぢのすむすさの入江のありそ松わをまつ兒等はただひとりのみ
味乃往〔左△〕渚沙乃入江之荒礒松我乎待兒等波但一耳
 上三句は序、アヂはアヂ鴨なり。往は住の誤なり
 
2752 吾妹兒をききつが野邊のしなひねぶ吾者隱不得《ワハシヌビエズ》、間無念者《マナクオモヘバ・マナクシモヘバ》
吾妹兒乎聞都賀野邊能靡合歡木吾者隱不得間無念者
 ワギモコヲキキまでが枕辭なり。キキツグをツガ野にいひかけたるなり。ツガ野は日本紀に見えたる菟餓野ならむ。さらば攝津の地名なり○合歡木は其状靡きたればシナヒネブといへるなり。さてシナフとシヌブと音相似たれば序とせるなり。例は卷三(三九五頁)に
  まきの葉の之奈布《シナフ》せの山之奴波受而《シヌバズテ》わがこえゆけば木葉しりけむ
とあり。但これは序歌にはあらねどシナフとシヌバズと類音を重ねたるは今と同(2482)じ○第四句を略解にワレハシヌバズとよみ古義にアハシヌビエズとよめり。後者に從ふべし。シヌビエズは隱シ得ズなり。語例は上(二四五六頁)にタチエヌ戀モ吾ハスルカモとあり○結句は舊訓の如くマナクオモヘバとも、古義の如くマナクシモヘバともよむべし
 
2753 浪間從《ナミノマユ》みゆる小島の濱久木ひさしくなりぬ君にあはずして
浪間從所見小島之濱久木久成奴君爾不相四手
 上三句は序なり。初二は卷八(一五一〇頁)に波ノ上ユミユル兒島ノ雲ゴモリとあると相似たり○濱久木は久木の一種と思はる。ヒサギははやく卷六(一〇三六頁)に出でたり。此歌を伊勢物語にナミマヨリ見ユルコジマノ濱ビサシ〔右△〕と誤り書けるよりそれに基づきてハマビサシと中古の歌にはよみたれどハマビサシといふ語は無し○契沖が
  旅にある夫(ノ)君をこひて故郷に留れる妻のよめるなるべし
といへるはうらうへなり。旅にて男のよめるなり。男より女をさしてもキミといひつべし(二三八一頁參照)
 
(2483)2754 朝柏《アサガシハ》閏八《ウルヤ》河邊のしぬのめのしぬびてぬればいめにみえけり
朝柏閏八河邊之小竹之眼※[竹/矢]思而宿者夢所見來
 上三句は序なり。上(二三一三頁)に秋柏潤和川邊ノシヌノメノとあり。これに據りて眞淵千蔭雅澄は朝柏をアキガシハとよみ、宣長は閏八を閏丸の誤としてウルワとよめり。案ずるに朝柏ハ朝ツミタル木葉といふことにて秋ガシハの誤にあらず。閏八はウルヤとよまむかウルハとよまむか
 
2755 あさぢ原かりじめ刺而〔左△〕《サシシ》空事《ムナゴト》も所縁之《ヨサエシ》君がことをしまたむ
淺茅原刈標刺而空事文所縁之君之辭鴛鴦將待
 上(二三〇五頁)なる
  あさぢ原小野にしめゆふむなごとをいかにいひてかきみをばまたむ
といふ歌の處にていへる如く初二は序ならざるべからず。さて之を序とすれば刺而とありてはかなはず。刺而はおそらくは刺之の誤ならむ。カリジメは考にいへる如く假標なり○空事は雅澄の説に從ひてムナゴトとよむべし。實なし言の意なり。(2484)さて今はムナ言ニモといふべきニを省けるなり○所縁之を從來ヨセテシとよめり。改めてヨサエシとよむべし。人ニイヒヨソヘラレシといふ意なり○コトヲシマタムは便ヲ待タムとなり
 
2756 (月草の)かりなる命なる人をいかに知りてか後もあはむちふ
月草之借有命在人乎何知而鹿後毛將相云
 カリナルはハカナキなり。人とは自他に亘りていへるなり。二註に『人とは吾をいふ』といへるは非なり。人ノ命ハ自他共ニハカナキモノナルヲとなり○イカニ知リテカはイカデ長ラヘムモノトハ知リテとなり○命ナルを二句に割きたるは快からず
 
2757 おほきみの御笠にぬへるありま菅ありつつみれど事無《コトナキ》吾妹
王之御笠爾縫有在間菅有管雖看事無吾妹
 上三句は序なり。四五を眞淵は常ニ見レドヨロヅニ難ナキといふ意とし雅澄は事無をコトナシとよみ改めて年月ヲ經テ世間〔日が月〕ヲ見合スレド何ノ障ルコトモナシと(2485)いふ意とせり。案ずるにアリツツミレドは待渡レドといふ意、コトナキは便ナキといふ意なり。上なるコトヲシマタムのコトにおなじ
 
2758 (すがの根の)ねもころ妹に戀西《コフルニシ》、益卜思〔左△〕《マスラヲ》而〔左△〕|心《ゴコロ》おもほえぬかも
菅根之懃妹爾戀西益卜思而心不所念鳧
 宣長は思而を男の字の誤としてコフルニシマスラヲゴコロとよめり。之に從ふべし
 
2759 わがやどの穗蓼古幹|採生〔二字左△〕之《サクハナノ》、實になるまでに君をしまたむ
吾屋戸之穗蓼古幹採生之實成左右二君乎志將待
 第三句を舊訓にツミハヤシとよめるを眞淵はツミオフシに改めて
  こは去年の秋の末に枯たる蓼の古茎の子《ミ》を採納めて今年の春蒔生しそれが又|子《ミ》になる秋までも同じ心に君を待なんといふ也
といひ雅澄はオホシまでを序とせり。もし眞淵等の説の如くならばフルカラ穗蓼といふべく穗ダテフル幹とはいふべからず。否穗蓼の實をつむことをホダテツム(2486)とはいふべからず。又實ヲツミ収メテソノ實ヲ蒔生シといふことをつづめてツミオホシとはいふべからず。案ずるに採生之を咲花之の誤とすべし○マデニはただマデといはむにひとし
 
2760 (あしひきの)山澤ゑぐをつみにゆかむ日だにも相將〔左△〕《アハセ》母はせむとも
足檜之山澤囘具乎採將去日谷毛相將母者責十方
 ヱグは芹なる事卷十(一九二〇頁)に云へる如し○相將を相爲に作れる本あり。ツキタマハム、ヨリタマハムなどを將賜と書かで賜將と書ける例あればアハムを相將と書けるは怪むに足らねどゝ?はアハムとあらむよリアハセとありて男より女に對して逢ヒタマヘと云へりとせむ方まさるべし。もし女の作ならば日ニコソアハメと云ふべし
 
2761 奥山のいはもと菅の根ふかくもおもほゆるかも吾念妻者《ワガオモヒヅマハ》
奥山之石本菅乃根深毛所思鴨吾念妻者
 ただフカクモといふべきを序の縁にてネフカクモといへるにて上(二四五二頁)な(2487)る青山ノイハガキヌマノミゴモリニなどと同格なり○結句を舊訓にワガオモヒヅマハとよめるを古義にワガモフツマハに改めたり。舊訓に從ふべし。オモヒヅマはやがてオモフ妻なり。略解に『いまだむかひめとならぬほどの言也』といへるは非なり。又同書に『ツマハは妻ヲバの意なり』といへるはいみじきひが言なり。妻ヲ〔右△〕バオモホユルとは語格上いはれざる事なり
 
2762 あし垣の中《ナカ》のにこ草にこよかに我とゑまして人に知らゆな
蘆垣之中之似兒草爾故余漢我共咲爲而人爾所知名
 初二は序なり。中は間〔日が月〕なり。ニコグサはシノブの類なる箱根草の事ならむといへる説あれど卷十四にニコ草ノ花とよみたればハコネ草にはあらじ○ワレトヱマシテは我ヲ見テヱミ給ヒテとなり。四五の語例は卷四(七六七頁)に
  青山をよこぎる雲のいちじろくわれとゑまして人に知らゆな
とあり
 
2763 (くれなゐの)淺葉の野らにかる草《クサ》のつかのあひだもわをわすらすな
(2488)紅之淺葉乃野良爾苅草乃束之間毛吾忘渚菜
 上三句は序なり。草を從來カヤとよみたれどなほクサとよむべし(八二五頁參照)。ワスラスナは忘レ給フナとなり。ワスルナを延べたるにあらず○第三句以下の語例は卷二(一六〇頁)に
  大名兒ををちかた野べにかる草の束のあひだもわれわすれめや
とあり
 
2764 妹がためいのちのこせり(かりごもの)おもひみだれてしぬべきものを
爲妹壽遺在苅薦之念亂而應死物乎
 一首の意はオモヒ亂レテ死ヌべキヲ妹ニ逢ハム爲ニコソカク命ヲ殘シタレといへるなり。古義の釋は從はれず
 
2765 吾妹子にこひつつあらずば(かりごもの)おもひみだれてしぬべきものを
吾妹子爾戀乍不有者苅薦之思亂而可死鬼乎
 
(2489)2766 三島江の入江のこもをかりにこそ吾をばきみはおもひたりけれ
三島江之入江之薦乎苅爾社吾乎婆公者念有來
 初二は序、カリニコソはカリソメニコソとなり。三島江は攝津の地名
 
2767 (足引の)山たちばなの色にいでて吾《ワハ》こひ南《ナム》を八目〔二字左△〕難爲名《アヒガタミスナ》
足引乃山橘之色出而吾戀南雄八目難爲名
 上三句は序、ヤマタチバナは今のヤブカウジなり。吾は古義に從ひてワハとよむべし(舊訓はワガ)○コヒナムのナムはテニヲハにあらず。語例は卷三なる祭神歌の反歌(四六八頁)にカクダニモワレハ乞嘗《コヒナム》、君ニアハジカモとあり又上(二三六二頁)にカクダニモ吾ハ戀南《コヒナム》とあり又下に
  かくだにも妹を待南《マチナム》さよふけていでくる月のかたぶくまでに
とあり。コヒタムのタがナにうつれるにあらざるか。コヒタムの例は卷二(一七八頁)にユクユクト戀痛《コヒタム》ワガセコチカヨヒコネとあり。なほ考ふべし○結句を眞淵は八目を人目の誤としてヒトメカタミスナとよみ宣長はヒトメイマスナとよめり(難(2490)にハバカルといふ訓あるを思へるなり)。八目は相の誤か。さらばアヒガタミスナとよむべし
 
2768 あしたづのさわぐ入江のしら菅の知爲等《シリヌルタメト》こちたかるかも
葦多頭乃颯入江乃白菅乃知爲等乞痛鴨
 上三句は序なり。第四句を從來シラレムタメトとよみたれど然よむべくば考にいへる如く少くとも知の上に將の字なかるべからず。案ずるに知爲等はシリヌルタメトとよむべし。シリヌルタメトは人ノ知リヌル爲トテなり○古今集戀一に
  あしがものさわぐ入江のしらなみのしらずや人をかくこひむとは
とあり
 
2769 吾背子にわがこふらくは夏草の苅除《カリソクレ》ども生及如《オヒシクゴトシ》
吾背子爾吾戀良久者夏草之苅除十方生及如
 第四句は舊訓にカリソクレドモとよめるに從ふべし(略解にはカリハラヘドモとよめり)。卷十四にアカミヤマ久左禰可利曾氣云々とあり○結句は古義に從ひてオ(2491)ヒシクゴトシとよむべし(舊訓にはオヒシクガゴトとよめり)○卷十(二〇一一頁)に
  このごろの戀のしげけく夏草のかりはらへどもおひしくごとし
とあり
 
2770 道のへの五柴原《イツシバハラ》のいつもいつも人のゆるさむ言をしまたむ
道邊乃五柴原能何時毛何時毛人之將縱言乎思將待
 初二は序なり。イツモイツモはイツニテモの意なりと契沖いへり。語例は卷三(四九〇頁)に
  妹が家にさきたる梅のいつもいつもならなむ時に事は定めむ
 又卷四(六二一頁)及卷十(一九七八頁)に
  河上のいつ藻の花のいつもいつも來ませわがせこ時じけめやも
とあり○卷四(六四三頁)にオホ原ノコノ市柴ノイツシカトとあり。略解にはその市柴に據りてこの五柴をもイチシバとよみ古義にはこの五柴によりてかの市柴をもイツシバとよめり。共に非なり。彼はイチシバとよむべく此はイツシバとよむべし。イツシバをなまりてイチシバともいひしかば其唱のまゝに卷四には市柴と書(2492)けるなり。さてイツシバは雅澄の云へる如く繁き芝なり。眞淵が赤檮柴《イチヒシバ》の略とせるは非なり○人は相手の女なり。ユルスは承諾スルなり。言は便なり
 
2771 吾妹子が袖をたのみて眞野の浦の小菅の笠をきずて來にけり
吾妹子之袖乎憑而眞野浦之小菅乃笠乎不著而來二來有
 眞野浦は攝津の地名なり。今神戸市の中に入れり。はやく卷四(六二〇頁)に眞野ノ浦ノヨドノツギ橋とあり。卷三及卷七にシラスゲノ眞野ノハリ原とよめるも同處なり○初二はモシ雨ガフッタラオマヘノ衣ヲ借リテ頭ニ著テ歸ラウト思ウテといへるなり。雨ノ降ラムトスルニ笠モ著ズシテ來給ヒケルヨなど女のいひしに戯れて答へたるなり
 
2772 眞野(ノ)池の小菅を笠にぬはずして人の遠〔左△〕《キル》名をたつべきものか
眞野池之小菅乎笠爾不縫爲而人之遠名乎可立物可
 池は※[さんずい+内]《ウラ》の誤なるべしと宣長いへり。もとのまゝにて可なり○第四句を從來人ノトホ名ヲとよめり。さて雅橙は眞淵の説を敷衍して
(2493)  吾袖をたのみて笠を著ずに來しとのたまふがそれは何とやらむ實ありがほなれど實に君と契を結びしことのなければ吾名を世に廣く立べきにあらぬをや
といへるなり
といへれどうべなはれず。遠を著の誤として人ノキル名ヲタツベキモノカとよむべし。無論譬喩歌なり。ヌハズシテはイマダ縫ハズシテと心得べし○前の歌とは關係なし。二註に問答とせるは非なり
 
2773 (さす竹の)はごもりてあれわがせこが吾許不來者《ワガリシコズバ》、吾《ワレ》こひめやも
刺竹齒隱有吾背子之吾許不來者吾將戀八方
 サス竹ノは葉ゴモリテにかゝれる枕辭なり。略解に枕辭にあらずといへるは非なり○ただコモリテアレといふべきを葉ゴモリテアレといへるは古義に『上の言の縁にハゴモリといひ連ねたり』といへる如く枕辭の縁によれるにて上(二四五二頁及二四八六頁)なるイハガキ沼ノミゴモリニ、イハモトスゲノ根フカクモと同格なり。さてコモリテアレは家ニ引籠リテ居レとなり○第四句を舊訓にワガリシコズバ、略解にワレガリコズバ、古義にワガリキセズバとよめり。ワガといへどワレガと(2494)いはず。從ひてワガリとはいふべくワレガリとはいふべからず。されば略解の訓は採るべからず。舊訓と古義の訓とはいづれにても可なり。山ヨリコバを山ヨリ來セバ(二一一六頁)といへる如くコズバを來セズバともいふべし○サス竹を古義に黍の事としてもと實を黄實、幹を刺竹といひしを後に刺竹の名はうせて幹をもキミといふやうになりしならむといへり。少くとも一説として聞くべし
 
2774 かむなびの淺じぬはらの美△△△《オミナベシ》妾思公之《ワガモフキミガ》こゑのしるけく
神南備能淺小竹原乃美妾思公之聲之知家口
 舊訓に美妾をつづけてヲミナベシとよめり。然るに宣長は
  美妾をヲミナベシと訓べきよしなし。これは美の上か下に脱字ありて妾思蚤之はワガオモフキミガなるべし
といひ雅澄は美の上下に字を補ひて繁美似裳《シミミニモ》とせり。美の下に人部師の三字を補ひてヲミナベシとよみ妾思公は宣長に從ひてワガモフキミガとよむべし。卷十に手ニトレバ袖サヘニホフ美人部師と書けり○上三句は第四句を隔てゝ結句のシルケクにかゝれる序なり○古義に
(2495)  小竹は竹にたぐへれど又草にもたぐふべければ前後寄草陳思歌の中に収たるならむ
といへれど寄女郎花歌なればもとより寄草の中にあるべきなり
 
2775 山たかみ谷邊にはへる玉かづらたゆる時なく見《ミム》よしもがも
山高谷邊蔓在玉葛絶時無見因毛欲得
 上三句は序なり。見は古義に從ひてミムとよむべし。毛詩葛覃なる葛之|覃《ノビテ》今|施《ウツル》2于中谷1維《コレ》葉※[草冠/妻]々に似たるは偶然に過ぎじ
 
2776 道のへの草を冬野にふみからし吾《ワレ》たちまつと妹につげこそ
道邊草冬野丹履干吾立待跡妹告乞
 フユ野ニは冬野ノ如クなり。シラユフ花ニオチタギツなどのニなり。上三句は待つ事の久しき形容なり。從來待つ事の度重なる形容とせるは非なり
 
2777 たたみごもへだてあむ數かよはさば道のしば草おひざらましを
疊薦隔編數通者道之柴草不生有申尾
(2496) ヘダテアムカズはヘダテアム數ホドとなり。ヘダテアムを契沖は『薦一條づつ編む意なり』といひ眞淵以下之に從へれど、もしさる意ならばただアムとこそいふべけれ、こと更にヘダテアムとは云はじ。案ずるに薦は若干づつの隔をおきてあまたの節《フ》に編分くるものなればヘダテアムといへるなり。考、略解に『こも槌の往反《ユキカフ》如く夫の通ひなばと云也』といへるも非なり〇一首の意は契沖が
  さばかりかよふ數の繁く重なりなば道芝も生まじきを絶絶なる故に生たりとよめるなり
といへる如し○ミチノシバ草の語例は卷六(一一六一頁)に
  たちかはりふるきゐやことなりぬれば道のしば草長くおひにけり
とあり
 
2778 水底におふる玉藻の生〔左△〕不出《ウヘニイデズ》よしこのごろはかくてかよはむ
水底爾生玉藻之生不出縱此者如是而將通
 第三句を從來オヒモイデズ又はオヒイデズとよめり。宜しく生を上の誤としてウヘニイデズとよみて初二を序とすべし。ウヘニイデズは外ニアラハサズなり。語例(2497)は卷九(一八二七頁)なる思2娘子1作歌にシタビ山シタユク水ノ上丹不出《ウヘニイデズ》とあり○カクテは上ニイデザルママニテなり
 
2779 うなばらのおきつなはのりうちなびき心もしぬにおもほゆるかも
海原之奥津繩乘打靡心裳四怒爾所念鴨
 初二は序、ウチナビキは打臥シテ、シヌニはシナフバカリニなり○心モシヌニの語例は卷八(一五八六頁)に
  ゆふづくよ心もしぬにしら露のおくこの庭にこほろぎなくも
とあり
 
2780 むらさきの名高の浦のなびき藻のこころは妹によりにしものを
紫之名高乃浦之靡藻之情者妹爾因西鬼乎
 上三句は序なり。ナビキ藻ノ如クとなり
 
2781 わたの底おきをふかめておふる藻の最《モトモ》今こそ戀はすべなき
海底奥乎深目手生藻之最令〔左△〕社戀者爲便無寸
(2498) 最を略解にモトモ、古義にモハラとよめり。モトモとよむべし。類聚名義抄にも最モトモとあり○上三句はモトモのモにかゝれる序なり。オキヲフカメテは沖深クといふ意なり。卷四(七六一頁)なる
  わたの底おきをふかめてわがもへる君にはあはむ年はへぬとも
はフカメテの枕にワタノ底オキヲの八言を置きたるにて今と異なり○コソといひてキと結べるは古格によれるなり。例は上(二四二〇頁)にオノガ妻コソトコメヅラシキとあり。略解に『コソは言をつよくいひ入るのみ也』といへるはあさまし
 
2782 左寐蟹齒《サネカネバ》たれとも寐常《ネメド》(おきつ藻の)なびきし君が言まつ吾を
左寐蟹齒孰共毛宿常奥藻之名延之君之言待吾乎
 初二を舊訓にサネカニハタレトモヌレドとよめるを眞淵はサネカネバタレトモネメドとよみ改めたり。然も蟹をカネとよむべき所以をいはず。雅澄は眞淵とおなじくサネカネバとよみて
  書紀允恭天皇(ノ)卷衣通王(ノ)歌にササガニを佐々餓泥《ササガネ》とよまれたればもとより上代には蟹をカネとも云しことうつなければカネの借字とせること論なし
(2499)といへり。此説よろし○眞淵雅澄ともに此歌を女の作とせるは非なり。男の作なり。女をさしても君といへる事は上(二四八二頁)に述べたり。さてサネカネバはモシ眠ラレズバとなり○ナビキシは我ニナビキシとなり。言は便なり。ワレヲは我ゾなり
 
2783 吾妹子がいかにとも吾《ワ》をおもはねばふふめる花の穗にさきぬべし
吾妹子之奈何跡裳吾不思者含花之穗應咲
 イカニトモはアハレトモ何トモとなり〇四五はツボメル花ノアラハレテサクガ如ク思ヲ外ニアラハスベシとなり。穗ニはアラハレテといふ意の副詞なり。語例は卷十に
  言にいでていはばゆゆしみ朝がほの穗にはさきでぬ戀をするかも(二一八一頁)
  わぎもこにあふ坂山のはだすすき穗にはさきでずこひわたるかも(二一八五頁)
  はだすすき穗にはさきでぬ戀をわがする……(二一九九頁)
とあり。奥の二首を見れば植物の穗を副へて云へるが如くなれど然らず
 
2784 隱庭《コモリニハ》こひてしぬともみそのふの鶏冠草《カラヰ》のはなの色にいでめやも
(2500)隱庭戀而死鞆三苑原之鶏冠草花乃色二出目八方
    類聚古集云。鴨頭草又作2鶏冠草1云云。依2此義1者可v和2月草1歟
 初句は古義に從ひてコモリニハとよむべし。意はシヌビニハといはむにひとし(略解にはシヌビニハとよめり)。上(二四四七頁)にも
  玉かぎるいは垣淵のこもりにはこひてしぬともなが名はのらじ
とあり〇三四は序なり。語例は卷十(二一八二頁)に
  こふる日のけながくしあればみそのふの辛藍の花の色にいでにけり
とあり。カラヰは即クレナヰにてベニ花なり。ツキ草にあらざる事は卷三なるワガヤドニカラヰマキオホシといふ歌の註(四七三頁)に云へる如し
 
2785 さく花は雖過時有《スグルトキアレド》わがこふる心のうちはやむ時もなし
開花者雖過時有我戀流心中者止時毛梨
 第二句を略解にスグルトキアレドとよめるを古義にスグトキアレドに改めたり。連體格の代に終止格をつかひたりとすればスグ時とも云はれざるにあらず。さて(2501)スグルトキは散ル時なり
 
2786(山ぶきの)にほへる妹がはねず色の赤裳のすがたいめにみえつつ
山振之爾保敝流妹之翼酢色乃赤裳之爲形夢所見管
 ハネズは今いふモクレンなるべし(一五三二頁參照)
 
2787 天地のよりあひのきはみ(玉の緒の)たえじとおもふ妹があたり見つ
天地之依相極玉緒之不絶常念妹之當見津
 はやく卷六(一一五六頁)なる悲2寧樂故郷1作歌にアメツチノヨリアヒノ限と見えたり。イツマデモといふことなり○結句をただ女の家の方を見遣る事とせむに上四句あまりにこちたし。おそらくは久しき旅にてよめるならむ。さればミツは眺メツと心得べし
 
2788 いきのをにおもへばくるし(玉の緒のたえて)みだれなしらば知るとも
生緒爾念者苦玉緒乃絶天亂名知者知友
 イキノヲニオモフの語例は近くは上(二三五四頁)にイキノヲニ妹ヲシモヘバとあ(2502)り。玉ノヲノタエテまでが枕なり。ミダレナは慎ヲ忘レムとなり。結句は世ノ人ノ知ラバ知ルトモとなり○古今集戀三なる友則の
  下にのみこふればくるし玉のをのたえてみだれむ人なとがめそ
は今の歌を學べるなり
 
2789 (たまのをの)たえたる戀の亂〔左△〕者《クルシキハ》しなまくのみぞ又もあはずして
玉緒之絶而有戀之亂者死卷耳其又毛不相爲而
 第三句を從來ミダレニハとよめり。さて古義に
  中絶して後戀しく思ふあまりに心もみだれたるからは又もあはむと思はずただ一向に死むことのみぞおもふとなり
と釋したり。もしミダレニハとよむべくばシナマクノミゾオモフとあらざるべからず。然もそのオモフは古義の釋にあれど歌には無し。又マタモアハズシテといへる、蛇足なり。たとひ又も逢はむと思ふとも絶えたる戀なるからは心に任すまじきが故なり。案ずるに第三句を苦者の誤としてクルシキハとよみ又四五を顛倒して又モ逢ハズシテ死ナム事ノミナリと心得べし
 
(2503)2790 玉(ノ)緒之〔左△〕《ヲ》くくりよせつつ末つひにゆきはわかれず同緒《オナジヲニ》あらむ
玉緒之久栗縁乍末終去者不別同緒將有
 玉緒之の之は乎の誤とすべし。集中に之と乎とかたみに誤れる處少からず。玉をあまた貫きたる緒をさながらにおけば右端の玉と左端の玉とは相離れたれど之をくゝリよせなば二つの玉は相|偶《タグ》ふべし。今その二つの玉を作者と男とに譬へて玉ノ緒ヲククリ寄セツツ後ニハ相別レズシテ一ツ處ニ居ラムといへるなり。但オナジ緒ニといへる、いさゝか窮したり。ただ緒といふ語の重出せるのみならずくゝりよせざる前にても緒は別ならざればなり。又思ふに同緒は一緒といはむにひとしくその一緒はやがて俗語のイッシヨなれば同緒を義訓にてタグヒテとよまむか。こはただ試に云ふのみ○上(二二九六頁)に
  しらたまをあひだあけつつぬける緒もくくりよすれば後あふものを
とあると相似たる所あり
 
2791 片絲もちぬきたる玉の緒をよわみみだれやしなむ人のしるべく
(2504)片絲用貫有玉之緒乎弱亂哉爲南人之可知
 上三句は序なり。ミダレヤシナムは亂レヨウモ知レズとなり。上なるミダレナとは異なり
 
2792 (玉緒の)島〔左△〕意哉《ウツスゴコロヤ》、年月のゆきかはるまで妹にあはざらむ
玉緒之島意哉年月乃行易及妹爾不逢將有
 宣長は島を寫の誤としてウツシゴコロヤとよめり。卷十二にタマノヲノ徙心ヤ、卷七(一四一三頁)にクレナヰノ寫《ウツシ》心ヤ妹ニアハザラム又卷十二にウツセミノ宇都思ゴコロモ吾ハナシとあれば宣長の説に從ふべし。ウツシ心のウツシはウツシ身のウツシにおなじ。さればウツシ心はウツシキ心にて正氣なり。一首の意は夢中ナラバイサ知ラズ正氣ニテ年月ノ立ツマデ妹ニ逢ハズニ居ラレウカとなり。ウツシゴゴロヤは現心ニヤハなり
 
2793 (たまのをの)あひだもおかず見まくほり吾思〔左△〕《ワガスル》妹は家とほくありて
玉緒之間毛不置欲見吾思妹者家遠在而
(2505) 上(二二九六頁)にシラ玉ヲアヒダアケツツヌケル緒モとある如く玉ノ緒ノをアヒダモオカズの枕辭とせるなり○思は爲の誤ならむ。さらばワガスルとよむべし○結句はアヤニクニ家遠クアリテシバシバ逢ヒガタシといへるなり
 
2794 隱津〔左△〕之《コモリヌノ》、澤立見爾有△《サハタツミナラバ》いは根ゆも遠而念、君にあはまくは
隱津之澤立見爾有石根從毛遠而念君爾相卷者
 上(二二九二頁)に出でたる歌のすこしかはれるなり○隱津は隱沼の誤ならむ。第二句は爾有の下に者の字を補ひてサハタツミナラバとよむべし○遠を考に透の誤、古義に達の誤とせり。遠而念は通而等念の誤脱としてトホリテトモフとよむべきか。なほよく考ふべし
 
2795 きの國のあくらの濱の忘貝われは不忘《ワスレズ》としは雖經《フレドモ》
木國之飽等濱之忘貝我者不忘年者雖歴
 二註にワスレジ、ヘヌトモとよめり。後に至りてよめりとせむ方感深からむ。されば舊訓に從ひてワスレズ、フレドモとよむべし〇上三句は序なり。忘貝は一種の貝の(2506)名なり。語例は卷一(一〇九頁)に大伴ノミツノ濱ナル忘貝とあり
 
2796 水くくる玉にまじれる磯貝のかた戀のみに年はへにつつ
水泳玉爾接有磯貝之獨戀耳年者經管
 水ククルは水ククレルにてミナ底ノといふ意とおぼゆ。玉は美しき小石なり○イソガヒはただ礒ナル貝なり。略解に『イソ貝は石貝にて鰒也』といひ古義に『何にまれ石にはひ付てある貝にて其はみな鰒のごとく片貝なれば片戀とはつづけしなるべし』といへる共に非なり。二枚より成れる貝殻も時を經ればはなればなれとなれば片戀の序としつべし
 
2797 すみのえの濱によるちふうつせ貝|實《ミ》なき言もち余《ワレ》こひめやも
住吉之濱爾縁云打背貝實無言以余將戀八方
 上三句は實ナキにかゝれる序なり。ウツセ貝を契沖は『からになりたる貝なり』といひ眞淵雅澄は『石花貝《セガヒ》のからになりたるを云』といへり。げに語のもとは空石花貝《ウツセガヒ》なりしを後にはいづれの貝のからになれるをもいふやうになりしならむ○實ナキ(2507)言モチは口サキバカリデといふ意なり
 
2798 伊勢のあまの朝な夕なにかづくちふあはびの貝のかたもひにして
伊勢乃白水郎之朝魚夕菜爾潜云鰒貝之獨念荷指天
 上四句は序なり。略解に『アサナユフナのナはヨナヨナといふに同じく助辭なり』といへるは非なり。卷六(一〇七〇頁)なる
  いざ兒ども香椎のかたにしろたへの袖さへぬれて朝菜つみてむ
の處にて千蔭自云へる如く朝食夕食の添物なり。朝夕をアサナユフナといへるは撰集にては拾遺集なる好忠のミヤマ木ヲアサナユフナニコリツメテなどや始なるべき。いにしへには例ある事無し○古今集戀四に上三句今と同じき歌(ミルメニ人ヲアク由モガナ)あり
 
2799 人ごとをしげみと君をうづらなく人の古家《フルヘ》にかたらひてやりつ
人事乎繁跡君乎鶉鳴人之古家爾相語而遣都
 シゲミトはシゲサニなり。ウヅラナクは准枕辭なり。古家は考以下にフルヘとよめ(2508)り。妹が家、我家をイモガヘ、ワガヘともいへばげにフルヘともいふべし○人ノ口ガウルササニ人ノ住マヌアバラ屋ニツレコンデ語ラウテ歸シタといへるなり
 
2800 あかときと鶏《トリ・カケ》はなくなりよしゑやし獨ぬる夜はあけば雖明《アクトモ・アケヌトモ》
旭時等鶏鳴成縱惠也思獨宿夜者開者雖明
 二註に鶏をカケとよみたれど舊訓の如くトリとよみてもありぬべし。鶏之鳴アヅマノ國ニなどはトリとよむべければなり○雖明を二註に卷十五にヨシヱヤシヒトリヌルヨハアケバ安氣奴等母とあるに據りてアケヌトモとよめり。舊訓の如くアクトモとよみても可なり○卷七(一三五一頁)にアカトキト夜ガラスナケドとあり
 
2801 大海のありその渚鳥《スドリ》あさなさな見まくほしきを見えぬきみかも
大海之荒礒之渚鳥朝名且〔左△〕名見卷欲乎不所見公可問?
 序は初二にてアサナサナ見ルにかゝれり。從來ミマクホシキにかゝれる序としたるは非なり。スドリは洲ニヰル鳥なり。はやく卷七(一二七八頁)にマトガタノミナト(2509)ノ渚鳥といへり○且は旦の誤なり
 
2802 おもへどもおもひもかねつ(あしひきの)山鳥の尾の永き此夜を
念友念毛金津足檜之山鳥尾之永此夜乎
    或本歌曰あしひきの山鳥の尾のしだり尾の長永夜《ナガキナガヨヲ》をひとりかもねむ
    或本歌曰足日木乃山鳥之尾乃四垂尾乃長永夜乎一鴨將宿
 三四は序なり○初句を古義に今ハツレナキ人ヲコヒシク思ハジトオモヘドモと譯し第二句を考に思ニタヘカネツ、古義に念ジカネツと譯せり。案ずるに初二のオモフは共に念ズルなり。されば初二は堪フレドモ堪ヘカネツと譯すべし。因にいふオモヒカネのオモフはこのオモフとは異なり。別にいふべし
 或本歌の長永夜を舊訓にナガナガシヨとよめるを宣長(辭(ノ)玉緒卷四の三十丁)はナガキナガヨとよみ改めたり。景樹は此説に左袒して
  さてこそ詞もとゝのひ文字の上も穩やかなりけれ
(2510)といひ又眞淵が
  長永夜乎をナガナガシヨとよむシの言は古事記にウマシアシカビ、日本紀にウマシ少女などある類のシ也
といへるを評して
  こはウマアシカビ、ウマヲトメとやうにシを除きても同意の言にてたまたまシの言の加はりて歎の調をなす古言の常にてアナニヤシ少女、アサモヨシ紀路などのシにひとしき體言なり。今の長永夜乎といへるは活らくテニヲハにして用言なればさる類ひにあらず。よりてナガナガシキ夜乎とキ文字なくてはつらなり侍らぬ也。ただナガナガシとのみ一句いひながす格と一つに思ひあやまつ事なかれ。もとよりさる詞づかひはさらに世になき事に侍れど久しき古訓の訛りを誰も耳なれ侍りてさるべき詞も有べきやうに思ひなりてたまたまある人のナガキナガ夜ヲとよみ解たるにも猶ためらふ人こそ多く侍れ。同じこともナガナガシ道、ナガナガシ旅などいはば誰も聞しりて詞をなさずといふべし。俗にもオモオモシキ身、トホドホシキ人などいはんをオモオモシ身、トホドホシ人とい(2511)ふべけんや。さればナガナガシ夜は雅俗とも通ぜぬ詞也としるべし
などなほ長々しくあげつらへり。此説は支離滅裂にて擧ぐるに堪へねど語格に疎き歌學者の議論の代表とし又廣足永好などの之に對する批評を擧む準備として擧げおくなり。義門の山口の栞(下卷十八丁)には
  ナガナガシはシク、シ、シキとはたらく用言なり。萬葉集に長永夜とかけるはナガナガシヨとよめるにあててかけることもとよりなるべし。然るにこれをばナガナガシキ夜といはではシ文字は體の語へはつづくべからざる故にかの長永夜はナガキナガヨとよむべしといふ人のあるはなかなか精しからぬ事なり。シク、シキとはたらく詞にては悲シクアル妹をカナシイモ、空シクナリニタル煙をムナシケブリ、オナジクアル人をオナジ人とやうにいふ例あリ。古事記にサカシメ、クハシメ、萬葉にクハシイモ、カナシイモなど引出るにたへずいと多きみな同例にて是はすべてシク、シ、シキとはたらく詞のうけばりたる定格なるものをいかでナガナガシ夜といへるのみをば怪しみぬべき(○節略)
といひ同人の活語指南(上卷七丁)には
(2512)  用と體とにてはナガナガシキ夜と云べきなれど此を一の體言にしては即ナガナガシ夜と云が言靈自然の格也。然るにナガナガシ夜ヲ獨カモネンと云るを不成語のやうに思ひナガキナガ夜とよむべき事ぞなど云は元來詞の活と云事を知らぬにて笑ふにたへぬ事ぞかし
といひ、間〔日が月〕宮永好の犬※[奚+隹]隨筆(上卷八六頁)には
  香川景樹が百首異見に『或人ナガキナガヨヲとよめるはいとよし。ナガナガシヨとは續かぬ詞にてさはいはれぬ格なり』といへり。永好按にこれ極めて誤なり。さるはナガナガシのシはシキの意のシにて體語へつづく格にして其例これかれあればなり。然るを右のシはウレシ、カナシ、ウシ、ツラシなどのシの格ぞと思へるはいと狹きことなりや。こは古への一の格にて古事記上卷にトホドホシコシノクニニ云々、同中卷にミヅミヅシ久米ノコガ云々、萬葉集十四卷に可奈之伊毛ガ云々、同十七卷に宇良故悲之ワガセノキミハ云々、同十九卷に見我保之御面云々また見我保之君ヲまたウラガナシコノユフ影ニ云々など見ゆる古の一格なるべし
(2513)といへり。永好がシキの意のシと常のシとに別てるはあやなし。シキの意のシなど云ものは無し。ナガナガシキ夜のキを省きて一語としたるまでなり。又永好は此格と、連體格の代に終止格をつかふ格とを混同せり。トホドホシ越ノ國、ミヅミヅシ久米ノ子、ウラゴヒシワガセノ君、ウラガナシコノユフ影などは明に後者に屬すべきなり。中島廣足(窓の小篠下卷二一丁)は更にワタツミノトヨハタ雲ニ人日サシ〔右△〕、カリクラシ〔右△〕タナバタツメニ宿カラムなどのシとも混同せり。このシは古今集秋上なるワガセコガ衣ノスソヲフキカヘシ〔右△〕、ヲミナベシ秋ノ野風ニウチナビキ〔右△〕などのシ、キと同格にて又一つの格なり(卷一【三一頁】參照)。古義には右の山口の栞の説を擧げ、さて  げにもナガナガシ夜といはむに語の活の格におきてはさらに疑ふべきにあらざる事かたへの證例どもにても諭なき事なり。……余が今ナガナガシ夜といふべきにあらずといへるは活語の法にかかはりていへるにはあらず。古語のやうを考へわたすにすべてたゝまりをどれる詞を歌の七言句の位にすゑむ事は古人の詞つづけのさまにあらず。をどらせたる詞はミヅミヅシ久米ノ子、トホドホシ越ノ國など七言句の位の上に冠らせて姑く歌ひをはりて次をいふ處にお(2514)かざれば語の勢たゆみて古人の詞のさまになきことなればナガナガシ日、ナガナガシ夜などよまむは今の人の耳にはさもと聞ゆることなめれど作者の意にはかなふべくもなし。しかるをナガキナガヨとよむはナガナガシ夜とよむにはおとれりと思ふは(○義門の言なり)なほ後世の意にて古書見むとする癖の清くのぞこらざるが故なり
といへり。所謂をどりたる語を七言の句にもちふるを古人は好まずといへるは遽に左袒せられざれど上代の歌にさる例なきことなれば反證は擧げられず。案ずるにナガナガシヨヲといはむよりナガキナガヨヲといはむ方調ををしく(彼は平安朝歌人の趣味にかなふべく此は寧樂朝作者の好尚に合ふべし)又長々夜または永々夜と書かで長永夜と書きたるを見れば宣長雅澄などに從ひてナガキナガ夜ヲとよむべし○眞淵のいへる如く此歌は底本の歌とは別なるなり
 
2803 里中《サトナカ》になくなる鶏《トリ・カケ》のよびたてていたくはなかぬこもり妻はも
     一云里とよみなくなる鶏の
里中爾鳴奈流鶏之喚立而甚者不鳴隱妻羽毛
(2515)    一云里動鳴成鶏
 里中を古義にサトヌチとよめり。なほ舊訓の如くサトナカとよむべし。ナカとウチとの別はナカは間の意又は周の對なり。ウチは外の對なり○鶏はカケともトリともよむべし○考にイタクハナカヌを作者自身の事としコモリヅマに就いては
  心ノ内ノコモリヅマハモとよみしも同じく心に忍び思ふつまをいふべし。こゝは母が許にこもり或は隱して置たるなどをいふにあらず
といひ二註共に考の説に從へり。案ずるに上三句はイタクナクにかゝれる序、コモリヅマはシノビ妻なり。又イタクハナカヌはこもり妻のさまにて恨むる事などありても人の聞知らむことをおそれていたくは得啼かぬなり○コモリヅマハモはソノコモリ妻ハドウシテ居ルデアラウカといへるなり
 
2804 高山にたかべさわたりたかだかにわがまつきみをまちでなむかも
高山爾高部左渡高高爾余待公乎待將出可聞
 初二は序なり。わざとタカを重ねたるなり。タカベは鴨の類なり。はやく卷三(三七〇頁)にヲシトタカベト船ノ上ニスムとあり○タカダカニは人を待つさまなり。はや(2516)く卷四(八〇四頁)に見えたり。マチデナムカモは待敢ヘムカとなり
 
2805 伊勢の海ゆなきくるたづの音杼侶毛《オトドロモ》、君が所聞者《キコサバ》、吾《ワレ》こひめやも
伊勢能海從鳴來鶴乃音杼侶毛君之所聞者吾將戀八方
 初二は序なり。第三句を舊訓にオトドロモとよめるを考に音柁※[人偏+爾]毛の誤とし、雅澄はもとのまゝにて
  音オドロと云なるべし。音ヅレと云言もこの音ドロよりうつれる詞なるべし
といひて君ガ音信ダニモ聞エ來バと譯せり。又字音辨證(上卷三五頁)にはオトヅレモとよみて
  杼をヅと呼は同轉の遽(ノ)字、居(ノ)字にクの音あるひびきなり。又侶をレと呼は居にケ、於にイの音あるひびき也
といへり。案ずるにオトドロモとよみてオトヅレモといふ意とすべし。オトドロモは卷五なる書院餞酒日倭歌(九五〇頁)にヒト母禰ノウラブレヲルニとあるとおなじく方言ならむ○所聞者を從來キコエバとよめり上にもオモホシ、シロシ、キコシを所念、所知、所聞と書き又卷十三なる挽歌にアソバシ、シヌバシ、トラシを所遊、所偲、(2517)所取と書けるに據りてキコサバとよみ改むべし。キコサバはイヒタマハバにてここにてはイヒオコセタマハバなり○考に
  伊勢の海をしも取出ていふはその隣國に住る女の歌なるべし
といへるは非なり。イセノ海ユはイセノ海ヲなり。されば男の伊勢にて故郷なる妻を憶ひてよめるなり
 
2806 吾妹兒にこふれにかあらむおきにすむ鴨のうきねのやすけくも無《ナキ》
吾妹兒爾戀爾可有牟奥爾住鴨之浮宿之安雲無
 三四は序なり。結句は略解に從ひてヤスケクモナキ〔右△〕とよむべし(他書にはナシとよめり)。さて結句を考に安寢モセラレヌハと譯し二註の之に從へるは非なり。ヤスケクモナキに寢る意はなし。ただ心ノ安カル事モナキハといへるなり
 
2807 可旭《アケヌベミ》ちどりしばなく(白〔左△〕細乃《シキタヘノ》)君がたまくらいまだあかなくに
可旭千鳥數鳴白細乃君之手枕未厭君
 初句を從來アケヌベクとよめり。宜しくアケヌベミとよむべし○千鳥は契沖のい(2518)へる如く諸鳥なり。卷十六に
  吾門に千鳥しばなくおきよおきよわが一夜妻人に知らゆな
とあり○第三句は考に從ひて色細乃の誤としてシキタヘノとよむべし
 
  問答
2808 眉根かき鼻ひ紐|解《トキ》、待八方《マテリヤモ》いつかもみむとこひこしわれを
眉根掻鼻火紐解待八方何時毛將見跡戀來吾乎
    右上見2柿本朝臣人麿之歌中1。但以2問答1故累載2於茲1也
 上(二二六九頁)に
  眉根かき鼻ひ紐ときまつらむやいつかもみむとわがおもふ君
とあるがかはれるなり○解を考以下にトケとよめり。宜しくトキとよむべし。待八方は略解に從ひてマテリヤモとよむべし。イツカモ見ムトは早ク逢ヒタシトテとなり
 
(2519)2809 今日有〔左△〕者《ケフトイヘバ》鼻|之〔左△〕《ヒ》鼻|之火〔二字左△〕《ヒシ》眉かゆみおもひしことは君にしありけり
今日有者鼻之鼻之火眉可由見思之言者君西在來
     右二首
 初句を舊訓にケフナレバ、古義にケフシアレバとよめり。有を云の誤としてケフトイヘバとよむべし○第二句を略解に鼻之鼻火之の誤とし古義に鼻火之鼻火の誤とせり。宜しく鼻火鼻火之の誤とすべし。ハナヒハナヒヲシテとなり。即シバシバハナヒシテとなり○カユミオモフは痒ク思フなり。思之言者とかける言は事の借字なり。さればオモヒシハと云はむにひとし。君ニシアリケリは君ガ來マスナリケリとなり
 
2810 音のみをききてやこひむ(まそかがみ)目〔□で囲む〕|直相△而《タダニアヒミテ》こひまくも太口〔二字左△〕《オホシ》
音耳乎聞而哉戀犬馬鏡目直相而戀卷裳太口
 第四句を訓にメニタダニミテとよめるを考にタダニアヒミテとよみ改め古義に直相見而の誤とせり○大口を舊訓にオホクとよめり。契沖は之によりて太を大(2520)の誤とせり。さて略解に
  ただちに相見ばいかばかり戀の多からむといふかといひ、古義に
  聞たるばかりにこひむものかは、聞たるばかりにだにこふる我なればただちに相見て後こひむことのおほさはかねて知るゝとなりといへり。案ずるに太口を大四などの誤としてオホシとよみて尋常平凡ナリの意とすべし。さればキキテヤのヤはヤハにあらず。噂ノミ聞キテ戀ヒムカとなり
 
2811 此言を聞跡乎〔左△〕《キカムトナラシ》(まそかがみ)てれる月夜も闇耳見《ヤミトノミミシ》
此言乎聞跡乎眞十鏡照月夜裳闇耳見
     右二首
 第二句を契沖はめづらしくも聞跡手鴨の誤としてキカムトテカモとよみ、眞淵は聞跡哉の誤としてキキナムトカモとよみ、雅澄は聞跡有之の誤としてキカムトナラシとよめり。宜しく聞跡平の誤としてキカムトナラシとよむべし。立平之《タチナラシ》、踏平之《フミナラシ》などの平《ナラシ》をテニヲハのナラシに當てたるが異樣なればうつし誤れるなり○結句(2521)を眞淵はヤミニノミミシ、雅澄はヤミノミニミツとよめり。宜しくヤミトノミミシとよむべし。一首の意は昨夜明月ヲモ闇トノミ見シハカカル御言葉ヲ聞カム前兆ナルベクオボユといへるなり。奇拔を以て奇拔に酬いしなり。マソカガミといふ語を襲用せるもいにしへの贈答の體なり。おそらくは前夜月明なりしが曇りしならむ
 
2812 吾妹兒にこひてすべなみしろたへの袖反ししはいめにみえきや
吾妹兒爾戀而爲使無三白細布之袖反之者夢所見也
 袖をかへして寢れば夢に思ふ人に逢ふといふ俗信によりてよめるなり。古今集戀二にも  いとせめでこひしき時はぬばたまのよるの衣をかへしてぞぬる
とあり
 
2813 吾背子が袖かへす夜のいめならしまことも君に如相有《アヘリシゴトシ》
吾背子之袖反夜之夢有之眞毛君爾如相有
(2522)     右二首
 舊訓にアヘリシガゴトとよめるを古義にアヘリシゴトシに改めたり。袖カヘス夜ノは袖ヲ反シテ寢テ我ヲ見シ夜ノといふべきを略し又過去を現在にていへるなり。マコトモはゲニモなり
 
2814 吾戀はなぐさめかねつまけながくいめにみえずて年のへぬれば
吾戀者名草目金津眞氣長夢不所見而年之經去禮者
 マケナガクは久シクなり。ケナガクにマを添へたるなり
 
2815 まけながくいめにもみえず雖絶《タエタレド》わが片戀はやむ時も不有《アラズ》
眞氣永夢毛不所見雖絶吾之片戀者止時毛不有
     右二首
 契沖はタエヌトモ……アラジとよみ眞淵はタエタレド……アラズとよめり。後者に從ふべし
 
2816 うらぶれて物なおもひそ(あま雲の)たゆたふ心わがもはなくに
(2523)浦觸而物魚念天雲之絶多不心吾念魚國
 ウラブレテは悲ミテ、タユタフはウキウキトシタル、心ヲオモハヌは心ヲ持タヌなり
 
2817 うらぶれて物は不念《オモハジ》みなせ川ありても水はゆくちふものを
浦觸而物者不念水無瀬川有而毛水者逝云物乎
     右二首
 不念は古義に從ひてオモハジとよむべし(略解にはオモハズとよめり)○アリテモ水ハは水ハアリテモなり。ミナセ川トイヒテモナホイササカナル水ハアリテ逝クガ如ク我中モ稀ニ逢ハムヲリハアリナムヲとなり。古義の釋は從ひがたし○古今集戀五に
  みなせ川ありてゆく水なくばこそつひに我身をたえぬとおもはめ
とあるは今の歌によれるならむ
 
2818 (かきつばた)さき沼《ヌ》の菅を笠にぬひ著む日をまつに年ぞへにける
(2524)垣津旗開沼之菅乎笠爾縫將著日乎待爾年曾經去來
 逢はむと契りし事を菅を笠に縫ふに譬へ、逢ふ事を著るにたとへたるなり
 
2819 (おしてる)難波すが笠おきふるし後は誰《タガ》著む笠ならなくに
臨照難波菅笠置古之後者誰將著笠有魚國
     右二首
 タガ著ムは外ノ人ノ著ムとなり。されば四五の意は後ニハ君ガ著ベキ笠ナルニとなり○オキフルシは上(二五一三頁)にも引きたるワタツミノトヨハタ雲ニ入日サシなどと同格にていにしへ行はれし一格なり。こゝはオキ古シタルヨなど譯すべし○年タケ色衰ヘヌサキニ早ク來リテ逢ヒタマヘといふ意を含めたり。考以下に吾ハ他心ナシといふことを挿みて釋きたれどさる意はなし
 
2820 かくだにも妹をまち南《ナム》さよふけていでこし月のかたぶくまでに
如是谷裳妹乎待南左夜深而出來月之傾二手荷
 ナムの事は上(二四八九頁)なる色ニイデテ吾《ワハ》コヒナムヲの處にいへり。カクダニモ(2525)のダニは他のダニと異なり。カクバカリと譯すべし
 
2821 木間よりうつろふ月の影ををしみたちもとほるにさよふけにけり
木間從移歴月之影惜徘徊爾左夜深家里
     右二首
 木間〔日が月〕ヨリウツロフ月ノは木間ヨリモリクル月ノとなり。はやく卷十(一九四一頁)にコノマヨリウツロフ月ヲイツトカマタムとあり○途中デ月ヲ賞シテといへるなり。古義にコノ月影ニ見アラハサレナムコトノサスガニ名ノヲシケレバと譯せるは非なり
 
2822 (たくひれの)しら濱浪のよりもあへずあらぶる妹にこひつつぞをる
    一云こふるころかも
栲領巾乃白濱浪乃不肯縁荒振妹爾戀乍曾居
    一云戀流己呂可母
 初二は序なり。シラ濱は白砂の濱なり(一〇四九頁及一一八五頁參照)〇三四はシタ(2526)シミ寄リシ間モナク疎遠ニナリユク女ニとなり
 
2823 かへらまに君こそ吾に(たくひれの)白濱浪のよる時もなき
加敝良未〔左△〕爾君社吾爾栲領巾之白濱浪乃縁時毛無
     右二首
 カヘラマはカヘサマなり。ウラウヘなり〇三四は序なり。君コソはヨル時モナキにかかれり。コソといひてキと結べる例は上(二四九七頁)にあり○未は末の誤なり
 
2824 おもふ人こむとしりせば八重むぐらおほへる庭に珠しかましを
念人將來跡知者八重六倉覆庭爾珠布益乎
 玉は美しき小石なり
 
2825 玉しける家も何せむ八重むぐらおほへる小屋《ヲヤ》も妹と居者《ヲリセバ》
玉敷有家毛何將爲八重六倉覆小屋毛妹與居者
     右二首
 小屋は上(二四三八頁)にもヲチカタノハニフノ少屋ニとあり。居者は考に從ひてヲ(2527)リセバとよむべし。二註にはヲリテバとよめり。ヲリセバの下にウレシカラマシを補ひて聞くべし
 
2826 かくしつつありなぐさめ手〔左△〕《シ》(玉緒のたえて)わかればすべなかるべし
如是爲乍有名草目手玉緒之絶而別者爲便可無
 答歌によれば男の旅行く時女のよめるなり○玉ノヲノタエテはワカレバの枕なり。上(二五〇一頁)にミダレナの枕にタマノヲノタエテといへり○第二句を從來字のまゝにてアリナグサメテとよみたれどさてはとゝのはず。手を之乎《シヲ》の誤とするか又は之《シ》の誤としてヲを省きたりとすべし。さてアリナグサメシヲは自慰メタリシヲとなり
 
2827 くれなゐの花にしあらばころもでにそめつけもちて可行《ユクベク》おもほゆ
紅花西有者衣袖爾染著持而可行所念
     右二首
 可行を略解にイヌベクとよみ古義にユクベクとよめり○契沖は釋して君ガカホバセハタダ紅ト見ユルヲモシ誠ニ紅ノ花ナラバといへり
 
(2528)  譬喩
2828 くれなゐのこぞめの衣を下に著ば人|者〔左△〕《ノ》見久〔左△〕爾《ミルガニ》にほひいでむかも
紅之深染乃衣乎下著者人者見久爾仁寶比將出鴨
 第四句の者は一本に之とあり。さて從來此句をヒトノミラクニ又はヒトノミマクニとよめり。案ずるに久を之の誤として人ノ見ルガニとよむべし○隱妻ヲ設ケナバ人ノ見ルバカリ樣子ガ外ニアラハレムカといへるなり○卷七(一三九二頁)に
  くれなゐのこぞめのころも下に著て上にとりきばことなさむかも
とあり
 
2829 ころもしも多《オホク・サハニ》あらなむとりかへて著者也《キナバヤ》君が面忘れたらむ
衣霜多在南取易而著者也君之面忘而有
     右二首|寄《ヨセテ》v衣喩v思
 多は舊訓にオホクとよめり。契沖の如くサハニともよむべし○第四句を略解にキ(2529)ナバヤ君ガとよみ古義にキセバヤ君ガとよめり。訓は略解に從ふべし。但千蔭が釋して
  我多クノ衣ヲ持タラバ君ニ著カヘサセツツイカデ君ヲ面忘レテアランと思ひのあまりにいふ也
といへるは非なり。キナバヤは希望の意にあらず。著ナバにヤを添へたるにてそのヤはオモワスレタラムの下に引下して心得べし。即衣ヲトリカヘテ著ナバ君ガ我面ヲ忘レテアラムカといへるなり。卷七(一三七九頁)なる著テニホハバヤ人ノ知ルベキのバヤにおなじ
2830 あづさ弓|弓束《ユヅカ》まきかへ中見判〔二字左△〕さらにひくとも君がまにまに
梓弓弓束卷易中見判更雖引君之隨意
     右一首寄v弓喩v思
 第三句を考にナカミテハとよみ古義にはナカミワリとよむべしといふ或人の説を擧げたり。中廻而の誤としてナカタメテとよむべきか。なほよく考ふべし○ユヅカは弓の握革なり。ヒクトモ云々は引カウトモ引クマイトモアナタノ御勝手とな(2530)り〇一たび絶えし男の再逢はむといひしに答へたるならむ
 
2831 みさごゐる渚《ス》に座《ヰル》船の夕しほをまつらむよりは吾こそ益《マサレ》
氷〔左△〕沙兒居渚座船之夕塩乎將待從者吾社益
     右一首寄v船喩v思
 ミサゴヰルは准枕辭なり○座を舊訓にヲルとよめるを契沖はヰルに改めて
  和名集舟車類云、※[舟+鑁の旁](俗云爲流)船著v沙不v行也。今の俗に舟のすわると云なればヲルもヰルも皆居の字の心にて違ふまじけれど和名集に依てヰルと讀べき歟とは云なり
といへり。本朝月令(群書類從卷八十一)に引ける高橋氏文にも
  船遇2潮涸1(天)渚上(爾)居(奴)掘出(止)爲(爾)得2八尺白蛤一貝1
とあればげにヰルとよむべし。初句のヰルと重出せるは疚しからず。さて船にヰルといふは乘上ぐる事なり○益を略解にマサレとよめるを古義にマサメに改めて『略解にワレコソマサレとよめるはいとわろし』といへるは却て非なり。マサレとよむべし。ワガ夫ヲ待ツ心ノ方コソマサレとなり○氷は水を誤れるなり
 
(2531)2832 山河に筌乎伏△而《ウヘヲフセオキテ》、不〔□で囲む〕|肯盛△《モリアヘテ》年のやとせを吾《ワガ》ぬすまひし
山河爾筌乎伏而不肯盛年之八歳乎吾竊舞師
     右一首寄v魚喩v思
 第二句を舊訓にウヘヲフセオキテとよめり。然るにもとのまゝにてはフセオキテとはよまれざるによりて契沖は
  今按フセツツとよむべし。されど六帖にも今の點と同じければ伏の下に置の字の落たるか
といひ(訓義辨證にも而はツツともよむべしといひてウヘヲフセツツとよめり)眞淵はカタミヲフセテとよめり。和名抄に筌(宇倍)捕v魚竹|※[竹/句]《コウ》也とあればなほウヘとよむべく又舊訓に合せて伏の下に置の字を補ふべし。さてウヘのさまは代匠記に
  山川に石をたゝみよせて水の早く落る所にまろく簀を編て簀の尻をひとつにくゝりて魚の出ぬやうにして其水落にあてゝ置て人にも取られじ鳥獣にも取られじとて人は其傍に居て守るなり
といへり○不肯盛を考にモリアヘズとよめり。なほ後にいふべし。年ノヤトセは長(2532)キ間となり○吾を契沖眞淵はワガとよみ雅澄はアヲとよめり。さて一首の意を契沖は釋して
  ヌスマヒシはヌスミシなり。山川に筌を伏て守れども久しくしてたゆむ時に人も鳥獣も來て盗むが如く我思ふ人をも親などの守れども此年の八歳の程ひまひまを窺て我相見しとなり。魚をば女に喩へたるなり
といひ眞淵は之に從ひたれど、さては第三句と結句と自他相かなはざるを如何にせむ。雅澄は上三句をヌスマヒシの序とし吾をアヲとよみヌスマフを欺く意とせり。上(二三七七頁)に
  こころさへまつれる君になにをかもいふべからずとわがぬすまはむ
とあるを思へばヌスマフは包み隱す事なり○第三句はモリアヘテとあらではかなはず。おそらくは肯盛而とありしを誤れるならむ。その盛は守の借字なり。さて初二はモリにかゝれる序にてモリは序よリのかゝりにては番をする事、主文の方にては人目をうかがふ事なり。さればモリアヘテは人目ヲウカガヒオホセテとなり
 
2833 葦鴨のすだく池水|雖溢《ハフルトモ》まけ溝のへにわれこえめやも
(2533)葦鴨之多集池水雖溢儲溝方爾吾將越八方
     右一首寄v水喩v思
 第三句を眞淵がアフルトモとよめるを二註にハフルトモに改めたり。ハフルとアフルとは同源の語なればいづれにてもよけれど卷十四にクニ波夫利ネニタツクモノ云々とあるに依りてハフルトモとよむべし○マケミゾは『池水の多き時水を放て塘をそこなはじと兼て儲け置溝なり』と契沖のいへる如し〇一首の意も思ハ胸ニアマルトモアダシ心ハモタジといへるなる事契沖のいへる如し。但契沖が人言ハ葦鴨ノスダク如クサワギテとうつし添へたるは非なり。アシガモノスダクはカハヅナクカムナビ川、下なる眞クズハフ小野などのカハヅナク。マクズハフとひとしく主語の装飾なるのみ。一首の意には與からず
 
2834 日本《ヤマト》の室原《ムロフ》の毛挑もとしげくいひてしものを成らずば止まじ
日本之室原乃毛桃本繁言大王物乎不成不止
    右一首寄v菓喩v思
(2534) 初二は序、日本は大和の借字、ムロフは大和國字陀郡の地名なり○モトシゲクはただシゲクといひて可なるを序の縁にてモトシゲクといへるにてイハモト菅ノ根フカクモ、サス竹ノハゴモリテアレなどと同格なり。考にモトを初と譯せるは非なり。古義に『毛桃のつづきのよせにいへるにて本〔右△〕の言は歌に用なし』といへるぞよろしき○シゲクイヒテシモノヲは度々妻ドヒシヲとなり。ナラズバは事成ラズバなり。このナルを考以下に毛桃の縁語とせるはわろし。序に毛桃をつかひて下にナルといへるは偶然のみ
 
2835 まくずはふ小野の淺茅を心ゆも人|引〔左△〕目《カラメ》やも吾莫名國《ワレナケナクニ》
眞葛延小野之淺茅乎自心毛人引目八面吾莫名國
 略解に引目とあるを訝りて
  淺茅に引といふ事心ゆかず。もしくは引は刈の字の誤にて人カラメヤモならんか
といへり。げに刈の誤とすべし○結句を舊訓にワレナラナクニとよみ考にワレナケナクニとよめり。後者に從ふべし。吾ナケナクニは吾ナカラナクニにて所詮吾アルニとなり。古義に吾ニテナキニハアラヌモノヲと譯したるはわろし。語例は卷一(一一七頁)に
  わがおほきみものなおもほしすめ神のつぎてたまへる吾莫勿久爾《ワレナケナクニ》
 卷四(六三二頁)に
  わが背子はものなおもひそ事しあらば火にも水にも吾莫七國《ワレナケナクニ》
とあり〇一首の意を考に釋して
  しめゆひし我なくばこそあらめ我在からはあだし人の心よりして引とる事は得めやといへり
といひ古義も人を第三者とせり。もしさる意ならば初句に必要ならざる准枕辭をつかはずしてシメユヒシ又はシメサシシといふべきなり。案ずるにこは女の歌にて淺茅はあだし女、人は相手の男なり。されば一首の意は
  吾トイフモノ無クハアラヌニアダシ女ニ君ガ(自分ノ心カラ)言カヨハスベシヤハ
といへるなり
 
(2536)2836 三島菅いまだ苗なり時またば著ずやなりなむ三島すが笠
三島菅未苗在時待者不著也將成三島菅笠
 二三の間にサリトテ、四五の問に嗚呼イカニセムといふことを補ひて聞くべし。童女を菅のまだ苗なるに譬へたる事契沖以下のいへる如し
 
2837 みよし野のみぐまが菅をあまなくに刈のみかりてみだりなむとや
三吉野之水具麻我菅乎不編爾刈耳苅而將亂跡也
 アマナクニは薦ニ編マヌニなり○考に
  さまざまと心をつくして終にわが物ともならずあらけはてなんやとおぼつかなむなり
といひ古義に
  女のあはむとうけ引たるものからなほ我妻とも得定めずてさまざま思ひみだれなむとにやと云を菅を刈たるのみにてなほ未薦にあまず亂しおきなむとにやといふにたとへたり
(2537)といへるは非なり。こは女の歌にて逢ひそむることをアムにたとへ契りおく事をカルにたとへて
  逢ヒソメモセヌニ約束ノミシテ我心ヲ亂サムトニヤ
といへるなり。カリノミカリテの語例は卷十(二〇八六頁)に秋ハギヲヲリノミヲリテオキヤカラサムとあり○細井貞雅は『三吉野は古本に三島江とあり』といへり(姓氏録考證卷十五荒城朝臣之註所引)。さる本果してありや
 
2838 河上《カハカミ・カハノヘ》にあらふ若菜のながれ來て妹があたりの瀬にこそよらめ
河上爾洗若菜之流來而妹之當乃瀬社因目
     右四首寄v草喩v思
 河上を從來カハカミとよみ殊に古義には
  河上とは河の上つ方なり。河上ノイツモノ花また河上ノネジロタカガヤなどとはいささか意たがへり
といへり。即古義などはナガレ來テとあれば今もいふ河カミの意として河上《カハカミ・カハノヘ》ノイツモノ花などの河ノホトリの意なると別とせるなり。案ずるに妹ガアタリノ瀬ニ(2538)コソヨラメといへるを見れば作者は妹の傍に居るにあらず。從ひてナガレ來テはナガレユキテの意とせざるべからず(本集には往々ユクを來《ク》といへり)。而してナガレ來テをナガレユキテの意とすれば作者は若菜を洗ふ處に居ても妨なきなり。從ひてこゝの河上を他處の河上と別意とせざるべからざる理由なきなり○上三句は我モシ河ノホトリニ洗フ此若菜ナラバソノ若菜ノ如ク流レ行キテといへるなり。若菜ノはナガレキテのみにかゝれるなり。妹ガアタリノ瀬ニコソヨラメまでかかれるにあらず。代匠記に『我も遂には妹をより所にせむと云意なり』といひ二註の之に從へるは誤解なり。又古義に『瀬はこゝはより處といふ處なるを河のちなみにいへるなり』といひて處といふ意の瀬の例をならべたるは誤解にもとづけるいたづら言なり
 
2839 かくしてやなほや成牛鳴《ナリナム》、大荒木の浮田の杜の標《シメ》ならなくに
如是爲哉猶八成牛鳴大荒木之浮田之杜之標爾不有爾
     右一首寄v標喩v思
 宣長は成を朽の誤とせり。なほもとのまゝにて契沖の如くナリナムとよむべし。玉(2539)篇に牟(ハ)牛鳴とあればムに牛鳴を借り、ナムのナはよみ添へさせたるなり。初二の語例は卷四(七七三頁)に
  かくしてやなほやまからむちかからぬ道のあひだをなづみまゐ來て
 又卷七(一四一八頁)に
  かくしてやなほや老いなむみゆきふる大荒木野の小竹《シヌ》ならなくに
とあり。カクシテヤのヤはヤハの意、ナホヤのヤは助辭、ナホはイタヅラニといふことなり。さればカクシテヤナホヤナリナムはカクシツツ徒ニ成リナムヤハとなり。標《シメ》はシメ繩ならで字の如く標木なるべくその標木はいたづらに立てるものなれば標ナラナクニといへるなり。標木をもシメといひし例は孝徳天皇紀白雉四年に立2宮堺(ノ)標1また續紀天平寶字三年冬十月に限2伊勢大神宮之堺1樹v標などあり○大荒木杜は山城の地名なり
 
2840 幾〔左△〕多毛《ハナハダモ》ふらぬ雨ゆゑ吾背子がみ名の幾許《ココダク・ココバク》瀧|毛〔左△〕《ノ》とどろに
幾多毛不零雨故吾背子之三名乃幾許瀧毛動響二
     右一首寄v瀧喩v思
(2540) 初句を從來イクバクモとよめり。甚多毛の誤なるべし。卷七(一四三五頁)にも
  甚多毛ふらぬ雨故にはたつみいたくなゆきそ人のしるべく
とあり○幾許を舊訓にココダク、考にココバクとよめり。いづれにても可なり○瀧毛は上(二四五八頁)なる朝ゴチニヰデコス浪ノといへる歌の處にていひし如く瀧乃の誤ならむ○初二はあまたたびも逢はぬことを譬へたるなり。結句の下に立チタルコトヨといふ言を加へて聞くべし
                          (大正十一年七月講了)
   2005年3月16日(午後)1時40分、入力終了。2005.8.8予備的校正終了。
(流布本目録省略)
 
 
萬葉集新考第五  1928.8.8発行
 
      圖版解説
紙本縱四尺一寸三分、横一尺七寸五分。加藤千蔭が萬葉集卷三(本書四一五頁)なる長歌を書いたものである
譯文
    山部宿禰赤人望2不盡山1作歌
 天地之(アメツチノ)分時從(ワカレシトキユ)神左備手(カムサビテ)高貴寸(タカクタフトキ)駿河有(スルガナル)布土能高嶺乎(フジノタカネヲ)天原(アマノハラ)振放見者(フリサケミレバ)度日之(ワタルヒノ)陰毛隱此(カゲモカクロヒ)照月乃(テルツキノ)光毛不見(ヒカリモミエズ)白雲母(シラクモモ)伊去波伐加利(イユキハバカリ)時自久曾(トキジグゾ)雪者落家留(ユキハフリケル)語告(カタリツギ)言繼將徃(イヒツギユカム)不盡能高嶺者(フジノタカネハ)
     反歌
 田兒之浦從(タゴノウラユ)打出而見者(ウチデテチミレバ)眞白衣(マシロニゾ)不盡能高嶺爾(フジノタカネニ)雪波零家留(ユキハフリケル)
                         千蔭書
(凡例省略)
(目次省略)
 
(2547) 萬葉集新考卷十二
                   井上通泰著
 
  正述2心緒1
2841 我背子があさけのすがたよく見ずてけふの間をこひくらすかも
我背子之朝明形吉不見今日間戀暮鴨
 アサケノスガタは夜ガ明ケテ歸行キシ男ノ姿なり○卷十(一九七四頁)にも
  朝戸出の君がすがたをよく見ずて長き春日をこひやくらさむ
とあり
 
2842 我心等《ワガココロト》、望使念《ノゾミシモヘカ》、新夜《アラタヨノ》ひと夜もおちず夢見《イメニシミユル》
我心等望使念新夜一夜不落夢見
 考に望使念を無便念の誤としてワガココロトスベナクモヘバとよみ、古義に我心等を我等心の誤とし望使念を氣附念の誤としてアガココロイキヅキモヘバとよ(2548)めり。初句はもとのまゝにてワガココロトとよむべし。第二句も亦もとのまゝにてノゾミシモヘカとよむべきか。ノゾミシモヘカは夢ニ見ムト望ミ思ヘバニヤとなり。使は卷九(一八三八頁)にクル侍《シ》キニとあれば侍の誤にてもあるべし○第三句を舊訓にアタラヨノとよめるを考に新玉の誤としてアラタマノとよめり。こは下に
  今更にねめやわがせこ荒田麻之ひと夜もおちず夢にみえこそ
とあるに據れるなれど古義にはその荒田麻之を荒田夜〔右△〕之の誤としこゝをもアラタヨノとよみて
  アラタ夜とは世の事を新世《アラタヨ》といふと同例にて經カハリ經カハリアラタマル夜と云ことなり
といへり。此説に從ひて次々ニ來ル夜といふ意とすべし○結句は舊訓にユメニミエケリとよみ考にイメニシミユルとよめり。考に從ふべし
 
2843 與愛《ウツクシト》わがもふ妹を人皆の如去見耶《ユクゴトミメヤ》、手にまかずして
與愛我念妹人皆如去見耶手不纏爲
 初句を舊訓にウツクシトとよめるを略解にウルハシトに改めたるはわろし。カハ(2549)ユシといふ意なればウツクシトとよむべし(二三八〇頁參照)○第四句は略解の如くユクゴトミメヤとよむべし。但意は古義にいへる如く世間〔日が月〕ノ人ノ行クヲ見ル如クヨソニ見メヤハといへるなり。略解の釋は非なり
 
2844 このごろの寢之不寢《イノネラエヌハ》(しきたへの)手枕まきて寢欲《ネマクホレコソ》
此日寢之不寢敷細布手枕纏寢欲
 第二句は略解に從ひてイノネラエヌハとよむべく結句も同書に從ひてネマクホレコソとよむべし。古義にホリコソに改めたれどホレバコソといふ意なれば必ホレコソとよむべし。妹ノ手枕ヲマキテ寢マクホレバコソ寢《イ》ノ寢ラレヌナレといへるなり
 
2845 忘哉《ワスルヤト》ものがたりして意遣《ナグサメテ》、雖過《スグセド》すぎず猶戀《ナホゾコヒシキ》
忘哉語意遣雖過不過猶戀
 初句は契沖に從ひてワスルヤトとよむべし。第三句を從來ココロヤリとよめり。宜しくナグサメテとよむべし(二二七三頁及二二九八頁參照)○雖過は契沖に從ひて(2550)スグセドとよむべく結句は眞淵に從ひてナホゾコヒシキとよむべし。スグセドスギズは思ヲ過シ遣レド思ガ過ギ行カズとなり
 
2846 夜不寢《ヨヲネズテ》、安不有《ヤスクモアラズ》しろたへの衣不脱《コロモハヌガジ》ただにあふまで
夜不寢安不有白細布衣不脱及直相
 初二を舊訓にヨルモネズヤスクモアラズとよみ略解にヨルモネジヤスクモアラジとよめり。宜しくヨヲネズテヤスクモアラズとよむべし。卷三(五六三頁)にイカニカヒトリ長夜乎將宿《ナガキヨヲネム》とあり。ヤスクモのモは輕く添へたるなり○第四句を從來コロモモヌガジとよめり。宜しくコロモハ〔右△〕ヌガジとよむべし。丸寢セムといへるなり
 
2847 後相《ノチモアハム》、吾莫戀《ワニナコヒソト》、妹はいへどこふる間に年はへにつつ
後相吾莫戀妹雖云戀間年經乍
 初句を舊訓にノチニアハムとよみ契沖はノチモアハムとよめり。後者に從ふべし。さてノチモアハムは獨立せる文なり。吾に續けるにあらず○第二句はワニ〔右△〕ナコヒソトとよむべし
 
(2551)2848 ただにあはず有諾《アルハウベナリ》いめにだに何人《ナニカモヒトノ》ことのしげけむ
     或本歌曰うつつにはうべもあはなくいめにさへ
直不相有諾夢谷何人事繁
    或本歌曰寢〔左△〕者諾毛不相夢左倍
 第二句は契沖に從ひてアルハウベナリとよむべし○第四句を二註共にナニシカ人ノとよめり。宜しくナニカモとよむべし。ナニカモは何カハにおなじくシゲケムは繁カラムにおなじ。イメニダニは後の語法によらば或本の如く夢ニサヘといふべし。一首の趣は夢にだに見えぬを訝り恨みたるなり
 或本歌の寢は寤の誤ならむ
 
2849 (ぬばたまの)彼△夢《ソノヨノイメノ》、見繼哉《ミエツゲヤ》そでほす日なく吾戀矣《ワレハコフルヲ》
烏玉彼夢見繼哉袖乾日無吾戀矣
 第二句を舊訓にソノヨノユメニとよめるを宣長は彼夢を夜夢の誤としてヨルノイメニヲとよめり。彼の下に夜を補ひてソノヨノイメノ〔右△〕とよむべし。ソノ夜といへ(2552)るは夢を見し夜なり○第三句は契沖のミエツゲヤとよめるに從ふべし。ミエツゲヤは見エ繼ゲカシとなり○結句は舊訓にワガコフラクヲ、古義にワレハコフルヲとよめり。後者に從ふべし
 
2850 うつつには直不相《タダニアハナク》いめにだに相見與《アフトミエコソ》わがこふらくに
現直不相夢谷相見與我戀國
 第二句を舊訓にタダニモアハズとよみ古義にタダニアハナクとよめり。古義に從ふべし。第四句は契沖に從ひてアフトミエコソとよむべし
 
  寄v物陳v思
2851 人所見《ヒトノミル》、表結《ウヘハムスビテ》、人不見《ヒトノミヌ》した紐あけてこふる日ぞおほき
人所見表結人不見裏紐開戀日太
 上三句を考以下にヒトミレバウヘヲムスビテ人ミネバとよめり。宜しくヒトノミルウヘハムスビテ人ノミヌとよむべし。ミルを所見と書けるは卷十一(二二四五頁)(2553)にヒトノ所寐《ヌル》と書けると同例とすべきか。又は二處ながら所を衍字とすべきか○ウヘは衣の上に結ぶ帶にてシタヒモは褌《ハカマ》の紐なり。アケテは解キテなり(二二六八頁及二二七九頁參照)○さて考に
  下紐のとくるは人に逢はむ前つさがとする故に強ても解てあはむ事をいはふ也
といへれど下紐のおのづから解くるこそ人に逢はむ祥なるべけれ、強ひて解きたらむは祥となるべからず。されば古義には其矛盾を調和して
  おのづからとくることはなくとも、おのづから解くるになぞらへて設けてもときあけたらばもし逢ふこともあらむかと、せめてのわざにひとへにあはむことを希ひてする由なり
といへれど未人をして首肯せしむるに至らず。案ずるに下紐を解くは人に逢はむ呪のみ。はやく卷十一(二二六九頁)にも
  眉根かき鼻ひ紐とき待つらむやいつかもみむとわがおもふ君
とあり
 
(2554)2852 人言の繁時《シゲカルトキヲ》、吾妹《ワギモコガ》きぬにありせばしたにきましを
人言繁時吾妹衣有裏服矣
 第二句を二註共にシゲケキトキニとよめり。シゲケキといふ辭は無ければシゲカルトキヲとよむべし○第三句を古義にはワギモコシとよめり。舊訓に從ひてワギモコガとよむべし○結句は古義にソト裏《シタ》ニ著コメテ人ニ知ラセズシテアルベキモノヲと譯せる如し
 
2853 (眞珠眼〔左△〕《マタマツク》)遠△兼《ヲチコチカネテ》、念《オモフニゾ》ひとへごろもを一人きて寢《ヌル》
眞珠眼遠兼念一重衣一人服寢
 眞淵は眼を附の誤としてマタマツクヲチヲシカネテオモヘレバとよみ、宣長は卷四(七五八頁)に
  眞玉付|彼此《ヲチコチ》兼手ことはいへどあひて後こそくいはありといへ
 又下に
  眞玉就彼此兼而むすびつるわが下紐のとくる日あらめや
(2555)とあるに據りて遠の下に近の字を補ひてヲチコチカネテとよめり。又雅澄は眼を服の誤として眞淵の如くマタマツクとよめり。マタマツクは眞玉附クル緒とかゝれる枕辭なり。ツクルといはでツクといへるは連體格の代に終止格をつかひたるにてクシロツクタフシノ崎ニなどと同格なり。ヲチコチカネテは今ト後トヲ兼ネテとなり○念……寢を二註にオモヘレバ……ネヌとよめり。宜しくオモフニゾ……ヌルとよむべし〇四五は二人ノ衣ヲ重ネズシテ獨寢ルとなり
 
2854 しろたへのわが紐の緒のたえぬ間に戀むすびせむあはむ日までに
白細布我紐緒不絶間戀結爲及相日
 卷四(六四五頁)に
  獨ねてたえにし紐をゆゆしみとせむすべしらにねのみしぞなく
といふ歌あり。其歌の處にいへる如く獨寢て衣の紐の絶ゆれば夫婦の契に不祥なる事ありなどいふ俗信ありしなり。されば今は紐の緒の絶えざらむうちにしばらく結びおかむといへるにてその結方に戀結といふがありしにこそ。契沖千蔭は『古今集に何ヲカハ戀ノミダレノツガネ緒ニセムとよめるが如し』といへれどアハレ(2556)テフ言ダニ無クバといふ歌とは相與る所なし
  因にいふ。彼歌の初二はセメテ嗚呼氣ノ毒ヂヤトイフ一言ナリトモ承ラズバといへるなり。遠鏡の譯は自他を誤れり
 
2855 新治《ニヒバリニ》、今作路《イマハルミチノ》、清《サヤケクモ》、聞鴨《キキテケルカモ》、妹がうへのことを
新治今作路清開鴨妹於事矣
 初二は序なり。初句を從來ニヒバリノとよみ第二句を舊訓と古義とにイマツクルミチとよみ考、略解にはそれにノをよみ添へたり。宜しくニヒバリニイマハルミチノとよむべし○第三句の清を二註にサヤカニモとよめり。サヤカニといはでサヤケクといふが古語の例なれば(四三九頁アタタケク參照)こゝも舊訓の如くサヤケクモとよむべし。新墾の道路は清潔なればサヤケクモの序としたるなる事古義にいへる如し○第四句は考に從ひてキキテケルカモとよむべし。二註にキキニ〔右△〕ケルカモとよめるはわろし
 
2856 山|代《シロ》の石田《イハタ》の杜に心おそく手向したれや妹にあひがたき
(2557)山代石田杜心鈍手向爲在妹相難
 石田(ノ)神は嫉妬深き神にて此神に手向すれば却りて妹に逢ふ事が妨げらるといふ俗信ありしならむ。卷九(一七二九頁)なる
  山科のいは田のもりをふみこえばけだし吾妹にただにあはむかも
の處にいへる事と參照すべし。古義に
  石田(ノ)神社に心利くたむけしたらましかば神もあはれとうけひきましましてやがて事依しつゝ妹に逢べきに心おそくたむけしたれば神慮に叶はすして納受したまはざりし故にや妹にあひがたかるらむと云るにて奉幣せしことの心鈍かりしを悔るなり
といへるは從はれず
 
2857 (すがの根の)ねもころごろにてる日にもひめやわが袖妹にあはずして
菅根之惻隱惻隱照日乾哉吾袖於妹不相爲
 卷十にも
  みな月の地さへさけててる日にも吾袖ひめや君にあはずして
(2558)とあり
 
2858 妹にこひいねぬ朝《アシタ》に吹風《フクカゼノ》、妹經者《イモニフレナバ》、吾共經《ワレニサヘフレ》
妹戀不寢朝吹風妹經者吾共經
 朝を舊訓にアシタとよめるを古義にはアサケに改めたり。もとのまゝにて可なり○第三句以下を略解にフクカゼシイモニフレナバワガムタニフレネとよみ、古義に四五をイモニシフラバアガムタニフレと改めたり。案ずるに經《フル》は下二段活なればフルといふ時の外は觸の借字にはつかひがたきに似たれど卷十一にキミニコヒ浦經居《ウラブレヲレバ》(二二七〇頁)浦經《ウラブルル》ココロニニタリ(二三〇八頁)里トホミ眷浦經《コヒウラブレヌ》(二三三三頁)などフルル、フレにも借用ひたればこゝもげに觸の借字とすべし。さて第三句以下はフクカゼノイモニフレナバワレニサヘフレとよむべし○古義の釋は行過ぎたり。ただ妹に觸れけむがゆかしさに我ニサへ觸レヨと願へるなり
 
2859 あすかがは高河避紫越來、信今夜《マコトコヨヒハ》、不明〔左△〕行哉《ネズテユカメヤ》
飛鳥河高河避紫越來信今夜不明行哉
(2559) 第二句を舊訓にタカガハトホシとよめるを眞淵はタカガハヨカシに改めたり。又第三句を略解にコエテキツ、古義にコエコシヲとよめり。案ずるに高河避紫はもと南川柴避《ナヅサヒ》とありしを南を高に、川を河に誤り柴避を避柴と顛倒し更にその柴を紫に誤れるにあらざるか。河は諸本に川〔右端の棒はL形〕とあり。又紫は柴に作れる本あり。もし南川柴避の誤ならば越を第二句に附けてナヅサヒコエテキタレルヲとよむべし〇四五を
  略解に  マコトコヨヒハアケズユカメヤ
  古義に  マコトコヨヒヲアケズヤラメヤ
とよめり。明を寐などの誤としてマコトコヨヒハネズテユカメヤとよむべきか
 
2860 やつり河みな底たえずゆく水のつぎてぞこふるこのとしごろを
    或本歌曰みをもたえせず
八鈎〔左△〕河水底不絶行水續戀是此歳
    或本歌曰水尾母不絶
(2560) 上三句は序なり。八釣は大和高市郡の地名○鈎は一本に釣とあり
 
2861 いその上におふる小松の名ををしみ人に知らえずこひわたるかも
    或本歌曰巖の上にたてる小松の名ををしみ人にはいはずこひわたるかも
礒上生小松名借人不知戀渡鴨
    或本歌曰巖上爾立小松名借人爾者不云鯉渡鴨
 イソは大石なり。初二はいかにかゝれる序にか。考には『大なる巖上に一つ生たる松はあらはに目に立ものなるを名に顯はるゝ譬とせり』といひ古義には『小松ノ根といふべきをネとナと音通へば名といへり』といへり。案ずるに巖の上に松の生ひたるはめづらしければ其松に附けたる名ありしによりて名の序とせるならむ。いにしへは今小松といふよりは遙に老大にて樹齢數十年を經、其蔭に人の立寄るばかりなるをも小松といひし事卷二(一九八頁)及卷四(七〇二頁)にいへる如し
 
2862 山河の水陰〔左△〕生《ミゴモリニオフル》やま草〔左△〕《スゲ》のやまずも妹がおもほゆるかも
(2561)山河水陰生山草不止妹所念鴨
 上三句は序、四五は始終妹ガシノバレルとなり○水陰を略解にミヅカゲとよみ考と古義とには隱の誤としてミゴモリとよめり。後者に從ふべし。ミゴモリニは水中ニ没シテなり。草を古義に菅の誤とせり
 
2863 あさば野に立神古《タチカムサブル》すがの根の惻隱誰故吾不戀
    或本歌云たかば野にたちしなひたる
淺葉野立神古菅根惻隱誰故吾不戀
    或本歌云誰葉野爾立志奈比垂
    右二十三首柿本朝臣人麻呂之歌集出
 古義に第二句の古の上に左を補ひてカムサブルとよめり。もとのまゝにても然よむべし。カムサブルはやがて古くなる事なればなり〇四五を二註にネモコロタレユヱワガコ【ハヒ】ナクニとよめり。おそらくは誤字あるべし○誰《タガ》を清音のタカに借れるは卷十一(二二四七頁)に枉をマケ(ユフカタ枉テ)に借れると同例なり
 
(2562)  正述2心緒1
2864 吾背子をいまかいまかとまちをるに夜のふけぬればなげきつるかも
吾背子乎且今且今跡待居爾夜更深去者嘆鶴鴨
 
2865 (玉くしろ)まきぬる妹もあらばこそ夜之長毛《ヨルノナガキモ》うれしかるべき
珠釼〔左△〕卷宿母有者許増夜之長毛歡有倍吉
 第四句を考にヨヒノナガキモとよみ古義にヨノナガケキモとよめり。ナガケキといふ辭は無し。ヨルノナガキモとよむべし(但考の如くヨヒとよみても可なり)。コソといひてベキと結べるは太古の語法なり○玉クシロはマキにかゝれる枕辭なり。マキヌルは枕キ寢ルなり。クシロは肘後に纏く金環にて玉クシロは之に玉を嵌めたるものなるべき事卷九(一七九一頁)にいへる如し。高力士傳に汝常弄2吾上雙金環1とあり楊太眞外傳に取2紅粟玉(ノ)臂支1賜2阿蠻1また阿蠻因進2金粟装(ノ)臂環1また紅玉支賜2妃子1とあるは即クシロなり○古義に釼を釵の誤として『釵は釧字と同じくてク(2563)シロなり』と云へれど釵《サイ》にクシロの義は無し。杜甫の詩に家々賣2釵釧《サイセン》1とあるは釵と釧と二つならむ
 
2866 人妻にいふはたが事|酢〔左△〕衣乃《サゴロモノ》この紐とけといふはたが言
人妻爾言者誰事酢衣乃此紐解跡言者孰言
 第二句のタガ事もタガ言なり。相手を深く咎めてタガイフ言葉ゾといへるなり○第三句を從來サゴロモノとよめり。げに然よむべけれどサに酢の字を借りたるはいぶかし。否酢にサの音なし。卷七(一二六九頁)に作夜フケテホリ江コグナルマツラ船と書ける例あれば酢は作の誤ならむ
 
2867 かくばかりこひむものぞとしらませば其夜はゆたにあらましものを
如是許將戀物其跡知者其夜者由多爾有益物乎
 四五はソノ夜ハユルリトシヨウモノヲといへるなり○卷十一に
  かくばかりこひむものぞとおもはねば妹がたもとをまかぬ夜もありき
とあり
 
(2564)2868 こひつつも後にあはむとおもへこそおのが命を長くほりすれ
戀乍毛後將相跡思許増己命乎長欲爲禮
 
2869 今は吾《ワ》は死なむよ吾妹あはずしておもひ渡ればやすけくもなし
今者吾者將死與吾妹不相而念渡者安毛無
 卷四に
  今は吾はしなむよわが背いけりとも吾によるべしといふといはなくに
とあり。ヤスケクはヤスキ事なり。ヤスクを延べたるにあらず
 
2870 我背子が將來跡語之《コムトカタリシ》、夜はすぎぬしゑや更〔左△〕更、思許理こめやも
我背子之將來跡語之夜者過去思咲八更更思許理來目八面
 第二句は舊訓の如くコムトカタリシとよむべし(略解にはキナムトイヒシとよめり)○シヱヤは一種の歎辭なり(二一〇〇頁參照)。更更は卷十(一九七五頁)に
  いそのかみふるの神杉かむさびて吾八更更戀にあひにける
といへる例あれどそれもこれも今更の誤ならざるか○シコリを眞淵は然リの轉(2565)ぜるなりといひ雅澄は爲損《シソコナ》ふ事なりといへれど共に穩ならず。又諸書に卷七(一三五一頁)なるカヒテシ絹ノ商自許理鴨を例に引きたれどそは商《アキ》ニ懲リツルの誤なるべき事彼處にいへる如し。なほ考ふべし
 
2871 人言のよこすをききて(玉桙の)道毛不相常《ミチニモアハジト》云△吾妹《イヒコシワギモ》
人言之讒乎聞而玉桙之道毛不相常云吾妹
 ヨコスは讒スルなり。四五を略解にミチニモアハジトイヘルワギモコとよみ宣長は常云を絶去の誤としてミチニモアハズタエニシワギモとよめり。案ずるに常を上に附け云の下に來を補ひてミチニモアハジトイヒコシワギモとよむべし
 
2872 あはなくも懈《ウシ》とおもへばいやましに人言しげくきこえくるかも
不相毛懈常念者彌益二人言繁所聞來可聞
 懈をウシとよまむは穩ならねど下に懈を海に借りてコシノ懈《ウミ》ノコガタノ懈《ウミ》ノと書けるを思へばこゝの懈もなほウシとよむべし○初二は逢ハヌ事ヲダニウシト思フニとなり
 
(2566)2873 里人もかたりつぐがねよしゑやしこひてもしなむたが名ならめや
里人毛謂告我禰縱咲也思戀而毛將死誰名將有哉
 カタリツグガネは我戀ヒテ死ニキトイフ事ヲカタリ繼グベクとなり○タガ名ナラメヤは君ノ名立ナラズヤ、然ラバ死ナヌウチニ逢ヘカシとなり○古今集戀二に
  こひしなばたが名はたたじ世の中の常なきものといひはなすとも
とあると相似たり
 
2874 たしかなる使をなみとこころをぞ使にやりしいめにみえきや
※[立心偏+送]〔左△〕使乎無跡情乎曾使爾遣之夢所見哉
 ※[立心偏+送]は慥の誤ならむ
 
2875 天地にすこし至らぬますらをと思ひし吾やをごころもなき
天地爾小不至大夫跡思之吾耶雄心毛無寸
 初二は天ノ高ク地ノ廣キニコソ少シ及バネ其他ハ物トモ思ハヌといふ意なるべし○考略解に卷三に天雲ノムカフス國ノ、マスラヲトイハレシ人ハとあるを引き(2567)たれど、そは遠國ノ武士といふことにてこゝと相與からず(五四四頁參照)
 
2876 里ちかく家やをるべき此吾目之、人目乎爲乍〔二字左△〕《ヒトメヲモルト》、戀のしげけく
里近家哉應居此吾目之人目乎爲乍戀繁口
 家ヤヲルベキは家居ヤハスベキとなり。イヘヰスルをいにしへイヘヲルといひしなり(一九一〇頁、一一一五頁、一九二二頁參照)○第三句を從來コノワガメノとよめり。此比日之の誤にてコノゴロノとよむべきにあらざるか○第四句を眞淵は人目毛里乍の誤とせり。おそらくは人目乎|候止《モルト》の誤ならむ○女が里近く家居すれば男はそを訪ふに人目を伺はざるを得ざるが故にサトチカク家ヤヲルベキといへるなり。略解に『男女近きわたりに家居する故』といへるは非なり
 
2877 いつは奈〔左△〕毛《シモ》こひずありとはあらねどもうたてこのごろ戀のしげきも
何時奈毛不戀有登者雖不有得田直此來戀之繁母
 初句は古義に奈を志の誤としてイツハシモとよめるに從ふべし。ウタテは怪シクなり○卷十一(二二四七頁)に
(2568)  いつはしもこひぬ時とはあらねども夕かたまけて戀はすべなし
とあり
 
2878 (ぬばたまの)いねてしよひのものもひに割西《ワレニシ》胸はやむ時もなし
黒玉之宿而之晩乃物念爾割西胸者息時裳無
 割西は舊訓にサケニシとよめり。古義に從ひてワレニシとよむべし。イネテシヨヒノは前夜ノといふ事
 
2879 みそらゆく名のをしけくも吾はなしあはぬ日まねく年の經ぬれば
三空去名之惜毛吾者無不相日數多年之經者
 初句を前註に『名の空までも立のぼる意なり』といへるは非なり。空ヲハシリユクといふ意なり○はやく卷四に
  つるぎだち名のをしけくも吾はなし君にあはずて年の經ぬれば
とあり
 
2880 うつつにも今も見てしがいめのみにたもとまき宿《ヌ》と見者《ミルハ》くるしも
(2569)     或本歌登〔左△〕句云わぎもこを
得管二毛今見牡鹿夢耳手本纏宿登見者辛苦毛
    或本歌登句云吾妹兒乎
 今モはタダ今なり。見者を舊訓にミレバとよみ考にミルハとよめり。考に從ふべし○登は發の誤なり
 
2881 立而居《タチテヰム》すべのたどきも今はなし妹にあはずて月のへぬれば
    或本歌云君が目みずて月のへぬれば
立而居爲便乃田時毛今者無妹爾不相而月之經去者
    或本歌云君之目不見而月之經去者
 初句を略解は舊訓に從ひてタチテヰルとよめるを古義にはタチテヰテとよめり。卷十なる長歌(二〇八二頁)にも立座タドキヲシラニとあり。もとのまゝならばタチテヰムとよむべけれどタチテヰムといはばスベノタドキモ今ハ知ラズとこそいふべけれ。されば此歌は下なる
(2570)  おもひやるすべのたどきも吾はなしあはぬ日まねく月のへぬれば
といふ歌を誤り傳へたるならむ
 
2882 あはずしてこひわたるとも忘れめやいや日にけにはおもひますとも
不相而戀度等母忘哉彌日異者思益等母
 三四の間〔日が月〕にムシロといふことを加へて聞かば通ずべし
 
2883 よそ目にも君がすがたを見てばこそ吾戀やまめ命不死者〔左△〕《イノチシナズテ》
     一云いのちにむかふ吾戀やまめ
外目毛君之光儀乎見而者社吾戀山目命不死者
     一云壽向吾戀止目
 ミテバは見タラバなり。結句を從來イノチシナズバとよみたれど者を弖の誤としてイノチシナズテとよまざればとゝのはず〇一云のイノチニムカフは卷四(七六二頁)に
  ただにあひて見てばのみこそたまきはる命にむかふわが戀やまめ
(2571)とありて命ニ匹敵スルといふ意なり
 
2884 こひつつもけふはあらめど(玉くしげ)將開明日《アケナムアスヲ》、如何《イカニ》くらさむ
戀管母今日者在目杼玉匣將開明日如何將暮
 第四句を略解にアケムアシタヲ、古義にアケムアスノヒとよめり。舊訓の如くアケナムアスヲとよむべし○如何を從來イカデとよみたれどイカニとよみ改むべし○卷十(一九六七頁)に
  こひつつも今日はくらしつかすみたつ明日のはる日をいかにくらさむ
とあり
 
2885 さよふけて妹を念出《オモヒデ》(しきたへの)枕もそよになげきつるかも
左夜深而妹乎念出布妙之枕毛衣世二嘆鶴鴨
 念出を略解にモヒデテ、古義にオモヒデとよめり。後者に從ふべし。卷二十なる長歌に
  はろばろに伊弊乎於毛比※[泥/土]、おひそやのそよとなるまで、なげきつるかも
(2572)とあり。ソヨニはソヨグバカリとなり
 
2886 ひとごとはまことこちたくなりぬともそこにさはらむ我ならなくに
他言者眞言痛成友彼所將障吾爾不有國
 ソコニサハラムはソレニ妨ゲラレムとなり
 
2887 立居《タチテヰム》たどきも不知《シラニ》わがこころあまつ空なり土はふめども
立居田時毛不知吾意天津空有土者踐鞆
 立居は上に立而居とあればタチテヰムとよむべし。立チタリシガスワルなり(考にはタチテヰル、古義にはタチテヰテとよめり)○不知は略解の如くシラニとよむべし(古義にはシラズとよめり)○第三句以下卷十一(二三五九頁)に心ソラナリ土ハフメドモとあるに似たり
 
2888 世のなかの人のことばとおもほすな眞曾戀之〔左△〕《サネゾコヒシキ》あはぬ日をおほみ
世間之人辭常所念莫眞曾戀之不相日乎多美
 世ノナカノ人ノコトバは即世辭なり○第四句を從來マコトゾコヒシとよみ、その(2573)コヒシを二註に過去格とせり。宜しく之を支の誤としてサネゾコヒシキとよむべし
 
2889 いでいかにわがここだこふる吾妹子があはじといへる事もあらなくに
乞如何吾幾許戀流吾妹子之不相跡言流事毛有莫國
 イデに二義あり。こゝなるはマアと譯すべく古今集戀一なる
  いで我を人なとがめそ大船のゆたにたゆたに物おもふころぞ
のイデ又允恭天皇紀の壓乞《イデ》などはドウゾと譯すべし○イカニはココダにかゝれるなり。されば上二句の意はマア、ワガドンナニ澤山コフル事ゾとなり。此二句は卷十一(二二六三頁)なる
  いでいかにここだくにわが利心のうするまでもふ戀〔左△〕故
の上四句と同格なり
 
2890 (ぬばたまの)夜をながみかも吾背子がいめに夢にしみえかへるらむ
(2574)夜干玉之夜乎長鴨吾背子之夢爾夢西所見還良武
 夢ニシ夢ニシといふべき上のシを省けるなり。ミエカヘルはたびたび見ゆるなり
 
2891 (あらたまの)年の緒長くかくこひば信《サネ》わが命|全《マタ》からめやも
荒玉之年緒長如此戀者信吾命全有目八目〔左△〕
 年ノ緒ナガクは數年ニ亘リテとなり。第四句は信をサネとよみて七言とすべし(從來マコトとよめり)○下の目は面の誤か
 
2892 おもひやるすべのたどきも吾はなし不相△《アハヌヒ》まねく月の經ぬれば
思遣爲便乃田時毛吾者無不相數多月之經去者
 上(二五六九頁)に
  立而居すべのたどきも今はなし妹にあはずて月のへぬれば
とかはれる歌あり。又第三句以下は
  つるぎ太刀名のをしけくも吾はなし君にあはずて年のへぬれば(卷四)
  みそらゆく名のをしけくも吾はなしあはぬ日まねく年のへぬれば(此卷)
(2575)  うつせみのうつしごころも吾はなし妹をあひ見ずて年のへぬれば(此卷)
など相似たるもの多し○オモヒヤルは思ヲ遣リ放ツなり。スベノタドキはただスベといひタドキといはむにひとし○第四句は宣長の説に從ひて不相の下に日の字を補ひてアハヌ日マネクとよむべし
 
2893 朝去而《アサユキテ》ゆふべは來ます君ゆゑにゆゆしくも吾はなげきつるかも
朝去而暮者來座君故爾忌忌久毛吾者歎鶴鴨
 初句を略解にアシタイニテ、古義にアシタユキテとよめり。舊訓の如くアサユキテとよむべしアサはアシタの約なり○君ユヱニは君ナルニなり。こゝのユユシクはイマハシクなり。二度ハ逢ハレヌモノノヤウニとなり
 
2894 ききしよりものを念へばわが胸はわれてくだけてとごころもなし
從聞物乎念者我胸者破而摧而鋒心無
 初句は妹ガ事ヲ聞キシヨリなり○上(二五六八頁)にワレニシ胸ハヤム時モナシとあり
(2576)2895 人言をしげみこちたみ我妹子にいにし月よりいまだあはぬかも
人言乎繁三言痛三我妹子二去月從未相可母
 
2896 うたがたもいひつつもあるか吾有者《ワレナラバ》つちにはおちじ空消生〔左△〕《ソラニキエツツ》
歌方毛曰管毛有鹿吾有者地庭不落空消生
 ウタガタはウツナク、決シテ、キツトなどいふ意なり。和名抄に沫雨和名宇太加太とあるとは別語なり。後撰集戀一に
  おもひ川たえずながるる水の沫のうたがた人にあはできえめや
とあるは決シテのウタガタと水沫のウタカタと同形異義なれば水ノ沫を決シテの序とせるなり
  因にいふ。此歌のウタガタは人ニアハデを越えてキエメヤにかゝれるにて本集卷十七なる
  あまざかるひなにあるわれを宇多我多毛ひもときさけておもほすらめや
  うぐひすのきなくやまぶき字多賀多母きみが手ふれず花ちらめやも
(2577)と同格なり。このウタガタモも紐トキサケテ、君ガ手フレズを越えてオモホスラメヤ、花チラメヤモにかゝれるなればなり
 さてウタガタモイヒツツモアルカはキット妹ガ云ヒツツアルダラウとなり
 第三句以下を舊訓にワレナラバツチニハオチジソラニケナマシとよみ考に生を共の誤としてワレシアレバ……ソラニケヌトモとよみ古義は考に從へり。さて其意を釋して考に
  吾心かくてあるからは打捨る事はせじ命は失ふとも
といひ古義に
  吾かくてあるからはたとひそこの命は死とも打捨ることはあるまじきなれば云々
といへり。案ずるに打捨ツル事ハセジなどいふ意ならばツチニハオトサジとこそいふべけれ、オチジとはいふべからず。されば第三句は舊訓に從ひてワレナラバとよむべし。結句は考の如く空ニケヌトモとよまむかといふに四五は雪によそへて云へりとおぼゆるに地におちじとするには空に消ゆるより外なければソラニケ(2578)ヌトモとは云ふべからず。必ソラニキエツツとこそ云ふべけれ。されば生を乍の誤としてソラニキエツツ又は空ニケニツツとよむべし○第三句以下は妹の辭なり。されば一首の意は
  妹ハ雪ヲ見テモシ我ナラバ空ニ消エテ地ニハオチジトウツナク云ヒツツアルナラム
といへるなり
 
2897 何《イカナラム》、日の時にかも吾妹子が裳引のすがた朝にけに見む
何日之時可毛吾妹子之裳引之容儀朝爾食爾將見
 何を舊訓にイカナラムとよめるを古義に卷五に伊可爾安良武、日ノトキニカモ云云とあるに據りてイカニアラムとよみ改めたり。いづれにても可なり。アサニケニは毎日なり
 
2898 獨ゐてこふればくるし(玉だすき)かけず忘れむことはかりもが
獨居而戀者辛苦玉手次懸將忘言量欲
(2579) カケズは心ニカケズにてやがて思ハズシテなり。コトハカリモガは工夫ガホシイとなり
 
2899 なかなかにもだもあらましを小豆《アヅキ》なくあひ見そめても吾はこふるか
中中點〔左△〕然毛有申尾小豆無相見始而毛吾者戀香
 モダモアラマシヲは逢見ソメザラマシヲとなり○アヅキナクはアヂキナクの訛なり(二三八一頁參照)○點は黙の誤なり
 
2900 吾妹子が咲《エメル》まよびきおもかげにかかりてもとなおもほゆるかも
吾妹子之咲眉引面影懸而本名所念可毛
 略解は契沖に從ひてヱメルとよみ古義は舊訓に從ひてヱマヒとよみマタ『ヱマムともよむべし』といへり。宜しくヱメルとよむべし。モトナは心外なり
 
2901 (あかねさす)日のくれ去者《ヌレバ》すべをなみ千たびなげきてこひつつぞをる
赤根指日之暮去者爲便乎無三千遍嘆而戀乍曾居
 去者を略解にユケバ、古義にヌレバとよめり。ヌレバとよみてヌルニと心得べし。晝(2580)といへどもすべあるにあらず日暮れていよいよすべなきなればなり
 
2902 わが戀はよるひるわかず百重なすこころしもへば甚《イトモ・イタモ》すべなし
吾戀者夜晝不別百重成情之念者甚爲便無
 卷四に
  三熊野の浦のはまゆふ百重なす心はもへどただにあはぬかも
とあり。古義に
  モモヘナスはモモ重ニといはむが如し。ナスは常に如クといふ意に用ふれどここは輕く見べし
といへり。ココロシは心ニシなり
 
2903 いとのきてうすき眉根《マヨネ》をいたづらに令掻管《カカシメニツツ》あはぬ人かも
五十殿寸太薄寸眉根乎徒令掻管不相人可母
 眉根をかくは人に逢はむ呪なり(二二六九頁參照)。卷四に
  いとまなく人の眉根をいたづらに令掻乍あはぬ妹かも
(2581)とあり○イトノキテを五十殿寸太と書けるその太を眞淵は※[氏/一]、千蔭は天、雅澄は手の誤とせり。案ずるに太はテともよむべし(二〇三六頁參照)。そのイトノキテは極端ニといふ事なり(九七二頁參照)○令掻管の下に毛などあらざればカカシメツツモとはよみがたきによりて眞淵雅澄はカカシメニツツとよめり
 
2904 こひこひて後もあはむとなぐさ漏《モル》心しなくばいきてあらめやも
戀戀而後裳將相常名草漏心四無者五十寸手有目八面
 略解にはモル、古義にはムルとよめり。モルとよむべし
 
2905 いくばくもいけらじ命をこひつつぞ吾はいきづく人に知らえず
幾不生有命乎戀管曾吾者氣衝人爾不所知
 第二句は生キテアルマイ命ナルニとなり
 
2906 ひと國によばひにゆきて太刀が緒もいまだ解かねばさよぞあけにける
他國爾結婚爾行而太刀之緒毛未解者左夜曾明家流
(2582) ヒト國はヨソノ國、ヨバヒは妻ドヒなり(一八六八頁參照)。トカネバはトカヌニなり古事記なる八千矛神の御歌にタチガヲモイマダトカズテ、オスヒヲモイマダトカネバ云々とあるに據れる事前註にいへる如し
 
2907 ますらをのさときこころも今はなし戀の奴に吾はしぬべし
大夫之聡神毛今者無戀之奴爾吾者可死
 第四句を眞淵は戀ノ奴トシテの意とし契沖雅澄は戀ノ奴ノ爲ニの意とせり。後者に從ふべし。戀ニ死ヌとあらば誰も戀ノ爲ニ死ヌと聞くべきを奴といふ語を挿みたるによりてきゝまどはるゝなり○聡は聰の俗字なり
 
2908 常かくし戀者《コフレバ》くるししまらくも心安めむことはかりせよ
常如是戀者辛苦暫毛心安目六事許爲與
 戀者は舊訓の如くコフレバとよむべし(略解にはコフルハとよめり)。コトハカリセヨを略解に『みづから下知するやうにいひなしたる也』といひ古義に『妹に令《オホ》せたるなり』といへり。後者に從ふべし○卷四に
(2583)  よそにゐてこふればくるし吾妹子をつぎてあひみむことはかりせよ
 又上に
  ひとりゐてこふればくるし玉だすきかけずわすれむことはかりもが
とあり
 
2909 凡爾《オホロカニ》、吾しおもはば人妻にありちふ妹にこひつつあらめや
凡爾吾之念者人妻爾有云妹爾戀管有米也
 初句は契沖雅澄に從ひてオホロカニとよむべし。世間並ニとなり(二三七三頁參照)
 
2910 心には千重に百重におもへれど人目をおほみ妹にあはぬかも
心者千重百重思有杼人目乎多見妹爾不相可母
 
2911 人目おほみ目こそしぬぶれすくなくも心のうちにわがもはなくに
人目多見眼社忍禮小毛心中爾吾念莫國
 目コソシヌブレは所見《ミヌ》コソシノベにて逢フ事コソ人目ヲシノビテタマサカナレとなり。このシヌブは隱れしのぶ意にていにしへは二段活なりしが後に四段活と(2584)なりしなり○第三句以下の意は心ノウチニハココダク思フ事ナルヲとなり。卷十一(二三四七頁及二三八二頁)に下三句相同じき歌あり
 
2912 人の見てこととがめせぬいめに吾《ワガ》こよひいたらむ屋戸さすなゆめ
人見而事害目不爲夢爾吾今夜將至屋戸閉勿勤
 吾は略解に從ひてワガとよむべし(舊訓にはワレとよめり)○コトトガメは言ニトガムルなり。言ヲトガムルにあらず。コトホグ、コトドフなどのコトにおなじ○屋戸を眞淵は宿と異なればとてヤノトとよめり。古事記に天(ノ)石屋戸、本集卷四(七九六頁)に屋戸アケマケテといひてノを添へざる例あればこゝもなほヤドとよみて屋の戸と心得べし
  因にいふ。卷三(四一〇頁)なる石屋戸ニタテル松ノ樹、卷五(九六七頁)なる寢屋度マデ來立ヨバヒヌは石室の外、寢屋の外なるべし
 ○卷四(七九六頁)なる家持の歌に
  ゆふさらば屋戸あけまけてわれまたむいめにあひ見にこむといふ人を
とあると相似たり。その歌の處に契沖のいへる如く共に遊仙窟の文に今宵莫v閉v戸、(2585)夢裏向2渠《キミガ》邊1とあるに據れるなり
 
2913 いつまでに生かむ命ぞ凡者《オホカタハ》こひつつあらずば死《シナム》まされり何時左右二將生命曾凡者戀乍不有者死上有
 イツマデニはニを省きて心得べし○死を舊訓にシヌル、古義にシナムとよめり。後者に從ふべし○第三句を舊訓にオホヨソハとよみ二註にオホカタハとよめり。案ずるに卷十一(二三五四頁)なる凡乃行者不念を二註にオホカタノワザトハ云々とよめれどこは凡爾妹者の誤としてオホロカニイモハとよむべき事はやく云へるが如し。又同卷(二三七三頁)なる凡、吾シオモハバを略解にオホカタニとよみたれどこは古義に從ひてオホロカニとよむべし。此外に集中に凡をオホカタとよむべき處又オホカタとよめる處は無きやうなり。さればこゝも外の例に從ひてオホロカとよまむかといふに然はよみがたければ下に大方ハ何カモコヒム云々とあるを例にて(又古今集なるオホカタハイキウシトイヒテイザカヘリナム、オホカタハウツセミノ世ゾユメニハアリケル、大方ハ月ヲモメデジなどの例に據りて)なほオホカタハとよむべし。そのオホカタハは大體といふ事なり
 
(2586)2914 愛等《ウツクシト》、念吾妹乎《オモフワギモヲ》いめに見ておきてさぐるになきがさぶしさ
愛等念吾妹乎夢見而起而探爾無之不怜
 初句を略解には例の如くウルハシトとよめり。舊訓の如くウツクシトとよむべし○第二句を古義に吾念妹乎の誤としてワガモフイモヲとよめり。もとのまゝにて可ならずや○遊仙窟なる少時坐睡則夢見2十娘1驚覺攪v之忽然空v手に據れるにて卷四(七九五頁)なる家持の歌に
  いめのあひはくるしかりけりおどろきてかき探れども手にもふれねば
とあるは此歌に倣へるならむ。サブシは不快といふ事
 
2915 妹と曰者《イフハ》無禮恐《ナメシカシコシ》しかすがにかけまくほしき言にあるかも
妹登曰者無禮恐然爲蟹懸卷欲言爾有鴨
 曰者を舊訓にイヘバとよみ雅澄はイフハとよめり。イハムハといふべき處なれば古義の如くよむべし○第二句を契沖はナメシカシコシとよめるを古義にナメクカシコシに改めたり。前者に從ふべし。カシコシは勿體ナシなり。シカスガニは然シ(2587)なり。カケマクは云ハマクなり
 
2916 (玉勝間)あはむと云者《イヒシハ》誰なるかあへる時さへおもがくし爲《スル》玉勝間相登云者誰有香相有時左倍面隱爲
 玉勝間を古くは心得かねたりしを契沖始めて
  古事記に無v間勝間之小船とあるを日本記には無v目籠に作り又無v目堅間に作りて堅間是今之竹(ノ)籠也と書きたれば勝間は籠にてそを褒めてタマガツマといへるなり。又和名集に※[竹/令]※[竹/青]、賀太美とあるは此語の轉ぜるなり。而してこゝの玉勝間はアハムにかゝれり(○撮要)
といひき。雅澄は之に基づきて
  カタマは組みたる竹の目の堅くしまりたるよりいふ稱にて古代には廣く何にもいひしを後に籠に限ることゝなりしなり。而してカツマは堅津間の約なり(○撮要)
といへり。案ずるに堅く編みたるをカタマとはいふべくツを挿みてカタツマとはいふべからず。さればカタマが原にてそを訛りてカツマともいひしならむ。さてア(2588)ハムにかゝれるは冠辭考にいへる如く籠は蓋と身と合ふが故なり○云者を從來イフハとよみたれどイヒシハとよむべし。結句は考に從ひてオモガクシスルとよむべし。略解にセスとよめるはわろし
 
2917 うつつにか妹が來ませるいめにかも吾香〔左△〕《ワレハ》まどへる戀のしげきに
寤香妹之來座有夢可毛吾香惑流戀之繁爾
 古義にいへる如く結句を第三句の上に引上げて戀ノシゲキニ夢ニカモ吾香マドヘルとして心得べし○イメニカモといひて更にワレカといふべきにあらず。吾香はおそらくは吾者の誤ならむ。香の字無き本あり○卷十一(二三八九頁)に
  いめにだに何かもみえぬ見ゆれども吾かもまどふ戀のしげきに
とあると四五相似たり。又伊勢物語なる
  君やこし我やゆきけむおもほえずゆめかうつつかねてかさめてか
と相似たり
 
2918 大方は何かもこひむ言擧せず妹によりねむ年はちかきを
大方者何鴨將戀言擧不爲妹爾依宿牟年者近侵〔左△〕
(2589) オホカタハについて契沖は
 大方ノ人ナラバ何カモコヒムとよめる歟。又大底のことわりを思ひて業平の大カタハ月ヲモメデジとよまれたる如くよめる歟。後の意なるべし
といひ雅澄は前者に從へり。案ずるに大體といふ事なり。コトアゲセズは何モ云ハズニなり○契沖が『親の約して定め置きたれどまだ童女にて今暫時を待程の歌と見えたり』といへる如し○侵は異本に綬とあるに從ふべし。綬はクミヒモなれば緒と同訓としたるなり
 
2919 ふたりして結びし紐をひとりして吾はときみじただにあふまでは
二爲而結之紐乎一爲而吾者解不見直相及者
 勢語に四五をアヒミルマデハトカジトゾオモフと作りかへたり
 
2920 しなむ命ここはおもはず唯毛《タダシクモ》、妹に不相《アハザル》ことをしぞもふ
終命此者不念唯毛妹爾不相言乎之曾念
 ココハはソレハなり。唯毛を考以下にタダニシモとよみたれどニシはよみ添へが(2590)たし。舊訓に從ひてタダシクモとよみて但シといふ意と見べし。否今但シといふはこのタダシクといふ語の遺れるならむ○不相は舊訓にアハザルとよめるに從ふべし(古義にはアハナクとよめり)。コトヲシゾモフは事ヲ殘念ニ思フとなり○古今集戀四なる
  津の國のなにはおもはず山城のとはにあひみむことをのみこそ
と句格相似たり
 
2921 幼婦者〔左△〕《ヲトメゴト》おなじこころにしま【らし】くもやむ時もなく見なむとぞもふ
幼婦者同情須更〔一なし〕止時毛無久將見等曾念
 初句を舊訓にはヲトメゴハとよめり。宣長は
  或人説、幼帰者は紐緒之の誤なるべし。古今集にイレヒモノオナジココロニイザムスビテムとあるに同じ
といひ雅澄は之に從へり。案ずるに者を與などの誤としてヲトメゴトとよむべし。女の歌にて子共ト同ジ心ニワリナクモ云々思フといへるなり。卷二(一七八頁)に
  ふりにし、おみなにしてやかくばかり戀にしづまむたわらはのごと
(2591)とあると相似たる所あり
 
2922 夕さらば君にあはむとおもへこそ日のくるらくもうれしかりけれ
夕去者於君將相跡念許憎日之晩毛※[立心偏+呉]有家禮
 オモヘコソは思ヘバコソ、クルラクモは暮ルル事モなり
 
2923 ただ今日も君爾波相目跡〔左△〕《キミニハアハメヲ》、人言をしげみあはずてこひわたるかも
直今日毛君爾波相目跡人言乎繁不相而戀度鴨
 古義に『タダの言は相目跡の上にうつして心得べし』といへるは非なり。今日を強めてタダ今日といへるなり。明日ヲモ待タデタダ今日といへるなり。モは助辭なり。今モナカヌカ、今モ見テシガなどのモにおなじ。さてタダ今日の語例は卷十(二〇六二頁)にタダコヨヒとあり○第二句を二註共にキミニハアハメドとよみて、略解にアフベケレドモ也といひ古義に之を敷衍して今日モ君ニハ直ニ相見ムスベノアルベキナレドと譯せり。案ずるに逢ハムトナラバ逢フベケレドの意とすれば人言ヲシゲミ逢ハズテコヒワタルカモと相副はず。又さる意ならばアハバアハメドとい(2592)ふべし。宜しく跡を乎などの誤としてアハメヲとよむべし。アハムヲをアハメヲといへるは卷十三にアヒカタラムヲを相語妻遠《アヒカタラメヲ》といへると同例なり○第四句のシゲミは上に附けて心得べし。此句は範とすべからず
 
2924 世〔左△〕間爾《コノゴロニ》、戀しげけむとおもはねば君がたもとをまかぬ夜もありき
世間爾戀將繁跡不念者君之手本乎不枕夜毛有寸
 初句は舊訓にヨノナカニとよめり。然るに略解に
  古訓ヨノナカニとあれど解がたし。宣長云『ヨノホドニと訓べし。ヨノホドニは生テ在内ニ也。生涯ノホドニカクコヒムモノトハカネテ思ハザリシカバの意也』といへり
といへり。宜しく此間爾の誤としてコノゴロニとよむべし。下にもコノゴロノマノ戀ノシゲキニとあり○卷十一に
  かくばかりこひむものぞと念はねば妹がたもとをまかぬ夜もありき
とあり
 
2925 みどり兒のためこそ乳母《オモ》はもとむといへ乳のめや君が於毛もとむら(2593)む
緑兒之爲杜〔左△〕乳母者求云乳飲哉君之於毛求覧
 いにしへは母をも乳母をもオモといひ取分きては乳母をチオモといひしなり(記傳卷二十四【一四八五頁】參照)○古義に『ねびたる女を男のけさうする時其女の自を乳母によそへてよめるなるべし』といへるは非なり。次なると一聯の歌にて男の乳母と稱して妾を納るゝを聞きて外にある女の妬みてよめるなり。即ほぼ考にいへる如し○杜は社の誤か
 
2926 くやしくもおいにけるかも我背子が求むる乳母《オモ》にゆかましものを
悔毛老爾來鴨我背子之求流乳母爾行益物乎
 二三の間にモシ老イザリセバといふことを補ひて聞くべし
 
2927 うらぶれてかれにし袖を又まかばすぎにし戀|也〔左△〕《ノ》みだれこむかも
浦觸而可例西袖※[口+リ]又卷者過西戀也亂今可聞
 ウラブレテは感傷シテにて又マカバにかゝれるなり。從來此句をカレニシにかけ(2594)て心得たりしが故におちつかざりしなり○戀也は戀之の誤ならむ。ヤといひて更にカモとはいふべからざればなり。四五は契沖のいへる如く戀を人に擬して一タビ行過ギタ戀ガ又亂レテ歸來ヨウといへるなり
 
2928 各寺師〔二字左△〕《カクシツツ》、人死爲良思《ヒトシニスラシ》、妹にこひ日にけにやせぬ人にしらえず
各寺師人死爲良思妹爾戀日異羸沼人丹不所知
 初二を二註共にオノガジシ人シナスラシとよみたれどカクシツツ人シニスラシなどあらでは義通ぜず。おそらくは各寺師は各師乍又は各侍乍の誤ならむ。シニスラシはシヌラシにおなじ。卷四(七〇六頁)に戀ニモゾ人ハシニスルとあるも死ヌルなり○人ニシラエズの人は相手なり
 
2929 夕夕《ユフベユフベ・ヨヒヨヒ》、吾《ワガ》たちまつに若雲《ケダシクモ》、君來まさずばくるしかるべし
夕夕吾立待爾若雲君不來益者應辛苦
 夕夕を舊訓にヨヒヨヒニとよめるを考略解にユフベユフベと改めたり。いづれにてもあるべし○吾はワガとよむべく第三句は古義に從ひてケダシクモとよむべ(2595)し(略解にはワレとよみモシクモとよめり)
 
2930 いける代に戀ちふものをあひみねば戀中《コヒノナカ》にも吾曾《ワガゾ》くるしき
生代爾戀云物乎相不見者戀中爾毛吾曾苦寸
 上三句は始メテノ戀ナレバといふ意、アヒは添辭なり○戀中を舊訓にコヒノウチ、考にコヒノナカ、古義にコフルウチとよめり。考に從ふべし○吾曾を從來ワレゾとよみたれどワガゾとよみてワガ戀ゾの略とすべし○上三句の語例は卷四(七九七頁)に
  いける代に吾《ワ》はいまだ見ずことたえてかくおもしろくぬへるふくろは
とあり
 
2931 おもひつつをればくるしも(ぬばたまの)よるに至者《ナリナバ》、吾こそゆかめ
念管座者苦毛夜于〔左△〕玉之夜爾至者吾社湯龜
 至者を考以下にナリナバとよめり。イタラバともよむべけれど卷二(二七七頁)なる高市皇子尊殯宮之時歌にユフベニナレバを暮爾至者と書ける例あればなほナリ(2596)ナバとよむべし○女の歌なり。于は干の誤なり
 
2932 こころにはもえておもへど(うつせみの)人目をしげみ妹にあはぬかも
情庭燎而念杼虚蝉之人目乎繁妹爾不相鴨
 上(二五八三頁)にも
  心には千重に百重におもへれど人目をおほみ妹にあはぬかも
とあり
 
2933 相おもはずきみは雖座《イマセド》かたこひに吾はぞこふる君が光儀《スガタニ》
不相念公者雖座肩戀丹吾者衣戀君之光儀
 雖座を舊訓にマセドモ、考にイマセドとよめるを略解古義にマサメドと改めてイマスラメド也といへり。マサメドとイマスラメドとは同じからず。さてこゝはイマセドとよむべし○結句を從來スガタヲとよめり。宜しくスガタニとよむべし
 
2934 (味澤相《ウマサハフ》)目にはあけどもたづさはりことどはなくもくるしかりけり
味澤相目者非不飽携不問事毛苦勞有來
(2597) 味澤相は古義にウマサハフとよめる事はやく卷九(一八五一頁)にいへり。顔をば朝夕に見れど親しくかたらふ折のなきを嘆きたるなる事前註にいへる如し○非不飽をアケドモとよませたる、めづらし
 
2935 (あらたまの)年の緒長くいつまでかわがこひをらむいのち知らずて
璞之年緒永何時左右鹿我戀將居壽不知而
 結句はイツマデ生キム命トモ知ラズシテとなり
 
2936 今は吾《ワ》はしなむよわがせ戀すれば一夜一日もやすけくもなし
今者吾者指南與我兄戀爲者一夜一日毛安毛無
 上(二五六四頁)にも
  今は吾はしなむよ吾妹あはずしておもひわたればやすけくもなし
とあり
 
2937 しろたへの袖をりかへしこふればか妹がすがたのいめにしみゆる
白細布之袖折反戀者香味之容儀乃夢二四三湯流
(2598) 卷十一(二五二一頁)にも
  吾妹兒にこひてすべなみしろたへの袖かへししはいめに見えきや
  吾背子が袖かへす夜のいめならしまことも君にあへりしごとし
とあり
 
2938 人言をしげみ毛人髪三《コチタミ》わがせこを目にはみれどもあふよしもなし
人言乎繁三毛人髪三我背子乎目者雖見相因毛無
 契沖のいへる如く毛人は蝦夷にて蝦夷は毛髪多ければコチタシを毛人髪と戯れ書けるなり
 
2939 戀といへば薄事有《アサキコトアリ》しかれども我は忘れじこひはしぬとも
戀云者薄事有雖然我者不忘戀者死十方
 第二句を略解にウスキコトナリとよみて『有をナリとよむは例あり』といへり。げに近くは下にも人妻ナリトキケバカナシモを人妻有跡と書けり。薄は考に從ひてアサキとよむべし。後にも然よむべき所あり。事は言の借字なり。結句はコヒシヌトモ(2599)にハを挿めるなり○考以下に卷十一(二三八二頁)なる言ニイヘバ耳ニタヤスシ、卷十五なる旅トイヘバ言ニゾヤスキなどを例に引きたり
 
2940 中々に死者《シナバ》やすけむいづる日の入る別《ワキ》しらぬ吾しくるしも
中中二死者安六出日之入別不知吾四久流四毛
 死者を舊訓にシナバとよめるを略解にシニハと改めたるは却りてわろし。卷十七にもナカナカニ之奈婆夜須家牟とあり〇三四は朝夕ノ別ヲ知ラヌとなり。語例は卷一(一二頁)にカスミタツナガキ春日ノ、クレニケル和《ワ》豆〔□で囲む|〕肝《キモ》シラズ、卷十一(二三五四頁)に年月ノユクラム別モオモホエヌカモなどあり
 
2941 おもひやるたどきも我は今はなし妹にあはずて年のへゆけば
念八流跡状毛我者今者無妹二不相而年之經行者
 上(二五七四頁)にも
  思やるすべのたどきも吾はなしあはぬ日まねく月のへぬれば
とあり
 
(2600)2942 わがせこにこふとにしあらし小兒《ミドリゴ》の夜なきをしつついねがてなくは
吾兄子爾戀跡二四有四小兒之夜哭乎爲乍宿不勝苦者
 小兒を舊訓にミドリゴとよめるを雅澄は齊明天皇紀の御歌にウツクシキアガワカキコヲオキテカユカムとあるに據りてワカキコとよみ改めたり。もとのまゝにて可なり○イネガテナクハは寐敢ヘヌ事ハとなり。初句の前に我如クといふことを加へて聞くべし
 
2943 我命之《ワガイノチノ》ながくほしけく偽をよくする人を執許乎《トラムバカリヲ》
我命之長欲家口偽乎好爲人乎執許乎
 ホシケクはホシキ事ハとなり。古義に之の字を乎に改めたるはいみじきひが事なり。命ヲホシキといふべけむや○結句を舊訓にトラフバカリヲとよめるを略解に執は報の誤ならむといへるは非なり。人乎ムクユとはいふべからざる故なり。案ずるに結句はトラムバカリヲとよみて捕ヘム爲ノミゾといふ意とすべし
 
2944 人言をしげみと妹にあはずしてこころのうちにこふるこのごろ
(2601)人言繁跡妹不相情裏戀比日
 卷九に
  いそのかみふるのわさ田の穗にはいでずこころのうちにこふるこのごろ
といふ歌あり。四五今と相同じ○此歌
  人言、繁跡妹、不相、情裏、戀比日
と書けるによりて眞淵は人麻呂集の書體なれば彼集の中へ移すべしといへり
 
2945 (玉梓の)君が使をまちし夜のなごりぞ今もいねぬ夜のおほき
玉梓之君之使乎待之夜乃名凝其今毛不宿夜乃大寸
 今モ寢ヌ夜ノ多キハ君ガ使ヲ待チシ夜ノナゴリゾと顛倒して心得べし。但男ならぬ其使を待つとて夜寢ざりし趣によめるは穩ならず。されば此歌は卷十一なる
  夕さればきみ來まさむとまちし夜のなごりぞ今もいねがてにする
を傳へ誤れるならむ
 
2946 (玉鉾の)道にゆきあひてよそ目にむ見者《ミレバ》よき子をいつとか待たむ
(2602)玉桙之道爾行相而外目耳毛見者吉子乎何時鹿將待
 見者を略解にミルハとよめるはわろし。舊訓の如くミレバとよむべし○結句はイツ得テムトカ待タムとなり
 
2947 おもふにしあまりにしかばすべをなみ吾はいひてきいむべきものを
    或本歌曰門にいでてわがこいふすを人見けむかも
    可〔左△〕云すべをなみいでてぞゆきし家のあたり見に
    柿本朝臣人麿歌集云にほ鳥のなづさひこしを人見けむかも
念西餘西鹿齒爲便乎無美吾者五十日手寸應忌鬼尾
    或本歌曰門出而吾反側乎人見監可毛、可云無乏出行家當見
    柿本朝臣人麿歌集云爾保鳥之奈津柴比來乎人見鴨
 結句は云フヲ忌ムベキモノヲとなり。卷十一にも
  こもり沼のしたゆこふればすべをなみ妹が名のりつゆゆしきものを(二二九一頁)
(2603)  こもりぬのしたにこふればあきたらず人に語りついむべきものを(二四五九頁)
とあり
 或本歌のコイフスはねころぶ事なり。此歌は別の歌なり。左註とすべきにあらず
 可云は一云の誤なり。諸本に一云とあり。此歌は卷十一(二三六四頁)に
  おもふにしあまりにしかばすべをなみいでてぞゆきし其門を見に
とあると一つ歌なり
 人磨歌集なるもはやく卷十一(二三二三頁)に
  おもふにしあまりにしかばにほ鳥のあなやみこしを人みけむかも
と第四句のみ少しかはりて出でたり
 
2948 明日者《アスノヒハ》その門ゆかむいでて見よ戀|有〔左△〕《スル》すがたあまたしるけむ
明日者其門將去出而見與戀有容儀數知兼
 初句を舊訓にアケムヒハとよめるを古義にアスノヒハに改めたり。ソノ門はこゝにては汝ガ門といはむにひとし○戀有を從來コヒタルとよみたれどコヒタルスガタと云はむ事穩ならず。恐らくは戀爲の誤ならむ。爲と有とは往々相誤れり。アマ(2604)タシルケムは頗イチジルカラムとなり○住吉物語なる
  君が門今ぞすぎゆくいでて見よ戀する人のなれるすがたを
は此歌を飜案せるなり
 
2949 得田價異《ウタテケニ》こころいぶせしことはかりよくせわがせこあへる時だに
得田價異心欝悒事計吉爲吾兄子相有時谷
 初句を雅澄がウタテケニとよめるはいみじき發見なり。但『ウタテ殊更ニの意なり』といへるは非なり。ウタテもケニも共に怪シクといふ事なり○イブセシはサッバリとせぬなり。コトハカリは先々の分別なり。ヨクセは今ならばヨクセヨといふべし
 
2950 吾妹子が夜戸出のすがた見てしよりこころ空なりつちはふめども
吾妹子之夜戸出乃光儀見之從情空成地者雖踐
 卷十に朝戸出ノキミガスガタヲヨク見ズテとあり○古義に『夜ごめにいでてかへるを夜戸出といふならむ』といへるは非なり。ただ夜、外に出づる事なり。四五の語例(2605)は上(二五七二頁)にワガ心アマツ空ナりツチハフメドモとあり
 
2951 つば市のやそのちまた爾〔左△〕《ヲ》たちならし結《ムスベル》紐をとかまくをしも
海石榴市之八十衢爾立平之結紐乎解卷惜毛
 契沖の考に
  海石榴市といふ處大和國に三處(山邊郡、高市郡、城上郡)豐後に一處あり。今よめるは山邊郡にあるか(○撮要)
といへり。又雅澄は『そのちまたに立平しゝは男女集りて歌場《ウタガキ》にたてる間〔日が月〕をいふなるべし』といへり○第二句の爾は乎の誤ならざるか○第四句の結を從來ムスビシとよめり。さて略解に
  これは男女集りて歌垣する時結びし紐をいふなるべし。はじめ君ならではとかじと結てし紐を其男今は絶たれど又他し男の爲に解かんは心ゆかぬよし也
といひ古義に
  歌意は海石榴市のちまたに立て君と二人して結びし紐をふたゝび他し人に解せじとちぎりかためてしものを今は其男は心がはりしたれど吾はこと男の爲(2606)に解むことは心ゆかず、さてもをしき事ぞとなり
といへり。此は上(二五八九頁)に
  ふたりしてむすびし紐をひとりして吾はとき見じただにあふまでは
とあるを踏みていへるなるべけれど、ただ結紐乎とあるを二人シテ結ビシ紐とは釋くべからず。又ムスビシヒモとよむべきは
  結之紐乎トクハカナシモ(卷八【一六二二頁】)
  フタリシテ結之紐乎(此卷【二五八九頁】)
とありて
  結紐、解日遠(卷十一【二四〇六頁】)
とあるはユヘルヒモとよむべく又二註にもユヘルヒモとよめり。されば今の結細乎もムスベルヒモヲとよみてカネテ結ベル紐ヲ男ニ挑マレテ解カムガ惜シといふ意と見るべし
 
2952 吾齢《ワガヨハヒ》之〔□で囲む〕おとろへぬれば(しろたへの袖の)なれにし君乎《キミヲ》母〔□で囲む〕|准其思《シゾモフ》
吾齢之衰去者白細布之袖乃狎爾思君乎母准其念
(2607) 初句を略解にワガヨハヒシ、古義にアガヨハヒノとよめり。之〔右△〕を衍字とすべし○シロタヘノソデノはナレニシにかゝれり。かのカラゴロモ著ツツナレニシと同類の枕辭なり○結句を舊訓にキミヲシゾオモフとよめり。眞淵は母准を羅の誤としてキミヲラゾオモフとよみ、雅澄は母を衍とし准を進の誤としてキミヲシゾモフとよみ、字音辨證(上卷二二頁)には准にシの音あればシに惜りたるなりといへり。後者に從ふべし。ナレニシ君ヲシゾモフとは久シクシタシミシ君ヲナツカシト思フとなり
 
2953 君にこひわがなく涙しろたへの袖さへ所漬《ヌレテ》せむすべもなし
戀君吾哭涕白妙袖兼所漬爲便母奈之
 所漬を舊訓にヒヂテ、考にヌレテ、古義にヌレヌとよめり。考に從ふべし○第二句はワガナク涙ニのニを省けるなり。そのニは後世ならば省くべからざる事勿論なり
 
2954 今よりはあはじとすれやしろたへのわがころもでのひる時もなき
從今者不相跡爲也白妙之我衣袖之干時毛奈吉
(2608) さる俗信ありしによりてよめるならむ。スレヤはスレバニヤにて云々スル前兆ニヤとなり
 
2955 夢可登《イメニカト》、情班〔左△〕《ココロマドヒヌ》、月數多《ツキマネク》二かれにし君のことの通者《カヨヘバ》
夢可登情班月數多二干西君之事之通者
 初句を舊訓にユメカトモとよみ、眞淵はイメカトと四言によみ、雅澄は夢可毛登の脱字としてイメカモトとよめり。宜しくイメニカトとよむべし。上(二五八八頁)にもイメニカモを夢可毛と書けり○情班を舊訓にオモヒワカメヤとよめるを眞淵は情怪の誤としてココロアヤシモとよみ雅澄は『情遮の誤にてココロマドヒヌならむか』といへり。げにココロマドヒヌとあるべき處なり。但字はなほあるべし。下にもココロマドヒヌとよむべき處あり○略解古義には第三句の二を衍字としてツキマネクとよめり(元暦校本にも二の字なし)。もとのまゝならば考の一訓にツキサハニとよめるに從ふべし○通者を二註にカヨフハとよめり。舊訓に從ひてカヨヘバとよむべし。コトノカヨヘバは便ノアレバとなり
 
2956 (あらたまの)年月かねて(ぬばたまの)いめにぞ所見《ミエシ》君がすがたは
(2609)未玉之年月兼而烏玉乃夢爾所見君之容儀者
 所見を二註にミユルとよめり。宜しくミエシとよむべし。二註に『年月カネテは年月カサネテといふに似たり』といへるは非なり。カネテ久シクといへるなり。始めて逢ひし時の歌なり○アラタマを未玉と書けるを古義に「義を以て書るにて未v理玉の謂なり」と云へり
 
2957 今よりはこふとも妹にあはめやも床の邊さらずいめにみえこそ
從今者雖妹爾將相哉母床邊不離夢所見乞
 旅立つ時の歌なり。卷十一にも
  里とほみこひうらぶれぬまそかがみ床のへさらずいめにみえこそ
とあり
 
2958 人の見て言どかめせぬいめにだにやまず見えこそ我戀やまむ
    或本(ノ)歌頭(ヲ)云2人目おほみただにはあはず1
人見而言害目不處夢谷不止見與我戀將息
(2610)    或本歌頭云人目多直者不相
 四五の間にサラバといふことを加へて聞くべし○上(二五八四頁)にも
  人の見て言とがめせぬいめにわがこよひいたらむ屋戸さすなゆめ
とあり
 
2959 うつつには言絶有《コトタエニケリ》いめにだにつぎてみえ而〔左△〕《コソ》ただにあふまでに
現者言絶有夢谷嗣而所見而直相左右二
 第二句を略解にはコトタエニタリ、古義にはコトタエニケリとよめり、後者に從ふべし。有はケリともよむべし(一四六〇頁參照)○而は諸本に與とあり
 
2960 うつせみのうつしごころも吾はなし妹をあひ見ずて年のへぬれば
虚蝉之宇都思情毛吾者無妹乎不相見而年之經去者
 此歌の初句を略解には枕辭とし古義には枕辭にあらずといへり。案ずるに此歌又
  うつせみの命ををしみ(四三頁)
  うつせみのかれる身なれぼ(五六六頁長歌)
(2611)  うつせみの妹がゑまひし(二四一五頁)
などのウツセミノは現《ウツ》シキ身ノ即生キタル身ノといふ意とおぼゆ○類歌は
  つるぎだち名のをしけくも吾はなし君にあはずて年のへぬれば(卷四)
  ますらをのうつし心も吾はなしよるひるといはずこひしわたれば(者十一)
  おもひやるたどきも我は今はなし妹にあはずて年のへゆけば(此卷)
などあまたあり
 
2961 うつせみの常の辭とおもへどもつぎてしきけば心遮〔左△〕焉《ココロマドヒヌ》
虚蝉之常辭登雖念繼而之聞者心遮焉
 このウツセミノも枕辭にあらでウツシキ身ノ、即世ニアル人ノといふこととおぼゆ。卷十四にもウツセミノヤソコトノヘハシゲクトモとあり○常ノコトバは所謂世辭にて上(二五七二頁)に世ノ中ノ人ノコトバとあるにおなじ○結句を舊訓にココロハナギヌとよめり。それに基づきて眞淵は遮を慰の誤とせり。之に反して久老は遮を迷の誤としてココロマヨヒヌとよみ雅澄は之をマドヒヌと修正せり。雅澄の訓に從ふべし。はやく卷四(七三三頁)に
(2612)  ただ一夜へだてしからにあらたまの月か經ぬると心遮〔左△〕《ココロマドヒヌ》
とあり。又上(二六〇八頁)にもココロマドヒヌとよむべき處あり
 
2962 しろたへの袖|不數〔左△〕而宿《ソデカヘテネヌ》(ぬばたまの)こよひは早もあけばあけなむ
白細之袖不數而宿烏玉之今夜者早毛明者將開
 略解に而を衍字とし又眞淵に從ひて數を卷の誤としてソデマカズヌルとよめり。古義にはもとのまゝにてソデカレテヌルとよめり。共にうべなひがたし。數を更などの誤として袖不2更而宿1《ソデカヘテネヌ》とよむべくや。カヘテはカハシテなり
 
2963 (しろたへのたもと)ゆたけく人のぬるうまいはねずやこひわたりなむ
白細之手本寛久人之宿味宿者不寢哉戀將渡
 古義に『タモトユタケクはこゝろよく寢る形容なり』といへるは非なり。シロタヘノタモトまでが枕辭(序)にて上なるシロタヘノ袖ノナレニシと同格なり。ネズヤは寢ズニヤなり
 
  寄v物陳v思
2964 かくのみにありける君を衣ならば下にも著むとわがもへりける
如是耳在家流君乎衣爾有者下毛將著跡吾念有家留
 初二はカク心淺キ君ナルヲとなり。モヘリケルは思ヒタリケル事ヨとなり○上(二五五四頁)にも
  人言のしげかる時をわぎもこが衣にありせばしたに著ましを
とあり
 
2965 つるばみの袷衣《アハセノキヌノ》、裏爾爲〔左△〕者《ウラナラバ》われしひめやも君が來まさぬ
橡之袷衣裏爾爲者吾將強八方君之不來座
 眞淵以下初二を序とせり。さて眞淵はもとのまゝにて舊訓の如くウラニセバとよみ、宣長は爲を有の誤としアハセノコロモウラニアラバとよみて『ウラとは疑ひ危む事なり』といひ、雅澄は裏志有者《ウラシアラバ》の誤とせり。案ずるに爲を有の誤としてウラナラバとよむべし。初二は序にあらず。抑ツルバミノキヌは卷七に
(2614)  つるばみの衣きる人は事なしといひし時よりきほしくおもほゆ(一三九〇頁)
  つるばみのときあらひ衣のあやしくも殊にきほしきこのゆふべかも(一三九二頁)
とありてドングリノカサにて染めたる賤者の衣なり。其袷の衣は裏はた薄ければ今はモシウスキ御心ナラバといふことをよそへてツルバミノアハセノ衣ノウラナラバといへるなり。略解に『いやしき人の我著る衣もてよめり』といへるは非なり○第四句の語例は卷四(七六三頁)にイナトイハバシヒメヤ吾背とあり
 
2966 くれなゐの薄染《アサゾメ》ごろもあさらかにあひ見し人にこふるころかも
紅薄染衣淺爾相見之人爾戀比日可聞
 薄染を舊訓にウスゾメとよみ眞淵以下はアラゾメとよめり。アサラカニの序なればアサゾメとよむべし。上(二五九八頁)にもアサキコトナリを薄事有と書けり。初二は序なり。アサラカニは深ク心モ留メズシテとなり
 
2967 年|之《シ》へば見つつしぬべと妹がいひしころもの縫目みればかなしも
(2615)年之經者見筒偲登妹之言思衣乃縫目見者哀裳
 之はシとよむべし(從來ノとよめり)。逢ハズシテ年經ナバとなり
 
2968 つるばみの一重ごろものうらもなくあるらむ兒ゆゑこひわたるかも
橡之一重衣裏毛無將有兒故戀渡可聞
 初二は序なり。ウラナシを契沖は何心モナシといふに同じといひ雅澄は『心の表裏なく打解たるをいへり』といへり。案ずるに今無心といふにひとし
 
2969 (ときぎぬの)おもひ亂れてこふれども何の故ぞととふ人もなし
解衣之念亂而雖戀何之故其跡問人毛無
 二註に人を戀の相手としたるは從はれず○卷十一(二四〇一頁)にも
  ときぎぬのおもひ亂れてこふれどもなにしの故ととふ人もなし
とあり
 
2970 桃花褐《モモゾメノ》あさらのころもあさらかにおもひて妹にあはむものかも
桃花褐淺等乃衣淺爾念而妹爾將相物香裳
(2616) 桃花褐は桃色に染めたる布衣なり。舊訓に三字をアラゾメとよみ江家次第にも荒染とあれど紀、令、式などの古書には桃染又は退紅と書きたればいにしへはモモゾメといひしを後にアラゾメといふやうになりしならむ〈又退紅は音にて唱へしならむ)。さればこゝもモモゾメノとよむべし○アサラノコロモは色淺き衣にてやがて淺染衣なり。後世ならばアサラナルコロモといふべし。初二は序なり○略解に逢るを悦てよめる也といへるはカヤウニ逢フ事ノ出來タノハヨホドアリガタイト思ハネバナラヌといふ意に取れるにやいぶかし。古義に『なみなみに思ひたるのみにてあはるゝものかは』と釋せるはアハムモノカモを逢ハレムモノカハと心得たるなり。案ずるにこは第三者たとへば媒が男に云へるにて深ク思入リテコソアフベケレ、然アサハカニ思ヒテ逢ハムモノカハといへるなり
 
2971 おほきみの塩やくあまのふぢごろも穢者雖爲《ナルトハスレド》いやめづらしも
大王之塩燒海部乃藤衣穢者雖爲彌希將見毛
 上三句は序、オホキミノは御料ノといはむにひとし。第四句を略解にナレハスレドモ、古義にナルトハスレドとよめり。古義に從ふべし。イヤは後世のナホなり(九〇二(2617)頁參照)○卷十一(二四〇二頁)に
  くれなゐのやしほのころもあさなさななるとはすれどいやめづらしも
とあり
 
2972 あかぎぬの純裏衣《ヒツラノコロモ》、長欲《ナガクホリ》、わがもふきみがみえぬころかも
赤帛之純真衣長欲我念君之不所見比者鴨
 『クレナヰといはず赤帛とあるは緋色の衣なり』と眞淵いへり○第二句を眞淵はヒトウラゴロモとよみ千蔭はヒクタラゴロモとよみ雅澄は卷十六にユフカタギヌ氷津裡《ヒツラ》ニヌヒテとあるに據りてヒツラノコロモとよめり。ノの辭ほしき處なれば古義の訓に從ふべし。さてそのアカギヌノ純裏衣を眞淵以下『表裏同じ赤色なるをいふ』といへれど少くともヒタウラ(或はそを略してヒツラ)とよみて表裏同色の意とはすべからず。アカギヌノヒツラは赤帛ノトホシ裏ならむ○初二はナガクにかかれる序なり。長欲を舊訓にナガクホリとよめるを略解に長を著の誤としてキマクホリとよめり。宜しくもとのまゝにてナガクホリとよむべし。さてナガクホリワガモフ君はワガ長クホリ思フ君にて長ク通ウテ來イト思フ男なり
 
(2618)2973 (眞玉つく)をちこちかねてむすびつるわが下紐のとくる日あらめや
眞玉就越乞兼而結鶴言下紐之所解日有米也
 眞玉ツクヲチコチカネテははやく上(二五五四頁)に見えたり○トクルを所解と書けるは上(二五五二頁)に人ノミルを所見と書けると同例なり
 
2974 むらさきの帶の結もときも見ずもとなや妹にこひわたりなむ
紫帶之結毛解毛不見本名也妹爾戀度南
 帶は衣の上の帶なり。眞淵以下した紐の事としたるは非なり。帶ノムスビモのモはダニなり。下紐に對してモといへるなり○略解に『トキモ見ズの見にこゝろなし』といへるに對して古義に『トキアケズといはむが如し。見は開といふに當れり』といへり。略解に從ふべし。トキモ見ズはトキモ見ズシテなり〇四五は心外ニ空シク妹ニ戀渡ラムカといへるならむ
 
2975 (こまにしき)紐の結もときさけずいはひてまてどしるしなきかも
高麗錦紐之結毛解不放齊而待杼驗無可聞
(2619) 結べる紐を解かざれば戀ふる人に逢ふなどいふ俗信ありてそれによりてよめるなり。イハヒテは自祝シテなり。シルシはイハヒノ驗なり。二註に『いはひつゝしみて待には神のしるしあるべき事なるに』など釋せるは誤解なり○この紐も衣の紐なり
 
2976 むらさきの我下紐の色にいでず戀可毛將痩あふよしをなみ
紫我下紐乃色爾不出戀可毛將痩相因乎無見
 二註に初二をイロニイヅにかゝれる序とせるは非なり。色のみにかゝれるなり〇三四は色ニハ出デズシテ戀痩セムカといへるにや。少し穩ならず。第四句は戀可將度の誤にあらざるか
 
2977 何故かおもはずあらむ(紐の緒の)心に入りてこひしきものを
何故可不思將有紐緒之心爾入而戀布物乎
 折り曲げたる紐の端を係蹄にとほすを心ニ入ルルといへばヒモノ緒ノを心に入リテの枕辭とせるならむ。さて心ニ入リテはオマヘガ私ノ心ニハヒリテとなり○(2620)考に『男の思ハズヤなどいふに答へしならむ』といへる如し
 
2978 まそかがみ見ませ吾背子わが形見、將持辰〔左△〕爾、將不相哉《アハザラメヤモ》
眞十鏡見座吾背子吾形見將持辰爾將不相哉
 上三句はコノマソ鏡ヲ我形見ト見マセ、ソノ形見ヲ云々といへるならむ○第四句を舊訓にモタラムトキニとよめるを宣長は辰爾を君爾の誤とせり。將持度爾《モチワタラムニ》などの誤にあらざるか○結句は古義に從ひてアハザラメヤモとよむべし(略解にはアハザラムカモとよめり)
 
2979 (まそかがみ)ただ目に君を見てばこそ命にむかふ吾戀やまめ
眞十鏡直目爾君乎見者許増命對吾戀止目
 このマソカガミは見にかゝれる枕辭なり。ミテバコソは見タラバコソなり○上(二五七〇頁)に
  よそ目にも君がすがたを見てばこそいのちにむかふわが戀やまめ
(2621) 又卷四に
  ただにあひて見てばのみこそたまきはる命にむかふわが戀やまめ
とあり
 
2980 (まそかがみ)見あかぬ妹にあはずして月のへぬれば生友名師《イケリトモナシ》
犬馬鏡見不飽妹爾不相而月之經去者生友名師
 結句を舊訓にイケリトモナシとよめるを契沖は『イケルトモナシとよむべし』といへり。こは卷十九に伊家流等毛奈之とあるによれるならむ。宣長も亦『イケルトモナシとよみてイケル利心モナシの意とすべし』といへれどなほ舊訓に從ふべし(一〇五六頁參照)
 
2981 はふりらがいはふみもろのまそかがみかけて偲《シヌバム》あふ人ごとに
祀部等之齊三諸乃犬馬鏡懸而偲相人毎
 上三句は序にてイハフはイツキ祭ルといふ事、ミモロは神殿なり○第四句の偲を從來シヌビツとよめり。さて四五の意を契沖は『似たる人、同じ程にうるはしき人或はしなかたちの及ばぬ人それぞれに付て思ひ出て偲ぶとなり』といひ宣長雅澄等(2622)皆此説に同意せり。案ずるに契沖等はアフ人毎ニカケテ妹ヲシヌビツと解したるならめど集中にカケテシヌビツ、カケテシヌバムなどいへるは皆相手ノ人(又は物)ヲ心ニカケテ〔五字傍点〕シヌブといへるなり。さればこゝのカケテシヌビツのみを別義とすべからず。更に案ずるに偲はこのままにてか又は上に將の字を補ひてシヌバムとよむべし。さて四五を妹ヲバ逢見ル人毎ニ心ニカケテ偲バムと心得べし。語例は卷十七なる二上山賦の末にイニシヘユイマノヲツツニ、カクシコソ見ルヒトゴトニ、カケテシヌバメとあり
 
2982 針はあれど妹|之《シ》なければつけめやと吾をなやまし絶ゆる紐のを
針者有杼妹之無者將著哉跡吾乎令煩絶紐之結〔左△〕
 妹之は舊訓に從ひてイモシとよむべし(古義にはイモガとよめり)○古人が紐の緒の絶ゆるを忌みし事上(二五五五頁)にいへる如し。さて此歌は紐の緒をいぢわろき人に擬したるなり○卷二十に
  くさまくらたびのまるねのひもたえばあが手とつけろこれのはるもし
とあり○結は緒の誤なり
 
(2623)2983 (こまつるぎ)己之景迹故《ワガココロカラ》、外耳《ヨソノミニ・ヨソニノミ》みつつや君|乎〔左△〕《ニ》こひわたりなむ
高麗剱己之景迩故外耳見乍哉君乎戀渡奈牟
 二註共に第二句をワガココロユユとよめり。己之はナガとよむべき事卷九なるツルギダチ己之《ナガ》心柄オソヤコノ君(一七四七頁)并に己《ナガ》父二似テハナカズ己《ナガ》母ニ似テハナカズ(一七七四頁)の處にいへる如くなれどこゝは卷二なるコマツルギワザミガ原ノを例としてワガとよむべくや。故はむしろカラとよむべし。ワガココロカラ云々は云出セバヨイニ云出シモセズニとなり○外耳は卷十五に與曾能未爾ミツツスギユク、卷十九に余曾能未爾ミツツアリシヲ、卷二十に余曾爾能美ミテヤワタラモとあればヨソノミニともヨソニノミともよむべし。君乎の乎は爾の誤ならむ
 
2984 (つるぎ太刀)名のをしけくも吾はなしこのごろの間の戀のしげきに
剱太刀名之惜毛吾者無比來之間戀之繁爾
 卷四に四五のみ君ニアハズテ年ノヘヌレバとかはれる歌あり
 
2985 (梓弓)末はし知らずしかれどもまさかは君により西ものを
(2624)    一本歌云梓弓末のたづきはしらねども心は君によりにしものを
梓弓末者師不知雖然眞坂者君爾縁西物乎
    一本歌云梓弓末乃多頭吉波雖不知心者君爾因之物乎
 末ハシのシは助辭なり○マサカは現在なり。これに對して未來を末ともオクともいふ。卷十四に二三の例あり○ヨリニシの主格は我心なり。そのヨリニシはヨリタルとあるべきなり。西は在などの誤にあらざるか○男の何とか云ひしに答へたるなり○君は二三の本に吾となり。之によらば男の歌とすべくイカデ逢ハズナリニケムといふ事を補ひて聞くべし
 一本の歌は別の歌と認むべし
 
2986 (梓弓)ひきみ縱見《ユルシミ》おもひみて既《ハヤク》心はよりにしものを
梓弓引見縱見思見而既心齒因爾思物乎
 縱見を舊訓にユルベミとよめるを契沖はユルシミとよみ眞淵以下ふたゝびユル(2625)ベミとよめり。卷十一(二四一四頁)なる梓弓引見弛見こそヒキミユルベミとよむべけれ、縱はユルベとはよみがたき上にハリに對してはユルベといひヒキに對してはユルシといはむが辭の常なれば契沖の訓に從ふべし。さてヒキミユルシミは引イタリ放ッタリなり〇二三はサマザマニ考ヘテといふことを弓の縁にていへるなり○既を從來スデニとよみたれど卷十七なる天ノ下スデニオホヒテフル雪ノなど古書にスデニといへるは全クといふことなればこゝの既はハヤクとよむべし。ヨリニシは弓の縁語なり
 
2987 梓弓ひきて不樅《ユルサヌ》ますらをや戀ちふものをしぬびかねてむ
梓弓引而不樅大夫哉戀云物乎忍不得牟
 この梓弓は枕辭にあらず。さてアヅサ弓ヒキテユルサヌは力滿ちたる丈夫の形容なり○卷十一(二四〇八頁)に初二のみツルギダチ身ニハキソフルとかはれる歌あり。自勵して我《ワレ》大丈夫ヤハ戀チフモノニ堪ヘ得ザルベキといへるなり。ヤ……カネテムはカネテアラムヤハなり(二三六〇頁參照)
 
2988 (梓弓)末中一伏三起《スヱノナカゴロ》、不通有之《ヨドメリシ》、君にはあひぬ嘆はやめむ
(2626)梓弓末中一伏三起不通有之君者會奴嘆羽將息
 末中一伏三起を舊訓にスヱナカタメテとよめるを宣長はスエノナカゴロとよみ改めたり。卷十三にネモコロゴロニを根毛一伏三向凝呂爾と書ける一伏三向と齊しければげにスヱノナカゴロとよむべし(一九三八頁參照)。六帖にも
  かくこひむものとしりせば梓弓すゑのなかごろあひみてましを
とあり。さて古義に
  末(ノ)中頃と云る意は末とはなかば通ひ住し盛の末のほどにて其末の間にひたすら絶しにはあらで中よどなりしを云なるべし
といへれど未ノ中ゴロといふ語あるべくもあらず。おそらくは弓に末ノナカといふ處あるによりてそれを中ゴロにいひかけたるならむ(卷十一【二四一一頁】アヅサ弓末ノハラ野參照)○不通有之を舊訓にユカザリシ、考にタエタリシ、古義にヨドメリシとよめり。卷二(一六九頁)に不通《ヨドム》事ナクアリコセヌカモ、卷四(七四一頁)にタエヌ使ノ不通有者《ヨドメレバ》、下にも今コムワレヲ不通《ヨドム》トモフナなどあれば古義の訓に從ふべし
 
2989 今更に何しかおもはむ(梓弓)ひきみ縱見《ユルシミ》よりにしものを
(2627)今更何牡鹿將念梓弓引見縱見縁西鬼乎
 ヒキミユルシミはサマザマニ思見テとなり○卷四(六三二頁)に
  今さらに何をかおもはむうちなびきこころは君によりにしものを
とあり
 
2990 をとめらがうみ麻《ヲ》のたたり打麻《ウチソ・ウツソ》かけうむ時なしにこひわたるかも
※[女+感]嬬等之續麻之多田有打麻懸續時無二戀度鴨
 上三句は倦《ウム》にかゝれる序なり。タタリは方《ケタ》なる臺に三本の柱を立てて絲をまとひかくるものにて今も然いふものなり。タタリの下にニを略したり○打麻は打チタル麻ならむ。然らば舊訓の如くウチソとよむべし。但古義に卷一なる打麻ヲ麻績《ヲミ》ノオホキミの處に
  打麻は麻をうむにはまづ打和らげて用るものなれば即ウチソと訓て字の如く打たる麻をいふにやともおもはるれども神祇令集解に宇都波多と見え又十六に打栲とあるなどは全織《ウツハタ》また全栲《ウツタヘ》と聞えたれば打麻もなほ借字にて全麻《ウツソ》なるべし。其は常は打和らげなど人の功《テ》をつけてうむことなるを、しかせずしてその(2628)まゝうみつむぎせらるゝ好き麻と賞て稱る意なるべし
といひてウツソとよめり。なほ考ふべし○續は績の俗字なり
 
2991 (たらちねの)母がかふ蠶《コ》の眉《マヨ》ごもりいぶせくもあるかいもにあはずて
垂乳根之母我養蚕乃眉隱馬聲蜂音石花蜘※[虫+厨]荒鹿異母二不相而
 卷十一(二三二五頁)に
  足常の母がかふこのまよごもりこもれる妹をみむよしもがも
とあり。上三句は序、イブセシは心の晴れぬ事
 
2992 (玉だすき)かけねばくるしかけたればつぎて見まくのほしき君かも
玉手次不懸者辛苦懸垂者續手見卷之欲寸君可毛
 考に
  このカクは思懸るにはあらず。はやくあひし事をたすきを身にかけまとふに譬たり
といひ二註共に之に從ひたれど玉ダスキは此歌にてはカケネバの枕辭に過ぎず。(2629)又下に手繦の縁語も無ければタスキにたとへたりとは見るべからず。案ずるにいにしへつまどふ事をカクルともいひしにこそ。さればカクルは今關係スルといふにひとしかるべし○卷十一(二三六五頁)に
  むかひては面かくさるるものからにつぎて見まくのほしききみかも
とあり
 
2993 むらさきの綵色之《マダラノ》かづらはなやか爾けふ見人に後こひむかも
紫綵色之※[草冠/縵]花八香爾今日見人爾後將戀鴨
 綵色之は古義に從ひてマダラノとよむべし(二一三一頁參照)。初二は序なり○見人を從來ミルヒトとよめり。さて古義にハナヤカニケフミル人ニを假ソメニアダアダシク相見シ人ナルヲと釋せり。見人はミシヒトとよむべし。否もしハナヤカ爾をもとのまゝとせばミエシとよむべし
 
2994 (玉かづら)かけぬ時なくこふれども何如《ナニシカ》妹にあふ時もなき
玉※[草冠/縵]不懸時無戀友何如妹爾相時毛名寸
(2630) このカケヌは思ハヌなり○何如を前註にナニゾモ、ナニシカ、イカニゾ、イカデカとよめり。イカデカの外はいづれにても可なれどしばらくナニシカとよむべし
 
2995 あふよしのいでこむまではたたみごもかさねあむ數いめにし見てむ
相因之出來左右者疊薦重編數夢西將見
 三四は度々といふ事を文《アヤ》なしいへるなり。卷十一(二四九五頁)に
  たたみごもへだてあむ數かよはさば道のしば草おひざらましを
とあり
 
2996 しらがつく木綿者花物《ユフハハナモノ》ことこそはいつの眞枝〔左△〕《マサカ》も常不所忘
白香付木綿者花物事社者何時之眞枝毛常不所忘
 卷三なる祭神歌(四六四頁)にオク山ノサカキノ枝ニシラガ付《ツケ》木綿トリツケテとあり。こゝのシラガツクは木綿にかゝれる准枕辭なり。さて白紙《シラガ》附クルといふべきをシラガツクといへるはクシロツクタフシノ崎ニ、眞玉ツクヲチコチカネテなどと同例にて例の如く連體格のかはりに終止格をつかへるなり(一四七五頁以下參照)(2631)○考に花物を花疑の誤としてハナカモとよめり。古義の如くハナモノとよみてアダアダシキ物の意とすべし。集中にアダニをハナニといへる例多し。さてユフハハナモノは神ノ祭ニ用フル木綿ハ一時ノ物といふ意にや○眞枝は眞淵に從ひて眞坂の誤とすべし。上にも眞坂ハ君ニヨリ西モノヲとあり。さてマサカは現在なり○コトコソハのコトを從來言の意としたれどさては一首の意義通ぜず。事と書けるは如の借字にてコトコソハはソノ如クニコソとなるべし○結句を從來ツネワスラエネとよめり。誤字あるにあらざるか。なほ考ふべし
 
2997 いそのかみふるの高橋たかだかに妹がまつらむ夜ぞふけにける
石上振之高橋高高爾妹之將待夜曾深去家留
 初二は序にてフルノタカハシは布留川に渡せる高橋なり。高橋は勾配ある橋をいへるにて特に高きを云へるにはあらじ○タカダカニは待つ状なり。はやく卷十一(二五一五頁)にタカダカニ我待ツ公ヲマチデナムカモとあり○ラムはラムヲとして心得べし
 
2998 湊入の葦|別《ワキ》小船さはりおほみ今こむ吾を不通《ヨドム》ともふな
(2632)    或本謌曰湊入|爾《ニ》蘆|別《ワク》小船さはりおほみ君にあはずて年ぞへにける
湊入之葦別小船障多今來吾乎不通跡念莫
    或本謌曰湊入爾蘆別小船障多君爾不相而年曾經來
 初二は序、今コムはオッツケ行カムとなり。別はワキとよむべし
 或本謌の蘆別をも從來アシワケとよめり。さてアシワケヲブネとよみてはミナトイリニのニの収まる所なきによりて字音辨證(上卷七頁)には爾をノとよめり。蘆別をアシワクとよまば可なるにあらずや○卷十一(二四七五頁)にも
  湊入の葦わき小舟さはりおほみわがもふきみにあはぬころかも
とあり
 
2999 水をおほみ上《アゲ》に種まきひえをおほみ擇《エラシ》擢〔□で囲む〕|之業〔左△〕曾《シワレゾ》、吾〔左△〕獨宿《ヨヲヒトリヌル》
水乎多上爾種蒔比要乎多擇擢之業曾吾獨宿
 卷十一(二三一二頁)に
(2633)  うつ田には稗はここばくありといへど擇爲我《エラシシワレゾ》、夜一人宿《ヨヲヒトリヌル》
とあり○アゲは記傳卷二十九(一七七三頁)に『神代(ノ)卷に高田《アゲタ》、萬葉に上《アゲ》ニ種マキなどあるは水田の高きを云るなり』といへる如し(同書卷十七【九九〇頁】參照)○上三句は序なり。初句と第三句と同格なるが初句は第二句を云はむとていへるのみ○擇擢之を從來エラエシとよみたれどエラシシとよむべし。否擇と擢と一字は衍字ならむ。おそらくは擇の傍に一本によりて擢と書きたりしを誤りて下にもて來たるならむ。さて擢之に從はばヌカシシとよむべし○考に業を吾等の誤、吾を夜の誤とせり。之に基づきて四五はエラシシワレゾヨヲヒトリヌルとよむべし。君ガエラビ棄テ給ヒシ我ゾ云々といへるなり
 
3000 靈合者《タマアハバ》、相寢物乎《アヒネムモノヲ》、小山田のしし田もるごと母しもらすも
     一云母|之《シ》もらしし
靈合者相宿物乎小山田之鹿猪田禁如母之守爲裳
    一云母之守之師
(2634) 初二を古義にはタマシアヘバアヒネシモノヲとよめり。宜しく略解に從ひてタマアハバアヒネムモノヲとよむべし。魂ダニ相逢ハバ遂ニ相寢ムモノヲといへるなり。卷十四にも母ハモレドモタマゾアヒニケルとあり。卷三(五〇五頁)なるオホキミノムツタマアヘヤは別なり○シシ田は猪鹿の荒す田なり
 
3001 春日野にてれるゆふ日の外耳《ヨソノミニ・ヨソニノミ》君をあひ見て今ぞくやしき
春日野爾照有暮日之外耳君乎相見而今曾悔寸
 初二は序なり。ヨソはヨソ目なり。マトモナラズなり。此序めづらし
 
3002 (あしひきの)山よりいづる月まつと人にはいひて妹まつ吾を
足日木乃從山出流月待登人爾波言而妹待吾乎
 吾ヲは吾ゾなり、古義にモノヲの意なりといへるは非なり○此歌卷十三なる長歌の末にさながら入りてそこには君待吾乎とあれば眞淵は此歌の妹待を君待に改めて
  女の通ふ事は先はなし。且歌も女のよめるさま也
(2635)といひ雅澄は
  男の、女の門近く至りて出來むほどを待よしなればさてあるべきにこそ
といへり。案ずるにこは屋外にての出合とおぼゆれば男の女を待つ事もあるべく又女の男を待つ事もあるべし。されば眞淵の如く字を改めむ事は勿論雅澄の如く助け釋かむ事も不用なり○第四句の語例は卷十一(二四三九頁)に
  笠なみと人にはいひてあまづつみとまりし君がすがたしおもほゆ
とあり
 
3003 ゆふづくよあかとき闇のおほほしく見し人故にこひわたるかも
夕月夜五更闇之不明見之人故鯉渡鴨
 初二は序なり。卷十一(二四二八頁)にもユフヅクヨアカトキヤミノアサカゲニ云々とあり。新月の頃は曉は闇ければユフヅクヨアカトキヤミといへるなり
 
3004 (ひさかたの)天水虚《アマツミソラ・アマノミソラ》に照日〔左△〕《テルツキノ》のうせなむ日こそ吾鯉やまめ
久堅之天水虚爾照日之將失日社吾鯉止目
(2636) 天水虚はアマツミソラともアマノミソラともよむべし(二二〇五頁參照)○照日は類聚古集などに照月とあるに從ひてテルツキノとよむべし。前後みな寄月の歌なればなり
 
3005 十五日△《モチノヨニ》いでにし月のたかだかに君を座而《イマセテ》なにをかおもはむ
十五日出之月乃高高爾君乎座而何物乎加將念
 初二は序なり。初句をモチノヒニとよみしを雅澄は日の下に夜の字を補ひてモチノヨニとよめり。之に從ふべし○タカダカニの語例は集中にタカダカニワガマツキミ(卷十一)妹ガマツラム(卷十二)キミマツ夜ラハ(同)コムトマチケム(卷十三)マツラムキミヤ(卷十五)マツラムココロ(卷十八)とありて待といふ語と照應せざるは今の歌と卷四(八〇四頁)なる
  しら雲のたなびく山のたかだかに吾念妹をみむよしもがも
とのみなり。上(二六三一頁)にもいへる如くタカダカニは待つ貌とおぼゆれば今はイマセテを待座セテ、卷四なるワガモノはワガ待念フと(待といふ語を添へて)心得べし。卷四なるは吾待妹、今は待出而の誤字かとも思へど然にはあらじ。さてイマセ(2637)テは御出ヲ願ウテとなり
 
3006 月夜よみ門にいでたち足占《アウラ》してゆく時さへや妹にあはざらむ
月夜好門爾出立足占爲而往時禁八妹二不相有
 足占の事は卷四(七九三頁)なる
  つくよには門にいでたちゆふけとひあうらをぞせしゆかまくをほり
の處にいへる如く足數によりて吉凶を占ふ業なり。第三句は足占シテ吉ト見定メテと辭を加へて心得べし
 
3007 (ぬばたまの)夜わたる月のさやけくばよく見てましを君がすがたを
野于〔左△〕玉夜渡月之清者吉見而申尾君之光儀乎
 
3008 (足引の)山をこだかみゆふ月をいつかと君をまつがくるしさ
足引之山呼木高三暮月乎何時君乎待之苦沙
 上三句は前註にいへる如くユフ月ヲイツカト待ツガ如ク君ヲイツカト待ツガクルシサといふことをつづめたる一種の序なり○こゝのユフ月は新月にはあらで(2638)ただ夕べの月をいへるなり○第二句は古義に山ノ梢ノ木高キ故ニと譯せる如し。コダカミは字の如く木高ミなり
 
3009 つるばみの衣ときあむひまつち山|古人《モトツヒト》にはなほしかずけり
橡之衣解洗又打山古人爾者猶不如家利
 上三句は序なり。其中にて又ツルバミノキヌトキアラヒはマツチ山の序なり。又打をつづむればマツチとなるが故にキヌトキアラヒ又打といひかけたるなり。卷六なる長歌(一一三〇頁)にもフルゴロモマツチノ山ユとあり○さて序のかゝりを契沖は山の麓をモトともいへばマツチ山モトツ人とかゝれるなりといひ、略解古義には
  マツチ山モトツと音の通へばマツチ山はモトツといはむ料なりといへり。奇僻なるやうなれどしばらく二註の説に從ふべし○卷九(一八三三頁)なるツママツノ木ハ古人ミケムは文字はこことおなじかれどフルヒトとよみて昔の人の意とすべき事彼歌の處にいへる如し。又卷十(一九九八頁)にはモトツ人を本人と書けり。上(二六〇六頁)なるシロタヘノ袖ノナレニシ君ヲシゾモフのナレニシ(2639)君も相似たる意なり○シカズケリは若カザリケリを省きなどしたるにあらず。いにしへはかくの如くただ二語を並べしが語法やうやう精しくなりて所謂連用格が生ぜしなり。アリナリがアルナリとなり、タテリ見ユがタテル見ユとなれるも然り。此等の例を集めなば太古の語法も窺ひつべし。漢文にも古はただ語を並べし例あり。たとへば詩經なる齊風の鶏鳴に無庶予子憎とあるは庶《モロビト》ニ予《ワレ》ニヨリテ子《キミ》ヲ憎マシムル無《ナ》カレと心得べきなり
 
3010 佐保河の河浪たたずしづけくも君にたぐひてあすさへもがも
佐保河之河浪不立靜雲君二副而明日兼欲得
 初二は序なり。四五は君ト一緒ニ明日モ居リタシとなり
 
3011 (吾妹兒にころも)かすがのよしき河よしもあらぬか妹が目をみむ
吾妹兒爾衣借香之宜寸河因毛有額妹之目乎將見
 上三句は序、其中にてワギモコニコロモの八言はカスガにかかれる枕辭なり。ワギモコはかく序中の語なれば主文の妹と重複するを嫌はざるなり○ヨシキ川は即(2640)ミヤ川にて春日山より出づる一谿流なり○ヨシモアラヌカはスベモアレカシなり
 
3012 (とのぐもり雨)ふる河のさざれ浪まなくも君はおもほゆるかも
登能雲入雨零河之左射禮浪間無毛君者所念鴨
 上三句は序、トノグモリ雨の七言は布留河にかゝれる枕辭なり○トノグモリははやく卷三(四五八頁)にもトノグモル夜之と見えたり。タナグモリともいひてただ曇る事なり(一六五五頁參照)○考及略解の釋の誤れるは古義に辨じたる如し
 
3013 吾妹兒やあをわすらすないそのかみ袖ふる河のたえむともへや
吾妹兒哉安乎忘爲莫石上袖振河之將絶跡念倍也
 初二は古義にいへる如く吾妹子ヨ、我ヲ忌レタマフナとなり。三四は序なり。タエムトモヘヤは我ハ絶エムト思ハメヤ、思ハジとなり○袖フル河ノの袖は卷九(一八三三頁)なるツママツノ木ハのツマ、卷十(二一三九頁)なるキミマツ原ハのキミとおなじく句中の枕辭なり。二註に『布留山をヲトメ子ガ袖フル山といへる如し』といへる(2641)は例とすべからざるものを例とせるなり
 
3014 神山の山下とよみゆく水の水尾《ミヲノ》たえずば後も吾妻
神山之山下響逝水之水尾不絶者後毛吾妻
 水尾を略解にミヲシとよめるはわろし。古義の如くかならずミヲノとよむべし。ミヲノ以上は序なり。而して序なるが故にミヲシとはよむべからざるなり
 
3015 神のごときこゆる瀧の白浪の面知《アヒミシ》君がみえぬこのごろ
如神所聞瀧之白浪乃面知君之不所見比日
 上三句は序、神は雷なり○面知の語例は下に
  みづぐきの崗のくず葉をふきかへし面知兒等がみえぬころかも
とあり。否その歌は此歌を學びたるものとおぼゆ。卷二(二一四頁)なる
  もゆる火もとりてつつみてふくろにはいるといはずや面智男雲
も面知因男雲の誤字とすべし。さて面知を契沖以下舊訓の如くオモシルとよみて眞淵は
(2642)  上よりはオモシロシといひ、受る句は面ヲ見知タル君てふ意にて面知とは常に見なるゝ人にもあらず、よそながら其面を相見知て目をくはせ心を通はするをいふべし
といひ、宣長は
  面知はただ面を知といふのみにあらず。シルはいちじろき意にて他の人にはまがはずいちじるく見ゆる君といふ事也。故に瀧ノ白浪或は此末に岡ノクズ葉ヲフキカヘシなどいへる、皆いちじろき物を序とせり
といへり。又守部(鐘のひびき八十八丁)はアヒミシとよみて
  面知とは逢見と云義訓の假字也。諸抄皆オモシルと訓たるはわろし。十一に對面者と書たるをムカヘレバと訓たれど是もアヒミレバと云義也
といへり。卷十一なる對面者は對而者の誤としてムカヒテハとよむべき事彼卷(二三六五頁)にいへる如し。さて面知はしばらくアヒミシとよむべし。卷二なる面知因男雲はアフヨシナクモとよむべければなり
 
3016 山河の瀧にまされる戀すとぞ人知りにける無間念者《マナクオモヘバ》
(2643)山河之瀧爾益流戀爲登曾人知爾來無間念者
 瀧ニマサレルとは瀧ニマサリテ心ノタギツとなり。結句を古義にマナクシモヘバとよみたれど此歌はテニヲハに當る字を皆書顯したるにシとよむべき字なければ舊訓の如くマナクオモヘバとよむべし
 
3017 (あしひきの)山河水の音にいでず人の子※[女+后]《ユヱニ》こひわたるかも
足檜木之山河水之音不出人之子※[女+后]戀渡青頭鶏
 初二はオトまでにかゝれり。上(二六一九頁)なるムラサキノワガ下紐ノ色ニイデズと同格なり。オトニイデズはヒソカニなり。人ノ子ユヱニは人ノイツク娘ナルモノヲとなり○カモを青頭※[奚+隹]と書けるに就いて契沖は
  青頭※[奚+隹]は鴨なり。もろこしの文にもあること歟(初稿本)
といひ又
  青頭※[奚+隹]は鴨の義訓なり(精撰本)
といひ雅澄は
  青頭※[奚+隹]は鴨にて哉《カモ》の借字なり。鴨をかく書は霰を丸雪と書る類なり。漢名にあら(2644)ず〔六字傍点〕。戀水《ナミダ》、西渡《カタブク》などかけるに似たることなり。此類集中に甚多し
といへり。案ずるに青頭※[奚+隹]は三國魏時代に漢土に行はれし鴨の俗稱なり。宋(六朝)の裴松之の三國志注に
  姜維寇2隴右1時安東將軍司馬文王鎭2二許昌1。徴還撃v維。至2京師1。帝於2平樂観1以臨2軍過1。中領軍許允與2左右小臣1謀d因2文王辭1殺v之勒2其衆1以退c大將軍u。已書2詔於前1。文王入。帝方食v栗。優人雲午等唱曰。青頭※[奚+隹]青頭※[奚+隹]。青頭※[奚+隹]者鴨也。帝懼不2敢發1
とあり。煩はしけれど右の文を補譯せむに
  三國の時蜀の姜維が魏の隴西を侵した。其時の魏王は廢帝芳であつたが安東將軍司馬昭が許昌に居たのを呼戻して維を討たしめた。其途中京師を過ぎた。是より先、大將軍司馬師、安東將軍司馬昭兄弟は故丞相司馬懿の子として權を專にして居たから中領軍許允等、其終に魏の社稷を奪はんを恐れ昭が京師を過ぎて魏主に暇乞をするを機會として之を殺し其軍を率ゐて昭の兄司馬師をも退けんことを謀り司馬昭を殺すべき旨の詔書を草したが魏主がまだ詔書に華押を署せざる間に、はや昭が入來った。然るに押字を署せざれば詔書の効力が發生せぬ(2645)から、はやく押字をと云ひたいが目の前に昭が居るのであるから押とは云はれぬ。そこで押と同音(共にアフ)なる鴨の俗稱を青頭※[奚+隹]といふから宮廷俳優なる雲午等が氣をきかせて青頭※[奚+隹]々々々と呼んだが魏主は懼れて押字を書かなかった。其内に昭は出て行いてしまうた。さうして魏主芳は後に司馬師に廢せられ其次の後廢帝髦は司馬昭に殺され其次の元帝奐の時に昭の子司馬炎に迫られて位を禅り魏が亡び晋が興った。青頭※[奚+隹]一件の時、兄師が撫軍大將軍兼尚書で弟昭は安東將軍で兄師の下に附いて居たのであるが兄が死んだ後に、元帝の時に進んで晋王となり死して文と謚せられた。其後の稱なる文王を三國志注には前へ廻らして安東將軍司馬文王と書ける爲に事情を知らぬ讀者は所謂大將軍より先輩であるやうに誤解するであらうと思ふから少々補譯の筆を進めたのである
 右の如くなれば青頭※[奚+隹]は漢名にて萬葉集の編者が妄に戯書したるにはあらず。續日本紀神護景雲三年冬十月の下に
  太宰府|言《マヲ》ス。此府ハ人物殷繁ニシテ天下ノ一都會ナリ。子弟ノ徒、學《モノマナビ》スル者稍衆シ。(2646)而ルニ府庫タダ五經ヲ蓄へテ未三史ノ正本アラズ。渉獵ノ人其道廣カラズ。伏シテ乞フ、列代ノ諸史各一本ヲ給ハリ管内ニ傳ヘ習ハシ以テ學業ヲ興サムト。詔シテ史記、漢書、後漢書、三國志〔三字右△〕、晋書各一部ヲ賜フ
とある三國志は陳壽の原撰にや裴松之の補撰にや知られねど今の歌にカモを青頭※[奚+隹]と書けるを見れば補撰(又は魏氏春秋)も亦夙く我邦に渡來したりしなり
 
3018 高湍△《コセヂ》なる能登瀕の河の後將合《ノチモアハム》、妹には吾は今ならずとも
高湍爾有能登瀬乃河之後將合妹者吾者今爾不有十方
 卷十一(二二八四頁)に
  鴨川の後瀬しづけく後もあはむ妹には我は今ならずとも
とあり○初句を考に卷三(四一三頁)に
  さざれなみ礒こせぢなるのとせ川おとのさやけさたぎつ瀬ごとに
とあるに據りてコセナルと四言によめり。高湍の下に道を補ひてコセヂナルとよむべし。コセは大和高市郡なる巨勢にてノトセ川は今の重坂《ヘサカ》川なり○初二は序なり。第三句は考の如くノチモアハムとよむべし(古義にはノチニとよめり)。序のかゝ(2647)りは契沖の説に
  登と知と通ずればノトセを承て後モアハムと云へるなり
といへり。此説の如し
 
3019 (あらひぎぬ)取替《トリカヒ》河の河よどの不通牟《ヨドマム》心おもひかねつも
浣不〔左△〕取替河之河余杼能不通牟心思兼都母
 初句は枕辭、上三句は序なり○取替河を舊訓にトリカヘガハとよめるを契沖は
  和名集を考るに添下郡鳥貝、和語は文字に定なし。取替はトリカヒともよむべければ、もし此鳥貝にある川にや
といひ眞淵以下此説に從ひたり。替はカヘとよむべくカヒには借るべからざるに似たれど卷二にハガヒノ山を羽易乃山と書き卷十三にウマカハバを馬替者と書けるを思へば取替河はげにトリカヒ河とよむべし。但和名抄の鳥貝は鳥見《トミ》の誤とおぼゆれば之に擬すべからず。恐らくは攝津國の鳥飼ならむ○心ヲオモフは今いふ心ヲ持ツなり。古義に四五を釋せるやうわろし。足ヲ遠クシヨウトハ得思ハヌといへるなり○不は諸本に衣とあり
 
(2648)3020 いかるがのよるかの池の宜毛《ヨロシトモ》、君乎〔左△〕《キミガ》いはねばおもひぞわがする
班〔左△〕鳩之因可乃池之宜毛君乎不言者念衣吾爲流
 初二は序なり。ヨルカを以てヨロシをさそひ出でたるはノトセを以てノチを呼起したるに似たり○第三句を從來ヨロシクモとよめり。さて略解にはイハネバをイハヌニの意として
  人は我故に君をよくもいはぬに我はとにかくに君をおもふといふ也
といひ、古義には乎を之の誤として
  わがとかく君をおもひまつはせども君が我をうけひき相かなふけしきの見えずいつも苦々しくのみいへば物思をぞ我はするとなり といへり。案ずるに乎を之の誤とし宜毛をヨロシトモとよむべし。釋はほぼ古義にいへる如し○班は斑の誤なり
 
3021 (こもりぬの)したゆ者〔左△〕《ゾ》こひむいちじろく人のしるべくなげきせめやも
絶〔左△〕沼之下從者將戀市白久人之可知歎爲米也母
(2649) 卷十一(二二九一頁)に
  こもりぬの下ゆこふればすべをなみ妹が名のりつゆゆしきものを
 又(二三九三頁)
  おもひでてねにはなくともいちじろく人のしるべくなげかすなゆめ
とあり○シタユは下ニなり。者は曾の誤字ならむ。シタは水草の下を心《シタ》にかけたるなり。略解に『シタユは下樋より水の通ふに譬へて人にしられじといふ意也』といへるはいみじき誤なり○絶は隱の誤字かと眞淵いへり
 
3022 ゆくへなみこもれる小沼《ヲヌ》のしたもひに吾ぞ物もふ頃日之間《コノゴロノマヲ》
去方無三隱有小沼乃下思爾吾曾物念頃者之間
 初二はシタにかゝれる序にてユクヘナミはハケ口ガナサニとなり。略解に『下樋の水の通ひてたまれる沼也』といへるは妄なり。はけ口無きが故にコモレルといへるなり○シタモヒは心のうちに思ふ事なり。結句を略解にコノゴロノマハ、古義にコノゴロノアヒダとよめり。宜しくコノゴロノマヲとよむべし。上(二六二三頁)にもコノゴロノ間〔日が月〕《マ》ノ戀ノシゲキニとあり
 
(2650)3023 (こもり沼《ヌ》の)したゆこひあまり(しら浪の)いちじろくいでぬ人のしるべく
隱沼乃下從戀餘白浪之灼然出人之可知
 コモリ沼ノはシタにかゝりシラナミノはイチジロクにかゝれる枕辭にて兩者の間〔日が月〕には關係なし。略解に
  堤に隱れたる水の溢れて堤を越出るを以て思にあまりて色にいでなば人にしられんといふを譬ふ
といへるは妄なり
 
3024 (妹が目をみまく)ほり江の小浪《サザレナミ》しきてこひつつありとつげこそ
妹目乎見卷欲江之小浪敷而戀乍有跡告乞
 妹ガ目ヲミマクはホリ江の枕辭、上三句はシキテの序なり。シキテは頻ニなり。コヒツツアリとつづけて心得べし○小浪は上(二六四〇頁)に雨フル河ノ左射禮浪とあり。卷十七なる長歌にも佐射禮奈美タチテモヰテモとあればサザレナミとよむべ(2651)し。但新撰字鏡に佐々良奈彌とあればサザラナミとよまむもあしからず
 
3025 いはばしるたるみの水のはしきやし君にこふらくわがこころから
石走垂水之水能早敷八師君爾戀良久吾情柄
 初二はハシキにかゝれる序、ハシキヤシは君にかゝれる准枕辭なり○こゝのタルミは瀧なり。二註に地名とせるは非なり。又初二のかゝりを水ノハシルとかゝれるなりといへるも非なり。ハシルはハシキにいひかくべからず、又イハバシル〔三字傍点〕タルミノ水ノハシル〔三字傍点〕とはいふべからざるが故なり。契沖がハの一言にかゝれるなりとして『ハの一もじをハヤと云意に云へり』といへるも從はれず。案ずるにいにしへ速なる事をハシ、ハシキともいひしかば水ノ早《ハ》シキをハシキヤシ(可愛)にいひかけたるならむ。今敏捷なる事をハシコイといふはこのハシキの轉ぜるなるべく鷹の一種なるハシダカも殊に敏捷なるが故にさる名を負へるなるべし〇四五は卷四(七七〇頁)にツミテコフラクワガ心カラとあるに似たり
 
3026 君は來ず吾は故無《コトナミ》(たつ浪の)數《シクシク》わびしかくて來じとや
(2652)君者不來吾者故無立浪之數和備思如此而不來跡也
 數は考に從ひてシクシクとよむべし(古義にはシバシバとよめり)。タツ浪ノはシクシクにかゝれる枕辭なり。カクテ來ジトヤは終ニ來ジトヤとなり○故無を從來ユエナミとよみて我ハ女ナレバ我ヨり行クベキ理由無キニヨリテといふ意とせり。案ずるに玉篇に故(ハ)事也とあり。又易經繋辭なる知2幽明之故1、左傳なる謀2鄭(ノ)故1也、問2晋(ノ)故1、以2鄭(ノ)故1などもコトとよみ來れり。孝徳天皇紀にもコトヨサシキを故寄と書けり。されば故無はコトナミとよみて手持不沙汰デアルニヨリテといふ意とすべし○コトナミタツナミノはわざと韻を合せたるにて卷七なる
  浪高しいかにかぢとり〔二字傍点〕みづとり〔二字傍点〕のうきねやすべきなほやこぐべき
と同例なり
 
3027 あふみの海《ミ》へたは人しる(おきつ浪)君をおきてはしる人もなし
淡海之海邊多波人知奥浪君乎置者知人毛無
 女の歌なり。ヘタは岸近き處なり。シル人は我知レル男となり○此歌は極めてめづらしき格なれば從來解得たる人なし。其中にて最深く到れるは宣長の説なり。其説(2653)にいへらく
  此歌上の句は君ヲオキテハを隔てゝシル人モナシといふへかゝる序なり。其序の意はヘタノ浪ハ人皆シレドモ沖ノ浪ハ遠キ故ニシル人モナシといふ也。是は只序のつづけの意のみにてさて歌の意は下句にあり。君ヲ除《オキ》テ外ニシル人ハナシといふのみ也。知人とは逢見る人なり
といへり。打見にはオキツ浪はオキテハにかゝれる枕辭と見ゆれど之を枕辭とすればアフミノ海ヘタハ人シルの二句が無用となるめれば棄てがたき初一念を棄ててヘタハ人シルとオキツ浪シル人モナシとをむかはせたれど、さては又君ヲオキテハの一句浮漂ふが故に上三句を序とし又オキツ浪に對してヘタをヘタノ浪と譯せるなり。案ずるに此歌はまづ初二を除きて見べし。オキツ浪はオキテハにかかれる枕辭なり。さてオキツ浪君ヲオキテハシル人モナシと作りし後其三句に對する文《アヤ》としてアフミノ海ヘタハ人シルの二句を作り添へしなり。何故に然いひしかといふに大湖は岸邊の風景こそ人普く知りたれ沖中の風景は知れる人少きが故なり。卷十一の卷頭なるかの
(2654)  新室の壁草かりにいましたまはね、草のごとしなふをとめは君がまにまに
  新室をふみしづむ子が手玉《タダマ》ならすも、玉のごとてりたる君を内へとまをせ
の各下半は副物に過ぎざる事彼處にいへる如し。今の歌にては初二が副物なり。毛詩なるかの
  鼠ヲ相《ミ》ルニ皮アリ、人ニシテ儀ナシ、人ニシテ儀ナクバ、死セズシテ何ヲカ爲《セ》ム
などとも相似たる所あり。もし詩の六義に擬せば一種の興と謂ふべし
 
3028 (大海の底を)ふかめてむすびてし妹が心はうたがひもなし
大海之底乎深目而結義之妹心者疑毛無
 卷四(六五八頁)に
  赤駒のこさぬうませのしめゆひし妹が心はうたがひもなし
とあり○大ウミノ底ヲの八言は枕辭なり。フカメテは心ヲ深メテすなはち心フカクといふことなり。はやく卷四(七六一頁)に
  わたの底おきをふかめてわがもへる君にはあはむ年はへぬとも
とあり(二四九八頁參照)○ムスビテシは相結ビテシなり。妹が心をむすぶにあらず
 
(2655)3029 さだの浦によするしら浪あひだなくおもふを如何《ナドカ》妹にあひがたき
貞能納〔左△〕爾依流白浪無間思乎如何妹爾難相
 初二は序なり。サダノ浦ははやく卷十一(二四六七頁)にサダノ浦ノコノサダスギテ後コヒムカモとあり○如何を舊訓にナニゾ、略解にナゾモ、古義にイカデとよめり。イカデとはよみがたし。しばらくナドカとよむべし○納は※[さんずい+内]の誤なり
 
3030 おもひいでてすべなき時は(天雲の)おくかもしらずこひつつぞをる
念出而爲便無時者天雲之奥香裳不知鯉乍曾居
 オクカモ知ラズを略解に『ユクヘモシラズにおなじ』といひ古義に『ソコヒモ知ラズニといはむが如し』といへり。卷十三に立良〔左△〕久《タタマク》ノタヅキモシラズ居久《ヰマク》ノオクカモシラニ、又卷十七に大海ノオクカモシラズユク我ヲとあり。宜しくアテモ知ラズと譯すべし
 
3031 (天雲の)たゆたひやすき心あらば吾乎莫憑《ワレヲナタノメ》まてばくるしも
天雲乃絶多此安心有者吾乎莫憑待者苦毛
(2656) 第四句を略解にアヲナタノメソ、古義にアレヲナタノメとよめり。ワレヲナタノメは我ヲシテ憑マシムナにて所詮來ラムト契ルナとなり
 
3032 君があたり見つつもをらむいこま山雲なたなびき雨はふるとも
君之當見乍母將居伊駒山雲莫蒙雨者雖零
 伊駒山は奈良より西に當りて大和河内に跨れり
 
3033 中々に如何《ナドカ》しりけむ吾〔左△〕《ハル》山にもゆるけぶりのよそにみましを
中中二如何知兼吾山爾燒流火氣能外見申尾
 三四は序なり。吾山は記傳卷三十七(二二一二頁)に
  十卷に靈寸春吾山之於爾、十二卷に吾山爾燒流火氣能などあるは共に春山を吾山と誤れるなり。春と吾とは草書いとよく似たればなり
といへり。前者は愛寸吉吾家之於爾の誤なるべき事卷十(一九六五頁)にいへる如し。こゝの吾山はげに春山の誤ならむ○如何を舊訓にナニニとよみ略解古義にイカデとよめり。しばらくナドカとよむべし
 
(2657)3034 吾妹兒に戀爲便名鴈、胸乎熱《ムネヲヤキ》あさ戸あくればみゆる霧かも
吾妹兒爾戀爲便名鴈※[匈/月]乎熱且〔左△〕戸開者所見霧可聞
 卷十一(二二七一頁)に
  わぎもこに戀無乏いめにみむと吾はおもへどいねらえなくに
とある第二句を二註にコヒスベナカリとよみたれどこはコヒテスベナミとよむべし。又卷十七に大伴池主の歌に
  わがせこに古非須弊奈賀利あしがきのほかになげかふあれしかなしも
とあり。これに據りて今も前註の如くコヒスベナカリとよむべきかといふにコヒテといふべきテを略せる、スベナミといふべきをスベナカリといへるいといぶかし。おそらくはここは戀爲便名編などの誤にてコヒテスベナミとよむべく池主の歌は名鴈と誤り書けるを其ままに例としてコヒスベナカリとよめるならむ、なほ卷十七に至りて云ふべし○胸乎熱は舊訓にムネヲヤキとよめるを二註にムネヲアツミとよみ改めたリ。結句の霧は心火の烟と見なしたるなればそれに對してもムネヲヤキとよまざるべからず
 
(2658)3035 あかときの朝霧隱《ガクリ》、反羽〔左△〕二《カヘリシニ》、如何《ナドカモ》戀の色にいでにける
曉之朝霧隱反羽二如何戀乃色丹出爾家留
 隱を考にカクリとよみ古義には卷十五にアカトキノアサギリ其問理とあるに依りてコモリとよめり。なほ考に從ふべし○霧を朝ぎり、夕ぎり、夜ぎりに分たば曉の霧は朝霧に屬すべければかくもいふべし○羽を考に詞の誤とし古義に爲の誤とせり。後者に從ふべし。但古義に『詞の字をシの假字に用たる例なし』といへるは非なり。卷十五なる長歌に宇伎禰乎詞〔右△〕都追とあればなり○如何を從來イカデカとよめり。しばらくナドカモとよむべし○戀を人に擬して我ハ人目ヲシノビテ朝霧ニカクレテ歸リシヲソノ心ヅカヒヲモ思ハデナド戀ノ色ニ出デテ人ニ知ラレシゾといへるなり
 
3036 おもひいづる時はすべなみ佐保山にたつ雨霧のけぬべくおもほゆ
思出時者爲便無佐保山爾立雨霧乃應消所念
 三四は序なり。アマギリめづらし
 
(2659)3037 きりめ山往反《ユキカヘル》道の朝がすみほのかにだにや妹にあはざらむ
殺目山往反道之朝霞髣髴谷八妹爾不相牟
 上三句は序なり。キリメ山は紀伊にあり。往反を從來ユキカフとよめり。さて二註に『此山の邊の妹許行て逢はずしていたづらに歸るとてよめるなるべし』といへり。案ずるにもしさる意ならばユキカフとはよまでユキカヘルとよむべし。語例は卷十九なる餞2入唐使1歌に
  天雲のゆきかへりなむものゆゑにおもひぞわがする別かなしみ
とありてユキは輕く添へたるなり。サキチルのサキにおなじ〇四五はホノカニナリトモ妹ニ逢ハザラムカ、嗚呼逢ハマホシとなり
 
3038 かくこひむものとしりせば夕《ユフベ》おきてあしたは消流《キユル》露ならましを
如此將戀物等知者夕置而且〔左△〕者消流露有申尾
 夕を略解にヨヒニとよめリ。舊訓に從ひてユフベとよむべし。消流を二註にケヌルとよめり。宜しくキユルとよむべし。第三句以下は露ノ如ク命短カラマシヲといへ(2660)るなり
 
3039 暮《ユフベ》おきてあしたは消流《キユル》しら露のけぬべき戀も吾はするかも
暮置而旦者消流白露之可消戀毛吾者爲鴨
 
3040 後つひに妹にあはむとあさ露のいのちは生けり戀はしげけど
後遂爾妹將相跡且〔左△〕露之命者生有戀者雖繁
 アサ露ノ如キ命となり。シゲケドはシゲカレドなり
 
3041 あさなさな草の上しろくおく露のけなば共にといひし君はも
朝且〔左△〕草上白置露乃消者共跡云師君者毛
 上三句は序なり。ケナバ共ニトは死ナバ諸共ニ死ナムとなり。ハモは消息の知られぬにいふテニヲハなり
 
3042 朝日さすかすがの小野におく露のけぬべき吾身をしけくもなし
朝日指春日能小野爾置露乃可消吾身惜雲無
 上三句は序。ヲシケクモはヲシカル事モとなり
 
(2661)3043 (露霜の)けやすき我身おいぬとも又|若反《ヲチカヘリ》、君をし待たむ
露霜乃消安我身雖老又若反君乎思將待
 卷十一(二四四一頁)にも
  朝露のけやすき吾身おいぬとも又をちかへり君をし待たむ
とあり。古義に若反の上に變の字を補ひたれど、もとのまゝにてもヲチカヘリとよみつべし○第二句の次にナレバといふことを補ひて聞くべし。考に『此歌一二句の言と三句より下と言の道たがへり』といへるは誤解なり。初二はオイヌトモにかゝれるなり。ヲチカヘリにかゝれるにあらず
 
3044 君まつと庭|耳〔左△〕《ニシ》をればうちなびくわが黒髪に霜ぞおきにける
    或本歌尾句云しろたへのわが衣手に露ぞおきにける
待君常庭耳居者打靡吾黒髪爾霜曾置爾家類
    或本歌尾句云白細之吾衣手爾露曾置爾家留
 庭耳を舊訓にニハニシとよめるに基づきて古義に耳を西の誤とせり。之に從ふべ(2662)し。略解にニハノミとよみてニハニノミのニを省きたるなりといへるは非なり○卷二(一三五頁)に
  ゐあかして君をばまたむぬばたまのわがくろ髪に霜はふるとも
 又卷十一(二四四一頁)に
  まちかねて内へは入らじしろたへのわがころもでに露はおきぬとも
とあり
 
3045 (朝霜の)けぬべくのみや時なしにおもひわたらむいきのをにして
朝霜乃可消耳也時無二思將度氣之緒爾爲而
 トキナシニは始終なり。イキノヲニシテはただイキノヲニといはむにひとし。はやく卷四(七六三頁)にもカクバカリイキノヲニシテワガコヒメヤモとあり〇二三四は始終死ヌ程ニ思ヒ續ケル事カとなり
 
3046 左佐浪之波越安暫〔三字左△〕仁《ササナミノナミクラガネニ》ふる小雨あひだもおきてわがもはなくに
左佐浪之波越安暫仁落小雨間文置而吾不念國
(2663) 上三句は序なり。卷十一(二四六五頁)にも
  すが島の夏身の浦による浪のあひだもおきてわがもはなくに
とあり○第二句を略解古義共にナミコスアゼニとよみたれど、まづサザ浪ノ波とはいふべからず。次に雨絲の繁きを示さむとには田又は溝にふる小雨をこそいふべけれ、畔にふる雨をしもいふべきにあらず。次に小波は古書にサザレナミ又はサザラナミと見えてサザナミといへる事なし。享和本新撰字鏡に泊※[さんずい+百]、佐々奈彌とあれどこは天治本によれば佐々良奈彌の良を脱せるなり。次に暫にセの音なし。よりて案ずるにこゝのササナミもなほ地名にて第二句はもとナミクラガネニなどありしを誤れるならむ(越は衍字、安は鞍、暫は蟹の誤にや)。卷七(一二八二頁)に佐左浪乃連庫《ナミクラ》山ニ雲ヰレバとあり。右の如くならば此歌并に享和本字鏡を證として小波はいにしへよりサザナミともいひきといへる説は消滅すべし
 
3047 神さびていはほにおふる松が根の君〔左△〕《ナガキ》心は忘〔左△〕《オモヒ》かねつも
神左備而巖爾生松根之君心者忘不得毛
 カムサビテは物フリテなり。上三句は序なり。君心は長心の誤にて忘は念の誤なら(2664)む。ナガキココロハオモヒカネツモとはユルリトシタ心ハ持タレズとなり。卷七に
  にはつ鳥かけのたり尾のみだれ尾の長き心もおもほえぬかも
とあり
 
3048 みかり爲《セス》雁羽の小野のなら柴のなれはまさらずこひこそまされ
御獵爲鴈羽之小野之櫟柴之奈禮波不益戀社益
 上三句は序なり。爲を從來スルとよめり。宜しくセスとよむべし○鴈羽ノ小野は地名とは思はるれどいづれの書にも見えねば鴈路小野の誤ならむと古義にいへり。げに然るべし。カリヂノ小野ははやく卷三(三四八頁)に見えたり〇四五はカク年月ヲ經レドモ飽キハマサラズシテ却リテ戀ヒマサルといへるなり
 
3049 櫻麻《サクラヲ》のをふのした草、早生者、妹が下紐|不解有申尾《トカザラマシヲ》
櫻麻之麻原乃下草早生者妹之下紐不解有申尾
 櫻麻はサクラヲとよむべし(二四四〇頁參照)○第三句には誤字あるべし。結句は略(2665)解の如くトカ〔右△〕ザラマシヲとよむべし。妹ガ下紐ヲ解カザラムといふ意なり
3050 春日野に淺茅しめゆひたえめやとわがもふ人はいや遠長に
春日野爾淺茅標結斷米也登吾念人者彌遠長爾
 初二は淺茅ニ標縄ヲ結ヒテソノ標縄ノ斷エザル如クといふ意にいひかけたる序なり。淺茅ニのニを略せるは古歌の常なり○タエメヤトは絶エムヤハ絶エジトとなり。結句はイヤ遠長ニ幸カレカシといふべきを略せるなり
 
3051 (あしひきの)山すがの根のねもころにわれはぞこふる君がすがた乎〔左△〕《ニ》
     或本歌曰わがもふ人を見むよしもがも
足檜之山菅根乃懃吾波曾戀流君之光儀乎
    或本歌曰吾念人乎將見因毛我母
 初二は序なり。乎は爾の誤ならむ。現に爾とある本あり
 
3052 (かきつばた)さき澤におふるすがの根のたゆとや君がみえぬこのごろ
垣津旗開澤生菅根之絶跡也君之不所見頃者
(2666) 上三句は序、サキ澤は佐紀澤なり。初句は枕辭のみ。はやく卷四(七五九頁)にヲミナベシサキ澤ニオフル花ガツミ又卷十(一九六〇頁)にヲミナベシサキ野ニオフルシラツツジとあり○タユトヤは絶エムトテヤなり
 
3053 (あしひきの)山すがの根のねもころにやまずおもはば妹にあはむかも
足檜木之山菅根之懃不止念者於妹將相可聞
 初二は序
 
3054 あひ念はずあるものをかも(すがの根の)ねもころごろにわが念へるらむ
相不念有物乎鴨菅根乃懃懇吾念有良武
 初句は相手ハ相念ハズなり。アルモノヲカモはアルモノヲ如何ナレバカとなり
 
3055 (山すげの)やまず而〔左△〕《モ》きみをおもへかもわがこころどのこのごろはなき
山菅之不止而公乎念可母吾心神之頃者名寸
 而は母などの誤ならむ。ココロドはタマシヒなり
 
(2667)3056 妹が門ゆきすぎかねて草むすぶ風ふきとくな又かへりみむ
     一云ただにあふまでに
妹門去過不得而草結風吹解勿又將顧
    一云直相麻※[氏/一]爾
 第三句のムスブといふ辭おちつかず。後世ならばムスビツなどいふべきなり。草を結ぶはその解けざる間は結びし人の身に事なしといふ俗信に基づきてものするなり(二三一三頁參照)○又カヘリミムは立歸リテ又見ムとなり○卷十一に
  妹が門ゆきすぎかねつ久方の雨もふらぬかそをよしにせむ
とあり。今は之とは異にて妹ガ門ヲスドホリシカネテといへるにあらず。遠國へ行きなどすとて妹が門を立去りかねたる趣なり
 
3057 淺茅原|茅生《チフ》に足ふみこころぐみわがもふ兒等が家のあたり見つ
    一云妹が家のあたり見つ
淺茅原茅生丹足蹈意具美吾念兒等之家當見津
(2668)    一云妹之家當見津
 茅生はやがてアサヂ原なり。重ね云へるは辭の文のみ。百千ドリ千ドリハクレドなどの類なり○いにしへ足フムといふ語ありて足ニテ何々ヲ蹈ムといふ意を何々ニ足フムといひしなり。卷十一にツルギダチ諸刃《モロハ》ノ利キニ足フミテ又卷十四にカリバネニ足フマシ牟奈《ナム》クツハケワガセとあり。日本紀にも
  なつぐさのあひねのはまのかきがひにあしふますな、あかしてとほれ
とあり○ココログミはジレッタサニなり(一五〇七頁及一七八二頁參照)。初二は直に此句にかゝれり。妹がり行かむとして淺茅原に蹈込みて行惱める趣なり。無論夜の事なり
 
3058 (うち日さす)宮にはあれど(つき草の)移情《ウツロフココロ》わがもはなくに
内日刺宮庭有跡鴨頭草乃移情吾思名國
 移情を從來ウツシゴコロとよめり。宜しくウツロフココロとよむべし。こは女の歌にて人交ハリノ多キ宮中ニハ居レドモ我ハアダナル心ハ持タヌ事ヨといへるなり
 
(2669)3059 百爾千爾人は雖言《イフトモ》(つき草の)移情《ウツロフココロ》吾《ワレ》もためやも
百爾千爾人者雖言月草之移情吾將持八方
 初句はカニカクニとよみてイロイロニと心得べし○雖言は舊訓の如くイフトモとよむべし(古義にはイヘドモとよめり)。初二の意は人ハイロイロニ云寄ルトモとなり。この移情は古義にはやくウツロフココロとよめり○前の歌にはウツロフ心ワガモハナクニといひ此歌にはウツロフ心ワレモタメヤモといへるを見ても余がはやく心ヲオモフは心ヲ持ツなりといへるが正しきを知るべし(卷七【一四七二頁】初出)○以上二首は一聯の歌ならむ
3060 わすれ草わが紐に△著《ツケム》、時となくおもひわたれば生跡《イケリト》もなし
萱草吾紐爾著時常無念度者生跡文奈思
 第二句を從來ワガヒモニツクとよみたり。宜しく著の上に將を補ひてツケムとよむべし。時トナクは斷エズなり。結句は例の如くイケリ〔右△〕トモナシとよむべし○卷三(四三七頁)に
(2670)  わすれぐさわが紐につくかぐ山のふりにし里を忘れぬがため
 卷四(七八八頁)に
  わすれ草わがした紐につけたれどしこのしこ草ことにしありけり
 下にも
  わすれぐさ垣もしみみにうゑたれどしこのしこ草猶戀爾家利
とあり。ワスレグサは即今のクワンザウなり。漢名を※[言+爰]草又萱草一名忘憂といふ。之を衣の紐に附け又は宿に植うれば能く憂を忌るといひ傳へしにてそは毛詩衛風
  焉《イヅクニ》得2※[言+爰]草1、言《ココニ》樹《ウヱム》2之|背《セドニ》1
といひ文選なる阮籍の詠懷詩に
  萱草|樹《ウウ》2蘭房1、膏沐爲v誰施
といひ、おなじく江淹の雜體詩に※[金+肖]v憂非2萱草1といひ、おなじく稽康の養生論に
  合歡|※[益+蜀]《ノゾキ》v忿、菅草忘v憂
といへるなどの傳はりしなり
 
(2671)3061 あかときの目ざまし草とこれをだに見つついまして吾|止〔左△〕《ヲ》しぬばせ
五更之目不醉草跡此乎谷見乍座而吾止偲爲
 シヌバセは偲ビ給ヘなり。止は乎の誤ならむ。物を贈るに添へたる歌なり。其物は何にか今知るべからず。此歌を寄草一類の歌の中に交へたるは妄なり。目ザマシ草の草は料といふことなればなり
 
3062 わすれ草垣もしみみにうゑたれどしこのしこぐさ猶戀爾家利
萱草垣毛繁森雖殖有鬼之志許草猶戀爾家利
 シミミニは茂クなり。シコノシコ草は萱草《ワスレグサ》を罵りていへるなり。なほ※[奚+隹]、霍公鳥を罵りてクタカケといひシコホトトギスといへるが如し。はやく卷四にも
  わすれ草わが下紐につけたれどしこのしこ草ことにしありけり
とあり。さて今も結句はコトニシアリケリとあらざるべからず。コトニシアリケリは名バカリヂヤといふことなリ。或は卷一なる
  ますらをや片戀せむとなげけどもしこのますらをなほこひにけり
(2672)よりまぎれたるにあらざるか
 
3063 淺茅原小野にしめ結《ユフ》空言《ムナゴト》もあはむときこせ戀のなぐさに
    或本歌曰こむと知〔左△〕志君をしまたむ。又見2柿本朝臣人麿歌集1。然落句少異耳
淺茅原小野爾標結空言毛將相跡令聞戀之名種爾
    或本歌曰將來知志君矣志將待又見姉本朝臣人麿歌集然落句少異耳
 結は舊訓に從ひてユフとよむべし(古義にはユヒとよめり)。初二は空言にかゝれる序なり。語例は卷十一に
  淺茅原小野にしめゆふむな言をいかにいひてかきみをば待たむ(二三〇五頁)
  淺茅原かりじめさし而《シ》むな事もよさえし君がことをしまたむ(二四八三頁)
とあり○空言は古義に從ひてムナゴトとよむべし。第三句以下の意はウソニモ逢ハウトノタマヘ、戀ノ和《ナゴ》ムベクとなり。ムナ言モはムナ言ニモなり
(2673) 或本の知志を宣長は言志《いひてし》の誤ならむと云へり。人麿歌集に見えたるは上に引ける
  イカニイヒテカキミヲバマタムといふ歌なり
 
3064 皆人〔二字左△〕《ヒトミナ》の笠にぬふちふ有間〔日が月〕菅ありて後にもあはむとぞもふ
皆人之笠爾縫云有間菅在而後爾毛相等曾念
 上三句は序なり。舊訓にヒトミナとよみたる上に諸本に人皆とあれば皆人は顛倒と認むべし。アリテはナガラヘテなり
 
3065 みよし野のあきつの小野にかる草《カヤ》のおもひ亂れてぬる夜しぞおほき
三吉野之蜻乃小野爾刈草之念亂而宿夜四曾多
 上三句は亂レテにかゝれる序なり
 
3066 妹待跡《イモマツト》、三笠の山の山菅のやまずやこひむ命しなずば
妹待跡三笠乃山之山菅之不止八將戀命不死者
 初句を略解には妹所服の誤としてイモガキルとよみ古義には妹我服の誤としてイモガケルとよめり。二三句のみを序とし初句より第四句につづけるものと認め(2674)てもあるべし
 
3067 谷せばみ峯|邊〔左△〕《マデ》はへる玉かづらはへてしあらば年に來ずとも
     一云いはづなのはへてしあらば
谷迫峯邊延有玉葛令蔓之有者年二不來友
    一云石葛令蔓之有者
 卷十一(二四九五頁)に山タカミ谷邊《タニベニ》ハヘル玉カヅラとあり。谷ベニといふべくば峯ベニともいふべきが如くなれど峯ベニはなほ穩ならず。伊勢物語に
  谷せばみ峯まではへる玉かづらたえむと人にわが思はなくに
とあり。古義にいへる如く今も峯迄の誤ならむか○上三句は序なり。ハヘテシアラバは契リテアラバなり。結句は一年中來ル事無クトモヨシとなり
 
3068 (水莖の)をかのくず葉をふきかへし面知《アヒミシ》兒らが見えぬころかも
水莖之崗乃田葛葉緒吹變面知兒等之不見比鴨
 上三句は序にて風ガといふことを略したりとおぼゆ○而知の事は上(二六四一頁)(2675)にいへり。變は反の通用なり
 
3069 赤駒のいゆきはばかるまくず原何のつて言ただにしえけむ
赤駒之射去羽許〔左△〕眞田葛原何傳言直將吉
 此歌は元來天智天皇紀に見えたる童謡なり。古風なる上に童謡なれば格に合せては釋きがたけれどタトヒ障ル事アリトモ直ニ言ヒテヨカラムヲイカデ人ヲシテ言ハシムルゾといふ意にて弘文天皇と御叔父天武天皇との御不和を憂ひたる者の作ならむ○許は計の誤ならむ。許はバカリには借るべくバカルには借るべからず
 
3070 (ゆふだたみ)たなかみ山のさなかづらありさりてしも今ならずとも
木綿疊田上山之狹名葛在去之毛不令〔左△〕有十方
 上三句は序なり。アリサリテシモは時ヲ經テモにて其下に逢ハムといふことを略せるなり○令は今の誤なり
 
3071 丹波《タニハ》ぢの大江の山の眞《サナ》玉〔□で囲む〕|葛《カヅラ》たえむの心わがもはなくに
(2676)丹波道之大江乃山之眞玉葛絶牟乃心我不思
 上三句は序なり。第三句を舊訓にサナカヅラとよめるを田中道麻呂マタマヅラとよみかへたれどマタマヅラは例なき上に一本に玉の字無ければ玉を衍字としてなほサナカヅラとよむべし○四五は絶エムトスル心ヲ我持タヌ事ヨとなり。卷十四にも
  たにせばみみねにはひたるたまかづらたえむのこころわがもはなくに
とあり
 
3072 大埼のありその渡〔左△〕《ナギサ》はふくずのゆくへもなくやこひわたりなむ
大埼之有礒乃渡延久受乃往方無哉戀渡南
 大崎は紀伊の地名なり。いにしへワタリといひしは皆渡津なり。さればアリソノ渡とある不審なり。宣長は第三句をコグ船ノの誤ならむといへれど誤は第二句にぞあらむ。即渡は瀲の誤ならむ。瀲をはふ葛は途窮まりてはひ行くべき方なければユクヘモナクの序としたるならむ〇こゝのユクヘは行クベキ方にてやがてセムスベなり(二四七一頁參照)
 
(2677)3073 (ゆふだたみ)白月〔二字左△〕《タナカミ》山のさなかづら後もかならずあはむとぞもふ
      或本謌曰たえむと妹をわがもはなくに
木綿※[果/衣]【一云疊】白月山之佐奈葛後毛必將相等曾念
     或本謌曰將絶跡妹乎吾念莫久爾
 眞淵は白月山を田上山の誤とせり。上三句は後モ逢ハムにかゝれる序なり
 
3074 (はねず色の)うつろひやすきこころ有者《ナレバ》年をぞきふることはたえずて
唐※[木+隷の旁]花色之移安情有者年乎曾寸經事者不絶而
 ハネズは今いふモクレンならむ(二五〇一頁參照)。有者はナレバとよむべし。下にも人ヅマナリトを人妻有跡と書けり。キフルはただ經ルといふに同じ。集中に來經とも經往ともいへり。結句は便ノミハ絶エズシテとなり。コトは便なり
 
3075 かくしてぞ人のしぬちふ藤浪乃ただ一目のみ見し人故に
如此爲而曾人之死云藤浪乃直一目耳見之人故爾
 藤浪乃はタダ一目ノミにかゝるべき由なし。古義にいへる如く玉蜻《タマカギル》の誤かと思へ(2678)どさらば寄2草木1歌のうちには交ふべからず
 
3076 すみのえの敷津の浦のなのりその名はのりてしをあはなくもあやし
住吉之敷津之浦乃名告藻之名者告而之乎不相毛恠
 上三句は序なり。女ガ我問ニ答ヘテソノ名ヲノリテシヲとなり
 
3077 みさごゐるありそにおふるなのりそのよし名は不〔左△〕告《ノラセ》おやはしるとも
三佐呉集荒礒爾生流勿謂藻乃吉名者不告父母者知鞆
 はやく卷三に
  みさごゐるいそみにおふるなのりその名はのらしてよ親はしるとも
  或本歌曰みさごゐるありそにおふるなのりそのよし名は告世おやはしるとも
とあり。古義に從ひて不告を令告の誤とすべし。四五は名ヲバノリ給ヘ、ヨシ親ハ知ルトモといふ意なり。略解はいたく誤解せり
 
3078 浪のむたなびく玉藻の片|念《モヒ》にわがもふ人|之〔左△〕《ヲ》言のしげけく
浪之共靡玉藻乃片念爾吾念人之言乃繁家口
(2679) ムタはマニマニなり。初二は序なり。片念は片依の誤にあらざるか。又人之は人乎の誤にて人ナルニといふことならむ。結句は人ノ口ノウルサキ事ヨとなり
 
3079 わたつみのおきつ玉藻のなびきねむはや來ませ君まてばくるしも
海若之奥津玉藻之靡將寢早來座君待者苦毛
 初二は序、ナビキは横タハリなり
 
3080 わたつみのおきにおひたるなはのりの名はかつてのらじこひはしぬとも
海若之奥爾生有繩乘乃名者曾不告戀者雖死
 上三句は序なり。カツテは更ニなり。決シテなり(一二二〇頁參照)。男ノ名ハ決シテ人ニ告ゲジとなり。結句はコヒシヌトモにハを挿めるなり
 
3081 玉の緒を片緒によりて緒をよわみ亂時〔左△〕爾《ミダルバカリニ》こひざらめやも
玉緒乎片緒爾※[手偏+差]而緒乎弱彌亂時爾不戀有目八方
 上三句は序にて三四の間〔日が月〕にソノ緒ガ絶エテ玉ガといふことを略せるなり〇時は(2680)おそらくは許の誤ならむ
 
3082 君にあはず久しくなりぬ(玉の緒の)長き命のをしけくもなし
君爾不相久成宿玉緒之長命之惜雲無
 ヲシケクは惜キ事なり
 
3083 こふること益今者《イマユマサラバ》たまのをのたえてみだれてしぬべくおもほゆ
戀事益今者玉緒之絶而亂而可死所念
 第二句を前註にマサレバ今ハ又はマサレル今ハとよめり。宜しく今ユマサラバとよむべし。又タマノヲノタエテの八言を枕辭とすべし。玉ノ緒ガ絶エテ玉ガ亂ルルヤウニとかゝれるなり
 
3084 あまをとめかづきとるちふ忘貝、代にもわすれじ妹がすがたは
海處女潜取云忘貝代二毛不忘妹之光儀者
 上三句は序なり。ワスレジにかゝれるなり。代ニモを前註に殊ニ、トリ別キテなど譯したれどこゝの代ニモは世ニモウレシなど形容詞につづけるとは異にて生涯と(2681)いふことなり。一代の間といふことをただ代ニといへるは一年中をただ年ニといへると同例なり
3085 朝影に吾身はなりぬ(玉蜻《タマカギル》)ほのかに見えていにし子故に
朝影爾吾身者成奴玉蜻髣髴所見而往之兒故爾
 はやく卷十一(二二六〇頁)に出でたり。アサ影ニは朝見ユル影ノ如ク細クといふことなり。古義に
  玉蜻は虫名にあらざる由余が考あり。撰者は蜻字を書るに依て虫名と心得てここにいれしか
といへり
 
3086 中々に人とあらずば桑子にもならましものを玉の緒ばかり
中中二人跡不在者桑子爾毛成益物乎玉之緒許
 コノ物思モナキ蠶ニモ成ラムモノヲとなり。卷六(一〇五二頁)に鵜ニシモアレヤ家モハザラムとよめるに似たり。蠶を思へるは女の歌なればなり。二註に『蠶は雌雄は(2682)なれぬものなれば云々』といへるはいみじきひが言なり。蠶に雌雄あらむや○玉ノ緒バカリはシバシといふことなり○卷三にも
  中々に人とあらずば酒壺になりてしがも酒にしみなむ
とあり
 
3087 (眞菅《マスガ》よし)宗我《ソガ》の河原になく千鳥間〔日が月〕なしわが背子わがこふらくは
眞菅吉宗我乃河原爾鳴千鳥間無吾背子吾戀者
 眞菅は推古天皇紀の御歌に摩蘇餓豫ソガノコラハとあればマスゲとよまでマスガとよむべし。ヨシはヨ、ヲなどに似たる助辭にて青土《アヲニ》ヨシ、麻裳ヨシなどのヨシなり○上三句は序なり○ソガ川はノトセ、ヒノクマ二川の合流なり
 
3088 戀〔左△〕《カラ》ごろもきならの山になく鳥の間〔日が月〕なく時なしわがこふらくは
戀衣著猶〔左△〕乃山爾鳴島之間無時無吾戀良苦者
 上三句は序、初六言は枕辭なり。奈良山は奈良の北方に靡けり。戀は古義に從ひて辛などの誤とすべし。猶は楢の誤なり
 
(2683)3089 (とほつ人)かりぢの池にすむ鳥の立毛居毛《タチニモヰニモ》、君をしぞもふ
遠津人獵道之池爾住鳥之立毛居毛君乎之曾念
 第四句を從來タチテモヰテモとよめり。宜しくタチニモヰニモとよむべし。ニに當る字を略せるは下にヘニモオキニモを邊毛奥毛と書けるに同じ。上三句は序
 
3090 葦邊ゆく鴨の羽音のおとのみにききつつもとなこひわたるかも
葦邊往鴨之羽音之聲耳聞管本名戀渡鴨
 初二は序なり。オトノミニはウハサニバカリなり
 
3091 鴨すらもおのがつまどちあさりしておくるる間〔日が月〕爾〔左△〕《マダニ》こふちふものを
鴨尚毛己之妻共求食爲而所遺間爾戀云物乎
 二三は夫婦相タグヒテといふことなるを鴨なればアサリシテといへるなり○間爾は間谷の誤ならむ。古義にトビタチ行トキと補譯せるは誤解なり。あさりする間〔日が月〕に片方の後るゝを云へるなり
 
3092 (しらまゆみ)斐太の細江の菅鳥の妹にこふれやいをねかねつる
(2684)白檀斐太乃細江之菅鳥乃妹爾戀哉寢宿金鶴
 菅鳥ノヤウニといへるなり。菅鳥はいかなる鳥にか知らず。山崎美成の海録にはヨシキリなりと云へり。斐太は飛騨なり。細江は宮川の支流なりしが今は埋もれたり
といふ
 
3093 しぬの上に來ゐてなく鳥めをやすみ人妻ゆゑにわれこひにけり
小竹之上爾來居而鳴鳥目乎安見人妻※[女+后]爾吾戀二來
 初二はメ(群)にかゝれる序なりと眞淵いへり。メヲヤスミはウルハシサニなり。人妻ユヱニは人妻ナルモノヲなり
 
3094 物もふといねずおきたるあさけにはわびてなくなりにはつとりさへ
物念常不宿起有且〔左△〕開者和傭※[氏/一]鳴成鶏左倍
 二三は寢ズシテ起キ居タル夜ノ旦ニハとなり。ワビテは勢ヨクのうらなり。庭鳥ノ聲サヘ力ヌケシタルヤウニ聞ユといへるならむ
 
3095 朝がらすはやくななきそわが背子があさけのすがた見者《ミナバ》かなしも
(2685)朝烏早勿鳴吾背子之旦開之容儀見者悲毛
 アサケノスガタは夜明ケテ歸行ク姿なり。上(二五四七頁)にも
  わがせこがあさけのすがたよく見すてけふのあひだをこひくらすかも
とあり○見者はミナバとよむべし。ミナバといはばカナシカラムといふべきを例の如く現在格にて受けたるなり。カサネバウトシなどと同格なり
 
3096 うませごしに麥はむ駒ののらゆれどなほしこふらくしぬび不勝烏〔左△〕《カネツツ》
※[木+巨]※[木+若]越爾麥咋駒乃雖詈猶戀久思不勝烏
 ウマセは馬塞《ウマサヘ》にて馬フセギなり。今も垣の一種をマセといふは此語のうつれるなり。初二は序なり。ノラユレドは罵ラルレドなり○不勝烏を二註に烏を例の如く焉の俗字としてカネツモとよめり。烏を乍の誤字としてカネツツとよむべきか。※[木+巨]は拒の誤か
 
3097 さひのくまひのくま河に駐馬《ウマトドメ》、馬に水かへわれよそに見む
左檜隈檜隈河爾駐馬馬爾水令飲吾外將見
(2686) サヒノクマは准枕辭なり。駐馬は古義に從ひてウマトドメとよむべし(略解にはコマトメテとよめり)。ヨソニは外ナガラなり。古今集なる大歌所の歌に
  ささのくまひのくまがはに駒とめてしばし水かへ影をだに見む
とあるは此歌を唱へかへたるなり。但ササノクマとあるはあやなし。ヒノクマにサといふ辭を添へて准枕辭としたるなればサヒノクマとあらではかなはざるなり
 
3098 おのれ故のらえてをれば※[馬+総の旁]馬《アヲウマ》の面高夫駄《オモダカブタ》にのりて來べしや
於能禮故所詈而居者※[馬+総の旁]馬之面高夫駄爾乘而應來哉
    右一首平群文屋朝臣益人傳云。昔聞紀皇女竊嫁2高安王1被v責之時|御2作《ツクラス》此歌1。但高安王左降任2之伊與國守1也
 紀皇女の御作にてオノレは汝といふにひとし。古今集誹諧歌にも
  あしひきの山田のそほづおのれさへ我をほしといふうれはしき事
とあり。己と汝とはいにしへ相通はしし例あり。たとへば神名の大己貴《オホナムチ》も己をナに當てたり(一七五〇頁參照)。さてオノレとは高安王を指し給へるにて親《シタシミ》のあまりに(2687)侮りのたまへるなり○ノラエテヲレバは叱ラレテ居ルニなり○※[馬+総の旁]馬はアヲウマとよむべし。從來アシゲウマとよめり○フタはフトウマ(肥馬)をつづめてフツマといふを更につづめたるにて佛足石歌にソナハレル、ノコセル、メヅラシをソダレル、ノケル、メダシといへると同例なり。抑語をつづむるにも程こそあれ、かく程を越えてつづめむはうべなひがたき事なれば當時も此等は雅言とは認められざりけむ。右の如くなればオモダカブタは面ヲ高ク擧ゲタル肥馬《フトウマ》なり○さて一首の趣は高安王が忍びても來べきをいとはえばえしくて來るを咎め給へるなり、先哲が此歌を誤解せるは左註に但高安王左降任之伊與國守也とあるに誤られたるなり。此十三字は無用の註文なり
 
3099 紫〔左△〕草《シバクサ》を草とわくわくふす鹿の野はことにして心は同じ
紫草乎草跡別別伏鹿之野者殊異爲而心者同
 紫草は中山嚴水の説に從ひて柴草の誤とすべし。柴草は芝草なり。草は薄なり。ワクワクは分ケツツなり。鹿は芝草の生ふる處を擇びて寢る習ありと見ゆ。以上三句はココロハ同ジにかゝれる序なり。臥ス鹿ノヤウニと心得べし〇四五はもと心ハ同(2688)ジ野ハコトニシテとありしを顛倒せるにや。野ハ殊異ニシテは我ト君ト處ヲバ異ニシテといふことを序なる鹿の縁にて野ハといへるならむ
 
3100 おもはぬをおもふといはば眞鳥すむ卯名手の杜の神ししらさむ
不想乎想常云者眞島住卯名手乃杜之神思將御知
 卷四に
  おもはぬを思ふといはば大野なる三笠の杜の神ししらさむ
  念はぬをおもふといはばあめつちの神もしらさむ邑禮左變
とあり。又卷七(一四一五頁)に眞鳥スムウナデノモリノ菅ノ根ヲとあり。マトリスムは准枕辭にてマトリは鷲なり○シラサムは知《シロ》シメシテ罰シ給ハムとなり。もし古義にいへる如く掌ラムの意ならば必或神をこそ指定すべけれ、卷四の後の歌の如くアノ?ツチノ神モとはいふべからず
 
  問答歌
(2689)3101 紫者〔左△〕灰さすものぞつば市の八十のちまたに相《アヘル》兒やたれ
紫者灰指物曾海石榴市之八十街爾相兒哉誰
 紫者は紫煮の誤なり。紫草の根にて衣を染むる時色のうつろはざらむ爲に海石榴《ツバキ》の灰をさす事なればツバ市の序に紫ニ灰サスモノゾといへるなり○相は舊訓に從ひてアヘルとよむべし(古義にはアヒシに改めたり)。うちつけに其女に問ひたるなり
 
3102 (たらちねの)母がよぶ名をまをさめど路|行《ユク》人をたれと知りてか
足千根乃母之召名乎雖白路行人乎孰跡知而可
     右二首
 行は古義に從ひてユクとよむべし(舊訓にはユキとよめり)。結句の次に申サムといふことを略せるにて所詮マヅ御名ヲキカセ給ヘといへるなり
 
3103 あはなくはしかもありなむ(玉づさの)使をだにもまちやかねてむ
不相然將有玉梓之使乎谷毛待八金手六
(2690) 初二は來リ逢ハヌ事ハ障ル事アリテナルベケレバ是非モナシといへるなり〇マチヤカネテムはマチカネテアラムヤハとなり
 
3104 あはむとは千たびおもへどありがよふ人眼をおほみこひつつぞをる
將相者千遍雖念蟻通人眼乎多戀乍衣居
     右二首
 アリガヨフはカヨフの反復又は持續を示す格なり
 
3105 人目おほみただにあはずてけだしくもわがこひしなば誰名將有裳《タガナナラムモ》
人目多直不相而蓋雲吾戀死者誰名將有裳
 ケダシクモはモシヒョットなり。結句は舊訓に從ひてタガ名ナラムモとよむべし。モは助辭にて卷十七なる
  いへにしてゆひてしひもをときさけずおもふこころを多禮賀思良牟母
と同格なり。宣長(玉緒七卷十四丁)がタガ名ニカアラモとよみ改めたるはわろし。さてタガ名ナラムモはタガ名立《ナダテ》ナラム、ソコノ名立ナラズヤといふ意なり
 
(2691)3106 相見まく欲爲者《ホシキタメニハ》、君よりも吾ぞまさりていぶかしみする
相見欲爲者從君毛吾曾益而伊布可思美爲也
     右二首
 第二句を略解にホシケクスレバとよみ古義に爲を有の誤としてホシケクアレバとよみたれど、まづホシクを延べてホシケクといふ事なし。ホシキタメニハとよむべきか○イブカシミスルは物ヲ思フといふに近し。下に將鬱悒をイブカシミセムとよめり
 
3107 (うつせみの)人目をしげみあはずして年の經ぬれば生跡《イケリト》もなし
空蝉之人目乎繁不相而年之經者生跡毛奈思
 
3108 (うつせみの)人目しげくば(ぬばたまの)よるのいめにをつぎて見えこそ
空蝉之人目繁者夜干玉之夜夢乎次而所見欲
     右二首
 ヲは助辭なり
 
(2692)3109 ねもころに憶吾妹《オモフワギモ》を人言のしげきによりてよどむころかも
慇懃憶吾妹乎人言之繁爾因而不通比日可聞
 妹ヲは妹ナルヲなり。古義にこの憶吾妹をも上(二五八六頁)なるウツクシト念吾妹ヲイメニ見テをも、ワガオモフイモの顛倒としたるはかたくなし。オモフの上の主格は略してもあるべきならずや
 
3110 人言のしげくしあらば君も吾もたえむといひてあひしものかも
人言之繁思有者君毛吾毛將絶常云而相之物鴨
     右二首
 君モ吾モを初句の上におきかへて心得べし。モノカモはモノカハなり
 
3111 すべもなき片戀をすとこのごろにわが死ぬべきはいめに見えきや
爲便毛無片戀乎爲登比日爾吾可死者夢所見哉
 
3112 いめに見て衣をとり服《キ》、よそふ間〔日が月〕に妹が使ぞさきだちにける
夢見而衣乎取服装束間爾妹之使曾先爾來
(2693)     右二首
 初二の間にトク妹ガリ行カムトといふことを補ひて聞くべし
 
3113 在有〔左△〕而《アリサリテ》後もあはむと言のみをかたく要《イヒ》つつあふとはなしに
在有而後毛將相登言耳乎堅要管相者無爾
 古義に上なる
  ゆふだたみたなかみ山のさなかづら在去之毛《アリサリテシモ》今ならずとも
といふ歌を引きて在有而はアリサリテとよむべしといへり。此訓よろし。但有は去の誤字ならむ。卷四(八三一頁)にも有去而今ナラズトモ君ガマニマニ又卷十七にも阿里佐利底ノチモアハムトオモヘコソとあり○要は眞淵のイヒとよめるに從ふべし。三首次にもアハジト要《イヒ》シコトモアラナクニとあり。さてイヒツツの下にスル事ヨなどいふ事を略せるなり
 
3114 極〔左△〕而《アリサリテ》、吾もあはむとおもへども人の言こそしげき君なれ
極而吾毛相登思友人之言社繁君爾有
(2694)     右二首
 極而は在去而の誤ならむ
 
3115 いきのをにわがいきづきし妹すらを人妻なりと聞者《キケバ》かなしも
氣緒爾言氣築之妹尚乎人妻有跡聞者悲毛
 イキノヲニイキヅクは命ニカケテ嘆キ思フといふことなり○スラは主格を強むる辭なり。聞者は舊訓の如くキケバとよむべし(略解にはキクハに改めたり)
 
3116 わが故にいたくなわびそ後つひにあはじといひしこともあらなくに
我故爾痛勿和備曾後遂不相登要之言毛不有爾
     右二首
 
3117 門たてて戸も閉《サシ》たるをいづくゆか妹が入來て夢に見えつる
門立而戸毛閉而有乎何處從鹿妹之入來而夢所見鶴
 門タテテは門ヲ閉ヂテなり。閉は契沖宣長のサシとよめるに從ふべし。サシタルは戸ジマリヲシタルなり
 
(2695)3118 門たてて戸は闔《サシ》たれど盗人の穿穴從《ウガテルアナユ》いりて所見牟〔左△〕《ミエシヲ》
門立而戸者雖闔盗人之穿穴從入而所見牟
     右二首
 穿穴從を略解にヱリタルアナユとよみ古義にヱレルアナヨリとよめり。宜しくウガテルアナユとよむべし○所見牟を古義に牟を乎の誤としてミエシヲとよめり。そのヲはゾにかよふヲなり
 
3119 明日よりはこひつつあらむこよひだにはやくよひよりひもとけ我妹
從明日者戀乍將在今夕弾速初夜從緩〔左△〕解我妹
 略解に
  旅立ん前夜なるべし。上のコヨヒは一夜の事、下のヨヒは字の如く初夜をいへり
といへる如し○緩は諸本に綏とあるに從ふべし「綏はヒモとも訓むべし。論語郷黨第十に升v車必正立執v綏《ヒモ》とあり
 
3120 今更にねめや我背子(荒田麻〔左△〕之《アラタヨノ》)ひと夜もおちずいめに見えこそ
(2696)今更將寢哉我背子荒田麻之全夜毛不落夢所見欲
     右二首
 上(二五四七頁)に新夜ノヒト夜モオチズ夢ニシ見ユルとあり。之によりて雅澄は麻を夜の誤とせり。元暦校本にも夜とあり。アラタ夜は立代り來る夜なり
 
3121 わがせこが使をまつと笠も著ずいでつつぞ見し雨のふらくに
吾勢子之使乎待跡笠不著出乍曾見之雨零爾
 はやく卷十一(二四三七頁)に見えたり。イデツツといへるは度々出づるなり。フラクニはフルニを延べたるなり
 
3122 心なき雨にもあるか人目もりともしき妹にけふだにあはむを
無心雨爾毛有鹿人目守乏妹爾今日谷相牟〔左△〕
     右二首
 人目モリは人目ナキヲ伺ヒテなり。トモシキ妹はユカシキ妹なり○牟は諸本に乎とあり
(2697)3123 ただ獨ぬれどねかねてしろたへの袖を笠に著、ぬれつつぞこし
直獨宿杼宿不得而白細袖乎笠爾著沾乍曾來
 
3124 雨もふり夜も更深△利《フケニケリ》いまさらに君|將行哉《イナメヤモ》、紐ときまけな
雨毛零夜毛更深利今更君將行哉紐解設名
     右二首
 深の下にげに氣などのおちたるならむ。第四句を舊訓にキミハユカメヤとよめるを古義に下に印南を將行と書けるを例としてキミイナメヤモとよめり。ヒモトキマケナは紐解設ケムにて相寢む設をせむとなり○男の來はせしかど故ありて徒に歸らむとするを引留めてよめるにや
 
3125 (ひさかたの)雨のふる日を我門に簑笠きずて來有《ケル》人やたれ
久堅乃雨零日乎我門爾蓑笠不蒙而來有人哉誰
 古義に蓑を字鏡に爾乃と見え方言にもニノといふ處ありといひてニノとよみたるは泥みたり。ニとミとは相通ふ例多かれどニが古くミが新しとは定まらず。又同(2698)書に字音のニとミとを一つに視たる義門の男信《ナマシナ》を見るに及ばずして云へるなれば深く咎むべからず○來有は古義に從ひてケルとよむべし。但ケルは來タルなり。來ケルにあらず
 
3126 まきむくのあなしの山に雲ゐつつ雨はふれどもぬれつつぞこし
纏向之痛足乃山爾雲居乍雨者雖零所沾乍烏來
     右二首
 耳にはさはらねどツツ二つあり
 
  覊旅發思
3127 わたらひの大河のへのわか歴木《ヒサギ》わが久在者《ヒサナラバ》、妹|戀《コヒム》かも
度會大河邊若歴木吾久在者妹戀鴨
 ワタラヒノ大河は宮川ならむ。歴木は眞淵に從ひてヒサギとよむべし。上三句は序なり。四五は古義に從ひてヒサナラバとよみコヒムとよむべし
 
(2699)3128 吾妹子をいめに見えことやまと路のわたり瀬ごとに手向《タムケ》吾爲《ワガスル》
吾妹子夢見來倭路度瀬別手向吾爲
 ワギモコヲのヲはヨなり。結句は略解の如くタムケワガスルとよむべし。古義にはゾを添へてタムケゾワガスルとよめり
 
3129 さくら花さきかもちると見るまでに誰《タレゾモ》ここに見えてちりゆく
櫻花開哉散及見誰此所見散行
 サキは見エテに當りチリはチリユクに當れるなり。古義に『集中にサキチリといふこと多ければサクラ花ノチルカと云意となれり』といへるは非なり○誰を二註にタレカモとよめるはわろし。タレゾモとよむべし○旅中にて故郷人に逢ひて(久米廣繩が越前の國府にて家持に逢ひしごとく)別るゝ時によめるにや
 
3130 豐くにのきくの濱松|心喪〔左△〕《ネモコロニ》なにしか妹に相之〔左△〕始《アヒイヒソメシ》
豐州聞濱松心喪何妹相之始
     右四首柿本朝臣人麿歌集出
(2700) 初二は序なり。キクは豐前の企救《キク》なり○心喪を略解に
  宣長は心喪の字は誤にてネモコロニとあるべき所なりといへり。春海云。喪は衷の誤か。字書に衷は誠也とあれば心衷を義もてネモコロとよむべし。といへり
といひ雅澄はココロイタクとよめり。ココロイタシといふ語は集中に是彼見えたれどこゝはココロイタクとよみては序よりつづかず。されば卷十一(二三二一頁)なる
  いその上にたてるむろのき心哀などかふかめておもひそめけむ
の心哀を心衷の誤としてネモコロニとよみし如く今も心衷の誤としてネモコロニとよむべし○結句は一本に相云〔右△〕始とあり。前註は之に從ひてアヒイヒソメケムとよめり。宜しくアヒイヒソメシとよむべし○妹といへるは豐國にて逢初めし女なり
 
3131 月かへて君をば見むと念鴨〔左△〕《オモヒツル》、日もかへずして戀の重《シゲケク》
月易而君乎婆見登念鴨日毛不易爲而戀之重
 第三句を從來オモヘカモとよめるは非なり。念鶴の誤としてオモヒツルとよみて(2701)思ヒツルヲと心得べし○重を略解にシゲケキとよみ古義にシゲケムとよめり。シゲケキといふ辭は無し。シゲケクとよみて繁カル事ヨの意とすべし○覊旅發思の歌なれば男の作なるべし。女を指しても君といへる例はあまたあり
 
3132 なゆきそとかへりも來やとかへりみにゆけど不歸《カヘラズ》道の長手を
莫去跡變毛來哉常顧爾雖往不歸道之長手矣
 不歸を舊訓にカヘラズとよめるを古義にユカレズに改めたるはわろし。道ノナガ手ヲはユケドにかゝれるにてカヘラズにかゝれるにあらず〇一首の意は我ヲ送リテ一タビ去リシ人ノナユキソト云ヒテ歸リモ來ヤト思ヒテカヘリ見ツツ道ノ長手ヲ行ケド其人ハ終ニ歸來ラズといへるなり
 
3133 たびにして妹をおもひでいちじろく人の知るべくなげきせむかも
去家而妹乎念出灼然人之應知歎將爲鴨
 カモはカハにあらず。毛は助辭のみ
 
3134 里さかり遠からなくに(草まくら)旅としもへばなほこひにけり
(2702)里離遠有莫國草枕旅登之思者尚戀來
 里サカリは故郷ヲ離レテなり。卷九なる
  ふる山ゆただに見わたすみやこにぞいをねずこふる遠からなくに
と相似たる所あり
 
3135 近かれば名のみもききてなぐさめつこよひゆ戀のいやまさりなむ
近有者名耳毛聞而名種目津今夜從戀乃益易南
 二三の間に逢フ事ハアラデモ、三四の間に今日旅立チヌレバといふことを挿みて聞くべし。名ノミモキキテは名ヲダニ聞キテなり
 
3136 たびにありてこふればくるしいつしかもみやこにゆきて君が目をみむ
客在而戀者辛苦何時毛京行而君之目乎將見
 
3137 遠かればすがたはみえず常のごと妹がゑまひはおもかげにして
遠有者光儀者不所見如常妹之咲者面影爲而
(2703) 二三の間に然モといふことを挿みて聞くべし。オモカゲニシテのシテは助辭にて其下に見ユを略せるにて常ノゴトはその見ユにかゝれるなり
 
3138 年もへず反來嘗跡《カヘリコナムト》、朝影〔左△〕爾《アサニケニ》まつらむ妹が面影にみゆ
年毛不歴反來嘗跡朝影爾將待妹之面影所見
 第二句は略解の如くカヘリコナムトとよむべし。歸來ヨカシトとなり。古義にカヘリキナメドとよめるは非なり○第三句は眞淵が影を異の誤としてアサニケニとよめるに從ふべし。アサニケニは毎日なり
 
3139 (玉桙の)道にいでたちわかれこし日より于念《オモヒニ》わする時なし
玉桙之道爾出立別來之日從于念忘時無
 于念を從來オモフニとよめり。宜しくオモヒニとよむべし。オモヒニは心ニなり○ワスル時といへるは例の如く連體格の代に終止格をつかひたるなり
 
3140 はしきやししかる戀にもありしかも君におくれてこひしくもへば
波之寸八師志賀在戀爾毛有之鴨君所遺而戀敷念者
(2704) 君ニオクレテといへるを思へば故郷に留まれる女の歌なり。されば嚴重にいはば覊旅發思歌中には入るべからず○ハシキヤシは二三句を隔てゝ君にかゝれるにや○コヒシクは戀シカル事ヲといふ意なり。卷十(二二一〇頁)にもコヒシクノケナガキ我ハミツツシヌバムとあり〇一首の意たしかにはさとりがたし。君ガ故郷ニアリシ間ハタダニクカラズノミオボエシガカク君ニオクレテ戀シカルヲ思ヘバシカ深キ戀ニモアリシカといふ意にや。アリシカモのモは助辭のみ
 
3141 (草枕)たびのかなしくあるなべに妹をあひ見て後こひむかも
草枕客之悲有苗爾妹乎相見而後將戀可聞
 カナシクアルナベニは妹ヲアヒ見テにかゝれるなり。旅ノ悲シキママニソヲ慰メムトテ女ヲアヒ見シガ其女ニ又後コヒムカといへるなり
 
3142 國とほみただにはあはずいめにだに吾にみえこそあはむ日までに
國遠直不相夢谷吾爾所見社相日左右二
 マデニはマデハと心得べし
 
(2705)3143 かくこひむものとしりせば吾妹兒にことどはましを今しくやしも
如是將戀物跡知者吾妹兒爾言問麻思乎今之悔毛
 第四句はヨク話ヲシテ來ベカリシヲとなり
 
3144 たびの夜の久しくなればさにづらふ紐|開《アケ》さけずこふるこのごろ
容〔左△〕夜之久成者左丹頬合紐開不離戀流比日
 サニヅラフ紐は赤紐にて衣の紐なり。開は古義の如くアケとよむべし。紐にアクルといへる例は卷十一(二二六七頁)に擧げたり。さて紐アケサケズは丸寐する事にて作者即男の上なり。略解にこれを故郷なる女の事とせるは誤解なり。久シクナレバはコフルコノゴロにかゝれるなり○容は客の誤なり
 
3145 吾妹兒しあをしぬぶらし(草まくら)旅の丸寢に下紐|解《トケヌ》
吾妹兒之阿乎偲良志草枕旅之丸寢爾下紐解
 さる俗信によりてよめるなり。解は舊訓の如くトケヌとよむべし(二註にはトケツとよめり)
 
(2706)3146 (草まくら)旅のころもの紐|解《トケヌ》、所念鴨《オモホユルカモ》、此年〔二字左△〕比者《イモニコノゴロ》
草枕旅之衣紐解所念鴨此年比者
 解は略解に從ひてトケヌとよむべし〇四五を二註にオモホセルカモコノトシゴロハとよめるは非なり。此年を妹爾の誤としてオモハユルカモイモニコノゴロとよみて此頃妹ニ偲バルルカといふ意とすべし
 
3147 (草まくら)たびの紐|解《トケヌ》、家の妹し吾之〔左△〕《ワヲ》まちかねてなげかすらしも
草枕客之紐解家之妹志吾之待不得而嘆良霜
 解はトケヌとよむべし(二註にトクとよめり)。之は二註にいへる如く乎の誤なり
 
3148 (玉くしろ)まきねし妹を月も經ずおきてやこえむこの山の岫〔左△〕《サキ》
玉釼〔左△〕卷寢志妹乎月毛不經置而八將越此山岫
 月毛經ズは逢始メテイマダ月モ經ズなり。岫は二註にいへる如く岬の誤なり
 
3149 (梓弓)末はしらねどうつくしみ君にたぐひて山ぢこえきぬ
梓弓末者不知杼愛美君爾副而山道越來奴
(2707) 任國に下る男に從ひ行く女のよめるならむ。末ハシラネドは末ニハ棄テラレムカ知ラネドとなり。ウツクシミはイトホシサニなり
 
3150 かすみたつ春長日《ハルノナガビ》をおくかなくしらぬ山路乎こひつつかこむ
霞立春長日乎奥香無不知山道乎戀乍可將來
 春長日を二註に卷一以下に長春日とありといひて長春日の顛倒とせり。秋ノ長夜と同例にて春ノ長日ともいひつべきにあらずや○オクカナクは上(二六五五頁)に見えたるオクカモ知ラズと同意ならむ。さらばアテモ知ラズとうつすべし○山道乎は山道ユとあらむ方まされり。第二句の乎と重なりていたく耳にさはればなり。或は誤字ならむ○コヒツツカコムは妹ニコヒツツ行カムカにて此歌は獨任國に下る男のよめるなり
 
3151 よそのみに君をあひ見て(ゆふだたみ)手向の山をあすかこえ將去《イナム》
外耳君乎相見而木綿牒手向乃山乎明日香越將去
 ヨソノミニはヨソナガラノミなり。タムケノ山は奈良と山城との界の峠なり。將去は古義に從ひてイナムとよむべし(略解にはナムとよめり)○眞淵は之を父に伴ひ(2708)て縣に下らむとする女の歌とせり。げに女の歌ならむ方おもしろし
 
3152 (玉勝間)安倍島山のゆふ露〔左△〕《ギリ》に旅宿得爲也《タビネエセメヤ》ながき此夜を
玉勝間安倍島山之暮露爾旅宿得爲也長此夜乎
 第四句は古義に從ひてタビネエセメヤとよむべし。二註に卷十一なるオモワスレダニモ得爲也トを例に引きたれど彼は不爲也の誤としてセズヤとよむべき事彼卷(二三七八頁)にいへる如し○露は霧の誤ならむ
 
3153 み雪ふる越の大山ゆきすぎていづれの日にか我里をみむ
三豐零越乃大山行過而何日可我里乎將見
 越より歸り上る人のよめるなり。越ノオホ山は越前(後の加賀)の白山か。ユキスギヌといはでユキスギテ云々といへるを見ればいまだ其山をば過ぎぬなり。ワガ里はワガ故郷にて即京なり
 
3154 いでわが駒はやくゆきこそ(まつち山)まつらむ妹をゆきてはや見む
乞吾駒早去欲亦打山將待妹乎去而速見牟
(2709) このイデはドウゾなり。ユキコソは行ケカシなり。紀伊より歸り上る人の作なり
3155 あしき山こぬれことごとあすよりはなびきたりこそ妹があたり見む
惡木山木末悉明日從者靡有社妹之當將見
 ナビキタリコソは靡キテアレカシなり。妹ガアタリは故郷の方なり。其國に著きし日によめるなり
 
3156 鈴鹿河八十瀬わたりてたが故か夜ごえにこえむ妻もあらなくに
鈴鹿河八十瀬渡而誰故加夜越爾將越妻毛不在君
 略解に
  此川同じ山河をあなたこなたといく度も渡ればかくいへり。旅なる程家の妻の身まかりし後に歸るとてよめるか
といへる如し
 
3157 吾妹兒に又もあふみのやすの河やすいもねずにこひわたるかも
吾妹兒爾又毛相海之安河安寢毛不宿爾戀渡鴨
(2710) 上三句は序なり。初二は吾妹兒ニ又モアフを近江にいひかけたるなり。即ワギモコニ又モの八言は近江にかゝれる序のみ。略解に『妹に別て旅に在て又もあはばやといふをこめたり』といへるは序なることを忘れたるなり
 
3158 たびにありて物をぞおもふ(しら浪の)へにもおきにもよるとはなしに
客爾有而物乎曾念白浪乃邊毛奥毛依者無爾
 四五は邊ニ寄ルトモ無ク沖ニ寄ルトモ無クテといへるにて思案の定まらざるを云へるか
3159 みなと轉《ミ》にみちくるしほのいやましにこひはまされど忘らえぬかも
湖轉爾滿來塩能彌益二戀者雖剰不所忘鴨
 初二は序なり。古義に
  湖轉はミナトミと訓べし。三卷にも石轉《イソミ》とあり。轉は囘とかかむが如し
といへり(四五三頁參照)○コヒハマサレドはコヒマサレドにハを挿めるなり
 
3160 おきつ浪邊浪の來よるさだの浦の此さだすぎて後こひむかも
(2711)奥浪邊浪之來依貞浦乃此左太過而後將戀鴨
 はやく卷十一(二四六七頁)に出でたり。サダは雅澄のいへる如く時といふことなり
 
3161 (ありちがた)ありなぐさめてゆかめども家なる妹いいぶかしみせむ
在千方在名草目而行目友家有妹伊將欝悒
 初句は行手の地名を以て枕とせるなり。上にマツチ山マツラム妹ヲユキテハヤ見ムといへるに似たり○アリナグサメテは慰メツツなり。妹イのイは一種の助辭なり。イブカシミセムは物思セムとなり
 
3162 (みをつくし)心つくしておもへかもここにももとないめにし見ゆる
水咫〔左△〕衝石心盡而念鴨此間毛本名夢西所見
 ミヲツクシは水路標なり。ツはノにかよふ助辭なり。略解に『水の深淺をはかる杭なり』といへるはをさなし。さてこのミヲツクシは契沖のいへる如く難波なるを見てよめるならむ〇二三の主格は妹なり。ココニモといへるは故郷なる妻より夢ニ見ユといふ意の歌をよみておこせたるに對していへるならむ○咫は誤字とおぼゆ
 
(2712)3163 わぎもこにふるとはなしにありそ回《ミ》にわがころもではぬれにけるかも
吾妹兒爾觸者無二荒磯回爾吾衣手者所沾可母
 アリソ回ニの下に觸レテを補ひて心得べし
 
3164 室の浦のせとの崎なる鳴島の礒こす浪にぬれにけるかも
室之浦之湍門之崎有鳴島之礒越浪爾所沾可聞
 鳴島を舊訓にナキシマとよみ二註にナルシマとよめり。其名今は殘らざればいづれとも定めがたし。播磨の古き地誌にナキシマとあれど、そは本書の舊訓によりて書けるなれば證とはしがたし
 
3165 (ほととぎす)とばたの浦にしく浪の屡《シクシク》君を見むよしもがも
霍公鳥飛幡之浦爾敷浪之屡君乎將見因毛鴨
 上三句は序なり。トバタノ浦は筑前にあり。シクは頻ルなり○屡はシクシクとよむべし
(2713)3166 吾妹兒をよそのみや見むこしのうみのこがたのうみの島ならなくに
吾妹兒乎外耳哉將見越懈乃子難懈乃島楢名君
 ヨソノミヤは外ナガラニノミヤなり。この吾妹兒に旅中にて見し女なり
 
3167 浪間從《ナミノマユ》雲ゐにみゆる粟島のあはぬものゆゑ吾《ワ》に所依《ヨレル》子ら
浪問從雲位爾見粟島之不相物故吾爾所依兒等
 初句は古義に從ひてナミノマユとよむべし。クモヰニは遙ニなり。上三句は序なり○所依を二註にヨスルとよめり。宜しくヨレルとよむべし。マダ逢ハヌモノカラ我ニ心ヲ寄セタリとなり
 
3168 (ころもでの)眞若の浦のまなごづちまなく時なしわがこふらくは
衣袖之眞若之浦之愛子地間無時無吾戀钁
 初句はいかにかゝれる枕辭にか知るべからず。兩袖を眞袖といへば眞の一言にかかれるかともいへり。マナゴヅチは砂地なり。はやく卷七(一四五七頁)にトヨ國ノキクノ濱邊ノマナゴヅチとあり。上三句は序なり〇古義の歌釋はいたく誤れり
 
(2714)3169 能登の海につりするあまのいざり火の光に伊往《イユク》、月まちがてり
能登海爾釣爲海部之射去火之光爾伊往月待香光
 伊往を略解にイユクとよめるを古義には舊訓に從ひてイマセとよめり。人に對して云はむとならば月出デテ後ニ行ケとこそいふべけれ。されば略解の訓に從ふべし
 
3170 しかのあまの釣にともせるいざり火のほのかに妹をみむよしもがも
思香乃白水郎乃釣爲〔左△〕燭有射去火之髣髴妹乎將見因毛欲得
 シカは筑前の志珂なり。上三句は序○爲は爾の誤か
 
3171 難波がたこぎ出《ヅル》船のはろばろにわかれ來ぬれど忘れかねつも
難波方水手出船之遙遙別來禮杼忘金津毛
 水手出を二註にコギデシとよめり。宜しくコギヅルとよむべし。その船は己が船にあらず。作者は陸上にありて人の船を漕ぎ出づるを見てやがてそを序につかへるなり
 
(2715)3172 浦|囘《ミ》こぐ能〔左△〕野舟附〔左△〕《クマヌノフネノ》めづらしくかけて思はぬ月も日もなし
浦囘※[手偏+旁]能野舟附目頬志久懸不思月毛日毛無
 能は熊の誤なる事明なり。熊野舟は卷六にトモシカモヤマトヘノボル眞熊野の船(一〇五四頁)また眞熊野ノ小船ニノリテオキベコグミユ(一一四七頁)とありて熊野式の船なり〇二註に一本によりて附を泊の誤として第二句をクマヌフネハテとよめり。附はおそらくは能などの誤ならむ〇三四は心ニカケテメデタク思ハヌとなり
 
3173 まつら舟|亂《マガフ》ほり江のみをはやみかぢとる間なくおもほゆるかも
松浦舟亂穿江之水尾早※[楫+戈]取間無所念鴨
 カヂトルまでが序なり。くはしくいはば梶取ル間ナキ如ク問ナクとかゝれる序なり○マツラ舟も松浦形の船なり。はやく卷七(一二六九頁)に
  さよふけてほり江こぐなるまつら船梶のと高しみをはやみかも
とあり。熊野形松浦形の船を熊野船松浦船と云へると同例なるは續日本後紀なる(2716)新羅船なり。即同書に
  承和六年秋七月丙申令3太宰府造2新羅船1。以3能堪2風波1也
  同七年九月丁亥対馬島司言。……傳聞新羅船能凌v波行。望請新羅船六隻之中分2給一隻1。聴v之
とあり○亂を略解にサワグとよみ古義にミダルとよめりリ。卷三にもミダレイヅ見ユアマノツリ船とあれば古義の訓よろしきに似たれどミダルは後世のミダスなれば船の亂るゝさまならばミダルルといはざるべからず(強ひていはば連體格にてミダルルといふべきを終止格にていへるなりともいふべけれど)。よりて思ふに亂はマガフとよむべきにあらざるか。マガフは混亂することなり。集中にもチリノマガヒなどよめり。ともかくも初二はあまたの松浦船の難波堀江を亂れ泝るさまをうつせるなり
 
3174 いざりするあまの※[楫+戈]音《カヂノト》ゆくらかに妹が心にのりにけるかも
射去爲海部之※[楫+戈]音湯鞍干妹心乘來鴨
 初二は序なり。※[楫+戈]音は古義に從ひてカヂノトとよむべし。ユクラカニはユラユラト(2717)なり。第四句は妹ガ我心ニなり。形ある物の乘るになぞらへてユクラカニといへるなり
 
3175 わかの浦に袖さへぬれて忘貝ひりへど妹は忘らえなくに
     或本歌末句云わすれかねつも
若乃浦爾袖左倍沾而忘貝拾跡妹者不所忘爾
    或本歌末句云忘可禰都母
 
3176 (草まくら)たびにしをれば(かりごもの)みだれて妹にこひぬ日はなし
草枕覊西居者苅薦之擾妹爾不戀日者無
 
3177 しかのあまの礒にかりほすなのりその名はのりてしを如何《ナニゾ》あひがたき
然海部之礒爾苅干名告藻之名者告手師乎如何相難寸
 上三句は序なり。如何を二註にイカデとよめるはわろし。古き書にイカデといへる(2718)例なければなり。宜しくナニゾなどよむべし(卷十四にも奈仁曾コノコノココダカナシキとあり)○上なる
  すみのえのしき津のうらのなのりその名はのりてしをあはなくもあやし
と相似たり
 
3178 國とほみおもひなわびそ風のむた雲のゆくなす言はかよはむ
國遠見念勿和備曾風之共雲之行如言者將通
 この國は故郷にあらず。作者の居る國なり。旅先より故郷の妻にいひやれるなり○ムタはマニマニなり
 
3179 とまりにし人を念爾〔左△〕《ヒトヲオモハク》あきつ野にゐるしら雲のやむ時もなし
留西人乎念爾※[虫+廷]野居白雲止時無
 三四は序なり。念爾は念久の誤か。さらばオモハクとよみてオモフヤウハと心得べし
 
(2719)  悲別歌
3180 うらもなくいにし君ゆゑあさなさなもとなぞこふるあふとは無杼〔左△〕《ナシニ》
浦毛無去之君故朝且〔左△〕本名烏戀相跡者無杼
 ウラモナクは心モナクなり。無心ニテなり。何トモ思ハズなり。上(二六一五頁)にもウラモナクアルラム兒ユヱコヒワタルカモとあり○無杼は宣長の説に從ひて無荷の誤とすべし○此部類の歌の中には別るゝを悲めると別れたるを悲めるとあり。此歌などは後者に屬せり
 
3181 しろたへの君が下紐吾さへに今日むすびてなあはむ日のため
白細之君之下紐吾左倍爾今日結而名將相日之爲
 こは男の歌にて吾サヘニは吾サヘ手ヲ添ヘテといへるなり
 
3182 しろたへの袖のわかれはをしけどもおもひ亂れてゆるしつるかも
白妙之袖之別者雖惜思亂而赦鶴鴨
 ソデノワカレは分袖を自動詞にうつせるなり。ヲシケドモは惜カレドモなり。オモ(2720)ヒ亂レテはイカニセムカト思亂レテ逐ニとなり。ユルスはハナツなり。古義に『こゝはゆるべはなつは本意にはあらねども思ひ亂れし紛れに得留めあへずてゆるしつる謂なり』といへるは少し當らず。もしさる意ならば第三句はヲシカルヲといはざるべからず
 
3183 みやこ邊《ヘニ》、君はいにしをたれとけかわが紐の緒乃ゆふ手|懈毛《タユキモ》
京師邊君者去之乎孰解可言紐緒乃結手懈毛
 邊は古義に從ひてヘニとよむべし(略解にはヘヘとよめり)〇四五を略解にワガヒモノヲノユフ手タユシ〔右△〕モとよめるを古義にワガヒモノヲノユフ手タユキ〔右△〕モとよみ改めて『タユキモとよまざれば第弟三句のカの疑詞に結とゝのはず』といへり。ワガヒモノヲ乃の下にシバシバ解ケテといふことを補ひ聞くべきか。但この乃はおちつかず○卷十一(二二七〇頁)にも
  君にこひうらぶれをればあやしくも我裏紐結手たゆしも
とあり。參照すべし
 
3184 (草まくら)たびゆく君を人目おほみ袖ふらずしてあまたくやしも
(2721)草枕客去君乎人目多袖不振爲而安萬田悔毛
 君ヲは君ナルニなり。アマタはココダに同じくて俗語のタイサウに當れり
 
3185 まそかがみ手にとりもちて見れどあかぬ君におくれて生跡《イケリト》もなし
白銅鏡手二取持而見常不足君爾折贈而生跡文無
 初二は見にかゝれる序なり
 
3186 (くもり夜の)たどきも不知《シラヌ》山こえています君をばいつとか待たむ
陰夜之田時毛不知山越而往座君乎者何時將待
 不知は略解に從ひてシラヌとよむべし(古義にはシラズとよめり)。タドキは案内なり。イマスは行キ給フなり
 
3187 (たたなづく)青垣山の隔者《ヘダタラバ・ヘナリナバ》しましま君乎〔左△〕《ニ》ことどはじかも
田立名付青垣山之隔者數君乎言不問可聞
 青垣山は垣の如く周れる山たり。はやく卷一(六七頁)に見えたり○隔者を略解にヘダタラバとよめるを古義にヘナリナバに改めたり。卷四に山河モ隔莫國《ヘダタラナクニ》(七〇八貢)(2722)とあり又ヒトヘ山|重成物乎《ヘナレルモノヲ》(八一六頁)とあればいづれともよむべし○第四句の乎は爾の誤ならむ。コトドハジカモは物言ハザラムカなり
 
3188 朝がすみたなびく山をこえていなば吾はこひむなあはむ日までに
朝霞蒙山乎越而去者吾波將戀奈至于相日
 卷四(六七五頁)に
  大船のおもひたのみし君がいなばわれはこひむなただにあふまでに
 卷九(一八〇四頁)に
  あすよりは吾はこひむななほり山いはふみならし君がこえいなば
などあり○至于の二字をマデニに充てたるなり
 
3189 (あしひきの)山は百重にかくすとも妹はわすれじただにあふまでに
    一云かくせども君を念苦《シヌバク》やむ時もなし
足檜乃山者百重雖隱妹者不忘直相左右二
     一云雖隱君乎思苦止時毛無
(2723) 妹ハは妹ヲバなり
 
3190 雲居なる海山こえて伊往《イユキ》なば吾はこひむな後はあひぬとも
雲居有海山越而伊往名者吾者將戀名後者相宿友
 伊往を二註にイマシとよめり。宜しくイユクとよむべし。上にもイザリ火ノ光ニ伊往《イユク》月マチガテリとあり
 
3191 よしゑやしこひじと爲〔左△〕杼《モヘド》ゆふま山こえにしきみがおもほゆらくに
不欲惠八跡〔左△〕不戀登爲杼木綿間山越去之公之所念良國
 爲は念の誤か。オモホユラクニはシノバルル事ヨとなリ○古義に
  略解に『キミガはキミヲと云べきをかくいふは例なり』といへるはいみじきひが言なり。オモホユルは思ハルルと云にあたれば君ヲ思ハルルとつづくべからず。必君ガならではつづかず
といへる如し○跡は諸本に師とあり
 
3192 (草陰の)あらゐの崎の笠島を見つつか君が山ぢこゆらむ
(2724)     一云み坂こゆらむ
草陰之荒藺之崎乃笠島乎見乍可君之山道越良無
    一云三坂越良牟
 初句はアラヰのアにかゝれる枕辭なり。卷十四にもクサカゲノ安努努ユカムトハリシミチとあり。アラヰノ崎の所在は知られず○卷九に
  山しなのいは田の小野のははそ原見つつや君が山ぢこゆらむ
とあり
 
3193 (玉がつま)島熊山のゆふぐれにひとりか君が山ぢこゆらむ
     一云ゆふぎりに長戀しつついねがてぬかも
玉勝間島熊山之夕晩獨可君之山道將越
     一云暮霧爾長戀爲乍寢不勝可母
 長戀は卷五(九三五頁)に
  おくれゐて那我古飛せずばみそのふのうめのはなにもならましものを
(2725)とあり。心得がたき語なり
 
3194 いきのをにわがもふ君は(とりがなく)あづまの坂をけふかこゆらむ
氣緒爾吾念君者鶏鳴東方坂乎今日可越覧
 アヅマノ坂は碓日にや
 
3195 磐城山ただごえ來ませいそ崎のこぬみの濱にわれたちまたむ
磐城山直越來益礒崎許奴美乃濱爾吾立將待
 イハキ山は薩※[土+垂]峠の古名なりといふ。タダゴエ來はまはり道をせずに越え來るなり。さてこゝの來マセは歸來マセなり○駿河國風土記(續歌林良材所引)に此歌を其國の女神の作とせり
 
3196 かすが野の淺茅が原におくれゐて時ぞともなしわがこふらくは
春日野之淺茅之原爾後居而時其友無吾戀良苦者
 時ゾトモナシはいつが時とも無きにて畢竟止む時も無きなり。古義に夫(ノ)君ノ旅ニ出ル時ニ春日野ノ淺茅ガ原マデ送リ行シニ云々といへるは非なり。淺茅が原は其(2726)家のあたりの状なり
 
3197 住吉《スミノエ》のきしにむかへる淡路島あはれと君をいはぬ日はなし
住吉乃崖爾向有淡路島阿〔左△〕怜登君乎不言日者無
 上三句は序なり。古義に『此作者攝津の女にてやがて打見たる處をいひ出たるなるべし』といへる如し。アハレはこゝにてはコヒシなり○阿は※[立心偏+可]の誤なり
 
3198 あすよりは將行《イナム》の河のいでいなばとまれる吾はこひつつやあらむ
明日從者將行乃河之出去者留吾者戀乍也將有
 二註に將行をイナミとよみたれどイナムとよむべし。印南《イナミ》をなまりてイナムともいひしかば將行の字を充てたるなり。さてイナミノ河ノはイデイナバのイナバにかゝれる序なり。印南川は今の加古川なり。加古川はいにしへの印南野を流るる大川なり○アスヨリハはコヒツツヤアラムにつづけて心得べし
 
3199 (わたのそこ)おきはかしこしいそ回《ミ》よりこぎたみ往爲《ユカセ》、月はへぬとも
海之底奥者恐礒囘從水手運往爲月者雖經過
(2727) オキハカシコシは沖ハ浪荒ケレバオソロシとなり。イソミヨリは海岸ニ沿ヒテなり。コギタミは漕ぎ廻リなり。往爲を從來イマセとよめり。字のまゝにユカセとよみて可なり
 
3200 けひの浦によするしら浪しくしくに妹がすがたはおもほゆるかも
飼飯乃浦爾依流白浪敷布二妹之容儀者所念香毛
 ケヒノ浦は即敦賀なり。シクシクニはシバシバなり。オモホユルカモはシノバルルカナなり
 
3201 (ときつ風)ふけひの濱にいでゐつつあがふいのちは妹が爲こそ
時風吹飯乃濱爾出居乍贖命者妹之爲社
 海邊に出でて祓する趣なり。四五は神ニ贖物《アガモノ》ヲ奉リテ命ヲ贖《アガ》フハ妹ガ爲ニコソとなり。卷十一(二二六五頁)にも
  玉《タマキヨキ》久世清河原《クセノカハラ》にみそぎしていのる命も妹が爲こそ
とあり
 
(2728)3202 にぎ田津にふなのりせむと聞之苗〔左△〕《キコエシヲ》なにぞも君がみえこざるらむ
柔田津爾舟乘將爲跡聞之苗如何毛君之所見不來將有
 第三句を二註にキキシナベ(又はキキシナヘ)とよめり。さて二註に家人のよめる歌としたれどさらば聞之苗の下にかならずワガ待ツニといふ辭無かるべからず。又第二句も寧フナノリシツトとあるべし。案ずるに聞之苗は聞之乎の誤にてキコエシヲとよむべきか。さてこは旅だつ人のよめるにて柔田津ヨリ乘船セムト告遣リシヲ何故君ガ見送ニ見エ來ザルラムといへるならむ。キコエは結句にミエを所見と書ける例によらば所聞と書くべけれど集中には聞とのみ書ける例もあり。たとへば卷八(一六二四頁)にオモフココロハ聞來奴鴨《キコエコヌカモ》、卷九(一六八九頁)にヤマトニハ聞往歟《キコエモユクカ》などあり
 
3203 みさごゐる渚《ス》に居《ヰル》舟のこぎでなばうらごひしけむ後はあひぬとも
三沙呉居渚爾居舟之※[手偏+旁]出去者裏戀監後者會宿友
 初二は卷十一(二五三〇頁)にも見えたり。スニヰルは洲ニ乘上ゲタルなり。ウラゴヒ(2729)シは心ニコヒシにてケムはカラムなり。上(二七二三頁)にも吾ハコヒムナ後ハアヒヌトモとあり
 
3204 (玉かづら)たえず行核《ユカサネ》(山菅の)おもひみだれてこひつつまたむ
玉葛無怠行核山菅乃思亂而戀乍將待
 ユカサネは上にユカセとあるに同じ(古義にはイマサネとよめり)。さてタエズユカサネは略解に『滞る事なく行てとく歸れといふ意なり』といへる如し
 
3205 おくれゐてこひつつあらずばたごの浦のあまならましをたま藻かるかる
後居而戀乍不有者田籠之浦乃海部有申尾珠藻苅苅
 アラズバはアラムヨリハといふ意なり。はやく卷十一(二四七三頁)に
  中々に君にこひずばひらの浦のあまならましを玉藻かりつつ、或本歌曰中々に君にこひずば留鳥浦のあまならましを珠藻かるかるとあり○カルカルは苅リツツなり。結句は玉藻ヲ苅リツツ君ニ伴ハムといへるに(2730)や。卷十一なるは玉藻ヲ苅リツツ思フ事ナクテ世ヲ渡ラムといへるなり
 
3206 筑紫ぢのありその玉藻かるとかも君は久しく待つに不來《キタラヌ》
筑紫道之荒礒乃玉藻苅鴨君久待不來
 ツクシヂは常には筑紫へ行く道をいへどこゝは筑紫より歸る道をいへるなり。なほ卷十七に家持が越中國にて奈良より來る使をアヲニヨシ奈良ヂキカヨフとよめる如し○不來を略解にキマサヌとよみ古義にキマサズ〔右△〕とよめり。キタラヌ又はキマサヌとよむべし
 
3207 (あらたまの)年の緒ながく(てる月の)不厭君八《アカザルキミヤ》あすわかれなむ
荒玉乃年緒永照月不厭君八明日別南
 第四句を二註にアカヌ君ニヤとよめり。宜しくアカザル君ヤとよむべし〇年ノ緒ナガクはアカザル君ヤにかゝれるなり。古義にアスワカレナムにかゝれりとせるは非なり
 
3208 久ならむ君をおもふに(ひさかたの)きよきつく夜も闇夜耳見《ヤミトノミミユ》
(2731)久將在君念爾久堅乃清月夜毛闇夜耳見
 久ナラムは久シク歸ラザラムなり。結句を略解にヤミニノミミユとよみ古義にヤミノミニミユとよめり。ヤミトノミミユ又はヤミニノミミユとよむべし
 
3209 かすがなる三笠の山にゐる雲をいでみるごとに君をしぞもふ
春日在三笠乃山爾居雲乎出見毎君乎之曾念
 何故に雲を見て夫を思ふにか作者の意は知るべからず
 
3210 (あしひきの)片山きぎしたちゆかむ君におくれてうつしけめやも
足檜木乃片山雉立往牟君爾後而打四鶏目八方
 初二は序なり。ウツシケメヤモはウツシカラムヤハにてウツシは正氣ナルなり。オソラクハ心ヲ喪ハムといへるなり
 
  問答歌
 代匠記に『此は悲別問答にて上の問答とは別なるを目録に合せたるは誤なり』といへり
(2732)3211 (たまのをの)うつしごころや八十梶《ヤソカ》かけこぎでむ船におくれてをらむ
玉緒乃徙心哉八十楫懸水子出牟船爾後而將居
 タマノヲノは枕辭なり。卷十一(二五〇四頁)にもタマノヲノウツシゴコロヤ云々とあり。ウツシゴコロヤは正氣ニテヤハなり〇八十梶をヤソカとよまむは言足らぬやうなれど卷二十に夜蘇加ヌキと假字書にせる例あり
 
3212 やそかかけ島がくりなば吾妹兒が留登《トマレト》ふらむ袖みえじかも
八十楫懸島隱去者吾妹兒之留登將振袖不所見可聞
     右二首
 島ガクリナバは島ニ隱レナバにてやがて島陰ニナリナバなり○留登は舊訓に從ひてトマレトとよむべし。古義にトドムトに改めたるはわろし。袖ミエジカモは袖ガ見エザラムカなり。上(二七二一頁)にもコトドハジカモとあり(2733)結句は又ハ宿ヲ借リタラムカとなり
 
3213 かみな月しぐれの雨にぬれつつや君がゆくらむ宿かかるらむ
十月鍾禮乃雨丹沾乍哉君之行疑宿可借疑
(2733) 結句は又ハ宿ヲ借リタラムカとなり
 
3214 かみな月雨之〔二字□で囲む〕|間〔日が月〕毛不置《マモオカズ》△△《アメノ》ふりにせばたが里の間〔日が月〕宿可〔二字左△〕《マカヤドハ》からまし
十月雨之間毛不置零爾西者誰里之間宿可借益
     右二首
 卷八に
  うの花のすぎばをしみかほととぎす雨間〔日が月〕毛不置こゆなきわたる
  ひさかたの南雨間〔日が月〕毛不置くもがくりなきぞゆくなるわさ田かりがね
とあり。之によりて二註に第二句の之の字を衍字としてアママモオカズとよめり。さて彼二首のアマ間〔日が月〕は雨ノフル間〔日が月〕なるが(一五三五頁及一五九五頁參照)こゝは雨ノフル間〔日が月〕としては意義通ぜざるによりて古義に『歌によりていさゝか意異なるべし』といへれど歌によりて意の正反對となるべきにあらず。思ふにこゝはもと間〔日が月〕毛不置雨之とありしを間〔日が月〕毛不置と雨之とを顛倒したるならむ〇四五を從來タガ里ノマニ宿カカラマシとよめり。さてタガ里ノマニを略解にイヅクノホドニと譯し古義にイヅレノ里ノ程ニと譯せり。宿の下のカは間〔日が月〕《マニ》の下にあるべきなり。或は宿可(2734)は顛倒ならざるか。もし然らばタガ里ノマカ宿ハカラマシとよむべし。マカは間〔日が月〕ニカなり〇一首の意は幸ニ時雨ニ晴間〔日が月〕アレバコソヨケレ、モシ晴間〔日が月〕ナカリセバ宿ヲ借ラザルベカラズ、サテソハイヅクノ里ナラム、イトオボツカナシヤといへるなり
 
3215 しろたへの袖の別をかたみして荒津の濱にやどりするかも
白妙乃袖之別乎難見爲而荒津之濱屋取爲鴨
 袖ノワカレは上(二七一九頁)に見えたり。カタミシテは後世の難ンジテなり。荒津は筑前の地名なり○こは旅行かむとする人のよめるなり
 
3216 (くさまくら)たびゆく君を荒津までおくり來ぬれどあきたらずこそ
草枕羈行君乎荒津左右送來飽不足社
     右二首
 アキタラズコソの下にオモヘを略せるなり
 
3217 荒津の海わが幣まつりいはひてむはやかへりませ面がはりせず
荒津海吾弊〔左△〕奉將齋早還座面變不爲
(2735) イハヒテムは神ニ祈リテムなり○二註に眞淵が
  是は筑紫人の京に仕奉るとて上るをりならん。オモガハリセズとは年經べきよしなれば國の任の朝集使などにて假に上るにあらず
といへるを是認したれどオモガハリセズは人の別に旅行の長短にかゝはらずいひ習ひし辭ならむ。さてオモガハリセズの語例は孝徳天皇紀大化元年に汝佐平等|不易面來《オモガハリセズマヰコ》とあり
 
3218 あさなさな筑紫の方をいで見つつ哭耳吾〔左△〕泣《ネノミヤナカム》いたもすべなみ
早早筑紫乃方乎出見乍哭耳吾泣痛毛爲便無三
     右二首
 第四句を略解にネノミワガナクとよみ古義にネノミゾアガナクとよめり。さて前者に
  是は上る道にてよみておもふ人に贈しならん。右の歌にただちに答しにはあらず
(2736)といひ後者に
  今此歌をもておもふに右の荒津海云々も京に上る人のはやく道中に至れるほどよみて贈れるにすなはち道よりその歌に答ていひおこせたるなるべし
といへり。哭耳哉泣の誤にてネノミヤナカムなるべし。ナカムは將泣とかくべき如くなれど將を略せる例もあり。たとへば卷十六にトモヤタガハムワレモヨリナムを友八違我藻將依とかけり○イタモはイトモなり
 
3219 豐國のきくの長濱ゆきくらし日のくれぬれば妹をしぞもふ
豐國乃聞之長濱去晩日之昏去者妹食序念
 豐前の國司の管内巡行のをりなどによめるなり。晝は物にまぎるれば日ノクレヌレバといへるなり
 
3220 とよくにのきくの高濱たかだかに君まつ夜らはさよふけにけり
豐國能聞乃高濱高高二君待夜等者在〔左△〕夜深來
     右二首
(2737) 初二は序なり。高濱は砂高き濱ならむ。古義に長濱と同意として『横に長きをも高きと云しにこそ』といへるはあさまし○タカダカニは人を待つ状なり。夜ラのラは助辭なり。子ラ野ラなどのラにおなじ○こは彼國司の妻の國府に留まり居てよめるにて此二首は正しき問答にはあらず○在は左を誤れるなり
                             (大正十二年四月講了)
(2739)附録
   佛足石歌新考
      序
 佛足石并佛足石歌碑は奈良縣生駒郡|都跡《ミヤト》村大字六條字砂村なる藥師寺にあり。大軌電車の西大寺停留所にて乘替ふれば屡?時にして藥師寺停留所に達す。此停留所は恰同寺の裏門に當れり。彼石は今、金堂に向ひての左側なる池の中島の堂内にすゑたり。寺僧に請はでは見るを得ず
 佛足石は石の上面を摩りて所謂釋迦の足跡を刻み其側面に記文を鐫りたり。記文は磨滅していと讀みがたし。歌碑は佛足石の後に立てたり。光澤ある黒色の石にて其周圍磨滅せり。其面に二十一首の歌と標題とを刻めること流布の拓本の如し。第二十一首には補刻あるに似たり。因にいふ。流布の拓本は直に石に就いてすりたるにあらず。木に模刻したるがありてそれにて刷りて寺にて頒つなり
 彼記文に依れば此佛跡は唐の王玄策といふ人天竺にて正眞の佛跡の石に殘れるを寫し歸りしを邦人|黄書《キブミ》(ノ)本實唐土より寫し歸しが奈良の右京四條坊の禅院に傳は(2740)れるを文室《フミヤ》(ノ)眞人|淨三《キヨミ》が獲て孝謙天皇の天平勝寶四年即今大正十一年より千百七十年前に茨田《マムタ》(ノ)女王の追福の爲に石に鐫りたるなり
 黄書(ノ)造《ミヤツコ》本實の名の國史に見えたるは天智天皇紀十年に
  三月戊戌朔庚子黄書(ノ)造本實獻2水※[自/木]《ミヅハカリ》1
とあるを始とす。氏は姓氏録には黄文と書けり。又カバネは天武天皇の時|連《ムラジ》に更へられき
 文室眞人淨三は天武天皇の御子なる長《ナガ》(ノ)皇子の子にて初智努王といひしが臣籍に下りて文室(ノ)眞人智努《チヌ》と稱し更に淨三と改名せしにて從二位大納言に陞り光仁天皇の寶龜元年十月に薨じき。萬葉集卷十七に智努王とのみありて歌なく同卷十九に從三位文屋智努麻呂眞人とありて
  天地と久しきまでに萬代につかへまつらむくろきしろきを
といふ歌あり。思ふに歌は作らざるにあらねど作家といふばかりにはあらざりけむ。
 水鏡に
  神護景雲四年八月四日稱徳天皇失サセ御座《オハ》シニシカバ位ヲ繼ギ給ベキ人モ無テ(2741)大臣以下各此事ヲ定申奉給シニ天武天皇ノ御子長屋天皇(○長親王の誤)ト申シシ人ノ御子ニ大納言文屋淨三ト申シシ人ヲ位ニ付奉ラント申サルル人々アリキ。又白壁皇子ト申テ天智天皇ノ御孫ニテ此御門(○光仁天皇)ノ御座《オハセ》シヲ位ニ付奉ルベシト申サルル人アリシカドモ尚文屋ノ淨三ヲト申サルル人ノミ多ク強クシテ既ニ其御子位ニ付給べキニテアリシニ此淨三我身其器物ニ叶ハズトアナガチニ遁レ申給ヒシカバ云々
とあり
 茨田女王は淨三が記せる彼文に爲2亡夫人從四位下茨田郡主法名良式1敬寫2釋迦如來神跡1とあるによりて從來淨三の妻としたれど人の妻をこそ夫人とはいへ我妻を敬して夫人といふ事は無し。論語季氏に
  邦君之妻、君(ハ)稱v之曰2夫人1、夫人(ハ)自稱曰2小童1、邦人(ハ)稱v之曰2君夫人1
とあるは邦君に限れる事なれば特にかく云へるなり。又女王を淨三の妻とせば彼二十一首の歌の第一首にチチハハガタメニといへると相かなはず。或は云はむ『チチハハガタメニといへるは此功徳を父母にも及ぼさむが爲にいへるのみ。さればこそ此(2742)句に添へてモロビトノタメニといへるなれ』と。答へて云はむ『もし然らばナキヒトノタメニなどいひてそれに添へてチチハハガタメニとこそいふべけれ』と。案ずるに左傳漢書以下に母の事を夫人といへる例頗多かれば茨田女王は淨三の母にて長皇子の妃ならむ。而して歌にチチハハガタメニといへるは主として母の爲にせし功徳なれど之を父皇子にも及ぼせるならむ。さて茨田郡主といへる郡主は唐制にては太子の女を云ひしなれば此女王は高市皇子の御女か。此女王の名は續日本紀天平十一年正月に
  授无位茨田女王從四位下
と見えたり
 歌碑を建てし事は記文に見えねど歌の意を推すに佛足石と同時に作りしなり。さて歌の作者は誰ぞ。こゝに拾遺集卷二十哀傷に
  光明皇后山階寺にある佛跡にかきつけ給ひける みそぢあまりふたつの姿そなへたるむかしの人のふめる跡ぞこれ
とあり。此歌は二十一首中の第二首のすこしかはれるなり。されば之を證として二十(2743)一首の歌を光明皇后の御作とすべきか。右の詞書に見えたる山階寺は興福寺の事なり。此詞書に從はばもと興副寺にありしを藥師寺に移しゝものとせざるべからざれど二十一首中に藥師をよめる歌あり而して藥師寺の本尊なる藥師は希世の名作にて寺の名はやがて此佛像より附けられたるなれば佛足石は初より藥師寺にありしなり。又佛足石は文室眞人淨三が其亡母の爲に作れるにて光明皇后は之に與り給はず。又佛跡ニカキツケ給ヒケルとあるも佛足石に副へて建てし碑に刻みし事とは聞えず。されば拾遺集の詞書は此石此碑を見ず又其傳を知らざりし人が口碑によりて書けるにて採りて史料とはしがたし
 此歌どもの作者を推定する前にまづ二十一首は一人の作か又は數人の合作かといふことを一考せざるべからず。さるははやく合作説を唱へし人あればなり。案ずるにおそらくは一人の作ならむ。その證とすべきは
 一 歌體相ひとしき事
  二十一首は悉く五七五七七七の六句より成れり。すなはち普通の短歌に添ふるに七言一句を以てせり。但その第六句は第五句と對を成せるも然らざるもあり。(2744)されば二十一首は少くとも諸人が心々によみしものを集めたるにはあらざるなり
 二 巧拙の差いちじるからざる事
  もし數人の合作ならば若干の傑作も交るべきを悉く凡作にて文藝上の價値あるものなし
 三 異樣なる語の處々に見えたる事
  ソナハレルをソダレルといへる人と、ノコセルをノケルといへる人と、メヅラシをメダシといへる人とを別人なりとは認めがたし
 四 佛語直譯の處々に見えたる事
  諸人がいひ合せて佛語直譯をもちひたりとは認めがたし
 五 所謂文字あまりの句の多き事
  第二句以下の缺けたる第十一首を除ける二十首中文字あまりの句なきは僅に六首(第十首、第十五首、呵※[口+責]生死四首)のみなり。こも諸人の趣味が偶然に一致せし結果とは認めがたし
(2745)などなり。然らば作者は誰ぞといふにおそらくは文室(ノ)淨三なるべし。二十一首中に歌を作りし人はやがて佛足石を作りし人ならむと思はしむる歌數首あり。就中最いちじろきは
  御跡すらをわれ〔二字右△〕は得見ずていはにゑらつく
といふ歌なり。二十一首中に傑作なき事と淨三が作家にあらざりけむ事とは相照して淨三所作の傍證とすべし
 さて後世五七五七七七の六句より成れる歌を佛足石體といふ。淨三果して作家ならずばいかでかさる體を創むることを得むとは或は起るべき疑ならむ。それに對して豫答へむ。萬葉集卷五には現に山上憶良が此體にてよめる歌あり(新考九六五頁參照)。憶良は淨三より先輩なれば淨三は憶良に倣へるなり。すなはち此體は淨三の創意にあらざるなり
 歌も記文も頗しどけなきは作者の性格の然らしめし所か又は事情の然らしめし所ならざるべからず。もし臆を以て測らば作者は寧漢文に得意なりし人、憶良の影響を受けし人、貴冑として下問を好まざりし人にあらざるか
(2746) 藥師寺の本尊なる藥師像は從來たが作とも知られざりしものなり。然るに此歌碑の歌によりて其作者は模索すべきに似たり。又シノブ、ウヤマフ、マウスはいにしへシヌブ、ヰヤマフ、マヲスといひしが世遷りて轉訛せるなり。此歌碑の歌によれば天平勝寶中はやくシノブ、ウヤマフ、マウスといひしなり。否少くともシノブ、ウヤマフ、マウスともいひしなり。二十一首を玩味せば史學上語學上得る所少からざるべく其書はた斯道の參考となるべきものあらむ。但文藝上には大なる價値あるものとは思はれず
 此歌を註せる書少からざるべし。但余の一讀せしは野呂實夫の佛足石碑銘、山川正宣の佛足石和歌集解、鹿持雅澄の南京遺響のみ
 さて歌碑は一たび近傍の橋梁の材となりしを奈良の古梅園松井氏の祖先が藥師寺中に再建せしなりといふ説あり。今も寺には然いひ傳へたり。案ずるに此説おそらくは非なるべし。寶暦年中野呂氏が始めて此碑の模本を公にせしは松井元英が百計工を用ひて搨寫せしものに依れるなり。然るに其後序及本文に松井氏の勞を稱しながらその發見の事を言はざるを見れば橋となりたりきといふは好事者の造言にこそ。但後序に惜嘗罹v災碑石殘缺とあり
 
(2747)    佛足石歌
      尓〔小の右に点〕2佛跡1一十七首
美阿止都久留、伊志乃比鼻伎波、阿米尓伊多利、都知佐閇由須礼、知々波々賀多米尓毛呂比止乃多米尓
みあとつくるいしのひびきはあめにいたりつちさへゆすれちゝはゝがためにもろびとのために
 尓〔小の右に点〕は恭の上半の缺けたるなりといへり。恭はウヤマフなり。歌にもサカノミアトイハニウツシオキウヤマヒテ又ユキメグリウヤマヒマツリワガ世ハヲヘムとあり」アトは足處《アト》にて即足跡なり。ミアトツクルは佛跡ヲ鐫ルなり。ツチサヘユスレは地サヘユスリテ諸佛ヲ驚シ奉レとなり
 
弥蘇知阿麻利、布多都乃加多知、夜蘇久佐等、曽太礼留比止乃、布美志阿止々己呂麻礼尓母阿留可毛
みそぢあまりふたつのかたちやそぐさとそだれるひとのふみしあと(2748)どころ(まれにもあるかも)
 ミソヂアマリフタツノカタチは三十二相なり。ヤソグサは八十種(ノ)好なり。相と好とを併せて今もサウガウといふ。ソダレルはソナハレルをつづめたるにておそらくは當時の俗語ならむ。萬葉集にもフトウマをつづめてフタといひ(卷十二)アヤフカドモ(危カレドモ)をつづめてアヤハドモ(卷十四)といへるなどの例あり。アトドコロはやがて跡なり。マレニモアルカモはメヅラシクモアルカナなり
 
与伎此止乃、麻佐米尓美祁牟、美阿止須良乎、和礼波衣美須弖、伊波尓惠利都久(多麻尓惠利都久)
よきひとのまさめにみけむみあとすらをわれはえみずていはにゑりつく(たまにゑりつく)
 ヨキヒトは下にもヨキヒトノイマスクニニハワレモマヰデム又クスリシモトムヨキヒトモトムとあり。萬葉集卷一にも
  よき人のよしとよく見てよしといひし芳野よく見よよき人よくみつ
(2749)とありて淑人良人と書けり。哲人、エライ人などいふ意とおぼゆ。こゝにては王玄策を指せるなり。
  因にいふ。惠美押勝作内大臣鎌足傳に擧げたる天智天皇の詔に
   内大臣某朝臣不v期之間〔日が月〕忽焉薨謝。如何蒼天|殲《ホロボス》2我良人1
とあるは毛詩大雅蕩之什に維《コレ》此良人、弗v求《モトメズ》弗v迪《ススメズ》とあるに據らせ給へるなり
 マサメニはマノアタリなり。スラは主語を強むる辭なり。タマは美石なり
 
己乃美阿止、夜与呂豆此賀利乎、波奈知伊太志、毛呂毛呂須久比、和多志多麻波奈(須久比多麻波奈)
このみあとやよろづひかりをはなちいだしもろもろすくひわたしたまはな(すくひたまはな)
 ヤヨロヅヒカリは經文にいへる八萬四千(ノ)光なり。略して又八萬光ともいへるが故にヤヨロヅヒカリといへるなり。モロモロは衆人なり。スクヒワタシは済度なり。但スクヒワタシを二句に割きたるは快からず。タマハナは給ヘなり。このナは萬葉集(2750)卷十七なる大伴坂上郎女の歌に
  みちのなかくにつ御神はたびゆきもししらぬ君をめぐみたまはな
とあると同例なり。おそらくはネの轉じたるにて奈良朝時代に生ぜし辭ならむ。かのユカム、キカムなどを行カナ、聞カナなどいへるとは異なり
 
伊可奈留夜、比止尓伊麻世可、伊波乃宇閇乎、都知止布美奈志、阿止乃祁留良牟(多布刀久毛阿留可)
いかなるやひとにいませかいはのうへをつちとふみなしあとのけるらむ(たふとくもあるか)
 イカナルヤのヤは助辭なり。萬葉集卷十三にもイカナルヤ人ノ子ユヱゾカヨハスモ吾子《アゴ》とあり。ツチトは地ノ如クなり。ノケルはノコセルをつづめたるにて上なるソダレルと同類なり
 
麻須良乎乃、須々美佐岐多知、布賣留阿止乎、美都々志乃波牟、多太尓阿布麻旦尓(麻佐尓阿布麻弖尓)
(2751)ますらをのすすみさきだちふめるあとをみつつしのばむただにあふまでに(まさにあふまでに)
 マスラヲは釋迦なり。如來ハ人中ノ丈夫といへるに依れるなり。ススミサキダチは諸弟子ノ前頭ニ立チテといふことにや。シノブはいにしへシヌブといひしを比頃はやくシノブともいひしなり。萬葉集卷十四なる東歌に
  い|は《ヘ》のいもろわをし乃ぶらしまゆすひにゆすひしひものとくらくもへば
 又卷十七なる平群氏女郎贈2家持1歌に
  よろづ代|爾《ト》こころはとけてわがせこがつみし乎〔左△〕《テ》みつつし乃びかねつも
とあり。タダニアフマデニはマノアタリ値遇シ奉ルマデハとなり。マサニはタダニにおなじ。タダ目をマサ目ともいへると同例なり。マデニはマデハなり
 
麻須良乎乃、布美於祁留阿止波、伊波乃宇閇尓、伊麻毛乃己礼利、美都々志乃覇止(奈賀久志乃覇止)
ますらをのふみおけるあとはいはのうへにいまものこれりみつつし(2752)のべと(ながくしのべと)
 覇の呉音はへなり
 
己乃美阿止乎、多豆祢毛止米弖、与岐比止乃、伊朝須久尓々波、和礼毛麻胃弖牟(毛呂毛呂尓爲弖)
このみあとをたづねもとめてよきひとのいますくににはわれもまゐでむ(もろもろをゐて)
 初句は此御跡ノ所在ヲと心得べし。ヨキヒトはこゝにては天竺の高僧たちを指せり。マヰデムは參出デムなり。今マウデムといふは此語を訛れるなり。モロモロヲヰテは衆人ヲ率テなり
 
舍加乃美阿止、伊波尓宇都志於伎、宇夜麻比弖、乃知乃保止氣尓由豆利麻都良牟(佐々義麻宇佐牟)
さかのみあといはにうつしおきうやまひてのちのほとけにゆづりまつらむ(ささげまうさむ)
(2753)サカは釋迦なり。ウヤマヒヒテはヰヤマヒテのうつれるなり。ノチノホトケは當來の世に出現すべき佛にてやがて彌勒菩薩なり。マウサムはマヲサムをなまれるにて萬葉集には卷十五にタラチネノハハニマ于シテとあるを始めてその例少からす
 
己礼乃与波、宇都利佐留止毛、止己止婆尓、佐乃己利伊麻世、乃知乃与乃多米(麻多乃与乃△△)
これのよはうつりさるともとことはにさのこりいませのちのよのため(またのよの△△)
 ウツリサルトモは移り行クトモなり。トコトハニは今そのハをワの如く唱ふれどこゝに婆の字を宛てたればハを濁るべきかといふに下にもマハリを麻婆利と書けるを見れば此歌どもには婆を濁にも清にも借りたるなり。婆は漢音ハ、呉音バなり。サノコリのサは添辭なり。第六句の缺文はタメならむ
 
麻須良乎能、美阿
ますらをのみあ
(2754) 阿の下は止ならむ。其次は考ふべからず
 
佐伎波比乃、阿都伎止毛加羅、麻爲多利弖、麻佐米尓弥祁牟、比止乃止毛志△(宇札志久毛阿留可)
さきはひのあつきともがらまゐたりてまさめにみけむひとのともし△(うれしくもあるか)
 サキハヒノアツキトモガラは多幸ナル人々にて王玄策等を指せるなり。マヰタリテは參到《マヰイタ》リテをつづめたるなり。第五句の尾の缺字はサならむ。トモシサはウラヤマシサなり。さてサキハヒノアツキトモガラといひて更にヒトとはいふべからず。己止などあるべきなれど拓本には明に比止とあり實物に就きて見るに又比と見ゆ。さればこは誤字にはあらで修辭のとゝのはざるなり。第六句はた穩ならず
 
乎遅奈伎夜、和礼尓於止礼留、此止乎於保美、和多佐牟多米止、宇都志麻都礼利(都加閇麻都札利)
をぢなきやわれにおとれるひとをおほみわたさむためとうつしまつ(2755)れり(つかへまつれり)
 ヲヂナキはイクヂナキなり。ヲヂナキヤのヤは上なるイカナルヤのヤに同じ。ワタサムタメトはソノ人ヲワタサム爲ニなり。ワタサムは済度セムなり。済度はやがて苦海より済ひて彼岸に渡す事なり。ウツシマツレリは此御跡ヲ模シ奉レリなり。ツカヘマツレリは作リ奉レリなり
 
舍加乃美阿止、伊波尓宇都志於伎、由伎米具利、宇夜麻此麻都利、和我与波乎閇牟(己乃与波乎閇牟)
さかのみあといはにうつしおきゆきめぐりうやまひまつりわがよはをへむ(このよはをへむ)
 ユキメグリは所謂|行道《ギヤウダウ》にてこゝにては佛足石をゆきめぐるなり。行道は天竺の禮にて今も僧侶のするわざなり。齊明天皇紀四年に行2道於寺(ノ)金堂(ヲ)1とありて行道にメグルと傍訓せり。ワガヨハヲヘムは我世ヲバ盡サムなり
 
久須理師波、都祢乃母阿礼等、麻良比止乃、伊麻乃久須理師、多布止可理家(2756)利(米太志可利鶏利)
くすりしはつねのもあれどまらびとのいまのくすりしたふとかりけり(めだしかりけり)
 クスリシは藥師如來ノ尊像ハとなり。ツネノモアレドは世ノ常ノモタフトカレドなり。マラビトは蕃客なり。和名抄玄蕃寮の訓註に保宇之萬良比止〔四字傍点〕乃豆加佐とあり(保宇之は保布之にて法師なり)。抑マラビトはマレビトのレが下につづくにつきて(ムレがムラにうつるが如く)ラにうつれるにて今マラウドといふはマラビトの又うつれるなり。マラビトノの次に作レルといふことを補ひて聞くべし。イマノは歌の註に今ノ歌などいふ今ノにてコノといふことなり。メダシはメヅラシをつづめたるにて上なるソダレル、ノケルと同類なり。此歌によれば藥師寺の本尊は明に外人の來朝して作れるなり。さて恭佛跡一十七首の中に當寺の本尊をたゝへたる作の交れるも亦例のしどけなさの一つに數ふべし
 
己乃美阿止乎、麻婆利麻都礼婆、阿止奴志乃、多麻乃与曽保比、於母保由留(2757)可母(美留期止毛阿留可)
このみあとをまはりまつればあとぬしのたまのよそほひおもほゆるかも(みるごともあるか)
 マハリは行道にて上なるユキメグリにおなじ。アトヌシは御跡の主にて即釋迦如來なり。タマノはウルハシキなり。オモホユルカモはシノバルルカナなり
 
於保美阿止乎、美尓久留此止乃、伊尓志加多、知与乃都美佐閇、保呂夫止曾伊布(乃曾久止叙伎久)
おほみあとをみにくるひとのいにしかたちよのつみさへほろぶとぞいふ(のぞくとぞきく)
 イニシカタチヨは所謂過去千歳なり。第二句はミニクルヒトハ〔右△〕とあるべく第三句はイニシ方ノ〔右△〕とあるべく(但このノはわざと省けるなるべし)第六句はノゾコル〔二字右△〕トゾキクとあるべきなり
 
      呵2※[口+責]生死1
(2758)比止乃微波、衣賀多久阿礼婆、乃利乃多能、与須加止奈礼利、都止米毛呂毛呂(須々賣毛呂母呂)
ひとのみはえがたくあればのりのたのよすがとなれりつとめもろもろ(すすめもろもろ)
 珂※[口+責]生死の下に四首とあるべきなり。又呵※[口+責]生死は生死に惑へる人を呵※[口+責]する意かとも思へど生死ニ惑ヘル人を単に生死とはいふべからず。いかが
 エガタクアレバのアレバおちつかず。アルヲなどあるべきなり。初二は萬葉集卷九なる笠金村の歌に人トナル事ハカタキヲ、ワクラバニナレル吾身ハとあると同じく經文に人離2惡道1得v爲v人難などあるに依れるなり。ノリノタは法田か。ヨスガは縁なり。ノリノタノヨスガトは法田ニ善種ヲウヱシ縁トシテといふことにや。ナレリは生レタリなり。金村の歌なるナレルも然り
 
与都乃閇美、伊都々乃毛乃々、阿都麻礼流、伎多奈伎微乎婆、伊止比須都閇志(波奈札、須都倍志)
(2759)よつのへみいつつのもののあつまれるきたなきみをばいとひすつべし(はなれすつべし)
 ヨツノヘミは四蛇にて地水火風をたとへたるなり。イツツノモノは色聲香味觸の五欲をいへるならむ。ハナレスツベシはハナチスツべシとあるべし。上にも語の自他を誤りてノゾコルをノゾクといへる例あり
 
伊加豆知乃、此加利乃期止岐、己礼乃微波、志尓乃於保岐美、都祢尓多具覇利(於豆閇可良受夜)
いかづちのひかりのごときこれのみはしにのおほきみつねにたぐへり(おづべからずや)
 初二は電光ノ如クハカナキとなり。コレノミハは此身ハなり。シニノオホキミは死王の直譯なり。タグヘリはトモナヘリなり。オヅベカラズヤは恐ルベキニアラズヤとなり
 
△都△△△、△△△△比多留、比△乃多尓、久須理師毛止牟、与伎比止毛止(2760)旡(佐麻佐牟我多米尓)
△つ△△△△△△△ひたるひ△のたにくすりしもとむよきひともとむ(さまさむがために)
 第三句は比止〔右△〕乃多尓ならむ。タニは爲ニなり。爲ニをタニといへる例は萬葉集卷五にも
  たつのまをあれはもとめむあをによしならのみやこにこむひとの多仁
とあり。第二句は佐氣尓惠〔四字右△〕比多留ならむ。第六句にサマサムガタメニとあるを思ふべし(大正十一年六月講)
    ――――――――――
九月一日の火に蕃山先生詳傳以下史學の著述ども、古今集新考以下の註釋ども、歌學雜談、隨讀抄、見聞抄など二十年間〔日が月〕の勞績百餘卷悉く烟となりし中にあやしくも佛足石歌新考の序のみ殘りしかば感ずる所ありて萬葉集新考卷十二の附録として公にしおかむと思へど歌の解無くては物足らねばそを作り添へむとするに山川氏の集解、鹿持氏の南京遺響なども燒失し、たどたどしき佛語などを考ふべき辭(2761)書なども今は存ぜざれば偏に心に求めて簡單なる註解を書き加へつ。おそらくは大方の呵※[口+責]を受けむ
     大正十二年十月              井 上 通 泰
 
 
(2763)萬葉集新考卷十三
                   井上通泰著
  雜歌
    ○
3221 (冬ごもり) 春さりくれば あしたには 白露おき ゆふべには 霞たなびく 汗湍能振 こぬれがしたに うぐひすなくも
冬木成春去來者朝爾波白露置夕爾波霞多奈妣久汗湍能振樹奴禮我之多爾※[(貝+貝)/鳥]鳴母
     右一首
 汗湍能振を舊訓にアメノフルとよみ、契沖はカゼノフクとよみ、眞淵は
  此言ところの名ならでは一首のこゝろ穩ならず。景のみよめる長歌に地をあげいはぬは凡なきものなり。次の三首も同じ山をよみ歌もひとしく飛鳥の宮の體(2764)なれば必カミナビノてふ言ぞとせり
といひて汗微竝能《カミナミノ》に改め、宣長は
  御諸能夜にてもあらむか
といひ、雅澄は
  岡部氏は汗微竝能と書るなどの誤れるならむといへり。いかさまにもさる地名にてはあるべきなり。されどその説のいはれたりと思はれぬは凡て集中に神南備、甘南備など書て神はカムとのみ唱しとおぼえて加美とも加微とも書しことのなければなり。今按(フ)に泊湍能夜《ハツセノヤ》とありしならむか
といへり。しばらく古義の説に從ふべし。カスミタナビクはハツセにかゝれるなり。切れたるにあらず○ナクモはナクカナといはむに近し。但略解にモはカモの略といへるはいみじきひが言なり
    ○
3222 みもろは 人のもる山 もと邊は 馬醉木《アセミ》はなさき 末邊は つばき花さく うらぐはし山ぞ 泣兒守△《ナクコモルナス》 △△△《ヒトノモル》山
(2765)三諸者人之守山本邊者馬醉木花開末邊方椿花開浦妙山曽泣兒守山
     右一首
 人ノモル山を契沖は
  第十一の旋頭歌に人ノオヤノヲトメゴスヱテ守山邊カラ云々此に今の歌を合せて注せしにて守山は三諸山の一名と知るべし
といひ雅澄は
  山のおもしろさに人のめでて目かれずまもる山と云なり
といへり。即契沖は守山を三諸の一名とし雅澄は人ノ注目スル山の意とせり。按ずるにモル山のモルは山田モルなどのモルにて保護といふ事なり○馬醉木はアセミとよむべし。從來ツツジ又はアシビとよめるは誤なり(一四九〇頁參照)○モトベ、スヱベは麓と峯となり○ウラグハシはウルハシにおなじ。ウラグハシキ山といふべきをウラグハシ山といへるは例の如く連體格の代に終止格をつかひたるなり○從來終句を通本に泣兒守山とあるに從ひてナク兒モル山とよみたれどさては意義通ぜず。宜しく泣兒守成人之守〔四字右△〕山の脱字としてナクコモルナスヒトノモルヤ(2766)マとよむべし。さて人ノモル山は人ノモル山ハのハを略せるにて人ノモル此三諸山ハウラグハシ山ゾとかへるなり。卷一(六頁)なるウマシ國ゾアキツ島ヤマトノ國ハと同格なり
    ○
3223 霹靂之日香天之 ながづきの しぐれのふれば かりがねも 未〔左△〕來鳴《トモシクキナク》 かむなびの 清き三田屋の 垣つ田の 池の堤の (ももたらず) 五十槻《イツキ》が枝に  水〔左△〕枝《ヒコエ》さす 秋のもみぢ葉 眞割〔左△〕持《マキモタル》 小《ヲ》鈴もゆらに たわやめに 吾はあれども ひきよぢて 峯〔左△〕《エダ》もとををに うちたをり 吾《ワ》は持而〔左△〕往《モチゾユク》 きみがかざしに
霹靂之日香天之九月乃鍾禮乃落者音文未來鳴神南備乃清三田屋乃垣津田乃池之堤之百不足三〔左△〕十槻枝丹水枝指秋赤葉眞割持小鈴文由良爾手弱女爾吾者有友引攀而峯文十遠仁※[木偏+求]〔左△〕手折吾者持而往公之頭刺荷
 此歌には誤字頗多し。まづ初二を舊訓にカミドケノヒカルミソラノとよめるを眞淵はナルカミノヒカヲルソラノに改めて(2767)
  ナルカミノは光といひかけたる冠辭也。うけたる句は曇ること也。クモルをカヲルといふは神代紀に唯有2朝霧1而|薫滿之哉《カヲリミテルカモ》てふを始めていと多し。かくてしぐれいくたびとなく日をくもらする九月の末のさまなり
といへり。略解にはまづ眞淵の説を擧げて
  されどヒカヲルといふ詞例なし。宣長云。初二句はとかく誤字ときこゆ。又二の句のはてを之《ノ》と云ては下にかなはず。雨霧合渡日香久之《アマギラヒワタルヒカクシ》か。霧合を靂之と誤れるから上の雨の字をもさかしらに霹なるべしとて改めたるべし。渡の字脱せり。卷三に度日ノカゲモカクロヒとあり。といへり
といへり。しばらく宣長の説に從ふべし○未來鳴を舊訓にイマダキナカズとよめり。眞淵は
  未來鳴とあるは理なし。しぐれふり赤葉せし九月の末に鴈の來ざる所やはある
といひて未を率の誤としてアドモヒキナクとよみ雅澄は
  未は乏(ノ)字の誤にてトモシクキナクと訓べきか
といへり。まづ雅澄の説に從ふべし。そのトモシクはメヅラシクなり。又キナクはカ(2768)ムナビにかゝれるなり〇三田屋は神の御田を守る屋にてカキツ田はその御田屋の垣内の田なり。イツキは齋槻なるべし○水枝サスのサスは出づる事なり。水枝サス秋ノモミヂ葉とある不審なり。ミヅ枝は稚き枝なればなり。枝ニ水枝サスといへるはた穩ならず。おそらくは水枝は孫枝《ヒコエ》の誤ならむ。卷十八なる橘歌にもハルナレバ孫枝モイツツとあり。モミヂ葉の下にヲを添へて心得べし○眞割持を考にマキモタルとよみて『割は假字なり』といへり。訓はげにマキモタルとあるべし。字は刻の誤か。マキモタルは手ニ纏キ持テルなり○ヲスズモユラニの語例は卷十(二〇六四頁)に足玉モタダマモユラニとあり。ユラニはユラユラトなり○タワヤメニワレハアレドモはヒキヨヂテ峯モトヲヲニウチタヲリの三句にかゝれるなり○考に峯を延多の誤とせり。字はいかにもあれげにエダとあらではかなはず。トヲヲニは撓《タワ》ムバカリとなり○吾者持而往を契沖以下ワレハモテユクとよめるを古義にアハモチテユクと改めたるはモテが古言にあらざる故なれどテを挿める、心よからず。宜しく而を曾の誤としてワハモチゾユクとよむべし〇三は五の誤なり。※[木偏+求]は※[手偏+求]の誤か。※[手偏+求]は本集卷九(一六九四頁)以下にウチに借りたり
 
(2769)   反歌
3224 獨のみみれば戀〔左△〕染《サブシミ》かむなびの山のもみぢ葉たをり來《キツ》君
獨耳見者戀染神名火乃山黄葉手折來君
     右二首
 戀染は不樂染の誤か。さらばサブシミとよみて面白カラザルニヨリテと心得べし○來を舊訓にコムとよみ眞淵以下はケリとよめり。宜しくキツとよむべし
    ○
3225 あま雲の 影さへ見ゆる (こもりくの) はつせの河は 浦なみか 船のよりこぬ 礒なみか あまの釣せぬ よしゑやし 浦はなくとも よしゑやし 礒はなくとも (おきつ浪) 諍《キホヒ》こぎりこ あまのつり船
天雲之影寒〔左△〕所見隱來※[竹/矢]長谷之河者浦無蚊船之依不來礒無蚊海部之釣不爲吉咲八師浦者無友吉畫矢寺礒者無友奥津浪淨〔左△〕※[手偏+旁]入來白水郎之釣(2770)船
 浦ナミカ船ノヨリ來《コ》ヌは浦無キニヨリテ船ノ寄來ヌニヤとなり。浦ナミカ以下八句は卷二(一八〇頁)なる人麿の歌に
  いはみの海つぬのうら囘《ミ》を、浦なしと人こそ見らめ、滷【一云いそ】なしと人こそ見らめ、よしゑやし浦はなくとも、よしゑやし滷【一云いそ】はなくとも云々
とあるに似たり。河、殊に泊瀬川の如き小川に浦といひ礒といへるは例の如く海をゆかしむ情より海めかしていへるなり(二四〇頁參照)○オキツ浪は枕辭なり。略解にオキツ浪ニの意とせるは非なり。諍は古義に從ひてキホヒとよむべし。コギリコは漕入リ來レとなり。泊瀬川に浮べる船の見えぬをあかず思へるにてこゝにも海をゆかしむ情はあらはれたり○寒は塞、淨は諍の誤なり
 
   反歌
3226 さざれ浪|浮〔左△〕而流《シキテナガルル》はつせ河よるべき礒のなきがさぶしさ
沙邪禮浪浮而流長谷河可依礒之無蚊不怜也
(2771)    右二首
 浮を考に湧の誤としてワキテナガルルとよみ古義に沸の誤としてタギチテナガルとよめり。宜しく敷而などの誤としてシキテナガルルとよむべし。シキテは頻リテなり。上にも梶島ノイソコス浪ノ敷弖シオモホユ(一七二八頁)オキソ浪敷而ノミヤモコヒワタリナム(二三八九頁)サザレ浪敷而コヒツツアリトツゲコソ(二六五〇頁)などあリ○ヨルベキは舟ノ寄ルベキなり。サブシは興ナシにてあかぬ事なリ
    ○
3227 葦原の みづ穗の國|丹〔左△〕《ヲ》 手〔左△〕向《コトムク》爲〔□で囲む〕|跡《ト》 あもりましけむ 五百萬 千よろづ神の 神代より いひつぎ來たる かむなびの みもろの山は 春されば はる霞たち 秋ゆけば くれなゐにほふ かむなびの みもろの神の 帶にせる 明日香の河の みをはやみ  生多米〔左△〕難《ムシタミガタキ》 石|枕〔左△〕《イハガネニ》 こけむすまでに 新夜乃《アラタヨノ》 △ さきくかよはむ ことはかり いめにみせこそ (つるぎだち) △ 齋祭《イハヒマツレル》 神にし座者《マサバ》
(2772)葦原※[竹/矢]水穗之國丹手向爲跡天降座兼五百萬千萬神之神代從云續來在甘南備乃三諸山者春去者春霞〔左△〕立秋往者紅丹穗經甘甞備乃三諸乃神之帶爲明日香之河之水尾速生多米難石枕蘿生左右二新夜乃好去通牟事計夢爾令見社劔刀齋祭神二師座者
 二三を從來ミヅホノクニニタムケストとよめり。宜しく丹を乎などの誤、手を平の誤とし爲を衍字としてミヅホノクニヲコトムクトとよむべし。コトムクは征服する事にて古事記にあまた見えたり。本集にも卷二十なる喩族歌にチハヤブル神ヲ許等牟氣マツロハヌ人ヲモヤハシとよめり○神代ヨリイヒツギ來タルは神代ヨリ名高キとなり。カムナビノミモロノ山は即雷岡なり。飛鳥川の右岸に臨める小丘なり。今は削られ又切り割かれて僅に其跡を殘せるのみ○春サレバ、秋ユケバのサレバ、ユケバは共にクレバといはむにひとし。先をもととして云へるなり○クレナヰニホフソノ甘南備ノとつづけて聞くべし。ミモロノ神はミモロノ山なり○生多米難を略解にオヒタメガタキ、古義にムシタメガタキとよみて共にオヒタマリガ(2773)タキの意とせり。米を未の誤としてムシタミガタキトよみて二註の如く心得べし○石枕を眞淵は枕を根の誤としてイハガネノとよみ雅澄は
  眞に然なくては聞えがたし。但しイハガネニとよまむぞ然るべき
といへり。古義に從ふべし。水脈ガ早キニヨリテ苔ノ生ヒタマリ難キ岩根ニモ苔ノ生フルマデといへるなり○新夜乃について略解に
  新夜の夜は借にて代なり。卷一に新京を新代といへり。これは藤原宮へうつりたまひて初て飛鳥の神社へ大幣神寶等奉りたまふ御使人などのよめるなるべしと翁はいはれき。宣長は新代はただ代といふ事なるよし既にいへり
といひ古義には
  新夜乃、此一句は次二句を隔てイメニミセコソの上に置て意得べし。契沖が夜は借字にて新世なりと云るによりて誰もしか心得來れどもわろし。もし新世ならば新夜乎となくては叶はず。乃とありてはサキクカヨハムとつづくべからず。句をおきかへて聞ときはいと穩なるを今まで心の付たる人なし
といへれどアラタ夜ノイメといふ事ならむには其間〔日が月〕にサキクカヨハムコトハカ(2774)リといふ辭を挿むべからず。案ずるに新夜乃の次に一夜不落恙無などいふ文字のありしがおちたるならむ。もし此文字を補はばアラタ夜ノ一夜モオチズ、ツツミナクサキクカヨハム、事ハカリ夢ニ見セコソとつづきて意義よく通ずべし。その語例は卷十二に
  あらた夜の一夜もおちずいめにしみゆる(二五四七頁)
  あらた夜の一夜もおちずいめにみえこそ(二六九五頁)
 此卷の下に
  つつみなくさきくいまさば
とあり○コトハカリはサキクカヨハムよりつづけるにて工夫といふ事なり。イメニミセコソは夢ニ知ラセ給ヘとなり。さてカヨハムといへるは三諸山の邊に住める女(おそらくは祝の娘)の許に通はむといへるなり。元來此歌は相聞歌にて雜歌に入れたるが誤なり。第一の反歌の調をも思ふべし。真淵等の解釋はいたく誤れり○斎祭神二師座者を二註にイハヒマツレル神ニシマセバとよみツルギダチ以下を劔刀ヲ納メ奉リテイハヒ祭レル此大神ニマシマセバといふ意とせり。されど劔刀(2775)ヲ納メ奉リテイハヒ祭ルといふことをツルギダチイハヒマツレルとはいふべからず。案ずるにツルギダチは枕辭にて其下に身ニソフ妹ガタスキカケ(又はヌサトリテ)などいふ二句をおとしたるなり。又座者はマサ〔右△〕バとよむべきなり。此神は即飛鳥社にて淳和天皇の天長年問に程近き鳥形山に遷され給ひき。恐らくは水害の恐ありしによりてならむ○霰は霞の誤なり
 
   反歌
3228 かむなびの三諸の山に隱藏〔二字左△〕杉おもひすぎめやこけむすまでに
神名備能三諸之山丹隱藏杉思將過哉蘿生左右
 上三句は序なり。隱藏を眞淵はイハフとよみて
  神木なればけがれをさけて秘齋《ヒメイハ》ふ意にて隱藏杉とも書たり
といひ二註は之に從へり。隱藏はおそらくは鎮斎などの誤字ならむ。卷七(一四六四頁)にミヌサトリ神ノハフリガ鎭齋《イハフ》杉原とあり○オモヒスギメヤはオモヒ止マムヤなり
 
(2776)3229 いぐしたて神酒《ミワ》すゑまつる神主部之《ハフリベガ》うずの玉〔左△〕《ヤマ》蔭みればともしも
五十串立神酒座奉神主部之雲聚玉蔭見者乏文
    右三首。但或書此短歌一首無v有〔□で囲む〕載v之也
 これは右の長歌の反歌にあらず。又左註の有は衍字ならむ
 イグシはイミグシにて穢れざる杙なり。神主部之を舊訓にカミヌシノ(古義にはカムヌシノ)とよめり。考にはハフリベガとよみて『部とあるが捨がたければ也』といへり。しばらく考に從ふべし○ウズは冠に挿す飾なり。それに日蔭のかづらを垂るるなり。玉勝間卷十三に
  萬葉集に山(ノ)字を玉に誤れる例多し。草書にては山と玉といとよく似たる故なり。……二の卷に人ハヨシオモヒヤムトモ玉カヅラ影ニミエツツ云々こは山かづらは日影葛のことにて影の枕詞におけるなり。山カヅラ日カゲとつづく意にて十四の卷にアシヒキノ山カヅラカゲとよめるカゲに同じ。十八の卷にもカヅラカゲとあり。みなカゲは日影(ノ)葛のことなり。然るに後世に此玉カヅラを山カヅラの誤なることを知らずして影につづきたるを懸の意と心得たるはひがごと(2777)なり。又十三の卷にイグシタテ云々ウズノ玉カゲミレバトモシモこは※[髪の上/舌]華《ウズ》に垂たる日影のかづらなり。十六の卷にアシ曳ノ玉カヅラノ兒とあるは足曳之とあれば山なること論なし。即ならべる歌は山縵之兒とあり
といへり。此説に從ひて玉を山の誤とし山カゲを日影のかづらと心得べし(記傳卷二十五【一五三八頁】及本書二〇〇頁參照)○トモシは二註にいへる如くメヅラシの意なるべし
    ○
3230 (帛※[口+リ]〔二字左△〕《ウチヒサス》) 楢從《ナラヨリ》いでて (水蓼《ミヅタデ》) 穗積にいたり (となみはる) 坂手を過《スギ》 (石走《イハバシノ》) かむなび山に △ 朝宮《アサミヤヲ》 仕へまつりて 吉野へと いります見れば いにしへおもほゆ
帛※[口+リ]楢從出而水蓼穗積至鳥網張坂手乎過石走甘南備山丹朝宮仕奉而吉野部登入座見者古所念
 初二を舊訓にミテグラヲナラヨリイデテとよめり。さて考に『ミテグラヲは幣ヲ持(2778)テといふをはぶけり』といへれどミテグラヲモチテを略してただミテグラヲとはいふべからず。宣長は内日刺都從出而の誤としてウチヒサスミヤコユイデテとよみ雅澄は※[口+リ]を奉の誤としてヌサマツリとよめり。案ずるに次なる穗積、坂手、甘南備山に各枕辭を加へたるを見れば初句は枕辭ならざるべからず。されば宣長のいへる如く内日刺の誤とすべし。さてウチヒサスは元來宮又は都の枕辭なれど此時の都は奈良なればウチヒサスナラヨリイデテといへるならむ。されば第二句はもとのまゝにてあるべし○水蓼を舊訓にミヅタデノとよめるを考にミヅタデヲと改めたるは卷十六に八穗蓼乎〔右△〕穗積ノ阿曾ガワキクサヲカレとあるに依れるなり。古義には『ミヅタデと四言によむべし』といへり。按ずるに水タデノ穗とかゝれるなれば後世ならばかならずミヅタデノといふべきを古言にてはミヅタデヲといひしにてそのヲは格辭にはあらで後世の歌に大原ヤヲシホノ山、カヅラキヤタカマノ山などいへるヤと相似たり。このヲをつかふ事行はれずなりてはミヅタデとやうに四言にいひ四言行はれずなりてはミヅタデノとやうにいふことゝなりしなり(ウマザケヲミワなども右に同じ)。されば誤りていにしへはヲをノの代に用ひしな(2779)りとは思ふべからず。さて今はミヅタデヲとも、ミヅタデとも、ミヅタデノとも、訓者の趣味によりてよむべし○坂手は今も磯城郡に同じ地名あり。過を考にスグリとよめるはわろし。スギをスグリといふ事なし。下なる末枝乎須具里は誤字なり。其處に至りていふべし○石走は舊訓にイハバシルとよみ考にイハバシノとよめり。石階アルといふ意とおぼゆればイハバシノとよむべし○朝宮仕奉而を考に
  奈良より飛鳥まで今道七里計あれば御使よべは其社の離宮にやどりて明る朝神の御前には仕奉るなるべし
といひ宣長は
  此歌天皇の奈良より吉野の幸の時の歌也。神なび山の行宮に一夜御止宿ありてさて明朝の御膳など仕奉てそれより吉野へ入座なり。イリマスといふにて知べし。さて此歌は神なびの行宮を立せ給ふ程などによめりけん故に反歌に其宮をよめり
といへり。宣長が行幸の時の歌とせるに從ふべし。更に按ずるに飛鳥の神名火の離宮に一泊し給ひし趣なれば其宮を朝食を奉るにつきて朝宮とはいふべからず。さ(2780)れば朝宮は夕宮の誤かと思ふに夕を朝とは誤るべからず。よりて又思ふにこはもと
  夕宮をさだめたまひて、朝宮をつかへまつりて
とありしを(從來朝宮をアサミヤニ〔右△〕とよめるはわろし。アサミヤヲ〔右△〕とよむべし)上の二句をおとしたるならむ。上二句は主にて天皇の御上についていひ下二句は副にて臣下の方よりいへるなり。カムナビ山ニ夕宮ヲサダメタマヒテの語例は卷二(二六五頁)なる高市皇子尊殯宮之時歌にアスカノ眞神ノ原ニ、ヒサカタノアマツ御門ヲ、カシコクモ定メタマヒテとあり。又朝宮夕宮を相向はせたる例は同卷なる明日香皇女木※[瓦+缶]《キノヘ》殯宮之時歌(二五五頁)にナニシカモワガオホキミノ……朝宮ヲワスレタマフヤ、夕宮ヲソムキタマフヤとあり○イニシヘオモホユを古義に『いにしへの天皇等の行幸のことの思慕はるゝとなり』といへり。按ずるに比行幸はあまたの年を經て始めて行はれしならむ。さればこそ前度の行幸(同じ御代にもあれ別の御代にもあれ)をしのびてイニシヘオモホユといへるならめ
 
  反歌
(2781)3231 月日《ツキヒハ》、攝△友《カハリユケドモ》ひさにふるみもろの山のとつ宮どころ
    右二首。但或本歌曰2ふるきみやこのとつみやどころ1也
月日攝友久經流三諸之山礪津宮地
    右二首。但或本歌曰故王都跡津宮地也
 初句を舊訓にツキモヒモとよみ考、古義にツキヒハと四言によめり。後者に從ふべし○第二句を舊訓にカハリユケドモ、古義にユキカハレドモとよめり。攝の下に往などを補ひて舊訓に從ふべし。字書に攝(ハ)代也とあり。攝位、攝政などの攝も代の意なり○ヒサニフルは久シク存ズルといふこと
   ○
3232 斧とりて 丹生《ニフ》の檜山の 木こり來て 機〔左△〕《イカダ》につくり まかぢぬき 礒こぎたみつつ 島づたひ 見れどもあかず みよし野の 瀧もとどろに おつるしら浪
斧取而丹生檜山木折〔左△〕來而機爾作二梶貫礒※[手偏+旁]囘乍島傳雖見不飽三吉野(2782)乃瀧動動落白浪
 機は契沖に從ひて※[木+伐](筏と同字)の誤としてイカダとよむべし。卷十九にもカラ人モ※[木+伐]ウカべテとあり○礒も島も吉野川に云へるなり。尾句はシラ浪ハのハを略せるなり○丹生(ノ)檜山は吉野郡にあり。折は析の誤か。左傳に其父|析《コル》v薪、其子|弗v克《アタハズ》2負荷1とあり
 
   旋頭歌
3233 みよし野の瀧動動落《タキモトドロニオツル》白浪、留西《トマリニシ》妹に見せまくほしき白浪
三芳野瀧動動落白浪留西妹見卷欲白浪
     右二首
 旋頭歌を反歌に用ひたる例なければ反歌にあらで別の歌なりといふ説(代匠記、略解)と瀧動動落白浪とある動々落は長歌の末より紛れて入りたるなれば此三字を削りてタキノシラナミとよみて短歌として反歌とすべしといふ説(考)と異體の反歌なりといふ説(古義)とあり。後者に從ふべし○留西を古義にはトドメニシとよめり。トドメならばテシといふべければもとの如くトマリニシとよむべし。トマリニ(2783)シは卷十二(二七一八頁)にもトマリニシ人ヲオモハクとありて家ニ殘リシといふ事なり
   ○
3234 (やすみしし) わごおほきみ (高照《タカテラス》) 日の皇子の きこしをす 御食《ミケ》つ國 (かむ風の) 伊勢の國は 國見者之毛〔五字□で囲む〕 山みれば たかくたふとし 河みれば さやけく清し みなとなす 海も廣〔左△〕之《ユタケシ》 見渡《ミワタス》 島△名高之《シマモナダカシ》 ここをしも まぐはしみかも かけまくも あやに恐《カシコシ》 山邊《ヤマベ》の いしの原に (うち日さす) 大宮|△《ドコロ》 都可倍△△△△《ツカヘマツレル》 朝日なす まぐはしも ゆふ日なす うらぐはしも 春山の しなひさかえて 秋山の 色なつかしき ももしきの 大宮人は 天地與日月共 よろづ代にもが
八隅知之和期大皇高照日之皇子之聞食御食都國神風之伊勢乃國者國見者之毛山見者高貴之河見者左夜氣久清之水門成海毛廣之見渡島名(2784)高之己許乎志毛間細美香母挂卷毛文爾恐山邊乃五十師乃原爾内日刺大宮都可倍朝日奈須目細毛暮日奈須浦細毛春山之四名比盛而秋山之色名付思吉百磯城之大宮人者天地與日月共萬代爾母我
 高照を二註にタカヒカルとよめり。宜しくタカテラスとよむべし(七四頁參照)。初四句は天皇の御事なり○キコシヲスはシロシメスなり。ミケツ國は御食料を奉る國にてこゝはミケツ國ナルのナルを略せるなり。語例は卷六にミケツ國日々ノミツギト(一〇四三頁)ミケツ國野島ノアマノ船ニシアルラシ(一〇四四頁)ミケツ國シマノアマナラシ(一一四七頁)とあり○略解に
  國見者の下、之毛の上詞おちたりと見ゆ。試にいはばアヤニクハシモなどいふ詞やありけん(○以上考の説)。又之は乏の誤にてアヤニトモシモか
といひ古義に
  國見者之毛はきはめて衍文なり。さるは次に山と河とをむかへ云てたゝへたれば初に國のことをいはむは無用なればなり。さればこの五字は上下の字どもに(2785)見混へて入しなるべし
といへり。もし脱字とせば見之乏之毛《ミノトモシモ》の脱字とすべけれど雅澄の説に從ひて衍文とすべし○廣之を舊訓にユタケシ、略解にマビロシ、古義にヒロシとよめり。寛之の誤としてユタケシとよむべし。卷三(三九八頁)にミホノ浦ノ寛《ユタケキ》ミツツモノオモヒモナシ又卷二十にウナバラノ由多氣伎ミツツとあり○見渡を略解にミワタシノとよみたれど此歌の書式にてはノはよみそへがたし。古義の如くミワタスとよむべし○島名高之を略解にシマノナタカシとよめるを古義に名を毛の誤としてシマモタカシと六言によみ改めたれど島にタカシといはむはふさはず。宜しく島の下に毛の字を補ひてシマモナダカシとよむべし。この島を略解に志摩とせるは非なり○ココヲシモマグハシミカモの前に古義にソコヲシモウラグハシミカの二句を補ひて
  曾許乎志毛浦細美香の九字はきはめてあるべきを寫し脱せることしるし。其よしは下の方に朝日ナスマグハシモ、ユフ日ナスウラグハシモと目細と浦細と二(ツ)をいひて上をうけたりときこゆるにその下に照すべきマグハシとウラグハシ(2786)との二(ツ)をいはずしては、たちまち合はぬことなるを思ふべし。初に目《マ》グハシク心《ウラ》グハシキ故ニカコノ五十師《イシ》(ノ)原ニ大宮造リ仕奉リケムとおしはかりたる如くにいひおきて後に今ヨクミレバゲニモ目グハシモウラグハシモとさだめて云る趣なるをよく味ひ考べし。されば右の二句をしばらくくはへ入たるなり
といへり。按ずるに此説打見にはいみじけれど朝日ナスマグハシモ以下は別歌とおぼゆれば其四句との照應を顧慮するには及ばず。されば通本のまゝにてあるべし。さてマグハシはウラグハシとおなじくウルハシといふ事なり。二註にマグハシのマを目の意として『見る目のうるはしき也』といひ『見ることのよきをいふ詞なり』といへれどマグハシのマは眞なるべし。カナシをウラガナシとも眞ガナシともいふを思へ○カケマクモアヤニカシコシは申スモ甚恐多シとなり。恐は古義に從ひてカシコシとよみ切るべし。此二句は挿句なり○山邊を略解にヤマノヘとよみ古義にヤマベとよめり。此地鈴鹿郡にありて今はヤマベといふとぞ(一二六頁參照)。玉勝間卷三に
  萬葉集の歌によめる伊勢國の五十師《イシ》(ノ)原、山邊(ノ)御井は鈴鹿郡にて今も山邊村とい(2787)ふ所なり。そこに山邊(ノ)赤人の屋敷跡といひ傳へたる地あり。……さてイシノ原といふ名のよしは今石藥師(ノ)驛に石藥師とて寺ありて石の佛をまつれる、そは地の上におのづから立る大きなる石のおもてに藥師といふ佛のかたをゑりつけたるにて此石あやしき石なり。これによりて思ふに佛をゑりたるは法師の例のしわざにて後の事にて、もとは上つ代より此あやしき石のありしによりてぞイシノ原とは名に負たりけむ。今もそのあたりひろくかの山邊村のきはまで同じ野のつづける所なり。かくて萬葉集十三の卷なるかの長歌は持統天皇の此國に行幸ありしをりの行宮のさまをよめりと聞えたればかの赤人の屋敷跡といふなる地ぞその行宮の跡なるべき。……さてそのあたりより伊勢の海よく見渡されてこゝより見ればまことにミナトナスとよめるさまなり。尾張參河の山々もいせの山々島々もよく見え高岡川といふ川、村の東を流れてまぢかく見おろさるゝなどすべてかの長歌のけしきによくかなへる所なり
といへり○大宮都可倍を略解に考の説を承けて
  大神宮の御事は天皇の大宮とひとしく申せり。是より下は齋王の神宮に仕奉給(2788)ふさまをいふ
といへるが非なる事はいふまでもなけれど宣長が
  ただ天皇に仕奉る女官たちなること論なきものをや
といへるも亦非なり。こは行宮ヲ造リ奉リといふ事なり。すなはち古義に
  大宮ヅカヘは大宮を造奉るにて持統天皇の行宮なり
といへる如し。さればツカヘのツは清みて唱ふべし。さて上なるココヲシモマグハシミカモの結はいづれの辭とかせむ。古義に
  此句の下に大宮造リ仕ヘマツリケムといふ辭を假に加へて意得べし
といへれどこゝにさる辭を補ふべくば更に其次にウチビサス大宮ツカヘといふべけむや。案ずるに大宮ツカヘといふ句下へもつづかず。されば大宮都可倍はもと大宮地、都可倍麻都禮流などありしが落字を生じたるにて以上の歌はこゝにて終れるなり
 
朝日なす まぐはしも ゆふ日なす うらぐはしも (春山の) しなひさかえて (秋山の) 色なつかしき (ももしきの) 大宮人は 天地《アメツチ》(2789)與日月共 よろづ代にもが
 大宮人といへるは從駕の宮女にて此一篇は宮女のうるはしきをめでて人の作れるなり。考に
  ハル山ノより下は齋王にしたがひ奉る命婦采女女嬬などの有樣をいふ
といへるはいみじき誤なり○朝日ナスマグハシモ、ユフ日ナスウラグハシモの四句は一篇の冒頭の調なり。これにてもアサ日ナス以下が前とは別なる歌なる事を悟るべし○シナヒは靡キなり。卷十(二一八五頁)に秋ハギノシナヒテアラム妹ガスガタヲ、卷十一(二四八一頁)にワギモコヲキキツガ野邊ノ靡合歡《シナヒネブ》といひまた青柳ガシナヒ、藤ノシナヒといへるシナヒなり。サカエテのテは後世は用ひず(一〇三七頁參照)○天地與日月共を從來與を上に附けてアメツチトとよめり。こはアメツチ、ヒツキトトモニとよむべきにて正しく書かば與天地日月共と書くべきなれど日月以下句かはりたればさは書かれぬなり。卷二(三一五頁)には天地《アメツチ》、日月與共《ヒツキトトモニ》と書けり○ヨロヅ代ニモガは萬歳ナレカシとなり
 
(2790)3235 山邊のいしの御井〔二字左△〕はおのづから成れる錦をはれる山かも
山邊乃五十師乃御井者自然成錦乎張流山可母
     右二首
 玉勝間〔日が月〕卷三に
  此山邊村はその野(○まりが野)の東のはづれの俄にくだりたるきはの低き所なる故に東の方より見れば小山の麓なり。さればかの長歌の反歌にオノヅカラナレル錦ヲハレル山カモとよめるも西の方よりはただ平なる地の續なれども東より見たる樣によりて山とはいへるなりけり。錦ヲハレルとはかの行幸は六年の三月なれば櫻桃などの花をいへるか。又は大寶二年十月にも同じ天皇參河國に行幸ありしかば其時にてもあらむか。もし然らば行宮は參河への途次の行宮にて錦は紅葉なるべし。とにかくに長歌のやう女房たちの宮づかへのさまをよめりと聞ゆれば必持統天皇なるべし
といへり。前の歌には女房たちの宮づかへの樣は見えねど(大宮ツカヘは宮を造る事なる由上にいへる如し)次なる長歌に若き宮女たちのあまた從駕せる趣見ゆれ(2791)ばげに女帝の行幸なるべし。又卷六(一一六六頁)に錦ナス花サキヲヲリとありて春(五字ほど判讀不能)花をも錦にたとへたる例あればニシキヲハレルを紅葉とは定めがたき事も宣長のいへる如し。オノヅカラナレル錦は天然の錦なり。宣長は又
  御井はそこ(○所謂赤人の屋敷跡)より南のすこし西の方へくだりたる谷あひの田の中にあり。……今は井の形だに殘らず皆田になりてただいさゝかなる所に古き松一もとたてるのみなるを此松の木なん御井の跡なるといへり。……さて又かの赤人屋敷といふ所より東北の方へくだれる所にも古く見ゆる井あり。山邊村の東南のはづれの所なり。こは世の常の井のさまに石を積廻らして水もあり。此水いみじき旱にも涸れずと里人いへり。そもそもいにしへの御井は此二つのうちいづれならん定めがたし。……五十師《イシ》(ノ)原山邊は疑なく此處にて赤人屋敷といふ地ぞ行宮の御跡なるべく又御井もかの二つの内ははづるべからずとぞ思はるゝ
といへり○第二句にイシノ御井者とある不審なり。イシノ原者とあるべきなり○此歌は第一の長歌の反歌なり(2792)左註に右二首とあるは二首の長歌の混じて一となれる後に書けるなり
    ○
3236 (空みつ) やまとの國 (あをによし) なら山こえて 山しろの つづきの原 (ちはやぶる) うぢのわたり 瀧の屋の あごねの原を 千とせに かくることなく よろづよに ありがよはむと 山科の いは田の森の すめ神に ぬさとりむけて 吾はこえゆく あふ坂山を
空見津倭國青丹吉寧〔右△〕山越而山代之菅〔左△〕木之原血速舊于遅乃渡瀧屋之阿後尼之原尾千歳爾闕事無萬歳爾有通將得山科之石田之森之須馬神爾奴左取向而吾者越往相坂山遠
 ウヂノワタリは宇治の渡津なり。瀧ノ屋ノアゴネノ原は山城國字治郡にあるべし。さて山シロノよりアゴネノ原ヲまではアリガヨハムにかゝれるなり。トリムケテはすなはち手向ケテなり○此歌は故ありて奈良より近江にかよふ人のよめるな(2793)り○寧の下に樂をおとせり。菅は管の誤なり
   或本歌曰
3237 (あをによし) なら山すぎて (もののふの) 氏川わたり (をとめらに) あふ坂山に たむけぐさ 絲〔左△〕《イ》とりおきて (わぎもこに) あふみの海の おきつ浪 來因《キヨル》濱邊を くれぐれと 獨ぞわがくる 妹が目をほり
緑青〔左△〕吉平山過而物部之氏川渡未通女等爾相坂山丹手向草草絲取置而我妹子爾相海之海之奥浪來因濱邊乎久禮久禮登獨曾我來妹之目乎欲
 絲を舊訓にイとよめるを眞淵以下幣又は麻の誤としてヌサとよめり。按ずるに卷一(五五頁)に
  しら浪の濱松がえのたむけぐさいく代までにか年のへぬらむ
とありてタムケ草は即幣なり。さればタムケ草ヌサとは重ねいふべからず。絲はもと伊とありしを文字の消失せし後、訓にイトリオキテとあるをイトトリオキテと(2794)見まがへて絲の字を填めしならむ。さて伊は添辭なり○上にヲトメラニアフ坂山といひて更にワギモコニアフミノ海といへる拙し。來因を舊訓にキヨルとよめるを古義にキヨスと改めたり。もとのまゝにて可なり○クレグレトははやく卷五(九六二頁)に見えたり。ハルバルトといふ事なり。中世の歌謡にも
  甲斐の國よりまかり出て、信濃のみ坂をくれぐれとはるばると〔十字傍点〕、とりの子にしもあらねども、うぶげもかはらでかへれとや
といへるがあり。或は漢語の杳《エウ》々の直譯ならむか○こは近江に妻をおきたる人の奈良よりのかへるさによめるなり。通本に或本歌曰とありて前の歌の異傳としたれど別の歌なる事二註にいへる如し○因にいふ。寧樂の枕辭なるアヲニヨシを古義に青土《アヲニ》ネヤシの意として『古來此枕辭の義を解得たる人一人もなし』と言擧したれどアヲニヨシのヨシはアサモヨシのヨシとおなじく助辭にて麻裳ヨシ著《キ》とかかれるが如く青土ヨシ平《ナラ》とかゝれるなり。青土は青色の粘土なり。奈良山には今も粘土多くその中には青色なるもあり○青は諸本に丹とあり
 
   反歌
(2795)3238 相坂をうちでてみればあふみの海しらゆふばなに浪たちわたる
相坂乎打出而見者淡海之海白木綿花爾浪立渡
     右三首
 アフ坂ヲのヲはヨリなり。シラユフバナニはシラユフ花トにてそのシラユフ花は木綿もて造れる花なり。はやく卷七(一二四五頁)にシラユフ花ニオチタギツとあり○左註に右三首とあれど此歌は第二の長歌の反歌にて第一の長歌と相與からず。眞淵が前の歌の反歌とせるは非なり。されば第一の長歌の後に右一首とありてここに右二首とあるべきなり
    ○
3239 あふみの海 泊八十あり 八十島の 島の埼ざき あり立《タツ》有〔□で囲む〕 花橘|乎〔左△〕《ノ》 ほつえに もちひきかけ なかつ枝に いかるがかけ しづえに しめを懸△《カケタリ》 己之《ナガ》母を とらくを不知《シラズ》 己之《ナガ》父を とらくをしらに 伊〔左△〕《ア》そばひをるよ いかるがとしめと
(2796)近江之海泊八十有八十島之島之埼邪伎安利立有花橘乎末枝爾毛知引懸仲枝爾伊加流我懸下枝爾此米乎懸己之母乎取久乎不知己之父乎取久乎思良爾伊蘇婆此座與伊加流我等此米登
     右一首
 卷七(一二八一頁)に近江ノ海ミナトハ八十《ヤソヂ》とあり。又卷十(二〇七三頁)にアマノカハ河門|八十《ヤソ》アリとあり〇八十島の上にソノを加へて心得べし○安利立有を從來アリタテルとよめり。後世は立の下に有を添へてタテリといふをいにしへは立の上に添へてアリタツともいひしにてアリタツはやがてタテリなればタテリの上に更に有を添へてアリタテリとはいふべからず。されば有を衍字としてアリタツと四言によむべし。古義の説は非なり○花橘乎の乎は之の誤なることしるし○シメヲ懸の下に有の字あるべし○天野政徳隨筆卷一に
  おのれいとけなき比の遊に高ハゴといふ物を木にかけて小鳥を取てあそべり。其製木の枝にもちをぬりて高く茂りたる梢に出し其木に囮を籠に入れてこれ(2797)を木の半に糸もて引あげおけばおのがさまざま音になくを渡り來る秋の色鳥おのれが友とや思ふらん其木におりたゝんとして黐ぬりたる枝にかゝるなり。凡八月半より十一月半迄の事なり。鳥はヒハジメ、カハラヒハ、目白、アトリ、ヌカヒハ、連雀、イカルガ、山ガラ、四十ガラ、小ガラの類なり。此わざ始まりしは近き世の事かとおもひしに萬葉集十三雜歌にアフミノ海泊八十アリ云々かく見え又倭名鈔※[田+のぶん]獵具に※[手偏+(竹/夾)]《セキ》(ハ)所責反、漢語抄云波賀〔二字右△〕、所2以捕1v鳥也と見ゆ。いにしへはハカといひ今はハゴとよぶ。さればハゴかけて鳥を取し事いと古し。……此わざ萬葉の比すでにあれば夫より古くもあるなるべし。又いと後ながら參考保元物語の三の卷爲朝鬼が島渡りのくだりに
  網引體も見えず釣する舟もなし。又波加〔二字右△〕も立ずもろ繩も引ず、いかにして鳥を取ぞと問給ふ
とも見ゆ
といへり○己之はナガとよむべし(一七四七頁參照)。ナガ母ナガ父といへるは囮の親なり。トラクヲは取ル事ヲなり〇不知を略解にシラズ、古義にシラニとよめり。對(2798)句は成るべく辭を換ふるをよしとすれば不知はシラズとよむべし。こゝを不知とかき次なるを思良爾と書きたるは適にこゝはシラズとよむべきを知らせたるなり○伊ソバヒの伊は阿の誤なる事考にいへる如し○寓意ある歌とおぼゆ
    ○
3240 おほきみの 命かしこみ みれどあかぬ なら山こえて (眞木積《マキツム》) いづみの河の 速瀬《ハヤキセヲ》 さをさしわたり (ちはやぶる) うぢのわたりの たきつ瀬を 見つつわたりて 近江道の あふ坂山に たむけして 吾越往《ワレハコヘユク》者〔□で囲む〕 ささなみの しがのから埼 さきからば 又かへりみむ 道のくま 八十くま毎に なげきつつ わがすぎゆけば いやとほに 里さかりきぬ いや高に 山もこえきぬ つるぎだち 鞘ゆぬきでて いかご山 如何《イカニカ》わがせむ ゆくへしらずて
王命恐雖見不飽楢山越而眞木積泉河乃速瀬竿刺渡千速振氏渡乃多企都瀬乎見乍渡而近江道乃相坂山丹手向爲吾越往者樂浪乃志我能韓埼(2799)幸有者又反見道前八十阿毎嗟乍吾過徃者彌遠丹里離來奴彌高二山文越來奴劔刀鞘從拔出而伊香胡山如何吾將爲往邊不知而
 眞木積を略解にマキツメルとよめり。古義に從ひてマキツムとよむべし。泉河の准枕辭なり○速瀬を二註にハヤキセニとよめり。ハヤキセヲとよみ改むべし○往者を從來ユケバとよみたれどさては次なるササナミノシガノカラ埼サキカラバ又カヘリミムと相つづきて却りてかなはず。おそらくはもと吾越往(又は吾者越往)とありしが下なる吾過往者よりまぎれて今の如く吾越往者となれるならむ。されば此句はワレハコエユクとよみて句絶とすべし○ササナミノシガノカラ埼の二句はサキカラバの序の如く見ゆれど實は然らず。モシ幸カラバ滋賀ノ辛埼ヲ又カヘリ見ムといへるなり○ミチノクマ以下は卷二(一八〇頁)なる人麻呂の長歌に
  この道の八十くまごとに、よろづたびかへりみすれど、いや遠に里はさかりぬ、いや高に山もこえきぬ
とあるを學べるなり。ミチノクマは道の曲角なり○ツルギダチ鞘ユヌキデテイカゴ山は如何《イカニカ》にかゝれる序なり。伊香胡山は近江より越前に出づる時越ゆる山なり。(2800)今は其山を越ゆとて其山の名を序に借りたるなり○如何を從來イカガとよみたれど本集以前にイカガといへる例なし。さればイカニカとよむべし。イカガはやがてイカニカの略なり○ユクヘは前途なり。ユクヘシラズテは前途如何ナルカヲ知ラズシテとなり。ミレドアカヌナラ山コエテといひサキカラバ又カヘリミムといひユクヘシラズテといへるを思へば尋常の旅行にあらず。卷二なる彼有間皇子の御歌にも
  いはしろの濱松がえをひきむすびまさきくあらばまたかへりみむ
とあり
 
   反歌
3241 天地を難〔左△〕《ナゲキ》こひのみさきからば又かへりみむしがのから埼
天地乎難乞祷幸有者又反見思我能韓埼
   右二首。但此短歌者或書云。穗積朝臣|老《オユ》配2於佐渡1之時作歌者〔□で囲む〕也
 アメツチヲはナゲキを越えてコヒノミにかゝれるなり。さてアメツチニといふべ(2801)きが如くなれど卷十五にアメツチノカミ乎コヒツツアレマタム又卷二十にアメツチノカミ乎コヒノミナガクトゾオモフとあり○難は考にいへる如く歎の誤ならむ。左註の者は衍字か
 左註に短歌の方を穗積(ノ)老が佐渡に流されし時の歌とせる書ありといへるを考以下に長歌も同人同時の作ならむといへり。げに然らむ。老は元正天皇の養老六年に佐渡に流され十八年を經て聖武天皇の天平十二年に赦に遭ひし人なり。卷三(三九三頁)にも此人のよめる
  わが命しまさきくあらばまたもみむしがの大津によするしら浪
といふ歌あり。これを彼卷に行幸の御供にてよめりとしたれどワガ命シマサキクアラバ又モミムといへる、尋常の調にあらず。又後年同じ處を過ぎて同じやうなる歌を作るべきにあらず。おそらくはワガ命シといふ歌もこゝの長短二首と共に佐渡に流さるゝ時によみしならむ
    ○
3242 (百岐年〔二字左△〕《モモヅタフ》) みぬの國の 高北の くくりの宮〔左△〕《サト》に (日向爾《ヒムカヒニ》) 行靡闕〔左△〕矣《キラキラシコヲ》 (2802)ありとききて 吾通路之《ワガカヨフミチノ》 おぎそ山 みぬの山 なびけと 人はふめども 如此〔二字左△〕《カタ》よれと 人はつけども こころなき山|之〔左△〕《ゾ》 おぎそ山 みぬの山
百岐年三野之國之高北之八十一隣之宮爾日向爾行靡闕矣有登聞而吾通道之奥十山三野之山靡得人雖跡如此依等人雖衝無意山之奥礒山三野之山
     右一首
 冠辭考に百岐年を百詩年の誤としてモモシネとよみて美濃にかゝれる枕辭とせり。下に百小竹之《モモシヌノ》三野(ノ)王とあれば此説よろしきに似たれど小竹《シヌ》をシネとはいふべからざる事古義にいへる如し。古義には百傳布の誤としてモモヅタフ角鹿、モモヅタフ度逢縣などの類とせり。しばらく此説に從ふべし○ククリは美濃國|可兒《カニ》郡の地名なり。高北は郷名ならむククリノ宮とある、いぶかし。昔景行天皇一女子を召さむが爲に泳《ククリ》(ノ)宮にましましし事同天皇紀四年に見えたれどそを泳宮といひしは天(2803)皇のましましし爲のみ。こゝはククリノ里とあるべきなり○日向爾行靡闕矣を略解にヒムカヒニユキナビカクヲとよみ古義に日月爾行麻死里矣の誤としてツキニヒニユカマシサトヲとよめり。思ふに行靡は佳麗の誤か。さらばキラキラシとよむべし。安康天皇紀に例あり。闕は兒の誤か。さらばヒムカヒニキラキラシコヲとよみてヒムカヒニを枕辭とすべし○吾通道之を從來ワガカヨヒヂノとよみたれどさてはアリトキキテの収まる處なし。宜しくワガカヨフミチノ又はワガユクミチノとよむべし。はやく卷七(一二五五頁)なる
  妹がりとわが通路のしぬすすきわれしかよはばなびけしぬ原
の處にもいへり○オギソ山は大岐蘇山にてミヌノ山は美濃國の山々なり。此等の山を越えて行くを思へば作者は信濃國より妻よばひに美濃國にゆくなり○人といへるは作者自身なり○如此依は片依の誤ならざるか。もとのまゝにてはナビケトと對せず。山路こえゆくが苦しさにナビケ、カタヨレと希ふなり○古義に『之は曾の誤か』といへり。之に從ふべし。上なるウラグハシ山ゾ、ナク兒モルナス人ノモル山と同格なり
(2804)    ○
3243 をとめらが 麻笥《ヲケ》にたれたる うみ麻《ヲ》なす 長門の浦に 朝なぎに みちくる鹽之〔□で囲む〕 ゆふなぎに 依《ヨリ》くる波乃〔□で囲む〕 そのしほの いやますますに その浪の いやしくしくに 吾妹子に こひつつくれば 阿胡の海の ありそのうへに 濱菜つむ あまをとめ等△《ラガ》 纓有《ウナギタル》 領巾《ヒレ》もてるがに 手にまける 玉もゆららに しろたへの 袖ふる見えつ あひもふらしも
處女等之麻笥垂有續麻成長門之浦丹朝奈祇爾滿來塩之夕奈祇爾依來波乃波〔左△〕塩乃伊夜益升二彼浪乃伊夜敷布二吾妹子爾戀乍來者阿胡之海之荒磯之於丹濱菜採海部處女等纓有領巾文光蟹手二卷流玉毛湯良羅爾白栲乃袖振所見津相思羅霜
 初三句は長門之浦にかゝれる序なり。卷六(一〇三八頁)にもウミヲナス長柄ノ宮ニとあり。續麻の續は績の俗體なり。長門ノ浦は安藝國安藝郡に屬せる倉橋島の南端に(2805)て今|本《?》浦といふ處なりとぞ。卷十五にも見えたり○依を古義にヨセとよみたれど舊訓の如くヨリとよみて可なり。ヨリといふが常の格にてそを所謂復己動詞として(紅葉にソムルといひ露霜にオクといふが如く)ヨセともいひ、そのヨセを古くはヨシといひしなり○ミチクル塩之、ヨリクル波乃の之、乃は衍字ならむ○波塩の波は彼の誤なり。ソノシホノイヤマスマスニの語例は卷四(七一六頁)に蘆邊ヨリミチクル塩ノイヤマシニ、卷十二(二七一〇頁)にミナトミニミチクルシホノイヤマシニとあり○コヒツツクレバとあるを考、略解に歸京の途とせるはいかが。地方に下る途ならむ。クルといへるは無論船にて來るなり○阿胡之海を備中傭後の内にあるべしといへる眞淵の説も、攝津國の奈呉の海なりといへる説も共に非なり。長門(ノ)浦より西の方にあるべし。今の長門國阿武郡なる萩※[さんずい+彎]の事なりといへる説はたうべなひがたし。長門(ノ)浦と遠からざる處にて海岸に近づきて船の航行する處ならではかなはず○濱菜は海邊に生ずる食料とすべき草なり。海藻にはあらず○等はラガとよむべし。古義にドモとよめるはわろし。冒頭なる處女等之の例によらば略解にいへる如く等の下に之の字を補ふべし○纓有以下四句は挿句にてアマヲトメラ(2806)ガはシロタヘノ袖フル見エツにつづけるなり○纓有を二註にウナガセルとよめり。宜しくウナギタルとよむべし。ウナグは頸にかくる事なり。テルガニは照ルバカリなり。ユララニはユラユラトなり。若き海女等が海岸近く行く船に向ひて戯に袖を振る趣なり○アヒモフラシモは先方ニモ氣ガアルサウナとなり。略解に『これは吾故郷の妹をこひつゝくれば此海士處女も吾妹を相思ふやらん袖をふるといふ意なり』といへるが妄なる事は古義に指摘したる如し
 
   反歌
3244 阿胡の海のありその上のさざれ浪わがこふらくはやむ時もなし
阿胡乃海之荒礒之上之小浪吾戀者息時毛無
     右二首
 卷十一(二三九七頁)にワガコフラクハヤム時モナシ、下なる長歌にもワギモコニワガコフラクハヤム時モナシとあり。但今はもとヤム時モナシワガコフラクハとありしが顛倒せるならむ。上三句は序なり
(2807)    ○
3245 天《アマ》橋も 長くもがも 高山も 高くもがも 月《ツク》よみの 持有越水《モタルヲチミヅ》 いとり來て きみにまつりて 越得之早〔三字左△〕物《ヲチシメムモノ》
天橋文長雲鴨高山文高雲鴨月夜見乃持有越水伊取來而公奉而越得之早物
 高山に對してアマ橋モといひ天ハシに對してタカ山モといへるなり。アマ橋は天にかよふ橋なり○持有越水は久老(槻の落葉三之卷別記三一丁)に從ひてモタルヲチミヅとよむべし。ヲチ水は飲めば若返る水なり○イトリのイは添辭なり。上にもタムケグサイトリオキテとあり。越得之早物を久老は早を牟の誤としてヲチエシムモノとよみ田中大秀は早を目牟の誤とせり。案ずるに早は牟を誤り得之は之目を顛倒したる上、目を得に誤れるならむ。さればヲチシメムモノとよむべし。ヲチシメムモノとは若返ラシメムモノヲとなり
 
   反歌
(2808)3246 天有哉《アメナルヤ》、月日〔二字左△〕《ヒツキ》の如くわがもへるきみが日にけにおゆらくをしも
天有哉月日如吾思有公之日異老落惜毛
     右二首
 古義に有を照の誤としてアマテルヤとよみ改めたり。もとのまゝにて可なり○月日はげに古義にいへる如く日月の顛倒なり。天象にはヒツキといひ歳時にはツキヒといふ例なればなり。さて日月ノゴトクは日月ヲ仰グ如クとなり。古義に『日と月との如く長く久しく老いず死なずていつもかはらずあれかしと思ふとの謂なり』といへるは非なり
    ○
3247 沼名《ヌナ》河の 底なる玉|△《ヲ》 もとめて得之《エシ》玉〔□で囲む〕がも 拾ひて得之《エシ》玉〔□で囲む〕がも あたらしき君が おゆらくをしも
沼名河之底奈流玉求而得之玉可毛拾而得之玉可毛安多良思吉君之老落惜毛
(2809)    右一首
 契沖は
  沼名河は天上にある河なるべし。神代紀上云、天(ノ)沼名井《ヌナヰ》亦(ノ)名(ハ)去來之眞名井《イザノマナヰ》、神武紀云、神沼名河耳《カムヌナガハミミ》ノ尊是は綏靖天皇の御名なり。天武天皇をば天(ノ)渟中原瀛《ヌナハラオキ》(ノ)眞人(ノ)天皇と申奉れば此等を引合せて知るべし
といひ雅澄は
  沼名河は天(ノ)安河の中にある渟名井と同じ處を云なるべし。……さて渟名と書るは借字にて瓊之井《ヌナヰ》といふなるべし。さるは上古より其井底に瓊ありしが故にしか名に負るなるべし。……かの渟名井も安河の流の中にあればいにしへ瓊之井とも瓊之河とも云しならむとおもはるゝなり。かしこけれども神|沼《ヌナ》河耳命と申す御名も此河に依て負せたまへるなるべし
といへり(記傳卷七【四〇二頁】參照)。沼名河とあるは或は沼名井の誤にあらざるか○底奈流玉の下に乎を脱せり。補ふべし○得之玉可毛を從來エテシ玉カモとよめり。可毛の上なる玉は二つながら衍字なり。削りてエシガモとよむべし。エテシガモをエシ(2810)ガモといふは古今集なるカヒガネヲサヤニモ見シガと同格なり○後の可毛の次にソヲ君ニ奉リテ若エシメムといふことを補ひてきくべし
 
  相聞
    ○
3248 しきしまの やまとのくにに 人さはに みちてあれども (ふぢなみの) おもひ纏《マツヒ》 (若草の) おもひつきにし 君自〔左△〕《キミガメ》に こひやあかさむ ながきこの夜を
式島之山跡之土丹人多滿而雖有藤浪乃思纏若草乃思就西君自二戀八將明長此夜乎
 このヤマトノクニは日本國なり。大和國にあらず。初四句の語例は卷十一(二二五三頁)にウチ日サス宮道ヲ人ハミチユケドとあり○纏を契沖はマトハレとよみ眞淵以下は六帖によりてマツハシとよめり。マツハシは令纏なればこゝにかなはず。宜(2811)しくオモヒマツヒと六言によむべし。自を契沖は六帖に依りて目の誤とせり。元暦校本にも目とあり
 
   反歌
3249 しきしまのやまとのくにに人ふたりありとしもはばなにかなげかむ
式島乃山跡乃土丹人二有年念者難可將嗟
     右二首
 君唯一人卜思ヘバコソカクハ嘆クナレとなり○下にもナニニカを難二加と書けり
    ○
3250 あきつ島 やまとの國は 神《カム》からと 言擧せぬ國 しかれども 吾《ワ》はことあげす 天地の 神も甚《ハナハダ》 わがおもふ 心しらずや (往影乃) 月もへゆけば (玉限《タマカギル》) 日もかさなりて おもへかも 胸やすからぬ こふれかも 心のいたき 末つひに 君にあはずば 吾命の いけ(2812)らむきはみ こひつつも 吾は度らむ (まそ鏡) 正目《タダメ》に君を あひ見てばこそ 吾戀やまめ
蜻島倭之國者神柄跡言擧不爲國雖然吾者事上爲天地之神毛甚吾念心不知哉往影乃月文經往者玉限日文累念戸鴨※[匈/月〕不安戀列鴨心痛末遂爾君丹不會者吾命乃生極戀乍文吉者將度犬馬鏡正目君乎相見天者社吾戀八鬼〔左△〕目
 神柄は古義に從ひてカムカラとよむべし。さてその神柄を略解に神ニテ在ママニと譯し古義に神ユヱトと譯せり。國ガラトシテといふ意なり。はやく卷六(一〇二一頁)にも神カラカタフトカルラム國カラカ見ガホシカラムとあり○言擧セヌ國を略解に『人の心足らひて願ごとせぬと也』といひ古義に不平を云はぬ國の意とせる共に非なり。口ニ出サヌ國といふ意なり○往影乃を宣長はアラタマノの誤なるべしといへり。なほ考ふべし○オモヘカモ、コフレカモは思ヘバニヤ、戀フレバニヤなり○マソ鏡は辭を隔てゝ見テにかゝれるなり。正目を略解に『佛足石歌にヨキヒト(ノ)麻佐米ニミケムとあり』といひてマサメとよみたり。卷九に直目ニミズバ(一八二七頁)直目ニミケム(一八四七頁)とあり卷十二(二六二〇頁)に直目ニ君ヲ見テバコソとあるのみならずタダカを正香と書きたれば正目もタダメとよむべし。但タダ目とマサ目とは同意なり○アヒ見テバはアヒ見タラバなり。終句は吾戀ガ止マメとなり。卷四に
  ただにあひて見てばのみこそたまきはる命にむかふ吾戀やまめ
 又卷十二に
  まそかがみ直目に君を見てばこそ命にむかふ吾戀やまめ
とあり○鬼は魔の誤か
 
   反歌
3251 (大舟の)おもひたのめる君故につくす心はをしけくもなし
大舟能思憑君故爾盡心者情〔左△〕雲梨
 古義に
  君故爾は多くは君ナルモノヲといふ意に心得ることなれどこゝは尋常の如く(2814)君ナルガ故ニの意なり
といへり。集中には此種のユヱニも少からず。君ユヱニは君ノ爲ニなり。古義の譯は當らず○男の故ありて久しく來らぬ程によめるなり。此歌の次に右二首とあるべきなり○情は惜の誤なり
    ○
3252 (久堅の)みやこをおきて(草枕)たびゆく君をいつとかまたむ
久堅之王都乎置而草枕覊往君乎何時可將待
 都を天に擬へて久カタノといふ枕辭を冠らせたるならむ○古今集離別歌に
  すがるなく秋のはぎ原あさたちてたびゆく人をいつとかまたむ
とあり○此歌は別離の歌にて前の長歌の反歌にあらざる事前註にいへる如し。此歌の次に右一首とあるべし
 
   柿本朝臣人麿歌集歌曰
3253 葦原の 水穗の國は 神在隨《カムナガラ》 事擧せぬ國 然れども ことあげぞ (2815)わがする 言幸《コトチハヒ》 まさきくませと つつみなく △福座者《マサキクマサバ》 (ありそ浪) ありても見むと △百重波《イホヘナミ》 千重浪|爾敷〔二字左△〕《シキニ》 言擧爲〔左△〕吾△《コトアゲゾワガスル》
葦原水穗國者神在隨事擧不爲國雖然辭擧叙吾爲言幸眞福座跡恙無福座者荒磯浪有毛見登百重波千重浪爾敷言上爲吾
 神在隨は眞淵のカムナガラとよめるに從ふべし。さて略解に『神ニテ在ママニといふ意なる事をしらせん爲に在の字を添たり』といへり。案ずるにこゝに神在隨と書けるを見ればカムナガラは神タルママニといふ事なり。さてこゝの神ナガラは國タルママニといふ事なれば前の長歌に神カラトといへるとほぼ同意なり。前人此語の意を誤解せり○言幸を從來コトサキクとよめり。宜しくコトチハヒとよむべし。言靈ガチハヒ祐ケテとなり○マサキクマセト言擧ゾワガスルと返るなり○福座者を從來サキクイマサバとよめり。上にマサキクマセトとあり反歌にもマサキクアリコソとあれば福の上に眞の字を補ひてマサキクマサバとよむべし○アリテモ見ムはナガラヘテモ見ムなり○百重波は略解に『五百重波の五を脱せるか』と(2816)いへり。げに然るべし○爾敷は眞淵の改めたる如く敷爾の顛倒なり。シキニは頻ニにて五百重波千重波までは一種の序なり。語例は卷三(四九八頁)に
  ひと日には千重浪敷爾おもへどもなぞ其玉の手にまきがたき
とあり○結句は言上烏吾爲とありし烏を爲に誤り下の爲を衍字として除きたるなるべし。コトアゲゾワガスルとよみて上と照應せしむべし。二三の本に結句の下に更に言上爲吾とあれど今云ひし如くこのコトアゲゾワガスルは上なると照雁したるなれば更にそを繰返すべきにあらず○此歌アリソ浪と五百重波千重浪とを枕辭に借りたるより察すれば船に乘りて遠く行く人の別に作れるなり。さて前の歌とは無論相與る所は無きを初六句が相似たれば古人が前の歌の因に記しおきしを後人がよくも思はで前の歌の異傳と心得て次の反歌の左に右五首とは書けるなり
 
   反歌
3254 しきしまのやまとの國はことだまのたすくる國ぞまさきくありこそ
志貴島倭國者事靈之所佐國叙眞福在與具〔左△〕
(2817)     右五首
 言靈は近くは卷十一(二三三六頁)に見えたり○具は其の誤か(二〇八〇頁參照)
     ○
3255 いにしへゆ いひつぎくらく 戀すれば 安からぬものと (玉(ノ)緒の) つぎてはいへど をとめらが 心をしらに 其《ソヲ》しらむ よしのなければ (なつそひく) 命〔左△〕號貯〔左△〕《ウナカタブケ》 (かりごもの) 心もしぬに 人しれず もとなぞこふる いきのをにして
從古言續來口戀爲者不安物登玉緒之繼而者雖云爲女等之心乎胡粉其將知因之無者夏麻引命號貯借薦之心文小竹荷人不知本名曾戀流氣之緒丹四天
 ツギテハイヘドはやがてイヒツギクレドにて上なるイヒツギクラクと照應せるなり。なほ某ノ云ヘラク何々卜云ヘリといふが如し○其を眞淵以下ソコとよめり。宜しくソヲとよむべし○命號貯は冠辭考ナツソ引の處に
(2818)  萬葉卷七に夏|麻《ソ》ヒクウナガミ滷ノ、卷十四に奈都蘇妣久字奈比ヲサシテ云々こは陸田《ハタ》に生立たる麻を六月に根引すれば夏麻ヒク畝《ウネ》といひつづけたりと或人いへり○卷十三に夏麻引命號貯……まづ冠辭は夏麻ヒク畝とつづけて右に同じ。歌の意は古事記にヤマトノヒトモトズスキ宇那加夫斯とよみ給へるに同じく妹戀わびつゝ項をかたむけて思ひなやむをいへり。さてそのウナカブシに命號の字を書るは紀に命令二字を各ウナガシと訓て語の相似たれば字も訓も借たる也。且貯をマケと訓は設をマケとよむに同じ。是も借字にて向《ムケ》てふ意也。……こゝは項片向《ウナヲカタムケ》也
といへり。命號をウナガシとよむべくともウナカブシとはよむべからず。ウナカブシは項を傾くる事にてウナガシとは同意ならざればなり。雅澄は命を念の誤としてオモヒナヅミとよめり。此説の如くばナツソヒクはいかにかゝれる枕辭とかせむ。按ずるに眞淵の訓のうちウナまでは動くべからず。命號はおそらくは卯號の誤ならむ。ウナはウナヰといひウナグといひ今もウナダルといふウナにて項《ウナジ》の事なり。貯はおそらくは斜の誤ならむ。さらばカタブケとよむべし(卷十にも秋風フキテ(2819)月斜焉と書けり)○ココロモシヌニは心モ撓ムバカリなり。イキノヲニは一生懸命ニなり。シテは助辭なり
 
   反歌
3256 數數丹《シクシクニ・シマシマニ》思はず人はあらめども暫文吾者《シマシモワレハ》わすらえぬかも
數數丹不思人者雖有暫文吾者忘枝沼鴨
 初句を舊訓にカズカズニとよめるを略解にシクシクニとよみかへて
  數々はシクシクとも訓べけれど敷々の誤か
といひ古義にはシバシバニとよめり。按ずるに集中に數又は屡と書けるにシマシマとよむべきと
  たとへは卷十(一九七〇頁)なる『國栖《クニス》らが春菜つむらむ司馬《シマ》の野の數《シマシマ》君をおもふこのごろ』
シクシクとよむべきと
  たとへば卷十二(二六五一頁)なる『君は來ず吾は故《コト》なみたつ浪の數《シクシク》こひしかくて來じとや』また同卷(二七一二頁)なる『ほととぎすとばたの浦にしく浪の屡《シクシク》君をみ(2820)むよしもがも』
いづれとも決しがたきとあり。こゝなどもシクシクニともシマシマニともよむべし。但シクシクニとよみても字を改むるに及ばず。上三句の意は妹ハシクシクニ(又はシマシマニ)我ヲ思ハザラメドとなり。古義に
  古今集にカズカズニ思ヒ思ハズトヒガタミとあるを始めてカズカズニ思フと云る事の多きはもとこの數々をカズカズと訓誤れるより出たる言にやあらむ
といへり。げに然るべし○暫文吾者を舊訓にシバシモワレハとよめるを古義に
  シマシクモアハと訓べし。暫を古言にシマシクといへる例はやく具くいへり
といへれど卷十五にホトトギスアヒダ之麻思オケとあればもとのまゝにて可なり
 
3257 ただに來ずこゆこせぢから石椅《イハバシ》ふみなづみぞわがこしこひてすべなみ
直不來自此巨勢道柄石椅跡名積序吾來戀天窮見
(2821)   或本以2此歌一首1爲2之「紀伊國之濱爾縁云、鰒珠拾爾登謂而、往之君何時到來」哥之反歌1也。具見v下也。但依2古本1亦累2載茲1
    右三首
 下には
  ただにゆかずこゆ巨勢道から石瀬ふみ求曾わがこしこひてすべなみ
とあり。さて此歌は前の長歌の反歌にもあらず。別の歌なり○タダニ來ズコユはコセ路にかゝれる序(又は二句に跨れる枕辭)なり。タダニコズコユコスは近道ヲセズシテココヲトホルといふ意なり。そを巨勢路にいひかけたるなり。古義に『此處より山岡などを越て巨勢道よりといへるなり』といへるは非なり。コセヂカラは巨勢路ヲなり○石椅を略解に下の歌によりてイハセとよめるは非なり。イハバシとよむべし。イハバシは能登瀬川の飛石なり。ナヅミは辛クシテなり○スベナミを窮見と書けるは無策はやがて窮なればにや。下なるタダニユカズといふ歌には爲便奈見と書けり
(2822)    〇
3258 (あらたまの) 年は來去《キユキ》て (玉づさの) 使|之《ノ》こねば 霞たつ 長き春日を 天地に おもひたらはし (たらちねの) 母がかふ蠶《コ》の まよごもり いきづきわたり わがこふる 心のうちを 人に言《イハム》 ものにしあらねば (松が根の) まつ事〔左△〕《トキ》とほみ (あまづたふ) 日のくれぬれば 白木綿《シロタヘ》の わがころもでも とほりてぬれぬ
荒玉之年者來去而玉梓之使之不來者霞立長春日乎天地丹思足椅帶乳根※[竹/矢]母之養蚕之眉隱氣衝渡吾戀心中少人丹言物西不有者松根松事遠天傳日之闇者白木綿之吾衣袖裳通手沾沼
 去を舊訓にユキとよめるを古義にサリに改めて『キユキテとよめるはわろし』といへり。いづれともよむべし○之を略解にシとよめり。舊訓に從ひてノとよむべし○アメツチニオモヒタラハシは思ヲ天地ニ滿タシメにて天地一杯ニナルヤウナ物思ヲシテとなり。下に八十ノココロヲ天地ニオモヒタラハシといへるとオモヒと(2823)いふ語の格異なり○タラチネノ母ガカフコノマヨゴモリは序なり。ワタリはツヅケなり○言を略解にイフとよみ古義にイハムとよめり。後者に從ふべし○マツ事トホミの事は時の誤ならむ。卷十八にも時を事と誤れる例あり○白木綿を二註にシロタヘとよみて『幣の誤にや』といへり。もとのまゝにてシロタヘとよむべき事訓義辨證(下卷八一頁)にいへる如し○女の歌なり
 
   反歌
3259 かくのみしあひもはざらば(天雲の)よそにぞ君はあるべかりける
如是耳師相不思有者天雲之外衣君者可有有來
     右二首
 寧ヨソ人ニテアルベカリシヲとなり
    ○
3260 小沼〔左△〕田《ヲハリダ》の あゆ道〔左△〕《タ》の水を 間《マ》なくぞ 人はくむちふ 時じくぞ 人はのむちふ くむ人の 間《マ》なきがごと のむ人の 不時如《トキジキガゴト》 吾妹子(2824)に わがこふらくは やむ時もなし
小沼田之年魚道之水乎間無曽人者※[手偏+邑]云時自久曾人者飲云※[手偏+邑]人之無間之如飲人之不時之如吾妹子爾吾戀良久波已時毛無
 考に
  宣長がいふ。續紀に尾張國山田郡小治田(ノ)連藥等賜2姓尾張宿禰1とあり。思ふに山田愛智二郡は隣なれば小治田ノアユチともいふべしと。仍て今本沼とあるを治の誤とす。こゝにことなる冷水のありつらん
といひ記傳卷二十七(一六三〇頁)には
  萬葉十三に小沼田ノアユ道ノ水ヲ云々此沼の字は治の誤にてヲハリダなるべし。さて續紀廿九に尾張國山田郡人小治田(ノ)連藥等八人賜2姓尾張宿禰1とあると合せて思へば尾張を小治田とも云しか
といへり。按ずるに小沼田はげに小治田の誤ならむ。但もし尾張ノ愛智といふことならばただに小治之年魚道といふべく小治田とはいふべからず。小治田はおそらくは卷十一(二四一六頁)に小墾田ノ坂田ノ橋ノとあるヲハリ田にて大和國飛鳥の(2825)事ならむ。姓氏録左京神別上に
  小治田宿禰……欽明天皇御代依v墾2小治田(ノ)鮎田1賜2小治田大連1
とあり。されば年魚道の道は田の誤とすべし○間を略解にヒマ、古義にマとよめり。後者に從ふべし○不時如を二註にトキジクガゴトとよめり。トキジ、トキジキとはたらく形容詞なれば考の如くトキジキガゴトとよむべし
 
   反歌
3261 思やるすべのたづきも今はなし君にあはずて年のへぬれば
思遣爲便乃田付毛今者無於君不相而年之歴去者
    今案、此反歌謂2之|於君不相《キミニアハズ》1者於v理不v合也。宜v言2於妹不相《イモニアハズ》1也
 初二は思ヲハルクルスベモとなり。スベノタヅキはたたスベといはむにひとし○左註の意は
  長歌は吾妹子ニワガコフラクハとあれば男の歌なり。さて男は女をさして妹といひ女は男をさして君といふなれば反歌に君ニアハズテといへるは理にかな(2826)はず。宜しく妹ニアハズテといふべし
といへるなれど君は男よりも女よりもいふ語なればもとのまゝにて不可なる事なし(二四九九頁參照)○略解に
  この歌卷十二にただ短歌にて載たり。右の反歌にあらざるべきを後の人加へたるか
といへるは卷十二(二五七四頁)なる
  思やるすべのたどきも吾はなしあはぬ日まねく月のへぬれば
といふ歌を指せるなれど集中には此歌と相似たる歌少からざれば打任せて『この歌卷十二にただ短歌にて載たり』とはいふべからず。但歌の體を思ふに此歌も次の歌も右の長歌の反歌にはあらざらむ
 
   或本反歌曰
3262 (みづがきの)久しき時ゆ戀すれば吾帶ゆるぶ朝よひごとに
※[木+若]垣久時從戀爲者吾帶綾〔左△〕朝夕毎
(2827)    右三首
 遊仙窟の文に日々衣寛、朝々帶緩とあるに依れるなり。はやく卷四(七九六頁)にも
  一重のみ妹がむすばむ帶をすら三重むすぶべくわが身はなりぬ
とあり○此歌も長歌に比して調新し。綾は緩の誤なり
    ○
3263 こもりくの 泊瀬の河の かみつ瀬に いぐひをうち しもつ瀬に 眞※[木+兀]をうち いぐひには 鏡をかけ 眞くひには 眞玉をかけ 眞玉なす わがもふ妹も 鏡なす わがもふ妹も ありといはばこそ 國にも 家にもゆかめ 誰《タガ》故かゆかむ
己母理久乃泊瀬之河之上瀬爾伊※[木+兀]乎打下湍爾眞※[木+兀]乎格〔左△〕伊※[木+兀]爾波鏡乎懸眞※[木+兀]爾波眞玉乎懸眞珠奈須我念妹毛鏡成我念妹毛有跡謂者社國爾毛家爾毛由可米誰故可將行
     検2古事記1曰。件《コノ》歌者木梨之輕(ノ)太子自死之時所v作者也
(2828) 古事記|遠《トホツ》飛鳥(ノ)宮(允恭天皇)の段に
  故《カレ》大前小前(ノ)宿禰ソノ輕(ノ)太子ヲ捕ヘテ率テ參出テタテマツリキ。其太子捕ヘラエテ歌ヒタマハク
  あまだむ、かるのをとめ、いたなかば云々
 マタ
  あまだむ、かるをとめ、したたにも云々
 故其輕(ノ)太子ヲバ伊余(ノ)湯ニハナチマツリキ。マタハナタエムトセシ時ニ歌ヒタマハク
  あまとぶ、とりもつかひぞ云々
 此三歌ハ天田振《アマタブリ》ナリ。又歌ヒタマハク
  おほきみをしまにはふらば云々
 此歌は夷振《ヒナブリ》ノ片下《カタオロシ》ナリ。其|衣通《ソトホシ》(ノ)王歌ヲタテマツル其歌
  なつぐさのあひねのはまの云々、
 故《カレ》後ニマタオモヒカネテオヒイマス時ニ歌ヒタマハク
(2829)  きみがゆきけながくなりぬやまたづのむかへをゆかむまつにはまたじ
 故追到リマセル時ニマチオモヒテ歌ヒタマハク
  こもりくのはつせのやまの云々
 マタ
  こもりくのはつせのかはの、かみつせにいぐひをうち、しもつせにまくひをうち、いぐひにはかがみをかけ、まくひにはまたまをかけ、またまなすあがもふいも、かがみなすあがもふつま〔二字左△〕、ありといはばこそに〔右△〕、いへにもゆかめ、くにをもしぬばめ〔八字右△〕
 カク歌ヒテ即共ニ自シセタマヒキ。故此二首ハ讀歌也
とあり。キミガユキといふ歌は本集には磐(ノ)姫皇后の御歌とせり(卷二【一三一頁】參照)
 略解にイグヒのイを發語とせるは非なり。記傳卷三十九(二三一六頁)に
  イグヒヲウチは齋杙ヲ打なり。契沖も師も伊を發語と云れたるはかなはず。凡て伊と云發語は用言の上にこそおけれ、體言の上に置ること無し。こゝは鏡玉を掛とあれば神祭のわざとおぼしければ齋杙なるべし。中卷明(ノ)宮(ノ)段の大御歌にヰグ(2830)ヒとあるとは異なり。斎を伊と云は斎垣《イガキ》などの如し
 といへるに從ふべし。マクヒはただ語をかへたるのみにてイグヒと異なる事なし。さてクヒといへるは枝附の木なるべし。川中にては地上の如く土を掘りて木を立てむに便よからねば木の末を切りて其端を打ちて木を立てたるならむ○さてコモリクノ以下十句は眞珠ナス鏡ナスを云はむ設なり○アガモフ妹モ 古事記にはモといふ辭なく又後の方はツマとあり○アリトイハバコソ アラバコソなり。記にはコソニとあり○國ニモ家ニモユカメ 記には家ニモユカメ國ヲモシヌバメとあり。此御歌の趣によれば輕(ノ)大郎女即衣通(ノ)王は伊豫に下らでうせ給ひしならむ○誰故カユカム 此一句記には無し。誰は古義に從ひてタガとよむべし。タガ故カはタガ故ニカなり○格は挌の通用なり
 
    反歌
3264 年わたるまでにも人はありちふをいつの間〔日が月〕曾毛吾戀爾來《ホドゾモワレコヒニケリ》
年渡麻弖爾毛人者有云乎何時之間曾母吾戀爾來
 上三句の意は一年ヲ渡ルマデモ人ハ堪忍ブトイフニとなり。マデを次の句へ送り(2831)たる例として代匠記に
  手に取之、からに忘ると(卷七)
  かたりつぐ、からにもここだ(卷九)
  面わすれ、だにも得爲やと(卷十一)
を擧げたり〇四五を略解にイツノマニゾモワガコヒニケルとよみたれど間曾毛と書ける間の字にニはよみ添へがたく又四五を係結とせばイツノマニカ〔右△〕モワガコヒニケルといふべし。古義にはイツノアヒダゾモアレコヒニケルとよめり。之に從はばアレコヒニケルハイツノアヒダゾモといふべきを打返したるものとせざるべからず。然るに古義には
  吾ハ妹ニ逢ザルハイツバカリノ間ゾヤ、ヤヤ近キ間ナルヲソレニモ得堪ズシテ戀シクノミ思フとなり
と釋せり。もしさる意ならば契沖の如くイツノホド〔二字右△〕ゾモワレコヒニケリ〔右△〕とよみて第四句を句絶とすべし。更に按ずるに四五は
  イツノホドゾモワガコヒニケル
(2832)とよみてワガコヒニケルハイツノ程ゾモを打返したるものとも認むべく又
  イツノホドゾモワレコヒニケリ
とよみて相逢ハヌハイツノ程ゾ、久シキ程ニモアラヌヲ我ハハヤ戀ヒニケリの意とも認むべけれど後なる方ぞ穩ならむ○はやく卷四(六五一頁)に
  よくわたる人は年にもありちふを何時間曾毛吾戀爾來
とあり○こは無論前の歌の反歌にあらず
   或書反歌曰
3265 世のなかをうしとおもひて家出爲《イヘデセシ》我や何にかかへりて成らむ
世間乎倦跡思而家出爲吾哉難二加還而將成
     右三首
 第三句は舊訓の如くイヘデセシとよむべし。古義にイヘデセルに改めたるは却りてわろし○古義にワレヤ何ニカのヤをもカをも共に疑辭とせるは非なり。我ヤは我ヨなり○契沖が
(2833)  此歌は世を厭ひて出家したる人のさても有はてずして又白ぎぬに還る時さすがに身を省みて心のさだかならぬを愧てよめるなるべし
といへるは非なり。古義に第二案として
  或は人の還俗せよとすゝめけるにこたへて世間〔日が月〕ヲアキイトヒテ一度出家セル吾ナルモノヲ又再オモヒカヘシテ還俗シタリトモ何ニカハ成ラム、サレバ否還俗セム心ハ更ニ無シといへるにもあるべし
といへるぞ穩なる。カヘリテは俗ニ還リテなり○此歌などいかにしてか前の長歌の反歌には擬へけむ。いぶかしともいぶかし
    ○
3266 春されば 花さきををり 秋づけば 丹の穗に黄色〔左△〕《モミヅ》 (うまざけを) かむなび山の 帶にせる あすかの河の はやき瀬に おふる玉藻の うちなびき こころはよりて (朝露の) けなばけぬべく 戀久毛〔左△〕《コフラクヲ》 知久〔左△〕久毛相《シリテモアヘル》 こもりづまかも
(2834)春去者花咲乎呼里秋付者丹之穗爾黄色味酒乎神名火山之帶丹爲留明日香之河乃速瀬爾生玉藻之打靡情者因而朝露之消者可消戀久毛知久毛相隱都麻鴨
 ニノホニは丹ノ色ノ如クなり。はやく卷十(二〇二九頁)にニノホノオモワとあリ(卷一【一二三頁】タヘノホニ參照)○黄色は黄反の誤ならむ。モミヅルといはでは下へつづかざるをモミヅといへるは連體格の代に終止格をつかへるにもあるべく四段活に從へるにもあるべし(一四七六頁參照)○オフル玉藻ノまでの十句はウチナビキにかゝれる序なり○戀久毛知久毛相を前註の如く字のまゝにコフラクモシルクモアヘルとよめばウチナビキ以下四句は妹の戀ふる状となりて反歌のウチナビキ心ハ妹ニヨリニケルカモと相合はず。されば右の二句は戀久乎〔右△〕知弖〔右△〕毛相の誤としてコフラクヲシリテモアヘルとよむべし○コモリヅマを二註に親の守り隱せる女をいふといへれど人のいつき娘をコモリヅマとはいふべからず。外の處なると同じく内證ニテ逢フ女とすべし
 
(2835)   反歌
3267 あすか河|瀬湍《セゼ》のたま藻のうちなびきこころは妹によりにけるかも
明日香河瀬湍之珠藻之打靡情者妹爾因來鴨
     右二首
 初二は序なり
    ○
3268 みもろの かむなび山ゆ とのぐもり 雨はふりきぬ あまぎらひ 風さへふきぬ (大口の) 眞神の原ゆ 思つつ かへりにし人 家にいたりきや
三諸之神奈備山從登能陰雨者落來奴雨霧相風左倍吹奴大口乃眞神之原從思管還爾之人家爾到伎也
 トノグモリ、アマギラヒは同意の語にて空の曇る事なり(一六五五頁參照)○眞神(ノ)原は飛鳥川の右岸より左岸遙に檜隈郷の北部に亘りし廣野ならむ○思管を考に『哭(2836)管《ネナキツツ》の誤ならんか』といひ古義にシヌビツツとよめり。もし誤字ならずばシヌビツツとよむべし。但そのシヌビは偲にはあらで隱ならむ。即思と書けるは隱の借字ならむ○さてそのシヌビツツは大口乃の上におきかへて心得べし。眞神の原にて別れしにあらず。別れて眞神の原を經て歸りしなり○家ニイタリキヤは無事ニ家ニ到著セシカとなり
   反歌
3269 かへりにし人をおもふと(ぬばたまの)その夜は吾もいもねかねてき
還爾之人乎念等野干玉之彼夜者吾毛宿毛寢金手寸
     右二首
 略解に『ソノ夜は逢て明る日の夜也』といへるは誤解なり。逢ひしも別れしも夜にてソノ夜はやがて其夜なり○長歌は其夜の曉などに作りし調なるに反歌は翌日の作なる如く聞ゆ
    ○
(2837)3270 さしやかむ 少屋《ヲヤ》の四忌屋《シコヤ》に かき將棄《ステム・ウテム》 やれ薦乎〔□で囲む〕しきて 所〔□で囲む〕掻〔左△〕將折《ウチヲラム》 しこの四忌手《シコテ》を さしかへて 將宿《ヌラム》君故 (あかねさす) 昼は終《シミラ・シメラ》爾《ニ》 (ぬばたまの) よるはすがらに 此床の ひしとなるまで 嘆きつるかも
刺將燒少屋之四忌屋爾掻將棄破薦乎敷而所掻將折鬼之四忌手乎指易而將宿君故赤根刺昼者終爾野干玉之夜者須柄爾此床乃比師跡鳴左右嘆鶴鴨
 男のあだし女にかよふが妬ましさに其女の家と薦と手とをいひくたせるなり○サシヤカムはサシ燒キツベキにてそのサシは添辭なり。少屋は神武天皇の大御歌にアシハラノシゲ去〔左△〕《シ》キ袁夜ニとあるに依りてヲヤとよむべし。卷十一(二四三八頁)にもヲチカタノハニフノ少屋ニとあり〇四忌屋、四忌手は醜屋、醜手なり。從來之をシキヤ、シキテとよみたれど、鬼《シコ》乃志許草の例によらばシコヤ、シコテとあるべきなり。忌は同韻の其をゴともよむが如くコともよむべきならむ○カキ將棄のカキは(2838)添辭なり。將棄を古義にはウテムとよめり。もとの如くステムとよよむもあしからず。薦の下の乎は衍字ならむ○所掻將折を考にカカリヲラムとよみて皸《カガリ》居ラムの意とし文字辨證(下卷一八頁)に折を※[土+斥]の俗體としてカカリサケムとよみたれど古義に從ひて所を衍字とし掻を格の誤字としてウチヲラムとよみて打折リツベキの意とすべし。元暦校本には實に挌とあり。ウチは添辭なり○サシカヘテはサシカハシテなり。將宿をもとネナムとよみたりしを雅澄がヌラムに改めたるはよろし。君ユヱは君ナルモノヲ得アキモセズテとなり。ヒルハシミラニは晝ハ終日なり。シミラニは卷十九にヒルハ之賣良爾とあればシメラニとも云ひしなり○此床ノ云云を考に
  こゝは賤屋の竹にてあみし床のひしひしと鳴やすきを思ひていへるにもあるべし
といひ古義さへ之をうべなひて『まして賤者の家などはさらなり』といへるは妄なり。賤屋のやうにいひくたしたるは相手の女の家にこそあれ、こゝは作者の床なるをや。ヒシは鳴る音にて今いふミシミシなり。卷二十なる家持の長歌に負征箭ノソ(2839)ヨトナルマデナゲキツルカモとあるは此處を學びたるならむ
 
   反歌
3271 わがこころやくも吾なり(はしきやし)君にこふるもわが心から
我情燒毛吾有愛八師君爾戀毛我之心柄
     右二首
 初二は我心ヲ燒クモ我心カラナリとなり。第二句と結句とは互文なり〇餘意明ならねどサレバ是非ガナイといふ意なるべし
   ○
3272 うちはへて 思ひし小野は 遠からぬ 其里人の しめゆふと ききてし日より 立《タタマ》良〔□で囲む〕|久《く》の たづきも不知《シラズ・シラニ》 居久《ヰマク》の おくかも不知《シラニ・シラズ》 親親〔左△〕《ニキビニシ》 己之《ワガ》家すら乎〔左△〕《モ》 (草枕) たびねの如く おもふ空 やすからぬものを なげく空 すぐしえぬものを (あま雲の) 行△莫莫《ユクラユクラニ》 (あし垣の) おもひ亂れて みだれ麻《ヲ》の 麻笥《ヲケ》をなみと〔十一字□で囲む〕 わがこふる 千(2840)重の一重も 人しれず もとなやこひむ いきのをにして
打延而思之小野者不遠其里人之標結等聞手師日從立良久乃田付毛不知居久乃於久鴨不知親親己之家尚乎草枕客宿之如久思空不安物乎嗟空過之不得物乎天雲之行莫莫蘆垣乃思亂而亂麻乃麻笥乎無登吾戀流千重乃一重母人不令知本名也戀牟氣之緒爾爲而
 ウチハヘテオモヒシ小野は久シク標結ハムト思ヒシ小野なり。ウチハヘテを略解に遠キ處ニ在テとうつし古義にヤヤ遠キ方ニ心ヲ打延テとうつせる共にわろし。久シクと譯すべし。初六句は久シク我妻ニセムト思ヒシ少女ヲ其女ニ近ク住メル男ノ獲ツト聞キシ日ヨリといへるなり○立良久を略解にタツラクとよみたれどタツを延ぶればタタクにてタツラクにあらず。されば古義には良を麻萬などの誤としてタタマクとよめり。次なる居久に麻をも萬をも添へざるを思へばこゝも原は立久乃とぞありけむ。されば良は衍字と認むべし○不知を略解にシラニ、古義にシラズとよめり○居久を略解にヲラクとよみ古義にヲラマクとよめり。タタマク(2841)のうらなればヰマクとよむべし○タヅキは手段、オクカは目的にてタヅキモシラニとオクカモシラズとは互文なり。すなはち立タムニモ居ムニモタヅキオクカヲ知ラズとなり○親親を舊訓にオヤオヤノとよめるを契沖は
  第六に笠(ノ)金村の娘子に代てよまれたる長歌の中に親をムツマシキと點じたれば今も引合て然讀べきにや
といひ略解にチチハハノとよみて註には
  親之の誤にてムツバヒシとよまむか。又ニキビニシともよまむか
といへり。類聚古集に親之とあるに從ひてニキビニシとよむべし。親之を親々と誤り更に親親と書けるなり。ニキビニシは馴レ親ミシなり。はやく卷一(一一九頁)に柔備爾之家ヲサカリテ。卷三(五七九頁)に丹杵火爾之家ユモイデテとあり○己之を略解にシガとよめるはわろし。古義の如くワガとよむべし。家尚乎の乎は毛の誤ならむ。タビネノゴトクは旅寐ノ如クニテとなり。もし家尚乎をもとのまゝとしタビネノゴトクを辭のまゝに心得ば此二句の次にオモヒツツなどいふ句をおとしたるものとせざるべからず。無論オモフソラにはいひかくべきにあらず○オモフ空ナ(2842)ゲク空の空はココチなり。スグシエヌモノヲは遣リ放チ得ヌモノヲとなリ。モノヲはモトナヤコヒムにかゝれリ○行莫々は略解に
  行莫行莫と有しが字の落たる也。莫は暮に同じければ久良の詞に借し也
といへり。行々莫々とありし上の々をおとしたるなり。さてユクラユクラニは物の靜まらぬ貌なり。トザマカウザマといふ意なり(卷十二【二七一六頁】ユクラカニ參照)〇ミダレ麻ノヲケヲナミトの二句下へつづかず。おそらくは衍文ならむ〇人シレズは人ニ知ラセズにて上に附きたるなり
 
   反歌
3273 ふたつなき戀をしすれば常の帶を三重むすぶべく我身はなりぬ
二無戀乎思爲者常帶乎三重可結我身者成
     右二首
 卷四(七九六頁)に
  一重のみ妹がむすばむ帶をすら三重むすぶべく吾身はなりぬ
 卷九(一八三八頁)に
(2843)  一重ゆふ帶を三重ゆひ、くるしきに仕へまつりて
とあり
    ○
3274 せむすべの たづきをしらに いはが根の こごしき道乎 いは床の ねはへる門を 朝庭丹 いでゐて嘆き ゆふべには 入居てしぬび しろたへの わがころもでを をりかへし 獨しぬれば ぬばたまの 黒髪しきて 人のぬる うまいはねずて 大舟の ゆくらゆくらに おもひつつ わがぬる夜らを よみもあへむかも
爲須部乃田付呼不知石根乃興凝敷道乎石床※[竹/矢]根延門呼朝庭丹出居而嘆夕庭入居而思白栲乃吾衣袖呼折反獨之寢者野干玉黒髪布而人寢味眠不睡而大舟乃往艮行羅二思乍吾睡夜等呼續〔左△〕文將敢鴨
 下なる挽歌のうちに
(2844)  しら雲のたなびく國の、青雲のむかぶす國の、天雲の下なる人は、妾《ア》のみかも君にこふらむ、吾のみ鴨きみにこふれば,天地に滿言、こふれかも胸のやめる、おもへかもこころのいたき、妾《アガ》戀ぞ日にけにまさる、いつはしもこひぬ時とは、あらねどもこのなが月を、吾背子がしぬびにせよと、千世にもしぬびわたれと、萬代にかたりつがへと、始めてしこのなが月の、すぎまくをいたもすべなみ、あらたまの月のかはれば せむすべのたどきをしらに、いは根のこごしき道の、いは床の根はへる門に、あしたには出居てなげき、ゆふべにはいりゐこひつつ ぬばたまのくろかみしきて、人のぬるうまいはねずに、大船のゆくらゆくらに、おもひつつわがぬる夜らはよみも不敢かも
といふ歌あり。今の歌の初十句と終九句とは其歌の中にあり。されば今の歌はいたく亂れたりと見ゆるがまづセムスベノ以下十句は挽歌の調なれば今の歌には屬すべからず。次にヌバタマノ以下九句は相聞歌の調なれば彼歌には屬すべからず。殊にワガヌル夜ラハヨミモアヘムカモとあるは反歌にヒトリヌル夜ヲヨミテム(2845)トとあると相離すべからず。されば今は初十句を削りてシロタヘノ以下十三句の歌とすべし
 
しろたへの わがころもでを をりかへし 獨しぬれば (ぬばたまの) 黒髪しきて △ 人のぬる うまいはねずて (大舟の) ゆくらゆくらに おもひつつ わがぬる夜らを よみもあへむかも
 シロタヘノ云々の語例は卷十七に
  はしきよしつまのみことも、あけくれば門によりたち、ころもでををりかへしつつ、ゆふさればとこうちはらひ、ぬばたまのくろかみしきて、いつしかとなげかすらむぞ云々
 又卷二十に
  いはひべをとこべにすゑて、しろたへのそでをりかへし、ぬばたまのくろかみしきて、ながきけをまちかもこひむはしきつまらはとあり。此等によれば袖を折返すも黒髪を敷くも共に人を待つさまとおぼゆ。さて(2846)今はクロカミシキテの下に君クヤトマチツツヲルニなどいふ二句をおとせるならむ○ヨミモアヘムカモは數ヘモ得ムヤハとなり。アヘは得なり○續は讀の誤なり
 
   反歌
3275 ひとりぬる夜算跡《ヨヲヨミテムト》おもへども戀のしげきにこころどもなし
一眠夜算跡雖思戀茂二情利文梨
     右二首
 第二句を略解にヨヒヲヨマムトとよみ古義にヨヲカゾヘムトとよめり。長歌にヨミモアヘムカモとあればカゾヘとよまむは快からず。宜しくヨヲヨミテムトとよむべし○ココロドモナシは卷三(五五六頁及五六九頁)に例あり。ココロドはタマシヒなり
    ○
3276 (百不足〔二字左△〕《モモキモリ》) 山田の道を (浪雲の) うつくし妻と 不語《コトドハズ》 わかれしくれ(2847)ば (はや川の) 往文《ユクモ》しらず (ころもでの) かへるもしらに (馬じもの) たちてつまづき せむすべの たづきをしらに (もののふの) 八十の心を 天地に おもひたらはし たまあはば 君來益八跡 わがなげく 八尺のなげき (玉桙の) 道くる人の たちとまり いかにと問者 答遣 たづきをしらに (さにづらふ) 君が名いはば 色にでて 人しりぬべみ (あしひきの) 山よりいづる 月まつと 人にはいひて 君まつ吾を
百不足山田道乎浪雲乃愛妻跡不語別之來者速川之往文不知衣袂※[竹/矢]反裳不知馬自物立而爪衝爲須部乃田付乎白粉物部乃八十乃心呼天地二念足橋玉相者君來益八跡吾嗟八尺之嗟玉桙乃道來人之立留何常問者答遣田付乎不知散鈎相君名曰者色出人可知足日木能山從出月待跡人者云而君待吾乎
(2848) 百タラズ八十といへる例はあれどモモタラズは山田のヤには冠らすべからず。されば記傳卷三十六(二一五六頁)に
  百不足山田ノ道乎……彼歌は吾徒斎田清繩が考に足日木なるを日を百に、木を不に誤れるを百不足を誤れる物と心得て遂に足(ノ)字を下に移したるなりと云るぞ宜き。山の枕詞はアシヒキとより外に云る例なければなり
といひ、古義には卷六(一一六六頁)なる百樹成《モモキモリ》山ハコダカシの註には
  十三に百不足山田道乎とあるも不足は木成の誤にてモモキモルなるべし
といひながら此處にては足日木の誤とせり。案ずるに足日木の如き普通の枕辭ならばうつし誤るべからず。又もし足日木の誤とせばなほ乃をおとせりとせざるべからず。されば百木成の誤とすべし。百木成はモモキモリともモモキモルともよむべし○山田は大和國高市郡の地名なり○浪雲を雅澄は浪雪の誤としてシキタヘとよめり。朝雲の誤とすべきか。アサグモの語例は卷三(四二七頁)なる登2神岳岳?1作歌にアサグモニタヅハミダレとあリ○不語を略解にコトドハズとよみ古義に卷十四なるイヘノイモニ毛乃伊波受キニテオモヒグルシモを例としてモノイハズとよ(2849)み『又カタラハズともよむべし』といへり。いづれともよむべし○往文を略解にユカクモとよみ古義に往方文の誤としてユクヘモとよめり。下なるカヘルモシラニと對したるなればユカクモ又はユクモとよむべし○タチテツマヅキの例は卷四〈六六八頁)なる長歌に道守ノトハム答ヲ、イヒヤラムスベヲシラニトタチテツマヅクとあり。ここも跌《ツマヅ》くことにはあらで※[足+支]《ツマダ》つ事ならむ。即行かむか歸らむかと迷ひて足のおちつかざる趣ならむ〇八十ノココロはクサグサノ思といふ事か。アメツチニオモヒタラハシは上(二八二二頁)に例あり○略解に
  玉アハバ君來マスヤといふ二句は下のサニヅラフ君ガ名イハバの上に入べき詞也。いかにとなれば此歌は男の女の許より歸る道にての歌なるを此二句は全く女の男を待心にて前後かけ合ざれば也
といひ、古義にはセムスベノ云々より下を別の歌とし、又宣長は『モノノフノといふより六句は他の歌の亂れてこゝに入れるなり』といへり。しばらくアメツチニオモヒタラハシまでを前の歌としタマアハバより下を後の歌とすべし。さて前の歌は下半を失ひ後の歌は上半を失へるなり
 
(2850)たまあはば 君|來益八〔左△〕跡《キマサムト》 わがなげく 八尺《ヤサカ》のなげき (玉桙の) 道くる人の たちとまり いかにと問者《トハバ》 答遣《イヒヤラム》 たづきをしらに (さにづらふ) 君が名いはば 色にでて 人しりぬべみ (あしひきの) 山よりいづる 月まつと 人にはいひて 君まつ吾を
 タマアハバは相思ハバなり。例は卷十二(二六三三頁)にタマアハバ相ネムモノヲとあり。さてタマアハバと君來マスヤトと格相かなはず。君來益八跡は君來益六〔右△〕跡の誤ならむか〇八尺ノナゲキは長キタメ息ヲとなり○何常問者答遣を略解にイカニトトハバコタヘヤルとよみたれどさては格相かなはず。されば古義にはイカニトトハバイヒヤラムとよみて
  答(ノ)字イヒとよむは九卷にも妹之答久《イモガイヘラク》とあり
といへり。之に從ふべし。卷四(六六八頁)に道守ノトハム答ヲ、イヒヤラムスベヲシラニトとあると相似たり。イヒヤラムは今もいふと同意なれどただ、今はヤルは隔たれる人にいふをこゝはさし向へる人にいへるが異なるのみ。タヅキはやがてスベ(2851)なり○サニヅラフはこゝにては准枕辭なり。此句の上にサレバト云ウテといふことを加へて聞くべし○色ニデテは顔色ニアラハレテなり。人シリヌベミはこゝにては人ニ知ラレヌベキニヨりテなり○吾ヲは吾ゾなり。略解に
  卷十二にアシヒキノといふより下は短歌一首にして載たり。其短歌に妹マツワレヲとかはれるのみ也。こゝと彼といづれをとらむとする中にこゝは右の如く亂れたれば依がたく且長歌の末の句ともおもはれぬさまにもあれば卷十二の短歌に載し方に依べしと翁いはれき
といへれど二つながら存じて可ならずや○鈎は諸本に釣とあり
 
   反歌
3277 いをもねずわがもふ君は何處邊《イヅクヘニ》、今身〔左△〕誰與可《コヨヒタレトカ》まてど不來《キタラヌ》
眠不睡吾思君者何處邊今身誰與可雖待不來
     右二首
 何處邊を略解にイヅクヘヲとよみ古義にイヅクヘニとよめり○第四句を略解に(2852)は今夜訪與可の誤としてコヨヒトフトカとよみ古義には今夜座世可の誤としてコヨヒイマセカとよめり。身を宵などの誤としてコヨヒタレトカとよむべし。其下にヌラムを略せるなり。古歌には往々辭を略せるものあり。たとへば卷十一に
  あらそへば神もにくますよしゑやしよそふる君がにくからなくに(二四二六頁)
とあるはヨシヱヤシの下に爭ハジを略せるにて又
  この夜らのありあけづくよありつつも君をおきてはまつ人もなし(二四三一頁)
とあるはアリツツモの下に君ヲバ待タムを略せるなり
    ○
3278 赤駒の 厩立《ウマヤヲタテ》 黒駒の 厩立而《ウマヤヲタテテ》 そを飼ひ 吾〔左△〕往如《ノリユクゴトク》 思妻 心にのりて 高山の 峯のたをりに いめたてて しし待如《マツゴトク》 床敷而《トコシクニ》 わがまつ公《キミニ》 犬なほえ行〔左△〕年《ソネ》
赤駒厩立畔駒厩立而彼乎飼吾往如思妻心乘而高山峯之手折丹射目立(2853)十六待如床敷而吾待公犬莫吠行年
 眞淵のいへる如く此歌も二首の亂れて一首となれるなり。即心ニノリテまでは男の歌、タカ山ノ以下は女の歌の斷篇なり
 厩立を古義にはウマヤタテとよめり。舊訓の如くヲを添へてウマヤヲタテとよむべし○吾往如を略解にワガユクガゴトとよみ古義にワガユクゴトクとよめり。吾を乘の誤としてノリユクゴトクとよむべし。ノリユクゴトク心ニ乘リテと照應せるなり○オモヒヅマココロニノリテは思妻ガ我心ニ乘リテとなり
 タヲリは山の端の撓める處をいふ。今も中國にて峠をタヲといふ處あり。略解に『打タヲリタムノ山といふに同じ』といへるは非なり。彼(一七〇八頁)は打手折|矯《タム》とかゝれるのみ○射目は射部の借字にて射部は射手の隊なり(一〇三七頁參照)。略解にイメタテテを枕辭とせるはいみじき誤なり○床敷而を宣長は而を爾の誤としてトコシクニとよめり。而のまゝにてもニとよみつべし。卷十にもミナゾコサヘ而《ニ》テラス舟(二〇一八頁)またマスラヲノココロハナシ而《ニ》(二一〇一頁)とあればなり。さてトコシクニは常ニなり○公を從來キミヲとよめり。宜しくキミニとよむべし。行年を(2854)宣長は例の如く所年の誤とせり
 
   反歌
3279 葦垣の末かきわけて君こゆと人になつげそことはたなしれ
葦垣之末掻別而君越跡人丹勿告事者棚知
     右二首
 犬におほせたるなり。タナシレの語例は卷一なる藤原宮役民作歌(八一頁)に
  そをとるとさわぐ御民も、家わすれ身もたなしらず
 卷九(一七三八頁)に
  かなどにし人の來たてば夜中にも身はたなしらすいでてぞあひける
 同卷なる詠眞間娘子歌(一八五四頁)にも身ヲタナシリテとあり。二註は『コハタナシレはサヤウニ心得ヨといふ意なり』といふ宣長の説に從へり。タナは副詞にてタシカニなどいふ意とおぼゆ。サヤウニには當らじ
    ○
(2855)3280 わがせこは まてど來まさず あまの原、ふりさけ見れば (ぬばたまの) 夜もふけにけり さよふけて あらしのふけば 立留《タチトマリ》 待吾袖爾《マツワガソデニ》 ふる雪は こほりわたりぬ 今更に きみ來まさめや (さなかづら) 後もあはむと なぐさむる 心をもちて み袖もち 床うちはらひ うつつには 君には不相《アハズ》 いめにだに あふとみえこそ 天《アメ》の足夜《タリヨ》に
妾背兒者雖待不來益天原振左氣見者黒玉之夜毛深去來左夜深而荒風乃吹者立留待吾袖爾零雪者凍渡奴今更公來座哉左奈葛後毛相得名草武類心乎持而三袖持床打拂卯管庭君爾波不相夢谷相跡所見社天之足夜于
 二註に立留待吾袖爾を立待爾吾袖爾の誤としてタチマツニワガコロモデニとよめり。もとのまゝにて舊訓の如くタチトマリマツワガソデニとよみて可ならずや。タチトマリは卷二(三二七頁)なる長歌に
(2856)  たまほこの道くる人の、なく涙ひさめにふれば、しろたへのころもひづちて、立留吾にかたらく
 上(二八四七頁)にも
  玉ほこの道くる人の、立留いかにと問はば
とあり○ナグサムルは自慰ムルなり。ミソデのミは無意義の添辭のみ。二註に『眞袖といふに同じくて左右の袖をいへり』といへるは非なり。右利ならは右の袖をこそ用ふべけれ。卷十六なる
  とよ國の企救の池なる菱のうれをつむとや妹が御袖ぬれけむ
の御袖も御と書けるは借字にてこゝの三袖と同じくミは添鮮に過ぎず○不相を古義にアハジ、と改めたるは却りてわろし。もとの如くアハズとよむべし。さて其次にサレバといふことを加へて聞くべし○天之足夜を略解に『長き夜を云』といへるは非なり。足日の例を思へばケッコウナ夜といふことにて長の意はあらじ。ただ夜に媚びて天ノタリ夜といへるのみ。さて天はアメとよむべし
 
   或本歌曰
(2857)3281 吾背子は まてど不來《キタラズ》 かりがねも とよみてさむし (ぬばたまの) 夜もふけにけり さよ深跡〔左△〕《フケテ》 あらしのふけば たちまつに わがころもでに おく霜も 永《ヒ》にさえわたり ふる雪も こほりわたりぬ 今更に 君|來目八《キタラメヤ》 (さなかづら) 後もあはむと (大舟の) おもひたのめど うつつには 君には不相《アハズ》 いめにだに あふと見えこそ 天のたり夜に
吾背子者待跡不來鴈音文動而寒烏玉乃宵毛深去來左夜深跡阿下乃吹者立待爾吾衣袖爾置霜文氷丹左叡渡落雪母凍渡奴今更君來目八左奈葛後文將會常大舟乃思憑迹現庭君者不相夢谷相所見欲天之足夜爾
 夜に對してカリガネモといひカリガネに對して夜モといへるにて上〈二八〇七頁)なるアマ橋モ〔右△〕長クモガモ、高山モ〔右△〕タカクモガモと同例なり○深跡は深而の誤ならむ。さらばフケテとよむベし○氷《ヒ》ニは氷トなり。サエは冷《ヒエ》なり
 
   反歌
(2858)3282 ころもでにあらしのふきてさむき夜を君|不來者《キタラズバ》ひとりかもねむ
衣袖丹山下吹而寒夜乎君不來者獨鴨寢
 
3283 今更にこふとも君にあはめやもぬる夜|乎〔左△〕《モ》おちずいめにみえこそ
今更戀友君爾相目八毛眠夜乎不落夢所見欲
     右四首
 乎は毛の誤ならむ
    ○
3284 (すがの根の) ねも一伏三向《コロ》ごろに わがもへる 妹〔左△〕《セコ》によりては 言の禁《イミ》も なくありこそと いはひべを いはひほりすゑ たか珠を 間なくぬき垂《タレ》 天地の 神をぞわがのむ 甚《イタ》もすべなみ
菅根之根毛一伏三向凝呂爾吾念有妹爾縁而者言之禁毛無在乞常齊戸乎石相穿居竹珠乎無間貫垂天地之神祇乎曾吾祈甚毛爲便無見
    今案不v可v言2因妹者〔三字右△〕1。應v謂2之縁君〔二字右△〕1也。何則反歌云2公之隨意〔四字右△〕1焉
(2859) 一伏三向をコロとよむ所以は卷十(一九三八頁)及卷十二(二六二六頁)にいへり○言ノイミモ云々を略解に『神モナイサメソといふ也』といひ古義に『わがこひねぐ詞を禁《イサメ》給ふなと神に申すよしなるべし』いひ犬※[奚+隹]隨筆卷二(上四四頁)に
  言之禁は人の我を凶かれと思ひていふ言靈の害をいふべし。そは歌の意を按るにさることなかれと神に乞祈よしなればなり。且此歌の或本歌には言之禁を言之故とかけり。この故〔右△〕も後にコトユヱナクといへる故に同じく即詛言の言靈などやうのことをさして故ナカレといへるにて遂には言之禁と一意におつめり
といへり。案ずるに言ノイミはみづから不用意に發せし言辭によりて蒙る禍なるべし○イハヒベヲ云々の語例は近くは卷九(一八二二頁)にあり○甚を二註にイタとよめり。然るに文字辨證(下卷二七頁)に卷十三以下に伊多母と書ける例あれど多はトとよむべければこれもイトモとよむべしといへり。辨證に擧げたる例のみにては多はトとよむべき事確ならず。たとひトとよむべくとも言語には轉訛といふ事あればいにしへイトをイタ(又はイタをイト)といひけむこと怪むべきにあらざればなほイタとよむべし
(2860) 左註の意は
  反歌に公ガマニマニとあり。公《キミ》は女より男を指していふ稱なれば此歌は女の歌ならざるべからず。從ひて妹ニヨリテハとあるは君ニヨリテハの誤ならざるべからず
といへるなり。案ずるに集中に男より女を指してキミといへる例少からず(二八二五頁參照)。否公の字を借り書ける例さへあれば(二二九九頁參照)キミガマニマニとある故を以て此歌を女の歌とは定むべからず。されど反歌に母ニモイハズツツメリシとあれば此歌はなほ女の歌とすべく從ひて妹ニヨリテハとはいふべからず。訓義辨證(上卷三四頁)には
  妹は※[女+夫]を誤れるらなむ。※[女+夫]は義訓にてキミとよむべし(○採意)
といへり。もし※[女+夫]の誤とせばセコとよむべくや。言ノイミモナクアリコソと神に祈るも寧婦人の情なり。ノムは祈ルなり
 
   反歌
3285 (たらちねの)母にも不謂《イハズ》つつめりし心は縱《ヨシヱ》きみがまにまに
(2861)足千根乃母爾毛不謂※[果/衣]有之心者縱公之隨意
 不謂を古義にノラズとよめり。舊訓の如くイハズとよむべし○縱は契沖がヨシヱとよめるに從ふべし。略解にユルスとよめるはいみじきひが事なり○はやく卷十一(二三五五頁)に
  たらちねの母にしらえずわがもたる心は吉惠《ヨシヱ》君がまにまに
とあり
 
   或本歌曰
3286 (たまだすき) かけぬ時なく わがもへる 君によりては △ しづ幣を 手にとりもちて 竹《タカ》珠を しじにぬきたれ 天地の 神をぞわがこふ いたもすべなみ
玉手次不懸時無吾念有君爾依者倭父弊〔二字左△〕乎手取持而竹珠呼之自二貫垂天地之神呼曾吾乞痛毛須部奈見
 契沖は
(2862)  前後の歌によるに君ニヨリテハの下に二句ばかりおちたるか
といへり。コフはやがてノムなり。卷十五にもアメツチノ神ヲ許比ツツアレマタム
とあり○父は文、弊は幣の誤なり
 
   反歌
3287 あめつちの神をいのりてわがこふるきみにかならずあはざらめやも
乾地〔左△〕乃神乎祷而吾戀公以〔左△〕必不相在目八方
 地は坤の誤なり。以は契沖の云へる如く似の誤ならむ
 
    或本反〔□で囲む〕歌曰
3288 (大船の) おもひたのみて (木始己《サナカヅラ》) いやとほながく わがもへる 君によりては 言の故も なくありこそと (ゆふだすき) 肩にとりかけ いはひべを いはひほりすゑ あめつちの 神にぞわがのむ いたもすべなみ
大船之思憑而木始己彌遠長我念有君爾依而有〔左△〕言之故毛無有欲得木綿(2863)手次肩荷取懸忌戸乎齊穿居玄黄之神祇二衣吾祈甚毛爲便無見
     右五首
 木始已を大神景井は木防己の誤としてアヲツヅラとよめり。此説に基づきてサナカヅラとよむべし。新撰字鏡に木防己(ハ)佐奈葛とあればなり。始の字元暦校本及類聚古集には妨とあり。されば防を妨に誤り更に始に誤れるなり○言ノ故は言語によりて起る事故といふ事なるべし○上に神乎ゾワガ祈《ノム》とありてここにに神祇《カミ》二〔右△〕ゾワガ祈《ノム》とあり。神ヲ〔右△〕イノルとも神ニ〔右△〕イノルともいふと同例なり
    ○
3289 (みはかしを) つるぎの池の はちす葉に たまれる水の ゆくへ無《ナミ》 わが爲《スル》時に あふべしと 相〔左△〕有《キコセル》君を 莫寢《ナネソ》と 母きこせども (わがこころ) 清隅の池の 池の底 吾〔左△〕者不忍〔左△〕《ソコハオモハズ》 ただにあふまでに
御佩乎剱池之蓮葉爾渟有水之往方無我爲時爾應相登相有君乎莫寢等母寸巨勢友吾情清隅之池之池底吾者不忍正相左右二
(2864) こは女の作れる歌なり○古義にミハカシヲはミハカシノといふに同じといへるは非なり。このヲは一種の助辭なり(二七七八貢參照)○剱(ノ)池は大和國高市郡にあり。此池を作りし事は應神天皇紀に、此池に竝頭の瑞蓮の生ぜしことは舒明皇極二天皇紀に見えたり○初四句は序なり○往方無我爲時爾を略解にユクヘナミワガスルトキニとよみ古義にユクヘナクアガセシトキニとよめり。前者に從ふべし。さて其意を略解に
  露のたまれるがあとかたもなくこぼれ失るを戀の思の行へなきにたとふ
と釋し古義に
  蓮葉にたまりたる水は風などの吹過ればあるが中にもはかなくこぼれやすくて跡方もなきものなればユクヘナクの序とせり
と釋したる共に非なり。抑ユクヘといへるにユキシ方の意なるとユクベキ方の意なるとあり(二四六三頁參照)。こゝなるは後者にて蓮葉に露のたまりてこぼれざるをユクヘナミの序とせるなり。さてユクヘナミワガスルトキニはセムスベヲ知ラヌ時ニとなり○相有を宣長は占相有の誤として又はもとのまゝにてウラヘルと(2865)よみ二註は之に從へり。宜しく聞有の誤としてキコセルとよむべし。ノタマヘルとなり。次にも母キコセドモとあり○莫寢を二註にナイネソとよめり。交?の代に寢といへるなればイは不用なり。宜しくナネソとよむべし○キコセドモはノタマヘドモなり。はやく卷十一(二四五四頁)にイサトヲキコセワガ名ノラスナ、卷十二(二六七二頁)にアハムトキコセ戀ノナグサニとあり○ワガココロは清にかゝれる枕辭なり。清隅(ノ)池は大和國添上郡にあり。後のものには清澄とも書けり○吾者不忍を二註に忍を忘の誤としてフレハワスレジとよめり。さてワガココロ以下を略解には
  池の底はあだし心なく深く思ふ心をたとふ
といひ古義には
  君がため心の清淨なるからは異心はもたずと云なり。池底と云に心を奥深めて思ふ意をこめたるなり
といへり。案ずるにワガココロ清スミノ池ノ池ノ底の三句は序とおぼゆるに吾者不忍又は吾者不忘にかゝらむ由なし。吾者不忍は其者不思の誤にてソコハオモハズとよむべきならむ。ソコはソレハにて母ノ諌ハとなるべし。マデニはマデハなり(2866)〇二つの序共に池をつかひたるは故意なり
 
   反歌
3290 いにしへの神の時より會〔左△〕《モヒ》けらし今心文〔二字左△〕《イマモココロニ》つねわすらえず
古之神乃時從會計良思今心文常不所念
     右二首
 第四句を略解にイマノ心モとよみ古義にイマ心ニモとよめり。宜しく今文心の顛倒としてイマモ心ニとよむべし○第三句の會は念の誤ならむ。さらばモヒケラシとよむべし。さて上三句の意は我、君ヲ念フハ前生ノ大昔ヨリナラシとなり
    ○
3291 三芳野の 眞木たつ山に 青〔左△〕《シジニ》おふる 山すがの根の ねもころに わがもふ君は 天皇《オホキミ》の まけのまにまに【或本云おほきみのみことかしこみ】 (ひなざかる) 國をさめにと【或本云あまざかるひなをさめにと】 (むら鳥の) 朝たち行者《ユカバ》 おくれたる われか將戀奈《コヒナム》 客有《タビニアル》者〔□で囲む〕 君かしぬばむ いはむすべ せむすべしら(2867)に △△△△△《アシヒキノ》 △△△△△△△《ヤマノコヌレニ》【或書有足日木山之木末爾句也】 はふつたの 歸之〔□で囲む〕 別のあまた 惜物△《ヲシクモアル》かも
三芳野之眞木立山爾青生山菅之根乃慇懃吾念君者天皇之遣之萬萬【或本云王命恐】夷離國治爾登【或本云天疎夷治尓等】群鳥之朝立行者後有我可將戀奈客有者君可將思言牟爲便將爲須便不知【或書有足日木山之木末尓句也】延津田乃歸之【或本無歸之句也】別之數惜物可聞
 夫の任國に下らむとする時に妻のよめるなり○青を眞淵は重の誤としてシジニとよめり。初四句はネモコロニにかゝれる序なり○行者は略解に從ひてユカバとよむべし。將戀奈を舊訓にコヒムナとよめるを略解にコヒナムとよみ古義にも然よみて
  將戀奈と書けるはいさゝか心得がたき書法なれども十卷にコヒヌベシを可戀奴とかき十六卷にワカケムを將若異と書けると同例なり
といへり○客有者を從來タビナレバとよめり。宜しく者を衍字としてタビニアル(2868)又はタビナルとよむべし○アシヒキノ山ノコヌレニの二句が通本に無きは落ちたるなり。歸之は衍文なり。さてアシヒキノ以下三句は別にかゝれる序なり○末句を舊訓にヲシキモノカモとよめるを考に有の字を補ひてヲシクモアルカモとよめり
 
   反歌
3292 (うつせみの)命を長くありこそと留《トドマル》われはいは旱〔左△〕《ヒテ》またむ
打蝉之命乎長有社等留吾者五十羽旱將待
     右二首
 留を二註にトマレルとよめり。舊訓にトドマルとよめるに從ふべし○旱は古義に日手の誤とせり○卷八なる贈2入唐使1歌(一五〇八頁)に
  島づたひいわかれゆかば、とどまれる吾はぬさとり、いはひつつ公をばまたむ、はやかへりませ
とあると相似たり
    ○
(2869)3293 三吉野の 御金高《ミカネノタケ》に 間〔日が月〕《マ》なくぞ 雨はふるちふ 時じくぞ 雪はふるちふ 其雨の 間〔日が月〕《マ》なきがごと その雪の 不時如《トキジキガゴト》 間〔日が月〕《マ》もおちず 吾はぞこふる 妹が正香《タダカ》に
三吉野之御金高爾間無序雨者落云不時曾雪者落云其雨無間如彼雪不時如間不落吾者曽戀妹之正香爾
 卷一に
  三芳野の耳我《ミミガ》(ノ)山に、時じくぞ雪はふるちふ、間なくぞ雨はふるちふ、其雪の不時如、その雨の間なきがごと、隈もおちずもひつつぞくる、その山道を
とあり。今の歌は少くとも長歌に堪能ならざる人の此天武天皇の御製の末をすこし更へて自己の歌とせるなり。さればこそ間モオチズなど手づつなることを云へるなれ。元來此歌は間ナクと時ジクとを相對したるなればそを束ぬるに當りて一方に偏りて間モとはいふべきにあらざるなり○間を前註にヒマとよめるを古義に『間〔日が月〕をヒマとよむは古言に非じ』といひてマとよみ改めたり○不時如を二註にト(2870)キジクガゴトとよめり。宜しくトキジキガゴトとよむべし(卷一【四六頁】及此卷【二八二五頁】參照)○末二句の例は卷九なる長歌(一八一八頁)に
  冬のよをあかしもかねて、いもねずに吾はぞこふる、妹がただかに
とあり。タダカは玉勝間卷八(全集第四の一八四頁)に
  タダカとは君また妹をただにさしあてていへる言にて君妹とのみいふも同じことに聞ゆるなり
といへり○略解に『タダカ爾の爾は乎を誤れるなるべし』といへるはいみじき誤なり○此歌は又上(二八二三頁)に
  をはり田のあゆ道の水を、間なくぞ人はくむちふ、時じくぞ人はのむちふ、くむ人の間なきがごと、のむ人の不時之如、吾妹子にわがこふらくは、やむ時もなし
とあると相似たり
 
   反歌
3294 み雪ふる吉野のたけにゐる雲のよそに見し子にこひわたるかも
三雪落吉野之高二居雲之外丹見子爾戀度可聞
(2871)    右二首
 上三句は序なり。ヨソニはヨソナガラなり(二四七五頁參照)
    ○
3295 (うちひさつ) 三宅の原ゆ 當士《ヒタツチ》に 足ふみ貫《ヌキ》 夏草を 腰になづみ いかなるや 人の子故|曾〔左△〕《カ》 かよはすも吾子《アゴ》』 諾諾名△《ウベナウベナ》 母は不知《シラジ》 諾諾名△《ウベナウベナ》 父は不知《シラジ》 (みなのわた) かぐろき髪|丹〔左△〕《ヲ》 眞木綿|持《モチ》 あざ左〔左△〕《ネ》ゆひ垂《タレ》 やまとの つげのをぐしを おさへさす 刺〔左△〕細子《コシボソノコ》 それぞわがつま
打久津三宅乃原從當士足迹貫夏草乎腰爾莫積如何有哉人子故曾通簀文吾子諾語名母者不知諾々名父者不知蜷腸香黒髪丹眞木綿持阿邪左結垂日本之黄楊乃小櫛乎抑刺刺細子彼曾吾※[女+麗]
 第九句即カヨハスモ吾子までは人の問に擬したるなり。さて一首を問答二段に分ちたれば各段の末に五七七の句を用ひたるなり○常にはウチヒサスといふをウ(2872)チヒサツといへるはスを訛《ナマ》りてツといひしが故なり。卷十四にも宇知比佐都ミヤノセガハノとよめり○當土は一本に常土とあり。契沖は
  當土は常土に作れるに依るべし。常陸國の如し
といひ雅澄は常土に改めたり。もとのまゝにてもあるべくや。ヒタツチは俗語の地ベタなり。古義に『俗にいふ平地なり』といへるは非なり。貫は略解にヌキとよめるに從ふべし。古義にツラネとよめるは非なり。さてヒタツチニ足フミヌキは靴もはかでゆくゆく地上に跡を印するなり。古義に『馬にも籠にも乘らずて直に土上を歩き行よしなり』といへるは從はれず○ナヅムは行惱むなり。夏草乎腰爾莫積(元暦校本に莫を魚とせり)は夏草ニ腰ナヅミといふべきが如くなれど卷十九にもフル雪乎腰爾ナヅミテとあればいにしへかやうにも云ひしなり○イカナルヤのヤは助辭にてイカナルは子にかゝれり。故曾の曾は香などの誤ならざるべからず。下なるツマトイハジトカモ、オモホセル君と相似たる格なり○契沖眞淵等が問者をよそ人としたるは非なり。こは親の問へるなり。さればこそ吾子《アゴ》といひ又答にウベナウベナ母ハ知ラジ云々といへるなれ
(2873) 名の下に今一つの名の字あるべきなり。不知を從來シラレズ又シラセズ又シラズとよめり。宜しくシラジとよむべし。母ハシラジが主にて父ハ知ラジはただ副へて云へるのみ○持はモチとよむべし。モテはモチテの略にて後世風なり○阿邪左は宣長が左を尼の誤としてアザネとよめるに從ふべし。但宣長が『髪に木綿を交へゆひたるゝ也』といへるは非なり。案ずるに髪丹の丹は乎の誤なり。アザヌはアザナフにおなじ。されば木綿もて髪を糾ひ結ひて垂るゝなり。垂はタレとよむべし(古義にはタリとよめり)○ヤマトを眞淵は山邊郡の郷名としたれど(此地をヤマト又オホヤマトといふは倭(ノ)大國魂(ノ)神即大和神社のしづまりませるによりてなり)なほ契沖のいへる如くヤマトノは大和ノ國産ナルといふ意ならむ。果して然らば此歌は大和國ならぬあだし國(たとへば河内)の人の作れるなり○刺細子を眞淵以下敷細子の誤としてシキタヘノ子ハとよめり。さるは卷十なるアカラヒク色妙子を例とせるなれど彼はイロタヘナル子とよむべき事彼卷(二〇二四頁)にいへる如し。さて今は腰細子の誤としてコシボソノコと六言によむべし。子ハといひてソレゾとはいふべからざればハはよみ添ふべからず。腰細は美人の形容なり。はやく卷九なる詠2(2874)末(ノ)珠名|娘子《ヲトメ》1歌(一七三五頁)にも見えたり
 
   反歌
3296 父母に知らせぬ子故三宅道の夏野の草をなづみ來《クル》かも
父母爾不令知子故三宅道乃夏野草乎菜積來鴨
     右二首
 こゝの子ユヱは女ノ爲ニなり(二八一三頁參照)。孝徳天皇紀(大化五年)には凡此伽藍者元非2自身故造1の故をタメニとよめり○來は舊訓に從ひてクルとよむべし(古義にはケルとよめり)
    ○
3297 (たまだすき) かけぬ時なく わが念《オモフ》 妹にしあはねば (あかねさす) ひるはしみらに (ぬばたまの) よるはすがらに いもねずに 妹《イモニ》こふるに いけるすべなし
玉田次不懸時無吾念妹西不會波赤根刺日者之彌良爾烏玉之夜者酢辛(2875)二眠不睡爾妹戀丹生流爲便無
 カケヌは心ニカケヌなり。念は舊訓に從ひてオモフとよむべし(古義にはモヘルとよめり)○妹は古義にイモニとよめるぞよろしき。イモヲとよまむは後世風なり○イケルスベナシは生キタル詮ナシといふこととおぼゆ。此卷の末にも例あり
 
   反歌
3298 よしゑやし二二火四《シナムヨ》わぎもいけりともかくのみこそわがこひわたりなめ
縱惠八師二二火四吾妹生友各鑿社吾戀度七日〔左△〕
     右二首
 代匠記に
  二二は四の義に借り火は五行を以て五方を配する時南方は火なる故に火を南の字になしてかれる歟
といひ訓義辨證下卷(二四頁)に
(2876)  こはいさゝか物遠き借字なれど集中稀にかゝる事もあるなり
といひて五行の外五色五音を五方に借りたる例を擧げたれどそは金を西《ニシ》に借りたる類にて(金をサイとよませたる例にあらねば)今の例とはしがたし。但卷十(二〇二二頁)にコトモツゲナムとよむべき處に事毛告火と書きたれば強ひたる事ながらなほナムの借字に南と書くべきを戯れて火と書けるならむ(眞淵は火を去の誤とせり)○卷四にシナムヨ妹トイメニミエツル(六九四頁)又今ハ吾ハ死ナムヨワガセイケリトモ(七六五頁)とあり。卷十二にも
  今は吾は死なむよ吾妹あはずして念ひわたればやすけくもなし
  今は吾は死なむよ吾兄戀すれば一夜一日もやすけくもなし
とあり○三四の間に得逢ハズシテといふことを挿みて聞くべし。日は目を誤れるなり
    ○
3299 △△△△△《コモリクノ》 △△△△△△△《ハツセノカハノ》 見わたしに 妹らはたたし この方に 吾はたちて おもふそら やすからなくに なげくそら やす(2877)からなくに さにぬりの 小舟もがも 玉まきの 小かいもがも こぎわたりつつも 相語妻遠《アヒカタラメヲ》
見渡爾妹等者立志是方爾吾者立而思虚不安國嘆虚不安國左丹漆之小舟毛鴨玉纏之小※[楫+戈]毛鴨※[手偏+旁]渡乍毛相語妻遠
     或本歌頭句云こもりくのはつせのかはの、をちかたにいもらはたたし、このかたにわれはたちて
     或本歌頭句云己母理久乃波都世乃加波乃乎知可多爾伊母良波多多志己乃加多爾和禮波多知※[氏/一]
     右一首
 或本(ノ)歌に據りてミワタシニの前にコモリクノハツセノカハノの十二言を補ふべし。ミワタシニはアナタニなり○イモラのラは無意義の助辭なり。集中に例あり。日本紀(皇極天皇紀なる三輪山の猿の歌)には夫《セ》をセラといへる例さへあり○オモフソラ以下の四句とサニヌリノ以下の四句とは卷八(一五五七頁)なる憶良の七夕歌(2878)に見えたるまゝなり(小ガイが彼歌には眞カイとあるのみ異なり)○ソラはココチなり○結句を舊訓にアヒカタラメヲとよめるを略解に
  相語の下、妻は益の誤にてカタラハマシヲ歟。集中アラソフといふに相爭など書る例多し
といへり。案ずるになほアヒカタラメヲとよむべし。ムといふべきをメといへるにて卷十二(二五九一頁)なるタダ今日モ君ニハ相目跡〔左△〕《アハメヲ》と同例なり
    ○
3300 (おしてる) 難波の埼に ひきのぼる あけのそほ舟 そほ舟に 綱とりかけ 引《ヒキ》づらひ ありなみすれど いひづらひ ありなみすれど ありなみえずぞ いはれにし我身
忍照難波乃埼爾引登赤曾朋舟曾朋舟爾鋼板繋引豆良比有雙雖爲曰豆良賓有雙雖爲有雙不得叙所言西我身
     右一首
(2879) 初六句は引の一語にかゝれる序なり。埼ニは埼ユにおなじ。アケノソホ舟ははやく卷三(三七九頁)に見えたり。赤く塗れる舟なり○引豆良比を考以下に古事記八千矛神の御歌に
  をとめのなすやいたどを、おそぶらひわがたたせれば、比許豆良比わがたたせれば
とあるに依りてヒコヅラヒとよみたれど少くとも略解古義二註の解釋の如くば強ひてヒコとよむを要せじ。しばらく舊訓に從ひてヒキとよむべし。さてそのヒキヅラヒを考には引煩ラヒの意とし略解には
  ヒコヅリを延いふ也。カカヅリをカカヅラヒといふにひとし。ツリは連の意也。引よする意也
といひ古義には
  ヒコヅラヒは引にてヅラヒはその形容をいふ辭なり。次のイヒヅラヒも同じ。ニツラフ、アゲツラフ、ヘツラフなどのツラフもこれに同じかるべし。……今(ノ)俗にヒコヅルと云もヅルはヅラフの約りたるにて同じ
(2880)といひ又『物語日記などに見えたる引ジロフ、云ジロフは古言の引ヅラフ、云ヅラフと同じ云樣なり』といへり。まづ俗語のヒキズルは摩《スル》にてツルにはあらじ。次にツラフはただ形容をいふ辭にはあらでスマフといふ意の語ならむ。されば引ヅラフは引スマフ、イヒヅラフはイヒスマフならむ。後世のヒコジロフ、イヒジロフがいにしへのヒキヅラフ、イヒヅラフに當るべき事は古義にいへる如し○アリナミは否認なり。宣長が
  アリナミはアリイナミにて人のいひたつるを否といひて爭ふ事也。イナトイヒテアラソヒツレドモイナミ得ズシテ人ニイヒ立ラレシと也。右の如く見ざればイハレニシといふ詞又上の序もかなはず
といへる如し。但『上の序もかなはず』といへるは非なり。序はただヒキのみにかゝれるなればアリナミの意義にはかゝはらず
   ○
3301 (神風の) 伊勢の海の 朝なぎに 來よる深みる ゆふなぎに 來よるまた海松 ふか海松の ふかめし吾を またみるの またゆきか(2881)へり つまといはじとかも おもほせる君
神風之伊勢乃海之朝奈伎爾來依深海松暮奈藝爾來因俟海松深海松乃深目師吾乎俟海松乃復去反都麻等不言登可聞思保世流君
     右一首
 初六句は一種の序なり。卷二(一八七頁)なる人麻呂の長歌に
  つぬさはふ石見の海の、ことさへぐからの埼なる、いくりにぞ深みるおふる、ありそにぞ玉藻はおふる、玉藻なすなびきねし兒を、深みるのふかめてもへど云々
とあると似たり○フカメシは心ヲ深メシなり。但正しくはフカメタルといふべし○マタユキカヘリは又來歸リといはむにひとし。古義に『又年月日ノユキカヘリと云なり』といへるは非なり○オモホセルにて切れてカモを承けたるなり。オモホセル君とつづけては心得べからず○こは伊勢の國司などが其國にて逢ひし女に別れし時に作れるなり。君は女を指していへるなり。古義は誤解せり
    ○
(2882)3302 きの國の 室の江の邊に 千年に 障《サハル》ことなく よろづ世に 如是《カクシモ》あらむと (大舟の) やもひたのみて △ 出立之《イデタチノ》 きよき瀲に 朝なぎに 來よる深みる 夕なぎに 來よるなはのり 深みるの ふかめし子らを なはのりの 引者《ヒケバ》たゆとや △ 散度《サト》人の 行の長〔左△〕《ツドヒ》に (なく兒なす) 行取〔左△〕左具利《ユキヨリサグリ》 △ 梓弓 弓腹《ユハラ》ふりおこし 志之岐羽を ふたつたばさみ はなちけむ 人しくやしも 戀思者《コフラクモヘバ》
紀伊國之室之江邊爾千年爾障事無萬世爾如是將有登大舟乃思恃而出立之清瀲爾朝名寸二來依深海松夕難伎爾來依繩法深海松之深目思子等遠繩法之引者絶登夜散度人之行之長爾鳴兒成行取左具利梓弓弓腹振起志之岐羽矣二手挟離兼人斯悔戀思者
     右一首
 此歌脱句多し。眞淵が挽歌とせるはもとよりひが事にて宣長が紀國より京に歸り上る男の歌とせるもひが事なり。ヒケバタユトヤといひハナチケムといへるを思(2883)へば紀國に下れる人の其國の女と同棲せしに女の背き去りしかばそを悲しみて作れるなり
  紀國に下れる人といふはキノ國ノとうたひ起したる、其國人の調にあらざればなり。然も國司にはあらじ。國府は當國の北端なる名草郡にあり室は當國の東南部にありていたく相距ちたれば國司が室に住むべきにあらず。千年ニ障コトナクヨロヅ世ニ如是アラムトといへるも任期四年に過ぎざる國司の調にあらず
室は牟婁なり。室之江は牟婁港即今の田邊港か○障を略解にサハルとよみ古義にツツムとよめり。ミナト入ノアシワケ小舟|障《サハリ》オホミなどもあればサハルとよむべし○如是は古義に從ひてカクシモとよむべし。略解にはカクモとよめり○千トセニ、ヨロヅ世ニは今ならばチトセモ、ヨロヅ世モといふべきなり○オモヒタノミテの下に同棲セシニといふ意の二句あるべきなり○出立之はイデタチノとよむべし。さてイデタチノ以下六句は例の一種の序なり。宣長が『オモヒタノミテは下の深メシ子ラといふへつづけり』といへるは非なり○イデタチノは門前ノといふ意なり。古義に『山の成出たるさまなり』といへるは非なり○フカメシは我心ヲ深メテ思(2884)ヒシとなり。ナハノリは一種の海苔なり○引者を古義にヒカバとよめるはタユトヤと相協はねばわろし。略解の如くヒケバとよむべし。人の引カバ絶エムトヤハとなり○タユトヤの下に豫期セシといふ意の二句おちたるなり○散度人を古義にサドヒトとよみて『サトビトと云べきをヒの濁音を上へ轉じてサドヒトと云るなり』といへるは非なり。度を清音のトに借れるなり。度は集中に多くは濁音に用ひたれど元來清音なる上に卷二十にイヒシコトバゾのトを度と書けり○長は屯の誤なる事考にいへる如し。諸本にも屯とあり。ツドヒともイハミともよむべし。ユキノ屯ニはユキツドヘル處ニとなり○行取左具利の取は依などの誤ならむ。卷九なる過2葦屋處女墓1時歌にもコノ道ヲユク人毎ニ、行因リテイタチナゲカヒとあり○左具利の下に求ムレド求メカヌルニといふ意の二句をおとせるなり○梓弓以下四句は序なり。弓腹は弓末なり。古事記なる天照大御神の御装をいへる處にも弓腹振立而とあり。志之岐羽は矢の名とおぼゆれどいまだ考へず○ハナチケムは女ヲ我ヨリ引離チケムとなり。人は勿論弟三者なり。宣長が『人とは即女を指す』といひ雅澄が『人は我の誤にはあらざるか。人にても自のことなり』といへる、共に非なり○末句(2885)を略解にコフルオモヘバとよみ古義にコフラクモヘバとよめり。後者に從ふべし。ワガカク戀フル事ヲ思ヘバとなり。卷十(一九六一頁)にもヤムトキモナク戀良苦念者とあり
    ○
3303 里人の われにつぐらく ながこふる うつくし妻は もみぢ葉の ちり亂有《ミダレタル》 神名火の 此山邊から【或本云その山べ】 (ぬばたまの) 黒馬《クロマ》にのりて 河の瀬を 七湍わたりて うらぶれて 妻は會登《アヒキト》 人ぞつげつる
里人之吾丹告樂汝戀愛妻者黄葉之散亂有神名火之此山邊柄【或本云彼山邊】烏玉之黒馬爾乘而河瀬乎七湍渡而裏觸而妻者會登人曾告鶴
こは隱妻のうせし時男の作れるにてモミヂ葉ノ以下十句は送葬のさまなり。眞淵宣長以下皆女の歌として妻を夫の借字とせり。そは反歌に公ガタダカヲとあるによれるなれど男より女を指してもキミといひ又公の字をさへ書ける例ある事は(2886)やく云へる如し(二三九九頁及二八二六參照)。又宣長雅澄は挽歌にあらすといへれどウラブレテ妻ハアヒキトとあればなほ挽歌なり。されば此歌は眞淵のいへる如く下の挽歌の部に収むべきなり○卷二(三〇一頁)なる人麿呂の長歌に
  大とりのはがひの山に、ながこふる妹はいますと
といへると相似たる所あり
 ウツクシ妻はカハユキ妻なり。亂有を古義にミダリタルとよめるはわろし。ミダレタルとよむべし。さてチリミダレタルは今ちりみだるるにはあらず地上に散り亂れたるなり○コノ山ベカラは或本にソノとあるを採るべし。山ベカラは山邊ヲ經テなり○黒馬はクロマとよむべし。略解にコマとよめるは非なり(六五二頁及一四七九頁參照)○河瀬は飛鳥川なり。ウラブレテは物思ヒツツなり。會登はアヒキトとよむべし。考以下にアヘリトとよめるはわろし
 
   反歌
3304 聞かずして然黙〔二字左△〕《モダ》あらましをなにしかも公《キミ》がただかを人のつげつる
不聞而然黙有益乎何如文公之正香乎人之告鶴
(2887)    右二首
然黙は黙然の顛倒なり。キミガタダカヲは君ノ上ヲなり
 
   問答
    ○
3305 物もはず 道|行去毛〔左△〕《ユキナムヲ》 青《ハル》山を ふりさけみれば △ (つつじ花) 香《ニホヒ》をとめ (さくら花) 盛《サカエ》をとめ 汝《ナ》をぞも 吾《ワ》によすちふ 吾《ワ》を毛曾〔左△〕《ゾモ》 汝《ナ》によすちふ 荒山も 人しよすれば 余所留跡序云《ヨソルトゾイフ》 なが心ゆめ
物不念道行去毛青山乎振放見者茵花香未通女櫻花盛未通女汝乎曾母吾丹依云吾※[口+リ]毛曾汝丹依云荒山毛人師依者余所留跡序云汝心勤
 行去毛の毛は乎の誤なる事明なり。さればミチユキナムヲとよむべし○青山を古義にハル山とよみて『五色を四時に配るとき青は春に當ればかくは書り』といへり。
 アキハギ、アキカゼのアキを白と書けると同例なり○フリサケミレバの下に脱句(2888)あり。今のまゝにては上四句のかゝる處なし。おそらくはもと
  物もはず道ゆきなむを、はる山をふりさけ見れば、つつじ花さきにほひたり、さくら花さきさかえたり、つつじ花香をとめ、さくら花盛をとめ
とありしならむ○香盛を略解にニホヘル、サカエルとよみ古義にニホヒ、サカエとよめり。後者に從ふべし。サカエを盛と書ける例は此卷の上(二七八四頁)にもシナヒ盛《サカエ》テとあり○ヨスは俗にいふ取持ツなり。イヒ寄ス、言ヨスとは別なり。吾ヲの下の毛曾は曾毛の顛倒なり○余所留跡序云を舊訓にワガモトニトドムトゾイフとよみたりしを宣長始めてヨソルトゾイフとよみ得き。ヨソルは寄ルなり。心ナキ荒山モ人ノ取持テバ寄ルトゾイフ、ナガ心ヨ、ユメツレナカルナといへるなるべけれどナガココロユメの一句平穩ならず
 
   反歌
3306 いかにしてこひやむものぞ天地の神をいのれど吾はおもひます
何爲而戀止物序天地乃神乎祷迹吾八思益
(2889)     ○
3307 しかれこそ としの八歳を きる髪の 吾|同〔左△〕《メ》子をすぎ (橘の) 末枝〔二字左△〕《トキ》をすぎて (此河の) したに文〔左△〕《ヲ》ながく 汝〔左△〕情《ワガココロ》まて
然有社歳乃八歳※[口+リ]叫鑚髪乃吾同子※[口+リ]過橘末枝乎過而此河能下文長汝情待
 シカレコソはサレバコソにて人ノ君ヲ我ニ寄セ我ヲ君ニ寄スレバコソなり。コソの結は汝情待のマテなり○トシノ八トセヲは年久シクなり。此辭を眞淵以下八歳の時と心得たるは誤れり○此河ノはシタにかゝれる枕辭とおぼゆ。但此といへる不審なり。誤字ならざるか。シタニモはシタニヲとあらむ方まされり。文は乎を誤れるか○汝情待の汝は我の誤ならむ○キルカミノ以下四句はいと心得がたし。まづ吾同子を舊訓にワガミとよめるにつきて契沖は
  同子の意得がたし。もし同は胴か。子はよろづに添へて云詞なり
といひ眞淵は何多《カタ》の誤とし雅澄は肩の誤とせり。案ずるに同子は目子の誤として(2890)メとよむべきか。所謂目ざしの前髪の更にのびたるをキル髪ノワガ目《メ》子ヲスギといへるか○次に末技を舊訓及古義にホツエとよみたれど等伎の誤としてトキとよむべきか。果して然らばタチバナノを枕辭としトキを盛と心得べし。卷十四なる
  わがせこをあどかもいはむむざし野のうけらがはなのとき〔二字右△〕なきものを
 又卷二十なる
  いなみ野のあからがしははとき〔二字右△〕はあれどきみをあがもふときはさねなし
のトキも定まれる時にてやがて盛なり
 
   反歌
3308 天地の神|尾母〔左△〕吾者〔左△〕《ヲバワレモ》いのりてき戀ちふものはかつてやまずけり
天地之神尾母吾者祷而寸戀云物者都不止來
 弟二句は神尾者吾母にて母と者といりちがへるならむ〇カツテは後世のフツニなり。俗語のサッパリなり○ヤマズケリは止マザリケリなり。太古はかくヤマズとケリとをさながらつづけしを語法やうやう精しくなりて二語の相連れることを明にする爲にヤマズをヤマザリと變ずるやうになれるなり○考以下に上のイカ(2891)ニシテといふ反歌の轉りたるならむと云へるは非なり。まさしく問答の體を成せるにあらずや。但長歌に似つかはしからず又長歌より調の新しきは前註にいへる如し。元來以上四首の長短歌は次なる人麻呂集の歌を二首に割きて少し辭を更へ又反歌を加へたるなり
 
   柿本朝臣人麿之集歌
3309 物もはず 路行きなむ裳〔左△〕《ヲ》 青《ハル》山を ふりさけ見れば △ (つつじばな) 爾〔左△〕太遙《ミダエ》をとめ (さくら花) 在〔左△〕可遙《サカエ》をとめ 汝《ナ》をぞも 吾《ワ》によすちふ 吾をぞも 汝によすちふ 汝はいかにもふや』 おもへこそ としの八年を きる髪|與〔左△〕《ノ》 和子〔二字左△〕《ワガメ》をすぎ (橘の) 末枝〔二字左△〕《トキ》を須具里〔左△〕《スグマデ》 (此川の) したに母ながく 汝〔左△〕《ワガ》心|待《マテ》
物不念路行去裳青山乎振酒見者都追慈花爾太遙越賣作樂花在可遙越賣汝乎叙母吾爾依云吾乎叙物汝爾依云汝者如何念也念社歳八年乎斬髪與和子乎過橘之末枝乎須具里此川之下母長久汝心待
(2892)    右五首
 裳は袁の誤なり。フリサケミレバの下にツツジ花サキミダエタリ、サクラ花サキサカエタリなどいふ二句をおとせるなり○爾太遙を略解に遙を逕の誤としてニホヘルとよみたれど逕(經と通用す)はフルとこそよむべけれヘルとはよむべからず。古義にはニホエとよみて
  ニホエはニホヒと云に全同じ。香はニホヒなるをうつりてはニホヘともニホエとも活く詞なり。十九にもハル花ノ爾太要サカエテ云々とあり。この例は萎はシナヒなるをシナヘともシナエとも活して云が如し
といひ關鳧翁の傭字例には
  遙は邊の誤なるべし。ヘンをヘルと轉し用る例、達字の處にいへるが如し
といへり。案ずるに爾を彌の誤としてミダエとよむべし。ミダエはサキミダレのミダレなり(太はオホを略してホともよむべけれどそは男大迹《ヲホド》、穴太部《アナホベ》などの如く訓借の時こそあれ、此處の如く音借の中に交へ書かむはいかがなり)○在可遙の在は元暦校本に佐とあり○ナハイカニモフまでが問にてオモヘコソ以下は答なり。(2893)モフヤは念フゾなり
 オモヘコソは我モウレシト思ヘバコソなり○キルカミ與は乃を与と誤れるならむ○和子を契沖は和我同子《ワガミ》の誤とし眞淵は加多の誤とし雅澄は我肩の誤とせり。おそらくは我目の誤又は我目子の誤脱ならむ○末枝は等伎の誤にてタチバナノは時にかゝれる枕辭ならむ○須具里を從來スグリとよみてスギの延言とせり。スギを延べてスグリとはいふべからず。思ふに須具至《スグマデ》の誤なるべし。スグルマデをスグマデといへるは連體格の代に終止格をつかひたるなり。否スグとマデとをさながら聯ねたるなり○汝は吾又は我の誤なり
   ○
3310 (こもりくの) 泊瀬の國に さよばひに わがくれば たなぐもり 雪はふり來《キ》奴〔□で囲む〕 さぐもり 雨はふり來《キ》 (ぬつどり) 雉《キギシ》とよみ (家つとり) かけも鳴《ナキ》 さよはあけ 此夜はあけ奴《ヌ》 △ 入りて且《カツ》ねむ 此戸ひらかせ
(2894)隱口乃泊瀬乃國爾左結賠丹吾來者棚雲利雪者零來奴左雲理雨者落來野鳥雉動家鳥可鶏毛鳴左夜者明此夜者旭奴入而且將眠此戸開爲
 サヨバヒニのサは添辭、ヨバヒニは相寢ムトテなり○タナグモリ、サグモリはただクモリテといはむにひとし○雪ハフリ來の下の奴は削るべし。此字なき本あり。もし置かばむしろ雨ハフリ來の下におくべし○雉を二註にキギシハとよめり。もしハを添ふべくは雪者、雨者、左夜者、此夜者の例に依りて雉者と書くべきなり。さてここは辭なき方まされり○鳴を略解にナキとよみ古義にナクとよめり。前者に從ふべし○コノ夜ハアケ奴の奴にて雪ハフリ來《キ》、雨ハフリ來《キ》、キギシトヨミ、カケモナキ、サヨハアケを束ねたるなり○且を舊訓に旦の字と認めてアサとよみ古義に吾の誤としてアガとよめり。契沖に從ひてカツとよむべし。カツはシバラクなり○答歌と比較するに入リテカツネムの上に五言の一句おちたるなり。其句はシカスガニか○ヌツドリ以下の四句は古事記なる八千矛神の御歌にサヌツドリキギシハトヨム、ニハツトリカケハナクとあるに似たり
 
   反歌
(2895)3311 (こもりくの)はつせ少《ヲ》國に妻しあれば石はふめどもなほぞ來にける
隱來乃泊瀕少國爾妻有者石者履友猶來來
 ヲグニのヲは添辭なり、石ハフメドモといへるは答歌の反歌と對照するに川瀬ノ石ハフメドモといへるならむ
    ○
3312 (こもりくの) 長谷《ハツセ》をぐにに よばひせす 吾大皇寸〔三字左△〕《アセノミコト》よ 奥|床《ドコ》に 母はねたり 外床《トドコ》に 父はねたり おきたたば 母しりぬべし いでゆかば 父しりぬべし (ぬばたまの) 夜はあけゆきぬ ここだくも 不念如《オモフゴトナラヌ》 隱※[女+麗]《コモリヅマ》かも
隱口乃長谷小國夜延爲吾大皇寸與奥床仁母者睡有外床丹父者寢有起立者母可知出行者父可知野干玉之夜者昶〔左△〕去奴幾許雲不念如隱※[女+麗]香聞
 ヨバヒセスは相寢ムトテ來給フとなり○吾大皇寸を考に吾夫寸美の誤としてワガセノキミとよみ村田春海は吾夫尊の誤としてアガセノミコトとよみ雅澄は吾(2896)夫寸三の誤としてアガセノキミとよめり。春海の説に基づきてアセノミコトとよむべし。ミコトの例は卷九(一八四九頁)に出せり○外床を略解にトツドコとよみ古義にトドコとよめり後者に從ふべし。トドコは一室の中の口の臥床なり○末二句を舊訓にオモフゴトナラヌコモりヅマカモとよみ、考にシヌビヅマカモとよみ、宣長はオモハヌガゴトシヌブツマカモとよみ、雅澄は宣長の訓をオモハヌゴトクと改め、さて
  ココダクモはシヌブへかけて心得べし、オモハヌゴトクは相思ハヌ人ノ如クニの意なり。シヌブツマカモは父母ニ知セジトテシノビ隱ス夫《ツマ》カナとなり
といへり。案ずるに舊訓に從ひてオモフゴトナラヌコモリヅマカモとよむべし。ココダクモはオモフゴトナラヌにかゝれるなり。コモリヅマは作者自云へるなり○昶は旭の誤ならむ。昶《シヤウ》は字書に日長也とあればこゝにかなはず
 
   反歌
3313 川のせの石ふみわたり(ぬばたまの)黒馬之來夜者《クロマノクヨハ》、常にあらぬかも
川瀬之石迹渡野干玉之黒馬之來夜者常二有沼鴨
(2897)     右四首
 第四句はクロマノクヨハとよむべし。クル夜といふべきをクヨといへるは連體格の代に終止格をつかひたるなり(一四七七頁以下參照)○常ニアラヌカモは常ナレカシなり○此歌は卷四(六五二頁)なる大伴郎女の
  さほ河の小石ふみわたりぬばたまの黒馬の來夜は年にもあらぬか
と句々殆相同じ。郎女或は此歌を借りしにや。案ずるに大伴坂上郎女はすぐれたる作家なれば人の歌を借るべきにあらず。轉じて此贈答歌を見るに眞實の贈答歌にはあらで匿名の才子が戯に作りて贈答に擬せるものとおぼゆればこのクロマノクヨハといふ歌はもと坂上郎女の歌なるを此長歌の反歌とするにふさはしく又前の反歌の答とするにふさはしければ少し辭を更へて借り用ひたるにこそ
    ○
3314 (つぎねふ) 山しろぢを 人づまの 馬よりゆくに おの夫之《ヅマガ》 かちよりゆけば 見るごとに ねのみしなかゆ そこもふに 心しいた(2898)し (たらちねの) 母がかたみと わがもたる まそみ鏡に あきつ領巾《ヒレ》 おひなめもちて 馬かへ吾背
次嶺經山背道乎人都末乃馬從行爾己夫之歩從行者毎見哭耳之所泣曾許思爾心之痛之垂乳根乃母之形見跡吾持有眞十見鏡爾蜻領巾負並持而馬替吾背
 此歌どもも亦文人の綺語のみ。眞に無名の賤女賤夫の作れるなりと思はむはおそし
 ツギネフは枕辭なり。古事記なる石之比賣《イハノヒメ》命の御歌にツギネフヤマシロガハヲとあるに依れるなり。ヤマシロヂは山背へ行く道なり。作者もし奈良人ならば山背路はやがて歌姫|越《ゴエ》なり○馬ヨリ、歩ヨリは馬ニテ、徒ニテなり。ミルゴトニは人ノ夫ト我夫トクラベ見ルゴトニとなり。さてミルゴトニといへるを思へばその男は事ありてしばしば山背にかよひしなり。ソコモフニはソレヲ思フニなり○マソミカガミはマスミカガミを訛れるなり。略してマソカガミといひ後の世にはマス鏡とい(2899)ふ。マソミカガミニのニは下なる並《ナメ》にかゝれるなり○アキツヒレは薄絹の領巾にて卷三(四六二頁)なるアキツ羽ノ袖と同例なり。略解の説は非なり○オヒナメのオヒは常いふ負なり。宣長雅澄は之を價ニ出スといふ意とせり。こは鏡と領巾とは共に微量なるものにて負といふにふさはしからぬこゝちするが故ならめど、よく思ふに此鏡領巾は此女には寶物なればさるべき函に收めたるべくさてその函のままならば無論負並もすべきなり。又思ふに今の世は物をはこぶに多くは手にさげ、重きものならでは負ふ事無けれど、いにしへ人は今の人より物を負ふ事を好みけむかし○ウマカヘは馬買へなるを馬替と書けるは借字なり。
  買フと替フとは今は活も用絡も異なれど、もとは同語なるべし
略解には『馬ト替ヘヨの略なり』といへり。もし替の意ならばウマニカヘのニを古格に依りて省きたるものとせざるべからず。馬ト替ヘヨのトを略してウマカヘとはいふべからざればなり。さてこゝこそ馬ニ替ヘヨの意ともすべけれど下なる答歌の初句をウマカヘバとよみて馬ニ替ヘバの意とせむに此長歌の如く替代《カヘシロ》を擧げざれば突然にして穩ならず。さればなほこゝもかしこも馬買へ、馬買ハバの借字と(2900)すべし。卷十二(二六四七頁)にもトリカヒ〔右△〕ガハを取替河と書けり。又卷二(三〇一頁)にハガヒ〔右△〕ノヤマを羽易乃山と書けり。因にいふ。馬の價は孝徳天皇紀に
  凡官馬ハ中馬ハ一百戸毎ニ一疋ヲ輸《イタ》セ。若細馬ナラバ二百戸毎ニ一疋ヲ輸セ。ソノ馬ヲ買ハム直《アタヒ》ハ一戸ニ布一丈二尺
とあり。されば此天皇の御世には中馬は布三十端、上馬は布六十端にて買はれしなり
 
   反歌
3315 いづみ河わたり瀬ふかみわがせこが旅ゆきごろも蒙〔左△〕沾鴨《モノヌレムカモ》
泉河渡瀬深見吾世古我旅行衣蒙沾鴨
 イヅミ河は木津川なり。結句を眞淵は蒙を裳の誤としてスソヌレムカモとよみ雅澄は蒙を裳の借字又は誤字としてモヌラサムカモとよめり。宜しく蒙を裳の誤としてモノヌレムカモとよむべし○夫の衣の裳の沾れむを思ひて益?馬に乘せまほしく思ふ趣なり
 
(2901)   或本反歌曰
3316 まそかがみ雖持《モツトモ》われは記無《シルシナケム》君が歩よりなづみゆく見者《ミバ》
清鏡雖持吾者記無君之歩行名積去見者
 雖持、記無を從來モタレド、シルシナシとよみ見者を舊訓にミバ、考以下にミレバとよめり。モツトモ、シルシナケム、ミバとよむべし。君ガ歩ニテナヅミ行クヲタダニ見バ鏡ヲイツキ持ツトモ我ニハ詮ナカラムといへるなり
    ○
3317 馬|替者《カハバ》妹かちならむよしゑやし石はふむとも吾《ワ》はふたり行かむ
馬替者妹歩行將有縱惠八子石者雖履吾二行
     右四首
 これは夫の答なり○替者を略解にはカヘバとよみ古義にはカハバとよめり。カハバとよみて買ハバの借字とすべし。替は下二段活にてカハといふ活なければ買ハバの借字とはしがたきに似たれど元來買と替とはもと同語なるべき上に集中に(2902)はかゝる借字例もあり。すなはち經はフレヌとははたらかぬを卷十一(二二七〇頁)にウラブレヲレバを浦經居と書き又(二三三三頁)コヒウラブレヌを眷浦經と書けり。又卷四(六八九頁)にオクレを所贈と書き卷十二(二〇八三頁)にオクルルを所遺と書き又卷三(四一三頁及四一五頁)にツゲバ、ツギを告者、告と書き卷十(二〇二八頁)にツギテシを告と書けり○初二の意は馬ヲ買ヒテ我ソレニ乘ラバ事アリテ二人共ニモノニ行カムニ妹一人|徒《カチ》ナラムとなり。又結句は吾ハ妹ト共ニ徒ニテ行カムといへるなり○さて此歌の前に長歌ありしがおちたるならむ。もし眞實の贈答ならば夫は長歌を得作らざる事もあるべけれど、もとより詞客の戲作なれば右をゑがきて左をさしおくべきにあらす
   ○
3318 木の國の 濱によるちふ 鰒珠 拾はむといひて 妹の山 せの山こえて ゆきし君 いつ來まさむと (玉桙の) 道にいでたち 夕|卜《ウラ》を わがとひしかば 夕卜の 吾に告《ノ》らく 吾妹兒や ながまつ君(2903)は おきつ浪 來因《キヨル》しら珠 邊浪《ヘツナミ》の よする白珠 求むとぞ 君が來まさぬ 拾ふとぞ 公者〔左△〕《キミガ》來まさぬ 久ならば 今七日ばかり 早からば 今二日ばかり あらむとぞ 君はきこしし なこひそ吾妹
木國之濱因云鰒珠將拾跡云而妹乃山勢能山越而行之君何時來座跡玉桙之道爾出立夕卜乎吾問之可婆夕卜之吾爾告良久吾妹兒哉汝待君者奥浪來因白珠邊浪之縁流白珠求跡曾君之不來益拾登曾公者不來益久有今七日許早有者今二日許將有等曾君者聞之二二勿戀吾妹
 事ありて紀國に下りし人の歸らむを待てる女の作れるなり。イツ來マサムトはイツ歸リ來マサムトとなり○こゝの夕卜は夕方路傍に立ちて路ゆく人(おそらくは老女)をえらびて其人をしてことわらしめしならむ。古義に
  これは他人の物語して道をすぎゆくを聞て我身の上の事にとりなす占なれば即そを吾に告る語とするなり
といへるはいかが。吉とか凶とか今日とか明日とかいふ一語ならばこそあらめか(2904)く長々と當人の身上に適切なる事を人のさへづり行かむやは。大鏡兼家傳に
  この御母いかにおぼしけるにか、いまだ若うおはしましけるをり二條の大路に出でてゆふけ問ひ給ひければ白髪いみじく白き女のただ一人ゆくが立ちとどまりて何わざしたまふ人ぞ。もし夕け問ひたまふか。何事なりともおぼさむ事かなひて此大路よりも廣く長く栄えさせ給へよ。と申しかけてこそ罷りけれ
とあるをも思ふべし○來因を略解にキヨルとよみ古義にキヨスとよめり。前者に從ふべし。オキツ浪の下にニを略せるなり○邊浪は集中にオキツナミヘナミタツトモ、オキツナミヘナミノキヨルなど多くはヘナミといへれど又卷六(一〇四一頁)なる車持千年作歌に邊津浪とあり古事記なる八千矛神の御歌に弊都那美とあればこゝもヘツナミとよむべし○公者不來益の公者は公之の誤と認むべし。久有の下に者をおとしたるか。キコシシはノタマヒシなり
 
   反歌
3319 杖つきもつかずも吾はゆかめども公が將來《キタラム》道のしらなく
杖衝毛不衝毛吾者行目友公之將來道之不知苦
(2905) 初二は杖ヲツイテモツカイデモとなり。但ユクを言はむ設にいふ熟語にて深き意は無し。はやく卷三(五〇七頁)に見えたり。來ラムは歸り來マサムなり。シラナクは知ラレナクにて知ラレヌ事カナとなり
 
3320 ただに往かずこゆ巨勢道からいは瀬ふみ求《モトメ》ぞわがこしこひてすべなみ
直不往此從巨勢道柄石瀬蹈求曾吾來戀而爲便奈見
 上(二八二〇頁)に
  ただに來ずこゆこせぢからいははしふみなづみぞわがこしこひてすべなみ
とあると、もと一つの歌なり。タダニコズコユコス(近道ヲセズニココヲトホルといふ意)をコセ路にいひかけたるなり。されば初七言は枕辭なり。前註皆誤解せり○求を略解にトメとよめり。古義の如くモトメとよむべし。モトメニゾのニを略したるなり○眞淵は此歌を男の歌とし宣長は
  これも同じ女の歌なるべし。道ノシラナクとはよみつれどもなほ思ひかねて出立行ならん
(2906)といへり。案ずるに此歌はかのタダニコズといふ古歌のコズをユカズに、イハハシをイハセに、ナヅミをモトメに改めて右の長歌の反歌としたるならむ。これを思へば此長短歌も亦まことにある女のよめるにはあらで文人の戯に作れるならむ
 
3321 さよふけて今はあけぬと開戸手《トヲアケテ》、木部行《キヘユキシ》君をいつとかまたむ
左夜深而今者明奴登開戸手木部行君乎何時可將待
 以下二首は贈答にて前の長歌の反歌にあらず。木部行とあるによりて誤りて反歌に列したるならむ○第三句を舊訓にトヲアケテとよみ二註にトヒラキテとよめり。いづれにてもあるべし○木部を略解にキベとよめり。へはテニヲハなり。エの如く唱ふべし。さて木部行はキヘユクとよむべきが如くなれど答歌を味ふに男のたちし後に使して追はせて贈りし歌とおもはるれば略解のごとくユキシとよむべし
 
3322 門に座《ヰシ》郎〔左△〕子《ヲトメ》は内に雖至《イタルトモ》いたくしこひば今かへりこむ
門座郎子内爾雖至痛之戀者今還金
(2907)    右五首
 こは男の歌なり。座を從來ヲルとよめり。ヰシとよみて門ニ立出デテ我ヲ送リシといふ意とすべし。郎子は娘子を誤れるなり○雖至《イタルトモ》は雖入《イリヌトモ》とあるべきに似たり○今は今直ニなり。カヘリコムはカヘリユカムなり。マツトシキカバ今カヘリコムの今カヘリコムとは異なり
 
  譬喩歌
    ○
3323 (師名立《シナタツ》) つくまさ野|方〔左△〕《カラ》 おき長の をちの小菅 あまなくに いかりもち來《キ》 しかなくに いかりもち來て おきて 吾を令偲〔左△〕《カレシム》 おき長の をちの小菅
師名立都久麻左野方息長之遠智能小菅不連爾伊苅持來不敷爾伊苅持來而置而吾乎令偲息長之遠智能子菅
(2908)    右一首
 師名立はツクマ左野方にかゝれる枕辭とおぼゆ。さて字のまゝによまばシナタツ又シナタテルとよむべけれど枕辭にシナタツ又はシナタテルといへる例なければ眞淵はシナテルとよめり。シナテルは卷九(一七五一頁)に級照《シナテル》カタシハ河ノとあり又日本紀に斯那提流カタヲカ山ニとありて意義は不明なれどカタといふ語にかゝる枕辭なり。雅澄は本文にはシナタツとよみて『此地形の階《シナ》立たるをいふべし』といひながら枕詞解には師名光の誤としてシナデルとよみてツクマ左野方の方にかゝれる枕辭とせり。しばらくもとのまゝにてシナタツとよむべし○ツクマ左野方、オキナガノ遠智とある左野方を略解に地名として
  都久麻と息長は近江國坂田郡なり。しかれば左野方はその筑摩郷の内、遠智は息長の内にある所の名なり。……左野方の左は發語といひ然も所謂野方と遠智との關係についてはいへる所なし。古義にも
  ツクマサヌ方は近江國坂田郡筑摩の地の狹額田なり。十卷に狹野方ハ實ニナラズトモ云々又沙額田ノ野邊ノ秋ハギ云々
(2909)といへるのみ。案ずるに左野方を地名とし略解にいへる如く左野方を都久麻の内とし遠智を息長の内とせむにツクマサヌガタ息長ノヲチとあるをツクマノサヌガタ及オキナガノヲチとせむか、結末にオキナガノヲチノコスゲとのみあるに對してツクマサヌガタの方は不用なり。よりて更に案ずるに第二句は筑摩ノサヌ方ヲ經テといふことにて下なる二つのモチ來にかゝれるならむ。されどサヌ方ヲ經テといふことをただサヌ方とはいふべからず。よりて又更に思ふに第二句はもと都久麻左野柄とありしを柄の字滅えて訓もカのみ殘りたりしを傳寫せし人の卷十にサヌ方ハ實ニナラズトモ又サヌカ田ノ野邊ノアキハギとあるを思ひてさかしらに方の字を補ひたるならむ。さて方を柄の誤とすれば枕辭はシナテルにあらざる事いふまでも無し。
  因にいふ。卷十にサヌカ田ノ野邊ノアキハギとある沙額田は大和國平群郡なる額田なるべく又サヌ方ハ實ニナラズトモとある狹野方は狹野榛の誤なるべき事彼卷(一九七六頁及二〇九二頁)にいへる如し
 ツクマ左野は筑摩小野なり。小野をサヌといへるは野榛をサヌハリ(三六頁)といひ(2910)野の鳥をサヌツ鳥といへると同例なり。諸國に佐野といふ地名あるも小野と同意ならむ。カラは上に神名火ノソノ山邊カラ(二八八五頁)またコユコセ路カラ(二九〇五頁)といへるカラにおなじ。さればツクマサ野カラは筑摩ノ小野ヲトホリテといふことなり○小菅の下にヲを添へて心得べし。イカリのイは添辭なり。古義に
  イカリモチキアマナクニ、イカリモチキテシカナクニといふ意なるをことさらに句をおきかへて調をとゝのへたるなり
といへるはいみじきひが言なり。もとのまゝにてよきなり。雅澄がかゝる事をいへるはオキテを生ヒタルママニ置キテと誤解せる爲なり。オキテは編ミモセズ敷キモセヌニ刈來テ棄置キテといふ意なり。卷十(二〇八六頁)なる
  しら露のおかまくをしみ秋はぎををりのみ折りておきや〔三字傍点〕からさむ
のオキにおなじ。アマナクニ以下は又卷十一(二五三六頁)なる
  みよし野のみぐまが菅をあまなくにかりのみかりてみだりなむとや
に似たり○吾乎令偲を二註にワレヲシヌバスとよめり。偲を枯の誤としてワレヲカレシムとよむべし。尾句の小菅の下にもヲを添へて心得べし。或は二處ながら小(2911)菅の下に乎のありしをおとせるか〇二註に此歌を男の作としたるは尾句のヲチノ小菅を主格と見誤れる爲なり。こは女の歌にて自小菅に譬へて男の愛の衰へしを恨みたるなり。末二句は吾《ワレ》、遠智ノ小菅ヲ云々といふべきを二句に割きたるなり
 
  挽歌
   ○
3324 かけまくも あやにかしこし 藤原の 都しみみに 人はしも 滿ちてあれども 君はしも おほくいませど 往向《ユキムカフ》 年のを長く 仕へ來《キテ》 君|之《ガ》御門を 天のごと 仰ぎて見つつ かしこけど おもひたのみて いつしかも 曰〔左△〕足座而《ヒタラシマシテ》 (もち月の) たたはしけむと わが思《オモフ》 皇子の命は 春されば 殖槻がうへの (とほつ人) まつの下道《シタヂ》ゆ 登らして 國見あそばし なが月の しぐれの秋は 大殿の 砌しみみに 露負ひて なびけるはぎを (たまだすき) かけてしぬ(2912)ばし みゆきふる 冬のあしたは (さしやなぎ 根)はり梓を 御手《オホミテ》に とらしたまひて あそばしし わがおほきみを 煙たつ 春日暮《ハルノヒグラシ》 (まそかがみ) 見れどあかねば よろづよに かくしもがもと (大船の) たのめる時に 涙〔左△〕言《ウタテワガ》 目鴨迷《メカモマドヘル》 大殿を ふりさけ見れば しろたへに 飾り奉りて (うちひさす) 宮の舎人|方《モ》【一云者】たへのほの 麻衣服《アサギヌケル》は いめかも うつつかもと (くもり夜の) まどへる間《ホド》に (あさもよし) 城於《キノヘ》の道ゆ (つぬさはふ) いはれを見つつ かむはふり はふりまつれば ゆく道の たづきをしらに 思へども しるしをなみ 嘆けども おくかをなみ 御袖《オホミソデ》 往觸之《ユキフリシ》松を ことどはぬ 木にはあれども (あらたまの) たつ月毎に 天原〔左△〕《アメノゴト》 ふりさけ見つつ (たまだすき) かけてしぬばな かしこかれども
桂纏毛文恐藤原王都志彌美爾人下滿雖有君下大座常往向年緒長仕來君之御門乎如天仰而見乍雖畏思憑而何時可聞曰足座而十五月之多田(2913)波思家武登吾思皇子命者春避者殖槻於之遠人待之下道湯登之而國見所遊九月之四具禮之秋者大殿之砌志美彌爾露負而靡芽子乎珠手次懸而所偲三雪零冬朝者刺楊根張梓矣御手二所取賜而所遊我王矣煙立春日暮喚犬迫馬鏡雖見不飽者萬歳如是霜欲得常大船之憑有時爾涙言目鴨迷大殿矣振放見者白細布飾奉而内日刺宮舎人方【一云者】雪穗麻衣服者夢鴨現前鴨跡雲入夜之迷間朝裳吉城於道從角障經石村乎見乍神葬葬奉者往道之田付※[口+リ]不知雖思印乎無見雖嘆奥香乎無見御袖往觸之松矣言不問木矣在荒玉之立月毎天原振政見管珠手次懸而思名雖恐有
 都シミミニの語例は卷三なる悲2歎尼理願死去1歌にウチヒサスミヤコシミミニ、里家ハサハニアレドモとあり。都ニ〔右△〕シゲクといふことなり。君ハシモは皇子ハシモなり○往向を略解にユキムカヒとよみて仕ヘ來テに係け、さて宣長の『外ニモ君ハマセドモワキテ此君ニ心ヨセテ仕奉ルとなり』といへる説を擧げたり。古義には往易の誤としてユキカハルとよめり。案ずるにユキムカフとよみて年に係くべし。ユキ(2914)ムカフは來ムカフにおなじ。はやく卷一(七八頁)にミカリタタシシ時ハ來向フとあり○仕來を略解にツカヘ來テとよめるを古義にツカヘ來シに改めたり。前者に從ふべし。こゝにてはまだ過去にはいふべからず○イツシカモは早くと希ふなり。曰足座而を眞淵は曰を日の誤としてヒタラシマシテとよめるを雅澄は曰足を白之の誤とし其上に吾王之天下の二句を補ひてワガオホキミノアメノシタシロシイマシテとよめり。これは高市皇子の薨去の時の歌と前定して云へるなり。抑此歌は果して契沖雅澄のいへる如く高市皇子の薨去の時の歌なりや。まづ卷二(二七七頁)なる高市皇子尊城上殯宮之時歌によれば此皇子の御墓は城上《キノヘ》なり。然るに今の歌には
  あさもよし城於《キノヘ》の道ゆ、つぬさはふ石村《イハレ》を見つつ、神はふりはふりまつれば
とありて城上は御墓の途中なりしに過ぎず。次に高市皇子は皇太子に立ち給ひ又太政大臣として國政を執り給ひし御方なれば他の皇族は此御方に比すべくもあらず。從ひて此皇子に對し奉りて君ハシモオホクイマセドなどいふべきにあらず。次に反歌を見るに葬は火葬なり。然るに國史によれば火葬の始まりしは此皇子の(2915)薨ぜし時より後(文武天皇の御代)なり。されば此歌は高市皇子を悼み奉りての作にあらず。從ひてワガオホキミノ天ノ下シロシイマシテなどいふべきにあらず。然らば曰足座而はいかによむべきか。曰く眞淵の説の如く曰を日の誤としてヒタラシマシテとよむべし(類聚古集には日之足座而とあり。之を衍字とするか又は之足を足之の顛倒とすべし)。然るに眞淵自も古事記なる本牟智和氣《ホムチワケ》(ノ)御子の母后のうせ給はむとせし時の天皇の詔にイカニシテ日足《ヒタシ》奉ラムとあるを引きて
  こは生兒の日を足《タラ》するをいふ言なるを此御若きほどの皇子に申すはいかがあらむ
といへり。案ずるにこゝの日タラシはかのヒタシと異なり。かのヒタシは育つるこ?。こゝの日タラシは日ト足リタマフすなはち天ツ日ノ如ク滿足リタマフといふ事にて卷二(一九八頁)にオホキミノ御壽《ミヨ》ハ手《タ》ナガク天足ラシタリとあるアマタラシと相似又次にモチ月ノタタハシケムトとあると相似たる語なり○モチ月ノタタハシケムト 此二句は卷二(二二二頁)なる日並皇子尊殯宮之時歌にモチ月ノ滿《タタ》ハシケムトとあると相同じけれど彼は天下の事、此は皇子御一身の事なリ。タタハ(2916)シケムはタタハシカラムにて缺クル所ナカラムとなり。さてイツシカモ日足ラシマシテモチ月ノタタハシケムトとあるを見れば此皇子は未壯齢に達せずしてうせ給ひしなり。此事にても高市皇子にあらざる事を知るべし○吾思の思はオモフとよむべし。二註にはモヘルとよめり。殖槻《ウヱツキ》は今の郡山附近の地名なり。ウヘは丘陵なり。下道を古義にはシタヂとよめり○シグレノ秋は時雨フル秋なり。砌は軒下なり。ミギリシミミニは都シミミニ(五五八頁)と同例なり○カケテは心ニカケテなり。シヌバシはメデ給ヒなり○ハリ梓は弦を張れる梓にて即弓なり。土ニサシタル柳ガ根ヲハルといふことをいひかけて枕辭としたるなり。オホミ手を御手と書けるは大の字をおとせるにあらず。下にもオホミソデを御袖と書けり。今御の字をオホンとよむもオホミの音便なり。卷五好去好來歌(九七三頁)なる日御朝庭をも余はヒノオホミカドとよみつ○アソバシシは遊獵シ給ヒシなり。上なる國見アソバシのアソバシとは輕重相異なり○春秋冬をいひて夏を略したるは夏は興少き時節なればなり○さて上なるワガオモフ皇子ノ命ハはアソバシシまでかゝれるなり。アソバシキと切りてソノワガオホキミヲといはむにひとし○煙は霞なり。ケブリ(2917)タツは准枕辭なり。春日暮は舊訓にハルノ日グラシとよめるに從ふべし。略解にハルビノクレニと改めたるはわろし○ヨロヅヨニカクシモガモトはイツマデモカカレカシトとなり○涙言を舊訓にナクワレガとよめるを宣長は言涙の顛倒としてワガナミダとよみ改めたり。案ずるにここにてはまだナクともナミダともいふべからず。訝とありしが涙と誤まられたるにあらざるか。もし然らばウタテワガ目カモマドヘルとよむべし○舎人方を二註にトネリハとよめり。案ずるにもしハとよむべくば一云者とは註すべからず。又こゝはハにては穩ならず。さればこゝの方はヨモを四方と書き又ヤモ、トモを八方、十方と書ける例(マテリ八方《ヤモ》、ヨシ毛〔左△〕《ヱ》ヨス十方《トモ》)に從ひてモとよむべし○タヘノホは白布の色澤なり(一二三頁參照)。但こゝにてはシロタヘノといはむにひとし。服を略解にキル、古義にケルとよめり。キタルといふべき處なればケルとよむべし○大トノヲ以下は卷二(二七六頁)なる高市皇子尊殯宮之時歌に
  わがおほきみみこの御門を、かむ宮によそひまつりて、つかはしし御門の人も、しろたへの麻ごろも著て
(2918)とあると似たり○間を略解に
  マドヘルハシニともよむべし。卷一アラソフ端ニとあり
といへれどハシニは調迫りてこゝにかなはねばこゝは舊訓の如くホドニとよむべし○キノヘノ道ユは城上ヲトホリテとなり。古義の説は非なり。イハレヲ見ツツは磐余《イハレ》ヲ指シテなり○ユク道ノタヅキヲシラニはオノガ行ク道ノ勝手モヨク分ラズとなり。シルシは詮なり。オクカはアテなり○古義に往を持の誤としてミソデモチフリテシマツヲとよめるはわろし。略解の如くオホミソデユキフリシ松ヲとよむべし○タツ月毎ニは毎月なり。月のかはるをタツといふ○天原は考にいへる如く天如の誤ならむ。此歌の上にも如天アフギテ見ツツとあり又卷二(二八二頁)なる例の歌に天之如フリサケ見ツツ、玉ダスキカケテシヌバム、カシコカレドモとあり。カケテは心ニカケテなり○此歌が處々彼高市皇子尊殯宮之時歌に似たるは偶然にはあらでことさらに學びたるなり。此事も亦此歌が彼皇子を悼み奉るものにあらざる傍證とすべし
 
   反歌
(2919)3325 (つぬさはふ)いはれの山にしろたへにかかれる雲は皇〔左△〕可聞《ワガオホキミカモ》
角障經石村山丹白栲懸有雲者皇可聞
     右二首
 眞淵は皇を吾王の誤としてワガオホキミカモとよみ雅澄はもとのまゝにてオホキミロカモとよめり。前者に從ふべし○イハレノ山はやがて葬處なり。二註に葬處にあらずと云へるはそを葬處とすれば此歌を高市皇子を悼み奉る歌とするに妨あればなり(高市皇子の御墓は三立(ノ)岡即城上なり)。又略解に長歌にワガオモフ皇子ノ命ハとあるを指して『皇太子にあらずしてミコノミコトといへる例なければ高市皇子命の薨の時の歌なり』といへれど父母妻弟をさへチチノ命、ハハノ命、イモノ命、ツマノ命、オトノ命といへるをたとひ皇太子ならずとも皇子ノ命と(少くとも歌には)いはざらむや。又現に卷三(五七一頁及五七四頁)に皇太子にあらざる安積《アサカ》皇子をミコノミコトといへるにあらずや○又此反歌を火葬をいへるにあらずといへるも高市皇子に強ひなさむが爲なり。卷三なる土形娘子火2葬泊瀬山1時歌に
(2920)  こもりくのはつせの山の山のまにいざよふ雲は妹にかもあらむ
とあると全く同趣ならずや
    ○
3326 (しき島の〕 やまとの國に △ いかさまに おもほしめせか つれもなき 城上《キノヘ》の宮に 大殿を つかへまつりて とのごもり こもりいませば あしたには 召してつかはし ゆふべには めしてつかはし つかはしし 舎人の子らは (ゆく鳥の) 群而待〔左△〕《ムレテサモラヒ》 ありまてど めしたまはねば (つるぎだち) とぎし心を あま雲に おもひはふらし こいまろび ひづちなけども あきたらぬかも
磯城島之日本國爾何方御念食可津禮毛無城上宮爾大殿乎都可倍奉而殿隱隱在者朝者召而使夕者召而使遣之舎人之子等者行鳥之羣而待有雖待不召賜者剱刀磨之心乎天雲爾念散之展轉土打哭杼母飽不足可聞
     右一首
(2921) 此歌こそ高市皇子を悼み奉りて作れるなれ○ヤマトノクニニとあるおちつかずされば古義には
  大和國ナルニと云意に云るか。思ふに爾はもしは乎(ノ)字にてもありしならむか
といへり。案ずるに卷二十なる
  しきしまのやまとのくににあきらけき名におふとものを、こころつとめよ
はシキシマノヤマトノクニニの下に伴(ノ)緒ハアマタアレド特ニといふことを略したりと見らるれどこゝは宮ハシモココダクアルヲなどいふ二句をおとしたるものとせざるべからず○イカサマニ云々は卷二なる日並皇子尊殯宮之時歌(二二二頁)に
  いかさまにおもほしめせか、つれもなき眞弓の崗に、宮柱ふとしきたて、みあらかをたかしりまして
とあるを學びたるなり。ツレモナキは世間〔日が月〕トカケハレタルなり○大トノヲツカヘマツリテは略解に
  陵を造仕奉也。トノゴモリは陵の内にこもりますと云也
(2922)といへる如し○群而待は略解に待を侍の誤としてムレテサモラヒとよめるに從ふべし。アリマテドは待チテアレドなリ。このあたりは卷二(二四一頁)に
  ひむかしのたきの御門にさもらへどきのふもけふもめすこともなし
とあるに似たり○トギシ心は御奉公ニハリツメシ心となり。アマ雲ニのニはシラユフ花ニオチタギツなどのニとおなじ。さればアマ雲ニは天雲ト、天雲ノ如クといふ意なること略解にいへるごとし。ハフラシは散ラシなり。ヒヅチナクは直譯すれば濡レ泣クなれどいたく泣く意の熟語となれるなり。アキタラヌは泣キ足ラヌなり
   ○
3327 (百しぬの) 三野のおほきみ 金《ニシ》の厩 たててかふ駒 角《ヒムカシ》のうまや たててかふ駒 草こそは とりてかひ旱《ナメ》 水こそは くみてかひ旱〔左△〕《ナメ》 何しかも 大分〔二字左△〕青△馬《マカタノコマ》の いばえたちつる
百小竹之三野王金厩立而飼駒角厩立而飼駒草社者取而飼旱水社者※[手偏+邑](2923)而飼旱何然大分青馬之鳴立鶴
 三野王は橘諸兄の父にてその卒せしは和銅元年五月なり。此歌はそを悼みて作れるなり〇三野ノ王ガのガを略せるなり。西に金の字を借り東に角の字を借れるは五行五音を五方に配する時の例に依れる事前註にいへる如し〇二つの旱は宣長が嘗の誤としてナメとよめるに從ふべし。東西の厩の駒の鳴立つを聞きてモシ草ホシクバ云々モシ水ホシクバ云々といへるなり○大分青馬を舊訓及古義にアシゲノウマとよみ考にマシロノコマとよみ略解にヒタヲノコマとよめり。案ずるにこゝは馬の色などいふべき處にあらず。上にニシノウマヤ、ヒムカシノウマヤといひたればこゝは兩方ノ馬ガとやうにいふべきなり。久老の信濃漫録に
  金厩角厩と書てニシヒガシとよめる書ざまをおもふに青もヒガシの意に假れる字ならむ。然らば大分の二字も泰の一字を誤れるものにて泰は爾雅に西風を泰風といふと見えたれば泰はニシの意に假たる字、さてニシは右、ヒガシは左なればミギノウマヤ、ヒダノウマヤと訓べし。葬馬を左右に立たるをよめる歌也
といへり。案ずるに厩ながら嘶く馬をよめるなり。葬列の馬にはあらず。更に案ずる(2924)に大分青馬はもと白方青方馬とありしを下の方〔右△〕をおとし更に白方を大分と誤れるならむ。五色を五方に配すれば白は西に當り青は東に當る事人の知れる如し。さて白方青方馬之はマカタノコマノとよむべし。マカタといふ語は古書に見えたるを知らねど左右の手をマデといひ左右の袖をマソデといひ片帆に對して左右共に張れるを眞帆といふを思へば片方に對して兩方を眞方といひつべし○イバエタツは盛に嘶くなり。略解に『つれ立て鳴をいふ』といへるは非なり
 
   反歌
3328 (ころもでの)大分〔二字左△〕青△馬《マカタノコマ》の嘶音《イバエゴヱ》こころあれかも常ゆけになく
衣袖大分青馬之嘶音情有鳧常從異鴨
     右二首
 コロモデノ眞とかゝれるなり。左右の袖を眞袖といふ事上にいへる如し。卷十二(二七一三頁)にもコロモデノ眞若ノ浦といへる例あり○嘶音を略解にイバユルモとよめるは論ずるに足らず。古義にはイバユコヱとよめり。イバユルコヱといふべき(2925)を例の如く終止格にて云へるなりともいふべけれどむしろイバエゴヱとよむべし○ツネユケニナクは平生トハカハツテ鳴クとなり。卷十(二一二六頁)にもトリガネケニナク秋スギヌラシとあり。馬モ主皇子ノウセ給ヒシヲ悲シムニヤといふ意を含めたるなり
    ○
3329 白雲の たなびく國の 青雲の むかぶす國の あま雲の したなる人は 妾のみかも 君にこふらむ 吾耳鴨 夫君にこふれば 天地に 滿言 こふれかも 胸のやめる おもへかも こころのいたき わが戀ぞ 日にけにまさる いつはしも こひぬ時とは あらねども このなが月乎 わが背子が しぬびにせよと 千世にも しぬびわたれと よろづ代に かたりつがへと 始めてし このなが月の すぎまくを いたもすべなみ あらたまの 月の易者 せむすべの たどきをしらに いはがねの こごしき道之 いは床(2926)の 根ばへる門爾 あしたには 出ゐてなげき ゆふべには 入ゐこひつつ ぬばたまの 黒髪しきて 人のぬる うまいはねずに 大船の ゆくらゆくらに おもひつつ わがぬる夜らは よみも不敢かも
白雲之棚曳國之青雲之向伏國乃天雲下有人者妾耳鴨君爾戀濫吾耳鴨夫君爾戀禮天地滿言戀鴨※[匈/月]之病有念鴨意之痛妾戀叙日爾異爾益何時橋物不戀時等者不有友是九月乎吾背子之偲丹爲與得千世爾物偲渡登萬代爾語都我部等始而之此九月之過莫乎伊多母爲便無見荒玉之月乃易者將爲須部乃田度伎乎不知石根之許凝敷道之石床之根延門爾朝庭出居而嘆夕庭入座戀乍烏玉之黒髪敷而人寢味寢者不宿爾大船之行良行良爾思乍吾寢夜等者數物不敢鳴〔左△〕
      右一首
 セムスベノ以下十句並にヌバタマノ以下九句は此卷の上(二八四三頁)なる長歌に(2927)見えたり。其處にいへる如くヌバタマノ以下九句は相聞歌の調にて挽歌の調にあらず。又シラクモノ以下十句も相聞歌の調なり。されば挽歌なるべきは中間なる
天地に 滿言〔左△〕《ミチタラハシテ》 こふれかも 胸のやめる おもへかも こころのいたき わが戀ぞ 日にけにまさる いつはしも こひぬ時とは あらねども このなが月|乎〔左△〕《ノ》 わが背子が しぬびにせよと 「千世にも しぬびわたれと よろづ代に かたりつがへと」 始めてし このなが月の すぎまくを △ いたもすべなみ (あらたまの) 月の易者《カハラバ》 せむすべの たどきをしらに いはがねの こごしき道|之〔左△〕《ヲ》 いは床の 根ばへる門|爾《ユ》 あしたには 出〔左△〕《イリ》ゐてなげき ゆふべには 入〔左△〕《イデ》ゐこひつつ
 以上三十四句に過ぎず。之を尾のうせたる挽歌とすべし。かく二首に分つべき事は眞淵はやく云へり
 滿言を眞淵はイヒタラハシテとよめるを宣長は滿足の誤としてミチタラハシテ(2928)とよめり。後者に從ふべし。語例は上(二八二二頁及二八四七頁)にアメツチニオモヒタラハシとあり。天地一杯ニナルヤウニとなり。さて此二句はコフレカモ胸ノヤメルのみならでオモヘカモココロノイタキにもかゝれるなり○コノナガ月乎といへるは夫が九月にうせし故なり。さて二註に新喪と認めたれど此歌は夫のうせし翌年の祥月に作りしなり。ナガ月乎の乎の収まる處なし。乎はおそらくは之の誤ならむ。コノ九月ノといひ更に立返りて云々セシコノ九月ノといへるならむ○カタリツガヘトは語り繼ゲトの延言なり。千世ニモシヌビワタレト、ヨロヅ代ニカタリツガヘトの四句は無くもがな○ハジメテシは例ヲ開キシとなり。スギマクヲの下におそらくは二句おちたるならむ○易者を從來カハレバとよみたれど上にスギマクヲとあるによりて知らるゝ如く此歌は九月に作れるなればカハラバとよむべし。さてカハラバといへばシラニとは云はれざる如くなれど未來を現在にて受けたる例は集中にあまたあり。さればシラニは知ラザラムニヨリテと譯すべし○タドキは上(二八四三頁)にはタヅキとあり○道之は上には道乎とあり。乎とあるに從ひて道ユの意即道ヲトホリテの意とすべし○イハ床は平坦なる岩なり(一二三(2929)頁參照)。根バフは根シテ匍フにてこゝにては横タハルといふ意なり○門爾は上には門呼とあり。爾とあるに從ふべし○アシタニハ出居而嘆、ユフベニハ入座戀乍(上には入居而思《イリヰテシヌビ》とあり)の出入を顛倒してアシタニハイリヰテナゲキ、ユフベニハイデヰコヒツツとよむべし。さて門といへるは墓處の門なり。略解に『夫の墓の側のかり屋に妻のやどりゐて其墓所のさまをいへる也』といへるは非なり。毎日里より墓に通ふ趣なり○これより下の缺けたるはいと口をし
 さて錯簡とおぼゆる初十句と終九句とを聯ぬれば
白雲の たなびく國の 青雲の むかぶす國の あま雲の したなる人は 妾のみかも 君にこふらむ 吾耳鴨〔左△〕《ワノミシ》 夫君《ツマ》にこふれば (ぬばたまの) 黒髪しきて △ 人のぬる うまいはねずに (大船の) ゆくらゆくらに おもひつつ わがぬる夜らは よみも不敢《アヘジ》かも
となりてほぼ一首の相聞歌の體を具ふれど、おそらくはなほ誤脱あらむ。上(二八四五頁)に見えたるシロタヘノワガコロモデヲ、ヲリカヘシヒトリシヌレバの四句を(2930)ヌバタマノクロカミシキテの前に入れむとするに君ニコフレバのレバとヒトリシヌレバのレバと相重なりて調よろしからず。クロカミシキテの次に君クヤトマチツツヲルニなどいふことを補ふべきは彼處(二八四六頁)にいへる如し○シラ雲ノ云々の語例は祈年祭祝詞に青雲ノタナビク極、シラ雲ノオリヰムカブス限とあり。青雲はやがて白雲の事なり。青雲の青は水色なり。藍色にあらず。從來青雲を蒼天の事とせるは非なり(二一五頁參照)。ムカブスはタナビクに似たり。されば初四句は同事を辭の文と重ね言へるなり。さて卷三(左?四二頁)なる丈部《ハセツカベ》龍麿自經死之時歌にアマ雲ノムカブス國ノマスラヲトイハレシ人ハといへるは遠國といふことなれどこゝは廣き國といふことなり。されば初六句の意は天下ノ人ハといはむにひとし。アマ雲ノシタナル人ハ云々は卷十五に
  あめつちのそこひのうらにあがごとくきみにこふらむひとはさねあらじ
とあるに似たり○下の吾耳鴨は古義にいへる如く吾耳師の誤なり。ワノミシとよむべし○ヌバタマノ以下ははやく上(二八四五頁)に釋せり。不敢はアヘジとよむべし。アヘジカモは敢ヘザラムカモとなり。上には將敢鴨とあり。又夜ラハ上には夜(2931)ラヲとあり○不敢鳴の鳴は鴨の誤なり
   ○
3330 (こもりくの) 長谷《ハツセ》の川の かみつ瀬に 鵜を八頭《ヤツ》かづけ しもつ瀬に 鵜を八頭《ヤツ》かづけ かみつ瀬の 鮎をくはしめ しもつ瀬の 鮎をくはしめ くはし妹《イモ》に 鮎遠惜〔三字左△〕《タグヒテマシヲ》 (なぐるさの) とほざかりゐて おもふ空 やすからなくに なげく空 やすからなくに △ 衣《キヌ》こそは 其〔左△〕《ソデ》やれぬれば 縫〔左△〕《ツギ》つつも 又もあふといへ 玉こそは 緒のたえぬれば くくりつつ 又もあふといへ 又も あはぬものは つまにしありけり
隱來之長谷之川之上瀬爾鵜矣八頭漬下瀬爾鵜矣八頭漬上瀬之年魚矣令咋下瀬之鮎矣令咋麗妹爾鮎遠惜投左乃遠離居而思空不安國嘆空不安國衣社薄其破者縫乍物又母相登言玉社者緒之絶薄八十一里喚鶏又物逢登曰又毛不相物者※[女+麗]山〔左△〕志有來
(2932) カヅケは潜カセなり。クハシメは銜《クハ》ヘシメなり。初より十句はクハシ妹といはむ爲の序なり。妹はイモとよむべし(略解にはメとよめり)。クハシイモはウルハシキ妻なり○鮎遠惜を眞淵は辭遠借の誤としてコトトホザカリとよみ雅澄は副猿緒の誤としてタグヒテマシヲとよめり。後者に從ふべし○ナグルサは契沖のいへる如く投箭といふことなり。下にキミガオバシシ投箭シオモホユとあり。又卷十九にアヅサ弓末フリオコシ投矢モチ千尋射ワタシとあり。投矢は弓にたぐへずして手にて投ぐる矢なり。太平記卷十五に
  爰ニ妙観院ノ因幡(ノ)豎者《リツシヤ》全村トテ三塔名誉ノ惡僧アリ。……箆ノ太サハ尋常ノ人ノ蟇目ガラニスル程ナル三年竹ヲモギツケニ推削テ長船《ヲサフネ》打ノ鏃ノ五寸鑿程ナルヲ筈本《ハズモト》迄ナカゴヲ打|通《トホシ》ニシテネヂスゲ沓卷ノ上ヲ琴ノ絲ヲ以テネタマキニ卷《マイ》テ三十六|差《サイ》タルヲ森ノ如クニ負ナシ態《ワザト》弓ヲバ持ズ〔五字傍点〕。是ハ手撞《テヅキ》ニセンガ爲ナリケリ。……上差《ウハザシ》間〔日が月〕筋拔|出《ダシ》テ櫓《ヤグラ》ノ矢間〔日が月〕《サマ》ヲ手撞ニゾ撞《ツイ》タリケル。此矢誤マタズ矢間ノ陰ニ立《タツ》タリケル鎧武者ノセンダンノ板ヨリ後《ウシロ》ノ總角附《アゲマキツケ》ノ金物迄裏表二重ヲ洞(シ)テ矢サキ二寸許出タリケル間其兵櫓ヨリ落テ二言(ト)モイハズ死ニケリ。……(2933)是ヨリシテゾ全村ヲ手撞ノ因幡トハ名附ケル
とあリ。これも投矢なるべし○トホザカリヰテを古義に『葬りたれば家より遠く離て居るよしなり』といへるはいみじき誤なり。略解にいへる如く離レ住ミテといふことなり○ナゲク空ヤスカラナクニの下に妹のうせし事をいへる數句おちたるなり。うせし事を避けて云はざることもあれどこゝは然らず○其を二註にソレとよめり。ソレといはむは拙し。おそらくは袖の誤ならむ○縫は元暦校本に繼とある方まされり○又モは別レテ又モの意なり○山は爾の誤ならむ
   ○
3331 (こもりくの) 長谷《ハツセ》の山 (青幡の) 忍坂《オサカ》の山は 走出《ワシリデ・ハシリデ》の よろしき山の いでたちの 妙《クハシキ》山ぞ あたらしき山の あれまくをしも
隱來之長谷之山青幡之忍坂山者走出之宜山之出立之妙山叙惜山之荒卷惜毛
 次の歌の後に右三首とあれど此歌も次の歌も前の歌とは關係なき獨立の歌なり。
(2934) さて此歌は雄略天皇紀に
  六年春二月天皇遊2於泊瀬(ノ)小野1觀2山野之體勢1慨然興v感歌曰こもりくのはつせのやまは、いでたちのよろしきやま、和しりでのよろしきやまの、こもりくのはつせのやまは、あやにうらぐはし、あやにうらぐはし
とある辭を採りて作れるなり○アヲバタノは枕辭なり。オサカ山はハツセ山の西南にありてオサカ川とハツセ川とを隔てたり。古義に『並びたる山なり』といへるは非なり。ワシリデ、イデタチは所謂體勢なり。すなはち走リイデタルサマ、出立テル形なリ。今も扮装をイデタチといふ、是こゝのイデタチに似たり。卷二に※[走+多]出ノ堤ニタテルツキノ木ノ(二九八頁)といひ又イデタチノモモエツキノ木(三〇八頁)といひ上(二八八二頁)にイデタチノキヨキナギサニといへるは門前ノといふことにてこゝなるとは異なり○妙は古義に從ひてクハシキとよむべし(略解にはマグハシキとよめり)○此歌は長谷と忍坂との間に住みたまひし皇子などのうせ給ひしを悼めるにて結末の二句は君ガウセ給ヒテソノ惜キ山ノ保護モ行屆カデ荒行キナムガ惜シといへるなり。前註皆誤解せり
(2935)    〇
3332 高山と 海こそは 山|隨《ナガラ》 かくもうつしく 海|隨《ナガラ》 然直〔左△〕有目《シカモアラメ》 人は充〔左△〕物《ハナモノ》ぞ うつせみのよ人
高山與海社者山隨如此毛現海隨然直有目人者充物曾空蝉與人
    右三首
 海の下にトを省きたるに注目すべし○山隨、海隨は宣長の山ナガラ、海ナガラとよめるに從ふべし。舊訓には山ノマニ、海ノマニとよめり○ウツシはウツシキ、ウツシクとはたらく形容詞にてこゝにては山ノママデカク現存シと譯すべし○直は面などの誤ならむ。然らば此句はシカモアラメとよみて海ノママデ後々マデカクモアラメと心得べし○充は元暦校本等によりて花の誤とすべし。ハナモノはアダモノにてウセヤスキ物といふ意なり。卷十二(二六三〇頁)にも木綿ハ花モノとあり
    ○
3333 おほきみの みことかしこみ あきつ島 やまとを過〔左△〕而《オキテ》 大伴の (2936)みつの濱邊ゆ 大舟に 眞梶しじぬき あさなぎに かこの音爲乍〔二字左△〕《コヱヨビ》 ゆふなぎに 梶の音《ト》しつつ ゆきし君 いつ來まさむと 大〔□で囲む〕|夕卜△《ユフケトヒ》 △  △置而《ヌサオキテ》 いはひわたるに たは言や 人のいひつる わが心 つくしの山の もみぢ葉の ちり過去常《スギニキト》 きみがただかを
王之御命恐秋津島倭雄過而大伴之御津之濱邊從大舟爾眞梶繁貫且〔左△〕名伎爾水手之音爲乍夕名寸爾梶音爲乍行師君何時來座登大夕卜置而齋度爾枉〔左△〕言哉人之言鈎〔左△〕我心盡之山之黄葉之散過去常公之正香乎
 過而は置而の誤ならむ○水手之音爲乍を略解にカコノトシツツとよめるを古義に
  水手ノオトと云る例あることなし。今按に爲乍は喚字などにて有けむを梶音爲乍とあると、ふと見まがへて寫し誤れるものなるべし。必カコノコヱヨビとあるべきなり。卷四にもアサナギニカコノ音喚《コヱヨビ》ユフナギニ梶ノ聲《ト》シツツとあるを思合すべし。十五卷にも月ヨミノヒカリヲキヨミユフナギニカコノ古惠欲妣ウラ(2937)ミコグカモとあり
といへり○大夕卜置而を眞淵以下幣置而の誤としてヌサオキテとよめり。案ずるに大は衍字なるべく夕卜置而はもと三句なりしが字おちて一句のやうになれるならむ。即もとは
  いつ來まさむと、夕卜問《ユフケトヒ》、幸來座登《サキクキマセト》、幣置而《ヌサオキテ》いはひわたるに
とありしならむ。語例は上(二九〇二頁)に
  ゆきし君いつ來まさむと、玉桙の道にいでたち、夕うらをわがとひしかば
又卷十(二〇六六頁)に
  天のかは瀬ごとに幣をたてまつるこころは君をさきく來ませと
とあり○過去常を略解にスギニキトとよめるを古義にスギニシトに改めたるはかへりてわろし。ワガ心以下三句は否チリまではスギニキにかゝれる序なり○キミガタダカヲは君ガ事ヲとなり○略解に
  チリスギニキト君ガタダカヲ人ノイヒツルと返る意の語也
といひ古義に
(2938)  散テ過ニシト公ガ正香ヲ狂言ニ〔右△〕ヤ人ノ言ツルと立返りて心得る語の格なり
といへる共に非なり。さる格はある事なし。キミガタダカヲ人ノイヒツルといふべきを略せるなり。タハゴトヤ人ノイヒツルはタハ言ヲ〔右△〕ヤなり。タハゴトニ〔右△〕ヤにあらず。さればタハ言ヤの下の人ノイヒツルにはキミガタダカヲを受くべき餘地は無きなり○前註にいへる如く此歌は筑紫にてうせし官人の妻の大和にてよめるなり○且は旦、枉は狂、鈎は釣を誤れるなり
 
   反歌
3334 たは言や人のいひつる(玉の緒の)長くと君はいひてしものを
枉〔左△〕言哉人之云鶴玉緒乃長登君者言手師物乎
     右二首
 ナガクトは長ク生キムトなり
    ○
3335 (玉桙の) 道ゆく人は (あしひきの) 山ゆき野ゆき 直海〔左△〕《タダワタリ》 川ゆき渡(2939)り (いさなとり) 海道にいでて (かしこきや) 神のわたりは ふく風も のどには吹かず たつ浪も おほにはたたず しき浪の たちさふ道を たが心 勞《イタハシ》とかも ただわたりけむ
玉桙之道去人者足檜木之山行野往直海川往渡不知魚取海道荷出而惶八神之渡者吹風母和者不吹立浪母疎不立跡座浪之立塞道麻誰心勞跡鴨直渡異六
 こは下なる調《ツキ》(ノ)使首見v屍作歌を傳へ誤れるなり○第二句にミチユク人ハとあるふさはず。彼歌にミチニイデタチとあるぞ穩なる○直海は考に引きたる或人の説に直渉の誤ならむといへるに從ひてタダワタリとよむべし。タダワタリはタダワタリニのニを略したるにて難處をも避けず近道を取りて渡るなり○神ノワタリはここにては海峡の名なり。おそろしき處なれば神ノといへるなり○オホニハは世ノ常ニハなり。シキナミは重浪なり。卷二(三一五頁)にも跡位浪と書けり。タチサフ道ヲは立妨グル道ナルヲなり○タガ心は己ヲ待ツ妻ノ心ヲといふことを婉曲にい(2940)へるなり。勞はイタハシとよむべし。即後世のイトホシにてフビンナリといふことなり。妻の待つらむがいとほしさに一日も早く家に歸らむと思ひて近道を取りし趣なり○タダワタリケムはタダニ渡リテカク命ヲ失ヒケムとなり。タダワタリといふ語の重複せる心ゆかず○略解に
  立サフは浪の立障る道といふにて磯ぎはをいふべし。……いそぐまゝに此重浪の立塞る道を歩わたりしけんと云也
といひ、宣長が
  これはただ川に溺れて死たるが屍の海へ流れ出て磯へ打あげられてあるを見てかくよめる也。實に海を渡たるにはあらじ
といひ、雅澄が
  此重浪ノ立障ル道ヲ歩渉シケム云々となり。かくてこれは屍の海へ流れ出て磯際へ打あげられたるを見て作者のありけむやうを思ひやりてかくはよめるなり
といへるはいみじきひが言なり。渡《ワタリ》は海にもいふべきが上に、今は上にウミヂニイ(2941)デテとさへあるにいかで川とは認めけむ。又タダワタルは迂路を取らずして渡る事にて船して渡るにも云ひつべきをいかで徒渉とは心得けむ
    ○
3336 鳥音《トリガネモ》 之〔左△〕所聞《キコエヌ》海に 高山を 障所〔左△〕爲而《ヘダテニシテ》 おきつ藻を 枕|所〔左△〕爲△《ニシテ》 蛾〔左△〕葉之《アキツハノ》 衣浴〔左△〕《キヌダニ》きずに (いさなとり) 海の濱邊に うらもなく ところ〔左△〕宿有《イネタル》人は 母《オモ》父に まな子にかあらむ (若くさの) 妻か有異〔左△〕六《アルラム》 想布《オモホシキ》 言つてむやと 家問へば 家をものらず 名を問へど 名だにものらず (なく兒なす) 言だにとはず 思鞆〔左△〕《オモフカラ》 かなしきものは 世間有〔左△〕《ヨノナカノミチ》
鳥音之所聞海爾高山麻障所爲而奥藻麻枕所爲蛾葉之衣浴不服爾不知魚取海之濱邊爾浦裳無所宿有人者母父爾眞名子爾可有六若蒭之妻香有異六思布言傳八跡家問者家乎母不告名問跡名谷母不告哭兒如言谷不語思鞆悲物者世間有
 此も下の歌の一部を採れるにてそれに初二句と終五句とを添へたるなり○初二(2942)句は眞淵が之〔右△〕を不の誤としてトリガネモキコエヌ海ニとよめるに從ふべし○障所爲而を從來ヘダテ【トニ】ナシテとよみたれどナシテとはいふべからず。所を丹などの誤としてヘダテニシテと六言によむべし。海岸の山を屏風の如きものに見立てたるなり。屏風は天武天皇紀に見えたり○枕所爲の所も丹などの誤字なり。爲の下に而をおとせるなり○蛾葉之衣浴を雅澄が蜻葉之衣谷の誤としてアキツハノキヌダニとよめるは卓見なり。但蛾は※[虫+廷]の誤にてもあるべし。浴は類聚古集に谷とあり。ウスキ衣ダニ身ニマトハズシテとなり○初にトリガネモキコエヌ海ニといへるを更にイサナトリ海ノ濱邊ニといへるは拙し。此二句は削らまほし○ウラモナクは無心ニテとなり。卷十二(二六一五貢及二七一九頁)にもウラモナクアルラム兒ユヱコヒワタルカモ又ウラモナクイニシ君故とあり○所宿有を略解にヤドレルとよみ古義にイネタルとよめり。ウラモナクにつづきたれば後者に從ふべし。所は伊などの誤ならむ○マナ子は愛子なり。卷七(一四五五頁及一四五七頁)及卷十二(二七一三頁)に砂のマナゴを愛子と書けり○有異六を古義に異を羅の誤としてアルラムとよめり。さもあるべし○思布を舊訓にオモハシキとよみ考以下にオモホシ(2943)キとよめり。布は事の誤にてオモフ事言ヅテムヤトなるかと思ふに卷十七に於母保之伎、許登都底夜良受とあればしばらく考以下の訓に從ひて言を上に附けツテムヤのツを清みて唱ふべし。但家持等が古歌の辭を取れるには誤字誤訓のまゝに取れるかとおぼゆる事もあればなほ研究すべし。ツテムヤは傳ヘムカなり○家ヲモノラズ、名ダニモノラズといひて更に言ダニトハズといふべきにあらず。此一事にてもナク兒ナス以下が後人の添加なる事を知るべし○思鞆を從來オモヘドモとよみたれど穩ならず。思柄の誤ならむ○世間有を二註にヨノナカニアリとよみたれどこれも穩ならす。眞淵に從ひて世ノナカニゾアルとよまむかと思へどニゾに當る字なければ有を道の誤として世ノナカノミチとよむべし。世ノ中ノミチは世ノ中ノ習なり。卷五なる貧窮問答歌(九六七頁)にもスベナキモノカ世ノナカノ道とあり
 
   反歌
3337 母《オモ》父も妻も子どももたかだかにこむと待異〔左△〕六《マツラム》人のかなしさ
母父毛妻毛子等毛高高二來跡待異六人之悲沙
(2944) タカダカニははやくいへり。異は羅の誤ならむ。故郷人はいまだ此人のうせし事を知らざるなればマツラムといはむ方穩なり
 
3338 (あしひきの)山道|者〔左△〕《ヲ》ゆかむ風ふけば浪の△塞《タチサフ》海道はゆかじ
蘆檜木乃山道者將行風吹者浪之塞海道者不行
 此歌は前の長歌の反歌なるべきなり。山道の下の者は古義にいへる如く乎の誤とすべし。又塞の上に立の字を補ふべし○溺死人を見し作者の感想なり
 
   或本歌 備後國神島(ノ)濱(ニテ)調《ツキ》(ノ)使〔□で囲む〕|首《オビト》見v屍作歌一首并短歌
3339 (玉桙の) 道にいでたち (葦引の) 野〔左△〕《ヤマ》ゆき山〔左△〕《ヌ》ゆき (潦〔左△〕《ミナギラフ》) 川ゆきわたり (いさなとり) 海路にいでて ふく風も 母〔左△〕穗《オホ》には吹かず たつ浪も のどには不起《タタヌ》 かしこきや 神のわたりの しき浪の よする濱邊に 高山を へだてにおきて ※[さんずい+内]潭《ウラノヘ》を 枕にまきて うらもなく こやせる君は 母《オモ》父の 愛子にもあらむ わか草の 妻もあらむと 家とへど 家道もいはず 名をとへど 名だにものらず たが言を (2945)勞鴨《イタハシミカモ》 腫〔左△〕浪《シキナミ》の かしこき海を ただわたりけむ
玉桙之道爾出立葦引乃野行山行潦川往渉鯨名取海路丹出而吹風裳母穗丹者不吹立浪裳箆跡丹者不起恐耶紳之渡乃敷浪乃寄濱邊丹高山矣部立丹置而※[さんずい+内]潭夷枕丹卷而占裳無偃爲公者母父之愛子丹裳在將稚草之妻裳將有等家問跡家道裳不云名矣問跡名谷裳不告誰之言矣勞鴨腫浪能恐海矣直渉異將
 神島は備中の西端にありて神名帳に備中國小田郡神島神社と見え今も現に備中に屬せり。神ノワタリを備後の穴(ノ)海とし神島を今の福山の附近とせる説は備後人の國引言なり○使首は眞淵の説に使主《オミ》を誤れるなりといひ雅澄の説に『使はもしは衍字にて調(ノ)首ならむか。調《ツキ》(ノ)首《オビト》淡海といふ人一卷に見えたり』といへり。案ずるに姓氏録に見えたるは調(ノ)連《ムラシ》、調(ノ)曰佐《ヲサ》のみにて日本紀には又調(ノ)首《オビト》、調(ノ)吉士《キシ》、調(ノ)忌寸《イミキ》見えたり。さて姓氏録なる調(ノ)連の處に億計天皇御世……賜2調(ノ)首(ノ)姓1とあり。栗田博士の同書の考證に天武紀に調(ノ)首淡海とあるを元明紀に調(ノ)連淡海とあれば天武の御世に(2946)連姓をたまはりしなるべしといへり。右の如くなれば調使首は調首の誤とすべし。但こゝに調首とあるは淡海なるか否か知るべからず(調(ノ)首淡海の名は聖武天皇紀神龜四年十一月にも見えて年齒居v高云々とあり)此歌并に反歌は卷二なる讃岐狹岑島視2石中死人1柿本朝臣人麿作歌(三一八頁)に
  浪のとのしげき濱邊を、しきたへの枕にして、あらとこに自〔左△〕伏《コイフス》君が、家しらばゆきてもつげむ、妻しらば來もとはましを、玉桙の道だにしらず、おほほしくまちかこふらむ、はしき妻らは
とあると相似たり。然も今の歌を以て人麿の歌を學びたるものとは妄斷すべからず。人麿は持統文武兩帝の御代を盛とせし人、調氏の姓が首なりしはおそらくは天武天皇の御代までにて調(ノ)首某は人麿より寧先輩なるべくおぼゆればなり
 眞淵は『此或本の歌は甚亂て上の二首の混《マギレ》て一首の如くなれるにて取にもたらず』といへれど古義にいへる如く却りて此一首を後人の割きて上の二首としたるなり
 野ユキ山ユキは枕辭よりのつづきを思へば古義にいへる如く野と山と顛倒せる(2947)なり。上の歌にはアシヒキノ山ユキ野ユキとあり○※[さんずい+僚の旁]を略解には激の誤としてミナギラフとよみ古義には直渉の誤とせり。前者に從ふべし。ミナギラフは水煙のたつ事なり。齊明天皇紀なる御製に
  あすかがは※[さんずい+彌]儺蟻羅※[田+比]《ミナギラヒ》つつゆくみづのあひだもなくもおもほゆるかも
とあり本集卷七にも
  水霧相《ミナギラフ》おきつ小島に風をいたみ船よせかねつ心はもへど
とあり○母穗は考に於穗の誤とせるに從ふべし。オホニは普通ニなり。不起はタタヌとよみて下へ續くべし。古義にはタタズとよめり○神ノワタリは神島と陸地との間なる水道なるべし○※[さんずい+内]潭を宣長は※[さんずい+内]※[さんずい+單]の誤としてウラスとよめり。もとのままにてウラノヘとよむべし。屈平漁父辭に屈原既放遊2於江潭1とあるを王逸は戯2水側1也と註し史記列傳には右の辭によりて屈原至2於江濱〔右△〕1被髪行2吟澤畔1と書けり。因にいふ。本集卷五(九一五頁)なる遊2於松浦河1序に聊臨2玉島之潭1遊覧とある潭もへとよむべし。玉島川の岸なり。やがてキシともよみつべけれど潭(ハ)岸也といふ註は未見及ばず○タガ言の言は事の借字なり。タガ事はタガ上なり。卷四(八二二頁)なるコト(2948)デシハタガコトナルカも誰ガ上といふ事なること、はやくいへる如し○勞鴨はイタハシミカモとよむべし。イトシガリテカとなり。腫は重の誤字ならむ
 
   反歌
3340 母《オモ》父も妻も子どももたかだかに來將跡〔二字左△〕待《コムトマツラム》人のかなしさ
母父裳妻裳子等裳高高丹來將跡待人乃悲
 古義にいへる如く將と跡と顛倒せるなり
 
3341 家人のまつらむものを津煎〔左△〕《ツレ》もなき荒磯をまきてふせる公《キミ》かも
家人乃將待物矣津煎裳無荒礒矣卷而偃有公鴨
 煎を考に烈の誤とせり。ツレモナキは人里トホキとなり。古義にトモナヒヨル人モナキと譯せるは非なり○卷二なる人麿の長歌の反歌(三二一頁)に
  おきつ波來よるありそをしきたへの枕とまきてなせる君かも
とあるに似たり
 
3342 ※[さんずい+内]潭《ウラノヘニ》こやせる公をけふけふとこむとまつらむ妻しかなしも
(2949)※[さんずい+内]潭偃爲公矣今日今日跡將來跡將待妻之可奈思母
 卷二なる人麿の妻の歌(三二二頁)にケフケフトワガマツ君ハとあり。卷五なる憶良の歌(九六四頁)にもケフケフトアヲマタスラム父母ラハモとあり
 
3343 ※[さんずい+内]《ウラ》浪の來よする濱に津煎〔左△〕《ツレ》もなく偃有〔左△〕《コヤセル》きみが家道しらずも
※[さんずい+内]浪來依濱丹津煎裳無偃有公賀家道不知裳
     右九首
 有は諸本に爲とあり。長歌と前の反歌とに偃爲とあるをコヤセルとよみ前々の反歌に偃有とあるをフセルとよみたればこゝはもとのまゝならばフシタルとよむべく有を爲の誤とせばコヤセルとよむべし
    ○
3344 此月は 君|將來《キタラム》と (大舟の) おもひたのみて いつしかと わがまちをれば (もみぢ葉の) すぎてゆきぬと (玉づさの) 使のいへば (螢なす) ほのかにききて 大士〔左△〕乎 太穗跡 たちてゐて ゆくへも(2950)しらに (朝ぎりの) おもひまどひて (杖たらず) 八尺《ヤサカ》の嘆 なげけども しるしをなみ跡〔□で囲む〕 いづくにか 君がまさむと あま雲の 行のまにまに (いゆししの) △行文將死《イユキモシナム》と おもへども 道|之《ノ》しらねば 獨ゐて 君にこふるに ねのみしなかゆ
此月者君將來跡大舟之思憑而何時可登吾待居者黄葉之過行跡玉梓之使之云者螢成髣髴聞而大士乎太穗跡立而居而去方毛不知朝霧乃思惑而杖不足八尺乃嘆嘆友記乎無見跡何所鹿君之將座跡天雲乃行之隨爾所射完乃行文將死跡思友道之不知者獨居而君爾戀爾哭耳思所泣
 キタラムは還リ來ラムなり。イツシカトはイツシカ來ラムトなり○大士乎太穗跡を眞淵は大土乎|足蹈駈《アシフミカケリ》の誤とし雅澄は天土乎乞祷嘆《アメツチヲコヒノミナゲキ》の誤とせり。古本には下三字を足※[足+昆]跡とせるものありといふ。之によらば卷九なる見菟原處女墓歌の仰天※[足+昆]地(一八六三頁)に倣ひてオホヅチヲクビスニフミとよむべきか。※[足+昆]は跟と同字なればなり。なほよく考ふべし○タチテヰテは或ハ立チ或ハ居テなり(五四七頁參照)。ユク(2951)ヘはこゝにては行クベキ方にてすなはちセムスベなり。オモヒマドヒテは當惑シテなり○無見跡はナミをナミトともいへど二句次なる君ガマサム跡《ト》とトの辭重複して調よからねば跡を衍字としてシルシヲナミとよむべし。シルシは詮なり○アマ雲ノユキノマニマニは雲は遠き處にも到ればソノ雲ノサソヒ行クマニマニ遠キ處ニモといへるなり。古義にアマ雲ノを枕辭とせるは非なり○イユシシノは枕辭なり。はやく卷九(一八四八頁)に見えたり。二註に矢ヲ負ヒタル鹿ノ行ツカレテ死ヌル如クと譯したるは誤なり。將死《シナム》は將爲《シナム》の借字なり。さればユキモシナムはただユキモセムといはむにひとし。然らばイユシシノは如何にかゝれる枕辭ぞといふに行の上に伊の字のありしが落ちたるにてイユシシノイユキとかゝれるなり○道之を二註にミチシと改めよめるはわろし。舊訓の如くミチノとよむべし。シラネバは知ラレネバの略なり。上(二九〇四頁)にも道ノシラナクとあるを思へ○完は宍の俗體なり
 
   反歌
3345 葦邊ゆく鴈のつばさをみるごとに公が佩具〔左△〕之《オバシシ》、投箭《ナゲヤ》しおもほゆ
(2952)葦邊徃鴈之翅〔左△〕乎見別公之佩具之投箭之所思
    右二首。但或云。此短歌者防人妻所v作也。然則應v知2長歌亦此同作1焉
 初二の語例は卷一(一〇六頁)にアシベユク鴨ノハガヒニ霜フリテ、卷十二(二六八三頁)にアシベユク鴨ノ羽音ノオトノミニとあり。葦邊ヲ飛ビ行クなり○具は思の誤ならむ○投箭を從來ナグヤとよめり。ナグル箭をナグ箭ともいはれざるにあらねど、なほナゲヤとよむべし。上(二九二四頁)なるイバエゴヱと同例なり。さてナゲヤは上(二九三一頁)なるナグル左《サ》におなじ○※[走+羽]はトブ又はムレトブとよむべき字なれば諸本に從ひて翅の誤字とすべし
  ○
3346 欲〔左△〕見者《ミサクレバ》 雲井にみゆる 愛《ウルハシキ》 とばの松原 少子等《ワラハドモ》 いざわいでみむ △ こと酒者《サケバ》 國に放嘗《サケナム》 こと避者《サケバ》 いへに離南《サケナム》 あめつちの 神しうらめし (草枕) このたびのけに 妻さくべしや
(2953)欲見者雲井所見愛十羽能松原少子等率和出將見琴酒者國丹放嘗別避者宅仁離南乾坤之神志恨之草枕此覊之氣爾妻應離哉
 欲見者は宣長が放見者の誤としてミサクレバとよめるに從ふべし○愛を考にハシキヤシとよみ古義にウルハシキとよめり。後者に從ふべし○少子等は略解にワクゴドモとよみ古義にワラハドモとよめり。卷七(一三七四頁)なるコノ崗ニ草カル少子《ワラハ》に倣ひてワラハドモとよむべきか○イザワはイザヤにおなじ。神武天皇紀に
  兄磯城《エシキ》命ヲ承ケズ。更ニ頭八咫《ヤタ》烏ヲ遣シテ之ヲ召ス。時ニ烏其營ニ到リテ鳴キテ曰ハク。天神ノ子汝ヲ召ス、イザワイザワ〔六字傍点〕
とあり○古義に
  十羽能松原は夫を葬りし處なればウルハシキといへるなるべし
といへるはいかが(夫とあるは妻とあるべし)。妻の生前に好みて見さけし處にあらざるか。さて以上六句と第七句との間〔日が月〕になほ數句(ナキ人ノ常ニイデ見シ、ウルハシキトバノ松原、ワラハドモイザワイデ見ムなど)ありしがおちたるならむ○酒者、放嘗を古義にサカバ、サカナムとよめり。避《サク》の他動詞はサクルなれば考、略解の如くサ(2954)ケバ、サケナムとよむべし(酒者と書けるもサカバとはよみがたし)○コトサケバを略解に釋して殊サラニ吾ヲ避ケ離レントナラバと云へるはいとわろし。古義に『コノ如クニ避離レムトナラバの意なり』といへるもいまだし。神ガカクノ如ク妻ヲ我ヨリ遠ザケムトナラバと譯すべし○國ニ、家ニは國ニテ、家ニテなリ。同事を重ねいへるなり。タビノケニは旅ナル程ニなり○妻を考以下に夫《ツマ》の借字とせるは非なり。こは旅の空にて妻を失ひし男の作れるなり○卷七に
  ことさけばおきゆさけなむ湊よりへつかふ時にさくべきものか
とあり
 
   反歌
3347 (草まくら)このたびのけに妻さかり家道|思《オモフニ》、生爲便無《イケルスベナシ》
     或本歌曰たびのけにして
草枕此覊之氣爾妻放家道思生爲使〔左△〕無
     或本歌曰覊乃氣二爲而
(2955)    右二首
 妻サカリは妻ガ我ヨリ遠ザカリテにて妻ガ死ンデといはむにひとし○第四句を舊訓にイヘヂオモヘバとよめるを古義にオモフニに改めたり。之に從ふべし。イヘヂはこゝにては故郷といはむにひとし○結句を舊訓にイケルスベナシとよめるを古義にイカムスベナシに改めて
  これを昔よりイケルスベナシと訓來れるはいかに。イケルスベとてはいかにともきこえがたきをや。よく心して語を味見よ
といへり。げにイカムスベナシとよまゝほしけれど上(二八七四頁)に
  ぬばたまのよるはすがらに、いもねずに妹にこふるに、生流〔右△〕爲便なし
とあれば(そは古義にもイケルスベとよめり)なほイケルスベナシとよみてそのスベを詮といふ意とすべし。使は便の誤なり
                             (大正十三年二月講了)
            2005年4月15日(金)午後5時35分、入力終了。
 
 
(2957)萬葉集新考卷十四
                井上通泰著
 
東歌
 アヅマウタは東國の歌なり。東國の歌には訛音方言多く交りて中々におもしろき所あるが故に好事の人聞くに隨ひて書き集めて一卷としたりしを家持の借り得て寫し取りたるならむ
 佐々木信綱博士は此一卷は東國にありて東國の歌に富める彼高橋連蟲麿の輯録せるものかと云はれたり(和歌史の研究五七頁)
 此卷の借字は主として一字一音の字音を用ひたり。而して一字二音の字を用ひたるは地名に限り又一字一音の字訓を用ひたるは正訓の時に限れり。さて一字一音を原則としたるは訛音方言を正しく寫すに便なるが爲にて彼好事者の輯録の時より然ありけめどなほ取外したる處もありけむを今の如く整然たるも(2958)のとせしは家持が傳寫せし時ならむ。然いふは卷二十なる防人の歌どもを見るに此卷の如くには嚴重ならねど、なほ主として一字一音の字音を用ひたればなり。此防人どもの歌は各國の部領使の筆録せしものなれば其原本の體裁はおそらくは今の如く一定せるものにはあらざりけむ。又此卷十四の中には、もとは一字數音の借字なりしを傳寫の際に一字一音に書き改めむとして誤讀せしにはあらざるかと思はるゝ例などもあり。索引中の『誤讀誤寫とおぼゆる例』を見べし
    ○
3348 (なつそひく)うながみがたのおきつ渚《ス》にふねはとどめむさよふけにけり
奈都素妣久宇奈加美我多能於伎都渚爾布禰波等杼米牟佐欲布氣爾家里
    右一首上總國歌
 此卷の部類を見るにまづ國の知られたると知られざるとに別ち次に甲乙を各小(2959)別したるなれば○の處に必雜歌とあるべきなり。さらでは次なる相聞歌及譬喩歌との權衡を得ざればなり
 卷七(一二八七頁)に
  なつそひくうながみがたのおきつ洲に鳥はすだけど君は音もせず
とあり。上三句今の歌とおなじ○海上郡は下總にもあれど、これは上總にて今の市原郡の内なり
 
3349 かつしかのままのうら末〔左△〕《ミ》をこぐふねのふなびとさわぐなみたつらしも
可豆思加乃麻萬能宇良末乎許具布禰能布奈妣等佐和久奈美多都良思母
    右一首下總國歌
 可豆思加は葛飾なり。此卷に此地名を假名書にせる歌五首あるうち三首は豆と書き二首は都と書けり。而して此卷には濁音の語にも清音の字を借りたる例少からざれば(今も歌などを書くに濁をさゝぬと同趣なり)いにしへはカヅシカと濁りて(2960)唱へしかとも思へどなほ豆を清音に借りたるならむ。豆を清音に借りたる例は本集のみならず諸の古典にあり。はやく卷十(一九〇八頁)にもサツビトノのツを豆と書けり○末は未の誤としてミとよむべし○卷七(一三二九頁)に
  風早の三穗のうらみをこぐ舟のふな人とよむ浪たつらしも
とあり○こは夜、家にゐて船人のさわぎを聞きてよめるならむ。もし目に見ての作ならば船人のさわぐ状と共にたつ浪も見ゆべく從ひてナミタツラシモとはいふまじきが故なり。又卷七なるは風早といふ地名と浪タツラシモとひびき合ひてここなるよりはおもしろし
 
3350 筑波禰のにひぐはまよのきぬはあれどきみがみけししあやにきほしも
    或本歌曰たらちねの又云あまたきほしも
筑波禰乃爾此具浪麻欲能伎奴波安禮杼伎美我美家思志安夜爾伎保思母
     或本歌曰多良知禰能又云安麻多伎保思母
(2961) 蠶の繭をクハマヨともいふべければニヒは繭にかゝれるにて桑にかゝれるにあらず。さて古義に
  蠶は春夏飼ふをこれはまづ春はじめてかひたる蠶の衣をいふなり
といへれどニヒマヨといはば出來タテノ繭と心得べきにあらずや。思ふに新繭の絲にて織れる衣はめでたきものとしたりしならむ○筑波禰ノニヒグハマヨとつづけたる不審なり。もし飼蠶の繭ならばツクバ禰はツクバ女の誤ならざるべからず。又禰とあるが誤字ならずば繭は山繭とせざるべからず。前註に此疑を起さざるはおろそかなりといふべし○ミケシは御著衣にて今オメシといふに同じ。アヤニはアヤシク、異《ケ》ニなり。キホシは著マホシなり。結句は卷七なる
  つるばみのときあらひ衣のあやしくもことにきほしきこのゆふべかも
の三四と相似たり○宣長は
  是は京より下り居る官人などの衣服の美しきをみてよめるなるべし。上句のさましか聞ゆ
といへれどこは元來相聞歌にて男が女に対して妙ニアナタノ御メシガ著タイと(2962)いひて戀情をほのめかしたるなり。女の衣を借りて著る事は當時の習なりき
 一本にタラチネノとあるを考以下に『母といはでタラチネとのみいへること古へはすべて無し』といひて斥けたれど、こは契沖が
  集中にタラチネノと云ひつれば必ハハとつづけたれば此は足引といひてやがて山とする例なり
といへる如く母の代語とも見つべし。結句はアマタキホシモにても可なり。アマタはタイサウなり
 
3351 筑波ねにゆきかもふらるいなをかもかなしき兒ろがにぬほさるかも
筑波禰爾由伎可母布良留伊奈乎可母加奈思吉兒呂我爾努保佐流可母
     右二首常陸國歌
 フラルはフレル、ニヌは布、ホサルはホセルの訛なり。イナヲカモはヲは助辭にて否カモなり。古義に然ラズヤ然リヤの意としたるは非なり。はやく卷十一(二三五六頁)に
  相見では千歳やいぬるいなをかも我やしかもふ君まちがてに
(2963)とあり○カナシキはカハユキなり。兒ロのロは京語のラなり。くはしく云はば京語にもオホキミロカモ、トモシキロカモなど名詞又は形容詞の下に附けていひしかど、そはカモにつづく時に限り又後にはをさをさつかはずなりしを東語には後までもつかひ又京語よりは廣く且多くつかひたり。因にいふ。夜、日をヨル、ヒルといふルも右のロ、ラと同源ならむ○考に筑波山に雪の降れるを見てよめるなりといへる如し。卷十九に季をよめる歌に
  わがそののすももの花か庭にちるはだれのいまだのこりたるかも
とあると似たり
 
3352 信濃なるすがのあら能にほととぎすなくこゑきけばときすぎにけり
信濃奈流須我能安良能爾保登等藝須奈久許惠伎氣婆登伎須疑爾家里
     右一首信濃國歌
 スガノアラ野は和名抄に見えたる筑摩郡|苧賀《ソガ》郷のわたりにて犀川の上流なる櫻井川と其支流なる梓川との間に亘れる廣野なりといふ○時スギニケリの時を眞淵は歸ルベキ時とし雅澄は逢ハムト契リオキシ時とせり。夫の歸り來べき時なる(2964)べし○野《ヌ》を能といへるは訛音にはあれど東語に限れるにあらず。卷五(九〇七頁)なる筑前(ノ)目《フミヒト》、田(ノ)眞人の歌にハルノ能ニキリタチワタリとあり、卷十八なる家持の長歌に夏ノ能ノサユリヒキウヱテとあれば奈良朝時代の末よりかつがつヌをノと訛り唱へしなり
 略解に
  こゝに載せたる五首の中初二首と末一首は東ぶりならず。既に久しく仕奉りて歸りをる人の東にての歌故に入たるか(○以上眞淵の説)あるひは京人の東の國の司などにて下りたるがよめるをそれも其國に傳はりたるは其國の歌とてあるなるべし。古今集の東歌にも此類あり
といへるを古義に『甚偏なる論なり』と評して全部東人の歌としたるは曲れるを矯めて直きに過ぎたりと謂ふべし。げに古義にいへる如く東人も雅言をよく學び得たるはみやびたる歌をもよみ得べければ此歌はみやびたれば京人の歌なりとやうに定め云はむこそ妄なれ、元來此卷に収めたるは卷二十なる防人の歌とはちがひて作者は知られずただ國々に傳はれるを聞くに從ひて記し留めたるものなれ(2965)ばそが中には京人が其國々にて作れるも交りたるべきなり。否京人の歌を東人の保ち下りて傳へたるもあるに似たり
 
   相聞
3353 (あらたまの)伎倍《キヘ》のはやしになをたててゆきがつ麻思自《マシジ》、移乎〔左△〕《イザ》さきだたね
阿良多麻能伎倍乃波也之爾奈乎多※[氏/一]天由吉可都麻思自移乎佐伎太多尼
 伎倍は次の歌に伎倍ビトノとあれば遠江の地名なる事明なり。アラタマは遠江の郡名に麁玉あればそれかと思ふに和名抄に載せたる麁玉郡の郷名に伎倍といふは無し。
  濱名郡には今も貴平といふ處あり。宣長は和名抄に見えたる山香郡岐階を岐陛の誤としてこゝの伎倍に擬したり
 されば雅澄はアラタマノを伎倍(來經に通ずれば)にかゝれる枕辭とせり。アラタマ(2966)ノキヘとつづける例は卷十一(二三五一頁)に
  あらたまの寸戸《キヘ》が竹《タカ》垣あみ目ゆも妹しみえなばわれこひめやも
とあり。但そのキヘは地名にあらで後世にいふ城下なり。
 眞淵等はその寸戸とこの伎倍とを混同せり
 さてこゝのアラタマノも古義に從ひて枕辭と認むべし。又キヘのヘは清みて唱ふべし○ナヲタテテは汝ヲ立タセテなり。下にもソノカナシキヲ外《ト》ニタテメヤモ、妹ロヲタテテサネドハラフモとあり○麻之自の自を考以下に目の誤とせるは非なり。橋本進吉氏の説に從ひてもとのまゝにてマシジとよむべし。ユキガツマシジは行敢ヘジなり○移乎を大平は移毛の誤とし二註共に之に從ひたれど上に汝《ナ》ヲといひてこゝにイモといふべきにあらず。移乎はおそらくは移邪の誤ならむ○宣長は
  これは男の旅立行く時妻の伎倍の林まで送來ぬるを別るる時の男の歌也。キヘノ林ニ汝ヲ立トマラセ置テ別レユク吾ハエ行ヤラジ、汝モ立トマラズシテサキ立テユケカシ、吾モトモニユカンといへる也
(2967)といへり。大體右の如くなれど結句をサキ立テユケカシ吾モトモニユカンと譯せるは非なり。吾ニ先立チテ立歸レといへるなり
 
3354 伎倍びとのまだらぶすまにわた佐波太〔左△〕《サハニ》いりなましものいもがをどこに
伎倍此等乃萬太良夫須麻爾和多佐波太伊刹〔左△〕奈麻之母乃伊毛我乎杼許爾
     右二首遠江國歌
 佐波太の太を眞淵は爾の誤とせり。げに下なる
  をつくばのねろにつくたしあひ太よは佐波太なりぬをまたねてむかも
も佐波爾とあるべきなればこゝの佐波太も佐波爾の誤ならむ○伎倍ビトノといへればこは他處の人の作れるにて伎倍人の斑布の衾に綿をさはに入れたるを見てそを序として入リナマシモノ妹ガ小床ニといへるなリ。伎倍人は衾の斑なるを好み(古人は一般に物の斑なるをめできとおぼゆる事あり)又寒氣をおそるゝか又(2968)は綿に富みて衾に綿を多く入れしなるべし○イリナマシモノはモシ出來ル事ナラ入ラウモノヲとなリ○刹は利の誤なり
 
3355 あまのはらふじの之婆やまこのくれのときゆつりなばあはずかもあらむ
安麻乃波良不自能之婆夜麻己能久禮能等伎由都利奈波阿波受可母安良牟
 初二はアマノハラニソビユルフジノシバ山といふべきを略せるならむ。下にも百ツ島ヲ傳ヒユクといふべきを略してモモツシマアシガラヲブネといへる例あり。シバ山を略解に『麓は柴のみ繁ければいへり』といへり。富士山は下より數ふれば茅野、木立(森林)、燒野の三帶に分れたり○コノクレは木陰なり。近くは卷十(一九九〇頁)に見えたり。ユツリはウツリなり。近くは卷十一(二四三一頁及二四三三頁)に見えたり。但こゝのユツリナバは過ギナバと譯すべし○宣長いへらく
  上二句はコノクレの序のみ也。木之暗を此暮にいひかけたるなり
(2969)といへり。此説穩なれどただ柴山ノ木ノ暗といふ續おちつかす。之婆夜麻の婆は氣などの誤にあらざるか。語例は卷十九に繁山ノタニベニオフル山ブキヲヤドニヒキウヱテ又卷二十にコノクレノ之氣伎ヲノヘノホトトギスとあり。なほよく思ふべし
 
3356 不盡のねのいやとほながきやまぢをもいもがりとへばけによ婆ずきぬ
不盡能禰乃伊夜等保奈我伎夜麻治乎毛伊母我理登倍婆氣爾餘姿受吉奴
 フジノネノヤマヂとは富士の麓に沿へる山路なり。トヘバはト云ヘバなり○ケニヨ婆ズを眞淵は
  氣は息《イキ》なり。ニヨバズは不2呻吟1なり
といひ宣長は
  ケはケ長キのケにて來經なり。されば時刻ヲ移サズイソギテ來ヌと云也。ヨバズ(2970)は不及なり
といへり。ニヨフは眞淵のいへる如く呻く事なり。靈異記中卷第廿二に呻【ニヨフ】とあり。今も靜岡縣などにては呻くことをニオーといふ。ケは添辭かとも思へどケオサル、ケヂカシなどのケは多少の意味を含みて純粋の添辭にあらねば例とはしがたし。或は異《ケ》ニ呻《ニヨ》フの一つのニを略してケニヨフといひ習ひしにあらざるか。又案ずるにニヨフはこゝに氣爾餘婆〔右△〕受と書きたれど今ニオーといふを思へばニヨフと清みて唱ふべきにあらざるか。もし然らば婆と書けるは波の誤字ともすべく(波と書ける本もあり)日本紀の如く清音として借れりとも認むべし。日本紀にはナニオ婆ムト、婆リガエダ、ミガホシモノ婆など清むべき處にも婆を借りたり。否本集中にも婆を清音に借れる例ある如し
 
3357 かすみゐるふじのやまびにわがきなばいづちむきてかいもがなげかむ
可須美爲流布時能夜麻備爾和我伎奈婆伊豆知武吉※[氏/一]加伊毛我奈氣可(2971)牟
 カスミは薄霧なり(一九八四頁參照)。下にもツクバネノネロニカスミヰとあり○ヤマビは山邊なり。はやく卷六(一一一二頁)にも濱ビとあり。ワガ來ナバは我行キナバとなり。いまだ其處には到らざるなり。三四の間に我後影モ見エズナルベキニヨリテといふことを補ひて聞くべし○男の旅立たむとする時によめるなり。略解に男ハフジノ麓ヘ別レテ來居ル事アル時云々と譯せるは非なり。來ナバと未來挌もて云へるにあらずや
 
3358 さぬらくはたまの緒ばかりこふらくはふじのたかねのなるさはのごと
    或本哥曰まがなしみぬらく波《ハ》思家〔左△〕良久《シマラク》△奈良久波《カナラクハ》、伊豆のたかねのなるさはなすよ
    一本歌曰あへらくはたまのを思家也〔二字左△〕《シマシ》こふらくはふじのたかねにふるゆきなすも
(2972)佐奴良久波多麻乃緒婆可里古布良久波布自能多可禰乃奈流佐波能其登
    或本哥曰麻可奈思美奴良久波思家良久奈良久波伊豆能多可禰能奈流左波奈須與
    一本歌曰阿敞〔左△〕良久波多麻能乎思家也古布良久波布自乃多可禰爾布流由伎奈須毛
 初二は相寢ル事ハ少シノ間ニテとなり。サは添辭なり。コフラクハは我、君ニ戀フル事ハとなり○ナル澤のサハは谿流ならむ。今も谿流をサハと稱する地方あるのみならず靈異記上卷第十二に髑髏在2于奈良山(ノ)渓1爲2人畜1所v履とある渓をサハニと訓註したり。さて昔富士のまだ活火山なりし時渓流の鳴動せしかばそをナル澤といひしなり。ナル澤ノゴトはナル澤ノ如クトドロクヨといふべきを略したるなり。考に第三句をおちつかざるやうにいへるはゴトをゴトシと同視したる爲なり。ゴトはゴトクなり○古今集戀三なる
(2973)  あふ事は玉の緒ばかり名のたつは吉野の川のたきつせのごと
は今の歌にもとづきたりと見ゆ
 左註第一のヌラク波思家良久奈良久波は一本にヌラク思家良久佐奈良久波とあり(即上の波なく又奈の上に佐あり)といふ。雅澄は之を本としてヌラクシ末《マ》ラクの誤とし又サナラクハをサヌラクハの意とせり。既にヌラクといひて更にサヌラクハといふべからず。思ふにヌラクハシ末《マ》ラク、可ナラクハの誤脱ならむ。ヌラクの下の波は※[月+眷の目が貝]字にはあらじ。カナラクは下にカナルマシヅミとありて騒ぐ事なり
 左註第二の思家也を眞淵は
  シケは次也及也。玉ノヲノ如クといふに同じ
といひ宣長は
  シケヤはシキヤの意にて玉ノヲラシキの意なるべし
といへり。案ずるに思家也は思末之の誤にてタマノヲシマシは玉ノ緒ナスシバシの意ならむ○敞は敝の誤なり
 
3359 駿河のうみおしべにおふるはまつづ夜〔左△〕《ラ》いましをたのみははにたがひ(2974)ぬ【一云おやにたがひぬ】
駿河能宇美於思敝爾於布流波麻都豆夜伊麻思乎多能美波播爾多我比奴 一云於夜爾多我比奴
     右五首駿河國歌
 契沖のいへる如くオシベは礒邊の訛なり。下にママノオスビニとあるも同じ○ハマツヅ夜の夜は契沖のいへる如く良の誤なり。諸本に良とあり。上三句は序と思はるれどそのかゝりたどたどし。契沖は濱ツヅラノハフ如ク長ク絶セジトイヘル詞ヲ憑ミテと譯し諸註皆之に從ひたれど從ふべからず。案ずるに上三句はタノミテにかゝれるなり。されば濱ツヅラノ物ヲタノム如ク汝ヲタノミテと譯すべし。すべて東歌の序歌には常識にては解しがたきものあり。注意すべし○タガヒヌは背キヌなり
 
3360 伊豆のうみにたつしらなみのありつつもつぎなむものをみだれしめめや
(2975)    或本歌曰△△《タツ》しらくものたえつつもつがむともへやみだれそめけむ
伊豆乃宇美爾多都思良奈美能安里都追毛都藝奈牟毛能乎美太禮志米梅楊
      或本歌曰之良久毛能多延都追母都我牟等母倍也美太禮曾米家武
      右一首伊豆國歌
 初二は序にて契沖のいへる如くツギナムにかゝれるなり。アリツツモはカクシツツ、ツギナムは繼ギテ逢ハムとなり○ミダレシメメヤは契沖のいへる如く亂レ始《ソ》メメヤなり。ソメをシメとなまれるは染《シメ》を後にソメとなまれるとうらうへにてイソ〔右△〕ベをオシ〔右△〕ベと訛れるに同じ。一首の意は一時ノ中絶ニヨリテアダシ心ヲモタムヤといへるなり
   或本歌はシラクモノの上にタツをおとせるなり。モヘヤを略解に思ヘバニヤの意(2976)とし古義にはオモハメヤの意とせり。前者に從ふべし。但一首の意は得がたし。ミダレの意底本なるとは異なるか
 
3361 あしがらのをてもこのもにさすわなのかなるましづみ許呂《コロ》安禮〔二字左△〕《ガ》ひもとく
安思我良能乎※[氏/一]毛許乃母爾佐須和奈乃可奈流麻之豆美許呂安禮此毛等久
 ヲテモコノモは遠方此方《ヲチモコノモ》にてアチラコチラなり。ヲチモをヲテモといへるはカナシキ兒ラニをカナシケ〔右△〕兒ラニといへると同じ類なる訛なり。卷十七なる家持の歌にもアシヒキノヲテモコノモニ又二上ノヲテモコノモニとあれど、おそらくは京語にはあらで方言ならむ○ワナはハルともいへり○カナルマシヅミは卷二十なる防人の歌にも
  あらしをのいをさたばさみたちむかひ可奈流麻之都美いでてぞあがくる
とあり。卷四(六三〇頁)なる
(2977)  珠衣の狹藍左謂沈いへの妹にものいはず來ておもひかねつも
と比較するにカナルマはサヰサヰに當れり。サヰサヰはシホサヰのサヰに同じくて騒といふことなればカナルマも騒といふことならむ。今東京附近の方言にやかましくいふことをガナルといふ、このガナルこそ古語のカナルの遺れるならめ。雅澄はカナルマは囂鳴間〔日が月〕なりといへれどマは無意義の助辭ならむ。ともかくもカナリ〔右△〕マといふべくおぼゆるをカナルマといへるは例の訛にてサユリノ花をサユルノ花となまりシリヘをシル〔右△〕ヘとなまれると同例ならむか○シヅミはシヅマリなり。從來シヅメテと譯せるは非なり。さればカナルマシヅミは騒ガシヅマリテといふことなり。卷四(七二七頁)にナミダニシヅミのシヅミを定と書けるもシヅマリをつづめてシヅミともいふが故に定の字を沈の意のシヅミに借れるなり○上三句は序と思はるれどそのかゝり明ならず。鳥獣の係蹄にかゝれば音のするしかけあるにてその音のするをカナルマといへるにや○結句はコロガヒモトクの誤ならむ。許呂我とありしを誤りてコロアレとよみ終に許呂安禮と書けるにあらざるか〇四五の意は夜更ケ人靜マリテ始メテ女ノ下紐ヲ解クといへるならむ
 
(2978)3362 相模《サガム》ねのをみね見|所久〔二字左△〕思《ツツシ》わすれくるいもが名よびて吾《ア》をねしなくな
    或本歌曰|武藏《ムザシ》ねのをみね見|可久〔二字左△〕思《ツツシ》わすれゆくきみが名かけてあをねしなくる
相模禰乃乎美禰見所久思和須禮久流伊毛我名欲妣※[氏/一]吾乎禰之奈久奈
    或本歌曰武藏禰能乎美禰見可久思和須禮遊久伎美我名可氣※[氏/一]安乎禰思奈久流
 相模はサガムとよむべしと宣長いへり(記傳卷二十【一六三三頁】)。前註に『サガムネは大山なり。ムザシネは秩父山なり』などいへるは穿鑿に過ぎたり。ただ相模の山、武藏の山と心得べし。サガムネといひて更にヲミネといへるはツクバネノネロなどと同例なり。ヲミネのヲは添辭のみ○見所久思、見可久思は見都都思などの誤ならむ。ワスレクル、ワスレユクの下にヲを添へて心得べし。他郷ノ山ヲ見ツツソレニマギレテ妹ノ事ヲ忘レ來ルヲとなり。イモガ名ヨビテ、君ガ名カケテは妹ガ名ヲ口ニシテとなり。作者の妻の名をいふにあらず。其名にかよふ語を口にするなり○ネシナク(2979)ナは音ニシ泣カスナにてネシナクルは音ニシ泣カスルなり。下にも
  なせのこや等里乃乎加耻志奈可太乎禮あをねしなくよいくづくまでに
  しまらくはねつつもあらむをいめのみにもとなみえつつあをねしなくる
とあり。東語かと思ふに卷二十なる太上天皇御製に
  ほととぎすなほもなかなむもとつひとかけつつもとなあをねしなくも
とあれば然にはあらじ。古義に
  ネシナクナのはてのナはコヒムナ、ケラシナなどいふナに同じくてナアと歎きすてたる辭なり
といへるは非なり○或本歌のキミは女を指せるなり
 
3363 わがせこをやまとへやりて麻都之太須《マツシタス》あしがらやまのすぎの木のま可〔左△〕《ニ》
和我世古乎夜麻登敞〔左△〕夜利※[氏/一]麻都之太須安思我良夜麻乃須疑乃木能末可
(2980) ヤマトは京なり。契沖は
  マツシタスはマツシタツなり。マツシは翳《マブシ》なり。……又マツシタスは待《マチ》シ立《タツ》か。それはシ文字弱く聞ゆ
といひ略解には右の第一説を擧げて『さらば都は部の誤か』といひ古義にはマチシタハスの訛及約として令待慕の意とせり。宜しく契沖の第二説に從ひてマチ〔右△〕シタツ〔右△〕のチがツに、ツがスにうつれるものとすべし。
  マチをマツとなまれるは古事記なる輕(ノ)大郎女の御歌にヤマタヅノムカヘカユカム麻都ニハマタジとあると同例なり。又タツをタスとなまれるは下に月立チをツクタシといへるなどと同例なり。すべて多行の佐行にうつれるは例多し
 さてマチタツの中間に助辭のシを挿めるは下へ續くにあらざるを示さむ爲なり○結句の可は耳の誤なる事論なかるべし
 
3364 あしがらのはこねのやまにあはまきて實とはなれるをあはなくもあやし
    或本歌末句云はふくずのひか利《バ》よりこねしたなほなほに
(2981)安思我良能波姑禰乃夜麻爾安波麻吉※[氏/一]實登波奈禮留乎阿波奈久毛安夜思
    或本歌未〔左△〕句云波布久受能比可利與利己禰思多奈保那保爾
 逢ハヌを逢ハナクといふは京語にも例あることなれど東語には殊に多かりけむ。今も逢ハヌを東京語にて逢ハナイといふは右の格の遺れるなり○粟無クに逢ハナクを添へたるにて上四句は粟無クをいはむ爲に設け云へるのみ。但序歌にはあらず
 或本の歌は全く別なる歌なり。比可利は一本に比可波とあるに從ふべし。引者《ヒカバ》なり。シタは心なり。ナホナホニはダマッテなり、スナホニなり。ナホナホニの語例は卷五(八五六頁)にあり。さてヒカバ以下は下にヒカバヌルヌル又ヒカバヌレツツとあるにおなじ○未は末の誤なり
 
かまくらのみこしのさきのいはぐえのきみがくゆべきこころはもたじ
(2982)3365 可麻久良乃美胡之能佐吉能伊波久叡乃伎美我久由倍伎己許呂波母多自
 上三句は序なり。ミコシノサキは今の稻村が崎なりといふ。イハグエは岩崩なり。此處の岩崩は名高かりきと見えて相模國風土記の逸文にも
  鎌倉郡見越(ノ)崎|毎《ツネ》ニ速浪アリテ石ヲ崩ス。人名ヅケテ伊曾布利トイフ
とあり〇四五の例は上にあり(二一九七頁參照)
 
3366 まがなしみさねにわはゆくかまくらのみなの瀬がはよしほみつなむか
麻可奈思美佐禰爾和浪由久可麻久良能美奈能瀬河泊余思保美都奈武賀
 マガナシミはカハユサニなり。上(二九七一頁)にもマガナシミヌラクハシ家〔左△〕《マ》ラクとあり。初二のマとサとは添辭なり○第四句のヨはニなり。ミナノセ川は今大佛の東を過ぐる稻瀬川の古名なりといふ。大和の南《ミナ》淵山を今稻淵山と呼ぶと同例なり○(2983)ミツナムカはミツテムカの訛なり。今も上總などにてラをナと訛る事ああり。たとへば墓地をナントウといふ。是ランタフ(卵塔)の訛なり。さればシホミツナムカは潮ガ滿チテ渡リ行カレザラムカとなり
 
3367 ももつしまあしがらをぶねあるきおほみ目こそかるらめこころはもへど
母毛豆思麻安之我良乎夫禰安流吉於保美目許曾可流良米己許呂波毛倍杼
 初二は序なり。足柄船ノヤウニとなり。初句は百ツ島ヲ傳ヒユクといふべきを略せる枕辭なり。モモツのツはヒトツ、フタツ、イホツなどのツなり。又モモチといへり。ツに豆の字を借れるに注目すべし○アシガラヲブネは足柄山の杉などにて作れる船なり。山の名をアシガラといふも其山の杉もて作れる船の足の輕きによるといふ説さへあり(風土記逸文)○此歌は女の歌にて第三句以下の意は男モ心ニハ思ヘド行クベキ處ガ多キニヨリテ打絶エテ來ザルラムといへるなり
 
(2984)3368 あしがりのとひのかふちにいづる湯のよにもたよらにころがいはなくに
阿之我利能刀此能可布知爾伊豆流湯能余爾母多欲良爾故呂何伊波奈久爾
 アシガラをアシガリとなまれり。上三句は序なり。トヒは後世土肥と書く地にて足柄下郡の南端にありて伊豆に接せり。今都人士の熟知せる湯河原のわたりなり。カフチは河に圍まれたる地なり○第四句の語例は下に
  筑波ねのいはもとどろにおつるみづ代にもたゆらにわがおもはなくに
とあり。タヨラニ又タユラニはユタニにおなじ。下に安齊可ガタシホヒノユタニオモヘラバとあり。さてタヨラニの語意は序の方にては分量の多き事(俗語のタップリ)主文の方にては緩なる事(俗語のユックリ)ならむ。又ヨニモはイトといふに近からむ。されば四五の意はイト氣長ニハ女ガイハヌ否性急ニハヤク逢ヒタイト催促スルといへるならむ
 
(2985)3369 あしがりのままのこすげのすがまくらあぜかまかさむ許呂勢い〔左△〕《コロノ》たまくら
阿之我利乃麻萬能古須氣乃須我麻久良安是加麻可左武許呂勢多麻久良
 考以下にママを地名として足柄上郡なるママ下《シタ》(酒勾《サカワ》川の上流の右岸にあり)を之にあてたるは非なり。ママは地名にはあらで斷崖の方言なり。かのママシタも崖の下にあるより名を負へるなり。葛飾の眞間も斷崖あるより得たる名なるべし○アゼカはナドカの方言なり。マカサムは枕キ給ハムなり。許呂勢は許呂能の誤ならむ○上三句はマカスにかゝれる序にてイカデ彼ノ女ノ手ヲ枕キタマハムと本妻の妬みてよめるならむ
 
3370 あしがりのはこねのねろのにこぐさのはな都〔□で囲む〕づまなれやひもとかずねむ
安思我里乃波故禰能禰呂乃爾古具佐能波奈都豆麻奈禮也比母登可受(2986)禰牟
 上三句は序なり。ハナヅマは花ヨメなり。花ヨメ花ムコのハナは端にて始といふことなり。花と書くは借字なり(一七八七頁參照)〇四五は花ヨメナラメヤ、花ヨメニハアラヌヲ今夜ハ紐トカズニ寢ムといへるなり。無論女の歌なり。ニコ草ははやく卷十一(二四八七頁)に見えたり
 
3371 あしがらのみさかかしこみ(久毛利欲《クモリヌ》の)あがしたばへをこちでつるかも
安思我良乃美佐可加思古美久毛利欲能阿我志多婆倍乎許知※[氏/一]都流可毛
 二三の間〔日が月〕に頻ニ妹コヒシクオボエテといふことを挿みて心得べし○第三句は枕辭なり。略解に
  按にコミリヌノと有しを訛傳へたるか。久は己の誤、欲は奴の誤字なるべし。卷九コモリヌノシタバヘオキテとあり
といへるいとよろし。但『久は己の誤』といへるは非なり。卷二十にコエテ我ハユクを(2987)クエテワハユクといへる如くコモリヌをクモリヌとなまれるのみ○シタバヘは心ノ内ニ思ヘル事なり。コチデはコトイデの約にて言に出す事なり○卷十五に
  かしこみとのらずありしをみこしぢのたむけにたちていもが名のりつ
とあると似たり。かしこけれど倭建《ヤマトタケル》(ノ)命が阿豆麻波夜と嘆きたまひし事も聯想せらる
 
3372 相模ぢのよろぎのはまのまなごなす兒良久〔左△〕《コラハ》かなしくおもはるるかも
相模治乃余呂伎能波麻乃麻奈胡奈須兒良久可奈之久於毛波流留可毛
     右十二首相模國歌
 ヨロギノ濱は今の大磯附近なり。マナゴナスは眞砂ノ如クウルハシキとなり〇兒等久の久は諸本に波とあり。略解に之《シ》の誤とせるも棄てがたし○オモハルルカモは正語の東國に傳はれるなり。京語にオモホ〔右△〕ユルカモといへるは却りて訛れるなり
 
3373 たまがはにさらすてづくりさらさらになにぞこの兒のここだかなし(2988)き
多麻何泊爾左良須※[氏/一]豆久利佐良左良爾奈仁曾許能兒乃己許太可奈之伎
 初二は序なり。テヅクリは手織布なりといふ○古今集なる
  みまさかや久米のさら山さらさらにわが名はたてじよろづ世までに
を始めて後世の歌にいへるサラサラニは決シテといふことなれどこゝのサラサラニは別意とおぼゆ。案ずるにサラサラニは新《サラ》ニ新《サラ》ニの意なるべければこゝなるが本なるべし
 
3374 武藏野にうらへかたやきまさでにものらぬきみが名うらにでにけり
武藏野爾宇良敝可多也伎麻左※[氏/一]爾毛乃良奴伎美我名宇良爾低爾家里
 古義に
  ウラヘは占《ウラヘ》なり。カタヤキは肩灼なり。武藏野の鹿の肩骨を取て灼て占ふなり
といへれど、もし然らはカタヤキウラヘといふべきなり。
(2989) 卷十五なる六鯖の挽歌にユキノアマノホツテノウラヘ乎カタヤキテユカムトスルニとあるによらばウラヘを名詞としカタヤキを一箇の動詞とすべけれどかの歌の乎の字は衍字なるべし
 然るにウラヘカタヤキといへるを思へばウラヘはカタヤキの手段とせざるべからず。而してウラヘをカタヤキの手段とせばカタヤキは肩灼にはあらで兆灼《カタヤキ》にあらざるべからず。さればウラヘカタヤキは卜《ウラナヒ》シテ兆ヲ灼キ出シの意とすべし。又カタヤキは兆灼キシニと心得べし○さてムザシ野ニといへるは當時武藏野に卜を業とするものありしにこそ。和名抄に豐島郡占方郷とあるはよしありげにおぼゆ○マサデニモノラヌはタシカニモ言ハヌなり○此歌は女の作にて其女に男ありて子孕みなどせるより親が男の名を責め問へど白状せざれば武藏野なる卜師の許に率て行きて占《ウラナ》はせしに男の名の卜兆《ウラカタ》にあらはれし趣なり
 
3375 武藏野のをぐきがきぎしたちわかれいにしよひよりせろにあはなふよ
武藏野乃乎具奇我吉藝志多知和可禮伊爾之與比欲利世呂爾安波奈布(2990)與
 初二はタチにかゝれる序なり。ヲグキのヲは添字、クキは洞なり。洞は野にもあるべし○アハナフはもと逢ハヌを延べたるなれど一つの語となりてアハナハム、アハナヒ、アハナフ、アハナヘとはたらきしなり。無論東語なり
 
3376 こひしけばそでも布良武乎〔二字左△〕《フラナム》むざし野のうけらがはなのいろにづなゆめ
    或本歌曰いかにしてこひばかいもに武藏野のうけらがはなのいろにでずあらむ
古非思家波素※[氏/一]毛布良武乎牟射志野乃宇家良我波奈乃伊呂爾豆奈由米
    或本歌曰伊可爾思※[氏/一]古非波可伊毛爾武藏野乃宇家良我波奈乃伊呂爾低受安良牟
 コヒシケメは戀シカラバなり。タラバをテバといふが如し。フラ武乎はフラ奈武の(2991)誤ならむ。さらば初二はモシ戀シカラバ人シレズ袖ダニ振レカシとうつすべし○三四は色ニ出《ヅ》にかかれる序なり。例のフルノワサ田ノ穗ニハイデズと同格なり○ウケラは草の名、今ヲケラといふ。こは男の歌なり
 或本歌は別の歌なり。第二句はイモニコヒバカの誤寫か
 
3377 武藏野のくさはもろむきかもかくもきみがまにまに吾《ワ》はよりにしを
武藏野乃久佐波母呂武吉可毛可久母伎美我麻爾末爾吾者余利爾思乎
 クサハのハは助辭なり。古義に草葉とせるは非なり。同書に初二を序としたるも非なり。モロムキナルヲといふべきを略せるなり。モロムキはオノガムキムキなり〇カモカクモは右《ト》ニモ左《カク》ニモなり、第三句以下の意は我ハ君ガマニマニタダ一ムキニ寄リニシヲとなり。考に『いかなるよしありて疎く成つらむやと女のわぶるなり』といへる如く男を恨みてよめるなり
 
3378 いりまぢのおほ屋がはらのいはゐづらひかばぬるぬるわになたえそね
(2992)伊利麻治能於保屋我波浪能伊波爲都良此可婆奴流奴流和爾奈多要曾禰
 イリマヂは入間道なり。當國に入間〔日が月〕郡あり。オホヤガハラは古義にいへる如く大屋之原なり。河原にあらず。イハヰヅラはいかなる草にか明ならず○ヌルヌルは俗語の格にていはばヌレヌレにてヌレツツといはむにひとし。そのヌルは滑る事なり○序は上三句なり、イハヰヅラノ如ク引カバスナホニスルスルト寄リテ我ニ絶ユナといへるなり○下に
  かみつけぬかほやがぬまのいはゐづらひかばぬれつつあをなたえそね
とあると同一なる歌なり。いづれか原なりけむ。上(二九八〇頁)にもヒカバヨリコネシタナホナホニとあり
 
3379 わがせこをあどかもいはむむざし野のうけらがはなのときなきものを
和我世故乎安杼可母伊波武牟射志野乃宇家良我波奈乃登吉奈伎母能(2993)乎
 三四は序なり。二註にいへる如く時ナキまではかゝらで時のみにかゝれるなり。結句の意はワガ夫ニ戀フルハ定マレル時ナクテ不斷ナルモノヲとなり。時は定マレル時なり。下にもアガコヒノミシトキナカリケリとあり。又卷二十に
  いなみ野のあからがしははときはあれどきみをあがもふ時はさねなし
とあり(二八九〇頁參照)○アドカを古義にナドカと譯したれどナドカにては通ぜず。そもそもアドカにはナドカと譯すべきと(タマモコソヒケバタエスレアドカタエセムなど)何トカと譯すべきと(カキムダキヌレドアカヌヲアドカアガセムなど)あり。
  ナドカは元來ナニトカの略なればナドカと何トカとは同意なるべきなれどつかひ來るがまゝにおのづから意義相異なるやうになれるなり
 さてこゝは何トカと譯すべし。コヒシトカ云ハム何トカ云ハムとなり
 因にいふ。ナとアとを通はすは東語に限らず。景行天皇紀に
  阿蘇(ノ)國(ニ)到リマス。其國郊原曠遠ニシテ人居ヲ見ズ。天皇ノタマハク是國ニ人(2994)アリヤト。時ニ二神アリ。阿蘇都彦阿蘇都媛トイフ。忽人ニ化シテ遊詣シテイハク。吾二人アリ。何無v人耶《アゾヒトナカラムト》。故《カレ》其國ヲ號シテ阿蘇トイフ
とあるもナゾをアゾともいひしが故なり。上(二九八五頁)にアゼカマカサムとあるアゼカはアドカのうつれるか
 ○略解に『初句のヲはヨと云意也』といへるは非なり。常のヲなり
 
3380 さきたまの津にをるふねのかぜをいたみつなはたゆともことなたえそね
住吉多萬能津爾乎流布禰乃可是乎伊多美都奈波多由登毛許登奈多延曾禰
 考に
  埼玉郡は海によらず。利禰の大川の船津をいふなるべし
といへり。ヲルは泊レルなり。下にも中麻奈ニウキヲルフネノコギデナバとあり○コトは便なり。上四句はコトナタエソネの對照にいへるのみ
 
(2995)3381 (なつそひく)宇奈比をさしてとぶとりのいたらむとぞよあがしたばへし
奈都蘇妣久宇奈比乎左之※[氏/一]等夫登利乃伊多良武等曾與阿我之多波倍思
      右九首武藏國歌
 宇奈比はげに地名ならむ。但古義に『海邊をウナヒと云ることかつてなし』といへるはいかが。邊はヒといふべく海ノはウナといふべければ(ウナバラといふを思へ)海邊をウナビともいふべし(一〇六八頁及一八四四頁參照)。さてこの宇奈比は攝津の莵名日とおなじく海邊にあるより名を負へるならむ○上三句は序なり。トブ鳥ノヤウニとなり。イタラムはユカムなり。シタバヘシは心ニ思ヒシなり。イタラムトゾヨのヨはシタバヘシの下にひきおろしてヲに代へて心得べし○此歌は女よりさそひおこせしに答へたるにて我モ行カムト心ニ思ヒシヲといへるならむ
 
3382 うまぐたのねろのささ葉のつゆじも能〔左△〕《ニ》れて和伎奈〔左△〕婆《ワキヌハ》、汝者〔左△〕故布婆〔左△〕曾 (2996)母《ナニコフレゾモ》
宇麻具多能禰呂乃佐左葉能都由思母能奴禮※[氏/一]和枝奈婆汝者故布婆曾母
 ウマグタは即望陀郡なり。望陀の字を當てたるはウマグタをマグタといふやうになりし後にてマグに望を當てたるはカグ山のカグに香を當てたると同例なり(播磨風土記にマガリを望理と書けるは望をマガに當てたるなり)。ネロは峯なり。上にもハコネノネロとあり○第三句以下もとのまゝにては心得がたし。試に云はばまづ第三句はツユジモニ〔右△〕の誤ならむ。次に和伎奈婆はワキヌ〔右△〕ハの誤にてワキヌハは我來ヌルハといふべきを例の古格に從ひて來ヌハといへるならむ。下にも空ユ登來ヌヨといへり。婆は波を誤れるにてもあるべく又上(二九七〇頁)にいへる如く清音に借りたるにてもあるべし。次に汝者を從來ナハとよめり。汝煮の誤かと思へど此卷には者をハに借れる例無く煮をニに借れる例も無し。されば字形は遠けれど汝爾の誤とすべし。次に故布婆曾母はコフレ〔右△〕ゾモの誤とすべし
 
(2997)3383 うまぐたのねろに可久里〔二字左△〕爲かくだにもくにとほかばなが目ほりせむ
宇麻具多能禰呂爾可久里爲可久太爾毛久爾乃登保可婆奈我目保里勢牟
     右二首上總國歌
 カクダニモはカクバカリと譯すべし(二五二四頁參照)○トホカバはトホカラバをトホケバといふそのケのカにうつれるなり。下にもネモコロニオクヲナカケソマサカシヨカバとあり○第二句の可久里爲はおそらくは可須美爲の誤ならむ。下にもツクバネノネロニカスミヰとあり。さてこゝのカスミヰは薄霧ノカカレル事ヨと譯すべし。卷十一(二五二四頁)なるオシテルナニハスガ笠オキフルシと同格なり〇一首の意は故郷ナル望陀ノ山ニ霧ガカカリテ遠ク見ユル事ヨ、若カクバカリ國ガ遠カラバ定メテ汝ニ逢ヒタカラウといへるなり
 
3384 かつしかのままの手兒奈をまことかもわれによすとふままの※[氏/一]胡奈(2998)を
可都思加能麻末能手兒奈乎麻許登可聞和禮爾余須等布麻末乃※[氏/一]胡奈乎
 勝鹿の眞間の手兒奈をよめる歌ははやく卷三(五二五頁)と卷九(一八五三頁)とに出でたり。又手兒奈が人名なる事は卷三(五三〇頁)にいへり○ヨスの語例は近くは卷十三(二八八七頁)に
  汝《ナ》をぞも吾《ワ》によすちふ、吾をぞも汝によすちふ、荒山も人しよすれば、よそるとぞいふ
とあり。ヨスは俗にいふトリ持ツなり。イヒヨス、コトヨスといふとは異なり〇眞淵と雅澄とは此歌を手兒奈がありし時の歌とし宣長は後の歌とせり。手兒奈は卷三なる山部赤人の歌にイニシヘニアリケム人ノとあれば上古の人なるべきを此歌の調はいと古くはあらねば宣長は之を後人の作としたるなれどワレニ取持ツトイフといへるを思へば無論同時の人の作ならざるべからず。否手兒奈は元來實在の人にはあらで此歌と次の歌とは其傳説中の歌なるべし○さて宣長が女の作と(2999)したるは誤解にもとづけるなり
 
3385 かつしかのままの手兒奈|家〔左△〕《ガ》安里〔左△〕之《アヒシ》かばままのおすびになみもとどろに
可豆思賀能麻萬能手兒奈家安里之可婆麻末乃於須比爾奈美毛登杼呂爾
 家は眞淵の説に我を誤れるならむといへり。諸本にも我とあり。第三句はアヒ〔右△〕シカバの誤ならむ。オスビは前註にいへる如くイソベの方言なり。上(二九七三頁)にオシベとあり〇一首の意は
  手兒奈ガ始メテ我ニ逢ヒシカバ人ハ勿論眞間ノイソ邊ニ波モトドロニ騒グコトヨ
といへるなり
 
3386 (にほどりの)かつしかわせをにへすともそのかなしきをとにたてめやも
(3000)爾保杼里能可豆思加和世乎爾倍須登毛曾能可奈之伎乎刀爾多※[氏/一]米也母
 ニヘはニヒアヘの約にて始めて新穀を食ふ事なり。其夜は忌みて外人を屋内に入れざりしなり(記傳卷八【四三四頁】參照)。常陸風土記に福慈岳(富土山)筑波岳などの祖《オヤ》神が日暮れて福慈に宿らむとせしにその神が新粟初嘗家内諱忌云々といひて入れず更に筑波に宿を請ひしに此神は今夜雖2粟嘗1不2敢不1v奉2尊旨1といひて迎へ入れきといへるを思ふべし○カナシキはカナシキ人にてカハユキ男なり。下にも
  さなつらの崗に粟まきかなしきが駒はたぐともわはそとも追《ハ》じ
とあり。ソノはソコナルなり。屋外に立てるを指して云へるなり。トは外なり。タテメヤモは立タセメヤハなり。上(二九六五頁)にも伎倍ノハヤシニナヲタテテとあり
 
3387 あのおとせずゆかむこまもがかつしかのままのつぎはしやまずかよはむ
安能於登世受由可牟古馬母我可都思加乃麻末乃都藝波思夜麻受可欲(3001)波牟
     右四首下總國歌
 アノオトは足音なり。考以下に眞間の繼橋を渡り行く趣としたり。さらばヤマズワタラムとあるべし。カツシカノママノツギハシの十二言は序につかへるにて、もとはツギテカヨハムとありしをツギテを不止など書きたりしによりて誤りて夜麻受と改め書きたるにやとも思へどこは讀斷の譏を免れざるべし。さればしばらく第四句を眞間〔日が月〕ノツギ橋ヲトホリテと解すべし。即ツギ橋の下にユ、カラ、ヲなどを略したりと認むべし
 
3388 筑波ねのねろにかすみゐすきがてにいきづくきみをゐねてやらさね
筑波禰乃禰呂爾可須美爲須宜可提爾伊伎豆久伎美乎爲禰※[氏/一]夜良佐禰
 初二はスギにかゝれる序なり。カスミヰは霧ガカカリテなり。霧にスグといふは霽るる事なり○カテニはカテズなり。カテズをカテニといふは知ラズをシラニといふに同じ。はやく卷五(九一〇頁)にもウグヒスノマチガテニセシウメガ花とあり。さ(3002)てスギガテニは去リ敢へズ、歸リカネテなり○ヰネテヤラサネは連レ行キテ寢テカヘセとなり。古事記に
  おきつとりかもとくしまにわがゐねしいもはわすれじよのことごとに
とあるヰネにおなじ。本集卷十六にも
  たちばなの寺の長屋にわがゐねしうなゐはなりは髪あげつらむか
とあり。ヤラサネは遣リタマヘなり。本集卷頭歌に家キカナ名ノラサネとあるノラサネと同格なり。略解に『ヰネテヤレと他よりおほするやうにいひて實は自願ふこと也云々』、といへるはいみじき誤なり。第三者の言へるなり
 
3389 いもがかどいやとほぞきぬつくばやまかくれぬほどにそではふりてな
伊毛我可度伊夜等保曾吉奴都久波夜麻可久禮奴保刀爾蘇提婆布利※[氏/一]奈
 旅だつ時の歌なり。トホゾキヌは遠ザカリヌなり。ツクバヤマの下にニを補ひて聞(3003)くべし。かゝるニも當時は得省きしなり。無論後世の語法にては略すべからず
 
3390 筑波ねにかがなくわしのねのみをかなきわたりなむあふとはなしに
筑波禰爾可加奈久和之能禰乃未乎可奈岐和多里南牟安布登波奈思爾
 初二は序なり。カガナクのカガはカガヤクのカガとおなじくて威壓の意あり。案山子をカガシといふもオドシといふ意なり。漢字の赫嚇をカクとよむもそのケハヒを音にうつしたるならむ。さればカガナクは嚇鳴なり○ネノミヲカナキワタリナムは泣キ續ケムカとなり。ナシニは無クテなり
 
3391 筑波ねにそがひにみゆるあしぼやまあしかるとがもさねみえなくに
筑波禰爾曾我此爾美由流安之保夜麻安志可流登我毛左禰見延奈久爾
 上三句は序なり。ソガヒはウシロなり。ツクバネニのニはユにかよふニなり。卷三に
  縄ノ浦從ソガヒニミユルオキツ島、又卷六にサヒガ野由ソガヒニミユルオキツ島
とあり。アシホ山は今いふ足尾山(又葦穗山)にて南は筑波山に接し北は加波山につづけり。略解に『下野國にて二荒山の山つづき也』といへるは今の足尾銅山にて同名(3004)異地なり○トガは過なり。サネはゲニなり。ミエナクニは見ラレナクニすなはち見セナクニの意にて卷十五なるモノモフト人ニハミエジのミエにおなじ○こは女の歌にて男のかよはずなりしを恨みてよめるなり
 
3392 筑波ねのいはもとどろにおつるみづ代にもたゆらにわ家〔左△〕《ガ》おもはなくに
筑波禰乃伊波毛等杼呂爾於都流美豆代爾毛多由良爾和家於毛波奈久爾
 家は我の誤なり。上三句は序なり。上(二九八四頁)に
  あしがりのとひのかふちにいづる湯のよにもたよらにころがいはなくに
とあり。四五は氣長ニハ得思ハヌヲといふ意にてイカデ早ク逢ヘカシといへるなり
 
3393 筑波ねのをてもこのもにもりべすゑはは巳〔左△〕《ハ》もれどもたまぞあひにける
(3005)筑波禰乃乎※[氏/一]毛許能母爾毛利敞〔左△〕須惠波播巳毛禮杼母多麻曾阿比爾家留
 ヲテモコノモははやく上(二九七六頁)に見えたり。上三句は序なり。ソコココニ守部即番人ヲ置キテ山ヲ守ル如クニ母ハ我ヲ守レドモといへるなり。古義に『獵師の鹿猪をかるとて筑波嶺の彼面此面に守部を居置て守らするよしのいひかけなり』といへるは誤なり。山林の盗伐を防ぐ爲の番人なり○巳は宣長が『或人巳は巴の誤にてハハハかといへり』といへる如し○タマアフは情意投合なり。はやく卷十二(二六三三頁)に
  たまあはばあひ寢むものを小山田のしし田もるごと母しもらすも
 又卷十三(二八五〇頁)に
  たまあはば君來まさむと云々
とあり
 
3394 (さごろもの)をつくばねろのやまのさきわすらえこばこそなをかけな(3006)はめ左其呂毛能乎豆久波禰呂能夜麻乃佐吉和須良延許波古曾那乎可家奈波賣
 サゴロモノ緒とつづける枕辭なり。ヲツクバのヲはヲミネのヲにて美稱なり。大筑波小筑波と別ちて小といへるにあらず。下にも新田山をヲニヒタヤマといへり○山ノサキは山ノ崎ヲにてコバにかゝれるなり(ワスラエコバコソは忘ラレレテ行カバコソとなり○カケナハメはカケヌを延べてカケナフといひ(アハヌをアハナフといふが如く)更にそのカケナフを獨立の動詞としてはたらかしたるにて東語固有の格なり。京語にていはばカケズアラメといふべし。さてこゝのカケは宣長のいへる如く口に懸くるなり。されば一首は
  筑波ネノ山崎ヲ行クニ汝ノ忘ラレネバコソ汝ガ名ヲ呼ビツレ
といふことを裏よりいへるなり
 
3395 をつくばのねろにつくたし安比太〔左△〕欲波佐波太〔左△〕《アヒヌヨハサハニ》なりぬをまたねてむか(3007)も
乎豆久波乃禰呂爾都久多思安比太欲波佐波太奈利努乎萬多禰天武可聞
 ツク〔右△〕はツキの訛にてニジをヌ〔右△〕ジといへると同例なり。京語にては月夜をツクヨといへど月とのみいふ時はツクとはいはず○タシはタチの訛なり。さて月タチは山ノ上ニ月ガ出デテといへるなり。はやく卷七(一三七七頁)にムカヒノ山ニ月タテリミユ又卷十一(二三四〇頁)にミモロノ山ニタツ月ノとあり。古義に『月立は嶺に月の立登るをいひてさて承たる下の意は月頃の歴し事とせるなり』といへるはひが言なり○安比太欲波の太は之の誤なるべしと古義にいへり。おそらくは努の誤にて相寢ル夜ハを例の古格に從ひてアヒヌヨハといへるならむ。下にいふ一首の趣と照し合せてアヒシにてはかなひがたきを知るべし○佐波太の太を略解に爾の誤とせり。一本に佐波太爾とあり又上(二九六七頁)にマダラブスマニワタ佐波太イリナマシモノとあれど、その佐波太もこゝの佐波太も共に佐波爾の誤ならむ○ナリヌヲはナリヌルヲといふべきを古格に從ひていへるなり○こは女の許にやどり(3008)て深夜に月の出でたるを、見し趣ならむ。サハニはこゝにては久シクといふ意ならむ
 
3396 をつくばのしげきこのまよたつとりの目由〔左△〕可汝《メノミカナ》を見むさねざらなくに
乎都久波乃之氣吉許能麻欲多都登利能目由可汝乎見牟左禰射良奈久爾
 上三句はトリノ群《メ》とかゝれる序なり。目由可汝ヲミムを二註に目ニノミ見テアラムカといふ意としたれどノミといふこと無くては物足らず。おそらくはもと目耳可汝《メノミカナ》ヲ見ムとありしを例の改書に際して耳を由と見誤りて一音一字に改むるに至らざりしならむ」目ノミカ汝ヲ見ムは言問ダニセザラムカとなり。卷七に
  妹があたり今ぞわがゆく目のみだに吾に見えこそことどはずとも
とあり○サネザラナクニは寢タ事ガ無イデモ無イニとなり。略解に『サネザラナクニといひてネザルニの意となる也』といひ古義に『サネザラナクニはサネナクニに(3009)てサヌル事ナルニの意なり』といへるはいみじきひが言なり
 
3397 ひだちなるなさかのうみのたまもこそひけばたえすれあどかたえせむ
此多知奈流奈左可能宇美乃多麻毛許曾此氣波多延須禮阿杼可多延世武
     右十首常陸國歌
 我ハナドカ絶エムとなり。アドカはナドカの訛なり。ナサカノ海は銚子を口とせる入海なり
 
3398 ひとみなのことはたゆともはにしなのいし井の手兒がことなたえそね
此等未奈乃許等波多由登毛波爾思奈能伊思井乃手兒我許登奈多延曾禰
 コトは便なり。ハニシナは埴科にて信濃の郡名なり。イシヰは里名なるべし○手兒(3010)はもと手ヨリ繹《オ》カヌ兒の意なるを人となれるにもいふは愛稱なり(五三〇頁參照) 
3399 信濃道はいまのはりみちかりばねにあしふまし牟奈〔二字左△〕《ナム》くつはけわがせ
信濃道者伊麻能波里美知可里婆禰爾安思布麻之牟奈久都波氣和我世
 今ノは新シキなり。今ツクル久邇ノミヤコハ(一六四五頁)などの今なり。ハリミチは拓キタル道なり○カリバネを略解に『苅れる根をいふべし』といひ古義に『竹木などの苅株なるべし』といひてバの言に觸れず。案ずるにカリバネは苅生根か。ブをバと訛れるはヲロ田ニオフ〔右△〕ル、カヨフ〔右△〕鳥ナスをヲロタニオハ〔右△〕ル、カヨハ〔右△〕トリナスといへると同例なり。因にいふ。今株をカブといふはカリブの略か○フマシ牟奈を宣長雅澄は踏ムナの敬語とせり。然るにフムナの敬語ならばフマスナといふべきなれば宣長(玉勝間卷九)は
  古語に人の事をたふとみてユクをユカス、タツをタタスなどいへるを中音にはユカセ給フ、タタセ給フなどいひ記録ぶみなどには令行給、命立給など書り。此たぐひのシメといふことばはいと古くは見えざる事なるに萬葉十四にアシフマシムナとあるはいとめづらし。かの集のころの歌、他はみなアシフマスナといへ(3011)る例なり
といへり。案ずるに刈生根ニ足フミタマフナ靴ハケ我背といはむより足フミタマハムニ靴ハケ我背といはむ方穩なればフマシ牟奈はフマシ奈牟の顛倒と認むべし。現に元暦校本にはアシ布麻之奈牟とあり。さてアシとフマシナムとは離ちては見べからず。アシとフムと相抱きてアシフムといふ一語となれるなり。卷十二(二六六七頁)にもアサヂハラ茅生《チフ》ニ足フミとあり
 
3400 信濃なるちくまのかはのさざれしもきみしふみてばたまとひろはむ
信濃奈流知具麻能河泊能左射禮思母伎彌之布美※[氏/一]婆多麻等比呂波牟
 チクマノカハは千曲川にて即信濃川の上流なり。フミテバは踏ミタラバなり〇玉トは玉トシテと心得べし。宣長(記傳卷十【五五六頁】は『うつほ物語俊蔭の卷に紅葉ノ雫ヲ乳ブサト〔右△〕ナメツツアリフルニ云々とある登に同じ』といへり○これも女の歌なり
 
3401 中麻奈にうきをるふねのこぎでなばあふことかたしけふにしあらずば
(3012)中麻奈爾宇伎乎流布禰能許藝※[氏/一]奈婆安布許等可多思家布爾思安良受波
    右四首信濃國歌
 中麻奈を略解にナカヲナとよみて地名とせり。案ずるに舊訓に從ひてナカマナとよむべし。此卷の借字は正訓の外は皆音を用ひたればなり。そのナカマナはげに地名なるべし。此卷には地名の外二音に一字を充てたる例無ければなり。久老の信濃漫録に
  彼國人小泉好平がいひけるはこは水内《ミノチ》郡に中俣といふ村あり、そこなるべしといへり。その地は千隈川へ犀川とすすばな河の流れ落る河股なり。今も上古船をつなぎし木ぞとて大樹の株の殘れる、村の内にありといへり
といへり○第四句はアフコトカタカラムといふべきを現在格にて云へるなり。男の舟に乘りて旅立たむとせる時によめるなり
 
3402 ひのぐれにうすひのやまをこゆる日はせなのがそでもさやに布良思(3013)都《フラシツ》
比能具禮爾宇須比乃夜麻乎古由流日波勢奈能我素低母佐夜爾布良思都
 ヒノグレニは日ノ暮ニなり。冠辭考にウス日にかゝれる枕辭としたるは非なり○コユル日ハの日を從來暦の日とせるは誤解なり。この日は太陽なり○勢奈能を古義に
  夫《セナ》にて能は助辭なり。三卷にイナトイヘドシフル志斐能ガシヒガタリとある能に同じ
といへり。案ずるに卷三(三四六頁)なる志斐能ガは契沖がいへる如く志斐ノ嫗ガの嫗を略したまへるなるべければこゝのセナノガとは同例ならず。略解には『セナノは夫名根なり』といへり。此説よろし。即妹をイモナネといふ如く夫《セ》をセナネといひそのセナネをセナナともセナノともなまりしならむ
  イモナネは卷九(一八三八頁)なる過2足柄坂1見2死人1作歌に妹ナネガツクリキセケムシロタヘノ紐ヲモ解カズとあり。又セナナは下に勢奈那トフタ理サネテクヤ(3014)シモとあり。右のセナノ、セナナは勿論イモナネも、單にセナといふもおそらくは皆東語ならむ
 ○布良思都は帝ラシツの誤なり。さればこそサヤニといふ副詞を添へたるなれ○こは夕方に女が遙に男を見かけて喜びてよめるなり
 
3403 あがこひはまさかもかなし久佐麻久良〔五字左△〕《マクサカル》、多胡のいり野のお父〔左△〕《ク》もかなしも
安我古非波麻左香毛可奈思久佐麻久良多胡能伊利野乃於父母可奈思母
 父は久の誤なる事前註にいへる如し三四はオクにかゝれる序なり。マサカは眞盛にて現在、オクは將來なり○マサカモはオクに對してモといへるにて卷十三にアマ橋モ〔右△〕長クモガモ、高山モ高クモガモ(二八〇七頁)といひカリガネモ〔右△〕トヨミテサムシ、ヌバタマノ夜モフケニケリ(二八五七頁)といへると同例なり○結句はオクモカナシカラムといふべきを現在格にていへるなり○第三句を略解に
(3015)  この草枕は枕詞ならず。旅のさまをいふ
といひ橋本直香の上野國歌解に
  こは草ノ枕ヲタガヌてふタガをタゴにいひ移して冠らせたるなり
といへり。案ずるに久佐麻久良は麻久佐可流の誤ならむ。卷一(七七頁)に眞草カルアラ野といへる例あり〇二註に夫の旅だつ時の歌とせるは理由なし
 
3404 かみつけぬ安蘇のまそむらかきむだきぬれどあかぬをあどかあがせむ
可美都氣努安蘇能麻素武良可伎武太伎奴禮杼安加奴乎安杼加安我世牟
 初二は序なり。安蘇郡は延喜式によればはやくより下野國に屬せり。然るにこゝにカミツケ野アソノマソムラといひ下にもカミツケ野アソヤマカヅラといへる不審なり。元來安蘇郡と足利郡とは上野國に抱かれたれば古くは上野に屬したりしにやと思ふに又下にシモツケ野アソノカハラヨとあり。されば行政上こそ下野に屬したれ俗には上野の安蘇とも下野の安蘇ともいひしにや○マソは麻なり。
(3016)  マソは眞小麻《マサヲ》の約ならむ。元來ヲは絲にて麻には限らず。さればこそユフをも卷二(二〇八頁)にはマソユフとい へれ。さるに後に麻の一名となりしなるべし
 カキムダキのカキは添辭にてムダキはウダキ(抱)を訛れるなり。ムダキをウグキといへるは卷二十なる防人の歌にウマノ爪をムマノツメといへると同例なり○略解に『麻の群たるを刈てかき抱來ぬるを譬として云々』といへり。さらば刈リテといふこと無かるべからず。マソムラは地上に生ひたるをいふべければなり。上野國歌解には
  彼あたりにては麻は刈らで、透間なく群生たるを左右の手してかゝへて抱きながら後へ寢るやうにして拔き、さて後その根を拂ふなり
といへり。此説よろし。但麻は必しも抱き束ねて拔き取るものにあらず。集中にも麻ヲヒキホシ(一八三八頁)とも麻ヲカリ干シ(六四九頁)ともあればなり○アドカは何トカなり(二九九三頁參照)。一首の意は妹ヲ抱キテ寢レドナホ厭カヌヲ此上ハ何トカセムといへるなり○因にいふ。安蘇郡は今も麻の産地として聞えたり。アソの名義は麻生をつづめたるか
 
(3017)3405 かみつけ乃《ノ》をどのたどりがかはぢにも兒らはあはなもひとりのみして
     或本歌曰かみつけ乃《ノ》を野のたどりが安〔左△〕《カ》はぢにもせなはあはなもみるひとなしに
可美都氣乃乎度能多杼里我可波治爾毛兒良安波奈毛比等理能未思※[氏/一]
    或本歌曰可美都氣乃乎野乃多杼里我安波治爾母世奈波安波奈母美流此登奈思爾
 カミツケ乃の乃はテニヲハにあらず。上ツ毛野なり。野は初にはヌといひしを當時はやく訛りて、ノともいひしなり(二九六四頁參照)。乃を奴の誤とせる説は非なり○ヲドは或本(ノ)歌によれば小野の訛にて地名なるべし。タドリを古義に河の名としカハヂを上野國歌解に川ニ沿ヒタル道とせり。川を渡り行く道にや。タドリはなほ考ふべし○アハナモは逢ハナムなり。下なるコトハサダメツ今ハイカニセモと同例(3018)なり。ヒトリノミシテは唯一人ニテといふ事にて伴ナフ人ナシニといふ事なり
  或本歌の安波治の安は前註にいへる如く可などの誤ならむ
 
3406 かみつけ野さ野のくくだちをりはやしあれはまたむゑことしこずとも
可美都氣野左野乃九久多知乎里波夜志安禮波麻多牟惠許登之許受登母
 サヌは小野にて(二九〇九頁參照)こゝにては野の名なり。下にもカミツケヌ佐野田ノサナヘ、カミツケヌ佐野ノフナバシとあり。名高き此國の三碑のうちの神龜三年碑に上野國|郡馬《クルマ》郡下賛郷とある賛《サヌ》又辛巳碑に佐野三家とある佐野にて今の高崎市の附近なり。今の世に聞えたる下野國安蘇郡の佐野とは別なり○ククダチは野菜の莖なり。ヲリハヤシのハヤシは調製することにてこゝにては鹽漬にする事ならむ。卷十六なる乞食者詠に
  さを鹿の來たち咲かく……吾角は御笠のはやし……吾毛らは御筆のはや(3019)し……わがししはみなますはやし、わがきももみなますはやし、わが美義は御塩のはやし
とあるハヤシも調製の料といふ意と聞ゆればなり○マタムヱのヱはヨに近き助辭なり。コトシコズトモはヨシヤ今年歸リ來ズトモなり○こは旅なる夫の歸り來るを待てる妻のよめるなり
 
3407 かみつけぬまぐはしまどにあさ日さしまぎらはしもなありつつ見れば
可美都氣努麻具波思麻度爾安佐日左指麻伎良波之母奈安利都追見禮婆
 上三句は序なり。第二句難解なり。まづ考に
  眞桑島てふ川島などありて其渡瀬を門といふならん
といひ次に略解に
  今マグハといふ所ありといへり。其マグハに川島などありて其渡瀬を門といへるか
(3020)といへり。マグハといふ處上野國にありとは聞えねど、げに利根川の沿岸に然いふ處ありしならむ。案ずるに卷九なる難波經宿明日還來之時歌(一七六三頁)に島山ヲイユキモトホル、河ゾヒノヲカベノ道ユとあるを雅澄は
  これは立田川に臨める山を島山といふなるべし
といひ六人部是香《ムトベヨシカ》の龍田考に
  島山とよめるは彼川のをれめぐりて島となれる處をさして島山とはいへるなり(必しも四方ともに縁を放れて川中にある島ならでもいにしへは川のをれめぐれる處は島といへり)
といへり。今も眞桑といふ處の利根川にさしいでて小半島を成せるを眞桑島といひこれによりて川の狹められたるを門といへるか。黒川春村はマグハシマトのマトを松の訛として『昔新田郡に松の大木ありきといひ傳へたり』と云へり○マギラハシは目煌《マギラ》ハシにてマバユシといふことなるを嫌《キラ》ハシにいひかけて序とせるならむ。ナは助辭なり○アリツツミレバははやく卷十に
  いはばしの間々にさきたるかほ花の花にしありけりありつつみれば
(3021)とあり。ナジミヲ重ネテ見ルトといふことなり○こは男の歌なるべし。略解には女の歌とせり
 
3408 にひたやまねにはつかななわによそりはしなる兒らしあやにかなしも
爾此多夜麻禰爾波都可奈那和爾余曾利波之奈流兒良師安夜爾可奈思母
 新田山は今の太田の金山なり。ツカナナは下なる
  志良登保布をにひた山のもる山のうらがれせ那奈とこはにもがも
 又卷二十なる
  わがせなをつくしへやりてうつくしみおびはとか奈奈あやにかもねも
と參照するに附カズシテといふこととおもはる。無論東語なり○ヨソリは寄リなリ。ハシナルは中途半ナルとなり。されば一首の意は  雲ノ新田山ノ峯ニ附クヤウニ附クニハ至ラズシテ我ニ寄リナガラ間《ハシタ》ナル女ガ(3022)怪シキマデカハユイ
といへるなり。雲ノ附カヌガ如ク附カズシテといへるにあらず。雲ノ附クヤウニ附カズシテといへるなり。例のフルノワサ田ノ穗ニハイデズと同格なり。又考にいへる如く歌には雲といふ語無けれど之を補ひて釋すべし。雅澄が『此歌古來山の嶺に雲のつかぬごとくといふ意に解來れども雲といはざればいかが』といへるは小兒を律するに大人の法を以てするが如し。修辭に慣れざる鄙人の歌なればさばかりの手落はあるべきなり。京紳の歌にてもいと古きには此類あるにあらずや
 
3409 伊香保ろにあまぐもいつぎ可奴麻豆久ひと登おたばふいざねしめとら
伊香保呂爾安麻久母伊都藝可奴麻豆久此等登於多波布伊射禰志米刀羅
 下に
  いはのへにいかかるくもの可努麻豆久ひと曾おたばふいざねしめとら
(3023)とあり。之によれば今の歌も初二は序にて登は楚などの誤ならむ。又はゾの訛か。さらばドと濁るべし○イカホロのロは助辭、こゝのイカホはアマグモイツギとあれば地を指さで山を指せるなり。アマグモイツギは雲ガ次々ニカカリテとなり○カヌマヅクのカヌマを眞淵以下地名としたれどこゝは地名としてはかなはざる上に鹿沼は下野國にありて伊香保とはいたく相離れたり。カヌマヅクはおそらくはタビタビ、カサネガサネなどいふ意の副詞なるべし○オタバフを契沖はノタマフなるべしといひ雅澄はオ呂バフの誤にてはあらぬにやといへり。案ずるに音信する事をオトタバフといひそれを方言につづめてオタバフといひしにあらざるか○イザネシメトラはイザネソメ(ヨ)トといふべきを訛れるにてラは今の俗語のサなどに當る助辭ならむか。ソメをシメといへる例は上(二九七四頁)にアリツツモツギナムモノヲミダレシメ〔二字右△〕メヤとあり
 
3410 伊香保ろのそひのはりはらねもころにおくをなかねそまさかしよかば
伊香保呂能蘇比乃波埋波良禰毛己呂爾於久乎奈加禰曾麻左可思余加(3024)婆
 ソヒは『傍の字の意なり』と契沖いへり。ハリハラは萩原なり。榛の木の林にあらず。初二は第四句のオクにかゝれる序なり○ネモコロニはヒツコクなり。オクは將來、マサカは現在なり。上(三〇一四頁)にも
  あが戀はまさかもかなし久佐麻久良たごのいり野のおくもかなしも
とあり○カヌは豫ものする事なり。さればナカネソはカネテ心配スナとなり○ヨカバはヨカラバをヨケバといふそのケのカにうつれるなり。上(二九九七頁)にも國ノトホカバとあり。ヨカバの下にサテアルベシといふことを略せるなり
 
3411 多胡のねによせづなはへてよすれどもあにくや斯豆〔左△〕之《シシノ》そのか把《ハ》よきに
多胡能禰爾與西都奈波倍※[氏/一]與須禮騰毛阿爾久夜斯豆之曾能可把與吉爾
 こは契沖のいへる如く女を鹿にたとへたるなり。ヨスレドモは狩リ寄スレドモな(3025)り○阿爾久夜は難獲哉《エニクヤ》か。フレル、ホセルをフラ〔右△〕ル、ホサ〔右△〕ルといひ家をイハ〔右△〕といへるを見ればエニクヤをア〔右△〕ニクヤともいふべし○斯豆之の豆は二二※[小字の二を重ねた]、思などの誤なり。ノを之と書ける、此卷の書例にたがへり。取外したるにや又は寫し誤れるにや○可把は一本に可抱とありといふ。眞淵以下之に從ひて顔の意とせるは非なり。こゝはソノ皮ガヨキニといへるなれば本に從ふべし
 
3412 かみつけ野くろほのねろの久受葉我多〔二字左△〕《クズハナス》かなしけ兒らにいやさかりくも
賀美都家野久路保乃禰呂乃久受葉我多可奈師家兒良爾伊夜射可里久母
 村田春海の織錦舎隨筆下卷に
  上野國にてクロフといふ詞あり。樹木の立茂りたる山をいふ。萬葉十四にカミツケヌクロホノネロとあるこれなるべし
といへれどクロホノネロはなほ山の名ならむ○第三句を從來字のまゝにクズハ(3026)ガタとよめり。さて契沖雅澄は之を地名とせり。案ずるにもと久受葉成とありしを一音一字に書き改むるに當りて成を方と見誤りて我多とは書けるならむ。されば訂して久受葉奈須とすべし。クズハナスは葛ノ葉ノ如クとなり。下にシモツケ野ミカモノヤマノコナラノスマグハシ兒ロハ云々とあると似たり。コナラノスは小楢ナスなり○カナシケはカナシキを訛れるなり
 
3413 とねがはのかはせもしらずただわたりなみにあふのすあへるきみかも
刀禰河泊乃可波世毛思良受多多和多里奈美爾安布能須安敝流伎美可母
 カハセモシラズはイヅク川瀬トイフコトモ知ラズとなり。第三句はタダワタリテのテを略せるなり。タダワタリは迂路を取らずして眞直に渡る事なり。ノスはナスなり。古事記應神天皇の段なる吉野の國主《クズ》等が歌にもフユキ能須、カラガシタキノ、サヤサヤとあり○さて上四句はただアヘルといはむ爲に求めておもしろくいへ(3027)る序のみ。前註の釋は皆非なり。又考以下に女の歌としたるも非なり。男の歌なり。キミは女にも云ひつべし
 
3414 伊香保ろのやさかのゐでにたつぬじのあらはろまでもさね乎〔左△〕《シ》さねてば
伊香保呂能夜左可能爲提爾多都弩自能安良波路萬代母佐禰乎佐禰※[氏/一]婆
 ヤサカは地名なるべし。ヰデは堰なり。塘にあらず。ヌジはニジの訛なり。上三句は序なり○アラハロマデモはアラハルルマデモなり。連體路の代に終止格をつかひ又ルをロとなまれるなり○結句の乎は之の誤なり。古事記に
  うるはしとさね斯さねてばかりごものみだればみだれさね斯さねてば
とあり。ネタラバといふことを強く云へるにてこゝにてはタビタビ寢タラバといへるなり。久シクといへるにあらず。さてサネテバの下にウレシカラマシなどいふことを略したるなり
 
(3028)3415 かみつけぬ伊可保のぬま爾《ノ》うゑこなぎかくこひむとやたねもとめけむ
可美都氣努伊可保乃奴麻爾宇惠古奈宜可久古非牟等夜多禰物得米家武
 イカホノヌマは即榛名湖なり○爾はノとよむべし。蘭の字をノにも借りしなり。はやく
  かすがのさと爾《ノ》うゑこなぎ(四九六頁)
  妹がみしやど爾《ノ》はなさき(五六八頁)
  をばなり爾《ノ》かみたくまでに(一八六三頁)
  ながきよ爾《ノ》しるしにせむと(一八六四頁)
  天のかはせぜ爾《ノ》しらなみたかけども(二〇七四頁)
  あしひきのやま爾《ノ》しろきは(二二〇五頁)
などあり○コナギは小水葱なり。食料とする爲に水中に栽培せしものなればウヱ(3029)コナギともいへり。下にも苗代ノコナギガ花とよめり。宇治拾遺物語卷二『清徳聖きどくの事』といふ條にも水葱をうゑたりし事見えたり。コヒムトヤは戀ヒムトヤハなり。種モトメケムは栽ヱ始メケムなり○女をコナギにたとへたるにてまだ稚きより我物と領じたるが戀ひらるる趣なり
 
3416 かみづけぬ可保夜がぬまのいはゐづらひかばぬれつつあをなたえそね
可美都氣努可保夜我奴麻能伊波爲都良此可波奴禮都追安乎奈多要曾禰
 上(二九九一頁)に
  いりま路のおほやが原のいはゐづらひかばぬるぬるわになたえそね
とあると相似たり。ヌレツツは滑リツツなり。アヲは我ヨリといふことなればワニともいふべし○上三句は序なり。イハヰ葛《ヅラ》ノ如クとなり
 
3417 かみつけぬ伊奈良のぬまのおほゐぐさよそに見しよはいまこそまさ(3030)れ
可美都氣奴伊奈良能奴麻能於保爲具左與曾爾見之欲波伊麻許曾麻左醴【柿本朝臣人麻呂歌集出也】
 オホヰグサノ如クとなり。オホヰグサは太藺なり。見シヨハは見シヨリハなり〇一首の意は契沖が
  莞《オホヰ》の沼に生たるを見るよりは刈持來て席に敷たるがよき如く人をもよそめに見たるよりも今相見たるが彌まさるとなりといへる如し
 
3418 かみつけぬ佐野田のなへのむらなへにことはさだめついまはいかにせも
可美都氣努佐野田能奈倍能武良奈倍爾許登波佐太米都伊麻波伊可爾世母
 佐野田は佐野にある田なり。初二はムラナヘニのナへにかゝれる序なり。ムラナヘ(3031)はウラナヘなり。ウラをムラといへるはウダキ、ウマをムダキ、ムマといへると同例なり(三〇一六頁參照)。ウラナヘはやがてウラヘなり○コトハサダメツは占ニヨリテハヤク某卜夫婦ノ約ハ定メツとなり。卷三(四九〇頁)にもイツモイツモナリナム時ニ事ハサダメムとあり。セモはセムなり○此歌は女が他の男の挑み寄るに答へたるなり
 
3419 伊加保世欲奈可中次下おもひど路久麻こそしつ等わすれせなふも
伊加保世欲奈可中次下於毛比度路久麻許曾之都等和須醴西奈布母
 初二を舊訓にイカホセヨナカナカシケニとよめり。さて契沖は初句を伊香保ニアル夫《セ》ヨの意とせり。伊加保の下に加を補ひて伊香保風とよみて欲を第二句に屬すべきか○次(ノ)字一本に吹とあり。又一本に下(ノ)字の下に爾(ノ)字あり。試にいはむに欲奈可爾吹爾〔三字右△〕の誤にてヨナカニフクニとよむべきならむか。但フクを吹と書かむは此卷の書例にかなはねど上にもいへる如く此卷の原本は必しも一字一音にはあらざりきとおもはるれば改書に當りて取外しし事もあるべきなり。ヨナカは卷九なる詠2末(ノ)珠名1歌の反歌(一七三八頁貢)に夜中ニモ身ハタナシラズイデテゾアヒケルとあ(3032)り○オモヒド路のヒはヘを訛《ナマ》り路は母などを誤れるか○久麻コソシソ等は可禮コソシツ禮などの誤か○ワスレセナフモはワスレセズモにてやがて忘レズなり
 
3420 かみつけぬ佐野のふなばしとりはなしおやはさくれどわはさか禮〔左△〕《ル》かへ
可美都氣努佐野乃布奈波之登利波奈之於也波左久禮騰和波左可禮賀倍
 初二は序なり。舟橋ノヤウニとなり。舟橋は大水の出でむとする時には取放つものなればトリハナシの序とせるなり。ハナシはハナチの訛なり○禮は諸本に流とあり又下にワハ佐可流〔右△〕我倍とよめる歌あれば流の誤とすべし。カヘはカハの訛なり。されば第三句以下は親ハ二人ノ中ヲ取放チ離サムトスレド我ハ離レムヤハといへるなり
 
3421 伊香保ねにかみななりそねわがへにはゆゑはなけども兒らによりてぞ
(3033)伊香保禰爾可未奈那里曾禰和我倍爾波由惠波奈家杼母兒良爾與里※[氏/一]曾
 間宮永好の大鶏隨筆に上野國大戸に宿りし時雷鳴りしに家主の『雷は出づる山と出でぬ山とありて吾里近き程にては此榛名山と彼淺間山との二つの外出づる山なし』といひし由いひて
  かゝれば萬葉集卷十四に伊香保ネニカミナナリソネと見ゆるはやがて榛名山なりけり。さて伊香保といへる地はいと廣くして此邊の山どもはなべて伊香保嶺なるべけれど榛名は殊に名高く神祇さへ御座ましていとかしこき山なれば打任せては此山をしも伊香保嶺とは云へりけむ
といへり○ワガヘは古義にいへる如く我上なり。我家にあらず。ナケドモは無カレドモなり。第三句以下は我上ニハ然祈ルベキ故ハ無カレドモ妹ノ爲ニ然祈ルナリ
といへるなり
 
3422 伊香保かぜふく日ふかぬ日ありといへどあがこひのみしときなかり(3034)けり
伊香保可是布久日布加奴日安里登伊倍杼安我古非能未思等伎奈可里家利
 トキナカリケリは不斷ナリとなり
 
3423 かみつけぬ伊可抱のねろにふろよきのゆきすぎがてぬいもがいへのあたり
可美都氣努伊可抱乃禰呂爾布路與伎能遊吉須宜可提奴伊毛賀伊敞〔左△〕乃安多里
   右二十二首上野國歌
 上三句はフロヨキ〔二字右△〕ノユキ〔二字右△〕スギガテヌと類音を重ねたる序なり。フロヨ〔二字右△〕キはフルユ〔二字右△〕キの訛にてアラハロ〔右△〕マデモ、世ニモタヨ〔右△〕ラニと同例なり〇カテヌは敢ヘヌにてカナ、ヨなどをいひ殘したるなり。カテヌの例は卷七(一四三七頁)及卷十(二〇三六頁)にあり
 
(3035)3424 しもつけ野みかものやまのこならのすまぐはし兒ろは多賀家〔左△〕可《タカダカ》もたむ
之母都家野美可母乃夜麻能許奈良能須麻具波思兒呂波多賀家可母多牟
 ノスはナスなり。上にも波ニアフノスとあり。上三句はマグハシにかゝれる序なり。マグハシは眞精にてウルハシにおなじ。マグハシキ兒ラといふべきをカナシ妹などの如く一語につづめてマグハシ兒ロといへるなり○モタムは待タムの訛なり。家は多の誤ならむ。タカダカは待つ事の形容なり。集中にタカダカニ待ツといへる例多し
 
3425 しもつけぬ安素のかはらよいしふまずそらゆ登きぬよながこころのれ
志母都家努安素乃河泊良欲伊之布麻受蘇良由登伎奴與奈我己許呂能禮
(3036)    右二首下野國歌
 アソ川は渡瀬《ワタラセ》川の支流なる今の秋山川なるべし○ソラユ登キヌヨの登は楚の誤又はゾの訛ならむ。上(三〇二二頁)にも例あり。さてソラユ登キヌヨは空ヲトホリテ來ヌルヨといふことにてやがて來ヌルヨといふべきを卷二十なるオキテゾ來ヌヤなどと同じく古格によれるなり。卷十一(二三五九頁)及卷十二(二五七二頁及二六〇四頁)にココロ空ナリ土ハフメドモ、ワガ心アマツ空ナり土ハフメドモとあれどこゝはそれらとは少し異にて足ノ石ニツクヲモ感ゼズ云々といへるなり○ナガココロノレは我ニ逢ハムヤ否ヤ汝ガ心ヲノレといへるなり。既に逢ひ始めし女に對してウレシミ思フヤ云々と問へるにはあらず
 
3426 あひづねのくにをさどほみあはなはばしぬびにせむ等ひもむすばさね
安比豆禰能久爾乎佐杼抱美安波奈波婆斯努此爾勢牟等比毛牟須婆左禰
(3037) 初二はコノ會津嶺ノアル國ガ遠クナラム爲ニといへるなり。古義にアヒヅネノをアハナハバにかゝれる枕辭とせるは非なり○アハナハバはアハヌの延言なるアハナフが一の獨立語となりてはたらけるなり。逢ハズアラバと譯すべし○第四句の等はドと濁り訓みてゾの訛とすべきか或は乎の誤字とすべきか。ムスバサネは結ビ給ヘとなり。上(三〇〇一頁)にもヰネテヤラサネとあり○此歌は男の旅立たむとして女に衣の紐を結ばむことを求めたるなり
 
3427 筑紫なるにほふ兒ゆゑにみちのくのかとりをと女のゆひしひもとく
筑紫奈留爾抱布兒由惠爾美知能久乃可刀利乎登女乃由比思比毛等久
 防人として筑紫にゆきたる男のよめるなり。されば外の歌の多くは東國にてよめるなるとは例を異にせり○ニホフは色ヨキなり。ユヱニは爲ニなり。陸奥のカトリは所在不明なれど香取神を祭りしより名を負ひけむかし
 
3428 あだたらのねにふすししのありつつもあれはいたらむねどなさりそね
(3038)安太多良乃禰爾布須思之能安里都都毛安禮波伊多良牟禰度奈佐利曾禰
     右三首陸奥國歌
 アダタラノネは今の安達太郎山なり。安達太郎は充字に過ぎず(一四〇四頁參照)○アリツモはこゝにてはシバラクシテと譯すべし。イタラムは常の到ラムにてユカムといはむに同じ○ネドは寢所なり。今も陸中などにては寢所をネドといふといふ(好古叢誌第二編卷十)。ネドナサリソネは寢ベキ所ヲ去リテ他ニ行クナ、寢《ヌ》ベキ所ニ待テとなり。その寢《ヌ》べき所は屋内にあらで屋外なり。誤りて上品に思成すべからず○初二はアダタラ山ニフス猪ノヤウニといへるにて結句のネドナサリソネにかゝれる序なるべくおぼゆるにその序と係との間〔日が月〕にアリツツモアレハイタラムといふことは挿むべくもあらねば元來
  ありつつもあれはいたらむあだたらのねにふすししのねどなさりそね
とありしを傳寫の際に誤りて初二と三四とを顛倒せるにやと思ふに東歌の序歌にはかく隔つべからざる句を隔てたる例もあればなほ初より今の如くなりしな(3039)るべし。上(三〇二三頁)なる
  伊香保ろのそひのはりはらねもころにおくをなかねそまさかしよかば
の初二はネモコロニを隔てゝオクにかゝれる序と見え又下なる
  いはほろのそひのわかまつかぎりとやきみが來まさぬうらもとな久《シ》も
の初二は今の歌の如く三四を越えて結句のウラにかゝれる序と見えたり
 
   譬喩歌
3429 とほつあふみ伊奈佐ほそ江の水《ミ》をつくしあれをたの米〔左△〕《ミ》てあ佐〔左△〕《ラ》ましものを
等保都安布美伊奈佐保曾江乃水乎都久思安禮乎多能米※[氏/一]安佐麻之物能乎
     右一首遠江國歌
引佐《イナサ》細江は濱名湖の北端の狹くなりたる處なり。因にいふ。イナサを引佐と書くは(3040)引の音イヌをイナに移したるなり。ミヲツクシは水路の標なり。上三句は序なり。舟ガ水路標ヲタノムヤウニ我ヲタノミテとかゝれるなり○タノ米テの米は未の誤なり。ア佐マシの佐も良の誤なるべし○女の心の淡くなりしを恨みてよめるなり
 
3430 斯多のうらをあさこぐふねはよしなしにこぐらめかもよ奈〔左△〕《ヨ》しこさるらめ
斯太能宇良乎阿佐許求布禰波與志奈之爾許求良米可母與奈志許佐流良米
     右一首駿河國歌
 斯多は今の志太なり。ヨシはフケなり。理由なり。コグラメカモは漕グラムヤハなり。ヨは助辭なり○結句の奈は余の誤なり。現に一本に余とあり。さてヨシコサルラメは由コソアルラメをつづめたるなり○こは女の歌にて男が門前を往反するを見てよめるならむ
 
3431 あしがりの安伎奈のやまにひこふねのしりひかしもよここばこがた(3041)に
阿之我里乃安伎奈乃夜麻爾此古布禰乃斯利此可志母與許己波故賀多爾
 上三句は山にて舟を作りて其舟を引き下す趣の序なり。いにしへ深山に人りて舟を作りし事は日本靈異記下卷第一に
  熊野村人至2于熊野河上之山1伐v樹作v船……後歴2半年1爲v引v船入v山
 播磨國風土記に
  船引山 近江天皇之世|道守《チモリ》(ノ)臣爲2此國之宰1造2官船於此山1令2引下1
 伊豫國風土記の逸文に
  野問郡熊野峯 所v名2熊野1由《ユヱ》者昔時熊野|止《ト》云船(ヲ)設v此。至v今石(ト)成(テ)在
とあれば確實なり。さて何故に深山に入りて舟を作るかといふ事につきて古義に『或人云山中より多くの材を引下すより船として一度に下すは費少き故すなはち山にて作りて其を引下すなりと云り』といへるは非なり。いにしへの舟は丸木舟なれば大木をそのまゝに山より引き下さむよりは刳《ヱグ》りて船に作りての後に引き下(3042)すが便なりしなり。さて其舟をおろすに急に落ち下らば危かるべきによりて舟の後にひかへ綱を附けてその綱を取らせつゝ徐におろししなり。今はその趣を序として舟ノ後ヲ引ク如ク或女ガ男ノ後ヲ引クワイといへるなり。ヒコフネはヒク舟、ヒカシモは引カス〔右△〕モの訛にてヨは助辭なり。ココバはココバクにおなじ。下にも心ニノリテココバカナシケとあり。コガタニはキ〔右△〕ガテヌ〔二字右△〕の訛なり。キガテヌは來不敢なり。古義は第四句の外ほぼ釋き得たり
 
3432 あしがりのわをかけやまのかづの木の和乎〔左△〕可豆《ワハカツ》さねも可豆〔二字左△〕佐可〔左△〕受《ナハサネズ》とも
阿之賀利乃和乎可※[奚+隹]夜麻能可頭乃木能和乎可豆佐禰母可豆佐可受等母
 契沖は山の名はカケ山にてそれを我ヲカケ山といへるはイソノカミ袖フル河の類なりといへり。さらばワヲは句中の枕辭とすべし(二六四〇頁參照)○上三句は序なり。伴信友の比古婆衣卷二十(全集第四の四五三頁)に
(3043)  相模のみならず伊豆、甲斐、陸奥にてもヌルデをカツノ木といふ。新撰字鏡に樗、加知乃木とあるも是なるべし
といひ間宮永好の大鶏隨筆(上卷八二頁)にも
  可頭乃木はヌルデの事なり。此木相模國にいと多かる中に筥荷山には殊に多かり。この國人に此木の名をとへば何處にても皆カツ(ツ清音に唱)といひてヌルデと云ことをしらず。他國にて間試るにヌルデといひてカツと云事をしらず。かかれば此を可頭と云へるほ相模國の方言なることしるし
といへり。奥州、越前にてもカツノキ、カツキ、カチノキ、カチキなどいふ由本草啓蒙に見えたり○和乎は和波の誤ならむ。又カツサネモは且サネムの訛ならむ。カツは俗語のマアに當れり。サネモのサは添辭にてネムをネモといへるは上(三〇三〇頁)にイマハイカニセモといへると同例なり。さてカツノ木に濁音の頭を充てたるはおそらくは土人の發音に從へるならむ(豆は清音にも借る字なり)○結句は奈波サ禰ズトモの誤か
 
3433 たき木こるかまくらやまのこだる木乎〔左△〕《ノ》まつとながいはばこひつつや(3044)あらむ
多伎木許流可麻久良夜麻能許太流木乎麻都等奈我伊波婆古非都追夜安良牟
    右三首相模國歌
 上三句は序にて初句は鎌にかゝれる枕辭なり。乎は乃などの誤ならむ。略解の如く之の誤とせむは此卷の書例にたがへり。アニクヤ斯豆之(三〇二四頁)の如く取外したるは例外なり○コダルははやく卷三(四一〇頁)にヒムカシノ市ノ殖木ノコダルマデとあり。契沖は木垂とし久老は木足とせり。後者に從ふべし。枝葉の具足するにてやがてシゲルと云はむにひとし○マツトナガイハバの下にソレヲ樂ニといふことを補ひて聞くべし。コヒツツヤのヤを古義にヤハの意とせるは非なり。常のヤにてウハ氣ヲセズニコヒツツアラムカといへるなり
 
3434 かみつけ野あそやまつづら野をひろみはひにしものをあぜかたえせむ
(3045)可美都家野安蘇夜麻都豆良野乎比呂美波此爾思物能乎安是加多延世武
 野ヲヒロミハヒニシモノヲは深ク契リシモノヲといふことの譬なり。二註に上三句を序とせるは非なり。又略解に『ハヒはハヘにおなじ』といへるも非なり。自他の差あり。アゼカはナドカなり。はやく上(二九八五頁)にアゼカマカサムとあり
 
3435 伊可保ろのそひのはりはらわがきぬにつきよらしもよたへとおもへば
伊可保呂乃蘇此乃波里波良和我吉奴爾都伎與良之母與多敝登於毛敝婆
 ハリハラは上にいへる如く萩原なり。ツキヨラシは古義に云へる如くツキヨロシの訛なり。そのツキヨロシは附クニ宜シにて附クニフサハシなり。タヘトオモヘバは我衣ハ栲ナレバとなり。オモフは輕く添へたるなり○女を萩に、己を衣にたとへたるなり
 
(3046)3436 (志良登保布〔左△〕《シラトホシ》)をにひたやまのもるやまのうらがれせななとこはにもがも
志良登保布乎爾此多夜麻乃毛流夜麻能宇良賀禮勢那奈登許波爾毛我母
     右三首上野國歌
 ヲニヒタヤマは即新田山なり。モル山は略解にいへる如く人の守りて山林を荒さざる山にてやがて新田山をいへるなり。初句を宣長雅澄は布を留の誤として白砥堀ルの意とせり。守山とさへいへるを其山より砥石を掘り出さむこといかがあるべき。常陸國風上記新治郡の下に風俗(ノ)諺曰白遠新治之國とあれば志良登保布の布を誤字としてシラトホシとよみてニヒにかかれる枕辭とすべし。但其意はなほ考ふべし○ウラガレのウラは梢といふことなれどこゝにてはただ輕く添へるなり。セナナはセズテの方言とおぼゆ。上(三〇二一頁)にニヒタ山ネニハツカナナとあり。下にも例あり〇トコハは契沖のいへる如く常葉なり。女の歌にて契のかはらざら
(3047)むことを願へるなり
 
3437 みちのくのあだたらまゆみはじきおきてせらしめきなばつらはかめかも
美知乃久能安太多良末由美波自伎於伎※[氏/一]西良馬伎那婆都良波可馬可毛
     右一首陸奥國歌
 ハジキオキテは弦ヲ外シオキテなり。ハジクはハヅスの古言なり(比古婆衣卷二十)。セラシメは反《ソ》ラシメを訛れるなり。セラシメキナバは二註にいへる如くセラシメオ〔右△〕キナバの略かとも思へど(東歌には母音を略したる例多し)ハジキオキ〔二字傍点〕テといひて更にセラシメオキ〔二字傍点〕ナバとはいふべからず。さればキナバはなほ來ナバならむ○ツラはツルの古言なり(草のツルをツラといふもおなじ)。ハカメはハケメの訛なり。
  義門の山口栞(上卷二八丁)に『いにしへ四段と下二段とふたかたに活かして同じ意の詞なりしなるべし』といへるは從はれず
(3048) 卷二(一四八頁)にツラヲトリ波氣とあり。又卷十六に牛ニコソ鼻縄ハクレとあり。ハカメカモはフタタビ弦ヲ著《ハ》ケ得ムヤハとなり○こは男の歌にて女の久しく逢はぬにいひやれるにてモシウトウトシクナラバ契ハ續ケラレジといふことを譬へたるならむ
 
   雜歌
3438 つむか野にすずがおときこゆ可牟思太のとののなかちしとがりすらしも
    或本歌曰みつが野に又日わくごし
都武賀野爾須受我於等伎許由可牟思太能等能乃奈可知師登我里須良思母
    或本歌曰美都我野爾又曰和久胡思
 これより下は國明ならざる歌なり。かく國明なると明ならざるとに別ち又各雜歌、(3049)相聞、譬喩歌に(後者はなほ防人歌、挽歌に)小分したるは家持の所爲ならむ。原本にはおそらくはさる分類無かりしならむ
 スズガオトは鷹の尾鈴の音なり。カムシダは上志太にて駿河の地名なるべし。上にも斯多ノウラヲアサコグフネハとあり。トノは郡領などなるべし。ナカチは仲子なり。シは助辭なり。トガリは鳥狩にて鷹をつかふ獵なり
 或本歌のワクゴは青年の敬稱にて今の君且那なり
 
3439 すずがねのはゆまうまやのつつみ井のみづをたまへないもがただ手よ
須受我禰乃波由馬宇馬夜能都追美井乃美都乎多麻倍奈伊毛我多太手欲
 ハユマは早馬なり。初句は駅鈴ノ音ノスル早馬といふべきを略せる准枕辭なり。スズガネノ早キといひかけたりとするはわろし○ツツミ井は古義にいへる如く湧泉を石又は木にて包み圍みたるなり。そは人馬に淨水を給する爲の設備なり○タ(3050)マヘナのナは助辭なり。タマハナを訛りてタマヘナといへるにはあらじ。タダ手ヨは手ヅカラ直ニなり○こは驛使のよめるにあらず。考にいへる如く其地に住める若人が女の包井の水を汲むを見て水ノ飲ミタキニオマヘノ手カラヂキニ下サレとそばえいへるなり
 
3440 このかはにあさなあらふ兒なれもあれも知余〔二字左△〕《ヨチ》をぞもてるいで兒〔左△〕《ソ》たばりに
    一云ましもあれも
許乃河泊爾安佐奈安良布兒奈禮毛安禮毛知余乎曾母※[氏/一]流伊低兒多婆里爾
    一云麻之毛安禮母
 知余は諸本に余知とあり。契沖以下之に從ひて卷五なる哀2世間難1v住歌(八六一頁)にヨチコラとあると同語とせり。そのヨチコラは仙覺抄に同じ程の子等といふ意とし諸註之に從ひたれどよく思ふに然らじ。卷十六なる竹取翁の歌に四干庭といふ(3051)ことあり。此歌は誤脱いと多くて心得がたき處もあれどワクゴ(此歌にてはミドリ子の事)ハフ子、ワラハ、四千《ヨチ》と序を逐ひて云へる如くなれば四千は妙齢を云へるに似たり。さればヨチヲゾモテルは若キ男ヲ持テリと心得べきか○結句の兒は曾などの誤ならむ。イデは俗語のドウゾなり。タバリニはタバリネの訛《ナマリ》なり〇一首の趣は若き女が他の若き女の川邊にて朝菜を洗ふを見てよめるにて我モ汝ト同ジク若キ男ヲモテル、ソレニ食ハセマホシケレバ其菜ヲ分チ賜ヘといへるならむ
 
3441 まどほくのくもゐに見ゆるいもがへにいつかいたらむあゆめあがこま
    柿本朝臣人麿歌集曰とほくして又曰あゆめくろこま
麻等保久能久毛爲爾見由流伊毛我敝爾伊都可伊多良武安由賣安我古麻
    柿本朝臣人麿歌集曰等保久之※[氏/一]又曰安由賣久路古麻
 マドホクノは古義にいへる如く間遠之なり。ハヤクヨリなどいふハヤクと同格な(3052)り。遠キ處といふ意なり○クモヰはこゝにては空なり。但空の果にイモガヘ即妹が家の見ゆるにあらず。妹が家のあるはそのあたりと推測らるゝなり○卷七(一三五七頁)に
  遠くありて雲居にみゆる妹が家にはやく至らむ歩め黒駒 右一首柿本朝臣人麿之歌集出
とありて左註とも少し異なり
 
3442 あづまぢの手兒のよびさかこえかねてやまにかねむもやどりはなしに
安豆麻治乃手兒乃欲妣左賀古要我禰※[氏/一]夜麻爾可禰牟毛夜杼里波奈之爾
 宣長は
  手兒はタコにて即田子浦同處にて今の薩※[土+垂]山なり。紫式部集にもタコノヨビザカとよめり
(3053)といひ二註は之に從ひたれど集中にママノ手兒奈、イシヰノ手兒など手兒とかけるは皆テコとよむべき上に續歌林良材に引ける駿河國風土記に
  女神は男神を待とて岩木の山の此方にいたりて夜々待つにまち得ることなければ男神の名よびてさけぶ。よりてそこを名付ててこの呼坂とす云々。てこは東俗の詞に女をてこといふ。田子の浦も手子の浦なり
とあれば初はテコといひしを後にタゴとなまりしにこそ。岩木山は即薩※[土+垂]峠なり。紫式部の歌は時下りて證としがたき上にそのことば書に『都の方へとてかへる山こえけるによび坂といふなる所に云々』とありて越前にてよめるなれば別地なり。さて彼風土記に此歌を男神の歌とせり
 
3443 うらもなくわがゆくみちにあをやぎのはりてたてればものもひ豆〔左△〕《デ》つも
宇良毛奈久和我由久美知爾安乎夜宜乃波里※[氏/一]多※[氏/一]禮婆物能毛此豆都母
(3054) ウラモナクは無心ニテなり。物モ思ハズなり。はやく卷十二(二七一九頁)及卷十三(二九四一頁)に見えたり。ハリテは芽ヲ張リテなり。タテレバは立テルヲ見レバなり○豆は一本に弖とあり。雅澄は之に從へり。モノモヒデツモは妹ノ事ヲ思ヒ出デツモなり
3444 伎波都久のをかのくくみらわれつめどこにも乃〔左△〕《ミ》たなふせな等〔左△〕《モ》つまさね
伎波都久乃乎加能久君美良和禮都賣杼故爾毛乃多奈布西奈等都麻佐禰
 キハツクノ岡は常陸國眞壁郡の地名なりといふ。ククミラは契沖が上(三〇一八頁)なる佐野ノククダチを例として莖韮なりといへるに從ふべし。ミラはニラなり○第四句の乃は考に從ひて美などの誤とすべし。ミタナフは滿タズの方言なり。逢ハズをアハナフといふが如し○結句の等は茂などの誤なり○女が男に對していへるなり。古義に侍婢が女主人に對していへるなりとせるは非なり
 
(3055)3445 みなとのやあしがなかなるたまこすげかりこわがせことこのへだしに
美奈刀能也安之我奈可那流多麻古須氣可利己和我西古等許乃敞〔左△〕太思爾
 タマ小菅の玉は美稱なり。ヘダシはヘダチの訛なり。但こゝはヘダテといふべき處なればまづヘダテをヘダチと訛り次にヘダシと訛れるなり。さてトコノヘダシは上席と板敷との隔なり。古義には菅席ニアミテと補譯せり。げに然心得べし
 
3446 いもなろがつかふかはづのささらをぎ安志等此登其等〔左△〕《アシトヒトゴヒ》かたりよらしも
伊毛奈呂我都可布河泊豆乃佐左良乎疑安志等比登其等加多里與良斯毛
 イモナロのロは助辭、イモナは東語にてそのナはセナのナとひとしからむ○ツカフを古義に『今の世にも水を汲み用るをツカフといふに同じ』といへれどさらばツ(3056)カフカハ水などあらざるべからず。案ずるにカハベ、カハセなどいはでカハヅといへるに注目すべし。津は船を停むる處にて所謂フナツキなり。こゝに卷七(一四六三頁)に
  ことさけばおきゆさけなむ湊よりへつかふ時にさくべきものか
といへるあり。そのヘツカフは岸に近づく事なり。こゝのツカフも右のヘツカフに同じからむ。されば初二は妹ガ小舟ニ棹サシテ近ヅク河津ノといへるなり○ササラヲギは小さき荻なり○安志等比登其等〔右△〕の下の等は比の誤ならむ。さてアシトヒは蘆ト生ヒのオを略したるなり。我ハソトモ追ハジをワハソトモハジといへるなど東歌にはオを略せる例多し。トゴヒはタグヒの訛なり。タをトとなまれるはナスをノスといへるに同じくグをゴとなまれるはヒクフネをヒコフネといへるにおなじく又アクガル、イヅクをアコガル、イヅコといふにおなじ○カタリヨラシモは上(三〇四五頁)にツキヨラシモヨとあるに準じて語ルニ宜シモと心得べき事古義にいへる如し〇一首の意は
  妹ガ舟ヲサシ寄スル河津ノササラ荻ハ蘆ト生ヒ偶《タグ》ヒテ外ヨリウカガハレネバ、(3057)シノビ語ラフニフサハシ
といへるなり
 
3447 (くさかげの)安努弩《アヌヌ》奈〔□で囲む〕ゆかむとはりしみち阿努弩波《アヌヌハ》ゆかずてあらくさだちぬ
久佐可氣乃安努弩奈由可武等浪里之美知阿努弩波由加受※[氏/一]阿良久佐太知奴
 古義に一本に從ひて第二句第四句の弩を衍字としたれど第二句の奈を※[月+眷の目が月]字とすべし。二つの弩はニの訛なり。虹をヌジといへるに同じ○クサカゲノは枕辭、安努は地名なリ。駿河に阿野莊あるそれならむ。略解に
  卷十二に草陰ノアラヰノ崎とよみ倭姫命世記に草陰(ノ)阿野(ノ)國ともあリ(○こは伊勢の安濃なり)。皆アとつづきたる枕詞ならんか
といへり。草カゲノ畔《ア》とかゝれるならむ。アゼの古言はアなり○アラクサダチヌは出雲(ノ)國造(ノ)神賀《カムホギ》(ノ)詞に伊豆ノ眞屋ニ麁草ヲ伊豆ノ席ト苅敷キテとあり又倭姫命世記に荒草(ヲ)令2苅掃1(天)宮造令v坐給(支)また五十鈴原(乃)荒草木根苅掃(比)とあればアラクサ(3058)は雜草なり。又タツは眞木タツ、庭ニタツ麻などいへるタツにて生ひ立つ事なり。さてそのアラクサとタツとを一語としてアラクサダツといへるにて雜草が茂るといふ事なり
 
3448 はなちらふこのむかつをの乎那のをの比自につく佐〔□で囲む〕まできみがよもがも
波奈知良布己能牟可都乎乃乎那能乎能比自爾都久佐麻提伎美我與母賀母
 ハナチラフは卷一にもハナチラフ秋津ノ野ベニとあり。コノムカツヲノはコノ向峯ナルなり。ヲナノヲはげに山の名なるべし。遠江國引佐郡なる尾奈か○比自は富士を訛れるならむ。ツクは副フなり。富士ト高サヲクラブルなり。佐は※[月+眷の目が貝]字なり。諸本に無し○結句は君ガ齢ハ久シカラナムとなり
 
3449 しろたへのころものそでをまくらがよあまこぎく見ゆなみたつなゆめ
(3059)思路多倍乃許呂母能素低乎麻久良我欲安麻許伎久見由奈美多都奈由米
 初二は袖ヲ枕《マ》クとかゝれる序なり。麻久良我は下總の地名なるべし。クラガにマの添へるにはあらじ。ヨはヲなり。アマは漁人なり。コギクル見ユといはでコギク見ユといへるは古格なり
 
3450 乎久佐をと乎具佐すけをと(し乎〔左△〕《ホ》ぶねの)ならべてみれば乎具佐△可利馬〔二字左△〕利《ヲグサヲカチケリ》
乎久佐乎等乎具佐受家乎等斯乎布禰乃那良敝※[氏/一]美禮婆乎具佐可利馬利
 ヲ久サ、ヲ具サはげに地名なるべし。さて眞淵は之を同一とし宣長雅澄は一は清音の久、一は濁音の具を書きたるによりて別地とせり。眞淵の説に從ふべし。此卷には少くとも清を濁に通用し清濁の別は重く見べからざるが故なり。さて眞淵はヲグサヲを上丁としヲグサスケヲを助丁とせり。これもうべなふべし。上丁助丁の事は(3060)なほ卷二十に至りていふべし。ヲグサスケヲを受〔右△〕家乎と書きたるは方言の濁れるに從へるにや。或は度婆などの如く受も清濁に併用せるにや。但上にもコエカネテのカを我と書ける例あり○斯乎は一本に斯抱とあるに從ふべし。シホブネは卷二十なる防人の歌に
  久自が母さきくありまてしほ船に眞梶しじぬきわはかへりこむ
とあるを見れば鹽を運ぶ船ともおもはれず。契沖は『鹽海を渡る舟なり』といひ略解には『海邊の物をシホ何といふことシホ貝シホ蘆などの如し』といひて河舟の對とせり。なほ考ふべし○乎具佐可利〔右△〕馬利の上の利は一本に知とあり。二註は之に從ひてカツメリの訛としたれどメリといふ辭は奈良朝以前の歌文には見えず。さればカチケ〔右△〕リの誤とすべし。又乎具佐の下に乎をおとせるものとせざるべからず〇一首の趣は防人にさゝれて行く船中の徒然に乎具佐の上丁と同じき助丁とにたけくらべをせさせて見しに上丁の方まさりしかばそをはやしてよめるならむ。續日本後記天長十年四月の下に
  勅喚3大舎人|穴太部《アナホベ》馬麻呂與2内豎橘吉雄1雙立量2其身長1
(3061)とあるを思ふべし。さてシホブネノは眼前の物を取りて枕辭とせるにこそ。なほ云はばシホ舟を枕辭につかへるによりて航海中の戯とは推測らるゝなり
 
3451 左奈都良のをかにあはまきかなしきがこまはたぐともわはそともはじ
左奈都良能乎可爾安波麻伎可奈之伎我古麻波多具等毛和波素登毛波自
 サナツラは地名なり。古義に
  サはサヒノクマなど云サにて陸奥國名取郡名取郷あれば其地にて左名取なるべきかともおもへど、あまりに強解ならむ。なほ考べし
といへれど名取をいにしへ又名虎といひし由なればサナツラはなほナツラにサを添へたるにてそのナツラは名虎即名取の訛ならむ○カナシキガはカハユキ男ノなり。上(二九九九頁)にもソノカナシキヲ外ニタテメヤモとあり○タグは皇極天皇紀なる童謠のコメダニモクゲテトホラセのタゲテの原形にて食ふ事なり(三一(3062)九頁參照)ざて今は男ノ馬ガソノ粟ヲ食フトモといへるなり○ソトモハジは大平のいへる如くソトモ追ハジのオをモの韻に讓りて略せるなり。ソは集中に追馬と戲書せる如く馬を追ふ聲なり
 
3452 おもしろき野をばなやきそふるくさににひくさまじりおひばおふる我爾
於毛思路伎野乎婆奈夜吉曾布流久左爾仁比久佐麻自利於非波於布流我爾
 野を燒くは新草の生ふるを促さむ爲なれど同時に古草を燒き亡して、新古相交りて斑なるを見むによからねば野を燒くなといひおほせたるなり。古人が物の斑なるをめでし事ははやく上(二九六七頁)にいへり○さてこゝはガネとあらではかなはず(オフルガニは生フバカリにてオフルガネは生フベクなり)。東訛に我爾となまれるなるべけれど、かくしてぞ東國にてははやくよりガニとガネとの區別はなくなりけむかし
 
(3063)3453 (かぜのとの)とほきわぎもがきせしきぬたもとのくだりまよひきにけり
可是乃等能登抱吉和伎母賀吉西斯伎奴多母登乃久太利麻欲此伎爾家利
 初句は枕辭なり。第二句は遠キ故郷ナル妻ガとなり。タモトノクダリはクダレル處にてクモトノ下《シタ》なるべし。マヨフは衣を織り成せる絲の亂るゝをいふ。前註にいへる如く防人の作なるべし。卷七なる
  ことしゆくにひ島守が麻ごろも肩のまよひはたれかとりみむ
と相對へて味はふべし
 
3454 (にはにたつ)あさてこぶすまこよひだにつまよし許西禰《コサネ》あさてこぶすま
爾波爾多都安佐提古夫須麻許余比太爾都麻余之許西禰安佐提古夫須麻
(3064) ニハニタツは庭ニ生フルといふことにて麻の一言にかゝれる枕辭なり。卷四(六四九頁)にも庭ニタツ麻ヲカリホシとあり。さてその庭は園又は堅庭にはあらで垣内の事ならむ。卷九(一八三八頁)には小垣内ノ麻ヲヒキホシとあり○アサテは眞淵のいへる如く麻|布《タヘ》の約なり○許西禰は舊訓の如くコサネとよむべし。卷九(一六九一頁)なるツマノモリツマヨシ來西尼もコサネとよみつ。ヨシコサネは寄セ來レとなり。ツマは二註に云へる如く夫なり
 
   相聞
3455 こひしけばきませわがせこかきつやぎうれつみからしわれたちまたむ
古非思家婆伎麻世和我勢古可伎都楊疑宇禮都美可良思和禮多知麻多牟
 コヒシケバはコヒシカラバなり。柳をヤギともいふべき事は卷九(一七二四頁)にい(3065)へり。柳の末を摘み枯すは人待つほどの手すさびなり。但カラスは輕く添へたるなり。枯すが目的にはあらず。卷十一なる
  みちのへの草を冬野にふみからしわれたちまつと妹につげこそ
のフミカラシを例とすべし。此柳は絲柳なり。考以下に上ヘ小枝ノサス柳といへるはウレツミカラシを誤解せし結果なり
 
3456 うつせみのやそことのへはしげくともあらそひかねてあをことなすな
字都世美能夜蘇許登乃敞〔左△〕波思氣久等母安良蘇比可禰※[氏/一]安乎許登奈須那
 こゝのウツセミノは世ノ人ノといふことなり(二六一一頁參照)○ヤソコトノヘを略解に八十言ノ上なりとし古義には『大平が言ナヒにて音を音ナヒといふに同じといへる如し』といへり。案ずるに八十言ノ葉なるべし。ハをヘといへるは上(三〇三二頁)にサカルカハをサカルカヘといへると同例なり。但本集には言をコトバといへる例はあれど
(3066)  練乃言羽〔二字右△〕志われはたのまじ(八二二頁)
  世のなかの人の辭とおもほすな眞《サネ》ぞこひしきあはぬ日をおほみ(二五七二頁)  うつせみの常の辭とおもへどもつぎてしきけば心まどひぬ(二六一一頁)
  ちちははがかしらかきなでさくあれていひし古度婆ぞわすれかねつる(卷二十なる防人歌)
 コトノハといへる例は無し○アヲコトナスナはイヒタテハヤスナと譯すべければ(六四三頁及一四〇六頁參照)正しくはアヲコトナサスナとあるべし
 
3457 (うち日さす)みやのわがせはやまと女《メ》のひざまくごとにあをわすらすな
宇知日佐須美夜能和我世波夜麻登女乃比射麻久其登爾安乎和須良須奈
 契沖が『こは男の宮仕に都へ上りたる其妻が歌なり』といへる如し。ミヤノは宮ナルなり。四五調相かなはず。膝マクゴトニといはば我ヲシヌバセといふべく又アヲワ(3067)スラスナといはばヒザハマクトモといふべきなり
 
3458 なせのこや等里〔左△〕乃乎〔左△〕加耻志《トノノナカチシ》、奈可〔二字左△〕太乎〔左△〕禮《アニタハレ》あをねしなくよいくづくまでに
奈多能古夜等里乃乎加耻志奈可太乎禮安乎禰思奈久與伊久豆君麻※[氏/一]爾
 ナセノコは汝兄ノ子にてワガセコと云はむにひとし。ナセノコヤのヤは卷十二(二六四〇頁)に吾妹兒哉アヲワスラスナといひ卷十六に檀越也シカモナイヒソといへるヤにおなじ。ナセノコに訴ふるなり○等里乃乎加耻志の里は能、乎は奈の誤にてトノノナカチシならむ。トノノナカチは御ヤシキノ御次男にて上(三〇四八貢)にも等能乃奈可知師トガリスラシモとあり。シは助辭なり○奈可太乎禮は安耳太波禮の誤か○アヲネシナクヨは我ヲ音ニシ泣カスルヨとなり。はやく上(二九七八頁)にイモガ名ヨビテ吾ヲネシナクナとあり。イクヅクはイキ〔右△〕ヅクの訛なり
 
3459 いねつけばかかるあが手をこよひもかとののわくごがとりてなげか(3068)む
伊禰都氣波可加流安我手乎許余比毛可等能乃和久胡我等里※[氏/一]奈氣可武
 イネツケバは手杵もて稻を舂くなり。いにしへは米を舂くは女の業なりしなり。カカルは肌のやぶれ裂くるなり。古義に『アカガリはもと足ノカカリなるが後には手足に亘りていふことゝなれるなるべし』といへり。トノノワクゴは御ヤシキノ若旦那なり。はやく上(三〇四八頁)に見えたり○こはその殿のくりや女などのよめるなり
 
3460 たれぞこの屋の戸おそぶるにふなみにわ家〔左△〕《ガ》せをやりていはふこの戸を
多禮曾許能屋能戸於曾夫流爾布奈未爾和家世乎夜里※[氏/一]伊波布許能戸乎
 オソブルは押振にて押し動かす事なり。オシブルをオソブルといふはなほヒキヅ(3069)ラヒをヒコヅラヒといふが如し。古事記なる八千矛ノ神の御歌にもヲトメノ、ナスヤイタドヲ、オソブラヒ、ワガタタセレバ、ヒコヅラヒ、ワガタタセレバとあり。さて初二はコノ屋ノ戸ヲ押シ動カスハ誰ゾと内より咎めたるなり○ニフナミはニヒナメの訛なり。イハフコノ戸ヲは忌ミ慎ミテ閉ヂタル此戸ヲとなり。考に
  十一月公の新嘗祭ある時は國聽にても同じ祭すれば其國の里長より上は皆廳に集ふべし。然ればその里長などの戸《イヘ》にても妻のものいみしてあるを通ひ來る男の戸をおしひらかんとする時あるじのよめる也。上にカツシカワセヲニヘストモとよめるは戸々《イヘイヘ》にて爲べけれど事はひとしといへり。『其國の里長より上は皆廳に集ふべし』といへるはいかが。當日里長の許に戸主等の集まりしなるべし○家は我の誤字なり
 
3461 あぜといへかさ宿《ネ》にあは奈〔左△〕《マ》くに(眞日くれて)よひなはこなにあけぬしだくる
安是登伊敞〔左△〕可佐宿爾安波奈久爾眞日久禮※[氏/一]與此奈波許奈爾安家奴思(3070)太久流
 アゼトイヘカはナゼトイヘバカにて何ユヱニカといふ意なり。此句は第二句を越えて第三句以下にかゝれるなり○サネニを古義に眞《サネ》ニの意として『宿《ネ》は借字なり。字の意にあらず』といへり。此卷の書例は正訓の外は殆皆字音を用ひたり。又眞、信は集中にサネといひてサネニと云はず。さればサネニはなほサ寢《ヌ》ベクの意とすべし。上(二九八二頁)にもマガナシミ佐禰爾ワハユクとあり○アハ奈クニの奈は末《マ》の誤ならむ。アハマクニはアハムニなり○眞日クレテはヨヒにかゝれる枕辭なり。眞日クレテ來ル初夜《ヨヒ》などいふべき來ルを略せるなり。下にサカコエテ阿倍ノ田ノモニといへる坂コエテに似たり。眞日の眞は添辭なり。例は應神天真の御製にカブツク眞日ニハアテズとあり。但こゝなるは晝の意の日なり○ヨヒナハは初夜ニ〔右△〕ハの訛なり。コナニはコナナの轉ぜるなり。東語にてはセズシテといふことをナナといひきとおぼゆ。其例は上(三〇二一頁及三〇四六頁)に
  にひた山ねにはつか奈那わによそりはしなる兒らしあやにかなしも
  志良登保布をにひた山のもる山のうらがれせ那奈とこはにもがも
(3071)とあり。さればコナニは來ズシテなり○シダは大平(其説は略解に引けり)雅澄のいへる如く時といふことなり。又雅澄は『十一にコノ左太スギテノチコヒムカモとあるサダもシダと通ひて同言なり』といへり(二四六八頁參照)○アケヌル思太といふべきをアケヌシダといへるは例の如く連體格の代に終止格をつかひたるなり
 
3462 (あしひきの)やまさは妣登〔二字左△〕《ミヅ》のひとさはにまなといふ兒があやにかなしさ
安志此奇乃夜末佐波妣登乃比登佐波爾麻奈登伊布兒我安夜爾可奈思佐
 妣登は禰宜などの誤ならむ。初二はサハニにかゝれる序のみ。ヒトサハニは大勢ガなり○マナはマナゴを愛子と書けるを思へばカハユシといふことの古語ならむ。アヤニは怪シクなり
 
3463 まどほくの野にもあはなむこころなくさとのみなかにあへるせなかも
(3072)麻等保久能野爾毛安波奈牟己許呂奈久佐刀乃美奈可爾安敝流世奈可母
 マドホクは遠き處なり。ヲチカタノと云はむに同じ。上(三〇五一頁)にもマドホクノクモヰニミユル妹ガヘニとあり。ミナカはマン中なり。折角逢ひたれど人目多くして話もせられぬを恨みたるなり
 
3464 ひとごとのしげきによりてまをごものおやじまくらはわはまかじやも
比登其等乃之氣吉爾余里※[氏/一]麻乎其母能於夜自麻久良波和波麻可自夜毛
 マヲゴモは眞小薦ならと契沖いへり。下にもマヲゴモノフノ未《マ》ヂカクテとあり。眞も小も共に添辭にて古事記天之石屋の段に天香山《アメノカグヤマ》ノ眞男鹿《マヲシカ》ノ肩ヲ内拔《ウツヌキ》ニ拔キテといへる眞男鹿と同例なり。眞男鹿の男は借字なり。眞小鹿と書かむに同じ。シカといふがやがて牡鹿といふことなればなり。さてマとヲとを重ねたる例は少かれど(3073)マにかよふサとヲとを重ねたる例は少からず。其中にて最よく人の耳に熟したるはサヲシカといふ語なり(サヲシカはやがて眞小鹿なり。小牡鹿《サヲシカ》にあらず)。其外景行天皇紀には橋をサヲバシといひ(アサシモノミケノ佐烏麼志マヘツギミイワタラスモ、ミケノ佐烏麼志)古事記允恭天皇の段には丘《ヲ》をサヲヲといひ(コモリクノハツセノヤマノ、意富袁《オホヲ》ニハハタハリダテ、佐袁袁ニハハタハリダテ云々)本集卷十(二〇八一頁)には舟をサヲブネといへり(ヒコボシノカハセヲワタル左小舟ノイユキテハテムカハヅシオモホユ)。さてマヲゴモノは枕にかゝれるなり。所謂薦枕なり。オヤジはオナジの古言なり。マクラハは枕ヲバなり。されば三四は同ジキ薦枕ヲバとなり○結句は我ハマカザラムカ鳴呼といへるなり。こゝのヤモはヤハにあらず。卷三(四六四頁)なる君ニアハジカモのジカモにおなじ。近くは卷十一(二四二四頁)にもジカモとよむべき處あり
 
3465 (こまにしき)ひもときさけてぬるがへにあどせろとかもあやにかなしき
巨麻爾思吉比毛登伎佐氣※[氏/一]奴流我倍爾安杼世呂登可母安夜爾可奈之(3074)伎
 ヌルガヘニは寢ルガ上ニなり○アドセロトカモは何トセヨトカなり。今東國にて云云セヨをシロといふそのロははやく此時代に行はれしなり。卷二十にも
  くさまくらたびのまるねの紐たえばあが手とつけろこれのはるもし
とあり〇一首の趣は上(三〇一五頁)に
  かみつけぬあそのまそむらかきむだきぬれどあかぬをあどかあがせむ
とあると似たり
 
3466 まがなしみぬればことにづさねなへばこころの緒ろにのりてかなしも
麻可奈思美奴禮婆許登爾豆佐禰奈敝波己許呂乃緒呂爾能里※[氏/一]可奈思母
 コトニヅは言ニ出ヅにて口ガスベルとなり。下にもサネサネテコソコトニデニシカとあり○サネナヘバのサは添辭、ネナヘバはネナフのはたらけるにて寢ザレバ(3075)といふにひとし○ココロノヲロのロは助辭、ココロノヲは意はただ心といふに同じかれど辭は正述心緒などいへる心緒の直譯ならむ。或はノルと云はむ爲に心にも緒あるものとしてココロノ緒ロニノリテと云へるか。卷二(一四九頁)にアヅマ人ノノサキノハコノ荷ノ緒ニモ妹ガココロニノリニケルカモと云へるを思ふべし
 
3467 (おくやまの)眞木のいたどをとどとしてわがひらかむにいりきてなさね
於久夜麻能眞木乃伊多度乎等杼登之※[氏/一]和我比良可武爾伊利枝※[氏/一]奈左禰
 オク山ノは眞木のみにかゝれる枕辭なるのみ。眞木は檜なリ。はやく卷十一(二三四五頁及二三九九頁)にも見えたリ○トドは音なリ。卷十一(二四二二頁)にも馬ノ音《ト》ノトドトモスレバとあリ。トドトシテはトドト押シテのオを省けるなリ。東歌には母音を省ける例京人の歌よリ多し(我ハソトモ追ハジをワハソトモハジといへるなど)。さてトドト押シテは無論男の押すなり。三四の間にソレヲ聞キ附ケテといふこ(3076)とを挿みて聞くべし○ナサネは寢タマフをナスといふ、そのはたらけるにて寢タマヘといふことなり(八五八頁及二二四六頁參照)
 
3468 やまどりのをろのはつをに可賀美《カカミ》かけとなふべみこそなによそりけめ
夜麻杼里乃乎呂能波都乎爾可賀美可家刀奈布倍美許曾奈爾與曾利※[奚+隹]米
 ヲロは尾にてロは助辭なり。ハツヲを契沖は秀《ホ》ツ尾にて最長き尾なりといへり。事はたがはざれども尾羽のうち最上方なるをいへるにて應神天皇の御製にハツニハ、ハダアカラケミとあるハツ土《ニ》のハツにひとしからむ○此歌の從來釋かれざりしは可賀美を鏡と心得し爲なり。契沖は劉敬叔の異苑に
  山鶏愛2其毛羽1、映v水則舞、魏武(ノ)時南方獻v之、帝欲2其鳴舞1而無v由、公子倉舒令d以2大鏡1置c其前u、鶏※[臨/金]v形而舞不v知v止、逐|乏《ツカレ》死、韋仲將爲2之賦1。甚美
といへる文を引きたれど(文は淵鑑類函に依りて訂しつ。乏は字書に勞倦曰v乏とあ(3077)り。ツカレなどよむべし)山鳥に其形を見せむとならば鏡は其前にこそたつべけれ、その尾にかくとも詮なからむ。案ずるに可賀美は掛網をつづめたるにて賀はすみて唱ふべし。さればカカミカケは掛網ヲウチ掛ケといへるなり○トナフは宣長の引ける或人の説にいへる如くトラフの訛なり。トラフをトナフといへるはシホミツラムカをシホミツナ〔右△〕ムカといへる如し。上國にても郡名の相樂《サガラカ》をサガナカとなまれる例あり。ベミは可キニ由リテなり○ナニヨソリケメは汝ニ寄リケメなり。宜長は右の或人の説を擧げて
  右の説いとよく歌にかなへり。但し其意ならば結句ケレとあるべきをケメといへるはいさゝか心得ず
といへり。案ずるにこは自己の事をいへるにあらで人の上を云へるなればケメといへるなり○上三句は序にて四五の意はアノ男ハオマヘガ手ニ入リサウニ思ハレタカラオマヘニ近ヅイタノダラウといへるなり
 
3469 ゆふけにもこよひとのらろわがせなはあぜぞもこよひよしろきまさぬ
(3078)由布氣爾毛許余比登乃良路和賀西奈波阿是曾母許與比與斯呂伎麻左奴
 ノラロはノレルなり。其下にヲを補ひて聞くべし。ノレルをノラロとなまれるは下にアヲヤギノハレルカハトニを波良路カハトニといへると同例なり○アゼゾはナゼゾなり。モは助辭なり○ヨシロはヨソリ〔二字右△〕なり。イソベをオシ〔二字右△〕ベといへると同じく母韻の(イがオに、オがイに)轉倒したるなり
 
3470 あひ見ては千とせやいぬるいなをかもあれやしかもふきみまちがてに
安比見※[氏/一]波千等世夜伊奴流伊奈乎加母安禮也思加毛布伎美末知我※[氏/一]爾
    柿本朝臣人麻呂歌集出也
 はやく卷十一(二三五六頁)に出でたり。アヒ見テハのハは輕く添へたるなり。弟二句以下は千年スギシカ否カ、君ヲ待チ兼ネテワガ然思フニヤといへるなり
(3079) 卷十一によれば人麻呂歌集所出にあらず。そはともあれ此歌を東歌の中に入れたるによりて思へばイナヲカモといふ辭は東語ならむか。上(二九六二頁)にも筑波ネニ雪カモフラルイナヲカモとあり
 
3471 しまらくはねつつもあらむをいめのみにもとな見えつつあをねしなくる
思麻良久波禰都追母安良牟乎伊米能未爾母登奈見要都追安乎禰思奈久流
 ネツツアラムヲは二註にいへる如くウマイセムヲとなり。モトナはアヤニクなり。結句は吾ヲネニナカスルとなり○此歌にはツツ二つあり
 
3472 ひとづまとあぜかそをい波〔左△〕《マ》むしからばかとなりのきぬをかりてきなはも
比登豆麻等安是可曾乎伊波牟志可良婆加刀奈里乃伎奴乎可里※[氏/一]伎奈波毛
(3080) ヒトヅマトは人妻トテなり。波は麻などの誤ならむ○キナハモはキナハムの訛なり。キナハムはキナフ(不著)のはたらけるにて著ザラムといはむにひとし。シカラバカのカはその著ザラムの下に引きおろして心得べし〇一首の意はモシ人妻トテ忌ムベクバ隣人ノ衣モ借リテ著ラレザラムカといへるにてほぼ前註に云へる如し
 
3473 さぬやまにうつやをのとのとほかどもねもとか兒ろが於由〔左△〕《オメ》にみえつる
左努夜麻爾宇都也乎能登乃等抱可騰母禰毛等可兒呂賀於由爾美要都留
 サヌヤマは上野國なるか。ヲノトは斧の音なり。斧の音は漢籍にも伐木|丁丁《タウタウ》とあリてトントンとひびけばトホカドモにいひかけて序としたるならむ
  因にいふ。卷七(一三七五頁)にアラレフリトホツアフミノとあるも霰の音のトントンと聞ゆれば序としたるならむ
(3081) ○トホカドモは遠カレドモなリ。下にもアヤフカレドをアヤホカドといへり。ネモはネムなり○於由は於面の誤にてイメの訛ならむ。イメをオメとなまれるはイソベをオ〔右△〕シベとなまれると同例なり
 
3474 うゑたけのもとさへとよみいでていなばいづしむきてかいもがな藝《ギ》かむ
宇惠多氣能毛登左倍登與美伊低※[氏/一]伊奈婆伊豆思牟伎※[氏/一]可伊毛我奈藝可牟
 ウヱタケは植ヱタル竹なり。オノヅカラ生ヒタルにあらず。ウヱ木、ウヱコナギ(三〇二八頁)などいへるを思ふべし○モトサヘは他處に對していへるにて梢に對していへるにあらず。トヨメといふべくおぼゆるをトヨミといへるは當時のいひざまなり○イヅシはイヅチ、ナギカムはナゲカムの訛なり。但藝の字諸本には氣とあり、上(二九七〇頁)に
  かすみゐるふじのやまびにわがきなばいづちむきてかいもがなげかむ
(3082)とあると四五相同じ○初二は防人にいで立つとてますらをさびて大庭をふみとどろかす状をあやなし云へるならむ
 
3475 こひつつもをらむとすれどゆふまやまかくれしきみをおもひかねつも
古非都追母乎良牟等須禮杼遊布麻夜萬可久禮之伎美乎於母比可禰都母
 初二は契沖の『コヒナガラモサテ堪テヲラムトスレドなり』といへる如し○第三句はユフマ山ニのニを略せるにて上(三〇〇二頁)なる
  妹が門いやとほぞきぬつくばやまかくれぬほどにそではふりてな
と同格なり○眞淵のいへる如く卷十二(二七二三頁)なる
  よしゑやしこひじと爲杼ゆふま山こえにしきみがおもほゆらくに
ともとは一つなりけむ
 
3476 うべ兒なはわぬにこふなもたとつくのぬがなへゆけばこふしかるな(3083)も
    或本歌末句曰ぬがなへゆけどわぬがゆ△《カ》のへば
宇倍兒奈波和奴爾故布奈毛多刀都久能奴賀奈敝由家婆故布思可流奈母
    或本歌末句曰努我奈敝由家杼和奴賀由乃敞〔左△〕波
 兒ナのナはセナ、イモナのナにおなじ。ワヌは我といふこととおぼゆれど語源はいまだ考へず。コフナモはコフラムの訛なるべし〇三四は眞淵のいへる如くタツ月ノ流ラヘ往ケバにてゲニ月日ノ流レ往ケバといへるなり。タツはツイタチのタチにおなじ。卷十三なる挽歌(二九一二頁)にもアラタマノタツ月毎ニとあり○コフシカルナモはコヒシカルラムなり。一首の趣は眞淵が『こは妹が文などを見てうべさぞ有べきといふならむ』といへる如し
 或本歌は略解にいへる如く由の下に可賀などをおとせるなり。ユカノヘバはユカナ〔右△〕ヘバにて往カザレバなり
 
(3084)3477 あづま道《ヂ》の手兒のよびざかこえていなばあれはこひむなのちはあひぬとも
安都麻道乃手兒乃欲婢佐可古要※[氏/一]伊奈婆安禮婆古非牟奈能知婆安比奴登母
 アヅマヂノ手兒ノヨビ坂は上(三〇五二頁)に見えたり。ノチハアヒヌトモは後ハ逢フトモなり。契沖が雖2相寢1なりといへるは從はれず○卷十二(二七二三頁)に
  雲居なる海山こえていゆきなばわれはこひむな後はあひぬとも
とあると四五相同じ
 
3478 とほしとふ故奈〔左△〕《コシ》のしらね爾《ノ》あほしだもあはのへしだもなにこそよされ
等保斯等布故奈乃思良禰爾阿抱思太毛安波乃敝思太毛奈爾己曾與佐禮
 トホシトフは遠シト云フなり。故奈は古義にいへる如く故志の誤にてコシノシラ(3085)ネはやがてコシノシラ山ならむ。然いふはこのトホシトフといふ准枕辭は八千矛(ノ)神の御歌にトホドホシ故志ノクニニとあるに依れりと思はるればなり○シダは時なり。はやく上(三〇六九頁)に出でたり。アホシダは逢フ時《シダ》、アハノヘシダはアハナフ時《シダ》を訛れるにてアハナフは逢ハヌなり。又ヨサレはヨソレを訛れるなり○初二は序なるが如く見ゆれどそのかゝりざま明ならず。宣長は
  此山遠き故に見ゆる日と見えぬ日とあるを逢ふ日と不逢日とあるに譬へたり。コナノシラネニアフとつづきたるは歌の意の言と譬へのうへの言とを交へていへる古言の例にてシラネニアフはシラネノ見ユルといふ意なるをアフといふは歌の意の言也
といへり。案ずるにシラネ爾の爾はノとよむべし。爾をノとよむべき集中の例は上(三〇二八頁)に擧げたり。さてシラネノアフは白峯を人めかしてその見ゆるをアフといへるのみ。そもそもアフはいにしへ人ニアフとも人ノアフともいひて人ニアフと人ノアフとは我を主とすると人を主とするとの相違にて意は全く相同じかればシラネ爾とある爾をことさらにノとよまでもあるべきが如くなれど實はニ(3086)とよみては初二は序の體を成さざるなり○結句は汝ニコソ我心ハ寄レといへるなり
 
3479 あか見やまくさねかりそけあはすがへあ良〔左△〕《ヒ》そふいもしあやにかなしも
安可見夜麻久左禰可利曾氣安波須賀倍安良蘇布伊毛之安夜爾可奈之毛
 アカミヤマは下野國安蘇郡に赤見郷あるそこか。クサネカリソケは草根刈リ拂ヒにて根は輕く添へたるなり。初二を前註に障をおしやり又は人目を避くる譬とせるは誤なり。實に赤見山にて草を刈りはらひて相寢しなり。上(三〇三七頁)に
  あだたらのねにふすししのありつつもあれはいたらむねどなさりそね
といへるも、下に
  あづさゆみよらのやまべのしげかくにいもろをたててさねどはらふも
  おそはやも汝をこそまためむかつをの椎のこやでのあひはたがはじ
(3087)  かの兒ろとねずやなりなむはだすすきうら野の山に月かたよるも
といへるも皆屋外にての交會なり○アハヌガヘの語例は上(三〇七三頁)に
  こまにしきひもときさけてぬるがへにあどせろとかもあやにかなしき
 又卷二十に
  うまやなるなはたつこまのおくるがへいもがいひしをおきてかなしも
とあり。逢ヒ給フガ上ニといへるなり。かのワハサカルカヘ(三〇三二頁)のカヘはカハの訛にてこれとは異なり○安良蘇布を前註に人に向ひて否逢ひし事なしと爭ふ意とせり。さてはアハスガへといへる、穩ならず。アヒネシヲなどあるべきなり。思ふにア良ソフはア比ソフの誤にて相副ひて山を下る意ならざるか
 
3480 おほきみのみことかしこみかなしいもがたまくらはなれよだちきぬかも
於保伎美乃美己等可思古美可奈之伊毛我多麻久良波奈禮欲太知伎努可母
(3088) 結句は契沖がエダチキヌルカモなりといへる如し。エダツは役《エ》ニタツにて任ニ赴クなり。こゝにては防人となりて出づるを云へるならむ。エダチをヨダチとなまれるはカゲサヘミエテ、ササゲテユカムをカゴ〔右△〕サヘ、ササゴ〔右△〕テとなまれる如し
 
3481 (ありぎぬの)さゑさゑしつみいへのいもにもの乃〔□で囲む〕いはずきにておもひぐるしも
安利伎奴乃佐惠佐惠之豆美伊敞〔左△〕能伊母爾毛乃乃伊波受伎爾※[氏/一]於毛比具流之母
     柿本朝臣人麻呂歌集中出見v上已詮〔左△〕也
 卷四(六二九頁)に柿本朝臣人麻呂歌三首とありて
  珠衣のさゐさゐしづみいへの妹にものいはず來ておもひかねつも
とあると同一なり。下にも
  みづとりのたたむよそひにいものらにものいはずきにておもひかねつも
 卷二十にも
(3089)  みづとりのたちのいそぎに父母にものはずけにていまぞくやしき
とあり○アリギヌノは枕辭、サヱサヱはサヰサヰの訛にて騒といふ事、シヅミはシヅマリの約なり(二九七七頁參照)○オモヒグルシは思フニ苦シなり。ツクニヨロシをツキヨラシ(二〇四五頁)といへる如し○此歌は卷四に人麻呂の歌とせるが誤にて實は東歌なるべし(はやく眞淵等も然いへり)。第二句の辭、雅ならず又一首の趣防人の歌にふさはしく又東歌の中に之に似たるが多かればなり○左註の詮は諸本に訖とあり
 
3482 からごろもすそのうちかへあはねどもけしきこころをあがもはなくに
    或本歌曰からごろもすそのうちかひあはなへばねなへのからにことたかりつも
可良許呂毛須蘇乃宇知可倍安波禰杼毛家思吉己許呂乎安我毛波奈久爾
(3090)   或本歌曰可良己呂母須素能宇知可比阿波奈敝婆禰奈敝乃可良爾許等多可利都母
 ウチカヘはウチカヒをなまれるなり。ウチカヒのカヒは羽ガヒのカヒにおなじくて裾のゆきちがふ處なり。二註に『いにしへ韓人の衣はすそあはざりけん』といへれど、もし初より合はざらばウチカヒとはいはざらむ○初二はアフまでにかゝれるなり。アハズまでかゝれるにあらず。卷十一(二四〇〇頁)にカラゴロモスソノアハズテ久シクナレバとあると同例なり○ケシキコロはアダシ心なり。卷十一にも
  あからひくはだもふれずてねぬれどもけしき心をわがもはなくに(二二六三頁)
  あま雲のよりあひとほみあはずともあだし手枕われまかめやも(二二九七頁)
とあり
 或本歌は初二の同じきのみにて別の歌なり。アハナヘバはアハネバの東語、ネナヘは、ネナフの訛なり。ネナフをネナヘとなまれるはアハナフ時《シダ》をアハノヘ〔右△〕シダといひ(三〇八四頁)トケナフ紐をトケナヘ〔右△〕ヒモといへると同例なり。さてアハナヘバネナヘノカラニは逢ハネバ寢ヌモノヲとなり。コトタカリツはコチ〔右△〕タカリツの訛な(3091)り
 
3483 ひるとけばとけなへひものわがせなにあひよるとかもよるとけやす流〔左△〕《ケ》
此流等家波等家奈敝比毛乃和賀西奈爾阿比與流等可毛欲流等家也須流
 トケナヘはトケナフの訛、トケナフは解ケヌなり。アヒヨルトカモは古義にいへる如く相依ル前兆トカモなり。さてアヒヨルトカ〔右△〕モといひてヨルトケヤ〔右△〕スルとは云はれず。されば一本に流を氣に作れるに從ふべし。トケヤスケ〔右△〕はトケヤスキの訛なり。カナシキ兒ラニをカナシケ〔右△〕兒ラニといへると同例なり
 
3484 あさをらををけにふすさにうまずともあすきせさめやいざせをどこに
安左乎良乎遠家爾布須左爾宇麻受登毛安須伎西佐米也伊射西乎騰許爾
(3092) アサヲは麻緒、ラは助辭、ヲケは麻笥、フスサニはフサニ(澤山ニ)なり。宣長いへらく
  四の句は明日來セザラメヤなり。……結句は率《イザ》セ小床ニなり。中古の言に人をさそひたつるにイザサセタマヘといへると同じ。一首の意は夜の業に女の麻を積居る所へ男の來てよめるにて早く寢んと女を誘ふ歌也
といへり。第四句の外は此釋の如し。アスキセサメヤは著ルの敬語を著セスといふ、そをはたらかしたるにて明日著タマハメヤといへるなり。集中處々に著タマフをケスと云へるはキセスをつづめたるなり。さて明日著タマハメヤといへるはソレヲ織リテ明日著タマハメヤ、サレバ然イソシムニモ及バヌヲといへるなり○イザセのセは爲《セ》にて中古の文語のモノセヨに當れり。また中古の文にイザサセタマヘとあるはイザセサセタマヘのセを省けるにてイザモノシタマヘといはむにひとし
 
3485 (つるぎだち)身にそふいもをとり見かね哭《ネ》をぞなきつる手兒にあらなくに
都流伎多知身爾素布伊母乎等里見我禰哭乎曾奈伎都流手兒爾安良奈(3093)久爾
 初二の語例は卷十一(二四〇九頁)にツルギダチ身ニソフ妹ガオモヒケラシモとあり。身ニソフは我身ニ偶《タグ》フといふことなり○ここのトリ見のトリはただ輕く添へたるなり。さればこゝのトリ見は世話介抱などいふ意にあらず。卷五(九五七頁)なる國ニアラバ父トリミマシ、家ニアラバ母トリミマシ、卷七(一三五二頁)なる肩ノマヨヒハタレカトリミムなどのトリ見とは別なり○又こゝの手兒は稚兒なり。卷四なる坂上郎女の怨恨歌(七一八頁)にもタワラハノネノミナキツツとあり○此歌は臨別の歌にはあらで別後の作なり
 
3486 かなしいもをゆづかなへまきもころをのこととしいはばいやかたま斯〔左△〕《ク》に
可奈思伊毛乎由豆加奈倍麻伎母許呂乎乃許登等思伊波婆伊夜可多麻斯爾
 ユヅカナヘマキは弓束ニ合ヘ卷キをつづめたるにて我ハソトモ追ハジをワハソ(3094)トモハジといひ(三〇六一頁參照)ヨシコソアルラメをヨシコサルラメといへる(三〇四〇頁參照)と同例なり○モコロヲは卷九なる見2莵原《ウナヒ》處女墓1歌(一八六四頁)に如己男《モコロヲ》ニマケテハアラジトとありて己ト同等ナル男といふことなり○コトはこゝにては挑といふ意ならむ。結句はイヤカタマクニとあるべきか。おそらくは久を之〔右△〕に誤り更に之〔右△〕を斯に誤れるならむ○此歌は三四初二五と順序を更へて心得べし。但なほよく考ふべし
 
3487 あづさゆみすゑにたままきかく須〔左△〕酒曾《ナスゾ》、宿奈《ネナ》莫〔左△〕なりにしおくをかぬかぬ
安豆左由美須惠爾多麻末吉可久須酒曾宿奈莫邦里爾思於久乎可奴加奴
 スヱニタママキは弓末ニ玉ヲ纏キテなり。須酒曾は那須曽の誤ならむ。カクナスゾは懸クル如クゾなり。弓ヲヨソヒ飾リテソヲ損ハム事ヲオソレテ徒ニ懸クル如クとなり○宿奈莫は一本に宿莫奈とあり。その方此卷の書例にかなへり。更に案ずる(3095)にネナナは嶺ニハ附カナナ、ウラ枯セナナ、宵ニハコナニの例によれば(三ニ〇七〇頁參照)寢ズシテといふことにてこゝにはかなはず。ネナ莫とあるはネナ布の誤にあらざるか。ネナフナリニシは京語の寢ズナリニシに當れり○オクヲカヌカヌは將來ヲ慮リツツとなり。上(三〇二三頁)にもオクヲナカネソマサカシヨカバとあり
 
3488 (おふしもと)こ乃〔左△〕《リ》もとやまのましばにものらぬいもが名かたにいでむかも
於布之毛等許乃母登夜麻乃麻之波爾毛能良奴伊毛我名可多爾伊※[氏/一]牟可母
 オフシモトは生フル弱木《シモト》なり。乃は利などの誤、コリモトヤマは山の名、オフシモトは枕辭にてオフシモトコリをコリモト山にいひかけたるか。又コリモトはクリモトを訛れるか。但東國に栗本といふ山あることを聞かず○さて初二は眞柴を眞數《マシバ》にいひかけたる序なり。マシバニモはシバシバモといふことなり。下にも麻之波ニモエガタキカゲヲオキヤカラサムとあり○カタニイデムカモは略解にいへる如(3096)く兆ニ出デムヤハなり。上(二九八八頁)にも
  むざし野にうらへかたやきまさでにものらぬ君が名うらにいでにけり
とあり。參照すべし
 
3489 (あづさゆみ)よらのやまべのしげかくにいもろをたててさねどはらふも
安豆左由美欲良能夜麻邊能之牙可久爾伊毛呂乎多※[氏/一]天左禰度波良布母
 ヨラノ山ベは地名にあらず。夜《ヨル》ノ山ベの訛なり○シゲカクニはシゲケクニをなまれるなり。さてそのシゲケクニは茂カルモノヲといふ意なり○イモロのロは助辭、タテテはタタセテなり。上にもキヘノ林ニナヲタテテ(二九六五頁)ソノカナシキヲ外《ト》ニタテメヤモ(二九九九頁)とあり○サネドのサは添辭、ネドは上にもネドナサリソネとありて寢る處なり。さてサネドハラフフモは芥を拂ひて寢處を作るなり。山邊に女をつれ行きて寢むとする趣なり。女が男の家に來れるにはあらず
 
(3097)3490 (あづさゆみ)すゑはよりねむまさかこそひと目をおほみなをはしにおけれ
安都佐由美須惠波余里禰牟麻左可許曾比等目乎於保美奈乎波思爾於家禮
    柿本朝臣人麻呂歌集出也
 マサカは眞盛の略にて現在なり。方今などいふ方をマサニとよむは又マサカニを略せるにや○ハシニはドチラツカズニなり。上(三〇二一頁)にもハシナル兒ラシアヤニカナシモとあり。オケレはサシオキタレなり。男の歌なり
 
3491 やなぎこそきればはえすれよのひとのこひにしなむをいかにせよと曽〔左△〕《カ》
楊奈疑許曾伎禮婆伴要須禮余能比等乃古非爾思奈武乎伊可爾世余等曾
 ハエスレはハユレなり。上(三〇〇九頁)にタマモコソヒケバタエスレとあると同格(3098)なり。ヨノ人は眞淵が『我をいふ』といへる如し。第四句は人ハ一タビ死ヌレバ再生キヌヲとなり。結句の曾は香の誤ならむ。イカニセヨトカ汝ハ思フラムとなり
 
3492 をやま田のいけのつつみにさすやなぎなりもならずもなとふたり波〔左△〕《ネ》母
乎夜麻田乃伊氣能都追美爾左須楊奈疑奈里毛奈良受毛奈等布多里波母
 上三句は序なり。ヲヤマ田は地名にあらじ。サスヤナギ、ナリとかゝれるは契沖の説に生ひ附く事をナリといへるなリといへリ。主文の方にてはナルは事成ルなり。卷九(一七四〇頁)なる詠2水江浦島子1歌にアヒトブラヒコト成リシカバといひ卷十一(二三二一頁)にナラムヤ君ト間ヒシ子ラハモといへるコトナル、ナルにおなじ○結句の波母は宿母《ネモ》の誤にてネムの訛なるべし。古今集なる東歌に
  をふの浦にかたえさしおほひなる梨のなりもならずもねてかたらはむ
とあると似たり
 
(3099)3493 おそはやもなをこそまためむかつをのしひのこやでのあひはた家〔左△〕《ガ》はじ
    或本歌曰おそはやもきみをしまたむむかつをのしひのさえだのときはすぐとも
於曾波夜母奈乎許曽麻多賣牟可都乎能四比乃故夜提能安比波多家波自
    或本歌曰於曾波也母伎美乎思麻多武牟可都乎能思比乃佐要太能登吉波須具登母
 オソハヤモは遅クトモ速クトモといふことなるがハヤは辭の文《アヤ》に添へたるに過ぎざれば所詮オソクトモといはむにひとし〇三四は序なり。コヤデは小枝《コエダ》をなまれるなり。くはしくいはばイソベをオシ〔二字右△〕ベといひヨソリをヨシロ〔二字右△〕といへる(二九七三頁及三〇七七頁)とおなじく母音の顛倒せるなり。さて後の人此歌によりてコヤデを小枝の古語雅言と誤認してその歌につかへるはかたはらいたし○家は我の(3100)誤なり。アヒハタガハジといへるは契沖の云へる如く椎の小枝は互生なればソノアヒチガフガ如ク我ハユキチガハジといへるなり。家にて相手を待てるにあらで處を約して物陰にたゝずみなどして待てる趣なり
 或本歌の三四は時にかゝれるにてムザシ野ノウケラガ花ノ時ナキモノヲ(二九九二頁)と同例なり
 
3494 兒もちやまわかかへるでのもみづまで宿《ネ》もとわはもふ汝《ナ》はあどかもふ
兒毛知夜麻和可加敝流※[氏/一]能毛美都麻※[氏/一]宿毛等和波毛布汝波安杼可毛布
 上野國|群馬《クルマ》郡なる子持山か。モミヅマデは四段活によれるなり(二一三二頁參照)。ネモは寢ムなり。アドカモフは何トカ思フとなり○兒もち山の邊に住める男のよめるにて此コモチ山ノ若カヘデノモミヅル迄ウチ續キテ云々といへるなり
 
3495 いはほろのそひのわかまつかぎりとやきみがきまさぬうらもとな久〔左△〕《シ》(3101)も
伊波保呂乃蘇比能和可麻都可藝里登也伎美我伎麻左奴宇良毛等奈久毛
 上(三〇二三頁及三〇四五頁)に伊香保ロノソヒノハリハラとあればこゝにイハホロとあるはイカ〔右△〕ホロの誤なるべしと眞淵雅澄等はいへり。案ずるに萩原《ハリハラ》は廣さのあるものなれば伊香保ニ沿ヘルといふべけれど若松は一本二本をいへりとおぼゆれば巖ニ沿ヘルといはむ方中々にふさはしからむ。さればもとのままにてあるべし○初二は序と見ゆれどそのかゝりたどたどし。おそらくは三四を隔てゝ結句のウラにかゝれるにて上(三〇三七頁)なる
  あだたらのねにふすししのありつつもあれはいたらむねどなさりそね
と同格ならむ○ウラモトナ久モの久は之の誤ならむ。ウラモトナシは心モトナシなり
 
3496 (たちばなの)古婆のはなりがおもふなむこころうつくしい※[氏/一]〔左△〕《ザ》あれはい(3102)かな
多知婆奈乃古婆乃波奈里我於毛布奈牟己許呂宇都久志伊※[氏/一]安禮波伊可奈
 古婆は地名にてタチバナノは枕辭なり。タチバナノ濃葉《コバ》とかゝれるなり。眞淵以下タチバナを地名とせるは非なり。ヤナギコソ以下六首は寄木歌なるをも思ふべし○ハナリは童女なり。オモフナムは思フラムの訛なり。ウツクシはカハユシなり。伊※[氏/一]は伊射の誤か。イカナは行カムなり
 
3497 かはかみのねじろたかがやあやにあやにさ宿《ネ》さ寐《ネ》てこそことにでにしか
可波加美能禰自路多可我夜安也爾阿夜爾左宿左寐※[氏/一]許曾己登爾※[氏/一]爾思可
 カハカミは二註にいへる如く川ノ邊なり。卷一、卷四、卷十(四〇頁、一〇〇頁、六二一頁、一九七八頁)に例あり。ネジロは古義にいへる如く水に洗はれて根の白く露《アラ》はれた(3103)るなり○初二はアヤニにかゝれる序にてタカガヤのガにアの韻あればアヤにいひかけたるならむ。されば略解に『カとアと音通へばカヤ、アヤと言を重ねたる序也』といへるぞよろしからむ○アヤニアヤニはアヤニ著ホシモ、アヤニカナシサなどいへるアヤニとおなじくて異《ケ》ニといふ意ならむ。さてアヤニアヤニはサネサネテにつづけるにはあらでアヤニアヤニにて切れたるならむ。さればウタテ、ウタテなど譯すべし○サネサネテはタビタビ相寢テなり。又コトニデニシカは口外セシヲといふことなり。二註に人言ニイヒイデラレタレと譯し人言ニイハレテ名ノタチニケレと譯したるは非なり。卷十及卷十一にコトニイデテイハバユユシミとあるは口外セバといふことにて自言ふ事ならずや○こは女としばしば逢ひし後その女を妻に乞ひ受けたしと女の親にいひ入れしにそのうけひかぬを意外に思へる趣ならむ。因にいふ。今東京語に事の意外なるをオヤオヤといふはこのアヤニアヤニのうつれるにあらざるか
 
3498 宇奈波良の根やはらこすげあまたあればきみはわすらす和禮△和須《ワレハワス》流〔□で囲む〕禮夜《レヤ》
(3104)宇奈波良乃根夜波良古須氣安麻多阿禮婆伎美波和須良酒和禮和須流禮夜
 ウナハラを契沖以下海邊の事としたれど海邊の事をウナバラとはいふべからず。おそらくはもと河原乃とありてカハラノと四言によむべかりしを河を海と見誤りて宇奈波良乃と書き改めたるならむ○根ヤハラコスゲは根ノ柔ナル小菅なり。眞淵はネを寢とし雅澄は萎《ナエ》の約としたれど此卷に訓讀すべき文字をつかひたるは殆皆正訓なればなほ根の意とすべし。さて根ヤハラ小菅は女を譬へたるなり○ワスラスは忌レ給フなり。ワレワスルレヤを略解に
  ワスラレズと返る詞也。ワスレムヤといふに同じ
といひ、古義に
  吾|所忘《ワスルレ》ヤハ、得忘レズなり
といひ、言葉の玉緒卷七(十七丁)にも此歌を擧げて
  ワスルレヤはワスルルカハ忘レハセズといふ意なり
といへり。げにこゝは忘ルヤハ又は忘レムヤハといふ意なるべき處なれどワスル(3105)レヤは忘ルレバヤと同意にて、忘ルヤハをワスルレヤとはいふべからず。なほ云はばかかる處は末來格にていふが常なり。而してワスルは四段にもはたらきし事あれば(一四七七頁參照○ワスレタマフをワスラスといふも四段活なりし一證なり)四段活に從はば
  ワスラムヤモ、ワスラメヤ、ワスレヤ
といふべく、今の如く下二段にはたらかしめば
  ワスレムヤモ、ワスレメヤ
といふべし。又強ひて現在格にて云はむとならば
  ワスルヤモ、ワスルヤ
とこそいふべけれ。さればこゝは和禮和須禮米夜又は和禮波和須禮夜の誤とすべし
 
3499 をかに與世〔二字左△〕《キテ》わがかるかやのさねがやの麻許等奈其夜波ねろとへなかも
乎可爾與世和我可流加夜能佐禰加夜能麻許等奈其夜波禰呂等敝奈香(3106)母
 與世は支※[氏/一]《キテ》などを誤れるにあらざるか。サネガヤのサは添辭にてネガヤは根萱なる事略解のいへる如し。なほ下にいふべし○上三句は序とおぼゆれどそのかゝり明ならず。おそらくは原本に信奈其夜爾波とありてサネナゴヤニハとよむべかりしを信をマコトとよみ誤りて麻許等と書き終に爾を衍字として除きたるならむ。上(三〇〇〇頁)なるカツシカノママノツギハシヤマズカヨハムの下にいへる所と相照すべし。さて上三句はサネにかゝれる序にてそのサネをいひ起さむ爲に萱をことさらにサネガヤといへるならむ○サネはゲニなり。上(三〇〇三頁)にもアシカルトガモサネミエナクニとあり。ナゴヤニハは穩ニハなり。否穩ニにて、ハはネロトの下に引下して心得べし○ネロは寢ヨの訛にてセヨをセロといひ附ケヨをツケロといへるにおなじ(三〇七三頁參照)○ネロトヘナ〔二字右△〕カモはネヨトイハヌカモを訛れるならむ。イハヌのイは省きつべく、ハはヘとなまりつべく(オヤハサクレド我ハサカルカハをワハサカルカヘ〔右△〕といへる如く)ヌはナとなまりつべし(ヲロ田ニ生フルをオハ〔右△〕ルといへる如く)○女の逢ひながら憚る所ありてオチツキテ相寢ヨとい(3107)はぬをあかず思へる趣ならむ
 
3500 むらさきは根をかもをふるひとの兒のうらがなしけをねををへなくに
牟良佐伎波根乎可母乎布流比等乃兒能宇良我奈之家乎禰乎遠敝奈久爾
 紫草ハネ(根)ヲ竟フルヲ我ハネ(凝)ヲ竟ヘズといへるなり○ヲフル、ヲヘナクニは祝詞にタタヘゴト竟ヘマツルといひ本集卷五(八九一頁)にカクシツツ梅ヲ折リツツタヌシキ終ヘメといひ又卷二十にハルノウチノタヌシキ終《ヲヘ》ハといへるとおなじくてヲフルは盡ス、極ムなど譯すべし。さて根ヲカモヲフルは根ヲ盡スラムといへるなり。カモはヤハの意にあらず。モは助辭なり。紫草はその根を乾して染料とするものなるが根のかぎりつかはるゝを根ヲ竟フルといへるにてほぼ古義にいへる如し○ヒトノ兒は人の娘なり。いまだわが妻といふべからざるをいへるなり。卷十三(二八七一頁)にもイカナルヤ人ノ子故|曽〔左△〕《カ》カヨハスモ吾子《アゴ》とあり○ウラガナシケ(3108)ヲのケはキを訛れるにてヲはモノヲのヲなり○寢ヲヲヘナクニは心ユクマデ得寢ヌ事ヨといへるなり
 
3501 安波をろのをろ田におはるたはみづらひかばぬるぬるあをことなたえ
安波乎呂能乎呂田爾於波流多波美豆良比可婆奴流奴留安乎許等奈多延
 上三句は序なり。安波は地名なるべし。二つのヲロのロは助辭にてヲは岡なればアハヲロノヲロ田は安波岡ノ岡田といふことなる事古義にいへる如し。オハルは生フルの訛なり。下にカヨフ鳥ナスをカヨハ〔右△〕トリノスといへると同例なり。タハミヅラは蔓草の名なり○ヒカバヌルヌルは引カバヌレツツにてそのヌルは滑る事なり。されば引カバスナホニ寄リツツといはむにひとし。コトナタエは言ナ絶エソとなり。四五は上に
  入間道《イリマヂ》のおほ屋がはらのいはゐづらひかばぬるぬるわになたえそね
(3109)  かみつけぬかほやが沼のいはゐづら引かばぬれつつあをなたえそね
とあるに似たり
 
3502 わが目づまひとはさくれどあさがほの等思佐倍己其登わはさかるかへ
和我目豆麻比等波左久禮杼安佐我保能等思佐倍己其登和波佐可流我倍
 目ヅマの目を舊訓にマとよめるを古義にはメとよみ改めたり。さて目ヅマを宣長は『目につきて思ふ妻なり』といへり。案ずるにメヅマはメヅル妻を古格に從ひてメヅツマといひ更にツを略してメヅマといへるにあらざるか。
  此卷の書例は訓を借れるは殆皆正訓なれば右の如くならば目の字を書くべからず。されど此卷には取外したるかとおぼゆる事又傳寫せし人の筆に任せしかとおぼゆる事(たとへばテニヲハのノは乃能など書くべきを通本に之と書き異本には乃と書ける、又異本にはネズ夜ナリナムと書けるを通本には屋と書ける(3110)など)あればこゝも必しも目と書けるに泥むべからず
 而して卷十六に母ニマツリキヤ目豆兒ノ負《トジ》とあるメヅ兒と同例ならざるか○アサガホは今のヒルガホなり(一五七〇頁及二〇八九頁參照)○等思佐倍己其登の其登は如ならむ。等思佐倍己は心得ず○第二句と結句とは上(三〇三二頁)にオヤハサクレドワハ左可禮賀倍《サカルカヘ》とあるに似たり。サカルカヘは離《サカ》ルカハなり。我倍と書けるは清むべきを濁りし東語のまゝに書けるにや。又は清濁の字を通用せるにや。上にもコエカネテ、トリミカネのカを我と書けり(三〇五二頁及三〇九二頁)
 
3503 安齊可《アサカ》がたしほひのゆたにおもへらばうけらがはなのいろにでめやも
安齊可我多志保悲乃由多爾於毛敝良婆宇家良我波奈乃伊呂爾※[氏/一]米也母
 安齊可を舊訓にアサカとよめるを略解に『齊をサの假字に用たる例なし』といひてアセカとよみ改めたり。同韻の西をサに假れる例(三〇六三頁)あり又同音の柴をサ(3111)に假れる例あればなほアサカとよむべし。さてシホヒノまではユタニにかゝれる序なり。干潟の廣きを序とせるなり。ユタニオモフは上(三〇〇四頁)なる代ニモタユラニワガオモハナクニとうらうへにて氣長ク思フといふことなり○ウケラガハナノは色のみにかゝれる序なり。語例は卷十二(二六一九頁)にムラサキノワガ下紐ノ色ニイデズまた上(二九九〇貢)にウケラガ花ノ色ニヅナユメとあり○安齊可ガタシホヒノといへる、眼中の物を以て序としたりとおぼゆればウケラガハナも眼前に見えしにこそ
 
3504 はるべさくふぢのうら葉のうらやすにさぬる夜ぞなき兒ろをしもへば
波流敝左久布治能宇良葉乃宇良夜須爾左奴流夜曾奈伎兒呂乎之毛倍婆
 初二は序、ウラヤスニは心安クなり。日本の異名を浦安國といふも心安キ國といふことなり。浦と書けるは借字なり
 
(3112)3505 うちひさつ)みやの瀬がはのかほばなのこひてか眠《ヌ》らむきそもこよひも
宇知比佐都美夜能瀬河泊能可保婆奈能孤悲天香眠良武伎曾母許余比毛
 上三句はヌラムにかゝれる序なり。カホ花は晝顔なり(一六四二頁參照)。ひる顔の夕方にしぼむをヌルといひて序とせるなり。ウチヒサツはナスを訛れるなり。はやく卷十三(二八七一頁)にも打久津ミヤケノ原とあり○キソは昨日なり。はやく卷二(二〇一頁)にも君ゾキソノ夜イメニミエツルとあり。四五は我行カネバ妹ハ昨夜モ今夜モ我ニ戀ヒテカ寢ラムといへるなり
 
3506 にひむろ能〔左△〕騰伎爾伊多禮婆〔左△〕《ヤ》(はだすすき)穗にでしきみが見えぬこのごろ
爾此牟路能許騰伎爾伊多禮婆波太須酒伎穗爾※[氏/一]之伎美我見延奴己能許呂
(3113) 穗ニ出シ君は直譯すれば外ニアラハレシ君にて意譯すれば思ヲ我ニ打明ケシ君なり○許騰伎は明ならず。蠶飼スル時なりといへる説あれどさてはニヒムロノにつづかざるのみならず蠶飼は女の業なれば蠶飼に忙しきをもて男の來らぬ理由とはすべからず。こゝに一案あり。爾比牟路能許騰伎爾伊多禮婆の能は加などの誤又許は初句に屬すべきにあらざるか。即初二はニヒムロカコ。トキニイタレ婆とよむべきにあらざるか。カコはカクを訛れるにて上(三〇四〇頁)にヒク舟をヒコ〔右△〕フネといへると同例なり。而してカクは武烈天皇紀に
  おほきみのやへのくみがき※[加/可]※[加/可]梅《カカメ》どもなをあましみに※[加/可]※[加/可]農《カカヌ》くみがき
とあるカクにおなじくて作ルといふことなり。本集卷五なる貧窮問答歌にコシキニハクモノスカキテといへるカキテも同意なり(九六七頁參照)。更に案ずるに新室を作《カ》くは妻を迎へむ設なり。卷三(五二五頁)なる過2勝鹿眞間娘子墓1時歌にフセ屋タテツマドヒシケムとあるを思ふべし○イタレ婆の婆は夜の誤ならむ
 
3507 たにせばみみねにはひたるたまかづらたえむのこころわがもはなくに
(3114)多爾世婆美彌年爾波此多流多麻可豆良多延武能己許呂和我母波奈久爾
 卷十一(二四九五頁)に
  山たかみ谷べにはへる玉かづらたゆる時なくみむよしもがも
 卷十二に
  谷せばみ峯|邊《マデ》はへる玉かづらはへてしあらば年にこずとも(二六七四頁)
  丹波《タニハ》ぢの大江の山の眞玉葛《サナカヅラ》たえむの心わがもはなくに(二六七五頁)
など似たる歌あり。伊勢物語なる
  谷せばみ峯まではへる玉かづらたえむと人にわがおもはなくに
は適に此歌を改めたるなり
 
3508 芝付の御うらさきなる根つこぐさあひ見〔左△〕《ネ》ずあらばあれこひめやも
芝付乃御宇良佐伎奈流根都古具佐安比見受安良婆安禮古非米夜母
 芝付ノ御ウラサキは地名とおぼゆれど所在を知らず。ネツコ草もいかなる草とも(3115)知られず○上三句はいかにかゝれる序にか。案ずるに見は宿の誤にて根〔右△〕ツコグサアヒネ〔右△〕ズとかゝれるならむ。さて四五は相寢タ事ガ無イナラバカヤウニ戀ヒムヤハといへるなり
 
3509 (たくぶすま)しらやまかぜの宿奈敞〔三字左△〕《サムケ》どもころがおそきのあろこそえ志〔左△〕《キ》も
多久夫須麻之良夜麻可是能宿奈敞杼母古呂賀於曾伎能安路許曾要志母
 第三句を敞を敝の誤としてネナヘドモとよまばネナフのはたらけるなりとしてネザレドモの意とすべけれどさては二三の續おだやかならず。おそらくはサムケの誤ならむ。字は寒牟敬か。サムならば寒の一字にて足り牟を添ふるに及ばざらめど卷中にはミヅトリを水都等利とかきミヅニモを水都爾母と書ける例あり。是一音一字の書例に泥めるなり○オソキは眞淵の説に表衣なりといへり。カツギの如きものなるべし○アロコソはアル〔右△〕コソの訛なり。志は古義にいへる如く吉の誤な(3116)り。ユキはヨキの古語なり。コソといひてキとむすべるは古格なり○さてこは寒き夜に女のおそ著を借り著て歸り來る道の歌ならむ。卷六に
  わが背子が著る衣うすし佐保風はいたくなふきそ家にいたるまで
とあるを思ひ合すべし
 
3510 みそらゆくくもにもがもなけふゆきていもにことどひあすかへりこむ
美蘇良由久君母爾毛我母奈家布由伎※[氏/一]伊母爾許等杼比安須可敝里許武
 眞淵のいへる如く防人の歌ならむ。卷四(六六一頁)なる安貴王(ノ)謌に
  みそらゆく雲にもがも、たかとぶ鳥にもがも、あすゆきて妹にことどひ云々
とあるに似たり
 
3511 あをねろにたなびくくものいざよひにもの安〔□で囲む〕をぞおもふとしのこのごろ
(3117)安乎禰呂爾多奈婢久君母能伊佐欲比爾物能安乎曾於毛布等思乃許能己呂
 アヲネロのロは助辭、アヲネは青山なり。初二は序なり○第四句の安は衍字なり。イザヨヒニは迷ヒテといふことにてイザヨヒニモノヲゾオモフは考の定まらぬなり○トシノコノゴロを契沖以下コノ年ゴロの意と見たるは非なり。一年中ノコノゴロといふ意にてただコノゴロといはむにひとし
 
3512 ひと禰呂〔二字左△〕《ミナ》にいはるものからあをねろにいざよふくものよそり|△《シ》つまはも
此登禰呂爾伊波流毛能可良安乎禰呂爾伊佐欲布久母能余曾里都麻波母
 初句はもと比登彌奈〔二字右△〕爾とありしが前の歌の初句(安乎禰呂爾)にまぎれて今の如くなれるならむ○イハルルモノカラといふべきをイハルモノカラといへるは例の如く連體格の代に終止格をもちひたるなり
(3118) 因にいふ。古き歌にタテル見ユをタテリミユといひアルナリをアリナリといへるなどを思へばいにしへは連體格といふものは無かりしを語法やうやう精しくなりて相次げる二語の關係を明にする爲に連體格は創めしならむ。而して東歌に『連體格の代に終止格をもちふる格』の殊に多きは邊土の常として古風の殘れるならむ
 ○三四は序なり。結句を從來字のまゝにヨソリヅマハモとよみたれどイハルモノカラは名詞にては受くべからず。さればヨソ里ツマハモをヨソル〔右△〕ツマハモの誤又は訛と認むべきかといふにハモは目前に見えぬものを偲ぶ辭なればこゝは過去格の動詞を用ひざるべからず。右の如くなれば結句は余曾里之〔右△〕都麻波母の之をおとしたるなり。さて第二句のカラは故ニのカラにてナガラのカラにあらず〇一首の意は
  ミナガオレト似合ヂヤトイヒハヤスカラアレハオレニ靡イタガ今ハドウシタラウ。其後氣ガカハッタノカ、トント逢ッテクレナイといへるなり
 
(3119)3513 ゆふさればみやまをさらぬにぬぐものあぜかたえむといひし兒ろはも
由布佐禮婆美夜麻乎左良奴爾努具母能安是可多要牟等伊比之兒呂婆母
 上三句はタエムにかゝれる序なり。ニヌグモは布雲なり○アゼカは今のナドカなり。兒ロハモは兒ラハイカニシツラムといふ意なり
 
3514 たかきねにくものつくのすわれさへにきみにつきななたかねともひて
多可伎禰爾久毛能都久能須和禮左倍爾伎美爾都吉奈那多可禰等毛比※[氏/一]
 ノスはナスなり。上(三〇二六頁及三〇三五頁)にもナミニアフノス、コナラノスとあり。ワレサヘニは我モ亦なり。ツキナナは附キナムなり。上(三〇〇二頁)に袖ハフリテムをフリテナといへるに同じ○結句は君ヲ高峯ト思ヒテとなリ。こは女の歌なり
 
(3120)3515 あがおものわすれむしだはくにはふりねにたつくもを見つつしぬばせ
阿我於毛乃和須禮牟之太波久爾波布利禰爾多都久毛乎見都追之努波西
 オモは面なり。ワスレムは忘ラレムなり。卷十一(二三八一頁)なる面形ノワスルトナラバも忘ラルトナラバなり。シダは時なり。上(三〇六九頁及三〇八四頁)にヨヒナハコナニアケヌ思太クルまたアホ思太モアハノヘ思太モとあり。下にもオモガタノワスレム之太ハとあり○クニハフリは平地ニ溢レテなり。ネニタツは峯ニタツなり○男が防人などにいで立たむとする時に女のよめるにて空ニ我面影ヲ思ヒ浮ベタマヘといへるなり
 
3516 對馬能〔□で囲む〕ねはしたぐもあらなふかむのねにたなびくくもを見つつしぬばも
對馬能禰波之多具毛安良南敷可牟能禰爾多奈婢久君毛乎見都追思怒(3121)波毛
 初句の能は衍字ならむ。シタグモは契沖のいへる如く下雲にて低き雲ならむ。アラナフはアラズなり。上にもアハナフ、カケナフ、セナフ、ミタナフなどあり○カムノネは契沖の説に上ノ嶺なりといへり。シヌバモはシヌバムの訛なり。上にもコラハアハナモ、イマハイカニセモ、カリテ著ナハモ、ネモトカ兒ロガなどあり○作者は始めて對馬に行く人なるべければシタ雲アラジとかシタ雲アラズチフとかいふべきをアラナフと斷言したるは心ゆかず。さて此歌は前の歌に答へたるなり
 
3517 (しらくもの)たえにしいもをあぜせろと|△《カ》こころにのりてここばかなしけ
思良久毛能多要爾之伊毛乎阿是西呂等許己呂爾能里※[氏/一]許己婆可那之家
 アゼセロトはイカニセヨトなり。上(三〇七三頁)にもアドセロトカモアヤニカナシキとあり。第四句は妹ガ我心ミ乘リソテとなり。カナシケはカナシキの訛なり。上(三〇(3122)九一頁)にもヨルトケヤスキをヨルトケヤスケといへり○アゼセロトの下にカといふ辭なかるべからず。おそらくはもとアゼセロトカといふ六言の句なりけむ
 
3518 いはのへにいかかるくものかぬまづくひとぞおたばふいざねしめとら
伊波能倍爾伊賀可流久毛能可努麻豆久比等曾於多波布伊射禰之賣刀良
 上(三〇二二頁)なる
  伊香保ろにあまぐもいつぎかぬまづくひと登おたばふいざねしめとら
といへる歌と、もと同じ歌なり。いづれか原ならむ。イザネシメトラのラは下なるオモホスナモロのロにひとしき助辭ならむ
 
3519 ながははにこられあはゆく(あをぐもの)いで來《コ》わぎも兒あひ見|而《テ》ゆかむ
奈我波伴爾己良例安波由久安乎久毛能伊※[氏/一]來和伎母兒安必見而由可(3123)武
 古義にコラレアハユクは被※[口+責]吾者往なりといへるはコラレをコロバレの約とせるなり。コロバルは卷十一(二三四九頁)にタラチネノ母ニコロバエモノモフ吾ヲとあり下にもネナへ子ユヱニハハニコロバエとありてシカラルといふことなり。コロバルをつづめてコラルといはむはあまりなる事なれど東語並に當時の俗語にはシヅマリをシヅミといひナカスルをナクルといへる如く異常に語をつづめたる例あればコロバルをつづめてコラルといふまじきにもあらず。さて今も陸前陸中などの方言に叱らるゝことをクラレルと云ふといふ○アハユクはワレハ歸リ行クとなリ○アヲグモノを古義にアヒ見テにかゝれる枕辭としたれど無論イデ來《コ》にかゝれるなリ。アヲグモは白雲なり(二九三〇頁參照)。青天の事にあらず。イデコは出デ來レなり。古義に乞《イデ》來の意とせるは非なり
 
3520 おもがたのわすれむしだはおほ野ろにたなびくくもを見つつしぬばむ
(3124)於毛可多能和須禮牟之太波於抱野呂爾多奈婢久君母乎見都追思努波牟
 上(三一二〇頁)にアガオモノワスレムシダハ云々とあるに似たり。但此は男の歌なり 
3521 からすとふおほをそどりのまさでにもきまさぬきみをころくとぞなく
可良須等布於保乎曽杼里能麻左低爾毛伎麻左奴伎美乎許呂久等曾奈久
 ヲソは考にいへる如く今いふウソなり。はやく卷四(七四五頁)にもヲソロト吾ヲオモホサムカモとあり○マサデニはタシカニなり。上(二九八八頁)にもマサデニモノラヌ君ガ名ウラニデニケリとあり○コロクは鴉の聲を兒ロ來ときゝ成したるなる事考にいへる如し。宣長の諭の理由なき事はくはしく古義に辨じたり○男の歌なり。女の歌にあらず
 
(3125)3522 きそこそは兒ろとさ宿しかくものうへゆなきゆくたづのまどほくおもほゆ
伎曾許曾波兒呂等左宿之香久毛能宇倍由奈伎由久多豆乃麻登保久於毛保由
 キソは昨日なり。上にもキソモコヨヒモとあり。三四は序なり。語例は卷八(一五九九頁)に雲ノ上ニナクナル雁ノトホケドモとあり。クモノウヘユは雲ノ上ヲなり。マドホクは間遠クなり。上にもマドホクノクモヰニミユル、マドホクノ野ニモアハナムとあり。但こゝなるは久シクといふ意なること古義にいへる如し
 
3523 さかこえて阿倍の田のもにゐるたづのともしききみはあすさへもがも
佐可故要※[氏/一]阿倍乃田能毛爾爲流多豆乃等毛思吉伎美波安須左倍母我毛
 サカコエテは坂越エテ行クといふべきを略せる准枕辭にて阿倍にかゝれり。され(3126)ば卷七なる山コエテ遠津ノ濱ノ、足代《アテ》スギテ絲鹿ノ山ノと同格なり(一二九三頁及一三一五頁參照)。又上(三〇六九頁)に眞日クレテヨヒナハコナニとあるも此格に屬すべし。さて阿倍は駿河の阿倍にや。もし然らば坂は仙覚のいへる如く字津(ノ)谷《ヤ》峠とすべし○トモシキはメヅラシキなり。ウラヤマシキにあらず。語例は卷七(一二八六頁)に
  足柄の筥根とびこえゆくたづのともしきみればやまとしおもほゆ
とあり。アスサヘモガモは明日サヘ來マセとなり。古義に明日マデモガナ副テアラマホシと譯せるは非なり。もし此譯の如くならばトモシキ君ト〔右△〕又は君ニ〔右△〕とあらざるべからず
 
3524 まをごものふの未〔右△〕《マ》ぢかくてあはなへばおきつまがものなげきぞあがする
麻乎其母能布能未知可久※[氏/一]安波奈敝波於吉都麻可母能奈氣伎曾安我須流
(3127) 眞小薦は上(三〇七二頁)にもマヲゴモノオヤジ枕ハワハマカジヤモとあり。フは編薦の一節なり。さて第二句を二註の如く字のままにフノミ〔右△〕チカクテとよまばフノミまでを序とすべけれどノミといふ辭あまりて聞ゆ。眞淵は未を末の誤としてフノマヂカクテとよめり。此説に從ひてフノまでを序とすべし。マヂカクテは序よりのかゝりにては各節の狹きにて主文の方にては男女の住處の相近きなり○アハナヘバは逢ハザレバなり。オキツマガモノは沖ツ眞鴨ノ如クといへるなり。諸註にいへる如く水鳥は水より浮び上りて溜息をつくが故にナゲキに冠らせたるなり
 
3525 水《ミ》くく野にかものはほのす兒ろがうへにこと於〔左△〕《ヲ》ろはへていまだ宿《ネ》なふも
水久君野爾可母能波抱能須兒呂我宇倍爾許等於呂波敞〔左△〕而伊麻太宿奈布母
 ミクク野は地名なり。ハホノスはハフナスの訛なり。ハフは腹バフなり。ハヒユクにあらず。さて初二は第四句のハヘテにかかれる序なり。古義に『ノスは常には如とい(3128)ふ意にきく例なれどもこゝはただ輕く見べし』といひて卷三(三七三頁)なる雪ジモノユキカヨヒツツを例とせり。實はこゝはナスといふべき處にあらず。ハヘテを起すに然ははたらかぬ自動詞のハフをつかひたるも心ゆかず○コト於ロハヘテの於は誤字なり。諸本に乎とあるに從ふべし。その下の呂は助辭なり。さればコトヲロハヘテは言ヲ延ヘテにて言ヲ通ハシテなり。さてロ又ラは名詞の下に添ふるが常なるをかくテニヲハの下に添へたるはあやしかれど卷五なる老身重病云々の歌にも病ヲラ加ヘテアレバとあり下にも雨ヲマトノス君ヲラマトモとあり又卷二十にも子ヲラ妻ヲラとあり○ネナフモは寢ズモなり
 
3526 ぬまふたつかよはとり我〔左△〕栖《ノス》あがこころふたゆくなもとな與〔左△〕《オ》もはりそね
奴麻布多都可欲波等里我栖安我許己呂布多由久奈母等奈與母波里曾禰
 カヨハはカヨフの訛なり。フをハとなまれるはヲロ田ニオフルをオハルといへる(3129)と同例なり○その下を從來トリガスとよみて鳥ガ巣とせり。此卷に字訓を借りたるは殆皆正訓なれば書例より見れば從來の説正しきに似たれど修辭の上より見ればカヨフ鳥ナスとあるべきなり。されば我を能の誤とし栖はしばらくもとのままにしてトリノスとよむべし○フタユクナモトは略解にいへる如くフタユクラムトの訛なり。フタユクの語例は卷四(七九一頁)にウツセミノ代ヤモフタユクとあり。そはフタタビ來ルと譯すべけれどこゝは二方ニユクと譯すべし○ナ與モハリソネの與は古義にいへる如く於を誤れるならむ。さてオモハリはオモヒを延べたるにて下にウサギネラヒをヲサギネラハリといへると同例なり。東語には延約共に常に異なる事少からず
 
3527 おきにすもをがものもころやさか杼〔左△〕《マ》りいきづく久〔□で囲む〕いもをおきてきぬかも
於吉爾須毛乎加母乃母己呂也左可杼利伊伎豆久久伊毛乎於伎※[氏/一]伎努可母
(3130) オキニスモは沖ニ住ムなり。モコロは如クなり。上(三〇九三頁)にもモコロヲとあり。○箱三句の杼は麻の誤ならむ。第四句の一つの久は※[月+眷の目が月]字なり。キヌルカモをキヌカモといへるは古格に從へるなり〇、男の旅に出づとてよめるなり
 
3528 (水《ミ》づとりの)たたむよそひにいものらにものいはずきにておもひかねつも
水都等利乃多多武與曾此爾伊母能良爾毛乃伊波受伎爾※[氏/一]於毛比可禰都毛
 ヨソヒは支度なり。イモノラは上(三〇五五頁)なる伊毛奈呂におなじ。なほ云はばイモノラのノはセナ、イモナ、兒ナのナにおなじく又ラはロにひとしき助辭なり○オモヒカネツモは堪ヘカネツとなり。卷四に
  珠衣のさゐさゐしづみ家の妹にものいはず來ておもひかねつも
 卷二十に
  みづとりのたちのいそぎに父母にものはずきにていまぞくやしき
(3131)とあり。此外にも似たる歌あり。集中にオモヒカネツモと云へるに此處の如く堪ヘカネツモと譯して可なると然らざるとあり。然らざる例は此卷(三〇八二頁)なるカクレシ君ヲオモヒカネツモ、卷十五なるユカムタドキモオモヒカネツモ、卷十二(二六四七頁)なるヨドマム心オモヒカネツモ、卷二十なるトゴコロモアレハオモヒカネツモなり。終二首は例の心ヲモツといふ意なるココロヲオモフなり
 
3529 とやの野にをさぎねらはりをさをさもねなへこゆゑにははにころばえ
等夜乃野爾乎佐藝禰良波里乎佐乎左毛禰奈敵古由惠爾波伴爾許呂波要
 初二はヲサヲサをいひ起さむ序なり。トヤノ野は地名、ヲサギはウサギの訛、ネラハリはネラヒの延なり○ヲサヲサは俗語のアンマリに當るべし。ネナヘばネナフの訛にて寢ヌなり。上(三〇九一頁)に解ケヌ紐をトケナヘヒモといへると同例なり。コユヱニは子ナルモノヲなり。下にもオトダカシモナネナヘ兒ユヱニとあり○結句(3132)はハハニコロバユ〔右△〕をコロバエとなまれるか
  ネナフをネナヘとなまる如くコロバユをコロバエとなまりもすべし
 又は俳句川柳に行はるゝ如く
  たとへばウキ鴨ヤタハレ男ニ射クヅサレ、ウナサレル蘆生杓子デツッツカレなどいへる如く
 終止格にていふべきを轉じて連用格にていへるか。もし然らば歌にはいとめづらしき例といふべけれどおそらくは前者すなはちコロバユをコロバエとなまれるなるべし。コロバユは叱ラルなり。ハハといへるほ女の母なるべし。上にもナガ母ニコラレアハユクとあり
3530 さをし鹿《カ》のふすやくさむら見えずとも兒ろ家〔左△〕《ガ》かな門《ト》よゆかくしえしも
左乎思鹿能布須也久草無良見要受等母兒呂家可奈門欲由可久之要思毛
(3133) 初二は牡鹿ガ草村ニ伏シテといへるにて見エズにかゝれる序なり。見エズトモは兒ロノ姿ガ見エズトモとなり。家は一本に我とあるに從ふべし。兒ロガカナトヨは女ノ家ノ門ヲとなり。ユカクシエシモは行クノガ好マシヤとなり。エシはヨシの古語なり
 
3531 いもをこそあひみにこしか(まよびきの)よこやまへろのししなす於〔左△〕母敝〔左△〕流《マモレル》
伊母乎許曾安比美爾許思可麻欲婢吉能與許夜麻敝呂能思之奈須於母敝流
 マヨビキノは横山にかゝれる枕辭なり。ヘロのロは助辭にてへは邊なり○於母敝流は麻母禮流の誤ならざるか。もし然らば猪鹿ヲ監視スル如クイヂワロキ母親ガ我ヲ監視セルヨといへるなり。仇マモルのマモルなり
 
3532 はるの野にくさはむこまのくちやまずあをしぬぶらむいへの兒ろはも
(3134)波流能野爾久佐波牟古麻能久知夜麻受安乎思努布良武伊敝乃兒呂波母
 初二は序、クチヤマズは口ヲ休メズといふことにてはやく卷九なる思2娘子1作歌(一八二七頁)にタマダスキカケヌ時ナク、口ヤマズワガコフル兒ヲとあり○こは旅なる男の家なる妻をしのびてよめるなり
 
3533 ひとの兒のかなしけしだは(はま渚《ス》どり)あなゆむこまのをしけくもなし
比登乃兒乃可奈思家之太渡波麻渚杼里安奈由牟古麻能乎之家口母奈思
 ヒトノ兒は人の娘にて作者に取りてはしのび妻なり。カナシケはカナシキなり。上(三一〇七頁)にもヒトノ兒ノウラガナシケヲとあり。シダは時なり○ハマスドリはアナユムにかゝれり。海邊の砂地を歩む水鳥は行き惱むが故に枕辭とせるなり。アナユムは足惱《アナヤ》ムの訛なり。ヤをユとなまれるは卷二十にアタヤマヒをアクユマヒ(3135)となまれると同例なり。惡路に駒を驅らば駒をそこなふべけれどそも惜からすといへるなり
 
3534 あかごまがかとでをしつついでがてにせしを見たてしいへの兒らはも
安可胡麻我可度※[氏/一]乎思都都伊※[氏/一]可天爾世之乎見多※[氏/一]思伊敝能兒良波母
 初句はワガ乘ル赤駒ガと心得べし。見タテシは見タタセシにて今もいふ語なり○實は己もいでがてにせしを駒のみにおほせたるがをかしきなり
 
3535 おのがををおほになおもひそにはにたちゑますがからに古麻〔左△〕《コロ》にあふものを
於能我乎遠於保爾奈於毛比曾爾波爾多知惠麻須我可良爾古麻爾安布毛能乎
 古麻はおそらくは古呂の誤ならむ。一首の趣は若き男が馬に乘りて人の垣の外を(3136)過ぎし時庭に立てる若き女がその馬の尾振のをかしきを見てうちゑみしが縁となりて男女ものいひかはす趣にて馬に向ひて
  駒ヨ、自分ノ尾ヲ粗末ニ思フナ、別品ガ庭ニ立ッテテマヘガ尾ヲ振ルノヲ見テ笑ハシャッタカラソレガ縁ニナッテカヤウニ別品卜話ヲスルノヂヤモノヲ
といへるなり。駒ヨといふことは歌には略せるにて上(三〇二一頁)なる
  にひ田山ねにはつかななわによそりはしなる兒らしあやにかなしも
といへる歌に雲ノといふことを略せると相似たり
 
3536 あかごまをうちてさをびきこころびきいかなるせなかわがりこむといふ
安加胡麻乎宇知※[氏/一]左乎妣吉己許呂妣吉伊可奈流勢奈可和我理許武等伊布
 サヲビキは宣長のいへる如く緒牽にサといふ添辭を加へたるなり。名詞と動詞と相たぐひて一語となれるに添辭を加へたるは異樣なれどヤ船タク(一三五三頁)サ(3137)夜ドフ(一六六八頁)ウチ羽ブクなどいへる例あり。さればサヲビクは綱して引くことなり。序はウチテまでなり。されば初二は赤駒ヲウチテヲビクガ如ク我ヲヲビキといへるなり。人ををびくは人を誘ふなり。このヲビクは今もいふ語なり○ココロビキは心ヲヒキの一語となれるにてこれも誘ふことなり。さてそのココロビキは卷十一(二五二四頁)なるオシテル難波スガ笠オキフルシ又上(二九九七頁)なるウマグタノネロニカスミヰと同格にてココロビク事ヨといふ意なり○右の如くなれば此歌は女が媒に向ひていへるにて
  進マヌ赤駒ヲ打チテ緒牽クガ如ク我ヲヲビキ誘フ事ヨ、全體我許ヘカヨヒ來ムトイフハイカナル男ゾ
といへるなり
 
3537 くべごしにむぎはむこ宇〔□で囲む〕まのはつはつにあひ見し兒らしあやにかなしも
   或本歌曰うませごしむぎはむこまのはつはつににひはだふ(3138)れしころしかなしも
久敞〔左△〕胡之爾武藝波武古宇馬能波都波都爾安比見之兒良之安夜爾可奈思母
    或本歌曰宇麻勢胡之牟伎波武古麻能波都波都爾仁必波太布禮思古呂之可奈思母
 クベは垣なり。第二句の鵜は衍字なり。ハツハツニはチヨットなり。初二は序なり。ハツハツニアヒ見シにかゝれるは垣ごしに麥はむ馬は頭のみチヨット見ゆればなり
 ウマセも垣なり。今はウを略してマセといひマセ垣ともいふ。はやく卷十二(二六八五頁)にウマセゴシニ麥ハム駒ノノラユレドとあり
 
3538 ひろ波之〔二字左△〕《ヒロ》をうまこしかねてこころのみいもがりやり※[氏/一]〔左△〕《ツ》、和はここにして
    或本歌發句曰をばやしにこまをはささげ
(3139)比呂波之乎宇馬古思我禰※[氏/一]己許呂能末伊母我埋夜里※[氏/一]和波己許爾思天
    或本歌發句曰乎波夜之爾古麻乎波左佐氣
 馬越シカネテとあれば狹き橋なるべきを比呂波之といへる不審なり。されば契沖は尋《ヒロ》橋か又は古橋かといひ、眞淵は一|枚《ヒラ》橋なりといひ、宣長はいは橋の間々の廣きをいふかといひ、雅澄は飜《ヒロ》橋にてそり檎なりといへり。案ずるに比呂波之は比呂湍呂の誤ならむ。下の呂は助辭なり○第四句は宣長の説にイモガリヤリツの誤なるべしといへり、追などを誤れるならむ○結句の和はココロに對して身といふべきなり(但誤字にはあらじ)。卷十五にも
  あがみ〔右△〕こそせき山こえてここにあらめ心〔右△〕は妹によりにしものを
とあり
 或本歌のハササケは古義にハサセアゲの約とせり。ハサセは次に駒ヲハサセテとありて今ハセといふにおなじ。もしハセアゲの義ならば茂き林に駒をのり入れて(3140)進退共に難き趣なるべし
 
3539 あずのうへにこまをつなぎてあやほかどひと麻都〔二字左△〕《ヅマ》ころをいきに|△《ゾ》わがする
安受乃鵜敝爾古馬乎都奈伎※[氏/一]安夜抱可等比登麻都古呂乎伊吉爾和我須流
 アズは田中道麻呂の説に
  字鏡に※[土+冉]、崩岸也、久豆禮又阿須とある是也。俗に云がけの危き所也
といへり。アヤホカドはアヤフケド(危カレド)の訛なり。麻都は契沖のいへる如く都麻の顛倒なり。ヒトヅマコロヲは人ノ妻ナル子等ヲなり○イキニワガスルは息ノ緒ニワガ思フといふにひとしからむ。卷十九なる家持の
  白雪のふりしく山をこえゆかむ君をばもとないきのをにもふ
といふ歌の左註に
  左大臣換v尾云2いきのをにする1。然猶喩曰如v前誦|之也《ヘヨト》
(3141)とあり。なほ云はばイキノヲもイキも共に命といふことならむ。さて爾の下におそらくは曾をおとせるならむ○初二は序なり。危キガ如ク危カレドといへるなり。卷十二(二六九四頁)に
  いきのをにわがいきづきし妹すらを人妻なりときけばかなしも
とあり
 
3540 さわたりの手兒にいゆきあひあかごまがあがきをはやみことどはずきぬ
左和多里能手兒爾伊由伎安比安可故麻我安我伎乎波夜美許等登波受伎奴
 澤渡は諸國にある地名なり。こゝなるは上野國のならむか。手兒は小女の愛稱なり。第三句はイユキアヒシヲと辭を加へて聞くべし
 
3541 あずべからこまのゆこのすあやはどもひとづまころを麻由可西良布母
(3142)安受倍可良古麻乃由胡能須安也波刀文比登豆麻古呂乎麻由可西良布母
 アズベカラは崖ノ邊ヲなり。ユコノスは行クナスなり○アヤハドモはアヤフカドモ(危カレドモ)をつづめたるにてシヅマリをシヅミ、ナカスルをナクル、コロバレをコラレといへる類なり。かく甚しく語をつづむる事は東語に限れりやといふに古事記に浮島アリソレニ立タシテをウキジマリソリ〔五字右△〕タタシテといひ(二三三五頁參照)須佐之男(ノ)尊の御歌にイヅル雲をイヅモとのたまひ(イヅル雲の古格はイヅ雲なるをつづめてイヅモとのたまへるなリ)佛足石歌にソナハレル、ノコセル、メヅラシをソダレル、ノケル、メダシといひ(卷十二附録參照)姓の車持をクラモチとよめるなどを思へば京語にても甚しく語をつづむる事は行はれしなり。されど然甚しくつづめたる語はみやびたらずうるはしからねば京人は歌にはをさをさつかはざりしを
  素尊の御歌はいと古かれば別とすべし。卷二十なる元正天皇の御製にモトツ人カケツツモトナアヲネシナクモとよませたまへると佛足石歌なるとは異例な(3143)り
 東人は多くはことばえりなどをせざれば常談にいふがまゝに歌にもつかひしなり。辭を換へて云はば當時はやく語に雅俗の別ありて甚しくつづめたる語の如きは俗語に屬せしなり○此歌は二首前なるともと一つの歌なりけむ。麻由可西良布母はいまだ考へず。或は伊企耳四毛〔五字右△〕布母などを誤れるか
 
3542 さざれいしにこまをはさせてこころいたみあがもふいもがいへのあたりかも
佐射禮伊思爾古馬乎波佐世※[氏/一]己許呂伊多美安我毛布伊毛我伊敝乃安多里可聞
 ハサセテは契沖のいへる如く令馳而にてやがて馳セテなり。陸中などの方言には今もハシラスルをハサセルといふといふ。かくハサセテといへるによりてハスはいにしへ四段にはたらきし事を知るべし(一四七七頁參照)。さて初二は心イタミアガモフにかゝれる序なり。心イタミアガモフはアガ心イタミオモフにてそのイタ(3144)ミはイタガリなり○遠く妹が家のあたりを眺めてよめるにて妹ガ家ハアノ邊カといへるなり。ココカといへるにあらず
 
3543 (むろがやの)つるのつつみのなりぬがにころはいへどもいまだねなくに
武路我夜乃都留能都追美乃那利奴賀爾古呂波伊敝杼母伊末太年那久爾
 古義にいへる如くツルは甲斐國の都留にて枕辭は群萱之列《ムラガヤノツラ》といひかけたるにこそ○初二は序にて池又は川の堤の成るを事成ルにいひかけたるなり○ナリヌガニはアエヌガニ、ケヌガニなどと同例にて事成ルバカリニとなり。ナルの例は上(三〇九八頁)にナリモナラズモナトフタリネモとあり○イマダネナクニはマダ相寐セザル事ヨとなり
 
3544 (あすかがは)したにごれるをしらずしてせななとふた理さ宿《ネ》てくやしも
(3145)阿須可河泊之多爾其禮留乎之良受思天勢奈那登布多理左宿而久也思母
 名高きアスカ川は大和にこそあれ。されば眞淵はアス太ガハ(更科日記に見えたる)の誤とし、雅澄は東國の女が京に上りてよめるなりとせり。案ずるに東國にもアスカ川といふ川あるまじきにもあらず。否アスカガハは足利川にて今の渡瀬川にあらざるか。さて此句はシタニゴレルにかゝれる枕辭なり。二三は男ノ心ノウハベノミ清キヲ知ラズシテといへるなり○セナナはセナノとおなじくセナネを訛れるなり(三〇一三頁參照)○第四句のフタリといふ語無用なり。
  上(三〇九八頁)なるナリモナラズモナトフタリネモのフタリは必用なり。味はひ分くべし
 おそらくはフタ欲《ヨ》の誤ならむ〇六帖第三帖に
  とね川は底はにごりてうはずみてありけるものをさねてくやしく
とあると相似たり
 
3545 (あすかがは)せくとしりせばあまたよもゐねてこましをせくとしりせ(3146)ば
安須可河泊世久登之里世波安麻多欲母爲禰※[氏/一]己麻思乎世久得四里世波
 初句は枕辭、第二句はカク親ノセクト知ラバとなり。ヰネテはツレユキテ寢テなり。はやく上(三〇〇二頁)に見えたり
 
3546 あをや木のはらろかはとになをまつとせみどはくまずたちどならすも
安乎楊木能波良路可波刀爾奈乎麻都等西美度波久末受多知度奈良須母
 ハラロは契沖のいへる如くハレルの訛にて芽ヲ張レルなり。上(三〇七七頁)にコヨヒトノレルをノラロといへると同例なり。古義に地名とせるはいみじきひが言なり。上(三〇五三頁)にもアヲヤギノハリテタテレバモノモヒデツモとあり〇四五も契沖のいへる如く清水ハ汲マズ立所|平《ナラ》スモなり。タチドナラスはタタズムといは(3147)むにひとし
 
3547 あぢのすむ須沙のいり江のこもり沼《ヌ》のあないきづかしみずひさにして
阿知乃須牟須沙能伊利江乃許母理沼乃安奈伊伎豆加思美受比佐爾指天
 上三句は序なり。初二の語例は卷十一(二四八一頁)にアヂノスムスサノ入江ノアリソ松とあり。又三四の語例は卷七(一四四七頁)にミゴモリニイキヅキアマリ、卷八(一五一〇頁)に雲ゴモリアナイキヅカシアヒワカレユケバとあり。コモリ沼ノは無論イキヅカシにかかれるなり。古義に見ズにかゝれりとせるは非なり。葦菰などにうづもれたる沼は息ぐるしければコモリヌノイキヅカシとかゝれるなり○ミズヒサニシテは見ザル事久シクシテとなり。見ザルといはで見ズといへるは古格に從へるなり
 
3548 なるせろに木《コ》つ能〔左△〕《ミ》よすなすいとのきてかなしけせろにひとさへよす(3148)も
奈流世呂爾木都能余須奈須伊等能伎提可奈思家世呂爾比等佐敝余須母
 ナルセロのロは助辭、ナルセはたぎち騒ぐ瀬なり。契沖雅澄の地名とせるは非なり○契沖以下木都能をコツミノの意としたれどコツミを略してコツとはいふべからず。古義に或説に能を彌の誤とせるを引きたり。此説に從ふべし。コツミは樹の芥なり(二四六三頁參照)○初二は結句のヨスにかゝれる序なり○イトノキテははやく卷五にイトノキテイタキ瘡ニハ、卷十二にイトノキテウスキ眉根ヲとあり。甚シクといふことなり。カナシケはカナシキの訛なり。ヨスはトリ持ツなり(二九九八頁參照)
 
3549 たゆひがたしほみちわたるいづ|△《ク》ゆかもかなしきせろがわがりかよはむ
多由此我多志保彌知和多流伊豆由可母加奈之伎世呂我和賀利可欲波(3149)牟
 第三句は久の字をおとせるにてイヅクユカモなるべし。否モは衍字にてもあるべし。イヅコヲトホリテカとなり
 
3550 於志〔左△〕※[氏/一]伊奈〔左△〕等《オキテイマド》いねはつかねど(なみのほの)いたぶらしもよきそひとり宿《ネ》て
於志※[氏/一]伊奈等伊禰波都可禰杼奈美乃保能伊多夫良思毛與伎曾比登里宿而
 ナミノホノは枕辭なり。イタブラシの例は卷十一(二四七〇頁)に
  風をいたみいたぶる浪のあひだなくわがもふ妹はあひもふらむか
とあり。さればイタブラシはフラフラスルとなり。第二句以下は稻ヲ舂カバコソイタブラシカルベケレ稻ハ舂カネド云々といへるならむ。上にイネツケバカカルアガ手ヲとありて稻つくは女の業なり。獄令に婦人|配《アテヨ》2縫作及舂1とあり大炊寮式に舂米女丁とあり播磨風土記に舂米女、靈異記に稻舂女とあり○キソはこゝにては昨(3150)夜なり。さてキソヒトリネテはこゝにては男ヲマチ明シテといふ意なるべし○初句は於吉〔右△〕※[氏/一]伊末〔右△〕等の誤か。さらばイマドはイマダをなまれるにて起キ出デテマダといへるなり
 
3551 あぢかまのかたにさくなみひら湍《セ》に母〔左△〕《ハ》ひもとくものかかなしけをおきて
阿遅可麻能可多爾左久奈美比良湍爾母比毛登久毛能可加奈思家乎於吉※[氏/一]
 アヂカマは卷十一(二四七六頁)に昧鎌ノ塩津ヲサシテコグ船ノとあると同處にや。次にもアヂカマノカケノミナトニイルシホノとあり○サクナミといへるは浪の穗の白く開くるを花によそへてサクといふなり(さればナミノ花ともいへり)。語例は卷六(一〇四一頁)にシラナミノイサキメグレルスミノエノ濱また卷二十に
  今かはるにひさきもりがふなでするうなばらのうへになみなさきそね
とあり○ヒラ湍は波たたで穩なる川瀬なり。卷十九にはシクラ河ナヅサヒノボリ、(3151)平瀬ニハサデサシワタシ、早湍ニハ水烏《ウ》ヲカブケツツとありて早瀬にむかへもちひたり。ヒラセニ母の母は波《ハ》の誤ならむ○上三句はヒモトクモノカにかゝれる異常なる序なり。ヒモトクは序よりのかゝりにてはサクといふにおなじ。古今集なるモモ草ノ花ノヒモトク秋ノ野ニのヒモトクなり○カナシケはカナシキにてカハユキ人なり。上にもソノカナシキヲ外ニタテメヤモ、カナシキガ駒ハタグトモワハソトモハジなどあり。主文の意はカハユキ男ヲオキテアダシ男ト相寢ムヤハといへるなり。トクモノカは解カムモノカハと心得べし
 
3552 まつがうらにさわゑ宇〔左△〕《ム》らだちまひとごと|△《ト》おもほすなもろわがもほのすも
麻都我宇良爾佐和惠宇良太知麻比等其等於毛抱須奈母呂和賀母抱乃須毛
 マツガウラは地名なり。オモホスナモはオモホスラムなり。上にコヒシカルラム、フタユクラムトをコフシカルナモ、フタユクナモトといひ下にワヲカマツラムをワ(3152)ヲカマツナモといへるに同じ。ロは助辭なり。さればオモホスナモロはオモホスラムヨといはむにひとし○ワガモホノスモはワガモフナスモにてワガ思フ如クといふことなり。上にも鴨ノハフナスをカモノハホノスといへり〇二三心得がたし古義には第二句の宇を牟の誤として※[馬+聚]群立といふかといへり。されどサワギを打任せてサワヱとはいふべからず。案ずるに卷四(六三〇頁)にサ藍《ヰ》サ謂《ヰ》シヅミといへるを上(三〇八八頁)にサ惠サ惠シヅミといへり。そのサヱはサヰをなまれるなればこゝのサワヱもサワヰをなまれるなり。さて潮の騒ぐことをシホサヰといへり。サヰサヰのサヰはやがてシホサヰのサヰなるが、もとサワギをつづめたるものとも思はれず。然るにゝにサワヰ(なまりてサワヱ)とあるを思へばサワグはいにしへサワウ〔右△〕といひしにてここにはそのサワウをはたらかしてサワヰ(なまりてサワヱ)といへるなるべく又サヰサヰ、シホサヰのサヰはサワヰをつづめたるものなるべし。宇良太知の宇はげに牟の誤なるべし○マヒトコトハ今一言のイを略せるなるべし。イを略せる例はイモガ家ニ、モノイハズキニテをイモガヘニ、モノハズケニテといへるなど集中に少からず。もし然らば今の世に今一ツ、今スコシなどをマ一ツ、(3153)マスコシなどいふははやく奈良朝時代に行はれしなり。さて麻比等其等の下に重點(々)をおとせるにてもとマヒトゴトトといふ六言なりけむ○此歌は旅だつ人の作れるにて船出セシ松ガ浦ニ家人ナドノサワギ群立チテ今一言ヲト我ト同ジク思フラムといへるならむ
 
3553 あぢかまのかけの水《ミ》なとにいるしほのこて多〔左△〕《ヤ》すくもがいりてねまくも
安治可麻能可家能水奈刀爾伊流思保乃許※[氏/一]多受久毛可伊里※[氏/一]禰麻久母
 アヂカマノカケノミナトは湊の名なり○コテはコトの訛にて如なり。如を次の句の頭におきたる例は卷八にナク鹿ノ、コトトモシカモ、卷十にウグヒスノ、コトサキダチテ、卷十一にユク水ノ、コトカヘラズゾとあり(二二八四頁參照)。そのコは清みて唱ふべき事はやく云へる如し。又コトをコテとなまれるは卷二十にサクアレトをサクアレ天といへると同例なり○多受久毛可の多は夜の誤ならむ。されば第四句(3154)はコトヤスクモガにて如ヤスクモガナ、ソノ如クヤスカレカシといふ意なり。受を清音のスに借れるは上(三〇五九頁)にもヲグサスケヲのスを受と書けり○結句のネマクモはネムをネマクと延べ、それにモを添へたるにてサラバ妹ノ小床ニ人リテ寢ムヲといへるなり
 
3554 いもがぬるとこのあたりにいはぐくる水《ミ》づにもがもよいりてねまくも
伊毛我奴流等許乃安多理爾伊波具久留水都爾母我毛與伊里※[氏/一]禰末久母
 略解に
  潜ルは古く清音にて唱へたりと見ゆ。されば岩グクルと上よりいひ下す故に上を濁れり。具久は久具の下上になれる也とおもふはかへりて非也。谷具久など同じ例也
といへる如し(一五三八頁タチクク參照)○古義にいへる如く
(3155)  いはぐくる水にもがもよ妹がぬる床のあたりに入りてねまくも
と句をおきかへて心得べし
 
3555 まくらがのこがのわたりのからかぢのおとだかしもなね莫《ナ》へ兒ゆゑに
麻久良我乃許我能和多利乃可良加治乃於登太可思母奈宿莫敝兒由惠爾
 マクラガもコガも共に地名なり。上(三〇五八頁)にもマクラガヨアマコギク見ユナミタツナユメとあり。次にもマクラガノコガコグ舟ニとあり。コガは今の下總國|古河《コガ》なり。ワタリは渡津なり○カラカヂは支那風即新式の楫なり。柄楫《カラカヂ》にあらず。上三句はオトにかゝれる序なり○オトほ噂なり。モナは共に助辭なり。ネナヘはネナフを訛れるにてネナフは寢ヌなり。兒ユヱニは女ナルモノヲとなり。上(三一三一頁)にもネナヘコユヱニ母ニコロバエとあり○卷十一(二四六七頁)に
  きの海の名高の浦による浪の音たかきかもあはぬ子故に
(3156)とあるに似たり
 
3556 しほぶねのおかればかなしさ宿《ネ》つればひとごとしげしなをどかもしむ
思保夫禰能於可禮婆可奈之左宿都禮婆比登其等思氣志那乎杼可母思武
 初句はシホ船ノヤウニといへるにて枕辭なり。シホブネは上(三〇五九頁)にシホブネノナラベテミレバヲグサヲカチケリとあり。第二句以下は宣長の
  オカレバはオケレバ也。女ヲヰネズシテオケレバなり。船にはオクといふ事似つかはしからねど乘らずして浦にいたづらに置てある舟を見てそれによそへてよめるなるべし。……さてナヲドカモシムは汝ヲアドカモセムにてアを略ける也
といへる如し。但女ヲヰネズシテといへるはネズシテ女ヲなど改むべし。ヰネはただ相寢る事にあらず。屋外に又は家のうちならば一室につれゆきて相寢る事なれ(3157)ばなり○アドカモのアを略せるは少くとも當時の雅言には例なき事なり。古言俗言にはありもすべし。さてアドカモは何トカモなり
 
3557 なやましけひとづまかもよ(こぐふねの)わすれはせなないやもひます爾〔左△〕《モ》
奈夜麻思家比登都麻可母與許具布禰能和須禮姿勢奈那伊夜母比麻須爾
 ナヤマシケはナヤマシキなり。コグフネノのかゝりたどたどし。おそらくはイヤにかゝれるならむ。宣長雅澄は四五三一二とついでて心得べしと云へれど然妄に句をついづべけむや○セナナはセズシテなり。上にも
  にひ田山ねにはつかななわによそりはしなる兒らしあやにかなしも(三〇二一頁)
  しらとほ布をにひた山のもる山のうらがれせななとこはにもがも(三〇四六頁)
などあり○結句の爾は毛の誤にあらざるか。卷十八に
(3158)  わがせこが琴とるなべにつね人のいふなげきしもいやしきますも
とあり
 
3558 あはずしてゆかばをしけむまくらがのこがこぐふねにきみもあはぬかも
安浪受之※[氏/一]由加婆乎思家牟麻久良我能許賀己具布禰爾伎美毛安波奴河毛
 しのびたる人に別を告ぐる事も得せずして旅立たむとする人のよめるなり。フネニは舟ニテなり。アハヌカモは逢ヘカシなり。コガコグフネといへるは渡舟なるべし。上にもマクラガノコガノワタリとあり。ワタリは渡津なり○男の歌なり。考、略解に女の歌とせるはキミとあるに泥めるにや
 
3559 おほぶねをへゆもともゆもかためてし許〔左△〕《ヲ》、曾《ソ》のさとびと|△《ノ》あらはさめかも
於保夫禰乎倍由毛登毛由毛可多米提之許曾能左刀妣等阿良波左米可(3159)母
 初二は序にて宣長のいへる如く大船ヲツナグニ舳ヨリモ艫ヨリモ固ムル如ク口ヲ固メテシといへるなり○從來、許曾能左刀妣等の七言を第四句とし二註に許曾は地名かといへり。許は呼などの誤にて上に附くべく、等の下に能のおちたるならむ。さらば三四はカタメテシヲ、ソノサトビトノとよむべし。アラハサメカモは漏サムヤハなり
 
3560 まがねふくにふのまそほのいろにでていはなくのみぞあがこふらくは
麻可禰布久爾布能麻曾保乃伊呂爾低※[氏/一]伊波奈久能未曾安我古布良久波
 初二は序にてマガネフクは准枕辭なり。マガネは金屬の總稱にてこゝにては水銀ならむ。フクは分析するなり○ニフは丹《ニ》すなはち丹砂を産するによりて負へる地名なり。諸國にある地名なれどこゝは上野國|甘樂《カムラ》郡のなるべし。マソホはやがて丹《ニ》(3160)なり○結句の下に並々ナラズなどいふことを略したるなり。ワガコフラクハイハナクノミゾとかへるにはあらず
 
3561 かなと田をあらがき麻由美《マユミ》ひがとればあめをまとのすきみを等〔左△〕《ラ》まとも
可奈刀田乎安良我伎麻由美妣賀刀禮婆阿米乎萬刀能須伎美乎等麻刀母
 カナト田は門田なり。麻由美を眞淵は
  由美は可幾の字なるべし。田は春より馬鍬てふものしてかきならすを荒ガキといひ次に苗を植る時するをコナガキとも眞ガキともいへり
といへり。案ずるにマユミは眞忌の訛なり。實は荒ガキ眞ガキ、荒イミ眞イミといふべきを略してアラガキマユミといへるにて荒掻に眞掻をこめ荒忌を眞忌に讓れるなり(アラは粗なり豫なり假なり。マは精なり本なり眞なり)。さればアラガキマユミは田ヲ掻キ又清メテと譯すべし。但マユミは名詞なれば語格上には其下にシテ(3161)を略せるものと認むべし。シテを略せるは朝開シテ漕ギイニシ舟といふべきをアサビラキコギニシ舟といへると同例なり〇三四は前註にいへる如く日ガ照レバ雨ヲ待ツナスをなまれるなり○等を考、略解にラとよみたれど此卷には等は皆トに借りてラに借れる例なし。おそらくは良とあるべきを書き誤り又は寫し誤れるならむ。さてテニヲハのヲの下にラを添へたるは卷五(九八五頁)に病ヲラ加へテアレバ、上(三一二七頁)に言ヲロハヘテ、卷二十に子ヲラ妻ヲラとあり(このコヲラツマヲラは古乎等〔右△〕都麻乎等《》と書けり)○マトモは待ツモなる事前註にいへる如し
 
3562 ありそ夜〔左△〕《ミ》におふるたまものうちなびきひとりや宿《ヌ》らむあをまちかねて
安里蘇夜爾於布流多麻母乃宇知奈婢伎比登里夜宿良牟安乎麻知可禰※[氏/一]
 夜を雅澄は敝の誤とせり。美の誤ならむ。卷二(三一七頁)にアリソ囘《ミ》ニイホリテミレバ、卷十二(二七一二頁)にアリソ囘《ミ》ニワガコロモデハヌレニケルカモとあり○初二(3162)は序
 
3563 比多我多のいそのわかめのたちみだえわをかまつなもきそもこよひも
比多我多能伊蘇乃和可米乃多知美多要和乎可麻都那毛伎曾毛己余必母
 ヒタガタは地名とおぼゆ。初二は序なり。ミダエは亂レの訛なり。タチは添辭なり。マツナモは待ツラムなり○上(三一一二頁)にもコヒテカヌラムキソモコヨヒモとあり
 
3564 こすげろのうらふくふぜのあどすすかかなしけ兒ろをおもひすごさむ
古須氣呂乃宇良布久可是能安騰須酒香可奈之家兒呂乎於毛比須吾左牟
 コスゲロのロは助兒、コスゲノ浦は今の東京市外の小菅か。初二は結句のスゴサム(3163)にかゝれる序なり○アドススカは古義にいへる如く何トシツツカとなり○スゴサムはスグサムの訛なり。當時京語にてはいまだスゴスといはぬを後には一般にいふやうになりしなり。オモヒスゴサムは忘レムといふ意なり
 
3565 かのころと宿《ネ》ず屋〔左△〕《ヤ》なりなむ(はだすすき)宇良野のやまにつくかたよるも
可能古呂等宿受屋奈里奈牟波太須酒伎宇良野乃夜麻爾都久可多與留母
 カノコロトはカノ兒トなり。屋は一本に夜とあり。それに從ふべし。正訓ならでは字訓を借らぬが此卷の書例なればなり。ネズヤナリナムは寢ズニシマフカモ知レヌといへるなり○第三句を契沖以下ハダススキ末《ウラ》とつづけるなりといへり。案ずるに天ノ原ニ聳ユル富士ノ柴山をアマノハラフジノシバヤマといひ(二九六八頁)百ツ鳥ヲツタヒ行ク足柄小舟をモモツシマアシガラヲブネといひ(二九八三頁)鈴ガ音ノトヨム早馬をスズガネノハユマウマヤといへる(三〇四九頁)類にてハダスス(3164)キノ茂レルウラ野ノ山といふべきをシゲレルを略して准枕辭とせるなり。此格は貴人の歌にも無きにあらねど東歌には特に多し。ウラ野は古義に信濃國|小縣《チヒサガタ》郡なる浦野ならむと云へり。げに然るべし。ツクカタヨルモは月傾クモなり○古義に
  此は男の、妹がもとへ行て屋外に立て、をりよくば内に入むと伺ひ居るほど夜ふけ月かたぶくを見てよめるなるべし
といへるはカノ〔二字右△〕兒ロトといへるにかなはず、屋外の山野にて出で逢はむと契りて女を待ちかねたる趣なり
 
3566 わぎもこにあがこひしなば曾和敞〔二字左△〕《ソコヲ》かも加米《カメ》におほせむこころしらずて
和伎毛古爾安我古非思奈婆曾和敞可毛加米爾於保世牟己許呂思良受※[氏/一]
 ワギモコニを受けたるはアガコヒまでなり。されば正しくはアガコヒテシナバとテを挿みていふべし○曾和敞を古義に曾故遠の誤ならむといへり。げに然るべし。(3165)ソコヲはソレヲなり○加米は加未を誤れるにてもあるべく神をなまれるにてもあるべし。三四は我死ニシ事ヲ神ノ御シワザニヨソヘムとなり。ココロは事の心にて事情なり○伊勢物語に
  人しれずわれこひしなばあぢきなくいづれの神になき名おほせむ
とあると相似たり
 
   防人歌
3567 おきていかばいもはまがなしもちてゆくあづさのゆみのゆづかにもがも
於伎※[氏/一]伊可婆伊毛婆摩可奈之母知※[氏/一]由久安都佐能由美乃由都可爾母我毛
 もし古義の如くマガナシを悲シの意とせば妹ハといはで我ハといはざるべからず。さればこのマガナシもマガナシミサネニワハユク、マガナシミヌレバコトニヅ(3166)などと同じくカハユシといふ意とすべし。さて常法ならばマガナシカラムといふべきをマガナシといへるは古格に從へるなり
 
3568 おくれゐてこひばくるしもあさがりのきみがゆみにもならましものを
於久禮爲※[氏/一]古非波久流思母安佐我里能伎美我由美爾母奈良麻思物能乎
     右二首問答
 弟二句はコヒバ苦シカラムといふべきを現在格にていへるなり○防人に出で立たむとする夫に答ふる歌にアサガリノ君ガ弓ニモといへるうたてなれどごは君ガ平生朝獵ニツカヒタマフ弓といふ意と見べし
 
3569 さきもりにたちしあさけのかなとでに手ばなれをしみなきし兒らはも
佐伎母理爾多知之安佐氣乃可奈刀低爾手婆奈禮乎思美奈吉思兒良婆(3167)母
 タバナレは分手なり。タは添辭にあらず。卷十七なる思2放逸鷹1歌にも手放モヲチモ可《ゾ》ヤスキとあり
 
3570 あしの葉にゆふぎりたちてかもが鳴《ネ》のさむきゆふべしなをばしぬばむ
安之能葉爾由布宜利多知※[氏/一]可母我鳴乃左牟伎由布敝思奈乎波思奴波牟
 いとめでたし。はやく眞淵も『東にもかくよむ人もありけり』とたゝへたり
 
3571 おのづまをひとのさとにおきおほほしく見つつぞきぬるこのみちのあひだ
於能豆麻乎比登乃左刀爾於吉於保保思久見都都曾伎奴流許能美知乃安比太
 ヒトノサトは己ガ住マヌ里といふ意なるべし。見郡都曾とある穩ならず。思〔右△〕都都曾(3168)の誤かとも思へど此卷の書法にかなはざるをいかがせむ
 
   譬喩歌
3572 あどもへか阿自久麻やまのゆづるはのふふまるときにかぜふかずかも
安杼毛敝可阿自久麻夜末乃由豆流波乃布敷麻留等伎爾可是布可受可母
 アドモヘカは何ト思ヘバカにて其下にサハ言フなどいふことを略したるなり。阿自久麻山は常陸國にあるか○フフメルトキは葉のいまだ開けざる時なり。カゼフカズカモは風吹カザルカモを古格によりていへるにて風吹カザラムヤハといふ意なり○こは女ノマダ童ナルニ言ヲ通ハセバトテ何カバ咎ムベキといふことを譬へたるなり
 
3573 (あしひきの)やまかづらかげましばにもえがたきかげをおきやからさ(3169)む
安之比奇能夜麻可都良加氣麻之波爾母衣可多伎可氣乎於吉夜可良佐武
 ヤマカヅラカゲもカゲも共に日蔭のかづらなる事眞淵のいへる如し。マシバニモ得ガタキ山カヅラカゲヲといふことを四句にしらべなしたるなり○マシバニモは上(三〇九五頁)に
  おふしもと許乃もとやまのましばにものらぬいもが名かたにいでむかも
とありてシバシバモといふ事なり○結句の語例は卷十(二〇八六頁)に
  しら露のおかまくをしみ秋はぎををりのみをりておきやからさむ
とあり。得がたき女を得ながら逢ふをりなきをたとへたるなり
 
3574 をさとなるはなたちばなをひきよぢてをらむとすれどうらわかみこそ
乎佐刀奈流波奈多知波奈乎比伎余知※[氏/一]乎良無登須禮杼宇良和可美許(3170)曾
 ヲサトは小里にて小は添辭なり。卷十九にもワガオホキミ、シキマセバカモ、タヌシキ小里とあり。さてこゝは野に對して里といへるなり○ヒキヨヂテは引寄セテなり。ウラワカミコソの下に得折ラザレといふことを省きたるなり○譬へたる意明なり
 
3575 みやじろの緒可〔二字左△〕敝《スノヘ》にたてるかほがはな莫《ナ》さきいでそねこめてしぬばむ
美夜自呂乃緒可敝爾多※[氏/一]流可保我波奈莫佐吉伊低曾禰許米※[氏/一]思努波武
 岡邊のヲに緒の字を借れりとするは此卷の書法にかなはず。一本に渚とあり又一本に須とあり。もと渚乃敝とありしを誤れるならむ○可保我波奈を契沖以下カホ花の事としたれどガを挿めるは例なき上にカホ花すなはちヒルガホとしてはタテルといへる、ふさはしからず。されば外の草木にあらざるか○上四句は女に對し(3171)ていへるにて樣子ニアラハスナといふべきを譬へたるなり。結句はカタミニ心ニコメテ忍ビ隱サムといへるなり
 
3576 なはしろのこなぎがはなをきぬにすりなるるまにまにあぜかかなしけ
奈波之呂乃古奈伎我波奈乎伎奴爾須里奈流留麻爾末仁安是可加奈思家
 コナギは上(三〇二八頁)にウエコナギとある物なり。上三句は序なり。三四の間にソノ衣ノといふことを補ひて聞くべし。こゝのカナシケ(カナシキの訛)はカハユキなり。されば結句はナドカカクカハユキと譯すべし。古義に悲シキの意として『何ヲアカズ思ヒテカヤウニ悲シキ事ゾとあやしめるなり』といへるは從はれず
 
   挽歌
3577 かなしいもをいづちゆかめと(やますげの)そがひに宿《ネ》しくいましくや(3172)しも
可奈思伊毛乎伊都知由可米等夜麻須氣乃曾我比爾宿思久伊麻之久夜思母
    以前歌詞未v得v勘2知國土山川之名1也
 卷七(一四七〇頁)なる
  吾背子をいづくゆかめとさき竹のそがひにねしく今しくやしも
を作り更へたるならむ○カナシイモヲ〔右△〕といへるはユカメトの下に思ヒテを略したるなればなり。ユカメトは行カム〔右△〕トを轉じたるなり○ヤマスゲノは菅の末の相分れたるが男女の背合せに寢たるに似たればソガヒニネシクの枕とせるなり。ネシクは寢タ事ガとなり。いにしへ行はれし一格なり。近くは卷八(一六〇一頁)及卷十(二〇六九頁及二〇九六頁)に例あり
                          (大正十三年九月講了)
 
 
(3173)萬葉集卷第十四轉訛例一斑
 
 凡 例
  せろ、妹ろ、兒ろ、ねろナドらヲろトナマレルハ極メテ多クシテ人ノ看過セム恐ナケレバ擧ゲズ
  あぜか、あどか、のす、せもナド類多キモノハ其一二ノミヲ擧ゲツ
  字ノ左ニ△ヲ附セルハ誤字トオボユルヲ改メテヨメルナリ
 
  同行轉訛例
    あ   いトナマレル
                                    頁
あしが利の ………………………………………………………………………二九八四
    あ   うトナマレル
 
奴がなへゆけば …………………………………………………………………三〇八二
あな由むこまの …………………………………………………………………三一三四
(3174)    あ   えトナマレル
わはさかる〔左△〕か倍 ………………………………………………………三〇三二
しひのこや提の …………………………………………………………………三〇九九
    あ   おトナマレル
なみにゐふ能す …………………………………………………………………三〇二六
こなら能す ………………………………………………………………‥……三〇三五
たかだ〔左△〕か母たむ ………………………………………………………同
あしとひ登ごひ〔左△〕……………………………………………………‥…三〇五五
あは乃へしだも …………………………………………………………………三〇八四
    い   うトナマレル
ま都したす ………………………………………………………………………二九七九
ねろにつ久たし …………………………………………………………………三〇〇六
たつ努じの ………………………………………………………………………三〇二七
をかのく君みら …………………………………………………………………三〇五四
(3175)あぬ努ゆかむと …………………………………………………………三〇五六
あぬ努はゆかずて ………………………………………………………………同
い久づくまでに …………………………………………………………………三〇六七
に布なみに ………………………………………………………………………三〇六八
たとつ久の ………………………………………………………………………三〇八二
こ布しかるなも …………………………………………………………………同
あらがきま由み …………………………………………………………………三一六〇
    い   えトナマレル
を※[氏/一]もこのもに ……………………………………………………二九七六
かなし家こらに …………………………………………………………………三〇二五
すそのうちか倍 …………………………………………………………………三〇八九
うらがなし家を …………………………………………………………………三一〇七
西みどはくまず …………………………………………………………………三一四六
か米におほせむ …………………………………………………………………三一六四
 (3176)    い   おトナマレル
於しべにおふる …………………………………………………………………二九七三
ままの於すびに …………………………………………………………………二九九九
ここば故がたに …………………………………………………………………三〇四〇
よし呂きまさぬ …………………………………………………………………三〇七七
こ等たかりつも …………………………………………………………………三〇八九
    う   あトナマレル
よ良のやまべの …………………………………………………………………三〇九六
をろたにお波る …………………………………………………………………三一〇八
かよ波とりの〔左△〕す ………………………………………………………三一二八
    う   いトナマレル
爾ぬほさるかも …………………………………………………………………二九六二
しりらひか志もよ …………………………………………………………‥…三〇四○
比じにつくまで …‥……………………………………………………………三〇五七
(3177)爾ぬぐもの ………………………………………………………………三一一九
    う   えトナマレル
あはの敝しだも …………………………………………………………………三〇八四
とけな敝ひもの …………………………………………………………………三〇九一
ねな敝こゆゑに …………………………………………………………………三一三一
ははにころば要《エ》 …………………………………………………………同
いづちゆか米と …………………………………………………………………三一七一
    う   おトナマレル
すがのあら能に …………………………………………………………………二九六三
よにもた欲らに …………………………………………………………………二九八四
かみつけ乃 ………………………………………………………………………三〇一七
あらは路までも …………………………………………………………………三〇二七
いまはいかにせ母 ………………………………………………………………三○三○
ふ路よきの ………………………………………………………………………三○三四
(3178)ふろ與きの ………………………………………………………………三〇三四
び古ふねの ………………………………………………………………………三〇四〇
わは〔左△〕かつさね母 ………………………………………………………三〇四二
こよひとのら路……………………………………………………………………三〇七七
かりてきなは母 …………………………………………………………………三〇七九
ね毛とかころが …………………………………………………………………三〇八〇
た刀つくの ………………………………………………………………………三〇八二
こふしかるな母 …………………………………………………………………同
あ抱《ホ》しだも ………………………………………………………………三〇八四
あ路こそえき〔左△〕も ………………………………………………………三一一五
かものは抱のす …………………………………………………………………三一二七
おきにす母 ………………………………………………………………………三一二九
乎さぎねらはり……………………………………………………………………三一三一
あや抱かど ………………………………………………………………………三一四〇
(3179)はら路かはとに …………………………………………………………三一四六
せみ度はくまず …………………………………………………………………同
あめをま刀のす …………………………………………………………………三一六〇
きみをらま刀も …………………………………………………………………同
おもひす吾さむ …………………………………………………………………三一六二
    え   あトナマレル
ゆきかもふ良る …………………………………………………………………二九六一
にぬほ佐るかも …………………………………………………………………同
くにのとほ可ば …………………………………………………………………二九七七
まさかしよ加ば …………………………………………………………………三〇二三
ここばこが多に …………………………………………………………………三〇四〇
つらは可めかも …………………………………………………………………三○四七
こよひとの良ろ …………………………………………………………………三〇七七
とほ可ども ………………………………………………………………………三〇八〇
(3180)しげ可くに ………………………………………………………………三〇九六
しひのこ夜での …………………………………………………………………三〇九九
あやほ可ど ………………………………………………………………………三一四○
は良ろかはとに …………………………………………………………………三一四六
お可ればかなし …………………………………………………………………三一五六
    え   いトナマレル
ふじのやま備に …………………………………………………………………二九七〇
ままのおす比に …………………………………………………………………二九九九
いでそ〔左△〕たばり爾 ………………………………………………………三〇五〇
おひばおふるが爾 ………………………………………………………………三〇六二
にふな未に ………………………………………………………………………三〇六八
いもがな藝《ギ》かむ …………………………………………………………三〇八一
なをどかも思む …………………………………………………………………一三一五六
    え   おトナマレル
(3181)欲だちきぬかも …………………………………………………………三〇八七
ひが刀れば 三一六〇
    お   あトナマレル
つきよ良しもよ …………………………………………………………………三○四五
かたりよ良しも …………………………………………………………………三〇五五
なにこそよ佐れ …………………………………………………………………三〇八四
    お   いトナマレル
お思べにおふる …………………………………………………………………二九七三
みだれ志めめや ‥………………………………………………………………二九七四
よ斯ろきまさぬ …………………………………………………………………三〇七七
    お   うトナマレル
に努ほさるかも …………………………………………………………………二九六二
久もりぬ〔左△〕の ……………………………………………………………二九八六
ままのお須びに …………………………………………………………………二九九九
(3182)に努ぐもの  三一一九
    お   えトナマレル
西らしめきなば …………………………………………………………………三○四七
 
  同列轉訛例
    う   むトナマレル
かき武だき ………………………………………………………………………三○一五
式らなへに ………………………………………………………………………三〇三○
   す   つトナマレル
うちびさ都 ………………………………………………………………………三一一二
    ぞ   どトナマレル?
ひと登おたばふ …………………………………………………………………三〇二二
そらゆ登きぬよ …………………………………………………………………三〇三五
    ち   しトナマレル
(3183)ねろにつくた思 …………………………………………………………三〇〇六
とりはな之 ………………………………………………………………………三○三二
とこのへだ思に …………………………………………………………………三〇五五
いづ思むきてか …………………………………………………………………三〇八一
    つ   すトナマレル
まつした須 ………………………………………………………………………二九七九
    な   あトナマレル
安ぜかまかさむ …………………………………………………………………二九八五
安どかもいはむ …………………………………………………………………二九九二
    の   どトナマレル
を度のたどりが …………………………………………………………………三〇一七
    ら   なトナマレル
しほみつ奈むか …………………………………………………………………二九八二
と奈ふべみこそ …………………………………………………………………三〇七六
(3184)わぬにこふ奈も …………………………………………………………三〇八二
ぬが奈へゆけば …………………………………………‥………‥…………同
こふしかる奈も …………………………………………………………………同
ふたゆく奈もと …………………………………………………………………三一二八
わをかまつ那も …………………………………………………………………三一六二
    れ   えトナマレル
たちみだ要 ………………………………………………………………………同
 附言 卷中轉訛ノ最多キハ
  うべこなはわぬにこふ|なも《らむ》た|と《ツ》つ|く《キ》の|ぬ《ナ》が|な《ラ》へゆけばこ|ふ《ヒ》しかる|なも《ラム》(三〇八二頁)
トイフ歌ナリ。傍書セルハ正音ナリ
             2005年5月4日午後2時35分、入力終了、米田進
 
(3185〜流布本目録省略)
 
萬葉集新考第六  1928.9.23発行
 
  圖版解説
萬葉考|槻《ツキ》のおち葉の著者荒木田|久老《ヒサオユ》が伊勢から其門人にて豐前國中津八幡社司なる渡邊重名に贈つた長さ六尺八寸六分(幅五寸)の書翰である。紙面に限があるから左に特に必要なる部分だけ譯載する。但圖版に示せるは四殴に切りて表装したる第二段の前半と第四段の終とである
 去四月より當七月迄在京仕罷衣候……右之一件いまだ落著不仕侯に付近日又々出京仕候……今度登り申候はば霜月頃迄は逗留可仕存候得ば間隙も可有之存候に付萬葉にても持參致し先達て致しかけ置候考をも追々校正仕候樣にも可仕相樂しみ居申候右考之儀は大平抔よりも御噂可申上候奇説甚多御座候續日本後紀長歌之考是は大坂にて出板仕候近々出來との事に御座候出來候はば御覧可被下候……先は右貴報旁早々如此御座候近日出京之用意取込候故不能詳候恐惶謹言八月八日宇治久老(華押)渡邊上野助樣貴答
續日本後紀歌考初刷本の奥附に寛政六甲寅五月大坂博勞町佐野屋橋筋播磨屋新兵衛とあるから右の書翰は其前年の八月の物であらう。久老は此年四十八歳であつた
 
(凡例省略)
(目次省略)
 
(3189) 萬葉集新考卷十五             井上通泰著
 
  遣2新羅1使人等悲v別贈答及海路慟v情陳v思并當v所誦詠之古謌
 こは此卷の強半に亘れる總標なり。目録を參酌して初に天平八年丙子の六字を補ひ陳思の下に作歌の二字を補ふべし。慟情はココロヲイタマシメテとよむべし。當所はヲリニフレテといふ意なり〇一行中姓名の續日本紀なる遣使記事中に見えたるは大使阿倍朝臣繼麻呂、副使大伴宿禰三中、大判官壬生(ノ)使主《オミ》宇太麻呂、小判官大藏(ノ)忌寸《イミキ》麻呂以上四人のみ。卷中に見えたる秦(ノ)間滿(又田滿とあり)、大石蓑麻呂、田邊秋庭、羽栗某、雪(ノ)宅滿《ヤカマロ》、土師《ハニシ》稻足、葛井《フヂヰ》(ノ)連《ムラジ》子老《コオユ》、六鯖(六人部《ムトベ》鯖麻呂)は録事、通事(屬官、譯官)以下なるべし(遣新羅使の職員は大藏省式などを見て知るべし。式のうち流布本に鎌工とあるは船工の誤ならむ)。右のうち秦、田邊、大石、葛井の四氏は漢韓より歸化せし人の子孫なり。六人部氏には神別と蕃別とあるが鯖麻呂はおそらくは後者ならむ○(3190)此卷は一行中の無名氏の録したるもの(所謂家集)にて作者の名を記さざる歌はおほむね其人の作とおぼゆ。其人の名の傳はらざるはくちをし○さて績紀によるに大使は歸路對馬にて卒し副使はた途にて病に罹りしかば大判官小判官等副使に先だちて天平九年正月に京に入りし由なれど歌に秋サラバアヒ見ムモノヲ、秋風ノフカムソノ月アハムモノユヱ、マタモアヒミム秋カタマケテ、秋サラバワガフネハテムなどいへるを思へば其年即八年の秋に歸朝せむ豫定なりしなり
 
3578 武庫の浦のいり江の渚鳥《スドリ》羽ぐくもるきみをはなれてこひにしぬべし
武庫能浦乃伊里江能渚鳥羽具久毛流伎美乎波奈禮弖古非爾之奴倍之
 以下二首贈答にてこは女の作なり
 初二は羽グクモルにかゝれる序なり。ハグク毛ルはハグク牟ルの訛なり。ハグクムルをハグクモルともいふは、なほナグサムルをナグサモルともいふが如し。さてハグクムルは羽裹《ハグク》ムルにて(略解にククムルを含の意とせるは非なり)もとは鳥が羽もて雛を包むをいひ轉じては保護するをいふなり。こゝは我ヲ保護スル君といへるなり
 
(3191)3579 大船にいものるものにあらませば羽ぐくみもちてゆかましものを
大船爾伊母能流母能爾安良麻勢披羽具久美母知※[氏/一]由可麻之母能乎
 第二句は妹ガ乘ラルルモノニなどいふべきを言數に制せられてかく云へるにて心ゆかず 
3580 君|之《ガ》ゆく海邊のやどにきりたたばあがたちなげくいきとしりませ
君之由久海邊乃夜杼爾奇里多多婆安我多知奈氣久伊伎等之理麻勢
 以下二首贈答にてこは女の歌なり。タチナゲクは立チツツ嘆クなり
 
3581 秋さらばあひ見むものをなにしかもきりにたつべくなげきしまさむ
秋佐良婆安比見牟毛能乎奈爾之可母奇里爾多都倍久奈氣伎之麻左牟
 初二は秋ガ來ラバ歸朝シテ相見ムモノヲとなり。キリニは霧トなり。シマサムといへるは女のたち嘆くは未來の事なればなり
 
3582 大船をあるみにいだしいます君つつむことなくはやかへりませ
大船乎安流美爾伊多之伊麻須君都追牟許等奈久波也可敝里麻勢
(3192) 以下二首贈答にてこは女の作なり
 荒海をつづめてアルミといふは荒礒をつづめてアリソといふが如し。イマスは行キ給フなり。ツツムコトナクはサハリナクなリ。されば答歌にはサハリアラメヤモといへり
 
3583 眞幸而〔左△〕《マサキクト》いもがいははばおきつなみちへにたつともさはりあらめやも
眞幸而伊毛我伊波伴伐於伎都奈美知敞〔左△〕爾多都等母佐波里安良米也母
 イハハバは祈ラバなり。古義に
  或説に眞幸而の而は與の誤にてマサキクトなるべしといへり
といへり。刀の誤ならむ
 
3584 わかれなばうらがなしけむあがころもしたにをきませただにあふまでに
和可禮奈婆宇良我奈之家武安我許呂母之多爾乎伎麻勢多太爾安布麻弖爾
(3193) 以下二首贈答にてこは女のよめるなり
 ウラガナシケムは心ニ悲シカラムにてこゝはウラガナシクオボサムとなり。タダニはヂカニなり。マデニはマデなり。三四の間にカタミトオボシテといふことを補ひて聞くべし。シタニヲのヲは助辭なり○字は宇の誤なり
 
3585 わぎもこがしたに毛〔左△〕《ヲ》きよとおくりたるころものひもをあれとかめやも
和伎母故我之多爾毛伎余等於久理多流許呂母能比毛乎安禮等可米也母
 シタニ毛の毛は宣長の説に從ひて乎の誤とすべし。四五はソノ衣ハシバシダニヌガジといへるなり
 
3586 わがゆゑにおもひなやせそ秋風のふかむそのつきあはむものゆゑ
和我由惠爾於毛比奈夜勢曾秋風能布可武曾能都奇安波牟母能由惠
 以下三首贈答にてこは男の歌なり
(3194) ワガユヱニはワガ爲ニなり。アハムモノユヱは逢ハムモノヲなり。一首中にユヱ二つあり
 
3587 (たくぶすま)新羅《シラギ》へいますきみが目をけふかあすかといはひてまたむ
多久夫須麻新羅邊伊麻須伎美我目乎家布可安須可登伊波比弖麻多牟
 イマスは行キ給フなり。上にも大船ヲアルミニイダシイマス君とあり。目は所見《ミエ》にてこゝにては見エムコトヲとなり。イハヒテは祈リテなリ
 
3588 はろばろにおもほゆるかもしかれども異情《ケシキココロ》をあがもはなくに
波呂波呂爾於毛保由流可母之可禮杼毛異情乎安我毛波奈久爾
    右十一首贈答
 これは男の歌なリ。初句の上にシラギノ國ハといふことを添へて聞くべし。卷五(九三五頁)に
  はろばろにおもほゆるかもしらくものちへにへだ天るつくしのくには
とあり。ケシキココロはアダシ心なリ。卷十四(三〇八九頁)にも家思吉ココロヲアガ(3195)モハナクニとあリ。アガモハナクニは我持タヌ事ヨとなり
 
3589 ゆふさればひぐらしきなくいこま山こえてぞあがくるいもが目をほり
由布佐禮婆比具良之伎奈久伊故麻山古延弖曾安我久流伊毛我目乎保里
     右一首秦間滿
 イコマ山は難破と奈良との中間にある山なり。キナクのキは輕く添へたるなり○古義に此歌を奈良より難波に下る時の作としたれど契沖のいへる如く次の歌と同じく、しばらく家に歸る時の作ならむ○秦間滿は下に秦田滿とあると同一人ならむ。間と田といづれか正しからむ○代匠記に
  滿は麿なり。第四に安倍蟲麻呂を蟲滿ともかけり(○本書七五四頁)
といへり
 
3590 いもにあはずあらばすべなみいはねふむいこまの山をこえてぞあが(3196)くる
伊毛爾安波受安良婆頚敝奈美伊波禰布牟伊故麻乃山乎故延弖曾安我久流
     右一首※[斬/足]還(ルトキ)2私家1陳v思
 第二句はアラバスベナカルベミといふべきを例の如く現在格にて受けたるなり〇三四は岩根ヲフミ行クソノ生駒山ヲとなり。語例は卷十一に
  いはねふむかさなる山にあらねども(二二七八頁)
  いはねふむ夜道はゆかじとおもへれど(二三八七頁)
とあり
 古義に※[斬/足]をヒソカニとよみたれど※[斬/足]は暫に同じければ(干録字書に※[斬/足]暫ハ上通下正とあり)ヒソカニとはよむべからず。又還をカヘリテとよまむは不可なり。カヘルトキとよむべし。一たび難波に下りしかど船出延びしかばしばらく家に歸りしなり○以下十二首は此卷を録せし無名氏の作なり
 
3591 妹とありし時|者《ハ》あれどもわかれてはころもでさむきものにぞありけ(3197)る
妹等安里之時者安禮杼毛和可禮弖波許呂母弖佐牟伎母能爾曾安里家流
 アレドモはサモアラデアリシカドモといふ意なるべけれども、やゝ穩ならず○代匠記に
  此歌夏なれば衣手サムキと云まではあるまじけれども別のうきを云はむとなるべし
といへり
 
3592 海原にうきねせむ夜はおきつ風いたくなふきそ妹もあらなくに
海原爾宇伎禰世武夜者於伎都風伊多久奈布吉曾妹毛安良奈久爾
 
3593 大伴のみ津にふなのりこぎ出而者《デテバ》いづれのしまにいほりせむわれ
大伴能美津爾布奈能里許藝出而者伊都禮乃思麻爾伊保里世武和禮
    右三首臨v發之時作歌
(3198) 大件ノは枕辭にあらず。卷一に大伴ノ高師ノ濱ともありて郷名なり(一二三一頁參照)○フナノリは下にシテを省けるならむ。フナノルといふ動詞のはたらけるにはあらじ。次にアサビラキコギデテクレバといへるアサビラキと同格なり(三一六〇頁參照)○デテバは出タラバなり
 
3594 しほまつとありけるふねをしらずしてくやしく妹をわかれきにけり
之保麻都等安里家流布禰乎思良受志弖久夜之久妹乎和可禮伎爾家利
 フネヲは船ナルヲなり。上三句の意は船出ニマダ間〔日が月〕ノアル事ヲ知ラズシテといへるなり○此歌は妹トアリシといふ歌より前に記すべきなり
 
3595 あさびらきこぎでてくればむこのうらのしほひのかたにたづがこゑすも
安佐妣良伎許藝弖天久禮婆牟故能宇良能之保非能可多爾多豆我許惠須毛
 アサビラキははやく卷三(四四六頁)卷九(一六八五頁)に見えたり。朝に船を出す事な(3199)り。カタは潟なり
 
3596 わぎもこがかたみに見むを印南《イナミ》つましらなみたかみよそにかもみむ
和伎母故我可多美爾見牟乎印南都麻之良奈美多加彌與曾爾可母美牟
 イナミツマははやく卷四及卷六に見えたり。卷四(六三八頁)にいへる如く今の高砂にて印南の端《ツマ》の義ならむ。カタミニはカタミトなり〇一首の意は『イナミツマのツマが妻にかよへばそを我妹子のかたみと見べきを云々』といへるなり。即ほぼ契沖のいへる如し。略解に故郷ノ方ノ印南ヲダニ云々と譯せるは誤解なり。イナミツマは山にあらず洋中の孤島にもあらざれば遥に行き過ぎての後にかへり見らるべきにあらず。又ヨ ニカモ見ムといへるも遥にかへり見る状の調にあらず。浪の高きによりてイナミツマに沿ひて漕ぎ行きがたきを恨みたるなり。下なる屬v物發v思歌に
  いへじまはくもゐにみえぬ、あがもへるこころなぐやと、はやくきてみむとおもひて、おほぶねをこぎわがゆけば、おきつなみたかくたちきぬ、よそのみに見つつすぎゆき云々
(3200)とあると相似たる所あり
 
3597 わたつみのおきつしらなみたちくらしあまをと女どもしまがくる見ゆ
和多都美能於伎都之良奈美多知久良思安麻乎等女等母思麻我久流見由
 シマガクルは島ニ隱ルのニをはぶけるにて島陰に隱るゝなり
 
3598 (ぬばたまの)よはあけぬらしたまのうらにあさりするたづなきわたるなり
奴波多麻能欲波安氣奴良之多麻能宇良爾安佐里須流多豆奈伎和多流奈里
 このタクマノウラは中山嚴水のいへる如く備中の玉島の浦ならむ(土肥經平は備前兒島郡玉村の浦とせり)○アサリスルタヅはアサリニ行ク鶴なり
 
3599 月よみのひかりをきよみ神島のいそ末〔左△〕《ミ》のうらゆ船出すわれは
(3201)月余美能比可里乎伎欲美神島乃伊素末乃宇良由船出頚和禮波
 神島ははやく卷十三(二九四四頁)に出でたり、備中備後の界にありて備中に屬せり○末は未の誤なり。イソミは磯囘なり
 
3600 はなれそにたてるむろの木うたがたもひさしき時をすぎにけるかも
波奈禮蘇爾多※[氏/一]流牟漏能木宇多我多毛比左之伎時乎須疑爾家流香母
 ハナレソは離礒なり。ムロノ木は今のイブキ即ビヤクシンなるべし(五四九頁以下參照)○ウタガタモはオソラクハなり。略解に『あやふき意也』といひ古義に『しばらくの間にもの意なり』といへる共に非なり(二五七六頁參照)○スギニケルカモのカモはカナにはあらず。カの重きカモなり。或はスギニケ流カモの流は牟の誤にあらざるか○卷三に大伴旅人が鞆(ノ)浦のムロノ木をよめる三首の歌あるによりて契沖以下此歌をも鞆浦にての作とせるは妄斷なり。ムロノ木は鞆浦特有の植物ならむや○さて此歌はそのムロノ木の老大なるに感じてよめるのみ。二註の説の僻めるはウタガタモの語意を誤解せし結果なり
 
3601 しましくもひとりありうるものにあれやしまのむろの木は、なれてあ(3202)るらむ
之麻思久母比等利安里宇流毛能爾安禮也之麻能牟漏能木波奈禮弖安流良武
     右八首乘v船入(リテノ)v海路上作歌
 モノニアレヤはモノナラメヤ、モノナラヌヲとなり○シマは前の歌に見えたるハナレソにてハナレ島なり〇二註にハナレテアルラムを結句としたれど波は第四句に附けて島ノムロノ木ハ、馴レテアルラムと心得べし。おのが妻に別れ來たるさびしさより海中の一つ岩にただ一もと生ひたるムロノ木に同情したるなり
 入海路上は海ニ人リテノ路上とよむべし。古義に入2海路上1とよめるはひが言なり
 
   當v所誦詠古哥
3602 (あをによし)奈良のみやこにたなびけるあまのしらくも見れどあかぬかも
安乎爾余志奈良能美夜古爾多奈妣家流安麻能之良久毛見禮杼安可奴(3203)加毛
     右一首詠v雲
 奈良ノミヤコニは奈良ノ都ノ上ニ當リテなり。遥に奈良を望みてよめる古歌なり
 
3603 あをやぎのえだきりおろし湯種蒔《ユダネマキ》忌忌《ユユシキ》きみにこひわたるかも
安乎楊疑能延太伎里於呂之湯種蒔忌忌伎美爾故非和多流香母
 忌々を二註にユユシクとよめり。宜しく舊訓に從ひてユユシキとよむベし。ハバカラハシキといふ意なり。上三句はユユシキにかゝれる序なり○ユダネははやく卷七(一二四七頁)にユダネマクアラキノ小田ヲ求メムトとあり。谷川士清以來之を齋種の義としたれどユザサなどの同例にて五百種の義ならむ○初二はいかが心得べき。まづ契沖は
  春、苗代に種まかむとては柳のはびこりたれば蔭とも成りそこに通ふにもさはれば枝を切下すなり
といひ、次に宣長は
(3204)  すべて田に便よき所に井をほり井の邊に柳をおほして其柳の枝を伐すかしはねつるべといふ物をしかけ苗代の田ごとに水を汲入るゝ事あり。これかならず柳にて他木を用ひず。このアヲヤギノ枝キリオロシといふも其事をいへる也
といひ、次に雅澄は
  エダキリオロシは楊枝を伐て苗代の水口にさして神をいはひ奉るをいふなるべし。今も田を植る初に木の枝を刺ていはふことあリ。是をサバヒオロシと云リ。又今土佐國長岡郡のあたりにてはもはら苗代つくりて種を蒔とき水口に松杉などの枝を刺て水口をいはへり。さて古は何の木にてもあるにまかせて刺けむを後に事祝してしか松杉の常葉木にかぎれる如くにはなれりけむ
といへり。案ずるにもし宣長の説の如くならば枝をきりすかす事は略すとも桔槹をしかくる事は略すべからず。又雅澄の説の如くならば少くともイハヒテといふ言を略すべからず。おそらくは契沖のいへる如く小田の時におほしたる柳の陰を成さむことを怕れてその枝を切りおろすにぞあらむ。但契沖の説のうちソコニ通フニモサハレバといへるは心ゆかず。古義に契沖の説を評して
(3205)  さらば枝キリツケテなどこそいふべけれ。オロシとあるにかなひがたし
といへるは非なり。今も枝をきり除くことを枝ヲオロスといふにあらすや
 
3604 妹がそでわかれてひさになりぬれどひとひもいもをわすれておもへや
妹我素弖和可禮弖比左爾奈里奴禮杼比登比母伊毛乎和須禮弖於毛倍也
 ワスレテオモヘヤは忘レメヤなり。近くは卷十一(二二七一頁)にシキタヘノ袖カヘシ子ヲ忘レテモヘヤとあり。卷六(一〇五六頁)には忘レムを忘レテオモハムといへる例あり
 
3605 わたつみのうみにいでたるしかまがはたえむ日にこそあがこひやまめ
和多都美乃宇美爾伊弖多流思可麻河泊多延無日爾許曾安我故非夜麻米
(3206)    右三首戀歌
 代匠記に
  いづれの河も終には海に出るを殊に此川は海につづけばさてかくはよめり
といひ略解に
  いづこにても湊の川は海に出るなれど播磨の飾磨川は海に近ければかくいへり
といへり。海ニツヅケバといひ海ニ近ケレバといひミナトノ川といへる、いかなる意にかあらむ。又ただ海に出づる事を云はむとならば海ニイヅルとこそいふべけれ。海ニイデタルとはいふべからず。案ずるにこは河の流の河口に止まらで海上まで出でたるをいへるならむ○飾磨川は今姫路の市中を流るゝ船場《センバ》川の古名なり。その船場川は今は市川の支流たる小川に過ぎざれどいにしへは此方本流にて今の市川の方支流なりしなり
 
3606 たま藻かるをと女をすぎて(なつぐさの)野島がさきにいほりすわれは
    柿本朝臣人麿歌曰|敏馬《ミヌメ》をすぎて又曰ふねちかづきぬ
(3207)多麻藻可流乎等女乎須疑※[氏/一]奈都久佐能野島我左吉爾伊保里須和禮波
   柿本朝臣人麿歌曰敏馬乎須疑※[氏/一]又曰布禰知可豆伎奴
 以下四首は夙く卷三(三五九頁至三六六頁)に出でたり○ヲトメは地名として異樣なれば二註に諳記の誤ならむといへれど攝津の敏馬《ミヌメ》は當時の貴人の耳にも目にも熟したる地なればそをヲトメと誤り記《オボ》ゆべからず。契沖は
  第九に葦屋處女墓をよめる歌あり。彼由緒によりて兎原郡葦屋浦を處女とのみもいへるなり
といへれどおそらくはいにしへ葦屋附近を乎等女といひそこに同形の三古墳ありて東西の兩墳が故ありげに中墳に向へるによりて二人の青年が一處女を爭ひし彼莵名日處女の傳説を生ぜしならむ(卷九【一八四三頁】參照)
 
3607 (しろたへの)藤江のうらにいざりするあまとや見らむたびゆくわれを
   柿本朝臣人麿歌曰あらたへの又曰すずきつるあまとか見らむ
(3208)之路多倍能藤江能宇良爾伊射里須流安麻等也見良武多妣由久和禮乎
    柿本朝臣人麿歌曰安良多倍乃又曰須受吉都流安麻登香見良武
 古義に『アラタヘをシロタヘとうたへるは誤なり』といへる如し。藤江は明石の西方にあり
 
3608 (あまざかる)ひなのなが道をこひくればあかしの門よりいへのあたり見ゆ
    柿本朝臣人麿歌曰やまとしま見ゆ
安麻射可流比奈乃奈我道乎孤悲久禮婆安可思能門欲里伊敝乃安多里見由
    柿本朝臣人麿歌曰夜麻等思麻見由
 トはセトなり。イヘノアタリは家ノ見當ノ山なり
 ヤマト鳥は大和の山々の蒼波の上に浮びて見ゆるをいへるなり。だだ大和國とい()ふことにはあらず○因にいふ。卷二十なる天地ノカタメシクニゾヤマト島根ハは日本國をいへるにて島根は常の義なり。こゝなるヤマト島又卷三(四〇三頁)なる
  なぐはしき稻見の海のおきつ浪千重にかくしぬやまと島根は
のヤマトシマネ又播磨國風土記逸文駒手(ノ)御井の下なる大倭《ヤマト》嶋根とは齊しからず
 
3609 武庫のうみのにはよくあらしいざりするあまのつり船なみのうへゆみゆ
     柿本朝臣人麿歌曰けひのうみの又曰かりごものみだれて出見ゆあまのつり船
武庫能宇美能爾波余久安良之伊射里須流安麻能都里船奈美能宇倍由見由
     柿本朝臣人麿歌曰氣比乃宇美能又曰可里許毛能美太禮※[氏/一]出見由安麻能都里舩
 ニハは海面なり。アラシはアルラシの古格なり。ウヘユは上ニなり
 
(3210)3610 安故《アゴノ》のうらにふなのりすらむをと女らがあかものすそにしほみつらむか
     柿本朝臣人麿歌曰安実のうら又曰たまものすそに
安胡乃宇良爾布奈能里須良牟乎等女良我安可毛能須素爾之保美都良武賀
    柿本朝臣人麿歌曰安美能良又曰多麻母能須蘇爾
 安故は志摩國の英虞なり。此歌は宮女たちの御供さきにての状を京にて思ひやりてよめるなり。はやく卷一(七〇頁)に出でたり
 
     七夕歌一首
3611 おほぶねにまかぢしじぬきうなばらをこぎでてわたる月人をとこ
於保夫禰爾麻可治之自奴伎宇奈波良乎許藝弖天和多流月人乎登祐〔左△〕
      右柿本朝臣人麿歌
 例の如く月を船に擬へたるなり。此歌は此處の外に見えず。又此歌は月を詠じたる(3211)にて銀河を詠じたるにあらず。略解に『月人ヲトコは牽牛をよめりと見ゆ』といへり。
 こは卷十なる七夕歌の中に
  ゆふづつもかよふ天道《アマヂ》をいつまでかあふぎてまたむ月人をとこ(二〇三四頁)
  あまのはらナニヲ射ムトカしらまゆみヒキテハリタル月人をとこ(二〇五七頁)
とあるによれるなれど此等は雅澄のいへる如く月の歌のまぎれて七夕歌の中に入れるならむ。月人ヲトコは月を人に擬していへるにて牽牛星を月人ヲトコといへる事は無し。或は此歌どもは七夕に月を見てよめるから七夕歌と標したるかと思ふにユフヅツモといふ歌の如きは十八九日以後の趣なればなほ七夕の作とは認むべからず○祐は※[示+古]の誤なり
 當所誦詠古歌は以上十首なり
 
   備後國|水調《ミツギ》郡長井浦舶泊之夜作歌三首
3612 (あをによし)奈良のみやこにゆくひともがも、(くさまくら)たびゆくふねのとまりつげむに
(3212)安乎爾與之奈良能美也故爾由久比等毛我母久佐麻久良多妣由久布禰能登麻利都礙武仁 旋頭歌也
     右一首大判官
 水調郡は和名抄なる御調郡なり。長井浦は今の絲崎なりといふ。古賀精里の題2長井浦記1といふ文にも備後州長井浦有2絲崎之勝1とあり。舶泊之夜の之は助字なり。之を除きてフネハテシ夜とよむべし○ツゲムニを略解に告ヤランモノヲと藥し古義に告遣ルベキ爲ニとうつせり。次に
  かへるさにいもに見せむにわたつみのおきつ白玉ひりひてゆかな
とあるは見セム爲ニと譯すべければ(卷五【八五九頁及九九三頁】何セムニ參照)こゝも告ゲム爲ニと譯すべきが如くなれど然譯しては弟三句のユク人モガモと相かなひがたきが上に、下なる
  みやこべにゆかむ船もがかりごものみだれておもふことつげやらむ
と句格相似たればなほ略解の如く泊ヲ皆ゲ遣ラムモノヲと譯すべし。即ツゲムを強めてニを添へたるものとすべし
(3213) 大判官は壬生(ノ)使主《オミ》宇太麻呂なり
 
3613 海原をやそしまがくりきぬれども奈良のみやこはわすれかねつも
海原乎夜蘇之麻我久里伎奴禮杼母奈良能美也故波和須禮可禰都母
 以下四首は此卷の筆録者の作ならむ
 ヤソシマガクリは八十島ニ隱レツツにてアマタノ島陰ヲといふことなり。古義に面白ク目トマル處々ヲ見ツツといふことを挿みて譯せるいとよろし。上三句は卷九(一七一六頁)なる人麿の
  ももづたふ八十の島みをこぎくれど粟の小島はみれどあかぬかも
に似たり
 
3614 かへるさにいもに見せむにわたつみのおきつ白玉ひりひてゆかな
可敝流散爾伊母爾見勢武爾和多都美乃於伎都白玉比利比弖由賀奈
 
   風速浦舶泊之夜作歌二首
3615 わがゆゑに妹なげくらし風早のうらのおきべにきりたなびけり
(3214)和我由惠仁妹奈氣久良之風早能宇良能於伎敝爾奇里多奈批家利
 風速は安藝國三津町の附近に今も然云ふ地あり○此歌は出發の時に妻の贈りし
  君がゆく海邊のやどにきりたたばあがたちなげくいきとしりませ
といふ歌を思ひてよめるなり
 
3616 おきつかぜいたくふきせばわぎもこがなげきのきりにあかましものを
於伎都加是伊多久布伎勢波和伎毛故我奈氣伎能奇里爾安可麻之母能乎
 フキセバは吹カバにてこゝにては吹キ持チコバなり。アカマシモノヲはソノ霧ヲ飽クマデ吸ハウモノヲといへるにていとけやけし
 
   安藝國長門(ノ)島(ニテ)舶(ヲ)泊2礒邊1作哥五首
3617 いはばしるたき毛〔左△〕《ノ》とどろに鳴蝉のこゑをしきけば京師《ミヤコ》しおもほゆ
伊波婆之流多伎毛登杼呂爾鳴蝉乃許惠乎之伎氣婆京師之於毛保由
(3215)     右一首大石(ノ)蓑麿
 第二句の毛は能の誤にてイハバシルタキノの八言はトドロニにかゝれる序ならむ
 
3618 やまがはのきよきかはせにあそべども奈良のみやこはわすれかねつも
夜麻河泊能伎欲吉可波世爾安蘇倍杼母奈良能美夜古波和須禮可禰都母
 上なるウナバラヲ八十島ガクリ來ヌレドモといふ歌と四五相同じ
 
3619 いそのまゆたぎつ山河たえずあらばまたもあひ見む秋かたまけて
伊蘇乃麻由多藝都山河多延受安良婆麻多母安比見牟秋加多麻氣※[氏/一]
 イソノマユは大石ノ間〔日が月〕ヲなり。タエズアラバは絶エザラバにてやがてカハラザラバなり。アヒ見ムのアヒは添辭なり。カタマケテは近くは卷十(二一〇八頁)に見えたり。チカヅキテといふことゝおぼゆ。秋ニナリテ歸路ニ又モ見ムといへるなり。山河(3216)に托して身を祝へるなり
 
3620 こひしげみなぐさめかねてひぐらしのなくしまかげにいほりするかも
故悲思氣美奈具左米可禰※[氏/一]比具良之能奈久之麻可氣爾伊保利須流可母
 カネテはカヌルニヨリテにあらず。カネツツなり
 
3621 (わがいのちを)ながとのしまの小松原いくよをへてかかむさびわたる
和我伊能知乎奈我刀能之麻能小松原伊久與乎倍弖加可武佐備和多流
 初句のヲはヨに通ずる助辭なり。我命ヲ長カレを長門(ノ)島にいひかけて枕辭とせるなり○小松は今いふとは異にてたとひ老木にても大木ならぬをいふなり(二五六〇頁參照)。略解に『老木の松を見てもとは小松原なりけむをと思ひてよめる也』といへるはいみじきひが言なり。カムサビはモノフリなり
 
   從2長門浦1舶出之夜仰観2月光1作歌三首
(3217)3622 月《ツク》よみのひかりをきよみゆふなぎにかこのこゑよびうら末〔左△〕《ミ》こぐかも
月余美乃比可里乎伎欲美由布奈藝爾加古能古惠欲妣宇良末許具可母
 カコノコヱヨビは近くは卷十三(二九三六頁)に見えたり。水手ガ聲ニ喚ビなり。主格は水手なり。下なる長歌にはカコモ〔右△〕コヱヨビとあり。古義に水手ヲ喚立テと譯せるは非なり
 
3623 山のはに月かたぶけばいざりするあまのともしびおきになづさふ
山乃波爾月可多夫氣婆伊射里須流安麻能等毛之備於伎爾奈都佐布
 ナヅサフは進み煩らふ事にて、うつりては處を移さざるをいふ。こゝのナヅサフは轉義の方にてイザヨフ、タダヨフなどいふに近し。卷三にも
  八雲さす出雲の子らがくろ髪はよし野の川のおきになづさふ
とあり。月が傾きて漁火が見えそめたる趣なり。古義の釋は誤れり
 
3624 われのみやよぶねはこぐとおもへればおきべのかたにかぢのおとすなり
(3218)和禮乃未夜欲布禰波許具登於毛敝禮婆於伎敝能可多爾可治能於等須奈里
 夜船ヲ漕グハ我ノミナラムト思ヒ居レバ云々といへるなり
   右〔左△〕挽歌一首并短歌
 
3625 ゆふされば あしべにさわぎ あけくれば おきになづさふ かもすらも つまとたぐひて わが尾には △ しもなふりそと しろたへ の はねさしかへて うちはらひ さ宿《ヌ》とふものを ゆくみづの かへらぬごとく ふくかぜの みえぬがごとく あともなき △ よのひとにして わかれにし いもがきせてし なれごろも そでかたしきて ひとりかもねむ
由布佐禮婆安之敞〔左△〕爾佐和伎安氣久禮婆於伎爾奈都佐布可母須良母都麻等多具比弖和我尾爾波之毛奈布里曾等之路多倍乃波禰左之可倍※[氏/一]宇知波良比左宿等布毛能乎由久美都能可敝良奴其等久布久可是能美(3219)延奴我其登久安刀毛奈吉與能比登爾之弖和可禮爾之伊毛我伎世弖思奈禮其呂母蘇弖加多思吉※[氏/一]比登里可母禰牟
 題辭の右は古の誤なり
 上なるオキニナヅサフより連想して或人の誦せしを録したるならむ○ワガ尾ニハのワガ心ゆかず。相タグヘル相手ノ尾ニハフルトモ我尾ニハフルナといふやうに聞ゆればなり。おそらくはシモハフルトモツマガ尾ニなどいふ二句のおちたるならむ○シロタヘノ云々を略解に
  白タヘノハネ云々といへればこゝの可母は鴎をいへるか。又霜のおけるによりてかくいへるにや
といひ古義に
  鳥の羽は人身の衣の如くなれば比へてシロタヘと云り。……白タヘとはもと色の白きをいふより出たる言なれどいひなれては必しも色の上をとはず人のきる物をいふことになれるより羽を人の衣に比へたるのみなるをや
といへり。霜のおけるによりてシロタヘノ羽根といへるのみ○又略解に『羽ネサシ(3220)カヘテウチハラヒは羽根を打はらひつゝさしかへての意也』といへるは非なり。羽根をさしかはしてかたみに霜を拂ふなり○カモスラモ……サヌトフモノヲはヨノ人ニシテ……ヒトリカモネムと照應せるなり。さてヨノヒトニシテは鴨スラモ云々ナルモノヲマシテ世ノ人ニシテといへるなればそれにユク水ノカヘラヌゴトクフク風ノミエヌガ如クアトモナキといふことを添へむは矛盾なり。おそらくはアトモナキの下にヨノナカナガラウツシミノなどいふ二句のおちたるならむ。アトモナキはハカナキなり○ソデカタシキテは近くは卷十一(二三九頁)に衣カタシキとあり。衣を折りてその半を下に敷き半を上に著るなり
 
   反歌一首
3626 たづがなきあしべをさしてとびわたるあなたづたづしひとりさぬれば
多都我奈伎安之敝乎左之弖等妣和多類安奈多頭多頭志比等里佐奴禮婆
(3221)    右丹比大夫悽2愴亡妻1歌
 古義に
  タヅガナキは第三句の上へめぐらして心得べし。蘆邊ヲサシテ鶴ガナキトビワタルなり。さてこはタヅタヅシといはむ料の序なりといへり。序の體にはあらざれど序と見る外は無し。又長歌とのしたしみ少くて反歌とも思はれず○タヅタヅシはタドタドシにて不安なるなり
 
   屬v物(ニ)發《アラハス》v思歌一首并短歌
3627 あさされば いもが手にまく かがみなす み津のはまびに おほぶねに まかぢしじぬき からぐにに わたりゆかむと ただむかふ みぬめをさして しほまちて みをびきゆけば おきべには しらなみたかみ うら末〔左△〕《ミ》より こぎてわたれば (わぎもこに) あはぢのしまは ゆふされば くもゐがくりぬ さよふけて ゆくへをしらに (あがこころ) あかしのうらに ふねとめて うきねをしつ(3222)つ わたつみの おきべを見れば いざりする あまのをと女は 小船乘《ヲブネノリ》 つららにうけり あかときの しほみちくれば あしべには たづなきわたる あさなぎに ふなでをせむと 船人も 鹿子《カコ》もこゑよび (にほどりの) なづさひゆけば いへじまは くもゐにみえぬ あがもへる こころなぐやと はやくきて みむとおもひて おほぶねを こぎわがゆけば おきつなみ たかくたちきぬ よそのみに 見つつすぎゆき たまのうらに ふねをとどめて はまびより うらいそを見つつ △ (なくこなす) ねのみしなかゆ わたつみの たまきのたまを いへづとに いもにやらむと ひりひとり そでにはいれて かへしやる つかひなければ もてれども しるしをなみと またおきつるかも
安佐散禮婆伊毛我手爾麻久可我美奈須美津能波麻備爾於保夫禰爾眞可治之自奴伎可良久爾爾和多理由加武等多太牟可布美奴面乎左指天(3221)之保麻知弖美乎妣伎由氣婆於伎敝爾波之良奈美多可美宇良末欲理許藝弖和多禮婆和伎毛故爾安波治乃之麻波由布左禮婆久毛爲可久里奴左欲布氣弖由久敝乎之良爾安我己許呂安可志能宇良爾布禰等米弖宇伎禰乎詞都追和多都美能於枳敝乎見禮婆伊射理須流安麻能乎等女波小船乘都良良爾宇家里安香等吉能之保美知久禮婆安之辨爾波多豆奈義和多流安左奈藝爾布奈弖乎世牟等船人毛鹿子毛許惠欲妣柔保等里能奈豆左比由氣婆伊敞〔左△〕之麻婆久毛爲爾美延奴安我毛敝流許己呂奈具也等波夜久義弖美牟等於毛比弖於保夫禰乎許藝和我由氣婆於伎都奈美多可久多知伎奴與曾能未爾見都追須疑由伎多麻能宇良爾布禰乎等杼米弖波麻備欲里宇良伊蘇乎見都追奈久古奈須禰能未之奈可由和多都美能多麻伎能多麻乎伊敝都刀爾伊毛爾也良牟等比里比等里素弖爾波伊禮弖可敝之也流都可比奈家禮婆毛弖禮杼毛之留思乎奈美等麻多於伎都流可毛     (3224) イモガ手ニマクとあるを見れば鏡の紐を手に卷きし事もあるにぞあらむ○カガミナスは美津のミのみにかゝれるなり。はやく卷二(二五八頁)にカガミナス見レドモアカズ、卷七(一四六六頁)にカガミナスワガ見シ君ヲとあり○タダムカフはタダニムカフのニを略せるにて正面ニ見ユルといふことなり○ミヲビキユケバは正しく云はばミヲビカセユケバにてミヲビキは水路のしるべをする事、海上ながら海岸に近ければ水路の案内を要せしなり。さて散文ならばシホマチテミヲビキユキ〔右△〕ウラミヨリコギテワタレバといふべきをわざとミヲビキ〔右△〕ケバ、コギテワタレバといへるなり○オキベニハシラ浪タカミはウラミヨリコギテワタレバの説明なり○クモヰガクリヌは雲ヰニ隱レヌにてクモヰは雲なり○ユクヘヲシラニは行クベキ方ヲ知ラズなり○アガココロ云々は略解にいへる如くただ我心アカシを明石にいひかけたる枕辭なり。古義の説は非なり。御津を發して第一夜を明石にてあかしし趣なり○小船ノリは小船ニ乘リのニを省けるなり。ツララニは連れる状なり。ヲトメといへるは想像に過ぎず。否實は丈夫にぞありけむ○鹿子とかけるは借字なり。フナ人は船頭、カコは水夫なり。コヱヨビは上に見えたり○こゝのナヅ(3225)サヒは辛苦シテなり。家島は播磨國の海上にある島なり。クモヰニは遙ニなり○家島トイフ名ヲ負ヒタレバ我思ヘル心ナゴマムヤト云々といへるなり○キテは往キテなり。ミムはココロミムなり。然心得ずばナグヤトのトあまるべし○ヨソノミニの上にコレニヨリテといふことを補ひて聞くべし○タマノウラは備前兒島郡ともいひ備中淺口郡とも云へり。いづれにしても明石より一日の行程にあらず。途中にて一二泊せしことを略せるなり○浦礒ヲ見ツツの下に二句おちたるならむ。イヤサカル家路オモヘバなどか○ワタツミは海神なり、卷七にも海神ノ手ニマキモタル玉ユヱニとあり。タマキノ玉は腕頸に卷きたる玉なり。釧の字を字鏡にタマキとよみ和名抄にヒヂマキとよめるより前註にタマキとヒヂマキとを混同したるものあれどもヒヂマキはクシロにて臂の上に卷くものなればタマキとは齊しからず(一七九一頁參照)。又和名抄射藝具に※[韋+構の旁]和名タマキ一名小手也とあるものと装身具なるタマキと同名異物なる事は古義にいへる如し○イヘヅトニは家苞トなり。ソデニハイレテ以下は袖ニハ入レテモテレドモ〔五字傍点〕還シ遣ル使ナケレバモテル〔三字傍点〕詮ヲナミ云々といふべきをかくいへるなり。シルシは詮なり。マタオキツルカモは(3226)又棄テツルカナなり。オキはヒリヒのうらなり
 
    反歌二首
3628 たまのうらのおきつしらたまひりへれどまたぞおきつる見△流《ミスル》ひとをなみ
多麻能宇良能於伎都之良多麻比利敝禮杼麻多曾於伎都流見流比等乎奈美
 見の下に須をおとせるならむ
 
3629 あきさらばわがふねはてむわすれがひよせきておけれおきつしらなみ
安伎左良婆和我布禰波弖牟和須禮我比與世伎弖於家禮於伎都之良奈美
 オケレは置キテアレなり
 右の歌ども安藝國長門浦の歌と周防國麻里布浦の歌との間にあればタマノウラ(3227)は安藝國にあるべしといへる説あれど詠草は日記とは異なれば掲出の前後は重視すべからす。否此歌どもは追作にてもあるべし
 
   周防國玖珂郡麻里布浦(ヲ)行之時作歌八首
3630 眞かぢぬきふねしゆかずば見れどあかぬ麻里布のうらにやどりせましを
眞可治奴伎布禰之由加受波見禮杼安可奴麻里布能宇良爾也杼里世麻之牟〔左△〕
 フネシユカズバは船ガ進ミ行キハセデ泊ラバとなり○マリフノ浦は岩國の東南なる室(ノ)木の古名なりといふ○牟は乎を誤れるなり
 
3631 いつしかも見むとおもひしあはしまをよそにやこひむゆくよしをなみ
伊都之可母見牟等於毛比師安波之麻乎與曾爾也故非無由久與思乎奈美
(3228) このアハシマを二註に卷三以下に見えたる粟島とせるはいみじきひが言なり。かのアハ島は淡路に附きたる小島なり(一三一二頁參照)。このアハシマは周防の海にあらざるべからず。因にいふ。卷三(四五〇頁)に
  武庫の浦をこぎたむをぶね粟島をそがひに見つつともしき小舟
とある第三句はもとアハヂシマなりしを傳へ誤れるならむ
 
3632 大船にかしふりたててはまきよき麻里布のうらにやどりかせまし
大船爾可之布里多弖天波麻藝欲伎麻里布能宇良爾也杼里可世麻之
 卷七(一二九五頁)に
  舟はててかしふりたてていほりせむ名子江の濱邊すぎがてぬかも
とあり。カシは船をつなぐ杙なり。フリは添辭かと思へど卷二十にコグフネノカシフルホドニサヨフケナムカとあり○結句はただヤドリヲセムカといへるにあらず。モシ出來ル事ナラバといひて萬一を希へるなり
 
3633 (あはしまの)あはじとおもふいもにあれや、やすいもねずてあがこひわ(3229)たる
安波思麻能安波自等於毛布伊毛爾安禮也夜須伊毛禰受弖安我故非和多流
 イモニアレヤは妹ナラメヤハ、妹ナラヌヲとなり。アハジの上に又といふ言を加へて心得べし。所詮二三は還ラバヤガテ逢ハレムモノヲとなり。略解の解釋の誤れるは古義に辨じたる如し
 
3634 筑紫道の可太のおほしましましくも見ねばこひしきいもをおきてきぬ
筑紫道能可太能於保之麻思末志久母見禰婆古非思吉伊毛乎於伎弖伎奴
 初二はシマシクにかゝれる序なり。大島は周防の海上によこたはる大きなる島にて昔より獨立の郡を成せり。二註に可太を地名とせり。案ずるに可太は方なり。太は集中に多くはダに借りたれど稀にはタに借りたる例あり。大島は諸國にある名な(3230)れば取分きて筑紫路ノ方ノ大島といへるなり(こは契沖の第一説なり)
 
3635 いもがいへぢちかくありせば見れどあかぬ麻里布のうらを見せましものを
伊毛我伊敝治知可久安里世姿見禮杼安可奴麻理布能宇良乎見世麻思毛能乎
 
3636 いへびとはかへりはやこと(いはひじま)いはひまつらむたびゆくわれを
伊敞〔左△〕妣等波可敝里波也許等伊波比之麻伊波比麻都良牟多妣由久和禮乎
 カヘリハヤコはハヤカヘリコにおなじ。イハヒ島は上之關の西南にあり。イハヒはイノリなり
 
3637 (くさまくら)たびゆくひとをいはひじまいくよふるまでいはひきにけむ
(3231)久左麻久良多妣由久比等乎伊波比之麻伊久與布流末弖伊波比伎爾家牟
 祝鳥トイフカラ人ヲイハフ島デアラウガ、タビ行ク人ヲ何千年來イハヒ來ニケム
といへるなり。二註にイハヒ來リテ島ノ名ニ負ヒケムとうつせるは非なり。名が先なり。事は後なり
 
   過2大島鳴門1而經2再宿1之後追作歌二首
3638 これやこの名におふなる門《ト》のうづしほにたまもかるとふあまをと女ども
巨禮也己能名爾於布奈流門能宇頭之保爾多麻毛可流登布安麻乎等女杼毛
     右一首田邊秋庭
 大島(ノ)鳴門は大島即屋代島の西北部と本土即玖珂熊毛二郡との間の海峡なり。今|大畠《オホバタケ》瀬戸といふ
(3232) コレヤコノはコレヤソノにてアマヲトメドモにかゝれるなり。古義にコレガ彼カネテ聞及ビシ鳴門ニテヤアルラムとうつせるは非なり○名ニオフは名ニ副フにて名の虚しからざるなり。ナルトは潮の鳴り轟く迫門の義なり○ウヅシホのウヅを宣長以下がうづだかき意とせるは從はれず。ウヅシホは渦潮なるべし○あま少女等が小舟漕ぎ出でなどするを見てカネテ大島ノ鳴門デハアマ少女等ガ藻ヲ刈ルト聞イタガコレガソノ勇敢ナルアマ少女等カといへるなり。二註共に誤解せり
 
3639 なみのうへにうきねせしよひあ杼〔左△〕《ヲ》もへかこころがなしくいめにみえつる
奈美能宇倍爾宇伎禰世之欲比安杼毛倍香許己呂我奈之久伊米爾美要都流
 略解に
  卷十四安杼毛敝可アジクマ山ノユヅルハノとよめるに同じくアドモヘカは何ト思ヘバカの意也。末に『わぎも子がいかにおもへかぬば玉の一夜もおちずいめ(3233)にし見ゆる』ともよめり
といひ古義はさながら之に從へり。案ずるに此歌は前の歌に和したるなり。さて杼は乎の誤にてアヲモヘカはソノアマヲトメドモガ我ヲ思ヘバニヤなり。ココロガナシクはカハユクなり。第二句のヨヒはヨヒニにてかのあま處女等を見し夜なり
 
   熊毛浦船泊之夜作歌四首
3640 みやこべにゆかむ船もが(かりごもの)みだれておもふことつげやらむ
美夜故邊爾由可牟船毛我可里許母能美太禮弖於毛布許登都※[石+疑]夜良牟
     右一首羽栗
 羽栗は氏なり。名のおちたるなり。續紀に羽栗翔、羽栗翼など見えたり
 
3641 あかときのいへこひしきにうら末〔左△〕《ミ》よりかぢのおとするはあまをと女かも
安可等伎能伊敝胡悲之伎爾宇良末欲理可治乃於等須流波安麻乎等女可母
(3234) 初二は家コヒシキ曉ニといはむに似たり。オトスルハは音ノ聞エクルハとなり。アナユカシヤといふ餘意を含めるなり。古義にカレヲキケバイツシカアノ如ク船コギテ家ノ方ニハ歸ルベキト思ハレテなどうつせるはいみじきひが言なり
 
3642 おきべよりしほみちくらしからのうらにあさりするたづなきてさわぎぬ
於伎敞〔左△〕欲理之保美知久良之可良能宇良爾安佐里須流多豆奈伎弖佐和伎奴
 カラノ浦は周防國熊毛郡の内にあるべし。二註に
  筑前國志麻郡之韓亭とある處の浦なり。長門の赤間より今道一里ばかりありといへり
といへるはひが言なり。こゝは熊毛浦なれば赤間とだに近からず。まして韓泊のある筑前國志摩郡は其國の西端なればいと遠かるをや
 
3643 おきべよりふなびとのぼるよびよせていざつげやらむたびのやどり(3235)を
    一云たびのやどりをいざつげやらな
於吉敝欲里布奈妣等能煩流與妣與勢弖伊射都氣也良牟多婢能也登里乎
    一云多妣能夜杼里乎伊射都氣夜良奈
 ノボル京の方へのぼるなり。四五はワガタビノヤドリヲココト告ゲ遣ラムといへるなり
 
   佐婆海中忽遭2逆風漲浪1漂流經v宿而後事得2順風1到2著豐前國下毛郡分〔左△〕間浦1於v是追2※[立心偏+且]《イタミ》艱難1凄惆作歌八首
3644 おほきみのみことかしこみおほぶねのゆきのまにまにやどりするかも
於保伎美能美許等可之故美於保夫禰能由伎能麻爾末爾夜杼里須流可母
(3236)    右一首雪(ノ)宅滿
 佐婆は周防の郡名なり。宿は一夜なり。下毛郡はシモツミケとよむべし。分間浦を二註に『今も下毛郡にありてママともワマともいへりとぞ』といへれど間〔日が月〕々崎こそ下毛郡にあれ和間は別處にて宇佐郡にあるをや。さて分間は万間などの誤にて今の間々崎なるべし○長門國を經て豐前國の北端に到るべきを暴風に遭ひて南方に流されて下毛郡に著きしなり
 第三句以下は船ノ行クニ任セテ思ハヌ處ニヤドリスルカナといへるなり
 雪の下に連《ムラジ》の字をおとせるか。又はわざと略せるか。雪は壱岐なり。古義に
  懷風藻に伊支(ノ)連古麻呂ありて目録には雪(ノ)連と記せり。和名抄に壱岐島(ハ)由伎と見ゆ
といへり。ユとイと相通ふは行をイクともいふが如し。宅滿はやがて古麻呂の子なり
 
3645 わぎもこははやもこぬかとまつらむをおきにやすまむいへづかずして
(3237)和伎毛故波伴也母許奴可登麻都良牟乎於伎爾也須麻牟伊敝都可受之弖
 コヌカは來レカシにてこゝにては還リ來レカシなり。オキニヤスマムは沖ニ停マラムカなり○イヘヅクを略解に『秋に近づくを集中秋ヅクとよめるが如し』といへり。イヘヅクは家ニ就クのニを省けるにて略解にいへる如く故郷ニ近ヅクなり。下にもアハヂ島クモヰニミエヌ家ヅクラシモとあり
 
3646 うら末〔左△〕《ミ》よりこぎこしふねを風はやみおきつみうらにやどりするかも
宇良末欲里許藝許之布禰乎風波夜美於伎都美宇良爾夜杼里須流可毛
 略解に『オキツミウラは沖中の島の浦也』といひ古義には牽強して『海中にもあらず海底にもあらず海浦の入こみ行つまりたる處をいふ』といへり。案ずるにまづ初二は浦ヅタヒ漕ギ來リシ船ナルヲといへるなり。さてミウラは眞心にてオキツミウラは沖の眞中なるべし
 
3647 わぎもこがいかにおもへか(ぬばたまの)ひとよもおちずいめにしみゆ(3238)る
和伎毛故我伊可爾於毛倍可奴婆多末能比登欲毛於知受伊米爾之美由流
 イカニオモヘカはやがて戀シク思ヘバカなり
 
3648 うなばらのおきべに等毛之伊射流火〔六字左△〕《イザルトモシビ》はあかしてともせやまとしま見む
宇奈波良能於伎敝爾等毛之伊射流火波安可之弖登母世夜麻登思麻見舞
 等毛之と伊射流と顛倒せるにてオキベニイザルトモシ火ハなり。アカシテは明クシテなり。古義に夜ヲ明シテとうつせるは非なり
 
3649 (かもじもの)うきねをすれば(みなのわた)かぐろきかみにつゆぞおきにける
可母自毛能宇伎禰乎須禮婆美奈能和多可具呂伎可美爾都由曾於伎爾(3239)家類
 
3650 (ひさかたの)あまてる月は見つれどもあがもふいもにあはぬころかも
比左可多能安麻弖流月波見都禮杼母安我母布伊毛爾安波奴許呂可毛
 マチマチシ月ヲバ見ツレドモと辭を加へて心得べし。略解に『滿レドモにて日數のかさなる意にもあらんか』といへるはいみじきひが言なり。もしさる意ならばミテドモとこそいふべけれ
 
3651 (ぬばたまの)よわたる月|者《ハ》はやもいでぬかも、うなばらのやそしまのうへゆいもがあたり見む
奴波多麻能欲和多流月者波夜毛伊弖奴香文宇奈波良能夜蘇之麻能宇倍由伊毛我安多里見牟 旋頭歌也
 イデヌカモは出デヨカシなり
 
   至2筑紫舘1遙望2本郷1悽愴作歌四首
3652 之賀のあまの一日もおちずやくしほのからきこひをもあれはするか(3240)も
之賀能安麻能一日毛於知受也久之保能可良伎孤悲乎母安禮波須流香母
 はやく卷十一(二四七二頁)に
  しかのあまのけぶりたきたててやくしほのからき戀をも吾はするかも 右一首或云石川君子朝臣作之
とあり。今の歌は右の歌の第二句のみを更へたるなり
 館はタチ又はムロツミとよむべし。官立の旅館なり。さて筑紫館は志珂島にありしなり。日本紀通釋(持統天皇二年紀)に太宰府にある館なりといへるは非なり
 
3653 思可のうらにいざりするあまいへびとのまちこふらむにあかしつる宇乎〔二字左△〕《カモ》
思可能宇良爾伊射里須流安麻伊敝妣等能麻知古布良牟爾安可思都流宇乎
(3241) 結句を契沖は夜ヲ明シテ釣ル魚と釋したり。アカシはげに夜ヲ明シなり。略解に燈ヲ明クトモシテとうつせるは誤解なり。宇乎は可毛の誤にあらざるか。さらばツルは釣ルにあらでテニヲハなり
 
3654 可之布江にたづなきわたるしかのうらにおきつしらなみたちしくらしも
    一云みちしきぬらし
可之布江爾多豆奈吉和多流之可能宇良爾於枳都之良奈美多知之久良思毛
    一云美知之伎奴良思
 古義に『香椎の入江を可之布江といへるにや』といへり。げにカシヒをなまりてカシフといへるならむ。筑前風土記逸文に※[加/可]襲宮とあるはカシフとよみてカシヒの訛とすべきか。又はカシヒとよみて襲の音シフをシヒに通用したりとすべきか(イヒボ、サヒガを揖保、雜賀と書く如く)。※[加/可]襲ハ可紫比ナリと註したるを思へばなほカシ(3242)フとよむべきに似たり○タチシクラシモは一本のミチシキヌラシと對照するにシは助辭にて契沖の第一説の如く立來ラシモなり。二註には同じ人の第二説に從ひて立|重《シク》ラシモの意とせり○志珂浦より香椎江を望みてよめるなり
 
3655 いまよりはあきづきぬ良〔左△〕《ベ》し(あしひきの)やままつかげに日ぐらしなきぬ
伊麻欲里波安伎豆吉奴良之安思比奇能夜麻末都可氣爾日具良之奈伎奴
 良は倍などの誤か。アキヅクは秋ニ就クにて秋ニチカヅクなり。上にイヘヅクといへると同例なり
 
   七夕仰2觀天漢1各陳2所思1作歌三首
3656 あきはぎににほへるわがもぬれぬともきみがみふねのつなしとりてば
安伎波疑爾爾保敞〔左△〕流和我母奴禮奴等母伎美我美布禰能都奈之等理弖(3243)婆
     右一首大使
 織女になりてよめるなり
 ニホヘルはソマレルなり。ワガモは我裳なり。トリテバは取リタラバにて其下にウレシカラマシなどいふことを略したるなり。さて略解に彦星ヲ留メントテ舟ノ綱ヲトリタラバとうつし古義に御舟ノ綱ヲ取テ引留メテアラバとうつしてトリテバを引留メタラバの意とせるは可ならず。こは織女が河原に立待ちて彦星の舟の著かむとする時水におり立ちてみづから舟の舳綱《ヘヅナ》を引寄する趣によめるなり
 
3657 としにありてひとよいもにあふひこぼしもわれにまさりておもふらめやも
等之爾安里弖比等欲伊母爾安布比故保思母和禮爾麻佐里弖於毛布良米也母
 トシニアリテは一年間待チテなり。はやく卷十(二〇五一頁)に
(3244)  年にありて今かまくらむぬばたまの夜ぎりがくりて遠妻の手を
とあり
 
3658 ゆふづくよ可氣多知與里安比あまのかはこぐふなびとを見るがともしさ
由布豆久欲可氣多知與里安比安麻能我波許具布奈妣等乎見流我等母之佐
 略解に
  夕月の影はいつも渡れども其夕月と共に渡る星の影は年に一夜なればめづらしきといふ也
といへるはもとより非なり。古義に
  吾旅にありて家の妻こひしく思ふ折しも夕月の影に立寄合て〔九字傍点〕天河渡る人を見るがうらやましさいはむ方なしとなり。上に彦星モ我ニマサリテ思フラメヤモ
と云るにて其意をさとるべし
(3245)といへるは歌の意を得たる如くなれど第二句なほ心得られず。おそらくは誤字あらむ
 
   海邊望v月〔左△〕作歌九首
3659 あきかぜはひにけにふきぬわぎもこは伊都登加〔二字左△〕《イツカト》われをいはひまつらむ
安伎可是波比爾家爾布伎奴和伎毛故波伊都登加和禮乎伊波比麻都良牟
     大使之第二男
 契沖は
  此九首の中に月を望める意ある歌なし。もし日を月に作ける歟。然らば海邊ニ望ム日とよむべし
といへり。望月は望郷の誤か
 ヒニケニは日々ニなり。古義に伊都登加を伊都加登の顛倒とせるは炯眼なり。イツ(3246)歸ラムカトとなり。イハヒはイノリなり
 大使之第二男の上に右一首の三宇おちたるなり
 
3660 かむさぶるあらつのさきによするなみまなくやいもにこひわたりなむ
可牟佐夫流安良都能左伎爾與須流奈美麻奈久也伊毛爾故非和多里奈牟
    右一首土師《ハニシ》(ノ)稻足《イナタリ》
 上三句は序なり。カムサブルは神サビタルにて物古リタルなり。荒津にかゝれる准枕辭なり。荒津は近くは卷十二(二七三四頁)に見えたり。今の福岡市の内なり○此歌は荒津にて作れるにあらず。荒津の方を望みてよめるなり
 
3661 かぜのむたよせくるなみにいざりするあまをと女らがものすそぬれぬ
     一云あまのをとめがものすそぬれぬ
(3247)可是能牟多與世久流奈美爾伊射里流安麻乎等女良我毛能須素奴禮奴
    一云安麻乃乎等賣我毛能須蘇奴禮濃
 カゼノムタは風ノマニマニなり。卷十二にも浪ノムタナビク玉藻ノ、風ノムタ雲ノユクナスとあり(二六七八頁及二七一八頁)
 
3662 あまのはらふりさけ見ればよぞふけにける、よしゑやしひとりぬるよはあけばあけぬとも
安麻能波良布里佐氣見禮婆欲曾布氣爾家流與之惠也之比等里奴流欲波安氣婆安氣奴等母
     右一首旋頭歌也
 卷十一にも
  あかときととりはなくなりよしゑやしひとりぬる夜はあけばあくとも
とあり。ヨシヱヤシ以下は妹ト凝ヌ夜ハ明ケナバ明ケヌトモヨシといへるなり
 
(3248)3663 わたつみのおきつなはのりくるときといもがまつらむ月|者《ハ》へにつつ
和多都美能於伎都奈波能里久流等伎登伊毛我麻都良牟月者倍爾都追
 初二は序、クルトキは歸リ來ム時なり。秋に還らむと契りしかばかくいへるなり
 
3664 しかのうらにいざりするあまあけくればうら末〔左△〕《ミ》こぐらしかぢのおときこゆ
之可能宇良爾伊射里須流安麻安氣久禮婆宇良末許具良之可治能於等伎許由
 アケクレバは夜アクレバなり
 
3665 いもをおもひいのねらえぬにあかときのあさぎりごもりかりがねぞなく
伊母乎於毛比伊能禮〔左△〕良延奴爾安可等吉能安左宜理其問理可里我禰曾奈久
 イは睡眠なりデサギリゴモリは朝霧ニ隱レテなり○禮は禰の誤なり
 
(3249)3666 ゆふさればあきかぜさむしわぎもこがときあらひごろもゆきてはやきむ
由布佐禮婆安伎可是左牟思和伎母故我等伎安良比其呂母由伎弖波也伎牟
 ユキテは歸リ行キテなり
 
3667 わがたびはひさしくあらしこのあがけるいもがころものあかづく見れば
和我多妣波比左思久安良思許能安我家流伊毛我許呂母能阿可都久見禮婆
 アラシはアルラシの古格なり。コノアガケルは此我著タルなり。コノアガは熟辭なり。卷二(二四七頁)にコノワガ心、卷十七にコノワガ里ニまたコノアガ馬ノとあり○イモガコロモは妹ガ形見ノ衣なり○卷二十に
  たびとへどまたびになりぬいへのもがきせしころもにあかつきにけり
(3250)とあると相似たり
 
   到2筑前國志麻都之韓亭1舶泊經2三日1於v時夜月之光※[白+交]※[白+交]流照|奄《タチマチ》對2此華1旅情悽※[口+壹]各陳2心緒1聊以裁歌六首
3668 おほきみのとほのみかどとおもへれどけながくしあればこひにけるかも
於保伎美能等保能美可度登於毛敞〔左△〕禮杼氣奈我久之安禮婆古非爾家流可母
     右一首大使
 トホノミカドは遠國の政廳なり。筑前國は太宰府の所在地なればトホノミカドといへるなり。ケナガクは日久シクなり。コヒニケルカモの上に家ニを略せるなり○韓亭はやがて韓泊なり。下にも引津(ノ)亭、狛島(ノ)亭などあり。亭はもし訓讀せむとならば古義の如くトマリとよむべし。ウマヤ、ウマヤダチなどはよむべからず。泊との相異は水陸並に云ふべきにあり。敏達天皇紀に海石榴市《ツバイチ》の驛舎を海石榴市亭といへり。(3251)この事は漢籍に十里一亭などいへる亭にてウマヤとも舊訓の如くウマヤダチともよむべし。ウマヤダチのタチは館なり○華を略解に『物華の物を脱せるか』といひ古義に『物華に同じからむ』といへり。もとのまゝにて美観といふ意とすべきか
 
3669 たびにあれどよるは火ともしをるわれをやみにやいもがこひつつあるらむ
多妣爾安禮杼欲流波火等毛之乎流和禮乎也未爾也伊毛我古非都追安流良牟
     右一首大判官
 上三句は旅ニアレドサマデワビシクモアラデ夜ハ家ニアル如ク火モトモシツツ居ル吾ナルヲといへるなり○ヤミニは古義に心ノ闇ニクレマドヒテと譯せる如し。火トモシにむかへて云へるにて此辭に巧はあるなり
 
3670 からどまり能許のうらなみたたぬ日|者《ハ》あれどもいへにこひぬ日|者《ハ》なし
(3252)可良等麻里能許乃宇良奈美多多奴日者安禮杼母伊敝爾古非奴日者奈之
 能許(ノ)浦を古義に能巨島(又能古又乃古と書けり○今も殘《ノコ》(ノ)島といひて福岡※[さんずい+彎]内にあり)
の事としたれど下に能許ノトマリニアマタヨゾヌルとあるはやがて韓拍の事なれば韓泊の一名を能許(ノ)泊といひその浦を能許(ノ)浦といひしなり○彼島を能許(ノ)島といふも能許(ノ)泊の海上にあるが故ならむ○古今集戀一なる
  駿河なる田子のうら浪たたぬ日はあれども君をこひぬ日はなし
は此歌を改めたるなり
 
3671 (ぬばたまの)よわたる月にあらませばいへなるいもにあひてこましを
奴婆多麻乃欲和多流月爾安良麻世婆伊敝奈流伊毛爾安比弖許麻之乎
 月の東より昇り來るを見てよめるなり○ヨワタルはただ輕く添へたるなり
 
3672 (ひさかたの)月|者《ハ》てりたりいとまなくあまのいざり波〔左△〕《ビ》ともしあへり見ゆ
(3253)比左可多能月者弖利多里伊刀麻奈久安麻能伊射里波等毛之安敝里見由
 イトマナクは常には時にいへどこゝは處にいへるにてヒマナクといふに同じ○第四句の波は火の誤ならむ○トモシアヘリは漁火ト漁火トヲトモシ合ヘリといへるなり○略解に『月の光と漁火とひかりあふなり』といへるは非なり。第二句の次にソノ上ニといふことを挿みて聞くべし
 
3673 かぜふけばおきつしらなみかしこみと能許のとまりにあまたよぞぬる
可是布氣婆於吉都思良奈美可之故美等能許能等麻里爾安麻多欲曾奴流
 カシコミトはオソロシサニなり○その次に船出シカネテといふことを加へて心得べし
 
   引津亭舶泊之△作歌七首
(3254)3674 (くさまくら)たびをくるしみこひをれば可也の山邊にさをしかなくも
久左麻久良多婢乎久流之美故非乎禮婆可也能山邊爾草乎思香奈久毛
 舶泊之の下に時などをおとせるなり○コヒヲレバは家ニコヒヲレバなり○可也山は志麻郡(今の糸島郡)にあり○今親山又筑前富士といふとぞ
 
3675 おきつなみたかくたつ日にあへりきとみやこのひとはききてけむかも
於吉都奈美多可久多都日爾安敝利伎等美夜古能比等波伎吉弖家牟可母
     右二首大判官
 こはかの周防の海上にて逆風漲浪に遭ひし事をいへるなり。さればこそアヘリキ、キキテケムカモと過去格にていへるなれ
 
3676 あまとぶやかりをつかひにえてしがも奈良のみやこにことつげやらむ
(3255)安麻等夫也可里乎都可比爾衣弖之可母奈良能禰夜古爾許登都※[石+疑]夜良武
 アマトブヤは准枕辭なり○コトツゲヤラムのコトは上(三二三三頁)にカリゴモノミダレテオモフコトツゲヤラムとあるを思へば言にはあらで事なり
 
3677 秋(ノ)野をにほほすはぎはさけれども見るしるしなしたびにしあれば
秋野乎爾保波須波疑波佐家禮杼母見流之留思奈之多婢爾師安禮婆
 ニホハスは染ムルなり○シルシは詮なり
 
3678 いもをおもひいのねらえぬにあきの野にさをしかなきつつまおもひかねて
伊毛乎於毛比伊能禰良延奴爾安伎乃野爾草乎思香奈伎都追麻於毛比可禰弖
 結句は鹿ガソノ妻ヲ思フニ堪ヘカネテといへるなり
 
3679 おほぶねに眞かぢしじぬきときまつとわれはおもへど月ぞへにける
(3256)於保夫禰爾眞可治之自奴伎等吉麻都等和禮波於毛倍杼月曾倍爾家流
 二註に時マツトを潮時を待つなりといへるはわろし○船出によろしき時を待つにてやがて順風を待つなり○月ゾ經ニケルとあるを思ふべし
 
3680 よをながみいのねらえぬに(あしひきの)山びことよ米《メ》さをしかなくも
欲乎奈我美伊能年良延奴爾安之比奇能山妣故等余米佐乎思賀奈君母
 トヨメは令響にてトヨモシにおなじ
 
   肥前國松浦郡狛島亭舶泊之夜遙望2海浪1各慟2旅心1作歌七首
3681 かへりきて見むとおもひしわがやどのあきはぎすすきちりにけむかも
可敞〔左△〕里伎弖見牟等於毛比之和我夜等能安伎波疑須須伎知里爾家武可聞
    右一首秦田麿
 旅立ノ時秋ニハ歸リ來テ見ムト思ヒシ云々といへるなり○秦田麿は上に秦間滿と(3257)あると同人ならむ
 
3682 あめつちのかみをこひつつあれまたむはやきませきみまたばくるしも
安米都知能可未乎許比都都安禮麻多武波夜伎萬世伎美麻多婆久流思母
     右一首娘子
 コヒツツは祈リツツなり○卷十三(二八五八頁)にも天地ノ神ヲゾ吾乞《ワガコフ》とあり○キマセは歸リ來マセなり○マタバクルシモは未來格を現在格にて受けたるにて卷十四(三一六六頁)なるオクレヰテコヒバクルシモなどと同格なり○娘子は遊行女婿ならむ
3683 きみをおもひあがこひまくは(あらたまの)たつつきごとによくる日もあらじ
伎美乎於毛比安我古非萬久波安良多麻乃多都追奇其等爾與久流日毛
(3258)安良自
 コヒマクハは戀ヒムヤウハなり○ヨクル日は避クル日にて忌む日なり○具註暦に註せる忌諱の一日なり○略解に『一日モオチズといふに同じ意なり』といひ古義に『一日モ漏ル日ハアラジとなり』といへるは非なり○又略解に
  故郷の女の歌なるをこゝにて誦へしか。又は是も右娘子の類にやあらむ
といへるも非ならむ。おそらくは前の歌の和ならむ
 
3684 秋(ノ)夜をながみにかあらむなぞここばいのねらえぬもひとりぬればか
秋夜乎奈我美爾可安良武奈曾許己波伊能禰良要奴毛比等里奴禮婆可
 ナゾココバは何ゾココバクにてココバクは甚なり○ネラエヌモのモは助辭なり○何故ニカク甚シク寐ラレヌゾ、秋ノ夜ガ長サニカアラム又ハ獨寐レバニカアラムといへるなり○卷一なる
  吾妹子をいざ見の山をたかみかもやまとの見えぬ國とほみかも
 又卷七なる
  まそかがみてるべき月をしろたへの雲かかくせるあまつ霧かも(3259)などと格相似たり
 
3685 たらしひめ御船はてけむ松浦《マツラ》のうみいもがまつべき月|者《ハ》へにつつ
多良思比賣御船波弖家牟松浦乃宇美伊母我麻都敝伎月者倍爾都々
 上三句はマツにかゝれる序なり○タラシヒメは神功皇后の御名なり
 
3686 たびなればおもひたえてもありつれどいへにあるいもしおもひがなしも
多婢奈禮婆於毛比多要弖毛安里都禮杼伊敝爾安流伊毛之於母比我奈思母
 オモヒガナシは思フニカナシといふことを一語としたるにて卷十四(三〇四五頁及三〇五五頁)なるツキヨラシ、カタリヨラシ(附クニ宜シ、語ルニ宜シ)の類なるべし。さればオモフは作者が思ふにてカナシはカハユシといふ意なり。略解に『妹が思をおもひやりて悲しきとなり』といひ古義に『家にある妹を一すぢに戀しく思ふ心に堪られずさても悲しやとなり』といへるは共に從はれず
 
(3260)3687 (あしひきの)山とびこゆるかりがねはみやこにゆかばいもにあひてこね
安思必寄能山等妣古由留可里我禰婆美也故爾由加波伊毛爾安比弖許禰
 雁の東の方に向ひて飛び行くを見てよめるなり
 
   到2壹岐島1雪(ノ)連《ムラジ》宅滿《ヤカマロ》忽遇2鬼病1死去之時作歌一首并短歌〔五字□で囲む〕
3688 すめろぎの とほの朝廷《ミカド》と から國に わたるわがせは いへびとの いはひまたねか 多大末〔二字左△〕《タタミ》末かも あやまちしけむ あきさらば かへり麻左牟と (たらちねの) ははにま于《ウ》して ときもすぎ つきもへぬれば 今日かこむ 明日かもこむと いへびとは まちこふらむに とほのくに いまだもつかず やまとをも とほくさかりて いはがねの あらきしまねに やどりする君
須賣呂伎能等保能朝廷等可良國爾和多流和我世波伊敝妣等能伊波比(3261)麻多禰可多大末可母安夜麻知之家牟安吉佐良婆可敝里麻左牟等多良知禰能波波爾麻于之弖等伎毛須疑都奇母倍奴禮婆今日可許牟明日可蒙許武登伊敞〔左△〕比等波麻知故布良牟爾等保能久爾伊麻太毛都可受也麻等乎毛登保久左可里弖伊波我禰乃安良伎之麻禰爾夜杼里須流君
 和名抄に壹岐島(ハ)由岐とあれど壹の音イツを略してイとは唱ふべく壹はユとはよむべからず、又古くよりイキとも云ひし事明なれば壹岐と書けるはなほイキとよむべし。さて名義は宣長の説(記傳卷五【二四三頁】)に
  此島にして神祭りますとて齋忌《ユキ》のことありけむ故の名にもやあらむ○又はから國へ渡るにまづこゝに舟とめてやすむ故に息《イコヒ》の島か
といへれど韓國へ渡り行く道に當れる島なれば行の島と名づけたるならむ。行は集中にもユクともイクともよめり○雪(ノ)連はやがて壹岐(ノ)連なり。壹岐氏は壹岐の島造なりしが(壹岐はいにしへ國といはで島といひしかば其宰をも國造といはで島造といひしなり)宅滿の祖忍見の時山背に上りて松尾なる月讀宮の長官となり子(3262)孫其職を世襲せしなり○鬼病はただ急病といふことならむ。古義に和名抄に瘧鬼エヤミノカミとあるを證として『鬼病はエヤミなり』といへれど瘧鬼の鬼はエヤミノカミのカミに當りてエヤミには當らず○宅滿を弔ふ歌は長歌三首反歌六首にて此題辭は右長短九首にかゝれるなれば一首并短歌とは書くべからず。されば古義には此五字を削れり
 トホノミカドは遠國にある政廳なり。古義に『いはゆる日本府と云るもの是なり』といへれど任那にありし日本府ははやく(欽明天皇の御代か)廢せられて此時代には存在せず。然もトホノミカドといへるは昔より唱へ來れるに從へるなり。ワガセは宅滿を指せるなり○イハヒマタネカは神ニ祈リテ待タネバカなり。多大末は眞淵のいへる如く多太未の誤なり。記傳卷三十九(二三〇三頁)に
  師(○眞淵)の説に人の旅行たる家にては其人の床の疊をいみ慎みて大事とす。これ其畳にもしあやまちすれば其人旅にて事ありとてなり。と云てこゝの御歌又萬葉十五にイヘビトノイハヒマタネカ多太未カモアヤマチシケム云々とあるを引れたり
(3263)といへり。こゝの御歌といへるは古事記なる輕(ノ)太子の御歌にオホキミヲシマニハブラバ、フナアマリイカヘリコムゾ、ワガ多多禰ユメとあるを云へるなり○カヘリ麻左牟等を契沖は『カヘリマサムとは宅滿が詞なれども歌主が引なほしてかくは云なり』といひ雅澄も之に從ひたれど穩ならず。麻爲己〔二字右△〕牟等などありしを左に誤れるにあらざるか○マ乎シテとあるべき乎の于となれるは集中にも佛足石歌にも例あり。此頃よりうつりしなり○トホノクニは遠國にてやがて新羅なり。トホノミカドのトホノと同例なり。クニの下にニを略せるなり○ヤドリスルは葬られたるをいへるなり。今(一)岐國石田郡石田村なる海岸より八丁許入りたる處に石田峯といふ岡ありて其上に方四間〔日が月〕許、高さ七八尺の古墳あり。土人は殿の墓又官人の塚と稱せり。是宅滿の墓なりといふ(好古叢誌五篇下)
 
   反歌二首
3689 伊波多野にやどりするきみいへびとのいづらとわれをとはばいかにいはむ
(3264)伊波多野爾夜杼里須流伎美伊敝妣等乃伊豆良等和禮乎等婆波〔二字左△〕伊可爾伊波牟
 伊波多野は即石田野なり。和名抄にも伊之太と訓じたるを見ればはやく字に引かれてイシダといふやうになりしなり。イヅラトは君ハイヅラトとなり○ワレニ問フをいにしヘワレヲ問フともいひしなり。日本紀なる武内《タケシウチ》(ノ)宿禰の歌にもウべナウ
ベナワレ烏《ヲ》トハスナとあり
 
3690 よのなかはつねかくのみとわかれぬる君にやもとなあがこひゆかむ
與能奈可波都禰可久能未等和可禮奴流君爾也毛登奈安我孤悲由加牟
    右三首挽歌
 初二は第三句にかゝれり。君ハツレナクモ世ノ中ハ常ニカクノ如シトテ別レ行キヌルヲソノ君ニ我ハ心ナラズモ戀ヒツツ旅行カムカといへるなり。略解に『君に戀つゝ慕行んよしなしなり』といへるは誤解なり○次々の反歌の末に右三首葛井連子老作挽歌、石三首六鯖作挽歌とあるを思へばここも右三首何某作挽歌とあるべ(3265)きに似たれどこは此卷の筆録者の歌なればわざと名を書かざるなり。落したるにあらず
 
3691 天地と ともにもがもと おもひつつ ありけむものを (はしけやし) いへをはなれて なみのうへゆ なづさひきにて (あらたまの) 月日もきへぬ かりがねも つぎてきなけば (たらちねの) ははもつまらも あさつゆに ものすそひづち ゆふぎりに ころもでぬれて さきくしも あるらむごとく いで見つつ まつらむものを 世間《ヨノナカ》の ひとのなげきは あひおもはぬ 君にあれやも あきはぎの ちらへる野邊の はつを花 かりほにふきて (くもばなれ) とほきくにべの つゆじもの さむき山邊に やどりせるらむ
天地等登毛爾母我毛等於毛比都都安里家牟毛能乎波之家也思伊敝乎波奈禮弖奈美能宇倍由奈豆佐比伎爾弖安良多麻能月日毛伎倍奴可里我爾母都藝弖伎奈氣婆多良知禰能波波母都末良母安佐都由爾毛能須(3266)蘇比都知由布疑里爾己呂毛弖奴禮弖左伎久之毛安流良牟其登久伊低見都追麻都良牟母能乎世間能比登乃奈氣伎波安比於毛波奴君爾安禮也母安伎波疑能知良敞〔左△〕流野邊乃波都乎花可里保爾布伎弖久毛婆奈禮等保伎久爾敝能都由之毛能佐武伎山邊爾夜杼里世流良牟
 アメツチト云々は略解に『宅滿が齢長くとみづから思ひたりし也』といへる如し。古義に『こゝは家人のかく思ひてありしやうを推はかりて云る故にアリケムといへるなり』といへるは非なり○ウヘユは上ヲなり。ナヅサヒキニテは次なる長歌にナヤミ來テといへるに同じ。宣長の説(玉勝間卷六)も雅澄が浪漬傍《ナヅサヒ》の字を充てたるも共に非なり(一七六二頁參照)○キヘヌは來經ヌにて過ぎヌといはむに同じ。語例は古事記なる美夜受比賣の歌にアラタマノトシガ蚊布禮婆アラタマノツキハ岐閇由久とあり。又播磨國風土記に
  宗形大神云。我可v産《コウム》之月|盡《キヘヌ》。故曰2支閇岳《キヘヲカ》1
とあり。集中にも例あり○ツギテは相繼ギテなり。アサツユニ云々は卷二(二五〇頁)(3267)なる人麻呂の長歌にアサツユニ玉裳ハヒヅチ、ユフギリニコロミモハヌレテとあるを學べるなり。サキクシモ云々はサキクハアラヌモノヲサル事トハ知ラネバサキクシモアルラム如クといへるなり。かく雁の聲を聞きて宅滿の歸宅を待つ趣にいへるは此行もと秋には歸らむあらましなりしが故なり○古義に
  ヒトノナゲキハといふ下にスベナクカナシキ物カナといふ詞を添て意得べし。アヒオモハヌ云々はシカバカリ待ラム家ノ母ヤ妻トハアハレ相思ハヌ君ニアレバニヤの意なり
といへるはいみじきひが言なり。世ノ中ノ人ノ嘆ヲバ顧ミヌ君といへるなり。世ノナカノ人は世ニアル人にて母妻子などを云へるなり。アヒは添辭のみ。さてアレヤはアレバニヤにて末なるヤドリセルラムと照應せるなり。モは助辭なり○チラヘルはチレルの延言にて萩の我が地上に散りてあるなり。古義に『チレルは俗にチッタ、チラヘルはチリヲルと云が如し』といへる上半はひが言なり。ハツヲ花の下にヲを補ひて心得べし○カリホを略解に『荒城に喪屋を造たるさまなるべし』といへり。こは神代紀に即造2喪屋1而殯之とあるに據りていへるなれど孝徳天皇紀に凡王以(3268)下及庶人不v得v營v瀕とある上に旅中の事なれは營みしは殯にはあらで本葬にてカリホといへるは墓の上屋《ウハヤ》ならむ○クモバナレを略解に『雲ゐに放れたる意にて青雲ノムカブス國などいへる如し』といひ古義にも『雲居に遠く放れたる意なり』といへり。案ずるにクモバナレはトホキにかゝれる枕辭にて雲ノ如クハナレといふ意ならむ。語例は古事記なる黒日賣の歌に
  やまとべににしふきあげて玖毛婆郡禮そきをりともわれわすれめや
とあり
  因にいふ。此歌のニシフキアゲテは西風ガ御船ヲ吹キノボセテにてクモバナレはソキにかゝれる枕辭なり。ソキはやがてハナレなり。記傳卷三十五(二一三七頁)の釋は誤れり
 
   反歌二首
3692 (はしけやし)つまもこどももたかだかにまつらむきみ也〔左△〕《シ》しまがくれぬる
(3269)波之家也思都麻毛古杼毛母多可多加爾麻都良牟伎美也之麻我久禮奴流
 タカダカニは人を待つ状なり。キミはソノ君なり。也は之の誤ならむ○シマガクレヌルは島ニ隱レヌルにて船になぞらへて云へるなり
 
3693 もみぢ葉のちりなむ山にやどりぬる君をまつらむひとしかなしも
毛美知葉能知里奈牟山爾夜杼里奴君乎麻都良牟比等之可奈思母
 
     右三首葛井《フヂヰ》(ノ)連《ムラジ》子老《コオユ》作挽歌
 古義に
  チリナムは宅滿がみまかれるは思ふにいまだ秋深からずしてこゝかしこ黄葉するほどなるべければ後を推はかりてチリナムと云るなるべし
といへる如し。ヤドリヌルは葬ラレヌルなり。人は略解に『家人をさす』といへる如し
 
3694 わたつみの かしこきみちを やすけくも なくなやみきて いまだにも もなくゆかむと ゆきのあまの ほつ手|乃〔左△〕《ヲ》うらへ乎〔□で囲む〕 かた(3270)やきて ゆかむとするに いめのごと みちのそらぢに わかれするきみ
和多都美能可之故伎美知乎也須家口母奈久奈夜美伎弖伊麻太爾母毛奈久由可牟登由吉能安末能保都手乃宇良敝乎可多夜伎弖由加武士須流爾伊米能其等美知能蘇良治爾和可禮須流伎美
 ヤスケクモは安キ事モなり。ナクを下へ附けたるは心ゆかず○イマダニモは今カラナリトモなり。語例は近くは卷十(二一六九頁)に今ダニモ妹ガリユカナ夜ハフケヌトモとあり。モナクは卷五(九八五頁)にタヒラケク安クモアラムヲ、事モナクモ〔右△〕ナクモアラムヲとあり。モは凶事なり○ユキノアマは壹岐の海人なり。ホツテは古義にいへる如く秀手《ホツテ》にて上手といふことなり。相撲人の長をホテといふはやがてホツテのつづまれるなり。豐後風土記に
  海部《アマ》郡|穗門《ホト》郷 昔者《ムカシ》纏向《マキムク》(ノ)日代《ヒシロ》(ノ)宮御宇天皇(○景行天皇)御船泊2於此|門《ト》1。海底多生2海藻1一而長美。天皇即勅曰。取2最勝海藻《ホツメ》1(謂2保都米(ト)1)。便命2以進御1。因曰2最勝海藻門《ホツメト》1。今謂2穗(3271)門1者訛也
とあり。ホツに最勝の字を充てたるに注目すべし。さてアマノホツテは最勝れたる水手なり○ホツ手乃の乃は乎を誤れるなり。ウラヘ乎の乎は※[月+眷の目が貝]字なり。削るべし○ウラヘは卜|合《ア》ヘにて卜|合《アハ》セなり。カタヤキは兆灼なり。肩灼にあらず。さてウラヘカタヤキテはつづける語なるを(卷十四【二九八八頁】にもムザシ野ニウラヘカタヤキ云々とあり)調の爲に二句に割きたるにてカタヤキの下にサダメといふ語を補ひて聞くべし。龜卜によりて最勝れたる水手を定めしなり。元來宅滿は世々月讀宮に仕へし傍龜卜を以て朝庭に仕へ、よりて卜部氏とも稱して龜卜の棟梁たりし人なれば其道を以てぞ一行には加はりけむ。遣新羅使の職員に卜師あると三代實録元慶五年十二月の下なる卜部宿禰平麻呂の傳に
  承和之初遣v使聘v唐。聘麻呂以v善2卜術1備2於使部1
とあるとを思ふべし。さて此ウラヘカタヤキは宅滿自ぞものしけむ○ユカムトスルニは出立タムトスル端ニなり○ミチノソラヂは途中といふことなるべけれど(後世も途中をミチノソラとはいへり)ミチとチとかさなれる怪しむべし。かのタダ(3272)ヂをミチノタダヂともいふにむかへて見ればソラヂのみにて途中といふことなるを語を飾りてミチノを添へたるにや
 
   反歌二首
3695 むかしよりいひけるごと乃〔左△〕《ク》(からぐにの)からくもここにわかれするかも
牟可之欲里伊比祁流許等乃可良久爾能可良久毛己許爾和可禮須留可聞
 カラクはツラクなり。韓國へ渡るには困難多かりしかばはやく古人もカラグニノカラクと歌よみせしにて(その歌どもは傳はらねど)今はそを思ひてよめるなり○許等乃の乃は久の誤ならむ。さてムカシヨリイヒケルゴトクはカラ國ノカラクモのみにかゝれるなり。古義に昔ヨリ云傳ヘケルニタガハズ果シテ辛キ別ヲコノ韓國ノ道ニテスルカナと釋せるは非なり。韓國へ渡る道にて僚友に死別せむこと豈常例ならむや
 
(3273)3696 新羅奇《シラギ》へかいへにかかへる(ゆきのしま)ゆかむたどきもおもひかねつも
新羅奇敝可伊敝爾可加反流由吉能之麻由加牟多登伎毛於毛比可禰都母
     右三首六鯖作挽歌
 新羅はこゝの如く新羅奇と書かずばシラギとはよむべからざるを常に新羅と書けるはあながちに二字としたるにぞあらむ○初二きゝ分きがたけれど新羅ヘカ行カム家ニカ歸ラムといふべきをユカムを略しカヘラムを字數に制せられてカヘルといへるならむ。二註に新羅へ往くにか家に歸るにか思ひ分かざる趣に見たるは從はれず○ユカムタドキは新羅へ行くべき便宜なり。オモヒカネツは思ヒ敢ヘズにて思に堪へかぬる事をいへる(たとへば三二五五頁)とは別なり。されば一首の意はナホ新羅ヘ行カムカ今ハ家ニ歸ラムカ、君ニ別レテ新羅ヘ往クベキ便宜ヲ知ラズといへるなり。さてユカムタドキモオモヒカネツモといへるを思へば宅滿(3274)は龜卜の道によりて一行の指導者として必要なる人にぞありけむ
 六鯖は契沖の説に續紀に見えたる六人部《ムトベ》(ノ)連鯖麻呂の略ならむといへり
   到2對馬島淺茅(ノ)浦1舶泊之時不v得2順風1經停五箇日、於v是瞻2望物華1各陳2慟心1作歌三首
3697 ももふねのはつる對馬のあさぢ山しぐれのあめにもみだひにけり
毛母布禰乃波都流對馬能安佐治山志具禮能安米爾毛美多比爾家里
 モモフネノハツルの八言はツシマのツ(津)にかゝれる枕辭なり。モミダヒはモミヂの延なり
 
3698 (あまざかる)ひなにも月はてれれどもいもぞとほくはわかれきにける
安麻射可流比奈爾毛月波弖禮禮杼母伊毛曾等保久波和可禮伎爾家流
 イモゾは妹ニゾのニをはぶけるなり。月ヲ見レドモ妹ヲ見ズといへるなり
 
3699 あきさればおくつゆじもにあへずして京師《ミヤコ》の山はいろづきぬらむ
安伎左禮婆於久都由之毛爾安倍受之弖京師乃山波伊呂豆伎奴良牟
(3275) アヘズシテは堪ヘズシテなり○ミヤコノ山モといはずしてミヤコノ山ハといへるによりて其上にサラヌダニナツカシキといふことを略せるなることを察すべし
 
   竹敷《タカシキ》(ノ)浦舶泊之時各陳2心緒1作歌十八首
3700 (あしひきの)山下びかるもみぢ葉のちりのまがひはけふにもあるかも
安之比奇能山下比可流毛美知葉能知里能麻河比波計布仁聞安留香母
     右一首大使
 山下ビカルの語例は卷六(一一六六頁)にイハホニハ山下ビカリ錦ナス花サキヲヲリとあり。下ビカルは下デルにおなじければ山、シタビカリとシタをヒカリに附けてよむべく又ヒは濁りて唱ふべし○チリノマガヒハは散リ亂ルルハにてこゝにてはチリ亂ルル盛ハの意なり
 
3701 たかしきのもみぢを見ればわぎもこがまたむといひしときぞきにける
(3276)多可之伎能母美知乎見禮婆和藝毛故我麻多牟等伊比之等伎曾伎爾家流
     右一首副使
 秋歸らむあらましなりしかばワギモコガマタムトイヒシ時とはいへるなり
 
3702 たかしきのうら末〔左△〕《ミ》のもみぢわれゆきてかへりくるまでちりこすなゆめ
多可思吉能宇良末能毛美知和禮由伎弖可敝里久流末低知里許須奈由米
     右一首大判官
 チリコスナの語例は近くは卷八(一六六七頁)にコヨヒノミノマム酒カモチリコスナユメとあり。散ッテクレルナとなり
 
3703 たかしきのうへかた山はくれなゐのやしほのいろになりにけるかも
多可思吉能宇敝可多山者久禮奈爲能也之保能伊呂爾奈里爾家流香聞
(3277)     右一首小判官
 古義に
  ウヘカタ山は上方山にて上《ウハ》つ方にある山をいふべし。又即山名に負たるにもあるべし
といへり。おそらくは山の名にはあらじ。山の名はありもすべけれど不知案内の地にて其名を知らねば上の方に見ゆるままにウヘカタ山といへるならむ○ヤシホノイロは濃き色なり
 
3704 もみぢばのちらふ山邊ゆこぐふねのにほひにめでていでてきにけり
毛美知婆能知良布山邊由許具布禰能爾保比爾米※[人偏+弖]弖伊※[人偏+弖]弖伎爾家里
 山邊ユは山邊ヲなり。コグフネノニホヒを古義にコグ船ノヨソヒノ艶色《ニホヒ》と譯せり。おそらくは赤く船を塗れるをいへるならむ。卷三(三七九頁)及卷十三(二八七八頁)にアケノソホ舟とあり○ニホヒニメデテなどなまめき云へるげに遊行女婦の口吻なり
3705 たかしきのたまもなびかしこぎでなむ君がみふねをいつとかまたむ
(3278)多可思吉能多麻毛奈婢可之己藝低奈牟君我美布禰乎伊都等可麻多牟
     右二首對馬娘子名|玉槻《タマツキ》
 此女は遊行女婦なり
 
3706 たましけるきよきなぎさをしほみてば|△《ミ》あかずわれゆくかへるさに見む
多麻之家流伎欲吉奈藝佐乎之保美弖婆安可受和禮由久可反流左爾見牟
     右一首大使
 第四句をもとのまゝにすればナギサヲはユクにかゝりて即渚を行くことゝなりて渚を見あかぬことゝはならず。おそらくは見アカズワレユクとありし見をおとせるならむ
 
3707 あきやまのもみぢをかざしわがをればうらしほみちくいまだあかなくに
(3279)安伎也麻能毛美知乎可射之和我乎禮婆宇良之保美知久伊麻太安可奈久爾
     右一首副使
 
3708 ものもふとひとにはみえじ(したひもの)したゆこふるにつきぞへにける
毛能毛布等比等爾波美要緇之多婢毛能思多由故布流爾都奇曾倍爾家流
     右一首大使
 シタユは心ニなり。古義にいへる如く三四五一二と次第を換へてモノモフトの上にサレドといふことを添ヘて心得べし
 
3709 いへづとにかひをひりふとおきべよりよせくるなみにころもでぬれぬ
伊敞〔左△〕豆刀爾可比乎比里布等於伎敝欲里與世久流奈美爾許呂毛弖奴禮(3280)奴
 
3710 しほひなばまたもわれこむいざゆかむおきつしほさゐたかくたちきぬ
之保非奈波麻多母和禮許牟伊射遊賀武於伎都志保佐爲多可久多知伎奴
 上三句はイザ歸リ行カム、サテ潮干ナバ又モ來ムといへるなり○シホサヰは潮の音なり(二四六七頁參照)○古義に潮ノ高クタチ來テ船出スべキ時ニ至リヌレバ云々
といへるは非なり。マタモワレコムは上にカヘルサニ見ムといへるとは異にて停泊中ニ又モ來ムといへるなり
 
3711 わが袖はたもととほりてぬれぬともこひわすれがひとらずばゆかじ
和我袖波多毛登等保里弖奴禮奴等母故非和須禮我比等良受波由可自
 
3712 奴波多麻能いもがほすべくあらなくにわがころもでをぬれていかにせむ
(3281)奴波多麻能伊毛我保須倍久安良奈久爾和我許呂母弖乎奴禮弖伊可爾勢牟
 ヌバタマノイモといへる、例なき事なれば眞淵は『ヌバタマノ夜といふよりうつりてイモのイ(寢)の一言につづけたるなり』といひ宣長は『十一の卷にヌバ玉ノ妹ガクロ髪云々とある歌などを心得たがへて誤りてよめるなるべし』といへり。ヌバタマノイメといふイメとイモと音相近ければ通用してヌバタマノイモと云へるか。ともかくも穩ならず。結句もヌラシテといはではとゝのはず○比歌は前者の和ならむ
 
3713 もみぢばはいまはうつろふわぎもこがまたむといひしときのへゆけば
毛美知婆波伊麻波宇都呂布和伎毛故我麻多牟等伊比之等伎能倍由氣婆
 ヘユケバは過グレバなり
 
(3282)3714 あきさればこひしみいもをいめにだにひさしく見むをあけにけるかも
安伎佐禮婆故非之美伊母乎伊米爾太爾比左之久見牟乎安氣爾家流香聞
 コヒシミを古義にコヒシキ故ニの意なりといへるはいみじきひが言なり。コヒシミイモはハヤミ濱風、クシミ玉、ハヤミ早湍などと同例にてコヒシキ妹といふことなり(卷十一【二四五一頁】ハヤミハヤセ參照)。アキサレバはコヒシミにかゝれるにはあらでイメニダニ久シク見ムヲにかゝれるにて秋ハ夜長カレバ夢ニダニ久シク見ムトタノミシヲといへるなり。二註に秋ハ還リテ逢ント契置シ比ニモ成ヌレバ云々といひ秋ニナリナバ必歸リ來テ相見ムトチギリシ故ニ云々といへるは非なり○結句の上にソノ夜サヘといふことを補ひて聞くべし
 
3715 ひとりのみきぬるころものひもとかばたれかもゆはむいへとほくして
(3283)比等里能未伎奴流許呂毛能比毛等加婆多禮可毛由波牟伊敝杼保久之弖
 略解に獨著シ衣ノ紐ヲ云々と譯したれどキヌルは著ヌルにはあるべからず。もし著の意ならばヒトリノミとはいふまじきが上にキヌルもキタルとあらざるべからざればなり。初二は宜しく獨ノミ來ヌルワガ衣ノと譯すべし○又略解にワガ下紐ヲ云々とうつしたれどコロモノ紐は上紐にて下紐即褌の紐にあらず
 
3716 (あまぐもの)たゆたひくれば九月《ナガツキ》のもみぢの山もうつろひにけり
安麻久毛能多由多比久禮婆九月能毛美知能山毛宇都呂比爾家里
 タユタヒクレバはスクスクト來ズシテ途中ニ日ヲ費シ來レバとなり。モミヂノ山は契沖のいへる如く地名にはあらで卯花山の類なり〇四五の間〔日が月〕に月ノ末ツ方ニナリテといふことを補ひて聞くべし
 
3717 たびにてももなくはやことわぎもこがむすびしひもはなれにけるかも
(3284)多婢爾弖毛母奈久波也許登和伎毛故我牟須比思比毛波奈禮爾家流香聞
 モナクは恙ナクなり。上(三二六九頁)にも今ダニモモナクユカムトとあり。ハヤコトはハヤク歸リ來ヨトイハヒテとなり。ナレはヨゴレなり。此紐も衣の紐なり。さてムスビシを受けて紐とはいひたれど實は衣全體がよごれたるなり
 
   囘2來筑紫1海路入(ルトキ)v京到2播磨國家島1之時作歌五首
3718 いへじまはなにこそありけれうなばらをあがこひきつるいももあらなくに
伊敝之麻波奈爾許曾安里家禮宇奈波良乎安我古非伎都流伊毛母安良奈久爾
 新羅にての歌又歸路の播磨までの歌は缺けたるなり○家島ノ家トイフハ名ノミナリケリといへるなり
 
3719 (くさまくら)たびにひさしくあらめやといもにいひしをとしのへぬら(3285)く
久左麻久良多婢爾比左之久安良米也等伊毛爾伊比之乎等之能倍奴良久
 アラメヤトはアラムヤハトなり。ヘヌラクは經ヌル事ヨとなり。歸朝は翌年になりたれは年ノヘヌラクといへるなり
 
3720 わぎもこをゆきてはやみむあはぢしまくもゐに見えぬいへづくらしも
和伎毛故乎由伎弖波也美武安波治之麻久毛爲爾見廷〔左△〕奴伊敝都久良之母
 クモヰニミエヌは遙ニ行手ニ見エヌとなり。古義に近ク見シ淡路島モヤヤ遠ク跡ニナリテ雲居遙ニ見エヌレバと譯したるはいみじきひが言なり○イヘヅクラシモは家ニ近クナルラシモなり。上(三二三六頁)にも
  わぎもこははやもこぬかとまつらむを沖にやすまむ家づかずして
(3286)とあり○廷は延の誤なり
 
3721 (ぬばたまの)よあかしもふねはこぎゆかなみつのはままつまちこひぬらむ
奴婆多麻能欲安可之母布禰波許藝由可奈美都能波麻末都麻知故非奴良武
 ヨアカシモは夜スガラモなり。ミツノハママツはマチにかゝれる序なり。待ち戀ふるは家人なり。卷一にも
  いざ子どもはやくやまとへ大伴のみつの濱松まちこひぬらむ
とあり
 
3722 大伴のみ津のとまりにふねはててたつたの山をいつかこえいかむ
大伴乃美津能等麻里爾布禰波弖弖多都多能山乎伊都可故延伊加武
 三四の問に上陸シテといふことを補ひて聞くベし
 
(3287)   中臣朝臣|宅守《ヤカモリ》與2狹野《サヌ》(ノ)茅上娘子《チガミヲトメ》1贈答歌
3723 (あしひきの)やまぢこえむとする君をこころにもちてやすけくもなし
安之比奇能夜麻冶〔左△〕古延牟等須流君乎許許呂爾毛知弖夜須家久母奈之
 目録に
  中臣朝臣宅守娶2藏部女嫂〔左△〕狹野茅上娘子1之時勅|斷《サダメ》2流罪(ニ)1配2越前國1也。於v是夫帰相2嘆
易v別難1v會各陳2慟情1贈答六十三首
 とあり。嫂は嬬の誤か。藏部は後宮の藏(ノ)司か
 ヤマヂコエムトスルは山路ヲ越エテ越前ニ赴カムトスルなり。ココロニモチテは心ニ保チテなり。ヤスケクはヤスキ事にてここにては安キ心なり○此人天平十二年の大赦にも赦されざりしを思へば特に重く罸せらるゝ理由ありしにや。娘子が罪せられざりし趣なるも怪しむべし
 
3724 君がゆく道のながてをくりたた禰〔左△〕《ミ》やきほろぼさむあめの火もがも
君我由久道乃奈我※[氏/一]乎久里多多禰也伎保呂煩散牟安米能火毛我母
(3288) タタ禰を古義にタタ彌の誤とせり。クリタタミは繰寄セ畳ミなり。サル事モシカナハバ君ハ越ニ下ラデモアルベキヲといへるなり。古義に燒亡シテ近クナラシメム天ノアヤシキ火モガナアレカシと譯したるは非なり。もし路の長手を近からしむる意ならばただミチノナガ手ヲクリタタマムスベモガモとあるべく四五は無用にあらずや
 
3725 わがせこ之《シ》けだしまからばしろたへのそでをふらさね見つつしぬばむ
和我世故之氣太之麻可良婆思漏多倍乃蘇低乎布良左禰見都追志努波牟
 之を略解にガとよめり。古義に從ひてシとよむべし。但卷中にもガに之の字を借れる例はあり(キミガユクを君之行と書けり)。ケダシはモシなり。或ハ免サレテマカラデ已ム事モアルベケレドモシ罷ラバといへるなり
 
3726 このごろはこひつつもあらむ(たまくしげ)あけてをちよりすべなかる(3289)べし
己能許呂波古非都追母安良牟多麻久之氣安氣弖乎知欲利須辨奈可流倍思
    右四首娘子臨v別作歌
 コノゴロハは今ハなり。アラムはアラムヲなり。アケテヲチヨリは明朝以後なり。ヲチはサキなり
 
3727 ちりひぢのかずにもあらぬわれゆゑにおもひわぶらむいもがかなしさ
知里比治能可受爾母安良奴和禮由惠爾於毛比和夫良牟伊母我可奈思佐
 チリヒヂノは塵泥ノ如クなり。初二は自謙の辭のみ。古義にカク此度罪ヲ被リテ遠ク放タレテ塵泥ノ如ク世ニ容ラレズ數マヘラレヌ吾ナルモノヲ云々と譯せるは從はれず。流罪に逢はずともかくはいふべし
 
(3290)3728 (あをによし)奈良のおほぢはゆきよけどこの山道はゆきあしかりけり
安乎爾與之奈良能於保知波由吉余家杼許能山道波由伎安之可里家利
 ヨケドはヨカレドなり。コノ山ミチといへるは山城近江を經て越前へ赴く山路なり
 
3729 うるはしとあがもふいもをおもひつつゆけばかもとなゆきあしかるらむ
宇流波之等安我毛布伊毛乎於毛比都追由氣婆可母等奈由伎安思可流良武
 略解に
  モトナは例のヨシナの意也。此モトナの詞を三の句の上へ廻して心得べし
といひ古義も之に左袒したれど辭は妄におきかふべからず。モトナは元來あらずもがなと思ふ時にいふ辭にて此歌にてはユキアシにかゝれるなり。略解に又『上のユキアシカリケリといふにみづから答るさまによめり』といへるはよろし
 
(3291)3730 かしこみとのらずありしをみこしぢのたむけにたちていもが名のりつ
加思故美等能良受安里思乎美故之治能多武氣爾多知弖伊毛我名能里都
     右四首中臣朝臣宅守上v道作歌
 流人ノ身ナレバ畏多サニ妹コヒシキヲシノビテソノ名ヲノラデ來シヲ越路ニ入立ツ有乳《アラチ》山ノ峠ニ立チテ今ハ堪ヘカネテ妹ガ名ヲノリツといへるなり
 
3731 おもふ|△惠《ユヱ》にあふものならばしましくもいもが目かれてあれをらめやも
於毛布惠爾安布毛能奈良婆之末思久毛伊母我目可禮弖安禮乎良米也母
 初句を眞淵はオモフ故ニなりといひ雅澄は『思フママニと云むが如し』といへり。惠の上に由をおとしたるならむ〇二三の間にシマシクモ思ハヌ間ナケレバといふ(3292)ことを挿みて聞くべし。カレテは離レテなり。されば妹ガ目カレテは妹ガ目見ズテといはむに似たり
 
3732 (あかねさす)ひるはものもひ(ぬばたまの)よるはすがらにねのみしなかゆ
安可禰佐須比流波毛能母比奴婆多麻乃欲流波須我良爾禰能未之奈加由
 
3733 わぎもこがかたみのころもなかりせばなにものも※[氏/一]かいのちつがまし
和伎毛故我可多美能許呂母奈可里世婆奈爾毛能母※[氏/一]加伊能知都我麻之
 母※[氏/一]加を古義に母智加の誤としたれどモテはモチテの約にてはやく奈良朝時代よりいひそめし辭なり。卷十八なる大伴坂上郎女の歌にもウマニフツマニオホセ母天とあり。このモテを古義にモタセなりといへれど、もしモタセならば令負持《オヒモタセ》と(3293)こそいふべけれ。命負令持《オホセモタセ》とはいふべからず。さてナニモノモテカは何物ニヨリテカといふ意なり
 
3734 とほき山せきもこえきぬいまさらにあふべきよしのなきがさぶしさ
    一云さびしさ
等保伎山世伎毛故要伎奴伊麻左良爾安布倍伎與之能奈伎我佐夫之佐
    一云左必之佐
 初二はトホキ山ヲモ、トホキ關ヲモといへるなり。其關は所謂三關の一なる愛發《アラチ》(ノ)關なり。古義に礪波(ノ)關なりといへるは非なり。礪波は加賀と越中との界にありて奈良より越前に赴く人の越ゆべきにあらず○イマサラニは今ハ更ニなり。集中にイマサラニといへるに右の意なると今の世にいふ意なると二つあり○サブシは樂しからざるなり。サビシはサブシのうつれるなり
 
3735 おもはずもまことありえむやさぬるよのいめにもいもがみえざらなくに
(3294)於毛波受母麻許等安里衣牟也左奴流欲能伊米爾毛伊母我美延射良奈久爾
 初二はマコトニ妹ヲ思ハズシテアリ得ムヤ、アリ得ジとなり○ミエザラナクニを略解に
  ナクは詞にて見エザルニといふ也。卷十四ヲツクバノシゲキコノマヨタツ鳥ノメユカナヲ見ムサネザラナクニといふもサは發語にて寢ザルニ也
といひ古義にも
  見エザル事ナルヲといふ意になる詞なり。比例一卷、三卷、四卷、十四卷等に見えたり
といへるはいみじきひが言なり。こゝは寢ル夜ノ夢ニモ妹ガ見エザラバコソアラメ、見エザルニアラヌヲイカデカ思ハズシテアリ得ムといへるなり
 
3736 とほくあれば一日一夜もおもはずてあるらむものとおもほしめすな
等保久安禮婆一日一夜毛於母波受弖安流良牟母能等於毛保之賣須奈
(3295) トホクアレバは第二句をうち越えてオモハズテアルラムにかゝれるなり。即一日一夜ダニ思ハズテハアラヌヲ遠ク隔タリテアレバ思ハズテアルラムトオモホスナといへるなり
 
3737 ひとよりはいもぞもあしきこひもなくあらましものをおもはしめつつ
比等余里波伊毛曾母安之伎故非毛奈久安良末思毛能乎於毛波之米都追
 イモゾモのモは助辭なり。卷十一(二三七二頁)にも
  相見ては戀なぐさむと人はいへど見て後にぞもこひまさりける
とあり。三四はモシ妹ナカリセバ云々といへるなり。オモハシメツツはカク戀セシメツツシテといふ事にて初二にかへりかゝれるなり
 
3738 おもひつつぬればかもとな(ぬばたまの)ひとよもおちずいめにし見ゆる
(3296)於毛比都追奴禮婆可毛等奈奴婆多麻能比等欲毛意知受伊米爾之見由流
 上(三二三七頁)に
  わぎもこがいかにおもへかぬばたまのひと夜もおちずいめにしみゆる
とあると第三句以下全く相同じ
 
3739 かくばかりこひむとかねてしらませばいもをばみずぞあるべくありける
可久婆可里古非牟等可禰弖之良末世婆伊毛乎婆美受曾安流倍久安里家留
 四五は妹ヲバ知ラズシテアラマシモノヲといはむにひとし。卷十一(二二四七頁)に
  かくばかりこひしきものとしらませば遠くのみ見てあらましものを
とあり
 
(3297)3740 あめつちのかみなきものにあらばこそあがもふいもにあはずしにせめ
安米都知能可未奈伎毛能爾安良婆許曾安我毛布伊毛爾安波受思仁世米
 天地ノ神アレバソノチハヒニテ我思フ妹ニ又逢フ事モアラムとなり。卷四(七一〇頁)にも
  あめつちの神にことわりなくばこそわがもふ君にあはずしにせめ
とあり。シニセメは死ナメなり
 
3741 いのち乎之〔二字左△〕《シモ》またくしあらば(ありぎぬの)ありてのちにもあはざらめやも
    一云ありてののちも
伊能知乎之麻多久之安良婆安里伎奴能安里弖能知爾毛安波射良米也母
(3298)    一云安里弖能乃知毛
 古義に之《シ》のみを助辭としたれどイノチヲ全クアラバとはいふべからず。乎之はおそらくは之毛の誤ならむ。コロモシモ〔二字右△〕サハニアラナム(二五二八頁)などのシモなり。アリテは程經テなり
 
3742 あはむ日を其日としらずとこやみにいづれの日まであれこひをらむ
安波牟日乎其日等之良受等許也未爾伊豆禮能日麻弖安禮古非乎良牟
 ソノ日トシラズはイヅレノ日ト知ラズなり○トコヤミニは上(三二五一頁)にヤミニヤ妹ガコヒツツアルラムとあるヤミニとおなじかるべし。古義に照日ヲモ常闇ニ泣クラシマドヒテとうつせるは從はれず。彼處の如く心ノ闇ニクレマドヒテと譯すべし。コヒヲラムは戀ヒ居ラムコトゾとなり
 
3743 たびといへばことにぞやすきすくなくもいもに戀つつすべなけなくに
多婢等伊倍婆許等爾曾夜須伎須久奈久毛伊母爾戀都都須敝奈家奈久(3299)爾
 初二は旅トイヘバ言ニハ何ナラネドとなり。卷十一(二三八二頁)なる
  言にいへば耳にたやすしすくなくも心のうちにわがもはなくに
の初二と相似たり○スクナクモは二註にいへる如くスベナケナクニにかゝれり。スベナケナクニはスベ無カラ無クニなり。さてスクナクモスベナケナクニはイトスベナキ事ヨといふ意なり。スクナクと下なる否定と相合ひてイトといふ意となるなり
 
3744 わぎもこにこふるにあれは(たまきはる)みじかきいのち毛〔□で囲む〕をしけくもなし
和伎毛故爾古布流爾安禮波多麻吉波流美自可伎伊能知毛乎之家久母奈思
     右十四首中臣朝臣宅守
 アレハは吾者なり。人壽は元來短きものなればイノチにミジカキを添へたるなる(3300)べけれどミジカキとイノチモのモと相背きて聞ゆ。毛はおそらくは衍字ならむ。ヲシケクモは惜キ事モなり
 
3745 いのちあらばあふこともあらむわがゆゑに波太《ハダ》なおもひそいのちだにへば
伊能知安良婆安布許登母安良牟和我由惠爾波太奈於毛比曾伊能知多爾敞〔左△〕波
 イノチダニヘバは命ダニアリ經バにて其下にアフコトモアラムを略せるなり○波太を從來將の意としたれど將としてはこゝにかなはず。思ふにいにしへハナハダをハダともいひしにて
  尾張國の寺の名、伊勢國の村の名(記傳卷二十一【一二六〇頁】に伊勢一志郡に甚《ハダ》目村ありといへり)なるハダメを甚目と書き來れるを思ふべし
 波太は甚ならむ。更に思ふにハナハダはハダを重ねたるハダハダの上のダをナと訛れるにや
 
(3301)3746 ひとのううる田|者《ハ》うゑまさずいまさらにくにわかれしてあれはいかにせむ
比等能宇宇流田者宇惠麻佐受伊麻左良爾久爾和可禮之弖安禮波伊可爾勢武
 初二は人ノ如ク田ツクル事ハ得爲タマハズとなり○イマサラニは雅澄の云へる如く第四句を越えてアレハイカニセムにかかれるにてそのイマサラニは今ハ更ニなり(三二九三頁參照)○アレハイカニセムを略解に『吾ハ何ヲタヅキトシテアランとなり』と釋せるは非なり。吾ハ何ヲ以テ口ヲ糊セムといへるにあらず。吾ハ君ヲイカニセムの君ヲを略したるなり○クニワカレは契沖のいへる如く國ヲ隔テタル別なり。モシオソバニヰルモノナラ又何トカスルスベモアラウモノヲといふ意を含めるなり
 
3747 わが屋どのまつの葉見つつあれまたむはやかへりませこひしなぬとに
(3302)和我屋度能麻都能葉見都都安禮麻多無波夜可反里麻世古非之奈奴刀爾
 マツノ葉ミツツは松ノ葉ヲ見テソノマツ〔二字傍点〕トイフ名ヲ心ニカケツツとなり○トニは程ニなり。近くは卷十(一九一一頁)に君ヨビカヘセ夜ノフケヌトニとあり
 
3748 ひとぐにはすみあしとぞいふすむやけくはやかへりませこひしなぬとに
比等久爾波須美安之等曾伊布須牟也氣久波也可反里常世古非之奈奴刀爾
 ヒトグニは他國なり。スムヤケクは速ニなり
 
3749 ひとぐににきみをいませていつまでかあがこひをらむときのしらなく
比等久爾爾伎美乎伊麻勢弖伊都麻弖可安我故非乎良牟等伎乃之良奈久
(3303) イマセテのイは添辭なり。さればイマセテは居ラシメテなり。卷十二(二六三六頁)にもキミヲ座而《イマセテ》ナニカオモハムとあり。略解に往《イニ》マサセテなりといへるは非なり○トキはソノイツマデトイフ時にてやがて限なり。略解に逢ハム時とせるはいかが。シラナクは知ラレナクにて知ラレヌ事ヨとなり
 
3750 あめつちのそこひのうらにあがごとくきみにこふらむひとはさねあらじ
安米都知乃曾許比能宇良爾安我其等久伎美爾故布良牟比等波左禰安良自
 ソコヒは果なり。ウラはウチなり。故に契沖はソコヒノウラを限(ノ)内とうつせり○サネはマコトニなり。姓名などに實の宇をサネとよむは右の古語に依れるなり○卷十三(二九二九頁)にアマ雲ノ下ナル人ハ妾《ワ》ノミカモ君ニコフラムとあるに似たる所あり
しろたへのあがしたごろもうしなはずもてれわがせこただにあふま(3304)でに
 
3751 之呂多倍能安我之多其呂母宇思奈波受毛弖禮和我世故多太爾安布麻低爾
 モテレはモタレのうつれるにて形見トシテ持チテアレとなり。マデニはマデなり
 
3752 はるの日のうらがなしきにおくれゐて君にこひつつうつしけめやも
波流乃日能宇良我奈之伎爾於久禮爲弖君爾古非都都宇都之家米也母
 ウラガナシは心ニ悲シなり。オクレヰテは殘サレヰテなり○ウツシケメヤモはウツシカラムヤハにて心確ナラムヤハといふ事なり。ウツシは心確ナルなり。卷十二(二七三一頁)にも
  あしひきの片山きぎしたちゆかむ君におくれてうつしけめやも
とあり
 
3753 あはむ日のかたみにせよとたわや女のおもひみだれてぬへるころもぞ
(3305)安波牟日能可多美爾世與等多和也女能於毛比美多禮弖奴敞〔左△〕流許呂母曾
     右九首娘子
 いにしへは男子はみづからマスラヲといひ女子は自タワヤメといひしなり
 
3754 過所《クワソ》なしにせきとびこゆるほととぎす多〔左△〕我子〔左△〕爾毛△△《ワガミニモガモ》やまずかよはむ
過所奈之爾世伎等婢古由流保等登藝須多我子爾毛夜麻受可欲波牟
 退所は漢語なるが我邦にも用ゐられて關市令に凡欲v度v關者皆經2本部本司1請2過所1など見えたり。後にいひし關所手形なり。略解にフミとよみ古義にフダとよみたれど此卷の書式を思ふにもしフミ又はフダならば布美又は布太と書くべく過所とは書くべからず。されば過所はクワソと音讀すべし(後の書には過書とも書けり)○第四句を眞淵は和〔右△〕我未〔右△〕爾毛我毛〔二字右△〕の誤脱とせり。之に從ふべし
 
3755 うるはしとあがもふいも乎〔左△〕《ト》山川をなかにへなりてやすけくもなし
(3306)宇流波之等安我毛布伊毛乎山川乎奈可爾敝奈里※[氏/一]夜須家久毛奈之
 山川は山ト川トなり。山川ヲはナカニにかかれるなり。ヘナリテにかゝれるにあらず。されば山川ヲ中ニテヘダタリテといへるなり。伊毛乎の乎は等の誤ならむ。ヤスケクはヤスキ心なり
 
3756 むかひゐて一日もおちず見しかどもいとはぬいもをつきわたるまで
牟可比爲弖一日毛於知受見之可杼母伊等波奴伊毛乎都奇和多流麻弖
 イトハヌは厭カザリシなり。イモヲは妹ナルニなり。結句の次にアヒ見ヌ事ヨといふことを略せるなり
 
3757 あがみこそせきやまこえてここにあらめこころはいもによりにしものを
安我未許曾世伎夜麻故要※[氏/一]許己爾安良米許己呂波伊毛爾與里爾之母能乎
 セキヤマは關ト山トなり。上にもトホキ山セキモコエキヌとよめり。關は愛發《アラチ》關な(3307)り。二註に砥浪關とせるはいみじき誤なり○第三句結句はココニアレ、ヨリタルモノヲとあるべきが如くなれど第三句は將來をかけてアラメといひ結句は既往に溯りてヨリニシといへるなり。即身コソ此後モココニ居ラメ、心ハハヤク妹ノ許ニ寄リ行キシモノヲといへるなり
 
3758 (さすたけの)大宮人はいまもかもひとなぶりのみこのみたるらむ
    一云いまさへや
佐須太氣能大宮人者伊麻毛可母比等奈夫理能未許能美多流良武
    一云伊麻左倍也
 集中に今モカモ、ケフモカモといへる、多くは二つのモ共に助辭にて今カ、ケフカといふことなれど、こゝのイマモカモは今モカといふことなり。即我在リシ日ノ如ク今モヤとなり〇四五は古義に
  自が上やまた娘子が上を殿上の若公達はおもしろがりてくさぐさなぶりごとを今やするならむと思ひやるなり
(3308)といへる如し(但今ヤは今モとあるべし)。大宮人は昔も輕薄なるが多かりきと見ゆ
 
3759 たちかへりなけどもあれはしるしなみおもひわぶれてぬるよしぞおほき
多知可敝里奈氣杼毛安禮波之流思奈美於毛比和夫禮弖奴流欲之曾於保伎
 タチカヘリはクリカヘシなり。アレハとシルシナミとをおきかへて心得べし○オモヒワブレテはオモヒワビテなり。ワブルはいにしへ下二段にもはたらかししならむ
 
3760 さぬるよはおほくあれどもものもはずやすくぬるよはさねなきものを
左奴流欲波於保久安禮杼毛母能毛波受夜須久奴流欲波佐禰奈伎母能乎
 初二はウチヌル夜ハシカスガニ少カラネドといへるなり。サネは上にも人ハサネ(3309)アラジとあり。マコトニなり
 
3761 よのなかのつねのことわりかくさまになりきにけらしすゑしたねから
與能奈可能都年能己等和利可久左麻爾奈里伎爾家良之須惠之多禰可良
 ツネノコトワリの下にトを添へて心得べし○須惠之を田中道麻呂はスヱシとよみて『草木の種をまくを種ヲスヱルと今もいへり』といひ雅澄も『今の俗にも草木の種をまくをスヱルといへり』といへり。細に云はばマキシには同じからでオキシ、ウヱシなどいふ意にこそ。さてその種を契沖以下前世の業因としたれど現世に犯しし罪ありてかくなれるにて前世の業因に歸するまでも無ければスヱシタネは犯しし罪をいへりとすべし
 
3762 (わぎもこに)あふさか山をこえてきてなきつつをれどあふよしもなし
和伎毛故爾安布左可山乎故要弖伎弖奈伎都都乎禮杼安布餘思毛奈之
(3310) 古義に契沖の説を承けて『ワギモコニはアフにいひかけたる枕詞ながら此歌にてはなほ歌意にもかゝれり』といへり。げに然り。されば初二はワギモコニアフトイフ名ヲ負ヘル山ヲなどうつすべし
 
3763 たびといへばことにぞやすきすべもなくくるしきたびも許等《コト》にまさめやも
多婢等伊倍婆許登爾曾夜須伎須敝毛奈久久流思伎多婢毛許等爾麻左米也母
 上(三二九八頁)にも
  たびといへばことにぞやすきすくなくもいもにこひつつすべなけなくに
とあり○從來許等をコラとよみて妹の事としたれどコラニマサメヤモといひてはこゝにかなはず。されば宜しくコトとよむべし。さてコトニマサメヤモは言ニ増シ言ハメヤハといふことにて一首の意は
  旅トイヘバ何デモ無イ、サリトテカク苦シキ旅モ言葉ニイヘバ旅ト言フヨリ外(3311)ハ無イ
といへるならむ
 
3764 山川をなかにへなりてとほくともこころをちかくおもほせわぎも
山川乎奈可爾敝奈里弖等保久登母許己呂乎知可久於毛保世和伎母
 上(三三〇五頁)にも山川ヲナカニヘナリテヤスケクモナシとあり。山川ヲ中ニテカタミニ隔リテといへるなり。ヘダテテをヘナリテといへるにあらず。ココロヲオモホセは心ヲモチタマヘとなり。集中に心ヲオモフといへるは皆心を持つ事なり。畢竟四五は近キヤウニ思ヘといへるなり
 
3765 (まそかがみ)かけてしぬべとまつりだすかたみのものをひとにしめすな
麻蘇可我美可氣弖之奴敝等麻都里太須可多美乃母能乎比等爾之賣須奈
 マソカガミはカケテにかゝれる枕辭のみ。契沖が
(3312)  カタミノモノは何と知べからず。上の鏡すなはち此にはあらず。次の歌を見るべし
といへる如し。カケテは心ニカケテなり○マツリダスは契沖が奉出スなりといへる如し。古義にも
  マツリダスは三代實録宣命に多く奉出と見えたるそれに同じ。この奉出を本にイダシマツルとよめるは非なり
といへり。こゝにてはマヰラスルと譯すべし。奉出に對して奉入とも云へり
 
3766 うるはしとおもひしおもはばしたひもにゆひつけもちてやまずしぬばせ
宇流波之等於毛比之於毛婆波之多婢毛爾由比都氣毛知弖夜麻受之努波世
    右十三首中臣朝臣宅守
 初句は我ヲウルハシトとなり。オモヒシオモハバはオモヒオモハバにてシは助辭(3313)なり。シヌバセは懷ヒ給ヘなり。下紐ニユヒツクヨといへるを見て贈りし物の鏡にあらざるを知るべし○婆浪は顛倒か
 
3767 たましひはあしたゆふべにたまふれどあがむねいたしこひのしげきに
多麻之比波安之多由布敞〔左△〕爾多麻布禮杼安我牟禰伊多之古非能之氣吉爾
 初句は魂ヲバなり。古義に
  タマフレドは鎮魂祭ノ祈祷ヲスレドモの意なり。鎮魂祭をミタマフリと云りと源嚴水いへり。さもあるべし
といひて
  歌意は戀シク思フ心ノシゲキニヨリテ魂モウカレ出ベケレバ朝トナク夕トナク鎮魂祭ヲシテ魂ヲシヅムレドモナホ驗ナクテ吾胸痛ク苦シクシテ神魂ノウカレ出ル事止ズとなり
(3314)といへり。案ずるに天武天皇紀十四年十一月丙寅の處に是曰爲2天皇1招魂之とあるをミタマフリシキと訓じ延喜式四時祭なる鎮魂祭を古版本にオホムタマフリと訓じたり。タマフリといふ語を味はふに魂代を設け(おそらくは衣を魂代として)そを振り動して當人に元氣を附くるわざにて眠らむとする人をゆり動すに似たる心なるべくおぼゆ。然るに招魂は
  宋玉の招魂篇の王逸注によれば宋玉憐2哀屈原|厥《ソノ》命將1v落作2招魂1欲d以復2其精神1延2其年壽u也とありて人の臨終ならでもいふべけれど
 將に離れ去らむとする魂をよび戻すわざにてタマフリとは齊しからず。
  このわざはタマヨバヒ又はタマヨビと稱せられて今も邊土には行はる。我郷里などにてはただ屋の上に昇りて其人の名を呼ぶのみなれど或地方(たとへば安房)にては禮記大喪記に見えたる如く衣を振りて呼ぶとぞ、又其衣は肌附ならでは効薄しといひて漁夫などは褌を振るとぞ
 然も天武紀に招魂をミタマフリとよめるは實はタマフリなるを之に當る漢語を求めかねて枉げて招魂を充てたるならむ。思ふにタマフリには盪魂といふ語ぞ當(3315)るべき。江淹の雜詩に盪v魂兮刷v氣とあり
 又鎮魂といふ語は始めて所謂大寶令に見えたり。こは天照大神の天(ノ)石窟《イハヤ》にこもりましし時の故事によれるにて
  古語拾遺に又令d天(ノ)鈿女《ウズメ》(ノ)命……手持2著v鐸《サナギ》之矛1而於2石窟戸(ノ)前1覆誓槽《ウケブネフセ》擧2庭燎1巧作c俳優u相與歌舞といひまた凡鎮魂之儀者天(ノ)鈿女(ノ)命之遺跡といへり
 ウカレ出ヅル魂ヲオシ鎮ムといふ思想に基づけるなれば魂ヲフリ動シテ活溌ナラシムといふ思想に基づけるタマフリとはもと別なるを其目的の一なるが爲にや少くとも後には混同せられたる如し。そは鎮魂をタマフリともタマシヅメとも訓じ又鎮魂祭の作法にタマフリに屬すべき事とタマシヅメに屬すべき事と相交れるにておし測らる
  たとへば江次第に次御巫衝2宇氣1、次……此間女官藏人開2御衣(ノ)筥1振動とある前者はタマシヅメに屬すべく後者はタマフリに屬すべし。因にいふ。ウケは桶即|麻笥《ヲケ》なるべし。古事記には伏2※[さんずい+于]氣《ウケ》1と書き日本紀には覆槽置(此云2于該布西《ウケフセ》1)と書けるを古語拾遺にウケを約誓《ウケヒ》の意として誓槽と書きてウケブネとよませたるが非(3316)なる事は記傳卷八(四七六頁)に辨じたる如し。さて宇氣を伏せしは其中に大神の御塊を籠め奉れる心、又矛にて宇氣を衝きしは其御魂を押鎮むる心なり。宇氣を衝きし事は紀にも拾遺にも見えざれど貞観儀式以下に見えたる鎮魂祭の作法によりて然りきと知らる。なほ云はまほしき事いと多かれど今の歌の註にはおのづから程あれば又時機を待ちてこそ(タマムスビの事も)
 ○さて今の歌のアシタユフベニタマフレドは朝夕ニ魂フリノワザヲスレドといへるにて畢竟朝夕ニ元氣ヲ附クレドといへるなり。古義にタマフレドが給フレドにあらざる事を顯したるはおむがしけれど其説はひが言なり。タマフリはしづまり衰へむとする魂をふり動すにてうかれ出でむとする魂をおししづむるにあらず、又今はそのわざを行ふのみにて祭など營むにあらざればなり○アガムネイタシはココチナヤマシといふ意なり
 
3768 このごろは君をおもふとすべもなきこひのみしつつねのみしぞなく
己能許呂波君乎於毛布等須敝毛奈伎古非能末之都都禰能未之曾奈久
 
3769 (ぬばたまの)よる見し君をあくるあしたあはずまにしていまぞくやし(3317)き
奴婆多麻乃欲流見之君乎安久流安之多安波受麻爾之弖伊麻曾久夜思吉
 代匠記に
  アハズマのマは助語にてただアハズなり。コリズと云べきをコリズマニとよめるが如し。此歌は事出來ぬさきにあへる時の事をいへるなり
といへり。最後に逢ひし時の事をいへるならむ。アハズマニはげにコリズマニと同格なるべし。さてマニは儘ニにて之を重ねたるがマニマニ又それを略せるがママニならむ。さらばアハヌ儘《マ》ニといふべきをアハズマニといへるは例の古格に從へるなるべし(三一一七頁參照)。なほ云はばアハズマニ、コリズマニは太古の熟語にてアハズマニは當時まで行はれコリズマニはなほ後までも行はれしならむ
 
3770 安治麻野に屋《ヤ》どれる君がかへりこむときのむかへをいつとかまたむ
安治麻野爾屋杼禮流君我可反里許武等伎能牟可倍乎伊都等可麻多武
(3318) 安治麻は越前國今立郡昧眞なり。宅守は此處に流されたりしなり。カヘリコムトキノムカヘヲは古義などに從ひて歸リ來給ハム時ニ迎ニ出デムヲの意と見べし
 
3771 宮〔左△〕《イヘ》人のやすいもねずてけふけふとまつらむものをみえぬ君かも
宮人能夜須伊毛禰受弖家布家布等麻都良武毛能乎美要奴君可聞
 略解に『或人宮は家の誤ならんといへり』といへり。げに然るべし。茅上娘子は家族にあらねば家族の情をおし測りてマツラムといへるなり
 
3772 かへりけるひときたれりといひしかばほとほとしにき君かとおもひて
可敝里家流比等伎多禮里等伊比之可婆保等保登之爾吉君香登於毛比弖
 カヘリケルは赦サレテ歸リケルなり。キタレリは元來來到レリの略なり。ホトホトシニキを契沖は『おどろきて胸のほとばしるなり』といひ宣長は『フタフタト爲《シ》ニケリなり』といへり。ウレシサニ殆死ニキといへるならむ○契沖が『これは天平十二年(3319)六月に大赦ありて穗積朝臣老等を召還させ給へる後よあるなるべし』といへる如くならむ。續日本紀天平十二年六月庚午の勅に
  其流人穗積朝臣老……等五人召令v入v京。……小野王、曰奉(ノ)弟日女、石上(ノ)乙麻呂、牟禮(ノ)大野、中臣〔二字傍点〕(ノ)宅守〔二字傍点〕、飽海(ノ)古良比不v在2赦限1
とあり
 
3773 君がむたゆかましものをおなじことおくれてをれどよきこともなし
君我牟多由可麻之毛能乎於奈自許等於久禮弖乎禮杼與伎許等毛奈之
 君ガムタは君ト共ニなり。ユカマシはもとより空想にて不可能なる事なればマシといへるなり○オナジコトは行カムモ止マラムモ同ジ事ナリとなり。後の歌ながら新古今集雜下に
  世の中はとてもかくてもおなじ事宮もわら屋もはてしなければ
とあり。まづオナジ事といひ、さて更に細にオクレテヲレドヨキコトモナシといへるなり。オクレテは殘リテなり
 
3774 わがせこがかへりきまさむときのためいのちのこさむわすれたまふ(3320)な
和我世故我可反里吉麻佐武等伎能多米伊能知能己佐牟和須禮多麻布奈
     右八首娘子
 結句を契沖がアナカシコ共時我ヲ忘レ給フナとうつせるいとよろし
 
3775 (あらたまの)としのをながくあはざれどけしきこころをあがもはなくに
安良多麻能等之能乎奈我久安波射禮杼家之伎許己呂乎安我毛波奈久爾
 四五は上(三一九四頁)にも見えたり。アダシ心ヲ我持タヌ事ヨといへるなり
 
3776 けふもかもみやこなりせば見まくほりにしの御馬屋《ミマヤ》のとにたてらまし
家布毛可母美也故奈里世姿見麻久保里爾之能御馬屋乃刀爾多弖良麻(3321)之
    右二首中臣朝臣宅守
 ケフモカモは今日カなり。モは二つながら助辭なり。二註に『西の御厩は右馬寮にて此娘子が家右馬寮の近隣にありしなるべし』といへり。案ずるにケフといへるは何の節會とかいふ日にてニシノミマヤノ外ニタツといへるは娘子が公事にて右馬寮の前を過ぐるを見る趣ならむ。又案ずるに宅守は右馬寮の職員なりしか
 
3777 きのふけふきみにあはずてするすべのたどきをしらにねのみしぞなく
伎能布家布伎美爾安波受弖須流須敝能多度伎乎之良爾禰能未之曾奈久
 キノフケフはただコノゴロといふ意にて第三句以下にかゝれるなり。されば此歌は上(三三一六頁)に
  このごろは君をおもふとすべもなきこひのみしつつねのみしぞなく
(3322)とあるとほぼ同じき意なり。古義は誤解せり。スベノタドキはやがてスベなり
 
3778 しろたへのあがころもでをとりもちていはへわがせこただにあふまでに
之路多倍乃阿我許呂毛弖乎登里母知弖伊波敞〔左△〕和我勢古多太爾安布末低爾
     右二首娘子
 イハヘは神ヲ祈レとなり。さる俗習ありしによりてよめるならむ。上に宅守の歌に
  わぎもこがかたみのころもなかりせば何物もてかいのちつがまし
 又娘子の歌に
  しろたへのあがしたごろもうしなはずもてれわがせこただにあふまでに
  あはむ日のかたみにせよとたわやめのおもひみだれてぬへる衣ぞ
といへるがあり
 
3779 わがやどのはなたちばなはいたづらにちりかすぐらむ見るひとなし(3323)に
和我夜度乃波奈多知婆奈波伊多都良爾知利可須具良牟見流比等奈思爾
 
3780 こひしなばこひもしねとやほととぎすものもふときにきなきとよむる
古非之奈婆古非毛之禰等也保等登藝須毛能毛布等伎爾伎奈吉等余牟流
 
3781 たびにしてものもふときにほととぎすもとなななきそあがこひまさる
多婢爾之弖毛能毛布等吉爾保等登藝須毛等奈那難吉曾安我古非麻左流
 第四句はモトナ啼クモノカ、サハ啼クナといへるなり
 
3782 あまごもりものもふときにほととぎすわがすむさと爾〔左△〕きなきとよも(3324)す
安麻其毛理毛能母布等伎爾保等登藝須和我須武佐刀爾伎奈伎等余母須
 爾はもと乎とありしが次の歌よりまぎれたるならむ
 
3783 たびにしていもにこふればほととぎすわがすむさとにこよなきわたる
多婢爾之弖伊毛爾古布禮婆保登等伎須和我須武佐刀爾許欲奈伎和多流
 コヨはココヲなり。第四句と重複せり
 
3784 こころなきとりにぞありけるほととぎすものもふときになくべきものか
許己呂奈伎登里爾曾安利家流保登等藝須毛能毛布等伎爾奈久倍吉毛能可
 
(3325)3785 ほととぎすあひだしましおけながなけばあがもふこころいたもすべなし
保登等藝須安比太之麻思於家奈我奈家婆安我毛布許己呂伊多母須敝奈之
     右七首中臣朝臣宅守守2花鳥1陳v思作歌
 アヒダシマシオケはシバシ啼止メとなり。イタモはイトモなり
                            (大正十四年一月講了)
         2005年5月13日(金)午後5時28分、入力終了
 
 
(3327) 萬葉集新考卷十六
                  井上通泰著
 
  有2由縁1△并雜歌
 古義に由縁はヨシともユヱヨシともよむべしといへり。由縁はやがて故事なり。由縁の下に歌の字を落せるか
   昔者有2娘子1、字曰2櫻兒1也、于v時有2二壯士1、共誂此娘△1、而捐v生挌競貪v死相敵、於v是娘子歔欷曰、從v古來2于今1未v聞未v見一女之身往2適二門1矣、方今壯士之意有v難2和平1、不v如妾死相害永|息《ヤメムニ》、爾乃尋2入林中1懸v樹經死、其兩壯士不v敢2哀慟1血泣|漣《タリ》v襟各陳2心緒1作歌二首
 此傳説は勝鹿(ノ)眞間〔日が月〕娘子、莵原《ウナヒ》娘子又次なる縵兒などのと同類なる傳説なり○古義に『櫻兒はサクラノコと唱ベし』といへり。こは次に足曳之山縵之〔右△〕兒とあるに依れる(3328)なれど櫻兒、縵兒はサクラコ、カヅラコにて歌にカヅラノ兒といへるは言を足したるなり。但歌ならでもノを添へたる例あり。たとへば靈異記中卷第卅三に有2一女子1名曰2万之子1とあり○誂を略解に挑の誤とし古義に
  トフと訓なり。つまどひ誘ふ意なり
といへり。はやく卷九(一八六七頁)にいへる如くトフ又はツマドフとよむべし。娉と同意なり。娘の下に子をおとせるならむ○挌は字書に撃也又闘也とあり。卷一なる三山歌(二六頁)にもアラソフを相挌と書けり○爾乃は文選に多く見えたり。雄略天皇九年紀にも爾乃赤駿|超※[手偏+慮]《テウチヨ》絶2於塵埃1とあり。二字をつらねてスナハチとよみて可ならむ○不敢はアヘズとよむべし。タヘズといはむに同じ。古義に『敢は堪の誤なるべし』といへるは非なり○泣は涙なり。漣はタリとよむべし。襟はコロモノクビ又は單にクビとよむべし。エリは古語にあらず
 
3786 春さらばかざしにせむとわがもひしさくらの花は散去△流香聞《チリニケルカモ》
春去者挿頭爾將爲跡我念之櫻花者散去流香聞
 結句は古義に從ひて家の字を補ひてチリニケルカモとよむべし。略解にチリユケ(3329)ルカモとよめるは語格にかなはず○時來ラバ妻ニセムト思ヒシ云々といふ意を其名にちなみて櫻にたとへていへるなり
 
3787 妹が名に繋有《カケタル》さくら花さかば常にやこひむいや年のはに
妹之名爾繋有櫻花聞者常哉將戀彌年之羽爾
 繋有を二註にカカセルとよめり。舊訓の如くカケタルとよむべし。負ヒタルとなり。卷二なる明日香皇女を悼める歌(二五九頁)に御名ニカカセル明日香河とあるはカケタマヘル即負ヒタマヘルなり○イヤトシノハニは毎年なり
 
   或曰、昔有2三男1、同娉2一女1也、娘子嘆息曰、一女之身易v滅如v露、三雄之志難v平如v石、遂乃※[人偏+方]2※[人偏+皇]池上1沈2沒水底1、於v時其壯士等不v勝2哀頽之至1各陳2所心1作歌三首【娘子字曰鬘兒也】
 古義に『彷徨を※[人偏+方]2※[人偏+皇]と書けるは例ある事にて徘徊を俳※[人偏+回]と書き彷彿を※[人偏+方]佛と書けると同類なり』といへり
 
3788 耳なしの池しうらめし吾味兒が來つつかづかば水は將涸《カレナム》
(3330)無耳之池羊蹄恨之吾味兒之來乍潜者水波將涸
 今耳なし山の南の麓に木原地といふがあり。これやいにしへの耳成池のなごりならむ。將涸を舊訓にカレナムとよめるを略解にアセナムに改めたるは中々にわろし。さてカレナムはカレナムヲといはむにひとし。一首の意は妹ガ來リテ身ヲ投ゲバ水涸レテ溺レザラシムベキヲ耳ナシノ池ノ然セザリシガ恨メシといへるなり。大和物語に
  猿澤の池もつらしなわぎもこが玉藻かづかば水ぞひなまし
とあるは今の歌を作り更へたるなり。古義に
  ウラメシは妹にかけて聞べし。池を恨むるにはあらず云々
といへるはいみじきひが言なり
 
3789 (足曳の)山縵の兒けふゆくと吾に告《ツゲ》せば還〔左△〕《ハヤク》來《コ》ましを
足曳之山縵之兒今日徃跡吾爾告世婆還來麻之乎
 山カヅラをカヅラノ兒にいひかけたるなり。されば正しくは山までを枕辭とすべし。告はツゲとよむべし(古義にはノリとよめり)○略解に
(3331)  還は迅の誤にてハヤクコマシヲとかトクキテマシヲとか訓べし
といへり。速の誤か○ケフユクトは今日死《シニ》ニ往クトなり。縵は鬘蔓の通用なり。鬘には元來カヅラの義なし
 
3790 (足曳の)玉〔左△〕《ヤマ》かづらの兒けふのごと何隈乎〔二字左△〕《イヅレノトキカ》見〔左△〕《モヒ》つつ來にけむ
足曳之玉縵之兒如今日何隈乎見管來爾監
 玉は山の誤なり(玉勝間卷十三參照)○第四句を從來もとのまゝにてイヅレノクマヲとよめり。ケフノゴトとあるより推せば隈は時の誤ならざるべからず。おそらくは何隈乎は何時可の誤又見は思の誤ならむ。さらば第二句は山カヅラノ兒ヲのヲを略せるにて第三句以下の意は今日ハ途スガラ常ヨリマサリテ妹ノ事ガ思ハレタガサテハカカル歎ニ逢ハム兆ナリシカといへるなり
 
   昔有2老翁1、號曰2竹取《タカトリ》(ノ)翁1也、此翁季春之月登v丘遠望、忽値2煮v羮之九箇女子1也、百矯無v儔花容無v止〔左△〕、于v時娘子等呼2老翁1嗤曰、叔父來乎、吹2此燭〔左△〕火1也、於v是翁曰唯唯、漸※[走+多]徐行著2接座上1、良久娘子等皆共含v咲相(3332)推讓之曰、阿誰呼2此此翁1哉、爾乃竹取翁謝之曰、非慮之外偶逢2神仙1、迷惑之心無2敢所1v禁、近狎之罪希贖以v謌、即作歌一首并短歌
 竹取は古來タカトリともタケトリともよめり。此翁の名を借れる竹取物語にこそ
  今は昔竹取の翁と云もの有けり。野山にまじりて竹を取つつよろづの事につかひけり
とあれ、こゝには登v丘遠望とのみありて竹を取る事は見えぬを物語の文に引かれてこゝの竹取翁をも竹を取る人と思はむは心淺し。タカトリは地名にておそらくは大和の鷹取ならむ。はやく契沖も
  今大和國十市郡(○高市郡か)に鷹取山あり。昔は竹取とかけりと云へば此翁彼處に住けるにや。竹取物語は此竹取翁をタケトリと讀てさて名を借て作りけるにや
といへり○煮羮は若菜を煮るなり。卷十に
  春日野に煙たつ見ゆをとめらし春野のうはぎつみて煮らしも
とあり○無止は契沖の説に無匹の誤ならむといへり。一本に無上とあり○燭は二(註)に鍋の誤とせるに從ふべし。※[走+多]は趨の俗字なり(一七四三頁參賂)○相推讓之曰、謝之曰の之は助辭なり。訓むべからず○非慮之外はオモヒノ外ニといふことなるべければ非と外と重複せるに似たれど天武天皇紀元年に栗隈王承v符對曰……若|不意之《オモハザル》外有(ラバ)2倉卒之事1云々、延暦十一年に成りし高橋氏文に見えたる景行天皇の詔詞に不思《オモ》 保佐佐流 外 爾 、三代實録貞観八年九月の宣命に不慮之外 爾、靈異記卷中第四十二に不慮之外、同卷下第廿五に不思之外、大鏡道長傳に思ハザル外ノ事ニヨリテ、十訓抄中第七可v專2思慮1事のうち二條三位云々の條に思ハザル外ニ參リテ侍ル、吾妻鏡壽永元年五月ニ不v圖外、同文冶元年八月及同六年十一月に不慮之外、本集一本に見えたる仙覚の奥書に彼御本ハ不慮之外備後守三善康持被v給v之とあり謡曲にもオモハザル外といふこと多かればオモヒノ外ニといふことを夙くよりオモハザル外ニともいひしにて今はそをそのまゝ漢文にものして非慮之外と書けるなり○無敢所禁の所は除きて心得べし。トドメガタシといふ意なり
 
3791 緑子の 若子《ワカゴ・ワクゴ》 がみには (たらちし)  母に所懷《ウダカエ》 ※[手偏+差]襁《スキカクル》 平生《ハフコ》がみには ゆふかたぎぬ 氷津裡《ヒツラ》にぬひ服《キ》 頚著《ウナツキ》の わらはがみには 結幡《ユヒハタ》の(3334)そでつけごろも きし我を
緑子之君子蚊見庭垂乳爲母所懷※[手偏+差]襁平生蚊見庭結經方衣氷津裡丹縫服頸著之童子蚊見庭結幡之袂著衣服我矣
 こゝの若子は嬰兒なり。古語拾遺に今俗號2稚子1謂2和可古〔三字傍点〕1云々とあるによりてワカゴとよむべし。又武烈天皇紀なる影媛の歌にシビノ和倶吾ヲとあり又繼體天皇紀なる毛野(ノ)臣の妻の歌にケナノ倭倶吾イとあり又本集卷十四にトノノ和久胡シ又トノノ和久胡ガ(三〇四八頁及三〇六八頁)とあるによりてワクゴとよまむも惡からず。但紀なると卷十四なるとは青年をいへるなり。なほ云はむに輕々しくワクゴを古く又正しと思ひワカゴを新しく又訛れりとは定むべからず。ワカゴとワクゴとの關係はなほ研究を要する事あり○若子蚊見庭は若子ガ身ニハなり。さて次なるハフコガ身ニハはヌヒ服《キ》と照應しワラハガ身ニハはキシと照應せるを、若子ガ身ニハは母ニ懷カエと照應せず。されば見庭とある見は代などの誤ならむかとも思へど三處ともに見庭と書きたれば妄に誤とは認むべからず。古義に
  ワク子ガミニハは今村樂の説に若子ガ時ニハといふ意なり。次のハフ兒ガ身ニ(3335)ハ、童子ガ身ニハといふも同意なりといへり。時ニハを身ニハといふことはいかがなるいひざまなれど此歌にてはまことにその意ときこえたり
といへり○古義に
  所懷はウダカエと訓べし。イダカエと云は後世の轉語なり。抑ウダクといふ言の意は腕纏なり
といへり。之に從ふべし○※[手偏+差]襁を略解にタスキカクとよめるを古義には
  襁は字鏡にvr兒帶也、須支また束2小兒(ヲ)背(ニ)1帶、須支とあり(こは今俗にスケといふものなり)ざてこゝは襁をかけて負ばかりのほどほひをいふにていまだいときなきを云り。さてこの襁を古來タスキと訓來れるはいかがあらむ。タスキならば手襁と書べし。襁のみにては字足はず。書紀にも手襁と書り
といひ又※[手偏+差]を挂の誤としてスキカクルとよめり。此説に從ふべし○平生を舊訓にはハフコとよめり。然るに何故にハフコとよむにか從來不明なりしに雅澄始めて
  熟考るに論語(○憲問篇)に久要不v忘2平生之言1とありて孔安國が註に平生猶2少時1とあるに依れりと見えたれば少時をやがて這めぐる少兒の意に取れるものな(3336)り
と唱へき。しばらく此説に從ふべし○ユフカタギヌは略解に
  木綿肩衣なり。卷五に布カタギヌともよめり。且袖なきを肩衣といふは古今同じかるべし(○眞淵説)
といへり。今も小兒の服に袖なきものあり○氷津裡は略解に
  宣長云。卷十二に純裏《ヒタウラ》衣とあり。タウの約ツなればヒタウラをヒツラともいふべし
といへり。ヒタは純一の意なればヒツラは所謂トホシ裏ならむ(二六一七頁參照)○頸著を略解にウナツキとよみ(眞淵訓)さて
  童(○頸著か)は髪の末の頸をつくほどなるをいふ、目刺などいふたぐひ也
といひ古義は舊訓に從ひてクビツキとよめり。クビは頸の周をいひ頸の後方はウナといへばウナツキとよむべし。因にいふウナジは頸脚《ウナアシ》の義か○結幡を略解にユフハタとよみて
  結は纐、幡は機也。纐纈をユハタといふは略也。ユフハタといふぞ正しかる。絹布を(3337)絲もてゆひくくりて染れば也。ハタは機して織たるをすべていふ(○眞淵説)
といへり。さらばユヒハタといふべし。やがて古義にはユヒハタとよめり。今いふシボリ染なり○袖ツケゴロモは略解に
  右の肩衣とむかへ見るに是は今少し人と成れる童の事なれば袖ある衣をきするさま也(○眞淵説)
といへり。卷二十に宮人ノソデツケゴロモといへるとは別なり○キシ我ヲは著シ我ゾなり。古義に
  こゝにて翁の生長のことはいひとぢめたり。さて此次に翁のやゝ人となりて壯なりしほどに至れることなくては言足ぬこゝちすれど其は省きて然思はせたるにや
といへるは誤解なり。なほ後にいふべし
 
丹因〔左△〕《ニツラフ》、子等何四千〔五字左△〕△庭《ヨチコラガミニハ》 (みなのわた) 蚊黒爲〔左△〕髪《カグロキ》を まぐし持《もち》 於是〔左△〕《カタニ》かきたれ とり束《ツガネ》 あげてもまきみ とき亂《ミダリ》 童兒丹成見《ワラハニナリミ》
丹因子等何四千庭三名之綿蚊黒爲髪尾信櫛持於是蚊寸垂取束擧而裳(3338)纏見解亂童兒丹成見
 宣長は丹因を舊訓の如くニヨレルとよみて
  ニヨレルは似合タルといふ事也。さてここは丹因四千子等何見庭《ニヨレルヨチコラガミニハ》とありつらんを見をおとして亂れたる也
といひ雅澄は丹因の上に我を補ひてアニヨルコラガとよみ
  四千庭とは四千は五卷にヨチコラト、十四卷にヨチヲゾモテルなどあるヨチは同じころほひの子をいふことなればここもその意なるべし。されどニハといふことおだやかならず。我ガ壯ナリシホド思ヒツキテ靡キ依ル女ノ唯一人ニハ限ラズ同ジ年齢ノ女等我モ我モト云々セシといふ意とは思はれたり
といへり。案ずるに丹因は丹囚の誤にてニツラフとよむべきならむ。トラフをツラフと訛りけむは高圓《タカマト》を高松《タカマツ》と訛れるを例とすべし(一九四〇頁參照)。又同例にはあらねどタラチネをタラツネと訛りアヂキナクをアヅキナクと訛れる例あり(二三二五頁及二三八一頁參照)。次に子等何四千庭は宣長のいへる如く四千子等何見庭の誤脱ならむ。さてニツラフは卷十一にもカキツバタニツラフ君ヲ云々とありて(3339)紅顔といふこと又ヨチコラは妙齢といふことにてヨチコラガ以下は翁が妙齢なりし程の事をいへるなり。されば上に擧げたる古義の不審は誤解より出でたるいたづら言なり○蚊黒爲〔右△〕髪尾の爲を契沖は衍字とし眞淵は伎の誤とせり。支の誤なるべし。雅澄はカグロシカミヲとよみてウマキ國をウマシ國といふ格なりといへれどウマシ國はウマシをいにしへウマシ、ウマシキとはたらかししが故にウマシキ國のキを省きていへるにてこゝの例には引くべからず○マグシのマは美辭なり。さてマグシを信櫛と書けるは卷七(一二九八頁)にマツチをニホフ信土《マツチ》ノと書けると同例なり。眞をマとよむ如く信も亦マとよみつべし。持を略解にモテとよみ古義にモチとよめり。古くはモチとのみいひしを後にはモテともいひしなり(卷十五【三二九二頁】モテカ參照)○於是を舊訓にココニとよめるを古義に於肩の誤とせるは然るべし。但『こゝはやうやく十歳をも餘れるほどなるべければ』といへるは非なり。十五六歳の美少年のさまなり○束は舊訓の如くツガネとよむべし。古義にタカネとよみて卷二にタケバヌレ多香根者ナガキ妹ガ髪とあるを例に引きたれどそのタカネバはタカザレバといふことなり○アゲテモマキミは揚ゲテモ卷イタリにて(3340)(かの揚卷はやがて揚げて卷きたるさまなり)そのミはワラハニナリミのミと相對せるなり○亂は眞淵に從ひてミダリとよむべし。古義にミダシとよめるは後の世ざまなり○童兒丹成見を眞淵が見を兒の誤とし又次なる羅を此句に附けてウナヰコノニナスコラとよめるはいとわろし。久老はウナヰニナシミとよみ雅澄はワラハニナシミとよめり。宜しくワラハニナリミとよむべし。黒髪ヲ櫛モテ肩ニ掻キ垂レ、サテ或ハ髪ヲ揚ゲテ結ヒ或ハ解キ亂シテ童兒ノ状ニ成リといへるにて自己の美少年時代の状を寫せるなり
(羅丹津蚊經) 色《イロ》丹|名著△來《ナツカシキ》 紫の 大綾の衣《キヌ》 墨(ノ)江の 遠里《トホザト》小野の 眞榛《マハリ》もち にほしし衣に こま錦 紐にぬひつけ 刺部重部波累服
羅丹津蚊經色丹名著來紫之大綾之衣墨江之遠里小野之眞榛持丹穗之爲衣丹狛錦紐丹縫著刺部重部波累服
 宣長は
  羅丹津蚊經色丹の色の下の丹は衍字にてサニツカフ色ナツカシキと訓べし。卷(3341)七に羅をサのかなに用ふ。サニツカフはほむる詞にて色といはむ爲なり
といひ雅澄は
  羅は紅(ノ)字の寫誤れるなるべし。クレナヰノと訓べし。丹《ニ》を云むが爲なり。丹津蚊經色丹はニツカフイロニと訓べし。ニツカフはニツラフといふと同意なり
といへり。宣長等が卷七に羅をサの假字に用ひたりといへるは
  すみの江の岸の松が根うちさらしよりくる浪の音の清羅(一二七七頁)
これを指せるなり。その羅は一本に霜とあり。霜とあるがまされるか否かはしばらくおかむ、羅はサとはよみがたし。されど羅丹津蚊經を一句とし色丹名著來の丹を削りてイロナツカシキとよみて一句とすべき事は宣長のいへる如し。更に案ずるに羅丹津蚊經は狹舟津羅經の誤にあらざるか。もし然らば色にかゝれる枕辭とすべし。卷十一(二三四七頁)にも
  さにつらふ色にはいでずすくなくも心のうちにわがもはなくに
とあり。又思ふに彼紗をサといふはその字音によれるなれど羅はもとより紗の類なれば之をもサといひけむによりて、よくも語源を思はでサの音に羅の字を借れ(3342)るか、もし然らばかのケミスといふ語は檢の字音より出でたるを檢と同意なる閲をケミスと訓ずると同例とすべし。又蚊も誤字にあらでサニツカフはサニツラフと通用せし枕辭なるか○名著來の著の下に爲をおとせるか○ムラサキノ大アヤノ衣は大なる文《アヤ》を織り出せる紫の衣なり。衣は下なるニホシシ衣とおなじくキヌとよむべし(二註にはこゝはコロモとよめり)○遠里小野之を古義に宣長の説に從ひてヲリノヲヌノとよみたれどこゝこそ然もよまめ、卷七なる
  すみのえの遠里小野の眞榛もちすれるころもの盛すぎぬる
は六言によみては調わろければなほトホザトヲヌノとよむべし(一二七五頁參照)○眞榛《マハリ》は萩なり。ニホシシは染メシなり。ニホスはニホハスの略なり○コマニシキヒモニヌヒツケは高麗錦ヲ紐ト縫ヒ著ケなり○刺部重部を古義にササヘカサナヘとよみて
  サシカサネを伸たる言なり。かくて刺は紐にかけていひ重は衣にかけて云るなり。從來この刺部重部を訓得たる人なし
といへり。カサネを伸ぶればげにカサナヘとなれどサシは伸べてもササヘとはな(3343)らず。其上に此句は五言なるべきなり。案ずるに上の部を衍字とし下の部を次の句に讓りてナシカサネとよむべきか。さてそのサシは下なるヌヒシ黒沓サシハキテのサシとおなじく添辭とすべきか○波累服を略解に
  ナミカサネは並重なり。又波は取の字を誤れるにてトリカサネか(○眞淵説)
といひ古義にも『波累服は竝重著なり』といへれどナメ〔右△〕カサネとはいふべくナミ〔右△〕カサネとはいふべからず。案ずるに部波累服を伊取累服の誤としてイトリカサネキとよむべきか○古義に
  以上十三句(○羅以下)は翁の壯なりしほど思ひつきたる女等の身にさまざまの装飾していかでうつくしまれむとて我さきにと心をつくせるさまときこゆ
といへるは非なり。蘿丹津蚊經以下十二句は翁が十五六歳の頃の服装のうち衣の事をいへるにて打十八爲以下はそのつづきなり
 
(打十八爲《ウチソヤシ》) 麻續《ヲミ》兒ら (ありぎぬの) 寶〔左△〕之子《ハトリノコ》らが 打栲者〔左△〕《ウツタヘニ》 經而《ハヘテ》おる布 日ざらしの 朝手作《アサテヅクリ》を 信巾裳成《シキモナス》者〔□で囲む〕 之寸丹取《シキニトリ》爲〔□で囲む〕支《キ》
打十八爲麻續兒等蟻衣之寶之子等蚊打栲者經而織布日暴之朝手作尾(3344)信巾裳成者之寸丹取爲支
 打十八爲を古義にウツソヤシとよみて
  ウツソヤシは麻績の枕詞なり。ウツソは全麻の義なるべきよし一卷にくはしくいへり。ヤシはヨシヱヤシ、ハシキヤシなどのヤシに同じ。さて此句より下は貴賤の女に限らず翁の壯なりしほど心よせたるさまを云
といへり。打麻はなほ打チタル麻の義とおぼゆればウチ〔右△〕ソとよむべし。ウチソヤシは卷一(四二頁)なる打麻《ウチソ》ヲ麻績《ヲミ》ノオホキミと同意なる枕辭なり。ヤシもヲも共に助辭なり。又ウチソヤシ以下十句は翁が十五六歳の頃の服装のうち裳の事をいへるなり。前註いたく誤解せり○麻績ノ兒ラは麻《ヲ》を績む娘なり。アリギヌノは枕辭なり。寶之子を二註に『女をほめていへるなり』といへるは寶之子ラを麻績ノ兒ラと共に翁に心を寄せたる女と誤り認めていへるなり。ヲミノ兒ラ寶之子ラは布を云はむとして云々ノ女ガ云々セシ布といへるにて次に沓を云はむとして飛鳥ヲトコガ霖《ナガメ》イミ縫ヒシといへるアスカ男におなじ。翁に心を寄せたる女にあらず。さて寶之子等はおそらくは誤字ならむ。試にいはば服部《ハトリ》之子等を誤れるか。いにしへ麻鎮と(3345)服部と相並びて朝廷にも太神宮にも仕へたりし事を思ふべし○打栲者を契沖はウツタヘニとよめり。さらば者は丹の誤とすべし(煮の誤とすべきかとも思へど此歌にてはニは皆丹と書けり)。ウツタヘニはヒタスラなり。例は卷四(六四六頁及八二四頁)及卷十(一九三〇頁)に見えたり○經而はヘテともハヘテともよむべし。卷六なる悲2寧樂故郷1作歌にウチハヘテを打經而と書けり。ヘはやがてハヘの約にて絲を延ぶる事なり○日ザラシノは麻苧のよき布は織りたる後に水にて洗ひて日に晒すが故にいへるなり。孟子にも江漢以濯v之、秋陽以暴v之、※[白+高]々乎不v可v尚《クハフ》已といへり(俗にサラシといふはやがて晒したる布なり)○手作は卷十四(二九八七頁)に
  たまがはにさらす※[氏/一]豆久利さらさらになにぞこの兒のここだかなしき
とあり。内匠寮式(櫛机の條)にも手作布一尺とあり。從來之を手織布の事とせるは誤れり。新撰字鏡には之を漢語の紵に充てたり。紵は苧にて織れる布、苧は麻の類にてカラムシといふ物なり。さればテヅクリはカラムシにて織れる布にて今|上布《ジヤウフ》といふ物なり。而して之をテヅクリといふは其絲は一すぢづつ手にて撚るが故ならむ。さてこゝに朝手作とある朝を二註に麻の借字とせり。其説宜しきに似たれどよく(3346)思ふに麻と苧《カラムシ》とは同類なれど異品なれば苧《カラムシ》もて織れる布に麻を添へて麻テヅクリと云はむ事いかが。されば朝は新《ニヒ》の誤ならむかと思ふに日本靈異記(中卷力女示2強力1縁第廿七)に織2麻細《アサタヘ》(ノ)※[草冠/疊]1而著2夫(ノ)大領1とありて※[草冠/疊](ハ)弖都九里とあり。之とこゝに朝手作とあるとを合せて思へば麻もて織れるも上等なるはなほテヅクリといひしにて苧《カラムシ》もて織れると分たむが爲にはアサテヅクリ又はアサタヘノテヅクリといひしならむ
  因にいふ。和名抄に唐式云白絲布〔三字右△〕今案俗用2手作布三字1云2天豆久利乃沼乃1是乎とあるは白細布の誤ならずや。又新撰字鏡に紵白布細〔三字右△〕也弖豆久利とあるは白細布の顛倒ならずや。テヅクリは色の白きと絲の紬きとによりて貴ばるゝものなり
 ○信巾裳成者〔右△〕之寸丹取爲〔右△〕支は者と爲とを衍字としてシキモナスシキニトリキとよむべし。麻績(ノ)兒等ガ織リシ布モテ作レル裳ト麻手作ノ裳トヲ所謂|重裳《シキモ》ノ如ク重ネテ取著といへるなり。重裳はカサナレル裳なるべくシキニは重ネテなり○古義に
  以上十句は同じ年齢のなみなみの女等に思ひつかれたるのみに非ず良き人の(3347)女賤者の女さへも我に心うつしてさまざまの絹布などを云々して容づくりすることにのみ心を用ひたる謂にや
といへるはいみじき誤解なり。翁が裳をとり装ひたるさまを云へるなるをや
 
(屋所△經《ヤドカクフ》) 稻寸丁女《イナギヲトメ》が つまどふと 我丹所來〔左△〕爲《ワレニタバシシ》 彼方《ヲチカタ》の 二綾《フタヤ》したぐつ (とぶ鳥の) あすかをとこが 霖《ナガメ》いみ ぬひし黒沓《クログツ》 さしはきて 庭《ニハ》立〔□で囲む〕住退〔二字左△〕《ユキカヘリ》
屋所經稻寸丁女蚊妻問迹我丹所來爲彼方之二綾裏沓飛鳥飛鳥壯蚊霖禁縫爲黒沓刺〔左△〕佩而庭立住退
 屋所經以下は同時の服装のうち履物の事をいへるなり○屋所經を略解にヤドニフルとよみ古義に
  反歌に丹穗所經迹とあるを思へば所經はヘルの借字なることいちじるし。是によりて考るに屋は逞の字を寫誤れるなどにやあらむ。逞(ハ)誇也と字書に見えたり。されば逞所經にてホコロヘルとよむべし
(3348)といへり。反歌の丹横所經迹はニホヘレドとはよむベからず○ヲトメを丁女と書けるは卷九(一八四二頁)なる過2葦屋處女墓1時作歌にヲノコを丁子と書けるが如し。イナギは邑長のイナギにはあらで地名ならむ。さて屋所經は經の上に※[木+存]などをおとせるにてヤドカクフとよむべきなり。※[木+存]は和名抄に加久布とあり。今いふカコフなり。左傳哀公八年にも囚2諸《コレヲ》樓臺1※[木+存]v之以v棘とあり。そのヤドカクフは枕辭なり。刈りたる稻を掛くる爲に竹木を以て作れる垣をイナギといへば地名のイナギをそれに通はして宿カクフといふ枕辭を添へたるなり○ツマドフはいひ寄るなり○我丹所來爲を宣長はワレニゾキタルとよみ雅澄は來を※[(木の左右に人)/貝]の誤としてワニゾタバリシとよめり。此辭はヲチ方ノ二綾シタ沓につづけるなればゾといひて切るべきにあらず。案ずるに來はげに※[(木の左右に人)/貝]の誤なるべし。※[(木の左右に人)/貝]は字書に賜予也とあり。又所は集中に令の如くつかへる例あれば
  たとへば卷十三なる挽歌の第一首(二九一一頁)に國見所遊(クニミアソバシ)懸而所偲(カケテシヌバシ)御手二所取賜而所遊(オホミテニトラシタマヒテアゾバシシ)とあり
(3349) 我丹所※[(木の左右に人)/貝]爲はワレニタバシシとよむべし○彼方を舊訓にヲチカタとよめるを二註に浮方の誤として浮紋《ウキカタ》の意とせり(眞淵説)。もとのまゝにて遠國の意とすべし。二綾はつづめてフタヤとよむべし。眞淵は二色の綾かと云へり。二色綾は織部司式に見えたり。シタグツは靴下なり○アスカヲトコは眞淵の説に『昔飛鳥の里に沓よく作る人ありしにや』といへり。令義解《リヤウノギゲ》に
  典履二人掌d縫2作靴履鞍具1及檢c校百済(ノ)手部u。百済(ノ)手部十人掌2雜(ノ)縫作(ノ)事(内藏寮及大藏省)
とあれば飛鳥に住みし百済の手人ならむ○ナガメイミを眞淵は
  日よりよき時にぬるが黒きなるべし
といへり。さらばヌリシ黒沓とこそいふべけれ。又宣長は
  長雨の時は外のすべき業ならざる故に家の内にゐて沓をぬふをいふにや。俗に雨フリシゴトといふ意なり
といへり。さらばアマゴモリヌヒシ黒沓などこそいふべけれ。かゝればしばらく契沖が
(3350)  霖をいむは革などのしめりて縫がたければ歟
といへるに從ふべし○黒沓はクログツともクリグツともよむべし。大寶の烏皮※[寫のウ冠なし]にクリカハノクツと傍訓したり。サシハキテのサシは添辭なり○古義に『二綾裏沓及この黒沓は皆稻寸丁女が※[(木の左右に人)/貝]物なり』といへるは非なり。稻寸娘子が贈れるは裏沓《シタグツ》のみなり○庭立住退を眞淵はニハニタタズメバとよみて『退は誤字ならんか』といひ古義には住退を往還の誤としてニハニタチユキモトホレバとよめり。こゝは七言一句なるべき處なれば立を衍字としてニハユキカヘリとよむべし=@ 因にいふ。此歌を句法いたく亂れたりと思へるは非なり。今まで釋き來れる中にて句法の亂れたるは著シ我ヲの處のみなり。その外はよみやうあしき爲に句法の亂れたる如く見ゆるのみ
 さて此句にてしばらく切れたるなり
 
(莫立〔左△〕《ナイデソト》) 禁《イサメ》をとめが ほのききて 我丹所來〔左△〕爲《ワレニタバシシ》 みはなだの 絹の帶を 引帶《ヒコビ》なす 韓帶丹取爲《カロビニトリナシ》 わたつみの 殿の蓋《ヒサシ》に とびかける (3351)すがるのごとき 腰細〔二字左△〕《ホソゴシ》に とりかざらひ まそ鏡 とりなめかけて おのがかほ かへらひ見つつ
莫立禁尾迹女蚊髣髴聞而我丹所來爲水縹絹帶尾引帶成韓帶丹取爲海神之殿盖丹飛翔爲輕如來腰細丹取※[食+芳]氷眞十鏡取雙懸而己蚊果〔左△〕還氷見乍
 莫立以下は同時の服装のうち帶の事をいへるなり○莫立は立を出の誤としてナイデソトとよむべし。次の禁にかゝれる枕辭なり○禁はイサメとよむべし(卷九【一七七八頁】なる※[女+耀の旁]歌會の歌にイサメヌを不禁と書けり)。そのイサメは上なるイナギとおなじく地名なるべし(略解には二句をナタチソトイサムルヲトメガとよみ古義には莫立を母負之又は母父之の誤としてオモトジノ又はオモチチノとよみ禁をモラスとよむべしといへり)○我丹所來爲は上の如く來を※[(木の左右に人)/貝]の誤としてワレニタバシシとよむべし○ミハナダのハナダは青白色即水色なり。ミを契沖は水の義とし雅澄は眞の意とせり。いづれとも定めがたし。絹はキヌとよむべし。略解にタヘを本(3352)訓とせるはわろし○引帶は和名抄に衿(ハ)比岐於比、小帶也とあり。今村樂はつづめてヒコビとよむべしといへり。ナスは如キなり。ヒコビナスは韓帶にかゝれるなり。取爲にかゝれるにあらず。韓帶は古義につづめてカロビとよめり。取爲は從來トラシとよみたれど己が事を云へるなればトラシとはいふべからず。宜しくトリナシとよむべし。爲は此歌にては多くはシに借りたれど又|爲輕《スガル》ノゴトキ、カタミニ將爲迹《セムト》とス又セに借りたる例あり。又カクゾシコ爲《ナル》とナルに借りたる例さへあり。さてこのヒコビナスカロビニトリナシの二句は上なるシキ裳ナス重《シキ》ニトリ著と相對せるなり○韓帶はいかなるものにか明ならず。久老がまづ引帶について
  今幼稚の兒の服に縫付たる帶をヒコビといふは是なり
といひ次に韓帶について
  こなたの帶は衣服の外に取はなして別なるを異國の帶は直に服に縫付て引帶なるにや。さるを韓帶とはいふにやあらん
といへるはげにともおぼえず。カラオビは帶をたゝみて幅を狹くして結ぶをいふにあらざるか○スガルは一種の蜂なり。蓋を眞淵はイラカとよめれどスガルが大(3353)※[まだれ+夏]の甍に飛ばむこといかがあるべき。按ずるに蓋はヒサシとよむべきか。ヒサシは古くより(新撰字鏡、弾正臺式、和名抄以下)庇と書けど廂のヒサシとは別なり。廂又は※[まだれ+無]のヒサシは今いふイリガハなり。庇のヒサシは屋ビサシなり
 字書に庇ハ蔽也覆也とあり又※[草冠/太/皿](ハ)掩也覆也とあればヒサシを※[草冠/太/皿]とも書かむこと必しも無理ならず(卷十一にはワガヤドノノキノシタクサのノキを甍と書ける例あり)。いづれにもあれ此四句には典據あるべし○腰細は細腰の誤ならむ○トリナメカケテは並ベ懸ケテなり。カヘラヒミツツは顧ミツツなり。果は※[日/木]の誤なり○略解に
  是も右のをとめが心ことによそほひて吾にけさうするさまなり。久老云。カヘラヒミツツの下に吾丹所來爲《ワレニゾコシ》の一句をおとせりといへり。此考きはめて宜しかるべし
といへるはいみじきひが言なり。以上皆翁の装をいへるにて少女の装をいへるにあらず○又吾丹所來爲は上述の如くワレニタバシシとよむべければ此に加ふべきにあらず。古義に
(3354) 以上十六句(○ミナハダノより野邊ヲメグレバまで)は翁の若かりしほど貌をとりかざりて媚ありきしありさまを云るなり
といへるも非なり。丹因以下六十二句皆翁の色めきしさまを述べたるなり
 
春さりて 野邊をめぐれば おもしろみ 我をおもへか さぬつ鳥 來なきかけらふ 秋さりて 山邊をゆけば なつかしと 我を思へか 天雲も △行田菜引《イユキタナビク》
春避而野邊尾囘者面白見我矣思經蚊狹野津鳥來鳴翔經秋避而山邊尾往者名津蚊爲迹我矣思經蚊天雲裳行田菜引
 オモシロミ云々は我ヲオモシロミ思ヘカといふべきを顛倒せるにてそのオモシロミは面白ガリなり。略解に『卷十四にオモシロキ野ヲバナヤキソともよめり』といへるはあやなし。ここは野をおもしろしといへるにあらず○サヌツ鳥はもと雉の枕辭なるを雉に借りたるなり。古事記なる八千矛ノ神の御歌に佐怒都登理キギシハトヨムとあり。カケラフは翔ルなり○行田菜引を眞淵はユキタナビキヌとよみ雅(3355)澄は一本の訓にイユキタナビキとあるに依りて行の上に伊を補へり。宜しくイユキタナビク〔右△〕とよむべし。ユキヤミタナビクとあるべきなれど止の字をおとしたるものとも思はれず。語例は卷三(四二二頁)なる不盡山歌に天雲モイユキハバカリタナビクモノヲとあり
 
かへりたち △路《オホヂ》を所來者《クレバ》 (うちひさす) 宮をみな (さす竹の) 舎人をとこも しぬぶらひ 
かへらひ見つつ 誰子ぞとや 所思而在△《オモハレテアリシ》 かくぞ爲故爲《シコナル》 古部《イニシヘ》 ささきし我や (はしきやし) 今日やも子らに 五十狹《イサ・シラ》邇《・ニ》迩哉《トヤ》 所思而在《オモハレテアル》 かくぞ爲故爲《シコナル》
還立路尾所來者打氷刺〔左△〕宮尾見名刺竹之舎人壯裳忍經等氷還氷見乍誰子其迹哉所思而在如是所爲故爲古部狹狹寸爲我哉端寸八爲今日八方子等丹五十狹邇迩哉所思而在如是所爲故爲
 カヘリタチは還發なり。略解に
  路の上に大の字おちしならん。オホヂヲクレバとあるべし(○眞淵説)
(3356)といへるに從ふべし○所來者を古義に
  ケレバと訓べし。ケレバは來ケレバの縮まれるなり。クレバとよみては所(ノ)字あまりてわろし
といへれどケレバは來タレバにてこゝにかなはず。又所は卷十一(二二四五頁)にヒトノ所寢《ヌル》、卷十二(二五五二頁及二六一八頁)にヒトノ所見《ミル》、所解《トクル》ヒアラメヤ、卷十三(二八一六頁)に所佐《タスクル》クニゾとあり又反歌にニホフ レドを丹穗所經迹と書ける如くレに借れるのみ○宮ヲミナは宮女なり、サス竹ノ舎人といへるについて略解に
  サス竹ノは例は宮とも君とも(○又皇子とも)つづくれどここは上に宮はあればはぶきてただちに舎人といへり(○眞淵説)
といひ雅澄は
  刺竹之舎人壯裳これは大宮とつづけたるより又うつれるものにて大宮の舎人といふ意にいひ係たるなり
といへり○略解に
  シヌブラヒはシヌビを延てシヌバヒなるを又延てシヌブラヒといへり
(3357)といへるはもとより非なり。古義に
  慕は常にはシヌビ、シヌブとはたらくを又シヌブルともはたらけば伸てシヌブラヒともいふなり
といへるも非なり。もしシヌブルの活ならばシヌビ又は延べてシヌバヒといふべければなり。案ずるにこはシヌブルを延べてシヌブラフといひそのシヌブラフをはたらかしてシヌブラヒといへるにて京語にヌを延べてナフといひ更にそをはたらかしてナハム、ナヒ、ナヘといへると同例なり。さてシヌブラヒはメデといふことなり。又カザラヒ、カヘラヒ、カケラフ、シヌブラヒなど延言の重出せるは作者の口癖とおぼゆ○タガ子ゾトヤ所思而在は下なるイサ邇迹哉所思而在と相對せるなり。さてタガ子ゾトヤのヤは古義にいへる如くヨの意のヤなり。かく不用なるヤを用ひたるも亦作者の口癖とおぼゆ○所思而在を略解にオモホエテアラムヲとよみ古義にオモハレテアルとよめり。案ずるにこゝは過去の事なればアリシとあらざるべからず。されば在の下に爲をおとせるならむ。さてこゝのオモハレテはユカシガラレテといふことにて下なる所思而在のオモハレテはイトハレテといふこ(3358)とゝおぼゆ。オモハレテアリシのシはシガの意なり○如是所爲故爲を眞淵はカクゾシコナルとよみて今ハカクゾ醜ナルの意としたるを古義に『爲(ノ)字は此歌にてはナルといふに用ひぬ例なり』といひて舊訓に從ひてカクゾシコシとよみてカクゾ爲來シの意とせり。前にもいへる如く爲は此歌にてもシに借れるに限らずナシにさへ借れる例(韓帶丹取爲)あればこゝはナルに借れるものとして眞淵の如くカクゾシコナルとよむベし。カクゾ爲來シなどいふべき處にあらず○古部を從來多くはイニシヘノとよみたれどノといふ辭ありてはササキシにかゝらざるのみならず下なる古部之とはちがひてこゝには之の字無ければイニシヘとよむべし○狹狹寸爲を宣長(記傳卷二十イススギキの註)雅澄はさざめきさわぐ事とせり。なほ考ふべし○ハシキヤシは今日ヤモを隔てゝ子等にかゝれるなり。今日ヤモのヤは疑辭なり。古義にヨのヤとせるは非なり○イサ邇迹哉の邇は衍字ならざるか。イサは小序なる阿誰呼2比翁1哉に當れり。イサトヤのヤはヨの意のヤなり。古義に之を疑辭とせるは非なり。タガ子ゾトヤ〔右△〕所思而在とイサトヤ所思而在と相對したるを一をヨのヤとし一を疑辭とすべけむや。再按ずるに五十狹邇迹哉はもと不知邇迹裁と(3359)ありてシラニトヤとよむべかりしを誤りてイサニトヤとよみて不知を五十狹と書き換へし爲に邇が不用となれるにあらざるか○所思而在を略解にオモホエテアラムヲとよめるはわろし。古義の如くオモハレテアルとよむべし。さてそのアルは今日ヤモのヤの結なり○如是所爲故爲は上の如くカクゾシコナルとよむべし。二つのカクゾシコナルは挿句なり
 
いにしへの 賢人《サカシキヒト》も 後の世の 堅監《カタミ》にせむと 老人を おくりし車 持還來《モチカヘリコシ》
古部之賢人藻後之世之堅監將爲迹老人矣送爲車持還來
 賢は古義に從ひてサカシキとよむべし。眞淵がカシコキとよめるはわろし○聖監を舊訓にカタミとよめるを宣長は鑒を誤りて二字とせるものとしてカガミとよめり。カタミといひては穩ならねどカガミといはば更に穩ならじ。しばらく舊訓に從ふべし。監をミに借れる例は卷七(一三六二頁)にソレヲダニ君ガ形見ニ監《ミ》ツツシヌバムとあり○持還來を契沖はモテカヘリケリとよみ略解古義にはモ【テチ】カヘリコシとよめり。ゾなどの係辭なけれど、いひ殘したる意あればげにモチカヘリコシ(3360)とよむベし○契沖は孝子傳なる
  原穀者不v知2何許人1、祖年老父母厭2患之1意欲v棄v之、數年十五、涕泣苦諌、父母不v從、乃作v輿舁棄v之、穀乃隨收v輿歸、父謂v之曰、爾焉用2此凶具1、穀曰乃後父老(ユトモ)不v能2更作1、得v是以收耳、父感悟愧懼、乃載v祖歸侍養、更成2純孝1
といふ故事を用ひて老人を嘲るを誠めたるなりといへり。但輿に車の義もあれど原穀傳なるは舁棄之とあれば肩輿なり○此歌は構想措辭共に頗常に異なる所あり。おそらくは漢文學に耽りし異俗先生の作ならむ
 
   反歌二首
3792 しなばこそ相見ずあらめ生きてあらば白髪《シロカミ》子らにおひざらめやも
死者水〔左△〕苑相不見在目生而在者白髪子等丹不生在目八方
 契沖が『仙女ガ今死ナバコソ白髪ト云物ヲ身ノ上ニ相見ズアラメなり』といへる如し。アヒ見ズは白髪ヲ見ズにてアヒは添辭なり。
  春霞たつかすが野をゆきかへり吾はあひ見むいや年のはに(卷十)
  いそのまゆたぎつ山河たえずあらばまたもあひ見む秋かたまけて(卷十五)
(3361) などのアヒなり○白髪を古義に卷十七にフルユキノ之路カミマデニとあるを證としてシロ〔右△〕カミとよめり。シロカミ子ラニといふ句雅ならず○死ナバといひ生キテアラバといへる、共に娘子等の上なり。略解に『我生キテアラバ子等ニ白髪オフルヲ見ンとなり』といへるはいたく誤れり。古義にアヒミズアラメを白髪ノ生ヒム時節ヲ相見ズアラメとうつせるもすこしたがへり○水は木の誤なり
 
3793 白髪爲《シロカミシ》、子らも生《オヒ》なばかくのごとわかけむ子らにのらえ金目八《カネメヤ》
白髪爲子等母生名者如是將若異子等丹所詈金目八
 初二を略解にシラガシテ子ラモイキナバとよめるはいとわろし。今村樂の説の如くシロカミシ子ラモオヒナバとよむべし。子ラモは子ラニモのニを略したるなり。ワカケムは若カラムなり○金目八《カネメヤ》はザラメヤといふべきが如くなれど誤字とも思はれねばまづ古義に
  アハレ詈《ノラ》レジトストモ詈レズアル事ヲ得ムヤハといふなり。カネは集中に多く不得と書る如く然あらむと心にねがふことのつひにその本意を得ざるをいふ(3362)辭なり
といへるに從ひて詈ラレカネジ即詈ラレザルヲ得ジの意とすべし
 
   娘子等和歌九首
3794 はしきやしおきなの歌におほほしき九兒《ココノノコ》らやかまけてをらむ
端寸八爲老夫之歌丹大欲寸九兒等哉蚊間毛而將居
 オホホシキは聰明ナラザルにてやがて暗愚ナルなり○カマケテは契沖が皇極天皇紀三年春正月の處に中臣鎌子(ノ)連便感2所遇1而語2舎人1曰云々とある感を然よめるを證として感ジテなりといへるに從ふべし○ココノノ兒ラは卷三(四四一頁)なるイニシヘノナナノサカシキ人ドモモのナナノなどと同例なり
 
3795 辱をしぬび辱尾獣《ハヂヲモダシテ》、無事物不言〔五字左△〕《モノイハズコトナキ》先に我はよりなむ
辱尾忍辱尾獣無事物不言先丹我者將依
 第二句を舊訓にハヂヲモダシテとよめるを古義にモダリテとよみ改めたり。モダルはモダアルにて自動詞なれば(卷三【四四五頁】モダヲリテ參照)辱ヲモダリテとはいふ(3363)べからず。なほモダシテとよむべし○契沖の説に初二は班姫(曹大家)の女誡に忍v辱含v垢常若2畏懼1あるによれるなりといへり。作者は漢學に通じきとおぼゆる上にハヂといふ語の重なれるは漢文を訓讀したる結果とおばゆればげに契沖の説の如くなるべし。又彼女誡の含垢はいにしへハヂヲモダシテと訓讀せしなるべし(左傳宣公十五年にも含垢とあり)。垢は字書に耻辱也如2忍垢含垢1と見え欽明天皇紀十六年春二月の處にも雪垢をハヂヲキヨメとよめり。又含は字書に包容也又懷而未v吐之義とあればモダシともよむべし〇三四はおそらくはもと物不言無事先丹とありしを物不言と無事とを顛倒したるならむ。さらばモノイハズコトナキサキニとよむべし。モノイハズは物言ハズシテなり。事ナキはアヤマチナキなり○ヨリナムは身ヲ翁ニ寄セムとなり
 
3796 否も詰《ウ・ヲ》も隨欲〔左△〕《トモノマニマニ》ゆるすべき貌所見哉《カタチミユカモ》我もよりなむ
否藻諾藻隨欲可赦貌所見哉我藻將依
 初句を舊訓にイナモウモとよめるを古義に『イナモヲ〔右△〕モと訓べし』といひて鳴門中將物語、源氏物語行幸(ノ)卷などを例に引きたれど大和物語(袖中抄參照)源信明集、蜻蛉(3364)日記、拾玉集などにイナウ〔右△〕、イナトモウ〔右△〕トモ、ウ〔右△〕トテ止ミヌ、ナヤウ〔右△〕ヤトなどあればウを誤としヲを正しとは定むべからず。畢竟今いふハイをいにしへウともヲともいひしなり。
  伴信友の應聲考(全集第三)にこのヲをオの誤としたれど漢語の唯はイにあらでヰなるのみならず噤みたる口を俄に開きてオと云はむとせばおのづからウォとひびくべければ古書にヲと書けるを輕々しくオを寫し誤りたるものとは定むべからず。義門の於乎輕重義にもオを正しとしたる由なれど其書はいまだ獲ず。見む人余の説と比較して宜しきに從ふべし
 然らば鳴門中將物語に
  人のめし侍る御いらへに男はウと申し女はヲと申すなり
とあるに從ひてウとヲとを男女に別つべきかといふに蜻蛉日記天禄三年九月の處に何事トモオボエネバウ〔右△〕トテ止ミヌとあるは(解環本にはウトクテ止ミヌとあり)作者なる道綱(ノ)母のみづから云へるなればウは男の答と限れるにあらねどウといふよりはヲといふ方柔けく聞ゆればやうやうに女は多くヲといふやうになり(3365)しならむ。因にいふ。沖縄にては今も男女共にウといらふとぞ○隨欲を略解にホリスルママニとよみ久老も雅澄もホリノマニマニとよめり。宜しく隨伴などの誤としてトモノマニマニとよむべし。下にも友ノナミナミ、友ノマニマニといへり。さて此句にて切れたるなり。ユルスベキにつづけるにあらず○貌所見哉を略解にカタチミユカモとよみ宣長はミエメヤとよみ雅澄はカタチハミエヤとよめり。略解に從ふべし。ミユルカモをミユカモといへるは例の如く連體格の代に終止格をつかひたるにて卷二十にイハズ來《キ》ヌカモとあると同例なり。言サキダチシ二人ノ友ニ身ヲ翁ニ許スベキ貌ノ見ユルカナといへるなり
 
3797 死《シニ》も生《イキ》も同じ心とむすびてし友八違《トモヤタガハム》、我もよりなむ
死藻生藻同心跡結而爲友八違我藻將依
 ムスビテシは契リテンなり。第四句を略解に友不違の誤としてトモニタガハジとよめるはさかしらなり。久老雅澄の如くトモヤタガハムとよむべし。トモヤは友ニヤのニを略せるなり
 
3798 何爲迹〔左△〕《ナニセムニ》たがひはをらむ否も諾《ウ・ヲ》も友のなみなみ我もよりなむ
(3366)何爲迹違將居否藻諾藻友之波波我裳將依
 初句を舊訓にナニセムトとよめるを宣長は迹を邇の誤としてナニセムニとよみ改めたり。之に從ふべし。ナニセムニは何ノ爲ニなり。近くは卷十一(二二三五頁及二二五〇頁)に例あり。雅澄は『すべて此長歌短歌、ニには皆丹(ノ)字をのみ用ひたればこゝのみ邇(ノ)字をかけりとも思はれず』といへれど此長歌短歌にはモ、カ、ヲには多く藻、蚊、尾と書きたるを稀には裳、何、矣と書きたる如くニにも邇と書くまじきにあらず。否雅澄は長歌の末なる五十狹邇〔右△〕迹哉をイサニ〔右△〕トヤとよみたるにあらずや○友ノナミナミは友ノ並々ニコソアラメといへるにて此句にて切れたるなり
 
3799 豈〔左△〕《オヤ》も不在《アラヌ》おのが身のから人の子|之《ノ》事も不盡《ツクサズ》我もよりなむ
豈藻不在自身之柄人子之事藻不盡我藻將依
 不在は契沖等の如くアラヌとよみてオノガ身につづくべし。第三句に人ノ子といへるを思へば初句の豈は親の誤ならむ。されば初二は親アラバマヅ親ニ告グベキナレド親モナキ己ガ身ナレバといへるなり。下なる歌の小序にも不v告2二親1竊爲2交接1とあり○第三句の之を古義(國書刊行會本)にシとよみたれど舊訓の如くノとよ(3367)むべし○不盡を從來ツクサジとよめり。宜しくツクサズとよみて盡サズシテと心得べし。人の子の事を盡すはやがて親に告ぐるなり
 
3800 (はたすすき)穗には莫出《イヅナト》、思而有《オモヒタル》こころはしれつ我もよりなむ
者田爲爲寸穗庭莫出思而有情者所知我藻將依
 莫出を二註にイデジトとよめるは非なり○舊訓の如くイヅナトとよむべし○思而有はオモヒタルとよむべし。二註にシヌビタルとよめるはわろし○穗は上なり。表なり。植物の穗もイハホ、カキホなどのホも皆然り。さて穗ニイヅは植物に比していふにあらで本來表ニアラハルといふことなり○穗ニハイヅナト思ヒタルは友だちに對して希望したるにて表ニアラハスナト願ヒタルといへるなり○シレツは知ラレツにあらず知ラセツにてこゝにては逐ニ知ラセツなり(卷八【一五〇三頁】人ニシレツツ參照)○結句の上に此上ハといふことを添へて心得べし
 
3801 すみの江の岸野之榛《キシヌノハリ》に丹穗所經迹《ニホフレド》にほはぬ我やにほひて居らむ
墨之江之岸野之榛丹丹穗所經迹丹穗葉寐我八丹聴氷而將居
(3368) 久老は岸之野榛の顛倒なるべしといへり。もとのまゝにてもあるべし○第三句を契沖以下ニホフレドとよめるを古義にはニホヘレドとよみて
  ニホヘレドはニホハセレドなり。ハセはヘとつづまる
といへれどこゝはニホハセドとはいふべくニホハセレド(すなはちニホハシテアレド)とはいふべからず。抑ニホフはソマルにてソムルは集中にニホハス又ニホスといへれど又ニホフルともいひしならむ。されば契沖等に從ひてニホフレドとよむべし
  宣長は『ニホフレドはニホハスレドをつづめたるなり』といへれどニホハスは卷一(一一〇頁)に岸ノハニフニニホハ散《サ》マシヲとありて四段活なればニホハスルとはいふべからず
 〇一首の意はイカナル丈夫ノ挑ニモ從ハヌ我ナレド翁ニハ從ヒテ居ラムカといへるなり
3802 春の野の下草なびき我もよりにほひ因〔左△〕將△《テヲラム》友のまにまに
春之野乃下草靡我藻依丹穗氷因將友之隨意
(3369) 初二は序にて春ノ野ノ下草ノ靡ク如クといへるなり○古義に『因將は將因と書べきをかく書るごとき例は集中に往々あり』といへり」案ずるに此歌は前の歌どもに我モヨリナムとあると前の歌にニホヒテヲラムとあるとを束ねたるなれば三四は我モ依リニホヒテヲラムとあるベきなり。されば因將は而將居の誤脱とすべし
 
   昔者有d壯士與c美女u也【姓名未詳】不v告2二親1竊爲2交接1、於v時娘子之意欲2親令1v知、因作2歌詠1送2與其父〔左△〕1、歌曰
 
3803 こもりのみこふればくるし山のはゆいでくる月のあらはさばいかに
隱耳戀者辛苦山葉從出來月之顯者如何
    右或曰、男有2答歌(トイヘリ)1者、未v得2探求1也
 父は夫の誤なり
 コモリノミはコモリテノミなり。コモリテはシノビテなり。三四は序なり
 
   昔者有2壯士1、新成2婚禮1也、未v經2幾時1忽爲2驛使1被v遣2遠境1、公事有v限會期無v日、於v是娘子感慟悽愴沈2臥疾※[やまいだれ/尓]1、累年之後壯士還來覆命既了、(3370)乃詣相視、而娘子之姿容疲羸甚異、言語哽|咽《エツ》、于v時壯士哀嘆流v涙|裁《ツクリテ》v歌口號、其歌一首
 
3804 かくのみにありけるものを猪名川のおきを深めてわがもへりける
如是耳爾有家流物乎猪名川之奥乎深目而吾念有來
 ※[やまいだれ/尓]は※[やまいだれ/火]《チン》の俗字、※[やまいだれ/火]はヤマヒなり。孟子(盡心章句)に※[やまいだれ/火]疾とあり左傳襄公二十三年及哀公五年に疾※[やまいだれ/火]とあり
 初二の例は卷三に
  かくのみにありけるものをはぎが花さきてありやととひし君はも(五五六頁)
  かくのみにありけるものを妹も吾も千歳のごとくたのみたりける(五六八頁)
とあり。失望したる時にいふ辭にてカヤウナ事トハ思ハズシテといふばかりの意なり○猪名川ノオキヲの八言はフカメテにかゝれる序なり。語例は卷四(七六一頁)
  わたの底おきをふかめてわがもへる君にはあはむ年はへぬとも
とあり。フカメテは心フカクにてモヘリにかゝれり(二四九八頁參照)。猪名川を枕辭(3371)につかへるを見れば津(ノ)國の人の作ならむか
 
   娘子臥聞2夫君之歌1從v枕擧v頭v聲|和《コタヘシ》歌一首
3805 (ぬばたまの)黒髪ぬれて沫雪のふるにや來ますここだこふれば
鳥玉之黒髪所沾而沫雪之零也來座幾許戀者
    今案、此歌其夫被v使既經2累載1、而當2還時1雪落之冬也、因v斯娘子作2此沫雪之句1歟
 來マスは來マセルと心得べし。結句はワガアマタ戀フレバなり。男の心の厚きを看取りたる趣なり○左註は非なり。小序に累年之後壯士還來覆命既丁乃詣〔右△〕相視とあれば娘子は親の家にありしなり。さて娘子を訪ひし時に雪のふりしにこそあれ○覆命は復命なり。覆復は通用なり
    ○
3608 事しあらば小泊瀬山の石城《イハキ》にも隱者〔左△〕《コモラナ》共になおもひ吾背
事之有者小泊瀕山乃石城爾母隱者共爾莫思吾背
(3372)    右傳云、時有2女子1、不v知(セ)1父母(ニ)1竊接2壯士1也、壯士|悚2タ《シヨウテキ》其親呵※[口+責]1稍有2猶豫之意1、因v此娘子裁2作斯謌1贈2與其夫1也
 卷四(六三二頁)に
  わが背子は物なおもひそ事しあらば火にも水にもわれなけなくに
とあり。常陸風土記に
  こちたけばをはつせやまのいはきにもゐてこもらなむなこひそわぎも
とあるは今の歌を誤れるなり○イハキは前註に墓の事としたれど墓としてはかなひがたきこゝちす。試に云はむに岩を以て圍める地域にて一種のアジール(避難處)ならざるか。かのカウゴ石も亦イハキならざるか。周防國のカウゴ石ある山をイハキ山といふをも思ふべし。カウゴと云ふは箇々の石の形が革籠《カハゴ》に似たる故ならむ。カハゴは音便にてカウゴと云ひつべし○事シアラバといひて更にコモラバとはいふベからず。されば隱者は隱名の誤としてコモラナとよむべし。ナオモヒは心配シ給フナとなり○時有2女子1の時は曾の義なり。古義にはムカシと訓せり
   ○
(3373)3807 あさか山影さへみゆる山の井の淺き心をわがもはなくに
安積香山影副所見山井之淺心乎吾念莫國
    右歌(ハ)傳云、葛城王遣2于陸奥國1之時國司祗承緩怠異甚、於v時王意不v悦怒色顯v面、雖v設2飲饌1不2肯宴樂1、於v是有2前(ノ)采女1、風流娘子、左手捧v觴右手持水〔二字□で囲む〕撃2之王膝1而詠2其〔左△〕歌1、爾乃王意解脱〔左△〕樂飲終v日
 上三句は序なり。山ノ影サヘ見ユルといひアサキといへるを思へばこの山の井は淺く廣くて澤めきたる處と見ゆ。四五は淺キ心ヲワガ持タヌ事ヨとなり。ワガといへるを味へば主人の國司に代りてよめるなり
 葛城王は契沖の説に
  橘諸兄の前名をも葛城王といへど諸兄は家持と同時の人なるにこゝに右歌傳云とよそよそしく書けるを見れば此葛城王は諸兄にはあらで天武天皇紀八年秋七月に四位葛城王卒と見えたるそれなるべし(摘意)
といへり○異甚は上に姿容疲累甚異とある甚異にひとし。もし訓讀せむとならば(3374)ウタテアリとよむべし○右手持水とある不審なり。もし略解にいへる如く此歌を誦せむ爲にわざと水を持ち出でたるならば左手に觴は捧げざらむ。又古義に撃之王膝而を王ノ膝ニ撃チテとよみて『膝に水をうちそそぐなり』といへれど膝に水をうちそゝがば王の怒は益甚しからむ。略解には『撃はフの誤か。ササゲと訓べし』といへれどフの誤とせば膝はいたづらならむ。案ずるに持水の二字は衍文にて右手撃2之王膝(ヲ)1而ならむ。之は助字なり○其は斯の誤ならむ。諸本に此とあり。脱は一本に從ひて悦の誤とすべし○古今集の序に
  難波津の歌は帝のおほむ始なり。あさか山の言の葉は采女のたはぶれよりよみてこの二歌は歌の父母のやうにてぞ手習ふ人の始にもしける
とあるは此歌を指せるなり
    ○
3808 すみの江の小集樂《ヲスラ》にいでて寤《ウツツ》にもおの妻すらを鏡と兒つも
墨江之小集樂爾出而寤爾毛己妻尚乎鏡登見津藻
(3375)   右傳云、昔者△2鄙人1、姓名未v詳也、于v時郷里男女衆集野遊、是曾衆之中有2鄙人夫婦1、其婦容姿端正秀2於衆諸1、乃彼鄙人之意彌増2愛v妻之情1、而作2斯歌1讃2嘆美貌1也
 小集樂を袖中抄にヲヘラとよみ舊訓にヲツメとよみ契沖は『アソビとよむべきにや』といへり。今も邊境にては行はるゝ如くいにしへは一郷の男女時々然るべき處に集りて飲食歌舞せしなり。試に風土記に見えたる例を※[手偏+綴の旁]はば
  其筑波岳(ハ)往集歌舞飲喫至2于今1不v絶也……自v阪以東諸國男女、春花關時、秋葉黄節、相携|駢※[門/眞]《ベンテン》、飲食齎※[(木の左右に人)/貝]、騎歩登臨、遊樂栖遅(常陸)
  密筑《ミツキ》(ノ)里(ハ)村中淨泉……夏暑之時遠邇郷里酒肴齎※[(木の左右に人)/貝]、男女集會、休遊飲樂(同)
  邑美《オホミ》(ノ)冷水《シミヅ》……男女老少時叢集常燕會地矣(出雲)
  前原(ノ)埼……男女隨時叢會、或愉樂△歸、或耽遊忘歸、常燕喜之地矣(同)
  縣南二里有2一孤山1……是名曰2杵島1……郷閭士女提v酒抱v琴毎歳春秋携v手登望、樂飲歌舞曲盡而歸(肥前)
  此岡西有2歌垣山1、昔者男女集2登此上1常爲2歌垣1、因以爲v名(攝津)
(3376)などあり。又本集卷九なる登2筑波嶺1爲2※[女+耀の旁]歌《カガヒ》(ノ)會1日作歌も例とすべし。さて小集樂はヲスラとよむべきか〇そのヲスラは元來邦語なるが
  語源はヲシクラ(食座)か。さらば遊は本來ヲシクラアソビと謂ふべし
 郷人の相集りて偕に樂む遊なれば此歌の筆禄者が戯に小集樂の字を充てたるならむ。さらば小は訓を借り集樂は音を借れるにて三字共に借字なり○寤を舊訓にウツツとよめるを古義に眞寤の脱字としてマサメとよめり。此説打見には發明の如く見ゆれど實は四五の意を正解し得ざりしより起れる謬説なり。まづスラは主語を強むる辭なり。次に鏡ト見ツは鏡ノ如クキラキラシク見ツといふ意なれど鏡ト見ツといへば鏡と見成すやうに聞えて奇怪なれば戯れて夢ナラバコソアラメ夢ニモアラヌ現《ウツツ》ニ己妻ヲ鏡ト見ツといへるなり。されば第三句は舊訓の如くウツツニモとよむべきなり
 昔者の下に有をおとせるならむ。姓名未詳也は上なる昔者有d壯士與c美女u也云々又次なる左註の例によらば割註たるべきなり
   ○
(3377)3809 商變領爲跡之〔左△〕御法《アキガハリシラスチフミノリ》あらばこそわがした衣かへしたまはめ
商變領爲跡之御法有者許曾吾下衣變賜米
   右傳云、時有2所v幸娘子1也【姓名未詳】寵薄之後還2賜寄物1【俗云可多美】於v是娘子怨恨、聊作2斯歌1獻上
 商變は舊訓にアキガハリとよめるに從ふべし。アキは今いふアキナヒなり。アキナヒの略語にあらず。古義にアキガヘシとよめるはわろし。語義は契沖が
  商變は既に物と價とを定て取交して後に忽に變じて或は物をわろしとして價を取返し或は價を賤しとて物を取返すなり
といへる如し
  因にいふ。今賣買の約をたがふるをシヤウベンといふはおそらくは商變の音唱ならむ
 ○領爲跡之を舊訓にシラストノとよめるを雅澄はシラセトノとよみ改めたり。案するにもし自由ニセヨなどいふ意ならばシレといふべくシラセとはいふべから(3378)ず。宜しく之の字を(宣長に從ひて)云の誤としてシラスチフとよむべし。シラスのシルはウベナフなり。認容なり○變は反の通用なり
 娘子は或貴顯に幸せられしなるがアキガハリなどいへるを思へばあてなる女にはあらざりけむ○俗云は邦語ニイフなり。鄙俗の俗にはあらず
    ○
3810 うまいひを水にかみなしわがまちし代者曾無《カヒハカツテナシ》ただにしあらねば
味飯乎水爾醸成吾待之代者曾無直爾之不有者
    右傳云、昔有2娘子1也、相2別其夫1望戀經v年、爾時夫君更娶2他妻1、正身不v來、徒贈2裹物1、因v此娘子作2此恨歌1還酬之也
 ウマイヒはウマキ飯なり。飯をたゝへて云へるなり。水は汁にてやがて洒なり。カミナシは飯を噛みて吐きて酒となすなり。
  因にいふ。酒を造る事をカモスといふはこのカミナスの約なるカマスの轉ぜるなり。なほトヨマスのトヨモスとなれる如し
(3379) 上三句にいへるは所謂待洒なり。卷四(六七九頁)に
  君がためかみしまち酒やすの野にひとりやのまむ友なしにして
とあり○代は二註にカヒとよめるに從ふべきか。但集中に詮《カヒ》はすべてシルシといへり。曾無は舊訓にカツテナシとよめるに從ふべし。カツテは更ニなり
  代はカヘとよむべきをカヒに借りたるは卷十三(二九〇一頁)に馬カハバを馬替者と書けると同例なり。二註にカハリをつづめたるなりといへるは從はれず
 ○タダニシアラネバはタダナラネバにて御直デナイカラといふことなり
 爾時はサルホドニといふこと、正身は本人なり
 
   戀2夫君1歌一首并短歌
3811 さにづらふ 君がみこと等〔左△〕《モチ》 (玉梓の) 使もこねば 憶△《オモフニシ》 病吾身《ヤメルワガミ》一|曾《ゾ》 △ (ちはやぶる) 神爾《カミニ》毛〔□で囲む〕|莫負《オホスナ》 卜部|座《マセ》 龜もな燒きそ 「こひしくに いたき吾身ぞ」 いちじろく 身に染△保里《シミトホリ》 (むらぎもの) 心くだけて 死なむ命 にはかになりぬ 今更に 君か吾《ワ》をよぶ (た(3380)らちねの) 母のみことか (ももたらず) 八十のちまた爾〔左△〕《ノ》 夕占《ユフケ》にも 卜にも曾〔左△〕問《ナトヒ》 しぬべきわが故
左耳通良布君之三言等玉梓乃使毛不來者憶病吾身一曾千磐破神爾毛莫負卜部座龜毛莫燒曾戀之久爾痛吾身曾伊知白苦身爾染保里村肝乃心砕而將死命爾波可爾成奴今更君可吾乎喚足千根乃母之御事歟百不足八十乃衢爾夕占爾毛卜爾毛曾問應死吾之故
 此歌は錯誤多しと見えてとゝのはざる處多し。まづサニヅラフは紅ナルといふことにて夫の顔をたゝへたるなり○君ガミコト等の等は持の誤ならむ。卷二(一六二頁)にも君ガ御言ヲ持而カヨハクとあり○吾身一曾の一といふこと餘れり。又此二句は次なるコヒシクニイタキワガ身ゾと對を成せりと見ゆれば憶西病吾身曾の誤とすべし。卷四(七八三頁)なる長歌にもオモフニシ吾身ハヤセヌとあり〇四句を隔てたるコヒシクニイタキ吾身ゾはこゝに引上ぐべし。コヒシクはコヒシキ事にて後世のコヒシサなり。卷十(二二一〇頁)にもコヒシクノケナガキ我ハ見ツツシヌ(3381)バムとあり○神爾毛の毛は衍字ならむ。莫負はナオホセともよむべけれど其對句には莫燒曾とありて曾あると曾なきと參差たれば寧オホスナとよむべし。さて神ニオホスナは神ノ所爲トスナとなり○卜部は卜を職とする族なり。座は古義に從ひてマセとよむべし。招待シテなり。龜モナ燒キソは所謂龜卜ニウラナハスナとなり○染の下に等などのおちたる事前註にいへる如し。さて此二句には主格なし。イチジロクの前にコヒシサガなどいふことを加へて聞くべし○今更ニ君カ吾《ワ》ヲヨブは耳元ニ聲ノスルハ君ガ今更ニ來リテ吾ヲ喚ブニカとなり。君カのカは清みて唱ふべし○母ノミコトカは又ハ母ノ命ノ吾ヲ喚ブニカとなり〇八十ノチマタはユフケのみにかゝりたるなれば爾は乃の誤ならざるべからず。ヤソノチマタノユフケグは即辻占なり。卷十一(二三三六頁)にも八十ノチマタニユフケ問ハムとあり○卜爾毛曾問の曾は莫の誤なり。さればナトヒ又はトフナとよむべし。さてその卜は何の卜にてもあるべし。但ユフケとは別なり
 
   反歌
3812 卜部乎〔左△〕《ニ》も八十のちまたもうらどへど君をあひ見むたどき知らずも
(3382)卜部乎毛八十乃衢毛占雖問君乎相見多時不知毛
 初句の乎は某ニ問フを某ヲ問フといへる例もあれど(卷十五【三二六三頁】ワレヲトハバ參照)おそらくは爾の誤ならむ。ヤソノチマタモはニモのニを略したるなり。タドキはスベなり○こは契沖等のいへる如く未、病に罹らざりし先の事をいへるなり。古義は甚しく誤解せり
 
   或本反歌曰
3813 吾命はをしくもあらずさにづらふ君によりてぞ長くほりせし
吾命者惜雲不有散追良布君爾依而曾長欲爲
    右傳云、時有2娘子1、姓車持氏也、其夫久|逕《ヘテ》2年序1不v作2往來1、于v時娘子係戀傷v心沈2臥病※[病垂+尓]1、痩羸日異忽臨2泉路1、於v是遣v使喚2其夫君1來、而乃歔欷流涕口2號斯歌1、登時《スナハチ》逝没也
 而乃は爾乃なり。而と爾とは通用なり。登時はスナハチとよむべし。卷八(一五四五頁)にナキシスナハチを鳴之登時と書き延喜式東市司に登時をスナハチと訓じたり
 
(3383)   贈歌一首
3814 眞珠《シラタマ》は緒だえしにきとききし故《カラ》に其緒またぬき吾玉にせむ
眞珠者緒絶爲爾伎登聞之故爾其緒復貫吾玉爾將爲
 譬喩の意は左註によりて明なり。從來故をユヱとよめり。宜しくカラとよむべし。結句の下にトゾ思フといふことを添へて見べし○卷七(一四〇二頁)に
  照左豆が手にまきふるす玉もがも其緒はかへて我玉にせむ
とあり
 
   答歌一首
3815 白玉の緒絶はまことしかれども其緒又ぬき人|持《モチ》いに家有〔左△〕《ケリ》
白玉之緒絶者信雖然其緒又貫人持去家有
     右傳云、時有2娘子1、夫君(ニ)見(ステラエテ)v棄改2適他氏1也、于v時或〔右△〕有壯士不v知2改適1、此歌(ヲ)贈遣(シテ)請2誂於女之父母1者《トイフ》、於v是父母之意、壯士末v聞2委曲之旨1、乃依2彼歌1報送、以顯2改適之縁1也
(3384) 或は衍字なるに似たれど下にも右或有人聞之とあり。二字にてアルとよむべきか〇二註に家有は家里の誤なりといへり
 
   穗積親王御謌一首
3816 家爾有之〔左△〕《イヘナルヤ》櫃に※[金+巣]《クギ》さしをさめてし戀の奴のつかみかかりて
家爾有之櫃爾※[金+巣]刺藏而師戀乃奴之束見懸而
    右歌一首穗積親王宴飲之日酒酣之時好誦2斯歌1以爲2恒賞1也
 ※[金+巣]を舊訓にザウとよめるを略解に卷二十にクルニ久枳サシカタメトシとあるに依りてクギとよみ改めたり。之に從ふべし。主計式に著v※[金+巣]韓櫃とあり○初句を從來イヘニアリシとよみたれどアリシとはいふべからず。宜しく之を也の誤としてイヘナルヤとよむべし。イヘナルヤのヤは助辭なり○古義に四五一二三と句をおきかへて釋きて
  此歌は上にゾノヤ何等の言なければテキといふことテニヲハのとゝのへのさだまりなれど然いひてはよろしからぬ故にことさらにたがへてテシと宣へる(3385)なり
といへり。こはいみじきひが言なり。此歌は句のまゝに心得べきにてヲサメテシは戀ノ奴にかゝれるなり。さて四五は戀ノ奴ノ櫃ヨリ出デテツカミカカリテ我ヲ苦シムル事ヨと辭を加へて心得べし
 恒賞は次の歌の左註に見えたる常行と相似たる意なり。賞はモテアソビなり。ナグサミなり
    ○
3817 可流羽須波〔左△〕《カルウスキ》田廬《タブセ》のもとに吾兄子はにふぶにゑみてたちませり見ゆ
可流羽須波田廬乃毛等爾吾見子者二布夫爾咲而立麻爲所見【田廬者多夫世反】
 二注に初句をカルウスハとよみてカルウスはカラ臼なりといひ古義に『柄臼ハ田廬ノモトニ立チの意に云るなるべし』といへり。案ずるに田ブセノモトニ以下の主格は吾兄子なれば初句をカルウスハとよみて一主格とせむにそのかゝり著く處なし。されば初句は田ブセの屬格と見ざるべからず。更に案ずるに可流羽須波は波(3386)を伎の誤としてカルウスキとよみて輕薄キすなはち粗末ナルといふ意とすべきか。輕薄は史記平準書に
  今半兩錢法重四銖、而姦或盗2摩錢裏1取v※[金+谷]《クズ》錢益輕薄〔二字傍点〕而物貴
文選※[まだれ/臾]亮の讓2中書令1表に
 植v根之本輕也薄也。……根援扶疏、重矣大矣
と云ひて重大に對し又宋人の詩に輕薄衣裳嬾2更添1とあり又吾妻鏡建仁三年に甲冑者輕薄とあれば人の性行ならでも云ひつべし○田ブセははやく卷八(一六一〇頁)に田廬ニヲレバミヤコシオモホユとあり。田間〔日が月〕の陋屋なり。註に田廬者多夫世反とあるは卷五なる好去好來歌(九七三頁)に勅旨【反云大命】また船舳爾【反云布奈能閇爾】とあるとかへさまなるやうに見ゆれば誰も訝る事なれど多夫世ノ反とよまで多夫世ト反スとよめば事は無きなり。下にも食、賣世反也とあり。又靈異記中卷第廿七なる片※[草冠/絶]《カタワ》(ノ)里の訓注に※[草冠/絶](和反)とあり。反は飜譯なり。略解に『反の字は訓といふが如く心得てかける例あり』といへるは淺慮なり〇ニフブニヱミテは卷十八なる家持が作れる長歌にも夏ノ野ノサユリノ花ノ、花ヱミニニフブニヱミテテ、アハ シタル今日ヲハジメ(3387)テとあり。ニコニコトヱミテといふことなりといふ。吾兄子といへるを自己に擬して誦せられしなり
 
3818 (あさがすみ)香火屋がした乃〔左△〕《ニ》なくかはづしぬびつつありとつげむ兒もがも
朝霞香火屋之下乃鳴川津之努比管有常將告兒毛欲得
    右歌二首河村王宴居之時弾v琴|而即《スナハチ》先誦2此歌1以爲2常行1也
 卷十(二一七四頁)に
  あさがすみ鹿火屋がしたになくかはづこゑだにきかばわれこひめやも
とあるを學べるなり。鹿火屋が鹿半屋の誤ならざるかといふことは彼歌の下にいへり○第二句の乃は二註にいへる如く爾の誤ならむ。シヌビツツは古義にいへる如くメデツツなり○略解に上三句を序としたるは非なり。兒といへるはイザ兒ドモなどの兒にて我蛙ノ聲ヲメデツツアリト世ノ人ニ告ゲム兒モガナといへるなり○此王は其性閑適を好まれきと見ゆ○而即の二字を聯ねてスナハチとよむべ(3388)し。上に而乃とあると同じ
    ○
3819 ゆふだちの雨うちふればかすが野のをばながうれのしら露おもほゆ
暮立之雨打零者春日野之草花之末乃白露於母保遊
 はやく卷十(二一二八頁)に見えてそこには雨フルゴトニとあり
 
3820 ゆふづく日さすや河邊につくる屋の形《カタ》をよろしみうべぞよりくる
夕附日指哉河邊爾構屋之形乎宜美諾所因來
    二首小鯛王宴居之日取v琴|登時《スナハチ》必先吟2詠此歌1也、其小鯛王者|更名《マタノナ》置始《オキソメ》(ノ)多久美(トイフ)斯人也
 家を作るに日あたりのよきを好むは昔も今も同じ。ただ今は夕日を好まざるに昔は朝日夕日共に之を好みき。こは一つには燈火の設備の全からざりしによるならむ○略解に上三句を序として『本(○主文)は戀情の譬喩なるべし』といへるは非なり。序歌にはあらず。家作のめでたさに人の多くとぶらひ來るを喜べるなり。古義に人(3389)の家をよめりとせる將わろし。ウベゾヨリクルといへる、おのが家をよめる詞ならずや
 小鯛王は前註に『史に見えず』といへり。持統天皇紀に
  七年夏四月典鎰《カギトリ・テムヤク》置始(ノ)多久與2莵野(ノ)大伴1亦座v贓降2位一階1解2見任官1
とあると同人にて紀の多久は下に美をおとしたるにや
 
   兒部《コヘ》(ノ)女王|嗤歌《アザケリウタ》一首
3821 美麗物《クハシモノ》いづく不飽矣《アカジヲ》、坂門等之《サカトラガ》、角《ツヌ》のふくれに四〔左△〕具比《タグヒ》あひにけむ
美麗物何所不飽矣坂門等之角乃布久禮爾四具比相爾計六
    右時有2娘子1、姓|尺度《サカト》氏也、此娘子不v聴2高姓美人之所1v誂、應2許下姓※[女+鬼]士之所1v誂也、於v是兒部女王裁2作此歌1嗤2咲彼愚1也
 美麗物を二註にウマシモノとよみたり。宜しくクハシモノとよむべし○不飽矣を略解にアカヌヲとよみ古義にアカジヲとよめり。後者に從ふべし。イヅクアカザラム、サルヲといふべきをつづめたるなり。アカザラムは不足ナラムなり〇二三の間(3390)にイカデといふことを挿みて聞くべし○坂門は尺度氏なり。ラは助辭なり。之は舊訓の如くガとよむべし。古義にシに改めたるはわろし○角ノフクレを契沖は『牛の角などの樣して中のふくれ出たる顔つきを云なるべし』といひ二註は之に從へり。案ずるに醜士の姓|角《ツヌ》にて其人ふつつかにふくれたればツヌノフクレといへるならむ。角氏は紀にも見えたり〇四具比相爾計六を從來シグヒアヒニケムとよめり。さて記傳卷四(二一三頁)に
  凡物二が一に合をクヒアフと云。萬葉十六にシグヒアヒニケムとあるこれなり
とあれどさらばシは如何にか釋くべき。四具比はおそらくは田具比の誤ならむ
 高姓は下姓のうらにて名門なり。允恭天皇紀に或誤失2己姓1或故認2高氏1とある高氏に同じ。靈異記中卷第卅三にも高姓之人とあり。美人は醜士のうらにて西方(ノ)美人(詩經)惟2草木之零落1兮恐2美人之遲暮1(離騒經)など男子にもいへり。應許の應は從なり。歌にアヒニケムと過去にいへればベシにはあらず。※[女+鬼]は醜の通用なり(訓義辨證下卷參照)
 
  古歌曰
(3391)3822 橘の寺の長屋にわがゐねしうなゐはなりは髪あげつらむか
橘寺之長屋爾吾率宿之童女波奈理波髪上都良武可
    右歌椎野(ノ)連長年脉〔左△〕曰、夫寺家之屋者不v有2俗人寢處1、亦※[人偏+稱の旁]2若冠女1曰2放髪仆〔左△〕1矣、然則腹句已云2放髪仆〔左△〕1者尾句不v可d重云c著冠之辭u哉、决曰
 
3823 橘のてれる長屋にわがゐねしうなゐはなりに髪あげつらむか
橘之光有長屋爾吾率宿之宇奈爲放爾髪擧都良武香
 橘寺は大和高市郡の大寺にて飛鳥川の左岸にあり。長屋は今いふ長屋にて棟長く造れる屋なり○ヰネシはツレテネシなり(三一四六頁及三一五六頁參照)○ウナヰは髪の項《ウナ》に居るをいひハナリは髪の束ねられずして放たれたるをいひて共に童男童女の状なるをうつして童男童女の稱とせるなり○結句は既《ハヤ》ク生長シテ髪ヲ上ゲ結ビツラムカといへるなり
 脉は諭などの誤か○不有は不在と書くべけれど古くは有と在とを通用せり(實は(3392)こゝは不在にてもかなはず。非とあるべきなり)○※[人偏+稱の旁]は稱の本字なり。若冠は弱冠なり。女は冠を著る事なければ弱冠は男子に限りていふべきをよくも思はでいへるなり。されば若冠といひ著冠といへるは成年といふ意と見べし(男子の冠に對しては女子には笄《ケイ》といふなり)○仆は一本に從ひて丱《クワン》の誤とすべし。丱は幼なり○右の長年の論を評せむにまづ寺の長屋は寺の奴僕を住ましむる料なるべければ俗人ノ寢處ニアラズとはいふべからず。女ヲ率テ寢べキ處ニアラズとは云ふべし。但此歌は設けてよめるにはあらで實事をよめるならむ。尼寺は男子の入りて尼と酒を飲むべき處にはあらねど卷八(一五八七頁)にさる例あるにあらずや。次に長年はウナヰハナリは成年に達したる女なれば更に成年に達シタラムカとはいふべからずといへるなれどウナヰハナリはいまだ成年に達せざる女なる事前にいへる如し。されば長年はウナヰハナリの語意を知らず寺の庫裏と長屋との別を思はず冠といふ語の女子に用ふべからざるを辨へずして論を立てたるなり。今も往々長年流の歌論家の出づるはかたはらいたし
 
  長《ナガ》(ノ)忌寸《イミキ》意吉麻呂《オキマロ》歌八首
(3393)3824 刺《サシ》なべに湯わかせ子どもいちひ津の檜橋より來《コ》許〔□で囲む〕|武《ム》狐《キツ》にあむさむ
刺名倍爾湯和可世子等櫟津乃檜橋從來許武狐爾安牟佐武
    右一首傳云、一時衆集宴飲也、於v時夜漏三更|所2聞《キコユ》狐聲1、爾乃衆諸誘2興麿1曰、關《カケテ》2此饌具(ノ)雜器、狐聲、河橋等物1但〔左△〕作v歌|者《トイヒキ》、即應v聲作2此歌1也
 刺名倍を舊訓にサスナベとよめるを契沖は和名抄に銚子(ハ)佐之奈閇俗云佐須奈閇とあるによりてサシナベとよみ改めたるを雅澄は又字鏡に佐須奈戸とあるに依りて『今は字鏡によりてなほサスナベといふを古しとして然よめり』といへり。げに和名抄と字鏡とは字鏡の方古けれど和名抄は辨色立成を引けるにてその辨色立成は寛平中に成りし藤原佐世の日本國現在書目録に擧げたれば寛平乃至昌泰年間に成りし新撰字鏡よりはやや古からむ。又古きもの必しも正しからず後れたるもの必しも訛らざればこゝに理によりて斷ぜむに刺ナベのサスは注《ツ》グといふ意にて刺ナベは新井白石のいへる如く注道ある鍋なるべければ語法に從ひてサシ(3394)ナベとよむべし(下にも翳《ハ》をサシハといへり)。サスナべともいひしはそを訛りしなり
  追記 南京遺芳に第二十三進上雜物啓と題して載せたる正倉院文書に佐志奈閇と書きたり
 〇イチヒ津は大和のある河岸の名ならむ。ヒバシは檜にて作れる橋なり。許は衍字○キツは勢諸にも夜モアケバキツニハメナムとあれどキツが古きにあらで雅言はキツネにてキツは俗言ならむ
 一時は或時なり。夜漏の漏は時刻なり。興麿は即意吉麻呂なり。關は古義の如くカケテとよむべし○但を略解に而の誤とし古義に一本に併とあるに從へり。おそらくは直の誤ならむ○饌具雜器は饌具ノ雜器とよむべし。サシナベはやがて之に當れり。饌具の外に雜器あるにあらず。古義に湯櫟檜を擧げたるは非なり
 
    詠2行騰〔左△〕、蔓※[草冠/青]、食薦、屋※[木+梁]1歌
3825 すごも敷きあをな煮もち來《コ》うつばりにむかはぎかけて息此公《ヤスムコノキミ》
食薦敷蔓※[草冠/青]煮將來※[木+梁]爾行騰〔左△〕懸而息此公
(3395) 行騰はムカハギなり。騰は縢の誤なり○ムカハギは獣の皮にて造りたる一對の被服にて馬に騎る時腰より下を覆ふものなり。蔓※[草冠/青]はアヲ菜なり。今は単に菜といふ。彼ただ葉を食ひて根を食はざる疏菜なり。食薦《スゴモ》は簀薦にて食卓の下に敷くものなり。播磨風土記に
  所3以號2手苅丘1者近國之神到2於此處1以v手苅v草以爲2食薦1。故號2手苅1
とあり。之によりていにしへ食事の際に缺くべからざるものとせし事を知るべし。※[木+梁]は梁にひとし。淮南子《エナンジ》主術訓に
  是故賢主之用v人也猶2巧工之制1v木也。大者以爲2舟航柱※[木+梁]1小者以爲2楫楔1
とあり
 コノキミは此公ニすなはち此君ノ爲ニといふ意なり。略解にモチキとよみヤスメとよめるは非なり
 
     詠2荷葉1歌
3826 はちす葉はかくこそ有物《アルモノ》、意吉麻呂《オキマロ》が家なる物はうもの葉にあらし
蓮葉者如是許曾有物意吉麻呂之家在物者宇毛乃葉爾有之
(3396) 人の家の荷葉をたゝへて我家の荷葉をいひくたしたるなり、古義は誤解せり○第二句を舊訓にカクコソアレモとよめるを古義にカクコソアルモノとよみ改めたり。正しくはカクアルモノニコソといふべきにてコソのおき處たがへるに似たれどさる例も無きにはあらず。たとへば卷十二(二六九三頁)に人ノ言コソシゲキ君ナレとあり。又コソといひて物といへる例は下に馬ニコソフモダシカク物とあり○イモをウモともいふはイヲをウヲともいひイダクをウダクともいふが如し。芋の葉と蓮の葉とは相似たれば我家ナルハ蓮ニハアラデ芋ナルラシといへるなり
 
    詠2雙六(ノ)頭△1謌
3827 一二《ヒトフタ》の目のみにあらず五六《イツツムツ》、三四《ミツヨツ》さへありすぐろくのさえ
一二之目耳不有五六三四佐倍有雙六乃佐叡
 略解に和名抄に頭子(ハ)雙六乃佐以とあれば頭とあるは頭子の子を脱せるかといへり。頭子は投子の轉ぜるなりと狩谷望之は云へり。サエは采なり。サイとよむべきをなだらめてサエともいひしなり。才をサエともいふと同例なり○舊訓に數字を音(3397)讀したれど音讀すれば三四の三は第三句に附きて五六三となるが故に二註の如く訓讀すべし
 
     詠2香、塔、厠、屎、鮒、奴1歌
3828 香塗流《カウヌレル》、塔になよりそ川ぐまの屎鮒|喫有〔左△〕《ハミテ》痛〔左△〕女奴《ヤメルメヤツコ》
香塗流塔爾莫依川隅乃屎鮒喫有痛女奴
 略解に香を古語にコリといふによりて初句をコリヌレルとよみ古義に『コリはカヲリのつづまりたる言なり』といひ又
  諸の佛籍に塗香といふ事の多くある、そは佛身に香を塗ることなり。今は塔なれば燒とこそいふべけれ。塗と云る事似つかはしからず。されば此はもと香焚流などありけむを塗香といふことあるに混《マガヘ》て書誤れるならむ。さらばコリタケルと訓べし
といへり。案ずるに斎宮式の忌詞に堂稱2香《カウ・コリ》燃《タキ》1とあるは香を燃く處といふ意なり。たとひ塔にても香をたくとも香タク塔とこそいふべけれ香タケル塔とはいふべからず。さればなほもとのまゝにてコリヌレル又はカウヌレルとよむベし。香木を粉(3398)にして塗れるなり○題のうちに厠ありて歌には見えず。古義には厠を川とのみいひしによりて川グマに厠をもたせたるなりといへり。厠を川とのみいへる例果してありや、延喜式に厠殿にミカハドノと傍訓したるはカハ屋をカハ殿といひそれにミを添へたるなり。厠をミカハといへるにあらず(俗語のオカハは證とするに足らず)。題の厠は或は衍字か○隅は隈の誤にあらず。集中に佐太ノ隅《クマ》ミヲ、隅《クマ》モオチズなど書けり。屎鮒は古義に
  川隈は塵芥のよりつどひていときたなきものなり、そこにをる鮒なる故いやしめてかくいへるなり
といへり。題の屎鮒は無論二物なり〇四五を從來クソブナハメルイタキメヤツコとよみたれどまづハメルといふこと穩ならず。食ッタといふ事ならばハミシとあるべく、習トシテ食フといふ事ならばハムとあるべくいづれにてもハメルとはいふべからざるが故なり。次にイタキとあるも穩ならず。よりて思ふに喫有痛は喫而病の誤にてクソブナハミテヤメルメヤツコとよむべきなり。或はヤメルに有痛の二字を充てたるか
 
    詠2酢、醤、蒜、鯛、水葱1歌
3829 ひしほ酢に蒜《ヒル》つきかてて鯛|願《ネガフ》吾にな見せそなぎのあつもの
醤酢爾蒜都伎合而鯛願吾爾勿所見水葱乃※[者/火]物
 醤はヒシホなり。豆及麥にて造れる麹に鹽水を和して製したる半流動體なり。肉を食ふ時之を傳《ツ》けて食ひしなり。論語郷黨にも不v得2其醤1不v食といへり。酢と共にいにしへ主要なりし。※[齋の上半と韮の下半]物《アヘモノ》なり。されば大膳式にも
  小齋給食……五位已上一人醤酢各五勺……六位已下一人醤五勺云々
とあり○ツキカテテは砕キ交ヘテなり○鯛願を舊訓にタヒネガフとよめるを宣長は願を餔の誤としてタヒクラフとよめり。舊訓に從ふべし(略解にタヒモガモとよめるは言ふにも足らず)。アヘ物ヲ造リ了ヘサテ鯛モガナト願ヘル吾ニといへるなり〇四五は略解にいへる如く水葱《ナギ》ノ汁ナドハホンカラズといふ意なり
 
    詠2玉掃、鎌、天水〔左△〕香、棗l歌
(3400)3830 玉掃苅來鎌麻呂室乃樹與棗本可吉將掃爲
 天水香は天木香の誤なり。現に木とせる本あり(卷三【五四九頁】天木香樹參照)○玉ハハキは卷二十にハツ春ノハツネノ今日ノ玉ハハキとあり。ネンド草又カウヤバウキ又茶セン柴といふものなり。玉帚に作るが故に草の名をも玉ハハキといふなり。二註に卷二十なると別物とせるは非なり。こゝなるは草をいひ卷二十なるはその草もて作れる帚をいへるのみ○鎌麻呂は鎌を人に擬していへるなり○ムロの事は夙く卷三に云へり。今ネズミサシ、モロ、ブロンなどいふ木にはあらでイブキ、ビヤクシンなどいふ木なるべし○木の下に略解は舊訓に從ひてトをよみそへ古義はヲをよみそへたり。平安朝以後はかならず甲ト乙トといふこととなりたれど本集には下のトを略せる例少からざる上こゝはもし下のトを略せざらむとせばナツメの下に入るべきなれば本の字は諭なくモトヲとよむべし(八九七頁參照)
 
    詠2白鷺啄v木飛1歌
3831 池神の力士舞かもしら鷺の桙くひもちてとびわたるらむ
(3401)池神力士舞可母白鷺乃桙啄持而飛渡良武
 まづ一首の大意はシラ鷺ノ桙ヲクヒモチテ飛ビ渡ルハ池神ノ力士舞ニ行クニカアラムといへるなり○池神は地名なるべし。眞淵は『神は借字にて大和國十市郡池上郷なり』といへれど十市郡の池上は磐余《イハレ》ノ池の邊にあるより名を負へるにてイケノヘとよむべきなりと云ふ○力士マヒは池神の祭にものする舞にで當時名高かりし見物なるべし。力士マヒニカモのニを略せるなり○桙クヒモチテの桙は木の枝なり。古義に『木の枝をくはへたるを桙に見なしてかくはいふなり』といへるは非なり。枝附の橘を桙橘子といひそを數ふるに四矛八矛などいひ又内膳式に桙橘子十枝十五枝などいへるを見て小さき枝を桙といふを知るべし(記傳卷二十五【一五三六頁以下】參照)○クヒモチテはクハヘ持チテなり。思ふに力士舞に力士が桙をとりて舞ふことあるによりて力士舞ニユクニカアラムといへるならむ
 
   忌部(ノ)首《オビト》詠2數種(ノ)物1歌一首 名忘失也
3832 からたちの棘〔左△〕《ウバラ》原〔□で囲む〕|苅除《カリソケ》曾氣〔二字□で囲む〕倉たてむ屎とほくまれ櫛つくる刀自
(3402)枳棘原苅除曾氣倉將立屎遠麻禮櫛造刀自
 原と曾氣とは衍字ならむ。棘は卷二十に宇万良とあり。ウバラはマのバに轉ぜるなり。さてウマラは刺《イラ》ある木の總稱にて枳はその一種なればカラタチノウバラといへるなり。カリソケは苅リ拂ヒなり○大便する事をクソマルといふ。日本紀に送糞此云2倶蘇摩屡1とあり。竹取物語にも燕ノマリオケルフル糞とあり。さればクソトホクマレは大便ハ遠クニテセヨとなり
  因にいふ。日本紀の送糞といふこと心得がたし。或は脱糞の誤か。又マルは今も陸前などの方言に殘りて旋《ユバリ》にもいふとぞ
 〇一首の意は此荒地ノ枳ヲ刈リ拂ヒテ倉ヲ立テム、今迄ノ如ク糞マリ汚スナ、櫛作ノ刀自ヨといへるなり。枳、倉、屎、櫛などをよめるならめど此等の物を聯ねて一つの文としたるのみにて何の詩趣も無し
 
   境部王詠2數種物1歌【穗積親王之子也】
3833 虎にのり古〔左△〕屋《タカヤ》をこえて青淵に鮫龍《ミヅチ》とりこむつるぎだちもが
(3403)虎爾乘古屋乎越而青淵爾鮫龍取將來釼〔左△〕刀毛我
 履中天皇紀に
  二殯(○太姫(ノ)郎姫、高鶴(ノ)郎姫)恒歎之曰。悲哉吾兄王何處去耶。天皇聞2其歎1而問之曰。汝何歎息也。對曰。妾兄鷲住爲v人強力輕捷○由v是獨馳2越八尋屋1而遊行。既經2多日1不v得2面言1。故歎耳
とあり。八尋屋は高き屋なり。もし此故事を踏みて作れるならば古屋は高屋の誤とすべし○鮫は※[虫+交]の通用なり。トルは殺スなり○第四句にて切れたるにあらず。結句につづけるなり○我邦の古寫本に往々剱を釼と書けり。漢字の釼《ジツ》とは別なり
 
   作主未詳歌一首
3834 (なし棗)きみに粟嗣〔左△〕《アハマク》(はふくずの)後もあはむと葵花さく
成棗寸三二粟嗣延由〔左△〕葛乃後毛將相跡葵花咲
 梨、棗、粟、田葛《クズ》、葵をよめるなり。由は田の誤なり。梨棗は其子の色黄なれば君(黄實に通ず)の枕辭としたるならむ。古義に『木實といふ意にとりなして黍といふへつづけた(3404)るにや』といへるは非なり○粟嗣を從來アハツギとよめり。さて二註に逢繼の意としたれどアヒツギをアハツギとはいふべからず。おそらくは粟蒔の誤にて逢ハマクの借字ならむ。アハマクは逢ハム事ハなり○ハフクズノは後モアハムにかゝれる枕辭なり。卷二(二九二頁)以下にサネカヅラ後モアハムトとあると同例なり○結句はソノシルシニ逢フトイフコトヲ名ニ負ヒタル葵ガサクといへるならむ○古義に契沖の『こは飲宴の時盤中の物をよめるか』といへるを『さもあるべし』とうべなひたれど梨棗の熟するは葵のさくと時を同じくせざればただ諸物の名を一首によみ入れたるに過ぎざらむ
 
   戯2新田部親王1歌一首
3835 勝間田の池はわれ知るはちすなし然いふ君がひげ無如之〔二字左△〕《ナキガゴト》
勝間田之池者我知蓮無然言君之※[髪の上半/眉の上半/貝]〔左△〕無如之
    右|或有《アル》人(ニ)聞之、曰、新田部親王出2進于堵裡〔左△〕1御2見勝間田之池1感2緒〔左△〕御心之中1還v自2波池1不v忍2憐愛1、於v時〔左△〕語2婦人1曰、今日遊行見2勝間田(3405)池1、水影濤濤〔二字左△〕蓮花灼灼、可憐斷腸不v可2得言1、爾乃歸人作2此戯歌1專輙《モハラ》吟詠也
 結句を略解にヒゲナキガゴトシとよみ古義にヒゲナキゴトシとよめり。鬚ナキ如ク蓮ナシとかへれるなれば如之を之如の顛倒としてヒゲナキガゴトとよむべし。勝間田の池には連多く親王の御顔には鬚多きを戯れて君ニ鬚ノ無キガ如ク勝間田ノ池ニハ蓮ナシといへるなり。勝間田池はいにしへ奈良の郊外にありしなり○※[髪の上半/眉の上半/貝]は鬚の誤ならむ。古寫本には往々鬚とも※[髪の上半/賓]とも分き難き字を書けり。天智天皇紀の剃2除※[髪の上半/賓]髪1爲2沙門1なども或は鬚髪の誤にはあらざるかと思へどこは※[髪の上半/兵]髪とも書きたれば輕々しく決すべからず
 堵裡は都裡なり。殿より出でて里に遊び給ひしなり。堵を都に通用せる例は卷一(五三頁)に感2傷近江舊堵1、卷三(四一二頁)に改2造難波堵1之時、卷六(一一四三頁)に小獣泄2走堵里之中1とあり。裡は里の誤か。御見はメシテ又はミタマヒテとよむべし○緒は諸の誤にて論語(衛靈公)なる君子求2諸己1、小人求2諸人1などの諸なり。於の如くニとよむべし。時は一本に是とあり○濤濤は蕩蕩の誤ならむ。蕩々は動搖の貌にてユタユタ(3406)といはむが如し○專|輙《テフ》はただ專といはむにひとし。晋書劉弘傳に敢引2覆|※[食+束]《ソク》之刑1甘受2專輙之罪1とあり。此語はよく我邦に行はれきと見えて近くは足利時代の文書にも見えたり
 
   謗2佞人1歌一首
3836 奈良山の兒手柏《コノテガシハ》の兩面爾《フタオモニ》かにもかくにも倭人之友〔二字左△〕《ネヂケビトナル》
奈良山乃兒手柏之兩面爾左毛右毛佞人之友
     右歌一首博士|消〔左△〕奈《セナ》(ノ)△《キミ》行文大夫作之
 兒ノ手ガシハを貝原益軒以下側柏にあてたり。側柏は檜の一種なり。案ずるにカシハは木葉に食物を盛る時の稱なり。されば此木の葉はカシハとするに適せざるべからず。又兒ノ手にたとへたれば葉は掌状ならざるべからず。又フタオモといへるを見れば面背ほぼ同色ならざるべからず。又卷二十に千葉ノ野ノコノテガシハノホホマレドとあるを見れば少くとも初にはつぼめるものならざるべからず。右四つの品のうち第一と第三との外は側柏に合はず。
(3407)  高橋氏文に見〔左△〕2眞木(ノ)葉1天|枚次八枚《ヒラスキヤツ》爾刺作天とあり。眞木は檜なり。されば側柏もカシハとはしつべし
 袖中抄には大和守範永の説を擧げて大ドチの一名とせり。おそらくはハハソの一種ならむ○兩面爾はフタオモニとよむべし。一本に爾の字無きはわろし。序は初二なり。されば上三句の意は奈良山ノ兒手柏ノヤウニ表裏兩面ニテといへるなり○カニモカクニモはトニモアレカクニモアレにてイヅレガ表ニテモアレとなり○之友はおそらくは爾有の誤ならむ。さらばネヂケビトナルとよむべし
 略解に續紀に背奈(ノ)公行文(○懷風藻には背奈(ノ)王行文)とあればこゝは背を消に誤り又姓の下に公をおとしたるならむといへり
    ○
3837 (久堅の)雨もふらぬかはちすばにたまれる水の玉に似將有〔二字左△〕見《ニタルミム》
久堅之雨毛落奴可蓮荷爾渟在水乃玉爾似將有見
   右歌一首傳云、有2右兵衛1【姓氏未詳】多2能歌作之藝1也、于v時府家備2設酒(3408)食1饗2宴府(ノ)官人等1、於v是饌食盛v之皆用2荷葉1、諸人酒酣謌舞駱驛〔二字左△〕、乃誘2兵衛1云、開〔左△〕《カケテ》2其荷葉1而作v此〔□で囲む〕歌|者《トイヒキ》、登時《スナハチ》應v聲作2斯歌1也
 フラヌカはフレカシなり。將有は有將を顛倒したるなり。ニタルミムとよむべし
 府家は石兵衛督なり。駱驛は絡繹の誤なり。絡釋繹連續なり。開は關の誤なり。此は衍字なり。上なる意吉麻呂の第一首の左註(三三九三頁)とくらべ見べし○饌食盛v之皆用2荷葉1は荷葉をカシハとしたるなり
 
   無2心所1v著歌二首
 やがて左註にいへる無v所v由歌にてわざと意義を成さざるやうによめるなり。歌を弄べるいとうたてし
 
3838 吾味兒が額爾生△流《ヌカニオヒタル》雙六《スグロク》のことひの牛のくらの上の瘡《カサ》
吾味兒之額爾生流雙六乃事負乃牛之倉上之瘡
 第二句を舊訓にヒタヒニオフルとよめるを古義にヌカニオヒタルとよみて
  和名抄には額をヒタヒとあれど、そは中山嚴水云、和名抄容飾具に蔽髪(ハ)釋名云蔽2(3409)髪前1爲v飾、和名比太飛とありて此訓よりうつりて額の訓となれるにて額の本訓にはあらじといへり
といへり。流の上に多などをおとせるなり。コトヒ牛は牡牛なり。今もコットイといふ○鞍の下にこそ瘡は生ずべきをクラノ上ノカサといへるも無心所著を發揮せるなり
 
3839 吾兄子が犢鼻《タフサキ》にするつぶれ石の吉野の山に氷魚ぞ懸有《サガレル》
吾兄子之犢鼻爾爲流都夫禮石之吉野乃山爾氷魚曾懸有【懸有反云佐家禮流】
    右歌者舎人親王令2侍座1曰、或有d作2無v所v由之歌1人u者賜以2銭帛1、于v時大舎人安倍朝臣|子祖父《コオヂ》乃作2斯歌1獻上、登時《スナハチ》以2所v募物△銭二千文1給之也
 タフサキは今のサルマタなり。古義に俗にいふフンドシなりといへるは非なり。サルマタは形牛の鼻に似たれば漢籍には特鼻褌といへるなり(特を又犢と書けり。共に音はトクなれど特はヲウシ、犢はコウシなり)○ツブレ石はツブラ石にて圓き石(3410)なり○ここの或有は上(三三八三頁及三四〇四頁)なる或有と異なり。或の字はモシケダシなどよむべし○物の下に并などをおとせるならむ○契沖以下天武天皇紀なる朕問2王卿1以2無端事《アトナシゴト》1仍對言得v實必有v賜を例に引きたれどこは直言を奨めむが爲にわざと無端事をいひ出でて問ひ給ひしにてこゝの例に引くべきにあらず○分註中の家は我の誤なり
 
  池田朝臣嗤2大神《オホミワ》(ノ)朝臣|奥守《オキモリ》1歌一首【池田朝臣名忘失】
3840 寺寺の女餓鬼申さく大神《オホミワ》の男餓鬼《ヲガキ》たばりて其子うまはむ
寺寺之女餓鬼申久大神乃男餓鬼被給而其子將播
 卷四(七一一頁)に
  あひおもはぬ人をおもふは大寺の餓鬼のしりへにぬかづくごとし
とあり。契沖のいへる如くいにしへは寺々に餓鬼の像をすゑたりけむ。さて其餓鬼は男女共にありしか。或は女餓鬼のみならざりしか。今も往々遺りて三途河《サウヅカ》の婆《ババ》の像と稱せらるゝもの即此女餓鬼ならざるか○大神(ノ)朝臣はいたく痩せたる人なればそを嘲りて寺々ノ女餓鬼ガ大神ノ男餓鬼ニ嫁ガムト願フといへるなり。ソノ子(3411)ウマハムはただ添へ云へるなり。ウマハムは生マムなり。ウムをウマフともいひしなり○古義に池田朝臣は眞枚《マヒラ》なるべしといへり
 
   大神朝臣奥守|報嗤《コタヘアザケル》歌一首
3841 佛つくる眞朱《マソホ》たらずば(水たまる)池田のあそが鼻の上をほれ
佛造眞朱不足者水渟池田乃阿曾我鼻上乎穿禮
     或云
 眞朱は二註にマソホとよめるに從ふべし。卷十四(三一五九頁)にもマガネフクニフノ麻曾保ノイロニデテとあり。佛ツクルマソホは造佛ノ料ナルマソホなり。朱は木像に塗るものなれば然いへるなり。池田朝臣は酒渣鼻《アカバナ》なりしかばそを嘲りたるなり○アソは古事記及日本紀にタマキハルウチノ阿曾とあるを初出とす。宣長がアソはアソミの略といへるが非なる事は古義に辨じたる如し。略解には『アソは吾兄《アセ》なり』といへり。人を敬して汝兄《ナセ》とも吾兄《アセ》ともいひしは明なれどアセを訛りてアソともいひきとせむはいかが。アソは吾兄男《アセヲ》の約ならざるか(古義には吾兄子《アセコ》の約と(3412)せり)。神代紀に星(ノ)神香々背男あり。そのセを篤胤はサエの約にて清明《サエアカ》き意なりといへれどカガセヲは輝ク兄男の意なるべし
  古事記なる倭建命の御歌にヒトツマツ阿勢袁とあり又雄略天皇紀なる舎人の歌にハリガエダ阿西鳴《アセヲ》とあるは宣長のいへる如く吾兄ヨの意にてもあるべし」
 或云の下に文おちたるなり
 
   平群《ヘグリ》朝臣嗤歌一首
3842 小兒《ワラハ》ども草はな苅りそ(八穗蓼を)穗積のあそが腋草をかれ
小兒等草者勿苅八穗蓼乎穗積乃阿曾我腋草乎可禮
 小兒を略解にワラハ、古義にワクゴとよめり○ヤホ蓼ヲのヲはヤにかよふヲにてウマ酒ヲ三輪、ミハカシヲ劍、モモブネヲ度會(ノ)國などのヲなり(二七七八頁及二八六四頁參照)○從來ワキクサを腋の毛と心得たるは非なり。ワキクサは腋臭にて今いふワキガなり。ワキクサヲカレはワキクサトイフ草ヲ刈レといへるなり。腋草と書けるは借字のみ。和名抄に胡臭(ハ)和蚊久曾とあるはワキクサの轉訛ならむ
 
(3413)   穗積朝臣和歌一首
3843 何所曾△《イヅクゾモ》まそほほる岳《ヲカ》(こもだたみ)平群のあそが鼻の上をほれ
何所會眞朱穿岳薦疊平羣乃阿曾我鼻上乎穿禮
 初句を略解にイヅクニゾとよみ古義にイヅクゾとよめり。曾の下に毛を補ひてイヅクゾモとよむべし○古義に平群朝臣は廣成なるべく穗積朝臣は老人なるべしといへり(穗積朝臣老人は穗積朝臣老と同時別人なり)
 
   嗤2咲黒色1歌一首
3844 (ぬばたまの)斐太の大黒見るごとに巨勢の小黒しおもほゆるかも
鳥玉之斐太乃大黒毎見巨勢乃小黒之所念可聞
 土師(ノ)水通が巨勢(ノ)豐人と斐太(ノ)某との色の黒きを嘲りたるなり。斐太某の方一層黒かりしかば大黒といひ巨勢豐人の方やゝおとりしかば小黒といへるなれど契沖のいへる如くもと馬によそへて大黒小黒といへるならむ
  右は左註に基づきて云へるなり。但歌の調より見れば斐太の大黒は眞の馬の名(3414)にて、それによそへて巨勢豐人を巨勢の小黒といへる如し。左註の據れる傳に誤あるにあらざるか
 
   答歌一首
3845 (駒つくる)土師《ハジ》の志婢《シビ》麻呂|白爾有者《シロナレバ》うべほしからむその黒色乎〔左△〕《ノ》
造駒土師乃志婢麻呂白爾有者諾欲將有其黒色乎
    右歌者傳云、有2大舎人土師《ハジ》(ノ)宿禰|水通《ミミチ》1、字曰2志婢麻呂1也、於v時大舎人巨勢朝臣豐人字曰2正月《ムツキ》麻呂1、與2巨勢(ノ)斐太(ノ)朝臣1【名字忘之也島大夫之男也】兩人並此彼貌黒色焉、於v是土師(ノ)宿禰水通作2斯歌1嗤咲|者《トイフ》、而巨勢朝臣豐人聞v之即作2和歌1酬咲也
 土師《ハニシ》(略してハジともいふ)は埴輪の駒などを造るが故に駒ツクルを姓の土師の枕辭とせるにて此枕辭にはやく嗤笑の意を寓せるなり。又特に駒を取り出でたるは贈歌に我を馬によそへたるが故ならむ○第三句を古義には白久有者の誤とせり。げに爾を久に作れる本もあれど色ガ白イカラ黒色ガホシカラウといひては嗤咲(3415)とならず。なほもとのまゝにてシロナレバとよむべし。そのシロは亦馬によそへたるなり、さればシロナレバは白馬ダカラといふ意なり○結句の乎は之の誤ならむ。卷九なる長歌(一七五二頁)に問卷乃《トハマク△》ホシキ我妹ガ家ノシラナクとあり。又卷十一(二三六五頁)にツギテ見卷能《ミマク△》ホシキ君カモとあり 土師(ノ)宿禰|水通《ミミチ》は卷五なる梅花歌の作者に土師氏|御通《ミミチ》とある人なり。字は通稱なり○巨勢ノ斐太は復姓なり。歌にただ斐太といへるは略せるなり。島大夫は聖武天皇紀に外從五位下巨勢斐太朝臣島村とある人の事にて島村大夫と書くべきを村をおとせるならむ。諸本に村の字あり○此彼は此モ彼モとよむべければ並と重複せるに似たり
 
   戯嗤v僧歌一首
3846 法師等がひげのそり※[木+兀]《グヒ》馬つなぎいたくな引きそ僧半〔左△〕甘《ホフシナゲカム》
法師等之※[髪の上半/眉の上半/貝]〔左△〕乃剃※[木+兀]馬繋痛勿引會僧半甘
 いにしへ僧は鬚をも剃りたりき。その剃りたる鬚のすこし伸びたるをソリグヒといへるなり。ソリグヒの下にニを補ひて見べし○結句を二註にナカラカムとよみ(3416)て略解には
  ナカラカンは半分の意にてナカラニナランとたはぶれいふ也
といひ古義には
  ナカラ缺カムといふことなり。僧の面をそこなひて半を缺むといへるなり
といへり。案ずるに半甘は嘆甘の誤にてナゲカムとよむべきなり
 
   法師報歌一首
3847 檀越《ダンヲチ》や然もな言ひそ※[氏/一]〔左△〕戸等〔左△〕我《サトヲサガ》課役《ツキエ》はたらばなれも半〔左△〕甘《ナゲカム》
檀越也然勿言※[氏/一]戸等我課※[人偏+(口/又)]徴者汝毛半甘
 檀越は又檀那といふ。梵語なり。漢語の施主に當れり。僧より俗を指していふ稱なり○※[氏/一]戸等我を古義に五十戸長等我の誤脱としてサトヲサラ〔右△〕ガとよめり。※[氏/一]を五十、等を長の誤としてサトヲサガとよむベL。卷五なる貧窮問答(九六七頁)にもサトヲサを五十戸長と書けり。戸令に凡戸(ハ)以2五十戸1爲《セヨ》v里とあるに依れるなり○課役を略解にエダチとよめるを古義に天武天皇紀二年三月の處にエツキと傍訓せるに依りてエツキとよみ改めたり。課と役とは別にて課はミツギ、役はエダチなればげに(3417)一方に附きてエダチとはよむべからず。但字の順に從ひてツキエともよむべし。崇神天皇紀十二年九月なる調役にツキエと傍訓せる本あり○※[人偏+(口/又)]は役の俗字なり
 
   夢裡作歌一首
3848 荒城田のしし田の稻を倉に擧藏而《ツミテ・コメテ》あな于〔左△〕稻于〔左△〕稻志《ヒネヒネシ》わがこふらくは
荒城田乃子師田乃稻乎倉爾擧藏而阿奈于稻于稻志吾戀良久者
    右歌一首忌部(ノ)首《オビト》黒麿夢裡作2此戀歌1贈v友〔左△〕、覺而不〔左△〕2誦習1如v前
 アラキ田は新墾田なり。卷七(一二四七頁)にアラキノ小田とあり。因にいふ。今東京にて一種の粘土をアラキダといふは名義のうつれるなり○シシ田は猪鹿の荒す田なり。はやく卷十二(二六三三頁)に見えたり○擧藏而は舊訓にツミテとよみ古義にコメテとよめり。いづれとも定めがたし○于稻を契沖は干稻の誤としてヒネとよめり。ヒネシは陳稻《ヒネ》より出でたる形容詞にて古クサシといふことならむ
 左註の贈友の友は女の誤、不誦習の不は所の誤ならむ。誦習は唱へ見る意なり
 
   厭2世間無常1歌二首
(3418)3849 生死《イキシニ》のふたつの海をいとはしみ潮干の山〔左△〕《キシ》をしぬびつるかも
生死之二海乎厭見潮干乃山乎之努比鶴鴨
 生死二海は所謂苦海なり。シホ干ノ山は其二海にむかへていへるにて所謂彼岸をアナタニ見ユル潮干ノ山といへるにやとも思へど山といはむには潮干は無用なり。又彼岸をシホヒノ山といはむはあまりに物遠し。少くとも山は岸の誤ならむ○源平盛衰記卷十九に
  左衞門尉渡は……生死の苦海を渡て菩提の彼岸に屆《イタラ》ん事を志し渡阿彌陀佛とも云けるにや
といへると相似たり
 
3850 世のなかの繁借廬爾《シゲキカリホニ》すみすみて至らむ國のたづきしらずも
世間之繁借廬爾住々而將至國之多附不知聞
     右歌二首河原寺之佛堂(ノ)裡|在《ナル》佞〔左△〕琴《ヤマトゴト》(ノ)面(ニ)之〔左△〕《カケリ》
 初二は神武天皇の御製なる
(3419)  あしはらの志祁去〔左△〕岐《シゲシキ》をやにすがだたみいやさやしきてわがふたりねし
の初二に倣へるなり。志祁去〔右△〕岐は志祁志〔右△〕岐の誤にてシゲシキはシゲキなり。シゲシはいにしへウマシ、オホシ、アツシ、タケシ、アラシ、カタシなどと同じくシ、シキとはたらきしかばシゲキをシゲシキといへるなり。宣長がこのシゲ志キを去と書ける本に從ひてシゲコキとよみて醜ナルといふ意とせるは誤なり。宣長は又今の歌の第二句をシキカリイホニとよみて
  繁は假字にて醜なり。古事記穢繁國はキタナキシキクニとよむべし。卷十三ヲヤノ四忌屋ニ、シコノ四忌手などのシキに同じ
といひ二註は之に雷同せり。されど醜をシキといへる明證なし。卷十三(二八三七頁)なる四忌屋、四忌手はシコヤ、シコテとよむべし。又こゝの繁借鷹爾は舊訓に從ひてシゲキカリホニとよむべし。シゲキは彼大御歌なるシゲシキにおなじくてトコロセキといふ意ならむ○スミスミテは住ミ渡リテなり。タヅキは案内勝手なり。卷十五(三二七三頁)なるユカムタドキモオモヒカネツモのタドキにおなじ。古義にテダテ爲方とうつせるはこゝにては當らず。國といへるは無論極樂淨土なり(3420)左註の佞は一本に從ひて倭に改むべし。二註に終の之を也に改めて河原寺ノ佛堂ノ裡ノ倭琴ノ面ニアリとよめるは非なり。之は書の誤なり。河原寺ノ裡ナル倭琴ノ面ニ書ケリとよむべし。河原寺の址は大和國|高市《タケチ》郡高市村大字川原にありて橘寺と相對せり
    ○
3851 心をし無何有《ムカウ》のさとにおきたらば藐姑射《ハコヤ》の山を見まくちかけむ
心乎之無何有乃郷爾置而有者藐孤※[身+矢]能山乎見末久知香谿務
     右歌一首
 無何有之郷、藐姑射山は共に莊子に見えたり。無何有之郷は虚無の境といふこと、藐姑射山は仙人の居る處なり。ミマクチカケムは見ム事ガ近カラムとなり(略解に『目ニ近ク見ンと也』といへるは非なり。チカシは時の近きなり。處の近きにあらず
    ○
3852 (いさをとり)海や死《シニ》する山や死《シニ》する、死許曾《シヌレコソ》海は潮ひて山は枯《カレ》すれ()鯨魚取海哉死爲流山哉死爲流死許曾海者潮干而山者枯爲禮
     右一首
 海山モ無常ハノガレズといへるなり。シニスル、カレスレは死ヌル、枯ルレなり。死許曾を二註にシネコソと四言によめるはわろし。宜しくシヌレコソとよむべし○シホヒテのテは後世にはつかはぬテなり。集中には例多し
 
   嗤2咲痩人1歌二首
3853 石麻呂に吾《ワレ》物申す夏痩によしといふ物ぞむなぎとり食《メセ》
石麻呂爾吾物申夏痩爾吉跡云物曾武奈伎取食 賣世反也
 石麻呂を舊訓にイシマロとよめるを古義にイハマロと改めたり。イソマロともよむべし○ムナギは今のウナギなり。新撰字鏡にも牟奈支、和名抄にも旡奈岐とあり。ムとウとは相通へる例多し○賣世反也はメセト反スとよむべし。上(三三八五頁)にも田廬(ハ)多夫世(ト)反(ス)とあり。反は飜譯なり○卷八(一五一五頁)にも
  わけがため吾手もすまに春の野にぬける茅花《ツバナ》ぞめしてこえませ
(3422)とあり
 
3854 やすやすもいけらばあらむをはたやはたむなぎをとると河にながるな
痩々母生有者將在乎波多也波多武奈伎乎漁取跡河爾流勿
    右有2吉田《キチダ》(ノ)連《ムラジ》老《オユ》1、字曰2石麻呂1、所v謂仁教之子也、其|老《オユ》爲v人身體甚疲〔左△〕、雖2多喫飲〔左△〕1形似2飢饉△1、隱v此大伴宿禰家持聊作2斯歌1以爲2戯咲1也
 ヤスヤスは刈ル刈ルなどと同例にて俗にいふヤセヤセにでヤセツツなり。アラムヲはヨカラムヲなり○ハタヤハタは卷四(八一二頁)に
  かむさぶといなにはあらずはたやはたかくしてのちにさぶしけむかも
とあり。ハタヤハタはハタを強くいへるにてハタは又なり。轉ジテなり。古義はハタヤハタを誤解し引いて一首を誤解せり
 宣長は
  仁教は石麻呂の父の名なるべし。吉田連はもと吉備國より出たれば字音の名あ(3423)るべし
といへり。吉田《キチダ》氏は元來皇別なり。其祖|鹽足津彦《シホタリツヒコ》(所謂松(ノ)樹(ノ)君〜崇神天皇の御世に勅に依りて韓國に渡りて巴※[さんずい+文]《ハモン》といふ地の宰たりき。彼國にて宰を稱して吉《キチ》といふによりて子孫吉氏と稱せしが歸朝して奈良の田村(ノ)里に住みたるものありしかば聖武天皇の御世に(家にては卷五に見えたる吉(ノ)宜などの時)本姓の吉と田村里の田とを合せて吉田(ノ)連といふ姓を賜ひしなり○所謂仁教とあれば仁教は石麻呂の父の字即通稱ならむ。さて仁教はやがて宜か○疲は一本に從ひて痩に改むべし。飲は略解にいへる如く飯の誤ならむ。飢饉の下に人の字おちたるにや
 
   高宮王詠2數種(ノ)物1歌二首
3855 葛英〔二字左△〕《サウケフ》にはひおほどれるくそかづらたゆる事をく官〔左△〕《ミヤヅカヘ》せむ
葛英爾延於保登禮流屎葛絶事無官將爲
 上三句は序なり。葛英を舊訓にフヂノキとよめり。その葛英は異本に從ひて皀莢の誤とすべし(契沖は葛莢の誤として皀莢の事とせり)。皀莢は又※[白/七]莢と書けり。今いふサイカチの事なれどサイカチはもとより後世の稱なればここは然はよむべから(3424)ず。本草和名には加披良布知乃岐とあり。
  和名抄には※[白/七]莢を葛類に収めて加波良不知、俗云蛇結と註せり。されどカハラフヂといびジャケツといふは雲實にて※[白/七]莢にあらず。※[白/七]莢は其莢葉、雲實に似たるが故にカハラフヂノ木といふなり。又※[白/七]莢は喬木にして葛類にあらず。和名抄はカハラフヂとカハラフヂノ木とを混同し從ひて雲實と※[白/七]莢とを混同せるなり(以上は箋註に據れるなり)
 さて舊訓にフヂノキニとよめるはカハラフヂノキニとよめば八言となりて調を成さざるによりてカハラの三言を削れるなるべけれど妄にカハラフヂノ木を略してフヂノ木とはいふべからず。又カハラフヂノ木は木の本名にはあらずして所謂|字《アザナ》なるべく本名は字音のまゝにてサウケフとぞいひけむ。さればこゝもサウケフとよむべし○オホドレルは亂レタルなり。此語は後世は下二段にはたらかしたり○官を舊訓にミヤヅカへとよめり。二註にいへる如く宦を誤れるなり。宦は字書に仕也とあればミヤヅカヘとよみつべし○※[白/七]莢、屎葛、宮仕を合せよめるか
 
3856 婆羅門のつくれる小田をはむ烏まなぶたはれて幡幢《ハタホコ》にをり
(3425)婆羅門乃作有流小田乎喫烏臉〔左△〕腫而幡幢爾居
 婆羅門は異教徒として佛教徒より憚かられし印度の種族なり。三四の間〔日が月〕に罸ヲ中テラレテといふことを挿みて聞くべし○幡憧を從來幡幢の誤としてハタホコとよめり。されば旗を著けたる鉾かと思へど(中務省式に著v幟殳《ハタホコ》とあり、靈異記卷上第一に赤幡桙とあり)鉾にはたとひ木鉾なりとも烏はとまり得じ。又幢は字書に旌旗之屬とあればハタとよむべくホコとはよむべからず。更に案ずるに玉篇に※[木+童](ハ)竿也或作v幢とあればこゝに幢とあるを※[木+童]の通用として幡幢をハタザヲとよむべきか。更に又文選西京賦に都廬|尋《ノボリ》v※[木+童]とあり(都廬は所謂輕業師なり)又※[木+童]末之伎とありて※[木+童]をハタホコと訓み來れるを思へばいにしへハタザヲをハタホコとも云ひしか。
  歌經標式に婆他保己爾ソヒテノボレルナハノゴトとなり、又和名抄に寶幢訓波多保古とあり
 もし然らば幡幢は舊訓の如くハタホコとよみてハタザヲと心得べし○ヲリはトマレリなり○こは烏、瞼、幡幢といふことを合せよめと云はれてよめるならむ○臉は瞼の誤なり
 
(3426)   戀2夫君1歌一首
3857 飯喫騰《イヒハメド》 うまくもあらず あるけども 安くもあらず (あかねさす) △ 君がこころし わすれかねつも
飯喫騰味母不在雖行往安久毛不有赤根佐須君之情志忘可禰津藻
    右歌一首傳云、佐爲《サヰ》王有2近習婢1也、于v時宿直不v遑夫君難v遇、感情馳結係戀實深、於v是當宿之夜夢裡相見、覺寤探抱曾無v觸v手、爾乃嘆※[口+周]〔左△〕歔欷高聲吟2詠此歌1、因王聞v之哀慟永免2侍宿1也
 第一句を略解にイヒクヘドとよみ改めたり。卷五(八五七頁)にウリ波米波コドモオモホユ、クリ波米婆マ シテシヌバユ又(九一二頁)クモニトブクスリ波武トモとあれば舊訓の如くイヒハメドとよむべし○アカネサスの下にヒルハシミラニ、ヌバタマノ、ヨルハスガラニ、ハシキヤシなどいふ四句をおとしたるならむ
 佐爲王は諸兄の弟なり。馳結は例を知らず。アクガレムスボレといふ意か。※[口+周]は異本に咽とあるに從ふべし
(3427)    ○
3858 このごろの吾戀力しるし集《ツメ》、功《クウ》に申さば五位の冠《カガフリ》
比來之吾戀力記集功爾申者五位乃冠
 戀ヂカラは戀ニツキテノ勞《イタヅキ》なり。集は古義にツメとよめるに從ふべし。功ニ申サバは論功ニ申立テナバとなり。カガフリは位階なり。その下にナルベシを略せるなり
 
3859 このごろのわが戀力たばらずば京兆《ミサトヅカサ》にいでて訴《ウタ》へむ
頃者之吾戀力不給者京兆爾出而將訴
     右歌二首
 第二句は我戀力ノ賞ヲとなり。京兆は和名抄によりてミサトヅカサとよむべし
 
   筑前國志賀(ノ)白水郎《アマ》(ノ)歌十首
3860 おほきみのつかはさなくにさかしらにゆきし荒雄らおきに袖ふる
王之不遣爾情進爾行之荒雄良奥爾袖振
 題辭の初に詠の字あるべきなり○サカシラニは自進ミテなり。荒雄ラのラは助辭(3428)にて憶良ラ、坂門《サカト》ラのラにおなじ。荒雄は舟子の名なり。左註を見よ○袖フルは別を惜むさまなり。契沖以下神代紀なる潮至v頸時則擧v手飄v掌を例として水に溺るゝ状としたれど瓢掌は手をひるがへすにて袖を振るとは異なり
 
3861 荒雄らを來むか來じかと飯もりて門にいでたち待てど不來座
荒雄良乎將來可不來可等飯盛而門爾出立雖待不來座
 來ジカは輕く添へたるにて意は來ムカトにて盡きたるなり。飯モリテは飯ノ支度ヲシテなり。飯を門にもち出づるにはあらず○不來座を從來キマサズとよめり。宜しくキマサヌとよむべし
 
3862 志賀の山いたくな伐りそ荒雄らがよすがの山と見つつしぬばむ
志賀乃山痛勿伐荒雄良我余須可乃山跡見管將偲
 卷三(五七九頁)なる悲2傷亡妻1歌にコトドハヌ物ニハアレド、ワギモコガイリニシ山ヲ、ヨスガトゾモフ又その反歌にヨソニ見シ山ヲヤ今ハヨスガト思ハムとあり。略解に荒雄を此山に葬りたればかくよめりといへれど荒雄は洋中にて船覆りて溺(3429)れ死にしなれば其骸を獲て故郷の山に葬るべきにあらず。さればヨスガノ山は荒雄ガメデモシ立入リモセシナジミノ山といふ意とすべし
 
3863 荒雄らがゆきにし日より志賀のあまの大浦〔二字左△〕田沼〔左△〕者《ソノナハタギハ》、不樂有哉《サブシクモアルカ》
荒雄良我去爾之日從志賀乃安麻乃大浦田沼者不樂有哉
 結句を略解にサブシカルカモとよみ古義に不樂不〔右△〕有哉の脱字としてサブシカラズヤとよめり。もとのまゝにてサブシクモアルカとよむべし。卷四(六九一頁)に今ヨリハキノ山ミチハ不樂牟《サブシケム》とあり○第四句を從來オホウラタヌハとよめり。おそらくは誤字あらむ。案ずるに此句は志賀ノアマノを受けサブシクモアルカにつづきたれば海人のしわざにて又にぎやかなる事ならざるべからず。もしくは夫縄田服者《ソノナハタギハ》の誤か。ソノを挿みたる例は卷八にナガ月ノソノハツ雁ノ使ニモ、オホノ浦ノソノ長濱ニヨスル浪(一六二四頁、一六二六頁)卷九にウナガミノソノ津ヲサシテ(一八〇六頁)卷十に秋ハギノソノハツ花ノウレシキモノヲ(二一七九頁)卷十一にワガ背子ガソノ名ノラジト(二三五二頁)などあり。ナハタギは古今集なる小野篁の歌に
  おもひきや鄙の別におとろへてあまのなはたぎいざりせむとは
(3430)とありて網の縄をたぐる事なり。タグリをつづめてタギといへるならむ。卷十九にも馬タギユキテとあり。或は云はむ。此説の如くならばソノナハタギモ〔右△〕とあるべきにあらずやと。答へて云はむ。げにモといふべきに似たれど卷十七にも
  わがせこがくにへましなばほととぎすなかむさつき波さぶしけむかも
とあり。これも今の情を以てすればサツキモとあるべきに似たらずやと
 
3864 官《ツカサ》こそさしてもやらめさかしらにゆきし荒雄ら波に袖ふる
官許曾指弖毛遣米情出爾行之荒雄良波爾袖振
 初二は官ノ指シテ遣レルナラバコソアラメと心得べし。波ニソデフルは別ヲ惜ミテ波ノ上ニテ袖ヲ振ルとなり○第一の歌と似たり
 
3865 荒雄らは妻子《メコ》の産業《ナリ》をばおもはずろ年の八とせをまてど來不座《キマサヌ》
荒雄良者妻子之産業乎婆不念呂年之八歳乎待騰來不座
 ナリは活計なり。ロはヨに似たる助辭なるべし。トシノヤトセヲは年久シクなり。來不座は必キマサヌ〔右△〕とよむべし。來マサヌハのハを略したるなり
 
(3431)3866 (おきつとり)鴨ちふ船のかへりこば也良の埼守早くつげこそ
奥鳥鴨云船之還來者也良乃埼守早告許曾
 鴨は二註にいへる如く荒雄の船の名なるべし。也良(ノ)埼は能許島の北端にて今荒崎といふとぞ。埼守は防人にて戌兵なり。能許島は福岡※[さんずい+彎]内にありて志賀島と相對せり
 
3867 (おきつ鳥)鴨ちふ舟は也良の埼たみてこぎくと所聞禮〔左△〕《キコエ》こぬかも
奥鳥鴨云舟者也良乃埼多未弖※[手偏+旁]來跡所聞禮許奴可聞
 タミテは廻リテなり。古義に所聞禮を所聞衣の誤としてキコエとよみ、さてキコエのエの言は所の字にあたれれば衣は無用にあまれるごとくなれども集中に所偲由など書る例に同じ
といへり。禮は一本に衣とあり。キつエコヌカモは聞エ來ヨカシなり
 
3868 おきゆくやあから小船に裹〔左△〕《ツテ》やらばけだし人見て解披《ヒラキ》見むかも
奥去哉赤羅小舩爾※[果/衣]遣者若人見而解披見鴨
(3432) 赤き小船をアカラ小船といへるはアカラガシハ、アカラタチバナ、俗語のアカラ顔などと同例なり○裹は傳の誤ならむ。ツテヤラバはコヒシサニ堪ヘヌ趣ヲ消息ニ書キテ托シ遣ラバとなり。ケダシは或ハなり。解披はマドフ、サモラフ、ヨドム、ハラフ、イノルを迷惑、侍從、止息、解除、斎祈と書けるなどと同類なり。略解に從ひてヒラキとよむべし。古義は舊訓に從ひてトキアケとよめり
 
3869 大舶に小舶ひきそへかづくとも志賀の荒雄にかづきあはめやも
大舶爾小船引副可豆久登毛志賀乃荒雄爾潜將相八方
    右以2神龜年中1太宰府差2筑前國宗像郡之百姓|宗形《ムナガタ》部(ノ)津麿1充2對馬送粮舶(ノ)柁師1也、于v時津麿詣2於|澤〔左△〕屋《カスヤ》郡志賀村(ノ)白水郎荒雄之許1語曰、僕有2小事1、若疑不v許歟、荒雄答曰1、走《ワレ》雖2異郡1同船日久、志篤2△兄弟1、在2於殉死1豈復辭哉、津麿曰、府官差v僕充2對馬送粮舶柁師1、容齒衰老不v堪2海路1、故來祗侯、願垂2相賛〔左△〕1矣、於v是荒雄許諾遂從2彼事1、自2肥前國松浦縣|美禰良久《ミネラク》(ノ)埼1發《ヒラキ》v舶、直|射《サシテ》2對馬1渡海、登時《ヤガテ》忽天暗冥(3433)暴風交v雨、竟無2順風1沈2没海中1焉、因v斯妻子等不v勝2犢暴〔左△〕1裁2作此謌1、或云、筑前國守山上憶良臣悲〔□で囲む〕感2妻子之△傷1述v志而作2此歌1
 第三句は沖中ニカヅカシムトモと心得べし
 主税式に
  凡筑前筑後肥前肥後豐前豐後等ノ國、毎年穀二千石ヲ對馬島ニ漕送シ以テ島司及防人等カ粮ニ充テヨ
 又三代實録貞観十八年三月の下に
  文簿ヲ検スルニ六國一年對馬島ニ漕運スル所ノ年粮穀二千斛……而ルニ往古以來全ク到リシハ寡ク年中五六ノ三四ヲ漂ス云々
とあり○差は字書に使也とあり今も欽差などいへばツカハシテとよむべきかと思ふに我邦の古書には邦語のサス(指ス、指名スル)と混同せる如し。即簡差、差2充遠使(ニ)1、預差2定郊勞使1などある上に簡差の如きは大寶令の古訓にエラビササムとあり。もし差の字音によれるならばサセムとこそあるべけれ。さればこゝの差もサシテとよみて上にツカサコソサシテモヤラメといひ卷二十にサキモリニサスといへる(3434)と同じく指名の意とすべし○柁師は梶取なり。澤は滓の誤なり。滓屋《カスヤ》郡は宗像郡の西南に隣れり○走は走使の意にて自賤めていふ稱なり。志篤の下に於をおとせるか。殉死の上なるはこゝより移れるにあらざるか○府官は太宰府の官吏なり。賛は替の誤なり○美禰良久はもとのままにてミネラクとよむべし。宣長が禰を彌の誤としてミミラクとよめるは非なり。續紀に松浦郡旻樂埼と書ける旻の音はminにてmimにあらざればなり(傭字例及|男信《ナマシナ》中卷參照)。五島の西北端にありて今三井樂といふとぞ○暴は慕の誤なり。犢を略解に侍《ジ》の誤とし古義に特《トク》の誤とせり。もとのままにて可ならむ。嬰兒の母を慕ふが如くするを嬰慕といへば犢の母牛を慕ふが如くするを犢墓といひつべし○悲は感の上より移して傷の上に入るべし。脱字を補ふとてあらぬ處に入れたるなり○此十首は無論荒雄の妻子の作にあらず。又此十首は成るに隨ひて記し附けて其順序をとゝのふるに及ばざりきと見ゆ。少くとも官コソサシテモヤラメは第二首たるべく荒雄ラガユキニシ日ヨリは第三首たるべし。又アラヲラヲコムカコジカト、オキツトリ又オキツトリ、オキユクヤの四首はその次、アラヲラハメコノナリヲバはその次、大フネニはその次、シカノ山は最後(3435)なるべし
    ○
3870 (紫の)こがたの海にかづく鳥珠かづきでばわが玉にせむ
紫乃粉滷乃海爾潜鳥珠潜出者吾玉爾將爲
     右歌一首
 卷十二(二七一三頁)にもコシノウミノコガタノウミノ島ナラナクニとあり
    〇
3871 角《ツヌ》島のせとのわかめは人の共あらかりしかど吾共は和海藻《ニギメ》
角島之追門乃稚海藻者人之共荒有之可杼吾共者和海藻
     右歌一首
 角島は長門國にあり。人之共、吾共者を契沖以下ヒトノムタ、ワガムタハとよめり。さて古義に
  人ノムタ、アガムタはつねは人ト共ニ、君ト共ニといふ意にいふことなるにこゝ(3436)はいさゝかそれとは異にて人ノタメ、ワガタメといふほどのことに聞えたり
といへり。共は或は谷の誤にあらざるか。タニはタメニなり(八七二頁及二七六〇頁參照)○和海藻の海藻はメに當れり。和は二註の如くニギとよむべし。アラとニギとは相對せる語なり。はやく古事記傳卷三十(一八四七頁)に荒御魂和御魂の事をいへるついでに
  凡てニギとアラとをむかへいふこと多し。ニギタヘアラタヘ、ニギシネアラシネ、ニギメアラメ、毛ノニコモノ毛ノアラモノなどの如し。……大かたニギアラの右のくさぐさを漢字にていはば生熟、精麁、疎密などに當れり。……又剛柔の柔をばニギといへども其對の剛をアラといへることはなし
といへり。アラメのアラはやがて剛に當れるにあらずや。一首の趣は女の人の誂《ツマド》ふにはつれなくてわが誂ふには逆らはぬを喜ぶ心を稚海藻《ワカメ》に(若き女といふにかよへば)よそへていへるなり
    ○
3872 吾門の榎實《エノミ》もりはむ百千鳥千鳥はくれど君ぞ來まさぬ
(3437)吾門之榎實毛利喫百千鳥千鳥者雖來君曾不來座
 契沖は
  第二句はモリとムレと同音にて通ずれば榎實ヲムレテハムとよめる歟。又各榎實ヲ守リ居テハムと云にや
といひ二註は其後説に從へり。いにしへ群るゝことをモルともいひしならむ。木の群り生ひたる處を森といふをも思ふべし○百千鳥千鳥は諸鳥といふことにてただ百千鳥といひて可なるを辭の文に更に千鳥とかさね云へるなり
 
3873 吾門に千鳥しばなくおきよおきよわが一夜妻人に知らゆな
吾門爾千鳥數鳴起余起余我一夜妻人爾所知名
     右歌二首
 略解に『千鳥シバナクは夜明てくさぐさの鳥の啼をいふ』といへる如し。神樂歌に
  庭鳥はかけろとなきぬなり、おきよおきよ、わがひとよづま人もこそ見れ
とあるは之を作り更へたるなり〇一夜妻はかりそめに女を引き入れて逢ひしなり。古義に妻を夫の借字として今夜タダ一夜シノビテ來テ相宿シ給フ夫ヨと譯せ(3438)るはひが言なり
    ○
3874 いゆししを認《ツナグ》河邊の和〔左△〕事《ワカクサノ》、身若可〔左△〕倍爾《ミノワカクヘニ》さねし兒らはも
所※[身+矢]鹿乎認河邊之和草身若可倍爾佐宿之兒等波母
     右歌一首
 イユシシははやく卷九にも卷十三にも見えてイユは皆所射と書けり。いにしへイラユをイユといひしなり。さてもなほイユルといはではシシへつづかざる如くなれど、いにしへはかゝる處も終止格にてイユといひしなり。辭を換へていはばイユシシは太古の辭そのまゝにて奈良朝時代の語法によらばイラユルシシ否射ラエルシシといふべきなり。シシは猪鹿の總稱なり○上三句は序にて皇極天皇の大御歌に
  いゆししを都那遇《ツナグ》かはべのわかくさのわかくありきとあがもはなくに
とあるに依れるなり○認を舊訓にトムルとよめり。契沖は此訓に從ひて
(3439)  認は獵師の手負せたる鹿の跡を認て行なり。齊明天皇の御歌にツナグとよませ給へるも俗に跡をとむるを跡ヲツナグと云へばトムルとツナグと同じ義なり
といへり。今の歌の上三句は彼大御歌なるをさながら取れりとおぼゆる上に字鏡集(菅原爲長)色葉字類抄(橘忠兼などに認の字をツナグとよみたればこゝの認もツナグとよむべし。はやく二註にもツナグとよめり。和草は若草の誤ならむ○上三句を古義に『手を負たる鹿の逃行て河邊の若草をはみをる意にていへるなるべし』といへるは契沖の第二説に從へるにていみじきひが言なり。イユシシヲツナグは河邊の装飾辭にて若草とは相與からず。上三句は手負鹿ヲ我追跡スル河邊ニ生ヒタル若草ノといへるなり〇四五は古事記なる雄略天皇が引田部《ヒケタベ》(ノ)赤猪子《アカヰコ》に賜へる大御歌に
  ひけたの、わかくるすばら和加久閇爾ゐねてましものおいにけるかも
とあるに依れるなり。契沖は此大御歌の和加久〔右△〕閇爾の久を加の誤とし宣長は
  ワカクヘニのクはカとかよふ音なれば萬葉集の若可倍爾と同言とは聞ゆるを其意は未思得ず。ヘはイニシヘ、ムカシヘなどのヘなるべし。されば赤猪子ガ若カリ(3440)シホドニと云意とは聞ゆ
といへり(記傳卷四十一【二三八三頁】)。案ずるにヘはげに方の意、ワカクはマドホクノ、ハヤクヨリのマドホク、ハヤクと同格ならむ(三〇五一頁參照)。されば古事記に和加久〔右△〕閇爾とあるは誤字にあらでこゝに若可倍爾とあるが却りて誤字ならむ。さて彼大御歌なるワカクヘニは赤猪子ノ若カルホドにてこゝは身ノといふことを添へたれば作者ノ若カルホドなり。混同すべからず○ハモは其人をいづらと尋ぬる意の辭なり。サネシのサは添辭なり○※[身+矢]は射の俗字なり。上にも藐孤※[身+矢]と書けり
   ○
3875 (琴〔左△〕酒《カミザケ》を) 押垂小〔左△〕野《オシタルミヌユ》ゆ いづる氷 ぬるくはいでず 寒水《サムミヅ》の 心もけやに おもほゆる △ 音のすくなき 道にあはぬかも』 すくなきよ 道にあはさば 伊呂雅〔二字左△〕世流《イガケセル》 すが笠小笠 わがうなげる 珠の七條《ナナツヲ》 取替も 申さむものを △△《オトノ》すくなき 道にあはぬかも
琴酒乎押垂小野從出流水奴流久波不出寒水之心毛計夜爾所念音之少(3441)寸道爾相奴鴨少寸四道爾相佐婆伊呂雅世流菅笠小笠吾宇奈雅流球乃七條取替毛將申物乎少寸道爾相奴鴨
    右歌一首
 第一句は枕辭なり。契沖は琴ヲ押シ酒ヲ垂ルとかゝれるなりといひ略解には美〔右△〕酒乎の誤とせり。琴はおそらくは醸《カミ》の誤にてカミ酒ヲ押垂ルは醸みたる酒を搾る事ならむ○押垂小野從を舊訓にオシタレヲノニとよみ宣長は小を水の誤としてオシタルミヌユとよめり。後者に從ふべし。地名は垂水野にてそれにカミ酒ヲ押垂ルといひかけたるにて唐衣キナラノ里などと同例なり。さて垂水野はいづくにか知られねど清水の湧き出づるによりて負へる名ならむ〇二註に神代紀に下瀬是太|弱《ヌルシ》とあるを引きてヌルクハイデズを湧き出づる勢の弱からぬことゝしたれど此句までの四句は寒水をいひ出づべき序なれば寒からぬ事とせではかなはず○寒水を舊訓にヒヤミヅとよめるを雅ならずとして略解にはシミヅとよみ古義にはマシミヅとよめり。略解に引ける如くサムキミモヒ又ミモヒモサムシといへる例あり又倭姫命世記に
(3442)  其河之水寒有支則寒河止號支
  其|老《オキナ》以2寒《サムキ》御水《ミモヒ》1御饗奉支
とありていにしへつめたき事をサムシといひし事明なればサムミヅとよむべし○さてサムミヅノまでの五句は心モケヤニにかゝれる序なり。ケヤニはキヤニの轉にて消ユバカリといふ意ならむ。サユよりサヤニといふ語の生ずる如くキユよりキヤニといふ語生ずべし。古義に雄略天皇紀なる貴《ケヤカ》といふ語を引きて心モケヤニを心モイサギヨクと譯したれど貴と潔とはひとしからねば證と譯と一致せず。又ケザヤカニといへる例をあまた引き出でたれどケザヤカニはサヤカニにケの添へるにて別語なれば用もなき事なり○宣長は  オモホユルといふまでは音といはん爲の序なり
といひ雅澄は
  心モケヤニオモホユルの二句はしばらく寒水之の上にめぐらして意得べしケヤは寒水之といふより直につづきたる意にはあらず。心モイサギヨクオボユル清水ノ音ノスクナキとつづく意なり(3443)オモホユルまでは音之といはむ料の序なり。ヌルクハイデズ心モケヤニオモホユル寒水ノ音ノスクナキとつづく意なり。かくしばらく句を置換て心得べし
といへり。寒水之まではココロモケヤニにかゝれる序なる事上にいへる如し。オモホユルの次にワガセノ君ヨといふ一句をおとしたるならむ○音ノスクナキは宣長が人目の少きよしなりといひ雅澄が人音の少きにてしづかなる地のよしなり
といへる如し○道ニアハヌカモは道ニテ逢ヘヨカシとなり。以上第一段なり○元來此歌は女の作れるなり。二註に男の作とせるは誤なり
 スクナキヨは上に音ノを略したるにてヨはヤにかよふ助辭なり。アハサバは君ガ我ニ逢ヒ給ハバなり○伊呂雅世流を略解に伊毛雅世流《イモケセル》の誤としたれど相手は男なればイモとはいふべからず。古義には
  雅は※[奚+隹](ノ)ノ字の寫誤なり。伊呂はイロセ、イロトなどのイロなり。又イラツコ、イラツメ、イリ彦、イリ姫などのイラ、イリに同じく親み愛《ヲシ》みていふ稱なり
といへり。案ずるに此一句は下なるワガウナゲルに對したれば伊呂は汝《ナ》ガなどあるべし。然らば伊呂は那之の誤かといふに古語に汝を伊とも云ひし如し。其例は古(3444)事記|白※[木+壽]原《カシバラ》(ノ)宮の段に
  ココニ道(ノ)臣(ノ)命大久米(ノ)命二人|兄宇迦斯《エウカシ》ヲ召シテ罵詈《ノ》リテ云ヒケラク。伊賀〔二字右△〕所作仕奉《ツクリツカヘマツ》レル大殿ノ内ニハ意禮《オレ》先入リテ其仕奉ラムトスル状《サマ》ヲ明白《アカ》セトイヒテ云々
とあり。又皇極天皇紀に
  蘇我(ノ)大臣|蝦※[虫+夷]《エミシ》、山背(ノ)大兄《オホエ》(ノ)王等總テ入鹿ニ亡サレキト聞キテ瞋リ罵《ノ》リテ曰ハク。噫入鹿|極甚《イト》愚癡ニテ專暴惡ヲ行フ。※[人偏+爾]之|身命《イノチ》亦|殆《アヤフ》カラズヤ
とある※[人偏+爾]之をイガとよみ來れり。されば今は伊呂を伊之などの誤としてイガとよみて汝ノと心得べし。又雅世流は古義にいへる如くケセルとあるべし(字は古義の如く鶏の誤とせむか又は略解の如く雅を清音に假用せりとせむか)。ケセルは著タ
マヘルなり。古義に著有《ケセル》なりといへるは達せず。語例は古事記に那賀祁勢流《ナガケセル》オスヒノスソニツキタチニケリ又本集卷四(六四四頁)にワガセコガ蓋世流《ケセル》コロモノ針目オチズとあり。スガ笠小笠は菅ノ小笠なり。その下にニを略したり○ウナゲルは項ニ掛ケタルなり。卷十三(二八〇四頁)にも濱菜ツムアマヲトメ等ガウナギタル領巾モテルガニとあり。珠ノナナツ條《ヲ》は玉の緒を幾條もかけたるなり。さてナナツ條の(3445)下にヲを略したり○申サムは古義にマヰラセムといふに同じといへる如し○古義に少寸《スクナキ》の下に四〔右△〕を補ひたるは誤なり。少寸の上に音之の二字をおとせるなり○此歌は二段にしらべなし各段の終に七言三句を連ね又共にオトノスクナキ道ニアハヌカモととぢめたるなり
 
   豐前國(ノ)白水郎(ノ)歌一首
3876 とよ國の企玖《キク》の池なる菱のうれをつむとや妹が御袖ぬれけむ
豐國企玖乃池奈流菱之宇禮乎採跡也妹之御袖所沾計武
 略解に
  御袖の御は借にて眞の意也。左右の袖をいふ
といへるは非なり。左右の袖は眞袖とこそいへ。古義には
  御袖は御|衣《ケシ》御帶などいふに同じく御は美稱なり。うるはしと思ふ妹なればほめていへり
といへり。此説に從ふべし○略解に『此白水郎は男の海人なり』とことわれるは此歌をその海人の作歌と思ひ誤れるなり。白水郎(ノ)歌といへるは白水郎が唱へし棹歌《フナウタ》な(3446)り○卷七(一三四二頁)に
  君がためうきぬの池の菱つむとわがしめごろもぬれにけるかも
とあると似たる所あり
 
   豐後國(ノ)白水郎(ノ)歌一首
3877 紅にそめてしころも雨ふりてにほひはすともうつろはめやも
紅爾染而之衣雨零而爾保比波雖爲移波米也毛
 略解に『あだし心なきをいふ也』といへるはよく歌意をさとらざるなり。事ニアヒテ戀ハ寧増ルトモ減ズル事アラムヤハといへるなり。ニホヒハストモはソマリハストモなり
 
   能登國歌三首
3878 (はしだての) 熊來《クマキ》のやらに しらぎ斧 おとし入△《イレツ》和之《ワシ》』
河〔左△〕毛低河〔左△〕毛低《アモテアモテ》 ななかしそね 浮△出流《ウキヤイヅル》夜〔□で囲む〕|登《ト》將見《ミム》和之《ワシ》
※[土+皆]楯熊來乃夜良爾新羅斧堕入和之河毛※[人偏+弖]河毛※[人偏+弖]勿鳴爲曾禰浮出流夜(3447)登將見和之
    右歌一首傳云、或有《アル》愚人斧墮2海底1而不v解2鐵沈無1v浮v水、聊作2此歌1口吟爲v喩也
 拙き漢文にて自他の別明ならねど歌にナナカシソネとあると文に聊作2此歌1口吟爲v喩《サトシ》也とあるとを見れば斧をおとしたるは愚人にあらず。左註の意は愚人が人の斧をおとしたるを見て鐵の沈めば水に浮ぶ理なきを知らで此歌を作りて斧をおとしたる人を慰めたるなりといへるなり。されど嚴密に云はば此歌は二段より成り初四句は斧をおとしたる人の言にて所謂愚人の言は河毛低以下なり
 熊來は能登國能登郡(今鹿島郡)の郷名にて海に臨める地なり。卷十七にも香島ヨリ久麻吉ヲサシテコグフネノとあり○ヤラは仙覚抄に
  ヤラとは水つきてかつみ蘆やうの物など生ひしげりたるうき土也。田舎の者はヤハラとも云ふ
といひ略解に
  ヤラは上總下總の土人沼澤などの蘆蒋生たるやうの所をヤラといへり
(3448)といへれど歌にウキヤイヅルト見ムといひ左註に斧堕2海底1不v解2鐵沈無1v理v浮v水といへるを見れば海岸の水深き處ならざるべからす。されば沼を今も方言にヤワラ、アワラ、アラなどいふとは別なり。上(三四三一頁)に見えたる筑前の也良乃埼の也良とぞひとしからむ。又諸國に多き由良といふ地名もヤラと本末の關係あらざるか○シラギ斧は朝鮮式の斧ならむ。琴にも新羅琴、船にも新羅船あり○堕入を二註にオトシイレとよめり。宜しく入の下に都を補ひてオトシイレツとよむべし○ワシは感歎詞のみ。宣長が
  ただ調にそへていふ辭なり。催馬樂などに此類のそへ辭多し
といへる如し○河毛低河毛低を從來カモテカモテとよめり。案ずるに河毛低の河は阿の誤なり。現に阿とある本あり。さてアモテはアリマテを訛れるなり。アはアリを略したるにてもあるべし。又アリマテのアリをはねてアンモテといひしかど當時ンといふ音を字にあらはすすべを知らざりしかば阿毛低と書けるにてもあるべし○ナナカシソネは泣キタマフナなり○浮出流夜登を從來ウキイヅルヤトとよみたれど、さてはルあまるなり。夜を浮の下に移してウキヤイヅルトとよむべし
 
(3449)3879 (はしだての)熊來《クマキ》酒屋《サカヤ》に眞奴良留奴《マヌラルヤツコ》わし、さすひたてゐて來なましを眞奴良留奴わし
※[土+皆]楯熊來酒屋爾眞奴良留奴和之佐須比立率而來奈麻之乎眞奴良留奴和之
     右一首
 こは旋頭歌體なり。ワシを除きて見べし。古義に八句に分ちたるは非なり○酒屋を略解に『酒をおく所をいふべし』といひ古義に『酒を収置屋なり』といへるはわろし。酒屋はやがて酒殿にて神に奉りなどする官用の酒を造る處なり。播磨風土記にも
  是時造2酒殿1之處即號2酒屋村1
とあり○眞奴良留奴を二註にマヌラルヤツコとよめり。さてマヌラルを契沖以下所罵の意とせり。奴につづくるにはノラユル又はノラルルといふべきなれど太古の語法に從はばノラルともいふべし。又ノラルをヌラルといへるは能登に行はれし訛にてもあるべし。又動詞に眞《マ》を添へたるは其例を思ひ出でねどマに近きサを添へてサ寢ルなどいへばマを添へし事もあるべし(マサグルのマも眞か)。さればし(3450)ばらく契沖等の説に從ひて罵らるゝ事とすべし。さてそのヌラルを略解に『酒にゑひてのらるゝをいふ』といひ古義に『熊來の酒屋にて醉しれて狂ひさわぎなどする賤奴あるを酒屋を守る者のいみじく罵るを見てよめるにて云々』といへるは從はれず。酒屋は官衙の一なるに奴は奴婢の奴にて平民に伍せられざる賤民なれば中間〔日が月〕《チユウゲン》が居酒屋にてゑひしるゝ如き態あるべきにあらず。おそらくは罵リ使ハルルといふことならむ○サスヒはサソヒを訛れるなり。タテはヨビタテなどのタテにて催す事なり。ヰテ來ナマシヲは率テ來テ我家ニテ酒ヲ造ラセムヲといへるならむ
 
3880 所聞多《カシマ》禰乃 机の島の 小螺《シタダミ》を いひりひもち來て 石もち つつき破夫利《ヤブリ》 早川に あらひすすぎ から塩に ここともみ 高|杯《ツキ》にもり 机にたてて 母にまつりつや 目豆兒乃負〔左△〕《メヅコノトジ》 父にまつりつや 身女〔二字左△〕兒乃負〔左△〕《マナゴノトジ》
所聞多禰乃机之島能小螺乎伊拾持來而石以都追伎破夫利早川爾洗濯辛塩爾古胡登毛美高杯爾盛机爾立而母爾奉都也目豆兒乃負父爾獻都(3451)也身女兒乃負
 こゝに右一首とあるべきなり
 所聞多を眞淵始めて(?)義訓としてカシマとよみき。カシマは和名抄に見えたる能登郡加島郷にて卷十七に見えたる香島津と同處にて今の七尾町附近なり。カシマ禰ノ机ノ島といへる禰の言いぶかし。或は乃彌を誤り又顛倒したるにあらざるか(カシマノミは香島ノ海なり)○小螺を舊訓にシタダミとよめり。和名抄にも
  小羸子 崔禹食經云、小羸子(漢語抄云細螺〔二字傍点〕(ハ)之大々美)貌似2甲羸1而細小、口有2白玉(ノ)蓋1者也
  玉蓋 崔禹食經云、小羸子、口有2白玉之蓋1(之太々美乃布多)
とあり。羸《ラ》は螺に同じ。シタダミははやく古事記白※[木+壽]原ノ《カシバラ》(ノ)宮の段に
  然後將v撃登美毘古1之時歌曰……又歌曰かむかぜの、伊勢のうみの、おひしに、はひもとほろふ、志多陀美の、いはひもとほり、うちてしやまむ
とあり(日本紀に出せるは辭少し異なり)。谷川士清は今キシャゴといふ物なりといひ今の字書は多くはキシャゴと解せり。キシャゴは色も文もうつくしき小螺にて(3452)少兒のオハヂキに用ふるものなれば知らざる人無かるべし。海濱の砂中に棲めるものにて其肉は田螺に似たり。下總國布佐の人に聞くに彼地にてはナガラミともいひて肉を取出して生なるをも干したるをも銚子などより賣りに來るを買ひて食料とすといふ。さて小螺又は細螺又は志多陀美をキシャゴの事とせむにかなはざる事二三あり。其一はキシャゴは其殻いと厚ければ其肉を取るに石もてつつき破らむは勞多かるべし。之に反して針もて肉を引き出すに(殊に少し殻の尻を炙れば)たやすく出づるものなり。其二はキシャゴの蓋は褐色の薄板にて白玉蓋など稱すべきものにあらず。其三は播磨風土記揖保郡の條に
  細螺川 所3以稱2細螺川1者百姓|爲《ツクルト》v田闢v溝細螺多在、此溝後終成v川、故曰2細螺川1
とあり。前にいへる如くキシャゴは海産なるにこゝの細螺は淡水に産せしなり。賦役令に海細螺一石とあり。これは海の字を添へたれば風土記なると別種なる事明なり。思ふに古書に小螺又は細螺といひシタダミといへるは種々の小さき螺の總稱にてキシャゴには限らざらむ○伊拾《イヒリヒ》のイは添辭なり。破未利を舊訓にヤブリとよめるを古義にハフリに改めたるはわろし。さてヤブリならば夫の宇は添ふべか(3453)らねどこは契沖が
  菅家萬葉集云。ニホヒツツチリニシハナゾ思裳保湯留《オモホユル》云々。此腰句のかきやう又同じ
といへる如し。卷十にハナハダモを甚多〔右△〕毛と書けり。比類集中に多し○カラシホは食鹽にあらざるは勿論常の海水にもあらで海水を濃くしたるものならむ。卷五(九八五頁)にもイトノキテイタキ瘡ニハ、カラ鹽ヲソソグチフゴトクとあり。下なる爲v蟹述v痛歌にナニハノ小江ノ、ハツタリヲ、カラクタレ來テといへるもカラシホならむ○ココは揉む音なり。タテテはスヱテなり○マツリツヤを略解に『奉ツルヨといふ意也』といひ古義に『タテマツリツル〔右△〕ヤイカニと問ふ意なり』といへり。後者に從ふべし○目豆兒を略解に愛子の意とし古義に『目は借字、豆は國ツ奥ツのツにて女ツ兒なり』といへり。又身女兒を略解にミメヅコとよみ古義にミメツコとよみて共に『身は眞なり』といへり。案ずるにメヅコはげに略解にいへる如く親ノメヅル兒にてメヅルコをメヅコといへるは例の如く古格に從へるなるべし。又身女兒は眞名兒の誤字なるベし○負を舊訓にマケとよめるを契沖は和名抄に負(ハ)俗作2刀自1云々と(3454)あるに依りてトジとよめり。上(三四〇一頁)にクソトホクマレ櫛ツクル刀自とあると句格相似たる所あれはげにトジとよむべし。そのトジは卷四(七八三頁)に坂上郎女が其娘をワガ兒ノ刀自といへる例あれば老母ならでもいひつべし。否漢語の負とはちがひて邦語のトジは人の妻をば老少に拘はらずいひしなり。但二註に『トジは女の總名』といへる契沖の一説に從へるは廣きに過ぎたり。所詮漢語の負と邦語のトジとは相當らざるなり。こゝなども原は※[刀/自](刀自の二合字)とぞありけむ。再案ずるに和名抄の廣本に
  劉|向《キヤウ》(ノ)列女傳云、古語老母爲v負、漢書王媼〔二字右△〕武負(ノ)注〔右△〕引v之、今按俗人謂2老母1爲v※[刀/自]〔右△〕、宇從v自〔右△〕也、今訛以v貝爲v自歟
とあり(右傍に△を附したるは流布本の誤を訂したるなり)。まづ古語老母爲v負とあるは列女傳の文にあらで漢書の顔師古(ノ)注の文なる事狩谷望之の箋註に辨じたる如し。
  劉|向《キヤウ》の列女傳(卷三魏(ノ)曲沃(ノ)負)には
   曲沃(ノ)負者魏(ノ)大夫如耳(ノ)母也。……負因※[疑の左+欠]《タタキ》2王(ノ)門1而上書曰。曲沃之老婦〔二字右△〕也(3455)君子謂2魏負知1v禮
とあり
 次に今按以下は邦語のトジを借字にて刀自と書きそを合せて※[刀/自]としたると漢字の負とを字形の相似たるによりて混同したるなり。又古書に往々※[刀/目]と書けるは※[刀/自]の一畫を省きたるなり。はやく箋註に
  按ズルニ※[刀/自]ノ宇ハ靈異記、法王帝説及弘仁十一年ノ田券ニ見エタリ。即刀自ノ二字ヲ合セタル者ニテ猶、麻呂ヲ合セテ麿卜作スノ類ノゴトシ。※[刀/目]ヲ以テ負ノ字ノ誤トスルモ亦是ニ非ズ。字、自ニ從ヘルナリ
 又按ズルニ刀自ハ婦人、家事ヲ幹スル者ヲ謂フ。老少ノ別アルニ非ズ。允恭紀ニ云ハク戸母此云2覩自《トジ》1ト。靈異記訓釋ニ云ハク家室(ハ)伊戸乃止之《イヘノトジ》ト。遊仙窟ノ主人母モ同訓ナリ。是刀自ハ婦人、家事ヲ幹スルノ名ナルコト明ナリ。後世轉ジテ女胥(○胥《シヨ》は小吏なり)家事ヲ幹スル者ヲ呼ビテ刀自トス。榮花物語若枝(ノ)卷ニ云ヘル者即是ナリ。而シテ家事ヲ幹スルハ必、老女胥ヲシテ之ヲ爲《セ》シム。故ニ源君(○和名抄の著者源順)謂2老母1爲v負ヲ引キテ度之《トジ》卜訓メルナリ。然ルニ允恭紀ニ……萬葉集ニ(3456)……闘※[奚+隹]《ツゲ》(ノ)國(ノ)造、大中《オホナカツ》姫ノ母ニ隨ヒテ家ニ在ルヲ謂ヒテ覩自《トジ》トシ坂上《サカノヘ》(ノ)郎女己ガ女ヲ謂ヒテ刀自トセリ。則老母ノ稱ニ非ザルコト見ルベキナリ
といへり(比古婆衣卷十四負專考參照)○こゝになほ一の疑義あり。抑此歌はいかなる人の作れるにか。所謂刀自の夫又は他人の作ならば其女を指してメヅ兒、マナ兒とは云はざらむ。親の作とすればメヅコノ刀自、マナゴノ刀自といへるはよくかなへど己に薦むる事を母ニマツリツヤ、父ニマツリツヤとはいふべからず。案ずるに此歌はなほ親の作に擬せるにて母ニマツリツヤメヅ兒ノ刀自は父の語、父ニマツリツヤマナ兒ノ刀自は母の辭なるべし
 
   越中國歌四首
3881 大野路は繁道〔左△〕森徑《シゲミモリミチ》しげくとも君しかよはば徑は廣けむ
大野路者繁道森徑之氣久登毛君志通者徑者廣計武
 大野は當國礪波郡の地名なり○第二句を舊訓にシゲヂハシゲヂとよめるを古義に卷十なる
  あさなさなわが見る柳うぐひすの來ゐてなくべき森《モリ》にはやなれ
(3457)を(即森を集中にもモリとよめるを)例としてシゲヂノモリヂとよみ改めたり。案ずるに繁道の下に乃の字無く又徑は結句にミチに借りたればシゲヂモリミチとよむべし。更に案ずるに道は見の誤ならざるか。さらばシゲミモリミチとよみてハヤミ濱風(一一三頁)拾遺集なるシゲミサエダなどの同例とすべし(三二八二頁參照)○上三句の意は君ガ大野ニ來ル道ハ繁キ森徑ナリ、シカ繁クトモといへるなり○略解に
  君ガカヨフトナラバシゲ木ヲモ伐掃テ道廣カランといふなるべし
といひ古義に
  君ガ通ヒタマハバ草木カリソケテ清カラシメムナレバ道ハ廣カラムゾとなり
といへり。ヒロケムは廣カラムといふ事なれどオノヅカラ廣クナラムといふことをかく云へるにや。略解には又『次の歌とむかへ見るに云々』といへれど次の歌とは相與からず。更に案ずるに君は吾の誤ならむ。さらば四五はワガ屡適ハバ道ハオノヅカラ廣クナラムと譯すべく又大野路は常の如く大野ニ行ク道と心得べし
 
3882 澁渓の二上《フタカミ》山に鷲ぞ子産跡云《コムチフ》さしはに毛〔左△〕《ト》君が御爲に鷺ぞ子生跡云《コムチフ》
(3458)澁渓乃二上山爾鷲曾子産跡云指羽爾毛君之御爲爾鷲曾子生跡云
 二上山は今の射水郡と氷見《ヒミ》郡との間にそびゆる連山にて澁渓はその北端なり○子産、子生をつづめてコムといへる例は仁徳天皇紀の大御歌にソラミツヤマトノクニニカリ古牟トキクヤとあり○サシハは翳《ハ》なり。さすものなればサシハともいふなり。羽にて造れる團扇の如きものに長き柄を附けたるにて大禮の時天皇にさしかざし奉るものなり。爾毛の下にかならず跡《ト》の字無かるべからず。或は跡を毛に誤れるか。意はサシ翳ニナレトなり。君は天皇を指し奉れるなり
 
3883 いや彦、おのれかむさび青雲のたなびく日|△良《スラ》こさめそぼふる
    一云|安奈〔左△〕爾《アヤニ》かむさび
伊夜彦於能禮神佐備青雲乃田名引日良※[雨/沐]曾保零 一云安奈爾可武佐備
 彌彦山は今の越後國西蒲原郡にありて今の三島郡に接せり。越中國の歌の中に越後の山をよめるがあるは不審なれば契沖は
(3459)  文武紀云、大寶二年三月甲申分2越中國四郡1屬2越後國1かゝれば此歌は大寶二年よりさきの歌なり
といへり。四郡はいづれの郡にか紀には具に記さざれど古志郡以西とおぼゆれば此説に從ふべし(今の三島郡は古の古志郡の内なり)。古義には
  此歌と次なると二首は越後の彌彦山を越中の人の見|放《サケ》てよめるなるべし、これによりて越中國歌の中に入れるならむ
といへれど彌彦山は越後の海岸線の中程にありて越中の國境よりだに數十里へだたれるをコサメソボフルなど見さけてよむべきにあらず○オノレカムサビは自身モノ古リなり。畢竟樹木の密生したるをいへるなり○青雲は白雲なり。青雲の青は語のまゝには心得べからず。青白色即水色なり。近くは卷十四(三一二三頁)にもいへり
  因にいふ。漢籍にも碧を白の意につかひたる例あり。たとへば詩に碧桃と云へるは白桃なり(葛原詩話)。又宋人の詩に碧飛紅斷正傷v春といへるは李花を碧とし桃花を紅とせるなり
(3460) 〇良の上に須をおとしたる事とソボフルのソボが雨の形容にて今のショボに當る事とは前註にいへる如し。アヲグモノタナビク日スラコサメソボフルといへるは所謂箱根ノワタクシ雨の類なり
 一本のアナニを略解に『アヤニといふに同じくアアと嘆く詞なり』といへるは非なり。アヤニとアナニとは齊しからず。古義卷三アナミニクサカシラヲストといふ歌(讃酒歌十三首のうち)の下にくはしくいへり。就いて見べし。さてこゝは安也爾の誤にてもあるべし。アヤニは怪シキバカリなり
 
3884 いや彦の神のふもとに今日らもか、鹿乃伏良武《シカノフスラム》、皮のきぬ著て、角|附《ツキ》ながら
伊夜彦乃神乃布本今日良毛加鹿乃伏良武皮服著而角附奈我良
 此歌を二註に旋頭歌として鹿乃を第三句に附けてケフラモカ鹿ノとよみ第四句を古義にフセルラム(略解にはコヤスラム)とよめるはいみじき誤なり(ごは所謂佛足石體なり。鹿乃伏良武を第四句としてシカノフスラムとよむべし。はやく件信友の中古雜唱集にはケフラモカにて切りてよみて『佛足石の歌おもひ合すべし』とい(3461)へり○神は山なり。上にも例多し。ケフラのラは助辭なり。さればケフラモカは今日モカなり。モは助辭にあらず(卷十五【三三〇七頁】イマモカモ參照)〇五六は鹿を人めかしていへるなり。附は舊訓の如くツキとよむべし。角附キナガラは角附キタルママニなり。古義に附をツケとよみかへたるは却りてわろし
 
  乞食者詠二首
 乞食者の唱へしを記し留めたるなり
3885 いとこ なせの君 をりをりて 物にいゆくと波〔左△〕《ヤ》』 韓國の 虎ちふ神を いけどりに やつ取|持來《モチキ》 その皮を たたみにさし (八重だたみ) へぐりの山に 四月《ウヅキ》と 五月《サツキ》の間に くすり獵 つかふる時に (足引の) この片山に ふたつ立つ いちひが本に 梓弓 やつたばさみ ひめかぶら やつたばさみ ししまつと わがをる時に さを鹿の 來立《キタチ》來〔□で囲む〕なげかく たちまちに 吾《ワレ》は死ぬべし おほきみに 吾は仕へむ わが角《ツヌ》は 御笠のはやし わが耳は 御墨のつぼ わ(3462)が目らは ますみの鏡 わが爪は 御弓のゆはず わが毛らは 御筆《ミフミテ》はやし わが皮は 御箱の皮に わがししは 御なますはやし わがきもも 御なますはやし わがみぎは 御鹽のはやし おいはてぬ わが身ひとつに 七重花さく 八重花さくと まをしはやさね まをしはやさね
伊刀古名兄乃君居居而物爾伊行跡波韓國乃虎云神乎生取爾八頭取持來其皮乎多多爾爾刺八重疊平羣乃山爾四月與五月間爾藥獵仕流時爾足引乃此片山爾二立伊智比何本爾梓弓八多婆佐彌比米加夫良八多婆左彌完〔左△〕待跡吾居時爾佐男鹿乃來立來嘆久頓爾吾可死王爾吾仕牟吾角者御笠乃波夜詩吾耳者御墨坩吾目良波眞墨乃鏡吾爪者御弓之弓波受吾毛等者御筆波夜斯吾皮者御箱皮爾吾完〔左△〕者御奈麻須波夜志吾伎毛母御奈麻須波夜之吾美義波御塩乃波夜之耆矣奴吾身一爾七重花佐久八重花生跡白賞尼白賞尼
(3463)   右歌一首爲v鹿述v痛作之也
 略解に
  イトコは古事記八千矛神の御歌に伊刀古夜能イモノミコトともありてしたしみいふ詞也。後に從兄弟をのみいふ事になれり。ナセは汝兄也。ヲリヲリテは居々而にてアリアリテといふに同じ。物ニイユクトハは後にモノヘマカルといふに同じ。イは發語、トハはトテハの意
といへり。トハはトテハの意といへる外はまづよろし。古義に
  イトコはイトはしたしむ辭にてイトホシキ子といふなり。ヲリヲリテは夫婦共ニ年久シク相住ミ居居テなり。モノニイユクトハのトはトテのトなり。波は衍文なるべし。さて此句に物ヘ行トテ行至リテといふ詞を假に加へて意得べし
といへるはすべてわろし。ヲリヲリテは久シク家ニ居テなり。アリサリテといへるにおなじ。モノニイユクト波の波は也を誤れるなり。以上四句は路の傍に居る乞食者が路行く人を呼びかけていへるにて、いまだ眞實の歌には入らざるなり。今の辭にていはば旦那オデカケデスカといはむが如し。かくいひて人の注意を惹き、さて(3464)カラグニノと唱へ出でしなり
 カラグニノ以下はヤヘダタミといはむ序なり。タタミニサシは畳ニ作リなり。今も疊を作る事をサスといふ○後世の語法によらば五月の下にもトの辭あるべきなり○クスリガリは鹿のわか角を取る獵なり。そのわか角を陰干にして鹿茸《ロクジヨウ》といひて藥とするが故にクスリガリといふなり。その獵は推古天皇紀以下に五月五日に行はれし由見えたるに、こゝにはウ月トサ月ノホドニといへり。又角を御藥の料とすることはいはでワガ角ハ御笠ノハヤシといへり。されば此頃にはクスリガリの本義を忘れてただ夏の初に鹿を取る事をクスリガリといひしにや。更に後には四五月頃の獵をおしなべてクスリガリといひし如し○ツカフルは御用ヲ勤ムルなり○片山はカタヨレル山なり。卷十二(二七三一頁)にもアシヒキノ片山キギシとあり。又下にもコノ片山ノモムニレヲとあり。顯宗天皇紀に見えたる天皇の室壽《ムロホギ》の御詞にもアシヒキノ此|傍《カタ》山ノサヲシカノ角擧テ吾|※[人偏+舞]《マ》ハバとあり○イチヒは今イチガシとも云ひて橿に似たる木なり。學名をクウェルクス、ギルワといふ。春日山などに多し。上に櫟津《イチヒツ》とあり又和名抄に櫟子(ハ)伊知比とありて櫟に充てたるはおそらく(3465)は當らじ○梓弓ヤツタバサミを略解に『狩人の多きをいふべし』といひ古義に『狩人のあまた弓を手挟みもてる意なり』といへり。下にワガヲルトキニといへる調を味はふにこゝの狩人は一人なれば矢こそあれ弓をあまたたばさむべきにあらず。思ふにこはヒメカブラヤツタバサミといへるが主にて其從に、事實にかゝはらで梓弓ヤツタバサミといへるならむ。もとより興味を旨とせる謠物なれば唱ふる人も聞く人も強ひて理をばたださざりけむ○ヒメカブラは宣長の説に樋目鏑にてかぶら矢の孔の長くして樋の状を成せるものなりといへり。なほ考ふべし○來立來の下の來が衍字なる事は前註にいへる如し。ナゲカクは嘆クヤウハなり。ツカヘムは御用ニ立タムなり○御笠はオホガサ即柄ある笠なりと契沖いへり。ハヤシを二註にハエシムルの意としてオホガサの頂に鹿角を立てて飾とするなりといへり。御笠ノハヤシこそ飾とうつしてきこゆべけれ、下なる御筆ハヤシ御ナマスハヤシなどは飾とは譯すべからず。ハヤシが令榮《ハヤシ》なることは論なけれど譯は料などあるべきか。倭姫命世記にも
  此《ココニ》問給久、汝等我阿佐留物者奈爾曾止問給支、答白久、皇大神之御贄之林〔右△〕奉上《タテマツル》伎佐(3466)乎阿佐留止白支
とあり。林は借字なり(異本には杯とあり)○さて耳を墨|坩《ツボ》、目を鏡に擬したるは契沖のいへる如く其形又は其用の似たる爲にて皮を箱の皮に擬したるとは異なり。爪を弓弭に擬したるも略解にいへる如く形の似たる故ならむ。もし古義にいへる如く鹿の爪にて弓弭を造ることありてならば御ユハズハヤシなどあるべければなり○スミツボは墨を摩りためたる壺なり。目ラ毛ラのラは助辭なり。このラは俗語と方言とに殊に多くつかひし如し。マスミノ鏡は集中には多くはマソカガミといへり。卷十三(二八九八頁)なるマソミカガミとこゝのマスミノカガミとはめづらし。ユハズは弓末なり。御筆波夜斯を從來ミフデノハヤシとよみたれどノはよみ添へがたし。宜しくミフミテハヤシとよむべし○御箱皮を略解に『御箱の覆をいふ』といひ古義に『御箱の※[巾+巴]《ツツミ》または※[代/巾]などをもいふベし』といへれど毛を除きたる皮を箱に貼りしならむ。皮ニの下にナルベシなどいふ辭を略したるなり〇二註に和名抄に獣の反※[草冠/芻]をニゲカムと訓じ又
  今案俗人麋鹿ノ屎ヲ謂ヒテ味氣《ミゲ》トスル是ナリ
(3467)といへるを引きてこゝに美義とあるはやがてそれにてミギがニギともミゲともなりしなりといへり。案ずるに和名抄に邇介といへるは草食動物の胃の内容なれば(糞をミゲといひしはそが轉ぜしなり)食料とすべきにあらず。さればこゝに美義といへるは和名抄のニゲとは別なり。然らばミギは何にかと問はれむにそはいまだ得考へねど試にいはば鹿の脳《ナヅキ》を特にミギといひしにあらざるか。鹿の脳はいとうまきものにて藥用ともせしものなり。和名抄に鹿頭脳冶2内熱1とあり○御鹽は御ヒシホを略していへるか。ヒシホの事は上(三三九九頁)にいへり。之に肉を加へたるがシシビシホなり○オイハテヌルといふべきをオイハテヌといへるは例の如く太古の語法に從ひて連體格の代に終止格をつかひたるなり〇七重八重はナナヘニ、ヤヘニのニを略せるなり○マヲシは奏シなり。ハヤサネはハヤセカシにてそのハヤセは上なるハヤシとおなじく令榮にてこゝにては褒むる事なり○完は宍の俗體なり。なほ績を續と書けるが如し
 
3886 (おしてるや) 難波の小《ヲ》江に 廬つくり なまりてをる あしがにを おほきみ召すと 何せむに 吾乎召良米〔二字左△〕《ワレヲメスベキ》夜〔左△〕 あきらけく わが知る(3468)事を 歌人と わをめすらめや 笛ふきと わをめすらめや 琴引と わをめすらめや 彼毛△△《カモカクモ》 令〔左△〕《ミコト》うけむと (けふけふと) 飛鳥にいたり (雖立《タツツレドモ》) 置勿《オキナ》にいたり (つかねども) つくぬにいたり ひむかしの 中の△門《ミカド》ゆ まゐり來て 命うくれば 馬にこそ ふもだしかく物 牛にこそ 鼻繩はくれ △ (足引の) この片山の もむにれを 五百枝はぎ垂《タレ》 (あまてるや) 日のけにほし (さひづるや) から碓につき 庭にたつ 碓子につき〔九字□で囲む〕 (おしてるや) 難波の小江の はつ垂《タリ》を からく垂《タレ》來て 陶《スヱ》人の つくれる瓶を 今日|往△《ユキテ》 明日とりもち來《キ》 わが目〔左△〕《ミ》らに 鹽ぬり給△《タブト》 時〔左△〕賞毛〔左△〕《マヲシハヤサネ》 時〔左△〕賞毛〔左△〕《マヲシハヤサネ》
忍照八難波乃小江爾處作難麻理弖居葦河爾乎王召跡何爲牟爾吾乎召良米夜明久吾知事乎歌人跡和乎召良米夜笛吹跡和乎召良米夜琴引跡和乎召良米夜彼毛令受牟等今日今日跡飛鳥爾到雖立置勿爾到雖不策都久怒爾到東中門由參納來弖命受例婆馬爾己曾布毛太志可久物牛爾(3469)己曾鼻繩波久例足引乃此片山乃毛武爾禮乎五百枝波伎垂天光夜日乃異爾于〔左△〕佐比豆留夜辛碓爾春〔左△〕庭立碓子爾春〔左△〕忍光八難波乃小江乃始垂乎辛久垂來弖陶人乃所作瓶乎今日往明日取持來吾目良爾塩漆給時賞毛時賞毛
   右歌一首爲v蟹述v痛作之也
 以上二首は一聯なり。されば前の歌の冒頭なる四句は此歌にもかゝれりと謂ふべし○イホツクリ以下は蟹を人に擬していへるなり○ナマルは又ナバルといふ。宣長のいへる如く隱ルの古語なり。集中に名張山、名張野を隱乃山、隱野と書けり。ここに播磨風土記に
  勅云、此嶋隱2愛妻1、仍號2南※[田+比]都麻《ナビツマ》1
とあり。此島隱愛妻はコノ島ニ、ハシヅマナビタリキとよむべければナバル(ナマル)の原語はナブ(ナム)なり。ナビアルをつづめてナバルといふはなほコイアルをつづめてコヤルといふが如し○アシ蟹、アシタヅ、アシ鴨などのアシは葦邊に居る故に(3470)いふともいひアサリの約なりともいへり。前説の方穩なり。いづれにもあれアシ何といふは皆歌語なり。蟹、鶴、鴨の一種にはあらず。さてアシガニヲは蘆ガニ我ヲとなり○オホキミメストは召シ給フトイフのイフを略したるなり○何セムニの語例は近くは此卷(三三六五頁)にナニセムニタガヒハヲラムとあり。何ノ爲ニなり○吾乎召良米夜を從來字のまゝにワヲメスラメヤとよめり。案ずるにメスラメヤは召スラムヤハなり。さればナニセムニと相諧はず。又下なるアキラケクワガ知ル事ヲとの間〔日が月〕に召スベキ用ナキ事ヲといふ意の辭無くては足らはず。又下なるワヲメスラメヤは三處ともに和乎と書けるをこゝのみ吾乎と書けるも看過すべからず。おそらくはこゝは吾乎召陪伎《ワレヲメスベキ》の誤ならむ○その下に召スべキ用ナキ事ヲといふことを略したるなり。ワレヲメスベキとあらば右の辭は略してもあるべし、ワガ知ル事ヲの事ヲは物ヲにおなじ○ウタビトは歌ウタヒなり。略解に
  蟹の沫ふく時聲のするを歌笛にたとへいふ。爪あれば琴引ともいふなるべし
といへり。ワヲメスラメヤは前にいへる如く我ヲ召スラムヤハなり。卷十七にラムカをラメヤといへる例(オモホスラメヤ)あれどこゝは我ヲ召スラムカの意とせむ(3471)にかなひがたき事多し○彼毛の下に此毛のおちたる事前註にいへる如し。カモカクモはトモカクモなり○令は下に命ウクレバとあると合せ思ふに契沖のいへる如く命の誤なり。現に一本に命とあり。ミコトウケムトは仰ヲ蒙ラムトとなり○ケフケフトはアスカのアスに對して云へる辭の文にて次なる雖立、ツカネドモとおなじく准枕辭なり○雖立を舊訓にタテレドモとよみ略解にタチタレドとよみ古義には雖不置の誤としごオカネドモとよめり。宜しくタツレドモとよむべし。立ツレドモ置クといへるにて次なるツカネドモツクと同じ類なる戯なり○オキナはいづくにか知られず。ツク野も○門の上に御をおとしたるか○フモダシは馬を繋ぐ繩なり。今ホダシといふはフモダシのつづまれるなり○カク物の下にナレを略したるなり。上(三三九五頁)にもハチス葉ハカクコソアル物とあり。カクルといはでカクといへるは四段活に從へるにてもあるべく連體格の代に終止格をつかへるにてもあるべし(一四七六頁參照)○ハクレはハカスレなり。古今著聞集卷十にソノ轡ヲハケテまた轡ハケテとあり。此次に我ヲ縛《ユ》ヒテといふ意の二句おちたるならむ○毛武爾禮を略解に字鏡に樅を毛牟乃木と訓じたれば樅に似たる楡ありてそ(3472)をモムニレといふにやといへるは受けがたし。なほ考ふべし。楡《ニレ》の皮はいにしへ搗きて粉として食料とせしなり。代匠記に
  延喜式第三十九内膳式云、楡皮一千枚搗得2粉二石1、右喩皮年中|雜《クサグサ》(ノ)御菜并羮等料。或者の語り侍りしは楡の皮を以てニレ餅とて山里には餅にし侍り。葉をも糯米に合せて餅につくよし申き
といひ古義に附け加へて
  民部式下に凡供御(ノ)笋藕及雜(ノ)菜楡皮仰2畿内1令2供進1とも見えたり
といへり○ハギ垂の垂はタレとよむべし(古義にはタリとよめり)。日ノケは日ノ氣なり○サヒヅルヤは枕辭なり。庭ニタツも准枕辭なり。古義に
  碓子は本居氏|※[石+豈]子《スリウス》の誤かと云り。さもあるべし
といへれど、もし碓子を※[石+豈]子の誤とせば舂も磨《スリ》の誤とせざるべからず。スリウスニツキとはいふべからざるが故なり。然も内膳式に搗得2粉二石1とありて磨る事をいはざれば打任せて舂を磨の誤とはすべからず。案ずるに碓子爾舂はもとのまゝにてカラウスニツキとよむべし。和名抄に碓(ハ)賀良宇須とあれば辛の字なくともカラ(3473)ウスとよみつべし。さてニハニタツカラウスニツキはサヒヅルヤカラウスニツキの一作なるべし。即また庭立碓子爾舂とも唱へしかば傍などに書き入れしがまぎれて本行となれるならむ○オシテルヤナニハノ小江といふことの重出せる快からず。こゝの小江は海の誤にあらざるか○始垂の垂はタリとよむべし(從來タレとよめり)。鹽のおのづから垂るなり。垂來弖の垂はタレとよむべし(古義にはタリとよめり)。人の垂らすなり。タレ來テはタラシモチ來テなり。さて二註に『始垂は鹽の初て垂たるにてよき鹽なり』といへるは然らじ。藻に海水をそそぎて始めて垂りたるにて最も鹹きをいへるならむ○タレ來テの次にヒシホヲ作リテといふことを加へて聞くべし。醤《ヒシホ》の事は上(三三九九頁)にいへり○今日往の下に弖をおとせるならむ。ケフユキテ云々はイソギ取リモチ來テといふ意なり○アストリモチキの次にソレニ入レテといふことを加へて聞くべし○吾目良爾の目は身の誤ならむ。ラは例の助辭なり○鹽はヒシホの事ならむ。さらばソノ醤ヲとうつすべし。爲v鹿述v痛歌にもヒシホを御シホといへり○給を略解にタベト(又タビ)とよみ古義にタマヒとよめり。宜しくその下に等、跡などを補ひて(又はもとのまゝにて)タブトとよむべし。ヌ(3474)リタブトはヌリタビテキコシメストといふべきを略したるなり○時賞毛を略解にマヲシハヤサモとよみ宣長はモテハヤサモとよみ古義にはモチハヤスモとよめり。爲v鹿述v痛歌と一對の歌なれば結句はかならず相同じからざるべからず。宜しく白賞尼の誤としてマヲシハヤサネとよむべし。ハヤサモなど人事のやうにいふべからざるは明なる事にあらずや○烏は鳥、于は干、春は舂の誤なり
 
   怕物歌三首
 オソロシキモノノウタとよむべし。古義にオドロシキとよみたれどオドロシキは驚クベキにてオソロシキとは異なり
 
3887 天なるやささらの小野に茅《チ》がやかり草苅婆可〔左△〕爾《カヤカルハシニ》鶉|乎〔左△〕《シ》たつも
天爾有哉神樂良能小野爾茅草苅草苅婆可爾鶉乎立毛
 卷七(一三六三頁)なる
  天なる、ひめ菅原の草〔左△〕《スゲ》なかりそね、みなのわたかぐろき髪に芥しつくも
のアメナルはヒメスガハラのヒにかゝれる枕辭なればこゝの例には引くべから(3475)ず。又卷三なる石田ま卒之時歌(五一〇頁)に
  天なるささらの小野の、いはひ菅手にとりもちて、久かたの天の川原に、いでたちてみそぎてましを
といへるは天上にあるササラノ小野なり。今のササラノ小野はもとより地上のなれど天上なると同名なるが故に枕辭のやうにアメナルヤといへるならむ。さてササラノ小野は河内國の讃良《サララ》ならむ○第四句を從來カヤカリバカニとよみて卷四(六四二頁)なる  秋の田の穗田のかりばかかよりあはばそこもか人のわをことなさむ
 又卷十(二一〇八頁)なる
  秋の田のわがかりばかのすぎぬればかりがねきこゆ冬かたまけて
のカリバカと同語とせり。カリバカは卷十にいへる如くこゝよりそこまではたが苅るべき分と定めたる區劃なり。今はそれとは全く別にて、もと草苅婆司〔右△〕爾とありしを司を可に誤れるなり。婆は集中には清音のハにも借りたり(二九七〇頁參照)。ハシニは卷二(二七五頁)にもユク鳥ノアラソフハシニとあり。俗語のトタンニなり○(3476)乎は略解にいへる如く之《シ》を誤れるなり
 
3888 おきつ國|領《シラセル》君が染屋形黄染の屋形|神之門《カミノト》わたる
奥國領君之染屋形黄染乃屋形神之門渡
 オキツクニは海中の島國なり○領を二註にシラスとよめり。宜しくシラセルとよむべし。君は第三人稱の君にて君主なり○ソメヤカタ黄ゾメノヤカタはただ黄ゾメノ屋形といひてよきを辭の文に二つに分けたるにてかの(雄略天皇紀なる)クサカ江ノイリ江ノハチス花バチスなどと同例なり。さて黄ゾメノヤカタは前註にいへる如く黄に染めたる屋形船なり。アケノソホ舶、アカラ小船などいへるを思へばいにしへは船をいろどりしなり。但古義に『いにしへは舟は朱にも黄にもいろどりけむ』といへるはいかが。船は赤く染むるが例なりけむ。なほ後にいふべし○神之門は舊訓の如くカミノトとよむべし。古義の如くカミガトとよみては地名のやうに聞ゆればなり。神ノは神ノミ坂、神ノワタリなどと同例にて険惡なる事、トは追門なり○略解に
  心は龍神の欲すべき黄染のやかたの舟に乘て恐しき迫門を渡らんはまことに(3477)恐るべき限也といへり
といひ古義に
  何にても彩色せるうつくしき物は海神の欲する物なればもし海神に見入れられなばいかがせむといたくおそるゝなり
といへり。案ずるにもし彩色せる船は海神の欲するものなりといふ俗信あらば船に彩色する事は無からむ。上にいへる如く古人が船に彩色する事を好みしを見ていにしへさる俗信の無かりし事を知るべし。又播磨國風土記の逸文に
  ソノ土《ニ》(○赤土)ヲ天ノ逆桙ニ塗リテ御舟ノ艫舳《トモヘ》ニ建テ又御舟ノ裳《スソ》及御軍ノ著タル衣ヲ染メ又海水ヲ攪《カキ》濁シテ渡リ賜ヒシ時底潜ル魚及高飛ブ鳥等往來セズ前ヲ遮ラズ
とあるを思へば船を染むるは寧海神を嚇さむ爲なるに似たり。然らば一首の趣はいかがといふに黄染の船は海島の魔王の乘れるものにて其船に逢へば禍ありといふ俗信ありしならむ。さて處は神ノトなる上にさる船を見しかばおそろしくおぼゆる趣なるべし
 
(3478)3889 人魂のさをなるきみ之〔左△〕《ニ》ただ獨、相《アヒ》有〔□で囲む〕之《シ》雨夜葉《アマヨハ》、非左〔二字左△〕思△所思《サヒシクオモホユ》
人魂乃佐青有公之但獨相有之雨夜葉非左思所念
 サヲはサ青にてそのサは添辭なり。初句は人ダマノヤウニといへるなり。略解に『このキミは則人だまをいふ』といひ古義に初二を幽靈ノマサ青《ヲ》ナル君ガとうつせるは非なり○公之は公爾の誤ならむ。いにしへ君ガ逢フともいひしは論なき事なれど、こゝはキミガといひてはタダヒトリがキミに屬して無用となるが故なり○葉は第四句に屬すべきか。此句の有は衍字ならむ○結句を契沖以下思の下に久を補ひてヒサシクオモホユとよめり。思の下に久を補ふ外に非左を左非の顛倒としてサビシクオモホユとよむべきか。卷十五(三二九三頁)なる中臣(ノ)宅守の歌にアフベキヨシノナキガサブシサ一云左必之佐とあれば、はやくサビシともいひしなり。又語意もやうやく不樂より寂に轉じけむ。寒のサブシももとは同語なり
                         (大正十四年四月講了)
          2005年5月22日(日)午後1時3分、入力終了
 
 
(3479)萬葉集新考卷十七
                   井上通泰著
 
   天平二年庚午冬十一月太宰帥大伴卿被v任大納言【兼帥如舊】上v京之時陪從人等別取2海路1入v京、於v是悲2傷覊〔馬が奇〕旅1各陳2所心1作歌十首
3890 (わがせ兒をあが)松原よ見|度《ワタセ》ばあまをと女どもたま藻かるみゆ
和我勢兒乎安我松原欲見度婆安麻乎等女登母多麻藻可流美由
     右一首|三野《ミヌ》(ノ)連《ムラジ》石守《イソモリ》作
 太宰帥大伴卿は家持の父旅人なり○陪從人《ベイジユウニン》は異本に※[人偏+兼]從とあり、※[人偏+兼]從も亦從者なり。所心は所思なり○卷三(五四九頁)に
  天平二年庚午冬十二月太宰帥大伴卿向v京上v道之時作歌
 卷四(六八七頁)に
  太宰帥大伴卿被v任2大納言1臨2入v京之時1府の官人等餞2卿(ヲ)筑前國|蘆城《アシキ》(ノ)驛家1歌
(3480) 卷六(一〇七五頁)に
  天平二年庚午冬十二月太宰帥大伴卿上v京時娘子作歌
あり。皆同時の歌なり。右の題辭どもによれば陪從人は十一月に出發し旅人自身は少しおくれて十二月に入りて出發せしなり。又別取2海路1とあれば旅人は陸路を取りし如くにも思はるれど卷三に旅人が鞆浦及敏馬埼を過ぎし日に作りし歌あるを思へば旅人も亦海路を取りて上りしなり
 第二句の語例は卷六(一一四四頁)に
  妹にこひ吾乃〔左△〕松原《ワガマツバラユ》みわたせばしほひの潟にたづなきわたる
とあり。ワガセコヲアガまでが枕辭なり○こはまだ乘船せぬうちに作れるなり
 
3891 荒津の悔しほひしほみち時はあれどいづれの時か吾《ワガ》こひざらむ
荒津乃海之保悲思保美知時波安禮登伊頭禮乃時加吾孤悲射良牟
 荒津は近くは卷十五(三二四六頁)に見えたり。今の福岡市の内なり。四五に妹ニといふことを略せるなり○卷二十なる
  いなみ野のあからがしはは時はあれどきみをあがもふ時はさねなし
(3481)と相似たり
 
3892 いそごとに海夫の釣船はてにけり我船はてむいそのしらなく
伊蘇其登爾海夫乃釣船波底爾家利我船波底牟伊蘇乃之良奈久
 シラナクは知ラレナクなり。漁舟の心安げに礒に泊れるを羨めるなり
 
3893 昨日こそふなではせしか(いさ魚取《ナトリ》)比治奇のなだを今日見つるかも
昨日許會敷奈底姿勢之可伊佐魚取比治奇乃奈太乎今日見都流香母
 比治奇ノナダを顯昭以下播磨のヒビキノ灘とせり。さて略解には
  もとヒヂキといひしを後にヒビキと訛れるか。又はもとよりヒビキノ灘なるを今比治奇とあるは字の誤れるにやあらん。ただ此所にのみ比治奇とあるを以ヒビキを後の誤とせん事いかがなれば也
といひ古義には
  もと比治奇なるを後に比妣奇と訛れるなるべし
といへり○舟行の早きを喜べるなり
 
(3482)3894 淡路島とわたる船のかぢまにも吾はわすれずいへをしぞおもふ
淡路島刀和多流船乃可治麻爾毛吾波和須禮受伊弊乎之會於毛布
 カヂマは楫ヲツカフ間〔日が月〕《ヒマ》にて瞬時といふ意なり。トワタルのトはセトなり。アハヂ島の下にノを略したるにてアハヂ島ノトは即明石ノセトなり
 
3895 (たまはやす)武庫のわたりに(天傳《アマヅタフ》)日のくれゆけば家をしぞおもふ
多麻波夜須武庫能和多里爾天傳日能久禮由氣婆家乎之會於毛布
 武庫ノワタリは今の西ノ宮附近ならむ。ワタリは海にもいふべし。一例を擧げば仁徳天皇紀に
  時ニ皇后難波(ノ)済ニ到リタマフ。……故ニ時人|葉《カシハ》ヲ散ラシシ海ヲ號ケテ葉《カシハ》(ノ)済ト曰フ
とあり
 
3896 家にてもたゆたふ命浪のうへに思〔左△〕之《ウカビシ》をればおくかしらずも
     一云うきてしをれば
(3483)家爾底母多由多敷命浪乃宇倍爾思之乎禮婆於久香之良受母 一云宇伎底之乎禮八
 タユタフは定マラヌにてやがて定ナキなり。古義に浪の縁にていへりといへるは非なり○思は泛などの誤ならむ○オクカは成行カム果なり。古今集なるワガ戀ハユクヘモシラズ果モナシの果ぞ此集のオクカには當れる(二八四一頁及二九一八頁參照)〇一首の意は家ニ居テモイツ死ヌルカ分ラヌガ海ヲ渡ッテヰルトイヨイヨイツ死ヌルカ分ラヌといへるなり
 
3897 (大海の)おくかもしらずゆくわれを何時きまさむと問し兒等はも
大海乃於久可母之良受由久和禮乎何時伎麻佐武等問之兒等波母
 オホウミノは枕辭なり。第二句はイカニナリナムカモ知ラズと譯すべし。古義に大海ノ行極リタル處ノハカリシラレズ往ナル吾ヲと譯せるは何の事とも聞えず○略解に
  歸京の時なればこの兒等といへるは妻にはあらず。つくしにて相馴し妹をいふ(3484)か
といひ古義にも『この兒等は筑前にて相馴し女をいふ』といへるは非なり〇一首の意は無事ニテ歸ラレムヤ否ヤ知ラレヌ吾ナルヲ、前年出發セシ時イツ歸リ來マサムゾト問ヒシソノ女ハ今如何ナラムといへるなり
 
3898 大船のうへにし居《ヲレ》ば(あまぐもの)たどきもしらず歌乞わがせ
大船乃宇倍爾之居婆安麻久毛乃多度伎毛思良受歌乞和我世
    諸本如v此、可v尋v之
 アマグモノはタドキモシラズにかゝれる枕辭なり。略解に『舟の著所なき譬にいへり』といへるはひが言なり○歌乞を眞淵は歌方の誤とせり。二註は之に從ひて略解には『ウタカタは泡のことにしてあやふき事にいへり』といひ古義にはマコトニ危キコトゾと譯せり。案ずるにまづタドキモシラズは勝手モ分ラズ心ボソイといふ事(三四一九頁參照)次にウタガタはカナラズ、決シテ、キットなどいふ意(二五七六頁及三二〇一頁參照)次にワガセは二註にいへる如く同船の人にいひかけたるなり。さればウタガタはこゝにかなはず。歌乞は或は然乞《シカコソ》の誤ならざるか。もし然らばタ(3485)ドキモシラズを強めて然コソアレといへるにて俗語にうつさばサウダヨ君と譯すべし
 左註は後人の書き入れたるなり。此七字無き本もあり
 
3899 海未通女《アマヲトメ》いざりたく火のおほほしくつぬの松原おもほゆるかも
海未通女伊射里多久火能於煩保之久都努乃松原於母保由流可聞
    右九首作者不v審2姓名1
 第二句はイザリニタク火ノのニを略せるなり。初二は序なり。ツヌノマツバラははやく卷三(三八六頁)に見えたり。今の攝津國西宮の近傍なり。今の津門《ツド》をこのツヌの轉訛とせる説もあれどツヌは津野にて津即船著場の附近にある野なるに由りて然名づけたるならむ。西宮附近には津門《ツド》のみならず津田といふ地名もあり○第三句以下はツヌノ松原ガオホホシクオモホユルカモといふべきを顛倒していへるにてオホホシクオモホユは確ナラズオボユといふ事なれば行手ニ見ユル松原ハカノ都努ノ松原カト思ヘドマダ確ニハソレト知ラレズといへるならむ。古義の譯は從はれず
 
(3486)   十年七月七日之夜獨仰2天漢1聊述v懷一首
3900 たなばたし船乘《フナノリ》すらし(まそ鏡)きよき月夜に雲|起《タチ》わたる
多奈波多之船乘須良之麻蘇鏡吉欲伎月夜爾雲起和多流
    右一首大伴宿禰家持△
 考には述懷の下に歌の字を補ひたり
 略解に『雲を波と見たる也』といへる如し。雲ノ浪タツといはば明ならむをただ雲とのみいへるが爲にまぎらはしきなり。古義に
  織女のよそひを人に見せじと雲たちわたりおほふ意なりと大神(ノ)眞潮翁のいへる、さもあるべし
といへるは非なり○古義に又
  牽牛こそ舟にのりてわたるよしいひならはしたるに織女の舟のりはいさゝかうたがはしけれどごはかのヒコボシノ妻ムカヘ舟とよめれば其迎舟に乘てわたるよしに云るなるべし
(3487)といへり。作者は然深くは思はざりけむ
 左註の終に作の字ある本あり
 
   追2和太宰之時梅花1新歌六首
3901 みふゆ都藝《ツギ》はるはきたれどうめのはな君爾〔□で囲む〕|之《シ》あらねばをる人もなし
民布由都藝芳流波吉多禮登烏梅能芳奈君爾之安良禰婆遠流人毛奈之
 天平二年正月家持の父旅人太宰府にて人々を其家につどへて梅花歌を作りき。其歌三十二首、卷五に出でたり。此六首はその歌どもの追和なり。卷十九にも天平勝寶二年三月追2和筑紫太宰之時春花〔右△〕梅1謌一首あり
 ミフユを契沖は三冬とし雅澄は御冬とせり。三冬の直譯とすべし。三冬は孟冬仲冬季冬なり。さて初句を舊訓にミフユツキとよみ一般に三冬盡の義としたれど藝はキの濁音に借りなれたる字なれば雅澄は都藝を須藝の誤字とせり。案ずるに字はもとのまゝにてミフユツギとよみてミフユニツギのニを略したりとすべし○第四句の爾はおそらくは衍字ならむ。此字無き本あり○君とは父を指していへるなり。旅人は天平三年七月に薨じき
 
(3488)3902 うめの花みやまとしみにありともや如此《カク》のみ君〔左△〕《ワレ》は見れどあかに氣〔左△〕《セ》む
烏梅乃花美夜萬等之美爾安里登母也如此乃未君波見禮登安可爾氣牟
 ミヤマトシミニを契沖はミ山ト繁《シミ》ニなりといひ、そのトを略解にはノ如クの意とし古義にはト化《ナリ》テの義とせり。略解に從ふベし。但シミミニをシミニといへる例はなほ尋ぬべし○結句の氣は異本に勢とあるに從ふべし。見レド飽カズをミレドアカニスルといひそをアリトモヤと照應せしめてアカニセムといへるなり○古義に『君は梅花をさしていふなるべし』といへるはいみじきひが言なり。略解に『其花のあかれぬ如くやいつもかく計君を見れども飽ざらんといふ也』といへるもひが言なり。カクノミとあれば君は相向へる人を指せるなり。否おそらくは吾の誤ならむ。一首の意は梅ノ花ガタトヒ山ノ如ク澤山ニアリトモ吾ハカヤウニ見レド飽カザラムカといへるなり
 
3903 春雨にもえしやなぎ可《カ》うめの花ともにおくれぬ常の物かも
春雨爾毛延之楊奈疑可烏梅乃花登母爾於久禮奴常乃物香聞
(3489) 略解に
  可は等の誤なるべし。柳も梅も時を同くして共に春毎の常なるもの也といふ也
といひ古義に中山嚴水の説を擧げて
  此芽ばる青柳はつぎてふれ〔右△〕る春雨に萌しにや。但しいつも梅に後れぬ常の物にてかくやあるらむ。といへるなるべし
といへり。案ずるにヤナギカは柳ニカのニを略したるにてそのカとオクレヌと照應したるなり。又ツネノモノカモは早クサケルニアラデ尋常ノ物ナルカとなり。されば一首の意は
  此梅ノ花ハ春雨ニ萌エシ柳ニ相後レズシテ早クサケルカ又ハ尋常ノモノカといへるにてカモのモは助辭なり
 
3904 うめの花いつはをら自《ジ》といとはねどさきの盛はをしき物なり
宇梅能花伊都波乎良自等伊登波禰登佐吉乃盛波乎思吉物奈刊
 略解に自を目の誤とせるは却りて非なり。初二の間〔日が月〕に人ニ乞ハルレバといふことを挿みて聞くべし。二三の意はイツニテモ快ク折リテ與フベケレドホンタウノ事(3490)ヲ云ヘバといへるなり
 
3905 遊〔左△〕内乃《ハルノウチノ》たぬしき庭に梅柳をりかざしてばおもひなみかも
遊内乃多努之吉庭爾梅柳乎理加謝思底婆意毛比奈美可毛
 宣長は初句を遊日乃の誤とし雅澄は之に從へり。ヲリカザスが即アソブなれば之と引離ちて先にアソブといふ語をつかふべきにあらず。さて卷十九なる同じ作者の追2和筑紫太宰之時春花〔右△〕梅1謌一首に
  春のうちのたぬしき終《ヲヘ》はうめの花たをりを來つつ遊ぶにあるべし
とあると此作者の歌には想も辭もしばしば重出せるとを思へば遊内乃はおそらくは春内乃の誤ならむ○テバはタラバなり。オモヒナミカモは思ナミカモアラムといふべきアラムを略せるなり。古義に『このミの辭は未來を兼ていふ一格なり』といへるは非なり
 
3906 御苑ふの百木のうめの落《チル》花|之《ノ》あめにとびあがり雪とふりけむ
御苑布能百木乃宇梅乃落花之安米爾登妣安我里雪等敷里家牟
(3491)    右天平十二年十一月九日大伴宿禰家持作
 ミソノフといへるは太宰(ノ)帥の官宅なり。アメニトビアガリは空ニマヒアガリなり。トビといへるこちたし○雪トヤフリケムといはで雪トフリケムといへるはソノ雪トフリケムといへるなれば指せる歌あらざるべからず。彼三十二首を検するに父旅人の
  わがそのにうめの花ちるひさかたのあめより雪のながれくるかも
といへる、適に之に當れり
 左註の十一月は元暦校本に十二月とあり。略解は之に從ひたれどたとひ十二月なりともその九日には梅花はまださくべからず。又春ハキタレド、春雨ニモエシ柳カなどいへるにかなはじ。もとより興に依りて作れるにてただ梅花を思ひ浮べて作れるなるべければ十一月を改めて十二月とするには及ばず。かの卷十九なるは三月二十七日の作ならずや
 
   讃2三香原新都1歌一首并短謌
3907 山背の 久爾のみやこは 春されば 花咲ををり 秋されば 黄葉《モミヂバ》(3492)にほひ おばせる 泉(ノ)河の かみつ瀬に うち橋わたし よど瀬には うき橋わたし ありがよひ つかへまつらむ 萬代までに
山背乃久爾能美夜古波春佐禮播花咲乎乎理秋佐禮婆黄葉爾保比於姿勢流泉河乃可美都瀬爾宇知橋和多之余登瀬爾波宇枳橋和多之安里我欲比都可倍麻都良武萬代麻底爾
 卷六に
  天平十五年癸未秋八月家持讃2久邇京1作歌(一一四九頁)
  讃2久邇新京1歌二首并短歌七首(一一六二頁)
あり。クニノミヤコはやがて三香原新都なり。都は泉河の南北に亘りもしけむ、宮城は河南にありて鹿背山に抱かれたりしなり(一一七五頁參照)。但此歌の成りし天平十三年二月はまだ河北の行宮にましましし程にて所謂|大養徳恭仁《オホヤマトクニ》(ノ)大宮成りてそれに移り給ひしは此年の夏ならむ(一一七八頁參照)
 サキヲヲリはサキナビキなり○オバセルは帶ビタマヘルなり。都を敬してオバセ(3493)ルといへるなり。イヅミノ河は今の木津川なり○ウチハシは宣長の説に『ウツシ橋の約にて爰へもかしこへも移しもてゆきて時に臨みて假そめに渡す橋なり』といへり(六五六頁參照)。
  千鳥なく佐保の河門の瀬をひろみぅち橋わたすなが來《ク》とおもひて(卷四)
  はたもののふみ木もちゆきてあまの河うち橋わたせ君がこむため(卷十)
などあればげに宣長の説の如くならむ〇ウキ橋は筏又は舟をならべ浮べてそれに板をわたして橋としたるなり。ウチハシもウキハシも共に假橋なり。續紀に
  天平十三年冬十月|駕世《カセ》山ノ東ノ河ニ橋ヲ造ル。七月ヨリ始メ今月ニ至リテ成リヌ
  天平十四年八月宮城以南ノ大路ノ西頭ト甕原《ミカノハラ》宮ノ東トノ間ニ大橋ヲ造ラシム
などあるは此歌より後の事なり○ヨドセといへる不審なれど卷七(一二六三頁)に
  うぢ河はよどせ無からしあじろ人舟よばふ聲をちこちきこゆ
とあれば誤字にはあらじ。おそらくは早湍のうらならむ○アリガヨヒは通ヒツツ(3494)なり
 
   反歌
3908 (楯並而《タタナメテ》)いづみのかはの水緒《ミヲ》たえずつかへまつらむ大宮所
楯並而伊豆美乃河波乃水緒多要受都可倍麻都良牟大宮所
    右天平十三年二月右馬寮(ノ)頭《カミ》境部(ノ)宿禰老麿作也
 タタナメテは神武天皇の大御歌に多多郡米弖イナサノヤマノ云々とあるに倣へるにてイヅミノ河のイ(射)にかゝれる枕辭なり。記傳卷十九(一一六〇頁)に
  楯をタタと云は稻をイナ、酒をサカ、船をフナといふなどと同格なり
といへり。下へ續くるに附きてタテをタタと云ヘるなり○第三句はミヲまでが序なりともいふべく水脈《ミヲ》ノ絶エザル如ク絶エズといふべきをつづめたるなりともいふべし○結句はコノ大宮所ニといふべきを略せるなり(ツカヘマツラムよりつづける如く聞ゆれど)。さてこゝの大宮所はただ大宮といはむに同じ。卷六(一〇三三頁)以下なる大宮所は大宮ノアル處又は都といふことにてここなると異なり
 
(3495)   詠2霍公鳥1歌二首
3909 たちばなは常《トコ》花にも歟《ガ》ほととぎすすむと來鳴者《キナカバ》きかぬ日なけむ
多知婆奈波常花爾毛歟保登等藝須周無等來鳴者伎可奴日奈家牟
 トコ花はトコ葉と同例にていつも散らぬ花なり○スムトキナカバは二註にいへる如く棲ムトテ來鳴カバといふことなるべけれどいひざま巧ならず
 
3910 珠にぬくあふちを宅《イヘ》にうゑたらばやま霍公鳥かれずこむかも
珠爾奴久安布知乎宅爾宇惠多良婆夜麻霍公鳥可禮受許武可聞
   右四月二日大伴宿禰|書持《フミモチ》從2奈良宅1送る兄家持1和歌二首〔四字□で囲む〕
 珠ニヌクは珠トヌクベキにて珠は藥玉なりごのアフチは花にはあらで實なり。カレズは絶エズなり○和歌二首は和歌三首の誤にて次の歌の標題なるがまぎれて前の歌の左註につらなれるなり
 
   和歌三首〔四字右△〕
 
 橙橘初咲、霍公鳥|飜嚶《ヒルガヘリナク》、對2此時候1※[言+巨]《イカニゾ》不v暢v志、因作2三首短歌1、以散2鬱結之(3496)緒1耳
 
3911 (あしひきの)山邊にをればほととぎす木際《コノマ》たちぐきなかぬ日はなし
安之比奇能山邊爾乎禮婆保登等藝須木際多知久吉奈可奴日波奈之
 前の歌の左註の末なる和歌二首〔四字傍点〕を引離ちその二を三に改めて新に此歌どもの標題としたるなり○橙橘は橙と橘とにあらじ、橘を延べて二字とせるのみならむ。はやく古義に『こゝは二字にてただタチ花のことに用ひたるなるべし』といへり○緒《シヨ》は本來イト口なり。されば謝靈連の長歌行にも覧v物起2悲渚1、顧v己謝2憂端1といひて端とむかへ用ひたり。然るに本集に(殊に此卷以下に多く)何緒といふ語をつかひたるは心の義として用ひたる如し。仁賢天皇紀にも失緒傷心とありて心と對したり
 タチグキはタチクグリなり○卷四(八一九頁)なる同じ作者の久邇の京より紀(ノ)女郎に贈れる歌にも
  ひさかたの雨のふる日をただひとり山べにをればいぶせかりけり
とあり。家持は當時鹿背山の谷にぞ住みたりけむ。鹿背山には谷多し
 
(3497)3912 ほととぎすなにの情《ココロ》ぞたち花のたまぬく月し來鳴とよむる
保登等藝須奈爾乃情曾多知花乃多麻奴久月之來鳴登餘牟流
 こゝのタマは橘のあえたる實なり○ナニノココロゾを古義に釋して
  このごろ一すぢに鳴さわぐなるは己が聲をその玉に貫き交へよとてかといへるにや
といへるは誤解なり。サラヌダニ故郷コヒシクオボユル頃ナルヲ思遣モナク來鳴クモノカナといへるならむ。當時家持は妻妾を奈良におきて獨久邇(ノ)京にありしなり
 
3913 ほととぎすあふちの枝にゆきて居者《ヰバ》花はちらむな珠と見るまで
保登等藝須安不知能枝爾由吉底居者花波知良牟奈珠登見流麻泥
    右四月三日内舎人大伴宿禰家持從2久邇京1報2送弟書持1
 チラムナは散ラム哉なり。珠トミルマデは珠ヲコキチラスヤウニといへるにてセンダンノ花の形を玉によそへたるにはあらでその花のちる状を玉のちるにたと(3498)へたるならむ。古義に『くすだまの亂れちるかと見るまでといへるなるべし』といへれど藥玉はこゝに與からじ○ユキテヰバは行キテトマラバなり。古義に『奈良の大伴氏の家のあたりに行て居ばと云なるべし』といひ『奈良の大伴氏の家の風景を思ひやりたるにて云々』といへるは非なり。書持の歌にアフチヲ宅ニウヱタラバとありて奈良の大伴氏の家にはあふちは無かりしなり。さればただ『奈良を思ひやりていへるなり』とこそいふべけれ
 以上贈答五首共に四月とあるを雅澄は五月の誤ならむといへり。タチバナノ珠ヌク月シなどもいへればげに四月の初の作としてはかなひがたし。されど輕々しく誤字とは定むべからず。なほ下にいふべし
 
  思2霍公鳥1歌一首 田口朝臣|馬長《ウマヲサ》作
3914 ほととぎす今し來鳴者《キナカバ》よろづ代にかたりつぐべく所念《オモホエム》かも
保登等藝須今之來唱者餘呂豆代爾可多理都具倍久所念可母
    右傳云、一時交遊集宴、此日比處霍公鳥不v喧、仍作2件《コノ》歌1以陳2思慕(3499)之意1、但其宴所并年月未v得2詳審1也
 萬代ニカタリツグベクオモホエムはイタタメデムといふことをこちたく云ひて霍公を賺したるなり
 左註の一時は或時なり。例は經文に多し。此日此處は其日其處なり
 
   山部宿禰赤人詠2春※[(貝+貝)/鳥]1歌一首
3915 (あしひきの)山谷こえて野づかさに今者〔左△〕《カ》鳴らむうぐひすのこゑ
安之比奇能山谷古延底野豆可佐爾今者鳴良武宇具比須乃許惠
    右年月所處未v得2詳審1、但隨2聞之時1記2載於茲1
 コエテはコエ來テなり。野ヅカサは野中の高き處なり○者を古義に香の誤とせり。之に從ふべし
 
   十六年四月五日獨居2平城故宅1作歌六首
3916 橘のにほへる香かもほととぎすなくよの雨にうつろひぬらむ
橘乃爾保弊流香可聞保登等藝須奈久欲乃雨爾宇都路比奴良牟
(3500) 此四月をも古義に五月の誤ならむかと疑へり。案ずるに上にも十一月九日に梅花を詠じ四月三日に橘子をよめるを見れば此作者の(又は當時の作者の)心理は常識にては測りがたし。或は所謂儲作かとも思へど弟書持との贈答の如き無論豫作とは見られず。いづれにもあれ濫に誤字とは定むべからず
 いにしへはカヲルをニホフとはいはぬ上、もしかをる事ならばニホフ香といふべくニホヘル香とはいふべからず(ニホフは活動格、ニホヘルは靜止格なり)。さればニホヘルはなほサケルといふ意とすべし。さてサケル香とは云はれざればこゝは橘ノニホヘル花ノ香カモの花ノを略したるものと認むべし○カモのモは助辭なり
 
3917 ほととぎす夜音《ヨゴヱ》なつかしあみ指者《ササバ》花|者《ハ》すぐともかれずかなかむ
保登等藝須夜音奈都可思安美指者花者須具等毛可禮受加奈可牟
 アミサスのサスはサデサス、ワナサスのサスとひとしくて張ルといふことならむ。さてアミササバは網ヲ張リテトリコメタラバとなり〇四五は橘ノ花ハ散ルトモ絶エズ啼カムカとなり
 
3918 橘のにほへる苑にほととぎす鳴とひとつぐあみささましを
(3501)橘乃爾保敞〔左△〕流苑爾保等登藝須鳴等比登都具安美佐散麻之乎
 古義に苑を他《ヨソ》の苑としてモシ吾庭ニ來テ鴨ナラバ網ヲ張テ云々、と譯せるは非なり。苑といへるは自家の庭園なり。マシヲはモシ出來ル事ナラバ云々シヨウモノヲといふ意の辭なり。此辭よりや雅澄はきゝ僻めけむ
 
3919 (青丹《アヲニ》よし)奈良のみやこはふりぬれどもとほととぎす不鳴《ナカズ》あら|△《ナ》くに
青丹余之奈良能美夜古波布里奴禮登毛等保登等藝須不鳴安良久爾
 フリヌレドはサビレタガといふ事なり。モトホトトギスは古義にいへる如くフルナジミノ霍公といふ意なり○結句に契沖のいへる如く奈をおとしたるなり。ナカズアラナクニはナクモノヲイカデカ見棄ツベキといへるなり
 
3920 鶉|鳴《ナク》ふる之〔左△〕《ヘ》とひとはおもへれど花橘のにほふこの屋ど
鶉鳴布流之登比等波於毛弊禮騰花橘乃爾保敷許乃屋度
 略解には初句をウヅラナクとよみてフル之の枕辭とし古義にはウヅラナキとよみて初二をウヅラナクマデ荒テフリニシ里卜云々と譯せり。案ずるに之の字は反(3502)又は家の誤字にてウヅラナクフルヘにてウヅラナクは古家《フルヘ》の装飾辭なり。卷十一(二五〇七頁)にウヅラナク人ノ古家ニカタラヒテヤリツとあり。又卷三にワガ背子ガ古家ノサトノ明日香ニハとあり○人は世人なり
 
3921 かきつばた衣にすりつけますら雄の服《キ》そひ獵する月|者《ハ》きにけり
加吉都播多衣爾須里都氣麻須良雄乃服曾比獵須流月者伎爾家里
    右六首歌者天平十六年四月五日獨居2於平城故郷舊宅1大伴宿禰家持作
 初二の語例は卷七(一四二九頁)に
  すみの江の淺澤小野のかきつばたきぬにすりつけきむ曰しらずも
とあり○略解に
  此狩は藥狩なり。卷十六にウ月トサ月ノホドニクスリ獵ツカフル時ニとよめるに同じ
といへり○クスリ獵の事は卷十六(三四六四頁)にいへり○キソヒ獵を宣長は
(3503)  競狩にはあらずして服装《キヨソヒ》て狩をするなり。五の卷にもヌノカタギヌアリノコトゴト伎曾倍ドモとあり
といひ雅澄は此説に從ひて更に
  競は集中よりをちつかた假字書にみなキホフとのみありてキソフと云ることは例なきことなれば競狩にあらざること諭なし
と附加せり。案ずるに卷五貧窮問答歌なるキソフは著襲フにて重著する事なれば(九七〇頁參照)こゝのキソフとは混同すべからず。又競をキソフといふは新撰字鏡にも見えたれば家持の頃にははやくいひそめもしけむ。但こゝのキソヒは宣長のいへる如く著ヨソヒにて著ソヒテ獵スルのテを略したるなり。さればカリスルのカは必清みて唱ふべし
  キソヒのキは著なればこそ服の字をつかひたるなれ。もし競ならば此卷の書式〔五字傍点〕によれば吉〔右△〕曾比と書くべきなり。但此卷にも水脈を水緒と書けるなど取外して字訓を借れる處もなきにはあらず
 ○さてかく晴着を著て獵するを見ればこの藥獵は公事《クジ》の獵なり。推古天皇紀に
(3504)  十九年夏五月五日兎田《ウダ》野ニ藥獵ス。……是曰諸臣服色皆冠ノ色ニ隨ヒ各|髻華《ウズ》ヲ著ケタリ云々
とあれば此時代にも公事の藥獵には狩子どもも新しき摺衣を著装ひけむかし○さて公事の獵ならば卷十六なる爲v鹿述v痛歌(三四六一頁)に四月ト五月ノホドニ、クスリガリツカフルトキニとはあれど五月五日に行はるゝが例なれば此六首の歌の題辭及左註に四月五日とあるは五月五日の誤とすべきかといふに五月五日は當日なればおほよそに月ハ來ニケリとはいふまじきなり。されば四月五日とあるは誤字にはあらで此六首の歌は例の豫作ならむか○この第六首は紫香樂《シガラキ》(ノ)宮にて藥狩を行はるゝをしのびて作れるならむ
 これより先都を奈良より久邇に遷され、更に難波に遷され、當時天皇御自は近江の紫香樂《シガラキ》(ノ)宮にましましき。家持は故ありて御供に仕へまつらで奈良に在りしなり。獨居2於平城故郷舊宅1の獨は家人に對していへるにあらで友人同僚等に對してい へるなり
 
  天平十八年正月白雪多零、積v地數寸也、於v時左大臣橘卿率2大〔左△〕納言(3505)藤原豐成朝臣及諸王諸臣等1參2入太上天皇御在所1【中宮兩院】供奉掃v雪、於v是降v 詔大臣參議并諸王者令v侍2于大殿上1、諸卿大夫等者令v侍2于南(ノ)細殿1而則《スナハチ》賜v海〔左△〕肆宴、勅曰、汝諸王卿等聊賦2此雪1各奏2其謌1
 前註にいへる如く正月の下に日を脱せるなり○橘卿は諸兄なり○大納言は中納言の誤なり。はやく代匠記に
  聖武紀を考るに此豐成卿は天平十五年五月中納言、二十年三月に大納言とは成給ければ十八年には中納言にておはしけるを大納言とあるはもし中の字を書生の誤て大に作ける歟。凡そ集中の例大納言以上には名を云はず。考て知るべし。今豐成朝臣と云へり。中納言なる事知べし
といへり○分註の兩の字は諸本に西とあるに從ふべし。太上天皇(元正)の御在所は中宮の西の院なりといへるなり○供奉《グブ》は御用を勤むるなり。こゝにては御ともする事にあらず。續紀神龜五年に今授2外《ゲ》五位1人等不v可v滞2此階1隨2其供奉〔二字右△〕1將v叙2内位1とあるなどの供奉なり。ツカヘマツリテとよむべし。掃雪はかたばかりにはあるべけれど實に雪を掃ひしなり。二註に『御前に侍て雪をめづる事なるをかしこみてかく書(3506)けり』といへるはひが言なり○而則は卷十六(三三八七頁)なる而即におなじ。スナハチとよむべし。孟子梁惠王下にも今王與2百姓1同(クセバ)v樂|而則《スナハチ》王(タラム)矣とあり○海は諸本に酒とあるに從ふべし
 
    左大臣橘宿禰應v 詔歌一首
3922 ふるゆきのしろ髪までに大皇《オホキミ》につかへまつれば貴くもあるか
布流由吉乃之路髪麻泥爾大皇爾都可倍麻都禮婆貴久母安流香
 諸兄は天平八年に始めて橘宿禰の姓を賜はり其後十四年を經て(此天平十八年より四年の後に)天平勝寶二年に朝臣の姓を賜はりしなり
 マデニは後世のマデなり。タフトクを古義に大御惠ノ貴クと譯せるは從はれず。主格は自身とおもはるればカタジケナクと譯すべし○此年譜兄は六十三歳なりき
 
    紀朝臣清人應v 詔歌一首
3923 天(ノ)下すでにおほひてふる雪のひかりを見ればたふとくもあるか
天下須泥爾於保比底布流雪乃比加里乎見禮婆多敷刀久母安流香
(3507) 以下は所謂諸卿大夫なり
 スデニは下にもキミニヨリ吾名ハスデニタツタ山とあり。記傳卷十四(七九七頁)に
  スデニは常にいふとは異にしてこゝ(○此葦原ノ中ツ國ハ命《ミコト》ノマニマニ既ニタテマツラム)はコトゴトクと云意なり。此記(ノ)序に己《スデニ》因v訓述者詞不v逮v心といひ萬葉ニオホヒテフル雪ノとよめるなども皆其意なり。又書紀繼體(ノ)卷には全(ノ)字(○全《スデニ》壞無v色)をスデニと訓るも同意なり(既字もと本義は盡也と注せり。春秋などに曰有v食之|既《ツク》と云る類なり。然ればスデニと云言に此字を當たるももとは盡の義によれるにや)
といへり。古事記にはなほ既ニ童女ノ姿ニ成リテ又御齒長サ一寸、廣サ二分、上下等シク齊《トトノ》ヒテ既ニ珠ヲ貫ケル如クナリキなどあり。雅澄は宣長の説に附加して
  されば既字にもとより兩義あるをおしなべてスデニとよみ既往の事をもスデニと云ことと意得たるは後の誤なるべし
といへり。此外にいふべき事は無けれどなほ蛇足を添へば既は已也又盡也とありてハヤクといふ義とコトゴトクといふ義とあり。さて古語のスデニはコトゴトク(3508)といふことなるを此語にも又ハヤク(已、夙、既往)にも漢字の既を充つれば後に誤りてスデニをハヤクといふこととせしにてなほ適にタマタマ(タマニ)とマサニ(丁度)と二義あるをマサニとよむべき時にも誤りてタマタマとよむが如し。
  出雲國風土記に加茂嶋(ハ)既礒、子嶋(ハ)既礒などあるは蚊嶋(ハ)四方並礒とあると同義にてコトゴトク礒とよむか又はスデニ礒とよみてコトゴトク礒の義とすべきなり
 これだにまぎらはしきに我邦にては已《イ》の字をもコトゴトクといふべき處につかひたり。古事記の序に已〔右△〕因v訓述者詞不v逮v心、全〔右△〕以v音連者事趣更長(悉ク漢語ニテ書ケバ十分ニ意ガ盡サレズ又悉ク邦語ニテ書ケバ文ガ長クナルといふ意)とある是なり。已《イ》の既《キ》に通ずるはハヤクといふ時に限れるをや○雪を皇威に比したるにてここのタフトクは其主格雪なれば尊ブベクの意とすべし
 
    紀朝臣|男梶《ヲカヂ》應v 詔歌一首
3924 山のかひそことも見えずをとつ日も昨日も今日もゆきのふれれば
山乃可比曾許登母見延受乎登都日毛昨日毛今日毛由吉能布禮禮婆
(3509) カヒは谷なり。古今集なる
  梅の花それとも見えずひさかたのあまぎる雪のなべてふれれば
と同格なり。いづれか先ならむ
 
    葛井《フヂヰ》(ノ)連|諸會《モロアヒ》應v 詔歌一首
3925 新《アラタシキ》年のはじめに豐のとししるすとならし雪のふれるは
新年乃婆自米爾豐乃登之思流須登奈良思雪能敷禮流波
 トヨノトシは即豐年なり。トヨは名詞なればトシとの間にノを挿みつべし。トヨノアカリなどの例を思へ○シルスは瑞をシルシといふと同意なる動詞なり。豫テ示スと譯すべし
    大伴宿禰家持應v 詔歌一首
3926 大宮のうちにもとにもひかるまで零須〔左△〕《フレル》白雪見れどあかぬかも
大宮之宇知爾毛刀爾毛比賀流麻泥零須白雪見禮杼安可奴香聞
 零須を契沖はフラスとよめり。フラスはフリ給フといふばかりにもあらねど多少(3510)敬意を帶びたる辭なり(その調今の辭にうつし難けれど強ひてうつさばフラッシャルとうつすべし)。上なる讃2三香原新都1歌に都にオバセルといへる例あれば雪にもフラスといふまじきにもあらねどヒカルマデといへるは積れる雪の形容にて今降る雪の形容にあらねばこゝはフル、フラスなどはいはでフレルといふべきなり。されば古義に從ひて零流の誤とすべし。類聚古集には現に零流とあり○卷十九なる同じ作者の
  大宮の内にも外にもめづらしくふれる大雪なふみそねをし
と初二相同じ
    藤原豐成朝臣
    巨勢奈底麿朝臣
    大伴|牛養《ウシカヒ》宿禰
    藤原仲麻呂朝臣
    三原王
(3511)    智努王
    舩王
    邑知《オホチ》王
    山〔左△〕田王
    林王
    穗積朝臣老
    小田朝臣|諸人《モロヒト》
    小野朝臣網〔左△〕手
    高橋朝臣國足
    太《オホ》(ノ)朝臣|徳太理《トコタリ》
    高丘(ノ)連|河内《カフチ》
    秦(ノ)忌寸《イミキ》朝元《テウグヱン》
    楢原(ノ)造|東人《アヅマヒト》
(3512)   右|件《コノ》王卿等應v 詔作v歌、依v次奏v之、登時不v記、其歌漏失、但秦忌寸朝元者左大臣橘卿|諺〔左△〕《タハブレテ》 曰、靡v堪《タヘザラバ》v賦v歌以v麝贖之、因v此黙止也
 山田王を契沖は『聖武紀(○天平十六年二月)に小田王あり。もし小を山とうつしあやまれる歟』といへり。元暦校本には小田王とあり○穗積朝臣老以下は所謂諸卿大夫なり。網手は綱手の誤なり。登時は即時なり○諺は諸本に謔とあるに從ひてタハブレテとよむべし。靡堪云々は歌ヲ賦スルニ堪ヘザラバ麝ヲ以テ贖へとよむべし。二註に『朝元者の下數言脱たりと見ゆ』といへるは非なり。さて此ニ因リテ黙止スとあるを見れば全く得作らざるにはあらねど大臣に反抗するに當るが故に作らざりしなり。又大臣のかくいひしは朝元は歸化人の子孫なる上其父の在唐中に唐婦の腹より生れ又醫術并に漢語を以て仕へし人にて歌には堪能ならざりしが故なり。又此人天平年中に入居せし由懷風藻釋辨正傳に見えたるによりて思へば當時多く唐物を携へ歸りし聞《キコエ》ありけむによりて麝ヲ以テ贖ヘと大臣の戯れしならむ
 
 大伴宿禰家持以2天平十八年閏〔□で囲む〕七〔左△〕月1被v任2越中國(ノ)守1、即取2七月△△1
(3513)赴2任所1、於v時|姑《ヲハ》大伴(ノ)坂上(ノ)郎女贈2家持1歌二首
3927 (くさまくら)たびゆくきみをさきくあれといはひべすゑつあがとこのへに
久住麻久良多妣由久吉美乎佐伎久安禮等伊波比倍須惠都安我登許能弊爾
 續紀に
  天平十八年六月壬寅(○廿一日)以2從五位下大伴宿禰家持1爲2越中守1
とあり。又此年の閏は九月なり。之によりて契沖は閏七月の閏を衍文とし又任官は此集に七月とあるを正とし(即續紀に六月とあるを誤とし)又取2七月1の月を日の誤とせり。次に雅澄は閏七月を夏六月の誤とし取2七月1は原に從へり。案ずるに取は擇の意なるべければ某月某日とやうに日まで云はざるべからず(卷十九にも取2八月五日1應v入2京師1とあり)。されば七月の下に日のおちたるなり。又閏七月は六月の誤ならむ○姑は父の妹妹をいふ。坂上郎女は家持の父旅人の妹なり(3514)四五の語例は卷二十にイハヒベヲトコベニスヱテとあり。さて略解に
  いにしへ旅だてる跡の床をいはへる事かたがたに見ゆ。我床ノヘといへるは古へ其旅立る人の妻或は親しき人其床に臥守る事ありてかくいへるか
といへり。案ずるにもし空床を守る習あらば家持の妻こそ守るべけれ。坂上郎女は家持の叔母にて又妻の母なればその空床を守るべきにあらず。又古義には
  古へ旅立る跡の床をいはへることかたがたに見えたりと略解に云るが如し。但し『我床ノヘといへるは古へ旅立る人の妻或は親しき人其床に臥守ること有てかくいへるか』と云るはアガの言にいたく泥めりと見えたり(○略解に其床といへるは旅立ちし人の床をいへるなり。雅澄は誤解せる如し)アガの言はいと輕くして(○無くてもよしといへるなり)吾ガイハヒべヲ床ノ方ニスヱツといふほどに見てありぬべきことなるをや
といへり。即推澄はアガを床ノヘに屬せりとせずして主格とし又トコノヘを床の方とせるなり。案ずるにアガはなほトコノヘに屬せるにて其床は坂上郎女の床なり。家持の空床にあらず。古人は臥床を神聖なる處とせしにやあらむ。又トコノヘは(3515)床の邊なり。床の方にあらず○イハヒベは神に供ふる酒を盛る瓶なり〇イハヒベスヱツは神ヲ祭ル爲ニイハヒベヲ据ヱツとなり。アレトはアレト祈リテなり
 
3928 いまのごとこひしくきみがおもほえばいかにかもせむするすべのなさ
伊麻能其等古非之久伎美我於毛保要婆伊可爾加母世牟須流須邊乃奈左
 略解に『キミガは後に君ヲといふ意也』といへるはいみじき誤なり。オモホエバは思ハレナバなれば君ヲとはいはれざるなり。君ヲといはむとならばコヒシト〔右△〕君ヲオモハバといはざるべからず○スルスベノナサはスルスベノナキ事ヨとなり。古義にいへる如く第四句のセムは將來の事をいひ結句のスルは目前の事をいへるなり。されば結句は今モスルスベノナキ事ヨと譯すべし。略解の如くスルをセムと心得ば結句はいたづらならむ
 
   更贈2越中國1歌二首
(3516)3929 たびにいにしきみしもつぎていめにみゆあがかたこひのしげければかも
多妣爾伊仁思吉美志毛都藝底伊米爾美由安我加多孤悲乃思氣家禮婆可聞
 君ハ相思ハネド我片戀ノシゲキ故ニ我夢ニ見ユルカといふ意なる事は前註にいへる如くなれど初句は心ヅヨク旅ニイニシと辭を加へて心得ざるべからず。さらではシモといへる詮なし。古義にはシモを曲解せり
 
3930 みちのなかくにつみかみはたびゆきもししらぬきみをめぐみたまはな
美知乃奈加久爾都美可未波多妣由伎母之思良奴伎美乎米具美多麻波奈
 こゝのミチノナカは越ノ道ノ中にて即越中なり。クニツミカミは其國にしづまりませる神なり。卷一(五四頁)にもササナミノ國ツ御神とあり○シシラヌは爲不知な(3517)り。家持が地方官となりしは此度が初なれはタビユキモシシラヌ君といへるなり。卷五なる戀2古日1歌の反歌(九九六頁)にもワカケレバ道行シラジとあり○メグミタマハナはユカム、セムをユカナ、セナといへる(下にも馬ナメテイザウチユカナとあり)とは異にてタマハナム即タマヘカシといふ意とおぼゆ。はやく古義に
  メグミタマハナは契沖惠ミ給ハネといふ意なりと云るが如し。即ナはネと通ひて希望辭なり。イカデ惠ミ給ヘカシと希ふ意なり。そのネの辭は一卷雄略天皇大御歌に名ノラサネとある所に委|注《イヘ》るが如し。さてナと通はし云るは集中には此一首の外に見ゆることなし。佛足石歌にワタシタマハナまたスクヒタマハナなどあるこのナはネに通はし云るにて済シ給ヘカシ、救ヒ給ヘカシと希へる意にて今の歌に同じ。又續紀十五〔□で囲む〕詔に一二人《ヒトリフタリ》乎治賜波奈〔三字右△〕止那毛|所思行須《オモホシメス》等《ト》奏《マヲシ》賜|止詔《ノリタマフ》とあるも今の歌なるにもはら同じ
といへり。こは詔詞解卷二(宣長全集第五の二六一頁)に
  治賜波奈 萬葉十七にメグミタマハナ、佛足石歌にワタシタマハナまたスクヒタマハナなどある、これ萬葉五にメサゲタマハネとあると同じくてネとナと通(3518)はしいふなり。されば此ナはネと同じくて願ふ詞なり。然るをナムの略と心得るはあらず。ムを略くべきよしなし。又ムをナといふことあり。ユカムをユカナといふ類なり。されどこれはそれにもあらず。思ひまがふることなかれ。さて治メ給ハナトオモホシメスとは治め給へかしと願ひおぼしめすよしなり。さて然おぼしめし願ふことを今の天皇に告申給ふなり
といへるに依れるなり
 
   平群《ヘグリ》氏女郎贈2越中守大伴宿禰家持1歌十二首
3931 きみにより吾名はすでにたつた山|絶《タチ》たるこひのしげきころかも
吉美爾餘里吾名波須泥爾多都多山絶多流孤悲乃之氣吉許呂可母
 スデニはこゝにてはアマネクとうつすべし(三五〇七頁參照)○絶を從來タエとよめり。宜しくタチとよむべし。戀をおもひ絶ちたるなり。契の絶えたるにあらず。名ハスデニ立ツを立田山にいひかけ、その立田山をタチタルの枕につかへるなり。略解にシゲにかゝれりとし古義にタツ、タエとかゝれりといへる、共に非なり。結句の前に二タビ、更ニなどいふことを加へて聞くべし
 
(3519)3932 須麻びとの海邊つねさらずやくしほのからき戀をもあれはするかも
須麻比等乃海邊都禰佐良受夜久之保能可良吉戀乎母安禮波須流香物
 上三句は序なり。カラキはツラキなり
 
3933 ありさりてのちも相《アハ》むとおもへこそつゆのいのちもつぎつつわたれ
阿里佐利底能知毛相牟等於母倍許曾都由能伊乃知母都藝都追和多禮
 アリサリテはナガラヘテなり。ツギツツワタレは繼ギソツアレとなり。オモヘコソは後世のオモヘバコソなり。略解にオモヘバコソのバをはぶけりといへるを難じて古義に
  すべて略と云は本そなはりたる言を略き除くを云稱なり。古言にオモヘコソと云にオモヘバコソの意を具へたれば略と云べきにあらず
といへるはかなへり
 
3934 なかなかにしなばやすけむきみが目をみずひさならばすべなかるべし
(3520)奈加奈可爾之奈婆夜須家牟伎美我目乎美受比佐奈良婆須敞〔左△〕奈可流倍思
 ヤスケムは後世のヤスカラムなり。ミズヒサナラバは見ザル事久シカラバとなり。卷三(四一一頁)に見ズ久ナラバコヒシケムカモ、卷九(一八一五頁)に吾ハコヒムナ見ズ久ナラバ、卷十四(三一四七頁)にアナイキヅカシ美受比佐ニシテとあり
 
3935 (こもりぬの)したゆこひあまり(しらなみの)いちじろくいでぬひとのしるべく
許母利奴能之多由孤悲安麻里志良奈美能伊知之路久伊泥奴比登乃師流倍久
 はやく卷十二(二六五〇頁)に出でたり。シタユは心ニなり。イデヌは顔ニアラハレヌなり
 
3936 (くさまくら)たびにしばしばかくのみやきみをやりつつあがこひをらむ
(3521)久佐麻久良多妣爾之婆之婆可久能未也伎美乎夜利都追安我孤悲乎良牟
 カクノミヤと君ヲヤリツツとをおきかへて心得べし。古義に『シバシバを尾句の上にうつして意得べし』といへるは非なり。前年に甲賀宮、恭仁宮難波宮に行幸ありしかば家持も御供に仕へけむ。シバシバといへるはその供奉と此度の赴任とを兼ねていへるならむ。さてカクノミヤアガコヒヲラムはカヤウニワガ戀ヒヲラムカとなり
 
3937 (草枕)たびいにしきみがかへりこむ月日をしらむすべのしらなく
草枕多妣伊爾之伎美我可敝里許牟月日乎之良牟須邊能思良難久
 タビユクといへばタビイヌともいふべし。共にニを挿みて聞くべし。上(三五一六頁)にタビニイニシとあり。シラナクは知ラレヌ事ヨとなり
 
3938 かくのみやあがこひをらむ(ぬばたまの)よるのひもだにときさけずして
(3522)可久能未也安我故非乎浪牟奴婆多麻能欲流乃比毛太爾登吉佐氣受之底
 ヨルノヒモは夜ときさくべき紐にて即衣上の帶なるべし。但強ひたるいひざまなり
 
3939 さとちかくきみがなりなばこひめやともとなおもひしあれぞくやしき
佐刀知加久伎美我奈里那婆古非米也等母登奈於毛比此安連曾久夜思伎
 初二は御供サキヨリ歸リテ我里近ク君ガナリナバといへるなり。古義に『此女郎平群氏にて即平群郡に家居せしなるべし』といへり。平群郡と平城《ナラ》とは遠からず。車駕の難波より平城に還りしは前年九月の末なり〇三四の間〔日が月〕にカカル別ニナラウトハ知ラズシテといふことを補ひて聞くべし
 
3940 よろづ代|爾〔左△〕《ト》こころはとけてわがせこがつみし乎〔左△〕《テ》見つつし乃《ノ》びかねつ(3523)も
餘呂豆代爾許己呂波刀氣底和我世古我都美之乎見都追志乃備加禰都母
 初句の爾は元暦校本に等とあり。古義は之に從へり。萬代マデモアラムトとなり○ツミシ乎の乎を元暦校本に手に作れり。略解は之に從ひてワガ背子ガ手ヲツミタリシアトヲ見テと譯せり。案ずるに略解の説の如くならばツミシ跡ミテといふべきなり。宜しく我背子ガツメリシ我手ヲ見ツツと譯すべし。跡の有無は問ふに及ばざるなり○シヌビをシノビといへるは佛足石碑の歌にもミツツ志乃波牟タダニアフマデニとあり。はやく奈良朝の末よりシノブにうつりしなり
 
3941 ※[(貝+貝)/鳥]〔左△〕のなくくらたに之〔左△〕《ニ》うちはめてやけはしぬともきみをしまたむ
※[(貝+貝)/鳥]能奈久久良多爾之宇知波米底夜氣波之奴等母伎美乎之麻多武
 宣長の説(詑傳卷五【二九〇頁】)にクラは谷のことなりといへり。久良多爾之の爾之は諸本に爾々とあるに從ふべじ○ウチハメテは身ヲウチハメテなり。ハメは投なり。古義(3524)に篏のハメとせるは非なり○ヤケハシヌトモを二註に火葬の事とし就中古義にはシヌトモを雖爲とせり。案ずるにシヌトモは雖死にて深キ谷ノ底ニオノヅカラ燃ユル火ニ燒ケ死ヌトモといへるなり。但然おそろしき谷の形容にウグヒスノナクといへるはふさはしからず。おそらくは初句は惑良能《アクテフノ》などありしを誤れるならむ(惡鳥は猛鳥なり)。然らば初句の上にコレガ罪業トナリテ後ノ世ニ地獄ニ堕チテなどいふことを加 へて聞くべし
 
3942 まつのはを花かずにしもわがせこがおもへらなくにもとなさきつつ
麻都能波奈花可受爾之毛和我勢故我於母敝良奈久爾母登奈佐吉都追
    右件十二首歌者時時寄2便使1來贈、非v在《アラザル》2一度所1v送也
 己を松花によそへたるなり。オモヘラナクニは思ヒテアラヌニなり。古義に『モトナサキツツはサキツツモトナ戀ルといふ意なり』といへるは非なり。サキツツは戀ヒツツを花によそへていへるなり。左註の在は不用なり
 
   八月七日夜集2于守大伴宿頑家持舘1宴歌
(3525)3943 秋(ノ)田の穗むき見がてりわがせこがふさたをりけるをみなべしかも
秋田乃穗牟伎見我底利和我勢古我布佐多乎里家流乎美奈敝之香物
    右一首守大伴宿禰家持作
 操《ジヨウ》大伴池主が女郎花をもて來たるを見てよめるなり○穗ムキの語例は近くは卷十(二一六五頁)に秋ノ田ノ穗ムキノヨレル片ヨリニとあり。但こゝの穗向は左右の向にはあらで上下の向にて所謂稻の出來ばえならむ○フサタヲリの語例は卷八(一五八二頁)に
  いめたてて跡見《トミ》の岡べのなでしこの花、ふさたをりわれはもちいなむなら人のため
とあり。澤山ニ手折リといふことなり。ケルを古義に來ケルの約とせるは非なり。ただのケルなり
 
3944 をみなべしさきたる野邊をゆきめぐりきみを念出《オモヒデ》たもとほりきぬ
乎美奈敝之左伎多流野邊乎由伎米具利吉美乎念出多母登保里伎奴
(3526) タモトホリキヌはマハリ道ヲシテ立寄ッタとなり。二註の釋は誤れり。語例は卷七(一三四六頁)に
  春がすみゐのへゆただに道はあれど君にあはむとたもとほり來も
 又卷八(一五九九頁)に
  雲の上になくなる雁のとほけども君にあはむとたもとほり來つ
とあり
 
3945 あきのよはあかときさむししろたへの妹|之《ガ》衣袖《コロモデ》きむよしもがも
安吉能欲波阿加登吉左牟之思路多倍乃妹之衣袖伎牟餘之母我毛
 こは宴、曉に及びてよめるなり。四五は妹ガ衣ヲ借リテ重ネ著ム由モガモとなり。奈良なる妻をしのべるなり
 
3946 ほととぎすなきてすぎにしをかびから秋風|吹《フキ》ぬよしもあらなくに
保登等藝須奈伎底須疑爾之乎加備可良秋風吹奴余之母安良奈久爾
    右三首|掾《マツリゴトビド》大伴宿禰池主作
(3527) 初二は前方ホトトギスノ啼キテ過ギシとなり○ヨシモアラナクニはスベモアラヌニにてそのスベは妹ニ逢ハムスベなり。卷四(七七七頁)に
  またもあはむよしもあらぬかしろたへのわが衣手にいはひとどめむ
 卷十二(二六三九頁)に
  吾妹兒にころもかすがのよしき河よしもあらぬか妹が目をみむ
とあるヨシなり
 
3947 けさのあさけ秋風さむしとほつひとかりが來鳴むときちかみかも
氣佐能安佐氣秋風左牟之登保都比等加里我來鳴牟等伎知可美香物
 トホツヒトを略解に枕辭とせるを古義には
  こゝは枕詞にあらず。雁は遠き國より遥に來るものなればかくいへり。さて草木鳥虫の類をも人と云は古のならはしなり。十二にトホツ人カリヂノ池ニ云々これは枕詞なり
といへり。余のいふ准枕辭なり
 
3948 (あまざかる)ひなに月歴ぬしかれどもゆひてし紐をときもあけなくに
(3528)安麻射可流比奈爾月歴奴之可禮登毛由比底之紐乎登伎毛安氣奈久爾
     右二首守大伴宿禰家持作
 ユヒテシ紐は妹ガ結ビシ衣ノ紐なり。トキモアケナクニは解キモ放タヌ事ヨとなり。トキアクの語例は卷十一(二二六七頁)以下に見えたり
 
3949 (あまざかる)ひなにあるわれをうたがたもひも毛〔□で囲む〕ときさけ底〔左△〕《ズ》おもほすらめや
安麻射加流比奈爾安流和禮乎宇多我多毛比母毛登吉佐氣底於毛保須良米也
    右一首掾大伴宿禰池主
 主格は奈良にある妹なり。ウタガタモは必なり。はやく卷十二(二五七六頁)なるウタガタモイヒツツモアルカの處にくはしく云へり(三二〇一頁參照)○毛は衍字ならむ。此字無き本あり。底を古義に受の誤とせり。之に從ふべし○オモホスラメヤはオモホスラムカの意ならむ。ラムヤハの意としては通ぜざればなり
 
(3529)3950 いへにしてゆひてしひもをときさけず念意緒《オモフココロヲ》たれかしらむも
伊弊爾之底由比底師比毛乎登吉佐氣受念意緒多禮賀思良牟母
     右一首守大伴宿禰家持作
 ヲを字訓を借りて緒と書けるは此卷にては例外なり。但上に水脈《ミヲ》を水緒と書ける例あり。オモフは妹を思ふなり○結句を古義に妹ナラズテ誰カハ知ベキと譯したるは程を越えたり。略解の如くただ知ル人アラジと譯すべし
 
3951 日|晩之《グラシ》のなきぬるときはをみなべしさきたる野邊をゆきつつ見べし
日晩之乃奈吉奴流登吉波乎美奈弊之佐伎多流野邊乎遊吉追都見倍之
    右一首|大目《オホキフミヒト》秦(ノ)忌寸《イミキ》八千島
 ナキヌルトキハは鳴ク時ハといはむにひとし。日グラシノ鳴キテサビシキ時ハとなり○略解に『をみなべしは多く女にたとふれば日ぐらしの鳴夕ぐれに行會人と云意なるべし』といひ古義に其女ト云名ニメデテといへる共に非なり。ただ女郎花ノサケル野ベヲ行キ見テサビシサヲマギラスベシといへるのみ(3530)八千島の千を元暦校本には十に作れり
 
  古歌一首【大原高安眞人作】 年月不v審、但隨2聞時1載茲1焉
3952 いもがいへにいくりのもりの藤(ノ)花いまこむ春もつねかくし見む
伊毛我伊弊爾伊久理能母里乃藤花伊麻許牟春毛都禰加久之見牟
    右一首傳誦僧玄勝是也
 初句は伊久理にかゝれる序のみ。イマコムは又來ムなり。ツネは相カハラズなり。カクシのシは助辭なり○略解に
  神名帳越後國蒲原郡伊久禮神社あり。禮と理と通へばイクリノモリは是ならん
といへり。和名抄郷名に越後國蒲原郁勇禮【以久禮】とあり。今南蒲原郡|井栗《ヰクリ》村に村社八幡宮あり。延喜式の伊久禮神社は即是なりといふ。又此宮の東北なる藤(ノ)樹(ノ)丘に藤(ノ)樹神社あり。是伊久理能母里の跡なりといふ。果して然らば伊久理が伊久禮となり更に井栗となりしなり。大原高安は此國の國司たりしにや
 
3953 鴈がねはつかひにこむとさわぐらむ秋風さむみそのかはのへに
(3531)鴈我禰波都可比爾許牟等佐和久良武秋風左無美曾乃可波能倍爾
 以下三首も亦八月七日の集宴歌のうちならむ。古義に此歌の前に題辭のありしがおちたるならむといへるは從はれず○ソノカハノヘを契沖は雁のすむ胡國の川邊なりといへり。ソノと云へる、所指あるに似たり。文選に謝靈運が雁を詠じて求v凉弱水※[さんずい+眉]と云へるに據れるにあらざるか。秋風サムミは初句の上にうつして見べし
 
3954 馬|並《ナメ》ていざうちゆかなしぶたにのきよきいそ末〔左△〕《ミ》によするなみ見に
馬並底伊射宇知由可奈思夫多爾能伎欲吉伊蘇末爾與須流奈彌見爾
     右二首守大伴宿禰家持
 ウチユカナのウチはウチ見ル、ウチタヲリなどのウチにひとしき添辭なり。古義に『馬をうちていざ行かむといへるなり』といへるは非なり。末は未に改むべし○澁谿は今氷見《ヒミ》郡に屬せり(近年射水郡を割きて氷見郡を置きしなり)。國府《コフ》の西北方に當り又二上山の北麓に當れる海岸なり
 
3955 (ぬばたまの)よはふけぬらし(たまくしげ)ふたがみやまに月かたぶきぬ
(3532)奴婆多麻乃欲波布氣奴良之多末久之氣敷多我美夜麻爾月加多夫伎奴
     右一首|史生土師《シシャウハジ》(ノ)宿禰道良
 二上山は俗に越中富士といふ。國府はその東麓にありき
 
   大目秦忌寸八千島之舘宴歌一首
3956 奈呉のあまのつりするふねはいまこそはふなだなうちてあへてこぎでめ
奈呉能安麻能都里須流布禰波伊麻許曾婆敷奈太那宇知底安倍底許藝泥米
    右館之客屋|居《ヰナガラ》望2蒼海1。仍主人八千島作2此歌1也
 奈呉は今の放生津にて射水川の河口を隔てゝ國府の東方に當れり○フナダナは舟の側板《ワキイタ》なり。顯昭が蹈板の事とせるは非なり。ウチテは叩舷の叩なり。略解に『ウチテは取附くるをいふならん』といへるはいみじき誤なり。さて舷《フナダナ》をうつは勢を附くるなり。今ならばソレ漕ゲヤレ漕ゲなどいひながらうつべし。無論撃つ人と漕ぐ人(3533)とは別なり。宣長が『今もふなだなをかしましくうつ事あり。其音に魚のよりくるとなり』といへるも誤なり○アヘテの語例は近くは卷九(一六八五頁)にシラ神ノイソノ浦ミヲアヘテコギトヨムとあり。敢而にてキホヒテといふ意なり。ウツセミシ神ニアヘネバ(二〇一頁)などのアヘなり。喘ギテの意にはあらず。無論古義の如くアベテとへを濁るべきにあらず
 客屋はイデヰ即客間なるべし
 
   哀2傷長逝之弟1歌一首并短歌
3957 (あまざかる) ひなをさめにと 大王《オホキミ》の まけのまにまに 出而《イデテ》こし われをおくると (青丹《アヲニ》よし) 奈良やますぎて 泉河 きよきかはらに 馬|駐《トドメ》 わかれし時に 好去而《サキクユキテ》 あれかへりこむ 平《タヒラケ》く いはひて待《マテ》と かたらひて こしひのきはみ (たまほこの) 道をたどほみ 山河の へなりてあれば こひしけく けながきものを 見まくほり 念間〔日が月〕《オモフアヒダ》に (たまづさの) 使のければ うれしみと あがまちとふ(3534)に およづれの たはごととかも (はしきよし) な弟《オト》のみこと なにしかも 時しはあらむを (はだすすき) 穗出《ホニヅル》秋の 芽子《ハギ》(ノ)花 にほへる屋戸を〔言(フハ)斯人爲v性好2愛花草花樹1、而多植2於寢院之庭1故謂2之花薫庭1也〕 あさにはに いでたちならし 暮《ユフ》庭に ふみたひらげず 佐保のうちの 里を往過《ユキスギ》 (あしひきの) 山のこぬれに 白雲に たちたなびくと あれにつげつる 佐保山火葬、故謂2之サホノウチノサトヲユキスギ1
安麻射加流比奈乎佐米爾等大王能麻氣乃麻爾未爾出而許之和禮乎於久流登青丹余之奈良夜麻須疑底泉河伎欲吉可波良爾馬駐和可禮之時爾好去而安禮可弊里許牟平久伊波比底待登可多良比底許之比乃伎波美多麻保許能道乎多騰保美山河能弊奈里底安禮婆孤悲之家口氣奈我枳物能乎見麻久保里念間爾多麻豆左能使乃家禮婆宇禮之美登安我麻知刀敷爾於餘豆禮能多婆許登等可毛婆之伎余思奈弟乃美許等奈爾之(3535)加母時之波安良牟乎婆太須酒吉穗出秋乃芽子花爾保弊流屋戸乎【言斯人爲性愛好花草花樹而多植於寢院之庭故謂之花薫庭也】安佐爾波爾伊泥多知奈良之暮庭爾敷美多比良氣受佐保能宇知乃里乎往過安之比紀乃山能許奴禮爾白雲爾多知多奈妣久等安禮爾都氣都流 佐保山火葬故謂之佐保乃宇知乃佐刀乎由吉須疑
 弟書持のうせしを悲めるなり○マケはツカハシなり。いにしへマカルに對してマクルといふ語ありしなり○好去而を略解にヨクユキテとよみて『義を以マサキクテともよむべし』といひ古義にはマサキクテとよめり。卷五(九七三頁)なる好去好來歌に佐伎久伊麻志弖ハヤカヘリマセとあればサキクユキテとよむべし(卷七【一二九一頁】好去而マタカヘリミム參照)。サキクはキゲンヨクなり○タヒラケクイハヒテマテトは神ヲイハヒテ平ニ待チトと顛倒して心得べし。タヒラケクはマテにかかれるなり○コシヒノキハミは來シ日カギリなり。此下に辭足らず。強ひて逢ハズといふ語を補ひて聞くべし○タドホミのタは添辭なり。その下に又を加へて心得べし○コヒシケクケナガキモノヲの語例は卷十にコヒシケクケナガキモノヲ(二〇五(3536)二頁)またコヒシクノケナガキ我ハ(二二一〇頁)とあり。戀シキ事ガ久シキモノヲといへるなり○ケレバは來タレバなり。ウレシミトはウレシサニなり○オヨヅレ、タハゴトは妖言狂言なり。タハゴトトカモのトはニなり○ナオトノミコトは使が家持に向ひて弟御樣といへるにあらず。家持が亡靈を呼びかけて弟殿といへるなり。奈弟は舊訓の如くナオトとよむべし。略解に『弟は實を以書たるにてナセと訓べし』といへるは從はれず○ナニシカモの結はいづれぞ。まづその語例と見べきは卷二明日香皇女殯宮之時人麿作歌(二五五頁)なる
  何しかもわがおほきみの、たたせば玉藻のもころごやせば川藻のごとく、なびかひしよろしき君が、朝宮をわすれたまふや、夕宮をそむきたまふや
なり。玉緒卷七(八丁)に
  これはナニシカモにて切れたり。さる故に下に何の結びもなし。タマフヤのヤへかけて見べからず
といへれどなほナニシカモはワスレタマフヤ、ソムキタマフヤと照應したるなり。カといひて更にヤとはいふべからざる如くなれどこゝのヤは疑辭にあらで一種(3537)の助辭なり。後の世に何トカヤなどいふヤにおなじ。さて右の例によらば今の何シカモは下文のタチタナビクと照應すべきが如くなれどこのタチタナビクは何シカモの結とは認められず。されば作者は贈應といふ事は慮らでナニシカモといひ放したるなり○秋ノは芽子花にかゝれるなり○寢院は即寢殿にて表座敷なり。庭に花薫庭と名づけたるは唐人の風流に倣ひたるなれど漢風ならで御國ぶりなるがなつかし○アサニハニ、ユフニハニはアシタニハ、ユフベニハとあるべきなり。助けて云はばアサニハニ、ユフニハニは副詞のやうにつかへるなりともいふべし○アサニハニ以下を契沖は
  イデタチナラシは出立ナラサズと云べきを下のフミタヒラゲズの句を待て并せて結ぶなり。朝庭ニハ出立ナラシタレドモ暮庭ニハ蹈平ゲズと云ふにはあらず
といへり。げに此説の如し。後撰集なる
  松もひき若菜もつまずなりぬるをいつしかさくらはやもさかなむ
と相似たる格なり。さてタヒラゲズはナラサズと同意なり○シラ雲ニはシラ雲ト(3538)なり○使の語辭の終はタチタナビクなり。但其初は無し。作者の意中よりいつしか使の語辭となれり
 
3958 まさきくといひてしものを白雲にたちたなびくときけばかなしも
麻佐吉久登伊比底之物能乎白雲爾多知多奈妣久登伎氣婆可奈思物
 略解に『此短歌の端に反歌と有べくおもへど此卷反歌の字を書ざる所も多ければもとのまゝにても有べき也』といへり○初二はマサキクアレト吾ニ云ヒテシモノヲとなり。古義に眞幸ク在テ吾任國ヨリ歸ルヲマテトイヒテシ物ヲと譯せるは代匠記の誤を繼げるにて自他を顛倒せり
 
3959 かからむとかねてしりせばこしのうみのありそのなみも見せましものを
可加良牟等可禰底思理世婆古之能宇美乃安里蘇乃奈美母見世麻之物能乎
    右天平十八年秋九月二十五日越中守大伴宿禰家持遥聞2弟喪1(3539)感傷作v之也
 卷五(八四七頁)なる憶良の
  くやしかもかくとしらませばあをによしくぬちことごとみせましものを
を學べるなり
 
   相歡歌二首 越中守大伴宿禰家持作
3960 庭にふる雪はちへしくしかのみにおもひてきみをあがまたなくに
庭爾敷流雪波知敝之久思加乃未爾於母比底伎美乎安我麻多奈久爾
 雪ハ千重ニサヘ降|重《シ》クガソレバカリニ思ヒテ君ヲ待タヌ事ヨ、否ソレヨリモマサリテ待ツ事ヨとい へるなり。略解に『マタナクニはマタヌニを延たるにはあらでこのナクは詞也云々』といへるはいみじき誤なり。古義はた誤解せり
 
3961 白波のよするいそ末〔左△〕《ミ》を榜《コグ》)船のかぢとる間なくおもほえしきみ
白浪乃余須流伊蘇末乎榜船乃可治登流間奈久於母保要之伎美
    右以2天平十八年八月1掾大伴宿禰池主附2大帳使1赴2向京師1、而同(3540)年十一月還2到本任1、仍設2詩酒之宴1弾絲飲樂、是日也白雪忽降、積v地尺餘、此時也復漁夫之船入v海浮v瀾、爰守大伴宿禰家持寄2情二眺l聊裁2所心1
 第四句は楫トル間バカリノ間ナクといふことをつづめたるなり。卷十二(二七一五頁)に例あり
 代匠記に
  附大帳使は大帳ヲ附ル使とよまば即大帳使なり。大帳使ニ附テとよまば別に大帳使ありて池主はそれに附けば副使の意なり。下に此類多し。初の意なり
といひ古義には大帳使ニ附キテとよめり。卷十九なる家持が少納言に遷任して歸京せし時の歌の題辭に便《スナハチ》附2大帳使1取2八月五日1應v入2京師1とありて次に大帳使大伴宿禰家持とあれば大帳使ニ附キテとはよむべからず、宜しく大帳使ヲ附ケラレテとよみて附託セラレテと心得べし。下に以〔右△〕2正税使1須v入2京師1とある以と自他の別あるのみ〇二眺は雪と漁舟となり。所心は所感なり。裁は製作なり。下にも裁歌とあり
 
(3541)    忽洗〔左△〕2枉〔左△〕疾1殆臨2泉路1、仍作2謌詞1以申《ノブル》2悲緒1一首并短歌
3962 大王《オホキミ》の まけのまにまに 大夫之《マスラヲノ》 情《ココロ》ふりおこし (あしひきの) 山坂こえて (あまざかる) ひなにくだりき いきだにも いまだやすめず 年月も いくらもあらぬに (うつせみの) 代(ノ)人なれば うちなびき とこにこいふし いたけく之《ノ》 日異益《ヒニケニマサル》」 (たらちねの) ははのみことの (大船の) ゆくらゆくらに したごひに いつかもこむと またすらむ 情《ココロ》さぶしく」 (はしきよし) つまのみことも あけくれば 門によりたち ころもでを をりかへしつつ ゆふされば とこうちはらひ (ぬばたまの) 黒髪しきて いつしかと なげかすらむぞ」 いももせも わかき兒どもは をちこちに さわぎなくらむ」 (たまほこの) みちをたどほみ 間使も やるよしもな之〔左△〕《ク》 おもほしき ことつてやらず こふるにし 情《ココロ》はもえぬ (たまきはる) いのちをしけど せむすべの たどきをしらに かくしてや あら(3542)しをすらに なげきふせらむ
大王能麻氣能麻爾麻爾大夫之情布里於許之安思比奇能山坂古延底安麻射加流比奈爾久太理伎伊伎太爾毛伊麻太夜須米受年月毛伊久良母阿良奴爾宇都世美能代人奈禮婆宇知奈妣吉等許爾許伊布之伊多家苦之日異益多良知禰乃波波能美許等乃大舩乃由久良由久良爾思多呉非爾伊都可聞許武等麻多須良武情左夫之苦波之吉與志都麻能美許登母安氣久禮婆門爾餘里多知己呂母泥乎遠理加弊之都追由布佐禮婆登許宇知波良比奴波多麻能黒髪之吉底伊都之加登奈氣可須良牟曾伊母毛勢母和可伎兒等毛波乎知許知爾佐和吉奈久良牟多麻保己能美知乎多騰保彌間使毛夜流余之母奈之於母保之伎許登都底夜良受孤布流爾思情波母要奴多麻伎波流伊乃知乎之家騰世牟須辨能多騰伎乎之良爾加苦思底也安良志乎須良爾奈氣枳布勢良武
 洗は元暦校本に沈とあるに從ふべし。次の長歌の序辭にも沈とあり○枉は※[(ハ/几)+王]《ワウ》の誤()か。※[(ハ/几)+王]は尤に同じくて辭書に羸弱也とあり(※[(ハ/几)+王]は俗字なり)○謝靈運の詩に覧v物起2悲緒1とあるは悲ノ端といふ意なれどこゝの悲緒には端、イト口などいふ意は無きが如し(三四九六頁參照)
 マスラヲノのノに之を借れるは此卷にては例にたがへり。クダリキはクダリ來なり○イキダニモ以下四句は卷五(八四三頁)なる日本挽歌にイキダニモイマダヤスメズ、年月モイクダモアラネバといへるを學べるなり○イタケクは痛き事なり。之の字を略解にノとよみ古義にシとよめり。此卷の書式にはかなはねどノの借字とすべし。下なる同じ作者の更贈歌にもイタケク乃日ニケニマセバとあり○日異益は二註にヒニケニマサルとよめるに從ふべし(舊訓はヒニケニマセバなり)。さて此句までを第一段とすべし○ユクラユクラニは心のおちゐぬ状なり。シタゴヒは心の内に戀ふる事なり。イツカモコムは何時カ歸ラムなり○ココロサブシクはマタスラムにかゝれるなり。されば心サブシク待タスラムといふべきを顛倒したるなり。此句までを第二段とすべし○コロモデヲヲリカヘシツツ以下數句の例は卷二十なる同じ作者の追2痛防人悲別之心1作歌に
(3544)  いはひべをとこべにすゑて、しろたへのそでをりかへし、ぬばたまのくろかみしきて、ながきけをまちかもこひむはしきつまらは
とあり。卷十三(二八四三頁)にも例あれど其歌は錯亂して參考に供すべからず。さてコロモデヲヲリカヘスは常は長く垂れたる袖口を折り返して手先をあらはす事にて事に從はむ支度なり。さればこゝなどにては歸る人を待つ状となるなり。
  因にいふ。卷五(九七八頁)に難波津ニ御船ハテヌトキコエコバ紐トキサケテタチハシリセムとあるも同じく事に從はむ支度ながらそは奴僕の状なり
 下なる大伴池主の長歌にも春ノ野ニスミレヲツムト、シロタヘノ袖ヲリカヘシとあり○床ウチハラヒは無論夫を迎へむ支度なり○イツシカトはイツカトにて上なるイツカモコムトに同じ○ナゲカスラムゾまでを第三段とすべし○イモモセモは女兒モ男兒モといふ事にていづれも家持の子なる事契沖雅澄のいへる如し○サワギナクラムまでを第四段とすべし。以上四段に分れたる第一段には任地にて病に罹れる事をいひ第二段には母を、第三段には妻を、第四段には兒女をしのぶ趣をいへるなり○ヤルヨシモナ之の之は久の誤ならむ。即タマホコノ以下八句は(3545)一文にてタマホコノ道ヲタドホミは間使モヤルヨシモナ之にもオモホシキ言ツテヤラズにもかゝれるならむ。下なる更贈歌にも
  たまほこのみちのとほけば、間使もやるよしもなみ、おもほしきこともかよはず
とあり。又マヅカヒモ云々はオモホシキ云々と共にコフルニシにかゝれるならむ。そのかゝりを圖にて示さば
  玉梓の道をたどほみ /間づかひもやる由もな之\
            \おもほしき言つてやらず/ こふるにし
右の如くならむ。さればこそ之は久の誤ならむとはいふなれ○コトツテヤラズは言ヲ傳ヘヤラズなり。コトヅテとつづけては心得べからず。はやく卷十三(二九四一頁)にもオモホシキ言ツテムヤト家トヘバ家ヲモノラズ名ヲトヘド名ダニモノラズとあり。ヤラズはヤラズシテなり○ヲシケドはヲシカレドなり。アラシヲは荒男にてやがてマスラヲなり。アラシはいにしへアラシ、アラシキとはたらきしなり(卷十六【三四一九頁】シゲキカリホニの註參照)○スラニはただスラといはむにひとし。カクシテヤのヤはフセラムの下に降して心得べし。フセラムは臥シアラムなり。されば(3546)カクシテヤ以下は大丈夫ナル我スラカクシツツ嘆キ臥シテアラムカと譯すべし
 
3963 世間《ヨノナカ》はかずなきものか春花のちりのまがひにしぬべきおもへば
世間波加受奈吉物能可春花乃知里能麻可比爾思奴倍吉於母倍婆
 カズナキは久シカラヌならむ。チリノマガヒは散ルマギレニなり。卷二(一八七頁)に
 モミヂバノチリノ亂《マガヒ》ニ、妹ガ袖サヤニモ見エズとあり。古義にチリマガフ如クとうつせるは非なり
 
3964 山河のそきへをとほみはしきよしいもをあひ見ずかくやなげかむ
山河乃曾伎敝乎登保美波之吉余思伊母乎安比見受可久夜奈氣加牟
    右天平十九年春二月二十日越中國(ノ)守之舘(ニテ)臥v病悲傷聊作2此歌1
 ソキヘは果なり。山河ノソキヘは越中をいへるなり
 
   守大伴宿禰家持贈2掾大伴宿禰池主1悲歌二首
  忽沈2枉〔左△〕疾1、累旬痛苦、祷2恃百神1且得2消損1、而|由《ナホ》身體疼累筋骨怯|軟《ゼン》、未v堪2
展謝1、係戀彌深、方今春朝春花流2馥(ヲ)於春苑1、春暮春鴬囀〔左△〕2聲(ヲ)於春林1、對2此
(3547)節候1琴※[缶+尊]可v翫矣、雖v有2乘v興之感1、不v耐2策《ツク》v杖之勞1、獨臥2惟帷之裏1、聊作2寸
分之謌1、輕奉2机下1犯2解王※[阜+頁]1、其詞曰
3965 はるのはないまはさかりににほふらむをりてかざさむたぢからもがも
波流能波奈伊麻波左加里爾仁保布良牟乎里底加射佐武多治可良毛我母
 消損は痛苦の輕減なり。由は孟子に民歸v之|由《ゴトシ》2水之就v下《ヒクキ》沛然1また王|由《ナホ》足2用爲1v善などありて古書に猶と通用せり。こゝはナホとよむべし○展謝は多くつかはざる熟語なり。左傳哀公二十年に
  楚隆(○晋の趙孟の臣)呉王ニ告ゲテ曰ク。寡君ノ老無恤(○晋侯の大夫趙孟)陪臣隆ヲシテ敢テ其不恭ヲ展謝〔二字右△〕セシム。……今君難ニ在リ。無恤敢テ勞ヲ憚ラザレドモ晋國ノ能ク及ブ所ニ非ズ。陪臣ヲシテ敢テ之ヲ展布〔二字右△〕セシム
 又同二十四年に
(3548)  晋ノ師乃還ル。臧石(○魯の師を帥ゐて晋の師に會せし人)ニ牛ヲ※[食+氣]《オク》リ大史謝シテ曰ク。寡君(○晋侯)ノ行ニ在ルヲ以テ牢禮、度ナラズ。敢テ之ヲ展謝〔二字右△〕スト
とあり。陳謝の意なるべし。但こゝにては詣謝の意に用ひたりとおぼゆ○囀は轉の誤ならむ○策杖を二註に杖策の顛倒とせるは非なり。策はツクとよむべし。卷三石田王卒時之歌(五〇七頁)に杖|策《ツキ》モ不衝《ツカズ》モユキテとあり又卷十六(三四六八頁)爲v蟹述v痛歌に雖不策《ツカネドモ》ツク野ニイタリとあり。續紀天平寶字六年八月にも以2年老力衰1優詔特聴2宮中持v扇|策《ツク》1v杖とあり○寸分は短なり。輕はカロガロシクともミダリニともよむべし。犯解はヲカシトクとよむべし。※[阜+頁]は頤《イ》に同じ。解頤は人を笑はしむる事なり
 
3966 うぐひすのなきちらすらむ春(ノ)花いつしかきみとたをりかざさむ
宇具比須乃奈枳知良須良武春花伊都思香伎美登多乎里加射左牟
     天平二十〔二字左△〕年二月二十九日大伴宿禰家持
 略解に二十年は十九年の誤なるべしといひ古義には二十年とあるを正しとせり。案ずるに十九年二月に重病に罹り二十年二月に再重病に罹りしならば再沈2※[(ハ/几)+王]疾1とあるべく又前の歌との間に若干首の歌あるべきなり。されば前の歌と同じき年(3549)同じき月の二十九日の作と認むべし。或は疑はむ。十九年二月二十日の作に忽沈2※[(ハ/几)+王疾1とありて同月二十九日の歌に累旬痛苦とあるは相副はざるにあらずやと。答へて云はむ。始めて病に罹りしはおそらくは二月の初にて前の歌は病すこし怠りて作れるならむ。されば二十九日の作に累旬痛苦といふとも相かなはざる事あらじと
 此次に掾大伴宿禰池主報2贈守大伴宿禰家持1歌二首などいふ題辭あるべきなり
    ○
  忽辱2芳音1、翰苑凌v雲、兼垂2倭詩1、詞林舒v錦、以吟以詠能※[益+蜀]2戀緒1、△春△△△可v樂、暮春風景最可v怜、紅桃灼灼戯蝶囘v花※[人偏+舞]、翠柳依依矯鶯隱v葉歌、可v樂哉淡交促v席得v意忘v言、樂矣〔二字左△〕美矣幽襟足v賞哉〔□で囲む〕△△△△、豈慮乎蘭※[草冠/惠]隔v※[草冠/聚]琴※[缶+尊]無v用、空過2令節1物色輕v人乎〔□で囲む〕、所v怨有〔左△〕v此不v能2黙止1、俗語云、以v藤續v錦、聊擬2談咲1耳
3967 やまかひにさけるさくらをただひとめきみにみせてばなにをかおも(3550)はむ
夜麻可比爾佐家流佐久良乎多太比等米伎美爾爾西底婆奈爾乎可於母波牟
 芳音は贈歌の序辭を指せるなり。翰は筆なり。されば翰苑は文苑なり。凌雲は空に上る事なり。もと司馬相如の文を稱へたる史記列傳の語なり○倭詩の例は卷五に日本挽歌(八四三頁)また倭歌(九四七頁)とあり○戀緒はおそらくは邦製の熟語ならむ。緒を心のこととせるに似たり(三四九六頁參照)〇略解に『春可樂、この春の下脱字あるべし』といひ古義には次の暮春を春暮の顛倒として春可樂を春朝和氣固可v樂の脱字とせり。案ずるにまづ暮春は春暮の顛倒にはあらざらむ。少くとも紅桃灼々戯蝶囘v花※[人偏+舞]は薄暮の趣にあらざればなり。暮春をもとのまゝとせば之に對するに春朝を以てすべからず。和氣はなほあるべし。固は動かすべからず。おそらくは早春氣象固可v樂などありしならむ○灼々は花の盛なる状なり。依々は柔弱なる貌なり○淡交は莊子山木篇に君子之交淡若v水(禮記の表記にも)とあるに據れるなり。促席は座を進むる事。得意忘言は莊子外物篇に
(3551)  筌者¥|所以《ソノユヱ》在v魚。得魚而忘v筌。蹄者所以在v兎。得v兎而忘v蹄。言者所以在v意。得v意而忘v言。吾|安《イヅクニゾ》得2夫《カノ》忘言之人1而與v之言裁
とあるより出でたるにて忘言は言語ヲ不用トスといふ義ならむ。古義に『心の相かなひて打とけたるなり』といへるは當れりやいかが。さて卷五なる梅花歌序(八九一頁)にも促v膝飛v觴忘2言一室之裏1とあり○樂矣美矣の樂矣は噫などの誤ならむか」哉は衍字なるべし。足賞の次に四字おちたるにや○蘭※[草冠/惠]は芳草にて家持をよそへたるなり。隔※[草冠/聚]は※[草冠/聚]ヨリ隔タリとよむべし。※[草冠/聚]は叢の俗字なり。初に同人相會すべき時節なることを云ひて豈慮乎以下は家持の病に罹れることを云へるなり○令節は佳節なり。物色は風光なり。輕はアナヅルなり。孝徳天皇紀に輕《アナヅル》2神道1とあり。但カロムとよみても可なり。大鏡道長傳に「大臣かろむる人のよきやうなし」とあり。乎は衍字か。有は在に改むべし○俗語は邦諺なり。藤は藤布にてあらき織物なり○擬2談咲1は君ガ談咲ノ種トスといへるなり
 山カヒは即谷なり(三五〇八頁參塵照)。ミセテバは見セタラバなり。ナニヲカオモハムは心ノ殘ル所無カラムとなり
 
(3552)3968 うぐひすのきなくやまぶきうたがたもきみが手ふれずはなちらめやも
宇具比須能伎奈久夜麻夫伎宇多賀多母伎美我手敷禮受波奈知良米夜母
    沽〔左△〕洗二日掾大伴宿禰池主
 ウタガタモチラメヤモは決シテ散ラジといへるなるべし○沽は姑の誤なり。姑洗は三月の異名なり。文選陸佐公の新漏刻銘序にも月|次《ヤドル》2姑洗1とあり
 
   更贈歌一首并短歌
  含弘之徳垂2恩〔左△〕蓬體1、不※[此/貝]之思〔左△〕|報《コタヘテ》慰2陋心1、載〔左△〕2荷未春〔二字左△〕1無2堪《アヘテ》所1v喩也、但|以《オモフニ》稚時不v渉2遊藝之庭1、横翰之藻自乏2乎彫蟲1焉、幼年未v※[しんにょう+至]2山柿之門1、裁歌之趣詞〔左△〕失2乎※[草冠/聚]林1矣、爰辱2以v藤續v錦之言1、更題2將v石同v瓊之詠1、因〔左△〕是俗愚懷
癖不v能2獣止1、仍捧2數行1式《モチテ》※[酉+羽]〔左△〕2嗤咲1、其詞曰
3969 おほきみの まけのまにまに (しなざかる) こしををさめに いで(3553)てこし ますらわれすら よのなかの つねしなければ うちなびき とこにこいふし いたけくの 日異《ヒニケニ》ませば かなしけく ここに思出《オモヒデ》 いらなけく そこに念出 なげくそら やすけ△《ク》なくに おもふそら くるしきものを (あしひきの) やまきへなりて (たまほこの) みちのとほけば 間〔日が月〕使も 遣縁《ヤルヨシ》もなみ おもほしき こともかよはず (たまきはる) いのちをしけど せむすべの たどきをしらに 隱居而《コモリヰテ》 念なげかひ なぐさむる こころはなしに 春花の さけるさかりに おもふどち たをりかざさず はるの野の しげみとびぐく ※[(貝+貝)/鳥](ノ) 音《コヱ》だにきかず をとめらが 春菜つますと くれなゐの 赤裳のすその はるさめに にほひひづちて かよふらむ 時(ノ)盛を いたづらに すぐしやりつれ しぬばせる 君|之《ガ》心を 牟〔左△〕《ウ》るはしみ 此夜すがらに いもねずに 今日もしめらに こひつつぞをる
(3554)於保吉民能麻氣乃麻爾麻爾之奈射加流故之乎遠佐米爾伊泥底許之麻須良和禮須良余能奈可乃都禰之奈家禮婆宇知奈妣伎登許爾己伊布之伊多家苦乃日異麻世婆可奈之家口許己爾思出伊良奈家久曾許爾念出奈氣久蘇良夜須家奈久爾於母布蘇良久流之伎母能乎安之比紀能夜麻伎弊奈里底多麻保許乃美知能等保家波間使毛遣縁毛奈美於母保之吉許等毛可欲波受多麻伎波流伊能知乎之家登勢牟須排能多騰吉乎之良爾隱居而念奈氣加比奈具佐牟流許己呂波奈之爾春花乃佐家流左加里爾於毛敷度知多乎里加射佐受波流乃野能之氣美登妣久久※[(貝+貝)/鳥]音太爾伎加受乎登賣良我春菜都麻須等久禮奈爲能赤裳乃須蘇能波流佐米爾爾保比比豆知底加欲敷浪牟時盛乎伊多豆良爾須具之夜里都禮思努波勢流君之心乎牟流波之美此夜須我浪爾伊母禰受爾今日毛之賣良爾孤悲都追曾乎流
 含弘は易の坤の彖傳に含弘光大とあり。寛大なる事なり、續紀寶龜五年七月の勅に(3555)も朕爲2其勞1v民且事2含弘1とあり。文選なる勵志詩、幽憤詩、贈劉※[王+昆]、王元長の曲水詩序などにも見えたり。垂恩は垂思の誤ならむ。蓬體の語例は卷五なる藤原卿報贈歌の序(八七九頁)に蓬身とあり。自謙していへるなり○不※[此/貝]之思の思は恩の誤ならむ。不※[此/貝]はハカラレザルとよむべし。報は報贈シテなり○載荷未春は宣長の説に
  戴荷來眷とありしを誤れるなるべし。來眷とは池主が歌文をおくれるをいふ。眷はカヘリミルの意なり
といへり。堪はアヘテとよむべきか○遊藝は論語述而に遊2於藝1とあるに據れるなり。藝は所謂六藝なり○藻は文なり。彫蟲は小技といふことなれどこゝにては詩文之才といふ義につかへるならむ○※[しんにょう+至]は逕の俗字にて經の通用なり。卷三以下に見えたり。山柿は山部柿本の兩歌聖なり。山を先にしたるは字面をいたはりたるなり○詞は動《トモスレバ》などの誤字ならむ。失は迷の意か。※[草冠/聚]林を略解に『藻林の誤か』といひ古義に『藻林と云に同じきを上に横翰之藻といへる故に字をかへて書るか』と云へるは從はれず。もとのまゝにて可なるベし○同は齊なり。我石を以て人の玉にならぶるなり○因は元暦校本に固とあるに從ふべし○※[酉+羽]は酬の俗字なるがここは酬にては穩(3556)ならず。擬などを誤れるか。上に聊擬2談咲1とあり。下にも敬擬2解咲1とあり
 マスラはマスラヲといふ事とおぼゆ。但集中の例はマスラヲ、マスラヲノコ、マスラタケヲとありてただマスラとのみいへるはこゝのみなり○ヨノナカノ以下六句は上なる長歌に
  うつせみの代の人なれば、うちなびきとこにこいふし、いたけくの日にけにまさる
といへるに似たり○カナシケク以下の四句は古事記なる宇遅能和紀郎子《ウヂノワキイラツコ》の御歌に
  もとへはきみをおもひで、すゑへはいもをおもひで、いらなけくそこにおもひでかなしけくここにおもひで、いきらずぞくる、あづさゆみまゆみ
とあるを取れるなり。まづ彼御歌の意は
  或ハ君ヲ思ヒ或ハ妹ヲ思ヒ(或ハを檀の縁にてモトヘニ、スヱヘニといへるなり)或ハイラナカラム事ヲ思ヒ或ハ悲シカラム事ヲ思ヒテ(ソコニ、ココニは或ハといはむに齊し)檀ヲ伐ラズニ來ル
といへるなり。さればこゝのカナシケクココニオモヒデ、イラナケクソコニオモヒ(3557)デも或は悲シカラム事ヲ思ヒ或ハイラナカラム事ヲ思ヒと譯すべし。さてイラナケクは記傳卷三十三(二〇三九頁)に
  此言是を除《オキ》て古書には見えず。言の意詳ならず。……物のかなしくて心の打しをれたるにて萬葉に思ヒシナエまた心モ シヌニなどあると同じさまにやあらむ
といへり。こはイラナケクをイラナクと同格と見て釋けるなり。イラナクとあらばこそオモヒデの形容として心モシヌニなどいふ意ともせめ、イラナケクはイラナキ事ヲといふことなれば宣長のいへる類の意とはすべからず。案ずるにイラナクはイミジクといふことならむ。大和物語、うつほ物語、宇治拾遺物語(吾嬬人止2生贄1事)
などに見えたるイラナクはかくうつしてよく通ずるなり。
  因にいふ。イラナシのナはハシタナシなどのナにて無にはあらず。されば俗語のエライはこのイラナシのうつれるならむ
 カナシケク、イラナケクは己が死後の事をいへるなり○夜須家奈久爾は略解に
  夜須家の下、一本久の字あり。しばらく是によるべし。猶おもふにもとより久はな(3558)くて家は可良二字の誤て一字になれるか。ヤスカラナクニとあるべき例也
といへり。卷十九なる同じ作者の爲3家婦贈2在v京尊母1所v誂作歌にヤス家久ナクニとあればこゝももと夜須家久〔右△〕奈久爾とありし上の久をおとしたるなり。但ヤスカラナクニといはずばヤスケクナキ〔右△〕ニといふべく、ヤスケクナクニといふべからず。家持池主等の歌には往々いかがと思はるゝ事あり
  なほ云はば古歌に安莫國《ヤスカラナクニ》など書けるを誤りてヤスケクナクニと訓みやがておのが歌にもヤスケクナクニと作りしにはあらざるか(卷四【六六二頁】參照)
 ○ヤマキヘナリテは二註にいへる如く山ヲ來リ隔タリテなるべし。タマホコノ以下十句は上なる長歌に
  たまほこのみちをたどほみ、間使もやるよしもなく、おもほしきことつてやらず、こふるにしこころはもえぬ、たまきはるいのちをしけど、せむすべのたどきをしらに
とあるに似たり○テに而を書けるは此卷にては異例なり。但上(三五三三頁)にもイデテを出而と書けり○ニホヒヒヅチテはソマリ濡レテなり。カヨフは往來するな(3559)り○スグシヤリツレはヤリツルニなり。シヌバセルは思遣リタマヘルなり。之の字をガに借れるも異例なり。但上(三五二六頁)にもイモガを妹之と書けり。牟は諸本に宇とあるに從ふべし。シメラニはシミラニのうつれるなり○平凡冗長なる作なり
 
3970 (あしひきの)やまざくらばなひと目だにきみとし見てばあれこひめやも
安之比奇能夜麻左久良婆奈比等目太爾伎美等之見底婆安禮古非米夜母
 
3971 やまぶきのしげみとびぐく鶯のこゑを聞らむきみはともしも
夜麻扶枳能之氣美登※[田+比]久久※[(貝+貝)/鳥]能許惠乎聞良牟伎美波登母之毛
 このトモシはウラヤマシなり
 
3972 いでたたむちからをなみとこもりゐてきみにこふるにこころどもなし
伊尼〔左△〕多多武知加良乎奈美等許母里爲底伎彌爾故布流爾許己呂度母奈(3560)思
     三月三日大伴宿禰家持
 チカラヲナミトは力ガ無サニなり。ココロドはタマシヒなり(二八四六頁參照)○尼は諸本に泥とあり
 
   七言晩春三日遊覧一首并序
  上巳名辰、暮春麗景、桃花照v瞼〔左△〕《カホ》以分v紅、柳色合v苔〔左△〕而|競《アラソフ》v緑、于v時也携v手|曠《ムナシク》望2江河之畔1、訪v須〔左△〕|※[しんにょう+向]《ハルカニ》※[しんにょう+曷]〔左△〕2野客之家1、既而也|開〔左△〕※[缶+尊](ニ)得v性蘭契和v光、嗟乎今日所v恨徳星已少歟、若不2扣v寂含1v章、何以|※[手偏+慮]《ノベム》2趙〔左△〕遙之趣1、忽|課《オホセテ》2短筆1聊|勒《シルス》2四韻1云爾
餘春媚日宣2伶《レン》賞1、 上|巳《シ》風光足2覧遊1、 柳陌臨v江|縟《カザリ》2※[衣+玄]服1、 桃源通v海泛2仙舟1、 雲|罍《ライ》酌(メバ)v桂三清|湛《タタヒ》、羽爵|催《ウナガシ》v人九曲(ノ)流、 縱醉陶心忘2彼我1、 酩酊無3處(トシテ)不2淹留1
     三月四日大伴宿禰池主
(3561) 上巳は古義に
  上は初のことなり。もろこし漢と云し代までは三月初の巳の日を俗節と定めたりしを魏文帝と云しが時より後は三月三日を用ることとはなれりしかども猶もとの名のまゝに上巳といふことなり。名辰は佳節などと云に同じ
といへり○瞼は臉の誤なり。臉は頬なり。顔なり。分紅は色を分ちて顔に與ふるなり○含苔は略解にいへる如く含黛の誤にて柳ガ黛《マユズミ》ヲ含ミテ人ノ黛卜緑ヲ爭フといへるなり○曠《ムナシク》は目的モ無クなり○須は諸本に酒とあるに從ふべし。訪も誤字にあらざるか。野客は野守ならむ。※[しんにょう+曷]は一本に過とあるに從ふべし○開は諸本に從ひて琴に改むべし。性は天眞なり○蘭契和v光は古義に
  友どちの親しき意なり。蘭契は易に同心之言其臭如v蘭とあるによれり。和光は老子の和光同塵より出たり
といへり。和光は氣を降すなり○徳星は賢人に應ずる星なり。異苑といふ書に
  陳|寔《シヨク》字ハ仲弓、※[草冠/旬]淑字ハ季和、仲弓諸子姪ト季和父子ニ造《イタ》リテ討論ス、時ニ徳星聚ル、太史奏シテ曰ク、五百里ノ内賢人ノ聚レルアラムト
(3562)とあり。さてこゝにては家持にたとへて其在らざるを已少歟といへるなり○扣寂は代匠記に文選陸士衡の文(ノ)賦に叩2寂寞1求v音とあるに據り含章は同書左太沖の蜀都(ノ)賦に楊雄含v章而挺生とあるに據れるなりといへる如し。扣寂は俗に無イ智慧ヲシボッテといふに似たり。章は文藻なり。古義に含の下に之の字を補ひて若不v扣2寂含之章1とよめるは次なる何以※[手偏+慮]2趙遙之趣1と相對して宜しきが如くなれど實は義を成さず○趙は諸本に逍とあるに從ふべし
 怜《レン》は憐に同じ○※[衣+玄]《ケン》服は好衣なり。蜀都賦等に見えたり。就中顔延年の曲水詩序に※[青+見]装|藻《カザリ》v野※[衣+玄]服|縟《カザル》v川とあり。柳陌臨江は柳陌ノ江ニ臨メルニと心得べし○桃源云々は桃源ニ仙舟ヲ泛ベテ海ニ通フと顛倒して心得べし○雲罍は雲紋を刻める酒器なり。桂は桂酒の略なり。三清は日月星辰の光か○羽爵は雀に象れる盃なり。さて羽爵催v人九曲流は曲水宴の趣なり○縱醉は心のまゝに醉ふなり。陶心は陶々たる心なり○淹留は久留なり
   ○
 昨日述2短懷1、今朝※[さんずい+于]2耳目1、更承2賜書1、且奉2不次1、死罪謹言
(3563)不v遺《ワスレ》2下賤1、頻惠2徳音1、英雲星〔二字左△〕氣、逸調過v人、智水仁山、既※[韋+温の旁]《ツツミ》2琳瑯之光彩1、潘江陸海、自座2詩書之廊廟1、※[馬+聘の旁]v思非v常、託v情有v理、七歩成v章、數篇滿v紙、巧|遣《ヤリ》2愁人之重患1、能除2戀者之積思1、山柿謌泉、比v此如v蔑《ナキ》、彫龍筆海、粂然得〔左△〕v看矣、方知僕之有v幸也、敬和v歌、其詞云
3973 おほきみの みことかしこみ (あしひきの) やま野さはらず (あまざかる) ひな毛《モ》をさむる ますらをや なにかものもふ (あをによし) ならぢきかよふ (たまづさの) つかひたえめや こもりこひ いきづきわたり したもひ余〔左△〕《ニ》 なげか布〔左△〕《ス》わがせ いにしへゆ いひつぎくら之〔左△〕《く》 よのなかは かずなきもの賀〔左△〕《ゾ》 なぐさむる こともあらむと さとびとの あれにつぐらく やまびには さくらばなちり かほどりの まなくしばなく 春(ノ)野に すみれをつむと しろたへの そでをりかへし くれなゐの あかもすそびき をとめらは おもひみだれて きみまつと うらごひすなり こころぐし いざ(3564)みにゆかな ことはたな由比〔二字左△〕《シレ》
憶保枳美能禰許等可之古美安之比奇能夜麻野佐婆良受安麻射可流比奈毛乎佐牟流麻須良哀夜奈爾可母能毛布安乎爾余之奈良治伎可欲布多麻豆佐能都可比多要米也己母理古非伊枳豆伎和多利之多毛比余奈氣可布和賀勢伊爾之弊由伊比都藝久良之餘乃奈加波可受奈枳毛能賀奈具佐牟流己等母安良牟等佐刀妣等能安禮爾都具良久夜麻備爾波佐久良婆奈知利可保等利能麻奈久之婆奈久春野爾須美禮乎都牟等之路多倍乃蘇泥乎利可弊之久禮奈爲能安可毛須蘇妣伎乎登賣良波於毛比美太禮底伎美麻都等宇良案悲次〔左△〕奈里己許呂具志伊謝美爾由加奈許等波多奈由比
   短懷は拙懷なり。昨日述2短懷1は三日に遊覧し四日に其詩を作り其日の薄暮に家持に贈りしを云へるなり。次に見ゆる家持の五日の報苦に
     昨暮來使幸也、以垂2晩春遊覧之詩1
(3565)とある是なり。略解に『それを五日朝贈りしに』といへるは誤れり。今朝※[さんずい+于]2耳目1は今朝耳目ヲ※[さんずい+于]スラムとよみて今朝御覧下サルル事デアラウの意とすべし。古義に
  さて即日家持卿より共に和へられし詩歌などのありしによりてそのよろこびに今五日左の長歌短歌など贈りし故に今朝※[さんずい+于]耳目とはいへるなるべし
といへるは非なり○夏承2賜書1は夏ニ賜書ヲ承ラバとよむべし。略解に
  又家持卿よりおし返しおこせし故に夏承2賜書1といふ
といひ古義にも
  立かへりて家持卿より三日遊覧の詩文に和へて池主へ贈られしがありしを云
といへるは誤れり。池主より四日に贈りし詩(即三日遊覧の七律)と五日に贈りし此歌とに家持の答へしが即次の詩歌なり。其前に答へし詩歌は無きなり○且奉2不次1は且《マタ》不次ナルヲ奉ラムとよむべくや。不次はこゝにては順序ノ立タヌモノといふ意に用ひたるならむ○徳音はアリガタキ仰といふ事なり。文選に時因2北風1復惠2徳音1、(李陵答2蘇武1書)、願聞2徳音1(曹操與2孫權1書)などあり。頻惠2徳音1は二月二十九日と三月(3566)三日とに歌を贈られしを云へるなり○英雲星氣は逸調過v人と對せず。英霊負v氣の誤か。元暦校本を検するに英靈とあり。負氣とある本も出でよかし○智に水を配し仁に山を配したるは論語の智者樂v水仁者樂v山に據れるにて當時流行せし辭なる事懷風藻を見て察すべし。琳瑯は玉の名なり。瑯は琅の俗字なり○潘江陸海は文選作者中の巨|擘《ハク》なる潘岳と陸機との文才を江海に比したるなり。陸は陸機陸雲兄弟を併指せるにやとも思へど江文通の雜體詩に安仁士衡と併稱したれば兄の機のみを指せるなり。安仁は潘岳の字、士衡は陸機の字なり。廊廟は廟堂におなじ。二註に『常に道藝の中に身を置くよしなり』といへるは從はれず〇次句を二註に※[馬+聘の旁]2思非常1託2情有理1とよめるは非なり。思ヲ※[馬+聘の旁]スルコト常ニアラズ情ヲ託《ヨ》スルコト理アリとよむべし〇七歩は魏の曹植が僅に七歩にして
  煮v豆持作v羮、漉v※[豆+敍の旁]《クキ》以爲v汁。※[草冠/其]《マメガラ》(ハ)在2釜底1然《モエ》、豆在2釜中1拉、本是同根生、相煮何太急
といふ詩を作りし故事なり○彫龍は史記の孟子※[草冠/旬]卿列傳に見えたり。龍文を彫ることにて文飾の譬なり。得は可の誤か○敬和は此月三日に家持より贈りしオホキミノマケノマニマニといふ歌に和せるなり
(3567) ヤマ野サハラズは山野ニ障ラズのニを略せるにて野山ニ妨ゲラレズとなり○ヒナ毛の毛を宣長は乎の誤なるべしといへれどもとのまゝにて鄙ヲモの意とすべし。云々シテ鄙ヲモ治ムルホドノヲヲシキ丈夫ヨといへるなり。古義に『毛の辭は上にめぐらして山野と云にかけて見べし』といへるはいみじきひが言なり○マスラヲヤのヤはヨなり。古義に疑辭とせるは非なり。ナニカはイカナレバカなり。何ヲカの略にあらず。何ニカの略なり。モノモフは心を痛むるなり。さてマスラヲは勿論家持を指せるなり○ナラヂは奈良より越中に通ふ路なり○シタモヒ余の余は略解にいへる如く爾の誤なり。ナゲカ布ワガセの布は古義に須の誤とせるに從ふべし。反歌のナゲカ布は自身の事なればナゲカフにて可なれど、こゝは人の上なればナゲカスとあらむ方まされり○クラ之の之は略解に云へる如く久の誤とすべし。イヒツギクラクは云ヒ繼ギ來ルヤウハとなり○カズナキモノ賀の語例は上(三五四六頁)に
  世のなかはかずなきものか春花のちりのまがひにしぬべきおもへば
とあり○但こゝはモノカにてはかなひがたし。諸本にモノ曾とあるに從ふべし。ナグ(3568)サムルコトモアラムトのトはイヒツギクラクを承けたるなり。此二句は人生(ハ)行樂(セム)耳の意なるべし○サトビトノの上にサテを加へて心得べし○ヤマビニハ云々の四句は春ノ野の装飾靜なり。古義に
  ヤマビニハのニハは他虞に對へていふ言なり。山ビニハ云々春野ニハ云々、といふ意なり
といへるは非なり。野を主としていへるにて山邊ニハ云々スルソノ春ノ野ニといへるなり○ソデヲリカヘシは袖口の長きが妨となればそを折り返すなり(三五四四頁參照)○略解に
  ウラゴヒスナリの次に詞足はず。句の落たるならん
といひ古義には
  ウラゴヒスナリの次にカヤウニ告ツルゾと云詞を加へて聞べし
といへり。スナリの下にトを略したるなり。里人の辭はウラゴヒスナリまでなり〇ココログシは懊惱ニ堪ヘズとなり(卷十二【二六六八頁】參照)○コトハタナ由比の語例は卷十三(二八五四頁)に
(3569)  あし垣の末かきわけて君こゆと人になつげそ事者|棚知《タナシレ》
とあり。宣長は
  凡此類のタナといふ詞皆(○卷一身モタナシラズ、卷九身ハタナシラズまた身ヲタナシリテ)タナ知とつづきたるにここのみ由比とつづきたるはいかが。由比は思禮の誤なるべし。十三の卷の棚知も必タナシレと訓べき語の勢也。さてコトハは集中コトサケバ、コトフラバ、古今集にコトナラバなどある殊なり。さてタナシレは詳ならざれども大かたのやうを以ていはば今俗語に云々と人に物をいひつけてサヤウニ心得ヨといふに似たり。十三の卷なるは人ニ告ル事ナカレ、サヤウニ心得ヨなりごゝなるは世中ハ數ナキモノゾ、里人モ云々卜告ル也、然レバ春ノ野山ニ遊ビテ心ヲヤルベキコトゾ、サヤウニ心得タマヘ、イザ共ニ見ニユカンといふ也云々
といへり。又古義に右の説を擧げて
  但しコトは如なり。殊とかけるは借字にて字義にはあらず。さればこゝはカクノ如クニ心得ヨといふ意にきこえたり
(3570)といへり。タナ由比はげにタナシレの誤なるべし。さてそのタナはタダのうつれるにや。さらばタナシレはタダニシレなり。シレは領承セヨの意ならむ。又コトは事にてコノ事ハの意ならむ○次は須の誤なり
 
3974 やまぶきはひにひにさきぬうるはしとあがもふきみはしくしくおもほゆ
夜麻夫枳波比爾比爾佐伎奴宇流波之等安我毛布伎美波思久思久於毛保由
 ヒニヒニサキヌは日々ニサキマサリヌなり。二三の間にソレヲ見ルニツケテモといふことを補ひて聞くべし。二註にソノ山吹ノ日々ニサクゴトクと補譯せるはわろし○次なる家持の答歌によれば山吹を添へて贈りしなり
 
3975 わがせこに古非須弊奈賀利あしがきのほかになげかふあれしかなしも
和賀勢故爾古非須弊奈賀利安之可伎能保可爾奈氣加布安禮之可奈思(3571)母
   三月五日大伴宿禰池主
 第二句は卷十二(二六五七頁)にワギモコニ戀爲便名鴈《コヒスベナカリ》とあるに依れるならめど戀ヒテスベナミとこそあるべけれ○アシガキノホカニナゲカフは契沖が『病者に頻頻對面せむ事のかたければなり』といへる如し。略解に
  アシ垣ノ外ニナゲカフとは家持卿と池主と離れ居てあればかくいへり(○アシガキノを枕辭とせるなり)
といひ古義に
  アンガキノは枕詞なり。ホカニナゲカフは家持卿は守、池主は掾て隔り居られし故にかく云り
といへるは非なり。家持の答歌にアシガキノホカニモキミガヨリタタシとあるを見ればアシ垣ノは決して枕辭にあらず
   ○
 昨暮來使幸也、以垂2晩春遊覧之詩1、今朝累信辱也、以※[貝+兄]2相招望野之歌1、(3572)一看2玉藻1稍|寫《ノゾキ》2鬱結1、二吟2秀句1、已|※[益+蜀]《ノゾク》2愁緒1、非2此眺翫1、孰暢v心乎、但|惟《オモフニ》下僕禀〔左△〕性難v彫、闇神|靡《ナシ》v瑩、握v翰《フデ》腐v毫《ケ》、對v研忘v渇《カワク》、終日因流〔左△〕、綴v之不v能、所謂文章(ハ)天骨、習v之不v得也、豈堪3探v字|勒《オサヘテ》v韻|叶2和《カナヘコタフル》雅篇1哉、抑聞2鄙里少兒1、古人言無v不v酬、聊裁2拙詠1敬擬2解咲1焉 如今賦v言勒v韻同2斯雅作之篇1、豈殊2將v石同1v瓊、唱聲〔二字左△〕遊走曲歟、抑小兒譬〔左△〕濫諂〔左△〕△、敬寫2葉端1式《モチテ》擬v亂曰
    七言一首
抄〔左△〕春餘日媚景麗、初巳和風拂自輕、來燕銜v泥賀宇〔左△〕v入、歸鴻引v蘆赴v瀛、聞君嘯v侶新〔左△〕2流曲1、禊ぎ飲催v爵泛2河清1、雖v欲v追2尋良此〔二字左△〕宴1、還《マタ》知染※[こざと+奥]脚※[足+令]※[足+丁]
   短歌二首
3976 さけりともしらずしあらばもだもあらむこのやまぶきをみせつつもとな
佐家理等母之良受之安良婆母太毛安良牟己能夜萬夫吉乎美勢追都母等奈
 
(3573)3977 あしがきのほかにもきみがよりたたしこひけれこそはいめに見えけれ
安之可伎能保加爾母伎美我余里多多志孤悲家禮許曾婆伊米爾見要家禮
    三月五日大伴宿禰家持臥v病作之
 池主より四日の暮に贈りし詩と五日の朝に贈りし歌とに答へたるなり○幸也は辱也におなじく垂は※[貝+兄]におなじ。幸也辱也は現代書翰文の『仕合せに存侯、忝く存侯』なり。累信は再度の音信なり。古義に
  昨暮來使は池主の許より三日遊覧(ノ)詩を昨四日に持來しその使なり。さて家持卿のそれに和へられたるに又|謝《コタ》へて〔十八字傍点〕上件の長歌等を今五日に池主より贈りしを今朝累信とは云るなり
といへるうち點を批ちたる處は誤解なり。家持は四日の暮に受取りし詩と五日の朝に受取りし歌とに對して始めて比和詩答歌を贈りしなり○相招豐野は池主の歌にイザ見ニユカナとあるを言へるなり○寫は詩經、衛風竹竿に駕(シテ)言《ワレ》出遊、以寫2(3574)我憂1また小雅|蓼蕭《リクセウ》に既見2君子1我心寫兮とあり又文選に冀寫2憂思情1(王仲宣雜詩)永v言寫2情慮1(何敬祖雜詩)歡娯寫2懷抱1(謝靈運擬2平原侯植1)寫v懷良未v遠(注文通擬2※[禾+(尤/山)]中散1)などありノゾキなどよむべし○眺翫は誤字ならずや。古義に但惟の二字をつらねてタダとよめり。宜しくタダオモフニとよむべし○難v彫は論語公冶長第五の朽木不v可v彫也(彫は正平本に據れるなり。通本には※[周+隹]とあり)にもとづきたるなり。禀性と闇神と相對せず。おそらくは柔性の誤ならむ。闇神はクラキココロなり○翰はフデなり。毫は毛なり。渇は乾にて研《スズリ》の水の乾くをいへるなり○契沖は歸去來辭の臨2清流1而賦v詩を因流綴v之の典據としたれど因流は略解にいへる如く因循の誤ならむ○天骨は天性なり。古今著聞集卷十一「伊與入道はをさなくより繪をよくかき侍り」とある條に「可然天骨とは是を申侯ぞ」とあり。又吾妻鏡建仁二年四月の下に左金吾召2寄小鞠1令v揚2數百廿1給、行景傍奉v見得2天骨1給之由頻以感2申之1とあり。又文選袁彦伯の三國名臣序贊に天骨疎朗牆宇高|※[山/疑]《ギヨク》とあり(牆宇は氣分なり)。さて二註に文章ノ天骨とよめるは非なり。文章ハ天骨とよむべし○探字は字の平伏を尋ぬるなり。勒韻は韻を更へざるなり。叶は協の俗字なり。豈堪云々は和韻を能くせざるを云へるなり(3575)○鄙里少兒はココモトノ兒ドモといふ意、抑聞云々は確ナラヌ事ナレド、シカジカトイフ語ガアルサウナリといふ意にて莊子に野語(ニ)有v之曰と云へる如き意ならむ。古義に吾里ノ小兒スラヨク知テ居ルホドノ事ナレバと譯せるはいかが○言無v不v酬は詩經大雅、蕩之什、抑に無2言不1v讎《ムクイ》無2徳不1v報とあるに據れるなり。否顯宗天皇紀の聞2諸老賢1曰、言無v不v酬徳無v不v報に據れるならむ○解咲は解頤にひとし○如今以下三十八字は或本に無く又或本には細書せり。恐らくは豈堪以下の一案ならむ。將v石同v瓊ははやく三日に贈りし歌の序にいへり。僅に一日を隔てゝ再言ふべきにあらず。されば如今云々が初案、豈堪云々が再案ならむ。唱聲以下十二字心得がたし。唱聲は倡婦の誤か。譬濫は謾濫などの誤か。諂は諸本に謡とあるに從ふべし、。その下におそらくは歟をおとせるならむ○葉端は紙端なり。亂は詩賦のとぢめなり。楚辭離騒及文選に見えたり。長歌の反歌は之を學びたるなりといふ(つきのや雜攷卷二の二十九丁以下參照)
 抄は※[木+少]《ベウ》の誤なり。※[木+少]は季におなじ。文選卷十lニ謝靈運の詩に※[木+少]秋尋2遠山1とあり。餘日は殘る日數なり。略解に『遅日といふ意なるべし』といへるは非なり○初巳は即上巳(3567)なり○來燕云々は准南子《ヱナンジ》に大廈成而燕雀相賀とあるに據れるなり。賀宇入は略解に賀入v宇の誤とせるに從ふべし○歸鴻云々はおなじく淮南子に雁銜v蘆而翔以避2※[矢+曾]※[矢+激の旁]《ソウシヤク》1とあるに據れるなり。廻は諸本に※[しんにょう+向]とあるに從ふべし。瀛は海なり○嘯侶はトモヲヨビテとよむべし。文選曹植の名都篇に鳴《ヨビ》v儔《トモ》嘯《ヨブ》2匹侶1とあるによれるなり。新は略解に從ひて親の誤とすべし。流曲は河曲なり○禊《ケイ》飲は上巳に喫し、よりて酒を飲むなり。爵は盃なり。河清は河ノ清キニとよみて清キ河ニと心得べし○良此宴は略解にいへる如く此良宴を顛倒せるなり○染※[こざと+奥]は諸本に染懊とあり。寧之に從ふべし。※[足+令]※[足+丁]は字書に徐行不正貌とあり
 
さけりともしらずしあらばもだもあらむこのやまぶきをみせつつもとな
 モダモアラムは何トモ思ハデアラムヲとなり○此歌は卷十に見えたる
  さきぬとも知らずしあらばもだもあらむこのあきはぎをみせつつもとな
の秋萩を山吹に更へたるのみ
 
あしがきのほかにもきみがよりたたしこひけれこそはいめに見えけ(3568)れ
 ホカニモのモは意なし。古義に『モは吾如ク君モの謂なり』といへるはいみじき誤なり。コヒケレコソハは戀ヒケレバコソなり
 
   述2戀緒1歌一首并短歌
3978 妹も吾も こころはおやじ たぐへれど いやなつかしく 相|見《ミレ》ば とこはつはなに 情《ココロ》ぐし 眼ぐしもなしに (はしけやし) あがおくづまか 大王《オホキミ》の みことかしこみ (あしひきの) やまこえぬゆき (あまざかる) ひなををさめに 別|來《コ》し その日のきはみ (荒璞《アラタマ》の) としゆきがへり 春花の うつろふまでに 相見ねば いたもすべなみ (しきたへの) そでかへしつつ 宿《ヌル》夜おちず  いめには見れど うつつにし ただにあ良〔左△〕《ハ》ねば こひしけく ちへにつもりぬ 近在者《チカカラバ》 かへりにだにも うちゆきて 妹がたまくら さしかへて ねてもこましを (たまほこの) 路はしとほく 關さへに へなりて(3578)あれこそ よしゑやし よしはあらむぞ 霍公鳥 來鳴《キナカ》むつきに いつしかも はやくなりなむ うの花の にほへる山を よそのみも ふりさけ見つつ 淡海路に いゆき能〔左△〕《イ》りたち (青丹吉《アヲニヨシ》) 奈良の吾家《ワギヘ》に (ぬえ鳥の) うら奈氣△《ナゲキ》しつつ した戀に おもひうらぶれ かどにたち ゆふけとひつつ 吾《ア》をまつと なすらむ妹を 安比〔二字左△〕《ユキ》て早見む
妹毛吾毛許己呂波於夜自多具弊禮登伊夜奈都可之久相見婆登許波都波奈爾情具之眼具之毛奈之爾波思家夜之安我於久豆麻大王能美許登加之古美阿之比奇能夜麻古要奴由伎安麻射可流比奈乎左米爾等別來之曾乃日乃伎波美荒璞能登之由吉我弊利春花乃宇都呂布麻泥爾相見禰婆伊多母須弊奈美之伎多倍能蘇泥可弊之都追宿夜於知受伊米爾波見禮登宇都追爾之多太爾安良禰婆孤悲之家口知弊爾都母里奴近在者加弊利爾太仁母宇知由吉底妹我多麻久良佐之加倍底禰天蒙許萬思乎(3579)多麻保己乃路波之騰保久關左閉爾弊奈里底安禮許曾與思惠夜之餘志播安良武曾霍公鳥來鳴牟都奇爾伊都之加母波夜久奈里那牟宇乃花乃爾保弊流山乎余曾能未母布里佐氣見都追淡海路爾伊由伎能里多知青丹吉奈良乃吾家爾奴要鳥能宇良奈氣之都追思多戀爾於毛比宇良夫禮可度爾多知由布氣刀比都追吾乎麻都等奈須良牟妹乎安比底早見牟
 戀緒ははやく上(三五四九頁)に見えたり
 オヤジはオナジの古言なり。さて代匠記にオヤジを句絶としたるを略解にタグヘレドに續けて『心は同じくたぐふ也』といへり。オヤジクとあらでオヤジとあれば無論句絶とすべし○タグヘレドは一緒ニ居レドモなり○トコハツハナニは常初花ノ如クといふことにてトコメヅラシクといはむに同じ○ココログシメグシは心グキ事目グキ事といふ意の名詞にて(形容詞の原形をそのまゝ名詞としたるなり)その心グキ事目グキ事は懊惱といふことならむ(三五六八頁參照)。古義に
  このナシニは無シニの意にあらず。ケシキをケシカラヌといふなどと同例にて(3580)ただ詞なり。心にも目にもなつかしと思ふと云ことなり
といへるは非なり○ナシニといふ辭係る處なくてただよへり○オクヅマは略解に
  オクニ思フ(○本書四六二頁)とよめるは深く思ふをいふ。是も深く思ふ妻也
といへり。オクヅマの下に乎の字ありしがおちたるならむ。たとひ乎を略して聞ゆべくともことさらに乎を省きて六言とすべきにあらざればなり。ワカレコシソノ日ノキハミ云々は前年の七月より今年の三月まで相見ざるをいへるなり○袖カヘスは例の夢に見む呪なり。上(三五六三頁)なる袖ヲリカヘスとは別なり○タダニア良ネバの良は波の誤ならむ。反歌第二首の第四句のうつれるならむ○コヒシケクは戀シキ事ガなり○カヘリニダニモは卷六(一一四八頁)なる同じ、作者の歌に
  關なくばかへりにだにもうちゆきて妹がたまくらまきてねましを
とあり。契沖は俗にタチガヘリニといふが如しといへり○路ハシのシは助辭なり。關といへるは越前と近江との間なる愛發《アラチ》(ノ)關なり。但卷六なるは不破關なり○ヘナリテは今ならばヘダテテといふべきなり。古今物いひの異なるなり。アレコソの下()に契沖等のいへる如く行キテモ得逢ハネといふことを略したるなり○ヨシハアラムゾのヨシはスベなり(三五二六頁參照。契沖が『五月に正税帳を以て京に入べき故なり』といへる如し○ヨソノミモはヨソニノミなり。イユキ能リタチを二註に『舟に乘るなり』といへるは從はれず。能を伊の誤とすべし。紀路ニイリタツマツチ山(六六七頁)のイリタツなり○ウラ奈氣のウラは心なり。奈氣は歎といふことゝおばゆれど歎をナゲとはいふべからず。おそらくは氣の下に伎をおとしたるならむ(二〇一九頁參照)○オモヒウラブレはオモヒシヲレなり。ユフケはク占なり。ナスは寐タマフなり(八五八頁參照)。安比は略解にいへる如く由伎の誤ならむ
 
3979 (あらたまの)としかへるまであひ見ねばこころもしぬにおもほゆるかも
安良多麻乃登之可弊流麻泥安比見禰婆許己呂母之努爾於母保由流香聞
 トシカヘルは長歌に年ユキガヘリとあるにおなじ
 
(3582)3980 (ぬばたまの)いめにはもとなあひ見れどただにあらねばこひやまずけり
奴婆多麻乃伊米爾波母等奈安比見禮騰多太爾安良禰婆孤悲夜麻受家里
 モトナはあらずもがなと思ふ時にいふ辭なり。今は呪さへして夢に見るなればモトナとはいふべからず○タダニアラネバは直ニアヒ見ルニアラネバの意なり。コヒヤマズケリはコヒヤマザリケリを古風にいへるなり
 
3981 (あしひきの)やまきへなりてとほけどもこころしゆけばいめにみえけり
安之比奇能夜麻伎弊奈里底等保家騰母許己呂之遊氣婆伊米爾美要家里
 ヤマキヘナリテは山ヲ來隔リテなり。上なる長歌にも見えたり
 
3982 春花のうつろふまでに相見ねば月日よみつついもまつらむぞ
(3583)春花能宇都路布麻泥爾相見禰婆月日餘美都追伊母麻都良牟曾
    右三月二十日夜裏忽兮起2戀情1作、大伴宿禰家持
 長歌にもアラタマノ年ユキガヘリ春花ノウツロフマデニアヒ見ネバとあり
 
  立夏四月〔二字左△〕既經2累日1、而|由《ナホ》未v聞霍公鳥(ノ)喧《ナク》1、因作(レル)恨歌二首
3983 (あしひきの)やまもちかきをほととぎすつきたつまでになにかきなかぬ
安思比奇能夜麻毛知可吉乎保登等藝須都奇多都麻泥爾奈仁加吉奈可奴
 三月二十九日に作りし歌なるに立夏四月既經2累日1といへる、いぶかし。四月はおそらくは已來の誤ならむ。累日は數日なり○由は猶の通用なればナホとよむべし(三五四七頁參照)○因作恨歌を二註に『作恨は下上になれるか』といへり。宜しくもとのまゝにて因リテ作レル恨(ノ)歌とよむべし。卷十九にも霍公鳥(ノ)怨恨歌とあり
 ツキタツマデニは正しくいはば月立タムトスルマデニなり。立夏をツキタツとい(3584)へるにあらず
 
3984 たまにぬくはなたちばなをともしみ思〔左△〕《ゾ》このわがさとにきなかずあるらし
多麻爾奴久波奈多知婆奈乎等毛之美思己能和我佐刀爾伎奈可受安流良之
    零公鳥者立夏之日來鳴必定、又越中風土希v有2橙橘1也、因v是大伴宿禰家持感2發於|懷《ココロ》1聊裁2此歌1 三月二十九日
 思は曾の誤ならむ○ホトトギスといふことを略せるは前の歌に讓れるにてもあるべし○タマニヌクは玉ト貫クにて橘の准枕辭としていへるなり。霍公が橘を玉にぬくにあらず
 來鳴必定は來鳴クガ例ナリとなり。橙橘は橙と橘とにあらず。タチバナをことさらに二宇にていへるのみ○上(三四九五頁)にも見えたり
 
   二上山賦一首 此山者有〔左△〕2射水郡1也
(3585)3985 いみづがは いゆきめぐれる (たまくしげ) ふたがみ山|者《ハ》 はるはなの さけるさかりに あきの葉の にほへるときに 出立て ふりさけ見れば かむからや そこばたふとき やまからや 見がほしからむ すめがみの すそみのやまの しぶたにの さきのありそに あさなぎに よするしらなみ ゆふなぎに みちくるしほの いやましに たゆることなく いにしへゆ いまのをつつに かくしこそ 見るひとごとに かけてしぬば米〔左△〕《ヘ》
伊美都河泊伊由伎米具禮流多麻久之氣布多我美山者波流波奈乃佐氣流左加利爾安吉乃葉乃爾保弊流等伎爾出立底布里佐氣見禮婆可牟加良夜曾許婆多敷刀伎夜麻可良夜見我保之加良武須賣加未能須蘇未乃夜麻能之夫多爾能佐吉乃安里蘇爾阿佐奈藝爾餘須流之良奈美由敷奈藝爾美知久流之保能伊夜麻之爾多由流許登奈久伊爾之弊由伊麻乃乎都豆爾可久之許曾見流比登其等爾加氣底之努波米
(3586) 普通の長歌なるを漢めかして賦といへるなり〇二上山は俗に越中富士といふ。今の射水郡と氷見郡との界にあり。國府はその東麓にありて射水川の河口は更にその東を流れたり○有は在に改むべし
 イユキのイは添辭なり。アキノ葉は紅葉なり。卷十(二一九四頁)にはアキツ葉といへり○カムカラヤ云々は卷二(三一四頁)に
  たまもよしさぬきの國は、國からか見れどもあかぬ、神からかここだたふとき
 又卷六(一〇二一頁)に
  みよし野のあきつの宮は、神からかたふとかるらむ、國からか見がほしからむ
とあるを學べるなり。さてこゝのカムカラヤは山カラヤと共に山ガラニヤといふ意なり。ソコバはココダにひとし。俗語のタイサウなり。ミガホシはナツカシなり○スメ神は神の殊に貴きをいlふ。こゝにては二上山をいへるなり。此山は二上(ノ)神の
  即式内大社射水神社なり。此社は明治八年に同郡高岡に遷しき。但もとの社殿は分社として存ぜり
うしはき給ひし山なれば神の體として山を直にスメ神といへるなり。スソミは麓(3587)なり。卷九(一七七七頁)にもツクバネノスソミノ田井とあり○澁谷は二上山の北麓にありて北海に臨める山なり。さてスメ神ノ以下八句はイヤマシニといはむ序なり○ヲツツはウツツなり。ばやく卷五(八八一頁)なる詠2鎮懷1歌に見えたり。イニシヘユイマノヲツツニは古ヨリ今ニ至ルマデなり。見ルヒトゴトニは此山ヲ見ル人毎ニなり○結句はシヌバメとありてはかなはず。シヌベといふべき處なれど言足らねばそを延べてシヌバ弊とぞいひたりけむ。そのシヌバヘはメヅレなり
 
3986 しぶたにのさきのありそによするなみいやしくしくにいにしへおもほゆ
之夫多爾能佐伎能安里蘇爾與須流奈美伊夜思久思久爾伊爾之弊於毛保由
 上三句はシクシクニにかゝれる序なり。イニシヘオモホユは古人の此處をめでし事なるべけれどいかなる故事にか今知るべからず
 
3987 (たまくしげ)ふたがみやまに鳴鳥のこゑのこひしきときはきにけり
(3588)多麻久之氣敷多我美也麻爾鳴島能許惠乃孤悲思吉登岐波伎爾家里
    右三月三十日依v興作v之、大伴宿禰家持
 ナク鳥といへるは霍公鳥なる事前註にいへる如し
 
   四月十六日夜裏遙聞2霍公鳥喧1述v懷歌一首
3988 (ぬばたまの)つきにむかひてほととぎすなくおとはるけしさととほみかも
奴婆多麻能都奇爾牟加比底保登等藝須奈久於登波流氣之佐刀騰保美可聞
     右大伴宿禰家持作v之
 月ニムカヒテはただ月前ニといふことなり。二註に『月の出る方に向ひて』と釋せるは非なり。たとひ間近き聲なりともいづれの方に向ひて鳴くにか知るべきにあらず○オトは聲なり。サトトホミカモはワガ居ル此里ガソノ處ヨリ遠ケレバニヤとなり
 
   大目秦(ノ)忌寸八千島之舘(ニテ)餞2守大伴宿禰家持1宴歌二首
3989 奈呉のうみのおきつしらなみしくしくにおもほえむかもたちわかれなば
奈呉能宇美能意吉都之良奈美志苦思苦爾於毛保要武可母多知和可禮奈波
 初二は序三四はシキリニシノバレムカとなり。此人の館よりは遙に奈呉の海の見えしなり。上にも此館にて主人のよめる奈呉ノアマノツリスルフネハといふ歌見えてその左註に右館之客屋|居《ヰナガラ》望2蒼海1とあり〇二註に此歌を主人の作とせり。タチワカレナバといへる調を味はふに左註の示せる如く次の歌と共に家持の作なり
 
3990 わがせこはたまにもがもな手にまきて見つつゆかむをおきていかばをし
我〔左△〕加勢故波多麻爾母我毛奈手爾麻伎底見都追由可牟乎於吉底伊加婆乎思
(3590)    右守大伴宿禰家持以2正税使1須v入2京師1、仍作2此謌1聊陳2相別之歎1
     四月二十日
 イカバヲシはイカバヲシカラムを古格に從ひていへるなり○國司より毎年朝廷に奉る所謂四度の使のうちなる正税便として上京せむとせるなり○我は和か
 
   遊2覧布勢水海1賦一首并短歌 此海者有〔左△〕2射水郡|舊江《フルエ》村1也
3991 もののふの やそとものをの おもふどち こころやらむと うまなめて 宇知久知夫利乃 しらなみの ありそによする しぶたにの さきたもとほり まつだえの ながはますぎて うなびがは きよきせごとに うがはたち かゆきかくゆき 見つれども そこもあかにと 布勢のうみに ふねうけすゑて おきべこぎ 邊にこぎ見れば なぎさには あぢむらさわぎ しま未《ミ》には こぬれはなさき ここばくも 見のさやけきか (たまくしげ) ふたがみやまに はふつたの ゆきはわかれず ありがよひ いやとしのはに おも(3591)ふどち かくしあそばむ いまも見るごと
物能乃敷能夜蘇等母乃乎能於毛布度知許己呂也良武等宇麻奈米底宇知久知夫利乃之良奈美能安里蘇爾與須流之夫多爾能佐吉多母登保理麻都太要能奈我波麻須義底宇奈比河波伎欲吉勢其等爾宇加波多知可由吉加久遊岐見都禮騰母曾許母安加爾等布勢能宇彌爾布禰宇氣須惠底於伎弊許藝邊爾己伎見禮婆奈藝左爾波安遅牟良佐和伎之麻未爾波許奴禮波奈左吉許己婆久毛見乃佐夜氣吉加多麻久之氣布多我爾夜麻爾波布都多能由伎波和可禮受安里我欲比伊夜登之能波爾於母布度知可久思安蘇婆牟異麻母見流其等
 布勢(ノ)水海は今、十二町潟といひて氷見郡氷見町の西南にあり。鬼蓮の名所として名高し。(北國にては湖沼を潟といふ)。今は周一里餘に過ぎざれどもいにしへは遙に廣かりしなり。舊江村は今のいづれの村々に當れるか知られず。但十二町村の大字に古江新あり。是舊江の名のなごりなり。因にいふ。十二町潟の西南に圓山といふあり。(3592)其嶺に御影神社ありて家持を祭れり○有は在に改むべし。但我邦の古書には通用せり
 モノノフノヤソトモノヲはモロモロノ宮人なり。ココロヤラムトは心ヲ慰メムトテなり○宇知久知夫利乃を契沖は彼此觸《ヲチコチブリ》の意とせり。宇知牟禮來利の誤ならざるか。池主の和歌にオモフドチウマウチムレテとあり。卷九にも
  馬なめてうち集《ムレ》こえ來けふ見つるよし野の川をいつかへりみむ
とあり○サキタモトホリは岬ヲ徘徊シなり○マツダ江ノ長濱は今其處を失へり。 ウナビガハは和名抄に射水郡|宇納《ウナミ》とある處の川なるべし○ウガハタチは鵜を使ひて魚を取らしむるをいふ(卷一【六八頁】參照)。古義にウナビガハ以下三句をカユキカクユキにかゝれる序とせるはいみじき誤なり○カユキカクユキはアナタヘ行キコナタヘ行キなり。ソコモアカニトはソレニモ飽カデなり。いにしヘアカズをアカニともアカニトとも云ひしなり○コヌレハナサキはコヌレニのニを略せるにてその花は藤花なるべし。ミノサヤケキカは見ル目ノオモシロキカナとなり○タマクシゲ以下三句はユキハワカレズの序なり。ユキハワカレズは互ニ行キ分ルル事(3593)ナクシテとなり○アリガヨヒは此處ニ通ヒツツなり。イヤトシノハニは今後モ毎年となり。今モのモは輕く添へたるなり。古義に『このモの辭はゴトの下にめぐらして意得べし』といへるは非なり○オモフドチといふ語の重出せるは心ゆかず
 
3992 ふせのうみのおきつしらなみありがよひいやとしのはに見つつしぬばむ
布勢能宇美能意枳都之良奈美安利我欲比伊夜登偲能波爾見都追思努播牟
    右守大伴宿禰家持作v之 四月廿四日
 オキツシラナミの下にヲを加へて聞くべし。略解に初二を序としたるは非なり○シヌバムはメデムなり
 
   敬和d遊2覧布勢氷海1賦u一首并一絶
3993 ふぢなみは さきてちりにき うのはなは いまぞさかりと (あしひきの) やまにも野にも ほととぎす なきしとよめば うちなび(3594)久〔左△〕《キ》 こころもしぬに そこをしも うらごひしみと おもふどち うまうちむれて たづさはり いでたちみれば いみづがは みなとのすどり あさなぎに かたにあさりし しほみてば つまよびかはす ともしきに みつつすぎゆき しぶたにの ありそのさきに おきつなみ よせくるたまも かたよりに かづらにつくり いもがため てにまきもちて (うらぐはし) 布勢のみづうみに あまぶねに まかぢか伊ぬき しろたへの そでふりかへし あともひて わがこぎゆけば 乎布のさき はなちりまがひ なぎさには あしがもさわぎ (さざれなみ) たちてもゐても こぎめぐり みれどもあかず あきさらば もみぢのときに はるさらば はなのさかりに かもかくも きみがまにま等〔左△〕《ニ》 かくしこそ みもあきらめめ たゆるひあらめや
布治奈美波佐岐底知里爾伎宇能波奈波伊麻曾佐可理等安之比奇能夜(3595)麻爾毛野爾毛保登等藝須奈伎之等與米婆宇知奈妣久許己呂毛之努爾曾己乎之母宇良胡非之美等於毛布度知宇麻宇知牟禮底多豆佐波理伊泥多知美禮婆伊美豆河泊美奈刀能須登利安佐奈藝爾可多爾安佐里之思保美底婆都麻欲比可波須等母之伎爾美都追須疑由伎之夫多爾能安里蘇乃佐伎爾於枳追奈美余勢久流多麻母可多與理爾可都良爾都久理伊毛我多米底爾麻吉母知底宇良具波之布勢能美豆宇爾爾阿麻夫禰爾麻可治加伊奴吉之路多倍能蘇泥布理可邊之阿登毛比底和賀己藝由氣婆乎布能佐伎波奈知利麻我比奈伎佐爾波阿之賀毛佐和伎佐射禮奈美多知底毛爲底母己藝米具利美禮登母安可受安伎佐良婆毛美知能等伎爾波流佐良婆波奈能佐可利爾可毛加久母伎美我麻爾麻等可久之許曾美母安吉良米々多由流比安良米也
 一絶とは短歌を漢めかして云へるなり
 イマゾサカリトは今ゾ盛ナルトのナルを略せるなり○ウチナビ久ココロモシヌ(3596)ニは卷十一(二四九七頁)なる
  うなばらのおきつなはのり打靡《ウチナビキ》こころもしぬにおもほゆるかも
の打靡をウテナビキとよみしに倣ひて久を伎の誤とすべし。身モ打靡キ心モシナヒテとなり。さて此二句は次なるソコヲシモウラゴヒシミトと對立せるにて共にオモフドチ云々にかゝれるなり。ウラゴヒシミトのトは例の如く除きて心得べし○オモフドチウマウチムレテはオモフドチが主格なれば馬ナメ〔二字右△〕ウチムレテとあるべきなり○タヅサハリはこゝにては携手の原義にあらず。ただ一ショニといふ意なり○スドリは水禽なり。カタは滷なり。ツマヨビカハスは雌雄呼ビカハシテタチヌとなり。此句にて切れたるなり○トモシキニはメヅラシイガとなり○タマモは玉モにあらず。玉藻ヲなり。カタヨリニは卷十(二〇一三頁)に
  片よりに絲をぞわがよる吾背兒之はなたちばなをぬかむともひて
とあり。二すぢ合せてその一すぢにのみ※[手偏+差]をかくる事にや。古義に
  この一句は次句へつづかず。上のオキツナミの下に置かへて意得べし。オキツ浪ノ片寄リニヨセ來ルソノ玉藻の意なればなり
(3599)といへるはいみじきひが言なり○イモガタメは奈良ナル妹ニ贈ラム爲なり○ウラグハシはウルハシにて布勢ノミヅウミにかゝれる准枕辭なり。枕辭なるが故にウラグハシキといはでウラグハシといひても許さるゝなり○マカヂカ伊ヌキを從來眞カヂト、カイトヲ貫キと釋せり。案ずるにカイは添辭なり。そのカイは伎を伊とうつし誤れるにてもあるべく又はやくカキをカイと訛れるにてもあるべし○袖フリカヘシは袖ヲヒルガヘシなり○チリマガヒは散リ亂レなり。サザレナミはタチテモにかゝれる枕辭なり。さてタチテモヰテモはミレドモアカズにかゝれるにて立チテ見レドモ居テ見レドモといへるなり○カモカクモはイヅレトモなり。マニマ等の等は爾の誤ならむ。元暦校本の傍書には爾とあり。以上二句の意は君ニツレラレテといへるなり○ミモアキラメメを略解に『見ハルカシなどよめるに同じ』といひ古義にも
  見モシ明ラメモセメと云意なり。見は見めづる方にていひアキラメは心をはるかする〔右△〕方にて云り
といへり。案ずるにミアキラムは見テ心ヲハラスといふ意なり。卷二十なる家持の(3598)歌にも
  時の花いやめづらしもかくしこそめしあきらめめ秋たつごとに
とあり。メシは見の敬語なり○タユルヒといへるいぶかし。絶エム年といふべきをかく云へるか
 
3994 しらなみのよせくるたまもよのあひだもつぎてみにこむきよきはまびを
之良奈美能與世久流多麻毛余能安比太母都藝底民仁許武吉欲伎波麻備乎
     右掾大伴宿禰池主作 四月廿六日追和
 古義に
  本二句は海濱にありふる物を云てやがて序とせるにて契沖も云る如く玉藻の節《ヨ》といひかけたるなるべし。十九にナビク珠藻ノ節《フシ》ノ間モとあるにおなじつづけなり
(3599)といへり○第三句は宣長の説に『世(ノ)間モにて生涯モと云意なり』といへり○ハマビは布勢湖の演邊なり
 
   四月二十六日掾大伴宿禰池主之館(ニテ)餞2税帳使守大伴宿禰家持1宴謌并古歌四首
3995 (たまほこの)みちにいでたちわかれなば見ぬ日さ等〔□で囲む〕まねみこひしけむかも
    一云不見日久み戀しけむかも
多麻保許乃美知爾伊泥多知和可禮奈姿見奴日佐等麻禰美孤悲思家武可母
   一云不見日久爾戀之家牟加母
    右一首大伴宿禰家持作之
 守より目《サクワン》まで尊卑に拘らず所謂四度の使に當りしはその公務を利用して京に歸らむ爲なるべし〇四首とあるは都《スベテ》四首の意なるべけれど云々(ノ)謌三首并古歌一首(3600)とあらではまぎらはし
 等は衍字なり。諸本に無し。サマネミは多サニなり
 
3996 わがせこがくにへましなばほととぎすなかむさつきはさぶしけむかも
和我勢古我久爾弊麻之奈婆保等登藝須奈可牟佐都奇波佐夫之家牟可母
    右一首介内藏(ノ)忌寸《イミキ》繩麿作v之
 クニは故郷なり。サブシは不愉快なり
 
3997 あれなしとなわびわがせこほととぎすなかむさつきはたまをぬかさね
安禮奈之等奈和備和我勢故保登等藝須奈可牟佐都奇波多麻乎奴香佐禰
     右一首守大伴宿禰家持和
(3601) タマヲヌカサネは橘子ナドヲ絲ニ貫キテ藥玉ヲ作リテ心ヲヤリ給ヘとなり
 
     石川朝臣水通橘歌一首
3998 わがやどの花橘をはなごめにたまにぞあがぬくまたばくるしみ
和我夜度能花橘乎波奈基米爾多麻爾曾安我奴久麻多婆苦流之美
    右一首傳誦(セシハ)主人大伴宿禰池主云爾
 水通を略解にミミチとよみ、古義にミトホシとよめり。ミユキと訓ぜる本もあり○家持の歌を聞きて此歌を思出でしなり
 第三句以下を從來誤解せり。橘は實のまだいと小ききを絲に貫きて玩びしなり。さて今は其時にならむが待遠なるによりてまだ花の散らぬうちに花の心《シン》(雌※[草冠/止三つ]の子房)に絲をとほして玩ぶといへるなり。タマニは玉トなり。マタバを古義に橘子ノアカラム時ヲ待タバと心得たるは誤れり
 云爾は是也とあると同意ならむ。卷十九なる朝ギリノタナビク田ヰニといふ歌の左註にも十月五日河邊朝臣東人傳誦云爾とあり
 
(3602)  守大伴宿禰家持舘(ニテ)飲宴歌一首【四月二十六日】
3999 みやこべにたつ日ちかづくあくまでにあひ見|而《テ》ゆかなこふるひおほけむ
美夜故弊爾多都日知可豆久安久麻底爾安比見而由可奈故布流比於保家牟
 飽クバカリ君等ヲアヒ見テコソ行カメとなり
 
   立山賦一首并短歌 此山者有〔左△〕2新河都1也
4000 (あまざかる) ひなに名かかす こしのなか くぬちことごと やまはしも しじにあれども かははしも さはにゆけども すめがみの うしはきいます 爾比可波の その多知夜麻に とこなつに ゆきふり之〔左△〕《オ》きて おばせる 可多加比がはの きよき瀬に あさよひごとに たつきりの おもひすぎめや ありがよひ いやとしのはに よそのみも ふりさけ見つつ よろづよの かたらひぐさと (3603)いまだ見ぬ ひとにもつげむ おとのみも 名のみもききて ともしぶるがね
安麻射可流比奈爾名可加須古思能奈可久奴知許登其等夜麻波之母之自爾安禮登毛加波波之母佐波爾由氣等毛須賣加未能宇之波伎伊麻須爾比可波能曾能多知夜麻爾等許奈都爾由伎布理之伎底於姿勢流可多加比河波能伎欲吉瀬爾安佐欲比其等爾多都奇利能於毛比須疑米夜安里我欲比伊夜登之能播仁余増能未母布利佐氣見都々余呂豆餘能可多良比具佐等伊未太見奴比等爾母都氣牟於登能未毛名能未母伎吉底登母之夫流我禰
 新阿郡は歌に爾比可波とあればニヒカハとよむべし。和名抄に爾布加波とあるははやく訛れるなり。さて新河郡は越中國の東半を占めたる大郡にて今上中下の三郡に分れたり。多知夜麻は今タテ山といふ。中新河郡にありて舊日本三山の一なり。山上に式内雄山神社ありて伊伊弉諾尊を祭れり。國史に雄山(ノ)神又新川(ノ)神と見えたる(3604)是なり
 名カカスを宣長は
  カカスは懸スなり。人麻呂歌に御名ニカカセルアスカ川(○卷二明日香皇女殯宮時作歌)とよめるも飛鳥皇女の御名にかかせるなり。又紀の國の國懸《クニカカス》神をもおもふべし。こゝは立山なれば立ツといふ事を名にかけて高くたてるよしなり
といひ雅澄は
  カカスは懸賜フと云が如し。山を尊みてカケタマフと云意に云るなり。さてこゝは立山と云名にかゝりて高く秀て立登れるを云なるべし。夷と云に名をかくと云には非ず。夷(ノ)國にありて立山と云名にかゝりて高くたてる謂ならむ
といへり。カカスはげにカケ給フなり。但名カカスは名ヲ〔右△〕カカスにて卷二(二五九頁)なる御名ニ〔右△〕カカセルアスカ河、また卷十六(三三二九頁)なる妹ガ名ニ〔右△〕カカセル櫻とは同視すべからず。又名カカスはコシノ中にかゝりてタチ山にはかからず。されば宣長雅澄の説は謂《イハレ》なし。案ずるにヒナニ名カカスは鄙ニ名ヲ掲ゲ給フにて名ヲツラネ給フといはむに齊しからむ。而してカクといはでカカスといへるは敬意を要(3605)せざる時も他の上にはいふ格なれど
  下にも川の水の鐙に就くことを波比都奇ノカハノワタリ瀬アブミツカス〔三字傍点〕モといへり
 ここは國を神と尊びていへるにて、なほ下に立山ノ滞ビタルをオバセルといへる如し○クヌチコトゴトは國中《クニヂユウ》ニなり。シジニは繁クなり。ユケドモは流ルレドモなり○スメ神は雄山(ノ)神なり。ウシハクは領ずるなり○トコナツニは此歌の反歌に
  たちやまにふりおけるゆきを登己奈都爾みれどもあかずかむからならし
 又池主の和歌の反歌に
  たちやまにふりおけるゆきの等許奈都爾けずてわたるはかむながらとぞ
とあり。契沖は
  常ニと云心なり。撫子を常夏と云も春こそさかね秋もさき冬野にももしは咲ことのあれば常磐の意なるべしといひ宣長は
  トコナツのナツはノドと通ひてのどかに久しき意也。草のトコナツといふ名も(3606)花ののどかに久しくあるよしの名也。ナデシコもノドシコにて同じ意也
といへり。案ずるにトコナツニは恒夏ニなり。されば夏|中《ヂユウ》とうつすべし。ナデシコを常夏といふも花の盛久しくして夏中さきつぐが故なり○集中にフリシクといへるはフリ敷クにあらでフリ頻ルなり。さて高山といへども夏中雪のふり頻る事はあらず。さればユキフリ之キテとあるは誤字ならざるべからず。おそらくはフリ於キテの誤ならむ。反歌にタチヤマニフリオケル〔五字傍点〕ユキヲとあり、池主の和歌にフユナツトワクコトモナク、シロタヘニユキハフリオキ〔五字傍点〕テとあり、その反歌にタチヤマニフリオケル〔五字傍点〕ユキノとある、傍證とすべし○カタカヒガハは今片貝川と書くなり。立山より發して下新川郡を貫きて北海に注げり。さて片貝川を序につかへるを見れば此歌は立山を北方より望みてよめるなり○タツキリノオモヒスギメヤの語例は卷三(四三一頁)なる赤人の歌に
  あすか河かはよどさらずたつ霧のおもひすぐべき戀にあらなくに
とあり。オモヒスギメヤは忘レムヤといふに近し○さてオバセル以下五句はオモヒスギメヤにかゝれる序なれば之を除き見るに
(3607)  新川のその立山はとこなつに雪ふりおきて……おもひ過ぎめや
となりて辭のつづきよろしからず。もとよりかゝりしにや○アリガヨヒイヤトシノハニは布勢氷海賦にも見えたり。同辭の重出は此作者の特徴の一なり。さてヨソノミモフリサケ見ツツといへるを見れば立山に登りしにはあらざるなり○オトノミモ名ノミモは音ニノミモ名ニノミモとニを挿みて聞くべし。オトは噂なり。トモシブルはユカシガルなり。略解にメヅラシガルとし古義にウラヤマシガルとせる共に非なり。ガネはベクなり
 
4001 たちやまにふりおけるゆきをとこなつに見れどもあかずかむからならし
多知夜麻爾布里於家流由伎乎登己奈都爾見禮等母安可受加武賀良奈良之
 古義に立山ニトコシヘニフリオケル雪ヲ見レドモ見アカズと譯したり。トコナツニをトコシヘニの意とすともトコナツニは見レドモにかかれるをフリオケルの(3608)上に移して譯すべきかは○古義に又カミカラとはいふべくカムカラとは云ふべからずといひて奈を補ひてカムナガラナラシとせり。カミカラをカムカラといへるは轉訛のみ。さてカムカラナラシは山ガラニヤとなり
 
4002 かたかひのかはの瀬きよくゆくみづのたゆることなくありがよひ見む
可多加比能可波能瀬伎欲久由久美豆能多由流許登奈久安里我欲比見牟
     四月二十七日大伴宿禰家持作v之
 上三句は序なり
 
   敬和2立山賦1一首并二絶
4003 あさひさし そがひに見ゆる かむながら みなにおはせる しらくもの ちへをおしわけ あまそそり たかきたちやま ふゆなつと わくこともなく しろたへに ゆきはふりおきて いにしへゆ (3069)ありきにければ こごしかも いはのかむさび (たまきはる) いく代經にけむ たちてゐて 見れどもあやし みねたかみ たにをふかみと おちたぎつ きよきかふちに あささらず きりたちわたり ゆふされば くもゐたなび吉〔左△〕《ク》 くもゐなす こころもしぬに たつきりの おもひすぐさず 「ゆくみづの おともさやけ久」 よろづよに いひつぎゆかむ かはしたえずば
阿佐比左之曾我比爾見由流可無奈我良彌奈爾於姿勢流之良久母能知邊乎於之和氣安麻曾曾理多可吉多知夜麻布由奈都登和久許等母奈久之路多倍爾遊吉波布里於吉底伊爾之邊遊阿理吉仁家禮婆許其志可毛伊波能可牟佐備多末伎波流伊久代經爾家牟多知底爲底見禮登毛安夜之彌禰太可美多爾乎布可美等於知多藝都吉欲伎可敷知爾安佐左良受綺利多知和多利由布佐禮婆久毛爲多奈妣吉久毛爲奈須己許呂毛之努爾多都奇理能於毛比須具佐受由久美豆乃於等母佐夜氣久與呂豆余爾(3610)伊比都藝由可牟加波之多要受波
 アサヒサシソガヒニ見ユルを略解に
  朝日サシは常見やる所より朝日のさすに向ひて見ゆる方也。ソガヒニミユルは府より背向に見ゆる也
といひ古義に
  アサヒサシはソガヒニミユルといはむとての枕詞におけるなるべし。すべて朝日のさす方にはまばゆくて直に向ひ難きものなればかくつづけたるなるべし。ソガヒニミユルは國府の方より背向に見ゆるを云なるべし
といへる共に非なり。背面《ソガヒ》ニ朝日ノサシテ見ユルといふべきを前後にいへるなり。二註の著者が立山を國府より背面に見ゆるやうに思へるは誤れり。國府の背面に見ゆるは二上山なり。立山は國府の東南十數里の空に聳えたり。さてアサ日サシソガヒニ見ユルの二句はタチ山にかゝれるなり○カムナガラ以下四句を略解に
  カムナガラは山をやがて神とせり。ミナニオハセルは立〔右△〕と名に負たるは天と高く聳玉る故に山の名に負たりといふ也
(3611)といひ古義に
  此山の高く秀て天にそそり立るゆゑに立山と御名に負せたまへるといふなるべし。シラクモノは高く秀たる形容をいへり
といへり。案ずるにまづカムナガラは所謂神的にて立山を神としていへるなり。さてカムナガラは御名ニ負ハセルにかゝれるなり。次に御名ニ負ハセルは語格上シラ雲にかゝれるなれば立山ト御名ニオハセルといふ意とは見るべからず。おそらくは立山の別名を(又は立山の一峯の名を)白雲山とぞいひけむ。千ヘヲオシワケは千重ニカサナレルヲ押分ケテとなり。語例は卷二なる日並皇子尊殯宮之時柿本朝臣人麿作歌(二二二頁)にアマ雲ノヤヘカキワキテとあり○アマソソリは天に進み上る事なり。アリキニケレバは在來リケレバなり○コゴシカモは卷三(四二二頁)にもコゴシカモ伊豫ノタカネノとあり。コゴシキカモの古格にてこゝにては岩にかかれり。カムサビはモノフリなり○タマキハルは代にかゝれる枕辭なり。卷十一(二二六二頁)にもタマキハル世ノハテマデトとあり○タチテヰテ云々は立チテ見レドモ居テ見レドモアヤシとなり。布勢水海賦の和にもタチテモヰテモコギメグリ(3612)見レドモアカズとあり○タニヲフカミトのトは例の如く除きて見べし○オチタギツキヨキカフチニは無理なる辭なり。カフチは河の周れる地にておちたぎつものにあらねばなり。宜しくオチタギツタキノカフチニなどいふべし○クモヰタナビ吉のクモヰはやがて雲なり(二二九七頁參照)。吉は久の誤ならむ。まづキリタチワタリ、雲ヰタナビクといひてそをクモヰナス、タツキリノと枕辭につかへるにて古歌の格に依れるなり。さてクモヰナスココロモシヌニは雲ノ靡ク如ク心モ靡キといへるにてオモヒスグサズは忘レズといへるなり○ユク水ノオトモサヤケ久の二句は無くもがな。強ひて之を存せばサヤケ之といふべし。オトモサヤケクヨロヅヨニイヒツギユカムとはつづくべからざればなり○カハシタエズバは河ノ絶エザラム限ハとなり。ミヲシタエズバの類なり
 
4004 たちやまにふりおけるゆきのとこなつにけずてわたるはかむながらとぞ
多知夜麻爾布里於家流由伎能等許奈都爾氣受底和多流波可無奈我良(3613)等曾
 家持の
  たち山にふりおける雪をとこなつに見れどもあかずかむからならし
といふ歌の辭をすこし更へて和としたるなり○ワタルハはアルハなり。カムナガラトゾの下にはオモホユルを略せるなり。略解には聞傳フルを補ひ古義にはトゾをトテゾとせり。前者は從はれず。後者は適に誤れり。さてこゝは山ガラトゾオボユルといふべき處なれば家持の歌の如くカムカラといふべくカムナガラとはいふべからず
 
4005 おちたぎつ可多加比がはのたえぬごといま見るひともやまずかよはむ
於知多藝都可多加比我波能多延奴期等伊麻見流比等母夜麻受可欲波牟
     右掾大伴宿禰池主和之 四月廿八日
(3614) 今ミル人とは家持を指せるにて所詮家持を祝せるなり
 
  入v京漸近悲情難v撥《ノゾキ》述v懷一首并一絶
4006 かきかぞふ) ふたがみやまに かむさびて たてるつがのき もともえも おやじときはに はしきよし わがせのきみを あささらず あひ底〔左△〕《ミ》ことどひ ゆふされば 手たづさはりて いみづがは きよきかふちに いでたちて わが多〔左△〕《ウ》ちみれば あゆのかぜ いたくしふけば みなとには しらなみたかみ つまよぶと すどり波〔左△〕《ゾ》さわぐ あしかると あまのをぶねは いりえこぐ かぢのおとたかし そこをしも あやにともしみ しぬびつつ あそぶさかりを すめろぎの をすくになれば みこともち たちわかれなば おくれたる きみはあれども (たまほこの) みちゆくわれは 「しらくもの たなびくやまを いはねふみ こえへなりなば」 こひしけく けのながけむぞ そこもへば こころしいたし ほととぎす こゑ(3615)にあへぬく たまにもが 手にまきもちて あさよひに 見つつゆかむを おきていかばをし
可伎加蘇布敷多我美夜麻爾可牟佐備底多底流都我能奇毛等母延毛於夜自得伎波爾波之伎與之和我世乃伎美乎安佐左良受安比底許登騰比由布佐禮婆手多豆佐波利底伊美豆河波吉欲伎可布知爾伊泥多知底和我多知彌禮婆安由能加是伊多久之布氣婆美奈刀爾波之良奈美多可彌都麻欲夫等須騰理波佐和久安之可流等安麻乃乎夫禰波伊里延許具加遅能於等多可之曾己乎之毛安夜爾登母志美之怒比都追安蘇夫佐香理乎須賣呂伎能乎須久爾奈禮婆美許登母知多知和可禮奈婆於久禮多流吉民波安禮騰母多麻保許乃美知由久和禮播之良久毛能多奈妣久夜麻乎伊波禰布美古要弊奈利奈婆孤悲之家久氣乃奈我氣牟曾則許母倍婆許己呂志伊多思保等登藝須許惠爾安倍奴久多麻爾母我手爾麻吉毛知底安佐欲比爾見都追由可牟乎於伎底伊加婆乎思
(3616) 初六句は本家なる作者も分家なる池主共に壯健なるをたとへ云へるなり。モトモエモは幹モ枝モなり。トキハニのニはニテと心得べきか○ワガセノキミは池主なり。アササラズは毎旦なり。君ヲといひてアヒテコトドヒとはいふべからず。底は見の誤にあらざるか○イデタチテワガタチミレバといへる、タチといふ言かさなれり。多知彌禮婆の多は宇の誤ならむか○アユノカゼは東風の方言なる由下に見えたり。古義に
  毛詩に習々谷風《ヤハラカナルアユノカゼ》云々注に谷風(ハ)東風也とあり。この谷風をアユノカゼとむかしの博士の訓るを思へば越俗より出て京人などもしかいへるにや
といへり。今土人は東北の風をアイノカゼといふ。アイはアユの訛なる事疑なし。さればアユのカゼは正しくは東北風をいひしかと思ふに因伯にては東風をアユといひ羽後にては北風をアイといふとぞ。なほ他國の人に問ひ試みてむ○スドリハといへる、打見にはアマノヲブネハと相對したる如くなれど實はミナト即※[さんずい+彎]口とイリエ即※[さんずい+彎]内とをむかはせたるなればスドリの下にハを添ふるに及ばず。其上にミナトニハといひて更にスドリハと云はむは調よろしからねばスドリ波の波は(3617)曾あ誤とすべし○アシカルト云々の四句はもし五七調に拘はらずばマタ入江ニハ〔二字右△〕蘆苅ルトアマノ小舟ヲ漕グ楫ノ音高シといふべきなり○ソコヲシモ云々は之ヲシモイタクメヅラシガリメデツツ遊ブ最中ニとなり○ヲスクニは御領内にてやがて王土なり。ミコトモチは御用ヲ帶ビテなり○タチワカレナバの照應なし。又タチワカレナバといひ更にコエヘナリナバとはいふべからず。もしシラクモノタナビク山ヲイハネフミコエヘナリナバの四句を削らば語格はとゝのふべきなり○君ハアレドモは君ハトモカクモなり。例は卷二(一三九頁)にアケテユカバ君ガ名ハアレド吾名シヲシモとあり○卷十(二〇五二頁)に
  こひしけくけながきものをあふべかるよひだに君が來まさざるらむ
とあり〇コヒシケクは戀シキ事、ケナガシは久シなり。家持が上なる哀2傷長逝之弟1歌(三五三三頁)にコヒシケクケナガキモノヲといへるは右の歌に依れるにて難なけれど此處の如くコヒシケクケノナガケムゾとはいふべからず。ケナガシと云はでケノナガシといへばケといふ語(ケは日數なり)主格となりて一文の中にコヒシケクと二つの主格を生ずればなり。さればこゝはケナガカラムゾとあるべきなり○(3618)ホトトギス以下は君ハ霍公鳥ノ聲ニ交《ア》ヘ貫《ヌ》ク玉ナレカシといへるにて卷八(一五一九頁)に
  ほととぎすいたくななきそながこゑを五月の玉にあへぬくまでに
とあるに依れるにて玉といへるは橘子なるべし○タマニモガ以下は此月二十日に同じ人の秦(ノ)八千島の館にてよみし
  わがせこはたまにもがもな手にまきて見つつゆかむをおきていかばをし
と例の同辭重出なり
 
4007 わがせこはたまにもがもなほととぎすこゑにあへぬき手にまきてゆかむ
和我勢故婆多麻爾母我毛奈保等登伎須許惠爾安倍奴伎手爾麻伎底由加牟
    右大伴宿禰家持贈2掾大伴宿禰池圭1 四月卅日
 
   忽見2入(ルト)v京述v懷之作1、生別悲兮、斷腸萬囘、怨緒難v禁、聊奉2所心1一首并(3619)二絶
4008 (あをによし) 奈良をきはなれ (あまざかる) ひなにはあれど わがせこを 見つつしをれば おもひやる こともありしを おほきみの みことかしこみ をすくにの こととりもちて (わかくさの) あゆひたづくり (むらとりの) あさだちいなば  おくれたる あれやかなしき たびにゆく きみかもこひむ おもふそら やすくあらねば なげかくを とどめもかねて 見和多勢婆〔二字左△〕《ミワタシノ》 うのはなやまの ほととぎす ねのみしなかゆ (あさぎりの) みだるるこころ ことにいでて いはばゆゆしみ となみやま たむけのかみに ぬさまつり あがこひのまく (はしけやし) きみがただかを まさきくも ありたもとほり つきたたば ときもかはさず なでしこが はなのさかりに あひ見しめとぞ
安遠爾與之奈良乎伎波奈禮阿麻射可流比奈爾波安禮登和賀勢故乎見(3620)都追志乎禮婆於毛比夜流許等母安利之乎於保伎美乃美許等可之古美乎須久爾能許等登里毛知底和可久佐能安由比多豆久利無良等理能安佐太知伊奈婆於久禮多流阿禮也可奈之伎多妣爾由久伎美可母孤悲無於毛布蘇良夜須久安良禰婆奈氣可久乎等騰米毛可禰底見和多勢婆宇能波奈夜麻乃保等登藝須禰能未之奈可由安佐疑理能美太流流許己呂許登爾伊泥底伊波婆由遊思美刀奈美夜麻多牟氣能可味爾奴佐麻都里安我許比能麻久波之家夜之吉美賀多太可乎麻佐吉久毛安里多母等保利都奇多々婆等伎毛可波佐受奈泥之故我波奈乃佐可里爾阿比見之米等曾
 所心は所感なり(三四七九頁及三五四〇頁參照)
 ヒナニハアレドは鄙ニハ居レドなり。オモヒヤルは心ヲ慰ムルなり。コトトリモチテは御用ヲ帶ビテにて贈歌のミコトモチにおなじ○アユヒタヅクリは皇極天皇紀なる蘇我(ノ)蝦夷の
(3621)  やまとの、おしのひろせをわたらむとあよひたづくりこしつくらふも
を學べるなり。そのアユヒは雄略天皇紀に脚帶とあれば※[寒の上/衣]げたる褌《ハカマ》を結ぶ紐とおもはる。タヅクリは眞淵のいへる如く手して作る事なり。さてワカクサノを古義に枕辭とせり。次なるムラトリノアサダチイナバと對照するにげに枕辭なるベけれどいかにかゝれるにか知られず。古義には『アユフとかゝれるなり』といへれどアユフといふ語は聞き知らず○アレヤカナシキは正しくは我ヤ悲シカラムといふべし。ナゲカクはナゲクの延言にてこゝにては嘆といはむにおなじ○トドメモカネテはネノミシナカユにかゝれるなり。さればミワタセバといふ辭漂ひて著く處なし。ミワタセバはおそらくはミワタシノの誤ならむ。さらばそのミワタシノ以下三句はネにかゝれる序とすべし○イハバユユシミは云ハバ忌々《ユユ》シカルベミなり○トナミ山は越中と越前(彼の加賀)との界にありて北國より京に上る官道に當れり。所謂倶利加羅峠なり。タムケは即峠なり。三代實録に越中國手向神とあるはやがて此礪波の峠の神なり○コヒノマクは乞ヒ祈ルヤウハとなり。タダカは近くは卷十三(二八六九頁及二八八六頁)に見えたり。キミガタダカヲは君ソノ人ヲといはむが(3622)如し○アリタモトホリは在リ巡リにて正しくいはばアリタモトホラセテといふべし○トキモカハサズは時モ移サズなり。アヒミシメトゾの下にコヒノムといふことを補ひて聞くべし。此句は卷三(四〇一頁)に
  佐保すぎてならのたむけにおく幣は妹を目かれずあひ見しめとぞ
とあるを學べるなり
 
4009 (たまほこの)みちのかみたちまひはせむあがおもふきみをなつかしみせよ
多麻保許能美知能可未多知麻比波勢牟安賀於毛布伎美乎奈都可之美勢余
 マヒハセムははやく卷五(九九六頁)卷六(一〇九七頁)卷九(一七七三頁)に見えたり。マヒは贈物なり。ナツカシミセヨは親愛セヨにてイタハレといはむに近し〇一首の趣、上なる坂上郎女の
  みちのなかくにつ御神はたびゆきもししらぬ君をめぐみたまはな
(3623)と相似たり
 
4010 (うらごひし)わがせのきみはなでしこがはなにもがもなあさなさな見む
宇良故非之和賀勢能伎美波奈泥之故我波奈爾毛我母奈安佐奈佐奈見牟
     右大伴宿禰池主報贈和歌 五月二日
 ウラゴヒシは心ニコヒシキのニとキとを略して准枕辭としたるなり
 
   思2致逸鷹1夢見感悦作歌一首并短歌
4011 大王の とほのみかど曾《ゾ》 み雪|落《フル》 越と△《フ》名におへる (あまざかる) ひなにしあれば 山高み 河とほじろし 野をひろみ くさこそしげき あゆはしる なつのさかり等〔左△〕《ニ》 (しまつとり) 鵜養《ウガヒ》がともは ゆくかはの きよき瀬ごとに かがりさし なづさひのぼる (露霜の) あきにいたれば 野毛〔左△〕《ベ》さはに とりすだけりと ますらをの (3624)ともいざなひて たかはしも あまたあれども 矢形尾の あが大黒に〔大黒者蒼鷹之名也〕 しらぬりの 鈴とりつけて 朝獨に いほつとりたて 暮《ユフ》※[獣偏+葛]に ちどりふみたて おふごとに ゆるすことなく 手放《タバナレ》も をちも可〔左△〕《ゾ》やすき これをおきて またはありがたし さならべる たかはなけむと 情《ココロ》には おもひほこりて ゑまひつつ  わたるあひだに たぶれたる しこつおきなの ことだにも 吾にはつげず とのぐもり あめのふる日を とがりすと 名のみをのりて △ 三島野を そがひに見つつ 二上(ノ)山とびこえて くもがくり かけりいにきと かへりきて しはぶ禮〔左△〕《キ》つぐれ をくよしの そこになければ いふすべの たどきをしらに 心には 火さへもえつつ おもひこひ いきづきあまり けだしくも あふことありやと あしひきの をてもこのもに となみはり もりべをすゑて (ちはやぶる) 神(ノ)社に てる鏡 しづにとりそへ こひの(3625)みて あがまつときに をとめらが いめにつぐらく ながこふる そのほつたかは 麻都太要《マツダエ》の はまゆきくらし つなしとる 比美の江過て 多古のしま とびたもとほり あしがもの すだく舊江に をとつ日も きのふもありつ ちかくあらば いまふつかだみ とほくあらば なぬかのうちは すぎめやも きなむわがせこ ねもころに なこひそよとぞ い麻〔左△〕《メ》につげつる
大王乃等保能美可度曾美雪落越登名爾於弊流安麻射可流比奈爾之安禮婆山高美河登保之呂思野乎比呂美久佐許曾之既吉安由波之流奈都能左加利等之麻都等里鵜養我登母波由久加波乃伎欲吉瀬其登爾可賀里左之奈豆左比能保流露霜乃安伎爾伊多禮波野毛佐波爾等里須太家里等麻須良乎能登母伊射奈比底多加波之母安麻多安禮等母矢形尾乃安我大黒爾【大黒者蒼鷹之名也】之良奴里能鈴登里都氣底朝※[獣偏+葛]爾伊保都登里多底暮※[獣偏+葛]爾知登理布美多底於敷其等爾由流須許等奈久手放毛乎知母可夜須(3626)伎許禮乎於伎底麻多波安里我多之左奈良弊流多可波奈家牟等情爾波於毛比保許里底惠麻比都追和多流安比太爾多夫禮多流之許都於吉奈乃許等太爾母吾爾波都氣受等乃具母利安米能布流日乎等我理須等名乃未乎能里底三島野乎曾我比爾見都追二上山登妣古要底久母我久理可氣理伊爾伎等可弊理伎底之波夫禮都具禮呼久餘思乃曾許爾奈家禮婆伊敷須弊能多騰伎乎之良爾心爾波火佐倍毛要都追於母比孤悲伊伎豆吉安麻利氣太之久毛安布許等安里也等安之比奇能乎底母許乃毛爾等奈美波里母利弊乎須惠底知波夜夫流神社爾底流鏡之都爾等里蘇倍己比能美底安我麻都等吉爾乎登賣良我伊米爾都具良久奈我古敷流曾能保追多加波麻都太要乃波麻由伎具良之都奈之等流比美乃江過底多古能之麻等比多毛登保里安之我母能須太久舊江爾乎等都日毛伎能敷母安里追知加久安良波伊麻布都可太未等保久安良婆奈奴可乃宇知波須疑米也母伎奈牟和我勢故禰毛許呂爾奈孤悲曾余等曾伊麻爾都氣都(3627)流
 トホノミカドは地方の政廳なり(古義に卷三なる大王ノトホノミカドト以下あまたの例を擧げてミカド曾の曾を等の誤とせり。案ずるに初二句はココハ天皇ノ遠ノ朝定ゾといへるなればもとのまゝにて可なり。但その下にサレドといふことを補ひて心得べし○其次の二句はミユキフル越〔六字傍点〕トイフ名ニカナヒテゲニ雪深キといふ意と聞ゆれば越トフ名ニオヘルとあらざるべからず。されば越登の下に布をおとせるなり○トホジロシは偉大ナリとなり。以上二句は卷三(四二七頁)なる赤人の長歌に依れるなり○草コソシゲケレといふべきをシゲキといへるは古格に從へるなり○ナツノサカリ等は爾とあるべし。ナヅサヒはこゝにては水中をゆき煩らふさまなり○ツユジモノはオクといふことを略したるにてシラ浪ノ濱松ガエなどと同格なる枕辭なり。卷十三(二九一一頁)にもナガ月ノシグレノ秋ハとあり○野毛サハニの毛は弁などの誤とせざるべからず。スダケリは集レリなり〇マスラヲノトモイザナヒテは丈夫ノ侶ヲ我誘ヒテとなり○アマタアレドモは世ニ多カレドといへるにあらず。我館ニアマタ飼ヒタレドとなり○矢形尾を略解に
(3628)  矢は借字にて屋形なるべし。屋の棟の如くイロハがなのヘの字の形せる斑文あるいふならんと翁(○眞淵)はいはれき
といへれど借字には專字音を用ふるが此卷の書式〔五字傍点〕なれば矢形と書けるは借字にはあらじ○シラヌリノ鈴は略解に『銀砂燒付たるなるべし』といへり。日本靈異記にも路中有2大河1椅《ハシワタシ》v之以v金塗|嚴《ヨソフ》(上卷第卅)また塗金|※[衣+遞の中]《アハケ》落(中卷第十七)などあればげにシラヌリは鍍銀なるべし○※[獣偏+葛]は我邦にて獵に通用せし字なり。タテは起《タ》タセにてフミタテを略せるなり。チドリフミタテの下に獵スルニソノ鷹ハといふことを補ひて心得べし。ユルスはトリニガスなり○タバナレは拳を離るる事にてヲチは拳にかへる事なり。古義にタバナシとよむべきかと云へるは非なり。さて契沖以下ヲチモ可ヤスキの可をヤスキに添へる辭としたるは誤れり。カヤスキと心得てコレヲオキテに續くべきにあらず。可は曾の誤にてヤスキにて切れたるなり○サナラベルのサは略解にいへる如く添辭なり。古義にサシナラベルの略としたるはひが言なり。サシを略してサとはいふべからず○ココロニハのハには意なし。ワタルはアリ經ルなり○タブレタルはタハケタルなり。シコツオキナは鷹飼山田(ノ)君麿を詈り(3629)ていへるなり○コトダニモ吾ニハツゲズは吾ニハ何モ云ハズとなり。トガリスト名ノミヲノリテは山田君麿デゴザル、鳥狩ニマヰルトノミ門番ニコトワリテといふ意なるべし○名ノミヲノリテの下に大黒ヲツレテ出タガといふ意の二句あるべきなり〇三島野は和名抄に射水郡三島とあり。今の二口村附近なりといふ。案ずるに今少し國府に近かるべくおぼゆ。なほ卷十八にいふべし○シハブ禮の禮は伎の誤ならむ。ツゲレは告グルニなり○ヲクヨシは招キ呼ブスベなり。ソコはココなり。イフスベノタドキヲシラニは云フスベヲ知ラズなり。卷十五(三三二一頁)にもスルスベノタドキヲシラニとあり○火サヘモエツツは瞋恚の焔の燃ゆるなり。イキヅキアマリは長息《ナゲキ》シ足ラズなり。はやく卷七(一四四七頁)に見えたり。ケダシクモは或ハなり。アフコトは見附クル事なり○アシヒキは山といはむ代にいへるなり。ヲテモコノモはカノモコノモなり。はやく卷十四(二九七六頁)に見えたり。おそらくは雅言ならじ。モリベは番人なり○テルカガミは明鏡なり。シヅは倭文布なり。コヒノミテは乞ヒ祈リテなり○ヲトメラのラは無意の助辭なり。ここにては無論一人の處女なり○ホツタカはすぐれたる鷹なり。マツダ江は上なる布勢氷海賦にもマツ(3630)ダエノナガハマスギテとあり○ツナシはコノシロの類なり。ヒミノエは氷見ノ江なり。舊江とおなじく布勢湖の入江ならむ。又多古ノシマは多※[示+古](ノ)浦の附近にありし島ならむ○チカクアラバ以下四句は卷十三(二九〇三頁)なる長歌に久ナラバ今七日バカリ、早カラバ今二日バカリ、アラムトゾ君ハキコシシとあるに依れるなり○ダミはタミにてメグリなり。コギタミユケバなどのタミなり。八重山島の民謡に五日毎をイチカマアリ(五日廻)といへるを思へばフツカダミは二日目なり○スギメヤモは上に附き、來ナムワガセコは下に附きて五七調の七五調にかはるべき兆を示せり。注目すべし。上(三六一四頁)なるホトトギス聲ニアヘヌク、玉ニモガ手ニマキモチテ、アサヨヒニ見ツツユカムヲの玉ニモガ手ニマキモチテも然り○ナコヒソにヨを添へたる、めづらし。麻は眞淵のいへる如く米の誤ならむ
 
4012 矢形尾のたかを手にすゑみしま野にからぬ日まねくつきぞへにける
矢形尾能多加乎手爾須惠美之麻野爾可良奴日麻禰久都奇曾倍爾家流
 カラヌ曰は獵セヌ日、マネクは多クなり
 
4013 二上のをてもこのもにあみさしてあがまつたかをいめにつげつも
(3631)二上能乎底母許能母爾安美佐之底安我麻都多可乎伊米爾都氣追母
 タカヲは鷹ノ事ヲなり
 
4014 まつがへりしひにてあれかもさやまだのをぢが其日にもとめあはずけむ
麻追我弊里之比爾底安禮可母佐夜麻太乃乎治我其日爾母等米安波受家牟
 卷九(一八一一頁)に
  まつがへりしひてあれや羽《モ》みつぐりの中上こぬ麻呂等言八子
といふ歌あり。今の歌の初二は之に倣へるなり。マツガヘリは古義にいへる如く枕辭なるべし。シシヒニテアレカモのモは助辭、アレカはアレバニヤにてシヒニテアレカモは鷹ガスネテアレバニヤといふことならむか○サヤマダノヲヂは山田の老人にて氏にサを添へたるは地名の檜(ノ)隈にサを添へてサヒノクマといへるが如し。其日は鷹ヲソラシシ日なり。モトメアハズケムは尋ネ逢ハザリケムなり
 
(3632)4015 情《ココロ》にはゆるぶことなくすがのやますがなくのみやこひわたりなむ
情爾波由流布許等奈久須加能夜麻須可奈久能未也孤悲和多利奈牟
    右射水都古江村取2獲蒼鷹1、形容美麗※[執/鳥]《トルコト》v雉秀v群也、於v時養吏山田|史《フヒト》君麿調試失v節野獵乖v候、搏風之翅高翔匿v雲、腐鼠之餌呼留|靡《ナシ》v驗、於v是張2設羅網1窺2乎非常1、奉2幣神祇1特〔左△〕《タノム》2乎不虞1也、奥〔左△〕《ココニ》以2夢裏1有2娘子1喩曰、使君勿d作2苦念1空費c情〔左△〕神u、放逸役鷹獲得末v幾矣哉、須臾覺
寤有v悦2於懷1、因作2却v恨之歌1式《モチテ》旌2感信1、守大伴宿禰家持 九月二十六日作也
 ココロニハを古義に『求る事業《コトワザ》にはつづきては得堪ざれども中情には云々』と釋せり○須加ノヤマを古義に
  源平盛衰記三十に越中國に須川《スカ》山と云あり。是なるべし
といひ萬葉越路の栞といふ書には
  此山は礪波郡今宮島村字|須川《スカ》の山なるべし。古義には源平盛衰記の倶利加羅の(3633)役に須《ス》川(ノ)林に云々とある所なりと見えたれども本集本歌の須川山とは全然異處なり。思ひまがふべからず
といへり○スガナクを古義に
  字鏡に※[口+喜]※[口+羅](ハ)心中不悦樂貌、坐歎貌、須加奈加留、催馬樂蘆垣に菅ノ根ノスガナキコトヲワレハキクカナこれらを考令て其意をさとるべし
といへり。オモシロカラズといふ意なるべし
 調試はこゝにては鷹を馴す事なり。調馴ともいふ。節は加減なり。候ニ乖クは雨の降る日に使ひしを云へるなり○腐鼠之餌は鷹の好む餌にて此八言は長歌にヲクヨシノソコニナケレバといへるに當れるなり。○二註に『小鳥の好めるものなればかへりみもせぬ也』といへるはいみじき誤なり○於v是張2設羅網1以下十九言は長歌のケダシクモアフコトアリヤト、アシヒキノヲテモコノモニ、トナミハリモリベヲスヱテテ、チハヤブル神ノヤシロニ、テル鏡シヅニトリソヘ、コヒノミテワガマツトキニに當れり。就中非常不虞はケダシクモアフコトアリヤに當りて萬一といふことなり。特は二註にいへる如く恃《タノム》の誤なり。奥も粤《ココニ》の誤なり○使君は勅使の敬稱なり。家持(3634)は國守なればかく云へるなり。苦念の苦は切實なり。情神は精神に作れる本あり。但集中に情神と書きてココロドとよませたる例少からず○未幾矣哉は程ナカラムとなり。却は※[谷+おおざと]の俗字にてシリゾクルなり。威信を二註に『さまざまに心を盡せ〔右△〕ししるしのあること』と釋せるはいかが。感は感應、信は靈驗にて神に祈りし驗あるをいへるならむ
 池主よりアヲニヨシといふ歌を贈られし五月二日より後に京に上り此歌を作りし九月二十六日より前に任に歸りしなり。さて京にて作りし歌は別にぞ記したりけむ
 
   高市(ノ)連黒人謌一首 年月不審
4016 賣比の野のすすきおしなべふるゆきにやどかるけふしかなしくおも倍《ハ》ゆ
賣比能野能須々吉於之奈倍布流由伎爾夜度加流家敷之可奈之久於毛倍遊
(3635)     右傳2誦此誦〔左△〕1三國眞人五百國是也
 メヒは越中の郡名なり。和名抄に婦負と書きて禰比と訓せるはメヒのネヒにうつりしなり。マ行のナ行にうつれるは例多し
  中ごろ姉負とも書きしは字を訓に適せしめしなり。今はもとの如く婦負と書きてネイと唱ふといふ
 ○結句の倍を契沖以下保の誤とせり。もとのまゝにてオモハユとよむベし。倍の音ハイを略してハに借れるなり
 左註の此の下の誦は諸本に歌とあり○高市黒人は當國の任にありしにや。三國眞人は越前の名族なり。五百國は當國の郡司たりしにや
    ○
4017 東風《アユノカゼ》〔越(ノ)俗語東風謂2之安由乃可是1也〕いたくふくらし奈呉のあまのつりするをぶねこぎかくる見ゆ
東風【越俗語東風謂之安由乃可是也】伊多久布久良之奈呉乃安麻能都利須流乎夫禰許藝可久流見由
(3636) アユノカゼの事ははやく上(三六一六頁)にいへり○結句は後世ならばコギカクルル見ユといふべきなり
 
4018 みなとかぜさむくふしらし奈其の江につまよびかはしたづさはになく
     一云たづさわぐなり
美奈刀可世佐牟久布久良之奈呉乃江爾都麻欲比可波之多豆左波爾奈久
    一云多豆佐和久奈里
 奈呉の江は即放生津潟なり
 
4019 (あまざかる)ひなともしるくここだくもしげきこひかもなぐる日もなく
安麻射可流比奈等毛之流久許己太久母之氣伎孤悲町毛奈具流日毛奈久
(3637) ヒナトモのモは輕く添へたるなり。又ヒナトモシルクはナグル日モナクにかゝれるなり。ナグルはナゴムなり
 
4020 こしのうみの信濃《シナヌ》〔濱名也〕のはまをゆきくらしながきはるびもわすれておもへや
故之能宇美能信濃【濱名也】乃波麻乎由伎久良之奈我伎波流比毛和須禮底於毛倍也
    右四首天平二十年春正月二十九日大伴宿禰家持
 コシノウミは北海なり。地方誌どもに放生津潟の古名とせるは從はれず。信濃(ノ)濱は今所在を失へり。ワスレテモヘヤは妹ノ事ヲ忌レムヤハとなり〇三四のつづきたどたどし。ワタツミノトヨハタ雲ニ入日サシなどと同格なりとも認められず。古義には行廻リ曰ヲ暮セレド長キ日スガラ京ノ事ヲ得忘レムヤハと譯したれどユキクラシとあるをユキクラセレドとは譯すべからず。又正月二十九日をナガキ春日といはむも穩ならず。もしナガキをアソブと改めなばよくとゝのふべし
(3638) 契沖雅澄は左註の天平二十年を二十一年の誤とせり。今此卷并に次の卷に見えたる年月日を拾ひ集めむに
 天平十八年七月      赴任
      八月七日
      九月廿五日
      十一月
 同 十九年二月廿日
 同 二十〔二字左△〕年二月廿九日(一)
      姑洗二日
      三月三日
      三月四日
      三月五日
      三月廿日
      三月廿九日
(3639)      三月三十日
      四月二十日
      四月廿四日
      四月廿六日
      四月廿七日
      四月廿八日
      四月三十日  入京漸近
      五月二日
      九月廿六日
 同 二十年正月廿九日(二) 此歌
 同 二十年三月廿三日(三) 以下卷十八
        廿五日
        廿六日
      四月一日
(3640)      二日
 (同 廿一年)三月十五日
        三月十六日
       (四月)四日
 天平感寶元年五月五日  四月十四日改元
 契沖雅澄は二及三を二十一年の誤とし千蔭は一を十九年の誤とせるなり。千蔭の説に從ふべし。くはしくは上(三五四八頁)に云へり、因にいふ。卷十八なる四月二日と三月十五日との間には二十年四月三日より二十一年三月十四日までの歌をおとせるなり
 
   礪波《トナミ》郡|雄神《ヲガミ》河邊作歌一首
4021 をがみがはくれなゐにほふをとめらし葦附《アシヅキ》〔水松之類〕とると湍《セ》にたたすらし
乎加未河泊久禮奈爲爾保布乎等賣良之葦附【水松之類】等流登湍爾多多須良(3641)之
 雄神川は今庄川といふ。もと小矢部川と合して射水川となりしが近年河身の改修によりて小矢部川とは別流となれり○クレナヰニホフは紅ニ匂フのニを略したるにて此句にて切れたるなり○アシヅキは淡水に生ずる一種のノリにて水中の石又は葦の根に附著して生ずるが故に葦附といふなり。今は庄川の一部(東礪波郡北般若村大字|石代《コクダイ》字大窪島)にのみ産すといふ。ジュズモ屬にて近江の姉川クラゲ、京都の鴨川ノリの類なり○此歌は卷七(一三二四頁)なる
  黒牛の海くれなゐにはふももしきの大宮人しあさりすらしも
を學びたるなり
 
  婦負《メヒ》郡(ニテ)渡2※[廬+鳥]坂《ウサカ》河1邊〔□で囲む〕時作歌一首
4022 うさかがはわたる瀬おほみ許乃あが馬のあがきのみづにきぬぬれにけり
宇佐可河泊和多流瀬於保美許乃安我馬乃安我枳乃美豆爾伎奴奴禮爾(3642)家里
 題辭の邊は衍字ならむ
 ※[廬+鳥]坂川は婦負川即今の神通《ジンヅウ》川の上流なり。ワタル瀬オホミといへるは川の流の廻れる爲同じ川を二たび三たび渡りし故に云へるならむ○第三句の許乃は不用なり。もと安我の一案としてその傍に記したりしを誤りて本行に入れたるにあらざるか
 
   見2潜《カヅクル》v※[廬+鳥]人1作歌一首
4023 賣比《メヒ》がはのはやき瀬ごとにかがりさしやそとものをはうがはたちけり
賣比河波能波夜伎瀬其等爾可我里佐之夜蘇登毛乃乎波宇加波多知家里
 ヤソトモノヲとあれば平民にはあらず。古義には『下司家令などを云べし』といへれどこは家持に見すべく郡司などの鵜がひを催ししならむ(家令《ケリヤウ》といへるは家隷《ケライ》の(3643)意にや。國(ノ)守に家令はおほけなし)
 
   新河郡渡2延槻《ハヒツキ》河1時作歌一首
4024 たちやまのゆき之〔左△〕《ト》くらしもはひつきのかはのわたり瀬あぶみつかすも
多知夜麻乃由吉之久良之毛波比都奇能可波能和多理瀬安夫美都加須毛
 ハヒツキ川は立山より發して今の中新川郡と下新川郡との間を流れたり。今早月川といふ
 略解に、
  ユキシクラシモは例のシクシクの意にては解がたし。宣長云。雪シのシは助辭にてクラシモは消ラシモ也。消ルをクといふはめづらしけれども書紀に居をウとよむ註もあり又乾をフとよむ註もあれば消は古言にクといへるなるべし
といへり。もしキユをクといへるならば古言とせずして異常なる約言とし寧俗語(3644)とすべけれど(三一四二頁參照)ユキシクラシモはユキト〔右△〕クラシモの誤にあらざる
か○アブミツカスモは鐙ニ就カスモのニをはぶけるなり。卷七(一四四五頁)なる袖ツクバカリ、卷十一(二四二三頁)なるスソツク河ヲのツクにおなじ(これも袖ニツク、スソニツクのニをはぶけるなり)。水ガといふことは略せるなり。ツカスは必しも敬語にあらず。此格は己が上にこそ用ひね他の上には敬意を要せざる場合にも用ひたる例あり
 以上四首は國府より發して南及東の方なる礪波《トナミ》、婦負《メヒ》、新河《ニヒカハ》の三郡を巡行せし途の歌なり。それより一たび國府に歸りて更に西北なる能登の諸郡を巡行せしなり
 
   赴2參(ルト)氣比〔左△〕大神宮1行2海邊1之時作歌一首
4025 之乎路《シヲヂ》からただこえくればはぐひの海あさなぎしたり船梶もがも
之乎路可良多太古要久禮婆波久比能海安佐奈藝思多理船梶母我毛
 氣比は契沖のいへる如く氣多の誤字なり。氣多大神宮は能登國の一宮にて羽咋《ハグヒ》郡にあり。能登は元正天皇の御代に越前より割きて置かれ此聖武天皇の御代に越中に併せられ稱徳天皇の御代に再分ち立てられしなり。海邊とあるは能登の西海岸(3645)なり。羽咋郡は射水郡の西に隣れり乏乎路は之乎山の路なり。古義に古今集なるシホノ山サシデノイソニナクチドリのシホをシヲとしてこれと同處とせるは誤れり。シホノ山は甲斐國にあり。さて射水郡(今の氷見郡)より之乎山を越えて羽咋郡に入立つなり。それより之乎(今志雄と書く)を經て西海岸に出で北上すれば氣多に到るなり。今の歌はその海岸にてよめるなり○海のなぎたるを見て船を獲て海に浮び遊ばむと願へるなり
 
  能登郡從2香島津1發v船行於〔二字□で囲む〕|射《サシテ》2熊來村1往時作歌二首
4026 とぶさたて船木きるとい有〔左△〕《フ》能登の島山、今日|見者《ミレバ》こだちしげしもいく代神備曾
登夫佐多底船木伎流等伊有能登乃島山今日見者許太知之氣思物伊久代神備曾
 能登郡は後の鹿島郡なり○行於は古義に從ひて衍字とすべし。此二字無き本多し。發は訓讀せむとならばヒラキとよむべし。アサビラキのヒラキなり。射はサシテと(3646)よむべし。卷十六(三四三二頁)にも
  自2肥前國松浦縣美禰良久埼1發v舶直射2對馬1渡海
とあり○香島澤は所謂南※[さんずい+彎]の内にて今の七尾町附近ならむ。熊來は今も熊木村ありて西※[さんずい+彎]に臨めり。七尾町よりは西北に當れり○氣多より路を東北に取りて東海岸に出で、さて香島津にて乘船せしなり
 トブサタテの語例は卷三(四八六頁)にトブサタテ足柄山ニフナ木キリとあり。村田春海の織錦舎隨筆卷之上(百家説林續篇上五三二頁)に
  下總國|海上《ウナガミ》のあたりにて山松をきるとき千本が中に一木ふた木ばかりを殘しおくをトホサキといふ。それは山の神に手むくるなりとぞ。又里人の門松ぬき捨たる跡に梢を短くきりてたておくをもトホサキといふといへり。冠辭考に遠江國の詞に木の最未をトホサキといひ越前土佐などにてもしかいふ由みえたり。さるはいづこにてもいふ詞にて古歌にトブサタテ足柄山ニ舟木キリなどあるはこのトホサキの事なる事うたがひなし
といへり。樵夫が木を伐りし後其梢を切りて伐りし木の根に立てて山神に謝する(3647)をいふ。倭姫命世紀に
  遠山近山ノ大|峡《ガヒ》小峡ニ立材《タテルキ》ヲ斎部《イミベ》之|斎《イミ》斧ヲ以テ伐採テ本末ヲバ山祇《ヤマツミ》ニ奉v祭テ中間《ナカラ》ヲ持出來テ云々
といへるもとぶさ立つるをいへるなり○有は布を誤れるなり○能登ノシマ山は今も能登島といひて七尾※[さんずい+彎]に横たはれり。俗に島之地《シマノヂ》といふとぞ。香鳥津より熊來村に行くには此島を右に見て行くなり○伊久代神備曾とある心得がたし。まづカミビは今ハミヤコトミヤコビニケリなどの例によらば神めく事なり。又古くなる事はカムサビとこそいへ。たとひカミビとカムサビとを同語とすともイクヨノカミビゾ又はイクヨカミビタルゾといふべきなり
 
4027 香島より久麻吉をさしてこぐふねのかぢとる間なく京師《ミヤコ》しおもほゆ
香島欲里久麻吉乎左之底許具布禰能可治等流間奈久京師之於母保由
 上(三五三九頁)にも同じ作者の
  白浪のよするいそみをこぐ船のかぢとる間〔日が月〕なくおもほえし君
といへる歌あり
 
(3648)   凰〔左△〕至《フゲシ》郡渡2饒石《ニギシ》河1之時作歌一首
4028 いもにあはずひさしくなりぬにぎしがはきよき瀬ごとにみなうら波〔左△〕《ア》へてな
伊毛爾安波受比左思久奈里奴爾藝之河波伎欲吉瀬其登爾美奈宇良波倍底奈
 凰は鳳の誤なり。鳳至は和名抄に不布志と訓じたれど鳳《ホウ》はフフに借るべからず。其上今もフゲシと唱ふれば和名抄に不布志と註したるは不希志《フゲシ》を誤れるならむといふ○饒石は今仁岸と書く。西海に注げる小流なり。熊來より陸路を西北に取りて饒石に到りしなり
 ミナウラは契沖以下のいへる如く水占なり。伴信友の正卜考卷三(全集第二の五四七頁)に
  美奈宇良は水占なるべし。然れども他に證《アカシ》考たることなし。波倍底奈はしひてかむがふるに延《ハヘ》テムにて清き河瀬の水中に縄をはへわたし置てそれに流れかゝ(3649)りたるもの或は其物の數などによりて卜ふる事にはあらざるか
といへり。思ふに波は安の誤ならむ。アヘテナは合セテムなり
 
  從2珠洲《スス》郡1發v船還2太沼郡〔左△〕1之時泊2長濱※[さんずい+彎]1作〔左△〕2見月光1作歌一首
4029 珠洲のうみにあさびらきしてこぎくればながはまのうらにつきてりにけり
殊洲能宇美爾安佐比良伎之底許藝久禮婆奈我波麻能宇良爾都奇底理爾家里
   右|件《コノ》謌詞者依2春出擧1巡2行諸郡1、當時△v所2屬目1作之、大伴宿禰家持
 鳳至郡より東北を指して珠洲郡に到りそこにて乘船して能登郡に還り來りしなり○太沼郡とある不審なり。契沖は
  太沼郡は能登四郡(○能登、羽咋、鳳至、珠洲)の内此名なし。今按、和名集を考ふるに羽咋郡に太海(於保美)郷あり。然れば海を試て沼に作り郷を誤て郡に作れるなるべし
(3650)といひ二註も此説に從へり。案ずるに長濱は和名抄によれば能登郡の郷名なり。さて長濱を經しを思へば東海岸に沿ひて歸りしなり。されば西海に面せる羽咋郡を過ぐべからず。太沼郡はおそらくは大沼邨を誤れるならむ。今鹿島郡(即古の能登郡)の東南端に北大呑邨南大呑村ありて氷見郡(もとの射水郡の西北部)の北端に隣れり。此大呑ぞ大沼を訛《ナマ》れるならむ。長濱郷は大日本地名辭書に『今の崎山村、北大呑村、南大呑村なるべし』といへり。崎山村は北大呑村の北に接して恰珠洲郡より大呑村に還る途に當れり○題辭中の上の作は諸本に從ひて仰の誤とすべし
 アサビラキは近くは卷十五(三一九八頁)に見えたり。朝に船を發する事なり。ヒラクは發に當れる事上(三六四五頁)にいへる如し
 出擧《スヰコ》は春、貧民に稻を貸し秋、之に利を添へて返さしむるを云ふ。出擧の擧を或は返の義とし或は用の意とせり。日本後紀弘仁三年五月の下に
  是以昔年停2出擧1、自v茲以後借2求富民1、至2于報償1加v利數倍、擧者〔二字右△〕有v罪償者〔二字右△〕受v弊、宜d始v自2明年1神税之外擧〔右△〕2正税十三萬三千束1以2其息利1充c齋宮用u
(3651)とあり又三善清行の意見十二箇條に
  令3常陸國毎v年擧〔右△〕2稻九萬四千束1以2其利稻1充2寮中雜用料1又擧〔右△〕2丹後國稻八百束1以2其利稻1充2學生口味料1
とあり又靈異記卷下の第廿二に
  汝用2斤《ハカリ》二1、出擧之時用2於輕斤1(ヲ)徴納之日用2於重斤1(ヲ)
とあるなどを見れば擧は貸といふことなり○當時の下に因などをおとせるか
 
   怨2鶯|晩※[口+弄]1歌一首
4030 うぐひすはいまはなかむとかたまてばかすみたなびきつきはへにつつ
宇具比須波伊麻波奈可牟等可多麻底波可須美多奈妣吉都奇波倍爾都追
 古義に
  片待とはかたよりて待意にてひとへに待を云
(3652)といへれどカタマチガテラともあれば偏に待つ意にはあらじ。さてカタマテバはカタマツニと心得べし〇三四の間にイタヅラニといふことを加へて聞くべし
 
   造酒歌一首
4031 なかとみのふとのりとごといひはらへあがふいのちもたがため爾奈禮〔二字左△〕《ニトカ》
奈加等美乃敷刀能里等其等伊比波良倍安賀布伊能知毛多我多米爾奈禮
    右大伴宿禰家持作之
 まづいかなる機に又は何の爲に作りし歌なるかを詳にせざるべからず○契沖以下之を家持が酒を造らしめし時の歌とせる如し。然るに酒を造らしめし時の歌としてはナカトミノフトノリトゴトイヒハラヘとありて祓を行ふ趣なると相かなはざれば古義には強ひてミキタテマツルウタとよみて
  造酒は酒をかむことを云字なれど此は酒をかみて神に獻ることを主といへる(3653)歌なればしばらくミキタテマツルとよめり
といへり。まづ造酒はミキタテマツルとはよむべからず。次に酒を造るは秋の事なるに此歌は前後の歌より推すに三月頃の作なり。次に造酒を祝ひ又は酒を奉る歌としてはアガフイノチモタガタメニ奈禮といへるいと狎れたり。顧みて神樂歌に酒殿歌あるを思へばこも亦酒殿歌にて造酒の時に酒つくりの歌ふ料として作りしならむ。更に次の卷の初頭に此年三月下旬に造酒司(ノ)令史《サクワン》田邊福麿に逢ひし歌あるを思へば右の造酒歌は福麿に乞はれて作りしならむ
 歌はかの卷十二(二七二七頁)なる
  ときつ風ふけひの濱にいでゐつつあがふいのちは妹が爲こそ
などと同じく祓の趣をよめる相聞歌なり○上三句を宣長が
  此歌は太祝詞言《フトノリトゴト》ヲ中臣ガイヒハラヘといふ意かとも聞ゆれど然にはあらじ。祓(ノ)詞をさして中臣ノフトノリト言といへるなり
といへるはいかが。中臣ノ讀ム祝詞といふことを中臣ノフトノリトゴトといふべきは諭なけれど此歌のナカトミノをフトノリトゴトの屬格とせば何をかイヒハ(3654)ラヘの主格とせむ。さればナカトミノは主格とすべく初二の間にワガ爲ニといふことを補ひて聞くべきなり○イヒハラへは云ヒテ祓ヘテなり。ハラヘは令祓なり。但他をしてはらはしむるが故にハラヘといふにあらず。罪穢をはらふは神の御業なれば人よりはハラヘといふなり。なほ云はば神に乞ひて罪穢をはらはしむるが故にハラヘといふなり。宣長は
  ハラヒは自するをいひハラヘは令祓のつづまりたる言にて人にせしむるをいふ。罪咎ある人に負する祓など是なり。萬葉十七にフトノリトゴトイヒハラヘとよめるは人に負する祓にはあらねど人にあとらへてせさする祓なるべし(○記傳卷六【三二八頁】)
といひてこゝのハラヘを中臣をしてはらはしむる事と誤解せし爲初句のナカトミノを主格と認むるを得ざりしなり○結句を略解に
  ナレは汝なり。云々モ誰爲ゾ、汝ガ爲ニコソアレといふ意なり
といひ古義に
  爾はもしくは可(ノ)宇の誤にはあらざるべき歟。さらばタガタメカにて誰爲曾と云(3655)と同意なり。さてナレは汝ヨと云意にてタガ爲ゾ、タガ爲ニアラズ、汝ヨといふにやあらむ
といへれど、もしさる意ならばナガ爲ニコソといふべし。おそらくは奈禮は等可などの誤ならむ
                           (大正十四年十月講了)
          2005年6月5日(日)午後5時40分、入力了
 
 
 萬葉集新考卷十八(萬葉集新考第七、1928.10.23発行)
                     井上通泰著
 
縱凡一尺横一尺三寸五分の茶色の紙に書ける所謂萬葉調の歌で萬葉集古義の著者、土佐の國人|鹿持雅澄《カモチマサズミ》の作并筆である。聊あかぬ節もあるが批評を避けて辭句の出自のみを云はうと思うたがそれも
 山並ノタチアフ里ト川ナミノ清キカフチトは本集卷六(本書一一六二頁)の山ナミノヨロシキ國ト川ナミノタチアフ里トに據つた。又キヨキカフチの例は卷一以下に多い。次にススシキホヒテは卷九(一八六三頁)のアシビタクスス師キホヒに據つたのである
など列挙するより寧讀者自身が尋ねられるに任せる方が自他共に肩が凝らいでよからうと思うて止めた。韮生《ミラフ》郷は土佐國|香美《カガミ》郡の、物部川の上流に當れる一地域で延喜式の大川上美良布神社の所在地である。ミラはニラの古言である。此地名がニラフとはかはらずに、ミラフのまゝで傳つて居る事は雅澄の如き尚古家をして感激せしめた事であらう
 
(  遥聞韮生郷潰感傷作歌   雅澄
はる霞たなひく野へに白妙の袖ふりはへてをとめらかつみはやすちふくゝみらのみらふの里は山並のたちあふさとゝ川次の清き河内と大船の思ひたのみて里もせに家なみしきてうつせみの世の業をおのかしゝすゝしきほひていそしみてありけるものをいか成したゝりかもよわたつみの神の命のかしこくもあらひましけむ露霜の秋のわさ田のはたすゝきほに出るころを日並て降しく雨は奥山の小竹をたはねてつくかこといやふりしけは天地も今し絶かに山川もとゝろきわたりこゝしかも岩根はらゝき足引の木根もくえてわきいつる水のたきちにときの間にあるみとなれゝせむすへのたつきをしらに老人も女のわらは子もこいまろひあしすりしつゝ助船はやわたせをと聲々によはひさけはひゆく鳥のあらそふはしに玉垂の小屋も大屋も風のまにちれる木の葉と見るまてにうかへなかさえこもりぬのゆくへもしらにひちし田もまきしはたけも秋の野をあさ行く鹿のあとたにもなくなれりきと風の音のとほとにきゝてますら男とおもへるあれもわか屋との柴のあみ戸の破戸のそよとなるまて歎きつるかも        翻字は入力者 )
 
      圖版解説
 
萬葉集卷三(本書四八〇頁以下)に覊〔馬が奇〕旅歌といふ題で
 わたつみは、あやしきものか、淡路島、なかにたておきて、白浪を、伊與に囘之、ゐまち月、あかしの門ゆは、ゆふされば、しほをみたしめ、あけされば、しほをひしむ、しほさゐの、浪をかしこみ、淡路島、いそがくりゐて、いつしかも、この夜のあけむと、さもらふに、いのねがてねば、瀧の上の、淺野のきぎし、あけぬとし、たちとよむらし いざ兒ども、あへてこぎでむ、にはもしづけし
といふ歌が出て居る。さて大正四年の春門人伊澤元藏君が圖版の原品を持つて來て見せられた。淡路島の名所の碑文が如何にして備中人なる同君の家に傳はれるかは不明である。原品は幅二尺程の絹本であつたが其後表装せさせた時に裁ち縮めたものと見えて今回借覧した時には巾一尺九寸二分、長四尺一寸五分であつた。例に依りて譯文を擧げんに
 飛泉上《タキノウヘ》ノ淺野原ハ初メテ萬葉集中ノ歌ニ見エタリ。爾來吟詠頗多シ。其地今尚淡路國津名郡机南村ノ山際ニアリ。其下ニ飛泉アリ。飛泉上《タキノウヘ》ト言ヘルハ眞ニ然リ。萬葉集ハ今ヲ距ルコト千有餘歳ナリ。其地墾開シテ場圃トセリ。纔ニ原ノ名ヲ存ゼリト雖、訪フ者甚尠ク風人韵士往々桑滄ノ歎アリ。是ニ郷長島田宜樹、蔭山泰重、里人志田光輝等竊ニ復古ノ志ヲ興シ以テ之ヲ檢田澤口貞明ニ告グ。貞明ハ本藩阿波ノ仕人ニテ性尚古ニ耽ル。曽テ此地ニ往來シテ里老ノ口碑ニ證シ名區ノ行沒セムコトヲ惜メリ。三名ノ遠謀ヲ嘉シ慨然トシテ慫慂シテ、園主ニ與フルニ他田ヲ以テシテ故ノ原ニ復セムコトヲ謀ル。宜樹状ヲ具シテ之ヲ郡宰ニ請フ。郡宰棚橋貞幹モ亦之ヲ善シ之ヲ管轄岩田經光ニ稟シテ以テ國君ニ聞ス。君最古典ヲ好ミ政事ノ暇屡封内ノ舊蹟ヲ訪フ。是故ニ大ニ其請ヲ美トシテ速ニ之ヲ許ス。因リテ以テ之ヲ請ヒテ千種有功卿手書ノ萬葉集ノ長歌ヲ石ニ※[千+リ]《キ》リテ之ヲ原頭ニ標ス。是ニ古ニ復シヌ。余曽テ此島ニ遊ビシ日往キテ其舊址ヲ觀ルニ平曠ニシテ雅致アリ、山海ニ背面セリ。四時ノ賞想フニ應ニ窮無力ルベシ。曉雉ヲ春草ニ聴クニ宜シク晩楓ヲ秋水ニ觀ルニ宜シ。況亦烟波浩漾、漁磯出沒シ昔時旅泊悽愴ノ想宛然トシテ目ニ在リ。衆士修廢ノ功偉ナリト謂フベシ。泰重其記ヲ請フ。即所由ヲ記シテ之ヲ與フト云フ  鷲尾頭中將隆賢卿題額  安政三年丙辰冬日 野之口隆正并書
淡路の如き田畠の少い處で畠をつぶして原野とするのが第一の難關であつたのであらう。背面山海は山ヲ背ニシ海ニ面セリと云ふ意である。國君と云へるは蜂須賀|齊裕《ナリヒロ》である。余は大正四年四月の南天莊月報に此文を掲げて「此文はおそらくは石に刻するに至らなかつたのであらう」と附記しておいたがことし昭和三年六月五日に明石から淡路の富島《トシマ》港に渡り其東南一里許の山上(常隆寺山の西面)にある淺野公園に登つて見たが廣き芝原のつかさの上に建てたるは千種|有功《アリコト》の和文碑と徳島藩の儒臣中田其の漢文碑とばかりで隆正の書いたものは果して建てられて無かつた。さて前者は自然石の表に彼覊旅歌を刻し裏に
 萬葉集覊〔馬が奇〕旅のうたを碑にしるして後世の證にせんといそしみたつるは島田某、志田某、蔭山某らいにしへの書をこのみ歌をもよみて風流たるよりおこれり。そばやがて國つ神のこゝろなるべしとおもへばこへるまゝに書しるすは嘉永七年二月ばかり。有功 わたつみのしほひしほみちとしふともこけだにむさぬいしぶみやこれ
と刻し後者は篆書で
 津名郡机南村東負v山面v梅山之乾位曠原數千畝。曰2淺野原1。其南壑有2懸泉1。曰2淺野瀑1。楓樹成v林。因又呼爲2紅葉瀑1。往昔騒人之所2歌詠1其什多載2歌集1。爾來廢爲2牧地1。今盡墾爲2圃田1。是以其故事景勝徒存2口碑1而已。凡物有v廢則有v興。豈翅人事哉。三原鮎屋山中懸泉土人亦稱2淺野瀧1・其懸巖泉流此v新爲2稍大1。然距v海頗遠而與2歌意1不v合。但擧v大遺v小世俗之常也。故舍v此取v彼。淺野瀑遂隱而不v顯、紅葉瀑之名獨存而已。不2亦冤1乎。今按2地誌1距v此|可《ハカリ》2一里1曰2富島1。在2机浦1。瀕海田中立v※[石+曷]勒2古歌一首1以表v之。而不v録2歳月事跡1。是以勝蹟湮滅識者亦希。從v是經2長間〔日が月〕舟木二村1至2於蟇浦村1曰2野島埼1。蓋砂滷洲渚之區。皆昔時上都往來之埠頭也。今廢矣。然考2諸《コレヲ》古歌1歴々可v徴也已。机浦長島田記兵衛深有v感2於此1。且恐2其去v古益遠益謬1也。乃欲d石立2於斯原1勒2萬葉集所v載長歌1且植2櫻花楓樹1以標c勝蹟u焉。乃請2諸官1。官允2其請1。於v是請2三位千種某卿1書v之以刻2碑面1。又徴3余記2其由1。余嘉2其考v古興v廢不v忘v舊之意1遂爲2之記1。嘉永甲寅三月。國學數官中田※[王+秀]瑩併書
と記してある。此文は時間を惜み又烈日を浴びながら寫したのであるから二三の誤脱があるかもしれぬ。さて此原は其後再牧場となつて居たのを近き頃所謂公園としたのである。瀧は原を西南へ下つた崖下にあつて北面して居る。其前に楓樹が多いが其中には數百年を經たであらうと思はれる大木もあろ。さればこそモミヂノ瀧と云ふのである。瀧の水は湛ひて碧譚となつて居る。富島港から來る途で渡つた小川は此池の末であると云ふ。机南村は今淺野村といふ
 
(凡例、目次は省略)
 
(3671)   天平二十年春三月二十三日左大臣橘家之使者|造酒司《サケノツカサ》(ノ)令史田邊(ノ)△|福《サキ》麿(ヲ)饗2于守大伴宿禰家持(ノ)舘1、爰△2新歌1并使〔左△〕誦2古詠1各述2心緒1
4032 奈呉のうみ爾〔左△〕《ノ》ふねしましかせおきにいでてなみたちくやと見てかへりこむ
奈呉乃宇美爾布禰之麻志可勢於伎爾伊泥※[氏/一]奈美多知久夜等見底可敝利許牟
 契沖雅澄は天平二十年とあるを二十一年の誤とせり。原に從ふべき事卷十七(三六三八頁)にいへる如し○田邊の下に諸本に從ひて史《フヒト》の字を補ふべし。諸兄の私の使として家持の許に來りしなり。造酒司(ノ)令史《サクワン》はいと輕きものなり○爰の下に諸本に依りて作の字を補ふべし。使は諸本に便とあるに從ふべし。事ノツイデニといふ意(3672)なり
 爾は乃の誤ならむ。古義に『平城《ナラ》の京人大海の浪をめづらしみしてよめるなり』といへる如し
 
4033 なみたてば奈呉のうら末〔左△〕《ミ》によるかひのまなきこひにぞとしはへにける
奈美多底波奈呉能宇良末爾余流可比乃末奈伎孤悲爾曾等之波倍爾家流
 上三句はマナキにかゝれる序なり。代匠記に『間ナキ戀とは家持を都にて戀たるを云へり』といへる如し
 
4034 奈呉のうみにしほのはやひばあさりしにいでむとたづはいまぞなくなる
奈呉能宇美爾之保能波夜悲波安佐里之爾伊泥牟等多豆波伊麻曾奈久奈流
(3673) ハヤヒバは既《ハヤ》ク引キナバとなり
 
4035 ほととぎすいとふときなしあやめぐさかづらにせむ日こゆなきわたれ
保等登藝須伊等布登伎奈之安夜賣具佐加豆良爾勢武日許由奈伎和多禮
     右四首田邊(ノ)史《フヒト》福麿
 第四首は所謂古詠なり。はやく卷十(一九九四頁)に出でたり。二三の間〔日が月〕にサレドといふ辭を加ヘて聞くべし。コユはココヲなり
 此處に二十三日の家持の歌若干首と二十四日の歌二首とをおとせるなり
 
   于v時期d之明日將uv遊2覧布勢水海1、仍述v懷各作歌
4036 いかに世〔左△〕《ア》る布勢のうらぞもここだくにきみがみせむとわれをとどむる
伊可爾世流布勢能宇良曾毛許己太久爾吉民我彌世武等和禮乎等登牟(3674)流
     右一首田邊(ノ)史福麿
 期之の之は助字なり。古書に例多し。たとへば播磨風土記に
  所3以稱2大立丘1者品太天皇立2於比丘1見2之〔右△〕地形1、故號2大立丘1
とあり。此集卷十二(二六八六頁)にも但高安王左降任2之伊與國守1也とあり。下にも例あり
 世は諸本に安とあるに從ふべし。イカニアルはイカニ面白キなり
 
4037 乎敷《ヲフ》のさきこぎたもとほりひねもすにみともあくべきうらにあらなくに
    一云、きみがとはすも
乎敷乃佐吉許藝多母等保里比禰毛須爾美等母安久倍伎宇良爾安良奈久爾
    一云伎美我等波須母
(3675)     右一首守大伴宿禰家持
 福麿の問に答へたるなり。一云は第二句の一案なり
 
4038 (たまくしげ)いつしかあけむ布勢のうみのうらをゆきつつたまもひりはむ
多麻久之氣伊都之可安氣牟布勢能宇美能宇良乎由伎都追多麻母比利波牟
 イツシカアケムはハヤモ明ケナムにてハヤ明ケヨカシとなり。タマモは玉ヲモなり。古義に玉藻とせるは非なり
 
4039 おとのみにききて目に見ぬ布勢のうらを見ずばのぼらじとしはへぬとも
於等能未爾伎吉底目爾見奴布勢能宇良乎見受波能保良自等之波倍奴等母
 ノボラジは京に還らじとなり
 
(3676)4040 布勢のうらをゆきてし見てば(ももしきの)おほみやびとにかたりつぎてむ
布勢能宇良乎由吉底之見弖波毛母之綺能於保美夜比等爾可多利都藝底牟
 見テバは見タラバなり
 
4041 うめのはなさきちるそのにわれゆかむきみがつかひをかたまちがてら
宇梅能波奈佐伎知流曾能爾和禮由可牟伎美我都可比乎可多麻知我底良
 はやく卷十(一九五六頁)に見えたり。これも古歌を誦せしならむ
 
4042 ふぢなみのさきゆく見ればほととぎすなくべきときにちかづきにけり
敷治奈美能佐伎由久見禮婆保等登藝須奈久倍吉登伎爾知可豆伎爾家(3677)里
     右五首田邊(ノ)史福麿
 藤の房は本より末に向ひてさきゆくものなればサキユクといへるなり
 
4043 あすのひの敷勢のうら末〔左△〕《ミ》のふぢなみにけだしきなかずちらしてむかも
    一頭云、ほととぎす
安須能比能敷勢能宇良末〔左△〕能布治奈美爾氣太之伎奈可須知良之底牟可母
    一頭云保等登藝須
     右一首大伴宿禰家持和之
     前件十首歌者二十四日宴作之
 ケダシは或ハなり。來ナカズの主格は無論霍公鳥なり。結句はソノ藤花ヲイタヅラニ散ラシメムカといへるならむ。結句のおちつかざる、五句三十一言に所懷をまと(3678)め得ざる共に心ゆかず。所詮家持は歌ずきのみ
 イカニアルといふ歌以下八首なれば契沖は
  十首と云は誤なり。八首なり。是は後人の誤れるなるべし。八首の中に古歌一首あればそれを除て七首と云へるを書生の誤て十に作れる歟。但二十三日宴の歌も古歌を除けば三首なるを右四首と註したれば今も八首なりけむをや
といひ雅澄は卷頭の歌以下十二首を同時の歌として卷頭の歌の題辭の註に
  二十三日いかがなり。下の自註に前件云々二十四日云々とあればなり
といひ又今の左註の註に
  凡十二首の中二首は(ホトトギスイトフトキナシ云々とウメノハナサキテルソノニ云々とは福麻呂の誦《トナヘ》たる)古歌なれば除て十首としるせるなるべし。この自註にて共に二十四日の宴なることしられたり
といへり。案ずるに卷頭の歌の題辭に各〔右△〕述2心緒1とあれば福麻呂の歌の次に家持の歌若干首ありしが失せたるなり。さてそれらの歌は本の如く二十三日の宴の作なり。又其次に二十四日の宴の歌二首ありしなり。其歌を受けてこそ于v時期之云々と(3679)は書けるなれ。されば前件十首歌者云々の左註は後人の書けるにあらで家持の書けるなり。又十首は八首の誤にあらず。目録に八首とあるは脱落後の今本に合せて後人の記せるなり。さて二十三日に福麻呂の誦せし四首のうちに古歌一首あり二十四日の十首のうちにも少くとも古歌一首あれど左註はそれを除かずして右四首田邊史福麿と書き右五首云々又前件十首云々と書けるなり
 
   二十五日往2布勢水海1道中馬上口號二首
4044 はまべよりわがうちゆかばうみべよりむかへもこぬかあまのつりぶね
波萬部余里和我宇知由可波宇美邊欲利牟可倍母許奴可安麻能都里夫禰
 ウチは添辭なり。馬に鞭打つの謂にあらず。ウミベは海邊にあらで海の方なり。邊と書けるは假宇なり○ムカヘモはムカヘニモのニを省けるなり。卷二(一三一頁)なる
  山タヅノ迎カユカム、卷六(一〇八一頁)なる山タヅノ迎マヰデムキミガ來マサバも(3680)亦ニを省きたりと見べし。コヌカは來ヨカシなり
 
4045 おきべよりみちくるしほのいやましにあがもふきみがみふ根《ネ》かもかれ
於伎敞〔左△〕欲里美知久流之保能伊也麻之爾安我毛布伎見我彌不根可母加禮
 初二は序。卷四にもアシベヨリミテクルシホノイヤマシニとあり。ミフネは福麻呂を載すべき舟なり。カレはカノ舟ハとなり
 契沖雅密はこゝに右二首大伴宿禰家持といふことを脱せるなりといへり。ただそれのみならず歌七首をおとせるなり。なほ下にいふべし
 
   至2氷邊〔二字左△〕1遊覧之時各述v懷作歌
4046 かむさぶるたるひ女《メ》のさきこぎめぐり見れどもあかずいかにわれせむ
可牟佐夫流多流比女能佐吉許伎米具利見禮登裳安可受伊加爾和禮世(3681)牟
     右一首田邊(ノ)史福麿
 氷邊は諸本にも目録にも水海とあり。之に從ふべし
 カムサブルは物古リタルなり。タルヒメといひし處は今知るべからず
 
4047 たるひめ野《ノ》うらをこぎつつけふの日はたぬしくあそべいひつぎにせむ
多流比賣野宇良乎許藝都追介敷乃日婆多奴之久安曾敝移比都伎爾勢牟
     右一首遊行女歸|土師《ハニシ》
 野《ヌ》を當時はやく訛りてノともいひしかば野の宇をテニヲハのノに假れるなり
 遊行女婿は音にてユギヤウニヨフとよむべし。遊行上人の遊行と同意なり。扶桑略記には遊行之女とあり。遊行女婦といふも、ウカレメといふも住處を定めざるよりいへるにて住處を定めざるは生計上久しく一處に居りがたき爲なり。されば今の(3682)田舎まはりの藝人の如き生活をせしものと知るべし。後世の書にアリキ白拍子といふもの見えたり。アリキはやがて遊行なり。但アソビといひ遊女といふは遊興の義なるべし
 
4048 たるひ女のうらをこぐふねかぢまにも奈良|野《ノ》わぎへをわすれておもへや
多流比女能宇良乎許具夫禰可治末爾母奈良野和藝敝乎和須禮※[氏/一]於毛倍也
     右一首大伴△△家持
 ワスレテオモヘヤは近くは卷十七(三六三七頁)にも見えたり。忘レムヤハといふことなり。第二句はウラコグフネノとあるべきなり。カヂマは梶トル間なり
 
4049 おろかにぞわれはおもひし乎不《ヲフ》のうらのありそ野《ノ》めぐり見れどあかずけり
於呂可爾曾和禮波於母比之乎不乃宇良能安利蘇野米具利見禮度安可(3683)須介利
    右一首田邊(ノ)史福麿
 オロカはオホロカの略にて尋常といふことなり。愚の意にはあらず。古今集戀二なるオロカナル涙ゾ袖ニ玉ハナスのオロカも然り。見ヌ前ハオホロカニゾ思ヒシとなり
 
4050 めづらしききみがきまさばなけといひしやまほととぎすなにかきなかぬ
米豆良之伎吉美我伎麻佐波奈家等伊比之夜麻保等登藝須奈爾加伎奈可奴
     右一首掾《マツリゴト》久米(ノ)朝臣廣繩
 イヒシはイヒツケオキシなり○廣縄は池主が越前掾に轉ぜし後任として來れるなり
 
4051 多胡のさきこのくれしげ爾〔左△〕《ミ》ほととぎすきなきとよ米《メ》ば波太《ハダ》こひめや(3684)も
多胡乃佐伎許能久禮之氣爾保登等藝須伎奈伎等余米波婆〔二字左△〕太古非米夜母
     右一首大伴宿禰家持
     前件十五首歌者二十五日作之
 第二句の語例は卷三(三六八頁)にコノクレ茂爾とあり。彼處にいへる如く爾を彌の誤としてシゲミとよみてシゲキニと譯すべし(コノクレは樹陰なり)。シゲミをシゲともいふやうなればもとのまゝにてシゲニとよみてシゲミニの意とすべきかとも思へどさらばノを添へてコノクレノシゲニといふべきなり。卷三(五七五頁)に木立之〔右△〕繁爾とあるを思へ。又同卷(三六八頁)なるサクラバナ木晩《コノクレ》茂爾オキベニハ鴨妻ヨバヒはコノクレノシゲニの意とすればサクラバナのをさまる處なし○米を古義に末の誤としたれどトヨメナバの意にてトヨメバといへるなればもとのまゝにて可なり○波婆は婆波の顛倒ならむ。さて波太を從來タを清みてハタとよめり。(3685)そのハタを古義に
  ハタはそのもと心にねがはぬことなれど外にすべきすぢなくて止ことなくするをいふ詞なり
といへるは富士谷成章の『里言にセウコトモナイコトといふ義あり』といへるを敷衍したるなれどこゝには當らず。案ずるに波太はタを濁りてハダとよむベきにて卷十五(三三〇〇頁)なるワガユヱニ波太ナオモヒソのハダと同じく甚といふ意ならむ
 ハマベヨリといふ歌以下八首なるを前件十五首といへるは七首の歌をおとせるなり
 
   掾久米朝臣廣繩之館饗2田邊(ノ)史福麿1宴歌四首
4052 ほととぎすいまなかずしてあすこえむやまになくともしるしあらめやも
保登等藝須伊麻奈可受之弖安須古要牟夜麻爾奈久等母之流思安良米(3686)夜母
     右一首田邊(ノ)史福麿
 アスコエムは明日越エテ歸ラムとなり。シルシアラメヤモはカヒヤナカラムにおなじ
 
4053 このくれになりぬるものをほととぎすなにかきなかぬきみにあへるとき
許能久禮爾奈里奴流母能乎保等登藝須奈爾加伎奈可奴伎美爾安敞〔左△〕流等吉
     右一首久米(ノ)朝臣廣繩
 コノクレは緑蔭なり
 
4054 ほととぎすこよなきわたれともしびをつくよになぞへそのかげも見む
保等登藝須許欲奈枳和多禮登毛之備乎都久欲爾奈蘇倍曾能可氣母見(3687)牟
 コヨはココヲなり。第四句は月ニ代ヘテとなり。二十六日の夜にて月は無ければかくいへるなり
 
4055 かへる△末《ヤマ》のみちゆかむ日はいつはた野《ノ》さかにそでふれわれをしおもはば
可敝流末能美知由可牟日波伊都波多野佐加爾蘇泥布禮和禮乎事於毛波婆
     右二首大伴宿禰家持
     前件歌者二十六日作之
 契沖はカヘルマは歸間なりといひ千蔭は地名のカヘルにマを添へたるなりといひ雅澄は千蔭の説に從ひてただ末《マ》を未《ミ》の誤とせり。三説皆非なり。末《マ》の上に夜《ヤ》をおとせるなり。カヘル山(又カヒルといひて鹿蒜と書けり)は越前國南條敦賀二郡の界にありていにしへの官道に當れり。五幡は敦賀郡にあり。鹿蒜山の西口ならむ
 
(3688)   大〔左△〕上皇|御《マシマシシ》2在於難波宮1之時(ノ)哥七首
    左大臣橘宿禰歌一首
4056 ほり江にはたましかましを大皇乎〔左△〕《オホキミノ》みふねこがむとかねてしりせば
保里江爾波多麻之可麻之乎大皇乎美敷禰許我牟登可年弖之里勢婆
 以下七首は田邊福麿より傳聞して録せるならむ。大は諸本に太とあり。太上皇は元正天皇なり。此時(天平二十年三月)にはなほ世にましまし翌四月にかくれ給ひき。契沖が『去年四月まで御在世にて』といひ雅澄が『太上天皇御在世のほどありしことを』といへるは今年を誤りて天平二十一年としたるが爲なり。さて此七首はいつの作にか知られず
 乎は之の誤ならむ○卷十九にも同じ人の作れる
  むぐらはふいやしきやども大皇のまさむとしらば玉しかましを
といふ歌あり
 
    御製歌一首 和
(3689)4057 たましかずきみがくいていふほり江にはたましきみててつぎてかよはむ
      或云、たまこきしきて
多萬之賀受伎美我久伊弖伊布保理江爾波多麻之伎美弖々都藝弖可欲波牟
      或云多麻古伎之伎弖
     右一〔左△〕首、件歌者御船泝v江遊宴之曰左大臣奏并御製
 ツギテはツヅキテなり。コキはヤナギサクラヲコキマゼテのコキにて添辭なり。古義に『緒に貫たる數々の玉をこきおろす御意なり』といへるは非なり。こゝに玉といへるはうつくしき小石にて緒に貫きたる玉にはあらず
 右一首とあるは右二首の誤なり。奏の下にも御製の下にも歌の字を補ひて見べし
 
     御製敬一首
4058 たちばなの登乎〔左△〕《トノ》のたちばなやつ代にもあれはわすれじこのたちばな(3690)を
多知婆奈能登乎能多知波奈夜都代爾母安禮波和須禮自許乃多知婆奈乎
 乎は略解にいへる如く乃などの誤なり。タチバナノ殿は諸兄の館なり。ヤツ代ニモはイヤツ代ニモにて長クとなり。橘ヲ忘レジとのたまひて卿ヲ忘レジといふ御意を寓したまへるなり
 
     河内女王歌一首
4059 たちばなのしたでるにはにとのたててさかみづきいますわがおほきみかも
多知婆奈能之多泥流爾波爾等能多弖天佐可彌豆伎伊麻須和我於保伎美可母
 シタデルは卷十九にも
  春の苑くれなゐにほふ桃の花したでる道にいでたつをとめ
(3691)とあり。雅澄は『シタデルは下照にて橘花の地まで照徹れるをいふ』といへり。橘花にはあらで黄熟せる橘子をよめるなり。又シタデルはシタニ照ルのニを省けるなり。シタは地なり○トノタテテは御幸を迎へ奉る爲に新に殿を建てしなり○サカミヅキはサカミヅクといふ動詞のはたらけるにて酒宴を催す事なり
 
    栗田女王歌△△
4060 つきまちていへにはゆかむわがさせるあからたちばなかげに見えつつ
都奇麻知弖伊敝爾波由可牟和我佐世流安加良多知婆奈可氣爾見要都追
      右件歌者在2於左大臣橘卿之宅1肆宴(セシトキノ)御△歌并奏歌也
 ツキマチテは月ノ出ヅルヲ待チテなり。サセルはカザセルなり。結句は略解に『影ニミエツツヲカシカランといふをいひ殘せるなり』といへる如し。そのカゲは橘の影なり○久老雅澄はこの太上皇御2在於難波宮1之時歌七首を同時の歌とし第七首に(3692)ナツノヨハとあるによりて夏の歌とし夏は橘子をめづべき時にあらねばアカラタチバナとあるを橘花の事とせり。案ずるにアカラタチバナはアカラヲブネ(三四三一頁)アカラガシハ(卷二十)又俗語のアカラガホと對照するにアカラメル橘といふことなれば橘子ならではかなはず。又前の歌のシタデルも色白き橘花にはふさはず。さればこの七首の歌は皆元正太上天皇が難波宮にましましゝ程の歌にはあれど一時の作にはあらじ。就中橘三首は冬の末又は春の初の作ならむ(もし七首共に同時の作ならば第六首第七首は第二首の次にあるべきなり)
 題辭に一首の二字を脱し左註の御の下に製の字を脱せり
     ○
4061 ほり江より水《ミ》をびきしつつみふねさすし津《ヅ》をのともはかはの瀬ま宇《ウ》せ
保里江欲里水乎妣吉之都追美布禰左須之津乎能登母波加波能瀬麻宇勢
(3693) ミヲビキの語例は卷十五(三二二一頁)にタダムカフミヌメヲサシテ、シホマチテ美乎妣伎ユケバとあり又卷二十にキコシヲス四方ノクニヨリ、タテマツルミツギノ船ハ、ホリ江ヨリ美乎妣伎シツツ云々とあり。古義に『水脈に從て漕行を云』といへるは非なり。ミヲビクは水脈のしるべするをいふ。なほ道のしるべするをミチビクといふが如し。さてそのミヲビキする人と御船さす人とは別人なり。ミヲビキする人は小船に乘りて御船の先に立ちて行くなり。和名抄に水脈船(ハ)美乎比岐能布禰とある是なり。さればミヲビキシツツは正しくはミヲビカセツツ又はミヲビキセサセツツといふべきなり(三二二四頁參照)。さるをミヲビキシツツといへるは卷十七(三五三二頁)にフナダナウチテアヘテコギデメとあるフナダナウチテと同格なり○シヅヲノトモは餞男の伴にて後世のものに下臈ドモといへるに同じ。水手を特に抑へてシヅヲといへるは太上天皇を崇め奉る爲なり。古義に
  棹さす男をひろく打任せて賤男といはむこと今少し心行ぬことなり。故《カレ》シヅヲは棹取男にていにしへ棹さす男の稱にてはあらざりしか。サヲトルをつづむればシヅとなれり
(3694)といへるはいとわろし○カハノ瀬マウセは略解に
  河瀬ヲヨク仕奉レといふ意也。天ノ下申スなどの申と同じ意也
といへる如し。河ノ瀬ニ氣ヲ附ケテ棹《サ》セといふ意なり○マヲスをマ宇スと書けるは音便に從へるなり。當時はやくマヲスをマウスと訛りし事は佛足石碑の歌(卷十二附録)にもユヅリマツラムササゲマ宇サムとあるにて知るべし
 
4062 なつのよはみちたづたづしふねにのりかはの瀬ごとにさをさしのぼれ
奈都乃欲波美知多豆多都之布禰爾能里可波乃瀬其等爾佐乎左指能保禮
      右件歌者御船以2綱手1泝v江遊宴之日作也、傳誦之人田邊(ノ)史福麿是也
 ミチタヅタヅシは樹陰多クシテ道ガヨク知ラレズとなり。ミチといへるは陸路なり。さればこそ次にフネニノリといへるなれ。二註は誤解せり。サヲサシノボレは正(3695)しく云はば樟ササセテノボレとなり○福麿の傳誦せしは最後の二首のみならで七首すべてなるべし
 
   後追2和橘歌1二首
4063 とこよものこのたちばなのいやてりにわご大皇はいまも見るごと
等許余物能己能多知婆奈能伊夜※[氏/一]里爾和期大皇波伊麻毛見流其登
 橘の原産地は所謂常世國なれば橘の准枕辭にトコヨモノといへるなり。初二は序なり○イヤテリニはイヨイヨ輝キテにて所詮イヨイヨ御健ニテなり。イマモミルゴトは今モ見ル如クイマセとなり。ワゴオホキミ(ワガのガが下なるオに引かれてゴとなれるなり。集中に例多し)といへるは元正太上天皇なり。家持の此歌をよみしは此年の三月なり。而して元正上皇の崩御は天平二十年四月廿一日なり。もし契沖雅澄のいへる如く此歌どもの年が二十一年ならば前年四月にかくれ給ひし上皇をイヤテリニワゴオホキミハ今モ見ルゴトといはむやは。此一事によりても今年は天平二十年なることを知るべし
 
(3696)4064 大皇《オホキミ》はときはにまさむたちばなのとののたちばなひたでりにして
大皇波等吉波爾麻佐牟多知婆奈能等能乃多知波奈比多底里爾之※[氏/一]
    右二首大伴宿禰家持作之
 前の歌とほぼ同想なり。即オホキミハトキハニマサムはワゴオホキミハ今モミルゴトに當りヒタデリニシテはイヤテリニに當れり。三四は序なり○ヒタデリニシテのシは助辭なり。ヒタデリは純照《フタデリ》なり。照らざる時なきなり
 
   射水郡驛舘之屋(ノ)柱(ニ)題著《シルシツケタル》歌一首
4065 あさびらきいり江こぐなるかぢのおとのつばらつばらに吾家《ワギヘ》しおもほゆ
安佐妣良伎伊里江許具奈流可治能於登乃都波良都婆良爾吾家之於母保由
    右一首山上臣作、不v審v名、或云、憶良大夫之男、但其正名未v詳也
 射水郡の驛館はいづくにありしか。古義に
(3697)  兵部式に越中國驛馬布勢五疋と見えて和名抄に射水郡布西とあれば布勢驛なるべし
といへれど兵部省式に
  越中國驛馬 坂本、川合、亘理、白城、磐瀬、水橋、布勢各五疋、佐味八疋
とありて此布勢は水橋(今の中新川郡)と佐味(今の下新川郡)との間なれば射水郡(今の氷見郡)の布勢にあらで今の下新川郡の布勢なり。射水郡の驛館は坂本(礪波郡)と川合(婦負郡)との間なるべきを式に擧げざるを思へばはやく廢せられしならむ
 上三句はツバラツバラにかかれる序なり。楫の音のツバラツバラ(今いふチャブチャブ)と聞ゆるをコマゴマトの意なるツバラツバラにいひかけたるなり
 此歌は福麿が驛館にやどりて屋の柱に書附けたるを見て家持に語りしならむ。家持は國府附近なる驛館にやどらむ事あるべからず
 
   四月一日掾久米朝臣廣繩之館宴歌四首
4066 うの花のさくつきたちぬほととぎすきなきとよめよふふ里〔左△〕《ミ》たりとも
宇能花能佐久都奇多知奴保等登藝須伎奈吉等與米余敷布里多里登母
(3698)     右一首守大伴宿禰家持作之
 里は諸本に美とあり〇サク月はサクベキ月なり。フフミタリトモは卯花ガマダツボミタリトモなり
 
4067 ふたがみのやまにこもれるほととぎすいまもなかぬかきみにきかせむ
敷多我美能夜麻爾許母禮流保等登藝須伊麻母奈加奴香伎美爾妓可勢牟
     右一首遊行女婦|土師《ハニシ》作之
 
4068 をりあかしこよひはのまむほととぎすあけむあしたはなきわたらむぞ
乎里安加之許余比波能麻牟保登等藝須安氣牟安之多波奈伎和多良牟曾
     二日應〔左△〕2立夏(ノ)節1、故謂2之明旦將1v喧也
(3699)    右一首守大伴宿禰家持作之
 ヲリアカシは起明シテなり
 應は古義に
  おもふに膺にはあらざるか。五卷書牘の文に孟秋|膺〔左△〕《アタル》v節と見えたればなり
といへり○謂之の之は助字なり。上(三六七三頁)に期d之〔右△〕明日將uv遊2覧布勢氷海1とある之と同例なり
 
4069 あすよりはつぎてきこえむほととぎすひとよのからにこひわたるかも
安須余里波都藝弖伎許要牟保登等藝須比登欲能可良爾古非和多流加母
    右一首|羽咋《ハグヒ》郡(ノ)擬主張〔左△〕能登(ノ)巨〔左△〕|乙美《オトミ》作△
 ヒトヨノカラニは神代紀に一夜之間をヒトヨノカラニとよめるを見れば一夜ノ間ニといふことなるが如くなれどさる意とすればこゝにかなはず。古義には
(3700)  此は一夜ノ故《カラ》ニといふなるべし。カラは人妻故ニなどいふユヱと同意の言なり。さらばこゝもタダ一夜バカリナルモノヲと云意とすべし
といへり。之に從ふべし。因にいふ。神代紀なる一夜之間〔日が月〕は此集卷九詠2浦島之子1歌なる三藏之|間《ホド》爾の如くヒトヨノホドニとよむべきにあらざるか
 羽咋郡は後の能登國の内なり。諸本に張は帳、巨は臣とあり。主帳は郡の第四等官にて擬主帳は郡書記心得なり。作の下に之の字あるべし
 
   詠2庭中(ノ)牛麥花1△一首
4070 ひともとのなでしこうゑしそのこころたれに見せむとおもひそめけむ
比登母等能奈泥之故宇惠之曾能許己呂多禮爾見世牟等於母比曾米家牟
    右先(ノ)國師(ノ)從僧清見可v入2京師1、因設2飲饌1饗宴、于v時主人大伴宿禰家持作2此哥詞1送《ススムル》2酒(ヲ)清見1也
(3701) 牛麥は即瞿麥なり。花の下に歌の字あるべし
 四五は君ニ見セムト思ヒテ殖エソメシヲとなり
 國師は國分寺第一の官僧なり。先とあるを見ればその國師うせて從僧清見の京に歸らむとせるならむ。可は將の意なり。送酒はこゝにては杯をさして酒をすゝむるなり。略解に贈洒の意とせるは非なり。儀禮《ギライ》聘禮に公拝送v禮また遊仙窟に兒|與《タメニ》2少府公1送v酒とありて字書に送(ハ)將也とあり
    ○
4071 (しなざかる)こしのきみ能〔左△〕《ラア》とかくしこそやなぎかづらきたぬしくあそばめ
之奈射可流故之能吉美能等可久之許曾楊奈疑可豆良枳多努之久安蘇婆米
     右郡司已下子茅〔左△〕已上諸人多集2此會1、因守大伴宿禰家持作2此歌1也
(3702) カクシコソは毎年カクとなり○能は諸本に良とあり。略解に
  能は崇《アガム》る詞也。集中例多し
といひ古義に
  能は助辭なり。略解に崇詞なりといへるはあたらず
といへり。こゝのキミ能は卷三(三四七頁)なる志斐能ガシヒガタリとも、卷十四(三〇一二頁)なるセナ能ガソデモとも同例とは認むべからず。
  志斐能は志斐ノ媼ガの媼を略したるなるべければ無論ここと齊しからず。又ここはキミナノとあらでキミノとあればセナノと同例ならず(三〇一三頁參照)
されば諸本に能を良に作れるに從ふべし
 茅は諸本に弟とあり。此會といへるは清見の送別會なり
 
4072 (ぬばたまの)よわたるつきをいくよふとよみつついもは和禮〔左△〕《ワビ》まつらむぞ
奴波多麻能欲和多流都奇乎伊久欲布等余美都追伊毛波和禮麻都良牟(3703)曾
    右此夕月光遅|流《シキ》和風稍扇、即因2屬目1聊作2此歌1也
 イクヨフはいにしへイク夜カといへばフルといひカなき時はフといひしにてイク夜ネザメヌと同例なり(義門の活語雜話第七十九にいへるは少し異なり。參照すべし)○ヨミツツは數ヘツツなり○和禮マツラムゾを古義に『本郷の妻女の待らむ心を月光につきておもひやれるなり』といへれど家持の妻は年を經て待ち渡れるをイク夜フトヨミツツとはいふべからず。又我ヲ待ツラムゾの意ならばワヲマツラムゾとあるべし。案ずるに和禮は和備の誤にて妹は諸人の妻をいへるならむ。即各郡の郡司等が清見の祖宴に列せむとて家を出でて皆數日を經たれば其妻どもが月を見て家を出でしよりの日數をかぞへてわび待つらむといへるなるべし
 月光遅流の流は布《シク》にて月の遅く出でしなり。和風はあらからざる風にて春風に限らず。稍扇は肌に快きなり
 古義には此三首の歌を三月末の作としたれど三首の初に詠2牛麥花1歌あれば此三首はおそらくは天平二十年の夏の作ならむ。或は云はむ第二首にヤナキカヅラキ(3704)とあればなほ春の歌ならむと。答へて云はむ。柳は夏もかづらくべし。和風に稍扇といへるも夏なれば云へるならむと
 
   越前國(ノ)掾大伴宿禰池主來贈歌三首
  以2今月十四日1到2來深見村1望2拜彼北方1、常念2芳徳1、何日能休、兼以2隣近1、忽増2戀△1、加以《シカノミニアラズ》先書云△、暮春可v惜、促膝未v期、生別悲兮、夫復何言、臨v紙悽斷、奉状不備
      三月十五日大伴宿禰池主
    一、古人云
4073 つき見ればおなじくになりやまこそはきみがあたりをへだてたりけれ
都奇見禮婆於奈自久爾奈里夜麻許曾波伎美我安多里乎敝太弖多里家禮
 上なる掾久米朝臣廣繩之館宴歌四首には四月一日とあり以下七首の歌には三月(3705)十五日、三月十六日とあれば雅澄は錯亂と認めて彼四首を此七首の次に移したり(かくするについて清見祖宴の歌三首を三月末の作とせざるを得ざりしなり)ごはいみじきさかしらわざなり。四首と七首とは顛倒せるにあらず。此歌の前に若干首の歌のおちたるにて今の本にて云はばヌバタマノ夜ワタル月ヲまでは天平二十年の作、此歌以下は天平二十一年の作なり(三六三八頁參照)
 到來はキタリとよむべし(キタリは來イタリの約なり)」播磨風土記に伊和君等族到2來−居於此1、但馬國朝來(ノ)人到2來−居於此處1など例いと多し○深見は延喜式なる驛名に見えたり。其名今は殘らざれど加賀、越中の國界なる礪波山に近かるべし、加賀は當時越前の内なりき。越中の國府は深見より東北方に當れり。これによりて望2拜彼北方1といひ下にも身異2胡馬1心悲2北風1といへるなり○兼以2隣近1は其上御近處マデ參リタレバとなり。戀の下に古義に從ひて緒の字を補ふべし。戀緒ははやく卷十七(三五四九頁及三五七七頁)に見えたり。下にも見えたり。加以は宣命などに見えてシカノミニアラズとよめり○先書云は元暦校本に先書云々とあるを可とす。先書は先に家持より池主に贈りし書牘なり。さて暮春可v惜促膝未v期はその書牘中の辭にあ(3706)らず。書牘中の辭は池主の原文にはありしを家持が之を寫し留むるに當りて省き棄てゝ云々としたるなり〇促膝は對座なり。未期はイマダ期アラズとよむべし。悽斷は悲しみて絶えむとする意なり。唐人の詩にも送v君一爲v別、悽斷故郷情とあり
 古人云は代匠記に
  此は第十一に人麿集歌に月ミレバ國ハ同ジゾ山ヘナリウツクシ妹ハヘナリタルカモ、此歌の意は今にかなひて下句の言は叶はねば作りかへながら本は古人の意なるを以てかくは題せられたるなり
といへる如し
    一、屬v物(ニ)發v思
4074 櫻花今ぞ盛と雖人云《ヒトハイヘド》我《ワレハ》さぶしもきみとし不在者《アラネバ》
櫻花今曾盛等雖人云我佐夫之毛伎美止之不在者
 屬物發思は物ニツキテ思ヲオコスなどよむべし
 サブシは面白カラズなり。君トは君ト共ニなり。卷四(六一六頁)にワレハサブシヱ君ニシアラネバとあり
(3707)    一、所心耳
4075 あひおもはずあるらむきみをあやしくもなげきわたるかひとのとふまで
安必意毛波受安流良牟伎美乎安夜思苦毛奈氣伎和多流香比登能等布麻泥
 耳の字諸本に歌とあり。二註はそれに從へり。屬物發思の下に歌の字なく家持の答歌にも答所心とのみあるを見ればなほ通本に從ふべきに似たり
 二註に『男女相聞のさまによめる也』といへる如し
 
   越中國(ノ)守大伴△△家持報贈歌四首
    一、答2古人云1
4076 (あしひきの)やまはなくもがつき見ればおなじきさとをこころへだてつ
安之比奇能夜麻波奈久毛我都奇見禮婆於奈自伎佐刀乎許己呂敝太底(3708)都
 略解に
  是は古歌にあらず。家持卿の歌也
といへる如し○オナジキ佐刀ヲは原歌にもたれてオナジキ國ヲといはば越中越前を混同する嫌あれば(池主は越前の掾にて今同國深見村に來れり)已むを得ずして里といへるならむ。サトヲは里ナルヲなり○ココロヘダテツは山ガ心ヲ隔テツとなり。古義に
  末句は同ジ心ナルヲ里ヲ隔テツと云意なるべし。里と心とをしばらくおき換て心得べし
といへるはいみじきひが言なり。もしさる意ならばオナジ心ヲ里ヘダテケリなどこそいふべけれ。案ずるにココロヘダテツは疏遠ニシタとなり。一首の意は
  空ニハ界ナケレバ月ヲ見レバ里ハ同ジキヲ山コソ二人ヲ疏遠ニシタリケレ、イカデソノ山ナクモガナ
といへるなり○因にいふ。ヘダツルといふ語今は甲ト乙トノ中ヲ遮ルといふ意と、(3709)甲ト乙トガ丙ヲ中ニオクといふ意と兩樣に用ふるをいにしへは多くは前意に用ひたり(但下なる七夕歌にアマテラス神ノ御代ヨリ、ヤスノ河中ニヘダテテといへる如く後意に用ひたる例もあり)
    一、答2屬目〔左△〕發思1兼詠2云〔左△〕遷任舊宅西北隅櫻樹1
4077 わがせこがふるきかきつのさくらばないまだふふめりひと目見にこね
和我勢故我布流伎可吉都能佐具良波奈伊麻太敷布賣利比等目見爾許禰
 屬目は屬物とあるべし。契沖は
  魔物と屬目と末はひとつなる上に下に更屬目と云へるは今を踏める詞なれば今の本を正義とす
といへれど池主の屬物發思に答へたるなれば物とあるべき事勿論なり。又屬物と屬目とは同じからず。前者の屬はツキテなり。後者の屬はツクルなり○詠云は詠之(3710)の誤ならむ。上(三六七三頁及三六九八頁)にも于v時期2之〔二字右△〕明日將1v遊2覧布勢水海1また故謂2之〔二字右△〕明旦將1v喧也とあり。その之は助辭なる事はやく云へる如し○遷任舊宅は越中掾たりし時の舊宅なり
 フルキはモトノなり
    一、答2所心1、即以2古人之跡1代2今日之意1
4078 こふといふはえも名づけたりいふすべのたづきもなきはあがみなりけり
故敷等伊布波衣毛名豆氣多理伊布須敝能多豆伎母奈吉波安賀末奈里家利
 略解に
  エモ名ヅケタリは淺クモ名ヅケタリ也。エナラズのエとおなじ
といひ古義は之に左袒して更に
  伊勢物語にイヘバエニイハネバムネニサワガレテ心一ツニナゲク比カナとよ(3711)めるエも同じかるべし
といへり。エナラズ、イヘバエニのエにおなじといへるは可なり。エモを淺クモといふことなりといへるは非なり。このエはアヘ(敢)の約なり。神代紀にも不敢來をエコジとよめり。すべて得行カズ、行キ得ズなど常にいふエは皆このエなり。さてエモ名ヅケタリは思ヒ切ツテ名ヅケタ事ヨとなり
  因にいふ。伊勢物語なるイエバエニは一つの熟語にてそのエニは不得なり。不得をエニといふはなほ不知をシラニといふが如し。さればイヘバエニは言ハムト欲スルニ得言ハズといふことなり
 ○題辭に以2古人之跡1云々といへれば略解にいへる如く古歌を借り用ひたるなり
    一、更(ニ)矚v目(ヲ)
4079 みしま野にかすみたなびきしかすがにきのふもけふもゆきはふりつつ
美之麻野爾可須美多奈妣伎之可須我爾伎乃數毛家布毛由伎波敷里都(3712)追
     三月十六日
 契沖は矚を屬の誤とし雅澄は目をも物の誤とせり。案ずるに矚目は屬目におなじ。南史張暢傳にも見えたり。雅澄は更とあるを前の屬物にあたりて更といへるなり
として屬目を屬物の誤としたるなれど更といへるは本來の答歌三首の外に更に一首を添へたれば更といへるなり。下に別(ニ)所心一首とある別に似たり
 ミシマ野は和名抄郷名に射水郡三島とあり。地方誌には今の二口村附近なりとあれど卷十七なる思2放逸(ノ)鷹1歌に三島野ヲソガヒニ見ツツ二上ノ山トビコエテとありこゝなるも家ながら見遣りたる趣なれば國府に近き處とおばゆ(三六二九頁參照)○卷五なる
  うめの花ちらくはいづくしかすがにこのきの山に雪はふりつつ
などを學びたるなり。シカスガニは然モなり○第二句はカスミタナビクといひ切るべきをタナビキといへるは卷一なるワタツミノトヨハタ雲ニイリ日サシなどの古格を學びたるか。さらばタナビキはタナビキヌと心得べし。又はタナビ久とあ(3713)りしを伎とうつし誤れるか
 
  姑《ヲバ》大伴氏坂上郎女來2贈越中守大伴宿禰家持1歌二首
4080 つねひとのこふといふよりはあまリにてわれはしぬべくなりにたらずや
都禰比等能故布登伊敷欲利波安麻里爾弖和禮波之奴倍久奈里爾多良受也
 ツネヒトノは常人ノにあらず。常ニ人ノなり。さるからに清音の比を書けるなり。下にも
  わがせこがこととるなべにつね比とのいふなげきしもいやしきますも
とあり○アマリニテはアマリテにてそのニはナリニタラズヤのニにおなじ。ナリニタラズヤはナリニタラズヤハ、ナリニタリとなり。はやく卷五(八九四頁)にもアヲヤギハカヅラニスベクナリニケラズヤとあり
 
4081 かたおもひをうまにふつまにおほせもてこしべにやらばひとか多〔□で囲む〕は(3714)むかも
可多於毛比遠宇萬爾布都麻爾於保世母天故事部爾夜良波比登加多波牟可母
 カタオモヒは我片思なり。フツマは太馬にて太りたる駄馬なり○モテはモチテなり。モチが當時はやくうつりてモテとなれるなり。古義にモタセの約とせるは非なり。もしモタセならばオヒモタセとこそいふべけれ。コシベは越の國方《クニベ》なり○カタハムを略解に
  後撰集山風ノ花ノ香カドフフモトニハとよめるカドフに同じく今カドハスなどいふごとくかすめぬすむこと也
といひ古義も之に左袒して
  カドフ、カダフとドダを濁りて唱ふべきにこゝに多の清音の字を用たるは正しからざるにや
といへり。濁音の語に清音の字を充てたるは集中にその例少からねど多は衍字にて人買ハムカモなるべし。戯に片思を京より鄙に持ち下る商品に擬したるならむ
 
(3715)   越中守大伴宿禰家持報歌并所心三〔左△〕首
4082 (あまざかる)ひなの都夜〔左△〕故《ヤツコ》にあめひとしかくこひすら波〔左△〕《ク》いけるしるしあり
安萬射可流比奈能都夜故爾安米比度之可久古非須良波伊家流思留事安里
 下に別所心一首とあればこゝは二註にいへる如く報歌二首とあるべきなり。目録には二首とあり
 都夜故を舊訓にミヤコとよめるを大平が夜都故の顛倒としてヤツコとよみ改めたるは一發見なり。ヒナノヤツコは家持がへりくだりて己を云へるなり○アメヒトは所謂天人なり。後の世にはアマビトといへり。郎女を崇めて天人に比したるなり○コヒ須良波を略解に『戀スルナラバと云を略けるなり』といへるはいみじきひが言なり。古義に世列波の誤とせるもよからず。波を久玖などの誤とすべし。カク戀スラクにてカク戀フル事ハといふ意なり
(3716)4083 つねのこひいまだやまぬにみやこよりうまに古非〔二字左△〕《ツミ》こばになひあへむかも
都禰能孤悲伊麻太夜麻奴爾美夜古欲利宇麻爾古非許婆爾奈比安倍牟可母
 ヤマヌニはナクナラヌニなり。古非はツミの誤ならむ。ウマニツミコバの對格は新なる戀なり○ニナヒアヘムカモは荷ヒ得ムヤハなり
 
   別(ニ)所心一首
4084 あかときに名のりなくなるほととぎすいやめづらしくおもほゆるかも
安可登吉爾名能里奈久奈流保登等藝須伊夜米豆良之久於毛保由流香母
 
    右四日附v使贈2上《ノボス》京師1
 略解に上三句を序とせるは非なり。序歌にあらず。古義にいへる如く霍公鳥の聲を(3717)郎女の音づれにたぐへたるなり
 四日を契沖は四月の誤とし雅澄は四月四日の誤とせり。月はもとより日をも記すべきなれば後者に從ふべし
 
   天平感寶元年五月五日饗d東大寺之古〔左△〕2墾地1使僧平榮等u、于v時守大伴宿禰家持送2酒(ヲ)僧(ニ)1歌一首
4085 (やきだちを)となみのせきにあすよりはもりべやりそへきみをとどめむ
夜岐多知乎刀奈美能勢伎爾安須欲里波毛利敝夜里蘇倍伎美乎等登米牟
 今年四月丁未(十四日)天平二十一年を天平感寶元年と改められき。同月朔の勅の中に寺々ニ墾田《ハリタ》ノ地《トコロ》許奉リとあれば其事にて東大寺の使僧の越中國に下りしなり。古の字は諸本及目録に占とあるに從ふべし。送酒は杯をさすなり。上(三七〇〇頁)にも見えたり
(3718) ヤキダチヲはトナミのト(砥)にかゝれる枕辭なり。ヤキダチヲのヲはウマザケヲミワ、ヤホダテヲホヅミ、ミハカシヲツルギなどのヲにひとしくて一種の助辭なり。ノをヲといひしにはあらず(三四一二頁參照)○モリベは番人なり
 
   同月九日諸僚會2少目《セウサクワン》秦《ハダ》(ノ)伊美吉《イミキ》石竹《イハタケ》之館1飲宴、於v時主人造2百合花
縵三枚1疊2置《カサネオキテ》豆器(ニ)1捧2贈賓客1、各賦2此縵1作〔左△〕三首
4086 あぶら火のひかりに見ゆるわがかづらさゆりのはなのゑまはしきかも
安夫良火能比可里爾見由流和我可豆良佐由利能波奈能惠麻波之伎香母
    右一首守大伴宿福家持
 略解に諸僚の下にヲをよみ添へたるはわろし。縵の字にはカヅラの義なし。我邦にて鬘に通用せしなり。疊はカサネなり○豆《トウ》はいにしへ支那に行はれし禮器にて木にて作り漆を塗りて飲食物を盛るものなり。されどこゝはそれにはあらで我邦の(3719)ツキをみやびやかに豆器と書けるなり。ツキは土器《カハラケ》にて同じく飲食物を盛るものなればなり(之に高き臺を添へたるをタカツキといふ)。大平が豆は燈かといひ雅澄がそれに依りて豆器をアブラツキとよめるはわろし〇二註に作の下に歌の字を補へり。作を歌の誤ともすべし
 アブラ火ノ光ニ見ユルワガカヅラは己が著けたる百合の花鬘の影がうつりて見ゆるをいへるなり。上(三六九一頁)にワガサセルアカラタチバナ影ニミエツツとよめるに似たる趣なり。アブラ火は油に燈心をひたしてともせる火なり○ワガカヅラにて切れたる如くなれど實はノを省けるにて上四句は序なり。ヱマハシはウレシなり
 
4087 ともし火のひかりに見ゆるさゆりばなゆりもあはむとおもひそめてき
等毛之火能比可里爾見由流佐由理婆奈由利毛安波牟等於母比曾米弖伎
(3720)     右一首介|内藏《ウチノクラ》(ノ)伊美吉繩麿
 上三句は序なり。ユリモは宣長のいへる如く後ニモなり(一五四三頁參照)○アハムトは相會ハムトなり。今日ノ會ノオモシロサニといふことを加へて聞くべし
 
4088 (さゆりばな)ゆりもあはむとおもへこそいまのまさかもうるはしみすれ
左由理波奈由利毛安波牟等於毛倍許曾伊末能麻左可母宇流波之美須禮
     右一首大伴宿禰家持和
 イマノマサカは現在なり。ウルハシミスレは仲善クスレとなり。伊勢物語にイトウルハシキ友とあり
 
   獨居2幄裏1遙聞2霍公鳥(ノ)喧1作歌一首并短歌
4089 高御座《タカミクラ》 あまの日繼《ヒツギ》と すめろぎの かみのみことの きこしをす くにのまはらに 山|乎《ヲ》しも さはにおほみと 百鳥の 來居てなく(3721)こゑ 春されば ききのかなしも いづれをか わきてしぬばむ うの花の さく月たてば めづらしく 鳴ほととぎす あや女《メ》ぐさ 珠ぬくまでに ひるくらし よわたしきけど きくごとに こころ豆〔左△〕《ウ》ごきて うちなげき あはれのとりと いはぬときなし
高御座安麻能日繼登須賣呂伎能可未能美許登能伎己之乎須久爾能麻保良爾山乎之毛佐波爾於保美等百島能來居弖奈久許惠春佐禮婆伎吉能可奈之母伊豆禮乎可和枳弖之努波無宇能花乃佐久月多弖婆米都良之久鳴保等登藝須安夜女具佐珠奴久麻泥爾比流久良之欲和多之伎氣騰伎久其等爾許己呂豆呉枳弖宇知奈氣伎安波禮能登里等伊波奴登枳奈思
 幄はアゲバリにて一種の天幕なれどこゝは屋裏といはむにひとしかるべし
 初句はタカミクラニのニを省けるなり。アマノヒツギトは天皇トシテとなり。アマノ日ツギは古くはアマツ〔右△〕日ツギといへり。此頃よりアマノともいふやうになりし(3722)にこそ。續紀の宣命にアマノ〔右△〕曰ツギといへるは光仁天皇寶龜三年五月の詔ぞ初なる○キコシヲスはシロシメスなり。シロシメスソノ國ノマホラニとなり○國ノマホラニの語例は卷五(八五一頁)に
  このてらす日月のしたは、あまぐものむかぶすきはみ、たにぐくのさわたるきはみ、きこしをすくにのまほらぞ
 又卷九(一七六八頁)に
  つくばねをさやにてらして、いぶかしき國のまほらを、つばらかにしめしたまへば
とあり。邊地に對して中國をいへるなり○山乎シモサハニオホミトの乎は元暦校本には無し。野ヲヒロミなどのヲなればありても可なれどシモを添へたるはめづらし。下にもココヲシモアヤニタフトミといへり。シモとトとは助辭にて山ガ多サニとなり。マホラニは來ヰテナクと照應せるなり。キキノカナシモは聞クニカハユシとなり○イヅレヲカワキテシヌバムはソノ百千鳥ノイヅレヲカワキテメデムといふ意にてめでたきものながらなほ等類あるをいへるなり。古義に『春鳥の聲を(3723)ほめてさて霍公鳥トイヅレヲ取ワキテコトニメデムと云るにて』といへるは非なり。以上春の百鳥の事をいひ、さて主題なる霍公鳥の事をいはむとするなり○タマヌクは珠ニ貫クのニを省けるなり。菖蒲をものするは五月の事なればウノ花ノ以下六句は四月ヨリ五月マデといへるなり。マデニはただマデといふにおなじ○ヒルクラシヨワタシを二註に終日終夜といふこととせり。ワタシはワタラシなり。されば日ヲ暮レシメ夜ヲ渡ラシメなり。二註の説是なるべし○豆は契沖以下の宇の誤とせるに從ふべし。ウゴキテは感勒シテなり○アハレナルといはでアハレノといへるはイヤトコ葉ノ樹(一一一九頁)などと同格なり。アハレは上のカナシにおなじ
 
   反歌
4090 ゆくへなくありわたるともほととぎすなきしわたらばかく夜〔左△〕《ゾ》しぬばむ
由具敞〔左△〕奈久安里和多流登毛保等登藝須奈枳之和多良婆可久夜思努波(3724)牟
 初二は往クベキ方ハ無ク始終ココモトニ居ルトモといふ意なり。二註の釋は誤れり。ユクヘには往キシ方の意なると往クベキ方の意なるとあることはやく云へる如し。又四五はもとのまゝならば鳴キ渡リダニセバ今ノ如クメデムカと釋くべけれどカクヤはカクゾとあるべし。カク夜の夜は曾の誤字ならざるか。シヌバムはメデムなり○ワタルの重出せる心ゆかず
 
4091 うの花の△開〔左△〕《トモ》にしなけばほととぎすいやめづらしも名のりなくなべ
宇能花能聞爾之奈氣婆保等得藝須伊夜米豆良之毛名能里奈久奈倍
 開を從來サクとよめり。宜しく元暦校本に從ひて登聞の誤脱としてトモニシナケバとよむべし。ウノ花ノトモニはウノ花ト共ニなり。はやく卷八(一五二五頁)に
  ほととぎす來なきとよもすうの花の共にや來しととはましものを
とあり○結句はナクママニといへるなり。但蛇足なり
 
4092 ほととぎすいとねたけくは橘のはなちるときにきなきとよむる
(3725)保登等藝須伊登禰多家口波橘能播奈治流等吉爾伎奈吉登余牟流
     右四首十日大伴宿禰家持作之
 ネタケクハはニクキ事ハとなり。キナキトヨムルは來ナキトヨメテ物思ハスルナリとなり○十日は五月十日なり
 
   行2英遠《アヲ》(ノ)浦1之日作歌一首
4093 安乎のうらによするしらなみいやましにたちしきよせくあゆをいたみかも
安乎能宇良爾餘須流之良奈美伊夜末之爾多知之伎與世久安由乎伊多美可聞
     右一首大伴宿禰家持作之
 アヲノ浦は今の氷見郡氷見町の北方に阿尾村ある是なり。タチシキヨセクは略解に立|重《シキ》寄來なりといへる如し。アユは東風又東北風の方言なり(三六一六頁及三六三五頁參照)。アユヲイタミカモは東風《アユ》ガ強ケレバニヤとなり
 
(3726)     △d賀2陸奥國出1v金 詔書u哥一首并短歌
4094 葦原の みづほ△《ノ》國を あまくだり しらしめしける すめろぎの 神のみこと能〔左△〕《ヨ》 御代かさね 天の日嗣と しらしくる きみの御代御代 しきませる 四方(ノ)國には 山河を ひろみあつみと たてまつる 御調寶《ミツギダカラ》は  かぞへえず つくしもかねつ しかれども 吾|大王《おほきみ》の もろびとを いざなひたまひ 善《ヨキ》事を はじめたまひて くがねかも △ た能し氣〔□で囲む〕くあらむと おもほして したなやますに (鶏鳴《トリガナク》) 東《アヅマ》(ノ)國の みちのくの 小田|在《ナル》山に 金有《クガネアリ》と ま宇し多〔左△〕麻敝〔左△〕禮《マツレ》 御心を あきらめたまひ 『天地《アメツチ》の 神あひうづなひ 皇御祖《スメロギ》の 御靈《ミタマ》たすけて 遠《トホキ》代に 可〔左△〕《ナア》かりしことを 朕《アガ》御世に あらはしてあれば 御食國《ヲスクニ》は さかえむもの』と かむながら おもほしめして もののふの 八十|件雄《トモノヲ》を まつろへの むけのまにまに 老人も 女童兒《ヲミナワラハ》も しが願《ネガフ》 心だらひに 撫|賜《タマヒ》 治|賜《タマヘ》ば ここをしも あやに(3727)たふとみ うれしけく いよよおもひて 『大伴の 遠つ神祖《カムオヤ》の 其名をば 大來目主と おひもちて つかへし官《ツカサ》 海行者《ユカバ》 みづく屍《カバネ》 山|行者《ユカバ》 草むす屍 大皇《オホキミ》の へにこそ死《シナ》め かへり見は せじとことだて 大夫《マスラヲ》の きよき彼《ソノ》名を いにしへよ いまのをつつに ながさへる おやの子どもぞ、 大伴と 佐伯《サヘギ》(ノ)氏|者《ハア》 人祖《ヒトノオヤ》の 立る辭立《コトダテ》 人(ノ)子|者《ハ》 祖《オヤ》(ノ)名|不絶《タタズ》 大君に まつろふものと いひつげる ことのつかさぞ、 梓弓 手にとりもちて 劍大刀 こしにとりはき あさまもり ゆふのまもりに △ 大王の 三門《ミカド》のまもり われをおきて 且〔□で囲む〕ひとはあらじ』と いやた弖〔左△〕《ケク》 おもひしまさる 大皇《オホキミ》の 御言の左吉乃〔左△〕《ヲ》【一云乎】 聞者《キケバ》貴み
     一云貴くしあれば
葦原能美豆保國乎安麻久太利之良志賣之家流須賣呂伎能神乃美許等能御代可佐禰天乃日嗣等之良志久流伎美能御代御代之伎麻世流四方(3728)國爾波山河乎比呂美安都美等多弖麻豆流御調寶波可蘇倍衣受都久之毛可禰都之加禮騰母吾大王能毛呂比登乎伊射奈比多麻比善事乎波自米多麻比弖久我禰可毛多能之氣久安良牟登於母保之弖之多奈夜麻須爾鶏鳴東國能美知能久乃小田在山爾金有等麻宇之多麻敝禮御心乎安吉良米多麻比天地乃神安比宇豆奈比皇御祖乃御室多須氣弖遠代爾可可里之許登乎朕御世爾安良波之弖安禮婆御食國波左可延牟物能等可牟奈我良於毛保之賣之弖毛能乃布能八十伴雄乎麻都呂倍乃牟氣乃麻爾麻爾老人毛女童兒毛之我願心太良比爾撫賜治賜婆許己乎之母安夜爾多敷刀美宇禮之家久伊余與於母比弖大伴能遠都神祖乃其名乎婆大來目主登於比母知弖都加倍之官海行者美都久屍山行者草牟須屍大皇乃敝爾許曾死米可弊里見波勢自等許等大〔左△〕弖大夫乃伎欲吉彼名乎伊爾之敝欲伊麻乃乎追通爾奈我佐敞〔左△〕流於夜能子等毛曾大伴等佐伯氏者人祖乃立流辭立人子者祖名不絶大君爾麻都呂布物能等伊比都雅流許等(3729)能都可左曽梓弓手爾等里母知弖劔大〔左△〕刀許之爾等里波伎安佐麻毛利由布能麻毛利爾大王能三門乃麻毛利和禮乎於吉弖且比等波安良自等伊夜多弖於毛比之麻左流大皇乃御言能左吉乃【一云乎】聞者貴美
   一云貴久之安禮婆
 黄金はいにしへは我邦に産せず殆皆外國より輸入せしなり。されば供給常に乏しかりし上に聖武天皇の御時東大寺に慮舎那《ルサナ》佛の像を造りそれに塗り絵ふにつけて需要俄に増ししかば天皇もその不足を憂へ給ひたりしに天平二十一年二月に陸奥(ノ)國(ノ)守より其國小田郡に出でたりと申して始めて黄金を奉りしかば天皇大きに喜び給ひて四月朔に此事を遍く官民に宣り給ひき。その詔書の寫を家持が越中國にて拝見し殊に詔詞に特に大伴佐伯二氏の事を述べたまへるに感激して此歌を作れるなり。朝野群載卷十六所収東大寺大佛殿前板文に
  以2天平勝賓四年歳次壬辰三月十四日1始奉v塗v金
とあり、吾妻鏡建久六年三月十二日東大寺供養の處に
(3730)  天平勝寶四年壬辰三月十四日始奉v泥2金於大佛1(金(ハ)天平廿年始自2奥州1所v獻也。是爲2吾朝砂金金之始1云々)
とあり。大日本古文書卷十三(二〇七頁)に出せる天平勝寶九歳正月の造東寺司沙金奉請文も亦之に關せる史料なり。塗金は勝寶四年より始めて此年(改元寶字元年)に至りて終りしなり○まづ題辭は何とよむべきか。前註の如く陸奥國ヨリ金ヲ出シシ詔書ヲ賀スとよまむか。金ヲ出シシヲ云々スル詔書と云はでは辭足らざる上に詔書ヲ賀スとあらむも穩ならず。おそらくはもと賀の上に拜の宇などのありしをおとせるにて拜d賀2陸奥國出1v金詔書u歌とよむべきならむ
 美豆保の下に乃能などをおとせるなり。こゝはノをよみ添へがたし。さてミヅホノ國ヲはアマクダリを隔てゝシラシメシケルにかゝれるなり。アマクダリはアマクダリテとテを加へてアシ原ノの上に移して心得べし○古義に神ノミコト能以下四句を神ノミコトノ、天ノ日嗣ト、御代カサネ、シラシクルとおきかへて心得べしといへるは神ノミコトをシラシクルの主格と認めたるなれどシラシクルの主格はキミなれば更に神ノミコトを主格とは認むべからず。案ずるに能は欲の誤ならむ。(3731)さらばカミノミコトヨとよみてそのスメロギノ神ノミコトは瓊々杵尊の御事とすべし。キミは代々の天皇なり○ヒロミアツミトのトは例の如く省きて見べし。山河ガ厚ク廣ケレバとなり。ミツギダカラは貴重ナル貢物なり○モロビトヲ以下は詔詞に
  食國《ヲスクニ》天下ノ諸國《クニグニ》ニ最勝王經ヲ坐《マセ》、廬舎那《ルサナ》佛作奉ト爲《シ》テ……衆人《モロビト》ヲイザナヒ率《ヰ》テ仕奉(ル)心ハ禍|息《ヤミ》テ善成《ヨクナリ》、危變《アヤフキカハリ》テ全|平《タヒラガ》ムト念テ仕奉間ニ衆人ハ不成《ナラジ》カト疑、朕《アレ》ハ金少《スクナケ》ムト念憂ツツ在《アル》ニ
とあるに據れるなり。善事はやがて大佛を造り給ふ事なり○多能之氣久安良牟登は九言なる上にこゝにをり合はず。古義に
  此は詔詞の如く少氣久安良牟とあるべきをかくあるはいかがなり。もしは多能之と云に少の義あるか
といへれどタノシといふに少といふ意はあるベからず。おそらくは
  くがねかもすくなくあらむ、そをえてば〔十二字傍点〕たのしくあらむと
とありしを中間〔日が月〕の二句をおとし又誤りて氣を挿みたるならむ。タヌシクをタ能シ(3732)クといへるは夙く訛れるなり○シタナヤマスニは心ニ惱ミ給フニなり○小田ナル山は此事によりて黄金山といふ名を負ひき。延喜式神名帳に小田郡黄金山神社とある即是なり。今の陸前國遠田郡|元涌谷《モトワクヤ》村にあり。同國牡鹿郡金華山とするは非なり○マウシはマヲシを訛れるなり。多麻敝禮を略解に
  タマフの詞は上へ對して敬ふにも自らのうへにも古くいふ詞也
といひ古義にも
  タマフは尊む方にいふが定りなれど尊き方に對ひて自いふにも云る事多し
といへれど助動詞のタテマツルに近きタマフルは下二段活なればタマヘレとは云ふべからず。又こゝはただ奏スルニといふべき處にはあらで奏シテ獻ズルニといふべき處なれば多麻敝禮を弖麻都禮の誤としてマウシテマツレとよむべし。詔詞にも
  聞食《キコシメス》食國《ヲスクニ》ノ東(ノ)方陸奥國ノ小田郡ニ金出在《クガネイデタリ》ト奏《マヲシ》テ進《タテマツ》レリ
とあり○アキラメタマヒは晴シ給ヒなり○アメツチノ以下十句は天皇のおぼしめす状《サマ》なり。ウヅナヒは同意とうつすべし。可カリシの可は眞淵が奈の誤とせるに(3733)從ぶべし。さてアメツチノ以下は詔詞に
  天(ニ)坐《マス》神、地《クニ》(ニ)坐神ノ相ウヅナヒ奉《マツリ》サキハヘ奉リ又天皇(ノ)御靈タチノ惠賜ヒ撫賜フ事(ニ)依テ顯シ示給フ物|在《ナラ》シト念召《オモホシメセ》バ……天下ヲ撫|惠《メグ》ビ賜事理ニ坐《マス》君ノ御代ニ當《アタリ》テ可在《アルベキ》物ヲ拙《ヲヂナ》クタヅカナキ朕《アガ》時ニ顯シ示|賜《タマヘ》レバ
とあるに依れるなり○マツロヘノムケノマニマニを古義に
  マツロヘノは令2服從1之《カツロヘノ》にて皇化に服《シタガ》ひ仕奉らしむるがためなり。ムケノマニマニは令趣之任《ムケノマニマニ》なり。ムケはコトムケのムケにておもむき從はしむる謂なり。天皇の天下萬民を惠み撫給ふはまつろひおもむきつかしむる御わざなればかくいへり
といへれどなほ心得がたからむ。案ずるにマツロヘノムケノマニマニはマツロヘノマニマニ、ムケノマニマニ(マツロフルママニ、ムクルママニ)を略せるにて所詮|懷《ナヅ》ケタマフニ伴ナヒテといふことなり○女童兒毛を二註にメノワラハコモとよみたれど特にメノといふべき理由なければ契沖の如くヲミナワラハモとよみて婦女モ童兒モと心得べし○シガはソレガなり。シガネガフ心ダラヒニはソレガ願フ(3734)心ノ滿足スルヤウニとなり。但ネガフが心のみにかゝらで心ダラヒにかゝれるは正しからず。
  卷七(一二五五頁)なる妹ガリト我通路ノシヌススキ、卷十三(二八〇一頁)なるアリトキキテ吾通路ノオギソ山ミヌノ山、卷八(一四九九頁)なるミユキフル遠山邊モ、卷十(二一四八頁)なるヒトトセニフタタビユカヌ秋山ヲなどはワガカヨヒヂ、トホキヤ マベ、アキヤマとよまでワガカヨフミチ、トホヤマノヘ、アキノヤマとよめば語格はとゝのへど今の歌并に卷九(一七六三頁)なるシマヤマヲイユキモトホル河副《カハゾヒ》ノなどは外によみやうなければ語格を誤れるものと認めざるべからず
 ヲサメは俗語の取立なり○ココヲシモアヤニタフトミはソレガイトタフトサニとなり。上(三七二〇頁)なる山ヲシモサハニ多ミトと同格なり○ウレシケクはウレシキ事といふ意なれどしか心得てはここにかなはず。否こゝはウレシクの延言とせではかなはざれど、いにしへウレシクを延べてウレシケクと云ひし事なし。よりて思ふにはやく此頃より誤りてウレシケクをウレシクの延言とせしならむ。さてウレシケクイヨヨオモヒテは下なる伊夜多弖オモヒシマサルと照應せるなり。辭(3735)を換へて云はば大トモノより人ハアラジトまでの四十句は家持の所懷なり○大伴氏は天孫に從ひて天降りし天之忍日《オシヒ》(ノ)命の子孫にて忍曰命の曾孫(又は玄孫)道(ノ)臣(ノ)命は神武天皇の時の功臣なり。さて古事記には
  故《カレ》爾《ココ》ニ天(ノ)忍曰(ノ)命、天津久米《アマツクメ》(ノ)命二人……御前《ミサキ》ニ立チテ仕ヘマツリキ。故ソノ天忍日命コハ大伴(ノ)連《ムラジ》等(ノ)祖、天津久米命コハ久米(ノ)直《アタヒ》等ガ祖ナリ大伴(ノ)連等ガ祖道(ノ)臣(ノ)命、久米(ノ)直等ガ祖大久米(ノ)命二人
などありて天(ノ)忍日命又は道臣命と天津久米命又は大久米命とを同列の神又は人とせるを日本紀には
  大伴(ノ)連ノ遠祖天(ノ)忍日(ノ)命、來目部ノ遠祖天(ノ)※[木+患]津《クシツ》大來目ヲ帥《ヒキ》ヰテ云々
  大伴氏之遠祖日(ノ)臣(ノ)命(○即道臣命}帥2大來目督將元戎1云々
  乃|顧《ヒソカ》ニ道臣命ニ勅《ノリタマハ》ハク汝大來目部ヲ帥《ヒキ》ヰテ云々
  大伴氏ノ遠祖道臣命大來目部ヲ帥ヰテ云々
  天皇功ヲ定メ賞ヲ行ヒタマフ。道臣命ニ宅地ヲ賜ヒテ築坂《ツキサカ》(ノ)邑ニ居ラシメテ寵異シタマフ。亦大來目ヲシテ畝傍《ウネビ》山以西ノ川邊ノ地ニ居ラシム。今|來目《クメ》邑卜號クル(3736)此《コレ》ソノ縁《モト》ナリ
とあり(此書には神武天皇の時の大久米命といふは見えず)古語拾遺には
  仍《カレ》大伴ノ遠祖天忍日命ヲシテ來目部ノ遠祖天(ノ)※[木+患]津《クシツ》大來目ヲ帥ヰ仗ヲ帶ビテ前駈セシム
  大伴氏遠祖日臣命帥2督將元戎1云々
とありて天(ノ)※[木+患]津大來目又は大來目部を忍日命又は道臣命の部下とせり。これについて記傳卷十五(九〇二頁)に
  此二の傳(○記と紀と)何れか正しからむ知りがたけれども此記に依りて考ふるに久米(ノ)直《アタヘ》は白檮原《カシバラ》の御世大久米命などまでは大伴と相並びたる氏なりしを其子孫に至りては痛く衰へて大伴氏のみ榮えたりしほどに久米は其下に屬《ツケ》る者になれりしを書紀は神代(ノ)卷をも神武(ノ)卷をも後に其子孫の衰へたる時の趣を以て記されたる物と見えたり(○卷十九【一一二六頁】にも)
といひ守部の山彦冊子(五十丁以下)には
  久米と云はただ軍卒の稱《ナ》、そを大久米とも云は天皇のみいくさ人なる故にたゝ(3737)へいひて、部はその部《ムレ》を指せる言なり。……さて然、大久米部てふ皇軍(ノ)衆を帥坐《ヒキヰマセ》る大將軍なる故に道臣命をたゝへて大來目命とも大來目主とも申て此命の外に別に大久米命といひし人の在しにはあらぬなり。……しかるに古事記上卷に天忍日命天津久米命二人云々、又中卷に道臣命大久米命二人云々などあるは記者の誤りいちじるかるを云々
といへり。案ずるに日本紀神武天皇の卷に大久米命といふ名は見えざれど、なほ大來目部に古事記の大久米命に相當する將ありし事を認めたるは曰(ノ)臣命帥2大來目(ノ)督將元戎1と書けるにて明なり。督將は將軍にて元戎は兵士なり。宣長以下(記傳卷十五【九〇二頁】)之を帥2大來目1督2將元戎1と讀みたれど然よむべからざる事は拾遺に日臣命帥2督將元戎1と書けるにて又明なり(但帥の字無き本もあり)。おそらくは大久米命は兵士を有し道臣命は兵士を有せざりしを道臣命の方、門地高かりしかば之を主將とし大久米命をして其兵士を率ゐて副將として道臣命の命を聽かしめられしならむ。さて後兩者の地位やうやう懸絶せしかば大久米命をもこめて紀の下文には大來目部と書けるならむ。ともかくも大伴氏の家傳には大來目部をその遠祖の部(3738)下とし其遠祖を大久米主と稱したればこそ此歌に大伴ノトホツカムオヤノソノ名ヲバ大來目主トオヒモチテといひ卷二十なる喩族歌にもオホ久米ノマスラタケヲヲサキニタテ……ツカヘマツリテといひ其家の本系帳に據りたる新撰姓氏録にも
  初天孫彦火瓊々杵尊ノ神駕ノ降ルヤ天(ノ)押日(ノ)命、大來目部ヲ帥ヰテ御前《ミサキ》ニ立チテ日向(ノ)高千穗(ノ)峯ニ降リキ(○帥の字は代匠記所引に據る)
といへるなれ○ツカヘシツカサの下に如何なるテニヲハを略したりとかすべき。思ふに下にオヤノ子ドモゾといひ、またコトノツカサゾといへるを見ればこゝもツカサゾと云ふべきゾを略したるならむ○ミヅクを略解に水漬也といひ古義に
  水に漬《ツカ》る屍と云なり。ミヅクは二十卷にも美豆久白玉とあるに同じ
といへり。石ニ就クをシヅクといふ如く水ニ就クをミヅクといへるにて今ツカルといふはミヅカルのミを略したるなり。又ツクとツカルとの關係はなほヘダツとヘダタルとの如し○コトダテは言ニ立テにてコトアゲに近き意ならむ。古義に『異立なるべし』といへるは從はれず○ヲツツは現在なり。ナガサヘルは流セルにて傳(3739)ヘタルなり。略解に『末流といふ意也』といへるはいみじきひが言なり。オヤノ子ドモゾは先祖ノ子孫ゾとなり○以上は彼宣命に
  又大伴佐伯(ノ)宿禰ハ常モ云如ク天皇朝守《スメラガミカドマモリ》仕奉事顧ナキ人|等《ドモ》ニアレバ汝《イマシ》タチノ祖《オヤ》ドモノ云來《イヒクラ》ク海|行《ユカ》バミヅク屍、山行バ草|生《ム》ス屍|王《オホキミ》ノヘニコソ死《シナ》メノドニハ不死《シナジ》ト云來ル人等トナモ聞召ス
とあるに據れるなり。彼のものながら兵部省式にも
  凡武藝優長、性志耿介、不v問2水火1必達v所v向、勿v顧2死生1一以當v百者並給2別禄1
とあり○大伴ト佐伯ノ氏ハは下のトを略せるなり。下のトを略したる例は近くは卷十六(三四六一頁)に四《ウ》月ト五《サ》月ノホドニとあり。さて佐伯氏は大伴室屋の時その奏請によりて大伴氏より分れて大伴氏と相並びて宮門の左右を衛り奉りしなり(室屋二男|談《カタリ》をして大伴氏の稱を繼がしめ己は佐伯氏と稱せしが後に談の二男歌佐伯氏を繼ぎき)○タツルコトダテの語例は仁徳天皇紀の御製に
  うまびとのたつることだてうさゆづるたゆまつがむにならべてもがも
とあり。今のコトダテはコトダテニのニを略せるにて人ノ子ハ以下四句はそのコ(3740)トダテの内容なり。人ノオヤは世間の父祖なり○オヤノ名タタズは古義に先祖ノ嘉名ヲ斷タズと譯せり。宣長の説に從ひて名を家業の義とすべきかとも思へど卷三なる丈部龍麿自經死之時歌(五四二頁)にオヤノ名モツギユクモノトといひ卷二十なる喩族歌にムナゴトモオヤノ名タツナといへるを思へばなほ古義の説に從ふべきに似たり。マツロフモノまでが世間の父祖の唱ふる所なり○コトノツカサゾとあるコトノといふこと穩ならず。コトノは言ノにてソノ言ノ如キ世襲ノ官ゾといへるにや○アヅサユミ云々は兩氏は武官の家なればかくいへるなり。アサマモリ云々は兩氏の宮門を奉衛することを云へるなり○アサマモリユフノマモリニのをさまる處なし。恐らくはその下にアヒナラビツカヘマツリテなどいふ二句のおちたるならむ〇三門の三は御の借字なり。ミカドノマモリの下にハを添へて心得べし○且を從來マタとよめり。又代匠記略解には且比等波安良自等の下の等を(九言となるにも拘はらず)上に附け、古義には下に附けたり。案ずるに且を衍字として
  和禮乎於吉弖の弖の字を誤りて二度書き更にその第二の弖を且と誤り書きた(3741)るならむ
 ワレヲオキテヒトハアラジトとよむべし。卷五なる貧窮問答歌(九六六頁)にもアレヲオキテヒトハアラジトホコロヘドとあり○伊夜多弖を略解に
  イヤタテは上にコトダテといふを受く。※[氏/一]の下※[氏/一]の字脱たるかと契沖いへり。さも有べし
といひ古義に
  等伊夜多弖はト禰立《イヤタテ》にて上に異立といへるを受ていよいよそを立るよしなり
といへれど上なるコトダテはコトダテニの略にてコトダテニ云々トイヒツゲルと照應せるなればこゝに至りて更にそを受くべきにあらず。おそらくはイヤタ弖はイヤタ家久の誤脱ならむ。そのイヤタケクオモヒシマサルは上なるウレシケクイヨヨ思ヒテと呼應せるなり〇ウレシケクイヨヨ思ヒテ云々トイヤ猛クオモヒシマサルと中間〔日が月〕を略して見なばたやすく心得らるべし。オモヒシマサルはオモヒゾ〔右△〕マサルと心得べし○御言ノ左吉を略解に
  御言ノサキは御言の幸也。かの詔に大伴佐伯云々|一二《ヒトツフタツ》治賜とある是大伴を幸は(3742)へ給也
といひ古義に之を敷衍して
  幸とは御恩惠を施して臣等をさきはへにぎはしめ賜ふよしにていへり
といへり。左吉は元暦校本及類聚古集には左右とあり。之に從ひてサマとよみてオモムキと心得べきにあらざるか。後世オモムキ、ヤウスなどいふ事をサウとも云ふは左右を音讀したるなり○左吉乃一云乎とあるを略解に
  一書の乎とあるかたよし。キケバ貴ミは上のオモヒシマサルの句へ返る意也
といひ古義に
  キケバを上へうつして御言ノサキノタフトミとつづけて心得べし。六卷にヌバ玉ノ夜ギリノタチテオホホシクテレル月夜乃ミレバカナシサとあるもミレバを上へうつして月夜ノカナシサと心得る言づかひにて今の歌と全同例なり。舊本左吉の下に注して一云乎とあるは用べからず。此はいにしへのことばづかひをよくもわきまへぬ人のみだりに乃を乎に改め寫したる本のありしを仙覺などが校正せるときに注したるなるべし。左吉乎にては調のはえなくきこゆるを(3743)左吉乃と云るにてこそおもしろけれ
といへり。案ずるにこゝは略解にいへる如く聞ケバタフトミイヤタケクオモヒシマサルと返るなれば卷六(一〇九四頁)なるテレル月夜ノ見レバカナシサなどとは同例とすべからず。タフトミのミはイハバユユシミなとのミにて貴キニヨリテと心得べきなればこゝは御言能左吉乎〔右△〕キケバタフトミといふか又は御言能左吉乃〔右△〕タフトクシアレバといふべきなり。おそらくはもと反歌の第一首の如く
  御言能左吉乎【一云乃】聞者貴美【一云貴久之安禮婆】
とありしを本文の乎と註の乃とを顛倒せるならむ
 
   反歌三首
4095 大夫《マスラヲ》のこころおもほゆおほきみのみことの左吉乎【一云能】聞者《キケバ》たふとみ
    一云貴くしあれば
大夫能許己呂於毛保由於保伎美能美許登能佐吉乎【一云能】聞者多布刀美
    一云貴久之安禮婆
(3744) このココロオモホユは例の心ヲモツといふ意なるココロヲオモフの自然形にて心ガモタレルとなり。初二は長歌のイヤタケクオモヒシマサルに當れり
 
4096 大伴のとほつかむおやのおくつきはしるくしめたてひとのしるべく
大伴能等保追可牟於夜能於久都奇波之流久之米多底比等能之流倍久
 オクツキハは奥津城ニハのニを省けるなり。シメタテは標ヲ立テヨにてその標《シメ》は標木(又は標石)なり。標木をシメとい へる例は卷十一(二五三八頁)に
  かくしてやなほやなりなむ大荒木のうき田の杜のしめならなくに
とあり。古義に『シメタテは標ユヒタテヨとなり』といひて標縄の事としたるは非なり○此歌は例の詔詞に
  又御世御世ニ當《アタリ》テ天下|奏《マヲシ》賜ヒ國家《ミカド》護仕奉ル事ノ勝在《スグレタル》臣タチノ侍《ハベル》所ハ置v表《シルシ》テ與2天地1共ニ人ニ不v令v侮不v令v穢治賜フ云々
とあるに依れるなり
 
4097 すめろぎの御代さかえむとあづまなるみちのくやまに金《クガネ》花さく
(3745)須賣呂伎能御代佐可延牟等阿頚麻奈流美知能久夜麻爾金花佐久
  天平感寶元年五月十二日於2越中國(ノ)守(ノ)舘1大伴宿禰家持作之
 ミチノク山は即長歌なるミチノクノ小田ナル山なり。第二句の語例は卷七(一二三一頁)に
  靭《ユギ》かくる件のを廣き大伴に國さかえむと月はてるらし
とあり
 
   爲d幸2行芳野離宮1之時u儲作歌一首并短歌
4098 たかみくら あまの日嗣と 天下《アメノシタ》 しらしめしける すめろぎの かみのみことの かしこくも はじめたまひて たふとくも さだめたまへる みよしぬの このおほみや爾〔左△〕《ヲ》 ありがよひ めしたまふらし もののふの やそとものをも おのがおへる 於能我〔二字左△〕名《オヤノナ》負〔□で囲む〕|名負《ナオヒ》 大王の まけのま久〔左△〕《ニ》ま久〔左△〕《ニ》 (此河の) たゆることなく (此山の) いやつぎつぎに かくしこそ つかへまつらめ いやとほながに
(3746)多可美久良安麻能日嗣等天下志良之賣師家類須賣呂伎乃可未能美許等能可之古久母波自米多麻比弖多不刀久母左太米多麻敞〔左△〕流美與之努能許乃於保美夜爾安里我欲比賣之多麻布良之毛能乃敷能夜蘇等母能乎毛於能我於敝流於能我名負名負大王乃麻氣能麻久麻久此河能多由流許等奈久此山能伊夜都藝都藝爾可久之許曾都可倍麻都良米伊夜等保奈我爾
 儲作は豫作なり。他年從駕せむをりの爲に作れるなり
 タカミクラは高御座ニなり。上なる獨居2幄裏1云々の歌にもタカミクラアマノ日繼ト、スメロギノカミノミコトノ、キコシヲス國ノマホラニとあり。こゝのスメロギノ神ノミコトは應神天皇を指し奉れるなり○ハジメタマヒテのテは削りて見べし。長歌の對句に用ひなれたるテなり○コノオホミヤ爾アリガヨヒメシタマフラシの爾は乎の誤ならむ。反歌にはヨシヌノミヤ乎アリガヨヒメスとあり。アリガヨヒは通ヒツツなり。メシは見の敬語なり。メシタマフラシまでが第一段なり○モノノ(3747)フノヤソトモノヲは文武百官なり○於能我名負名負を宣長は
  オノガ名負弖とありしをかく誤れるならん。先祖ヨリ負ヘル家ノ職ヲ負テといふ也
といひ(記傳卷三十九【二二七二頁】にはオノガナナオヒとよめり)雅澄は上の負を刷りてオノガ名名オヒとよめり。案ずるにオノガ負ヘルといひて更にオノガといふべきにあらず。下の於能我はもと於夜能とありしが上なる於能我よりまぎれたるならむ。名負名負はげに上なる負を衍字としてナナオヒとよむべし。オノガオヘルオヤノ名々オヒは自己ノ負持テル家職家職ヲ負持チテとなり。こゝの名は職業なり(記傳卷三十九【二二七一頁】參照)○麻久麻久は古義にいへる如く麻爾麻爾の誤なり○此河ノ此山ノは此河ノ如ク此山ノ如クとなり
 
   反歌
4099 いにしへをおもほすらしもわごおほきみよしぬのみやをありがよひめす
(3748)伊爾之敝乎於母保須良之母和期於保伎美余思努乃美夜乎安里我欲比賣須
 初二はイニシヘノ御代御代ノ行幸ヲシノビタマフラシとなり。メスは見タマフハとなり
4100 もののふのやそ氏人も(よしぬがは)たゆることなくつかへつつ見む
物能乃布能夜蘇氏人毛與之努河波多由流許等奈久都可倍追通見牟
 第三句は枕辭なり。ヨシ野ノ宮ヲ見ムといふべきをそのヨシヌノ宮ヲを前の歌に讓れるなり
 
    爲v贈2京(ノ)家1願2眞珠1哥一首并短歌
4101 殊洲《スス》のあまの おきつみかみに いわたりて かづきとるといふ あはびたま いほちもがも (はしきよし) つまのみことの (ころもでの) わかれしときよ (ぬば玉の) 夜床かた古〔左△〕《サ》り あさねがみ かきもけづらず いでてこし 月日よみつつ なげくらむ 心なぐさ(3749)余〔左△〕《ニ》 ほととぎす きなく五月の あや女《メ》ぐさ はなたちばなに ぬきまじへ かづらにせよと つつみてやらむ
珠洲乃安麻能於伎都美可未爾伊和多利弖可都伎等流登伊布安波妣多麻伊保知毛我母波之吉餘之都麻乃美許登能許呂毛泥乃和可禮之等吉欲奴婆玉乃夜床加多古里安佐禰我美可伎母氣頭良受伊泥※[氏/一]許之月日余美都追奈氣久良牟心奈具佐余保登等藝須伎奈久五月能安夜女具佐波奈多知波奈爾奴吉麻自倍可頭良爾世餘等都追美※[氏/一]夜良牟
 珠洲《スス》は能登の郡名なり。オキツミカミは契沖が『奥津島山をさして神と云』といへるに從ふべし。反歌の第二首にもオキツ島イユキワタリテといへり。略解に『海を即海神としてよめり』といへるは非なり。もし海の事ならばオキツミカミヲ〔右△〕イワタリテとあるべければなり。更に案ずるに鳳至郡輪島町の正北なる海中に七島《ナナツシマ》あり其又北方に舳倉《ヘクラ》島あり。七島を邊津《ヘツ》島といふに對して舳倉島を奥津《オキツ》島といふ。延喜式神名帳の邊津比※[口+羊]《ヘツヒメ》神社は七島にいまし、奥津比※[口+羊]《オキツヒメ》神社は舳倉島にいませり。さてこゝ(3750)にオキツミカミといへるは即舳倉島なり。因にいふ。神祇志料附考(下卷三四四頁)并に大日本地名辭書に今昔物語に見えたる猫島も舳倉島の事ならむと云へり。イワタリテのイは添辭なり○アハビタマは即眞味なり。イホチは五百なり。五百千にあらず。語例は雄略天皇の御製(古事記)に
  をとめの、いかくる岡を、金※[金+且]《カナスキ》も、いほちもがも、すきばぬるもの
とあり。記傳卷四十二(二四一三頁)に
  イホチのチはハタチ、ミソヂ、モモチ、チヂなどのチにてヒトツ、フタツのツと同くてイホツと云に同じ
といへり。但イホツツドヒ、イホツ綱、イホツ御スマル、イホツ眞榊など下へ續くる時はイホツと云ひてイホチとは云はず。イホチは獨立せる時に云ふなり。さればイホチを下へつづくるにはノを添へてイホチノと云はざるべからず。なほ云はば五百といふことはイホチといひ五百ノといふ事はイホ、イホツ又はイホチノと云ふなり○カタ古リの古は契沖の云へる如く左の誤なり。夜床カタサリは夜床の半を夫の分として避くるなり。熱田縁起なる日本武《ヤマトタケル》(ノ)尊の御歌にも
(3751)  あゆちがた氷上姉子はわれこむととこさるらむやあはれ姉子を
とあり○イデテコシは作者ノ國ヲ出デテ來シなり。心ナグサ余の余は契沖が爾の誤とせるに從ふべし○アヤメグサハナタチバナニは菖蒲及花橘ニなり
 
4102 白玉をつつみてやら波〔左△〕《ナ》あや女《メ》ぐさはなたちばなにあへもぬくがね
白玉乎都々美※[氏/一]夜良波安夜女具佐波奈多知婆奈爾安倍母奴久我禰
 前後の例に依らば此歌の前に反歌四首又は反歌とあるべきなり
 ヤラ波は契沖のいへる如くヤラナの誤なり。ヤラナは遣ラムなり。アヘモヌクガネは交ヘモ貫クベクなり。シラタマは即アハビ珠なり
 
4103 おきつしまいゆきわたりてかづくちふあはびたまもがつつみてやらむ
於伎都之麻伊由伎和多里弖可豆具知布安波妣多麻母我都々美弖夜良牟
 海人ガといふことを略せるなり。又カヅクチフはカツギトルチフを略せるなり
 
(3752)4104 わぎもこがこころなぐさにやらむためおきつしまなるしらたまもがも
和伎母故我許己呂奈具左爾夜良無多米於伎都之麻奈流之良多麻母我毛
 シラタマモガモは白玉モ得テシガモとなり
 
4105 しらたまのいほつつどひを手にむすびおこせむあまはむがしくもあるか
思良多麻能伊保都都度比乎手爾牟須妣於許世牟安麻波牟賀思久母安流香
    一云|我家〔左△〕牟伎波〔左△〕母《ワガウムギセモ》
    右五月十四日大伴宿禰家持依v興作
 初二の語例は卷十(二〇三六頁)にあり。イホツツドヒはあまたの玉のつどひたるをいふ。略解に『イホツ御スマルといふに同じ』といひ古義に『多くの玉を貫集へたるを(3753)いへり』といへれど少くともこゝにては緒に貫きたる玉にあらず○手ニムスビを古義に『すべて緒に貫きたる玉は多くは手にまつひ著くるものなればいへり』といへれどもし手にまとふ事ならば外の例の如く手ニマキテといふべし。否人に玉を贈るにおのが手に纏きては贈るべからず。又海人はみづから玉に孔を穿ちなどはすべからず。思ふに手ニムスビは手ニスクヒならむ○ムガシを古義に
  喜ばしく心にかなひたることにいふ詞なり。靈異記に喜(ハ)ムガシビとあり
といへり。こは日本靈異記上卷なる得2雷之喜〔右△〕1令v生2強力(ノ)子1縁第三の訓註に※[喜/心]牟加之比)とあるを云へるなり。本文には喜とあるを訓註には※[喜/心]としたり。いづれか一つは誤字なるべけれど喜※[喜/心]は意義相似たればムガシといふ語の意を尋ぬるには妨なし。さてこゝの喜は本文に
  汝何報〔右△〕、雷答言也、寄2於汝1令v胎v子而報〔右△〕
とある報に當りて威謝といふことなればムガシはただヨロコバシといふとは少し異にて俗語にアリガタシといふに同じからむ
 一云の我家牟伎波母には誤字あらむ。類聚古集には家を宇に作れり。ワガウムギセ〔右△〕(3754)モにてウムギは感謝といふことならむ。ウムグはウムガシムに同じかるべし。ウムガシムは續紀第十三詔にイソシミ宇牟賀斯美ワスレタマハズまた第二十六詔に宇牟我自彌カタジケナミオモホシメシテとありてオ〔右△〕ムガシムに同じ。さてウムグとウムガシとの關係はなほナゲクとナゲカシとの如し。又本文にムガシクモアルカとあるムガシはやがてウムガシ(又はオムガシ)の頭を省けるなり。セムをセモともいふべきは卷八(一六六三頁)にフル雪ノケヌトカイハモとあるにて知るべし。卷十四なる東歌には今ハイカニセモなどムをモといへる例頗多し○左註に右と云へるは長歌二首短歌六首に亘れるならむ
 
  教2喩史生尾張|少咋《ヲクヒ》1歌一首并短歌
 七出例云 但犯2一條1即|合《ベシ》v出v之、無2七出1輙棄者徒一年半
 三不去云 雖v犯2七出1不v合v棄v之、違者杖一百、唯犯2※[(女/女)+干]惡疾1得v棄v之
 兩妻例云 有v妻更娶者徒一年、女家杖一百離v之
 詔書云 愍2賜義夫節婦1
(3755) 謹案先件數條建法之基化道之源也、然則義夫之道情|存《アリ》2無別(ニテ)一家同財〔左△〕(ナルニ)1豈△v有2忘v舊愛v新之志1哉、所以《コレユヱニ》綴2作數行之歌1令v悔2棄v舊之惑1、其詞曰
4106 おほなむち すくなひこな野《ノ》 神代より いひつぎけら之〔左△〕《ク》 父母を 見《ミレ》ばたふとく 妻子見《メコミレ》ば かなしくめぐし (うつせみの) よのことわりと かくさまに いひけるものを 世(ノ)人の たつることだて 『ちさの花 さけるさかりに △』 (はしきよし) そのつまのこと あさよひに ゑみみゑまず毛〔左△〕《ミ》 うちなげき かたりけまくは 『とこしへに かくしもあらめや 天地《アメツチ》の かみことよせて (春花の) さかりもあら△《ム》』△《ト》 △《マ》たしけむ ときのさかり曾〔左△〕《ヲ》 波〔左△〕居《サカリヰ》て なげかす いもが 何時《イツシ》かも つかひのこむと またすらむ 心さぶしく、南|吹《フキ》 雪消益〔左△〕而《ユキゲハフリテ》 射水河 流水沫《ナガルミナワ》の よるべなみ さぶる其兒に (ひもの緒の) いつがりあひて (にほどりの) ふたり雙坐《ナラビヰ》 那呉のうみの おきをふかめて 左《サ》どはせる きみがこころの すべもすべな(3756)さ〔言2佐夫流1者遊行女婦之字也〕
於保奈牟知須久奈比古奈野神代欲里伊比都藝家良之父母乎見波多布刀久妻子見波可奈之久米具之宇都世美能余乃許等和利止可久佐末爾伊比家流物能乎世人能多都流許等大〔左△〕弖知左能花佐家流沙加利爾波之吉余之曾能都末能古等安沙余比爾惠美々惠末須毛宇知奈氣伎可多里家末久波等己之部爾可久之母安良米也天地能可未許等余勢天春花能佐可里裳安良多之家牟等吉能沙加利曾波居弖奈介可須移母我何時可毛都可比能許牟等末多須良無心左夫之苦南吹雪消益而射水河流水沫能余留弊奈美左夫流其兒爾比毛能緒能移都我利安比弖爾保騰里能布多理雙坐那具〔左△〕能宇美能於伎乎布可米天左度波世流伎美我許己呂能須敞〔左△〕母須弊奈佐 言佐夫流者遊行女婦之字也
 史生《シシヤウ》は目《サクワン》の次にて國司中最低き官なり
 七出と三不去とは令に出で兩妻例は律に出でたるなり。養老刊修の大寶令十卷三(3757)十篇、今はその二篇を失ひ同律十卷十二篇、今は僅にその四篇を存ぜり。七出は戸令に
  凡妻ヲ棄テムコトハ七出ノ状アルベシ。一ニハ子ナキ、二ニハ婬|佚《イツ》、三ニハ舅姑ニ事ヘザル、四ニハ口舌《クゼツ》、五ニハ盗竊、六ニハ妬忌、七ニハ惡疾
とあり。又三不去は戸令に
  棄ツル状アリトイヘドモ三不去アリ。一ニハ經《カツ》テ舅姑ノ喪を持《タス》ケシ、二ニハ娶リシ時ニ賤シカリシガ後ニ貴キ、三ニハ受ケシ所アリテ歸サム所ナキ、即義絶婬佚惡疾ヲ犯サバ此令ニ拘ハラザレ
とあり。戸婚律は法曹至要鈔に引きたれど完からず
  參照 劉|向《キヤウ》の列女傳卷二宋(ノ)鮑(ノ)女宗の傳に
   婦人有2七|見去《ステラルル》方1無2一去義1。七去之道妬忌爲v首。淫僻、竊盗、長舌、驕侮、無子、惡病皆在2其後1
とあり
 〇二註に三不去の下に例の字を補へり。寧七出の下の例を衍とすべきか○詔書を(3758)契沖雅澄は和銅七年六月の大赦詔書としたれど此御代にもさる意の詔書の出でけむを指せるならむ○存は在の義なり。財は躰の誤ならむ。豈の下に可をおとせるか
 總體卷五(八五一頁)なる山上憶良の令反2惑情1歌に倣へり。就中父母ヲ以下六句は彼歌に父母ヲミレバタフトシ、妻子ミレバメグシウツクシ、ヨノナカハカクゾコトワリとあるに依れるなり。メグシはカハユシなり。又ウツセミノ以下の語例は卷十五(三三〇九頁)に
  よのなかのつねのことわりかくさまになりきにけらしすゑし種から
とあり○イヒケルモノヲは上なるイヒツギケラ之と照應せるなればイヒツギケルモノヲの略と認むベし。イヒツギケラ之は宣長の説に久の誤なりといへり。げに然るべし。イヒツギケラクはイヒ繼ギケルヤウハとなり○世ノ人ノタツルコトダテは上なる賀陸奥國出金詔書歌に
  人のおやのたつることだて、人の子はおやの名たたず、大君にまつろふものと、いひつげることのつかさぞ
(3759)とあるに據ればコトダテニのニを省けるなり。さてそのコトダテはコトアゲに近き意なるべき事上にいへる如し○チサノ花はチシャノ木ノ花なり。サケルサカリニの次に若千句おちたるにて當時さる諺ありしをさながら取れるならむ○ツマノコは妻なる女なり。惠美々惠末須毛の毛は美の誤ならむ。卷十一(二四○五頁)にもヱミミイカリミツケシ紐トクとあり。或は笑《ヱ》ミ或ハヱマズとなり○カタリケマクハは足下ガ語リケムヤウハとなり。トコシヘニ以下六句はその語辭なり○トコシヘニカクシモアラメヤはイツマデモカク窮シテアラムヤハとなり。天地ノ神コトヨセテは卷四(六七二頁)なる笠(ノ)金村の長歌にも見えたり。辭モテオホセテとなり○サカリモアラタシケムはアラとタシとの間に官本に牟等末の三宇ありと代匠記にいへり。サカリモアラムトマタシケムは盛モアラムト君ガ待チ給ヒケムとなり○トキノサカリ曾は宣長雅澄が乎の誤とせるに從ふべし。ソノ時ノ盛ナルモノヲとなり。さて時ノサカリは史生に任ぜられたるを云へるなり○波ヰテの波を眞淵は放の誤としてサカリとよめり。之に從ふべし。サカリはハナレなり○ツカヒは夫よりの迎の使なり。マタスラム心サブシクは心サブシク待タスラムと顛倒して心(3760)得べし。卷十七(三五四一頁)なる同人の長歌に
  たらちねの母のみことの、大ぶねのゆくらゆくらに、したごひにいつかもこむと、またすらむ情さぶしく
とあると同格なり。さて心サブシクの次にサルヲといふことを補ひて心得べし。略解に『心サブシクは末のスベモスベナサといふへかゝれり』といへるはひが言なり○ミナミは南風なり。ミナミフキ以下五句はサブルにかゝれる序なり。二註にヨルベナミの序として『旅にてよるべもなきまゝに遊行女婦になれそめしなり』といへるはいみじきひが言なり○雪消益而は略解の如く益を溢の誤字又は略字としてユキゲハフリテとよむべし。下には射水河雪消溢〔右△〕而とあり。ハフリテはアフレテにおなじ卷十四(三一二〇頁)にクニハフリとあるも平地ヲ溢レテなり○ユキゲは雪ギエノ水を略せるにてなほ南風を略してミナミとのみ云へる如し。古義にケを清みてユキ、ケハフリテとよみて消エ溢レテの意とせるは非なり。雪ガ溢レテとはいふべからざるが故なり○流水沫能は舊訓の如くナガルミナワノとよむべし。ナガルルといふべきを古格に依りていへるなり。古義に流を浮の誤とせるは却りてわ(3761)ろし○サブルはウカルル(漢語の放浪)といふ意にて此遊行女婦の名を佐夫流といふは遊行女婦はやがて所謂ウカレメなれば然名づけたるならむ(三六八一頁參照)○ソノといへるは此遊行女婦の名をやがて左夫流といふが故にてサブルソノ兒ニはサブルソノ佐夫流兒ニといはむが如し○ヒモノヲノイツガリアヒテの語例は卷九(一七九三頁)に
  とよ國の加波流はわぎへ紐の兒にいつがりおれば革流はわぎへ
とあり。イツガリのイは添辭にてツガリはツラナリなり○ニホドリノフタリナラビヰは卷五(八四三頁)なる憶良の日本挽歌にも見えたり○那呉ノウミノオキヲの九言はフカメテにかゝれる枕辭にてフカメテは深クなり。例は近くは卷十六(三三七〇頁)にあり○左ドハセルは万ドハセルなどの誤かと思ふに反歌にも佐ドハスとあれば誤にはあらじ。いにしへマドフをサドフともいひしにや。略解に『サとマとかよはしいへる例多し』といへれどサとマとかよふは添辭の時のみ○キミガココロノスベモスベナサは彼日本挽歌の反歌(八四七頁)なる
  はしきよしかくのみからにしたひこしいもがこころのすべもすべなさ
(3762)を學べるなり。スベモスベナサはイハムスベナサといふ意にてスベを重ねたるは意を強めたるなり
 
   反歌三首
4107 (あをによし)奈良にあるいもがたかだかにまつらむこころしかにはあら司〔左△〕《ジ》か
安乎爾與之奈良爾安流伊毛我多可多可爾麻都良牟許己呂之可爾波安良司可
 司は宣長に從ひて自の誤とすべし。結句は彼令v反2惑情1歌の結尾にカニカクニホシキママニハシカニハアラジカとあるを學べるなり。さてそのカニカクニ云々は彼ノ是ノトホシキママニハイカデセム、物ノコトワリサウデハアルマイといふ意(八五五頁參照)なれば今も待ツラム心ヲ思ハザラメヤ、物ノ理サウデハアルマイといふことを省きいへるならむ。二註の釋は從はれず
 
4108 さとびとの見る目はづかし左夫流兒にさどはすきみか美夜泥《ミヤデ》しりぶ(3763)り
左刀妣等能見流目波豆可之左夫流兒爾佐度波須伎美我美夜泥之理夫利
 ミル目ハヅカシはミル目ガ第三者ナル我ニサヘハヅカシといへるなり○ミヤデは卷二(二三四頁)に宮出モスルカサダノクマミヲとあれどこゝは宮出といふべき由なしとて宣長は『美は尼の誤にて閨出か』といひ雅澄は
  こゝは宮出とはいふまじきが如くなれどもこは少咋が遊女にふかく惑ひて彼が家に朝參《ミカドマヰリ》する如く通ふをあざけりてわざと宮出とはいへるなるべし
といへり。案ずるに中世勤仕をおしなべてミヤヅカヘといひし如くいにしへは出勤をおしなべて(即國衙への出勤をも)ミヤデといひしか。シリブリは略解に『ウシロブリにて後にウシロデといへるが如し』といへる如し
 
4109 くれなゐはうつろふものぞつるばみのなれにしきぬになほしかめやも
(3764)久禮奈爲波宇都呂布母能曾都流波美能奈禮爾之伎奴爾奈保之可米夜母
     右五月十五日守大伴宿禰家持作之
 クレナヰを妓女にたとへツルバミノナレニシ衣を本妻にたとへたるなり。ツルバミノ衣ははやく卷七及卷十二に見えたり。ツルバミ即ドングリのかさにて染めたる黒き衣なり。華美なるものと質素なるものとを對照したるなり。ウツロフはサムルなり。ナレニシは著テヨゴレシなり
 
   先妻不v待2夫妻〔左△〕之|喚使《メシヅカヒ》1自來時作歌一首
4110 左夫流兒我〔左△〕《ヲ》いつきしとのにすずかけぬはゆまくだれりさともとどろに
左夫流兒我伊都伎之等能爾須受可氣奴婆由麻久太禮利佐刀毛等騰呂爾
     同月十七日守大伴宿禰家持作之
(3765) 夫妻は諸本に夫君とあるに從ふべし○喚使はメシヅカヒとよむべし。播磨風土記飾磨郡の終の處にも
  大雀《オホササキ》天皇御世遣v人|喚《メス》2意伎《オキ》、出雲、伯耆、因幡、但馬五國造等1、是時五國造即以2召使〔二字右△〕1爲2水手1而向v京之
とあり
 イツキシは斎キシなり。我は乎の誤なり。トノは少咋の館なり。イツキシといひ殿といへるは少咋が左夫流兒を大切にせるを嘲りていへるなり。二註にイツキをイツギと濁りて長歌なるイツガリと同言とせり。就中古義に
  こなたよりいつぐ意の時にはイツギといひかなたにいつがるゝ意の時にはイツガリと云て彼此の差別あるのみなり。たとへばソヒといふと所添《ソハリ》と云との差別のごとし云々
といへるはいみじき誤なり。イツギといふ語もしあらばそれとイツガリとの關係はなほソヒとソハリとの關係の如くイツガリ、ソハリはアリの添はれるまでにて自他の差別などある事なし(ソハリは添有なり。所添にあらず)。又古義に
(3766)  トノは遊女が家をいふべし。遊女の誘ひ引入るゝまにまに少咋が宮中へ朝參するごとくに通ふをわざと嘲りて殿といふなるべし
といへるも非なり。殿は少咋の館なる事上にいへる如し。サブル兒は一處不住の遊行女婦なればおのが家はこゝにあるべからず○ハユマは早馬にて驛々にて乘り替ふる馬なり。スズは所謂驛鈴にて驛鈴をかけぬは私用なるが爲なり。
  驛鈴を携ふれば驛馬を徴發するを得れどその驛鈴は官吏の公用にて旗行するものにのみ賜ひしなり(否公用旅行にても驛鈴は容易に賜はざりしなり)。少咋の妻の越中國に下りしは私用なれば固より驛鈴を賜はるべきにあらず
 古義に『驛鈴をも掛ざるとは先打もなく不慮に下れりと云なるべし』といへるは從はれず○サトモトドロニは本妻ガ京カラ下ッタと一里いひさわぐなり。略解に
  鈴かけぬ驛使の下れるとて人のいひさわぐをかく戯れてよめる也
といひ古義に
  驛鈴をも掛けざる驛使の京より下りて遊女がもとに來著りと里もとどろくばかり衆人のいひさわぐよと少咋が本妻の越中に下れるをたとへていへるなり
(3767)といへる共に非なり。早馬《ハユマ》の鈴を掛けざるを見ていひ騒ぐにあらず早馬の下れるを見ていひさわぐなり。なほいはば少咋が左夫流兒に溺れたるを知れる里人が本妻の早馬にて下れるを見ていひ騒ぐなり。さてその早馬の下れるは無論史生少咋の館なり。遊女の家にあらず○本妻の俄に下りて少咋の狼狽せるを痛快とせるなり
 
   橘歌一首并短哥
4111 かけまくも あやにかしこし 皇神祖《スメロギ》の か見の大御世に 田道間守《タヂマモリ》 常世にわたり やほこもち まゐでこし|△△《カバ》 登吉時支〔左△〕能《トキジクノ》 かぐの菓子《コノミ》を かしこくも のこしたまへれ 國もせに おひたちさかえ はるされば 孫枝毛伊《ヒコエモイ》つつ ほととぎす なく五月には はつはなを えだにたをりて をと女らに つとにもやりみ しろたへの そでに毛〔□で囲む〕こきれ|△《ミ》 かぐはしみ おきてからしみ あゆる實は たまにぬきつつ 手にまきて 見れどもあかず 秋づけば し(3768)ぐれの雨|零《フリ》 (あしひきの) やまのこぬれは くれなゐに にほひちれども たちばなの 成《ナレ》る其實|者《ハ》 ひた照に いや見がほしく みゆきふる 冬にいたれば 霜おけど母〔□で囲む〕 其葉もかれず 常磐なす いやさかばえ爾〔左△〕《ヌ》 しかれこそ 神の御代より よろしなべ 此橘を ときじくの かぐの木實と 名附けらしも
可氣麻久母安夜爾加之古思皇神祖能可見能大御世爾田道間守常世爾和多利夜保許毛知麻爲泥許之登吉時支能香久乃菓子乎可之古久母能許之多麻敞〔左△〕禮國毛勢爾於非多知左加延波流左禮婆孫枝毛伊都追保登等藝須奈久五月爾波波都婆奈乎延太爾多乎理弖乎登女良爾都刀爾母夜里美之路多倍能蘇泥爾毛古伎禮香具播之美於枳弖可良之美安由流實波多麻爾奴伎都追手爾麻吉弖見禮騰毛安加受秋豆氣婆之具禮能雨零阿之比奇能夜麻能許奴禮波久禮奈爲爾仁保比知禮止毛多知波奈能成流其實者比太照爾伊夜見我保之久美由伎布流冬爾伊多禮波霜於氣(3769)騰母其葉毛可禮受常磐奈須伊夜佐加波延爾之可禮許曾神乃御代欲理與呂之奈倍此橘乎等伎自久能可久能木實等名附家良之母
 スメロギノ神ノ大御代は垂仁天皇の御代なり。常世は記紀に常世(ノ)國とありていと遠き國なり○橘に矛、蔭といふことあり。古事記に
  天皇三宅(ノ)連《ムラジ》等ガ祖《オヤ》多遅麻毛理《タヂマモリ》ヲ常世國ニ遣シテ登岐士玖能迦玖能木實ヲ求メシメタマヒキ。故《カレ》多遅麻毛理遂ニ其國ニ二到リテ其木實ヲ抹リテ縵《カゲ》八縵、矛八矛ヲ將チテ來ル間ニ天皇ハヤク崩《カムアガ》リマシキ
 又日本紀に
  天皇|田道間守《タヂマモリ》ニ命《オホ》セテ常世ノ國ニ遣シテ非時ノ香菓ヲ求メシム(香菓此ヲ箇倶能許能未ト云フ)。今橘ト謂フ是ナリ。……田道聞守常世國ヨリ至ル。則|※[(十の左右に口/わがんむり/貝)]《モチキタ》レル物ハ非時(ノ)香菓八|竿《ホコ》八|縵《カゲ》ナリ
とありて持來れるは八矛八蔭なるをこゝには歌なれば略して夜保許《ヤホコ》とのみいへるなり。その蔭、矛は宣長の説(記傳卷二十五【一五三九頁】)に
  蔭橋子とは枝ながら折採て葉も附ながらなるを云なるべし。又桙橘子とはやゝ(3770)長く折たる枝の葉をば皆除き去て實のかぎり著たるを云なるべし
といへり○マヰデコシ登吉時支能を契沖は
  マヰデコシ登吉時支久〔右△〕能
の睨字とし、略解には
  マヰデコシ登吉時敷〔右△〕能
の誤字とし、古義には
  マヰデコシ登布〔二字右△〕登吉時久〔右△〕能
の誤脱とせり。案ずるに
  マヰヂコシ可婆〔二字右△〕登吉時久〔右△〕能
の誤脱とすべし○ノコシタマヘレは遺《ノコ》シ給ヘルニなり○ヒコエは枝より更に出づる稚き枝なり。卷五(八七四頁)にも對馬結石山孫枝とあり○毛伊は毛延、毛衣などの誤か。又はモユはいにしへ上二段にもはたらきしか。義門の山口栞中卷に
  萬葉十八に孫枝毛伊〔右△〕都追といへる毛伊はかくては此詞つねにモユ、モユルと下二段にのみ活ける例に異なり。思ふにこれは中二段(○即上二段)と下二段と二か(3771)たに活く詞なるへし
といひ又
  中二段と下二段と二かたに活く例を也行にありてなほいはばヒユルは也行下二段の活きなる事つねに人みなしれる事なるを此語又は同行(ノ)中二段にも活くとおぼしくて額聚名義妙に冷酢ヒイ〔右△〕スユレルと見え和名鈔(水漿(ノ)條)にも冷酢讀2比伊〔右△〕須由禮流1トと見えたり。さて又寒鴟を古伊〔右△〕太流止比と和名抄羽族體の條鳴の注にいへるをみるにこれも也行の中二段と下二段とにはた活く例なるべし(繼體紀に寒の字コイとし雄略紀には寒字コユとよめる、これらもとならひある事なるべし)
といへり。又箋註倭名鈔にはヒイスユレルの箋(卷四の三十八丁)に
  按ズルニ比伊ハ即比衣ノ轉ナリ。猶寒鴟ノ寒ヲ古伊卜讀ム類ノゴトシ
といひコイタルトビの箋(卷七の四十九T)に
  醫心方ニ寒戦ヲ己《コ》伊於〔左△〕乃乃久ト訓メリ
といへり○エダ爾といへる心得がたし。二註にいへる如く枝ナガラといふ意か○(3772)ツトニモヤリミはオキテカラシミと相對せり。略解にうつせる如くヤリモシ枯シモシなり○シロタヘノソデニモコキレはカグハシミオキテカラシミとは別事なれば(即甲は乙の手段にあらねば)コキレにミを添へてコキレミといひてヤリミ、カラシミと相對せしむべきなり。毛はけだし衍字か。コキレは枝より花を扱きて袖に入るるなり○オキテカラシミを二註に『木に置枯らしもし也』といへるは非なり。カグハシサニ折リ置キテ枯ラシモシといへるなり。卷十(二〇八六頁)に
  しら露のおかまくをしみ秋はぎををりのみをりておきやからさむ
 卷十四(三一六八頁)に
  あしひきのやまかづらかげましばにもえがたきかげをおきやからさむ
とあるを見ても折り置きて枯らす事なるを知るべし○アユルは墜ツルなり。二註に熟する事とせるはいみじきひが言なり(一五四八頁參照)。タマニは珠トなり○秋ヅケバは秋サレバなり(二一七九頁參照)。ニホヒチレドモはニホヒテ散レドモにてそのニホヒテはモミヂシテなり○ヒタデリニはかがやかぬ時なきなり。上(三六九六頁)にも見えたり。ミガホシは見マホシなり○霜オケド母の母は衍字か。トキハナ(3773)スは床磐ノ如クなり
  因にいふ。トキハは元來床磐のつづまれるにてその床磐は平坦なる磐なり。又草木にいふトキハは枝ニ霜フレドイヤ常葉ノ樹(一一一九頁)などいひてもとトコハなるを訛りてトキハといひて終に床磐のトキハと混同し文字も雙方より一字づつ取りて常磐と書くことゝなれるなり
 ○イヤサカバエは前註にいへる如く彌榮《イヤサカバエ》なり。爾は奴の誤ならむ○神ノ御代は初なるスメロギノカミノ大御世とおなじくて垂仁天皇の御代なり○ヨロシナベはフサハシクといふことゝおぼゆ。語例は近くは卷六なる赤人の長歌(一一一五頁)に
  カムサビテ見レバタフトク、ヨロシナベミレバサヤケシとあり○トキジクノは不斷ノなり。盛の久しきなり
   反歌一首
4112 橘は花にも實にもみつれどもいや時じくになほし見がほし
橘波花爾毛實爾母美都禮騰母移夜時自久爾奈保之見我保之
(3774)     閏五月二十三日大伴宿爾家持作之
 花ニモ實ニモは花ノ時ニモ實ノ時ニモなり○第四句は卷七(一二六一頁)なるイヤトコシクニマタカヘリミムなどの如くイヤトコシクニともイヤトコシヘニともいふべきを橘の縁にてイヤトキジクニといへるなり○ナホはヤハリなり。上(三七六三頁)なるナレニシキヌニナホシカメヤモのナホとおなじ。略解に『ナホは今のつかひざまとは異也』といへるは心得がたし
 
   △2庭中花1作歌一首并短歌
4113 おほき見の とほのみかどと ま伎《キ》たまふ 官《ツカサ》のまにま (みゆきふる) こしにくだり來《キ》 (あらたまの) としの五年 (しきたへの) 手枕まかず ひもとかず まろ宿《ネ》をすれば いぶせみと 情《ココロ》なぐさに なでしこを 屋戸にまきおほし 夏の能《ノ》の さゆりひきうゑて 開《サク》花を いで見るごとに (なでしこが) そのはなづまに (さゆり花) ゆりもあはむと なぐさむる こころしなくぼ (あまざかる〕 ひな(3775)に一日も あるべくもあれや
於保伎見能等保能美可等々未伎太未不官乃未爾未美由伎布流古之爾久太利來安良多未能等之能五年之吉多倍乃手枕未可受比毛等可須未呂宿乎須禮波移夫勢美等情奈具左爾奈泥之故乎屋戸爾未枳於保之夏能能之佐由利比伎宇惠天開花乎移低見流其等爾那泥之古我曾乃波奈豆未爾左由理花由利母安波無等奈具佐無流許己呂之奈久波安麻射可流比奈爾一日毛安流部久母安禮也
 二註に目録に據りて庭中花の上に詠の字を補ひたれど契沖のいへる如く詠とありては下の作と重複すれば卷三(五六四頁)なる家持見2樹上瞿麥花1作歌などを例として見の字をおとしたるものとすべし
 トホノミカドは國府《コフ》なり。トはトシテにてマキタマフにかゝれるなり。古義にトをニテアルと譯してミユキフル越にかゝれりとせるは非なり○マ伎タマフは外の例に依らばマケタマフとあるべきなれば伎は氣などの誤かと思ふに次の長歌に(3776)もオホキミノマ伎ノマニマニとよみたれば誤にはあらで訛《ナマリ》なるべし。前の長歌にモエツツをモ伊ツツといへると合せて思ふに當時下二段活の語を上二段にはたらかす事行はれしにあらざるか。古義に
  マケはマカラセの切、マキはマカリの切にて任ずる方よりはマケといひ任せられたる事を承る方にてはマキといふこととなれるなり。されば此所はその官に任《ヨサ》されたるまゝに其職を負持賜ふよしにてマキタマフとはいへるなり
といへるは非なり。おのが事をマカリタマフといふべけむや。又大君ノマカリノマニマニといふべけむや○ミユキフルは越の准枕辭なり○天平十八年に赴任せしより今年天平感寶元年まで足かけ四年なり。トシノ五年といへる不審なり。いかでかトシノ四年ヲといはざりけむ。タマクラマカズほ妻ノ手枕ヲ枕《マ》カズなり○イブセミトはイブセサニなり。ココロナグサニは心ノ慰ムベクなり○野を當時はやくノと訛りしかば能の字を借れるなり。上(三六八一頁以下)にテニヲハのノに野の字を借れると正反對なり。ヒキウヱテのヒキは小松引、アヤメ引の引なり。添辭にあらず○ナデシコガ、サユリ花は當該の花をやがて枕辭につかへるにて常套手段なり(3777)○ソノハナヅマニを略解に『瞿麥をめでて花ヅマといふ』といへるはもとより非なり。古義に『瞿麥ノ如ク花ヤギウルハシキ本郷ノ要ニと云意をかくいへり』といへるも未到らず。こは卷八(一五七五頁)なる
  わが岳にさをしか來なくさきはぎの花づまとひに來鳴棹牡鹿
 又卷十四(二九八五頁)なる
  あしがりのはこねのねろのにこぐさのはなづまなれやひもとかずねむ
のハナヅマとおなじく花ヨメといふことにてフル妻のうらなり(一七八七頁參照)
 ○ユリモは後ニモなりり上(三七一九頁)にも見えたり。アレヤはアラメヤなり
 
   反歌二首
4114 なでしこが花見るごとにをと女らがゑまひのにほひおもほゆるかも
奈泥之故我花見流其等爾乎登女良我惠未比能爾保比於母保由流可母
 ニホヒは艶色なり
 
4115 (さゆり花)ゆりも相等《アハムト》したばふるこころしなくば今日もへめやも
(3778)佐由利花由利母相等之多波布流許己呂之奈久波今日母倍米夜母
   同閏五〔二字□で囲む〕月二十六日大伴宿禰家持作
 シタバフルは心ニ期スルなり。語例は近くは卷十四にアガシタバヘヲコチデツルカモ(二九八六頁)イタラムトゾヨアガシタバヘシ(二九九五頁)とあり○今日モヘメヤモはケフ一日モアリ得ムヤハとなり
 左註は前に閏五月二十三日とあれば前註にいへる如く閏五の二字を削るべし
 
   國(ノ)掾久米(ノ)朝臣廣繩以2天平二十年1附2朝集使1入v京、其事畢而天平感寶元年閏五月二十七日還2到本任1、仍長官也〔左△〕舘設2詩酒(ノ)宴1樂飲、於v時主人守大伴宿禰家持作歌一首并短歌
4116 おほき見の ま伎《キ》のまにまに とりもちて つかふるくにの 年(ノ)内の ことかたねもち (たまほこの) みちにいでたち いはねふみ やまこえ野ゆき みやこべに まゐしわがせを (あらたまの) としゆきがへり 月かさね みぬ日さまねみ こふるそら やすくしあ(3779)らねば ほととぎす きなく五月の あや女《メ》ぐさ よもぎかづらき さかみづき あそびなぐれど 射水河 雪消溢而《ユキゲハフリテ》 逝《ユク》水の いやましにのみ たづがなく 奈呉江のすげの 根もころに おもひむすぼれ なげきつつ あがまつ君が ことをはり かへりまかりて 夏(ノ)野の さゆりのはなの 花|咲《ヱミ》に にふぶにゑみて あはしたる 今日をはじめて (鏡なす) かくしつね見む おもがはりせず
於保伎見能未伎能未爾未爾等里毛知底都可布流久爾能年内能許登可多禰母知多末保許能美知爾伊天多知伊波禰布美也未古衣野由伎彌夜故敝爾末爲之和我世乎安良多未乃等之由吉我敞〔左△〕理月可佐禰美奴日佐末禰美故敷流曾良夜須久之安良禰波保止止支須支奈久五月能安夜女具佐余母疑可豆良伎左加美都伎安蘇比奈具禮止射水河雪消溢而逝水能伊夜末思爾乃未多豆我奈久奈呉江能須氣能根毛己呂爾於母比牟須保禮奈介伎都都安我末川君我許登乎波里可敝利末可利天夏野能佐由(3780)利能波奈能花咲爾々布夫爾惠美天阿波之多流今日乎波自米※[氏/一]鏡奈須可久之都禰見牟於毛我波利世須
 附2朝集使1の附は附ケラレテとよむべし。古義に附キテとよめるはわろし(三五四〇頁參照)。この字の用ひざまは令に國司毎年附(ケテ)2朝集使1(ニ)申v官などいへるとは異なり○也は諸本に之とあるに從ふべし
 古義に
  マケノマニマニといふべきをマキと云るはたがへるに似たれど又通はしても云るなるべし。マキといひマケといふは依をヨシといひヨセといふ差別のごとし
といへり。ヨセをヨシとも云へるは四段活に從へるなり。雅澄の意もしマケをマキともいへるは四段活に從へるなりといふことならば上に云へるとは異なり○トリモチテは掌リテといふことなり。語例は古事記に
  次ニ思兼(ノ)神ハ前《ミマヘ》ノ事取持チテ爲v政《マヲ》セトノリタマヒキ
とあり。又本集卷十七(三六一九頁)にヲスクニノコトトリモチテとあり。さてトリモ(3781)チテツカフルの主格は廣繩なり○コトは政務なり。カタネモチを契沖は『結持なり』といひ略解には
  負ふ事を俗カタゲルといひ北國にてはカタネルといふとぞ
といへり。げに越後國の餅搗歌に杵ヲカタネテヤドヤドトといへり。但カタゲルは肩上ゲルの約にてカタネルは近世の訛ならむ。こゝのカタネはそれとは異にてカサネと同語にて取カサネといふ義ならむ。中世の書に結の字をカタネとよめり。辨官の結政をカタナシといふもカタネナシ(即カサネナシ)の略なり。なほ云はばカタヌ(カサヌ)の轉義は整理にて結と書けるはその轉義の方に從へるなり。懷紙ヲ取カサヌなどいふも整理の義なり○マヰはマヰヅ、マヰク、マヰノボルなど多くは他の語にたぐへ用ひて此處の如く單獨に用ひたるは稀なり○年ユキガヘリは年|來復《キカヘ》リにて畢竟年ガ更リテといふ意なり。サマネミは多ミなり○アヤメグサヨモギカヅラキは菖蒲ト蓬トヲ鬘ニシといへるなり。上(三七四九頁)にもアヤメグサハナタチバナニ、ヌキマジヘカヅラニセヨといへり。さて此も彼も卷三(五一五頁)なる石田王卒之時歌に
(3782)  ほととぎすきなく五月は、あやめぐさ花たちばなを、玉にぬきかづらにせむと
とあるを學べるなり○サカミヅキは動詞なり。上(三六九〇頁)にもサカミヅキイマスワガオホキミカモとあり。ナグレドはナゴムレドなり○射水河云々は上なる教2喩尾張少咋1歌にも南フキ雪ゲハフリテ射水河ナガル水沫ノとあり。同辭の重出は此作者の癖なり。さてイミヅ河以下三句はイヤマシニノミにかかれる序、タヅガナク奈呉江ノ菅ノはネモコロニにかかれる序なり○ネモコロニは手重クなり。ムスボレは結バレなり。ムスバレをムスボレといふはなほクルハシ、オモハユ、オハスをクルホシ、オモホユ、オホスといふが如し○コトヲハリは御用ガスミテなり。マカリテはマヰリテのうらなり。朝廷を中心として中心より遠ざかるをマカリといふなり○夏ノ野ノサユリノ花ノは時の物を以て花ヱミニの序としたるなり。花ヱミニは花の如くゑむなり。語例は卷七(一三四六頁)に
  道のへの草深ゆりの花ゑみにゑみしがからに妻といふべしや
とあり○ニフブニヱミテの語例は卷十六に
  可流羽須波〔左△〕《カルウスキ》田ぶせのもとにわがせこはにふぶにゑみてたちませりみゆ
(3783)とあり。ニコニコト笑ミテといふことなりといふ○アハシタルは逢ヒ給ヘルなり。逢フはいにしへは人を主格として人ガ我ニ逢フともいひしなり○今日ヲは今日ヨリなり。卷八(一五六五頁)にも蘆城ノ野今日ヲ始メテ萬代ニ見ムとあり。鏡ナスは見ムにかゝれる枕辭なり。カクシツネ見ムはカク常ニ見ムなり○オモガハリセズは共ニ面變セズシテといへるならむ。卷十二(二七三四頁)なるハヤカヘリマセオモガハリセズは面ガハリシ給ハズといふ意なれど今は自己に屬せる見ムといふ語にかゝりたればオモガハリシ給ハズシテといふ意とはきゝなされざるなり
 
   反歌二首
4117 こぞの秋あひ見し末末爾〔二字左△〕《マニマ》今日|見《ミレ》ばおもや目づらしみやこがたびと
許序能秋安比見之未末爾今日見波於毛夜目都良之美夜古可多比等
 此歌によれば廣縄の上りしは前年の秋なり。なほ云はば秋の末に、故ありて例より早く上りしならむ。古義に贋細の上りしを『新年の賀儀にのぼれるなるべし』といへれど新年の賀儀の爲ならば秋には上らじ。又題辭に朝集使ヲ附ケラレテ京ニ入ルとあるにあらずや○オモヤメヅラシを契沖宣長は面|彌《イヤ》メヅラシなりといひ千蔭(3784)は『ヤはヨか』といひ『雅澄はオモヤはオモワか』といへり。彌の略とする説に從ふべし。上(三六八九頁)にもイヤツ代をヤツ代といへり。古事記朝倉(ノ)宮の段なる大御歌に
  みなそそぐ、臣のをとめ、本陀理《ホダリ》とらすも、本宇理とり、かたくとらせ、したがたく、や〔右△〕かたくとらせ、本陀理とらす子
とあるヤカタクも彌堅クなり。記傳卷四十二(二四三八頁)に
  シタガタクは下堅くなり。ヤカタクは上《ウハ》堅くか。ウハはワとつづまれども通はしてヤとも云るにや。さて此|下上《シタウヘ》は※[缶+尊]の下方上方なり。其形|長《タケ]高ければ下と上とに手を掛て取持べきなり
といへるは誤れり。シタガタクは心《シタ》竪ク即ココロ確ニといふことにて、ヤカタクは彌堅クなり。されば今はオモ、ヤメヅラシとヤを下に附けて唱ふべし。メヅラシはメデタシなり○末末爾は諸本に末爾末とあるに從ふべし。そのマニマはママニテと心得べし○京より新に還り來れる人なるが故にミヤコガタビトといへるなり
 
4118 かくしてもあひ見るものをすくなくも年月|經禮〔左△〕婆《ヘナバ》こひしけ禮〔左△〕《メ》やも
可久之天母安比見流毛能乎須久奈久母年月經禮婆古非之家禮夜母
(3785) 心得がたき歌なり。雅澄はコヒシケ禮ヤモの禮を米の誤とせり。案ずるに經禮婆の禮も那などの誤ならむ。スクナクモの語例は
  言にいへば耳にたやすしすくなくも心のうちにわがもはなくに(卷十一【二三八二頁】)
などあまたあり。此等の例に依ればスクナクモはコヒシケメヤモにかゝれるにてスクナクモコヒシケメヤモは少ク戀シカラムヤハにてやがてアマタ戀シカラムとなり。されば一首の意は
  僅ニ一年間逢ハザリシダニカク喜ビテ相見ルモノヲ、若年月ヲ經テ逢ハザラバイトアマタ戀シカラム
といへるなり
 
   聞2霍公鳥喧1作歌一首
4119 いにしへよしぬびにければほととぎすなくこゑききてこひしきものを
伊爾之敝欲之奴比爾家禮婆保等登伎須奈久許惠伎吉※[氏/一]古非之吉物能(3786)乎
 これも心得がたし。古義に
  古へよりなべて人の慕ひ來し鳥なれば吾も其如く今鳴こゑをきゝてうれしくうつくしまるゝものをいかで戀しく思はずしてあるべきとなり
といへり。案ずるにシヌビニケレバをシヌビニケル上ニといふ意とし結句の次にナドカシヌバザラムといふことを省きたりとせは辛くして通ずべし。シヌブは無論めづる事なり
 
   爲d向(ハム)v京之時見2貴人1及《マタ】相2美人(ニ)1飲宴(セム)之日述uv懷儲作歌二首
4120 見まくほりおもひしなべに加都良賀氣かぐはし君をあひ見つるかも
見麻久保里於毛比之奈倍爾加都良賀氣香具波之君乎安比見都流賀母
 第三句を從來枕辭とせり。就中契沖は桂蔭とし宣長はカヅラカゲとよみて日蔭の蔓の事とせり(記傳卷二十五【一五三八頁】)。案ずるに宇都良宇都良を誤れるにあらざるか。ウツラウツラはツラツラなり。卷二十に
  なでしこが花とりもちて宇都良宇部良みまくのほしき君にもあるかも
(3787)とあり○オモヒシナベニは思ヒシママニなり。カグハシ君はカグハシキ君なり。人にはカグハシとはいふまじきに似たれど卷十九なる同じ作者の作れる長歌にも
  サキニホフ花タチバナノ、カグハシキミオヤノミコトとあり
 
4121 朝參乃《テウサンノ》きみがすがたをみずひさにひなにしすめばあれこひにけり
    一頭云、はしきよしいもがすがたを
朝參乃伎美我須我多乎美受比左爾比奈爾之須米婆安禮故非爾家里
    一頭云波之吉與思伊毛我須我多乎
     同閏五〔二字□で囲む〕月二十八日大伴宿禰家持作之
 初句を眞淵以下マヰリノと四言によみたれど當時は既に短歌の五言を四言に作らば人許さじ。又宣長が朝參を朝戸出の誤としたるもうべなびがたし。案ずるに音にてテウサンノとよむべし。朝蓼は出勤の事にて令にも見えて當時の人の口に馴れたりし語なり。さてこは男子に贈るべき料にて一作の方は女子に贈るべき料なり
(3788) こゝも閏五の二字を削るべし○左註は聞2霍公鳥喧1歌までに及べるなり
 
   天平感寶元年閏五月六日以來起2小旱百姓(ノ)田畝稍有2凋色1也、至2于六月朔日1忽見2雨雲之氣1、仍作(レル)雲歌一首△短歌一絶
4122 すめろぎの しきますくにの あめのした 四方のみちには うまのつめ いつくすきはみ ふなのへの いはつるまでに いにしへよ いまのをつつに 萬調《ヨロヅツキ》 まつるつかさと つくりたる そのなりはひを あめふらず 日のかさなれば うゑし田も まきしはたけも あさごとに しぼみかれゆく そを見れば こころをいたみ みどり兒の ちこふがごとく あまつみづ あふぎてぞまつ (あしひきの) やまのたをりに この見ゆる あまのしらくも わたつみの おきつみやべに たちわたり とのぐもりあひて あめもたまはね
須賣呂伎能之伎麻須久爾能安米能之多四方能美知爾波宇麻乃都米伊(3789)都久須伎波美布奈乃倍能伊波都流麻泥爾伊爾之敝欲伊麻乃乎都頭爾萬調麻都流都可佐等都久里多流曾能奈里波比乎安米布良受日能可左奈禮波宇惠之田毛麻吉之波多氣毛安佐其登爾之保美可禮由苦曾乎見禮婆許己呂乎伊多美彌騰里兒能知許布我其登久安麻都美豆安布藝弖曾麻都安之比奇能夜麻能多乎理爾許能見由流安麻能之良久母和多都美能於枳都美夜敝爾多知和多里等能具毛利安比弖安米母多麻波禰
 題辭の起を略解に赴の誤とし古義に越の誤とせり。もとの方なほまされり。稍は一本に稻とあり。これも通本の方まされり。有凋色也の也は諸本に無し。又一本に六月の上に今の字あり○短歌の上に并の字を補ふべし
 クニノは國ナルなり。初四句は天皇ノシキマス國ナル〔二字右△〕天ノ下ノ〔右△〕四方ノ道ニハと心得べし。そのヨモノミチは東西南北の地文的四道なり。行政的に分たれたる七道とは相與からず○ウマノツメ以下四句は祈年祭|祝詞《ノリト》に
  青海原ハ棹柁干サズ舟艫《フナノヘ》ノ至留ル極《キハミ》大海(ノ)原ニ舟|滿《ミテ》ツヅケテ陸ヨリ往ク道ハ荷(ノ)(3790)緒|縛《ユヒ》堅メテ磐根|木根履《キネフミ》サクミテ馬(ノ)爪ノ至留ル限、長道《ナガヂ》間〔日が月〕ナク立ツヅケテ
といへるに依れるなり。イツクス、イハツルのイは添辭なり。さてツクス、ハツルは共に上にイタリを添へて心得べし。又マデニのニは除きて心得べし○ツキは所謂年貢、ツカサは長上なり。ヨロヅツキマツルツカサトはタテマツル萬ノ年貢ノ長上トシテといふ意なるを五七の調の爲にマツルとヨロゾツキとを願倒せるなり○ツクルは田ツクリ瓜ツクリなどいひ今もツクリ取、作物《サクモツ》などいへば特に農事にいふ語にてこゝもただツクリタルとのみいひて農作の事とは聞ゆるなり○ナリハヒも亦特に農事にいふ語なり。崇神天皇紀に農ハ天下之大本也とありて農をナリハヒと訓ぜり。ナリハヒヲはナリハヒナルヲなり○ハタケは古義にハタケは陸田毛《ハタケ》の義なるべしと中山嚴水いへり。……陸田にまきおほしたる豆麥の類を陸田毛《ハタケ》と云よりうつりて遂にその種《ウウ》る地をいふこととなれるなるべし
といへり。はやく和名抄には畠を八太介と訓ぜり。さてこゝは畠の事とも畠の作物の事とも聞ゆべし○ココロヲイタミは胸ノイタサニなり。アマツ水はこゝにては(3791)雨なり。卷二(二二七頁)にもアマツ水アフギテ待ツニとあり○タヲリは山の端の撓みて低くなれる處なり。卷十三(二八五二頁)にも高山ノ峯ノタヲリニ射部《イメ》タテテシシマツゴトクとあり。コノはカノといはむに同じ○ワタツミノオキツミヤベニは海神ノ宮ノ方ニとなり。かく云へるは海神は雨を掌るが故なり○トノグモリアヒテはソノ海神ノ宮ナル白雲ト曇リ合ヒテとなり。トノグモリはただ曇る事なり○雨モタマハネは山のたをりに見ゆる白雲に對して云へるなり。古義に『海神に希ふなり』といへるは非なり
 
   反歌一首
4123 このみゆるくもほびこりてとのぐもりあめもふらぬかこころだらひに
許能美由流久毛保妣許里弖等能具毛理安米毛布良奴可許己呂太良比爾
     右二首六月一日晩頭守大伴宿禰家持作之
(3792) ホビコリテはハビコリテなり。ココロダグラヒニは我滿足スルヤウニとなり。上なる賀v出v金詔書歌(三七二六頁)にもシガネガフ心ダラヒニとあり
 
   賀2雨落1歌一首
4124 わがほりしあめはふりきぬかくしあらばことあげせずともとしはさかえむ
和我保里之安米波布里伎奴可久之安良波許登安氣世受杼母登思波佐可延牟
    右一首同月四日大伴宿禰家持作之
 コトアゲを二註に神に祈ることなりと云へり。コトアゲはげに祈躊などを云へるならめどゴトアゲセズトモは神祇ヲ勞シ奉ラズトモとうつすべし○トシは稔《ミノリ》なり
 
     七夕歌一首并短歌
4125 あまてらす かみの御代より やすのかは なかにへだてて むか(3793)ひたち そでふりかはし いきのをに なげかすこら』 わたりもり ふねもまうけず はしだにも わたしてあらば そのへゆも いゆきわたらし たづさはり うながけりゐて おもほしき こともかたらひ なぐさむる こころはあらむを なにしかも あきにしあらねば ことどひの ともしきこら』 うつせみの 代(ノ)人われも ここ宇〔左△〕《ヲ》しも あやにくすしみ 往更《ユキカハル》 年のはごとに あまのはら ふりさけ見つつ いひつぎにすれ
安麻泥良須可未能御代欲里夜洲能河波奈加爾敝太弖々牟可比太知蘇泥布利可波之伊吉能乎爾奈氣加須古良和多理母理布禰毛麻宇氣受波之太爾母和多之※[氏/一]安良波曾能倍由母伊由伎和多良之多豆佐波利宇奈我既利爲※[氏/一]於母保之吉許登母加多良比那具左牟流許己呂波安良牟乎奈爾之可母安吉爾之安良禰波許等騰比能等毛之伎古良宇都世美能代人和禮母許己宇之母安夜爾久須之彌往更年能波其登爾安麻能波良布(3794)里左氣見都追伊比都藝爾須禮
 アマテラスカミノ御代ヨリは特に天照大御神に關係ありていへるにあらず。ただ神代ヨリといふことをかく云へるなり○ヤスノカハは高天原にある河なり。漢土より傳はりし二星傳説が我邦のものとなるまゝに銀河も天ノ安河に代りしなり(二〇四七頁及二〇七七頁參照)○こゝのへダテテは中ニオキテなり。イキノヲニは命ヲカケテといふことならむ。集中にイキノヲニ思フとよめる歌多し○ナゲカスコラは下なるトモシキコラとおなじく一段のとぢめなり。カナを添へて見べし。さてムカヒタチ袖フリカハシは二星にかゝれる事なるをコラ(即織女)にて受けたるは心ゆかず
 マケズをマウケズといへるは八日《ヤカ》をヤウカといひヤヤをヤウヤウ(九九五頁參照)といふにおなじき音便なり。さてマウケズにて切れたるなり。俗談ならば設ケヌガなどいふべし○ソノヘユモは其上カラデモなり。イユキワタラシ以下の主格は牽牛なり。但ワタリといはでワタラシといへれば牽牛になりて言へるにあらず○ウナガケリは古事記に八千矛(ノ)神の御事を云へる處に
(3795)  カク歌ヒテ即宇伎由比シテウナガケリテ今ニ至ルマデ鎭マリマス
とありて傳(卷十一【六三二頁】)に
  師説(○眞淵)に互に項に手を懸てしたしく並居を云とあり。信に然るべし。但項に手をかけをるは言の本の意にて必しも然せねどもしたしくならびをるを云るなり
といへり。案ずるにウナガケリはウナガカ〔右△〕リの轉にてそのウナガカリは項《ウナ》ニ〔右△〕懸リならむ
  因にいふ。ウキユヒは同盃より畷り合ふ事ならむ
 ○オモホシキの語例は近くは卷十七(三五四一頁及三五五三頁)にあり。ナグサムルココロハアラムヲも同卷(三五五三頁)にナグサムルココロハナシニとあり。このココロはコトといふ意にこそ○ナニシカモはトモシキコラと照應しそのコラは子等ナルゾを省けるなり。コトドヒは語り合ふ事なり。トモシキは少キなれど實は更ニ無キなり○以上第二段なり
 ココ宇シモは乎の誤なり。クスシミはクスシガリなりと釋きて可なるに似たれど(3796)ココヲシモアヤニクスシミは上(三七二〇頁)なる山ヲシモサハニオホミトと同格にて彼はオホサニとうつすべければこゝもクスシサニとうつすべし○年ノハゴトニは毎年なり。但年ノハゴトニと云へるはこゝのみにて集中の他の例は皆トシノハニとのみいへり○コソのかゝり無くてイヒツギニスレとあるいかが。略解に
  ココヲシモといふシモの詞にコソに通ふ例ありと宣長いへり
といへり。そはヲリシモアレなどの例なるべけれどこゝのココヲシモはアヤニクスシミと照應してイヒツギニスレとは相與からねばヲリシモアレなどとは同一視すべからず。おそらくは取外してスレといへるならむ
 
   反歌二首
4126 あまのがははしわたせらばそのへゆもいわたらさむをあきにあらずとも
安麻能我波々志和多世良波曾能倍由母伊和多良佐牟乎安吉爾安良受得物
(3797) ワタセラバは渡シテアラバなり。イワタラサムヲは渡リ給ハムニなり。イは添辭なり
 
4127 やすのかは許〔左△〕《イ》むかひたちてとしのこひけながきこらがつまどひのよぞ
夜須能河波許牟可比太知弖等之能古非氣奈我伎古良河都麻度比能欲曾
    右七月七日仰2見天漢1大伴宿禰家持作之
 許は伊の誤なること古義にいへる如し。卷十なるアマノガハ己ムカヒタチテも己《コ》にあらで已《イ》なる事彼卷(二〇三四頁)にいへる如し○トシノコヒは一年中の戀なり。はやく卷十(二〇五二頁)にも年ノコヒコヨヒツクシテとあり。ケナガキは久シキなり。イムカヒタチテはケナガキにかゝれるなり
 
   越前國(ノ)掾大伴(ノ)宿禰池主來贈戯歌四首
  忽辱2恩賜1、驚欣已深、心中含v咲獨座稍開(ケバ)表裏不v同、相違何異、推2量所由1(3798)率爾作v策〔左△〕歟、明知加v言〔左△〕、豈有2他意1乎、凡貿2易本物1其罪不v輕、正贓(ニモアレ)倍贓(ニモアレ)宜2急并滿〔二字左△〕1、今勒2風雲(ニ)1發2遣徴使1、早速返報、不v須2延囘1
      勝寶元年十一月十二日物(ヲ)所《セラエシ》2貿易1下吏
  謹訴2貿易人(ヲ)斷(ル)官司 廳下1
 古義に
  池主より家持卿の方へ針袋を縫せて賜はれとて絹を贈られたるをそれにまされる絹に取かへて縫せておこされしなるべし
といへる如し。おそらくは家持の許に裁縫に巧なる婦人ありしならむ○表裏不v同は表モウラモ同ジカラズとよむべし。相違何異の異はケナルとよむべきか。ケナルは奇怪ナルなり。古義に『とがめたる意なるべし』とい へるは非なり。咎めたるにあらず。驚きたるなり○推2量所由1率爾作v策歟云々を略解に
  策は謀の意にて貿易せる事を云。率爾に袋を作りたる故に表裏をふと誤て引たがへたらん事は池主が推量の言の如く明らかにて何しに外のわけあらんやと(3799)自らことわる也
といへるはいみじきひが言なり。表と裏とを轉倒したるにあらず。表裏共に他の絹を用ひたるなり。古義に
  推2量所由1云々はことの故よしを推量るに率爾に貿易の謀をなせるもの歟といふなるべし
といひ又明知加v言の加を如の誤として
  明知如v言云々は池主が推量の言の如くなること明かに知られたり。豈有2他意1乎、外のわけにてはあらじとなり
といへるもいみじきひが言なり。まづ推2量所由1は事ノ次第ヲ推量スルニとなり。次に策は錯の誤(又は通用)にてアヤマリなり。率爾は俗語のフトなればフトマチガヘラレタノカト思ウタガヨク思ヘバサウデハ無クテ云々といへるなり。次に明知加v言の加はもとのまゝにて言は意の誤なり。此九言はコレハ確ニ御配慮下サレタノデ外ノ訣デハ無イといふ意なり。以上は戯言にあらず。二註に以上をも戯言とせるは誤解なり○凡貿2易本物1以下は戯言なり。さて貿2易本物1の貿易はすり替ふるなり
(3800) 〇正贓倍贓は捕亡令に
  凡盗賊ヲ糺シ捉ヘへタラバ徴《ハタ》ラム所ノ倍《ヘイ》贓は皆糺シ捉へシ人ニ賞《タマ》へ。家貧クシテ財ノ徴ルベべキ無カラム及《マタ》法ニ依ルニ倍贓ヲ徴ルベカラザルハ並ニ得タラム正《シヤウ》贓ヲ計《カゾ》へ、准《ナゾ》ヘテ五分ト爲シ二分ヲ以テ糺シ捉ヘシ人ニ賞ヘ
とあり。正贓は盗みたる品、倍贓は唐律の倍備に同じからむ。倍備は唐律疏義に謂(フハ)盗2一尺1徴2二尺1之類とあり。吾妻鏡にも
  兼テ又盗犯人ノ中假令ヘバ錢百文若クハ二百文程ノ罪科ノ事、如此小過ハ一倍ヲ以テ其辨ヲ致スベシ(寛喜三年四月)
  次ニ竊盗ノ事、假令へバ餞百文已下ノ小犯ニ於テハ一倍ヲ以テ辨償ヲ致サシメ其身ヲ安堵セシムベシ(同年五月)
  所謂盗人ノ罪科ノ輕重ノ事、小過タリト稱シテ一倍辨ヲ致スノ後小過ノ盗犯ヲ企ツルニ於テハ重科ニ准ジテ一身ノ咎ニ行ハルベシ(寶治二年五月)
とあり。さてここは正贓ニモアレ倍贓ニモアレとよむべし○并滿は弁済の誤ならむ○勒はクツバミにて馬を御する具なり。今は風雲を馬に擬して風雲ニ勒シテと(3801)いへるにて風雨ニ乘セテ催促ノ急使ヲ遣ルといへるならむ。延囘は延引なり○此年七月天平感寶を天平勝寶と改められき。一年二囘の改元なり○物所2貿易1は物ヲスリ替ヘラレシといふ意なり○貿易人(ヲ)斷(ル)官司はスリ替ヘシ人ヲ裁判スル役所といふ意なり。斷はコトワルとよみて裁判する事なり。家持を貿易人に擬せるにや斷官司の長官に擬せるにや聊曖昧なり
 
  別日〔左△〕可怜之意不v能2默止1、聊述2四詠1准2擬睡覺1
4128 (くさまくら)たびのおきなとおもほしてはりぞたまへるぬはむものも負〔左△〕《ガ》
久佐麻久良多比能於伎奈等於母保之天波里曾多麻敞〔左△〕流奴波牟物能毛負
 日は元暦校本に從ひて白の誤とすべし○可怜を略解に
  可怜之意は愛情といふに同じ
といひ古義にウツクシミとよみて
(3802)  可怜之意は家持卿の情意の厚きを愛でいふべし
といへり。案ずるに可怜はアリガタガルといふ意とおぼゆ。讀は音にてカレンとよむべくもし強ひて訓讀せむとおもはば之の字を棄てゝオムガシムココロ(又はウ〔右△〕ムガシムココロ又はムガシムココロ)とよむべし。神功皇后紀に深コ2君王1の徳をオムガンミセムとよみ又相見欣感の欣感をオムガシミスとよめり。なほ上(三七五二頁)にオコセムアマハムガシクモアルカとある處の註を見べし○准を二註に唯の誤とせり。もとのまゝにて准擬とつづけて可ならずや。睡覺は目ザマシグサなり
 家持より贈れるは針袋にて針さへ入れて贈れるなり。針は衣の綻を縫ふに必要なれば旅に出づる時は男子も携へしなり。卷二十なる防人の妻の歌にも
  くさまくら旅のまる寐の紐たえばあが手と附けろこれの針《ハル》もし
とあり。但その針を入るゝ所謂針袋は同時に装飾の具たりしならむ。タビノオキナは旅ナル老人なり○負は諸本に賀とあるに從ふべし。さてヌハムモノモガは前註にいへる如く願ハクハ縫ヒ刷フベキ衣ヲモ賜へと戯れていへるなり
 
4129 はりぶくろとりあげまへにおきかへさへば於能等母於能夜《オノトモオノヤ》うらもつ(3803)ぎたり
芳理夫久路等利安宜麻敝爾於吉可邊佐倍波於能等母於能夜宇良毛都藝多利
 トリアゲマヘニオキは九言なり。おそらくは人を笑はしむべくことさらに手づつによめるならむ。さてトリアゲマヘニオキは或ハ手ニ取上ゲ或ハ前ニ置キなり○カヘサヘバは契沖以下のいへる如く裏ガヘシ見レバとなり○オノトモオノヤを契沖はオノガ針袋トモオノガ針袋ヤといふ意とし眞淵は表《オモテ》モ表《オモ》ヤといふ意とせり。案ずるにオノシトモオノシヤの二つのシを省けるにて當時オノシといふ俗語又は方言の形容詞ありしならむ。そのオノシはオドシの訛にて驚クベシといふことにや○ウラモツギタリは宣長のいへる如く表ノミナラズ裏サヘ色々ノ切ヲ繼ギ合セテメデタク造レリといへるなり
 
4130 はりぶくろおび都〔左△〕都氣《ニツケ》ながらさとごとにてらさひあるけどひともとがめず
(3804)波利夫久路應婢都都氣奈我良佐刀其等邇天良佐比安流氣騰比等毛登賀米授
 上の都は爾の誤ならむ○テラサヒアルケドを契沖は
  テラサヒは照シなり。錦やうのものを表とせられければ光彩ある故にテラサヒアルクとはいへる歟。又衒の字にてテラヒアルケドといふ心歟、これを見よかしといはぬばかりにするをテラヒアルクといふべし
といひ略解は衒ヒとし古義は照シとせり。案ずるにテラサヒはテラシの延言にてそのテラシは己を照すなればやがてテラヒ(テリの延言)といはむにひとし。さればテラサヒは見セビラカシと譯すべし○ヒトモトガメズを契沖は
  過分の針袋なれど越中守殿より給りたりと聞て人もとがめぬなり。又みづからタビノオキナとよみたれば行平の翁サビ人ナトガメソとよめるやぅに分に應ぜねど翁さびすと見て人もとがめずといへる歟
といひ略解には
  誰《タレ》心につけてめでとがむるものもなしといふ意也
(3805)といひ古義は契沖の後説に從へり。案ずるにこゝのトガムルは略解にいへる如く目ヲツクルにてソレハドウシタノカと咎むる人あれかしと心に待てるに更に咎むる人なきを遺憾に思へるなり
 
4131 (とりがなく)あづまをさしてふさへしにゆかむとおもへどよしもさねなし
等里我奈久安豆麻乎佐之天布佐倍之爾由可牟登於毛倍騰與之母佐禰奈之
     右(ノ)歌之返報歌者脱漏不v得2探求1也
 ヨシモサネナシはスベモナシなり。サネは實ニといふことにて語を強むる辭なり○布佐倍之爾を契沖千蔭はフサハシニの意とし雅澄は『布は於の誤にてオサヘシニか』といへり。案ずるにこは契沖のいへる如く屈原の離騒經に
  余ガ飾ノ方《イマシ》壯ナルニ及ビテ周流シテ上下ヲ觀ム
とあるに據れるならむ。さてフサヘは總經にて周流に當れるか。周流は歴遊なり。文(3806)選郭有道碑文にも周2流華夏1とあり
 
   更來贈歌二首
  依d迎2驛使1事u今月十五日到2來部下加賀郡境1、面蔭(ニ)見2射水之郷〔左△〕1戀緒(ヲ)結2
深海《フカミ》之村1、身異(ナレド)胡馬1心悲2北風(ニ)1乘v月徘徊曾無v所v爲、梢〔左△〕開2來封1其辭云著〔左△〕者、先所v奉書返畏度v疑(ニ)歟、僕作〔左△〕矚v羅且惱2使君1、夫乞v水得v酒從來能口、
論v時〔左△〕合v理何題2強吏1乎、尋《ツギテ》誦2針袋詠1詞泉酌(メドモ)不v渇《ヒズ》、抱v膝獨咲能|※[益+蜀]《ノゾキ》2旅愁1陶然遣v日、何慮何思、短筆不宣
       勝寶元年十二月十五日徴《ハタリシ》v物下司
  謹上2 不仗使君(ノ)紀〔左△〕室1
 驛使は京より下りし御使にて今は越中の方より越前を經て京に還り上らむとせるならむ○深海之村は即上(三七〇四頁)に見えたる深見村なり。深見が今の加賀國河北郡の内にて越中の界に近き事と加賀國が當時越前に屬したりし事とは彼處に云へる如し。いにしへの加賀郡は今河北石川の二郡に分れたり○面蔭は訓讀す(3807)べし。戀緒は音讀すべし。但これも邦語ならむ(三五五〇頁參照)。結といへるは戀緒の緒の縁にていへるのみ。戀緒は戀フル心なれば結はこゝにては起スといふほどの意なり。二註に
  射水深海は前に家持卿に從て共に往來せし所なればしのぶさまなり
といへるはひが言なり。射水は越中の國府のある郡の名にて家持の居る處(郷とあるは河の誤か)深海は越前國加賀郡の驛名にて今池主の來れる處なり○身異2胡馬1の異は異ナレドとよむべし。我身ハ胡馬ニアラネドモといへるなり。さてこは古詩に胡馬依2北風1越鳥巣2南枝1とあるに據れるなり。
  依2北風1の依は就なり。胡馬ハ本郷ヲ慕ヒテ北ヨリ吹ク風ニ向フといへるなり
 池主は越中掾より越前掾に轉ぜし人にて越中の國府は彼深海より北方に當ればかく云へるなり。前年三月十五日の書牘(三七〇四頁參照)にも到2來深見村1望2拜彼北方1といへり○曾無v所v爲を二註に『戀情のせむすべなきなり』といへり。驛使モマダ到著セズ、スル事ガナクテ退屈ナリといふ意ならむ○梢は諸本に稍とあり〇二註に
  著者云々の十一字は家持卿よりの來封を披見るに其書にありし辭と見ゆ
(3808)といへるはひが言なり。其辭云著〔右△〕者の著は々の誤にて(元暦校本に云々とあり)其辭ニ云々《シカジカ》トイヘリとよむべし(者の字はトイヘリに當れり)。所謂來封の辭は原文にはありけむを家持が寫し留むる時に省きしにて前年三月の書牘に加之先書云々とあると同例なり○先所v奉書は十一月十二日に池主より家持に贈りし書(三七九七頁參照)をいへるなり○度v疑歟は誤解ヲ生ゼシカといへるならむ○僕作矚羅は二註に羅を※[口+羅]の誤字又は省字として僕、矚※[口+羅]ヲ作リとよめり。作を昨の誤として僕|昨《サキ》ニ羅ヲ嘱シとよむべし。羅は袋を縫ふ料なり。且惱2使者1の惱は煩の義なり。使君は國(ノ)守の敬稱なり○乞v水得v酒從來能口は遊仙窟に乞v漿得v酒舊來神口、打v兎得v※[鹿/章]非2意所1v望とあるに據れるなり。遊仙窟の舊訓に舊來神口をモトヨリアヤシキコトとよみたれど神口能口は口上手といふことにあらざるか。さて乞v水得v酒は契沖が『少しの羅を遣はして好き針袋を得たるを喩ふる意なり』といへる如し。略解に
  もとよりのさいでよりはよきにて縫たるに譬へて實は謝すべきを引たがへたるとて責はたるやうに戯書たりといへる實ハ以下はひが言なり○論v時合v理以下九字は戯言なり。時は事の誤なら(3809)む。論v事は家持が戯に斷官司として裁斷せる旨なり。合理は理ニカナヘリとよむべし。何題2強吏1乎は二註に
  強吏は無道の有司にて家持卿をさにはあらずといふなり
といへる如し。題は評なり○針袋(ノ)詠は家持より復書に添へて答へし歌にて上に右歌之返報歌者脱漏不v得2探求1也といへるもの即是なり○渇は一本に竭とありて二註は之に從へり。然るに訓義辨證(下卷六五頁)に渇は竭の古字にて正字なりといへり。もとのまゝにてヒズとよむべし○何慮は何思を書き更へたるなり。共に何ヲカ思ハムとよむべし○此書牘によれば此日漸う家持の返書に接せしなり○徴物は物ヲハタリシとよむべし○不仗を二註に不伏の誤とせり。原に從ふべし。仗は杖の通用なれば寛大ニシテ杖ヲ加ヘザル使君といへるならむ。紀室は一本に記室とあるに從ふべし。記室は今の秘書なり。はやく卷五(八八〇頁)に見えたり。記室にあてたるは人をうやまふ心なり
 
   別奉云々歌二首
4132 たたさにもかにもよこさもやつことぞあれはありけるぬしのとのと(3810)に
多多佐爾毛可爾母與己佐母夜都故等曾安禮波安利家流奴之能等能度爾
 云々は原文を略せるなり
 タタサ、ヨコサは縱横なり。第二句ととのはず。まづカニモといはばカクニモといはざるべからず。次にヨコサモはヨコサニモとあらざるべからず。おそらくはもと
  たたさにもかにもかくにも一云はたよこさにも
とありしが混一したるならむ。又二三の間に君ガマニマニといふことを略せるならむ○ヤツコトゾは奴トシテゾなり○ヌシは卷五(九五四頁)にもアガヌシノミタマタマヒテとあり。奴のうらにて主人なり○トノトを契沖は殿外なりといひ略解には戸外なりといへり。前者に從ふべし。語例は卷三(四一〇頁)にイハヤト、卷五(九六七頁)にネヤトとあり
4133 はりぶくろこれはたばりぬ△すりぶくろいまはえてしがおきなさび(3811)せむ
波里夫久路己禮波多婆利奴須理夫久路伊麻婆衣天之可於吉奈佐備勢牟
 スリブクロを契沖は燧袋なりといへれど燧袋をスリブクロといふべき理由なし。火はいにしへはキルといひ後にはウツといひてスルとはいはぬ上、たとひスルといふとも火をうつ具を入れたる袋をただスリ袋とはいふべからざる故なり。雅澄は
  ※[竹/鹿]《スリ》は今(ノ)世にいふ皮籠《カハゴ》の類にて旅客のもはら負て持ありく具なり。そのスリを納る袋をスリブクロといへるか。又は其袋を※[竹/鹿]代《スリシロ》にしたるをやがてスリブクロといへるにてもあるべし
といへり。※[竹/鹿]は袋には入るまじく又※[竹/鹿]代の袋といふはあらざらむ。古義には又中山嚴水《イヅミ》の説を引きてスリブクロは藥袋なるべしといへり。後世の印籠の前身は袋なるべければげにいにしへ藥袋を佩びし世あるべし。但クスリを略してスリとはいふべからず。おそらくはスリブクロの上に久をおとしたるならむ○オキナサビは(3812)翁|進《サビ》にて年ヨリノ伊達なり。契沖の『オキナダテと云はむが如し』といへる如し。然るに雅澄などは老人めく事とし今の歌人も一般に此語を老人めく意に用ふるはいとにがにがし
 
   宴席詠2雪月梅花1哥一首
4134 ゆきのうへにてれるつくよにうめのはなをりておくらむはしきこもがも
由吉能宇倍爾天禮流都久欲爾烏梅能播奈乎理天於久良牟波之伎故毛我母
     右一首十二月大伴宿禰家持△
 オクラムは贈ルベキなり。贈るべき相手無きを嘆けるなり
 十二月の下に日のおちたるにや○諸本に家持の下に作の字あり
    ○
4135 わがせこがこととるなべにつねひとのいふなげきしもいやしきます(3813)も
和我勢故我許登等流奈倍爾都禰比登能伊布奈宜吉思毛伊夜之伎麻須毛
    右一首少目秦(ノ)伊美吉|石竹《イハタケ》(ノ)舘(ノ)宴(ニテ)守大伴宿禰家持作
 初二は主人石竹ガ琴ヲ引クニツレテとなり○第三句を二註に尋常ノ人ノといふ意とせり。宜しくツネ、ヒトノとよみて常ニ吾人ノといふ意とすべし。上(三七一三頁)にも
  つね、ひとのこふといふよりはあまりにてわれはしぬべくなりにたらずや
とあり。更に思ふにツネ、人ノはいにしへ行はれし熟語ならむ○イヤシキマスモはイヤシキ降ルニ、イヤシキ啼キヌの類例にてイヤ頻《シキ》ニ増スとなり
 
   天平勝寶二年正月二日於2國廳1給2饗(ヲ)諸郡司等1宴歌一首
4136 (あしひきの)やまのこぬれのほよとりてかざしつらくはちとせほぐとぞ
(3814)安之比奇能夜麻能許奴禮能保與等里天可射之都良久波知等世保久等曾
     右一首守大伴宿禰家持作
 給饗は饗ヲ給フとよむべし。卷二十の終に三年春正月一日於2因幡國廳1賜〔右△〕2饗國郡司等1之宴歌とあり○ホヨはホヤにてヤドリ木なり。契沖がヒカゲノカヅラなりといへるはいみじきひが言なり。ヒカゲノカヅラは地上に生ふるものなるをや○カザシツラクハはカザシツル事ハとなり。ヤドリ木は常緑にて宿主なる榎などの悉く落葉《ラクエフ》せし後にも青々と栄えてさる方にめでたきものなれば新年の挿頭に之を採りしにこそ○ホグは正しくはイハフといふべし
 
   判官久米朝臣廣繩之舘宴歌一首
4137 むつきたつはるのはじめにかくしつつあひしゑみてばときじけめやも
牟都奇多都波流能波自米爾可久之都追安比之惠美天婆等枳自家米也(3815)母
         同月五日守大伴宿禰家持作之
 判官は掾なり
 アヒシヱミテバは二註にいへる如く相ヱミテアラバといふ事ならむ○結句心得がたし。卷四(六二一頁)及卷十(一九七八貢)なる
  川上のいつもの花のいつもいつも來ませわが背子時じけめやも
はトキジカラムヤハ即イツトテモ時ナラズトイフ事アラムヤハの意として通ずれどこゝは通ぜず。或はヤモは反語即後世のヤハにあらでトキジカラムカ(イツモ壯ナラムカ)の意なるトキジケメヤに無意義なるモを添へたるか。さらば卷十七(三五二八頁)なる池主の
  あまざかる鄙にあるわれをうたがたも紐ときさけずおもほすらめや
の類例とすべし。このオモホスラメヤもオモホスラムカの意とすべき事彼處にいへる如し
 
  縁d検2祭墾田地1事u宿2礪波郡(ノ)主張〔左△〕多治比部(ノ)北里之家1、于v時忽起2風雨1(3816)不v得2辭去1作歌一首
4138 夜夫奈美のさとにやどかりはるさめにこもりつつむといもにつげつや
夜夫奈美能佐刀爾夜度可里波流佐米爾許母理都追牟等伊母爾都宜都夜
     二月十八日守大伴宿禰△△△
 古義に
  検2察墾田地1とは公より寺々によせたまふ墾田の地をみさだむる事なるべし
といへれど常識によりて寺々に寄せ給ふ田地に限らざる事を知るべし。元正天皇紀に
  養老七年夏四月太政官|奏《マヲ》サク。頃者《コノゴロ》百姓漸多ク田池窄狹ナリ。望ミ請フ天下ニ歡メ課《オホ》セテ田疇ヲ開闢セム。其《ソレ》新ニ溝、池ヲ造リ開墾ヲ營ム者アラバ多少ニ限ラズ給ヒテ三世ニ傳ヘム。若《モシ》舊溝池ヲ逐ハバ其一身ニ給ハムト。奏可ス
(3817) また聖武天皇紀に
  天平十五年五月詔シテ曰ク。如《コト》聞ク墾田ハ養老七年ノ格ニ依ルニ限滿タム後、例ニ依リテ收メ授ク。是ニ由リテ農夫怠倦シテ開地後ニ荒ルト。自今以後|任《ママ》ニ私財トシ三世一身ヲ論ズル無ク悉|咸《ミナ》永年取ル莫レ
とあり。されば庶人といへども官に經《フ》れて山野を開墾することを得しなり○主張は諸本に主帳とあり
 古義に
  夜夫奈美ノサトは神名帳に越中國礪波都荊波神社とあり。荊波はヤブナミなり。舊本にウバラと訓るはよしもなきことなり。荊をヤブとよむこと和名抄に新川郡大荊(ハ)於保也布とあり
といへるは一發見なり。荊をヤブとよめるは荊棘の義に據れるなり。今籔波といふ村あり。但こは新命名にて此地がいにしへの荊波(ノ)里に當れりや否やはなほ考へざるべからずといふ○コモリツツムは集中にアマゴモリ又アマヅツミとあり。雨にこもりて外に出でざるなり○イモを契沖も雅澄も共に家持の妻とし就中契沖は(3818)『此頃はやく越中に下れるなるべし』といひ雅澄は『此時いまだ越中に下らねば京ナル妻ニといへるなり』といへり。案ずるにこは屬僚の、妻を國府に置きたるものに向ひて云へるなり。さればこを妹ニ告ゲツヤと問へるなれ
 諸本に從ひて左註の末に家持作の三字を補ふべし
            (大正十五年二月講了)
           2005年6月12日(日)午後4時50分、入力終了
 
 
(3819) 萬葉集新考卷十九
                  井上通泰著
 
   天平勝寶二年三月一日之暮眺2矚春苑桃李花1作歌二首
4139 春の苑紅にほふ桃の花下照る道にいでたつをとめ
春苑紅爾保布桃花下照道爾出立※[女+感]嬬
 此卷は家持の歌集なり
 クレナヰニホフは紅ニ〔右△〕ニホフ、シタデルは下ニ照ルなり。はやく卷十八(三六九〇頁)にタチバナノシタデル庭ニとあり
 
4140 吾園の李の花か庭に落《チル》はだれのいまだのこりたるかも
吾園之李花可庭爾落波太禮能未遺有可母
 落を古義にフルとよめり。舊訓に從ひてチルとよむべし○ハダレは斑なる雪なり。(3820)はやく卷九(一七一一頁)にフレルハダレカキエノコリタルまた卷十(二二一二頁)にササノ葉ニハダレフリオホヒとあり。今も越後などにては薄雪をハダレ雪といふとぞ○此歌は卷十四なる
  筑波ねに雪かもふ|ら《レ》るいなをかもかなしき兒ろが|にぬ《ヌノ》ほ|さ《セ》るかも
と格相似たり
 
   見2飛〔□で囲む〕翻翔《トビカケル》鴫1作歌一首
4141 春まけて物悲爾《モノガナンキニ》三更而《サヨフケテ》羽ぶきなくしぎたが田にか須牟《スム》
春儲而物悲爾三更而羽振鳴志藝誰田爾加須牟
 飛翻翔の三字のうち一字は衍ならむ。諸本及目録に飛の字なし。翻《ヘン》翔はトビカケルとよむべし。翻は飛なり○鴫は邦製字なり
 第二句を舊訓にモノガナシキニとよみ古義にモノガナシラ[正誤表に岩野誠一古義にはキとありと注意]ニとよめり。前者に從ふべし。良の字あらではモノガナシラニとはよまれず。
  卷四(七八三頁)に物悲良〔右△〕爾とあり
 又こゝは鴫が物がなしげに鳴くといへるにあらず。作者が物がなしくおぼゆと云(3821)へるなり。卷三(三七九頁)にも
  たびにして物ごひしきに山下のあけのそほ船おきをこぐ見ゆ
とあり。羽ブキは羽タタキテなり〇三更而はヨグタチテともよむべし。卷七(一二五七頁)に夜三更而ナガコヱキケバイネガテナクニとあり。これもサヨフケテともヨグタチテともよむべし○須牟を古義には元暦校本に據りて(實は誤讀なり)頒牟の誤としてハムとよめり。案ずるに集中に頒をハの假字に用ひたる例なき上にナクといひて更にハムといふべきにあらねば、もとのまゝにてスムとよむべし。古寫本に須を頒の如く書けるは杉を※[木+分]の如く書けると同例にて彡の右傍にヽを添へたるなり○春マケテの語例は卷八(一五三二頁)に夏マケテサキタルハネズとあり。下にも春マケテとありて一云春サレバとあればほぼ春サリテといふ意とおぼゆ
 
   二日攣2柳黛1思2京師1歌一首
4142 春の日にはれる柳を取持ちて見れば都の大路おもほゆ
春日爾張流柳乎取持而見者京之大路所思
 攀は折なり。黛は所謂ヒキマユなるを眉に借れるなり。ヤナギノ眉は柳の芽なり。は(3822)やく卷十(一九二七頁)に
  梅の花とりもちみればわがやどの柳の眉しおもほゆるかも
とあり。歌も今のと相似たり。さて柳黛は實柳の芽なれどこゝは芽張柳をいへるなり○家持は當時越中の任地にありき
 ハレルは芽ノ出デタルなり。當時はやく都の大路には柳を植ゑたりしなり。但|催馬樂《サイバラ》の歌に
  大路に、治ひてのぼれる青柳が花や、あをやぎが、しなひを見れば今さかりなりや
とあるは平安京の大路なるべし○古義には結句にシを添へてオホヂシオモホユ
とよみたれど強ひてシを加ふるに及ばず。契沖が
  下句の意、京の大路を行かふ美女の黛の匂を思ひ出るなり。題に攀2柳黛1思2京師1とかける黛の字かねて此意を含めり
といへるは非なり
 
   攣2折堅香子草(ノ)花1歌一首
4143 (もののふの)八十《ヤソ》乃〔□で囲む〕|※[女+感]嬬等之《ヲトメラガ》くみまがふ寺井のうへのかたかごの花
(3823)物部能八十乃※[女+感]嬬等之※[手偏+邑]亂寺井之於力堅香子之花
 堅香子は今いふカタクリなり。花は紫色にて形百合に似たり。略解に
  越にてはカタコユリともいへり。カタクリはカタコユリの約りたる言也
といへるは藤塚知明の花勝見考の中の説に據れるなり
 モノノフノは八十にかゝれる枕辭なり。第二句の乃の字元暦校本等に無し。之を削りてヤソヲトメラガとよむべし。クミマガフは亂レ汲ムなり○寺井を雅澄は地名とせり。寺井ノウヘとあれば地名にはあらじ。然も寺中にある井を打任せて寺井とはいふべからず。思ふに其寺に名水ありてそを寺井と稱せしならむ。ウヘは井の邊にあらず。井は岡又は崖の下にありてウヘはその岡又は崕の上なり。卷三(四八二頁)なる瀧ノウヘノ淺野ノキギシなどのウヘに同じ〇二三はおもしろしと見しまゝを述べたるなり。契沖が
  花と人と互に匂ひとなる心なり
といひ雅澄が
  あまたの美人のうつくしきかほにはえあひよく咲にほひたる堅香子の花にて(3824)あるぞといふなるべし
といへるは歌にヲトメラといへるに泥めるなり。寺井の水をくみまがふは貴女の遊戯にあらず。ヲトメラといへるはオカミサン、ムスメッ子などを美化したるのみ
 
   見2歸鴈1歌二首
4144 燕くる時になりぬとかりがねは本郷《クニ》思《シヌビ・オモヒ》つつ雲がくりなく
燕來時爾成奴等鴈之鳴者本郷思都追雲隱喧
 本郷は二註に從ひてクニとよむべし。卷十(二一〇六頁)にも
  わがやどになきしかりがね雲のうへにこよひなくなり國へかもゆく
とあり。思を古義にはシヌビとよめり。ミレバミヤコノ大路オモホユの例によらば舊訓の如くオモヒともよむべし。雲ガクリは雲ニ隱レテなり。ナクはナキユクなり
 
4145 春まけてかくかへるとも秋風に黄葉《モミヅル》山をこえこざらめや
    一云、春さればかへる此鴈
春設而如此歸等母秋風爾黄葉山乎不超來有米也
(3825)    一云春去者歸此鴈
 黄葉を略解にモミデムとよみ古義にモミヂムとよめり。宜しくモミヅルとよむべし(上二段活に從ふべき事は卷十【二一五六頁】にいへり)○秋カゼニはコエコザラメヤにかゝれるなり。黄葉山にかゝれるにあらず○古義に『鴈と云ことなきは上の歌にゆづりたるものなり』といへり。まづ然見てもあるべし
 
   夜裏聞2千鳥(ノ)喧《ナク》1歌二首
4146 夜具多知《ヨグタチ》に寢覺めてをれば河瀬とめこころもしぬになくちどりかも
夜具多知爾寢覺而居者河瀬尋情毛之奴爾鳴知等理賀毛
 夜裏は夜中なり
 夜とクダチとを連ねて一語とする時濁音上にうつりて夜グタチとなるは日ガケルなどと同例なり。實は濁音が上に移るにあらず。二語を連ねいふ時第二語の首字おのづから濁られて夜グダチとなれど濁音の續くは唱へにくければ第二の濁音はおのづから清まるゝなり。さて夜グタチニは夜深クなり○トメはタヅネなり。古(3826)今集なる
  龜の尾の山の岩根をとめておつるたきのしら玉千世のかずかも
のトメテにおなじ○ココロモシヌニは聞ク人ノ心モシヲレムバカリとなり
 
4147 夜ぐたちてなくかはちどりうべしこそ昔の人もしぬび來にけれ
夜降而鳴河波知登里宇倍之許曾昔人母之奴比來爾家禮
 こゝのシヌビは感賞なり〇四五相かなはず。昔ノ人モシヌビケレとか昔ヨリシヌビ來ニケレとかあるベし
 
   聞2曉(ニ)鳴(ク)※[矢+鳥]1歌一〔左△〕首
4148 椙の野にさをどるきぎしいちじろくねにしもなかむこもりづまかも
椙野爾左乎騰流※[矢+鳥]灼然啼爾之毛將哭己母利豆麻可母
 一首とあるは二首の誤なり
 椙は榲の俗體なり。スギノ野は越中の地名ならむ○サヲドルのサは添辭なり。サヲドルとあるを見れば鴉雀の如く兩足をそろへて飛ぶやうに聞ゆれど雉は片足づ(3827)つ進むるものなり。いぶかし。カモはカハなり○キギシの下に汝ハといふことを加へ又ナカムをナクベキと心得れば辛くして通ずれど實はスギノ野ニサヲドルキギシヨ、コモリ妻ニシテ然イチジロクシモ音ニ啼カメヤハ
.といふべきを今の如くしらべなしたるに無理あるなり。さてコモリヅマといへるは雉は草に隱れて身を現さぬものなれば人間のこもり妻によそへたるなれど雉のなくは雄の方なればこゝにも無理はあり○辭は卷十一(二五一四頁)なる
  里中になくなる鶏《トリ》のよびたてていたくはなかぬこもり妻はも
に似たる所あり。古義に初二を序としたるは非なり。釋も誤れり
 
4149 (足引の)八峯《ヤツヲ》のきぎしなきとよむあさけの霞みればかなしも
足引之八峯之※[矢+鳥]鳴響朝開之霞見者可奈之母
 ヤツヲは重レル岡なり。カナシモはアハレニオモシロシとなり。浦コグ船ノツナ手カナシモのカナシモに同じ。アシ引ノは峯《ヲ》にかゝれり
 
  遙聞2泝v江船人(ノ)唱《ウタ》1歌一首
(3828)4150 朝床にきけばはるけし射水河朝こぎしつつうたふふな人
朝床爾聞者遙之射水河朝己藝思都追唱船人
 當國の國府は今の射水郡伏木町の西にありて射水川の河口に近かりき〇四五は正しくは朝コギスラムフナ人ノ歌とあるべきなり。朝の字の重出せるも快からず
 
   三日守大伴宿禰家持之舘宴歌三首
4151 けふの爲と思ひてしめし(足引の)をのへの櫻かくさきにけり
今日之爲等思標之足引乃峯上之櫻如此開爾家里
 舘は前の卷にもあまた見えたるが實は俗字なり。正しくは館と書くべし
 このシメシは人ノ折ラヌヤウニ警メシとなり。ヲノヘは國(ノ)守の館より見ゆるむかつ峯《ヲ》なり
 
4152 奥山のやつをのつばきつばらかに今日はくらさねますらをのとも
奥山之八峯乃海石榴都婆良可爾今日者久良佐禰大夫之徒
 初二は序なり。おそらくは奥山の椿を折り來りて當席の瓶にさしたりしならむ。ヤ(3829)ツヲは上にヤツヲノキギシと見えたり○ツバラカニといふ語もし委曲の意ならば第四句はカタリクラサネ又は今日ハカタラネなどあらざるべからず。卷九(一七六八頁)なる登2筑波山1歌にイブカシキ國ノマホラヲ、委曲《ツバラカ》ニ示シタマヘバとあり
 
4153 漢人も※[木+戊]〔左△〕《イカダ》うかべてあそぶちふ今日ぞわがせこ花かづらせよ
漢人毛※[木+戊]浮而遊云今日曾和我勢故花縵世余
 ※[木+戊]を舊訓にフネヲとよみ二註も之に從へり。又新撰朗詠集、新古今集などに此歌を出せるにもフネヲとあり。案ずるに※[木+戊]は※[木+伐]の誤にて※[木+伐]はやがて筏なればイカダとよむべし[正誤表に岩野誠一契沖既に言えりと注意]。常陸風土記にも連v船編v※[木+代]とあり○諸註に曲水流觴の故事を引きたれどこゝはそれには與からず。案ずるに漢土にていにしへ三月上巳に水邊に出でて祓禊《フツケイ》せしが終に行樂に代り、日も其月の三日に代りしにて曲水流觴も浮筏も共に一種の行樂なり。但浮筏の故事はいまだ得求めず○ワガセコは我友といはむにひとし。花カヅラは花を絲に貫きて冠にかくるなり
 
   八日詠2白大鷹1歌一首并短歌
(3830)4154 (あしひきの) 山坂こえて 去更《ユキカハル》 年の緒ながく (しなざかる) こしにしすめば 大王《オホキミ》の しきます國は 京師《ミヤコ》乎〔□で囲む〕|母《モ》 ここもおやじと 心には おもふものから かたりさけ 見さくる人|眼《メ》 ともしみと おもひししげし そこゆゑに こころなぐやと 秋づけば はぎさきにほふ いは瀬野に 馬|太伎《ダキ》ゆきて をちこちに 鳥ふみたて しら塗の 小《ヲ》鈴もゆらに あはせやり ふりさけ見つつ いきどほる こころのうちを 思延《オモヒノベ》 うれしびながら (まくらづく) つま屋の内に 鳥座《トグラ》ゆひ すゑてぞわがかふ ましらふのたか
安志比奇能山坂超而去更年緒奈我久科坂在故志爾之須米婆大王之敷座國者京師乎母此間毛於夜自等心爾波念毛能可良語左氣見左久流人眼乏等於毛比志繁曾己由惠爾情奈具也等秋附婆芽子開爾保布石瀬野爾馬太伎由吉※[氏/一]乎知許知爾鳥布美立白塗之小鈴毛由良爾安波勢也里布里左氣見都追伊伎騰保流許己呂能宇知乎思延宇禮之備奈我良枕附(3831)都麻屋之内爾鳥座由比須惠※[氏/一]曾我飼眞白部乃多可
 山坂コエテは古義にいへる如くコシニシスメバにかゝれるなり。略解に初二を去更の序とせるは非なり○去更は古義に從ひてユキカハルとよむべし。略解にユキカヘルとよめるはわろし。そのユキカハルは來代ルなり。はやく卷十一(二五〇四頁)に
  玉(ノ)緒のうつしごころや年月の行易《ユキカハル》まで妹にあはざらむ
とあり。又卷十八なる七夕歌(三七九三頁)に往更《ユキカハル》年ノハゴトニとあり○オホキミノ以下は卷六(一〇六九頁)なる父大伴旅人の
  やすみししわがおほきみのをす國はやまともここも同じとぞおもふ
といふ歌に依れるなり。さて京師乎母の乎の言あまれり。ミヤコモとあるべきなり。オヤジはオナジなり○カタリサケ云々の語例は卷三(五五八頁)なる悲2嘆尼理願死去1作歌にトヒサクルウガラハラカラ、ナキ國ニワタリ來マシテまた續紀なる寶龜二年二月左大臣藤原永手の薨ぜし時の宣命に
  恨《ウラメシ》カモ悲《カナシ》カモ朕《アガ》大臣、誰ニカモ我|語《カタラ》ヒサケム孰ニカモ我問ヒサケム
(3832)とあり。さて詔詞解卷六(宣長全集第五の三八五頁)に
  サケはココロヲ遣ルといふヤルと同じくて人と語らひて思ひむすぼほるゝ心を放遣《サケヤ》るなり。問は言フなり。物いふを古言にコトトフといへり
といへれど語リテ心ヲ遣ル、見テ心ヲ遣ルといふ意にはあらで向ヒ語ル、向ヒ見ルといふほどの意ならむ○トモシミトは乏シサニなり。オモヒシシゲシは思ゾシゲキといはむに近し。卷十八なる賀2陸奥國出1v金詔書歌にオモヒシマサルとあるもオモヒゾマサルなり(三七四一頁參照)○ソコユユニはソレ故ニなり。ナグはナゴムなり。秋ヅケバは近くは卷十八(三七六七頁)なる橘歌に秋ヅケバシグレノ雨フリとあり。秋ニ就ケバにて秋サレバといはむに近し。卷十三(二八三三頁)の長歌にも、下なる悲2世聞無常1歌にも春サレバとむかはせたり(二一七九頁參照)○石瀬野は今同國(越中)上新川郡なる神通河口の右岸に東岩瀬町あり。そのわたりをいにしへイハセ野といひしなりといふ○馬ダキユキテは馬ノ手綱ヲタグリユキテにてそのタギは古今集なるアマノナハタギイザリセムトハのタギに同じと二註にいへり。さて太伎と書けるによりて古義にはウマダキユキテとよみて(3833)馬タギといふべきをダキと唱ふるは古への一つの音便にて此上に夜グタチとあるに同じ
といへり○鳥フミタテは草ヲ踏ミテ鳥ヲタタセとなり。卷十七(三六二四頁)なる思2放逸(セシ)鷹1作歌にもシラヌリノ鈴トリツケテ、朝ガリニイホツトリタテ、ユフガリニチドリフミタテとあり○小鈴モユラニは小鈴モ鳴ルバカリとなり。語例は古事記に御頸珠之玉(ノ)緒|母《モ》由良邇《ユラニ》トリユラガシテまたヌナト母由良爾とあり。本集にも足玉モ手《タ》珠モユラニオルハタヲ(二〇六四頁)また手ニマケル玉モユララニ(二八〇四頁)とあり。さて略解に
  モユラは眞ユラなり。モの詞下へ付べし
とあるはひが言にて、古義に『モは語辭なり』といへるぞよき
  記なる奴那登母母由良爾の一の母は衍字かと思へど上なる玉緒母由良邇〔四字傍点〕の訓註に此四字以音とあり又紀の訓註に瓊響※[王+倉]々此云2奴儺等母々由羅爾〔四字傍点〕1とあれば衍字にはあらじ。但本集なる手珠モユラニ、玉モユララニ、小鈴モユラニのモはみなテニヲハなり
(3834) 〇アハセヤリは鷹ヲ放チテ鳥ニ合セヤリとなり。イキドホルは悶ユルなり○ココロノウチヲ思延とある不審なり。オモヒノベは下にもオモヒノベミナギシ山ニとありて思ヲ舒ベのヲを略したるなればココロノウチヲといひてオモヒノベとはいふべからず。寫し誤れるか又は初よりとゝのはざるか○ウレシビナガラは喜ビツツなり。ツマ屋は寢室なり。トグラは鳥屋なり。はやく卷二(二四〇頁)にトグラタテカヒシタカノ子とあり○マシラフノタカは題辭に白大鷹とあり又反歌にマシロノタカとあるを見れば白斑がちなる鷹ならむ
 
    反謌
4155 矢形尾のましろの鷹を屋戸にすゑかきなで見つつ飼はくしよしも
矢形尾乃麻之路能鷹乎屋戸爾須惠可伎奈泥見都追飼久之余志毛
 矢形尾ははやく卷十七(三六二四頁)に見えたり○マシロノタカとあれど長歌にマシラフノタカとあれば純白にはあらで白斑ありしならむ。屋戸は宿の借字なり○カハクシヨシモは飼フ事ガタノシとなり。集中にミラクシヨシモ、ユカクシエシモなどあり
 
(3835)    潜v※[廬+鳥]歌一首
4156 (あらたまの) 年|往更《ユキカハリ》 春されば 花|耳〔左△〕《サキ》にはふ (あしひきの) 山下とよみ おちたぎち ながる辟田《サキタ》の 河の瀬に あゆこ狹走《サバシル》 (島つ鳥) うがひともな倍《ヘ》 かがりさし なづさひゆけば 吾妹子が かたみがてらと 紅の やしほにそめて おこせたる ころものすそも とほりてぬれぬ
荒玉能年往更春去者花耳爾保布安之比奇能山下響堕多藝知流辟田乃河瀬爾年魚兒狹走島津鳥※[廬+鳥]養等母奈倍可我理左之奈澤左比由氣波吾妹子我可多見我※[氏/一]良等紅之八塩爾染而於己勢多流服之襴毛等寶利※[氏/一]濃禮奴
 潜※[廬+鳥]歌を二註にウツカフウタとよめり。宜しく宇に即きてウヲカヅクルウタとよむべし。反歌にも鵜|八頭《ヤツ》カヅケテとあり。一首の下に并短歌とあるべきなり
 往更は古義に從ひてユキカハリとよむべし。上にもユキ更《カハル》年ノ緒ナガクとあり。さ(3836)て年ユキカハリ春サレバとつづけて心得べし○春サレバは句格上花耳ニホフにかゝれる如くなれどさにはあらで七句下なる年魚兒狹走にかゝれるなり。花の下の耳は略解に從ひて開の誤とすべし○さて花サキニホフは語格の上にては山下にかゝりたれど、こは修辭不熟の爲にて作者の意は山のみにかけたるならむ。なほ卷十八賀2陸奥國出1v金詔書歌なるシガネガフ心ダラヒニの註(三七三四頁)を參看すべし○ナガルルサキ田ノといふべきをナガルといへるは古格に從へるなり。卷十八(三七五五頁)にもナガル水沫ノとよめり。澁渓の附近なる西田《サイダ》といふ處にモミヂ川といふ小流あり。いにしへは川幅廣かりきといふ。サキ田川はおそらくは是なるべし○狹走を從來サバシリとよみたれどサバシルとよみ切るべし。さてサバシルのサは添辭なり○等母奈倍を二詳にトモナヘとよめり。然るに字音辨證(下卷四頁)には倍はヒともよむべしといへり。案ずるに集中に倍をヒに借りたる例なければ
  卷十八(三八〇五頁)なるトリガナクアヅマヲサシテ布佐倍シニを辨證の著者木村博士はフサヒとよむべしと云はれたれどこはなほフサヘ〔右△〕とよむべき事かしこに云へる如し
(3837) なほトモナヘとよむべし。おそらくは當時トモナフを訛りで下二段活にもつかひしならむ○カガリサシは篝ヲトモシなり。ナヅサフはナヅムに近し。ナヅサヒユケバはこゝにては水ヲ渡リ行ケバとなり○吾妹子は奈良にある妻なり。カタミガテラは記念カタガタなり○紅ノヤシホニソメテは幾度モ紅ニ染メテにてやがて深ク紅ニ染メテとなり。トホリテは裏マデ徹リテなり
 
   反歌
4157 紅のころもにほはしさき田河たゆることなくわれかへりみむ
紅衣爾保波之辟田河絶己等奈久吾等看〔左△〕牟
 コロモニホハシは衣ヲヌラシなり。水に濡るれば色濃く見ゆるが故にニホハシといへるなり。語例は卷一に
  ひくま野ににほふはり原いりみだりころもにほはせ旅のしるしに
とあり。このコロモニホハセは萩ノ色ニ染メヨとなり○カヘリミムは立返リ見ムとなり。看は諸本に眷とあり
 
(3838)4158 毎年《トシノハ》に鮎しはしらばさきた河、※[盧+鳥]|八頭《ヤツ》かづけて河瀬たづねむ
毎年爾鮎之走婆左伎多河※[盧+鳥]八頭可頭氣弖河瀬多頭禰牟
 鮎は邦製字なり。神功皇后松浦川の故事に據りて作れるならむ。漢字の鮎《デン》はアユにあらず○第四句は鵜ヲアマタクグラセテとなり。ヤツといひ八頭と書ける例は卷十三(二九三一頁)に
  こもりくのはつせの川の、かみつ瀬に鵜を八頭《ヤツ》かづけ、しもつせに鵜を八頭《ヤツ》かづけ
 又卷十六なる乞食者詠(三四六一頁)に
  から國の虎ちふ神を、いけどりに八頭《ヤツ》とりもち來《キ》
とあり○河瀬タヅネムは上(三八二五頁)に河瀬|尋《トメ》とあるにおなじ
 
   季春三月九日擬2出擧之政1行2於舊江村1道上屬2目物花1之詠并興〔左△〕中所v作之歌
 こは次下長短七首に亘れる題辭なり。二註に『以下長短十首の總標なり』といへるは(3839)非なり。詠2霍公鳥并時花1謌以下は別なり○出擧《スヰコ》は利息を徹して民に錢穀を貸すをいふ。春貸して秋|徹《ハタ》)るなり。准南子《エナンジ》説山訓にも春貸秋賦民皆欣、春賦秋貸衆皆怨とあり(三六五〇頁參照)○擬を古義に
  この字をいと輕く用る例多し。ただ出擧ノ政ヲ行ハムタメニと云意なりと本居氏説なり
といへるは非なり。コトヨセテとよむべし。出擧の御用に托して遊覧に出でしなり○舊江村ははやく卷十七(三五九〇頁)に出でたり。今の氷見郡の内なり。氷見郡は明治二十九年に射水郡より分れしなり○物花を契沖等は物華の誤としたり。遊仙窟なる張文成が蜂子に代りて答へたる詩に
  觸處尋2芳樹1、都慮《スベテ》少《ナシ》2物花〔二字右△〕1、試從2香處1※[爪/見]、正値可憐花
とあるも物華の誤とすべきか。物華は字書に言2萬物之菁華1也とあり。畢竟目ザマシキ物なり○興中は輿中の誤ならむ
 
    過2澁渓(ノ)埼1見2巖上(ノ)樹1歌一首 樹名都萬麻
4159 礒の上のつままを見れば根をはへて年深からしかむさびにけり
(3840)礒上之都萬麻乎見者根乎延而年深有之神佐備爾家里
 澁渓は今氷見郡に屬せり。國府《コフ》の西北に當りて布勢糊に行く道なり(三五三一頁參照)○ツママは犬楠一名タブノ木なりといふ。題辭に巖上(ノ)樹とあるを見れば此歌のイソは大岩なり○根ヲハヘテは根ヲヒロゲテなり。年フカカラシは年久シカラシなり。語例は近くは卷六(一一五二頁)に
  ひとつ松いく代かへぬるふく風の聲の清きは年ふかみかも
とあり。おそらくは漢語の直譯ならむ。漢語の語例は古きはいまだ見出でざれど韓愈の石皷歌に年深豈免有2※[缶+欠]畫1とあり白居易の集にも年深已滋蔓(有木詩)零落年深殘2此身1(上陽人)歳久年深〔四字傍点〕盡衰朽(隋堤柳)守v道歳月深(丘中有一士)などあり。又續日本|後記《コウキ》承和十五年六月の下に見えたる太政官牒に事須d逐2其實歸1不厭2年深1とあり
 
     悲2世間無常1歌一首并短歌
4160 天地の 速き始よ 俗中《ヨノナカ》は 常なきものと かたりつぎ ながらへきたれ あまの原 ふりさけみれば てる月も みちかけしけり (3841)(あしひきの) 山のこぬれも 春されば 花さきにほひ 秋づけば 露霜おひて 風まじり もみぢちりけり うつせみも かくのみならし 紅の いろもうつろひ (ぬばたまの) 黒髪かはり 朝の咲《ヱミ》 ゆふべかはらひ ふく風の 見えぬがごとく ゆく水の とまらぬごとく 常もなく うつろふ見れば (にはたづみ) 流るるなみだ とどめかねつも
天地之遠始欲俗中波常無毛能等語續奈我良倍伎多禮天原振左氣見婆照月毛盈※[呉の口が日]之家里安之比奇能山之木未毛春去婆花開爾保比秋都氣婆露霜負而風交毛美知落家利宇都勢美母如是能未奈良之紅能伊呂母宇都呂比奴婆多麻能黒髪變朝之咲暮加波良比吹風能見要奴我其登久逝水能登麻良奴其等久常毛奈久宇都呂布見者爾波多豆美流H等騰米可禰都母
 此歌と次なる改作七夕歌と慕v振2勇士之名1歌とは輿中消閑の作なり
(3842) ハジメヨは始ヨリなり。ナガラヘはナガレを延べたるにてツタハリにおなじ。はやく卷二(三二六頁)にも妹ガ名ハ千代ニナガレムとあり。キタレはキタルニなり○テル月モ云々の語例は卷三(五四一頁)に
  世の中はむなしき物とあらむとぞこのてる月はみちかけしける
 又卷七(一三五六頁)に
  こもりくのはつせの山にてる月のみちかけしてぞ人の常なき
とあり○モミヂチリケリはソノ木末ノ黄葉ガ散リケリといへるなり。古義に黄葉シテ散リケリの意とせるは從はれず。風マジリにつづきたればなり。さて春の方は二句なるに秋の方の四句なるは參差《シンシ》として心よからず○ウツセミモカクノミナラシは卷五(八六一頁)なる憶良の歌に世ノ中ハカクノミナラシとあるに同じ○ユフベカハラヒはカハリを延べたるなり。さてクロカミカハリといひて僅に一句を隔ててユフベカハラヒといへる心ゆかず○フク風ノ云々の語例は卷十五(三二一八頁)なろ丹比《タヂヒ》大夫悽2愴亡妻1歌にユク水ノカヘラヌゴトク、フク風ノミエヌガゴトクとあり○ウツロフの重出も心ゆかず○ニハタヅミ云々の語例は卷二(二三八頁)(3843)にニハタヅミ流ルル涙トメゾカネツルとあり○トド米は元暦校本にトド未とあり。卷五なる憶良の哀2世間難1v住歌(八六一頁)にアソビケムトキノサカリヲトド尾《ミ》カネスグシヤリツレ又その反歌にヨノコトナレバトド尾カネツモとありてトドムの活は後と異なれば元暦本に未とあるも棄てがたし○※[呉の口が日]は卷七(一三五六頁)にも見えたり。昃の俗體なり。
 
     反歌
4161 言どはぬ木すら春さき秋づけばもみぢちらくは常をなみこそ
      一云常なけむとぞ
言等波奴木尚春聞秋都氣波毛美知遅良久波常乎奈美許曾
     一云常無牟等曾
 初二の語例は卷四(八二一頁)にコトドハヌ木スラアヂサヰとあり。但同じ人の作なり。春秋の參差たる、例の如く心ゆかず○このモミヂはモミヂシテなり。チラクは散ル事ハなり○常ヲナミコソは無常ナレバコソ然スルナレとなり
(3844) 常ナケムトゾは無常ナラムトゾにて上に引きたる卷二なる世ノ中ハムナシキモノトアラムトゾぜ學べるなり。さて此歌と次の歌との結句共に一云とあるは卷五(九六一頁以下)なる憶良の和d爲2熊凝1述v志歌uの反歌五首の結句を二樣にしらべなしたるに倣へるなり。所詮家持は獨創的歌人にあらず○知遲は顛倒か
 
4162 うつせみの常なき見れば世のなかにこころつ氣《ケ》ずておもふ日ぞおほき
     一云嘆く日ぞおほき
宇都世美能常無見者世間爾情都氣受※[氏/一]念日曾於保伎
     一云嘆日曾於保吉
 略解に
  心ツケズはいはゆる執著せぬ也。オモフは世間のありさまを観念する也
といひ古義に
  契沖が『心つけて思はぬ日ぞ多きといふ意なり』といへるが如し。略解に云々とい(3845)るは件のいみじきひがごとなり
といへり。又字音辨證(上卷三〇頁)にはココロツキ〔右△〕ズテとよみて
  こは物思ひの心に盡ずしてかこたるゝ日の多きといふなり
といへり。案ずるに氣は漢音にてキともよむべし〇但辨證の釋の如き意をかくはいふべからず。又案ずるにかばかりの歌に諸説の區々たるは所詮よみざまのわろきなり。第四句はなほココロツケズテとよみて略解にいへる如く執著セズシテと心得べし。オモフは物オモフなり。執著セズシテといひながらオモフといへるがわろきなり(ナゲクはなほ可なり)。心ツケズテアルベカリケリなどこそいふべけれ
 
     豫作《カネテツクレル七夕歌一首
4163 妹が袖われまくらかむ河のせに霧たちわたれさよふけぬとに
妹之袖和禮枕可牟河湍爾霧多知和多禮左欲布氣奴刀爾
 マクラカムはマクラク(枕ニスル)といふ動詞のはたらけるなり。マカムといはむにひとし○トニは時ニなり。程ニなり。宣長が『外ニにて内ニといはむにひとし』といへるは從はれず(一九一二頁參照)
 
(3846)    慕v振2男士之名1歌一首并短歌
4164 (ちちのみの) 父のみこと (ははそ葉の) 母のみこと おほろかに こころつくして 念ふらむ 其子なれやも ますらをや むなしくあるべき 梓弓 末ふりおこし 投矢《ナゲヤ》もち 千尋射わたし 劍だち こしにとりはき (あしひきの) 八峯《ヤツヲ》ふみこえ さしまくる △ こころ障《サヤ》らず 後代乃〔左△〕《ノチノヨニ》 かたりつぐべく 名をたつべしも
知智乃實乃父能美許等波播蘇葉乃母能美己等於保呂可爾情盡而念良牟其子奈禮夜母大夫夜無奈之久可在梓弓須惠布理於許之投矢毛知千尋射和多之釼刀許思爾等理波伎安之比奇能八峯布美越左之麻久流情不障後代乃可多利都具倍久名乎多都倍志母
 左註にいへる如く卷六(一〇九一頁)なる山上(ノ)憶良の
  をのこやも空しかるべき萬代にかたりつぐべき名はたてずして
といへる歌に和したるにて慕v振勇士之名1歌とは憶良が右の歌によりて勇士の名(3847)を振ひしを慕ひてよめるといへるなり
 オホロカニ云々はオロソカニ心盡シテ思フラム其子ナラムヤハとなり。ソノ子は父ノ命、母ノ命ノ子にて即我なり○マスラヲヤ云々は憶良の歌にヲノコヤモ空シカルベキとあるを取れるなり○梓弓云々は矢を射る時には弓の末を起すが故にいへるにて卷三(四五四頁)なる笠(ノ)金村が鹽津山にてよめる
  ますらをのゆずゑふりおこし射つる矢をのち見む人はかたりつぐがね
に依れるなり○投矢は從來ナグヤとよめれどナゲヤとよむべし。其語例は卷十三(二九三一頁)に投左《ナグルサ》ノトホザカリヰテまた同卷(二九五一頁)に
  葦邊ゆく鴈のつばさを見るごとにきみがおばしし投箭《ナゲヤ》しおもほゆ
とありて手して投ぐる失と思はる。神代紀にも
  於v是取v矢|還投下之《カヘシナゲクダシキ》。其矢落下(リ)則中2天稚《アメワカ》彦之胸上1
とあり。今も南洋の土人などに手して矢を投ぐる習ありといふ。然るにこゝに梓弓スヱフリオコシとありて弓して射るものゝやうにいへる、不審なり。箋注和名抄卷二(八七頁)遠射の註に謂v射爲v投と云へるはこゝにはかなへり○サシマクルのサシ(3848)は添辭、マクルは遣《ツカハ》す事なり。情不障を二註にココロサヤラズとよめり。サヤルは卷五(九四四頁)に
  ももかしもゆかぬまつらぢけふゆきてあすは來なむをなにかさやれる
 また同卷(九八九頁)に
  すべもなく苦しくあればいではしりいななともへど子等にさやりぬ
とありて妨げらるゝ事なり。さて古義に
  情《ココロ》と云も上に付て差|任《マク》る官の情と云なるべし。不障と云は自の不障《サヤラヌ》なり。官よりせしむる情を〔右△〕さやらずいそしまむは忠臣勇士の意なり
といへれど略解に
  サシマクルココロサヤラズの二句穩ならず。句の落たるならん
といへる如く落句あるべくおぼゆ。サシマクルミコトノマニマ、妻子ドモニココロサヤラズ、などありしが落ちたるか○後代乃の乃は爾の誤ならむ。寶は實の誤なり
 
     反歌
4165 ますらをは名をしたつべし後の代にききつぐ人もかたりつぐがね
(3849)大夫者名乎之立倍之後代爾聞繼人毛可多里都具我禰
      右二首追2和山上憶良(ノ)臣(ノ)作歌1
 ツグガネはツグベクなり
 
    詠2霍公鳥并時花1謌一首并短歌
4166 時ごとに いやめづらしく 八千種に 草木花さき なく鳥の こゑもかはらふ 耳にきき 眼にみるごとに うちなげき しなえうらぶれ しぬびつつ 有爭〔左△〕《アリクル》はしに このくれ罷〔左△〕《ノ》 四月《ウヅキ》したてば よごもりに なくほととぎす 從古昔《ムカシヨリ》 かたりつぎつる うぐひすの うつし眞子かも △ あやめぐさ 花たちばなを をとめらが 珠ぬくまでに (赤根さす) ひるはしめらに (あしひきの) 八丘《ヤツヲ》とびこえ (ぬばたまの) よるはすがらに あかときの 月に向ひて ゆきかへり なきとよむれど 何如《ナドカ》あきたらむ
毎時爾伊夜目都良之久八千種爾草木花左伎喧鳥乃音毛更布耳爾聞眼(3850)爾視其等爾宇知歎之奈要宇良夫禮之努比都追有爭波之爾許能久禮罷四月之立者欲其母理爾鳴霍公鳥從古昔可多理都藝都流※[(貝+貝)/鳥]之宇都之眞子可母菖蒲花椿乎※[女+感]嬬良我珠貫麻泥爾赤根刺晝波之賣良爾安之比奇乃八丘飛超夜于〔左△〕玉之夜者須我良爾曉月爾向而往還喧等余牟禮杼何如將飽足
 イヤは深き意義なき添辭なり。イヤメヅラシクは鳥にはかゝらで花のみにかゝれるなり。カハラフはカハルを延べたるなり○耳ニキキ云々はソノ花鳥ノ色音ヲ目ニ見、耳ニ聞クゴトニとなり○シナエウラブレは弱リ衰ヘなり。はやく卷十(二一九一頁)に君ニコヒシナエウラブレワガヲレバとあり○シヌビツツは霍公鳥ヲ偲ビツツなり。有爭を宣長は有來の誤としてアリクルとよめり。之に從ふべし。ハシニはホドニなり○コノクレは木陰にてコノクレノウヅキは木陰クラキ四月といはむを略したるなり。罷は能の誤字なり。ヨゴモリニは曉フカクなり(一七八九頁參照)○從古昔を舊訓にムカシヨリとよめるを二註にイニシヘユ(イニシエヨ)と改めたり。(3851)卷十五(三二七二頁)に牟可之欲理イヒケルゴトクとあればムカシヨリとよまむも後世風ならず○ウツシ眞子のウツシを略解に『ウツクシのクをはぶけるなるべし』といへるはいみじきひが言なり。宜しく契沖宣長等の現《ウツシ》の意とせるに從ふべし。古義にいへる如く俗語の正眞なり。眞子も古義に『眞は美稱にてただ子といふことをほめていへるなり』といへるに從ふべし。略解に『マナゴといふに同じ』といへれどマナゴは愛子といふことなり(一三一四頁參照)。霍公鳥は他鳥殊に鶯の巣の中に卵を生むものなりといふ。はやく卷九(一七七三頁)にウグヒスノカヒコノナカニ、ホトトギスヒトリ生レテとある處にいへり○珠ヌクは珠ニヌクのニを略したるなり。麻泥爾とある穩ならず。もし誤字にあらずばアヤメグサの上に句をおとせるならむ。更に案ずるに題辭に詠2霍公鳥并時花1とあるに時花の方はアヤメグサ花タチバナヲヲトメラガ珠ヌクマデニとあるのみにて頗物足らず。おそらくはアヤメグサの上にウノ花ノサキチル時ユなどを落せるならむ。卷十八(三七二一頁)なる同じ作者の獨居2幄裏1云々の歌にウノ花ノサク月タテバ、メヅラシクナクホトトギス。アヤメグサ珠ヌクマデニ、ヒルクラシ夜ワタシキケド云々とあるをも思ふベし○ヒルハ(3852)シ賣《メ》ラニは卷十三(二八七四頁)にヒルハシ彌《ミ》ラニとあり。終日といふことなり○アシヒキノ八丘《ヤツヲ》は上(三八二七頁)にもアシヒキノ八峯《ヤツヲ》ノキギシとあり○何如を略解にはイカガとよみ古義にはイカデとよめり。イカガもイカデも當時未無かりし語なり。いかやうにもよむべけれどしばらくナドカとよむべし。ナドカ其聲ニ飽カムといへるなり
 
   反歌二首
4167 時ごとにいやめづらしくさく花ををりもをらずも見らくしよしも
毎時彌米頭良之久咲花乎折毛不折毛見良久之余志母
 四五は折リテモ折ラズテモ見ルニ樂シといへるなり。上(三八三四頁)にも飼ハクシヨシモとあり
 
4168 毎年《トシノハ》に來なくものゆゑほととぎすきけばしぬば久あはぬ日をおほみ
〔毎年謂2之|等之乃波《トシノハ》1〕
毎年爾來喧毛能由惠霍公鳥聞婆之努波久不相日乎於保美 毎年謂之等之(3853)乃波
    右二十日雖v未v及v時依v興豫作也
 來ナクモノユヱは來啼クモノナルニとなり。シヌバ久はシヌバ由の誤ならざるか。もとのまゝならば愛ヅル事ヨとうつすべし。アハヌは詮ずれば聞カヌなり
 
   爲3家婦贈2在v京尊母1所v誂《アトラヘラエテ》作歌一首并短歌
4169 ほととぎす 來なく五月に さきにほふ 花たちばなの 香△吉《カグハシキ》 おやの御言|△《ヲ》 朝よひに 聞かぬ日まねく (あまざかる) ひなにしをれば (あしひきの) 山のたをりに たつ雲を よそのみ見つつ なげく空 やすけくなくに おもふそら 苦しきものを 奈呉のあまの かづきとるちふ 眞珠の 見がほし御面《ミオモワ》 ただむかひ 見む時までは (松|柏《カヘ》の) さかえいまさね たふときあがきみ〔御面謂2之|美於毛和《ミオモワ》1〕
霍公鳥來喧五月爾※[竹/矢]〔左△〕爾保布花橘乃香吉於夜能御言朝暮爾不聞日麻禰(3854)久安麻射可流夷爾之居者安之比奇乃山乃多乎里爾立雲乎余曾能未見都追嘆蘇良夜須家久奈久爾念蘇良苦伎毛能乎奈呉乃海部之潜取云眞珠乃見我保之御面多太向將見時麻泥波松柏乃佐賀延伊麻佐禰尊安我吉美【御面謂之美於毛和】
 古義に
  家婦は家持卿の妻坂上大孃なり。此ほどは家持卿の任國へ下り居られしなるべし。但し上の潜※[廬+鳥]歌(○吾妹子ガカタミガテラト、紅ノ八塩ニソメテ、オコセタルコロモノスソモとある)にて見れば其ほどはなほ京に留り居られしが後に下られけるにやあらむ。尊母は坂上郎女にて即家持卿の叔母にて又|外姑《シウトメ》なり
といへる如し。さて此歌は妻に代りて作れるなり
 香吉を略解にカグハシキとよめるを古義には中間に細の字を補ひて
  細字舊本になきは脱たること著ければ今補(ヒ)つ。十卷に香細寸《カグハシキ》花椿乎、三卷に名細寸《ナグハシキ》ともあり(3855)とへり。古義に從ふべし。初四句はカグハシキにかゝれる序なり。さで古義に
  うけたる上にては香は香アヲ、香ヨル、香ヤスキ、香ヨワキなど云香と同じくそへことばにてクハシはクハシ女《メ》などの例にてほめたゝへていへる言なるべし
といへり。はやく宣長も卷十八(三七八六頁)なる加都良賀氣カグハシ君ヲを
  こはいにしへ蘿《ヒカゲ》はめで貴みたる物なる故にカグハシの枕辭とせるなり。香(○香具波之の)は此は借字にて發語ぞ
といへり(記傳卷二十五【一五三八頁】)。案ずるにこゝのカグハシキはクハシキにカの添へるにはあらで常のカグハシキなり。ただかけたる方にては本義、受けたる方にては轉義と見てあるべし〇二註に於夜能御言を六言によみたれど必ミコトヲといはざるべからず。宜しく御言の下に乎の字を補ふべし。マネクは多クなり○タヲリは峠なり。近くは卷十八(三七八八頁)にアシヒキノ山ノタヲリニ、コノ見ユルアマノシラ雲とあり
  因にいふ。古義に卷八なる春山ノサキノ手〔右△〕烏里ニを例に引けるは誤れり。その手は乎の誤にてサキノヲヲリニとよむべき事彼卷(一四八六頁)にいへる如し
(3856) ○ヨソノミはヨソニノミなり○夜須家久奈久爾《ヤスケクナクニ》の語例ともいふべきはまづ卷四(六六一頁)なる安貴《アキ》王の歌に
  おもふそら安莫國、なげぐそらやすからぬものを
とあるこの安莫國を宣長はヤスケクナクニとよみたれど、なほ舊訓の如くヤスカラナクニとよむべし。次に卷十七(三五五三頁)に
  なげくそら夜須家△奈久爾、おもふそらくるしきものを
とあり。こは前註にいへる如く家の下に久をおとせりと見ゆ。さてこれも家持の歌なり。抑ヤスクを古き歌にヤスケクといへるは安カル事といふ意の時のみなるが、たとひヤスクの延言としてもヤスケクナキ〔右△〕ニとはいふべくヤスケクナク〔右△〕ニとはいふべからず(三五五八頁參照)
  オモフソラ不安久爾《ヤスカラナクニ》、ナゲクソラ不安國《ヤスカラナクニ》などあるヤスカラナクニのナクはヌの延言なればこゝのナクニとは異なり
 ○奈呉ノアマノ云々の三句はミガホシにかゝれる序なり。ミガホシは見ノ欲《ホ》シキにてやがてミマホシキなり。ミガホシキ御オモワといはでミガホシ御オモワといへるは古格に從へるなり○松柏は漢語の直譯なり。はやく古義に
  マツカヘとつらね云ことはもとより上古より皇朝にていへることにはあらじ(神代紀|八岐大蛇《ヤマタノヲロチ》をいへる處に松柏生2於背上1とあるももとより漢文なればいふまでもなし)此は漢籍論語に歳寒然後知2松柏之後凋1とあるよりはじめてかしこの書にはかたがたに見えたれば今も漢文に本づきていへるなるべし
といへり。柏《ハク》(栢は俗字)は檜の類なり。間宮永好の犬鶏隨筆下卷に五葉松の事としたるは非なり○※[竹/矢]は※[竹/夭]の誤か。サクには常に咲と書く、その咲はやがて※[竹/夭]の古字なり
 
   反歌一首
4170 (白玉の)みがほし君を見ず久にひなにしをればいけ流〔左△〕《リ》ともなし
白玉之見我保之君乎不見久爾夷爾之乎禮婆伊家流等毛奈之
 見ズ久ニは見ザルコト久シクなり。因にいふ近來擬萬葉家が久シブリニといふことを久ニとよむはいみじきひが言なり。ヒサニは久シクなり。ヒサシブリニは時ヲ經テ、年ヲ經テなどいふべし○宣長は此歌にイケ流トモナシとあるに依りて集中に生跡毛、生跡文、生刀毛、生友とあるを皆イケル〔右△〕トモとよみて
(3858)  トは利心などいふ利《ト》にて集中に心神モナシと書るもイケルトモナシとよまん
といへれどこゝに流とあるは理などの誤寫とすべし
 
   二十四日應〔左△〕2立夏四月節1也。因v此二十三日之暮忽思2霍公鳥(ノ)曉(ニ)喧(カム)聲1作歌二首
4171 常人もおきつつ聞くぞほととぎすこの曉に來喧《キナケ》はつこゑ
常人毛起都追聞曾霍公鳥此曉爾來喧始音
 卷五(九二八頁)に孟秋膺v節とあり。これによりて古義にはこゝの應も卷十八(三六九八頁)なる應2立夏節1の應も共に膺の誤なるべきかと云へり。げに然るべし
 古義に
  常人毛はこゝは俗に總分ノ人モと云ことなり。十八にツネヒトノコフトイフヨリハまたツネヒトノイフナゲキシモなどあり。みな同じ事なり。庸人《ツネビト》と云にはあらず
といへり。案ずるに卷十八なるツネヒトノは常ニ人ノといふことにてこゝに常人(モ)とあるはそれとは異なるべし。さて常人モ〔右△〕といへるを見れば對する所あるなり。そもそも立夏は重き節日にて殊に是月は禮記月令にも勞v農勘v民また命v農勉v作と見えたる月なれば國(ノ)守はもとより早曉より起き出でて思を農事に致すべきなり。されば初二は
  今日ハ立夏ノ節ナレバ國ノ守ノミナラズ常ノ人モ曉ヨリ起キ出デテ聞クゾ
といへるならむ○來喧は古義に從ひてキナケとよむべし(舊訓はキナク)
 
4172 ほととぎす來なきとよまば草とらむ花橘をやどには不〔□で囲む〕|殖《ウヱ》而《テ》
霍公鳥來鳴響者草等良牟花橘乎屋戸爾波不殖而
 結句を從來ヤドニハウヱズテとよめり。さて略解に
  宣長説に草トルとは凡て鳥の木の枝にとまるをいひてこれもほとゝぎすのとまるべき花橘を宿にうゑんものをうゑずして今悔る意也といへり
といへり。案ずるに此歌は卷十(一九八六頁)なる
  月夜よみなくほととぎす見まくほりわれ草取れり見む人〔左△〕《ヨシ》もがも
に依れるなり。宣長は
(3860)  ホトトギス來ナキトヨマバ草トルベキ花橘ヲ宿ニハ殖ヱズシテ悔シ
といふ意とせるなれど、クヤシとあらではさる意とは聞えず。又さる意ならば結句は特に言を餘してまでもハを挿まじ。はやく卷十にいへる如く結句の不を衍字として
  モシ霍公ガ來ナキトヨムナラバ花橘ヲ宿ニハ植ヱテ庭ノ草ヲ取除キテ影ノ地上ニウツルヤウニシテ待チ設ケム
といふ意とすべし
 
   贈2京(ナル)丹比《タヂヒ》(ノ)家1歌一首
4173 妹を見ず越の國べに年ふればわがこころどのなぐる日も無《ナキ》
妹乎不見越國敝爾經年婆吾情度乃奈具流日毛無
 代匠記に
  下(○アユヲイタミといふ歌の次)にも右一首贈2京丹比家1とあり。田村大孃などが丹比氏の妻となれる歟
(3861)といへり。田村(ノ)大孃は家持の妻の妹なり。又古義には
  丹比家は此下に多治比眞人土作、鷹主などいふ人見えたり。其等の人の家ならむ
といへり。案ずるに奈良に丹比といふ處なければ丹比は氏なり。さて丹比氏を丹比家と書けるは橘氏を橘家と書けると同例なり。おそらくは家持の妹が其家に嫁したりしにて下に留v京之女郎とあるがそれなるべし
 ココロドは精神なり。近くは卷十七(三五五九頁)に見えたり○結句の無を從來ナシとよめり。宜しくナキとよみて餘韻を含ましむべし
 
     追2和筑紫太宰之時(ノ)春花〔左△〕梅謌1一首
4174 春のうちの樂終者《タヌシキヲヘハ》うめの花たをり乎伎《ヲキ》つつ遊ぶにあるべし
春裏之樂終者梅花手折乎伎都追遊爾可有
      右一首二十七日依v興作v之
 卷五(八九一頁以下)に見えたる天平二年正月太宰(ノ)帥大伴旅人の宅に萃りて人々の作りし梅花歌三十二首の追和にて第二句は彼三十二首の第一首なるカクシコソ(3862)梅ヲヲリツツタヌシキ終ヘメに依れるなり。さてその第二句を舊訓にタノシミヲヘバとよみ略解古義にタヌシキヲヘバとよめる共に非なり。宜しくハを清みて(ワの如く唱へて)タヌシキヲヘハとよむべし。
  但ヲヘハはキハマリハといふことなればヲハリハといふべくヲヘハとはいふべからず(彼梅花歌なるタヌシキヲヘメは樂シキヲ極メメといふ事なればヲヘメにて可なれど)。更に案ずるに播磨國風土記|託賀《タカ》郡黒田里の下に
  云2袁布《ヲフ》山1者昔|宗形《ムナガタ》大神|奥《オキ》津嶋|比賣《ヒメ》命|任《ハラミ》2伊和大神之子1到2來此山1云。我可v産《コウム》之時|訖《ヲフ》。故曰2袁布山1
とあり。之に據れば今いふヲハルをいにしへヲフとも云ひしなり。されば此歌の第二句はタヌシキヲヒ〔右△〕ハとよみてタノシキヲハリハの意とすべきか
 キハメツクシといふ事をヲヘといへる例は崇神天皇七年紀に冀(クハ)亦夢(ニ)教(ヘ)之以(テ)畢《ヲヘヨ》2神恩1とあり。又祝辭に稱辭竟奉《タタヘゴトヲヘマツル》とあり。古今集大歌所(ノ)御歌に
  あたらしき年の始にかくしこそ千年をかねてたのしき、をへめ
とあるは彼梅花歌を學べるにや○手折乎伎〔二字右△〕都追を二註に宣長の説に從ひてタヲ(3863)リ毛致す《モチ》ツツの誤とし古義には又一説としてタヲリ手《テ》キツツの誤なるべしと云へり。案ずるにもとのまゝにてタヲリヲ〔右△〕來ツツとよみてヲをヌレテヲ〔右△〕ユカムなどのヲにひとしき助辭とすべし
 卷十七(三四八七頁)にも同じ作者の天平十二年十一月追2和太宰之時梅花1新歌六首を載せたり。今の題辭の春花梅は春苑梅の誤なるべしと二註にいへり。げに然るべし。此卷の初にも春苑桃李花とあり
 
   詠2霍公鳥1歌二首
4175 ほととぎす今來なきそむあやめぐさかづらくまでにかるる日あらめや
霍公鳥今來喧曾無菖蒲可都良久麻泥爾加流流日安良米也
      毛能波三箇(ノ)辭闕v之
 カヅラクは鬘ニスルなり。マデニはマデなり。カルルは來鳴カザルなり
 モとノとハと三(ツ)のテニヲハをよきてよめるなり。歌を弄ぶにがにがしき習ははや(3864)く此頃より始まりしなり
 
4176 我門ゆなきすぎわたるほととぎすいやなつかしくきけどあきたらず
我門從喧過度霍公鳥伊夜奈都可之久雖聞飽不足
    毛能波※[氏/一]爾乎六箇辭闕v之
 第四句はイヤナツカシクシテとなり
 
   四月三日贈2越前判官大伴宿禰池主1霍公鳥歌、不v勝2感舊之意1述v懷一首并短歌
4177 わがせこと 手たづさはりて あけくれば いでたち向ひ ゆふされば ふりさけ見つつ 念|鴨〔左△〕《ノベ》 見なぎし山に 八峯《ヤツヲ》には 霞たなびき 谿べには つばき花|咲《サク》 (うらがなし) 春|之《シ》すぐれば ほととぎす いやしきなきぬ 獨のみ きけばさぶしも 君とわれ 隔ててこふる となみ山 とびこえゆきて あけたたば 松のさえだに ゆふさらば 月に向ひて あやめぐさ 玉ぬくまでに なきとよめ (3865)安寢不令宿《ヤスイネシメズ》 君をなやませ
和我勢故等手携而曉來者出立向暮去者振放見都追念鴨見奈疑之山爾八峯爾波霞多奈婢伎谿敞〔左△〕爾波海石榴花咲宇良悲春之過者霍公鳥伊也之伎喧奴獨耳聞婆不怜毛君與吾隔而戀流利波山飛超去而明立者松之佐枝爾暮去者向月而菖蒲玉貫麻泥爾鳴等余米安寢不令宿君乎奈夜麻勢
 アケクレバは明クレバなり。念鴨は元暦校本等に念暢とあるに從ひて二註の如くオモヒノベとよむべし。鬱を散ずるなり。上(三八三〇頁)なる詠2白大鷹1歌にもイキドホルココロノウチヲ、思延《オモヒノベ》ウレシビナガアラとあり○見ナギシは見テ心ノ和《ナゴ》ミシなり。山は即二上山なり○ヤツヲ、タニべの上にソノといふことを加へて見べし○ツバキ花咲を從來ハナサキとよみたれど、ハナサクとよみて春につづけて心得べし○ウラガナシはオモシロシなり。上(三八二七頁)なるアサケノ霞ミレバカナシモのカナシにおなじ。さて此五言は春にかゝれる准枕辭なり。さらずばウラガナシキと(3866)云はざるべからざればなり○春之は略解に從ひてハルシとよむべし(古義にはハルノとよめり)○上なる見ナギシ山ニはホトトギスイヤシキナキヌにかゝれり。シキナクは啼キ頻ルなり○サブシは樂シカラズなり。君ト吾トといふべき下のトを略せり。ヘダテテはトナミ山ヲ隔テテなり○利波《トナミ》山は越中と加賀とに跨れり。さて加賀は當時越前に屬したりき○松ノサエダニと月ニ向ヒテと相對せず。松ガ枝ニヰテなどあるべきなり。玉ヌクマデニは玉ニヌクマデなり○安寢不令宿を二註にヤスイシナサズとよめり。こは卷五(八五七頁)なる思2子等1歌にマナカヒニモトナカカリテ夜周伊斯奈佐農《ヤスイシナサヌ》とあるに依れるなれど今の歌の書式にてはシはよみそへがたし。宜しくヤスイネシメズとよむベし○君ヲナヤマセは池主の思なげなるを妬みていへるなり
 
   反歌
4178 吾耳《ワレノミシ》きけばさぶしもほととぎす丹生の山邊にいゆき鳴爾〔左△〕毛《ナカナモ》
吾耳聞婆不怜毛霍公鳥丹生之山邊爾伊去鳴爾毛
 初句を舊訓にヒトリノミとよめるを古義に『ヒトリノミとよめるはあまりしきこ(3867)となり』といひてアレノミシとよみ改めたり。後者に從ふべし。このシもよみ添へがたきに似たれどカクノミシを如此耳、是耳など書きて耳をノミシに當てなれたればこゝも之《シ》の字なくともワレノミシとよみつべし。次の長歌にもナホシを尚とのみ書けり○丹生《ニフ》山は今鬼が嶽といふ。越前國丹生郡にありて國府《コフ》即今の南條郡武生と郡は異なれど近くその西に聳えたり○鳴爾毛を略解に鳴南毛に改めてナカナモとよめるを古義に
  南の假字もいかがなるうへナケカシと希ふことをナカナムとはいふべけれどナカナモといはむこと穩ならぬことなるをや
といひて鳴夜毛の誤としてナケヤモとよめり。案ずるにまづ南は集中にナの假字につかへる例あり(たとへば卷十四【三〇〇三頁】にナキワタリ南牟アフトハナシニとあり)。次にムとモとは元來相轉ずる音なるが上に現に卷十四に(東歌ながら)兒ラハアハ奈毛、セナハアハ奈母などあり。されば夜よりは字形の近きに從ひて南の誤としてナカナモとよむべし(一六九二頁嬬賜爾毛參照)
 
4179 ほととぎす夜なきをしつつわがせこを安宿勿令寢《ヤスイナネシメ》ゆめこころあれ
(3868)霍公鳥夜喧乎爲管我世兒乎安宿勿令寢由米情在
 第四句を略解にヤスイシナスナとよみ古義にヤスイナナセソとよめり。ヤスイネシムナ又はヤスイナネシメとよむべし○ユメは勤メテなり。此語を肯定に冠らせたるはめづらしかれど神武天皇紀にも『基業ノ成否汝ヲ以テ占トスベシ。努力憤焉《ユメツツシメ》』とあり。但ココロアレといへる、少し穩ならず
 
   不v飽d感2霍公鳥1之情u述v懷作歌一首并短歌
4180 春すぎて 夏來向へば (あしひきの) 山よびとよめ さよなかに なくほととぎす はつこゑを きけばなつかし あやめぐさ 花橘を ぬきまじへ かづら沼〔□で囲む〕くまでに 里とよめ なきわたれども なほししぬばゆ
春過而夏來向者足檜木乃山呼等余米左夜中爾鳴霍公鳥始音乎聞婆奈都可之昌蒲花橘乎貫交可頭良沼久麻而爾里響喧渡禮騰母尚之努波由 前に山ヨビトヨメといへるは初聲の程にて後に里トヨメといへるは盛に鳴く程(3869)なり。同事の重複にあらず。シヌバユはメデラルなり○沼は諸本に無し。菖蒲の菖は古くは昌と書きき
 
   反歌三首
4181 さよふけて曉月に影みえてなくほととぎすきけばなつかし
左夜深而曉月爾影所見而喧霍公鳥聞者夏借
 アカトキヅキめづらし
 
4182 ほととぎすきけどもあかず網取にとりてなづけなかれずなくがね
霍公鳥意雖聞不足網取爾獲而奈都氣奈可禮受鳴金
 アミトリニトリテは手ゴシニコシテなどと同例にて網ニテ取リテといはむにひとし。ナヅケナはナヅケムにて懷ケテムなり。結句は絶エズ啼クベクとなり
 
4183 ほととぎすかひとほせらばことし經て來向ふ夏はまづなきなむ乎《カ》
霍公鳥飼通良婆今年經而來向夏波麻豆將喧乎
 カヒトホセラバは飼通シテアラバとなり。キムカフ夏は來ラム夏なり。長歌にも夏(3870)來ムカヘバとあり○乎は可の誤か。又はもとのまゝにてカとよむべきか。下にも例あり(オヨヅレ乎《カ》ヒトノツゲツル)。但集中に乎は皆ヲに借れり
 
   從2京師1贈來歌一首
4184 山吹の花とりもちてつれもなくかれにし妹をしぬびつるかも
山吹乃花執持而都禮毛奈久可禮爾之妹乎之努比都流可毛
     右四月五日從2留v女〔左△〕之女良〔左△〕1所v迭《オクレル》也
 こは下に見えたる註によれば京に留れる家持の妹より家持の妻に贈り來れるなり〇四五の間にソノ花ニといふことを挿みて聞くべし。ツレモナクは氣ヅヨクなり。カレニシは別レ去リシなり○妹は先輩にも云ひしなり
 女良は諸本に女郎とあるによりて訂すべし。留女は下にも留女之女郎とあれど留京の誤ならむ。はやく略解に『郷か京の誤なるべし』といへり
 
   詠2山振花1歌一首并短歌
4185 うつせみは 戀をしげみと 春まけて 念|繁波《シゲケバ》 ひきよぢて をり(3871)もをらずも 毎見《ミムゴトニ》 こころなぎむと 繁山の たにべにおふる 山ぶきを やどに引植ゑて 朝露に にほへる花を 見るごとに 念はやまず 戀ししげしも
宇都世美波戀乎繁美登春麻氣※[氏/一]念繁波引攀而折毛不折毛毎見情奈疑牟等繁山之谿敝爾生流山振乎屋戸爾引植而朝露爾仁保敝流花乎毎見念者不止戀志繁母 江家
 ウツセミは人生なり。シゲミトは繁キモノナレバとなり。トは省きて心得べし○繁波を略解にシゲケバとよみ古義にシゲクバとよめり。寧前者に從ふべし。シゲケバはシゲカラバにてココロナギムと照應せり○ヲリモヲラズモの次の毎見はミムゴトニとよむべし(從來ミルゴトニとよめり)○オモヒハヤマズの次に却リテといふことを挿みて聞くべし○ミムゴトニとミルゴトニとを對はせオモヒシゲケバと戀シシゲシモとを對はせたるなり。又繁といふ語の四たび出でたるはわざと重ねたるなるべけれど心ゆかず○歌の未に右方に寄せて江家と書けるは大江匡房(3872)の訓解と云ふ事なるべし。下にもあり。本來左註にものすべきなり
 
   反詠
4186 山吹をやどにうゑてはみるごとに念はやまず戀こそまされ
山吹乎屋戸爾植※[氏/一]波見其等爾念者不止戀己曾益禮
 ウヱテハのハは二註の如く無意義の助辭とすべきか○反詠とあるはめづらし
 
   六日遊2覧布勢(ノ)水海1作歌一首并短歌
4187 おもふどち ますらをのこの (このくれ|△《ノ「》) 繁き思を 見あきらめ こころやらむと 布勢の海に 小船つらなめ まかいかけ いこぎめぐれば 乎布の浦に 霞たなびき 垂姫《タルヒメ》に 藤浪さきて 濱きよく 白浪さわぎ しくしくに 戀はまされど △ 今日のみに あきたらめやも かくしこそ いや年のはに 春花の 繋き盛に 秋の葉の 黄色〔左△〕《モミヅル》時に ありがよひ 見つつしぬばめ この布勢の海を
念度知大夫能許能久禮繁思乎見明良米情也良牟等布勢乃海爾小船都(3873)良奈米眞可伊可氣伊許藝米具禮婆乎布能浦爾霞多奈妣伎垂姫爾藤浪咲而濱淨久白浪左和伎及及爾戀波未〔左△〕佐禮杼今日耳飽足米夜母如是己曾彌年能波爾春花之繁盛爾秋葉能黄色時爾安里我欲比見都追思努波米此布勢能海乎
 布勢(ノ)湖の事ははやく卷十七(三五九一頁)にいへり
 コノクレは緑蔭なり。こゝにてはシゲキの枕辭とせるなり。其下に乃をおとせるなり○シゲキ思の語例は上(三八三〇頁)にオモヒシ繁シ、前の歌に念シゲケバ、次の歌にも物念シゲシとあり○シゲキ思ヲ見アキラメは卷三(五七四頁)なる御心ヲメシアキラメシと對照するに(メシは見の敬語なり)アキラメはハラシにて見を隔てゝ思ヲを承けたるなり。之に反して卷十七(三五九四頁)なるカクシコソ見モアキラメメ又卷二十なるカクシコソメシアキラメメは上に思ヲ(又は心ヲ)といふことなければ見テ思ヲ(又は心ヲ)ハラサムと譯すべきに似たり。所詮上にまづ思ヲ(又は心ヲ)といふべきを略しても云へるならむ○ツラナメは連ネ並ベなり。なほツラネヌク(3874)をツラヌクといふが如し。マカイは左右の楫なり。イコギのイは添辭なり○乎布(ノ)浦と垂姫とは共にいにしへの布勢(ノ)海の沿岸の地名なり○シクシクニ戀ハマサレドの戀を略解に此處ヲシクシクニ見マク戀フル心とうつしたり。此下に二句おちたるならむ○イヤ年ノハニは毎年なり。黄色を略解にモミヂノとよみ古義にニホヘルとよめり。こゝはもしニホフとよむべくばニホフとこそはいふべけれ、ニホヘルとはいふベからず。宜しく舊訓に從ひてモミヅルとよむべし。さて黄色と書けるは卷十三(二八三三頁)なるニノホニ黄色《モミヅ》と共に黄反を誤れるならむ。シヌバメは賞デメなり
 
   反歌
4188 藤なみの花の盛にかくしこそ浦こぎ廻《タミ》つつ年にしぬばめ
藤奈美能花盛爾如此許曾浦己藝廻都追年爾之努波米
 年ニは卷十に
  あまの河とほきわたりはなけれどもきみが舟出は年にこそまて(二〇六〇頁)
  年によそふわが舟こがむ天のかは風はふくとも浪たつなゆめ(二〇六一頁)
(3875)といへる、又此卷の下に
  よそのみに見つつありしを今日見れば年に忘れずおもほえむかも
とあるは一年ニ亘リテとうつすべけれど、こゝなるはカクシコソといひシヌバメ(メデメ)といへるに合せ、又長歌に
  かくしこそいや年のはに……ありがよひ見つつしぬばめこの布勢の海を
といへるに合せて見るに毎年といふことをかく云へるに似たり。但毎年を年ニと云ふべからざるは毎日を曰ニと云ふべからざる如し
 
   贈2水烏《ウ》(ヲ)越前判官大伴宿禰池主1歌一首并短歌
4189 (あまざかる) ひなとしあれば そこここも 同じこころぞ 家さかり としのへぬれば うつせみは 物念《モノモヒ》しげし そこゆゑに ここなぐさに ほととぎす なくはつこゑを 橘の 珠にあへぬき かづらきて 遊波△△之母《アソバクヨシモ》 ますらをを 等毛《トモ》毛〔□で囲む〕|奈倍立而《ナヘタテテ》 叔羅《シクラ》河 さでさしわたし 早湍には 水〔左△〕《ウ》鳥をか(3876)づけつつ 月〔左△〕《アサ》に日に しかしあそばね はしきわがせこ
天離夷等之在者彼所此間毛同許己呂曾離家等之乃經去者宇都勢美波物念之氣思曾許由惠爾情奈具左爾霍公鳥喧始音乎橘珠爾安倍貫可頭良伎※[氏/一]遊波之母麻須良乎乎等毛毛奈倍立而叔羅河奈頭左比※[さんずい+斤]〔左△〕平瀬爾波左泥刺渡早湍爾波水鳥乎潜都追月爾日爾之可志安蘇婆禰波之伎和我勢故 江家
 ヒナトシアレバは鄙トアレバにて所詮鄙ナレバと云はむにひとし。ソコココモオナジココロゾはソコモト越前モココモト越中モ同ジ心モチゾとなり○ウツセミは生ケル身なり。ソコユヱニはソレ故ニ、ココロナグサニは心ノナグサミニなり。霍公の聲は勿論緒に貫かるゝものにあらねど橘の珠即青き實のこぼれたるを拾ひて緒に貫く頃恰霍公は啼けばかくはいひなせるなり。アヘヌキは交ヘ貫キなり。カヅラキテは鬘ニシテなり○遊波之母を宣長は遊波久與〔二字右△〕之母の脱字とし、さて
  上にソコユヱニといへるをおもへば此遊云々の句までは家持卿みづからの事(3877)をいへるにて、さて次のマスラヲヲといふより池主の事也。されば一首の意は吾モシカジカシテ遊べバ心ナグサミテヨロシク思フ也、ワガセコモシカジカシテ遊ビタマヘといへる也といへり。げにさる意なるべけれど遊バクヨシモとマスラヲヲとの間に言葉足らぬこゝちせられて心ゆかず○等毛毛奈倍の一の毛は諸本に從ひて衍字とすべし。トモナヒといふべきをトモナヘといへる所以は上(三八三六頁)なる潜※[廬+鳥]歌のウガヒトモナヘの處にいへり○立而を舊訓にタテテとよめるを古義にタチテに改めたり。卷九(一八〇五頁)なるアトモヒタテテヨビタテテなどのタテテとひとしければなほタテテとよむべし○叔羅《シクラ》川はおそらくは武生即國府の傍を流るゝ日野川の事なるベし。略解にいへる白鬼女《シラキニヨ》河はやがて日野川の一名なり○ナヅサヒは惱ミなり。水を渉るには行歩艱難なればナヅサヒと云へるなり○月は旦の誤ならむ。アサニヒニは毎日なり。シカシのシは助辭なり。シカはサヤウニなり。上なるアソバクヨシモとこゝのシカシアソバネと照應せるなり。水鳥は水烏の誤、※[さんずい+斤]は泝の誤なり
 
(3878)4190 叔羅河湍をたづねつつわがせこはうがはたたさねこころなぐさに
叔羅河湍乎尋都追和我勢故波宇河波多多佐禰情奈具左爾 江家
 此歌の前に反歌とあるべきなり。但下にも反歌としるさざる例少からぬを思へばわざと略したるにもあるベし
 湍ヲタヅネツツは上(三八三八頁)にも河瀬タヅネムとあり○ウガハタツは鵜を使ひて漁獵を催す事なり(三五九二頁參照)
 
4191 ※[廬+鳥]河立とらさむあゆのしがはたはあれにかきむけ念ひしおもはば
※[廬+鳥]河立取左牟安由能之我婆多婆吾等爾可伎無氣念之念婆
     右九日附v使贈v之
 初句を古義にウガハタテとよめるはわろし。舊訓の如くタチとよむべし。卷十七にウガハ多知(三五九〇頁)またウガハ多知ケリ(三六四二頁)と見え又前の歌にウガハタタサネとあればなり○シガハタハは其《ソ》ガ鰭ハなり。シガの事は卷九(一七四七頁)にいへり。さてソガ鰭ハといへるはソノ餘ハといはむにひとしかるべし○カキム(3879)ケのカキは添辭、ムケは手向のムケにて與ヘヨといふことなるべし
 
   詠2霍公鳥并藤花1△一首并短歌
4192 桃の花 くれなゐ色に にほひたる  面輪のうちに (青柳の) 細《ホソキ》まよ根を ゑみまがり 朝影見つつ をとめらが 手にとりもたる まそかがみ 蓋上《フタガミ》山に このくれの しげき渓邊を よび等米爾〔二字左△〕《トヨメ》 あさとびわたり ゆふづく夜 かそけき野邊に はろばろに なくほととぎす たちぐくと 羽觸《ハブリ》にちらす 藤浪の 花なつかしみ ひきよぢて 袖にこきれつ 染《シマ》は染《シム》とも
桃花紅色爾爾保比多流面輪能宇知爾青柳乃細眉根乎咲麻我理朝影見都追※[女+感]嬬良我手爾取持有眞鏡盖上山爾許能久禮乃繁溪邊乎呼等米爾且〔左△〕飛渡暮月夜可蘇氣伎野邊遙遙爾喧霍公鳥立久久等羽觸爾知良須藤浪乃花奈都可之美引攀而袖爾古伎禮都染婆染等母
 題辭の藤花の下に歌の字おちたるなり
(3880) マソカガミまでの十一句はフタガミ山にかゝれる序なり。初句はモモノ花ノとノを加へて心得べし。細を古義にはクハシとよめり。なほ舊訓の如くホソキとよむべし。ヱミマガリは無理なり。ヱミマゲとこそいふべけれ。朝影はこゝにては朝の容《カタチ》なり。眞鏡は眞の下に十などを落したるかとも思へど卷十一にも眞鏡|照出月《テルミカヅキ》ノカゲニミエコネ、眞鏡床ノヘサラズイメニミエコソ、眞鎮手ニトリモチテなど書き下にも眞鏡ミレドモアカヌと書けり○フタガミ山は國府の後なる山なり。はやく卷十六以下に云へり。コノクレは樹陰なり○呼等米爾は宣長のいへる如く呼等余米の誤なり○カツケキはカスカナルにて月の光の乏しきなり。タチグクはタチクグルなり。羽ブリニは羽ヲ觸レテなり○末三句の語例は卷八(一六五六頁)に
  引よぢてをらばちるべみ梅の花袖にこきれつしまばしむとも
とあり〇卷十八(三七六七頁)にもシロタヘノ袖ニコキレミとあり。コキレツはコキ入レツなり
 
4193 ほととぎすなく羽觸《ハブリ》にもちりにけり盛すぐらしふぢなみの花
    一云2ちりぬべみ袖にこきれつふぢなみの花1也
(3881)霍公鳥鳴羽觸爾毛落爾家利盛過良志藤奈美能花
   一云落奴倍美袖爾古伎禮都藤浪乃花也
   同九日作之
 一云は兩樣に作りていづれとも定めかねしなり
 
   更怨2山霍公鳥|哢晩《ナクコトオソキ》1△歌三首
4194 ほととぎすなきわたりぬとつぐれどもわれききつがず花はすぎつつ
霍公鳥喧渡奴等告禮騰毛吾聞都我受花波須疑都追
 キキツガズを略解に
  一たび聞て後に聞繼ぬといふ也。よりて端詞に更怨と書り
といひ古義も之に從ひたれどキキツガズは人ノ聞キシニ繼ギテ聞カズといへるなり。又更〔右△〕は前の歌の題辭に對していへるなり。歌の上に作の字をおとしたり。さて更はその作にかゝれるなり。怨にかゝれるにあらず○花は藤花にてスギツツは散リツツなり
 
(3882)4195 わがここだしぬばくしらにほととぎすいづへの山をなきかこゆらむ
吾幾許斯奴波久不知爾霍公鳥伊頭敝能山乎鳴可將超
 シヌバクシラニはシノブ事ヲ知ラズシテとなり。イヅヘは何方なり。卷二(一三四頁)にもイヅヘノ方とあり
 
4196 月たちし日よりをきつつうちしぬびまてどきなかぬほととぎすかも
月立之日欲里乎伎都追敲自努比麻低騰伎奈可奴霍公鳥可母
 月タチシ日ヨリは此月ノ朔ヨリとなり。四月を霍公の啼くべき月と定めていへるなり○ヲキツツは略解に
  乎伎は招の古語也。卷十七放鷹の歌にヲクヨシノソコニナケレバ又拾遺集歌に
  ハシ鷹ノヲキ餌ニセムトなども有如く郭公の來べき餌などをまうけて招をいへるにやあらん
といへる如し。ウチシヌビのウチは添辭なり
 
   贈2京人1歌二首
(3883)4197 妹に似る草と見しよりわがしめし野邊の山吹たれかたをりし
妹爾似草等見之欲里吾標之野邊之山吹誰可手乎里之
 京人とあるは家持の妹にて、その妹が
  山吹の花とりもちてつれもなくかれにし妹をしぬびつるかも
とよみておこせしに答へたるなり。さて妹の歌は嫂に贈りしなるを此歌は家持より答へたるなり(古義にこれをも家持の代作とせるは非なり)。されば妹ニ似ルの妹は妹《イモウト》にあらで家持の妻なり。此歌は元來戯言にて
  山吹の花とりもちてトカ云フ歌ヲ聞イタガソノ野邊ノ山吹ハ我妻ノ色ヨキニ似テ居ルト思ウタカラ人ニ取ラレヌヤウニト標ヲユウテオイタノヂヤガソレヲ折ッタノハ誰ヂャ
と咎めたるなり○契沖がいへる如く卷七(一四一七頁)なる
  君に似る草と見しよりわがしめし野山の淺茅人なかりそね
を學べるなり
 
4198 つれもなくかれにしものと人はいへどあはぬ日まねみおもひぞわが(3884)する
都禮母奈久可禮爾之毛能登人者雖云不相日麻禰美念曾吾爲流
    右爲v贈2留v女〔左△〕之女郎1所v誂《アトラヘラレテ》2家婦1作也
    女郎者即△大伴△△家持之妹
 こは妻の爲に代作したるなり。左註は此歌のみにかゝれるなり
 初二はツレモナクカレニシ妹ヲシヌビツルカモといへるに酬いたるなり。マネミは多キニヨリテとなり
 留女は留京の誤なり。大伴の上に元暦校本に依りて守の字を補ふべし。大伴の下にも宿禰を補ふべし。若もとのまゝならば女郎以下は後人の追註と認むべし
 
   十二日遊2覧布勢(ノ)氷海1船泊2於多※[示+古](ノ)※[さんずい+彎]1望2見藤花1各述v懷作歌四首
4199 藤なみのかげなる海の底清みしつく石をも珠とぞわが見る
藤奈美能影成海之底清美之都久石乎毛珠等曾吾見流
    守大伴宿禰家持
(3885) シヅクは沈メルなり。語原は雅澄の説に石著なりといへれど、こゝにシヅク石とあるにかなはず。案ずるにシヅツクの略にてそのシヅは下の義ならむ。下賤をシヅといひ下枝をシヅエといふを思ふべし。滴露をシヅクといふも下就《シヅク》露の略にあらざるか(一三九五頁參照)○多※[示+古]※[さんずい+彎]は今の氷見郡宮田村田子の邊なるべし。田子は十二町潟より南方に當りて頗遠けれどいにしへの布勢湖の入江は此邊に及びしならむ
 
4200 多※[示+古]の浦の底さへにほふ藤なみをかざしてゆかむ見ぬ人のため
多※[示+古]〔左△〕乃浦能底左倍爾保布藤奈美乎加射之※[氏/一]將去不見人之爲
    次官|内藏《ウチノクラ》(ノ)忌寸《イミキ》繩麻呂
 次官は國(ノ)介なり
4201 いささ可〔左△〕《メ》におもひてこしを多※[示+古]の浦にさける藤みて一夜へぬべし
伊佐左可爾念而來之乎多※[示+古]〔左△〕乃浦爾開流藤見而一夜可經
     判官久米(ノ)朝臣廣繩
(3886) 可は米などの誤ならむ。イササメニは率爾ニなり。フトなり(二三四六頁參照)。オモヒテコシヲは思立チテ來シガとなり○判官は掾なり
 
4202 藤なみを借廬《カリホ》につくり※[さんずい+彎]廻《ウラミ》する人とはしらにあまとか見らむ
藤奈美乎借廬爾造※[さんずい+彎]廻爲流人等波不知爾海部等可見良牟
     久米(ノ)朝臣繼麻呂
 藤の花陰に憩ふをフヂナミヲカリホニツクリといへるなり。ツクリの下にテを添へて心得べし○※[さんずい+彎]廻を舊訓にアサリ、略解にイサリとよめり。宜しく古義にウラミとよみて
  浦廻とは常には浦ノメグリといふ意にいふことなれどここは其とは異にて人の浦めぐりをして遊びありくをいへり
といへるに從ふべし。礒めぐりするをイソミといへる例は卷三(四五七頁)卷七(一二七九頁)に、島めぐりする事をシマミといへる例は卷六(一〇五二頁)卷七(一二五三頁)に見えたり。シラニは知ラズシテなり○卷三なる
  あらたへの藤江の浦にすずきつるあまとか見らむ旅ゆく吾を
(3887)を學べるなり。古義に
  繼麻呂、此人こゝの外に見えず。廣縄の男などにや
といへり
 
   恨2霍公鳥不1v喧歌一首
4203 家にゆきてなにをかたらむ(あしひきの)山ほととぎす一こゑもなけ
家爾去而奈爾乎將語安之比奇能山霍公鳥一音毛奈家
     判官久米(ノ)朝臣廣繩
 以下四首も亦同時の作なり〇一コヱモは聲ダニなり
 
   見2攀折|保寶葉《ホホガシハ》1歌二首
4204 わがせこがささげてもたるほほがしはあたかも似るか青ききぬがさ
吾勢故我捧而持流保寶我之婆安多可毛似加青蓋
     講師僧惠行
 ホホガシハは朴にて今ホオノ木といふものなり。カシハに葉の字を充てたるはい(3888)にしへ木葉に飲食物を盛る時之をカシハと稱せしが故なり○キヌガサは絹張のさしかけ傘にて貴人の用ひしものなり
 講師《カウジ》は國分寺の最高官僧なり。文武天皇紀に大寶二年二月任2諸國(ノ)國師1とあり桓武天皇の延暦十四年八月の太政官符に自v今以後宜d改2國師1曰2講師1毎v國置c一人uとあるを見れば此歌の頃にはなほ國師と稱せしなり。或は當時はやく國師を講師とも稱せしか。又或は讀師の誤かとも思へど讀師はおそらくは國師を講師と改められし後にぞ置かれけむ。讀師の名は續日本後紀承和十一年二月の下、玄蕃式などに見えたり。それ等より前のものにも見えたりや未考へず
 
4205 すめろぎの遠御代三代波《トホミヨミヨハ》、射布〔二字左△〕折《ウチタヲリ》、酒飲等伊布曾《キノミキトイフゾ》このほほがしは
皇祖神之遠御代三世波射布折酒飲等伊布曾此保寶我之波
    守大伴(ノ)宿禰家持
 三代と書けるは借字にて亦御代なり。さて第二句を舊訓にトホキミヨミヨハとよめるを宣長は
  波といふ言穩ならず。三の句へつくにや
(3889)といひ(記傳卷三十「ニ【一九六二頁】にはトホミヨミヨハとよめり)雅澄はトホミヨミヨハとよみて
  波の言平穩ならず。もしは從(ノ)字などを誤れるにあらざるか
といへり。案ずるにトホミヨミヨハとよむべし。先哲のハを穫ならず思ひしは第四句を舊訓の如くサケノムトイフゾとよみし爲なり。第四句は宜しくキノミキトイフゾ(又はサケノミキチフゾ)とよむべしノミキと過去にいへば御代ミヨハといひて穩ならざる所なきなり。さてそのハはニハを略せるなり○第三句を契沖は
  イシキヲリとよむべし。若は射折布《イヲリシキ》にてありけむが倒に寫されけるにや
といひ宣長は
  布折を下上に誤れるか。それもなほ酒飲にはシクといふ事いかがなれば布は誤字ならんか
といへり。案ずるに射布折は打手折の誤ならむ○さてウチタヲリ酒ノミキトイフゾコノホホガシハといへるは所謂|酒柏《ミキガシハ》の事なり。酒柏は古事記|明《アキラ》(ノ)宮の段に
  天皇|豐明《トヨノアカリ》ヲキコシメシシ日、髪長比賣ニ大御酒ノ柏ヲ握《ト》ラシメテ其太子ニ賜ヒ(3890)キ
とある傳(卷三十二【一九六二頁】)に
  大御酒(ノ)柏は酒を受て飲む葉《カシハ》なり。貞観儀式大嘗會(ノ)儀(ノ)中に次神服男七十二人著2青摺(ノ)布(ノ)衫并日蔭鰻1所謂各執2酒柏〔二字右△〕1、酒柏者以2弓弦葉《ユヅルハ》1挟2白木(ニ)1四重別四枚在2左右1また午(ノ)
日(ノ)儀に次神祇官中臣忌部及|小齋《ヲミ》(ノ)侍從以下番上以上左右分入、造酒司|人別《ヒトゴトニ》賜v柏〔右△〕即受v酒而飲訖以v柏爲v縵而和舞と見ゆ。大嘗祭式にも見ゆ。此柏の事なほ委くは下卷高津宮(ノ)段に大后將v爲2豐樂《トヨノアカリ》1而|於2採《トリニ》御綱柏1云々とある處又同段に將v爲2豐樂1之時云云大后自取2大御酒(ノ)柏〔四字右△〕1賜2諸氏々之女等1とある處に云はむを考合すべし。抑酒を柏に受て飲事はいといと上代のわざなりしが定まれる禮となりて豐明などには必其事ありしなり云々
といへり(同書卷三十六【二一四二頁】參照)。いにしへは酒を木葉につぎて飲みしなり
   還時濱上(ニテ)仰2見月光1歌一首
4206 しぶたにをさしてわがゆくこの濱に月夜あきてむ馬しましとめ
之夫多爾乎指而吾行此濱爾月夜安伎※[氏/一]牟馬之未〔左△〕時停息
(3891)    守大伴宿禰家持
 ワガユクコノ濱とつづけて聞くべし。第四句は月夜ニ飽キテムのニを省けるなり。トメはトメヨなり
 
   二十二日贈2判官久米朝臣廣繩1霍公鳥(ノ)歌〔□で囲む〕怨恨歌一首并短歌
4207 ここにして そがひに見ゆる わがせこが 垣つの谿に あけされば 榛《ハリ》のさえだに ゆふされば 藤のしげみに はろばろに なくほととぎす わがやどの 殖木橘 はなにちる 時をまだしみ きなかなく そこはうらみず しかれども 谷かたづきて 家をれる 君がききつつ つげなくもうし
此間爾之※[氏/一]曾我比爾所見和我勢故我垣都能谿爾安氣左禮婆榛之狹枝爾暮左禮婆藤之繁美爾遙遙爾鳴霍公鳥吾屋戸能殖木橘花爾知流時乎麻多之美伎奈加奈久曾許波不怨之可禮杼毛谷可多頭伎※[氏/一]家居有君之聞都都追氣奈久毛宇之
(3892) 題辭のうち上の歌の字は衍字ならむ。此字なき本あり。目録にも無し
 初二はココカラ後ノ方ニ見ユルとなり。語例は卷三(三九三頁)にココニシテ家ヤモイヅク、卷四(六九一頁)にココニアリテ筑紫ヤイヅクとあり○カキツノ谿は邸内ノ谷なり。二上山の麓なれば廣占めたる邸内には丘陵も谿谷もあるべきなり○ハリはハンノ木なり。掾の館は山に近ければ霍公のはやく啼くに、守の館は山より離れたればいまだ來啼かぬ趣なり○ハナニチルはアダニ散ルなり。卷十(二一〇二頁)に
  秋はぎは鴈にあはじといへればか聲をききてははなにちりぬる
とあり。ハナニは閑文字なり。ただイマダ橘花ノ散ル頃ニ至ラネバといへるなり。マダシミはマダシキニヨリテなり。キナカナクソコハは來啼カヌ事ソレハとなり○谷カタヅキテは谷ニカタヅキテのニを略せるにて谷ニ寄リテといへるなり。語例は海カタヅキテ(一一八〇頁)、山カタヅキテ(一九二二頁)カタヅキヲル妹(二一二七頁)などあり○家ヲレルは家居セルといふ意なり。語例は卷十以下にあまたあり。ウシは不快ナリとなり
 
(3893)   反歌
4208 わがここだまてど來なかぬほととぎすひとりききつつ告げぬ君かも
吾幾許麻※[氏/一]騰來不鳴霍公鳥比等里聞都追不告君可母
 ココダはアマタなり
 
   詠2霍公鳥1歌一首并短歌
4209 たにちかく いへはをれども こだかくて さとはあれども ほととぎす いまだきなかず なくこゑを きかまくほ理《リ》と あしたには かどにいでたち ゆふべには たにをみわたし こふれども ひとこゑだにも いまだきこえず
多爾知可久伊敞〔左△〕波乎禮騰母許太加久※[氏/一]佐刀波安禮騰母保登等藝須伊麻太伎奈加受奈久許惠乎伎可麻久保理登安志太爾波可度爾伊※[氏/一]多知由布敝爾波多爾乎美和多之古布禮騰毛比等己惠太爾母伊麻太伎己要受
(3894) 右の家持の歌に廣繩が答へてキキテ告ゲヌニハアラズ、ココニモイマダ啼カヌナリといへるなり○コダカクテは木高クテなり。我住ム里ニハ大木多カレドといへるなり○キカマクホ理トを略解に『聞カン事ヲ欲トテなり』といへり。もし然らばホル〔右△〕トとこそいふべけれ。又古義には
  聞マク欲《ホリ》トにて聞マホシトテと云に同じ。トはトテの意のトなり
といへり。さらばキカマクホシトとこそ云ふべけれ。さればホリトはホル〔右△〕トの誤かと思ふにホルトにても穩ならず。ただナク聲ヲキカムトとのみいふべき處なればなり。更に思ふにキカマクホリトはただキカマクホリといふ事にてトは彼シラニト〔右△〕、コヒヲシゲミト〔右△〕などのトにて後世には用ひぬ一種の助辭ならざるか(活語雜話第三編三十三丁參照)
 
4210 ふぢなみのしげりはすぎぬ(あしひきの)やまほととぎすなどかきなかぬ
敷治奈美乃志氣里波須疑奴安志比紀乃夜麻保登等藝須奈騰可伎奈賀(3895)奴
     右二十三日掾久米朝臣廣繩和
 略解に『シゲリは緊にて盛といはんが如し』といへる如し
 
   追和2處女(ノ)墓(ノ)歌1一首并短歌
4211 いにしへに ありけるわざの くすはしき 事といひつぐ 知努《チヌ》をとこ 宇奈比|壯子《ヲトコ》の うつせみの 名をあらそふと (玉きはる) いのちもすてて 相爭《アヒキホヒ》爾〔□で囲む〕 つまどひしける をとめらが きけばかなしさ 
(香花の) 爾〔左△〕太要盛而《ミダエサカエテ》 (秋の葉の) にほひにてれる 惜《アタラシキ》 身之莊〔左△〕尚《ミノサカリスラ》 ますらをの こと勞美《イタハシミ》 父母に まをしわかれて 家さかり 海邊《ウナビ》にいでたち 朝よひに みちくる潮の やへ浪に なびく玉藻の ふしの間〔日が月〕も をしき命を (露霜の) 過ましにけれ おくつきを ここと定めて 後の代の ききつぐ人も いやとほに しぬびにせよと つげ小櫛 しかさしけらし 生ひてなびけり
(3896)古爾有家流和射乃久須婆之伎事跡言繼知努乎登古宇奈比壯子乃宇都勢美能名乎競爭登玉剋壽毛須底※[氏/一]相爭爾嬬問爲家留※[女+感]嬬等之聞者悲左春花乃爾太要盛而秋葉之爾保比爾照有惜身之莊尚大夫之語勞美父母爾啓別而離家海邊爾出立朝暮爾滿來潮之八隔浪爾靡殊藻乃節間毛惜命乎露霜之過麻之爾家禮奥墓乎此間定而後代之聞繼人毛伊也遠爾思努比爾勢餘等黄楊小櫛之賀左志家良之生而靡有
 卷九なる過2葦屋處女(ノ)墓1時作歌(一八四二頁)及見2莵原《ウナビ》處女墓1歌(一八六三頁)の追和なり
 ワザは事なり。次なる事との重複を避けてワザといへるなり。クスハシキはクスシキなり。初四句は卷九(一八五三頁)なる詠2勝鹿(ノ)眞間〔日が月〕娘子1歌に
  とりがなく吾妻の國に、いにしへにありける事と、今までにたえずいひくる、かつしかの眞間の手兒奈が云々
 又卷十三(二七七一頁)に
(3897) 五百よろづ千よろづ神の、神代よりいびつぎきたる、かむなびの三諸の山は云々
とあるを學べるにてイヒツゲは知努ヲトコ宇奈比ヲトコにつづけるなり○ウツセミノはこゝにては現世ノとなり○相爭爾を舊訓にアラソフニとよめるを略解に
  上にアラソフトとありて又相爭とあるはいぶかし。爾の言もいかが。爭は具などの誤にてこゝはアヒトモニとありしか
といへり。案ずるに爾を衍字としてアヒキホヒとよむべし。卷九(一八四二頁)なる過2葦屋處女墓1時作歌に
  いにしへのますらをとこの、各競《アヒキホヒ》つまどひしけむ、あしのやの蒐名日をとめの云云
 又卷十(二一二九頁)に
  しらつゆをとらばけぬべしいざ子どもつゆに爭而《キホヒテ》はぎのあそびせむ
とあり。之によりてこゝはアヒキホヒといふべく又爭はキホヒともよむべき事を知るべし○ヲトメラガのラは無意義の助辭なり。さてヲトメラガはハル花ノ云々(3898)につづけるにてキケバカナシサは挿句なり(但範とはすべからず)○爾太要盛而を舊訓にニホエサカエテとよめり。卷十三(二八九一頁)なる人麿(ノ)集(ノ)歌にもツツジバナ爾太遙ヲトメとあればニホエとよむべきに似たれどニホヒをニホエとは云ふべからず。
  されば眞淵は志奈要盛而《シナエサカエテ》の誤としたれど集中にシナエウラブレ、シナヒサカエテとありてシナエサカエテといへる例は無し。シナエとシナヒと語源は一なるべけれどシナエはシヲレなればげにウラブレにつづくべくシナヒはナビキなればサカエテにもつづくべし。たとひシナエとシナヒと同じかりとも躑躅は枝剛きものなればツツジバナシナエとはいふべからず
 卷十三なる爾太遙と共に爾を彌の誤としてミダエとよむべし。ミダエはミダレなり。卷十四(三一六二頁)にもタチミダレをタチミダエと云へり。或は云はむ。卷十三もこゝも共に爾と書きたればなほ誤字にあらじと。或は家持は彼歌に爾太遙と書けるをニホエとよみ、さてニホヒをニホエともいふぞと心得てハル花ノ爾太要サカ工テといへるにて、なほ池主が卷十二なる古歌に戀爲便名鴈と書けるを見てコヒ(3899)テスベナミといふことをコヒスベナカリともいふぞと心得てワガセコニ古非須弊奈賀利云々とよめるが如くにもあらむ(三五七〇頁參照)○ニホヒニテレルのニホヒニは光ニといふ意ならむ○惜身之莊尚を二註にアタラ身ノサカリヲスラニとよみたれど(莊は壯の誤なり)サカリヲの収まる處なきのみならずスラは集中にニギ膚スラヲ(卷二)山道スラヲ(卷三)サムキ夜スラヲ(卷五)大宮スラヲ(卷六)春雨スラヲ(卷九)人ノ目スラヲ(卷十)君ガ目スラヲ(卷十一)とやうに名詞とヲとの間に挿みて今の如くヲスラニといへる例は少きに似たり。おそらくは身之を下に附けてアタラシキ身ノサカリスラとよみて盛ニシモと心得べきならむ○マスラヲは二人に亘れり。古義に血沼男の事としたるは非なり。コト勞美のコトは言ドヒなり。勞美を二註にイトホシミとよめり。舊訓の如くイタハシミとよむべし。イトホシはイタハシの轉訛なり。さてイタハシミは氣ノ毒ガリなり。卷十三(二九四四頁)にもタガコトヲイタハシミカモシキ浪ノカシコキ海ヲタダワタリケムとあり。マヲシ別レテは暇乞シテなり○海邊を略解にウナビとよみ古義にウミベとよめり。卷十八(三六七九頁)に宇美邊ヨリムカヘモコヌカアマノツリブネとあるは海の方といふことな(3900)れば海邊をウミベとよむべき證とはしがたし。又卷十四にナツソヒク宇奈比ヲサシテトブトリノとあり。古義にはこのウナビを地名としたり。げにこは地名なるべし。されど地名のウナビも元來海邊の意とおぼゆればこゝもウナビとよむべし(二九九五頁參照)○アサヨヒニ以下四句はフシにかゝれる序なり。フシノマは束ノ間におなじ。かの伊勢のフシノマモアハデ此世ヲスグシテヨトヤは之を學べるにこそ。フシノマモヲシキ命ヲは尺寸ダニ惜キ命ナルヲとなり○過マシニケレは消マシニケレとあらむ方まさらずや。ケレはケレバなり○オクツキヲ以下八句の主格は遺族なり。されば黄楊小櫛を墓上に挿ししも遺族なり。略解に『處女がつげの櫛を土にさしたるが云々』といひ古義に『此は處女が自害せむとする時兼てその墓地を定め置て後世のしのびぐさにもなれとて自頭にさしたりける黄楊櫛をぬきてそこに刺たりけるが云々』といへるは誤れり○之賀サシケラシのシカはカクなり。古義にシガと濁りよみてソレガの意としたるは非なり○尾句はソノ櫛ガシカ生ヒ附キテ靡ケリとなり。元來シカはこゝにあるべきなり。さて此句に辭の足らぬは歌なれば許さるべし○代匠記に卷九(一八七八頁)にツカノ上ノ木枝《コノエ》ナビケリとよめ(3901)るは此木なるべしといへり
 
4212 をとめら之《ノ》後のしるしとつげをぐしおひかはりおひて靡家〔左△〕良之母《ナビケルラシモ》
乎等女等之後能表跡黄楊小櫛生更生而靡家良思母
    右五月六日依v興大伴宿禰家持作之
 之の字を從來ガとよめり。ノとよまむ方穩なり。第四句は略解に『枯ても又生かはりしてもとの如くなびく也』といへる如し○結句を從來ナビキケラシモとよみたれどケラシモと過去にはいふべからず。宜しく家を有の誤としてナビケルラシモとよむベし。古義にカク思フ壯士ノ方ニ靡キ榮ニケラシとうつせるは卷九(一八七八頁)に
  墓の上の木枝なびけりきくがごとちぬをとこにしよらしけらしも
とあるに泥めるなり。此歌にはさる意なし
    ○
4213 あゆをいたみ奈呉の浦廻《ウラミ》によする浪いや千重しきにこひわたるかも
(3902)安由乎疾美奈呉能浦廻爾與須流浪伊夜千重之伎爾戀渡可母
     右一首贈2京(ナル)丹比(ノ)家1
 アユは東風なり。近くは卷十八(三七二五頁)に見えたり。上三句は序なり。イヤ千重シキニはイヤシクシクニといはむに同じ。千重シクタシクニともいへり
 
   挽歌一首并短歌
4214 天地の 初の時ゆ うつそみの 八十とものをは おほきみに まつろふものと 定有《サダマレル》 つかさにしあれば 天〔左△〕皇《オホキミノ》の みことかしこみ (ひなざかる) 國ををさむと (足日木の) 山河|阻《ヘダテ》 風雲に 言はかよへど ただに不遇《アハヌ》 日のかさなれば おもひこひ いきづきをるに (玉梓の) 道くる人の つて言に 吾にかたらく (はしきよし) 君はこのごろ うらさびて 嘆息伊麻須△《ナゲキイマスト》 世のなかの うけくつらけく さく花も 時〔左△〕《トキ》にうつろふ うつせみも 常なくありけり (たらちねの) 御母《ミオモ・ミハハ》の命 なにしかも 時しはあらむを (まそかがみ) 見(3903)れども不飽《アカヌ》 珠の緒の をしき盛に たつ霧の 失去如久《ウセユクゴトク》 おく露の 消去之如《キエユクガゴト》 玉藻なす なびきこいふし (ゆく水の) 留不得常《トドメカネキト》 たは言や 人のいひつる およづれ乎《カ》 人のつげつる 梓ゆみ 爪△夜音《ツマビクヨト》の 遠音《トホト》にも きけばかなしみ (庭たづみ) ながるる涕 とどめかねつも
天地之初時從宇都曾美能八十伴男者大王爾麻都呂布物跡定有官爾之在者天皇之命恐夷放國乎治等足日木山河阻風雲爾言者雖通正不遇日之累者思戀氣衝居爾玉梓之道來人之傳言爾吾爾語良久波之伎餘之君者比來宇良佐傭※[氏/一]嘆息伊麻須世間之厭家口都良家苦開花毛時爾宇都呂布守〔左△〕都勢美毛無常阿里家利足千根之御母之命何如可毛時之波將有乎眞鏡見禮杼母不飽珠緒之惜盛爾立霧之失去如久置露之消去之如玉藻成靡許伊臥逝水之留不得常枉〔左△〕言哉人之云都流逆言乎人之告都流梓弧爪夜音之遠音爾毛聞者悲彌庭多豆水流涕留可禰都母
(3904) 左註によれば女婿南(ノ)右大臣家(ノ)藤原二郎が其母を喪ひしを弔ふとて作れるなり。南(ノ)右大臣は藤氏南家の豐成なれば其二郎といへるは後の右大臣繼繩ならむ。繼縄は此時二十四歳、其母は路(ノ)眞人虫麿の女なり
 ウツソミノ八十トモノヲは世ニアル諸官なり。マツロフは服從なり。定有を從來サダメタルとよめり。宜しくサダマレルとよむべし○天皇は古義に大皇の誤としてオホキミとよめるに從ふべし(古義卷一の一七六頁參照)○ヒナザカルは都ニサカルのニを省けるなり。山河阻を二註にヤマカハヘナリとよみたれど山河ガヘダタリといふべき處にはあらで山河ヲ中ニオキといふべき處なればヤマカハヘダテとよむべし○風雲ニ言ハカヨヘドは言ヲ托《ツ》クル使ハアレドとなり。語例は卷八(一五六〇頁)に風雲ハ二ツノ岸ニカヨヘドモとあり○不遇を略解にアハズとよめり。宜しく古義の如くアハヌとよみて日につづくべし○玉桙ノ道クル人ノ云々は卷二(三二七頁)なる
  玉桙の道くる人の、なく涙ひさめにふれば、しろたへの衣ひづちて、たちとまり吾にかたらく云々
(3905)を學べるなり。ツテゴトは傳言なり○君は藤原(ノ)二郎なり。ウラサビテは卷一にササナミノ國ツ御神ノウラサビテ(五四頁)またウラサブル心サマネシ(一二六頁)とあり。意氣の衰ふる事にてウラブレテといふに類せり。嘆息伊麻須を舊訓にナゲキゾイマスとよみ二註にナゲカヒイマスとよめり。宜しく須の下に等を補ひてナゲキイマストとよむべし。道來る人の辭はこゝにて終れるなり。世ノナカノ以下は作者の感想と道來る人の説話とを糾ひたるなれば前四句とは續くべからず○ウケクツラケクは憂キ事ツラキ事ハとなり○時爾は古義に『時々にうつろひ散るを云』といへれど終爾を誤れりとすべし○御母を契沖千蔭はミオモとよみ雅澄はミハハと
よめり。母をオモとよむ例は仁賢夫皇紀に於v母亦兄とある訓註に此(ヲ)云2於慕尼慕是《オモニモセ》1とあり○ナニシカモ時シハアラムヲは卷十七(三五三四頁)なる同じ作者の哀2傷長逝之弟1歌にも見えたり。時シハアラムヲ何シカモとおきかへて心得べし。時シハのシは助辭なり。又何シカモはいひ放しにてその結は無きなり(三五三六頁參照)○不飽を從來アカズとよめり。宜しくアカヌとよむべし。珠ノ緒ノヲシキ盛にかゝれるなり。殊(ノ)緒は寿命なり。枕辭にあらず○失去如久消去之如を二註にウセヌルゴトク、(3906)ケヌルガゴトクとよめり。もし後なるもゴトクとよむべくば前なると同じく如久とあらざるべからず。さればウセユクゴトク、キエユクガゴトとよむべし○留不得常を略解にトドメモエズトとよみ古義にトドメカネキトとよめり。後者に從ふべし。さて此句にて切れたるなり。タハ言に續けるにあらず○逆言《オヨヅレ》乎の乎を二註に可の誤とせり。上(三八六九頁)にもマヅナキナム乎〔右△〕と書ける例あればもとのまゝにてもあるべし。タハ言オヨヅレは共に妄言なり○アヅサユミ爪夜音之は爪の下に引をおとせるにて此二句はトホトにかゝれる序、トホトニモはホノカニモなり。梓ユミ以下の語例は卷四に
  梓弓つまびく夜音《ヨト》の遠音《トホト》にも君が御ことをきかくしよしも
とあり○カナシミはカナシサニなり。ニハタヅミ以下は卷二に
  みたちせし島をみる時にはたづみながるる涙とめぞかねつる
とあるを學べるにてはやく上(三八四一頁)なる悲2世間無常1歌にも用ひたり
 
   反歌二首
4215 遠音にも君が痛念《ナゲク》とききつればねのみしなかゆあひもふ吾は
(3907)遠音毛君之痛念跡聞都禮婆哭耳所泣相念吾者
 アヒモフ吾ハは畢竟君ヲ思ヘル吾ハとなり
 
4216 世のなかの當なき事はしるらむをこころ盡すなますらをにして
世間之無常事者知良牟乎情盡莫大夫爾之※[氏/一]
    右大伴宿禰家持弔d聟南(ノ)右大臣家(ノ)藤原(ノ)二郎之喪2慈母1患u也【五月二十七日】
 ココロツクスナはこゝにては心一バイニ嘆クナとなり
 聟は※[土+胥]の俗字なり
 
    霖雨晴日作歌一首
4217 うの花をくたすながめの始水逝〔左△〕《ハナミヅニ》よるこつみなすよらむ兒もがも
宇能花乎令腐霖雨之始水逝縁木積成將因兒毛我母
 クタスは腐ラスなり。第三句の逝を春海は邇の誤とせり。始水は舊訓にミヅハナとよめり。ハナミヅとよむべきか。なほ考ふべし。その始水は出水の先頭ならむ。略解に水の出はじまる意なりといへるは從はれず。寄ルコツミとつづけ云へるを思ふべ(3908)し○コツミは樹木の屑なり。上四句は序なり。梅雨の異名を卯花クタシといふは此歌に基づけるなりと契沖いへり
 
   見2漁夫(ノ)火光1歌一首
4218 鮪《シビ》つくとあまのともせるいざり火のほにか將出《イダサム》わが下念《シタモヒ》を
鮪衝等海人之燭有伊射里火之保爾可將出吾之下念乎
     右二首五月
 將出を舊訓にイデナムとよめるを古義にイダサムに改めたり。イデナムにては結句にシタモヒヲとあると相かなはぬが故なれど集中にホニイヅとのみいひてホニイダスといへる例なし。然もホニイダスとはいふべからざる辭にあらざる上、古今集の序にも花ススキ穗ニイダスベキ事ニモアラズナリニタリとあれば、なほ古義の改訓に從ふべし。さてホニイダスはアラハスといふことなり○左註の五月の下に日次をおとせるなり
    ○
(3909)4219 わがやどのはぎさきにけり秋風の吹かむをまたばいととほみかも
吾屋戸之芽子開爾家理秋風之將吹乎待者伊等遠彌可母
    右一首六月十五日見2芽子《ハギ》(ノ)早花1作之
 マタバといはば遠カルべミといふべきをかく云へるは集中に其例少からず。されば結句は遠カルベキニヨリテカと譯すべし○萩の早花を卷八(一五七五頁)には先《サキ》ハギといひ卷十(二〇九六頁)には早《ハツ・ワサ》ハギといひ、下にはハギノ始《ハツ》花といへり。ここの早花はハツハナとよむべきか
 
   從2京師1來贈歌一首并短歌
4220 わたつみの かみのみことの みくしげに たくは比《ヒ》おきて いつくとふ たまにまさりて おもへりし あがこにはあれど (うつせみの) よのことわりと ますらをの ひきのまにまに (しなざかる) こしぢをさして (はふつたの) わかれにしより (おきつなみ) とをむまよびき (おほぶねの) ゆくらゆくらに おもかげに もとなみ(3910)えつつ かくこひば おいづくあがみ けだしあへ牟〔左△〕《ジ》かも
和多都民能可味能美許等乃美久之宜爾多久波比於伎弖伊都久等布多麻爾未佐里弖於毛敝里之安我故爾波安禮騰宇都世美乃與能許等和利等麻須良乎能比伎能麻爾麻爾之奈謝可流古之地乎左之※[氏/一]波布都多能和我禮爾之欲理於吉都奈美等乎牟麻欲比伎於保夫禰能由久良由久良耳於毛可宜爾毛得奈民延都都可久古非婆意伊豆久安我未氣太志安倍牟可母
 左註に依れば家持の妻に其母大伴(ノ)坂上《サカノヘ》(ノ)郎女より贈り來れるなり
 貯はこゝに多久波比とあるを見ればいにしへは上二段に活きしならむ(卷十八【三七六七頁】ヒコエ毛伊ツツ參照)。但字音辨證には比はへともよむべしと云へり。イツクは大切ニスルなり○コトワリトは道理トテなり。マスラヲはここにては良人なり。ヒキノマニマニは誘フママニなり○トヲムはタワムにて曲ルといはむにひとし。ユクラユクラニは夙く卷十三(二八三九頁)に見えて物のしづまらざる貌なり。但こ(3911)こにては面影を形容したるなればチラチラトなど譯すべし。モトナはアヤニクなり○オイヅクは老始ムルなり。ケダシは或ハなり。アへ牟カモはアへ自カモの誤にて堪へザラムカといへるなり。尾句の調は卷三(四六四頁)なる同じ作者の祭神歌に君ニアハジカモといへるに似たり。アヘジカモの例は卷十三(二九二九頁)にあり
 
  反歌一首
4221 かくばかりこひし久〔左△〕志《トシ》安〔□で囲む〕らば(まそかがみ)みぬひときなくあらましものを
可久婆可里古非之久志安良婆末蘇可我彌美奴比等吉奈久安良麻之母能乎
    右二首大伴氏坂上郎女賜2女子大孃1也
 第二句コヒシクシアラバとある穩ならず。調より見ても格(マシとの照應)より見てもシラバと云はざるべからず。こゝに元暦校本以下志の字無くて故非之久安良婆とある本少からず。おそらくはもとは故非之登志良婆とありしを誤れるならむ○(3912)ミヌ日トキナクは見ヌ日モナク見ヌ時モナクなりと契沖いへり○類歌は卷十一に
  かくばかりこひしき物としらませば遠くのみ見てあらましものを
 卷十二に
  かくばかりこひむものぞとしらませば其夜はゆたにあらましものを
とあり
 
   九月三日宴歌二首
4222 このしぐれいたくなふりそわぎもこにみせむがためにもみぢ等〔左△〕《ヲ》りてむ
許能之具禮伊多久奈布里曾和藝毛故爾美勢牟我多米爾母美知等里※[氏/一]牟
     右一首掾久米(ノ)朝臣廣繩作之
 家持の和歌にワガセコガシメケムモミヂとあるを見れば廣縄に招かれて宴せし(3913)なり。廣繩の館は山に近かりし趣なれば紅葉もよろしかりけむ○古義にワギモコを京の家なる妻の事とせり。家持の歌に奈良ビトミムトとあればげに然るべし○等里は乎里の誤ならむ
 
4223 (あをによし)奈良びとみむとわがせこがしめけむもみぢつちにおちめやも
安乎爾與之奈良比等美牟登和我世故我之米家牟毛美知都知爾於知米也母
     右一首守大伴宿禰家持作之
 奈良ビトを略解に『家持自らをいへり』と云へるは非なり。古義に云へる如く廣縄の妻の奈良にあるをいへるなり。奈良人ニ見セムトといふことを奈良人ミムトといへるは拙し○ツチニオチメヤモは此時雨ニ散ラムヤハとなり
    ○
4224 朝霧のたなびく田ゐになく鴈を留得哉《トドメエムカモ》わがやどのはぎ
(3914)朝霧之多奈引田爲爾鳴鴈乎留得哉吾屋戸能波義
    右一首歌者幸2於吉野宮1之時藤原皇后御作。但年月未2審詳1
    十月五日河邊朝臣東人傳誦云爾
 留待哉を略解にトドメエンカモとよみ古義にトドメエメヤモとよめり。前者に從ふべし。トドメ得ムカイカガとのたまへるなり○ワガヤドとあるは離宮なり。古義に
  契沖もいひし如く吉野へいでまし給ふ天皇を鳴往雁にたとへ皇后の御みづからを芽子《ハギ》(ノ)花によそへさせ給ふにもあらむ
といへるはいみじきひが言なり。もしさる意ならば二三句はタナビク田ヰユタツ鴈ヲなどあらざるべからず。譬へたまへる所は無きなり。天皇と共に離宮にましまして御目に御覧じて感じたまひしままを歌ひたまへるのみ○藤原皇后は所謂光明皇后なり
    ○
(3915)4225 (あしひきの)山黄葉爾四頭久〔三字左△〕相而《ヤマノモミヂノアメニアヒテ》ちらむ山ぢをきみがこえまく
足日本之山黄葉爾四頭久相而將落山道乎公之越麻久
     右一首同月十六日餞2之朝集使少目秦(ノ)伊美吉《イミキ》石竹《イハタケ》1△時守大伴宿禰家持作之
 二三を從來ヤマノモミヂニシヅクアヒテとよめり。もと山黄葉乃雨耳相而とありしを誤れるにあらざるか。但爾はそのままにてノともよむべし○コエマクは越エム事ヨとなり
 左註の餞の下の之は例の助字なり。略解に石竹の下にも之の字あるべしと云へり。宴の宇を補ふべきか
 
   雪日作歌一首
4226 此雪のけのこる時にいざゆかな山橘の實のてるも見む
此雪之消遺時爾去來歸奈山橘之實光毛將見
     右一首十二月大伴宿禰家持作之
(3916) 三四の間にサテといふ語を挿みて見べし。ケノコルは消エ殘ルなり。山タチバナはヤブカウジなり○左註は月の下に日次をおとせるなり
    ○
4227 大殿の このもとほりの 雪なふみそね しましまも ふらざる雪ぞ 山のみに ふりし雪ぞ ゆめよるな人や なふみそね雪は
大殿之此廻之雪莫蹈禰數毛不零雪曾山耳爾零之雪曾由米縁勿人哉莫履禰雪者
 モトホリはメグリなり。山ノミニ云々は從來山ノミニ降リテ里ニハ降ラザリシ大雪ゾとなり○ユメヨルナ人ヤを二註に五言三言の二句としたれどシマシマモフラザル雪ゾと山ノミニフリシ雪ゾと相對し、ユメヨルナ人ヤはナフミソネ雪ハと相對したるなればなほ八言一句とすべし。ヨルナは雪ニ近寄ルナとなり○句法の參差《シンシ》たるはわざと古風に擬したるなり
   反歌一首
(3917)4228 ありつつも御見《メシ》たまはむぞ大殿のこのもとほりの雪なふみそね
有都都毛御見多麻波牟曾大殿乃此母等保里能雪奈布美曾禰
    右二首歌者三形(ノ)沙彌《サミ》承2贈左大臣藤原(ノ)北(ノ)卿之語1作誦〔□で囲む〕之也。聞《キキテ》v之傳者笠(ノ)朝臣子君、復後傳讀〔左△〕者越中國掾久米朝臣廣繩是也
 アリツツモはソノママニテとなり。御見は古義に從ひてメシとよむべし。北(ノ)卿ガ見給ハムゾとなり。北卿は藤原(ノ)房前《フササキ》なり。房前が意を授けて三形沙彌をして作らしめたるなり。作誦之也の誦は衍字ならむ。傳讀は傳誦の誤か〇三形沙彌を古義に
  山田(ノ)史《フビト》御方が僧にてありしほどをいふなるべし。されば三方(○卷二には三方と書けり)は名にて沙彌は僧をいふなるべし
と云へるはいかが。集中に久米(ノ)禅師、碁(ノ)檀越といふ人名見え續日本紀に宮(ノ)首《オビト》阿禰陀、文(ノ)忌寸《イミキ》釋迦などいふ人名見えたる事、支那南北朝時代に佛教關係の人名多かりし事、神護景雲二年五月に佛菩薩及賢聖の號を用ふる事(前出の例の外|衣縫《キヌヌヒ》(ノ)造《ミヤツコ》孔子、阿倍朝臣子路、縣《アガタ》(ノ)犬養(ノ)宿禰老子の類)を禁ぜられし事、御方といふ氏續紀天平勝寶元年(3918)八月、天平寶字五年十月などに見えたる事などを思へば三形(三方御方通用)は氏、沙彌は名なるべし
 
  天平勝寶三年
    ○
4229 新《アラタシキ》年の初はいや年に雪ふみならし常かく爾《ニ》もが
新年之初者彌年爾雪蹈平之常如此爾毛我
    右一首歌者正月二日守(ノ)舘集宴。於v時零雪殊多、積△有四尺〔左△〕焉。即主人大伴宿禰家持作2此歌1也
 イヤ年ニは年ゴトニなり。卷十七(三五九三頁)にはイヤ年ノハニとあり○常カク爾モガはイツモカク遊バマホシとなり。古義に『爾は志か之の誤にてカクシモガなるべし』といへり。カクはカニモカクニモ、カクナラシなどの例を思ふにカクニとも云ふべければもとのままにて可なり
 略解に積有四尺は積尺有四寸の誤なりといへり。下にも大雪落積尺有二寸とあり
(3919)    ○
4230 ふる雪を腰になづみてまゐり來ししるしもあるか年の初に
落雪乎腰爾奈都美※[氏/一]參來之印毛有香年之初爾
    右一首三日會2集介|内藏《ウチノクラ》(ノ)忌寸《イミキ》繩麻呂之舘1宴樂時△大伴宿禰家持作之 初二は卷十三(二八七一頁)なる夏草ヲ腰ニナヅミを學べるなり。正しくはフル雪ニ腰ナヅミテといふべきなり○年ノハジメニはマヰリ來シの上におきかへて心得べし。シルシモアルカは詮モアル哉にて詮アリテ面白キ集宴ニ列レルカナといへるなり○大伴の上に守の字を補ふべし
 
   于v時積v雪彫2成重巖之|起《タテルヲ》1奇巧綵2發草樹之花1。屬《ミテ》v此掾久米朝臣廣繩作歌一首
4231 なでしこは秋さくものを君がいへの雪の巖にさけりけるかも
奈泥之故波秋咲物乎君宅之雪巖爾左家理家流可母
(3920) 積雪は雪ヲ積ミテとよむべし。雪を積みて巖の形を造りたるなり。綵發はもし訓讀せばイロドリサカシムなどよむべし。雪の巖に造花を挿したるなり。屬は矚なり。ミテと訓むべし○歌は瞿麥の造花をよめるなり
 
   遊行女婦|蒲生娘子《カマフヲトメ》歌一首
4232 雪島《ユキノシマ》巖爾殖有《イハニウヱタル》なでしこは千世にさかぬか君がかざしに
雪島巖爾殖有奈泥之故波千世爾開奴可君之挿頭爾
 遊行女婿の事は夙く卷十八(三六八一頁)にいへり。此徒に往々歌作るものあるは徳川時代の娼婦の或者と同じく特にさる方の教育を受けたるにもあるべけれど少くとも其一部は國司などの落胤にて文雅を解する遺傳性を有したりしならむ
 初句を略解にユキシマノとよみ古義にユキノシマとよめり。後者に從ふべし。雪ノシマは雪ノツモレル庭園なり。庭園をシマといひし事は卷三、卷五、卷六(五五五頁、九三六頁、一一二四頁)などに云へり。雪島をユキジマとよみて地名と心得て今の氷見町の沖なる唐島の舊名なりと處の人のいへるは滑稽なり○第二句を二註にイハホニタテルとよめり。宜しくイハニウヱタルとよむべし。下にもイヘニウヱタルを(3921)家爾殖有と書けり○千世ニサカヌカはイツマデモサケカシとなり。主人を祝ひて云へるなり
 
     于v是諸人酒酣更深鶏鳴。因v此主人内藏(ノ)伊美吉《イミキ》繩麻呂作歌一首
4233 うちはぶき鶏《トリ》はなくともかくばかりふりしく雪に君いまさめや母〔□で囲む〕
打羽振鶏者鳴等母如此許零敷雪爾君伊麻左米也母
 フリシクは降リ頻ルなり。君は主賓大伴家持を指せるなり。母は衍字ならむ○イマサメヤは行キ給ハムヤハなり。ユキタマフをイマスといへる例は近くは卷十二(二七二一頁)に山コエテ往座《イマス》君ヲバイツトカ待タムとあり
 
     守大伴宿禰家持和歌一首
4234 鳴鶏〔二字左△〕者《トリガネハ》いやしきなけどふる雪の千重につめこそわれたちがてね
鳴鶏者彌及鳴杼落雪之千重爾積許曾吾等立可※[氏/一]禰
 初句を從來ナクトリハ(又ナクカケハ)とよみたれどナクトリハといひてイヤシキナケドと云はむは手づつなり。後世ならばニハトリハといふべけれど集中にはニ(3922)ハツトリといひていまだニハトリとは云はず。宜しく鶏鳴者の顛倒としてトリガネハとよむべし○イヤシキナケドは頻ニ鳴ケドとなり。上(三八六四頁)にもホトトギスイヤシキナキヌとあり○ツメコソはツモレバコソなり。タチガテネは契沖のいへる如く立敢ヘネなり。古義の説は誤れり
 
   太政大臣藤原家之縣(ノ)犬養(ノ)命婦奉2 天皇1歌
4235 天雲をほろにふみあたしなる神もけふにまさりてかしこけめやも
天雲乎富呂爾布美安多之鳴神毛今日爾益而可之古家米也母
    右一首傳誦掾久米朝臣廣繩也
 太政大臣藤原家は不比等、願(ノ)犬養(ノ)命婦《ミヤウブ》は橘(ノ)三千代にて不比等の繼室、橘諸兄光明皇后などの母なり○天皇はおそらくは元明天皇にて歌は始めて召されし時の作ならむ
 ホロニを宣長は古事記なるクヱハララカシのハララに同じといひ雅澄は此説に基づきてバラバラと譯せり○アタシを宣長はちらす意なりといへり。播磨などの(3923)方言に堕つる事をアダケルといふ。もしくは之と同源なる語にてオトスといふことにあらざるか〇四五は今日ノ大御前ノカシコサニマサリテ畏カラメヤハと云へるなり○此婦人は當時の才女なりしなり
 
   悲2傷死妻1歌一首并短歌 作主未詳
4236 天地の 神はなかれや うつくしき 吾妻さかる (ひかる神 鳴《ナリ》)はたをとめ 携手《タヅサハリ》 共にあらむと 念ひしに こころたがひぬ 言はむすべ せむすべしらに ゆふだすき 肩にとりかけ しづぬさを 手にとりもちて な離《サ》けそと われは雖祷《イノレド》 まきてねし 妹がたもとは 雲にたなびく
天地之神者無可禮也愛吾妻離流光神鳴波多※[女+感]嬬携手共將有等念之爾情違奴將言爲便將作爲便不知爾木綿手次肩爾取掛倭父弊〔二字左△〕乎手爾取持而勿令離等和禮波雖祷卷而寢之妹之手本者雲爾多奈妣久
 廣縄がアマ雲ヲホロニフミアタシナル神モといふ歌を傳誦せしを聞きて蒲生が(3924)かねて聞き保てる此歌を思ひ出でて(此歌にもヒカル神ナリハタヲトメとあれば)傳誦せしならむ
 ナカレヤは無ケレバヤなり。初二は祈れど驗なきに激していへるなり。ウツクシキはカハユキなり○鳴はナリとよむべし(舊訓にはナルとよめり)。雷のなりはたたくを波多ヲトメにいひかけて枕辭としたるなり。波多は地名ならむ。大和河内を始めて諸國に多き地名なり○携手を舊訓にタヅサヒテとよみ略解古義にテタヅサヒとよめり。卷十(二〇四三頁)にヨロヅヨニ携手居而《タヅサハリヰテ》アヒ見トモとあり卷十七、卷十八、卷二十に多豆佐波理、多豆佐波利、多豆佐波里と書けるに據りてタヅサハリとよむべし。夙く卷二(三〇六頁)なる携手もタヅサハリとよみき○ココロタガヒヌの語例は卷二に
  天地と共にをへむと念ひつつ、つかへまつりしこころたがひぬ
とあり○略解に
  木綿ダスキといふよりワレハイノレドの句までは妻の病るによりて神に祈るほどを立返りていへり
(3925)といひ古義にも
  ユフダヌキと云より下六句は妻の病臥ししほど神祇にのみまをししことを立かへりていふなり。初句にその綱を云てここにその目を述べたり
と云へれど初のワガ妻サカルもここのユフダスキ云云も共に妻の將に死なむとする時の事をいへるなり○ナサケソは神ヨ、離シタマフナとなり。雖祷を舊訓にイノレドとよめるを古義に
  ノメレドと訓べし。過去し事を今いふことなれば必かく訓べし。イノレドにては現在祷りつつあることになればなり
といへれどイノリシカドといふべきをイノレドといへるのみ。ノメレドは祈ッテアルガといふ事にて過去にはならず○妹ガタモトハ雲ニタナビクは契沖以下のいへる如く火葬の烟の立昇るさまをいへるなり。雲ニは雲トなり。空ニにあらず。シラユフバナニオチタギツなどのニなり。さて雲ニタナビクの上にツヒニといふことを加へて聞くべし○父弊は文幣の誤なり
 
  反歌一首
(3926)4237 寢〔左△〕爾等〔左△〕念〔左△〕△※[氏/一]之《ウツツニモイマモミテシガ》毛〔□で囲む〕いめのみにたもとまきぬと見者《ミルハ》すべなし
寢爾等念※[氏/一]之可毛夢耳爾手本卷寢等見者須便奈之
     右二首傳誦遊行女婦蒲生是也
 寢は寤の誤なり。第二句を從來オモヒテシカモとよみたれどオモヒテシカモといふことここにかなはず。おそらくは今毛見※[氏/一]之可の誤脱ならむ。初句の等も毛の誤ならむ○見者を略解にミルハとよみ古義にミレバとよめり。前者に從ふべし○此歌は誤りて前の長歌の反歌と傳へたるなり。はやく卷十二(二五六八頁)に
  うつつにも今も見てしがいめのみにたもとまきぬとみるはくるしも
とあり
 
   二月三日會2集于守(ノ)舘1宴作歌一首
4238 君が往《ユキ》もし久ならば梅柳たれと共にかわがかづらかむ
君之往若久爾有婆梅柳誰與共可吾※[草冠/縵]可牟
    右判官久米朝臣廣繩以2正税帳1應v入2京師1。仍守大伴宿禰家持作2(3927)此歌1也。但越中風土梅花柳絮三月初咲耳
 ユキは旅行なり○柳絮は實は花にあらで實なり
 
   詠2霍公鳥1歌一首
4239 二上のをのへの繁《シゲ》に許毛△爾之《コモリニシ》波〔左△〕《ソノ》霍公鳥|待騰《マテド》未〔□で囲む〕|來奈賀受《キナカズ》
二上之峯於乃繁爾許毛爾之波霍公鳥待騰未來奈賀受
    右四月十六日大伴宿禰家持作之
 繁を從來シジとよめり。宜しくシゲとよむべし(卷三【五七六頁】參照)。シゲはシゲミといふことなり○從來、許毛爾之波を第三句とせり。さて枝直雅澄は毛の下に里を補ひ波を衍字としてコモリニシとよめり。宜しく波を彼の誤とし未を衍字として第三句以下をコモリニシソノホトトギスマテドキナカズとよむべし。
  波は元暦校本に彼とあり。未は元暦校本及類聚古集に無し
 コモリニシは昨年引籠リシなり
 
  春日(ニテ)祭v神之日藤原太后御作歌一首、即賜2入唐大使藤原朝臣清(3928)河1【參議從四位下遣唐使】
4240 大船に眞梶しじぬきこの吾子をから國へやるいはへ神たち
大船爾眞梶繁貫此吾子乎韓國邊遣伊波敝神多智
 春日は藤原氏の祖神なれば遣唐使の爲に春日にて祭せしにやと思ふに錦所談卷之二に
  續紀寶龜八年二月戊子遣唐使拜2天神地祇於春日山下1、去年風波不調不v得2渡海1、使人亦復頻以相替、至v是副使小野朝臣石根重修2祭祀1也、これを以て考るに遣唐使春日山下に諸神を祭ることは萬葉十九藤原皇后、清河入居の時賜ふ御歌にも春日祭v神之日とありて春日山にて渡海を祈ること、流例なる歟。然れば安倍仲滿唐國にて三笠ノ山ニイデシ月カモと云歌を春日山にて祈し昔を思出てよめると云、俗説ながらも據ある歟
といへり。寶龜八年二月の記事に重修2祭祀1也とある重の字に注目すべし。前年も春日山下にて神祇を祭りしなり○藤原太后は光明皇后なり。清河は太后の御兄房前の子なり
(3929) アコとのたまへるは御姪なれば親しみてのたまへるなり○唐國を韓國と書けるは借字なり。イハヘは大切ニセヨにてやがて守レなり
 
   大使藤原朝臣清河歌一首
4241 春日野にいつくみもろの梅の花榮えてありまてかへり來【クル・コム】まで
春日野爾伊都久三諸乃梅花榮而在待還來麻泥
 イツクは祭るなり。ミモロは御室にて神殿なり。宣長が
  四の句は皇后の御事を申せり。梅花ノ如ク榮エテと也
といへるは上三句を序とせるやうにてまぎらはし。此歌は梅花を皇后によそへたるなりと云ふべし○アリマテは待チテ居レなり。來を舊訓にクル、古義にコムとよめり。いづれにてもあるべし
 
   大納言藤原家餞2之入唐使等1宴日歌一首
4242 (天雲の)ゆきかへりなむものゆゑにおもひぞわがする別かなしみ
天雲乃去還奈牟毛能由惠爾念曾吾爲流別悲美
(3930) 大納言は仲麻呂にて清河とは從兄弟なり。餞の下の之は助字なり。流布本に題辭の右傍に即主人卿作之の六字あり
 ユキカヘリナムは往キテ還來ラムとなり。モノユヱニはモノナルニなり。カナシミはカナシサニなり○古義に藤原の下に卿の字を補ひたれど上にも太政大臣藤原家とあればもとのままにて可なり
 
   民部卿|多治△《タヂヒ》(ノ)眞人|古〔左△〕作《ハニシ》(ノ)歌一首
4243 住吉《スミノエ》にいつく祝〔左△〕《ヤシロ》の神言《カムゴト》とゆくともくとも舶ははやけむ
住吉爾伊都久祝之神言等行得毛來等毛舶波早家無
 多治の下に比をおとせり。又古作は上作の誤なり。續紀に多治比眞人土作とあり。ハニシを國史に土作又土師と書けり。抑ハニシのシは爲《シ》なればもとより土作とも書きつべし。師は書きなれたれど實は借字なり
 祝之を從來ハフリガとよめり。宜しく社之の誤としてヤシロノとよむべし。卷八(一五五五頁)にも社を祝と誤れる例(ウマザケ三輪ノ祝〔左△〕ノ山テラス)あり。住吉の神は海上を守り給ふ神なり○神言トを略解に『トはトモニの意又如クといはんが如し』と(3931)いひ古義に『神言ニ因テといふほどの意なり』といへり。按ずるに神言は神ノオホセにてトはトテなり○ユクト、クトのトはサヨフケヌトニなどのトにて時なり(三八四五頁參照)。クル時《ト》と云はでクトと云へるは古格に依れるなり。おそらくは當時ユクト、クトといひなれたりしならむ〇四五は卷九に
  わたつろのいづれの神をいのらばか往方《ユクサ》も來方《クサ》も舟のはやけむ
とあるに似たり
 
   大使藤原朝臣清河歌一首
4244 (あらたまの)年の緒ながくわがもへる兒らにこふべき月ちかづきぬ
荒玉之年緒長吾念有兒等爾可戀月近附奴
 兒ラは妻なり。こは出發の時近くなりて作れるなり。國史并に下なるカラ國ニユキタラハシテといふ歌の題辭に依れば出發は勝寶四年閏三月以後なり。されば此歌もし總標の如く勝寶三年の作ならば出發はいたく豫定より延びしなり○結句は下なる阿倍(ノ)老人《オキナ》の歌を學べるならむ○略解に
  妹ヲ戀フといふも妹ニ戀フといふも同じ事に落れば兒等ニコフといへり
(3932)といひ古義にも『兒ラニは兒ラヲといはむが如し』といへるは語格の變遷を知らぬ例のあやな言なり。いにしへはニ戀フといひしが後にヲ戀フといふやうになりしなり
 
   天平五年贈2入唐使1歌一首并短歌 作主未詳
4245 (そらみつ) やまとの國 (あをによし) 平城のみやこゆ (おしてる) 難波にくだり すみのえの 三津にふなのり 直渡《タダワタル》 日の入る國に 所遣《マケラユル》 わがせの君を かけまくの ゆゆし恐伎〔左△〕《カシコシ》 すみのえの わが大御神 ふなのへに うしはきいまし ふなどもに 御立座而《タタシイマシテ》 さしよらむ 礒の崎々 こぎはてむ 泊々に あらき風 浪にあはせず たひらけく ゐてかへりませ もとの國家《ミカド》に
虚見都山跡乃國青丹與之平城京師由忍照難波爾久太里住吉乃三津爾舶能利直渡日入國爾所遣和我勢能君乎懸麻久乃由由志恐伎墨吉乃吾大御神舶乃倍爾宇之波伎座舶騰毛爾御立座而佐之與良牟礒乃崎々許(3933)藝波底牟泊々爾荒風浪爾安波世受平久率而可敝理麻世毛等能國家爾
 同じ時の山上憶良の歌(好去好來歌)は卷五(九七三頁)に、笠金村の歌(天平五年癸酉春閏三月贈2入唐使1歌)は卷八(一五〇八頁)に、作者不詳の歌(天平五年癸酉遣唐使舶發2難波1入v海之時親母贈v子歌)は卷九(一八二二頁)に出でたり
 スミノエノ三津は御津の借宇なり。フナノリはフナノルといふ動詞のはたらけるなり。卷二十に
  くにぐにのさきもりつどひふなのりてわかるをみればいともすべなし
とあり○直渡を從來タダワクリとよめり。之によらばタダワタリシテの略とすべけれど下にユクとかイマスとか云はで所遣といへるを思へばタダワタルとよみて日ノ入ル國にかかれりとすべし。さてタダワタルはタダニワタルのニを省けるにてタダニワタルはマハリ道ヲセズニ眞直ニ渡ルといふことなり○日ノ入ル國は推古天皇の御世に隋(ノ)煬帝に贈られし國書に日出處(ノ)天子致2書日没處(ノ)天子1無《ナシヤ》v恙とあるに依れるならむ○所遣を從來ツカハサルとよめり。古格に從はばツカハサルルをツカハサルとも云ふべけれど外によむべきやう無くばこそ然もよまめ、マケ(3934)ラユルともよむべきにあらずや。マケはツカハシなり(三五三五頁參照)○由由志恐伎を從來ユユシカシコキとよみたれどカシコキといはばそれに對してユユシク又はユユシキとこそいふべけれ。宜しく伎を侍の誤としてユユシカシコシとよむべし○船乃倍は船の舳なればフネノヘとよむべきに似たれど卷五(九七三頁)なる好去好來歌に船舳爾の註に反云2布奈能閇爾1とあればなほ舊訓の如くフナノヘとよむべし。フナドモは艫なり。ウシハクは座を占むるなり○御立座而を舊訓にミタチイマシテとよみ二註にミタタシマシテとよめり。さて古義に
  天皇またさるべき神の御うへを申すには用言の頭にも御の辭を冠すること御ハカセル、御|娶《アヒ》マス、御寢マス、御|哭《ネ》ナクなどいふ其例なり
といへれどミハカセル、ミアヒマス、ミネマスと假字音にせる例ありや。ともかくも本集卷二(二三六頁以下)に御立爲之と書けるは卷五(九三七頁)に美多多志世利志とあるに倣ひてミタチセシとよむべく、又同卷にただ一處(二四六頁)御立之〔三字傍点〕とあるは他の三例に照して爲をおとしたるものと認むべく、こゝの御立座而はタタシイマシテとよむべし。タタシを御立と書けるはトハサズを不御問と書き(卷二【二二三頁】日並(3935)皇子尊殯宮之時作歌)オモホスを御念と書ける(卷三【四三五頁】大伴四繩歌)と同例なり
  因にいふ。卷々の題辭に御作歌とあるもツクラシシ歌又は作リタマヒシ歌とよむべし。御は古典にタマフにも充てたり
 ○カケマクノ以下、卷六(一一三〇頁)なる石上《イソノカミ》(ノ)乙麻呂卿配2土左國1之時歌に
  かけまくもゆゆし恐石《カシコシ》、すみのえのあら人神、ふなのへにうしはきたまひ、つきたまはむ島のさきざき、よりたまはむ礒のさきざき、あらき浪風にあはせず、つつみなく疾あらせず、すむやけくかへしたまはねもとの國べに
とあるといとよく相似たり。年代を案ずるに乙麻呂配2土左國1之時歌は天平十一年の作なれば今の歌を學べるなり○國家を舊訓にミカドとよめるを略解に『右の歌に本(ノ)國部爾とあればここもクニベとよむべし』といへれど、此は外國に使するなればモトノミカドニといひ彼は日本國内の配流なればクニベニといへるなり。辭を換へて云はば贈遣唐使歌を殆さながらに取りし乙麻呂の昵近者もさすがにモトノミカドニとあるをばそのままには取りかねてモトノクニベニと更へたるなり。略解の説はあまりにをさなし
 
(3936)   反歌一首
4246 おきつ浪邊波|莫越〔左△〕《ナタチソ》君がふねこぎかへり來て津にはつるまで
奥浪邊波莫越君之舶許藝可敞〔左△〕里來而津爾泊麻泥
 莫越を舊訓にナコシソとよめるを略解に
  越は起の誤にてタチソにてはなかりしか
といへり。卷二十にシホ船ノ舶コ|ソ《ス》シラナミといへる例あれど結句にむかへて思へばナタチソとせむ方穩なり
 
   阿倍(ノ)朝臣老人遣v唐時奉v母悲別歌一首
4247 あま雲のそきへのきはみわがもへるきみに別れむ日近くなりぬ
天雲能曾伎敞〔左△〕能伎波美吾念有伎美爾將別日近成奴
    右件歌者傳誦之人越中|大目《ダイサクワン》高安(ノ)倉人種麻呂是也。但年月(ノ)次《ツイデ》者隨2聞之時1載2於此1焉
 老人(人名)を古義にオイビトとよめり。オキナとよむべきか。續紀の古訓に穗積朝臣(3937)老人(天平十八年)坂本忌寸老人(天平勝寶四年)などもオキナとよめり
 ソキヘは果なり。上三句を略解に『天地の間〔日が月〕にみつる〔右△〕ばかり思へるといふ也』といへるはもとより非なり。古義に
  吾深ク愛《ハ》シク思ヘル君ニ天雲ノソキヘノキハミ遠ク相別ルベキ日ノ近ク成ヌルヨとなり。ワガモヘルキミニの言を初句の上へうつして意得べし
といへるも非なり。もしさる意ならば將別の次にかならず行といふ言なかるべからず。按ずるに初二はただ限ナクといふことにて念ヘルにかかれるなり
 右件歌といへるは藤原皇后の御歌以下長短八首なり。而して此八首は四月中旬より七月中句までの間に高安種麻呂より少くとも二囘に聞きしなり○倉人《クラビト》はカバネなり。又倉首、藏人、藏毘登、椋人とも書けり(記傳卷四十四【二五六三頁】參照)
  以2七月十七日1遷2任少納言1。仍作2悲別之歌1贈2朝朝集〔二字左△〕使掾久米朝臣廣繩之館1二首
 既滿2六載之期1勿〔左△〕値2遷替之運1。於v是別v舊之悽心中鬱結、拭v※[さんずい+帝]之袖何以(3938)能|旱《ホサム》。因作2悲歌二首1式《モチテ》遺2莫忘之志1。其詞曰
 
4248 (あらたまの)年の緒長くあひ見てしその心引忘らえめやも
荒玉乃年緒長久相見※[氏/一]之彼心引將忘也毛
 越中守より少納言に遷りし事は續紀に漏れたり。貽《イ》には遺す義と贈る義とあれど此時久米(ノ)廣繩は京に上りて不在なれば貽はここにては殘す義と認むべし。朝集使とあるは正税帳使と書くべきを誤れるならむ。上に判官久米朝臣廣縄以2正税帳1應v入2京師1とあり又下に正税帳使掾久米朝臣廣繩とあるが上に朝集使は此時(七月)京にあるべからざる故なり。
  上に前年十月朝集使少目秦忌寸石竹を餞せし歌あり。今年の朝集使は未途に上らず。朝集使の朝集は毎年十一月一日に行はるゝ例なり
 家持が越中守となりし天平十八年六月より今天平勝寶三年七月まで六年に亘れば既滿2六載之期1といへるにて又適に滿五年なれば下なる歌に越ニ五箇年《イツトセ》スミスミテとよめるなり。然るに今年より八年の後なる天平寶字二年十月の勅に
  頃年國司交替スルコト皆四年ヲ以テ限トス。斯《コレ》則適ニ民ヲ勞スルニ足ル。未以テ(3939)化スベカラズ。……今ヨリ以後宜シク六歳ヲ以テ限トスベシ
とあればはやく契沖は不審を起し雅澄も『いとうたがはしくおぼゆることになむ』といへり○勿は諸本に忽とあり。舊は故人、悽は悲なり。※[さんずい+帝]の字の事は夙く卷八なる七夕歌の註(一五五九頁)に云へり。旱はカワカサム又はホサムとよむべし
 心引を契沖は『芳心なり』といひ宣長は
  稱徳紀宣命、天下ノ政ハ君ノ勅ニ在ヲ己ガ心ノ比岐比岐、その外にも己ガ比岐比岐などあれば心引といふべし(○オノガヒキヒキは續紀第三十一詔、第三十三詔、第四十五詔に見えたり)
といひ雅澄は
  ソノ心引は引を用言に唱べし。ソノ心ヲ引の意なり。同じ心の人なるゆゑに心の引(カ)さるるよしなり
といへり」案ずるに心引は俗語の贔屓、今語の同情なり
 
4249 伊波世野に秋はぎしぬぎ馬なめてはつ鷹獵《トガリ》だにせずやわかれむ
伊波世野爾秋芽子之努藝馬並始鷹獵太爾不爲哉將別
(3940)   右八月四日贈v之
 イハセ野は上なる詠2白大鷹1歌にも見えたり。シヌギは押分ケなり。鷹狩は秋より冬に亘りてものするが故に秋ノ初トガリダニといへるなり。セズヤ別レムはセズニ別ルル事カとなり
 
   便《スナハチ》附2大帳使(ヲ)1取2八月五日1應v入2京師1。因v此以2四日1設2國厨之饌1於2介内藏(ノ)伊美吉《イミキ》縄麻呂(ノ)館1餞v之。于v時大伴宿禰家持作歌一首
4250 (しなざかる)越にいつとせすみすみてたちわかれまくをしきよひかも
之奈謝可流越爾五箇年住々而立別麻久借初夜可毛
 附大帳使を代匠記に大帳使ニ附シとよみ古義に大帳使ヲ附《サヅ》ケとよめり。宜しく大帳使ヲ附《サヅ》ケラレテとよむべし。八月の末日までに國衙より太政官に送るべき大計帳の使を附托せられたるなり(三五四〇頁參照)○取は擇の意なり。宇治拾遺物語卷九博打聟入の事といふ條に
  天の下のかほよしといふ、聟にならんとのたまふといひければ長者喜びて聟に(3941)取らんとて日をとりて〔五字傍点〕契てけりとあり又太平記卷十三にも
  さて有べき事ならねば重て日を取り〔四字傍点〕名越式部大輔鎌倉を立て云云
とあり(三五一三頁參照)○國厨は國衙の厨なり
 タチワカレマクは立別レム事ガとなり。卷五なる憶良の
  あまざかるひなにいつとせすまひつつみやこのてぶりわすらえにけり
を學べるなり
 
   五日平旦上v道。仍國司(ノ)次官已下諸僚皆共視送。於v時射水郡大領安努(ノ)君廣島(ガ)門前之林中預設2饌餞之宴1。于v時大帳使大伴宿禰家持和2内藏(ノ)伊美吉繩磨捧v盞之歌1一首
4251 (玉桙の)道にいでたちゆく吾はきみが事跡《コトド》を負ひてしゆかむ
玉桙之道爾出立往吾者公之事跡乎負而之將去
 平旦は曉なり。國司(ノ)次官は即介なり。射水郡は國府《コフ》所在の郡なり。大領は郡長なり。射(3942)水郡に阿努(ノ)郷あり。安努(ノ)君の氏は郷名より出でたるなり。盃を勸むとて歌よみし事は請書に見えたり
 事跡を舊訓にコトトとよあり。契沖は
  事跡は行事の蹤跡なり。君が功勞の事迹を記しおけるを負持て都へ上りて具に申上むとの意なり
といひ眞淵は
  事跡は即字の如くシワザと訓べし。その餞せし人は國の次官なれば公が國にての政務の事跡を京へ持行て申んとよめる也
といへり。二説共に非なり。宣長は
  古事記神代、各對立而度2事戸1之時といふは夫婦の交を絶つ證の事とおもはる。此歌家持卿越中國より京に上る時餞せし人に報し別の歌なればこれも事跡は離別の辭をいひて是ヲ忘レズ心ニ持テユカムとよめるにや(○略解所引)
といひ又
  事跡はただ言にて縄麻呂が歌をさして云歟。その歌を賞美して京マデ持テユカ(3943)ムと云意なり。言をコトトと云る例はタハコトトなど云是なり(○古義所引)
といへり。案ずるにコトド(下のト濁るべし)はなほ古事記神代(ノ)卷なる事戸とおなじくてこゝなるは後世の解由《ゲユ》状なり。オヒテシユカムは負持チテ安心シテ行カムといへるなり。解由状は申分なき由を記せる文書にて後任の人より受くるが定なれど此時後任者未來らざれば次官より受けしなり。さてコトドは事解《コトドケ》の古語か。因にいふ。タハゴトトカモの下のトはテニヲハなり。宣長の説は誤れり(三五三六頁參照)
 
  正税帳使掾久米朝臣廣繩事畢退v任(ニ)適遇2於越前國(ノ)掾大伴(ノ)宿禰池主之舘1。仍共飲樂也。于v時久米朝臣廣繩|矚《ミテ》2芽子(ノ)花1作歌一首
4252 君が家にうゑたるはぎのはつ花ををりてかざさな客別〔左△〕《タビユカム》どち
君之家爾殖有芽子之始花乎折而※[手偏+卒]〔左△〕頭奈客別度知
 代匠記に
  上に朝集使といひて今正税帳使といへるいまだ其意を得ず
といへり。上に朝集使とあるは正税帳使の誤なる事其處(三九三八頁)にいへる如し(3944)〇退任は歸任なり
 客別を從來タビワカルとよめり。客行の誤としてタビユカムとよむべきか○さてタビユカムドチは家持に對していへるなれば初句は池主を第三者としてコノイヘニといふべきなり○カザサナはカザシテ遊バナといふべきを略せるなり。※[手偏+卒]は挿の誤なり
 
   大伴宿禰家持和歌一首
4253 立ちて居てまてどまちかねいでて來之《コシ》君にここにあひかざしつるはぎ
立而居而待登待可禰伊泥※[氏/一]來之君爾於是相※[手偏+卒]〔左△〕頭都流波疑
 タチテ居テは或ハ立チ或ハ居テなり。集中に例多し。上にも
  以2七月十七日1遷2任少納言1仍作2悲別之歌1贈2貽《オクリノコス》朝集使掾久米朝臣廣縄之館1
とありて家持は廣繩の歸任を待ちかねて越中の國府を出發せしが、たまさかに越前の國府にて出逢ひしなり。略解に
(3945)  廣繩が家持卿を待かねて池主の館まで出來りて共にはぎをかざしつるといふ也
といへるはいみじきひが言なり。又古義にイデテ來之を來弖の誤とせるも非なり。我マテドマチカネイデテコシソノ君といへるなり
 
   向v京洛〔左△〕上依v興預作2侍v宴應v詔歌1一首并短歌
4254 あきつ島 やまとの國を 天雲に 磐船うかべ ともにへに まかいしじぬき いこぎつつ 國看しせして あもりまし はらひ平《コトムケ》 △ 千代かさね いやつぎつぎに しらしくる 天の日繼と 神ながら わがおほきみの 天の下 治めたまへば もののふの 八十とものをを なでたまひ ととのへたまひ をす國の 四方の人をも あ天〔左△〕《ブ》さはず めぐみたまへば 從古昔《ムカシヨリ》 無かりし瑞《シルシ》 たびまねく 申したまひぬ 手拱而《タウダキテ》 事なき御代と 天つち 日月《ヒツキ》とともに よろづ世に しるしつがむぞ (やすみしし) わがおほきみ 秋の花 (3946)しが色色に 見《メシ》たまひ あきらめたまひ さかみづき さかゆる今日の あやにたふとさ
蜻島山跡國乎天雲爾磐船浮等母爾倍爾眞可伊繁貫伊許藝都追國看之勢志※[氏/一]安母里麻之掃平千代累彌嗣繼爾所知來流天之曰繼等神奈我良吾皇乃天下治賜者物乃布能八十友之雄乎撫賜等登能倍賜食國之四方之人乎母安天左波受愍賜者從古昔無利之瑞多婢未禰久申多麻比奴手拱而事無御代等天地日月等登聞仁萬世爾記續牟曾八隅知之吾大皇秋花之我色色爾見賜明米多麻比酒見附榮流今日之安夜爾貴左 江
 洛は諸本に路とあるに從ふべし
 神武天皇紀に
  東ニ美地アリ。青山四周セリ。其中ニ亦天(ノ)磐船ニ乘リテ飛ビ降リシ者アリ。……ソノ飛ビ降リシ者ハ是|饒速日《ニギハヤビ》カ
 嘗テ天神ノ子アリテ天(ノ)磐船ニ乘リテ天ヨリ降リ止マル。號ヲ櫛玉饒速日(ノ)命卜云(3947)フ
 饒速日命ノ天(ノ)磐船ニ乘リテ太虚ヲ翔リ行キ是郷《コノクニ》ヲ睨《オゼ》リテ降ルニイタリテ故《カレ》因リテ目シテ虚空見日本《ソラミツヤマト》(ノ)國トイフ
などあれば初十句は饒速日(ノ)命の事をいへるに似たれどこゝは皇祖の御事ならではかなはざる上に掃平とあるも饒速日命の事蹟とは親しからず。これによりて略解に
  神武紀天磐船ニ乘テ飛降ル者アリ云云といへる詞をかりて今は天孫の御事を申す也
といへれどその妄なる串ははやく古義に辨じたる如し。古義には
  此は日子番能邇々藝《ヒコホノニニギ》(ノ)命の降臨の御事をいへり。……さて邇邇藝命の天降坐《アモリマシ》に磐船に乘《ノラ》ししといふことは古事記書紀等には擧げざれどかくいふ一の古傳説のありしによりてよまれしものなり
といへり。此説に從ふべし○國看シセシテのシは助辭、セシテは爲給ヒテなり。さて國看シセシテはアキツ島ヤマトノ國ヲと照應せるなり○掃平はハラヒコトムケ(3948)ともハラヒタヒラゲともよむべし。語例は神代紀に吾、葦原(ノ)中(ツ)國ノ邪鬼ヲ撥乎ゲシメムト欲《オモ》フ又出雲(ノ)國造(ノ)ノ神賀詞《カムヨゴト》に荒ブル神等ヲ撥平ケとあり。さて此辭千代カサネにはつづきがたし。おそらくは中間にマツロヘシ神ノ御代ヨリなどありしがおちたるならむ○ヲサメタマヘバと八句次なるメグミタマヘバと相對せり。さればヲサメ給ヒ又……メグミ給ヘバと心得べし○トトノヘは卷三(三四八頁)なるアビキスト網子《アゴ》トトノフルアマノヨビゴヱ、卷十(二一一三頁)なるサヲシカノ妻トトノフトナクコユノなどのトトノフ即呼び集め呼び立つる意なるとは異にて位次を定むる事ならむ。古義に
  ここは朝廷に仕奉る百官人のちるまじくととのへ撫で惠みたまふよしなり
といへるは從はれず○ア天サハズを宣長は
  天は夫の誤にてアフサハズなり。光仁紀宣命にハフリタマハズとあると同じ。源氏物語玉かづらの卷にオトシアフサズトリシタタメタマフといへる、ここと全く同じ意なり
といへり。アフサフはアフスの延言、アフスはハフラスと同語なり。さればアフサハ(3949)ズはオトシ殘サズと譯すべし。フは濁るべきか(記傳卷二十九【一七四〇頁】同卷三十九【二三〇二頁】參照)○從古昔はムカシヨリともイニシヘユともよむべし。さてムカショリナカリシシルシ云々、といへる其一は陸奥國より黄金を出だしし事なり。其時の歌にも遠キ代ニナカリシコトヲ。アガ御世ニアラハシテアレバといへり。タビマネクは度々なり○マヲシタマヒヌは受給ヒヌなり。彼時の詔書に
  朕《アレ》一人ヤハ貴キ大瑞《オホキシルシ》ヲ受賜ハラム。天下共ニ頂キ受賜ハリ歡バシムル理ナルベシト云云
とあり○手拱而を略解にタムダキテとよめり。こは卷十四にカキ武太伎とあるに依れるなれど、そは東語にウダキをムダキと訛れるなり。ウダキはイダキにおなじ(一〇八四頁參照)○日月を略解にツキヒとよめり。古義の如くヒツキとよむべし。天體にはツキヒといはでヒツキといふなり○シルシツガムゾは右史ノ記シ繼ギナムモノゾとなり○シガはソレガなり。イロイロニは色毎ニなり。見賜は古義の如くメシタマヒとよむべし。メシは見の敬語なり。アキラメタマヒは御心ヲハラシ給ヒなり。上(三八七二頁)にもシゲキ思ヲ見アキラメとあり。古義に『明白に御覧じ給ひと(3950)いふ意なり』といへるは非なり○サカミヅキは肆宴なり。ここはサカミヅクといふ助詞のはたらけるなり(三六九〇頁及三七七九頁參照)○江は上(三八七一頁以下)に江家とあるに同じ
 
   反歌一首
4255 秋時花《アキノハナ》種△《クサグサ》なれど色ごとに見之《メシ》あきらむる今日のたふとさ
秋時花種爾有等色別爾見之明良牟流今日之貴左
 秋時花をつらねてアキノハナとよむべし。種の下に重符(々)をおとせるならむ○第三句の色別爾は色毎ニなり。古義に『色々各別にといはむが如し』といへるは誤解なり○メシアキラムルは見テ心ヲハラシ給フなり
 
   爲v壽2左大臣橘卿1預作歌一首
4256 いにしへに君|之《ノ》三代經てつかへけりわがおほきみは七世まをさね
古昔爾君之三代經仕家利吾大王波七世申禰
 君之の之を從來ガとよめり。ノとよまむ方まさるべし。君は天子なり。上三句の意は(3951)イニシヘ三代ノ天子ニ仕ヘテ政ヲ執リシ例アリといへるなり。こを略解に諸兄の母橘(ノ)三千代の事とせるはもとより非なり。代匠記古義に諸兄の事とせるも非なり。代匠記の一説に武内《タケシウチ》宿禰の事としたれど武内は成務仲哀應神仁徳御四代の大臣なれば三代ヘテとあるに合はず。おそらくは西漢の名臣霍光が孝武孝昭孝宣三帝に仕へしを云へるならむ○吾王は前註にいへる如く諸兄の事なり。諸兄は初諸王にて葛城王といひき〇七世マヲサネは七世ノ政ヲ執リタマヘとなり。このマヲスは卷二、卷五(二七六頁、九五二頁、九七三頁)に天ノ下マヲシタマフとあるマヲスにおなじ
 
   十月二十二日於2左〔左△〕大弁紀(ノ)飯麻呂朝臣家1宴歌三首
4257 手束《タツカ》弓手にとりもちて朝獵に君は立去〔左△〕奴《タタシヌ》たなくらの野に
手束弓手爾取持而朝獵爾君者立去奴多奈久良能野爾
    右一首者治部卿船王傳誦之。久邇(ノ)京都(ノ)時(ノ)歌。未v詳2作主1也
 左大辨は契沖の心づける如く右大辨の誤なり○タツカ弓は前註に『手に握る故に(3952)いふ』といへれどいづれの弓か手に握らざらむ。おそらくは太さ一握なるをいふならむ。語例は卷五なる哀2世聞難1v住歌(八六四頁)にタツカヅヱとあり○立去奴は二註に異本に依りて立之奴の誤とせるに從ふべし。タタシヌは出立チ給ヒヌとなり○君を契沖雅澄が天皇をさし奉れりといへるはいかが。おそらくは然らじ○タナクラノ野は契沖以下神名帳に山城國|綴喜《ツヅキ》郡|棚倉孫《タナクラヒコ》(ノ)神社とある處の野なるべしといへり。棚倉孫神社は今も綴喜郡田邊町にあり。綴喜郡は久邇(ノ)京のありし相樂郡に隣れり
 
4258 明日香河河戸をきよみおくれゐてこふればみやこいやとほぞきぬ
明日香河河戸乎清美後居而戀者京彌遠曾伎奴
    右一首左中辨中臣(ノ)朝臣清麻呂傳誦。古京時歌也
 卷一(八九頁)に
  從2明日香宮1遷2居藤原宮1之後志貴皇子御作歌 たわやめのそでふきかへすあすか風みやこをとほみいたづらにふく
とあり。今の歌も舊都に殘れりし人の作れるなり○二三は河門ガ清サニ立去リカ(3953)ネテ人々ニ後レ居テといへるなり。カハトヲキヨミはオクレヰテにかゝれるなり。古義に己ガ里ノ明日香河ノ清キガ故ニ思フ人ノアラバ共ニ出遊ブベキヲト戀シク思フニと譯して、カハトヲキヨミをコフレバにかけて心得たるは誤れり○コフレバミヤコといふ句なつかしからず。範とすべからず。ミヤコの下にテニヲハあるべきなり。さてコフレバは遷リ住ミシ人ニ戀フルニとなり○トホゾクはトホザカルなり。イヤは輕く添へたるなり
 左註に古京時といへるは明日香宮之時なり。古義に
  古京といへるは奈良京なるべし。當時は恭仁都なればなり
といへるは非なり。恭仁(ノ)都は天平十七八年の交にはやく廢せられ同十七年以後は天皇は奈良にましまししをや
 
4259 十月《カミナヅキ》しぐれの常可《ツネカ》わがせこがやどのもみぢば可溶所見《チルベクミユル》
十月之具禮能常可吾世古河屋戸乃黄葉可落所見
    右一首少納言大伴宿禰家持當時矚2梨(ノ)黄葉1作2此歌1也
 常可を大平は零可《フレカ》の誤とし雅澄は零方《フレバ》の誤とせり。もとのままにて可なり。ツネカ(3954)はサガカといはむにひとし○結句を從來チリヌベクミユとよめり。宜しくチルベクミユルとよむべし
 
   壬申年之亂平定以後歌二首
4260 皇《オホキミ》は神にしませば赤駒のはらばふ田ゐを京師《ミヤコ》となしつ
皇者神爾之座者赤駒之腹婆布田爲乎京師跡奈之都
    右一首大將軍贈右大臣大伴卿作
 壬申年之亂は弘文天皇と御叔父なる後の天武天皇との御爭なり○上の例によらば此歌の前に天平勝寶四年とあるべきなり
 初二の語例は卷三なる人麻呂の獵路池を詠ぜる歌に
  おほきみは神にしませば眞木のたつあら山中に海をなすかも
とあり。時代を案ずるに人麻呂の歌の方後なり○ハラバフは膝を折りて地に臥したる状なり。古義に
  腹バフは駒にて田をすく事にて田をすくには馬の速く歩むことなければはら(3955)ばふごとくに見ゆる故にいふにしあるべし
と云へるはひが言なり。ハフは必しも運動を示さず。今も俯伏する事をハランバイニナルといふにあらずや
 此大伴卿は御行にて家持の祖父安麻呂の兄なり
 
4261 大王《オホキミ》は神にしませば水鳥のすだくみぬまを皇都《ミヤコ》となしつ
大王者神爾之座者水鳥乃須太久水奴麻乎皇都常成都 作者不詳
    右件二首天平勝寶四年二月二日聞v之、即載2於茲1也
 スダクミヌマは集レル沼なり
 右二首は飛鳥(ノ)淨御原(ノ)宮の成りしを賀せるなれど干戈の止みしを賀する意をも含めるなり
 
   閏三月於2衛門(ノ)督《カミ》大伴(ノ)古慈悲《コジヒ》宿禰(ノ)家1餞2之入唐副使同|胡麿《コマロ》宿禰等1歌二首
4262 韓國にゆきたらはしてかへりこむますらたけをにみきたてまつる
(3956)韓國爾由伎多良波之※[氏/一]可敝里許牟麻須良多家乎爾美伎多※[氏/一]麻都流
    右一首多治比(ノ)眞人鷹主|壽《イハフ》2副使大伴胡麿宿禰1也
 古慈悲が衛門督たりし事は史に脱せり。餞の下の之は助字なり
 韓國と書けるは借字なり。上(三九二八頁)にも例あり。ユキタラハシテはユキタラヒテの敬語なり。ユキタラヒテは行クベキ處ヲ極メテにて所詮御用ヲ果シテなり
 
4263 梳《クシ》も見〔左△〕自《トラジ》屋中《ヤヌ》もはかじ(くさまくら)たびゆくきみをいはふともひて
梳毛見自屋中毛波可自久左麻久良多婢由久伎美乎伊波布等毛比※[氏/一] 作主未詳
    右件歌(ヲ)傳誦(セシハ)大伴宿禰村上、同清繼等是也
 こは或女の夫の別によめる歌なるを送別の歌なれば古麻呂の餞の席にて村上と清繼とが傳誦せしなり。古義に右件歌とあるに字を挿みて右件二首歌としたるはいみじき誤なり。前の歌は多治比應主の新作にて後の歌は大伴(ノ)村上等が傳誦せし古歌なり
(3957) クシモ見ジの見はおそらくは取の誤にてトラジならむ○ヤヌチモハカジについて古義に『今(ノ)世にも人の出去し跡をやがてはく事を忌り』といへり。げにさる習あり○イハフは無事ならむ事を祈るなり。イハフトモヒテはやがてイハフトテなり。下なる長歌に國シラサムト……オモホシメシテと云へるもやがて國シラサムトテといふ事なるを思ふべし○從來初句のクシモ見ジをも人を祝ふ俗信とせるは非なり。初句はただカタチヅクリモセジといへるにてイハフトモヒテは屋ヌチモハカジのみにかかれるなり○梳は櫛なり。之をクシケヅルともよむはなほ榜はカヂなるをコグともよむが如し
 
  勅2從四位上高麗《コマ》(ノ)朝臣福信1遣2於難波1賜2酒肴(ヲ)入唐使藤原朝臣清河等1御歌一首并短歌
4264 (そらみつ) 山跡《ヤマト》の國は 水上《ミヅノヘ》は 地ゆく如く 船上《フネノヘ》は 床にをるごと 大神の 鎭在《イハヘル》國ぞ よつの船 舶《フナ》のへならべ たひらけく はや渡來て かへりごと まをさむ日に 相のまむ酒《キ》ぞ この豐御酒《トヨミキ》(3958)は
虚見都山跡乃國波水上波地往如久船上波床座如大神乃鎭在國曾四船舶能倍奈良倍平安早渡來而還事奏日爾相飲酒曾斯豐御酒者
 遣唐使の任命は二年秋なるが今四年に至りて始めて發船せしなり。上(三九二七頁)にも藤原(ノ)太后の清河に賜ひし御歌あり○此歌は孝謙天皇の御製なり
 卷六に聖武天皇の酒を節度使に賜ひし時の
  をすぐにのとほのみかどに、汝等《イマシラ》がかくまかりなば、たひらけく吾は遊ばむ、たうだきて我はいまさむ、すめらわがうづの御手もち、かきなでぞねぎたまふ、うちなでぞねぎたまふ、かへりこむ日、あひのまむ酒ぞ、このとよみきは
といへる御歌あり。今は之を學ばせたまへるなり○鎮在を略解に
  鎮の字古訓シヅムルとあれどさては在の字餘れり。イハフと訓べぎ例多ければこゝもイハヘルとよめり
といへり。反歌にイハヒテを鎭而と書き續後紀卷十九なる仁明天皇四十の御賀に興福寺の僧等が奉りし長歌にもイハフ、イハハム、イハヒ、イハヘリ、イハヘルを鎭布、(3959)鏡牟、鎮、鎭倍利、鎭倍留と書けり。イハヘルは大切ニセルにてやがて守レルなり。上(三九二八頁)にもイハヘ神タチとあり○古義に第二句と第三句との間〔日が月〕にタトヒ遠境ニイタルトモ見ハナシタマフコトナクテといふ辭を挿みて釋ける、いとよろし〇四舶は大使、副使、判官、主典の分乘する船にて此時の大使は即清河、副使は大伴(ノ)胡麻呂、吉備(ノ)眞備《マキビ》二人なり○船能倍は船(ノ)舳《ヘ》なり。舊訓以下之をフナ〔右△〕ノヘとよめるは卷五なる好去好來歌に船舳爾〔三字傍点〕反云2布奈〔右△〕能閇爾1とあるに依れるなり。さて上なる船上を古義の如くフナ〔右△〕ノヘとよまば船上と船舳と邦語にては分れざる事となるが故に、もしこゝをフナ〔右△〕ノヘとよまば彼はフネ〔右△〕ノヘとよむべし。卷三(三七〇頁)なるヲシトタカベト船上ニスムは古義にもフネ〔右△〕ノヘとよめり○カヘリゴトは復命なり
 
   反歌一首
4265 よつの船はやかへりことしらがつけわが裳の裙にいはひてまたむ
四舶早還來等白香著朕裳裙爾鎭而將待
    右發2遣勅使1并賜v酒樂宴之日月未v得2詳審1也
(3960) ここのイハヒテは長歌なるイハヘルとは別にて無事ナラム事ヲ祈リテといふ意なり○シラガは白紙なり。語例は卷三(四六四頁)にシラガツケユフトリツケテ又卷十二(二六三〇頁)にシラガツクユフハ花モノとあり。さてシラガツケとあるは何に白紙を附くるにか。宣長は『ワガ裳ノスソニ白香ツケイハヒテ待ンといふつづき也』といへり。裳裾に白紙を附けたまはむ事いかがあるべき。白紙は榊の枝などに附け給ふにてシラガツケの下に又を補ひて白紙附くる事と裳の裾にいはふ事とを別事と認むべきか。イハヒテはイハヒトドメテを略したまへるか。卷四(七七七頁)に
  またもあはむよしもあらぬかしろたへのわが衣手にいはひとどめむ
といふ歌あり。いにしへ人の魂を衣にいはひ留むる呪ありしにあらざるか
 
   爲v應v 詔儲作歌一首并短歌
4266 (あしひきの) 八峯《ヤツヲ》のうへの つがの木の いやつぎつぎに (松が根の) たゆることなく (あをによし) 奈良のみやこに よろづ代に 國しらさむと (やすみしし) わが大きみの かむながら おもほし(3961)めして とよのあかり 見爲今日者《メスケフノヒハ》 もののふの 八十とものをの 島山に あかる橘 うずにさし 紐ときさけて 千年ほぎ 伊伎〔左△〕吉《ホザキ》とよもし ゑらゑらに 仕へまつるを 見るがたふとさ
安之比奇能八峯能宇倍能都我能木能伊也繼繼爾松根能絶事奈久青丹余志奈良能京師爾萬代爾國所知等安美知之吾大皇乃神奈我良於母保之賣志※[氏/一]豐宴見爲今日者毛能乃布能八十件雄能島山爾安可流橘宇受爾指紐解放而千年保伎保伎吉等餘毛之惠良惠良爾仕奉乎見之貴左 江説
 初三句はイヤツギツギニにかかれる序なり○國所知等の等の上に牟をおとしたるか○トヨノアカリは御宴なり。今御宴を催し給ふ御殿を豐明殿といふは之に依れる名なり○見爲今日者を略解にミシセスケフハとよみて『此上に國看シセシテとあるに同じ』といへるは非なり。國看シのシは助辭、セシテは爲給ヒテなれば國看シセシテは國看ヲシタマヒテなり。さて國看ヲシタマフとは云へど看ヲシタマフとは云はざるを見て見《ミ》シセスとは云ふべからざるを知るべし。古義にはメスケフ(3962)ノヒハとよめり。之に從ふべし。メスは見タマフにてここにてはキコシメスなり。キコシメス、シロシメスなどのメスはやがて見《メ》スなり。召と書くは擬字なり○島山は禁庭の築山なり。シマは庭園なり。卷三(四二二頁)なる島山ノヨロシキ國ト、卷九(一七六三頁)なる島山ヲイユキメグレルの島山とは異なり○アカルはアカラムなり。アカルタチバナは卷十八(三六九一頁)にアカラタチバナとあるに同じ。加藤枝直が山橘即ヤブカウジなるベしといへるは非なり○ウズは草木又はその模《ウツシ》を冠に挿してものする飾なり。紐トキサケテは襟の紐を外してうちくつろぐなり。御宴の時には禁中にてもかくする事を許されしなり○保伎吉を宣長はホギ言の誤とし雅澄はホ佐キの誤として神代紀天(ノ)岩窟の段なるカムホザキホザキを例に引けり。後者に從ふべし。ホザキはイハヒなり。欽明天皇紀二十三年なる將v投2火中1、呪曰の呪をも一訓にはホザキテとよめり。今言擧する事をホザクといふは此語の意のうつれるなり○トヨモシは令響《トヨマシ》なり。ヱラヱラニは歡樂の状なり
 
   反歌一首
4267 すめろぎの御代よろづ代にかくしこそ見爲《メシ》あきらめめたつ年のはに
(3963)須賣呂伎能御代萬代爾如是許曾見爲安伎良目米立年之葉爾
    右二首大伴宿禰家持作之
 メシアキラメメはここにては豐明ヲキコシメシテ御心ヲハラシタマハメとなり。タツ年ノハニはタツ年毎ニなり○スメロギノ御代の七言はヨロヅ代にかゝれる准枕辭と認むべし
   天皇太后共幸2於大納言藤原家1之日黄葉(セル)澤蘭一株(ヲ)拔取令v持2内侍佐佐貴(ノ)山(ノ)君1遣2賜大納言藤原卿并陪從(ノ)大夫等1御歌一首
     命婦誦曰
4268 比里はつぎて霜やおく夏の野にわが見し草はもみぢたりけり
此里者續而霜哉置夏野爾吾見之草波毛美知多里家利
 天皇は孝謙天皇、太后は御母光明皇后、大納言藤原(ノ)家は仲麻呂の家なり○澤アララギ一名澤ヒヨドリ、藤袴に似たる野草なり。其葉のうつろへるを一もと拔取り給ひて主人并に御供の人々に見せ給ひしなり○雅澄が命婦は即内侍佐々貴(ノ)山(ノ)君なり(3964)といへるは非なり。内侍は職名、命婦は五位以上を帶せる婦人の稱にて固より相異なり。今は内侍佐々貴(ノ)山(ノ)君をして澤あららぎを見せしめ給ひ別に聲よき命婦をして御歌を唱へしめ給ひしなり
 ツギテはシバシバなり。此御歌は秋の末又は冬の初に作らせ給ひしなり。略解に『此里は冬より打つづきて霜のおけるかと也』といへるは夏の御作と誤解せるなり○陪從《ベイジユウ》は御供なり。卷十七の初なるワガセコヲといふ歌の題辭(三四七九頁)にも陪從人等とあり
 
   十一月八日△△△△在2於左大臣橘朝臣宅1肆宴歌四首
4269 よそのみに見者〔左△〕《ミツツ》ありしを今日見れば年にわすれずおもほえむかも
余曾能未爾見者有之乎今日見者年爾不忘所念可母
    右一首太上天皇御歌
 目録に十一月八日の下に太上天皇の四字あり。之に依りて四字を補ふべし○第二句の見者を舊訓にミレバとよみ略解にミテハとよみ古義に見乍の誤とせり。字の(3965)ままにミテハとよまむかとも思へどミテハと第三句のミレバとを一首中に共に見者と書かむはまぎらはし。されば古義に從ひて見乍の誤とすべし○年ニは一年中なり
 
4270 むぐらはふいやしきやども大皇《オホキミ》のまさむとしらば玉しかましを
牟具良波布伊也之伎屋戸母大皇之座牟等知者玉之可麻思乎
     右一首左大臣橘卿
 卷十八に同じ人の前の太上天皇(元正)に奉りし
  ほり江には玉しかましを大皇のみふねこがむとかねてしりせば
といへる歌あり。卷六(一一二五頁)にも卷十一(二五二六頁)にも似たるがあり
 
4271 松かげの清き濱邊に玉しかば君〔左△〕《マタ》きまさむかきよきはま邊に
松影乃清濱邊爾玉敷者君伎麻佐牟可清濱邊爾
     右一首右大弁藤原八束朝臣
 前者の結句を承けていへるにてキヨキハマ邊といへるは前註に云へる如く庭の(3966)池を海めかしていへるなり。古義に
  或説に此左大臣井手に住ひ給へれば井手左大臣と名に呼來れり。さるやり水のほとりを濱邊とはいへるなりと云り
といへるは非なり。御幸ありしは本邸にて別莊にはあらじ○第四句の君は※[タ/れっか]《マタ》の誤ならむ
 
4272 天地にたらはしてりてわが大皇しきませばかもたぬしき小里
天地爾足之照而吾大皇之伎座婆可母樂伎小里
    右一首少納言大伴宿禰家持 未奏
 タラハシは足《タラ》ヒの敬語なり。上にもカラ國ニユキタラハシテとあり。古義にテリタラハシテの顛倒かといへれど上の動詞を敬語として下の動詞をただに置きたるはメシアキラムルなどと同例なり。さてタラハシテリテは滿チ照リ給ヒテといふ意なり○小里を契沖は
  京の字を日本紀にミサトとよみたれば大臣の宅などあるあたりをば小里と云べきなり
(3967)といひ古義には
  小里は即その宅地をさしていへり
といへり。案ずるに小里の小は小野小國などの小にて里をうつくしく小里といへるなり。天皇のまします處より一等おとして小里といへるにあらず。小區城を指して云へるにもあらず。さればここのヲサトは奈良の都をいへるなり。諸兄の家のあたりをいへるにあらざるはシキマセバカモといへるにて明なり
 
   二十五日新嘗會肆宴應v 詔歌六首
4273 天地と相さかえむと大宮をつかへまつればたふとくうれし伎〔□で囲む〕
天地與相左可延牟等大宮乎都可倍麻都禮婆貴久宇禮之伎
     右一首大納言|巨勢《コセ》(ノ)朝臣
 新嘗會は今いふ新嘗祭なり。古義に四時祭式に依るに新嘗會の行はれしは中(ノ)卯日なれば二十五日とあるは十五日の誤にて五位以上に宴を賜はる巳日《ミノヒ》かと云へり。此月(天平勝寶四年十一月)の朔は癸卯なれば十五日は適に丁巳なり○相は共ニな(3968)り。大宮は新嘗の祭殿なり。ツカヘマツレバは造リ奉レバなり。今は毎年の新嘗祭には特に祭殿を造り奉らざれどいにしへは然せしなり○結句の伎は衍字か
 大納言巨勢朝臣は奈※[氏/一]麻呂なり
 
4274 天にはも五百つ綱はふよろづ代に國しらさむといほつつなはふ
天爾波母五百都綱波布萬代爾國所知牟等五百都々奈波布 似古歌而未詳
     右一首式部卿石川(ノ)年足(ノ)朝臣
 アメニハは空ニハ、モは助辭、イホツツナはアマタノ網、ハフは張ルなり。されば初二は天井ニハ澤山ノ綱ヲ張リ渡スといふことにて新嘗の祭殿を造り奉る事なり。古義に中山|嚴水《イヅミ》の説を擧げて
  此は假に造れる宮なれば屋根はタルキ、エツリなどは用ひずして多くの綱を縱横に引延へてその上を假にかや以て取ふけるにや。……結固めたる綱ならばハフとはいふべきに非ず。されば此綱は假宮の屋根の料に引はへたるをいふこと著し
といへり。此説よろしくおぼゆ。宣長の説はうべなはれず〇四五の間にイハヒテと(3969)いふことを補ひて心得べし
 作者石川年足の墓志が文政三年春攝津國島上郡清水村なる荒神山よりあらはれし事は好古の士の普く知れる所なり
 
4275 天地とひさしきまでによろづ代につかへまつらむ黒酒白酒《クロキシロキ》を
天地與久萬※[氏/一]爾萬代爾都可倍麻都良牟黒酒白酒乎
    右一首從三位|文屋《フムヤ》(ノ)智奴麻呂《チヌマロ》(ノ)眞人
 初二は第三句と同意なり。ツカヘマツラムは造リ奉リテ此祭ヲ營ミ奉ラムとなり○クロキシロキは新嘗會の料にて延喜式によれば久佐木(臭梧桐)の灰を加へたるを黒酒といひ之を加へざるを白酒といふ。但白井光太郎博士はそは後の事にて此歌の時代の黒酒は今も伊豆七島などにてものする如く黒麹もて作れる酒ならむと云はれたり(雜誌心の華第十九の六)
 作者文屋《フムヤ》(ノ)智奴《チヌ》麻呂は彼佛足石を作らせし人なり。此人は初は智努王(卷十七に見えたり)といひ後に文室《フムヤ》(ノ)眞人|智努《チヌ》といひ又後に淨三といひき。續紀には麻呂の二字なし
 
(3970)4276 島山にてれる橘うずにさしつかへ奉者〔左△〕《マツラナ》まへつぎみたち
島山爾照在橘宇受爾左之仕奉者卿大夫等
     右一首右大弁藤原八束朝臣
 奉者を略解に奉爲の誤としてマツラスとよみ、宣長は布の誤としてマツラフとよみ、雅澄は名の誤としてマツラナとよめり。後者に從ふべし。マツラナは御用ヲ勤メヨカシとなり
  このマツラナは奉ラムに通ふマツラナにあらで奉ラナムに通ふマツラナなり。其例は卷十七(三五一六頁)にタビユキモシシラヌキミヲメグミタマハナとあり。其外佛足石歌と續紀宣命とに見えてそれより古きものに見えざるを思へば奈良朝時代の後期に行はれし一格なり
 ○ウズニはウズトなり。上にも島山ニアカル橘ウズニサシとあり。マヘツギミタチは廷臣等なり
 
4277 袖たれていざわが苑にうぐひすのこづたひちらす梅の花見に
(3971)袖垂而伊射吾苑爾※[(貝+貝)/鳥]乃木傳令落梅花見爾
    右一首大和國守藤原永平〔左△〕朝臣
 こは豐明《トヨノアカリ》果てて興いまだ盡きねばイザ吾苑ニ行カウと永手が諸人をさそへるなり○袖タレテは徐歩して行くさまなり。此五字妙なり。略解に『袖タレテはゆるやかに遊ぶさま也』といひ古義に
  袖タレテは事なく安らかに樂み遊ぶさまをいふなるべし。されば此句は終句へつづけて意得べし
といへるは眞淵が
  此うた何事もなけれど長き袖を垂て庭にたてらんさまおのづからのどかにおもひなさる
といひしに基づけるなれど袖タレテは花を見る状にはあらで道をゆく状なり。さればもし意のみをうつさばブラブラトとうつすべし眞淵が
  すがのねの長き春日に袖たれてみむとおもひし花ちりにけり
とよめるは花を見る状と思ひ誤りてよめるなり○ワガ苑ニの下に行カムといふ(3972)ことを略したるなり○さて略解に
  鶯は早梅を見ん事をいはんとて設出たる也
といひ古義にも
  鶯は時にかなはぬ物なれど梅をいはむちなみに設けたるのみなり
といへるは當時の諸卿大夫と共に永手にはかられたるなり。此時十一月二十五日(古義によれば十五日)なれば奈良の如き寒き處に鶯の啼かぬは勿論梅花はた咲くべきにあらず。さるをかく云へるは諸人をさそはむとて設けて云へるなり
 永平は永手を誤れるなり。諸本に手とあり
 
4278 (足日木の)やました日影かづらけるうへにやさらに梅をしぬばむ
足日木乃夜麻之多日影可豆良家流宇倍爾也左良爾梅乎之奴波牟
     右一首少納言大伴宿禰家持
 前の歌の和なり。ヤマシタ日影は日蔭ノカヅラなり。カヅラケルは鬘ニシタルなり。シヌバムはメデムなり。ヤはヤハなり。メデムの下に引下して心得べし〇一首の意は
(3973)  モウ澤山デブザリマス。此上御馳走ハイタダカレマセヌ
といへるにて下の心は
  今頃梅ガサクモノカ。ソノ手ニハ乘ラヌゾ
といへるなり。略解に
  今日日蔭かづらかけて肆宴に侍る上に何ぞや梅を慕はんといふ也
といへるは皮相の解釋にて、古義に
  日蔭かづらをかざして肆宴にあづかれる今日なれば何一つあかぬ事はあるまじきを國守のしかのたまへば此上に又更に梅花をしのばむかと云へるなり
といへるは表裏の誤解なり
 
   二十七日林王宅餞2之但馬(ノ)案察使《アンセツシ・アゼチ》橘(ノ)奈良麿朝臣1宴歌三首
4279 (能登河の)後者相牟△《ノチハアハムヲ》しましくもわかるといへばかなしくもあるか
能登河乃後者相牟之麻之久母別等伊倍婆可奈之久母在香
     右一首治部卿舩(ノ)王
(3974) 按察使は地方の政治を巡視する官なり
 能登川は春日山より出づる小流なり。はやく卷十(一九三一頁)に見えたり。さてノト河ノはノチにかかれる枕辭なり。卷十二(二六四六頁)なる能登瀬ノ河ノ後モアハムと同格なり○第二句を略解には舊訓の如くノチニハアハムとよみ古義には牟を常の誤としてノチハアハメドとよめり。宜しく牟の下に乎を補ひてノチハアハムヲとよむべし。ワカルトイヘバは別ルト思ヘバなり
 
4280 たちわかれ君がいまさばしき島の人は和禮自久《ワレジク》いはひてまたむ
立別君我伊麻左婆之寄島能人者和禮自久伊波比※[氏/一]麻多牟
    右一首△京(ノ)少進大伴宿禰黒麻呂
 イマサバは行キ給ハバなり。上(三九二一頁)にもカクバカリフリシク雪ニ君イマサメヤとあり○シキ島はもと大和國礒城郡の地名なるが欽明天皇の御代にここに都し給ひしよりうつりて大和國の別名となり更にうつりて日本の別名となりしなり。さてシキシマノ人ハは前説の如く大和國中ノ人ハといふ意とすべし。もとよりわざとこちたく云へるなり○和禮自久に似たる例は續紀第二十五詔に又此家(3975)自【久母】云云とあり。宣長は詔詞解(全集第五の三一五頁)には
  中昔の物語書に女めきたるを女シクといへるは今の俗言に女ラシクといふにあたりてすべて某《ナニ》ラシクといふはメクといふにいと近き意なり。されば右の萬葉のワレジクも我ラシクの意にて大和國の人はたれもたれも君を我身のことらしく祝ひて待むなり
といひ又略解に引けるには
  久は之の誤にてワレジシなるべし。オノガジシと同じく吾モ吾モ面々といふ意なり
といへり。兩説共に從はれず。案ずるにワレジクは吾如クといふこと、そのジはシシジモノなどのジにてシシジモノはやがてシシジキモノといふべきをかの連體格の代に終止格を用ふる太古の語法に依りてシシジモノといへるならむ。又續紀宣命なる家自久母の自久は別語又は誤字ならむ
 左註の京の上に諸本に右の字あり。右京(ノ)少進は京職《ミサトヅカサ》の判官なり
4281 白雪のふりしく山をこえゆかむ君をぞもとないきのをにもふ
(3976)白雪能布里之久山乎越由可牟君乎曾母等奈伊吉能乎爾念
     左大臣換v尾云2伊伎能乎爾須流《イキノヲニスル》1。然猶|喩《サトシテ》曰。如v前誦(ヘヨト)之也
     右一首少納言大伴宿禰家持
 モトナは心外ニなり○諸兄は奈良麻呂の父なれば其席に臨みしにて家持は歌成りて之を誦へざる前に諸兄に見せてその教を乞ひしなり。さて諸兄がイキノヲニスルと換へしは調の爲なれどイキノヲニ思フ又はイキノヲニ戀フといひてイキノヲニスルとは云はねばナホモトノママニ誦ヘヨといひしならむ
  集中にイキノヲニシテワガコヒメヤモ、オモヒワタラムイキノヲニシテ、モトナゾコフルイキノヲニシテなど云へるはただイキノヲニといふ事にてシテはテニヲハなるのみ
 
   五年正月四日於2治部少輔|石上《イソノカミ》(ノ)朝臣|宅嗣《ヤカツグ》(ノ)家1宴歌三首
4282 ことしげみ不相聞△爾《アヒトハヌマニ》うめの花雪にしをれてうつろはむかも
辭繁不相問爾梅花雪爾之乎禮※[氏/一]宇都呂波牟可母
(3977)    右一首主人石上朝臣宅嗣
 第二句を契沖以下アヒトハナクニとよめり。おそらくは問の下に間〔日が月〕をおとせるならむ。さればアヒトハヌマニとよむべし。さて不相問の相を二註にカタミニの意とせり。案ずるにこの相は無意義の添辭にてアヒトハヌマニは諸君が御尋ネ下サラヌ間〔日が月〕ニとなり○結句の下にト心配シマシタといふ辭を加へて心得べし。次の歌によれば雪はいまだ降らざるなり○宅嗣は彼乙麻呂の子なり
 
4283 うめの花さけるがなかにふふめるは戀やこもれる雪をまつとか
梅花開有之中爾布敷賣流波戀哉許爾〔左△〕禮留雪乎待等可
     右一首中務大輔|茨田《マムタ》王
 フフメルハは含メルモアルハと心得べし○戀ヤコモレルは人ヲ待チ戀フル心ヤコモレルとなり。此句おもしろし○雪ヲマツトカを略解に
  開《サキ》て後雪ふればとくしをるゝ故に雪を過さんとて猶さかざるかと也
といひ古義に
(3978)  雪中にさけばしをれやすきに依て雪のふる時を過さむと待をるにてもあらむか云云
と譯せるはいみじきびが言なり。又ハ雪ニキホヒテサカムトテ雪ヲ待ツニヤといへるなり。卷八なる家持の歌にも
  今日ふりし雪にきほひてわがやどの冬木の梅は花さきにけり
とあり○爾は母などの誤ならむ
 
4284 新《アラタシキ》年の始におもふどちいむれてをればうれしくもあるか
新年始爾思共伊牟禮※[氏/一]乎禮婆宇禮之久母安流可
    右一首大膳(ノ)大夫《カミ》道祖《フナド》王
 イムレテのイは添辭○道祖を契沖は
  和名集云。道祖、佐倍乃加美。かかればサヘノオホキミなり
といひ、略解に
  神代紀、岐神此云2布那斗能加微1と有て則道祖神なればフナドとよむべし
といひ、古義にはミチノヤとよめり。又箋註倭名抄卷一(三九丁)には
(3979)  續日本紀ニ道祖(ノ)首《オビト》トイフ姓アリ。姓氏録ニ道祖(ノ)史《フビト》アリ。孝徳紀ナル※[魚+即]魚戸《フナド》(ノ)直《アタヒ》蓋是ナリ。則道祖ヲ布奈止ト訓マムコト知ルベシ
といへり。※[木+夜]齋の斷案に從ひてフナドとよむべし。フナドノ神はやがてサヘノ神なれどサヘは後世の稱ならむ
 
   十一日大雪|落《フリ》、積尺有二寸。因述2拙懷1歌三首
4285 大宮の内にも外《卜》にもめづらしくふれる大雪なふみそねをし
大宮能内爾毛外爾母米都良之久布禮留大雪莫蹈禰乎之
 以下皆家持の作なり○上に出でたる三形(ノ)沙彌の
  大殿のこのもとほりの雪なふみそね……なふみそね雪は
といへる歌を學べるなり
 
4286 御そのふの竹の林にうぐひすはしばなきにしを雪はふりつつ
御苑布能竹林爾※[(貝+貝)/鳥]波之波奈吉爾之乎雪波布利都都
 四五の間〔日が月〕に又カクといふ辭を補ひて聞くべし
 
(3980)4287 うぐひすのなきしかきつににほへりし梅此雪にうつろふらむか
※[(貝+貝)/鳥]能鳴之可伎都爾爾保敝理之梅此雪爾宇都呂布良牟可
 第四句は梅ハといふべきをハを略したる爲にききぐるしきなり。結句もウツロヒナムカとあらまほし
 
   十二日侍2於内裏1聞2千鳥(ノ)喧《ナク》1作歌一首
4288 河渚《カハス》にも雪はふれれ之(セ)《ゾ》宵のうちにちどりなくらしゐむところなみ
河渚爾母雪波布禮禮之宮乃裏智杼利鳴良之爲牟等己呂奈美
 布禮禮之を契沖はフレレカの誤とし宣長はフレレ也の誤とせり。フレレ曾の誤にてフリタレバゾといふ意なり。カ又はヤといひてラシシとは云はず。ラシはラムよりは疑の少き時に用ふるテニヲハなればなり○ヰムはオリヰムなり。卷八(一五九五頁)にもナクナルカリノユキテヰムとあり。河渚は佐保川の中洲ならむ
 
   十〔□で囲む〕二月十九日於2左大臣橘家(ノ)宴1見2攀折(レル)柳條1歌一首
4289 青柳のほつ枝よぢとりかづらくは君がやどにし千年ほぐとぞ
(3981)青柳乃保都枝與治等理可豆良久波君之屋戸爾之千年保久等曾
 十二月の十は衍字なり。此字無き本多し。目録にも無し○卷十八に出でたる同じ作者の
  あしひきの山のこぬれの保與とりでかざしつらくはちとせほぐとぞ
といへる歌と相似たり。千トセホグトゾの下にカヅラクナルといふことを略したるなり○君ガヤドニシといふこといささか心得がたし。おそらくはおき處のよからざるならむ(初句の上に置き換へば意通ずべし)
 
   二十三日依v興作歌二首
4290 春の野に霞たなびき(うらがなし)このゆふかげにうぐひすなくも
春野爾霞多奈妣伎宇良悲許能暮影爾※[(貝+貝)/鳥]奈久母
 ウラガナシはアハレナルといふことなり。さて此句は准枕辭なり。さらずばウラガナシキと云はざるべからず○第二句にてしばらく切りてウラガナシコノユフカゲニとつづけて心得べし。古義には心《ウラ》ナツカシク鶯ナクヨと譯してウラガナシを(3982)結句にかけて心得たり。もしさる意ならばかならずウラガナシクと云はざるべからず
 
4291 わがやどのいささ村竹ふく風のおとのかそけきこのゆふべかも
和我屋度能伊佐左村竹布久風能於等能可蘇氣伎許能由布敝可母
 イササ村竹を契沖のいささかなる村竹なりといへるを斥けて雅澄は五十竹葉《イササ》群竹なりといへり。前説に從ふべし。カソケキは幽ナルなり。上(三八七九頁)なる長歌にもユフヅク夜カソケキ野べニ、ハロバロニナクホトトギスとあり
 
   二十五日作歌一首
4292 うらうらにてれる春日にひばりあがりこころがなしもひとりしおもへば
宇良宇良爾照流春日爾比婆理安我里情悲毛比登里志於母倍婆
    春日遅々※[倉+鳥]※[庚+鳥]正啼。凄※[立心偏+周]之意非v歌難v撥《ハラヒ》耳。仍作2此歌1式《モチテ》展2締緒1。但此卷中不v※[人偏+稱の旁]2作者名字1徒《タダ》)録2年月所處縁起1者皆大伴宿禰家持裁(3983)作(セル)歌詞也
 ※[倉+鳥]※[庚+鳥]は此處と和名抄とにヒバリとしたれどその源とせる毛詩※[幽の幺が豕]風なる春日|載《ハジ》(メテ)陽《アタタカ》(ナレバ)有2鳴倉庚1の倉庚は實はウグヒスなりといふ○ヒトリシオモヘバは獨物ヲ思ヘバなり○締緒はムスボレタル心なり
                           (大正十五年七月講了)
            2005年6月23日(木)午後3時40分、入力終了
 
(3985)   萬葉集新考卷二十
                井上通泰著
 
   幸2行於山村1之時歌二首
    先(ノ)太上天皇詔2陪從(ノ)王臣1曰。夫諸王卿等宜d賦2和歌1而奏u。即御2口號1曰
4293 (あしひきの)山行しかば山人のわれにえしめしやまづとぞこれ
安之比奇能山行之可婆山人乃和禮爾依志米之夜麻都刀曾許禮
 山村は欽明天皇紀に
  元年二月百済(ノ)己知部《コチベ》投化。置2倭(ノ)添上《ソフノカミ》郡山村1。今(ノ)山村(ノ)己知部之先也
とあり。奈良市の南方なる今の帶解《オビトケ》村に當れり○先(ノ)太上天皇は元正天皇なり。王臣は王ト臣トなり。和歌はこゝにても答歌の意なり。今|我《ワレ》歌ヲヨムベケレバソノ答ノ(3986)歌ヲ奉レとのたまひおきてよませたまへるなり。御口號曰は口號《クチスサビ》シタマハクとよむべし。御はタマフに充てたるなり
 山ユキシカバは山ヲ行キシニなり。卷十なるスミノエノ里ユキシカバ、タカ松ノ野ベユキシカバなどと同例なり(一九四七頁及二〇八七頁參照)○山人は契沖のいへる如く仙人なり。二註は誤解せり。山ヅトは山ヨリ家ニ持チ歸ルモノなり。家ヅト、黄泉《ヨミ》ヅト(十訓抄第十の五十)などは家、黄泉ヘ持チ行クモノにてこの山ヅトまた卷三(四五一頁)なる濱ヅトなどとは反對なり。エシメシは今いふクレタなり。契沖の説の如く花又は紅葉を示してコレハ仙人ノ我ニクレタルナリとのたまへるなり。宣長が『ヤマヅトゾコ レとのたまへるは即此御歌をさしてのたまへるなり』といへるは非なり
 
    舎人親王應v 詔奉v和歌一首
4294 (あしひきの)山にゆきけむやまびとの情《ココロ》もしら受〔左△〕《ヌ》山人やたれ
安之比奇能山爾由伎家牟夜麻妣等能情母之良受山人夜多禮
 第三句のヤマビトは太上天皇をたたへ奉りて山人即仙人とのたまへるなり。古義(3987)に
  かく天皇をしも山人とのたまへるはいとなめしきやうなれど戯てわざとのたまへるなるべし
といへるは山人の意を誤解せるなり○第四句の受は奴の誤字にて
  太上天皇ハ固ヨリ仙人ニマシマセバ心アリテ山ニ行キ給ヒケム其御心ヲモ知ラデ俗人メカシテ山苞ヲ奉リシ仙人ハ如何ナル仙人カといへるならむ○奉和歌はあまたありけむにこれが外には傳はらざるなり
   右天平勝寶五年五月在2於大納言藤原朝臣之家1時〔□で囲む〕依v奏v事而請v問〔左△〕之問〔左△〕少主鈴山田(ノ)史《フビト》土麿《ヒヂマロ》語2少納言大伴宿禰家持1曰。昔聞2此言1。即誦2此歌1也
 時は衍字か。在は家持が在るなり。されば在於〔二字傍点〕以下十一字は大納言藤原朝臣ノ家ニテといふ意なり。古義に在をイマセルとよめるは非なり。天平勝寶五年には元正太上天皇は世にましまさざりき。藤原朝臣は仲麻呂なり○奏は白の字などに代へて心得べし。天皇に奏せしにあらず。仲麻呂に白《マヲ》ししなり。請問之問は請間〔日が月〕之間〔日が月〕の誤な(3988)り。請間〔日が月〕ははやく左傳昭公四年に寡君願v結2驩於二三君1使2擧請1v間〔日が月〕と見えたり。但こゝは漢書叔孫通傳に通奏v事因請v間〔日が月〕とあるに依りて書けるならむ。仲麻呂ノ手スキニナルヲ待チテ居ル間〔日が月〕ニ山田之土麻呂ガ云々語リキと云へるなり
 
   八月十二日二三大夫等各提2壺酒1登2高圓野1聊述2所心1作哥三首
4295 たかまとのをばなふきこす秋風にひもときあけなただならずとも
多可麻刀能乎婆奈布伎故酒秋風爾比毛等伎安氣奈多太奈良受等母
    右一首左京少進大伴宿禰池主
 大夫はまづ今の奏任官と心得べし。所心は所懷なり
 トキアケナは解キ明ケムなり。紐は襟の紐なり。ヒモトキアクは文選宋玉の風賦に
  楚襄王遊2於蘭臺之宮1……有2風颯然而至1。王乃披v襟而當v之曰。快哉此風云云
とある披襟に當れり。文選には又開衿とも云へり○タダナラズトモを略解に『タダニアランヨリハの意也』といひ古義に『直ニ妹ニアフニハアラズトモの意なり』といへり。案ずるにタダはタダ身にて第三句以下は秋風ノスズシキニ襟ヲクツロゲテ(3989)涼マム、胸ヲアラハサズトモと云へるならむ
 
4296 あまぐもにかりぞなくなるたかまとのはぎのしたばはもみぢあへむかも
安麻久母爾可里曾奈久奈流多加麻刀能波疑乃之多婆波毛美知安倍牟可聞
     右一首左中弁中臣清麿朝臣
 モミヂアヘムカモはモミヂシハテムカとなり
 
4297 をみなべしあきはぎしぬぎさをしかのつゆわけなかむたかまとの野ぞ
乎美奈弊之安伎波疑之努藝左乎之可能都由和氣奈加牟多加麻刀能野曾
     右一首少納言大伴宿禰家持
 女郎花秋萩シヌギといひて更に露ワケといへる心ゆかず
 
(3990)   六年正月四日氏族人等賀2集于少納言大伴宿禰家持之宅1宴飲歌三首
4298 霜(ノ)上にあられたばしりいやましにあれはまゐこむ年(ノ)緒ながく
霜上爾安良禮多婆之里伊夜麻之爾安禮婆麻爲許牟年緒奈我久 古今未詳
     右一首左兵衛(ノ)督《カミ》大伴宿禰千里〔左△〕
 賀集はヨロコビニツドフといふ事にてその賀は新年の賀なるべし。或は當時音讀して熟字としてつかひしか。淡路國の地名に賀集といへるがあり
 初二は序なり。略解に
  タは發語にてハシリなり。霜の上になほ霰のふるはいやましなることなれば序とせり
といへる如し○トシノヲと年ナミとの區別ははやく卷四(六九九頁)にいへり。即第一年第二年と數ふるがトシナミ、三年五年と數ふるがトシノヲなり
(3991) 古今未詳は略解に
  古歌を誦したるか今作れるかといふなるべし
といへる如し。作者元來作家にあらざれば家持の疑を存じたるならむ○作者の名諸本に千室とあり。卷四に
  かくのみにこひや度らむ秋津野にたなびく雲のすぐとはなしに
といふ歌を大伴宿欄干室歌としたれば千里はげに干室の誤ならむ
 
4299 年月波、安多良〔二字左△〕安多良〔二字左△〕爾《アラタアラタニ》あひみれどあがもふきみはあきたらぬかも
年月波安多良安多良爾安比美禮騰安我毛布伎美波安伎太良奴可母 古今未詳
    右一首民部少丞大伴宿禰村上
 第二句は諸本に安良多安良多爾とあり。之に從ふべし。上三句を略解に年月ヲ重ネテ久シク相見レドモと譯し、古義に年月ノ新々ニカハル度毎ニ相見レドモと譯せる、共に原作を離れたる譯なり。所詮初二はととのはず。波は或は爾の誤にあらざる(3992)か。卷十(一九四六頁)に年月ハアラタナレドモ人ハフリユクとあれど無論今の歌の例とすべからず
 
4300 かすみたつ春(ノ)初|乎〔左△〕《ニ》けふのごと見むとおもへばたぬしとぞもふ
可須美多都春初乎家布能其等見牟登於毛倍波多努之等曾毛布
    右一首左京少進大伴宿禰池主
 カスミタツは春のみにかかれる准枕辭なり。第二句を字のままにハルノハジメヲとよまむに春ノ初ヲ見ムといへるやうにて何の事とも聞えず。おそらくは乎は爾の誤(少くともニの意)なるべく、見ムは人々相見ムの意(即古義の釋の如く)なるべし。二三の間〔日が月〕にイツマデモといふことを挿みて聞くべきは二註にいへる如し
 
   七日天皇、太上天皇、皇太后於2東(ノ)常(ノ)宮(ノ)南(ノ)大殿1肆宴歌一首
4301 いなみ野のあからがしははときはあれどきみをあがもふときはさねなし
伊奈美野乃安可良我之波波等伎波安禮騰伎美乎安我毛布登伎波佐禰(3993)奈之
    右一首播磨國守|安宿《アスカベ》)王奏 古今未詳
 元暦校本に皇太后の下に在の字あり。天皇は孝謙天皇、太上天皇は聖武天皇、皇太后は光明皇后なり。二註に太上天皇を元正天皇とせるは誤なり。東常宮は續日本紀には東院とあり。肆宴は筵を肆《ツラ》ねて宴する事なり。文選王元長の曲水詩序に授v几肆v筵とあり懷風藻藤原|總前《フササキ》(房前)の侍宴詩にも肆v筵樂2東濱1とつかへり
 イナミ野は作者播磨守なるが故に其國の地名を用ひたるにて卷六(一一四〇頁)なる長門守|巨曾倍《コソベ》(ノ)對馬が橘諸兄に贈りし歌に長門ナルオキツカリ島オクマヘテとよめるが如し○アカラガシハは※[木+解]の黄葉なり。卷十八(三六九一頁)にアカラ橘と見え今もアカラ顔といふアカラに同じ。ウスキ氷をウスラヒといふも同格なり○トキは定マレル時にて盛なり。卷十四(二九九二頁)にもウケラガ花ノ時ナキモノヲとよめり。サネはゲニなり。無シを強めたるなり。されば四五は君ヲ我思ヒ奉ルハ常住不斷ニテ盛トイフモノハ無シといへるなり○類聚古集に一云伎美乎和須流々とあり。之に據らば第五句のトキはただの時なり。但歌はいたく劣るべし
 
(3994)   三月十九日家持之庄(ノ)門(ノ)槻(ノ)樹(ノ)下(ニテ)宴飲歌二首
4302 やまぶきはなでつつおほさむありつつもきみきましつつかざしたりけり
夜麻夫伎波奈※[泥/土]都都於保佐牟安里都都母伎美伎麻之都都可射之多里家利
     右一首置始《オキソメ》(ノ)連《ムラジ》長谷《ハツセ》
 庄は莊の俗字、莊は私有の田地にて邦語にタドコロまたナリドコロといふ。ナリドコロのナリは農業といふ事なり。その田地の内に建てたる家屋をも庄といふ。なほ御料の田地をも其内に建てたる官舎をもミヤケといふが如し。さてここの庄は庄門とあれば家屋の方にてやがて今いふ別莊なり。但いにしへの別莊は今の別莊とちがひて必田地を帶びたりしなり。證を擧ぐるにも及ばざれど古事談第六に
  石田殿ハ泰憲民部卿ガ近江ノ任ノ時勝地ヲ撰ビテ構造セシ所ノ別庄〔二字傍点〕ナリ。而ルニ宇治殿(〇攝政頼通)仰セテ云ハク。子息ノ少僧(○圏城寺長吏、宇治僧正覺圓)圓城(3995)寺ニ在リ。然ルベクバ坊舎一ツ求メ出ヅベシ云々ト。之ニ依リテ石田ノ別業ヲ覺圓僧正ニ奉リシ後、園城寺ノ平等院領〔四字傍点〕トナル云々(○譯文)
とあるをも見べし○次の歌の左註に據れば長谷は家持の別莊に近く住める人にて家持が其別莊に來れりと聞きて山吹を折り酒を提げて訪ひしに家持其山吹を取りてかざししなり
 アリツツモはカクテなり。元來第二句の上にあるべきなり。かく句を妄に顛倒する事當時行はれしなり。其例は近くは卷十九(三九八〇頁)に
  青柳のほつえよぢとりかづらくは君がやどにし千年はぐとぞ
とあり。ナデツツオホサムはイタハリツツ育テムとなり○ツツといふ辭三つまで出でたるは故意に重用せるにはあらじ。無骨なる翁の辛くして拈り出せる歌なればならむ
 
4303 わがせこがやどのやまぶきさきてあらばやまずかよはむいやとしのはに
和我勢故我夜度乃也麻夫伎佐吉弖安良婆也麻受可欲波牟伊夜登之能(3996)波爾
    右一首長谷|攀《ヲリ》v花提v壺|到來《キタル》。因v是大伴宿禰家持作2此歌1和之
 サキテアラバはカク咲キテアラバとなり。ヤマブキ、ヤマズと故意に音を重ねたるなり。四五は今後毎年來ラムとなり
 到來ははやく卷十八(三七〇四頁)に見えたり
 
   同月二十五日左大臣橘卿宴2于山田(ノ)御母《ミオモ》之宅1歌一首
4304 やまぶきの花のさかりにかくのごときみを見まくはちとせにもがも
夜麻夫伎乃花能左香利爾可久乃其等伎美乎見麻久波知登世爾母我母
    右一首少納言大伴宿禰家持|矚《ミテ》2時花1作。但未v出之間大臣罷v宴而△不2攀〔左△〕誦1耳
 橋脚は諸兄なり。山田(ノ)御母《ミオモ》は名を比賣島《ヒメジマ》といひて時の帝孝謙天皇の乳母にて位は低けれど權勢ありし人なり。其人の家へ諸兄の遊に來るにつきて家持は取持に呼ばれしなり。因にいふ。比賣島は翌天平勝寶七歳正月山田(ノ)御井(ノ)宿禰の姓を賜はりし(3997)が天平寶字元年八月に御母の名を除き又宿禰の姓を奪ひて復山田(ノ)史《フビト》と稱せしめられき
 君といへるは無論諸兄なり。ミマクハは見ム事ハなり
 左註の而の下に還の字おちたるかと略解にいへり。又攀は異本に擧とあり
 
   詠2霍公鳥1歌一首
4305 このくれのしげきをのへをほととぎすなきてこゆなりいましくらしも
許乃久禮能之氣伎乎乃倍乎保等登藝須奈伎弖故由奈里伊麻之久良之母
     右一首四月大伴宿禰家持作
 コノクレは樹蔭なり。結句は略解に『今初メテ奥山ヨリ來ルラシと也』といへる如し
 
   七夕歌八首
4306 はつ秋風すずしきゆふべとかむとぞひもはむすびしいもにあはむた(3998)め
波都秋風須受之伎由布弊等香武等曾比毛波牟須妣之伊母爾安波牟多米
 結句は二三の句の間〔日が月〕におきかへて見べし。これも例の如く妄に句の位置を顛倒したるなり
 
4307 秋といへばこころぞいたきうたてけに花になぞへて見まくほ里〔左△〕《レ》かも
秋等伊弊婆許己呂曾伊多伎宇多弖家爾花爾奈蘇倍弖見麻久保里香聞
 これも牽牛になりてよめるなり。里は禮の誤なるべし。卷四(七六六頁)にもアレヤシカモフ欲見鴨《ミマクホレカモ》とあり。活語雜話卷三(三四丁)に『連用言を體言になしたるにぞあらん』といへるはいみじきひが言なり。見マクホ里を體言とせば花ニナゾヘテの収まる處なくなるべきにあらずや○ウタテケニは怪シクといふことなり。前人皆ウタテの意を誤解せり。さて此句は初二の間〔日が月〕におきかへて心得べし。これも妄に句の位置をおきかへたるなり○第四句の始にサルハといふことを補ひて見べし。秋さく花(3999)をただ花といへるも心ゆかず
 
4308 はつをばなは名《ナ》に見むとしあまのかはへなりにけらし年(ノ)緒ながく
波都乎婆奈波名爾見牟登之安麻乃可波弊奈里爾家良之年緒奈我久
 これは牽牛の心を量りてよめるなり○初句はハナニにかかれる枕辭とおぼゆ。ハナニの語例は
  卷七、山ぢさの花にか君がうつろひぬらむ(一四二八頁)
  卷八、うめの花はなにとはむとわがもはなくに(一四九八頁)
  同 わぎへの梅をはなにちらすな(一五〇二頁)
  卷十、こゑをききてははなにちりぬる(二一〇二頁)
  同 かほ花のはなにしありけりありつつみれば(二一八七頁)
などあり。此等みなアダニといふ意なれどここはアダニと譯しては通ぜず。シラユフバナニのハナニとおなじく花トの意とし、さて花ノ如クメヅラシクの意とせば通ずべけれど、さてはハツヲバナといふ枕辭を冠らすべからず○さてハナニをしばらくメヅラシクの意とせば一首の意は
(4000) 織女ヲメヅラシト見ム爲ニワザト天ノ川ヲ中ニシテ久シク隔タリ居ルノヂャサウナ
といへるなり。年ノ緒ナガクは久シクといふ意につかへるならめど數年逢はざるやうに聞えてこれも穩ならず
 
4309 秋風になびくかはびのにこぐさのにこよかにしもおもほゆるかも
秋風爾奈妣久可波備能爾故具左能爾古餘可爾之母於毛保由流香母
 上三句は序なり。カハビは川邊なり。ニコヨカはニコヤカにてヱマシクなり。今宵相逢ハムト思ヘバといふことを補ひて聞くべし
 
4310 あきさればきりたちわたるあまのかはいしなみおかばつぎて見むかも
安吉佐禮婆奇里多知和多流安麻能河波伊之奈彌於可婆都藝弖見牟可母
 イシナミははやく卷二明日香皇女殯宮之時歌に見えたり。川中の飛石なり(二五五(4001)頁參照)。字音辨證上卷(一頁)に
  ナミは自然言ナラビの意なればオカバとあるにかなはず
といひて奈禰をナメとよめるは誤りて伊之、奈彌オカバと切りて心得たるならむ○第二句にて切れたるにあらず。第三句につづけるなり。霧タチ渡リテタドタドシキアマノ川と譯すべし。古義に『第一二句は秋霧の立わたる風景をいへるのみなり』といへるは非なり○此歌は八首中にてはよき歌なり
 
4311 秋風にいまかいまかとひもときてうらまちをるに月かたぶきぬ
秋風爾伊麻香伊麻可等比母等伎弖宇良麻知子流爾月可多夫伎奴
 これは織女になりてよめるなり。こゝの紐も襟の紐なり。さればヒモトキテは打クツロギテといふことなり。ウラマチヲルニは心ニ待チ居ルニなり。ウラニのニを省きたるなり。ウラマツは平安朝時代になりてはシタマツと云へり
 
4312 秋草におくしらつゆのあかずのみあひ見るものを月乎之〔三字左△〕《トシニカ》またむ
秋草爾於久之良都由能安可受能未安比見流毛乃乎月乎之麻多牟
(4002) 初二は序なり。月乎之は年爾可の誤ならざるか。もとのままにては意義通ぜず。もし年ニカマタムの誤ならば明朝相別レナバ又一年中待タムカとなり
 
4313 あをなみにそでさへぬれてこぐふねのかしふるほどにさよふけなむか
安乎奈美爾蘇弖佐閉奴禮弖許具布禰乃可之布流保刀爾左欲布氣奈武可
    右大伴宿禰家持渇仰2天漢1作之
 アヲナミといふ語を特に七夕の歌に用ひたるは山上(ノ)憶良の牙後の慧を拾へるなり(卷八【一五五七頁】參照)○カシは船を繋ぐ※[木+弋]なり。さて卷七に
  舟はてて可志ふりたてていほりせむ名子江の濱邊すぎがてぬかも
 卷十五に
  大船に可志ふりたててはまきよき麻里布のうらにやどりかせまし
とあるフリタテテのフリは添辭とおぼゆれどここにカシフルといへるは※[爿+戈]※[爿+可]即(4003)※[木+弋]を建つる事なり。門人外山且正いはく
  越後にてはカシタツルとは云はずしてカシフルと云ふ。たとへばカシフリ歌、カシフリ男などいふ
    〇
4314 八千種にくさきをうゑてときごとにさかむはなをし見つつしぬばな
八千種爾久佐奇乎宇惠弖等伎其等爾左加牟波奈乎之見都追思努波奈
     右一首同月二十八日大伴宿禰家持作之
 シヌバナはメデムなり
    ○
4315 宮人のそでつけごろもあきはぎににほひよろしきたかまとのみや
宮人乃蘇泥都氣其呂母安伎波疑爾仁保比與呂之伎多加麻刀能美夜
 袖ツケゴロモは袖を長くせむ爲に常の袖の端に半幅の袖を附けたるをいふ。袖つ(4004)け衣を著たる卿大夫が高圓宮の御墻内の萩の花の間〔日が月〕を逍遙せる趣なり○ニホヒヨロシキは匂フニ宜シキにてやがてウツリノヨキなり。語例は卷十四に
  いかほろのそひのはりはらわがきぬにつきよらしもよたへとおもへば
とあり○此歌はよろし
 
4316 たかまとの宮のすそ未《ミ》のぬづかさにいまさけるらむをみなべしはも
多可麻刀能宮乃須蘇未乃努都可佐爾伊麻左家流良武乎美奈弊之波母
 宮ノスソミノヌヅカサニといへる、野づかさが宮のすそみにあるやうに聞ゆれど實は宮のすそみにあるは野にて其野の中につかさはあるなり。されば正しくは宮ノスソミノ野ノ〔右△〕ツカサニと云ふべきなり(三八三六+參照)○スソミは古義にいへる如く裾廻にて麓なり。ヌヅカサは野中にある小さき丘なり。卷四(六五七頁)に佐保川ノ岸ノツカサノシバナカリソネとあり。又卷十(二一四一頁)に高松ノ山ノツカサノ色ヅクミレバとあり○ヲミナベシハモは女郎花ハイカガアラムといへるなり
 
4317 秋野にはいまこそゆかめもののふのをとこをみなのはなにほひ見に
秋野爾波伊麻己曾由可米母能乃布能乎等古乎美奈能波奈爾保比見爾
(4005) モノノフはモノノフノ八十トモノヲなどいへればすべての宮人に亘る名にて武官には限らず。卷三(四五七一頁)にモノノフノヲミノヲトコハとあるもただ宮人といふ事なり○ハナニホヒ見ニは花ノ如ク匂フヲ見ニとなり。花ノ如ク句フといふことを名詞にしてハナニホヒと云へるなり。古義の説はほぼよろしけれどハナニホヒを花やぎなまめく事とせるのみはわろし
 
4318 あきの野につゆおへるはぎをたをらずてあたらさかりをすぐしてむとか
安伎能野爾都由於弊流波疑乎多乎良受弖安多良佐可里乎須具之弖牟登香
 ツユオヘルは露ヲ負ヘルなり。此歌は自問へるなり。末に至りてなほ云ふべし
 
4319 たかまとの秋野のうへのあさぎりにつまよぶをしかいでたつらむか
多可麻刀能秋野乃宇倍能安佐疑里爾都麻欲夫乎之可伊泥多都良武可
 
4320 ますら男のよびたてしかば(さをしかの)むなわけゆかむ秋野はぎはら
(4006)麻須良男乃欲妣多天思加婆左乎之加能牟奈和氣由可牟安伎野波疑波良
    右歌六首兵部少輔大伴宿禰家持獨憶2秋野1聊述2拙懷1作之
 此歌は前賢みないたく誤解してヨビタテシカバを鹿笛を吹く事としサヲシカノムナワケユカムを鹿の行く事とせり。按ずるに此時高圓離宮に行幸ありて百官從駕せしかど家持は故ありて家に留まりしなり(但高圓と奈良とはいと近し)。さればこそ野ヅカサニ今サケルラムヲミナベシハモといひ秋野ニハ今コソユカメ云々といひツユ負ヘルハギヲタヲラズテといひ又左註に獨憶2秋野1といへるなれ○さて今の歌のマスラヲは傍輩の男子、ヨビタテシカバは足下モ來ヌカト誘ヒシカバといふ意、サヲシカノはムナワケユカムにかゝれる枕辭なり○結句は秋野ノ〔右△〕ハギ原のノを略したるなり。安伎野波疑波良の野はテニヲハにあらず。此作者は數語を併せて一語とする事を好みし如し
 
   天平勝寶七歳乙未二月相替(リテ)遣(ハサルル)2筑紫1諸國防人等歌
(4007) 天平勝寶七年正月年を改めて歳とせられしが同九年八月に元を天平寶字と改められしと共に歳を年に復せられしなり。抑年を年といふは周以來の事なり。それより先唐虞には載といひ夏には歳といひ商には祀といひき。孝謙天皇の天平勝寶七年に年を歳に改められしは其十二年前に唐(ノ)玄宗が其天寶三年を三載と改めしに倣はれしなり。然るに唐にても玄宗の子肅宗の乾元元年に載を年に復しき。そは此方にて歳を年に復せられし翌年なり○防人《サキモリ》は外國に備ふるが爲に對馬、壹岐、筑紫等の海岸に配置せし戌兵なり。邦語のサキモリが埼守の義なるは續日本後紀に
  承和二年三月己未太宰府言。壹岐島遙居2海中1地勢隘狹人數寡少難v支2機急1。頃年新羅商人來窺不v絶。非v置2防人1何備2非常1。請令d島(ノ)※[人偏+瑶の旁]人三百卅人帶2兵仗1戌〔右△〕2十四處要害之埼〔右△〕u。
とあり又同書承和十年八月の下に對馬嶋上縣郡竹敷埼防人とあるにて明なり。防人の名の史籍に見えたる始は孝徳天皇の大化二年にして其終は後宇多天皇の弘安十年なり。その間凡六百五十年、その制もとより時代によりて同じからず。本集を參考するに少くとも天平勝寶年問には防人は凍國即遠江、信濃、駿河、相模、武藏、上總、(4008)下總、上野、下野、常陸等の軍團の兵士より簡拔し各國廳の官吏即守又は介又は掾又は目又は史生之を引率して浪華に到りて兵部省の官吏に引渡す。此時朝廷より檢校の勅使を遺さる。勅使の檢閲終れば兵部省の專使引率して海路筑紫に到りて太宰府の防人司に引渡ししなり。防人の任期は三年なるが三年毎に全部交迭せしめしにあらずして毎年春若干人を差遣して順次に交迭せしめしなり。さて此卷に収めたるは天平勝寶七歳に差遣せられし防人の歌なり。元來防人の歌は朝命によりて各國の部領使《コトリヅカヒ》より録進せしなるが
  部領使病の爲に上り來らずして歌のみ進めし例あるによりてその等閑《ナホザリ》事にあらざるを知るべし 家持は恰兵部少輔たりしかば之を見るを得て其中よりやや佳なるものを擇びて私に寫し留めたるなり○防人を詠じたる歌は此卷に見えたる家持并に檢校勅使阿倍(ノ)抄美麻呂の歌の外に卷四に
  八百日ゆく濱のまなごもわが戀にあにまさらじかおきつ島守
 又卷七に
(4009)  ことしゆくにひ島守が麻ごろも肩のまよひはたれかとり見む
とあり。
  因にいふ。島守は埼守におなじ。但宇のままにシマモリとよむべし〇前註に之をもサキモリとよめるは非なり
 卷六なる藤原宇合卿遣2西海道節度使1之時歌(一〇八一頁)にアタ守ル筑紫とあるも防人の事をいへるなり。 又防人のよめる歌は卷十四にも載せたり
 
4321 かしこきやみことかがふりあすゆりや加曳我伊牟多禰乎いむなしにして
可之古伎夜美許等加我布理阿須由利也加曳我伊牟多禰乎伊牟奈之爾志弖
    右一首國造(ノ)丁|長下《ナガ′ノシモ)(ノ)郡物部(ノ)秋持
 初句のヤは助辭、アスユリヤは明日ヨリヤの訛なり。第四句心得がたし。伊の字無き本あり。禰乎は異本に禰牟とあれば寢ムの意とすべきか。イムはイモ(妹)の訛なり
(4010)長下《ナガノシモ》郡は遠江國の一郡なりしがはやく廢せられき○國造(ノ)丁が一般の防人ならざる事はここに
  國造丁、主帳丁、防人
とついで下なる上總國防人歌の處にも
  國造丁、助丁(○國造助丁なり)帳丁(○主帳丁の誤)某郡上丁
とついでたるにて知るべし。二註に之をクニノミヤツコノヨボロとよみて
  國造丁并次に見えたる主帳丁は國造主帳より出せる人足歟。防人の上る時の道中の人足なるべし
といへれど第一、人足ならば防人即兵士の次に擧ぐべく第二、主帳より私に人足を出さむだにあるを當時政務に關係なくただ地方の名族たるに過ぎざりし國造より人足を出さむことあるべからず。おそらくは國造主帳が防人に擇ばれたるならむ。下に
  助丁海上郡海上(ノ)國造他田(ノ)日奉(ノ)直得太理(下總)
と書き又丁を省きて
(4011)  國造小縣郡他田(ノ)舎人大島(信濃)
  主帳埴科郡神人部(ノ)子忍男(同)
  主帳荏原郡物部(ノ)歳徳(武藏)
と書ける例あり。さて此丁并に次々の丁を二註にヨボロとよみたれど丁をヨボロとよむは人足の事をいへる時にて此丁井に次々の丁は壯男の事をいへるなれば音にてチヤウとよむか又はヲノコとよむべきならむ。卷九なる過2葦屋處女墓1時作歌にもヲノコを丁子と書きたり
 
4322 わがつまはいたくこひらしのむみづにかごさへみえてよにわすられず
和我都麻波伊多久古比良之乃牟美豆爾加其佐倍美曳弖余爾和須良禮受
    右一首主張〔左△〕(ノ)丁|麁玉《アラタマ》郡|若倭部《ワカヤマトベ》(ノ)身麿
 コヒラシはコフラシ、カゴは影の訛なり。ヨニはサネ、ゲニなどいはむに近し○主張(4012)は主帳の誤にて郡の主帳ならむ。軍團の主帳は防人に擇ばるる事あるべからざればなり。身麿を二註にムマロとよめり。身代をムガハリといひ正身をムザネといひ氏の六人部《ムトリベ》を又身人部と書くを思ひてなるべし
 
4323 ときどきのはなはさけどもなにすれぞははとふはなのさき低《デ》こずけむ
等伎騰吉乃波奈波佐家空母奈爾須禮曾波波登布波奈乃佐吉低己受祁牟
    右一首防人山名郡|丈部《ハセツカベ》(ノ)眞麿《ママロ》
 ナニスレゾは何トスレバゾなり。此辭漢文の訓に殘れるはおもしろし○低の字諸本に泥とあり。二註に低を誤字とせり。もとよりサキイデの約としてサキデとよむべきなれど低を誤字とせるは妄斷なり。本集に濁るべき處に清音の字を書ける例數知らずあるが上に卷十四にノラヌキミガ名ウラニ低《デ》ニケリまたウケラガハナノイロニ低《デ》ズアラム又下にアレハイハハムカヘリクマ低《デ》ニなど現に低をデに借(4013)れる例あるにあらずや○コズケムはコザリケリをコズケリといへると同例にてコザリケムなり。略解に
  サキデコズケムは咲來ザランの意也。此ケンの詞はヨケン、アシケンなどいふケンにてヨケンはヨカラン、アシケンはアシカラン也
といへるはいみじき誤なり。古義に
  略解に咲來ザランの意なりといへるはいささかたがへり
とのみいへるを見れば雅澄も明に兩者の別を辨へざりしなり。思へかし。ヨシ、アシは形容詞にして咲來ズは動詞なることを。又ヨケム、アシケムのケムはカラムとひとしきをサキデコズの下にカラムを添へてサキヂコズカラムといはむに辭を成さざる事を。さて今は咲出來ザルラムとこそいふべきを咲出來ザリケムといへるは意ありてにあらず。修辭の拙きなり○孝徳天皇紀に見えたる、皇太子妃のうせ給ひし後、野中(ノ)川原(ノ)史《フビト》滿《ミツ》が皇太子に奉りし
  もとごとにはなはさけどもなにとかもうつくしいもがまたさきでこぬ
に似たるは偶然にあらじ
(4014) 丈部をハセツカべとよむはハセツカヒベの略なる事無論なるが丈の字はハセツカヒとよむべき由なし。然るに新撰姓氏録右京皇別に杖部《ハセツカベ》(ノ)造《ミヤツコ》とあり又和名抄伊勢國|朝明《アサケ》郡の郷名に杖部(鉢世都加倍《ハセツカベ》とあれば從來丈を杖の略字とせり。たとへば栗田博士の姓氏録考證(三二七頁)に
  古へは道を行くに必す杖をつけりしかば和名抄行旅具に杖を擧たり。さて駆使部《ハセツカヒベ》は朝家の公用にはせつかはるる故に殊に杖を用ひけむ故丈部とは書りしものとこそ思はるれ
といへり。案ずるにハセツカベをここのみならず古書になべて丈部と書けるは昔より使の草體を丈と誤り來れるにあらざるか
 
4324 とへたほみ志留波のいそと爾閉のうらとあひてしあらばこともかゆはむ
等倍多保美志留波乃伊宗等爾閉乃宇良等安比弖之阿良婆己等母加由波牟
(4015)    右一頸同郡丈部|川相《カハヒ》
 トヘタホミはトホタフミの訛なり。シルハノイソは遠江國の地名なり。高林方朗の志留波の礒の考(好古叢誌第五編上)に
  白羽《シルハ》といふところ今遠江國に榛原《ハイバラ》郡と豐田郡と敷知《フチ》郡とに三處ありてみな海邊なり。右のうち榛原郡なると豐田郡なるとは牧馬に關係あり。故おもふに上古は遠江の海邊みな礒松おひつづきて駒なども住みてその海邊をおしなべて志留波とぞいひけむをたえだえに其名殘りて今三處にはあるなるべし
といへり。こは一説として擧げおくのみ○ニヘノウラはシルハノ礒と浪華との間〔日が月〕にあらざるべからず。されど沿道にさる地名ある事を聞かず。なほ考ふべし。或はニヘノウラはニホノウラの訛にて琵琶湖の事かとも思へど琵琶湖は本集にアフミノ海といひてニホノ海とは云はず。ましてニホノ浦とは○アヒテシアラバは相向ヒテアラバとなり。今向フ海ノアナタノ岸ガヤガテ志留波ノ礒ナラバとなり○コトモカユハムは我ト妹トノ言語モ通ハムヲとなり。ヨをユと訛れるなり
 右一首の下に防人の二字を略せるなり。次下もおなじ
 
(4016)4325 ちちはは母〔左△〕《ハ》はなにもがもや(くさまくら)たびはゆくともささごてゆかむ
知知波波母波奈爾母我毛夜久佐麻久良多妣波由久等母佐佐己弖由加牟
    右一首|佐野《サヤ》郡丈部黒當
 母は巴などの誤ならむ。タビハは旅ニハなり。ササゴテはササゲテの訛なり
 
4326 父母がとののしりへのももよぐさももよいでませわがきたるまで
父母我等能能志利弊乃母母余具佐母母與伊弖麻勢和我伎多流麻弖
     右一首同郡|生玉部《イクタマベ》(ノ)足國《タルクニ》
 トノノシリヘはスマヒノウシロなり。殿とあればとて金殿玉樓とは思ふべからず。モモヨ草はいかなる草か知らず。上三句は序なり○モモヨは百年なり。百世にあらず。イデマセはイマセといふ事にて俗語のオイデナサイなり)キタルマデは歸リ來ルマデなり。孝子の至情よく千年後の袖をしぼらしむ
 
(4017)4327 わがつまも畫にかきとらむいつまもがたびゆくあれはみつつしぬばむ
和我都麻母畫爾可伎等良無伊豆麻母加多比由久阿禮波美都都志努波牟
     右一首|長下《ナガノシモ》郡物部古麿
     二月六日防人(ノ)部領使《コトリヅカヒ》遠江國(ノ)史生坂本朝臣|人上《ヒトガミ》(ガ)方進《タテマツレル)歌(ノ)數十八首。但有2拙劣歌十一首1。不v取2載哉之1
 初句はワガ妻ヲモの略なり。伊豆麻はツを清みてイツマとよむべし。豆は古書に清音にも借れり(二九五九頁參照)。イツマはイトマの訛なり○元暦校本に阿禮波を阿禮可に作れるによりて二註にカを濁りて吾之《アレガ》と心得べしといへれどアレガといへる例なし
 
4328 おほきみのみことかしこみいそにふりうのばらわたるちちははをおきて
(4018)於保吉美能美許等可之古美伊蘇爾布理宇乃波良和多流知知波波乎於伎弖
     右一首助丁丈部(ノ)造《ミヤツコ》人麿
 イソニフリはカシコキ岩ニ觸レツツとなり。イソは大岩なり。ウノバラはウナバラの訛なり
 助丁の上に郡名をおとせるなり○次下に上丁助丁とあるは兵丁を甲乙二等に分ち甲を上丁、乙を助丁と稱せしならむ。卷十四に
  をぐさをとをぐさすけをとしほぶねのならべてみればをぐさをかちけり
とあるもヲグサ(地名)の上丁と助丁とならむ。又下に常陸國久慈郡の防人の名に佐壯《スケヲ》とあるも助丁といふことを名とせるならむ。さて二註に上丁をカミツヨボロ、助丁をスケノヨボロとよみたれど共に音讀すべく、もし訓讀せむと思はばカミヲノコ、スケヲノコまたはカミヲ、スケヲとよむべし
 
4329 やそぐに波〔左△〕《ユ》なにはにつどひふなかざりあがせむひろをみもひともが(4019)も
夜蘇久爾波那爾波爾都度比布奈可射里安我世武比呂乎美毛比等母我母
     右一首|足下《アシガラノシモ》(ノ)郡(ノ)上丁|丹比部《タヂヒベ》(ノ)國人
 ヤソグニはあまたの國なり。波はユ又はヨとあるべし。三四は船飾ヲシテ我漕ギ出デム日ヲとなり。ヒロは日に助辭ロの添へるなり。ミモはミムの訛なり。ヒトは父母妻子を指せるなり
 足下は足柄(ノ)下の略なればなほアシガラノシモとよむべし。葛上葛下(葛城上下)をカヅラキノカミシモとよむとおなじ
 
4330 なにはづによそひよそひてけふの日やいでてまからむみるははなしに
奈爾波都爾余曾比余曾比弖氣布能日夜伊田弖麻可良武美流波波奈之爾
(4020)    右一首鎌倉郡上丁|丸子《マロコ》(ノ)連《ムラジ》多麿《オホマロ》
    二月七日相模國防人部領使守從五位下藤原朝臣|宿奈《スクナ》麿進歌數八首。但拙劣歌五首者不v取2載之1
 初二の間〔日が月〕に船ヲといふことを補ひて聞くべし
 
   追痛2防人悲別之心1作歌一首并短哥
4331 天皇《スメロギ》の とほの朝廷《ミカド》と (しらぬ日) 筑紫(ノ)國は あたまもる おさへの城《キ》ぞと 聞食《キコシヲス》 四方(ノ)國には ひとさはに みちてはあれど (とりがなく) あづまをのこは いでむかひ かへり見せずて いさみたる たけき軍卒《イクサ》と ねぎたまひ まけのまにまに (たらちねの) ははが目かれて (若草の) つまをもまかず (あらたまの) 月日よみつつ (あしがちる) 難波のみ津に 大船に まかいしじぬき あさなぎに かこととのへ ゆふしほに かぢひきをり あともひて こぎゆくきみは なみの間〔日が月〕を  いゆきさぐくみ まさきくも はやく(4021)いたりて 大王《オホキミ》の みことのまにま ますら男の こころをもちて ありめぐり 事しをはらば つつまはず かへりきませと いはひべを とこべにすゑて しろたへの そでをりかへし (ぬばたまの) くろかみしきて ながきけを まちかも戀む はしきつまらは
天皇乃等保能朝廷等之良奴日筑紫國波安多麻毛流於佐倍乃城曾等聞食四方國爾波比等佐波爾美知弖波安禮杼登利我奈久安豆麻乎能故波伊田牟可比加弊里見世受弖伊佐美多流多家吉軍卒等禰疑多麻比麻氣乃麻爾麻爾多良知禰乃波波我目可禮弖若草能都麻乎母麻可受安良多麻能月日餘美都都安之我知流難波能美津爾大船爾未加伊之自奴伎安佐奈藝爾可故等登能倍由布思保爾可知比伎乎里安騰母比弖許藝由久伎美波奈美乃間乎伊由伎佐具久美麻佐吉久母波夜久伊多里弖大王乃美許等能麻爾未麻須良男乃許己呂乎母知弖安里米具里事之乎波良波都都麻波受可敝理伎麻勢登伊波比倍乎等許敝爾須惠弖之路多倍能蘇(4022)田遠利加敝之奴婆多麻乃久路加美之伎弖奈我伎氣遠麻知可母戀牟波之伎都麻良波
 追は後日なり。防人作歌當時に對して追といへるなり。追和の追なり
 天皇は古義卷一に『集中に天皇とかけるは皆スメロギとよむべし』といひてくはしくあげつらへり○太宰府は遠國にある政廳なればトホノミカドといへるなり○アタマモルは敵を監視するなり。はやく卷六(一〇八一頁)に賊《アタ》マモル筑紫ニイタリとあり。オサヘはおさへとどむる事なり。軍記などに何々ノ押ヘトシテなどあるに同じ○初二と三四とはおきかへて心得へし。されば初六句は
  筑紫ノ國ハ天皇ノ達ノ御門トシテ敵マモルオサヘノ城ゾトオモホシテ
と譯すべし。トホノミカドトはアタマモルにかかれるなり。さてオサヘノ城ゾトにて切りてキコシヲスは次へつづけて心得べし○キコシヲスはシロシメスなり。イクサは字の如く軍卒即兵士なり。イクサトのトはトオモホシテなり。ネギはネギラヒなり。はやく卷六(一〇八四頁)なる天皇賜2酒節度使卿等1御歌にカキナデゾネギタマフ、ウチナデゾネギタマフとあり。マケは派遣なり。但ネギタマヒを承けたればマ(4023)クルマニマニとこそ云ふべけれ○カレテは離レテなり。マカズはもと不枕なれど轉じて妻と寢る事をマクといひしなり。はやく古事記神武天皇の段なる歌にナナユクヲトメドモタレヲシ摩加牟とあり。月日ヨミツツは家人ニ別レテヨリ今日ハ何日ト月日ヲ數ヘツツとなり○トトノヘは呼ビ集メなり。カヂヒキヲリは楫を強く搖かす事ならむ。卷二(三一七頁)なる狹岑島視2石中死人1歌にもユク船ノ梶ヒキヲリテとあり。又卷七(一三二五頁)にワガ舟ノ梶ハナ引キソとあり。又下なる長歌にアサナギニカヂヒキノボリとあり。アトモヒテは相|率《ヰ》テなり○イユキサグクミは行き通る事なり(卷四【六三八頁】及卷六【一〇八二頁】參照)○アリメグリは行キ廻リなり。事シヲハラバは任期滿チナバなり。ツツマハズはツツマズにてツツミナクにおなじ。ツツミナクはサハリナクなり。アマヅツミのツツミなり。病む事をツツムといふは轉義なり。語例は卷十五(三一九一頁)にツツムコトナクハヤカヘリマセとあり○イハヒベヲトコベニスヱテは卷三石田王卒之時(ノ)歌に枕〔左△〕《トコ》ノヘニイハヒベヲスヱ(五一〇頁)同卷丈部龍麿自經死之時(ノ)歌にイハヒベヲ前ニスヱオキテ(五四二頁)とあるなどに據れるならむ。卷十七なる大伴坂上郎女の歌にも
(4024)  草枕たびゆく君をさきくあれといはひべすゑつあがとこのへに
とあり。イハヒベは酒を盛りて神に供ふる瓶なり○袖ヲリカヘシは人を待つ形容なり。クロカミシキテも夫を待つ形容なり(三五四四頁及三五六八頁參照)。ナガキケは長き月日なり○下半は古歌の成句をつづり合せたるまでなり
 
   反歌
4332 ますら男のゆぎとりおひていでていけばわかれををしみなげきけむつま
麻須良男能由伎等里於比弖伊田弖伊氣婆和可禮乎乎之美奈氣伎家牟都麻
 ユギは矢を盛りて背に負ふ具なり
 
4333 (とりがなく)あづまをとこのつまわかれかなしくありけむとしのをながみ
等里我奈久安豆麻乎等故能都麻和可禮可奈之久安里家牟等之能乎奈(4025)我美
    右二月八日兵部少輔大伴宿禰家持
 結句は助けて年ノ緒長カルベキニヨリテと譯すべし。長歌にはアヅマヲ能コといへり
    ○
4334 海原をとほくわたりてとしふとも兒らがむすべるひもとくなゆめ
海原乎等保久和多里弖等之布等母兒良我牟須敝流比毛等久奈由米
 兒ラは妻なり。紐は帶なり
 
4335 今|替《カハル》にひさきもりがふなでするうなばらのうへになみなさきそね
今替爾比佐伎母利我布奈弖須流宇奈波良乃宇倍爾奈美那佐伎曾禰
 波にサクといへるは花にたとへたるなり。語例は卷六(一〇四一頁)車持(ノ)千年作歌に
  シラナミノイサキメグレルスミノエノ濱又卷十四に
  あぢかまのかたにさくなみひらせに母ひもとくものかかなしけをおきて
(4026)とあり
 
4336 さきもりのほり江こぎづる伊豆手ぶねかぢとる間〔日が月〕なく戀はしげけむ
佐吉母利能保里江己藝豆流伊豆手夫禰可治等流間奈久戀波思氣家牟
     右九日大伴宿禰家持作之
 イヅテブネは守部のいへる如く伊豆式の船なり○卷十二に
  松浦船まがふほり江のみをはやみ楫とる間なくおもはゆるかも
とあるを始めて卷十七、卷十八にも似たる歌あり。カヂトルまでを序とすべきか。又はカヂ取ル間〔日が月〕ナキ如ク間〔日が月〕ナクといふべきを略せる一種の序とすべきか。シゲケムはシゲカラムなり
    ○
4337 (みづとりの)たちのいそぎに父母にものはずけにていまぞくやしき
美豆等利乃多知能已蘇伎爾父母爾毛能波須價爾弖已麻叙久夜志伎
     右一首上丁|有度郡〔左△〕《ウトベ》(ノ)牛麿
(4027) ミヅトリノはタチのみにかかれる枕辭なり。イソギは準備なり。されば第二句はイデ立ツ支度ニ紛レテと譯すべし。モノハズは物イハズのイを略せるなり。ケニテはキニテを訛れるなり○卷十四に
  みづとりのたたむよそひにいものらにものいはずきにておもひかねつも
とあると相似たり
 有度郡の郡は諸本に部とあり。此駿河國の防人の歌はみな郡名を記さざればげに部の誤ならむ。有度部《ウトベ)は氏なり
 
4338 (多多美氣米)むらじがいそのはなりそのははをはなれてゆくがかなしさ
多多美氣米牟良自加已蘇乃波奈利蘇乃波波乎波奈例弖由久我加奈之佐
     右一首助丁|生部《イクベ》道麿
 初句を契沖はタタミゴモの訛としてムラジにかかれる枕辭とし雅澄は米を布又(4028)は不の誤字としてタダムカフの訛とせり。しばらく前者に從ふべし。但いかにかかれるにか明ならず○牟良自ガイソは駿河國の地名とおぼゆ。ハナレソは汀ヨリ離レタル岩ならむ。上三句は序なり。ハハヲは母ヨリなり
 
4339 くにめぐるあとりがまけりゆきめぐりかひりくまでにいはひてまたね
久爾米具留阿等利加麻氣利由伎米具利可比利久麻弖爾已波比弖麻多禰
     右一首|刑部《オサカベ》虫麿
 第二句を從來解き煩へり。アトリは契沖のいへる如く※[獣偏+葛]子鳥にて小さき渡鳥の名なり。渡鳥なるが故に、國メグルといへるなり。加は濁りて唱ふべし。本集には往々濁音の語に清音の字を借りたり。たとへば前の歌にムラジ加イソノとある加もガに借れるなり。マケリはモコロの訛にて如クといふことなり。先哲みなマケリがモコロの訛なるに心づかざりしなり○カヒリはカヘリの訛なり。クルマデといふべきをクマデといへるは例の古格に從へるなり。マデニはただマデといはむにひとし。(4029)イハヒテマタネは祈リテ待テカシとなり
 
4340 ちちはは江〔左△〕《ハ》いはひてまたねつくしなるみづく白玉とりてくまでに
知知波波江已波比弖麻多禰豆久志奈流美豆久白玉等里弖久麻弖爾
     右一首川原虫麿
 江は波の誤ならむ。現に一本に波とあり。ツクシを豆久志と書けるは豆を清音に用ひたるなり。一首を隔てたる次にもツクレルを豆久禮留と書けり○ミヅクは水ニ就クにてやがて水に漬るなり(三七三八頁參照)。クマデニは來ルマデなり
 
4341 (たちばなの)美衣利《ミエリ》のさとに父をおきて道の長道《ナガヂ》はゆきがてぬかも
多知波奈能美衣利乃佐刀爾父乎於伎弖道乃長道波由伎加弖努加毛
     右一首丈部|足《タル》麿
 タチバナノは實の一言にかかれる枕辭にてミエリは地名なるべし。ユキガテヌカモは行キ敢ヘヌカナなり
 
4342 まけばしらほめてつくれるとののごといませはは刀自おめがはりせ(4030)ず
麻氣波之良寶米弖豆久禮留等乃能其等已麻勢波波刀自於米加波利勢受
     右一首坂田部(ノ)首麿《オビトマロ》
 マケバシラはマキバシラの訛なり。ホメテはタタヘテなり。やがてイハヒテなり。オメはオモの訛なり。首はカバネにあらで首麻呂といふ名なるべし。下にも商長首麿あり
 
4343 和呂△《ワロハ》たびはたびとおめほど已〔左△〕比《イヒ》にして古〔左△〕米知《オメチ》やすらむ和可美《ワガミ》かなしも
和呂多比波多比等於米保等已比爾志弖古米知夜須良牟和可美可奈志母
     右一首玉作部(ノ)廣目
 略解に
(4031)  此歌心得がたし。翁(○眞淵)も強ていはば和呂タビハは吾旅者なり。オメホドは思ヘドモなり。コメチはコはカホの約、メチはモテを約轉せるにてカホオモテならん。ヤスランは痩スランなり。オモテのオは連言故略けるなり。又はオモモチといふ事、物語にみゆれば顔持にや
といひ古義には
 ワロタビハは吾等旅者なり。タビトオメホドは旅卜思ヘドなり。己比《コヒ》ニシテは戀ニシテなり。ここは戀シク思フ故ニシテといはむが如し。コメチヤスラムは容顔持將痩《カホモチヤスラム》なり。カホはコに切《ツヅマ)りモはメに通へるゆゑにカホモチをコメチといへるなるべし。中昔(ノ)物語書にこれをオモモチといへり
と云へり。案ずるにワロは上に日にロを添へて日ロといへる如く我《ワ》に助辭ロを添へたるなり
  因にいふ。後世第二者を卑めてワロといふは此ワロにて和郎と書くはあて字ならむワレ、オノレを推して相對者の卑稱とするは人の知る所なり。そのワレ、オノレは適に今いふワロと同例ならむ。又いふ。ワレのレはもとロとおなじき助辭な(4032)るべし。なほ云はば兒ラ、日ル(夜ル)我《ワ》レ(汝《ナ》レ)妹ロなどのウルレロはみな同一の助辭なるべし
 ○オメホドはオモヘドの訛なり。和呂の下に波をおとせるならむ。おそらくはもと
  和呂波多比波多比等於米保等
とありしを波多比の三字重複せる上に初句の字數餘れるより上なる波を衍字としてさかしらに削りたるならむ。さてワロハタビハタビトオメホドは我ハ旅ヲバ旅トアキラムレドといふ意ならむ○第三句を從來コヒニシテとよみたれど、もし戀ふる事ならばコヒテとかコヒシサニとか云はざるべからず。案ずるに原本に巳《シ》と書けるは己《コ》の誤にはあらで已《イ》の誤にてイヒニシテとよむべきなり。已をイに借れる例は上にもタチノ已《イ》ソギニ、已マゾクヤシキ、ムラジガ已ソノ、已ハヒテマタネ、已マセハハトジとあり。さてイヒニシテは家ニシテの訛なり○古米知は於米知の誤にてオモテの訛なり(知は一本に低とあり)。ヤスラムは痩スラムなり○和可美はワガ身にはあらでワガ妻《メ》の訛なり。されば一首の意は
  我ハ旅ノツラサハ旅ノ習トアキラムレド家ニ殘リテ物思ニ面痩スラム我妻ゾ(4033)カナシキ
といへるなり
 
4344 わすらむとぬゆきやまゆきわれくれどわがちちはははわすれせぬかも
和須良牟砥努由伎夜麻由伎和例久禮等和我知知波波波和須例勢努加毛
     右一首|商長《アキヲサ》(ノ)首麿《オビトマロ》
 ワスレムをワスラムといへるは四段活に從へるなり。チチハハハは父母ヲバなり。ワスレセヌは忘レヌなり○ワスルを一首の中に四段活と二段活と二樣につかひたるはめづらし○此首麻呂も名か。但姓氏録に商長(ノ)首といふ氏カバネ見えたり
 
4345 わぎめことふたりわが見し(うち江《エ》する)するがのねらはくふしくめあるか
和伎米故等不多利和我見之宇知江須流須流河乃禰良波苦不志久米阿(4034)流可
     右一首春日部(ノ)麿
 ワギメコはワギモコ、クフシクメはコヒシクモの訛なり。ネラは卷十四(二九八五頁及二九九七頁)にネロとよめるに同じ。駿河ノ嶺ラは即富士山なるべし○此卷の假字は皆字音を用ひたれば第三句の江は衣の誤かと思ふに下にもアレハク江ユク、ク江テワハユクなどあり。又波名〔右△〕爾、加禰津〔右△〕流など取外したる例あり
 
4346 ちちははがかしらかきなでさくあれていひしことばぞわすれかね津る
知知波波我可之良加伎奈弖佐久安禮天伊比之古度婆曾和須禮加禰津流
     右一首丈部(ノ)稻麿
     二月七日駿河國防人部領使守從五位下布勢朝臣人主實進九日〔四字右△〕歌數二十首。但拙劣歌者不v取2載之1
(4035) 阿禮天(元暦校本のは阿禮弖とあり)はアレトの訛なり。サクアレトは無事ナレカシトなり○玉勝間〔日が月〕卷十一(二七三頁)に
  萬葉にはコトとのみいひてコトバといへるは此歌のみなり
といへれど卷四及卷十二にも例あり(三〇六五頁參照)
 實進九日は進實九日の顛倒にて進は本文のうち、實九日の三字は註文又は傍書なりしを今の如く誤れるならむ
 
4347 いへにしてこひつつあらずばながはけるたちになりてもい波〔左△〕《ソ》ひてしがも
伊閉爾之弖古非都都安良受波奈我波氣流多知爾奈里弖母伊波非弖之加母
    右一首國造(ノ)丁|早〔左△〕部《クサカベ》(ノ)使主《オミ》三中《ミナカ》之文〔左△〕(ノ)歌
 伊波非の波は曾などの誤ならむ。イソヒは副にイを添へたるなり○アラズバはアラムヨリなり
(4036) 早部は異本に從ひて※[日/下]部の誤とすべし。※[日/下]は日下の二合字なり○文は諸本に父とあるに從ふべし。契沖千蔭が父を母の誤としたる事の理由なきは古義に云へる如し
 
4348 (たらちねの)ははをわかれてまことわれたびのかりほにやすくねむかも
多良知禰乃波々乎和加例弖麻許等和例多非乃加里保爾夜須久禰牟加母
     右一首國造(ノ)丁|早〔左△〕部《クサカベ》(ノ)使主《オミ》三中《ミナカ》
 ハハヲは母ヨリにてやがて母ニなり。ネムカモは寢ムヤハなり
 
4349 ももくまのみちはきにしをまたさらにやそしますぎてわかれかゆかむ
毛母久麻能美知波紀爾志乎麻多佐良爾夜蘇志麻須義弖和加例加由可牟
(4037)    右一首助丁|刑部《オサカベ》(ノ)直《アタヒ》三野《ミヌ》
 モモクマは百曲なり。クマは道ノマガリなり。此歌は難波にてよめるなり
 助丁とあるは國造(ノ)助丁なり
 
4350 にはなかのあすはのかみにこしばさしあれはいははむかへりくまでに
爾波奈加能阿須波乃可美爾古志波佐之阿例波伊波波牟加倍理久麻※[人偏+弖]爾
    右一首△帳(ノ)丁|若麻續部《ワカヲミベ》(ノ)諸人《モロヒト》
 二註に
  此歌防人が父母か妻のよめる歌と見ゆ。諸人の下、字の脱たるか
といへり○アスハノ神は記傳卷十二(六九五頁)に
  此歌にニハナカノとよめるを以て當昔民家の庭に竃《カマ》(ノ)神などと共にこの阿須波(ノ)神をも祭りしこと知べし。……さて右の歌は末二旬を昧ふにかの阿須波(ノ)神は(4038)己が家のにはあらでゆくさきの宿々の家に祭れるをいはひつつ行むとよめるなればいづれの國にても家毎に祭ること知られたり
といへり。記傳に『此歌は末二句を味ふに云々』といへるは此歌を通本のままに若麻績部(ノ)諸人の作と認めたるにて僻言なり。古史傳卷十六に
  銕胤云。己れこの頃上總國|武射《ムザ》郡邊に行きたるに里人の門内にわたり一尺四五寸許なる小き家形を作りて屋根は藁にて葺たるが所々見ゆるあり。奇しく思ひて其郷人大高秀明に問けるに此は誰にまれ家なる人の伊勢參宮したる跡にては必かくして朝毎に飲茶など供ふるなり。いかなる神を祭るといふことは知ざれど此のあたり皆然する習ひなり。と云へり。これきはめて阿須波神を祭る意なるべし。かくて近き國々これ彼れ問試みたるに同じ樣にする處もありといへり。彌々古への遺風なるべし。但し伊勢參りに限りて然すと云ふは神參りの旅行なれば恙なくと殊に重みしての事ならむかし
といへり。これにて事切れたり。アスハノ神は旅行を守る神なりけり○上三句は垣内《カキツ》ノ神籬《ヒモロギ》ニ祭レル阿須波(ノ)神ニ小柴ヲサシ添ヘ奉リテといへるなり。ヒモロギは樹(4039)を植ゑめぐらして小さき杜を作りたるなり。イハハムは祈ラムなり
 帳丁は主帳丁の主の字をおとしたるならむと契沖いへり
 
4351 たびごろもや豆〔左△〕《へ》きかさねていぬれどもなほはださむしいも爾〔左△〕《ト》しあらねば
多比己呂母夜豆伎可佐禰弖伊努禮等母奈保波太佐牟志伊母爾志阿良禰婆
       右一首|望陀《マグダ》郡上丁玉作部(ノ)國忍《クニオシ》
 夜豆は諸本に夜倍《ヤヘ》とあり。もとのままにても通ぜざるにあらず○結句の爾は等の誤ならむ。イモトシは妹ト共ニなり
 
4352 みちのへのうまらのうれにはほまめのからまるきみを波可禮かゆかむ
美知乃倍乃宇萬良能宇禮爾波保麻米乃可良麻流伎美乎波可禮加由加牟
(4040)    右一首|天羽《アマハ》郡(ノ)上丁丈于部(ノ)鳥
 ウマラはウバラなり。ハホはハフの訛なり。豆は何の豆にてもあるべし。上三句はカラマルにかゝれる序なり。カラマルはマツハルルなり○ハカレを宣長は
  ハカレはワカレなり。ハシル、ワシル、ハツカ、ワヅカなど波と和と通ふ例あり
といへり。或は波可禮は波奈禮の誤字にてもあるべし○女に對して君といへるなり
 
4353 いへかぜはひにひにふけどわぎもこがいへごともちてくるひともなし
伊倍加是波比爾比爾布氣等和伎母古賀伊倍其登母遅弖久流比等母奈之
    右一首|朝夷《アサヒナ》郡上丁|丸子《マロコ》(ノ)連《ムラジ》大歳
 家風は故郷の方より吹く風、家言は故郷の便なり
 
4354 (たちこもの)たちのさわぎにあひみてしいもがこころはわすれせぬか(4041)も
多知許毛乃多知乃佐和伎爾阿比美弖之伊母加己己呂波和須禮世奴可母
    右一首|長狹《ナガサ》郡上丁|丈部《ハセツカベ》(ノ)與呂麿
 タチコモはタツ鴨の訛なり。二註にタチ鴨也といへれどトブ鳥をトビ鳥と云ふべからざる如くタチ鴨とはいふべからず。さればコモは清みて唱ふべし。さて初句はタチノサワギまでにかかれるなり。タチのみにかかれるにあらず○ココロは情なり。次にもナキシココロ乎ワスラエヌカモとあり
 朝夷長狹二郡は安房國の内なるが安房國は當時上總國と合一せられたりき
 
4355 よそにのみみてやわたらもなにはがたくもゐにみゆるしまならなくに
余曾爾能美美弖夜和多良毛奈爾波我多久毛爲爾美由流志麻奈良奈久爾
(4042)    右一首|武射《ムザ》郡上丁丈部(ノ)山代《ヤマシロ》
 初二は家人ヲヨソニノミ見テヤアリ經ムとなり。二註にワタラモを海ヲ渡ラムと解したるはわろし
 
4356 わがははのそでもちなでてわがからになきしこころ乎〔左△〕《シ》わすら廷〔左△〕《エ》ぬかも
和我波波能蘇弖母知奈弖氏和我可良爾奈伎之許己呂乎和須良延努可毛
     右一首|山邊《ヤマノヘ》郡上丁物部(ノ)手〔左△〕刀良《ヲトラ》
 第二句は我袖ヲトリ撫デヂテとなり。二註に母ガ袖ヲ以テ吾ヲ撫デテと解せるは非なり。ワガカラニは吾故ニなり○廷は延の誤なり。さてココロヲ〔右△〕ワスラエヌとは語格上いふべからず。されば乎は之の誤としてシとよむべし。集中に乎と之とはかたみに誤れり
 手刀良は異本に乎刀良とあり
 
(4043)4357 あしがきのくまどにたちてわぎもこがそでもしほほになきしぞもはゆ
阿之可伎能久麻刀爾多知弖和藝毛古我蘇弖毛志保々爾奈伎志曾母波由
     右一首市原郡上丁刑部(ノ)直《アタヒ》千國
 クマドは隈處にて隅なり。しのび妻なればあらはには得送らぬなり○結句はナキシゾオモハユルとあるべきオは略すべけれどルは略すべからず。されば語格ととのはざる事言葉の玉(ノ)緒(七卷四丁)にいへる如し。古義にゾはオに通ずればオモハユなりといへるはいみじきひが言なり。さてオモホユルをオモハ〔右△〕ルルといへる例は卷十四(二九八七頁)に兒ラハカナシクオモハルルカモとあり○シホホニは濡るる状なり
 
4358 おほきみのみことかしこみいでくればわぬとりつきていひしこなはも
(4044)於保伎美乃美許等加志古美伊弖久禮婆和努等里都伎弖伊比之古奈波毛
     右一首|種※[さんずい+此]〔左△〕《スヱ》郡上丁物部(ノ)龍《タツ》
 第四句は和努の下に爾をおとせるか。ワヌもコナもはやく卷十四(三〇八二頁)にウベ兒ナハワヌニコフナモとあり。ワヌは我といふこととおぼゆ。コナは兒ラにおなじ。更に按ずるにここのワヌは我ニの訛か。卷十四(三〇五六頁)に
  くさかげのあぬぬ〔右△〕ゆかむとはりしみちあぬぬ〔右△〕はゆかずてあらくさだちぬ
とあるは安努ニを訛りて安努ヌといへるなり○※[さんずい+此]は淮の誤ならり
 
4359 つくしべにへむかるふねのいつしかもつかへまつりてくににへむかも
都久之閉爾敝牟加流布禰乃伊都之加毛都加敝麻都里弖久爾爾閉牟可毛
     右一首|長柄《ナガラ》郡上丁|若麻續部《ワカヲミベ》(ノ)羊
(4045)    二月九日上總國防人部領使少目從七位下|茨田《マムタ》(ノ)連沙彌麿進歌數十九首。但拙劣歌者不v取2載之1
 ヘムカルは舳《ヘ》向ケルを訛れるなり。第四句の主格は我《ワガ》なり。我御奉公シテとなり。ヘムカモは舳向カムなり
 
   陳2私拙慎1一首并短歌
4360 天皇《スメロギ》の とほきみよにも (おしてる) 難波のくにに あめのした しらしめしきと いまの乎〔左△〕《ヨ》に たえずいひ都〔左△〕都《キツ》 かけまくも あやにかしこし かむながら わご大王《オホキミ》の (うちなびく) 春(ノ)初は やちくさに はなさきにほひ やまみれば 見のともしく かはみれば 見のさやけく ものごとに さかゆるときと めしたまひ あきらめたまひ しきませる 難波(ノ)宮|者《ハ》 きこし米す 四方のくにより たてまつる みつぎの船|者《ハ》 ほり江より みをびきしつつ あさなぎに かぢひきのぼり ゆふしほに さをさしくだり (あぢむらの) (4046)さわぎきほひ弖〔左△〕《ヌ》 はまにいでて 海原見れは しらなみの やへをるがうへに あまをぶね はららにうきて おほみけに つかへまつると をちこちに いざりつりけり そきだくも おぎろなきかも こきばくも ゆたけきかも ここ見れば うべし神代ゆ はじめけらしも
天皇乃等保伎美與爾毛於之弖流難波乃久爾爾阿米能之多之良志賣之伎等伊麻能乎爾多要受伊比都都可氣麻久母安夜爾可之古志可武奈我良和其大王乃宇知奈妣久春初波夜知久佐爾波奈佐伎爾保比夜麻美禮姿見能等母之久可波美禮姿見乃佐夜氣久母能其等爾佐可由流等伎登賣之多麻比安伎良米多麻比之伎麻世流難波宮者伎己之米須四方乃久爾欲里多弖麻都流美都奇能舩者保理江欲里美乎妣伎之都都安佐奈藝爾可治比伎能保里由布之保爾佐乎佐之久太理安治牟良能佐和伎々保比弖波麻爾伊泥弖海原見禮婆之良奈美乃夜敞〔左△〕乎流我宇倍爾安麻乎夫(4047)禰波良良爾宇伎弖於保美氣爾都加倍麻都流等乎知許知爾伊射里都利家理曾伎太久毛於藝呂奈伎可毛己伎婆久母由多氣伎可母許己見禮婆宇倍之神代由波自米家良思母
 私拙のうち一字は衍字なるか。又はもと私陳2拙懷1とありしを陳私と顛倒したるか。もし後者ならば奏上せざる事を私といへりと認むべし○此歌によれば天平勝寶七歳二月に難波に行幸ありし如し。然るに績日本紀に此年の行幸の事は見えずて八歳春二月の下に
  戊申(〇二十四日)行2幸于難波1、……壬子(〇二十八日)是日行至2難波宮1
とあれば古義に
  八歳の春難波に行幸あらむとて七歳の春より御用意ありて卿大夫を難波に下されしに家持卿兵部少輔なりければ兵器儀仗の事等を掌《シ》るによりて下られしがあらかじめ行幸のありしほどの意になりてよまれけるなるべし
といへり。案するにもし豫作ならば卷十八に
  爲d幸2行芳野離宮1之時u儲作歌
(4048)  爲d向v京之時見2貴人1及相2美人1飲宴之日u述v懷儲作歌
と書き又卷十九に
  豫作七夕歌
  向v京路上依v興預作侍v宴應v詔歌
  爲v壽2左大臣橋卿1預作歌
  爲v應v詔儲作歌
と書けるが如く書くべきを今は左註に
  右二月十三日兵部少輔大伴宿禰家持
とのみ書けり。或は七歳二月にも行幸ありしを續紀に記し漏したるか。又は此頃に行幸あるべかりしかば此歌を豫作せしに故ありて行幸は次年の二月に延びしにや。家持の難波に來りゐしは行幸の準備の爲にはあらじ
 初二は遠キ天皇ノ御代ニモといふべきを顛倒せるなり。イマノ乎ニの乎は略解に云へる如く※[上/一+|]を寫し誤れるなり○タエズイヒ都都は伎都の誤としてここにて辭を切らではととのはず○カケマクモアヤニカシコシはワゴ大キミにかかれるに(4049)てカムナガラは遙に下なるシキマセルにかかれるなり○ワゴ大キミノはワガのガが次なるオに引かれてゴに代れるなり。卷一以下に例あり○春ノハジメハはハジメヲバのヲを略せるにて下なるモノゴトニサカユル時トメシタマヒと呼應せるなり。ヤチクサニはクサグサニなり○見ノトモシク、見ノサヤケクは見ルニメヅラシク、見ルニ清クなり○メシタマヒは見給ヒなり。見ルの敬語をメスといふ。アキラメは心ヲ晴シなり。近くは卷十九(三八七二頁及三九五〇頁)にも例あり。今斷念する事をアキラムといふは語意の轉ぜるなり○ナニハノ宮ハは難波(ノ)宮ノ樣子ヲ云フナラバと心得べし○キコシ米スの米は諸本に乎とあり。反歌にキコシ賣《メ》スナベとあれば、もとのままにてもあるべし○タテマツルミツギノ船ハは貢ヲ奉ル船ハとなり○ミヲビキシツツの例は近くは卷十八に
  ほり江よりみをびきしつつみふねさすしつをのともは川の瀬まをせ
とあり。ミヲビクは水路のしるべをする事なり。されば正しくはミヲビキセサセツツといふべし(三六九三頁參照)○カヂヒキは楫オシにおなじ。語例は卷七(一三二五頁)にワガ舟ノカヂハナ引キソとあり○サワギキホヒ弖の弖は奴の誤ならむ○ヤ(4050)ヘヲルガウヘニの語例は卷七に
  けふもかもおきつ玉藻はしら浪のやへをるが上にみだれてあらむ
とあり。八重ニタタマレル上ニといふことにや(一二八〇頁參照)。ハララニはバラバラトなり○オホミケニツカヘマツルトの語例は卷一なる幸2于吉野宮1之時作歌(六五頁)に大ミケニツカヘマツルト、カミツ瀬ニ鵜川ヲタチ云々とあり。大御饌ノ御用ヲ勤ムトテとなり○イザリツリケリのイザリは名詞にあらず。イザルといふ動詞の連用格なり○ソキダクはソコバクにおなじ。ココバクをココダクともいふが如し。コキバクはやがてココバクなり。共に俗語のタイサウに當れり。ソキ、コキはソコ、ココのうつれるなり○オギロナシは廣大なる事なり。欽明天皇紀六年九月に功徳甚大とありてノリノワザオギロナリと傍訓せり。オギロナシのナシはハシタナシなどのナシにて否定のナシにあらず。さればオギロナシはオギロナリと相同じ(比古婆衣卷十八參照)○ココミレバは之ヲ見レバなり。神代はここにてはただ上代といふことなり。卷六(一一一七頁)に神代ヨリヨシ野ノ宮ニアリガヨヒといへる神代におなじ。ハジメケラシモは難波ノ宮ハ始メケラシモといへるにて仁徳天皇の御(4051)事を云へるなり
 
4361 櫻花いまさかり(難波の海)おしてる宮にきこしめすなべ
櫻花伊麻佐可里奈里難波乃海於之弖流宮爾伎許之賣須奈倍
 此歌の前に反歌とありしが落ちたるにてもあるべし、但反歌と書かざる例もあり○結句は大政ヲキコシメスニツレテとなり。天皇ガ難波宮ニマシマスニヨリテ櫻ノ花モ張合ガアッテ今滿開ヂャといへるなり○略解に
  オシテル宮ニといへるはオシテルは難波の枕詞なるを家持卿のころは既にいひ馴て用を體にとりなして上にナニハノ海といひてオシテル宮と語を下上に置きたるなど漸はたらきがましく成たる物也
といへるはいとよろしけれどなほ盡さざる所あり。こは卷六なる神社(ノ)老麿の
  ただごえのこの道にしておしてるや難波の海となづけけらしも
といへる歌に基づきて難波ノウミをオシテルの枕辭につかへるなり。さらずばオシテルヤナニハノ宮ニといふべければなり。さてオシテル宮はカガヤク宮といふ意にいへるなり
 
(4052)4362 海原のゆたけき見つつ(あしがちる)なにはにとしはへぬべくおもほゆ
海原乃由多氣伎見都々安之我知流奈爾波爾等之波倍努倍久於毛保由
    右二月十三日兵部少輔大伴宿禰家持
 難波ニ數年居タイココチガスルといへるなり。アシガチルは准枕辭なり。初二の語例は卷三に
  いほ原のきよみの埼乃みほの浦のゆたけき見つつものおもひもなし
とあり
    ○
4363 なにはづにみふねおろすゑやそかぬきいまはこぎぬといもにつげこそ
奈爾波都爾美布禰於呂須惠夜蘇加奴伎伊麻波許伎奴等伊母爾都氣許曾
 オロスヱはオロシスヱをつづめたるなり。ヤソカヌキは八十梶貫なり。卷十二(二七三二頁)なる問答歌にも八十|梶《カ》懸とあり。コギヌは漕去《コギイヌ》なり。ツゲコソは告ゲヨカシなり。次にも似たる歌あり
 
4364 さきむりにたたむさわぎにいへのいもがなるべきことをいはずきぬかも
佐伎牟理爾多多牟佐和伎爾伊敝能伊毛何奈流敝伎己等乎伊波須伎奴可母
     右二首|茨城《ウバラキ》郡|若舎人部《ワカトネリベ》(ノ)廣足
 サキムリはサキモリを訛れるなり。サワギはトリコミなり。混雜なり。ナルベキは世渡トスベキなり。卷七(一四二四頁)に園ナルの借字に其業《ソノナル》と書けり。今はナルといふ動詞は亡びてそれより出でたる業《ナリ》といふ名詞のみ殘れり○キヌカモは來ヌルカモを終止格にて云へるなり
 
4365 (おしてるや)なにはの津よりふなよそひあれはこぎぬといもにつぎこそ
(4054)於之弖流夜奈爾波能津與利布奈與曾比阿例波許藝奴等伊母爾都岐許曾
 第三句はフナヨソフといふ動詞の連用格なり。意はフナヨソヒシテといはむにひとし○ツギコソは告ゲコソにて告ゲヨカシの意なり
 
4366 ひたちさしゆかむかりもがあがこひをしるしてつけていもにしらせむ
比多知散思由可牟加里母我阿我古比乎志留志弖都祁弖伊母爾志良世牟
     右二首|信太《シダ》郡物部道足
 ツケテは托シテなり
 
4367 あがもてのわすれもしだはつくばねをふりさけみつついもはしぬば弖〔左△〕《ネ》
阿我母弖能和須例母之太波都久波尼乎布利佐氣美都都伊母波之奴波(4055)弖
    右一首|茨城《ウバラキ》郡|占部《ウラベ》(ノ)小龍《コタツ》
 アガモテは我面なり。東歌には
  ささらをぎあしと(オ)ひとごひかたりよらしも(三〇五五頁)
  こまはたぐともわはそとも(オ)はじ(三〇六一頁)
  眞木のいたどをとどと(オ)して(三〇七五頁)
など京人の歌ならば省くまじきオを省けるが少からず○ワスレモは忘ラレムなり。シダは時なり。結句の弖は諸本に尼とあり。シヌバネは、シノベヨカシとなり○卷十四に
  あがおものわすれむしだはくにはふりねにたつくもを見つつしぬばせ(三一二〇頁)
  おもがたのわすれむしだはおほ野ろにたなびくくもを見つつしぬばむ(三一二三頁)
とあると相似たり。二註に
(4056)  此小龍が家、筑波よりは東にあるなるべし。故夫の經行し筑波の方を見てしのべと云なるべし
といへるはいかが。ただ山ヲ見テ我面影ヲ思ヒ浮ベヨといへるのみ。山の方向にかかはらじ。但茨城郡は筑波山の東方に當れり
 
4368 久自がははさけくありまてしほぶねにまかぢしじぬきわはかへりこむ
久自我波波佐氣久阿利麻弖志富夫禰爾麻可知之自奴伎和波可敝里許牟
    右一首久慈都|丸子部《マロコベ》(ノ)佐壯《スケヲ》
 契沖が『發句は久慈郡の母なり』といへるに對して略解に
  久慈にある母をいかでクジガ母とはいふべき。おもふに久慈川者なり
といひて卷九(一六八四頁)なるシラ埼ハサキクアリマテを例に引けり。此説に從ふべし。サケクはサキクの訛、サキクは無事デとなり〇四五の間にイソギテといふこ(4057)とを加へて聞くべし。シホブネは卷十四(三〇五九頁及三一五六頁)にも見えたり。其義はなほ考ふべし
 
4369 つくばねのさゆるのはなのゆどこにもかなしけいもぞひるもかなしけ
都久波禰乃佐由流能波奈能由等許爾母可奈之家伊母曾比留毛可奈之祁
 サユルは小百合、ユドコは夜床、二つのカナシケはカナシキの訛なり○契沖雅澄が初二をユドコのユにかかれる序としたるは非なり。略解にいへる如くカナシケにかかれるなり。東歌の序歌には常格にたがひたるものある事は夙く卷十四(二九七四頁、三〇三八頁等)にいへり○カナシケはカハユキなり。夜床ニ抱キ寢テカハユキ女ガ晝モカハユシといへるなり。第三句のモは除きて心得べし○さて此歌は別に臨みての作にあらず。次なる歌に添へて奉りしのみ
 
4370 (あられふり)かしまのかみをいのりつつすめらみくさにわれはきにし(4058)を
阿良例布理可志麻能可美乎伊能利都都須米良美久佐爾和例波伎爾之乎
    右二首那賀郡上丁大舍人部(ノ)千文
 カシマノカミは同國なる鹿島神宮の御事なり。ミクサは御軍なり。防人は兵士なればミクサといへるなり。キニシは出デ來ニシなり○略解にはキニシヲの下に恙ナク防人仕マツラザラメヤといふことを加へ古義にはイカデイミジキ勲ヲ立ズシテ歸リ來ルベキといふことを補ひて釋けり。按ずるにキニシヲは來ニシヨといはむにひとし。其裏面にサレバ無事ニテ歸ラレルダラウといふばかりの意はあるべけれど深き意はあらじ
 
4371 たちばなのしたふくかぜのかぐはしきつくばのやまをこひずあらめかも
多知波奈乃之多布久可是乃可具波志伎都久波能夜麻乎古比須安良米(4059)可毛
    右一首助丁占部廣方
 那賀郡の助丁なり○橘ノ下吹ク風ノカグハシキソノ筑波山ヲといへるなり。二註に初二を序としたるは非なり。筑波山には今も蜜柑を植ゑて其地方にては筑波蜜柑と稱して賞美する事なり〇一首の意は所詮、故郷を思はざらむやといへるにてその故郷の中には無論家人も含まれたるべけれど家人を筑波山によそへたるにはあらず。さて筑波山は那賀郡よりは遠けれど一國の名山なれば此山を取出でたるなり
 
4372 あしがらの みさかたまはり かへりみず あれはく江《エ》ゆく あらしをも たし夜〔左△〕《シ》はばかる 不破のせき く江《エ》てわはゆく (むまのつめ) つくしのさきに ちまりゐて あれはいははむ もろもろはさけくとまを須〔左△〕《セ》 かへりくまでに
阿志加良能美佐可多麻波理可閉理美須阿例波久江由久阿良志乎母多(4060)志夜波婆可流不破乃世伎久江弖和波由久牟麻能都米都久志能佐伎爾知麻利爲弖阿例波伊波波牟母呂母呂波佐祁久等麻乎須可閉利久麻弖爾
     右一首|倭父〔左△〕部《シドリベ》(ノ)可良麿《カラマロ》
     二月十四日常陸國部領防人使大目正七位上|息長《オキナガ》(ノ)眞人國島(ガ)進(レル)歌數十七首。但拙劣歌者不v取2載之1
 ミサカタマハリは下にも
  いろふかくせながころもはそめましをみさかたばらばまさやかにみむ
とあり。二註に長流宣長の説に從ひてマハリにタを添へたるなりと云へるは從はれず。御坂ノ道ヲ給ハリといふ事にて給ハリといへるは故ある事ならむ。或は御坂ノ神ニ許サレテといふ意にて御坂を越ゆる事を御坂給ハルといひなれしにや。クエユクは越エ行クの訛なり。以上四句とアラシヲモ以下四句と相對せるなり○アラシヲは卷十七なる家持の長歌(三三四一頁)にカクシテヤアラシヲスラニナゲキ(4061)フセラムとあり。又下にもアラシヲノイ乎サタバサミムカヒタチ云々とあり。荒男なり。いにしへウマキ、オホキなどをウマシキ、オホシキといひし如くアラキをアラシキと云ひしかばアラ男をアラシ男といひしなり(三三四五頁參照)○タシはタチの訛なり。多志夜は多志々の誤ならむ。下のシは助辭にてアラシ男モタチ憚ルバカリユユシキ不破關ヲモ越エテ我ハ行クといへるなり○ムマはウマの訛なり。卷十四(三〇一五頁及三〇三〇頁)にウダク、ウラナヘをムダク、ムラナヘといへると同例なり。さて馬ノ爪盡スを筑紫にいひかけて枕辭とせるなり。語例は卷十八(三七八八頁)に
  うまのつめいつくすきはみ、ふなのへのいはつるまでに
 又祈年祭祝詞に馬ノ爪至ル限とあり。ツクシノサキは筑紫の或岬なり○チマリは留《トマ》リの訛なり。イハハムは神ヲ祭リテ身ノ平安ヲ祈ラムとなり○モロモロハは故郷ナル人々ハとなり。マヲ須はマヲ西の誤ならむ。我ヲサキクアレト神ニ申シ祈レといへるなり 倭父部は倭文部の誤なり。その上に郡名又は職名を脱せるにや○倭文部を古義に(4062)シツリベと訓じたるは神代紀なる倭文神の訓註に此云2新圖梨能俄未1とあるに據れるならめどシヅオリの約はシドリなる上に和名抄淡路國三原郡の郷名に倭文(之止里《シドリ》)とあればシドリベと訓むべし
 
4373 けふよりはかへり見なくておほきみのしこのみたてといでたつわれは
祁布與利波可敝里見奈久弖意富伎美乃之許乃美多弖等伊※[泥/土]多都和例波
    右一首火長|今奉部《イママツリベ》(ノ)與曾布《ヨソフ》
 カヘリ見ナクテは顧ル事ナクテとなり。カヘリミは名詞なり。シコノは契沖のいへる如く自謙していへるなり。俗に自謙してケチナといふに似たり
 火長《クワチヤウ》は軍防令に凡兵士十人|爲《セヨ》2一火1とあれば什長なり
 
4374 あめつちのかみをいのりてさつやぬきつくしのしまをさしていくわれは
阿米都知乃可美乎伊乃里弖佐都夜奴伎都久之乃之麻乎佐之弖伊久和(4063)例波
    右一首火長大田部(ノ)荒耳
 サツ矢ヌキは宣長の説に『靭《ユギ》、胡※[竹/録]《ヤナグヒ》などへ矢を貫入れてさすをいふなるべし』といへり。傍廂《カタビサシ》後篇に
、 是は天神地祇を祈るに背矢の上矢を拔き出でて神前に奉り旅中安全任中無難にして歸國恙なからん事を祈るための幣物なり。軍物語に箙より上差の鏑矢拔き取りて神に奉り勝利をいのりし事あまたあり
といへるは從はれず。もしサツ矢ヌキがアメツチノ神ヲイノリテより前にあらばこそ然も聞かめ○さてサツ矢は元來狩獵に用ふる矢の稱なり。兵士の携ふるは征矢《ソヤ》なれどここはただ矢といふ代にサツ矢といへるか。ツクシノ島は九州なり。イクはユクを訛れるなり
  軍防令に凡兵士……毎v人弓一張、弓弦袋一口、副弦二條、征箭五十隻、胡※[竹/録]一具……皆|令《シメヨ》2自備1。不v可2闕少1とあり
 
4375 まつのけのなみたるみればいはびとのわれをみおくるとたたりしも(4064)ころ
麻都能氣乃奈美多流美禮婆伊波妣等乃和例乎美於久流等多多理之母己呂
     右一首火長|物部《モノノベ》(ノ)眞島《マシマ》
 マツノケは松の木なり。但木は方言ならでも古語にケといへる例あり。たとへば景行天皇紀に朝霜ノミケノサヲ橋といへるミケも御木を然いへるなり○イハビトは家人の訛なり。タタリシモコロは立チタリシ如シとなり
 
4376 たびゆきにゆくとしらずてあもししにことまをさずていまぞくやしけ
多妣由伎爾由久等之良受弖阿母志志爾己等麻乎佐受弖伊麻叙久夜之氣
     右一首|寒川《サムカハ》郡上丁川上(ノ)巨老《オホオユ》
 アモシシはオモチチの訛、オモチチは母父なり。コトマヲサズテは物申サズシテな(4065)り○此作者は故ありて俄に防人にさされて兩親に暇乞する畷も得ざりしならむ
 
4377 あもとじ母〔左△〕《ハ》たまにもがもやいただきてみづらのなかにあへまかまくも
阿母刀自母多麻爾母賀母夜伊多太伎弖美都良乃奈可爾阿敝麻可麻久母
    右一首津守(ノ)宿△|小黒栖《ヲグルス》
 初句はアモトジハとあるべし。母はおそらくは巴の誤ならむ。刀自は夫人なり。上(四〇二九頁)にもイマセハハ刀自オメガハリセズとあり。タマニモガモヤは玉ニテモアレカシとなり○ミヅラは上代の男子の髪の風にて左右へ分けて結ひたるをいふ。後には少年の髪の風となり又ビンヅラと訛られき○アヘマクは交へ纏くなり。語例は卷十四(三〇九三頁)にカナシイモヲユヅカナヘマキとあり。ユヅカナヘマキは弓束ニアヘマキをつづめたるなり○マカマクモの語例は卷十四にイルシホノコ|テ《ト》ヤスクモガイリテネマクモ(三一五三頁)またイハクグルミヅニモガモヨ入リ(4066)テネマクモ(三一五四頁)とあり。第三句以下はサラバ頭ニ戴キテ角子《ミヅラ》ノ中ニ交ヘ卷カムニといへるなり。髪中に珍玉を藏めし例は卷三(五〇〇頁)にイナダキニキスメル玉ハフタツナシとあり
 宿の下に諸本に依りて禰の字を補ふべし。郡名丁種は初より無かりしにや
 
4378 つくひ夜はすぐはゆけどもあもししがたまのすがたはわすれせなふも
都久比夜波須具波由氣等毛阿母志志可多麻乃須我多波和須例西奈布母
    右一首|都賀《ツガ》郡上丁|中臣部《ナカトミベ》(ノ)足國《タルクニ》
 古義に夜をヤとよみて
  ヤは助辭なり。かゝる處に此辭をおけるは東歌なるが故なるべし
といへるは非なり○宜しくヨとよみて月日夜ハと心得べし。常はツキヒとのみ云ひて夜を日に兼ぬるをここは晝夜をヒヨと云へるなり。スグハは過ギハの訛なり○(4067)ワスレセナフモは忘レセズモ即忘レズモなり。セズをセナフといふは東語にて卷十四にもセロニアハナフヨ、汝ヲカケナハメ、ワスレセナフモ、アハナハバ、籠ニモミタナフなど云へり(二九九〇頁參照)○玉ノはたたへ辭なり。佛足石歌にもタマノヨソホヒオモホユルカモとあり
 
4379 しらなみのよそるはまべにわかれなばいともすべなみやたびそでふる
之良奈美乃與曾流波麻倍爾和可例奈波伊刀毛須倍奈美夜多妣蘇弖布流
    右一首足利郡上丁|大舎人部《オホトネリベ》(ノ)禰麿《ネマロ》
 ヨソルは寄ルなり。ワカレナバは別レ去《イ》ナバなり。別レテ白浪ノ寄ル濱邊ニ去《イ》ナバといへるなり。第四句はスベナカルベミといふべきをスベナミといへるにて古格に依れるなり
 
4380 なにはどをこぎでてみればかみさぶるいこまたかねにくもぞたなび(4068)く
奈爾波刀乎己岐※[泥/土]弖美例婆可美佐夫流伊古麻多可禰爾久毛曾多奈妣久
     右一首柴田郡上丁大田部(ノ)三成《ミナリ》
 ナニハドは難波津の訛(二註には難波門とせり)カミサブルはカムサブルの訛なり。さてカミサブルは神サビタルにて物フリタルなり〇二註に此歌を激賞したれど初二四五は其世の人ならばいふに難からじ。云ひがたかるべきは第三句のみ
 
4381 くにぐにのさきもりつどひふなのりてわかるをみればいともすべなし
具爾具爾乃佐伎毛利都度比布奈能里弖和可流乎美禮婆伊刀母須弊奈之
     右一首|河内《カフチ》郡上丁神麻續部《カムヲミベ》(ノ)島麿
 船ニ乘リテを一語としてフナノリテといへるなり。ワカルヲは別ルルヲといふべ(4069)きを古格に從へるなり。さてワカルは難波津ニ別ルルなり
 
4382 ふたほがみあしけひとなりあだゆまひわがするときにさきもりにさす
布多富我美阿志氣比等奈里阿多由麻比和我須流等伎爾佐伎母里爾佐酒
    右一首那須郡上丁大伴部(ノ)廣成
 フタホカミを眞淵は
  卷十六佞人を謗る歌にナラヤマノコノテガシハノ兩面ニとよめる此兩面に同じ。カミは神なり
といひ宣長は
  兩小腹なり。ホガミといふは股上《モモガミ》の意なり。故に兩ともいへり。百《モモ》をもホと云。五百《イホ》などの如し
といひ雅澄は
(4070)  フタは太《フト》なるべし。ホガミは小腹《ホガミ》なりと云説によるべし。さて太小腹《フトホガミ》といへる意は臍下の太くこはくて物の憐を知ぬよしにて常に大膽ナルといふ意なるべし
といへり。案ずるにフタホダミは二大上官《フタオホガミ》にて軍團の大毅少毅をいへるならむ。アシケはアシキの訛なり○アダユマヒは宣長の説にアダヤマヒの訛にて疝痛なり
といへり。疝は腹部の急痛にて和名抄に阿太波良と訓ぜり。しばらく宣長の説に從ふべし○サスは指名する事なり(三四三三頁參照)
 
4383 つのくにのうみのなぎさにふなよそひたしでもときにあもがめもがも
都乃久爾乃宇美能奈伎佐爾布奈餘曾比多志※[泥/土]毛等伎爾阿母我米母我母
     右一首塩屋郡上丁|丈部《ハセツカベ》(ノ)足人《タルヒト》
     二月十四日下野國(ノ)防人(ノ)部領使正六位上田口朝臣|大戸《オホヘ》(ガ)進歌數十八首。但拙劣歌者不v取2載之1
(4071) フナヨソヒはフナヨソヒシテと云はむにひとし。上(四〇五三頁)にも例あり○タシデモはタチデムの訛、アモは母《オモ》の訛なり。アモガメモガモは所詮、母ニアハマホシとなり
 部領使の下に介の字をおとせるならむ
 
4384 あかときのかはたれどきにしまかぎをこぎにしふねのたづきしらずも
阿加等伎乃加波多例等枳爾之麻加枳乎己枳爾之布禰乃他都枳之良受母
      右一首助丁|海上《ウナカミ》部海上(ノ)國造他田《ヲサダ》(ノ)日奉《ヒマツ》(ノ)直《アタヒ》得大〔左△〕理《トコタリ》
 代匠記に
  カハタレドキは彼者誰時なり。タソガレドキと云に同じ。凡夕も曉もほのかなれば人の顔もそれと見わきがたく名乘を聞けば夕をもカハタレ時と云ひ曉をもタソガレ時と云べきをタソガレはいつとなく夕に云ひ習ひて曉に云はば耳を(4072)おどろかしぬべし。……カハタレ時は夕にも云べし
といへり○シマカギは島陰の訛なり。コギニシは漕ぎ去《イ》ニシなり。タヅキは消息なり○こは先發の船を思遣りてよめるなり。もし己が上ならば第四句はコギユク船ノなどあるべきなり。古義に第四句までを序とせるはいみじき誤なり
 又古義に續紀及三代實録の通本に海上國造池田(ノ)日奉(ノ)直とあるに據りて他田を池田と改めたるは非なり。續紀(延暦四年正月)なるは異本に他田とあり。又正倉院天平二十年の文書に海上(ノ)國造他〔右△〕田(ノ)日奉部(ノ)直とあり○大は太の誤なり
 
4385 ゆこさきになみなとゑらひしるへにはこを等《ラ》つまを等《ラ》おきて等《ド》もきぬ
由古作枳爾奈美奈等惠良比志流敝爾波古乎等都麻乎等於枳弖等母枳奴
     右一首葛飾郡|私部《キサキベ》(ノ)石島《イソシマ》
 ユコサキはユク先の訛、シルヘはシリヘの訛なり○第二句を契沖以下|浪音《ナミナト》搖《ユ》ラヒ(4073)の意とせり。おそらくは浪ヨ云々スナの意にてナミナは浪莫ならむ。トヱラヒはタユタヒに同じきか。ヨシヤをヨシヱとも云へるを見れば也行と和行とは相通ずべし〇四五を舊訓にコヲラツマヲラオキテラモキヌとよめるを古義にコヲト〔右△〕ツマヲト〔右△〕オキテト〔右△〕モキヌとよみて
  ラと訓るはわろし。此前後の歌の書法によるに、もしラならば良の字を書べし。訓を假字に用ひしとは思はれず。この等は曾に似て輕き辭なり。例は十四にソラユ登キヌヨまたキミヲ等マトモ、此下にイデテ登アガクルなど皆同じ
といへり。このトをゾにかよふ辭とするは契沖の説なり。即代匠記にカナルマシヅミイデテ登アガクルの下に
  イデテトは登と曾と通ずれば出テゾなり
といへり。案ずるに此卷の書式は正訓の外は字音を借れるが例なれど稀にはハ名ニ、ウチ江スル、ク江ユク、ワスレカネ津ルなど書ける例あり。されば子ヲラ妻ヲラのラに等の字を借るまじきにあらず。否この等《ラ》は正訓とも認むべし。飜りて古義の説の如くトとよみて輕きゾとせむに子ヲゾ妻ヲゾといひて更にオキテゾモキヌと(4074)はいふべからず。さればなほ舊訓の如くコヲラツマヲラとよむべし。さて子ヲラ妻ヲラは子ラヲ妻ラヲといはむに齊しかるべし。然らば子ラヲ妻ラヲを子ヲラ妻ヲラとも云ふべしやといふに卷五(九八五頁)に病|遠等《ヲラ》クハヘテアレバといひ又卷十四(三一六〇頁)にアメヲマトノスキミヲ等《ラ》マトモといへる例あり。又卷十四(三一七頁)にコトヲロハヘテイマダネナフモとあるも言ヲラといはむに齊し○かく第四句の等はラとよむべけれど結句の等はラとはよみがたし。かかる處にラをつかへる例無ければなり。おそらくはこの等は曾の誤ならむ。卷十四(三〇二二頁)に
  伊香保ろにあまぐもいつぎかぬまづくひと登おたばふいざねしめとら
とあるを同じ卷の下(三一二二頁)に
  いはのへにいかかるくものかぬまづくひと曾おたばふいざねしめとら
としたればなり。又按ずるに右の
  伊香保ろにあまぐもいつぎかぬまづくひと登おたばふいざねしめとら
の外に卷十四に
  しもつけぬあそのかはらよいしふまずそらゆ登きぬよながこころのれ(三〇三(4075)五頁)
 又此二十の卷の下に
  あらしをのい乎さたばさみむかひたちかなるましづみいでて登あがくる
とある登を悉く楚曾などの誤とせむもいかにか。或は京語にゾをド又はトと訛りしにあらざるか。今の言語にもゾをドと訛る事あり(蘭語のゾンダーグをドンタクと訛れる如き其著例なり)○さてゾの下にモを添へたるは玉緒卷七(十五丁)に
  わがまちし秋はきたりぬしかれども萩のはなぞもいまださかずける(卷十)
  あひ見ては戀なぐさむと人はいへど見て後にぞもこひまさりける(卷十一)
の外二首の例を擧げたり。次にオキテゾモといはばキヌルといふベきをキヌといへるは正しからぬ事なれど東歌には例ある事なり。即上(四〇四三頁)に
  あしがきのくまどにたちてわきもこがそでもしほほになきしぞもはゆ
とあり。特に上に擧げたるソラユ登キヌヨと此卷の下なる
  からごろもすそにとりつきなくこらをおきてぞきぬやおもなしにして
とは今のオキテ等モキヌと相似たる例なり〇一首の意は
(4076)  シリヘニハ妻子ヲオキテ來ヌレバサラヌダニ心ノ進マヌニイカデ行先ニ大浪ノトヱラヒテ〔五字傍点〕心ヲ挫カザラナム
といへるにや。トヱラヒの意の明ならざる間〔日が月〕は確には釋きがたし
 私部はキサキベとよむベし。キサイベと唱ふるは音便なり。栗田博士が播磨風土記の私部をキサイチベとよめるは私《キサイ》と私市《キサイチ》とを混同せるなり。さて私をキサキとよむ所以は伴信友の上野國三碑考(全集第二の六八〇頁)に
  私部は書紀敏達の卷に六年二月甲辰朔詔置2日祀《ヒマツリ》部、私部1と見えたり。此私部を釋紀にキサイベと訓み姓名録抄、拾芥抄なる姓戸部にも載せて其訓同じ。印本の訓にキサイチとあるは後世に私市といへる氏のあるに混ひたるものなるべし。さて私字をキサイとよめる由は前漢書の張放傳に大官私官とある下《トコロ》の服虔が注に私官(ハ)皇后之官と見えまた後漢書百官志に中宮私府令一人とも見えたり。私字を后の稱に用ひたる漢國の例に據りたる書ざまとぞきこえたる。かくて私部をキサイベと唱ふは中昔よりの音便にてうるはしくはキサキベと唱ふべきなり
といへり
 
(4077)4386 わがかづのいつもとやなぎいつもいつもおもかこひすな|△《ム》なりまし都之〔左△〕母《ツツモ》
和加々都乃以都母等夜奈枳以都母以都母於母加古比須奈奈理麻之都之母
     右一首結城郡|矢作部《ヤハギベ》眞長
 カヅは門の訛なり。イツモトヤナギを契沖は
  陶淵明が五柳先生傳に依てよめる歟、おのづから五本の柳ありければよめる歟知べからず
といへり。實際五株の柳ありしかば五柳先生傳をも思ひてワガカヅノイツモトヤナギといへるならむ。初二は序なり○イツモイツモの語例は
  妹が家にさきたる梅のいつもいつもなりなむ時に事は定めむ(卷三)
  河上のいつもの花のいつもいつも來ませ我背子ときじけめやも(卷四)
  道のへのいつしば原のいつもいつも人のゆるさむ言をし待たむ(卷十一)
(4078)とあり。以上は皆イツナリトモの意なれどここは常の意のイツモイツモなり〇四五心得がたし。まづオモは母なり。又都之母は契沖のいへる如く都々母の誤なる事明なり。さて結句のマシは敬語のマシとおぼゆれば第四句の古比須奈は母の所作ならざるべからず。而して之を母の所作とせばラムといふ現在想像の辭を用ひざるべからず。然るに下に
  國々の社の神に幣まつり阿加古比須奈牟いもがかなしさ
とあり。その阿加は阿爾の誤なるべくコヒスナムは戀スラムの訛とおぼゆ。此を以て彼を照すに於母加古比須奈は下に牟をおとせるにてそのオモカコヒスナムは母カ戀スラムなるべし(カは清むべし。ヤに通ふカなり)。さてナリマシツツモは世ワタリノ業ヲシタマヒツツモなり。ナリの事は上(四〇五三頁)にいへり
 
4387 ちばのぬのこのてがしはのほほまれどあやにかなしみ於〔左△〕枳弖他加〔左△〕枳奴《オキテタチキヌ》
知波乃奴乃古乃弖加之波能保保麻例等阿夜爾加奈之美於枳弖他加枳(4079)奴
     右一首千葉郡大田部(ノ)足人
 チバノヌは千葉の野なり。コノテガシハははやく卷十六に奈良山ノコノテガシハノ兩面ニとあり。漢名側柏といひて其葉檜に似たるものなりといへれどいかがあるべき。側柏の葉はホホマルといふべきにあらざればなり。おそらくはハハソの一種ならむ(三四〇六頁參照)○ホホマレドはフフマレドの訛なり。フフマルの語例は卷十四に
  あどもへか阿自久麻やまのゆづる葉のふふまる時に風ふかずかも
とあり○ここのカナシミはカハユサニなり。他加枳奴を略解には和ガキヌの誤とし古義にはタ知キヌの誤とせり。後者に從ふべし。さてホホマレドといひてオキテとは云ふべからず。於キテは麻キテの誤にあらざるか○上三句は女のまだ稚きをたとへたるなり。古義に初二を序とせるは非なり
 
4388 たびとへ等《ド》またびになりぬいへのもがきせしころもにあかつきにか(4080)り
多妣等弊等麻多妣爾奈理奴以弊乃母加枳世之己呂母爾阿加都枳爾迦理
     右一首占部虫麿
 トヘドはトイヘドなり。但ドといへる穩ならぬここちす。旅ハクルシキモノトイヘドといふ意にや。マタビは眞旅にてかりそめの旅のうらなるべし〇二三の間〔日が月〕にサレバコソといふことを補ひて聞くべし。イヘノモは家ノ妹なり。カリはケリを訛れるなり○卷十五なる
  わがたびはひさしくあらしこのあがけるいもがころものあかづくみれば
と似たる所あり
 占部虫麿の上に郡名なきは前者と同郡なれば略せるか。又はおとせるか
 
4389 しほぶねのへこそしらなみにはしくもおふせたまほかおもはへなくに
(4081)志保不尼乃弊古祖志良奈美爾波志久母於不世他麻保加於母波弊奈久爾
    右一首|印波《イナバ》郡丈部(ノ)直《アタヒ》大歳
 へコソは舳コスなり。初二は序なり。ニハシクモは俄ニなり。オフセタマホカはオホセタマフカにてそのカはカナなり。オモハヘナクニは思ヒ敢ヘナクニをつづめたるにて得心スル間〔日が月〕モ無キニとなり○出發の期に迫りて命を受けしをわび云へるなり
 略解に
  和名抄下總國印幡と有て訓註なし。今インバととなふれどしかにはあらじ。イバとかイニハとか唱へしならん
といひ古義にはイニハとよめり。按ずるにイナバとよむべし。郡中に稻葉村あり
 
4390 (牟浪〔左△〕他麻乃《ムバタマノ》)くるにくぎさしかためとしいもがここりはあよぐなめかも
(4082)牟浪他麻乃久留爾久枳作之加多米等之以母加去去里波阿用久奈米加母
     右一首|※[獣偏+爰]島《サシマ》郡刑部《オサカベ》(ノ)志加麿
 契沖雅澄は初句を字のままによみて群玉ノ轉《クル》とかかれる枕辭とし略解には浪を波の誤としヌバタマノの訛として
  戸の枢《クル》と黒と音通へばヌバタマの枕辭を冠らせたり
といへり。略解の説に從ふべし。或は云はむ。ヌバタマをムバタマと云はむこといかがと。答へて云はむ。此語を後世ウバタマともムバタマとも訛れるを見れば上代なりとも邊鄙にては然訛るまじきにあらず。ヌを直にムと訛れる例こそ見えざれ、ヌをウと訛り更にウをムと訛らむことあるべきにあらずやと○クルはクルルとも云へり。クルクルの略とおぼゆ。穿《アナ》に木をさしこめて戸を開閉せしむる機なり。クギサシの例は卷十六(三三八四頁)に家ナルヤ櫃ニ※[金+巣]《クギ》サシヲサメテシとあり○カタメトシは固メテシの訛なり。ココリは心なり○アヨグナメカモを略解に『危クハアラジといふを東語にかくいへり』といひ古義に『危ク無ミカモにてアハレ危クハアラ(4083)ジカといふ意なり』といへり。按ずるにアヨグナメカモとクを濁りてアヨギナムカモの轉訛とすべし。アヨグはアユグの古語にて搖ぐ事なり。出雲風土記に
  阿用郷……或人此處(ノ)山田(ヲ)佃《ツクリテ》而|守之《マモリキ》。爾時目一(ノ)鬼來而食2佃人《タツクリ》之男1。爾《ソノ》時男之父母竹原(ノ)中(ニ)隱而|居《ヲリキ》之。時竹葉|動《アヨギキ》之。爾《ソノ》時|所v食《クハユル》男云2動々《アヨアヨ》1。故云2阿欲《アヨ》(ト)1(神龜三年改2字阿用1)
とあり。さればアヨグナメカモは動カムヤハなり
 
4391 くにぐにのやしろのかみにぬさまつり阿加〔左△〕《アニ》こひすなむいもがかなしさ
久爾具爾乃夜之呂乃加美爾奴佐麻都理阿加古比須奈牟伊母賀加奈志作
    右一首結城郡|忍海部《オシミベ》(ノ)五百麿
 クニグニは處々といふ事なるべし。交通不便なる時代に婦女が諸國の神社に奉幣せむ事想像すべからざればなり。コヒスナムはコヒスラムを訛れるなり。されば阿加は阿爾の誤として吾ニの意とすべし。但集中に吾《ア》ニといへる例は無し。宣長が
(4084)  アガコヒは贖乞なり。アガフ命なども有類也。コヒもコヒノミのコヒ也
といへるは從はれず
 
4392 あめつしのいづれのかみをいのらばかうつくしははにまたことどはむ
阿米都之乃以都例乃可美乎以乃良波加有都久之波波爾麻多己等刀波牟
    右一首|埴生《ハニフ》郡大伴部(ノ)麻與佐《マヨサ》
 アメツシはアメツチの訛なり。略解に
  之と知と通へる例なし。此末に阿米都之とあり。共に誤れるならんか
といへるはいみじき誤なり。ツクタシ(月立チ)トリハナシ(取放チ)ヘダシニ(ヘダチニ)イヅシ(イヅチ)タシ夜ハバカル(タチシ憚ル)アモシシニ(母《オモ》父ニ)タシデモトキニ(タチ出ム時ニ)ハルモシ(針モチ)などチをシと訛れるは東語にては常の事ならずや。否雅言にも例あるにあらずや○ウツクシハハはウツクシキ〔右△〕母のキを省けるにてカハ(4085)ユキ母といふ事なり。コトドフはモノ言フなり。三四の間〔日が月〕に恙ナク歸リテといふことを補ひて聞くべし。古義に公役ノ限ニアラズシテと補譯せるは三年ノ任期ヲ經ズシテといへるにて誤解なり
 
4393 おほきみのみことにさればちちははをいはひ弊〔左△〕等《モト》おきてまゐでき麻〔左△〕《ニ》しを
於保伎美能美許等爾作例波知知波波乎以波比弊等於枳弖麻爲弖枳麻之乎
     右一首結城郡|雀部《ササキベ》(ノ)廣島
 ミコトニサレバは御言ニシアレバのシアをつづめてサといへるなり○第四句を略解に
  父母をいはひべの如く大切にして故郷に置てといふ也
と釋し古義に
  イハヒベトシテ置テといはむが如し。この等の辭は家ト住ム、玉卜拾ハムなどい(4086)ふ等にてトシテの意なり
と釋せり。共に穩ならず。もとイハヒ物等オキテとありてイハヒモチオキテの意なりしを
  東語にチをトと訛れるは卷十四(三〇八九頁)にコチタカリツモをコ等タカリツモといへる例あり。特にここは下に於の言あればそれに引かれてトとも云ふべし
 轉寫の際に物の字消えて分かざりしかばさかしらに弊の字を書きしにはあらざるか。もしイハヒモチオキテならばそのイハヒは無事ナレカシト祈リテといふ事なり○マヰデ枳麻之乎の麻は諸本に尓とあるに從ふべし。キニシヲは來ニシヨなり。上(四〇五七頁)にスメラミクサニワレハ來ニシヲとあるにひとし。古義に『乎はモノヲの意なり』といへるは非なり
 
4394 おほきみのみことかしこみゆみのみにさねかわたらむながけこのよを
於保伎美能美己等加之古美由美乃美仁佐尼加和多良牟奈賀氣己乃用(4087)乎
    右一首相馬郡大伴部(ノ)子羊
    二月十六日下總國防人部領使少目從七位下縣(ノ)大〔左△〕養《イヌカヒ》(ノ)宿禰|淨人《キヨヒト》進歌數二十二首。但拙劣歌不v取2載之1
 ユミはイメの訛なり。サネはサ寢テにてサは添辭なり。古義に云へる如く女ト相寢シテの意なり。夢ノミニサ寢テとつづけるなり。略解に夢ノミニの下に見テを補ひて釋せるは非なり○ワタラムを二註に年月ヲ經渡ラムの意とせるは甚しきひが言なり。ここのワタラムはコノ夜と指せる一夜の事なり。ナガケは長キを訛れるなり。されば第三句以下は夢ニノミ相寢テカ長キ此夜ヲ明サムと譯すべし
 大養は犬養の誤なり
 
   獨借2龍田山櫻花1歌一首
4395 たつたやま見つつこえこしさくらばなちりかすぎなむわがかへると禰〔左△〕《ニ》
(4088)多都多夜麻見都都古要許之佐久良波奈知利加須疑奈牟和我可敝流刀禰
 下にも同じ作者の作れる
  ふふめりしはなのはじめにこしわれやちりなむのちにみやこへゆかむ
といふ歌あり○見ツツはサクラ花に屬しコエコシは龍田山に屬せるなり○禰は諸本に爾とあるに從ふべし。トニは時ニなり。その例は近くは卷十九(三八四五頁)に河ノセニキリタチワタレサヨフケヌトニとあり。さてここはカヘラヌトニと云ふべきに似たり
 
   獨見2江水(ニ)浮漂(ヘル)△糞1怨2恨貝玉不1v依作歌一首
4396 ほり江よりあさしほみちによるこつみかひにありせばつとにせましを
保理江欲利安佐之保美知爾與流許都美可比爾安里世婆都刀爾勢麻之乎
(4089) 契沖の云へる如く糞の上に木をおとせるなり。木糞は木屑にてやがてコツミなり。貝玉は即眞珠なり○アサシホミチは朝潮の滿つ事を一語の名詞としたるなり
 
   在2舘門1見2江南美女1作歌一首
4397 見わたせばむかつをのへのはなにほひてりてたてるははしきたがつま
見和多世婆牟加都乎能倍乃波奈爾保比弖里※[氏/一]多弖流婆波之伎多我都麻
   右三首二月十七日兵部少輔大伴△△家持作之
 館は略解に『防人の難波に逗留の間〔日が月〕の館なるべし』といへる如し。兵部省の出張所なり。古義に『館門は離宮の南門なり』といへるは上なる陳2私拙懷1歌の註に
  八歳春難波に行幸あらむとて七歳の春より御用意ありて卿大夫を難波に下されしに家持卿兵部少輔なりければ兵器儀仗の事等を掌るによりて下られしがあらかじめ行幸のありしほどの意になりてよまれけるなるべし
(4090)といへると首尾を合せたるにていみじき誤なり。さてその兵部省所屬の館はここに在2館門1見2江南美女1とあり又上にホリ江ヨリアサシホミチニヨルコツミとあるを見れば難波堀江の北岸にありしなり○堀江江南の語例は後のものながら聖徳太子傳暦に自2茨田堤1直投2堀江1宿2江南(ノ)原1とあり
 ハナニホヒは上(四〇〇四頁)なる同じ作者の歌にモノノフノヲトコヲミナノ花ニホヒ見ニとあれど此は彼とはちがひて花ノニホフ如クといふべきを名詞にしてハナニホヒといへるなり。川を隔てて美女の立てるを打向ふ山に花のにほへるに譬へたるなり○テリテはカガヤキテなり。結句はタガハシキ妻とあるべきなり○大伴の下に宿禰をおとせり
 
   爲《ナリテ》2防人(ノ)情1陳v思作歌一首并短歌
4398 大王《オホキミ》の みことかしこみ つまわかれ かなしくはあれど 大夫△《マスラヲノ》 情《ココロ》ふりおこし とりよそひ 門出をすれば (たらちねの) ははかきなで泥〔□で囲む〕 (若草の) つま波〔□で囲む〕とりつき 平《タヒラ》けく われはいははむ 好去(4091)而《サキクユキテ》 早還|來《コ》と まそでもち なみだをのごひ むせびつつ 言語《コトドヒ》すれば (群《ムラ》島の) いでたちがてに とどこほり かへりみしつつ いやとほに 國をきはなれ いやたかに 山をこえすぎ (あしがちる) 難波にきゐて ゆふしほに 船をうけすゑ あさなぎに へむけこがむと さもらふと わがをるときに 春霞 しま米〔左△〕《ミ》にたちて たづがねの 悲鳴《カナシクナケ》ば はろばろに いへをおもひで おひそ箭の そよとなるまで なげきつるかも
大王乃美己等可之古美都麻和可禮可奈之久波安禮特大夫情布里於許之等里與曾比門出乎須禮婆多良知禰乃波波可伎奈※[泥/土]泥若草乃都麻波等里都吉平久和禮波伊波波牟好去而早還來等麻蘇※[泥/土]毛知奈美太乎能其比牟世比都都言語須禮婆群島乃伊※[泥/土]多知加弖爾等騰己保里可弊里美之都々伊也等保爾國乎伎波奈例伊夜多可爾山乎故要須疑安之我知流難波爾伎爲弖由布之保爾船乎宇氣須惠安佐奈藝爾倍牟氣許我牟等(4092)佐毛良布等和我乎流等伎爾春霞之麻米爾多知弖多頭我禰乃悲鳴婆波呂波呂爾伊弊乎於毛比※[泥/土]於比曾箭乃曾與等奈流麻※[泥/土]奈氣吉都流香母
 ツマワカレは妻ニ別ルル事ガとなり。上(四〇二四頁)にも例あり○大夫の下に乃の字のおちたるなり。語例は卷十七なる同じ作者の歌(三五四一頁)に大王ノマケノマニマニ大夫ノ情フリオコシとあり。トリヨソヒは俗語の支度シテなり○ハハカキナデ泥、ツマ波トリツキの泥と波とは元暦校本に無し。宜しく刷りて共に六言の句とすべし。又もしツマ波トリツキをさて置かむと思はばハハカキナデ泥はハハ波カキナデの誤とすべし○イハハムは祈ラムなり。好去而を二註にマサキクテとよみたれどカヘリコといふ前にまづ行く事を云ふべきなればサキクユキテとよむべし。卷五なる好去好來歌にも佐伎久伊麻志弖ハヤカヘリマセとあり(三五三五頁參照)○マソデは兩袖なり。ヌグヒを能其比《ノゴヒ》といへるははやく語辭の轉ぜるなり○イデタチガテニは出デ立チ敢ヘズなり。トドコホリは躊躇するなり○イヤトホニ以下四句は卷二(一八〇頁)なる人麿の歌にイヤトホニ里ハサカリヌ、イヤ高ニ山モコエキヌとあるを取れるなり○ヘムケコガムトは舳ヲ行方ニ向ケテ漕ギ去《イ》ナム(4093)トテとなり。サモラフトは天候ヲウカガフトテどなり○シマ米は契沖のいへる如くシマ未の誤にて島囘なり○オヒソヤは負ヒクル征矢といふことを一語としたるなり。二註にい『ソヤといふを受けてソヨとはいへり』と云へるはわろし。ソヤとソヨと相似たる音の重なれるは偶然なり。語例は卷十二に
  さよふけて妹を念出しきたへの枕もそよに嘆きつるかも
 又卷十三(二八三七頁)にコノ床ノヒシトナルマデ嘆キツルカモとあり。終三句はめでたし
 
   反歌
4399 うなばらに霞たなびきたづがねのかなしきよひはくにべしおもほゆ
宇奈波良爾霞多奈妣伎多頭我禰乃可奈之伎與比波久爾弊之於毛保由
 クニベは國方なり
 
4400 いへおもふといをねずをればたづがなくあしべもみえずはるのかすみに
(4094)伊弊於毛負等伊乎禰受乎禮婆多頭我奈久安之弊毛美要受波流乃可須美爾
    右十九日兵部少輔大伴宿禰家持作之
 二註にアシベモのモを重く見て『まして國の方は見ゆべくもなきを歎くなり』といへるは非なり。ただ鶴の聲は聞えてその啼くあたりの見えざる春夜の趣をうたへるのみ
    ○
4401 からごろもすそにとりつきなくこらをおきてぞきぬやおもなしにして
可良己呂茂須曾爾等里都伎奈苦吉良乎意伎弖曾伎怒也意母奈之爾志弖
     右一首國造|〔左△〕少縣《チヒサガタ》郡|他田《ヲサダ》(ノ)舎人《トネリ》大島
 オキテゾ來ヌルといふべきをオキテゾ來ヌといへるはたがへり。助辭のヤの有無(4095)はゾの結にかかはらず○オモは母なり。その母は契沖のいへる如く作者の母にあらずして子らの母なり。さてオモナシニシテはオキテゾキヌヤにかかれるにあらず。ナク子ラにかかれるなり。所詮、母ナキ子ラノ我ヲ慕フヲ殘シテ立チ來ヌといへるなり
 ここに國造とあり次に主帳とあるは上なる遠江及上總の處と參照するに國造丁、主帳丁の丁を省きたるならむ。下にも主帳荏原郡物部歳徳とあり。少縣は諸本に小縣とあり
 
4402 (ちはやぶる)かみのみさかにぬさまつりいはふいのちはおもちちがため
知波夜布留賀美乃美佐賀爾怒佐麻都里伊波負伊能知波意毛知知我多米
     右一首主張〔左△〕|埴科《ハニシナ》郡|神人部《カムトベ》(ノ)子忍男《コオシヲ》
 カミノミサカは又信濃の御坂といひて信濃より美濃に出づる路なり。カミノとい(4096)へるはかしこくさがしき坂なればなり。木曾路とは同じからず。これより南方にありて早く開けし路なり。記傳卷二十八(一六七二頁)にくはしく云へり。就いて見べし○イハフは祈ルなり。オモチチは母父なり。卷十一(二二六五頁)にイハフ命モ妹ガ爲コツ又卷十二(二七二七頁)にアガフ命ハ妹ガ爲コソとあり○主張は主帳の誤なり
 
4403 おほきみのみことかしこみあをぐむのたなびくやまをこ江〔左△〕《ヨ》てきぬかむ
意保伎美能美己等可之古美阿乎久牟乃多奈妣久夜麻乎古江弖伎恕〔左△〕加牟
     右一首|少〔左△〕長谷部《ヲハツセベ》(ノ)笠麿
     二月二十二日信濃國防人部領使上v道得v病不v來〔六字左△〕進歌數十二首。但拙劣歌者不v取2載之1
 アヲグムはアヲグモの訛なり。青雲は白雲なり。青天にあらず。多奈ビクは異本に等能ビクとあり。トノビクはタナビクの訛なり。なほタナグモリを又トノグモリとい(4097)ふが如し○江は諸本に与とあり。コヨテはコエテの訛なり。キヌカムは來ヌカモなり。來ヌルカモといふべきをかく云へるは例の如く古格に從へるなり○恕は怒の誤なり
 上道得病不來の六字は註文と認むべし。元暦校本には小書せり
 
4404 なにはぢをゆきてくまでとわぎもこがつけしひもがをたえにけるかも
奈爾波治乎由伎弖久麻弖等和藝毛古賀都氣之非毛我乎多延爾氣流可母
     右一首助丁|上毛野《カミツケヌ》(ノ)牛甘《ウシカヒ》
 筑紫は難波を經て行く道なればナニハ路といへるか。いぶかし。或はナニハヂは難波津を訛れるか。ヲはヨリなり。經テなり○クルマデをクマデといへるは古格に依れるなり
 
4405 わがいもこがしぬびにせよとつけしひもいとになるともわはとかじ(4098)とよ
和我伊母古我志濃比爾西餘等都氣志比毛伊刀爾奈流等母和波等可自等余
     右一首朝倉益人
 京語にてはワガイモコをつづめてワギモコといふを如法《ニヨハフ》にワガイモコと云へるは鄙人のものいひなり。シヌビはやがてカタミなり○第四句は紐ガ痩セテ絲ニナルトモとなり。語例は卷十一(二三五五頁)にアヤムシロ緒ニナルマデニ君ヲシ待タムとあり○トヨのヨは俗語のサに當れり。ここは我ハ解カジトサ思フと補譯すべく古今集なる
  やよやまて山ほととぎすことづてむわれ世の中にすみわびぬとよ
はスミワビヌトサ言傳テムと第三句にかけて譯すべし。此辭は大鏡道隆傳に
  この帥殿(○隆家)は花山院とあらがひごと申させ給へりしはとよ
 おなじく昔物語に
(4099)  それに女房の御心のおほけなさはさばかりの事をすだれおろして渡り給ひにしはとよ
など又十訓抄可v施2人惠1事の四十八に「源氏物語にあるかとよ」とありて平安朝中期以後の文には多く見えたり
 
4406 わがいはろにゆかもひともが(くさまくら)たびはくるしとつげやらまくも
和我伊波呂爾由加毛比等母我久佐麻久良多妣波久流之等都氣夜良麻久母
     右一首大伴部|節麿《ヨマロ》
 イハロは家をイハと訛りそれにロを添へたるなり。家をイハロといひなれたるが故に六言となるをも嫌はずワガイハロニといへるなり○ツゲヤラマクモは告ゲ遣ラムニとなり。上(四〇六五頁)にミヅラノナカニアヘマカマクモとあると同例なり
 
(4100)4407 (ひなぐもり)うすひのさかをこえしだにいもがこひしくわすらえぬかも
此奈久母理宇須此乃佐可乎古延志太爾伊毛賀古比之久和須良延奴可母
     右一首|池〔左△〕田部《ヲサダベ》(ノ)子磐前《コイハサキ》
     二月二十三日下〔左△〕野國防人部領使大目正六位下上毛野《カミツケヌ》(ノ)君駿河進歌數十二首。但拙劣歌者不v取2載之1
 第三句は僅ニ碓日ノ坂ヲ越エシニダニとなリ
 上なる子羊、子忍男并にここの子磐前は父子同名なリしによリて子には子を添へて稱せしならむ
 下野國は諸本及目録に上野國とあり。之に從ふべし。下野國の分ははやく出でたり○正六位下の六は八の誤にあらざるか
 
   陳2防人悲別之情1歌一首并短歌
(4101)4408 大王《オホキミ》の まけのまにまに 島守《シマモリ》に わがたちくれば (ははそばの) ははのみことは みものすそ つみあげかきなで (ちちのみの) ちちのみことは (たくづぬの) しらひげのうへゆ なみだたり なげきのたばく (かこじもの) ただひとりして あさとでの かなしき吾子 (あらたまの) としのをながく あひみずば こひしくあるべし 今日だにも ことどひせむと をしみつつ かなしびいませ (若草の) つまもこどもも をちこちに さはにかくみゐ (春鳥の こゑの)さまよひ しろたへの そでなきぬらし たづさはり わかれがてにと ひきとどめ したひしものを 天〔左△〕皇《オホキミ》の みことかしこみ (たまほこの) みちに出立《イデタチ》 をか之《ノ》さき いたむるごとに よろづたび かへり見しつつ はろばろに わかれしくれば おもふそら やすくもあらず こふるそら くるしきものを (うつせみの) よのひとなれば (たまきはる) いのちもしらず 海原の かしこき(4102)みちを しまづたひ いこぎわたりて ありめぐり わがくるまでに たひらけく おやはいまさね つつみなく つまはまたせと すみのえの あがすめがみに ぬさまつり いのりま宇〔左△〕《ヲ》して なにはづに 船をうけすゑ やそかぬき かこととのへて あさびらき わはこぎでぬと いへにつげこそ
大王乃麻氣乃麻爾麻爾島守爾我〔左△〕我多知久禮婆波波蘇婆能波波能美許等波美母乃須蘇都美安氣可伎奈※[泥/土]知知能未乃知知能美許等波多久頭怒能之良比氣乃宇倍由奈美太多利奈氣伎乃多婆久可胡自母乃多太比等里之※[氏/一]安佐刀※[泥/土]乃可奈之伎吾子安良多麻乃等之能乎奈我久安比美受波古非之久安流倍之今日太仁母許等騰比勢武等乎之美都都可奈之備伊麻世若草之都麻母古騰母毛乎知己知爾左波爾可久美爲春鳥乃己惠乃佐麻欲比之路多倍乃蘇※[泥/土]奈伎奴良之多豆佐波里和可禮加弖爾等比伎等騰米之多比之毛能乎天皇乃美許等可之古美多麻保己乃美知爾(4103)出立乎可之佐伎伊多牟流其等爾與呂頭多比可弊里見之都追波呂波呂爾和可禮之久禮婆於毛布蘇良夜須久母安良受古布流蘇良久流之伎毛乃乎宇都世美乃與能比等奈禮婆多麻伎波流伊能知母之良受海原乃可之古伎美知乎之麻豆多比伊己藝和多利弖安里米具利和我久流麻泥爾多比良氣久於夜波伊麻佐禰都都美奈久都麻波麻多世等須美乃延能安我須賣可未爾奴佐麻都利伊能里麻宇之弖奈爾波都爾舩乎宇氣須惠夜蘇加奴伎可古登登能倍弖安佐婢良伎和波己藝※[泥/土]奴等伊弊爾都氣己曾
 島守を舊訓以下皆サキモリとよめり。按ずるにもしサキモリとよむべくば埼守前守などこそ書くべけれ。卷四(七〇四頁)なるワガ戀ニアニマサラジカオキツ島守又卷七(一三五二頁)なるコトシユク新島守ガ麻ゴロモと共に皆シマモリとよむべし。さてそのシマモリはサキモリの別稱とすべし○ミモノスソツミアゲカキナデを二註に
  母の御裳の裾をつまみあげて子の頭あるは衣裳を掻撫つくろふさまなり
(4104)といへるは非なり。母が其裳を摘上げ又掻撫づるなり。上に(同じ作者の歌に)トリヨソヒ門出ヲスレバ、タラチネノ母ハカキナデ、若草ノ妻ハトリツキとあるとは自他相齊しからず○ウヘユは上ニなり。タリは垂《タラ》シなり。いにしへは自他共にタリといひしなり。ノタバクはノタマハクなり。タマフを古語にはタブといひしなり(卷二【一七七頁】參照)○タダヒトリシテは唯獨ニテなり。アサトデは朝に門出するなり。但アサトデスルといはではタダヒトリシテの収まる處なし○コトドヒセムトは飽クバカリ物言ヒカハサムトテとなり。ヲシミツツは別ヲ惜ミツツなり。イマセはイマセバなり○カクミヰは我ヲ圍ミ居となり。サハニは無論子どものみを指していへるなり○春鳥は二註の如くハルトリとよむべし(舊訓にはウグヒスとよめり)。さてコヱノまでを枕辭とすべし。サマヨフはサケブのうらにて聲高からず啼くをいふ。はやく卷二(二七六頁)に春鳥ノサマヨヒヌレバとあり○タヅサハリは我手ヲ握リテとなり。ワカレガテニトは別レ敢ヘズなり。敢ヘズをガテニトといふは知ラズをシラニトといふと同例なり○天皇は古義に從ひて大皇の誤としてオホキミとよむべし○ヲカ之サキの之は卷中の例を見るに乃とあるべし。現に乃と書ける本あり。但(4105)下にウヱ木之樹間ヲ、年之始ノなど取外したる例もあり○ヲカノサキのサキは鼻なり。イタムルのイは添辭、タムルは契沖雅澄のいへる如く廻ルなり。略解に『タムルは丘の撓みたる所をいふ』といへるはいみじき誤なり○オモフソラ、コフルソラのソラは氣分といふばかりの意なり。さてクルシキモノヲは苦シカリケリ、サテと改めて心得べし。調の爲に枉げて下へつづけたるなり○イノチモシラズはイツ死ナム壽命トモ知ラヌガと俗語ならばいふべき處なり○イコギのイは添辭なり。アリメグリは上(四〇二一頁)なる同じ作者の歌にアリメグリ事シヲハラバ、ツツマハズカヘリキマセトとあり。行キ廻リツツとなり。クルマデニは還リ來ルマデなり。イマサネはイマセ、マタセは待タシャレなり○スミノエノ神が海路を守る神なる事、人の知れる如し。アガといへるは親しみて云へるなり。スメガミはもと皇統の神なるを轉じてただに神の尊稱としたるなり。はやく卷十三にも山科ノイハ田ノモリノスメ神ニヌサトリムケテといひ卷十七なる家持の二上山拭にもスメガミノスソミノ山ノ云々といへり○マヲシテをマウシテと訛れる例は上にも見えたり。但ここは諸本に乎とあれば宇とあるは誤寫にてもあるべし○ヤソカはアマタノ楫、ト(4106)トノヘテは呼び集むる事、アサビラキは朝に船出する事にて皆上に例あり。アサビラキは名詞にあらず。アサビラキシテといふ意なり○イヘニは家人ニなり。終の句どもは上(四〇五二頁)なる防人の歌に
  なにはづにみふねおろすゑやそかぬきいまはこぎぬといもにつげこそ
とあるに似たり○我我は諸本に和我とあり
 
    反歌
4409 いへびとのいはへにかあらむたひらけくふなではしぬとおやにま宇〔左△〕《ヲ》さね
伊弊妣等乃伊波倍爾可安良牟多比良氣久布奈※[泥/土]波之奴等於夜爾麻宇佐禰
 イハヘニカはイハヘバニカにて祈レバニヤなり。ここの宇も諸本に乎とあり
 
4410 みそらゆくくももつかひとひとはいへどいへづとやらむたづきしらずも
(4107)美蘇良由久々母母都可比等比等波伊倍等伊弊頭刀夜良武多豆伎之良受母
 アマトブヤ雁ヲツカヒニエテシガモ(卷十五)といふ歌あればミソラユク雲ヲツカヒニなどいふ歌もありけむかし。第四句は家裹ヲ托《ツ》ケ遣ラムと心得べし。タヅキはスベなり
 
4411 いへづとにかひぞひりへるはまなみはいやしくしくにたかくよすれど
伊弊都刀爾可比曾比里弊流波麻奈美波伊也之久之久二多可久與須禮騰
 第二句は貝ヲゾヒリフとあらでは結句と相かなはず。もし援けて云はばタカクヨスレドは高ク寄セシカドの意なりと云ふべし
 
4412 しまかげにわがふねはててつけやらむつかひをなみやこひつつゆかむ
(4108)之麻可氣爾和我布禰波弖※[氏/一]都氣也良牟都可比乎奈美也古非都都由加牟
     二月二十三日兵部(ノ)少輔大伴宿禰家持
 第二句にて切りてツケヤラムは使につづけて心得べし。ツケは托なり。上(四〇五四頁)にもアガコヒヲシルシテツケテイモニシラセムとあり○結句は更ニコヒツツ行カムカとなり。第四句のヤは結句の下に引下して釋くべし
    ○
4413 まくらだちこしにとりはきまがなしきせろがまきこむつくのしらなく
麻久良多知己志爾等里波伎麻可奈之伎西呂我馬伎己無都久乃之良奈久
     右一首上丁那珂郡|檜前《ヒノクマ》(ノ)舎人|石前《イハサキ》之妻大伴|眞足母〔左△〕《マタリメ》
 マクラダチを眞淵は眞黒太刀の訛として衣服令に見えたる烏装横刀《クロヅクリノタチ》の事とした(4109)れど兵衛ならぬ防人が朝服ならぬ平服に黒漆刀を帶びむこといかがあらむ。宣長は
  こは枕刀なるべし。常に床の邊におく意也
といへり。案ずるにいにしへ太刀を置く處は床の邊と定まりたりけむ。古事記なる倭建命の御歌にも
  をとめの、とこのへに、わがおきし、つるぎのたち、そのたちはや
とあり。さて何故に床の邊に置きしかといふに床は集中にもイハヒベスヱツアガ床ノヘニなどありて家の中にて最神聖なる處とせしならむ。トコの一名をユカといふも齋處《ユカ》の意なるべし○マガナシキはカハユキなり。セロは夫、マキはマカリの約なり。ツクは月の訛なり
 眞足母は諸本及目録に眞足女とあり。古義の如くマタリメとよむべし。天(ノ)鈿女《ウズメ》、天(ノ)探女《サグメ》を始として女の名にメを添へたる例多し。否奈良時代の戸籍を見るに當時の平民の婦女は必何々賣といひしなり。下にもトジメ、クロメ、オトメ、アタメなど見えたり。卷四(七七七頁)にも豐前國娘子|大宅女《オホヤケメ》とあり
 
(4110)4414 おほきみのみことかしこみうつくしけまこがてはなれしまづたひゆく
於保伎美乃美己等可之古美宇都久之氣麻古我弖波奈禮之末豆多比由久
    右一首助丁秩父郡大伴部|少歳《ヲトシ》
 ウツクシケはウツクシキの訛にてカハユキといふことなり○マコを契沖以下眞子とせり。就中契沖は卷十九にムカシヨリカタリツギツル、ウグヒスノウツシ眞子カモとあるによりて子の事とし、二註には妻の事とせり。案ずるにマコは妻子《メコ》の訛なるべし。家をイハと訛れるを思へばメコをマコとも訛るべし
 少歳の少は諸本に小とあり。但古書には國漢共に少と小とを通用せり
 
4415 しらたまをてにとりもしてみるのすもいへなるいもをまたみても母也〔二字左△〕《ヤモ》
志良多麻乎弖爾刀里母之弖美流乃須母伊弊奈流伊母乎麻多美弖毛母(4111)也
     右一首主張〔左△〕|荏原《エバラ》郡物部|歳徳《トシトコ》
 モシテはモチテ、ノスモはナスモの訛なり。母也は契沖の説に從ひて也母の顛倒とすべし。ミテモヤモは見テムヤモの訛にて見テムカ、イカガアラムといへるなり。モは無意義の助辭なり。ヤハの意のヤモにあらず
 主張は諸本に主帳とあり。なほ其下に丁の宇あるべきが如くなれど上(四〇九五頁)にも主帳とのみ書ける例あり
 
4416 (くさまくら)たびゆくせながまるねせばいはなるわれはひもとかずねむ
久佐麻久良多比由久世奈我麻流禰世婆伊波奈流和禮波比毛等加受禰牟
     右一首妻|椋椅部《クラハシベ》(ノ)刀自賣《トジメ》
 マルネはマロ寐、イハは家の訛なり
 
(4112)4417 あかごまをやまぬには賀〔左△〕《ナ》しとりかにてたまのよこやまかしゆかやらむ
阿加胡麻乎夜麻努爾波賀志刀里加爾弖多麻乃余許夜麻加志由加也良牟
     右一首豐島郡上丁椋椅部(ノ)荒虫之妻|宇遲部《ウヂベ》(ノ)黒女《クロメ》
 ハカシは前註にハナチの訛としたれど賀は奈の誤字ならむ。宣長の云へる如く野山に放飼にしたるなり○トリカニテはトリカネテの訛にて捕ヘカネテなり。カシは徒の訛なり。夫の多摩の横山を越えて行かむとするに馬に乘せて遣るを得ざるを憾みたるなり。略解に『此歌は荒虫の妻が實に馬をとりにがしてかくよめるならん』といへるはいみじき誤なり○タマノヨコ山は犬※[奚+隹]隨筆に
  猿渡盛章説に玉河の南によこほりふせる山は甲斐國の横山といふ地より多摩郡まで遙につづける山なればそれなん多摩の横山なるべきといへり
といへり。但甲斐國の横山とあるは『甲斐國との界に近き横山』の誤ならむ。盛章は當(4113)國府中の人なり。新編武藏風土記稿にも  横山とは小佛巓より亘り由木《ユギ》、關戸並に橘樹《タチバナ》郡の界まで東の方へ連り出たる山なり
といへり。畢竟多摩川の南岸に連亘せる丘陵の總稱にて當時の國府即今の府中より相模國に出づるには必越えざるべからざる山なり。今の八王子市の舊名を横山宿といひき。又八王子市の西南にありてこたび多摩陵を設けられし處を横山村といふ。此等は山の名が一地方の名となりて殘れるなり。但横山村は明治年間の命名なり
 
4418 わがかどのかたやまつばきまことなれわがてふれななつちにおちもかも
和我可度乃可多夜麻都婆伎麻己等奈禮和我弖布禮奈奈都知爾於知母可毛
    右一首荏原郡上丁物部廣足
(4114) 初二は我門ノ片山ノ〔右△〕椿といふベきを下なるノを省きたる爲にききまどはるるなり。門前に片山ありて其片山に椿の生ひたるなり。カタ山は端ナル山なり。さて海石榴《ツバキ》は女をよそへたるなり。ナレは汝なり○奈奈は東語の辭なり。宣長は『奈々はただ不《ズ》といふ意の東語也』といひ雅澄は『東歌に奈奈といへるは皆|不《ナク》と云に同じ』といへり。卷十四に
  にひた山ねにはつか奈那わによそりはしなる兒らしあやにかなしも(三〇二一頁)
  しらとほ布をにひた山のもる山のうらがれせ都奈とこはにもがも(三〇四六頁)
  よひなはこ奈爾〔二字右△〕あけぬしだくる(三〇六九頁)
  なやましけ人妻かもよこぐ舟のわすれはせ奈郡いやもひます爾(三一五七頁)
 下にも
  わがせなをつくしへやりてうつくしみおびはとか奈奈あやにかもねも
とあり。此等の例を見渡すに雅言のセズシテ、俗語のセズニに當るが如し〇四五を雅澄は
(4115)  此は契りて未娶らざる女をいへるにて契をばかはせるものから遠く別れ居て未わが手觸ぬ間〔日が月〕に汝實におちぶれなむか、さても心がかりや、と別に臨みてうしろめたく憐みたるなるべし
といへり。案ずるに花は手を觸るれば散るものなるを花をいたはる事を手ヲ觸ルといふべけむや。但雅澄が契りていまだ娶らざる女をいへりといへるはさる事にて第三句以下の意は
  マコトニ汝、我ナラヌ人ノ手ニ觸レテ地ニ落チムヤハ、オチハセジ
といへるなり。オチモカモは落チムヤハなり○卷十七(三五五二頁)なる
  うぐひすのきなくやまぶきうたがたもきみが手ふれず花ちらめやも
と相似たる所あり
 
4419 いはろにはあしぶたけどもすみよけをつくしにいたりてこふしけもはも
伊波呂爾波安之布多氣騰母須美與氣乎都久之爾伊多里※[氏/一]古布志氣毛(4116)波母
     右一首|橘樹《タチバナ》郡上丁物部|眞根《マネ》
 イハは家、ロは助辭なり。上(四〇九九頁)にもワガ家ニをワガイハロニといへり○アシブは蘆火、スミヨケヲは住好キヲ、コフシケモハモは戀シク思ハムの訛なり
 
4420 (くさまくら)たびのまるねのひもたえばあがてとつけろこれのはるもし
久佐麻久良多妣乃麻流禰乃比毛多要婆安我弖等都氣呂許禮乃波流母志
     右一首妻|椋椅部《クラハシベ》(ノ)弟女《オトメ》
 マルネはマロネ、ハルモシは針持を訛れるなり○ヒモタエバは附紐ガキレナバとなり○アガテトは己ガ手トにて眞根自身ノ手ニテとなり。契沖が『アガは妻の我なり』といひ二註に『吾手ト思ヒテツケヨといふ也』といへるは誤なり○ロは雅言のヨにて今も東語に殘れるロなり。例は卷十四(三〇七三頁)にアドセロトカモアヤニカ(4117)ナシキ又(三一二一頁)アゼセロ〔右△〕トカココロニノリテココバカナシケとあり
 
4421 わがゆきのいきづくしかばあしがらのみねはほくもをみととしぬばね
和我由伎乃伊伎都久之可婆安之我良乃美禰波保久毛乎美等登志怒波禰
     右一首|都筑《ツヅキ》郡上丁|服部《ハトリ》(ノ)於田〔左△〕《オユ》
 ワガユキは我旅行なり。イキヅクシカバはイキヅカシカラバにてナゲカハシカラバと云はむに同じ。カラバを東語にカバといひし例は卷十四にカクダニモ國ノトホカバナガ目ホリセム(二九九七頁)ネモコロニオクヲナカネソマサカシヨカバ(三〇二三頁)などあり○ハホはハフ、ミトトは見ツツの訛なり。我行役ノナゲカハシカラバ足柄ノ峯ニハフ雲ヲ見ツツ我ヲ思ヘヨといへるにて上(四〇五四頁)にもツクバネヲフリサケ見ツツ妹ハシヌバネなど似たる歌あり
 略解に
(4118)  於田の田は由の誤か。老といへる名此ころ多し
といへり。元暦校本に田の傍に由(イ)と書けり
 
4422 わがせなをつくしへやりてうつくしみおびはとかなな阿也爾かもねも
和我世奈乎都久之倍夜里弖宇都久之美於妣波等可奈奈阿也爾加母禰毛
     右一首妻服部|呰女《アタメ》
 下にも
  わがせなをつくしはやりてうつくしみえびはとかなな阿也爾かもねも
とあり○ウツクシミはイトホシサニなり。トカナナは解カズニなり○阿也爾は阿世爾の誤かとも思へど下にも阿夜〔右△〕爾とあり。そのアヤニはいかに心得べきか。アヤニカシコシなどのアヤニは怪シク異《ケ》ニといふことなれどここなるは然心得ては聞えず。サナガラニなどいふことを東語にアヤニといひしにあらざるか○上にも
(4119)  くさまくらたびゆくせながまるねせばいはなるわれはひもとかずねむ
とあり○呰女を契沖始めて和名抄の郷名に備中國英賀郡呰部(英多)參河國碧海郡|呰見《アタミ》とあるに據りてアタメとよみき
 
4423 あしがらのみさかにたしてそでふらばいはなるいもはさやにみもかも
安之我良乃美佐可爾多志弖蘇※[泥/土]布良波伊波奈流伊毛波佐夜爾美毛可母
    右一首|埼玉《サキタマ》部上丁藤原部(ノ)等母麿《トモマロ》
 タシテは立チテ、イハは家、ミモは見ムの訛なり
 
4424 いろふかくせながころもはそめましをみさかたばらばまさやかにみむ
伊呂夫可久世奈我許呂母波曾米麻之乎美佐可多婆良婆麻佐夜可爾美無
(4120)   右一首妻物部(ノ)刀自賣
   二月二十△日武藏國部領防人使掾正六位上|安曇《アヅミ》宿禰三國進歌數二十首。但拙劣歌者不v取2載之1
 ミサカタバラバの例は此卷の上(四〇五九頁)なる長歌にアシガラノミサカタマハリとあり。タマフの古語はタブなればタマハルの古語はタバルなり。ここにタバラバとあるを見ても宣長等がミサカタマハリを御坂ヲ廻リの意とせる説の誤れるを知るべし。さてミサカタバラバはサテ許サレテ足柄ノ御坂ヲ越ユナラバと心得べし○右二首は臨別の贈答なり。等母麻呂が足柄の御坂にてよみし歌を故郷なる妻の聞きて和せしにあらず
 代匠記に
  二十の下に字落たり。其故は上に二十三日の歌あり。それより前皆次第あれば二十四日已後なるべし
といへり
 
(4121)4425 さきもりにゆくはたがせととふひとをみるがともしさものもひもせず
佐伎母利爾由久波多我世登刀布比登乎美流我登毛之佐毛乃母比毛世受
 結句は第三句のトフにかかれり。トモシサはウラヤマシサなり。見物中の一婦人が防人に行くは誰ぞと傍人に問ふを聞きて防人の妻が妬み羨みてよめるなり。めでたき歌なり
 
4426 あめつしのかみにぬさおきいはひつついませわがせなあれをしもはば
阿米都之乃可未爾奴佐於伎伊波比都々伊麻世和我世奈阿禮乎之毛波婆
 アメツシは天地の訛なり。ヌサオキは幣を物に置きて奉るなり。イハヒツツは祈リツツ、イマセは行キマセなり。結句は吾ヲイツクシト思ハバとなり○これも防人の(4122)妻の歌なり
 
4427 いはのいもろわをし乃ぶらしまゆすひにゆすひしひものとくらくもへば
伊波乃伊毛呂和乎之乃布良之麻由須比爾由須比之比毛乃登久良久毛倍婆
 イハは家の訛、イモロのロは助辭なり○シヌブをシノブと訛りしは東語のみならで當時はやく雅言にも訛りしなり。たとへば卷十七(三五二二頁)に
  よろづ代とこころはとけてわがせこがつみし手みつつし乃びかねつも
 又佛足石歌に
  ますらをのすすみさきだちふめるあとをみつつし乃ばむただにあふまでに
とあり○麻由須比爾由須比之を契沖は
  由と牟と同韻にて通ずれば眞結なり。ユスビシも結ビシなり
といひ二註にも『ユスビはムスビなり』と云へり。ムをユと訛れる例ありやおぼつか(4123)なし。ユスヒと清みてヨソヒの訛とすべきにあらざるか○例の人ニ戀ヒラルレバ紐オノヅカラ解クといふ俗信に依りてよめるなり
 
4428 わがせなをつくしはやりてうつくしみえびはとかななあやにかもねむ
和我世奈乎都久志波夜利弖宇都久之美叡比波登加奈奈阿夜爾可毛禰牟
 はやく上に出でたり。ツクシハはツクシヘ、エビは帶の訛なり
 
4429 うまやなるなはたつこまのおくる我弁《ガヘ》いもがいひしをおきてかなしも
宇麻夜奈流奈波多都古麻乃於久流我弁伊毛我伊比之乎於伎弖可奈之毛
 初二は駒ノ起クル(オキアガル)を送ルにいひかけたる序にや。オキテは後ニ殘シ置キテなり〇二註にオクルガヘを卷十四なる
(4124)  かみつけぬ佐野のふなばしとりはなしおやはさくれどわはさかる賀倍(三〇三二頁)
  わが目づまひとはさくれどあさがほの等思佐倍己其登わはさかる我倍(三一〇九頁)
のサカルカヘと同格としたり。案ずるにサカルカヘは離《サカ》ルカハの訛なれば、もしこれと同格とせばオクルカヘはオクルル〔右△〕カヘといひ又その下にトを添へざるべからず。さてオクルルカヘは例の如く終止格を用ひてオクルカヘともいふべけれどトは之を略すれば妹ガイヒシにつづかざるが故に決して略すべからず。然もトを寫し落したるなりとも見るべからず。よりて思ふにオクル我弁はおなじく卷十四なる
  こまにしき紐ときさけてぬる我倍爾あどせろとかもあやにかなしき(三〇七三頁)
  あかみ山くさねかりそけあはす賀倍あ良そふいもしあやにかなしも(三〇八六頁)
(4125)のヌルガヘニ、アハスガヘと同格にて送ルガ上ニといふ事ならむ。又イヒシヲは恙ナク往キテ還リマセナドカニカクニ云ヒシヲといふ事ならむ
 
4430 あらしをのい乎〔左△〕《ル》さたばさみむかひたちかなるましづみいでて登《ド》あがくる
阿良之乎乃伊乎佐太波任美牟可比多知可奈流麻之都美伊※[泥/土]弖登阿我久流
 アラシヲは壯士なり。上(四〇五九頁)にも例あり○伊乎佐のサは箭なり。略解に伊乎を伊本の誤として五百の義とせり。さて五百矢は數多くしてタバサミとあるにかなはねば『あやにいへると心得べし』とことわれり。案ずるにたとひ辭の文なりとも五百矢タバサミと云ふべきにあらず。されば古義には
  伊は例のそへことばにて小箭《ヲサ》タバサミなるべし
といへれど小《ヲ》といふ添辭に更に伊といふ添辭を加へたる例を知らず。又名詞にイを添へたる例を知らず。乎は留などの誤にていにしへ手して投ぐるをナグル矢《サ》と(4126)いひしに對して弓につがへて射るをイル矢《サ》といひしにあらざるか。ナグルサは卷十三(二九三一頁)に見えたり
  因にいふ。彼の歌にアヅサ弓イルサノ山とよめるイルサはやがてイル矢《サ》にあらざるか。即アヅサ弓はイルのみにかからでイルサまでかかれるにあらざるか
 ○さて其下を太波佐美と書けるにつきて古義に
  手挟はタバサミとタを清みハを濁りて唱ふべきを上よりつづく便によりて下の濁音を上にうつす古言の一格にて十九にヨクダチニといふべきを夜具多知爾とよみ馬タギ行テといふべきを馬太伎由吉弖とよめるなど是なり
といへり。案ずるに太は常にはタの濁音に用ふれど又ノキノシ太クサ(二三一一頁)サス太ケノ(三三〇七頁)ミネ太カミ(三六〇九頁)ヒ太デリニ(三七六八頁)アシ太ニハ(三八九三頁)アキ太ラヌカモ(三九九一頁)など清音に用ひたる例もあり。又バに清音の波を借るは常の事にて今歌などを書くに假宇に濁をささぬと相齊し。さればここはタバサミとよみて可なり○ムカヒタチを眞淵は的に向ひ立つなりといひ宣長雅澄は猪鹿に向ひ立つなりといへり。前者に從ふべし。さて上三句はカナルにか(4127)かれる序なり。卷十四(二九七六頁)にも
  あしがらのをてもこのもにさすわなのかなるましづみ許呂安禮ひもとく
とあり。カナルはをめく事なり。矢を放つ時所謂矢聲を擧ぐればムカヒタチカナルとつづけたるなり。さて此序は又卷一に
  ますらをがさつ矢たばさみたちむかひいるまと方はみるにさやけし
とあるに似たり○カナルマが騒といふ事、シヅミがシヅマリの約なるべき事は卷十四(二九七七頁)にいへる如し○結句の登はドと濁り訓みてゾの訛とすべし(四〇七四頁參照)。イデテは家ヲ出デテなり
 
4431 ささがはのさやぐしもよにななへかるころもにませるころがはだはも
佐佐賀波乃佐也久志毛用爾奈奈弁加流去呂毛爾麻世流古侶賀波太波毛
ササガハノサヤグは笹の葉が風に騒ぐなり。霜に騒ぐにあらず。後の歌に霜サヤグ(4128)とよめるは此歌又古今集なる
  さかしらに夏は人まねささの葉のさやぐ霜夜をわがひとりぬる
をあしく心得たるなり○ナナヘカルは七重著ルの訛かとも思へど此卷にも卷十四にもイ列をア列に訛れる例無ければケルの誰とすべし。ケルは著タルなり。古義に著ケルなりといへるは非なり。ナナヘはただアマタといふ事なり○マセルを古義に
  マサレルなり。サレの切セとなれり
といへるはいみじき誤なり。『マセルはマスのはたらけるにてマシタルにおなじ』とはいふべし。さて又古義に
  マサルと云とは異なり。マサルを通はしてマセルと云るにあらず
といへれど今は妹と相寢たるにあらざればマサル又はマサラムとはいふべくマセル(マシタル)とはいふべからず。さればコロモニマセルは衣ニマサルの訛とすべし○ハモは人又は物をおもひやる意の辭なり。されば此歌は防人に出で立ちての後によめるなり。上に
(4129)  たびごろもやつ著かさねていぬれどもなほはださむしいも爾しあらねば
とあると相似たり
 
4432 さへ奈〔左△〕《ア》へぬみことにあればかなしいもがたまくらはなれあやにかなしも
佐弁奈弁奴美許登爾阿禮婆可奈之伊毛我多麻久良波奈禮阿夜爾可奈之毛
    右八首昔年防人歌矣、主典刑部(ノ)少録正七位上磐余《イハレ》(ノ)伊美吉|諸君《モロキミ》抄寫贈2兵部少輔大伴宿禰家持1
 奈はおそらくは安などの誤ならむ。サヘアヘヌは障ヘ敢ヘヌにてコトワリカネルなり
 主典とあるを古義に
  此に主典と云るは其國(ノ)目をいへるなるべし。目を主典とかけるは守介掾を長官次官判官とあるに同例なり
(4130)といへれど佐官とあらばこそ長官次官判官とあると同例とすべけれ、今は主典とあれば和名抄に佐官、勘解由(ニハ)曰2主典1とあるに依りて勘解由《カゲユ》使の佐官とすべし。その勘解由(ノ)主典が刑部《ギヤウブ》省の佐官即少録を兼ねたるなり。勘解由使の職員は諸國廳の職員と接觸する機會多ければ防人の歌を聞く便宜あるべきなり
 
  三月三日検2校防人1 勅使并兵部使人等同集飲宴作哥三首
4433 あさなさなあがるひばりになりてしがみやこにゆきてはやかへりこむ
阿佐奈佐奈安我流比婆理爾奈里弖之可美也古爾由伎弖波夜加弊里許牟
    右一首勅使紫微大弼安倍(ノ)沙美麿(ノ)朝臣
 滞留の長きにわびてよめるなり。ハヤはスグニなり
 紫微中臺は皇后宮職にて大弼はその次官なり。兵部使人は兵部省の出張員なり。家持は即兵部使人のうちなり
 
(4131)4434 ひばりあがるはるべとさ夜〔左△〕《ラ》になりぬればみやこもみえずかすみたなびく
比婆里安我流波流弊等佐夜爾奈理奴禮波美夜古母美要受可須美多奈妣久
 略解に佐夜爾は佐倍爾の誤なるべしといへり。夜は良の誤ならむ
 
4435 ふふめりしはなのはじめにこしわれやちりなむのちにみやこへゆかむ
布敷賣里之波奈乃波自米爾許之和禮夜知里奈牟能知爾美夜古敝由可無
    右二首兵部少輔大伴宿禰家持
 初二は花ノフフメリシ始ニといふべきを顛倒したるなり。二月十七日に奈良より來し途にてよみし
  たつた山見つつこえこしさくらばなちりかすぎなむわがかへるとに
(4132)といへる歌と對照すべし
 諸本に兵部使少輔とあり。それも斥け難し。兵部使兵部少輔の略と見べきが故なり
 
   昔年相替(リシ)防人(ノ)歌一首
4436 (やみのよの)ゆくさきしらずゆくわれをいつきまさむととひしこらはも
夜未乃欲能由久佐伎之良受由久和禮乎伊都伎麻左牟等登比之古良波母
 初句は闇夜ノ如クとなり。イツキマサムトはイツ歸リ來マサムトなり○太宰府に著せむ後はいづくに遣られむとも知られねばユクサキシラズといへるなり。古義に『此は妻子に別れてかなしさに心もかきくれまどひ行くよりいへるなるべし』といへるは非なり○卷十七に
  大海のおくかもしらずゆくわれをいつきまさむととひし兒らはも
とあると殆相同じ
 
(4133)   先(ノ)太上天皇(ノ)御製霍公鳥歌一首
4437 ほととぎすなほもなかなむもとつひとかけつつもとなあをねしなくも
富等登藝須奈保毛奈賀那牟母等都比等可氣都都母等奈安乎禰之奈久母
 結句の語例は卷十四にアヲネシナクナ(二九七八頁)アヲネシナクヨ(三〇六七頁)アヲネシナクル(三〇七九頁)とあり。吾ヲ音ニ泣カスルヨといふ意なり○ナホモナカナムは獣シテ啼ケとなり。二三の間に汝ガ聲ヲアゲテ啼イテといふことを加へて聞くべし○モトツ人は故人なり。契沖は御母元明天皇の御事とせり。さらずともあるべし。カケツツはモトツ人ノ上ヲカケツツにて故人ヲシノビツツとなり。格を正さばカケサセツツとあるべし○古義にモトツ人ホトトギスナホモナカナムと句をおきかへて心得べしといへるはいみじき誤なり
 
   ※[おおざと+經の旁]〔左△〕(ノ)妙觀應v 詔奉v和歌一首
(4134)4438 ほととぎすここにちかくをきなきてよすぎなむのちにしるしあらめやも
保等登藝須許許爾知可久乎伎奈伎弖余須疑奈無能知爾之流志安良米夜母
 ※[こざとへん+經の旁]は一本に薩とあり又續日本紀に
  神龜元年五月辛未從五位上薩(ノ)妙觀賜2姓河上(ノ)忌寸1
とあれば薩の誤とすべし。歸化の尼にて元正天皇に仕へし人なるべし。薩は氏なりチカクヲのヲは助辭なり。除きて心得べし。四五は天皇ノ聞カセ給フ時ノ過ギナム後ニハ啼クトモ詮アラムヤといへるなり○詔に應じて同じく霍公鳥を詠じたるまでにて歌の意は御製のと相與からず。契沖雅澄は誤解せり
 
   冬日幸2于|靭負《ユゲヒ》(ノ)御井1之時|内命婦《ナイミヤウブ》石川之朝臣應v 詔賦v雪歌一首  諱曰2色〔左△〕婆《オホバ》1
4439 まつがえのつちにつくまでふるゆきをみずてやいもがこもりをるら(4135)む
麻都我延乃都知爾都久麻※[泥/土]布流由伎乎美受弖也伊毛我許母里乎流良牟
    于v時|水主《ミヌシ》内親王寢膳不v安累日不v參、因以2此日1太上天皇勅2侍嬬等1曰、爲v遣〔右△〕2水主内親王1斌v雪作v歌奉v獻者〔右△〕、於v是諸命婦等不v堪v作v歌、而此石川命婦獨作2此歌1奏之
    右|件《コノ》四首上總國大掾正六位上大原眞人今城傳誦云爾 年月未詳
 靭負御井は續紀寶龜三年三月の下にも
  甲申(〇三日)置2酒靭負御井1賜d陪從(ノ)五位已上及文士賦2曲水1者(ニ)禄u有v差
と見えたり。靭負と名を負へる所以は明ならず。宣長は『若靭負の府の内にある井を云にやあらむ』と云へり○内命婦石川朝臣は卷四(七五四頁)に大伴坂上郎女之母石川内命婦とありて大伴安麻呂の妻なり。略解に『旅人卿の後妻、家持卿及坂上郎女の(4136)母也』といへるはいみじき誤なり。坂上郎女は家持の叔母にて旅人の妹なり。さて此命婦は旅人には繼母なるべし○色婆は諸本に邑婆とあるに從ひてオホバとよむべし。オホバは祖母なり。婆と書けるは借音なり
  因にいふ。婆、媼などの訓を從來オバとしたれど翁の訓のヲヂなるを思へばオバにはあらでヲバなるべし
 イモといへるを二註に天皇に代り奉りてよめる爲としたれど題辭及左註の趣、天皇に代り奉りてよめりとは思はれず。臣下が内親王を指し奉りて妹といはむはなめげなれど當時の風習又内親王と石川内命婦との關係としてなめくはあらざりしならむ
 水主《ミヌシ》内親王は天智天皇の皇女なり。太上天皇を二註に聖武天皇とし古義には特に『元正天皇ならば先(ノ)太上天皇とあるべきなり』といへれど内親王が病の爲に累日參り給はざりきとあると天皇が侍嬬等にのみ歌を作れと仰せられしとを思へばなほ女帝即元正天皇にて先の宇を添へざるは上に讓れるならむ○遣は遺の誤ならざるか。者はトノタマフとよむべし。傳誦云爾は傳誦シテシカ云ヒキとも傳誦セシ(4137)ゾともよむべし。今城が家持に語り聞せしなり(三六〇一頁參照)○年月未詳はヤミノヨノ以下四首の成りし年の知られざるなり
 
   上總國朝集使大掾大原眞人今城向v京之時郡司妻女等餞v之歌二首
4440 あしがらのやへやまこえていましなばたれをかきみとみつつしぬばむ
安之我良乃夜敝也麻故要※[氏/一]伊麻之奈婆多禮乎可伎美等彌都都志努波牟
 四五の意はモシ君ニ似タル人アラバ其人ヲシバラク君ト見ツツ君ヲシノブベキヲといへるなり。古義にシヌブを愛賞の意とせるは當らず
 
4441 たちしなふきみがすがた乎〔左△〕《シ》わすれずばよのかぎりにやこひわたりなむ
多知之奈布伎美我須我多乎和須禮受波與能可藝里爾夜故非和多里奈(4138)無
 タチシナフはシナヤカナルにて所詮ミヤビヤカナルなり。今城は京より下れる官人の中にても特に姿みやびて郡司の妻子等の目を悦ばせけむかし〇二三は姿を主格とせむ方穩なり。されば乎を之《シ》の誤字としワスレズバを忘ラレズバの意とすべし。ヨノカギリは生涯なり。其下のニは後世は添へざるを常とす
 
   五月九日兵部少輔大伴宿禰家持之宅集飲歌四首
4442 わがせこがやどのなでしこひならべてあめはふれどもいろもかはらず
和我勢故我夜度乃奈弖之故比奈良倍弖安米波布禮杼母伊呂毛可波良受
     右一首大原眞人今城
 ヒナラベテは日ヲ重ネテなり。卷八にも
  あしひきの山ざくら花日ならべてかくさきたらばいとこひめやも
(4139)とあり〇二註に主人の懇情のかはらぬをたとへたりと云へるは非なり
 朝集使の朝集は毎年十一月一日なれば此頃まで京に留まれるは異例なり(三九三八頁參照)。前なる郡司の妻女等の歌の調を思ふに今城は上總國に歸任せざる豫定なりしにて又次にアキノユフベハ我ヲシヌバセと自よめるを思へば他の國の國司に轉ぜらるべきを豫想したりしなり。然るに又下(勝寶八歳)に兵部大丞とあるを見れば思の外に京官に榮進せしなり
 
4443 (ひさかたの)あめはふりしくなでしこがいやはつはなにこひしきわがせ
比佐可多乃安米波布里之久奈弖之故我伊夜波都波奈爾故非之伎和我勢
     右一首大伴宿禰家持
 とゝのはざる歌なり。まづ第二句は切れたるならで第三句以下につづけるなれば雨ハフリシケドとあらざるべからず。次にイヤハツハナニは下にも
(4140)  わがせこがやどのなでしこちらめやもいやはつはなにさきはますとも
とありて花ガイヨイヨ新シクといふ意なれば結句はサクナスワガセなど云はざるべからず。もし強ひて助けば二三の間にサレドといふことを略し又イヤハツハナニを花を離れてただイヤアラタニといふ意につかへりとも云ふべし
 
4444 わがせこがやどなるはぎのはなさかむあきのゆふべはわれをしぬばせ
和我世故我夜度奈流波疑乃波奈佐可牟安伎能由布弊波和禮乎之努波世
    右一首大原眞人今城
 秋にははやく赴任したるべきによりてかく云へるなり
 
   即聞2※[(貝+貝)/鳥](ノ)哢《サヒヅル》1作歌一首
4445 うぐひすのこゑはすぎぬとおもへどもしみにしこころなほこひにけり
(4141)宇具比須乃許惠波須旋奴等於毛倍杼母之美爾之許己呂奈保古非爾家里
     右一首大伴宿禰家持
 以上四首なり。ココロの下にニを略したるなり。一首の意は
  モハヤ鶯ノ啼ク頃デハ無イト思フガ其聲ニ染ミタ心カラ猶聞キタク思フ。サレバ足下ノ赴任シタマウタ後ニモナホ御シタヒ申スデゴザラウ
といへるなり。題辭に即とあるにて今城のワレヲシヌバセといひしに答へたるなる事知らるゝなり
 
   同月十一日左大臣橋卿宴2右大弁|丹比《タヂヒ》(ノ)國人(ノ)眞人之宅1歌三首
4446 わがやどにさけるなでしこまひはせむゆめはなちるないやをちにさけ
和我夜度爾佐家流奈弖之故麻比波勢牟由米波奈知流奈伊也乎知爾左家
(4142)    右一首丹比(ノ)國人(ノ)眞人壽2左大臣1歌
 左大臣橘卿は諸兄なり。マヒハセムははやく卷五(九九六頁)に
  わかければ道ゆきしらじまひはせむしたべのつかひ負ひてとほらせ
とあり。マヒはカヅケモノといはむが如し○ヲチは立歸る事なり。玉勝間卷八『萬葉集にヲチといふ言、郭公にヲチカヘリとよむ言』といへる條に
  わがやどに咲るなでしこ……是も又はじめへかへりかへりしていよいよ久しくさけといへるなり
といへり○サテ君ノ御齢モソノ花ノ如クナレカシといふ意を含ませたるなり
 
4447 まひしつつきみがおほせるなでしこがはなのみとはむ伎美〔二字左△〕《アレ》ならなくに
麻比之都都伎美我於保世流奈弖之故我波奈乃未等波無伎美奈良奈久爾
     右一首左大臣△歌
(4143) オホセルはオホシタルにてソダテタルなり三四は撫子ノ花ノミヲ訪ハムとなり。略解に上三句を序としたるはいみじき誤なり○伎美は阿禮の誤ならむ。花ノ爲ノミニ此宿ニ來ラム我ナラズといへるなり。古書には往々吾を君と寫し誤れり。今も君と寫し誤れるを更に伎美と假字音に改めたるならむ
 諸本に從ひて歌の上に和の宇を補ふべし
 
4448 あぢさゐのやへさくごとくやつよにをいませわがせこみつつしぬばむ
安治佐爲能夜敝佐久其等久夜都與爾乎伊麻世和我勢故美都都思努波牟
     右一首左大臣寄2味狹藍《アヂサヰ》(ノ)花1詠也
 初二はヤヘサク味狹藍ノ如クといふべきを顛倒したるなり。ヤヘのヤにてヤツヨを誘ひ起せるにあらず。もしさる事ならばヤヘサク花ノといふべければなり○ヤツヨニは彌ツ世ニにて久シクといふ意なり。紫陽花は盛の長きものなればアヂサ(4144)ヰノ如クヤツ世ニといへるなり。卷十八(三六八九頁)にも
  たちばなのとののたちばなやつ代にもあれはわすれじこのたちばなを
とあり。ヤツヨニヲのヲは助辭なり。イマセはマシマセなり。シヌバムはメデムなり○此歌は主人を壽ぎたるなり
  因にいふ。紫陽花は白樂天の命名(文集卷二十)にて樂天は我寶龜年中に生れし人なれば本集にアヂサヰに紫陽花の宇を充てざるは當然なり
 
   十八日左大臣宴2於兵部卿橘(ノ)奈良麿(ノ)朝臣之宅1歌三首
4449 なでしこがはなとりもちてうつらうつらみまくのほしききみにもあるかも
奈弖之故我波奈等里母知弖宇都良宇都良美麻久能富之伎吉美爾母安流加母
     右一首治部卿舩(ノ)王
 奈良麻呂は諸兄の子なり
(4145) ウツラウツラは契沖宣長のいへる如くツラツラなり。初二は其下にウツラウツラ見ル如クといふことを省ける一種の序なり
 
4450 わがせこがやどのなでしこちらめやもいやはつはなにさきはますとも
和我勢故我夜度能奈弖之故知良米也母伊夜波都波奈爾佐伎波麻須等母
 イヤハツハナニは彌新シクなり。主人の一門をことほぎたるなり
 
4451 うるはしみあがもふきみはなでしこがはなになぞへてみれどあかぬかも
宇流波之美安我毛布伎美波奈弖之故我波奈爾奈曾倍弖美禮杼安可奴香母
     右二首兵部少輔大伴宿禰家持追作
 初二はアガウルハシミオモフといふべきを倒置せるにてウルハシミはウルハシ(4146)ガリなり。古義に『ウルハシウといはむが如し』といへるは非なり。ナゾヘテは準ジテなり。さてナゾヘテミレドとつづけるなり。さらずばナゾヘラレテといはざるべからず
 
   八月十三目在2内(ノ)南(ノ)安殿《ヤスミドノ》1肆宴歌二首
4452 をとめらがたまもすそびくこのにはにあきかぜふきてはなはちりつつ
乎等賣良我多麻毛須蘇婢久許能爾波爾安伎可是不吉弖波奈波知里都々
    右一首内匠頭兼播磨守正四位下|安宿《アスカベ》王奏之
 安殿はヤスミドノとよむべし。そのヤスミは御座といふ意なるべし。内(ノ)南(ノ)安殿は内(ノ)安殿のうちの南(ノ)安殿なり。内(ノ)安殿は外(ノ)安殿に對せる稱なり。然らば南(ノ)安殿は北(ノ)安殿に對せる稱なりやといふに北(ノ)安殿は物に見えざる如し。國史に見えたるは天智天皇紀十年の西(ノ)小殿、天武天皇紀十年の内(ノ)安殿外(ノ)安殿、文武天皇紀大寶元年の東(ノ)安殿(4147)などなり。就中天智紀の西(ノ)小殿はやがて西(ノ)安殿なるべし。くはしく云はば大極殿を大安殿ともいひしに對して常の安殿を小安殿とも、ただに小殿とも云ひしなるべし。又天武紀の内(ノ)安殿はやがて小安殿にて外(ノ)安殿はやがて大安殿なるか。
  因にいふ。天武紀に
   天皇御2向(ノ)小殿1而宴之。是日親王諸王(ハ)引2入内(ノ)安殿1藷臣(ハ)皆侍2于外(ノ)安殿1共置酒而|賜樂《ウタマヒス》
とある向小殿を諸書に一殿の名としたれど向(ノ)小殿はやがてこゝに云へる内(ノ)南(ノ)安殿ならざるか
 ヲトメラは女房たちなり。ただ花とあれば一種の花にはあらざる如くなれど秋風フキテ花ハチリツツといへる、萩の調なり
 
4453 あきかぜのふきこきしけるはなのにはきよきつくよにみれどあかぬかも
安吉加是能布伎古吉之家流波奈能爾波伎欲伎都久欲仁美禮杼安賀奴(4148)香母
    右一首兵部少輔從五位上大伴宿禰家持 未奏
 フキコキシケルは吹キテ枝ヨリ扱《コ》キテ庭ニ數ケルとなり。なつかしからぬ辭なりハナノニハは花の庭なり
 特に位階を記したるは奏上せむとしたる歌なるが故なるべし
 
   十一月二十八日左大臣集2於兵部卿橘奈良麿朝臣(ノ)宅1宴歌一首
4454 高山のいはほにおふるすがの根のねもころごろにふりおく白雪
高山乃伊波保爾於布流須我乃根能禰母許呂其呂爾布里於久白雪
     右一首左大臣作
 上三句はネモコロゴロニのネにかゝれる序のみ。略解に『葉がくれもなくふり入たるをネモコロニ降といへり』といへるは何を思へるにか。ネモコロゴロニは丁寧反復なり。オホロカナラズなり。略解に『あるじをおもふをそへしなるべし』といへるも非なり
 
(4149)   天平元年班田之時使葛城王從2山背國1贈2※[こざと+經の旁]〔左△〕(ノ)妙觀(ノ)命婦等所1敬一首副2芹子(ノ)裹《ツト》1
4455 (あかねさす)ひるはたたびて(ぬばたまの)よるのいとまにつめる芹子《セリ》これ
安可禰佐須比流波多多婢弖奴婆多麻乃欲流乃伊刀末仁都賣流芹子許禮
 此歌と次の歌とは諸兄が前の歌をよみし時に語りしなれば天平元年の作ながらここに記したるなり。當時の葛城王は即今の諸兄なり。天平元年班田之時は續日本紀に天平元年十一月癸巳任2京及畿内(ノ)班田司1とある是なり。使は山背國の班田大夫なり○※[こざと+經の旁]は次なると共に薩に改むべし
 タタビテは略解にいへる如く田|賜《タ》ビテにて百姓ニ由ヲ班《アカ》チ賜ヒテなり。契沖雅澄が欽明天皇紀に策の字をタタマとよみたればタタビテは班田の策をめぐらすをいへるなりと云へるはいみじき誤なり
 
(4150)   ※[こざと+經の旁]〔左△〕(ノ)妙觀(ノ)命婦報贈歌一首
4456 ますらをとおもへるものをたちはきてかにはのたゐにせりぞつみける
麻須良乎等於毛敝流母能乎多知波吉※[氏/一]可爾波乃多爲爾世理曾都美家流
   右二首左大臣讀v之云爾【左大臣是葛城王後賜橘姓也】
 カニハは和名抄に山城國相樂郡蟹幡(加無波多)とある處なるべし。おもふにカニハタはもと樺田《カニハタ》の義なりしをニとミと相通ずるよりカミハタと訛り更にカムハタと訛りしならむ。もしカムハタ(綺)が原名ならばそのムをミと訛り更にニと訛るともカニハとタとの間〔日が月〕にノを挿みてカニハノタヰとは云はざらむ。或は云はむ
  垂仁天皇紀に綺戸邊《カムハタトベ》あり。トべは婦人の稱、カムハタは地名にてやがて和名抄に見えたる蟹幡なりとおぼゆ。さてはやく垂仁紀に綺と書けるを見ればなほカムハタが原名ならずや
(4151)と。答へて云はむ垂仁紀に綺戸邊と書けるは後世の訛稱に從へるならむ。古事記には苅羽田刀辨とあり。カニハ田を後にカミハタともカムハタともカリハタとも訛りしなり。更に後にはカバタと訛りき。今も相樂郡棚倉村の大字にカバタありて文字は綺田と書けり。さてタヰは田居にて田づらなり○マスラヲはこゝにては賤ノ男ナラヌ士人といふ意なり。代匠記に『武勇の才のみにてかゝる風流の心はあるべくも思へらざりしにと云意なり』といひ古義にウルサキマスラ男トノミ思ヒ居ツルモノヲ云々と釋せるは誤解なり
 左註の讀は誦と同意なり
   天平勝寶八歳丙申「二月朔乙酉二十四日戊申太上天皇太〔□で囲む〕皇太后幸2行於河内(ノ)離宮1經v信以2壬子1傳2幸於難波宮1也」
   三月七日於2河内國|伎人《クレ》(ノ)郷馬(ノ)△國人之家1宴歌三首
4457 すみの江のはままつがねのしたばへてわが見るをぬのくさなかりそね
(4152)須美乃江能波麻末都我根乃之多婆倍弖和我見流乎努能久佐奈加利曾禰
    右一首兵部少輔大伴宿禰家持
 續日本紀に
  天平勝寶八歳暮二月戊申行2幸難波1。是日至2河内國1御2智識寺(ノ)南(ノ)行宮1……壬子行至2難波宮1御2東南(ノ)新宮1
とあり。此時太上天皇、皇太后も共に御幸ありしを續紀には之を脱し此集には天皇を脱せるなる事契沖のいへる如し○太皇太后の上の太は衍字なり○壬子は二十八日なれば河内國の行宮には四宿し給ひしなり。然るにこゝに經信とある信は左傳に再宿爲v信過v信爲v次とありて事實にかなはず。されば古義には
  きはめて經2信信1とあるべきことなり。字彙に爾雅に有v客信信(トハ)言2四宿1也とも見えたり
といへれど、こゝは數宿の意にて經信と書けるなるべし。因にいふ。有v客宿々、有v客信(4153)信は毛詩周頌有客章の辭なり○古義に三月七日云々を傳2幸於難波宮1也につづけ書きて
  三月云々以下を舊本には放ち書り。今は古寫本拾穗本等に從て連書り
といひ(元暦校本にもつづけ書けり)さて三月七日を同月二十七日の誤として
  もし三月七日云々と以後の事をいへりとせば上の文うきてつづきがたきを思ふべし
といへり。案ずるに家持等は故ありて行幸に後れて難波宮に參らむとして三月七日に河内國伎人郷に宿りしなるべし。但三月七日云々と上文とのつづきのよからざるは古義に云へる如し。もし二月朔乙酉より傳2幸於難波宮1也までの三十八字を註文とせば始めて體を成すべし。上にも
  五年正月四日於2治部少輔石上朝臣宅嗣家1宴歌三首
  六年正月四日氏族人等賀2集于少納言大伴宿禰家持之宅1宴飲歌三首
とあり○伎人を契沖はクレヒトとよめるを略解古義には
  伎人はクレと訓べし。伎人郷は雄略紀に呉坂とある所にて今|喜連《キレ》と云所也とぞ
(4154)といへり。その後半は古事記傳卷三十五(二一一八頁)なる呉坂の註に
  さて或人の云く〇住吉の東一里許に喜連《キレ》村と云あり。河内の堺なり。昔は河内に屬て萬葉に河内國|伎人《クレビト》郷とある處なるを久禮を訛りて喜連《キレ》とは云なり。孝謙紀、三代實録などに伎人《クレビト》※[こざと+是]とあるも此處のことなり
と云へるに據れるなり。今の地名|喜連《キレ》(攝津國東成郡喜連村、一昨年より大坂市住吉區喜連町)はクレヒトのヒトを略しクレをキレと訛れるなりとも云ふべけれど、はやく雄略天皇紀十四年に呉《クレ》坂とあり又續日本紀天平勝寶二年五月の下に伎人茨田等堤とありて伎人にクレと傍訓したれば伎人はげにクレとよむべし。さて伎の字をクレとよむは職員令に雅樂寮伎樂師一人掌v教2伎樂生1とありて義解に謂2呉(ノ)樂1云々とあり又推古天皇紀二十年に學2于呉1得2伎|樂※[人偏+舞]《ウタマヒ》1とある伎をクレとよみ又朱鳥元年紀に伎樂をクレガクとよめり。されば伎と云へるは樂伎にて呉人は特に樂伎を善くせしかばクレを伎とも書きしにて彼漢人が特に綾を織るに巧なりしかば漢をアヤとよみしとうらうへなるなり○次の歌の左註と相照すに馬の下に史をおとせるなり。馬(ノ)史《フビト》國人は續紀天平神護元年十二月に右京人外從五位下馬《ウマ》(ノ)毘登《ヒト》國(4155)人等賜2姓武生(ノ)連1とあると同人なり。初河内國伎人郷に住せしが後に左京に貫せしなり。又※[田+比]登とあるは天平勝寶九歳より寶龜元年までは史といふカバネはすべて毘登と稱せしめられしなり。又續日本後紀承和三年三月の記事に據れば馬(ノ)史は百済の歸化族なり。もと馬を飼ふを職とせしかば馬といひしならむ
 初二は序なり。今往かむとする地の物を借りて序とせるなり○シタバヘテは心ニ契リテなり。再來リテ見ムト心ニ期シテとなり。ヲヌは伎人郷の小野なり。略解に『住吉の小野をいひて云々』といへるはいかに惑へるにか。其前後の言も皆非なり
 
4458 (にほどりの)おきなががははたえぬともきみにかたらむことつきめやも
爾保杼里乃於吉奈我河波半多延奴等母伎美爾可多良武己等都奇米也母 古新未詳
    右一首主人散位寮(ノ)散位馬(ノ)史國人
 息長河は近江國坂田郡にあり。今|天《テン》の川といふ○略解に
(4156)  古新未詳と註せるは他し國の地名をよめる歌なれば古歌なるか又歌の心はよくかなへれば新歌なる歟の心もて後人の書加へたるなるべし
といひ古義に
  さて今の歌は河内にて近江の地名をいへるは處につけてはよしなけれど歌の意の時にかなへるを以て古歌を誦《ヨミ》たるなるべし
といへる如し。但古新未詳と註せるは後人ならで家持ならむ○結句は事ハツキセジといはむに近し
 散位《サンヰ》は位のみありて職なきものをいふ。彼無官(ノ)大夫はやがて四位又は五位の散位なり。さて文武の散位を掌るはげに散位寮なれど散位はその職員にあらざれば散位寮(ノ)散位とはいふまじきに似たり
 
4459 蘆苅爾〔左△〕《アシカルト》ほり江こぐなるかぢのおとはおほみやびとのみなきくまでに
蘆苅爾保里江許具奈流可治能於等波於保美也比等能未奈伎久麻泥爾
    右一首式部少丞大伴宿禰池主讀之。即云。兵部大丞大原眞人今(4157)城先日他所(ニテ)讀(ミシ)歌者〔□で囲む〕也
 古義に爾を等の誤とせり。之に從ふべし。結句の下にトヨム事ヨなどいふことを補ひて聞くべし
 歌者也の者は衍字ならむ。此宇無き本あり。讀が誦に同じき事は上に云へる如し○以上三首は國人の家にて宴せし時の歌なり
    ○
4460 ほり江こぐ伊豆手の船のかぢ都久米おとしばだちぬみをはやみかも
保利江己具伊豆手乃舩乃可治都久米於等之婆多知奴美乎波也美加母
 伊豆手ノフネは伊豆式の船なり。上(四〇二六頁)にも伊豆手船とあり○都久米を宣長(記傳卷五【二六一頁】)は都夫米の誤として『つぶらつぶらと鳴るをツブメといふなるべし』といひ雅澄は『楫を船のツクへかけてかなたこなたへ引うごかすをツクムルといふべし』といへり。同じ人が宣長の説を評して
  楫の水かく音はさばかり高く聞ゆるものにはあらざればいかが。水かく音は少(4158)し許隔りては聞えず。ツクにきしりて鳴る音は遠くも聞ゆるものなり。読みて知べし
といへるは誤解に基づける言なり。第四句のシバダチヌにて楫の音の常に異なるを示したるなり。第三句には音の高き意あらでもよきなり。さるを雅澄はオトシバダチヌを輕く見て第三句に音の高き意あるべく思へるなり。案ずるに第三句は都可布の誤にあらざるか。オトシバダチヌは音ガ繁クナリヌとなり○はやく卷七に
  さよふけてほり江こぐなるまつら船かぢのと高しみをはやみかも
とあり
 
4461 ほり江よりみをさかのぼる梶の音《ト》のまなくぞ奈良はこひしかりける
保里江欲利美乎左可能保流梶乃音乃麻奈久曾奈良波古非之可利家留
 上三句は序なり
 
4462 ふなぎほふほり江のかはのみなぎはにきゐつつなくはみやこどりかも
(4159)布奈藝保布保利江乃可波乃美奈伎波爾伎爲都都奈久波美夜故杼里香蒙
    右三首江邊(ニテ)言作之
 フナギホフは遊戯の競漕にあらず。上り下りの船の先を爭ふさまなり。ミヤコドリは鴎の一種なり○古義に來ヰツツナクナルハ吾戀シク思フ都ノ名負ル都鳥カと譯せるは上なるマナクゾ奈良ハコヒシカリケルと業平の歌とを思へるなれどよろしからず。此歌にはさる意は無し〇三月八日より三月廿日までの間〔日が月〕に作りしなり。さて以下も作者の姓名を擧けざるは皆家持の歌なり
    ○
4463 ほととぎすまづなくあさけいかにせばわがかどすぎじかたりつぐまで
保等登藝須麻豆奈久安佐氣伊可爾世婆和我加度須疑自可多利都具麻※[泥/土]
(4160) マヅナクは最初ニ鳴クなり。即初音ヲナクなり○スギジは行キ過ギザラムなり。イカニセバ我門ヲ過ギザラムといふべきをスギジといへる、めづらし○カタリツグマデは語リ次グマデとせむに、さては穩ならねば語リ告グルマデなり。さてカタリツゲルマデをカタリツグマデと云へるは古格に從へるなり。イカニセバ人ニ語リ告グルマデ我門ヲ行キ過ギザラムといへるなり
 
4464 ほととぎすかけつつきみ我《ガ》まつかげにひもときさくるつきちかづきぬ
保等登藝須可氣都都伎美我麻都可氣爾比毛等伎佐久流都奇知可都伎奴
    右二首二十日大伴宿禰家持依v興作之
 古義に
  伎美我はただ松をいはむ料に設て云りと聞えたり。集中に君松(ノ)樹、嬬松(ノ)樹などよめるが如し
(4161)といへるは非なり。
  わがやどの君まつの樹にふる雪の(一一五一頁)
  いまきの嶺にしみたてるつままつの木は(一八三三頁)
  しまらくも君まつ原は清からなくに(二一三九頁)
などは君又は嬬《ツマ》と松と同句中にありて君又は嬬は所謂句中の枕辭なり。今は之と同一視すべからず○古義に伎美我の我を乎の誤としたり。案ずるにこは奈良に殘れる友を憶ひて作れるにて四月には還幸あるべき豫定なれば霍公鳥ヲカケツツ君ガ我ヲ待ツト松陰ニ云々スル月ガチカヅキヌといへるなり。即もとのまゝにてよきなり。ただキミガの下に我ヲといふことを補ひて聞くべきなり。否修辭上より云はばもし君ガと我ヲと一を捨てざるべからざる時は霍公鳥ヲカケツツと云へるに對して寧君ガを捨てて我ヲを存ずべきなり○カケツツは兼ネツツなり。我を主として霍公を待つなり○キミガマツカゲニは君ガ待ツト松陰ニをつづめたるなり○ヒモトキサクルは襟の紐を解きてうちくつろぐなり。二註に納涼する事としたるは上(三九八八頁)に
(4162)  たかまとの尾花ふきこす秋風にひもときあけなただならずとも
とあるを思ひ合せたるなるべけれど霍公のなきそむる頃は納涼にはまだ早かるべし。元來紐トクといふにはさまざまの義あり。こゝなるは卷九なる大伴卿登2筑波山1時歌(一七六8頁)なる
  うれしみと紐の緒ときて、家のごととけてぞあそぶ
などと齊しからむ。さてヒモトキサクルは紐トキサケムとあらまほし
 
   喩v族歌一首并短歌
4465 (ひさかたの) あまのとひらき たかちほの たけにあもりし すめろぎの かみの御代より はじゆみを たにぎりもたし まかごやを たばさみそへて おほ久米の ますらたけをを さきにたて ゆぎとりおほせ 山河を いはねさくみて ふみとほり くにまぎしつつ ちはやぶる 神をことむけ まつろ倍《ハ》ぬ ひとをもやはし はききよめ つかへまつりて〔七字傍点〕 あきつしま やまとのくにの かし(4163)ばらの うねびの宮に みやばしら ふとしりたてて あめのした しらしめしける すめろぎの あまの日繼と つぎでくる きみの御代御代 かくさはぬ あかきこころを すめらべに きはめつくして つかへくる〔五字傍点〕 おやのつかさと ことだてて さづけたまへ流〔左△〕《レ》 うみのこの いやつぎつぎに △ みるひとの かたりつぎて※[氏/一]〔左△〕《バ》 きくひとの かが見にせむを あたらしき きよきその名ぞ おほろかに こころおもひて むなごとも おやの名たつな 大伴の うぢと名におへる ますらをのとも
比左加多能安麻能刀比良伎多可知保乃多氣爾阿毛理之須賣呂伎能可未能御代欲利波自由美乎多爾藝利母多之麻可胡也乎多波左美蘇倍弖於保久米能麻頚良多祁乎乎佐吉爾多弖由伎登利於保世山河乎伊波禰左久美弖布美等保利久爾麻藝之都都知波夜夫流神乎許等牟氣麻都呂倍奴比等乎母夜波之波吉伎欲米都可倍麻都里弖安吉豆之萬夜萬登能(4164)久爾乃可之婆良能宇禰備乃宮爾美也婆之良布刀之利多弖氏安米能之多之良志賣之祁流須賣呂伎能安麻能日繼等都藝弖久流伎美能御代御代加久佐波奴安加吉許己呂乎須賣良弊爾伎波米都久之弖都加倍久流於夜能都可佐等許等太弖氏佐豆氣多麻敝流宇美乃古能伊也都藝都岐爾美流比等乃可多里都藝弖※[氏/一]伎久比等能可我見爾世武乎安多良之伎吉用伎曾乃名曾於煩呂加爾己許呂於母比弖牟奈許等母於夜乃名多都奈大伴乃宇治等名爾於敝流麻須良乎能等母
 初の二十三句をツカヘマリテにて束ね次の十六句をツカヘクルにて束ねさてツカヘクルオヤノツカサトとつづけたり。さればツカヘクルまで四十一句の主格はオヤ即先祖なり。就中ツカヘマツリテまでは天孫|瓊々杵《ニニギ》(ノ)尊に仕へ奉りし忍日《オシヒ》(ノ)命と神武天皇に仕へ奉りし道臣《ミチノオミ》(ノ)命との事をいひ、アキツシマ以下は道臣命以後の祖先の事をいへるなり
 アマノトヒラキは書紀天孫降臨章の一書に則引2開《アケ》天(ノ)磐戸1……以奉v降之とあり
(4165) ○スメロギノカミノは上に引上げてすめろぎの神の、天の戸開き高千穗の峯《タケ》に天降《アモ》りし御代よりとして心得べし。さて御代ヨリとあるにてハジユミヲ以下の十八句が忍日命の上のみにかゝらざるを知るべし。もし此神のみの事ならば御代ニといふべければなり○ハジユミはハゼの木にて作れる弓なりと云ふ。マカゴヤは鹿を射る料の矢なり。記傳卷十三(七一七頁)に
  マカコ矢のカコはただ鹿の事にして其子をいふにはあらず。鹿兒弓、鹿兒矢といふは大きなる弓矢の稱なりといへり(宣長はカコのコを清みてよめり)。さて語例は古事記のおなじ段に
  故《カレ》ココニ天忍日命、天津久米命二人……天ノ波士《ハジ》弓ヲ取持チ天ノ眞鹿兒矢ヲ手挟ミ御前《ミサキ》ニ立チテ仕へ奉リキ
とあり○オホ久米ノマスラタケヲヲ云々 古事記には右の如く大久米部の長を天津久米命としその久米命を忍日命と同列なる神としたるを日本紀には來目部を忍日命の部下とせり。家持の此歌は日本紀に據りて否家記に據りて作れるにて(4166)はやく卷十八にも
  大伴のとほつ神祖《カムオヤ》の、その名をば大來目主と、おひもちてつかへしつかさ
といへり(三七三五頁以下參照)○靭は矢を盛る器なり。さて卷三(五七八頁)に大伴ノ名ニオフ靭帶ヒテまた卷七(一二三一頁)に靭カクル伴ノヲ廣キ大伴ニなどありて靭は大伴の附物なり。オホセは負ハセなり。オハセがオホセとなれるは思ハユがオモホユとなれると同例なり○サクミテはサグクミにおなじ。回避せざるなり。即踏破するなり(此卷【四〇二三頁】イユキサグクミ參照。卷十一【二二五六】頁にイハホスラユキトホルベキマスラヲモといへるも參照すべし)。山河ヲはイハネサクミテを隔ててフミトホリにかゝれるなり○クニマギは國※[爪/見]にて都としたまふべき國を求むるなり。語例は日本紀の彼章に
  膂肉《ソジシ》ノ空國《ムナグニ》ヲ頓丘《ヒタヲ》ヨリ國マギトホリ
とあり○チハヤブルはこゝにては枕辭にあらず。強暴といふ事なり。卷二なる人麿の長歌(二六六頁)にも
  ちはやぶる人をやはせと、まつろはぬ國ををさめとい【一云はらへと】
(4167)とあり○マツロ倍ヌの倍は常にはへとよめば(此歌の上にもタバサミソ倍《へ》テとあり)こゝもマツロヘヌとよみてマツロフはいにしへ下二段にも活きしなりとせむか或は波などの誤とせむか。又はもとのまゝにてハとよまむか。記傳卷十九(一一七七頁)に
  この倍は必波とあるべき處なるをもとより如此よみ誤れるか。又後に寫誤れるか
といひ字音辨證(下一頁)には
  よみ誤れるにもあらず後の寫誤にもあらざるなり。倍をハと呼は漢原音ハイの省呼也
といへり。卷十七(三六三四頁)にヤドカルケフシカナシクオモ倍《ハ》ユとあればこゝももとのままにてマツロハヌとよむべし(卷十九【三八三五頁】ウガヒトモナ倍《ヘ》參照)○フトシリタテテはフトシルとタテテと相連れるなり。而してミヤバシラはタテテにかかれるなり。フトシルはヒロシクといふに同じくて豐に占むる事なり(卷一【五九頁】及卷二【二二五頁】參照)○スメロギはこゝにては神武天皇の御事なり。アマノヒツギは皇統(4168)なり。ツギ弖クルは繼ギ出デ來ルなるべし。古義にツギテテクル(後世のツイデテクル)の下のテを省けるものとしたるは從はれず○カクサハヌは隱サヌにて知リテ申サザル事ナキなり。スメラベは天皇ノ御アタリなり。敬ひてただにスメロギと指し奉らぬなり。キハムもツクスも同事なり○オヤノツカサは先祖の官職なり。さて大伴氏は本來武官の家なり○コトダテテは言ニ立テテにて聲明シテといふ意ならむ。卷十八賀2陸奥國出1v金詔書歌(三七二七頁)にも
  おほきみのへにこそ死なめ、かへり見はせじとことだて……大伴と佐伯の氏は、人のおやのたつることだて又同卷教2喩史生尾張少咋1歌(三七五五頁)にもヨノ人ノタツルコトダテとあり○サヅケタマヘルウミノコノとはつづきがたし。タマヘ流の流は礼の誤ならむ○ウミノコは子孫なり。さてウミノ子もミル人もキク人も皆主格なるがミル人はカタリツグと相對しキク人はカガミニスルと相對したれどウミノ子は相對するもの無し。辭を換へて云はばうみの子がいやつぎつぎに如何にするにか分らず。さればイヤツギツギニの下に二句落ちたるものと斷ずべし○カタリツギ弖※[氏/一]を契沖はカ(4169)タリツギ豆豆の誤なるべしといひ略解には語リ次《ツイ》デテなりといひ古義は略解に同意せり。案ずるに弖※[氏/一]は弖婆の誤ならむ。カタリツギテバは語リ繼ギタラバにてカタリツギテバ鏡ニセムと照應したるなり○アタラシキは惜キなり。ソノは省きて見べし。アタラシクキヨキと云はでアタラシキ(〔右△〕キヨキといへるは當時の語法なり。さてかの賀v出v金詔書歌にもマスラヲノキヨキソノ名ヲ、イニシヘヨイマノヲツツニ、ナガサヘルオヤノ子ドモゾとあり○オホロカニは粗末ニなり。ココロオモヒテは心ニのニを省けるなり。ムナゴトはウソなり(二三〇六頁參照)。ムナゴトモは空言ニモのニを省けるなり
  正しく云はばかゝるニは省けるにはあらで太古にはココロオモフ、ムナ言モとやうに云ひしを後に至りてニを加ふるやうになりしなり。太古の語法は枕辭、古歌の成語などに殘れり。心を附くべし
 ○オヤノ名タツナはかの賀出金詔書歌にも人ノ子ハオヤノ名タタズ、オホキミニマツロフモノトとあり。又寶字元年七月戊申の詔詞にオノガ家々、オノガ門々、祖《オヤ》ノ名失ハズ勤《イソ》シク仕へ奉レとあり。古事記傳卷三十九(二二七二頁)に
(4170)  いにしへは氏々の職業各定まりて世々相繼て仕奉りつれば其職即其家の名なる故に即其職業を指ても名と云り。……萬葉十八にオヤノ名タタズ、廿にオヤノ名タツナこれら皆先祖より承嗣來たる家の職業を名と云り
といへるに依らば卷十八なるは家業ヲ變ゼズと譯しこゝなるは家業ヲカヘルナと譯すべきが如くなれど然譯せむに少くともこゝなるはムナ言モ即虚言ニヨリテダニといへると相かなはず。されば古義に卷十八なるを先祖ノ嘉名ヲ斷タズと譯しここなるを先祖ノ名ヲ穢サヌヤウニ心シラヒヲセヨと譯せるに從ふべきかといふに應神天皇紀に
  三十一年秋詔2群卿1曰。官船名(ハ)枯野者伊豆國所v貢之船也。是|朽《クチテ》之不v堪v用。然久爲2官用1。功不v可v忘。何《イカデ》其(ノ)船(ノ)名(ヲ)勿v絶《タツコトナクテ》而得v傳2後葉1焉
とあるを例とせばオヤノ名ヲタツは先祖ノ名ヲ消滅セシムといふ事、やがて家ヲ亡スといふ事とすべし。今もいふ家名斷絶は即オヤノ名ヲタツなり○大伴ノ云々は我大伴一族ノ人人ヨといへるなり。名ニオヘルは名ニ負ヒ持テルなり。古義に『古志悲を教へ喩したるなり』といへるは非なり。古慈悲の事ありしに附きて古慈悲并(4171)に一族に喩したるなり。さればこそ題辭にも喩族歌と云へるなれ
 
4466 しきしまのやまとのくににあきらけき名におふとものをこころつとめよ
之奇志麻乃夜未等能久爾々安伎良氣伎名爾於布等毛能乎己許呂都刀米與
 以下二首は反歌なり
 初二はヤマトノ國ニ伴(ノ)緒ハアマタアレド特ニといふ意とすべし。アキラケキ名は長歌にキヨキソノ名とあるにおなじくて清明なる家聲といふことなり。名ニオフは名ニ副フなり。トモノヲは部長にて即大伴一族の人々なり。ココロツトメヨは心ニ勤メヨなり
 
4467 (つるぎだち)いよよとぐべしいにしへゆさやけくおひてきにしその名ぞ
都流藝多知伊與餘刀具倍之伊爾之敞〔左△〕由佐夜氣久於比弖伎爾之曾乃名(4172)曾
   右縁2淡海(ノ)眞人三舩(ノ)讒言1出雲守大伴(ノ)古慈悲(ノ)宿禰解v任。是以家持作2此歌1也
 サヤケクは長歌のキヨキ、前の歌のアキラケキにおなじ。このオフは負ヒ持ツなり。略解に『サヤケクオヒテは大伴の氏は名高く明らかに聞え來しといふ也』といへるは非なり。清白ヲ以テ聞エシ家名ゾといへるなり○ツルキダチはトグにかゝれる枕辭のみ。イヨヨトグベシは家名ヲ磨クベシといへるなり。略解に『一二の句は丈夫の事とする物を以て譬とす』といへるは如何なる意にか知られず。古義にイヨイヨ益精神ヲ研ギテと譯せるも妄なり
 續日本紀に
  天平勝寶八歳五月癸亥(○十日)出雲國守從四位上大伴宿禰古慈斐〔右△〕、内豎淡海眞人三舩坐d誹2謗朝廷1旡c人臣之禮u禁2於左右衛士府1。丙寅(○十三日)詔並放免
とあり。これによりて契沖は『紀と今の注と相違せる事不審なり』といへり。三船の讒言によりて出雲守の任を解かれしは一たび放免せられし後の事にや。其年月は史(4173)に見えざれど下なる此年十一月の歌の處に出雲守山背王とあり又續紀此年十二月の下に出雲國守從四位下山背王とあれば此時より前なる事明なり。又寶龜八年八月大伴宿禰古慈斐薨の條に
  勝寶年中……俄遷2出雲守1。自v見2疎外1意常鬱々。紫微内相藤原|仲滿《ナカマロ》誣以2誹謗1左2降土左守1促令v之v任。未v幾勝寶八〔右△〕歳之亂|便《サナガラ》流2土左1
とあり。勝寶八歳之亂とあれど八歳には亂なかりき。こは同九歳(即天平寶字元年)七月の橘奈良麻呂等が亂を指せるならむ。さらば八歳は九歳の誤と認むべし。されば古慈悲は勝寶八歳(六月か)に出雲守より土左守に左遷せられ(但藤原仲麻呂が紫微内相となりしは九歳五月なり)翌寶字元年の七月より後に土左守を免じて其國の流人とせられしなり
 以上長歌一首短歌二首はたとひ冤罪によりて罸せらるとも朝廷を恨み奉る事なくして益忠誠に努むべき事を宗家の嫡子として一族に喩したるなり。極めて陰険なる政爭の行はれし時代なればおそらくは家持も其族の亡ぶるに至らむ事をおそれしならむ。因にいふ。古慈悲は位階家持に超えたる上に寶龜八年に八十三歳に(4174)て薨ぜしなれば無論家持より年長なりしなり(家持の年齢は明ならねど)
 
   臥v病悲2無常1欲2修道1作歌二首
4468 うつせみはかずなき身なりやまかはのさやけき見つつみちをたづねな
宇都世美波加受奈吉身奈利夜麻加波乃佐夜氣吉見都都美知乎多豆禰奈
 一族に勅勘を蒙りしもの出でし上に病にさへ躍りしかば無常を感じて佛道に入らむとせしなるべし。修道《シユダウ》は欽明天皇紀十六年に百済(ノ)餘昌謂2臣等1曰、少子今願|奉2爲《ミタメニ》考《チチ》王1出家修道(セム)とあり
 カズナキ身とは久シカラヌ身といふことにや。卷十七にも世ノナカハカズナキモノカ(三五四六頁)また世ノナカハカズナキモノゾ、ナグサムルコトモアラムト云々(三五六三頁)とあり。タヅネナは尋ネムなり
 
4469 わたる日のかげにきほひてたづねてなきよきそのみちまたもあはむ(4175)ため
和多流日能加氣爾伎保比弖多豆禰弖奈伎欲吉曾能美知未多母安波無多米
 日ノ空ヲ渡リテ息フ事ナキニキホヒテとなり。キホヒテは負ケズニなり○マタモは前世ト同ジクとなり。今日人身ヲ享ケ得タルハ前世修道ノ功徳ナレバ今生ニモ亦佛道ニ値遇《チグウ》セムといへるなり○キヨキソノ道はニを添へて下へつづけて見べし。道といふものを在處不明なるもののやうにいひなしたるなり
 
   願v壽作歌一首
4470 みつぼなすかれる身ぞとはしれれどもなほしねがひつちとせのいのちを
美都頗奈須可禮流身曾等波之禮禮杼母奈保之禰可比都知等世能伊乃知乎
     以前歌六首六月十七日大伴宿禰家持作
(4176) ミツボは古義に『水粒にて泡沫の別名なり』といへる如し○カレル身は假借の身なり」卷三(五六六頁)なる同じ人の歌にもウツセミノカレル身ナレバといへり。ナホシのシは助辭なり○以前は以上なり
 
   冬十一月五日夜少雷起鳴、雪落覆v庭、忽|懷《オモヒ》2感憐1聊作短歌一首
4471 けのこりのゆきにあへてる(あしひきの)やまたちばなをつとにつみこな
氣能己里能由伎爾安倍弖流安之比奇之夜麻多知波奈乎都刀爾通彌許奈
    右一首兵部少輔大伴宿禰家持
 少雷は諸本に小雷とあり。少小は古書に通用せり。起鳴は起リ鳴リなり。忽懷感憐はフト詩情ガ動イテとなり。深き意あるにあらず。所詮殘雪と相映ずる紫金牛《ヤブカウジ》がふと目に浮びしなり
 アヘは合セにてこゝにては己ヲ合セなり。さればアヒといはむにひとし。或は安倍(4177)とあるをアヒとよむべしともいふべけれど集中に倍をへに借れる外ハに借れる例はあれど、ヒに借れる例は無し。字音辨證にヒに借れる例として奉げたるは皆ヘとよむべし(三八三六頁參照)○ツミコナは摘ミ來ムなり。初句の上に明日ハ山ニ行キテといふことを加へて聞くべし。略解に『此時やからなど山方へゆける事ありて夫《ソレ》を思ひてよまれしならん』といへるが誤なる事は古義に之を駁して『もし其意ならばツミコネとこそいふべげれ』といへる如し。但同書に『もとより假合泡沫のはかなき此身なれば云々』といへるは非なり。さる意は無し○卷十九に同じ人の歌に
  此雪のけのこる時にいざゆかな山橘の賓のてるも見む
とあり
 
   八日讃岐守|安宿《アスカベ》王等集2於出雲掾|安宿《アスカベ》(ノ)奈杼《ナド》麿之家1宴歌二首
4472 おほきみのみことかしこみ於保〔左△〕《オウ》のうらをそがひにみつつみやこへのぼる
於保吉美乃美許等加之古美於保乃宇良乎曾我比爾美都々美也古敝能(4178)保流
     右掾古〔左△〕宿《アスカベ》(ノ)奈杼麿
 安宿(ノ)奈杼麿は安宿王の乳母の子などなるべし
 出雲國に意宇といふ地名あり。之によりて略解に
  こゝに於保とあるは按に初句の於保の文字うつりて誤れるにて於宇と有るべき也
といへり。之に從ふべし。ソガヒニミツツはウシリニ見ツツなり
 右の下に一首の二字あるべきなり。古は安の誤なり。題辭の書樣よろしからず。此歌も此日の作にあらで次の歌と共に出雲國を立たむとせし時の作なるを此日に奈杼麿の誦せしなり
 
4473 (うちひさす)みやこのひとにつげまくはみしひのごとくありとつげこそ
宇知比左須美也古乃比等爾都氣麻久波美之比乃其等久安里等都氣己(4179)曾
    右一首守|山背《ヤマシロ》王歌也。主人安宿(ノ)奈杼麿語云。奈杼麿被v差2朝集使1擬v入2京師1、因v此餞之日各作2此(ノ)歌1聊陳2所心1也
 ツゲマクハは告ゲムヤウハとなり。ミシ日は見給ヒシ日にてやがてサキノ日なり」守とあるは出雲守なり。山背王は安宿王の同母弟なり。擬入は入ラムトスとよむべし。將入におなじ。古義に各作此歌の此を衍字とせり。元暦校本には此字無し。されどなほ存ずべし。右歌といふことなり
    ○
4474 (むらとりの)あさだちいにしきみがうへはさやかにききつおもひしごとく 一云おもひしものを
武良等里乃安佐太知伊爾之伎美我宇倍波左夜加爾伎吉都於毛比之其等久 一云於毛比之母乃乎
    右一首兵部少輔大伴宿禰家持後日追2和出雲守山背王歌1作之
(4180) サヤカニはハツキリトなり。略解に
  未句オモヒシゴトクにては穩ならず。一本のオモヒシモノヲの方を用べし
といひ古義には之に反して
  オモヒシゴトクは聞マホシク思ヒシ其如クと云なるべし。舊本に一云オモヒシモノヲとあるは理然るべからず
といへり。案ずるにゴトクに從はば
  サヤカニ聞カムトカネテ思ヒシ如クサヤカニ聞キツ
と譯すべくモノヲに依らば
  サヤカニ聞カムトカネテ思ヒシニサヤカニ聞キツ
と譯すべし。即二つながら穩ならざる所なく理然るべからざる事なし。さて一云は一本云といへるにはあらで家持自身二案のうち一に決しかねて一云とは書きおけるなるべし
 
   二十三日集2於式部少掾〔左△〕大伴宿禰池主之宅1飲宴歌二首
4475 はつゆきはちへにふりしけこひしくのおほかるわれはみつつしぬば(4181)む
波都由伎波知敝爾布里之家故非之久能於保加流和禮波美都都之努波牟
 こは卷十なる、人麿歌集より採れる
  沫雪は千重にふりしけこひしくのけながき我はみつつしぬばむ
を少し更へたるのみ。第三句以下の意は戀シキ事ノ多キ我ハソヲ見ツツ賞デテ戀シサヲ慰メムといへるなり。略解の釋は誤れり。古義も初二を解き誤れり。チヘニフリシケはただ探クツモレといへるなり。シケはカサナレなり
 少掾は諸本及目録に從ひて少丞に改むべし
 
4476 おくやまのしきみがはなの|△△《ナノ》ごとやしくしくきみにこひわたりなむ
於久夜麻能之伎美我波奈能其等也之久之久伎美爾故非和多利奈無
     右二首兵部大丞大原眞人今城
(4182) 諸本にシキミガ波奈能奈能ゴトヤとあり。もとかくの如くなりしを傳寫の際に一つの奈能をおとししなり。六帖にもオク山ノシキミノ〔右△〕花ノ名ノゴトヤとあり。シキミのシキは重《シキ》に通ずればシキミノ花ノ名ノゴトク重々《シクシク》ニといへるなり
 
   智努女王卒後圓方女王悲傷作歌一首
4477 ゆふぎりにちどりのなきし佐保ぢをばあらしやしてむみるよしをなみ
由布義理爾知杼里乃奈吉志佐保治乎婆安良之也之弖牟美流與之乎奈美
 智努女王と圓方《マトガタ》女王との關係は知られず。圓方女王は長屋王の女にて天武天皇の曾孫なり。智努女王もし智努王(文室《フムヤ》(ノ)眞人|淨三《キヨミ》)の妹ならば長(ノ)親王の女にて天武天皇の孫なり。圓方女王の父左大臣長屋王は天平元年即女王の幼時に自盡を命ぜられ其室吉備内親王其男|膳夫《カシハデ》王、桑田王、葛木王、釣取王は同時に自縊りてうせしなり。智努女王は圓方女王より年長なりきとおぼゆ。或は圓方女王を愛撫せしにか。歌によ(4183)れば佐保に住みしなり
 第三句以下を略解に
  今よりは佐保路を通ふ人もなくて荒しやせん〔五字傍点〕と悲しむ也
といひ古義に
  今は相見むとてかよふ人もなき故に其佐保路に道のしば草生茂りなどして荒しめやしてむ〔七字傍点〕とかなしめるなり
といへり。アレシメヤシテムは曖昧にして又平穩ならざる辭遣なり。もし二註所説の如くならばアレヤセムといふべきなり。さてアラシヤシテムは荒ラシテヤラウカといふことなれば一首の意は
  イツカ御尋シタ時ニハ夕霧ニ千鳥ガ啼イテ面白カッタガ今ハソノ佐保路ヲトホッテモ再御目ニカカラレル由ガ無イカライッソ心殘ノナイヤウニ草ナドハヤシテトホラレヌヤウニ荒シテヤラウカ
といへるなり
 
   大原(ノ)櫻井(ノ)眞人行2佐保川邊1之時作歌一首
(4184)4478 佐保がはにこほりわたれるうすらひのうすきこころをわがおもはなくに
佐保河波爾許保里和多禮流宇須良婢乃宇須伎許己呂乎和我於毛波奈久爾
 大原(ノ)櫻井(ノ)眞人は卷八に見えたる遠江守櫻井王なり。古義に續日本紀を引きて
  大藏卿從四位下大原眞人櫻井大輔〔二字右△〕爲2恭仁宮留守1
といへるは大輔の下に正五位上穗積朝臣老といふ九字を脱せる本に據れるにて大輔は穗積(ノ)老の官名なる事卷八(一六二四頁)にいへる如し。
  古義の人物傳にはさすがに『大輔とあるはうたがはし』といへり
 櫻井王が姓を賜はりしはおそらくは續紀天平十一年四月に從四位上高安王等……今依v所v請賜2大原眞人之姓1とあると同時ならむ。又此歌を傳誦せし今城は櫻井の子ならむ。卷六天平九年丁丑春正月橘卿諸大夫等集2弾正尹門部王家1宴歌(一一二五頁)の左註なる主人門部王の分註に後賜2姓大原眞人氏1也とあり。こは高安同時(4185)の賜姓にや。又卷八秋雜歌佛前唱歌(一六一二頁)の左註なる忍坂王の分註に後賜2姓大原眞人赤麻呂1也とあり。ここの後は天平十一年冬十月より後なれば此人の賜姓は高安と同時ならじ。此氏人は續紀には高安、櫻井、門部、今城の外にもあまた見えたり。敏達天皇の御末なり
 上三句は序なり。ウスキ氷をウスラヒといふはアカキ※[木+斛]橘をアカラガシハ、アカラタチバナといふと同格なり
 
  藤原夫人歌一〔左△〕首【淨御原△御宇天皇之夫人也字曰氷上大刀自也】
4479 あさよひにねのみしなけば(やきだちの)とごころもあれはおもひかねつも
安佐欲比爾禰能未之奈氣婆夜伎多知能刀其己呂毛安禮波於母比加禰都毛
 この藤原夫人は卷八(一五一九頁)に見えたる藤原夫人即大原大刀自の姉にて共に鎌足の女にて共に天武天皇に侍せし婦人なり。夫人の位は妃に次げり。諸本に淨御(4186)原の下に宮の字あり。宜しく之を補ふべし。又一首とあるは二首の誤なり。大刀自は即夫人なり
 トゴコロはヲヲシキ心なり。古義に『オモヒカネツモは思ニ堪カネツルといふなり』といへるはいみじき誤なり。トゴコロヲ思フを割きたるにてそのトゴコロヲオモフはヲヲシキ心ヲ持ツといふことなり。前の歌なるウスキ心ヲワガオモハナクニの心ヲオモフと同じきなり
 
4480 かしこきやあめのみかどをかけつればねのみしなかゆあさよひにして
可之故伎也安米乃美加度乎可氣都禮婆禰能未之奈加由安左欲比爾之弖 作者未詳
    右|件《コノ》四首傳(ヘ)讀(ミシハ)兵部大丞大原△△今城
 カシコキヤのヤは助辭、アメノミカドは天皇を申し奉れるなり。カケツレバは心ニカケテシノビ奉レバとなり。古義に『カケツレバは言ニカケテイヒツレバの意なり』(4187)といひ又一首を釋して
  朝廷の事を人の言にかけていふにつけてもはや天皇の御うへをこひしく思ひ奉りて朝夕となく他事なく一すぢに哭《ネ》にのみ泣るるよとなり
といへるはいみじき誤なり。アメノミカドを強ひて朝廷と譯したる爲右の如く曲解せざるを得ざりしなり。天皇を直に指斥し奉るがかしこさに天ノミカドといへるのみ。さてこゝは勿論天武天皇を指し奉れるなるが古今集墨滅歌なるイヌカミノトコノ山ナルといふ歌の左註に「この歌ある人、あめのみかど〔六字傍点〕の近江の采女にたまへると」とあるは天智天皇を指し奉れるなるべく(實は萬葉集卷十一に見えたる作者不詳の歌なれど)また大鏡道長傳に「あめのみかど〔六字傍点〕の造りたまへる東大寺」といへるは聖武天皇を指し奉れるなり○アサヨヒニシテのシテは助辭なり。イキノヲニシテ、オモカゲニシテなどのシテにおなじ
 前の歌にアサヨヒニネノミシナケバとあり後の歌にネノミシナカユアサヨヒニシテとあるを見ても右の二首が一聯の歌なるを知るべし。おそらくは天皇の崩御を悼み奉れるならむ。ただ天皇を慕ひ奉れるにはあらじ。作者未詳の四字は後人の(4188)さかしらなり。宜しく削り去るべし。はやく略解に
  端書に二首を一首と誤れるより後人かく書入たるなるべし
といへり。大原今城の間〔日が月〕に眞人の二字を補ふべし○以上四首は十一月廿三日に大伴池主の宅にて飲宴せし時に家持のききて記しおけるなるべし。はやく代匠記に
  『是も池主にての宴の時なるべし』といへり○傳讀といふ語はきゝなれねば傳誦の誤かと思へど上にも下にも誦といふべきを讀と書けるを思へば誦をヨムとよむよりうつりて文字にも讀とも書きしなるべし(法會并に和歌會の讀師の讀も誦の意なり)
 
   △△△△△△三月四日於2兵部大丞大原眞人今城之宅1宴歌一〔左△〕首
4481 (あしひきの)やつをのつばきつらつらにみともあかめやうゑてけるきみ
安之比奇能夜都乎乃都婆吉都良都良爾美等母安加米也宇惠弖家流伎美
(4189)   右△△兵部少輔大伴△△家持|屬《ミテ》2植椿1作
 以前の例によらば三月四日の前に天平勝寶九歳の六字あるべきなり。又一首は二首の誤なり
 略解に
  ミトモアカメヤに主人をそへたり〔四字傍点〕
といひ古義に
  其主人と椿とを並べて〔三字傍点〕つらつら見るに共に〔二字傍点〕あく世なくめづらしとなるべし
といへるは非なり。初二は眼前の物を以て序としたるのみ。さて此序は卷一なる巨勢山ノツラツラ椿ツラツラニを學びて椿ノ葉ノツラツラト照ルガ如クといへるならめど少し無理なり(古義に椿ノ枝ノ連々《ツラツラ》ニツラナル意といへるは從はれず)。ツラツラは今いふツルツルにて艶《ツヤ》とも同源なるべし○ヤツヲはカサナレル岡なり。語例は近くは卷十九に
  おく山のやつをのつばきつばらかに今日はくらさねますらをのとも
とあり(4190)左註にも一首と宿禰とをおとせるならむ。屬は矚の略字なり。植椿を古義にただにツバキとよめるはわろし。ウヱタルツバキとよむべし。山より根こじ來て庭に植ゑたるなり
 
4482 ほりえこえとほきさとまでおくりけるきみがこころはわすらゆまし目〔左△〕《ジ》
保里延故要等保伎佐刀麻弖於久利家流伎美我許己呂波和須良由麻之目
    右一首播磨介藤原朝臣執弓赴(クト)v任悲v別△也、主人大原△△今城傳讀云爾
 代匠記に『今の尼崎あたりまでも送けるなるべし』といへり。麻之目は橋本進吉氏の説に從ひて目を自の誤としてマシジとよみて今のマジの意とすべし。元暦校本には自とあり
 悲別の下に歌の字を補ふべし
 
(4191)   勝寶九歳〔四字□で囲む〕六月二十三日於2大監物《ダイケンモツ》三形王之宅1宴歌一首
4483 うつりゆく時|見〔左△〕《アフ》ごとにこころいたくむかしのひとしおもほゆるかも
宇都里由久時見其登爾許己呂伊多久牟可之能比等之於毛保由流加母
    右兵部大輔大伴宿禰家持作
 ここの勝寶九歳の四字は(前に天平勝寶九歳の六字を補ひて)削るべし
 第二句を從來トキミルゴトニとよみたれど時〔右△〕ならば時ニアフなどいふべく見〔右△〕ならば物ミルなど云ふべし。又ミルならば此卷の書式によれば見流と書くべし。おそらくはもと時相とありしを後人のトキアフにては辭を成さずと思ひてさかしらに相を見に改めしならむ。げに後世の語法ならばトキアフとは云ふべからざれど本集には後世ならば省くべからざるニを省ける例多ければトキニアフをトキアフと云へりとすべし○ムカシノ人は三形王の父王をいへるならむ
 左註に兵部大輔大伴宿禰家持とあるは此月十六日少輔より大輔に陞りしなり
    ○
(4192)4484 さくはなはうつろふときあり(あしひきの)やますがの禰〔左△〕《ハ》しながくはありけり
佐久波奈波宇都呂布等伎安里安之比奇乃夜麻須我乃禰之奈我久波安利家里
    右一首大伴宿禰家持悲2怜物色(ノ)變化1作之也
 時めく人を花にたとへ己を山菅にたとへたるなり○古義に『管(ノ)根ノナガクとはいひ下されしなるべし』といへるはふと思ひ誤れるなり。ヤマスガノネ之の之はシとよむべければ(古義にも然よめり)ナガクにかゝれりとすべからず○ナガクハアリケリはトキハナリとなり。ヤマスガノ禰の禰は波(葉)の誤にあらざるか
 物色は元來家畜の毛色なり。ここゝにては光景の意につかへるにて卷十七(三五四九頁)なる空シク令節ヲ過シ物色人ヲ輕《アナヅ》ルの物色に同じ。卷八(一五二五頁)なる喪ヲ弔ヒ并ニ物色ヲ賜フの物色とは異なり
    ○
(4193)4485 時(ノ)花いやめづらしもかくしこそめしあきらめ晩〔左△〕《メ》あきたつごとに
時花伊夜米豆良之母可久之許曾賣之安伎良米晩阿伎多都其等爾
    右一首大伴宿禰家持作之
 古義に
  次下十二月十八日の歌にミ雪フルフユハケフノミ云々とあれば十九日立春なり。これより推に六月十七八日の頃立秋なるべし。此歌二十三日によまれたれば秋とはいはれたるなるべし
といへり。此歌まで三首を三形王の宅にて作れるなりとして『二十三日によまれたれば』といへるなれど三形王の許にてよめるはウツリユク時|見《アフ》毎ニの一首のみ。サク花ハも此歌も別時の作にて何月何日の作にか知るべからず○時ノ花はここにては秋草の花なり。カクシコソはカヤウニコソなり。晩は一本に免とあるに從ふべし。さて第四句は見テ心ヲハラサムといふ意かと思ふにメシは見の敬語なれば己が見るには云ふべからず。されば此歌は人に贈りし歌とせざるべからず○略解に『右のサク花ハの歌にさかひて答へたるやうによまれたり』といへれどサクハナハ(4194)と此歌とは別時の歌なるべし。もし同時の歌ならば左註は二首を束ねてものすべければなり○古義には以上三首を同時の作として六月二十三日於2大監物三形王之宅1宴歌一首の註に
  今の歌のさまを思ふに三首ともに王宅の宴歌と思はるれば一首はもしは後に三首を誤れるにもあらむか
といひ、サク花ハといふ歌をも時ノハナといふ歌をも之に準じて釋きたれど、もし三形王の家にて同時に作れるならば左註は三首を束ねてものすべく今の如く毎首に左註をものすべからず。特に第二首の左註なる悲2怜物色變化1作之也は第一首にもよく協へるをや
 
   天平寶字元年十一月十八日於2内裏1肆宴哥二首
4486 天地をてらす日月の極なくあるべきものをなに△《ヲ》かおもはむ
天地乎弖良須日月能極奈久阿流倍伎母能乎奈爾加於毛波牟
    右一首皇太子御歌
(4195) 天平勝寶九歳八月に改元せられしかば更に天平寶字元年と標したるなり。古義に
  一説にこの十一月十八日は新嘗會なるべし。新嘗會は十一月中(ノ)卯日に行はるゝことなるを續紀を推て考るに此日中(ノ)卯日にあたれり。と云り
といへれど此年十一月は乙亥朔なれば中(ノ)卯日即辛卯は十七日に當れり。さて十八日は新嘗祭の次日にて實に豐明節會《トヨノアカリノセチエ》の當日なり
 初二は序なり。三四の主格は御代なり。結句の奈爾の下に諸本に乎の字あり○橘奈良麻呂等の變の、事なく平ぎしを下に合みて御代を祝ひ給へるなり。次なるも同事なれど此の温柔にして彼の嚴※[礪の旁]なるは身地性格の相異によれるならむ
 皇太子御名は大炊王、此年四月立てて皇太子とせられ給ひき。後に廢せられて淡路國に流され給ひしかば淡路廢帝と稱し奉りしを明治三年に至りて淳仁天皇といふ御謚を奉り給ひき
 
4487 いざ子どもたはわざなせそ天地のかためしくにぞやまとしまねは
伊射子等毛多波和射奈世曾天地能加多米之久爾曾夜麻登之麻禰波
    右一首内相藤原朝臣奏v之
(4196) こゝの子ドモは漢語の孺子に當れり。タハワザはタハケタル業なり。初二は奈良麻呂等の陰謀をいへるなり。こゝのアメツチは天神地祇なり○集中にヤマト島又はヤマト島根といひ播磨國風土記に朝日ニハ淡路島ヲ蔭《オホ》ヒ夕日ニハ大倭島根ヲ蔭ヒキといへるは大和國なるに反してここにヤマトシマネと云へるは日本國なり。はやく仲信友の宇知都志麻(全集第三の三六頁)に此歌のヤマトシマネが他の例と語意を異にせるを指摘して  古人のなりとはいへど此歌詞は正しき詞の證にとるべからず
と云へり
 藤原朝臣は藤原仲麻呂即後の惠美《ヱミ》(ノ)押勝《オシカツ》なり。此年五月紫徴内相の官を設けて仲麻呂を之に任ぜられき。紫微内相は軍務大臣にて内相は其略なり(紫微は元來星の名なるが支那の天文學にて之を天帝の座とするが故に轉じて禁中の事とするなり)。仲麻呂は恰奈良麻呂等の政敵なり。而して皇太子は實に仲麻呂が推し奉りしなり○此歌はもし作者が作者ならば今も唱へつべき歌なり
 
  十二月十八日於2大監物三形王之宅1宴歌三首
(4197)4488 三雪ふるふゆはけふのみ鶯のなかむ春べはあすにしあるらし
三雪布流布由波祁布能未※[(貝+貝)/鳥]之奈加牟春敞〔左△〕波安須爾之安流良之
     右一首主人三形王
 ミユキを三雪と書けるは取外したるなり。此卷の書式にかなはず。代匠記に
  十九日立春にて有けるなるべし。下の二十三日の歌(○月ヨメバイマダ冬ナリ)を合せて見べし
といへり
 
4489 (うちなびく)はるをちかみか(ぬば玉の)こよひのつくよかすみたるらむ
宇知奈婢久波流乎知可美加奴婆玉乃己與比能都久欲可須美多流良牟
    右一首大藏大輔|甘南備《カムナビ》(ノ)伊香《イカゴ》(ノ)眞人
 ハルヲチカミカは春ガ近ケレバニヤとなり。古義に
  或説に大輔おそらくは少輔ならむ。當時從五位上にて後十三年を經て正五位下に至る。少輔相當なるを知べし。といへり
(4198)といへり。諸省の大輔は正五位相當なり。但伊香は下にも大輔とのみあり〇古義に
  勝寶三年十月丙辰從五位上伊香王(ノ)男高城(ノ)王賜2甘南備眞人姓1。契沖云。これは孝謙紀のあやまりにや。此集は當時の事を家持のしるされたるに甘南備伊香眞人とあれば其男高城王はおのづから甘南備なるべきことわりなり。高城王に賜はりたらむにはいかでか伊香王には甘南備眞人とかゝるべき(○こは代匠記初稿本の文なり)
とあるは文意不明なれど續紀に伊香王(ノ)男高城王とあるは伊香王の誤なりと云へるにや。按ずるにこは續紀を誤讃せるなり。續紀には
  從五位上伊香王、男高城王、旡位池上王賜2甘南備眞人(ノ)姓1
とありて伊香王と其子高城王と又池上王とに姓を賜ひきと云へるなり。池上王は伊香王の弟なるべし○伊香は本集卷十三雜歌なる長歌の末(二七九八頁)にツルギダチ鞘ユヌキデテ、伊香胡山イカニカワガセム、ユクヘ知ラズテとあり又和名抄なる伊香の訓註に伊加古とあればイカゴとよむべし。否香山(カゴヤマ)を古はカグ山と唱へしを思ひ又神名帳(近江郡伊香郡)に伊香具神社、伊香具坂神社と書けるを見(4199)ればもとはイカグと唱へしを夙く奈良朝時代よりイカゴと訛りしなり
 
4490 (あらたまの)としゆきがへりはるたたばまづわがやどにうぐひすはなけ
安良多未能等之由伎我敝理波流多多婆末豆和我夜度爾宇具比須波奈家
    右一首右中弁大伴宿禰家持
 トシユキガヘリは年來返リなり。年があなたへ行きて又こなたへ返るといふ意にはあらず○古義に
  王宅の宴席なるに自ノ家ニ先鳴ケといはむこといかがしければこれは主人の意になりてよまれしにやあらむといへるはかたくなし。ワガは吾人ノと心得てあるべし
 家持が兵部大輔より右中辨となりし事は續紀に漏れたり
    ○
(4200)4491 おほきうみのみなぞこふかくおもひつつもひきならししすがはらのさと
於保吉宇美能美奈曾己布可久於毛比都々毛婢伎奈良之思須我波良能佐刀
    右一首藤原宿奈麿朝臣之妻石川女郎|薄《ウスラギ》v愛離別(セラレ)悲恨作歌也年月未詳
 和名抄に溟勃(於保岐宇美)とあればオホウミともオホキウミともいひしなり。ミナゾコまでが枕辭なり。フカクオモヒツツは深ク君ヲ思ヒツツなり○モヒキナラシシは古義にいへる如く裳引|令v平《ナラシシ》なり。タチナラス、フミナラスのナラスなり。略解に令馴とせるは非なり。さて今は徘徊せし事をモヒキナラシシといへるなり○菅原里は昔の奈良の南郊なり。宿奈麻呂の家此里にありて女郎も同棲せしならむ。古義の説は從はれず
 此歌も亦十二月十八日に三形王の宅にて宴せし時に聞きしならむ
 
(4201)   二十三日於2治部少輔大原今城眞人之宅1宴歌一首
4492 つきよめばいまだ冬なりしかすがに霞たなびくはるたちぬとか
都奇餘米婆伊麻太冬奈里之可須我爾霞多奈婢久波流多知奴等可
     右一首右中弁大伴宿禰家持作
 ツキヨメバは月ヲ數フルニ十二月ナレバとなり。上三句は卷十(一九三二頁)なる
  雪みればいまだ冬なりしかすがにはる霞たち梅はさきつつ
を學びたるなり
 
   二年春正月三日召2侍從豎子王臣等1令v侍2於内裏之東屋(ノ)垣下1即賜2玉箒1肆宴、于v時内相藤原朝臣奉v勅宣、諸王卿等隨v堪任v意作v歌并賦v詩、仍應2 詔旨1各陳2心緒1作v歌賦v詩【未得諸人之賦詩并作歌也】
4493 始《ハツ》春のはつねのけふのたまばはき手にとるからにゆらぐたまの乎〔左△〕《ト》
始春乃波都禰乃家布能多麻婆波伎手爾等流可良爾由良久多麻能乎
     右一首右中弁大伴宿禰家持作、但依2大藏(ノ)政1不v堪v奏之也
(4202) 二年正月は甲戌朔なれば三日は丙子にて所謂初子なり○竪は豎《ジユ》の俗字なり
  我邦にて縱と同義としてタテとよみ音も竪者などの時リツとよむは誤れり
 竪子は即内豎なり。はやく卷八(一六六〇頁)にいへり。王臣は王等卿等にて下なる諸王卿等におなじ○東屋を古義に『内裏にて東方にあたれる處の屋舍なるべし』といへり。即文武天皇紀に見えたる東(ノ)安殿ならむ(四一四六頁參照)。さて東屋を擇び給ひしは東は春の方位なるが故ならむ。垣下はヱンガと音讀すべし。ツイヂノモトなり○玉箒はネンド草の茎を集めて作れる手箒なり。穗井田忠友の觀古雜帖に
  玉箒俗稱ネンド草、亦コウヤ箒、或云茶セン柴。野生宿根、高二三尺、靡状、長きは四尺に及べり。八九月小白花開く。一蕚十二花、其状白朮花に似て小樣なるものなり。萬葉集卷廿に天平寶字二年正月三日云々とある此時の御箒今尚東大寺に有て其材は即此ネンド草也
といひてネンド草の圖を出し又
  東大寺の寶藏(○即正倉院)なる玉箒は長二尺許、箒鬚の※[木+少]《スヱ》毎に紺色の細珠を帽《カブ》らしめ把は紫革にて包たる上を金の絲がねに五色の細珠を貫たるもてまきしめ(4203)たるが年をへて絲がねのきれ損ねたりと見ゆるもの二柄あり。二柄は帝と光明皇后との御《ゴ》ならん歟。諸王卿に賜しは其製の精麁今知べからず
といひ又
  彼の萬葉集なる天平寶字二年正月三日の初子の玉箒即是なるべき事は同寶藏に鐵※[金+纔の旁]金嵌の儀鋤ありて其柄に子日辛鋤《ネノヒノカラスキ》天平寶字二年正月と銘せる、同時の用相證すべき也
といへり。
  箒と鋤と草との圖は手近きものにては増補雅言集覧に出せり。又箒の圖は古今要覧稿卷百九十三(第三の一五二頁)に出でたり。觀古雜帖等は手に入り易からず。近年此|儀鋤《カザリスキ》と儀箒とを摸製せし事あり 我邦にても上古より農桑の事を奨励せられしかばいつの御代よりか正月の初子の日に親耕親蠶の式を行ひ給ふ事となり又いつの頃よりか天皇には耕作の具なる辛鋤を奉り皇后には養蠶の具なる(蠶室を掃くにつかふ)玉箒を奉る事となりしならむ。今正倉院に傳はれるは寶字二年の物なる辛鋤と、おそらくは同年の物なる(4204)べき玉箒とのみなれど之によりて子日に辛鋤玉箒を奉りしは此年に限れりとは妄斷すべからず。さて孝謙天皇は女帝なれば此御代には天皇の御《ゴ》として辛鋤の外に玉箒をも奉りけむ。但諸王卿に玉箒を賜ひしはおそらくは此年に限れる事にて子日の豐明《トヨノアカリ》に一種の引出物としてぞ賜ひけむ。さて此箒を玉バハキといふは玉即玻璃の小珠にて飾れる爲にて其材料なるネンド草をも玉バハキといふは玉バハキに用ふる草といふべきをつづめたるなり。本集卷十六に
  玉ばはきかり來《コ》鎌麻呂むろの木となつめがもとをかきはかむ爲
といへるは適に此草を指せるなり○隨堪任意は字のまゝに堪《カン》ニ隨ヒ意ニ任セテとよむか又は四字を聯ねてオモヒオモヒニとよむべし(古義には四字を連ねてココロノママニとよめり)
 古義に
  ユラクは玉のゆらゆらと鳴りひびくを云。玉之緒といへるは其緒のゆらくを云よしの詞つづきと聞ゆれど緒ノナルとは云べきにあらざれば緒に貫る玉のゆらくよと云意を語路に引れてユラク玉之緒とよまれたるなり
(4205)といひ又
  ユラクを手玉の鳴るを云といふ説はあらず。玉箒の玉なり。又ユラクを命をのぶることと意得來れるは命のことを靈之緒《タマノヲ》といへることのあるによりて推度《オシハカリ》にしか思へるにていふにも足ぬ説なり
といへり。案ずるにまづ古義にはユラクのクを清みて今ユラグといふとは別語としたる趣なれどユラグはもと玉の鳴るを云ひしがうつりて搖くこととなれるにてユラクとユラグと別語なるにはあらず。又クは初には清みけむが後には濁るやうになりしなり。さてたとひ所謂語路に引かれてなりともユラグといひてタマノ緒とはいふべからず。次に玉のゆらぐは手玉か箒の玉かといふに、もし手玉の音をいはば玉箒は傍の物となりて玉箒をめでたる趣とはならざるべし。されば古義にいへる如く箒の玉をいへる事勿論なるが観古雜帖によれば玉を飾れるは草の枝の先と手もとを卷ける針金とにて別に玉を貫ける緒を垂でたりとはおぼえず。又上に云へる如くユラグ玉ノ緒とは云はれざれば余は結句を由良久多麻能等〔右△〕の誤と認めむとするなり。タマノトは玉の音なり。玉箒の枝の先に冠らせたる玉の相觸(4206)れて鳴りゆらぐに聞き惚れたる趣なり。さてタマノ等をタマノ乎と誤りしは古き事と見えて今傳はれる諸本に皆タマノ乎とあるのみならずはやく堀川百首に
  玉ばはき春の初子にたをりもち玉の緒ながくさかゆべらなり
とよめり
 大藏(ノ)政は大藏省の政務なり。辨官は諸省に關係あり。此歌は作りしかど大藏省の公用にて肆宴の終を待たずして退出せしかば得奏せざりしなり。不堪奏之也はもし訓讀せばマヲシアヘザリキとよむべし
    ○
4494 水鳥のかもの羽のいろの青馬をけふみるひとはかぎりなしといふ
水鳥乃可毛能羽能伊呂乃青馬乎家布美流比等波可藝利奈之等伊布
    右一首爲2七日(ノ)侍宴1右中弁大伴宿禰家持預作2此歌1、但依2仁王會(ノ)事1却以2六日1於2内裏1召2諸王卿等1賜v酒肆宴給v禄、因v斯不v奏也
 初二はアヲといふ語をいひ起さむまでの序なり。青馬にかゝれるにあらず。カギリ(4207)ナシは其壽限ナシとなり
 玉勝間卷十三(全集第四の三〇〇頁)に
  正月七日の白馬節曾の白馬古は青馬といへり。萬葉集廿の卷に水鳥乃……とあるを始として續後木、文徳賓録、三代實録、貞觀儀式、延喜式などに多く出たるみな青馬とのみ有て白馬といへることは一も見えず。然るを圓融天皇の御世天元のころよりの家々の記録又|江家《カウケ》次第などには皆白馬とのみあるは平兼盛の歌に  ふる雪に色もかはらで牽ものをたが青馬と名づけそめけむ
とよめるを見れば當時はやく白き馬を用ひられしと見えたり。然れば古よりの青馬をば改めて白き馬とはせられたるにてそは延喜より後の事にぞ有けむ。延喜式までは青馬とのみあればなり。……然るを後世までも文には白馬と書ながら語には猶古のまゝにアヲムマと唱へ來てシロムマとはいはず、白馬と書けるをもアヲムマとよむによりて人みな心得誤りて古は實に肯き馬なりしことをばえしらで、もとより白き馬と思ひ古書どもに青馬と書るをさへ白き馬を然(4208)いへりと思ふはいみじきひがごとなり。白きをいかでか青馬とはいはむ
といひ(古事記傳卷十八【一〇八二頁】參照)間〔日が月〕宮永好の犬鶏隨筆(歌文珍書保存會本下卷四十五頁)に
  古書に青馬といへるは白馬にも非ず今の青馬にも非ず。……漢語抄に※[馬+總の旁](ハ)青馬也といひ和名抄に青白雜毛といひ字鏡に青白色又青色、阿乎支馬など見ゆるを合せ見てあきらむべし。※[馬+總の旁]は今の世に水青といひて打見るには白く能々見れば青毛雜はれば青みあるなり。されば青馬とも白馬ともかけるなりけり。此青白毛雜れることを知らで青馬といへば純青、白馬といへば純白の馬なりと一向に思ひて説を立るからみな違へるなり
といへり。案ずるに初には青馬なりしを後に白馬に改められしは略宣長のいへる如くならむ。然らば何故に青を白に改められしか。抑馬の毛色には純青なるものある事なければ又純白なるものある事無し。おそらくは青馬と書きし頃より實は青白色即水色なりしが世を經るに從ひて其色やうやう薄くなりて終に白色に近くなりしかば字のみは白馬と書くやうになりしならむ。宣長は
(4209)  然れば古へよりの青馬をば改めて白き馬とはせられたるにてそは延喜より後の事にぞ有けむ
と云ひたれど(○延喜式及土左日記參照)もし甲天皇の御代(又は或年)までは青馬を用ひられしを乙天皇の御代(又は次年)より白馬に改められしならば其事史籍に殘るべく又字を白馬に改むると共に唱もシロウマに改むべく又其時代の人なる兼盛は
  ふる雪に色もかはらでひくものをたが青馬となづけそめけむ
などしらじらしくはよまざるべし。宣長が終に『白きをいかでか青馬とはいはむ』といへるは聊馬を馳せ過ぎたり。青白《ミヅ》色なるものは或は青ともいふべく或は白ともいふべし。白雲をアヲグモといふも青白色なればなり(三四五九頁參照)〇七日は即所謂|白馬節會《アヲウマノセチヱ)の日なり。此日に青馬を見るは年中の邪氣を除く爲なりといふ。さて此日には肆宴を行はるゝ事なるが天平寶字二年の正月は七日には仁王會《ニンワウヱ》といふ法會《ホフヱ》を行はるゝ事となりしより肆宴のみ六日に行はれて青馬は見給はざりしかば豫此歌を作りおきしかど之を奏する機會なかりしなり○此歌は三日の作か
(4210)   六日内庭假植2樹木1以作2林惟〔左△〕1而爲2肆宴1歌一首
4495 (打なびく)はるともしるくうぐひすはうゑ木之|樹間《コマ》をなきわたらなむ
打奈婢久波流等毛之流久宇具比須波宇惠木之樹間乎奈伎和多良奈牟
    右一首右中辨大伴宿禰家持 不奏
 ハルトモのモは助辭なり。ハルトシルクはイカニモ春ヂャト思フヤウニとなり○コノマをコマといふは無理なる語にはあらねどコノマといひならひたればなつかしからぬこゝちす。頼政の歌に
  すみよしの松のこまより見わたせば月おちかかるあはぢ島山
といへるは此歌を例とせるにや
 右の白馬節會の肆宴を内庭にて開かれしなり。内庭は音讀すべし。古義にオホニハとよみたれどオホニハは門内の廣場なり。さて内庭は東西南三小安殿の中庭ならざるか。古義には又林帷をカキシロとよみたれどこれもリンヰと音讀すべし。幕の代に樹木を植ゑたるなり。今本には帷を惟と誤れり
 
(4211)   二月△△於2式部大輔中臣清麿朝臣之宅1宴歌十首
4496 うらめしくきみはもあるかやどのうめのちりすぐるまでみしめずありける
宇良賣之久伎美波母安流加夜度乃烏梅能知利須具流麻※[泥/土]美之米受安利家流
     右一首治部少輔大原今城眞人
 二月の下に日をおとしたるなり
 第二句のモはアルカの下に引下して見べし。即第二句は君ハアルカモといはむにひとし
4497 みむといはばいなといはめやうめのはなちりすぐるまできみがきま世波〔二字左△〕《サヌ》
美牟等伊波婆伊奈等伊波米也宇梅乃波奈知利須具流麻弖伎美我伎麻世波
(4121)    右一首主人中臣清麿朝臣
 前の歌の答なり。結句もとのまゝにてはととのはず。諸本にキマ左奴とあるに從ふべし。キマサヌは實は來マサザリシなり
 
4498 はしきよしけふのあろじは(いそまつの)つねにいまさねいまもみるごと
波之伎余之家布能安路自波伊蘇麻都能都禰爾伊麻佐禰伊麻母美流其等
    右一首右中弁大伴宿禰家持
 ハシキヨシはアロジにかゝれる准枕辭なり○イソは元來大石の事なれど轉じては大石ある水邊をもいふなり。こゝは下にミレドモアカヌイソニモアルカモまたイケノシラナミイソニヨセとあると同じく轉義の方ならむ。さてイソマツはイソニ生ヒタル松にてイソマツノはソコニ見ユルイソ松ノ如クとなり○イマモはただイマといはむにひとし。モは無意義の助辭なり。集中にあまたの例あり。古義に『こ(4122)のモの詞はゴトの下にめぐらして心得べし』などいへるは非なり○人には大原今城眞人、中臣清麿朝臣、甘南備伊香眞人といひてカバネを後にし、己には大伴宿禰家持といひてカバネを前にしたるは人を尊びての事ならむ
 
4499 わがせこしかくしきこさばあめつちのかみをこひのみながくとぞおもふ
和我勢故之可久志伎許散婆安米都知乃可未乎許比能美奈我久等曾於毛布
    右一首主人中臣清麿朝臣
 前の歌のかへしなり。キコサバはノタマフナラバとなり。はやくイサトヲキコセワガ名ノラスナ(二四五四頁)アハムトキコセ戀ノナグサニ(二六七二頁)ナ寢《ネ》雇ソト母キコセドモ(二八六三頁)早カラバ今二日バカリ、アラムトゾ君ハキコシシ(二九〇三頁)など云へり○ナガクの下に生キムを省きたるにてそのイキムとキコサバと照應したるなり
(4214)4500 うめのはな香をかぐはしみとほけどもこころもしぬにきみをしぞおもふ
宇梅能波奈香乎加具波之美等保家杼母己許呂母之努爾伎美乎之曾於毛布
    右一首治部大輔市原王
 初二は主人ノ徳ガ高イカラといふことを眼前の梅花によそへて云へるなり○トホケドモは遠カレドモなり。御シタシミハ淺ケレドモといふことなるべし。二註に『住處の遠けれども也』といひ『互に家處の隔れるをいふ』といへるは從はれず○ココロモシヌニは心モシナフバカリとなり。集中に例多し○玉勝間卷十三(全集第四の三〇一頁)に
  萬葉集には梅の歌いと多かるに香をよめるは廿の卷にウメノハナ香ヲカグハシミ……とある一つのみにてこれをおきては見えず。いにしへはすべて香をめづることはなかりしなり
といへり
 
(4215)4501 やちくさのはなはうつろふときはなるまつのさえだをわれはむすばな
夜知久佐能波奈波宇都呂布等伎波奈流麻都能左要太乎和禮波牟須婆奈
     右一首右中弁大伴宿禰家持
 木草ヲ結バムニ我ハアダアダシキ花ヲバ結バデ常葉ナル松ヲ結バムといへるにて友ヲ擇バムニ主人ノ如キ操カハラヌ人ヲ擇バムといふ意をこめたるなるべけれど無理なる處あり。まづ實に木草を結ぶに花を結ぶ事はおそらくはあるべからず。次に木草を結ぶは身の無事ならむことを祝ひてものするなれば(二六六七頁參照)作者はムスバナを輕き意につかへるならめどムスバナといふ語が局面を支配して頗本意を掩へり。されば結句はワレハカザサナなどいふべきなり○ヤチクサノ花は種々の花なり。上にも八チクサニ草木ヲウヱテ(四〇〇三頁)ヤチクサニ花サキニホヒ(四〇四五頁)といへり
 
(4216)4502 うめのはなさきちるはるのながきひをみれどもあかぬいそにもあるかも
烏梅能波奈左伎知流波流能奈我伎比乎美禮杼母安可奴伊蘇爾母安流香母
     右一首大藏大輔甘南備伊香眞人
 サキチルはチルが主なり。ナガキヒヲのヲは時の下に添ふる助辭なり
 
4503 きみがいへのいけのしらなみいそによせしばしばみともあかむきみかも
伎美我伊敝能伊氣乃之良奈美伊蘇爾與世之婆之婆美等母安加無伎彌加毛
     右一首右中弁大伴宿禰家持
 上三句は池ノ白波ガ磯ニヨスル事ノ屡ナル如クとかゝれる序なり。ミトモは雖見なり。カモはカハなり
 
(4217)4504 うるはしとあがもふきみはいやひけにきませわがせこたゆる日なしに
宇流波之等阿我毛布伎美波伊也比家爾伎末勢和我世古多由流日奈之爾
     右一首主人中臣清麿朝臣
 イヤヒケニは毎日なり。アガモフ君ハといひて更にワガセコといふべきにあらず。來マセ我家《ワギヘ》ニなどいふべきなり○前の歌の和なり
 
4505 いそのうらにつ禰〔左△〕《マ》よびきすむをしどりのをしきあがみはきみがまにまに
伊蘇能宇良爾都禰欲比伎須牟乎之杼里能乎之伎安我未波伎美我末仁麻爾
     右一首治部少輔大原今城眞人
 イソノウラは卷七(一四五三頁)卷九(一七三三頁)に例あり。二註に『ウラは裏なり』とい(4218)へれどイソノウラミともよみたれば礒の※[さんずい+彎]入したる處ならむ○第二句を二註に常喚來住としたれど相手のものをいはでただヨビとはいふべからず。都禰はおそらくは都麻の誤ならむ○上三句は序なり。ヲシキは常の意なり。略解に愛《メ》デラルルと註したるは非なり。アガ身ハはアガ身モといふべくおぼゆ。古義に
  惜キ吾身ニテハアレドモと云なり(しか聞ずては結句にかけ合ぬことなり)。かやうに云てさる意に聞ゆることも古歌の一格にてぞありけむ。九卷長歌に人トナル事ハ難キヲ、ワクラバニナレル吾身ハ〔右△〕、死モ生モ君ガマニマト、念ヒツツアリシ間〔日が月〕ニ云々これを併考べし
といへり(一八一六頁參照)。さてヲシキアガミハキミガマニマニは大切ナ命デハゴザイマスガアナタニサシ出シマスといへるなり
 
   依v興各思2高圓(ノ)離宮處《トツミヤドコロ》1作歌五首
4506 たかまとのぬのうへのみやはあれにけりたた志伎々〔二字左△〕美《シシキミ》のみよとほぞけば
(4219)多加麻刀能努乃宇倍能美也婆安禮爾家里多多志伎々美能美與等保曾氣婆
    右一首右中弁大伴宿禰家持
 此五首も同じ日に中臣清麻呂の家にてよみしなり。離宮處《トツミヤドコロ》は離宮地なり。此離宮には太上天皇(聖武天皇)しばしば行幸ありけむが天平勝寶八歳五月に崩ぜし後は行幸啓も無くて此離宮は荒れたりしなり
 第四句は諸本に志々伎美とあるに從ふべし。々伎の轉倒したるなり。タタシシは立チ給ヒシなり。結句は御代ガ遠ザカレバとなり。實は崩御後いまだ二年に滿たざるなり
 
4507 たかまとのをのうへのみやはあれぬともたたししきみのみなわすれめや
多加麻刀能乎能宇倍乃美也波安禮奴等母多多志志伎美能美奈和須禮米也
(4220)    右一首治部少輔△△今城眞人
 右の歌の和なり。四五は卷二(二六四頁)なる明日香皇女殯宮之時人麻呂作歌の反歌に
  あすか川あすだにみむとおもへやもわがおほきみの御名わすれせぬ
とあり又上宮聖徳法王帝説に
  いかるがのとみのをがはのたえばこそわがおほきみの御名わすらえめ
とあるに似たり
 今城の上に大原をおとせるなり
 
4508 たかまとのぬべはふくずのすゑつひに知與爾〔左△〕《チヨモ》わすれむわがおほきみかも
多可麻刀能努敝波布久受乃須惠都比爾知與爾和須禮牟和我於保伎美加母
     右一首主人中臣清麿朝臣
(4221) こは又前の歌の和なり。ヌベハフは野邊ニ匍フなり。初二はスヱにかゝれる序なり。カモはカハなり○スヱツヒニとチヨニと重複せり。又チヨニワスレジと云はむは常の事なれどチヨニワスレムと云はむは穩ならず。知與爾はおそらくは知與毛の誤ならむ
 
4509 (はふくずの)たえずしぬばむおぼきみのめしし野邊にはしめゆふべしも
波布久受能多要受之努波牟於保吉美能賣之思野邊爾波之米由布倍之母
     右一首右中弁大伴宿禰家持
 これも前の歌にヌベハフクズノといへるを受けてハフクズノといひヌベニハといへるなり○タエズシヌバムは句絶にあらず。オホキミノにつづけるなり。メシシは見給ヒシなり。モは助辭なり。シメユフはこゝにては雜人の闖《チン》入を防ぐ爲なり
 
4510 おほきみのつぎてめすらしたかまとのぬべみるごとにねのみしなか(4222)ゆ
於保吉美乃都藝弖賣須良之多加麻刀能努敝美流其等爾禰能未之奈加由
    右一首大歳大輔甘南備(ノ)伊香(ノ)眞人
 ツギテはシバシバなり。賣須良之《メスラシ》は卷二なる天皇(○天武)崩之時太后(○持統)御作歌(二一二頁)の
  やすみししわがおほきみの、ゆふさればめし賜良之、あけくればとひ賜良之、かみをかの山のもみぢを、けふもかもとひたまはまし、あすもかもめしたまはまし云云
を學べるなるべけれど彼はメシ賜ヒシ、トヒ賜ヒシとあるべく此は見《メ》シシとあるべきなり。或は卷二なるは元來召賜比之、問賜比之なるを誤りて比を良と物に書きたりしを卷二にはさながらに載せ、家持を中心とせる一群の歌人はそをさながらによみ浮べ、タマヒシをタマフラシとはいふべからざる事だに究めずしてそを學(4223)びてこゝにツギテメスラシといへるにあらざるか。これについて思ひ出でらるゝは卷十七(三五七〇頁)に大伴池主が
  わがせこに古非須弊衣賀利あしがきのほかになげかふあれしかなしも
とよめる事なり。こは卷十二(二六五七頁)にワギモコニ戀爲便名鴈とあるに依れるなれど戀爲便名鴈は戀須便名見などの誤にてコヒテスベナミとよむべからむ。又思ひ出でらるゝは家持が卷十七(三五五三頁)及卷十九(二八五三頁)にナゲクソラ夜須家久奈久爾とよめる事なり。こは卷四(六六一頁)にオモフソラ安莫國とあるはヤスカラナクニとよむべきを誤りてヤスケクナクニとよみて己が歌にもヤスケクナクニといへるならむ。さて今のメスラシも此等と一類なる誤ならざるか
 
   屬2目山斎1作歌三首
4511 をしのすむきみがこのしまけふみればあしびのはなもさきにけるかも
乎之能須牟伎美我許乃之麻家布美禮婆安之婢乃波奈毛左伎爾家流可(4224)母
     右一首大監物御方王
 同日の作なり。山斎は音讀すべし。もし訓讀せむと思はばシマとよむべし。卷三なる
  妹としてふたりつくりしわが山斎はこだかくしげくなりにけるかも
の山齋も宣長雅澄の説に從ひてシマとよむべき事彼歌の處に云へる如し。懷風藻にも山齋一首、宴飲遊2山齋1、遨遊臨2野池1云々(又山齋一絶又山齋言志)とあり
 シマは庭園なり。又アシビは木瓜《ボケ》なり。はやく卷二(二二〇頁)及卷七(一二五九頁)にいへり
 御方王は即前に見えたる三形王なり
 
4512 いけみづにかげさへ見えてさきにほふあしびのはなをそでにこきれな
伊氣美豆爾可氣左倍見要底佐伎爾保布安之婢乃波奈乎蘇弖爾古伎禮奈
(4225)    右一首右中辨大伴宿禰家持
 結句は袖ニコキ入レムとなり。卷十九なる同じ人の長歌(三八七九頁)にもヒキヨヂテ袖ニコキレツシマバシムトモとあり
 
4513 いそかげのみゆるいけみづてるまでにさけるあしびのちらまくをしも
伊蘇可氣乃美由流伊氣美豆※[氏/一]流麻※[泥/土]爾左家流安之婢乃知良麻久乎思母
    右一首大藏大輔甘南備伊香眞人
 イソカゲは礒の彰なり。礒陰にあらず
 
   二月十日於2内相(ノ)宅1餞2渤大使|少〔左△〕野《ヲヌ》(ノ)田守朝臣等1宴歌一首
4514 あをうなばらかぜなみなびきゆくさくさつつむことなくふねははやけむ
阿乎宇奈波良加是奈美奈妣伎由久左久佐都都牟許等奈久布禰波波夜(4226)家無
    右一首右中弁大伴宿禰家持 未誦之
 渤海は聖武天皇の神龜四年十二月にまゐりそめしなり。其事を記せる文中に渤海郡者舊(ノ)高麗國也とあり。小野(ノ)田守を渤海に遣しし事は史に見えずして此年九月に歸朝せし事のみ見えたり。少野は諸本に小野とあり。少小は通用せしなり
 ナビキは宣長が『タツのうらなれば風も波もたゝぬ也』といへる如し。ユクサクサのサはカヘルサのサとおなじくて時といふ事なり。ツツム事ナクはサハリナクなり。ハヤケムは早カラムなり
 
   七月五日於2治部少輔大原今城眞人(ノ)宅1餞2因幡守大伴宿禰家持1宴歌一首
4515 秋風のすゑふきなびくはぎの花ともにかざさずあひかわかれむ
秋風乃須惠布伎奈婢久波疑能花登毛爾加射左受安比加和可禮牟
    右一首大伴宿禰家持作之
(4227) 家持が因幡守に任ぜられしは此年六月丙辰(十六日)なり
 第二句穩ならず。スヱフキナビカスとあるべきなり。しばらくスヱフキテナビクとテを加へて見べし。二註に『こゝのナビクはナビカスをつづめていへる也』と云へるは無論妄言なり。古義に卷十なるマクズ原ナビク秋風フクゴトニを例に引きたるも非なり。そは眞クズ原ガナビクといへるなり○アヒカワカレムは相別レ行カムカとなり
 
   三年春正月一日於2因幡(ノ)國(ノ)廳1賜2饗國郡司等1之宴歌一首
4516 新《アラタシキ》年之(ノ)始のはつはるのけふふるゆきのいやしけよごと
新年之始乃波都波流能家布敷流由伎能伊夜之家餘其騰
    右一首守大伴宿禰家持作之
 國郡司は國廳の僚屬及郡司なり。此宴は守の私宴にはあらで官物正倉を用ひて設くる宴なれば賜饗とはいへるなり。儀制令に
  凡元日ニハ國司皆僚屬郡司等ヲ率《ヰ》テ廳ニ向ヒテ朝拜セヨ。訖リテ長官賀ヲ受ケ(4228)ヨ。宴ヲ設ケムトナラバ聴《ユル》セ(其食ハ當處ノ官物及正倉ヲ以テ充テヨ)
とありて義解《ギゲ》に
  官物ト謂ヘルハ、郡稻ナリ。正倉ハ正税ナリ
といへり
 之は諸本に乃とあり。上四句は序なり。此日しも雪ふり積りしかばそをもて序とせるなり。即コノ雪ノイヤシク如ク慶事モイヤシケといへるなり。略解に『年の始に雪ふるをよき事とすればまづ雪をいひて云々』といひ古義に『正月一日の今日しも佳祥をあらはして降雪の積重るが如く云々』といへるは非なり。元日にふる雪をよき事とし佳祥とする意は此歌にはある事なし○序のうちハツハルノの五言は埋草に過ぎす。アラタシキ年ノ始ノ今日とつづけて心得べし○イヤシケは彌カサナレなり。イヤはアマタなり
 天平寶字三年正月は廢帝即淳仁天皇の御代にて卷中最後の年なり。家持の薨ぜしは延暦四年八月にて寶字三年より二十六年の後なるが其間〔日が月〕の作は傳はらず。無論家持に代りて其間〔日が月〕の諸人の作を録せし人も無し。家持はすぐれたる作家にあらざ(4229)れども此集を殘したる功はたたふるに餘あり○契沖雅澄が此集の卷頭に雄略天皇の御製を載せ卷尾に此歌を載せたるを深き心ある事とせるは非なり。編次したる第一卷は歌の成りし年代を以て序でたれば雄略天皇の御製が自然に卷頭に出でたるなり。又卷十七以後は家持の家集にて歌の成りし年月のままに記したれば最後の歌が自然に卷尾となれるなり
 
                (昭和二年四月廿三日講了)
         2005年7月2日(土)午後4時38分、入力終了
         2016年12月18日(日)午前11時35分、国歌大観番号付け終わる。
 
(4231) 萬葉集卷二十防人歌轉訛例一斑
 
  同行轉訛例
    あ   うトナマレル                          頁
あた由まひ……………………………………………………………………四〇六九
いきづ久しかば………………………………………………………………四一一七
    あ   えトナマレル
ころもにま世る………………………………………………………………四一二七
    あ   おトナマレル
う乃ばらわたる………………………………………………………………四○一七
たち許もの……………………………………………………………………四〇四〇
みる乃すも……………………………………………………………………四一一〇
こ侶がはだはも………………………………………………………………四一二七
    い   うトナマレル
(4232)く不しくめあるか……………………………………………………四〇三三
わ努とりつきて………………………………………………………………四〇四三
さゆ流のはなの………………………………………………………………四〇五七
つ久ひよはす具はゆけども…………………………………………………四〇六六
し流へには……………………………………………………………………四〇七二
あよ久なめかも………………………………………………………………四〇八一
由みのみに……………………………………………………………………四〇八六
つ久のしらなく………………………………………………………………四一〇八
あし布たけども………………………………………………………………四一一五
こ布しけもはも………………………………………………………………四一一五
これのは流もし………………………………………………………………四一一六
    い   えトナマレル
ものはず價にて………………………………………………………………四〇二六
ま氣ばしら……………………………………………………………………四〇二九
(4233)さ氣くありまて………………………………………………………四○五六
かなし家いもぞひるもかなし祁……………………………………………四〇五七
さ祁くとまを須《セ》………………………………………………………四〇五九
まつの氣の……………………………………………………………………四〇六三
いまぞくやし氣………………………………………………………………四〇六四
あし氣ひとなり………………………………………………………………四〇六九
なが氣このよを………………………………………………………………四〇八六
うつくし氣……………………………………………………………………四一一○
すみよ氣を……………………………………………………………………四一一五
    う   いトナマレル
いたくこ比らし………………………………………………………………四〇一一
た知こもの……………………………………………………………………四〇四○
なには治を……………………………………………………………………四〇九七
    う   えトナマレル
(4234)あよぐな米かも………………………………………………………四〇八一
こふし氣もはも………………………………………………………………四一一五
    う   おトナマレル
とへた保み……………………………………………………………………四〇一四
み毛ひともがも………………………………………………………………四〇一八
は保まめの……………………………………………………………………四〇三九
みてやわたら毛………………………………………………………………四〇四一
くににへむか毛………………………………………………………………四〇四四
わすれ母しだは………………………………………………………………四〇五四
なには刀を……………………………………………………………………四〇六七
たしで毛ときに………………………………………………………………四〇七〇
ゆ古さきに……………………………………………………………………四〇七二
保保まれど……………………………………………………………………四〇七八
へこ祖しらなみ………………………………………………………………四〇八〇
(4235)おふせたま保か………………………………………………………四〇八〇
ゆか毛ひともが………………………………………………………………四〇九九
またみて毛|母也《ヤモ》…………………………………………………四一一〇
つちにおち母かも……………………………………………………………四一一三
こふしけもは母………………………………………………………………四一一五
みねは保くもをみ等等しぬばね……………………………………………四一一七
あやにかもね毛………………………………………………………………四一一八
さやにみ毛かも………………………………………………………………四一一九
わをし乃ぶらし………………………………………………………………四一二二
    え   あトナマレル
わす良むと……………………………………………………………………四〇三三
へむ加るふねの………………………………………………………………四〇四四
い波びとの……………………………………………………………………四〇六三
わがい波ろに…………………………………………………………………四〇九九
(4236)麻こがてはなれ………………………………………………………四一一〇
い波なるわれは………………………………………………………………四一一一
い波ろには……………………………………………………………………四一一五
い波なるいもは………………………………………………………………四一一九
い波のいもろ…………………………………………………………………四一二二
つくし波やりて………………………………………………………………四一二三
ななへ加る……………………………………………………………………四一二七
    え   いトナマレル
か比りくまでに………………………………………………………………四〇二八
い比にして……………………………………………………………………四〇三○
古《オ》め知やすらむわが美かなしも……………………………………四〇三〇
いもにつ岐こそ………………………………………………………………四〇五三
しまか枳を……………………………………………………………………四〇七一
ゆ美のみに……………………………………………………………………四〇八六
(4237)とりか爾て……………………………………………………………四一一二
    え   おトナマレル
か其さへみえて………………………………………………………………四〇一一
ささ己てゆかむ………………………………………………………………四〇一六
たびとおめ保ど………………………………………………………………四〇三○
かため等し……………………………………………………………………四〇八一
こ與てきぬかむ………………………………………………………………四〇九六
    お   あトナマレル
あとりが麻けり………………………………………………………………四〇二八
阿もししに……………………………………………………………………四〇六四
阿もとじ母《ハ》……………………………………………………………四〇六五
阿もがめもがも………………………………………………………………四〇七〇
    お   いトナマレル
あとりがまけ利………………………………………………………………四〇二八
(4238)知まりゐて……………………………………………………………四〇五九
いもがここ里は………………………………………………………………四〇八一
    お   うトナマレル
あす由りや……………………………………………………………………四〇〇九
い牟なしにして………………………………………………………………四〇〇九
こともか由はむ………………………………………………………………四〇一四
い豆まもが……………………………………………………………………四〇一七
苦ふしくめあるか……………………………………………………………四〇三三
さき牟りに……………………………………………………………………四〇五三
由どこにも……………………………………………………………………四〇五七
あれは久えゆく………………………………………………………………四〇五九
久えてわはゆく………………………………………………………………四○九九
わがか都の……………………………………………………………………四〇七七
お不せたまほか………………………………………………………………四〇八〇
(4239)あをぐ牟の……………………………………………………………四〇九六
こよてきぬか牟………………………………………………………………四〇九六
ま流ねせば……………………………………………………………………四一一一
たびのま流ねの………………………………………………………………四一一六
    お   えトナマレル
と倍たほみ……………………………………………………………………四〇一四
あとりがま氣り………………………………………………………………四〇二八
お米がはりせず………………………………………………………………四〇二九
たびとお米ほど………………………………………………………………四〇三〇
古《オ》米ちやすらむ………………………………………………………四〇三〇
わぎ米こと……………………………………………………………………四〇三三
うち江する……………………………………………………………………四〇三三
くふしく米あるか……………………………………………………………四〇三三
さくあれ天……………………………………………………………………四〇三四
(4240)叡びはとかなな………………………………………………………四一二三
  同列轉訛例
    う   むトナマレル
牟まのつめ……………………………………………………………………四〇五九
    ち   しトナマレル
た志|夜《シ》はばかる……………………………………………………四〇五九
あも志志に……………………………………………………………………四〇六四
た志でもときに………………………………………………………………四〇七〇
あめつ之の……………………………………………………………………四〇八四
てにとリも之て………………………………………………………………四一一〇
か志ゆかやらむ……………………‥………………………………………四一一二
これのはるも志………………………………………………………………四一一六
みさかにた志て………………………………………………………………四一一九
(4241)    ぞ   どトナマレル
おきて等もきぬ………………………………………………………………四〇七二
いでて登あがくる……………………………………………………………四一二五
    ぬ   むトナマレル
牟|浪《バ》たまの…………………………………………………………四〇八一
    ら   なトナマレル
いひしこ奈はも………………………………………………………………四〇四三
 
 
萬葉集新考第八 1929年1月18日
 
    圖 版 解 説
一 明治四十一年七月令寫 萬葉集新考起草の年即明治四十三年のものを出さむと思ひしかど獲る能はざりき。恐らくは其年は寫さしめざりしならむ。此小影は新考起草前二年金葉集註釋中、文學を好みし某寫眞館主の乞に依りて寫さしめしなり
二 昭和二年六月萬葉集新考完成記念として寫さしめしもの
三 昭和三年十一月三日即第一回明治節に寫さしめしもの 此日は恰新考脱稿第五周年に當れり。因にいふ。脱稿とは初稿の成りしを稱し完成とは第二稿の成りしを云へるなり
四 萬葉集脱稿記念碑 東京市芝區伊皿子町子爵牧野貞亮氏邸内に建てられたり。碑の文字を書きしは工藤壯平氏
五 萬葉集新考完成記念樹 東京府豐多摩郡玉川村瀬田なる南天莊學園内に植ゑたり。木は公孫樹、右側に見えたるは即南天莊書庫なり
六 昭和三年七月八日鎌倉町比企谷妙本寺境内新釋迦堂址にて寫さしめしもの 余に並びて立てるは妙本寺住職島田氏にて右方の苔石は即竹御所夫人の墓標なり
 
(目次省略)
(萬葉集新考歌のしをり省略、國歌大観番号を附して初句と頁數を示せるもの)
(萬葉集新考ことばの栞省略、各卷ごとに五十音順に重要語句や解説項目を出したもの)
 
(4897)萬葉集新考著述小史
   萬葉集新考の著述を終へて(私刊本奥書)
 
 講釋を始めてから十八年、著書として筆を執つてから十四年、刊行を始めてから十三年で萬葉集新考三十八冊は出來上つた。その長年月に亘れる著述史を書けよと勧めらるるが日記も何も大正十二年九月一日の大火に失うたから分らなくなつた事が多い。せめて稿本、版本、南天莊月報などによりて知らるゝ事、彼時以後の日記に見えたる事、記憶に殘れる事だけでも書き集めておかう
    講釋に就いて
 講釋の始まつたのは明治四十三年十月である。初には聴講者を二組に分ち上級の爲には長歌を講じ初級の爲には短歌を講じたが短歌の方が進み長歌の方がおくるゝ外にも都合のわるい事があつたから卷五からは二級を合一して長短を分たず本のままに講釋する事になつた。それは大正三年十二月の第二土曜日である。さて初には(4898)毎月第二、第三及最終の火曜日に講釋し大正三年頃は第二土曜と第四土曜とに講釋したが大正四年二月からは第二土曜には古今集を講じ第四土曜だけ萬葉を講ずる事にした。然るに古今集の講釋は戀(ノ)部を除いて大正九年三月に終つたからそれからは又第二土曜も第四土曜も萬葉を講ずる事になつた
 最初は幹事の一人(初は故宮内猪之熊君、後は榎本正之助君)が筆記したものに朱を入れてそれを正本として居た。然し大正三年からは著書として筆を執る事になつたから完全なる筆記を作るものがなくなつた
    著述に就いて
 卷頭の雄略天皇の御製の末なる我許者背齒告目家乎毛名雄母を眞淵、宣長、鹿持雅澄《カモチマサズミ》、近藤芳樹、木村|正辭《マサコト》博士等が三句と認めて字を補うてさまざまに訓んでゐたのを二句と認めて者を衍字としてワレコソハノラメ、家ヲモ名ヲモと訓んだのは夙《ハヤ》い事で其論文が正宗敦夫君の雜誌國歌第一號に出たのは明治三十九年八月である。雜誌心の華に出たのはそれより前であるが其年月は今分らぬ。然し多分同年であらう。本集の講釋を始めたのは前に云うた通り明治四十三年十月であるが間もなく筆記の刊(4899)行を勸めた人が二三ある¢Rしまだ世に問ふ程の自信が無かつたからただ有志の人に傳寫を許しただけである。然るに大正三年の春に正宗敦夫君が上京せられた時に『人の手を借らずに私自身に植字して誤植の無いやうにしますから是非出さしていただきたい』と切に乞はれたので遂に意を決して其夏から改めて著述として筆を執る事になつた。さて書名は初には萬葉集新義としようとしたやうであるがそれを新考としたのは多分新義としては古義に對抗するやうに思はれるであらうといふ遠慮からであらうが今は確には記憶して居らぬ
 卷一、卷二は緒言に述べた通り講釋の筆記中より前註特に古義の説と異なる處を拔き出して綴つたが簡略に過ぎて分りにくいといふ苦情が出たから卷三以下はすこし精しく書く事にした
 第一稿(即大正三年からは講釋の種本としたもの)は全部外山且正君が保存して居る。正宗君へ活版の原稿として送つたのは第二稿である。初稿も再稿も半面十一行十九字詰の罫紙に書いた。無論すべて自筆である
 大震火災の時に
(4900)  刊行了なりしは卷十二上まで
  再稿了なりしは卷十二下
  初稿了なりしは卷十三、卷十四、卷十七乃至卷二十、卷十五の初
  初稿未了なりしは卷十五の下三分二及卷十六
であつた。さて燒失したのは卷十二下だけであるが初稿再稿共に燒失した
 何故に初稿の時卷十五及卷十六を後まはしにしたかといふに卷十四までは原本の順序のまゝに書いて來たが卷十四即|東歌《アヅマウタ》を註したついでに卷二十を註した。これは同卷の中に東歌と同類なる防人《サキモリ》(ノ)歌があるからである。然るに之を註する間〔日が月〕に南弘君が越中の郷土誌を寄僧し又は人から借りて貸與せられた。越中の郷土誌を參考すべきは卷十七、卷十八、卷十九であるが卷十五、卷十六を註してから卷十七以下にかかると人から借りてくれられた書物を久しく留めおかねばならぬからそこで卷十五、卷十六を飛び越えて卷十七、卷十八、卷十九を註したのである。かくて卷十七以下を註し終へて萬葉集二十卷中今や殘れるは卷十五と卷十六とのみであるから卷十五を註し始功て居ると彼大震火災が起つたのである。さうして卷十二下の稿本が、燒けたか(4901)ら火災前に比して僅ながら殘の業が多くなつたのである
 さて九月十七日の夕方に、取敢へず避難してゐた櫻田本郷町の櫻田クラブから伊皿子の牧野邸に移り筆硯もそろひ同家から略解を借り又外山君が製本師の處へやつておいた國家大観が火を免かれたからと云うて持つて來てくれられた上に晝の間〔日が月〕はやはり櫻田クラブに出て火災の跡始末に忙しいが朝と夜とは暇があり室も美しく庭も廣くて氣分がおちついたから卷十五の註を書き續がうとしたが困つた事には是まで使ひ來つた罫紙が一枚も無い。稿本はあるがそれを外して見本にやるには忍びぬ。そこで駒込の杏林舍の大井君にこれこれの罫紙を大いそぎで刷らせてほしいと頼んでやつて十九日の夜から有合せの紙に書いて居ると廿一日に大井君が幸に以前の刷殘があつたからと云うて罫紙二十四枚を持つて來てくれられた。僅二十四枚の罫紙ではあるが無事な時に珍書をもらつたよりうれしかつた
 殘部の註の出來た順序は卷十五、卷十二下、卷十六上下である。新考卷十五の奥書に卷十五、卷十六上下、卷十二下の順序とせるは記憶の誤である。さてその三冊半ほどを九月十九日から十一月一日まで四十四日の間〔日が月〕に書き終へたがまだ卷十六の索引が殘(4902)つて居たぞれを作り又同卷の本文の句讃《クトウ》を切り果てて、卷十三以下はまだ初稿ながら萬葉集の全註が出來上つたのは恰十一月三日といふ國民的追懷の探き日の朝である。そこで其由を手紙に書いて三首の感想歌を添へて牧野家の奥へ通知した。
  我等を新館に住まはせ同家の家族は舊館に住んで居られたのである
 間〔日が月〕も無く主人子爵夫婦が出て來られて祝辭を述べられ其夜は美酒を贈り又赤飯をたかせて祝うてくれられた。後に同家では此事を後代に傳ふべく其邸内なる茶室の垣内《カキツ》に
  萬葉集新考脱稿紀念(○表)
  大正十二年十一月三日於當邸脱稿(○裏)
と刻したる一碑を建てられた。
  筆を執つたのは新館階下の洋室であるが其窓前は碑を建つるに適せず又茶室は日曜日毎に入つて黙想した縁故があるから其垣内に建てられたのである。碑の字は宮内省御用掛工藤莊平君の書である
 又翌十三年十一月三日には余の外門人若干名を招きて第一囘記念會を開かれた
(4903)     刊行について
 卷一の刊行は大正四年五月であるが正宗君、榎本君等はこれより先に同門并に知人に檄して希望者を募つた所が幸に二百八九十名の人を得た。そこで毎冊三百部づつ印刷して其中十部づつを余に寄贈せらるる事にきまつた。それが漸々減少して二百六十部になつたのは左表に示す如くである
  卷一、卷二   三百部
  卷三、卷四   二百八十部
  卷五以下    二百九十部
  卷十三下    二百八十部
  卷十四     二百九十部
  卷十五     二百八十部
  卷十六以下   二百六十部
 大火災前の二百八十部乃至三百部の中燒失したものが少くあるまいから今殘つて居る本は珍本と稱してよからう。又他日補訂公刊の機會があらうとも此私刊本はや(4904)はり珍本たる價値を保つであらう
 此書を刊行するについて正宗敦夫君は植字印刷は勿論製本まで自せられた。元來同君は多忙なる身である上に大正十四年に日本古典全集の編纂に從寄せらるゝやうになつてからは傍から見て其健康が憂へらるる程であるに拘はらず其義務と信ぜらるる所を忠實に守られた。茲に深く同君の厚意を謝すると共に學界の美談として世間〔日が月〕に發表する。定めて後世にも傳へらるるであらう
 稿了及刊行の年月は左の通りである
      初  稀      再稿又は講了     刊  行
  卷一           大正三年十二月    大正四年五月
  卷二上                     同 同 八月
  同 下          同 四年二月     同 同 十一月
  卷三上                     同 五年五月
  同下           同 五年二月     同 同 十月
  卷四上          同 同 十月     同 六年五月
(4905) 同下  大正三年五月 同 六年七月     同 同 十月
  卷五           同 同 九月     同 七年一月
  卷六上          同 同 十一月    同 同 六月
  同下           同 七年一月     同 同 九月
  卷七上          同 同 八月     同 同 十二月
  同 下          同 同 十一月    同 八年五月
              (以上再校了)
  卷八上          同 八年二月     同 同 九月
              (以下校了)    
  同下   大正七年十月  同 同 十月     同 九年五月
  卷九上  同 八年八月  同 九年五月     同 同 十月
  同 下          同 同十月      同 十年三月
  卷十上  同 九年七月  同 十年二月     同 同 六月
  同 中          同 同 五月     同 同 九月
  同 下  同 十年三月  同 同 九月     同 同十二月
  卷十一上 同 同 四月  同 十一年一月    同 十一年四月
(4906)  卷十一中 大正十年五月  大正十一年四月  大正十一年八月
  同 下  同 同 八月  同 同 七月     同 同  十一月
  卷十二上 同 同 十二月 同 十二年一月    同 十二年四月
  同 下  同 十一年四月 同 同 四月     同 同十二月
  卷十三上 同 同 五月  同 同 六月     同 十三年四月
  同 下  同 同 七月  同 十三年二月    同 同 六月
  卷十四上 同 同 十月  同 同 五月     同 同 八月
  同 下  同 同 同   同 同 九月     同 同 十一月
  卷十五  同 十二年九月 同 十四年一月    同 十四年四月
  卷十六上         同 同 三月     同 同 六月
  同 下  同 同 十一月 同 同 四月     同 同 八月
  卷十七上         同 同 六月     同 同 十月
  同 下  同 同 五月  同 同 十月     同 同 十二月
  卷十八  同 同 六月  同 十五年 二月   同 十五年六月
  卷十九上 同 同 三月  同 同 五月     同 同 九月
  同 下  同 同 七月  同 同 七月     同 同 十一月
  卷二十上 同 同 十二月 同 同 十二月    昭和二年二月
  同 下  同十二年 二月 昭和二年四月     同 同 六月
 以上三十八冊を四帙に分つた。即
  第一帙(卷一乃至卷五)     八冊
  第二帙(卷六乃至卷十)     十一冊
  弟三帙(卷十一乃至卷十五)   十冊
  第四帙(卷十六乃至卷二十)   九冊
 第二帙が完成した時に其記念として南天莊藏幅寫眞帖一冊三百部を刊行した
 各冊の主なる附銀は
  卷二下  橋本進吾氏のガテヌ、ガテマシの考
  卷五   萬葉集卷第五の筆録者
       山上臣憶良年齢考
(4908)  卷七上  連體格の代に終止格をつかひたる
  卷十下  倒置の枕辭
  卷十二下 佛足石歌新考
  卷十四下 轉訛例一斑
  卷二十下 防人歌轉訛例一斑
 又新に目録を作りて添へたるは卷五、六、七、九である
     主なる史料
 南天莊月報大正三年七月
  先生が南天莊で講ぜられる萬葉集の講義を上梓してせめて同人だけにでも頒けてもらひたいと直接先生に願はれたり幹事に申出でられる人が多いので此春正宗君の上つて見えられた時に改めて先生に御願ひ申した處がさういふ事ならば稿を改めて萬葉集新義〔二字右△〕といふものを書いて見ようが然し閑がなければ仕樣がないといふ御話であつたが此頃正宗君よりの消息によれば先生も今夏から物して下さるゝやうな事である。然しそれは正宗君の活版所で印刷して珍書保存會の別(4909)冊として發刊するとの事で猶詳しい事は定まつてから報告しよう(○榎本幹事執筆)
 萬葉集新考緒言
  此書は明治四十三年十月以來つづきてものせる萬葉集の講義の筆記中より前註特に古義の説と異なる處を拔出でて作れるなり。されば此書を讀むには少くとも略解又は古義と對照すべし
 講釋前に一讀せしは加藤千蔭の略解と鹿持雅澄の古義とのみなれば二書の説に異なるは大概余の説なるをこたび此書を作るに當りて
  圓珠庵契沖の代匠記
  賀茂眞淵の考
  本居宣長の玉の小琴(卷四まであり)
  荒木田久老の槻《ツキ》の落葉(卷三のみ)
  富士谷御杖の燈《アカシ》(卷一のみ)
  香川景樹の※[手偏+君]解稿本(卷四まで)
(4910)  近藤芳樹の註疏(卷三まで)
  木村正辭博士の美夫君志《ミブクシ》(卷二まで)
 以上八書を見渡して余の案の及ばざりし所を補ひしのみならず余の説と同じきがはやく右の書どもに見えたるは『何々に然云へり』と書改め又は『誰同説』と書加へて萬葉集註家の通弊を避くることにつとめき。されどなほ心附かずして先哲の説とことわらぬ處あるべし
 萬葉集註家の通弊は他人の説を他人の説とことわらず讀者をして其人の説と誤信せしむる事なり。試に燈と古義卷一とを較べ槻の落葉と古義卷三とを較べ古義と註疏とを較べなば思半に過ぐべし。後の註家願はくは余の例に倣へ。大正三年十二月井上通泰識
 南天莊藏幅寫眞帖跋
  明治四十三年十月に萬葉集の講義を始めて後に其手稿を正宗敦夫君等の盡力で萬葉集新考と名づけて出版する事になつたが大正四年五月に其第一冊を出版してから今日迄に第一帙五卷八冊第二帙五卷十一冊合計十卷十九冊を出版して余(4911)に取りては小ならざる此事業も既に半分完成した。そこで其記念として何か催したいといふ事を同人中の有志から申出でられたが祝宴などの催はつまらない上に地方に居る門人たちが參與する事が出來ぬから余の唯一の慰物なる書畫の中で大に過ぎて南天莊給葉書に出されぬものを出版しては如何と提議した所がそれ結構といふ事であつたから平素最多く書斎の璧に懸くるもの二十四幅を擇びて簡單なる解説を附してここに南天莊藏幅寫眞帖として大方の覧に供するのである。大正十年十二月南天莊主人
 南天莊月報大正十二年七月
  萬葉集新考は凡七分六脱稿せり。殘れるは十五、十六と十九の下半とに過ぎず。十二下の第二稿(講釋前を第一稿とし附版前を鱒二稿とす)は清書を了へたれど正宗君に取込ありていまだ製版に著手せず
 日記大正十二年九月一日
  午後零時五分大地震。震後處々に出火す
  夜八時過裏手なる植木屋旅館より出火し我家も類燒す。まづ娘及孫を、次いで妻及(4912)女中を櫻田クラブに立退かす
 同上二日
   六千卷にあまるふる書世の人の富にたぐへてほこりしものを
   心さへ身さへつくしてつくりてしももちの書も殘らざりけり
   殘る世をいかにかもせむ三十とせにあまるいたづき烟となりぬ
  今一首は忘れつ
 同上三日
   たつか杖たにぎりもちてやけ跡に灰かきをれば秋の風ふく
 南天莊月報大正十二年十月
  先生は九月十七日より芝區伊皿子町二十四番地牧野貞亮氏邸に移られたり。但日曜祭日の外は毎日櫻田倶樂部に出張せらる
 九月十九日より牧野邸にて萬葉集新考の續稿に從事せらる
 萬葉集新考の原稿は災後米井信夫氏に預けられしがやうやう閑を得て同家に赴きて調査せられしに燒失を免かれしは
(4913)  十三、十四、十五卷の初四十丁、十七、十八、十九、二十及總索引
にて燒失せしは僅に十二下と十五の中間〔日が月〕十五六丁とに過ぎざる事明瞭となれり(十五の下半と十六とは未稿なりき)。其後十五は完了したれば今や殘れるは十六のみなり。目下は十二下の再稿に從事せらる(十月十五日記)
 萬葉集新著卷十五初稿奥書
  大正十二年九月二十六日牧野邸にて書畢へつ。十月六日全卷句讃
 萬葉集新考卷十二下端書
  此卷ははやく書終へしを大正十二年九月一日の火に燒失せしかば伊皿子の牧野邸にて再書けるなり。草稿はもとより殘らず參考とすべき書どもはた乏しくて博く古人の説を尋ぬるを得ざれば直に我案の代匠記、略解、古義に異なるを述べつ。さて主たる參考書を寄贈又は貸與せられしは左の人々なり
  代匠記                       白井光太郎氏
  略解                        牧野 貞亮氏
  拙著新考                      牧野 月亮氏
(4914)  國歌大觀(寄贈)                 外山 且正氏
  本居全集                      遠藤 二郎氏
  茲にその厚意を謝す。大正十二年十月十三日 著者
 日記大正十二年十一月一日
  萬葉集二十卷今夕註了。十四年來の大事業終結す。但發表は十六卷の索引出來の後にする事
 同上十一月三日
  萬葉集新考今朝完成につき特に通知せし人々左の如し(○姓名略)
   人の世にけふぞいでぬる十とせより四とせとざしし門をひらきて
   われとわがなせるにあらずもろ人の我をすかして成せるなりけり
   ながらへて父のあらばとなげくこそ晴れたる空の小雨なりけれ
 萬葉集新考卷十六初稿奥書
  大正十二年十一月三日稿了
 南天莊月報大正十二年十一月
(4915)  明治四十三年以來先生が拮据せられし萬葉集新考は十一月三日といふ由緒深き日の朝を以て牧野邸の一室にて脱稿したり。先生が漏されし言を承るに最近一年三箇月の間〔日が月〕に筆を励して卷十四以下七卷を註せられたるなりといふ。誰か其精力に驚かざらむ。就いては有志の間〔日が月〕に大祝宴を開くべき計畫ありしかど先生が時節がら遠慮すべき事を力説せらるゝにより遺憾ながら中止す
 日記大正十三年二月廿三日
  櫻田クラブにて門下有志、新考第一稿完成の内祝として小宴を開く
 南天莊月報大正十三年十二月
  十一月三日 先生は昨年十一月三日の朝子欝牧野貞亮氏の芝區伊皿子の邸にて萬葉集新考の稿を終へられし事當時月報にて報告せる如し。さて牧野子爵は此事を後代に傳ふべく其邸内なる茶室の園内に一碑を建てられ其表に
   萬葉集新考脱稿紀念
  其裏に
   大正十二年十一月三日於當邸脱稿
(4916)と刻せしめられしが此日を以て第一囘の記念會を開かれき。當日主人は生僧供奉にて不在なりしかば悦子夫人並に家令牧野正臣氏主人に代りて先生の外六幹事(○外山、久保田、播磨、清水、鞍智、天野)と川島、草間〔日が月〕、高橋(○直子)の三氏とを招きて盛讌を開かれき(○祝歌略)
 此日主人は供奉先なる大本營より
  萬葉集新考御脱稿記念日を祝す
と打電せられき
 萬葉集新考卷十五奥書
  此卷(五七頁)なる可牟佐夫流安良都能左伎爾以下并に卷十六は一昨秋罹災の直後に、彼卷十二下の再稿より前に草せしにて當時人より借り得たりしは略解と國歌大觀とのみにて代匠記古義などだに見るを得ざりき。爾來一年三四月の間に少からざる書籍を獲しかばそれによりて處々増訂せしかど彼火に索引〔二字右△〕も萬葉集書入本〔六字右△〕も燒失せしかば求むる所を尋ぬる事容易ならず。なほ先輩時流の發見を引き漏したるもの多かるべし。三世の大方願はくは恕したまへ。著者識(○大正十四年二月)
(4917)   公刊に就いて
 私刊本の第一冊が出來た時に弟の柳田國男が見て完成の上は洋装本數冊として公刊するがよい。それは私が引受けるから任せておいてくれ。と云うた。それに對して余は
  どうであとからあとから發見があらうから余は一生此本の手入に怠らぬ積である。そこで刊行後の發見はすべて此本に書入れておくから余が死んだ後に公刊してくれ
と云うた。其時余は五十歳であつた。爾來發見した事は勿論増補の資料となるべき事も見聞の限つとめて書入れておいた。然るに其本も大正十二年九月一日の大火の時に燒失した。罹災後數度柳田から公刊を勧められたが種々なる事情があつて決心する事が出來なかつた。然るに大正十五年一月に正宗君が上京した時に與謝野寛君と相談し同君から公刊を勧められた。それより前に一部分は古本を買ひ一部分は人々から寄贈を受けて罹災前刊行の新考が辛うしてそろうたから、そろそろ再書入を始(4918)めてゐたが與謝野君の勸告に就いては熟慮の末
  たとひ努力して再書入をしても又其本が燒失しようも知れぬ。又私刊の終らぬうちに各刊を始むれば勿論の事、その計畫を發表しただけでも僅に二百數十部なる私刊本の豫約が減じて正宗君年來の勞苦の結がつかぬ事となつては笑止であると思うたが今や既に卷十七下が出來、殘るは卷十八・卷十九上下・卷二十上下の五冊に過ぎぬから今公刊すると決心しても愈公刊にかゝる前には殘部は大抵完成するであらうから今は思立つべきであらうと考へ定めた。よつて其由を與謝野君に答へ同君から國民圖書株式會社長中塚榮次郎君に話された所が中塚君も大に喜んで即座に出版を引受けられたと云ふ。そこで中塚君を余に紹介せられて正式に約束が成立したのは同年三月一日である。さて翌昭和二年十二月十三日に始めて豫約募集の廣告が出て遂に豫期以上に多數なる讀者を獲た事はまだ生々しいから著述小史中に記述するには及ぶまい。但くれぐれも感謝せねばならぬ事は與謝野君が筆に口に大に宣傳してくれられた事と、正宗君が唯一本保存せられし私刊本と寛永版萬葉集とを切繼いで土代本を作つて余の補訂(4919)に供せられ又第七冊まで余に先だちて試刷を一校せられし事とである。此外にも厚意を寄せられた方が澤山あるがそれ等は悉く一家の記録に留めておいた
  表紙の文樣は末弟松岡輝夫(映丘)をして本集卷頭なる雄略天皇御製歌に據つて描かしめたのである。又内外題の書名は彼工藤壯平君の筆を煩はしたのである
                          南天莊先生口授
 
 
(4921)萬葉雜攷
 
   萬葉集の名義
 
 萬葉集の名は古來ヨロヅノコトノハの義とする説と萬世の義とする説とがある。さうして甲の説を唱ふるは仙覺眞淵などで乙の説を唱ふるは鹿持雅澄と今の山田孝雄君とである。契沖は兩説を並べ擧げてどちらとも決定して居らぬ
 古今集以後の二十一代集で萬葉集に對して名づけたらむと思はるゝは金葉、千載、玉葉の三集であるがその中で金葉玉葉はコガネノコトノハ、タマノコトノハの義であらうから俊頼、爲兼は萬葉をヨロヅノコトノハの義としたので、千載の撰者俊成は萬葉をヨロヅ世の義としたのである
 轉じて漢籍に萬葉といふ語を如何なる義に使つて居るかと見るに晋書武帝紀論に
  見2土地之廣1謂2萬葉而無1v虞
とあり、隋書薛道衡傳に
(4922)  叶2千齢之旦暮1當2萬葉之一朝1
とあり、文選顔延年の曲水詩序に
  拓v世貽v統固2萬葉1而爲v量
とある。是等は萬世の義である(又淮南子精神訓に
  譬猶2本與1v末也。從v本引v之千枝萬葉莫v不2得而隨1也
とあり、文選陸雲の頌に萬葉垂v林とあり、同じく江淹の賦に一枝百頃、萬葉共陰とある。是等はヨロヅノ木ノ葉の義である。萬葉をヨロヅノコトノハの義につかへる例は漢籍には無い。それは無い筈である。抑言語は邦語ではもとコトバと云うたのを平安朝時代の初からやゝコトノハと云ふやうになつた。
  萬葉集卷十四即東歌の中(新考三〇六五頁)にウツセミノヤソコトノヘハシゲクトモといふ歌がある。このヤソコトノヘは八十言ノ葉の訛と思はれるが此外に萬葉集中にコトノハと云へる例は無い。確なる例の初見は古今集である。即序文に
  やまと歌は人の心を種としてよろづの言の葉〔三字傍点〕とぞなれりける
とあるを始として
(4923)  おもふてふことのは〔四字傍点〕のみや
  いつはりのなき世なりせばいかばかり人の言のは〔三字傍点〕うれしからまし
  言のは〔三字傍点〕さへにうつろひにけり
  つれもなくなりゆく人の言のは〔三字傍点〕ぞ
  言のは〔三字傍点〕のこころの秋にあふぞわびしき
  言のは〔三字傍点〕さへもきえななむ
  あはれてふ言のは〔三字傍点〕毎におくつゆは
  言のは〔三字傍点〕しげきくれ竹の
  やちくさの、言のは〔三字傍点〕ごとに
  身はしもながら、言のは〔三字傍点〕を、あまつ空まで、きこえあげ
などある
 コトバをコトノハとも云ふやうになると共に、否コトノハがコトバを壓倒するやうになると共に其意義も廣くなつて言語文章に亘つていふ事となり、又コトノ葉ゴトニオクツユノなど草木の葉に副へて歌によむやうになつてから詞花言葉といふ漢(4924)やうの熟字が出來た。言葉は無論邦製の熟字である。されば近年刊行の支那の字書に言葉日本語謂2言語1也と云うて居る。詞花は杜甫の詩に詞華傾2後輩1また學術醇儒富、詞華哲匠能とあり又白樂天の詩に志業過2玄晏1、詞華似2禰衡1とある。華は花の古字であるから我邦では畫の少きに就きて詞花と書いたのであらう。言葉も山田君の説に據れば唐人の作つた初學記といふ書に見えて居るさうであるがこれは支那では行はれなかつた語である。さて我邦で言葉といふ字が始めてつかはれた時代の人が唐人の初學記に言葉といふ字の出て居る事を知らなかつたので無い事は初學記に辭條言葉とあり續本朝文粋に出でたる藤原爲忠(一條、後一條、後朱雀天皇時代の人)の詩序に詞條言葉之花とあるので分るが我邦でコトノハといふ語を使ふのは初學記に言葉とあるのを直譯したのでは無い。前にも述べた如くコトノハを漢字に移して言葉といふ漢樣の熟字を作つたのであつて、たとひ初學記に言葉といふ字が出て居らずとも言葉といふ熟字が行はれたであらうが恰初學記に言葉といふ字が出て居るから是幸としたのである。さて言葉はともかくも初學記に例があるが支那では葉の一字をコトバの義とする事は決して無い。葉の一字をコトバ又はコトノハの義に用ひた(4925)のは日本だけの事である。されば萬葉、金葉、玉葉、新葉などを支那人に見せても決してヨロヅノコトノハ、コガネノコトノハ、玉ノコトノハ、新シキコトノハとは受取らぬ
 今述べた如くであるから葉といふ語は支那では世又は木ノ葉の義に使ひ日本では世又は木ノ葉又はコトノハの義に使ふのであるが萬葉といふ語を日本の古い詩文に用ひたる例をしらべて見るにまづ日本紀の顯宗天皇紀に
  是以克固2四維1永隆2萬葉1
とある。否日本紀の流布本には永隆萬業〔右△〕とあるが舊事本紀には永隆2萬葉1とあり其本文たる梁書にも萬葉とあるさうであるから流布本の日本紀に萬業とあるは誤とすべきである。次に日本後紀延暦十六年二月の下に出でたる續日本紀撰成上表に
  傳2萬葉1而作v※[臨/金]
とある。次に大同二年に出來た古語拾遺に
  隨v時垂v制流2萬葉〔二字傍点〕之英風1、興v廢繼v絶補2千載〔二字傍点〕之闕典1
とある。それから續日本後紀承和元年十二月の條や弘法大師、菅三晶などの例を飛越えて遙に下つて堀河天皇の時代に菅原陳經の作つた菅家御傳記に
(4926)  爾來土部氏萬葉居2菅原伏見邑1
とある。是等は皆萬世の義に使うてあるのである。萬葉をヨロヅノ木ノ葉の義につかふのは元來本義であるから無論例はあらうがこれは本論に用が無いから特に探しては見なかつた。之に反してヨロヅノコトノ葉の義につかへる例は山田君と同じく骨を折つて探して見たが山田君の挙げられたる例即言葉は藤原爲忠の詩序、言葉詞華は惟宗孝言の詩序より古きものは見當らぬ。さうして此等の詩文は皆平安朝時代中期のものであり又言葉の原語なるコトノハも少くとも廣く行はるゝやうになつたのは平安朝時代初期以後と思はれるから萬葉集の出來た時代にコトバを單に葉と云はなかつたのは勿論、言葉といふ熟字も無かつた事と思はれる。されば萬葉集の名をヨロヅノコトノハの義とするは學間上根據の無い説である。さて萬葉と名づけたのは萬世ニ傳ハレと祝しての事である。さうして萬葉集といふ名は證據は無いが多分大伴家持が自命じたのであらう。各卷の卷尾卷首に萬葉集卷第何とはあるが今本の順序はおそらくは家持が編纂した時のまゝであるまいから、否或は初には卷の順序は無かつたらうと思はれるから初から萬葉集とあつたといふ事も斷定せられ(4927)ぬのである。萬葉集といふ名の見えたる最古の例は古今集雜歌下なる
  貞観の御時萬葉集はいつばかりつくれるぞと問はせたまひければ 文屋のありすゑ
   かみな月しぐれふりおけるならの葉の名におふ宮のふるごとぞこれ
といふ歌の詞書である。それに次ぎては新撰萬葉集、古今集、新撰和歌の序である
 なほ附言すべき事がある。大震火災前に故岡田正之博士が萬葉集の名義についての一文を雜誌心の華で發表せられた。當時一讀はしたが其雜誌は燒失後再手に人らず從つて再讀する事が出來ぬから記憶の誤があるかも知れぬが岡田君の説は
  山上憶良の撰んだ顛聚歌林といふ歌集がある。今は傳つて居らぬが萬葉集に屡引用してある。家持は憶良の後進で特に憶良に私淑した人であるから憶良の歌林に擬して己が撰んだ歌集を萬葉集と名づけたのであらう
といふ説で萬葉をヨロヅノコトノハの義とする説とヨロヅ世の義とする説との外に出でてヨロヅノ木ノ葉の義とせられたやうに記憶して居る。もしそれならば少くとも歌林萬葉と云はねばならず又萬葉集の集の字も不用であらう。目先のかはつた(4928)説ではあるが賛成が出來ぬ
 山田孝雄君の萬葉集名義考は「國語と國文學」の大正十四年二月號に出て居る堂々たる大論文である。引證も余の講演の如く貧弱なるものでは無い。前述の初學記の辭條言葉は氏の引證中から借りたものである(昭和三年二月十六日)
  本文に言ひ足らなかつたやうであるから尚重ねて言ふがコトバといふ語からコトノハといふ語が出來なければ言葉といふ熟字が出來ず詞花言葉といふ對語は尚更出來ない。言葉をコトバに充てた漢字とすれば詞花言葉はコトバノ花とコトバとになつて對にはならぬからである。又コトノハといふ語が出來てもおそらくはそれを直に言葉と漢譯する事はあるまい。ユトノハを草木の葉に取做す例が開けそれから思附いて言葉と漢譯したのであらう  〔以下、明治書院の雜攷より〕
 追記 萬葉といふ語の漢籍に見えたるはめづらしく無いが多くは萬世の意に用ひたるものである。今近年讀書の際に此語を見附けてたまたま書留めておいたものを抄出するならば北史の魏本紀なる節閔皇帝普泰元年詔に忘2負乘之深殃1垂2貪(9)鄙於萬葉〔二字傍点〕1とあり同韓麒麟傳なる韓興宗の上書に
 愚謂代京宜d建v畿置v尹一如2故事1崇v本重v舊以光c萬葉〔二字傍点〕u
とあり同劉芳傳に
 自v非d博延2公卿1廣集2儒彦1討2論得失1研c窮是非u無d以垂2之萬葉〔二字傍点〕1爲c不朽之式u
とあり貞観政要君道第一に將d隆2七百之祚1貽2厥子孫1傳2之萬葉u〔二字傍点〕とあり同納諌第五に
 秦始皇之爲v君也、籍《カリ》2周室之餘1因2六國之盛1將v貽2之萬葉〔二字傍点〕1
とあり※[虫+札の旁]髯客傳に我皇家垂v福萬葉〔二字傍点〕豈虚然哉とあり高力士傳に陛下仁徳福統2萬葉〔二字傍点〕1
とある。葉を木葉の意に使ひたるは凡三が一で、然も多くは詩賦である。たとへば許渾の詩に一笛迎風萬葉〔二字傍点〕飛とあり※[召+おおざと]雍の詩に時々微風來、萬葉〔二字傍点〕同一聲とあり白樂天の詩(喜雨)に千柯習々潤、萬葉〔二字傍点〕欣々緑とあり高青邱の詩(聴秋軒爲v僧賦)に数禽飜2樹裏1、萬葉〔二字傍点〕下2亭皐1とある
 
   萬葉集の卷の順序
 
 萬葉考別記一に
(4929)  考にいへる如く此集の中に古き撰みと見ゆるは一の卷、二の卷なり。それにつぎては今十三、十一、十二、十四とする卷どもも同じ時撰ばれしうちならんとおぼゆ。何ぞといはば其一二には古き大宮|風《ブリ》にして時代も歌主もしるきをあげ三(今の十三)には同じ宮風ながら時代も歌ぬしも知られぬ長歌をあげ四、五(今の十一、十二)には同じ宮ぶりにして代もぬしも知られぬ短歌をあげ六(今の十四)には古き東歌を擧て卷を結びたるなるべし。から國の古へ歌は國風を始めとしたり。こゝには宮ぶりを先にて國ぶりを末とせしものとみゆ
と云うて居る。眞淵は右の六卷を以て本來の萬葉集とし爾餘の十四卷を以て元來家家の集なるが萬葉集に混淆したるものと認めて居るのであるがこれはあまりに勇斷である。
  右の六卷を以て正篇とし爾餘の十四卷はいまだ編次せざるは編次して續篇とした方がよかつた
と云はば云ふべきである。又爾餘の十四卷も悉く家々の集では無い
 又云はく
(4930)  かくて今の五の卷は山上憶良大夫の歌集ならん。今の七と十の卷は歌もいさゝか古く集めぶりも他と異にて此二つの卷は姿もひとしければ誰ぞ一人の集めなり。今の十五の卷は新羅へ還されし御使人の歌どもと中臣朝臣宅守の茅上娘子と贈|和《コタヘ》しとをもて一卷とせしにて又たが集めしとも知られず。今の十六の卷は前しりへには古くよりある歌もあるを中らに歌とも聞えず戯くつがへれるを載て樣ことなり。中に河村王、大伴家持の歌も入しかば古き集にあらず。こは家持卿の集のうちにやあらん。今の三の卷てふより四、六、八、九、十七、十八、十九、二十の卷々は家持卿の家の歌集なること定かなり。かゝれば古へ萬葉集といへるは右にいふ六つの卷にて其ほかは家々の集どもなりしをいと後の代に一つに交りて二十卷とはなりしなりけり
 卷五が憶良の家集にあらざる事は新考卷五の附録萬葉集卷第五の筆録者(新考九九九頁)にいへる如くで誰ぞの書留である。然しそれはこゝでは枝葉であるからどうでもよい。『今の七と十の卷は集めぶりも他と異にて此二つの卷は姿もひとしければ』といへるは小別を題別としたるを云へるにや。然し卷七の大別は雜歌、譬喩歌、挽歌に(4931)て全く卷三と同じく卷十の大別は雜歌相聞を更に四季に別ちたるものにて全く卷八と同じでは無いか。十六と三、四、六、八、九とを家持の集と云へるはいかが。十七以下の如く書留のまゝならばこそ家の集とは云はめ、十六は故事ある歌と戯咲體なるとを集めたる中に家持自己の狂詠二首を加へたまででは無いか。三、四、六、八の中には家持の歌が或は多く或は少く出て居るが三は雜歌挽歌、四は相聞、六は雜歌と部類し八は春雜歌、春相聞、夏雜歌、夏相聞、秋雜歌、秋相聞、冬雜歌、冬相聞と八部に別ちて皆編次を經たるものでは無いか。それを隨記のまゝなる五、十五、十七以下と同一視する事は出來ぬ
 又云はく
  然つどへる上にては一二の卷の外は何れをそれとも知られず亂れにたるを古への事をよくも思ひ得ぬ人私に次《ツイデ》をしるせしものなり。仍て三といふ卷より十六の卷までは事の樣も時代年月もまへしりへに成てけり。故に今委しく考て次を改め|立《タテ》こころみるに先、一〔右△〕、二〔右△〕は今の如し。次は今の十三を三〔右△〕とし今の十一、十二、十四を四〔右△〕、五〔右△〕、六〔右△〕とするも上にいへる如し。今の十を七〔右△〕とす(凡古歌なるが中に藤原ノ古ニシ里(4932)とよめる言あれば奈良の始の人の集ならん)。今の七を八〔右△〕とす(是も古歌にて集の體右とひとし)。今の五を九〔右△〕とす(末に天平五年六月の歌あり)。今の九を十〔右△〕とす(天平五年の秋に遣唐使の發船する時の歌あればなり〉。今の十五を十一〔二字右△〕とす(中臣宅守は石上乙麻呂と同じ年比に流されしと見ゆれば天平十一年の比の歌どもなり)。今の八を十二〔二字右△〕とす(天平十三年と注せる歌あり。又久邇京より奈良の故郷へおくれる歌もあり)。今の四を十三〔二字右△〕とす(是にも久邇京より奈良へ贈りし歌あれば右と同じ年比なり)。今の三を十四〔二字右△〕とす(末に天平十六年七月とあり)。今の六を十五〔二字右△〕とす(久邇京の荒たるを悲む歌あり。こは天平十八年九月より後の事なり)。十六〔二字右△〕は今の如し(時代は上にいへるが如し)。十七〔二字右△〕今の如し(末に天平廿年正月とあり)。十八〔二字右△〕今の如し(未に天平勝寶二年二月とあり)。十九〔二字右△〕今の如し(未に天平勝寶五年二月とあり)。二十〔二字右△〕今の如し(天平寶字三年正月の歌までにて卷を終たり)。かく年月の次でども定かにしるしてあるなれば後に前しりへに亂れたりしこと明らけし。其外にも代々の體わかれて卷の次でのしるきぞ多き。さればその餘りかつがつおぼつかなき事あるはいふべくもあらねば改むべし
(4933) 按ずるに家持の原本は無論卷子本であらうがその卷子の數は初から二十卷であつたか或は天平寶字三年正月以後の卷もあつたかも知れぬ。さてその一、二はともかくも三以下には卷の數は記してなかつたらう。
  今の本に本文の初に萬葉集卷第何とあるは傳寫した人が添へたのであらう
 されば今卷の順序を正さんに或準據に從うてやればよいのであるが眞淵の準據とせるは歌風(就中その新古)と年月とであつて之を表示すれば左の如くである
   舊本卷次                  改定卷次
  一、二      古き大宮風         一、二
  十三       同 時代作者不明の長歌   三
  十一、十二    同  同     虚歌   四、五
  十四       古き東歌          六
  十、七      古歌            七、八
  五        天平五年までの歌      九
  九        天平五年の歌あり      十
(4934)  十五     天平十一年比の歌         十一
  八      天平十三年の歌あり        十二
  四      右と同じ年比の歌あり      十三
  三      天平十六年まで          十四
  六      天平十八年比の歌あり      十五
  十六     河村王、家持の歌あり        十六
  十七以下略
 歌風の新古を準據とするは主觀的であつて危険であるが眞淵が古歌と認めた十三、十一、十二、十、七は皆作者不明の歌であるから多くは古歌であらう。年月を準據とする事は隨記體の卷の外には應用すべきで無い更に按ずるに本集二十卷中隨記の體なるもの六卷
  即五、十五、十七、十八、十九、二十
 殘十四卷は編次したるものである。就中
 甲 作者不明なる歌六卷。即七、十、十一、十二、十三、十四。その類別法左の如し
(4935)   七 雜歌、譬喩、挽歌に別てる上に題別とせり
   十 雜歌、相聞に別てる上に四季別とせり
   十一 外形によりて旋頭歌を別てる外に内容によりて四種に別てり
   十二 内容によりて五種に別てり
   十三 雜歌、相聞、挽歌に別てり
   十四 雜歌、相聞、譬喩に別ち更に國別とせり
 即皆編次を經たり。但類別法の劃一ならざるのみ
 乙 卷十六は有由縁歌并雜歌にて特種のものなり
 丙 作者の明なる歌七卷、即一、二、三、四、六、八、九。その類別法左の如し
   一 御代順  雜歌
   二 同    相聞 挽歌
   三 時代順  雜歌 挽歌
   四 同    相聞
   六 年紀順  雜歌
(4936)   八 時代順  雜歌相聞に別ち更に四季に別てり
   九 同     雜歌 相聞 挽歌
  即年紀順、御代瀕、時代順の三種と成れり
 元來作者の明なるものは皆年紀順にすればよいのであるが作つた年の分らぬものは御代順にし御代も分らぬものは時代順にする外は無いのである。即一、二、三、四、八、九は六のやうにする事が出來ず、三、四、八、九は一、二のやうにだにする事が出來ないのである。なほ云ふならば世間には一、二が清撰を經たもので其他はまだ清撰を經ぬもののやうに思うて居る人もあるやうであるが三、四、六、八、九の中で六だけは一、二のやうにする事が出來るがこれは一、二よりは更に精確に年紀順にしたのである上に皆寧樂宮御宇天皇代(養老七年至天平十六年、即元正聖武兩御代)であるから強ひて一、二の體裁に倣ふ必要が無いのである。されば一、二、三、四、六、八、九は(十六も)皆清撰を經たものである。但これより以上手を著ける餘地が無いと云ふのでは無い。歌の順序の錯亂など正すべき事がまだある
 然らば右の七卷乃至八卷の順序はどうしてよいかと云ふに作つた時の明なるもの(4937)を先とするならば六、一、二とすべきであるが元正聖武の御代の卷を雄略の御代より和銅に至り仁徳の御代より霊龜に至る卷より先とするは穩で無いからやはり一、二を先とし次六、次三、四、八、九(此四卷の順序は通行本に從へるのみ)次十六とすべきである。さて其次は作者不明、從つて時代だに不明なる七、十、十一、十二、十三、十四(此六卷の順序も通行本に從へるのみ)とし次は隨記のまゝなる即いまだ編次を經ざる六卷とすべきである。試に通行本と眞淵の改定と余の案との卷次を比較すれば左の如くである。
    通行木         真淵改定        井上案
  一           一            一
  二           二            二
  三           十三           四
  四           十一           五
  五           十二           十五
  六           十四           三
  七
(4938)  七          十           九
  八           七            六
  九           五            七
  十           九            十
  十一          十五           十一
  十二          八            十二
  十三          四            十三
  十四          三            十四
  十五          六            十六
  十六          十六           八
  十七          十七           十七
  十八          十八           十八
  十九          十九           十九
  二十          二十           二十
(4938) なほ余の案を圖示すれば左の如くである
            御代順    一、二
            年紀順    六
      作者分明  時代順    三、四、八、九
            特種     十六
  編次
           
      作者不明  七、十、十一、十二、十三、十四
  隨記  五、十五、十七、十八、十九、二十
 繰返して云ふが余は今の卷次が原本の卷次とちがうて居るといふのでは無い。原本にはおそらくは卷次が無かつたのを傳寫の時に今のやうに定めたのであらうが殆準據の認むべきものが無いからもし正すならばかやうにするがよからうと云ふのである
 
 萬葉集の借字
 
(4940) 萬葉集は初から今の如く二十卷であつたか、又は家持が編輯した當時には今より多かつたが其一部が無くなつて二十卷になつたのか分らぬが、ともかくも二十卷の中に見えたる作歌年月の最後なるは天平寶字三年正月である。天平寶字三年は淡路(ノ)廢帝即淳仁天皇の御代で今昭和二年より一千一百六十八年前である。其時代にはまだ平假字は無く片假字も行はれなかつた。そこで歌を書くに全部漢字で書いた。其書方には一音に一字を充てたると、數音に一字を充てたるとの別があり中には又字音を充てたると、字訓を充てたるとの別がある。字音を充てたるはキを紀と書ける類、字訓を充てたるはキを木と書ける類である。之を俗に萬葉假字といふ。この所謂萬葉假字を省略して作つたのが平假字及片假字である。さて所謂萬葉仮字で書いた歌は誤字さへ無ければ讀むにたやすいが之を書く方に取つては一音に一字づつ書くのは面倒であるから五、十四、十五、十七、十八、二十以上六卷の外は數音に一字を充てる書方を併用して居る。否以上六卷の中でも嚴に一音一字式を守れるは卷十四の東歌と卷二十の中の防人(ノ)歌とだけである。數音に一字を充てたるものの中にはテニヲハに當る字を全く略したるものがある。例を知《シル》に取らんに知濫と書くか、せめては將知とあれ(4941)ばシルラムと讀まれるがシルラムに知の一字を充てたる處がある。かやうな書式は特に柿本朝臣人麿歌集出として擧げたる歌に多い。されば人麿歌集といふものは今は傳はつて居らぬが其書方は頗不完全であつたと思はれる。
  因にいふ。漢文の將知(主動詞が無くては分りにくいから假に將知としたのである)は未來格であるから將知の字を充つるはシラム、シリナムに限るべきであるが集中にはシラム、シリナムに限らず現在想像のシルラム・シリヌラムにも、過去のシリケムにも將知を充てゝ居る
 かやうな事を云ふと限が無い。もし集中の用字例を研究するならば數冊の書物を作る事も出來る。たとへばケフ、イマを且今日、且今と書ける處が澤山ある。然るに何故に今日、今に且の字を添へたるかと云ふ事は從來分つて居らぬ(但これは漢籍にも例がある。たとへば劉向の新序に且今行之とある)。余も此方面に研究を進めて見たいと思ふが余の如き漢學の力の無いものにはむつかしい
 さて萬葉集の用字例を分類せるものに萬葉用字格といふ一冊の書がある。これは天保元年に公にせられたもので時宗の僧春登の著である。本集の用字例を訓に由りて(4942)探すやうにしたもので五十音の各部を正音、略音、正訓、義訓、略訓、約訓、借訓、戯書の八類に分つて居る。たとへば加部について云はんに
  加、可、我《ガ》など書けるは正音
  甲斐のカを甲と青けるはカフの略音
  ナキテカのカを歟と書き君ガのガを之と書けるは正訓、カチを歩と書きカラを故と書けるも正訓
  カモを疑、疑意など書きガモを願、冀、欲得、欲成など書けるは義訓
  カキツを垣内と書けるはカキウチのウを略したるなれば略訓
  カフチを河内と書けるはカハウチの約なれば約訓
  アヒミツルカモのツルカモを鶴鴨と書けるは借訓
  カリを切木四と青けるは戯書
である。
  因にいふ。何故にカリを切木四と書けるかといふ事は新考一〇五八頁以下(第二冊)にくはしく説いてある。此戯書の中には面白い事が多いが此事も種々の方面から(4943)研究する價値がある
 此萬葉用字格は分類もまだ當を得て居らぬ上にその據とした萬葉集略解の訓のあまた訂正せられた今日に至りては其價値は大分下つたが然も今日でも便利なる書物として學者に用ひられて居る。次に先頃謄寫版で田島某の萬葉格字引といふ一冊の書が刊行せられた。これは字引のやうに漢字で引くのであるから學者の研究によりて原書の訓が變つて行いても影響を受けぬ訣であるが用字格のやうに便利で無い。たとへばカリに妙な字を充てた例があるとだけ覚えて居る場令に用字格を見れば折木四、切木四といふ事がすぐに分るが格字引では分らぬ。又ガモの書方が幾通りあるかといふ事も用字格では分るが格字引では分らぬ○其上脱漏あり誤寫も少からぬやうであるから余は座右には置いて居らぬ。こゝに正宗敦夫君は十數年來本集の完全なる索引を作るに努力して居たが近日出版する運になつたと云ふ。四五冊の洋装本となる豫定で學者には固より缺くべからざる物である
 本集の歌の訓讀の難き事は村上天皇の御代なる所謂梨壺の五人を始め世々の研究者、特に鎌倉時代の仙覺、徳川時代の契沖、春滿、眞淵、宣長、久老、雅澄等、明治時代の木村正(4944)辭博士等が心血を注いだに拘はらず淺學なる後生、余の如きものをして若干の發見を遂げしめたのでも分るが發見に骨の折れた例は聽く人の肩も凝る訣であるからそれらはすべて拙著萬葉集新考に讓つて今はただ聞かれて面白い例を少々擧げて見よう。面白い代には皆夙くから讀み得たる例であるから一通り本集を研究せられた諸君を益する所は無からう。くれぐれも斷つて置くが以下は學者の衣服を脱いでの話である
 まづ朝日の日を烏と書ける例がある。然し月を兎と書けるは見當らぬ
 それからアラレを丸雪と書いてある
 それからキリを白氣と書きケブリを火氣と書いてある(以上天文)
 次に北を向南と書けるがあるごれはマヂカキを不達とかきキヨクを不|穢《ワイ》とかけると同例としてよからう。又コトモツゲナムのナムに火の字を充てたる例がある。これは大分むつかしいが支那の五行説に據ると木火土金水のうち火は南に相當する。されば今の例はコトモツゲ南と書くべきを戯れて南の代に火と書いたのである。參考の爲に五行に方位、五色、四時、五聲等を配したるものを表示すれば左の如くである
(4945)  木   東   青  春  角
  火  南  赤  夏  徴《チ》
  土  中  黄     宮
  金  西  白  秋  商
  水  北  黒  冬  羽
 卷十三にニシノウマヤ、ヒムカシノウマヤを金厩、角厩と書けるも五行の金は西に當り五聲の角は東に當るからである(以上方位) 次に秋を金又は白と書いてある。これは秋は五行の金に、又五色の白に當るからである。又春を暖とかき秋を冷と書き冬を寒と書いてある。但夏を熟と書ける例は集中には見當らぬ(以上時節)
 次に里を五十戸と書いてある。これは大寶令に凡戸(ハ)以2五十戸1爲《セヨ》v里とありて文武天皇の大寶以來、否孝徳天皇の大化以來村落の戸數が五十に滿てば一つの里と立てられたからである(以上地理)
 次にサダメテシなどのテシを義之又は大王と書いてある。いにしへ書を手といひ書(4946)家を手師と云うた。晋の王羲之は所謂書聖で手師の代表者である。そこで手師と書く代に羲之と書いたのを後に羲を義に誤つたのである。大王と書ける訣は義之の子獻之も亦書の名人であつたから父と併稱して二王と云はれたがその獻之と別つ爲に羲之の事を大王と云うた。そこで羲之の代に大王と書いたのである
 それからコチタミを毛人髪三と書いてある。コチタシは上方言葉のギヤウサンであるが毛人即エミシ即今のアイヌは毛髪が多いからコチタシを毛人髪と書いたのである
 それからイクヨマデニカ、トモシキマデニなどのマデを左右手、左右、二手、諸手と書いてある。これは一手を片手といふに對して二手をマデと云うたからである。一方を片といふに對して雙方を眞といふ事は今は殆忘れられてしまうたがそれでも眞帆片帆などいふ語は殘つて居る。又古歌に見える眞梶眞袖の眞をただのたゝへ辭と思うで居る人もあるが、否辭書にもたゝへ辭として居るものがあるが眞梶は左右の梶、眞袖は左右の袖である。川の兩岸を萬葉にフタツノ岸とよめを例があるが今少し短い語が無いかと問うた人があつたから片岸に對して眞岸とか諸岸とか云うたらよか(4947)らうと答へた事がある
 それからナミダを戀水と書ける例があるがこれなどは頗面白い(以上人事)
 次にシシを鹿猪と書ける例がある。シシは元來肉の義なるが轉じて動物の名となつたのである。さうして古は鹿猪を總稱してシシと云ひ別ちては鹿をカノシシ、猪をヰノシシと云うたのであるがヰノシシの名ばかり殘つてカノシシの名は絶えたのである。カノシシを今シカと云ふが古、シカと云うたのは牡鹿の事である。されば集中にはシカを牡鹿、雄鹿、男鹿とも書いてある。牝鹿はメガといひ牝牡を總稱してはただカと云うた
  因にいふ。シシを完と書くのは肉の古宇なる宍を誤つたのである。古寫本には宍を完では無いが完とも見えるやうに書ける例がある
 それからシシの鹿猪に對してトリを鶉雉と書いてある。これは古、狩獵の主なる目的物は獣では鹿猪、禽では秋の鶉、冬の雉であつたからである
 それからカモを青頭鶏と書ける例がある。鶏の字については抗議が出るであらうがこれは三國志註に青頭鶏(ハ)鴨也とあるに依つたのである(新考二六四四頁以下參照)
(4948) それから古は鶏を呼ぶにツツといひ犬を呼ぶにママといひ馬を追ふにソソと云うたと見えてミエツツのツツを喚鶏と書きマソカガミのマソを喚大追馬と書き、略しては犬馬とも書いてある〇間〔日が月〕宮永好といふ人の隨筆を犬鶏隨筆といふは其號松の屋のマツに喚犬喚鶏の略なる犬鶏を充てたる樂屋落である。又卷十四に駒ハタグトモ我ハソ〔右△〕トモ(追)ハジとある
 それから今、蜂の音はブンブンと聞え馬の聲はヒンヒンと聞え牛の聲はモオモオと聞えるが古は少し聞え方がちがうたと見えてイブセクモアルカのイブを馬聲蜂音と書きナホヤナリナムのムを牛鳴と青いである(以上動物)
 次にカグロキ髪ニのクロキに烏の字が充ててある。然しシロキに鷺の字を充てたる例は無い。それからコヒワタリナムのナムを味試と書きイマゾナギヌルのヌルを少熱と書けるは奇拔である。それから古、四枚の木片を以て行ふカリウチといふ博戯があつたがユフヅクヨ(夕月夜)のツクを三伏一向と書きネモコロゴロニのコロを一伏三向と書いてある。これは彼カリウチに使ふ木片は一面が白く一面が黒くそれを投げた時に白が一枚、黒が三枚出たのをツクといひ白が三枚、黒が一枚出たのをコロと(4949)云うたからである。つまりツクもコロもカリウチの采の名稱である
  因にいふ。四枚共に黒なるをヤモと云うたのでは無からうかと思はれる事がある。其事は新考七九六頁にほのめかして置いた
 それから算術の九九といふものは我邦にも夙く一千數百年前の當時に行はれたと見えてカクシシラサムのシを二二と書きイサトヲキコセのトヲを二五と書きシシフミオコシのシシを十六と書きコノマタチグクのククを八十一と書いてある。又ナヅミゾワガコシ、イケリトモナシのシを並二、重二と書いてある
 それからイロニイデバのイデを山上復有山と書いてあるがこれは古詩に
  藁砧今何在、山上復有v山、何《イツカ》當《ベキ》2大刀頭(ナル)1破鏡飛上v天
とあるに據つたので山上復有山は出の隱語である(新考一八二〇頁參照)
 それからワガ、ワレを言と書きナホを由と書ける處がある。ワレを言と書けるは詩經に多く(爾雅に言(ハ)我也とある)ナホを由と書けるは孟子に多い。初にも云うた通り本集の用字を研究するには漢籍の素養が無くてはならぬ(以上雜)
 まだいくらでも話すべき事はあるがあくびの出ぬ内に止めよう、そのアクビは集中(4950)には見えぬがクッシャミをよんだ歌はある。クッシャミする事を古語ではハナヒルといふ(右は昭和二年十月十七日奈良ホテルにて講演せしものに聊補訂を加へたるなり)
 
   九九
 
 萬葉集に九九又は其合數を借字に用ひたる例がある。即卷六(新考一〇二一頁)なるカク二二シラサム卷十三(二八七五頁)なる二二ナムヨワギモ又卷十一(二四五四頁)なるイサ二五キコセは二二をシに借り二五をトヲに借りたので又卷三(三四八頁)なる十六コソハ、卷六(一〇三八頁)なる十六フミオコシ又卷四(八三一頁)なるココロ八十一、卷八(一五三八頁)なるコノマタチ八十一は四四の積十六をシシに借り九九の積八十一をククに借りたのである。此等の例を見てめづしがるは道理であるがただめづらしいヂヤ無いかと云はれただけでは初學の人たちは九九の文學に現れたるは萬葉集が初と誤り思ふまいものでも無いから聊蛇足を書いて見よう
(4951) 九九が文學に現れたるは萬葉集が初では無い。漢籍にははやくあまたの例がある。手近いものでは晋の郭璞の爾雅序に沈研鑚極二九載とある。文選には特に多い。たとへば張平子の東京賦に年ヲ歴ルコト三六とあり又二九ヲ合セテ※[言+橘の旁]ヲ成スとある。これは王莽の暦號十八年を謂うたのである。又※[金+越の右]ヲ四七ニ授ケと云ひ屬車九九と云へるは二十八將と八十一乘とを謂うたのである。又左太冲の三都賦のうちの蜀都賦に二九ノ通門ヲ闢キとあるは成都の十八門を謂ひ同じき魏都賦に相ハ二八ヲ兼ネ將ハ四七ヨリ強クとあるは舜の八元八凱と光武の二十八將とを謂うたので車ヲ曜スコト二六とあるは十二乘を謂うたのである。右の中で最古きは東京賦である。其作者張平子即張衡は後漢の、永嘉年中に尚書となつた人である。然し九九と云ふ算術がはやく春秋時代にあつた事は漢書梅福傳に、否劉|向《シヤウ》の説苑《ゼイヱン》卷八に、否韓詩外傳卷三に見えて居る。余の知れる限では九九といふ稱の見えたるは韓詩外傳が一番古い。韓詩外傳は韓嬰の撰で韓嬰は前漢の孝文孝景に仕へた人である。さればこゝには韓詩外傳を引くべきであるが此書の傳本には誤脱があるやうであるから今は此書に據つたと思はれる説苑の文を引かんに同書卷八に
(4952)  齊ノ桓公庭燎ヲ設ク。士ノ造《イタ》リ見エムト欲スル者ノ爲ナリ。※[其/月]年ニシテ士至ラズ。是《ココ》ニ東鄙ノ野人九九ノ術ヲ以テ見ユル者アリ。桓公曰ハク。九九何ゾ以テ見ユルニ足ラム。鄙人對ヘテ曰ハク。臣九九ヲ以テ、以テ見ユルニ足レリトスルニ非ザルナリ。臣聞ク君庭燎ヲ設ケ以テ士ヲ待テド※[其/月]年ニシテ士至ラズト。夫士ノ至ラザル所以ハ君ハ天下ノ賢君ナレバナリ。四方ノ土皆自、論ジテ君ニ及バザラムヲ以テノ故ニ至ラザルナリ。夫九九ハ薄能ノミ。而ルヲ君猶之ヲ禮セムニ況《マシテ》九々ヨリ賢《マサ》リタル者ヲヤ(○韓詩外傳に據りて者の字を補ひつ)。夫太山ノ壌石ヲ辭セズ江海ノ小流ニ逆《ソム》カザルハ大ヲ成ス所以ナリ。詩ニ云ハク。先民言ヘルアリ蒭※[草冠/堯]ニ詢《ト》フト。博ク謀ルヲ言フナリト。桓公曰ハク善シト。因リテ之ヲ禮ス。※[其/月]月ニシテ四方ノ士相携ヘテ竝ビ至ル云々
とある。されば九九といふ乘算は夙く春秋時代に存じその文學に現れたるも漢籍では一千八百年の昔である。從うて萬葉集に現れたるは古しとするに足らぬ。但九々又は其合數を借字に用ふる事は漢籍にあるべき事で無いからこれは萬葉集が初である(昭和三年十一月二十五日)
(4953) 此文を草した後に國語を見しに晋語三に歳之二七其靡v有v微兮といふ事があつた。それは晋人が其君惠公を譏つて作つた歌の辭で歳ノ二七ニハ其《ソレ》微モ有ルコトナカラムと訓んで十四年ノ後ニハ君ノ子孫モ殘ルマイといふ意である。さればこそ郭偃といふ賢人が之を聞きて十四年ニシテ君ノ冢嗣|其《ソレ》替《ホロ》ビムカと言うたのである。之によれば九九といふ名稱のみならず文學に現れたる九九も春秋時代を以て初出とすべきである。晋惠公は齊桓公の晩年に及んだ人で其時代は後漢の永嘉よりは又八百年ばかりの昔である(昭和三年十二月七日追記)
 
(218) 又追記 淮南子地形訓に
  天一、地二、人三。三三而九、九九八十一〔九字傍点〕。主v日、日数十、日主v人。人故十月而生。八九七十二〔五字傍点〕。二主v偶、偶以承v奇、奇主v辰、辰主v月、月主v馬。馬故十二月而生。七九六十三〔五字傍点〕。三主v斗、斗主v犬。大故三月而生。六九五十四〔五字傍点〕。四主v時、時主v※[彙の上部/(北の中に矢)]《ヰノコ》。※[彙の上部/(北の中に矢)]故四月而生。五九四十五〔五字傍点〕。五主v音。音主v※[獣偏+爰]。※[獣偏+爰]故五月而生。四九三十六〔五字傍点〕。六主v律、律主2糜鹿1。糜鹿故六月而生。三九二十七〔五字傍点〕。七主v星、星主v虎。虎故七月而生。二九十八〔四字傍点〕。八主v風、風主v蟲。蟲故八月而化(219)とある。孔子家語執轡第二十五後章の文も大同小異である。家語に據らぬは家語は魏の王甫の偽撰とすれば淮南子よりは新しいからである  (又追記は明治書院版)
 
 
 柿本人麻呂と漢文學
 
 柿本朝臣人麻呂が空前絶後の大天才である事は言ふまでも無いが大天才と云へども千言萬語悉く自己の脳中に求めて更に文献に資《ヨ》る所が無かつたとは速斷せられぬ。否人麻呂も古歌古謡は勿論|祝詞《ノリト》、語部《カタリベ》の語辭《カタリゴト》などに資つたであらうが其外に尚漢文學に資る所があつたのでは無いかと思はれる。たとへば萬葉集卷二なる高市《タケチ》皇子(4954)尊|城上《キノヘ》殯宮之時柿本朝臣人麻呂作歌の中に
  ふきなす、くだのおとは、敵《アタ》見たる、虎かほゆると、もろ人の、おびゆるまでに
といふ句がある。虎は日本に無い動物であるからかやうな事を想像するには何か根ざしが無くてはならぬ。右の句のつづきに
  ささげたる、幡のなびきは、ふゆごもり、春さりくれば、野ごとに、つきてある火の、風のむた、靡くがごとく
といふ句があるが此等の句どもは恐らくは戰國策卷五に
  ココニ楚王(○宣王)雲|夢《ボウ》ニ游ブ。結※[馬+四]千乘、旌旗天ヲ蔽フ。野火ノ起ルコト雲※[虫+兒]ノ若《ゴト》ク※[凹/兄の下]《ジ》虎ノ※[口+皐]ユル聲雷霆ノ若シ
とあり劉|向《シヤウ》の説《ゼイ》苑卷十三に
  其年共王(○楚王)江渚ノ野ニ獵ス。野火ノ起ルコト雲※[虫+兒]ノ若ク虎狼ノ※[口+皐]ユルコト雷霆ノ若シ
とあるに據つたのであらう。
  因にいふ。戦國策は日本國見在書目録に劉向撰とあるが夙く史記に引用せられて(4955)居るから以前からあつたもので劉向は之を編次増訂し且戰國策と命名せしに過ぎぬであらう。その撰にあらざる事は確に其撰なる説苑に記せる所と異同があるので明である。其異同は上に引ける文を比較して一斑を知る事が出來よう。劉向は前漢末の建平元年に卒した人である
 次に同卷なる明日香皇女木※[瓦+缶]殯宮之時柿本朝臣人麻呂作歌の中に
  なにしかも、わがおほきみの……朝宮を、わすれたまふや、夕宮を、そむきたまふや
とあるは文選卷二十九なる顔延年の宋(ノ)文皇帝(ノ)元皇后(ノ)哀策文に
  鳴呼哀哉南背2國門1北|首《ムカフ》2山園1
とあるに據つたのではあるまいか。何となくソンナ心持がする。次に同卷なる柿本朝臣人麻呂妻死之後泣血哀慟作歌二首の或本(ノ)歌の末に
  大とりの、はがひの山に、ながこふる、妹はいますと、人のいへば、いはねさくみて、なづみこし、よけくもぞなき、うつそみと、おもひし妹が、灰にてませば
とある。灰ニテマセバはハヤク火葬シテ灰ニナリタレバと云ふ事であるがあまりに奇拔なるが爲に純日本思想なる註釋者の中には解釋に不安を感じたるもある樣子(4956)である。これは文選卷十四なる陸士衡の挽歌詩に
  昔爲2七尺躯1、今成2灰與1v塵
とあるを藍本としたのであらう。萬葉歌人中漢文學の影響を受けたるは山上憶良以下と漠然と心得たる萬葉研究者は人麻呂が戦國策、文選などを讀んだであらうと云ふ説を聞かば一笑して好奇の言とするであらうが心を虚うし懷を坦にして此文を讀まば人麻呂の素養が耳からげかり來たので無い事が分るであらう(昭和三年十一月十日)
(48)追記 劉向の向は或はシヤウと訓み或はキヤウと訓むのであるが漢書楚元王傳の附録の劉向傳の顔師古註に
 名向字子政。義則相配。而近代學者讀2向音餉1。既無2別釋1靡v所2據憑1。當d依2本字1爲uv勝也
と云うて居る。即シヤウとよむよりはキヤウとよむ方がよいと云ふのである。顔師古は唐代の人である。又其著の説苑は一般にゼイヱンとよんで居るが岡本保存(況齋雑話)はセツヱンとよむが正しいと云うて居る  (追記は明治書院版)
 
 
 
   鎌倉比企谷と仙覺律師萬葉集研究の遺蹟
      一 緒言
 萬葉集は上古から寧樂朝時代までの歌長短四千五百餘首を見るに隨ひ聞くに隨つて集めたもので、古事記日本紀と共に三大古典として我邦の誇とすべきものである。さて集中に見えたる最新しい歌でも今より一千一百七十年前の作である。其時代にはまだ平假字は無く片假字は或は出來てゐたかも知れぬが少くともまだ行はれ無(4957)かつたから集中の歌は全部漢字で書いてある。されば萬葉集の基礎的研究はドウ讀むかといふ事とドウいふ意味かといふ事と二の方面に亘らねばならぬ。其上に世が下つて傳寫の度數が重なると共に漸々誤字が多くなつて來るからドウ讀むかといふ事と共に或は誤字ではあるまいか、もし誤字ならばドウいふ字の誤であらうかといふ事も研究せねばならぬ
 萬葉集の研究は今より九百八十年許前なる村上天皇の天暦年間〔日が月〕から始まつた。初はドウ讀むかの研究が主であつたが追々にドウいふ意味かといふ研究も行はれるやうになつた。其内に世が下り傳寫の數が重なつて誤字が多くなつたから諸本を集めて其異同を校合する必要が起つた。其事業の始めて深刻に行はれたのが實に當鎌倉である。即將軍藤原頼經が此事業を思立つて初は京都から下つて居た式部丞源親行といふ歌人に命じたが後には權律師仙覺に命じた。仙覺は山本信哉博士の研究に據れば常陸國で生れた人であるらしいが、十三歳の時から歌の本源を悟らしめたまへと神佛に祈願した程の人であるから喜んで萬葉集校合の命を受けた。さて仙覺の作業は校定と訓讀と註釋と三つに分つべきである。さうして訓讀は又改訓と新訓と二(4958)つに分つべきである。改訓とは天暦以來代々の研究者の訓讀の誤を訂したもの、又新訓とは代々の研究者の讀み得ざりし歌を仙覺が新に讀んだものである。後者の數だけでも實に一百五十二首に達して居る。更に校定訓讀註釋三事業の順序を述べるならば校定訓讀が先で註釋が後である。なほくはしく云ふならば校定は寛元年間〔日が月〕と弘長文永年間〔日が月〕と二囘乃至三囘行はれたが訓讀の行はれたのは寛元校定の時である。又註釋の出來上つたのは文永六年である。次に校定註釋の行はれた場所の事を云はんに校定本の奥書に
  寛元四年十二月廿二日於2相州鎌倉比企谷新釋迦堂僧坊1以2治定本1書寫畢
とあるから最初の校定は比企谷で行はれたのである。弘長元年から文永二年に亘つての校定は何處で行はれたか記して無いが次々に貴重なる六本を獲て比校した事と文永二年に清書した本を將軍宗尊親王の仰に依つて獻上した事とから歸納してやはり鎌倉で校定した事と思はれる。次に註釋は卷末即卷第十の終に
  文永六年孟夏二日於2武藏國比企郡北方麻志宇郷政所1註v之了。權律師仙覺
とあるから註釋ばかりは武州麻志宇郷で出來たやうに見えるがよく思ふにさうで(4959)はあるまい。即卷一の奥書に
  文永六年二月廿四日記之訖
 卷二の奥書に
  文永六年沽洗二日於武藏國比企北方麻志宇郷書寫〔二字傍点〕畢 仙覺
とある。沽洗は姑洗の誤で三月の異名である。萬葉集卷十七にも見えて居る。又卷四の奥書に
  文永六年三月十三日記之畢 仙覺
 卷五の奥書に
  文永六年三月十六日記之畢 仙覺
 卷六の奥書に
  文永六年三月十八日於武藏國比企北方麻師宇郷政所記之畢 仙覺
 卷七の奥書に
  文永六年三月廿一日記之畢 仙覺
 卷八の奥書に
(4960)  文永六年三月廿九日記之 仙覺
 卷九の奥書に
  文永六年孟夏朔日記之畢 仙覺
とある。孟夏は四月である。此奥書に據れば仙覺の萬葉集註釋十卷は文永六年二月廿四日から四月二日までの間〔日が月〕に出來上り就中第五第七は三日間、第六は二日間、第十は僅に一日で出來上つたのであるがたとひ全註で無くても十卷の註釋が四十日許で出來上る筈が無いからこれはこれより先に作つたのを此時に清書したのに過ぎまい。現に第二の奥書には書寫畢とある。然らば其註釋を作つたのは清書したのと同處即武州麻志宇郷であるかと云ふにさうではあるまい。やはり當鎌倉の比企谷の新釋迦堂僧房で作つたのであらう。其證據には註釋卷第十の中に
  さきの世の契深きをさなき者の松の※[戸/(回の下の一なし)]《トボソ》のうちに住馴れて此集の歌の心しるしとどめて給ふべき由勸め申す事度々になりぬるによりて憚を顧みず書留め侍るなり
とある。麻志宇郷政所は地頭の役所である。地頭の役所を松ノトボソと云ふべしや思(4961)ふべきである。されば萬葉集註釋は稚き弟子の歌を嗜むものの乞によりてこれも亦比企谷新釋迦堂で作つたのであらう。從來仙覺は中年は錬倉に、晩年は武州麻志宇郷に住し萬葉集の校定は鎌倉で、註釋は武州で出來たやうに漠然と考へられて居たが武州との關係は從來考へられしより稍淺く鎌倉との關係は從來考へられしより深いのである。又仙覺が武州麻志宇郷に居たのはただ一時だけであつたか或は數年に亘つたか分らぬがたとひ麻志宇郷に永住したとしてもそれによつて鎌倉との關係は絶えたのではない。其證據は今傳はれる萬葉集註釋は此書の成つた文永六年より七年後なる建治元年に權律師玄覺といふ人が人をして書寫せしめたもので第三の外、毎卷に玄覺の奥書があるが第二の奥書に
  建治元年冬十一月八日於2藤倉比企谷1以2作者仙覺律師自筆本1教2人書寫1畢
とある。されば仙覺自筆の萬葉集註釋は麻志宇郷政所に傳はらずして比企谷新釋迦堂に傳つて居たのである。註釋の清書の畢つた文永六年には仙覺は六十七歳であるが玄覺が人をして書寫せしめた建治元年にはもはや此世に居なかつたらう。即仙覺は文永六年から(否文永九年に自奥書を加へた本があるから文永九年八月九日から)(4962)建治元年までの間〔日が月〕に寂したのであらう。さうして恐らくは麻志宇郷で歿したのではなくて註釋を携へて比企谷へ歸つて歿したのであらう。さらば仙覺の墓所は寧比企谷に求むべきであらう。又註釋を書寫せしめた權律師玄覺はおそらくは仙覺に内外二典を學んだ人であらう。又玄覺に頼まれて註釋を書寫した人はやはり仙覺の弟子で新釋迦堂の後住であつたらう。或は仙覺が「さきの世の契深きをさなき者」といへる者の後身ではあるまいか。麻志宇郷政所の址は今の埼玉縣比企郡小川町大字大塚の陣屋であるといふ。陣屋は固より近世に起つた名稱であるが其處の舊稱をマンコロガイト、と云うたと云ふ。マンコロガイトは政所垣内の訛でカイトは今いふヤシキである。此遺蹟の發見者は小川町の人大塚仲太郎君である
 上に述べた通り仙覺の萬葉集卷第一奥書に
  寛元四年十二月廿二日於2相州鎌倉比企谷新釋迦堂僧坊1以2治定本1書寫了
とあり又萬葉集註釋卷第十奥書に
  文永六年孟夏二日於2武藏國比企郡北方麻師宇郷政所1註v之了
とある。これによつて仙覺は比企氏と何か關係があつたのではあるまいかとは誰で(4963)も考へる事であるが比企氏歴代中誰でも知つて居るのは比企判官能員ばかりで其能員と仙覺とは時代がちがひ、仙覺時代の比企氏はくはしく知れて居らぬから仙覺は比企氏と何か關係が有つたのであらうと云ふにはまづ比企氏の事を研究せねばならぬ
 
    二 比企郡と比企谷
 比企郡は武藏國の一郡であるが比企氏は本郡の名族であつたから郡の名を取つて比企氏と稱したのである。比企禅尼の夫|掃部允《カモンノジヨウ》(名は一二の史料に遠宗とある)を比企郡少領と書けるものがある。此人の時代まで少領であつたといふ事は疑はしいが此人は京師に上つて初はおそらく源氏に、後には平氏に仕へたが又後に故郷に歸つたのである
 比企谷《ヒキガヤツ》は鎌倉の一地域で掃部允の後家即所謂比企禅尼が頼朝から此地を賜はつて居住したから其氏によつて比企谷と稱せられたのである
 
    三 比企禅尼
 此人は京師に居た時頼朝の乳母となつた事があるが頼朝が永暦元年に伊豆國に流(4964)された後夫掃部允に勧めて比企郡に歸り治承四年に頼朝が兵を擧ぐる迄二十年の間〔日が月〕女※[土+胥]等と共に糧米を頼朝に送つて其生活を助けたから頼朝は深く之を徳として其府を鎌倉に開くに及びて比企谷の地を與へてここに居住せしめた。即吾妻鏡に
  壽永元年七月十二日御臺所(○政子)御産氣ニ依ッテ比企谷殿ニ渡御ス
  同八月十二日御臺所男子(○頼家)御平産。…………河越太郎重頼ノ妻(比企尼女)召ニ依ッテ參入シ御|乳付《チヅケ》ニ侯ズ  同十月十七日御臺所并ニ若公《ワカギミ》(○頼家)御座所ヨリ營中ニ入御ス。……比企四郎能員御乳母ノ夫トシテ御|贖物《アガモノ》ヲ奉ル。此事、若干ノ御家人アリト雖、義〔左△〕員ノ※[女+夷]母《ヲバ》(號比企尼)當初武衛(○右兵衛佐親朝)ノ乳母タリ。而シテ永暦元年豆州ニ御遠行ノ時忠節ヲ存ズル餘、武藏國比企郡ヲ以テ請所《ウケシヨ》トシテ夫掃部允ニ相具シテ下向シ治承四年秋ニ至ルマデ廿年ノ間〔日が月〕御世途ヲ訪ヒ奉リキ。今御繁榮ノ期ニ當ッテ於事就被酬彼奉公(○事ニ於テ彼奉公ニ酬イラルルニ就イテナリと訓むべきか。就は誤字か)。件ノ尼甥義〔左△〕員ヲ以テ猶子トシ擧《コ》シ申スニ依ツテ如此云々
とある。比企谷殿は比企尼の邸である。義員は能員の誤である。贖物《アガモノ》は祓の料である〇爲2(4965)請所《ウケシヨ》1云々は國司と私に契約して郡郷の年貢を受負としたのである。世途《セイト》は生活の途即クラシである。頼朝が禅尼を徳とせし餘その嫡男頼家の生れし時尼の邸を産所とし、其次女即河越重頼の妻を乳付《チヅケ》とし、又養子能員の妻を乳母としたので、これが能員の出世の緒であつた
 吉見系圖源範頼の下にも
  初頼朝十四歳ノ時永暦二〔左△〕年三月廿日伊豆國流罪ノ時平家ノ權威ヲ恐レテ國人一食ヲモ與ヘズ。頼朝ノ乳人比企局其比武州比企郡ノ少領掃部允ノ妻女ナリ。三人ノ息女コレアリ。嫡女ハ京ニ在リテ初二條院ニ奉仕シテ丹後内侍ト號シ無雙ノ歌人ナリ。惟宗《コレムネ》(ノ)廣言ニ密通シテ忠久ヲ生ム。ソノ後關東ニ下向シ藤九郎盛長ニ嫁シテ數子ヲ生ム。比企禅尼ノ二女ハ河越太郎重頼ノ妻ナリ。禅尼ノ三女ハ伊豆ノ伊藤〔左△〕九郎祐清ノ妻ナリ。頼朝牢浪ノ間〔日が月〕、比企禅尼哀憐セシメ武州比企郡ヨリ粮ヲ運送シ又三人ノ聟ニ命ジテ扶助シ奉ルコト廿年餘ニ及ブ。然而《サテ》頼朝天下安治ノ後聟三人ノ内伊藤助〔二字左△〕清ハ平家ニ隨ヒ討死ス。其妻ハ頼朝ノ一門平賀義信給ハル。其腹ノ子朝雅ハ頼朝ノ一字ヲ給ハリ北條時政ノ聟トナル。扨又比企禅尼ノ聟藤九郎盛長ハ武州足(4966)立郡ヲ給ハリ盛長ノ女ハ範頼ノ内室ニ給フ。二番目ノ聟河越重頼ハ武州多磨〔左△〕郡ヲ
給ハリ重頼ノ女ハ義經ノ内室ニ給フ。比企禅尼ノ子息ハ能員比企禅尼ノ孫島津忠久ハ日向國守護職ヲ給ハル。是ニ元暦二年八月十七日御|下文《クダシブミ》ヲ下サレ禅尼報恩ノ由ヲ仰セラル。去程ニ建久四年八月範頼生害ノ時嫡子六歳ニテ同ジク生害ス。二男三男四歳二歳二人ノ子コレアリ。盛長ノ妻丹後内侍ノ女ナレバ(○盛長の上に母者の二字をおとせるか)比企禅尼并に内侍命ヲ申請ケ則二人ヲ出家セシメ比企ノ内慈光山ノ別當トナル。範圓源昭是ナリ。然リト雖凡僧ニテ戒法ヲ守ラズシテ子アリ。比企禅尼ハ比企郡六十六郷ノ領主ナリ。其子ニ吉見庄ヲ與ヘ吉見三郎爲頼ト號ス。吉見ノ先祖是ナリ(○原半漢文)
とある。全部は信ぜられぬが大部分は參考に供する事が出來る。永暦二年は元年の誤、伊藤助清は伊東祐清の誤である。右の系圖に見えたる如く禅尼には掃部允との間〔日が月〕に三人の女子があつた。長女は惟宗忠久即島津家の始祖忠久と蒲(ノ)冠者範頼の妻との母、次は源九郎判官義經の妻の母、三女は平賀朝雅の母である。禅尼はかやうに立派な孫と孫※[土+胥]とに圍まれて居たが不幸にして島津忠久の外は孫も孫※[土+胥]も養子の能員の一(4967)門も皆非命に斃れた。右の系圖に見えて居らぬが吾妻鏡に比企藤内朝宗といふ人が見えて居る。能員の子は宗員時員など稱せるに此人は朝宗と稱せる事、禅尼の夫の名は二三の史料に據れば遠宗である事、此等によりて朝宗は禅尼の末子とすべきかと云ふに吾妻鏡に廷尉嫡男餘一兵衛尉とあつて能員の嫡男は餘の字を添へて餘一と云ひしを思へば(彌三郎彌四郎が三郎四郎に對せる如く)此人より先に生れし子があつたのでそれが即藤内朝宗であらう。長男ではあつたがおそらくは妾腹又は前妻の子であつたので禅尼が其子として夫の一字を繼がしめ又頼朝の一字を賜はつて朝宗と稱せしめたのであらう。藤内と稱したのは無論内舎人に補せられたからで始は太郎と稱したのであらう
 禅尼の歿年は分らぬ。然し頼朝の生れた時に仮に二十五歳であつたとしても頼朝の薨じた時には七十七歳であつたわけであるからおそらくは養子能員、その女讃岐局、その腹の一萬九等が殺され又は自害し又孫平賀朝雅の誅せらるるを見なかつたであらう。吉見系圖を見ると吉見爲頼に所領を分けたやうであるが爲頼は範圓阿闍梨の子、三河守範頼の孫で禅尼の玄孫であるからそれに所領を分ける迄は生きて居な(4968)かつたらう
 諒解を助くる爲に左に新製系圖を添へる
             女(丹後内侍)/島津忠久i
遠 宗(掃部允)     女(範頼室)
 ×           女―――――女(義經室)
禅 尼          女―――――平賀朝雅
             能員(養子)
             朝宗(同)
 
     四 比企能員
 此人の事は誰でも知つて居るからくはしく云ふ必要は無いが字を四郎と云うた。比企氏は藤原姓であるから藤四郎とも云うた。建久元年十二月右衛門尉に任ぜられ後検非違使少尉に補せられた。吾妻鏡正治二年二月の條に新判官能員とあり又後には廷尉能員とある。判官は即検非違使の尉で廷尉はその唐名である。愚管抄に阿波國ノ者也とあるを大日本史には安房の誤かと疑うて居る。比企禅尼の甥であるが養子としたのは三人の女子がそれぞれ人に嫁した後であらう。能員の妻は愚管抄に
(4969)  比企ハ其郡ニ父ノ黨トテミセヤノ大夫行時ト云者ノムスメヲ妻ニシテ一萬御前ガ母(○頼家の妾若狹局)ヲバマウケタル也とある。父ノ黨は秩父ノ黨の誤ではあるまいか。吾妻鏡建仁三年九月二日の條には
  夜ニ入ッテ澁河刑部丞ヲ誅セラル。能員ノ里タルニ依ッテ也
とある。此外に三浦氏として居るものもあるがしばらく吾妻鏡に據つて澁河刑部丞の娘としておくが穩であらう
 能員は其養母が頼朝の恩人である關係から頼朝に用ひられたのであるが其妻は頼家の乳母に召され又後に其女若狹局(後に讃岐局といひき)は頼家の妾となつて男|一幡《イチマン》を生んだ。頼家の病が重くなつた時、頼家并に能員は一幡をして世を繼がしめんとし政子并に北條氏は其權力の比企氏に奪はれん事を恐れて頼家の弟實朝を立てんとした。その政爭の結果能員は北條時政に謀穀せられ其一門は一幡丸の館なる小御所で一幡丸と共に北條方の寄手の爲に攻め殺された。時に建仁三年九月二日であつた
 一幡の殺されたのは請書に或は九月二日とし或は同三日とし或は同月六日とし或(4970)は十一月三日として居るが是もまづ吾妻鏡に九月二日とせるに從ふのが穩であらう。特に十一月三日とせるは從はれぬ。能員が殺されてから二箇月の後まで比企方も北條方も手を束ねて居る筈が無いからである。ともかくも母若狹局は妙本寺の寺傳にいへる如く一幡の跡を追うて自殺したものと見える。
  比企郡に傳はれる説に尼となつで比企郡で終つたとあるは信ぜられぬ。彼比企禅尼の墓の所在は從來分らぬのであるが比企郡で若狹局の墓と云うて居るものは或は禅尼の墓ではあるまいか。しらべて見たくは思はぬでも無いがこれは地方史家の研究に委ねる方がよからう
 吾妻鏡文應元年十月の條に此婦人の亡靈が祟をした事が見えて居る
 能員の妻は妙本寺傳に文永(二年三月十五日卒とあるが能員に死別した時に既に孫があり又頼家の生れた時に乳母に召された婦人であるからその壽永元年より二十一年後なる建仁三年には少くとも四十餘歳で無ければならぬ。然るに文永二年は建仁三年より六十二年後であるから其年まで世に在つたとは思はれぬ。此事はなほ後に云はう。系圖は左の如くであらう
(4971)         藤内 朝宗
            餘一兵衛尉
            藤二
            三郎
能 員         彌三郎
            判官四郎 宗員
            彌四郎 時員
            五郎
            女 若狹局 /一幡
                  \竹御所
            大學三郎 能本
 
   五 竹御所
 竹御所は妙本寺志によれば名を※[女+美]子と云うた。竹御所は居館の稱である。まづ吾妻鏡より此婦人に關せる主なる事蹟を抄出せんに
  建保四年三月五日故金吾將軍(○頼家)姫君 年十四 御所ニ渡御ス。……御臺所(○實(4972)朝夫人)之ニ謁シ給フ。是尼御臺所(○政子)ノ仰ニ依ッテ御猶子ノ儀也
  嘉禄二年十月十八日竹御所作事、礎ヲ居《ス》ヱ始メラル
  寛喜二年十二月九日將軍家【御年十三】(○藤原頼經)御嫁娶ノ事……亥尅竹御所【御年廿八】營中ニ入御ス。是御嫁娶ノ儀也
  天福二年七月十七日寅剋御産。兒ハ死シテ生レ給フ。……御産後御惱亂、辰剋遷化【御年卅二】是正治將軍(○頼家)ノ姫君也
 此婦人は將軍頼家の息女、比企能員の娘若狹局の腹で將軍藤原頼經の夫人であるが母の自殺した時には一歳、父頼家の弑せられた時には二歳であつたが母の死後は祖母政子に育てられたものと見える
 此人の母を比企氏系圖、妙本寺志その他の諸書に能員の女若狹局として居るが稻葉氏系圖には河野四郎通信の女とし尊卑分脈には木曾義仲の女として居る。尊卑分脈は信ずべき書なるに似たれど頼家の子女に就いては特に誤が多い。たとへば分脈には一萬丸、公曉、榮實、、禅曉、女子の五人を擧げて禅曉の童名を善哉とし公曉の母を比企能員の女として居るが善哉は公曉の童名である。又公曉の母は辻殿と稱した人で賀(4973)茂六郎重長の女である。即吾妻鏡建暦元年九月の下に
  金吾將軍若君 善哉公 定曉僧都ノ室ニ於テ落飾シ給フ。法名公曉
とあり承元四年七月の下に
  金吾將軍ノ室(辻殿ト號ス。善哉公ノ母也)落飾セシメ給フ
 又承久元年正月の下に公曉の殺されし事を云ひて
  是金吾將軍ノ御息、母ハ賀茂六郎重長(爲朝孫)ノ女也
とある。又禅曉といふ子は吾妻鏡は勿論他書にも見えぬ。これだけでも尊卑分脈の信せられぬ事は分るであらう
 此婦人が能員の外孫であるといふ確な史料はまだ見當らぬが竹御所の建てられたが比企禅尼及能員の邸のあつた比企谷である事、妙本寺の傳によれば能員の子大學三郎能本は竹御所が若狹局の所生なる縁によつて幕府から赦免せられたといふ事、以上の理由によつて頼經夫人は能員の外孫と認むべきであらう。實はさうであると無いとは大に關係する所があるから今少し確めておきたいのであるが余の有せる貧弱なる史料では遺憾ながらデアラウ以上に出づる事が出來ぬ
(4974) さて此人は十四歳の時祖母政子の計らひで叔父實朝の養女となり實朝が殺され藤原頼經が京都から迎へられて將軍の職を繼いだ後に十五歳の年下なる頼經の夫人と豫定せられたのであらうが二十四歳の時に比企谷に建てられた所謂竹御所の主となり二十八歳の時に年僅に十三歳なる將軍頼經と結婚したのである。二人の血族關係は左の如くである
  頼朝―――――頼家――――竹御所
  妹 能保妻―――――女 公經妻―――――女 道家妻――――頼經
 さて數年の後に妊娠したが三十二歳で流産後に卒去し頼家の血統は茲に斷絶したのである。頼經の子頼嗣は此人の腹では無く數年の後に生れたのである
 竹御所のあつた處の事は便宜上新釋迦堂の項で述べよう
 
    六 比企能本
 新編相摸風土記稿に
  妙本寺 比企谷ニアリ。長興山ト號ス(按ズルニ山寺號ハ比企能員夫婦ノ法名ニ據レリ)。日蓮宗。此地ハ元比企判官能員ノ第蹟ナリ。……文永十一年三月本行院日學開(4975)基ス。寺傳ニ據ルニ日學ハ比企能員ノ末男ニテ大學三郎能本卜號シ日蓮ノ俗弟子ナリ。其先父能員建仁三年北條時政ノ爲ニ誅セラレシ時伯父伯耆法印圓顯(上之村證菩提寺阿彌陀堂供僧)京都東寺ニ在シニ養ハレ剃髪シテ京ニ隱レ住リ。後文士トナリテ順徳帝ニ奉仕シ(按ズルニ當寺ニアル能本ガ妻ノ墓碑面ニ比企法橋能本妻トアレバ當時カク呼名セシナルベシ)承久三年佐渡國ノ遷幸ニ供奉ス。其後老後ニ至リ將軍頼經ノ夫人ハ能隱ノ外孫ナル故其所縁ヲ以テ赦免セラレ鎌倉ニ歸リテ竹御所ノ爲ニ當寺ヲ建立セシトナリ
とある。寺傳に「弘安九年二月十五日寂ス。年八十五歳」とあるに據りて逆算すれば父能員の殺された建仁三年には年二歳で吾妻鏡建仁三年九月三日の條に
  妻妾并二歳ノ男子等ハ好《ヨシミ》アルニ依ッテ和田左衛門尉義盛ニ召預ケテ安房國ニ配ス
とあるに一致する。然し承久三年には年甫めて二十歳であるから後文士トナリテ順徳帝ニ奉仕シとあるは信ぜられぬ。能本の伯父圓顯を妙本寺志に載せたる比企系圖に能員の弟として居るがもし伯父にもあれ叔父にもあれヲヂと云ふが事實ならば(4976)おそらくは能員の妻妾の兄弟であらう。もし能員の兄弟ならば獨、誅を免れはすまじきが故である。此人の住持した上之村證菩提寺阿彌陀堂は又山内證菩提寺とある。おそらくは上之村は山内庄の内であらう
 本化別頭佛祖統記卷二十五優姿塞傳に
  比企大學三郎能本ハ廷尉比企三郎(〇四郎の誤)能員ノ子ナリ。能員北條氏ノ爲ニ殺サレシ時能本僅ニ三歳ナリ(〇二歳の誤)。叔父鎌倉證菩提寺主伯耆法師(○法印の誤か)蚤ク姓名ヲ易ヘテ深ク能本ヲ匿シ洛ノ東寺ニ蟄ス。能本長ジテ聰悟ニシテ能ク文章ヲ屬ス。建暦上皇(○順徳天皇)召シテ暫|※[執/日]《セツ》御ノ班ニ充ツ(○近臣トスの意。|※[執/日]御は詩經小雅に見えたり)。承久中上皇佐州ニ狩ス。能本扈從シ寵遇他ニ殊ナリ。嘉禄中再鎌倉ニ還リ終ニ儒官トナル。建長三年辛亥我高祖(○日蓮上人)遊學ノ次《ツイデ》能本ニ因リテ※[さんずい+朱]泗ノ學(○儒學)ヲ扣ク。能本講授底ヲ傾ケ因ニ佛法ヲ問フ。高祖示スニ權實ノ起盡、本迹ノ大旨ヲ以テス。能本聞キテ初ハ之ヲ肯ゼザルニ似タリシガ漸々ニ聞キテ信受ス。文應元年庚申高祖立正安國論ヲ製シ時君ヲ諌メント欲ス。書成リテ能本ニ訂ス。能本之ヲ見テ更ニ宗教ヲ問フ。高祖、十法界明因果鈔・唱法華題目鈔ヲ造リテ之ヲ()示ス。是時能本開悟入實シ立チテ九拝シテ弟子ノ禮ヲ執リ傍ニ小築ヲ構ヘ法華堂ト號シテ之ヲ供ス。又母アリ八十歳ナリ。高祖ヲ拜シテ始メテ佛法ヲ信ズ。高祖名ヲ妙本ト賜フ。能本大ニ喜ビテ法華堂ノ供養ヲ伸ベテ父能員法諱長興、姉讃岐局(竹之御所之母也)ノ冥福ニ薦ス。是長興山妙本寺ノ權輿觸石ナリ(○觸石は公羊傳なる泰山之雲觸v石而出云々に據りて始といふ意につかへるなり)。文永十一年甲戌高祖啓運嘉會開堂|祝釐《シウキ》ス。高祖身延ニ退藏ス。能本審問誠ヲ竭シ禮ヲ盡ス。高祖亦本行日學上人ノ號ヲ賜フ。高祖ノ病中身延ニ馳セ池上ニ御《ハベ》リ晝夜恐懼孜々タリ。送葬ノ時隨身佛ヲ抱キテ之ニ隨フ。弘安九年丙戌高祖ニ殿ルルコト五年、二月十五日掩然トシテ終ル。壽八十五。朗尊者(○日朗上人)之ガ引導ヲシテ長興山ニ葬リ護法廟ト示ス(〇原漢文)
とある。此書は享保十五年六牙院日潮の著である。時代が新しい上に往々信ずべからざる事もあるが其後に出た諸書の藍本であるから特に全文を擧げたのである。さて能本は日蓮の葬儀記録にて直弟日興の眞筆なる御葬送記録に
  佛  大學三郎
(4978)とあるを見、又優婆塞傳中に載せたるを見れば日蓮から本行院日學上人といふ僧名をばもらうたが俗弟子、外護者として終つたのである。能本が文士として順徳天皇に仕へたといふ説の信ずべからざる事は上にも述べたが右の傳に日蓮が就いて儒學を學び又立正安國論の文辭の修正を乞うたとある事、曰健の御書抄(永正年代の著)に
  去ルニ依ツテ此御抄ヲ遊シテ草案ヲ大學殿ト云人ニ見セラレ御談合ナリ。此大學殿ト申スハ鎌倉殿ノ文ノ師匠ナリ。……其人ノ女中上人ノ御檀那ナレバソレヲ便ニ此論ヲ見セラレ文章文字ノ置樣等ニ付テ越度(○誤)アルベクバ直シ給ハレト云フ御談合ナリ
とあり妙本寺志に
  ひととなりて伯父伯耆阿闍梨が弟子として京に住し後に清家(○清原氏)の門生となり世の有樣を見居たりけるに云々
といひ
  さて名越《ナゴエ》にて記し給ひける安國諭をまづ能本に示され文字を校定せしめ遂に最明寺時頼朝臣に進らせ給ふ
といへるなどを見れば儒者で文筆を能くした人とは思はれる。然し鎌倉ニ還リ終ニ儒官トナルといひ鎌倉殿ノ文ノ師匠ナリといへるはまだ信ぜられぬ。又優婆塞傳に云へる如く嘉禄中に鎌倉に歸つたとすれば二十四五歳の時であるがこれも輕々しくは信ぜられぬ。日蓮に儒學を教へたといふ延長三年は五十歳の時である。文應元年(能本五十九歳)に其母が八十歳であつたと云ふ記述は注目を要する。これは文永二年に其母が歿したといふ説とは一致するが(文應元年に八十歳ならば文永二年には八十五歳である)もし文應元年に八十歳ならば能本を生んだのは二十二歳の時で能員の殺された建仁三年には二十三藏である。二十三歳の婦人に六歳の孫(一幡)があるべきで無いからもし優婆塞傳の説が正しくば能本の母妙本尼は讃岐局の生母では無くて能員の妾なりとせねばならぬ。然らば其妾の氏は何と云うたか。妙本寺志に
  高祖、能員に長興其妻澁河氏に妙本と戒號を授給ふ
とあるはただ能員の妻と傳へたりしに吾妻鏡に據つて澁河氏といふ事を補うたものと思はれる。さう思はれるのは同寺に現存せる能員の妻の五輪塔の墓石に廷尉藤原能員妻三浦氏妙本墓と刻んであるからである。寺志の出來たのは天保弘化の交で(4980)あらうから寺志の筆者はもし意識して其妻澁河氏と書いたのならば五輪塔の臺石に三浦氏とあるに就いて辨※[木+斥]しなければならぬ筈である。輕卒なる徒は
  なるほど臺石に三浦氏とあるのが事實であらう。三浦氏は和田氏の本家で吾妻鏡に好アルニ依ッテ和田左衛門尉義盛ニ召預クとあるに一致するから
と云ふであらうが三浦氏は幕府佐命の名族であるからたとひ其庶腹の娘でも新家の比企氏の妾にはすまい。又彼臺石は徳川時代になつておそらくは日|※[豈+頁]《ギ》の代に作添へたものと思はれるから打任せてその刻文を信ずる事は出來ぬ。されば外に證據の出て來ぬうちは能本の母は氏不詳としておくが穩であらう
 一般に能本を能員の子とせる事上に述べたる如くであるが尚別人の子とする説がある。即祖書證議論(寶暦明和の頃に成りしもの)を抄出したる御書略註に(原書は長文なるが故に略註を引けるなり)
  翌文永元年甲子四月十七日安部(○安倍)大學助晴長ヘ壽量品得意抄ヲ遣ハサル。同ク妻女ヘ月水抄ヲ遣ハサル。夫婦共ニ大信者ナル故也。此ノ晴長ハ陰陽師ニテ司天ノ博士也。父ハ安部大學助暗吉トテ頼經將軍下向ノ時御身固ニ附キ來リ比企谷ニ(4981)住居ス。比企谷ノ山上ハ天文暦覧ノ場ナル故也。勿論頼朝公已來安家新家ノ二流ノ司天十人計リ經ケ谷ニ住居ス。暗吉ハ後ニ來ル故ニ比企谷ノ内ニ住居也。此ノ安家新家トハ安家は安部ノ晴明ガ末也。新家トハ賀茂ノ家也J故ニ安賀兩家トモ云也。鎌倉ハ安家多シ。比企谷ノ院家本行院ハ大學助三代ノ宅地也。晴長の子息大學三郎ノ代ニ寺卜成ル
とある。即祖書證議論には大學三郎能本を陰陽師安倍晴長の子として居る。加之同書の別處には日蓮が安國諭を相談せしを晴長として居る。此書には比企谷と平賀氏との關係についてくはしい記事があるが諸書に傳ふる所と大分ちがつて居る。もし本書と他書との異同に言及するならば非常に多くの時間〔日が月〕を要するであらうからそれは他日に讓るより外はあるまい。今はただ妙本寺等に傳ふる所と非常にちがうた傳もあると云ふ事のみを云うておく
  右の記述の内日蓮宗の史料は妙本寺志の外は山川智應君の抄出を煩はしたので此外にもなほ二三引用しなかつたものがある
 
    七 能本の子孫
(4982) 新編武藏風土記稿に
  中山村は永禄天正の頃迄比企左馬助の領分なりしと傳ふ。藤四郎能員の遠孫なり。……能員が子四郎時員も父と同く自害せしが懷胎の婦人ありて民間〔日が月〕に隱る。さて平産せしに男子なり。叔父東寺の僧伯耆法印圓顯に依て順徳院北面の侍となる。後佐渡へ遷され玉ふに及んで御跡を慕ひ奉り越後に走り寺泊に住す。其子小太郎員長始め越後にありしが叔母若狹局は竹之御所の生母たるにより彼御所の領地を比企吉見の二郡に定められ隱長其縁族たるを以て竊に越後より當郡に移り住し文應二年二月卒す。是より子孫土著して左馬助政員に至る。政員は上杉氏に仕ふ。天文中上杉朝定滅亡の後は岩槻の城主太田三樂に屬す。子則員も父の名續て左馬助と稱し幼時より松山城主上田上野介がもとに倚頼す。後は江戸に出て御當家に奉公す……
とある。これは文化文政の間〔日が月〕本書を編纂せし時どこからか比企氏系圖を獲てそれに據つて書いたものであらうが此中で最注目すべきは某(即諸書に云へる比企大學三郎能本)に小太郎員長といふ子があつて越後から武藏比企郡に歸住して文應二年に(4983)死んだといふ事である。此事は事實であつてほしいのであるが實は信ぜられぬ事である。然云ふは寛政重修諸家譜卷第千百二十五(第六輯八六一頁)比企氏の下に
  寛永系圖に家傳を引ていはく。比企判官義〔左△〕員頼朝將軍及び頼家につかへ武藏國比企入間高麗の三郡を領し建仁三年九月二日北條時政がために誅せらる。このときいまだ胎内にありし子を彼地にかくす。しかるに比企の岩殿観音堂の別當養育して子とす。建保六年其兒十七歳(○能員横死の年に生れても十六歳にして上洛し順徳院につかへたてまつる。そののち越後國にいたりて十四代なり。しかれどもそのあひだ數世譜系を失ふ。このゆへ〔左△〕にしるすあたはず
とあつて能員の子某と彼上杉家に仕へた左馬助政員の父左馬助義次との間〔日が月〕を不明として居る。此家傳の快き事は日蓮宗の史料と没交渉なる事である。即大學三郎能本と云はず又此違孤を養育せしを比企郡の岩殿観音の別當とし又鎌倉に歸りし事をも日蓮に歸依せし事をも云はぬ事である。さて先祖の事は確ならぬ事をも確らしく云ふのが門閥を尊んだ時代の習である。彼徳川時代に盛に行はれた系圖の偽作は實に此習から起つたのである。然るに旗下の士比企氏が寛永年間に幕府に書上げた家(4984)傳に能員の子某から左馬助義次まで十數代の間〔日が月〕不明とあるは實際不明であつたからである。もし武藏風土記稿に云へる如く順徳天皇に仕へた其の子に小太郎員長といふものがあつて越後から本國武藏比企郡に歸住して文應二年に歿し其子孫が土著して左馬助政員に至つたといふ事が分つて居るならば何を好んで
  其後越後國にいたりて十四代なり。然れどもその間數世譜系を失ふ。此故に記す能はず
と書上げようや。されば武藏風土記稿に引ける比企氏の家傳又は系圖は日蓮宗の史料に據つて偽作したもので其某を能員の子とせずして能員の子時員の子とせるは其の母と能員との年齢が權衡を失せるに心づいた爲であり又文士として順徳天皇に仕へたとせずして北面の侍となつたとして居るのは文士となるには年まだ若くして修業の暇の無い事に心附いたからであらう。然も馬脚は終に顯はれずにはすまぬもので竹御所の生前に所謂小太郎員長はいくつであるべきかと云ふ事を考へずして、もし實在の人ならばまだ幼童なるべき員長をして父と別れて獨立で故郷へ歸らしめたのである。右の次第であるから小太郎員長は實在の人にあらず又比企氏は(4985)左馬助政員の子左馬助則員の代迄四百年の間〔日が月〕はおそらくは比企郡と縁が切れて居たのであらう。さて比企氏系圖は別に今も埼玉縣の某處に傳つて居るものがあるがこれは丹後内侍を能員の三女とし本行院日學即能本を圓顯法印と同人とせるなど支離滅裂なる上處々に妙本寺の記録に據つたと書いてあるから近世の作なる事明にして史料には供せられぬ
 
    八 妙本寺
 妙本寺は鎌倉比企谷にあつて日蓮宗の一本山である。南東北の三方は丘陵に圍まれ大門は西方にある。大門を入つて東に向つて進むと左手即北方の高處に平地がある。假に之を乙號平地と稱する。方丈即本院は此處にある。更に進んで石階を登ると大きな平地がある。仮に之を甲號平地と稱する。其正面に祖師堂があつて西面して居る。新釋迦堂は祖師堂の左前即西北にあつたさうであるが大正十二年九月一日の大震災に倒壞したので其遺材は其遺址に積んである。其手前に寶藏及所謂一幡袖塚があり祖師堂の右前即西南なる山本に比企能員夫妻同能本夫妻等の五輪塔があり其西南に當れるやゝ高き處の大銀杏樹の根に讃岐局の墓があるがその碑は近年の建立で(4986)ある。祖師堂の北方に甲號平地より一段高い平地があつて疎に杉がはえて居る。其正面に南面して一箇の頑石が据ゑてある。寺傳に據ればこれが竹御所の墓で以前の新釋迦堂の須彌壇の下に當るといふ。妙本寺志の附圖には此處に古イントウと標してある。之に據れば當時即幕末には寶篋印塔があつたと見える。但本文に「源※[女+美]子墓、大堂須彌壇の下なり」とあるを見れば新釋迦堂を墓上から移し去つた後に印塔は建てたものと見える。其西方數間〔日が月〕の處に一箇の古井があるが昔からあつたものか疑はしい。元來此平地も山の中腹を拓いて作つたものであるが其左方の手前(墓より西南)の崖下に一簡の窟があつて五輪塔人骨石片などがあるがこれは研究を要するものである。此平地の西方にも山腹を開いて作つた平地があつて今卵塔場になつて居る。甲號平地を西方に向つて少し下ると乙號平地である。本院即住職の住居は此處にあつて祖師堂よりは西北に當る。本院はもと本行院と云うた。本行院は元來比企大學三郎能本が日蓮から命ぜられた法號であるが後に其家を寺としたので寺の名となつたのである。さうして昔は此寺の住職を院代と云うた。本行院の建築物はやはり大正十二年の大震災で倒壞した。今の本院は新建である。本院の西北に蛇苦止《ジヤクシ》明神がある。讃岐(4987)局の廟である。吾妻鏡文應元年十月の條に
  十五日己酉相州(○彼の執棟北條相摸守政村)ノ息女邪氣ニ頃ヒ今夕殊ニ惱亂ス。比企判官ノ女讃岐局ノ婁ノ祟タルノ由自託ニ及ブ云々。件ノ局大蛇トナリ頂ニ大ナル角アリテ火炎ノ如シ。常ニ苦ヲ受ク。當時比企谷ノ土中ニ在ルノ由發言ス。之ヲ聞ク人身ノ毛ヲ竪ツ云々
とある。之によつて其靈を蛇苦止明神と祭つたのである。此廟の後の岡即蹄鐵状を成せる丘陵の右翼の先端が司天臺の址であると云ふ 云ひ忘れたが當寺は長興山妙本寺といふが長興は比企能員の法名、妙本は能員の妻(?)にて大學三郎能本の母なる人の法名で共に日蓮の命名せし所である
 新編相摸國風土記稿村里部鎌倉郡卷十九に
  妙本寺 比企谷ニアリ。長興山ト號ス(按ズルニ山寺號ハ比企能員夫婦ノ法名ニ據レリ)。日蓮宗。此地ハ元比企判官能員ノ第蹟ナリ。……文永十一年三月本行院日學開基ス。寺傳ニ據ルニ日學ハ……老後ニ至リ將軍頼經ノ夫人ハ能員ノ外孫ナル故其所縁ヲ以テ赦免セラレ鎌倉ニ歸リテ竹御所ノ爲ニ當寺ヲ建立セシトナリ
(4988)  祖師堂 宗祖ノ像ヲ安置ス。……堂中ニ木像五體ヲ置ク。一ハ比企判官能員、一ハ其室、一ハ開基日學、一ハ其室、一ハ能員ノ女讃岐局。又將軍頼家ノ嫡男一幡ノ位牌ヲ置ク
とあり長興山妙本寺志に
  長興山妙本寺は相摸國鎌倉郡比企谷に有。境内方八町。右大將頼朝卿乳母比企尼が宅地にして其甥検非違使判官能員に傳はる。征夷大將軍頼家卿の嫡男一幡君の小御所及び征夷大將軍頼經卿御臺所の竹御所みな此處也。……建長五年高祖房州より鎌倉に入せ給ひ名越山王窟に御座有けるが諸人いまだ其人をしらず一飯を供養し奉るものも無りけるに比企大學三郎能本被官長崎某といふもの(○被官は配下なり)深く歸依し奉り己が宅地の庵室に請じ入奉り主の能本夫婦をもすゝめて見參に入奉りし也。……文應元年の春能本今歳故御臺所廿七囘御忌にあたれば彼御追福のためにとて日頃すませ給ひける御所を轉じて法華堂となしければ高祖深く其志を悦び給ひ竊に長興山妙本寺と名付給ひし也(是即今の釋迦堂也)。……文永十一年二月十四日御免ありて三月廿六日鎌倉へ歸らせ給ふ(○日蓮が佐(4989)渡より歸りしなり)。……やがて能本が館にいらせ給ひしかば此比企谷の四至券書(○地券)を奉り先に營み造れる法華堂へ名越草庵を引移し四月朔日開堂の式をととのへ……末法萬年の法雲を長に興し一閻浮提妙法の根本靈場たるべしと祝壽なさせられ長興山妙本寺と號け給ふ處也
とある。風土記稿に此地は元比企判官能員ノ第蹟ナリとあるは鵜呑には出來ぬ。比企谷の主人は比企ノ尼で能員では無い。尼は能員に家を讓つて隱居したのでは無い。能員は尼の甥又は養子で云はば尼の家の分家である。否おそらくは初は尼の家の厄介人であつたらう。さて地形を案ずるに甲號平地と乙號平地とがあつて甲號は比企谷の正面にあつて廣く、乙號は甲號の向うて左手前にあつて甲號より一段低く又狹い。甲號は本家に適し乙號は分家又は隱居屋敷に適する。尼が隱居したので無いとすると少くとも尼の生前には尼の邸が甲號にあり能員の邸は乙號にあつたとせねばならぬ。祖書證議論といふ書に
  平賀武藏守義信ノ屋敷ハ比企谷ノ直下ニテ向ツテ右方ナリ。左方ノ今ノ成就院(○常住院)ノ處ハ比企四郎能員ノ屋敷ナリ
(4990)といへるも余の推定と一致して居る。又同書に
  比企谷ニハ比企尼住セリ。納涼地トシテ將軍成ラセラルルガ故ニ代々尼局ヲ置キテ男子ニ與へズ
といへるは余の云ふ甲號地の事で比企禅尼逝去後、竹御所建築前の事を云うたものと思はれる。ともかくも此地ハ比企禅尼及判官能員ノ第蹟ナリと書くべきである。次に日學ハ老後ニ至リ鎌倉ニ歸リテといへるも亦一考を要する。優婆塞傳には嘉禄中再鎌倉ニ還リとある。嘉禄中は日學の二十四五歳の時である。嘉禄中に鎌倉に歸つたと云ふ事は輕々しく信ぜられぬ事であるが其反對の老後に鎌倉に歸つたといふ説も證據を見なければ輕々しくは信ぜられぬ。次に竹御所ノ爲ニ當寺ヲ建立セシトナリとあるは優婆塞傳に
  文應元年……傍ニ小築ヲ構ヘ法華堂ト號シテ之ヲ供ス。……能本大ニ喜ビテ法華堂ノ供養ヲ伸ベテ父能員姉讃岐局ノ冥福ニ薦ス。是長興山妙本寺ノ權輿觸石也
といひ寺志に
  文應元年の春能本今歳故御臺所廿七囘御忌にあたれば彼御追福のためにとて日(4991)頃すませ給ひける御所を轉じて法華堂となしければ高祖深く其志を悦び給ひ竊に長興山妙本寺と名付給ひし也。是即今の釋迦堂也
といへると一致して正しいやうであるがよく見ると誤つて居る。まづ新釋迦堂は日學の建てたものでは無い。其事は新釋迦堂の項で論じようが風土記稿と寺志とは日學が建立しで日蓮に提供した法華堂と新釋迦堂の一名法華堂とを混同して居る。元來法華堂といふのは鎌倉時代に行はれた固有名詞と普通名詞との中間〔日が月〕なる名稱で、やがて廟の事であるが日學が建立した法華堂は父母の爲にしたので竹御所の爲に建立したので無い。さればこそ父母の法名を連ねて長興山抄本寺と名づけたのである。次に能員等五人の木像は今寶藏に収めてあるが皆古い物では無い
 次に妙本寺志を評せんに今も乙號平地の一部を小御所の址と云うて居るが其區域極めて狹くて將軍の嫡男の館を建つべきで無い上にあまたの武士が立籠つて防戦すべきで無い。吾妻鏡に
  仍ッテ彼(○能員の)一族郎從等一幡君ノ御館(小御所ト號ス)ニ引籠リテ謀叛ノ間〔日が月〕云云
(4992)とあるを見れば小御所の址は他處に求むべきである。然し此處や一幡袖塚などは本論に關係が無いから余は深く之を研究する事を好まぬ。次に「末法萬年の法要を長に興し〔四字傍点〕一閻浮提妙法の根本〔五字傍点〕靈場たるべしと祝壽なさせられ長興山妙本寺と號け給ふ處也」とあるは「高祖能員に長興、其妻澁河氏に妙本と戒號を授給ふ」といひ夙く文應元年に能本が建立した法華堂に長興山妙本寺と名付けたと云へると矛盾して居る
 妙本寺の事は此位にしておいて愈新釋迦堂の論に移らう
 
     九 新釋迦堂
 新釋迦堂の事を云ふ前に竹御所の址について云ひ殘した事を云はねばならぬ。風土記稿に
  竹御所蹟 祖師堂の左方にあり
とある。左方といへるは祖師堂に向うての左方で即北方である。此書に云へるは竹御所の墓のある谷の事であらう。妙本寺志には
  竹御所舊跡 本堂の北卵塔地也
とあり其附圖にも今の卵塔場に當る處に竹御所跡と標してある。甲號地のやうな正(4993)面の廣い土地を明地にしておいて其側方なる狹くて陰氣で出入の不便な處に館を作らうや。竹御所の在つた處は確に今祖師堂等のある甲號平地で以前比企尼の邸のあつた跡である。もとより其頃には能員や比企一門の墓などは無かつた。それ等は後になつて名越《ナゴエ》附近や小御所附近から移したものである。袖塚などは無論無かつた
 愈新釋迦堂の事を述べるがまづ風土記稿に
  新釋迦堂 文永十一年起立。是ヲ本堂ト云フ。本尊ハ座像ナリ(古ハ陳和卿作ノ立像ヲ安ゼシトゾ。今客殿ノ本尊是ナリ)。……古ク供僧ヲ置レシナリ。即文和元年十一月將軍尊氏此堂ノ供僧職永教僧都ノ蹟ヲ大進僧都ニ命ゼシ事アリ
  所藏文書曰。比企谷新釋迦堂供僧職事爲2永教僧都蹟1可v被2領掌之状如v件。文和元年十一月十五日。大進律師御坊
 尊氏ノ華押アリ。應永廿二年十二月管領持氏又供僧職法印快守蹟ヲ助大僧都ニ補任ス
  比企谷新釋迦堂供僧職刑部卿法印快守跡事所2補任1之状如v件。應永廿二年十二月廿日。助大僧都御坊(4994)持氏ノ華押アリ
とある。文永十一年起立とあるは妙本寺の開基と混同したのである。陳和卿作と傳ふる釋迦立像は今は寶藏にしまつてある。風土記稿編纂當時の本尊なりし運慶作釋迦座像は大正十二年の大震災の時壞れてしまうたさうである。次に妙本寺志に
  文應元年の春能本今歳故御臺所廿七囘御忌にあたれば彼御追福のためにとて日頃すませ給ひける御所を轉じて法華堂となしければ高祖深く其志を悦び給ひ竊に長興山妙本寺と名付給ひし也(是即今の釋迦堂也)
  大堂 又根本法華堂、又は釋迦堂と云。南面七間〔日が月〕四尺奥行八間〔日が月〕五尺五寸(文應元年の春比企能本頼經將軍御臺所の御所を轉じて法華堂となせし即此堂也。側柱は寛政中修復し改換るといへども中柱は文應建立の舊物なり)
  源※[女+美]子墓 大堂須彌壇の下なり。征夷大將軍頼家卿息女にて征夷大將軍頼經卿御臺所
などある。案ずるに竹御所は頼家將軍の息女、頼經將軍の夫人にて鎌倉にては高貴雙なき人である。其廟を建つるならば幕府の手で卒去後直に建つべく二十七年後に戮(4995)餘の一處士の建立するに任せようや。又文應元年より十五年前なる寛元四年に新釋迦堂は既に存在し仙覺が其供僧たりし歴然たる證據があるでは無いか。又文應元年に能本の建立した法華堂は後に擴張して妙本寺とした筈であるに新釋迦堂は少くとも應永廿二年足利持氏の時まで獨立の寺院として存在したではないか。又新釋迦堂の供僧と思はれる仙覺が天台宗の僧なるを思へば
  佐々木信綱博士の發見せられた仙覺の奏覧状といふものに慈覺門人權律師仙覺とある。慈覺は天台第二世の座主圓仁の大師號である。門人は末流の意であらう
 新釋迦堂は天台宗の寺である。日蓮宗の人が天台宗の寺を建てようや。進んで案ずるに新釋迦堂は竹御所夫人の卒去後直に夫人の墓の上に建立したのである。寺志に御所の建築物を移して堂としたと云へるは事實であらう。さて竹御所の址は明地となつて居たのを能本が舊縁によつて拝領しこゝに妙本寺を建立したので新釋迦堂は其入口を塞がれ妙本寺の境内を通らねば外に出られぬやうになり否恰妙本寺の境内のやうになつたが新釋迦堂の方が當谷の故參であり幕府の建立であり將軍夫人の廟であるから妙本寺は其境内の奥に天台宗の寺があり天台宗の僧が公然其境内(4996)を通路とするに對して苦情が云はれなかつたのであらう。然るに新釋迦堂供僧職は應永廿二年より後何十年かの後に廢絶したので新釋迦堂は自然妙本寺の物となりて其大堂とせられ其寺に傳はつた尊氏持氏の下文《クダシブミ》なども妙本寺の寶物となつたのであらう
  因にいふ。右の下文は今は殘つて居らぬ。おそらくは明治維新前後に寺外に出たのであらう
 さて新建の堂をただ釋迦堂とは稱せずして特に新の字を添へたのは如何なる故かといふに當時夙く他にいくつかの釋迦堂があつたからである。たとへば比企谷と山一重を隔てて釋迦堂谷がある。これは泰時が父義時の爲に建てた釋迦堂の址であるといふ。山内庄十二所村大慈寺の釋迦堂はそれより先に義時の時代に出來たやうであるがそれすち新釋迦堂とも稱せられて居る
 さて比企谷新釋迦堂はもと祖師堂の北の谷の竹御所夫人の墓の上にあつたのであるが之を祖師堂の前横に移したのは幕末の事と思はれる。妙本寺志に添へたる栗原信充の描いた圖には祖師堂の前横にゑがいて居るが相摸風土記稿の圖には祖師堂(4997)の北の谷にゑがいて居る。されば風土記稿の出來た天保末年より後に移したのである。否細に寺志を見るに寺志の本文は堂がまだ谷にあつた時に書いたものである。即寺志に
  源※[女+美]子墓 大堂須彌壇の下なり
とある。墓は移した事は無く昔も今も祖師堂の北の谷にあるのであるから寺志は大堂即新釋迦堂がまだ夫人の墓の上にあつた時に書いたのである。されば堂の移轉は寺志の本文の出來た後、其附圖の出來た前に行はれたのである。移轉の行はれた時、堂はよほど縮小せられたと見える。前に云うた如く堂は大正十二年九月の大震災に壞滅してしまうたが其遺址を目測するに小さなもので寺志に南面七間〔日が月〕四尺奥行八間〔日が月〕五尺五寸とあるに一致せぬ
 さて仙覺律師は萬葉集卷第一奥書に
  寛元四年十二月廿二日於2相州鎌倉比企谷新釋迦堂僧坊1以2治定本1書寫了
とある如く新釋迦堂何代目かの供僧職勤務中實に今の祖師堂の北の谷に於て萬葉集の研究に從事したのである。新釋迦堂の附屬僧坊は勿論堂と同じ谷にあつたもの(4998)と思はれる。もし僧坊が今の甲號平地にあつたものならば大學三郎能本はそれを移して妙本寺を建つる事は爲得ぬ故である
 理解を助くる爲に今まで述べ來つた事を年表に作つて見せよう
  毒永元(一八四一年)    頼家生る
  建仁二(一八六二年)    比企能本生る
  同  三          竹御所生る○比企氏亡ぶ
  元久元(一八六四年)    頼家弑せらる
  同  二          平賀朝雅誅せらる
  建保七(一八七九年)    實朝弑せらる
  安貞元(一八八七年)    島津忠久卒す
  文暦元(一八九四年)    竹御所卒す
  嘉禎元(一八九五年)    新釋迦堂の建立は此年か
  寛元元(一九〇三年)    頼經源親行をして萬葉集を校合せしむ
  同 四(一九〇六年)    仙覚當時新釋迦堂に住せり
(4999)  建長五(一九一三年)   日蓮鎌倉に入る
  文應元(一九二〇年)    能本日蓮に歸依し比企谷に法華堂を築く
  文永二(一九二五年)    能本の母(能貞の妾?)祝す
  同 六(一九二九年)    仙覺當時武藏國比企郡麻志宇郷にあり
  同十一(一九三四年)    能本妙本寺を創立す
  弘安九(一九四六年)    能本歿す
 
    十 餘論
 
 仙覚は竹御所夫人の廟なる比企谷新釋迦堂の供僧として其僧坊に住んで居た。其隣地には竹御所の叔父に當る比企大學三郎能本が住んで居た。年齢も同年であり
  仙覺は寛元五年に生年四十五と書いて居る。能本も此年恰四十五歳である
 能本も學問文才があつたから互に獲がたい友として親しく交つたであらう。その能本は武州比企郡と深い縁故のある人であるから仙覺が麻志宇郷に住したのは能本の手引では無いかとは一應考へらるる事ではあるがなほ深く考ふるにおそらくはさうではあるまい。吉見系圖に據るに(5000)比企禅尼は比企郡六十六郷の領主なり
とあり、寛水系圖に引ける比企家傳に
  比企判官義貞頼朝將軍及び頼家につかへ武藏國比企入間〔日が月〕高麗の三郡を領し云々
とあり、武藏風土記稿に引ける比企家傳には
  竹御所の領地を比企吉見の二郡に定められ云々
とある。此等の説は無條件で是認せられぬとしても比企禅尼は無論頼朝から領地を賜はつたであらう。さうして先祖以來居住して居た比企郡は無論其中であつたらう。禅尼の歿した後はその遺領(おそらくは地頭職)は能員が繼いだであらう。さうして比企氏滅亡後は取上げられて居たのを竹御所の生長後此婦人は禅尼の曾孫であるから其領地と定めたであらう。さうして此婦人の卒去後は再取上げたではあらうが少くとも其一部は其廟なる新釋迦堂の領地として寄進せられたであらう。遠國に領地を得た新釋迦堂は年貢取立などの爲に其地に役所即政所を置かねばならぬ。政所は今いふ役所又は役場の事である。さうして地頭の役場をも政所と稱した例がある。されば麻志宇郷政所といふのは新釋迦堂領の役所である。仙覺は當時は既に老人であ(5001)り又權律師といふ僧綱の身分であるから俗務を執るが爲に領地の役所に出張したのでは無くて何か事情があつて一時其役所に居たのであらう。おそらくは當時供僧職は其弟子に讓つて居たらう。さて麻志宇に居たのは一時の事と思はれるから不慮の事が無い限は比企谷に歸つて歿したであらう。さうとすると仙覺の墓は鎌倉で求めなければならぬが茲に注目すべきは彼竹御所夫人の墓の左手前の崖下の窟である。これは新釋迦堂供僧職歴代の墳墓では無からうか。もしさうであると仙覺の遺骨も此窟の地下に埋められてあるのではあるまいか
 仙覺の事は勿論比企氏の事も史料が極めて乏しいから遺憾ながら多くはその乏しい史料に基づいて常識的推測を下すより外は無いが本講演の眼目たる仙覺律師萬葉集研究遺蹟を明にし得たるは余の光榮とする所である(昭和三年七月八日鎌倉町役場にて講演す)
     講演餘録
 余は仙覺抄即萬葉集註釋の奥書に見えたる武藏國比企郡北方麻志宇郷政所を地頭役所と解しその麻志宇郷を鎌倉比企谷新釋迦蛍の領地と推定した。然るに彼比企郡(5002)小川町なる大塚仲太郎君から新編武藏國風土記稿から左の文書を拔抄して送つてくれられた
   鎌倉五大堂明王院所藏文書
  制札
 新釋迦堂領武藏國比企郡大塚郷事於2彼所1不v可v致2濫妨狼籍1若令2違犯1者可v有2其咎1之状如v件
    暦應四年卯月八日
 暦應は北朝の年號で其四年は後村上天皇の興國二年に相當する。此文書は又古事類苑地部十一(第一冊八七九頁)に
 〔集古文書【三十四禁制状】〕 新釋迦堂制札(所藏不詳)
として出して居る。さて大塚郷と麻志宇郷との關係は如何と云ふに今は大塚は小川町の大字、増尾は大河村の大字であるがいにしへの麻志宇郷は言ふ迄も無く今の増尾よりは遥に廣く
  辭を換へて云はば今の増尾は古の麻志宇郷の一部分である。昔の廣い土地の名稱(5003)が今其一部分の名稱となつて居る事は到る處に例がある。然も昔の名稱を傳へて居る處は必しも昔の土地の中心では無い
 又其中心は今の大塚であつたらう。それは彼麻志宇郷政所の遺址が今の大塚にあるのに由りて明である。されば暦應文書の大塚郷は文永年間〔日が月〕即仙覺抄奥書の麻志宇郷の改稱なる事又明である
 比企能員の邸址が比企谷の甲號平地ならずして乙號平地であるといふ推定が適中せし如く麻志宇郷が新釋迦堂領であつたらうと云ふ推定も亦幸に適中した。鎌倉で試みた講演は思の外に反響があつたやうであるから余はまだ處々から史料を提供せらるゝ事を期待して居る
  因にいふ。余は相模風土記稿も武藏風土記稿も持つて居らぬ。前者は幸に或官廳から借覧したが後者は遂に手に入らなかつたから能員の子孫の事なども大日本地名辭書から孫引しておいた
         2005年7月4日(月)午後4時、遂に全卷入力終了、米田進
 
(123)追記 日蓮の葬儀記録に佛(持佛捧持者)大學三郎といふ名が見えて居るから日蓮
(124)(碑の写真)
(125)の親近者に大學三郎といふ人のあつた事は確であるが其人に日蓮宗の史料に傳へて居るやうな事蹟があつたか、特に其人は眞に比企能員の子孫であるか、疑へば疑はるる事であるが之を否認すべき證據も無いからしばらく日蓮宗史料の所傳に據つたのである。否もし余の研究の對象が大學三郎であるならば余の心鏡は今少し明に此人物を照し得たであらう
 
    附 萬葉集研究遺蹟碑文
此地ハ比企谷新釋迦堂、即將軍源頼家ノ女ニテ將軍藤原頼經ノ室ナル竹御所夫人ノ廟ノアリシ處ニテ當堂ノ供僧ナル権律師仙覺ガ萬葉集研究ノ偉業ヲ逐ゲシハ實ニ其僧坊ナリ。今夫人ノ墓標トシテ大石ヲ置ケルハ適ニ堂ノ須彌壇ノ直下ニ當レリ。堂ハ恐ラクハ南面シ僧坊ハ疑ハクハ西面シタリケム。西方崖下ノ窟ハ仙覺等代々ノ供僧ノ埋骨處ナラザルカ。悉シクハ萬葉集新考附録萬葉難攷ニ言ヘリ。昭和五年二月。宮中顧問官井上通泰撰
 附記 此碑文は門人大林二郎の紹介、鎌倉青年團の乞に依つて作つたのである。書(126)者は第一高等學枚数授菅虎雄君で余の舊友である。鎌倉に住はれ又余の講演を聴かれた因縁で揮毫の勞を執られたのである。碑は本妙寺住職島田勝存君の處分で新釋迦堂の谷の登路の左方に建ててあるが後には僧坊址の擬定地に移す筈である。當初谷の内に建てる豫定であつたればこそ余は此地ハと書いたのである
(追記は明治書院版)
 
 
 
 
(1)萬 葉 集 雜 攷 (明治書院版)
 
   緒 言
 
從來書散した萬葉集関係の小篇を集めて見たいと自も思ひ、集めてほしいと人からも望まれたので門人彌富破摩雄・外山且正・正宗敦夫等と相談して此一書を作つたのである。書中に収めたるは三十七篇、其中三十篇は雑誌アララギから、六篇は萬葉集新考第八冊から、一篇は南天荘月報から採つた。外に附録四篇中二篇は南天荘墨寶と雑誌歴史地理とから取つた。右の中で新考に出でたるを再出したのを冴る人もあらうから一應其故を語らねばならぬ。新考第八冊には元來索引と著述小史とのみを出す筈であつたが發行者から「既出七冊の中には紙數が少い(2)ものもあるから其償として第八冊の紙数は成るべく多くしたいが何か出すものは無いか」との話があつた。そこで「實は萬葉集関係の小篇若干があつて其一部分はアララギなどに出したが、これは追々に書繼いで或分量に達したら一冊の書とする腹案である」と云ふと「それならば今迄に御書になつた分を第八冊の附録として出していただきたい。さうして今後の分と合せて一冊の書とするに足る分量に達したら第八冊から引離して第九冊として發行してもよく又単行本として御出しになつてもよいから」と云ふ事であつた。索引を主とし之に著述小史を添へる筈の第八冊の體裁の上から少し顧慮する所もあつたが發行者の奉公精神を嘉して遂に其望に任せた。かやうな次第であるから今回新考第八冊から雑攷六篇を取來つたのは預定の事である
アララギに出した所謂萬葉雜語の中で新考刊行中に書いたもので、次(3)いで其大意を新考に撮んだものは省いた。但青頭※[奚+隹]と木折來而とは新考の記述に誤れる又は不備なる所があるから再出した
読者の便を謀つて三十七篇を書誌・歴史・地理・訓釋・雜の五部に分類して見たが、いづれの部に屬すべきかとたゆたはれたものがある。所詮一遍通讀せられぬと求めて求められぬものがあるであらう
  昭和七年八月十三日            南    天    莊
 
(1)   目  次
      書  誌
 一 萬葉集の名義………………………………………………一
   同 追記……………………………………………………八
 二 萬葉集の卷の順序…………………………………………一〇
 三 萬葉集の借字………………………………………………二一
 四 萬葉類聚抄につきて………………………………………三二
   附、小澤蘆庵の書状………………………………………四一
      歴  史
 五 柿本人麿と漢文學 弟一…………………………………四五
   同 追記……………………………‥……………………四八
 六 柿本人麿と漢文學 第二…………………………………四九
   附、天武天皇紀闡幽………………………………………五二
(2) 七 藤原宮之役民作歌の作者…………………………………六〇
 八 持統天皇の難波行幸に就いて 上………………………六五
   同 追記……………………………………………………六九
   持統天皇の難波行幸に就いて 下………………………七〇
   同 追記……………………………………………………七三
 九 鎌倉比企谷と仙覺律師萬葉集研究の遺蹟………………七五
    同 追記…………………………………………………一二三
     附、萬葉集研究遺蹟碑文……………………………一二五
 一〇 春登上人…………………………………………………一二七
    再春登上人に就いて……………………………………一二九
    同 追記…………………………………………………一三一
    三たび春登上人に就いて………………………………一三二
    同 追記…………………………………………………一三五
      地  理
(3) 一一 狛島亭…………………………………………………一三七
 一二 美禰良久埼  上………………………………………一四〇
    美禰良久埼  下………………………………………一四五
 一三 いらごの島  上………………………………………一五〇
    いらごの島  中………………………………………一五三
    いらごの島  下………………………………………一五九
 一四 鐘岬 上…………………………………………………一六六
    鐘岬 中…………………………………………………一七○
    鐘岬 下…………………………………………………一七五
     訓  釋
 一五 草深野 (卷一)………………………………………一八〇
 一六 神宮爾装束奉而 (卷二)……………………………一八四
 一七 出而將去 (卷四)……………………………………一八七
 一八 しづたまき數にもあらぬ壽持 (卷四)……………一九〇
(4) 一九 人國にすぎがてぬかも (卷五)…………………一九四
 二〇 名者小立之而 (卷六)………………………………一九八
    同 追記…………………………………………………一九九
 二一 打上佐保能河原 (卷八)………………………………二〇二
 二二 吾子はぐくめ天のたづむら (卷九)…………………二〇六
    同 追記……………………………………………………二〇八
 二三 木折來而 (卷十三)……………………………………二一〇
 二四 よしこさるらし (卷十四)……………………………二一一
     雜
 二五 九九…………………………………………………………二一五
    同 追記……………………………………………………二一八
 二六 異苑…………………………………………………………二二〇
 二七 青頭※[奚+隹]…………………………………………二二三
 二八 ※[女+燿の旁]歌會歌…………………………………二二六
(5) 二九 出擧……………………………………………………二二八
    同 追記……………………………………………………二二九
 三〇 凶間…………………………………………………………二三〇
    同 追記……………………………………………………二四〇
 三一 請間…………………………………………………………二四一
 三二 山上憶良の一癖……………………………………………二四三
 三三 老身重病經年辛苦及思兒等歌……………………………二四八
 三四 弟日…………………………………………………………二五一
 三五 力士※[人偏+舞]………………………………………二五四
 三六 社《コソ》上………………………………………………二五八
    社 下………………………………………………………二六一
 三七 香川景樹の書翰……………………………………………二六五
      附  録
  萬葉集の歴史的觀察……………………………………………二六六
 
 一 萬葉集の名義……一
   同 追記………八
 二 萬葉集の卷の順序……一〇
 三 萬葉集の借字……二一
(以上は新考の方にあり)
(32)    萬葉類葉抄につきて
 
今年(○大正八年)の一月名古屋に寄つた時に新美直君が萬葉に關せる寫本を持つて居ると云はれたから一度拝見したいと云つておいた處が間もなく送つておこされた。何であらうかと早速包を解いて見たら中御門宣胤卿の萬葉類葉抄十三卷と入江昌喜の同書補闕八卷とであつた。一見の後新美君に返却するについて此書の事を一とほり書いて上げようと思うたが南天荘雜話として月報に出した方が外の人々にも參考となつてよからうと思ふから卷紙にしたためる代に罫紙にしたためる
此書については先尾崎雅嘉の群書一覧卷四に萬葉類葉抄補闕寫本 十五卷と標して
 卷首妙法院一品法親王漢文の御序に云。滿葉類葉抄は延徳年間權大納言宣胤卿勅を奉じて撰するところなり。爾來多く星霜を経て一二闕卷あり云々。浪花の入江昌喜といふもの皇朝の古学を好む云々。往歳命じて其闕を補はしむ云々。寛政丁巳春三月○此書言詞部七卷。本集の詞、あるひは上の句或は下の句の頭字をいろはの次(33)第にわかちておのおの注釋をくはふ○奥書に云。奉2妙法院一品法親王令1謹補2權大納言藤原宣胤卿所v撰萬葉類葉抄闕言詞部七卷1。寛政九丁巳年三月浪華入江昌喜謹識。于v時七十六〇同名所部七卷。名所を國分にして歌をあげ注釋に今案をくはふ。奥書に云。右依2契沖門人海|北《ホウ》若沖之勝地篇1所2編集1也。且聊加2代〔左△〕説今案1而已○外に目録一卷を附す。凡例に云。此抄に契沖の説のみを用ゆ。注曰といふはことごとく契沖也。代匠記その外契沖著述の抄物をかうがへ又若沖があつむるところの師説用v之
とあり次に木村正辭博士の萬葉集書目提要下卷類纂の部(五六頁)に萬葉類葉抄補闕十五卷寫本入江昌喜撰と標して
 群書一覧に…此書予いまだ見ず。故に今群書一覧の全文を擧るのみ
 中御門宣順卿記(寛文二年四月十日)云。類葉抄書寫之事先日以2宰相1被2仰下1。…類葉抄第一 書2寫之1次々冊蒙v免人書2寫之1第二 宰相第三 抑類葉抄宣胤卿延徳三年依2勅命1部2類之1給。其御本(宣胤卿眞翰)去年於2禁裡御文庫1焼失。其寫禁中残御本也○代匠記首卷似閑書入云。權大納言藤原宣胤卿萬葉類葉抄十三卷依2勅命1部2類之1。神祇部・名所部・詞部闕。予將v補v之久矣。未v遂v功。集2名所1有d名2楢山拾葉1印本u。暫以v之補v之耳
(34)とある。話を進める前に以上二書に見えたる人名書名等を註しおかんに妙法院一品法親王は光格天皇の皇兄眞仁法親王.延徳の帝は後土御門天皇、延徳は今大正八年より凡四百三十年前である。入江昌喜は或書に契沖の門人とあるが契沖の寂後二十一年を経て生れた人であるから契沖の教を受ける筈は無い。小澤蘆庵とは懇意であつたやうであるが門人では無い。中御門宣順は宣胤七世の孫、今井似閑は契沖の門人で萬葉緯を作つた人、檜山拾葉は萬治年中に出來た書である
右の如く補闕十五卷は諸書に出て居るが本抄の方は佐々木信綱博士の萬葉集選釋の附録なる研究書目解題の類纂の部に
 萬葉類葉抄十八卷十四〔右△〕冊、寫、中御門宣胤
と出て居るだけで群書一覧にも萬葉集書目提要にも國書解題にも出て居らぬ。されば尾崎翁も木村博士も之を見なかつたのである。ともかくも從來(見聞の及ぶ限)佐々木博士が
 集中の歌句を天象時節地儀等に分類したもの。延徳三年成る
と書かれたる外に解題の無い事であるから、ややくはしく説述せんに本書は現に存(35)ずるもの十三卷にして其目次は左の如くである
 第一  天象          弟二  時節
 弟三  地儀(名所在別卷)   第四  居所
 第五  諸國          弟六  生植上(草、竹在此中)
 第七  生植下(木)      第八  飛禽・走獣・昆蟲・龍魚・甲蟲
 第十三 人倫上         第十四 人倫下
 第十五 人體          第十七 衣服・飲食
 第十八 器財
九・十・十一・十二・十六の卷の缺けたる事は明であるが第十八が果して終卷であるか否かは分らぬ新美本の三・六・七・八・十四・十七の卷には奥書がある。其文は
 延徳三年依2勅命1部2類之1權大納言藤原宣胤 元禄九年朧月朔旦一校畢。左中將藤定基
 延徳三年……(○同上) 元禄九年十二月十三日書寫校合畢。左中將藤原定基
(36) 延徳三年……元禄第九、十二.廿七書寫校合了。左中將定基
 延徳三年……元禄九二年十二月十九日一校丁。左中將定基
 延徳三年……元禄第九臓月念八.嚴閣令2校合1給了。朱點被v加2御筆1者也。左中將定基
 延徳三年……元禄第九除夜暁天竊v間書寫一校了。左中將定基
とある。即|野宮《ノノミヤ》定基が元禄九年十二月年二十六歳にて書寫したものである。但定基の自筆本では無い。無論傳寫本である。厳閣とあるは定基の實父|中院《ナカノヰン》前大納言通茂である
本書の體裁はたとへば天象部を天・日・月・星・雷・虹・遊絲等十九類に分ち、たとへば星の下に
 二 星離去月も離而 上句向南山陳雲之青雲之
 二 夕星乃彼往此去 凶事長歌
 十 夕星も往來天道を及何時か 下句仰てまたん月人壮七夕歌也
   (○以下略)
(37)とある。處々簡單なる註が插んである
今井似閑の説によれば缺け失せたるは神祇部・名所部・詞部で、似閑は年來之を補はうと思うてゐたが遂げなかつたのである。そこで寛政年間に至つて好學なる妙法院宮眞仁法親王が浪華の篤學者入江昌喜に命じて補修せしめ給うたのである。頼惟完の春水遺稿に出でたる入江翁墓誌銘にも
 寛政乙卯(〇七年)之春奉2妙法親王令旨1補2著萬葉類聚抄1。稱v旨特嘉2奨之1賜v序。事詳2其文1とある。これより補闕を※[手偏+驗の旁]しよう
萬葉類葉抄補闕は群書一覧によれば言詞部名所部各七卷・目録一卷、合計十五卷ある筈であるが新美本には名所部と目録とが無い。其代に從來聞いた事の無い神祇部一卷がある〔從來〜傍点〕
まづ言詞部七卷の始に眞仁法親王の序がある。其文は
 萬葉類葉抄補闕序
 萬葉類葉抄者延徳年間擢大納言宣胤卿奉v勅所v撰也。爾來多經2星霜1、一二有2闕卷1。寡人毎憾焉。浪花入江昌喜者好2皇朝古学1、且以2和歌1聞2四方1。往歳命令v補2其闕1。不v厭2衰老1夙夜(38)無v怠頃日卒v業矣。可v謂豊城之劔復再合、泗水之鼎靡2終淪1也。因嘉2其勤1以誌2卷端1。寛政丁巳春三月(○御印)
とあり次に凡例がある。本文は言辭をイロハ別にし、たとへば以部にイハツルマデニ・イハヒフシツツなど三百数十語を擧げて居る。卷七の終に
 奉2妙法院一品法親王令1護補2権大納言藤原宣胤卿所v撰萬葉類葉抄闕、言詞部七卷1。寛政九丁巳年三月。浪花入江昌喜謹撰。于v時年七十六
とある
神祇部一卷には
 神 可武 千磐被神……祝 山彦 森 社……齋※[分/瓦] 磐船 幣……いはふ いつき……祭 神風 神無月
など六十三類を掲げ、凡例の末に
 一此書闕卷部類之次第類聚萬葉等に據れば名所・神祇・言詞なるべし。然ども宣胤卿編集の時いかが有しや以v今はかりがたく并卷敷之次第も定がたし。就中言詞部繁多なるに七十に六つあまりぬる翁の玉緒のみじかきこゝろもてなすわざなれば(34)ことはてんもはかりがたく、しげきをおそれて先筆をとりし始言詞部をかいあつめ侍り。故に御序は其部に収ぬ
と書いてをる
伴蒿蹊の閑田次筆卷之二に
 宣胤卿の類葉抄は萬葉集中天地・草木・鳥獣・器財に及ぶまであまねく納られけれども詞部におきては缺たり。是は元來記し給はざりしか、後に散失せしか、知べからず。然るを惜みて小澤廬庵、何某の宮の仰を傳へて浪華の人入江昌喜に補はしむ。此人八旬強に及て矍鑠類ひ稀に筆硯を廢せず。此擧に應じて詞部并名所等の類聚を自筆して奉れり。しかるに此ごろ萬葉類林といへるものを見しに契沖門人の手になりて凡て辭を聚め代匠記の意をもて小註を加へたるものなりごゝに知る彼翁是を帳中の秘にして持ちたるをもて補へることを。名所はまた既成書あればこれは補ふにかたからず。類林は珍書にてしる人曾てなきものなり
といつてをる。萬葉集類林は守部の説に海北若沖の著なるべしといふ。昌喜は補闕名所部の奥書に
(40) 右依2契沖門人海北若沖之勝地篇1所2編集1也。且聊加2他説今案1而已
と書いてをる位であるから、もし類林に據つて言詞部を編纂したのであるならば其趣をことわりさうなものである。ともかくも類林と言詞部とを對照して見た上でなければいづれとも決定せられぬ。元來蒿蹊といふ人は人格の高からぬ人である。學問の幼稚であつた事は云ふ迄も無い
因にいふ。名所部の奥書の他〔右△〕説を群書一覧に代〔右△〕説と誤り、書目提要も國書解題も共に其誤を蹈襲して居る。尤木村博士は
 此書予いまだ見ず。故に今群書一覧の全文を擧るのみ
とことわつて居られる
中御門宣胤卿は後花園・後土御・後柏原の三帝に仕へた人で官は権大納言まで進んだ。永正八年に出家して法名を乘光と云つたが大永五年十一月に八十四巌で薨じた。宣胤卿記といふ記録を残した。又帝皇系譜の作者である。傳は野史卷八十九に出て居る
眞仁法親王は閑院宮|典仁《スケヒト》親王の御子で光格天皇の御庶兄であらせられる。二歳の時(41)妙法院宮を繼ぎ十一歳の時剃髪したまひ文化二年八月に御年三十八にで薨じたまうた。御傳は野史卷三十四典仁親王の下に出て居る。歌を好ませられて蘆庵・千蔭・景樹などに御懇命を賜はり從つて歌道奨励の御功勞のあつた方である
入江昌喜は浪華の市人で年次郎と稱し幽遠窟と號した。隱居の後年老いて始めて學に從ひ非常に勉強して遂に業を成した人である。寛政十二年八月に七十九歳で歿した(大正八年三月及四月南天荘月報)
 
    附 小澤蘆庵の書状
 
高さ五寸六分、長さ二尺九寸二分、切りて二段に貼りて掛物にしたてたり。其文左の如し
 新春之慶賀御同意申納候。彌御平安可被成御重歳目出度奉存侯。野夫無爲致加年侯。御休意可被下侯
 一類聚補闕寒中も御出精、舊臘山城大和半御出來之由。大上根、於當地も無比類儀驚(42)入、毎人御噂申出侯、御詠之趣御尤奉存侯。しかしながら
 天地の神ぞまもらん劔だちとごゝろもたる君がいのちは
と奉存候
 一御序文不被下内は補闕本仕立出來不申段且御物本御返上遅々之儀等御尤奉存侯
 一御序文被下次第可差下侯。舊年病後いまだ不了々、年始御禮も未致參殿侯。御序文之儀は追々申上置侯。乍延引御報相兼御祝詞申越度如此御座候。頓首。正月十八日。蘆庵。半次郎樣
半次郎は入江|昌喜《マサヨシ》の通稱である。昌喜は浪華の市人で家の名を榎並屋といひ雅號を幽遠窟と云うた。。篤學な人で若干の著述がある。類聚補闕と云へるは萬葉類聚抄補闕の略稱である。後土御門天皇の御代に中御門大納言宣胤が勅命に依つて萬葉集を部類して類聚抄十八卷を作り延徳三年に奏上した。其本は禁裡の御文庫に傳つて居たが寛文元年に火に逢うて卷九・卷十・卷十一・卷十二・卷十六の五卷が闕けた。茲に光格天皇の御兄に妙法院宮眞仁法親王といふ好學なる御方がおはしましたが萬葉類聚抄(43)の完からざるを嘆かせ給うて御出入の小澤蘆庵と御相談ありて同人の推薦に依つて入江昌喜に彼書の補闕を命じ給うた。それは寛政七年の春であつた。昌喜は當時七十四歳であつたが命を領じてまづ闕卷を言詞部・名所部・神祇部と推定して寛政九年の春言詞部七卷を成し次いで名所部七卷・神祇部一卷を成した。言詞部の成つた時法親王は畏くも御序を賜うたからそれを同部の首に冠らせた
これだけの事を豫知つて居れば此書翰の意味はたやすく心得られる。即此書翰はおそらくは言詞部の成つた寛政九年の年頭のものであらう。此書翰に據れば名所部も前年末にはやく手が著けられてあつたのである。寛政九年には昌喜は七十六歳であつた。其年頭の賀状の末に日暮れて途遠しの感を漏し來たのでそれに對して蘆庵はアメツチノ神ゾマモラム云々とよんで昌喜を激勵したのであらう。御序文とあるは云ふ迄も無く法親王の御序文で「補闕本仕立出來不申云々」とは既成の言詞部がまとまらずといふ意であらう。御物本とあるは禁裏御本といふ意では無くて宮から拝借した御本といふ意で恐らくは法親王御所藏の類聚抄であらう。「御序文被下次第云々」は宮から御序文を賜はつたら早速其許へ送らうといふ意。當時の人は無論京都を中(44)心としたから浪華なる昌喜の許へ送る事を差下と云うたのである。不了々はサツパリとせぬといふ事。「御序文の儀は追々申上置侯」は既に度々御催促申上げて置いたといふ意である。寛政九年には蘆庵は七十歳であつた。即昌喜よりは一歳下であつた。たとひ一歳でも年上なる昌喜を指して半次郎樣と云へるはいかがはしく思はれるであらうが蘆庵は武士出身昌喜は町人又蘆庵は當時の大家昌喜は篤學者と云ふに過ぎぬから兩人の交は對等では無かつたらう。但昌喜は蘆庵の門人では無かつたらしい
 
       柿本人麻呂と漢文學 (第一)は新考の方
 
(49)     柿本人麻呂と漢文學 第二
 
萬葉集卷二なる柿本人麻呂の高市皇子尊城上殯宮之時作歌(新考二六五頁以下)のうち
 ふきなす、くだのおとは、あた見たる虎かほゆると、もろ人の、おびゆるまでに、ささげたる、幡のなびきは、冬ごもり、春さりくれば、野ごとにづきてある火の、風のむた、なびくがごとく
の十四句が戰國策に基づきたるものなるべき事は夙く云うた。向じ長歌のうち右の十四句より少し後に
 まつろはず、たちむかひしも、つゆじものげなばけぬべく、ゆく鳥の、あらそふはしに、わたらひの、いつきの宮ゆ、かむ風に、いふきまどはし、天雲を、日の目もみせず、とこやみに、おほひたまひて云々
といふ句がある。これは天武天皇元年紀に
(50) 秋七月辛亥(○廿二日)男俵(○村國|連《ムラジ》男俵《ヲヨリ》等瀬田ニ到ル。時ニ大友皇子及群臣等共ニ橋ノ西ニ營シテ大ニ陣ヲ成シ其|後《シリヘ》ヲ見セズ。旗幟野ヲ蔽ヒ埃塵天ニ連リ鉦鼓ノ聲数十里ニ聞エ列努亂發シ矢ノ下ルコト雨ノ如シ。……大友皇子左右大臣等僅ニ身モテ免レテ逃グ。男依等即粟津岡ノ下ニ軍ス
とある時の事で
 兩軍ノ戦闘ノ正ニ闌ナリシ程東南即伊勢ノ皇太神宮ノ方カラ暴風ガ吹來リテ西軍ニ吹附ケタノデ西軍ハ眼暗ンヂ終ニ敗北シタ
といふ意であるが日本紀には所謂神風の吹いた事は見えぬ。然し此戦争には
 將ニ横河ニ及バムトセシニ黒雲アリ廣サ十餘丈ニシテ天ニ經《ワタ》レリ。時ニ天皇之ヲ異《アヤシ》ミ則燭ヲ擧ゲ親《ミツカラ》式ヲ秉リテ占シテ曰ハク。天下兩分ノ祥ナリ。然モ朕遂ニ天下ヲ獲ムカ
また
 天皇茲ニ行宮ヲ野上《ヌガミ》ニ興シテ居マス。此夜雷電シ雨フルコト甚シ。則天皇祈リテ曰ハク。天神地祇朕ヲ扶ケバ雷雨息マムト。言訖リテ雷雨止ミキ
(51)などありて天變を利用し給ひ又上下相競ひて盛に神異を唱へし趣であるから戦闘中に偶東南方から吹來つて敵軍を悩ました暴風を少くとも天武天皇側の一部では皇大神宮が吹かしめ給ひし神風と云做したのであらう。然も世上一般の評判となるには至らなかつたから日本紀には天武天皇側に有利なる事は書漏すまじき日本紀には書漏したのであらう。然るに人麻呂は此事を從軍の老人などから聞いて居たので當時の事を叙述するについて之を利用したのであらう。なほ云はば所謂神風は實際に吹いたので詩人の毫端から起つたのではあるまい。然も人麻呂が之を歌ふに當つて漢籍中の一記事が少くとも連想として其脳中に浮びはしなかつたらうか。其一記事とは漢の高祖が項羽と戰ひし時に大風が吹來つて漢軍を助けた事である。史記項羽本紀に此事を記して
 漢王ヲ圍ミテ三匝ス。是ニ大風西北ヨリ起リ木ヲ折リ屋ヲ發キ沙石ヲ揚ゲ窈冥トシテ晝晦ク楚軍ヲ逢迎ス。楚軍大ニ亂レテ壊散ス
と云うて居る。逢迎は吹附ける事である。此記事を人麻呂が
 ゆく鳥の、あらそふはしに、わたらひの、いつきの宮ゆ、かむ風に、いふきまどはし.あま(52)雲を、日の目もみせず、とこやみに、おほひたまひて
と歌へるに比較するに類似は獨事實に止まらずして辭句にもあるやうである。即窈冥晝晦とアマ雲ヲ日ノ目モ見セズトコヤミニオホヒタマヒテと頗相似て居るでは無いか。それももし暴風の吹く時に必空の暗くなるものならば自然の類似とも見られようが、暴風が吹いて空の暗くなるは必發の事では無くて、風が盛に沙塵を掲ぐる時に限る事で、然もそは我邦よりは寧支那に多い現象であるからアマ雲ヲ日ノ目モ見セズトコヤミニオホヒタマヒテは窈冥晝晦を染め變へたのでは無からうかと疑はれる。さうとすると史記も亦人麻呂の目に觸れたのである
 附記 代匠記を検するに彼史記の文を引いて居るが事實の類似に心附けるまでである
 
 
    附 天武天皇紀闡幽
 
萬菓集卷二なる高市皇子尊|城上《キノヘ》殯宮之時柿本朝臣人麿作歌に壬申の亂の戦闘の状を叙して
 ふきなす、くだのおとは、敵《アタ》見たる、虎かほゆると、もろ人の、おびゆるまでに、ささげたる、幡のなびきは、冬ごもり、春さりくれば、野ごとに、つきてある火の、風のむた、靡くがごとく云々
と云うて居るのは愚考に戰國策卷五に
 ココニ楚王(○宣王)雲|夢《ポウ》ニ游ブ。結※[馬+四]千乗、旌旗天ヲ蔽フ。野火ノ起ルコト雲※[虫+兒]ノ若《ゴト》ク※[凹/禿の禾なし]《ジ》虎ノ※[口+皐]ユル聲雷霆ノ若シ
とあり劉|向《キヤウ》の説苑卷十三に
 其年共王(○楚王)江渚ノ野ニ獵ス。野火ノ起ルコト雲※[虫+兒]ノ若ク虎狼ノ※[口+皐]ユルコト雷霆ノ如シ
とあるに據つたのであらうと思はれるが伴信友の長等の山風(全集第四の五五一頁)に
 幡の靡を春野焼く火にたとへたるは古事記序に此御軍のさまを賛へたる文に杖矛擧v威、猛士烟起、絳旗燿v兵、凶徒瓦解と作《ア》るに符《カナ》へり。絳旗は赤旗なり。赤旗兵士を燿(54)して殊に勢を益して見えたるさまをいへるなり云々
といへるは例の精緻なる考證で敬服に堪へぬが何故に當時赤旗を用ひられたか〔何故に〜傍点〕と云ふ事は信友の考へなかつた事である
抑人は大事に逢へば往々身を古人に擬して自勵まし又は自祝ふものであるが壬申の亂は天武天皇に取つては必死の戦で少くとも初には天皇の御方の分が悪かつた。特に天皇は頗神経質であらせられたやうであるから右のやうな御心持が起つたでもあらう。若御身を古人に擬したまはんとせば誰に擬したまうたであらうか。壬申の亂の如き大戦は我邦の史上では神武天皇の大和御平定の時の外は例の無い事であるが、さすがに神武天皇に擬する事は憚りたまうたであらうし大友皇子を長髄彦や兄猾《エウカシ》兄礒城《エシキ》などに比する事も當を得ぬ事であるから例を漢土に求むる外は無かつたらう。さうして例を漢土に求むるならばその最適切なるものは漢高祖と項羽との戰である。されば天武天皇は恐らくは御身を漢高祖に擬したまうたであらう
漢高祖は夙くから赤色を貴びて旗幟の如きも皆赤きを用ひた。左に史記・漢書から二三の證を抄出せんに漢書哀帝記なる赤精子之識の應劭註に
(55) 高祖感2赤龍1而生。自謂赤帝之精
とあるが史記の高祖本紀に高祖の生れし時の事を云へる處には
 太公(○高祖の父)往觀則見2蛟龍於其上1。已而有v身
とあり漢書にも
 父太公往觀則見2交〔右△〕龍於上1。已而有v娠
とある。即蛟龍又は交龍とあつて赤龍とは無い。されば劉媼が大澤の陂《ツツミ》で眠つてゐた上に見えたと云ふのは蛟龍であつたのを後に至つて赤龍に變へたので、高祖が赤色を自己の天命色と聲明したのは大蛇を斬つた時が始である。即高祖(當時は泗上亭長劉邦字季)が酒に酔うて澤中を通りしに大蛇が路に横たはつてゐたから剣を抜いて之を斬つて過ぎたが.あとから來た者が其處を通ると老媼が泣いでゐたとあつて
 嫗曰。吾子白帝子也。化爲v蛇當v道。今者《イマシ》爲2赤帝子1斬之《キラル》
とある。無論此嫗は所謂白帝子の母では無くて近處の老婆が劉季に頼まれて後から來たものを欺いたのであるが高祖と赤色との関係は此時に始めて成立したのである。漢書の應劭註に
(56) 秦襄公自以v居v西主2少昊之神1作2西畤1祠2白帝1。……少昊金徳也。赤帝堯後謂v漢也
といへるは後に添へた學問的理由で國學者が傭はれて天理教の經典を編纂するやうなものである。高祖は恐らくはそんな事まで考へなかつたらう。爾來赤は劉氏の上色となつて旗幟などにも用ひられた。即史記に 高祖乃立爲2沛公1。……旗幟皆赤。因2所v殺蛇白帝子、殺者赤帝子1故上《タフトプ》v赤といひ同書淮陰侯列傳にも
 信、張耳ト兵數萬ヲ以《ヰ》テ、東シテ井※[こざと+經の旁]ヲ下シテ趙ヲ撃タムト欲ス。……未井※[こざと+經の旁]口ニ至ラザル三十里ニシテ止舍ス。夜半ニ傳發シ輕騎二千人ヲ選ビ人ゴトニ一赤幟ヲ持シ間道ヨリ山ニ※[草冠/卑]《カク》レテ趙軍ヲ望マシム。誡メテ曰ク。趙我走ルヲ見バ必壁ヲ空クシテ我ヲ逐ハム、若《ナンヂラ》疾《ト》ク趙ノ壁ニ入リ趙幟ヲ拔キテ漢ノ赤幟ヲ立テヨト。……信ガ出シシ所ノ奇兵二千騎共ニ趙ガ壁ヲ空クシテ利ヲ逐フヲ候《ウカガ》ヒ則馳セテ趙ノ壁ニ入リ皆趙幟ヲ拔キテ漢ノ赤幟二千ヲ立ツ。趙軍已ニ勝タズシテ信等ヲ得ル能ハズ。壁ニ還歸セムト欲スルニ壁皆漢ノ赤幟ナリ。而《スナハチ》大ニ驚キ以爲《オモヘ》ラク漢皆已ニ趙王ノ將ヲ得ツト。兵遂ニ亂レテ遁走ス。趙將之ヲ斬レドモ禁ズル能ハズ
(57)とある
天武天皇は御身を漢高祖に擬したまひし餘に漢の赤幟に※[人偏+效]うて赤幟を用ひたまうたのであらうが赤を用ひたまうたのは旗ばかりで無い。即天武天皇紀にソノ衆ノ、近江ノ師ト別キ難カラムヲ恐レテ赤色ヲ以テ衣上ニ著クとある。これは信友は引いて居らぬやうである
彼人麻呂の歌の彼フキナスクダノオトハ云々より少し後に
 まつろはず、たちむかひしも、つゆじもの、けなばけぬべく、ゆく鳥の、あらそふはしに、わたらひの、いつきの宮ゆ、かむ風に、いふきまどはし、天空を、日の目もみせず、とこやみに、おほひたまひて云々
といふ句がある。これは天武天皇元年紀に
 秋七月辛亥(○廿二日)男依等瀬田ニ到ル。時ニ大友皇子及群臣等共ニ橋ノ西ニ營シテ大ニ陣ヲ成シ其|後《シリヘ》ヲ見セズ。旗幟野ヲ蔽ヒ埃塵天ニ連リ鉦鼓ノ聲數十里ニ聞エ 列弩亂發シ矢ノ下ルコト雨ノ如シ。……大友皇子左右大臣等僅ニ身モテ免レテ逃グ。男依等即粟津岡ノ下ニ軍ス
(58)とある時の事で
 兩軍ノ戦闘ノ正ニ闌ナリシ程東南即伊勢ノ皇太神宮ノ方カラ暴風ガ吹來リテ西軍ニ吹附ケタノデ西軍ハ眼暗ンデ終ニ敗北シタ
といふ意であるが此一節と史記項羽本紀に
 漢王ヲ圍ミテ三匝ス。是ニ大風西北ヨリ起リ木ヲ折リ屋ヲ發キ沙石ヲ揚ゲ窈冥トシテ晝晦ク楚軍ヲ逢迎ス。楚軍大ニ亂レテ壊散ス
とあるとを比較するに類似は獨事實に止まらずして辭句にもあるやうであるから(雑誌アララギ本年二月號所載拙著柿本人麻呂と漢文學〔九字傍点〕第二參照)人麻呂は故意に項羽本紀を本として彼一節はしらべ成したのであらう。さうしてかやうに漢高祖の故事を用ひたのも天皇が御自漢高祖に擬したまひし事が其時代には周知の事であつたからではあるまいか
因にいふ。上に引いた天武天皇元年七月紀の中の不見其後はソノシリヘヲ見セズとよむべく、さてそは後漢書光武帝紀第一上に軍陳數百里不v見2其後1とあるに據つたのである。旗幟以下矢下如v雨以上二十四字も同卷下文に
(59) 旗幟蔽v野埃塵連v天鉦鼓之聲聞2數百里1……積弩亂發矢下如v雨
とあるを取つたのである。後者は河村秀根の書紀集解にも谷川士清の日本書紀通證にも擧げて居るが前者は二書共に心附かなかつたやうである(昭和四年七月十六日)
 
(60)   藤原宮之役民作歌の作者
 
萬葉集卷一の藤原宮之役民作歌の作者に就いて契沖は何も云うて居らぬから此歌を文字の如く役民の作と思うたのであらう。眞淵も
 此宮は持統天皇朱鳥四年よりあらましの事有て八年十二月ぞ清御原宮よりここに遷りましつ。その初め宮造りに立民の中にこの歌はよみし也
と云うて居る。然るに宣長は玉勝間卷十三(全集第四の三〇二頁)に
 萬葉集一の卷に藤原宮之役民作歌とある長歌は役民作歌とあるによりて誰もただその民のよめると心得ためれど歌のさまをもて思ふに然にはあらず。こはかの七夕の歌を彦星棚ばたつめになりてよめると同じことにてかの民の心に擬《ナズラ》へてすぐれたる歌人のよめるなり。その作者は誰ともなけれど歌のさまのいといとめでたく巧の深きやう人麻呂主口つきにぞ有ける。さてかの主の長歌はいづれも巧ふかき故に詞のつづきのまぎらはしく聞ゆるが多きを此歌は殊にまぎらはし(61)きつづき多くして物しり人たちも皆解誤れるを今よく考ふれば語のつづきもいと明らかにしてまぎるることなくいともめでたくすぐれたる歌なり
と云うて居る。雅澄も
 そもそも此歌巧のことにふかく句法のいともたへなるなど人麻呂朝臣の長歌の口つきにをさをさ立おくれたるすぢなきをおもへば役民の意に擬へてさばかりの上手のよめるなるべし。さてこそ詞のつづきのこよなくまぎらはしくきこゆるふしの多かるをよくあぢはふれば意味明白にしてまぎるゝすぢなくいともすぐれてめでたき歌になむ有ける
と云うて居るが宣長が「人麻呂主の口つきにぞ有ける」と云へるに對して「人麻呂朝臣の長歌の口つきにをさをさ立おくれたるすぢなし」と云へる外は宣長の説と同一である。余も新考(八九頁)に
 さて此歌は夙く宣長の云へる如く眞の役民の作歌にはあらで名ある歌人の、名を役民に托して作れるものなる事言ふを待たず。おそらくは柿本朝臣人麻呂の作ならむ
(62)と云うた。但「おそらくは柿本朝臣人麻呂の作ならむ」の一句は本書公刊の爲に補訂した時に加へたのでその補訂の時には緒言にことわつておいた如く事情があつて一切前人の著書を參考しなかつたから玉勝間も再讀せず從うてはやく宣長が「人麻呂主の口つきにぞ有ける」と云へるに心づかなかつたのである。此文を草するに當つて玉勝間を披いて右の一句を發見した時に起つたのはこれはしくじつたと云ふ感じよりは寧有力な晩方を獲たといふ心持であつた
さて此文を草せんとした動機は「名ある歌人の名を役民に托して作れるもの」といふ言を訂正せむが爲であつた。余がかやうに云うたのは今から思へばやはり古人に引ずられてゐた。右の歌の中で
 そをとると、さわぐ御民も、家わすれ、身もたなしらず、鴨じもの、水にうきゐて、吾〔右▽〕つくる日の御門に
といふ數句は宣長の云へる如く役民の心になずらへて即役民の心になつて云うたとも思はれるが
 ○新考(八八頁)に「吾は或は今の誤にもやあらむ」と云うておいた。又次の泝須良牟も(63)新考(八六頁)に「ノボセムトイソハクミレバとありしを今の如く.傳へ誤れるにはあらざるか」と云うておいた
モモタラズ、イカダニツクリ、泝須良牟、イソハクミレバとあるミレバは役民の心になつて云うた辭では無くて明に第三者として云うた語である。されば此長歌は名を役民に托して作れるものでは無くて役民を見て作れるものである。然るに本に藤原宮之役民作歌とあるは本集の編纂者が誤つて眞に役民の作れるものと思うて題したのであらうか○次なる藤原宮御井歌には左註に右歌作者未詳とあるにここにはさる左註の無きを思へば編纂者は或は誤つて眞に役民の作れるものと思うたかも知れぬ。然し此題辭は藤原宮御井歌の題辭と同じく元來原本にあつたのを取つたので編纂者が新に加へたのではあるまい。原本は何であるか分らぬがそれにも題辭は無い事はあるまい。さうして題辭があつたとすれば之より短くは書かれぬから之がやがて原本の題辭であつたらう。然らば原本の筆録者も亦誤つて眞に役民の作れるものと思うて藤原宮之役民云々と題したのであらうかと云ふにおそらくはさうでは無くて詠2藤原宮之役民1云々といふつもりで藤原宮之役民云々と書いたので、なほ詠2三(64)山1歌を三山歌と書き詠2藤原宮御井1歌を藤原宮御井歌と書いたのと同じであらう。ただ三山歌・藤原宮御井歌は三山が作り御井が作つた歌と誤解せられはせぬが藤原宮之役民云々は對象が人類であるだけに其役民が作つた歌と誤解せられるのである。之を思へば卷三(新考四七五頁)なる仙|柘枝《ツミノエ》歌三首も(三首中の第一首なるアラレフリといふ歌が別の歌である事は云ふまでも無いが)上に詠の字をおとしたのでは無くて詠2仙柘枝1歌といふつもりで仙柘枝歌と書いたのであらう。或は云はん。果して役民を詠じたるものならば作歌の作の字はあるべきでは無からうと。いかにもさうである。然も本に藤原宮之役民作歌とあるを思ひ又右歌作者未詳などいふ左註の無きを思へば本集の編纂者は原本に藤原宮之役民歌とあるを見て役民の作と誤解して役民と歌との間にさかしらに作の字を補うたのであらう
以上述べ來りし所を再言すれば此長歌は元來或人が藤原宮の役民を見て作つたもので名を匿す考などは無くて其歌集に詠2藤原宮之役民1歌といふつもりで藤原宮之役民歌と書いておいたのを萬葉集の編纂者が直接にか間接にか之を見て役民の作と誤解して藤原宮之役民作〔右△〕歌と題したのであらう
 
(65)    持統天皇の難波行幸に就いて 上
 
拙著萬葉集新考は繁簡甚宜しきを得ぬ。私刊本即講釋の手稿に聊補訂を加へた本にも其嫌が無いでも無かつたが公刊に際して大に補訂を加へたが其時に或處は増補し又或處はもとのままにして置いたのでかくの如く繁簡甚宜しきを得ぬ事となつたのである。元來自己の著書に滿足する人は少からうが余も今一度書直したく思ふ。然し今一度書直すには余の壽命が不足であらう。そこで繁に過ぎた處は其儘にしておいて簡に過ぎた處を拾ひ出して追々に補足して見よう。第一に讀者に對して不忠實であつたと自責したのは卷三(三四八頁)なる
 長《ナガ》ノ忌寸《イミキ》意吉《オキ》麻呂應詔歌一首 大宮のうちまできこゆあぴきすとあごととのふるあまのよび聲
といふ歌の註である。此歌に就いて契沖は
 按ずるに難波へ行幸の時などよめるにや
(66)といひ雅澄は右の文を引いた上に
 この(○左註の)下に難波宮に幸のこと註してありけむが闕たるなるべし
と云うて居る。余も何となく難波のやうなここちがしたので
 ここの大宮は難波の離宮なるべし
と云うておいた。原本には此歌の次に右一首とある(新考には此三字が落ちて居る)。題辭に應詔歌一首とあるに左註に重ねて右一首と書くべきでは無いから雅澄の云へる如く左註はもと右一首云々といふ考證の文などがあつたのが闕けたのかと云ふに恐らくは編纂者が考證を書かうと思うてまだ考證を了へなかつたから右一首とだけ書いて考證を書く事は他日に譲つてそのままになつたのであらう。右の次第で此歌は何天皇の詔に應じて作つたのか明で無いが卷頭に天皇御2遊雷岳1之時柿本朝臣人麻呂作歌ありその次即此歌の前に天皇と志斐《シヒ》(ノ)嫗《オミナ》との贈答の歌二首がある。顯宗天皇が置目(ノ)嫗を優※[血+おおざと]し給ひし例もあるから老女を親近したまうたからと云うて女帝とはきめられぬが贈答歌の調を味はふになほその天皇は女帝即持統天皇らしく思はれる。さうすると右二首につづける今の歌も持統天皇の行幸に從駕しての作と(67)すべきであらう。然らば持統天皇が難波に行幸したまうた事があるかどうか。此天皇は其本紀及文武天皇紀に據れば遊覧を好みたまうて特に吉野離宮へは三十二囘行幸し給うた。即御在位中に三十一囘、御譲位後に一囘で細に云はば三年に二度、四年に五度、五年に四度、六年に三度、七年に五度、八年に三度、九年に五度、十年に三度、十一年に一度、大寶元年に一度である。其外紀伊國へ二囘、志摩へ一囘、參河國へ一囘(尾張・美濃・伊勢・伊賀御經由)近い處では多武嶺の二槻宮へ二囘、高安城・高宮・菟田《ウダ》の吉隱《ヨナバリ》・腋上《ワキガミ》の陂《ツツミ》・泊瀬・飛鳥皇女の田荘へ各一囘、遷都前に藤原の宮地へ四囘行幸したまうた。然し難波へ行幸したまうた事は本紀にも(即日還御の行幸をも擧げ記せる本紀にも)文武天皇紀にも見えぬ。然らば難波へ行幸したまうた事は無いかと云ふに萬葉集卷一に藤原宮御宇天皇代といふ綱の下に太上天皇幸2于難波宮1時歌といふ目を掲げて置始東人・高安大島・身入部《ムトベ》王・清江《スミノエ》娘子の作四首を載せて居る。此太上天皇は大行天皇(御在位中に崩じたまうた天皇でここでは文武天皇)と相對したる上、前述の如く藤原宮の網下であるから持統天皇の御事なる事明である。されば萬葉集に據れば持統天皇は御譲位後に即文武天皇の御世に難波に幸したまうた事があるのである。そこで再文武天皇(68)紀を※[手偏+嶮の旁]するに
 三年春正月癸未幸2難波宮1。二月丁未車寓至v自2難波宮1
とある。正月癸未は二十七日、二月丁未は二十二日である。右の文を文字のままに見ると行幸したまうたのは文武天皇であるが、ここに起來る問題は幸の字の上に太上天皇の四字を脱したのでは無いかといふ事と、此時太上天皇も共に幸したまうたのを續日本紀には太上天皇の御事を略したのでは無いかといふ事とである。夙く古義(國書刊行會本第一冊二七一頁)に
 續紀に文武天皇三年正月癸未幸難波宮、二月丁末車駕至自難波宮と見えたる其度に太上天皇も共に幸し給へるなるべし。もし續紀には太上天皇の四字を脱せるものとする時は此集の如く太上天皇のみの幸なるべしと云うて居る。然し太上天皇の四字を脱せりとするは妄斷に過ぎて問題とはせられぬ。之に反して實は天皇・太上天皇御同列の幸なるを續紀には天皇を主として太上天皇を略せるなりとするには傍證が無いでも無い。即おなじ文武天皇紀に
 大寶元年九月丁亥天皇幸2紀伊國1。冬十月丁未車駕至2武漏温泉《ムロノユ》1。戊午車駕自2紀伊1至
(69)とあるが萬葉集卷二に
 大寶元年辛丑幸2于紀伊國1時見2結松1歌一首
とあるから比幸は天皇のみの幸のやうに思はるるが同集卷九に
 大寶元年辛丑冬十月太上天皇・大行天皇幸2紀伊國1時歌十三首
とあるを見れば此幸も亦天皇・太上天皇御同列の幸なるを續紀には天皇を主として太上天皇を略したのである。國史大系本の頭註に
 天皇、一本紀略ニ此上ニ太上ノ二字アリ。萬葉集卷九モ亦太上天皇ニ作レリ
といへるは萬葉集卷九を見誤り又同卷二を見落したのである。又日本紀略の流布本には太上の二字無く、同じ大系本の頭註にも一本天皇ノ上ニ太上ノ二字アリといふ記入が無い。もし眞に太上の二字ある本あらばそは後人が萬葉集卷一に
 大寶元年辛丑秋九月太上天皇幸2于紀伊國1時歌
とありてコセ山のツラツラ椿以下三首の歌を擧げたるを見て卷二と卷九とを見ずして輕率に補入したのであらう
 追記 國史大系本の頭註は村尾元融の續日本紀考譯卷二(十二丁裏)に
 
(70)天上一本有2太上二字1是也。萬葉集第一載d是月太上天皇幸2于紀伊國1時歌二首u、第三(○第九の誤)亦載d十月太上天皇幸2于紀伊國1時歌十三首u。竝可v證
といへるに據つて其誤を襲いだのである
 
    持統天皇の難波行幸に就いて 下
 
上述の卷一なる太上天皇幸2于難波宮1時歌四首の次に一首を隔てて大行天皇幸2于難波宮1時歌三首がある。文武天皇の難波行幸は二囘である。即三年正月に太上天皇と共に幸したまうたのと
 慶雲三年九月丙寅行2幸于難波1。冬十月壬午還v宮
とあるのと二囘である。さて此三首の歌、もし慶雲三年行幸の時の作ならば五首前なる慶雲三年丙午幸2于難波宮1時歌二首と一つにすべきを然せざるは此三首は兩度の行幸のうちいづれの時のとも確に知られなかつたからであらう。古義に大行天皇と書けるを重く視て(71) 然れば前に慶雲三年丙午幸2于難波宮1時歌としるせると同度なるにかく別てしるせるはいかにといふに前なるは當時に聞てしるせるなるべく後なるは崩り坐て後前年の幸の時の歌を聞傳へてしるせるが故にかく大行天皇と別てしるせるにやあらむ
と云へるは從はれぬ。さて文武天皇の難波行幸は二度であつたからいづれの時の作とも分らぬ事もあらうが持統天皇の難波行幸は文武天皇の三年正月だけであるから大伴ノタカシノ濱ノ以下四首の歌は大行天皇三年正月太上天皇幸2于難波宮1時歌など題して彼大寶元年辛丑秋九月太上天皇幸2于紀伊國1時歌の前に入るべきを崩御後の慶雲三年丙午幸2于難波宮1時敬二首より後に出せるは編纂者に或不審があつたからであるまいか。その不審といふのは慶雲三年文武天皇難波行幸の時の歌の中に長皇子の
 あられうつあられ松原すみのえのおとひをとめと見れどあかぬかも
といふ歌あり又太上天皇難波行幸の時の歌の中に清江娘子が長皇子に奉りし
 草まくらたびゆく君としらませば岸のはにふににほはさましを
(72)といふ歌ある事である。長皇子の御歌の弟日|娘《ヲトメ》】は即|清江娘子《スミノエヲトメ》の事であらうが太上天皇の難波行幸は文武天皇の三年正月で、慶雲三年はそれより七年の後である。さうすると七年前に否足掛八年前に長皇子の逢ひたまうた娘子が人にも嫁せず容色も衰へずして再長皇子に逢ひ奉つたと見ねばならぬ¢Rし安んじてさう見る事も出來ぬから、しばらく太上天皇難波行幸の年月を不詳としたのではあるまいか。按ずるに太上天皇の難波行幸はやはり文武天皇の三年正月であらう。さうして長皇子のアラレウツといふ御歌と清江娘子のクサマクラといふ歌とは同時の作であらう。但三年正月か慶雲三年九月かは知られぬ。もしアラレウツを實景とせば正月の作とすべきであるがこれはアラレ松原にかかれる枕辭に過ぎまい
談が大に枝葉に亙つたが今や本幹に皈らんに持統天皇の難波行幸は國史には見えぬが實際あつた事と思はれる。されば長《ナガ》(ノ)意吉《オキ》麻呂の
 大宮のうちまできこゆあびきすとあごととのふるあまのよびごゑ
といふ歌はげに難波の離宮で作つたのかも知れぬ。然し持統天皇は本紀に
 四年九月丁亥天皇幸2紀伊1
(73) 六年三月辛未天皇不v從v諫遂幸2伊勢1
とあり文武天皇紀に
 大寶二年冬十月甲辰太上天皇幸2參河國1
とあつて難波の外紀伊・伊勢・志摩・尾張・參河でも海邊の行宮にましました事と思はれるから或は難波では無い他國での作かも知れぬ。余が前註に引かれて「ここの大宮は難波の離宮なるべし」と云うたのは言過しであつた
 追記 志摩への行幸は持統天皇紀に
  六年三月丙寅朔辛未天皇不v從v諌遂幸2伊勢1。……甲申賜2所v過志摩〔二字傍点〕百姓男女年八十以上稻五十束1。乙酉車駕還v宮。……五月乙丑朔庚午御2阿胡行宮1時進v贄者紀伊國牟婁郡人阿古志|海部《アマ》河瀬麿等兄弟三戸|復《ユルス》2十年調役雜※[人偏+謠の旁]1云々
とあつて三月六日辛未に行幸し同月二十日乙酉に還幸したまひ同年五月六日庚午に又志摩國の阿胡行宮にましましたやうに見える。されば御2阿胡行宮1の下を句として居る本もある。余も此本に誤られてアララギに出した此文の初稿には志摩への行幸を二囘としたが後に思ふに五月乙丑朔庚午云々は庚午の下に先是を補(74)ひて心得又阿胡行宮ニ御シシ時ニとつづけてよむべきである。此事は夙く古義(國書刊行會本第一冊二二七頁)に云うて居る
 
   鎌倉比企谷と仙覺律師萬葉集研究の道蹟
    一 緒言
萬葉集は上古から寧樂朝時代までの歌長短四千五百餘首を見るに随つて集めたも
(以下新考を見よ、ただし明治書院版とは小異があるが問題にするほどではない)
 
(127)  春登上人
 
萬葉用字格の著者春登上人は時宗の僧であるから先年時宗の本山なる神奈川縣藤澤の清浄光寺即遊行寺へ聞合せたが何も分らなかつた。然し時宗の宗祖一遍上人は余の祖先の一族で、其縁故で今も清淨光寺の役僧たちが時々來られるから其内に再尋ねて見ようと思うて居る。さて近年出來た連光聖蹟録といふ書に據れば東京府南多摩郡多摩村大字関戸の延命寺に春登の墓があるといふ。
 ○關戸は玉川の南にあつて府中から一里許しか無いさうであるから散歩かたがた行つて見るもよからう。同村の大字連光寺は明治天皇が度々行幸あそばされた處である
又同書に春登は號を華水庵といひ天保年間に京都二條聞名寺にて寂したとある。聞名《モンミヤウ》寺は二條川東に在つて香川景樹の墓のある寺である。そこで聞名寺に就いて※[手偏+嶮の旁]べる必要が起つたが京都在住の門人には歴史趣昧のある人が無いから淀に歸住せる(128)海軍中佐田邊密藏君を煩はして聞名寺へ行つて其過去牒を繰つてもらうたが
 當山四十二世其阿春登和尚、天保七年十月十九〔左△〕日六十八歳にて江戸にて死
とあつた。それで歿した年月日と享年とが分つたのは滿足であるが關戸の延命寺では京都の聞名寺で歿したと言傳へ聞名寺の過去牒には江戸で死んだとあつて歸寂の地の知られぬは残念である。元來聞名寺は香川家代々の菩提所であるが上に春登と景樹とは同時の人であるから無論相識であつたらう。又元來時宗では作歌を法務の一としてゐた程であるから春登の歌も(少くとも初には)宗門風であつたか、然らずとも江戸風であつたらうから景樹の風調とは合はなかつたらう。少くとも景樹の門に入つた形跡は無い。然し始終景樹と逢ひながら更に歌の話をせぬ事は無かつたらう。否稀には歌の贈答をした事があらう。景樹の詠草中で春登といふ名を見た記憶は無いが聞名寺上人・聞名寺其阿などいふ名は出てゐたやうに思ふ。志あらん人は※[手偏+嶮の旁]べて見るがよい。但其阿はゴアと訓んで時宗の僧階で、聞名寺の住職は其阿になるのであるから聞名寺其阿とあつてもそれが春登住寺の間で無ければ別人を指すものなる事勿論である。それに附けても今一應聞名寺に就いて春登の住寺は何年何月から(129)何年何月までかといふ事を※[手偏+嶮の旁]べて見る必要があるが前住職とかの代に不良の徒弟があつて書類を燒棄したといふから恐らくは分るまい
 
    再春登上人に就いて
 
アララギの九月號に春登上人の事を書いたが其後徳島市の武岡善次郎氏から同上人に就いてくはしく示教せられた。以下に記す所は武岡氏の兩度の通信を綴合せたに過ぎぬ。但一字下げて書けるは余の添へた蛇足である
春登上人には華水庵の外に伯台といふ號がある。武威國關戸延命寺第四代の住職である。遊行寺の隠居寺興福院に住した事もあるさうである。天保七年十月十八日に甲斐國吉田西念寺で寂した。享年六十八歳。戒名を桂光院其阿上人と云ふ
 ○延命寺では京都聞名寺で歿したと傳へ、聞名寺では江戸で歿したと傳へてゐたが京都でも無く江戸でも無く甲州吉田で歿したのである。但忌日は聞名寺の過去牒には十九日とあるさうであり武岡氏の報告には十八日となつて一致せぬ。多分武岡氏の説が正しいのであらうがこれはなほ確めねばならぬ
(130)藏書中神書歌書の類は今も西念寺に存在して居る筈である。著書には萬葉名物考三珊・柿本人麿畫像考一冊。日本紀歌抄一冊・日本紀竟宴歌證釋一冊・古葉類林四冊・古言梯正誤補遺一冊・百人一首童喩一冊・和歌會略式一冊・假名音便提要一冊・悉曇筌蹄一冊・本草捷径三冊・清俗奇聞遺忘記一冊・花水吟草一冊・花水文稿一冊がある
 ○武岡氏の報告に未刊著書十六種とあるから右十四種の外に武岡氏の知られたるもの尚二種ある筈である。右の著書どもは西念寺にあるのか武岡氏が持つて居られるのか武岡氏へ聞に遣つたが之に對する答は無かつた。假名音便提要は國書解題に假字音便撮要とあると同書であらう。解題には
  假字音便撮要一卷。僧春登。假名遣に關するものと音便に關するものとを集めたり。文化十四年丁丑十一月の著
と解説して居る。寫本とことわつて居らぬから版に上つて居るものと見える。同書には又五十音摘要と萬葉集名物考とを解説して
  五十音摘要一卷。五十音圖の事、梵語學者の手に成りたる事・反切・延約・音便・轉音・む音・てにをはの事等を略説す。小山田與清の序・華月齋野州良の跋等あり。文政十二(131)年己丑出版す
  萬葉集名物考寫本三卷。萬葉集の中より博物上の歌を摘出註解したるもの。上卷草部にて九十三種、中卷木部にて五十八種、下卷は鳥部に三十八種、獣部に九種、蠹部に十種、魚部に十八種を收めたり。文政六年癸未の作なり
と云つて居る
追記 武岡君の報告に「遊行寺の隠居寺興福院に住せし事ある由なり」とあつたが最近に「興福は或は興徳の誤か」と云つておこされたから藤澤の時宗本山遊行寺へ「貴山に興福院又は興徳院といふ隠居寺ありや」と問ひに遣つたが直に左の如く答へおこされた
 隠居寺と云ふわけにては無之候が當本山塔頭に左の寺院有之候
  長生院(俗に小栗堂)眞淨院・眞光院・栖徳院・貞松院・善徳院
 右六个院の内現存するは長生院・眞淨院・眞光院の三个院のみにて栖徳・貞松・善徳の三个院は震災以後未だ復興致さず眞光院へ合併事務を取扱居る有様に御座候。右樣の次條にて御尋の興福院又は興徳院と云ふ院號の寺院は從來より無之(132)候が拜察致候に御尋の名稱は若しや當本山の役僧の名稱に當るものにあらずやと存候。常山には往古より四院の老僧と稱して
 桂光院・洞雲院・興徳院〔三字傍点〕・東陽院
右四名の役僧有之、現在に於ても存續致居候。御尋の院號は此の内の興徳院にあらずやと愚考仕り候が如何なるものに有之候哉云々
されば「遊行寺の隠居寺興福院に住した事もあるさうである」は「本山遊行寺の役僧興徳〔右△〕院となつた事もあるさうである」と訂正すべきである。さうして戒名を桂光院其阿上人といふを思へば後には四院老僧の第一なる桂光院に※[こざと+(升/土)]つたのであらう
 
    三たび春登上人に就いて
 
其後彼武岡善次郎君から更に數囘の報告に接し又山梨縣の藤波國途君から羽田一成君が春登の事を書かれて居る雑誌甲斐第一號及第二號を送られて此人に就いての知識が少し加はつたから今一度筆を執る事とする。實は自分で春登の事を※[手偏+嶮の旁]べて見る氣は無く、※[手偏+嶮の旁]べる人を誘ふ積りで最初は筆を執つたのであるが、かやうに三たび(133)まで書く事となつたのも所謂因縁であらう
履歴 同時同村(上吉田)の人菊田某の日記に春登は甲府御城代出雲守樣の妾腹で母の懐妊中に江戸谷中三崎町なる弟の家に預けられ春登の生れた後に母は自害したとあるさうである。甲府城代出雲守といへるは山口|直郷《ナホサト》といふ人の事である。寛政重修諸家譜に據れば直郷は旗本で初民部、次に兵庫と稱せしが明和三年四月二十二日に甲府勤番支配、即所謂城代となり同年八月十五日に從五位下出雲守に叙任せられ甲府に駐る事足掛十一年にして安永五年十月十五日に一橋家の家老に轉職し同七年七月二十日に七十歳で卒した。さて春登は十六歳にして甲州上吉田(今の山梨懸南都留郡福地村の大字で富士登山の北口である)の名刹なる時宗西念寺一名富士道場の第二十六代春丈の弟子となり初には名を輪文〔二字傍点〕といひ同郡小沼村(今の西桂村の大字)の神主小佐野和泉に就いて國學の手ほどきを受けたが後に甲府に出で諸學を獨修し遂に名を大麓斎春登〔五字傍点〕と改めて學舍を設けて弟子を教育したが師春丈が寂したので西念寺の檀徒から強請せられて第二十七代の住職となつた。以上は彼菊田某の日記に見えて居るが(初小佐野和泉に就いて國學を學んだといふ事のみは西念寺現(134)住の談話に據る)其後延命寺に轉じ更に洛京聞名寺に轉じ晩年に西念寺に歸つて寂したものと見える。碑は武州關戸の延命寺にある外に上吉田上町の西念寺の本堂の西南に富士山を背にして立つて居るがそれに西念寺二十七代聞名寺四十二代桂光院其阿春登、天保七年十月十八日寂と刻してあるさうである。其阿《ゴア》は前にも云つた通り時宗第二の僧階である。享年は六十四歳と書ける紙片があるさうであるが聞名寺の過去帳及武岡君の報告に六十八歳とある方が正しからう。彼菊田某の文化四年の日記の意譯(羽田君の譯せられたるもの)に「多分今年が三十八歳になるであらう」とあるが享年六十四歳ならば文化四年には三十五歳で又享年六十八歳ならば三十九歳で三十九歳の方が菊田某の日記の「三十八歳であらう」に近いからである。さて享年六十八歳ならば明和六年生で父山口出雲守直郷が甲府に赴任しての四年目に當る
著書 さきに未刊著書十六種の内二種不明と云つたが其後武岡君の送られた報告に據るとそれは釋門歌語一冊・富士山叢吟一冊で又未刊著書は全部府中六所明神神主猿渡氏の家に保存せられて居るといふ。府中は東京から近いから志ある人は猿渡氏を尋ねて見せてもらふがよい。六所明神は今の大國魂神社である
(135)作歌 武岡君は又花水吟草から若干首を抄出して見せられたが又其中から若干首を抄出すると
 見れば又すみだ川原のみやこ鳥みやこの方のこひしきやなぞ(隅田川)
 うもれ木のうもれも果てぬ名取川あらはれて身のうさぞまされる(思ふことありける頃)
 さよふけてうつや砧の音よりも松風さむしたまがはの里(玉川)
 月日へてわが住む里に來てみれば關戸は人もとどめざりけり(關戸)
 なれて見る目にこそ人はおどろかね四方の山なきむさし野の原(武蔵野)
 ともすればもろこしならでここにさへ虎の尾をふむ世にこそありけれ(虎)
此等の歌を見ると今少し知りたいやうな、否何かまだ知れて來るやうな氣がする。或は「四たび春登上人に就いて」を書かねばならぬかも知れぬ(昭和六年二月二十七日草)
 追記 近頃武岡君から報告せられし所に據ると春登には又藁くぐつ〔四字傍点〕と云ふ六冊の随筆がある。初篇の成りしは文政三年六月、終篇の成りしは同十一年で卷末に於嶽北花水庵とあるから甲州吉田での著作である。出版の意志があつたと見えて小(136)山田與清・天野政徳などの序跋が添へてある。これも彼猿渡氏の所蔵である。元來春登の著書中の神書歌書の顛は府中町善明寺の彼岸山文庫に納められて居たが明治の初住職の爲に其他の藏書と共に沽却せられた。其沽却せられたものの一部は井上頼圀佐伯有義二氏の手に歸したさうである
讀者の便を謀つて以上所述を概括しておかう
 春登は時宗の僧で又國學者である。號は花水庵又大麓斎又伯台と云うた。甲府城代山口出雲守直郷の庶子で江戸谷中三崎町なる母の弟の家で生れた。十六歳の時甲斐國吉田の時宗西念寺で剃髪し後西念寺第二十七代の住職となり次に武藏國関戸延命寺の弟四代となり次に京都二條川東聞名寺の第四十二代となつたが晩年に西念寺に歸つて天保七年十月十八日に六十八歳で歿した。墓は西念寺と延命寺と兩處にある。著書は第二報に載せたる十四部に萬葉集用字格一冊の外わらくぐつ六冊・釋門歌語一冊・富士山叢吟一冊を加ふべきである。然しまだ此外に發見せらるるものがあるかも知れぬ。さて未刊著書の殆全部は東京府府中町官幣小社大國魂神社の宮司猿渡氏の家に藏して居る(昭和七年八月四日)
 
(137)    狛島亭
 
萬葉集卷十五に
 肥前國松浦郡狛島亭船泊之夜遙望2海浪1各慟2旅心1作歌七首
とある。此狛島を古寫本に或はイヌと訓じ或はコマと訓じて居る。松浦郡は近古上松浦下松浦に分たれたが明治の初に東西南北の四郡に分たれ今東西二郡は佐賀縣に属し南北二郡は長崎縣に属して居る。さうして近古の上松浦は略今の東西二郡に當り下松浦は略今の南北二郡に當つて居る。いにしへ支那へ行くには北路・南路の二路があつて北路の方が古かつた。北路とは今の東松浦郡の北岸から發船して壹岐・對馬・朝鮮の海岸に沿うて航行するのであるが世が下つて朝鮮との関係が疎くなり同時に幸に航海術が聊進歩して大洋中でも航行する自信が出來たから今の南松浦郡即五島列島の最南端なる福江島から發船するやうになつた。これが即南路である。さて萬葉集卷十五に見えたるは遣新羅使人の歌であるから其一行は無論今の東松浦郡(138)から發船したのである。狛島亭とある亭は所謂船瀬で陸路の驛に齊しきものである。東松浦郡の海岸と壹岐島との間に狛島といふ島が無ければならぬが今さやうな名の島は無い。余が東松浦郡の北岸といふのは唐津※[さんずい+彎]即いにしへの松浦海の東方なる濱崎附近から唐津※[さんずい+彎]の西方なる半島を廻つて名護屋附近までを云ふのであるが發船した處は一處と定まらず時代によつてもちがふが(唐津といふも唐へ渡る津といふ義である)今半島の東北端なる湊村の沖に神集島と書いてカシハジマと唱ふる島がある。集の音はシフであるからフをハに轉じてシハを集と書くのは鴨(アフ)雜(サフ)合(カフ)をアハ・サハ・カハに轉じてアハハ・サハダ・イサハ・カハシを鴨波・雑太・伊雑・合志と書くと同例であり又神の音便カンを略してカに充てるのも例の無い事では無いが、カは神の訓を取りシハは集の音を取つたのは快からぬ事で、いづれ近古のなま物知のさかしらであらう。延喜兵部省式に肥前國柏島牛牧とあるは即此處であらうから古くはうるはしく柏島と書いたのである。さて問題の狛島は柏島の誤である。古寫本に柏を狛と誤れる例は往々ある。たとへば播磨風土記の宍禾郡柏野を和名砂郷名に狛野と誤つて居る。神集島の正面に小※[さんずい+彎]があつて今漁家の部落がある。これが即柏島(139)亭の址である
 右は余が始めて發見した事では無い。夙く太宰管内志・大日本地名辭書などにも見えて居るが地理を研究せぬ學者には多くは氣が附かぬと見えて或人に語つた所が初耳デスと云つたから新考(三二五六頁)の補遺を兼ねて筆を執つたのである。今後は地理の事も折々書かう(昭和六年四月十九日)
 
(140)     美禰良久埼 上
萬葉集卷十六筑前國志賀白水郎歌十皆の左註に
 右神亀年中ヲ以テ太宰府、筑前國宗像郡ノ百姓|宗形《ムナガタ》部津麿ヲ差シテ對馬ノ送粮舶ノ柁師ニ充ツ。時ニ津麿、滓屋《カスヤ》郡志賀村ノ白水郎荒雄ノ許ニ詣リテ語リテ曰ク。僕ニ小事アリ。若疑《モシ》クハ許サレザラムカト。荒雄答ヘテ曰ク。走《ワレ》異郡ナリト雖、同船スルコト日久シク志兄弟ヨリ篤シ。殉死ニ在リトモ豈復辭セムヤト。津麿曰ク。府官僕ヲ差シテ對馬ノ送粮舶ノ柁師ニ充テタレド容齒衰老シテ海路ニ堪ヘズ。故ニ來リテ祗候セルナリ。願ハクハ相替ヲ垂レヨト。是ニ荒雄許諾シテ逐ニ彼《ソノ》事ニ從ヒ肥前國松浦縣美禰良久埼ヨリ舶ヲ發《ヒラ》キ直ニ對馬ヲ射《サ》シテ渡海ス。登時《ヤガテ》天忽|暗冥《カキクラ》シ暴風、雨ヲ交ヘ竟ニ順風無ク海中ニ沈没ス。斯ニ因リテ妻子等犢慕ニ勝ヘズ此謌ヲ裁作ス。或ハ云ハク。筑前國ノ守山上憶良臣、要子ノ悲傷ニ感ジ志ヲ述ベテ此歌ヲ作ルト
とある。右のうち裁作此謌までは憶良の原註で或云以下は家持の添加であらう。滓屋(141)郡即後の糟屋郡は太宰府の北方に當り宗像郭は糟屋郡の東北に接し志賀村は即志賀島で糟屋郡から西方に向つて匐出でたる所謂海の中道の先端に連つて居る。當時對馬國にも國衙があつたが其官吏をば爾餘の國の如く國司と稱せずして島司と稱した。又對島國は韓國に近くて外蕃來寇の虞があつたから防人《サキモリ》を配置した。然るに對馬は平地が少くて穀物を産する事が不十分であつたから島司防人等の食料として太宰府から毎年多量の穀物を對馬に送つた。さうしてそれにはあまたの船を要したが註文中の宗形部(ノ)津麿といふ老船夫は神亀中の或年その送粮船の中の一艘の船頭に指名せられたが老衰して渡海に堪へなかつたから隣郡の同業者荒雄といふものに代理を頼んだのである。さて新考(三四三四頁)に
 美禰良久はもとのままにてミネラクとよむべし。宣長が禰を彌の誤としてミミラクとよめるは非なり。續日本後紀に松浦郡旻樂埼と書ける旻の音はminにてmimにあらざればなり。五島の西北端にありて今三井樂といふとぞ
と書いておいたが五島の下に福江島の三字を落せるに心附かなかつた、願はくは右の三字を各自御所藏の本に補入して置かれたい
(142)ミネラクノ埼の名は又肥前國風土記松浦郡|値嘉《チカ》島の下に
 近嶋西有2泊船之|停《トマリ》二處1。遣唐之使從2此停1發到2美禰良久之埼〔右△〕1從v此發v船指v西|度《ワタル》之
とある。この埼字を荒木田久老が寛政十一年に※[手偏+交]定した本即肥前風土記唯一の木版本として廣く流布せる本に済〔右△〕として居る。萬葉集にも續日本後紀にも埼とあるのみならず對岸があつて其處へ渡るべき津頭で無いから済とあるは訝しいと思うてゐたが南北朝時代以前、恐らくは鎌倉時代の書寫と思はれる本書最古の寫本を獲て検するに土扁に齊の草躰に似たる字が書いてあるがなほ埼の字の面影を残して居る。されば久老本に済に作れるは誤で、信ずべき古典に見えたるは皆ミネラクノ埼である。このミネラクノ埼を平安朝時代の末期の京人はミミラクと聞誤り又島と誤傳へ甚しきは海外と誤傳へたと見えて蜻蛉日記には文にも歌にもミミラクノ島といひ俊頼の歌にはミミラクノワガ日ノモトノ島ナラバとよんで居る。その日本の内なる事は顯昭の袖中抄にはやく辨じて居るがミミラクがミネラクの聞誤なる事には心附かで卻つて萬葉集に美禰良久とある禰を彌の誤とし、宣長すらその地名字音轉用例なるンの韻をミに用ひたる例の中に續後紀の旻樂を擧げて
(143)(風土記の写真)
(144) 萬葉十六に美禰良久とある是なり。旻呉音ミンをミミに用ひたりと云つて居る。又久老は先入に泥んで肥前風土記の美禰良久の禰を彌に改めて頭註に舊本彌爲禰非也と云つて居る。夙く關|政方《マサミチ》の傭字例に辨じたる如く旻の音はミヌであるから、そのヌを轉じてミネの借字とはすべく、ミムで無いからミミとは訓まれぬ。萬葉集にも肥前風土記にも美禰良久とあり續日本後紀に旻樂と書いてあるから此地名のミネラクである事は疑はれぬ。さてそのミネラクは今五島列島の南端なる福江島の西北端に三井樂村といふ半島がある。其村には千々見の鼻・高崎・柏崎・長崎・二サク鼻などいふ小さな岬がある。實地を踏査せぬから立入つた事は言はれぬがミネラクノ埼といひしは此等の岬のうちであらう。なほ云はんに萬葉集卷五なる憶良の好去好來歌に阿庭可遠志、チカノ岬《サキ》ヨリ、大伴ノ、御津ノハマビニ、タダハテニ、ミフネハハテムと云へるチカノサキはやがてミネラクノ埼であらう。五島列島をいにしへはチカノ島と云つた。當時支那との交通は所謂南路を取つたから歸路には揚子江口附近を發してチカノ島の最南端なる所謂トホチカ島のミネラクノ埼を指したのである(昭和六年九月一日病牀にて)
 
(145)     美禰良久埼 下
 
延喜主税式に
 凡筑前。筑後・肥前。肥後・豊前・豊後等ノ國。毎年穀二千石ヲ對馬島ニ漕送シ以テ島司及防人等ガ粮ニ充テヨ
とあり又三代實録貞觀十八年三月の下に
 文簿ヲ※[手偏+嶮の旁]スルニ六國一年對馬島ニ漕運スル所ノ年粮穀二千斛云々とある。ここに對馬送粮舶とあるを見れば續日本紀には見えぬが(續日本紀天平十四年八月の下に對馬等國官人公廨又以2便國稻1依v常給v之とはある)夙く神龜年中にも同様であつたと思はれる。さて當時西海道の本土から對馬に渡るには今の佐賀縣東松浦郡の北岸即今の唐津附近から呼子附近までの一地點から出發し今の厳原港に到著したのであらう。對馬の島府のあつたのは今の厳原である。但出發と云つても其處まで陸行して其處で船に乗つたと云ふのでは無い。乘船は便宜の處でするが彼出發(146)地まで海岸に沿うて航行し彼地に到つて本土を離れて洋中に出たのである。然らば荒雄は何處で乗船したかと云ふに元來太宰府から命ぜられての航海であり荒雄は志賀島の人であり荒雄に代理を瓶んだ人即最初に太宰府から指名を受けた津麿も宗像郡の人であるから荒雄の乗船したのは言ふまでも無く博多津であらう。さて博多で乗船し東松浦郡の北岸から對馬に渡るには西北に向つて航行すべきであるに左註に云へる如く美禰良久埼から發舶する事とすると先反對に西南に向つて航行する事となつて其航路は直接渡航の三倍以上にもなつて、、恰京都の人が四國に渡るに大坂又は神戸から出發せずに横漬から出發するやうなものである。然らば自肥前國松浦縣美禰良久埼發舶とあるは誤であらうか。或は又博多で乗船して先美禰良久埼まで米を積みに行つたと考へられぬであらうか。かやうに考へるにはまづ當時各郡各郷の租米は何處に貯へておいたかと云ふ事を知らねばならぬ。然るに當時各郡各郷の租米は其郡の郡家《グンケ》即郡役所に貯へて置いたのである。それは類聚三代格卷十二に出でたる延暦十四年閏七月十五日の太政官符に
 諸國、郡倉ヲ建テ元、一處ニ置ケリ。百姓ノ居、郡(○郡家なり)ヲ去ルコト僻遠ナラムニ(147)山川ヲ跋渉シ納貢ニ勞スルコト有ラム。加以《シカノミナラズ》倉舍比近シ甍宇相接シタラムニ一倉火ヲ失セバ百倉共ニ焼ケム。言《ココ》ニ其弊ヲ念フニ公私ニ損アリ。宜シク郷毎ニ更ニ一院ヲ置キ以テ百姓ヲ済ヒ兼ネテ火祥ヲ絶ツベシ云々
とあり又同年九月十七日の官符に
 去《イ》ニシ閏七月十五日郷毎ニ更ニ倉院ヲ建テヨトノ状、諸國ニ下シ畢ヘツ。追ヒテ此事ヲ尋ヌルニ頗穩便ニ乖ケリ。今、彼此相接比近セル郷ハ其中央ニ同ジク一院ヲ置クベク村邑遙阻絶隔セル處ハ地理ヲ量リテ郷毎ニ之ヲ置クベシ云々
とあるに依つて明である。なほ云はば延暦十四年までは郡家の所在地に租米を集めておいたのである。然るにミネラクノ埼は松浦郡の内で、松浦郡の郡家は今の何處であつたか明には分らぬが今の東松浦郡の内であつた事だけは確である。
 ○近世の歴史地理學者村岡良弼氏は松浦郡家の所在地を今の玉島濱崎などの地方として居られるが余は郡家が今の松浦川より西に在つた證據を握つて居る
されば荒雄はたとひ渡海の前に自、松浦郡の穀を積みに行つたとしても五島の南端なる福江島に在るミネラクノ埼まで行く筈が無い。從つて左注に自肥前國松浦縣美(148)禰良久埼發舶とある美禰良久埼は作者が誤つたか後人が誤つたか又どうして誤つたか又何を誤つたかは分らぬが誤とせねばならぬ。因にいふ。此左註の末節なる山上憶良悲感妻子之傷述志而作此歌の悲字が傷字の上に在るべき事は新考に云つておいたが、なほ述志の間に其といふ字を脱したのであらう
此小論文の上篇に擧ぐべきことを忘れたが續群書類從卷二一二に收めたる智證大師傳の中に
 傍v山行至2本國西界肥前國松浦縣管旻美〔右○〕樂崎1
とある。之を證として美禰良久はやはり美彌良久の誤であらう、即、ミネラクでは無くてやはりミミラクであらうと云ふ人があるかも知れぬが、もし旻美樂と書けるに據らば旻をミに充てたるものとせねばならぬが日本紀にも萬葉集にも旻をミの借宇とせる例は無い。然しミを民と書ける例が萬葉集に一つあるからミを旻と書くまいものでも無いが元來右の智證傳は古寫本に據つたのでは無くて近世の刊本に依つたのであるから旻下樂上の美字は後人が私に加へたのでは無いかと疑はれる。又彼村岡氏の大著日本地理志料の考據書目の中に美禰良久考といふ書が見えて居るが(149)余はまだ見た事が無い
  此下篇も亦病床で書いたのであるが起つて自由に諸書を披閲する事が出來ぬのみならず藏書の大部分は別荘の文庫に納めてあるから歯痒い事が多い(昭和六年九月二十五日)
 
(150)      いらごの島 上
 
萬葉集卷一に
    麻績王流2於伊勢國伊良虞島1之時人哀傷作歌
 うちそを麻績《ヲミ》のおほきみあまなれや射等籠《イラゴ》がしまのたま藻かります
    麻績王聞v之感傷和歌
 うつせみの命ををしみ浪にぬれ伊良虞《イラゴ》のしまのたま藻かりはむ
といふ歌がある。新考(四二頁)に考及古義に據つて題辭の時の下、人の上に今一つ時字を加へておいたが、よく思ふに原本のやうに人哀傷作歌とあつては物足らないから人の上に脱字があるのではあらうが、それが時字であるか否かは疑問である。此歌は新考に
 カルラムといはでカリマスと云へるを見れば大和の都にて人のよめるにはあらで.親しく麻績王の生計に勞せるを見し人のよめるなり。恐らくは其國の司人など(151)のよめるなるべし
と云へる如くであるが人の上の脱字は或ではあるまいか。即或人哀傷作歌とあつたのではあるまいか。さて同卷に又
    幸2于伊勢國1時留v京柿本朝臣人麿作歌
 あごの浦にふなのりすらむをとめらが珠裳のすそにしほみつらむか
 くしろつくたふしの崎に今もかもおほみやびとの玉藻かるらむ
 しはさゐに五十等兒《イラゴ》のしま邊こぐふねに妹のるらむかあらき島みを
といふ三首の歌がある。これは持統天皇の六年に伊勢國に行幸したまうた時に飛鳥の京に殘つてゐた人麿が行幸地の光景を想像して作つた歌である。
 ○左註に朱鳥六年といひ五月乙丑朔庚午御2阿胡行宮1といへるが誤なる事は古義に辨じたる如くである。日本紀に據れば朱鳥は一年限の年號で同年九月に天武天皇が崩じたまひて皇后即持統天皇が臨朝稱制したまひ其翌年を元年としたまうたのである。又伊勢への行幸は六年三月六日辛未に發駕したまひ同月二十日乙酉に還宮したまうたのである。日本紀に五月乙丑朔庚午御2阿胡行宮1時進v贄者紀伊國(152)牟婁郡人阿古志|海部《アマ》河瀬麿等兄弟三戸復2十年調役雑徭1云々とある庚午の下に先是を補ひて心得又阿胡行宮ニ御《マシマ》シシ時ニとつづけて訓むべきである。左註の記入者は誤つて御阿胡行宮の下を句とし又時を于時と心得たのである。國史大系本も此誤に陥つて居る
代匠記に「以上三首によめる所の名竝に伊勢なり」といへるは少くとも辭が足らぬ。後の世にしてはアゴノ浦とタフシノ崎とは志摩國の内、イラゴは三河國の内である。志摩國は明治二十九年までは答志《タフシ》・英虞《アゴ》の二郡に分れ其北部が答志郡、南部が英虞郡であつた。答志はタフシと訓んで萬葉に手節と書けるに同じく英虞はアゴと訓んで萬葉に嗚呼兒と書き持統天皇紀に阿胡と書けるに斉しい。さて答志郡の北面に鳥羽※[さんずい+彎]があり其前方に答志島があり其東北端に大答志崎一名黒崎といふ岬がある。人麻呂がタフシノ崎とよめるは是であらう。大日本地名辭書の説もさうである。同書にアゴノ浦を鳥羽港の事として居るが、これは從はれぬ。アゴノ浦は英虞郡の東面なる今の志摩郡國府《コフ》村附近の海岸であらう。因にいふ。萬葉集卷四にアゴノ山イホ重カクセルサデノ埼云々とよめるアゴノ山は一山の名ではあるまい(新考七五一頁參照)。さて答(153)志島の東方に神島がある。此島は志摩國に屬して居るが二海里許を隔てて東北方なる伊良湖崎と相對して居る。イラゴノ崎は三河國の東端から西西南に向つて突出せる所謂渥美半島の尖端で勿論三河國の内で又島では無い。然るに萬葉集卷一なるウチソヲヲミノオホキミといふ歌の題辭に伊勢國伊良虞島といへるは如何なる故ぞ。余はまづ此問題に就いて私見を述べようと思ふ(昭和六年十月二十三日)
 
     いらごの島 中
 
志摩國は今は伊勢國の東南隅の一地域たるに過ぎぬが近古までは今の伊勢國度會郡の南岸から紀伊國牟婁郡の東岸に亙つて居た。今の志摩國は勿論、徃時の志摩國といへども地形上からは伊勢國と一區域とすべきである。但大化改新までは一區域の中に若干の國があり其領主を國造と云うた。やがて問題の一區域の中にも伊賀國・伊勢國と共に島津國があつた。此島津國が後の志摩國である。萬葉集卷七にイセノ海ノアマノ島津ガアハピ玉とあるも島津ノアマガの顛倒で島津國ノアマといふ事であ(154)らう(新考一三九九頁參照)。さて一たび其諸舊國を併せて伊勢國とせられたが後に再伊賀・伊勢・志摩の三國に分たれたのである。伊賀を伊勢から分たれたのは天武天皇の御代であるが志摩を分たれたのは何時であるか分らぬ。元明夫皇紀の慶雲四年十一月の下に賑2恤志摩國1とあるからそれより前なる事は明である。持統天皇は其六年に伊勢を經て志摩に行幸せられたのであるが日本紀には幸伊勢とあつて幸志摩とは無い。但賜2所v過神郡及伊賀・伊勢・志摩國造等冠位1とあり又賜2所v過志摩百姓男女年八十以上稻人五十束1とある。國造といへるはいぶかしいが或は此時はやく志摩國が分たれてゐたのではあるまいか。なほ蛇足を添へんに千載集・新古今集以下にイセジマとよめる歌がある。これを伊勢の志摩と解して志摩が伊勢の附属であつた證として居る人もあるが道因法師や俊成卿がイセジマヤイチシノ浦とよめるその一志は伊勢國中部の一郡であるからイセジマは伊勢の志摩といふ事では無くて伊勢と志摩との合稱で、筑前國の恰土志摩兩郡を檜垣嫗集にイトシマノ郡と云へる類であらう。又萬葉集卷六なるミケツ國志麻ノアマナラシといふ家持の歌は無論志摩國分立後の歌である。又西行の山家集に「いせのたふしと申す島には云々」といへる類には地理に(155)昧かつた爲なるもあるべく土俗の稱呼に從つたのもあるだらう
さて今伊勢國にも志摩國にもイラゴといふ島は無い。イラゴといふ地名あるは三河國である。即同國の渥美半島の尖端をイラゴといふ事上にいへるが如くである。イラゴノ崎の西南に神島といふ小島がある。三河と志摩との今の界は兩者の中間である。古今著聞集卷十二偸盗篇(國史大系本四三五頁)に
 正上座といふ弓の上手わかかりける時參河の國より熊野へわたりけるに伊勢國いらごのわたりにて海賊にあひにけり
といへるは此處即今いふ伊良湖ドアヒ一名イラゴ水道であらう。三河と志摩との界であるから、都又は熊野に近い方に就いて云ふにしても志摩國イラゴノワタリといふべきであるが志摩は伊勢に呑まれがちであるから伊勢國イラゴノワタリといへるは誤とも云はれない麻績王がイラゴノ島に流されたのは天武天皇の御代で其御代には志摩國はまだ分立してゐなかつたから志摩國と云はずして伊勢國といへるは當然であるが三河國なるイラゴを伊勢國イラゴといへるは如何なる故ぞ。或は當時イラゴは伊勢國に屬(156)してゐたのでは無いか。吾妻鏡建久十年三月二十三日の下に參河國伊良胡御厨とある。又近年伊勢國宇治山田市の天神山から出た經瓦に承安四年甲午六月日南閻(○下缺)三河國渥美郡伊良期郷(○下缺)と刻したるものがある。されば夙く紀元一八三四年即高倉天皇の御代にイラゴが三河に属したりし事は明であるが、それより前の事は文献では分らぬ。轉じて地理上から観察せんにイラゴは島では無く渥美半島の尖端でその地續であるから、もし昔も今の如き地形であるならば海を隔て島々を隔てた
る伊勢國(後の志摩國)に附けられる筈が無い。ここに注目すべきは彼題辭に伊勢國伊良虞島〔右△〕とある事である。古は海又は川に圍まれたる半島をも島と稱した。さて今一部の人は指示上の便宜から渥美半島の尖端なる伊良潮岬《イラゴサキ》村・福江町の附近をイラゴ半島と稱するが此地方は渥美半島の尖端なるのみで渥美半島中に更に小半島を成して居るのでは無い。畢竟今の如き地形ならば古人(半島をも島と稱せし古人)でも島とは稱しはすまい。然し渥美半島の北側即渥美※[さんずい+彎]に向へる側は年々砂土が堆積する上に近古に福江町で新田を開發した事があるから此地方の昔の地形は今とは大にちがつてゐたらう。即昔は海水が北方から深く※[さんずい+彎]入して(今の豊島池は其なごりにあら(157)ずや)此地方は眞實の半島を成して島と稱せらるべき地形であつたであらう○それにしても渥美半島と地續である上は其地頸の處を界として海を隔てたる伊勢國に屬すべからざるは言ふまでも無い。されば彼題辭に伊勢國伊良虞島とある伊勢國の三字を眞淵の云へる如く誤とするか又は上古のイラゴは絶島で其東なる和地《ワヂ》との間が國界であつたとせねばならぬ(イラゴもワヂも今はイラゴザキ村の大字である)。抑渥美半島にはそれを縦貫せる丘陵がある。此丘陵は熊野山脈の續で彼伊良湖ドアヒなどは元來此山脈の深谷である。もし渥美半島の丘陵が連續して斷絶せる處が無くんばイラゴは上古には孤島であつたらうと云ふ説は成立しないであらう。余は本年八月にイラゴザキ村を踏査する積りであつたが機會を失うて目的を達しなかつた。そこで本年十月に知多半島の武豊港の突堤から眺望せしにイラゴ崎の東方に低い處が見えた。然るに歸京後渥美半島を知れりといふ二人の人に問試みしに二人共に渥美半島の丘陵は斷絶して居らぬと云うたが、まだ不審が晴れぬので二萬五千分一の地形圖を取寄せて見たがイラゴの東ワヂの西に明に丘陵の斷絶して居る處がある。ここで見出したのは弟柳田國男が若い時にしばらくイラゴに居た事である。よつ(158)て同人に尋ねしに言下に「イラゴは確に昔は島だつたのです。それも遠い昔ではありますまいよ」と云うて其舊薯なる遊海島記を貸してくれた。其中から必要なる處だけを抄録せんに
 伊良湖岬、古は伊良虞が島といへり。中世海は改まりて寄洲は陸を繋ぎしかば乃ち三河の國となりぬ。……和地の大山より西に靡きたる群山と此方の邑との間に在る一帯の平地はすべて昔の海の跡なり。沙原は海より高きこと幾何もあらず。生ひたる松も皆若し。……漁夫が沖に漕出でて吾家の方を顧みるには此處の平地に水の乗るを見て船路の遠さを計るが常なり
 此に付けて聴きし物語は曾て一夜|安乘《アノリ》崎(○志摩の東海岸の岬なり。但ここに云へるは神島燈臺にあらずや)の燈臺に如何にしてか燈を點ぜざる事ありき。折から沖を行きし船、此平地に水の乗りたるを海峡なりと思ひ誤りて其舵を變へしかば忽ち外海の沙濱に乘上げつ。船人等打驚き積荷を陸に揚げて船脚を輕めんと大なる提燈を近き里より借來て帆柱の頂に結び付け終夜犇きたりしに、これも浪路を急ぎし大船の、此光を燈臺の火と誤りて同じ夜に四艘まで遠近に破船したるものあ(159)りしとか
 岬の絶端の山を小山といふ。小山の東西は松の林にて静なる處なり。大洋の風常に通ひて涼しければ其奥に入りて書を讀むに兎多く群遊びて甚人を恐れず。圓なる目をして此方を見るも興あり
などある。眞淵は伊勢國の三字を竄入として居るが少くとも今傳はれる古寫本に此三字の無いものは無い。今傳はれる古寫本のいづれにも三字があつたとて無論竄入で無いとは云はれぬが、さる武斷を下すよりは寧イラゴは上古絶島であつて其東方が國界であつたらうと見る方が妥當では無いか(昭和六年十一月十九日)
 
      いらごの島 下
 
橘守部は伊勢の人であるから此地方の地理には他の註家よりは精しかつたであらうと思うてまづ檜嬬手《ヒノツマデ》(全集本第四の四七頁)を披き見しに
 伊良虞、今は參河に屬せれど近昔までも志摩國内なりければ伊勢とは云るなり
(160)とある。次に墨縄(全集第五の二四二頁以下)を見しに
 伊良虞はもと志摩につけり。其志摩は又伊勢國につきければ古くは伊勢國伊良虞とはいひし也。……行嚢抄東海道に云
  伊良虞島ハ自2船路1左ニ見ユ。志州ノ島也。此島ニ伊良虞大明神ノ山見ユ。四國大廻ノ船ヲ乘者ハ此伊良眞島ニ副テ太王崎ナド云難所ヲ乘ル云云
 正廣日記云
  文明五年八月七日伊勢に下り山田と云所に四五日やすらふ事ありて十五日に大湊と云所より船にのり其國の〔三字傍点〕伊良兒のわたりとてすさまじき所をこし侍るに……
 凡此等もて近き比までも専伊勢國伊良虞と云し事を知べき也。其地理を考るにまことに伊勢とすべきものにぞある。志摩の鳥羽より此島へ〔三字傍点〕海上五里、同國の答志崎に相竝て其間わづかに三里也と云。然るに參河國の吉田の海よりは二十里はなれたり。思ふに彼行曩抄に云る伊良虞の内の大王島ぞ此王の謫居なりけん。一子たちに對へて父王を大王と稱して其名の遣りつらんとぞおぼしき云云
(161)とある。檜嬬手別記(第四冊二五七頁)にいへるは略墨縄にいへると斉しい。守部が「彼行嚢抄に云る伊良虞の内大王島〔右△〕云々」といへるは行曩抄の誤讀である。大王崎は志摩國の東海岸の一岬で一名を波切《ナギリ》の大鼻といふ處であるがイラゴノ崎とは懸絶して居る。
 ○行嚢妙に云へるは大王崎なるを守部は大王島と云うて居るが島は崎の沖にある
行嚢抄にいへるは内海からイラゴノワタリ即伊良湖水道を經て志摩國大王崎に到る海路の事である。さて守部が、上に見えたるものの外に伊良虞屬伊勢國の證として引けるは鴨長明の伊勢記と、文明年間の正廣日記と、元禄年間の行曩抄とであるが正廣日記に「伊勢國の伊良兒のわたり」といへるは彼著聞集なると同じく伊良湖水道を云うたので陸地のイラゴを云うたので無いから證とすべきで無い。長明や行嚢抄の著者やは西行が志摩の答志を伊勢と書けると同じく自分の思うたままに又は土人の言によつて伊勢ノイラゴと書いたのであらうが建久十年に、否承安四年にイラゴが三河國に属してゐたといふ儼然たる史料がある上は「イラゴは上古より近昔まで(162)志摩國に屬してゐた」などは決して云はれる事で無い。これに限らず通過的旅行者などの言の輕々しく信ずべからざる事は余も最近渥美半島の丘陵の斷續に就いて經験せし所である。抑萬葉6集の初の卷の註釋は澤山に出て居るから.それを片端から※[手偏+嶮の旁]ベて見たら云ふべき事も多からうが、それ等の書物の多くは手許に無い上に、かかる小考證の長くなるのは忌まねばならぬから次には古義を披いて見よう。古義には
 志陽略誌に伊良湖岬在2伊良湖村1。此地者三河國渥美郡也。此地去2神島1一里。以v近混2志摩國1云々とあり。かかれば三河國なるが伊勢にも亙れる故に昔より伊勢國伊良虞島と物にしるせるにや
と云うて居る。雅澄の意見は少し曖昧であるが伊勢國トアルハ正シクハ三河國トアルベシといふ意と思はれる
さて天武天皇紀に
 四年夏四月甲〔右△〕戌朔辛〔右△〕卯三位〔右△〕麻績王有v罪流2于因幡1、一子流2伊豆島1、一子流2血鹿島1
とあつて(萬葉集の左註とは小異がある)題辭に麻績王流2於伊勢國伊良虞島1之時云々とあると一致せぬ。されば夙く左註に若疑後人縁2歌辭1而誤記乎といひ眞淵の考に「因(163)幡にも同名あるべし」と云うて居る。それに對して守部は檜嬬手別記(全集第四冊二五七頁)に「因幡に伊良虞と云島なし」といひ又墨縄(第五冊二四四頁)に
 又因幡に伊良虞と云地見えず。彼國は海はわづかにて邑美郡に海士島、法美郡に永島と云島あれど小島にて流人をやるべき島にあらず。此外に島はなし
と云うて居る。こは其國人に尋ねて云うたものと思はれるが因幡の海には守部の擧げたる外になほ若干の小島あり又一千數百年前には島であつたのが今は陸地に属し更に其名さへかはれる事もあらうから今イラゴ島といふ島が無いから因幡國では無いとは云はれぬ上に大日本地名辭書に
 因幡志云。巨濃《コノ》郡(○今の岩美郡の内)に伊良子埼といふ山ありて牧谷吉田の邊なりとぞ。其地なる歟
といひ又鳥取藩士に伊良子大洲といふ儒者があるから因幡にもイラゴといふ地名はあつたであらう。然し此地方の事はよく知らぬから、之より以上の事は云はれぬ
常陸風土記|行方《ナメカタ》郡の下に
 板來村近臨2海濱1安2置驛家1。此謂2板來之驛1。其西榎木成v林。飛鳥淨見原天皇之世遣2麻績(164)王居1處云
とある。此一節は夙く契沖がその代匠記に引いて「此等に據れば麻績王の謫居彌相違あり如何」と疑うて居るが守部は
 此王の事常陸風土記にも載せたれば東國にて終られし事しるし(○檜嬬手別記)こは又伊良虞より後に移れるか。いかにもあれ是も東國に流されたる一の據なり(○墨縄)
と云うて居る。守部が頻に東國といへるには事情があるのであるが其事情を述べようとすると更に一つ守部の誤解を正さなければならず從つて又少からず言を費さなければならぬが本論の目的は麻績王の事蹟を明にしようとするのでは無いから今は枝葉に亙る事を避けよう。さて麻績王が常陸の板來に置かれたといふ事と伊良虞島に流されて歌をよんだといふ事とを先哲は皆別事と見て居るが、それに左袒するにはなほ聊心殘がある。或は或人と麻績王との贈答歌のイラゴ又はイラグがイタクと訛り傳へられて終に常陸の板來に麻績王の違蹟といふものが生じたのではあるまいか。斷つて置くがそれは眞にアルマイカといふ程度の疑である
(165)イラゴは萬葉集に五十良兒とも射等籠とも書いてあるから奈良朝時代に夙くイラゴと唱へたのであるが(虞は漢音グ、呉音グ又はゴ)もとはイラグで無かつたかと思はれる。後の物ではあるが三河國内神名帳の一本に伊良久大明神とある(但續群書類從本には伊良子とある)。神名に古き稱呼をさながらに傳へたる例は澤山ある。近江國のイカゴも延喜式神名帳には伊香具神社とある。又クがコとなつた例は普通名詞には勿論の事、地名にも澤山ある。たとへばカゴ山は古カグ山といひ但馬のアサコ郡は古アサグ郡と云うた。常陸のイタクは今はイタコといふ事衆人の知れる如くである。因にいふ。板來の文字を潮來に改めたのは徳川光圀で、潮をいにしへ常陸の方言でイタと云うたのに據つたのである
 長くなつて讀者は御迷惑であつたらうが筆者も筆を執つた初にはかやうに長くならうとは思はなかつた。實はまだ云ひたい事が殘つて居るのである(昭和六年十二月二十三日)
 
(166)    鐘岬 上
 
萬葉集の研究には地理的知識を伴はねばならぬ事は言ふまでも無い。さて一通り歌の意義を解するには某地は某國某郡に在りといふだけを知ればよいが之に反して歌の情緒を味はうとするには地理的知識を深めねばならぬ。此事は新考著作の時にも無論よく心づいて居たが何分筆の走るに任せると何萬頁になるか分らず、さうなると出版を引受ける者もあるまいし讀んでくれる人もあるまいと思うたから出來るだけ註文は簡潔に書いた。從つて地理の事も播磨國の地理の如く比較的よく知つて居る事でもくはしく書く事が出來なかつた。ここに試として本集卷七なる
 ちはやぶる金のみさきをすぎぬとも吾はわすれじしかのすめ神
といふ歌を中心としてすこし地理的に觀察して見よう。もし此試が多少でも讀者を益する所があつたら時々此種のものを書いて見てもよい。余は新考の彼歌の註(一三三一頁)に
(167) 一首の意はタトヒ難處ハ過グトモ神ノ御恩ハ忌レジとなり。いまだ鐘岬を過ぎぬ程の歌なり。もし過ぎての後の歌とせば第三句はスキヌレドとあらざるべからず。さてかく云へるは畢竟志賀の神に海路の安全を祈る心なり。古義に第四句の吾者をアヲバと改訓せるは歌の意を誤解せるなり
と云うて置いた。抑筑前國の所管は延喜民部式竝に和名抄に據ると怡土《イト》・志摩・早良《サワラ》・那珂・席田・糟屋・宗像《ムナガタ》・遠賀《ヲカ》・鞍手・嘉麻《カマ》・穂浪・夜須《ヤス》・下座(シモツアサクラ)上座(カミツアサクラ)御笠の十五郡であるが明治廿九年に怡土・志摩二郡を合せて糸島郡とし那珂・席田・御笠三郡を合せて筑紫郡とし嘉麻・穂波二郡を合せて嘉穂郡とし夜須・下座・上座を合せて朝倉郡としたから今は糸島・早良・筑紫・糟屋・宗像・遠賀《ヲンガ》・鞍手・嘉穂・朝倉の九郡となつて居る。さうして其内六郡が北海即玄海灘及響灘に面して居る。それを西から數へると糸島・早良・筑紫・糟屋・宗像・遠賀の順である。遠賀郡の東に連れるは今は同じ福岡縣の内ながら豊前國の企救《キク》郡即萬葉集にトヨ國ノ聞《キク》ノ長濱などよめる處である。さて福岡縣の分縣圖を披いて其西北の海岸線に注目せられよ。まづ目につくは福岡市であらう。福岡市は那珂川を界とせる前の福岡・博多の兩市街を合せたもので早良・筑紫二郡に(168)跨つて居る。否實際は東の糟屋郡にも及んで居る。福岡市より西方にも南方にも萬葉集の歌に關係のある地が多いが二兎三兎を同時に逐ふ事は出來ぬから此から海岸線に沿うて東北に進んで見よう。福岡市から箱崎町を過ぎて北方に進むと香椎村がある。香椎村は糟屋郡の内で、仲哀天皇・神功皇后を祭れる所謂香椎廟即官幣大社香椎宮のある地で、萬葉集卷六に
 神龜五年冬十一月太宰宮人等奉v拜2香椎廟1訖、退歸之時馬駐2于香椎浦1各述v懐作歌
 いざ兒ども香椎のかたにしろたへの袖さへぬれて朝菜つみてむ 帥大伴卿
 時つ風ふくべくなりぬかしひ潟しほひのうらに玉藻かりてな 大貮小野老朝臣
 ゆきかへり常にわが見し香椎がたあすゆ後には見むよしもなし 豊前守|宇努首男人《ウヌノオビトヲビト》
とある處である。此處を又カシフと云うたと見えて卷十五に
 至2筑紫館1遙望2本郷1悽愴作歌 可之布江にたづなきわたるしかのうらにおきつしらなみたちしくらしも
とある。カシヒをカシフと訛るやうな事は他にもあるかと云ふに波行動詞のヒをウ(169)と訛つてイトヒテ・オモヒテなどをイトウテ・オモウテなど云ふは今の例とするに適切で無いでもあらうが萬葉集卷九に攝津國のウナヒを菟原と書いて居る。原といふ字にはヒの訓が無い。然るに萬葉集卷六にアヂフノ宮を味原宮と書ける例があるから恐らくはウナヒをウナフと訛つた後に菟原の二字を充てたのであらう。後世、字に就いてウバラとよめるはいと淺ましい(新考一八六五頁參照)。山城國の向日町も今はムカフマチと訛つて居る。東京市のムカフジマも昔はムカヒジマと唱へたか。普通名詞では奈良朝時代のカギロヒを平安朝時代にはカゲロフと訛り又相撲のスマヒも今はスマフと訛つて居る。但ムカフマチ・ムカフジマ・スマフは彼波行動詞の音便と同例としてムカウマチ。ムカウジマ・スマウと書くがよいかとも思はれる。ともかくもカシヒをカシフとも云うた事があるのである。然し筑前國風土記の逸文に※[加/可]襲宮と書けるを其例とする事は出來ぬ。其文の續に※[加/可]襲可紫比也とあるから風土記の※[加/可]襲はカシヒとよむのである。襲の音はシフであるから此字をシヒに充てるに妨が無い。イヒポを揖保と書きサヒガを雜賀と書けると同例である(昭和七年四月二十日草)
 
(170)    鐘岬 中
 
香椎村の北に隣れるが和白《ワジロ》村で其大字奈多から所謂海の中道が起つて居る。此沙※[此/角]の尖端に附けるが志賀島で此處をよめる歌は萬葉集にあまた見えて居る。卷十六に出でたる筑前國志賀白水郎歌十首の左註に滓屋《カスヤ》郡志賀村白水郎荒雄とあるは即此島人である。志賀は古はシカと清んで唱へた。さればこそ萬葉集に然之海人。然海部・牡鹿海部なども書いて居るのであるが後世賀を濁音にのみつかふ事となつた爲に字に引かれてシガと濁つて唱ふるやうになつたのである。此島は地理上無論糟屋郡に屬すべきであつて筑前風土記に糟屋郡資珂島とあり神名帳にも糟屋郡志賀海神社とあり和名抄郷名にも糟屋郡志阿(阿は珂又は河の誤字)とあるが中世行政上那珂郡に屬して居た事がある。今は再糟屋郡に屬して志賀島《シカノシマ》村といふ一村を成して居る。延喜式神名帳の志賀|海《ワタツミ》神社三座即問題の歌のシカノスメ神は底ツワタツミノ命・中ツワタツミノ命・表《ウハ》ツワタツミノ命で御同胞なる底ツツノヲノ命・中ツツノヲノ命・表《ウハ》ツ(171)ツノヲノ命即住吉神社三座と共に海を掌りて航海漁業を護りたまふ神である。三座は三社にいつかれ其一社は島の東南部なる志賀に、二社は島の北部なる勝馬にある。いづれも彼宗像三神の如く三神を合せ祭つて居るが志賀では底つ神を主神とし勝馬の一社では中つ神を、又一社では表つ神を主神として居る。然し本社と認むべきは志賀の社で今官幣小社に列せられて居る。本社の後の山を勝山といふがそれから御笠山・衣笠山が連つて居る。之を志賀の三山といふ。萬葉集の歌に
 しかのあまの鹽やく煙風をいたみたちはのぼらず山にたなびく(卷七)
 志賀の山いたくな伐りそ荒雄らがよすがの山と見つつしぬばむ(卷十六)
とあるは右の山である。萬葉集の歌には又シカノアマハメカリ鹽ヤキ暇ナミ、シカノアマノ鹽ヤク煙、シカノアマノ鹽ヤキゴロモ、シカノアマノケブリタキタテテヤク鹽ノ、シカノアマノヒト日モオチズヤク鹽ノなど見えて居るが今は製鹽は行はれぬ。ここに不審なるは志賀島の茎とも柄とも見るべき彼奈多の濱一名志賀のはな即所謂海の中道は長さ三里の砂※[此/角]で天の橋立にも優るべしと云はれる勝景地であるに拘はらず萬葉歌人に詠嘆せられなかつた事である。此地の名が更に古典に見えぬと云(172)ふのでは無い。筑前國風土記に打昇濱といへるは適に此地である。然し此地をよめる歌はと聞かれると餘人は一知らず余は從來香川景樹が實地を蹈まずしてよみ得た所
 あけてこそ見むと思ひし箱崎の波間にかすむ松のむらだち
を擧げて答へる外は無かつた。つらつら思ふに萬葉集卷十五に
 しかのうらにいざりするあま家人のまちこふらむにあかしつるかも
 かしふ江にたづなきわたるしかのうらにおきつ白波たちし來らしも
 しかのうらにいざりするあまあけくればうらみこぐらしかぢのおと聞ゆ
とよめるシカノ浦は即奈多の白濱の長汀曲浦を指したのであらう。然し卷四に
 草まくらたびゆく君をうつくしみたぐひてぞこししかの濱邊を
とあるシカノ濱はさうでは無く別處であらう。元來此歌は題辭竝に左註に據れば天平二年に太宰帥大伴旅人が病に罹つたのを其弟大伴|稻公《イナキミ》と甥大伴|胡麻呂《コマロ》とが見まひに下つて數旬を經て歸京する時に太宰|大監《タイゲン》大伴百代等が夷守《ヒナモリ》驛まで見送つて送別の小宴を開いて百代の作つた二首の一であるが太宰府から博多に出で糟屋・宗像・(173)遠賀の三郡を經て豊前の企救郡で上船する人が奈多濱を通る筈が無い。されば大日本地名辭書には「多々羅濱なること略推すべきのみ」と云うて居るが多々羅濱と奈多濱との間に香椎潟があるから香椎潟を飛越えて多々羅濱をシカノ濱といふべきで無い。然らばシカノ濱といへるは何處ぞ。全體此濱を通つて夷守驛に來たのであるから夷守驛の所在が分つたらシカノ濱の見當もつくのであるが其夷守驛の所在はまだ分つて居らぬ。たとへば筑前の學者で特に歴史地理に精しかつた青柳種麻呂は
 夷守驛址は糟屋郡阿惠村の内日守八幡社又日守石とてある此處なるべし。此處席打驛より太宰府にいたる道すぢなり(○太宰管内志上卷三三一頁所引)
と云うて居る。之に對して地名辭書には
 延喜式に席打驛(今席内村)と久爾驛(今席田村の中と云)の間と爲す。道程より之を推せば多々羅村なるべしと思はる。……シカノ濱邊とよめるを見れば阿惠村にはあらず。阿惠は今仲原の大字にて濱岸の地にあらず
と云うて居る。即種麻呂はヒモリとヒナモリと音が似て居るから古のヒナモリは今のヒモリであらうといひ吉田博士は今の席内村と今の席田村との中程で無ければ(174)ならぬから今の多々羅村であらうと云うて居られるのであるが吉田君には一の誤解がある。彼歌にはシカノ濱邊ヲとある。濱邊ヲは濱邊ヲトホツテといふ事であるから夷守驛に行くに海邊を通りさへすればよいので夷守驛は海邊で無くても差支が無い。又吉田博士は「道程より推せば云々」と云うて居られるが多々羅濱は阿惠の西方であるから北方なる席内に對して距離の遠きに過ぐるは阿惠と同一である。かやうに夷守驛址は從來不明であつたのであるから新に之を指示せんとするには特に一論文を草すべく外の話のついでに發表するのは甚遺憾であるから筆を進むるに躊躇したが、どうでも云はねばならぬ事となつたから、くれぐれも殘念ながら結論だけをここで發表する。兵部式の夷守驛を筵打と久爾との間とするならば(兵部式には夷守と久爾との間になほ美野がある)阿惠や多々羅村よりズツト北方に擬せねばならぬ。即ズツト筵打に近づけねばならぬ。ここに香椎村大字|下原《シモパル》の字に馬立〔二字傍点〕といふ處がある。これが即夷守驛の址であらう。播磨國揖保郡越部村大字馬立が越部驛の址であらうといふ事は播磨風土記新考(一九六頁)に云うておいた。彼此相照して考慮すべきであらう。さて彼シカノ濱は香椎潟即神功皇后紀にいへる橿日浦の北つづきであら(175)う。大に道山草を食つたから次へ進まう(昭和七年五月二十四日)
 
    鐘岬 下
 
一文が三箇月に亙つて執筆者の熟も少しさめた程であるから讀者は定めて倦まれたであらう。他日補遺を書かうとも此篇は今囘で完了せしめよう
萬葉集卷六に
    天平二年冬十一月大伴坂上郎女發2帥家1上v道超2筑前國宗形郡名兒山1之時作歌
 大なむち、少彦名の、神こそは、名づけそめけめ、名のみを名兒山と負ひて、吾戀の、千重の一重も、なぐさめなくに
といふのがある。これは太宰帥大伴旅人の妹坂上郎女がしばらく兄の許に行つて居たが歸京する途中太宰府と同國なる筑前の宗形郡名兒山で作つた歌である。郎女は此時獨身であつたらしいが何の爲に二人のをさない娘を京に殘してタワヤメの身で遙々と太宰府に下つたか。又兄旅人は翌月歸京したのに何故に其に先だつて單獨(176)で歸京したか。それらの事情は更に分らぬ。宗形郡は糟屋郡の北に續ける郡で、官幣大社宗像神社のある郡である。文字は古典に宗形・宗像の外に胸形・胸肩・身形とも書いてあるが今は宗像と書くに定まつて居る。一首の意義は此名兒山トイフ名ハ彼圀土ヲ經營シタ大名持少彦名ノ二神ガ附ケタノデアラウガ名バカリ名兒山ト云ウテモ我物思ノ千分一モ慰マナイ。サレバなごむ・なぐさむナドニ通ズル名兒山トイフ名ハ人ダマシノ名デアルワイといふ事である。さて名兒山は貝原益軒の筑前國續風土記卷十七に
 田島の西の方也。勝浦より田島へ越嶺也。田島の方の東の麓を名兒浦と云。昔勝浦潟より名兒山を越、田島より垂水越をして内浦を通り蘆屋へ行し也。是昔の上方へ行大道也
と云つて居る。田島村は勝浦《カツラ》村の東につづいて居る。益軒の説に據ると兩村の界に名兒山はあるやうであるが一古圖に今の津屋崎町(勝浦村の南につづけり)大字|奴山《ヌヤマ》の捻原と今の田島村大字田島の岩野との間に山をゑがいて此邊名兒山〔五字傍点〕と記して居る。此地圖は作製措寫共に時代は分らぬが紙端に
(177) 應余舊族納屋永建丈之需 七十七翁平野暢齋寫
 安政三辰三月乞納屋永建丈得之
とあつて各印が捺してある。垂水越は宗像・遠賀二郡の界なる今の樽見峠、内浦《ウツラ》は遠賀郡岡垣村の西部で彼時の東麓にある。延喜兵部式筑前國驛馬に島門・津日・席打とつづいて居る。されば名兒山は席打(今の糟屋郡席席内村)と津日との間にあるのであるが益軒が「是昔の上方へ行大道也」といへるを是認しようとするには先津日驛の所在を研究せねばならぬ。故村岡良弼氏の日本地理志料には津日を津円の誤として津丸の事として居るが今の神興《ジンゴウ》村の大字津丸としてはあまりに筵打に近く又あまりに島門に遠くて兩者の中間驛たるに適せぬ。地理上より推せば津日驛は樽見時の西麓で無ければならぬ。續風土記鐘御崎の條に
 鐘崎の町は昔はなし。津日の浦とて上八村の西に民家有。長政公入國の後津日の浦の人家を今の鐘崎に移さる。延喜式廿八卷にかける筑前國驛馬を置し所を津日と云。是成哉
といへるは略右の推定に一致して居るが今の岬村の大字上八(カウジヤウ)の西にあ(178)つたのは津日の浦で、驛のあつたのは今少し山寄で今の池野村大字池田の附近であらう。されば昔の驛路は今の津屋崎町から名兒山を越えて田島村田島(即今の宗像神社の所在地)を經、池野村池田にかかり樽見峠を越えて遠賀郡に出たのであらう
かやうに書續けて居ると切がつかぬから陸路の方は此位にして次に海路の方を覿察しよう。太宰府から北下すると博多津に出る。博多はいにしへ筑紫の大津とも娜の大津とも那の津とも那珂の荒津とも云うた。國史に始めて博多の大津といふ名の見えたるは天平寶字三年三月である。ここから乘船して針路を西北に取つて志賀島と殘島《ノコノシマ》との間を通り志賀島を廻つて東北を指し鐘岬と地島《ヂノシマ》との間を航行するのである。鐘岬は國史に金崎とある。沈鐘の傳説のある地であるが古人は後人のやうに文字に拘泥しなかつたから本字は鐘であるか金であるか分らぬ。宗像郡の海岸線には三つ又は四つの岬があるが、それを西南から數へるとまづ津屋崎町大字渡の曾根鼻及楯崎、次に神《カウノ》湊村の草崎、次に岬村の鐘岬で鐘岬は遠賀郡界に近い。さうして其西北に彼|地《ヂノ》島があるのである。其距離は大體二海里であるが益軒は「此追門兩方の出崎の間八町有」と云つて居る。地島の周圍は凡一里半である。元來玄界灘は風波の荒い海で、問(179)題の處なとも地鳥の外をまはると危険が多いから地島と鐘岬との海峡を通るのであるが此處は海底が淺い上に一朝風波が起ると避難する處だに無かったのである。されば神護景雲元年に本郡の大領即郡長が私財を投じて金崎船瀬を造つたのである。船瀬は停泊處である。それも久しからずして風波に壊たれたと見えて寛平五年十月に築2孤島於鐘御崎1可v助2行舟風波之難1といふ太政官符が出たといふ(類聚三代格には脱せる如し)。果して實行せられたかどうか分らぬがたとひ實行せられても、やはり前の船瀬の運命を追うたものと思はれる。黒田氏入國以來の事は省略するが彼江海風帆草(筑前を中心として東西の海路の事を記したる書)にも
 地の島 此所すぐれて波荒き所故毎年|波戸《ハト》の修覆絶る事なし
と云つて居る。されば彼宗形郡大領の造つた船瀬だに無かつた時代即
 ちはやぶる金の三崎はすぎぬとも吾はわすれじしかのすめ神
といふ歌を作つた時代の航行の困難はさこそと思遣られる。此事情が分らぬと此歌の情緒はよく味ははれぬであらう。これにつけても萬葉集の研究には從來よりは今少し歴史地理的研究が加はつてよからうと思はれる(昭和七年六月二十六日草)
 
(180)    草深野
 
萬葉集卷一
 たまきはる内の大野に馬なめて朝ふますらむその草深野
結句の草深野を舊訓にクサフケノとよんで居る。童蒙抄や袖中抄やに此歌を引きたるにクサフケノとある。契沖は代匠記の初稿本にクサフカノかと云ひながら精撰本には舊訓に從つて居る。眞淵もクサフケヌと訓みて
 フカキを約轉して下へつづくる時夜フケユクといひ田の泥深きをフケ田といふが如し。言はカキの豹はキなるをケに通はして下へつづくる也
といへるはいみじきひが言である。此草深野を始めてクサフカヌと訓んだのは富士谷御杖の燈であるやうである。古義には此訓に從うて
 舊本にクサフケヌとよめるはいみじきひがごとなり。其訓に從て略解に「深キを約轉して下へつづくる時夜ノフケユクといひ田の泥深きをフケ田と云が如く草深(181)き野なり」と云へれどまづフカキを約轉してと云事いとも意得ず。フカ野は躰語にてタカ山・ナガヂなど云がごとし。そをタケ山・ナゲ道など云たる例なきことなり。たとひ例ありとも其を約轉して云かけたるなりと云てはきこゆべからぬをや。又夜ノフケユクてふ詞をいかに意得たがひてか此處には引出たる。夜ノフケユクは俗語に夜ノ深ウナリユクてふ意にてもとよりことなるいひざまなるをや。又田の泥深きをフケ田と云るも古書どもに確なる據も見えざれば猶證にはなりがたきをや
と云うて居る。余は新考(一〇頁)にやはりクサフカヌとよみ又考・略解の説を評して
 夜ノフケユクのフケはフクルといふ語のはたらきたるなれば今の例とすべからず。フケダは例として可なれどフカ何といふを轉じてフケ何といふは此他に類なくそのフケダはた古書には見えぬ語なれば證とはしがたし
と云うておいたがこれだけではまだ徹底せぬから更に再言はんにまづ眞淵がフケをフカキの約轉と云へるはフカキを約すればフキなるを轉じてフケといふなりといへるなれど深の語本は名詞のフケで、形容詞のフカシ・フカキなどで無い。なほ赤の(182)語本が名詞のアケで、形容詞のアカシ・アカキなどで無いのと同じい。その名詞のフケ・アケがはたらいて形容詞のフカシ・アカシとなり動詞のフクル・アクルとなつたのである。さればフカキを約轉してフケといへりとせるは本末顛倒で、然もあるまじき事である。さて今クサフカ野と云へるは草フカキ野をつづめたるにてアカキ裳をつづめてアカ裳といひ、雅澄の云へる如くタカキ山・ナガキ道をタカ山・ナガヂといふと同じ事である。但雅澄が「そをたとひタケ山・ナゲ道など云たる例ありともそを約轉して云かけたるなりと云てはきこゆべからぬをや」と云へるは無用の言である。タカキ山・ナガキ道をタケ山・ナゲヂといふ事は決して無いからである。又眞淵は「フカキを約轉して下へつづくる時云々」と云ひて約轉の外に下ヘツヅクル時といふ條件を附したる如くなれど、こは云樣の悪きにて實は「フカキを約して下へつづくる時はその約を轉じて」といふ意なる事下文に「カキの約はキなるをケに通はして下へつづくる也」といへるにて知られるが夜フケユクを例とせるは實に不可解である。もし夜フカキユクといふ語あらばこそフカキ田をフケ田といふと同例とはせめ。否フカキ田はアカ裳・タカ山などの如くキを省きてフカ〔右△〕田とこそ云はめ。然るに近世語とは云ひながら(183)(太平記以下に見えたり)フケ田といふ語のあるは如何。フカキ田に所謂約轉を行ひてフケ田といふべからざるは上述の如くであるからフケ田はフケ(フカミ)ノ田の義としなければならぬがフケノ田のノを省けばサケノツキ・スゲノハラ・タケノムラをサカヅキ・スガハラ・タカムラと云ふ如くやはりフカ田と云はねばならぬ。然らばフケ田は盃・菅原・篁をサケヅキ・スゲハラ・タケムラといはんが如きひがごとであるかと云ふに恐らくはさうではあるまい。思ふにフケはもと単にフケと云ひしを夜フケなどをも單にフケと云ふにまぎらはしければ田を添へてフケ田と云ふやうになつたのであらう
 因にいふ。スゲ・アメなどは直に第二の名詞につづく時にはスガ・アマとなり、ノによりて次の名詞につづく時にはスゲ・アメのままなるが本則であるがスガノ葉・アマノ川などいふを思へば違例も行はれたのである
此文を草するには代匠記初稿本・御杖の燈・美夫君志・奈良朝文法史などを參考すべきであつたがいづれも今は手許に無いから見る事が出來なかつた(昭和四年十一月二十日草)
 
(184)    神宮爾装束奉而
 
萬葉集卷二|高市《タケチ》皇子尊|城上《キノヘ》殯宮之時柿本朝臣人麿作歌の中(新考二七六頁)に
 わがおほきみ、みこの御門を、かむみやに、装束《ヨソヒ》まつりて、つかはしし、御門の人も、しろたへの、麻ごろもきて
とある。代匠記は装束をカザリと訓んで
 神宮ニカザリマツリテとは殯宮にかざるなり
といひ古義には
 吾大王皇子之御門乎……御門は殯宮の御門なるべし○神宮爾は殯宮をいふ。薨賜ひてはことに神と申事にて神葬・神佐扶など云るに同じ○装束奉而は十三に大殿矣振放見者白細布飾奉而とあり。殯宮に儀《ヨソヒ》奉るなり
と云うて居る。まづ「御門は殯宮の御門なるべし」といへると「神宮爾は殯宮をいふ」といへると矛盾して居る。殯宮ヲ殯宮ニ装ヒ成スと云はれようや。御門を語のままに門の(185)事としたるも誤つて居る。御門は御殿の事で.その御殿は皇子尊の住み給ひし香來山之宮である。城上《キノヘ》殯宮の出來るまでは無論香來山之宮に御遺骸を奉安すべきであるが薨去したまへば即神となりたまふのであるから其宮を神にふさはしく装ひ成したのである。ミコノ御門ヲの下、カム宮ニの上にシロタヘニといふ語を省いたのである。ツカハシシ御門ノ人モ〔右△〕シロタヘノ麻ゴロモキテといへるモのテニヲハによりて上にシロタヘニといふ事を略したる事が知られる。又卷十三なる挽歌に
 大殿を、ふりさけ見れば、しろたへに、飾りまつりて、うちひさす、宮のとねりも、たへのほの、麻ぎぬけるは云々
とあるとも相照すがよい
さてカム宮ニヨソヒマツリテが白く〔二字傍点〕装うて殯宮に作りなす事といふ事は分つたが、そのシロクはどういふやうにするのか恐らくは誰が心にも今少し明ならざる所があらう。さうしてそれを明にするには例を記述の精細なる漢文に求むるが便利であらう。たとへば漢書卷之八十四※[擢の旁]方進の傳に
 方進即日自殺ス。上之ヲ秘シ九卿ヲ遣シテ冊贈スルニ丞相・高陵侯ノ印綬ヲ以テシ(186)乘輿ノ秘器ヲ以テス。少府供張シ柱檻皆素ヲ衣《キ》ス
とありて顔師古の註に
 柱ハ屋柱ナリ。檻ハ軒前ノ闌版ナリ。皆白素ヲ以テ之ニ衣《キ》スルナリ
とある。少府は九卿の一で重い役であるがその職掌は今の内藏頭に當るであらう。今の大藏大臣を太府といひしに對して少府というたのである。供張はここでは葬儀の支度である。素は白絹である。右の文と照し合せて思ふにカムミヤニヨソヒマツリテは御殿の柱や欄干を白絹で包んですがすがしく神々しく装ひ成す事であらう(昭和四年九月十九日草)
 
(187)    出而將去
 
萬菓集卷四大伴坂上郎女歌一首
 出而將去、時之波將有乎、故、妻戀爲乍、立而可去裁
 いでていなむ時しはあらむをことさらに妻ごひしつつたちていぬべしや
契沖の代匠記に
 此は夫《セノ》君の物へ行時いたく別を惜みつつ行に依てよめる歟
といひ古義には
 歌意、契沖云これは夫君の旅にゆく時などよめるにや云々
と云うて居る。古義の引ける代匠記はすべて初稿本である。さてイデテイナムといへば作者の家を出て行く事即朝歸行く事のやうに聞えるが、さう聞いては弟二句以下と相かなはぬから、やはり契沖の云へる如く旅に行く事と見ねばならぬ。そこで余も強ひて旅にゆく事と聞做して新考(六九八頁)に
(188) 初二は出デユク時ハアラウニといふ意、コトサラニはタチテイヌにかかれり○こは郎女の夫の郎女に通ひそめし頃事ありて地方に行きし時によめるにあらざるか
と云つておいたが、どうも初句の出而が氣になる。そこで再思ふに結句にタチテイヌベシヤと云へるを初句にことさらに辭を換へてイデテイナムと云ふべき必要が無い。否結句と照應せしむべくわざと同語をつかひてタチテイナムと云ふべきである。もし同語の重用を嫌ふならば全然相異の辭を用ひてタビユカムなど云ふべきである。去(イヌ)を差置きて立だけを換ふべきでは無い。されば本に出而將去とあるは立而將去の誤であらう。元來此歌は舊訓には初句をイデテイナムとよみ結句をタチテユクベシヤとよんでゐたのを契沖が
 將去は今按落句に對するにイナム〔三字右○〕と點ずべし。もしイナムとよまば下をもイヌベシヤと讀べきなり(○圏點を附けたるイナムはユカムの誤書又は誤寫であらう。イナムでは義が通ぜぬからである)
と云ひ略解も古義も契沖の第二説に從つたのである。初句をイデテユカム結句をタ(189)チテユクベシヤとよむにしても、初句をイデテイナム結句をタチテイヌベシヤとよむにしても、契沖は初句と結句とが相同じからねばならぬと倍つたのであるが今一歩進んで結句が立而イヌベシヤならば初句も立而イナムで無ければならぬと心附かなかつたのは口惜しい(昭和四年十月二十六日草)
 
(190)    しづたまき数にもあらぬ壽持
 
萬菓集卷四に
 しつたまき数にもあらぬ壽持なにかここばくわがこひわたる
とあるを新考(七五七頁)に
 略解に「壽は身の草書より誤れるにてミヲモチテならん。又吾身二字の誤にてワガミモテにても有ベし」といへり。しばらくミヲモチテとよむべし。第四句は契沖のナニカココバクとよめるに從ふべし
と云つておいた。再案ずるにまづ倭文事纏の倭文を古義にて借字として居るが借字では無くてシヅタマキは倭文布即縞布で作つた腕輪である。さて腕輪の縞布で作つたのは下等品であるからカズニモアラヌの枕辭としたのである。語例はたとへば卷五に
 しつたまき数にもあらぬ身にはあれど千とせにもがとおもほゆるかも
(191)又卷十五に
 塵ひぢの数にもあらぬわれ故におもひわぶらむ妹がかなしさ
とある。次にココバクは不定の大数であるがここではワガコヒワタルのワタルと照應したるを見れば量に関する大数では無くて時に関する大数であらう。即久シクといふ事であらう。されば四五の意は何故ニカヤウニ久シク戀續ケル事ヤラといふ事である。さて第三句の壽持を略解のやうに身持の誤としてミヲモチテとよむか又は古義のやうに吾身持の誤としてワガミモチとよみ又第二句を從來の説のやうに人数ニモアラヌの意とすると一首の意はツマラヌ人間デ、ナゼカヤウニ久シク戀續ケル事ヤラといふ事となつて分つたやうで分らぬ歌、辭を換へて云ふならば木に竹を繼いだやうな歌になる。今第二第三の句を蔽うておいて第四第五の句を基として試に第二第三の句に當るべき意を補ふならば久シカラヌ壽命デアリナガラと云はねばならぬ。そこで此意と数ニモアラヌ壽持とを對照せんにまづ数ニモアラヌは人数ニモアラヌといふ意の外に久シカラヌといふ意になりはせぬか。例を集中に求むるに卷十七に
(192) 世のなかは数なきものか春花のちりのまがひにしぬべきおもへば
とあり又卷二十に
 うつせみは数なき身なり山河のさやけき見つつ道をたづねな
とある。右の二首の歌のカズナキは久シカラヌといふ意である。数ナキと数ニモアラヌと辭づかひは少しちがふがここのカズニモアラヌも久シカラヌの意とすべきではあるまいか。思ふにカズニモアラヌには人数物数ニモアラヌといふ意の外に久シクモアラヌといふ意があつて此歌では枕辭からかかつては物数ニモアラヌといふ意、主文では久シクモアラヌといふ意であらう。さて第二句が久シクモアラヌといふ意であると第三句はイノチモチであらねばならぬ。即壽を略解に身の誤とし古義に吾身の誤としたるは却つて誤で、もとのままであらねばならぬ。訓も舊訓にイノチモテとよめるままでもよいのであるがモテをモチと改めた方が古風でよからう。モチテをつづめてモテといふ事は古き世にはなかつたが卷十八なる大伴坂上郎女の歌に
 かたおもひを馬にふつまにおほせ母天こしべにやらば人かはむかも
(193)とある。されば奈良朝時代の末造には既にモチテをモテとも云つたのである。然るに今のシヅタマキの歌の作者安倍蟲麻呂は、坂上郎女といとこどうしで同時の人であるから今の歌の壽持も蟲滿はイノチモテと作つたのであるかも知れぬがまづ常例に從つてモチとよむ方がよからう(昭和五年八月二十三日)
 
(194)    人國にすぎがてぬかも
 
萬葉集卷五なる太宰大典麻田陽春が彼、京へ上る途中安藝國佐伯郡高庭驛で死んだ肥後國産の青年大伴熊凝の辭世に擬して作つた二首の一なる
 朝露のけやすき我身ひと國にすぎがてぬかもおやの目をほり
問題は此歌の第三句である。余は新考(九五六頁)に「ヒト國は考にいへる如く黄泉なり」と云つておいた。然るに近頃再此卷を講釋した時に不審が起つたので書斎に有令せたる二三の前註を披閲して見た。まづ代匠記の初稿本に
 ヒトクニは此集に他國とかけり。此ヒトクニといふは此婆婆に對して黄泉をいへるなるべし。しからずば次の憶良の序と歌とをみるに親にさきだたむ事をなげけるに二首ながら常の旅をばよむべからず
とある。契沖の註文は往々聞取り難い事があるが右のシカラバ以下も少し心得にくいからそれを敷衍するならば
(195) 次ナル憶良ノ長歌ノ例ヲ見テモ遠イ國へ旅行シタ事ト親ニ先ダチテ死ヌル事トヲヨムベキデアル。然ルニ若此歌ノひとぐにヲ他國トイフ事ト見ルト二首共ニ遠イ國ヘ旅行シタ事ヲヨンダモノトナル。サレバひとぐにヲ黄泉ノ事ト見テ此歌即第二首ハ親ニ先ダツテ死ヌル事ヲヨンダモノト見ルガヨイ
といふ意であるが、まづ第一首の
 國とほきみちの長手をおほほしくけふやすぎなむことどひもなく
は契沖が遠國へ旅行する事と見たのが誤で、獨さびしく十萬億土をたどる事をよんだのであるから假に第二首を遠國へ旅行する事をよんだものとしても二首共に遠い國へ旅する事をよんだ事とはならぬ。さて代匠記の精撰本には
 ヒトクニは他國なり
とある。されば契沖は第二首を後には遠國へ旅行する事をよんだものと認めたのである。次に略解には「ヒトグニは他國を云」といひ古義には
 ヒト國ニは他國ニなり。十二に他國爾|結婚《ヨバヒ》爾行而云々とあり。契沖が「此に比等國といへるは此婆婆に對へて黄泉をいへるなるべし」と云へる、さもあるべし(196)と云つて代匠記初稿本の説に左袒して居る。全體古義に代匠記云云といへるは皆初稿本である。雅澄は精撰本を見るを得なかつたのである。之につけても思はるるは明治・大正・昭和の御世に逢つた我等の幸福とそれにも拘はらず貢献する所少き我等の微力とである
さてスギガテヌカモは過ギ敢ヘヌカナでアヘヌは得ヌにひとしいからスギガテヌカモはやがて過ぎ得ヌカナである。然らばヒト國ニスギガテヌカモはどう解してよいか。少くとも余が之を冥土ヘ行キ得ヌカナといふ意と解したのは第一首のオホホシクケフヤスギナム コトドヒモナクのスギナムが冥土ヘ行ク事カといふ意であるからであるが、よく思ふに冥土ヘユクといふ事をヒトグニニスグとは云はれぬ。必ヒトグニニユクとかヒト國ニマカルとか云はねばならぬ。さればヒト國は冥土即黄泉といふ事では無い。然らばヒトグニニはどう解すべきであるかといふにヒトグニはここでは安藝國である。さてニはニテである。さればヒトグニニスギガテヌカモはヨソノ國デ死ニ得ヌカナといふ事である。もしヒトグニニテ又はヒト國ニシテとあつたら、たとひ第一首におなじスグといふ語が別義に使つてあつても誤解が起りはせ(197)ぬのであるが、ただニとあるから余も誤解し先哲も誤解したのである(昭和五年九月二十五日稿)
 
(198)    名者不立之而
 
萬葉集卷六(新考一〇九一頁)なる
 山上臣憶良沈痾之時歌一首 をとこやも空しかるべきよろづ代にかたりつぐべき名者不立之而
の結句は舊訓に名ハタタズシテとよみ、契沖も初二の舊訓は改めたれど第三句以下は舊訓に從へるに古義に至つて結句の不立之而をタテズシテとよみ改めた。余も卷十九なる家持の慕v振2男士之名1歌の反歌に
 ますらをは名を〔右△〕したつべし後の代にききつぐ人もかたりつぐがね
とあるを見て原歌の名者不立之而の名ハも名ヲバの略であらう。名ハを名ヲバの略とすれば不立之而はタテズシテとよまねばならぬと思うたから新考(一〇九二頁)に
 不立は舊訓にタタズとよめり。古義にタテズとよめるに從ふべし。名ハは名ヲバを略せるなり
(199)と書いておいたが更によく思ふに憶良の歌は三國志魏書第十五賈逵傳に
 豫州吏民追思之爲刻石立祠。青龍中帝東征乘輦入逵祠詔曰。昨過項見賈逵碑像念之愴然。古人有言。患名之不立〔五字傍点〕不患年之不長。逵存有忠勲歿而見思。可謂死而不朽者矣。其布告天下以勧將來
 豫州ノ吏民之ヲ追思シ爲ニ石ニ刻ミ詞ヲ立ツ。青龍中帝(○文帝)東征シ輦ニ乘リテ逵ノ祠ニ入リ詔シテ曰ク。昨、項ヲ過ギテ賈逵ノ碑像ヲ見、之ヲ思《シノ》ビテ愴然タリ。古人言ヘルアリ。名ノ立タザルヲ患フ。年ノ長カラザルヲ患ヘズト。逵存ゼシトキ忠勲アリ。没シテ思《シノ》バル。死シテ朽チザル者ト謂フベシ。其《ソレ》天下ニ布告シ以テ將來ヲ勘メヨト(○以上譯文)
とある患2名之不1v立に據つたのであらうから名者不立之而は舊訓の如く名ハタタズシテとよむがよからう
 追記 呉書韋曜傳にも
  是以古之志士悼2年歯之流邁1而懼2名稱之不1v立也
とある。晋書周處傳に
(200) 陸雲曰。……患2志之不1v立。何憂2名之不1v彰
とあり奥書太史慈傳の註に
 慈臨v亡歎息曰。丈夫生v世當d帶2七尺之劔1以升c天子之階u。今所v志未v從。奈何而死
とあるも參照すべきである。さて今の歌の左註に
 右一首山上憶良臣沈痾之時藤原朝臣八束使2河邊朝臣東人1令v問2所v疾之状1。於v是憶良臣報語已畢有v須〔左△〕拭v涕悲嘆口2吟此歌1
とある。之を見ると藤原八束は憶良より目上か年上かのやうに見えるが實は憶良が此歌を作つた天平五年には憶良は年七十四(余の推定に依れば五十四歳)で八束はまだ十九歳の青年である。又憶良は前筑前守で、位階はよく分らぬが二十年前に夙く從五位下になつて居るに反して八束は此時まだ從五位下にもなつて居なかつた。然らば八束は何故に後輩として自憶良の病を問はずして人をして問はしめたかと云ふに八束即後の眞楯は當時の中衛大將藤原房前の第三子で又光明皇后の御姪であつて、名門の若殿であるからである。八束の歌は集中に七首ばかり出て居るが其中で
(201) まちがてにわがする月は妹が著る三笠の山にこもりたりけり
といふ歌は恰此年の作で此卷に出て居る。思ふに八束は夙く歌を好み憶良を師と仰がぬまでも時々邸に招いて其話を聞いたのであらう。さうして憶艮が歿前に作つた士ヤモといふ歌は八束が家持に語傳へたのであらう
 
(202)    打上佐保能河原
 
萬葉集卷八に大伴坂上郎女が太宰府に居てよんだ歌に
 打上佐保の河原のあをやぎは今は春べとなりに※[奚+隹]類鴨
といふのがある。此初句を舊訓にウチアグルと訓んで居るが夙く古今六帖第一に
 む月 大伴坂上郎女 うちのぼる〔五字傍点〕佐保の川邊のあをやぎの萠出る春になりにけるかなとあつて大にいろうては居るが初句はウチノボルと訓んで居る。此歌は又玉葉集に出して居るがそれは
 題しらず 坂上郎女 うちわたす〔五字傍点〕佐保の河原の青柳も今は春べともえにけるかも
とあつて初句をさへ直して居るからここには用が無い。さて契沖はウチノボルとよむを可として
(203) 發句は六帖によりて讀べし。川原にそひて上るなり
といひ眞淵もウチノボルと訓んで其冠辭考に
 佐保道は打のぼりつつ行處ならむからに冠らせしにや
というて居る。然るに鹿持雅澄は
 打上は枕詞なり。ウチアグルと訓べし。さて打揚る眞帆と云意にいひつづけたるなるべし。佐は眞といふに通ふことあり。又はウチノボルとも訓べきにや。さらば打登る眞穂といふ意にいひかけたるなるべし(○節略)
と云うて居る。打上を枕辭と見るは必しも悪からねど、そは准枕辭など稱すべきものにて黒髪にウチナビクと添ヘアキツノ野邊に花チラフと冠らせたる類である。之をイヒカケの枕辭と見てウチアグル眞帆。ウチノボル眞穂などと説明せるは根本的に誤つて居る。余は新考(一四九五頁)に於て
 ウチノボルとよみて准枕辭とすべし○結句はナリニケムカモとあらではかなはず。されば類は誤字なり
と云うておいた。今聊之を敷衍して見よう。筑前風土記の逸文に
(204) 糟屋郡資珂島ハ昔時|氣長足《オキナガタラシ》姫尊(○神功皇后)新羅ニ幸セシ時御船|夜時《ヨル》來リテ此島ニ泊ツ。陪從ノ名ヲ大濱・小濱トイフ者アリ。便《スナハチ》小演ニ勅シテ此島ニ遣シテ火ヲ※[不/見]ム。得テ早ク來ル。大濱問ヒテ云ハク。近ク家アリヤト。小濱答へ テ云ハク。此島、打昇濱〔三字右○〕ト近ク相連接シ殆同地ト謂フベシト。因リテ近島ト曰フ。今|訛《ナマ》リテ之ヲ資珂島ト謂フ(○原漢文)
とある。筑前國糟屋郡の海岸の中央|和白《ワジロ》村大字奈多から起れる一沙嘴がある。西南に向うて海中に挺出すること三里。玄界灘と博多※[さんずい+彎]とを隔てて居る。一般に之を海の中道と稱し博多人は之を向濱とも稱する。但貝原益軒の筑前國續風土記には之を奈多の濱又は奈多の白濱と稱し、近古の書に見えたる海の中道を宗像郡津屋崎町大字|渡《ワタリ》の半島に擬して居る。右の沙嘴の尖端の西北に接して資※[言+可]島即志賀島はあるのである。さて此文中の打昇濱を益軒はウチノポリと訓んで「奈多濱なるべし」と註し栗田寛博士はウチノボル〔右△〕ハマと訓んで居られる。然も栗田氏も地名と認めて居られる。然し地名ならば益軒の如くウチノポリノ濱とよむべきであらう。青柳種麿の防人日記にはウチアゲノハマと訓んで居る。これは袖中抄卷八まつらさよひめ〔七字傍点〕の條に「又筑前國(205)風土記うちあげはま〔六字傍点〕の所にいはく」といふことの見えたるに據つたのであらう。種麿の門人なる伊藤常足の太宰管内志にも
 ウチアゲと訓べし。名義は浪のいみじく打上る處なるに因れり
と云うて居る。案ずるに右の打昇濱はウチノボル〔右△〕ハマとよむべきであつて、之と問題の萬葉集卷八の
 うちのぼる佐保のかはらのあをやぎは今は春べとなりにけむかも
と催馬樂の歌の
 大路にそひてのぼれる〔四字傍点〕青柳が花や、あをやぎがしなひを見れば今さかりなりや
とを對照するにウチノボルは遙々ト上手ヘツヅケルといふことである。風土記なるは奈多の白濱即海の中道を形容してカノ打ノボル濱と云うたので.打昇濱は此處では地名では無い。志賀島すら此時始めて命名せられたのであるから其接續地にもまだ名はあるべきで無い。少くとも打任せてウチノボリノハマと云うて通ずる程著聞したる名はあるまい。然もその普通名詞のウチノボル濱が後にウチノボリノ濱と轉じて地名となつたのであらう(昭和七年三月二十五日稿)
 
(206)    吾子はぐくめ天のたづむら
 
萬葉集卷九(新考一八二二頁)に
    天平五年癸酉遣唐使舶發2難波1入v海之時親母贈v子歌一首并短歌
 秋はぎに、妻とふ鹿《力》こそ、ひとり子を.もたりといへ、鹿兒じもの、わが獨子の、草枕.たびにしゆけば、竹珠を、しじにぬきたれ、いはひべに.ゆふとりしでて、いはひつつ、わが思《モ》ふわが子、まさきくありこそ
     反歌
 たび人のやどりせむ野に霜ふらば吾子はぐくめ天のたづむら
といふ歌がある。鹿兒ジモノワガ獨子ノといはむ興に(六義の興なり)秋ハギニ妻トフ鹿コソヒトリ子ヲモタリトイヘといへる、反歌はさながらめでたき中に特にワガ子ハグクメアメノタヅムラと云へる、思はず朱點の打たるる程おもしろい。作者はただ親母とあつて誰の母とも分らぬがたとひ深く学ばずしてもたやすく歌のよまれた(207)らしい奈良朝時代でもかやうな名歌が素養の無い人によまれようとは思はれぬ。さうしてかやうな名歌をよむ程の力のある人ならばそのよんだ歌は少からざるべく從つて其中の若干首は集中に傳つて居るだらうと思はれるに集中無数の作者の中に此親母に擬すべき人が無い。然るに新考二八九七頁以下に云へる如く奈良朝時代には風流才子の擬托の作が盛に行はれたやうであるから、これもやはり其類で無いかと思ふに天平五年癸酉と年號甲子が明記してあるを思へば擬托の作では無くて歌に特に巧なる人が遣唐使随員の親母に誂へられて代作したのであらう。但その人は誰であるか分らぬ
さてワガ子ハグクメアメノタヅムラのハグクムは翼で包む事であるが此二句はたとひ歌に特に巧なる人にでもたやすく云はれる辭では無い。恐らくはこれは史記周(ノ)本紀に周の組后稷の生れし時の事を叙して
 遷v之而棄2渠中冰上1。飛鳥以2其翼1覆《フ》2薦之1
とある覆《フ》翼の事を思うたのであらう。但さやうな本文があるにしてもそれに泥まずしてワガ子ハグクメアメノタヅムラと云はんは尋常の歌人に出來る事では無い。か(208)やうに漢籍に據る所があつたのを見ても無名の親母の作で無い事が分るであらう(昭和四年七月十三日)
 追記 柿本人麻呂の歌を除きて集中に今一首極めてめでたき長歌がある。そは卷一なる
     靈亀元年歳次乙卯秋九月志貴親王薨時作歌一首并短歌
 梓弓手にとりもちて、ますらをの、さつ矢たばさみ、たちむかふ、たかまと山に、春野やく、野火とみるまで、もゆる火を、いかにと問へば、玉ばこの、道くる人の、なく涙、ひさめにふれば、しろたへのごろもひづちて、たちとまり、われにかたらく、何しかも、もとないふ、きけば、ねのみしなかゆ、かたれば、心ぞいたきすめろぎの、神の御子の、いでましの、たびの光ぞごこだてりたる
といふ歌である。その反歌の次に右歌笠朝臣金村歌集出とある。立返りて秋ハギニ妻トフ鹿コソといふ歌の事を云はんに天平五年當時に長歌を巧に作り得たのは其名の知れたる限では笠金村・山部赤人・山上憶良・高橋蟲麻呂・大伴坂上郎女などである。其中で赤人の歌は多くは平板で、此歌の如く奇警なるは少くとも赤人の常の(209)調では無い。又憶良の歌は多くは生硬で、此歌の如く圓滑なるは少くとも憶良の常の調では無い。此歌は或は笠金村が遣唐使随員の親母に誂へられて代作したのではあるまいか。證據とては無いが參照すべき事は無いでも無い。一には此歌に匹敵すべき彼志貴親王薨時作歌の笠金村歌集に出でたる事、但或人の歌集に書載せたればとて其人の作と定められぬ事は古人の云へる如くであるが此歌の題辭には作の字があるから此歌は多分金村の作であらう。二には金村は人麻呂に私淑した形迹があるが此歌も人麻呂得意の興を用ひたる事、三には金村に此時入唐使に贈りし作ある事(卷八なる天平五年癸酉春閏三月笠朝臣金村贈入唐使歌是なり)、四には金村には人に頼まれて代作せし例ある事(卷四なる神亀元年甲子冬十月幸2紀伊國1之時爲v贈2從駕人1所v誂2娘子1笠朝臣金村作歌是なり)、此等いづれも證據となるべきものでは無い事上に云へる如くである。ただ最後の人に誂へられて代作せし例ある事、これは考證の絲口とする事が出來さうであるが大分長くなるやうであるから他日に譲らう
 
(210)    木折來而
 
萬葉集卷十三(新考二七八一頁)に
 斧とりて、丹生の檜山の、木折來而、いかだにつくり云々
第三句の木折を舊訓にキコリとよめり。近世の註釋家の中にて荷田春滿がキサキとよめる外は皆舊訓に從へり。されど折はコリとはよみ難し。然も折をコリとよむべき所以に至りては古義は勿論代匠記にも言へる所無し。按ずるに折は析の誤ならむ。さてコルを析と書けるは如何にと云ふに詩経齊風に 析v薪如v之何、匪v斧不v克、取v妻如v之何.匪v媒不v得
とあり又左傳の昭公七年に
 古人有v言曰。其父析v薪、其子弗v克《アタハズ》2負荷1
とある析を今はクダクとよむめれど、いにしへはコルとよみ習ひけむ。さて析をコルとよみ習ひたれば殊更に難字を用ひむの心は無くて析とぞ書きけむ
 
(211)    よしこさるらし
 
萬葉集卷十四なる駿河國歌に
 しだのうらをあさこぐふねはよしなしにこぐらめかもよ奈しこさるらめ
といふ歌がある。余は新考(三〇四〇頁)に奈を余の誤として
 シタは今の志太(駿河の地名)なり。ヨシナシニのヨシはワケなり。理由なり。コグラメカモは漕グラムヤハなり。ヨは助辭なり。ヨシコサルラメは由コソアルラメをつづめたるなり。こは女の歌にて男が門前を往反するを見てよめるならむ
と云うておいた。其後催馬樂の我門乎に
 わがかどを.とさんかうさんねるをのこ、よしこ左るらしや、よしこ左るらしや
 よしなしに、とさんかうさんねるをのこ、よしこ左るらしや、よしこ左るらしや
とあるに心づいて此歌が彼駿河國歌に基づいたので無いまでもそのヨシコサルラシヤは彼歌のヨシコサルラメと同義であるからヨシコサルラメを由コソアルラメ(212)の約とせる余の説は催馬樂歌研究者の中に夙く云うた人があるかも知れぬと思うたから座右にある二三の註釋をしらべて見た
其説どもをならべる前にトサンカウサンネルヲノコの語義を釋しておくが便利であらう。トサンカウサンはトサマカウザマの訛《ナマリ》で右へ行イタリ左へ行イタリといふことで徃反《ユキカヘリ》する状である。又ネルはネリユクで緩に歩む事である
次にヨシコ左ルラシヤに就いての諸家の説を奉げんにまづ賀茂眞淵の催馬樂考にはヨシコ左ルラシの左を濁つてヨシコザルラシとよんで
 我方へハ依來ザルラシヤイカガと女の思ふなり。……ヨシコザルラシのヨシは萬葉に妻ヨシコセネ云々其外にも我方へ心をよせるにも(○よす〔右△〕るにもトアルベシ)依來るにもいへり。二段のヨシナシニは右のヨシコザルのヨシとは異にて故由のヨシなり
と云うて居る。されば眞淵はヨシコ左ルラシ.を寄《ヨシ》來ザルラシの意として居るのである。次に橘守部の催馬樂の入文《イリアヤ》にはやはり左を濁つて
 今按に神代紀下に
(213)  あまざかる、ひなつめの、いわたらすせと、いし川かたぶち、かたぶちに、あみはりわたし、めろよしに、よしよりこね〔六字傍点〕、いし川かたぶち
 萬葉九紀ノ國ニヤマズカヨハンツマノ社妻ヨシコセネ〔六字傍点〕ツマトイヒナガラ、十四ニハニタツアサデコブスマコヨヒダニツマヨシコセネ〔七字傍点〕アサテ小ブスマ是らの依《ヨシ》に同じ〇二段ヨシナシニ今按に此ヨシナシは上のヨシコザルのヨシとは異にて故縁《ユヱヨシ》のヨシ也。萬葉十一妹ガ門ユキ過カネツ久方ノ雨モフラヌカソヲヨシニセム〔七字傍点〕とあるこのヨシと同じ……
 この一篇の總意はワガ門ヲ去《ユキ》過カネテ左《ト》ユキ右《カク》ユキタユタヒネリアリク男ハワガ屋ヘ寄來ズカアラン〔十一字傍点〕、イヒヨル故ヨシナクテ然スルニカアラン。問ニヨレカシト思フニトヒ來ズヤアランとおもふ女の心意氣をうたふ也
と云うて居る。即眞淵の説を全然是認し、ただそれに若干の證例を加へたまでである。次に熊谷直好の梁塵後抄には始めて左を清んで讀んで
 是も女の歌にて誰とも知らぬ男のその女の門前を往かへり往かへりあゆむさまは必其女に心ありげなるを女、下によろこびてヨシコソ有ナラシといへる也。俗に(214)ワケガアリサウナと云が如し。……ヨシコサルラシはヨシコソ有ラシ也。ゾアリケルをザリケルと云に同じ。……萬葉に志太ノ浦ヲ朝コグ舟ハヨシナシニコグラメカモヨヨシコサルラメと有に同じ
とあつて余の云うた事は夙く直好が云うて居る。すべて景樹直好等は歌人の眼で古歌を見たから学者の僻目で見誤つた事を見直した例が少く無い(昭和四年七月十二日)
 
(九九は新考の方にあり)
 
(220)    異苑
 
六朝の宋(即南朝の宋)の劉敬叔といふ人の作つた異苑といふ書がある。明の毛晋の津逮秘書の中にも清の張海鵬の學津討源の中にも収めてあるが一寸手に入らぬ。然るに萬葉集新考に此書を引かねばならぬ處が二處あつた。即卷十四(新考三〇七六頁)なるヤマドリノヲロノハツヲニ可賀美カケといふ歌の註と卷十七(新考三五六一頁)なる晩春三日遊覧詩の序の徳星の註とである。圖書館に就いて本書を検すればよいわけであるが固よりさやうな暇は無いから前者は代匠記に引きたる文を淵鑑類函に依りて訂し後者は蒙求から引いて置いた。然しやはり氣になるから森銑三君に異苑を探してくれられるやうに頼んで置いたが僅に一日を隔てたる九月十三日(昭和三年)に持つて來てくれられた。直に手に把つて見るに唐本二冊で毛晋の跋文ある津逮秘書本である。然るに朱で異苑上下と書ける外題が平田篤胤の手のやうに見える。思ひもかけぬ事であるから我眼の迷かと思ひながら表紙をめくつて見るとまさしく(221)平田氏記といふ上代様朱文の印が捺してある。されば禽胤の舊藏であつたのである。然し飜讀した形跡は見えぬ。おそらくは架蔵して用を待つたのであらう。余はザツト一讀して二三益を得る所があつた。ここには其中の一を擧げよう
萬葉集卷五なる沈痾自哀文の中(新考九八一頁)に
 志怪記ニ云ハク。廣平ノ前太守ナル北海ノ徐玄方ノ女年十八歳ニシテ死ス。其靈憑馬子ニ謂ヒテ曰ハク。我生録ヲ案ズルニ當ニ壽八十餘歳ナルベシ。今妖鬼ノ爲ニ枉殺セラレテ己ニ四年ヲ經タリ。此ニ憑馬子ニ遇ヒテ乃更ニ活クルヲ得タリト。是ナリ(○原漢文)
といふ文がある。少し心得かねる事があるがこれも原本を見る事が出來ぬから手を束ねて居つた。然るに異苑卷八に
 晋ノ廣州ノ太守|憑《フウ》孝將ノ男馬子夢ミツ。一女人年十八九歳ナルガ言ハク。我ハ乃前太守徐玄方ノ女ナリ。不幸ニシテ早ク亡セ、亡セテコノカタ四年ナリ。鬼ノ爲ニ枉殺セラレシナリ。生※[竹/録]ヲ按ズルニ乃壽八十餘ニ至レリ。今我更ニ生キ、還リテ君ノ妻トナルコトヲ聴サル。能ク委ヌル所ニ從ヒテ救治セラレムヤ否ヤト。馬子乃△(○脱字(222)あるべし)ヲ掘リ棺ヲ開キテ之ヲ視ルニ其女已ニ活キタリ。遂に夫婦ト爲リテ一男一女ヲ生ミキ(○原漢文)
とあるを見附けた。但此話は志怪記、異苑以外にも出て居るであらう
 
(223)    青頭※[奚+隹]
 
萬葉集卷十二にカモを青頭※[奚+隹]と書けり。即
 あしひきの山河水のおとにでず人の子ゆゑにこひわたる青頭※[奚+隹]《カモ》
とあり。契沖は
 青頭※[奚+隹]は鴨なり。もろこしの文にあること歟(初稿本)
といひ又
 青頭難は鴨の義訓なり(精撰本)
といひ雅澄は
 青頭※[奚+隹]は鴨にて哉《カモ》の借字なり。鴨をかく書は霰を丸雪と書る類なり。漢名にあらず〔六字傍点〕。
 戀水《ナミダ》・西渡《カタブク》などかけるに似たることなり。此類集中に甚多し
といへり。案ずるに青頭※[奚+隹]は三國魏時代に漢土に行はれし鴨の俗稱なり〔青頭〜二十二字傍点〕。魏書三少帝紀の裴松之註に
(224) 世語及魏氏春秋竝云。此秋姜維寇2隴右1。時安東將軍司馬文王鎮2許昌1。徴還撃v維。至2京師1。帝於2平樂観1以臨2軍過1。中領軍許允與2左右小臣1謀d因2文王辭1殺v之勒2其衆1以退c大將軍u。已書2詔于前1。文王入。帝方食v栗。優人雲午等唱曰。青頭※[奚+隹]青頭※[奚+隹]。青頭※[奚+隹]者鴨也〔六字傍点〕。帝懼不2敢發1
とあり。煩はしけれど右の文を補譯せむに
 三國の時蜀の姜維が魏の隴西を侵した。其時の親王は靡帝芳であつたが安東將軍司馬昭が許昌に居たのを呼戻して維を討たしめた。其途中京師を過ぎた。是より先、大將軍司馬師・安東將軍司馬昭兄弟は故丞相司馬懿の子として權を専にして居たから中領軍許允等、其終に魏の社稷を奪はんを恐れ昭が京師を過ぎて魏主に暇乞をするを機曾として之を殺し其軍を率ゐて昭の兄司馬師をも退けんことを謀り司馬昭を殺すべき旨の詔書を草したが魏主がまだ詔書に押字を署せざる間に、はや昭が入來つた。然るに押字を署せざれば詔書の効力が發生せぬから、はやく押字をと云ひたいが目の前に昭が居るのであるから押とは云はれぬ。そこで押と同音(共にアフ)なる鴨の俗稱を青頭※[奚+隹]といふから宮延俳優なる雲午等が氣をきかせて青頭※[奚+隹]々々々と呼んだが魏主は懼れて押字を書かなかつた。其内に昭は出て行い(225)てしまうた。さうして魏主芳は後に司馬師に廢せられ其次の後靡帝髦は司馬昭に殺され其次の元帝奐の時に昭の子の司馬炎に迫られて位を禅り魏が亡び晋が興つた。青頭※[奚+隹]一件の時、兄師が大將軍兼録尚書事で弟昭は安東將軍で兄師の下に附いて居たのであるが兄が死んだ後に、元帝の時に進んで晋王となり死して文と謚せられた。其後の稱なる文王を三國志注には前へ廻らして安東將軍司馬文王と書ける爲に事情を知らぬ讀者は所謂大將軍より先輩であるやうに誤解するであらうと思ふから少々補譯の筆を進めたのである
右の如くなれば青頭※[奚+隹]は漢名にて萬葉集の編者が妄に戯書したるにはあらず
 
(226)    ※[女+燿の旁]歌會歌
 
史記淳子※[髪の上半/机の旁]傳(滑稽傳)に
 若乃州閭之會、男女雑坐行v酒稽留、六博投壷相引爲v曹、握v手無v罰目※[目+台]不v禁而有2堕珥1後有2遣簪1、※[髪の上半/机の旁]竊樂v此、飲可2八斗1而醉二參
とある。讀下しやすいやうに假名まじりに譯するならば
 若乃《サテハ》州閭ノ會ニ男女雑坐シ酒ヲ行《メグ》ラシテ稽留シ六博投壺ニ相引キテ曹《タグヒ》トシ手ヲ握レドモ罰ナク目※[目+台]《ミツム》レドモ禁《イサ》メズ前ニ堕チタル珥《ミミワ》アリ後ニ遣《オ》チタル簪アラムニ※[髪の上半/机の旁]|竊《ココロ》ニ此ヲ樂ム。飲ムコト八斗バカリニシテ醉フコト二三ナリ
これでよからう。ここに萬葉集卷九なる登2筑波嶺1爲2※[女+燿の旁]歌會1日作歌(新考一七七八頁)に
 あともひて、をとめをとこの、ゆきつどひ、かがふかがひに、人妻に、われもあはむ、わが妻に、人もことどへ、此山を、うしはく神の、むかしより、いさめぬわざぞ、けふのみは、めぐしもな見そ、事もとがむな
(227)とあるは少くともいくらか右の史記の文に據つたのであらう。特にイサメヌワザゾのイサメヌを不禁と書けると史記に目※[目+台]不禁とあると一致せるに注目するがよい。このカガヒも、萬葉集卷十六(新考三三七四頁)に見えたるスミノエノ小集樂も、その歌の註に擧げたる語例も皆いはゆる州閭之會である(昭和四年七月十三日)
 
(228)    出擧
 
萬葉集卷十七(新考三六四九頁)なる出擧《スヰコ》の擧《コ》を從來或は返の義とし或は用の意とせるを余は貸といふこととして日本後紀・三善清行意見十二箇條・日本靈異記から證を擧げておいたがなほ漢籍から擧は貸借の義なる一明證を擧げよう。即魏書第二十四高柔傳に
 柔重問曰。汝夫不與人有怨讎乎。對曰。夫良書與人無讎。又曰。汝夫不與人交餞財乎。對曰。嘗出餞與同營士焦子文求不得。時子文適坐小事繋獄。柔乃見子文問所坐。言次曰。汝頗曾擧人餞不。子文曰。自以單貧初不敢擧人餞物也。柔察子文色動逐曰。汝昔擧※[穴/賣]禮餞何言不邪。子文怪知事露應對不次。柔曰。汝已殺禮。便宜早服。子文於是叩頭具首殺禮本末埋蔵處所
 柔重ネテ問ヒテ曰ク。汝ノ夫、人ト怨讎アラザルカト。對ヘテ曰ク。夫ハ良善ニシテ人ト讎ナシト。又曰ク。汝ノ夫、人ト餞財ヲ交《カハ》サザルカト。對ヘテ曰ク。嘗テ餞ヲ出シテ同(229)營ノ士焦子文ニ與フ。求ムレドモ得ズト。時ニ子文適、小事ニ坐セラレテ獄ニ繋ガル。柔乃子文ヲ見テ坐セラルル所ヲ問フ。言ノ次《ツイデ》ニ曰ク。汝頗曾テ人ノ餞ヲ擧〔右△〕セシカ不《イナ》カト。子文曰ク。自、單貧ナルヲ以テ初ヨリ敢テ人ノ餞物ヲ擧〔右△〕セザルナリト。柔、子文ノ色ノ動クヲ察シ遂ニ曰ク。汝昔、※[穴/賣]禮ノ餞ヲ擧〔右△〕ス。何ゾ不《イナ》ト言フヤト。子文怪ミテ事ノ露レシヲ知リ應對不次ナリ。柔ノ曰ク。汝已ニ禮ヲ殺ス。便《スナハチ》宜シク早ク服スベシト。子文是ニ於テ叩頭シテ具ニ禮ヲ殺シシ本末・埋蔵ノ處所ヲ首ス(○以上譯文)
右の文中の擧は明に借の義である
 追記 擧字の用例は其後も澤山見たが、たとへば續日本紀寶亀十年九月の下に
  頃年百姓競求2利潤1或擧〔右△〕2少錢1貪2得多利1、或期2重契1強責2資財1。未v經2幾月1忽然一倍、窮民酬償彌致v滅v門
とあるは貸の義である
 
(230)    凶問
 
萬葉集卷五の初に
    太宰師大伴卿報2凶間1歌一首
  禍故重畳、凶問累集.永懐2崩心之悲1獨流2斷腸之泣1。但依2両君大助1傾命纔繼耳。筆不v盡v 言古今所v嘆
 よのなかはむなしきものとしるときしいよよますますかなしかりけり
  神亀五年六月二十三日
といふ歌がある。此歌の題辭并小序の凶間といふ語に就いて不審がある
まづ代匠記に
 大伴卿の妻大伴郎女死去せられけるを聞て都より弔らひ聞えける人に答てよまるる歌なり。郎女の死去は神亀五年春夏の間歟。第八夏部石上堅魚朝臣を御弔の勅使に下し給ひて賻物など給はりける時堅魚と大伴卿の贈答の歌四五月の間と見(231)ゆればなり。今歌後註に六月廿三日とあるは私の弔は勅使よりも遅く返事も便に随ふ故なるべし
といひ略解には
 此報凶問は卷八に神亀五年大伴卿之妻大伴郎女遇v病長逝焉と見えたると同じ時にて大伴郎女みまかれる後、都より時の公卿の兩人の許よりとぶらひおこせし時それに答てよまれし也。大伴郎女のみまかれるは春の未か夏の初めなるべし。今は勅使よりもおそく酬報も便にしたがひておそかるべし(○以上代匠記の説に同じ)……さて此書牘に両君とあるを稻君・胡麻呂をさすといふ説あれどしからず。大伴卿病ありて稻君・胡麻呂の太宰へ下りしは天平二年六月にて是よりは後の事也。其事は第四にあり。しかれども凶問累集といひ依2両君大助1傾命纔繼とあるは妻の喪の後又自ら病あつくて京より両使の下りしに報ぜしとせん事ことわりはよくかなひたるやう也。ただ年號あはねばさにはあらざる事しるし。この凶間累集といひ依両君大助といへるゆゑ別に有べし。そは今考べきよしなし
というて居る、古義は代匠記初稿本の説を擧げたるのみ
(232)契沖は凶問を弔問の義とし略解も古義も之を是認して居るやうであるが弔問を凶問とは云はれぬ。抑凶問の問は字書にも間與v聞同となり聞又通作v問とあつて聞の通用である。たとへば漢書匡衡傳に 將軍(○史高)以2親戚1輔v政貴重於2天下1無v二。然衆庶論議令問〔二字傍点〕休譽不3専在2將軍1者何也
とある令間は令聞で(休譽は美譽で)ある。又
 道徳弘2於京師1淑問〔二字傍点〕揚2乎疆外1。然後大化可v成禮譲可v興也
とある淑問は淑聞でやがて令聞である。されば凶問は凶聞で凶事のシラセである。問をシラセの義に用ひたる若干の例を擧ぐるならば魏書裴潜傳に
 時代郡大亂。以v潜爲2代郡太守1。烏丸王及其大人凡三人各自稱2單于1専制2郡事1……在v代三年、還爲2丞相理曹掾1。太祖褒2稱治v代之功1。潜曰……以v勢料v之代必復叛。於v是太祖深悔2還v潜之速1。後数十日三單于反問〔二字傍点〕至
とあり蜀書魏延傳に
 初蒋※[王+宛]率2宿衞諸營1赴v難北行。行数十里延死問〔二字傍点〕至。乃|旋《カヘル》
同霍峻傳註霍弋傳に
(233) 弋曰。今道路隔塞、未v詳2主之安危大故1。去就不v可v苟也……得2後主東遷之間〔四字傍点〕1始率2六郡將守1上表曰云云
同傳註羅憲傳に
 待2後主委質問〔三字傍点〕至1乃帥v所v統臨2于都亭1三日云云
同※[言+焦]周傳に
 亮(○諸葛亮)卒2於敵庭1。周在v家聞v問〔右△〕即便奔赴
同黄権傳に後待2審問〔二字傍点〕1果如v所v言また及2先主薨1問〔右△〕至v魏とあり同傳註に疑惑未v實請|須《マタム》2後問〔二字傍点〕1とあり同張嶷傳に数日問〔右△〕至とある問はシラセ、反問は叛いたシラセ、死問は死んだシラセ、後主東遷之問と後生委質問とは蜀の後主劉禅が無事に魏に降參したシラセ、審問はたしかなシラセ、後問は後のシラセである。まさしく凶問と云へる例もある。即魏書卞皇后傳に
 太祖微服東出避v難。袁術傳2太祖凶問〔二字傍点〕1。時太祖左右至v洛者皆欲v歸。后止v之曰。曹君吉凶未v可v知。今日還v家明日若在、何面目復相見也
とあり同書王基傳に
 (234)是歳基母卒、詔秘2其凶問〔二字傍点〕1迎2基父豹喪1合2葬洛陽1
とある。これは無くなつたシラセである。されば旅人の歌の題辭并小序の凶問も凶事のシラセであつて題辭に報2凶問1歌とあるは奈良の都で近親が相次いで物故しその事を二人の人が奈良の都から太宰府へ知らせ來てたのに答へた歌である
旅人の妻大伴郎女は萬葉集卷三(新考五三八頁)に
 神亀五年戊辰太宰帥大伴卿思2戀故人1歌三首
とあり又卷八なる式部大輔石上堅魚朝臣歌の左註(新考一五二五頁)に
 右神亀五年戊辰太宰帥大伴卿之妻大伴郎女遇v病長逝焉。于v時勅使式部大輔石上朝臣堅魚遣2太宰府1弔v喪并賜2物色1。其事既畢、驛使及府諸大夫等共登2記夷城1而望遠之日乃作2此歌1
とあるから神亀五年に(其四五月より前に)卒した事は明である。さうして從來太宰府で卒したと信せられて居る。さて彼ヨノナカハムナシキモノトシルトキシといふ歌を奈良で近親が相次いで物故しその事を奈良から太宰府へ知らせて來たのに答へた歌とすると此歌は大伴郎女の卒去には関係の無い歌であるか
(235)今述べた通り從來大伴郎女は太宰府で歿したと信ぜられて居るがこれにも不審がある。卷三なる天平二年庚午冬十二月太宰帥大伴卿向v京上v道之時作歌(新考五四九頁)にワギモコガミシ鞆ノ浦ノムロノ樹ハといひ、イソノ上ニ根ハフムロノ木ミシ人ヲといひ、妹トコシミヌメノ埼ヲといひ、ユクサニハフタリワガ見シコノ埼ヲといへるを見れば郎女は確に夫旅人と共に太宰府に下つたのであるがそのまま太宰府に居て太宰府で卒したといふ證は集中に見えぬ。げに
 いその上に根はふむろの木みし人をいづらととはばかたりつげむか
 妹とこしみぬめの埼をかへるさに獨し見ればなみだぐましも
 ゆくさにはふたりわがみし此埼をひとりすぐればこころがなしも
と云へるは任地で妻を失うたから二人たぐひ往いて獨のみ還る悲を歌うたらしくも見えるが又在任中にまづ妻を大和へ歸しその妻が夫の任滿ちて歸るを待たずして亡せたからたぐひ往きし往時をしのぴてかくよんだものとも見られぬ事は無い。轉じて郎女が大和でうせたらしい證を擧げるならばまづ卷三なる神龜五年の處(新考五三九頁)に
(236) かへるべき時にはなりぬみやこにてたがたもとをかわがまくらかむ
 みやこなるあれたる家にひとりねば旅にまさりてくるしかるべし
とありて
 右二首臨2近向v京之時1作歌
とあるが第一及第二の證である。此時には終に歸らずして翌々天平二年の十二月に至つて始めて歸つたのであるらしいが任地で妻がうせたからとて任期中に京に歸らうとはしまい。妻が大和でうせたから暇を乞うて歸らうとしたのではあるまいか。又妻が任地でうせたからたとひ大和に歸るとも誰とか相寢むといふ心でミヤコニテタガタモトヲカワガマクラカムと云うたのではあるまい。都にて待受くべき人が無くんば特にミヤコニテと云ひはすまい。又ミヤコナルアレタル家ニといへるも久しく任地に居たが爲に家が荒れたと見るよりは妻がうせたが爲に荒れたと見る方が穩ではあるまいか。次に同じ卷の天平二年の處(新考五五四頁)なる還入2故郷家1即作歌三首の第一首なる
 人もなきむなしき家はくさまくら旅にまさりてくるしかりけり
(237)といふ歌が第三證である。余は夙く新考の此歌の上に
 初二の調、妻が留守したりしやうに聞えて心ゆかず
と書いておいた。もし郎女は太宰府でうせたといふ從來の説を聞知らぬ人が直に此歌を見たならば誰でも郎女は奈良の家に留守して居たものと思ふであらう。大伴郎女はおそらくは大和で無くなつたのであらう
然らば彼ヨノナカハムナシキモノトシルトキシといふ歌は大和から郎女の訃音の達した時に作つたのであるか。それを決するには先郎女のうせた時を吟味せねばならぬ
郎女の亡せし時を定むるには堅魚の歌に霍公鳥と卯花とをよみ旅人の和歌に橘花と霍公鳥とを使ひたるを基とせねばならぬがまづ延喜主計式に
 太宰府(行程上廿七日、下十四日)海路卅日
とある。郎女の歿後、日ならずして弔喪の勅使を差遣せられ其勅使は陸路を馳下つたとしても太宰府に下著し弔喪の事が終つて附近の勝地を遊覧する迄には一箇月ばかり経過したものと見ねばならぬ。さて霍公鳥が啼き卯花椿花のさくは陰暦四五月(238)の交であるから郎女のうせたのは三四月の交とせねばならぬ。契沖が「郎女の死去は神亀五年春夏の間歟」と云へるは余の説と一致せるに似たれど契沖の如く郎女の卒去の地を太宰府とするならば其由を朝廷に奏上するに又一箇月許を要するであらうから卒去の時は二三月の交とせねばならぬでは無いか。それにも拘はらず契沖は春夏の間の卒去として居るのであるが春夏の間に歿せし人を弔問(凶問を弔問の義として)せしに答へし歌としては六月二十三日の作では遅きに過ぎるといふ難あるべきを察して
 私の弔は勅使よりも遅く返事も便に随ふ故なるべし
と云うて居るが奈良で三四月の交に卒すれば勿論の事、太宰府で二三月の交にうせても京人の書信(余の説に據れば訃音、契沖の説に從へば弔問)は四五月の交に太宰府に到るであらう。否所謂両君は歴々の京官なるべければたとひ弔問であらうとも勅使又はその随員に托したであらうから勅使の下著よりおくれては達すまい。又旅人の報書も勅使又はその随員に托したであらうから妻のうせた弔問に對する報書としては六月二十三日はあまりに遅きに過ぎる。まして余の説の如く訃音とすれば準(239)備に時を要する勅使の下著より先に達せねばならぬ。否勅使の弔喪を待ちて始めて妻のうせしを知るといふ事はあるまい。されば彼ヨノナカハ空シキモノトシル時シといふ歌は郎女の計音に接した時に作つたのではあるまい
さて小序に禍故重疊凶問累集(故は事なり)といへるを見れば妻の無くなつたといふシラセの外に少くとも今一人の訃音に接したのである。略解に凶問を弔問とする契沖の説に從うて妻を失うた外に自病みし事として「傾命纔繼といへるは大伴卿の自の病の癒たるをいふ」というて居るが病氣のみまひを凶問と云はうや。あまりに稚き解釋である。契沖が
 禍故重畳とはこれよりさきにも猶凶事ありける歟
と云へるはさすがに卓見であるが今一人の親近者のうせたのは妻より前では無く後であらう。其第二訃音に接して此歌は作つたのであらう。さうして次いで亡せたのは恐らくは旅人の幼兒なるべく又両君といへるは當時旅人の長男家持はまだ少年であつたからそれに代つて葬事以下を經紀した親族であらう(昭和五年二月十一日稿)
(240) 追記 右の大伴郎女は家持の母では無い。續日本紀天應元年の下に
 五月乙丑(〇七日)正四位上大伴宿禰家持爲2左大辨1。春宮大夫如レ故
 八月甲午(〇八日)正四位上大伴宿禰家持爲2左大辨兼春宮大夫1。先v是遭2母憂1解任。至v是復焉とあるから家持の母は天應元年の夏秋の交に歿したのである。從つて神亀五年に歿した大伴郎女とは別人である
 
(241)  請間
 
萬葉集卷二十なるアシヒキノ山ニユキケムといふ歌の左註に
 右天平勝寶五年五月在2於大納言藤原朝臣之家1依v奏v事而請v間之間少主鈴山田史土麿語2少納言大伴宿禰家持1曰。昔聞2此言1。即誦2此歌1也
とある請間に就いて新考(三九八八頁)に
 請間ははやく左傳昭公四年に寡君願v結2驩於二三君1使2擧請1v間と見えたり。但ここは漢書叔孫通傳に通奏v事因請v間とあるに依りて書けるならむ。仲麻呂ノ手スキニナルヲ待チテ居ル間ニ山田土麻呂ガ云々語リキと云へるなり
と云うておいたが仲麻呂ノ手スキニナルヲの上に内々ニ言フべキ事アリテと書添ふべきであつた。此事をいふついでに此語に就いて少し記述して見よう
請間といふ語は漢籍に無数に見えて居るが漢書文帝紀に太尉王勃進曰願請間とある註に
(242) 師古曰。間容也。猶3今言2中間1也。請2容暇之|頃《ヒマ》1當v有v所v陳不v欲2於v衆顯論1也。他皆類v之
とあり又彼叔孫通傳の通奏v事因請v間曰の註に
 師古曰。請2空隙之時1不v欲2對v衆言1v之
とあり又※[萠+リ]通傳に通因請v間とある註に
 師古曰。不v欲2顯言1故請2間隙1而私説
とある。されば顔師古(唐太宗の時の人)は請間を密ニ言フベキ事アリテ人無キ時ニ會ハム事ヲ請フといふ意として居るのである。げに史記淮陰侯列傳に
 願少間(セヨ)。信曰。左右去矣〔四字傍点〕
とあり。おなじく袁※[央/皿]傳に請辟v人〔二字傍点〕賜v間とあり漢書※[龍/共]遂傳(循吏傳)に
 遂曰。臣痛2社稷危1也。願賜2請間1※[立+曷]v愚。王辟2左右〔三字傍点〕1
とあり三國志魏書王弼傳の裴註に
 於v是以v弼補2臺郎1。初除(ノトキ)覲《マミユ》v爽(○曹爽)請v間。爽爲屏2左右〔三字傍点〕1
とありなどするから請間の間は人間《ヒトマ》といふ事で請間は畢竟人ばらひを請ふ事である
 
(243)  山上憶良の一癖
 
山上憶良が作歌の内容に外形に(主として支那文學を基として)新工夫を凝した事は一わたり萬葉集を見た人の誰でも心づく事であらう。さて世間には舊きに厭きたる餘に新しきにめでて奇即美と早合點する人がある。是憶良が眞價以上に買はるる所以である。もし憶良が他人の如く様に依つて胡慮をゑがいたならば其筆力は固より不足する所が無かつたらう。然し憶良のやうに新境地を拓かうとするに其腕力は果して間然する研が無かつたらうか。是宜しく冷静に考慮すべき所である。但余は茲に憶良の修辭力を批評しようとするのでは無い。それは他日に護る事とするが、ここに言はんとするは憶良の修辭上の一癖である。此癖を心得て居らぬと憶良の歌の辭句の意を誤解する事がある。現に余も(修辭上の常識に據つて)誤解した事がある
其癖とは何ぞ。所謂歇後の癖である。即辭を略する癖である。無論一千二百年以前と今日とは物いひのかはつて居る事もあるから萬葉集中には今の常識では略すまじき(244)辭を略せる例も多々有る事であるが余の言はんとする所はそれでは無い。たとひ二千二百年以前の人でも常人ならば略すまじき辭を略せる例である。余が憶良の修辭上の一癖といふは此事である。左に其二三の例を擧げて見よう。まづ鎮懐石の歌に
 かむながら、かむさびいます、くしみたま、いまのをつつに、たふときろかも
とある。カムナガラは獨逸語のゲツトリツヒ(英語のゴツトライク)で天皇神祇などの言動に威厳あらしむべく添へ言ふ辭、カムサビイマスはモノフリタルといふ事、クシミタマは靈玉ガといふ事、イマノヲツツニは目前といふ事、タフトキロカモはタフトキカナの古語であるがイマノヲツツニの下にミエテなどいふ辭が無くては物足らぬ。次に貧窮問答歌に
 し可〔左△〕《ハ》ぶかひ、鼻ひしぴしに、しかとあらぬ.ひげかきなでて、あれをおきて、人はあらじと、ほころへど、さむくしあれば云々
とある。シハブカヒはシハブキの延言である。
 ○比長歌にはわざとであるか知らぬがツヅシロヒ・ススロヒテ・ホコロヘド・ヨバヒヌなど延言が累用してある
(245)ヒシビシニのヒシビシは鼻汁を啜りこむ音、ニは後世のトであるからヒシビシニはスウスウトといふ事である。さてヒシビシニの下に動詞が無いから余は新考(九七〇頁)に鼻ガ〔右△〕ヒシビシトと譯したが、よく思ふにこれは必ナラシといふ辭を添ふべきを例の癖で略したのであるから鼻ヒシビシニを譯するにはナラシといふ辭を加へて鼻ヲ〔右△〕スウスウト鳴シと譯すべきである。又ワラトキシキテの下に臥シテといふ語を加へて見ねばならぬ。もとのままでは藁を解敷いて坐して居るやうに聞えるが主人が坐してゐたのでは
 父母は、枕のかたに、妻子《メコ》どもは、足《アト》の方に、かくみゐて、うれひさまよひ
といへると打合はぬからである。されば此歌の第二段の貧者は極貧なるが上に適に病に罹つて臥してゐたのである。但右のフシテといふ語を略したるは扶けていはば父母ハ、枕ノ方ニ、妻子ドモハ、アトノ方ニ云々できかせたものとも云はれる。次に好去好來歌に
 うな原の、邊にもおきにも、神づまり、うしはきいます、もろもろの、大御神たち、ふなの舳《へ》に、道引麻志遠、あめつちちの.大御神たち、やまとの、大國みたま、ひさかたの、あまのみ(246)そらゆ、あまがけり、見わたしたまひ云々
とある。以上十六句は往路の状で、そのうち初六句は洋中ノ處々ニイマス神タチガといふこと又終八句は天地ノ神々ト大和國ノ産土神トガ空ヲ翔リツツ四方ヲ見渡シテ大使ノ船ヲ護リタマヒといふ事である。道引麻志遠の遠は此儘ならば衍字とせねばならぬ。さてフナノヘニは船ノ前端ニといふ事であるから、その次にイマシテなどいふ語が無くてはかなはぬ。又ミワタシタマヒと其次の事ヲハリカヘラム日ハとの移行が頗妥ならぬ或は初八句と終八句とが顛倒したのではあるまいか。又道引麻志遠〔初八句と〜傍点〕の遠は弖を遠の草體と見誤つたのではあるまいか。即原作は
 天地の、大御神たち、やまとの、大國みたま、久堅の、あまのみそらゆ、あまがけり、見渡したまひ、うな原の、邊にもおきにも、神づまり、うしはきいます、もろもろの、大御神たち、ふなの舳《ヘ》に、道びきまして、事をはり、かへらむ日は云々
とあつたのではあるまいか。もしさうであるならばフナノヘニの下に例の癖でイマシテなどいふ語を略したる外は妥ならぬ處が無いやうである。因にいふ。此歌は冒頭に
(247) 神代より、いひつてけらく、そらみつ、やまとの國は、すめ神のいつくし吉〔左△〕《ム》國、ことだまの、さきはふ國と、かたりつぎ、いひつがひけり
といへるに拘はらず次下に皇神ノイツクシミのみを述べて言ダマノサキハヒを述べて居らぬから冒頭に両者を對へ擧げたのが徒になつて居るがそれは言ダマノサキハヒを顯に述べる事となると神祇ノ護ト共ニ此我祝辭ノ祐ニ頼リテといふやうになるからわざとおぼめかしたのでもあらう。次に戀男子名古日歌の末に
 立をどり足ずりさけぴ、ふしあふぎ、胸うちなげき、手にもたる、あが手とばしつ、世のなかの道とあるが手ニモタル玉ヲトバシツとこそいふべきをアガ子といへるが妥ならぬ上にムネウチナゲキの下に辭が足らぬ。胸うち嘆きて我子を飛ばしたのでは無いからである。せめてはナゲカクとでも云はねばならぬ。世ノナカノミチの前後にも辭が足らぬ。後世ならばアハレ世ノ中などいひまぎらかす處である。最甚しく辭を略したるは令反惑情歌であるが、それはくはしく新考に云つておいたから今は略する(昭和五年十一月三十日)
 
(248)    老身重病經年辛苦及思兒等歌
 
前回の雑話即「山上憶良の一癖」の中に彼好去好來歌中の
 うな原の、邊にもおきにも、神づまり、うしはきいます、もろもろの、大御神たち、ふなの舳に、道引麻志遠」あめつちの、大御神たち、やまとの、大國みたま、ひさかたの、あまのみそらゆ、あまがけり、見わたしたまひ云々
は初八句と終八句とが顛倒したので、腹作は
 天地の、大御神たち、やまとの.大國みたま、久堅の、あまのみそらゆ、あまがけり、見渡したまひ」うな原の、邊にもおきにも、神づまり、うしはきいます、もろもろの、大御神たち、ふなのへに、道びきまして、事をはり、かへらむ日は云々
とあつたのであらうと云つたが同じ五卷に見えたる同じ人の歌に今一つ顛倒であるまいかと思はれる處がある。即老身重病経年辛苦及思兒等歌の中に
 晝はも、なげかひくらし、よるはも、息づきあかし、年ながく、やみし渡れば、月かさね、う(249)れひさまよひ、ことごとは.しななともへど云々
とある。之を耳近くうつすならば
 晝ハ嘆キ暮シ夜ハ太息シ明シ年久シク病ニ臥シ續クレバ月ヲ累ネテ坤吟シ、カクノ如クナラバ寧死ナムト思へドモ云々
といふ意であるが、もし今のままならば年ナガクヤミ渡リ月カサネ憂ヒサマヨヘバといひて已然《イゼン》のバを下に移さねばならぬ。否短く少きより長く多きに及ぼすのが順當であるから月カサネウレヒサマヨヒ年ナガク病ミシワタレバと云はねばならぬ。恐らくは原作はさうであつたのが傳寫の際に顛倒したのであらう。かく云ふと又「校本萬葉集を※[手偏+驗の旁]するにいづれの本にも今の如くあるでは無いか」と云ふ人があるだらうがいづれの書でも今に傳はれるは多くは一系統の本である。もし幸に諸種の系統の本が傳はつて居るならばそれを對照して原本の眞面目を覗ふ事が出來るが賞際さういふ事の出來かぬるは諸種の書に亙つて研究した人は誰でも経験した事であらう。因にいふ。右の歌の反歌の中の
 すべもなく苦しくあればいではしりいななともへど兒らにさやりぬ
(250)の出波之利伊奈々を新考(九八九頁)には長歌に
 ことごとは、死ななともへど、さばへなす、さわぐ兒どもを、うつてては、しにはしらず
とあるにもたれて死ぬる事と解して
 イデハシリイナナトモヘドは長歌にシナナトモヘドといへるに當れり
と云つておいたが、やはり出家する意であらう。但かやうな誤解の責は作者も其一半を負はねばならぬ(昭和六年一月二十四日草)
 
(251)    弟日
 
萬葉集卷一に慶雲三年丙午幸2于難波宮1時長皇子《ナガノミコ》御歌に
 霰うつあられ松原すみのえの弟日娘とみれどあかぬかも
といふがある。弟日娘はオトヒヲトメとよむべきであるがその弟日に就いてまづ契沖は「弟日はただ弟にて日は助語なるべし」といつて歌釋中にはウツクシキ娘と譯して居る。次に眞淵は
 後世も兄弟の事をオトドヒ(○オトトエの誤)といへり。然ればここもはらからの遊行女婦がまゐりしをもて、かくよみ給ふならん
と云つてウツクシト思フ娘ドモと譯して居る。次に古義には「弟日とは娘子の字なるべし」と云つて居る。余は新考(一〇七頁)に「オトヒは古義に云へる如く娘子の名なるべし」と云つておいた。然しこれはなほ一考を要する。まづオトヒの語例を擧げんに顕宗天皇紀に見えたる天皇龍潜中の御誥(ミゴトアゲ)に弟日ヤツコラマとある。ヤツコは(252)御自稱、ラマは後世のゾであるからヤツコラマはソレガシヂヤといふ事である。それから肥前風土記松浦郡鏡渡の下に大伴|狭手《サデ》彦が所謂松浦佐用媛を妾とした事を即娉2篠《シヌ》原村弟日姫子1成v婚と云つて居る。シヌハラは今の東松浦郡|厳木《キウラギ》村の字篠原であらう。姫子はヲトメとよむべきかとも思うたが魏書に見えたる所謂女王の卑彌呼もやがて姫子の謂で、筑紫ではヒメコといLふ語が行はれたやうであるから弟日姫子はやはりオトヒヒメコとよむべきである。さて三例を通じて見るにオトヒは弟《オト》すなはち季子といふ事でそのヒはヒコ・ヒメのとと同じくてヒコといへば男子に限りヒメと云へば女子に限るがヒは男女に亙つて云つたのであらう。ここまで書いて來て念の爲に日本書紀通釋を瞥見するに河村秀根の書紀集解に
 弟日ハ即弟ナリ。蓋古語ナリ。日古・日賣ノ日ナリ。猶弟彦卜謂フゴトシ(○原漢文)
といへるを引いて居る。されば余の右の説は全然集解の説と同一である。集解は別荘の文庫にあつて手許には無い。然し原書にあたつて見なくても大丈夫であらう
 なほ云はむにオトヒは元來オトゴといふ事ではあるがスミノエノ弟日娘やシヌハラ村ノ弟日姫子の場合ではそのオトヒは普通名詞と固有名詞との間に位した(253)であらう。辭を換へて言はばオトゴといふ原義のままでは無く人が其娘子等の呼名のやうに使つたのであらう。人があれば必其名のあるは天智天皇庚午の年に始めて完全なる戸籍を造られてより後の事で、上古には少くとも女子には實名の無かつた者が多いやうであるから右のやうな呼名は後世、贅澤に呼名を用ひたのとはちがつて實際に必要であつたであらう。されば余等がスミノエノオトヒヲトメを娘子の名と認めたのも全然當らぬ事はあるまい(昭和六年三月二十六日草)
 
(254)    力士※[人偏+舞]
 
萬葉集卷十六に
 詠2白鷺啄v木飛1歌 池神の力士※[人偏+舞]かもしらさぎの桙くひもちてとびわたるらむ
といふ歌がある。之に就いて代匠記に
 初の二句に二つの意侍るべし、一つには池神の爲に鷺の桙くひ持て力士舞をするなり。二つには池神の鷺と化して力士舞をしてみづから心を慰むるなり
といひ略解に
 大和十市郡池上郷あり。神は借字にて此池上か。そこにてかかる舞をせし事あるか。力士は手力ある佛をいへり。昔力士の鉾持たるまねぴして舞し事ありしなるべし。鷺の巣作らんとて木の小枝をくはへて飛ぶをかの力士舞に見なしたる也
といひ古義に
 歌の意は白鷺の桙をくはへて飛わたりありきめぐるは池上の力士舞にてかある(255)らむ、さても見事や、となり
と云つて居る。余は新考(三四〇一頁)に
 まづ一首の大意は白鷺ノ桙ヲクヒモチテ飛ビ渡ルハ池上ノ力士舞ニ行クニカアラム〔七字傍点〕といへるなり。池神は地名なるべし。力士マヒは池神の祭にものする舞にて當時名高かりし見物なるべし。力士マヒニカモのニを略せるなり。ホコクヒモチテの桙は木の枝なり〔七字傍点〕。クヒモチテはクハヘ持チテなり。思ふに力士舞に力士が桙を執りて舞ふことあるに由りて力士舞ニ行クニカアラムと云へるなり
と云つておいた。然し當時は先哲と同じく力士舞の典據を知らなかつた。今になつて考へると手近い佩文韻府を見ても出典だけは分つたのである。其後北史を讀んでその卷三十七なる奚康生の傳に次の文のあるを見附けた。さて漢文のままでは讀む事を煩しがる人もあらうから字のままに譯出せんに
 康生性※[鹿三つ]武ニシテ言氣高下ナリ。叉稍之ヲ憚リテ顔色ニ見《アラハ》ル。康生モ亦微ニ懼レテ安ンゼズ。正光二年二月明帝、靈太后ニ西林園ニ朝ス。文武侍坐セシガ酒酣ニシテ迭《カタミ》ニ舞フ。次《ツイデ》康生ニ至ル。乃力士※[人偏+舞]〔三字傍点〕ヲ爲ス。折旋ニ及ビテ毎《ツネ》ニ太后ヲ顧視シ手ヲ擧ゲ足(256)ヲ蹈ミ目ヲ瞋ラシ首ヲ頷シテ殺縛ノ勢ヲ爲ス。太后ソノ意ヲ解スレドモ敢テ言ハズ。日暮レテ太后、帝ヲ携ヘテ宣光殿ニ宿セムト欲ス。侯剛ノ曰ク。至尊已ニ朝シ訖リキ。嬪御南ニ在リ。何ゾ留宿ヲ勞セムト。康生ノ曰ク。至尊ハ陛下ノ兒ナリ。陛下ニ随ヒテ東西セムトス。更ニ誰ヲカ訪問セムト。群臣敢テ應フル莫シ。靈太后自起チ帝ノ臂ヲ援キ堂ヲ下リテ去ル。康生大ニ萬歳ヲ呼唱ス
右の文は少し説明を要する。南北朝の魏の宣武帝が崩じて其子明帝が立つたが幼年であつたから母胡氏が朝に臨んで制を稱した。胡氏は先帝の宮人であつたが、その生んだ子が即位した爲に皇太妃となり更に皇太后となつて崩後に靈太后と謚せられたのであるが※[女+徭の旁]亂肆情で芳しからぬ婦人であつた。靈といふのは美しい謚では無い。當時侍中元叉といふ重臣があつた。元來宗室で(魏はもと拓跋氏であつたが漢民族に同化せんとして氏も元と改めたのである)又胡太后の妹※[土+胥]であつたが政権の爭から胡氏の不徳に乗じて明帝から離間して之を幽した。奚康生はその子の妻が侯剛の女、侯剛は元叉の妹夫であつたから其關係で胡氏を幽する謀に與かつたが後に元叉と不和になつたから明帝と胡氏とが仲直りして母子相會したのを機會として力士※[人偏+舞](257)に托して、よそながら胡氏に元叉を誅する事を勧めた。侯剛が母子同宿して羞向になるを嫌つたのは母子が密に相謀つて元叉を始め己等を誅せん事を恐れたのである。さて右の文に依つて力士舞といふものが南北朝時代に、少くとも北朝に流行し、それから我邦に(南北朝時代の文物を盛に取入れた我邦に)傳來したのである事が想像せられる。然し彼歌を解釋するには無論なほあまたの資料を要する(昭和六年五月二十八日草)
 
(258)    社《コソ》 上
 
社の字は古來コソ(たとへば姫社《ヒメコソ》)とよんで萬葉集には浦ナシト人社ミラメ滷ナシト人社ミラメ(卷二)などテニヲハのコソにも借りて書いて居るが何故に社をコソとよむかといふ事はまだ知られて居らぬやうである。古義(ワタツミノトヨハタ雲ニイリ日サシの註)にも
 コソに社・與・與具などの字を書るは其義未詳ならず
と云つて居る。何故にコソに社と書くかと云ふ事を明にするには煩しいがまづ古典からヒメコソに關する事を抽出して見なければならぬ。實は筆者も讀者も時間を要する事であるから古典の記事の抄録に止めようと思ふがそれは却つて筆をも眼をも勞するであらうから長きにかまはず古典の文を(但假字交りに直して)陳列して見よう。まづ古事記應神天皇の段に
 又昔新羅國王ノ子アリ。名ヲ天之曰矛《アメノヒポコ》卜謂フ。是《コノ》人|參《マヰ》渡來キ。參渡來シ所以ハ新羅國(259)ニ一ノ沼アリ。名ヲ阿具奴摩ト謂フ。此沼ノ邊ニ一ノ賤女晝寢キ。ココニ日ノ曜《ヒカリ》、虹ノゴト其|陰上《ホド》ヲ指シキ。亦一ノ賤夫アリテ其状ヲ異《アヤ》シト思ヒテ恒ニ其女人ノ行ヲ伺ヒキ。故《カレ》コノ女人ソノ晝寢ノ時ヨリ妊身《ハラ》ミテ赤玉ヲ生ミキ。ココニソノ伺ヒシ賤夫其玉ヲ乞取リテ恒ニ裹《ツツ》ミテ腰ニ著ケタリキ。此人山谷之問ニ田ヲ營《ツク》リシ故ニ耕人等ノ飲食ヲ一ノ牛ニ負セテ山谷之中ニ入リシニ其國主ノ子天日矛ニ遇逢《ア》ヒキ。爾《カレ》ソノ人ニ問ヒテイハク。ナド汝飲食ヲ牛ニ負セテ山谷ニ入ルゾ。汝必|是《コノ》牛ヲ殺食フナラム。トイヒテ即ソノ人ヲ捕ヘテ獄ニ入レムトス。其人答ヘテイハク。吾、牛ヲ穀スニ非ズ。唯田人ノ食ヲ送ルノミ。トイフ。然レドモ猶赦サズ。爾《カレ》ソノ腰ノ玉ヲ解キテソノ國主ノ子ニ幣《マヒ》シキ。故《カレ》ソノ賤夫ヲ赦シ其玉ヲ將《モチ》來テ床邊ニ置キシニ即美麗娘子ニ化《ナ》リキ。仍《カレ》婚シテ嫡妻トシキ。爾《カレ》ソノ娘子常ニ種々ノ珍昧ヲ設ケテソノ夫ニ食ハセキ。故《カレ》ソノ國主ノ子心奢リテ妻ヲ罵リシカバ其女人言ヒケラク。凡吾ハ汝ノ妻トナルベキ女ニ非ズ。吾|祖《オヤ》ノ國ニ行カム。トイヒテ即竊ニ小船ニ乘リテ逃遁《ニゲ》渡來テ難波ニ留リキ(コハ難波ノ比賣碁曾社《ヒメゴソノモリ》ニ坐ス阿加流比賣《アカルヒメ》神卜謂フ者ナリ)
とある。比賣許曾社の社はモリとよむがよい。宣長(古事記傳二〇五八頁)が「比賣碁曾と(260)云は社號なり」といへるは從はれぬ。社字は處によつてモリとよむべきを前人は一概にヤシロと訓み、甚しきは古寫本にモリを社と書けるを、その本を上版するに當つてさかしらに杜と直して居る。社をモリとも訓むべき事は播磨風土記新考二三三頁にくはしく書いておいた。次に日本紀の垂仁天皇二年の註に
 一ニ云フ。初|都怒我阿羅斯等《ツヌガアラシト》(○意富加羅《オホカラ》國王の子)國ニ在リシ時ニ黄牛ニ田器ヲ負セテ田舍ニ將《ヰ》往キシニ黄牛忽ニ失セキ。迹ヲ尋《ト》メテ※[爪/見]《マ》ぎシニ跡、一ノ郡家《サト》ノ中ニ留リキ。時ニ一ノ老夫アリテ曰ク。汝ノ求ムル牛ハ此郡家ノ中ニ入リキ。然ルニ縣公《サトヲサ》等ノ曰ク。牛ノ負ヘル物ニ由リテ推セバ必殺食ハムト設ケタルナリ。若ソノ主|※[爪/見]《マギ》至ラバ物ヲ以テ償ハムノミ。トイヒテ即殺食ヒキ。若、牛ノ直《アタヒ》ニ何物ヲ得ムトカ欲《オモ》フト問ハバ財物ヲ望ムナ。便《スナハチ》郡内ニ祭レル神ヲ得ムト欲フト云ヘ。トゾイヒシ。俄ニシテ郡公等到リテ曰ク。牛ノ直ニ何物ヲカ得ムト欲《オモ》フト。對ヘシコト老夫ノ教ノ如シ。ソノ祭レル神ハ是白石ナリ。△《カレ》白石ヲ以テ、牛ノ主ニ授ケキ。因リテ將《モチ》來テ寢中ニ置キシニソノ神石、美麗童女ニ化リキ。ココニ阿羅斯等大ニ歓ビテ合ハムト欲《オモ》ヒキ。然ルニ阿羅斯等ガ他處ニ去《イ》ニシ間ニ重女忽ニ失セキ。阿羅斯等大ニ驚キテ己ガ婦ニ問ヒ()261テ曰ク。童女ハ何處ニカ去《イ》ニシト。對ヘテ曰ク東方ニ向ヒキト。則尋追|求《マ》ギ遂に遠ク海ニ浮ビテ日本國ニ入リキ。求《マ》グ所ノ童女ハ、難波ニ詣リテ比賣語曾|社《モリ》神トナリキ。且《マタ》豊國ノ國前《クニサキ》郡ニ至リテ復比賣語曾社神トナリキ。竝ニ二處ニ祭ラル
とある。この比賣語曾社神の社もモリとよむがよい(以上昭和六年六月二十三日稿)
 
    社《コソ》 下
 
次に攝津風土記逸文(仙覺の萬葉集註釋卷二に引ける)に
 比賣島松原ハ古、輕島豊阿伎羅宮御宇天皇(○應神天皇)ノ世ニ新羅國ニ女神アリ。其夫ヲ遁去リ來リテ暫筑紫國伊波比乃比賣島ニ住ム。乃曰ク。此島ハ猶是遠カラズ。若此島ニ居バ男神尋來ラムト。乃更ニ遷來リテ遂ニ此島ニ停ル。故《カレ》本住ミシ所ノ地名ヲ取リ以テ島ノ號トス
とある。延喜式神名帳に攝津國東|生《ナリ》郡比賣許曾神社とあり臨時祭式に比賣許曾神社一座(亦號下照比賣)とあるものが是である。
(262) ○日本書紀通釋卷二十八(一四四六頁)に右の逸文を暫住筑紫國岐伊〔二字傍点〕比賣島とある本に據つて引いて岐伊は肥前國基肄郡なりと云つて居るが基肄郡は海に臨んで居らぬ。從つて此郡に属する島がある筈が無い。宜しく伊波比乃比賣島とある本に從つて豊後国東|國東《クニサキ》郡なる姫島、即垂仁天皇紀二年なる豊國|國前《クニサキ》郡の地とすべきである。此豐國國前郡を栗田・飯田二氏が一の國を脱せる本に從つて豊前國の事とせるは從はれぬ。豊後國人小串重威の姫島考に據れば姫島は周防と豊後との間なる伊波比灘の西南偏にありて其島の海岸の岩山に赤水明神とて石の祠にいますが即ヒメコソノ神であるといふ
次に肥前國風土記基肄郡《キノコホリ》の下に
 姫|社《コソ》郷 此郷ノ中ニ川アリ。名ヲ山道《ヤマヂ》川ト曰フ。其源、郡北ノ山ヨリ出デ南流シテ御井大川(○今の筑後川)ニ會ヘリ。昔者《ムカシ》此川ノ西ニ荒ブル神アリテ行路ノ人多ク殺害セラレキ(半ハ凌ぎ半ハ殺シキ)。時ニ祟ル由ヲ卜求《ウラヘマ》グニ兆ニ云ハク。筑前國宗像郡ノ人|珂是胡《カゼコ》ヲシテ吾社(モリ)ヲ祭ラシメヨ。若願ニ合ハバ荒ブル心ヲ起サジト。即珂是古ヲ※[爪/見]《マ》ギテ神社(モリ)ヲ祭ラシム。珂是古即幡ヲ捧ゲテ祈躊シテ云ハク。誠ニ吾祀ヲ(263)欲スルナラバ此幡、風ノマニマニ飛往キテ吾ヲ願《ホリ》スル神ノ邊ニ堕チヨト。スナハチ風ノマニマニ放遣ル。時ニ其幡飛徃キテ御原郡姫社之社(ヒメコソノモリ)ニ堕チ更ニ還飛來リテ此山道川ノ邊ノ田村ニ堕ツ。珂是古因リテ神ノ在處《アリカ》ヲ知ル。其夜夢ニ臥機《クツビキ》・絡※[(土+乃)/木]《タタリ》ノ舞遊來リテ壓驚スト見キ。珂是古ココニ亦織女神ナルコトヲ識リキ。即社(ヤシロ)ヲ立テテ之ヲ祭リキ。ソレヨリ已來行路ノ人殺害セラレズ。因リテ姫社社(ヒメコソノヤシロ)ト曰フ。今以テ郷ノ名トス
とある。此一節は誤脱が多くて原のままでは通ぜぬから古寫本と推理とに據つて訂正して引用した。訓點も從來のとはちがつて居る。無論肥前風土記新考の草稿には明に原文と訂正とを別つておいた。又右の一節には同じ社の字にコソとよむべきと、ヤシロとよむべきと、モリとよむべきとがあつて頗まぎらはしいから字毎に訓註を添へておいた。もし此社字が夫々正しく訓まれたならば原文の誤脱も夙く知られたであらうし訓點も今のやうにまちがはなかつたであらう
余が讀者の迷惑も顧みず四種の古典からヒメコソに關する記事を抽出したのは之を熟讀せられなば讀者は自給論を獲られるだらうと思ふからである。即ヒメコソノ(264)神は韓國から來た女神である。否恐らくは歸化韓人がその衣服飲食に神祐あらん事を祷つて本國の女神を祭つたのであらう。ヒメはやがて其女神である。然らばコソの義は如何。日本紀に韓國の地名の山をムレ、川をナレ、村をスキ、城をサシなど訓じたるが古韓語なる事は人の知つて居る事である。思ふにコソは憑らくは右の類で、森の古韓語であらう。即歸化韓人が本國の女神を樹叢に斎きて其樹叢を姫コソなど稱した事から遂に邦語に交つたのであらう。然らば姫コソノモリなどは重複して云ふべからざるやうであるが、これは例のある事で、たとへば播磨風土記飾磨郡伊和里の下に稻牟禮《イナムレ》丘といひ、おなじく神前《カムサキ》郡多駝里の下に城牟禮《キムレ》山といひ神功皇后紀に阿利那禮河と云つて居る。ムレが山の古韓語、ナレが河の古韓語なる事は上に云つた通りである。なほコソとモリとを重ねたるは姫コソノモリばかりでなく播磨風土記美嚢《ミナギ》郡の下に志深《シジミ》里|許曾社《コソノモリ》とある(昭和六年七月二十五日病中執筆)
 
(265)    香川景樹の書翰
 
本年二月の初に出入の商人が香川景樹が其門人幕士高木|鎰《イツ》四郎義男に贈つた書簡の卷子を持つて來た。其中に左の一節があつたが卷子は買手があれば再見られなくなるから寫して置いた
 凡長歌は短歌よりはたやすきものにて未熟之歌人も人めてらひにおろ/\いひつづくる事に候〔凡長歌は〜傍点〕。長き得分に思ふ事十分いはれ候故也。さるが故に又難き所ありといふまではもとより知人も有まじきにや。よて紀氏の長歌など千歳をへて解し得る事あたはず、却て埒もなきものにあざみ落し候事かしこくも又可笑に候。されど長歌は此都になりてのはたよわくかつ風韵も無之哉に候。又上古のは事情に疎き所有てしたがひがたくや。山柿のは姑くおきて目當とすべきは平城の半より遷都前迄成べきに候。さはいへ家持卿などのは決《キハメ》て手づつに候へば更によりがたく又容赦有事に候歟〔家持卿〜傍点〕
 
(266)附 隷
 
    萬葉集の歴史的観察
 
本題は無論一囘では述べ盡されぬ。然し二三囘續けて講演する事は皆様も御迷惑であらうし當方も都合がわるいから、あとは又よい折を見て講演する事にする
本題に入るに先だちて萬葉集とは如何なる書物ぞといふ事を述べねばならぬ。然しそれに多くの時間を費しては本題に入る事が出來ぬから大略に止める
本書は古事記・日本紀と合せて我邦の三大古典と釋すべく又大寶令・風土記を加へて奈良朝以前の五大古典とも稱すべき書物である。もし古く傳來せる家寶のあるを以て家々の誇とする例に從ふならば萬葉集の傳來は適に我邦の誇の一つである。されば心ある人は其家に傳來せる寶物の性質を審にすると斉しく國民としては又萬葉集はどういふ物であるかといふ問に對する一通りの答を準備しておかなければならぬ
(267)萬葉集の卷數は二十卷、仁徳天皇の時代から淳仁天皇の天平寶字三年正月迄の歌四千五百首餘を集めたものである。天平寶字三年は奈良朝時代の末期で今より一千一百七十三年前である。上古の歌は萬葉集より早く出來た古事記・日本紀にも出て居るが歌集としての奈良朝時代唯一の古典は萬葉集である。否本集に據れば本集より前に柿本人麿歌集を始めて箇人の集があつた外に類聚歌林といふ書物があつたさうであるが今は殘つて居らぬ。然も其書物は恐らくは萬葉集のやうな浩瀚な物では無かつたらう。さればたとひ此先どこからか類聚歌林などが現はれて來ようとも萬葉集は其値を減ぜぬであらうと思はれる。萬葉集に載せたる歌は長歌短歌・旋頭歌の三體で、後の歌集に較べると長歌が非常に多い。古今集以後の歌集に出でたる長歌は數が少い上にいづれも頗拙いから長歌は奈良朝時代で亡びたと云うてよろしい。此時代でも其末期即大伴家持等の時代になると古人の歌に見えたる成句を綴合せたる迄で多くは感心の出來ぬものである。されば長歌は奈良朝時代の末期を待たずして山部赤人や笠金村と共に亡びたと云うてよい。其例外と見るべきは卷二十に見えたる大伴家持の喩族歌又卷十八に出でたる同じ人の賀陸奥國出金詔書歌、即彼
(268) 大件の、遠つ神祖《カムオヤ》の、其名をば、大來目主と、負持ちて、つかへし官《ツカサ》、海ゆかば、みづく屍、山ゆかば、草むす屍、おほきみの、邊にこそ死なめ、かへり見は、せじと言だて、ますらをの、清きその名を、いにしへよ、今の現《ヲツツ》に、流さへる、おやの子どもぞ云々
といふ事の見えたる長歌である。是等は修辭上に多少の缺點はあつても我日本國のあらん限傳はるべき歌である。萬葉集の中にも詩四首と漢文一篇とを収めて居るが同じ頃に出來た書物で専詩を集めたるは懐風藻といふものである。これも幸に傳はつて居る
萬葉集の撰者は大伴宿禰家持である。家持は歌は上手とは云はれぬが非常な歌ずきで、長い年月を費して見聞に從うてかやうに二十卷四千五百首の長短歌を書集めたのである。さて家持の薨去は桓武天皇の延暦四年八月で本集に見えたる最後の年月即天平寶字三年正月より二十六年の後であるから、たとひ人の歌を集める事は中止しようとも自分の歌は書留めておいたであらうから萬葉集は、切に云はば萬葉集に属して可なる卷子はまだあつたであらうが何分深刻なる政爭の行はれた世で家持の如きも薨去後まだ送葬もすまぬ内に追うて官吏の名を除かれ其嗣子は流罪に處(269)せられた程であるから散逸してしまうたのであらう。然し現在の二十卷だけでも傳はり來たのは實に神祇の守護である。もし萬葉集が亡びてしまうたならば我邦上代の思想風俗なども今ほどには分らぬであらう。又我邦に柿本人麻呂といふ大歌聖のあつた事も知れぬであらう。何となれば人麻呂の歌は勿論その名の見えたる唯一の文献は萬葉集であるからである。さて本集は古今集以後の集のやうによい歌を擇んだ物で無く家持が見聞するまにまに書集めたものである。されば本集には文學的價値の乏しい歌もある、然し其中にも言語・歴史・地理・風俗・思想などの研究に大切なるものもあるから、やはり全部が貴重なる寶典である。人或は云はん。四千五百首位の歌を巧拙に拘はらず集めるのは何でも無い事である。萬葉集の歌の貴重なるはそれが歳月を經た爲である。上代の遺物であるからである。よい歌を擇んで傳へたので無い家持の功勞は寧僥倖であると。成程今の世ならば相當の歌を四千五百首位集める事は必しも困難でなからうが歌よむ人の少く書いたものの少く交通の狭かつた一千二百年以前の奈良朝時代でこれだけの歌を集めるといふ事は家持の如く熱心で根氣の強い人でなければ出來ぬ事である。家持の功勞は稱賛するに餘りがある。越中國|氷《ヒ》(270)見郡では家持が其國の守であつた關係で神社を建てて家持を祭つて居るが家持の如きは國家として斎き祭るべき人である。然し武功政勲ほどに學勞を尊ばぬは我邦人一般の風であるから家持自身に不平はあるまい。彼天滿宮・人麻呂神社は例外である
萬葉集の萬葉は萬世といふことである。萬世に傳はらん事を祝して命名したのである。但家持自身が命名したのであるか否かは分らぬ。然し其名は夙く平安朝時代上期の物に見えて居る。彼古今集・後撰集以下は元來古今和歌集・後漢和歌集といふ名なるを略して古今集・後撰集といふのであるが萬葉集は初から萬葉集である。徳川時代に出版せられた一本又明治の末に出版せられた一本に萬葉和歌集と題せるは物を知らぬ人のしわざである。元來我邦のウタに對して詩をカラウタと云ふのは道理ある事であるが詩に對して我邦のウタをヤマトウタといひ和歌と書くは本末顛倒である。余は和歌といふ語をつかはぬ、まして倭歌などは書かぬ。ウタをヤマトウタといひ和歌又は倭歌と書けるは古今集以後である。實は萬葉集にも和歌といふ語が澤山見えで居るがそれはコタヘウタといふ意昧で後世の返歌又は唱和である。唯一つウタ(271)を倭歌といへる例がある。即卷五に書殿餞酒日倭歌四首とある。これは當日詩を作つた人もあるからそれに對して倭歌と云うたのであらうが、これさへもし支那にあくがれてゐた山上憶良《ヤマノウヘノオクラ》で無ければただ書殿餞酒日歌四首と書いたであらう。さすがに奈良朝時代には憶良の眞似をする人は無かつた。少くとも萬葉集時代には古今集以後の如くウタを打任せて倭歌・和歌とは云はなかつたから書名もただ萬葉集と命じたので萬葉和歌集と命じたのでは無い
萬葉集時代にはまだ假字が無かつた。片假字の發明は吉備|眞備《マキビ》であるといふ説が眞實であるならば當時片假字だけは出來てゐた筈であるが少くともまだ一般には行はれなかつた。されば萬葉集の歌は全部漢字で書いてある。さて其書式を大別すれば三種、、細別すれば凡八種である。たとへばアといふ音を阿とかくは正音、安と書くは略音、アキを秋と書くは正訓、白・金など書くは義訓、其外略訓・約訓.借訓あり甚しきは戯書というてたとへばサダメテシなどのテシを羲之又は大王と書いて居る。これは當時支那の六朝文化が輸入せられて書道で神の如く崇められたのは王羲之である。又當時書家の事をテシ(手師)と云うた。そこでサダメテシのテシを戯に戯之と書いたので(272)ある。又戯之の子の王献之も能書であつたから世人が父子を並擧する時に大王小王と云うた。そこでかのテニヲハのテシの擬字《アテジ》に大王とも書いたのである。又コヒワタルカモのカモを青頭※[奚+隹]と書いて居る。これは三國志の魏の時の俗語に鴨の事を青頭※[奚+隹]と云うた事が魏書に見えて居るのを取來つたのである。又イロニイデバのイデを山上復有山と書いて居る。これは古詩に夫が家を出て旅に在る事を隠語で藁砧今何在、山上復有山といへるに據つたのである。藁砧は※[石+夫]である。※[石+夫]と夫と同音であるから夫を隠語で藁砧と云うたのである。山上復有山は言ふまでも無く出の字である。又イブセクモアルカのイブを馬聲蜂音と書いて居る。これは馬の聲はインインと聞え蜂の羽音はブンブンと聞えるからである。かやうな例は澤山ある
さて古今集以後の假字書の歌はどういふ意味かといふ事が分ればよいのであるが萬葉集の歌はまづ以てどうよむかといふ事を研究せねばならぬ。然も一千二百年來何十回の轉寫を經て誤字・脱字・錯簡が澤山出來て居るから之を讀むだけでも容易な事では無い
萬葉集の研究は近古に始まつたのでは無い。夙く村上天皇の天暦年間即今より殆一(273)千年以前に始まつたのである。さて初は専どう訓むかの研究であつたが追々にどういふ意味かの研究も並び行はれ後には誤脱錯簡の研究も行はれるやうになつた。其一千年間に古くは鎌倉の僧仙覺。徳川時代になつては僧契沖、賀茂眞淵太居宣長・鹿持雅澄《カモチマサズミ》の如き俊傑が現れ特に近世二百五六十年以來は國學者で萬葉集を讀まぬものは無かつた。又其多數は多少の意見を述べて居る。私の如きも十九年の歳月を費して洋装八冊の萬葉集新考を著したが研究すべき事はまだいくらでもある。私が今春大宮御所の畦土筆といふ御題に依つて
 つくされむものかはくろのつくつくし次來む人よ心はばむな
といふ歌を詠進したのは然るべき事情があつて此意を寓したのである。比邊でよい加減に切上げて本題にはひらう
     歸化人の歌
歸化人の歌といへばドナタでも直に彼王仁が仁徳天皇に奉つたといふ
 なには津にさくやこの花冬ごもり今は春べとさくやこの花
といふ歌を聯想せられるであらうが、此歌は古事記・日本紀は勿論萬葉集にも見えて(274)居らぬ。此歌の始めて見えたるは古今集の序文である。然も本來の序文で無くて後人の附記した証文が本文に紛れ入つたのでは無いかといふ疑がある。此歌は無論仁徳天皇時代の調では無く奈良朝中期以前の調でも無い。恐らくは平安朝初期の作であらうと思はれる理由がある。又此歌は天皇に即位を勧め奉つた調で無く、ただ榮ゆる御世をたたへた調で、萬葉集なる
 あをによし寧樂のみやこはさく花のにほふがごとく今さかりなり
といふ歌の類である。されば此歌は決して王仁の作では無い。或は日本紀竟宴と云うていにしへ朝廷で日本紀を講せしめられて其講釋の竟つた後に宴を開いて日本紀中の人物を題として人々に歌をよましめられた事があるが此歌はいつの御世かの日本紀章宴の歌ではあるまいかと思はれる。國史に見えたる歸化人の歌の始は秦酒公《ハタノサケノキミ》であるが〈神功皇后紀に見えたる熊之凝《クマノコリ》の註に一云多呉吉師之遠祖也とある。之に依ると熊之凝は歸化人であるらしいが右の註は信ぜられぬ)それより前に語るべき面白い詩がある。允恭天皇の四十二年に天皇が崩じ給うた。そこで新羅から奉弔使を奉つた。其時代には都は大和の飛鳥にあつた。其新羅人は都の近傍なる耳なし山と畝(275)傍《ビ》山とを賞美して居たが御葬式がすんで歸途に就いて琴引坂(今の御所《ゴセ》町の南方)といふ處まで來てふり返つて見てウネメハヤミミハヤと嘆息した。異國人の事であるからウネビを訛つてウネメといひミミナシを略してミミと云うたのである。ハヤといふは我邦上代のテニヲハで名残ガヲシイといふ許の意味である。然るに見送中の一小人が之を聞いて新羅人が采女に密通してゐたのだと邪推して天皇の御子|大泊瀬《オホハヅセ》皇子(彼の雄畧天皇)に密告した。采女といふのは天皇の御膳に給仕する一種の官女で皆容貌の端正なるものであつた。皇子はやがて新羅人をからめ捕へて御調になつたが無v犯2采女1唯愛2京傍之兩山1而言耳と申披をしたので許された。比新羅人がハヤと云つたのが面白い。これが一轉すると歌になるのである。それから御三代目の雄略天皇の十二年に闘※[奚+隹]御田《ツゲノミタ》といふ上手な大工があつた。天皇がそれに命じて楼閣を作らしめられた。其普請中に御田が高い處へ登つて飛ぶが如くあちこちと駈廻つてゐた折から伊勢采女といふ采女が天皇の御膳を捧げて其下を過つたが仰いで御田の輕業を見て誤つて地に仆れて御膳をこばした。天皇はそれを御覧になつて采女が御田と密通してゐて御田の振舞に氣が取られて粗相をしたのであらうと御疑になつて(276)御田を所刑せよと命ぜられた。時に秦|酒公《サケノキミ》といふ人が御傍に侍つてゐたが天皇の御心を和げ奉らうと思うて琴を弾じてそれに合せて
 かむかぜの、いせの、いせのぬの、さかえを、いほふるかきて、しがつくるまでに、おほきみに、かたく、つかへまつらむと、わがいのちも、ながくもがと、いひしたくみはや、あたらたくみはや
と歌つた處が天皇は此歌を聞召して忽御田を赦したまうた。畏ながら雄略天皇は御氣の荒い御方であつたやうに國史に傳へて居るが其御方が御劇怒の盛に近臣が俄に琴を引いて歌をうたひ出したのを静に聞召し其歌によつて御自身の御過を反省したまうたといふ處、上代の人は歌といふものに對してどういふ心持であつたか、否上代人はいかなる心持で歌を作つたかといふ事をよく味はへば我等は恥入らねばならぬ事が多いやうである。さて今の世の耳に遠い歌を一句一語づつ解釋するとなると非常に時間がかかるから今は其大意ばかり説明しようが大意は御田ハ永ク天皇ニ仕ヘン爲ニ自分ノ寿命サヘ長カレカシト平生祈ツテ居タガ今不慮ノ事デ男盛デ命ヲ喪フノハ惜イ事デアルといふ事である。此歌の作者秦酒公は應神天皇の御世(277)に秦始皇帝の子孫と稱して百済を經て百二十餘縣の人民を率ゐて歸化した弓月君《ユツキノキミ》の曾孫である
萬葉集の作者の中にも歸化人は少く無い。その中で秦氏の人とか文《フミ》氏の人とか土理《トリ》宣令とか金《コン》明軍とか氏又は氏名で歸化人と知られる人を除いて日本風の氏又は氏名で又一わたり萬葉集を見た人の耳に殘つてゐさうな作者を拾ふならば彼
 なら山の兒手柏のふた面にかにもかくにもねぢけ人|之友《ナル》
といふ歌をよんだ背奈公《セナノキミ》行文、又麻田連陽春、葛井蓮《フヂヰノムラジ》廣成、高丘連|河内《カフチ》これは天智天皇の御世に百済から歸化した人の子で私が播磨風土記の著者に擬した人である。それから彼
 大なむち少彦名のいましけむしづのいはやは幾代へぬらむ
といふ歌を作つた生石村主眞人《オホシノスクリマヒト》、又
 梓弓ひきとよ國の鏡山見ず久ならばこひしけむかも
 おもほえず來ましし君を佐保川のかはづきかせずかへしつるかも
といふ歌を作つた※[木+安]作村主《クラツクリノスクリ》益人など歸北人の子孫は彼是三四十人もあるであらう。(278)實は「あるであらう」など云はずに全篇を通覧して數へて見たらよいのであるが此草案を作るに際してもし全篇を通覧したならば言ふべき事が多くなり過ぎて困るであらうと思うたから材料を減ずる爲に通覧を避けて脳裏に浮ぶだけの材料を安排整理したのである。されば比後にいふ事の中にも大切適切なる材料を落して第二等のものを使用する事もあらう。右の三四十人の中には相當の作家もあるが又あまり歌には得意で無いものもあるは勿論である。たとへば本集卷十七に次のやうな事が見えて居る。天平十八年正月に大雪が降つたので左大臣橘諸兄以下の諸王諸臣が太上天皇(元正)の御所へ御機嫌奉伺に出た所が酒を賜うて一同此雪を詠じて歌を奉れと仰せられた。そこで夫々歌を作つたが其中に主計頭秦|忌寸《イミキ》朝元といふ人があつたが諸兄が戯れて歌ヲ賦《ツク》ルニ堪ヘザラバ麝ヲ以テ贖ヘと云つたから其爲に歌を作らなかつたとある。これだけではよく分らぬが實はかうである。朝元は秦氏であるから無論歸化人の子孫である。其上其父の辨正法師といふ人が唐に留學して居る内に唐の婦人を娶つて朝元と其兄とを生んだが父も兄も唐で歿し朝元のみ歸朝して醫術及漢語を以て朝廷に奉仕した。さて此人は天平五年に遣唐使の一行に加はつて入唐(279)した。當時の入唐は頗危険であつたが其代に歸朝後官位の昇進も早く又珍奇なる唐物を齎し歸る利益があつたものと見える。そこで左大臣橘諸兄が戯に「朝元オマヘは日本人の血が薄いから歌を作るに困るだらう。オマヘは先年入唐して種々めづらしい物を持歸つたらうが其中には定めて麝香もあらう。もし歌がよまれないなら其罰金に麝香を出したらよからう」と云つたのである。朝元はマンザラ歌を得よまぬでは無かつたが當時第一の權臣なる左大臣に反抗するやうになるから遂に獣止してよまなかつたのである。此朝元のつつましさと反對に勇敢にも人の歌を批難修正したものもある。即本集卷十六に椎野|連《ムラジ》長年といふものが
 橘の寺の長屋にわがゐねしうなゐはなりは髪あげつらむか
といふ古歌を批難して
 橘のてれる長屋にわがゐねしうなゐはなりに髪あげつらむか
と修正した事が見えて居る。但其批難修正の當らざる事は拙著萬葉集新考に述べておいた。此椎野長年も歸化人の子孫であるが其先祖が歸化してから長年月を經たのであらうかと云ふに續日本紀に百済の歸化人四比氏に椎野連といふ氏姓を賜うた(280)といふ事が二處見えて居るが其四比氏の祖先と思はれる四比福夫は天智天皇紀に見えて居る。その人は勅命を蒙つて國防の爲に筑前國に朝鮮式の山城を築いたのであるが達率四比福夫と見えて居るからまだ歸化を了したのでは無いと見える。達率は百済の位階名である。此時即天智天皇の四年から、四比氏の人が始めて椎野連といふ氏姓を賜はつた聖武天皇の神龜元年まで恰六十年であり今の長年は聖武・孝謙兩天皇の時代の人と思はれるから彼四比福夫の孫位に當るであらう。因にいふが四比福夫と同時に長門に築城を命ぜられた達率|答※[火+本]《タホ》春初の子孫が彼麻田連|陽春《ヤス》であるが、これも孫位であらう。然し彼高丘連河内の如き例があるから子で無いとも云はれぬ。ともかくもかやうな事實から歸納すると新附の國民でも導方によつては案外早く純日本思想になるであらうと思はれる
    史料としての萬葉集
萬葉集の歌の中には仁徳天皇の御世・雄略天皇の御世などの古いものがあるがそれ等は少數で、世が下る程歌が多くなつて居る。されば萬葉集と對照すべき國史は日本紀の終の處と續日本紀《シヨクニホンギ》とである。國史も亦世が下る程記述がくはしくなり特に續日(281)本紀の記述は日本紀よりズツト精しいが書物の性質上國史の記述は殆皆表面に顯れたる事だけであるから裏面の事情は多くは國史では分らぬ。されば上代の歴史を研究するには多分の忖度推測を加へねばならぬが其常識的忖度・健全なる推測を援け又は確むるものの一つは實に萬葉集の歌と其題辭とである。否萬葉集には往々國史記述の脱漏を補ふべき者がある。されば萬葉集は全部で一つの貴重なる史料である。然るに題辭こそあれ、歌特に長歌には一通りや二通りの研究では不可解なる事多く又特に或辭句の主格がまぎらはしいから、たとへば從來甲の事として居る事が實は乙の事であるといふやうな事がある。之に反してもし眼光が紙背に徹するならば從來萬人の看過して居る處から玉や黄金を拾上ぐる事も困難ではあるまい。本題は特に廣汎にして一冊の書物が作られる程で到底僅少の時間では述べ盡されぬから今はただ卷一と卷二とから各一首の長歌を擇んでそれを歴史的に観察して見よう。それも歌の全篇を擧げて其意義の解釋からしてかかると時を費すから少々不徹底ではあるが必要なる辭句一のみを擧げる事にする
まづ卷一に藤原宮之役民作歌といふのがある。これは持統天皇の御世に都を飛鳥の(282)淨見原から香久山の西の藤井が原即藤原に遷さんとして新宮を造營し給うた時の歌であるが古人は之を正直に題辭のままに役民即人夫の作歌と思うて居たが本居宣長が始めて「かやうにすぐれたる歌が無名の人夫に作られる筈が無いから恐らくは人麿などが所謂役民の心に擬して作つたのであらう」と云つた。然しイソハクミレバ即勤勞スルヲ見レバと云へるは役民の心になつて云つた辭では無くて明に第三者として云つた語であるから藤原宮之役民作歌はもと詠2藤原宮之役民1歌といふつもりで、ただ藤原宮之役民歌と書いてあつたのを本集の撰者が原本から採るに際して誤つて眞に役民の作れるものと思うて作の字を加へたのであらう。くはしくは別に書いたものがある。さて藤原宮御造營の事は持統天皇紀にはただ天皇又は高市皇子が宮地を御覧になつた事又人を遺して地鎮祭を行はしめられた事などが見えたる許であるが彼役民歌に據ると近江國の田上《タナカミ》山から檜の材を伐出してそれを宇治川に流し宇治川と泉川即今の木澤川との合流點即今の八幡附近で取上げて筏に作つて木津川を泝せ又今の木津附近で取上げて山城大和の國界の丘陵即今の歌姫越などを越えて恐らくは佐保川及泊瀬川を利用して藤原に運んだのである。佐保泊瀬(283)二川を利用した事は此歌には見えぬが同じ卷の從2藤原宮1遷2于寧樂宮1時歌に依つて推測せられるのである。又此歌の中に
 吾つくる、日の御門に、知らぬ國、よりこせぢより、我國は、常世にならむ、ふみ負へる、あやしき龜も、あらた代と、いづみの河に云々
といふ辭句があるが知ラヌ國ヨリまでは巨勢路にかかれる序であり又未の處はアラタ代ト出ヅを泉川にいひかけて序としたのであるが之に依ると當時南葛城郡の巨勢からめづらしい龜が現れたと見える。國史にはそれに就いての記述が無いが彼所謂祥瑞が尊ばれ比後もめづらしい龜が現れたからと云つて年號を靈龜と改め神龜と改め寶龜と改め又龜背の文に依つて天平と改められた程であるから今の目で見れば何でも無い事であるが當時としては必大書すべきである。然もこれ無きは恐らくは脱漏したのであらう
次に卷二なる高市《タケチ》皇子尊|城上《キノヘ》嬪宮之時柿本朝臣人麿作歌に就いて述べよう。これは持統天皇の十年に高市皇子が薨去せられた時に其宮の舍人であつた柿本入人麿の作つた歌で一百四十九句より成れる集中第一の雄篇大作である。高市皇子は天武天皇(284)の御長子で彼壬申の亂の時には御年十九歳で天皇に代つて大將軍として軍事を掌られて大功があつた。されば本來皇太子に立たせらるべきであつたが、御腹が卑しかつたので御弟草壁皇子が皇太子に立たせられたが、あまたの御兄弟の中で草壁皇子と其御弟の大津皇子とに次いで重んせられ草壁皇子が持統天皇の三年四月に薨去せられた後に太政大臣に任ぜられ又國史に明記は無いが皇太子に立たせられた。本集に特に高市皇子尊と尊の字を添へて書き日本紀に後皇子尊と書けるはそれが爲である。此皇子も薨去せられたので其翌十一年に草壁皇子の御子輕皇子が十五歳で皇太子にならせられ次いで即位せられた。これが文武天皇であらせられる。天皇が二十五歳で崩御あらせられた時に御子の聖武天皇はまだ七歳の幼年であらせられたから御母元明天皇、次に御姉元正天皇が御位に即きたまひ、さて後聖武天皇の御世となつた。此御世の始に左大臣長屋王といふ聴明なる皇族があつて勢望が隆々としてゐたが嫌疑を蒙つて自害を命ぜられた。此長屋王は實に高市皇子の子で天皇に取つては御父の御從兄であり又御叔母婿である。身分・官位・性格共に嫌疑を蒙るに十分であつたのである。然も長屋王が死を賜はり其妻子が殉死して其嫡系の絶えた遠因は(285)實に高市皇子が天武天皇の御長子として生れ天皇の御運の九死一生なりし壬申の亂に大功があり然も庶子なるが爲に父天皇の御世に皇太子たるを得ざりし事にあつたのである。元來天武天皇の崩御の時に皇太子草壁皇子が即位したまふべきであるに御母持統天皇が即位したまうたのは此時高市皇子は三十三歳、草壁皇子は二十五歳、大津皇子は二十四歳で、若年にして温厚なる草壁皇子が御位に即かせられては一方には威望ある高市皇子に對抗し一方には英邁なる大津皇子を制馭する事が出來まいといふ御願念からであつたらしい。果して大津皇子は不軌を圖つて御父天皇の崩御後一箇月ならずして誅せられたまうた。之に反して高市皇子の終を全くせられたのはヨホド御思慮御用心が深かつたと見える。かやうな次第であるから持統天皇の御即位は同じ女帝でも推古天皇が御甥の聖徳太子に推されたまひ斉明天皇が御子の天智天皇の請に依つて重祚したまうたのは趣がちがふ。後に元明元正二女帝の御位に即きたまうたのとも事情を異にして居る。元明天皇の御即位の時には聖武天皇はまだ御七歳、元正天皇の御即位の時にはまだ御十五歳で實際御幼年であらせられたからである。さて歌を案ずるにまづ
(286) あすかの、眞神の原に.久竪の、あまつ御門を、かしこくも、定めたまひて、神《カム》さぶと、磐がくります、やすみしし、わがおほきみの云々
とあるごれは天武天皇の御事で飛鳥ノ眞神原ニ葬ラレタマヘル天皇といふ事であるが天武天皇の御陵は延喜式に檜隈《ヒノクマ》大内陵とある¢Rらば初飛鳥の眞神原にあつたのを移し奉つたのかと云ふに持統天皇紀元年十月に始築2大内陵1とあり同二年十一月に葬2于大内陵1とあるから初から檜隈の大内にあつたのである。元來飛鳥は飛鳥川に跨れる地域で川の西なる檜隈とは東西に相接して居るが、その飛鳥の内の眞神原は有名なる元興寺《グワシコウジ》のあつた地で從來の地理的知識では川の東であるから御陵のある大内とは懸絶して居る。然らば此歌に天武天皇の御陵所在地を飛鳥の眞神原といへるを如何解釋してよいかといふに眞神原も亦飛鳥川に跨れる地域の稱であつて元來上古は諸事オホマカで、どの道どの溝の中心を村界とするといふやうな截然なる區別が無かつたから公稱はともかくも俗には彼御陵のあたり迄も飛鳥の眞神の原とも稱したのであらう。次にトトノフル鼓ノ音ハ以下三十句を以て五種の兵器を形容して居るが其中に旗を形容して
(287) ささげたる。幡のなびきは、冬ごもり、春さりくれば、野ことにづきてある火の、風のむた、なびくがごとく
といつてをる。旌旗を野火に比したるを見れば其旌旗は赤旗で無ければならぬ。天武天皇の軍が瀬田の一戦に赤旗を用ひたといふ事は日本紀には見えぬ。ただ旗幟蔽v野埃塵連v天とあるばかりである。然し古事記の序に天武天皇の軍の状をたたへて絳旗耀v兵凶徒瓦解と書いて居る。絳旗は赤旗である。されば實際赤旗を用ひたまうたのである。然らば何故に天武天皇は赤旗を用ひたまうたかといふ事、天皇は畏多けれど御身を漢高祖に擬したまうたと思はれる事、これ等に就いては曾て天武天皇紀闡幽といふ一文を草して雑誌歴史地理に出したから略しよう、それから
 まつろはず、たちむかひしも、露じもの、けなばけぬべく、ゆく鳥の、あらそふ端に、度會の、いつきの宮ゆ、かむ風に、いふきまどはし天雲を、日の目もみせず、常闇に、おほひたまひて云々
といふ辭句があるがこれは
 兩軍ノ戦闘ノ正ニ闌ナリシ程東南即伊勢ノ皇太神宮ノ方カラ暴風ガ吹來リテ西(288)軍ニ吹附ケタノデ西軍即大友皇子ノ軍ハ眼暗ンデ終ニ敗北シタ
といふ意である。然らば實際さやうな事があつたかといふに彼好んで神異を擧げ、さもさも神慮が天武天皇の側にあつたやうに記述してある日本紀にも見えぬ上に此一節は史記項羽本紀の一節と獨事實のみならず辭句も類似して居るからこれは人麻呂が故意に項羽本紀を本として漢高祖の故事を用ひてしらべ成したのであらうかとも思はれる。それから此高市皇子の宮が香久山に、恐らくは其北麓にあつた事も國史には見えぬ事である。此長歌には御殿をカグ山ノ宮といひ其御門前をハニヤスノ御門ノ原と云つて居る。まだ云ふべき事があるが此歌の事はこれだけに止めておかう
かやうに我々の学問は世間ばなれした閑事業であるが時として又殖産興業などと関係のある事もある。時間が切迫したから小附としてただ一話を試みようが上古には大木傳説といふものがあつた。即古事記に見えたる河内國兎寸《ウキ》河の西なる高樹、日本紀及筑後風土記に見えたる筑後國三毛郡なる歴木《クヌギ》、播磨風土記に見えたる明石の駒手御井なる楠、肥前風土記に見えたる佐嘉郡の樟樹、今昔物語に見えたる近江國|栗(289)太《クリモト》郡なる柞《ハハソ》などがそれである。其一例として筑後三毛郡の歴木の状を云はば高さが九百七十丈で朝日の影には肥前の杵島山を隱し夕日の光には肥後の阿蘇山を薇うたといふ。もとより上古とてかかる大木のあらう筈が無い。此傳説は恐らくは地中から出る或物を見て古人が想像を退くして語出したのであらう。たとへば近江の栗太郡なる柞の傳説の基をなした者は今も同地の地中から出るスクモ即泥炭であらう。之を一木の所産と認め其分布の廣きに驚いて非常に大きなハウソガシハを想像したのであらう。之と同じく三毛郡のクヌギは今も三池町附近から出る埋木を見て高さ九百七十丈の大木を想像したのであらう。三毛都は今の三池郡である。三池炭坑の石炭は文明元年に一農夫が偶然に發見したのであるさうであるが若學問の研究が夙く開けてゐたならば或は偶然ならずして發見せられたであらう。彼河内の兎寸川は何とよむかといふ事さへ分らなかつたのであるから今の何川であるかといふ事は確には分らぬが其木の影が朝日に當れば淡路島に及び夕日に當れば河内大和の國界なる高安山を越えたとあるから略今の中河内郡の南部か又は南河内郡の北部であらう。從來の説では大和川の支流の内として居るが或は播磨風土記に見えたる(290)兎寸村は大和川沿岸の或地で古車記の兎寸河は大和川の事かも知れぬ。但古の大和川は今の堅下から西北に向つて流れてゐた。之と關聯して考へられるのは萬葉集卷七なる
 眞鉈《マガナ》もち弓削の河原のうもれ木のあらはるまじき事とあらなくに
といふ歌である。此歌の上三句は序で主文は下二句である。今ははやらぬが歌の修辭の一つに序といふものがある。たとへば
 足曳の山鳥の尾のしだり尾のながながし夜を獨かも寢む
といふ歌の上三句は序である。彼花文字の頭のやうにナガナガシと云はん爲に足曳ノ山鳥ノ尾ノシダリ尾ノと云ふ飾を添へたので、更に其中で足ヒキノは山にかかれる枕辭である。今の歌もマガナモチユゲノカハラノウモレ木ノはアラハルといはん爲の序で更に其中でマガナモチは弓削にかゝれる枕辭である。さて此序といふものは平安朝の中期以後は多くは陳腐平凡で更に人の興味を若かぬやうになつたが萬葉集時代の歌人は主文よりは寧序に骨を折つて互に新奇を争うた。されば萬葉集の歌の序の中には面白く又參考となるものが多いが此歌の序も其一で元來此歌は作(291)つた人も出來た時代も分らぬが當時大和川沿岸の弓削といふ處で埋木を掘出した事がある。然し此事は國史には見えて居らぬ。此歌の作者は此新聞種を序に使つて友人たちをアツと云はせたのである。今南河内郡志紀村に弓削といふ大字があるがこれは廣い地域の名が一小部に殘つたので此歌によめるは今の中河内郡の南部にある八尾町附近であらうと云ふ。十数年前に我講堂で此歌を講釋した時に八尾附近の土を掘つたら泥炭が出るだらう。或は石炭も出るかも知れぬと云うた。後に聞いたがその講釋を聞いた某君は直に河内へ行って手續をして試掘をした所が果して泥炭も石炭も出た。そこで廣い區域に亙つて借區したさうであるが其後の事は聞いても見ぬ。恐らくは思はしく行かぬのであらう。古典學の應用には固より限度がある(昭和七年七月二日國史顧曾にて講演す)
 
(304) 劉向   四六
       四八
   ワ
 倭歌・和歌   二七〇
 和歌(唱和)  二七〇
 若狭局      八八
         一〇六
(所謂)王仁ノ歌 二七三
   ヲ
小澤蘆庵      三四
井上通泰先生著述 (昭和三年以來公刊之分)
萬葉集新考菊判八冊 國民圖書株式會社絶版
南 天 荘 歌 集 四六判一冊 古今書院
南 天 荘 墨 寶 菊 判二冊 春 陽 堂
南 天 荘 雑 筆 菊 判一冊 春 陽 堂
播磨風土記新考 菊 判一冊 大岡山書店
萬 葉 集 難 攷 菊 判一冊 明治書院
 
(305) 
   昭和七年十一月十日印刷
   昭和七年十一月十五日發行
 
萬葉集雑攷 定價 金貮圓參拾錢
   東京市澁谷區青葉町十番地
 著  者  井  上  通  泰
    東京市神田區錦町一丁目十番地
 發 行 者   三  樹  退  三
    東京市本所區厩橋一丁目廿七番地
 印 刷 者   守   岡     功
    東京市本所區厩橋一丁目廿七番地
 印 刷 所   凸版印刷株式合社分工場
發 行 所
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    電話神田(25)一四一四番
          二六九五番
          二六九六番
            
            2005年12月19日(月)、午後7時、明治書院版雑攷入力終了