(1)萬 葉 集 追 攷
   緒 言
本書に収めたる四十篇は昭和七年七月から本年十月までの著作で「高田女王の歌」の一篇の外は皆雜誌アララギに出したものである
本書は萬葉集雜攷の姉妹編である。雜攷を第一編とすればこれは第二編である。但春登上人の一篇の外は雜攷に亙つて居らぬ
雜攷には諸篇を分つて書誌・歴史・地理。訓釋・雜の五類とした。今回も其例に倣はうかと思うたが「丹比笠麻呂下筑紫國時歌」と「丹比笠麻呂」との如く又「久世鷺坂」以下四篇と「柿本人麻呂の閲歴の一暗示」との如く續けて出さねばならぬものがあるから今回は分類をせぬ事にした
載録は略發表の順に從うた
(2)本書を公刊するは齋藤茂吉博士の慫慂に由つたのである
    昭和十二年十月二十一日       南  天  荘
 
(1)目  次
一 何時可越來而………………………………一
二 四たび春登上人に就いて  二節………五
三 相聞  二節……………………………一四
四 浦島子  二節…………………………二五
五 丹比笠麻呂下筑紫國時歌………………四三
六 丹比笠麻呂………………………………四七
七 高田女王の歌……………………………五五
八 爲當………………………………………五九
九 吹かざるな………………………………六四
一〇 蘆城驛  三節………………………六六
一一 長門島  一節………………………八一
(1)一二 花がつみ……………………………九二
一三 黄染乃屋形  二節……………………九八
一四 草孃……………………………………一〇六
一五 根じろ高がや…………………………一一一
一六 神龜二年五月幸于芳野離宮時歌……一一五
一七 神理……………………………………一二二
一八 明日香河…………………………………一二八
一九 片足羽河並河内大橋  三節…………一三六
二〇 弓削河原  三節………………………一五九
二一 取石池及淺香浦  五節………………一八〇
二二 梧桐孫枝…………………………………二一六
二三 得名津……………………………………二一八
二四 妹之島形見之浦附飽等濱  二節……二二四
二五 玉久世清河原……………………………二三八
(2)二六 久世鷺坂並鷺坂山……………………二四四
二七 來背社………………………………………二五〇
二八 名木河  二節……………………………二五七
二九 春草馬咋山…………………………………二六九
三〇 柿本人麻呂の閲歴の一暗示………………二七八
三一 鳥白頭馬生角 ……………………………二八三
三二 佐伯赤麻呂贈答歌  二節………………二八八
三四 強田山………………………………………二九七
三五 石田杜………………………………………三〇三
三六 竹収翁歌の一節……………………………三〇六
三七 小端見反戀…………………………………三一二
三八 水良玉五百都集乎解毛不見………………三一五
三九 水陰生山草…………………………………三二〇
三九 梅爾可有家武………………………………三二五
(4)四○ 多奈和丹  二節………………………三二八
   索 引………………………………………三三九
 
萬葉集追攷
                   井 上 通 泰 著
    何時可越來而
 
萬葉集卷七詠河歌の中(新考一二四四頁)に
 かはづなく清き川原をけふ見てはいつか越來而みつつしぬばむ
といふ歌がある。カハヅは今いふカジカで、カハヅナクは清キカハラの装飾辭即准枕辭、キヨキ川原といへるは吉野川の川邊、
 ○カハラは今は川底の石原をいふ事となつて居るが元來川邊の事である。たとへば斉明天皇の飛鳥の川原宮は飛鳥川の左岸にあるから然名づげられたのである。同天皇紀に甘檮丘《アマガシノヲカ》東之|川上《カハラ》作2須彌山1とあるも同じく飛鳥川の左岸(2)であるから川上と書いたので、其川上の上はカミでは無くてホトリであるから川上にカハラと傍訓したのである
見テハはただ見テといふ事、即ハは無意味の助辭(古義にミテバと濁つてよめるは誤である)シヌ バムは観賞セムと云ふ事である。さて一首の大意は明であるが、ただ一つ研究を要するは越來而の訓と釋とである。舊訓に之をコエキテとよんで居る。略解は此訓に從ひ古義にはコシキテに改めて共に吉野山ヲ越來テと釋いて居るが吉野川は吉野の山地と大和平野とを界せる川である。飛鳥から來ようとも、藤原から來ようとも、奈良から來ようとも吉野川を見に來るに吉野山を越ゆる筈が無い。されば略解古義の釋は地理を知らざる説である。之を途中に横たはる丘陵とすれば地理に於ては扞格は無いが、それにしても又〔右△〕といふ語が無くては聞えにくい。作者は一たび見たるに飽足らずして再見たいと願うて居るのであるからである。されば余は新考に
 第四句の越の字は又の誤にあらざるか
と云うた然し又〔右△〕といふ字を越に誤らんは餘りに物遠い事であるから二首前な(3)る
 馬なめてみよし野河を見まくほり打越來而ぞ瀧にあそびつる
の越の字がうつつたのでもあらうと書添へて置いた。然し原字のままで別に訓釋が求められるならば之に越した事は無いから更に考案をめぐらすに、これは原のままでヲチキテとよむべきでは無いか。ヲツは元來モドルといふ事で集中に原義のままなるも、轉義の若返る意なるもあまた見えて居る。さて集中にムカシ見シヨリヲチマシニケリ、オイ人ノヲツチフ水ゾ、又ヲチカヘリ君ヲシ待タムなどはあるがヲチ來といへる例は無い。然しヲツは上述の如くもどる事であるからヲチ來テと云うて毫も妨は無い。又モドル(若返ル)の意なる動詞のヲチを越と書ける例は第十三に
 天橋も、長くもがも、高山も、高くもがも、月《ツク》よみの、もたる越水《ヲチミヅ》、い取來て、きみに奉りて、越《ヲチ》得之牟物
とある。苦熱と闘ひつつ如此書いて見たが誰でも氣が附きさうな事である上に近來本集に關する研究は無数に發表せられるから夙く誰ぞ云うた人があるか(4)も知れぬ。然し余が寄贈を受けて一讀した書籍難詰の中には無かつたやうである(昭和七年七月二十四日草)
 
(5)    四たび春登上人に就いて 上
 
春登上人は大學者でも無く大歌人でも無く萬葉用字格といふ便利な書物を作つてくれたといふだけの人であるから此人の爲に四たび迄筆を執る事は讀者に對しても憚があるが彼徳島の一武岡善次郎君から其後も数囘報告のあつたのを徒に筐底に藏しておくのも惜いから今一たび記述しようと思ふ
甲州上吉田時宗西念寺(古積山又菊花山)にての春登は二十六代春丈と二十八代春風との間であるから寺を繼いだのは春丈の寂した寛政元年八月以後であるが何時寺を譲つたかは昇らぬ。然し文化三年にはまだ住山したであらうと思はれる理由がある。さて文化七年九月に嗣法春風が四十二歳で寂した後に再住持となつたと見えて同寺に文化十二年十月廿七日遊行末寺西念寺春登覺阿上人御房と記せる文書がある。覺阿は例の時宗の僧階で其阿《ゴア》の下である。文政元年に清水濱臣が吉田に遊びし時には春登は吉田に居なかつた
(6)武州關戸の延命寺へは何時轉じたか、これもよく分らぬが天野政徳随筆に
 我友關戸延命寺住職春登和尚いぬる文政六年三月近傍なる貝取村の農民石碑を掘出したりとて云々といふ記事が見えて居る。兎園小説中、山崎美成の書けるものにも同じ記事がある。さて本山遊行寺に勤務したのは延命寺の住職たりし程の事と見えるが後に又吉田の西念寺に居たと見えて(○恐らくは住職にあらで隱居したりしならむ)文政十一年六月に成りし著書藁クグツの末に於嶽北花水庵と記して居る
 ○春登は甲州西念寺の住職から武州の延命寺に轉じ後に(或は前か)又京都の聞名寺に入山したが剃髪得度した西念寺を在家の人の本籍の如く心得てゐたの二であらう
春登の著述にはなほ藁クグツといふ六冊の随筆がある。其第一冊の成りしは文政三年六月、第六冊の成りしは同十一年六月である。此書も亦東京府府中町大國魂神社宮司猿渡盛厚氏が藏せられて居るが出版の企があつたと見えて小山田與清・天野政徳の序跋が添へてある。書中には萬葉集に關する考證も見えて居る」(7)假名音便撮要は猿渡氏所藏の稿本には提要とあるが出版の時に撮要と改めたのであらう。五十音摘要も出版せられて居るさうである。萬葉用字格と五十音摘要との自筆本は吉田に現存して居る。吉田には其外に自筆寫本や手澤本が傳はつて居る。手澤の神書歌書類は多くは武州府中の善明寺の彼岸山文庫に納めてあつたが明治年間に住職が沽却して散亂せしめた。其一部は井上頼圀博士や佐伯有義氏の手に歸したさうである
西念寺にある春登の碑は春丈・春風の碑の中間にあつて桂光院其阿上人春登と刻み又花水庵といふ別號に因んでか臺石に流水櫻花が刻んである。西念寺の靈牌の文は
 西念寺廿七代聞名寺四十二代桂光院其阿上人春登天保七年十月十八日暁寂六十四歳
とある。然るに又世壽は六十八歳であつたといふ傳がある。これも無下に斥けられぬ理由がある。上吉田淺間神社の裏を二町程上つた處に日本式尊の遺跡と稱する地があつてそこに春登の長歌を刻める碑が建ててある。
(8) ○此碑を建てたのは吉田の人|刑部《オサカベ》國秀號トキジクノヤである。此人は初濱臣に學び後春登に學びしか
又西念寺の墓地に白川家學頭森専鉾の墓があつて其漢文の碑誌は春登の撰である。共に大原廣主といふ人の書である
 ○前に報告のままに關戸六所明神と書いたが關戸は府中の誤記であるといふ。府中六所明神は今の官幣小社大國魂神社である(昭和七年八月三十日草)
 
    四たび春登上人に就いて 下
 
其後も度々武岡善次郎君から報告があつた.前稿の標題を「四たび春登上人に就いて上」としておいたのは實は之を豫期しての事であつたが其報告は多くは傍系事である。否春登其人に關せる事も無いでは無いが、いづれも瑣事である。然も春登はその瑣事までも傳へねばならぬ程の人で無いからすべて省略する。武岡君からは又二三の正誤を申込まれたがそれには誤植に過ぎざるものもあり又(9)氏の報告に基づいて書いた鄙稿の中に夙く婉曲に訂正しておいたものもある。又武岡君の報告中に春登は相州藤澤の時宗本山遊行寺の隱居寺興福院(又は興徳院)に住せし事ありとあつたから念の爲に遊行寺即清浄光寺に聞合せしに「同寺に寺中即子院はあるが隱居寺といふものは無い。さて同寺には四院の老僧といふ役僧があつて其名稀を桂光院・洞雲院・興徳院・東陽院といふ。御尋の興徳院は此四院老僧中のそれであらう」との答であつた。此興徳院ならば建築物では無くて一種のタイトルである。さうして春登は其碑の面に桂光院其阿春登〔二字傍点〕とあるから(雜攷一二九頁に桂光院其阿上人〔二字傍点〕と書けるは誤)興徳院から後に第一席の桂光院に陞つたので、其師春丈が洞雲院に止り其法嗣春風が東陽院に止つたのに比して一段又は数段榮進したのである。此四院制は今も存續して居るが末寺の住職を止めて命ぜられるのでは無い。されば春登も西念寺又は延命寺の一住職のままで役僧となつたのである。洛東聞名寺の住職になつたのは文政中か又は天保中か。即延命寺住持の前であつたか後であつたか。これが明に分つたら又瑣事ならざる事が若干分るであらう。なほ近刊の某書に春登の事が二三見えて居るが(10)新しい事は見えぬ。其中に關戸の延命寺を遊行寺住職の隠居寺と書いてあるが遊行寺住職は即遊行上人で、遊行上人は退隱する事は無かつたから隱居寺とあるのはこれも誤であらう
それから春登が少年にして甲州吉田の西念寺にあつた時毎日二里許の道を往復して國學を同郡小沼村の神職小佐野和泉といふ人に學んだとあつたが、その小佐野和泉の事が光明寺了軌の彼雲室随筆に見えてゐた。曾讀の書ではあるが思ひもかけなかつた事である上に其話が面白いから傍系事ではあるが抄出しておかう。即同書に彼甲州郡内(都留《ツル》郡)谷村の人で甲斐國誌の編纂に與つた森島彌十郎其進の事を記して其次項に
 同隣驛に小佐野和泉守といへる社人有。此人篤學の人にて遠近に名を知らる。號柿園。著述も孝經注・大祓古説等あり。性質直の人にて一も私意なく郷人悉く尊信せり。一日或人來て告けるは、此間何者か社内の樹を盗み切取者あり。役人へ御屈御詮義可被成。と申き。柿園被申は御知らせ被下辱存候。乍然氏子の中の者の致事なれば強て咎るにも及ばず。若是を咎候はば外の山にても切取間敷(11)もしれず。左様なる時は咎人となり可申間御聞捨に可被成候様頼候。と答ければ其人も大に感じける。此事其樹を盗みし者傳へ聞て大に恥ぢ樹を切事を止けるとなり。予も子與(○森島彌十郎)が宅にて度々逢、柿園の方へも訪たるに甚謙遜にて學間の咄の外は黙々として無言なり。實に君子といふべき人なり。子をば大和守といひ才子にて又勤學の人なりけるが三十に満ずして早逝しぬ。其後柿園も物故致されたり。門人多かる中にも郷人なる渡邊榮兵衛といへる人勤學にして並ぶ者なく今なほさかりに教諭しつつ門人にさへ出精する者少からずとなん
と書いてある。talkieやjazzを見馴れ聞馴れたる耳目にはかやうな話・かやうな文體も又めづらしからう(昭和七年九月二十五日草)
 追記 加茂季鷹が寛政二年七月に書いた不二日記の吉田淺間赴のみやつこ刑部《オサカベ》國仲の家に滞留せし程の記事に
  廿三日、よべより聊雨降出たり。けふは御山にのぼらんとて心がまへしたれば「雨やめて」といふはほいなきものから此分來し村里人どものここかしこ(12)のたかき峯にのぼり笛ふき皷うちていのり此吉田にても我まうでこしをきかばやがて來とぶらふべき倫丈法師なども〔我まうで〜傍点〕ちかき村々よりねがへりとていにし十七日よりをし物をたちて七日の祈はじめてけふなん〔二字左△〕満てはべる日なりときけば我あらましのたがふはかへりて喜ぶべき事にこそなどあるじにかたらふほどに彼ひじりより消息して「とくまうで來ぬ事此祈にかかりて」などねもころにきこえたり。年もいまだはたちに二とせたらぬ法師の〔年もいまだ〜傍点〕さるはれの祈をしていささかなれどかくしるしあらはせる事いとたのもし。ふみも七日ばかり食もの断てる人の筆のすさびとも見えず。かへすがへすめでたしかし
 廿四日(○廿三日の日次重なりたればこれは二十五日か。又の二十三日に富士に登りて此日下り來しなり)夜に入て倫丈大とこ・正章などよろこびにまうで來て夜ふくるまで物語し「よみおきし歌ども墨くはへてよ」とて置てかへれり
とある。倫丈は即春登の初名である。萬葉集雜攷一三三頁に「初には名を輸文と(13)いひ」とある文は丈の誤記又は誤植である。輪と倫とはどちらが正しいか分らぬ。春登の享年は六十八歳とも六十四歳とも傳はつて居るが右の文中に「年もいまだはたちに二とせたらぬ法師の云々」とあるは好史料である、寛政二年に十八歳ならば歿した天保七年には六十四歳であらねばならぬ。されば雜攷一三四頁及一三六頁に云へる所は訂正すべきであるが今しばらく保留しよう。古人の年齢には往々(否今人にも稀には)公私の差などがあるからである(昭和十年四月二十四日)
 
(14)    相聞
 
萬葉集には歌を分類して雜歌・相聞・挽歌などとしてある。その相聞を余はサウモンとよんで
 相聞を眞淵はアヒギコエとよめるを雅澄はシタシミウタとよめり。たとひ本集の撰者シタシミウタとよませむ心なりとも「シタシミウタとよむべし」などいふ註を加へざる限、その世の人といふともシタシミウタとは得讀まじ。木村博士・間宮永好などの説の如く音にてサウモンとよむべし。萬葉の頃は後世の古學者の思へるよりは音を用ひしこと多かるべくおぼゆ
と云つておいた(萬葉集新考一三二頁参照)。山田孝雄博士もその萬葉集講義の卷頭の通説に
 相聞は從來往々後世の戀歌の類とせられたれどこの字面は漢書・捜神記・文選・玉臺薪詠・南史・齊の王僧虔の古來能書人名・唐の韋續の五十六種書等に見えて(15)いづれも訪問又は信書を通じての訪問即ち往來消息の文書の意にして概括すれば往復存問の意なるを見る。而してこの卷以下本集中に相聞といへるはすべてこの意なり。……これを以てこれを古今集以下の戀歌と一列に考ふべからず。而して本邦にてこの字面を用ゐしはこの集にはじまれるにあらずして聖徳太子の撰なる勝鬘經義疏の文中に既に用ゐられてあり。なほこの字面のよみ方については或はアヒギコエ・シタシミウタとよむべしといふ説もあれどかくよめるはみな近世にして古來音にてサウモムとよみ來ればそれに從ふをよしとす
と云つて居られる。されば新に云ふべき事は無いやうであるが嘗て漢籍の中から相聞といふ語をつかへる辭句を書抜いておいたものの一部を見附けたから其用例を示す爲に左に掲げよう
元來相聞といふ語は漢籍から出たのであるから初唐以前の漢籍を讀む時に心がけて居たら其例に出逢ふであらうと期待して居たが、あまりに例が多いから一々書抜く事は出來なかつた。然も書抜いておいたものの中で見附けられぬも(16)のもあるから左に掲ぐるものは余の出逢うた例の一部或は一小部に過ぎぬ。なほ断つておかなければならぬ事は美夫君志の卷二にも何か書いてあるだらうが余の今持つて居るのは同書の卷一だけである
さて筆を勒して試に見附けた書抜を数ふるに實に三十餘例である。これを全部出すと徒に紙を費すまでで讀者は一々讀んではくれらるまいから思切つて其中から数例を抽出するに止める。さうして他は特殊の人の求を待つ事にする
まづ漢書霍光傳に
 父中孺ハ河東平陽ノ人ナリ。縣吏ヲ以テ平陽侯ノ家ニ給事シ侍者衞少見ト私通シテ去病ヲ生ム。中孺、吏畢リテ家ニ歸リ婦ヲ娶リテ光ヲ生ム。因ツテ絶エテ相聞〔二字傍点〕セズ
とある。次に同書鄭吉傳に
 神爵中匈奴乖亂ス。日逐王先賢|※[手偏+單]《テン》、漢ニ降ラムト欲シ人ヲシテ吉ト相聞〔二字傍点〕セシム
とある。次に同書西域傳に
 人ヲシテ匈奴ノ南將軍ト相聞〔二字傍点〕セシム
(17)とある。次に三國志蜀書先主傳に
 先主糜竺・孫乾ヲシテ劉表ト相聞〔二字傍点〕セシム
とある。次に南史陰子春傳に
 夢ニ一朱衣人相聞〔二字傍点〕辭謝シテ云ハク云々
とある。次に世説の王子猷出都の條に
 王|便《スナハチ》人ヲシテ與ニ相聞〔二字傍点〕セシメテ云ハク云々
とある。此等の例を見て相聞がオトヅレといふ事であるを知るがよい。即
 あまびこのおとづれしとぞ今は思ふ我か人かと身をたどる世に
などのオトヅレである。元來問聞は相通であるから相聞は相間〔二字傍点〕と心得てよい。もし初から相問とあつたら誰もその字義の解釋に心を勞するものはあるまい。問聞の相通ずるは問は口に從ひ聞は耳に從ひ口耳は相授け相受くるが故である。されば相聞を聞問といへる例もある。たとへば漢書巌助傳に
 是ニ拜シテ會稽大守トス。數年聞問〔二字傍点〕セズ。書ヲ賜ヒテ曰ク。……間者《コノゴロ》濶焉、久シテ聞問〔二字傍点〕セズ
(18)とある。この不聞問ハ音信不通といふ事で其賜書は萬葉集卷八なる彼
 なが月のそのはつかりの使にもおもふ心はきこえこぬかも
の趣と相似て居る。又呉書張温傳に
 温|宿《モトヨリ》※[豐+蓋の草冠無し]彪(○※[既/且]※[豐+蓋の草冠無し]・徐彪)ト意ヲ同ジクセリ。數《シバシバ》書疏ヲ交《カハ》シ聞問〔二字傍点〕往還ス
とある。同書朱然傳にも一例がある
面白くない詣は短いがよいから比位にしておかう(昭和七年十一月二十七日稿)
 
    相聞 第二
 
相聞の例を書拔いて置いたものを見附けたがあまり多くて讀者を煩すであらうからと云つて其一部分だけ發表したに就いて或人が來て云ふには
 佩文韻府などに就いて語例を求めてもいくらも出て居ない。然も古書から語例を探出すのは容易な事では無いから折角書抜き置かれたものを闇から闇へ遣らずに全部發表せらるるが學界に對する功徳であらう。讀む事を煩しがる程の者には讀ませずともよいでは御座らぬか。實は我等といへども讀んで悉く記憶しようとするのでは無く一讀しておいて他日の用に供しようとするのである
など云つて懇に發表を求められた。求めた人は一人であるが一人の言は十人の心だと思ふから黽勉して左に爾餘の分をも發表する。其人の云つた通り讀みたく無い人は讀まずともよい。まづ漢書卷九十四匈奴傳下に
 將率《スヰ》(○王葬の使五威將某・五威率某々等)還リテ左犁汗王咸ノ居ル所ノ地ニ到リ烏桓ノ民ノ多キヲ見、以テ咸ニ問フ。咸具ニ状ヲ言フ。將率ノ曰ク。前ニ四條ヲ封ジテ(〇四筒條の命令を與へ之を嚴封して)烏桓ノ降者ヲ受クルヲ得ズトイヘリ。亟《スミヤカ》ニ之ヲ還セト。咸曰ク。請フ密ニ單于《ゼンウ》ト相聞〔二字傍点〕シ語ヲ得テ之ヲ還サムト(○内々單于ニ尋ネテソノ指圖ヲ待ツテ還シマシヨウといふ意)
又同傳同篇に
 戊己按尉史陳良等……人ヲ遣リテ匈奴ノ南犁汗王南將軍ト相聞〔二字傍点〕ス。匈奴ノ南將軍二千騎ニテ西域ニ入リテ良等ヲ迎フ
(20)次に三國志魏書卷九夏侯玄傳に
 宣王(○司馬懿)ガ奏シテ爽(○曹爽)ヲ誅セシニ及ビテ車ヲ闕下ニ往《トド》メテ豊(○李豊)ト相聞〔二字傍点〕ス。豊怖レ遽《アワ》テ氣|索《ツ》キ足、地ニ二委《タフ》レテ起ツ能ハズ
次に同書卷二十四崔林傳に
 出デテ幽州刺史トナル。北中郎將呉質、河北ノ軍事ヲ統ブ。※[さんずい+豕]郡太守王雄、林ノ別駕ニ謂ヒテ曰ク。呉中郎將ハ上ノ親重スル所ニテ國ノ貴臣ナリ。……崔使君初ヨリ與ニ相聞〔二字傍点〕セズ。若邊塞修ラザルヲ以テ卿ガ使君ヲ斬ラバ寧《イカン》ゾ能ク卿ヲ獲ムヤ
同書卷九許允傳にも允心甚悦、與2臺中1相聞〔二字傍点〕欲v易2其皷吹旌旗lとあるのを書落した。
蜀書卷七※[がんだれ/龍]統傳に
 楊懐・高沛ハ璋(○益州牧劉璋)ノ名將ニシテ各彊兵ニ仗リテ關頭ヲ據守セリ。聞ク數《シバシバ》牋アリテ璋ヲ諌メテ將軍(○蜀ノ先主劉備)ヲ發遣シテ荊州ニ還ラシメムトスと。將軍未至ラジテ遣ハシテ與ニ相聞〔二字傍点〕シ「荊州ニ急アリ、還リテ之ヲ救ハムト欲ス」ト説キ並ニ装束セシメ外、歸形ヲ作サムニ此二子|既《ハヤ》ク將軍ノ英名ニ(21)服シ又將軍ノ去ラムコトヲ喜ベバ計ルニ必輕騎ニ乗リテ來リテ將軍ヲ見ム。此ニ因リテ之ヲ執ヘ進ンデ其兵ヲ取リ仍リテ成都ニ向ヘ。此《コレ》中計ナリ
次に同書卷八許靖傳に
 初韓遂、馬騰ト亂ヲ關中ニ作シ數《シバシバ》璋ノ父焉ト交《コモゴモ》信ヲ通ズ〔四字傍点〕。騰ノ子超ニ至リテ復璋ト相聞〔二字傍点〕シ蜀ヲ連ヌル意アリ
右の通信と相聞とは同義である。更置してもよいのである。同卷糜竺傳に
 後曹公(○曹操)竺ヲ表シテ※[瀛の旁]郡太守ヲ領セシム。竺ノ弟芳、彭城ノ相タリシガ皆官ヲ去リ先主ニ随ヒテ周旋ス。先主將ニ荊州ニ適《ユ》カムトシ竺ヲ遺《ノコ》シテ劉表ト相聞〔二字傍点〕ス
次に同書卷十一費詩傳に
 亮(○諸葛亮)※[王+宛]・詩(○蒋※[王+宛]・費詩)ニ謂ヒテ曰ク。都ニ還ラバ當ニ書シテ子度(○孟達の字)ト相聞〔二字傍点〕スルコトアルベシト
次に同書卷十五ケ芝傳に
 權(○呉王孫権)數芝ト相聞〔二字傍点〕饋遺優渥ナリ
(22)次ニ呉書卷二呉主傳に
 初臨海ノ羅陽縣ニ神アリテ自王表ト稱ス。民間ニ周旋シ語言飲食人ト異ナルコトナシ。然レドモ其形ヲ見セズ。又一婢アリテ紡ト名ヅク。是月(○太元元年五月)中書郎李崇ヲ遣シ輔國將軍羅陽王ノ印綬ヲ齎シテ表ヲ迎フ。表、崇ニ随ヒテ倶ニ出ヅ。……歴ル所ノ山川、輙婢ヲ遣シテ其神ト相聞〔二字傍点〕ス
同書卷四劉※[搖の旁+系]傳に
 若吏民ヲ收拾シ使ヲ遣リテ頁獻シ曹※[なべぶた/兌]州ト相聞〔二字傍点〕セムニ袁公路(○袁術)ノ隔テテ其間ニ在ル有リテモ其人豺狼ナレバ久シカル能ハジ
同書卷六呉宗室傳に
 策(○孫策)輔(○孫輔)ヲ立テテ廬陵太守トス。屬城ヲ撫定シ長吏ヲ分置ス。平南將軍假節領交州刺史ニ遷リ使ヲ遣リテ曹公ト相聞〔二字傍点〕ス。事覺ル。權(○孫権、兄策に繼ぐ)之ヲ幽繋ス同卷七諸葛瑾傳に
 時ニ或ハ言フ。瑾遠ク親人ヲ遣リ備(○劉玄徳)ト相聞〔二字傍点〕スト
(23)同卷歩隲傳に
 益州ノ大姓雍※[門/豈]等蜀ノ署スル所ノ太守正昂ト※[(火+言+火)/火](○交州蒼梧の大豪族士※[(火+言+火)/火])トヲ殺シ相聞〔二字傍点〕シテ内附セムト欲ス
同卷九呂蒙傳に
 羽(○關羽、樊より南郡に)還リテ道路ニ在リ。數蒙(○羽の不在中に竊に其根據地なる南郡を奪かし)ト相聞〔二字傍点〕ス
同卷十六潘濬《シュン》】傳に
 時ニ濬ノ姨兄(○義兄か)零陵ノ蒋※[王+宛]、蜀ノ大將軍タリ。或ハ濬ヲ武陵太守衞※[旗の其が令]ニ間スル者アリテ云ハク。濬、密使ヲ遣リテ※[王+宛]ト相聞〔二字傍点〕シ自託ノ計アラムトスト
とある。以上を通覧して相聞の義を會得するがよい。晋書巻六十四陶潜即陶淵明の傳に
 刺史王弘、元X中ヲ以テ州ニ臨ム。甚|欽《シタ》ヒテ之ヲ遲《マ》ツ。後ニ自|造《イタ》ル。潜病ト稱シテ見エズ。……弘|毎《ツネ》ニ二人ヲシテ之ヲ候《ウカガ》ハシム。密ニ廬山ニ往クベキヲ知リテ乃其故人※[がんだれ/龍]通之等ヲ遣リテ酒ヲ齎シテ先、半道ニテ之ヲ要《サヘギ》ラシム。潜カクテ酒ニ(24)遇ヒ便《スナハチ》野亭ニ引酌シ欣然トシテ進ムコトヲ忘ル。弘乃出デテ與ニ相聞〔二字傍点〕シ遂ニ歓宴シテ日ヲ窮ム
とある相聞はチカヅキになる事ではあるが元來前者に属すべきものである。然し呉書巻十一の朱異傳の註の
 文士傳ニ曰ク。張惇ノ子純、張儼及異卜倶ニ童少ナルトキ往キテ驃騎將軍朱據ニ見ユ。據、三人ノ才名ヲ聞キタリシガ之ヲ試ミムト欲シテ告ゲテ曰ク。老鄙相聞〔二字傍点〕シ饑渇甚シ。ソレ吾爲ニ各一物ヲ賦シテ乃坐セヨト
の相聞と、同書卷十三陸遜傳の
 呂蒙病ト稱シテ建業(○呉都)ニ遷ル。遜往キテ之ヲ見テ謂ヒテ曰ク。羽(○關羽)ソノ驍勇ニ矜《ホコ》リ人ヲ陵轢ス。始メテ大功アリテ意驕リ志|逸《オコタ》レリ。并進ニ務ムルヲ得トシテ未我ヲ嫌《ウタガ》ハズ。病ヲ相聞〔二字傍点〕スルアラバ必益備無カラム。今ソノ不意ニ出デパオノヅカラ禽制スベシト
の相聞はただ聞く事であるり即聞知といふ事である。かかる意義につかへる例も一二では無い(昭利八年三月二十八日)
 
(25)    浦島子 一
 
先頃或會で「古典の趣味」と題して講演した中に我邦の史籍に見えたる傳説と支那の唐朝以前の文學に見えたる傳説との相類せる二三の例を擧げて此等の中には偶然の暗合に過ぎぬものもあるが又支那の傳説を焼直して日本のものとしたのもあるであらうと云つた。其時にわざと省いた例の中で萬葉集に關係ある一を左に擧げよう。唯一例に止めるが事によると枝に枝がさいて意外な大物になるかも知れぬ
萬葉集巻九に詠水江浦島子長歌が見えて居る。浦島子の事は古い物では日本紀の雄略天皇二十二年紀・釋日本紀卷十二に引ける丹後國風土記の逸文・群書類従卷百三十五に収めたる浦島子傳及續浦島子傳記・扶桑略記の雄略天皇の段などに見えて居る。扶桑略記は平安朝時代末期の著作で新しい物であるが浦島子の記事は古い物に據つたと思はれる。丹後風土記の逸文に據ると當國の舊宰即前(26)國司|伊預部馬養連《イヨベノウマカヒノムラジ》の所記があつたさうであるが、それは傳はつて居らぬやうである。栗田寛博士は扶桑略記の記事を指して
 こは浦島子傳にて思ふに風土記にいはゆる伊豫部馬養連所記といへる者なるべし
と云つて居らるるが、どうであらうか。ともかくも右の記事は類從所収の浦島子傳とはちがふ。なほ後に云はう
ここに捜神後記卷上に
 會稽|※[炎+立刀]《エン》縣ノ民袁相・根碩ノ二人猟シテ深山ヲ經ルニ重嶺甚多シ。一群ノ山羊六七頭ヲ見テ之ヲ逐ヒ一石橋ヲ經ルニ甚狭クシテ峻《サカ》シ。羊去ル。根等モ亦随ヒ渡リテ絶崖ニ向フ。崖正赤ニシテ壁立セリ。名ヅケテ赤城ト曰フ。上ニ水流アリテ下ル。廣狭《ヒロサ》匹布ノ如シ。※[炎+立刀]人之ヲ瀑布ト謂フ。路徑ニ山穴アリ。門ノ如ク豁然タリ。サテ過ギテ既《ハヤ》ク入レバ内甚平敞ニシテ草木皆香シ。一小屋アリ。二女子ソノ中ニ住メリ。年皆十五六ニシテ容色甚美シクテ青衣ヲ著タリ。一ヲ瑩珠ト名ヅケ一ヲ○○ト名ヅク。二人ノ至ルヲ見テ※[立心偏+斤]然トシテ云ハク。早クヨリ汝ノ來ルヲ(27)望ムト。遂ニ室家《ツマ》トナル。忽二人出行クトテ云ハク。復※[土+胥]ヲ得タル者アリ。徃キテ之ヲ慶セムト。履ヲ絶巌上ニ曳キ行クコト琅々然タリ。二人歸ラムコトヲ思ヒテ潜ニ歸路ニ去ル。二女|追還《ヨピカヘ》シ已《ハヤ》ク知リテ乃謂ヒテ曰ク。自《ママニ》去ルベシト。乃一腕嚢ヲ以テ根等ニ與ヘ語リテ曰ク。慎ミテ開ク勿レト。是ニ乃歸リシガ後ニ出行ク。家人其嚢ヲ聞視ルニ嚢ハ蓮花ノ如ク.一重去レバー重復至ル。五重ノ中ニ小キ青鳥アリシガ飛去ル(根還リテ此ヲ知リテ悵然タルノミ。後ニ根、田中ニテ耕ス。家、常ノママニ之ニ餉《イヒオク》ルニ田中ニ在リテ動カザルヲ見ル。就キテ見ルニ但《タダ》殻アリ。乃|蝉蛻《センゼイ》ナリ
とある。
 ○廣狭はただヒロサといはむに齊し。追は古典に喚と同義に使へり。ヨビともメシともよむべし。自は恣に同じ。ココロノママニ又は略してママニとよむべし
即袁某・根某の二人が深山に入つて二人の仙女と相逢うて各同棲したが故郷に歸りたくなつて仙女の不在中に歸路に就いた。仙女は之を見附けて呼還したが(28)事情を聞いて強ひて留めはせずに一腕嚢を二人に與へて決して開いてはならぬと戒めた。歸郷後或時根が外出した跡で家人が其嚢を開いて見しに小さな青い鳥が嚢の中から出て飛去つた。又其後根が田に出て耕して居る時に家人がいつものやうに辨當を持つて行きしに根が動かぬので、よく見るとモヌケノカラとなつてしまつてゐた。即根は仙人となつたのである。と云ふ意である。右の中で乃以2一腕嚢1與2根等1語曰。慎勿v開也とあるのが風土記の逸文に
 女娘取2玉匣1授2嶼子《シマコ》1謂曰。君終不v遺《ワスレズ》2牋妾1有《アラム》2眷尋1者《ニハ》堅握v匣慎莫2開見l
とあり萬葉集の歌に
 妹がいへらく、常世べに、またかへり來て、今のごと、あらむとならば、このくしげ、開くなゆめと、そこらくに、かためしことを云々
とあるのに似て居る。或は浦島子傳説は六朝の仙女小説の骨を換へて作爲し之に捜神後記の一節の腕嚢を櫛笥に改めて附加したのではあるまいか。彼伊預部馬養連は即伊余部連馬飼で其名は持統天皇紀三年六月・文武天皇紀四年六月などに見えて居る、丹後風土記の出來た時代と萬葉集の長歌の出來た時代とも略(29)推定する事が出來る。然らば捜神後記の出來た時代は如何といふに此書は彼桃花源記と同じく晋の陶淵明の撰なりと傳へられて居るが、それは假托であるとしても隋書経籍志に捜神後記十卷陶潜撰とあるから(新唐書の文藝志小説類には出て居らぬ)六朝の遺書たるには疑はあるまい。されば伊預部馬養か又は丹後風土記の撰者が捜神後記から取つたとしても時代に關しては妨が無い。さて雄略天皇紀に
 二十二年秋七月丹波〔二字傍点〕國|餘社《ヨザ》郡|管《ツツ》川ノ人|水江《ミヅノエノ》浦島子船ニ乗リテ釣シ遂ニ大龜ヲ得。便《スナハチ》化シテ女トナル。是ニ浦島子感ジテ婦トシ相逐ヒテ海ニ入リ蓬莱山ニ到リテ仙衆ヲ歴覩ス。語ハ別卷ニ在リ(○丹後は和銅六年四月までは丹波の内なりき)
とある。語在別卷とあるは即伊預部馬養の書いた浦島子傳であらう。又續浦島子傳記に
 所謂浦島子傳ハ古賢ノ撰スル所ナリ。其言不朽ニシテ千古ニ傳フベク其詞花麗ニシテ萬代ニ及バムトス。而ルニ只五言絶句二首和歌ヲ紀シテ更ニ他ノ艶《ニホヒ》(30)ナシ。之ニ因リテ至感ニ堪ヘズ、浦島子ニ代リテ七言廿二韻ヲ詠ジ三百八字ヲ以テ篇ヲ成セルナリ。名ヅケテ續浦島子傳記ト曰フ。時ニ延喜ニ十年庚辰臈月朔日ナリ云々
といへる浦島子傳も彼馬養の所記を指したのであらう。さてその馬養の所記は確に今は傳はつて居らぬか。或は群書類従に出て居る浦島子傳がやがてそれではあるまいかと云ふにまづ續傳記に據れば所謂浦島子傳には五言絶句二首和歌(和歌の下に何首といふ事落ちたるにや)が出て居る筈であるに類從本の傳にはさるものは見えぬ。されば續傳記にいへる所謂浦島子傳は類從本の傳では無い。次に伊預部馬養は和銅以前の人であるから少くとも此人が浦島子傳を書いたのは和銅以前であらうから其所記には丹波國云々とあるべきに類從本の傳には丹後國水江浦島子とある。されば類從本の傳は馬養の所記では無い。さて續傳記に所謂浦島子傳といへるものを即馬養の所記であらうと云つたに對して或は云はん。伊預部馬養は當時の人の習として漢文と歌とは作り得たであらうが詩を作る事がかつがつ我邦に行はれ始めた當時に在つて果して詩をさへ作(31)り得たであらうかと。答へて云はん。馬養は持統天皇の世に撰善言司を命ぜられ文武天皇の一世に彼大寶令の撰定に與り又皇太子學士に任ぜられた程であるから漢文を書き得たのは勿論であるが詩をも作り得たと見えて現にその從駕應詔の五言一首が懐風藻に出て居る。次に續浦島子傳記の事並にそれと類従本の浦島子傳との關係を述べんに續傳記は其初に
 承平二年壬辰四月廿二日甲戌於2勘解由曹局1注v之坂上家高明耳
とあり
 ○前田家本古寫本日本紀の表紙の見かへしに某御筆也或は某御筆矣、或は某御筆耳とあり。この識記も筆も五六百年前のものなり。少くとも當時耳は也矣などの如く用ひしなり(右の識記はわざと一々様式を變へて書けるなり)
又本文の終に近き處に
 因v之不v堪2至感1代2浦島子1詠2七言廿二韻1以2三百八字1成v篇也。名曰2續浦島子傳記1。于v時延喜二十年庚辰臈月朔日也云々
とあり、さて其辭曰とあつて二十二韻四十四句のあまりに上手で無い詩を擧げ、(32)其次に
 依v有2餘興1詠2加和歌絶句各十四首1(浦島子之詠十首・龜媛之詠四首)
とあつて七言絶句と歌とを交互に擧げて居る。多少枝に枝が出ようとは豫期してゐたが自然に任せると枝の方が幹より太くなりさうであるから、よい程に切上げて此傳記の根本的研究は他人に任せるか又は他日に譲らうが元來此傳記は所謂浦島子傳古賢所v撰也以下が本文で(詩を主とすれば序で)延喜二十年に失名氏が作つたものであらう。而して冒頭より後代號2地仙1也までは承平二年に坂上某が作つて(彼唐の陳鴻が長恨歌傳を作つたやうに)附加したのであらう。さてその坂上氏註(假稱)と類從本の浦島子傳とを比較するに辭句の同一なる處が多いと云ふよりは傳の文は殆全く註の中に取入れられてある。されば
 註は傳を敷衍したものとするか
 傳は註を節略したものとするか
此兩樣のうちであらねばならぬが恐らくは類從本の浦島子傳は坂上氏註を節略したものであらう。彼扶桑略記に續浦島子傳云として擧げたるは明に坂上氏(33)註の節略である、原文には冗長なる處があるから略記の如き編年史に引用するには旁これを節略せねばならぬが、ただ聊不用意なる處がある。たとへば妾漸見2島子之容顔累年枯槁逐日骨立1云々とある妾といふ語が妥ならず思はれるので其原文たる坂上氏註を見るに上に神女與2島子1相談曰とあつて妾漸見云々は元來龜比賣の話説中の一句である。從つて妾は龜比賣の自稱である。然るに扶桑略記には(彼浦島子傳にも)神女與島子相談曰云々といふ處を省いた爲に妾漸見云云が地の文となつて妾といふ語が妥ならずなつたのである。扶桑略記に擧げたるにはかやうに不備なる處があるから、もし引用するならば原文に據るべきであるに栗田博士の風土記逸文考證に扶桑略記に擧げたる續浦島子傳を引用せられたるは群書類從に浦島子傳と續浦島子傳記とを收めたるに心附かれなかつたのである。さうして類從を見られなかつたればこそ扶桑略記の本文(略記には此本文の次に續浦島子傳云として彼坂上氏註の節略文を擧げて居るのである)を馬養の所記に擬せられたのであるが扶桑略記の本文は古記の外に丹後風土記や雄略天皇紀を参酌して新に書いたものであらう。言ひたい事は山程ある(34)がすべて割愛する。未練がましいが唯一言だけ添加せんに續浦島子傳記に
 水の江の浦島の子が玉くしげあけての後ぞくやしかりける
など十四首の歌が出て居るが其第五に
 ふる里も見し多良智目もうせにけり我身も露ときえやはてなむ
とある。母の事をタラチメといふは平安朝末造以後の事で延喜時代には無かつた事である、此續傳記を延喜二十年の作と信ずるにはまづかかる雲霧を拂ふべきである(昭和八年二月一日稿)
 
    浦島子 二
 
彼詠2水江浦島子1歌の冒頭に
 春の日の かすめる時に 墨吉《スミノエ》の 岸にいでゐて 釣船の とをらふ見れば いにしへの 事ぞおもほゆる
とあるに就いて余は新考(一七三九頁)に
(35) 雄略天皇紀に丹波國(○後の丹後)餘社郡|管《ツツ》川人水江浦島子とあるを始めて諸書皆丹後國與謝郡の人とせるに此歌にスミノエノ岸ニイデ居テ釣船ノトヲラフミレバ云々といひスミノニカヘリ來リテ家ミレド宅《》イヘモミカネテ云々といへるを見れば丹後にもスミノエといふ處ありとするか又は浦島子を津國住吉の人とする一説ありて此歌はそれによりてよめるなりとせざるべからず。但丹後にスミノエといふ地ありしことを聞かず
と云つて置いたが延喜二十年とある彼擬2浦島子並龜媛作1詩歌(即所謂續浦島子傳記の後年)の中に 世をうみてわが泣く涙澄江〔二字傍点〕にくれなゐ深き浪とよらなむ
とある。又坂上氏註(即續浦島子傳記の前半)に
 浦島子ハ何許ノ人ナルカヲ知ラズ。蓋上古ノ仙人ナリ。齡三百歳ニ過グトイヘドモ形容童子ノ如シ。……獨釣魚ノ舟ニ乗リテ常ニ澄江浦〔三字傍点〕ニ遊ブ。……神女ノ曰ク。……妾在昔ノ世ニ夫婦ノ義ヲ結ブ。而ルニ我ハ天仙ト成リテ蓬莱ノ宮中ニ生レ子ハ地仙ト作リテ澄江〔二字傍点〕ノ波上ニ遊べリ。今宿昔ノ因ニ感ジ來リ(36)テ俗境ノ縁ニ從フナリ。……島子舟ニ乗リ目ヲ眠ラシテ歸去ルニ忽故郷澄江浦〔三字傍点〕ニ到ル
とある。又浦島子傳に
 雄略天皇二十二年ニ當リテ丹後國ノ水江ノ浦島子獨船ニ乗リテ靈龜ヲ釣ル。……神女答へテ曰ク。……妾世ニ在リシトキ夫婦ノ義ヲ結ブ。而ルニ我ハ天仙ト成リテ蓬莱ノ宮中ニ樂ミ子ハ地仙ト作リテ澄江〔二字傍点〕ノ浪上ニ遊ベリ。……島子船ニ乗リ眠ルガ如クシテ而皈去ルニ忽以テ故郷澄江浦〔三字傍点〕ニ至ル
とある。かやうに萬葉集の長歌の外にもスミノエノ浦といふ事が見えて居るが擬浦島子並龜媛作詩歌には、詩歌にも其序にも、丹波國とも丹後國とも與謝郡とも管川とも見えて居らぬ。坂上氏註には浦島子者不知何許人といへる事上に抄出せる如くである。浦島子傳に至つて始めて丹後國水江浦島子と云つて居るが此俸は前に云つた通り坂上氏註を簡略したもので其冒頭は日本紀の説を取つたのである ○少し旁径に入るが坂上氏註に
(37)  神女與2島子1相談曰……妾漸見2島子〔二字傍点〕之容顔1果年枯槁
 といひ又
  神女送2詞於島子1而告言……島子〔二字傍点〕若守2此言1永持v誡者総2萬歳之契1遂2再會之志1
 といへる島子は子の誤であらう。即島子の島は衍字であらう。ここは龜媛の話説の中であるから第二人稱を用ふべく、よそよそしく島子と云ふべき處で無いからである。又外の處は皆子と云つて居る。次に浦島子傳に島子乘v船如眠自〔右△〕皈去忽以至2故郷澄江浦1とある自といふ語が妥で無いが、これは坂上氏註に島子乗v舟眠目〔右△〕歸去忽到2故郷澄江浦1とあるを一本に眠を脱し眼を自に誤つて島子乘舟自〔右△〕歸去に作れるに據つたのであらう。眠目は俗にいふ目ヲツブルで坂上氏註の別處にも願令2眼眠1とある。又坂上氏註に忽到故郷澄江浦とあるを浦島傳に以字を挿んで忽以〔右△〕至故郷澄江浦に作れるに注目するがよい。恐らくは以字の無い方が古からう
さて右の澄江浦を大日本地名辭書に今の丹後國竹野郡網野町に擬して居るが、(38)これは輕々しく同意せられぬ。然し地理の事を云はうとすると本篇は第三第四までも書繼がねばならぬ事となるであらうから、それは他日に譲る事としよう(山陰道風土記逸文新考に云へり)。然し又これで筆を止めると第二があまり短くなるから今少し聯想する事を書いて見よう。讀飽きた人はここで目を眠らしてもよい
日本紀垂仁天皇二十三年に
 秋九月丙寅朔丁卯群卿ニ詔シテ曰ク。譽津別《ホムツワケ》王ハ是生レテ年|既《ハヤ》ク三十ニシテ髯鬚|八掬《ヤツカ》ナルニ猶泣クコト兒ノ如ク常ニ言《コトド》ハザルハ何ノ由ゾト。因リテ有司ニ令《オホ》セテ之ヲ議セシム。冬十月乙丑朔壬申天皇大殿ノ前ニ立チタマヒ譽津別皇子侍セリ。時ニ鳴鵠《クグヒ》ノ大虚ヲ渡ルアリ。皇子仰ギテ鵠ヲ観テ曰ク。是何物ゾト天皇則皇子ノ鵠ヲ見テ得言ヒタマヒシヲ見テ喜ビタマフ
とあるは誰でも知つて居る事であるが、これとよく似たる例が北史にある。即同書裴侠傳に
 侠年七歳ニシテ猶言フコト能ハズ。後洛城ニ於テ群鳥ノ天ヲ蔽ヒテ西ヨリ來(39)ルヲ見、手ヲ擧ゲテ之ヲ指シテ言フ、遂ニ志識聴慧ニシテ常童ニ異ナル有リ
とある。暗合であるか否かは諸君の判断に任せよう。實は余自身は決定し得ぬのである
決定し得ぬと云つては聊面子を損ずるであらうから今一つ決定し得る話を附加しよう。それは源三位親政が所謂鵺を射たと云ふ話の種である。即彼晋の干寶の著なりといふ捜神記の卷七に楚人李楚賓が怪鳥を射た話が出て居る。原文全部を譯出する方が昇りやすからうが頗長いから話の筋だけを摘んで見よう。即
 南齊の永明年間に董元範といふ人の母が奇病に罹つた。即晝間は安静であるが夜中になると背が劇しく痛んで刀で刺され又殴打せらるるやうである。そこで醫藥針灸と手を盡したが一年を経ても效が無い。或時易者が泊り合せて占つて云ふには本日午後に弓箭を持して來る人があるから其人に頼めば母御の病苦を救ふ事が出來ると云つた。そこで元範が道に出て待つて居ると李楚賓といふ弓の上手が遊猟に來た。そこで事情を話して泊つてもらつた(○以下は原文を直譯して擧げよう)
(40) 此夜月明晝ノ如シ。賓二更(○午後十時)ニ至リテヨリ乃|房門《ヘヤノト》ヲ出デテ徐行ス。忽空中ニ一大鳥アリテ母ノ房上ニ向ヒテ嘴ヲ將《モツ》テ啄《ツツ》クヲ見ル。忽堂中ニ痛楚シテ忍ビカネタルヲ聞ク。賓心中ニ思惟《オモ》ハク、此鳥是妖魅ナル莫カラムヤト。乃房中ニ入リ弓箭ヲ取リテ之ヲ射、連《シキリ》ニ数箭ヲ中ツ。其鳥飛去リ堂中ノ痛聲忽止ム。且ニ至リテ賓、範ニ向ヒテ曰ク。某昨夜君ノ母ノ與《タメ》ニ疾害ヲ除キ訖リキト。範ノ曰ク。如何ニシテ除キ得シゾ。曰ク其昨夜二更ニ至リテ戸ヲ出デテ徐行セシニ忽一大鳥ノ渾身朱色ニシテ兩眼金ノ如クナルガ飛ンデ堂中ニ向ツテ嘴ヲ將《モツ》テ啄クヲ見、乃夫人(○母をいふ)ノ痛聲ヲ聞キツ。某弓箭ヲ取ツテ之ヲ射シニ連箭ニシテ飛去リ堂中ノ聲スナハチ止ミキト。範之ヲ聞キテ再三驚喜シ相随《トモ》ニ宅ヲ※[しんにょう+堯]リテ尋ネ※[爪/見]ムルニ竝ニ物ヲ見ズ。忽|碓《タイ》柱(?)ノ上ニ両隻箭アリテ、中ル所皆血ヲ流セルヲ見ル。範火ヲ以テ之ヲ焚キシニ精怪乃|除《ノゾコ》ル。母ノ患モ此ヨリ平復シテ故《モト》ノ如シ
これを見ると頼政の話はどうも舶來種のやうに思はれる。因に云はん。世人の多くは頼政が射たといふ猿頭蛇尾の怪物の名をヌエといふと思うて居るが彼怪(41)物は後にも前にも現れた事の無い唯一の物であるから、それに名のあらう筈が無い。平家物語にも「鳴く聲はヌエにぞ似たりげる」とあつた筈である。ヌエは萬葉集にヌエドリまたヌエコドリとよまれ古事記にもアヲ山ニヌエハナキと見えて今トラツグミといふ鳥である。氣味の惡い聲で鳴くから萬葉集にもノドヨビ又はウラナゲキの枕辭とし平家物語にも怪物の聲をなぞらへたのである。トラツグミの事は近年刊行の種々の書物に出て居る。最近に讀んだのは柳田國男の秋風帖であるやうに思ふ
此から彼へと筆があくがれて書く事はいくらでもあるが折角萬葉集といふ元の浦へ漕戻した事であるから、まづここで硯に蓋をしよう(昭和八年二月二十六日)
 前半を清書方へまはして書入れる事が出來ぬから此處に書加へるが續日本後紀嘉祥二年の下に見えたる彼興福寺大法師等奉v賀3天皇賓算滿2于四十1長歌の中にも
  ふるごとに いひつぎ來る 澄江〔二字傍点〕の 淵に釣せし きみの民 浦島の子(42)が云々
とある
 
(43)    丹比笠麻呂下筑紫國時歌
萬葉集卷四(新考六三四頁)に丹比眞人笠麻呂下2筑紫國1時作歌と題して
 「臣女の くしげにのれる 鏡なす」 みつの濱邊に (さにづらふ) 紐ときさけず わぎもこに こひつつをれば 「あけぐれの あさ霧がくり なくたづの」 ねのみしなかゆ わがこふる 千重のひとへも なぐさもる こころも、ありやと 家のあたり わがたち見れば〔七字傍点〕 (あをやぎの) かづらき山に たなびげる 白雲がくり △ (あまざかる) ひなのくにべに 『ただむかふ 淡路をすぎ 粟島を そがひに見つつ 朝なぎに かこのこゑよび ゆふなぎに 梶のとしつつ 浪の上を いゆきさぐくみ いはのまを いゆきもとほり いなびつま 浦みをすぎて』 (鳥じもの) なづさひゆけば〔七字傍点〕 家の島 △ ありそのうへに うちなびき しじにおひたる なのりその」 などかも妹に のらず來にけむ
(44)といふ歌が出て居る、歌中に今( )を以て括りたるは枕辭「 」を似て圍みたるは序である。又『 』を似て界したるは挿句である。即アマザカルヒナノ國べベニ鳥ジモノナヅサヒユケバと續くのである。又アリソノウヘニウチ靡キシジニオヒタルナノリソノといふ序の上限が無いが其事は後に分つて來る
余は新考に
 白雲隱の一句に誤字あるか又は此句の下に脱句あるべし。さらでは上なるワガタチミレバのをさまる處なし
と云つて置いた。更に云はんに家ノアタリ以下六句の意はココカラ我家ノ見當ヲ見ルト大和河内ノ界ナル葛城山脈ニカカツテ居ル雲ニ隱レテといふ事であるから其次にカスカニダニ見エヌカラセム方ナクテなどいふ意の辭句が無くては次なるアマザカルヒナノ國ベニ鳥ジモノナヅサヒユケバへ續きはせぬ。恐らくは白雲ガクリの次にホノカニモココニ見エネバなどいふ二句のあつたのが落ちたのであらう。セム方ナクテといふ事は云はずても補つて聞かれる。余は又
(45) 家ノ島の次に(○前に〔二字傍点〕とあるほ誤植脱句あるべし。さらではナヅサヒユケバといふ句のをさまる處なければなり。案ずるにもと鳥ジモノナヅサヒユケバ家ノ島クモヰニ見エヌソノ島ノアリソノ上ニなどありしが二句おちたるにや。彼卷十五なる屬物發思歌(即今の歌と辭句頗相似たる歌)に朝ナギニ船出ヲセムト船人モカコモコヱヨビニホドリノナヅサヒユケバイヘジマハクモヰニミエヌとあり。今は此歌によりてクモヰニミエヌソノ島ノの二句を補はむとはするなり。もしもとの如くばイヘノシマはイヘジマノとあるべし。然もことさらに地名の中間にノを挿みて調を成したるを見ても原作は今の如くならざりけむことを知るべし
と云つて置いた。大體は今もかやうに思うて居るが、ただソノ島ノアリソノ上ニとあつたとすると遠くから家島を望んだ趣では無くて近よつて見た趣であるからクモヰニ見エヌではかなはぬ。恐らくは鳥ジモノナヅサヒユケバ家ノ島浪間ニ見ユ〔六字傍点〕ソノ島ノアリソノウヘニとあつたのであらう。さうしてかのナノリソノを下限とせる序の上限はその脱落したるソノ島ノである。即ソノ島ノアリ(46)ソノウヘニウチナビキシジニオヒタルナノリソノの五句はノラズにかかれる序である。以上の外は今新考を訂正する必要を認めぬ(昭和八年四月二十三日)
 
(47)    丹比笠麻呂
萬葉集卷四なる下筑紫國時歌(新考六三四首)の作者|丹比《タヂヒ》笠麻呂はこれ程の長歌を作つた人であるから恐らくは山部赤人・笠金村・高橋蟲麻呂・山上憶良・大伴坂上郎女に雁行した作者であらうが惜い事には此長歌並に其反歌一首と、卷三に見えたるタクヒレノカケマクホシキといふ短歌との外に其作は傳はつて居らぬ。そこでせめては其経歴でも知りたいと思ふが國史には其名は現はれて居らぬ。恐らくは卿位には至らずして歿したのであらう。然らば其時代は如何といふに此歌の題辭に丹比眞人笠麻呂下2筑紫國1時作歌とある。筑紫といふ語は或は西海道全體を指し或は後の筑前筑後を指し或は太宰府即筑紫ノトホノミカドを指して居る。然しここには筑紫國とあるから恐らくは後の筑前筑後を指して居るのであらう。筑紫國が筑前筑後に分れたのは.いづれの年であるか明には分らぬが筑前國の名の始出は文武天皇紀二年三月に筑前國宗形郡とあるのが其であ(48)る。之に次いでは正倉院文書に筑前國嶋郡川邊里大寶二年籍とあつて筑前國印が捺してある。はやく景行天皇紀十八年七月に到2筑紫後《ツクシノシリ》國御木1居2於高田行宮1とあるがごれは言ふまでも無く追書である。さてここに下筑紫國時とあるから此歌は恐らくは文武天皇二年以前の作であらう。次に本集卷三に
    丹比眞人笠麻呂徃2紀伊國1超2勢能山1時作歌
 たくひれのかけまくほしき妹の名をこのせの山にかけばいかにあらむ
と云ふ歌があつてそれに春日|藏首《クラビト》老が和した歌が出て居る。春日老は僧辨基の還俗後の名である。さうして辨基(國史には弁紀)が還俗したのは續紀に據れば大寶元年三月である。次に此贈答歌の趣ではまだセノ山に對するイモ山は無かつたのであるが、セノ山に對せしむべく紀の川沿岸の或山にイモ山と名づけたのは奈良朝時代の事であるから右の贈答歌は奈良朝の初又は藤原朝の作と認めねばならぬ。次に本集卷十五に見えたる彼屬物發思歌(新考三二二一頁)は冒頭にアササレバ、イモガ手ニマク、カガミナス、三津ノハマビニといへるを始として此丹比笠麻呂の長歌と辭句に頗相似たる所があつて此歌を粉本としたる形跡が(49)顕著であるが其歌は天平八年の作であるから笠麻呂の歌はそれより前の作で無ければならぬ。此等の事實を綜合すれば笠麻呂は文武天皇の御世の人で或は元明又は元正の御世にかかつたでもあらうが恐らくは天平年間には及ばずして卒したのであらうさて卷十五なる天平八年丙子遣2新羅1使人等悲別贈答及海路慟情陳思作歌并當v所誦詠之古謌は一行中の無名氏の筆録で、其中に出でたる屬物發思歌は其無名氏の作であらうと思はれ、さうして其屬物發思歌の作者は丹比笠麻呂の下筑紫國時歌を知つてゐたと思はれる事前に云へる如くであるが其直前に古挽歌一首并短歌として
 ゆふされば あしべをさして あけくれば おきになづさふ かもすらも つまとたぐかて わが尾には △ しもなふりそと しろたへの はねさしかへて うちはらひ さぬとふものを ゆくみづの かへらぬごとく ふくかぜの みえぬがごとく あともなき △ よのひとにして わかれにし いもがきせてし なれごろも そでかたしきて ひとりかもねむ
(50)    反歌
 たづがなきあしべをさしてとびわたるあなたづたづしひとりさぬれば
といふ歌を擧げ、さて右丹比大夫悽愴亡妻歌と註して居る。此歌を擧げしは即彼(笠麻呂の下筑紫國時歌を知れる)屬物發思歌の作者であらうと思はれるから、ここに云へる丹比大夫はやがて笠麻呂であらう。大夫は四位五位の稱であるから笠麻呂は卿位に至らずして卒したであらうと初に云つたのと一致する。右の推測の如くであると笠麻呂の長歌の傳はれるは一首にあらずして二首である。右の長歌にも脱句があるが(新考三二一九頁参照)それは傳寫の際の脱落でもあらう、然し其反歌はよくととなうて居らぬやうである。或は筆録者が記憶に任せて記したので、其記憶に誤があつたのであるまいか。右の長歌に古挽歌と題して居る。されば此歌が笠麻呂の作であるとすると笠麻呂は此天平八年に夙く古人であつたのである
右の笠麻呂は柿本人麻呂とは同時の後輩であり又作歌には相當に骨を折つた人であるらしいから人麻呂の作を見聞する毎によく玩味したであらう。辭を換(51)へて云はば笠麻呂も亦赤人・金村などの如く多くもあれ少くもあれ人麻呂に私淑したであらう。現に彼下筑紫國時歌の中のワガコフル、千重ノヒト重モ、ナグサモル、ココロモアリヤトの四句は卷三なる人麻呂の妻死之後泣血哀慟作歌の中の辭である。更に思ふに卷二に
    丹比眞人擬2柿本朝臣人麻呂之意1歌
 あらなみによりくる玉を枕に置〔左△〕《シ》われここにありとたれか告げなむ
    或本歌曰
 あまざかるひなの荒野に君をおきておもひつつあればいけりともなし
とあつて左註に
 右一首歌作者未詳。但古本以2此歌1載2於此次1也
とある。右の或本の歌は同じ作者が人麻呂の妻|依羅《ヨサミ》娘子の意に擬した歌であらうと云ふ事を新考(三二五頁)に眞淵に左袒して書いて置いたが恐らくは此二首の歌の作者も笠麻呂であらう。試に古義を閲するに「丹比縣守卿にや」といひ
 ○これは同時の人といふ外に何の理由も無い。縣守が歌を作つたといふ證據(52)も無い。縣守と云ひ傳らるるならば其兄池守とも云ひ得られよう。官位は池守の方が上である。然も特に縣守と云つたのは其名が卷四の歌の題辭に見えて古義の作者の耳に熟してゐたからである
又恩返して「丹比眞人笠麻呂にも有べし」と云つて居る。元來此歌は文選の雜擬殊に謝靈運の擬魏太子※[業+おおざと]中集八首・江文通の雜體詩三十首などに倣つて人麻呂夫妻の心持になつて作つたものであるが、かく文選の雜擬に倣へるを見れば其作者には漢文學の素養もあつたであらう。もし此二首をも笠麻呂に屬する事が許されるならば集中に見えたる笠麻呂の作は長歌二首短歌五首となるわけである。集中にはまだ卷八なる
 宇陀の野の秋はぎしぬぎなく鹿も妻にこふらく我にはまさじ
と卷九なる
 難波がた鹽干にいでて玉藻かるあまをとめどもなが名のらさね
と、名の闕けたる丹比眞人の歌が二首あるが卷三なる登筑波岳長歌を作つた丹比眞人國人を始として丹比氏の作家は少く無いから右の二首は誰の作か分ら(53)ぬ。強ひて云はば宇陀ノ野ノ秋ハギシヌギといふ歌は笠麻呂が妻を失つた時の作であるまいかとも云ふべきであるが、上に述べた事さへ基礎が堅固で無いのに更に進んで砂上に楼閣を築くべきでは無い
元來丹比氏即多治比氏は名門であるが始めて臣籍に下つたのは宣化天皇の曾孫多治比古王で、始めて眞人のカバネを賜はつたのは多治此古の子左大臣島である。島の薨じたのは文武天皇の大寶元年七月である。又笠麻呂が貴公子であつた事は卷四なる彼春日老の答歌の調でも分る。されば笠麻呂は島の子であるかも知れぬ。島にはあまたの男子があつたらしいが其中で顕達したのは大納言池守(長男)中納言縣守・同廣成(五男)同廣足の四人だげであるらしい。國史には丹比眞人某といふ名があまた出て居るが其人々と島との関係は分らぬ。但和銅四年四月に卒した宮内卿水守は池守・縣守と名が對して居るから島の子であらう。現に公卿補任寶亀元年多治比士作任参議の註に左大臣正二位島孫、宮内卿從四位下水守子とある。さうして島の子とすると池守の弟、縣守の兄であらう。彼和銅四年に池守は從四位上であり縣守は從五位上になつたばかりであるに水守は從四(54)位下であつたからである
更に案ずるに天武天皇紀六年十月に攝津職大夫|丹比公《タヂヒノキミ》麻呂といふ人が見えて居る。時代から考へると始めて皇族の籍を辭して丹比公《タヂヒノキミ》といふ氏カバネを賜はつた多治比古王の子で、島の兄弟であつたと思はれる。此人は島のやうに改めて眞人のカバネを賜はつた事は國史に見えぬが少くとも其子等は島の子弟として丹比眞人と稱したであらう。笠麻呂は或は右の麻呂の子ではあるまいか。國史には又丹比眞人三宅麻呂といふ人が見えて居る(大寶三年正月以下)。或は麻呂の長男で、笠麻呂は其弟であるまいか。デアラウ・デアルマイカの連續で聊面目ないが、デアルといふ事は學問上の良心が許さぬ(昭和八年五月二十日)
 追記 多胡碑和銅四年の左中辨正五位丁多治此眞人は誰にか。藤貞幹は三宅麻呂なりと云へり。本朝月令四月七日奏2成選短冊1事の條に式部記文云和銅四年四月多治此眞人三宅磨授正五位下とあり
 
(55)    高田女王の歌
 
萬葉集卷四なる高田女王贈2今城王1歌六首の中の第一首の
 こときよく甚宅莫言ひと日だに君いしなくば痛寸取物
といふ歌に就いて余は新考(六六五頁)に
 コトキヨクはサツパリトといふことならむ。甚毛莫言は略語古義に從ひてイトモナイヒソとよむべし○君イシの伊は志斐伊ハマヲセの伊に同じ○結句は有不敢物の誤としてアリアヘヌモノとよむべきか(○簡略)
と云つて置いた。されば余は
 言清くいともないびそひと日だに君いしなくばありあへぬもの
と訓んだのであるが再思ふに君イシナクバとアリアヘヌモノと文法上相副はざるのみならず言キヨクイトモナイヒソは人に誂ふる辭、君イシナクバ云々は自己の心境を述べたる辭で初二句と第三句以下と調はた相協はぬ。進んで思ふ(56)に有不敢物はアリアヘジモノと訓んで君イシナクバと相協はしむべく又第三句以下は君を吾の誤として相副はしむべきである。即
 言清くいともないひそひと日だに吾いしなくばありあへじもの
と訓んでサウサツパリトノタマフナ、私ガ無カツタラ一日デモ御|堪《コラ》ヘナサレヌデシヨウといふ意とすべきである。手弱女がかかる無遠慮な事を云ふのは不思議なやうであるが元來これは戯言である。又集中に吾を君に誤り又は君を吾に誤れるは少からぬ事である。近くは此卷の初の處にも
 衣手にとりとどこほりなく兒にもまされる君をおきていかにせむ
とある君を吾に誤つて居る。かやうに君と吾とを往々相誤れるは其字體が本來相似て居るからであるが古鈔本には往々君を※[書の上半分無し]又は※[ゑの上半ゐ]と書いて居る。これも混同を助けた事であらうと思はれる
此女王の歌は卷八春雜謌に今一首出て居る。即
    高田女王歌一首
 山ぶきのさける野の邊のつぼすみれこの春の雨に盛なりけり
(57)といふ歌で、其題辭の下に高安之女也とある。高安即高安王も亦集中の作者であるが續日本紀天平十年四月の詔に
 從四位上高安王等ノ去年十月二十五日ノ表ヲ省《ミ》テ具ニ意趣ヲ知リツ。……今請フ所ニ依リテ大原眞人ノ姓ヲ賜フ云々
とあり新撰姓氏録ニ大原眞人出v自2謚敏達之孫百済王l也とあるから敏達天皇の裔で型式天皇の天平十一年に大原眞人といふ氏カバネを賜はつたのである。大原眞人の集中に見えたるは高安の外に櫻井・門部・今城である。此三人と高安との血族関係はよく分らぬが其敍爵の年を検するに門部和銅三年高安同六年、櫻井同七年、今城はズツト後れて天平寶手元年である。されば門部・高安・櫻井は兄弟で、門部は高安の兄、櫻井は高安の弟であらう。然るに兄なるべき門部王を措いて高安王が一族を代表して賜姓を願出たのには事情があらう。或は高安王は嫡腹、門部王は庶腹であつたか、次に今城は右の三人の内の子であつたらうと思はれるが高安王の娘高田女王と相思の仲であつたのを思ふと高安の子では無くて門部又は櫻井の子であつたらう。
(58) 〇今城の母は後に大伴旅人の室となつた但家持の母では無い
ともかくも今城王と高田女王とは従兄妹で遠慮を要せぬ所謂をさな友だちであつたから高田女王が今城王にかの吾イシ無クバアリアヘジモノといふ戯言をいひ遣したのであらう。因にいふ。門部王の署名は本邦古寫經所収田中光顕伯所蔵の觀世音菩薩受記經の奥書に天平六年歳在甲戌始寫、寫經司治部卿從四位上門部王とある。抑此王の敍從四位上は續日本紀に天平三年正月丙子と天平十四年四月、戊戌と二度見えて居る。されば三年の門部王を或本に恐内部王之誤と註して居る。然らば同十二年乙未の下に見えたる治部卿従四位上門部王も内部王の誤とせねばならぬが右の奥書に治部卿門部王とあるから治部卿たりしは内部にあらで門部である。従つて古義人物傳に
 按に天平四年より十四年間までの間故ありて位一階を減《トラ》れけるにや
と云へるが當つて居るだらう。さうして位一階を降されしは彼奥書に天平六年歳在甲戊始寫從四位上門部王とあるに續日本紀天平六年二月朔に從四位下門部王とあるから天平六年正月であらう(昭和八年五月五日旅行上道の日)
 
(59)    爲當
 
萬葉集卷一に
 みよし野の山のあらしのさむけくに爲當《ハタ》やこよひもわがひとりねむ
とあり又卷六に
 さをしかのなくなる山をこえゆかむ日だにや君は當《ハタ》あはざらむ
とある。即ハタを爲當〔二字右△〕又は當〔右△〕と書いて居る。又日本紀の欽明天皇紀に
 十六年春二月百済ノ王子除昌、王子惠ヲ遣リ奏シテ曰ク。聖明王賊ニ殺サルト。天皇聞キテ傷恨シ廼《スナハチ》使者ヲ遣シテ津二迎へテ慰問シタマフ。是ニ許勢臣《コセノオミ》、王子惠ニ問ヒテ曰ク爲當〔二字右△〕此間《ココ》ニ留マラムト欲《オモ》フヤ、爲當〔二字右△〕本郷ニ向ハムト欲《オモ》フヤト云々
とある。昨年中或學者が此等竝に古義のミヨシ野ノの歌の註に引けるものの外に古い物にまだ例があるかと問うたから(問方は少しちがつて居るかも知れぬ)
(60) 六朝の書物に若干あるよ。御入用なら書拔いて上げてもよい
と答へたがその後頼にも來ぬからその儘にしておく内に、抄出せずして頭に入れておいた分は追々に忘れるやうであるから全部失念してしまはぬ内にここに書集めておかう。元來今日まで黙止したのは此語に就いての研究を完了してから報告しようと思うたからである。されば此處に公にするは中間報告に過ぎぬ。若某博士の如く此語を研究しようと思ふ人は遠慮なく此資料を使用せられてよい。余は更に見當り又は思出した例を報告するであらう。さうして暇を得たら自分も研究を試みるであらう。まづハタとよむべき爲〔右△〕の例が最多いやうであるが北史卷八十二何|妥《タ》の傳に
 八歳國子學ニ遊ブ。助教顧良之ニ戯レテ曰ク。汝ノ姓何、是荷葉ノ荷カ、爲〔右△〕河水ノ河カト。妥聲ニ鷹ジテ答ヘテ曰ク。先生ノ姓顧、是眷顧ノ顧カ、爲〔右△〕新故ノ故カト。衆|咸《ミナ》之ヲ異トス(○隋書何妥傳は略同文なれど爲新故之故の爲を是とせり)
とある。國子學は官立學校の名である。又同書卷九十徐子才の傳に
 常《カツテ》朝士ト出游シ遙ニ群犬ノ競ヒ走ルヲ望ム。諸人試ニ之ヲ目セシム。子才即聲(61)ニ應ジテ云ハク。爲〔右△〕是宋鵲カ、爲〔右△〕是韓廬カ、爲〔右△〕李斯ヲ逐ヒテ東ニ走ルカ、爲〔右△〕帝女ヲ負ヒテ南ニ徂クカト
とある。常は嘗と通ずる。目は當時流行した品題である。無韻の詠物詩である。此品題は不思議にも次のものと同一である。即同書卷一百李家傳に
 路ニテ狗ヲ見ル。温子昇戯レテ曰ク、爲〔右△〕是宋鵲カ、爲〔右△〕是韓盧カト。神※[人偏+雋](○李挺)曰ク。爲〔右△〕丞相ヲ逐ヒテ東ニ走ルカ、爲〔右△〕帝女ト共ニ南ニ徂クカト
とある。李家傳は北史の著者李延壽が其家の人々の事を書いたものである。延壽が右の諧謔が徐子才の品題と同一なるを知りながら併存したのは實は彼此いづれの語なるかを明にしなかつたからであらう。或は好事者が作爲して或は徐子才に、或は李温に假托したのであらうか。さて宋鵲は宋の良犬、韓盧は韓の名狗である。丞相は秦の李斯で、その腰斬せらるるに臨みて其子を顧みて吾|若《ナンヂ》ト復黄犬ヲ牽キテ供ニ上蔡ノ東門ヲ出デテ狡兎ヲ逐ハムト欲ストモ豈得ベケムヤと云うた事は名高い説話である。帝女は五帝中の高辛氏の女である。帝が其狗|槃瓠《ハンコ》に女を賜ひしに狗は女を負うて南山に升つたといふ。即八犬傳の伏姫八房の粉(62)本である。又世説の紕漏門なる任育長年少時の節に
 坐席|既《ハヤ》ク竟リテ下飲ス。便《スナハチ》人ニ問ヒテ云ハク。此爲〔右△〕茶カ、爲〔右△〕茗カト。異怪ノ色有ルコトヲ覺リテ乃自申明シテ云ハク。向《サキ》ニハ飲ガ爲〔右△〕熱ナルカ爲〔右△〕冷ナルカヲ問ヒシノミト
とある。次に爲當〔二字右△〕の例は北齊の顔子推の家訓即所謂顔氏家訓に
 通俗文、世間題シテ河南服虔字子慎ノ造ト云ヘリ。股仲堪ノ常用字訓ニモ亦服虔ノ俗説ヲ引ケリ。今復此書無シ。未知ラズ即是通俗文ナリヤ、爲當〔二字右△〕異有リヤ。近代或ハ更ニ服虔アルカ明ニスル能ハザルナリ
とある。まだ一二の例を見たが今探し出す事が出來ぬ。右の爲〔右△〕と爲當〔二字右△〕との外に又爲復〔二字右△〕と書ける例がある。即世説の排調門に
 ※[(メ/広)+おおざと]《ゲキ》重熈○雲)謝公(○安)ニ書ヲ與へテ王敬仁(○修)ヲ道《イ》フ。聞ク一年少問鼎ヲ懐フト。知ラズ桓公ノ徳衰へタルカ、爲復〔二字右△〕後生畏ルベキカトとある。問鼎ハ軽侮の意、桓公云々は王修を齊の桓公に比したのである。次に初に擧げたる如く萬葉葉巻六には當〔右△〕不相將有とあつてハタを當に充てて居るがハ(63)タとよむぺき當の例はまだ見當らぬ。或は余の注意が足らなかつたか(日本紀の中に一例があるが引くべき文に誤字があつて其考證に筆を費さねばならぬから今は保留する)
ハタを爲當と書く事に就いては代匠記・古義・美夫君志・鐘のひびきなどにも説があつたやうであるが大略研究の完了するまでは再讀を控へよう。ともかくも研究はハタといふ語とハタを爲當・當・爲・爲復など書くことと別々に進めねばならぬ。然いふは上述の漢籍中の爲・爲當など又欽明天皇紀の爲當は英語のorに當つて、ハタヤコヨヒモワガヒトリネム・コエユカム日ダニヤ君ハハタアハザラムのハタには適せぬやうであるからである(昭和八年六月二十七日)
 
(64)    吹かざるな
 
萬葉集卷一に
 わぎもこをはやみ濱風やまとなる吾《ワ》をまつ椿ふかざるなゆめ
といふ長皇子の御歌がある。余は新考(一ー五頁)に
 フカザルナはきき慣れねど今吹く濱風の故郷の方へ吹きゆくを故郷なる松椿に吹通へるものと假定しさて然吹續けよとのたまへるなり云々
と云うておいた。思ふに此辭づかひは漢文訓讀から傳はり來たものであらう。此説を確める爲に二三の例を擧げて見よう。まづ古いものでは禮記の曲禮上に毋《ナカレ》v不v敬とある。次に文選なる永明十一年策秀才文に
 罔弗同心以匡厥辟(心ヲ同ジクシテ厥辟《ソノキミ》ヲ匡サザルナカレ)
とあるはやがてソノ君ヲ匡セヨといふ事である(策は試である。策秀才は秀才試験の問である)。次に唐書卷九十八王珪傳に公等勿2感懲v是不2進諫1也とある。也は助字(65)である。次に同書卷一百七傳奕傳に
 然自今毋有朋諱而不盡言(然レドモ今ヨリ諱ム所アリテ言ヲ盡サザルナカレ)
とある。次に同書卷一百五十四季晟傳に
 爲我謝令言等善爲賊守勿不忠于※[さんずい+此](我爲ニ令言等ニ謝セヨ。善ク賊ノ爲ニ守リ※[さんずい+此]ニ忠ナラザル勿レト)
とあるは姚令言ニ傳ヘヨ、善ク賊首朱※[さんずい+此]ニ忠ナレと云ふ事で李晟の皮肉である。
思ふに此等をヰヤマハザルナ・ソノ君ヲタダサザルナといふやうに讀み慣れてゐたから之に倣うてワヲマツツバキ吹カザルナユノとのたまうたので、長皇子は吹カザルナといふ辭が後人の訝を受けようとは思ひかけられなかつたであらう。萬葉集に用ひられたる語辭で年フカシ・トギシ心・ミチノクマミ・心ヒラキテ・年月ハアラタナレドモ・松|柏《カヘ》など漢文訓讀から移つて來たらしく思はれるものの少からざる事は新考に云うておいた。就中年フカシといふ語に就いては同書の三八四〇頁に二三の例を擧げておいた(昭和八年七月十八日)
 
(66)    蘆城驛 一
 
何事もさうであるが特に驛傳の事には分らぬ事が無数にある。試に延喜兵部省式に就いて比較的に善く地理を知つて居る播磨國の驛馬の處を見るに忽五つ六つの不審が湧いて來る。然も大日本地名辭書や日本地理志料のやうな名著もその解答を示してくれぬ。ここに萬葉集卷四に
 (神龜)五年戊辰太宰少式石川足人朝臣遷任餞2于筑前國蘆城驛家1歌三首
 (天平二年庚午)太宰帥大伴卿被v任2大納言1臨2入v京兄之時1府宮人等餞2卿筑前國蘆城驛家1歌四首
がある。次に卷八に
 太宰諸卿大夫并官人等宴2筑前國蘆城驛家1歌二首 をみなへし秋はぎまじる蘆城の野今日を始めてよろづ代に見む たまくしげ葦木の河を今日見てばよろづ代までに忘らえめやも
(67)とある。此外に卷十二なる覊旅發思歌の中に
 惡木山こぬれことごとあすよりはなびきたりこそ妹があたり見む
といふのがある。これは筑前のアシキであるか否か明で無いが、もし筑前のアシキであるときまらば新考(二七〇九頁)に
 妹がアタリは故郷の方なり。其國に著きし日によめるなり
と云へるを改めて
 妹ガアタリは太宰府なり。妹は任地にて娶りし婦人なり。任地を去る時によめるなり
などとせねばならぬであらう。さて今も筑前國筑紫郎御笠村の大字に阿志岐といふ處がある。驛址は此大字の内で無いとしても、その附近である事は確である。その阿志岐は太宰府の東南に當つて両地の距離は極めて近い
昨年中某君が來て
 萬葉集卷六に(天平二年)冬十二月太宰帥大伴卿上v京時娘子作歌二首の左註に右太宰帥大伴脚兼2任大納言1向v京上v道此日馬駐2水城1顧望云々、とあり旅人の答(68)歌にもマスラヲト念ヘル吾ヤミヅグキノ水城ノ上ニナミダ拭ハムとあるから旅人は太宰府から北方水城を経て博多に出たのである。然るに太宰府の官人が太宰府の東南方なる蘆城驛で餞別の宴を開いたのは如何。又蘆城驛は太宰府を距たる事一里にも足らなかつたであらう。當時の三十里即今の凡四里毎に一驛を置くといふ規定に對して距離のあまりに近きは如何と聞かれた(これも問者の意と多少齟齬して居るかも知れぬ)。當時此問題に眼を注いでゐなかつたから考へてから御答しようとのみ云うておいた。然るに今年になつてから、事情を公にする事は憚るが此問題に觸れなければならぬ事が起つた。左に記述するものは右の爲に考慮した結果である。某君と疑を同じくせる人もあるであらうから私に某君に語る代に此紙上で公にしよう
驛傳の事はまだよく学界に知れて居らぬから少し餘計な事を云ふかも知れぬ。然し余の貧弱な知識でも全部さらけ出さうとすると五囘や七囘の論文では盡されまいから成るべく本問題を離れぬやうにする、驛傳の名稱は延喜式の兵部省の篇に出て居る外に和名抄の高山寺本に出て居る。後者はもとより後出のも(69)のであるが往々前者の流布本の誤を正す事が出來るからやはり忽にはせられぬ。蘆城驛は右の驛名の中には見えぬ。蓋天平より延喜までの間に廢止せられたか又は改稱せられたのである
一寸段落がつきさうにも無いから一先此處で筆を収めるが彼顔氏家訓に
 ※[業+おおざと]下ノ諺ニ云ハク。博士驢ヲ買ヒテ券ヲ書スルニ三紙ニシテ未驢ノ字有ラズ
とあるが余は夙く處々に蘆城といふ字を點|綴《テイ》しておいたから北朝人の嘲を受けぬであらう(昭和八年八月十九日)
 
   蘆城驛 二
 
太宰府を中心とする驛路は京に通ずる外に管下諸國の國府に通じてゐた。兵部省式に
 筑前國驛馬 獨見・夜久《ヤク》各十五疋、島門《シマト》廿三疋、津日廿二疋、席打《ムシロウチ》・夷守《ヒナモリ》・美野各十五疋、久爾十疋佐尉・深江・比菩(○和名抄高山寺本作比喜)額田・石瀬《イハセ》・長丘・把伎《ハキ》・熈瀬・隈埼・伏見・綱別各五疋 傳馬 御笠郡十五疋
(70)とある。右を路筋によつて分類すると左の如くであらう
 ○本書に驛名を列擧したるには或は近より遠に及び或は遠より近に至つて居るが今は太宰府を中心として列擧する
至京北路〔二字傍点〕 久爾・美野・夷守・席打・津日・島門・夜久・獨見(接豊前國到津)
至京南路〔二字傍点〕又至豊前國府 伏見?綱別(接豊前國田河)
至肥前筑後等國府 長丘?接肥前國基《キ》肄)
至豊後國府 隈埼・熈瀬・把伎(接豊後國石井
經肥前至壹岐 石瀬・額田・比喜〔右△〕・深江・佐尉?(接肥前國大村)
まぎらはしいから先に云うておくが右の肥前國大村を諸書に今の東|彼杵《ソノキ》郡の大村として居るは誤で、所謂草野の大村で、今の東松浦郡玉島村の内である。又肥前國驛馬の條に磐氷・大村と列れるその磐氷をも地名辭書には東彼杵郡に擬して居るが、これも今の東松浦郡で、おそらくは今の厳木《キウラギ》村の内であらう。肥前の東端基肄から西南島原半島の野鳥に通ずる驛路中|高來《タク》即今の小城《ヲギ》郡多久から岐れ北方に向つて彼大村に達する驛路中の中間驛である(地理志料には東松浦郡(71)の内としたれど賀周《カス》の前驛として居る。同書も亦彼大村驛を東彼杵郡の大村として居るのである)。さて前に戻るが太宰府から京に上るには二路があつた。余は假に北路・南路と名づけておく。南路は近路である。其代に険路である。太宰府管内志以下に之を古道と解して居るのは誤解である。古道では無い。此路は豊前の國府に至る直路である。但太宰府と豊前國府との往復に北路を取る事もあつた。たとへば萬葉集卷六に
 豊前守|宇努首男人《ウヌノオビトヲビト》歌一首 ゆきかへり常にわが見し香椎潟あすゆ後には見むよしもなし
とある。これは宇努男人が轉任せんとする頃の作である(新考一〇七〇頁参照)。さて豊前國府から北路を取つて太宰府に到らんとするには刈田驛を経て到津に出たのである。又太宰府から南路を取つて京に上らんとするには豊前國府には立寄らずに田河驛から多米驛を経て(?)刈田驛に出で更に到津《イタイヅ》驛に出たのであらう。之を圖示すれば左の如くである
(72) 社崎○
    |
   到津○――刈田○――豊前國府○
 
        多米○――○田河〔刈田から多米へ斜線、多米から田河へも斜線〕
又兵部省式に〔この六字は71頁の最後〕
 豊前國驛馬 社崎《モリザキ》・到津《イタイヅ》各十五疋、田河・多米・刈田・築城《ツキキ》・下毛《シモツミケ》・宇佐・安覆各五疋
とある。京に上るには到津から社埼(今の門司市)に至り海峡を渡つて長門國臨門(今の下關市)に達したのである。築城以下は豊前國府から豊後國府に通ずる驛路にあつたのである。安覆は地理志料に云へる如く安幕の誤でアマキと訓んだのであらう。然し同書に田川郡の安眞木に擬したるは地理と延喜式記載の順序とを無視したる説である。これは恐らくは宇佐郡|馬城峯《マキノミネ》の山中にあつた驛で、豊後の長湯驛に接したのであらう。馬城峯をいにしへマヤノミネと云うたさうであ(73)るが、そのマヤはやがて驛《マヤ》であらう。各驛址の事も云ひたいが其暇が無い
さて太宰府から京に上るには北路にもあれ南路にもあれ、まづ西方なる(北方では無い)水城《ミヅキ》に出たのである。就中北路を取るには西北に向つて今の筑紫郡席田を經て博多に到り、それより北方又は東方に向つて今の糟屋・宗像・遠賀《ヲンガ》の三郡并に豊前の企救《キク》郡を通過したのである。又南路を取るには東南に向つて蘆城に至りそれより東北に向つて今の嘉穂郡・豊前田川郡・同|京都《ミヤコ》郡を経て企救郡に出たのである
蘆城は太宰府から一里にも足らなかつたであらうが、それは間道を経由しての事である。太宰府から水城に出で、それより驛路を経由して蘆城に出るには一里などといふ事はあるまい。其上國府(ここでは太宰府兼國府)と次驛との距離の近い事はめづらしい事では無い。遠國から例を求むるまでも無い豊前の國府と築城驛と、又肥後の國府と蠶養《コガヒ》驛との距離を見るがよい。殆目と鼻との間では無いか
筑前國續風土記卷之九に
(74) 蘆城 宰府の南にあり。蘆城の驛とてむかし宰府より都へゆく馬次の宿なり。蘆城より米の山と云所を通りしとなん
とある。又太宰管内志筑l前之二十四に
 蘆城驛は御笠郡阿志岐村(○今の筑紫郡御笠村大字阿志岐)の内にあるべし。今其址さだかならず。此驛より東北の方米(ノ)山を越て穂波郡長丘驛(○此驛の事は後にいふべし)に至る。是古太宰府より豊前國に通ふ小路《セウロ》なり
 蘆城野は御笠郡阿志岐村より米(ノ)山に到る間の山野を云なり
 葦木川は御笠郡阿志岐・吉木両村の間を流れて南に折れて数里にして筑後河に入る。其河源は米(ノ)山よりいづ
 惡木山は御笠郡阿志岐・吉木両村の東北に在て今は米(ノ)山と云なり。此山穂波郡茜山又本郡|竃円《カマド》山につづきて大なる山なり(米(ノ)山は御笠穂波兩郡の堺に在て今は穂波郡に付けり。アシキ山を安志岐と天山〔○アマ山は今の御笠村の大字にて阿志岐の南にあり〕との間にある山なりとするは違へり。是はいとちひさく又古の官道のすぢにもあらず)
(75)とある。葦木川は今の寶滿川の上流にて寶滿山一名|竃門《カマド》山一名御笠山より發して南流して筑後川に注いで居る。吉木。阿志岐は其左岸にある。「吉木阿志岐両村の間を流れて」と云へるは如何。又「其河源は米(ノ)山よりいづ」と云へるはいみじき誤である。今の筑紫嘉穂二郡の界が分水嶺で、米の山は分水嶺より東に在つて其山から出づる渓流は遠賀《ヲンガ》川の水源の一つである。アシキ山を米の山に擬したるもいかが。阿志岐の北に吉木といふ大字がある。元來同一地域であつたのを二つに分げた後にアシキに對してヨシキと命名したのであらうが阿志岐の東に宮地岳があり吉木の東北に笹尾山がある。共に寶滿山の山つづきであるがアシキ山と云へるは此等の山であらう。萬葉集卷八に
    太宰諸卿大夫并宮人等宴2筑前國蘆城驛家1歌二首
 をみなへし秋はぎまじる蘆城の野今日を始めて萬代に見む
 たまくしげ葦木の河をけふ見てば萬代までも忘らえめやも
とあるを見れば此附近は面白い草野で彼|夜須《ヤス》野と齊しく太宰府の官吏が好んでピックニックに來た處であらう。太宰管内志に「蘆城野は御笠郡阿志岐村より(76)米(ノ)山に到る間の山野を云なり」といへるは右の歌を誤つて集中にあまた見えたる播磨の印南野の歌と同じ様に旅行者の作と思うて、それに叶ふやうに説きなしたのであらう。右の米の山を地名辭書にヨネノ山とよんで居るが筑前國續風土記にはコメの山と傍訓してをる。どちらが正しいのか地方の人に確めたい(コメノ山が正しといふ)。地理志料を見る時に著者は例の癖で「米の山はもとマイノ山でマヤノ山の轉訛である」と云うて居らるるであらうと思うたに此處に限つてさうは云うて居られぬ。著者は「氣がつかなかつた。惜い事をした」と云はるるであらうが實は氣がつかなくてよかつたのである(昭和八年九月二十六日)
 
    蘆城驛 三
 
驛址の擬定は頗困難である。試に日本地理志料と大日本地名辭書とを對照せよ。筑前國十九驛中二書の説の略一致せるものは恐らくは三分の二に過ぎまい。全體兵部省式に驛名を擧たるは一定の順序に依つたのである(國によつては多少亂れて居るやうであるが)。然るに地理志料は此順序を輕視して居る。これが此(77)書の缺點の一である。さて本論に用あるは長丘驛と伏見驛との位置であるが地理志料は長丘をナガヲと訓んで今の嘉穂郡上穂波村の大字長尾として居る。これは元來太宰管内志の説に従つたのである。其長尾は恰蘆城驛址と綱別驛址との中央にあるからである。今一つ此説を助くべき事は長尾と阿惠との間に阿惠に属したる馬出《ウマダシ》といふ字のある事である(阿惠も亦上穂波村の大字である)。此事は管内志の著者も地理志料の著者も心づいて居らぬ。然るに此説の障碍となるものは兵部省式記載の順序である、即豊後の國府より太宰府に到る把伎・廣瀬・隈埼三驛を挙げて其次に伏見・綱別とつづけて居るから一般の例に依ると綱別の前驛は伏見で無ければならぬ地名辭書は伏見驛を上穂波村の一大宇山口馬敷などに擬して居る。これは兵部式に綱別の前に擧げて居るからといふ理由のみに依つたのであるが、それにしても今少し東北へ即管内志などの如く長尾附近へ持つて行かねばならぬ。思ふに綱別の前驛は伏見で其驛址は今の嘉穂郡上穂波村大字阿惠字馬出の附近ではあるまいか。次に地名辭書は長丘をナガヲカと訓んで今の筑紫郡筑紫村に擬して居る。これは元來貝原益軒の説に依つたのであ(78)るが其理由とする所は和名抄御笠郡(○今の筑紫郡の内)の郷名に長崗あり又今も筑紫村の大字に永岡といふ名が残つて居る事である。轉じて彼伏見驛を地理志斜にはどう扱つて居るかと見るに全然管内志に従つて居るから寧管内志の原文を引かんに同書には之を那珂郡の部に擧げて
 此伏見は那珂郡山田村伏見神社あるわたりにあるべし(此外筑前の内に伏見と云處今ある事なし)。此邊今の官道にはあらざれども太宰府より那珂郡五个山を通りて肥前の神埼に出る道なれば古に驛をおき給へるにやなほよく考ふべし
と云つて居る。太宰府から肥前の國府に到る驛路は木の山を越えて基肄《キ》郡|基肄《キ》驛を経たのであるから右の説は一顧の値も無い。寧地理志料に右の説に従うて
 太宰府ヨリ此ヲ由《ヘ》、五箇山ヲ踰エテ肥前神埼郡ニ至ル。是古今ノ驛路ナリ
と断言して居るのがあさましい(古今驛路の今は衍字であらう)。云はでもよき事ながら蛇足を添へんに右に山田村といへるは今の筑紫郡岩戸村の大字である。那珂郡も今は筑紫郡の内である。筑紫郡の西半が昔の那珂郡である。思ふに肥前(79)國基肄の前驛は長丘であらう。さうして筑紫村大字永岡が其遺址であらう
長丘驛址のある筑紫村と蘆城驛址のある御笠村とは隣村で、永岡と阿志岐とは其距離が一里以下であらうから蘆城驛は廢せられたのでは無く萬葉集の蘆城驛は即延喜式の長丘驛ではあるまいかとは自然に起る疑であるが蘆城は古の御笠郡四郷中の御笠郷に屬し長崗郷には屬せぬから、もし蘆城驛が長丘驛となつたものとするならば阿志岐から永岡に移したものとせねばならぬが、さうすると豊前豊後へ行くに道が遠くなる上に長丘驛から三路に驛馬を出すとなると兵部省式に見えて居るやうに五疋の儲では間に合ふまい(肥前の國府へと筑後等の國府へとの岐路なる基肄驛の儲の十疋なるを思へ)。されば蘆城驛と長丘驛とは恐らくは關係があるまい(博多に東路の美野驛と西道の石瀬驛とが相接して存在せし例を思ふべし)。蘆城驛は事情があつて天平と延喜との間に廢せられ廢止後は府から直に驛馬を發する事となつたのであらう。云ふ機會が無かつたが蘆城驛はただ豊前國府に到る初驛のみならず同時に又豊後國府に通ずる頭驛であつたらう。此事を明にするにはまづ廣瀬隈埼二驛の位置を定めねばな(80)らぬが、をれが中々たやすからぬ問題である上に本論は大分長くなつて讀者の倦怠を來したであらうと思はれるから、ここで一まづ擱筆する。もし本論によつて讀者が多少でも蘆城驛并に驛賂一般に就いての知識を深められたら筆者の勞は報いられるであらう(昭和八年十月二十四日)
 
(81)    長門島 上
 
萬葉集卷十五なる天平八年丙子遣新羅使人等作歌の中に
     安藝國長門島〔三字傍点〕(ニテ)舶泊2礒邊1作哥五首
 いはばしるたき毛〔左△〕《ノ》とどろになく蝉のこゑをしきけば京師《ミヤコ》しおもほゆ
 やまがはのきよきかはせにあそべども奈良のみやこは忘れかねつも
 いその間のたぎつ山がはたえずあらばまたもあひ見む秋かたまけて
 戀しげみなぐさめかねてひぐらしのなく島陰にいほりするかも
 わが命をながとのしま〔六字傍点〕の小松原いくよを経てかかむさぴわたる
     從2長門浦〔三字傍点〕1舶出之夜仰觀2月光1作歌三首
 月よみのひかりをきよみ夕なぎにかこの聲よびうらみ漕ぐかも
 山のはに月かたぶけばいざりするあまのともしびおきになづさふ
 われのみや夜船はこぐとおもへればおきべの方にかぢの音すなり
(82)といふ歌がある。又卷十三に
 をとめらが 麻笥《ヲケ》にたれたる うみ麻《ヲ》なす 長門の浦〔四字傍点〕に 朝なぎに みちくるしほ ゆふなぎに よりくる波 そのしほの いやますますに その浪の いやしくしくに 吾妹子に こひつつくれば 阿胡の海の ありそのうへに 濱菜つむ あまをとめらが うなぎたる 領巾《ヒレ》もてるがに 手にまける 玉もゆららに しろたへの 袖ふる見えつ あひ思ふらしも(○反歌略)
といふ長歌がある。代匠記此長歌の註には「長門之浦は安藝なり」とのみ云つて居る。この長門島・長門浦が安藝の倉橋島の事なるを發見したのは廣島の儒者香川南濱である。それは南濱の作つた遊長門島記を見れば明である。大日本地名辭書には藝藩通志に據つて長門島を倉橋島の事として居るが藝藩通志は南濱の説を採用したのである。かくて南濱の説は學界に認められたが其發見の功勞が埋もれて居るから茲に闡幽の筆を執るのである
南濱の事跡は南濱餘影といふ書に記されかの遊長門島記も其附録に掲げられ(83)て居るが其書は大正十年四月に廣島で非賣品として發行せられたもので世間には知られて居らぬやうである
香川南濱名は※[草冠/盡]臣、通稱は修藏、廣島の貧民の子であつたが刻苦獨學して遂に堂堂たる儒者となつた。さうして傍國文・天文・暦算・音韻・地理・本草等の學に通じ又琴・琵琶・横笛などの技を善くした。初業を廣島に開いたが用ひられず他國に出でて始めて用ひられ遂に松山藩の聘に應ぜんとして一旦廣島に歸つたが初の門生が慕ひ集まつたから已むを得ず松山の聘を辭して廣島に留まつて私塾修業堂を開いて居るうちに天明元年十二月に藩立學問所が出來た時に頼春水等と共に徴されて藩士となり各三十人扶持を給せられた。さて後に南濱は學問所の東堂一名松舍の教頭として古學を講じ春水はおなじき西堂一名竹舍の教頭として宋學を講じ二人相並んで廣島藩の學政を掌つたが寛政二年に幕府が異學を禁止した爲に藩主は不本意ながら南濱を罷めた。然し保護を加へて再以前の私塾を開かしめた(其塾は南濱の歿した翌年に藩立となつた)。南濱は古學を主としたが然も拘泥しなかつた。又學風は實用を旨とした。著書多く就中最深く毛詩を(84)研究したが感ずる所があつて晩年に著書の稿本の大部分を焚棄てた。かくて天命に安んじて寛政四年八月十六日に五十九歳で歿した。南濱は貧民の子である。貧民の子でも他處で用ひられた例は少からぬ事であるが生れた土地の藩に召されて然も重く用ひられた。これは一つには藩主宰臣がえらかつた爲でもあらうが南濱が非凡であつた琴を證する。又南賓は獨學であつた。もし大家名家に入門するならば恰今帝國大學に入學するやうに其師其友の推輓も得られようが南賓がさういふ便宜の無い身でありながら出世をしたのは確にえらい。余等も覺魔のある事であるが學閥に屬せぬものは屡迫害を受けるものである。然るに南賓にさる形跡の見えぬを思へば南賓には余等とちがつて其邊の用意もあつたものと見える。チト同情が過ぎて人の事か自分の事か分らなくなつたが南賓がかやうに學問人物共にすぐれてゐたのに其名のあまり聞えなかつたのは主として其著書を焼棄てて世に傳へなかつた爲である。當人は悔ゆる所が無かつたかも知れぬが其毛詩十考などは今でもどこぞに其寫本が殘つてゐはすまいかと尋ねて見たいやうな氣がする。然し名玉の光は終に隱れ果つるものでは無く(85)て大正五年十二月二十八日に特旨に依りて正五位を追贈せられた。定めで地下で感泣した事であらう(昭和八年十一月二十二日)
 
    長門島 下
 
遊長門島記は全文掲載した方がよいかも知れぬが頗長い上に本領が儒者であるから無理も無い事であるが假字遣や語格の誤もあつて作文の軌範とはならぬから要處ばかりを抄出するに止める。其代に文中に必要なる地理的解説を添加しよう
 寛政壬子夏(〇四年此年八月作者歿す)厳島におもひたつ事あり。四月二十四日船にのりて漕出たりけるが北風俄にはげしく辛うじて能美島といふ所に著ぬ。
  ○ここに云へるは能美島の中村か。能美島は厳島の東南にある島にて今は江田島と地頸を似て相連れり。即一大島の東北部を江田島といひ西南部を能美島と云ふなり
(86) これより渡子島へはいかばかりありやと尋ねければ一里ばかりも候はんといふ〇さらば渡子島へ渡るべしとて渡るほどに瞬目の間に到りぬ。
  ○渡子《トノコ》島とて獨立なる島あるにあらず。能美島の東南に又一大島あり。之を倉橋島といふ。之を三部に分ち其西北部を渡子島(今渡子島村)といひ東北部を瀬戸島(今音戸町)といひ南方の大部分を又倉橋島(今倉橋島村)といひしなり。さて南濱の舟を著けしは渡子島の宇田原なり
 此所の長をば五作といふ。人となりことに篤實の者なり。年久しく余に從學せり。そのよし使して申遣はしければ倒屐して出迎へたり。偖五作が家に到りて見れば誠に年ふり住なしたるが海に臨みていと物さびたるけしき先あはれなり。其夜は彼家に宿し、あくるあした倉橋島の長新六といふものつとに酒携へ來り迎へたり。もとより倉橋島は萬葉集によみたる長門島なるを〔倉橋島は萬〜傍点〕いつのころよりか其名かくれて倉橋島と稱す。倉橋島は此島の内本浦一村の名なり。
  ○狭義の倉橋島の名を本《ホン》浦といふ。其中に又狭義の本浦(今倉橋島村字本浦といふ)ありて南海岸の中央に在り。村中唯一の市街地なり。此本浦の一名(87)を倉橋といふより島の南部を倉橋島といひ終に其名を全島に及ぼしたるなり
 余三十歳ばかりの頃より長門島は必ず倉橋島なるべし〔十三字傍点〕とうたがひ思ひて既に秋長夜話初編にこれを書たりき、今既に三十年に近うして猶已むことなく彼島の人にも又その所往來の人にも尋ねけれどたしかなる事も聞えず。聲に吠ゆるの徒己が見出したるやうにいふものあれど、はからずも此所に來りぬるはふしぎ成ける事なりかし。そも此長門島は神無月しぐれふりおけるならの宮天が下しろしめす天平八年丙子夏六月新羅に使する人々の旅況を傷みてよめる歌あり。その次第備後國水調《ミツキ》郡長井浦。風速浦・安藝國長門島なり。……いつの頃よりか江波島(○今陸につづきて廣島市大字|江波《エバ》村と稱せらる)と解し厳島道芝記にも此處を出せり。近頃は此島の小祠を長門島大明神と稱しあられもなき妄説をなすこそあさましき。おもふに古、使人妄に無用の所へは立寄るべからず。されば新羅に使する船の通船の海路十里ばかりを何の爲にか漕入るべき。其上萬葉集載るところ長門島にての歌五首、江波島の景色にお(88)いて一もあたれる事なし。長門島の名久しく隱れて知る人なし。余はからずも此島に到りて里人にも尋ね島の景色をつらつら見てまがふ方なき長門島なる事を定めぬるは僭なりといへども我安藝國第一の名所をそことさしきはめぬるは一かたならぬいさをしならめ。ただ願はくは一頑石をも建て古跡を著し公にせまほしけれど文雅を好む人なければ我志も空しく朽なん。いとほいなきわざならずや。廣島より渡子島へ南方海上七里ばかり。五作の住所を田原浦といふ。田原浦より一里ばかり漕行て地方《ヂカタ》はうちつづきたる石山にて風景よし。瀑布(なる瀧と稱す。倉橋島の内重生浦に属す)もあり
  ○重生はシゲフなるを今拗音にてシギヨーと唱ふ
 其上へ上りて沖の方を望めば島嶼碁置して風景いふばかりなし。此あたりの海口をすべて長門口〔三字傍点〕といふ。田原浦より一里半ばかり重生浦(人家あり)、重生より五六町ばかり善太郎鼻(〇二十萬分一帝國圖の傳太郎鼻)、それより四五町長門崎〔三字傍点〕といふ(○倉橋島の西南隅なり)。……長門崎より五六町ばかりなべ島(倉橋に屬せる小島なり)、石山にて尤美景なり。須川浦(人家あり。小里なり)、龍のの口此(89)所大磐甚奇なり。帆掛石・鯨石・※[奚+隹]石皆其形状の似たるをもて名づく。影浦に立石あり、高さ三十三尋ありとかや。本浦〔二字傍点〕繁昌の地なり。此處本は倉橋といふ。今此島の島本なるゆゑ本浦と稱す。此浦の名を一島にかうぶらしめしゆゑ長門島の名隱れて僅に長門崎・長門口の名のみ存ぜり。此所船を造りて業とす。本浦より少し東に宮の濱といふ所あり。此處萬葉集の歌によく合へり〔十三字傍点〕。濱邊に松原あり。今は老松なれどナガトノシマノ小松バラとよみし此處なるべし。山川の小流もあり。爰もタキツ山川タエズアラバマタモアヒ見ム秋カタマケテとよみしけしきにてタエズアラバとよみつればそのかみもわづかなる流と見えたり。八幡の神あり。星霜ものふりたるさまいと殊勝なり。傍に辨財天の祠あり。此處にしばしやすらひ古をおもひかくぞ思ひつづけぬ。
  いくよへて我をやまちし小松原長門の島をけふ見つるかな
 それより又船に打のり鹿老渡《カラウド》といふ處に渡りぬ。長串山、尾立人家あり。(小里なり)室尾(これも亦里なり)海《カイ》越(上に同じ。小里なり)などいふ所を過て鹿老渡に到り見れば島山のさし出たる所にて泊船の湊なり。鹿老渡名義卑俗にして通ぜ(90)ず。是韓亭の訛なるべし。筑前國にもあり。萬葉集に見えたり。韓人泊する所なる故に此名あり。又次に肥前國松浦郡狛島亭あり。皆韓人往來の泊する所の名によれり。比鹿老渡今も泊船の湊あり。士人云。七八十年來人家多く建て續けて繁昌の地となると
  ○鹿老渡は島の東南端にあり。カラウドをカラドマリの轉訛とせるは非なり。カラウドといふ地名は他國にもありて無論海邊に限らず(山城丹波兩國の界なる大江山の一名なるカラウド越、播磨國加東郡|來住《キシノ》村大字|來住《キシノ》のカラウド谷など)。カラウドは唐櫃なり。カラウドといふ名を負へる中には石棺を掘出でし處あり
 南濱はそれから本島の東岸を北航し本島の北端と地方《ヂカタ》(安藝郡)なる警固屋《ケゴヤ》村との間なるオンドノ迫門を過ぎて此處はもと平清盛の建てし經塔あるより御塔《オンタフ》の迫門といひしを隱戸《オンド》などと誤れるなりと考證し、さて
 隱戸を過て汐もむかひ風も力なく日暮にたれば船を海中にとどめて物くひ酒のみて臥しぬ。夜半ばかり風ふき汐もよくなりて船を發し、にはよく晩方巌(91)島に著ぬ
と書収めて居る(昭和八年十二月十六日)
 追記 遊長門島記は藝藩通志卷百四十六(二四二二頁)にも出て居る。南濱の傳も同書卷九(一三五頁)に見えて居る。又同書卷百四十六(二四二七頁)に僧覺信の長門島記が出て居るが其中に
 既而天明丙午(〇六年)冬閏十月余舟抵2倉橋1歴2覿其境地1有2古神祠1有2小松原1有2鳴瀑1。咸是萬葉集長門島什中所v泳者也。矧《イハムヤ》則有d地呼2長門口1者u乎。且是島在2水調《ミツキ》玖珂《クカ》之間1相距各十許里。則舍v之將2安《イヅクニカ》適1之。……時天明丁未(〇七年)秋七月厳島無爲子
とある。無爲子即僧覺信は南濱の「聲に吠ゆるの徒己が見出したるやうにいふものあれど」に當つて居るのではあるまい。恐らくは南濱と覺信と相次いで倉橋島が長門島なる事に心づいたのであらう
 
(92)    花がつみ
 
物の證據を擧ぐるは多いがよいとは云ふものの、あまり煩しくなるのは避けねばならぬ。讀む人聴く人は書く者語る者ほどに熱を持たぬからである。否政略めきたる事であるが誰でも知つて居る筈の證按は寧擧げぬがよいやうに思はれる。これは讀み又は聴く人が直に其事を連想して其問題に對する興味を増すからである。所謂使人思而得之である、萬葉集新考を書く時には往々此主義に依つたが、それはチト考へ過ぐしであらうと云つた人があるから後から書足した處もある。さて本集卷四(新考七五九頁)に
 をみなへしさき澤におふる花がつみかつても知らぬ戀もするかも
と云ふ歌がある、第三句以上は序、又其中にて初句はサキ澤にかかれる准枕辭、サキ澤は地名、くはしく云はば平城《ナラ》の北に接したる佐紀といふ處の澤、主文のカツテは更ニ・フツニなどいふ事なる事新考に云へる如くである又花ガツミに就い(93)ては新考に
 花勝見は野生の花菖蒲にて日光にては赤沼アヤメといふ。アヤメより小さく五六月頃に花さくものにて花の色は紫赤にて今も或地方にては花ガツミといふとぞ
と云ひ又先哲往々カツミと花ガツミとを混同したれどカツミは菰の異稱にて花ガツミとは全く別なる事を附言しておいた
 ○因にいふ)花菖蒲を菖蒲《シヤウプ》即古のアヤメ、又は渓※[草冠/孫]即今のアヤメと混同する事は植物學を學んだ人には想像も附かぬ事であらうが寶際歌人一般の習であるから二十二三年前に花菖蒲といふ一小文を書いた事がある。其文は南天荘雜筆の四一五頁に収めてある。此書は出版書肆のダンピングで近來極めてやすく手に入るから買つて見られるがよい
余は本來極めて多忙で讀書に充てる時間が乏しいから世上の學者のやうに澤山に書物を讀んで居らぬが近年車上枕上などで讀んだ書物の中から右の新考の説の證據となるべきもの二三を擧げて見よう。モハヤ不用では無いか、冒頭所(94)言の主義に背くでは無いかと云はれるかも知れぬが第一その證據の出でたる書物がいづれも廣く讀まれざる物なる事、第二近年益頭脳が悪くなつて人に語らうと思うて往々何にあつたかを忘れる事、此二つが余を促して筆を執らしめるのである
まづ神都名勝誌卷一(下卷)六十六丁に
 どんど花 此の地(○伊勢國多氣《タケ》郡齋宮隆子御墓道)より艮位に當り古路と稱する所あり。比の所に二町許もある沼地あり二種の花菖蒲生ひたり。土俗ドンド花といふ。花時には恰紫雲のたなびけるが如し。近世まで人の杖を曳くもの多かりき。頃年開墾して舊觀を失ひたりとぞ。これ齋宮寮花園の遺址ならむか
といひて眞大の寫生圖を出して居る。次に三重縣の歴史地理學者大西源一君の贈られた同氏著「神宮に関する史蹟概要」の二五頁に
 なほ齋宮の村から東北七八町を隔つたところに字|勝見〔二字傍点〕と云ふところがありましてそこの俗稱|蛭澤《ヒンノサワ》と申します附近に花菖蒲の群落がありまして花時美觀を呈します。齋宮ではこれをドンド花と申しまして曾て明治天皇の行幸の(95)際に行在所に於て天覧に供したことなどもあります。其の生育地が勝見と云ふ字になつてゐるのを見ましてもこれが所謂花勝見なのでありませう。村人はこのあたりもやはり齋宮の花園の遺蹟であらうと傳へてゐます
といへるはやがて神都名勝誌にいへると同處の事であるが其字を勝見といふ事は大西君によつて始めて採録せられたのである。そのカツミはもと花ガツミと云つたのを略したのか、又は初から略してカツミと云つたのか、いづれにしてもこのアザナを證據として「カツミと花ガツミとは別」といふ説を疑ふべきでは無い。終に愛知縣史蹟名勝天然紀念物調査報告第二の二十二頁に
    知多郡|阿久比《アグヒ》村の野生玉蝉花
 名稀     野生のハナシヤウブ 學名Iris Kaempferi Sieb.
 所在     知多郡阿久比村大字草木字上芳池一番の一
 地目地積   溜池の南岸にて其東南隅より西へ延長約二丁
 現状     延長二丁の間或はウバメガシ・アカソ。カナメノ木・エノキ・ネズミモチ或は蘆菰等の生じ居る所に散布す。草状痩せたるを以て頗アヤメの(96)如くなるも葉に劍脊あり。花は其蕚の内面に網紋なく頗カキツバタに類似するも狭細なり。これ恐らくは野生のハナシヤウブならむ
 由來傳説  寛文の頃伯耆國より移植せるものにして昔時尾張の「慶勝公にも献じたりしことありと云ふ。方言花勝見と云ふ〔八字傍点〕。寛文は今より二百六十餘年前のことなれども只云ひ傳ふるのみにして具體的の記録あることなし。土地の者は此植物を他へ移すも容易に根付くことなしと云へど元來比類の植物の移植は可能性のものなり。況んや最初他より持來りしものなりとすれば移植し得ざる理勿論あるべからざる筈なるをや
云々と云うて花の寫異を附して居る。右の如く伊勢人は此花が尾張國にも在ることを知らず、尾張人は伊勢國にも存ずる事を知らぬに似たれど尾張と伊勢とは隣國で、特に阿久比村の在る知多牛島は伊勢※[さんずい+彎]を隔てて伊勢國と相對せる事言ふを待たぬ事である。或は遠國なる伯耆から移殖したといふ傳説は他へ移しても根附かずといふ傳説と齊しく其物の價値を増さん爲の假托であるかも知(97)れぬ(昭和九年一月二十四日)
 追記 播州書寫山にも花がつみはあるらしい。右の話を聞知らぬ或播州人の話に「書寫山の谷で妙な草を見附けて取って歸つて植ゑて居ります。花菖蒲に似て居りますが花は花菖蒲より小さくてきたなうございます。無論アヤメでもカキツバタでもございません」と。余はまだ一見せぬが茲に記して特に兵庫縣天然記念物調査委員の注意を促さう○又大槻文彦博士の伊香保志卷二(二十二丁裏)に
  伊香保の沼 その汀に渓※[草冠/孫]の一種葉細く長く花の瓣狭きもの多くあり。田中芳男君の説には花戸にいふカマヤマアヤメといふものなりといふ(下野のアカヌマアヤメも同様なりとい、ふ)。又岸田吟香君の説に云「此の沼の邊にあるは花ガツミなり。すべて深山の水邊に多くあるものにて何時の頃よりか花戸が里に移し植ゑて名を花菖蒲と付けたるはその葉の菖蒲に似たるが故なるべし」と
 といひ又「伊香保の沼のあやめ草なり。圖の如し」(三十頁裏)とて圖を載せたり
 
(98)    黄染乃屋形 上
 
萬葉集卷十六なる怕物歌第二首の
 おきつ國しらせる君が染屋形黄染の屋形神の門《ト》わたる
といふ歌の黄染乃屋形に就いて小さな思附を述べて見よう
新考(三四七六頁)に述べたる如くオキツ國は海中の島國、シラセルは所領、キミは君主といふ事、染ヤカタ黄染ノヤカタはただ黄染ノヤカタといひてよきを字数の都合で二つに分けたので、その黄染ノヤカタは黄色に染めたる屋形船である。又神ノトは険惡る海峡といふ事である。さて古義に「いにしへは舟は朱にも黄にもいろどりけむ」と云つて居る。げに船を赤く塗つた事は古典に澤山見えて居る。即萬葉集中にも或は
 たびにしてものこひしきに山下の赤乃曾保船おきをこぐ見ゆ(卷三)
 おしてる 難波の埼に ひきのぼる 赤曾朋舟 曾朋舟に 綱とりかけ云(99)云(卷十三長歌)
 あまのかは やすのかはらの ありがよふ 世々のわたりに 其穗《ソホ》舟の ともにも舳にも ふなよそひ 眞梶しじぬき(卷十長歌)
の如くアケノソホブネ又は単にソホブネといひ、或は
 佐丹塗の 小船もがも 玉まきの 眞かいもがも云々(卷八七夕長歌)
 狭丹塗の 小船をまけ 玉まきの 小梶しじぬき云々(卷九長歌)
 左丹塗の 小舟もがも 玉まきの 小かいもがも こぎわたりつつも 相語らめを(卷十三長歌)の如くサニヌリノ小舟といひ、或は
 おきゆくや赤羅小船につてやらばけだし人見てひらき見むかも
の如くアカラ小船と云うて居る。卷十五なる
 もみぢばのちらふ山邊ゆこぐふねのにほひにめでていでてきにけり
といふ歌のニホヒも恐らくは赤く船を塗れるを云うたのであらう。新考(三四七七頁)にも引ける如く播磨風土記の逸文にも神功皇后が新羅に渡りたまふ時に(100)神の告に依つて土《ニ》即赤土を以て、御舟の裳《スソ》などを染めたまうた事が見えて居る。かやうに船を赤く塗つた事を略解・つきの落葉などに官船の特徴として居る。久老(槻落葉三之卷別記)は其證として「營繕令に凡官私船毎年具顯2色目・勝受斛斗・破除・見在任不1附2朝集使1申v省とある集解に或人古記を引きて公船者以v未|漆《ヌル》v之といへり」と云つて居るが集解(國書刊行會本)にさる文なきのみならず右に擧げたる歌の中に二星の使用の料にも(卷八長歌)一青年が川を渡りて女に逢はんと願へるにも(卷十三長歌)サニヌリの小舟といへるを見れば赤く塗れるは官公船に限らざる事明である。今も熊野の漁船は上を黒く下を赤く塗つて居るが、これは古風を傳へたものであらう。かやうに船を赤く塗つた事は古典にあまた見えて居るが黄に塗つた事の見えたるは問題の黄染のヤカタが唯一例であるやうである
さて船を赤く又は黄に塗つたのは何の爲であらうか。代匠記には
 黄染としも云へるは黄色をば海神の愛してほしがる歟嫌ひて厭ふ歟
と云うて後者の例として西域記に凌山を越ゆる時赭衣を著又は大聲に呼べば(101)暴龍の難なき由云へるを引き前者の例として土佐日記に
 舟に乘そめし日より舟には紅こくよききぬ著ず。それは海の神におぢても〔右△〕いみ〔右△〕て云々
といへるを援いて居る。されば契沖は赤染と黄染とを同視して居るのである。次に古義には
 何にても彩色せるうつくしき物は海神の欲する物なればもし海神に見入れられなばいかがせむと甚くおそるるなり
と云うて居る。按ずるに船を赤く塗ると黄に塗るとは同一なる意圖ではあるまい。赤く塗るのは夙く新考(三四七七頁)に播磨風土記逸文を引きて云へる如く海神を嚇す爲であらう。赤にもあれ黄にもあれ船に塗料を用ふるには腐朽を防ぐ目的もあるであらうが、それは少くとも初には寧第二義であつたらう。余は又新考に
 もし彩色せる船は海神の欲するものなりといふ俗信あらば船に彩色する事は無からむ。古人が船に彩色するを好みしを見ていにしへさる俗信の無かり(102)し事を知るべし
と云うておいた。船を赤く塗るは海神を嚇す爲なるべき事右にいへる如くであるが、黄に染むるは意圖がちがふであらう。黄色には赤色のやうに威嚇の氣調が無いからである
 
    黄染乃屋形 下
 
余はさきごろ續國譯漢文大成中の蘇東坡詩集を讀んだ。但全部讀破したのでは無く六冊中の三冊を讀んだに過ぎぬ。
 ○餘計な事ではあるが若い人の爲に云うておかう。いづれの註釋書でも讃者の見解と相異なる所のあるものであるが此書の譯解には愚按と相異なる所が極めて多い。然し印刷が鮮明で又字解に往々助けられる事があるから暇を得たら殘三冊も(深く譯解に頼らずして)讀んで見ようと思ふ
其中で舟人黄帽の事と彭城黄樓の事とを見て黄染乃屋形の謎が解けかかつた(103)やうな心地がする。即蘇東坡詩集卷十五(國譯本第二冊の六五八頁)なる九日※[しんにょう+激の旁]2仲屯田1。爲2大水所1v隔以v詩見(ラル)v寄。次2其韻1といふ詩の中に霜風可v使v吹2黄帽1、樽酒都能泛2浪花1といふ句があつて自注に舟人黄帽土勝v水也とある。之を見て思出したのは蒙求中巻なる※[登+おおざと]通銅山の注にも見えて誰でも知つて居る黄頭郎の事である。蒙求の注は漢書に據つたのであるから泝つて漢書を(假字交に書下して)引かんに同書巻九十三侫幸傳に
 ※[登+おおざと]通ハ蜀郡南安ノ人ナリ。船ニ濯《サヲサ》スコトヲ以テ黄頭郎トナル(○濯《タク》なり〔櫂《タウ》の誤字にあらず)。文帝甞テ夢ミラク。天ニ上ラムト欲シテ能クセズ。一ノ黄頭郎〔三字傍点〕アリテ推シテ天ニ上グ。顧ミテ其衣ノ尻帶ノ後ヲ見ルニ穿《ウ》ケタリト、覺メテ漸臺ニ之キ(○漸臺は御苑内の蒼池に在りき)夢中ヲ以テ陰ニ目シテ推者《オシシ》郎ヲ求ム。※[登+おおざと]通ヲ見ルニ其衣ノ後|穿《ウ》ケ夢中ニ見シ所ナリ。召シテ其名姓ヲ問フニ姓ハ※[登+おおざと]、名ハ通ナリトイフ。※[登+おおざと]ハ登ノゴトキナリ。文帝甚|説《ヨロコ》ビ之ヲ尊幸スルコト日日ニ異ナリ云々
とあつて黄頭郎の注に
(104) 師古(○唐の顔師古なり。顔氏家訓の著者子推の孫なり)曰ク。士ハ水ニ勝ツ。其色黄ナリ。故ニ刺船ノ郎皆黄帽ヲ著ク。因リテ號シテ黄頭郎ト曰フナリ
とある。又東坡詩集卷十六(國譯本第二冊八二一頁)なる又送2※[登+おおざと]戸曹1といふ詩に蕩蕩清河|※[土+需]《ホトリ》、黄樓我所v開とある。黄樓の名はこれより後の詩にも屡見えて居るが東坡の弟なる蘇轍字子由の黄樓賦の敍に
 熈寧十年ノ秋河、※[さんずい+壇の旁]《セン》淵ニ決シ水、彭城ノ下ニ及ブ。子瞻適ニ彭城ノ守タリシガ(○彭城守は即徐州太守、子瞻は東坡の字、彭城は今の江蘇省銅山縣治なり)城上ニ廬シ急走ヲ調シ禁卒ヲ發シ以テ事ニ從ヒ身ヲ以テ之ヲ率ヰル。故ニ水大ニ至リ而モ民潰エズ。是ニ城ノ東門ニ即キテ大樓ヲ爲ル。堊《ヌ》ルニ黄土ヲ以テシテ曰ク。土實ニ水ニ勝ツト。徐人相勘メテ之ヲ成ス。即此ナリ
とある
按ずるに船を黄に染めしは舟子が黄帽を著、蘇東坡が防水樓を築いて之を黄土で塗つたのと同じく五行相剋説に基づいて土の配色なる黄を以て水を厭《エフ》勝し克服したのであらう。されば赤く塗るは日本思想に基づき黄に染むるは支那思(105)想に基づいて、水難を避くる目的は同一でも基づく所がちがふのである。但日本で實際船を黄に塗つた事があるかはまだ疑はしい
以上が此頃偶然に思附いた所である。之を基として研究を續けるならばまだ面白い事が分つて來さうな心地がするのみならず一首の意義の解釋にも訂正を要するやうになりはせぬかとも思はれるが近頃近親を失つて心に痛があつて思索に勞する事が出來ぬから一まづ擱筆する(昭和九年二月十九日稿)
 
(106)    草嬢
 
萬葉集卷四(新考六四二頁)に
 草嬢歌一首 秋の田の穗田のかりばかかよりあはばそこもか人のわをことなさむ
とある。この草嬢は集中の一疑問となつて居るが、まづ代匠記には何の説も無い。次に略解には
 草の下香を落せしか。然らばクサカノイラツメと訓べし
といひ次に古義には
 草嬢は別府信条云。娼婦なるべし。さるは漢籍輟耕録に
  娘字俗書也。古無v之。當v作v嬢云々、娼婦曰2花娘1。達旦又謂2草娘〔二字傍点〕1云々
と見えて草嬢は草娘と書るに同じきを知べし。但しかの書は明の陶九成と云し者のかけるものにていと後の世のことなれど、古、から國にて草嬢といひし(107)ことのありしから此にもかく見えたるなるべし。さてから國にてもなべてはかくいひしことの失たりしをわづかに後まで達旦に傳りていひし稱なるべし
と云うて娼婦の事として居る、佩文韻府に草嬢は見えて居らぬが花娘の下にやはり輟耕録を援いて娼婦曰2花娘1。達旦又謂2草嬢1と云うて居る
 ○因に云ふ。嬢娘は同音同義であるが娘字も唐書以下に見えて居る。たとへば唐書平陽公主傳に娘子軍とあるのは同書を讀んだものの誰でも知つて居る事である
轉じて一首の意を按ずるに穂田は穂に出でたる田、カリバカは稲刈の受持區域といふ事、カヨリアハバはただ寄合ハバといふ事、ソコモはソレヲモ、コトナスはいひたてはやす事で、畢竟
 秋ノ田ノ稲ヲ刈ルトテアノ人ト私ト自分ノ受持場所ヲ刈リ進ンデ偶然ニ雙方ガ寄合フト、サテコソ二人ガ心ガアツテ寄合ウタノヂヤト世間ノ人ガイヒタテハヤス事デアラウ
(108)といふ意である。
 ○新考に「初二は序とおぼゆ」と云へるは誤である。辭が足らぬから序のやうに見えるが實は序では無い
されば此歌は田舍娘の歌又は田舍娘の作に擬した歌であらう。そこで余は草嬢を草香嬢の脱字でも無く娼婦の事でも無く田舍娘の事であらうと考へて新考に「草野の娘子即村嬢といふことにあらざるか」と云うておいた。元來草は草間・草野・草茅・草莽・草莱など續けば田舍の事になるから草の一字にも田舎といふ意味があるであらう。さうして今までに讀んだ書物の中にも其證とすべき例があるであらうとは思ふが、立返つて之を※[手偏+嶮の旁]出する事が出來ず、又平生漢籍にしたしむ機會が少いから兩三年來新例に出逢ふ事も無かつた。然るに此頃慰に讀んで居る書物の中で一例を見出した。實は其例は新しい例であるから之を棄てて唐以前の例を得たいと思ふが之を得るは何時とも期せられぬから、それ迄の繋に右の例を書留めておかう
五代史、正しく云はば新五代史記七十五卷は宋の欧陽修の撰である。その卷二十(109)六の李嚴傳に
 初莊宗、嚴ヲ遣シ名馬ヲ以テ蜀ニ入リ珍奇ヲ市《カ》ヒ以テ後宮ニ充テムトス。而ルニ蜀ノ法、奇貨ヲ以テ劔門ヲ出ヅルヲ巌禁シ、ソノ奇物ニ非ズシテ出ス者ハ名ヅケテ入草物〔三字傍点〕ト曰ヒキ。是ニ由リテ嚴、得ル所無クシテ還リ惟《タダ》金二百兩・地衣毛布ノ類ヲ得タルノミ。荘宗之ヲ聞キ大ニ怒リテ曰ク。物、中國ニ歸スル之ヲ入草〔二字傍点〕ト謂フトヤ○王衍|其《ソレ》能ク入草人〔三字傍点〕タルヲ免レムヤト。是ニ於テ議ヲ決シテ蜀ヲ伐ツ
とある。李唐亡びてより宋興りし迄の五十三年間を史家は五代と云ふ。此期間の支那は統一せられずしてあまたの獨立國に分れて居た。其中で最大にして中原即黄河の流域に據りしは梁・唐(李唐と別たんが爲に又後唐といふ)晋・漢・周の五代で、其第一期なる染は李唐を滅して之に繼いだのであるから、しばらく右の五朝を正統と認めて五代といふのであるが、正必しも正ならず、誰か烏の雌雄を知らむといふのが實情である。さて後唐の荘宗の時今の四川省に前蜀(後に興つた後蜀と別たん爲に前蜀といふ)といふ國があつて其王を王衍と云うた。蜀は天険に(110)よつて中原より隔たり又物産が豊富であつたから小國ながら僭上して居た。まづ此事を知つて右の文を讀むべきである。剣門は山名で又剣閣といふ。蜀から中原に出づる關門である。入草物はヰナカ行ノ品物といふ事である。即ヰナカを草と云へる例である〔十四字傍点〕。蜀の君臣が思ひあがつて、己が國を天下の中央と認めて、中原への輸出を許した第二等以下の貨物をヰナカ行ノ品物即入草物と名づけたのである。地衣は地に敷く毛織物である。荘宗聞之大怒曰云々は
 ヨシ、中國ニ來ルモノヲ生意氣ニ入草物ト云フナラ其王王衍ヲ捕ヘ歸ツテ入草人ニシテヤラウ
といふ意である(昭和九年三月二十八日)
 
(111)    ねじろたかがや
 
萬葉集卷十四即東歌の中に
 かはかみの禰自路多可我夜あやにあやにさねさねてこそことにでにしか
といふ歌がある。カハカミは川の邊である。ネジロタカガヤに就いて仙覺妙に「川上に生ひたるたかがやは根の白ければネジロタカガヤとよめり」といひ契沖は此説を是認して
 今按、古事記仁徳天皇段に天皇の御歌云ツギネフヤマシロメノコクハモチウチシオホネネジロ〔三字傍点〕ノシロタダムキ云々。此も大根の白きを根白とよませ給へり
といひ、宣長も古事記傳なる右の御製の註にネジロの例としてカハカミノネジロタカガヤを引き、略解にも
 カハカミとは河のへなど云意也。根白高ガヤは川の岸に生繁れるが水高き時(112)洗はれて本の白く見ゆるを根白とはいふならん
といひ、古義にも
 ネジロタカガヤは根白高|草《ガヤ》なり。川邊の草《カヤ》は水に洗はれて根の白くあらはれ見ゆる故根白といふ。高とは長く生立たるをいふなり
というて居る。余も
 ネジロは古義にいへる如く水に洗はれて根の白く露《アラ》はれたるなり
というた(新考三一〇二頁)。然るに先頃福島縣安達郡出身の遠藤二郎君が來て「わたし等の方では萱の刈|株《グヒ》の事をネジロといひ、その長くなつたのをネジロガ高イと申しますが」と云はれた。彼仁徳天皇の御製を思ひ又謠曲に川岸ノ根ジロノ柳といへるなどを思へば根の白い事を古今共にネジロといふ事は確であるが、ネジロの義は唯一であらねばならぬ理由無く又かのネジロタカガヤは根が白くて長の高い萱と見るより刈株即根代の高い萱と見る方が造語の上からも或は妥で無いかと思うたから「それは面白い。くはしく書いて見せてもらひたい」と頼んで置いた。其後遠藤君が書いて持つて來られたのが左の文である
(113) 現在は國營の殖林地で松・落葉松・檜などの森林となり採草地としての殘地は少くなつたが安達太郎山の中腹以下は明治の中頃まで西萱と呼ばれた長高く太く硬い萱の産地で毎年秋穫の終つた初冬に山麓の村人が山開を待つて各自に場所を擇んで刈り競うたもので、小屋を掛けて幾日も山にこもつて刈り採る人も少く無かつた。さて其萱を刈るには左腕に一かかへづつ後手に(穂の方が後になるやうに)かかへ て體を中腰にして刈るのだが根もとを如何に低く刈るとしても三寸と四寸の莖が殘るもので、翌年その刈跡に伸びた萱を刈る時には前年の殘莖が枯れて竹のやうに硬く成り居るため新しい萱は又幾分か高い所から刈らねばならぬ。かくして三四年の後には刈跡の莖が高くなり萱の發生も惡くなつて來る。かかる場令に俗に「根じろが高く〔六字傍点〕なつたから火を入れねばモウだめだ」と話し合つたものだ。現在は萱も料金を納めて拂下げねば刈る事は出來ないし又殖林地帶だから放火する事が許されないが當時は春さきの夜に山腹數箇所に野火が燃え擴がつて壮観を極めたものである。又焼かれた跡からはえる萱は太くてよく伸びるものである(114)右の根代説は一説として學界に紹介するに十分であらう(昭和九年五月二十一日)
 
(115)    神龜二年五月幸于芳野離宮時歌
 
萬葉葉巻六に神龜二年乙丑夏五月幸2于芳野離宮1時に笠金村と山部赤人との作つた長歌各一首反歌各二首が出てゐる。金村の長歌は
 (足引の) 御山もさやに.おちたぎつ 芳野の河の 河の瀬の きよきを見れば 上邊《カミベ》には 千鳥しばなき 下邊《シモべ》には かはづつまよぶ (ももしきの) 大宮人も をちこちに △ しじにしあれば 見るごとに あやにともしみ (玉かづら) たゆることなく よろづ代に かくしもがもと 天地の神をぞいのる  かしこかれども
とあり赤人の長歌は
(やすみしし) わごおほきみの たかしらす 芳のみやは (たたなづく) 青垣こもり 河|次〔左△〕《ナミ》の きよき河内ぞ 春べは 花さきををり 秋くれば 霧たちわたる (其山の) 禰益々爾 (此河の) たゆることなく (ももしきの) (116)大宮人は つねにかよはむ
とある。此行幸の事の續日本紀に見えぬのは落ちたのである。國史の脱漏の萬葉集によつて補ふべきは此行幸に限らぬ。芳野離宮の所在に就いてはまだ研究すべき事がある。然し應神天皇又は碓略天皇の御代より聖武天皇の御代までの芳野離宮が同一處で無ければならぬ理由は無い。即上下数百年の間に離宮は度々腐朽したであらうが其度毎にもとの位置に建築しなければならぬ理由は無い。寧見慣れて厭かれた舊地を棄てて新發見の勝地に建築せられたであらう。されば甲地を離宮址とする説と乙地を離宮址とする説と竝立せられぬ事は無い。とはまだ吉野川に遊ばぬ前から人の問に答へて屡云うた所であるが此事は夙く二三の論文に採用せられて居るやうである。又宮瀧沿岸の桑畠の土中から現はれた敷石地帶に就いては昭和四年六月十一日に自動車を駐めて一寸立寄つて見ただけであるが、これは恐らくは先住民の住居址であらう。少くとも離宮とは関係が無い。と當時案内した森口君等六人の人に明言し又同月下旬の國史回顧會の創立會で荻野君の問に對して述べた事であるが其後数年を経て先住民の(117)遺址なる證據が出たといふ。さて今右の二首の長歌に就いて云はうとする事は實は辭句に關する些細なる事である
まづ金村の歌より云はんにサヤニはザアザアト云フバカリ即トヨムバカリといふ事、カミベ・シモベはカミ手・シモ手といふ事又カミペニハ以下の四句は互文で上手及下手ニハ千鳥及カジカガ鳴キといふ事、ヲチコチニは此頃の歌人のいふココカシコといふ事、シジニアレバは稠密ナルニといふ事、このアレバはアルカラでは無い。アルニである。アヤニは怪シキパカリ・異《ケ》ニなどいふ事、トモシには數義があるがここではゆかしき事、さればアヤニトモシミはイトユカシキニといふ事である。最後にヨロヅ代ニカクシモガモトはイツマデモカヤウニ御供シテ通ハンといふ事である。さてヲチコチニシジニシアレバといふ事が心得がたい。かくては意義が連續せぬ。これに就いて代匠記と古義とには何も云うて居らぬ。略解には
 大宮人モヲチコチニの詞解がたし。シジニシアレバは繁クアレバといふ事にてここにかなはず字の誤有べし。猶考へてん
(118)というて居る。余は新考(一〇三三頁)に「ヲチコチニの下に落句あるか」とのみ云うて置いたが進んで思ふにヲチコチニの下シジニシアレバの上に二句脱落して居るのであらう。試に補はばカリホツクリテイヘムラノか。即もと
 ももしきの 大宮人も をちこちに かりほつくりて 家むらの〔十一字傍点〕 しじにしあれば 見るごとに あやにともしみ云々
などあつたのである。供奉の百官のうち側近に奉仕する者の外は固より手狭なるべき離宮の宮殿内に宿泊する事が出來す、さりとて後世の如く宿を借るべき民家も無いから處々に暇屋を作りその暇屋がここに五軒そこに七軒とかたまつて所謂家ムラを成して居たので、同年十月に難波に幸したまひし時に同じ作者の作つた長歌にオキツ鳥、アヂフノ原ニ、モノノフノ、八十トモノヲハ、イホリシテ、都ヲナセリ、旅ニハアレドモといへると相似たる趣である。試に補つた二句のうちカリホツクリテは本集卷十に秋田カルトカリホヲツクリイホリシテなどあるに依り、イヘムラノは古事記履中天皇の段にカギロヒノ、モユル伊幣牟良、ツマガイヘノアタリとあるに據つたのである(119)次に赤人の長歌に就いて云はんにまづタカシラスはシロシメスと同じくて畢竟マシマスといふ事、アヲダキゴモリは青ガキニコモリを一語としたるにてその青ガキは青山の事(杜甫の詩に往々見えたる翠屏と暗合せり)河次は恐らくは河波の誤字、カフチは川に抱かれたる地、サキヲヲリはサキナビキといふ事である。原本に春部者とあるを新考に春ベニハと訓んでおいたが卷一(六四頁)卷二(二五八頁)に春部者をハルベハとよめるが如くここもニを添へずしてハルベハと四言によむがよからう。少くとも卷一及卷二なると訓を異にすべき理由が無い。又原本に霧立渡とあるを霧タチワタリと訓んでおいたが元來霧立渡までは所謂興で一首にかかれる序のやうなもの、なほ云はば若此歌を二段に分つならば此句までが第一段であるから霧タチワタルと訓切るがよい。煩しいから諸例は擧げぬが集中に句法の類似せる長歌が少からずあるが皆興の末で讀切る事になつて居る(たとへば新考一八七頁ツヌサハフ石見ノ海ノといふ歌)。是はた卷一(五九頁)なる人麿の幸2于吉野宮1時歌に船ナメテ、アサ川ワタリ、フナギホヒ、夕河渡の渡と訓を同じくすべきである。さて興の中に河波ノとあるからコノ河ノとい(120)ひ又青墻とあるそのアヲガキは上述の如く山の事であるからソノ山ノと云うたのであるが不審なるは其山之彌益々爾といふ續である代匠記も略解も古義も不審を打つて居らぬがイヤマスマスに冠らするにはソノシホノイヤマスマスニ(卷十三)の如く動的の物を以てすべく山の如き静的の物を以てすべきでは無い。集中で語例を求むれば卷十八なる爲1v幸2行芳野離宮1之時u儲作歌にコノ河ノ、タユルコトナク、コノ山ノ、イヤツギツギニ、カクシコツ、ツカマヘマツラメ、イヤトホナガニとあるが次々・嗣々・續々・繼々などありたらんを益々と誤らうとは思はれぬ。或は群山の相重れるに喩へてイヤシクシクニと作つて彌重々爾と書いてあつたのを誤つたのかとも思ふが
 ○シキを重と書ける例は集中に見えぬやうであるが卷十三なる調首《ツキノオビト》の歌に
 腫浪ノカシコキ海ヲとあるは重浪の誤としてシキナミとよむべきであらう
立返つて彌益々爾にイヤマスマスニの外によみやうがありはせぬかと考へて見るにイヤツギツギニとはどうしても訓まれねがイヤシクシクニとは訓まれぬ事が無い。現に卷十一なる
(121) ぬばたまの黒髪山の山すげに小雨零敷益々〔二字傍点〕所思
の益々を略解古義にはシクシクとよみ略解に「義を以シクシクとも訓べし」と云うて居る。されば彌益々爾を原のままにてイヤシクシクニとよむがよい(昭和九年六月稿)
 
(122)    神理
 
萬葉集卷四なる笠女郎贈2大伴宿禰家持1歌廿四首の中に
 あめつちの神理なくばこそわがもふ君にあはずしにせめ、
といふ歌がある。之に就いて新考(七一〇頁)に云へる所を訂正せんが爲に此文を草するのである。第二句の神理を代匠記にはカミ モコトワリとよみ略解と古義とにはカミシコトワリト訓んで居る。さてまづ代匠記には
 天神地祇の證據するを神のことわる中などもよめり。舒明紀云。天神地祇共證之(コトワリタマヘ)云云。源氏物語明石に「あめつちことわりたまへ」云云。第十五中臣宅守が歌これに相似たるあり(○簡略)
というて居るが神ガ證明セヌ又は神ノ證明ガ無イといふ事を神モコトワリナシとは云はれぬ。モといふテニヲハが恰當せぬ。次に略解には
 舒明紀、天神地祇共證之とある證をコトワリタマヘとよみてコトワリナクバ(123)とは祈ルシルシナクバといふが如し
と云うて居る。祈ルシルシナクバといふことをコトワリナクバとは云はれぬが、たとひ云はれるとしても神ニといはねばならぬ。神シとは云れぬ。次に古義にはまづ彼舒明天皇紀の文と明石卷の文とを引き、さて
 神をカミシとよむそのシは例のその一すぢなる意を思はせたる助辭なり
といひ又歌意を釋して天地ノ神祇ノ理ナキモノニテアラバコソ云々と云うて居る。雅澄は契沖と同じくコトワリの義を證と見て居るやうであるが、それならば歌意の釋の文の如く神ノと訓まねばならぬ。寧雅澄が略解の訓に引かれてカミシと訓んだのが不思議である。右の如く三説共に妥で無いから余は新考に神ニコトワリトよみコトワリを感應と解しておいた。自白するが余は初から余の新訓新解に安んじなかつた。新考が世に出てから一両年の後に、少くとも自分には満足の出來る新訓新解を得たから爾來講義はその新訓新解に據つて居るが、よい磯會が無くて今まで世に公にするに至らなかつたのである
舒明天皇前紀(國史大系前刊本四〇〇頁に則天神地祇共證之とある證之にコト(124)ワリタマヘといふ傍訓のある事は誰でも氣の附く事で、余も一たび之に誤られた事があるが實は此訓はよく當つて居らぬ。
 ○日本紀の傍訓は世々の博士が次々に加へたもので、古きと新しきと相交り又從ふべきものと議すべきものとが相混じて居る
元來この證は所謂盟辭で、或は知といひ或は證知といひ或は視といひ或は監というて居るが
 ○斉明天皇紀の※[齒+鍔の旁]田浦《アキタノウラ》神知矣と天智天皇紀の三十三天證2知此事1とは新考六八三頁の「大野なる三笠の杜の神ししらさむ」の註に引いておいたがなほ史記晋世家の
 郤《ゲキ》克怒。歸至2河上1曰○不v報v齊河伯視v之
新唐書百済傳の
 明神監v之、百殃是降、子孫不v育、社稜無v守
など無数の例がある
皆弓矢八幡モ照覧アレといふのと同じやうな意味である。無論字によつて多少(125)訓をちがへねばならぬが、まづ知はシラセ・シロシメセ、視と監とはミソナハセ、又證はアカシタマヘなど訓むべきである。然らば舒明天皇紀の證之をコトワリタマヘとよめるは誤であるかと云ふに、持つて廻ればコトワリタマヘでも叶はぬ事は無いが、妥なる又誤解を來さぬ訓を求めるならば前述の如くアカシタマへであらう。彼天智天皇紀の證知も日本紀の傍訓にはアキラメシロシメセとよんで居る。即コトワリシロシメセとはよんで居らぬ。元來神祇に呼掛けてシロシメセ・ミソナハセ・アカシタマヘなど云ふは唯知リタマヘ・見タマヘ・證明シタマヘと云ふのでは無い。神祇ガ知り、又ハ見、又ハ證明シテ背約者ヲ罰シタマヘといふ事で(萬葉集新考六八三頁参照)、コトワレはその罰シタマヘに當るのである。さればこそ余は「持つて廻ればコトワリタマヘでも叶はぬ事は無い」と云うたのである。以上の葛藤を明にせずして直にコトワルを證の義として問題の神理は神證といふ事ぞと思ふから分つたやうで分らぬのである
神理は神ノコトワリとよむべきである。さうしてそのコトワリは判決・處分・決罰などの義である。理と書けるは借字で無い判理の理である。律令を※[手偏+嶮の旁]するならば(126)いくらも例があるであらうが今は著述中で其勞は執られぬ。但そぞろに卷を披いて目に入つた 例を擧ぐるならば雜令に
 凡公私以2財物1出擧者|任《ママニ》依《ヨレ》2私契1。官|不《ザレ》v爲v理
とある。又日本紀大化元年八月の鐘※[櫃の旁]を朝に設けての詔に
 或懈怠不v理或阿黨有2曲v訴者1可2以撞1v鐘
とある。どうでもよい事ではあるが神理といふ語も漢籍にありさうに思はれるが、さてたやすく見當らぬ。但五代史に一例がある。即李彦威傳に唐末に賊臣朱温(即後の梁太祖)がその腹心なる李彦威と氏叔※[王+宗]とをして昭宗を弑せしめた後、罪を二人に歸して之を殺した事を敍して
 大祖|陽《アラハ》ニ驚駭ヲ爲シ地ニ投ジテ號哭シテ曰ク。奴輩我ニ負キ我ヲシテ惡名ヲ後世ニ被ラシムルカト。太祖洛ニ至リテ彦威叔※[王+宗]ヲ嶺南ニ流シ張廷範ヲシテ之ヲ殺サシム。彦威刑ニ臨ミテ大ニ呼ビテ曰ク。賣v我以滅v口。其《ソレ》如2神理〔二字傍点〕1何
と云うて居る。この神理は適に萬葉集の神理である。然し右の事のあつたのは萬葉集より遙に後であり、特に五代史の出來たのは北宋の世であるから比後も心(127)がけて次々に古い例と取替へよう(昭和九年八月二十五日)
 追記 柳宗元文(唐宋八家文)の寄2許京兆孟容1書に京元於2衆黨人中1罪過最甚。神理〔二字傍点〕降v罰又不v能2即死1とあり。但これは天子の決罪なり
 
(128)    明日香河
 
萬葉集卷十に
 明日香河もみぢ葉ながるかづらきの山の木葉者今しちるらし
といふ歌がある。余は新考の私刊本に
 葛城山は無論明日香河の水源にあらで兩者全く没交渉なればカヅラキノ山ノ木ノ葉モとあらざるべからず。者は母などの誤なるべしと書いたが其後アララギ第十六卷に出でたる山田孝雄博士の論文に
 この飛鳥川は河内國古市郡飛鳥里の傍を流るる川なり。その川上に沿ひたる道路は古の大坂なり。水源三つのうち二つは二上嶽の西より出づ
と云はれたるを見て成程と思うたから公刊本を出す時に追考として右の説を擧げた。然し此地方の地理はまだサツパリ知らなかつたから
 然らばフタガミノ山ノ木葉ハといふべきに似たれど二上山は卷二なるウツ(129)ソミノ人ナルワレヤといへる歌の題辭に葛城二上山とありて葛城連峰の内なればカヅラキノ山ノと云へるかなほ考ふべし
というて輕き疑を存じておいた(新考二一四四頁参照)。全體余は新考を作る時に漢文學の素養の乏しきを痛感した。然し痛感したのはまだ若干の素養があつたからで地理學に至つては全く※[立心偏+夢]乎としてその素養の乏しきを感ずるにだに達しなかつた。新考私刊本著作の時に持つて居た新刊の地理書は當時の内務大臣床次竹次郎君が今の内務大臣後藤文夫君を擔當者として各府縣から集めてくれられた若干冊と
 ○目録さへ焼けてしまうたが百数十冊もあつたらうか、次の内閣では小橋一太君と横山助成君とが盡力してくれられたさうであるが、これは直接に頼んだのでは無く南弘君が頼んでくれられたのである
南君が國から取寄せてくれられた富山縣の郷土誌とのみであつた。實は大日本地名辭書だに持つて居ず、ヨクヨク入用な時には地名を書抜いて或役所で地名辭書をしらべてもらうた次第である。公刊本が世に出た時の某君の(與謝野夫人(130)なりしか)批評の中に余が地理の事にも通じて居るやうに褒めてくれられたのを見て忸怩《ヂクヂ》とした事がある。其後播磨風土記新考を著し續いて肥前豊後の風土記及西海道風士記の逸文の新考を作る事となつたので必要上指を漢文學及地理學に染むるやうになつたのである。當時余は或人に對して「學間といふものは字引を引く事が上手になる事サ」というたがこれは自嘲つたのである。又近頃
 書つくりわがするさまほゑひ人がまろ木の橋をわたるがごとし
と口占したがこれは實状であつて決して所謂卑下自慢では無い。さて河内國は大和川が其中央を東西に貫いて居るが(但これは寶永元年以來の事なり。片足羽川の事を書く時にいふべし)南河内の水は西偏なる狭山池關係のものを除いては殆皆集つて石川となりその石川は北流して大和川と會して居る。問題の明日香川即飛鳥川は大和河内の界なる有名なる二上山より發し西北に流れ駒谷《コマガタニ》村大字飛鳥及駒谷を經て古市町の東で石川に注げる小流である。水源の主なるものは東北から來れるものと東南より來れるものと二つである。甲は略穴蟲|越《ゴエ》に沿ひ乙は略|當麻《タイマ》越一名竹内越に沿うて居る。さうして二上山は恰其中間にある。(131)後世こそ大和の飛鳥に壓倒せられたれこの河内の飛鳥も昔から聞えたる地名である。たとへば日本紀の履中天豊前紀に仁徳天皇崩じて履中天皇いまだ即位し給はざりし時に御弟|住吉仲《スミノエノナカツ》皇子が太子即履中天皇を弑し奉らんとしたから重臣等が太子の眠りたまへるを馬に乘せまつりて難波より竊に大和に逃げ行かんとせし時の事を敍して
 太子河内國埴生坂〔三字傍点〕ニ到リテ醒メタマヒキ。難波ヲ顧望シ火光(○仲皇子が太子の宮を焼く火の光)ヲ見テ大ニ驚キタマフ。則急ニ馳セテ大坂〔二字傍点〕ヨリ倭ニ向ヒタマハムトシテ飛鳥山〔三字傍点〕ニ至リテ少女ニ山口ニ遇ヒタマフ。問ヒテ曰ク。此山ニ人アリヤト。對ヘテ曰ク兵ヲ執レル者多ク山中ニ滿テリ。當摩径〔三字傍点〕ヨリ廻リテ踰エタマフベシト。太子ココニ少女ノ言ヲ聆《キ》キテ難ヲ免ルルヲ得ツトオモホシテ歌ヒテ曰ク。おほさかにあふやをとめをみちとへばただにはのらずたぎまぢをのる
と云うて居る。埴生《ハニフ》坂は今の南河内郡埴生村の大字|野々上《ノノウヘ》である。仁賢天皇の陵を埴生坂本陵といふを思ふがよい。附近に野中寺及|來目《クメ》豊子の埴生崗上墓があ(132)る。野といふは即埴生野で埴生野は丹比《タヂヒ》野の續又は其一部分である。仁賢天皇の陵は其野の坂を東に下つた處にあるのである。此地は今の竹内街道に沿うて居る。竹内街道は西は堺に達して居るが東南に向つて行げば竹内峠を越えて大和の當麻の南なる竹内に出るのである。上述の竹内越即當麻越は即右の峠であるさて太子は竹内街道を經て今の飛鳥の東南で路の岐分したる其北路を取つて大坂即穴蟲越を越えようとし給うたが少女から仲皇子方の兵が路を擁して待受けて居る事を聞召して南賂の竹内越を越えたまうたのである。次の文に則更ニ還リテ當縣ノ兵ヲ發シテ身ニ從ハシメテ龍田山ヨリ踰エタマフとあるは宣長の説では満足せられぬ。機會を見て別に云はう。飛鳥山は今の飛鳥の東方即二上山の西麓の山々を云うたものと見える。自2大坂1向v倭至2飛鳥山1の向を從來の如くムカフと訓んでば誤解が起る。向ハムトシテと訓むがよい。御歌のヲトメヲはヲトメニと云ふに同じい。此事は萬葉集巻十五の新考三二六四頁)に云うておいた。古事記には此時の事を
 爾《カレ》其弟|墨江中《スミノエノナカツ》王天皇ヲ取リマツラムト欲シテ大殿ニ火ヲ著ケキ。ココニ倭《ヤマトノ》(133)漢直《アヤノアタヒ》ノ祖|阿知直《アチノアタヒ》盗出デテ御馬ニ乗セテ倭ニ幸《イデマ》サシメキ。故《カレ》多遲比野ニ到りテ寤メテ此間《ココ》ハ何處ゾト問ヒタマヒキ。……爾《カレ》天皇歌ヒタマハクたぢひぬにねむとしりせばたつごもももちてこましをねむとしりせば。波邇賦坂〔四字傍点〕ニ到リテ難波宮ヲ望ミ見タマヘバ其火猶|炳《アカ》シ。カレ天皇亦歌ヒタマハク。はにふざかわがたちみればかぎろひのもゆるいへむらつまがいへのあたり。故大坂山口〔四字傍点〕ニ到幸《イタリマ》シシ時ニ一女人遇ヒキ。其女人白サク。兵ヲ持テル人ドモ多ク茲山ヲ塞ゲリ。當岐麻道〔四字傍点〕ヨリ廻リテ越幸《コエイマ》スベシト。爾天皇歌ヒタマハク。おほさかにあふやをとめをみちとへばただにはのらずたぎまぢをのる
と記してある。タヂヒ野はハニフ坂より西である。今の高鷲丹南二村の邊であらう。此等の地は後の丹比《タヂヒ》郡又後の丹南郡である。丹南郡以下南河内の七郡は明治二十九年に合併せられて南河内郡となつた。大坂山口は即日本紀の飛鳥山の内である。タツコモは古典に防壁縛壁などに充てて居る。席屏風とも云ふべきものであらう。古事記の右の文の次に御弟水歯別命(即彼の反正天皇)が天皇(即日本紀の太子)の詔を蒙りて墨江中王を誅して假に大和の石上《イソノカミ》神宮(神社たると同時に(134)當時朝廷の兵庫たりし)にまします天皇の御許に参り上りたまふ事を叙したる中に大坂山口に一日滞留して明日上幸したまひしかば其地を近飛鳥と謂ひ大和に入りて又一日滞留して明日參出したまひしかば其地を遠飛鳥と謂ひし由見えて居る。そのチカツ飛鳥は即上述の河内の舊古市郡の飛鳥で又トホツ飛鳥は屡皇都となりし彼大和の飛鳥である。宣長の説(記傳二二四九頁)にこのチカツ飛鳥トホツ飛鳥は反正天皇の御代になつてからの命名で、その近遠は同天皇の丹比之柴籬宮からの距離の近遠であらうと云うて居る。その丹比之柴垣宮址は河内の舊丹北郡(今の中河内郡の松原村大字上田にある。松原村は上述の高鷲村の西隣である。地名辭書にチカツ飛鳥の二路中其北路なる大坂は捷径なれば此名ありといへるは從はれぬ。此説に從へばタイマ越をトホツ飛鳥とせねばならぬでは無いか。さて地名の起は果して古事記に云へる如くであるかどうか分らぬが、ともかくも今の河内の飛鳥はもとチカツアスカと云うたのである。なほ云はんに舊古市郡は石川によつて東西に二分せられ飛鳥のある東部は北方、舊アスカべ郡(もとは安宿と書き近古以來は安宿部と書く)に接して居る。此郡名のア(135)スカべと地名のアスカとの間に關係があるらしく思はれる上に今駒谷村大字飛鳥にある飛鳥戸《アスカベ》神社も同村大字駒谷にある杜本神社も神名帳には安宿郡五座の内として居る。さうすると飛鳥も駒谷も本は安宿郡の内であつたとせねばならぬ。地名辭書には駒谷及飛鳥を和名抄の安宿郡賀美郷に充てて居る。大分長くなつたからもはや多言を費さぬがやはり萬葉集卷十に
 大坂をわがこえくれば二上にもみぢ葉ながるしぐれふりつつ
といふ歌がある。フタガミは二上岳である。ナガルは空より物の降る事である(新考二一三四頁参照)。上に述べたる所によつて此歌の地理は明であらう。今の大阪銭道本線は恰此道に治うて居る
尚一言斷つておくが山田博士の論文の出て居るアララギは今持つて居らぬから上に述べた事の中でそれと重複して居る事が定めて多からう(昭和九年九月十一日稿)
 
(136)    片足羽河並河内大橋
 
萬葉集卷九の雜謌に
 見2河内大橋獨去娘子1歌并短歌 (しなてる) 片足羽河の さにぬりの 大橋の上ゆ くれなゐの 赤裳すそびき 山藍もち すれる衣きて ただひとり いわたらす兒は (若草の) つまかあるらむ (かしのみの) 獨かぬらむ とはまくの ほしき我妹が 家のしらなく
 反歌 大橋のつめに家あらばまがなしくひとりゆく兒にやどかさましを
といふ名高く又めでたき歌がある、題辭は河内《カフチ》ノ大橋ヲ獨ユク娘子《ヲトメ》ヲ見ル歌とよむべきであるが歌の上に作の字があつた方がよい。或は落ちたのであらう。シナテルはカタにかかれる枕辭である。例は日本紀なる厩戸皇子の御歌にシナテル、カタ岡山ニ、飯ニ飢《ヱ》テ、コヤセル、ソノ旅人アハレ云々とある。シナテルのテの清濁はまだ研究せぬ。片足羽河の訓は後に譲らう。サニヌリは赤土で塗ツタといふ(137)事、上ユは後世の上ヲといふに齊しい。赤裳スソビキは赤いスカートの裾を曳いてといふ事、ヤマヰモチスレルキヌキテは白い布に山藍で模様を搨つたコートを著てといふ事で當時では瀟洒なる服装であつたのであらう。ヤマヰ即山藍は漢名を山※[青+定]《テン》、學名をメルクリアーリス、レイオカルパといふ大戟科の常緑多年生草本にて蓼科の藍とは風馬牛であるが其茎葉から汁を取つて青色の染料とするから山藍と名づげられたのである。イワタラスのイは無意義の接頭語、ワタラスはワタルの他作格、兒は若き女、ヒトリカヌラムはマダ夫ガ無イカといふ事、若クサノ・カシノ實ノは枕辭、トハマクノ以下は尋ネテ見タイガ其女ノ住處ガ知レスといふ事、大橋ノツメは橋ノソバマナガシクはカハイサウニ即心ポソゲニといふ事である(新考一七五二頁参照)。マガナシクヒトリユクといひ宿カサマシヲと云へるを思へば作者が其女に逢うたのは薄暮であつたのである。さて特に此小篇を綴る目的は辭句の解釋では無い。片足羽河は今の何川であるか又河内の大橋の架つてゐたのは其川のどの邊であるかを明にするのである
まづ片足羽河を舊訓にカタアスハと訓んで居る。代匠記には之に從ひ略解には(138)冠辭考の訓に従うてカタシハとよんで居るが古義には又カタアスハと訓んで
 和名妙に越前國足羽郡足羽。越後國沼垂瓢足羽などあるをみな安須波と註したれば片足羽はもとよりカタアスハなり
と云うて居るが足の國語は昔もアシで、アスでは無い。越前越後の郡名郷名の足羽をアスハと云うたのは北陸ではアシをアスと訛つたのであらう。ともかくもその異例を證として片足羽をカタアスハと訓むべきで無い。片足羽は必カタシハと訓むべきである。字に從はばカタアシハとよむべきであるがカタのタにアの韻がこもつて居るからアはそれに譲つてカタシハと唱へたのである。さて片足羽と書けるは無論借字で、カタシハの名義は堅磐であらう。カタシは後世はカタシ・カタキとはたらくが古はカタシ・カタシキとはたらいたのでオホシ・オホシキ、ウマシ・ウマシキ、アツシ・アツシキなどと同例である。カタキ磐をカタシハと云うた證として擧ぐべきは筑前國穂浪郡の郷名堅磐である。和名妙に之に加多之萬と註したるは方を万と誤りその万を萬と蕃更へたのである(宣長同説)。さうして高山寺本に加多之末とあるは万を末と書更へたのである。或書にハとマとは(139)通用であると云うて居るのは正しく無い。バ行とマ行とは相通ずるがハ行マ行の通用せられる事は無い。雄略天皇紀にも日鷹堅磐といふ人名が見えて其註に堅磐此云2柯陀之波1とある。さてカタシハ川のカタシハは本來川名では無くて地名であらう。カタシハといふ處の地先を流れて居るからカタシハ川と稱したのであらう。川に堅い磐があるからと云うてカタシハ川と名づけたのではあるまい。その地名のカタシハは何處であるか。冠辭考しなてる〔四字傍点〕の下に
 片足羽河は同國の交野《カタノ》郡にて安寧天皇の片鹽浮穴|宮所《ミヤコ》なりし也
といひ其頭註に「是を今本にカタアスハと訓は誤也」と云うて居る。略解に「かたしは河、或人交野郡に在といへり」と云へるは眞淵の説を指したのであらうが己が師を指して其説を斥けたのでも無いのに何故に或人〔二字傍点〕と云うたのか不審である。ともかくもカタシハを交野郡にありと云へるは同國の地名で共に頭がカタであると云ふより外に理由が無い。もしカタ野をカタシハ野の略と見るのならば一の理由ともならうがさては其事を云はねばならぬ。安寧天皇の片鹽浮穴宮が交野郡にあつたといふ事も物にも見えず思ひも寄らぬ事である。古事記傳卷二(140)十一片鹽浮穴宮の註一二四七頁)には
 片鹽はカタシハと訓べし、書紀雄略の卷に處……和名妙に……神名式に越前國今立郡加多志波神社、これらカタシハてふ名の例なり。此なるも堅磐の意の地名にて片鹽と書るは借字ならむか(志波に鹽字を書るは志波々由志などの志波なり)。さて此は萬葉九に見河内大橋獨去娘子歌にシナテル片足羽河ノサニヌリノ大橋ノウヘユ云々とよめる地なりと師のいはれつる、まことに然るべし(片足羽を今本にカタアスハと訓るは非なり。師のカタシハと改められたるぞよき)○浮穴宮は姓氏録河内國神別に浮穴直ありて續後紀三に女嬬河内國君江郡人浮穴直永子とあると天皇の御母の御名の川俣の在所《アリカ》とを思合すれぼ若江郡ならむか、但河内志に片足羽河を志紀郡と安宿郡との堺なる石川の舊名なりと云、或人も此川なりとして彼大橋は今國府渡と云處に掛れりしなりと云る、是ら古く語傳へたる説にやあらむ。天皇の御名の師木も由あり。かの玉手てふ村も此石川に近き地にてかたがた由縁あれば此宮は此川の近きあたりにぞありげむ(彼若江郡も志紀郡の北に並べり○師冠辭考に此宮を(141)交野郡なりと云れつるは據をしらず。交野郡なる舟橋川を片足羽川とも云と云り。これもよりどころをしらず。又或説に大和國葛下郡三倉堂村に此宮の跡ありといひ又高市郡なりともいふ○皆據なし)
とある。夙く神皇正統記に
 第三代安寧天皇ハ……大和〔二字傍点〕ノ片鹽浮穴ノ宮ニマシマス
とある。又大和志葛下郡の卷に
 浮孔宮址 在2三倉堂村1。安寧天皇遷2都片鹽1是謂2浮孔宮1即是
とある。三倉堂は今の北葛城郡浮孔村の大字で今の高田町の南に接して居る、浮孔村といへるは新命名である。どうでもよい事ではあるが三倉堂といへるも古い名では無いと見えて正保國圖には見えて居らぬ。さて宣長は其師眞淵の冠辭考の説に催されて右の大和志の説に對して河内説を唱へたのであるが其理由とせる所は
 一 姓氏録河内國神別に浮穴直といふがある事
 二 天皇の御母は師木縣主之祖河俣毘賣なるが其師木縣も河俣も共に河内(142)國の地名なる事(○但御母を河俣毘賣とせるは古事記の傳にて日本紀の本書には五十鈴依媛とせり)
 三 天皇の御名は師木津日子玉手見令なるが其師木はもとより玉手といふ地名も河内國にある事
といふに過ぎぬ。まづ浮穴を從來和名抄伊豫國郡名の訓註に宇城安奈とあるに據つてウキアナとよんで居るが、これはウケアナとよむべきである(新著肥前風土記新考参照)。ウケアナは穿タレタル穴といふことで洞の事である。浮穴片鹽宮の浮穴を始めて伊豫肥前などの浮穴も皆目ざましい浮穴があつたから地名となつたのであらう。但河内の浮穴氏と伊豫の浮穴氏とは同族と見えるから(續日本後紀承和元年五月及十一月参照)此兩國の浮穴といふ地名は浮穴氏の移住を介して一方から一方に及んだのかも知れぬ。然し肥前の浮穴は河内伊像の浮穴と没交渉であらう。宣長が擧げたる理由の中で浮穴は河内の地名であるといふ事は最有力である。大和に浮穴といふ地名のあつた事は古典に見えぬからである。然し浮穴の如き元來普通名詞から出た地名即古典にこそをさをさ見えざれ()諸國處々に有りさうな地名を唯一の證據とせんは頗危険である。次にシキノ縣は大和にもある。否大和の磯城縣の方が寧本場であらう。河俣は河内國若江郡にも大和國高市郡にも諸國にもある。これも普通名詞から出た地名であるから處々にあつて然るべきである。但師木縣主之祖河俣毘賣といへるは後の河内國若江郡の人であつたかも知れぬ。然し御母が河内の人であつたといふ事は天皇の皇居が河内にあつたといふ證據にはならぬ。次に天皇の御名の中なる玉手であるが、なる程河内國南河内郡(舊|安宿部《アスカベ》郡)に玉手といふ地がある。然し大和國南葛城郡(舊葛上郡)にも玉手といふ地がある。但天皇は河内國若江郡出身の婦人を母として同國安宿部郡で生れたまうたかも知れぬ(玉手見の見に就いても一案が浮んで居るがまだ熟せぬ)。然し天皇が河内で生れたまうたといふ事は天皇の皇居が河内にあつたといふ證據にはならぬ。念の爲に斷つておくが余は河内で無いといふのでは無い、河内か大和か、又河内或は大和であつても其何處であつたか分らぬといふのである。たとひ河内であつても宮號の片鹽と片足羽川とは關係があるまい。宮號はカタシホで川名はカタシハであるからである。宣長が「片鹽(144)はカタシハとよむべし」といへるは牽強であらう
 
    片足羽河並河内大橋 中
 
ここに著目すべきは堅上堅下といふ地名である。もと郡名であつたが養老四年に其二郡を合併して大縣《オホガタ》郡とせられたのである。即續日本紀同年十一月の下に河内國堅下堅上二郡|更《アラタメテ》號2大縣郡1とある。大縣郡となつた後には堅上堅下の名は絶えはてて郷名にも殘らなかつたが明治二十二年四月町村制施行の時に復活して今中河内郡中の舊大縣郡の地域は堅上堅下の二村となつて居る。此堅上堅下の舊稱即總稱は何であつたか。もと堅といひしを二分して堅上堅下と云うたのであらうか。思ふにさうではあるまい。當國の丹南丹北(タヂヒノ南タヂヒノ北)大和の葛上葛下(カヅラキノ上カヅラキノ下)又|城上城下(シキノ上シキノ下)を始めて諸國の國郡郷名に無数の例がある如くもと總稱を堅磐といひ之を二分して堅磐上・堅磐下といひしを奈良朝時代に地名は二字に書く事に定められた(145)から磐字を略して堅上・堅下と書き、さてもなほ初にはカタシハノ上・カタシハノ下と唱へしを後に稱呼の長きを嫌ひ又字に引かれてカタカミ・カタシモと唱ふる事となつたのであらう。元來地名は稱呼が主で文字は從であるから堅と書きたればとてその堅が本字であるとは(即借字で無いとは)限らぬが堅上堅下と書いて片上片下とも方上方下とも書かぬ事は適《マサ》に堅が堅磐の略なる事を暗示するものではあるまいか。さて堅上堅下二村の舊地即後の大縣郡の古名をカタシハと云うたといふ事が定まればカタシハ川がいづれの川のいづれの部分であるかといふ事は指示を待たずして分るであらう。即大和川が大和から河内に流入り
 ○今は河内に入つた後も大和川といふが古くは、少くとも或時代には河内川と云うたのである
さて北に曲つて大縣郡を抱ける間をカタシハ川と云うたのである。なほついでに云うておかうが河内國は東と南とが高く西と北とが低いから東又は南を上とし西又は北を下として居る。堅上堅下は東西に並んで居るから東が堅上、西が(146)堅下である
大和川は寶永元年に大改修を施されたから
 ○此工事は同年二月に始まつて十月に終つたもので大和川の河道の中、志紀郡|柏原《カシハラ》以西一百三十二丁は此時の穿掘である
その舊河道を研究するには元緑以前の地圖を要する。然るに上古には無論完全なる地圖が出來ず、中古にはやや完全なる地圖が出來たがそれは部分的のものに過ぎぬ。江戸時代になつて始めて完全なる國圖が出來た。その最初のものは慶長圖であるが其時の國圖の今も残つて學界に知られて居るのは余の所有せる播磨國圖と黒田侯爵所藏の筑前國圖とだけのやうである。元來此時には六十六國二島のものが悉く揃うたか否か疑問であるが少くとも此時の河内國圖は傳はつて居らぬ。其次は正保度、又其次は元禄度の物で此時には全國のものが揃うて近年まで其大部分が残つてゐて帝國大學で保管してゐたが彼大正十二年九月の大火に焼失したといふ。その模本は多少残つてゐるであらうが少くとも正保度の河内國圖は余の文庫のものの外に存ずる事を聞かぬ。余の文庫のものは(147)幕府に提出した原本と同大、即一里を六寸に縮めたもので極めて美しく又頗古い模本である。其大さは南北九尺八寸三分、東西四尺二寸三分である。
 ○大日本地名辭書の著者古田東伍博士は屡正保國圖に云々と云うて居られるから東京帝國大學に保管せし國有のものを見られたのであらうが随時自由に見る事が出來なかつた爲か地名辭書三一六頁の大和川址の記事など頗實とちがうて居る。余は吉田君の失を發いて快しとするのでは無い。君の如き篤學の士が余の如く正保圖を座右に引附けておいて筆を執る事が出來なかつたのを氣毒に思ふのである。もし君が在世であつたら余は余の書齋の半を貸す事を惜まぬであらう
今比圖に據つて大和川の河道を記述しようと思ふのであるが其前に豫備として若干言を費さねばならぬ。河内國は東西に狭く南北に長い國であるが明治の中比まで錦部《ニシコリ》・石川・安宿部《アスカベ》・志紀・古市・丹南・八上《ヤカミ》・大縣《オホガタ》・高安・河内・若江・澁川・丹北・讃良《サララ》・交野《カタノ》・茨田《マンダ》の十六郡に分れてゐたのを同二十九年に三郡に束ねて錦部至八上の七郡を南河内郡と名づけ大縣至丹北の六郡を中河内郡と名づけ讃良以下の三郡(148)を北河内郡と名づけた。新大和川は此國を東西に横断して居る。東部では舊安宿部郡と舊大縣郡との間を流れ中部と西部とでは舊志紀郡と舊丹北郡との北部を貫いて居る。されば河南では安宿部・志紀・丹北の三郡が東西に相並んで居るが古、國府《コフ》のあつたのは舊志紀郡で今の道明寺村大字|國府《コフ》である。又古、國分寺のあつたのは舊安宿部郡で今の國分《コクブ》村が其址である。國府と國分寺との交通は石川を渡らねばならなかつた。河北には大縣・志紀(北部)丹北(北偏)の三郡が東西に相並んで居るが大縣郡には津積驛があつた。其址は今の堅下村大字法善寺であるといふ。延喜式に見えたる驛名は無論平安朝時代のものであるが皇都が平城即奈良にあつた時代の官道の難波津及山陽道に向ふものは龍田山を經たから續日本紀天平十七年九月の下に見えたる宮池驛は後の津積驛と同處で無いとしても其附近であらう。さうして其宮池驛と國府との交通は大和川を渡らねばならなかつたらう。以上の外にまだ云ふべき事があるかも知れぬが、もし必要があつたら其處に挿む事にしよう
いよいよ圖を按じて記述しようと思ふが全體地図を文辭に移す事は頗困難な(149)る業である。否文辭に移す事が困難なので無い。圖を見ぬ人をして恰圖を見る如くならしめるのが困難なのである。余は今まづ南部を敍し次に北部を記し終に核心なる中部を述べようと思ふ。先南河内の水は西偏なるもの、即有名なる狭山池を経由するものの外は皆石川となつて國府の東方を経て其東北で大和から來れる大和川に合流して居る。石川といふ郡名は石川の主流なる東條川に縦貫せられて居るに由つて起つたのである。次に大和川の北岸から始めて國の東偏を北に向うて數へ上るに大縣郡・高安郡・河内郡・讃良郡・交野郡の順序であるが、その讃良郡の西南端にフカウノ池といふ大きな池がある。これが有名なる草香江で、神武天皇が大和に入らんとして上陸したまうた草香邑白肩津は後には埋もれたであらうが此池の東岸の一地點である。フカウノ池は其西北端で交野郡より來る二小流を受けて居るが其西南端から一川が発し西南に流れて新開と記せる大沼に入り此大沼から又一川が發して攝津に向つて居る。同じき正保の攝津國圖(これも幸に余の庫中にあり)を※[手偏+驗の旁]するに此川は攝津に入つて御城の北で淀川と合流して居る。フカウノ池及新開は今は埋もれ又は埋められて池沼の跡(150)を殘さず、さながら今の寝屋川の河道となつて居る。フカウノ池即古の草香江の跡は今の北河内郡四條村大字|深野《フコノ》であり新開の跡は今の中河内郡北江村である。滄桑の變は實に驚くべきものである。南部北部の敍述が略終つたから今し中部に移らんに、大和川は大和から來て國界の亀の瀬を經て(A)W字形を成して安宿部郡片山の北、大縣郡安堂の西、志紀郡舟橋の東で石川と相會して居る(B)。さてしばらく西北に向つて流れた後に若江郡弓削の地先で二分して居る(C)。圖には二派共に大和川と記してあつて紛らはしいから、しばらく後の稱に従うて東派を玉串川といひ西派を長瀬川と云はう。玉串川は北流し後に又二派に分れ其東派は北流してフカウノ池に注ぎ西派は西北流して新開に注いで居る。又長瀬川は夙く右岸から一派を放ち本支共に西北流して彼新開から發せる川に注いで居る。圖には處々に地名以外の記入があるが安宿部郡國分の東方即AとBとの中程に、「歩渡、川はば六十間、水出候時舟越」とあり、大縣郡安堂と志紀郡舟橋と相對せる處即Bに「歩渡、川はば百廿間、水出候時は舟越」とあり、玉串川は上つ瀬に「歩渡、川はば六十五間」長瀬川は上つ瀬に「歩渡、川はば九十七間」と註してある。此外にも(151)川幅の記入があるが歩渡と註したる處は皆道筋に當つて居る。道筋はまづ大和から亀の瀬越即龍田路を経て河内に入り峠村で二分し南路は大和川に治ひAとBとの中間で大和川を渡り(D)更に西走して石川を渡つて國府に達して居る。又北路は正西を指し安堂と舟橋との間で大和川を渡り(E)更に西南に向つて國府に達して居る。奈良朝時代の宮池驛を地名辭書には高安郡の南端なる恩智に擬して居るが或はEの地點即安堂附近ではあるまいか
 ○玉串川の東に恩智川があつて玉串川と併行して、やはりフカウノ池に注いで居る。此川と大和川とは關係が無い。今大和川と連つて居るのは灌漑用水の不足を補ふべく人工を加へた爲で正保圖は勿論寶永の版圖にも大和川とは切れて居る。又地名辭書には平野川を龍華川の一名として居るが平野川は正保圖では大和川と連つて居らぬ。龍華川に就いての愚見は別に述べよう
 
    片足羽川並河内大橋 下
 
(152)堅磐即片足羽は後の大縣郡の事であるから片足羽川は大和川が比地に治ひて流るる間即AからCまでの間で無ければならぬ。さて今の道筋は必しも古の道筋と齊しくは無いが本來道路といふものは偏に交通の便に從うたものであるから案外變動せぬものである。今の場合も古と今と大同小異とすれば片足羽川に河内大橋のかかつてゐたのはDの地點かEの地點かで無ければならぬ。然るにDは間道旁径に過ぎず、之に反してEは當時の驛路官道に當つて居るから河内大橋のかかつてゐたのは適《マサ》にEの地點である。河内大橋といふ名も此説の傍證とせられる。此名は恐らくは國人が命じたのであるまい。國人はただ大橋と稱したであらう。もし外に大橋があつてそれとの區別を要するならば堅磐の大橋ともいかにとも稱すべきを國名を冠らせて河内大橋と稱したのは他國の人が即驛路通行者がいひそめたのであらう。思ふに.當時大縣郡はいとよく開けて人口が稠密であつたやうである。そは小地域であるに拘はらず養老四年まで堅上堅下の二郡に分たれし事と
 ○郡郷は地域の廣狭を基とせず人口の多少を基として立てられたのである。(153)くはしく云はば五十戸に達せざれば郷を立てず、少くとも二郷以上ならでは郡を立てられなかつたのである。さうして一戸は今のやうに五六人平均などでは無く皆数十口から成つて居た
二郡合併後の郡名を大縣郡と云ひし事とによつて知られる。
 ○此大縣郡は地域が廣いといふ意味の名では無く播磨の大國里・肥前の大家島豊後の大分《オホキダ》郡などの如く人口が多い又は耕地が多いといふ意味の名であらう
されば彼河内大橋ヲ獨ユキシ子は大縣郡の富裕なる農家の娘が河内大橋を渡つて國府にある餌香市《ヱガノイチ》(河内銀座ともいふべき)に買物にか遊にか行つて夕方に歸つて行くのに作者(高橋蟲麻呂)が出逢うてチヨットすき心が催されて彼長歌をよんだのであらう。さて國府の榮えた時代には石川を隔てたる國分寺との交通に徒渉又は舟渡では不便であるから石川に架橋した事があるでもあらう。現に續日本後紀承和八年三月の下に河内國志紀郡に居住せし原籍右京人なる孝子|衣縫造《キヌヌヒノミヤツコ》金繼女の状を述べたる中に
(154) 冬節ニ至レバ母子雜材ヲ買ヒテ惠賀河ニ借橋ヲ構フルコトスベテ十五年
とある、惠賀川は石川が今の古市町・道明寺村などの東を流るる間の名である。地名辭書衞我川の下に「大和川にも石川にも通ず」といひてヱガ川とは大和川をも石川をもいふと釋きたるは曖昧である。ヱガ川は石川である。大和川では無い(又同書に彼衣縫氏の女が假橋を渡ししを河内大橋に外ならじと云へるは甚《イミ》じき誤である)。今「石川は大和川に注げり」といふべきを當時の名稱で云はば「ヱガ川はカタシハ川に注げり」といふべきである。河内志には續紀寶龜元年三月の下に見えたる博多川をも石川の別名として居るがこれは由義宮の近傍と思はれるから玉串川の一節であらう。ここに雄略天皇紀十三年に
 狭穂彦ノ玄孫齒田根命竊ニ釆女山邊小島子ヲ※[(女/女)+干]ス。天皇聞キテ齒田根命ヲ物部目大連ニ收付シテ責譲セシム。齒田根命馬八匹大刀入口ヲ以テ罪過ヲ祓除ス。カクテ歌ヒテ曰ク。やまのへのこじまこゆゑにひとてらふうまのやつげはをしけくもなしト。目大連聞キテ奏ス。天皇齒田根命ヲシテ資財ヲ餌香市邊ノ橘本ノ土ニ露置セシメ遂ニ餌香長野邑ヲ物部自大連ニ賜フ
(155)とある。人テラフは人ニ衒フベキである。ヤツゲは八疋である。その橘本は一本に橋本とある。地名辭書には之に従うて、その所謂餌香市邊橋を即河内大橋として居るが、これはやはり流布本の如く橘で、かのヒムカシノ市ノウヱ木ノコダルマデ(萬葉集卷三)といへる類で、餌香市の橘の並木であらう。即人の集る市の並木の樹下に家財を放置せしめて人の蹂躙に任せしめられたのであらう
立返つて諸書にカタシハ川をいづれの川に擬して居るかと※[手偏+驗の旁]するにまづ河内志には志紀郡の下に
 石川 在2郡東界1。舊名片足羽川
と云うて居る。即片足羽川を石川の事として居るが石川が志紀郡を流るる處は前に云へる如く惠賀川即餌香川である。日本地理志料には
 塚本氏(○明毅)曰ク。堅上堅下ハ蓋片鹽ヲ修シタルナリ。安寧二年紀ニ遷2都片鹽1謂2浮孔宮1トイヒ姓氏録ニ浮孔直、河内ニ貫セリ。則片鹽ノ本州ニ屬セル徴スルニ足ル。萬葉集九詠河内大橋歌ニ片足羽河アリ。即片鹽河ニテ今ノ大和川ヲ言フナリ。後ニ郡名トシ分チテ堅上堅下ト曰ヘルナリト。姑ク之ニ從ハム
(156)とある。さすがに鵠を貫いて居るが片鹽浮穴宮の片鹽を片足羽と同視せるは宣長の説を繼いだので其宣長説の輕々しく從ふべからざるは前に述べた如くである。大日本地名辭書にはその三二二頁に
 片鹽、萬葉集片足羽に作る。片足羽川あり。即大和川の別名歟。片鹽の地にして此稱あり。河内志は石川の舊名と爲せど所據を知らず。萬葉集に見河内大橋獨去娘子歌あり。此大橋は堅下村大字安堂より西へ志紀郡船橋村(今南河内郡道明寺村に屬す)に架したる者ならん
と云うて居る。塚本氏の説より一層精詳であるが、やはり宣長の※[穴/果]臼を出て居らぬ。前年大阪の生田耕一といふ人から度々其論文の出て居る雜誌を贈られた。大分感情の張い人と見えて余に對する語氣などに往々穏ならぬ事もあつて不快に思うた事も無いでは無かつたが毎回寄贈の禮を述べ又其論文は成るべく一讀し面白いと思うて其由を通告した事もある。其中に「片足羽河の名義及河内大橋位置考」といふ論文があつたが雜誌の數號に跨つて頗長いものであつたから飛々に一見し「此御論文は後に暇があつたら細に讀まうと思ふ」と云遣つておい(157)た。其後生田君は不慮に逝去せられ又其後遺著をまとめた萬葉難語難訓攷といふ書物を嗣子から送つてくれられた。生前に贈られた雜誌も探さばあるであらうが面倒であるから今回は難語難訓攷に就いて一讀した。氏は片足羽川を石川とし大橋の架橋地點を國府の東として居られるのであるが片足羽の正字なる堅磐を石榴石一名金剛砂とし此石は二上山に多い安山岩の風化分解したもので飛鳥川を経て石川に流れ出で其川床で採取せられたからそれで石川をカタシハ川と名づけたのであるといひ、カタシハ川は餌香川より一層古い名であらうといひ、大橋は國府の東で石川に架せられたもので之を渡つて駒谷《コマガタニ》・飛鳥(○及大坂)を経て中部大和へ行き又は玉手・國分(○及龜瀬越)を經て奈良方面へ行いたのであるといひ、石川と大和川と落合ふ處即安堂と船橋との間の如きは少し増水すると忽渦を巻き淵を成す程の處であるから架橋術の幼稚な上代人が殊更かやうな地點を擇んで橋を架けようとは考へられぬと云ひ、なほ餌香市は國府では無くて古市の北であらう、もしさうならば大橋の架橋地點は其東であらうと云うて居られる。ともかくも論理整然たる大論文である。わざと批評は差控へ(158)るが、ただ大和との交通の爲に國府の東に大橋がかかつてゐたとするならば國分の先即余の文中のDの地點はどうなつて居たか、其處は徒渡であつたかといふ事、當時の驛路を決定するには驛址を研究せねばならぬ事、堅上堅下はもと堅といふ地名であつたとは思はれぬが之を堅磐の略と見てはならぬならば何の略と見るべきかといふ事、安堂と船橋との間即余の文中のE、即生田君が「少し増水すると忽渦を巻き淵を成す程の處」と云はれた地點は正保國圖に「徒渡、水出候時は船越」とある事、國府址即道明寺村大字國府に市邊墓といふ遺蹟がある事、金剛砂の如き小結晶を磐とは云ふべ からざる事などを擧げて(考へたらまだあるであらうが)後日氏の研究を紹述又は批評する人の参考としておかう(昭和九年十月五日稿。明日將出發踏査河内國府址附近)
 
(159)    弓例河原 上  附龍華川
 
萬葉葉巻七に
 寄埋木 眞がなもち弓削の河原のうもれ木のあらはるまじき事とあらなくに
といふ歌がある。眞ガナモチは弓削にかかれる枕辭、弓別は河内國の地名、カハラは河床又は河邊である。今いふやうに石ありて水無き處には限らぬ。アラハルマジキ事トアラナクニは顕レナイトモ限ラヌニといふ事、上三句はアラハルにかかれる序である。さて弓削河といふは後世の又は今の何川であるか
まづ和名抄河内國若江郡の郷名に弓削とある。又今中河内郡|曙《アケ》川村の南端に大字東弓削がある。又南河内郡志紀村の北端に大字弓削がある。兩大字は長瀬川を隔てて居るが後者は前者の西南に當つて居る。又前者は舊若江郡に属し後者は舊志紀郡に屬して居る。溯つて寶永安永の河内國版圖を見るに前者を東弓削と(160)し後者を西弓削として居る。即両者は對等の地名となつて居る。更に溯つて彼正保度の國圖を※[手偏+驗の旁]するに前者を弓削とし後者を西弓削として居る。即前者を本とし後者を支として今と正反對である、思ふに弓削は若江郡なるが本郷で、志紀郡なるは分村であらう。然るに東西に分れてから世々を經て西なるが大きくなつたから西なるを単に弓削と稱し東なるを東弓削と稱するやうになつたのであらう。茲に延喜式神名帳若江郡の下に弓削神社二座とあるが今東の弓別にも西の弓削にも弓削神社がある。然らばその二社が神名帳に二座とあるに一致するかと云ふに神名帳に二座とあるは一社内に二座の神がましますといふ事で處を異にして二座があるといふ事では無い。又然らばいづれの神社が神名帳のに當るかといふに神名帳に若江郡とあり又弓削は若江郡のが本郷であるから東弓削なるが本で、弓削が二つに分れてから西なるは分靈したのであらう。かやうに云うても東なるが貴く西なるは劣れりといふのでは無い。今は社格も同等であるからその貴さも同等であるが本支を尋ぬれば右の如くであらうと云ふのである。地名辭書に、弓削は若江志紀両郡に渉る地名なりと云へるは今弓削とい(161)ふ地名が兩郡にあるからであらうが續紀神護景雲四年(寶龜元年)正月の下に
 大縣・若江(高安等郡百姓ノ宅由義宮(○即弓削宮)ニ入リシ者ニハ其價ヲ酬給ス
とあつて弓削宮の宮城は非常に廣く東玉串川を越えて大縣高安二郡に跨つたが西は長瀬川を越えて志紀郡にも澁川郡にも亙らなかつたのを見るがよい
右の如くなれば和名抄の弓削は今の東弓削と認めてよいかと云ふに恐らくはさうではあるまい。和名抄の弓削は若江郡七郷の一であるから相應に廣い地域で無ければならぬ。之に反して今の東弓削は舊若江郡一町十一村の一なる曙川村、その六大字の一であるから古の弓削郷の一部なるに過ぎまい。即今の東弓削は大名が小名となつて殘つて居るのであらう。然らば古の弓削郷は今の曙川村外若千村の地域かといふに曙川村の大字|刑部《オサカベ》は古の刑部郷のなごりであらうから曙川村と云へども全部古の弓削郷の内では無い。古の弓削郷の地域は更に研究した上で無ければ定められぬが恐らくは長瀬川に沿うて居たであらう
明治二十九年に郡の大合同が行はれて其以前の郡の位置が分らなくなつたから茲に聊舊若江郡の位置を示しておかう。郡界は世々を經て多少變動したやう(162)であるが正保圖に據れば若江郡は東は高安河内二郎に(大縣郡にも少し)北は讃良《サララ》茨田《マンタ》二郡に、西は攝津國東成郡及澁川郡に、南は志紀郡に接して居る。此處に用あるは本郡の南部であるが本郡は北境を除く外は東は大和川の東派を界とし西はおなじき西派を界として居る。即若江郡の南凡三分二は後にいふ玉串川と後にいふ長瀬川とに夾まれその南端に弓削即後の東弓削がある
ここに讀者の想起を乞はねばならぬ事は物部守屋を弓削大連《ユゲノオホムラジ》とも云うた事である。たとへば敏達天皇紀十四年に物部弓削守屋大連とある。四天王寺本願縁起一名御手印縁起に據れば守屋の所領田園は河内攝津二國に御亙つてゐたが河内では弓削・鞍作(○今中河内郡加美村の大字に鞍作あり)祖父間○彼の澁川郡邑智《オホチ》郷にて今の中河内郡巽村大字|大地《オホヂ》の附近か衣摺《キヌスリ》○中河内郡長瀬村大字|衣摺《キスリ》附近)蛇草《ハムクサ》(○同村大字北|蛇草《ハクサ》及南蛇草)足代(○巽村大字西足代及布施村大字東足代)御立・葦原以上八箇處であつた。即後の若江澁川二郡に跨つてゐた。弓削大連といふを思ふと右八箇處を總稱して弓削と云うたやうにも思はれるが恐らくはさうではあるまい。弓削は収入が最多くて八筒處の田園の筆頭であつたから其地(163)の名を取つて弓削大連と云うたのであらう。又守屋は弓削に居たやうにも思はれるがこれも恐らくはさうではあるまい。守屋の居宅はまづ用明天皇紀二年に
 是時|押阪部史《オサカベノフピト》毛屎急來密語2大連1曰。今群臣圖v卿復將v断v路。大連聞v之即退2於阿都〔二字傍点〕1(阿都大連別業所在地名也)
とあり崇峻天皇紀前紀に攻撃軍の別隊の進路を敍して従2志紀郡1到2澁河家1といひ又守屋の防禦の状を記して於v是大連昇2衣摺|朴枝間《エノキノマタ》1臨射如v雨と云うて居る。衣摺《キヌスリ》は澁川郡の地名で即今の衣摺《キスリ》である。されば衣摺が住宅で即澁川の家であらう。衣摺と阿都との關係はよく分らぬが阿都は大名で衣摺は其内の小名ではあるまいか。本願縁起にいへる住宅參筒處はこの衣摺の家と崇峻天皇紀前紀にいへる難波宅(即當時資人|捕鳥部《トトリベ》萬の留守してゐた)と大和國なる本邸とであらう。從來多くは阿都を後世の跡部とし又阿都をも衣摺も下太子とせる説もあるが跡部は龍華村大字亀井の内、下太子のある太子堂は同村の大字、衣摺は長瀬村の大字で長瀬村と龍華村との間に久寶寺村があり衣摺と下太子及跡部とはいたく相離れて居る。守屋は蘇我馬子と相並んで大臣であり從つて其富は巨大で(164)あつたが然も其住宅が南、下太子又は跡部から北、衣摺まで及んだらうとは思はれぬ。下太子は戦場の一部で恐らくは聖徳太子等の陣地の跡であらう
少し傍径に外れたが弓削は舊若江郡の南部で西、長瀬川に治へる地域であつたから萬葉葉巻七に見えたる弓削河原は長瀬川の前身即古大和川の西派が、弓削の地先を流るる間の稱である。此川は此地方では正保の頃でも其幅が百間に近かつた
 因にいふ。日本紀に戦後の事を記して
  河内國言サク。餌香《ヱガ》川原ニ斬ラレタル人アリ。計《カゾ》フルニ数百ナラム。頭首|既《ハヤ》ク爛レテ姓字知リ難シ。但衣色ヲ以テ其身ヲ牧メ取ル。トイヘリ
 と云うて居る。通釋に之を解説して
  有被斬人は此度の戰に大連方の人の数多斬られしを云なるべし
 と云うて居るが、戦闘して斬られたのであるから無論雙方の屍體であらう。次に
  前に萬が衞士等と戰ひし時の事を記して夾v河追射また伏2河側1また投2河水(165)裏1などあるも餌香川の事にて其邊處々にて人ども数多斬られしものと見えたり
 といへるはいみじき誤である。捕島部萬が壮烈なる死を送げたのは和泉國の有眞香《アリマカ》邑(今の泉南郡の有麻香《アマカ》村・麻生郷《アソガウ》村などで其川は阿里麻川一名麻生川一名津田川と云うて岸和田市と貝塚町との間において海に注いで居る川である。餌香川即石川とは風馬牛である、石川は屡云うた通り長瀬川などの上流である。なほ云はば寶永改修以前は大和川が石川を容れた後しばらく流れて長瀬川と玉串川とに分れて居たのである
弓削川の川下を龍華《リユウゲ》川又橘川と云うた。龍華川は龍華寺から名を獲たのである。龍華寺は續日本紀神護慶雲三年十月の下に
 權《カリ》ニ肆廛ヲ龍華寺以西ノ川上ニ建テテ河内ノ市人ヲ駈リテ之ニ居ラシメ陪従ノ五位已上ニ私ノ玩好ヲ以テ其間ニ交關セシメ(○交關は交通なり。ここにては物々交換なり)車駕之ニ臨ミテ遊覧シタマフ。難波宮ノ綿二萬屯鹽卅石ヲ龍華寺ニ施入シタマフ
(166)とある。これは稱徳天皇が河内國の由義宮即弓削行宮にましましし程の御すさびである。天皇は妖僧弓削道鏡を寵したまふ餘に其故郷なる弓削に行宮を設けて数囘行幸したまうたが此年此月に至りて遂に行宮を常宮として平城京に對して西京と稱せしめたまうたが翌年天皇の崩じたまうた直後にその不祥なる西京は廢せられたのである。さて龍華寺は今の中河内郡龍華村大字植松にあつたやうである。即河内志に
 龍華廢寺 植村ニ在リ。神護景雲三年車駕由義宮ニ幸シ云々トアル即此ナリ。今市揚ト稱セリ。又龍華|※[木+威]《ヒ》・龍華|渠《ガハ》・龍華※[こざと+是]・龍華島ノ名アリ。俗ニ訛リ傳ヘテ橘荘ト曰ヘリ
とある。植松は長瀬川の左岸弓削の下流に在る。今市場ト稱セリとあるは大阪府志龍華村大字植松の條(第四卷九九四頁)に
 龍華寺の地は古大和川の堤北字大門にあり。……天文二年五月五日の大水に流失して廢絶し今も大門の柱石二個東西に分れて存在せり。その東にあるものは周圍壹丈八尺五寸にして西にあるものは同壹丈五尺なり
(167)と云へるに從ふがよい。又俗訛傳曰橘荘とあるは從はれぬ。恐らくは初橘といひしを此地に寺を建てし時タチバナをもぢつて經文中の龍華三|會《ヱ》(龍華は樹名に據つて龍華寺と名づけたのであらう。右の如くなれば龍華川は弓削川の下流である。此川を今は長瀬川といふ事屡上に云へる如くであるが古は澁川と云うたかとも思はれる。
 ○長瀬川といふは古典に見えぬが長瀬堤といふ名は夙く淳仁天皇の天并寶字六年六月の記事中に見えて居る。長瀬川は一名を久寶寺川ともいふ
抑澁川といふ郡名は川の名から起つたのであらう(同國の郡名石川の如く)といふ事は夙く日本地理志料にも蓋取2水名1乎と云うて居るが地名辭書に「按ずるに澁川は龍華川の古名ならん」と云うて居る。但同書に龍華川を平野川の事とし又
 龍華川も寶永年中新大和川疏開以後水脈變遷したる歟
といへるは千慮の一失である。平野川は本來舊丹南郡の狭山池から發する川で古大和川とは何の關係も無い。但用水井路即田間の溝※[さんずい+血]《コウキヨク》によつて大和川と連ねられて居た。その大和川の支流の如くなつたのは寶永改修以後である。即大和川(168)の改修の爲に河道が横断せられ水量が益少くなつたから彼井路が平野川の本流の如くなつたのである。河内志に
 竹淵渠《タコチガハ》 古源、狭山池に出ヅ。中ゴロ漸ニ淤塞ス、寛永中志紀郡柏原ヨリ大和川ヲ引キテ此ニ通ズ。流レテ攝州平野渠ニ注グ
と云へるはまぎらはしいが誤では無い。但此時川の附替を行うたのでは無い。さて正保圖に大和川と平野川と相連つて居らぬのはそを連ぬるものが井路に過ぎなかつたから描寫を略したのであらう。此井路の事は大阪府全志卷之四第三十四項中の柏原《カシハラ》船の條(四七〇頁以下)に見えて居る。大阪府史蹟名勝天然記念物第一冊柏原船の記事(四八六頁以下)は右を抄録したものであるが誤抄があるから研究者は全志に頗るがよい
 
    弓削河原 中 附博多川
 
以下古事記の免寸河の事を論じて本題の弓削河原に戻る豫定であつたが今一(169)つ従來誤り認められて居た博多川の事を正さねばならぬ
續日本紀神護景雲四年に
 二月庚申(〇二十七日)車駕行2幸|由義《ユゲ》宮1
 三月丙寅(〇三日)車駕臨2博多川〔三字傍点〕1以宴遊焉焉。是日百官文人及大學生等各上2曲水《ゴクスヰ》之詩1
 同月辛卯(〇二十八日)葛井《フヂヰ》・船・津・文・武生・藏六氏男女二百三十人供2奉歌垣1。其服並著2青摺細布衣1垂2紅長紐1男女相並分v行徐進、歌曰。をとめらにをとこたちそひふみならすにしのみやこ〔六字傍点〕はよろづよのみや。其歌垣歌曰。ふちもせもきよくさやけし波可多我波ちとせをまちてすめるかはかも云々
とある。前年十月の紀に由義宮爲2西京1、河内國爲2河内|職《シキ》1とあるからニシノミヤコは西京即由義宮で、その由義宮即弓削宮は、以前行宮であつたのを神護景雲三年以後常宮とせられたのである。さて右の博多川を河内國の地誌として権威ある河内志に後世のいづれの川に充てて居るかと※[手偏+驗の旁]するに同書|安宿《アスカベ》郡の部に
 石川 古市郡ヨリ流レテ志紀郡界ヲ經テ片山ニ至ル。伯太神社ノ西ヲ經。因リ(170)テ伯太川ト曰フ。古歌アリ、流レテ大縣郡界ニ至リテ大和川ト合ス(○原漢文。至片山を片山ニ至リテなど訓むと地理と背馳するから殊更に書下したのである)
 伯太彦神社 玉手村ニアリ
 伯太姫神社 圓明村ニアリ。今白山ト稱ス
とある。片山・玉手・圓明は共に今の中河内郡玉手村の大字で、共に石川の右岸に沿うて居る圓明(昔は圓明寺)が川上で、それから川下即北方に向つて玉手・片山と相接して居る。伯太彦・伯太姫の両神社は文徳天皇の天安二年以來官社に預りやがて延喜式の神名帳に見え又その伯太はハカタと訓むべければ河内志の説は一應うべうべしく聞える。されば續紀考證には之に從ひ大日本地名辭書(三三七頁以下)にも之にもたれて
 伯太神社は今玉手村に在り。伯太又百尊に作る。蓋此地の古名なり。續日本紀に由義宮の邊の長瀬を波可多と頌せり。玉手の下を過ぐる石川の水流れて長瀬と爲るを以てなり
(171)と云うて居る。同書の著者は續紀の記事を按じて由義宮の傍を流るる後の長瀬川を古の博多川と認めたが河内志の説に心が奪はれたから自他の案を折衷して玉手ノ下ヲ過グル石川ノ水流レテ長瀬トナルヲ以テナリと云はれたのであらうが長瀬川は石川と大和川とが相合して一流(今の中堀川)となつた後に又二派に分れた其一派の名である。石川の一節の名稱がかかる處まで及ばうや一考にも及ばぬ事である。又同書に「伯太又百尊に作る」と云ひ次下に引ける姓氏録の文中の百尊にハカタと傍訓して居らるるが姓氏録流布本の左京神別下なる上毛野《カミツケノ》朝臣の條に見えたる百尊即雄略天皇紀九年七月の下に見えたる伯孫はいかでかハカタと訓まれん、長年月に亙つての大著述に從事した人は誰でも覺のある事であらうが地名辭書の著者は此一節を書かれる時に何かその明鏡の如き頭脳を曇らするやうな事に遭はれたのであらう。然らば地名辭書の説を淘汰してその長瀬川とせる説を採つて河内志の石川とせる説を正すべきかと云ふに博多川は石川に非ざるは勿論、長瀬川でも無い長瀬川を由義宮即弓削宮の傍では弓削川と云つた事は上に述べたる如くであるが余が博多川は長瀬川にあ(172)らずと云ふは弓削川といふ名と重複するからと云ふやうな単純なる理由からでは無い。抑由義宮と石川とは少し相離れて居るが先年(天平勝寶元年十月)に大縣郡の智識寺にましました時に石川に行幸したまうた事もあるから三月丙寅の車駕臨2博多川1以宴遊焉とある記事のみならば余も誤つて河内志の石川とせる説に従ふかも知れぬが同月辛卯の記事に據るに葛井等六氏の男女が歌垣を催して御覧に入れたのは他處へ行幸したまうた時では無く彼人々が由義宮に参入して供奉即奉仕したのである。由義宮に参入して奉仕したのである事は記事に某處に行幸したまうた時と無いのみならず歌に
 をとめらにをとこたちそひふみならすにしのみやこ〔十一字傍点〕はよろづよのみや
とあるにて明である。されば博多川は宮域の内で無ければならぬ。由義宮の宮域はどこからどこまでであつたか明には分らぬが前にも引ける如く同年正月の記事に
 大縣・若江・高安等郡百姓之宅入2由義宮1一者酬2給其價1
とあるから若江郡から大縣・高安等の郡に亙つて居たのである。さうして若江郡(173)から東、大縣・高安二郡に亙るには後世の玉串川に跨らねばならぬ。されば博多川は恐らくは後世の玉串川であらう。なほ云はば由義宮は玉串・長瀬の両川に夾まれて居て(否東は聊玉串川を越えてゐて)當時玉串川を博多川といひ長瀬川を弓削川と云うたのであらう。さうして玉串川を博多川というたのは川の沿岸に博多といふ地(或は伯太神社の神領)があつたからであらう
 
    弓削河原 下 附免寸河
 
いよいよ免寸河の諭に移るが古事記仁徳天皇の一段に
 コノ御世ニ兎寸河ノ西ニ一高樹アリ。其樹ノ影、旦日ニ當レバ淡道《アハヂ》島ニ逮ビ夕日ニ當レバ高安山ヲ越エキ。故《カレ》コノ樹ヲ切リテ船ニ作リシニイトトク行ク船ナリキ。時ニ其船ヲ號ビテ枯野《カラヌ》ト謂ヒキ
とある。免寸河の訓は從來まだ定まつて居らぬ。何と訓むべきかと云ふ事は後に云はうが此川の名も亦地名から出たのである。即播磨風土記|讃容《サヨ》郡船引山の下(174)に河内國免寸村とある。さて免寸河に就いては古事記傳卷三十七に
 免字はうつなく寫誤なり。然れども其字未考得ず。されば訓べき由も無ければしばらく訓をも闕つ。そもそも此河は此高樹の朝夕の影の至る處を云るに因て考るに必高安山の西方なるべければ河内國高安郡もしは若江郡・澁川郡などにある川なるべし。……何れにまれ中間に山なくして高安山を東方に常に望る地なるべきなり
などいと精しく云うて居る。高安山の西方に當れる川を東から数へて見ると恩智川・玉串川・楠根川一名|曙《アケ》川(前には長瀬川の分派なりしに今は玉串川より分れたり)長瀬川それから少し離れて平野川である。されば免寸川は此等の内で無ければならぬ。次に加納諸平は免寸を兔寸の誤としてウキと訓み、そのウキを泥水の義としウキ河を古市川とし高樹のあつた處を今の木本として居る。 ○諸卒の免寸河考は何かの中に出て居たが今回此文を草するに就いて文庫を※[手偏+驗の旁]べて見たが見附けられぬ
免寸を兔寸の誤としてウキとよんだのはよいが古市川は石川の一節であるか(175)ら高安山の西には當らず。
 ○高安郡の南が大縣郡、大縣郡から大和川を隔てての南が安宿《アスカベ》郡、その南が古市郡で古市の東方に見ゆるは寺山・鉢伏山などで二上山の北峰である
又石川は水量の豊富なる川で泥水では無い。木本《キノモト》は今木本・北木本・南木本に分れ共に中河内郡大正村の内で、彼東弓削から西南方に當つて居る。なほ云はば木本はもと丹北郡に屬し南北木本は志紀郡に属してゐたのを明治二十二年に合併して三木本《ミキモト》村と名づけて志紀郡に属し大正二年に更に太田村と合併して地理研究者には迷惑なる大正村といふ新名を附したのである。さて右の木本と古市川とは距離が遠い。木本は寧長瀬川に近い。
 ○今の大正村は今の大和川(即寶永改修後の)の北岸に接して居るが然も川に臨んで居る處は舊太田村であつて舊三木本村では無い
右の如くであるから諸平の説は地理を明にせずして述べたのである。次に大日本地名辭書には免寸を原のままでメキと訓んで
 河内國中河内郡三木本 三木は樟なり。延喜式志紀郡|樟本《ミキノモト》神社三座、河内志南(176)木本に在りと爲す。今三木本村大字南木本なり。三木の三は稱美の謂にて古事記に見ゆる免寸大樹是なり。龍華川村を貫く。免寸川亦是なり
とある。生前面識ある著者に對して笑止であるが此説には採るべき所が無い。まづ夙く宣長の云へる如く古典に免をメの假字として使つた例が無い。又上代は地名を書くに(少くともうるはしく書くに)音訓を交へて書く事は無かつた。されば免寸は宣長の云へる如く原のままでは訓むべきやうが無い。茲に兎といふ字は今は兎と書くが其正字は兔である。又古寫本には多く兔と書いて居る。されば免寸は兔の點を落したものと認めてウキと讃むべきである(播磨風土記新考三三八頁参照)。即諸平の説に從ふべきである。然し其名義を泥《ウキ》とせるは軽々しく從はれぬ。次に地名辭書に「三木は樟なり」といひ樟本神社にミキノモトと傍訓せるは牽強傅會である。第一樟をミキといひ又は訓んだ例が無い。神名帳の樟本神社はクスモトとよむべきである。地名の木本と神社の名の樟本とは或は關係があるでもあらうが社名はクスモト又はクスノモトで地名はキノモトである。第二に三木本《ミキモト》は古名では無い。上に云へる如く明治二十二年に木本と北木本と南木(177)本との三村を合併した時に三つの木本であるからと云うて新に三木本(ミキモト)と命名したのである。従つて三木の三を稱美の謂と云へるもここには叶はぬ。又「古事記に見ゆる免寸大樹是なり」といへるも牽強傅會である。古事記の兎寸河の西なる高樹は傳説の樹木で、樟本神社の名の原たる樟は寶在の樹木である。他事はなほ後に云はう。最後に「龍華川、村を貫く。免寸川亦是なり」と云へるもひが言である。地名辭書に龍華川を平野川の古名とせるが誤なる事は上篇で辨じたが、ここに云へる龍華川を平野川と直してもなほ事寶に合はぬ。正保國圖では(即大和川の寶永改修以前には)平野川は木本三村を貫いて居らぬからである
ここに大木傳説といふものがある。日本紀及筑後風土記に見えたる筑後國三毛郡なる歴木《クヌギ》・播磨風土記に見えたる明石の駒手御井の楠・肥前風土記に見えたる佐嘉郡の樟樹・今昔物語卷卅一に見えたる近江|栗太《クリモト》郡の柞《ハハソ》、又古典には見えぬが伊豫國伊豫喜多二郡なる所謂扶桑木などがそれである。さうして其傳説は
 朝日ノ影ニハ肥前國藤津郡多良之峰ヲ蔽ヒ暮日ノ影ニハ肥後國山鹿郡荒爪之山ヲ蔽フ(筑後風土記)
(178) 朝日ノ影ニハ杵島郡蒲川山ヲ蔽ヒ暮日ノ影ニハ養父《ヤプ》郡草横山ヲ蔽フ(肥前風土記)
 朝日ニハ淡路島ヲ蔭ヒ夕日ニハ大倭島根ヲ蔭フ(播磨風土記)
 ソノ影、朝日ニハ丹波ノ國ニサシ夕ニハ伊勢ノ國ニサス(今昔物語)
といへるなど其形式まで一致して居る。兔寸河の西の高樹も其大木傳説の一例で、やがてここにも
 其樹之影當2旦日1者逮2淡道嶋1當2夕日1者越2高安山1
とある。さてかかる傳説の起つたのは廣い地域に亙つて土中から筑後・伊豫の埋木、近江のスクモなどのやうに埋木・泥炭・亞炭などの出るのを見て上古人の単純なる心から之を一木の所産と認めそれを産した木は非常に大きな木であつたらうと想像して所謂大木傳説を語出したのであらう。さて余が曾て「萬葉集の歴史的觀察」といふ講演(萬葉集雜攷二九〇頁)で掠つた外には從來心附いた人が無いやうであるが古事記の兎寸河の西の高樹と本題の弓削河原の埋木との間には深い関係があるであらう。即恐らくは弓削河原の廣い地域に亙つて理木が出(179)土するを見て其川の西に昔非常な高樹があつたと想像したのであらう。さらば兔寸川は即弓削河即後世の長瀬川の事であらう。なほ云はば兔寸河は弓削河の古名であらう(昭和十年一月十七日稿了)
 
(180)    取石池及淺香浦 一
 
取石池は和泉國にある。淺香浦も今は和泉國に屬して居る。此國の國府《コフ》の附近に和泉といふ名水があつた。後には國府の清水と稱せられた。國號は此から出たのである。然らば和泉と書くは如何。地名は二字に書くべき御定があつて泉の一字にて不可ならば出水とも書くべきに訓に加はらぬ和字を添へたるは如何。宣長は
 此清水上つ代よりいと清くて甘かりしが故にニギイヅミといひて和泉と書たりしを其里人などはただ泉とのみいひならへるがひろごりて名高き水なれば京人なども泉とのみいひあへりしままにて郡の名にも國の名にもなれるをすべて國郡などの名二字にかく事なるが故に文字にはかならず本の名のごとく和泉とは書くなるべし云々(○玉勝間卷五和泉の和字の事)
と云うて居る。或は泉の名が國號郡號となつた後にも初にはなほニギイヅミと(181)唱へたのでは無いかとも思はれるが欽明天皇紀十四年五月に泉郡|茅浮渟《チヌ》海中云々とあるを思へばヤハリ宣長の説の如くであらう。
 ○但右は追書であらうから欽明天皇の御時に泉郡といふ郡名があつたといふ證據とはせられぬが日本紀撰述の時にはやくイヅミと云うた證據にはなる
大化改新以前にチヌノ縣があつた。即崇神天皇紀七年雄略天皇紀十四年以下に見えて居る。又國造本紀に和泉國造といふが見えて居る。之に據るとチヌノ縣の外に和泉國(國造國)があつたとしなければならぬが和泉國造といふは他書に見えて居らず又後の和泉國は他者には北部も南部もチヌと云うて居るから國造本紀の記事は信ぜられぬ。同書には又攝津國造・山城國造(山背國造の外に)出羽國造・丹後國造・美作國造などを擧げて居るが
 ○特に丹後は國造國を廢せられし大化改新より遙に後なる和銅六年に丹波國の五郡を割いて置かれ丹波國に對して丹後國と名づけられたのである。されば丹後國の國造などあるべきで無い
(182)此等は和泉國造と共に後人の添加であらう。要するに國造本紀は悉くは信ぜられぬ。さてチヌは古書に血沼とも茅淳とも珍努とも珍とも書いて居るが略、後の和泉國に齊しい地域である。其名義に就いて古事記神武天皇の段に
 ココニ登美毘古ト戰ヒシ時ニ五瀬《イツセ》命御手ニ登美毘古ガ痛矢串《イタヤグシ》ヲ負ヒタマヒキ。……血沼海ニ到リテ其御手ノ血ヲ洗ヒタマヒキ。故《カレ》血沼海トハ謂フナリ
といへるは海の名を原《モト》として居るのであるが、これは風土記式の説で信ずるに足らぬ。又古事記傳卷十八(一〇九二頁)に
 黒鯛のたぐひにチヌと云魚あり。此魚血沼海の名産なりし故に地名をやがて其物の名に負へるなるべし。といふ説は本末たがひて此記の趣にもそむけり
と云うて居る。チヌといふ名をチヌ鯛より起れりといふ説はげに本末を顛倒したるにていとをさない。此鯛は此海の名産であるからチヌ鯛といふを略してチヌとも云ふのである。然るに地名辭書に宣長の説の中のトイフ説ハ本末タガヒテ此記ノ趣ニモソムケリといふ文を引忘れてチヌ鯛より起れりといふ説を宣長の説としたるはいと軽率である又「知奴魚は其色赤くして血を塗れる状あれ(183)ばならん」と云へるはいとあさましい。チヌ鯛は東京にていふ黒鯛で其色の黒いものである。さてチヌの名義は明でないが外の例の如く陸地から起つた名で或は茅野であらうか。國造本紀には茅野と書いて居る。但これは證據とするに足らぬ。さて古の茅渟縣は大化改新の時に河内《カフチ》國に属せられたが後に和泉國として河内國より分立し是に依つて四畿内は五畿内となつたのである。即續日本紀に
 霊亀二年(○紀元一三七六年、元正天皇御代)四月割2大鳥和泉日根三郡1始置2和泉監1焉
とある。河内國から割いたのである。三郡は後の和泉國の全域である。監《ゲン》は一種の國である。其長官をも監と云うた。監は、太政官の直轄で國司は置かれなかつたのである。即同書同年の紀に 六月丁卯始置2和泉監史生三人1
とある。此監は長官である。即此年四月に始めて和泉監(國)を立て六月に至つて其長官と等外官三人とを置いたのである。然るに從來右の文の監を國と誤認して監の下にニをよみ添へて居る。按ずるにもし和泉監ニと訓むべくば丁卯和泉監(184)姶置2史生三人1と書くべきである。又史生の如き小吏を置きし事をさへ記しながら長官たる監を置きし事を記さざるは如何。或は長官はまだ置かずしてまづ史生のみを置いたのかと思ふに次年(養老元年)の二月の下に
 己丑和泉監正七位上堅部|使主《オミ》石前《イハサキ》進2位一階1
とあるから長官もはやく置いたのである。従つてかの始置和泉監史生三人は從來の訓點を改めて始メテ和泉監・史生三人ヲ置クと訓んで始メテ監即長官一人ト史生三人トヲ置クと心得ねばならぬ。監に人数を記さざるは長官は一人と定まつて居るからである。次に養老六年三月の下に
 以2正四位下阿倍朝臣廣庭1知河内和泉事(トス)
とあるは直轄制と國司制との過渡であらう
 ○日本地理志料に其任2國守1者在2養老1阿倍廣庭といへるは誤つて居る。第一に國守とあらで知事とあるを思へ。第二に河内國守は從四位下相當なるに廣庭の位階が正四位下なるを思へ。第三に廣庭が當時(比年二月一日以來)参議たるを思へ。思ふに廣庭は太政官にありながら河内周及和泉監の事務を収扱うた(185)ので、即内官でありながら外官の事務を取扱うたので、ここに知事とあるはなほ宋時の知某府事・知某縣事の如くであらう。さて此時知河内和泉事を置かれたのは故ある事であらうが其故は知られぬ
又續日本紀に
 天平十二年(〇一四〇〇年、聖武天皇)八月和泉監并2河内國1焉
とある。もとの如く河内國に属せられたのである。又
 天平寶字元年(〇一四一七年、孝謙天皇)五月勅曰。和泉等國依v舊分立
とある。こたびは監とせずして國とせられたのであるから國司の任命もあつたであらうが國守《クニノカミ》の任命は
 寶字三年(〇一四一九年、淳仁天皇)五月從五位下大野朝臣廣主爲2和泉守1
とあるが始である(以上昭和十年五月四日稿)
 
    取石池及淺香浦 二
 
(186)國府は和泉郡府中村(今の泉北都和泉町大字府中)にあつた。その御館森《ミタチノモリ》が國衙の址であるといふ。
 ○明治二十二年四月に府中以下五村を合併して國府《コクフ》村と名づけたが昨昭和九年四月に又北隣なる伯太《ハカタ》村と合併して和泉町と改稱した
和泉町は小栗街道に貫かれて居る。小栗街道は略南北に通じて居るが(實は東北より西南に)海岸なる大津町より來つて之と直角に交叉して居る道路がある。小栗街道かち其道をチヨット東に(實は東南に)入ると道の北側に雜木数十本が疎に生えて居る明地がある。これが即御館森の跡である。昔此處に和泉神社又は御館明神といふ神社があつたといふ。そは恐らくは印鑰《インヤク》神社の後身であらう。泉井上《イヅミノヰノウヘ》神社の社司もインヤク神社といふ名を聞いて居ると云はれた。さてあと戻して小栗街道をチヨット西(實は西北)に入ると其北側に五社總社と泉井上神社との神域がある。鳥居をくぐづて正面なるが即南面せるが五社總社で、左手なるが即東面せるが泉井上神社である。今は後者が府社に列せられ前者は後者の境内社と稱せられて居る。思ふに御館森と五社總社と泉井上神社とはもと一つづき(187)の地であつたのが小栗街道の開通によつて中断せられたのであらう。泉井上神社の社殿の北方に淺く又狭い窪地があつて西方に向つて口を開いて居る。これが即國名の縁起なる和泉即コフノシミヅである。余の参拝した五月の初には一滴の水も無く底には草が生えてゐたが毎年五月の末になると全面から多量の水が湧出でて数百町の田地の用水となるといふ。今の社殿の位置は必しも昔のままではあるまいが、ともかくも比泉のほとりに在るから泉井上神社と名づけられたのである。井ノウヘのウヘはホトリといふ事である。さて思ふにいにしへ井といひしは清水の湧く處でやがて泉の事であるから泉のほとりに在るを名とせんとならば泉ノウヘノ神社といふべきに長く又唱へにくきを忍んで泉ノ井ノウヘノ神社と名づけしは如何。このヰは轉義にて今も農村語として行はるるヰヂ・ヰミヅ・ヰスヂなどのヰにて用水の謂にあらざるか。但今の社殿は上述の如くただに泉の邊に在りて泉の井を泉の流未なる用水と解釋せんを許さざるに似たれど社司の言に社殿は昔は今より後方即西方にあつたやうであるといふ。もし古、用水をヰと云うたとすると萬葉集に見えたるヰノヘ・ヰデ・ヰナカなど(188)いふ語も又此等のヰとタヰのヰとの異同も再吟味せねばならぬがそは他日に譲らう
上に國府の址は今の泉北郡和泉町大字府中であると云うた。然しそは後の國府であつて上古の國府は同郡|尾井《ヲノヰ》村(今の泉北郡|信太《シノダ》村大字尾井)にあつたと見える。即同處に式内|舊府《フルフ》神社があつて小栗街道の西の森中に在る。この舊府と國府との關係を否認して居る人もあるが豊後國(大分市)越中國(伏木町)の古國府《フルコフ》が國府址であるのを思うても當國の舊府も亦府址即國府址であると認めねばならぬ。尾井と府中との距離は二十町許である。甲は乙の北方(實は東北方)である。さて尾井に國府のあつたのはヨホド古い事と見えて三代寶録貞觀元年五月の條に和泉國舊府神列2於官社1とある。即今より一千七十六年前にはやく國府は移されてゐたのである
延書式(民部上)に
 和泉國 下 管大鳥・和泉・日根
とあり和名抄に
(189) 和泉國(國府在2和泉郡1) 管三 大鳥(於保止利)和泉(國分置2泉南郡1)日根(比禰)とある。國には大上中下の四等がある。されば和泉國は第四等國である。國の等級は人口又は課丁の数によつて定めたやうである(肥前風土記新考六頁参照)。和名抄泉郡の註に國分チテ泉南郡ヲ置クといへるは太政官及民部省では三郡と定めたるを國衙にて便宜の爲に私に和泉郡を二分したりと云ふのである。諸國にも例がある。泉南郡は右の如く始は私置であつたが後に公認せられたと見えて正保國圖には大鳥・泉・泉南・日根の四郡として居る。明治二十九年に大鳥・泉を合せて泉北郡とし泉南・日根を合せて泉南郡とした。されば今は二郡である
延喜式(兵部省)諸國驛傳馬の條に
 和泉國驛 日部・呼※[口+於]各七疋
とある。京から南海道に到る驛路で河内國津積驛(大和川の堤に在りしか)と紀伊國名草驛との間に在つたのである。日部はクサカべと訓むべきである。和名抄の郷名訓註に久佐倍とあるは誤である。 ○和名抄の地名訓註は轉寫の際に字を誤り又は字を更へたと思はれる處が(190)あるのみならず元來後世の添加と思はれる理由がある。されば深く信頼する事が出來ぬ
もと日下部と書いたのを地名は二字に書くべしといふ御定に依つて無理なる事ながら下字を略したのである。ここに日下の二字を合せて※[日/下]と書く事がある。現にこの大鳥郡の郷名日部も和名抄の高山寺本には※[日/下]部と書いて居る。されば日部とあるは日下部の寫誤ならざるかと云ふに延喜式驛名にも日部となり同書神名帳にも日下神社とあるのみならず和名抄尾張・因幡・下總の郷名にも日部とあるから寫誤では無い。さて日部驛は古の大鳥郡の内であるが今泉北郡鶴田村に大字草部あり其處に村社日部神社があつて父鬼街道(自風町至同郡南横山村父鬼)から少し東に在る。同社にある國寶の正平古碑に草部上條牛頭天王燈籠也とあるから同社は本來祇園神社で式内の曰部神社はもと同部落内の別處に在つたのを合祀したのであると云ふ事であるが、ともかくも日部驛址は此附近であらう。今草部と書いてクサベと唱ふるは日部を中古以來誤つてクサベと訓み來れるに就いて字を更へたのである。
(191) ○日下をこそクサカと訓め、日宇をクサに充つべけむや。クサカを日下と書く所以は別處に云はむ。ここに和名抄丹波國氷上郡の郷名に春部ありて加須可倍と訓註したり。これも春日部の日を除きて二字としたるにて日下部の下を省きて二字としたると適に相齊しく春をカスに充つべからざるは猶日をクサに充つべからざる如し。今の丹波國氷上郡春日部村は略字を復したるなり。余は河内國にても他日略字を復して日下部としてクサベの訛稱を巌棄せむことを望む。又和名抄備後國沼隈郡及惠蘇郡の郷名にも春部あり。訓註は無けれど丹波國の例によれば亦カスカベと唱へしならむ。其地名は今残らず
次に呼※[口+於]は一音にヲとよむべきである。地名は二字に書かざるべからざるに由りて呼《ヲ》に其母韻オを添へたのである。なほキを紀伊と書くが如きである。呼は漢音quo(コと唱ふるは其直音)であるから呉音ではそのqを省きてwoと唱へる。我邦の古書に乎・呼をヲに借りたるは其呉音に従うたのである。さて呼※[口+於]《ヲノ》驛址は古の日根郡|呼※[口+於]《ヲノ》郷の内で今の泉南郡|雄信達《ヲノシンタチ》村大字|男里《ヲノサト》である。この男里は正保國圖に小野里と書いてある。ノがテニヲハなる事を忘れた後の擬字である
(192) ○ヲといふ地域は雄山《ヲノヤマ》を越えて和泉紀伊二國に亙つて居る。これに就いては云ふべき事がいと多いがそれを盡さうとするには特に一文を草せねばならぬ。又|雄信達《ヲノシンタチ》といふは奇怪なる村名であるが明治二十二年四月町村制施行の時に舊信達荘を分つて六村としたが此村の区域には古の呼※[口+於]郷の名を傳へたる男里村(又雄郷又小野里)があるから雄を含める信達といふ心で東西北の信達村に對して雄信達と命名したのである。信達はもとシタチと唱へた。現に泉州志にシタチと傍訓して居る。今シンタチと唱ふるは字に引かれたのである。終にはシンタツと唱へ僻める時代が來るであらう。信達荘の内の新立村でも悉く信達と稱したので無く残る二村は鳴瀧・樽井と名づけた程であるから古名を存ぜんとする尚古心があるならば雄信達村は寧|男里《ヲノサト》村と稱する方がよかつたのであるが恐らくは他の二大字即幡代・馬場が首肯しなかつたのであらう。むつかしいものは世中である(昭和十年五月十五日草)
 
(193)    取石池及淺香浦 三
 
和泉國は形が魚の一|臠《レン》に似て居る。北は攝津と大和川を隔て
 ○以前は國界は河南にあつた。堺の町さへ攝津和泉に分属してゐた。堺の町は|大小路《オホセウヂ》を界として北(ノ)荘と南(ノ)荘とに分れてゐたが其北荘は攝津國に属してゐた。然るに明治四年九月に大和川の中心を以て攝津和泉の界と定められたのである。萬葉集に見えたる名所の如きも攝津の内であつたのが右の改定によつて和泉の内となつたのがある
東は河内と南は紀伊と各山岳を隔てて居る。乙の山岳はかの大和河内の界なる葛城山脈の續で、取分きて雄《ヲノ》山脈といふ、甲の山岳は乙の分支である。高山は多くは國界にある。就中和泉河内紀伊の三國の界なるを七越《ナナコシ》山といふ。其北方なる河内界に槙尾《マキノヲ》山あり七越山の西南、紀伊との界には牛瀧・葛城・犬鳴・飯盛の諸山がある
當國は其東西徑、南北徑の半に過ぎずしていと短きに川は殆皆東南方から發し(194)て西北方に向つて居るから其流が皆長からず、從つて大河は無い。今正保國圖に就いて川原の幅三十間以上なるを北から南に向うて數へると
 石津川      一名草部川
 大津川      又書掃守川
 加守川      一名槙尾川
 麻生川      一名津田川
 近木《コギ》川  又書近義川
 樫井川 一名大井關川、又名岡田川
 小野里川 即男里川、一名菟砥川
である。就中最大なるは樫井川の百七十間で最小なるは加守川の三十間である。當國、西は和泉灘即茅淳海に臨んで居るが其海岸線は凡十四里で天然の港※[さんずい+彎]なきが特徴である
紀州街道は正保國圖を按ずるに堺より南方に向へるものと東南に向へるものとあり
(195) ○甲は今の國道乙は今いふ小栗街道
貝塚と佐野との間なる日根郡鶴原宿(今の泉南郡北中通村大字鶴原)で相合し又相分れて一は海岸線に沿うて南下し一は東南に向うて山中村(今の東鳥取村大字山中)を經て紀伊に入つて居る。甲は紀伊國加太に達し乙は同國山口に達して居る。又乙は有名なる雄《ヲノ》山峠を經るものである
 ○甲は今いふ孝子越《ケウシゴエ》街道である。くはしく云はば孝子越は深曰《フケヒ》村で左折して居る。深日より先の古の本道は今は府道ならずして里道である。さて今の國道は乙である
幕末には堺奉行所の外に二藩治があつた。即岡部氏の岸和田藩(今の岸和田市)と渡邊氏の伯太《ハカタ》藩(今の和泉町大字伯太)とである。然るに明治三年四月に遠藤氏が近江國三上から當國吉見(今の泉南郡田尻村大字吉見)に移つたから廢藩までのしばらくの間は三藩治となつた。因にいふ。岸和田は正しくは岸ノワダとよむべきである。但はやくノを略しても唱へたと見えて名所圖會にキ シワダと訓じて居る。楠氏の一族、當國和田村(今の泉北郡久世村大字和田)に住し和田を苗字とせ(196)しものの又一族が城を此地に築いたから同苗と別たんが爲に其家を岸の和田と稱したのが轉じて地名となつたので本名は岸であるといふ
以上の記述中往々正保國圖に據つた處があるが所藏の古地圖が正保國圖に相違ないといふ事を考證しておかぬと研究者は不安に思はるるであらう。所藏の古地圖は紙面縦四尺五寸、横二尺八寸で圖は凡一里三寸に描いてある。まづ圖中に大和川が見えぬ。されば賓永元年以前の作製である。さて紙端にい御料所、ろ岡部美濃守領、は小出與平次領、に片桐石見守領、ほ小堀大膳領、へ貝塚卜半寺内と記してある。岡部美濃守名は宣勝、小出與平次名は有棟(一作有宗)片桐石見守名は貞昌(初貞俊)小堀大膳名は正之と云うた。貝塚卜半寺は即願泉寺で貝塚町一圓は此寺の所領であつた。諸大名の中當國に居住せしは岸和田の岡部氏・陶器《タウキ》の小出氏で、片桐小堀二氏は他國に居住してゐた。右の附記の中に渡邊丹後守の名が無い。當國伯太藩主の祖渡邊吉綱が當圃|姨寺《ヲバデラ》(今の泉北郡北|上神《ニハ》村大字|大庭寺《オバデラ》に封ぜられしは寛文元年十一月である(後享保十二年移于伯太)。又岡部美濃守の致仕は同年十月である。されば此圖は寛文元年十月以前の作製である。否小堀正之がま(197)だ大膳と稱したのは萬治三年十二月までである(改大膳稱備中守)。されば萬治三年十二月以前の作製である。又同人が家を繼いだのは正保四年である。されば此圖は正保四年から萬治三年までに作製したもので所謂正保國圖である。但一里六寸の定にたがうて一里三寸なるは摸寫の際に二分一に縮めたのであらう(昭和十年五月十九日稿)
 
    取石池及淺香浦 四
 
以下いよいよ取石池の事を述べよう。序説が長きに過ぎたやうに思はれるであらうが直に取石池の事を聞かれたのでは身其境に臨んだやうなここちがすまじきが故にまづ和泉國の地理及歴史の一般を語つたのである。語る方も樂では無かつた。萬葉集卷十に
 妹が手を取石の池の浪の間ゆ鳥がねけになく秋すぎぬらし(詠鳥)
といふ歌がある。又續日本紀神龜元年十月の下に聖武天皇が同月五日の御發駕(198)で紀伊國玉津島に行幸したまうた事を叙して
 丁未(〇二十一日)行還至2和泉國取石頓宮1、……己酉(〇二十三日)車駕至v自2紀伊國1
とある。御往路には眞土山を經たまひ御還路には和泉河内を経たまうたのである。又新撰姓氏録和泉國諸蕃に
 取石造 百済國人阿麻意彌之後也
とある。古典に取石といふ名の見えたるはこれだけである。右の内續紀なるは流布本を始めて諸本に所石とあつてトロシと傍訓してある。所とあるは疑も無く誤である。取を※[所の草書のような字]と誤り更に所に更へたのである。さて萬葉なる取石池を中古に取古池と書誤り、それに依つてトリコと訓んでゐたのを仙覺が諸證本に據つて取石に復した。さて
 證本どもに取石とかけり。これによりてトリシと點ぜられたり。この取石といふ詞、人姓の中にもあり。トロシとよむと申侍也。トリシはききにくからねばさてもあるべきにや。後賢沈思してさだめらるべき歟
(199)と云うて居る。其意は
 諸證本に取石と書いてトリシと訓んで居るが今人の氏に取石といふがあつてトロシと唱へるさうであるからトロシと訓むべきであらうか。もとのままにトリシと訓んでよいやうにも思はれる。後人なほよく考へよ
といふのである。然るに契沖も雅澄もトロシの方がよいと思うたと見えて代匠記にも古義にもトロシと傍訓して居る。さうして代匠記には其初稿本に
 和泉國和泉郡にまかりける道に池の堤を道にてすぎ侍る所ありき。其池の名を人の登呂須の池となん申侍りければ此歌を思ひ出侍けるを今もおばえ侍り
と云うて居る。余は新考(二一二六頁)に
 初句は妹ガ手ヲ取リとつづける枕辭なり。取石地は從來トロシとよみたれど、ここにも續紀にも姓氏録にも取石と書きたる上、今の歌に妹ガ手ヲといひかけたるを思へば宜しくトリシとよむべし。そを後にトロシと訛り更にトロスと訛れるなり。秋スギヌラシは秋暮レヌラシなり。鳥ガネ異《ケ》ニナクといへるに(200)て初めて水鳥の聲を聞きし趣よくあらはれておもしろし
と云うておいた。なほいひ添へるならばトリガネケニナクのナクはスル又はキコユに改めて心得るがよい。又ケニはウタテである。水鳥の聲が耳に立つのである。取石池に就いては契沖が上引の如く云へる外に同時の石橋直之の泉州志卷三和泉郡〔三字傍点〕の條に
 取石池(上古ハ高石池ト號ス)信太郷〔三字傍点〕ニ在リ。姓氏録云々續日本紀曰云々。余按ズルニ所石、取石ト和訓近シ。最頓宮ヲ設クベキ勝地ナリ。疑ハクハ此地カ。萬葉十云々。後世取石ヲ取古トスルハ字形相似タレバナリ。八雲御鈔ニ取古池ヲ近江トシタマフハ鳥龍《トコ》山近江ニ在リ。故ニ鳥龍《トコ》山ヲ推シテ鳥籠《トリコ》池ヲ同處ニシタマフカ。蓋鳥籠池別ニ近江ニ在ルカ未分明ナラズ。萬葉ニイハユル取石池ハ果シテ此池ナリ(○原漢文)
と云うて居る。續紀の流布本の所石は上に云へる如く誤寫である。トリシは勿論トロシも所石とは書かれぬ。八雲御抄の誤は辨ずるにも及ばぬ。次に關祖衡等の和泉志大鳥郡〔三字傍点〕の卷山川の部に
(201) 取石池 綾井荘〔三字傍点〕ニ在リ。廣サ五百三十餘畝。古歌アリ(○原漢文)
といひ同和泉郡〔三字傍点〕の卷古蹟の部に
 所石頓宮 舞村〔二字傍点〕ニ在リ。舊大鳥郡ニ屬ス續日本紀曰云々
といひ同卷村里の部に舞舊名取石〔五字傍点〕と云うて居る。取石池と取石頓宮址とを別處とせる、一見しては不審のやうであるが大鳥郡綾井荘と舞の屬する泉郡|信太《シノダ》郷とは別郡ながら南北に相接して居る。否綾井荘は少くとも或時代には兩郡に跨つてゐたと見えて正保國圖を按ずるに綾井市場と綾井大園とは大鳥郡に屬し綾井|土生《ハブ》は泉郡に屬して居る。さうして士生の東隣が舞である。なほ云はば取石池の南が舞である。今取石池は土生・大園・綾井(即市場)等の大字と共に取石村に属し舞は信太村に屬して其大字の一である。かやうに和泉志は頓宮址を池の南として居るが名所圖會には
 所石頓宮 舊蹟さだかならず
とある。次に大日本地名辭書にその大鳥郡の下に
 取石 取石村は取石池あるを以て近年其名を建つ。取石頓宮は續日本紀に云(202)云とありて延喜式日部驛蓋是なり○姓氏録和泉國諸蕃取石造出v自2百済國人麻意禰1也。此|麻意彌《ヲオミ》は日根造祖|億富使主《オホオミ》と同人にして根使主《ネノオミ》即其族人なり。根使主罪ありて其子孫収められて日下部の御名代《ミナシロ》と爲る事河内國日下の條に詳にす。因て惟ふに此地舊名取石なるを日部に改められたる也
といへるは著者に似合はぬ論である。まづ明治二十二年に富木《トノキ》・士生《ハブ》・新家《シンケ》・大園・綾井の五村を合併した時に其新村に取石と名づげたのは大字士生に其部落の東北に(即新村の東偏に)取石池があるからであるが、その取石池の名は池の南なる舞村(今信太村の大字)の舊名取石から起つたのである(和泉志参照)。地名辭書に取石を日部の舊名とせる理由は
 姓氏録に見えたる取石造の祖|麻意禰《ヲオミ》は同書の日根造の祖|儀富使手《オホオミ》と同人である。さうして安康天皇紀に見えたる根使主《ネノオミ》は麻意彌の族人である。根使主雄略天皇十四年に罪ありて誅せられ其子孫は二分して其一分は大草香部の民とせられた。かかれば取石は日部(クサカベ)の舊名である
といふのであるが、之を論破するには少からず紙を費すであらうから今はただ(203)取石造の祖麻意彌と日根造の祖億富使主とが同人ならざる事と、根使主が麻意彌の族人ならざる事とを明にしておかう。比二事が明になれば地名辭書の説は根柢から崩れるからである。まづ辭書の著者は麻意彌をヲオミと訓んで億富使主即オホオミと同人として居るのであるが麻意彌は訂正本にも考證本にも阿麻意彌とあり又億富使主は億斯富使主とある。さらばアマオミとよみオシホノオミ(又はオシフノオミ)とよむべきである。しばらく阿と斯とを衍字と認めよう。又オホオミは大使主でそのオホは上古には単にオと云うたからオホオミをオオミとして見よう。然も麻意彌をヲオミと訓まんにそのヲは訓である。上古には人名を書くに音訓を交へては書かなかつだが姓氏録は平安朝初期の物であるからさういふ取外しがあつたものとも認めようがヲオミとオオミと假字の同じからざるは如何。次に阿麻意彌は百済國人、億斯富使主は新羅國人なるは如何。阿麻意彌と億斯富使主とは断じて同人では無い。第二に根使主は武内宿禰の裔で皇別である。蕃別では無い。されば根使主は断じて取る石造又は日根造の同族では無い。かくの如くなれば地名辭書の説は著者の一失錯である。次に大阪府全志(204)巻之五取石村大字土生の條に
 取石池は東北にあり。東西壹百拾參間南北壹百四拾五間、周回八町參拾六間〔八字傍点〕にして本地附近八大字の立會持なり
といひ又信太村大字舞の條に
 所石頓宮のありし所なり。所石はトロシにて取石の文字の換へられたるものなるべく和泉志にもトロシと訓ぜり
と云うて居る。續紀流布本に所石とあるは取石を誤れるなる事上に云へる如くである。次に泉北史蹟志料と大阪府史蹟名勝天然記念物第四冊とを引くべきであるが乙の内の泉北郡の執筆者は即甲の編纂者であるから重複を避げて主として後出の乙を引かんに
 取石池 取石村大字土生
 取石池もと鳥石池〔三字傍点〕に作る。小栗街道の東側にあり。池の彼岸(○東方及南方)は信太村なるを以て舊志に或は信太村にありとなす。周圍十二町餘〔六字傍点〕、面積一萬六千四百七十坪(205)とある。池の廣袤は村役場諷査に據つたのである。モト鳥石池ニ作ルといへるは和泉國地誌に基づいたのであるが、たやすくは信ぜられぬ(同書にいへる廣袤も)。史蹟志料には村役場調査と標して
 取石池又茅渟大池〔四字傍点〕トイフ(○いかが)。……富木綾井荘・高石村等ニ灌漑ス
と云うて居る。富木・綾井は今の取石村の内で、高石村即今の高石町は取石村の西隣である。史蹟名勝天然記念物には又
 取石頓宮址 取石村
 今の取石村の邊なるべし。この邊は頓宮を設くべき勝地なりと古人(○泉州志)も説きたり。取石池の北方等乃伎神社の邊なるべしなどいふは推量りて言ふのみ。因りて思ふに當時の紀州道は今の小栗街道なれば取石頓宮はこの道筋に在りしなるべく従つて古の取石池もこの街道附近に求むるが至當なるべし
と云うて居る。頓宮址を池の北方なる等乃伎神社の附近に擬せるは取石村役場調査に見えたる説にて池南の舞村なりと云へる和泉志の説とは正反對である。(206)史蹟名勝天然記念物にはトノキ説を斥けながら取石村として居るがマヒといふ説に從へば信太村とせねばならぬ。もし舞舊名取石といふ和泉志の説が確實ならば頓宮址は今の信太村大字舞とすべきである
さて垂仁天皇紀三十五年に
 秋九月五十瓊敷《イニシキ》命ヲ河内國ニ遣シテ高石《タカシ》池・茅渟池ヲ作リタマフ
とある。河内國といへるは追記であるが和泉は河内ともと一國であつたのである。イニシキノ命は天皇の御長子であらせられる。泉州志に右の高石池を取石池の一名として
 余按ズルニ取石池ノ前號ナリ。取石池ハ今和泉郡信太郷ニ在リ。此時郡郷未分レズ。故ニ高石池ト曰ヘルナリ。取石ノ池水今尚綾井・高石ノ田地ニ引取ス。是其先蹤ヲ逐ヘルナリ。五十瓊敷命同時ニ高石池及茅渟池ヲ作ル。茅渟池ハ日根郡ニ在り。二池共ニ海道ノ東側ニ在リテ形相似タリ
と云うて居る。綾井・高石は今の取石村及高石町である。和泉志も亦高石池即取石池として
(207) 按ズルニ垂仁紀ニ高石池ヲ作ルト曰ヒテ取石ト曰ハズ。蓋高石ハ總號、取石ハ細目ナルヲ是《ココ》ニハ總ヲ擧ゲテ目ヲ略セルノミ
と云うて居る。即高石を大名、取石を小名とし取石を高石の内の一地域の稱として居るのである。取石池の在る地域は近古の高石荘即今の高石町と相接して其間に天然の境界が無いから和泉志の説の如くでもあらう。取石池の名が萬葉集に見えて國史に見えざるを思へば或は本名は高石池なるを取石頓宮御駐輦の時從駕の人が目前に展開せる池をその本名を正さすして仮に取石池と呼んだのかも知れぬ
小栗街道を父鬼街道との分岐點を起點として半里ばかり南南西に走ると道の左に接して大きな池がある。これが即取石池である。其北端に父鬼街道に通ずる村道があり、その村道の北に接して村道と縣道との作れる隅角に又一小池がある。恐らくは比小池はもと取石池の一部分であつたのが池を横ぎつて村道を作つた爲に親池から分れて獨立したのであらう。一昨年五月和歌山から阪和電鐵で大阪へ歸つた時に一行中の一人(日比野道男君)が車中から東方を指して「取石(208)池は此上です」と云うた。それが耳に留まつてゐたから二年を經たる五月四日に出發して物ずきにも其池を見に行いたのである。其歸に淺香山も見に行くつもりであつたが時間が不足になつたから残念ながら立寄らなかつた。然し地理は大抵分って居るから附録として次回に記述して見よう。さうしてこの冗長なる一篇をとぢめよう(昭和十年六月一日草)
 
    取石池及淺香浦 五
 
萬葉集卷二なる弓削皇子思2紀皇女1御歌四皆の中に
 ゆふさらばしほみち來なむ住吉乃淺香乃浦に玉藻かりてな
といふ歌がある。されば攝津國住吉の内に淺香浦といふ處があつたのである。又卷八に
 時まちて落鐘禮之雨令零收朝香山之もみぢしぬらむ
といふ市原王の歌がある。二三の句の訓は從來一定して居らず又いづれに従う(209)ても穏で無い。余はまづ朝香山者とあらで朝香山之とあるを手がかりとして本來旋頭歌なるが一句脱落して短歌の如き形となれるなりと認めて今日毛可聞といふ一句を補ひ又令を衍字として
 時まちてふりししぐれの雨ふりやみぬ、けふもかも朝香の山のもみぢしぬらむ
と訓んだ(新考一五八四頁參照)。古義の説にこの朝香山も住吉の内であらうと云ふ。近頃までも淺香山といふ村名が傳はつて居たが、その淺香山村は寶永元年に新大和川を掘割つた時に住吉郡の大部分と離れて河南となり又明治四年九月に新大和川の中央を攝津和泉の國界と定めたから爾來和泉國大鳥郡(後の泉北郡)に属して居る。されば此地の事をしらべるには明治初年以前のものでは攝津の地方誌に據らねぼならぬ。即攝津志住吉郡村里の下に
 淺香・七道・萬屋新田(淺香以下今無2民居1)
とあり、同山川の下に
 淺香丘《ヤマ》 在2船堂村1。林木緑茂、迎v春霞香。酉臨2滄溟1。遊賞之地
(210)とあり、攝津名所圖會卷之一住吉郡の部に
 淺香丘《ヤマ》 船堂村にあり。林木蒼々として春色佳也。又秋は草の花繁く菌生じて近隣遊宴の地也。西は滄溟洋々として風景斜ならず
 稲荷祠 淺香山にあり。此地の生土神とす、例祭八月十八日
 淺香浦 淺香丘の西の海をいふ云々
とある。淺香丘の西の海といへるは實地を知らずして云うたのであらう。淺香山の属せる五箇荘の西に堺の東郊(明治年間の向井村、後向井町)あり又其西に堺の北荘あり又其西に堺西郊の新田明治大正間の三寶村あるを此等を無視して淺香丘の西の海と云はれようや。大日本地名辭書和泉國泉北郡の部には
 淺香 今五筒荘村と稱す。向井村の東に接す。往時住吉郡|大羅《オホヨサミ》郷の地なり。新大和川疏通以來地勢變ず。淺香浦は後世地形變じ今此名なし。蓋堺北荘の西なる三寶村の地、古は海※[さんずい+彎]に属す。淺香浦此に外ならず。ユフサレバシホミチ來ナムスミノエノ淺香ノ浦ニ玉藻カリテナ。萬葉集の當時潮汐の干満ありし江※[さんずい+彎]なれば今の遠里小野《ヲリヲノ》の低地即大和川の邊に淺水ありしと思はる
(211)と云うて細川両家記から「享禄五年八月云々境の東にあさかの道場〔六字傍点〕とてあるを云々」といふ文を引いて居る。三寶村(今は堺市の内)が陸地となつたのは近古の事である。正保國圖には堺の町の西に巾狭き空間を存ぜるに過ぎぬ。さてその和泉國圖には大小路《オホセウヂ》の西端の處に砂濱遠淺と記し攝津國圖には堺町攝州分(即北荘)の西に
 堺之濱地より沖へ六町程淺。但地際少深。鹽干侯へば小三尺、鹽のたゝへに四五尺。其より沖次第に深。沖中は四尋五尋。水ぞこ砂。六町より内へ大舟不着。片濱にて舟掛り惡
と記してある。此遠淺が漸次隆起して陸地となつたのである。さうして其地に新田を開いたのは僅に一百七八十年の前即寶暦年間である。奈良朝時代には北荘の大部分は海底であつたらう。堺の町はすべて平坦で丘陵あるは其東郊である。地名辭書に「今の遠里小野の低地即大和川の邊に淺水ありしと思はる」と云へるは前引の歌と無關係なる言で不可解であるが或は萬葉集卷二なるユフサレバシホ ミチ來ナムといふ歌と卷七なる墨吉之淺澤小野ノカキツバタ衣ニスリツ(212)ケキム日シラズモといふ歌とを混同したのであるまいか
淺香山村は初は淺香村であつたが(元禄十四年開板の攝陽群談に「淺香村、或は淺香山村と稱す」とある)いつの頃からか淺香山村といふやうになつた。これは村内に淺香山があるからであらう。さて村名と別たん爲にや山を狐塚又は狐山というた。此村の事大阪府志には處々(二四〇、二四一、二四二、二七一、二七五、二七七頁)に見えて居るがそれを原文のままに引くと長くもなり讀むにも煩はしからうから今は之を抄録せんに本村は寶永元年に新大和川を掘割る時に全部川敷となる筈であつたが怪しき事があつたので迷信に依つて豫定を變更して川筋を北方なる杉本・山内《ヤマノウチ》二村の方に附替へる事になり其代に本村を土砂捨場とした。それに由りて本村は耕地の凡三分二を失うた。明治四年九月に淺香山・流作新田等十六村と共に攝津國住吉郡より和泉國大鳥郡(後の泉北郡の内)に移管せられ同八年五月に流作新田と合併せられた。同二十二年四月町村制實施の時本村外七箇村を合併して五箇荘村と名づけた。其地が多くは古の五箇荘の内であるからである。以上が府志の記述の大意である。近頃堺市に編入したが淺香山町といふ(213)名を殘したのは心ある業である。淺香山町は今の堺市の東北端にある。淺香山即狐山は二三の古圖(たとへば全堺詳志附圖・寛政十年刊行堺繪圖)に描いてある。但これは萬葉集の名所であるからと云ふ許ではあるまい。此山の南麓に名高い稲荷神社があるからでもあらう。今對岸に大阪市住吉区淺香町といふ町があるが、これは舊東成郡(の内舊住吉郡)依羅《ヨサミ》村大字杉本新田を近年改稱したので、舊淺香山村の内では無い。後世に至つて誤を生ずる恐があるから断つて置く
さて萬葉集巻七に見えたる朝香山がもし住吉の内ならば右に述べた淺香山であらうが卷二の淺香浦は今のどこであらうか。上に云へる如く近古の堺の北荘の大部分は奈良朝時代には海底であつたであらうから當時の渚即淺香浦は近古の堺の東部又は東郊向井町附近であらう(向井町は大正の末に堺市に合併せられた)。無論上古に淺香と云うた地は近古の淺香山村の如き狭い地では無く略近古の五箇荘に當るであらう
余が一讀又は一見した和泉國の地誌は我南天荘第一文庫にあるものだげで極めて貧弱ではあるが後の研究者の爲にこれだけでも書留めておかう
(214) 堺鑑 衣笠一閑著。貞享元年刊行。浪速叢書第十三所収
 泉州志 石橋直之著。元禄庚辰(十三年)の自序あり。大日本地誌大系第十八巻所収
 和泉志 關祖衡纂輯。享保丙辰(〇二十一年)所※[金+雋]。地誌大系第十八巻及日本古典全集所収五畿内志の内
 全堺詳志 高志氏兄弟著。寶暦七年脱稿。浪速叢書第十三所収
 和泉名所圖會 美濃紙判四冊。秋里籬島著、竹原春朝齋畫。寛政八年春新刻
 曰本地誌提要第一冊 洋装菊判。地誌課編纂。明治七年新刊
 日本地理志料第二本 半紙判。村岡良弼氏著
 大日本地名辭書
 大阪府全志卷之五 菊判洋装。井上正雄氏著。大正十一年發行
 泉北史蹟志料 美濃紙判二冊。大正十二年泉北郡役所發行
 大阪府史蹟名勝天然記念物第四冊 菊判假装〇昭和四年大阪府學務部發行。岸和田市・泉南郡・泉北郡を記述せり
(215) 同 第五冊 昭和六年發行。大阪市と共に堺市を記述せり
 和泉(日本國誌資料叢書) 四六判洋装一冊。太田亮氏著。大正十四年發行
 和泉國正保圖 一葉
 堺市史 菊判八冊。自昭和四年三月至同六年三月堺市役所發行
 和泉國村々名所舊跡付 美濃紙半截本。延賓九年記録。昭和十一年三月和泉郷土文庫發行
   ○後の二書は本文草了後に入手せしなり
右の内大阪府全志は珍重すべき書なり。聞く所に依れば著者井上正雄氏は本書五冊著作發行の爲に産を破り又身を喪ひきと云ふ。著作家には此熱なかるべからず。然も此殃あるべからず。茲に著者に對して謹みて弔意を表す(昭和十年六月十三日夜草)
 
(216)    梧桐孫枝
 
萬葉集卷五に
 梧桐日本琴一面(對馬|結石《ユヒシ》山孫枝)
とある。余は新考(八七五頁)に
 孫枝は文選※[禾+(尤/山)]康の琴賦に見えたるに據れるまでにて眞のヒコエにはあらじ
と云うておいた。文選の※[禾+(尤/山)]叔夜琴賦に乃|※[劉の金が亞]《キリテ》2孫枝1准2量所如1v任《モチフル》とあつて李善註に
 鄭玄周禮注曰。孫、竹之根未v生者也。蓋桐孫亦然
とあるが桐の根で琴を作る事はあるまい。されば竹の根を孫といふとも桐孫は根ではあるまい。又張銑註に孫枝側生枝也とあるが側生ならざる枝はあるまい。かくの如く兩註共に從はれぬから余は孫枝を子枝の子枝と認めてヒコエと譯しておいたのである。又旅人の琴は對馬結石山の桐の眞の孫枝にて作つたのでは無くて孫枝といへるはただ琴賦中の語に據れるまでなるべき事は今も信じ(217)て疑はぬ所であるが何故に琴賦に※[劉の金が亞]孫枝とあるか、即何故に琴を作るに孫枝を好むか、といふ事に就いては知る所が無かつた。然るに此比蘇長公小品(蘇東坡の小品文)を讀みしに其卷四に琴貴2桐孫1とあつて
 凡木本寔而末虚。惟桐反之。試取小枝削、皆堅實如蝋而其本皆中虚空。故世所以貴孫枝者貴其實也。實故絲中有木聲
 凡木ハ本寔ニシテ末虚ナリ。惟《タダ》】桐ハ之ニ反セリ。試ニ小技ヲ取リテ削ルニ皆堅實ナルコト蝋ノ如シ。而ルニ其本ハ皆中虚虚ナリ。故ニ世ニ孫枝ヲ貴ブ所以ハソノ實ナルヲ貴ブナリ。實ナルガ故ニ絲中ニ木聲アルナリ
とある。寔は音シヨク。義は實に同じい。琴匠に聞いて見ぬとまだ通ぜぬ所があるが一段知識が進められたやうなここちがするから、ともかくも報告しておく(昭和十年五月十八日)
 
(218)    得名津
 
萬葉集卷三に
 墨吉乃得名津にたちてみわたせばむこの泊ゆいづるふな人
といふ歌がある。その津に立つて西北方を見渡したさまである(新考三八九頁参照)。得名津の址は分つて居らぬ。茲に和名抄攝津國住吉郡の郷名に
 住道(須無知)大羅(於保與佐美)枕全(久末多)餘戸・榎津(以奈豆)
とある。高山寺本には餘部が無くて四郷である。餘部《アマリベ》は不完全なる郷であるから、いづれにしても完全なる郷は四である。榎津の訓註は日本地理志料に云へる如く衣奈豆の誤であらう。高山寺本には江奈都とあるが訓註といへども音訓を交へ書くは快くないから少くとも民部省の原本には衣奈豆又は衣奈都とあつたのであらう。さてエナツといふ郷名はエナ津といふ津名から起つたので、エナツ郷は廣い地域の稱、エナ津はその郷中の一地域の稱であらうから、まづエナツ郷(219)の位置を考へて見よう。彼(餘部郷を除きたる)四郷の中で住道《スムチ》郷は次の枕全《クマタ》郷の南方で後に河内國丹北郡に轉属せられた。殘れる三郷の中で枕全郷は後の平野郷で郡の東部に在つた。其西南が大羅《オホヨサミ》郷で東西に長い地域で、寶永元年以後は新大和川の南北に亙つて居た。又其西なるが即海に沿へるが榎津郷で、北は住吉から南は堺町の北荘に至つた。堺鑑中巻に
 朴津郷 此所ハ北(ノ)橋東ノ野邊也ト云傳ヘリ。又天神記録ニハ北荘住吉郡朴津郷トアリ
とある。朴は榎である。日本紀には専此字を使うて居る。天神は天神宮即今の堺市戎之町東一町なる菅原神社(舊堺市にては南荘の開口《アクチ》神社と相たぐひて堺の二大社と稱せられし)である。次に攝陽群談(元緑十四年開板、大日本地誌大系第二十五卷所収)に
 敷津、住吉郡住吉に屬す。朴津、方角右に同じ
とある。少し曖昧であるが朴津も住吉に属せりといふ意であらう。次に攝津志(享保二十年新※[金+雋]〉に
(220) 榎津 已廢。存2杉本住吉二村1
とあるは失考である。本郷は後の新大和川の北に止まらず後の河南なる堺町北荘並に其東郊に亙つたのである。又杉本は恐らくは大羅郷の内であらう。次に全堺詳志上巻常樂寺の條に
 住吉社家ノ舊説ニハ朴津ハ今ノ遠里小野《ヲリヲノ》ノ南ニアツテ方達天王ナド皆其郷内ナリトアレバ云々
とある。遠里小野は新大和川の掘割によつて横断せられ後に攝津國東成郡墨江村の一大字(今の大阪市住吉區遠里小野町)と和泉國泉北郡向井町の大字(今の堺市遠里小野町)とに分れた。否一部分は新大和川の川床となつた。方違天王は二社の名で方違は今の方違神社、天王は舊向井神社(今は前者に合祀せり)で共に舊向井町大字中筋にあり舊堺市の東郊に在る。次に攝津名所圖會卷之一住吉郡遠里小野村の處(五十四丁裏)に
 朴津 遠里小野の南朴津谷又朴津寺の舊跡に礎あり。住吉社説曰。住吉六郷の其一也。中古朴津村東に移りて今は名のみ殘りて村民なし。朴津より海潮を眺(221)むれば風色眞妙也。故に朴津の海と賞美して古詠あり
とある。遠里小野の南云々といへると、名のみ残れる朴津村と果して同處にやおぼつかない。ともかくも之を見ると名所圖會の出來た寛政年間に住民こそ無けれ朴津村といふ村があつたやうであるが是より先に享保年間に出來た攝津志の住吉郡村里の部にエナツといふ村名は無い。然し元禄年間に成つた攝陽群談に據るとエナツといふ村名こそはやく絶えたがエナツといふ字は近古まで住吉附近に残つて居たやうである。次に日本地理志料に
 常樂寺ハ堺ノ北荘戎町ニ在リ。寺記ニ云ハク。此地即榎津郷也ト
とある。常樂寺は彼天神宮の宮寺であつたが明治の初神佛分離の時に廢絶した。ここに云へる常樂寺記は即堺鑑に云へる天神記録である、以上を通覧するにエナツを住吉とせると、遠里小野の南とせると、堺町の北荘とせると三説があつて一致せぬやうに見えるが寶は必しも相背いて居らぬ。住吉も、遠里小野の南も、堺の北荘も皆いにしへの榎津郷の内であるからである。かやうに榎津郷の範囲は略分つたがエナ津の地はまだ分らぬ。エナ津の址を推定すべき唯一の資料は明(222)治十年に發見せられた住吉神社神代記に同社齋垣の四至を擧げて
 限東驛路 限南朴津水門〔四字傍点〕 西海棹及限 限北住道郷
と云へる事である。
 ○此神代記は天平三年の解としてあるが不審な處が無いでも無いから少くとも後人の加筆がありはせぬか深く考へて見なければならぬ。限東・限南・限北は東限・南限・北限と改めて見るがよい。さて東限と北限と顛倒して居るのでは無いか
此四至は同書の別處にも出て居るが、それには限南墨江とあるから朴津水門《エナツノミナト》は即墨江であらねばならぬ。思ふにスミノ江に廣狭二義があつて、狭くは朴津水門をスミノ江と稱したのであらう。さて廣義のスミノ江は北は出見漬から
 ○萬葉集卷七にスミノエノ出見ノ濱ノ柴ナカリソネ、ヲトメラガ赤裳ノスソノヌレテユカム見ム とあり
南は淺香浦に達したと思はれる。又住吉神社の四至は略住吉郡を極めたと思はれる。然るに右の如く南ハ朴津ノ水門ヲ限ルといへるを見ればエナ津といふ船(223)附即水門はスミノ江の南端又住吉郡の南端即後の堺町北荘の東部〔七字傍点〕に在つたと思はれる。エナ津の名義は地理志料に蓋江之津之義と云うて居る。ノがナに轉じたるはミナト(水之門)ウナバラ(海之原)ワタナベ(渡之邊)カムナビ(神之邊)ナナコ(魚之子)カナメ(蟹之目)などと同例である。又津は後世のフナツキであるから、もし江之津の義ならば入江の奥に船附があつたであらう。然し武歳國|男衾《ヲブスマ》郡の郷名衣奈都も榎津と書けるを思ひ又筑後國|三瀦《ミヌマ》郡大川町に榎津と書いてエノキツと唱ふる大字あるを思ひ又萬葉集に見えたる地名にイチヒ津あり又諸國に梅津・桑津・椎津などいふ地名のあるを思へばやはり字の如き義で、津頭に榎の大木があつた爲に名を得たのかも知れぬ(昭和十年六月十六日稿)
 
(224)    妹之島形見之浦 上
 
萬葉集卷七なる覊旅作の中に
 藻かり舟おきこぎくらし妹之鳥形見之浦にたづかける見ゆ
といふ歌がある。オキコギクラシは沖ヨリ漕來ルラシといふ事、その下にソレニ驚キヌト見エテといふ辭を補ひて見るがよい。難解なるは妹之鳥形見之浦爾といふ第三第四の句である。余は新考(一三〇七頁)に
 妹之島形見之浦と二つの地名を並べ擧げたる相互の關係は如何。妹之島ト形見之浦トといふ意か。妹之島ナル形見之浦といふ意か。按ずるに妹之島と形見之浦と相近き二つの地の、名の上にても縁なきにあらねば(妹が形見といふやうに聞えて)妹之島を形見之浦の枕のやうにつかへるにて鶴の翔るは形見之浦なり。されば妹之島の五言は準枕辭と認むべし。古今集賀部なるかのシホノ山サシデノイソニナク千鳥といふも今と同例なり
(225)と云うておいた。妹之島は從來イモガシマとよんで居るが之はノとよむが普通で、ガとよむは特殊の場令に限り然も今は特にガとよむべき理由が無いからイモノシマとよむがよからう。さて妹ノ島とカタミノ浦とは何處であるか。まづ代匠記に
 八雲御抄に妹之鳥形見の浦ともに紀伊と注せさせ給へり
とのみいひ、次に略解に
 かたみの浦、神名帳紀伊名草郡堅眞神社あり。是歟。妹が島も同じ所なるべし
といひ、次に古義の附録なる名處考にも
 神名帳に紀伊國名草郡堅眞神社あり。形見は其地なるべし。さらば妹之島も名草郡にあるなるべし
と云うて居る。神名帳には名草郡堅眞神社とこそあれ。堅眞とあるは、即音字無きは其一本と三代實録とにこそあれ。否實録にも三處の内一處は音字あり。又否他の二處も異本には音字がある。此堅眞音神社は即國内神名帳の正一位有馬音大神と同一であらうといひ、其訓も不明で或はカタマオトとよみ或はカタマネ(226)と訓んで居るが、カタマノオトと訓むべきであらう。カタマといふ地名は殘つて居らぬが堅眞音神社址といふ地の附近にオトラ(音浦)といふ地名はあると云ふ。紀伊續風土記卷之十二名草郡|神宮《カウノミヤ》上郷鳴神村(今の海草郡嶋神村の下に
 堅眞音神 鳴神山の麓村の丑方七町許にあり。社今廢す。碑を建て堅眞音神享保甲辰の八字を雕む。……此地は古の有眞郷の地なり。音も赤地名なり
と云うて居る。鳴海村は日前《ヒノクマ》神宮の東方であるから海からは遠い。ともかくも形見之浦を堅眞音神社の所在地に擬するは音が似て居ると云ふ外には何の理由も無い。されば略解古義の説にはもはや止を刺してよからう。轉じて地方誌を檢するにまづ文化八年に發行した紀伊國名所圖會第一集三之卷下|海士《アマ》郡の部(二十六丁)に
 形見浦 古へは奈儀佐郡(○名草郡)なりしが今海部郡に属せり。世俗ここを加太の浦といへり。誤也。加太は驛の名にしてむかし是より五六丁東なる山の麓にありし也。此地はもと海中にて潮干には遠干潟となれる所也。ここをもつて潟海《カタミ》また潟海浦ともいひて日本三筒の退潮の名所とす
(227)と云うて居る。形見浦は即加太の海岸であらう。世俗に加太の浦といふを誤としカタミの名義を潟海とせるは中々に誤であらう〕加太は今カダと濁つて唱ふるのみならず古書に加太・賀太・賀多・蚊田の外に賀陀とも書いてあるから昔からカダと濁つたやうに思はれるが、もとはカタと清んだのであらう。さうして其名義は潟であらう。太は古書に清にも濁にも充てて居る。又陀は漢音タ(清)である。さてカタミはカタが地名となつてからそれにミを添へたのであらう。そのミはやがてイソミ・ウラミ・ミサキミ・シマミなどのミで囘の意である。或は普通名詞にこそミを添ふれ、地名にミを添ふる事は無いと難ぜられるかも知れぬが萬葉集卷六に千沼囘《チヌミ》ヨリ雨ゾフリクルといへる歌がある。千沼囘は即茅渟囘で和泉國の地名|茅渟《チヌ》にミを添へたので、適に加太にミを添へてカタミと云へると同例である。さてカタミノ浦と云へるはそのカタミが更に地名のやうになつたのである。さらではカタノ浦ミと云ふべきであるからである。或は當時といへども土人はカタミとは云はなかつたのを妹ノカタミとひびかせん爲に強ひてカタミノ浦と云うたのかも知れぬ。背の山に對せしめん爲に妹の山といふ名を作り出したり(228)猿の俗稱をマシとこそ云へマシラとは云はぬをワビシラに叶へん爲にワビシラニマシラナ啼キソとよめるなどを思ふと古人は意外に放恣であつたやうである。ともかくも加太は形見の略稱では無い。又同書同條に
 沖の方二三里に二つの嶋あり。此二嶋は粟嶋の次下に出す。南なるを沖の嶋、北なるを地嶋といふ。沖の嶋の瀬戸を西の渡(また由良の渡ともいふ)地のしまと沖の嶋の間を中渡《ナカト》といふ。
 ○ナカトと傍訓したるを見れば、即然唱へしを思へば渡は門の借字である。他國にもセトの古語なるトの残れるに渡字を充てたる例がある
また北なる地潟(○地方)に近きを牛が首の瀬戸といふ(大坂および堺の津より泉州路を乗り兵庫より淡路の地潟を乘る船、春はこの瀬戸を船路とし冬は西の渡を船渡《セント》とする也)
といひ又同書同卷(三十三丁)に
 友が嶋 また鞆がしまとも。土俗これを※[草冠/占]がしまといへり。古名妹がしま○新田《シンデン》○加太付の南部の旅店より西南にのぞむところのしまをいふ。地しま沖の(229)しまの外に神嶋を加へてすべて三嶋なり
といひ寛政十年に紀藩の文學川合春川が藩侯の命によつて書いた友嶋記を譯述して居る。その原文も同書(二十八丁以下)に出て居る。志ある人は讀んで見らるるがよい。其中に神功皇后が船で此處を御通りになつた時風浪が強くて難儀したまうたが船の苫を取つて海に投げて其行方に従うて神島に著きたまうたと云ひ、さて
 島ニ少彦名ノ祠アリ。后喜ビ以テ神ノ護ル所トシ其地ニ名ヅケテ苫島ト曰フ。後或ハ鞆島トシ又友島トス。蓋方言ヲ以テ相轉ズルナリ。ソノ妹島ト曰フハ亦神后ヲ以テ之ヲ謂フカ
と云うて居るが神功皇后の御事は無論信ぜられぬ。思ふに二島が相並んで居るから友島と名づけたので、鞆島は其擬字、苫島は其轉訛であらう。同じ文の初の處に發2舟牛渚1直達2友島1とある牛渚が心得難いがこれは牛ガ首ノセトを漢めかすべく彼後漢書・三國志以下に見えて史上に有名なる揚子江岸の牛渚山の名を借りたので、阿波の鳴門を尾閭と云へる類で、漢學者流の例の惡いシヤレであらう。
(230) 〇ついでに云はうが尾閭は荘子秋水篇に天下之水莫大於海、萬川歸之不知何時止而不盈、尾閭泄之不知何時已而不虚(天下ノ水海ヨリ大ナルハ莫シ。萬川ノ之ニ歸スル、イヅレノ時ニ止ムトモ知ラレザレド而モ盈タズ。尾閭ノ之ヲ泄ス、イヅレノ時ニ已ムトモ知ラレザレド而モ虚《ツ》キズ)と見えて海底なる水のはけ口である。今俗語に物の果をビリといふは此尾閭の訛であらう
又同じ文の中に
 島三斷シテ浮ベリ。地島ト曰ヒ沖島ト曰ヒ神島卜曰フ。之ヲ地島ト謂フハ海岸ヲ距ルコト遠カラサルヲ以テナリ。……地島沖島、張翼ノ勢ヲ爲シ雙眉ノ若ク然リ。神島西南ニ側居シテ眉上ノ一點ヲ爲ス云々
と云うて居る(以上昭和十年六月二十五日草)
 
    妹之島形見之浦 下 附飽浦濱
 
次に紀伊續風土記卷之二十三|海部《アマ》郡加太莊加太村の條(刊行本第一輯五一〇頁)
(231)に
 加太浦、古歌には皆形見浦といふ。加太・形見唱へは異なれども同義にして形見は本名ならん。潟海の義にて遠干潟の地をいふなり。
  牟婁郡に賀田村あり。地形當村と相似たり。又當郡に方村あり。地形亦同じ然るに下の見を略し音便に從ひて濁音に呼て加太と唱ふるか。或はいふ。加太・形見皆偏海の義にして今俗にいふ片濱の事なり(○對岸なきを片濱といふ)。或はいふ。加太は應神天皇頓宮の地なれば筑前蚊田の地名を移せるなりと。いづれか是なるを知らず。……古は村居は今の村より五六町東にありて今の村地は海中にして……後世沙土、海を填め遠干潟となりしより村居を今の地に移ししなり。……村の南北兩端は礒なり。正西は砂濱なり
など云うて居る。加太が形見の略ならず従つて形見が本名ならざる事又カタミの名義が潟海にはあらざるべき事は上に云へる如くである。又同書同卷(刊行本五二〇頁)に
 友島《トモガシマ》 加太浦の西、海上を隔る事一里半許二島あり。東北の方なるを地島とい(232)ふ。長さ一里半、高き所にて打越九町といふ。西南の方なるを沖島といふ。長二里餘、高き所にて打越十三町許といふ。加太浦西北の出埼を城《シロ》埼といふ。これ葛城峯續き海に入りて盡る所なり。
  ○大和河内の界なる葛城山脈の屈曲して北は河内和泉と南は紀伊とを界せるを云ふ。紀伊にては北山ともいふ
 其西の方、海を隔る事二十餘町にして地島あり。地島の西南五町許にして沖島あり。二島を併せて友ケ島の名あり。海中の離れ島なれども其實は葛城の山脉茲に續き海に入て絶るが如くにして復起る者なり。故に役《エノ》小角、葛城を開くに沖島を似て開首とせり。友島、日本後紀伴島と書けり(天長二年八月二十八日見2慶雲〔三字左△〕於紀伊國海部郡加太〔二字左△〕村伴島上1とある是なり)。又妹島といふ。古人の歌には多く妹島とよめり。皆雙島相連るを以て名くるなり。……西の方沖島を離れて小島一あり。これを神島といふ。周回四町半。土人|小島出《チシマデ》といふ云々
と云うて居る。日本後紀の天長元年正月から十年二月までは闕けて傳はらぬが類聚國史に據れば慶雲が賀多村に見えたのは天長三〔右△〕年である。即同書祥瑞部な(233)天長三年十二月の右大臣藤原緒嗣等の奏言中に又紀伊國守從五位下占野王等奏※[人偏+稱の旁]。去八月廿八日慶雲見〔三字右△〕2於海部郡賀多〔二字右△〕村伴嶋上1とある。伴島はトモシマとよむべきであらう。ガを挿みてトモガシマと唱ふるは後世の事であらう。ともかくもトモガ島はヂノ島オキノ島の二島に亙る稱で兩島が相伴なうて居るから然名づけたのである。されば友島又は伴島が正字である。前にも云うた通り鞆島は擬字、トマガ島といふのは輯訛で、神功皇后が御船の苫を取つて海に投入れたまうたから苫島といふと云へる粟島大明神の社家の説は傅會妄誕である。さて「古人の歌には多く妹島とよめり」と云うて居るが、これは萬葉集卷七に見えたる歌が原で、後の歌は皆それに倣うたのであるから多からうが少からうが問題にはならぬ。さてその妹島を從來友島の一名として居るがつらつら思ふにさうではあるまい。二島が相ともなかながら一は大一は小であるから西南なる大者をセノ島(又はセジマ)と稱し東北なる小者をイモノ島(又はイモジマ)と稱し二者を併稱してトモ島と云ひしにセノ島の稱は夙く失せ又トモ島はガを挿みてトモガ島と唱へらるる事となつたのであらう。友島こそあれ、妹島などいふ名は二島を(234)併稱するに不適當なるを思ふがよい。續風土記には「雙島相つらなるを以て名くるなり」と云うて居るが、それならば妹背の島と云はねばならぬ。されば萬葉集巻七なる妹之島は今の紀伊國海草郡加太町の地先なる地の島・沖の島の併稱即トモガ島の別稱では無くて地の鳥の古名である。なほ云はんに沖の島に附きたる所謂眉上の黒子に似たる神島は古は又子ノシマ(又はコジマ)とも云うたであらう。之を神島といふはスクナヒコナノ神がましました爲で、其神社ははやく地方なる加太村の西南端に移された。延喜式神名帳に名草郡加太神社といひ本國神名帳に海部郡粟島大神といひ世に粟島大明神(又書淡島)といふが即是である。
 ○このアハ島を神島の古名なるが如く思へる人もあるが(たとへば日本書紀通釋)古事記神代卷に二尊が淡道島を生みたまふ處の前に
 生2子水蛭子1。此子者入2葦船1而流去。次生2淡嶋〔二字傍点〕1。是亦不v入2子之例1
といひ又仁徳天皇の段に淡道島にいでましての御製に
 おしてるや、なにはのさきよ、いでたちて、わがくにみれば、阿波志摩、おのごろじま、あぢまさのしまもみゆ、さけつしまみゆ
(235)とあるを見ればアハ島は友島の總名である。即友島を古くはアハ島と云うたのである。此事は余の創見では無い。古くからあつた説と見えるが先には鈴木重胤が云か近くは地名辭書にも云うて居る。但、重胤はかの萬葉集に多く見えて古、淡路の西北の海中にあつたと思はれる粟島と混同して居る
さて延書式に名草郡とあるに國内神名帳に海部郡とあるは初は名草郡内であつたが後に海部民族が次々に士著した為に名草・在田・日高三郡の縁海の地を割いて海部郡といふ地域連續せざる一郡が立てられ其結果として加太村は海部郡に入つたからであるが、それに就いて續風土記同卷(第一輯五一二頁)に
 その海部郡をおかれし事何れの時なる事は詳ならざれども延喜以前なる事は明なり。然れば延喜式にも海部郡にしるさるべきに元の郡名を擧て名草郡としるされしは古語拾遺に天平年中勘2造神籍1とあれば此時當社、神籍に載せられ海部郡を置かれしも大抵其頃の事にして
 海部郡の名、神亀元年(○冬十月癸巳及壬寅)始めて國史に見えたり。社家の説には和銅年中始めて海部郡を置といふ。然れども其説稽據なし
(236) 其事いまだ世に遍く知られず。因りて神籍を造るもの元の郡名を擧て名草郡加大神社としるされしならん。後延喜式編集の時神名式は天平の神籍を本としてしるされし故そのままに名草郡としるされしなるべし
と云へるは直に同意する事が出來ぬが東大寺要録卷六なる天平十一年十一月廿日勅旨施入の注文(國書刊行會編纂續々群書類従第十一冊一二一頁)に鹽山二百町在2紀伊國海部郡加太村〔六字傍点〕1とあるから加太は夙く天卒十一年に海部郡に入つて居たのである。
 ○海部郡は清く三段(厳重に云はば四段)に分れたる其北段は難賀から紀之川を越えて木本《キノモト》及加太に及んで居るが、その木本は天平十九年勘録の大安寺資財帳(群書類從卷四百三十五所収に紀伊國海部郡木本郷と見えて居る。又雜賀地方がはやく海部郡内であつた事は續日本紀神龜元年十月の下に甲午至2海部郡玉津嶋頓宮1とあるにて知られる。日本紀欽明天皇十七年に紀國置2海部屯倉《アマノミヤケ》1とあるは恐らくは雜賀地方であらう
因にいふ。延喜式の加太神社即今の淡島神社の續にて加太町の西南端なる山崎(237)を田倉崎といひ其附近を田倉濱といふ。萬葉集巻七に
 あびきするあまとや見らむ飽浦の清きありそを見にこしわれを
と見え又卷十一に
 きの國のあくらの濱の忘貝われは忘れず年はふれども
と見えたるアクラノ濱は即此處である。續風土記卷之二十三に「奇石磊々落々として海濱に錯列せり」とあつて、よくキヨキアリソと云へるに叶うて居る。但アクラをタクラと訛るわけが無い。或はアクといふ言を忌みなどしてさかしら人がタクラと唱へ更へたのではあるまいか(昭和十年六月二十八日草)
 参照 玉勝間九之卷紀の國の名どころども(全集第四の二一五頁)紀伊國名所圖會三之卷下海士郡(四二丁)續風土記卷之二十三(刊行本第一輯五一九頁)
 
(238)    玉久世清河原
 
萬葉集卷十一なる柿本人麻呂の歌集より採れる正述心緒歌の中に
 玉久世清河原身そぎしていのる命も妹が爲こそ
といふ歌がある(新考二二六五頁)。此歌の初二を舊訓にはタマクセノキヨキカハラニとよめるを宣長は山代〔二字右△〕久世能〔右△〕河原の誤としてヤマシロノクセノカハラニとよむべしと云ひ、千蔭は「山城に久世郷あれぼ玉久世といへる川の名あるか」といひ、夙く契沖も
 玉久世河は何れの國に有としらず。若玉はほむる詞にて山城の久世河をかく云へるにや
と云うて居る。又雅澄は山背〔二字右△〕久世河原の誤として宣長と同じくヤマシロノクセノカハラニとよんで居る。余は久世清を清久世の顛倒としてタマキヨキクセノカハラニと訓み「玉は小石なり」と附記しておいた(新考二二六六頁)。これは王久世(239)川といふ川の無い事を前提としての新案であるが若干蔭の疑へる如く玉久世川といふ川が寶にあつたならば余の新案は考へ直さねばならぬ。茲に安永七年に洛下百芽といふ人の出した山城國大繪圖といふものがある。此圖を見るに久世郡の南部、綴喜《ツヅキ》郡界に近い中村に發し西北に流れて下津屋で木津川に會する川を描いてそれに玉久世川と記してある。余は一見して驚喜したが、よく見ると此附近の川で今一つ疑問となつて居る名木川も羽拍子の南、新田《シンデン》の北を流るる小流を描いて「廣野川、名木川トモ」と記してある。少々氣味がわるくなつたから、なほよく見て行くと比圖は頗杜撰なもので作者百芽が眞に山城國を※[行人偏+扁]歴して實地を踏査して此圖を作つたか、或は一半は几上の作では無いか疑はしいものである。恐らくは據とした地誌があつて其記述を圖で現したに過ぎまいと思はれたから直に山城志を出して見た。果して同書に
 玉久世川 源自2中村山1經2久世長池二村間1過2富野枇杷莊北1入2木津川1
とある。名木川もやはり山城志の記述に代ふるに圖を以てしたものであるが紛らはしくならうから此川の事は別に云はう。さて山城志に玉久世川といへるは(240)今いふ古川〔二字傍点〕で、恐らくは仁徳天皇紀十二年に
 冬十月掘2大溝於|山背《ヤマシロ》栗隈縣1以潤v田。是以其百姓|毎《ツネニ》豊年也
とある栗隈ノウナデ〔六字傍点〕の後身であらう。栗隈縣は後世の久世郡である。古川は今は木津川には會せず北流して巨椋池《オホクラノイケ》に注いで居るが本來天然の河川では無くて人の掘つた養水であるから都合上、流を附替へたのであらう。或は山城志の記述がまちがつて居るのでは無いかとも疑うて見たが同書は杜撰なもので無いから其記述は信じてよからう
余は本年一月五日に久世郡に遊んで時間の都合で小區域に過ぎなかつたが實地を踏査して見た。余が古川を渡つて見たのは上津屋《カウヅヤ》の東であつたが川幅こそ三間許に過ぎね、水量は頗豊富であつた。元來久世郡は北に巨椋池があり西南に木津川が流れて居るから打見には水に富んで居るやうに思はれるが寶は域内には少数の溝|※[さんずい+血]《キヨク]又は谿流があるだけで、其中でも最廣きは古川で又常に水の絶えぬは古川のみである。余は案内の地方紳士三人(内一人は郡誌編纂中の郡教育會長)に「古川の一名を玉久世川といふか。又は外に玉久世川といふのがあるか」と(241)聞いて見たが皆「ソソナ川の名は一向耳にしませぬ」と答へた。更に廣野川の一名を名木川といふかと聞きしに内一人(即教育會長)は廣野川の畔に家居して居るのであるが、いづれも「ソソナ名は知りませぬ」と答へた。茲に知りぬ、山城志の著者が古川に玉久世川を當てしは推當に過ぎざる事を。右の問を發せしより後、上津屋に到る前に一人が「久津川村に玉久世〔三字傍点〕といふ處がある」と云ふからハツと思うて其處へ行いて見ようと云うて、行く行くよく聞くに久津川村大字平川の内奈良電鐵久津川驛附近に近年所謂住宅地が出來て其處を今玉久世といふが古くからあつた名稱では無いとの事であつた。
 ○ここに聊補註を試みよう。巨椋池の南が小倉村(巨椋池を後世短くオグラノ池といふ、そのオグラから出た村名であるから小倉と書いては假名がちがふ)小倉の南が大久保村、その南が久津川村、その南が寺田村、その南即綴喜との郡界に接したるが富野荘《トノシヤウ》村であるが案内者三人の内二人は大久保村の人、一人は富野荘村の人である。久津川村は久世・上津屋・平川の三大字の一字づつを合せた村名である。富野荘村も三大字の内|富野《トノ》と枇杷荘《ビハノシヤウ》との一字づつを取つた(242)のであるが恰中世富野荘といふ荘名があつてそれに據つた村名のやうに聞えてまぎらはしい。誰であつたか現に新村名に誤られたる地理學者があつた。トノシヤウと唱へてトノノ〔右△〕シヤウと云はぬがまだ幸である。今の交通路は東が關西線の奈良線、中が大和街道、西が奈良電鐵である。さうして玉久世といふ住宅地は街道と奈良電との間にある
そこで久津川村役場(大字平川に在つて彼住宅地と相近い)に立寄つて宿直の青年に對して、當方の意を迎へぬやうに注意して「アソコに玉久世といふ處があるが、あれは古くからサウ云うたのか」と聞きしに言下に
 玉久世といふのは役場の臺帳に無い地名です。あれは住宅地が出來た時に師團(○伏見)の士官が、萬葉集に玉久世とあるのは此邊であらうから玉久世と附けよう」と云はれて勝手に附けられたのです
と答へた。萬葉集中毒と云はうか萬葉集略解中毒といはうか、かやうな輩のさかしらから或は後世を惑はす事が出來ようも知れぬ
右の如くであるから古も今も玉久世といふ名稱は無い。玉久世清河原はやはり(243)新考に云へる如く玉清久世河原の誤とすべきである。即傳寫の際に清といふ字を落し、それを補ふ時に久世の上に入るべきを誤つて久世の下に入れたのである現在傳はれる本に皆玉久世清河原〔六字傍点〕とあるでは無いかと詰るものあらば余は輕く其肩を拍つであらう。現在傳はれる本と全く別系統なる本が現れたら、それには玉清久世河原とあるかも知れぬ。否家持自身が人麻呂集から轉載する時に上に述べたやうな過をしたかも知れぬ。余の云ふは理である。古證本に有るとか無いとか云うて事がきまるなら人間に學間智慧は入らぬでは無いか
然らば久世川といふはどの川かと云ふに木津川の一節である。木津川が久世郷の傍を流るる程を久世川といひ其稱を上下に及ぼしたのである。今、此川を木津川といふも相樂郡木津町の傍を流るるからであり、古此川を泉川といひしも同郡|水泉《イヅミ》郷の傍を流るるからである(昭和十一年三月十九日)
 因にいふ。久世は古い物に來背とも久勢とも久西とも書いてあるが古はクセと清んで唱へたのであらう。今クゼと唱ふるは轉靴であらう
 
(244)    久世鷺坂並鷺坂山
 
萬葉集卷九國歌大観番號(以下準之)一七〇九なる献弓削皇子歌一首ミケムカフ南淵山ノ云々の歌の左に右柿本朝臣人麻呂之歌集所出とある。此左註は一六八三、妹ガ手ヲトリテヒキヨヂ以下二十八首に亙れるものと思はれる(新考一七一二頁参照)。さうして其二十八首中附裁と思はれる泉河邊|間人《ハシピト》宿禰(○大浦か)作歌二首と舎人皇子御歌一首とを除ける二十五首は歌集の主即人麻呂の自作と認めてよからう。右の中に(一六八七・一六九四・一七〇七に)
 鷺坂作歌一首 しら鳥のさぎ坂山の松かげにやどりてゆかな夜もふげゆくを
 鷺坂作歌一首 細ひれのさぎ坂山の白つつじ吾ににほはね妹にしめさむ
 鷺坂作歌一首 山代の久世のさぎ坂神代より春ははりつつ秋はちりけり
以上三首の歌が見えて居る。これに就いて前註には「山城國久世郡にあり」と云へ(245)るのみ。轉じて山城志を※[手偏+嶮の旁]するにその山川部に
 鷺坂 在2長池久世二村間1
とある。久世と長池とは共に奈良街道に沿うて居るが久世は今の久津川《クツカハ》村の内、長池は今の富野荘《トノシヤウ》村の内で、二村の間に寺田村があつて二地はカナリ相離れて居るから長池久世二村ノ間ニ在リといふだげでは何處とも分らぬ。山城志の著者もハツキリと其處を指し得なかつたのであらう。大日本地名辭書にはその久世郷の下に
 久世神社は大字久世に屬し大道の東、林間にあり。大倭本紀に倭武尊薨去の時白鳥に化りたまひ天を翔り久世の鷺坂小笹の上にとどまりますと云所此也とぞ。……此地即鷺坂山なり。富野寺田の方より望めば一段の高丘なり
と云うて居る。鷺坂山の擬定は當つて居るが、これでは未鷺坂の所在が分らぬ
余は本年一月五日に此地方に遊んだ。余の一行を出迎へて案内した三人は皆此地方の歴史地理に通じた人であるから代る代る余の悶に答へてくれた。まづ此地方に鷺坂といふ名稱の殘つて居るのは二處である。即一は久世にある郷社久(246)世神社の山林を東に出た處、即社殿の東方を南北に通じたる坂路である。又一は關西鐵道奈良線の長池驛の少し先を一寸北にはひつた處である(此附近では鐵道も奈良街道も乾から巽に向つて居る)。其處の道路を鷺坂道といひ(坂を狐坂といひ)道路の東に治へる地域の小字を鷺坂といふ。古の鷺坂は無論前者である。久世神社の山林の西なる國道即奈良街道の西側に昭和二年に建てた久世鷺坂舊跡と刻める碑石が立つて居るが之を建てた人たちは古道と新道との別を弁へなかつたのである。今伏見の向島から巨椋《オゲラノ》池を貫いて此處を通つて居る道は豊臣秀吉の時に開いたもので、古の奈良街道否奈良の都から東山道及北陸道に到つた驛路、即萬葉集卷十三の長歌(新考二七九二頁)に
 空みつ やまとの國 あをによし なら山こえて 山しろの つつきの原 ちはやぶる うぢのわたり 瀧の屋の 阿後尼の原を 千歳に かくることなく よろづよに ありがよはむと 山科の いは田の森の すめ神に ぬさとりむけて 吾はこえゆく あふ坂山を
とよめる道は古の奈良の都の北方なる歌姫越(即古の奈良坂)から山城國綴喜郡(247)の今の三山木村に出で、今の玉水橋の附近で木津川を渡り、長池から府社|水度《ミト》神社の今の参道を横断して鷺坂を経て宇治に出たのである。上に述べたやうに長池から一寸はひつた處に鷺坂道といふ名が残つて居るのは右の道筋の内であるからである。さうして其傍なる鷺坂といふ小字は鷺坂道に沿うて居るから、かかるまぎらはしい名を得たのである。なほ云ふならば彼久世鷺坂舊跡と刻める碑石の立つて居る處の少し南から東方の山林にはひると關西線の内の奈良線が通過して居る。線路を越えて更に東に行くと郷社久世神社の下に出る。赴の東に幅一間にも満たざる坂賂がある。これが即鷺坂である。社は岡の南面中腹にある。その間が即鷺坂山である。頂は拓かれて畠となつて居る。案内者は此山を鷺坂山一名小笹が峰と教へた。然し小笹が峰は恐らくは是ではあるまい。第一此山は低い丘陵即所謂高臺で、峯などいふべき地形で無い。第二元來小笹が峰といふ名は堀川院百首に
 雪 修理大夫顯季 しら鳥のさぎ坂山をこえくればをざさが嶺に雪ふりにけり
(248)とあるが初見であるが歌の意を案ずるに鷺坂山と別處で無けれぼならぬ。栗隈山の一峯で鷺坂山より東北に當るであらう。抑地名には傳來地名と擬定地名との別がある。傳來地名は昔から唱へ來つた地名である。これは無學の一土人の言でも傾聴せねばならぬ。擬定地名は古き書物には見えながら傳來の絶えたのを書物で見附けて目前の山川土地に推當てたものである。これは教育ある郷紳の言であつても、書物に載せてあつても、研究の上ならでは聴從せられぬ。鷺坂山の一名を小笹が峯といふは適《マサ》に擬定地名である。なほ蛇足を添へんに曾禰好忠集三月の中に
 たくひれのさぎさか岡のつつじ原色てるまでに花さきにけり
といふのがある。此歌の上三句は無論萬葉集卷九の細ヒレノサギサカ山ノ白ツツジに基づいたのであるが、鷺坂山といはで鷺坂岡といへるが面白い。本來低い山で、從つて坂もなだらかで、行き行くままに崖下の池が漸々底に沈むに注目せぬと山に登るなりとも心附かぬ程であるから峯といふべからざるは勿論山といはんよりは岡といふ方がふさはしい。好忠が鷺坂岡とよめるを思へば親しく(249)此地を見知つてゐたので、そこで例のツムジマガリであるから人麻呂が鷺牧山とよめるをもどいてわざと鷺坂岡と云つたのであらう(昭和十一年四月二十八日稿)
 一論文とする程で無いからついでに云はうが、細ヒレノサギ坂山ノ白ツツジの白は誤字ではあるまいか。吾ニニホハネは吾ニソマレ即我衣ニソマレといふ事である。赤い躑躅で無くば衣ニ染ミ附ケカシなどいふ心持が起りはすまい。恐らくは白ツツジは石《イハ》ツツジの誤であらう
 
(250)    來背社
 
萬葉集巻七(新考一三六九頁)に
 やましろの來背《クセ》の社の草なたをりそ、わが時とたちさかゆとも草なたをりそ
といふ旋頭歌がある。作者は不詳である。今山城國久世郡|久津川《クツカハ》村大字久世即もとの久世村に郷社久世神社があつて鷺坂山の南面中腹に在り、名高き久世の鷺坂は社殿の東側を通過して居る。されば右の歌の來背社は此神社であらうとは誰も思ふ事である。現に地名辭書にもさう書いて居る。然るに代匠記に
 延喜式神名帳に山城國久世郡に大社十一座小社十三座を載す。大社十一座は石田神社一座・水主神社十座なり石田神社は比集に別に名を出したれば水主神社を來背社とは云なるべし
と云ひ古義は之に從うて居るが、こは甚杜撰なる説である。まづ神名帳に見えたる本郡の官社は石田神社・水主《ミヌシ》神社十座・荒見神社・雙栗《サグリ》神社三座・水度《ミト》神社三座・旦(251)椋《アサクラ》神社・伊勢田神社三座・巨椋《オホクラ》神社・室城神社、以上大は二社十一座、小は七社十三座である。契沖の意は「來背社は郡名を負へる程なれば大社ならざるべからず。然るに大社二座中石田神社は本集別處に石田社とあれば久世社は他の大社即水主神社ならざるべからず」と云へるなれど、まづ本集卷七に山科ノ石田《イハタ》ノモリニとよみ、卷十二に山代ノ石田ノモリニとよみ、卷十三に山科ノ石田ノ森ノスメ神ニとよめるは宇治郡山科の石田森に坐《イマ》す神にて久世郡の石田神社では無い。次に郡内に久世郷があるから神社の負へるは郡名の久世か郷名の久世か分らぬ。従つて大社とは豫断せられぬ。次に水主神社は今の寺田村の大字水主(○今ミヅシと唱ふ。同村の西南端なり)に在り、其地は古の水主郷で久世郷では無く(郡名を負うたとするならば久世郷以外に在つても妨は無いが)又此社の一名を久世神社と云うた事を聞かぬ。ともかくも契沖の擧げただけの理由で來背社を此神社に擬する事は出來ぬ。山城志には
 水度神社 寺田村ニ在リ。一名久世社〔五字傍点〕。今天神卜稱ス
と云うて特に證を擧げて居らぬが、地理志料久世郷の下には
(252) 興福寺官務帳、久世神在2久世郡三田郷水度1。神名式作2水度神社1。其祠在2寺田村三田坂1
と云うて居る。さうして古の久世郷を後世の久世寺田二邑に充てて居る。久世は今の久津川村の内、寺田は今の寺田村の内で村はちがふが其部落は殆相續いて居る。三田郷は古の郷名では無い。興福寺官務帳はまだ見ぬが、かやうな證がある上は久世神社は水度神社の別名とすべきであらう
水度神社は釋日本紀卷八豊玉姫の註に引ける山城國風土記逸文に久世郡水渡社(祇社)云々と見え神名帳には水度神社三座と見えて久世郡小十三座(七社)の内である。寺田村の東部なる鴻巣山の半腹に在りて今府社に列せられて居る。山城志に來背社が久世の久世神社に非ざる事を辨せず又神廟部式外の處に久世の久世神社を擧げざるを思へば同書の成りし享保十九年の頃には久世の久世神社は未大にあらはれなかつたのであらう。地名辭書に
 久世神社は大字久世に属し大道の東、林間にあり。大倭本紀に倭武尊薨去の時白鳥に化りたまひ天を翔り久世の鷺坂小笹の上にとどまりますと云所此也(253)とぞ
といへる大倭本紀はまだ見ぬが恐らくは俗書にあらずば偽書であらう。かく云ふは日本武尊の御遺骸の化れる白鳥が飛んで山城國久世に到つたといふ事は古事記にも日本紀にも見えぬ事であるからである。久世ノ鷺坂小笹ノ上ニトドマリマスといへるにも彼顕季の歌を誤解して之に傅會した形跡がある
ヤマシロノ來背社草勿手折とある第二句を從來クセノヤシロニ又はクセノヤシロノと訓んで居るが、よく思へば不合理な辭である。社は建築物であるからヤシロノ草とは云はれぬことである。今人の心持では森をもこめてヤシロと云つてもよいやうに思ふであらうが、古はヤシロをこめて森とも云つたが森をこめてヤシロとは云はなかつた。社の字は古典にヤシロにもモリにも當てて居る。余は播磨風土記新考(二三三頁)に波多爲社をハタヰノモリと訓んで其註に
 下文|神前《カムザキ》郡|的部《イクハベ》里なる高野社、美嚢《ミナギ》郡なる志深《シジミ》里|許曾《コソ》社又高野里|祝田《ハフタ》社の社も然り。神武天皇紀に取2天香山社中士1とある社も、斉明天皇紀に※[昔+立刀]2除朝倉社木1とある社も、續日本紀天平神護元年八月の下に率州ノ社ノ中ニ索メ獲テ伊豆(254)國ニ流スとある社も亦然り。萬葉集にはモリを社〔右△〕とも神社〔二字傍点〕とも書けり。又續日本紀天平二十年八月以下ニ大神《オホミワ》社女とあるを天平神護二年十月には毛理賣《モリメ》と書けり(國史大系本に社女を杜女に改めたるはわろし)。モリは後世は杜と書けど杜の字には元來モリの義なし。之をモリとよまするは社の字の扁を木に更へたるなり。さればモリの杜は無音の邦製字にて漢籍に見えたる杜とは別なり
と云つておいた。轉じて萬葉集にモリに如何なる字を充てて居るかとしらぶるに卷十のアサナサナワガミルヤナギウグヒスノキヰテナクベキ森ニハヤナレ、卷十三なる長歌のヤマシナノイハタノ森ノスメガミニヌサトリムケテ、卷十六のオホヌヂハシゲミ森ミチの如く森〔右△〕と書ける處もある。又卷九のキノクニニヤマズカヨハムツマノ社云々又ヤマシナノイハタノ社爾云々の如く社〔右△〕と書ける處もあり、又卷二のナキサハノ神社ニミワスヱ云々、卷七のマトリスムウナデノ神社ノの如く神社〔二字傍点〕と書ける處もある。又卷四の大野ナルミカサノ杜ノ、卷八のカムナビノイハセノ杜ノ、又モノノフノイハセノ杜ノ、卷十一のオホアラギノウキ(255)タノ杜ノ、卷十二のマトリスムウナデノ杜ノの如く杜と書ける處もある。特に最後のものに就いて云はんに流布本にはかやうに杜とあるが諸の古寫本には社とある。抑日本紀や萬葉集の出來た時代に夙くモリを杜と書いたかは疑はしい。或はもと社とあつたのを後人が傳寫の際にさかしらに杜と改めたのでは無いかとも思はれる。たとひ彼時代にモリを杜と書いたとしても(新撰字鏡には社毛利と見えて居る)今森の字が行はるる如く杜の字が厭倒的に行はれたのではあるまい。もしさうだつたらば紛らはしい社・神社などは借るまじきが故である。ともかくもモリを社とも書いた事、即社の字をもモリに充てた事は確實である。さうしてヤシロノ草と云ふまじきは前述の如くである。さればヤマシロノ來背社ノクサナタヲリソといふ歌の第二句は六言としてクセノモリノとよむべきであらう。温故堂本・大矢本などに杜とあるもクセノモリノと心得た人もある證である
以上長々しく述べた事をつづめて云ふならば萬葉集卷七なる來背社は今の久世郡久津川村大字久世の郷社久世神社では無くて山城志及日本地理志料に云(256)へる如く今の久世郡寺田村大字寺田の府社|水度《ミト》神社であらう。又ヤマシロノ來背社草ナタヲリソの弟二句は六言にクセノモリノと訓むべきであらうと云ふのである(昭和十一年五月二十五日稿)
 追記 今の久世神社は明治維新後の改稱でそれより前は若王社と云つたといふ(平安通志)。但天和二年に成つた雍州府志に
  久世明神 在2巨椋南久世本郷1
とあり元禄の末年に出來た山州名跡志には夙く久世神社と稱して居る。即
  久世神社 在2大和街道久世茶屋東一丁餘山上1。鳥居西向、木柱。社南向
とあり安永地圖にも久世神社と標してある。されば維新前には若王社とも久世神社とも稱せしを維新後若王社といふ號を廢して専、久世神社と稱する事になつたのであらう。然も此社が萬葉集の來背社にあらざるべき事は本文に云へる如くである(六月二十一日)
 
(257)    名木河 上
 
萬葉集卷九(新考一六九七頁)に
     名木河作歌二首
 あぶりほす人もあれやもぬれ衣を家にはやらなたびのしるしに
 ありそべにつきてこがさね杏人濱をすぎなばこひしくありなむ
とあるがアリソペニといふ歌は名木河作歌の内では無い。名木河作歌はアプリホスのみなるを錯簡によつて題詞の落ちたるアリソペニの歌と束ねてさかしら人が名木河作歌二首と題したのである。又同卷(新考一七〇二頁)に
     名木河作歌三首
 ころもでの名木の河べの春雨にわがたちぬると家しるらむか
 家人の使なるらし春雨のよくれど吾をぬらすおもへば
 あぶりほす人もあらなくに家人の春雨すらを間使にする
(258)とある。かの
 あぶりほす人もあれやもぬれ衣を家にはやらなたびのしるしに
といふ歌は此次にあるべきが誤つて前に出たのである。四首は元來聯作で第一首の家シルラムカを受けて第二首に家人ノ使ナルラシといひ、そを受けて第三首に春雨スラヲ間使ニスルといひ、第三首のアプリホス人モアラナクニを受けて第四首にアブリホス人モアレヤモヌレ衣ヲと云つたのである。さて第三句のヌレギヌは雨にぬれたる衣なるが、雨にぬれし事を云はぬは第三首に譲つたのである。辭を換へて云はば四首は元來聯作なればこそ、さうして第三首に春雨の衣をぬらす事を云ひたればこそ第四首に雨にぬれたる衣をただにヌレギヌと云つたのである(新考一六九七頁及一七〇三頁以下参照)。右の名木河作歌四首は柿本朝臣人麻呂歌集に出でたりし二十八首の内で、その二十八首中泉河邊|※[間の日が月人《ハシピト》宿禰作歌二首と舎人皇子御歌とを除いた外は皆人麻呂自身の作であらう(新考一七一二頁及本書「久世鷺坂」参照)。二十八首の順序はいたく亂れて居るが名木河作歌三首とある方は鷺坂及泉河の次、宇治河の前にあるから名木河は南山城の(259)川の名と思はれる。ここに和名抄山城國久世郡十二郷(實は十一郷)の中に那紀といふ郷がある。されば名木河は此郷を流るる川であらう。そこで山城志の久世郡の部を※[手偏+驗の旁]するに
 廣野|溪《カハ》 源ハ辰野ノ東ヨリシ伊勢田ニ至リテ那紀川ト曰ヒ大池ニ入ル
とある。廣野は今の大久保村の大字である。又伊勢田は今の小倉村の大字で、廣野の西北方に當つて居る。大池は即|巨椋《オホクラ》池である。關西線の奈良線の西に沿うて奈良街道を下ると廣野・新田《シンデン》・大亀茶屋と(皆大字廣野の内)部落が續いて居るが新田の南(奈良線シンデン驛の南)に幅僅に二間弱なる谷川が東から西に流れて街道を横断して居る。これが廣野川である、川の左岸を傳ひ見るに川は忽※[さんずい+彎]曲して北方に向ひ大龜茶屋の南から流れて來る小川と合して伊勢田の西を經て巨椋池に注いで居る。山川ともいふと聞いたが、その山川は合流後の名であらう。押返して「名木川とは云はぬか」と聞いたが、案内者等は名木川といふ名は知らなかつた。次に大日本地名辭書(一六九頁)を閲するに那紀郷の下に
 萬葉集に名木河歌三首あり宇治鷺坂を詠ずるを見れば名木河は謂ゆる栗隈(260)溝にして那紀郷は今小倉村伊勢田の邊たるべし
と云つて居る。那紀郷を伊勢田附近に擬せるは夙く山城志に云へる所にして地名辭書は山城志に從へるなるが、栗隈溝は今の古川で、古川は伊勢田を通つて居らぬ。伊勢田を通つて居るのは山川である。又名木河の下に
 今此名なしと雖南方|富野《トノ》荘村より小倉村の西に至る迄六十町許一渠あり。稲田の間を通じ※[さんずい+于]水を排除す。即栗隈溝なり
と云つて居る。こは適《マサ》に古川である。さうして古川は山川より十町許西を流れて居る
抑久世郡は東部に栗隈山彙があるから川が多かりさうなものであるが、どういふものか川が少い。川らしいのはかの幅三間許の古川ばかりである。彼廣野川即山川の如きも平生は水が無く雨後に雨水が流れるだけである。元來此郡は東北を宇治川が流れ、西南を木津川が流れ、北に巨椋池といふ湖があるから地圖で一瞥すると恰水郷のやうであるが前述の如く栗隈山から水が湧かぬから水に就いては所謂見掛だふしである。古川の無かつた上古は今より一層水に不自由し(261)たであらう。そこで仁徳天皇が栗隈ノウナデ即今の古川を掘らしめたまうたのである。かやうに川の少い郡であるから名木河を擬定するのは少しも困難で無い。即廣野川の外に名木河に充つべき川が無い。その廣野川即名木河は古は今より水量多く從つて幅も廣かつたであらうが要するに溝の如き一谿流に過ぎなかつたのである(昭和十一年六月二十八日)
 
    名木河 下
 
更に別方面から名木河は今の廣野川に相違ない證據を擧げて見よう
和名抄久世郡郷名の流布本に見えたるもの十二、まづ之を高山寺本と對照しよう
   流布本       高山寺本
 竹淵(多加不知)   竹淵(太賀布智)
 奈美        (ナシ)
(262) 那羅        那羅(奈良)
 水主        水主
 那紀        那紀(奈※[関の中])
 宇治        (ナシ)
 殖栗        殖粟(名栗)
 栗隈(久里久末)  栗前(久利久万)
 富野(止無乃)   富野(止无乃)
 拜志        拜志
 久世        久世(○那紀ト殖粟トノ問ニ)
 羽栗       (ナシ)
以上流布本十二郷(高山寺本九郷)の内
 竹淵 山城志に已廢。今綴喜郡有竹淵神祠とあり日本地理志料に
  今綴喜郡禅定寺村ニ健藤神社アリ。ソノ正中二年ノ造營記及文明十七年ノ方堅日記ニ竹淵社ニ作レリ。是遺名ナリ
(263)とある。禅定寺《【ゼンヂヤウジ》は今の綴喜《ツヅキ》郡宇治田原村の大字である。建藤《タケフヂ》神社はその小字建藤に在つて今村社春日神社といふ。建は健に同じい。古は健を建と書いた。抑久世郡は其東南西の三方綴喜郡に接したるが、古來郡界の移動が少からぬ。此事はよく心得おかねばならぬ
 奈美 志に廢とのみある。志料には
  按ズルニ高山寺本ニ載セズ。而シテ那紀郷ノ下ニ於テ奈美ノ二字ヲ注セリ。※[関の中]ハ即癸字ノ或體ナリ。皇朝ノ古籍及金石文ニ多ク之ヲ用ヒタリ。傳寫ノ久シキ※[言う+爲]リテ美好ノ美ニ作リ更ニ此ニ錯簡セルナリ。淺人認メテ別郷トシ之ヲ大書セル者ナリ。宜シク刪リ去ルベシ
と云つて居る。此説の通りである
 那羅 志に廢。今綴喜郡有奈良村とある。今の綴喜郡郁々城《ツヅキ》村の大字に上奈良下奈良がある
 水主 志に廢。今綴喜郡有水主村とある。水主はミヌシとよむがよい。今の久世郡寺田村の大字に水主がある。但誤つてミヅシと唱へて居る。此地は中頃綴喜(264)郡に属して居た事があるが元來久世郡の舊地で又河東に在つて地理上にも久世郡に属すべきであるから明治二十二年に久世郡に復歸したのである
 那紀 志に已廢。在伊勢田村とある。伊勢田村ニ那紀トイフ地名ガ残ツテ居ルといふ意であらうが今は残つて居らぬ。今奈良電氣鐵道イセダ停留所の西北の一地域を俗に奈美園といふ由であるがこれが那紀の輯訛であらうか。此地名も役場の臺帳には無いといふ。志料に山城志云。那紀方廢。今伊勢田村有那紀地とつづけて書けるは志の文を書更へたるか。又は今以下は著者村岡氏の語か
 宇治 志に註なきは註を要せぬからであらう。和名抄宇治郡にも宇治郷がある。もと川を夾める一郷なりしが宇治久世二郡に分属したのである。高山寺本に此郷の無いのは落したのか。又は其原本なる郡郷帳の成りし時には河西に亙つて宇治郡であつたのか。今は河東の内宇治郷(大字)だけは宇治町の一部として久世郡に属して居る
 殖栗 志に廢とあるのみ。高山寺本の訓註に名栗とあるは誤である。阿波國名(265)方東郡の郷名に同名なるがあつて、それには流布本に惠久利と訓註してある(高山寺本には訓註が無い)
 栗隈 志に方廢。山杜存とある。栗隈山と栗隈杜とが殘つて居ると云ふ意である。又同書神廟部に旦椋《アサクラ》神社在大久保村栗隈杜とある。此神社は今も大久保村大字大久保に在る
 富野 志に方廢。村存とある。今富野荘村の大字に富野がある。但今はトムノ・トンノと云はずしてトノと唱へる
 拜志 志に方拜。林村存とある。拜志はハヤシと訓むべきである。志にハイシと傍訓し村名の林を轉訛と認めたりげなるは誤である。諸國の郷名の拜志・拜師は皆ハヤシとよむべきである。さて林村と云へるは今の佐山村の大字林である
久世 志に方拜。村存とある。今久津川村の大字に久世がある。今之をクゼと唱へるが古はクセと清んで唱へたのであらう
 羽栗 志に拜といへるのみ。志料に天平七年の文書に久世郡列栗郷戸主並栗(266)臣某とあるから羽栗は双栗の※[言+爲]としてナミクリとよむべきであらうと云うて居る。神名帳にも久世郡に雙栗神社がある。今佐山村大字佐山字|雙栗《サグリ》の舊稱|椏本《アナモト》八幡宮を之と定めて居る。綴喜郡宇治田原郡大字岩山の双栗神社は分靈であらう
以上十二郷(實は十一郷)は今の何村に當つべきか。實は日本地理志料の説と大日本地名辭書の説とを對照し其可否を検討し、さて後に自説を述ぶべきであるが、さうすると非常に長くなるから今は直に自説を述べよう。さうして若反對論が出たらば其時に(但暇があつたらば)更にくはしく述べよう。まだ若干の蘊蓄が保留してあるから
十一郷中から今綴喜郡に属して居る竹淵・那羅の二郷を除けば残るは水主以下九郷である。又今宇治町・淀町・槙島《マキノシマ》・御牧・富野荘・寺田・久津川・大久保・小倉・佐山の二町八村に分れて居るが其中淀町・槙島村は古は河底又は湖底であつたから之を除けば残るは一町七村である。まづ水主郷は今の寺田村の西南部である。次に那紀郷は今の小倉村である。次に宇治郷は今の宇治町である。次に殖栗《ヱグリ》郷は地名辭書(267)に云へる如く今の宇治町の東部山地即大字白川か。次に栗隈は今の大久保村である。次に富野郷は今の富野荘村である。次に拜志郷は今の佐山村の東部である。次に久世郷は今の久津川寺田二村である。次に双《ナミ》栗は今の佐山村である。更に今の町村を古の郷に充てなば
 宇治町    宇治郷
 淀町     (新地)
 槙島村    (新地)
 御牧村    那羅郷の内か
 富野荘村   富野郷
 寺田村    東部は久世郷、西部は水主郷
 久津川村   久世郷
 大久保村   栗郷
 小倉村    那紀郷(東北部は新地)
 佐山村    東部は拜志郷、中部及西部は双栗郷
(268)無論古の郷と今の町村と其境界が一致せぬであらうから或郷が今の或村から隣村に亙り又は今の或村が或郷から隣郷に跨つて居るのもあらう
右の如く古の那紀郷は今の小倉村の西南部に當る。さうして其部を貫いて居るのは廣野川の末なる山川である。されば那紀郷の名を負へる名木河は今の山川即廣野川で無ければならぬ(昭和十一年七月二十九日稿)
 
(269)    春草馬咋山
 
 比論文は發明がありさうにも無いから書くまいかとも思うたが元來玉久世清河原以下は皆或論文を書く準備である。然るに是論文を書かぬ事となると其準備に缺くる所が出來る。さればまづ讀者と共に地理認識を明にするつもりで書かう
彼二十八首中なる鷺坂作歌一首「山代の久世のさぎ坂云々」の次に(新考一七一〇頁に)
 泉河邊作歌一首 春草を馬くひ山ゆこえくなる雁の使は宿をすぐなり
とある。ハルクサヲウマの七言はクヒ山のクヒにかかれる枕辭、即二句に跨れる枕辭で、カラゴロモキナラノ里ノヲトメラガソデフル山ノなどと同例である。山ユは山ヲである。雁ノツカヒは家人ノ書ヲ托シタラム雁といふ事、ヤドは作者即人麻呂の族宿で、一首の意は故郷ノ使ヲ待渡ルニ雁ノ使ハワガ居ル宿ヲヨソニ(270)見テ過グナリと嘆いたのである。題辭に泉河邊作歌とあるから咋《クヒ》山は泉川即木津川の邊にあると見える。然らばそのクヒ山は今の何山かといふに眞淵の冠辭考に
 咋山は神名式に山城國綴喜郡に咋岡神社と有に同じ所歟。泉川は相樂郡に属《ツ》けども綴喜も隣の郡なれば也。雁の越來るといひたればよし遠くとも
と云つて居る「泉川は」以下は無用の辯疏である。泉川即木津川は相樂郡から來て綴喜郡を南北に(少し斜に)貫いてゐて咋岡はその左岸即西岸にあるからである。なほ二三の地誌を閲せんにまづ山城志綴喜郡山川の部に
 區※[田+比]丘 在飯岡村。一名馬咋山。又名湯岡。四面平坦、一奇孤丘
といひ、同じき神廟部に
 咋岡神社 在草内村。隣于咋岡。今稱天神云々
と云うて居る。飯岡はイヒノヲカとよみ草内はクサチとよむべきである。今はイノヲカと約めクサヂと濁つて唱へる。飯岡は草内の東南に隣つて共に今の草内村の大字である。草内村は木津川の左岸に接し其支源なる普賢寺川に村内を貫(271)かれて居る。
 ○因に云はん。頼春水の妻の父即頼山陽の外祖父なる飯岡義齋はこの飯岡から出た人であらう。さらば其氏はイヒヲカとよまでイノヲカとよむべきであらう
一名馬咋山といへるは萬葉集の歌をあしく心得て即馬〔右△〕が枕辭に属せるを悟らずしてかやうに云つたのである。又名湯岡はユノヲカとよんでイノヲカの輯訛とすべきである。次に日本地理志料卷一(三三丁)山本郷の下に
 神名式ニ咋岡神社アリ。類聚國史ニ區※[田+比]丘ニ作リ萬葉集ニ馬咋岡ニ作レリ。其祠ハ飯岡ノ馬咋山ニ在リ。飯岡荘ハ西大寺田園目録ニ見エタリ(○荘園志料上巻一一七頁参照)
と云うて居る。萬葉集には春草馬咋山|自《ユ》とこそあれ、さるを萬葉集作馬咋岡と書きて馬咋にマゲヒノと傍訓したるはいと疎である。又其祠在飯岡馬咋山と云つて居るが飯岡に馬咋山といふ山は無い。次に大日本地名辭書(一七八貢下段)には
 飯岡 草内村西南、水に接して一孤丘あり方五町許。平地を拔くこと一百尺。飯(272)岡と云ひ其北面に人家あり。遠く望めば島の如し。島頂(○丘頂か)一祠即延喜式咋岡神社なりと云ふ。咋岡はイヒノヲカ歟。又クヒヲカ歟。今昔物語に
  綴喜郡に飯の丘と云所あり。其戌亥の方に神奈比寺あり
 と見ゆ。又正應元年西大寺田數目録に飯岡荘あり
といとこまやかに書いて居る。但草内村西南といへるは東南の誤、北面に人家ありと云へるも丘頂一祠といへるも共に誤である。飯岡の高さと廣さとは知らぬが人家は其東麓にもあれど多くは丘上に在る。さうして里道は丘の東麓を北に向ひ、丘の北部を越えて西北に向つて大字草内に到るのである。又咋岡神社は丘の東麓に在りて東面し人家と里道を隔てて居るのである。又飯岡にイヒヲカと傍訓したるは非である。又「咋岡はイヒノヲカ歟」と云つて居るが咋をイヒと訓むべからざるは勿論である。次に山城綴喜郡誌明治四十一年十一月發行菊版洋装一冊)の草内村の處(一八頁)に
 大字飯岡、往昔咋岡と云ふ。後世咋を省約して飯と稱するに至れり。而して今本字に咋岡神社あるを以て證するに足らん
(273)とあるがクヒを省約してイヒ又はイと云ふやうになつたといふ説は採用せられぬ。寧クヒ岡を改稱してイノ岡としたとすべきである。今咋岡神社は二所ある。共に村社で一は大字飯岡に、一は大字草内にある。山城志に
 咋岡神社 草内村(○今の大字)ニ在リ。咋岡ニ隣レリ
と云へるを見れば同書の著者は大字飯岡に在る方を知らなかつたか又は認めなかつたものと見える。大字草内なるは飯岡より分靈したもので、近世まで天満宮と稱し菅原道眞を祭りしに郡誌(一八一頁)の記述に據れば明治二十六年十月に本社舊記を發見し咋岡神社支流たるを確め社號及祭神訂正の許可を得て咋岡神社と改稱し又本社の如く稲倉魂《ウカノミタマ》神を祭神とし、之に舊來の菅原道眞を配祀したのである。實は其社の舊記を發見せずとも公刊の山城志を見ても分つたのである。然し公刊の書に引きずられたので無い處が卻つてたふとい。終に特選神名牒に引ける式社考徴に
 上古は今の飯岡即區※[田+比]丘なり。飯岡と書るは飯は食ふ物故に借りたるを士人等字の儘にイノヲカと唱ふることとなれるより咋岡は飯岡村の内なる一地(274)の名と成はてたる也
と云つて居るが、飯はくふものなればとてクヒといふ語に飯の字を充つる事は、即飯と書いてクヒとよまする事はあるべからざる事である。ソンナ無理な説明をするよりは咋を食と書きしに後に反旁が添ひ、終に字に引かれてイヒノ岡、次にイノ岡と唱ふるやうになつたとする方が穏であるが、事實はさうでもあるまい。中古以來咋岡の一名を飯岡と云つたが後には村の名を飯岡といひ岡の名を咋岡といふやうになつたのであらう。全體萬葉に咋山とあり神名帳に咋岡神社とあるその咋を本字と思込んだのが誤である。然思込んだから飯岡の飯と不可分なる關係があるものと定めてさまざまの愚説を提出したのである。咋山咋岡の咋は借字である。クヒの本義は分らぬが決して咋では無い。もし咋ならばノを稀へてクヒノ山クヒノ岡といふべくクヒ山クヒ岡とは云はれぬからである。イノ岡は無論イヒノ岡の省呼であるがクヒの本義の不詳なるに反してこれは丘上の祭神ウカノミタマに關係ある名であらう。ウカノミタマノ神は五穀等の食物を掌る神であるからである。されば飯岡といふ一名は此岡にウカノミタマを(275)いつきし後に起つたのであらう。さてもし疑つて見るならば萬葉集の咋山と今の咋岡とが果して同處であるか疑はれぬでも無いが、綴喜久世二郡の木津川沿岸で外に咋山に當つべき山なく又クヒといふ名が特殊であるから萬葉集の咋山はやはり今の咋岡であらう。咋岡神社の寫眞は綴喜郡誌の口繪に出て居る
 ○地名辭書に引ける今昔物語の文は同書卷十四山城國神奈比寺聖人誦2法花1知2前世報1語第廿五の文で
  今昔山城ノ國綴喜ノ郡ニ飯ノ岳〔三字傍点〕卜云フ所有リ。其ノ戌亥ノ方ノ山ノ上ニ神奈比寺ト云フ山寺有り。其ノ寺ニ一ノ僧住ス
とあつて其僧が常に此寺を去つて他の大寺に行かうと思うたが其寺の薬師如來の夢の諭を受けて永く此寺に住する事になつたといふ話を記して居る。地名辭書に引けるには誤脱がある。神奈比寺は今の同郡田邊町大字薪に在る醫王山甘南備寺である。カムナビは神邊で、神のまします森である。何故に寺をカムナビと云ふぞと云ふに此寺の在る甘南備山の山上に甘南備神社があるからである。否寺はもと神社の傍に在つたのを元禄二年に山下に移したので(276)ある。甘南備山は適《マサ》に飯岡の戌亥即西北に當つて居る。されば右の文中に飯ノ岳と云へるは今の飯岡である。岳は丘と同じくヲカとよむべきである。イカヅチノヲカを雷岳と書けると同例である。此文にて知らるる事二つ。一は今昔物語の出來た頃に夙く飯ノヲカといふ地名のあつた事(今昔の著者源隆國國の薨去は白河天皇の承暦元年なり。又飯ノ岳トイフ所とあるからこの飯ノヲカは岡を云へるにあらで里を云へるならむ)、一は神奈比寺の所在を示すとて飯ノヲカを基點としてその乾と云へるを思へば當時飯ノヲカは相應に聞えた地名であつた事である
咋岡神社は明治の中ごろに草内から飯岡に對して本支に就いての訴訟を起したが府の調停に由つて共に咋岡神社と稱する事となつた由である。草内の方はそれまでは天満宮と稱せし事なれば飯岡の方からは冒稱なりと抗議した由であるが夙く山城志に咋岡神社として草内の方を擧げて居るから冒稱では無からう。然し草内の方は平地の森林中に在つて飯岡の方の如く丘陵に倚れるにあらず其上に飯岡といふ地名は夙く平安朝時代に著れて居るから飯岡なるが咋(277)岡神社の本社なる事は云ふ迄も無い。やはり上文に云へる如く草内の部落が成立した後に飯岡から分霊したのであらう。さて飯岡なるは大字飯岡字東原に在つて今菅原神社と合祀して居るが、こは明治の初年に境内に在つた天満宮を菅原神社と改稱して合併したのであると云ふ。さうしてそれまでの咋岡神社の社殿は今の處よりは北の方即今市杵姫神社の在る所に在つたといふ(昭和十一年十月十四日)
 
(278)    柿本人麻呂の閲歴の一暗示
 
前置があまり長くなつて少々熱が褪めたから結論は簡略に述べる事にする。泉河も久世鷺坂も宇治河も皆藤原都から東山道及北陸道に下る道であるから其道を通る時に彼歌どもはよんだと見てよいが人麻呂は何の爲に又は如何なる便《ツイデ》に名木河の邊を通つたであらうか。名木河は泉河から鷺坂を經て宇治河に到る道より西方に在つて北陸道又は東山道に下る(又は二道より上る)人の通る處では無い。又咋山の歌は其山のどちらの方面で作つたであらうか。大和から山城へ出るには般若寺坂と歌姫越と二路があるが古奈良坂と云つたのは歌姫越で、後に奈良坂と呼ばれたのは般若寺坂である。歌姫越は古の奈良都の北にあり般若寺坂は今の奈良市の北にある。本集卷三なる長屋王駐2馬寧樂山1作歌(國歌大観番號第三百)に
 佐保すぎて寧樂のたむけにおく幣は妹を目かれずあひ見しめとぞ
(279)とある寧樂山は大和山城を界せる丘陵の總稱である。又佐保は古の奈良都よりは東北、今の奈良市よりは西北に當れる地域の稱である。右の歌には佐保スギテとあるから、その寧樂ノタムケ即奈良坂は般若寺坂であるやうに聞えるが實は此王の邸は佐保に在つたから(卷八冬難歌天皇御製歌左註・懐風藻靈異記等参照)佐保の内を過ぎて西行する事を佐保スギテと云はれたので、やはり歌姫越を越えられたのである。又本集卷一(第十七)に
 うま酒 三輪の山 あをによし 奈良の山の 山のまに いかくるまで 道のくま いつもるまでに つばらにも 見つつゆかむを しばしばも 見さけむ山を こころなく雲の かくさふべしや
とあるは無論歌姫越であろ。般若寺坂からは三輪山は見えぬ。さて歌姫越を経て山城國相樂郡の西部に入り、北行して綴喜郡の西部を過ぎ、泉河即木津川を渡り、更に北行して鷺坂宇治に到つたのであるが人麻呂が
 春草を馬くひ山ゆこえくなる雁の使は宿をすぐなり
とよめるは無論咋山の南方又は西方でよんだのでは無く咋山の東麓か又は北(280)方か即歌姫越の見當が咋山で隠れる方面でよんだもので無ければならぬ。否咋山の東麓は直に泉河に臨んで居るから若東方でよんだものとすると泉河の東岸でよんだものとせねばならず、然も咋山は※[草冠/日/取]爾たる孤丘に過ぎず又歌姫越は咋山の西南に當つて居るのでは無く適《マサ》に南方に當つて居るのであるから泉河の東岸から見ると歌姫越の見當は咋山に隠れはせぬ。もし雁が大和から人の如く歌姫越を越えて來るものとすると作者が咋山の北方(泉河の西岸)に居たので無ければクヒ山ユコエクナルとは云はれぬ。さて古の官道は咋山より東南方(たとへば今の玉水橋附近)で泉河を渡つたのであらうから咋山の北方は明に官道以外である
かやうに人麻呂が官道以外の名木河や咋山の北方に彷徨したのは特に咋山の北方には(雁ノ使ハ宿ヲスグナリとあるを思ふと)少くとも一夜以上滞在したのは何の爲であらうか。或は人麻呂は山城の國廳に勤務し職務上部内を巡行したのかも知れぬ。否確證は無いが山城國斑田使の下僚として勤務したのではあるまいか。班田使の事は略、本集卷三なる攝津國班田史生丈部籠麻呂自經苑之時判(281)官大伴宿禰三中作歌の註(新考五四三頁)に書いておいたが六年目毎に天下の公民に戸籍に照して田地を頒與する役で、十一月一日から翌年二月の末まで四箇月に亙つて足跡國内に※[行人偏+扁]きものである。さて其職員は長官・次官・判官・主典・史生で、史生は等外官の小役人である。天平元年の班田の時の歌は右の大伴三中作の長歌の外に卷九に笠金村作の長歌並短歌二首あり又卷二十に葛城王と薩妙觀命婦とが贈答した短歌二首がある。その金村作短歌の一なる
 ふる山ゆただに見わたすみやこにぞいもねずこふる遠からなくに
又葛城王妙觀贈答の
 あかねさすひるは田たびてぬばたまのよるのいとまにつめる芹これ
 ますらをとおもへるものを太刀はきてかにはの田ゐに芹ぞつみける
と、かの人麻呂の歌とを併觀するに氣分に一脈相通ずるものがあるやうに思はれる。又名木河作歌四首の内なる
 ころもでの名木の河べの春雨にわがたちぬると家しるらむか
のタチヌルといふ辭が旅行の途上で雨にぬれたやうには聞えず又同じく四首(282)の内なる
 家人の使なるらし春雨のよくれど吾をぬらすおもへば
 あぶりほす人もあらなくに家人の春雨すらを間使にする
の使又間使といふ辭が一處に滞在せる人に對する辭のやうに聞える。さて假に此等の歌を班田使勤務の時の作としても人麻呂が關與した班田は無論天平元年のでは無くそれより六七囘前の班田である(昭和十一年十一月二日稿)
 
(283)    烏白頭馬生角
 
萬葉集巻十秋相聞のうち寄黄葉歌に
 足引の山さなかづらもみづまで妹にあはずやわがこひをらむ
とある(新考二一九〇頁)。諸書に此歌をどう解釋して居るかと見るにまづ代匠記には
 山佐奈葛は山のさねかづらなり
とばかり云つて居る。次に略解に
 サナカヅラは和名抄五味(佐禰加豆良)と有て常葉なるものなれどマサキカヅラの如くたまたま色付事有なるべし
と云つて居る。こは卷十四なる
 兒もちやまわかかへるでのもみづまでねもとわはもふ汝《ナ》はあどかもふ
と同じく久シキ後マデと心得たのであるがサネカヅラは常緑なる物でカヘル(284)デのやうに紅葉するもので無いから、そこで「たまたま色付事有なるべし」と強言して自他の不安を慰めたのである。次に古義には
 山佐奈葛は山に生たる五味を云。歌意は山佐奈葛の色づくまで妹にあはずして戀しくのみ思ひ居むかとなり。これも(○前の葛葉の歌と同じく)佐奈葛のもみぢせるを見て時節のうつれるにおどろきなげきたるなり
と云つて居る。雅澄は久シキ今マデと心得て居るのであるが妹ニアハズテワガコフルカモなどあらで未來をかけて妹ニアハズヤワガコヒヲラムとあるのであるから、前の
 わがやどのくず葉日にけにいろづきぬ來まさぬ君は何ごころぞも
のやうに時節の移れるに驚き嘆く趣とは見られぬ。雅鐙はまづ第一歩に於て跌いて居る。次にその品物解に引ける小野蘭山の説の中に「冬を經て葉枯れず」とあれば雅澄もサネカヅラが常緑の物なる事を知つて居る筈なるに何故に打任せて「佐奈葛のもみぢせるを云々」と云つたのか不審である。せめてモミヂセルの上にタマタマとでもあつたら千蔭の如く心得たと思はれるであらうに
(285)抑サナカヅラは即サネカヅラである。但古くサナカヅラと云つたのを後世になつてサネカヅラと訛つたのでは無い。集中に狭名葛・佐奈葛とある(古事記應神天皇の段にも佐那葛とある)外に狭根葛・核葛ともある。されば奈良朝時代に夙くサネカヅラとも云つたのである。否サネが原で下へつづく爲にサナとなつたのであらう(稻・船が下へつづく時イナ・フナとなる如く)。さうして語義は核葛であらうう。即集中に核葛とあるは擬字では無くて正字であらう。漢名を五味といふは此葛の小果の核に五味を具せる爲で、特に植物の核に鹹味を有せるは此物のみであるといふ。かやうに特殊なる核のある葛であるから核葛と名づけたのであらう。眞滑《サナメ》又は眞萎《サナエ》の義とする説は從はれぬ。元來蔓性の木本で其葉の常緑なるは前に云へる如く、其茎を水に浸しおげば粘液が出るからフノリカヅラなどいひ、古人が其粘液を髪につけてその亂を防いだからビナンカヅラとも云ふのである」さて問題の山サナカヅラモミヅマデは彼東歌のワカカヘルデノモミヅマデとは全く別義で、久シキ後マデなどいふ事では無く、紅葉せぬ物の紅葉するまで〔十二字傍点〕と云へるにて、あるまじき事不可能なる事を云つたのである
(286)ここに漢書卷五十四季廣蘇建傳附載蘇武傳に
 乃徙2武北海上無v人處1使v牧v羝。羝乳乃得v歸
とありて顔師古の註に
 羝牡羊也。羝不v當2産乳1。故設2此言1示v絶2其事1。若2燕太子丹烏白頭馬生角〔六字傍点〕之比1也
とある、即漢武帝の時蘇武を匈奴に遣ししに匈奴の君|單于《ゼンウ》が武をバイカル湖畔の無人の地に移して牡羊を飼はしめ、若牡羊が子を生んだら歸してやらうと云つたのである。師古の註に見えたる燕太子丹の事は王充論衡の感虚篇に
 傳書曰。燕太子丹朝2於秦1不v得v去。從2秦王1求v歸。秦王執2留之1與v之誓曰。使2日再中、天雨1v粟令d烏白v頭馬生v角廚門木象生c肉足u乃得v歸。當2此之時1天地祐v之日爲再中、天雨v粟、烏白v
頭、馬生v角、廚門木象生2肉足1。秦王以爲v聖乃歸v之。此言虚也云々
とある。夙く史記荊軻傳にも(事由はちがつて居るが)
 太史公曰。世言荊軻其稱2太子丹之命1天雨v粟馬生v角也。太過
とある。ともかくも論衡に引げる傳書に據れば秦王即後の秦始皇が燕の太子丹を抑留して、若傾いた日が再中天にもどり、空から籾が降り、烏の頭が白くなり、馬(287)に角がはえ、廚門の木象に肉の足がはえたら歸してやらうと云つたのである
さて問題の歌は右の烏白頭馬生角などの故事又牡羊産乳の故事を下に蹈んで常緑ナルベキ南五味子ノ木ノ葉ガ紅葉スルマデハ逢ハレマイカと云つたのである。かやうに奇拔な歌が今まで認められずして平凡な歌の列に伍してゐたのは作者に對して聊笑止である(昭和十一年八月二十九日)
 
(288)    佐伯赤麻呂贈答歌 上
 
萬葉集卷四(新考七二七頁)に
 娘子報贈佐伯宿禰赤麻呂歌一首 わがたもと將卷跡念牟ますらをはなみだにしづみしらが生二有
 佐伯宿禰赤麻呂和謌一首 しらがおふることは不念なみだをばかにもかくにも求めてゆかむ
といふ贈答があるが贈答共に心得がたい歌である。まづ代匠記には
 此上句は大夫(○本に丈夫を大夫と書けり)ハ定メテ吾手本ヲ卷ムト念ハムズラムと云意にて、下旬はサレドモ我ハ君ニ逢見ヌ程ノ久シキニ戀テ臥沈ミ泣涙ニ色衰テオウナトナリ白髪生タレバ今ハ君ガ來マストモ恥カシクテ相見ル事アタハジとなり。大夫者と云所句絶なり
と釋して居る。マスラヲハナミダニシヅミシラガ生二有とあれば常識上マスラ(289)ヲハはナミダニシヅミシラガ生二有の主格と思はるるを契沖の説では
 マスラヲハは初二句の主格なるを其上には置かずして其下に置きたるにて、ナミダニシヅミシラガ生二有の主格は吾ハなるを略したるなり
と云へるにて甚しき牽強である。もし作者の意思が契沖の説の如くであるならば此歌は全然不調の歌である。又契沖の説の如くならば念牟(オモハム)はオモフラムヲと無くてはならぬ。次に略解には 宣長云。此歌は三一二四五と句をついでて見るなり。さて四の句の頭へ我ハ〔二字傍点〕といふことを添て心得べし。といへり。まことに然見ざれば聞えず
と云つて居る。即宣長の説は契沖の説とひとしい。從つて契沖に對して試みた余の駁論は宣長の説にも適中する。次に古義には結句を舊訓にオヒニタリとよめるを斥けてオヒニケリと改訓し、さて
 君丈夫ハ吾袂ヲマカムトオモホスラムヲ吾ハ君ヲ思フ涙ニシヅミ白髪サヘ生テイタク老衰ヘニケリ云々
と釋して居る。即契沖宣長の三一二四五とついづる説に據つて居る。雅澄は右の(290)釋の中に無意識にオモホスラムヲと云つて居るがオモハムはオモホスラムヲとは釋すべからず。否契沖以下の釋の如くんばオモフラムヲとあらずば叶ふまじき事上に云へる如くである。余は新考に
 第二句と尾句とに誤字あるべし(第二句はマカムトカオモフ、尾句はシラガオヒニタルヲなどあらでは通ぜず)
と云つておいた。即余は三一二四五とついづるとしても
 わがたもとまかむとおもはむますらをはなみだにしづみしらがおひにたり(又ハおひにけり)
とあつては叶はぬと信じたのである。畢竟余はこのままで三一二四五とついでてすます事をうべなはなかつたのである
つらつら思ふにマスラヲハは常識で思うた通りナミダニシヅミシラガ生二有の主格である。又生二有は舊訓の如くオヒニタリとよむべきである。又第二句の牟は將卷の下に(即將卷牟跡念と)あるべきで、第二句はマカムトオモフとよむべきである。
(291) ○マカムならば將卷にて然るべく、牟を添へるに及ばぬ事であるが、集中にはタレカスマハムを住舞無(一八七)と書きセキトセクトモを雖塞塞友(六八七)と書きホセドカワカズを雖凉常(一一四五)と書きシメシヨリを從標之(一三四八)と書きワレコヒヌベシを可戀奴(一九九九)と書きワガヌスマハムを將竊食(二五七三)と書ける類の例がある
又初二はマスラヲの屬文である。又此歌は久絶戀の歌にはあらで被挑戀の歌である。されば一首の意は
 我袂ヲ枕《マ》カムト思フ(思フラム)君ハ涙ニ沈ミ又白髪生ヒタリ(アナイトハシヤ)といふことである。これを思ふと赤麻呂は青年では無く中年の丈夫であつたと見える。無論老年では無かつたらう(昭和十一年十二月一日稿)
 
    佐伯赤麻呂贈答歌 下
 
次に赤麻呂の報歌を諸註にいかに解して居るかと※[手偏+驗の旁]するにまづ代匠記には
(292) 白髪ノ生ヒタラムハ厭ヒテモ念ハズ。涙ニ沈ムトノタマヘル涙ヲコソ如何ニモシテ往テ承ルバカリナリヤ求テ見ム。と云へるなるべし
と云うて居る。ナミダニシヅミシラガオヒニタリを娘子の上と解したから其結果としてかやうな釋を下したのであるが、もし此釋の如く白髪ノ生ヒタラムハ厭ヒテモ念ハズといふ意ならば直にシラガオフルコトハイトハズといふべく、いかで物遠くオモハズと云はうやは。又白髪の生ひたる事と涙に沈む事との内、好奇心をそそらんは白髪の生ひたる事なるべきをそれを措いて涙ヲコソ承ルバカリナリヤ求メテ見ムと云はうやは。次に略解には
 娘子ガ(○ニ)ヨシシラガオフルトモ(○オフトモ)イトハジ。カニカクニ其泪ヲシタヒ求メテ行テアハン。となり
と云ひ古義には不念をオモハジとよみ改め、さて
 ヨシソナタノイハルル如ク白髪ハ生タリトモイトフベカラネバ、ソコハオモハジ。トニモカクニモソノナミダヲ尋求テユヰテアハム。となり
と云つて皆契沖の顰に倣うて居る。元來萬葉集時代の贈答歌には古今集以後の(293)贈答歌とはよほど趣のちがつたものがある。此事は夙く新考一五三頁以下に屡云つておいたが、たとへば同書卷三なる同じ赤麻呂が娘子と贈答した
 ちはやぶる神の社しなかりせば春日の野邊に粟まかましを
 かすが野に粟まけりせば鹿《シシ》まちにつぎてゆかましを社しありとも
といふ歌の註(四九五頁)に
 元來いにしへの贈答には辭を承げて意を承けざるものあり。さるを意を承けたりと見ては釋き誤る事多し。今も娘子の歌にカミノ赴といへるは赤麻呂の妻をさして云へるを赤麻呂の歌にては娘子の情人をさしてヤシロといへり
と云つておいた。さて今の歌の如きも所謂正答では無く贈歌の中に白髪といひ涙といふ語のあるを取つて勝手に一首の歌をしらべ成したまでである。まづシラガオフルコトハ不念といふ辭を味はふにオフルはオヒタルでは無いから、人なり自分なりに今白髪のはえて居る事では無い。又不念は舊訓の如くオモハズとよむべきである。さうして此二句十二字は白髪ノハエル事ハ思ハズニ即白髪トナル事ハカマハズニと解すべきである。次にナミダは此贈答歌に戀水の字を(294)充てたる如く戀をする若い人特に若い女には附物である。されば第三句は君ガ流スラム涙ヲバと辭を補うて聞くべきである。次にカニカクニはサマザマニで、やがて骨ヲ折ツテといふ事である。終にモトメテは即トメテで、ツタツテといふに近い。されば一首の意は
 白首ニナルモカマハズニ骨ヲ折ツテ涙ノ川ヲツタツテ終ニハ其源ナルオマヘノ處ヘユキ著カウ
といふことである。或は暗々裡にかの漢の張騫が河源を窮めたといふ故事を蹈んだのでもあらう
 ○因に云はん。漢の張騫が河源即黄河の源を窮めて牽牛織女に逢うて始めて黄河が銀河の流末である事を知つたといふ事は多少學問をした人は誰でも聞知つて居る事である。たとへば續歌林良材集下巻(續々群書類從第十五所収)に
  張華ガ博物志云。天河與v海通。海濱年々有2浮槎1往來不v失v期。博望侯張騫〔五字傍点〕乃多齎2粮食1乗v槎而去云々
(295)とある。然るに張華の博物志(漢魏叢書所収)にはその雜説下に
 舊説云。天河與v海通。近世有1v人〔右△〕居2海渚1者u。年々八月有2浮槎1去來不v失v期。人〔右△〕有2奇志1立2飛閣於槎上1多齎v糧乗v槎而去云々
とある。即ただ人とあつて張騫とは無い。然らばその人に張騫を擬したのは我邦での事であるかと云ふに淵鑑類函卷五天漢二に
 荊楚歳時記曰。漢武帝令d張騫〔二字傍点〕使2大夏1尋c河源u。乘v槎經v月而至2一處1云々
とある。然るに漢魏叢書所収の荊楚歳時記を繙いてその七月七日の條を※[手偏+驗の旁]するに張騫尋河源の記事は無い。念の爲に漢書第六十一巻の張騫傳を讀むに張騫が河源を尋ねた事は見えずして騫の卒後の事を附記したる中に
 而漢使尋2河源1。其山多2玉石1。釆來。天子案2古圖書1名2河所v出山1曰2昆侖1云
とある。これより遥に前の處に
 於v是西北國始通2於漢1矣。然騫鑿空(○西域道ヲ開通シタノハ騫デアルトイフ事)。諸後使往者皆稱2博望侯1以爲2質於外國1(○質ハ信トイフ事)。外國由v是信v之
とあるから河源を極めたのは後の冒稱博望侯の一人であるのを誤りて初代(296)の博望侯即張騫と傳へたのであらう。銀河の事を傅會したのは無論後世の事である。どうでもよい問題である上に余には暇が無いから以往の穿鑿は好事者に譲らう(昭和十一年十二月二日稿)
 
(297)    強田山
 
萬葉集卷十一寄物陳思歌の中に
 山科の強田《コハタ》の山を馬はあれど歩ゆわが來つ汝をもひかねて
といふ名高い歌がある(新考二二八〇頁参照)。山城の伏見の東、今の京都市伏見區の中央に(深草山の南に續いて)伏見山がある。その東面即峠より東が木幡山である。
 ○古は全山を木幡山と云つたのかも知れぬ。伏見山といふ名は極古いものには見えぬ。新古今集に見えたる俊成の「ふしみ山松の陰より見わたせばあくる田のもに秋風ぞふく」などが古い内である
本集卷二なる
 あを旗の木旗《コハタ》の上をかよふとは目には見ゆれどただにあはぬかも
のコハタノウヘはやがて木幡山の上で山科の御陵からは西南に當つて居る。コ(298)ハタは古書に様々の字が充ててあるが今は木幡に一定して居る。伏見の北が深草、その深草と伏見との間即藤森神社の少し南方から入つて東に向ひ峠附近からは東南に向つて六地藏に到る山路がある。その山路を今矢品峠(又八科と書く)又八島峠といふ。山路の入口に八島といふ地名があるから八島峠といふのが原で、ヤシナは其訛であるかも知れぬ。此山路は豊臣秀吉の伏見城(所謂桃山城)や今の桃山御陵の北方に當つて居る。本題の歌の作者が越えたのは此山路であるかといふに古道即平家物語などに見えたる木幡峠は今よりモツト南方を通つて居たのを秀吉の築城の時山路から城内を見おろさるるを嫌つて北方に附替へたのであるといふ。然し附替へたのは恐らくは部分的であらう。少くとも六地藏への降口は略昔とかはらぬやうである。又深草からの登口は近年までは今少し北方であつた。即深草山と伏見山との界なる大龜谷から(即藤森神社の正門前から)はひつたやうである。元來此道は平安朝以來の大和街道の一節である。即深草から此道を經て六地藏に到り、それより宇治を經て久世郡長池に到つたのである(彼久世の鷺坂は其途中である)。然るに秀吉が伏見に築城した時に巨椋池を横(299)斷して長堤を築き深草から伏見を経て(即宇治を經ずして)長池に到るやうにしたのである。今の山路の峠から東方に向ふ小栗栖越といふ支路がある。明智光秀が山崎で敗れて近江の坂本城に逃げ歸らうとして通つたのは此路で、山下の南小栗栖に達して士民に竹槍で突殺されたのである。されば此道を又明智越といふ。今の矢品峠の附替以前は此明智越とは全然別であつたかも知れぬ。今伏見山の南をまはつて伏見坂を經て六地藏に到る道がある。之を南坂と稱し之に對して彼矢品峠を北坂と稱して居る。然し南坂の開けたのは後世の事であるから本題の歌の作者の通つたのは北坂否その古道である
歌に山科ノ強田ノ山とあるがコハタ山の東の登口は今は木幡と稱して山科の内では無い。舊宇治郡を南から數へると最南即宇治川の右岸が宇治村、其北が醍醐村、其北が山科村で、木幡は宇治村の西北端であるが山科ノコハタノ山といへるを見れば古は此あたりまでも山科と稱したと見える。本集卷九に
 山品の石田《イハタ》の小野のははそ原みつつやきみが山路こゆらむ
 山科の石田の社《モリ》爾布靡越者けだし吾妹にただにあはむかも
(300)といふ歌がある。又卷十三の長歌に山科ノ石田ノ森ノスメ神ニヌサトリムケテ云々とある(卷十二には山代ノ石田ノ社ニとある)。その石田は今イシダと唱へて醍醐村の西端である。即山科村の内では無い。これも亦山科といふ地域が今より遙に廣かつた證である。新考に此歌を釋して
 馬ハアレドは挿句なり。コハタノ山ヲ歩ニテ來ツといへるなり。汝ヲとあれば妹に向ひて即妹がり到り著きていへるなり。モヒカネテは思フニタヘカネテとなり
というておいたが此歌は無論男子の作である。さうして其男子は木幡と深草との間を通うたのであると思はれるが木幡から深草なる女の許に通うたのか又は深草から木幡なる女の許に行つたのかハツキリとせぬ。然し山科ノコハ田ノ山ヲといへるを思へば木幡から深草へ通うたのであるやうに思はれる。それより一層不明なるは馬ハアレドといふ一句の餘意である。拾遺集雜戀に
 題しらず 人麿 山科の木幡の里に馬はあれどかちよりぞくる君をおもへば
(301)とあるは原作とは大に趣がちがふ。即結句がちがふのみならずコハタノ山がコハタノ里になつて居る。又コハタノ里ニ〔右△〕とある爲にコハタノ里ニ馬ハアレドとつづいて馬ハアレドが挿句となつて居らぬ。されば原作を釋くには拾遺集なるを便にする事が出來ぬ。拾遺集なるは撰者が原作を訓みかね又解しかねてよい加減に調子を合せたのかとも思ふが恐らくは原集から抄出したのではあるまい。もし萬葉集を見たのであるならば作者を妄に人麻呂とし、コハタノ山を妄にコハタノ里と改むまじきが故である。又千載集物名なる源俊頼の
 我駒をしばしと借るかやましろのこはたの里にありと答へよ
は右の拾遺集なるに據つて作つたのであるから學問上何の権威も無い。然るに此等の歌が原になつて後世木幡里に馬をよみ合せる事になつた。さて馬ハアレドは馬ハアレド汝ニ心底ヲ見セントテワザト歩イテ來タといふ意かとも思へど、さらば結句のナヲモヒカネテの代に其由を云ふべきである。よつて思ふに恐らくは借馬ノ支度ノ出來ルヲ待チカネテといふ意であらう。それならば結句の汝ヲ念ヒカネテの中に含めたりとも見られるであらう。されば一首の意は木幡(302)附近の男子が深草なる女子の許に來て
 我ハ汝ヲ思フニ堪ヘカネテコノ木幡山ノ峠ヲ歩イテ來タヨ。借馬ハアルガ馬ノ支度ノ出來ルガ待遠イカラ
と云つたのである
 因にいふ。古史に見えたる木幡關の址は六地藏の西北なる山路の登口である(昭和十二年一月三日稿、同四日實地踏査)
 
(303)    石田杜
 
萬葉集卷九に宇合卿歌三首の内に
 山品の石田の小野のははそ原見つつやきみが山道こゆらむ
 山科の石田の社《モリ》爾布靡越者けだし吾味にただにあはむかも
とある。又卷十二に
 山代の石田の杜に心おぞくたむけしたれや妹にあひがたき
とあり又卷十三なる長歌の中に
 山科の 石田の森の すめ神に ぬさとりむけて 吾はこえゆく 相坂山を
とある。古、奈良都から東山道又は北陸道へ赴くには山背國の西南部と東北部とを經たのである。即山背を斜斷したのである。なほ云はば都の北方なる歌姫越を越えて當時の山背、後の山城の相樂郡の西部に出で綴喜郡の西部を經て泉川即(304)今の木津川を渡つて久世郡を經、宇治で宇治川を渡つて宇治郡山科を經、東北に向つて相坂山を越えたのである。近世宇治郡は山科・醍醐・笠取・宇治の四村に分れてゐたが近年山科村が東山區に入り醍醐村が伏見區に入つたから今の宇治郡は笠取・宇治二村だけである。さて石田は今はイハタと唱へずしてイシダと唱へるが醍醐村の内で、宇治村六地減と醍醐村醍醐との中間に當つて所謂奈良街道に沿うて居る。今の地名でいふならば京都市伏見區石田である。奈良街道は此處では西南から東北に向つて居るが石田の部落から北に入り西に折れて三町許行くと田中に一座の森がある。これが即石田社である。此社にいつけるは神名帳の天穂日命神社で、一時田中明神と稱したが今は再、式の如く稱して居る。神名帳久世郡に石田神社がある爲に萬葉集なる石田杜を之に擬して居る人もあるが卷九及卷十三に山科ノ石田ノモリとあるから久世郡の石田神社では無い。但卷十二なるは山シナノ石田ノ杜とはあらで山代ノ石田ノ杜とあるから宇治郡のであるか久世郡のであるか分らぬでは無いかといふ人もあらう。抑久世郡の石田神社は今は久世郡に属せずして綴喜郡に属して居る。即綴喜郡郁々城村大字(305)上津屋と同村大字岩田とに各村社石田神社がある。此村は和名抄の久世郡那羅郷であるから神名帳の久世郡石田神社は右の二村社の内、恐らくは大字岩田の石田神社であらう。さて比神社の所在は木津川の左岸なる平地で、一路の平安を祈るやうな地勢にあらず、又此歌と卷九なる山科ノ石田ノ社爾布靡越者といふ歌との間に思想上の關係があるやうであるから(新考一七二九頁參照)この山代ノ石田ノ杜もやはり山科の石田社であらう。さて卷九に
 山品の石田の小野のほはそ原見つつやきみが山路こゆらむ
とあるイハタノ小野は今の石田附近の地域であらうが其地は西、木幡山と東、醍醐山とに夾まれた地で、坦々たる奈良街道が通じてゐて、山路コユラムの山路に一致するものが無い。恐らくは昔は平地に故障(沼澤があつて紆囘せざるべからざるなどの)があつて東又は西の山麓を通つたのであらう。石田の東南に接して琴弾山がある(其東が日野谷である)。又西方には少し離れて又山科川を隔てて木幡山があるが、ここからも石田は明に展望せられる。さて山路とはその山麓の路を云つたのであらう(昭和十二年一月十五日稿)
 
(306)    竹取翁歌の一節
 
萬葉集巻十六なる竹取翁歌の中に
 海神之 殿蓋丹 飛翔 爲輕如來 腰細丹 取飾氷
とあつて舊訓にワタツミノ、トノノミカサニ、トビカケル、スガルノゴトキ、コシポソニ、トリテカザラヒと訓んで居る。腰細丹取飾氷に就いては後に云はうがワタツミノ以下四句は腰細を形容したる辭句である。さて從來スガルを一種の蜂として疑つた人が無いが、そのスガルが海神の殿の蓋に飛翔るといふ事が合點せられぬ。まづ契沖は舊訓に従うて
 海神之殿蓋は殿に懸たる華蓋《キヌガサ》なり。海神の宮殿の蓋に※[虫+果]羸の飛翔ると云事内外の典籍の中に定て本據ある事なるべし。後の人考へ給ふべし
と云ひ、次に考には野山コソアラメ海神ノ殿ヲイヒシ心得ズと云ひ、次に略解には
(307) ワタツミノ殿ノ蓋ニ云々古訓ミカサとあれど殿の事に由なしとして翁(○眞淵)イラカとよまれつ。野山こそあれ海神の殿にいへるは何の由にか心得ず。スガルは※[虫+果]羸なり。すべては蜂は腰細きをスガルはことに細き故にいふ也
といひ、次に久老の竹取翁歌解には
 海神より以下は腰細と云む料にいひて文《アヤ》をなせり。師(○眞淵)云。野山こそあらめ海神の殿をいひ出しは心得ずといへり。疑ら〔左△〕くは佛教などにある故事にや。管見考る所なし。蓋はイラカとよむべし。神代紀にも穿殿甍と見えたり
といひ、次に古義には
 海神は綿津見神なり。蓋は岡部氏イラカと訓る宜し。さて野山こそあらめ海神の殿をいひ出しは心得ずと岡部氏云るは信にさる事なり(但し所由《ユヱ》なくしてただに海宮をいふべきにあらねば例のさる外國の故事などにありつらむ。されどここはさまで物遠き事を設出べき處にもあらず)。すべてかかる異様なることを設出たるなど此作者の癖なりけり
と云つて居る、以上諸家の説を通覧するに(308)殿蓋をトノノミカサとよめば殿内にてミカサを用ふる事と聞ゆれどさる事あるべきにあらねばトノノイラカとよみ改むべく、さるにても殿の甍に蜂の飛翔らむ事は常に見ゆる所にはあらで異様なる事なれば何か故事ありてそれに據れるならむ
と云ふのである。げに常智にて解けば此外に解くべきやうの無い事であるから余も新考(三三五二頁)に
 スガルは一種の蜂なり。蓋を眞淵はイラカとよめれどスガルが大厦の甍に飛ばむこといかがあるべき。按ずるに蓋はヒサシとよむべきか。ヒサシは古くより庇と書げど字書に庇(ハ)蔽也覆也とあり又蓋(ハ)掩也覆也とあればヒサシを蓋とも書かむこと必しも無理ならず(卷十一にはワガヤドノノキノシタクサのノキを甍と書ける例あり)。いづれにもあれ此四句には典據あるべし
と云つておいた。即余も前人の藩落を出る事を得なかつた。ただ蜂の如き高くは飛ばぬものを大厦の甍に飛ばすのはふさはしく無いと思うたから蓋をヒサシと訓み改めたまでである。今にして思へば前人の説と五十歩百歩の差に過ぎな(309)かつた。元來この竹取翁歌は思想・句法・用語・用字共に頗奇僻である上に誤脱が頗多いから之を解釋するは甚困難である。されば從來此歌を大意だけでも正解した人が無い。抑此歌は一篇百十二句を首十三句・中九十二句・尾七句の三段に分つて見べきであつて、首十三句は幼時の状を云ひ
 ○第十三句の服我矣を從來キシワレヲと訓んで居り新考にもそれに從つたが、よく思ふにここは七言句で無げればならぬ。さてキタリシワレヲと訓むにしても脱字ありとせねばならぬ
中九十二句は美少年時代の状をいひて其末にカクゾシコナルといふ事を反復して居る。それが爲に句法が亂れて五七、五六(七)、五七、五七、六(五)八(七)七」四(五)七、五七、五七七となつて居る。さて尾七句に古人が老人を敬ひし例を擧げて九人の娘子を戒めて居る。又中九十二句中初の十句には髪の事をいひ、次の十二句には衣の事をいひ、次の十句には裳の事をいひ、次の十二句には沓の事を云ひ、次の十四句には帶の事を云ひ、次の二十七句には装成りて外に出づれば出逢ふ男女は勿論心なき雉や雲やまでが目を留め心を寄せるばかりなりしが今はカクゾ醜ナル(310)といひ、次の七句には更に反復してさるを今は汝等に嗤はれるばかりカクゾ醜ナルと云つて居るのである。されば大體は新考によつて正解せられたと信ずるが其一枝一節に至つてはまだ明ならぬ事が少く無い。其中でも特にたどたどしきはかの海神之殿蓋丹飛翔爲輕如來の四句である。熟思ふにその蓋を舊訓にミカサとよめるは無論わろく新考にヒサシとよんだのもよろしく無い。今の處では眞淵がイラカとよめるに從ふ外はあるまい。さて大厦の甍は蜂を飛ばすに不適當なる事前に云つた通りであるが、このスガルは蜂の事ではあるまい。スガルヲトメの略で即天女の事であらう〔このスガルは〜傍点〕。宮殿の空に天女の飛翔る状を繪畫にかけるを見慣れて所謂海神の宮殿もさうであらうと想像して奇を貪るあまりにワタツミノ神ノイラカニトビカケルスガルノゴトキと云つたのであらう。さて腰細丹はトリカザラヒの形容にはあらでワガ細キ腰ニ取飾リと云へるなれば新考に云へる如く細腰丹の顛倒としてホソゴシニとよむべきであらう。又取飾氷を舊訓にトリテカザラヒと訓んで居るが、ここはテに當る而の字が無いから略解古義の如く六言にトリカザラヒと訓むがよからう。此歌に就いては右の外にも(311)二三の心附があるがあまり長くなるから他日稿を改めて云ふ事にしよう(昭和十二年三月六日稿)
 
(312)    小端見反戀
 
卷七譬喩歌寄花歌に
 この山の黄葉下花矣我小端見反戀
とある。第二句以下を舊訓にモミヂノシタノハナヲワガハツハツニミテカヘルコヒシモとよんで居る。然るに契沖は
 黄葉下花とは此は小春の比暖氣に催されて梨櫻躑躅山吹などのめづらしく一枝咲ことのあるに寄たるなるべし、反戀は今の點にては反は上に連なりて花を見て還るにて此を句として更に戀しと云意なり。されどもいかにぞやあるなり
と云つて結句をカヘリテコヒシとよみ改めて居る。次に略解には
 小春のころ歸り花とて春咲し花のともしく咲こと有をいふか。又は龍膽の花などをいへるか。いづれにもあれはつかに見し女にたとふる也
(313)といひ、次に宣長の咲花〔二字右△〕我小端見乍〔右△〕戀の誤としてモミヂノシタニサク ハナヲワレハツハツニミツツコヒシモとよむべしといへる説を擧げ、終に
 此歌の書ざま矣のかななど書添べくもあらねば右の説しかるべし
と云つて居る。宣長の説を是認したるは同意せられぬが此歌の書式にては矣を添ふべきにあらずと云へるは尤である。恐らくは取外しであらう。次に古義(第四冊四九八頁)には宣長の改字に從ひ、ただ結句をミツツコフルモとよみ更へて居る。新考(一三八六頁)には宣長の説を評して
 案ずるにハツハツニはチトバカリといふことなればミツツといはむと相かなはず。しばらく契沖の訓に從ふべし。さてモミヂノ下ノ花は契沖のいへる如くかへり花なり。さてこそハツハツニミテとはいへるなれ
と云つておいた。實は契沖の訓でもまだおちつかぬから「しばらく契沖の訓に從ふべし」と云つておいたのである。再按ずるに反は可の誤で〔六字傍点〕
 この山のもみぢのしたの花をわがはつはつにみばこひしかるべし〔九字傍点〕
とよむべきであらう。即ヨク見テオカヌト心殘ガ多カラウといふ意であらう、可(314)の草體に尾の一畫が加はると反の字になる(昭和十二年四月九日稿)
 
(315)    水良玉五百都集乎解毛不見
 
卷十秋雜歌七夕歌の中に
 しら玉のいほつつどひをときも見ず吾者干可太奴あはむ日まつに
とある。まづ第四句を舊訓にワレハカカタヌとよんで居る。さて契沖はカを添辭としカタヌを結の意として居る、考には吾在哥太奴の誤としてワガアリガタスと訓んで「アリガタヌはアリガテヌ也」といひ略解にはもとのままでワレハホシガタヌとよんで
 ホシガタヌは泪をほしがたき也。ガタヌは不勝(ガテヌ)といふに同じ。又おもふに上に泪ともいはで干といへるもいかが。干は在の誤にてアリガタヌか(○眞淵の説なり)
といひ古義には干を在の誤としてアハアリカタヌと訓んで居る。然しアリ得ズの意ならばアリガテズとこそいふべけれ、ガタヌと云ふべきで無い。按ずるに干(316)はげに在の誤字であらう。太は.集中にテにも借りて居るからアリガテヌとよむがよい(新考二〇三六頁参照)。さてもなほアリガテズと云ふべきが如くであるが、こはガテズの略辭格で卷十四なるユキスギガテヌイモガイヘノアタリと同じくカナ・ヨなどをいひ残したのである(新考一四三七頁及三〇三四頁参照)次にシラ玉ノ五百ツツドヒヲ解キモ見ズを釋して矣沖は
 此歌は相日を待つ飾に五百箇の手珠を解もせずして結びて居ると織女に成てよめるなり
といつて居る。即契沖はシラ玉ノイホツツドヒを手玉の事とし、そを身に著けたる事をトキモ見ズと云へりとして居る。手玉としてはツドヒといふ語が妥ならざるのみならず、そを身に著けたる事を云はんとならば手ニマキテと云ふべきである。
 ○卷十八なるシラタマノイホツツドヒヲ手ニムスビは手玉の事なる證とはせられぬ。この手ニム スビは手にすくふ事である。手玉として手に結び附くる事では無い
(317)略解には
 古へ萬のもの玉を飾りたれば紐にも帶にもつけたるなるべし。イホツツドヒは玉の数多きを云
と云つて居る。即イホツツドヒとあるが手玉には餘ると思うたから紐帶などに配り分げたのであるが實際紐に帶に玉を附けた例があるだらうか。たとひ有つてもその玉を附けたる紐帯などを解かぬ事をシラ玉ノイホツツドヒヲトキモ見ズとは云はれまい。古義にはイホツツドヒを代匠記の初稿本に従つて「一すぢの緒にて五百箇の玉をぬきたるをイホツツドヒといふといひ「十八に手ニムスビとよみたればたなばたの手玉にかざるなり」と云つて居る。その説の誤なる事は上に云へる如くである。古義には又
 トキモミズは解看ルコトヲモ得セズといふなるべし。手に纏たる玉を再び解て試ることをする間のなきよしなり○歌意は白玉の五百つ集の手玉を装ひ飾てかたちづくりして今か今かと彦星の來坐てあはむ日を立待によりてその飾の手玉を再び解て試むることをも得せず心を安むる間もなくして待に(318)在にも在られず堪がたしとなるべし
と云つて居るが、アハム日マツニとあれば七月七日の趣ではなくて数日前の趣である。數日前から装ひ飾りてかたちづくりして待てりとするだに無理なるに手玉を解き見る暇もなしとせるは如何。さる暇は無論あるであらうが、たとひ暇が無くても何が故に手玉を解き見ぬ事が氣にかかるのか全然不可解である。要するに前人は皆比歌をいたく誤解して居る。余は新考(二〇三六頁)に
 トキモミズは手に卷きたるを解きも見ずといふ事かと思へどなほ穏ならず。解は卷の誤にあらざるか
と云つておいた。再按ずるに當時地方官などが歸京前に地方産の珍物をサキミヤゲとして妻に贈つた事があるであらう。作者はそれによそへて牽牛が七月七日に織女の許に來る前にサキミヤゲとして眞珠一器(しら玉のいほつつどひ)を贈つたものとして織女がそのよろこばしい贈物の包を解きだに見ずしてひたすらに牽牛の來るを待ちかねたる趣によみなしたのであらう。されば初句の前にサキミヤゲトシテオ贈リ下サレタといふ事を加へて見るべきである(昭和十(319)二年四月八日稿)
 
(320)    水陰生山草
 
萬葉集卷十一及卷十二なる柿本人麻呂歌集より採りたる寄物陳思歌の内に
 ぬばたまの黒髪山の山草にこさめ零敷益益所思(二四五六號、新考二三〇〇頁)
 山河の水陰生山草のやまずも妹がおもほゆるかも(二八六二號、新考二五六一頁)
といふのがあつて、その山草を舊訓にヤマスゲとよんで居る。之に就いて代匠記(卷十一上四〇頁)に
 山草は點(○傍訓)のやう意得がたきに似たれどヲバナを草花とかける類に例すべし。若はヤマクサにて狼毒(○和名抄訓註夜末久佐)にはあらで唯山の草を云へる歟。されど第十二に山河水陰生山草とよめるは第四に奥山之磐影爾生流菅根乃とよめると同じ體なれば唯本點(○舊訓)に任すべし
といひ略解(國民文庫刊行會本下巻二八頁)に「山草と書たれど事の樣山菅也」とい(321)つて居る(眞淵の人麻呂集考の説のままなり)。然るに古義には卷十一(國書刊行會本第五冊九三頁)に「山草は山菅の誤なるべし」と云ひ又卷十二(同二九八頁)に
 草は菅の誤なり。草菅草書似て混れやすし。さてヤマスゲノは不止をいはむ料の序なり。下にも山菅之不止而公乎念可母云々とあり
と云つて居る。げに菅の草書を草の草書に誤つたのであらう。轉じて卷十二の歌の第二句に就いて云はんに舊訓に之をミカゲニオフルとよんで居る。契沖は此訓に従つて居るが略解(一三七頁)にはミヅカゲニオフルと改め、さて
 陰一本隱に作る。ミゴモリとも訓べし。卷十天ノガハ水陰草ともよめり。是は水にこもれる菅をいふべし
と云つて居る。古義(第五冊二九七頁)には更に字を水隱に、訓をミゴモリニ改めて
 隱字舊本に陰と作るはわろし。今は一本によりつ。ミゴモリニオフルと訓べし。十卷に天漢水隱草ともよめり。十一にはミヨシヌノ水具麻ガ菅ヲアマナクニとあり
と云つて居る。細井本及活字無訓本に水隱とある。略解古義に一本と云へるは即(322)是であらう。然らば卷十二なる歌は古義の訓に從つて
 やまがはのみごもりにおふるやますげのやまずもいもがおもほゆるかも
と訓んでよいかと云ふに茲に一の不審がある。抑萬葉集に菅といへるものには二種ある。辭を換へて云はば本集には二種の相異なる植物を併稱して菅と云つて居る。たとへばオク山ノ菅ノ葉シヌギオク山ノ磐モト菅ノ、オク山ノ磐カゲニオフル菅ノ根ノなどよめるは山菅即今名ヤブランで百合科の植物である。之に反してサキ沼《ヌ》ノ菅ヲ笠ニヌヒ、ミヨシ野ノミグマガ菅ヲアマナクニ、サキ澤ニオフル菅ノ根ノなどよめるは笠菅で莎草科の植物である。山河ノミゴモリニオフルとあるミゴモリニは水中ニ没シテといふ事であるが山菅は陸上に生じて、決して水中に没して生ずるもので無い。そこで初には山菅の山字を或字の誤で無いかと疑つたが、ヤマスゲノヤマズモとかかれる序であるから山字を疑ふ事は出來ぬ。又そこで轉じて疑をかけたのは第二句である。此句は流布本に水陰生とあるを雅澄が水隠生の誤としてミゴモリニとよんだのであるが陰はやはりもとのままで水字が誤ではあるまいか。思ふままを云へとならば云はうが水陰は(323)恐らくは石陰の誤でイソカゲとよむべきであらう。卷三にもオク山ノ磐カゲニオフル菅ノ根ノとある。イソは大岩の事である。山河の岸の大岩の陰に山菅即ヤブランの生じたるを山河ノイソカゲニオフル山スゲノと云つたのであらう。山菅はさる處にも生ずるかと云ふに無論生ずべきが上に本集卷六なる授刀寮に散禁せられたる人の作つた長歌(九四八號)の中に千鳥ナクソノ佐保川ノ石《イソ》ニオフル菅ノ根トリテとある。或は卷十にアマノカハ水陰草ノアキ風ニナビクヲ見レバ時ハ來ヌラシといふ歌があるから水陰でもよいでは無いかと云ふ人があるかも知れぬが、水陰といふ語はあるべくも無い。これは眞淵のいへる如く水隠草の誤でミゴモリグサとよむべきである。但そのミゴモリグサを眞淵は水股ニ生ヒタル草といふ意として居るが、それは誤で水中ニ生ヒタル草である(新考二〇三七頁参照)。又或は一二の本に水隠生とあるからやはり雅橙のいへる如くミゴモリニオフルとよむべきであるまいかと云ふ人があるかも知れぬが、異本と云つても細井本などは権威のあるもので無い。たとひ権威のある本であつても唯理是從ふべきである
(324)因にいはむ。卷十一なるヌバタマノ黒髪山ノ山草ニ小雨零敷益益所思の四五を代匠記にコサメフリシキマスマスオモホユとよみ略解古義にコサメフリシキシクシクオモホユとよんで居る。余はコサメフリシケバ〔三字傍点〕マスマスオモホユとよんで
 旅路にてよめるにて四五の間に妹ガといふことを省けるなり。フリシケバは降頻レバなり
と云つておいた(新考二三〇〇頁)。益益はマスマスとよむべきは勿論、シクシクともよむべきである。ここはやはり略解(實は人麻呂集考)及古義の如くシクシクとよむべきであらう。即コサメフリシケバシクシクオモホユとよむべきで、シクといふ語を弄んだのであらう。無論第四句は余の新考によめる如く小雨フリシケバとよむべきである。又因に云はむ。和泉式部集に山陰ニミガクレオフル山クサノヤマズヨ人ヲオモフ心ハとあるは今の歌に據つたのである。當時今の歌をどんなに訓んだかといふ事を知るには足らう(昭和十二年四月七日稿)
 
(325)    梅爾可有家武
 
萬葉集卷十冬雜歌詠花の内に
 たが苑の梅爾可有家武ここだくもさきにたるかも見我欲までに
といふ歌がある(新考二二〇七頁)。第二句を舊訓にウメニカアリケムとよんで居る。さて略解に
 右(○前なるウメノハナマヅサクエダヲといふ歌)の答なるべし。男の家の梅と知ながらおぼめかして誰苑の梅かはしらねども見ても又見まほしくあかざるまでにさきたる裁といふ也。宣長云。家は良の誤にてアルランなるべしといへり
といひ、古義にも舊訓のままにウメニカアリケムとよんで
 歌意は「此はそも誰家の苑の梅にてありけむぞ。見ても見ても飽ず見まく欲きまでにそこらく面白く吹たる花哉。嗚呼さても見事や」となり。これは梅花を折(326)ておこせし人によみてやれるなるべし(略解に「これは右の答歌なるべし。男の家の梅と知ながらおぼめかして誰苑の梅かはしらねども見まほしくあかざるまでにさきたる哉」と云れどいかが○家武は良武の誤にてアルラムなるべしと本居氏は云れど右の説の意ならば元のままにて然るべきにこそ)
と云つて居る。余は新考に
 有家武は宣長のいへる如く有良武の誤なり○略解に右の答なるべしといへるは非なり
と云つておいた。再按ずるに此歌は梅の折枝を見てよめるにてコハモトタガ家ノ梅ニカアリケムと云つたのである。されば第二句はもとのままで舊訓の如くアリケムとよんでよい。以上は古義に釋せる如くである。但結句の釋は略解古義には從はれぬ。二書には結句をミガホルマデニとよんで
 ○これに對しては新考に「ミガホルといふ語は無し。宜しくミガホシキマデニと八言によむべし」と云つておいた。ミガホシキマデニは契沖の訓である
略解には見テモ又見マホシクアカザルマデニサキタル裁と譯し古義には見テ(327)モ見テモ飽カズ見マクホシキマデニソコラク面白ク咲キタル花哉と譯して居るが目前の物を見て飽かざる事を即見アカヌマデニといふ事を見ガホシキマデニとは云はれぬ。ここに見ガホシキマデニと云へるは原木ガ見タイホドといふ意である(昭和十二年四月七日稿)
 
(328)    多奈和丹 上
 
卷四相聞歌の中に
 吾毛念人毛莫忘多奈和丹浦吹風之止時無有
とある。後撰集雜歌四に
 題しらず 均子内親王 我も思ふ人もわするなありそ海の浦ふく風のやむ時もなく
とあるは今の歌の一輯訛である。又六帖第五雜思の中のあひおもふ〔五字傍点〕に
 君もおもへ我も忘れじありそ海の浦ふく風のやむ時もなく
とあるは轉訛といふよりは寧變更である。さて今の歌は舊訓に
 われもおもふひともわするなおほなわにうらふくかぜのやむときなかれ
とよんで居る。略解古義には第二句をヒトモナワスレと改めて居る。又宣長は結句の無有を無爾(なしに)の誤ならむかと云って居る(玉の小琴)。余は新考(七一一頁)(329)に之を許して
 後撰にも六帖にもヤム時モナクとあれば、げに本集なるはナシニとぞありけむ。さてそのナシニは初句に還りかかれるなり
と云つておいた。されば此歌は
 われもおもふ人もなわすれ多奈和丹うらふく風のやむ時なしに
とよんで可なるかと云ふに第二句のヒトモナワスレに對して初句はワレモオモハムと無くては叶はぬ。恐らくは吾毛將念の將を脱したるものとして又はもとのままにてワレモモハムとよむべきであらう。さて第三句は何とよむべきか。舊訓にオホナワニとよめる事は初に云つた如くであるが代匠記には此訓に從つて
 第八第十一にアフサワニと云詞あり。大方ニと云意と聞ゆれば此オホナワニと同じ詞か
と云つて居るが、アフサワニとオホナワニとは同語にあらず又アフサワニは分ヲ辨ヘズと云ふ意であつて大カタニといふ事で無い(新考一五八〇頁及二二三(330)九頁参照)。又多奈和丹を大カタニの意としては一首の筋が通らぬ。次に宣長はその玉の小琴(全集第五冊六三八頁)に
 三の句アサニケニの誤ならむか。旦爾氣丹か。オホナワと云言、例もなくいかがに聞ゆ。オホサワと云こと(○アフサワの誤)は有ども爰はオホサワにても聞えぬ也。朝ニケニといへば止時無と云に能叶へり
と云つて居る。次に略解には
 オホナワの詞心ゆかず。卷十一アフサワニといふ詞とも異也。くさぐさ考あれどとにかくに誤字なるべし。宣長は旦爾祁丹の誤にてアサニケニならんかといへり。猶考べし
と云ひ古義には
 多奈和丹誤字なるべし。此歌六帖には君モオモヘ我モ忘レジアリソ海ノ浦フク風ノ止時モナク(後撰集には吾モ思フ人モ忘ルナアリソ海ノ云々とあり)とあるを思へばもと有曾海乃などありしをよりよりに寫し誤れるにや
と云つて居る。後撰集は均子内親王の作として居るから萬葉集に據つたので無(331)く六帖は吾毛念人毛莫忘の處を君モオモヘ我モ忘レジとして居て後人の手が加はつて居るから二書にアリソ海ノとあればとて二書の時代に傳はりし萬葉集には有曾海乃とあつたであらうとは妄斷せられぬ。又偶然であるかも知れぬが萬葉集にはアリソ海といふ語は見えぬ。アリソ海といふ語の見えたるは古今集以來であるが、もし萬葉集の時代にアリソ海といふ語があつたらアリソ囘《ミ》といふ語とどうして區別したらう。翻つて思ふに此歌の第三句は地名と見るが平穏である。夙く古義にも宣長のアサニケニといふ説を評して
 なほ浦吹風とあるをおもへば地名などにこそありつらめ
と云つて居る。もし地名とするならばその地名と浦とを繋ぐ辭はノで無くてはならぬから丹字は乃字などの誤とせねばならぬ。さて然らば多奈和は如何なる地名の誤字又は誤脱ぞ。假に和字をもとのままとして海邊の地名で都人の耳に熟せざる地名で(もし耳に熟したる地名ならば誤脱を生ずる事はあるまい)四言で又和で経つて居る地名はと探すならば外にもありはしようがまづ頭に浮ぶのはタカナワである
 
(332)    多奈和丹 下
 
しばらくタカナワ即多可奈和の脱字としそのタカナワを今の東京市芝區の高輪としてそれで故障がありはせぬかを吟味しようが、まづタカナワといふ地名は奈良朝時代から有つたかどうか。次に此地名の假字はタカナワかタカナハか(高輪の外に高繩とも書けり)。次に此歌は東人の作では無くて都人の作と思はれるが都人が今の高輪の地を蹈んだ事があるだらうか。まづ此等が當面の問題である。高輪といふ地名は古い物には見えぬ。鎌倉九代後記政氏代大永四年正月の記事の中に「氏綱時刻ヲ移サズ武州江戸城ヘ押ヨス。城主朝興品川迄出張、氏綱ガ先陣ト上杉ガ先勢曾我神四郎某高繩原〔三字傍点〕ニテ行向ヒ相戰フ」とあるのが一般に人の知つて居るものの中で最古からう。吾妻鏡文治五年七月の條に高鼻和太郎といふ人名の見えたるは或は此地名から出た氏かも知れぬ。ともかくも古い物に見えて居らぬから古くは無かつた地名であるとは勿論云はれぬ。元來タカナワは高塙の略である(地名辭書既言)。ハナワは東國の方言で、丘陵の差出でたる處を(333)いふと見える。塙と書くは邦字で、高土の會意字である。なほツバキ・クスノキ・ハギを椿楠萩と書くが如くである。漢字の塙には ハナワの義は無い。さて塙の假字はハナワであるかハナハであるか從來疑問となつて居るが、ハナは山鼻・竹ガ鼻などいふ地名の鼻に齊しかるべく(美濃の竹ガ鼻も昔はタケガハナワと云ひき)ワは囘の意(即三輪のワ)であらうからハナワと書くが正しからう。今高輪と書くは一時訛つてタカノワと云つた事があるからノを略して高輪と書き始めたのであらう。もし古中ともにタカナワと云つたのであるならば高繩とのみ書いて高輪とは書くまじきが故である。次に都人が此地を知つて居たか否かの疑を決せんに此地は國府にこそ遠けれ東海道に當り殊にその大井驛に近かつた。抑武藏國の驛は延喜兵部式に店屋・小高・大井・豊島各十疋とある。是より前の事の國史に見えたるは續紀神護景雲二年三月に
 東海道巡察使式部大輔從五位下紀朝臣廣名等言。……下總國井上・浮島・河曲三驛、武藏國乘潴(○一本桑瀦)豊島二驛承2山海兩路1使命繁多。乞准2中路1置2馬十匹1。奉v勅依v奏
(334)又同書寶龜二年十月に
 太政官奏。武藏國雖v属2山道1兼承2海道1、公使繁多祗候難v供。其東山驛路從2上野國新田驛1達〔右△〕2下野國足利驛1此便道也。而〔右△〕枉從2上野國邑樂郡1經2五箇驛1到2武藏國1、事畢去日又取2同道1向2下野國1。今東海道者從2相摸國夷參驛1達2下總國1其間四驛、往還便近。而〔右△〕去v此就〔右△〕v彼損害極多。臣等商量。改2東山道1属2東海道1公私得v所人馬有v息。奏可
とあるだけである。資料は僅に是だけであるが明に思ひ細に視れば是に依つて奈良朝時代の驛路を知ることは困難ならざるに何故か近世の歴史地理學者は往々誤解して居る。されば以下の文を讀むにはまづ二三の書を讀んで得た先入観念を一掃して虚心坦懐ならんことを要する。まづ寶龜二年の太政官奏言中の達はイタラムニ、二つの而はシカルニ、就はツケルハとよむべきである。此等の訓が當を得ぬだけでも誤解が起る。さて武藏國には東海道即相摸から下總に到る古道が通じてゐたが、國その物は寶龜二年までは東山道に屬してゐたのである。如上野國新田驛から發して同國邑樂郡(舊訓オハラギ、今オフラと唱ふ)を通り五筒驛即下總の井上・浮島・河曲《カハグマ》の三驛及武藏の乘瀦《ノリヌマ》・豊島《トシマ》の二驛を經て武藏の國府(335)即今の北多摩郡府中町に達し用終れば同じ五驛を經て新田驛に還り又下野に到らんとするには同じ五驛を経て井上驛から足利驛に達したのである。又東海道は相摸の夷參驛から武藏の五驛(店屋・小高・大井・豊島・乘瀦)を經て下總の河曲驛に到り此處で二路に分れて一は下總の國府(今の國府臺)を経て上總安房に到り一は浮島・井上の二驛を經て常陸に入つたのである。さればこそ武藏の豊島・乘瀦・二驛、下總の河曲・浮島・井上三驛は東山東海兩道兼帶の驛であつたのである。然るに寶龜二年に武藏は東海道に属せられたからこれより後は東山道は上野の新田驛から直に下野の足利驛に到る事となり東海道は相摸の夷參驛から武藏の店屋驛に到り國府に用があれば此驛から分れて國府に到り國府に用が無ければ此驛から次驛小高に向つたのである。延喜式には乗瀦驛が無い。後に廢せられたのであらう。此驛は恐らくは今の川口町附近にあつたであらう。地名辭書には豊島と國府との間に(乗瀦を剰瀦の略としアマヌマとよんで舊杉並町の大字天沼に)擬して居るが若それならば東山道の一驛であつて承山海兩路とあるに當らぬでは無いか。又同書に下總の三驛中井上を豊島に最近い驛と認めて隅田村(336)寺島村附近に充てて居るが神護景雲二年紀に下總國井上浮島河曲三驛とあるは東山の本道を基として列擧したのであるから井上は上野から下總に立入つた處で無けれぼならぬ。恐らくは下總の古河附近であらう。さうして豊島に否乗瀦に最近い河曲は恐らくは松戸附近であらう。次に和摸の夷參《イサマ》驛は靈龜二年紀に見えて居るが延喜式に見えぬ。此驛の所在は前書に云へる如く高座郡(本訓タカクラ、今カウザと音讀す)座間村であらう。延喜式には夷參驛は見えずして濱田驛が見えて居る。恐らくは近傍に移して名を更へたのであらう。次に武藏の店屋驛は和名抄郷名に都筑郡店屋驛家とあるから都筑郡にあつたのである。前書に之をマチヤと訓んで南多摩郡南村大字鶴間に擬して居る(同村に町屋原といふがあればなり)。此地は都筑郡に接して居るから郡界が變動して今南多摩郡に屬してゐるのかも知れぬが此地とすると前驛夷參と近きに過ぎ次驛小高と遠きに過ぎる。距離から見ると今の都筑郡の田奈村中里村附近であるらしい。店屋はタナヤと訓むべきでは無いか。但店をタナといふを古語にあらずとして土佐日記に「山崎のたな〔二字傍点〕なる小櫃の繪も」云々とあるタナをも誤字とする説がある。店は(337)古語にイチグラと云つたが.やうやうにイチダナと變つたのでは無いか。クラは座、タナは棚で共に貨物を置く處と思はれる。次に小高は和名抄郷名に橘樹郡驛家とあるから同郡の内である。地理を按ずるに丘陵から多摩川の谿谷に下つて少し行つた處であらうから今の川崎市大字|新城《シンジヤウ》の附近であらう。新城は上中下の三字に分れて南武鐵道に跨つて居る。或は丘陵の麓なる橘村大字千年であらうかとも思ふが、やはり丘陵から少し離れた處であらう。前書には小田中《コダナカ》を小高驛に擬して居る。今の川崎市大字上小田中及下小田中は新城の東に接して亦南武鐵道を夾んで居る。されば地理の上からは此處でも差支は無いが、ただコダカとコダナカと音の近きを證據として小田中はやがて小高の轉訛であらうといふ説は受けられぬ。次に大井驛は今の品川である。次に豊島驛は地名辭書に今の麹町區平河町附近で北豊島郡豊島村(今の王子區豊島町)にあらずと云つて居る。さて小高驛と豊島驛との間は今の丸子附近で多摩川を渡つて丘陵を越えて東北行して大井驛に到りそれより高輪を經て北行して豊島驛に到つたのである。されば高輪臺は東海道に當つてゐたのである。臺の下は無論海であつたらう
(338)右の如くであるから萬葉集巻四なる吾毛念といふ歌の多奈和は多可奈和の脱字として今の東京市芝區の高輪臺に充てても少しも扞格する所が無い。さて此歌は高輪で否大井驛家で相知つた女に贈つたのであらう。或は初句はやはりワレモオモフとよむべきで故郷なる人に贈つた歌であらうと云ふ人があるかも知れぬがそれならば少くともワレゾオモフと云はねばならぬ(昭和十二年四月十三日稿)
 追記 柴田常惠君に乘潴驛考がある。それには乗を剰の略字として剰瀦をアマヌマと訓んで埼玉縣大宮町に充てて居られる。大宮町の大字に上天沼下天沼があるからである
 
(339〜357、索引省略)
 
(358)  ワ
 君江郡              一六一
 和名抄地名訓話ノ誤        一八九
  ヰ
井(用水)             一八七
ゐのへ、ゐど、ゐなか        一八七
井上驛(下總)           三三六
  ヱ
餌香市               一五三
餌香市邊橘本            一五五
惠賀河               一五四
餌賀河原              一六五
  ヲ
呼《ヲ》※[口+於]7】驛(和泉)  一九一
をトイフ地域             一九二
小栗栖《ヲグルス》越(明智越)    二九九
小笹が峯               二四七
小佐野和泉               一〇
をつ(もどる)              三
雄信達《ヲノシンタチ》村(和泉)   一九二
雄山脈                一九三
雄山峠                一九五
遠里小野《ヲリヲノ》         二二〇
 
昭和十三年三月十日 印刷
昭和十三年三月十五日 第一刷發行
   萬葉集追攷
      定價貮圓五拾錢
著  者    井上通泰《ゐのうへみちやす》
發 行 者 東京市神田區一ツ橋二丁目三番地
         岩波茂雄
印 刷 者 東京市神田區錦町三丁目十一番地
         白井赫太郎
發 行 所 東京市神田區一ツ橋二丁目三番地
          岩 波 書 店
2006.1.18(水)午前10時50分 入力終了  米田進