伊勢名勝志、川島文化堂、1889年11月〔草書の紹介文等は省略〕
 
(1)     凡例
一 此書ハ伊勢國名區古蹟等ノ其地方ニ顯著ナルモノヲ輯録シ分チテ山川、邑里、神祠、梵刹、原野、濱海、園林、谿淵、洞窟、樹石、行宮址、城砦及宅址、館址、關址、古墳、古戰場ノ拾六門トナス但シ項目ノ中別ニ部門ヲ置クニ足ラザルモノハ各異類ニ依リ附載ス例ヘバ山川ノ中ニ岡、坂、堤、橋ヲ載セ濱海ノ中ニ島嶼ヲ載スルノ類是レナリ
一 此書は從來地誌等ニ登載アルモノハ力メテ網羅スト雖モ其輓近世ニ著ハレ新ニ名勝トナスベキモノ(2)及ビ社寺ノ本編ニ載セザルモノ等ハ異日後編ヲ發行シテ其缺ヲ補ハント欲ス故ニコヽニ畧ス
一 此書ハ遠近遊覽者ノ便ヲ計リ併セテ其土地ノ沿革故事等ヲ尋繹スルノ資ニ供センコトヲ欲ス故ニ力メテ其要旨ヲ摘采シ迂怪ノ談冗雜ノ説ハ之ヲ避ク是レ其實際ニ効用尠キヲ以テナリ
一 城址ノ中一邑又ハ數邑ヲ領セシ土豪宅址ニ城址ノ名ヲ附スルハ妥當ナラザレドモ慣用ノ稱呼ニ據リテ今之ヲ改メズ
一 本州地誌ノ書概ネ桑名郡ヲ編首ニ置ケリ此書度會(3)郡ヲ首メトナスモノハ本郡ハ大廟ノ在ル所ニシテ名區古蹟等特ニ著シキヲ以テナリ
一 此書引用書及ビ古老口碑アルモノハ一々其目ヲ掲ゲ以テ據ル所ヲ明ニス然レドモ古今ヲ考索スルハ一難事ニシテ淺劣吾儕ノ敢テ當ル所ニ非ズ其疏脱紕繆ノ如キハ大方ノ君子幸ニ是正ヲ賜ヘ
一 此所編纂ノ業ヲ竣ルハ本縣市町村區畫制定已前ニ在リ故ニ町村名ハ舊稱ニ據ル看者請フ諒セヨ
 明治二十二年十月      著者識
 
〔目次、1〜32頁略〕
 
(1)伊勢名勝志〔活字の潰れ等で判読不能のもの多し、〓で表記。〕
                宮内黙藏 著
  度會郡               
 
     山川
 
神路《カミヂ》山 【一ニ神道山ニ作ル又宇治山、天照山、鷲日山、太山、神龍山、大福山、津長原、轉法輪山等ノ別稱アリ】 内宮宮域東南ノ山峯ヲ稱ス【或ハ云フ内外兩宮宮域ノ諸山(高倉山ヲ除ク)を總稱スト】山間巨杉老樹蓊欝天ヲ衝キ日ヲ蔽遮ス五十鈴川其麓ヲ繞リ幽邃閑雅詣拜者ヲシテ自ラ神境ノ靈威ヲ感ゼシム【五鈴遺響、勢國見聞集、三國地誌、勢陽俚諺、伊勢參宮按内記】
   千載               西行
  ふかく入て神路の奥を尋れは又うへもなき峯の松風
   新古今            太上天皇
  詠めはや神道の山に雲消て夕の空をいてん月かけ
   鈴屋集            本居宜長
(2)   ものいはゝ神路の山の神杉に過し神代の事を問はまし
 
高倉山【高佐山、日鷲山、賀利佐賀峯、左貴山、〓不驚稍々あ、音無山、郭公不爲聲山等ノ別稱アリ】 山他常盤町に在り外宮宮域ニ接ス高貳百尺周回九町余徃昔ヨリ神宮ニ属セシガ明治八年官林トナレリ樹木鬱葱山中ノ景神路山ニ髣髴ス山上、山田市街及ヒ尾、參、遠諸州ノ峯巒ヲ望ム風景佳絶ナリ【五鈴遺響、三國地誌、伊勢參宮按内記】
   神祇百首           度會元長
  ほとゝきす鳴ぬならひを知れとてや音無山に名を殘すらん
   蜑の囀今様          足代弘訓
  いすゝの川も氷とけ高倉山も霞むなり内外の宮の隔なくさかゆる春に成にけり
 
藤岡山【小鹽山御井山ノ別稱アリ】 高倉山ノ西北ニ在リ山下ニ天忍穗井アリ初メ日向國藤岡山【高千穗峯】ニアリシヲ丹波國眞那井ニ移シ雄略天皇ノ時復(3)タ此ニ移ス因テ藤岡山ノ稱アリ【三國地誌、古屋艸紙、勢陽俚諺】
   神祇百首           度會元長
  花咲は眞名井の水を結ふとて藤岡山にあからめなせそ
 
皷(ガ)岳【一名高原山又前山】 山田ノ東南ニ在リ宮川、五十鈴川ノ間ニ屹立ス東部ヲ林崎ト稱ス元ト文庫アリテ多ク古今ノ典籍ヲ藏ス文庫ノ西二町許天明中建ツル所孝經碑アリ【伊勢考古録、五鈴遺響】
   歌枕名寄            鴨長明
  はやし崎まわてはいかて通るへき鼓の岳を打詠つゝ
 
瀧波山 山田岡本町世義寺境内ノ邊ヲ指ス徃昔市街ヲ離レ幽邃ノ地タリ今尚風騒ノ客 坪ヲ曳クモノ多シ【五鈴遺響】
   新名所歌合         荒木田成言
  瀧波の山越しにきく鹿の音に寢覺さひしき岡本の里
 
(4)朝熊《アサマ》山 朝熊村ニ在リ志摩國界に接ス山上ニ金剛證寺アリ殿堂巍々トシテ名區奇跡頗ル多シ山奧ニ呑海庵及ビ富士見臺アリ内海ヲ隔テ、駿、遠、參、尾、濃等ノ諸山皆望中ニ属ス參宮ノ客登山スルモノ絶エズ本州中ノ高山ニシテ著名ノ勝地ナリ
   續拾遺           荒木田延季
  跡たれて幾世經ぬらんあさ熊やみ山を照す秋の夜の月
                   村庵
  曾聞2人説1思重々、呑海庵前望2士峯1、四十由旬半空雪、雲間一朶玉芙蓉
 
晝川山 朝熊村ノ北方字龜森ノ邊ヲ總稱ス徃昔鳥羽街道ヨリ五十鈴川ノ支流江川ノ邊一般之ヲ晝河山ト稱セシガ積年ノ久キ田圃或ハ山林ニ變シ爲メニ其區域ヲ詳ニスル能ハズ【五鈴遺響、古老口傳】
(5)   伊勢記            鴨長明
  月ハたゝひる川山に雲消てひかりも見せぬ鹽合の濱
 
音無《オトナシ》山【一名江山】 江村ニ在リ安養山ノ南方ニ位ス【本郡ニ音無山ト稱スルモノ二アリ一ハ高倉山一ハ此山ヲ云フ古歌詠ズル所多ク此地ヲ指ス】峯巒高ク聳エ北方、内海ニ面ス嶺上、松樹二株アリ方俗之ヲ國見松又伊勢義盛物見松ト稱ス【徃昔ノ松ハ枯槁シテ今在ルモノハ新株タリ】樹下尾、參、遠、駿、甲、信等諸州ノ山岳ヲ矚望スベシ風景絶佳ナリ
   夫木              花山院
  音なしの山にやけふはうくひすの聲めつらしく人の聞らん
   同               鴨長明
  松やあらぬ風やむかしの風ならぬいつれの秋か音なしの山
   御裳濯集        皇太后宮常陸母
  音なしの山の外まてきこゆなりしのひかねたる小男鹿の聲
 
(6)神崎《カウザキ》山【一ニ神前山ニ作ル】 松下村字紙前ノ海濱ニ在リ風光佳絶ナリ東北、内海ニ面シ海風爲メニ暴ラシ按ズルニ此地神前神社ノ在ル所ニシテ倭姫命世紀ニ謂フ所荒崎ノ地ナラン
   西行法師住侍りける安養山と云ふ処ニ人ゝ歌讀み連歌なとし侍りし時海邊落葉と云ふ事を讀みて             鴨長明
  秋をやく神崎山は色きえてあらしの末に海士のもしほ火
 
浮嶋山 今詳ナラズ或ハ松下村海邊ニアル山岳ナリト云ヒ又伊氣浦ノ海中ニアル孤島ナリト云フ神宮雜例集ニ度會郡二宮御領ノ内浮島御厨ヲ載ス然レドモ洋中孤島居民ナク御厨ヲ供スベキノ理ナシ前説或ハ是ナラン【五鈴遺響】
   家集               躬恆
(7)   いさやはた身のうき島に渡りなん沈みつゝのみ世を經れはうし
貝吹《カヒフキ》山 楠部村ニ在リ鹿海村ノ山脉ニ連ル高大約百五拾尺東北、内海ニ面ス傳ヘ云フ徃昔此地戰闘アリシトキ螺ヲ吹キ軍ヲ聚ム故ニ此名アリト或ハ云フ徃昔時刻ヲ市中ニ報ズルガ爲メニ螺ヲ此ニ吹キシト【五鈴遺響、勢國見聞集】葢シ其地市街ニ遠シ前説或ハ是ナラン
 
小富士山【淺間山、伊勢富士等ノ別稱アリ】 牧戸村ノ東北ニ在ル山峯ヲ云フ山上ニ富士淺間祠ヲ安ンズ形チ富士山ニ彷彿ス方、四五里ノ地ヨリ眺望スベシ【五鈴遺響、勢陽俚諺】
 
宇治岡【浦田坂】 宇治浦田町ニ在リ尾部坂ニ連ル俗ニ間ノ山ト稱ス【元ト此地ニ三絃ヲ彈シ錢ヲ旅人ニ乞フノ婦女アリ俗、オ杉オ玉ト稱ス今廢ス】外宮ヨリ内宮ニ至ルノ正路ナリ古昔尾上山ヨリ峯巒相連リ通行尤モ艱メリ天正中田丸城主稻葉通直豐臣氏ノ命ニヨリ浦田坂ニ至ル迄ノ嶮ヲ拓キテ平坦ノ地トナス追年(8)民屋櫛比遂ニ今ノ市街ヲナスニ至ル浦田坂【俗ニ牛谷ト云フ宇治岡及ビ浦田坂ノ名神宮雜事記嘉暦公卿勅使記等ニ出ヅ其名夙ニ著ル】始メ險ニシテ通ズルコト尤モ難シ且犬馬ノ死屍ヲ棄テ大ニ神境ヲ汚セリ延寶二年内宮一禰宜氏富巨資ヲ棄テ嶮峻ヲ夷カニシ遂ニ今ノ參道ヲ開クニ至ルト云フ【舊蹟聞事、三國地誌、五鈴遺響、勢陽俚諺】
 
織部《オリベ》坂【一ニ下部坂ニ作ル】 高宮ニ到ルノ坂路ヲ云フ神境廣博記ニ檜尾織部坂云々ヲ載ス即チ是ナリ【三國地誌、伊勢參宮名所圖會、五鈴遺響】
   神祇百首           度會元長
  炭竈も斧の音をもせぬ山に誰かおりへの坂にありてふ
 
五十鈴《イスヾ》川【一名御裳濯川又宇治川】 源ヲ神路、島路ノ二山ヨリ發シ皇太神ノ南西ニ至リ合流シテ内海ニ入ル倭姫命世紀ニ五十乃河上  仁遷幸于b時河際  爾志※[氏/一] 倭姫命御裳齋長 志※[氏/一]計加禮侍 介留於洗濯給 江里從v其以降號2御裳須曾河1云々ト記セリ水泉清冽川底ノ魚數フ可シ其名上古ヨリ高シ
(9)   新古今              中納言匡房
  君か代は久しかるへし度會や五十鈴の川の流れ絶せて
   續後撰            太上天皇
  我末の絶す佳まなんいすゝ河底にふかめて清きこゝろを
   同              藤原俊成
  宮柱たきつ岩根の五十鈴川万代すまん末そはるけき
 
宮川【度會川度會大川、豐宮川等ノ別稱アリ】 本州中ノ大川ナリ源ヲ多氣郡大臺(ガ)原山ニ發シ諸川ヲ合シ本郡ヲ經テ東流、海ニ入ル徃昔齋内親王神宮ニ詣ルノ時此ニ祓禊ス後世勅使ノ到ルモノ亦同ジ毎歳五月【陰暦】外宮宮人此川ニテ年魚ヲ漁シ神饌ニ供ス【上古、忍穂海人年魚ヲ取リ神宮ニ献ズ後世以テ例トス】之ヲ御川神事ト稱ス【延喜式、江家次第、元長記、鎭座本記、勢陽俚諺】
   萬葉             柿本人麿
(10)  度會大河邊若歴木吾久在者妹戀鴨《ワタラヒノオホカハノベノワカクヌキアレヒサナラバイモコインカモ》
   新拾遺            後鳥羽院
  朝夕にあふく心を猶てらせ浪もしつかにみや川の月
 
豐川 外宮宮域ノ西北ヲ廻流ス二橋アリ一ヲ北御門橋一ヲ一鳥居橋ト云フ北御門橋ノ西ニ石垣アリ慶長四年大阪營中朝日局ノ造ル所タリ近傍ニ兜石アリ徃昔出陣ノ者神宮ヲ拜スル時此石ヲ撫スルヲ例トセリ【五鈴遺響、伊勢參宮名所圖繪】
 
勢田《セイタ》川 勢田村ノ山間ヨリ發シ皇太神宮々域ヨリ出ル所ノ諸谿流ヲ合シ河崎、神田久志本村、田尻村等ヲ經テ内海ニ注グ此川運輸ニ便ニ往昔神宮木材及ビ御贄連漕等ノ諸神事アリ又沿岸ニ河邊里アリ風景頗ル佳ナリ
 
落合川原 宇治瀧察ノ邊ヲ指ス即千五十鈴川ノ北涯ニ屬ス【五鈴遺響、勢國見聞集】
(11)   伊勢神道山の月杉の梢にかくれて御裳濯川の西の落合川原にかけ見えけれは讀侍る                 僧通海
  月は早神路の峯に出ぬらん御河の西に影そ凉しき
 
敗北河原【一ニ廢亡河原ニ作ル】 山田常盤町字出口ニ在リ文明中外宮祠官村山武則ノ兵國司北畠氏ト戰ヒ又慶長五年關(ガ)原役喜多庄藏ナルモノ西軍ニ属ジ本郡中島ニ戰ヒ共ニ敗走セシ處ナリ故ニ名ヅク往昔ハ沙漠ノ地ナリシガ今ハ田圃トナレリ【五鈴遺響】
 
未曾《ミソガ》瀬 今詳ナラズ葢シ宮川ノ末流、潮水ノ遡ル邊ナラン其地多ク海苔ヲ産スト云フ【三國地誌、勢國見聞集】
   名寄              鴨長明
  さか鹽はみそかせませてさしのほるすを過て行入に問はや
 
清盛堤 山田常盤町字大間廣ニ在リ形?僅ニ存ス往昔宮川此邊ヲ流(12)ル?々洪水ノ害アリテ山田市中ニ横流シ將ニ神宮ニ及バントス朝廷之エオ憂ヒ平清盛ニ命ジテ堤防ヲ修築セシム清盛乃チ自ラ此ニ到リ工事ヲナシ以テ害ヲ免ルト云フ【勢陽俚諺】
 
宇治橋 五十鈴川ニ架ス是ヨリ以内ヲ神宮域内トス傳ヘ云フ天文中慶光院ノ開祖清順尼始メテ之ヲ架シ永享中將軍義教參宮ノ時之ヲ修造ジ爾來今ノ如キ壯觀ヲナセシト【勢國見聞集】
 
大沼橋址 宇治浦田町ニ在リ今、長堀ト稱ス相傳フ此邊往昔ハ大沼【一ニ世木浦ト云フ】ニシテ橋ヲ架セシト【建久年中行事記】
   新名所歌合         大中臣定忠
  立こもる大沼の橋はほのみへて霧にくれ行秋の小山田
 
     邑里
 
神境八景 寛政二年岡田挺之神境八景ヲ撰ス曰フ
(13)  山田夜雨 高倉暮雪 光明晩鐘 神路晴嵐 朝熊秋月 宇治夕照 二見落鴈 大湊歸帆
 
山田(ノ)原 山田市街ノ地ヲ通稱ス往古沼木郷ノ一村里ナリシモ外宮鎭座已來神コヲ仰ギ來リ集ルモノ多キヨリ人家漸ク櫛比シテ今ノ都會ヲナスニ至レリ【勢國見聞集、五鈴遺響】
   玉葉                源順
  神のます山田の原の鶴の子は歸るよりこそ千代はかそへぬ
   新古今               西行
  きかすともこゝをせにせん時鳥山田の原の杉のむらたち
   鈴屋集             木居宣長
  ところから山田か原のすきかてに鳴音もしけき時鳥かな
 
岡本(ノ)里 山田岡本町ノ内舊ト上之切、中之切、下之切ノ地ヲ稱ス倭姫命世(14)紀ニ大國玉神ト佐々良姫參來迎2相土橋郷岡本村1云々ヲ載ス即チ其舊地タルコト知ルベシ往昔此地岡陵ニ属シ西南部纔ニ村落ヲ成セシガ今ハ街衢トナレリ【五鈴遺響】
   新名所歌合            大中臣定忠
  染あかぬ紅葉はのこる浮雲のしくれてかゝる岡本の里
 
河邊(ノ)里 山田河崎町ノ地ヲ稱ス【或ハ云フ宮後町字川邊ノ邊ナリト】今、人家櫛比シ船舶輻湊の地タリ【勢國見聞集、古老口碑】
   新名所歌合            荒木田尚良
  すむ人やくるれはまとにあつむらん河邊の里に飛ふ螢かな
 
藤波(ノ)里【一ニ藤浪里ニ作ル】 佐八《サウハチ》村字藤波ニ在リ宮川ノ清流ニ枕ム今耕圃タリ往昔内宮祭主藤波氏宅ヲ此ニ設ク【三國地誌、五鈴遺響、勢國見聞集】往昔岸邊一帶ノ松林タリ後年出水ノ時沈没セリ【古老口碑】
(15)   新名所歌合        大中臣定忠
  行春をとゝめかねては万代を松にそ契る藤なみの里
 
岩出(ノ)里 岩出村ノ地ナリ宮川ニ沿フ往昔神宮祭主ノ居住セシ処ナリ【勢陽俚諺】
   新拾遺             伊勢大輔
  かすかなる谷のほらをそ思ひやる秋風のみや吹てとほらん
 
岩浪(ノ)里 今詳ナラズ蓋シ宮川ノ邊ニアリシナラン【勢國見聞集、勢陽俚諺】
   新名所歌合          大中臣定忠
  秋風も川音高く更る夜につきかけさゆる岩なみの里
 
櫻木(ノ)里 朝熊村字櫻木ノ地ヲ指ス今、社地及河岸場タリ往古朝熊村ノ枝村ニシテ一部落ヲナセシガ元和中洪水ニ罹リ民居悉ク一宇田村ニ徙ル【五鈴遺響、古老口碑】
(16)   新名所歌合      大中臣定忠
  月にくれてちかつくまゝに白雲の花になりゆく櫻木の里
 
登遠《トホルノ》里 通《トホリ》村ノ地ヲ云フ【勢國見聞集】
   未木              大貳高遠
  行道の通るの里に御祓して今そ島根を出はなれける
 
豐宮崎 山田岡本町ニ在リ外宮ノ東部ニ接ス鼓(ガ)岳其前面ニ聳ユ四面林巒圍繞シ其間、田圃小流相連ル古昔之ヲ錦河内、錦小河等ト稱ス境域幽靜ニシテ近郷ノ勝地タリ神宮文庫アリ之ヲ宮崎文庫ト號ス慶安中度會延佳等創建ス神書及ビ和漢古今ノ典籍ヲ藏ス【五鈴遺響、伊勢參宮按内記】
                  佐々木弘綱
  櫻さく豐宮崎の文庫にふみよむ人の聲かをるなり
 
     神祠
 
(17)神宮之圖(内宮)〔図は省略、数年以前のときの状態と同じ、2015年現在、相当に樹木が伐採・剪定されたようで、この図のようではない。明るい広場のようになって、小さい木が少しあるだけ。〕
(18)神宮之圖(外宮)〔省略〕
(19)神宮【一ニ内宮又五十鈴宮、朝日宮ト稱ス】 宇治五十鈴川上ニ在リ宮域面積拾貳萬六千坪餘天照大神ヲ祀ル天手力雄命、萬幡豐秋津姫命ヲ配祀ス垂仁天皇二十五年倭姫命神誨ニ因テ祠ヲ此ニ建ツ兩宮ノ事歴朝ノ青史ニ赫々タリ【特ニ神宮ノ事ヲ記セル書及ビ災異雜事ノ如キ枚擧ニ暇アラズ今茲ニ贅セズ】朝廷特ニ之ヲ敬ジ國家ノ安寧ヲ祈リ大事アル毎ニ必ズ先ヅ使ヲ遣ハシ之ヲ告グ往昔齋宮ヲ設ケ皇女ヲ以テ之ニ充テ大神ニ侍セシム又神領神戸ヲ獻ジ二十一年毎ニ神殿ヲ改造シ遷宮ノ式ヲ行フ永ク定例トス今ニ至ル迄千八百九十有餘年其間世亂ニ際シ遷宮式ヲ欠キ或ハ神地ヲ穢サルヽコトアリト雖モ、我日本ノ民庶永ク其靈コニ浴シ特ニ往テ之ニ詣拜スルモノ古來四時絶エズト云フ域内別宮、攝社、末社及ビ東西寶殿、四丈殿、五丈殿、外幣殿御酒殿、忌火屋殿、宿衛屋、御厩、御倉、瑞垣、玉垣、蕃垣、御門、鳥居等森然タリ【古事記、日本書紀、倭姫命世紀、鎭座本記、神宮雜事記、神宮文書】
(20)   玉葉           鎌倉右大臣
  神風や朝日の宮の宮うつし影のとかなる世にこそありけれ
   同               度會元長
  神の代の春やたつみのうしの山都の空も今朝かすむらむ
   拾遺愚草            藤原定家
  さやかなる月日のかけにあたりても天照神を頼はかりそ
 
神宮【一に外宮又豐受宮度會宮ト稱ス】 山田(ノ)原ニ在リ宮域面積拾壹萬七千坪餘豐受大神ヲ祀ル天彦々火瓊々杵尊、天太玉命、天兒屋根命ヲ配祀ス雄畧天皇廿二年之ヲ創建ス皇大神宮ヨリ後ルヽコト四百八十二年域内別宮、攝社、末社、東西寶殿、四丈殿、五丈殿、九丈殿、外幣殿、御饌殿、御酒殿、忌火屋殿、宿衛屋、御厩、瑞垣、玉垣、蕃垣、御門、鳥居等嚴然トシテ内宮ニ同ジ【引用書内宮ニ同ジ】
   續後拾遺            藤原俊成
(21)  かけまくもかしこき豐の宮柱なほき心は空にしるらん
   參詣記               西行
  何事のおはしますかはしらねともありかたさにそ涙こほるゝ
 
荒祭宮 内宮宮域ニ在リ皇大神宮荒御魂ヲ祀ル内宮ノ別宮タリ【引用書前ニ同ジ】
 
月讀宮【月讀訳森】 二處アリ一ハ北中村ニ在リ一ハ山田宮後町ニ在リ月讀命ヲ祀ル共ニ神宮ノ別宮タリ【引用書前ニ同ジ】
   風雅              後宇多院
  とこやみをてらす御かみのかはらぬは今もかしこき月讀の神
   新吉今            西園寺入道
  さやかなる鷲のたかねの雲井よりかけやはらくる月讀の森
 
伊弉諾宮 北中村月讀宮宮域ノ西位ニ在リ伊弉諾、伊弉冊ノ二尊ヲ祀(22)ル内宮ノ別宮タリ【引用書前ニ同ジ】
   久安百首          後九條内大臣
  あまつたふ月日とたへていさなきのみことのさため世は明らけし
   同               定清朝臣
  いさなみのますみの鏡手にとりてうみしもしるくてらす月よみ
 
瀧原宮【瀧原並宮】 野後《ノジリ》村ニ在リ皇大神御魂ヲ祀ル内宮ノ別宮タリ【引用書前ニ同ジ】
   夫木                西行
  浪と見る花のしつえの岩枕瀧の宮にや音よとむらん
   同                 爲家
  瀧の原ならひの宮の神たから猶末つヽく沖津しら浪
 
土宮 外宮宮域ニ属ス土乃御祖神ヲ祀ル外宮ノ別宮タリ大治三年度(23)會川堤守護ノ爲メ宮號宣下アリシト云フ【引用書前ニ同ジ】
 
多賀宮【一ニ高宮ニ作ル】 外宮宮域ニ属ス豐受大神荒御魂ヲ祀ル外宮ノ別宮タリ本宮ニ到ルノ坂ヲ下部坂ト云フ坂路ノ傍ニ袖曳石、袖摺石等ノ名石アリ【引用書前ニ同ジ】
 
風宮 二處アリ一ハ外宮宮域一ハ内宮宮域ニ在リ級長津彦命ヲ祀ル共ニ神宮ノ別宮タリ元ト風(ノ)社ト稱セシヲ弘安外寇ノ變神風アリテ兵船ヲ吹キ沈メシヨリ正應中宮号宣下アリシト云フ【引用書前ニ同ジ】
   名寄                西行
  この春は花ををしまてよそならん心を風の宮にまかせて
 
朝熊神社【一ニ小朝熊社ト稱ス方俗櫻宮ト云フ】 朝熊村ノ乾位ニ在リ櫻大刀自神ヲ祀ル内宮ノ攝社ナリ此地山ニ倚リ川ニ臨ム川ヲ隔テ鏡宮アリ【本社ノ神鏡ヲ祀リシモノナリト云フ】風光頗佳ナリ境内昔時櫻樹多カリシガ今枯槁セリ【五鈴遺響、伊勢參宮名所圖繪】
(24)   風雅            荒木田定忠
  春風に岩根のさくら吹たひに浪の花ちる朝熊の宮
 
箕曲中松原神社 山田岩淵町字箕曲ニ在リ大歳神ヲ祀ル創立詳ナラズ祭日八月廿一日【社記】
 
磯神社 磯村ニ在リ天照大神御靈ヲ祀ル社傳ニ云フ垂仁天皇ノ時倭姫命皇大神ヲ奉ジテ此地ニ到リ行宮ヲ奉齋シ後、宇治五十鈴川上ニ鎭座ス舊址【寶殿脇又本殿脇ト云フ】ハ後年宮川洪水ノ時崩壞セシニヨリ今ノ地ニ遷セシト祭日一月五日同十日十一月一日【社記】
   續古今          皇后宮太夫師繼
  神風やいすゝ丑の町のいそのみや常世の浪の音そのとけき
 
岩瀧神社 野後村ニ在リ國狹槌尊ヲ祀ル垂仁天皇ノ時創立祭日十一月廿日【社記】
 
(25)仙宮神社 河内《カウチ》村ニ在リ猿田彦命、天鈿女命ヲ祀ル創立詳ナラズ祭日六月十三日【社記】
 
大御田 二處アリ一ハ楠部村ニ在リ内宮ノ御田タリ一ハ藤里村ニ在リ外宮ノ御田タリ【天長田ト稱ス天上ノ神田ヲ移セシモノナリト云フ毎歳神樂皷吹シテ其盛儀ヲ擧行セリ】毎歳五月【陰暦】御田植ノ神事アリ共ニ今廢ス【神宮儀式帳、五鈴遺響】
   神祇百首            度會元長
  我國に長田の早苗うつさすはイカゝせん世のとみくさのはな
 
     梵刹
 
金剛證寺 朝熊村ニ在リ臨濟宗【兼眞言宗古義派】山城南禅寺末ナリ欽明天皇ノ時僧曉臺此山ヲ創開シ天皇行幸且伽藍創造アリ推古天皇十年厩戸皇子臨幸佛舍利ヲ納ム聖武天皇又行幸アリテ堂宇ヲ再建シ方一里ノ地ヲ賜ヒ勅願所ト定メラル元ト諸宗兼學ニシテ一定ノ宗旨(26)ヲオカズ大同二年僧空海大神ノ託宣ニヨリ此山ニ上リ中興ス元中七年僧東岳來住シ將ニ絶エントスルヲ興シ大ニ經營ス是ニ至テ始テ禅眞兼學トナレリ後、九鬼守隆、コ川家康、紀伊藩主等各寺領ヲ給ス寺ニ左馬頭源義朝大刀一口【備後國助包作】所《トコロ》ノ碁盤一個【家康寄附ニシテ所ハ御碁所トノ謂ナルベシ】ヲ藏スト云フ境内名區頗ル多ク爲メニ往テ訪フモノ少カラズ【寺記、五鈴遺響】
 
清雲院 山田尾上町ニ在リ淨士宗知恩院末ナリ寛永七年僧尊譽創立ニシテ吹上町ニ在リシガ延寶中今ノ地ニ再建ス本寺ハコ川家康ノ妾清雲院殿【阿夏尼ト稱ス】ノ開基ナルヲ以テ俗呼テ阿夏寺ト稱ス徃時ハ什寶多ク就v中村菊琵琶ト稱スルモノハ名器ナリシガ今ハ散逸セリ惜ム可シ【寺記、五鈴遺響】
 
世義寺 山田岡本町瀧波山ニ在リ眞言宗山城醍醐寺末ナリ天平中聖武天皇ノ勅創ニシテ元ト前山龜ノ郷ト云フ地ニアリシヲ永禄中外宮ノ西ニ移シ寛文十一年今ノ地ニ移セリ往古塔頭十九坊アり輪番(27)之ニ住ス後、本坊ヲ威コ院ニ合ス本寺例歳如法經會修行ノ式アリ俗ドウヒト稱ス此法會ハ播磨書寫山ト本寺ノミナリシト云フ【寺記、五鈴遺響】
 
光明寺 山田岩淵町ニ在リ臨濟宗東福寺末ナリ天平十四年聖武天皇創建帝及後深草、後醍醐天皇ノ勅願所タリ元應元年結城宗廣堂宇ヲ再建シ其子月者ヲ中興開山トス此寺元ト本郡鼓(ガ)岳ニ在リシヲ山田吹上町ニ移ス後、今ノ地ニ點ズ寺ニ宗廣自筆ノ勅製軍法軍中日記【往昔コ川光國之ヲ珍賞シ後遂ニ梓ニ上ス】ヲ藏ス又後深草帝ノ時常盤井入道實氏寄附ト稱セル梵鐘アリ傳ヘ云フ神境元ト鐘ヲ撞クコトヲ禁ズ天正中外宮神官等本寺ノ撞鐘ヲ禁ゼント欲シ豐臣秀吉ニ訴フ秀吉乃チ上部越中守ニ一片ノ公文ヲ下シタリ公文ニ曰フ
 書中逐披見候山田鐘之儀大神宮嫌にて自昔無之由聞屆候得共鐘一つ者有之由朱にて書付仕可置候重而自是可申遣候先書(此處文字不祥)(28)如中とるへきにあらす候(【此處文字不祥】)可然儀と猶近々可申聞者也
  十月八日        秀吉朱印
           上部越中守殿
 
國束寺 東原村國束山上ニ在リ天台宗推古天皇ノ時厩子皇子皇大神ノ神勅ニヨリ本尊ヲ彫刻シテ之ニ安置ス元ト大伽藍ニシテ塔頭三十六院アリ【寺記】北畠國永禅也法印ノ國束山ニ參籠セシ時贈リシ歌ニ
  寺の名も國を束ぬる山なれは世々にし高くあふかさらめや
 
廣泰寺 宮古《ミヤコ》村ニ在リ曹洞宗明應三年僧玄虎ノ創立ニシテ本州曹洞總録寺タリ【寺記】
 
寂照寺【僧月仙墓】 宇治中之町ニ在リ淨土宗延寶五年智恩院三十七世僧智鑑創立ス安永三年僧月仙來リテ住職トナル寺ニ古書畫珍寶等多ク藏セシガ明治十四年回禄ノ炎アリ堂宇ト共ニ燒失ス惜ム可シ月仙(29)初名玄瑞本姓ハ丹家氏尾張名古屋ノ人幼ニシテ剃度ス性、畫ヲ嗜ミ施與ヲ好ム其本寺ニ來ルヤ夙ニ堂宇ノ壞敗ヲ歎ジ之ヲ修造スルノ志アリ乃チ心ヲ畫ニ專ニス請フ者踵ヲ接ス月仙價ヲ諭ジテ筆ヲ下ス人皆其貪鄙ヲ?ル月仙意トナサズ其獲ル所ノ金ヲ稱貸シ積ミテ數千金ニ至ル是ニ於テ堂宇ヲ改修假シ經藏ヲ新築シ五百金ヲ以テ修繕料トナシ百金ヲ清雲院修繕ニ充ツ尋テ又千五百金ヲ山田奉行所ニ托シ其息ヲ以テ永ク宇治山田ノ窮民ヲ賑ハス傳八テ明治維新ニ至ル世人其コヲ感賞セザルナシ文化六年正月寂ス年六十九乃チ本寺ニ葬ル碑アリ徒弟定仙ノ撰文ニ係ル
 
大江寺 江村江山ニ在リ眞言宗天平中僧行基ノ開創ニ係ル延喜ノ時叡旨ヲ以テ方七間ノ堂ヲ建立セラル貞享中火災ニカヽリ什器記録類悉ク燒失ス後、僧堯譽之ヲ中興ス土佛參詣記ニ云フ山陰ヲ遠くめく(30)れる入海の方を尋ねて江寺と申觀音の靈地にまゐりぬ苔踏のほる石はしは盤《ツヾラ》折にて溪のせゝらき音幽なり黄葉をはらひてふるきあとを尋ね青竹に携りて遙なる峯にいたる云々ト其勝地タル知ル可シ【寺記、五鈴遺響】
 
大神宮寺址 北中村字菩提山ニ在リ創立年月詳ナラズ本ト内宮域内ニ在リシヲ本村ニ移シ菩提山大神宮寺ト改ム明治二年寺廢シ今耕宅地トナレリ本寺ニ聖武天皇寄附ノ僻舍利アリシガ廢寺ノ後三河國海コ寺ニ移ス【古考口碑】
 
蓮臺寺址 勢田村ニ在リ古傳ニ云フ創立年月詳ナラズ祭主永頼ノ建立ニ係ルト明治二年廢寺トナル寺ニ神鏡一面アリ徑九寸五分八ツ花形ヲナス天保中山田足代弘訓文ヲ作リテ之ヲ記ス今、本村ニ藏ス
 
西行菴址 溝口村安養山ノ溪奥字破石ニ在リ俗、西行菴ト稱ス今、荒地(31)ニ屬ジテ其址ヲ存セズ五輪塔処々ニ散在ス保延中僧西行紀伊國高野山ヨリ此ニ來リ住シ一寺ヲ創立シ安養寺ト号ス【今寺ハ無シ】後、宇治舘町西行谷ニ移居ス【五鈴遺響】坂士佛參詣る記ニ詩アリ曰フ
 此地空餘山寂寞、昔人去後幾黄昏、緑蘿菴舊絶2縱跡1、只有3松風敲2寺門1、
 
西行菴址【一名西谷戸松行谷】 宇治舘町字岩井田山ニ在リ保延中僧西行溝口村安養山ニ住ス後、此ニ移居ス元ト古松アリテ諸人愛觀セシガ今枯槁セリ【五鈴遺響】芭蕉ノ碑アリ俳句ヲ題ス曰フ
  道のへの木槿は馬にくはれけり
                     西行
  是もまた都のたつみしかそなく山こそかはれ名は宇治の里
  谷の戸に獨りそ松は立るなり我のみ友はなきかと思へは
 
(32)芭蕉菴址 山田船江町大江寺ノ舊址ニ在リ元禄中俳人芭蕉之ニ居ル手堀ノ井存セリ文化中碑ヲ建ツ高二尺幅壹尺二寸表面ニ翁ノ句ヲ刻ス曰フ
  藪つはき門はむくらの若葉かな
 
     原野
 
瀧(ノ)原 野後村ニ在リ式内瀧原神社ヲ安ンズ倭姫命世紀ニ大河之瀧原國ヲ載ス大河ハ阿曾村ヨリ北流シ野後ノ西ヲ歴多氣郡菅合村ノ東北ニテ大杉谷ヨリ東流スル水脉ト合スルモノヲ稱ス水源四十八瀧アリ其間廣原ヲナス故ニ名ヅクト【大神宮本記、歸正抄】
   一字抄               經信
  瀧の原散てみたるゝ花見れはぬひたにあらぬ錦なりけり
 
明野《アケノノ》原 小俣《ヲバタ》村字明野ニ在リ西、湯田野ト伊勢街道ヲ以テ界ス礒、野(33)依、有瀧ノ數村ニ跨ル曠原タリ後年開拓シテ耕宅地及ビ山林トナルモノ少カラズ【五鈴遺響、勢國見聞集】
                   讀人不知
  月清み明野の原の夕露にさゝめ分け來る衣はぬれぬ
 
津長原 倭姫命世紀ニ云フ御舶泊留在  志處 乎津長原 止號 支ト宇治今在家町字津長原アリ蓋シ此ノ地ナラン
   神祇百首            度會元長
  宮木ひく津長の原の春の雪の心もとけぬ跡をこそみめ
 
御牧小野《ミマキヲノ》 今詳ナラズ或ハ云フ岩出村ノ邊ナリト徃古市守長者ナルモノアリ此ニ住ス【三國地誌、勢國見聞集】
   新名所歌合          荒木田長言
  春深き御牧の小野の淺茅生に松原こめてかゝる藤浪
 
(34)湯田野 湯田村ノ地ヲ稱ス東方、明野(ノ)原ニ接ス往昔本村及ビ久保、上地數村ニ連リシ荒野ナリ後世漸々開拓シテ概ネ田圃宅地トナセリ【五鈴遺響、背書國誌、勢陽俚諺、勢國見聞集】
   神祇百首            度會元長
  贄かけし狩の使の道たえて湯田野に鴫のねをそたてゝん
 
忌楯小野《イミタテヲノ》 倭姫命世紀忌楯小野ノ地ヲ載ス今詳ナラズ或ハ云フ高向村蓼原【字上下ニ分ル】ノ地ナリト【小野講述抄、舊蹟聞書、五鈴遺響】御巫清直云フ蓼原古ヨリ蓼野ノ稱ナシ小俣村ノ西寒川ノ邊方俗ユダテト稱スル地アリ乃チ遺跡ナラント【大神宮本記歸正抄】
 
     濱海
 
二見《フタミノ》浦【一ニ蓋見浦ニ作ル又、二見潟、二見沖トモ云フ】 立石江村ノ北西即チ伊勢海ノ南盡ヲ云フ倭姫命世紀ニ二見濱御船 爾坐于v時大若子命  爾此國名何問給フ白ク速雨(35)二見國 止白 支云々ト記ス即チ是ナリ浦頭ニ立石崎アリ眺望絶佳ナリ遠クハ尾、參及ビ本州北部ノ諸山ヲ雲煙縹渺ノ中ニ見近キハ危岩怪礁岸邊ニ散在ス風光明媚縣下名勝ノ第一位トナスベシ神廟詣拜ノ客常ニ來遊セリ此地旭日ヲ拜スルモノ少カラズ毎年一月一月庶人群集立錐ノ地ナキニ至ル【五鈴遺響、勢國見聞集】
〔下段に二見浦ノ圖あり、省略。〕
 
(36)   金葉             源親房
  玉くしけ二見の山の木の間より出れは明る夏の夜の月
   新古今               實方
  明かたき二見の浦による波の袖のみぬれて沖津島人
   夫木                西行
  さかろおす立石崎の白波は荒き鹽にもかヽりける哉
   遊二見浦二首録一         川井春川
  行盡松間數里程、攀v岩蹴v浪歩愈輕、慚無3彩筆収2烟景1、海水秋天一色晴、
 立石 大小二岩海中ニ駢立ス相距ルコト三間其?門闕ノ如シ大ナルモノ高貳拾九尺周圍百三拾尺餘小ナルモノ高拾貳尺周圍三拾尺餘俗ニ稱シテ注連掛岩ト云フ蒼黒色ニシテ木理紋ヲナス近傍ニ又(37)鯨石、鼻岩、?冠岩、屏風岩等アリ
 
三津(ノ)浦【一ニ御津浦ニ作ル又三津濱、三津湊ト云フ】 三津村字鷺森新田ノ地ヲ云フ往昔此邊悉ク江灣タリ倭姫命舟ヲ此ニ泊ス因テ御津浦ト號ス今概ネ耕地ニ變ジ五十鈴川ノ派流一條ヲ存ス【勢國見聞集、三國地誌】
   山家集               西行
  過る春鹽のみつより船出して浪の花をやさきに立らん
 
蘆(ノ)浦 松下村ト江村ノ間ヲ稱ス江村川ノ海口ニ属ス東南山岳ヲ負ヒ北方海ニ面ス
   拾玉             大僧正慈鎭
  あしの浦のいときななくも見ゆる哉浪はよりても洗はさり鳧
 
伊氣《イケノ》浦 松下村ニ属ス本州ノ東端ニシテ志摩國答志郡小濱村ニ對シ一江灣ヲナス山巒圍繞シテ風光頗ル佳ナリ灣内魚介會聚シ鰡魚尤(38)モ多シ毎歳冬春ノ交之ヲ漁ス俗之ヲ鰡楯ト云フ巨額ヲ占ムルモノ多シ【五鈴遺響、勢國見聞集】
   夫木              讀人不知
  松に吹伊氣の浦風渡るらん浪にたゝよふ浮島のやま
 
千尋《チヒロノ》海【千尋濱】 松下村字神前山ノ北邊ヨリ志摩國荅志郡小濱村ノ海濱ヲ稱ス蓋シ其海底ノ深遠ヲ名ケシモノナラン南方高山ヲ負ヒ東北内海ニ面シ風景絶佳ナル
   夫木                元輔
  いせの海千尋の濱の眞砂もて君か代に經ん數はかそへん
 
御鹽《ミシホノ》濱 西村字御鹽田ニ在リ徃昔皇大神宮ノ御饌ニ充ル鹽ヲ製スル処ナリ東西拾九間南北貳拾貳間北面ニ華表ヲ建ツ元ト本郡莊村ニアリシヲ後世此地ニ移ス
(39)   夫木             鴨長明
  二見かた神さひたてる御鹽殿幾千代みちぬ松かけにして
 
打越(ノ)濱【打越濱松】 西村字北濱ノ海邊ヲ稱ス即チ立石ノ西方ニ屬ス古松二株林中ニ挺立ス里人喪服ヲ解クノ時此ニ祓除スト云フ【五鈴遺響、伊勢參宮按内記】
   新名所歌合          大中臣定忠
  奥津潟荒磯かけて打こしの濱風遠くちとり鳴なり
 
鹽合(ノ)濱【鹽合川】 溝口村ニ屬ス五十鈴川ノ末流ニシテ分レテ二派トナル徃時江村、今一色村海口ノ潮水此ニ到リ合流ス故ニ名ヅク神鳳抄鹽合御薗ヲ載ス葢シ此地ナラン【五鈴遺響、伊勢參宮按内記、勢國見聞集】
   名寄               鴨長明
  二見瀉遠のみなとはいかならん鹽合は駒の爪もかくれす
 
(40)高城《タカシロノ》濱【一名長官濱】 今一色村海邊ノ地ヲ云フ毎歳新甞祭ノ時外宮禰宜海邊ニ出デ麻ヲ採リテ不祥ヲ祓除ス此ヲ濱出ト稱ス【伊勢參宮按内記、三國地誌】
 
鷲取(ノ)小濱 神社《カミヤシロ》港南小路ノ海濱ニ属ス今、宅地タリ眺望頗ル佳ナリ倭姫命世紀ニ從2忌楯小野1幸行有2小濱1其処取鷲老在【中略】其老以2寒御水1御饗奉于v時讃給水門水饗神社定賜其濱名鷲取小濱號云々ト載ス即チ此地ナリ
 
清渚《キヨキナギサ》 今一色村ヨリ松下村ニ至ル海岸ヲ總稱ス白砂渺々トシテ際ナク風光明媚ナリ二見浦、高城濱、打越濱等皆其中ニ属ス此地清淨ニシテ能ク不小ヲ祓除ス故ニ此名アリト云フ【五鈴遺響、伊勢參宮按内記】
   後撰              小將内侍
  人はかる心のくまはきたなくて清き渚をいかて過けん
   新千載           左近中將義詮
(41)  伊勢の海や浪のよる/\澄月の影こそ清き渚なりけれ
 
奈津《ナツ》 河内村西南ノ海岸奈津山ノ麓ヲ云ヲ側ニ三狐神社觀音堂アリ老杉古松欝然タリ又櫻樹ヲ裁ウ前ハ神前灣ヲ隔テ、大洋ニ面シ一望際ナシ灣内布帆出没魚歌互ニ答フ春時風景尤モ賞スベシ
 
村松ノ岸 村松村ヨリ東大淀村ニ亘ル海畔ヲ云フ
   夫木              齋宮越前
  蝉貝の音かときけは村松の岸うつ浪のひゝきなりけり
 
祓島《ハラヒジマ》【一名祓崎】 松下村ノ東北端ヲ距ル壹町ノ海面ニ突出ス巨巖相連リ以テ坐臥スベシ潮時ハ之ヲ没ス毎歳六月十五日【陰暦】内宮ノ禰宜等此ニ至リ荒蛎海松ヲ取リ月次祭御饌ニ供ス之ヲ荒蛎ノ御贄ト云フ島中御座石、魚盤石、笏立石等アリ皆神事ニ用フルニ由テ名ヅク事ハ内宮年中行事ニ詳ナリ【五鈴遺響、古老口碑】
 
(42)宿《ヤトリガ》島 三津村字内座新田ニ在リ相傳フ倭姫命天照大神ヲ奉ジ此ニ宿リ玉フ故ニ此名アリ今ニ至リテ里人之ヲ尊敬シ其士ヲ踏ムヲ忌ムト云フ【勢國見聞集、古老口碑】
   神祇百首            度會元長
  二見瀉宿島かけて立千鳥いともかしまし心してなけ
 
     園林
 
朝熊(ノ)森 今詳ナラズ朝熊村字門河原ノ地往昔ヨリ原野タリ蓋シ此邊ナラン或ハ云フ晝川村ノ地ナリト【勢國見聞集、古老口碑】
   夫木              宗尊親王
  いかゝせんかゝるうき世に樗さくあさまの森のあさましの身や
 
清水(ノ)森 今詳ナラズ一説ニ朝熊村ヨリ三津村ニ至ル坂路ニ沿フ田間ニ小林アリ其中清泉涌出シ大旱ト雖モ涸レズ是レ其舊址ナラント(43)成ハ云フ宇治ノ邊ナリト【五鈴遺響、勢國見聞集】
   新名所歌合          大中臣定忠
  手にむすふ清水の森に夏なしと思ひもはてぬ時鳥かな
 
興玉《オキタマノ》森 北中村月讀社ノ南ニ在リ樹木鬱茂ス傳ヘ云フ古昔猿田彦命此ニ棲居ス天照大神ノ鎭座シ玉フニ由リ遂ニ退キ去ル後人華表一基ヲ其址ニ建テ祭祀スト又云フ境内古ヨリ松樹ヲ植ヱズ植ウレハ乃チ枯朽ス蓋シ命此ニ在リ大神ヲ待ツコト久シ待、松、國音相通ズルヲ以テ之ヲ嫌忌セラルヽノ故ナリト【五鈴遺響】
 
釣釜(ノ)森 江村字沖濱新田ニ在リ里人傳ヘ云フ此地徃昔灣中ノ小嶼ナリ後世變遷シテ耕地トナレリ中央一老松ヲ存ス圍拾三尺地ヲ拔ク七尺餘ニシテ十二幹ニ分ル頗ル奇觀ナリ俗稱シテ釜屋ノ松ト云フ
 
龜(ガ)森 朝熊村字龜(ガ)森ニアリ小丘ヲナシ樹木叢生ス其?龜ノ如シ故(44)ニ名ヅク俗ニ男龜ト稱ス之チ距ル半町又一丘アリ樹木ナシ女龜ト稱ス【五鈴遺響】
 
皇女(ノ)森 楠部村字西洞ニ在リ古老傳ヘ云フ垂仁帝ノ時倭姫命皇大神ヲ家田田上宮ニ祀リシ時大田命大宮所ヲ奏上セシ処ナリト
 
     谿淵
 
鏡(ガ)淵 五十鈴川ニ在リ今詳ナラズ傳ヘ云フ正治中小朝熊宮神鏡ヲ失ヒシヲ寛喜二年稻荷山ニ得歸座ノ時此地ニテ拜ス故ニ名ツクト【三國地誌、勢陽俚諺】
   神祇百首            度會元長
  おし鳥のかゝみか淵にかけを見て一番ある床をしめつゝ
 
長者《チヨウジヤガ》淵 岩出村字瀬山宮川ノ傍ニ在リ水底極メテ深シ里人云フ徃昔近傍山谷中ニ數百株ノ漆樹アリ樹脂滴リ落チテ此淵底ニ沈ミ年ヲ(45)經テ一大塊トナレリ市正長者ナルモノアリ之ヲ獲テ巨利ヲ得他人ノ巳レニ傚ハンヲ恐レ蛇形ヲ模造シ之ヲ沈メ詐テ眞蛇ノ棲メルトナシ獨リ其利ヲ占メントセシニ其蛇眞龍トナリテ長者ヲ害シ其家産衰亡ス故ニ名ヅクト荒唐笑フベシ
 
止鹿《トジカノ》淵 鹿海《カノメ》村ニ砥鹿淵神社アリ蓋シ此邊ナラン倭姫命世紀ニ從2其處1幸行神淵河原苗草戴耆女參相問給【中畧】何如v是問給止可賣白其處止鹿乃淵云云ト記ス即チ是地ナリ
 
     洞窟
 
高倉山(ノ)窟 高倉山上ニ在リ巨石ヲ以テ之ヲ疊ム傳ヘテ大巳貴命、天日別命ノ居所トナス元ト小祠アリ神宮ヲ拜スル者天岩戸ト稱シ之ニ詣ヅルヲ例トス維新後其祠ヲ毀チシヨリ登山スルモノ稀ナリ
   金槐集            鎌倉右大臣
(46)  いにしへの神代のかけそ殘りける天の岩戸の明かたの月
 
押淵(ノ)岩窟 押淵村字鬼カ城ノ山麓ニ巖窟アリ口狹ク内廣シ幅六間深四間餘高九尺ヨリ六尺ニ至ル相傳フ往昔一賊アリテ之ニ住ス常ニ本郡某村ノ市場ニ松苗ヲ鬻ク一日窟中ヲ窺フモノアリ賊、人肉ヲ食ヒ酒ヲ飲ム土人見テ怪鬼トナシ其醉臥スルヲ待チ火チ放テ之チ燒殺スト云フ
 
鷲嶺《シウレイノ》水穴【又三光坊ノ窟ト云フ】 下村鷲嶺ノ半腹ニ巨大ノ巖窟アリ窟口尤モ窄ク深奥數十尋清水其中ニ充チ大旱ト雖トモ涸レズ窟中暗黒ニシテ蝙蝠多ク棲メリ里人傳ヘ云フ往昔山田世義寺ノ僧此ニ修法スト徃々敗壞セル佛?又は土器ヲ得ルコトアリ奇巖ト云フ可シ
 
ヨメヌ穴 五ケ所浦字岡山畑ニ在リ徑二間深六尺餘圓形ノ陷落地ナリヨメヌ穴ノ稱詳ナラズ文禄?地帳ニ此邊ヲゑ見のあなかいとト(47)記セリ往昔ヨリ數度陷没ス明治十四年貳丈餘陷リシ處アリト云フ
 
     池泉
 
御池【一名御川池又三池】 外宮宮域ニ在リ上中下ノ三處アリ是其中ノ池ニ属ス往昔此水ヲ以テ詣拜者ノ盥漱ニ供スルコト内宮五鈴川ノ手洗所ノ如シ後年奉行桑山某更ニ手洗場ヲ新設シテ池水ニ代ヘシト云フ【五鈴遺響】
 
大楠池【俗ニオホズ池ト稱ス王孫ノ池星渡池ノ別稱アリ】 山田古市町ヨリ朝熊山ニ至ル徑路ノ側ニ在リ傳ヘ云フ往昔一大樟樹アリ枯倒シテ池中ニ埋没ス延寶中大旱ニテ池水涸渇ノ時池底ニ巨木ノ偃臥スルアリ今尚水底ヨリ朽根ヲ得ルコトアリト或ハ云フオボズハ大洲ノ意ニシテ徃昔五十鈴川流域此處ヨリ西北ニ流レシニ後世洪水ノ爲メ水派變遷シ乃チ其川床沼池ヲナシ多ク砂磧ノ洲ヲ生ゼシヨリ此名ヲ存セシナラント并記シテ參考トス【五鈴遺響】
 
(48)忍穗井《オシホヰ》 山田藤岡山ノ麓ニ在リ傳ヘ云フ往昔此水日向國高千穗峯ニ在リ後、丹波眞那井ニ移シ雄畧天皇ノ時更ニ今ノ地ニ移スト【古屋草紙、勢陽俚諺】
   風雅              度會家行
  おしほ井をけふ若水に汲初てみあへ手向る春はきにけり
 
御政印《ミシヨウインノ》井 宇治館町ニ在リ五鈴遺響ニ云フ往昔廳宣及宮掌内人ノ職掌下文ニ押スル印璽ハ此井水ヲ扱ミテ宮域ノ赭土ニ和シ以テ押捺セリ故ニ常ニ汲ムヲ禁ズト
 
靜(ノ)井【一名姿見井】 磯村ノ東方民家ノ傍ニ在リ口徑三尺小石ヲ以テ之ヲ疊ム繞ラスニ板塀ヲ以テス來リ汲ムモノ多シ土俗磯村ノ地名ニ附會シ靜ヲ此地ノ人トナシ説ヲナス笑フベシ
 
井足《イタリノ》清水【一名井谷清水】 宮崎文庫ヲ距ル三町許ゴセ坂ノ下ニ在リ長三間幅七尺大旱乾涸ノ患ナク淋雨又溢ルニ至ラズ名泉ト稱ス尤モ茶湯ニ適(49)ス此地飛螢殊ニ多ク夏時凉ヲ納ルモノ常ニ絶エズ【勢陽俚諺、勢國見聞集】
 
大湊忘井(ノ)址 大湊字忘井山ニ在リ里人云フ往昔鷲取翁ノ倭姫命ニ汲ミテ奉リシ清水ノ跡ナリト徑三尺深拾尺餘石ヲ以テ疊ム清泉今尚涌出ス
 
蓮華水【一名大悲水】 山田梅香寺境内ニ在リ傳ヘ云フ往昔僧空海神宮ニ詣テ此水ヲ以テ其身ヲ祓ヒ神殿ノ圖ヲ摸寫セシト里人來リ汲ムモノ多シ【勢國見聞集】
 
長命水 宇治櫻木町延命地藏堂ノ舊址ニ在リ頗ル清泉タリ延命地藏ノ名ナ附會シテ此名ヲ附セリ此地長峯山廣嚴寺ノ址ナリト云フ【五鈴遺響】
 
     樹石
 
百枝《モヽエノ》松 内宮社前ニ在リ今詳ナラズ水左記ニ承保三年三月八日申時(50)伊勢大神宮御前百枝松?倒ノ事ヲ記ス葢シ當時枯槁セシナラン坂土佛參詣記ニ内宮二ノ鳥居迄詣デ拜スルニ山下松クラクシテ百枝ノ梢ハ何レモ辨ヘガタク云々トアリ是社頭ノ神樹ヲ通稱セシモノニ似タリ未タ是ナルヲ詳ニセズ【勢陽俚諺、五鈴遺響、勢國見聞集】
   風雅            土御門小宰相
  神路山もゝ枝の松もさらにまた幾千代君にちきりおくらん
   拾遺             荒木田成定
  神垣や百枝の松にちきりおくことの葉ことに惠あるへし
 
大淀(ノ)姫松 東大淀村字大濱ニ在リ傳ヘ云フ倭姫命?々此ニ至リ海邊ノ景ヲ賞ス後人爲メニ松樹ヲ植ヱ之ヲ識ス姫松ト稱ス万治中枯槁ス今海濱ニアル松林葢シ其遺址ナラン【大淀浦名勝志、背書國誌】
   拾遺               源兼隆
(51)  大淀の御祓幾世に成ぬらん神さひわたる浦の姫松
 
蒔繪《マキエノ》松 江村ト三津村ノ海邊松原ヲ指ス風景畫ノ如シ故ニ此稱アル或ハ云フ此地山脈江灣ヲ擁ス因テ纒江ト名ヅクルヨリ轉稱セシナリト【伊勢參宮按内記、三國地誌、勢國見聞集】松樹枯槁シテ其跡ヲ存セズ【一説ニ一色村ト西村間ノ松原ヲ指スト又江村字江山大夫松ヲ稱スト云フ】坂士佛甞テ此ニ遊ビ詩アリ曰フ
  浦松似v畫夕陽裏、老眼摩※[沙/?]費2苦吟1、水自2細流1通2海派1、波横2万頃1列2天心1、雲晴雲起山高下、潮去潮來月淺深、六十餘年漂泊處、江湖風景不v如v今、
   金葉             大中臣輔弘
  玉くしけ二見の浦の貝しけみ蒔繪にみゆる松の村立
 
姫小松 江村三津村ノ界耕圃ノ間數株ノ松ヲ存ス高拾尺ニ出デス幾多ノ星霜ヲ經ルモ尚稚樹ノ?ヲ呈ス風致限リナシ故ニ名ヅク
(52)   文應二年百首          爲家
  二見瀉千年の松に名をとめて神や子の日に引始めけん
 
大夫《タイユウ》松 江村字江山ニ在リ往昔一大老樹ナリシガ寛政中枯槁シテ今存スルモノハ新樹タリ此松數説アリ或ハ云フ仁木義長左京大夫ト稱ス甞テ之ニ居ル故ニ名ヅクト或ハ云フ此樹元ト山上ニ挺立シ海舶ノ目標トナレリ故ニ航海者遠ク此樹ヲ望ミ伊勢大夫【大夫ハ當時神宮祠官ノ通稱】ノ居所ナリト呼ビシニ起因スト後説或ハ是ナラン【五鈴遺響】
 
富士見松 朝熊村ヨリ朝熊山ニ登ル坂路ノ半腹字中之地藏ニ在リ朗霽ノ日此處ヨリ遙ニ富士山ヲ見ル故ニ名ク【五鈴遺響】
 
相摸取松 東宮《トウク》村字豆方ニ古松二株アリ路ノ兩側ヨリ崛起シ枝幹相交リ互ニ撲ツモノヽ如シ因テ此名アリ樹間人馬ヲ通ス殊ニ奇觀ナリ傍ニ又一株アリ之ヲ行司松ト稱ス
 
(53)子富松(ノ)址【鷲取翁宅址】 大湊字中里町ニ松樹一株アリ俗、子富松ト云フ昔時小祠アリシガ今ハナシ傳ヘテ此地鷲取翁ノ舊址トナス婦人子ナキモノ此ニ祈レバ驗アリト云フ
 
鯛釣松(ノ)址 神田久志本《カフダクシモト》村字鯛釣松ニ在リ傳ヘ云フ徃昔大神宮御厨ノ地ナリ後年洪水ノ時民居湮没シテ湖沼等トナリ潮水勢田川ヨリ浸入シ常ニ漁獵ニ充ツ老松一株アリ故ニ名ヅク明歴中既ニ古木タリシガ寛政中枯槁スト【勢陽俚諺、五鈴遺響】
 
五百枝《イホエノ》杉 外宮境内ニ在リ號シテ神木トナス今詳カナラズ或ハ云フ境内一山ノ杉樹ヲ總稱スト【三國地誌、五鈴遺響、伊勢參宮按内記、度會常彰齋居通】
   神祇百首            度會元長
  神風や五百枝の雪の春に來て杉のしるしのすこし見えつゝ
   家集              北畠國永
(54)  千はやふる山田の原は松杉も五百枝の姿そのまゝにして
 
千枝《チエダノ》杉【俗ニ四本杉ト云フ】 外宮一ノ鳥居ヨリ南凡ソ壹町許風宮ノ東方ニアリ傳ヘ云フ往古祭主千枝氏ノ植ウル所タリ故ニ名トス【祭主ニ千枝ノ名見エズ一條天皇ノ時大中臣千枝アリ蓋シ是レカ】正保中暴風ノ爲メニ損シ纔ニ一株ヲ存スト【勢陽俚諺、伊勢參宮按内記、五鈴遺響】
   新續古今        勝定院贈太政大臣
  世を守る神のしるしは今も猶茂る千枝の杉の下かけ
 
新開(ノ)梅【一名臥龍梅】 新開《シンカイ》村舊祐善庵庭中ニ老幹貳拾株許アリ春時紅白燦爛タリ來リ觀ルモノ少カラズ五鈴遺響ニ云フ往昔菅原道眞神廟ニ祈願アリテ築紫ノ配所ヨリ梅核兩顆ヲ其從士刑部師親ニ附シテ此地ニ播カシム後、繁延シテ名木とナル康安中僧祐善此ニ一庵ヲ結ビ賞愛セシト一説ニ云フ駿河奥津清雲寺ノ種子ヲ移セシモノナリト
(55)孰レカ是ナルヲ知ラズ山田杉本光貞室ノ俳歌ニ
  いろ/\の繼木小袖の梅の花今をさかりと來て見ぬはなし
 
鷲日山(ノ)櫻 前山村字シウレイ山上ノ櫻樹ヲ云フ
   神祇百首            度會元長
  これそこのうへ見ぬ鷲日山さくら神代の春は花にのこれり
 
前山(ノ)櫻 前山村字龜谷郡及ビ中尾ニ在リ數十株ヲ駢植ス花時山田市街ヨリ遊賞スルモノ尤モ多シ
                   本居宣長
  あら玉の年のやとせを待こひし前山櫻けふ見つるかも
 
屋根櫻 豐宮崎文庫域内ニ在リ數株ノ古櫻立春後六十日ヲ歴テ開花ス近傍遊觀スルモノ極メテ多シ度會延佳ノ文庫ヲ創建スルヤ該家ノ屋上ニ櫻苗ヲ生ズ延佳之ヲ異トシテ此ニ植ウ巨樹トナル後、其蘖芽(56)ヲ移植シテ益々蕃殖ス今存スルモノ是ナリ【勢國見聞集、古老口碑】
                   小津久足
  近よれはまはゆきまてに咲たつは神の光りや花にそふらん
 
糸櫻 山田舊威勝寺境内ニ在リ花時來遊スルモノ多シ【五鈴遺響、勢國見聞集】
                   小津久足
  たゝひとり見んとおもふてあやにくにそくる人しけき糸櫻かな
 
清盛楠 外宮宮域ニ在リ往昔平清盛勅ヲ奉ジテ參宮ス枝葉下垂シ其冠纓ニ觸ル命ジテ其枝ヲ伐ラシム因テ此名アリ或ハ云フ其子重盛參向ノ時之ヲ伐リシト【五鈴遺響、勢國見聞集】
 
八重榊 内宮宮域ニ在リ鳥居ノ左右ニ附者ス事ハ儀式帳ニ詳ナリ
   御集              後鳥羽院
  神風や八重の榊葉かさねてもみもすそ川の末そはるけき
 
(57)常柑子《トココヲジ》 黒瀬村橘神社ノ東邊ニ柑樹一株アリ高丈餘四面牆ヲ繞ラス傳ヘ云フ徃昔興福寺橘實ヲ京師ニ貢スルノ例アリ一歳實ラズ因テ此實ヲ摘リテ貢セシト【勢國見聞集、古老口碑】
   萬葉              聖武天皇
  橘花者實左倍花左倍其葉左倍枝爾霜雖降益常葉之樹《タチバナハミサヘハナサヘソノハサヘエダニシモフレドイヤトコハノキ》
   拾玉              僧 慈鎭
  此頃は伊勢い知る人おとつれてたよりいろある花かふしかな
 
三角柏《ミツカシハ》 土貢《トク》島ニ在リシト云フ徃古此也ノ柏ヲ神宮に獻ズ毎年七月【陰暦】風宮ニテ柏流シノ神事ヲ行フ其浮流スルヲ見テ豐年トシ沈流スルヲ凶年トセリ【勢國見聞集】
   藻鹽草             僧 寂阿
  おもふ事とくのみしまの長柏なかくそ頼むひろきめくみを
 
(58)伊勢濱荻《イセノハマヲキ》 三津村ノ南方字濱荻田圃中ニ在リ濱荻ハ本州蘆ノ方言ナリ傳ヘ云フ徃昔此邊總テ江灣ニ属シ多ク蘆ヲ生ジ其名世ニ高カリシガ漸次開墾シテ今僅ニ一部ヲ存ス蘆葉皆片葉ナリ【片葉ノ蘆各州往々有リ地勢風土ノ然ラシムル所ニシテ異トスルニ足ラズ】或ハ云フ濱荻ハ本州海濱ノ蘆ヲ總稱スルモノニシテ此地ヲ指スニ非ズト【五鈴遺響】
   萬葉
    碁檀越《コタンヲチ》往2伊勢國1時留v妻作歌一首
  神風之伊勢乃濱荻折伏容宿也將爲荒濱邊爾《カムカセノイセノハマヲギヲリフセテタビネヤスラムアラキハマベニ》
   千載              藤原俊基
  あたら夜をいせの濱荻折しきて妹こひしらに見つる月哉
   新古今               越前
  幾夜かは月をあはれとなかめ來て浪に打しくいせの濱荻
 
(59)石壺 内宮第三鳥居ノ左右ニ在リ右ハ勅使、官司左ハ玉串大内人等ノ席トス延喜式ニ謂フ所版位ナル者是ナリ徃昔八箇アリシガ後増加セリ【五鈴遺響】
                  荒木田延成
  榊もて八つの石壺ふみならしきみをそいのるうちの宮人
 
倭姫命坐岩 鹿海村字新田五十鈴川ノ岸ニ平面ノ岩石突出ス長六拾尺幅四拾尺俗呼テ御坐岩ト云フ倭姫命世紀ニ從2御津浦1幸行 爾小島在 支其嶋 爾坐 ※[氏/一]山末河内 乎見廻給 仁云々ト記ス即チ是地ナリ
 
鸚鵡石【一名言葉石】 南中村字井口ニ在リ巨岩山腹ニ屹峙ス高壹百尺餘幅貳百尺餘蒼黒色ヲ帶ブ之ヲ距ル數十歩一石アリ語リ石ト名ヅク平坦ニシテ數人ヲ坐スベシ巨岩ニ對シテ言語歌呼セハ直チニ之ニ應ジ其清濁疾舒毫モ差ハズ唯笛簫ノ聲ハ應ゼス始メ里人之ヲ知ルモ(60)ノナシ往年二三樵夫山中ニ入リ笑語ス岩中聲アリ相應ズ驚怪逃レ去ル後又往テ之ヲ試ムルモノアリ遂ニ其實ヲ得タリ因テ此名ヲ付ス享保中伊藤長胤、奧田三角ト此地ニ來遊シ詩及ビ記文アリ靈元上皇畫工ヲシテ之ヲ屏風ニ畫キ長胤ヲシテ之ヲ序セシム爾來其名特ニ高ク遠近來觀スルモノ甚ダ多シ【勢陽俚諺、五鈴遺響、伊勢考古録、勢國見聞集】
 
乙女岩 川上村字上木ニ在リ一巨岩タリ高貳百尺方三間許平面ニシテ紋理アリ疊席ヲ敷クニ似ラリ傳ヘ云フ往昔倭姫命天照大神ヲ奉ジ此地ニ至ル時暫ク此石上ニ憩ヒ玉ヒシト【勢國見聞集、五鈴遺響】
 
退石《スサリイシ》 三津村字南浦ノ山腹ニ在リ圓形ノ巨石ナリ俗傳ヘ云フ豐年ニハ此石動テ前ニ進ミ凶年ニハ動テ後ニ退クト
 
猿田彦石【猿田媛石】 江村字奧條五十鈴川岸邊ニ在リ高拾尺周圍拾貳間餘蒼黒色ヲ帶ブ猿田彦ノ名其故ヲ知ラズ前岸松下村字北浦新田(61)ニ亦巨石アリ形状之ト相類ス猿田媛石ト稱ス【三國地誌、古老口碑】
 
烏帽子岩【破石】 溝口村字烏帽子岩ニ二石アリ其形冠帽ノ如シ一ハ直立ス之ヲ立烏帽子ト名ケ一ハ横臥ス折烏帽子ト名ク高各五尺許又字豆石山ノ西麓汐合川ノ水際ニ破石ト稱スルアリ巨岩其半ニシテ破裂ス故ニ名ヅク【勢國見聞集、古老口碑】
 
興玉石 江村立石崎ヲ距ル八町許ノ海中ニ在ル一大暗礁ナリ周圍拾町許往年礁頭ヲ水上ニ出ダス安政海嘯以後崩壞シテ見エズ里人猿田彦ノ靈トシテ之ヲ崇敬ス葢シ興玉ハ澳魂ノ意ニシテ海洋ノ神靈ヲ稱スルモノナラン
 
曼陀羅《マンダラ》石 山田倭町字旭ニ在リ大小五基アリ大ナル者高八尺五寸幅九尺小ナルモノ高五尺幅六尺梵字アリ剥落シテ讀ムベカラズ五鈴遺響ニ云フ赴※[処の几が卜]※[処の几が卜]ノ悉曇三字ヲ刻シ傍、大同二年空海刻之ノ字アリ又(62)近傍山中古瓦ヲ出ダス皆經文ヲ朝ス承安四年月日ヲ記スルモノアリ山田威勝寺山唐溪ノ地ヨリ出ルモノト年紀相同ジ其縁由詳カナラズト
 
鏡石【一名山鏡】【鮑石、碁盤石、神足石】 宇治今在家町字鏡石ニ在リ【宇治橋ヨリ五十鈴川上ヲ溯ル拾八町許】高三間餘幅五間中間平面ノ處最モ光澤アリ物態ヲ寫ス鏡ノ如シ故ニ名ヅク此他川上ニ鮑石、碁盤石、神足石等アリ共ニ著名トナス【勢國見聞集、伊勢參宮名所圖繪】
 
西行戻(リ)石 五十鈴川上ニ在リ巨巖相重リ水清ク苔滑カニ山間ノ景幽邃ヲ極ム傳ヘ云フ西行此處ニ到リ景致之レニ若カズトナシ他ヲ尋ネズシテ返リ去ル因テ名ヅクト【勢國見聞集、勢陽俚諺】
 
葛籠《ツヾラ》石 宇治中ノ地藏ニ在リ高八尺餘長貳拾尺許相重リテ葛籠ノ如シ故ニ名ヅク麥林俳句ニ曰フ
(63)  出かわりの神もありてや葛籠石
 
千引《チヒキ》石 湯田野ヨリ離宮院舊地ニ到ル古道ノ傍ニ在リ長拾尺餘祠ヲ建テ之ヲ祀ル千引磐石ノ名日本紀和名抄等ニ出ヅ此名因テ基ク所ナリ或ハ云フ田丸弾正少弼田丸城ヲ築キシ時其土工ニ供セントセシニ搖カス能ハズシテ止ミタリト【五鈴遺響、勢國見聞集】
   家集                俊頼
  君かため湯田野を分けて拾ひつる千引の石に誰か逢へき
 
金剛寺址(ノ)石 山田船江町舊ト金剛寺天神祠ノ壇上ニ巨石アリ幅六尺許青蒼色ヲ帶ブ田ヘ云フ往昔度會春彦菅原道眞ニ從ヒ太宰府ニ赴カントシ道、播磨ニ至ル袖ガ浦ニテ一小石ヲ拾ヒ之レヲ懷ニス還ルニ及ビテ此處ニ置ク後長シテ今ノ如クナリシト【本寺舊記】
 
     行宮址
 
(64)離宮院址 二處アリ一ハ山田|宮後《ミヤジリ》町字平尾ニ在リ今、東西七間南北八間許ノ丘墳アリ里人山ノ神ト稱ス鎭座本記ニ云フ泊瀬朝倉宮御宇天皇【雄略】廿二年秋七月【中畧】從2丹波國吉佐宮1遷2幸倭國宇太乃宮1、御一宿坐云々次伊勢國鈴鹿神戸御一宿、次山邊行宮御一宿、次遷2幸度相沼木平尾1、興2于行宮1三箇月坐焉、号2今爾処1名2離宮1也云々ト即チ此地ナリ孝徳天皇ノ時多氣郡蓑村字鳥墓【舊ト有爾鳥墓村ト稱ス】ヨリ神?ヲ此地ニ移シ以テ御厨【又大神官司ト稱ス】ト稱シ神領ノ諸事ヲ執行ス延暦十六年八月宣旨ニ依リ本郡小俣村【舊ト宇羽西村ト稱ス】ニ移ス?々洪水ノ難アルヲ以テナリ一ハ小俣村字離宮山【舊ト宇羽西村ノ地】ニ在リ式内官舍神社ヲ祀ル南ハ離宮川ニ接ス域内老樹多シ初メ山田宮後町【舊ト沼木平尾ノ地】ニ在リシヲ延暦十六年八月詔勅ニヨリ此地ニ遷ス天長元年九月多氣都齋王宮ヲ此ニ合ス承和六年十一月齋宮火ヲ失シ百餘宇燒燼ス尋デ卜定シテ舊地ニ(65)復ス此地往昔齋内親王ノ別宮諸司ノ官舍アリ齋王及ビ勅使此ニ宿シ兩宮ノ參拜ヲナセシト云フ【皇大神宮儀式帳、五鈴遺響、伊勢參宮按内記】
 
     城砦及宅址
 
田丸城址【一ニ玉丸城ニ作ル】 田丸町ノ西部ニ在リ今、一等官林地タリ石壘尚存ス神鳳抄載スル所玉丸御薗ノ地是ナリ中世ニ至リ愛洲氏此ニ居ル【古記ニ延元三年七月、玉丸城郡勢等寄來、宮田村放火之間、忠緒朝臣宿所炎上云々又興國三年八月宮方ハ勢州田丸ノ城ニタテ籠ル高土佐守師秋是ヲ攻落ス云々ノコトヲ記ス蓋シ愛洲氏ノ族類之ニ居リシカ】其後北畠政郷ノ庶長子政勝出デヽ愛洲忠行ノ後ヲ承ケ田丸氏ト稱ス子孫相繼テ住ス應永廿一年九月本宗北畠滿雅兵ヲ擧ゲシ時其族之ニ據リ以テ足利氏ニ抗ス具直【一ニ直昌ニ作ル】ニ至リテ天正三年本郡岩手城ヲ築キ之ニ居ル既ニシテ信雄大河内城ヨリ本城ニ移ル是ニ於テ具教及ビ其族類ヲ殺シ遂ニ北畠氏ヲ滅ス八年本城燒失シテ一志郡細頸城ニ移ル十二年具直又來リテ之ニ居ル後(66)蒲生氏郷ニ從ヒ陸奥ニ移ル爾後生駒、牧村等諸氏ノ所管トナリ慶長五年稻葉道直岩手城ヨリ來リテ之ニ居ル元和元年藤堂高虎ノ所管トナリ五年八月コ川頼宣ノ領地ニ歸ス其客臣久野宗成之ヲ守リ世襲ス明治維新ニ至リ城廢ス【多氣録、背書國誌、田丸城沿革考】
 
岩手城址【一ニ岩出城ニ作ル】 岩出村字城ニ在リ今、耕地トナリ濠址ヲ存ス天正三年田丸具直城ヲ築キ田丸城ヨリ移リ居ル十二年再ビ田丸城ニ復ズ尋テ牧村利貞代リ居ル利貞文禄中朝鮮ノ役ニ没シ子牛之助尚幼ナリ稻葉道直其姻戚ヲ以テ之ヲ管シ後遂ニ之ヲ領ス慶長五年田丸城ニ移リ城廢ス【背書國誌、古老口碑】
 
野後城址 野後村字河原ノ山上ニ在リ周圍濠址アリ雑木茂生ス里人云フ北畠具教三瀬城ニ居リシ支城ヲ此ニ設クト或ハ云フ本村徃古瀧原宮ノ社領タリ文禄三年豐臣秀吉始メテ之ヲ蒲生氏郷ニ與フ其(67)以以前武家ノ領トナリシコトナシト【古老口碑】孰レカ是ナルヲ知ラズ
 
阿曾城址 阿曾《アソ》村字片山ニ在リ雑木茂生ス戦國ノ時阿曾弾正忠【一本ニ大内山但馬守ニ作ル】之ニ居ル北畠氏ニ屬ス永禄十二年大河内城ノ役國司具教ニ從ヒ籠城ス天正四年北畠其親ニ從ヒ飯高郡森城ニ戰死シ城廢ス【五鈴遺響、多藝録】
 
一(ノ)瀕城址 南中村【一説ニ云フ脇出村ニアリト】ニ在リ天正中田丸具直北畠信雄ノ命ニヨリ本郡岩手城ヨリ此ニ移ル其子具良繼テ居ル州人一瀬御所ト稱ス按ズルニ吉野日記ニ曰フ建武四年四月尊氏細川和氏ヲシテ公家領ヲ貶ス尊澄親王勢州一ノ瀬山ニテ詠歌アリ云フ、深山をはひとりな出そほとゝきす我もみやこの人は待らん、トサレバ當時此ニ城ヲ設ケ後、北畠氏ノ所領トナリテ之ヲ田丸氏ニ與ヘシモノカ記シテ後稽ヲ竢ツ【五鈴遺響】
 
(68)愛洲城址【重明宅址】 五ケ所浦字城山ニ在リ平坦ニシテ雑木茂生シ天守臺濠壘古井ノ址ヲ存ス古老傳ヘ云フ中世愛洲氏之ニ居ル重明ノ時北畠具教ト戰ヒ天正中城陷ルト或ハ云フ重明北畠氏ノ女ヲ娶リ既ニシテ京師ノ舞妓ヲ寵ス遂ニ北畠氏ト隙ヲ生シ其滅ス所トナリ志摩迫子村ニテ自殺スト此地ヲ距ル凡ソニ町五百坪許ノ耕地アリ是レ重明ノ宅址ナリト云フ
 
下村城址【愛洲城址】 伊勢路《イセヂ》村字シモテニ在リ下村掃部之ニ居ル又字西行谷ニ城址アリ傳ヘテ愛洲内膳正ノ居城トス永禄中北畠具教ノ爲メニ滅サル近傍ニ淵アリ俗、萬女郎淵ト稱ス愛洲氏ノ夫人投身シテ死セシ處ナリト云フ
 
脇出城址 脇出村字城山ニ在リ今、森林トナリ八柱神社ヲ祀ル傳ヘ云フ愛洲太郎判官ナルモノ紀伊國熊野ヨリ到ル僧明尊其徒ト謀リ海賊(69)ヲ防ガンガ爲メ奉ジテ本城ノ主トナスト或ハ云フ北畠氏ノ臣向井將監之ニ居ルト【勢國見聞集、伊勢考古録】
 
大内山城址 大内山村字川口前ニ在リ永禄中大内山但馬守之ニ居ル北畠氏ニ從フ後人廢址ニ其靈ヲ祀リ大内明神ト稱ス
 
村山砦址 山田常盤町字城山ニ在リ高大約壹百尺山上平坦ナリ山海ノ景目睫ニ集リ風景愛スベシ文明八年十月宇治ノ役村山武則國司北畠氏ノ兵ヲ拒ガントシテ砦ヲ設ク後廢ス【五鈴遺響、古老口碑】
 
仁木砦址 三津村字内座山ニ在リ山上平坦ニシテ礎石ヲ存ス傳ヘ云フ正平中仁木義長本州ノ守護トナリ長野城ニ據リ神領ヲ侵掠セントシテ砦ヲ此ニ築クト安政四年村人此地ヨリ刀劔及ビ古瓦器等ヲ堀出セシコトアリ
 
伊勢義盛宅址 今詳ナラズ里人傳ヘ云フ義盛本郡江村ニ生ル今、三津(70)村字東山舊ト常泉寺ハ其甞テ習學スル處ナリト【同所ニ巨石アリ中央凹處常ニ水ヲ瀦ス之ヲ義盛ノ硯石ト稱ス】五鈴遺響ニ云フ義盛父俊盛ハ三重郡福村ノ人義盛早ク父ヲ喪ヒ伊賀ニ到リ中井某ニ倚リ生育シ後、二見郷ニ流落シテ江三郎ト稱シ或ハ鈴鹿山ニ潜伏シテ燒下小六ト稱ス後、上野國荒蒔郷ニ潜居シテ其主義經ニ遇ヒ伊勢三郎義盛ト稱ストサレバ其本村ニ在ルモ一時ノ寄寓ニシテ生誕ノ地ニ非ルヤ明ケシ記シテ參照トス
 
林|雜記《ゾヲキ》及乾兵部宅址 金輪村字西ノ浦ニ在リ竹篠叢生ス古井二アリ里人云フ北畠氏ノ臣林雜記之ニ居リシガ天正四年具教ニ從ヒ三瀬城ニ自殺スト又字山端ニ乾兵部ノ宅址アリ山林トナリ礎石僅ニ存ス相傳フ天正中北畠氏ト共ニ滅ブト其子孫今、本村ニ在リ
 
     古墳
 
後白河院塔、北畠顯家塔
(71)結城宗廣墓、僧月波墓 共ニ山田吹上町舊ト光明寺境内ニ在リ
 後白河院塔 塔高凡ソ三尺極メテ古致アリ塔前ノ貞石ニ後白河院諱雅仁鳥羽院第四子也嘉應(【此處?損】)六月七日落飾法號(【此處?損】)建久三王子(【此處?損】)十三日崩矣ノ四十字ヲ刻ス葢シ天皇甞テ堂宇ヲ修覆アリシヲ以テ寺僧恩謝ノ爲メニ之ヲ建シモノナラン【勢國見聞集】
 北畠顯家塔 塔高凡ソ四尺五輪形ヲナス顯家ノ事史傳ニ詳ナリ塔前ノ貞石ニ奧州國司鎭守府將軍北畠源中納言顯家卿延元三戊寅五月廿二日於奧州境安部野討死年廿一歳也ノ四十二字ヲ刻ス蓋シ南朝遺臣ノ建テヽ其義ヲ表セシモノナラン或ハ云フ結城氏ノ族之ヲ建立スト【勢國見聞集】
 結城宗廣墓 塔高形状顯家塔ト相類ス墓前ノ貞石ニ君山道忠大禅定門奧州古河住結城上野入道道忠者月波觀禅師慈父延元三年戊(72)寅十一月廿一日於吹上光明寺病死也ノ五十字ヲ刻ス按スルニ宗廣ノ子月波ハ光明寺ノ中興開山タリ宗廣因テ病ヲ本寺ニ養ヒ終ニ卒シテ此ニ葬ルコト寺傳ニ詳カナリ又本寺ニ宗廣ノ軍中日記ヲ藏ス寺傳云フ所亦理ナキニ非ズ今、墳墓安濃郡藤方ニ定メラルヽト雖モ此地ニ在ルモノハ或ハ信トス可キ歟〔下段に、月波、宗廣、顯家、後白河院、の墓と塔の図あり。〕(73)【光明寺古記、五鈴遺響、多藝録、結城系圖】
 
僧月波墓 五輪塔高五尺餘月波ハ宗廣ノ末子ニシテ僧トナリ光明寺ヲ中興ス宗廣ノ病ニ罹ルヤ月波奉養怠ルナシ文中二年八月寂ス年八十三此ニ葬ル墓前ノ貞石ニ勢州山田金皷山法常住光明禅寺開山月波惠觀大禅師【以下?損】云々ノ文字ヲ刻ス【引用書前ニ同シ】
 
倭姫命舊跡【尾上陵】【尾上一ニ尼部、小部、御贄、玄扈等ニ作ル】 所在詳ナラズ本郡山田尾上町ト倭町ノ間ニ坂アリ尾上坂ト云フ葢シ此近地ナルベシ倭姫命世紀ニ云フ雄畧天皇貳拾三年二月十五日自退2尾上山峯1石隱坐ト後人之ヲ尾上陵又隱山等ト稱ス古老傳ヘテ此地ニ尾上社又小部御陵ト稱スル小社アリト云フ今考索スルニ其址ヲ見ズ【岩屋本縁、三國地誌、五鈴遺響、勢國見聞集】
 
大若子尊墓【俗若子三昧ト稱ス】 磯村字袴田ノ耕地中ニ在リ面積百貳拾坪里人傳ヘ云フ倭姫命本州ニ到ルノ時尊從ヒテ此地ニ留ル薨ジテ此ニ葬ル(74)其裔數家ニ分ル宗廟ノ禰宜神主タリ袴田衆大藪衆ト稱スルモノ是ナリト【古老口碑】
 
福島正頼、同室墓【同修理及重左衛門墓】 共ニ山田一之木町字越坂墓地ノ中央ニ在リ塔面ニ福昌院殿前洒掃鐡叟道牛大居士墓ト題シ右傍寛永十年癸酉九月廿五日ト刻ス正頼福島正則ノ弟ナリ道牛ト號ス本州長島ヲ領ス後、大和宇多ニ移ル罪アリテ山田西河原町ニ蟄居ス卒スルニ及ビテ此ニ葬ル室墓、萬治三庚子十一月廿五日玉泉院殿宮譽法月大姉ト刻ス修理墓ハ塔面ニ寛永十七庚辰五月八日傑巖道英大禅定門ト刻シ重左衛門墓ハ寛永十七庚辰五月八日信覺圭韓大禅定門ト刻ス修理、重左衛門共ニ正頼ノ子ナリ寛永十七年五月兄弟伴ヒ出デヽ能樂ヲ見ル本多正純ノ臣寺田將監ト路ニシテ爭闘ス將監二人ヲ殺シ身又重創ヲ破ル衆捕ヘテ奉行花房志摩守ニ訴フ花房將(75)監ヲ以テ理ナシトナシ自殺セシム修理ノ孫助六ナルモノアリ後、幕府ニ仕フ【本村舊記過去帳】
 
秋田實季墓 朝熊村永松庵境内ニ在リ【實秀ノ墓今磐城三春高乾院ニ在リ蓋シ分骨ヲ埋メシモノナラン】碑高五尺幅貳尺八寸回ラスニ石垣ヲ以テス碑面題シテ高乾院殿前侍從空巖梁空大居士ト記シ側ニ萬治二年巳亥歳十一月二十九日安倍實季入道ト記ス實季城之介ト稱ス愛季ノ子ナリ三春城主秋田氏ノ祖ナリ政ヲ爲ス廉ナラズ寛永七年九月此池ニ謫據居ス萬治二年卒ス幼女及ビ侍女片山從テ此ニ終ル實季書ヲ能クシ和歌ニ工ナリ詠草若干ヲ存ス又醫藥ヲ好ミ奇法多シ世ニ謂フ所朝熊萬金丹ハ其家傳ナリト云フ【五鈴遺響、宮川夜話、勢國見聞集】其ノ謫居ノ歌ニ
    栖の傍に夕顔といへるものおのつから生ひ出てあれたる垣ねともいはす青きかつらのおのれ獨り心地よけにはひまつはれ(76)侍るを見るにあの花折との給ひしふることもふと思ひ出られて讀侍りし
  住わふる宿ともしらて夕かほの花のみゑみの眉ひらくなり
 
池村隼人墓【俗、隼人塚ト稱ス】 溝口村字鹽屋ニアリ尺餘ノ地佛?ヲ?キ香花ヲ供ス天文中國司北畠材親兵ヲ遣リ宇治、山田ヲ襲ヒ祠官村山武則ヲ敗ル殘黨逃レテ二見ニ竄ス隼人本村郷士タリ材親ノ兵ト戰フテ此ニ死ス即チ其墳ナリ或ハ云フ徃昔京都ノ一士漂零シテ諸州ヲ彷徨ス其妻戀慕追テ此地ニ至リ倒レ死ス遺骸ヲ此ニ葬ル因テ姫塚ノ稱アリト附會ノ説信ズルニ足ラズ【勢國見聞集、五鈴遺響】
 
福柄右馬助墓 朝熊村永松庵境内ニ在リ塔高四尺餘幅貳尺文字詳ナラズ右馬助及ビ從士ノ法号ヲ記スルモノナラン右馬助、石田三成ノ女婿ナリ慶長五年九月關(ガ)原ノ役美濃大垣城ヲ守ル已ニシテ城陷ル(77)遁レテ山田ニ走リ福田大夫ニ倚ラントスコ川氏ノ兵來リ圍ム福田怖レテ之ヲ避ケシム遂ニ本村ニ至リ自殺ス從士二人之ニ殉ス一任寺殿順積道蘊禅定門ト謚ス【五鈴遺響、宮川夜話】
 
三好長秀同頼澄墓 山田宮川町【或ハ云フ中島町ニ在リト】ニ在リ方貳拾間許ノ竹叢タリ俗、三好塚ト稱ス長秀元長ノ子頼澄ハ長秀ノ子ナリ永正五年四月北畠材親ト此地ニ戰ヒ軍敗レテ自殺ス因テ此ニ葬ル【子良館記、勢國見聞集】
 
稻葉通直墓 田丸字本町西光寺境内ニ在リ五輪塔高三尺餘臺石二層通直藏人ト稱ス慶長中田丸城主タリ在世中一寺ヲ創建ス本寺是ナリ卒シテ此ニ葬ル【五鈴遺響、勢國見聞集】
 
井阪和泉守墓 有瀧《アリタキ》村字御園尾ニ在リ草木叢生ス一碑石アリ苺苔之ヲ融シ文字詳ナラズ往昔井坂和泉守ナルモノ紀伊ヨリ來リ此地ニ没ス本村今、井坂ヲ氏トスルモノ多シ其子孫ナリト云フ
 
(78)中川經方墓 宇治浦田町字藥種山ニ在リ圓塚ヲナス古老傳ヘ云フ經方【新三郎】武力アリ延徳中宇治、山田ノ役浦田坂二ノ木戸ニ戰死シ屍ヲ此地ニ葬ル
 
僧玄虎墓 宮古村廣泰寺境内ニ在リ玄虎一志郡大阿坂村淨眼寺ヲ開基シ曹洞卓立ノ道人ト稱セラル後土御門院紫衣勅許ノ綸旨ヲ下賜セラル後此ニ一寺ヲ建立シ廣泰寺ト號ス終ニ本寺ニ寂ス【勢國見聞集】
 
僧圓海墓 前山村字龜谷郡ニ在リ龜五輪ト稱ス碑形龜ニ似タリ故ニ名ヅダ圓海世義寺ヲ中興ス毎歳十月寺僧參集法會ヲ修スコヽヲ距ル數町洞穴アリ三光坊窟ト云フ相傳フ圓海此ニ修學スト破壞ノ佛躯及ビ土器ヲ得ルコトアリ【五鈴遺響】
 
楠部村五輪塔 楠部村字大五輪ニ在リ高壹丈貳尺餘方四尺花崗石ヲ以テ之ヲ造ル正面一梵字ヲ刻ス或ハ云フ楠部村舊興正寺開基ノ僧(79)光明后ノ爲メニ建テシ供養塔ナリト又徃時此地泉水寺アリ因テ和泉式部ノ爲メニ之ヲ建ツト云フ牽強ノ説信ズ可ラズ一説ニ云フ天文中宇治、山田ノ役戰死スルモノ尤モ多シ爲メニ塔ヲ築キ冥福ヲ祈ルト此レ或ハ是ナラン
 
和泉式部塚 前山村字龜谷郡ニ在リ今、林地タリ藤原保昌ノ裔建立スト云フ後、塔ヲ山田吹上町光明寺舊地ニ移セリ【宮川夜話】
 
  多氣郡
 
     山川
 
城山【一名金比羅山】 長谷《ハセ》村字北山ニ在リ地ヲ拔クコト凡ソ五拾五丈東方内海ヲ望ミ松坂、香良洲崎ノ勝亦眼中ニ属ス山頂、金刀比羅神社ヲ安ンズ里俗傳ヘテ飯高宿禰ノ故居トナス地中往々土器ヲ出スコトアリ【古老口碑】
 
(80)御黛《ミスミ》山【又御炭山】 北藤原村字|烟草《ケムリソウ》ニ在リ今、畑地トナリ僅ニ松林ヲ存ス傳ヘ云フ昔時此地ニテ齋内親王ニ貢スルノ黛ヲ燒キタリ故ニ名ヅク或ハ云フ此地神鳳抄ニ載スル所畠山神社御薗ノ池ナレハ御薗山ノ謬傳ナラント記シテ參照トス【神風徴古録、古屋草紙、五鈴遺響】
                  佐々木弘綱
  いかて世に跡はたえけん書殘すみずみの山の松の烟に
 
多計《タケ》川【一ニ多氣川又竹川ニ作ル祓川、稻木川ノ別稱アリ】 櫛田川ノ分流タリ往昔此ニ於テ勅使ヲ迎ヘ修禊ス近傍ニ祓戸森、幸橋等アリ皆古街道ニ屬ス【宮川夜話】
   催馬樂              讀人不知
  竹川の橋のつめなる花園に我をばはなてめさしたくへて
   夫木              藤原定家
  後にまた誰か來て見ん竹川やむすふ雫も紅葉ちるなり
 
(81)笛川 齋宮《サイクウ》村字笛川ニ在リ今僅ニ細流ヲ通ジ小橋ヲ架ス近傍ニ篠笛森アリ地名蓋シ之ニ基ク俗傳フ在原業平本州ニ來ルヤ私ニ齋王ニ通ジ笛ヲ此ニ吹キ信トナスト野人ノ説固ヨリ信ズルニ足ラザレドモ本州ノ著談トナレリ暫ク此ニ記ス【勢國見聞集、宮川夜話】
   建久八年百首歌合       九條内大臣
  音に立てうらみやせまし笛川の瀬による竹のおのかうきふし
 
寒河《サムカハ》 土羽《トハ》村字前田、東出、中口等ノ間ヲ流ルヽ外城田川ヲ稱ス倭姫命世紀ニ云フ從2其所1幸行河盡 支其河水寒有 支即寒河 止号  支云々ト即チ是地ナリ
 
佐々牟江《サヽムエ》【佐々牟江橋(又篠笛橋) 山大淀村ト根倉村ノ間ニ在リ今、佐々牟江川ト稱ス下流ハ大淀浦ニ注ク倭姫命世紀ニ從2其處1幸行 ※[氏/一]佐佐牟江御船泊給其處佐佐牟江宮造令v坐給大若子白鳥之眞野(82)國國保伎白其處佐佐牟江社定給ト記ス即チ大神遷幸ノ舊址タルコト知ルベシ【白鳥之真野及ビ佐々牟江社ノ舊址今詳ナラズ】又本村ト行部村トノ間ニ架スル橋ヲ篠笛橋ト云フ俗傳フ源義經ノ妾靜其(ノ)郷度會郡磯(ノ)郷ニ至ル時此橋ニテ笛ヲ吹ケリ故ニ名ヅクト妄誕笑フ可シ
 
千鳥(ガ)瀬 相可《アフカ》村字出張ニ在リ小流アリ太木川ト稱ス乃チ其東邊ニ属ス遠巒四方ニ聳エ眺望頗ル佳ナリ傳ヘ云フ往昔僧西行神宮ニ詣テ路、此處ニ出ヅ已ニ黄昏ニ属ス伴僧宿ヲ求メントシテ先ヅ本村ニオ到ル待ツコト外シテ至ラズ乃チ出デヽ西行ヲ呼ブ西行時ニ此瀬ヲ渡ル偶々千鳥ノ聲ヲ聞キ即吟ス因テ此名アリ其歌ニ【五鈴遺響、勢國見聞集】
  つかれぬる我を友呼ぶ千鳥か瀬越えてあふかに旅寐こそすれ
 
幸橋【一名再拜橋】 竹川村字花園ニ在リ今、長幅貳間ノ石橋ヲ架ス
   名寄              大貳高遠
(83)  頼もしき名にもある哉見て行はまつさきはひの橋を渡らん
 
     邑里
 
丹生八景【三水】 丹生《ニフ》村ニ在リ貞享中長谷川慶之ヲ撰ス曰フ、社頭春色、神宮晩鐘、星淵螢火、潮澤流筏、上田秋月、山口水銀、局岳積雪、長谷夕照、是ナリ係ルニ詩章ヲ以テス今悉ク散逸シテ其建ツル所ノ潮澤碑ヲ存ス【潮澤ノ水海水ノ滿干ニヨリテ涌出ス故ニ常ニ鹽氣ヲ含ム往昔方俗父母ノ喪此ニ祓禊スルノ證アリ】天和、享保ノ際大淀三千風等其遺風ヲ慕ヒ之ニ賚グニ俳歌或ハ詩韻ヲ以テス又本村ニ龜ガ井、松清水、金ガ清水ト稱スル三水アリ共ニ名區トナス今其跡ヲ止メズ潮澤碑僧空海ノ歌ニ
  細頸の南の浦にさす鹽は丹生の内外の御鹽なりけり
 
宇田(ノ)里 齋宮、金剛坂、上、有爾中等ノ數村ニ亘リテ字宇由アリ此邊ヲ指ス今概ネ耕地タリ
(84)   散木棄歌集         藤原俊頼
  明ほのに宇田の畔より立鴫の羽根かく音や萬代のかす
 
有爾町《ウニマチ》 大淀村字西有爾町野、及ビ山大淀村字有爾町野ノ地ヲ云フ往昔此地ニテ瓦器ヲ作リ大神宮ニ獻セシガ後、部落ヲ有爾郷ノ地ニ移セリ今徃々瓦片ヲ出スト云フ
 
     神祠
 
竹神社 竹川村ニ在リ長白羽神ヲ祀ル創立詳ナラズ社傳ニ云フ垂仁天皇ノ時多氣連ノ祖宇加乃日子、其子吉志比古、皇大神幸行ニ供奉ス孝徳天皇ノ時多氣郡ヲ置ク其子孫郡領ニ任ス仍リテ末裔本郡ニ住シ其氏祖ノ神ヲ奉祀シ白波神ニ配スト明治二年 今上行幸ノ時奉幣使參向アリ祭日一月三日四月三日【社記】
 
相鹿上神社 相可村ニ在リ天兒屋根命【命ハ大鹿首ノ祖先ニシテ本村ハ即チ首、本貫ノ地ナリ】ヲ祀(85)ル俗、上ノ宮ト稱ス創立詳ナラズ傳ヘ云フ本社上世は相鹿郷ノ上ニアリシヲ後、今ノ地ニ遷スト祭日十二月六日【社記】
 
建日別神社 栃原村ニ在リ天手刀雄命、建比良部命ヲ祀ル創立詳ナラズ祭日一月十九日六月十一日十一月十一日【社記】
 
牛庭神社 牛草村ニ在リ牛大山昨命ヲ祀ル創建詳ナラズ本社ヨリ一町許北ニ一老松アリ【今枯槁ス】物見松ト稱シ其下ニ小祠アリ是即チ本社ノ遺址ニシテ後世此ニ遷スト云フ祭日陰暦正月八日【社記】
 
丹生神社 丹生村ニ在リ丹生津姫命ヲ祀ル社傳ニ云フ繼體天皇十六年創立嵯峨天皇弘仁中夏旱ス勅シテ雨ヲ此ニ祈ル同秋霖ス亦晴ヲ此ニ祈ル北畠氏ノ盛時?々社殿ヲ造營ス古田重勝、紀伊徳川氏亦神田ヲ寄附ス祭日六月十六日
   三月末つかた丹生大明神へ參り下向し侍るに上田野と云ふ所(86)を通りて                       北畠國永
  千はや振神の御前に行通ふ賤か上田の野こそにきはへ
 
竹大與杼神社 大淀村ニ在リ祭神及ビ創立年月詳ナラズ【里俗豐玉彦命ヲ祀ルト云フ】倭姫命世紀ニ海鹽大與度與度美※[氏/一]御船令2幸行1其時倭姫命悦給※[氏/一]其濱大與度社定給云々ト記ス即チ是ナリ祭日一月十一日五月三十一日九月廿八日【社記】社地海濱ニ在リテ頗ル景勝ニ富ム
 
鳥墓御厨《トツカノミクリ》 蓑《ミノ》村字島墓ノ地ナリ今、小祠アリ鳥墓神社ト稱ス往昔此ニ神?ヲ建テ神領ノ雜務ヲ執行シ來リシガ大化五年度會郡山田原ノ離宮院ニ合ス内宮儀式帳ニ云フ從2纒向珠城朝廷1以來至2于難波長柄豐前御宇天皇御世1有爾鳥墓村造2神?1※[氏/一]爲2雜神政所1仕奉ト又神鳳抄ニ富墓御厨 四丁ト記ス即チ是地ナリ
 
     梵刹
 
(87)近長谷寺 長谷村ニ在リ眞言宗仁和寺末ナリ仁和中飯高宿禰諸氏【諸氏正史ニ見エズ蓋シ誤ナラン】創立ス【或ハ云フ光孝天皇ノ勅願所ナリト】初メ丹生山光明寺ト号シ後、今ノ稱ニ改ム永禄中北畠利貞【系圖ニ見エズ】祈願所トナス、蒲生氏郷、コ川頼宣等亦之ヲ崇信ス【寺記】境内櫻樹アリ
   天正二年【甲戌】丹生ノ泊瀬に花を見けるか枯たる木も花さくとちかひのある程に                   北畠國永
  枯すさく梢の花にこの寺の春を幾世のかさしとはする
 
金剛座寺 神坂《カウサカ》村ニ在リ天台宗延暦寺末ナリ白鳳九年藤原不比等創立ス應仁二年火災ニ罹リ寶物舊記等燒失ス萬治中僧良珠方丈、庫裡、表門ヲ再建ス本寺ニ藤原不比等ヨリ傳來ト稱スル笛一管アリシガ文化中紀伊コ川氏ニ獻ズ又境内ニ菩提樹、三葉丁子アリ共ニ著名トナス【寺記、五鈴遺響】
 
(88)神宮寺 丹生村ニ在リ眞言宗京都勸修寺末ナリ寶龜中僧勒操創立ス後、勒操ノ弟子僧空海來リ住シ寺門盛ナリシガ天正中三瀬左京ノ兵乱ニ燒失シ貞享中之ヲ再建セリ今、中本寺ニ列ス【寺記】
 
大陽寺 栗谷村ニ在リ曹洞宗永平寺末ナリ創立詳ナラズ往昔華山院一七日參籠セラレシ舊地ニシテ大永中北畠材親之ヲ崇信シ伽藍莊嚴ナリシガ永禄ノ兵燹ニカヽリ燒失ス後、僧弘宗堂于宇ヲ再建ス之ヲ中興解山トス【寺記】
 
逢鹿瀬寺址 相鹿瀬《アフガセ》村字淺間ニ在リ稍平坦ニシテ礎石等ノ遣址ヲ存ス創廢年月詳ナラズ神護景雲元年十月本寺ヲ以テ大神宮寺ト定メラル寶龜六年六月石部楯杵同吉見、私市安良等神宮御饌ノ年魚ヲ逢鹿瀬川ニ漁ス同寺僧徒ノ辱シムル所トナル之ヲ官ニ訴フ是ヨリ遂ニ本寺ヲ廢スト云フ【三國地誌、神宮雜事記】
 
(89)磯部寺址 相可村字磯部寺ニ在リ創立年月詳ナラズ相傳フ往昔伊蘇上神社ノ神宮寺ナリト元禄中堂宇ヲ再建シ天台宗延暦寺末派ナリ明治六年廢ス
 
正明寺址 丹生村字馬寶殿ニ在リ今、耕地タリ相傳フ往昔法華宗ノ元祖日蓮開基ニシテ其自書ノ題目ヲ刻セル石塚アリシニ天正ノ始大黒屋某竊ニ之ヲ身延山ニ賣リ唯臺石ノミ存セシガ後、神宮寺ニ置ク其所在今詳ナラズ【五鈴遺響】
 
     濱海
 
大淀浦 大淀村沿海ノ地ヲ稱ス東ハ二見、志摩ノ島嶼ヲ望ミ北ハ遙ニ尾、參ノ海岬ト相對ス海邊松樹鬱蒼トシテ白砂ニ映ジ風景畫圖ノ如シ徃昔倭姫命天照大神ヲ奉ジ此地ニ到ル海上風ナク波浪殊ニ穩ナリ命悦ビテ大與度社ヲ建ツ【邦人水上ノ穩カナルヲ稱シテヨドムト云フ】是ヨリ遂ニ其地ニ(90)名ヅク【倭姫命世紀】
   新古今             藤原定家
  六淀の浦にかりほすみるめたに霞にたゝて歸る鴈かね
   風雅              俊頼朝臣
  大淀の濱の眞砂を君か代の數にとれとや浪も寄すらん
 
白良《シラヽノ》濱【濱田松】 今詳ナラズ或ハ云フ濱田村ノ海濱ヲ稱スト【五鈴遺響、勢國見聞集】
 字蛭子前ノ邊葢シ是ナラン南方一帶松林ヲナス北ハ遠ク尾、參ノ山岳本州多度山等ヲ望ミ商船漁舶往來常ニ絶エズ
   山家集               西行
  浪寄るしらゝの濱のからす貝ひろひやすくもおもほゆる哉
   夫木                寂念
  雪の色におなししらゝの濱千鳥聲さへさゆる曙のそら
 
(91)御祓場《ミソギバ》 大淀村字大與度ニ在リ今、渡津タリ相傳フ往昔倭姫命此地ニ祓禊ス故ニ名ヅク中世齋宮内親王亦以テ例トナスト【大淀名勝志、古老口碑】
   大神宮千首           新大納言
  松に吹風も凉しく大淀のけふの御祓を神やうけなん
 
小野(ノ)湊【一名小野古江】 今詳カナラズ或ハ云フ大淀村ノ地ニシテ即チ大淀浦ニ屬ス徃古尾、參二州ニ渡航スル津口タリト【五鈴遺響、宮川夜話】按ズルニ此地數説アリ一ハ度會郡太湊ノ西南ニ在リトシ【勢陽雜記、勢陽拾遺集】一ハ桑名郡東方村又鈴鹿川ノ末流或ハ雲出川ノ邊ナリトス【士佛参詣記、古老口碑】然レドモ齋宮式ニ五月十一日晦日隨2近川頭1爲v禊八月臨2小野湊1爲v禊ト記ス近川ハ乃チ多計川ナリ大湊、雲津川等ヲ以テ之ニ充テバ齋宮所在ノ地ヲ距ル甚タ遠シ便宜ノ海水ヲ棄テ彼地ニ禊スベキノ理ナシ、圓融天皇ノ時村上ノ皇女規子内親王齋宮タリ大淀ニ禊ス其母徽子内親王ノ歌ア(92)リ然レバ大淀乃チ祓禊ノ地タルコト知ルベシ
   新古今             徽子女王
  大淀の浦に立浪かへらずは松のかはらぬ色を見ましや
   新千載             藤原基任
  流蘆の末葉も見えす成にけり小野の湊の五月雨の頃
 
     園林
 
花薗 齋宮村字蛭ノ澤ニ在リ今、田圃原野タリ菖蒲叢生シ花時恰モ紫氈ヲ布クガ如シ傳ヘテ齋宮花薗ノ地トナス隣村竹川村字花園アリ今、草生地タリ又其址ナリト云フ【勢國見聞集、勢陽俚諺】
   催馬樂             讀人不知
  竹川の橋のつめなる花薗の我をははなてめさしたくへて
 
齋宮(ノ)森 齋宮村字御舘ニ在リ一ノ森林ヲナス即チ齋宮々址ノ地ナリ
(93)                佐々木弘綱
  ふりはへていつきの森の跡とへはちれる紅葉に埋もれにけり
 
根倉(ノ)森 根倉村根倉神社ノ地ヲ稱スルナラン【伊勢參宮名所圖繪】
                   讀人不知
  月夜にわ根倉の森もくらからすましてしらゝの濱いかならん
 
     洞窟
 
凉石岩屋《スヽイシイハヤ》 久豆《クヅ》村宮川ノ水岸ヲ距ル三町許ニ在リ洞口深四間半高八間幅拾間餘中央ニ一ノ碑石アリ長三尺表面ニ禁殺生ト刻シ右ニ享保癸卯左ニ凉石岩屋ノ文字ヲ題ス其左方ニ方貳問許ノ窟アリ中ニ蝙蝠多シ俗傳ヘ云フ此洞大和國鹽ノ羽ニ通ズト近年村民之ニ入ルモノアリ進ムコト拾五間詐ニシテ道窄ク歩スルす得ザリシト云フ
 
     池泉
 
(94)御河池《ミカハイケ》 齋宮村ニ在リ今詳ナラズ傳ヘテ齋宮ノ御溝トナス其水ノ深キヲ以テ此名アリ【五鈴遺響、伊勢名所拾遺集】
   夫木              徽子女王
  ことし生の御河の池のあやめ草長きためしに人もひかなん
 
有明《アリアケノ》池 齋宮村字笛河地藏院境内ニ在リ今纔ニ盆池ヲ存ス傳ヘ云フ齋宮宮池ノ遺址ナリト傍ニ碑アリ歌ヲ刻ス云フ
  徃古不易有明爾波連留《イニシヘモイマモカハラデアリアケノイケニハツキノカゲゾノコレル》
 
駒除(ノ)池 大淀村南方ノ道傍ニ在リ今、周圍拾間許ノ小池ヲ存セリ傳ヘ云フ昔時齋内親王在原業平ト共ニ此地ヲ通行スルノ時適々農夫ノ草ヲ刈ルニ逢フ農夫馬ヲ小池ノ傍ニ避ク業平歌ヲ詠ジテ云フ、淺芽生の賤か草刈る道せまし行かふ人に駒除の池ト因テ此名アリ【勢國見聞集。大淀名勝志】
 
子安《コヤス》井 丹生村字緑表ニ在リ傍ニ地藏佛ヲ安ンズ詣拜スルモノ多シ傳(95)ヘ云フ僧空海ノ加持水ニシテ産婦之ヲ飲メバ艱ムノ患ナシト明暦二年長井新之亟ナルモノ之ヲ浚フ水際ニ三穴アリ南方ニ通ズルモノ最モ深シ西東ニ通ズルモノ之ニ亞グ井底又大石アリ文字ヲ刻ス【五鈴遺響】
 
二ツ井 仁田《ニタ》村字井戸世古ニ在リ方九尺石ヲ以テ之ヲ疊ム二井相並ブ一ハ清冷ニシテ常ニ飲用ニ供シ一ハ濁リテ汚物ヲ※[さんずい+前]クニ過ギス里俗相傳フ始メ空海廻國シテ此地ヲ過ギ民家ニ入リテ水ヲ求ム老婦アリ出デヽ行キ暫クシテ汲ミ來ル空海其水ヲ得ルニ不便ナルヲ愍ミ其ノ杖ヲ以チ池ヲ穿ツ二水桶涌油清濁自ラ分ル即チ云フ一ハ之ヲ飲ミ一ハ物ヲ洗フベシト言終テ去ル居民便ヲ得ル少カラズト云フ
 
僧空海加持水 波多瀬《ハタセ》村字中山ニ在リ石ヲ以テ之ヲ疊ム清水湧出ス(96)傍ニ空海ノ石像アリ
 
     樹石
 
大淀(ノ)松【一名業平松】 大淀村字有爾町野ニ在リ高六拾尺餘圍拾尺餘枝葉四方ニ延ビテ葱々タリ傳ヘ云フ徃昔在原業平本州ニ使シ將ニ尾張ニ徃カントス齋宮送テ樹下ニ至リ唱和相慰ス故ニ業平松ノ稱アリト延寶中大風ノ爲メ折損ス代官古郡重年其名區ノ堙滅スルヲ憂ヒ植ウルニ一株ヲ以テス今存スルモノ是レナリ【大淀名勝志、宮川夜話、五鈴遺響】
   新古今             讀人不知
  大淀の松はつらくもあらなくにうらみてのみも歸る波哉
 
吹井《フケヰノ》松【一名根上松】  東黒部村字西ノ越ニ在リ始メ巨松三株アリ後、枯槁シ朽株亦將ニ絶エントス今ヲ距ル貳拾年前村人飯田美卿其名木ノ枯ルヽヲ痛ミ更ニ植ウルニ數株ヲ以テス今、圍凡四尺餘ニ至レリ【五鈴遺響、勢國見聞集】
(97)    大淀よりはるかのかみに千歳をも經ぬらんと思ふ程の松貳本ありあたりの人に尋ねければふけゐの松とも申又根上りの松とも申すなりとこたへ侍りぬ皆人寄松戀といふ事をよみけるほどに   北畠國永
  浦波に抽こそめるれ礒の松根にあらばれて戀んものかは
   黒部根上松碑記         齋藤正謙
  吾勢黒部海濱、舊有2根上松1、三株鬱然、云是千年以上物、北畠少將國永甞觀而賞v之、有2歌詠1、見2其羽林咏艸1、今則亡矣、傳2其名1而已、里人飯田美卿好古之士也、請v余記v之以標2其蹟1、余於v是喟然歎曰、松壽千年猶有2枯朽之時1、人壽不v盈v百、而欲v比v之、不2亦難1乎哉、然朽者身不v朽者名、人或有2?儻非常萬世不v朽者1、松則不v及也、雖v然此松見2於名紳集中1、其名到2于今1弗2磨滅1、是爲2木中之非常者1、以2?儻人1比v之、誰亦爲2不(98)可1耶、乃爲書2其由1與2美卿1、上2之貞石1、更圖2不朽1云、銘曰
  天上夭嬌、人咸仰v松、豈唯松耳、人亦有v龍、
 
金掛松 川尻村字槿現前ニ在リ古松一株海岸ニ聳立ス傳ヘ云フ徃昔本村興王寺アリ衰廢前一夕松樹枯槁ノ色ヲ呈ス翌夜悉ク舊ニ復ス是ヨリ稱シテ枯カケ松ト云フ後、今稱ニ誤レリ近傍村民父母ノ喪アレハ服ノ  ルヲ竢チ此松ニ詣リ潮水ニ欲スト何ノ故ヲ知ラズ
 
大杉村(ノ)大杉 大杉村字小森ニ在リ周圍貳丈五尺高三十間土人之ヲ祀リ小祠ヲ建ツ縣内著名ノ巨木タリ近傍ニ數條ノ大瀑アリ山中ノ景幽邃ヲ極ム
 
西行櫻 朝柄《アサカラ》村字櫻峠和歌山別街道ノ右傍ニ往昔巨大ノ櫻樹アリ僧西行ノ植ウル所タリ後、之ヲ伐採シ村人野呂某ノ家屋建築ニ供セリ野呂氏ハ五箇篠山ノ城主野呂氏ノ遺族タリ領主紀伊コ川氏特ニ其(99)伐採ヲ許セシト云フ
 
三本榊 下有爾《シモウニ》村字西郷ニ在リ一根三幹アリ故ニ名ヅク式内有爾神社ノ舊址ナリ村人之ヲ祀リテ神體トナス
 
子得岩《コウルイワ》【一ニ子賣岩ニ作ル又名付岩ト云フ】 四疋田《シヒキダ》村字脇田ニ在リ櫛田川ノ南涯ニ属シ飯野郡阿波曾村ト相對ス村人子ヲ育スルモノ生産後七日間ニ其兒ヲ懷キ岩邊ニ到リ阿波曾村人ノ來ル者ヲ招キ其兒ニ名ヅケシメ冐スニ岩字ヲ以テセハ其兒長生ヲ得ルト云フ【勢國見聞集、古老口碑】
 
     行宮址
 
齋王宮址【一ニ多氣(ノ)宮又竹(ノ)都ト稱ス俗ニ野宮ト云フ】 齋宮村字御舘及ビ字柳原ニ亘ル即チ伊勢街道ノ右側ニ属ス今、原野耕宅地タリ東西四拾五間南北六拾七間【往昔ハ東西四町南北七町ニ亘ルト云フ】徃昔朝廷内親王未ダ嫁セザルモノヲ簡ビ大神宮ニ侍セシシム之ヲ齋王宮ト稱ス即チ此地ナリ倭姫命世紀ニ曰フ(100)大足彦忍代別天皇【景行】貳拾年【庚寅】春二月遣2五百野皇女1皇大神乃御杖代【止志天】多氣宮造奉齋愼令v侍給伊勢齋宮群行始是也云々ト葢シ此時ノ創建ニカヽル天長元年九月此地神宮ヲ距ル遠キヲ以テ勅シテ度會離宮ヲ卜定シテ之ニ移ル承和六年十一月齋宮火ヲ失シ百餘宇燒失ス因テ更ニ卜シテ舊地ニ復ス後醍醐天皇ノ時天下兵亂ニ際シ此式終ニ廢ス【日本後紀、類聚國史。齋宮祭ノ名ハ續日本紀ニ大寶元年八月齋宮司准察トアルヲ始トス】文久二年十一月津城主藤堂高猷建議シテ齋宮ヲ造ランコトヲ請フ朝廷之ヲ嘉ス慶應三年封内鷹野尾村【今、奄藝郡椋本村ノ地ナリ】ノ地ヲ開墾シ以テ其經費ニ充ントス未タ成ラズ因テ米五百石ヲ獻ジ以テ墾地ノ用ニ充ントス然レトモ世變多端ニ際シ遂ニ之ヲ果ス能ハズ【藤堂家譜】
   山家集               西行
  いつか又齋の宮にいつかれて注連の御うちに塵をはらはん
(101)   夫木             鴨長明
  ことのはにかけても何かおもひ出るいつきの宮のしめの下草
 
     域砦及宅址
 
三瀬城址【俗多氣ノ御所ト云フ】 上三瀬村字空通ニ在リ今、耕地山林タリ舊形僅ニ存ス天正二年三月北畠具教大河内城ヨリ移リ居ル州人呼ビテ三瀬御所ト稱ス四年十一月藤方刑部少輔臣輕野某、長野左京進、瀧川三郎兵衛尉等來リテ謁ヲ乞フ具教正サニ爐ヲ圍ミ二人ノ兒ヲ弄ス乃チ出デヽ之ヲ見ル左京直チニ長槍ヲ取リテ之チ衝ク具教怒リテ其槍ヲ奪ヒ劍ヲ拔キテ之チ斬ントス而シテ劍、室ヲ脱セズ瀧川、輕野隙ニ乘ジテ之ヲ刺シ併セテ其兩兒ヲ殺ス卒スル時年四十九後、信雄三瀬ヲ森清十郎ニ賜フ又三瀬藏人ナルモノ之ニ居ル【伊勢一國舊城跡附、五鈴遺響】
 
大淀城址【俗城山ト稱ス】 大淀村字大淀ニ在リ今、小丘ニシテ松樹茂生ス永禄中(102)北畠具教ノ創築ニシテ其退隱所タリ永禄十二年九月九鬼嘉隆織田信長ニ属シ兵艦數艘ヲ率ヒ來リ攻ム鈴木貞經、安田昌綱等能ク拒グ敵拔ク能ハズシテ去ル天正四年具教三瀬ニ弑セラルヽニ及ビテ信長ノ兵又來リ攻ム會々城中反者アリ火ヲ民家ニ放チ城中ニ延燒ス城遂ニ陷ル城兵三拾餘人悉ク之ニ死ス其子孫尚本村ニ存スルモノアリ【五鈴遺響、背書國誌、大淀名勝志】
 
五箇山篠山《ゴカサヽヤマ》城址 古江村字城山ニ在リ東北、櫛田川ニ臨ム高大約四拾尺處々ニ石壘ヲ存ス山上平坦ノ地竹篠叢生ス地勢頗ル嶮岨ナリ土中徃々兵器磁器ヲ出スコトアリ徃昔北畠氏ノ臣野呂越前守之ニ居ル天正十年北畠具親壁壘ヲ修シテ此ニ據リ以テ宗家ヲ恢復センコトヲ圖ル事成ラズ伊賀ニ走ル後、山陽ニ至リ毛利氏ニ投ズ【勢國見聞集】
 
鱗尾《ヒラヲ》城址【一名知寺城】 平尾村字志田ニ在リ今、山林タリ僅ニ遺址ヲ存ス北畠(103)氏與力知積寺某之ニ居ル【五鈴遺響】
 
有爾中城址 有爾中《ウニナカ》村字權現ニ在リ今、山林タリ土壘(ノ址ヲ存ス北畠氏ノ族北岡光房、光國相繼テ之ニ居ル其臣下村仁助ナルモノアリ永禄中陰ニ織田氏ニ通ジ遂ニ滅サル【三國地誌】或ハ云フ織田信雄ノ田丸城主タリシ時此ニ陣屋ヲ設ケシト【古老口碑】
 
牧城址 牧村字前街道ニ在リ今、山林タリ北畠氏ノ臣岡惟家此ニ居リ近郷ヲ所管ス小四郎ナルモノニ至リ天正中北畠具教三瀬ニ弑セラルヽ時之ニ死ス其子孫今、本村ニ存ス【五鈴遺響、古老口碑】
 
栗谷城址 栗谷村ニ二處アリ一ハ字殿切ニ在リ今、耕宅地山林タリ往昔此地紀伊ヨリノ間道ニシテ草賊隱伏ノ地ナリシガ大永中谷内藏之亟北畠氏ノ命ヲ受ケ山賊ヲ殲セシニヨリ此地ヲ賜ヒ因テ城ヲ築キ之ニ居ル刑部太夫ニ至リ天正四年具親ヲ助ケ織田氏ニ抗ス後、城廢(104)スト今、其子孫栗谷精之進ノ宅地タリ【栗谷氏系圖】又多藝録ニ縫之助、利兵衛等ヲ載ス葢シ其族ナラン一ハ字赤坂ニ在リ今、山林ニシテ樹木茂生ス里人傳ヘ云フ北畠氏ノ臣唐櫃五身助砦ヲ此ニ設クト五身助ノ砦址今、唐櫃村ニ存ス蓋シ此ニ其支砦ヲ築キシナランカ
 
矢田城址 矢田村字城山ニ在リ高貳百五拾尺許山上二區ノ平地アリ廣各七八百坪許土壘ノ址ヲ存シ樹木茂生ス城主詳ナラズ里人之ヲ笠城御所ト稱ス葢シ北畠氏繁盛ノ時其支城ニ屬セシモノナラン【三國地誌、古老口碑】
 
波多瀬城址 波多瀬村字中山ノ山上ニ在リ平坦ニシテ樹木茂生ス大永ノ頃野呂房隆ノ弟實秀城ヲ築キ之ニ居ル其子實忠其子實高二見ノ役ニ戰死ス其子三郎天正中織田信雄ニ擒ニセラル三郎時年十五容貌甚ダ美ナリ信雄之ヲ赦サント欲ス三郎肯ンゼス遂ニ磔セラレ城廢ス【五鈴遺響、野呂氏系圖】
 
(105)菅城址 上菅村ニ在リ北畠氏ノ臣中西清兵衛尉之ニ居ル【五鈴遺響】今、本村字下田平坦ノ地土壘ノ址アリ又字古田アリ舊ト殿屋數ト稱ス今、山林タリ孰カ是ナルヲ詳ニセズ記シテ參考トス
 
西山城址 西山村字上奥尻ニ在リ濠壘ノ址存ス北畠氏ノ臣中西圖書頭之ニ居ル又清次兵衛、八兵衛、外記進アリ葢シ族類ナラン【多藝録】
 
吉田氏砦址 茂原《モハラ》村字木馬瀬【舊桃ケ原野】ニ在リ今、耕地山野地等トナレリ享禄二年北畠氏ノ臣吉由兼行始メテ之ヲ築キ家士木馬瀬勘解由ヲシテ居守セシム北畠氏亡ブルノ後其子兼房天正中來テ之ニ住ス兼貞ニ至リテ他ニ移リ砦廢ス其子孫今尚存セリ【吉田氏系圖、古老口碑】
 
下三瀬砦址 下三瀬村字川上ニ在リ石壘ノ址ヲ存ス傳ヘ云フ永禄中
長野左京左之ニ居ル元和中廢スト【五鈴遺響、古老口碑】
 
明豆砦址 明豆《ミヨウヅ》村字中切ニ在リ今、宅地トナレリ里人傳ヘ云フ往昔明(106)豆新兵衛之ニ居ルト
 
兄國宿禰宅址 兄國《エクニ》村字バンバニ在リ今僅ニ小丘ヲ存ス傳ヘ云フ貞治中兄國宿禰之ニ居ルト【古老口碑】
 
平忠盛宅址 河田村ニ在リ今詳ナラズ字坂倉ニ忠盛ノ墳墓アリ蓋シ其近地ナランカ【勢國見聞集、三國地誌】
 
片倉氏宅址 四神田《シカダ》村字西浦ニ在リ四境深溝ヲ廻ラス今開拓シテ田圃トナス土中古刀陶器等ヲ塀出セリ片倉氏ノ事蹟詳ナラズ或ハ云フ伊達氏【舊仙臺藩主】ノ臣片倉小十郎其先ハ本州ヨリ出ヅ是其舊址ナラント書シテ參考トス
 
     舘址
 
北畠氏舘址【唐櫃砦址】 唐櫃村字大栃【舊桃原村字總門】ニ在リ面積大約壹萬貳千坪地形平坦ニシテ草生地タリ傳ヘ云フ天文八年北畠晴具舘ヲ此ニ築ク(107)國平ト稱ス天正四年十一月北畠氏滅亡ノ後其臣吉田兼房來テ此ニ隱レ具教ノ冥福ヲ祈ル居ルコト三年後、其色桃原野ニ移ル唐櫃砦址ハ所在詳ナラズ今、村ノ西部ニ八幡神社アリ唐櫃氏ノ鎭守ナリト云フ蓋シ此邊ニアリシナラン天正四年北畠氏ノ臣唐櫃五身助之ニ居ルト【五鈴遺響、古老口碑】
 
     古墳
 
隆子《タカコ》内親王墓【一名姫塚又小松塚】 馬《ムマ》ノ上《ウヘ》村字寺山【舊字小松山】ニ在リ面積百七拾八坪高壹丈貳尺圓形ヲナス周ラスニ柵ヲ以テス傍ニ陪塚ノ如キモノ四基アリ樹木繁茂ス親王ハ醍醐天皇ノ皇子章明親王ノ第一女ニシテ齋宮四十一代タリ安和二年十一月齋王トナリ天延二年閏十月痘ヲ病ミ薨ス小松女院ト謚ス【皇胤紹運録】此ニ葬ル墳墓後世荒廢ニ属シ徃々開拓ス明治十六年三月村人之ヲ官ニ稟シ遂ニ親王ノ墓ト確定セラ(108)ル
 
平忠盛墓 河田村字坂倉ニ在リ面積四坪塚上巨檜一株ヲ植ウ忠盛ノ事史傳ニ詳ナリ仁平三年正月卒ス年五十八【大日本史】乃チ此地ニ葬ル往時黄銅鑵子及ビ磁器ヲ出セシコトアリ【五鈴遺響、勢國見聞集】
 
有爾中村古墳 有爾中村字發シ計【舊字堀川】ニ數塚アリ高大約丈餘徑六尺何人ノ墳ナルヲ知ラズ往年里人開拓シテ墓地トナサントス偶々塚ヲ發キ銀環、古刀、土器及ビ鐵器ノ腐蝕スルモノヲ得乃チ中止シテ之ヲ官ニ告グ或ハ以テ齋宮六十一代惇子内親王ノ墓トナス未ファ是ナルヲ詳ニセズ
 按ズルニ惇子内親王ハ後白河帝第五皇女仁安三年八月齋宮ニ卜定セラル承安二年五月齋宮寮ニ薨ズ堀川齋宮ト稱ス【大日本史】州人三巫清直曰フ今、墳ノ北十五町齋宮寮址アリ墳ノ西、南、北ニ空溝ヲ通
(109)ズ幅貳丈深壹丈五尺許土俗堀川溝ト稱ス延寶六年十二月※[手偏+僉]地帳堀川下畑四段云々ト記ス堀川豈齋宮ノ名ヲ存スル者ニ非ズヤト又曰フ三昧等ノ小字アリ土俗墓ヲ稱シテ三昧ト云フ蓋シ王墓ニ非ザルカト書シテ參考ニ供ス
 
吉田兼房墓 茂原村字高田ニ在リ石ヲ以テ之ヲ疊ム高三尺二寸兼房齋兵衛ト稱ス北畠具教ニ仕フ北畠氏ノ族?ヲ織田信長ニ通ズルモノアリ兼房之ヲ刺シテ死ヲ乞フ具教聽カズ惡字ヲ與ヘ惡齋兵衛尉ト稱セシム天正中北畠氏亡ブルニ及ビ從士四人ヲ從ガヘ本村ニ隱ル鳥羽城主九鬼嘉隆之ヲ信長ニ薦メントス兼房之ヲ辭ス五年八月山田中島ノ亂九鬼氏ヲ助ケ功アリ後、郷ニ歸リ文禄四年二月卒ス本覺院殿桃原寶林ト謚ス乃チ此ニ葬ル【吉田氏系圖】
 
僧眞紹墓 丹生村字月野ニ在リ墓域貳拾坪中央五輪塔ヲゥク相傳(110)僧空海本村射神宮寺ヲ創立シ眞紹ヲ以テ之ニ主タラシム貞觀十五年七月寂ス年七十九或ハ云フ近江人陰陽師石原某國司北畠氏ノ爲メニ祈ル所アリテ兩宮ニ詣テ歸途コヽヲ經加茂杉太夫ニ遇フ石原騎シテ下ラズ杉太夫怒リ薙刀ヲ取リ之ヲ害ス是乃チ某ヲ埋メシ墓ナリト【丹洞夜語、五鈴遺響】
 
不輕《フキヨウ》塚 丹生村字野尻ニ在リ塚域凡ソ九拾坪巨檜アリ傍ニ徑壹尺五寸許ノ小石二ヲ存ス傳ヘ云フ聖武天皇ノ時僧行基勅ヲ奉ジ宗廟ニ詣デ託宣ニヨリ舍利骨一粒ヲ此ニ藏スト【丹生儀軌、丹洞夜語、元亨釋書】世ノ謂フ所不輕菩薩塚是ナリ
 
經石塚 大淀村字東有爾町ノ路傍ニ在リ塔高三尺幅方壹尺壹寸餘其下、石ヲ以テ疊ム傳ヘ云フ徃昔本村一孕婦アリ死ス墓中夜々陰火ヲ出ダス里民驚怖ス專修寺僧眞惠此地ヲ過ギ爲メニ小石ニ經文ヲ寫シ(111)之ヲ墓中ニ藏ム是ヨリ其怪ヲ見ズト【大淀名勝志、碑誌】
 
  飯野郡
 
     山川
 
櫛田川 水源ヲ飯高郡舟戸村ニ發シ飯高、多氣等ノ郡界ヲ經本郡松名瀬村ニ至リ東流、海ニ注グ傳ヘ云フ倭姫命湯津爪櫛【故事ニ齋宮群行ノ時天皇自ラ御櫛ヲ齋王ニ賜ヒ再ヒ都ニ歸ルコト勿レト勅シ玉フコレヲ別レノ櫛ト稱ス】ヲ此川ニ落シ玉フ故ニ此名アリト【背書國誌】
   名寄                俊頼
  君かすむ櫛田川にやみたれたる神の心もうち解ぬらむ
                   伊藤長胤
  青山廻供一溪明、夏木陰々宿雨晴、脱v網錦鱗即登俎臨v流那有2羨v魚情、
 
櫛田川流域址 西黒部村ノ東北部ニ在リ往昔櫛田川久保村界ヨリ本(112)村字古川野田ノ地ヲ經過シ内海ニ注ギシガ後世洪水ニ罹リ遂ニ今ノ如ク東方松名瀬村ノ地内ヲ通ズルニ至ルト云フ
 
     神祠
 
神山神社 山添村ニ在リ猿田彦命ヲ祀ル社傳ニ云フ垂仁天皇廿二年創建倭姫命世紀ニ遷2飯野高宮1云々トアルハ即チ本社ナリト祭日正月十日六月二十二日九月二十二日【陰暦】
 
意非多神社址【一名長田森又天王塚ト云フ】朝田村字齋宮ニ在リ樹木鬱蒼一小林ヲナス里人云フ式内意非多神社ノ舊址ナリト或ハ云フ長田忠宗【莊司】ノ墳ナリト暫ク疑ヲ記ス
 
神宮屯倉址 所在詳ナラズ延暦儀式帳ニ天智天皇三年【甲子】多氣郡四箇郷ノ地ヲ割キテ屯倉ヲ飯野高宮村ニ造ルト記ス三國地誌ニ云フ高宮村ハ今ノ山添村ノ舊名ナラント記シテ後考ヲ竢ツ
 
(113)     梵刹
 
朝田寺 朝田村字里邊ニ在リ天台宗延暦寺末ナリ延暦十五年僧空海創立正應中僧尊重伏見院ノ院宜ヲ奉ジ七堂伽藍ヲ建立ス又修補料トシテ田貳拾八町歩ヲ給セラル初メ眞言宗ナリシガ後、天台宗トナル天正ノ末僧榮金再興シテ曹洞宗ニ改ム慶長中古田重勝寺領ヲ寄附シテ之ヲ崇信ス永應中復タ今宗ニ改ム里俗死者アレバ衣ヲ此寺ニ手向クルノ慣例アリ【寺記】
 
本宗寺 射和《イサワ》村ニ在リ眞宗東本願寺末ナリ應仁中僧蓮如三河國額田郡土呂ニ一寺ヲ建テ本宗寺ト稱ス永禄中徳川家康ノ兵燹ニカヽリ燒失ス寛永中東本願寺第十四世宣如本寺ヲ今ノ地ノ眞樂寺址ニ再建シ尚、眞樂寺ト稱セシガ後、今稱ニ改ム【寺記】
 
一乘寺 中万《チユウマ》村ニ在リ天台宗安樂院末ナリ推古天皇ノ時厩戸皇子創(114)立往昔ハ山上ニ在リ塔頭十六宇アリシガ建武中仁木義長ノ兵燹ニカヽル後、北畠教具堂宇ヲ再建セリ【寺記】
 
大神宮寺址 所在詳ナラズ續日本紀ニ曰フ寶龜三年、八月、甲寅、異常風雨拔v樹發v屋、卜v之伊勢月讀神爲v祟、於v是【中畧】徙2度會神宮寺於飯高郡度瀬山房1、同十一年、二月、丙申、神祇官言、伊勢大神宮寺先爲v有v祟、遷2建他處1、而今近2神郡1、其祟未v止、除2飯野郡1之外、移2造便地1者許v之、ト按ズルニ三國地誌ニ度瀬山房ハ今、飯高ニ非ズ古、當郡山添村ヲ距ルコト一町許西ニ在リ神宮寺山ト稱ス云々ト曰ヘリ記シテ後考ヲ竢ツ
 
康平寺址 上七見《カミナヽミ》村ニアリ今詳ナラズ淨土宗タリ寺傳ニ云フ康平中安倍貞任追討ノ時本寺ヲ調伏祈願所トナスト【五鈴遺響、勢國見聞集】
 
射和寺址 射和村字里中ニ在リ往昔著名ノ大寺ナリシガ漸次衰廢シ明治維新ノ際廢寺トナリテ寺號ヲ飯高郡阿形村ニ移ス本寺藏スル(115)所古記文書ノ類多ク民間ニ散逸ス同村射和文庫ナルモノアリ亦其一二ヲ藏ス
 
     洞窟
 
莊村石窟 莊《シヨウ》村字切林ニ在リ窟高拾尺濶六尺深貳拾七尺許内外共ニ石ヲ疊ム外部樹木繁茂ス何人ノ造ルヲ知ラズ或ハ古墳ノ類ナラン
 
     樹石
 
西蓮寺(ノ)柿 西黒部村字山中西蓮寺境内ニ在リ高拾五尺圍三尺余最モ古木タリ傳ヘテ僧空海當國ニ巡歴ノ時之ヲ植ウト云フ【勢國見聞集】
 
龍燈(ノ)松 阿波曾《アハソ》村岸垣内【舊寶藥寺ノ門前】ニ在リ高拾八間圍貳間半分レテ三幹トナル里人云フ稀ニ龍燈ヲ現出スルコトアリ故ニ名ヅクト【勢國見聞集】
 
聖コ寺(ノ)楠址 中万村字里中ニ在リ今枯槁シテ松樹ヲ植ウ傳ヘテ往昔厩戸皇子ノ植ウル所トナス寛政中之ヲ伐採セシニ頗ル奇異ヲ現ゼシ(116)ト云フ【勢國見聞集】
 
鏡石 中万村一乘寺ノ西坂ニ在リ高五尺餘圍拾八尺餘安永中津人奥田三角彫シテ圓形トナシ伊藤長胤ノ詩ヲ刻ス今、莓苔之ヲ融セリ詩ニ曰フ【勢國見聞集】
  脩林夾2回磴1、香刹倚2神山1、未v至v小2天下1、已知超2世間1、雲深參2白足1、泉涌照2蒼顔1、行欲v究2奇絶1、此途更徃還、
 
燈明石 中万村(ノ)西部櫛田川ノ中流ニ在リ高七尺餘【乳熊寺ノ正面ニ當ル】里人云フ岩上往々燈光ヲ放ツ世俗稱スル所龍燈是ナリト【勢國見聞集、勢陽俚諺】
 
紫石、山添村ニ在リ方拾貳間ノ巨石ナリ傳ヘ云フ往時松坂城主古田氏之ヲ割キシト【勢國見聞集】葢シ築城ノ時用ヒシ遣物ナラン
 
夫婦石外三石 阿波曾村字芋藏ニ有リ二石對峙ス故ニ名ヅク一ハ高四尺八寸圍拾尺餘一ハ高四尺圍拾四尺此他挾箱石、箪子石、長持石ア(117)リシガ今共ニ所在ヲ失ス葢シ形状ノ類スルヲ以テ名ヅク【勢國見聞集】
 
田掻《タカキ》岩 御麻生薗《ミヲソノ》村字楠田ニ在リ東、弘法池ニ接シ西、櫛田川ニ瀕ス巨岩高六間圍四拾間俗ニ高岩ト稱ス田掻岩其傍ニ存ス方凡ソ貳間高壹間餘人跡牛蹄及ビ方耜等ノ跡アリ恰モ田圃ヲ爬掻スルモノヽ如シ故ニ名ヅク【勢國見聞集】
 
高岩 御麻生薗村字楠田櫛田川ノ北ニ在リ高五間方三拾間許嶄然削立セリ此地風景頗ル佳ナリ
 
     城砦及宅址
 
御麻生薗城址 御麻生薗村字上山ニ在リ面積大約壹千坪許地勢平坦ニシテ古井猶存ス何人ノ居城ナルヲ知ラズ同村西光寺ニ位牌四基アリ一ハ智洞院殿前飛州島大守性譽覺木大禅定門一ハ善龍院殿前志州大守空安了源大居士一ハ覺了院殿法山全性大信士一ハ淨邦院(118)殿前泉州志摩太守行譽直心大禅定門等ノ字ヲ刻ス蓋シ此ニ居城セシカ
 
神山《カウヤマ》城址【一に小山城ニ作ル】 中万村神山ノ山上ニ在リ大約壹町許周圍濠ヲ廻ラシ頗ル嶮岨ナリ往昔仁木主水ナルモノ之ニ居ル【多藝録】
 
     古墳
 
仁木義長墓 中万村一乘寺境内ニ在リ五重塔高拾尺許花崗石ヲ以テ之レヲ造ル表面文字剥落シテ讀ム可カラズ義長石京大夫ト稱ス足利執權仁木頼章ノ弟ナリ正平中畠山道誓ト隙アリ之ト戰ヒ利アラズ遂ニ幕府ニ叛キ安濃郡長野城ニ據ル幕府諸將ヲシテ之ヲ攻メシム義長力盡キ南朝ニ降リ本州ヲ守護ス義長驕奢屡々神領ヲ侵ス神官等之レヲ制スル能ハズ後再ビ足利氏ニ降ル文中元年國司北畠顯能ト朝明郡三無瀬山城ニ戰ヒ敗績ス終ニ本寺ニ入リ自刎シテ死ス即(119)チ此ニ葬ル【五鈴遺響、背書國誌、勢國見聞集】
 
僧空也墓 立田村字西ノ口ニ在リ塔高九尺餘表面梵字及ビ空也上人ノ四字ヲ刻ス傳ヘ云フ空也參宮ノ時此處ニテ念佛ヲ唱ヘ立チナガラ徒生スト其據ル所ヲ知ラズ日本紀畧ニ空也上人六波羅密寺本願往生人ト記ス蓋シ後世崇信ノ徒此ニ碑石ヲ設立セシモノナラン【三國地誌、勢國見聞集】
 
伊勢氏墓 射和村蓮生寺境内ニ在リ里俗伊勢義盛ノ墓ト云フ其據ル所ヲ知ラズ按ズルニ多氣郡長谷寺資財帳ニ東限2伊勢得薗宅1云々ノ文ヲ載ス蓋シ伊勢氏世々此地ニ住セシモノヽ墳墓ナラン
 
大塚山古墳【丸山古墳】 佐久米《サクメ》村字ヒロ田ニ在リ東西拾九間南北貳拾四間餘墳上古碑ヲ存ス文字ナシ里人傳ヘテ練君長者ノ墓トナス又字角田ニ丸山墓ト稱スルモノアリ上ニ一磐石ヲ置ク里人亦傳ヘテ長(120)者ノ舊址ナリト云フ
翁《ヲキナ》塚 和屋村字辻垣内ノ田圃中ニ一小丘ヲナス傳ヘ云フ徃昔翁ノ面此ニ天降レリ故ニ名ヅクト元ト和屋、勝田ノ兩村ニ神宮伶人二派アリ和屋太夫、勝田太夫ト云フ毎歳正月式例ニヨリ神宮ニ舞樂ヲ張ル和屋太夫ノ子孫相續()時ハ此塚ニ舞樂スルヲ例トナス【勢國見聞集】又本村字藤木及ビ破戸ノ二處ニ面塚ナルモノアリ舞樂ノ面ヲ理メシ處ナリト云フ
 
  飯高郡
 
     山川
 
高見山【一名|去來見《イサミ》山】 本郡ノ西端舟戸村ニ在リ本州中ノ高山ナリ大和街道ニ屬ス往昔南朝ノ帝都ヨリ神宮及ビ國司ニ勅使軍使等ノ往還ハ此道ナリシト云フ【五鈴遺響】
(121)   鈴屋集           本居宣長
  高見山谷より登るしら雲の八重ふみわけてけふそ越行
 
篠川【河岸松(一名浪洗松) 坂内《サカナイ》村細野嶺ニ發シ東北流シテ内海ニ入ル即チ坂内川是レナリ今、松坂大橋ヲ下ル四五町ニシテ小坂橋アリ古ノ伊勢參宮街道タリ又近傍ニ古松アリ河岸松ト稱ス往時潮水樹下ニ至リ常ニ漁舟ヲ繋ゲリ【伊勢名所參考抄、古老口碑】
   玉吟集               家隆
  朝ほらけ霜さへとつるさゝ川の氷ふみ分け通ふさとひと
 
下樋《シタヒ》小川【鈴止橋、鈴止松】 東岸江村ニ在リ源ヲ山室村谿間ニ發シ高町屋村ヲ經テ海ニ入ル此他徃昔參宮ノ街道ニ属シ神三郡ノ界トナス勅使神宮ニ到ル時此川ニ禊シテ驛鈴ノ聲ヲ止ム因テ之ニ架スル橋ヲ鈴止橋ト云フ又一古松アリ圍壹丈七尺高拾五間枝葉延ビテ方拾間(122)餘ニ及ブ名ヅケテ鈴止松ト云フ松樹ノ邊又鈴止森ノ名アリ【五鈴遺響、古老口碑】
 按ズルニ下樋小川ハ一説ニ本郡下村意悲神社ノ邊ヨリ流ルヽ小流ナリト云ヒ又松坂人ノ説ニ平生町愛宕町ニ係ル小川是ナリト云フ諸説紛々未ダ據ル所ヲ知ラズ今暫ク本村ヲ以テ之ニ充ツ
   神祇百首              度會元長
  音に聞く下樋小川の橋絶て引わたしけん御代のはるけさ
 
     邑里
 
松坂十景 文政十年代官小坂氏探景詩十章和歌十首ヲ作リ以テ之ヲ定ム曰フ
 松坂金城 宵森杜宇 五曲桃花【外五曲村ニ在リシガ今ハナシ】 篠川螢火 西莊行人 井村早鴈 堀坂晴月 袖岡暮雨【一志郡阿坂山】 布引積雪【同郡布引山】 聚嶺遠眺【一名袴越度會郡佐八、大倉兩村ノ東南ニ聳ユ】
(123)大石村 和歌山街道ニ属ス神鳳抄載スル所大石御薗ノ地是ナリ此地路傍溪※[石+間]ニ巨石多シ
   大石を行ける折節人のもとへ返事に 北畠國永
  とにかくにつらきは人の心かな千曳の石もひけはひかるゝ
 
     神祠
 
意悲神社 松坂殿町ニ在リ應神天皇、倉稻魂命ヲ合祀ス創立詳ナラズ天正中蒲生氏郷細頸城ヲ此ニ移ス時社殿ヲ修營シ本城ノ鎭守神ト崇ム後、城主代々之ヲ崇敬ス明治二年 今上本州ヘ行幸ノ時奉幣使參向アリ祭日一月四日九月十五日【社記】
 
立野神社 立野村ニ在リ五十猛命ヲ祀ル創立詳ナラズ祭日正月十一日十一月十一日【陰暦】社内ニ享保中建ツル所殺生禁制ノ石標アリ
 
花岡神社 宮前村ニ在リ八柱皇大神ヲ祀ル創立詳ナラズ祭日一月十(124)一日六月十一日【陰暦】
 
     梵刹
 
來迎寺、松坂白粉町ニ在リ天台宗近江西教寺末ナリ永正中北畠材親戰死者ヲ吊セントシテ一志郡松島村ニ一寺ヲ建テ教王山眞盛堂來迎寺ト号シ塔頭六坊ヲゥキ寺料ヲ寄附ス天正十六年今ノ地ニ移ル材親甞テ比叡山西教寺中興僧眞盛ヲ延請シテ其戒ヲ聽ク布政ニ裨補アル少カラズ眞盛堂ノ号亦其遺徳ヲ追慕スル所以ナリ【寺記、五鈴遺響】
 
清光寺 松坂中町ニ在リ淨土宗知恩院末ナリ天平感寶元年僧行基松島村【今一志郡ニ属ス】ニ創建シ眞言宗神光寺ト号ス大永中僧超譽今宗ニ改メ清光寺ト号ス天正中津川玄蕃允、蒲生氏郷【共ニ松島ノ城主】ノ菩提所タリ十六年松坂日野町ニ轉ズ元和中徳川頼宣今ノ地ヲ與ヘ堂宇ヲ再建セシム後、僧信阿ヲ中興開山トナス僧西行本州行脚ノ時本寺ニテ詠ズル(125)歌ニ【寺記、五鈴遺響】
   いせ島や石津の浦によする浪かたし貝をも拾ひつゝ見ん
 
常念寺【菩提樹】 松坂中町ニ在リ眞宗專修寺末ナリ徃昔安倍宗光ナルモノアリ薙髪シテ天台宗ノ僧トナリ一寺ヲ大河内村ニ建テ常念山觀音寺ト云フ後、一志郡松嶋村ニ移ル寛正五年專修寺僧眞惠巡行ノ時留錫シテ法化道場トナシ天正中今ノ地ニ移シ尋テ寺号ヲ改ム境内菩提樹アリ眞惠法印本寺ノ種子ヲ移植セシト云フ【寺記、古老口碑】
 
龍泉寺 松坂愛宕町ニ在リ眞言宗山城大覺寺末ナリ弘仁中僧空海一志郡瀧之川村ニ一寺ヲ創立ス北畠氏祈願所トシテ寺領若干ヲ寄附ス永禄ノ頃一志郡松島村ニ移ル天正九年僧良宗堂宇ヲ今ノ地ニ建ツ正親町天皇ノ勅願所タリ元和八年八月徳川頼宣寺領ヲ寄附シ元禄中堂宇ヲ再建ス文明以後ノ寄附状數通アリシガ明治九年火災ニ(126)カヽリ堂宇ト共ニ燒失ス惜ム可シ【寺記】
 
國分寺【井本井】 伊勢寺村ニ在リ眞言宗仁和寺末ナリ方俗伊勢寺ト稱ス天平九年聖武天皇僧行基ニ勅シテ國毎ニ尼寺ヲ創立セシム本寺其一ナリ【一説ニ元正天皇養老五年五畿内七道ニ一州一箇ノ國分寺ヲ造ラシム是其一ナリト】文治ノ頃舊名ヲ失シ惠雲寺ト稱セシガ後、國分寺ト改ム近傍ニ井本井アリ石ヲ以テ之ヲ疊ム深五尺其水清冷村人之ヲ飲用ス傍ニ小祠アリ井本神社ト稱ス碑アリ井ノ本ノ三字並ニ一首ノ歌ヲ刻ス里人傳ヘ云フ光明后此水ヲ服シ玉ヒ益々艶麗ヲ加ヘラレシト【寺記、五鈴遺響】碑面ノ歌ニ
  戀しくは尋てもこよ伊勢の國いせ寺本にすめるわらわを
 
繼松寺 松坂中町ニ在リ眞言宗高野山蓮花三昧院末ナリ天平十五年僧行基本郡石津郷ニ創立天平勝寶二年秋洪水ニカヽリ堂宇漂流ス八月度會郡二見郷ノ人三津正信梅中ニ於テ本寺ノ本尊ヲ獲因テ舊(127)地ニ党宇ヲ再建シ薙髪シテ繼松ト云フ後、之ヲ寺号トナス天正中今ノ地ニ移ス寺ヨリ韓天壽ノ墨帖ヲ摺出セリ之ヲ岡寺板ト云フ毎年初午ノ日諸人群參シテ殷賑ヲ極ム
                   佐々木光子
  岡寺の初午まゐりにきはひぬ道もなきまて引續きつゝ
 
瑞巖寺【觀音巖 七ツ石 並櫻】 岩内《イヲチ》村ニ在リ徃昔僧空海海内遊行ノ時此地ニ來リ山上ニ瑞雲ノ起ルヲ見暫ク錫ヲ留メ乃チ谿間ニ壁立セル巨巖ノ表面ニ觀音佛ノ像ヲ刻シ山下ニ一寺ヲ建ツ後、地震ノ爲メニ佛像頽壞シテ石面ニ面貌ノミ自然ニ現ル俗、石觀音ト稱ス寺地、山ニ倚リ池ヲ擁シ風景絶佳ナリ【境内小町石、鯛石、額石、鏡石、足石、牛石、鷺石アリ共ニ著名ナリ】人以テ奥州松島ノ風景ニ擬スト云フ【寺記、勢國見聞集】
並櫻 境内觀音川ノ北岸ニ並植ス俗、櫻繩手ト稱ス其他山中到ル處(128)ニ多シ初メ本寺中興僧法譽數十株ヲ植ヱシニ追年培植シテ今ノ如クナレリ
                    小津久足
  吹さそふ嵐まきれて瀧川のひゝきに花の散るかとぞ見る
   秋の末つかた瑞巖寺にて
                   佐々木弘綱
  春もこん櫻かへてをおしこめて紅葉にこもる秋の山寺
〔瑞巖寺風景の圖、下段にあり〕
 
(129)横瀧寺【西ガ松、宗夢梅】 伊勢寺村ニ在リ淨士宗龍泉寺末ナリ聖武天皇僧行基ニ勅シテ之ヲ創立セシム舊ト堀坂ニ在リシヲ寛和中今ノ地ニ移ス世稱シテ靈地トナシ詣ツル者常ニ絶エス一古松アリ西方松【一名龍燈松】ト云フ其枝皆西方ニ向フテ垂ル又本手らニ山腹ニ宗夢梅アリ中興僧宗夢之ヲ植ウ【寺記、勢國見聞集】
                   佐々木弘綱
  横瀧はみ山の奥と聞にしを海こそ庭のけしき成けれ
 
菅相寺【並梅】 松坂愛宕町ニ在リ【世ニ此地ヲ梅ガ森ト稱ス】臨濟宗妙心寺末ナリ往昔此地ニ古塚アリ里人之ニ觸ルレバ必ズ殃ヲ得ルトナシ敢テ近クモノナシ寛永中郡宰長野清貞聞テ之ヲ穿ツ丈餘ニシテ寶劔ヲ得タリ又神託アリ曰フ我ハ天滿大神ナリト因テ之ヲ徳川頼宣ニ陳ス頼宣命ジテ本寺ヲ創建シ又天神祠ヲ建ツ境内梅ガ森ノ碑アリ本居宣(130)長ノ撰文橘千蔭ノ書ニ係ル【寺記、勢國見聞集】
 並梅 始メ紅白二株アリ相並ブ因テ此名アリ後年本居宣長數十株ヲ加植セシヨリ並木ノ梅ト稱ス
                    本居宜長
  咲そむる春の立枝にかけさして朝日も匂ふ神垣の梅
 
     園林
 
松坂公園【俗ニ城山ト稱ス】 松坂ノ西部ニ在リ【世ニ四五百森ト稱スル地ハ此邊ヲ指ス】即チ舊城郭面積凡ソ三千坪餘ノ地ヲ云フ園ニ南龍神社アリ紀伊徳川氏ノ祖先ヲ祀ル明治十四年五月官ニ請フテ公園トナス土地高燥樹木深鬱内海ノ風景亦望中ニ属ス春秋遊客常ニ絶エス
                   佐々木信綱
  忘れめやわらは遊にかさしつるその城山の花の盛を
 
(131)四五百《ヨイホノ》森【一ニ宵森又四藺生森、夜菴森ニ作ル】 松坂ニ在リ舊城址【今公園トナル】ヨリ意悲神社ノ邊ヲ總稱ス神鳳抄載スル所四藺生御薗ノ地是ナ【背書國誌、三國地誌】古木森鬱トシテ戯ル幽凄ヲ覺ユ
   足利義教供奉紀行        大僧都堯孝
  此ころの月見るよひの森ならば猶旅人の立やよらまし
   參宮記              北村季吟
  木間もる月にそふらし宵の森みやこを思ふ心づくしは
 
山村(ノ)梅林 笹川村字上廣ニ在リ前ハ笹川ノ清流ヲ帶ビ後ハ堀坂山ト相對ス老幹槎※[木+牙]枝ヲ交エ花時ノ盛近傍其比ヲ見ズ春時風流ノ客杖ヲ曳クモノ多シ
 
     洞窟
 
瑞巖寺(ノ)巖窟 岩内村ニ三窟アリ一は山之神岩洞ト云フ本寺ノ南貳拾(132)間許ノ小丘ニ位ス口方貳尺深三間高幅凡ソ六尺葢フニ巨石三個ヲ以テスーハ寺尾山岩洞ト云フ寺ノ西北字寺尾ニ在リ洞口方四尺餘深四間三尺高幅六七尺役小角ノ小石像ヲゥク一ハ塔ノ洞ト云フ本寺境内ニ在リ洞口方四尺五寸深三間高幅凡ソ七尺地藏佛ヲ安ンズ倶ニ何人ノ穿ツヲ知ラズ葢シ古墳ノ壘ナラン
 
     池泉
 
深長(ノ)泉【一名泉森】 深長《フカヲサ》村大神神社境外南隅ニ在リ池、廣三拾坪餘深凡ソ三尺毎春播種ノ時湧出シ秋収ノ候ニ涸渇ス水中石菖蒲ヲ産ス周圍老杉翠松蔚茂シ頗ル幽邃ナリ近傍來リ汲ムモノ多シ徃昔松坂城主吉田重勝賞翫茶湯ニ供ス旱時ニハ本村數十町ノ水田ヲ灌漑スト云フ【古老口碑】
 
朝日(ノ)井 岩内村字中世古瑞巖寺ヲ距ル凡ソ四町許ニ在リ水涸レテ纔ニ古形ヲ存ス傳ヘ云フ僧空海ノ加持水ニシテ當時奇特ヲ現ハシ諸人群(133)集セシト側ニ碑アリ朝日ノ井ノ數字ヲ刻シ側面大行寺ノ三字ヲ記ス葢シ徃時此地ニ大行寺アリ此レ其遣址ナランカ
 
觀音寺址(ノ)井水 桂瀬村字新田觀音寺ノ舊址ニ在リ其水清冽茶湯ニ適ス好事家來リ汲ム者多シ
 
     樹石
 
堤(ノ)松 松坂本町御厨神社境内ニ在リ三株アリ圍壹丈五尺ヨリ貳丈ニ至ル古老傳ヘ云フ元和五年本社ヲ此地ニ移スノ時已ニ巨松タリ一目シテ五七百年ノモノタルヲ知ル
 
念佛寺(ノ)櫻 伊勢寺村念佛寺境内ニ在リ徃昔櫻樹極メテ多ク蓮香亭ノ櫻ト稱シ【蓮香ハ本寺開山ノ僧】其名高カリシガ今僅ニ數株ヲ存ス春時ニ至レバ今尚遊觀スルモノ多シ
                    小津久足
(134)  植しその蓮の光きえなから櫻の木立つきてのこれり
 
楓樹 西之庄村小津氏ノ庭園ニ在リ近傍無比ノ名木タリ徃昔近江高野永源寺ヨリ移植セシモノナリト云フ
 
金剛巖 有間野《アリマノ》村字黒洞ニ在ル巨岩ヲ云フ岩間樹木ヲ生ス傍ニ小瀑布アリ七井戸ト云フ傳ヘ云フ徃時此邊人家多ク岩傍不動像ヲ安置ス又鰹魚石等アリ旱魃ノ時里人雨ヲ此ニ祈ル後年佛像及ビ名石トモ人ノ持去ル所トナリ今、一ノ小祠ヲゥク慶長ノ頃長井成知ナルモノ家世藏スル所ノ軍器ヲ此ニ埋ムト成知ハ近江澤山ノ人北畠具親ニ從ヒ功アリ後、本村ニ住シテ里正トナル【長井氏舊記、古老口碑】
 
礫石《ツブテイシ》 赤桶《アカヲ》村ニ在リ河俣川ノ中央ニ属ス巨巖高九尺傳ヘテ倭姫命ノ舊跡ナリト云フ參宮徃來ノ旅人小礫ヲ以テ之ニ抛チ中ルモノ男子ヲ生ミ中ラザルモノ女子ヲ生ムトナス【五鈴遺響】近來佐々木弘綱ニ其記文(135)ヲ請フテ摺出セリ
 
雲母《キラヽ》石 本朝年代記ニ元明天皇和銅六年伊勢、大和兩國ヨリ水銀雲母ヲ貢スト記ス今、本郡堀坂山ニ雲母石アリ徃年紀伊和歌山藩主ヘ此ノ石ヲ獻セシコトアリ【勢國見聞集】
 
子種石【一名明鏡石】 廣瀬村藥師寺境内ニ在リ高五尺周圍壹丈許形状蠶繭ノ如シ方俗蠶ヲ養フ者參詣シテ幸ヲ祈レバ驗アリト云フ【勢陽名木石集、勢國見聞集】
 
觀音巖【一名炮烙巖】 大石《オホイシ》村金常寺境内ニ在リ和歌山街道ニ沿フ高大約壹百尺一大岩山ノ半腹ヨリ脹出シテ將ニ墜チントスルノ勢ヲナス行路ノ人ヲシテ爲メニ悚然戯タラシム傳ヘ云フ徃昔土器ヲ售ル者此ヲ過ギ危懼シテ進ム能ハズ日暮ニ至ル是ヨリ炮烙【土器ノ名】岩ノ名アリト【五鈴遺響、古老口碑】
 
星落石 作瀧《サクタキ》村字小作太河俣川ノ傍ニ在リ長九尺幅三尺餘形チ臥牛(136)ノ如シ青色ニシテ處々凹處アリ【五鈴遺響】
 
     城砦及宅址
 
松坂城址【一名四五百森城又宵森城、俗ニ城山ト稱ス】 松坂殿町ニ在リ今、公園地トナリ尚石壁ヲ存ス元龜元年北畠氏ノ臣潮田長助始メテ之ヲ築ク【北畠物語○或ハ曰フ長助城ヲ築クノ説好事者ノ言ニ出ヅト姑ク之ヲ存ス】天正十二年北畠信雄、羽柴秀吉ト隙アリ秀吉因テ蒲生氏郷ヲ一志郡松島城ニ居ク十六年其城ヲ廢シ此ニ移ス松坂城ト改ム大ニ壯麗ヲ加フ十八年氏郷若松城ニ轉ズ秀次、服部一忠ヲシテ代リ居ラシム秀次ノ叛ヲ圖ル一忠亦死ヲ賜フ文禄四年古田重勝日野ヨリ移テ之ニ居ル重治ニ至リ元和五年石見濱田ニ移ル本城遂ニ紀伊徳川頼宣ノ所領トナル城代ヲ居キ之ヲ鎭ス後、幕府一國一城ノ制ヲ定メシヨリ天守門櫓等ヲ毀壞ス明治維新ニ至リ城廢ス【五鈴遺響、背書國誌】
 
大河内城址 大河内《オカハチ》村字城山ニ在リ西方山脈ヲ負ヒ東、南、北三面平地(137)ニ臨ム坂内川南麓ヲ?リ矢津川西北ヲ流レ共ニ會シテ一トナリ自ラ濠塹ノ形ヲナス東南ハ樹木森鬱概ネ懸崖ニシテ躋攀スルニ難シ北方ハ溪谷タリ世ニ七尾七谷ノ嶮ト稱ス東方ノ要害ヲ廣坂口ト云フ是ヲ追手門トナス稍南ヲ龍藏庵口ト云フ是ヲ搦手門トナス山上樓櫓ノ址今、耕地林藪等トナル應永二十一年國司北畠滿雅ノ兵ヲ擧ゲテ南朝ニ應スルヤ自ラ阿坂城ニ據リ其弟顯雅ヲシテ之ニ居ラシム後遂ニ足利氏ニ降リ本城ヲ保ス【一説ニ本城文明中北畠材親ノ築ク所トナシ又永禄中具教ノ築ク所トナス蓋シ誤リナラン】永禄ノ末織田信長將ニ北畠氏ヲ討タントス國司具教多氣城ノ攻守ニ便ナラザルヲ以テ嫡子信意ヲ本城ニ居ク【大河内御所ト稱ス】自ラ一志郡大淀城ニ隱居シ入道不知齋ト稱ス十二年八月信長已ニ阿坂城ヲ陷レ來テ桂瀬山ニ陣ス其將池田信輝、丹羽五郎左衛円、稻葉一徹齋等兵七萬餘騎ヲ率ヰ本城ニ迫ル城將日置大膳、安保大藏、家木主水之助、長野左京(138)等能ク拒ク攻圍數旬輙ク拔ク能ハズ信長使ヲ遣リ和ヲ議シ其子茶筅丸ヲ以テ信意ノ嗣トナシ其妹ニ配シ附スルニ二十萬石ヲ以テス天正四年信長謀テ北畠氏族類ヲ亡ボス本城終ニ廢ス【伊勢兵乱記、北畠物語、伊勢軍記、吉野日記】
   大河内へ下り侍りしに彌生のはしめつかた花を見て
                    北畠國永
  枝折とて何奥ふかく尋ねけん外山そ花はまたきさきぬる
 
坂内城址 坂内村字石上谷ト脇谷ノ間ニ在リ西南、坂内川ニ臨ミ東北、細野山ノ連脈重疊シ尤モ要害ノ地ナリ山上平坦僅ニ礎石ヲ存ス應永二十一年北畠滿雅ノ義兵ヲ擧グルヤ木造城主木造俊康附カズ滿雅攻メテ其城ヲ取リ族、雅俊ヲシテ代リ居ラシム既ニシテ俊康攻メテ之ヲ復ス雅俊退テ本城ニ居ル遂ニ氏トスノチ、坂内滿輔入道其子兵(139)庫頭相繼テ居ル天正四年北畠信雄ノ兵來リ攻ム其家臣滿輔ヲ斬テ以テ降ル兵庫頭亦田丸城ニ殺サル信雄其臣足助十郎兵衛ヲシテ居守セシム後、城廢ス當時ノ人坂内氏ノ臣ヲ稱シテ豆税ト云フ打チテ之ヲ上ルトノ謂ナリトゾ【吉野日記、多藝録、五鈴遺響】
 
船江城址 船江村ニアリ永禄天正ノ際北畠氏ノ臣本田美作守其子親康【一説ニ親康ノ父ヲ右京亮ト云フ右京亮ノ父ヲ美作守トシ三世ニ作ル今暫ク北畠物語、伊勢兵乱記ニ從フ】之ニ居ル時ニ親康尚幼ナリ叔父右衛門尉其家政ヲ攝ス永禄十二年織田信長師ヲ出シ阿坂城ヲ攻ム道、此地ヲ過グ乙部藤政曰フ船江ハ要衝ノ地諸士ノ會スル所タリ敵此ニ來ル是本ヲ斷ツノ計ナリ宜ク之ヲ山際ニ拒グヘシト城兵森菊右衛門、中西清消右衛門等出デヽ小金塚ニ迎ヘ撃テ大ニ之ヲ破ル翌夜信長ノ兵復タ進ム公門六郎左衛門尉亦兵ヲ出ス敵兵備アリ遂ニ敗ラル北畠氏亡ブルニ及ビ親康織田氏ニ属ス天正中(140)信雄ニ從ヒ羽柴秀吉ニ抗シ又窃ニ?ヲ秀吉ニ通ズ和成ルニ及ビテ遂ニ其領地ヲ失フ其子千勝丸蒲生氏郷ニ仕ヘ九肋ト稱ス【多藝録、伊勢兵乱記、五鈴遺響】
 
大石城址 大石村字御所屋敷ニ在リ今、耕地タリ永正八年國司北畠材親家ヲ其子晴具ニ讓リ髪ヲ削リ此ニ老ス州人呼ビテ大石御所ト稱ス後此ニ卒ス又字下山ノ山上平坦ノ處アリ巨石數處ニ散在ス村人傳ヘ云フ材親此地ニ城ヲ築カントシ土地僻遠ナルヲ以テ遂ニ止ミタリト【大石記、五鈴遺響】
 
乙栗子城址【一ニ乙栗栖城ニ作ル】 乙栗子《オクリス》村字大西ニ在リ方百貳拾間概ネ耕宅地タリ乙栗栖平八郎之ニ住ス天正四年北畠具親兵ヲ擧グルヤ平八郎之ニ属シ五年多羅木嶺城ニ挑戰ス其兄峯某之ニ死ス平八郎敵將日置次大夫ニ虜ニセラル【五鈴遺響】
 
(141)波瀬城址 波瀬《ハセ》村字城山ニ在リ今、山林タリ雜木繁茂ス天正四年北畠氏ノ亡ブルヤ是ヨリ先キ具教ノ弟某僧トナリ南都東門院ニ在リ孝縁ト稱ス本宗ノ衰亡ヲ聞キ憤慨ニ堪ヘズ伊賀ニ走リ長木ノ吉原某ニ憑リ還俗シテ具親ト改ム因テ義故ラ集メ兵ヲ擧グ來属スルモノ多シ波瀬、峯、乙栗栖ノ諸族之ヲ奉ジテ森城ニ入ル五年春河俣谷、瀧野、有馬野、鐡中ノ諸城ヲ築ク北畠信雄其將瀧川一益等ヲシテ之ヲ攻メシム諸城尋テ陷ル櫨城固ク守リテ屈セズ敵將日置次大夫等力ヲ盡シ之ヲ攻ム城陷リ城將自殺ス敵兵亦死スルモノ多シ森城尋テ陷ル具親遂ニ山陽ニ奔リテ毛利氏ニ投ス【五鈴遺響】
 
立野城址 立野村字椋谷ノ山頭ニ在リ大約九拾坪許ノ平坦地ナリ元龜天正ノ際北畠氏ノ臣水谷刑部少輔【一ニ式部少輔又刑部大輔ニ作ル】之ニ居ル【五鈴遺響】
 
鐡中《テツチユウ》城址【高城址】 有間野《アリマノ》村字一瀬ニ在リ僅ニ其遺址ヲ存ス天正五年北畠具(142)親城を此地に築キ以テ属城トナス信雄其將瀧川一益、日置大膳等ヲシテ之ヲ攻メシム克タズシテ去ル後、大膳ノ弟次大夫再ビ攻メテ之ヲ陷ル【五鈴遺響】高城址ハ字上山ノ嶺上ニ在リ今、事比羅神社ヲ安ンズ傳ヘ云フ元暦元年八月平信兼城ヲ此ニ築キ兵ヲ擧ゲ平氏ニ應ズ源義經之ヲ討ス信兼奮戰力盡キ火ヲ城中ニ放チテ自殺スト【勢國見聞集、古老口碑】
 
赤桶城址【一ニ閼伽桶城ニ作ル】 赤桶村中央ノ山上ニ在リ雜木繁茂シ濠形ヲ存ス天正ノ初北畠具親義故ヲ集メ恢復ヲ謀ル本城之ニ属ス北畠信雄、日置次大夫等ヲシテ之ヲ攻メシム城乃チ陷ル【三國地誌】按ズルニ眞善院名録ニ北畠氏ノ臣閼伽桶善四郎ヲ載ス蓋シ此ニ居リ以テ具親ヲ助ケシカ
 
九回《クマガリ》城址 粟野村字中道河俣川ノ岸邊ニ在リ地勢絶險樹木茂生ス傳ヘ云フ天正ノ初北畠具觀兵ヲ擧ゲ砦ヲ此ニ築ク北畠信雄ノ將日置大膳ノ陷ル所トナルト【勢陽俚諺】按ズルニ眞善院名録ニ粟野半六郎アリ(143)葢シ此ニ居リ以テ具親ヲ助ケシカ
 
七日市城址 七日市村ニ在リ今、畑山林及ビ草生地タリ河俣川其麓ヲ繞ル地勢險岨ナリ天正四年日置大善、北畠具親ヲ撃チテ之ヲ敗ル信雄賞スルニ此地ヲ以テス大善遂ニ城ヲ築キ之レニ住シ近郷ヲ鎭ス【五鈴遺響】
 
岩内城址 岩内《イホチ》村字御所ガ谷ニ在リ山上平坦ノ地アリ殿閣ノ址トス西ニ登ル三町天ガ城ト稱ス天守臺ノ跡ヲ存ス北畠氏ノ族岩内光安之ニ居ル州人呼ビテ岩内御所ト云フ其男光吉【玉千代丸】二歳ニシテ北畠具親ノ養子トナリ北畠ト改稱ス具親ノ敗ルヽニ及ビテ岩内氏亦亡ブ子孫度會郡山田ニ住ス【五鈴遺響】
 
伊勢寺城址 伊勢寺村字城山ニ在リ往昔小菅備後守之ニ居ル後、久瀬五郎左衛門尉又居住セリ其事蹟詳ナラズ【五鈴遺響】
 
(144)黒田城址 大黒田村字押方及ビ大(ノ)田ノ間ニ在リ今、耕地タリ北畠氏ノ臣中頭【多藝録中津ニ作ル】下總守之ニ居ル北畠氏ノ亡ブルヤ中頭氏亦衰フ其裔今、本村ニ存ス【中頭氏舊記】
 
森城址 森村字犬飼ニ在リ今、耕地及ビ宅地トナレリ天正五年北畠氏ノ老臣鳥屋尾右近將監、家木主人佐等具親ヲ奉ジ兵ヲ擧ゲ城ヲ此ニ築ク後信雄ノ拔ク所トナル【五鈴遺響】
 
五箇篠山羅城址 上出江村字大谷ノ山上ニ在リ平坦ニシテ一千騎ヲ入ルベシ天正五年北畠信雄ノ兵具親ヲ攻ムル時此ニ築キ以テ羅城トナス【五鈴遺響】
 
山室城址 山室村字奥殿ニ在リ今」、耕地タリ建暦二年九月伯耆ノ人山室兼高ナルモノ始メテ之ヲ築ク歴世之ニ居ル兼氏ニ至リテ子ナシ北畠具教ノ三子具郷ヲ養ヒ嗣トナシ兼郷ト稱ス【具郷養子ノ事北畠系圖ニ載セズ】天正四(145)年父子倶ニ田丸城ニ自殺シ城廢ス【古老口碑、勢國見聞集】
 
六呂木城址 大呂木《ロクロギ》村字寺垣内山上ニ在リ舊址纔ニ存ス祠アリ北畠神社ト稱ス傳ヘ云フ天正中北畠氏ノ亡ブル其族具親潜ニ回復ヲ圖ル坂内具政之ニ與ミス織田信長ノ兵來リ攻ム遂ニ戰ヒ敗レテ具親ト共ニ毛利氏ニ奔ル尋デ病卒ス其子具眞民間ニ鞠育セラレ本村ニ住ス子孫今尚存セリ或ハ云フ天正中北畠氏ノ臣大呂木某之ニ居リ信雄ノ兵ニ攻メラレ山副某、波多瀬某ト共ニ殺サルト孰レカ是ナルヲ詳ニセズ【北畠物語、坂内氏系圖】
 
朴木藏人少輔宅址 大石村字御所屋敷ニ在リ今、耕地タリ里人傳ヘ云フ往昔北畠氏ノ臣朴木藏人少輔之ニ居ルト
 
     舘址
 
花木館址【霧舘址】 小片野村字朴木坂ニ在リ往昔北畠氏ノ臣朴木隼人正、(146)野呂信濃守此ニ居ル霧舘址ハ字山際及ビ桐久保ノ間ニ在リ今、田圃タリ往昔北畠氏ノ臣山副十六兵衛、久保將監等此ニ居ル【古老口碑】
 
織田信長本陣址 桂瀬村字勝負谷、船後、山神谷ノ邊ヲ云フ森林相連リ大河内城址ト相對ス里人傳ヘ云フ文禄中大河内城ノ役織田信長此ニ陣スト又丹生寺村、立野村ニ陣址ト稱スルモノアリ
 
     古墳
 
本居宣長墓 山室村字高峯ニ在リ塚上ニ櫻樹ヲ植ウ塔石アリ題シテ本居宣長之奥墓ト刻ス宣長松坂ノヒト加茂眞淵ニ從ヒテ學ブ著ス所古事記傳等若干部アリ稱シテ國學中興ノ祖トナス享和元年九月没ス年七十二宣長甞テ自ラ肖像ヲ書キ題スルニ歌ヲ以テス曰フ、敷島の大和心を人問はゝ朝日に香ふ山櫻はな、ト明治八年三月其嗣孫信卿社殿ヲ此地ニ造營シ宣長及ビ平田篤胤ノ靈ヲ合祀ス十三年七月勅(147)使參向アリテ金幣ヲ下賜セラル今、社地ヲ本郡松坂ニ卜シテ社殿更造ノ工事ニ着手ス宮内省又金圓ヲ下賜シテ其擧ヲ賛助セリ
   山室山の奥つきに詣て侍りて  佐々木弘綱
  天の下みちにみちても匂ふかなやまと心の花の言ノ葉
 
古田重勝墓 松坂中町龍華寺境内ニ在リ五輪塔高三尺六寸表面前兵部少輔天關道運居士ト刻ス重勝ハ松坂城主ニシテ慶長十一年六月卒ス年四十織部流抹茶法ノ開祖タリ傳ヘ云フ重勝江戸城修築ノ時卒去ス【系圖等卒去ノ地名ヲ記セズ】是其分骨ヲ葬リシ處ナリト【勢國見聞集、五鈴遺響】
按ズルニ本郡西岸江村ニ重勝ノ墓ト稱スルモノアリ又松坂愛宕町ニ大膳塚アリ【大膳ハ蓋シ其子重治ナラン然レドモ碑石ニ重勝ノ法號ヲ刻ス】共ニ據ル所ヲ知ラズ蓋シ後人先世ノ恩ヲ思フモノ此ニ碑石ヲ設ケシナラン
 
潮田長助墓 塚本村字西ノ口田圃ノ中ニ在リ今、小丘タリ長助ノ父ヲ小(148)五郎ト云フ三河ノ人恠力アリ大竹ヲ曲ゲテ帶トナシ大樹ヲ屈シテ其上ニ踞ヌ又方九尺ノ室ヲ造リ其母妹ト雜具トヲ載セ自ラ負フテ神宮ニ詣デ遂ニ此地ニ留ル長助父ニ繼テ又膂力アリ國司北畠氏ニ仕ヘ四五百森城【今ノ松坂城址】ヲ築ク死シテ此ニ葬ル【五鈴遺響】
 
潤田莊右衛門墓 大足《オヽアシ》村字大足山ニ在リ莊右衛門江戸ノ人ナリ始メ大足山、本村ニ屬シテ秣場タリ享保十四年四月西野村ノ人山中ニ入リ猥リニ芻草ヲ芟採ス村人之ヲ領主紀伊徳川宗直ニ訴フ宗直ノ臣三浦長門守西野村ヲ領シ權勢アリ部下垣本某奸曲ヲ逞フス大足ノ民獄ニ繋ガル者多シ莊右衛門深ク之ヲ痛ミ寛保元年二月曾々宗直東都ニ至ル書ヲ竿ニ挿ミ之ヲ路ニ上ル宗直之ヲ納ル訊※[言+菊]六年事遂ニ白スルヲ得而シテ此山、本村ノ有トナル莊右衛門亦允サレテ榔ニ歸ル村民今ニ至ルマデ之ヲ徳トス明治十三年七月有志者相謀テ碑ヲ(149)建ツ川口常文其文ヲ撰ミ徳川茂鹿之ガ額ニ題ス
 
伊勢寺村古墳 伊勢寺村字横尾ニ在リ五輪塔累々臚列ス高六寸ヨリ一尺ニ至ル傳ヘ云フ此塔元ト本村國分尼寺舊址ノ草間ニ埋没セシニ【元ト國分尼寺ニ五十四ケ村ノ墓地アリシト云フ】文化七年村人之ヲ本村男女坂【即チ今ノ地】ニ移ス人呼テ伊勢寺ノ五輪ト云フ
 
  一志郡
 
     山川
 
矢野(ノ)神山 矢野村海濱一帶ノ松林ヲナス乃チ其地ヲ指ス林中香良州神社ヲ安ンズ故ニ神山ノ稱アリ【古老口碑】
  按ズルニ矢野神山ノ稱夙ニ世ニ著ル或ハ云フ度會郡矢野村ニ在リト又備後、伊豫、播磨、出雲、諸州同名ノ地アリ今暫ク疑ヲ記ス
   万葉                人丸
(150)  妻隱矢野神山露霜爾爾寶比始散卷惜《ツマコモルヤノヽカミヤマツユシモニヽホヒソメタリチラマクヲシモ》
   新勅撰            鎌倉右大臣
  鴈鳴てさむき朝氣の露霜に矢野の神山色つきにけり
 
阿坂山【一名袖岡山又朝香山或ハ淺香山ニ作ル】 大阿坂村ノ西方ニ綿亘スル諸山ヲ云フ東ハ内海ニ面シ遙ニ參、尾ノ諸山及ビ本州朝熊、布引、多度山等ヲ眺望シ辛洲崎、三渡川ノ諸勝皆眼中ニ属ス山中雜樹多ク雜ユルニ櫻花ヲ以テス霜天ノ候殊ニ紅葉ニ名アリ來遊スルモノ少カラズ近傍ニ又神明水、月ノ入井【字白石】月ノ井【字月峽】僧玄虎座禅石【字地獄谷】等ノ勝アリ
   萬葉               市原王
  時待而落鐘禮能雨令収朝香山之將黄變《トキマチテオツルシグレノアメヤミテアサカノヤマノモミヂシヌラン》
   景コ寺所藏幅          尊眞親王
  老か身もむかしの春にかへるかな袖岡山の花を見にきて
 
(151)布引《ヌノビキ》山 本郡ノ西北ニ在リ伊賀國境ニ屬属ス山勢錦亘恰モ布練ヲ引クガ如シ尤モ眺望ニ富ム
   夫木               鴨長明
  嵐吹く雲のはたてのぬきをうすみ村消わたる布引の山
 
貝石山《カヒセキザン》 榊原村字岡ニ在リ榊川ノ北岸ニ屹立ス【往時之ヲ射山ト稱ス射山神社ノ舊址アリ】頂上平坦ニシテ樹木ナク尤モ眺望ニ富ム西南、布引、經ケ峯、朝熊ノ諸山ヲ望ミ東、内海ニ面ス山中海蜃ノ此石ヲ出ス故ニ此名アリ近傍著名ノ奇峯タリ
 
波多横《ハタヨコ》山【湯都磐村 湯都磐森】 八太《ハタ》村ニ在リ往昔大和街道ニ属ス按ズルニ其地或ハ鈴鹿郡關又ハ小野村ニ在リトシ或ハ伊賀名張郡及ビ大和山邊郡又ハ本郡大仰村、八太村ノ地ナリトシ諸説紛々考フ可ラズ今暫ク本村ヲ以テ之ニ充ツ【五鈴遺響、三國地誌、古屋草紙】
(152)   万葉
   明日香清御原宮御宇天皇代、十市皇女參2赴於伊勢神宮1時、見2波多横山巖1吹黄刀自作歌
  河上乃湯都磐村二草武左受常丹毛冀名常處女※[者/火]手《カハカミノユツイハムラニクサムサズツネニモカモナトコヲトメニテ》
   續後拾遺            法眼行濟
  嵐ふく川上かけてすむ月のゆつはの村に影そさやけき
   夫木                定家
  音に聞くゆつはの森に來て見れは川上かけて雲のしくるゝ
 
雲出《クモヅ》川 本州中ノ大川タリ源ヲ本郡八知村、川上村ニ發シ諸小川ヲ合セ郡ノ中央ヲ東流シテ海ニ入ル夏秋ノ際徃々洪水ノ憂アリ往古概ネ舟梁ヲ設ケ行旅ニ便セシガ今ハ堅牢ノ木橋ヲ架ス
   文治六年百首            俊頼
(153)  雲津川せき入てまける苗代に秋の空こそかねて見えけれ
   夫木                榮雅
  雲津川あふなきかりの細橋を竿になしてもわたる旅人
 
御所河原 下多氣村禁中社ノ舊地ト王住谷ノ間ニ在ル河水ノ邊ヲ指ス往昔此處ニ架橋アリ長慶天皇ト北畠氏ト徃來アリシ處ナリ今、其河ノ水面ニ見ユル巖石ニ穴アリ橋柱ヲ建テタル跡ナリト云フ【古老口碑】
 
     邑里
 
松箇《マツガ》島 本郡ノ東端松ケ島村ノ地是ナリ
   松か島にて鶯の聲を聞て     北畠國永
  まれにたに梢も見えぬ浦里の軒端をつたふ鶯の聲
 
雲出(ノ)里 今ノ島貫、本郷、長常、伊倉津村等ノ地ヲ云フ
   堯孝參詣記
(154)  明やらぬ雲津のさとの八重霞なにさへ深きはなの色哉
 
笠松村
   曉孝參詣記
  おのつからゆきゝの宿やかさ松のかけに立寄る旅の諸人
 
片野村
   羽林の母堂ちかき頃は片野といふ所におはしけるを久しくおとつれも申侍らねは花の頃に尋參りけるか彼名所になそらへたはふれ侍る    北畠國永
  君かすむ片野の春の花さかり尋さらめや名にめてゝたに
 
小原村
   小原といふ所を折々通り侍る正月六日多藝よりくたりけるとて先祖の事共思ひ出て一入なつかしく侍れは
(155)                 北畠國永
  岩木こそ七世の昔しるらめと問まをしくも立歸る道
 
     神祠
 
香良洲神社 矢野村ニ在リ稚日女命ヲ祀リ御歳大神ヲ配祀ス欽明天皇ノ時之ヲ創建ス寛延中津城主藤堂氏社領ヲ寄附シテ之ヲ崇敬セリ祭日七月十五日徃時本社ヨリ祭日ニ烏ヲ畫ケル扇ヲ授與シタル古例アリ【社記】社地海濱松林ノ中ニ在リ頗ル眺望ニ富ム又桜花ニ名アリ春時遊詣スルモノ群ヲナス
 
敏太神社 美濃田村ニ在リ保食神ヲ祀ル創立詳ナラズ祭日【大祭陰暦二月十五日十一月三日小祭同一月四日十四日二十日八月十四日十五日九月七日】
 
波多神社 八太村ニ在リ宇賀神、倉稻魂神、天水分神ヲ合祀ス創立年月詳ナラズ祭日一月十七日六月八日九月八日【共ニ陰暦】
 
(156)白山比※[口+羊]神社 南出村ニ在リ菊理比賣命ヲ祀ル大寶中僧鎭徳本郡飯福田村ニ一寺ヲ創建ス或ル日筒ノ中ヨリ白鷺七羽翩々トシテ七處ニ飛ビ去ル因テ其地ニ白山神社ヲ建立ス世人稱シテ七白山ト稱ス【社記】祭日一月廿五日八月廿五日
 
若宮八幡神社【川上藤】 川上村ニアリ仁徳天皇ヲ祀ル祭日八月十九日正平二年國司北畠顯能本村字平倉三ツケ谷ト云ヘル地ニ此社ヲ奉祀セシガ天正四年同氏滅亡ノ後荒廢ス元和二年藤堂氏今ノ地ニ遷シ社殿ヲ造營シ世々之ヲ崇敬ス弘北二年八月藤堂高猷祖先ノ舊地藤堂村ノ藤樹ヲ分チ境内ニ植ウ土人御手植藤ト稱ス【社記、古老口碑】
 
北畠神社 上多氣村ニ在リ北畠親房、顯家、顯能ノ靈ヲ祀ル寛永中鈴木孫兵衛ナルモノ【北畠氏ノ裔ナリト云フ】祖先ノ靈ヲ慰センガ爲メ建立セシト云フ此地北畠氏舘舍ノ在リシ地ニシテ庭園泉石ノ古形今尚存セリ祭日(157)陰暦八月十三日【社記】
 
蘭神社 柚原《ユノハラ》村ニ在リ素戔嗚命ヲ祀ル創立詳ナラズ祭日二月十六日八月十六日【共ニ陰暦】遠近崇信スルモノ頗ル多シ
 
禁中宮舊址 下多氣村字上村禁中谷ノ側ニ在リ小丘ニシテ古木繁茂ス今尚禁中社ト稱スル小祠アリ傳ヘ云フ建武二年北畠顯能多氣城ヲ築キ居ヲ移スノ後、後醍醐天皇ノ御冠、三握ノ御劔ト長慶天皇ヲ合祭シ朝夕親拜セシト
 
     梵刹
 
青巖寺 小山村ニ在リ眞宗專修寺末ナリ創立年月詳ナラズ元ト紫雲山慈恩寺ト號シ眞言宗タリ文明七年僧了珍今宗ニ轉ジ寺号ヲ改ム慶安中紀伊徳川光友祈願所トナシ待遇頗ル厚シ今、擅徒三千七百餘戸アリ【寺記】
 
(158)天花寺 天花《テンゲ》寺村ニ在リ曹洞宗淨眼寺末ナリ天智天皇ノ勅創ニカヽル【一書ニ孝徳天皇ノ時小山長圓創立ニ作ル】天平中僧賢憬堂宇ヲ再建ス元和中徳川頼宣ノ祈願所タリ【寺記】
 
眞福院 三多氣村ニ在リ眞言宗大寶院末ナリ昌泰二年僧聖寶ノ創立ニカヽル後、北畠氏ノ祈願所タリ【寺記】境内櫻樹多シ【北畠氏ノ盛時吉野ヨリ移植セシモノナリ】北畠氏亡ブルノ後人ノ訪フモノ稀ナリシガ近時亦世ニ著ルニ至ルト云フ
 
安樂寺 波瀬《ハセ》村ニ在リ曹洞宗楊柳寺未ナリ延喜十九年藤原仲平勅詔ニヨリ創立ス醍醐天皇ノ勅願所タリ寛文元年僧萬機之ヲ中興ス享保中徳川宗直境内殺生禁制ノ制状を下附ス
 
海禅寺 松崎浦ニ在リ曹洞宗永平寺末ナリ永禄中僧一領創立【寺記】此地内海ニ瀕シ烟波縹渺トシテ布帆江上ニ往來シ眺望頗ル佳ナり境内五葉松アリ高四間圍六尺許頗る風致アリ
 
(159)觀音寺址 甚目《ハダメ》村字道龜ノ田畔ニ窪地アリテ雜草生茂ス里人之を觀音ノ舊跡ト稱ス傳ヘ云フ尾張國海東郡甚目村甚目寺ノ本尊ハ往昔本寺ニ在リシガ洪水ノ時流亡シテ同國ノ海邊ニ漂着シテ今ノ寺ニ安置セリ其佛像ノ背面ニ伊勢國甚目村觀音寺ト銘スト蓋シ同寺ハ建久中源頼朝ノ創建ナレバ本村ニ在リシハ其以前ニシテ頗ル舊寺ナリシモ古書ノ徴スベキナケレバ考フ可ラズ【五鈴遺響】
 
班光寺址 八太村字中野ニ在リ今、耕地タリ傳ヘ云フ白鳳中僧行基創立シ八太山大誓院ト稱ス應永中北畠滿雅七堂伽藍ヲ造立シ祈願所トナス天正六年兵燹ニ罹リ燒失ス後、堂宇ヲ再建シ寺号ヲ改ム正徳三年久居城主藤堂氏今ノ字浦戸ニ堂宇ヲ再建スト明治五年無住ニヨリ廢寺トナル
 
金國寺址 下多氣村字下之世古ニ在リ今、宅地トナリテ小堂一宇ヲ存(160)ス往昔ハ伽藍地ニシテ北畠氏ノ菩提寺タリ永正中寺廢ス【五鈴遺響】
 
僧眞盛誕生地 大仰《オホノキ》村字山口ニ在リ眞盛ハ本村城主小泉藤能ノ男ニシテ紀貫之ノ後裔ナリ積徳智量アリ國司北畠氏擧テ國政ヲ掌ラシム將軍義政又之ヲ崇信ス本郡成願寺、飯野郡蓮生寺、安濃郡、西來寺皆其創建スル所タリ此レ其當時ノ舘址ナリト云フ今、産湯井ト稱スル井泉アリ津人井田胤信ノ建碑アリ【五鈴遺響】
 
     原野
 
嬉野《ウレシノ》 權現前《ゴンゲンマヘ》、須賀、小川村等ノ間ニ在リ古昔曠原タリシガ漸次開墾シテ概ネ田圃タリ垂仁天皇ノ時倭姫命天照大神ヲ奉ジ此地ヲ過ギ阿佐加ノ山嶺ニ社ヲ造リ宇禮志ト宣ヒシヨリ遂ニ宇禮志野ト稱スト其大神遷幸ノ地ナルヲ以テ又神宮野ノ稱アリ【倭姫命世紀、五鈴遺響】
 
   神祇百首            度會元長
(161)  うれし野とみことのりせし草の原に包む袖なき藤はかま哉
 
和遲野《ワチノ》【川口野】 大村字和知野ニ在リ井生、川口二村ニ亘ル徃昔此邊悉ク原野タリシガ漸次開拓田圃ニ變ズ古歌河口野ノ詠アリ葢シ和遲野ヲ指スモノナラン
   勢國見聞集           讀人不知
  河口の野邊の庵に夜更れはいもか袂しおもほゆるかな
 
君(ガ)野 八手俣《ハテマタ》村字君野ニ在リ今、田圃宅地タリ傳ヘ云フ徃昔聖武天皇潜幸ノ時此地ニ獵ス又云フ後世藤原千方ノ敗死スルヤ首ヲ原中ニ?ムト今ニ至テ毎歳十一月村人爲メニ之ヲ祭ル方俗君ノマツリト稱ス【背書國誌、古老口碑】
   家集              北畠國永
  君か野の露おもけなる小車を折て御幸の路とたに見ん
 
(162)     濱海
 
一志浦 本郡ノ東部沿海ノ地ヲ總稱ス
   千載              道因法師
  伊勢島や一志の浦の海士たにもかわかぬ袖のぬるゝ物かは
   新勅撰             家長朝臣
  梓弓一志のうらの春の月あまのたく繩よるもひくなり
 
三渡(ノ)濱【三渡川(一名涙川)三渡松】 三渡《ミワタリ》村ニ属ス此地古、海水灣入シ渡口三處ニ分ル潮汐ノ干滿ニ由リテ渡口ヲ異ニス故ニ三渡ノ名アリ一ハ崎頭ニ在リ一ハ松崎浦ニ在リ一ハ市場庄村ニ属ス【鴨長明伊勢記】後世風潮ニ從ヒ地形ヲ變ズ今、三渡川ニ木橋ヲ架ス里人云フ徃古水邊數多ノ松樹アリ漸次損傷シテ纔ニ回リ丈許ノモノ一株ヲ存セシガ文久中洪水ノ拔ク所トナルト
(163)   新勅撰            前關白
  涙川みなわを袖にせきかねて人の浮瀬にくちやはてなん
   伊勢の國に塩の干たるに三渡と云ふ濱をすきんとて夜中にこえて行に道またくらくて見えさりけれは松原にとまりて夜を明してよみ侍る 僧増基
  夜をこめていそき來つれと松か枝に枕をしても明しつる哉
                     坂士佛
  渡口無v船憩2樹陰1、漁村煙暗日沈々、寒潮歸去路程近、又有3松濤驚2客心1
 
星合(ノ)濱【星合浦】 星合村ノ海濱ヲ星合濱ト稱シ其水ヲ星合浦ト稱ス後世退潮ニ從ヒ漸次新田ヲ開拓シ大ヒニ地形ヲ變ズト云フ
   夫木               土御門院
(164)  伊勢の海契もふかき秋なれは今宵かけ見ん星合の濱
   同                  祐擧
  浮木よる雲の岸邊の影みれは星合の濱もくらりにけり
 
雲出崎 今詳ナラズ葢シ雲出川川口、矢野村海邊ノ地ナラン
   夫木              大中臣親守
  伊勢島や月のみふねはよきてふる雲出か崎の松のむらたち
 
     園林
 
番良州《カラスノ》松原 矢野村ノ東端海濱ニ在リ白沙渺々トシテ際ナク松樹蓊蔚其間ニ点植シ一帶ノ森林ヲナス林中香良洲神社アリ五百枝松、龍燈松、蛭子松等頗ル著名トナス内海ノ布帆、參、尾、濃、信及ビ本州神路、朝熊等ノ諸山皆眸中ニ属ス春夏ノ交遊賞スルモノ殊二多シ里人傳ヘ云フ世ニ稱スル所矢野神山ノ地是ナリト
(165)小戸木(ノ)桃林 小戸木《コベキ》村字若宮、新開、中島等ヨリ戸木村ノ地ニ亘リ雲出川ノ北邊ニ属ス大約七千五百株【反別五町歩】寛政中培植スル成タリ、花時紅白相連リ、瀰望際ナク民屋其中間ニ點在ス遠近來遊スルモノ尤モ多シ久居ノ南方ニ属スルヲ以テ俗呼デ久居桃花ト稱ス風景頗ル佳ナリ
   久居の神社より戸木村の桃を見て 佐々木弘綱
  夕日かけ所をわくと思ひしは見おろす桃のさかりなりけり
 
新家(ノ)桃林 新家《ニノミ》村字西林、久保、落合、高木等ニ連ル東、西、南三面雲出川ヲ繞ラス花候堤上ノ觀恰モ錦?ヲ敷クガ如シ概ネ元文中植ウル所タリ後年培養大約三万七千五百株【反別貳拾五町】ニ至ル村民之ニ資リテ生業ヲ助ク其毎歳得ル所二千五百圓ニ下ラズト云フ花時來遊スルモノ尤モ多シ小戸木桃花ト並ビ稱セラル
(166)   新家村の桃見に父とゆきたる時   佐々木信綱
  ゆけと/\ゆけとも桃の林にて桃より外の色なかりけり
 
     谿淵
 
瀬戸(が)淵 南家城《ミナミイヘキ》村字瀬戸廣ニ在リ雲出川ノ流域ニ属ス奇石怪岩處々ニ突起シ南崖杜鵑花多シ又鮎魚ヲ産ス古ヨリ勝地ヲ以テ名アリ文人騷客杖ヲ曳ク者多シ舊領主藤堂氏常ニ遊賞ス其地ヲ御殿場ト稱ス寛文四年藤堂高次其臣山中爲綱ニ命ジテ此水ヲ疏セシム爲綱百方力ヲ盡シ其功ヲ奏ス文政中高橋知周郡宰トナリ碑ヲ立テ其事蹟ヲ記ス後、洪水ノ爲メ碑石ヲ逸ス今其記文ヲ掲グ
 按ズルニ里傳ニ云フ往昔紀朝雄勅ヲ奉ジテ藤原千方ヲ此ニ討チ之ヲ誅ス其首流ニ溯リ本郡八手俣村ノ君ガ野ニ止ル土人祠ヲ立テ之ヲ祀ル近傍ニ眞見坂、將軍岩、紀友大刀洗水等アリ皆其舊址ナ(167)リト荒唐ノ説信ズルニ足ラズ
  瀬戸潭碑
瀬戸潭在2壹志郡家城村1、其地束2乎兩山之間1、形如2蜂腰1、巨巌重疊、壅2斷川脈1、遇v雨則水逆行以壞2田宅1、旱則灌漑之用廢、號爲2勢中第一險1、吏2其土1者、因循不v能v治、民患v之久矣、寛文四年甲辰大通公使2司農山中爲綱徃治1v之、乃發憤奉v職、上體2國家之憂慮1、下恤2生民之患苦1、親督2吏役1、伐v木鑿v石、以疏2其水1、凡處2此地2三歳、其間雖v有2應v召詣1v府、未3甞過2私家1、疲v神費v精而後成、今所v謂保曾利者是也、又上流設2巨堰1、開v渠百餘町、以注2之傍近1、數千石地並仰2灌漑1、餘澤及2隣封紀侯之田1、紀侯賜v服酬v勞、其餘所在開v田治v渠甚多、距v今百六十年、謳歌祠祀、民猶戴v之、當時刻2歳月於崖石1以記2其成功1、今既漫滅不可2得而辨1矣、余承2之當郡1、歎2其勞績之泯没1、聊記2其事1以告2後世1、嗚呼汝百姓無d狎2今日之安1忘c徃日之(168)艱u、晝茅宵索、力播2百穀1、以報2荅其遺徳1、是余之所2切望1也、
 
慶由《ケイユウガ》淵 下多氣村八手俣川ノ上流、兩岸岩石ノ間一ノ深淵ヲナス天正四年十一月北畠具教其臣藤方刑部少輔、奥山常陸(ノ)介等ノ爲メニ弑セラルヽ時刑部ノ父慶田入道田丸城ニ質タリシガ舊主ノ恩ヲ顧ミ憂憤シ歸リテ本村ニ到リ此ニ投ジテ死ス故ニ此名アリ或ハ云フ本郡南家城村瀬戸淵ニ投ジテ死スト【五鈴遺響、北畠物語】
 
茶臼淵 上多氣村字奥新田ニ在リ多氣川ノ水源ニ属ス崖間ニ大石アリ上下相重リ碾臼ノ如ク流水其間ニ激ス故ニ名ヅク【五鈴遺響】里人之ヲ不動瀧ト稱ス或ハ云フ往昔義成ナルモノアリ茶臼ヲ水中ニ墜ス故ニ此名アリト
 
     洞窟
 
石窟 森本村字奥廣ニアリ巨巌山腹ニ露出ス長三拾五間幅拾三間中央(169)洞窟ヲナス長貳間幅三間深貳間餘其下小流アリ筈川ト稱ス水中又巨石アリ長凡ソ三間半舟石ト名ヅク
 
     池泉
 
風早《カザハヤノ》池【一名一志池】 戸木村宇風早ニ在リ周回凡ソ一里餘本州中著名ノ池沼タリ池水流出安濃郡藤方村ニ至リテ相川ト稱ス東流シテ海ニ注グ乃チ安濃、一志二郡ノ界トナス
   名所拾遺             讀人不知
  風早の池の流を尋てそ安濃と一志のさかひとそしる
 
七栗《ナヽクリノ》温泉【俗ニ榊原温泉ト稱ス】 榊原村字濱田ニ在リ榊川ノ南岸ニ沿フ貝石山、其川北ニ聳ユ風景頗ル佳ナリ近傍屋舍數戸ヲ搆ヘテ浴客ニ便ス此地神鳳抄ニ七栗御薗ト稱ス枕草紙ニ湯ハ七栗ノ湯、有馬ノ湯、玉造ノ湯ト記ス其名古ヨリ高シ【勢國見聞集、背書國誌】
(170)   夫木               任忠
  一志なる七栗の湯も君か爲戀しやますと聞はものうし
   新勅撰                相摸
  つきもせす戀に涙をわかすかなこや七栗の出湯なるらん
 
忘井 二處アリ一ハ宮古村字堀田ニ在リ尋常ノ井ト同クシテ稍淺ク下部石ヲ以テ疊ミ上部ハ井戸側ヲ置ク一ハ市場庄村字權現角ニ在リ井底埋没セリ傍ニ建碑アリ天仁元年十月白河帝第五皇女  柚子内親王ト定セラレ齋宮トナル天永元年九月本州ニ群行ノ時一志頓宮ヨリ供奉官ノ歸京スルヲ慕テ詠歌アリシ處ナリ【或ハ云フ往昔某天皇不豫アリ乃チ此水ヲ以テ加持ス帝病ヲ忘ルト宣ヒシヨリ此名アリト】蓋シ宮古村其舊地ニシテ市場庄村ハ後人ノ肝會ナランカ【神朝遺聞、五鈴遺響、背書國誌】
   千載               齋宮甲斐
(171)  わかれ行みやこの方の戀しきにいさむすひ見ん忘井の水
 
清水井 川上村字相地垣内、坂元川ノ南岸ニアリ巨大ノ平石一隅稍窪ム處徑四寸許之ヲ清水井ト稱ス旱魃ト雖モ涸レズ相傳フ此地始メ清水村ノ稱アリ其名葢シ此水ニ起因セルナラン井邊多ク山葵ヲ産ス
 
柳(ノ)井【辻分松】 久居《ヒサヰ》東鷹跡町ノ藪中ニ在リ徑貳尺八寸深壹間餘水極メテ清淨ナリ里人傳ヘ云フ北畠顯能國司タルノ時已ニ此井アリ領主藤堂高朶及ビ高邁常ニ汲ミテ茶湯ニ供セシト辻分松ハ此ヲ距ル東北凡ソ二町許ニ在リ一巨松タリ徃古奈良街道及ビ里道ノ衢路ニ属ス因テ此名アリ天正以前ノモノト云フ近傍ニ建碑アリ左、參営道ト刻ス
 
     樹石
 
(172)香良洲千歳櫻 矢野村香良洲神社地及ビ字西宮ヨリ馬場垣内ニ至ル道路ノ兩側ニ在リ中古巨樹數千アリ方俗之レヲ櫻道或ハ櫻繩手ト稱ス後年枯槁スルモノ多シ今、小株稍繁茂シ老櫻諸處ニ散在ス花時遊賞スルモノ群ヲナス
   鈴屋集              本居宣長
  名にしおはゝ神のいかきの櫻花ちるへからすとなとかいさめぬ
   里人所傳ノ歌
  いとまなき蜑も手わさやおこたらむからすの宮の花の盛は
 
御嶽《ミタケ》山(ノ)櫻 三多氣《ミタケ》村ニ在リ山中眞福院アリ石名原村境ヨリ同寺ニ至ルノ間凡ソ拾三町許櫻樹兩邊ニ並植ス凡ソ一千五百株老樹巨木殊ニ多ク暮春ノ候滿枝爛?トシテ艶美チ競ヒ夏時緑陰ノ景亦行人ノ心目ヲ慰ス傳ヘ云フ徃昔北畠氏ノ盛時吉野ノ櫻樹ヲ移植セシモノ(173)ナリト里人栽培ニ從事シ年々多キヲ加フ藏王堂ノ前ニ碑アリ橘千蔭ノ歌ヲ刻ス【伊勢考古録、勢國見聞集】
 可利爾陀耳當天散那布例曾美大計奈留加微能賣傳馬須詐礼廼佐久樂藝《カリニダニタフサナフレソミタケナルカミノメテマスコレノサクラキ》
   御嶽と云ふ所の花は未た見侍らて今年々々と過し侍るか花の頃なれは                          北畠國永
  甲斐なしや思ひやりても山櫻いさ白雲の峯を越ねは
   花を嵐の斜に吹かれけれは
  木の下はそゝろに寒き氣色哉はらはぬ袖の花のふゝきに
 
亂櫻《ミダレサクラ》 川上村字大サコ、野谷ノ兩處【北畠氏監所ヲ置キシ地】ニ散植ス地勢高峻ニシテ本村南部ヲ通觀シ頗ル勝地トス里人云フ徃昔豐臣秀吉東國ヲ巡視スル時道ヲ初瀬街道ニ取リ本村ヲ過グ晩櫻路ヲ挾ミ落花紛々タ(174)リ從者詠ジテ曰ク夕風に亂れ櫻を吹まきて道もわかたね峯の白雪、ト秀吉戯レテ曰ク花已ニ峠ヲ過グト是レヨリ此地ヲ過峠ト稱ス後杉峠ニ轉訛セリ
 
峠櫻 奥津《オキツ》村字飼坂【北畠氏監所ヲ置キシ地】ニ在リ阪路ノ両側ニ并植ス此地高峻ニシテ西、大和伊賀ノ諸山ヲ眺臨シ風景頗ル良シ傳ヘ云フ北畠氏本州國司タルノ時尤モ繁茂セシガ後、枯槁シテ其風致ヲ減ズト
 
絲櫻 榊原村字濱田榊川ノ南岸ニ在リ今、觀音堂ヲゥク樹高壹丈八尺圍五尺餘幹心腐朽シ枝葉下部ニ繁生ス樹下芭蕉反古塚アリ【勢國見聞集】
   家集             北畠國永
  春風もちらさぬ程の庭の面に乱て匂ふ糸さくらかな
 
岩櫻 小原村字岩櫻ニ在リ小原川ノ岸頭ニ属ス開花ノ候水流ニ相映シ頗ル風致アリ
(175)   家集                 北畠圖永
  松こそはつれなき名にしおひぬらめたくひもえやは岩櫻かな
 
西藏王(ノ)櫻 太郎生《タロフノ》村大洞山西南ノ麓ニ在リ徑路ノ左右ニ數百株ヲ點植ス近傍ニ藏王山アリ老樹森蔚タリ中ニ藏王堂ヲゥク故ニ藏王櫻ト稱ス往時ヨリ勝地ヲ以テ名アリ
 
西光寺(ノ)松 南家城村西光寺境内ニ在リ高拾五間圍壹丈餘枝葉四垂シテ雅致アリ稱シテ西光寺松ト云フ樹下僧鎭徳ノ墓アリ
 
大巌《オホイハ》 奧津村字椀田ニ在リ山頂ニ削立ス長五間幅拾間白黒色相半ス右ヲ白岩ト云ヒ左ヲ黒岩ト云フ將ニ轉覆セントスルモノヽ如シ
 
將軍岩 南家城村字三榎ニ在リ雲出川流域ノ南岸ニ属ス高壹間回三間水中ヨリ突出ス傳ヘ云フ藤原千方曾テ巌上ニ踞シテ釣ス故ニ名ヅクト
 
(176)笈掛岩【笈掛松】 北家城村字丸山ノ山林中ニ在リ高四尺周圍壹丈八尺古老傳ヘテ云フ僧鎭徳能登ヨリ白山權現ノ神像ヲ笈ニ納メ負ヒ來リ此岩上ニ憩ヒシト又此處ニ笈掛松アリシガ今ハ枯槁シテ無シ
 
     行宮址
 
聖武天皇行宮址【一名河口頓宮址】 川口村字大角【舊字王住】ニ在リ【一説ニ本村字醫王寺亦頓宮ノ址トナス】今、耕地及ビ山林ニシテ小社ヲゥク續日本紀聖武天皇天平十二年十一月行幸ノ條ニ同乙酉到2伊勢國壹志郡河口頓宮1謂2之關宮1也【中畧】車駕停2御關宮1十箇日ト記ス即チ是地ナリ
  萬葉
   冬十月依2太宰少貳藤原朝臣廣嗣謀叛1、發2v軍幸2于伊勢之國1時、河口行宮内舍人大伴宿彌家持作歌
 
配閏か酢か醉點が軒か喝か配か甲が附鵬裏鰯
 
(177)藤方片樋宮址 大阿坂村字櫻谷ニ在リ方壹町許ノ平地ニ老杉三株アリ神明杉ト稱ス【之レヨリ左右ヲ藤方谷又片樋谷ト唱フ】倭姫命世紀ニ天照大神自2桑名野代宮1遷2座阿佐加藤方片樋宮1ト記ス即チ是地ナリ按ズルニ五鈴遺響ニ云フ倭姫命世紀一書ニ天照大神自2美濃國1廻2到安濃郡1藤方片樋宮 爾在座云々ト記ス是レ藤方ノ二字アルヨリ安濃郡藤方村ノ地ニ充テタルノ謬説ナルベシト御巫清直云フ藤方ノ字ハ後人ノ※[手偏+讒の旁]入ナリ年中行事秘抄引用舊記ニ向2伊勢國1到2壹志郡齋片樋宮1トアルヲ証トスベシト
 
皇大神休憩所址【御船石】 森本村字筈川巌石屹峙セル中央ニ方五尺許ノ岩穴アリ里人傳ヘ云フ皇大神宮ノ休御アリシ處ナリト傍ニ御船石ト稱スル長八尺幅四尺高五尺許ノ岩アリ形チ船ニ似タリ故ニ名ヅク
 
(178)王住谷《ワウズタニ》 下多氣村字上村ニ在リ【俗ニユキ姫櫻ト云フ老櫻樹ノ邊ヲ指ス】古老傳ヘ云フ長慶天皇ノ行在所ナリシヲ以テ此名アリト
 
     城砦及宅址
 
多氣城址【一ニ多藝城ニ作ル 館址、砦址、關所址、監所址】 下多氣村ニ二處アリ一ハ字上村【本村ノ西隅上多氣村ノ北端ニ跨ル】ニ在リ霧山城ト稱ス峯嶺相連リ雜草叢生ス櫓臺壘壁ノ址歴々徴ス可シ即チ本城タリ一ハ字六田ニ在リ東御所ト稱ス小丘ニシテ今、耕地ニ属ス建武二年北畠親房ノ第三子顯能州守ニ任ジ始メテ府城ヲ此ニ築ク多藝御所ト稱ス南朝ノ藩屏タリ此歳足利尊氏高師秋ヲ州ノ守護トナス顯能屡々之ト戰ヒ又兵ヲ本州及ビ伊賀、大和、近江等ニ出ス勢威甚ダ盛ンナリ顯能甞テ歌ヲ詠ズ曰ク、いかにして伊勢の濱荻ふく風のおさまりにきと四方に知らせん、ト應永二十二年顯能ノ孫瞞雅兵ヲ本州ニ擧ゲ以テ足利氏ト戰フ敵兵大敗ス(179)後、滿雅後龜山帝ノ皇子小倉宮ヲ奉ジ又義兵ヲ擧グ土岐ノ兵ト戰ヒ敗死ス其後世足利氏ニ属ス七世具教ニ至リテ永禄ノ初メ織田信長北勢ヲ侵畧シ將ニ來リテ北畠氏ヲ亡サンヲ圖ル具教因テ大河内城ヲ修理シ之ニ移リ族、北畠政成ヲシテ代リテ本城ヲ守ラシム天正四年信長計ヲ以テ具教ヲ三瀬ニ殺サシ
〔多藝舊墟ノ圖、図省略〕
(180)ム政成亦之ニ死ス遂ニ信意ヲ河内國ニ幽ス北畠氏府城ヲ設ケシヨリ二百四拾有餘年此ニ至リテ亡ブ【北畠氏中世ノ後領邑一志、飯高、多氣、度會ノ諸郡ニ跨リ兵數凡ソ二万五千ヲ有ス又四管領アリ事ヲ掌ル其族ヲ大河内、坂内、田丸、木造、波瀬、岩内、藤方等諸氏トナス幕下ノ諸士ト共ニ各郡ノ間ニ居城ス事ハ各城址ノ項ニ見ユ○北畠物語、伊勢國司紀畧、五鈴遺響】
 天ケ岳砦址【奥津村字サガノ及ビ川上村老野ニ跨ル土壘ノ址ヲ存ス北畠氏砦ヲ此ニ設ケ警鐘ヲ置キ敵ノ侵撃等ニ備フ】 杉峠口砦址【川上村字野谷大サコノ間ニ在リ丹生俣村ニ通ズ】 嶂路越口砦址【丹生俣村字木地谷ニ在リ飯高郡赤桶村ニ通ズ】 櫃坂峠關址【上多氣村字峠ニ在リ飯高郡上仁柿村ニ通ズ】 飼坂峠關址【奥津村字飼坂ノ山嶺ニ在リ上多氣奥津村ニ通ズ今小茶店アリ】 白口峠口監所址【同村白石ニ在リ上小川村ニ通ズ】 櫻峠口監所址【同村字野登關ニ在リ下ノ川村ニ通ズ】 比津峠口監所址【同村字耕作ニ在リ八知村ニ通ズ】 漆峠口監所址【下多氣村字下世古ニ在リ八知村ニ通ズ】
 
北畠氏館址 上多氣材字馬場ニ在リ多氣城址ノ東南ニ屬ス今、耕宅地トナレリ北方ニ北畠神社アリ杉樹鬱茂シ前面ニ池アリ池畔無(181)數ノ奇石起伏シ櫻樹其間ニ点植ス舊形倶ニ存セリ建武二年北畠顯能州司トナリ城ヲ下多氣村ニ築キ居館ヲ此ニ設ケ近傍ニ諸士ノ邸宅ヲ配置シ儼然一廓ヲナセリ世呼デ多藝御所ト稱ス永禄中大河内城ニ移ルニ及ビテ舘廢ス而シテ建物ハ天正中兵燹ニ罹リ燒失ス寛永二十年北畠氏ノ裔孫舊址ニ一寺ヲ創立シ眞善院ト稱ス祖先以來戰死者ノ靈ヲ祀ル後廢寺トナル【五鈴遺響、古老口碑】北畠國永甞テ此地ヲ過ギ歌ヲ詠ジテ曰ク
   多氣と云ふ所ふる郷と成てよろつ物あはれなるに花漸ちりける頃立越て
  めて來ても恨られけり花は根に鳥はふる巣にかへる心を
 
阿射加《アサカ》城址【一ニ阿佐賀城又ハ阿坂城ニ作ル俗ニ白米城ト稱ス】 大阿坂村字桝形ニ在リ今、草生地トナリ古松數株ヲ存ス高大約八百八拾尺餘山上平坦ノ地櫓壘ノ址(182)猶存ス【櫓臺ノ址四方三四里ノ地ヨリ人目見ルベシ】北畠氏ノ臣大宮尾張守之ニ居ル延元中兵ヲ發シ北郡ヲ攻ム興國元年四月足利尊氏高師秋ヲシテ來リ討タシム尾張守之ヲ三渡ニ迎ヘ撃ツ師秋大敗シテ還ル七年是ヨリ先キ長野工藤氏北畠氏ニ背ク尾張守自ラ兵チ率ヰ之ヲ撃チ遂ニ工藤氏ヲ亡ボス後、祝髪シテ道朔齢ト稱ス時人其兵威ニ服ス應永二十一年國司北畠滿雅足利氏ノ盟約ニ背キ南朝ノ王子ニ位ヲ讓ラザルヲ憤リ一族及ビ大和、伊賀、伊勢、志摩ノ兵ヲ聚メ自ラ本城ニ據リ族雅俊ハ木造城ヲ守リ顯雅ハ大河内城ヲ守リ其他族類ヲシテ多氣、坂内、田丸等ノ要害ニ備フ四月足利氏ノ兵來リ攻ム滿雅能ク拒グ敵水路ヲ絶ツ城兵白米ヲ以テ馬ヲ洗フ敵兵之ヲ見テ水アリトナシ遂ニ退ク永禄中大宮含忍齋其子大之亟等之ニ居ル十二年八月織田信長、木下秀吉ニ命ジテ之ヲ攻メシム拔ク能ハズ會々城中敵ニ通ズルモノアリ城遂ニ陷(183)ル【多藝録、五鈴遺響、背書國誌、吉野日記】
 
松(ガ)島城址【一名細頸城又細首城】 松(ガ)島村字城(ノ)腰ニ在リ概ネ耕地ニシテ丘上一古松ヲ存ス天元八年北畠信雄度會郡田丸城ノ燒失セルニヨリ移リテ本城ニ居ル十年明智光秀ノ亂ニ信雄其臣津川玄蕃頭ヲシテ之ニ居守セシメ尾張清須城ニ移ル十二年三月瀧川下總守之ニ代ル津川氏ノ殘黨津川謙入等拒ミテ入レズ木造左衛門佐撃チテ之ヲ退ケ瀧川氏ヲ入ル會々信雄羽柴秀吉ト隙アリ瀧川、木造諸氏信雄ニ属ス秀吉因テ本城ヲ攻ム四月遂ニ降ル秀吉蒲生氏郷ヲシテ之ニ居ラシム十六年飯高郡松坂城ヲ修補シテ移リ本城遂ニ廢ス【五鈴遺響】
 
戸木城址 戸木《ヘキ》村ニ二處アリ一ハ字桃里ニ在リ雲出川ニ沿フ今、八幡社ヲゥク壘址尚存セリ天文二十二年木造具康城ヲ築キ父具政ヲ居ク天正四年具康之ニ移ル十二年北畠信雄、羽柴秀吉ト隙アリ具康信(184)雄ニ属ス秀吉、織田信包、蒲生氏郷等數氏ヲシテ來リ攻メシム具康之ト戰ヒ屈セガ十月和成リ美濃岐阜城ニ移ル後、信包ノ所領トナル一ハ字敏太ニ在リ土類纔ニ存シ今、稻荷神社ヲゥク永禄中戸木城主木造具康之ヲ築ク天正十二年羽柴秀吉ノ兵卜戰ヒ家所三河守(ノ)陷ル所トナル【五鈴遺響、古老口碑】
 
木造城址 木造《コツクリ》村ニ二處アリ一ハ字稻垣ニ在リ今、宅地タリ村人之ヲ古城址ト稱ス北畠顯能ノ二男顯俊城ヲ築キ之ニ居ル子俊康足利氏ニ仕ヘ爵位並ビ隆ンナリ應永二十一年本宗滿雅兵ヲ擧ゲ足利氏ニ抗シ先ヅ本城ヲ攻ム會々俊康京師ニ在リ家人等防戰城遂ニ陷ル滿雅族雅俊ヲシテ之ニ居ラシム後、足利氏本城ヲ復シ再ビ俊康ニ與フ六代ノ後俊茂ニ至リ城地堅固ナラザルヲ以テ之ヲ字城ニ遷ス今、耕地草生地トナレリ新城址ト稱スルモノ是ナリ俊茂ノ孫具康天正四年(185)本部戸木城ニ移リ城遂ニ廢ス【伊勢國司紀畧、五鈴遺響、古老口碑】
 
御嶽《ミタケ》城址 三多氣村字四方奥ニ在リ丘上ノ畑地タリ天正中御嶽左近進城ヲ築キ之ニ居ル北畠氏ニ属ス四年北畠具教弑セラレシ後固守シテ降ラズ信雄本田左京進、瀧川三郎左衛門、木造左衛門佐ヲシテ來リ攻メシム拔ク能ハズ遂ニ和ヲ結ブ後、左近伊賀國ニ退居シ城廢ス【五鈴遺響、背書國誌】
 
久居城址 久居字西鷹跡町ニ在リ面積貳町餘今、耕宅地山林及ビ神社地トナル寛文九年津城主藤堂高次徳川氏ニ請フテ封ヲ二子高通ニ分チ城ヲ築キ之ニ居ラシメ歴代ノ居城トナス明治二年高義版藉ヲ奉還シ城廢ス七年東部ノ地ヲ開墾シテ民有地トナス傍ニ久居神社ヲ安ンジ藩祖高通ノ靈ヲ祀ル【背書國誌】
 
波瀬城址【波瀬舘址】 波瀬《ハゼ》村ニ二處アリ一ハ字井ノ口ノ山上ニ在リ舊(186)形尚存ス今、熊野神社社地タリ里人云フ木造雅俊之ヲ築キ歴代ノ居城トス雅通ニ至リテ天正五年三月北畠信雄ノ兵ト戰ヒ自殺シテ城廢スト一ハ字野口ノ愛宕山上ヲ云フ舊址僅ニ存シ愛宕社ヲ安ンズ傳ヘ云フ建仁元年平家盛城ヲ築キ之ニ居ル十二世盛朝ニ至リテ滅亡スト其據ル所ヲ詳ニセズ波瀬舘址ハ字室ノ口ニ在リ今、宅地トナリ僅ニ舊形ヲ存ス永禄中北畠氏ノ族具祐之ニ居ル據テ氏トス州人呼デ波瀬御所ト稱ス【五鈴遺響】
 
榊原城址 榊原村字赤部谷ニ在リ高拾五丈廣三百坪餘柴草叢生ス古井濠址等存セリ仁木義長十一代ノ後裔榊原清長ノ子氏經城ヲ築キ之ニ居リ北畠氏ニ属ス其男刑部少輔、子三左衛門尉相繼デ居ル天正四年北畠氏亡ビシ後三左衛門尉、織田信長ニ属ス十二年更ニ長野信包ニ属シ奄藝郡中山村ニ移住シ城廢ス(187)按ズルニ清長ノ二子ヲ長政ト云フ其子康政實ニ徳川氏四天王ノ一タリ今、藩鑑譜諸家系圖ニ據ルニ一志郡榊原ノ住人七郎右衛門清長三河ニ移ル康政ハ天文十七年同地ニ生ルト記ス然レドモ北畠國永家集ニ長政永禄八年没ス云々ト載ス又遺響ニ長政ノ弟ヲ左京進トス其子八左衛門アリ左京ハ富田氏ニ仕ヘ八左ハ藤堂氏ニ仕フト記ス由テ考フルニ清長ノ三河ニ移ル年月疑ナキニ非ズ或ハ康政ノ如キ本州ニ生レシニハ非ルカ暫ク此ニ附記ス
 
天花寺城址 天花寺《テンゲジ》村字堀田ノ山上ニ在リ松樹茂生シ壁濠ノ址ヲ存ス里人傳ヘ云フ往昔薗大納言城ヲ築キ之ニ居ル源實朝ノ時久我三郎居城ス【背書國誌ニ文治中久氣二郎領ト記ス】永享中修理大夫ナルモノ之ニ居ル本州ノ守護船木光俊ヲ攻メ利アラズシテ自殺ス其子主計助、北畠政具ニ仕ヘ嘉吉元年本郡曾原ノ城主トナリ姓ヲ天花寺ト稱ス後、天花寺廣高(188)ナルモノ本村ニ居城ス天正中城廢スト
 按ズルニ多藝録ニ云フ正平中天花寺藏人之ニ居ル建徳元年伊賀目代春日部高宗ニ從ヒ近江ヲ伐チテ功アリ本郡曾原城主トナル後、永禄中小次郎アリ本田親康ニ與ミシ織田信長ノ兵ヲ拒グ城守三年ニ及ビテ服セズ元龜二年夏茶筅丸親ラ軍ヲ將ヒ來リ攻ム小次郎戰死シテ城廢スト或ハ云フ天花寺越中守、其子親左衛門之ニ居ルト諸説紛々考フベカラズ暫ク此ニ附記ス
 
南出城址 南出《ミナミデ》村字福社ニ在リ今、耕宅地タリ往昔北畠氏ノ臣吉懸氏歴代之ニ居ル世之ヲ小倭黨ト稱ス天正十二年八月三太夫ナルモノニ至リテ蒲生氏郷來リ攻メ其臣八角弾正忠ノ爲メニ殺サル子市之亟圍ヲ衝キテ遁走ス【五鈴遺響、古老口碑】
 
八對野城址 八對野《ハツタイノ》村字城出ニ在リ今、山林トナリ壘址存ス里人云フ(189)徃昔市川喜兵衛ナルモノ之ニ居ルト
 
庄田城址 庄田村字上出ニ在リ今、畑トナル元久元年四月庄田佐房其子師持之ニ據リ富田基度、岡貞重等ト平氏ノ餘類ヲ糾合シ本州ヲ亂ダス京都守護平賀朝雅ノ爲メニ滅サル【五鈴遺響】
 
星合城址 星合村ニ在リ所在詳ナラズ往昔北畑氏ノ族星合頼房之ニ在リ居ル後、三世具泰ニ至リ元龜三年十一月大河内城【一ニ坂内城ニ作ル】ニ移ル【五鈴遺響】
 
川口城址 河口村字醫王寺【舊字御城】醫王寺境内ニ属ス五鈴遺響ニ云フ往昔鹿々瓜玄蕃之ニ居リ北畠氏ニ属スト
 按ズルニ勢國見聞集ニ曰ク平城天皇御后ノ進メニヨリ平安城ノ都ヲ奈良ニ移シ重祚ヲ進メ給フコト露顯シ勢州河口ニ退キ籠城シ給フトイヘドモ友軍ヲ以テ迎ヘ奉リ再ビ御歸路ナシ奉ル因テ其(190)處ヲ御城ト云フト蓋シ此事ハ日本後紀、類聚國史等載スル所大同四年藤原藥子ノ亂ヲ附會セシナラン又本村字小屋ノ小丘上平坦ノ處アリ是ヲ川口城ニ充ツルノ説アリ併セテ參考トス【古老口碑】
 
家城城址【一名頭ケ谷城址】 南家城村字廣ニ在リ今、松林トナリ濠址尚存ス往昔北畠氏ノ臣家城主人正【日本外史補主人祐之清ニ作ル】之ニ居ル天文中鷺山ノ役功アリ北畠氏滅亡ノ時大郎次郎年甫メテ二歳其傅某之ヲ懷ニシ遂ニ舊領伊佐和村ニ蟄居シ子孫商ニ歸ス【五鈴遺響、多藝録、竹川竹齋竹記】
 
眞見城址【一ニ大山、福田山氏宅址城ト稱ス】 眞見《マミ》村字遠ケ瀬ニ在リ今、草山タリ濠址ヲ存ス天正中福田山帯刀之ニ居ル小倭黨岡村修理允ガ外戚タリ【五鈴遺響】又字殿屋敷ト稱スル地アリ蓋シ其宅址ナラン今、耕地トナレリ
 
森本城址 森本村字向山ニ在リ寛政中神宮寺ヲ此ニ遷ス今概ネ開拓シテ舊址ヲ存セズ徃昔木造氏ノ族森本俊氏城ヲ築キ歴世之ニ居ル(191)具俊ニ至リテ天正十二年四月木造氏ノ兵本郡松島城ヲ攻ムルト聞キ往キテ之ヲ援フ遂ニ戰死ス或ハ云フ永禄十二年六月阿坂ニ戰死スト【多藝録】
 
瀧野川城址 瀧野川村字小甚吾ノ山上ニ在リ回字形ノ石壘ヲ存ス里人云フ明光院殿ノ居城ナリシト事蹟詳ナラズ
 
森城址 森村字森垣内ニ在リ今、耕宅地タリ永禄天正ノ際堀金左衛門尉之ニ居ル寶永五年七月僧良仙此ニ一寺ヲ創立シ長樂寺ト號ス明治六年三月寺廢ス【五鈴遺響、古老口碑】
 
佐田城址【一名奥佐田城、口佐田城址】 佐田村ニ二處アリ一ハ字味噌谷ノ山上ニ在リ今、耕地山林トナレリ北畠氏ノ臣堀山次郎左衛門尉之ニ居ル天正四年北畠具教叛臣ニ弑セラル其族具親舊臣ヲ糾合シテ恢復ヲ圖ル次郎左衛門尉等之ニ應ズ十三年蒲生氏郷來リ攻ム拔ク能ハズ具(192)親時ニ伊賀ニ在リ安保大藏少輔ヲ遣リ和ヲ講ジ城ヲ開キテ退ク一ハ字馬場ニ在リ口佐田城ト稱ス今、耕地タリ小倭黨盛長越前守之ニ居ル天正中堀山氏ト同ク具親ニ属ス十三年蒲生氏郷ト戰ヒ戰死ス【五鈴遺響】
 
大仰城址 大仰《オホノキ》村字城谷ノ山上ニ在リ傳ヘ云フ應永中小泉藤能之ヲ築キ北畠氏ニ属ス永禄中之ヲ毀ツト此地尤モ眺望ニ富ム麓ニ産湯山誕生寺アリ遠近男女遊樂ノ處トナス
 
八太城址 八太《ハダ》村字西出山ノ山上ニ在リ周回七八拾間許ノ草生地タリ永禄中由上讃岐守其子右近之ニ居ル北畠氏ニ属ス天正四年北畠氏亡ビテ羽柴秀吉ニ從フ其子兵衛尉文禄元年朝鮮ノ役戰死シテ家滅ス後、天正中北畠信雄、日置大膳亮ヲシテ之ニ居ラシム十二年秀吉命ジテ蒲生氏郷ノ與力生駒彌五左衛門ニ之ヲ守ラシム後、城廢ス(193)【五鈴遺響】
藤原千方城址 城立《ジヤウリウ》村字堀ノ山上ニ在リ百五拾坪許ノ平地ニシテ雜木繁茂ス石窟アリ俗ニ將軍宮ト稱ス千方ノ事太平記ニ載ス曰ク天智天皇ノ時藤原ノ千方金鬼、風鬼、水鬼、隱形鬼ヲ驅使シ伊賀、伊勢ヲ押領シ爲メニ王化ニ從フモノナシ因テ紀朝雄宣旨ヲ奉ジテ下リ討ツ朝雄一首ノ歌ヲ詠ジ鬼ニ與ヘテ曰ク草モ木モワカ大君ノ國ナレハイツクカ鬼ノスミカナルベキト鬼之ヲ見テ遁レ去リ千方遂ニ殺サルト又伊賀記【北畠親房卿著ト稱ス僞書ナリ】ニ云フ藤原千方正二位ヲ望ミ之ヲ得ズ遂ニ叛ス紀朝雄勅ヲ奉ジテ之レヲ撃ツ千方大ニ敗レ自縊シテ死ス伊勢田和郷ニ遺址アリト
 按ズルニ藤原姓ハ天智天皇八年始メテ鎌足ニ賜フ所ニシテ大系圖千方ノ名ナシ又此事正史實録一モ見ル所ナシ二書ノ謬傳信ズ(194)ルニ足ラズ聊茲ニ附記ス
 
小山城址 小山村字二谷ノ山上ニ在リ周圍ノ土壘ヲ存ス里人云フ徃昔大多和兵部少輔之ニ居ル永禄十二年八月織田信長ノ兵ト戰ヒ城陷リ遂ニ廢スト
 
蘇原城址 曾原《ソハラ》村字屋敷ニ在リ今、耕宅地タリ相傳フ徃昔天花寺越中守其子新左衛門ノ居城ナリ永禄中廢スト【五鈴遺響】
 
八田城址 八田《ハツタ》村字城山ニ在リ古井壘濠ノ址ヲ存ス今、耕地山林タリ徃昔三浦義明二代ノ孫盛時始メテ城ヲ築キ之ニ居リ後、大多和氏ト改ム盛成ノ時ニ及ビテ正平中州守北畠顯能ニ属ス永禄十二年八月織田信長來リ攻ム城主監物【五鈴遺響ニ永禄中兵部少輔アリ或ハ監物ト同人ナランカ】能ク拒グ竟ニ拔ク能ハズシテ去ル天正四年北畠氏亡ブルニ及ビテ城ヲ出デ本郡下之庄村ニ蟄居シテ卒ス其墳墓同村ニ在リ【多藝録下之庄村舊記、碑記】
 
(195)宮野城址 宮野村字古田ニ在リ高七百五拾尺廣四百五拾坪石壘尚存ス山麓ニ川アリ頗ル險阻トナス里人云フ往昔北畠氏城ヲ築キ臣某ヲシテ之ニ居ラシムイト
 
川方城址 川方村字里内ニ在リ今、耕地タリ里人云フ永禄十一年八月木造具政三子川方隼人佐【系圖之ヲ記セズ】城ヲ築キ之ニ居ル天正十二年十月尾張國ニ退居シ城廢スト
 
小森上野城址 小森上野村字城山ニ在リ今、山林タリ相傳フ北畠氏ノ臣奥山左馬允之ニ居ルト天文ノ末長野藤定ノ兵ト戰ヒ敗死ス後、藤方刑部少輔之ニ居ル天正四年北畠氏ニ叛キ具教父子ヲ弑ス織田信長其不義ヲ怒リ卦ヲ奪フテ之ヲ逐ヒ城廢ス
 
堀(ノ)内城址 堀之内村字御所垣内ニ在リ今、耕宅地タリ傳ヘ云フ正平十八年北畠顯能城ヲ此ニ築キ舟木正尚ヲシテ之ニ居ラシム父頼尚之ヲ(196)監ス是ヨリ先キ頼尚來リテ顯能ニ依ル顯能之ヲ三瀬谷ニゥク是ニ至リテ本城ニ移ル【舟木系圖】州人呼デ堀内御所ト稱ス永享中薗御所ト改ム正尚ノ子正頼ト曰フ應永廿一年雲出川ノ戰功アリ北畠滿雅爲メニ小倭谷ノ地ヲ與フ永禄中織田信長ノ兵攻メテ之ヲ陷ル
 
小森城址 小森村字里上ニ在リ今、山林タリ周圍土壘ヲ存ス里人傳ヘ云フ土肥長光之ニ居ルト
 
小原城址【近衛氏宅址】 小原村字平野ノ山上ニ在リ今、雜木茂生ス相傳フ北畠氏ノ族北畠房雄之ニ居ル小原北畠氏ト稱ス後、數世之ヲ承ク或ハ云フ北畠氏ノ臣近衛冷泉之ニ居ルト又本村字馬場ニ近衛氏宅址ト稱スル處アリ今、畑地タリ相傳フ天正中冷泉城ヲ本村ニ築キシ時舘ヲ此ニ設クト
 
中森城址 太郎生《タロフ》村字城山ノ山上ニ在リ樹木繁茂シ壘形ヲ存ス中央(197)ニ小社二宇ヲ安ンズ古老傳ヘ云フ往昔北畠氏ノ臣中森數馬之助之ニ居リシト
 
島田城址 島田村ニ在リ今詳ナラズ長野ノ與力川北内匠助之ニ居ル【五鈴遺響】今、隣村釜生太村字城山ニ回字形ヲナセル壘址アリ此地ト山脉ヲ通ズ蓋シ是ナランカ
 
矢野城址 矢野村字地家垣内ニ在リ今、耕宅地タリ矢野下野守歴代之ニ居ル北畠氏ニ属ス【源平盛衰記、北畠家臣録、東鑑、太平記】
 
川上城祉 川上村字廣垣内ニ在リ雲出川、坂元川會合ノ地ニシテ三面、川ニ臨ム今、耕地タリ相傳フ北畠氏ノ臣日置某之ニ居ル天正十九年三月日置宮内少輔死スルニ及ビテ城廢スト
 
上城址 上村字林ニ在リ今、小丘ニシテ濠壁ノ址存シ稻荷神社ヲ祀ル徃昔北畠具教ノ臣新長門守之ニ居ル【本村舊記】
 
(198)高城砦址 大阿坂村字高城ニ在リ周回凡ソ百間餘地高クシテ古松生茂ス里人云フ徃昔阿射加城主大宮含忍齋砦ヲ此ニ設クト
 
垣内砦址 垣内《カイト》村ノ西方阿保山ノ頂上ニ在リ今、草生地タリ周圍凡シ貳百間土壘ノ址存ス傳ヘ云フ元龜天正ノ頃北畠氏伊賀ノ仁木氏等ガ亂入ヲ防ガンガ爲メ砦ヲ此ニ設クト
 
山田野砦址 山田野村字山口ニ在リ山上三百坪許ノ平地ナリ周圍回字形ノ壘址ヲ存シ雜木叢生ス天正十二年長野左京進之ニ居ル小倭黨岡村修理允ト常ニ不和ナリシガ一日安濃郡津ニ到ラントシ半田山ニ相遇フ修理己ガ馬ノ鐙ヲ支ヘシトテ刀ヲ拔キテ左京ヲ撃ツ從者鎗ヲ取リ修理ヲ刺殺ス左京モ又民家ニ入リ自殺ス【五鈴遺響】
 
稻垣砦址 稻垣村字中山ニ在リ山上貳百四拾坪餘天正中岡村修理亮其子修理允之ニ居ル修理允、長野左京進ト爭ヒ其從士ノ爲メニ半田(199)山ニ殺サレ城廢ス【五鈴遺響】
 
大塚宅址【田中宅址】 戸木村字大塚ニ在リ今、一小丘タリ徃昔木造氏ノ臣大塚倶清ニ居ル天正十二年九月戸木城ノ戰ニ本郡庄村ニ戰死ス田中宅址ハ字桃里ニ在リ今尚宅地タリ傳ヘ云フ永禄中木造具康ノ臣田中仁左衛門之ニ居ル天正十二年具康、羽柴秀吉ト戰ヒ和睦シテ岐阜城ニ移ル時之ニ從ヒ後、木造村ニ來リ死ス【本村舊記】
 
今井及安藤兩氏宅址 太郎生村ニ在リーハ字藏王平ニ在リ小丘ニシテ雜草ヲ生ス往昔北畠氏ノ臣今井助之亟之ニ居ル一ハ字日神ノ丘上ニアリ樹木茂生ス北畠氏ノ臣安藤帶刀之ニ居ル一ハ字的場ノ山上ニ在リ樹木繁茂シ中央ニ八幡社ヲ祀ル稱シテ太郎生殿ト云フ北畠氏ノ臣安藤左近將監之ニ居ル【古老口碑】
 
沼田宅址 大阿坂村ノ西方ニ在リ今、山林トナリテ僅ニ遺形ヲ存ス里(200)人云フ往昔北畠氏ノ臣沼田伊豫守之ニ居ル永禄十二年阿坂城ニ戰死スト同村字廣見ニ伊豫守ノ墳墓アリ勒》
 
     關址
 
河口關址【亦又名久岐田ノ關】 川口村字醫王寺ニ與五郎坂ト稱スル地アリ今、里道ニ屬ス蓋シ此邊ナラン傳ヘ云フ和銅三年始メテ此關ヲ置ク大和ノ帝都ヨリ伊勢行幸或ハ齋宮群行ノ舊途ナリト【五鈴遺響、伊勢名所拾遺集】
   新後撰              後嵯峨院
  くもりなき月もれとてや川口の關のあら垣間こと成らん
   新千載              讀人不知
  川口の關のあら垣いかなれは夜のかよひをゆるささるらん
   源氏物語藤裏葉卷
  守りけるくきたの關を川口のあさきにのみはおほせさらなん
 
(201)     古墳
 
隼別皇子及雌鳥皇女墳 北家城村字坊谷ニ窟アリ俗ニ夫婦窟ト稱ス里人傳ヘテ皇子及ビ皇女ノ墳墓トナス日本書紀仁徳天皇四十年ノ條ニ曰ク隼別皇子率2雌鳥皇女1、欲v納2伊勢神宮1而馳、於v是天皇聞2隼別皇子逃走1、即遣2吉備品遲部雄?、播磨佐伯直阿俄能胡1曰、追v之所v逮即殺、【中畧】爰雄?等知v免以急追及2于伊勢蒋代野1而殺v之、【中畧】乃以2二王屍1埋2于庵杵河邊1、自復命ト因テ按ズルニ蒋代野ノ地ハ五鈴遺響ニ伊賀名張郡薦生村ニ在リトス【往昔伊賀ハ伊勢國ニ属ス後、分割ス】而シテ庵杵河ハ即チ庵城川ニシテ今ノ家城川【即チ雲出川】ナランカ暫ク記シテ參考ニ供ス】
 
壹志君墓 島由村字古屋敷ニ在リ徃年發掘シテ高幅共ニ三尺長六尺ノ石棺、金銀環、金管、古鏡、皿器及ビ枯骨一體ヲ得タリ里人稱シテ壹志君ノ墓トナス未ダ據ル所ヲ知ラズ近傍又黄金塚ト稱スルモノア(202)リ
 
紀貫之墓【古郷梅碑】 佐田村字門ノ前ニ在リ高三尺六寸題シテ紀貫之墓ト云フ貫之ノ事正史之ヲ載ス然レドモ其葬地未ダ詳ナラズ本州ニ在ル亦據ル所ヲ知ラズ天正ノ頃小倭七黨ナルモノアリ紀氏ノ裔ニシテ尤モ勢威アリ蓋シ此等ノ族祖先ノ爲メニ之レヲ建テシモノナラン傳ヘ云フ本村ニ貫之古郷梅碑アリ往昔之ヲ大和長谷寺ニ移ス百人一首載スル所人ハイザ心モ知ラズ云々ノ句ハ本村ノ梅花ヲ詠ゼシナリト【勢國見聞集、古老口碑】
 
藤原千方墓 川口村字野田ニ在リ路傍小輪塔ヲ存ス高貳尺五寸村人傳ヘテ勝原千方ノ墓トナス其據ル所ヲ知ラズ
 
平家六代墓 森本材字日川ニ在リ塔石高四尺五寸幅貳尺五寸表面唯有一乘法ノ五字ヲ刻ス傳ヘテ六代ノ墓トナス傍、五輪塔數十基アリ(203)僧文覺及ビ六代ノ臣齋藤五及ビ其弟六ノ墓亦此中ニ在リト云フ【伊勢考古録、五鈴遺響、古老口碑】
 按ズルニ五鈴遺響【摘要】ニ云フ六代ノ事平家物語、東鑑ニ詳カナリ其墳相摸多古江川ノ東ニ在リ【鎌倉志】六代相摸ニ刑セラル此説信ズベキニ似タリ蓋シ本州ニ在ルモノハ其末裔ノ舊領ニ存スル者更ニ浮圖ヲ建テ其冥福ヲ祈リシモノナラント
 
大中臣定隆墓 曾原村字山(ノ)腰ニ在リ今、小祠ヲ建ツ方俗稱シテ勅使塚或ハ御門塚ト云フ定隆中臣親能ノ子ナリ養和元年八月勅ヲ奉ジ伊勢宗廟ニ謁シ源氏誅滅ノ事ヲ祈リ路ニシテ卒ス今ニ至リテ毎歳十一月村人之ヲ祭ル【五鈴遺響、古屋草紙】
 按ズルニ定隆ノ事東鑑、源平盛衰記、平家物語、百練抄ノ諸書ニ出ヅ而シテ大同小異ナリ東鑑一志ノ驛家ニ卒ストナス今之ニ從フ
 
(204)平照森【式部少輔】雅通【兵衛亮】尚盛【出羽〓守】墓 波瀬村ニ在リ照盛ノ墓ハ字小路垣内ニ在リ塔高四尺表面蓮玉妙善院居官凉月眞弘院大賢師ト併刻ス【併刻セシ法名ハ其室ナルベシ】照盛天文元年九月卒ス事蹟詳ナラズ雅通墓は字室ノ口ニ在リ塔高五尺六角形ヲナシ地藏佛ヲ刻ス里人云フ雅通天正五年三月織田氏ノ兵ト戰ヒ自刃ス因テ此ニ葬ルト尚盛墓ハ照盛同字ニ在リ塔石高四尺永禄十七年七月卒ス長覺院爲蓮ト諡ス其室ヲ合葬ス蓋シ雅盛ノ族ナラン
 
赤松教康墓 丹生俣《ニフノマタ》村字萩原ニアリ五輪塔高四尺傍ニ小塔數基アリ共ニ文字ヲ記セズ石燈二基前ニ列ス左右ニ奉寄進寶暦六子二月願主播磨國佐用郡田和村淨圓ト刻ス教康滿祐ノ子ナリ嘉吉元年將軍足利義教ヲ弑シ遁レテ本州ニ來リ國司北畠教具ニ依ラントス北畠氏其不義ヲ惡ミ之ヲ殺シ首ヲ京師ニ送ル教康時年十九遺詠アリ曰ク、(205)頼む木の陰に嵐の吹くれは春の緑りも散果にける、ト【南朝紀傳、應仁記、櫻雲記、嘉吉軍記】是レ其遺體ヲ埋メシ所ナラン【古老口碑】
 
僧鎭徳墓 北家城村ニアリ今詳ナラズ南家城村西光寺境内ニ五尺餘ノ五輪塔アリ傍、巨松ヲ植ウ或ハ是ナランカ鎭特本村ノ人佛道ニ邃シ後年能登國氣多宮ニ赴キ留學數年郷ニ還リテ廣ク衆生ヲ濟度ス【勢國見聞集】
 
木造氏墓 戸木村字北興ニ在リ柴草茂生ス俗、左衛門塚ト云フ傳ヘテ木造俊茂ノ墓トナス
 
柚原兼房墓 柚原村字寺谷ニ在リ俗ニ殿塚ト云フ五輪塔二基アリ里人傳ヘテ北畠氏ノ族柚原兼房及ビ中努二人ノ墓トナス然レドモ系圖兼房等ヲ載セズ事蹟考フ可カラズ
 
戸井左近墓 森本村字大垣内ニ在リ中村川ニ沿フ巨松二株アリ其下ノ(206)碑石ニ戸井殿ノ三字ヲ刻ス古老傳ヘ云フ左近北畠氏ニ任ヘ故アリ本村ニ住ス元龜中大旱ニ際シ闔郷用水ニ乏ク數十村ノ民擧テ中村川井堰ヲ開放シ尋デ本村ニ及ボサントス左近出担デヽ之ヲ拒ミ身ヲ以テ之ニ代ヘントシ遂ニ屠腹シテ死スト村人今ニ至ル迄其靈ヲ祭リ稱シテ戸井殿堰ト云フ
 
田村氏墓 田村字小房前ノ宅地内ニ在リ五鈴遺響ニ云フ北畠氏ノ臣田村源内左衛門此ニ居ル其歴代ノ墳墓ナラント里人或ハ云フ田村麿ノ墓ナリト其據ル所ヲ知ラズ
 
大宮入道墓 大阿坂村字徳瀬烏岡山ノ麓ニ在リ里人云フ大宮入道含忍齋ヲ葬ルト稱シテ烏岡塚ト云フ
 
大塚具清墓 戸木村字大塚ニ在リ塔石高四尺五寸幅貳尺表面觀西院知道覺山居士ト刻ス具清木造城主木造具康ノ長臣タリ天正十二年(207)羽柴秀吉戸木城ヲ攻ムル時具清戰死ス因テ此ニ葬ル【五鈴遺響】
 
大塚 小森村字大塚ニ在リ面積八坪七合橢圓状ヲナス傳ヘ云フ往年之ヲ發キシニ石棺ヲ得縱七八尺横四五尺側ニ又一小棺アリ縱四五尺横三尺許中ニ小兒ノ骨ヲ納ムト近傍字向野山、若林山、四ツ野山、天下山、瓦釜山等亦大小三十餘ノ塚アリ村人其一ヲ發キシニ石棺ヨリ土器、朱塊及ビ刀釼、矢鏃ノ類ヲ得タリ何人ノ墳ナルヲ知ラズ記シテ後考ニ供フ
 
太郎生村古墳 太郎生村字日神ノ山腹ニ在リ石門ヲ設ケ内ニ五輪塔四基ヲ存ス其他壤頽スルモノ數基アリ何人ノ墓ナルヲ知ラズ伊勢考古録ニ多良生郷日川ニモ六代ノ墓アリト記ス葢シ此ヲ指セルナラン
 
兄弟《イトヾ》塚 島田村字北山口、山岳ノ半腹ニ在リ二窟相並ブ故ニ此名アリ(208)口徑大約方三尺中廣サ五坪高九尺石ヲ積デ乏ヲ作ル搆造頗ル大ナリ葢シ貴族ノ墳墓ナラン尚小塚ノ各處ニ存スルアリ今發堀シテ其址ノミ存ス
 
四十八塚 釜生田《カモフダ》村字カン上、大平ノ山上ニ在リ元ト四十八塚アリシガ今僅ニ十數基ヲ存ス窟口方三尺中廣クシテ方六尺ヨリ拾尺餘ニ至ル四方、石ヲ以テ之ヲ疊ム各大小アリ村人傳ヘテ往古土人ノ穴居セシ跡ナリト云フ
 
     古戰場
 
伊倉津古戰場 伊倉津村ニ在リ今詳ナラズ南朝紀傳ニ云フ延元三年二月北畠顯能足利尊氏ト雲出川ノ分流スル處ニ於テ川ヲ挾ミテ戰フト按ズルニ雲出川ノ分流スル處ハ本村ノ西南ニ属ス又村内丘塚數處アリ想フニ戰死者ヲ埋メシ所ナラン【古老口碑】
(209)羽野古戰場 戸木村字羽野ニ在リ平坦ノ地ニシテ草木雜生ス相傳フ天文中北畠氏其臣山崎左馬之助ヲシテ安濃郡長野城ヲ攻シムル時長野氏ノ臣細野九郎左衛門ノ兵ト交戰セシ處ナリ兩軍死者多ク今此地ニ小塚三處アリ遺骸ヲ埋メシ所ナリト云フ
 
   安濃郡
 
     山川
 
安濃遠山《アノノトホヤマ》 本郡東邊安濃浦ヨリ一志郡小倭卿【今、谷柚村大仰村ノ邊】ノ諸山ヲ通稱スルモノナラン【五鈴遺響】
   堯孝參詣記
  いせの海の浦には鹽やみちぬらん霞引たるあのゝとほやま
   家集               北畠國永
  海原や鹽ひしほみつかひありてなかめもあかぬあのゝ遠山
(210)按ズルニ五鈴遺響ニ云フ此歌一志浦燒出ノ鹽竈ヲ詠ジタルモノニシテ古屋草紙ニ奄藝郡大部田村ノ地トスルハ非ナリト
 
安濃川【一名塔世川】北方河内村ニ發シ東流シテ海ニ入ル【五鈴遺響】
   名寄               讀人不知
  神風や伊勢路を行は冬寒みあのゝ川原に千鳥鳴なり
   夫木
  鈴鹿山伊勢路にかよふ三瀬川のみせはや人に深き心を
按ズルニ三國地誌ニ云フ古、勅使神宮ニ到ルノ道關ヨリ椋本ヲ經雲津ニ到ル【今ノ中郡道】安濃川ヲ渡ルコト三タビ【神山村、曾根村、刑部村】故ニ三瀬川ト詠ズ安濃川ハ其總稱ナリト
 
岩田ノ江 岩田村字櫻垣内ニ在リ今ハ變ジテ耕地及ビ堤塘等トナレリ傳ヘ云フ慶長五年石田三成ノ兵津城ヲ攻ムル時此地一面ノ水澤ナ(211)リシガ南方ノ寄手進軍ノ便ナク日ヲ曠クシテ持久ノ計ヲナス會々松坂城主古田重勝使ヲ城中ニ遣ハシ籠城ヲ慰ス使者五騎澤ヲ渡リ城ニ入ル番兵諜シテ之ヲ知リ直チニ淺處ヨリ軍ヲ進メシト云フ藤堂高虎入城ノ後大ニ地形ヲ變換シテ今ノ如クナセリ
 
安濃(ノ)板橋 今ノ岩田橋ヲ云フ【五鈴遺響】又大神宮一ノ御橋ト稱セルモ是橋ヲ云フナラン【伊勢考古録】
   夫木               隆心法師
  あさほらけ家田の松は霧こめておほつかなしやあのゝ板橋
   橋邊月             佐々木弘綱
  布引の山のは白く成にけり月ふけわたる安濃の板橋
 
     邑里
 
燒出(ノ)里【一ニ燒手里ニ作ル】 本郡ヨリ一志郡雲津川海口ノ村落ヲ指ス神領記ニ燒出(212)御厨鹽九斗ト記ス蓋シ此地古、製鹽ノ場タルコト知ルペシ或ハ云フ度會軍通村是ナリト【勢國見聞集】
   夫木                 證心
  うち過る人も煙になれよとや藻鹽やきての里の松風
   名寄                鴨長明
  晴のほる霧におくれて立雲はやきての鹽の煙なりけり
 
澁見村 此地古ヨリ梟多カリシトナン
   勢陽雜記             西行法師
  青柳のしふみの山のうしろ田にのりすりおけと梟の啼
 
     神祠
 
結城神社 藤方村ニ在リ結城宗廣ヲ祀ル其子光親及ビ殉難將士ノ靈ヲ配祀ス祭日五月一日事ハ墳墓ノ項ニ詳ナリ
 
(213)八幡神社 藤方村ニ在リ應神天皇、神功皇后、住吉大明神及ビ藤堂高虎ノ靈ヲ合祀ス創立詳ナラズ始メ本郡垂水村千歳山ニアリシヲ寛永九年津藩主藤堂高次今ノ地ニ遷シ其際始祖高虎ノ靈ヲ配祀シ以テ鎭守ト定メ世々之ヲ崇敬ス祭日九月十五日【社記】祭禮甚ダ盛ンナリ
 
高山神社 下郡田《シモベタ》村ニ在リ舊津藩主藤堂高虎ノ靈ヲ祀ル祭日四月五日十月五日明治九年四月此地ノ士族官準ヲ得創建ス社地公園ニ接シ頗ル景勝ニ富ム
 
大市神社 岩田村ニ在リ大市比賣命ヲ祀ル往古大市村【大市村ノ村名今ハナシ蓋シ妙法寺村カ】ニ在リシガ洪水ノ爲メ社頭流失シ石田村ノ川岸ノ古松ニ罹リタルヲ奉ジテ其處ニ鎭祭シ川松明神ト稱セシニ該地ハ水害アルニヨリ今ノ地ニ移スト云フ祭日十月廿一日【社記】
 
(214)     梵刹
 
四天王寺 津榮町ニ在リ曹洞宗用明天皇ノ時厩戸皇子創立久安三年三月加藤景通堂宇ヲ再興ス壽永二年男景清寺領ヲ寄附ス文安中僧正海今宗ニ改ム織田信包、富田知信、藤堂高虎等寺領ヲ寄附シテ之ヲ崇信ス本寺屡々兵燹ニ罹リ堂宇經卷等燒失ス今ノ堂宇ハ藤堂高虎及ビ其子高次ノ修營スル所ナリ境内龍燈松【今枯槁ス】アリ七不思議ノ一ナリト云フ【寺記、勢國見聞集】北畠國永甞テ藥師名號ヲ詠ズル和歌十二首アリ今其一ヲ録ス
  しらま弓春たつ雪のくはゝれは猶むつましくなれるはな鳥
 
西來寺 乙部村字札辻ニ在リ天台宗近江西教寺末ナリ延徳二年僧眞盛鬼ガ鹽屋【今ノ松尾崎ノ邊】ニ創建ス明應七年ノ地震ニ津町悉ク家ヲ阿漕浦ニ遷ス時本寺モ同ク移ル天正中洪水ニ遭ヒ津西來寺町ニ移リ又金屋(215)町ニ移ル慶長五年兵燹ニ罹リ舊記什寶ヲ失フ六年今ノ地ニ再建ス寺ニ龍女化現ノ傳説アリ
 
天然寺 乙部村ニ在リ淨土宗知恩院末ナリ慶長元年僧露牛創立藤堂高虎卦ヲ津城ニ移スノ後深ク之ニ歸依シ封内ノ寺院【淨土宗】ヲ支配セシム州人因テ總統大寺ト稱ス【寺記】
 
願王寺 乙部村ニ在リ天古宗松樹院末ナリ慶長十三年藤堂高虎創立僧清賢開基舊ト昌泉院ト号セシガ高虎卒スル後法号ノ文字ヲ採リ今号ニ改ム藤堂氏累代ノ菩提所ナリ【寺記】
 
觀音寺 津大門町ニ在リ眞言宗護國寺末ナリ和銅二年安濃津浦ニ漁父觀世音ノ佛像一?ヲ網ス時ノ國司某上奏シテ一宇ヲ創建ス徃昔ハ今ノ津興村邊ニ在リシガ明應三年同七年ノ地震ニ土地海中ニ沈没セルニヨリ今地ニ移ル慶長五年富田知信、石田三成ト戰フ時兵燹(216)ニ罹ル後、藤堂高虎堂宇ヲ修理ス歴世ノ祈願所タリ寺地市街ノ衝路ニ當リ諸人群詣頗ル熱閙ヲ極ム毎歳二月【陰暦】祭事アリ鬼押ト稱ス其名世ニ高カリシガ今廢ス【寺記、五鈴遺響】
 
大寶院 津大門町ニ在リ眞言宗山城報恩院末ナリ文安中僧長圓奄藝郡窪田村ニ創立シ蓬莱山六大院大寶妨ト号ス六院ヲゥク後花園天皇ノ勅願寺ナリ後、大寶院ト改ム天正中今ノ地ニ移ス【寺記】
 
長谷寺 長谷《ハセ》村ニ在リ臨濟宗興正寺末ナリ僧特道開基天平勝寶五年孝謙天皇行幸アリ境内樹木鬱々トシテ巨岩削立溪水其間ニ流ル幽邃閑雅愛ス可シ又鏡石【長一丈幅五尺白黒色ヲ帶ブ】及ビ車塚【今不祥】ノ大石アリ【寺記、五鈴遺響】古歌ニ
   いくたひも參る思ひははつせ寺心もきよき谷川のみつ
 
特雲寺址 家所村字南内ニ在リ今、畑トナリ五輪塔數基存セリ(217)往昔寺中ニ櫻樹多シ北畠國永オソ櫻ヲ詠ゼシ歌ニ
   彌生なほあまりありてふ日數をもまたてまつさく遲櫻哉
 
千手寺址 南長野村字水上ニ在リ今、耕圃トナレリ近傍ニ五輪塔散在シ党宇庭園ノ址存ス往昔僧正海創立ス長野氏歴代ノ菩提所タリ天正四年十一月長野氏亡ブルノ後廢ス【古老口碑】
 
僧寶山誕生地 所在詳ナラズ五鈴遺響ニ云フ安濃郡跡部一色ハ大和州生駒山中興開山寶山和尚誕生ノ地ナリト古老之ヲ知ルモノナシ
 
     濱海
 
阿漕《アコギガ》浦【阿漕塚】 津興《ツオキ》村ノ海邊ヲ云フ【古、阿古木ト稱スル地詳ナラズ今暫ク里傳ニ據ル】青松白沙相映ジ風光絶佳ナリ字柳山ノ東部ニ碑アリ俳人芭蕉ノ句ヲ刻ス文化中建ツル所ナリ傳ヘ云フ往昔此地大神宮御贄ノ魚ヲ漁スル所タリ故ニ漁獵ヲ禁ズ阿漕平次ナルモノアリ夜ニ乘ジ潜ニ網ヲ投ズル(218)コト?々ナリ事、神宮ニ聞ユ遂ニ其身ヲ簀ニ卷キ海ニ投ズ後、其靈祟ヲナス乃チ祠ヲ立テ之ヲ祭ル毎歳七月十六日【平次刑ニ遇フ日ナリト云フ】夜海濱人無キニ網ヲ曳クノ聲ヲ聞クト荒誕笑フベシ稗史謠曲等夙ニ其事ヲ
〔阿漕塚ノ圖、図省略〕
(219)傳フルヲ以テ其名特ニ世ニ高シ【五鈴遺響、勢國見聞集、伊勢參宮名所圖繪】
 按ズルニ五鈴遺響【摘要】ニ云フ平次ノ事詳ナラズ阿古木草紙ニ平盛光ノ子次盛海禁ヲ犯シ刑戮ニ遇フ事ヲ記ス然レドモ古今六帖ニ阿漕島ノ詠(逢事を阿漕か島にひく鯛のたひ重ならは人知ぬへし)ヲ載ス此書ハ貫之女典侍ノ撰スル所ニシテ草紙云フ所ヨり百六十餘年前ニ在リ蓋シ徃古此等ノ故事アリ其歌ニ基キ後人次盛ノ事ヲ僞作セシナラント參考ノ爲メ附記ス
   新後拾遺             崇全法師
  わすれすよ秋を重て鹽木つむ阿漕か浦になれし月かけ
   夫木                 西行
  逢事を阿漕か浦にひく網の度重なれはあらはれにけり
 
安濃浦 本郡東方安濃川海口ヨリ岩田川注口邊ニ至ル海水ヲ指稱ス(220)古蹟商船漁舶ノ津口女タリシガ明應中震災ノ時瀕海ノ地海ニ没シ減少スルコト貳拾餘町今、遠淺タリ【五鈴遺響】
   丹後守家百首             爲業
  みわたせはあのゝ浦風吹なへに伊勢の濱萩なひきぬるかな
 
藤方(ノ)浦【一名藤潟又藤方山】 藤方村海邊ノ地ヲ云フ古ノ礒山ナリ相傳フ往昔一大樹アリ回リ壹尺許ノ藤蔓之ニ纒ヒアリシト【伊勢參宮名所圖繪】
   建久元年良子内親王家歌合     讀人不知
  藤潟にこきむらさきの色貝は幾しほ波の染かへしけん
   夫木                僧寂念
  伊勢の海浦風さえて藤瀉やあのゝ鹽竈雪ふりにけり
 
安濃(ノ)湊田 津市街及ビ乙部、下部田數村ノ地一帶水田ヲナス乃チ此邊ヲ稱ス【五鈴遺響】里人云フ明應七年地震ノ際沈没シ悉ク洲渚ニ變ズト今、(221)津興村東北水田十餘町ノ地猶湊田ノ名ヲ存ス
   夫木               讀人不知
  打渡すあのゝ湊田ほのほのとかるも刈ぬも見えぬ朝ぎり
 
     園林
 
津公園 下部田村ニ在リ一丘陵タリ東部ニ高山神社ヲ安ンズ藤堂高虎ノ靈ヲ祀ル園中數株ノ桜樹、躑躅及ビ雜樹ヲ點植シ中央ニ澗水ヲ湛ヘ西北部ニ倶樂部及ビ博物場ヲ設ク園〔津公園ノ圖、絵省略〕(222)ノ高處ニ象觀亭、省耕臺アリ山海ノ勝景一目盡ス可シ春秋遊客殊ニ多シ此地元ト藤堂氏ノ別墅タリ廢藩後蕪穢ニ属セシニ明治十年四月前縣令岩村定高稟請シテ公園トナシ藤堂氏亦其亭?樹石ヲ獻ジ以テ今ノ壯觀ヲナスト云フ園ニ碑アリ福井?ノ撰文ニ係ル
 
安濃(ノ)松原【鹽留松】 津沿海ノ地往昔一帶ノ松原アリ古歌詠スル所安濃松原是レナリ明應七年ノ震災ニ沈没シテ悉ク遠淺トナル【五鈴遺響】今、沿岸ニ存スルモノハ後世植ウル所ニシテ青松白沙相望ム舊時ヲ追想スルニ足レリ又乙部村ニ古松一株アリ傳ヘテ古昔ノ遺木トナス明應ノ際潮水毎ニ樹下ニ至ル因テ鹽留ノ松ト云フ【古老口碑】
   夫木                 爲家
  伊勢の海あのゝ松原まつとてもいひし日數に浪はこえつゝ
 
     谿淵
 
(223)瀧戸谷 桂畑村字瀬戸ニ在リ西ニ布引山アリ全山奇石怪岩層疊突出シ清水其下ヲ流レ櫻花、躑躅、楓樹ノ類尤モ多ク四時ノ景色ニ富ム又万年青、福壽草及ビ藥草ノ類少カラズ溪中亦小魚ヲ産ス
 
御贄《ミニヘガ》淵 五百野《イホノ》村字上郷ニ在リ長野川ノ下流ニ属ス深一丈四五尺長五拾間幅拾五間東方巨岩屹立ス高八間幽邃ヲ極ム傳ヘ云フ往昔此地毎歳三月三日ヨリ五月五日マテノ間年魚ヲ漁シ之ヲ神宮ニ獻ズ故ニ此名アリト
 
   三國地誌             讀人不知
  五百野川名に流れたる水浪は千歳の後も面影そたつ
 
屏風(ガ)淵 足坂《アシサカ》村字地藏坂ニ在リ伊賀街道ニ属ス東北、山ヲ負ヒ西ハ懸崖直下凡ソ三四丈即チ長野川ノ東岸ニシテ巨巖屏列天然ノ淵ヲナス路傍ニ石地藏アリ頗ル風致ニ富ム
 
(224)馬洗(ノ)淵 家所《イヘドコ》村字城山ノ東北落合川ノ下流中ニ長四間幅貳間深四尺許ノ淵アリ水色緑ニシテ渦ヲナリ傳ヘ云フ家所三河守常ニ馬ヲ洗ヒシ處ナリト
 
     洞窟
 
家所(ノ)塚穴 家所村字大谷ニ在リ四面皆山ニシテ樹木茂生シ人跡ヲ絶ツ穴ノ口徑貳尺深三間高壹間三尺廣九坪大石ヲ以テ疊ム傳ヘ云フ是ヨリ南方拾三町ヲ隔テ、伊賀國ヘノ街道吠上坂路アリ家所三河守兵ヲ此坂路ニ伏セ敵ヲ撃ツノ時此ニ隱レテ望ミ居タル所ナリト
 
     池泉
 
玉ノ湯 野田村字柳谷竹林中ニ在リ今纔ニ其址ヲ存ス傳ヘ云フ徃昔一夫妻アリ男兒ヲ産ス已ニシテ夭ス父母悲傷シ之ヲ智圓寺觀音ニ(225)祈ル【今廢寺トナル】夢ニ人アリ告ゲテ曰ク西方一ノ石窟アリ温泉出ヅ兒ヲ欲セシメバ蘇生セント覺メテ之ヲ異トシ往テ之ニ浴セシム兒忽チ蘇生シ遂ニ長壽ヲ保ツト古歌ニ
  玉の湯やいて入月の影見えて心もすめる野田の山寺
 
鑪鞴井《タヽラヰ》 觀音寺村字南河原ニ在リ一ノ井堰タリ始メ藤堂高次其臣辻但馬ヲシテ方壹丈貳尺ノ水鉢ヲ鑄造セシム但馬乃チ之レヲ箕手山ニ【今病院ノ地】造ル此堰相距ル遠カラズ水音ノ激スル恰モ當時ノ鑪鞴ニ似タリ故ニ名ヅクト【三國地志】
 
井戸谷井(ノ)址 家所村字城山ノ溪間ニ在リ方六尺許傳ヘ云フ三河守城ヲ本村ニ築キ居ヲ占ムルノ時井ヲ此ニ穿ツ其水清冷三河守之ヲ好ミ常ニ飲用ニ供スト
 
     樹石
 
(226)西行櫻 垂水《タルミ》村成就寺境内ニ在リ今枯槁ス傳ヘ云フ僧西行阿漕浦ニ遊ビ此寺ニ詣ル小童アリ門前ニ戯ル西行ノ來ルヲ見遽カニ樹上ニ登ル西行即興興シテ曰ク、サル兒《チゴ》ト見ルヨリ早ク樹ニ登ル、ト童子聲ニ應ジテ曰ク、犬ノヤウナル法師來レバ、ト西行之ヲ奇異トス後世其樹ヲ名ヅケテ西行櫻ト云フ【勢陽名木石集、勢國見聞集】
   西行櫻のもとにて昔を思ひて   佐々木弘綱
  犬としもなとおとしめて我をいふさる歌よみの兒と思ふに
 
乳母《ウバ》櫻 内多《ウチダ》村長源寺境内ニ在リ古櫻數株ヲ存ス花時爛?タリ乳母櫻ト稱ス傳ヘ云フ阿漕平次乳母ノ植ウル所ト遊觀スルモノ少カラズ地亦高燥ニ位シ尤モ眺望ニ富ム
 
觀慶寺(ノ)櫻 久保村觀慶寺境内ニ在リ始メ數十樹アリ風致頗ル多カリシガ後枯槁シテ僅ニ數株ヲ存ス
(227)   家集                 國永
  白雲のかゝる梢と見し山は峯も尾上もさくらなりけり
 
雲林院(ノ)下(リ)松【一名一ツ松】 雲林院《ウジヰン》村字松ノ浦住吉神社境内ニ在リ往昔巨樹アリ【回貳丈五尺枝葉東西貳拾貳間南北拾九間】本州中ノ名木トス文久中枯槁シ代ユルニ新株ヲ以テス【勢國見聞集】俳人芭蕉ノ句ニ
  唐崎に松の兄ある時雨かな
 
片田一本松(ノ)址 久保村字向ニ在リ始メ巨松一株アリ明治六年耕地ノ害トナルヲ以テ之ヲ伐採ス北畠國永家集ニ天文十九年片田一本松ト云フ處ニ秋山出城ヲ築キ侍リシニ士卒ノ内ニ花ヲ面白クイケヽル程ニ云々ト載ス即チ是ナリ其歌ニ
  花催ふよすかもしるしものゝ夫のやたけ心のさきかけんとは
 
三舟石 平木村字三舟伊賀街道ノ傍ニ在リ巨石三アリ舟形ヲナス長(228)野川其南ヲ流ル喬樹鬱蒼山間ヲ四周シ又二條ノ小瀑布アリ遊觀スルモノ少カラズ
 
蛙石 平木村而犬塚伊賀街道ノ傍ニ在リ形状蟇ノ如シ高壹丈周回數拾圍行人杖ヲ駐メテ賞觀ス
 
     城砦及宅址
 
津城址【一名安濃津城址】 本郡ノ東部ニ在リ津市街ノ南ニ位ス安濃川、岩田川ヲ帶ビ伊勢内海ノ衝ニ當リ州ノ中央ヲ控ス城樓漸次毀壞ス本丸西丸ハ僅ニ石壘ヲ存ス東丸ハ樹木繁茂ス濠アリ之ヲ繞ル内堀トス多ク蓮ヲ生ズ四圍ニ土壘アリ又濠ヲ周ラス之ヲ外堀ト稱ス城門北ニアルヲ京口門トナシ西ヲ伊賀口門南ヲ中島門トナス共ニ石壘ヲ存ス是ヨリ以内ヲ丸ノ内ト稱ス近來東ニ道ヲ通ジ橋ヲ設ケ人民ノ通行ヲ便ニス永碌中細野藤敦城ヲ築キ之ニ居ル【天延貞元ノ際平正衛三男貞衛安之津三郎ト稱ス(229)子清衡、正盛、忠盛等相繼デ此ニ居ル當時ハ海濱ニアリシガ明應三年五月及ビ七年六月ノ地震ニヨリ十九町許ノ地沈没シテ海トナレリ爾後今ノ地ニ移セシト云フ】十一年織田信長攻メテ之ヲ取リ從弟信昌ヲシテ居守セシメ以テ南方ノ鎭トナス十二年信長北畠氏ト和シ二子茶筅丸【後信雄ト改ム】ヲ其養子トナシ尋デ信昌ヲ傅トナシ南伊勢ニ移ス信長弟信包ヲシテ之ニ居ラシム文禄元年豐臣秀吉其
〔津城ノ圖、図省略〕
(230)領邑ヲ没收シ之ヲ近江ニ移ス富田知信之ニ代ル慶長五年關(ガ)原ノ役毛利秀元、長束正家等大軍ヲ率ヒ來リ攻ム知信ノ子信高分部光嘉ト防戰ス衆寡敵セズ外郭既ニ陷リ退テ本丸ヲ保ツ敵頻ニ圍ミ攻ム信高奮戰斬馘頗ル多シ尋デ和ヲ議シ剃髪シテ高野山ニ遁ル後、特川氏信高ヲ復シ伊豫國宇和島ヲ賜フ慶長十三年藤堂高虎之ニ代リ伊賀國及ビ本州數郡并ニ山城、大和等ノ地ヲ領ス是ニ於テ大ヒニ城壁ヲ修補シ居城トナス明治維新ニ至リテ廢ス今、陸軍省所轄地トナリ中ニ三重縣尋常師範學校、同第一監獄、私立三重女學校等アリ【五鈴遺響、津脩録、背書國誌、高山間録】
 
長野城址【細野城址】 北長野村ニ二處アリ一ハ字城臺ニ在リ海面ヨリ高キコト千七尺許石壘各所ニ存ス東方、山河ノ位地一目盡スペシ延應中工藤祐長【一ニ祐政ニ作ル】此地ニ來リ長野地頭職トナル藤房ナルモノニ(231)至リテ國司北畠氏ニ属ス興國三年足利氏ノ將高師秋大兵ヲ發シ來リ脅カス藤房之ニ從フ北畠顯能、大宮尾張守、阿曾宗貫ヲシテ之ヲ撃タシム克タズ七年再ビ之ヲ攻ム藤房等奮戰自殺ス子豐藤出奔ス顯能其邑ヲ以テ雲林院、細野二氏ニ分チ與フ正平七年足利氏仁木義長ニ命ジ本州ノ守護トス乃チ豐藤ヲ嚮導トナシ來リテ本城ヲ攻メ之ヲ取ル【或ハ云義長ノ居城ハ本郡桂畑村字荒井ノ山上ニ在リト】兵勢漸ク盛ンナリ十五年義長足利氏ニ叛ク足利氏ノ兵來リ攻ム義長支フル能ハズシテ南朝ニ降ル已ニシテ又之ニ背ク足利氏更ニ命ジテ伊賀ノ守護トナス後、豐藤再ビ本城ヲ取ル工藤氏復興ル其一族ノ二郡中ニ在ルモノ雲林院、草生、家所、細野、分部、中尾氏等トス而シテ乙部、三宅、三間、川地等諸氏其與力タリ天文巾藤定ナルモノ南、北畠氏ト屡々兵ヲ交ユ後、和親シ北畠具教第二子具藤【二郎】ヲ養ヒ嗣トナス永禄五年具藤ノ兵安濃浦ヨリ海ヲ航シテ三(232)重郡鹽濱ニ上陸シ關ノ一黨ト戰ヒ大敗シテ退ク十一年織田信長既ニ神戸城ヲ降シ來リテ安濃城ヲ攻ム分部光嘉、川北藤元等潜ニ?ヲ信長ニ通ジ信長ノ弟信包ヲ請フテ長野氏ノ嗣トナシ以テ具藤ヲ逐フ後、信雄人ヲシテ之ヲ殺サシム一ハ字細野ニ在リ今、耕地トナレリ興國中長野ノ族細野掃部助之ニ居ル雲林院出羽守ト北畠氏ニ從ヒ長野氏ヲ滅シ其領邑ヲ分領ス藤光ナルモノニ至リテ弘治中此地長野本城ニ接近シ攻守ニ便ナラズトテ本郡安濃村ニ城ヲ築キ之ニ居ル本城因テ廢ス【長野録、五鈴遺響、三國地誌】
 
安濃城址 安濃《アノ》村字宮前ニ在リ周圍七町餘高拾六間ノ丘陵タリ俗、城山ト稱ス濠壘及ビ井址存セリ弘治中長野氏ノ族細野藤光細野ヨリ城ヲ此ニ移ス男藤敦繼デ居ル永禄十一年八月織田信長長野氏ヲ滅サントシ先ツ來リテ本城ヲ攻ム藤敦勇悍能ク拒グ城拔ク能ハズ久クシ(233)テ和ヲ議ス天正八年二月藤敦、長野信包ト隙アリ信包ノ兵來リ攻ム父藤光及ビ家士等多ク誘殺セラル遂ニ城ニ火シテ亡命ス後、豐臣秀吉ニ仕フト云フ【五鈴遺響、長野録、勢陽雜記】
 
雲林院城址 雲林院村字西院ニ在リ今概ネ開墾シテ耕地トナリ西南隅僅ニ舊址ヲ見ル長野氏ノ族雲林院出羽守之ニ居ル興國中北畠氏ニ從ヒ細野掃部助ト長野氏ヲ滅シ其地ヲ分領ス長野氏再ビ興ルニ及ピ亦之ニ属ス祐基及ビ子兵部少輔ノ時長野信包領地ヲ奪ハントシ天正八年謀ヲ以テ其老臣野老兵衛尉ヲ殺シ祐基父子ヲ逐フ城遂ニ廢ス本村字浦ノ谷長徳寺ノ傍ニ歴代ノ墳墓アリ碑石頽壞文字讀ム可ラズ【勢國見聞集、長野録】
 
家所城址 家所村字城山ニ在リ樹木繁茂シ礎石古井ヲ存ス長野氏ノ族家所氏世々之ニ居ル藤安ニ至リテ永禄中薙髪シテ蘆庵ト號シ一志(234)郡佐田村ニ卜居シ男藤高家ヲ嗣グ天正中織田信長、長野氏ヲ亡ボシ弟信包ヲシテ之ヲ繼ガシム藤高往テ信包ニ属ス元和元年豐臣秀頼ニ仕ヘ大坂城ニ戰死シ城廢ス【五鈴遺響、背書國誌】
 
分部城址 文部《ワケベ》村字東垣内ニ在リ今、村民宅地トナリテ東部ニ一條ノ濠址ヲ存シ永禄中長野氏ノ族分部氏世々之ニ居ル光高ニ至リ細野藤光ノ三子光嘉ヲ養ヒテ嗣トナス天正十二年羽柴秀吉奄藝郡上野城ヲ光嘉ニ與フ因テ之ニ移リ城廢ス【五鈴遺響、背書國誌】
 
草生城址 草生《クサウ》村字惠下ニ在リ今、八幡神社ヲ祀ル長野氏ノ族草生越前守同民部少輔之ニ居ル後、織田信長ニ滅サレ城廢ス【五鈴遺響、古老口碑】
 
垂水城址【一名鷺城或ハ鷺山城ニ作ル】 垂水村字井戸谷ノ山上ニ在リ東西拾間南北三拾間ノ平地タリ濠址尚存ス古老傳ヘ云フ垂水定信始メテ之ヲ領シ四世廣信ニ至リ後醍醐天皇ニ仕ヘテ功アリ後諌言行ハレザルヲ以(235)テ此地ニ退居スト
 按ズルニ廣信ノ事蹟本朝諌爭録ニ載ス又度會郡永井村ニ其裔アリ系譜及ビ古記等ヲ藏ス系譜ニ文應元年生延元元年三月卒年九十七法名萬光院殿諦山道空居土云々ト記ス然レドモ他史乘、古文書等見ルベキナシ葢シ本村ニ北畠氏ノ臣垂水釋加坊アリ或ハ之ガ居址ナランカ
 
藤方城址 藤方村ニ在リ所在詳ナラズ北畠氏ノ族藤方氏世々ノ居城タリ藤方御所ト稱ス永禄中慶由入道其子刑部少輔相継デ居ル天正四年刑部少輔其主具教ヲ多氣郡三瀬城ニ弑ス慶由其不義ナ憤リ淵ニ没ジテ死ス刑部、後、流落シテ近江ニ至リ乞人トナルト云フ【五鈴遺響、多藝録】
 
乙部城址 中河原村字城内ニ在リ今、耕宅地タリ源頼政ノ裔乙部藤政城ヲ築キ之ニ居ル長野ノ與力タリ其子伊豆守永禄中織田信長ノ攻(236)ムル所トナリ戰死シテ城廢ス【五鈴遺響、古老口碑】
 
外山城址 五百野村字外山ニ在リ正平ノ頃土岐弾正少弼ノ三子外山光明弟直頼之ニ居ル仁木義長ニ属ス天正中宮内少輔ノ時織田信長ノ爲メニ亡サル【土岐系圖、多藝録】
 
今特山城址 今特《コントク》村字北出ニ在リ今、宅地トナリ舊址僅〓存ス北畠氏ノ臣奥山常陸介城ヲ築キ之ニ居ル永禄十一年長野氏ノ兵來リ攻ム城堅クシテ拔ケズ後、北畠信雄ニ属ス天正四年北畠具教ヲ多氣郡三瀬城ニ攻ントス常陸介軍ニ從ヒシガ舊恩ヲ顧ミ途ニシテ疾ト稱シ去ル後、美濃竹鼻ノ役戰死ス其子孫今、本村ニ在リ【五鈴遺響、勢國見聞集】
 
殿城址 殿《トノ》村字井尻ニ在リ東西拾壹間南北拾八間長方形ノ地ナリ松樹繁茂ス甞テ古劔瓦片ヲ堀出セシコトアリ傳ヘ云フ應永中伊藤滿高之ニ居ルト
 
(237)淨土寺城址 淨土寺村字三反田ニ在リ今、山林タリ天正中織田信長ノ臣守岡金助之ヲ守ル【五鈴遺響、三國地誌】
 
萩野城址 萩野《ハイノ》村字臺屋垣内ニ在リ面積六百五拾坪許周圍石壘ヲ廻ラス古老傳ヘ云フ應永中萩野彌左衛門之ニ居リ北畠氏ニ属スト其子孫今尚存セリ【五鈴遺響、背書國誌】
 
岡本城址 岡本村字赤坂ニ在リ今、山林トナリ僅ニ土壘ヲ存ス建仁ノ頃平氏ノ黨岡貞重【八郎】父子之ニ居リ若菜五郎等ト叛リ乱ヲ作ス元久元年四月平賀朝雅ノ攻ムル所トナリ城陷リ自殺ス【東鑑、背書國誌】
 
足坂城址 足坂村字西日ノ谷ニアリ今、山林タリ傳ヘ云フ天正中北畠氏ノ臣蜂屋釆女正之ニ居ルト
 
神戸城址 神戸《カンベ》村字小瀬古ニ在リ高廿四尺許ノ小丘タリ永禄天正ノ頃長野氏ノ族中尾内藏介之ニ居ル富田知信津城退去ノ後同城ヲ守(238)監シ暫ク此ニ住ス【五鈴遺響】
 
連部砦址 連部《ツラベ》村字城下ニ在リ今、宅地トナル天正十二年羽柴秀吉、木造具康ヲ一志郡戸木城ニ攻ル時家所藤高ニ命ジテ砦ヲ此ニ置ク【五鈴遺響】
 
澁見砦址 澁見村字城ノ丘上ニ在リ樹木繁茂ス永禄中乙部城主乙部藤政、織田僧長ノ兵ヲ防ガントシテ砦ヲ此ニ設ク後、信長ノ爲メニ攻メラレ戰ヒ敗レテ自殺ス【勢國見聞集】
 按ズルニ三國地誌ニ云フ川北内匠助之ニ據ル鳥崖ト稱スル古戰場アリト川北ハ細野藤敦ノ弟ニシテ藤元ト稱ス蓋シ此ニ居リシカ暫ク疑ヲ記ス
 
半田砦址 半田村字上寺ニ在リ面積凡ソ三百坪許今、宅地タリ土人之ヲ城屋敷ト云フ何人ノ居リシヲ詳ニセズ五鈴遺響ニ半田神戸砦ハ中尾内藏介居城ト記セリ葢シ神戸城址ヲ混同セシナラン暫ク疑ヲ記ス
 
(239)平忠盛宅址 産品《ウブシナ》村ニ在リ所在詳ナラズ里人傳ヘ云フ刑部卿平忠盛之ニ誕生ト今、本村字産ケ塚ニ胞衣塚及ビ産池ト稱スル處アリ或ハ其傍近ノ地ニアリシカ又近地殿村刑部村等ノ村名アリ皆由緒アルニ似タリ
 
大市杢之助宅址 妙法寺村字大市ニ在リ今、耕地タリ里人傳ヘ云フ大市氏世々之ニ居リシガ天正中杢之助ナルモノ分部光嘉ト戰ヒ遂ニ滅スト
 
家所氏宅址 同村字五會内ニ在リ今、田圃及ビ宅地トナレリ家所城址ノ南面ニ位ス歴代ノ居舘タリ
 
加藤氏宅址 下部田村字南羽所ニ在リ明治十年三重縣廳舍ノ敷地内ニ入ル龜山加藤氏系圖ニ加藤景通ノ二子景貞【一ニ景清ニ作ル】伊勢國目代職タリ柳馬入道ノ婿トナリ其釆地ヲ承ク其子景員伊勢ヲ去リ伊豆(240)ニ住ス子光員伊勢道前郡所職ス弟景廉伊豆國狩野莊内牧郷職及伊勢道前郡所職ニ補セラルト記ス葢シ此リシカ土俗之ヲ平景清ノ宅址又ハ誕生地ト稱ス信認スベカラズ
 
長官宅址 殿村字狹間谷ニ在リ其址詳ナラズ古老傳ヘ云フ康平中大神宮司大中臣宜衡之ニ居リ殿村前司ト稱ス子孫之ニ居ル爲仲ナルモノニ至リ應保元年祭主トナル後詳ナラズ
 
     舘址
 
有造舘址 津丸之内ニ在リ陸軍省ノ所轉地ニシテ今、大林區署ノ苗圃トナレリ文政三年藤堂高兌文武武ノ學校ヲ此ニ興シ儒臣津坂孝綽ヲシテ之ガ督學タラシム有造館ト稱ス中ニ養正寮【童蒙習學ノ處】時習舘【士子講習ノ處】整暇堂【兵學講習ノ處】等ヲ設ケ又舘ノ四周ニ演武場二十八區ヲ列置シ騎、射、劍、槍、銃、術、拳法等ヲ闔藩ノ子弟ニ教授ス爾後人材輩出列藩ノ士人又(241)來リテ業ヲ問フモノ多シ明治四年廢藩ノ時之ヲ罷ム
 
藤堂氏觀馬舘址【春秋亭址】 津興村船頭町ニ在リ今、三重縣栽培試驗場タリ藤堂高久之ヲ設ケ家臣ノ調馬ヲ觀ル處トナス南隅ニ舘アリ春秋亭ト名ヅク明治二年版籍奉還ノ後之ヲ廢シ亭ヲ毀ツ
 
待賓舘址 津大門町ニ在リ徃昔藤堂氏ノ設立ニ係ル勅使及ビ列藩諸侯本州ヲ經過ノ時藤堂氏接遇ノ處トシ又宿泊ノ用ニ充ツ明治二年三月 今上行幸ノ際定メテ行在所ニ充ヅ五年一月安濃津縣廳ニ充ツ爾來戸長役場ヲ置キ今、官用地トナレリ
 
     古墳
 
五百野《イホノ》皇女墓 五百野村字宮ノ本田間ニ在リ高五尺東西貳拾三間南北貳拾間方形ヲナス芝草之ヲ蔽フ古來傳ヘテ皇女ノ墓トス命ハ景行天皇ノ第七皇女ナリ母ハ水齒郎媛二十年【庚寅】春二月遣ハサレテ天照大(242)神ヲ祭ル【日本書紀】始メ塚傍一社アリ延寶七年三月同村春日神社境内ニ移ス
 
皇塚《キミヅカ》【一名經塚】 大塚村字西山ノ頂上ニ在リ東西六拾間南北百貳拾三間一大丘陵ヲナス上ニ大石アリ古墳ノ形儼然タリ明治十六年村民土ヲ穿チ金環、古刀ノ類ヲ得タリ拾遺載スル所及ビ里人口碑ニ桓武天皇第四皇女齋宮安濃内親王ノ墓トナス未ダ據ル所ヲ知ラズ
 按ズルニ安濃内親王齋宮タルコト古史ニ載セズ其ノ皇女齋宮タルモノ二十一世朝原親王アリ延暦四年乙丑ヲ以テ發遣シ十五年丙子京師ニ歸ル【日本紀略、類聚國史】乃チ葬地ノ本州ニ非ルコト知ルベシ一説ニ二十二世安倍内親王ノ墓トス然レドモ親王ハ聖武帝ノ二女ニシテ墓は大和國ニ在リ暫ク記シテ後考ヲ竢ツ
 
結城宗廣墓 藤方村字八幡田ニ在リ域内貳百三拾六坪中央ニ石碑ア(243)リ高壹丈三尺三寸周圍高三尺許ノ石垣ヲ繞ラス文政七年津城主藤堂高兌墓地ヲ修理シ新ニ碑ヲ立テ表面ニ自ラ鈷城神君之墓ノ六字ヲ題シ儒臣津坂孝綽其功績ヲ碑陰ニ誌ス後、漸次荒廢ニ歸セシガ飯高郡大足村ノ人川口常文【今結城神社ノ宮司タリ】之ヲ憂ヒ修繕ニ盡力ス明治十三年七月聖駕本州巡幸ノ時其誠忠ヲ追賞セラレ祭祀料金若干ヲ下
〔結城宗廣墓ノ圖の図あり。〕
(244)賜セラル尋デ社殿ヲ新建ス十五年一月朝廷其神靈ヲ敬崇アリテ別格官幣社ニ進ム碑銘ニ曰ク
  結城神君碑銘
 嗚呼是爲2結城神君之墓1云、謹按2國史1并考2家乘1公諱宗廣、承籍爲2上野介1、晩薙髪號2道忠1、其先出2於鎭守府將軍藤太秀郷1、自3曾祖上野介朝光、仕2鎌倉將軍頼朝1、世食2總之結城1、遂以爲v氏、公家別居2奥之白河1、因稱2白河結城1、元弘元年秋、北條高時構v逆、遷2 乘輿于2海島1、三年五月、 密詔諭v公、發2奥羽兵1討2高時1、公適在2鎌倉1、即率2二弟祐義廣堯及一族1、從2新田義貞1攻戰、高時伏v誅、十月裨2鎭守府大將軍北畠顯家1、奉2 皇子1略2定奥羽1、二州率服、 皇子即 正平天皇、時甫六歳也、建武二年十月、足利尊氏反2于鎌倉1、 王師征討失v利、延元元年正月、尊氏長驅、入寇2 京師1、 車駕幸2叡山1、公次子左衛門尉親光、夙有2材幹1、驍勇善戰、徃屬2北條氏1、守2六波羅1、既而悔v非歸順、甚被2親信1、爲2※[手偏+僉]非違使1、將略威望、與2楠正成、名和長年1齊v名、有2三木之稱1焉、及2寇至1、獨留居2闕下1、率v兵佯降、欲v刺2尊氏1、不v克、斫2叛將大友貞載1、死v之、朝野痛惜焉、公從2顯家1、奉2 皇子1赴v難、比v至2鎌倉1、尊氏既西、兼v程追  概入援、與2顯家、義貞、正成、長年等1、撃2賊將細川定禅於三井寺1潰v之、尋數戰2于都下1、尊氏大敗、公與2諸將1追至2豐島川1、又大破v之、明日又撃2之湊河1、尊氏遁2走筑紫1、 事駕還v闕、三月、公從2顯家1、奉2 皇子1東歸、四月、尊氏復大起v兵入寇、官軍敗績、 車駕再幸2叡山1、二年八月、公重從2顯家1、奉2 皇子1赴援、賊  擧2戰于利根川1、公共2顯家1撃破v之、十二月、進攻2鎌倉1克v之、足利義詮走、対衝2賊藪1西上、所v至戰皆克、三年正月、至2美濃1、賊將高師泰、扼v隘逆拒、轉道2伊勢1、師泰尾至2雲出川1、返戰破v之、公皆與有v力焉、(246)二月、抵2南都1、時 乘與蒙塵、駐2 蹕吉野1、顯家因召2諸將1、議2軍所1v向、公慨然奮曰、我軍連戰累捷、已開2入v京之路1、而猶憚v賊不v得v進、南避詣2 行在1、爲2懦甚1也、宜d直進襲克2復京師1掃c蕩凶徒u、不v濟則暴2屍都下1耳、顯家大稱v善、會賊稱高師直來攻、顯家戰敗、薨2于安倍野1、公孤軍無v奈、入朝2 行宮1、方2是之時1、中將義貞在v越、戰歿軍潰、顯家弟少將顯信、屯2戍男山1、亦棄而歸、朝廷震驚、不v知v所v爲、公奏曰、往昔顯家三年之間、再率2大軍1入援、以d奥羽善服2威令1、無c後顧之憂u也、請今因2民心未1v變、重奉2 皇子1以徃、建v號明v令、懲v逆奘v順、經略之功、何患v不v濟、臣按2地圖1、奥羽之曠莫、殆當2天下之半1、可v得2勝兵五十許萬1、臣白首戴v冑、祗從2 皇子1、率2彼義勇1、卷v土而來、不v出2一年1、會稽之恥可v雪矣、 朝議壯而從v之、於v是閏七月、顯信拜2鎭守府大將軍1、公從2顯信1、又奉2 皇子1、往鎭2東陲1、諸軍慮2路梗(247)難1v通、畢會2伊勢1、浮v海東下、八月、發2大湊1、九月十一日、過2天龍洋1、至2伊豆崎1、遇2颶風暴起1、船皆飄蕩、與2 皇子及顯信1相失、公船飄七日、還抵2安濃津1、候v風十餘日、不幸嬰v疾、対至v不v起、有2所v識僧1來問、就2枕側1告曰、死迫矣、唯誦2佛号1、莫v有2他念1、若有v所2遺囑1、爲致2諸郎君1、公目將v瞑、聞v之奮起曰、我生七十、百事完足、莫2復遺念1耳、但恨不v得d爲2 國家1滅v賊、以恢c復天下u、死而不v可v忘也、爲v我致2意兒親朝1、居v憂勿v脩2佛事1、唯速誅v賊梟2我墓前1、聿追來孝是兒已矣、言訖、拔v刀慨嘆、切齒兒卒、訃 聞、天子震悼焉、惜夫親朝怯懦、不v能v繼2先志1、擁v兵坐2視關城之急1、遂叛降2干賊1、何其不肖也、親光忠勇義烈、不v忝2爾所生1矣、公自v起v義以來、勲勞不v可2勝述1、既及2大厦再覆1、猶欲2一木獨支1、其徇2奥羽1以圖2興復1、進v謀誠臧、大彊2人意1、天不v?v忱、謂2之何1哉、勤王之志、終始(248)不v貳、臨v死益切、遺命壯烈、不v讓2有宋宗忠簡1。可3以泣2鬼神1矣、當時浮屠輩、憎3其斥2佛事1、捏d造陷2泥梨1状u、以誑2親朝1、漫載2諸筆1、愚俗傳誦焉、固不v足v挂2齒牙1耳、我津城南郊、八幡宮林中、有2公墓并祠1祠号2結城明神1、夫當時忠賢、南木明神、名和明神之廟、皆儼2然其郷1、公亦祀2于此1、列爲2三明神1、至忠之感v人、各地一揆也、公之卒、去v今四百八十有七年、猶爾見2生氣凛凛1、於戯、豈非2眞英雄1哉、文政甲申之春、我公欽2其徳義1、脩2拓祠宇1、輪奐改v觀、内大臣近衛公賜v額、金字輝煌、神明彰矣、尋復築v石脩v墓、建v碑以表v之、親筆題署、葢傚2水戸義公湊河楠子墓之擧1云、庶亦使2人觀感1、可3以皷2舞士氣1矣、且是地也、詣2 皇太神宮1者、四方所2經過1、則其所3以爲2忠義之勸1、擧2天下之人1仰焉、不2獨國人而已1也、臣孝綽奉v命勒v石、短筆梗澁、無v任2惶悚之至1、拜手稽手、敢恭序而銘v之、是歳、孟冬五日、即(249)公之忌辰也、
維盛忠亞2楠子1、豪武 王之爪牙、嬰鑠老而益壯、恢復緬仰2雄圖1、百戰敵v愾良苦、天乎世運蹉?、義踏2東海1而死、敢從2逆賊1立家、英烈之氣如v生、亘2千載1而不v磨、穢史冥果之誣、天定如2神徳1何、名勝有2若廟墓1、誠亦吾土之華、盛擧興2脩曠典1、?2美于彼湊河1、聿來景2仰風節1、懦夫其奮2氣義1、
          津藩國校督學兼侍講津坂孝綽謹撰
            監學參謀兼侍讀石川之聚拜書
 
平維盛墓 河内《カウチ》村字落合ニ在リ塔石高貳尺六寸五分幅壹尺方形をナス其下疊むに小石を以テす表面平惟盛之墓ノ五字ヲ題シ三面傳ヲ誌ス寛政中建ツル所タリ成覺寺記ニ云フ壽永ノ際維盛紀伊那知海ニ投ストナシ跡ヲ匿シ逃レテ本村ニ來リ其宅ヲ以テ佛刹トナス今ノ(250)成覺寺是ナリ承元四年三月病デ卒ス年五十三子孫數十戸ヲナス寺僧亦其裔ナリト
 按ズルニ大日本史ニ曰ク維盛佯爲2赴v海死1、匿居2牟漏郡藤繩1、子孫遂爲2土人1、貢2香那知1、因名2其地1曰2香畛1、小松氏、色川氏、其裔也ト其他大和、越後亦其舊址アリトナス成覺寺記ノ如キ亦頗ル由緒アルガ如シ暫ク記シテ參照ニ供ス
 
織田信長母墓 津榮町四天王寺墓地ニ在リ土田氏文禄三年正月卒ス花屋壽永大禅定尼ト諡ス今、藥師堂ノ南壹丈貳尺許ノ塔アリ寶暦二年改メテ新建スト云フ【寺記、五鈴遺響】
 
富田知信同男千代丸墓 津榮町四天王寺墓地ニ在リ五輪塔高三尺餘臺石銘アリ剥落シテ讀ムベカラズ知信文禄中津城主トナリ左近將監ト稱ス慶長四年十月卒ス京都南禅寺ニ葬ル因テ此ニ供養塔ヲ建ツ(251)千代九墓ハ五輪塔高四尺貳寸慶長九年五月早世ス宗寶院殿桂室芳公大禅定門ト諡ス【寺記】
 
藤堂高虎室一色氏墓 津榮町四天王寺墓地ニ在リ塔高三尺七寸餘幅壹尺六寸石垣ヲ繞ラス表面久芳院殿桂月貞昌大禅定尼ノ十二字ヲ刻ス一色義直ノ女ニシテ高虎ノ室タリ元和元年八月卒ス乃チ此ニ葬ル【家譜、寺記】
 
孝女登世墓 連部村字日燒ニ在リ高貳尺玉寸周圍四間碑面文字ナシ登世幼ヨリ親ニ事ヘ孝アリ文化中藩主藤堂氏賞スルニ米金ヲ以テス又除地若干ヲ給ス天保十一年七月死ス藩主爲メニ墓碑ヲ建ツ
 
僧清韓墓 乙部村字札ノ辻上宮寺ニ在リ高三尺許南禅寺清韓長老ノ數字ヲ刻ス清韓奄藝郡三宅村ノ人甞テ豐臣秀頼ノ爲メ方廣寺ノ鐘銘ヲ撰ス【三國地誌】
 
(252)經塚 本郡經ケ島ノ頂上ニ在リ往昔長野氏ノ臣近藤左金吾ナルモノ長寶寺一切經ノ内二百卷ヲ奉納シ百卷ヲ此ニ埋ム故ニ此名アリト
 
平忠盛胞衣塚【一名産塚】 産品村ノ南方長谷徃還ノ傍【字産カ塚】ニ在リ高貳丈五尺周圍百貳拾間今、草生地タリ忠盛ノ事史傳ニ詳ナリ傳ヘ云フ忠盛此地ニ生ル是其胞衣ヲ埋ムル處タリ塚ノ北十間許小池アリ産池ト云フ即チ此水ヲ以テ欲セシナリト【五鈴遺響、背書國誌、古老口碑】
 按ズルニ忠盛白河天皇永長元丙子年誕生シ近衛天皇仁平三年癸酉正月十五日卒ス年五十八其生誕ノ地ハ本郡ニシテ卒去ノ地ハ多氣都河田村ニ在リ遺響ニ云フ忠盛寔ニ平氏中興ノ祖ニシテ本州ニ生卒ノ地ヲ遺セルモ其餘ノ武將ト異ナリ所謂?鶻不忘其巣ノ譚ナリト併テ茲ニ附記ス
 
三塚 塔世《タウセ》村字鳥居前稻荷山ノ山上ニ在リ傳ヘ云フ關(ガ)原役ノ時宍戸(253)元繼安濃津城ヲ攻メ分部左京亮ト戰ヒ敗死ス其臣二人倶ニ茲ニ葬ル故ニ名ヅク
 
船塚 津興村字柳山ニ在リ小丘ニシテ榎二株アリ俗傳ヘ云フ阿漕平次海禁ヲ犯セシ時用ヒシ船ヲ此ニ埋ムト
 
義犬塚 平木《ヒラギ》村字犬塚ニ在リ一小石ヲ置ク往時長野氏ノ從士鹿間某アリ獵ヲ好ム一日常ニ愛スル所ノ良太ヲ携ヘテ山中ニ至ル犬頻ニ吼エ進マントスレバ將ニ?マントスルノ状アリ某謂ラク獲物數千ニ及ベバ主人モ喰フト聞ク此犬或ハ吾ヲ喰ハンカト乃チ腰刀ヲ拔キテ之ヲ斫ル犬頭飛デ傍ニアル大蛇ノ喉ヲ?ム某之ヲ見大ニ驚キ忽チ蛇ヲ殺ス是ニ於テ犬ノ吾ヲ害スルニ非ズシテ吾ヲ護スルヲ知リ爲ニ之ヲ慙ヂ犬屍ヲ収メ此ニ葬リ石ヲ立テ之ト表スト【五鈴遺響、勢陽雜記、勢國見聞集】津藩津坂孝綽義犬塚引及詩アリ曰ク
(254) 長野山中格社之西、澗道左側有2義犬塚1、建2没字碑1、里人恭敬爲v神、蓋屋以庇v之、相傳去v今二百許年、郷士鹿間某者好v獵、養2一快犬1、鍾愛殊至、常將自隨、甞山中假寐、犬遽?號、啣v裾?v之、士叱逐v之、犬※[口+斗]喚如v狂、奮v身作2猛噬之勢1、士怒遂抽v刀斬v之、盖所v憇樹間、有2巨蟒1蟠焉、犬頭辯飛騰、直齧2其喉1殺v之、士大驚嘆、收2犬屍1葬2于此1、立v石以爲v表云、里正古川建藏、述v状、請3余賛2一辞1、噫?是可2以v犬稱1乎、可v謂2忠勇義烈之墓矣、宜其恭敬爲v神也、余自2坐v事貶斥1、廢v詩三2年于茲1、雖2卿相之求1、斷弗v攬v筆、此特不v容v已、爲賦予焉、時文化丁丑冬二之日也、
  慇懃救v主心、 死首猶飛闘、 忠義獣中人、 人中飜有v獣、
 
椀塚 曾根村字東浦原野中ニアリ東西拾五間南北拾間丘陵ヲナス頂上巨松一株アリ何人ノ墓ナルヲ知ラズ傳ヘ云フ元ト御厨ノ地タリ秋葉重俊ナルモノアリ近江ヨリ來リテ此處ニ住ス文暦元年判官職(255)タリ其後片田刑部尉思時ノ時兵亂ニ遭ヒ御厨從テ發ス時ニ大刀、神鏡及ビ輿一連庖厨一切器具ヲ此ニ埋ムト
 
     古戰場
 
觀音寺村古戰場 觀音寺村字東浦ノ丘陵ニ在リ慶長五年富田信高徳川氏ニ属シテ津城ヲ守ル石田三成ノ兵來リ攻ム信高其臣淺井權之助、齋田隼人等ヲシテ塔世川ノ堤ニ至リ敵状ヲ窺ハシム二人乃チ歩卒六十人ヲ率ヒ直チニ進デ川ヲ渡リ愛宕山、藥師山ノ間ニ向フ信高之ヲ見テ以爲ラク敵ハ大軍ナリ近ケバ戰ヒ利アラズト乃チ急ニ令シテ之ヲ止メシム二人聞カズシテ進ム遂ニ敵兵ヲ撃チテ大ニ之ヲ敗ル是其舊地ナリト云フ【勢陽雜記、古老口碑】
 
   奄藝郡
 
     山川
 
(256)栗眞《クルマ》山 所在詳ナヲズ藻鹽草ニ曰ク、クルマノ山伊勢ニ属スト葢シ白子村ノ邊ニ在リシナラン此地往昔栗眞庄【一ニ車庄ニ作ル】ト稱ス故ニ此名アリ【伊勢名所拾遺集、五鈴遺響】
   海道記             鴨長明
  立わかれひとりくるまのいなむしろ旅ねのなかの旅そ悲き
 
衣手《コロモデ》山 郡山村字衣谷ニ在リ酒井川ノ水源ニ属ス南部、岡陵一帶連屬ス山中往昔葛、麻等ヲ産ス此地初夏ニハ杜鵑ノ聲ヲ聞キ晩秋ニハ麋鹿ノ啼クヲ聞クニ宜シト云フ【勢國見聞集、古老口碑】
   夫木                 顯仲
  衣手の山のふもとにたつ鹿のこゝろさひしき曙のこゑ
 
磯山 磯山村ノ地ヲ稱スルモノナラン本村字磯アリ今、田畝タリ
   夫木
(257)  磯の山まさきの綱によりかけて鹽みつほとの船はつなかし
 
服部山【一ニ羽鳥山ニ作ル】 郡山村字大野ニ在リ一岡丘タリ東鑑元暦元年甲辰五月十五日ノ條ニ曰ク去四日波多野三郎、大井兵衛次郎實春、山内瀧口三郎并大内右衛門尉惟義家人等於2東國羽取山1、與2志太三郎先生義廣1合戰殆及2終日1爭2雌雄1、然而遂獲2義廣之首1云々ト即チ此地ナリ
 
東國(ガ)岡 稻生《イナワ》村字山田ニ在リ岡陵起伏ス總稱シテ東國(ガ)岡ト云フ七尾八谷等ノ勝地其下ヲ繞ル東方内海ヲ望ミ遙ニ三河、尾張ノ海峽ニ對ス風景佳絶ナリ里人傳ヘ云フ崇神帝ノ時保食神ノ夢兆アリ告グルニ此地嘉穀アルヲ以テス帝群臣ト議シ國造道上楯並命、高向臣葛木ニ詔シテ本村ニ求メシム果シテ嘉穀ヲ得タリ因テ保食神ヲ祭ル稻生村ノ名亦之ニ基クト寛延三年村人秋田太兵衛等立ツル所ノ碑アリ【社記、五鈴遺響】
 
(258)例禊洲《レイケイス》橋【齋塚】 窪田村東南伊勢街道ニ属ス相傳フ往昔齋内親王下向ノ時此河洲ニ禊シ齋殿ニ入リ玉フ故ニ名ヅク橋ヲ距ル一町評古塚アリ齋殿ノ址ナリト【一説ニ云フ往古ノ管道ハ此處ニ非ズ此ニ齋王祓禊セラルヽノ理ナシト】里人ヨメ塚ト呼ブ葢シ齋妻《ヨミヨメ》國音ノ訛レルナラン【勢國見聞集、五鈴遺響】
 
僞橋 忍田《ヲシタ》村永隆寺ノ前ニ在リ今、長壹間ノ石橋タリ傳ヘ云フ徃昔不孝ノ子某アリマ其親死ス爲メニ一橋ヲ架シテ冥福ヲ祈ル親、夢ニ村人ニ告ゲテ曰ク、いきてさへかけて頼まぬ我身をは死にてかくるはいつはりの橋ト言畢テ覺ム村人之ヲ異トス蓋シ某實ニ追悔ノ心ナク徒ニ事ニ托シテ衆人ヲ欺キシナリ是ヨリ遂ニ此名アリト【五鈴遺響】
 
     邑里
 
白子村【舊名白兒舊ト栗眞庄ト稱ス】 村ノ中間ニ元ト制札場アリ是ヨリ南ヲ栗間ト云ヒ北ヲ江島ト云フ源平盛衰記宇治川合戰ノ條、源親政ノ嫡男仲綱(259)ノ歌ニ白兒黨【一本ニ伊勢武士ニ作ル】皆ひをとしの鎧きて宇治の網代にかゝりけるかなト詠ゼシハ即チ此地所在平家ノ黨類ヲ稱セシモノナリ【五鈴遺響】
 
木鎌村【今五視村ニ合ス】稗田村【同上】
 
秋永村、越知村、横地村【今徳田村ニ合ス】
                      西行
  木鎌にて稗田をかれは秋永や稻しほたれておもこちの里
 
     神祠
 
伊奈富神社 稻生村ニ在リ三社ニ分ル一ハ大宮ト稱ス【字楠本】之ヲ本社トス大國道命、保食神ヲ祀ル一ハ三大神社ト稱ス【同字ニ在リ】鳴電光神及ビ大山祇命ヲ祀ル一ハ西ノ宮ト稱ス【字中尾】豐宇賀能賣神及ビ稚産靈神ヲ祀ル崇神天皇ノ時之ヲ創建ス祭日陰暦三月三日八月八日【社記】
 
華表(ノ)址 寺家《ジケ》村字渚ニ在リ朽根纔ニ存セリ俗呼デ夜泣木ト稱ス傳ヘ(260)云フ藤原淡海公ノ建立セシモノナリト元ト何レノ社寺ニ属セシヲ審ニセズ或ハ云フ此地徃昔比佐豆知神社アリ是其舊址ナリト又云フ稻生村稻生神社鳥居ノ址ナリト【勢國見聞集、古老口碑】
 
     梵刹
 
專修寺【菩提樹、枝垂柳】 一身田村ニ在リ境内面積壹万八百六拾四坪眞宗高田派ノ總本山ナリ宗祖親鸞嘉禄
〔專修寺ノ圖、圖省略〕
(261)二年下野国芳賀郡大内庄柳島ノ地ニ創立ス後堀河天皇専修阿彌陀寺ノ号及ビ勅願所ノ綸旨ヲ賜フ寛正六年十世ノ祖眞惠今ノ地ニ移ス文明九年六月後土御門天皇專修寺門流任先規不可有相違ノ綸旨ヲ賜フ是レ天皇即位ニ綸旨ヲ賜フ始メニシテ歴世恒例トナレリ十年三月勅シテ祈願所トス天正中織田信長當寺門前陣取放火軍人乱暴狼籍竹木伐採等ヲ禁止スルノ制状ヲ寄ス十二世堯惠ノ時門跡號ヲ勅許セラル徳川家康、豐臣秀吉亦同上ノ制状ヲ寄ス慶長中秀吉寺領三百五拾石ヲ寄附シ万治中藤堂高次三万千百餘坪ノ地ヲ寄附ス今直末六百廿五箇寺アリ本州無比ノ巨刹タリ【寺記】
菩提樹《ボダイジユ》、枝垂柳《シダレヤナギ》 大師堂ノ前面左右ニアリ共ニ高三間回リ貳尺七八寸許枝葉稠密鬱蒼タリ始メ本寺ノ宗祖親鸞下野柳島ニ到ル日既ニ暮ル其地一大石アリ終夜之ニ踞シテ念佛ス一童子アリ柳枝ト紗嚢ヲ(262)持チ告ゲテ曰ク宜シク此地ニ伽藍ヲ建立スベシ携フ所ハ西天白鷺池ノ柳枝及ビ佛生國菩提子ナリ以テ汝ニ與フト言畢リテ見エズ大師之ヲ異トシ以テ地ニ植ウ遂ニ巨樹トナル此ニ專修寺ヲ建立ス後、中興僧眞惠寺ヲ此地ニ移ス時根株ヲ分チ移植ス今存スルモノ是レナリ【寺記】
 
觀音寺【不斷櫻】 寺家村ニ在リ眞言宗遍照光院末ナリ天平勝寶中藤原不比等創建聖武天皇ノ勅願所タリ天平寶字中火災ニ罹ル灰燼中ヨリ櫻一株ヲ生ズ花常ニ斷エザルヲ以テ不斷櫻ト名ヅク稱徳天皇ノ叡聞ニ達シ之ヲ南庭ニ移シ裁ラレシニ一夜ニシテ枯衰ス因テ御製一首ヲ添ヘ本寺ニ返シ給フ此樹猶存シ本尊觀音ト共ニ頗ル世ニ名アリ【寺記、五鈴遺響】稱徳天皇御製ニ
  誓ありていつも櫻の花なれは見る人さへも常盤なるへし
(263)   俳句               宗祇
  冬咲は神代もきかぬさくらかな
 
     原野
 
豐久野《トヨクノ》【一ニ豐國野又等由氣野、豐受野ニ作ル 錢掛松】 高尾、椋本ノ諸村ニ亘ル徃昔曠原タリシガ漸次開拓シテ耕宅地トナセリ錢掛松ハ高尾村字錢掛【伊勢別街道】ニ在リ老幹一株欝然タリ傍ニ小祠アリ天照大神ヲ祀ル中ニ朽松長貳尺餘ノモノヲ藏ス往古錢掛松ノ遺物ト稱ス俗傳ヘ云フ雄畧帝ノ時丹波國ヨリ等由氣大神ヲ山田ニ遷ス時假宮ヲ此ニ營ス里人其址ノ没スルヲ憂ヒ松ヲ植ヱ爰ニテ神宮ヲ遙拜シ賽錢ヲ樹枝ニ掛ク故ニ名ヅクト【五鈴遺響ニ云フ往古官道此地ニ非ズ行宮ヲ營ムベキノ理ナシ蓋シ謬傳ナラント】或ハ云フ往昔神宮ニ詣デントスルモノアリ此ニ憩ヒ里人ニ道ヲ問フ給テ曰ク豐久野十日程ヲ費シ長野七日程ヲ費シ三渡三日程ヲ費スト旅人惘然一貫文ヲ(264)樹枝ニ掛ケ遙拜シテ去ル里人其錢ヲ褫ハントスレバ忽チ蛇蝎〓變ズ恐レテ近ヅクモノナシ旅人國ニ歸リシ後其紿カルヽヲ知リ再ビ此ニ到ル錢故ノ如シ因テ此名アリト【倭漢三才圖繪、勢陽雜記、惠日堂舊記】此他俗説少カラズ其名嘖々タルヲ以テ之ヲ載ス
   伊勢紀行               堯行
  なひくてふ民の草はの未なれやとしもとよくの野への道しは
   錢掛松              山崎暗齋
  豐久野中鷹尾東、蒼龍蟠屈勢崇々、不仁欺v瞽人烏有、遺臭万年錢掛松
 
小丹《ヲニノ》浦 大部田《オホベタ》村東面ノ邊海ヲ指稱ス或ハ云フ飯野郡瀕海ノ地ナリト
 
     濱海
 
(265)   海邊松           佐々木弘綱
  あはれなりをにの汐屋の一松からき世をへて水さひにけり
 
白子(ノ)濱【一名皷浦】 白子村及ビ寺家村ノ東方一帶ノ海濱ヲ稱ス里人云フ徃昔海濱白色ノ貝石多シ因テ名ヅク又波浪ノ聲鼓ノ如シ故ニ皷浦ノ名アリト東方遙ニ尾張知多郡ニ對シ南ハ本州朝熊等ノ諸山ヲ望ム白沙青松相映ジ風景畫クガ如シ此地ニ接スル海濱ニ尾前浦、別保浦、白塚浦アリ風景之ニ亞グ【五鈴遺響、三國地誌】
   長久元年歌合
  月影と白子の濱の白貝は波もひとつに見えわかぬかな
   藻鹽草
  いくよねん白波よする白子濱はま松かねに松は折しき
   初冬白子望海           赤須眞人
(266)  蘆荻寒風起、吹吾衰老顔、漁舟盛v網泛、?鳥得v魚間、日挂江頭樹、天晴海外山、鐘聲三五動、惜v別晩潮還、
 
     谿淵
 
片淵 椋本村字目細ニ在リ田圃ノ傍ニ方壹間許ノ堀形ヲ存ス俗、關屋ノ清水ト稱ス傳ヘ云フ往昔此地關門アリ僧西行甞テ此處ヲ過ギントス關司許サズ西行曰ク身已ニ出家タリ何ゾ害アラント關司告グルニ國守ニ請ヒ然後通ズベキヲ以テス西行乃チ關傍ニ在リ其舘中ニ酒器ノアルヲ見テ歌ヲ詠ジテ曰ク
  壺のうちににほひわたりし梅の花まつ酒ひとつ春のしるしに
關司返歌ニ
  壺のうちに匂ひし花の散はてゝ霞そ殘る春のしるしに
關司又酒糟ヲ饗ス盛ルニ偏縁《カタブチ》ノ折敷【物ヲ盛ルノ器】ヲ以テス西行又詠ジテ(267)曰ク
  かたふちに身を投はやと思へともさすがに命をしき成らん
又返歌ニ
  身をすてゝ憂世を渡る修行者の何に命のをしきなるらん
右詠ジ果テ遂ニ關ヲ出ヅ是ヨリ遂ニ片淵ノ名アリト【五鈴遺響、勢國見聞集】
 
     洞窟
 
石山(ノ)祠 楠原村字石山ニ在リ岩石列峙ス山頂ニ巨巖アリ両澗ノ間ニ跨ル形チ馬背ノ如シ方俗呼デ馬ノ背ト云フ北方、鷄足、鎌ガ岳ノ諸山及ビ内海遠近ノ勝一望盡スベシ山上巨石高四丈許阿彌陀像ヲ刻シ山麓ノ石ニ地藏佛ヲ刻ス傳ヘテ僧空海ノ所作トナス嘉永元年一月本村淨蓮寺僧覺順山腹ノ巨石ニ觀音像ヲ摸刻ス一町餘南ニ清泉アリ傍ノ石ニ亦地藏二?ヲ刻ス詣拜スルモノ多シ稱シテ石山觀音ト云フ(268)【寺記、古老口碑】
 
窟不動《イハヤノフドウ》  楠原村字向市場ニ在リ東北ハ平坦ニシテ田畝相連リ西南、山脈ヲ負ヒ樹木森々タリ石窟深二丈許不動佛三體ヲ安置ス一?ハ傳ヘテ大同中ノ作トナス寛文中宗泉ナルモノ之ヲ修理ス左右ノ両體ハ天保十一年森藤三部ノ彫刻スル所ナリ傍ニ飛泉アリ涓々相落チ山中ノ景幽邃ヲ極ム【本村舊記】
 
     池泉
 
産湯《ウブユノ》井 三宅《ミヤケ》村字金堤ニ在リ方四尺蓋フニ瓦屋ヲ以テス古老相傳フ夢窓國師此地ニ生ル乃チ當時用フル所ノ産湯水ナリ又近傍ニ夢窓櫻アリ國師ノ植ウル所ナリト今、枯死シテナシ【勢國見聞集、三國地誌】
 
僧空海加持水 本郡ニ弘法井ト稱スルモノ二アリ一ハ三行村字狹間脇ニ在リ井形ヲナシ清水之ニ盈ツ一ハ上野村字中町國道ノ傍ニ在リ(269)圍三間餘方形ヲナス蓋フニ屋宇ヲ以テス清泉涌出常ニ絶エズ味極メテ淡爽ナリ旅人渇ヲ醫スル者多シ
   古屋草紙               西行
  弘法のほりたる井戸は三行なるなかれ久しき清き水上
 
     樹石
 
九本松(ノ)址【一ニ伊勢松或ハ野崎九本松ト稱ス】 睦合《ムツアイ》村字蟹田ニ在リ高貳拾間餘周圍三丈五尺枝葉延ビテ方拾三間ヲ蔽フ一根九幹タリ故ニ此名アリ蓋シ徃昔一里塚ヲ築クノ際植ヱシモノナラン明治十九年三月伐リテ薪材トナセリ惜ム可シ【古老口碑】
 
椋本(ノ)大椋 椋本村字愛宕町光月寺ノ南傍ニ在リ高貳拾五間周圍四丈枝葉縱横貳拾間餘ニ及ブ世人大椋ト稱ス其名尤モ著ル
 
盛光松 久知野《クチノ》村ノ北端字古里ニ在リ老松一株小丘ノ上ニ蓊蔚タリ(270)俗、盛光ノ松ト云フ此地東方渺乎タル内海ヲ隔テ尾、參ノ諸山ヲ望ミ風光甚ダ佳ナリ明治十五年地方有志者相謀リテ西國三十三所ノ觀音像ヲゥク春夏ノ候來拜スルモノ多シ
 
腰掛松【一名蛸松】 上野村字山一色ノ海邊松林ノ間ニ在リ高四間半幹枝横張、方貳拾間ニ及ブ恰モ蛸ノ足ニ似タリ徃昔勅使神宮ニ詣ル路ニ父ノ喪ヲ聞キ巾子《コレ》ヲ松上ニカケテ還ル【多氣窓螢、五鈴遺響】或ハ云フ僧樂阿彌【一説ニ樂阿彌ハ僧一休ノ別名ナリト】ナルモノ廻國シテ此ニ至リ松樹ニ踞ス因テ名ヅクト【勢陽雜記、勢國見聞集】
 
嫉妬梅址 一身田村專修寺鐘樓ノ側ニアリシガ今、枯槁シテ其跡ヲ留メズ寛政中其朽幹尚存セシト云フ相傳フ徃昔本村一農婦アリ性妬?其夫ノ密カニ外妾ヲ蓄フヲ疑ヒ婦、心燃ルガ如ク菜刀ヲ擧ゲ夫ヲ打タントス夫走リテ梅樹ヲ匝ル婦一撃誤リテ樹幹ニ中ツ刀遂ニ拔ケ(271)ズ是ニ於テ頓ニ悔悟シ後世婦女ノ嫉妬ヲ戒シムル爲メ樹ヲ本寺ニ移植シ自ラ佛門ニ歸スト云フ【寺記】
 
     行宮址
 
豐受大神宮址 高野尾村字東豐久野ニ在リ傳ヘ云フ雄畧天皇ノ時豐受大神ヲ丹波國ヨリ本州ヘ遷スノ時鈴鹿郡神戸ヨリ本村ヘ至リ行宮ヲ造リ休御セラレシ處ナリト【惠日堂記】
 
敏達天皇行宮址 御薗《ミソノ》村字山城ニ在リ今、耕地タリ古老傳ヘ云フ敏達天皇本州ニ行幸セラレ行宮ヲ之ニ設ケ留居スルコト三年還幸セラルヽニ及ビ廷臣七人ヲ留メ國郡ヲ治メシム其子孫今尚存スルモノアリト
 
     城砦及宅址
 
分部城址 上野村字城屋ニ在リ高丘ニシテ縣道ノ傍ニ屹立ス今、概(272)ネ耕地山林トナレリ丘上ニ一喬松アリ回リ丈餘村人云フ内海ヲ往來スル舟子見テ目標トナスト永禄十一年織田信長本州ヲ征シ北畠氏ト講和ノ後、弟信包ヲ津城ニ居キ本城ヲ兼知セシム天正十二年羽柴秀吉本州ヲ征スルノ後分部光嘉ヲ此ニ卦ズ慶長五年關(ガ)原ノ役徳川氏ニ属シ富田信高ト津城ヲ守リテ功アリ元和五年光信封ヲ近江大溝ニ移スニ及ビテ城廢ス【五鈴遺響、背書國誌】
 
林城址 林村ニ二處アリ一ハ字北浦ニ在リ東、南、北三方險崖ニ臨ミ西ハ平坦ニシテ耕地タリ松樹疏生ス正應中【一ニ明應ニ作ル】長野氏ノ族林祐行城ヲ築キ之ニ居ル數世ノ孫重越ニ至リ關氏ノ一黨ト和セズ爭ヒ止ム時ナシ天文五年十月關盛信自ラ兵ヲ將ヒ鹿伏兎定長ヲ先鋒トシ來リ攻メ之ヲ拔ク重越長野ニ奔リ城遂ニ廢ス一ハ字城屋敷、基谷、宮谷ニ跨ル周圖ハ嶮ニシテ概ネ林藪タリ平坦ノ地今、宅地トナレリ本村舊(273)記ニ云7天文七年關氏ノ族鹿伏兎定長ノ二子定保城ヲ築キ之ニ居ル林氏ヲ冒ス保春ノ時天正十一年羽柴秀吉來リ攻ム城堅クシテ拔ケズ後出デヽ降ル秀吉封ヲ但馬ノ一邑ニ移ス十二年長野信包之ヲ領シ壁壘ヲ修補シ津城ヨリ半年毎ニ移ル居ル文禄中秀吉、信包ノ所領ヲ没収シ子信良ニ一万石ヲ給シ木城ニ居ラシム慶長十年密ニ黨ヲ結ビ亂ヲ謀ル、事露レテ亡滅ス或ハ云フ徳川氏ノ時故アリ家絶スト【本村舊記、古老口碑】
 
稻生城址 稻生村字城屋敷ニ在リ今、小丘纔ニ存シテ耕圃トナレリ本村舊記ニ曰ク大永中和田藏人東國ヨリ本村ニ來ル村民等神領ヲ支配センコトヲ請フ因テ城ヲ築キ之ニ居ル遂ニ近村ヲ服從セシメ名ヲ藤盛ト改ム天正十一年羽柴秀吉、瀧川一益ヲ討ツノ時稻生某之ニ從ヒ天花寺小治郎ト一志郡曾原ニ戰ヒ戰死シテ城廢スト按ズルニ稻生氏ノ系統事蹟諸説混淆考フ可ラズ【北畠氏ノ幕下ニ稻生氏俊アリ又盛貞、盛光、貞直ナルモノアリ織田氏ニ(274)属ス共ニ年號事蹟詳ナラズ】今暫ク里傳ニ從フ
 
忍田城址 忍田村字城山ノ丘上ニ在リ漸次開墾シテ畑地トナス白河天皇ノ時忍田入道城ヲ築キ之ニ居ル歴世之ヲ襲フ其裔美濃守同平左衛門尉ト稱ス平左ハ藤堂高虎ニ仕フ安濃郡雲林院村美濃屋神社ノ棟札ニ康和五年癸未六月二十五日忍田地頭宗重ト記ス蓋シ中世ノ城主ナラン【五鈴遺響】
 
長法寺城址 長法寺村字古里ニ在リ小丘ニシテ濠形ヲ存ス文治中長法寺五郎之ニ居ル【五鈴遺響、背書國誌、勢陽雜記拾遺】或ハ云フ片岡六郎左衛門之ニ居リシガ永禄十二年織田信長ト戰ヒ鈴鹿郡國府村ニ戰死スト【古老口碑】
 
楠原城址 楠原村字童子容ニ在リ東北、川ヲ帶ビ丘上平坦ノ處耕地タリ應仁中山田重勝城ヲ築キ之ニ居ル足利氏ニ從フ後、子孫織田氏ニ屬ス重益ニ至リ近江安土ニ死ス【五鈴遺響、本村舊記】里人云フ本材字向市場ニ一(275)城址アリ山田重孝分家シテ城ヲ築キ之ニ居リ瀬古氏ト稱セシト
椋本城址 椋本村字東奥谷ニ在リ丘上樹木生茂ス白河天皇ノ時伊藤貞好之ニ居ル【五鈴遺響、勢陽雜記拾遺】
 
御薗城址 御薗村字城山ニ在リ今、稻荷神社ヲ安ンズ土中古刀、劍具ノ類ヲ出セシコトアリ往昔伊勢平氏御薗三郎之ニ居ル【五鈴遺響、本村舊記】
 
中山城址 中山村字南垣内ニ在リ今、耕地タリ傳ヘ云フ徃昔細野氏ノ族分部光嘉之ニ居ル後、上野城ニ移ル此地一ノ古墳アリ分部氏ノ族ヲ葬リシモノナラン
 
川北城址 川北村字東谷ニ在リ今、耕地及ビ山林タリ長野氏ノ族川北式部少輔之ニ居ル正平中土岐右馬頭ノ攻ムル所トナリ城陷ル後、安濃郡雲林院氏ニ從フ内匠助ニ至リテ本村ニ歸住ス其後裔今ニ存ス【五鈴遺響、古老口碑】
 
(276)峯治城址 上津部田《カウヅベタ》村字ヲノ坪ニ在リ今、林藪タリ應永中佐脇勝久城ヲ築キ之ニ居ル永禄ノ亂城陷リ逐ニ廢ス【本村舊記】
 
三間忠保城址 大古曾《オホコソ》村字出口ニ在リ小丘ニシテ草木繁茂七リ文明中長野氏ノ臣三間忠保城ヲ築キ之ニ居ル永禄十年親俊ノ時城陷リ戰死シテ遂ニ廢ス四子三郎專修寺ノ家臣トナリ其後裔今ニ存ス同所ニ親俊ノ墳墓アリ又近傍ニ神ノ罫塚アリ落城ノ時寶器ヲ埋メシ處ナリト云フ【五鈴遺響、古老口碑】
 
高野尾城址 高野尾村字三月田ニ在リ今、官林タリ岡定重之ニ居ル元文元年四月平氏ノ族亂ヲ作ス定重之ニ與ミシ京都守護平賀朝雅ノ爲メニ攻ラレ自殺ス【東鑑、背書國誌】
 
川瀬城址 北黒田村字堤谷ニ在リ今、耕宅地及ビ山林トナレリ傳ヘ云フ康正中川瀬宣光城ヲ築キ之ニ居ル廣信ニ至リテ織田信長ニ滅サ(277)ル子宗信其子宗光等姓ヲ岡ト改メ本村ノ農トナルト或ハ云フ伊勢平氏ノ黨黒田左衛門之ニ居ルト【五鈴遺響、古老口碑】
 
三宅城址 三宅村字志此ニ在リ今、耕地タリ往昔槇野秀盛肥後國山鹿庄ヨリ本村ニ來リ城ヲ築キ三宅駿河守ト改メ之ニ居ル四代ノ孫藤重永禄十二年織田氏ノ爲メニ攻ラレ城廢ス【背書國誌、本村舊記】
 
今城砦址 楠平尾《クスヒラヲ》村字童子谷【舊字山城】ニ在リ天正二年瀧川一益、雲林院出羽守等林城ヲ攻ムルノ時支城ヲ此ニ設ク【勢陽俚諺】
 
夢窓國師宅址【産湯井】 三宅村字金堤ニ在リ今、耕地タリ傳ヘ云フ夢窓此ニ誕生ス【本村舊記ニ云フ國師ノ父東條朝綱ト稱ス伊勢守タリ建治元年國師ヲ生ムト】傍側ニ御曹子山アリ國師幼時逍遙セシ處ナリト享保六年山城天龍寺ヨリ一寺ヲ此ニ建テ曹源山輪聖寺ト稱ス國師ハ該寺ノ開山タルヲ以テナリ明治五年廢寺トナル堂宇ハ今、本村簡易科授業所トナレリ【勢陽俚諺、古老口碑】(278)按ズルニ五鈴遺響ニ云フ此地往昔郡家ノ在ル所ニシテ即チ國司ノ別府タリ國師、國司邦音相同ジキヲ以テ後人遂ニ夢窓ノ事ヲ附會セシナリト記シテ參照トナス
 
信太長者宅地 秋永村ニ在リ河曲郡河田村本立寺ノ本尊ハ長者ノ護持佛ニシテ添文ニ長橋中將信太長者云々トアリ【三國地誌】蓋シ往昔本村近傍ヲ領セシ莊司ノ宅址ナラン
 
今井氏宅址 豐野村字今井ニ在リ今、宅地タリ一志郡八知村今井庄兵衛家系ニ今井惟氏【五郎】延元三年南朝ニ仕ヘ北畠顯能ニ屬シ今井村【今本村ニ屬ス】ヲ領ス云々ト記ス葢シ其址ナラン
 
野呂氏宅址 椋本村字殿町ニ在リ今、耕地ニ属シ濠址ヲ存ス傳ヘテ往昔雲林院出羽守(ノ)臣野呂民部少輔宅址ナリト云フ
 
     館址
 
(279)政所《マンドコロ》址 窪田村字大垣内ニ在リ今、耕地タリ東鑑、文治三年四月丙申ノ條ニ窪庄地頭因幡前司廣元ト記ス葢シ此地官廳ノ在リシ所ナラン
 
     古墳
 
見眞大師墓【中興僧眞惠墓】 一身田村專修寺境内ニ在リ面積五百七拾壹坪四方塀垣ヲ繞ラス中央ニ石廟ヲ安ンズ正面ニ拜堂、唐門等アリ眞惠及ビ歴代墓ハ其左右ニ侍列ス大師幼名十八公麿後、親鸞ト改ム僧源空ヲ師トシ淨土門ニ入ル後、眞宗ヲ開ク嘉禄二年下野柳島ニ一寺ヲ創立シテ之ニ住ス弘長二年十一月寂ス壽九十明治九年十一月朝廷見眞大師ノ諡号ヲ賜フ第十世ヲ眞惠トス長禄三年北陸諸國ヲ巡化シ近江ヲ經寛正元年本州ニ入ル朝明郡大矢知村、三重郡小松村、鈴鹿郡原村等ニ在リテ寺院ヲ設ケ教化スルコト數年同五年一身田村ハ(280)宗祖ノ舊蹤タルヲ以テ下野專修寺ヲ此ニ移シ永ク法鼎ヲ定ム永正九年十二月寂ス壽七十九著ハス所教書若干部アリ
 
分部光嘉墓 上野村圓光寺境内ニ在リ石壇ヲ築キ塔石數基ヲ列ス光嘉長野氏ノ族細野藤光ノ第三子ナリ分部氏ヲ嗣グ慶長六年十一月卒ス乃チ此ニ葬ル又本村耕圃ノ間ニ碑アリ光徳院殿封塚ノ六字ヲ刻ス後ニ圍凡ソ四尺許ノ松樹アリ華林松ト云フ光嘉ヲ火化セシ所ナリ【三國地誌、過去帳】
 
土岐塚 窪田村字北一色ニ在リ面積六坪伊勢別街道ニ沿フ正平中美濃ノ人土岐康政【右馬頭後、大膳太夫】本州ニ入リ北畠顯能ノ兵ト戰ヒ敗死ス因テ此ニ葬ル【三國地誌、勢國見聞集】又近傍ニ馬場塚ト稱スルモノアリ里人傳ヘテ馬場某戰死ノ塚トナス
 
土岐百塚 親合村字東豐久野、原野中ニ在リ傳ヘ云フ正平廿四年九月(281)北畠顯能ノ兵土岐康政ト此ニ戰フ康政敗走ス戰死スルモノ多シ乃チ其屍ヲ此ニ埋ム故ト數塚アリ俗、土岐殿百塚ト云フ今發堀シテ其一ヲ存セリ【三國地誌、勢國見聞集】
 
石麿首塚 御薗村字岩谷ニ在リ面積七坪山林ニ属ス里人石麿首塚ト云フ傳ヘ云フ徃昔御薗三郎ノ副將戰死スルモノアリ首ヲ此ニ埋ムト今、古塔一基ヲ存ス
 
     古戰場
 
土岐軍場址 睦台村字東豐久野ニ在リ一大原野タリ南朝紀傳ニ曰ク正平廿四年九月北畠内大臣顯能公ノ兵士土岐大膳太夫ガ兵モノト伊勢ノ國ニ於テ合戰土岐ガ兵敗軍顯能公三重郡所々ノ城ヲ攻ムルト葢シ當時ノ古戰場ナラン
 
   河曲郡
 
(282)     山川
 
高岡川 本郡ノ西北部ニ在リ乃チ鈴鹿川ノ別稱ナリ鈴鹿郡ヨリ來リ本郡高岡村ノ北邊ヲ過ギ三重郡ニ入ル同村ニ属スルモノヲ高岡川ト稱ス上流又甲斐川ノ名アリ
   海道記                 鴨長明・
  伊勢人はひか事しけり津島より甲斐川ゆけは和泉野の原
 
     神祠
 
飯野神社、高市神社 神戸石橋町ニ在リ飯野社ハ豐宇氣比賣命高市社ハ高御産靈神ヲ祀ル創建詳ナラズ社傳ニ云フ飯野社ハ即チ神舘神明ニシテ舊ト飯野村【今西條村】ニ在リシヲ神戸築城ノ時今ノ地ニ移ス高市社ハ十日市ニ在リシヲ後世遷シテ合殿トナスト祭日二月十一日九月十一日
 
(283)大鹿三宅神社址 國分《コクブ》村字大金谷ニ在リ【舊名大鹿山】西北二面土壘ヲ存シ南ハ耕地ナリ又大塚アリ三百坪餘大鹿ノ大塚ト稱ス往時土中ヨリ三宅神社ノ紋ヲ印セル古瓦ヲ出セリ其舊地ナルコト知ルベシ蓋シ建武以降ノ國亂ニ衰廢セシナルベシ【古老口碑】
 
     梵刹
 
龍光寺 神戸《カンベ》石橋町ニ在リ臨濟宗東福寺末ナリ應永三十年正月北畠滿雅勅ヲ奉ジテ創立ス僧大折開基、後花園院、後奈良院ノ勅願寺タリ初メ罪状村字澤ニ在リ大伽藍ニシテ塔頭六十坊免許地貳萬三千石アリシ弘治中今ノ地ニ遷ス徳川家光石川總茂及ビ本多氏亦寺領ヲ寄附ス今、境内佛堂五宇檀徒七百三十餘戸アリ【寺記】
 
國分寺【王城櫻】 國分寺村ニ在リ聖武天皇天平九年僧行基創立源頼朝之ヲ中興ス建武以來數々兵燹ニ罹リ衰廢セシガ明治十七年堂宇ヲ(284)再建セリ近傍土中ヨリ徃々古瓦ヲ出スコトアリ斫リテ以テ硯ニ製スベシ又近傍字木田坂上ニ王城櫻アリ傳ヘテ往昔聖武帝此地ニ行幸ノ時手植アリシモノナリト云フ今、舊株已ニ朽チ新蘖ヲ生ズ
 
無量寺址 下箕田村字前條ニ在リ今、耕地タリ往昔ハ眞言宗ナリシガ僧寂雲在住シテヨリ臨濟宗ニ改メ東福寺末ニ歸ス永禄十一年織田信長ノ兵燹ニ罹リ堂宇燒盡シテ遂ニ廢ス本尊阿彌陀佛は著名ノ靈佛ナリシガ往昔鈴鹿軍國府城主之ヲ國府村ニ移ス永禄中織田信包安濃郡津城ニ居ルノ時又移シテ津觀音寺内、大寶院ニ置ク今猶之ヲ國府ノ彌陀ト稱ス【五鈴遺響、三國地誌、寺記】
 
     濱海
 
奈古《ナゴノ》濱 北長太《キタナゴ》村ヨリ下箕田村ニ至ル一帶ノ海濱ヲ稱ス白沙鮮明眺望ニ適ス此地往昔尾張津島ニ達スル渡口タリ後世今ノ官道ニ變セ(285)シヨリ遂ニ之ヲ廢ス海中徃々蜃氣樓ヲ現出スルコトアリ【三重古事記稿、伊勢名所圖會、古老口碑】
 
     園林
 
若乃松原《ワカノマツハラ》【古、吾乃松原ニ作ル又田鶴濱ト稱ス、行宮址】 南若松村ノ海岸ヲ云フ眺望絶佳ナリ古老傳ヘ云フ聖武天皇本州ヘ暁光ノ年行宮ヲ此ニ設クト今、宮址、松原共ニ其址ヲ止メズ又云フ本村海岸ハ常ニ南洋激浪ノ嚼?ズル所トナリ積年ノ外シキ三四町ノ土地ヲ失フニ至リシト由テ考フルニ古、松原ト稱スルモノ葢シ共ニ海中ニ没シ今、現地ニ假托セルモノナラン【五鈴遺響、三國地誌、伊勢考古録】
   萬葉                聖武天皇
  妹爾戀吾乃松原見渡者潮干乃瀉爾田頭鳴渡《イモニコヒアガノマツハラミワタセバシホヒノカタニタツナキワタル》
   續古今              光明寺入道
(286)  伊勢嶋や若の松原見渡せは夕汐かけて秋風そ吹く
   按ズルニ一説ニ云フ聖武天皇御製ハ志摩國英虞郡松原ヲ指セルモノニシテ此地ニ非ズ吾乃松原ハワガノマツバラト讀ム可ラザルヲ後人誤リ傳ヘテ本村トナスニ至リシト記シテ參考トス
 
     谿淵
 
駒之淵 山邊村字内谷ニ在リ今、周回五拾間餘ノ盆地タリ側ニ舊幕吏巡見ノ標札ヲ建ツ右大將源頼朝卿之逸馬|生?《イケヅキ》出生之地ノ數字ヲ書ス里人傳ヘ云フ是レ生?ヲ洗ヒシ所ナリ故ニ此名アリト【勢陽雜記、古老口碑】
 
     池泉
 
櫻島 玉垣村字櫻島ニ在リ始メ本村ノ地水利甚ダ艱ク人見耕耨ニ怠ル文化元年藤堂氏吏ヲシテ原野凹形ノ池ヲ相シ池沼ヲ鑿チ之ヲ用(287)水トナシ中央土ヲ聚メ小島ヲ築キ櫻樹數株ヲ植ヱ以テ遊憩ノ處トナス傍ニ碑ヲ建ツ郡司農吉田重麗ノ記文河三交ノ書ニカヽル維新ノ後荒廢ニ属ス因テ碑ヲ同村字山科ニ移ス
 
山邊(ノ)御井【一名五十師井】 山邊村字内谷ノ谿間ニ在リ其水清冷大旱ト雖モ涸レズ碑アリ山邊御井ノ四字ヲ題シ下ニ縁由ヲ記ス慶應三年神戸城主本多忠貫ノ建ツル所タリ傍ニ松樹一株アリ御井松ト云フ往時枯槁ス村人名區ノ湮滅スルヲ痛ミ植ウルニ一株ヲ以テス今、繁茂セリ
 按ズルニ此地數説アリ或ハ大和國山邊郡氣原村ニ在リトシ又本州一志郡宮古村忘井ヲ以テ之ニ充ツルアリ加茂眞淵ハ度會郡内宮域内ニ属スルモノトナス本居宣長甞テ審ニ地勢ヲ按ジ以テ此地ナリトス今其説ニ從フ
   万葉
(288)   和銅五年四月遣2長田王于伊勢齋宮1時山邊御井作歌
  山邊乃御井乎見我※[氏/一]利神風乃伊勢乃處女等相見鶴鴨《ヤマノベノミヰヲミカテリカムカゼノイセヲトメトモアイミツルカモ》
   夫木                  爲家
  五月雨は雲間も見えす山の邊のいそしの御井は水増りつゝ
 
     樹石
 
山邊(ノ)逆椿 山邊村字會戸ニ在リ高凡ソ九尺圍貳尺數幹ニ分レテ枝葉繁茂セリ傳ヘ云フ源範頼平氏追討ノ時駿馬生?出生ノ地ナリトテ此地ヲ過グ其携フル所ノ椿杖ヲ地ニ植ヱテ曰ク此行我能ク平賊ヲ殲サバ此杖必ズ枝葉ヲ着ント後、果シテ其言ノ如クナリシト【勢國見聞集、古老口碑】
 
金王松 岸岡村字雲雀山ニ在リ徑貳尺許其根地上ニ露出ス傳ヘ云フ往昔源義朝ノ豎澁谷金王丸尾張國内海ヨリ逃レテ此地ニ來リ樹根ニ踞ス故ニ此名アリト又別ニ二株アリ一ハ此傍ニアリ一ハ同村光(289)勝寺ノ南位ニアリ尋常ノ物ニ過キズ共ニ稱シテ金王松ト云フ俗傳笑フベシ【勢國見聞集、古老口碑】
 
道伯(ノ)一本松 三日市村字赤禿忍山神社ノ南ニ在ル巨松ナリ道伯ハ疋田市左衛門ノ別稱ニシテ道伯新田ノ地ヲ開墾セシ人ナリ乃チ其地ニ存スルヲ以テ此名アリ【本村舊記】
 
長太(ノ)大樟 南長太村字天ノ宮ニ在リ高拾間餘周圍四間餘枝葉方貳拾間ヲ掩フ村人之ヲ一本木ト稱ス遠望恰モ傘形ノ如シ一説ニ云フ此地舊字青木ト稱ス青木、大木國訓相通ズ或ハ大木神社ノ舊址ナランカト記シテ參考ニ供ス
 
     城砦及宅址
 
神戸城址 神戸字本多町ニ在リ今、耕宅地トナリテ濠址ヲ存ズ初メ關實治ノ子盛澄【又實重ニ作ル】本郡澤城ヲ築キ之ニ居ル四世具盛ニ至リ本城ヲ築キ(290)移リ居ル【一説ニ七世友盛築ク所トナス今、神戸録、神戸家畧傳ニ從フ】友盛ノ時ニ至リテ永禄中關氏諸族ト長野工藤氏ノ兵ヲ三重郡鹽濱ニ迎ヘ撃チ之ヲ破リ威武大ニ振フ十年織田信長北郡ヲ攻略シ尋デ高岡城ヲ圍ミ將ニ本城ニ迫ラントス既ニシテ和成ル信長其三子信孝ヲ以テ友盛ノ嗣トナシ北郡ヲ鎭セシメ友盛ヲ澤城ニゥク信孝乃チ天守ヲ築キ鴟尾ヲ置キ城郭ヲ修造ス天正十年信孝京師ノ亂ヲ鎭定シ岐阜ニ歸ル本城ヲ小島兵部少輔ニ與フ廿一年是ヨリ先キ信孝、信雄ト隙アリ信雄ノ臣林與五郎攻メテ之ヲ取リ入テ神戸氏ヲ嗣グ神戸與五郎ト稱ス十二年信雄、羽柴秀吉ト兵ヲ搆フ秀吉ノ將蒲生氏郷、關万鐵等來リ攻ム城支フル能ハズ與五郎尾張ニ奔ル後、生駒親正、水野忠重、瀧川雄利等諸氏交々代リテ之ニ居ル慶長五年代官水野九右衛門之ヲ支配ス六年三月一柳直盛之ニ居ル寛永十三年伊豫西條城ニ移リ代官佐野平兵衛代リテ之ヲ支(291)配ス慶安四年石川總長封ヲ此ニ受ク總茂ノ時ニ至リテ享保十七年三月常陸下舘ニ移ル本多忠統之ニ代ル大ヒニ城郭ヲ修理ス歴世之ヲ襲フ明治二年忠貫版籍ヲ奉還シ城廢ス八年城郭拂下トナレリ九年十月有志者謀テ碑ヲ天守臺址ニ建ツ神戸人福井※[草冠/過]之ガ文ヲ撰ス【神戸録、神戸雜記、五鈴遺響、背書國誌】
 
高岡城址 高岡村字茶山ニ在リ南、高岡川ニ臨ム石壘礎石及ビ諸士邸址等尚存ス永禄中神戸友盛ノ臣山路弾正忠城ヲ築キ之ニ居ル永禄十一年織田信長北郡ヲ攻畧シ瀧川一益、楠十郎、南部遠江守等ヲシテ本城ヲ攻メシム拔ク能ハズ後、和睦ス元龜二年信長其三子信孝ヲ以テ神戸氏ヲ嗣ガシム山路等陰ニ服セズ信孝ヲ蔑如ス信長怒リ友盛ヲ幽シ山路ヲ誅ス仍テ小島兵部少輔ヲシテ之ニ居ラシム後、兵部神戸ニ移リ城廢ス【背書國誌、古屋草紙、五鈴遺響】
 
(292)鬼神岡《キシヲカ》城址【一ニ岸岡城ニ作ル】 岸岡村字鬼神ニ在リ一高丘タリ關東ノ土佐藤中務大輔【一ニ少輔ニ作ル】城ヲ築キ之ニ居ル神戸氏ニ属ス弘治三年近江佐々木義賢ノ臣小倉三河守朝明郡柿城ヲ攻ム神戸利盛往テ之チ救フ中務及ビ其子又三郎叛ヲ謀リ虚ニ乘ジテ近江ノ兵ヲ導キ神戸城ヲ取ル中務ノ臣古市與助亦叛テ神戸氏ニ内應シ關一黨ノ兵ヲ誘ヒ大ニ小倉ノ兵ヲ敗ル利盛、中務父子ヲ誅ス城遂ニ神戸氏ノ有トナル天正中神戸氏滅ブルニ及ビテ城廢ス【背書國誌、神戸家臣録】
 
澤城址【一名神戸西城又西條城】 西條《ニシデウ》村字城挂及ビ荒堀ノ間ニ在リ今、耕地タリ南北纔ニ遺跡ヲ存ス正平二十二年神戸始祖盛澄城ヲ築キ之ニ居ル具盛ノ時ニ至リテ神戸城ニ移ル元龜中七世友盛織田信長ノ三子信孝ヲ養ヒ嗣トナシ本城ヲ以テ其隱居所トナス天正十二年羽柴秀吉神戸城ヲ攻ムル時友盛本城ヲ棄テ安濃津ニ奔リ死ス蓋シ此時城廢セシナ(293)ラン【背書國誌、五鈴遺響、神戸録】
 
若松城址 南若松村字惠花山ニ在リ今、耕地タリ三浦盛時之ニ居リ若菜五郎、富田基度等ト平氏ノ餘黨ヲ募リ乱ヲ作ス元久元年四月京都守護平賀朝雅討チテ之ヲ平グ盛時ニ服シ城遂ニ廢ス【背書國誌、五鈴遺響】
 
土岐城址 上箕田村ニ在リ今詳ナラズ古老傳ヘ云フ土岐興安、世保持頼之ニ居ルト
 按ズルニ古屋草紙ニ應永中足利義滿將軍ノ沙汰トシテ本州守護代ニ土岐、世保ヲ任ジテ若松ヲ領ス云々ト記ス而シテ五鈴遺響ハ土岐興安、世保持頼ノ二人ニ作レリ孰レカ是ナルヲ知ラズ蓋シ世保氏ハ土岐氏ノ族ナルガ故ニ土岐、世保ト稱セシモノカ
 
木田堡址 木田村字磐城山ニ在リ三方壑ニ臨ミ一方ハ平坦ナリ古老傳ヘ云フ山路弾正正忠ノ族某之ニ居リシト
 
(294)山邊赤人宅址【經塚、赤人硯水】 山邊村字會戸ノ山上ニ在リ松樹茂生ス側ニ經塚アリ徃時土中ヨリ佛經ノ一字ヲ書セル小石ヲ出セリ又山麓ニ古井アリ清水常ニ盈チテ涸乾ノ患ナシ碑アリ山邊赤人井數字ヲ刻ス相傳フ往昔赤人居住シ常ニ此井水ヲ用ヒ筆硯ニ供セリ後年朝廷試筆ノ時亦之ヲ獻ジ歳如テ例トナスト【勢陽俚諺、勢陽雜記、勢陽俚諺拾遺】
 按ズルニ赤人ノ故居ト稱スルモノ大和、上總、越前、近江等數處ニアルコト諸書ニ散見ス未ダ孰レカ是ナルヲ詳ニセズ今暫ク疑ヲ書ス
 
松平廣忠寓居址 神戸石橋町龍光寺境内ニ在リ天文七年三月松平廣忠國亂ヲ避ケ本州ニ航シ神戸吉良持廣ニ頼ル家臣安部正澄等數人之ニ從フ【吉良氏本州ニ在ルコト其由ヲ記セズ】八年正月冠ヲ加フ持廣、鹿伏兎將監ヲ遣リ回復ヲ今川義元ニ請ハシム廣忠又時ニ山田ニ遊ビ春木太夫ノ家ニ(295)居ル九月持廣卒シ子義時心ヲ翻ヘシ織田信秀ニ黨ス正澄等其變アランヲ慮リ廣忠ヲ奉ジテ三河ニ歸ル【徳川歴代増補武徳大成記】
 
山邊眞人春日寓所址 所在詳ナラズ盖シ本郡山邊村ナラン日本後紀纂ニ延暦十二年八月丁卯山邊眞人春日紀朝臣國共ト佐伯宿禰成人ヲ謀殺ス明日事覺ル逃レテ伊賀ニ隱ル桓武天皇震怒アリ天下ニ募リ求ム後、伊勢國ヨリ之ヲ捕ヘテ以聞ス巨勢朝臣島人ヲ遣リ格殺スト記ス蓋シ其産地ナルヲ以テ此ニ來リシナラン
 
馬入道宅址 柳村字馬場ニ在リ今、耕宅地タリ相傳フ僧能因ノ子月並藏人本州ニ住シ柳馬入道ノ養子トナリ景員ヲ生ム景員子二人アリ加藤太光貞、加藤次景廉ト云フ共ニ源頼朝ニ仕ヘ八牧判官兼隆ヲ討チテ大功アリ二人因テ本州ノ地ヲ所領セリ本村加藤氏ニ景廉ノ頼朝ヨリ拜受セシ長刀ヲ所持スト云フ【三國地誌、背書國誌、古屋草紙、古老口碑】
 
(296)右馬左衛門宅址 山邊村字前山ト字曾戸ノ間ニ在リ今、耕地タリ相傳フ往昔里長春日部某アリ此ニ住ス靈夢ニ感ジ鈴鹿郡山畑村ニ至リ孕馬ヲ得豢養數月牡馬ヲ産ス之ヲ將軍頼朝ニ獻ズ生?ト名ヅク宇治川ノ役佐々木高綱ニ賜フ所タリ頼朝因テ之ヲ賞シ右馬左衛門ニ任ズ是其宅址ナリト云フ【勢陽雜記、五鈴遺響】
 
     舘址
 
玉垣別館址 玉垣村字辻ニ在リ今、宅地タリ延寶八年藤堂高久別舘ヲ此ニ設ク寛延二年廢ス【三國地誌】
 
     古墳
 
一柳直盛墓 神戸石橋町龍光寺境内ニ在リ塔高七尺五寸猶盛監物ト稱ス慶長中神戸城ヲ領ス寛永十三年八月卒ス因テ此ニ葬ル多寶院殿心空思齋居士ト諡ス傍ニ其臣安東助之 亟ノ墓アリ
 
(297)關實重墓 今詳ナラズ西條村ニ龍光寺址アリ葢シ此地ニアリシナラン龍光寺舊鬼簿ニ龍光寺殿柏巖松公大居士寶徳元年四月十八日神戸殿ト記ス即チ是ナリ
 
僧悦臾墓 竹野村字寺之山ニ在リ面積廿五坪許一老松アリ俗、開山塚ト云フ悦臾ハ神戸龍光寺ノ開基タリ
 
大日塚 矢橋村字大日ニ在リ俗、鎌倉景政【權五郎】ノ墓トナス其據ル所ヲ知ラズ近傍ニ小池アリ其魚皆片眼ナリ蓋シ隣村柳村ニ馬入道ノ宅址アリ其地元ト大日堂アリ是其遺跡ノ一ナランカ【勢國見聞集、三重古事記稿】
 
恩徳之碑 神戸新町觀音寺境内ニ在リ文化中神戸城主本多忠永卒ス江戸深川靈巖寺ニ葬ル其脱牙一根ヲ此ニ埋ム忠永喜デ人ノ窮ヲ周フ又兵法文學ヲ好ム舊藩人思慕シテ爲メニ碑ヲ建ツ儒臣長野潜ノ撰文タリ
 
(298)   鈴鹿郡
 
     山川
 
鈴鹿《スヾカ》山 坂下《サカノシタ》村ノ西端近江國界ニ属ス峯巒重疊樹木陰鬱タリ山間幽谷深谿多シ俗ニ八百八谷ト稱ス登呂屈曲極メテ嶮ナリ徃昔ヨリ稱シテ東海道第二ノ嶮難トナス古來鬼魅緑林ノ俗談ヲ傳フルアリ無稽ノ言ニシテ信ズルニ足ラズ
   新吉今                 西行
  鈴鹿山うきよをよそに振捨ていかになり行我身なるらん
   續千載                 雅有
  鈴鹿山明かたちかき天の戸をふり出てゝなく時鳥かな
   拾玉                 僧慈鎭
  うき身かなふりぬるううへに猶ふりぬ鈴鹿の山の鈴虫の聲
(299)   丙辰紀行             林道春
  九折盤紆鈴鹿坡、行人征馬恐2蹉  跌1、祗今四海恩風遍、八十瀬河無2白波1
 
筆捨山【一名岩經山又岩根山】 市ノ瀬村ニ在リ國道ノ北ニ屹立ス山麓鈴鹿ノ清流灌注シ滿山怪岩奇石殊ニ多ク松、楓、躑躅ノ類之ヲ彌縫ス四時ノ景象愛ス可シ傳ヘ云フ徃昔畫工狩野元信此景ヲ賞シ將ニ畫ク所アラントス景致忽チ變ジ千態百象雲烟又來リテ之ヲ覆ヒ爲メニ其眞ヲ寫ス能ハズ乃チ筆ヲ投ジテ去ル因テ此名アリト俗傳信ズルニ足ラザルモ亦以テ其名區タルヲ知ルベシ 聖上両皇后宮甞テ此地巡幸ノ時蹕ヲ駐メ觀賞アリシト云フ山中又大黒石、蛭子石等ノ奇岩アリ
   名所山               近藤幸殖
  よそに見て過へかりけり畫工も筆捨山のあかぬ氣色は
(300)                   齋勝正謙
  千仞峭崖誰得v攀、古松倒挂怪巖間、良工心匠不v能v畫、投筆名高棄筆山、
 
羽黒山 鷲山村ノ西部ニ在リ岩石層疊崚?勢ヲ作シ樹木其間ニ欝茂ス頗ル快觀タリ天守石、布袋石、花瓶石、夫婦石、潜岩、龜石等尤モ著名ナリ山上眺望ニ富ム内海ノ布帆、勢、尾、參ノ山岳擧ナ眼中ニ在リ景致筆捨山ニ軼駕ス山中羽黒祠アリ古傳ニ云フ元暦元年正月源義經兵ヲ率ヰテ本州ヲ經、山城ニ至ルノ時佐藤嗣信兄弟之ニ從フ其從士一人關ニ留リ住スルモノアリ出羽羽黒權現ヲ此ニ勸請スト或ハ云フ佐藤ノ氏ノ兄弟之ヲ祀ルト
 按ズルニ里人云フ往古ノ官道此ノ山麓ニ属ス所謂筆捨山ナルモノ此ヲ指ス後世道路ノ變遷ニヨリ遂ニ謬リテ市ノ瀬村トナスト(301)記シテ考索ニ具フ【背書國誌。古老口碑】
 
觀音山【一名靈山】 新所《シンジヨ》村ノ北方ニ在リ内海ヲ遙望ジ關市街亦山下ニ在リ春時來遊スルモノ多シ嘉永年中關驛ノ人山ノ中央ニ石體觀音佛三拾三?ヲ安置ス故ニ名ヅク
 
關山【一名關雄山】 關驛ノ西方國道ノ傍ニ在ル山ヲ總稱セルモノナラン
   三國地誌所載            讀人不知
  鈴鹿なる關の雄山は高けれと越て過行秋の夜の月
 
御茶屋山 龜山城址ノ北ニ在リ高丘ニシテ風光頗ル佳ナリ北方鷄足、冠嶽、仙嶽等ノ諸山ヲ臨ミ又椋川ヲ俯瞰ス長太、若松ノ諸浦等遠ク矚目ノ中ニ在リ承應三年舊城主石川憲之甞テ別墅ヲ此ニ設ケ遊觀ノ處トナス當時若山八景八境ノ勝アリシト云フ
 
石大神山 小岐須村ノ西南部字庄内山ニ在リ白色ノ巨岩峨然聳立ス高(302)貳百間幅五拾間許頗ル壯觀トナス世ニ稱スル所石大神是ナリ御幣川其麓ヲ流ル古老傳ヘ云フ徃昔敏達天皇駐蹕アリシ處ナリト
 
水晶山 安坂山《アサカヤマ》村水晶山ヲ云フ山巓悉ク白沙ニシテ稍下レバ矮松、岩石ノ間ニ散點ス西方、釜谷川ニ臨ム十數里ノ地一望盡スベシ山中鳥水晶及ビ鑛属ノ脈アリト云フ
 
雨引《アマヒキ》山【一ニ天比丘山ニ作ル】 安阪山村ニ在リ圓形ニシテ頂顱ノ如シ降雨ノ時山上雲霧繚繞ス里人之ヲ見以テ晴雨ヲ卜ス故ニ此名アリ
 
多津我美《タツカミ》坂【一ニ〓坂ニ作ル】 或ハ鈴鹿山ノ坂路ナリト云ヒ又一ノ瀬、沓掛二村ニ係ル國道ニアリトナス前説或ハ是ナラン【三國地誌、勢國見聞集】
   夫木                讀人不知
  秋なれはおもほゆるかな鈴鹿山鹿と霧との立かみの坂
 
鈴通川【八十瀬川、關川、高岡川等ノ別稱アリ】 加太《カブト》、坂下諸村ノ山間ヨリ發シ諸谿流ヲ合シ(303)東流シテ河曲郡ヲ過ギ三重郡ニ至リ内海ニ注グ
   万葉                讀人不知
  鈴鹿河八十瀬渡而誰故加夜越爾將越妻毛不在君《スヾカガハヤソセワタリテタカユエカヨコエニコエンツマモアラナクニ》
   後撰                僧正行意
  鈴鹿河ふりさけみれば神路山榊はわけて田る月かけ
   詞花                皇嘉門院
  五月雨の日をふるマゝに鈴鹿川八十瀬の浪そ立まさりぬる
 
御幣《オンベ》川【又御贄川、祓川、石間川等ノ別稱アリ】 本郡ノ西北、入道嶽其他諸山ノ谿間ヨリ發シ小岐須、伊船ノ數村ヲ經テ和泉村ニ至リ鈴鹿川ニ會ス水中巨岩大石アリ奔流之ニ激シ或ハ?シテ淵湍ヲナス其水極メテ清冽ナリ傳ヘ云フ往昔敏達天皇蹕ヲ石大神ニ駐メ玉フコトアリ里人時ニ鮎魚ヲ此ニ取リ両大神宮ヲ奉祀ス是ヨリ例トナシ沿村人民毎歳六月之(304)ヲ捕獲シ両宮ニ獻ズ明治六年迄此事アリシト【五鈴遺響、三國地誌】
 
琴橋《コトノハシノ》址【一ニ箏橋ニ作ル】 坂下村字古町【舊字琴橋ノ地】ニ在リ【或ハ新所村字東町南ト南裏ノ中間ニアリト云フ口碑亦同ジ孰レカ是ナルヲ知ラズ】相傳フ往昔此地ノ小川ニ架セル桐ノ丸木橋アリ水流ノ響キ風ニ和シテ自ラ琴聲ニ似タリ朝廷此橋木ヲ六弦琴ニ造ラシメ玉ヒ鈴鹿ト銘セシト云フ禁秘抄ニ鈴鹿ハ累代ノ寶物ナリ毎年御神樂ニ之ヲ用フト記ス江家次第ニ和琴鈴鹿ハ累代帝王ノ渡物ナリ又百錬鈔壽永二年七月二十五日ノ條ニ平家黨類前内大臣己下一族ヲ率ヰ西國ニ出奔ス天皇建禮門院同ク相具シ奉ル、内侍所神鏡神璽寶釼時簡殿上御侍子玄上鈴鹿皆以テ相具ス云々ト記ス後、建武中吉野亂後紛失セリ【敦有卿記】乃チ其重器ナルコト知ル可キナリ
   文治六年歌合              俊成
  鈴鹿河桐の古木の丸木橋これもや琴の音にかよふらん
(305)   雪玉
  關こあえて渡るや桐の丸木橋ふるき硯の水のかよひ路
 按ズルニ硯ハ昔鈴鹿王ノ作レルモノニシテ伊勢ノ海ト名ヅク其摸形鈴鹿ノ社ニアリト北畠材親記ニ載ス
 
     神祠
 
椿大神社 山本村椿(ガ)嶽ノ東麓ニ在リ猿田※[田+比]古命ヲ祀ル創建詳ナラズ天正十一年峯城ノ兵燹ニ罹リ殿舍神寶等燒失ス寛永中龜山城主本多俊次社殿ヲ修營シ神田ヲ寄附ス後、累代城主之ヲ崇敬ス社ニ獅子一頭【聖武天皇勅願ニヨリ納メ玉フモノニシテ吉備公ノ作ナリト云フ】アリ例歳各郡ヲ巡舞ス祭日九月一日ヨリ三日ニ至ル本州ノ一(ノ)宮タリ
 
龜山皇大神社 龜山西町ニ在リ伊弉冊命、速玉男命、事解男命ヲ合祀ス文永中關實忠之ヲ勸請シ龜山權現ト稱ス城内ノ鎭守神タリ龜山城主(306)世々之ヲ崇敬ス祭日六月十五日【社記】
 
眞澂《マスミ》神社 龜山中央字舊舘ニ在リ舊龜山藩主石川氏ノ祖先源義時以下累代ノ靈ヲ祭ル延享中石川總慶備中ヨリ此ニ轉封ノ時城内ニ祀ル明治四年城北若山ニ遷ス九年九月此地ノ士族、官ニ請フテ亦此ニ遷ス祭日三月廿一日九月廿三日社地高燥頗ル眺望ニ富ム
 
加佐登《カサド》神社 高宮村字椎山ニ在リ日本武尊ヲ祀ル社傳ニ云フ尊、能褒野ニ薨ズ此地ニ其持チ玉ヒシ笠ヲ理ム因テ社ヲ建テ之ヲ祀ル社名亦之ニ基クト祭日四月八日【社記】詣者甚ダ盛ンナリ
 
     梵刹
 
石藥師寺【蒲櫻】 石藥師邨ニ在リ眞言宗山城大覺寺末ナリ神龜中僧泰澄此地ヲ過ギ靈光曄々タルヲ見怪ミテ之ヲ求メシニ樹林中ヨリ十二神出現シ一箇ノ奇石ヲ捧ゲテ泰澄ニ授ク泰澄因テ一堂ヲ建テヽ(307)靈石ヲ安置ス弘仁三年僧空海此ノ石ニ醫王尊ノ像ヲ刻シ開眼供養アリ嵯峨天皇之ヲ聞キ玉ヒ堂宇造營アリテ勅願場ト定メラレ寺領ヲ賜フ壽永ノ頃源範頼上洛ノ時戰勝ヲ此ニ祈願ス境内ニ蒲櫻アリ範頼當時土中ニ挿ム所ノ鞭ヨリ發芽セシモノナリト云フ【寺記、三國地誌】
   東海記               鳥丸光廣
  名にしおはゝいさこと問ん石藥師我か思ふ人の上はかたしや
 
地藏院【蝦夷櫻】 新所村ニ在リ眞言宗仁和寺末ナリ天平十三年僧行基創立天台宗ナリ天長中僧應宣堂宇ヲ再建シ今宗ニ改ム本尊地藏佛ハ僧−休ノ開眼ニシテ其名世ニ高シ境内ニ二大櫻樹アリ雜木其間ニ繁茂ス【名所圖會ニ現時ハ枯槁スルモ其根存シテ傍ニ別ノ櫻樹ヲ生ズト記ス今存スルモノ蓋シ是ナラン】樹下泉水アリ夏時最モ避暑ニ宜シ傳ヘ云フ往昔蝦夷人櫻ヲ杖ニシ來リ此ニ挿ミテ去ル後、枝葉ヲ生ズ因テ名ヅクト或ハ云フ藤原定家題詠ノ首句ニ(308)假托シテ名ケシナリト後説據ル可キニ似タリ【寺記、五鈴遺響】
   いせの勅使の、御ともにて鈴鹿の關こえしに山中のさくらさかりなりし下にて
  えそすきぬこれや鈴鹿の關ならんふりすてかたき花の蔭かな
 
野登寺 安坂山村野登山ニ在リ眞言宗仁和寺末ナリ縁起七年四月僧仙朝醍醐天皇ノ勅願ニヨリ創立ス堂宇莊嚴ニシテ奕世繁盛ナリシガ天正十年兵燹ニカヽリ燒亡ス慶長六年關一政寺領ヲ寄附ス後、龜山城主代々先規ニヨリテ之ヲ給ス寺地高峻ニシテ眼下十數里ノ地一目盡ス可シ近傍山中ニ僧仙朝入定石【仙朝此岩下ニ入定シテ寂スト云フ】北畠信意潜居ノ跡アリト云フ【寺記、五鈴遺響】
 
正法寺址 高宮村字的場ニ在リ今、耕宅地タリ山中椎樹多シ因テ椎山ト稱ス傳ヘ云フ天平寶字中聖武天皇伊勢國ヘ行幸ノ時僧行基創立(309)ス又源頼朝八拾町ノ田ヲ寄附スト東鑑、文治三年四月ノ條不勤仕庄ノ頃ニ遍法寺領廣元慈悲山領ト記ス即チ是ナリ明治五年無住ニヨリ廢寺トナル
 
觀音寺址 和無田《ワムタ》村ノ西南方字三條ニ在リ大同中僧空海創立ス平城天皇ノ勅願所タリ天喜中安倍晴明此ニ祈願ス文治中僧文覺參籠シテ讀經スルコト七日正長元年堂宇頽破セシニヨリ高野山僧珍阿七堂ヲ再建ス永禄十二年雷火ニ罹リ燒失ス後、高野山僧榮阿近江ノ人高宮助之亟等亦堂宇ヲ再建ス明治三年廢寺トナル【本村舊記】
 
吉尾道場址 原村ノ西北部字上野ニ在リ一森林ヲナシ樹木欝蒼タリ本堂支院及ビ溝渠等ノ址尚存ス寛正中專修寺中興僧眞惠本州巡化ノ際本郡小松村中山寺ヨリ此ニ至リ留錫スルコト六年教化大ニ行ハレシガ峯城主峯筑後守ト意合ハズシテ去ル夜、鷹尾山ヲ過グル時(310)路闇クシテ進ム能ハズ伴僧甚ダ懼ル眞惠乃チ一首の歌ヲ詠ズ曰クあらくらやまた夜もあけし鷹尾山はやかきたてよ彌陀の光明ト忽チニシテ光明晝ノ如シト云フ本村ニ佐藤氏アリ深ク眞惠ニ歸依ス其去ルニ臨ミテ親鸞上人及ビ聖徳太子ノ木像ト自筆ノ六字名號ヲ與フ今其家ニ藏ス【本村舊記】
 
     原野
 
鞠(ガ)野 深溝村ニ在リ大野、山本數村ノ地ニ亘ル傳ヘ云フ往昔天照大神、猿田彦命ト共ニ鞠ヲ此ニ蹴ル因テ此名アリト妄誕信ズルニ足ラズ元和二年烏丸光廣關東下向ノ時ノ歌ニ
  立出て露はらひする鞠か野にまついそかるゝかへりあしかな
 
關ノ原 關中町ヨリ木崎村、新所村ノ邊昔時ハ曠原ナリシト云フ
   夫木
(311)  鈴鹿山關の原なる花すゝき袖ふりはへてたれまねくらん
 
名馬生?出生地 三畑《ミハタ》村字鳩峯ニ在リ里人傳ヘテ徃昔源頼朝ノ愛馬生?出生ノ地ナリト云フ
 按ズルニ生?ノ事數説アリ源平盛衰記陸奥七戸産トナシ其他近江、日向、上野、武藏、上總、相摸等地誌亦其生所トナシテ之ヲ載ス本村ニ産スト云フモ確説アルニ非ズ參照ニ供スルノミ
 
     園林
 
龜山公園 龜山字西丸ニ在リ面積貳千百坪餘舊ト龜山牙城ノ地ナリ明治十九年五月定メテ公園トナス園中古松老杉蓊欝タリ南方鈴鹿川ノ清流ヲ俯瞰シ西北郡内ノ山岳ヲ望ム眺望頗ル開豁ナリ東部ニ眞澂社アリ舊藩主石川氏ノ祖先ヲ祀ル
                   近藤捨子
(312)  龜山の大城の跡は萬代のあそひ所と成にけるかな
 
不言《イハズノ》森 大野村字針貫田圃中ニアル一小丘ナリ俗傳ヘ云フ徃昔林中金寶ヲ埋ムルモノアリ遺言シテ曰ク本村疲弊ニ至ラバ宜シク鑿堀シテ資用ニ供スベシト里人其言ノ漏レンヲ恐レ敢テ林中ノ事ヲ言フモノナシ故ニ此名アリト
 
森ノ下 中富田村東海道ノ南、川俣神社境内ヲ云フ往昔許多ノ大木アリ鬱蒼トシテ晝猶暗ク其名世ニ著シキヲ以テ森ノ下ト呼ベハ徃來ノ客問ハズシテ本村タルヲ知ルト云フ
                   冷泉爲村
  ふる雨に風さへそひてけふ笠の雫もしけき森の下道
 
     洞窟
 
岩窟《イハヤノ》觀音 坂下村ノ西部字下石倉往還ノ側ニ在リ巨岩高六拾尺許下(313)ニ岩窟アリ口徑及ビ高共ニ七尺幅拾八尺深八尺中ニ阿彌陀、觀音、地藏ノ石佛三?ヲ安置ス右方瀑布アリ來遊スルモノ多シ傳ヘ云フ元禄中僧密丹ナルモノ此地ニ留錫シテ造立セシ岩窟ナリト【法安寺舊記】
 
     池泉
 
寺井《テラヰノ》池 下大久保村字寺井ノ南方ニアリ圍六百八拾間餘傳ヘ云フ徃古此井ヲ以テ國分寺用水ニ供ス故ニ名ヅクト【三國地誌】
 
玉泉《タマイヅミ》【一名弘法泉】 和泉村ノ東方字城ノ上ニ在リ井形ヲナス水、清冽飲ム可シ深草元政甞此地ニ遊ブコト東海紀行ニ見ユ名泉ト云フベシ【五鈴遺響】
 
無上冷水《ムジヤウノレイスイ》 西富田村川俣神社境内ニ在リ織田信孝神戸在城ノ時此水ノ清冷ナルヲ以テ常ニ茶湯ニ供ス此名乃チ信孝ノ命ズル所タリ【五鈴遺響】
 
芝原(ノ)名水 野村鈴鹿川ノ邊ニ在リ今、耕地ニ属ス僅ニ幅壹尺許ノ細流ヲ通ズ水質清冷稱シテ御茶ノ水ト云フ往時舊城主汲ミテ以テ茶湯ニ(314)供セリ【五鈴遺響】
 
頂禮井《チヨウライヰド》 安坂山村字仙(ガ)岳ニ在リ溪間岩石削立ス岩上ニ穴アリ諸豁水流レテ此ニ聚ル更ニ溢レテ瀉下ス溪奥ニ座禅石アリ俗、八疊石ト稱ス傳ヘ云フ往昔僧仙朝此ニ修禅ス故ニ此名アリ
 
都追美井《ツヽミヰ》 古厩《フルマヤ》村字寶路ニ在リ傍ニ堤井神社ヲ安ンズ此地古昔驛家ノ在ル所ニシテ神宮幣馬ノ舍リシ所ナリ【神宮雜例集】古老傳ヘ云フ垂仁天皇ノ御宇皇大神宮鎭座ノ時倭姫命此井ニテ盥嗽アリ又傍ノ小池ハ神馬ヲ洗ヒシ處ナリト
   万葉
  辭卦掛《勞葉》酢か掛か尉軒軒軒肘掛卦貯軒か封辭平針辭針辭肘か醉
多尭手鼻
 按ズルニ五鈴遺響ニ曰ク萬葉集須受我禰乃ハ鈴カ音ナリ波由(315)馬宇馬夜ハ早馬驛ニテ鈴ガ音ノ早馬トイヒカケタルナリ都追美井ハ堤井ニシテ即チ井堰ナリ其水ヲ妹ガ手ニテ給ヘヨトヨミタルニテ此井ヲ指スノ證ナシ或ハ鈴が音ヲ鈴鹿嶺早馬驛ヲ古馬屋ト解シ爲メニ此井ヲ追々美井ト牽強セシナリト記シテ參照トナス
 
     樹石
 
不斷櫻《フダンサクラ》 坂下村字下中町高家傳次郎庭中ニ在リ圍八尺玉寸枝葉凡ソ方七間餘ニ繁延ス永禄三年其祖五兵衛ノ世自生セシモノニシテ後、四時常ニ開化ス天保二年三月日野大納言高家氏ニ泊ス賞翫一株ヲ携ヘテ之ヲ仙洞御所ニ獻ズ二十年三月 皇太后宮行啓ノ時此ニ休御アリ一枝ヲ輦中ニ奉ズ供奉宮因テ歌ヲ上ル
                     資之
  長閑なるこの大御代の庭櫻いつも春にて花の咲らん
 
(316)夜泣松 羽若村ノ東部ニ在リ龜山城主關氏ノ臣羽若藤左衛門ノ宅址ニ属ス今、枯槁シテ僅ニ朽株ヲ存ス土俗傳ヘ云フ小兒夜啼甚シキ時是松片ヲ取リ火ヲ點ジ兒ニ示セバ其啼必ズ止ムト
 
屏風岩【鮎留瀑】 小岐須村ノ西南字洞城ニアリ巨岩御幣川ノ南北兩岸ニ壁立シ屏風ノ如シ高大約三拾丈幅四拾丈急流激湍岩石ニ觸レ岩間雜樹繁茂ス春花秋楓澗水ニ相映ジ紅錦ヲ流スガ加シ南ニ岩窟アリ深六拾尺石色雪白、石鐘乳ノ如シ里人之ヲ骨石ト云フ本郡中ノ勝地タリ然レドモ山間ニ僻在スルヲ以テ其名世ニ著レズ
 鮎留瀑 同相字祓塚ニ在リ巨岩對立左ナルモノ高五丈右ナルモノ拾丈許飛泉其岩間ヲ瀉下ス水勢噴激シテ鮎魚此ヨリ進ムヲ得ズ故ニ此名アリ
 
屏風岩【一名鬼(ガ)牙】 安坂山村ニ在ル石(ガ)嶽ノ頂上【字船石】ヲ稱ス岩石壁立其(317)状屏風ノ如シ又猛獣ノ口ヲ開クニ似タリ頗ル奇岩トナス故ニ名ヅク岩邊、忍草、風蘭等ヲ生ズ
 
鏡岩 坂下村字峠ノ山中ニ在リ表面高五尺幅七尺尤モ光澤アリ能ク物態ヲ映寫ス俗、鬼人姿見ノ鏡ト云フ五十年前一樵夫アリ山中ニ入リ伐木ス夜ニ及ビ柴草ヲ火シ暖ヲ取ル延燒石ニ及ブ遂ニ其光ヲ失スト雖モ今尚紫色ヲ帶ビテ他石ニ異ナレリ
 
駒爪石 小社《コヤシロ》村ノ南部字牧久保ニ在リ徑三尺許圓形ヲナス中央ニ爪痕ニ類スル跡アリ傳ヘ云フ源頼朝ノ名馬生?本村ニ生育セシ時踏ミシ蹄跡ナリト
 
     行宮址
 
天照大神忍山遷幸址 野村字忍山、忍山神社境内ニ属ス面積千坪許樹木欝葱タリ傳ヘ云フ倭姫命天照大神ヲ奉ジ本州ニ至ルノ時桑名郡(318)野代宮ニ鎭座シ玉フコト四年後、本郡忍山ニ遷ル是其舊址ナリト【倭姫命世紀、古老口碑】
 
豐受大神遷幸址 布氣《フケ》村字日原ニ在リ布氣神社境内ニ属ス雄畧天皇二十二年七月豐受大神ヲ度會郡山田原ニ奉遷ノ時途次此地ニ鎭座シ後、山田ニ遷ル鎭座本紀ニ鈴鹿郡神戸一宿云々ト載ス即チ是レナリ
 
綺《カバタノ》宮址 高宮村字王塚耕地中ニ一小塚アリ之エオ王塚又ハ綺宮崎ト稱ス往昔景行天皇皇子小碓王東夷征定ノ後此地ニ薨ズルヲ愛慕シ遂ニ東巡シ此ニ至リ蹕ヲ駐メ玉フト云フ日本書紀景行天皇ノ條ニ五十
三年、秋、八月丁卯朔、天皇詔2群卿1曰、朕顧2愛子1、何日止乎、冀欲v巡2狩小碓王所v平之國1、是月乘輿幸2伊勢1、轉入2東海1【中略】十二月從2東國1還、居2伊勢1也、是謂2綺宮1、ト記ス即チ是ナリ【五鈴遺響、背書國誌】
 
(319)天武天皇頓宮址【俗、堂(ガ)坂ト云フ】 川崎村字上垣内一心院境内ニ在リ小阜ニシテ周圍土塀ノ址アリ白鳳元年六月天皇本州ヘ潜幸ノ時少憩アリシ處ナリ日本書紀ニ越2大山1至2伊勢鈴鹿1、【中略】到2河曲坂下1而日暮也、以2皇后疲1之暫留v輿而息、然夜〓欲v雨、不v得2淹息1而進行、云々ト載ス即チ是地ナリ後人其遺跡ヲ忘レザランガ爲メ觀音堂一宇ヲ建テシガ元文中又一寺ヲ創立ス今ノ一心院是ナリ
 
聖武天皇赤坂頓官址 木崎《コサキ》村字内山ニ在リ今、耕地タリ天平十二年十一月天皇美濃ニ行幸アリシ時神廟ヲ遙拜シ玉フ所ナリ續日本紀ニ乙未、從2河口1發到2壹志郡1宿、丁酉、進至2鈴鹿赤坂頓宮1、トアルハ即チ是地ナリ【五鈴遺響】
 
     城砦及宅址
 
龜山城址 龜山ニ二處アリ一ハ字古城【舊字若山】ニ在リ、社地及ビ耕地タ(320)リ元弘三年初メ平盛國ノ子實忠本郡關谷ノ地ヲ領シ關氏ト稱ス六世孫實治【一ニ盛忠又忠重ニ作ル】本城ヲ築キテ之ニ居ル【或ハ云フ元弘以前白子黨伊藤景綱ノ後裔國綱ナルモノ本郡野村城ヨリ此ニ移シ築クト】玉子アリ盛澄、盛門、盛繁、盛宗、改實トス本城及ビ神戸、國府、鹿伏兎、峯ノ諸城ヲ分治ス關家ノ五大將ト稱ス盛信ノ時ニ至リテ永禄中長野工藤氏ト數々兵ヲ搆フ近傍諸城皆服從ス後、織田氏ノ爲メニ近江國日野ニ幽セラル已ニシテ國ニ歸ル祝髪シテ万鐡齋ト稱ス天正十一年正月万鐡及ゼ子一政京師ニ在リ家臣岩間八左衛門等四拾三人瀧川一益ニ属シ叛ヲ謀ル一益乃チ峯城ヲ拔キ進ミテ本城ヲ襲ヒ之ヲ取リ佐治新助ヲシテ居守セシム十二年四月羽柴秀吉之ヲ聞キ兵七萬ヲ發シ土岐多羅口、君畑越、安樂越ノ三道ヨリ并ビ進ム蒲生氏郷、萬鐡父子ト前隊ヲ以テ來リ攻ム攻圍百餘日新助支フル能ハズ城ヲ棄テヽ去ル秀吉此城ヲ以テ氏郷ニ賜フ氏郷一政ヲ推シテ(321)之ニ居ラシム以テ巳ガ與力トナス氏郷ノ會津ニ封ゼラルヽヤ從テ移ル十七年岡本宗憲之ニ居ル、尋デ城ヲ字舊舘ノ地ニ移ス一ハ龜山中央字舊舘ニ在リ今、社地及ビ耕宅地タリ古松蓊欝トシヲ
〔龜山城本丸ノ圖、省略〕
(322)石壘濠塹等尚存ス天正十七年岡本宗憲大ニ土木ヲ起シ本丸二ノ丸三ノ丸ヲ經營ス又天守臺ヲ起ス後世之ヲ毀ツ本丸ノ正門ヲ楠門ト云フ東ヲ大手門北ヲ江ケ室門西ヲ黒門南ヲ青木門ト云フ是ヲ丸ノ内ト稱ス慶長五年九月宗憲、石田三成ニ黨シ封除ク三宅康貞之ニ代ル同年關一政再ビ之ニ居ル十五年七月伯耆黒坂城ニ移ル同年松平清匡之ニ代ル元和元年十一月清匡大坂城代トナリ三宅康信來リテ之ニ居ル寛永十三年康信ノ子康盛常陸新治郡ノ地ニ移ルニ及ビテ本多俊次之ニ代ル、慶安四年近江膳所ニ移ル石川昌勝封ヲ此ニ受ク寛文九年山城淀城ニ移ル十年板倉重常之ニ代ル重治ニ至リテ寛永七年志摩鳥羽城ニ轉ズ松平乘邑來リテ之ニ居ル享保三年山城淀城ニ移リ板倉重治再ビ之ニ居ル子勝澄延享元年備中松山ニ移ル尋デ石川總慶之ヲ領ス後、歴世居城ス明治維新ニ至リテ城廢ス【五鈴遺響、三國地誌、背書國誌、龜山録、北畠物語】
(323)               飛鳥井雅康
  名にしおへは龜のうへなる山風の松にこたふる万代の聲
   龜山の城に住けるころ     近藤幸殖
  豐臣の君のかけにし墨繩やたくみ妙なるかめ山の城
 
峯城址 河崎村字殿町ニ在リ北、東、南ハ水田ニ接シ西ハ小谷ノ山脈ニ連ル高七拾尺山上平坦ナリ天守臺石壘ノ址存ス元弘中關實治ノ五子政實城ヲ築キ之ニ居リ峯氏ト稱ス歴代之ニ居ル七世八郎四郎ニ至リテ天正二年七月織田信長長島一揆ヲ征スルノ時信長ニ屬シテ鹿伏兎六郎四郎、關四郎等ト共ニ戰死ス弟與八郎尚幼ナリ因テ之ヲ他ニ移ス十年岡本宗憲之ニ居ル十一年關盛信ノ臣羽若藤左衛門叛ヲ謀リ瀧川一益ニ属ス一益宗憲ヲ逐ヒ姪儀太夫ヲ之ニゥク十二年正月羽柴秀吉兵數萬ヲ率ヰ來リ攻ム拔ク能ハズ時ニ織田上野介信包(324)軍ニ在リ功ナシ城兵狂歌ヲ賦シテ城外ニ送ル曰ク、上野のぬけ砥は鎗にないとせす醍醐の寺の剃刀をとけ、ト蓋シ信包甞テ醍醐ニ住スレバナリ信包又中丸新太夫ヲシテ返歌セシム曰ク、春雨に岸峯まても崩落つれてなかるゝ瀧川の水、ト會々柴田勝家越前ヨリ近江ニ出ヅ秀吉之ヲ聞キ關、木村、前野、一柳、山岡、青地等ノ諸將ヲシテ之ヲ圍マシメ兵ヲ引キテ歸ル二月秀吉又來リ陣ス攻圍百餘日城中糧盡ク儀太夫桑名城ニ遁ル信雄其臣佐久間甚九郎ヲシテ居守セシム四月是ヨリ先キ秀吉、信雄ト隙アリ因テ再ヒ本城ヲ攻ム甚九郎岐阜ニ逃走シテ城遂ニ廢ス【勢陽軍記、背書國誌、九々五集】
 
國府城址 國府《コフ》村字長之城ニ在リ概ネ耕地トナリ周回竹木茂生ス壘濠ノ址尚存ス葢シ往古國府所在ノ地ナラン元弘中關實治ノ二子盛門城ヲ築キ之ニ居ル國府氏ト稱ス【或ハ云フ國府氏ヨリ先キ富田進士家資ナルモノ初メ之ヲ築キシモ久シカ(325)ラズシテ廢シ國府氏其址ニ再築セシト未タ然ルヤ否ヲ詳ニセズ】歴世之ニ居ル八世盛邑永禄ノ末織田氏ニ属ス子次郎四郎ニ至リテ天正十三年羽柴秀吉ノ兵峯城ヲ陷ル次郎四郎、秀吉ニ降ルヲ欲セズ城ヲ棄テヽ尾張ニ走ル或ハ云フ信雄ノ爲メニ美濃加賀井城【一ニ竹ガ鼻城ニ作ル】ヲ守リ戰死スト【背書國誌、三國地誌、鈴鹿郡賦類聚】
 
鹿伏兎城址 加太村字市場ニ在リ雜木繁茂ス山上壘ノ址尚存ス古井二アリ大旱ト雖モ涸レズ元弘中關實治ノ四子盛宗始メテ城ヲ築キ之ニ居リ鹿伏兎氏ト稱ス歴世相繼グ六世ノ孫六郎四郎【盛氏、一ニ次郎四郎ニ作ル】ニ至リテ織田信長ニ属ス天正二年七月長島ノ乱ニ戰死ス信孝其領邑ヲ收メントス其族家長及ビ家臣坂隼人佐愁訴ス因テ采地ヲ減ジ家長ノ男右馬助ヲ嗣トス文禄二年牢落シテ家絶ス或ハ云フ右馬助ハ關(ガ)原ノ役池田輝政ニ属シテ戰死スト坂氏ノ子孫今尚翻村ニ存セリ【五鈴遺響、背書國誌】
 
(326)國司西城址 國府村字西ノ條ニ在リ今、耕地トナリ舊形ヲ存セズ傳ヘ云フ徃ムカシ國司本村ニ居リシ時此ニ城ヲ築キテ土豪ノ來寇ニ備ヘシト近傍番場、西ノ城戸、市場等ノ字アリ
 
若菜城址 小野村字殿ノ内及ビ大堀ニ連ル今、耕地藪地等トナレリ深壹丈幅三間長五拾間乃至百間ノ濠址ヲ存ス元久元年四月平氏ノ族若菜盛高之ニ居ル富田基度、三浦盛時等ト平氏ノ餘黨ヲ糾集シ鈴鹿山ヲ扼シテ大ニ本州ヲ乱ル京都守護平賀朝雅大兵ヲ率ヰテ來リ撃ツ遂ニ誅セラレ城廢ス【東鑑、五鈴遺響】
 
關新城址 新所村字城山ニ在リ今、山林タリ松樹茂生ス天正中關盛信之ヲ築ク龜山ノ屬城タリ【或ハ云フ關氏ノ始祖實忠ノ時之ヲ築クト】十一年龜山城ノ役瀧川一益ニ屬属ス羽柴秀吉ノ兵本城ヲ攻メテ之ヲ取リ盛信ニ與ヘテ其隱居所トナス後、關氏ノ封ヲ白河城ニ移スニ及ビテ廢ス土中往々古器(327)ヲ出スコトアリ【五鈴遺響、三國地誌】
 
三日城址 木崎村字三日城ニ在リ今、其遺址ヲ存セズ元文元年四月若菜盛高之ニ據リ富田基度、三浦盛時等ト平氏ノ餘黨ヲ集メテ本州ヲ乱ル遂ニ平賀朝雅ノ攻ムル所トナリ城陷ル世呼ビテ三日平氏ト稱ス【背書國誌、五鈴遺響】
 按ズルニ勢陽軍紀ニ天正十二年八月關盛信始メテ築ク其臣岩間七左衛門等ニ命ジテ關驛町屋ヲ割普請等成就云々ト記ス蓋シ此ノ舊址ニ築城セシカ
 
山本城址 山本村字瀬古垣内ニ在リ俗、濱田殿ト稱ス今、西岸寺ヲゥク往昔三重郡濱田氏(ノ)族村尾刑部大輔之ニ居ル其子彌七郎、市平等天正十一年神戸信孝ニ從ヒ美濃ニ在リ羽柴氏ノ將筒井順慶虚ニ乘ジテ本城ヲ燒ク城遂ニ廢ス【背書國誌、九々五集】
 
(328)平田城址 半釘村字御門垣内耕圃ノ中ニ在リ纔ニ樹木ヲ生ズ永享七年平田喜國足利氏ニ仕ヘ鈴鹿、三重、奄藝等數郡ヲ領シ本郡海善寺ニ城ヲ築キ歴世之ニ居ル五世直隣應仁中本村ニ城ヲ築キ移ル永禄十一年賢元ニ至リテ織田氏ニ服セズ敵兵來リ攻ム遂自殺シテ城陷ル其子孫今、本村ニ在リ【平田氏舊記】
 
平野城址 平野村字門山ニ在リ周圍雜木生茂シ中央平坦ノ地ハ耕地タリ徃昔伊東某城ヲ築キ之ニ居ル數世ノ後忠國貞治中土岐善忠ニ攻ラレ神戸ニ遁ル幾バクモナク歸城ス政吉ニ至リテ【一ニ祐吉ニ作ル】天正九年神戸信孝ヲ神戸城ニ攻ム遂ニ戰死シテ城廢ス其子孫今、本村ニ在リ【背書國誌、本村舊記】
 
原城址 原村字畑ケ田ニ在リ今、田圃トナリ纔ニ濠壘ノ址存ス天正中堀内帶刀之ニ居ル峯家ノ幕下タリ十一年瀧川儀太夫ニ與ミシ峯城(329)ニ據ル同城陷ルノ後本城又陷ル十二年岡本下野守【宗憲】ノ與力トナリ再ビ本城ニ居ル後詳ナラズ【本村舊記】
 
津賀城址 津賀村字城使山ニ在リ今、耕地ニ属ス傳ヘ云フ弘治永禄ノ頃關盛信ノ將小林筑前守之ニ居ル天正十一年瀧川儀太夫ト共ニ峯城ニ據ル同城陷ルノ後本城、又隨テ陷ル其子孫今、本村ニ在リ【背書國誌】
 
小岐須城址 小岐須村字南條【舊字殿垣内】遍照寺境内ニ在リ平坦ニシテ周圍土壘ノ址存ス傳ヘ云フ永禄中關盛信ノ弟小岐須盛光【關系圖、盛光ヲ載セズ暫ク疑ヲ書ス】之ニ居ル其子盛經織田氏ニ属ス天正十二年年六月羽柴秀吉ノ圍ヲ受ケ支フルコト能ハズ士卒ト共ニ戰死シテ城廢ス盛光ノ墓ハ本村字寺垣内ニ在リ【背書國誌、古老口碑】
 
大久保城址 大野村字中瀬ニ在リ壘濠ノ址ヲ存ス大久保伊豆守城ヲ築キ之ニ居ル織田氏ニ属ス天正中美濃岐阜ノ役戰死ス其子覺兵衛、(330)權太夫アリ京極、池田二家ニ仕フ伊豆守ノ墓ハ本村字一ノ井ニ在リ【背書國誌、古老口碑】
 
東條城址 石藥師村字古里ニ在リ雑木茂生ス片岡則宗城ヲ築キ之ニ居ル子則高其子則正相繼デ住ス織田氏ニ属ス天正八年羽柴秀吉神戸城ヲ攻ムル時亡サル則高ノ墓ハ本村同字ニ在リ【五鈴遺響、背書國誌】
 
白木城址 白木村字岡垣内ニ在リ今、耕地タリ俗、白木殿ト稱ス傳ヘ云フ永享ノ頃白木左近之ニ居リ關氏ニ属スト【五鈴遺響、背書國誌】
 
阿濃田城址 阿野田村字上野垣内ニ在リ今、山林及ビ耕地タリ往昔關盛信ノ與力豐田越後守城ヲ築キ歴代之ニ居ル【五鈴遺響】
 
平資盛宅址 久我《クガ》村字白石谷ニ在リ嘉應二年正月平資盛禮ヲ大臣ニ失スルニヨリ本村ニ流サル居ルコト六年ニシテ歸洛シ時ニ一子アリ盛國ト云フ即チ關氏ノ祖ナリ資盛ノ此ニ在ルヤ父重盛熊野海濱(331)ノ白石ヲ拾ヒ之ヲ贈リ其幽欝ヲ慰ス後人此石ヲ祀リ白石明神ト號ス【勢國見聞集】
 
岡部忠澄宅址 甲斐村字城垣内ニ在リ廣壹町餘今、村人居住ス相傳フ元禄元年西海ノ役平忠度ヲ獲ルノ功ヲ以テ莊園五箇所ヲ領ス蓋シ本村其一ナラン今、村人ニ忠澄ノ陣幕ヲ所持スルモノアリ、其紋、丸ノ内ニ十万ノ字ヲ記スト云フ【三国國地誌、源平盛衰記、古老口碑】
 
景清宅址 邊法寺村不動院ヨリ東南五町許ニ在リ高壹間ヨリ四五間ニ至ル土塀ノ址ヲ存ス傳ヘテ平景清ノ宅址ト稱ス不動院寺記ニ云フ景清ハ伊藤ニシテ本州ノ産ナリ世々官、上總介トナリ平氏ニ属ス平氏亡ブルノ後終ル所ヲ知ラズト
 按ズルニ加藤景清ノ事本州ニ事蹟多シ蓋シ平景清ハ加藤景清ノ謬傳ニハ非ザルカ暫ク疑ヲ記シテ後考ニ供ス】
 
(332)國司宅址【俗國司屋敷ト云フ】 國府村字貝下ニ在リ今、三宅神社ノ境内ニ属ジ樹木茂生ス傳ヘ云フ天智天皇ノ時三宅連石牀本州ノ國司トナリ之ニ居ル租税ヲ収納スル屯倉モ亦此ニ在リシト【背書國誌、古老口碑】
 
長者宅址 津賀村字仲井、南野、荒子、矢下、仲起、長塚、仲土居等ニ亘ル今、草木榛々トシテ瓦片處々ニ散在シ其遺址ヲ存ス傳ヘ云フ徃昔鈴鹿王ノ宅址ナリト又云フ源義家奥州前九年ノ役此家ニ投宿セシコトアリト其據ル所ヲ詳ニセズ【背書國誌、五鈴遺響】
 
小野氏宅址 山下村字南鍋田ニ在リ今、耕地中貳拾餘坪ノ地、菱形ヲナシ雑木叢生ス本村永禅寺舊鬼簿ニ文安中小野正信、應仁中俊信、天文中光信等ヲ載ス蓋シ此ニ居リシカ又近傍古塚二アリ經塚ト稱ス里人ノ説ニ云フ歌仙赤人甞テ此ニ居リシト其據ル所ヲ知ラズ
 
山尾氏宅址 田村字奥條ニ在リ小阜ニシテ周圍土壘濠址ヲ存ス峯氏(333)ノ與力山尾甲斐守之ニ居ル【一説ニ云フ山尾盛助享禄年間此ニ住ス後、助左衛門峯家ニ仕フト】天正二年峯城陷ルノ時滅亡ス其子孫龜山城主石川氏ニ仕フ【五鈴遺響、古老口碑】
 
     舘址
 
源頼朝舘址 今詳ナラズ三畑村ニ鷹場ト稱スル處sリ葢シ此邊ナラン傳ヘ云フ源頼朝上洛ノ時茶亭ヲ此ニ設ケテ鶉狩ノ擧アリ此地往時安樂越街道ニ属ス殊ニ鶉狩ニ名アリシト【九九五集】
 
關官亭址 石藥師村字開戸部ニ在リ今、田圃タリ天正中徳川家康休駕ノ處ニシテ其後屡々停駕アリシト云フ寛永中廢ス【三國地誌】
 
關氏別舘址 羽黒山ノ麓ニ在リ方壹町許ノ平地ニシテ今、耕地山林タリ關氏中世某別莊ヲ此ニ設ケ以テ優遊ノ處トナス【九九五集】
 
     關址
 
鈴鹿關址 本邦三關ノ一ナリ【近江逢坂關越前愛知關】木崎村字關臺ニ在リ今、舊址ヲ(334)存セズ大化二年始メテ關墨防人ヲ置ク葢シ此時建設セシナラン【續日本紀寶龜十一年四月鈴鹿關西内城太皷一鳴天應元年三月鈴鹿關西中城門太皷自鳴三聲云々ト記ス其西中城門等アリシヲ以テ之ヲ見レバ往古關舍ノ制洪大ナルコト想ヒ見ルベシ】延暦八年七月之ヲ停廢ス【續日本紀日本紀畧】十三年再ビ之ヲ復シ元亨元年又之ヲ停廢ス【太平記】其後廢置一ナラズ且其所在地モ數々改移セシナルベシ今、新所村ノ地ニ地藏院ト稱スル一寺アリ九關山ト號ス往昔關ヲ遷移スル九回ニ及ビシヨリ山號トナスト云フ永禄十二年十一月織田信長本州ヲ平治シ上洛ノ時之ヲ廢シ徃來ヲ便ニス後、又之ヲ置カズ
 按ズルニ往昔關塞ヲ置クハ國界ニ置クヲ例トナス今、坂下村ニ番小屋ガ平ト稱スル地アリ是縁故アルニ似タリ葢シ本村ノ地ヨリ漸次遷移シテ今ノ關址ニ置キシモノナラン
   天文十一年大神宮千首     右衛門督
(335)  をさまれる君か御代をも守るてふ鈴鹿の關や名に知る哉
   新拾遺           荒木田氏忠
  ふり捨て誰かは越えんすゝか山關屋は夜半の月守りけり
 
     古墳
 
日本武尊陵【一ニ王塚又丁子塚ト云フ】 田村字女(ガ)坂ニ在リ高貳間餘面積三千六百六拾坪周回百八拾四間松樹森欝雖タリ尊ノ事史傳ニ詳ナリ此地古來尊ノ陵ト稱シ來リシ
〔日本武尊陵ノ圖、省略〕
(336)ガ明治十二年十一月内務省之ヲ査※[手偏+僉]シ定メテ陵所トナス爾來大ニ修補ヲ加ヘ有志者金幣ヲ獻ジテ之ヲ助ク官亦守部二員ヲ置キ之ヲ守護セシム
 
白鳥陵【又茶臼山、丸山鵯塚、經塚等ノ俗稱アリ】 高宮、石藥師、上野、上田四村ノ共有地ニ在リ椎山ニ接續シ一丘陵ヲナス高拾八間東西貳拾五間南ニ面シ草木茂生ス里人傳ヘテ日本武尊ノ陵ト稱ス古事記傳、三國地誌、五鈴遺響、及ビ谷川士清皆此ヲ以テ尊ノ陵ト認ム古老云フ往昔此塚ヨリ曲玉及ビ埴輪、甕壺等ヲ堀出セシコトアリト近傍ニ王子田、寶冠塚、御所垣内等ノ字アリ共ニ尊ノ事跡ヲ傳フ此地明治五年教部省之ヲ※[手偏+僉]査シテ尊ノ御陵ト定メラレシニ同十二年田村ニ改定アリタリ
 
武備《タケビ》塚【一ニ武日ニ作ル】 長澤村二子塚ノ北方ニ在リ高三間周回凡ソ四拾間古老傳ヘ云フ日本武尊ヲ此ニ葬ルト舊幕府ノ時此ヲ以テ尊ノ陵ト定(337)ム然レドモ背書國誌、三國地誌、五鈴遣響共ニ尊、東征ノ時ニ從ヒシ大伴武日連ノ墓地ナリト記ス其説是ナルニ似タリ
 
二兒《フタゴ》塚【一名日ノ穴】 長澤村ノ北方字能褒野ニ在リ面積三拾一坪傍ニ穴アリ深、幅共ニ二間許大石ヲ以テ之ヲ疊ム傳ヘテ日本武尊ノ陵トナス尊、雙兒タリ【大碓命小碓命】故ニ此名アリ又塚ノ東西ニ守戸ノ宅址アリ石垣今ニ存セリ
 
王塚 國府村ノ西方字西ノ野ニ在リ鈴鹿川ノ東岸ニ位ス面積貳千六百廿五坪高凡ソ貳丈許南北ニ長ク北ハ高クシテ南ハ稍低シ周圍土居及ビ溝ノ址ヲ存シ老松雑樹欝葱、林ヲ爲ス里人傳ヘテ日本武尊ノ陵トナス
 按ズルニ日本紀、日本書紀共ニ尊ノ薨所ヲ明記セズ寛平熱田縁起ニ渡2鈴鹿河中瀬1、忽隨2逝水1、【謂v崩也】時年三十、仍號2其瀬1曰2能知瀬1、【能知者命終之詞也】今改爲2長瀬1、訛也云々トアリ本村古、長瀬郷ノ地ニシテ隣村菅(338)内村ニ長瀬神社アリ而シテ又鈴鹿川ニ沿ヘリ此地或ハ其薨所ニハ非ルカ暫ク疑ヲ記ス
 
南平家塚、北平家塚 大岡寺《ダイコウジ》村字野田口耕圃中ニ在リ二塚對立雑木繁茂ス何人ノ墓ナルヲ知ラズ或ハ云フ往昔關氏ノ黨義ヲ守リ自殺スルモノアリ因テ此ニ葬ルト又云フ伊勢義盛鈴鹿山ニ戰死ス乃チ其靈ヲ祀リシナリト今、小祠ヲ建ツ南ヲ宇氣比社北ヲ平家社ト云フ香花ヲ供スルモノ多シ【鈴鹿郡賦、五鈴遺響】
 
姫塚 原村字石龜ノ林中ニ在リ方凡ソ五間丘阜ノ状ヲナス雑樹之ニ生ズ里人傳ヘ云フ文明元年後花園院ノ皇女宮内親王京師ノ乱ヲ避ケテ此地ニ來リ明應九年八方本村金光寺ニ薨ズ因テ此ニ葬ル安禅寺寂光ト諡スト
 
岡部忠澄【六彌太】墓 甲斐村字藤ケ森ニ在リ面積拾六坪墓木ヲ立テ標トナ(339)ス【忠澄ノ墓今、武藏國榛澤郡普濟寺村濟寺境内ニ存ス此レ或ハ是ナラン】元暦元年西海ノ役平忠度【薩摩守】ヲ獲ルノ功ヲ以テ此地ヲ領シ居ル卒スルニ及ビテ此ニ葬ル村人毎歳七月相會シテ之ヲ祭ル【三國地誌、勢國見聞集、古老口碑】
 
源繼白墓 石藥師驛ノ上方ニ在リ俗、蒲殿塚又御曹子塚ト云フ繼白ハ源範頼ノ子叔父讃岐法印繼季ノ養子トナル承久三年罪アリテ員辨郡ヘ流サレ後、此地ニ住シテ没スト云フ【三國地誌】
 
關宗一墓 關木崎町瑞光寺ニ在リ【九九五集】今、墓石詳ナラズ、同寺過去帳ニ文禄二年六月廿八日清徳院殿天翁宗一居士關万鐡公ト記ス
 
關一政室墓 新所村字西町ニ在リ墓碑高五尺臺石二層本源宗天蓙室ノ六字ヲ刻ス俗、御新造塚ト云フ神戸氏ノ女ナリ一政ニ嫁ス碑ハ關氏ノ臣羽若新左衛門ノ建ツル所タリ【五鈴遺響】
 
八百比丘尼塚 本郡ニ二處アリ一ハ國府村ヨリ平野村ニ至ル山路ノ(340)左傍ニ在リ圓形ニシテ頂上石ヲ建テ標トナス一ハ木崎村字町南ニ在リ亦圓形ヲナス國府村ニ在ルモノ盖シ是ナルニ近シ傳ヘ云フ往昔若狹國ニ一女婦アリ年齒八百容貌艶美少年ノ如シ因テ八百比丘尼ト稱ス【若狹ノ國名此ニ起因スト云フ】伊勢宗廟ニ詣デ路ニシテ此ニ終ル是レ其墓所ナリト里人其子ノ爲メニ壽ヲ祈ルモノ陸續絶エズ或ハ云フ往時武藏國足立郡水波田村慈眼寺二王門前ニ榎樹アリ圍貳丈餘傳ヘテ尼ノ植ウル所トナス偶々土中石櫃ヲ得タリ八百比丘尼大化元年月日ノ文字ヲ刻ス中ニ地藏佛一  躯ヲ納ム今之ヲ本寺ニ藏スト事ハ寛保中東都菊岡米山作ル所ノ里人談ニ出ヅ蓋シ尼、諸國ヲ經歴シ終ニ此地ニ至リテ死セシモノカ【倭漢三才圖繪、若狹風土記、五鈴遺響、古老口碑】
 
座頭墓 平野村字上小澤官林中ニ在リ傳ヘ云フ元和四年五月官事ノ爲メ陸奥ヨリ京ニ至ル瞽者四人アリ各々官金ヲ携フ路、宗廟ニ謁セ(341)ントシ本村ニ到ル會々賊アリ之ヲ殺シ其金ヲ奪フ京師總校之ヲ奉行ニ訴フ募ルニ黄金三拾枚ヲ以テシテ賊ヲ索ム村人其死ヲ愍ミ爲メニ此ニ埋ムト又此處往昔金掛松ト稱スル一樹アリ今其跡詳ナラズ【五鈴遺響】
 
椀久塚 阿野田村字牛落ニ在リ傳ヘ云フ往昔富農椀屋久兵衛ナルモノアリ椀盆ヲ製造シテ他方ニ輸出ス又多ク牛ヲ畜ヒ其器物及ビ五穀運搬ノ用ニ供ス此地山路險峻ニシテ通行甚艱メリ久兵衛之ヲ憂ヒ資ヲ棄テ開キテ平坦ナラシム稱シテ牛オロシ坂ト云フ後、久兵衛家絶ス後人此ニ塚ヲ築キ之ヲ表ス村人客ヲ饗スルニ膳椀ヲ貯エザルモノ此ニ祈リ翌日徃テ見レバ必ズ塚上ニ備ヘアリ之ヲ還附スレバ忽チ其所有ヲ見ズト云フ妄誕笑フ可シ
 
   三重郡
 
(342)     山川
 
岡山 東阿倉川《ヒガシアクラカハ》村ノ東南ニ在ル小阜ナリ俗、殿樣山ト云フ松樹、躑躅ノ類多ク眺望頗ル佳ナリ内海ヲ隔テ參、尾ノ諸山及ビ志摩ノ島嶼雲煙ノ中ニ出没ス此地舊幕臣加納氏ノ釆邑タリ今、良有地トナレリ
 
杖突《ツエツキ》坂 釆女《ウネメ》村ニアリ官道ニ属ス傳ヘ云フ倭武尊東征ノ時桑名郡尾津村ヨリ能褒野ニ到ルノ時劔ヲ杖ツキ此坂ヲ踰エ玉フ故ニ名ヅク側ニ血塚アリ尊ノ足ヨリ出デシ血ヲ封ゼシ處ナリト云フ
   杖突坂碑の句          芭蕉
  かちならはつゑつきさかを落馬かな
 
三重《ミヘ》川【今三瀧川ト云フ又三重河原、千草川原等ノ別稱アリ】 菰野《コモノ》村御在所(ガ)嶽鎌ガ嶽等ヨリ發シ東流四日市ノ北ヲ經テ海ニ入ル
   万葉             伊保麿
(343)  吾疊三重乃河原乃磯乃浦爾如是鴨跡鳴河蝦可物《ワレタヽムミヘノカハラノイソノウラニカクバカリカモトナクカハヅカモ》
 
三乃瀬《サンノセ》 菰野村字三ノ瀬ニ在リ冠ガ嶽、御在所(ガ)嶽等ニ接スル溪流ニシテ三重川ニ注グ山中躑躅多シ花時斷崖絶壁ノ間恰モ紫雲ノ簇ルガ如シ
 
紅葉堤《モミヂノツヽミ》【一名前堤】 菰野村字中里ニ在リ金谷村ニ沿フ楓、櫻、交錯シ春ノ景尤モ賞スベシ菰野領主土方氏ノ栽植スル所タリ
 
思案橋《シアンバシノ》址 四日市濱町ト藏町トノ間ニ在リ傳ヘ云フ明智光秀ノ信長ヲ弑スルヤ徳川家康和泉、堺ヨリ潜ニ此地ニ至リ將ニ參河ニ渡航セントス偶々橋邊ニ蜘躊セリ故ニ名ヅクト當時長拾四間餘ノ橋ヲ架セシガ今、地形變ジテ長六間許ノ樋管ヲ通ジ惡水ノ疏通ニ供セリ【古老口碑】
 
天白《テンハクノ》板橋 日永村字天白東及ビ字中瀬古ニ亘ル天白川ニ架シ國道ニ(344)属ス長拾間幅貳間今在ルモノ明治十九年ノ架設ニ係ル
   夫木              西行
  あつさ弓春の日永の水の面に月すみ渡る天白のはし
 
     邑里
 
日永村 東海道ニ属ス神鳳抄載スル所岡本御厨、日長御薗、長田御薗ノ地ナリ此地多ク團扇ヲ製シテ販賣ス俗、日永團扇ト稱ス【五鈴遺響】
   古屋草紙              西行
  きのふ立けふたち見れは日長なる洲崎に見ゆる松のむら立
 
濱田村 東海道ニ俗ス舊ト濱村ト稱ス【五鈴遺響】
   夫木             鴨長明
  行わひぬいさ濱村に立よらん朝明過ては日永なりけり
 
     神祠
 
(345)諏訪神社 四日市、濱田村ノ間ニ在リ建御名方命、事代主命ヲ祀ル建仁二年創建ス社ニ赤堀美作守所持ノ兜、太刀今ニ存スト云フ祭日八月廿六日廿七日世ニ四日市祭ト稱シ諸民群集殷賑ヲ極ム【社記、五鈴遺響】
 
廣幡神社 菰野村字廣幡ニ在リ應神天皇、建御名方命、事代主命ヲ合祀ス寛永七年領主土方雄氏之ヲ勸請シテ領内ノ鎭守トナス【元ト八宮ト稱セシガ後、今稱ニ改ム】祭日八月十五日【社記】
 
飽良川《アグラカハ》神社 東阿倉川ニ在リ須佐之男神ヲ祀ル【舊稱牛頭天王】舊領主加納氏之ヲ崇敬ス祭日七月十一日例祭獅子神樂ヲ奏ス
 
     梵刹
 
觀音寺 六呂見《ロクロミ》村ニ在リ淨土宗智恩院末ナリ天平九年八月勅命ニヨリ僧某之ヲ本郡日永村ニ開基シ堂宇ヲ創建ス天台宗ナリ後、淨土宗ニ改メ今ノ地ニ移ス天文十二年勅シテ寺領及ビ慈覺大師眞筆ノ大(346)般若經【今尚一卷ヲ存ス】ヲ寄附セラレ祈願所トナル、正親町院、後陽成院亦祈願所トス永禄ノ頃寺領乱賊ノ爲メニ押領セラレシニヨリ之ヲ大内ニ訴フ織田信長勅ヲ奉ジ舊領ヲ復セシム後、寺領ヲ没セラル慶長十年徳川家康桑名ニ宿ス寺僧伺候ノ人ニ依リ寺門ノ衰頽ヲ哀訴ス則チ舊地ヲ改メテ亦寺領ヲ寄附ス今、擅徒千五拾戸アリ【寺記】
 
禅林寺 下鵜川原村ニ在リ臨濟宗妙心寺末ナリ天智天皇五年厩戸皇子遺願ニヨリ藤原鎌足之ヲ造營シ大強原《ウガハラ》山廬遮那寺ト號シ天台宗ノ大伽藍タリ應仁ノ兵亂ニ燒失セシヲ文龜三年千種治庸堂宇ヲ再建ス永正中改メテ今ノ號トナシ境内四町四方并ニ寺領ヲ寄附シ臨濟宗ニ轉ス弘治二年千種氏斷絶スルニ及ビテ寺領ヲ失ス
 
遍照院 東坂部邨ニ在リ眞言宗仁和寺末ナリ推古天皇ノ時刑部造ノ創建ニシテ天平八年僧行基來リテ佛像ヲ刻ス延暦弘仁ノ間僧空海(347)來リ住ス元久元年萩原政氏【小太郎】ノ菩提所トナル天正中僧秀覺堂宇ヲ再建ス之ヲ中興國山トナス【寺記】
 
光運寺 四日市上新町ニ在リ淨土宗知恩院末ナリ正安中僧阻觀創立ス元ト三重山東源院尊乘寺ト號シ眞言宗ナリ應仁ノ頃兵火ニカヽリ堂宇燒失シ漸ク衰廢セシガ後、僧源譽之ヲ中興ス慶長中今宗ニ改ム尋デ寺號ヲ改メテ三重山大智院光運寺ト稱ス【寺記】
 
僧眞惠庵址 北小松村字中山ニ在リ高五尺許ノ碑ヲ建テ眞惠上人舊跡ト刻ス寛正中僧眞惠朝明郡大矢知村ニ光明寺ヲ建テシガ布教ニ不便ナルヲ以テ此ニ移シ月見山中山寺ト稱ス後、鈴鹿郡南小松村ニ移ス
 
安國寺址 西日野村字里中ニ在リ今概ネ耕宅地トナリ僅ニ六拾坪許ノ舊址ヲ存シ中央ニ五位鳥山【塔頭ノ一院】ト刻セル石碑ヲ建ツ寺傳ニ云(348)フ興國元年七月光明天皇足利尊氏ニ詔シテ諸國ニ安國寺ヲ建ツ本寺其一ナリ數十ノ支院アリテ構造莊嚴ナリシガ元龜三年九月瀧川一益ノ兵燹ニ罹リ堂宇燒失ス今、塔頭華藏院【今放光寺ト稱ス】總持院【今顯正寺ト稱ス】二院ハ再建シ其他ハ廢セリ【五鈴遺響、背書國誌、勢陽俚諺勢國見聞集】
 
三岳寺址 千種《チクサ》村字鐘突堂ニ在リ傳ヘ云フ弘仁中僧空海創立ス眞言宗ナリ【或ハ云フ養老中僧最澄之ヲ建テ天台宗ナリト】天文中兵燹ニ罹リ廢寺トナルト寺址ニ手洗水ノ石アリ大同二年ト刻ス其舊寺ナルコト知ルベシ
 
     濱海
 
名草浦 小倉《ヲクラ》村、北五味塚村ノ海邊ヲ云フ一説ニ古、小野湊又ハ古江ト稱スルハ即チ此邊ナリト【桑名志、古老口碑】古歌ニ
   浦傳ふ跡も名草の濱千鳥夕汐宣みちて空に鳴なり
 
     園林
 
(349)天皇森 東坂部村字天皇森ニ在リ樹木生茂ス日本書紀天武記ニ元年夏六月辛酉、到2川曲坂下1而日暮也、【中畧】從駕者衣裳濕、以v不v堪v寒、及v到2三重郡家1、焚2屋一間1而令v温v寒、ト記ス傳ヘ云フ此邊刑部造宅址【近傍ニ大門、坪ノ内等ノ字アリ】ニシテ天皇郡家ニ到ルト云フハ即チコノ造ノ家ナラント或ハ云フ西坂部村字御舘藥師寺ノ址是其舊跡ナリト其據ル所ヲ知ラズ暫ク疑ヲ記ス
 
     谿淵
 
楓溪《モミヂタニ》 水澤《スイザハ》村字西野ニ在リ楓樹數百株溪谷ノ間ヲ環匝シ枝柯參差秋天ノ候恰モ爛錦ヲ敷クガ如シ來遊スルモノ極メテ多シ文化六年九月領主土方義苗遊賞シ去ルニ臨ミ儒臣南川志道ニ命ジ歌ヲ作リ石ニ刻シテ之ヲ建テシム其碑文ニ曰ク
 山房※[木+間]楓之勝、傳2播于遠邇1、秋冬交、四方騷人來迹、是以其聲益噪、今(350)茲晩秋君候陟遊、命※[餞の旁+立刀]2伐雜樹妨v觀者數百株1使3臣志道係2之辞1、因恐惶作v歌以奉v之曰
  冠峯之麓、※[木+間]楓成v林、物換星移、松栢森々、一朝尋v斧、觀2奇於初1、青女殿v秋、繍帷四舒、旦丹旦紅、蜀錦※[言+巨]加、觴焉咏焉、誰不v停v車、
   明治十二年紅葉谷にて    佐々木弘綱
  とくおそき色はあれとも打わたす谷間はすへて紅葉なりけり
 
壹乃谷《イチノタニ》 菰野村字壹(ノ)谷ニ在リ御在所(ガ)嶽ノ支脈ニ接シ岩石殊ニ多シ古ヨリ紅葉ヲ以テ名アリ秋冬ノ交雅客杖ヲ曳クモノ多シ
 
鏡(ガ)淵 西坂部村字垣内ニ在リ三重川ノ流域ニ属ス傳ヘ云フ倭姫命皇大神宮ヲ奉ジテ遷幸ノ時鏡ヲ川中ヘ落セシニ其跡鏡ノ如キ光リヲ留ム故ニ名ヅクト度會御師毎年万度ノ祓ヲ立テシガ後、廢セリ
 
     池泉
 
(351)薦野(ノ)温泉 菰野村字湯(ノ)山ニ在リ林岳並ビ聳エテ樹木深欝タリ内海ノ布帆、參尾ノ諸山亦望中ニリ地靜ニ境幽ニ一遊、人ヲシテ歸ルヲ忘レシム傳ヘ云フ養老中僧淨訓靈夢ニ感ジ此ヲ開ク此泉能ク百病ヲ治ス遠近來浴スルモノ日ニ多ク一歳中ノ浴客概ネ六七千人ニ及ブト云フ近時山中八景ヲ定メ土方興文等ノ和歌數首アリ八景ニ曰ク
  板橋杜鵑 大石凉風 三杉朗月 一谷紅葉 冠峯積雪 三岳晩鐘 青瀧晴嵐 湯坂歸樵
 
曾井(ノ)清水 曾井《ソヰ》村字東垣内ニ在リ方六尺許石ヲ以テ疊ム俗、傳ヘ云フ往昔和泉式部此泉ニ向ヒテ容顔ヲ寫ス村稱亦之ノ泉ニ由リテ名ヅクト妄誕笑フ可シ
 
     樹石
 
長福寺址(ノ)櫻 櫻村字北垣内ニ在リ傳ヘ云フ北畠滿雅此地ニ遊ビ櫻ヲ(352)賞愛シ一ノ莊園トナス没スルニ及ビ本寺ヲ創立ス永禄中織田氏ノ兵燹ニ罹リ堂宇燒失ス後、村民謀テ一宇ヲ建ヅ織田氏ヲ憚リ舊稱ヲ改メテ全福寺ト稱ス明治五年廢寺トナル境内今ニ櫻樹多シ花時遊賞スルモノ少カラズ
 
     行宮址
 
天照大神頓宮址 宿野《シユクノ》村字神明田ニ在リ東西九尺南北六尺許ノ丘皐タリ雜草茂生ス傳ヘ云フ倭姫命天照大神ヲ奉ジ桑名野代宮ヨリ鈴鹿郡奈具忍山ニ遷幸アリシ時頓宮ノ地ニシテ舊ト神明社アリシガ後、氏神社ニ合祀スト
 
天照大神大遷幸休憩所址 小杉村字東山ニ在リ一岡丘ニシテ老松欝茂ス東南、伊勢海ヲ隔テヽ尾張、參河ノ諸山ニ對ス風県賞スベシ傳ヘ云フ往昔皇太神宮野代宮ヨリ忍山ヘ遷幸ノ時休御アリシ處ニシテ天(353)武天皇元年潜幸ノ時其舊地ヲ慕ヒ四方ニ志※[氏/一]ヲ建テ遙拜アリシト【古老口碑】
 
天武天皇頓宮址 西坂部村字中川原【舊ト属邑御舘村ノ地】ニ在リ土地隆高塚形ヲ爲ス日本書紀ニ弘文天皇元年六月天武帝鈴鹿河曲坂下頓宮ヨリ三重ノ頓宮ニ至ルト記ス即チ此地ナリ
 
倭武命遺址 西坂部村字御舘野【舊字御池ノ地】ニ一池アリ方俗、命ノ御足洗池ト稱ス古事記ニ曰ク倭建命自2其地1幸到2三重村1之時亦詔曰、吾足如2三重勾1而甚疲、故號2其地1謂2三重1、云々ト是本郡名稱ノ起因ニシテ此地即チ其遺址ナリト云フ徃昔神宮神主万度ノ祓ヲ立テシガ明治維新ノ後廢ス【古老口碑】
 
     城砦及宅址
 
千種城址 千種村字城山ニ在リ今、耕地及ビ山林トナレリ周圍濠址ヲ存(354)ス土中燒籾ヲ出スコトアリ建武元年千種忠顯、後醍醐天皇ニ仕ヘ功アリ本郡二十四郷ヲ領シ目代伊藤吉治ヲシテ之ヲ管セシム二子顯經正平廿四年九月北畠顯康ノ命ニヨリ本郡ニ數城ヲ築キ自ラ禅林寺城ニ居リ之ヲ總轄ス、永徳元年忠顯ノ長子通治ノ子隆通本村【舊名岡村是時今稱ニ改ム】ニ城ヲ築キ之ニ居ル忠治【一ニ忠房ニ作ル】ノ時ニ至リテ北勢諸城皆之ニ属ス弘治三年【一ニ元年又二年ニ作ル】近江佐々木義賢北勢ヲ取ラントス其臣小倉三河守ヲシテ先ツ本城ヲ攻メシム克タズ後、和睦ス天正十二年五月忠治子忠基織田信雄ノ爲メニ美濃、加賀ノ井城ヲ守リ羽柴秀吉ノ兵ト戰ヒ戰死シ本城又陷ル秀吉千種氏ノ領邑ヲ生駒雅樂頭ニ給ス十三年春信雄北勢ヲ領スルニ及ビ忠治ニ本村ヲ與ヘ居住セシム十八年秀吉、忠治ノ養子顯理ヲ音羽村ニ移ス後、大阪ノ役戰死ス【背書國誌、五鈴遺響、勢國見聞集、勢陽俚諺、三國地誌、天春氏舊記】
 
(355)菰野城址【一ニ菰野城ニ作ル】 菰野村字藩内ニ在リ今概ネ耕地タリ石壘濠址ヲ存ス中ニ一社ヲ建ツ藩祖雄氏ノ靈ヲ祀ル永禄十一年瀧川一益北勢五郡ヲ領スル時其臣南川治郎左衛門ヲ本郡ノ代官トナシ治府ヲ此ニ設ク天正十一年瀧川氏本州ヲ去ルノ後織田信雄此地ヲ土方雄久ニ與フ後、尾張犬山ニ移封ス慶長五年徳川家康再ビ之ヲ其孫雄氏ニ與フ是ニ於テ瀧川氏治府ノ舊地ヲ修築シ六年三月工ヲ竣フ後、歴世之ニ居ル明治四年雄永版籍ヲ奉還シテ城廢ス【五鈴遺響、背書國誌、勢國見聞集】
 
赤堀城址 赤堀村字城西田圃中ニ在リ高一丈餘ノ小丘タリ頂上平坦ニシテ荒蕪地トナレリ應永ノ頃【一ニ文明二年ニ作ル】田原景信【一ニ秀宗ニ作ル】下野國赤堀庄ヨリ本村【舊ト栗原村ト稱ス是ニ至リテ今稱ニ改ム】ニ來リ城ヲ築キ之ニ居ル因テ赤堀氏ト改ム後、長子景宗【一ニ盛宗ニ作ル】ハ朝明郡羽津村ニ二子秀宗【未タ詳ナラズ暫ク事蹟ニ付テ之ヲ定ム】ハ本城ニ三子忠秀ハ本郡濱田村ニ居城ス永禄中長野工(356)藤氏、波瀬(ノ)與力矢野下野守、阿曾弾正忠等ヲシテ之ヲ改メシム拔ク能ハズ勢屈シテ退ク城中ヨリ和歌二首ヲ送ル曰ク、赤堀の堀の深さをしらずして淺瀬をせゝるはせの御所かな、又赤堀の庵の内の三文字に長のゝ首を割菱にせむ、ト【赤堀氏幕ノ紋庵ノ中ニ三文字ニシテ長野ノ幕ノ紋割菱ナリ】天正四年秀宗美濃竹(ガ)鼻ノ役ニ戰死ス或ハ云フ五年三月瀧川一益ニ滅サレ城廢スト【三國地誌、五鈴遺響、古屋草紙、背書國誌、勢國見聞集、勢陽俚諺、勢陽雜記】
 按ズルニ秀宗應永又ハ文明中ノ人トセバ本城滅亡ノ時迄ハ已ニ百有餘年ヲ過グ其世ニ在ル疑ハシ蓋シ秀宗以後世系事實詳ナラズ暫ク記シテ後考ヲ俟ツ
 
濱田城址 濱田村字堀之田田圃中ノ小丘タリ老樹蓊鬱土壘ノ址僅ニ存ス中央ニ小社ヲゥク應永ノ頃【一ニ文明二年ニ作ル】本郡赤堀城主田原景信三男忠秀城ヲ築キ歴世之ニ居ル【此時今ノ四日市驛ヲ開キ街道ゐヲ改メ造リシト云フ】濱田殿ト稱ス(357)北畠氏ニ属ス孫元綱【一ニ宗武ニ作ル】ニ至リ織田信長ノ爲メニ攻メラレ天正三年【一ニ四年ニ作ル】六月元綱自殺シ男重綱【一ニ宗治ニ作ル】等一族逃亡シ城陷ル【或ハ云フ天正十二年五月美濃加賀ノ井ノ役戰死スト】十二年長島一揆ノ時蒲生氏郷之ニ陣ス後、廢ス元綱ノ墓碑ハ鈴鹿郡山本村字本郷垣内ニ在リ【背書國誌、堀木誌氏系譜、三國地誌、五鈴遺響】
 
楠城址 本郷《ホンゴウ》村字風呂屋ノ田圃中ニ在リ今、三拾坪許ノ小丘ニシテ松樹一株ヲ存ス傳ヘ云フ徃昔楠易孝【十郎】之ニ居ル【一説ニ楠正成遺腹ノ子諏訪十郎正信ナルモノ信濃ヨリ來リテ此ニ居ルト云ヒ又國司北畠氏ノ末裔ナリト云フ孰レカ是ナルヲ詳ニセズ】六代ノ孫貞孝【十郎】永禄十一年二月織田信長ト戰ヒ敗績シテ出テ降ル【北畠物語ニ永禄十年八月ニ作ル】後、信雄ニ属ス信雄、羽柴秀吉ト兵ヲ交ユルノ時尾張國戸田城【今詳ナラズ或ハ海東郡戸田村ノ地カ】ニ在りシガ天正十年三月秀吉ノ攻ムル所トナリ戰死シ【或ハ云フ天正十二年五月美濃國加賀ノ井城ニ虜トナリ秀吉ニ害セラルト】本城又陷リ遂ニ廢ス【五鈴遺響、桑名志、古屋草紙、正覺寺舊記】
 
高角城址 西野村字山畑ニ在リ今、耕地トナリ舊形ヲ存セズ元久元年(358)四月平氏若菜五郎ノ黨之ニ居リ亂ヲナス平賀朝雅ノ爲メニ減サレ城廢ス【五鈴遺響、勢陽俚諺】
 
西坂部城址 西坂部村ニ二處アリ一ハ字城ニ在リ今、耕地タリ土壘ヲ存ス濠深壹丈五尺ヨリ壹丈ニ至ル元久中平氏ノ亂若菜五郎ノ黨萩原小太郎之ニ居ル平賀朝雅ノ爲メニ滅サレ城廢ス【五鈴遺響、勢陽雜記】村人或ハ云フ中野藤太郎ナルモノ朝明郡中野城ニ住スルノ前此ニ居リシ一ハ字奥城ノ谷ニ在リ今、山地タリ永禄中山本豐前之ニ居ル【古老口碑】
 
川尻城址 川尻村字古城ニ在リ今、耕地ニ属ス桑名志及ビ三國地誌ニ曰ク川尻治部少輔【一ニ將監ニ作ル】之ニ居ルト或ハ云フ有山主馬助之ニ居リ永禄十一年織田信長ノ處メニ亡サレ城廢スト【五鈴遺響、古屋草紙、勢國見聞集】
 
曾井城址 曾井村字西垣内ニ在リ今、耕地タリ本村ニ保曾井物語ナルモノヲ藏ス其記ニ云フ天平元年七月橘速足多度大神宮ニ奉仕シ惠(359)ヲ近隣ニ施ス朝廷之ヲ賞シテ北勢四百五十五邑ヲ給シ姓ヲ保曾井ト賜フ七世忠利曾井ト改姓ス壽永二年曾井忠秋、源頼朝ニ属ス忠秀ニ至リ志村ト改姓シ歴世之ニ居リシガ元龜元年八月忠春ノ時織田信長ニ攻メラレ自殺シテ城廢スト五鈴遺響ニ文治中志村左衛門尉居住ノ事ヲ記ス他書見ル所ナシ暫ク之ヲ記ス
 
釆女城址 釆女村字北山ニ在リ樹木繁茂ス古井墳墓ノ址尚存ス後藤實基元久ノ亂後本郡ヲ管ス男基清承久ノ乱京師ニ属シ誅セラル男基綱ハ關東ニ從ヒ評定衆トナル其後ヲ基隆、基秀、基秋ト稱ス【加富田神社棟札ニ藤原方綱同藤勝ノ目アリ未タ詳ナラズ】釆女正某ニ至リ永禄十一年織田信長ニ亡サレ城遂ニ廢ス【大系圖、諸家系圖纂、古屋草紙】
 
閏田城址 閏田《ウルタ》村字馬冷ニ在リ今、耕宅地トナリ其址ヲ存セズ大久保城之介之ニ居ル永禄四年八月千種忠治其臣水谷平太左衛門ヲシテ(360)之ヲ攻メシム城兵支フル能ハズ城之介潜ニ逃亡シテ城廢ス【伊勢軍記】
 
松本城址 松本村字里中ニ在リ今、耕圃及ビ藪地トナレリ朝明郡富田城主富田基度ノ弟松本盛光【三郎】城ヲ築キ之ニ居リ日永城主楯三郎ト共ニ叛ヲ謀リ元久元年四月鈴鹿關ヲ塞キ通路ヲ斷ズ幾モナク平賀朝雅ノ撃破スル所トナリ自殺ス【東鑑】
 
阿倉川城址 西阿倉川村字谷口ニ在リ今、耕宅地タリ安元中舘貞康之ニ居ル天正三年六月貞清ナルモノニ至リテ瀧川一益ニ降リ城廢ス【三國地誌、本村舊記】
 
佐倉城址 櫻村字南垣内ニ在リ面積千三百餘坪土壘濠塹ヲ存ス漸次開墾シテ耕地トナセリ傳ヘ云フ正平ノ頃小林某本郡知積村一生吹山ニ城ヲ築キ之ニ居ル天文中重則ナルモノ鈴鹿郡峯氏ノ攻ムル所トナリ城陷リ自殺ス重則子重定本村ニ來リ住シ後、世々之レニ居ル(361)寛永中城廢ス其子孫今、本村ニアリ【本村舊記】
 
日永城址 日永村字登城山ニ在リ山上平坦ニシテ老松鬱々空ニ聳ユ傳ヘ云フ平氏ノ黨日永楯【一ニ館ニ作ル】三郎之ニ居ル元久元年三月若菜五郎等ト共ニ乱ヲ作シ平賀朝雅ノ爲メニ滅サレ城廢ス此地東、内海ヲ望ミ尾張、參河ノ連山ハ海ヲ隔テヽ隱見ス頗ル風景ニ富ムヲ以テ春時登臨スルモノ多シ【五鈴遺響、勢國見聞集】
 
山田城址 山田村字吉田(ガ)原ニ在リ今、宅地タリ傳ヘ云フ應仁ノ頃矢田監物丹波國ヨリ來リ城ヲ築キ之ニ居ル天正十八年小田原ノ役ニ從ヒ戰死スト【五鈴遺響、本村舊記】
 
宿野城址 宿野村字北垣内ニ在リ東西三拾貳間南北四拾六間近時開墾シテ茶國宅地等トナル東北隅僅ニ土壘アリ何人ノ居城ナルヲ知ラズ
 
(362)伊勢氏宅址 福《フク》村字得理垣内ニ在リ面積百七拾餘坪西、北、南三方ニ濠アリ繞ラスニ土壘ヲ以テシ中ニ神明社ヲ安ンズ樹木森々タリ傳ヘ云フ徃昔伊勢俊盛子義盛【三郎】相繼ギ此ニ居ル其後高木主膳ナルモノ之ニ住スト【勢陽雜記、古老口碑】
 
     古墳
 
伊勢義盛墓 川島村字東谷西福寺境内ニ在リ小宇ヲ建テ中ニ高貳尺貳寸許ノ五輪塔ヲゥク傳ヘテ義盛ノ墓トナス【三國地誌、古屋草紙】義盛ノ父ヲ俊盛ト云フ本郡々司タリ没シテ後平家ノ士伊勢守景綱ナルモノ其采邑ヲ没収ス義盛鈴鹿山ニ隱レ景綱ヲ殺サンコトヲ謀ル事露レ信濃ニ流サル安元中源義經ニ從ヒ後、此地ニ没スト【龜山賦古老口碑】
 按ズルニ五鈴遺響【摘要】ニ云フ慶安中龜山城主石川昌勝耕地中ニ在ル墳ヲ穿チシニ大小棺槨ヲ得タリ乃チ義盛ノ墓ナリトシ之ヲ本寺(363)ニ移シ葬ル然レトモ義盛鈴鹿山中ニ戰死ス棺槨ノ製ヲ備フルニ遑アラズ俊盛郡司タリ故ニ此禮ヲ備フ乃チ其墳ナルコト知ルベキナリト然レトモ是ヨリ先キ寛永中同城主本多俊次祀田若干ヲ給スル事アリ本寺其寄附状ヲ藏ス昌勝之ヲ移スノ説亦疑フ可シ暫ク記シテ參考トナス
 
楠十郎墓 本郷村正覺寺境内ニ在リ十郎楠城ノ城主タリ北畠氏ニ属ス永禄十一年織田信長ノ本州ヲ攻ムルヤ遂ニ之ニ降リ南方ノ嚮導ヲナス【古屋草紙】
 
竹田昭信墓 下鵜川原村字※[木+豈]ニ在リ方貳間樫樹二株アリ塚上一小石ヲゥク俗、宿禰塚ト云フ昭信武田信義【太郎】ノ裔ナリ千種忠顯ニ仕ヘ弘安二年薙髪シテ禅林寺住職トナル向陽軒ト号ス没シテ此地ニ葬ル【古老口碑】
 
(364)赤堀景信墓 赤堀村字八劔竹林中ニ在リ五輪塔ヲ存ス俗、大將墓ト云フ傳ヘテ景信ノ墓トナス景信、藤原秀郷廿一世ノ孫ナリ朴月齋ト稱ス【三國地誌、古老口碑】
 
僧行基墓 尾平《ヲヒラ》村字永代寺耕圃中ニアリ傳ヘテ行基ノ墓トナス行基天平勝寶元年二月大和菅原寺ニ寂ス事ハ古傳ニ出ヅ葢シ往昔此地ニ長松山永代寺ト稱スル大寺アリ行基ノ開基ナルヲ以テ稱供養塔ヲ建テシモノナラン
 
瀧川一益母墓 日永村實蓮寺墓地ニ在リ五輪塔高五尺餘文字讀ム可ラズ天正中一益北勢五郡ヲ領セシ時本寺ヲ以テ菩提所トナス是其母ノ墓碑ナリト云フ【寺記】
 
東坂部村古墳 東坂部村字貝野ノ林中ニ在リ高三尺許東西ニ長シ土俗、城祖墓ト稱ス其據ル所ヲ知ラズ時々鳴動スルコトアリト云フ
 
(365)     古戰場
 
宿野古戰場堵 宿野村字楠森ニ在リ俗、此地ヲ陣出ト云フ今、耕宅地タリ弘治二年三月近江國觀音寺城主佐々木義賢北伊勢ヲ攻メ取ラントシ家臣小倉三河守ヲシテ三千餘ノ兵ヲ率ヰ菰野越ヨリ本村前川原ニテ出陣ス本郡千種城主千種忠治之ヲ聞キ家臣萩澤備前守ニ兵五百餘ヲ付シ之ヲ迎ヘ撃タシム萩澤氏夜ニ乘ジテ小倉ノ軍ヲ衝ク江兵大敗シテ還ル是其舊址ナリ【伊勢軍記】
 
鹽濱古戰場 鹽濱村字代官繩及ビ殿繩ノ間ニ在リ今、耕地タリ永禄中長野城主工藤具藤本州ノ諸將ト合縱シ鈴鹿郡龜山城主關盛信ノ一黨ヲ討チ亡サント欲シ雲林院出羽守、細野九郎右衛門、分部宗右衛門、天部兵庫介等五千餘人安濃郡阿漕浦ヨリ海ヲ越エテ攻メ來ル關一黨ノ兵五千餘人本村ニ迎ヘ戰ヒ大ヒニ之ヲ敗ル是基舊址ナリ【勢陽俚諺】
 
(366)   朝明郡
 
     山川
 
朝明《アサケ》山 所在詳カナラズ蓋シ郡内山峯ノ總稱ナラン【勢國見聞集、伊勢名所拾遺集】
   夫木                定宗
  このねぬる朝明の山の朝風に霞を分て花ぞ散ゆく
   名所名寄             行連法師
  さゝ分る朝明の山の下露にぬれてりすゝしき夏衣哉
 
尾高山 杉谷《スギタニ》村釋迦(ガ)嶽ノ東麓ニ在リ小丘ニシテ樹木欝生ス幽邃ノ地ナサ山中引接寺舊址アリ里人傳フル所小野篁ノ歌ニ
  わけのほる尾高の峯に雲はれてむかふ朝明の影そさやけき
 
岡山 羽津《ハツ》村ノ西北方字岡山ニ在リ岡陵ニシテ稚松繁殖ス往昔之ヲ御潔岡ト云ヒ又高御前ト稱ス山海ヲ一望シ風色愛スベシ春秋ノ際(367)來遊スルモノ多シ
 
垂坂臺 垂坂《タルサカ》村ノ東南部ニ在リ地勢高隆ニテ東、四日市港及ビ尾、參ノ遠景ヲ望ミ西ハ鎌(ガ)岳御在所(ガ)岳、?足ノ諸山及ビ信濃ノ御嶽亦望中ニ属ス風景頗ル佳ナリ春秋ノ候來遊スルモノ多シ里人傳ヘ云フ此地天照大神遷幸ノ舊址ナリト
 
杉谷【一名杉田山又福ノ山】 所在詳ナラズ三國地誌ニ云フ風土記ニ員辨郡杉田山ヲ載ス杉田、杉谷ト通ズ即チ本郡杉谷村ノ地ナリト
   名寄               實仁法師
  杉谷のふる巣にやとる鶯の鳴こそ春のしるしなりけれ
 
根平越《ネヒラコエ》 本郡ノ北境ニ在リ近江ヘ通ズルノ問道タリ元龜元年五月織田信長近江ヲ發シ將ニ岐阜ニ歸ラントス路、此ヲ過グ佐々木承禎、杉谷善住坊ニ命ジテ信長ヲ此地ニ狙撃セシム誤リテ其衣袖ニ中ツ善住(368)坊ハ承禎ノ臣ナリ罪アリテ本郡杉谷村ニ住ス後、信長ノ爲ニ殺サル【五鈴遺響、信長記】
 
水無瀬《ミナセ》川 朝明川ノ支流ニシテ三重郡千草村ノ山間ニ發シ本郡永井村ニ至リテ朝明川ニ合ス
 
     神祠
 
志※[氏/一]神社 羽津村ニ在リ氣吹戸主神ヲ祀ル伊邪那岐命、伊邪那美命ヲ相殿トス垂仁天皇ノ時創立往昔本村城主赤堀氏累代之ヲ崇敬ス慶長四年三月 今上東國行幸ノ時奉幣使參向アリタリ祭日十月十七日【社記】
 
穗積神社 廣永村ニ在リ伊香我色男命、饒速日命ヲ合祀ス創建詳ナラズ祭日十月十五日【社記】
 
     梵刹
 
光明寺 羽津村ニ在リ眞宗本願寺末ナリ弘仁中僧空海巡國ノ際本郡(369)大矢知村青木谷ニ一宇ヲ建立シ眞言宗ナリシガ寛正元年專修寺中興僧眞惠錫ヲ留メテ説法ス寺僧某弟子トナリ今宗ニ改ム享禄中本村城主赤堀盛義出家シテ同寺ニ入リ善勝ト號ス因テ本寺ヲ今ノ地ニ移ス之ヲ中興開山トナス【寺記】
 
淨恩寺 羽津村ニ在リ眞宗西本願寺末ナリ天延二年僧良源掘之ヲ創建シ班鳩山大善寺ト稱ス天台宗ナリ長享二年僧圓爾眞言宗ニ改メ淨恩寺ト改稱ス後、五世僧空源伊勢、參河、美濃ノ僧徒ト謀エイ自ラ魁首トナリ織田信長ト戰ヒ遂ニ戰死ス【寺記】
 
引接寺址 杉谷村字尾高ニ在リ丘上平坦ノ地ニ小堂ヲ存ス傳ヘ云フ往昔此寺釋迦(ガ)嶽ニアリシガ諸人通行不便ナルヲ以テ桓武天皇ノ時堂宇ヲ此ニ移シ山寺號ヲ賜ヒ僧最澄ノ弟子證光ヲシテ之ニ居ラシム夫レヨリ和光院ト號ス後、小野篁本寺ニ於テ詠歌シ源義家朝敵(370)退治ヲ祈願シ寺領ヲ寄附スル等ノ事アリ天正中織田信長ノ兵燹ニ罹リ堂宇灰燼トナル後、小宇ヲ再建セシガ明治五年廢寺トナル
 
西行庵址 田口村字稻荷ニ在リ俗、之ヲ梅木繩手ト稱ス高丘ニシテ草木繁茂シ風景頗ル佳ナリ保安元年僧西行諸國ヲ周游シ偶々本村ニ遊ブ是其舊址ナリト云フ
   山家                 西行
  柴の庵により/\梅の句ひ來てやさしきかたも有る住ひ哉
 
     濱海
 
志※[氏/一]《シデノ》浦【一名四※[氏/一]崎又四泥能崎ニ作ル】 羽津村ノ前面ニ方ル海濱ヲ指ス又本村ノ西部志※[氏/一]野ノ地名アリ今、山林田圃タリ傳ヘ云フ天平十二年聖武天皇本州ニ幸ス此レ其通路ニカヽルノ地ナリト【桑名志、五鈴遺響、三國地誌】
   萬葉
(371)   丹比屋主眞人作歌【本集傍注ニ眞人河口行宮ヨリ京ニ還ル此地ニ詠歌ノ事ナシト記ス書シテ疑ヲ存ス】
後爾之人乎思之四泥能崎木綿取之泥而將往跡其念《オクレニシヒトヲオモハクシテノサキユウトリシテテユカムトゾオモフ》
   名寄                 知家
  けふは又誰か御祓をしての崎ゆふとりしてゝ浪もこすらん
 
     樹石
 
夫婦石 羽津村字宮東志※[氏/一]神社ノ前ニ在リ國道ニ沿ヒ對立ス一ハ高貳尺四寸餘幅三尺四寸一ハ高三尺四寸餘幅三尺貳寸何レノ頃建設スルヲ知ラズ年歴ノ久シキ衆人手ヲ觸ルヽヲ以テ摩滅スル所多シ
 
     行宮址
 
天武天皇頓宮址 羽津村字糠塚山ノ麓ニ在リ今、小祠アリ天皇ヲ祀ル古老傳ヘ云フ白鳳元年【壬申】六月天皇三重頓宮ヨリ桑名郡ニ越エ玉フ時少憩アリシ慮ナリト
 
(372)天武天皇遙拜所址 羽津村字糠塚山ノ山上ニ在リ小松繁茂ス傳ヘ云フ白鳳元年【壬申】六月天皇潜幸ノ時此ニ於テ天照大神ヲ遙拜アリシヨリ額突山ト稱セシヲ後、轉訛シテ糠塚ニ誤レリト
 
迹保《トホ》川大神宮遙拜所址 繩生《ナオフ》村ト小向村ノ間、官道ノ右傍ニ在リ日本書紀ニ天武天皇白鳳元年【壬申】六月朔於3朝明郡迹保河邊1、望2拜天照大神1、ト記ス其迹保川ハ即チ今ノ朝明川ナリ【書紀通證】參宮ノ旅人今尚此ニ遙拜ス
 按ズルニ三國地誌ニ本郡鵤村ト別名村ノ間ニアル小流ヲ以テ迹保川ニ充テ羽津村糠塚山ヲ其舊址トシ其下流ヲ米洗《コヒ》川ト稱シ此ニ洗米シテ神ヲ祭レリト記ス桑名志之ニ從フ又五鈴遺響ニ神鳳抄三重二宮止保御厨三石トアルニヨリ或ハ町屋川ヲ以テ之ニ充ツルノ説アレトモ皆取ル可ラズ記シテ參照トナス
 
(373)朝明行宮址 所在詳ナラズ續日本紀ニ聖武天皇天平十二年【庚辰】十一月【丙午】從2赤坂1發到2朝明郡1ト記ス桑名志ニ云フ本郡松原村ノ地天皇ノ社アリ其傍ニ小流アリ、ヲシヤウム川ト云フ【ヲシヤウム聖武國音相近シ】蓋シ此地ナラント
 
     城砦及宅址
 
萱生城址【一ニ加用城ニ作ル】 萱生《カヤフ》村ノ北部字城山ニ在リ方凡ソ貳町舊形猶存ス又古井アリ北方、朝明川ヲ帶ブ懸崖ニシテ松樹茂生ス頗ル景勝ノ地タリ文治中富田家資本州平氏ノ末葉ナルヲ以テ源頼朝ニ擒ニセラル頼朝其勇武ヲ惜ミ死ヲ赦シテ本州ニ流ス後、姓ヲ春日部ト改ム其裔宗方初メテ本城ヲ築キ之ニ居ル近郷十餘村ヲ領ス三重郡千種城主千種常陸介(ノ)與力タリ俊家ノ時ニ至リ永禄十一年織田信長兵ヲ本州ニ出シ羽柴秀吉、瀧川一益ヲ先鋒トナシ來リ攻ム城兵能拒グ攻(374)圍數日城中水盡キ遂ニ降ル【或ハ云フ天正六年八月瀧川一益ノ圍ミヲ受ケ九月出テ降ルト】十二年六月徳川家康、佐久間正勝ヲシテ本城ヲ修理セシメ以テ羽柴氏ニ備フト云フ【伊勢軍記、三國地誌、伊勢考古録、家忠日記】
 
繩生城址 繩生村字城山ニ在リ小丘ニシテ小樹茂生ス栗田監物之ニ居ル北畠氏ニ属ス永禄中北畠信雄、柘植三郎左工門、日置大膳等ニ命ジテ之ヲ攻メシム監物戰ヒ敗レ遂ニ城ヲ火シテ自殺ス後、天正十二年十一月羽柴秀吉、蒲生氏郷ヲシテ本城ヲ守ラシム後、廢ス【家忠日記、秀吉譜、勢陽雜記】
 
羽津城址 羽津村字城山ニ在リ今、田畝及ビ竹藪トナリテ區域詳ナラズ應永中三重郡赤堀城主赤堀景信ノ長子景宗【一ニ盛宗ニ柞ル】城ヲ築キ之ニ居ル五世ノ孫近宗【五鈴遺響ニ右京太夫國虎アリ蓋シ同人ナラン】永禄十一年織田信長ノ爲メニ減サル天正十二年十二月羽柴秀吉、織田信雄ト桑名郡矢田河原(375)ニ和睦ノ時秀吉入リテ本城ニ陳ス後、廢ス【五鈴遺響、桑名誌】
 
茂福城址 茂福《モチフク》村字里内ニ在リ今、畑トナリ地形琵琶状ヲナシテ稍高ク周圍濠址ヲ存ス平惟茂ノ後裔朝倉盈盛【一ニ茂盛ニ作ル】元弘建武ノ頃之ニ居リ世々足利氏ニ属ス盈豐ノ時ニ至リテ永禄十一年十月織田信長ノ爲メニ攻ラレ城陷リ逐ニ廢ス或ハ云フ瀧川一益ノ爲メニ長島ニ誘殺セラルト【桑名志、伊勢軍記】
 
柿城址 柿村字城ノ廣ニ在リ今、耕地及ビ松林トナレリ土壘大手口等ノ址存シ松樹茂生ス土中徃々古刀、劍具等ヲ出スコトアリ正平十五年防州ノ人佐脇宗喜【一ニ沼木又澤木ニ作ル】本州ノ守護仁木義長ニ属シテ佐々木崇永ヲ近江觀音寺城ニ攻メ遂ニ流矢ニ中リテ死ス其子宗政本村ニ退居シ城ヲ築キ之ニ居ル弘治三年三月佐々木義賢其臣小倉三河守ヲシテ本城ヲ攻メシム城堅クシテ拔ケズ因テ城主宗喜【按ズルニ正平ノ時已ニ(376)宗喜アリ荒木系圖ニ宗喜ノ子宗政其子宗資其子宗勝等ヲ載ス蓋シ本文宗喜ハ宗勝ノ誤ナランカ】ト僞リ和シ之ヲ城外ニ誘出シ虚ニ乘シ火ヲ放ツ城遂ニ陷ル【桑名志、伊勢軍記、古屋草紙、五鈴遺響、荒木氏系圖】
 
大矢知城址 大矢未知《オホヤチ》村字大城ノ山上ニ在リ朝明川其北ヲ繞ル山上穉松繁茂ス天文中大矢知經頼之ニ居ル本軍富田村南部氏ノ支族ニシテ越前柴田氏ノ黨タリ永禄十一年織田信長ノ爲メニ亡サレ城廢ス【五鈴遺響、背書國誌、勢國見聞集】
 
伊坂城址 伊坂村字古屋敷ノ丘上ニ在リ方凡ソ四拾間壁壘古井ノ址存ス本郡萱生城主春日部俊家ノ族太郎左衛門城ヲ築キ之ニ居ル永禄十一年十月織田信長ト戰ヒ敗レ城廢ス【五鈴遺響】
 
中野城址 中野村ニ二處アリ一ハ村ノ中央字北條ニ在リ土壘及ビ濠址アリ杉ノ大樹數株ヲ存ス今、宅地及ビ竹藪タリ三重郡赤堀城主赤堀國虎ノ三男中野藤太郎【初、俵氏、藤太郎ノ名藤七郎、藤九郎等アリ今、五鈴遺響、勢國見聞集ニ從フ】弘治中城(377)ヲ築キ之ニ居ル初メ北畠氏ニ属シ後、鈴鹿郡關氏ニ從フ永禄十一年本郡西村城主朝倉詮眞ニ與ミシ織田信長ト同城ニ戰ヒ城陷リ自殺ス【本村行圓寺ニ古硯一 アリ不摺ノ硯ト名ヅク墨ヲ磨スルニ自然清水ヲ生ズ藤太郎所持ノ物ナリ又本村ニ陣員一箇ヲ藏ス中野氏傳家ノモノナリトイフ ○勢國見聞集、五鈴遺響】一ハ字北浦田圃ノ間ニ在リ周圍拾間餘ノ小阜タリ北方ニ川アリ俗、古城川ト稱ス古老傳ヘ云フ朝倉勘解由左衛門之之ニ住スト
 
保保西城址【一名朝倉城址】 西村ノ西方字城下ニ在リ方三町餘高丘ニシテ空濠土塀ノ形尚存シ樹木茂生ス朝倉詮眞之ニ居ル永禄十一年十月織田信長ノ兵ト戰ヒ敗レ其黨中野藤太郎朝倉茂盛、南部兼綱等ト皆自殺ス詮眞墓ハ本郡市場村大樹寺墓地ニ在リ【五鈴遺響、背書國誌、勢國見聞集】
 
市場城址 市場村字的場ニ在リ方貳町餘東、西、北三方ハ深丈餘ノ空濠ヲ廻ラシ南方ハ斷崖タリ東北ノ小阜ニ老樹アリ傍ニ稻荷社ヲ安(378)ンズ西村城主朝食詮眞ノ支城ナリ永禄十一年十月織田信長ノ爲メニ滅サレ城廢ス【五鈴遺響、背書國誌、勢國見聞集】
 
富田城址 東富田村字茶屋町ニ在リ今、小阜ニシテ宅地ニ属ス文安三年南部頼村信濃國松本ヨリ來リ城ヲ築キ之ニ居ル北畠氏ニ属ス其後頼宗、頼武、頼連、相繼デ住ス兼綱ニ至リテ永禄十二年一志郡木造城ノ役ニ戰死シ城廢ス或ハ云フ永禄十一年織田氏ノ爲メニ滅サルト二説孰レカ是ナルヲ知ラズ【南部氏系圖、五鈴遺響、伊勢軍記】
 
疋田城址 埋繩《ウヅナハ》村字入(ガ)谷ニ在リ丘上大約五拾坪平坦ニシテ小松茂生ス古老傳ヘ云フ往昔疋田左京之ニ居ル永禄十一年織田信長ニ滅サルト
 
廣永城址 廣永村ノ東北部宇内ノ坪ニ在リ今、小阜タリ城門及ビ外濠ノ址ヲ存ス横瀬頼直之ニ居ル永禄十一年頼直ノ孫眞尚ノ時織田信(379)長ノ爲メニ滅サレ城廢ス【五鈴遺響、横瀬系圖】
 
小向城址 小向《ヲブケ》村字名谷ノ丘上ニ在リ今概ネ茶園タリ多ク埴土ヲ取リ他方ニ販クヲ以テ漸次崩壞シテ舊址ヲ存セズ土中往々器物ヲ堀出スコトアリ、牲昔飯田庄之助之ニ居ル永禄十一年織田氏ノ將瀧川一ノ爲メニ滅サル【桑名志】
 
田光城址 田光《タビカ》村字城山ニ在リ舊形尚存ス北ハ溪谷ニ接シ南ハ田光川ニ臨ミ嶮崖ニシテ樹木茂生ス永延中田光隼則城ヲ築キ之ニ居ル後、姓ヲ梅戸ト改ム高實ニ至リテ永禄四年四月近江國高宮ニ暴死シ城廢ス【五鈴遺響、三國地誌】
 
畠城址 切畑村字猿尻ニ在リ方凡ソ貳町餘東、北、南ハ絶壁ニシテ西部ニ石壘尚存ス戰國ノ時畑定政之ニ居ル天正五年織田信長ノ爲メニ滅サル【三國地誌、勢陽雜記】
 
(380)下野山城址 山城《ヤマジヤウ》村字源治山ニ在リ山頂平地にシテ濠址古井等アリ建武中見永【一ニ江見名又海老名ニ作ル】秀宗足利尊氏ニ仕ヘ屡々戰功アリ因テ此ノ地ヲ賜フ永禄十一年十月織田信長ノ爲メニ滅サレ城廢ス【五鈴遺響】
 
雲龍宅址 羽澤村字城山ニアリ今、田圃タリ里人云フ徃昔赤堀氏ノ臣森景宗【雲龍軒】之ニ居ル因テ雲龍屋敷ト稱スト其子孫今、本村ニ住ス
 
     舘址
 
富田舘址 所在詳ナラズ葢シ東富田村富田城址ノ地ナラン富田進士平家資【一ニ家助ニ作ル】之ニ居ル元暦元年七月平氏ノ族乱ヲ作ス家資亦與ル大内惟義ノ攻ムル所トナリ逃レ走ル文治三年幕府此地ヲ以テ工藤祐經ニ賜ヒ富田庄六ケ村ヲ領ス【此時後白河院ノ御領タルヲ以テ守護代蒔田相模守亦之ニ住スト云フ】元久元年平族亦乱ヲ作ス家資子度光其子基度又此ニ據リ以テ本州ヲ乱ル伊賀伊勢守護首藤經俊兵寡フシテ逃走ス平賀朝雅命ヲ奉ジテ(381)之ヲ伐ツ四月基度等鈴鹿ノ關ヲ塞ギ徃來ヲ斷ツ朝雅乃チ美濃ヲ經テ本州ニ入リ先ヅ本舘ヲ襲ヒ接戰刻ヲ移ス遂ニ基度及ビ其弟松本三郎同四郎同九郎等ヲ誅ス【五鈴遺響、三國地誌、勢國見聞集、桑名志、東鑑】
 
     古墳
 
殖栗連《エクリムラジ》墓 小牧村字若宮耕地中ニ在リ始メ此地ニ小阜アリ明治十五年三月村人之ヲ開拓ス石窟アリ廣凡ソ壹坪高六尺許中ニ石有アリ殖栗連ノ三字ヲ刻ス亦金環ヲ出ス十六年一社ヲ建テ之ヲ祀リ又新タニ塔石ヲ此ニ建テ木柵ヲ繞ラシ題シテ殖栗連之墓ト云フ近傍字山(ガ)鼻ニ巨塚アリ王塚ト云フ又字筆(ガ)先ニ尚拾餘ノ古墳アリ
 
藤原藤房墓 田口村字唐戸石ニ在リ面積拾五坪ノ高阜タリ傳ヘ云フ藤房京ヲ去ルノ後本郡福王山中多門堂ニ來リ住ス卒スルノ後此ニ葬ルト齊東野人ノ語ナリト雖モ暫ク其説ヲ記ス
 
(382)蒔田宗勝墓 西富田村三光寺墓地ニ在リ面積貳拾五坪小石ヲ以テ之ヲ疊ミ塔ヲ其上ニ置ク高三尺蒔田相摸守宗勝墓ノ八字ヲ刻ス宗勝文治三年中後白河院ノ御領富田及ビ蒔田諸村ノ守護代タリ後、僧トナリ一宇ヲ建立シ親鸞ノ弟子トナリ祐善坊ト稱ス承久三年三月卒ス子孫僧トナリ祖業ヲ守ル【五鈴遺響、伊勢參宮名所圖繪、勢國見聞集、寺記】
 
道心因子《ドウシンインシ》墓 田光村字浦(ノ)門田圃中ニ在リ塔高凡ソ六凡周圍樹木茂生ス道心ハ本郡田光城主梅戸ノ臣ナリ勇武アリ讒ニヨリ殺サル事蹟傳ハラズ或ハ云フ同村多比鹿神社境内亦道心ノ基アリト【五鈴遺響】
 
額田部氏墳 羽津村字大宮西志※[氏/一]神社境内ニ在リ面積百餘坪樹木叢生ス里人傳ヘテ額田部天津彦根命孫意富伊我都命ノ墓トナス嘉永五年三月社殿修造ノ時此墳ヲ發見シ曲玉、古器等數個ヲ出セシト云フ
 
(383)錢龜塚 大矢知村字久留倍ニ在リ面積三拾坪小岡ヲナス老樹林立山神社ヲ祠ル始メ塚上一老松アリ錢龜松ト稱ス近世枯槁ス何人ノ墓タルヲ知ラズ
 
   員辨郡
 
     山川
 
星川 星川村字中山ノ邊ヲ云フ西方、龍(ガ)岳、藤原(ガ)嶽ノ山岳アリ尤モ風景ニ富メリ
   夫木                 行長
  明ぬとて空さかり行ほし河に我影さへや見えすなり行
   名所名寄              鴨長明
  かきりあれは橋とはなりぬ鵲の立るしるしの星川の水
 
雲花岡 鳥取村字元鳥取ニ在リ濃州道及大木道ノ岐路ニシテ字曲身(384)坂ニ接ス俳人芭蕉此地ニ至リ句アリ文化十四年村人岩田英信石ヲ建テ以テ路標トナシ其句ヲ刻ス曰ク
  雲いくへひはり鳴なるそりみ坂
 
     神祠
 
猪名部神社 北大社《キタオホヤシロ》村ニ在リ伊香我色男命ヲ祀ル素盞嗚命、天照大神ヲ合祀ス創建詳ナラズ祭日四月九日【社記】
 
鴨神社 丹生川上村ニ在リ加茂別雷命ヲ祀ル伊弉諾命、大幡大神ヲ合祀ス創建詳ナラズ祭日五月五日九月二十日十一月初卯日【社記】
 
     梵刹
 
聖寶寺 坂本村藤原(ガ)嶽ノ麓ニ在リ臨濟宗妙心寺末ナリ大同二年僧最澄創立嵯峨天皇寺領若干ヲ賜ヒ修造料ニ充ツ寺地、西南、山ヲ負ヒ東北、開豁風景佳絶ナリ寺前ニ小池アリ古松老杉之ヲ繞リ怪石奇岩(385)其間ニ起伏ス春花秋月ノ際遊客ヲシテ歸ルヲ忘レシム此地ノ人景色ノ佳ナルヲ指シテ聖寶寺ト稱ス其勝區タル知ルベキナリ【寺記、古老口碑】
 
照光寺 石榑《イシクレ》南村ニ在リ眞宗西本願寺末ナリ小松重盛四代ノ孫盛綱四男長崎照光【四郎】本村ニ來リ【年月詳ナラズ】禅僧トナリ字南山ニ一寺ヲ創立シ其氏名ヲ用ヒテ寺号トナス正嘉中本宗ニ改メ名ヲ澄念ト稱ス織田信雄北勢ヲ領セシ時寺領ヲ寄附ス後、無住トナリ寺領ヲ失ス今、末二十二寺檀徒百六拾九戸アリ
 
員辨寺址 山田村ニ在リ區域詳ナラズ字鳥取、下貝戸、南林、谷口ノ邊ニ綿亘セシナラン【大御堂、鐘撞堂、大堀ノ跡、古堂、地藏塚、員辨浦、佛供田、三百坊等ノ舊字アリ】今、耕地或ハ荒蕪地トナレリ上古天台宗ノ巨刹ナリシガ天正ノ頃織田氏ノ廢滅スル所トナル或ハ云フ本郡鼎村【舊清司原村】是其舊址ナリト桑名志ハ以テ誤謬トナス暫ク疑ヲ書ス【桑名志、古老口碑】
 
(386)東禅寺址 東禅寺村ノ西方字寺山ニ在リ今、森林タリ上世天台宗ノ巨刹タリ五輪石處々ニ點在ス傳ヘテ往昔惟高親王此ニ參籠アリシ所トナス又本村及ビ石川村ハ當寺ノ領地タリシト云フ【古老口碑】
 
     谿淵
 
辨當谷 二之瀬村字御辨當谷ニアリ美濃國多藝郡山脈ニ接ス即チ濃越ノ地ナリ傳ヘ云フ往昔源義經此地ニ來リ石ニ踞シテ飯ヲ喫ス故ニ此名アリト
 
     洞窟
 
篠立(ノ)風穴 篠立《シノタチ》村三國(ガ)岳ノ山中ニ在リ洞口高拾七尺幅拾八尺東南ニ面シ員辨川ニ臨ム洞中常ニ冷風ヲ生ズ深奥測リ難シ窟中屈曲左右ス又中ニ鐘乳ヲ産ス拔穴、白龍瀑、香爐穴、神泉、神門等アリ神門ニ入ルモノ十中一二ニ過ギズ寛永十三年桑名城主松平定綱其臣三輪(387)治部進、酒井三右衛門ニ命ジテ之ヲ探ラシム里正三輪六兵衛嚮導ヲナス窟中或ハ窄ク或ハ廣ク傴僂跼蹐シテ進ム蝙蝠甚多ク其持スル所ノ燈火ヲ滅シ爲ニ其源ヲ探ルヲ得ザリシト云フ【桑名志、古老口碑】
 
     樹石
 
笠田(ノ)老松【一名墓松】 下笠田村字南丸市八幡神社境内ニ在リ周圍四間餘高拾九間餘枝葉方拾八九間ヲ掩フ里人傳ヘ云フ往昔公卿二之宮某流寓此地ニ卒ス乃チ此ニ葬ル是其墓標ノ松ナリト明治九年三重縣博覽會ノ開設アルヤ本村和波久一郎畫工ヲシテ此松ヲ描寫セシメ之ヲ出品セリ其圖今、同氏ニ藏セリ十八年北方枝葉漸ク枯槁ノ色ヲ呈ス村人百方培養回復ヲ謀レドモ今ヤ又將ニ再枯ノ状ヲ見ハセリ
 
鼎村(ノ)七本杉 鼎《カナヘ》村字深尾藥師堂ノ前ニ在リ圍三拾尺高百貳拾尺名ヅケテ深尾七本杉ト云フ往古七株アリシモ今存スルモノ一株ノミ
 
(388)友切石 南中津原村字足谷【濃州ヘノ通路】判官坂ノ傍ニ在リ高貳尺五寸幅三尺八寸中央ヨリ分割シテ二トナル其状恰モ截斷セシモノヽ如シ里人傳ヘ云フ源義經甞テ此ヲ過ギ友切ノ名劍ヲ以テ之レヲ截ルト荒唐笑フベシ
 
     城砦及宅址
 
田邊城址 田邊村字北山ニ在リ地勢三層ヲナス其高キハ葢シ本丸二(ノ)丸ナラン而シテ内外ノ空湟土壘及ビ家士ノ邸址猶存ス一志郡戸木役ノ後木造具康、北畠信雄ニ屬シ此ニ城ヲ築キ居ル天正十八年豐臣秀吉田邊二万五千石ノ地ヲ與ヘ岐阜秀信ノ後見トス慶長五年關ガ原ノ役秀信石田三成ニ黨シ戰ヒ敗ル具康去テ福嶋正則ニ仕ヘ後、徳川氏正則ヲ備後ニ封ズ具康亦從テ移ル【背書國誌】
 
金井城址 北金井村字龜谷【舊字大藏谷】ニ在リ今、森林タリ土居湟塹ノ址ヲ存(389)ス近江佐佐木氏ノ族種村高盛大藏大輔ト稱ス天文中本州ニ來リ此ニ居ル永禄八年將軍義輝三好長慶ガ爲メニ弑セラル弟南都一乘院門主覺慶潜行シテ此地ニ至ル高盛之ヲ奉ジテ織田氏ニ頼ラシム遂ニ長慶ヲ誅シ足利氏ノ統ヲ繼グ將軍義昭是ナリ高盛子秀政其子千代次長島ニ戰死ス高盛ノ四子信盛大社ニ住ス其子孫今、本村ニ在リ【五鈴遺響、桑名志、古老口碑】
 
星川城址 星川村字尾崎ニ在リ今、耕地タリ朝明郡萱生城主春日部氏ノ族春日部若狹守ナルモノ之ニ居ル永禄中織田氏ニ攻ラレ滅亡ス或ハ云フ内田飛騨守ノ舘址ナリト未ダ據ル所ヲ知ラズ【五鈴遺響、桑名志】
 
治田城址 麓村字城山【舊訓ト治田村ノ地】ニ在リ今、山林タリ高百五拾尺許古井樓櫓ノ跡ヲ存ス永禄中楠正具之ニ居ル其後治田五兵衛及ビ其子山城守本城ヲ守ル【本郡中山村字宮ノ前ニ治田與七郎城址アリ文明中滅亡スト云事蹟詳ナラズ】天正中織田氏ニ(390)滅サレ城廢ス【背書國誌、桑名志、三國地誌】
 
長深城址 長深《ナガフケ》村字西守善正寺境内ノ地是ナリ四面斷崖ニシテ東方唯一條ノ通路アルノミ暦應中富永富春城ヲ築キ之ニ居ル後、數世富知ニ至リ永禄十一年織由信長ノ爲メニ滅サル【本村舊記】
 
梅戸城址 門前村字天水、南山ニ亘ル今、耕地山林タリ東方、大白山ニ對シ北東ニ員辨川ヲ帶ブ高丘ニシテ本郡ノ一半ヲ下瞰スベシ眺望頗ル佳ナリ往昔梅戸高實之ニ居ル天正三年十月桑名郡長島ニ戰死ス伊勢軍記ニ梅津家、伊勢平氏富田家資ノ後裔ニシテ江州佐々木承禎ノ四男ヲ養ヒ嗣トナス云々ノ事ヲ載ス蓋シ高實ノ事ヲ記セシモノナラン【背書國誌、三國地誌、光蓮寺位牌】
 
山田城址 山田村笹尾山ノ頂上ニ在リ面積五百四拾坪餘土壘古井尚存ス青木安豐之ニ據ル永禄中織田信長ノ爲メニ減サル本郡鳥取村(391)字青木ニ安豐ノ墳墓アリ【桑名志】
 
大木城址 大木村字西屋敷ニ在リ面積千坪許今、耕宅地山林トナル空濠櫓址尚存ス大木舍人助【一ニ安藝守又駿河守ニ作ル或ハ安藝守、舍人之助二人ノ居址トナス暫ク本文ニ從フ】之ニ居ル永禄中瀧川一益ノ爲メニ減サレ去テ肥後熊本城主細川氏ニ仕フト云フ【五鈴遺響、桑名志】
 
宇野城址 宇野村字上畑ニ在リ今、耕地タリ僅ニ土居ノ址存ス後藤實基ノ裔後藤實重ナルモノ之ニ居ル永禄中織田信長ノ爲メニ滅サル【五鈴遺響、桑名志】
 
下笠田城址 下笠田村字旭ニ在リ面積凡ソ五百坪今概ネ耕地トナリテ舊形ヲ存セズ元中ノ際多湖刑部左衛門之ニ居ル北畠氏ニ仕フ永禄天正ノ頃刑部助ナルモノアリ織田氏ニ屬シ功アリ葢シ其末裔ナラン按ズルニ建武中此地ニ多度大藏太夫【一ニ多田大藏太夫ニ作ル】アリ南朝ニ忠アリ又大藏助實元ナルモノアリ共ニ歴代年号等詳ナラズ【三國地誌、桑名志、多湖氏古文書】
 
(392)上笠田城址 上笠田村字南垣内ニ在リ寛永中本村井堰ヲ開堀スル時城址ノ中間ヲ鑿斷セリ北部ハ雜木茂生シ南部ハ草生地ニシテ員辨川ニ臨ム多湖大藏允築ク所タリ永禄中飯田左衛門尉【一ニ左馬助ニ作ル】之ニ居ル【五鈴遺響、桑名志、古老口碑】
 
麻生田城址 麻生田《ヲフタ》村字下垣内ニ在リ今、宅地トナリ僅ニ土壘ノ址ヲ存ス往昔徳丸右京兼介ナルモノ之ニ居ル【桑名志】
 
丹生川上城址 丹生川上村正法寺ノ山麓ニアリ土壘湟址及ビ古井等ヲ存ス往昔日能大膳ナルモノ之ニ居ル或ハ云フ服部將監ノ居址ナリト將監ノ子孫今、本村ニ在リ【桑名志、古老口碑】
 
丹生川久下城址 丹生川久下《ニフカハヒサカ》村字前田ニ在リ今概ネ耕地タリ服部右京ナルモノ此ニ居ル或ハ野田丸右京ノ居址ナリト云フ蓋シ同一ノ人ナランカ野田丸ノ子孫今、本村ニアリ【桑名志、古老口碑】
 
(393)石川城址 石川村ノ西方字下出羽ニ在リ面積凡ソ六百坪周圍土居空濠ヲ存ス往昔此地東禅寺々領ニシテ坊官齋藤助六ナルモノ歴代居住ス應永中寺領没収セラレテ城廢ス【桑名志、古老口碑】
 
山口城址 山口村字玉垣内ニ在リ今、林地タリ土壘尚存ス徃昔藤田東馬允【一ニ藤馬亟ニ作ル】此ニ居ル天正中滅亡ス【桑名志、三國地誌】
 
白瀬城址【一名本郷城又萬多城】 本郷村字西中森ニ在リ面積三百六拾坪南ハ斷崖ニシテ員辨川ヲ帶ビ北方溪谷ニ臨ム地勢頗ル險ナリ徃昔白瀬某世々之ニ居ル後、永禄中近藤吉綱ナルモノ此ニ住ス或ハ云フ治田五兵衛ノ子山城守潜ニ襲ヒ來ル家臣羽場、近藤等防ギ戰ヒ吉綱遂ニ戰死シテ城陷ルト【桑名志、五鈴遺響、背書國誌】
 
東城址 東村字神埼ニ在リ今、宅地トナレリ濠壘ノ址ヲ存ス古老傳ヘ云フ楠正具之ニ居ルト【正具治田城主タリ蓋シ其支城ナラン】又本村楠家舊記ニ云フ正成(394)十世ノ孫久間木正矩、人ニ讒セラレ此ニ蟄居シ慶長十七年七月暴死スト
 
志知城址 志知《シチ》村ノ南方字平群澤ノ山上ニ在リ面積千貳百坪許西北稍險ナリ雜木茂生シ僅ニ土壘ヲ存ス徃昔平群木兎宿禰ノ裔大内記味酒首文雄本貫ノ地ナリ後世ニ至リ員辨行網壘砦ヲ設テ羅城トナセシト云フ【五鈴遺響】
 
下平城址 下平村字平ニ在リ今、山林タリ四圍土居アリ古井ヲ存ス里人傳ヘ云フ天永中田切左兵衛輔藏人此ニ居リシト【本郡向平村ニ田切左兵衛ノ城址アリ蓋シ同人ナラン居城ノ前後詳ナラズ】
 
島田城址 島田村字東山ニ在リ面積凡ソ六百坪土居ノ址アリ今、耕地タリ永禄中島田【一ニ野村ニ作ル】兵庫頭此ニ居ル【桑名志、三國地誌】
 
東禅寺城址 東禅寺村字寺山東全寺址ノ西南ニ在リ今、林地トナリテ土居ヲ存ス三國地誌片山平藏ノ居城トス里人ノ説ニ東禅寺附地頭(395)齋藤助六ナルモノ此ニ居リ後、石川城ニ移ルト片山ハ阿下喜ニ居レハ後説或ハ是ナラン
 
中津原城址 南中津原村字西垣内ニ在リ今、宅地タリ巨樹古井等ヲ存ス里人傳ヘ云フ伊藤行秀ナルモノ此ニ居リ近郷ヲ領ス元龜二年長島ノ役ニ戰死シテ城廢スト其子孫今、本村ニ在リ
 
中上城址【一名鼻戸城】 中上村字西山ニ在リ東、北、西ハ山間ニシテ南、平地ニ連ル往昔坂兵右衛門【一中務ニ作ル】此ニ居ル【桑名志、三國地誌】
 
赤尾城址 赤尾村字西山ニ在リ南北平坦ニシテ東西稍嶮ナリ、里人云フ赤尾某此ニ居リシト往時刀劔及ビ土器數個ヲ堀出セシコトアリ
 
古田城址 古田村字城屋敷ニ在リ今、林池タリ周圍士壘ヲ存ス里人傳ヘ云フ建武二年白瀬城主近藤氏ノ族近藤義孝此ニ居リ近郷ヲ領ス子孫世襲シ義晃ニ至リ永禄四年四月滅亡スト
 
(396)西野尻城址 西野尻村ニ二處アリ一ハ字西野ニ在リ今、林地及ビ耕圃タリ東、西、北ノ三方川ニ接ス土居石垣等ヲ存ス里人云フ永享中北畠教具ノ臣西野左馬允此ニ居リ近郷諸村ヲ管ス西野殿ト稱ス三世相承ク永禄十二年織田氏ニ降ル天正十一年正月羽柴氏ノ爲メニ亡サルト一ハ字向野ニ在リ西南ハ山壑ニ連リ東北平地タリ山頂ヨリ山腹ニ至ルノ間空湟二アリ又土居古井等ヲ存ス全山雜樹茂生ス文治中輪田右馬允此ニ居ル尋デ白瀬庄司之ヲ領スルコト六世【白瀬家譜】其後日置大膳其子日向及ビ塩谷兵部等數世ノ居城タリ【桑名志、古老口碑】
 
大井田城址 大井田村字小谷口ニ在リ今、山林タリ北ハ斷崖ニシテ川ニ臨ミ東ハ地勢高ク西南稍平坦ナリ二箇ノ古井及ビ土壘ノ址ヲ存ス徃昔栗田左衛門佐【一ニ印道信入道ニ作ル】此ニ居ル【桑名志】
 
阿下喜城址【一ニ上木城ニ作ル】 阿下喜《アゲキ》村字正邸ニ在リ今、耕地及ビ山林トナル壘(397)濠ノ址僅ニ存ス南北朝ノ頃片山信保此ニ居ル永禄中範者【一ニ主計頭ニ作ル】ナルモノニ至リ瀧川一益ノ爲メニ滅サル三國地誌ニ上木九郎右衛門居守スト記ス盖シ誤リナラン同所小丘ノ上ニ範者ノ墓アリ【桑名志、桑名府名勝録】
 
向平城址 向平村字谷上ニ在リ今、藪地トナリ土居石垣ノ址ヲ存ス傳ヘ云フ徃昔田切左兵衛此ニ居ルト【桑名志】土中古錢古刀ヲ堀出セシコトアリ【古老口碑】
 
     舘址
 
春澄善繩舘址 長尾村字兩馬場ニ在リ森林中礎石ヲ存ス是其舘址ナリト云フ善繩本姓猪名部造本郡ノ人タリ祖財磨本郡ノ少領タリ父豐雄周防ノ大目タリ善繩博學藻思アリ入テ朝廷ニ仕ヘ貞觀中累遷シテ參議正三位ニ至ル甞テ勅ヲ奉ジテ續日本後紀四十卷ヲ撰修ス十二年(398)二月薨ズ年七十四其裔員辨三郎行綱及ビ其子行經等アリ相繼デ之ニ住ス後、家絶ス此地小祠アリ善繩ノ靈ヲ祀ル毎年二月十九日祭典ヲ行フト云フ【三代實録、五鈴遺響】
 
加藤景清舘址 志知村字南浦耕地中ニ在リ貳坪許ノ地周圍石垣ヲ疊ミ松、櫻ヲ植ウ小祠アリ石佛ヲゥク加藤景清此ニ住ス此地夏月蚊蚋ヲ生ゼズト云フ一説ニ里正佐平治ナルモノヽ居址トナス盖シ景清ト稱スルハ俗傳ノ誤リナラン【五鈴遺響、桑名志】
 
別名舘址 別名《ペツミヤウ》村字前田ニ在リ今、宅地タリ傳ヘ云フ林右馬之介此ニ居ル或ハ云フ長松與惣右衛門ナルモノヽ居舘ナリト【背書國誌、三國地誌】
 
松平氏別舘址 三處アリ一ハ鳥取村ニ在リ其地詳カナラズ一ハ下笠田村字旭ニ在リ今、村人居住ス笠田池ヲ開鑿セシ時之ヲ設ク一ハ平野新田ノ北方字御殿ニ在リ今、村社境内トナリテ樹木茂生ス西隅古井二(399)ヲ存ス又字茶山ニ茶亭ノ址アリ共ニ寛永中桑名城主松平定綱建ツル所タリ蓋シ平野新田ヲ開拓スル時舘ヲ此ニ設ケテ遊觀ノ處トナセシナラン【桑名志、古老口碑】儒臣三宅正堅ノ詩アリ曰ク
 〓v川導v水助2農桑1、田獵行v春五馬忙、松下預知卜居處、千年遺愛憶甘棠1
 
     古墳
 
三朝塚 西野尻村字羽場ニアリ面積百坪方形ニシテ周圍湟アリ地上櫻樹數株ヲ植ウ社アリ三天皇社ト稱ス後醍醐、後村上、後龜山ノ三帝ヲ祀ル傳ヘ云フ文禄中北畠具親ノ子具成此地ヲ相シ曩祖親房等南朝三帝ヨリ拜賜セシ遺器ヲ此ニ埋メ其靈ヲ祀ル又吉野ノ櫻株ヲ移シ植ヱ【古木己ニ枯槁シ今存スルモノハ後代植ヱシモノナリト云フ】碑ヲ立チ其詠ズル所ノ和歌ヲ刻シテ標トナス歌ニ曰ク、みよし野の三代の帝とおみたちの御靈をや(400)とすさか木さくらぞ、又社前ニ二石アリ腰掛石、鞭打石ト稱ス一ハ赤松惡圓心一ハ奴高氏ノ數字ヲ刻ス詣拜スルモノヲシテ之ヲ鞭笞踏藉セシム寛永中赤松氏ノ裔某本村ニ至リ其碑石ヲ除棄セシト云フ【本村舊記】
 
北畠具成墓 西野尻村字羽場三朝塚ノ傍ニアリ五輪塔高三尺三寸餘梵字ヲ刻ス臺石ニ久護院具成居士慶長十三年七月十四日ノ十七字ヲ刻ス又傍ニ其母佐々木氏ノ墓アリ承禎ノ女ナリ具成、具親ノ子天正六年正月備後國鞆館ニ生ル因テ鞆麿ト稱ス北畠氏ノ亡ブルヤ具親恢復ヲ謀ル天正十年本州ニ來リ餘燼ヲ収合シ多氣軍五箇篠山ニ據リ具成ヲ金剛寺ニ託ス戰ヒ敗ルヽニ及ビテ織田氏具成ヲ捜索シテ已マズ僧徒之ヲ隱シテ免ルヲ得タリ文禄三年九月一柳直盛桑名城主タリシ時具成ヲ擧ゲテ本軍志禮石郷長タラシム具成感激草莽ヲ(401)ヲ開拓シ農業ヲ勸課ス部民悦服スト云フ【本村舊記】
 
猪名部氏祖先墓 北大社村猪名部神社境内ニ在リ面積四拾九坪高貳間餘往昔圓形ナリシガ削リテ六角トナシ石垣ヲ疊ミ藥師佛ヲ此ニゥク後、他ニ移ス傳ヘテ猪名部氏祖先ノ墓ナリトス始メ大小ノ塚數個散在セシガ社殿再建ノ時塚ヲ發キ樹ヲ斫リ石ヲ取リ構造ニ供ス時ニ土中ヨリ古刀ヲ得シト云フ今纔ニ二三ヲ存ス高塚ト稱スルモノ尤モ大ナリ【古老口碑】
 
員辨行綱墓 長尾村字屋敷ニ在リ面積拾坪塚上小石ヲ散布ス行綱三郎ト稱ス本郡郡司タリ建仁中叛ヲ謀ルト疑ハレ和田義盛ノ訟フル所トナリ逮捕セラル後、宥サレテ郷ニ還ル所領故ノ如シ卒シテ此ニ葬ル或ハ云フ元久元年四月平氏ニ黨シ叛ヲ謀リ誅セラルト其説何レニ據ルヲ知ラズ暫ク疑ヲ書ス【東鑑、背書國誌、桑名志】
 
(402)土岐持頼墓 北金井村字南石佛ニ在リ今、宅地ニ属ス五輪塔及ビ石垣ヲ存ス持頼、土岐康政【大膳太夫】ノ子ナリ本州ノ守護トナリテ河曲郡箕田城ヲ守ル永享十年五月南軍蜂起大和乱ル持頼、一色義貫ト共ニ將軍義教ノ命ヲ奉ジ之ヲ討ツ會々二人不規ヲ圖ルト讒スルモノアリ義教命ジテ義貫ヲ斬ル持頼ノ族土岐興安、持頼ヲ撃ツ持頼大和多武峯ニ自殺ス興安其屍ヲ此ニ葬ル【五鈴遺響、古老口碑】
 
麻績連墓【一名王塚又茶臼山】 麻生田村字南山ニ在リ麻生田野ニ接ス大小二アリ一ハ高貳間周圍六拾間南方ニ斗出ス一ハ高壹間周圍三拾間相距ル六間許里人傳ヘテ麻績連ノ墓トナス
 
服部友定墓 上相場《カミアヒバ》村字米野ニ在リ面積八坪高五尺草木茂生ス友定權太夫ト稱ス桑名郡長島城主タリ北畠氏ニ仕フ【五鈴遺響】永禄十一年正月正ヲ多氣城ニ賀ス織田氏間ヲ伺ヒ本城ニ入ル友定力拒ム能ハズ同(403)月本村米野山陰凉庵ニ自殺ス即チ此ニ葬ル道圓ト諡ス其妻尼トナリ陰凉庵ニ在リ七月没ス眞禅尼ト諡ス【古老口碑】
 
輪由右馬允墓 西野尻村字向野ニ在リ今、林池タリ五輪塔ヲ存ス高貳尺七寸餘臺石二層左右亦小塔アリ傳ヘテ右馬允ノ墓ナリト云フ村人今ニ至ルマデ香花ヲ供シテ之ヲ祀ル【古老口碑】
 
長深村古墳 長深村字生木ニ在リ面積四坪始メ之ヲ知ルモノナカリシガ明治八年村人之ヲ毀チシニ石窟アリ南ニ面ス窟口狹クシテ中廣シ階級ノ形ヲナス金環及ビ土器類ヲ出セリ近傍舊字船山、船塚等ノ名アリ姓氏ニ船連ヲ載ス或ハ此人ノ墓ニハ非ルカ書シテ參照トス
 
小金塚及三(ツ)塚 大木村字東六把野及ビ西六把野ニアリ雜草茂生ス小金塚ハ圓形ニシテ三(ツ)塚ハ三個相並ビ共ニ方形ヲナス或ハ大木氏(404)ノ遠祖猪名部造財麿及ビ豐雄等ノ墓トナシ又徃昔員辨寺廢滅ノ時寶器ヲ埋メシ處ナリトナス文久中村人小金塚ヲ開キシニ廣方九尺深五尺石ヲ以テ之ヲ疊ム其中土器五六個ヲ存スト云フ【古老口碑】
 
火塚 石榑東村ニ俗、火塚ト稱スルモノ貳拾貳基アリ字野口田、南村、野口、西大野、中大野、東大野ノ諸處ニ散在ス圓形ニシテ皆石ヲ以テ疊ム回リ三拾間ヨリ拾三間ニ至ル皆南方ニ向フ塚中ヨリ土器ノ破壞セシモノヲ堀出セシコトアリ傳ヘ云フ大古朝廷ヨリ火ノ降ルコトヲ諭告アリタル時之ヲ築キ潜匿セシ處ナリト其據ル所ヲ知ラズ
 
   桑名郡
 
     山川
 
多度山【一名箕山】 本郡ノ西北隅ニ在リ高大約千貳百尺山上三十六峯ニ分ル巨松老杉蓊欝空ニ聳エ内海ノ布帆、參、尾諸州ノ峯巒皆目睫ニ集ル(405)靡ニ多度神社ヲ安ンズ社宇壯麗頗ル景勝ニ富ム一水アリ落葉川ト云フ碑ヲ建テ俳人芭蕉ノ句ヲ刻ス【句ニ曰ク宮人よ我名を知らせ落葉河】山中八景ノ勝アリ曰ク冠峯黄葉【多度神社ノ上方ニ屹立スル一峯タリ】一拳紫藤【多度攝社一言主命ヲ祀ル】八壺瀑布【八壺谷】愛宕晩鐘【山ノ中腹字愛宕】朝拜秋月【山ノニシ陲字宮地】野々宮梅花【字野々宮】清水落雁【字清水、西野汰ガ平ノ地】三杉暮雪【字一谷柚井村ニ属ス巨杉アリ分レテ三幹トナル】是ナリ
 
尾野山 東方《ヒガシカタ》村字西場樣ニ在リ高大約貳百尺眺望頗ル開豁ナリ山下ニ松アリ船繋松ト稱ス此邊往昔江灣ニ属ス此其船ヲ繋ギシ所ナリト或ハ云フ世ニ稱スル所小野古江ハ即チ此邊ナリト【桑名志、古老口碑】
 
白山鼻《シラヤマノハナ》【一名岩ガ鼻又尾野崎ト稱ス】 東方村字西場樣ニ在リ古老傳ヘ云フ此地徃昔海中ニ突出シ岩石起伏波浪常ニ之ニ激シ渡海尤モ困難ノ地ナリシト公私爪録ニ播摩新田ノ運性房ヲ訪ヒシ時ノ歌ニ
  こしならぬ白山のはなたとり來て訪ふは御法の花の隱家
 
(406)丸山【一名高塚山】 北別所村字高塚山ニ在リ四境開豁東ハ尾、濃、參ノ三州ヲ望ミ名護屋、犬山ノ二城矚目ノ中ニ在リ又遙ニ加賀白山、信濃淺間(ガ)嶽、御嶽ノ諸山及ビ西北、本州員辨郡福山、近江伊吹、八風等ノ山岳ヲ望ミ南ハ内海ニ面シ遠近ノ船舶一目數フベシ山下ニ馬場、的場及ビ用水井等ノ址アリ葢シ徃昔桑名城主遊觀ノ地ナラン【桑名志】
 
御砂山 上深谷部《カミフカヤベ》村ニ在リ所在詳ナラズ相傳フ往昔日本武尊御衣野ニ仲憩ノ時土人五色ノ砂石ヲ此ニ取リ頓宮ノ庭中ニ敷ク因テ此名アリト【三國地誌】
 
富土山 御衣野《ミソノ》村字西谷ニ在リ高丘ニシテ四隣山林ニ接ス相傳フ往昔日本武尊夷ヲ富士野ニ殲シ凱施此地ヲ過ギ丘上ニ憩フ故ニ此名アリト【三國地誌】
 
愛宕山 矢田村字城山ノ地ヲ云フ南ハ内海ニ望ミ勢、志、尾、參、遠、信、江等(407)諸州ノ山岳皆眼中ニ在リ風景絶佳ナリ衆庶此ニ歡樂スルモノ常ニ絶エズ丘上呑景櫻アリ森樅堂之ガ紀ヲ作ル
 
永山 所在詳ナラズ豐鑑ニ天正十一年秀吉伊勢國ニ赴キ桑名ノ西永ノ山ヘ取アガリ桑名ヲ見下シテ軍立ストアリ葢シ今ノ西方村ノ邊ナラン【桑名志】
 
失田河原信雄秀吉和睦所 桑名市街ノ西方字矢田河原ニ在リ今、宅地ニシテ舊形ヲ見ズ貞辨川舊ト此處ヲ過ギ海ニ注グ故ニ此名アリ【慶長中本多氏流域ヲ南方ニ換ヘ此ニ外郭ヲ設ク以テ藩士ヲ住マシム】天正十二年是ヨリ先キ北畠信雄、羽柴秀吉ト隙アリ兵ヲ搆フ【之ヲ小牧役ト稱ス】既ニシテ秀吉本州ニ入リ羽津ニ陣シ諸將ヲシテ繩生、桑部ノ城ヲ守ラシム信雄中江ニ據リ濱田、桑名、兩城ニ兵ヲ分チ以テ相對峙ス秀吉會々悟ル所アリ津田隼人、富田左近ヲ遣リ信雄ニ和親ヲ通ズ十月此地ニ於テ兩將相會シ遂ニ和ヲ結ブ(408)ト云フ【勢陽雜記、桑名志、五鈴遺響】
 
     神祠
 
多度神社 多度村多度山ノ麓ニ在リ天津彦根命ヲ祀リ面足命、惶根命ヲ配祀ス雄略天皇ノ時創建ス元龜中織田信長ノ兵燹ニカヽリ殿宇神寶燒失ス慶長中桑名城主本多忠勝之ヲ造營ス後、累代城主社領ヲ寄附シテ之ヲ崇敬セリ別宮一座アリ一目連社ト稱ス旱魃ノ時遠近ノ人民雨ヲ此ニ祈ルヲ例トセリ【社記】
 
鎭國神社、守國神社 桑名吉之丸ニ在リ兩社合殿ニシテ旭八幡社ヲ合祀ス鎭國社ハ桑名城主松平定綱【文政六年創建】守國社ハ同定信【天保五年創建】ノ靈ヲ祀ル八幡社ハ定綱、定信在世中城内ニ安置セルノ縁故ニ由リテ寛政中此ニ合祀スト云フ祭日十二月廿五日五月十三日
 
桑名神社、中臣神社 桑名三崎ニ在リ兩社合殿ナリ桑名神社ハ天津日(409)子根命、天久之比乃命中臣神社ハ天兒屋根命、武雷命、齋主命ヲ合祀ス創建詳ナラズ祭日五月十七日十月十九日祭禮甚ダ盛ンナリ
 按ズルニ社地詳ナラズ或ハ云フ桑名神社桑部村ニ在リト御巫清直曰桑部村ハ古、員辨郡久米村ノ地ナレバ桑名神社ノ此ニアルベキ理ナシ而シテ本社本ト二座アリ一座ハ暫ク現社地ヲ是トスレドモ一座ニ就テハ諸書論辨セルアラズ夫ハ必ズ別處ニアルベキナリサレバ寶殿町ナル佐乃富神社ハ即チ桑名神社ノ一座ナルベシト又中臣神社ヲ論ジテ曰ク先輩諸書ニ論ズト雖ドモ麁妄ニシテ共ニ本社タルベキノ證左ナシ猶各村ヲ捜索シテ眞ヲ取ルベシト記シテ後考ニ供ス
 
立坂神社【駒繋松】 矢田村ニ在リ大日〓貴命ヲ祀ル玉依姫命、品陀和氣命、息長足姫命ヲ合祀ス創建詳ナラズ祭日合殿祭八月十五日大祭十月十(410)九日紀念祭五月十日境内ニ松樹アリ駒繁松ト稱ス傳ヘ云フ桑名城主本多忠政出陣ノ時馬ヲ此ニ繋ギシト【社記、古老口碑】
 按ズルニ社地詳ナラズ御巫清直曰ク東方村字立坂ト稱スルアリ小丘之ニ位ス其下舊字立坂、立坂前、同東立坂浦ノ名稱アリ立坂ノ名號昭然タリ其坂頭神祠アリ其社古色アリテ地形モ亦舊シト是レ或ハ然ラン
 
神館神社 江場村ニ在リ天照大神ヲ祀ル垂仁天皇十七年九月之ヲ創建ス社傳ニ云フ初メ倭姫命、大神ヲ奉ジ大和國ヨリ本州ニ來リ暫ク此ニ行宮ヲ設ケ玉ヒシニヨリ社殿ヲ建ツト祭日十月十三日
 
額田神社 糠田村ニ在リ意富伊我都命ヲ祀ル天照大神、天津彦根命ヲ合祀ス社傳ニ云フ允恭天皇ノ時額田部連其遠祖ヲ奉祀ス今、隣村増田村ノ中央ニ舊字宮地跡又宮裏アリ元ト此ニ在リシヲ中世今ノ地(411)ニ移スト祭日十月十六日
 
天武天皇社 桑名鍋名町北側ニ在リ天武天皇ヲ祀ル皇后及ビ高市皇子ヲ合祀ス創建詳ナラズ祭日九月十六日【社記】
 按ズルニ天武天皇本州行幸ノ事載セテ國史ニ在リ此地即チ頓宮ノ址ナリト云フ然レドモ桑名志ニ天皇ノ舊址ハ蛎塚揚柳寺ノ舊地【今新屋敷ノ地】ニシテ後世此ニ遷スト記ス其説葢シ是ナラン
 
赤須賀神明社 桑名獵師町ニ在リ天照大神ヲ祀ル社傳ニ云フ往昔市場秀俊三河國市場村ヲ領セシガ故アリテ三河ヲ去リ氏ヲ伊東ト改メ永禄中赤須賀【元赤須賀ノ地】ニ來リ住シ神明社ヲ鎭祭シ氏神トナ慶安中城主松平定綱本町ヲ開キ獵師ヲ移ス時今ノ地ニ遷スト祭日十月九日
 
宇賀神社 柚井村字宇賀ニ在リ倉稻魂命ヲ祀ル創建詳ナラズ祭日九(412)月三十日
 按ズルニ本社ノ舊地今詳ナラズ一説ニ員辨郡宇賀邨ニアリトナシ又本村宇賀ト云フ處ニ在リトナス然レドモ今稱スル所ノ宇賀ハ維新後改稱セシモノニテ舊稱ニ非ズ斬暫ク疑ヲ存ス
 
     梵刹
 
本統寺 桑名今一色寺町ニ在リ眞宗東本願寺別院ナリ元龜天正年間本願寺僧徒織田信長ト兵ヲ搆フノ時此地ニ道場ヲ建テ評議所トナス當時未ダ寺號ヲ定メズ慶長六年僧教如ノ女剃髪シテ教澄院ト號シ本寺ニ居ル之ヲ桑名御坊ト云フ慶安中始メテ本統寺ト號ス此地ハ法泉寺ノ地ナリシガ挂所設立ノ時香取ニ移リ本寺【舊ト現地ノ西方ニ在リ】ヲ此ニ轉築ス今、檀家千百五拾戸アリ【寺記】
 
法盛寺 桑名萱町ニ在リ眞宗西本願寺別院ナリ往昔ハ天台宗ニシテ三(413)河矢矧村ニアリテ阿彌陀寺ト號セシガ嘉禎元年僧親鸞此ニ滯留シ、柳堂ト稱ス弟子忠圓ヲ之ニ住セシメ今宗ニ改ム應仁二年僧祐慶乱ヲ避ケテ桑名三崎【今ノ三崎通ノ邊】ニ移リ後、今ノ地ニ移ル天正中法盛寺ト改ム今、檀家七百餘戸アリ
 
照源寺 東方村ニ在リ淨土宗知恩院末ナリ寛永元年松平宗勝卒ス後、定行一寺ヲ建テ崇源寺ト稱シ僧三甫ヲ開基トシ寺領ヲ寄附ス松平氏封ヲ移スニ及ビ松平定綱美濃大垣ヨリ此ニ移リ又寺領ヲ寄ス後、故アリテ寺号ヲ照源寺ト改ム【寺記】
 
淨土寺 桑名清水町ニ在リ淨土宗京都光明、禅林兩寺末ニ属ス永承四年創建ス當時或ハ三崎ノ神宮寺ト稱セリ寶治元年僧道觀中興ス舊ト田町ニアリシヲ慶長中今ノ地ニ移ス十五年本多忠勝ノ骨ヲ此ニ葬ル同氏累代ノ菩提所タリ後、火災ニ罹リ正徳享保ノ間本堂、庫裡等(414)再建落成セリ【寺記】
 
大福田寺 東方村ニ在リ眞言宗高野山金剛寶寺末ナリ用明天皇ノ時厩戸皇子度會郡山田ノ地ニ創建アリ天武持統ノ二帝之ニ行幸シ般若會仁王會ヲ擧行セラル聖武天皇亦行幸アリテ千僧法樂會ヲ執行シ勅シテ大神宮寺ト稱ス淳和天皇ノ時勅願寺タリ宇多法皇行幸アリ方丈ヲ行宮トス遊觀月ヲ累ヌ因テ法皇院ノ號アリ永承七年後冷泉天皇行幸アリ一千僧ヲ聚メテ勅會ノ讀經ヲ行フ弘安中火災ニ罹リ燒失ス神官祠人伊勢長官額田部實隆神託ヲ蒙リ僧忍性ト謀リ堂宇ヲ再建シテ福田寺ト号ス後宇多天皇桑名、員辨、朝明、三重四郡ノ中ニ於テ寺領ヲ賜ヒ勅願所トナス足利尊氏大字ヲ加テ大福田寺ト号ス【俗ニ大寺《ヲホデラ》ト云フ】明應以後兵燹ニ罹ル文龜ノ頃本郡安永、江場二村ニ移ル徃昔塔頭二十七院末寺四十餘アリ此地屡風雨ノ難アルヲ以テ桑名城(415)主松平定重ニ請ヒ寛文中今ノ地ニ移スト云フ【寺記】
 按ズルニ五鈴遺響ニ天武及持統聖武ノ三帝桑名行幸ハ國史ニ著明ナリト雖ドモ大神宮ニ行幸ノコトナケレバ本寺ニ幸スベキハナシ又神宮記録ニ寛平法皇大神宮行幸ノ事蹟ヲ録セズ伊勢神宮額田部姓ナシ該寺今ノ大福村ニ存在スト謂フトキハ其由無ニシモアラズサレバ寺記信ジ難シ云々論辨セリ參考ノ爲メ附記ス
 
多度大神宮寺伽藍址【一ニ法雲寺ト稱ス】 多度村字愛宕ニ在リ五輪右塔處々ニ散在セリ天平寶字七年僧滿願創メテ小堂ヲ建ツ續日本後紀ニ曰ク承和六年正月以2伊勢國桑名郡多度大神宮寺1爲2天台一院1云々ト乃チ往古ノ古刹タルコト知ルベシ後、元龜中織田氏ノ兵火ニ罹リ堂宇燒失ス寛永中桑名城主松平氏遠江掛川ノ愛宕社ヲ此地ニ移シ一寺ヲ建立シテ別當トナス【桑名志、五鈴遺響】
 
(416)願證寺址【一ニ顯證寺ニ作ル】 桑名鍋屋町ニ在リ天文中僧蓮如ノ十二男蓮淳ノ開基ニシテ始メ長島ニ創建シ長島山ト號ス元龜二年四世證意長島城ニ據リ織田信長ニ抗ス其子顯忍繼デ居ル天正ニ年信長來リ攻メ顯忍自殺ス其子准惠免レテ民家ニ養ハル長ズルニ及ビテ再ビ願證寺ヲ今ノ地ニ營ス正徳中宗派ヲ再メ寺終ニ廢ス寶暦中本堂ヲ奄藝郡一身田村專修寺ニ移ス【桑名志、五鈴遺響、勢國見聞集】
 
阿彌陀寺址 下深谷部村字本堂ニ在リ今概ネ耕地タリ京都泉涌寺末ニシテ寺領五百石アリ天正ノ亂兵火ニ燒盡ス相傳フ此地ヲ耕スニ不淨ヲ用フレバ足指析ケテ六トナリ又六指ノ子ヲ産スト故ニ里人畏レテ神田トナシテ耕サズ俗、六指田ト稱ス【五鈴遺響、桑名志】
 
     原野
 
河内野 今其所ヲ詳ニセズ三國地誌ニ云フ長島及ビ一江島七村ヲ指(417)シテ河内ト云フ往古願證寺ヲ川内御堂ト號シ古佛ノ背ニ伊勢國横郡川内某村某寺某ト記シ或ハ長島御堂ト呼ブ乃チ川内ハ河内ニシテ長島一郷四面河ヲ繞ラス故ニ此名アリ多年ノ洪水ニ流失シテ地名モ亦失セリト又桑名志ニ此野廣二里トアリ記シテ參照ニ供ス
 
     濱海
 
尾津(ノ)濱 本郡ノ西北部御衣野村、戸津村ノ邊ヲ指ス往昔日本武尊東征ノ時此地ニ憩ヒ帶ブル所ノ劍ヲ松樹ニ懸ケ遂ニ遺シ去ル歸路再ビ此ニ至レバ劍猶依然トシテアリ尊悦ビデ歌ヲ詠ジテ曰ク袁波理邇多陀邇牟迦幣流袁都能佐岐那流比登都麻都阿勢袁比登都麻都比登邇阿理勢婆多知波氣麻斯袁岐奴岐勢麻斯袁比登都麻都阿勢袁《ヲハリニタヾニムカヘルヲツノサキナルフイトツマツアセヲヒトツマツヒトニアリセハタチハケマシヲキヌキセマシヲヒトツマツアセヲ》【古事記】ト尾津ハ今ノ戸津村ナリ此邊古、瀕海ノ地ニシテ大津ト云フ渡津タリ舟楫常ニ徃來セリ今、田畝中船着ノ祠、碇塚等ノ名アリ【桑名志、勢陽雜記、三國地誌】(418)蓋シ此地今、海ヲ距ル幾ンド四里千有餘年ノ間土地次第ニ隆起シ遂ニ斯ノ如キ變遷ヲナスニ至リシナラン
 
溝野濱【太刀掛松一名一(ツ)松】 御衣野村字西谷ノ邊ヲ云フ今概ネ耕地トナル蓋シ往昔沿海ノ地ナラン里人傳ヘ云フ日本武尊東征ノ時其帶劔ヲ掛ケシ松アリシ處ナリト
                      公朝
  伊勢島や溝野の濱の松か枝に年歴て立てる太刀をかしこし
 
間遠《マトホノ》渡【一ニ眞遠ニ作ル一名七里渡又加古渡】 桑名港ヨリ尾張熱田港ニ至ル伊勢七里ノ渡津ヲ云フ東海ノ官道ニ属ス【封建ノ際諸侯貴紳東武ヘ往來ノ時桑名城主船ヲ艤シテ之ヲ渡スノ例アリシ】傳ヘ云フ往昔天武天皇大和吉野ヨリ本州ニ行幸アリテ此地ヨリ熱田ヘ渡御セラルニ海路悠遠着岸ヲ待詫ビ玉ヒ間遠ノ渡リ哉ト宣ヒシヨリ遂ニ此名アリト【勢陽雜記、古老口碑】桑各志ニ云フ此ノ地ヨリ北方二里尾津村(419)【今戸津村】アリ是レヨリ津島ニ渡リシヲ後世ニ及ビテ此地ニ變ズト併記シテ參考トス
   勢陽雜記             讀人不知
  有明の月に間遠の渡りして里にいそがぬ夜半の舟人
   伊勢物語
  いとヽしく過行かたの戀しきにうらやましくもかへる波哉
 
伊勢(ノ)海 本州ノ東方ニ位セル内海ヲ總稱ス邊岸白砂松林多ク風景殊ニ佳ナリ古歌最モ多シ上世或ハ志摩海邊諸島ヲモ合セ詠ズルモノアル
   萬葉                安貴王
  伊勢海之奥津白浪花爾欲得裹而妹之家晨爲《イセノウミノオキツシラナミハナニモガツヽミテイモガイヘヅトニセン》
   同                 笠女郎
(420)  伊勢海之磯毛動爾因流浪恐人爾戀渡鴨《イセノウミノイソモトヾロニヨスルナミカシコキヒトニコヒワタルカモ》
   古今               讀人不知
  いせのうみに釣する海土のうけなれや心ひとつを定め兼つる
   後撰              在原業平
  伊勢の海に遊ふ海士ともなりにしか波かきわけて見るめかつかん
   千載           權大納言實國鹽
  鹽たるゝ伊勢雄の海士や我ならんさらはみるめを刈よしもかな
 
     谿淵
 
八壺《ヤツボ》谷 多度村字八壺谷ニ在リ多度山ニ属ス※[手偏+賛]峯相疊リ幽谷ヲ圍ム一條ノ溪流屈回シテ八處ノ淵ヲナシ其状壺ノ如シ故ニ名ヅク危巖削絶飛泉之ニ懸リ松楓ノ間ニ掩映ス之ヲ八壺瀑布ト稱ス多度八景ノ一ナリ山中萱莢ヲ産ス里人之ヲ製シテ市中ニ鬻グ【俗ニ八壺豆ト云フ】又夫(421)婦石、蓮華石、平石等アリ共ニ著名トナス梁川緯甞テ此地ニ遊ブ詩アリ曰ク
  自3從携v屋向2三都1、只願誅v弟住2八壺1、請見石飛泉立處、天然一幅大擬圖、
 
     池泉
 
式部泉 東方村字谷山ニ在リ耕地及ビ竹林中ニ小溝アリ雜草茂生僅ニ細流ヲ通ズ後人小池ヲ下流ニ穿チ其舊蹟ヲ表ス三伏ノ時雅客來遊スルモノ多シ俗、傳ヘ云フ和泉式部此地ニ來遊シ池水ヲ汲ミ以テ硯水トナス故ニ此名アリト明暦中三宅正堅等遊式部泉ノ詩數首アリ
 按ズルニ和泉式部本州ニ至ルコト古史見ル所ナシ本村山本氏系譜ニ云フ其先ヲ式部介ト稱ス天正中織田氏ノ本州ヲ攻ムル時式部西別所村城主後藤彌五郎ヲ助ケ遂ニ敵兵ニ害セラル信長其首(422)ヲ池水ニ浸スト盖シ此事ヲ附會セシナラン
 
走井(ノ)泉 矢田村字城山ニ在リ即チ矢田氏ノ古城址ニ属ス松平定綱此ニ一寺ヲ建テ走井山勸學寺ト云フ今、廢ス庭中名泉アリ走リ井ト云フ其名特ニ高シ故ニ山號トナセリ【五鈴遺響】
 
     樹石
 
六本楠 太夫村字中條割ニ在リ往古六株アリ今、僅ニ其一ヲ存ス【桑名雜記】圍八間餘分レテ二幹トナル高拾七間餘枝葉延ビテ東西拾五間南北拾六間許ヲ掩フ見ルモノ其巨大ナルニ驚ク
 
一本松 江場村字中繩田圃中ニ在リ周圍七尺高貳間貳尺枝葉繁茂圓形ヲナス里人傳ヘ云フ往昔大福田寺ノ庭樹ナリシガ火災ニ罹レルヲ以テ今ヲ距ル三十餘年前村人水谷某ナルモノ繼グニ小株ヲ以テス今、存スルモノ是ナリ
 
(423)籠石 多度神社境内ニ在リ圓形ヲナス傳ヘテ神右トナス明和七年山中鳴動シ石下、鏡三十面太刀、斧、鈴等ヲ出ス今、神庫ニ藏ス【古老口碑】
 
冠石 多度村冠嶽ニ在リ傳ヘテ多度神社神石トス形状冠帽ノ如シ故ニ名ヅク
 
御供《ゴグウ》石 多度神社境内ニ在リ長方形ヲナス相傳フ元龜中本社燒失ノ時石上供物チ列ス故ニ名ヅクト
 
明櫃《カラビツ》石 多度神社社前ニ在リ方形ヲナス元龜二年本社燒失ノ時神体エオ石上ニ安ンズ因テ此名アリ
 
 
影向《カゲムカヒ》石 多度神社境内ニ在リ三角形ヲナス亦神石トナス
 
     行宮址
 
野代宮址 下野代村字石塔ニ在リ樹木欝蒼タリ今、式社野志里神社ヲ安ンズ此地天照大神遷座ノ頓宮タリ倭姫命世紀ニ十年【辛丑】秋八月朔遷2(424)幸美濃國伊久良河宮1、四年奉齋、次遷2幸尾張國中島宮1、【中畧】十四年【乙己】秋九月朔日、遷2幸伊勢國桑名郡野代宮1ト載ス即チ是地ナリ此地諸説混淆一ナラズ州人御巫清直歸正鈔ニ諸書ヲ索引シテ之ヲ論ズ今之ニ從フ
   伊勢名所拾遺          度會元長
  すみれ生ふる野しろの宮のあたりとて摘人なしに過る春かな
 
天武天皇頓宮址 所在詳ナラズ日本紀天武天皇元年六月ノ條ニ曰ク【上略】天皇宿2于桑名郡家1云々即日天皇留2皇后1而入2不破1【中略】九月巳丑朔丙申車駕還宿2伊勢桑名1ト桑名志、古記ヲ引キテ曰ク桑名鍋屋町ニ天皇ノ社アリ是舊址ニ非ズ蛎塚掲柳寺ノ舊地【今、新屋敷ノ地】是レナリ同地ノ南ニ古井アリ供御ノ水之ニ汲メリ【今堀ノ中ニ埋没ス】又同地ニ菊ノ井ト稱スル古井アリ天皇御足洗ノ水ト稱スト蓋シ此地ヲ以テ其舊址トナスコ(425)ト是ニ似タリ
 
聖武天皇石占頓宮址 桑名郡ニ在リ今詳ナラズ續日本紀聖武天皇天平十二年庚辰九月ノ條ニ藤原廣嗣遂起v兵反【中畧】十月壬午天皇行2幸伊勢國1【中畧】十一月戊申至2桑名郡石占頓宮1ト載ス今、桑名春日祭ニ石取ノ神事アリ是石占ノ遺風ナルカ【三國地誌】
 
     城砦及宅址
 
桑名城址 桑名市街ノ東北部ニ在リ今、吉ノ丸三ノ九ノ地是ナリ東ハ揖斐川ニ沿ヒ其三面市街ニ接シ繞ス王濠ヲ以テス四圍石垣アリ高丈餘今其大半農商務省用地ニ屬ス餘ハ宅地或ハ耕地ニ歸ス上世桑名首ノ居ル所ニシテ後、郡家ヲ設ケ郡司ノ住スル所タリ文治中伊勢平氏ノ黨桑名行政慕府ノ命ヲ受ケ此地ヲ管ス戰國ノ時桑名ヲ三分シ東方ハ伊藤武左衛門【即チ今ノ城址】北方三崎ハ矢部右馬允之ヲ領シ南ハ(426)樋口内藏介之ヲ領シ共ニ三城タリ【朽木家傳記ニ天文十一年北畠佐々木義實ト戰フ朽木種直義實ヲ助ク其黨ニ桑名上村五庄八桑名十兵衛ナルモノアリ北勢城主ト記ス此二人亦此ニ居リシナラン】永禄中伊勢氏直之ヲ領シ北畠具教ニ屬ス天正二年信長本州征伐ノ時瀧川一益ニ命ジテ長島城ヲ守リ兼テ本城ヲ鎭セシム四年織田氏、服部釆女正ニ命ジテ大ニ城郭ヲ修補ス十一年羽柴秀吉、天野景俊ヲ
〔桑名城之圖、絵あり、省略〕
(427)シテ之ヲ守ラシム十二年小牧ノ役酒井忠次及ビ石川數正之ヲ守ル十五年丹羽氏次本城ニ居ル文禄四年神戸城ノ天守ヲ移シ修築ス七月氏家行廣封ヲ此ニ受ク慶長五年關(ガ)原ノ役行廣、石田三成ニ黨シ封除カル六年松平家乘暫ク之ヲ守ル七月本多忠勝封ヲ此ニ受ク大ニ城郭ヲ修造ス子忠政ニ至リテ播磨姫路城ニ移ル元和元年松平定勝代テ此ニ居ル七年本城吉ノ丸ヲ搆フ城門東北ニ在リ樓櫓石壁屹トシテ水上ニ枕ム寛永十二年子定行ニ至リテ伊豫松山ニ轉ズ是年松平定綱封ヲ此ニ移ス三世定重ニ至リ元禄十四年本城火災アリ尋デ再ビ之ヲ修造ス寶永七年越後高田ニ移リ尋デ松平忠雅之ニ代ル七世忠堯文政八年武藏忍城ニ轉ジ松平定永封ヲ此ニ受ク後、世襲ス明治廢藩ニ至リテ城廢ス【五鈴遺響、桑名志、背書國誌、勢國見聞集】
 
長島城址 本郡ノ東北部、木曾、揖斐二大川ノ間ニ位セル洲嶼ノ中央ニ(428)在リ地形東西ニ延ビ長島江其北ヲ擁ス西部ハ高地ニシテ一宇ノ小祠ヲ安ンズ老杉古松參差相錯ル南ニ池アリ白蓮ヲ植ウ首夏ノ頃風色頗ル佳ナリ全地概ネ開墾シテ耕圃トナリ僅ニ石垣ノ存スルヲ見ル【牙城ハ近年迄校舍ニ用ヒシガ明治九年本州暴民ノ爲メニ燒失ス】寛永中光明峯寺道家此ニ來リ邑長某ノ家ヲ修築シテ之ニ居ル後、京師ニ歸ル文明中【一ニ弘治又永禄ニ作ル】安濃郡長野ノ族伊藤重晴之ニ據リ押附、殿名、竹橋ノ三處【桑名志、五處ニ作ル】ニ堡砦ヲ置ク永禄中服部友定ヲ修シテ之ニ據リ北畠氏ニ属ス元龜二年五月一向宗願證寺ノ僧證意檀徒ノ強梁ナルモノヲ誘ヒ亂ヲ作シ重晴ヲ逐テ此ニ據リ自ラ長島殿ト稱ス威ヲ近國ニ振フ後、織田信長、瀧川一益ヲシテ本城ニ居リ桑名城ヲ兼領セシム爾來連年賊徒險ヲ恃ミ鈔暴益甚シ織田氏ノ威令一モ行ハレズ天正二年七月信長大軍ヲ發シ遂ニ之ヲ殲ス尋デ之ヲ一益ニ賜ヒ北勢五郡ヲ管セシム十一年(429)一益封ヲ失ヒ羽柴秀吉其地ヲ以テ北畠信雄ノ有トナス信雄美濃岐阜城ニ居リ關彌平太ヲシテ本城チ守ラシム其後天野景俊、生駒家長、津川玄蕃允、瀧川信親相繼デ居守ス十八年信雄封ヲ失シ失シ羽柴秀次其舊領ヲ承ク其臣吉田修理、原田隠岐守等本城ヲ守ル慶長五年福嶋正頼之ニ居ル六年菅沼定盈代テ之ニ居ル子定芳ニ至リテ近江膳所ニ轉ズ元和六年桑名城主松平定勝代テ本城ヲ兼治ス寛永十二年伊豫松山城ニ移ルニ及ビテ松平定政之ニ代リ尋デ三河刈屋ニ轉ズ慶安二年松平康尚之ニ代リ子忠充ニ至リテ失心ニ坐シ元禄十五年領地没収セラレ代宮久下作左衛門、古川武兵衛ノ所轄ニ歸ス同年九月増山正彌封ヲ此ニ受ク後、世襲ス維新ニ至リテ城廢ス【三國地誌、桑名志、長島細布】
 
桑部城址 桑部村字城下ノ山上ニ在リ城址二アリ南北相距ル四五間面積各四百八拾坪許ノ林地タリ土壘古井ノ址アリ北ハ毛利次郎左(430)衛門尉ノ居所ニシテ南ハ大儀須【一ニ荻須ニ作ル】若狹守ノ居所タリ永禄中織田信長ノ爲メニ減サル天正十二年十月羽柴秀吉、蜂須賀正勝ニ命ジ之ヲ守ラシム後、廢ス【桑名志、五鈴遺響、三國地誌】
 按ズルニ五鈴遺響ニ桑名行政之ニ居ルト記ス然レドモ行政ハ桑名城ニ在リ恐ラクハ誤ナラン
 
下深谷部城址 下深谷部村ニ三處アリ一ハ字北廻ノ山上ニ在リ【一名北迫城又白米城ト云フ】今、耕宅地タリ延元中近藤家高始メテ之ニ居ル孫家教永録九年【一ニ元龜二年ニ作ル】瀧川一益ト戰ヒ敗死ス始メ一益城中水ナキヲ知リ圍ムコト三四日家教命ジテ馬ヲ洗フニ白米ヲ以テシ水アルヲ示サシム是ニ於テ圍始メテ解ク因テ白米城ノ名アリ一ハ字柳島ニ在リ今、池或ハ耕地トナル傳ヘ云フ往昔安藤季國子季成城ヲ築キ之ニ居ル【松田右馬助亦之ニ居ルト云フ】北畠氏ニ属ス元龜二年織田信長ノ兵ト戰ヒ之ニ死(431)ス一ハ字山ノ城ニ在リ今、飛鳥寺ヲゥク【古松一株アリ俗、笠松ト云フ枝葉地ニ垂レ形チ笠ノ如シ風致愛スベシ】蓋シ深谷部監物之ニ居リシナラン永禄中信長ノ爲メニ亡サル近藤氏、安藤氏ノ子孫今尚存セリ【桑名志、三國地誌、五鈴遺響、近藤系圖、古老口碑】
 
小山城址 小山村字中谷ニ在リ東南ハ沼田ニシテ西ハ丘陵ナリ土壘古井等猶存ス徃昔高井民部大輔【一ニ少輔ニ作ル】足利氏ニ属シ此ニ居ル、大輔ハ本郡溝野城主淡川出雲守ノ從弟ナリ永禄中織田信長ノ爲ノメ減サル【五鈴遺響、桑名志、三國地誌】
 
猪飼城址 北猪飼村字東谷ニ在リ小丘ニシテ概ネ耕地タリ南方ハ耕圃ニ臨ム濠形猶存ス古井二アリ今、埋没セリ元弘建武ノ頃小串詮行足利氏ニ属シ此ニ居ル六世ノ孫ヲ詮通【一ニ則道又常正政ニ作ル】ト云フ天正六年八月織田氏ノ兵朝朋郡萱生城ヲ攻ム詮通赴キ救ヒ戰死ス或ハ云フ永禄十一年信長ノ爲メニ滅サルト【桑名志、三國地誌、伊勢軍記、五鈴遺響】
 
(432)福島城址【一名中江城址】 福島村字中江ニ在リ今、舊形ヲ存セズ往昔森小一郎、同清十郎、中江式部少輔等此ニ居ル天正中織田氏ノ爲メニ滅サル十二年北畠信雄、羽柴秀吉ト兵ヲ搆フノ時信雄此ニ陣シ秀吉羽津ニ陣シ以テ相對峙スト云フ【五鈴遺響】
 
大鳥居城址 大鳥居村字畑田ニ在リ小阜ニシテ今、宅地タリ永禄元龜ノ頃水谷盈吉之ニ居ル長島ノ役信長ノ爲メニ滅サル後、山岡景友之ヲ領シ關(ガ)原ノ役福島正頼ヲ助ケ長島城ニ據ル【桑名志、五鈴遺響】
 
西方城址 西方村ニ二處アリ一ハ字南廣ニ在リ方五拾間許ノ高地ニシテ今、耕圃タリ瀧川一益始メテ之ヲ筑キ家臣加藤勘介ヲシテ之ニ居ラシム一ハ字城屋敷ニ在リ今、耕圃タリ西北、員辨川ヲ帶ブ羽柴下野守ノ居址ナリト云フ【五鈴遺響、桑名志】
 
額田城址 額田村字笹貝ノ阜上ニ在リ長方形ニシテ今、耕圃タリ徃昔
(433)後藤基則之ニ居ル永禄十一年織田信長ノ亡ス所トナル【五鈴遺響】土中徃々古陶器ヲ出ス
 
蓮華寺城址 蓮華寺村ニ二處アリ一ハ字西廣ニ在リ今、耕地或ハ樹林タリ土壘湟塹ノ址尚存ス土中燒米ヲ出スコトアリ往昔内山源吾、後藤庄左衛門及ビ犬山主膳之ニ居ル【背書國誌、桑名志】一ハ字城山ニ在リ樹木※[距の巨が流の旁】生ス山腰湟塹ノ址アリ又古井ヲ存ス里人傳ヘ云フ往昔内山源吾ナルモノ之ニ居ル近時土中劍飾ノ如キモノヲ堀出セリト
 
金井城址 東金井村字西谷ノ山上ニ在リ土壘ノ形尚存ス天文中松岡家勝之ヲ築ク朝明郡萱生城主春日部氏ノ幕下タリ永禄十年織田氏ノ陷ル所トナリ村ノ西、天白山ニ自殺ス其子孫今、尚存セリ【五鈴遺響、桑名志】
 
西別所城址 西別所村字山畑ノ丘上ニ在リ今、林藪タリ湟塹ノ址存ス徃昔後藤基成此ニ居ル天正元年九月織田氏ノ爲メニ滅サル【桑名志、三國地誌】(434)土中今尚燒米ヲ出セルコトアリ
 
白山城址 西別所村字新山畑ノ岡上ニ在リ今、白山社ヲ祀ル徃昔中島將監此ニ居リ天正二年十月織田信長、佐久間玄蕃正、蜂須賀正勝、柴田勝家等ニ命ジテ之ヲ攻メシム城陷リ遂ニ廢ス【五鈴遺響、桑名志、背書國誌】
 
矢田城址 矢田村ニ二處アリ一ハ字城山愛宕社ノアル所ニシテ湟壘ノ址ヲ存ス徃昔矢田市郎左衛門之ニ居ル永禄十一年織田氏ノ滅ス所トナル【五鈴遺響、桑名志、勢國見聞集、伊勢參宮名所圖繪】一ハ字城山觀音堂ノ在ル所ニシテ今、眞宗説教所ヲ設ク樓櫓ノ址存ス往昔毛利氏ノ臣山内俊行ノ子俊元本州ニ來リ城ヲ此ニ築キ矢田氏ト改メ近傍ニ雄タリ天正五年六月織田氏ノ將瀧川一益ノ攻ムル所トナリ自殺ス【桑名志、三國地誌、勢國見聞集】
 
杣井城址 杣井村字西城ニ在リ方四拾間今、松林タリ徃昔梶田左馬助【一ニ梶右正ニ作ル】刑部亟此ニ住ス其後西松要人之ヲ領シ永禄中【一ニ元龜二年ニ作ル】織(435)田氏ノ爲メニ滅サル【五鈴遺響】
 
堺城址【三砂城址】 上深谷部村字北山下ノ丘上ニ在リ地中徃々古瓦等ヲ出セリ往昔片岡掃部頭【一ニ亮ニ作ル】此ニ居ル元龜天正ノ頃織田氏ノ爲メニ滅サル三砂城址ハ字三砂前ニ在リ今、耕宅地トナリ其址ヲ存セズ北迫城主近藤氏ノ重臣玉井四郎左衛門尉之ニ居ル共ニ其子孫今ニ存セリ【桑名志、三國地誌】
 
南之郷城址 南之郷村字新田ニ在リ今、池沼トナリテ舊址ヲ存セズ往昔阿部民部ナルモノ此ニ居ル【桑名志】
 
江場城址 江場村ノ西北耕地中ノ丘上ニ在リ往昔佐藤秀道之ニ居ル【三國地誌、桑名志】歴代年號詳ナラズ
 
東方城址 東方村ニ四處アリ一ハ村ノ中央字城下ニ在リ方貳拾間許ノ高地ニシテ今、耕圃タリ中島右衛門之ニ居ル古老傳ヘ云フ天保五年(436)四月地ヲ穿チ一瓶ヲ出セリ其外面ニ中島右衛門ノ五字ヲ刻ス内ニ古錢拾貫文アリタリト一ハ本村ノ西南字尾畑ノ山上ニ在リ方貳拾間許土壘濠ノ址ヲ存ス田邊【一ニ田部ニ作ル】伊勢丸ナル者之ニ居ル一ハ西北方字西馬樣ニ在リ方拾五間許今、樹林タリ近藤右京進之ニ居ル永禄中織氏ノ爲メニ亡サル一ハ同字ニ在リ方貳拾間許濠址ヲ存ス今、松林タリ徃昔尾野山正齋房ナルモノ之ニ居ル兇惡ノ僧ニシテ桑名近郷ヲ領ス永禄天正ノ頃織田氏ノ爲メニ滅サル【一説ニ永禄中建部掃部介(一ニ部渡氏ニ作ル)之ニ居ルチョナス歴代先後詳ナラズ○【桑名志、五鈴遺響、古老口碑】
 
北別所城址 北別所村字福地ニ在リ今、耕地ニ属ス周圍濠形ヲ存ス城主詳ナラズ或ハ云フ氏家内膳正之ニ居ルト【五鈴遺響】
 
多度砦址 多度畢村ニ在リ今詳ナラズ小串伊豫守之ニ居ル永禄中織田信長ノ爲メニ滅サル是ヨリ先キ南北朝ノ時多度庄司ナルモノアリ勤(437)王ノ志篤ク甞テ北畠親房ニ軍資ヲ貸シ京軍ヲ助ケシト云フ蓋シ之ニ居リシカ【五鈴遺響、多氣窓螢】親房庄司ニ與ヘシ證書ニ曰ク
   ささめの事
 鵝眼百貫は軍用ふそくにてむつの國司に送るとて當庄の人/\かし給ひよろこび思しめしぬ代もゆたかにかえらむ時ごそうばいにて返し賜はらん事に三神かけ奉るもの也
 午の九月三日    ちかふさ
   たとの庄司との
 
村正屋敷址 東方村字尾畑ニ在リ村正初名ハ正三郎幼ニシテ刀劍鍛冶ノ術ニ志シ相摸國五郎入道正宗ニ從ヒ其秘奥ヲ窮ム政宗乃チ其名ノ一字ヲ與ヘ村正ト稱セシム
 
     舘址
 
(438)西方別舘址 桑名郡西方村字霞(ガ)岡ニ在リ景勝ノ地ナリ松平定綱此ニ別業ヲ營ミ以テ遊憩ノ處トナス後、廢ス政餘彫玉ニ其ノ勝概ヲ記セリ
 
     古墳
 
本多忠勝墓【中根忠實及梶勝忠墓】 桑名清水町淨土寺墓地ニ在リ塔石五層花崗石ヲ以テ之ヲ疊ム高凡ソ八尺表面家紋及ビ西岸院殿長譽良信大居士ノ十一字ヲ刻ス覆フニ方貳間許ノ堂宇ヲ以テシ周圍垣ヲ繞ラス忠勝平八郎ト稱ス年十三初メテ軍ニ從ヒ大小七十餘戰未ダ甞テ敗※[血+刃]セズ世ニ謂フ所徳川四天王ノ一人トス慶長六年桑名城主タリ同十五年十月江戸ニ卒ス年六十三乃チ遺體ヲ桑名矢田河原ニ火シ本寺ニ葬ル其臣中根忠實、梶勝忠之ニ殉ス忠勝墓ノ左右ニ葬ル
 
菅沼定盈同定仍墓 長島字中町花林院墓地ニ在リ塔石二基ヲ列ス花(439)崗石ヲ以テ之ヲ作ル定盈長島城主タリ徳川氏ニ仕ヘ功アリ慶長九年七月卒ス年六十三勝徳院殿長翁宗堅大士ト諡ス其子定仍十年十月卒ス年三十慧性院殿雄菴良英大居士ト諡ス共ニ此ニ葬ル又傍ニ夫人墓二基ヲ存ス
 
松平定綱墓 東方村照源寺境内ニ在リ塔石高周四尺餘頂上五輪形ヲナス表面梵字及ビ大鏡院殿【前四品玄蓮社】定譽一法大居士ト記ス定綱越中守ト稱ス桑名ノ城主タリ甞テ城中朝日丸ニ學校ヲ設ケ三宅正堅ヲ擧ゲテ文學トナシ藩士ヲ教養ス本州諸侯藩校ヲ設シハ此ヲ嚆矢トナスト云フ著ス所政餘彫玉アリ慶安四年十二月卒ス
 
松平定勝墓 同村照源寺墓地ニ在リ塔石高八尺五寸表面少將松平宗源君墓ト刻シ左石裏面其傳ヲ誌ス松山藩士藤野正啓ノ撰文ニ係ル定勝ハ久松定俊ノ三子ナリ母ハ水野氏【傳通夫人ト稱ス】徳川氏ニ仕ヘ?々(440)戰功アリ元和元年封ヲ桑名ニ受ク寛永元年三月卒ス年六十五
 
有王塚 矢田村字有王ニ在リ高三尺四方石垣ヲ回らス松樹一株アり其下ニ小祠ヲ安ンズ村人時ニ來リテ香花ヲ供ス傳ヘ云フ僧俊寛ノ鬼界島ニ在ルヤ其豎有王遠ク徃キテ之ヲ尋ヌ到レバ俊寛已ニ死ス乃チ其骨ヲ奉ジ諸州ヲ巡リ遂ニ此地ニ到リ死ス村人之ヲ葬ル或ハ云フ橘諸兄ノ孫有王ノ墓ナリト二説何書ニ據ルヲ知ラズ暫ク疑ヲ記ス【桑名志、背書國誌、伊勢考古録】
 
俊寛塚 江場村字小平太繩ノ田圃中ニ在リ圓形ノ小阜タリ雜草茂生ス老槻一株ヲ存ス傳ヘ云フ俊寛ノ鬼界島ニ在ルヤ豎有王往キテ之ヲ尋ヌ到レバ俊寛已ニ島中ニ死ス有王骨ヲ奉ジ諸國ヲ巡り此地ニ到リテ死ス村人之ヲ葬リ二塚ヲ築ク是レ其一ナリト何書ニ據ルヲ知ラズ
 
(441)額田部氏墓 所在詳ナラズ額田村字葉田及ビ八字谷ノ邊葢シ其遣址ナラン里人傳ヘ云フ額田部湯坐連等數世ヲ此ニ葬ルト小字高塚、遠祖輪、前祖場、石塔山ノ諸處土中往々曲玉、古陶器及ビ石室ノ崩壞スルモノヲ出スコトアリ
 
蕨塚 小山村ニ在リ今其所ヲ詳ニセズ徳川家康美濃國ニ趣クノ途次此ニ蕨ヲ採ル因テ此名アリ【桑名志】
 
白魚塚碑 赤須賀新田ノ堤上ニ在リ碑アリ俳人芭蕉ノ句ヲ刻ス曰ク白魚や水より白き事一寸、ト白魚ハ【即チ※[麥+百]條魚】本郡ノ名産ニシテ極メテ淡味ナリ蓋シ北方美濃國諸川、水潮分界ノ處ニ生ゼシモノナラン【五鈴遺響】
 
伊勢名勝志 終
 
【伊賀志摩紀伊【南北牟婁郡】名勝志
    附三重縣管内人物志
 
明治二十二年十一月四日印刷
明治二十二年十一月十一日出版
           正價金七拾五錢
    三重縣士族
【著述兼發行者】 宮内黙藏
  東京誌市本郷區本郷湯島三組町八十九番地
印刷者 磯野新
  京橋區加賀町三番地
印刷所 東洋社
  同
發行所 河島九右衛門
  三重縣伊勢國津市大字大門町
 
    〔2015年9月17日(木)午後4時44分、入力終了〕