増補本居宣長全集第六巻、吉川弘文館、1926.8
  入力者注、句読点の代用らしい空きがあるときもあるが、無いときもあるので、無視した。頭注は、挿入する場所が特定しにくいときもあるので、見開きの頁の最後に一括したが、もし最後にゆとりがあれば、何とかして文中に埋め込みたい。
 
(463)石上私淑言序
 
四條大納言の新撰髄※[骨+悩の旁]俊頼の朝臣の無名抄なとをはしめにてつき/\の歌髄※[骨+悩の旁]かそふるにおよひもそこなはれぬはかりいとおほかれと歌といふことよむといふことよりしてときさとしたる書いにしへ今にをさ/\みえすそあなるこゝに伊勢の國なる本居の老翁いそのかみふりにし世の心にたちかへりて中今の世の哥人にさゝめことのやうにときさとされたる書なむ有ける石上私淑言とそいふなるそば歌のうへのことのみかはこと事にいたりてもかの山彦のこゑのまに/\こたへたらんやうに人のとひにこたへられし書也けりいてやおほろけの人なりせはちからのかきりを盡してあけつらひまうけたりともかくまてはいたりくるしからむをたゝかたはらの手すさひのやうにかいつけられし書さへ後の世のあかしともなりぬへきはあはれいみしきせむたちにこそはなといはんも今さら二の舞なるへけれと心におもふことをはいかにたゝにはやむへきしかも其世のうちにあらはされし書とも車五りやうにつむともあまりぬへくいとおほかるをそかうちよりことさらにとりいてゝよみ考へられしいさを人は我友あしのかり庵の(464)あるし齋藤彦麿のぬし也けり抑此書の名とせる石上の語はふることのおやなる古事記にはしめて出て私淑の文字はかしこき人の殘せる孟子といふ書にみえたりとなむ
文化十三年七月     岸本由豆流
 
 
(465)石上私淑言序
 
いでや今の御世にはいにしへ學びみさかりに行はれて漢國のひじりのふみら説あきらむる人も佛の教へたふとむ法師もかつ/\我大御國の御ふみらうかゞひしることゝなりぬるはいとめでたくよろこばしきことならずやさるを世の哥よみ人よいにしへ學びは異なるわざとのみはるかに思ひさけて哥といふこともよむといふ言の意をも辨へず狹きむねのうちにしりぬるたけをいひつくしていける世のかぎり心をやれるはをぢなきわざぞかしこゝに我本居翁はいにLへの學びに委くして世のためにいさをあることはおのれ言あげせずとも天の下に誰かはしらざらむそがうへに哥よむわざさへ人に立まさりて其哥といふことよむといふ言の意を始め哥のうへにえうある筋どもを書あらはして石上私淑言と號けられたるを今の藤垣内大人ひめおかれしをかり得てみるにいと嬉しくて哥といふことよむといふ言の意をだにしらずしてはかなく哥にのみほこれる人々に見せて誠の哥のゆゑよししらせまほしくこたび英遵にはかりて木にゑらせつるになむさるはもとよりかしらに物し給ひしうへにをこなるわざとはしりながらお(466)のが思ひよれることをもいさゝか書そへたる也今の大人にかたらはずしておのれさかしだち物せるつみさりところなけれどいかゞはせむ世のためなれば見ゆるし給ふべくやちかき世にはふるき寫し卷これかれたづね得てこと/\しくはしに奥にみづからのいさをゝ言擧して板にゑらせてむなしき名をもとむる人々もあればそれとひとしなみにいひくたせる人もあるべけれどこはあらぬくまゝでもとめさがしてとりいだせし物にもあらず我師翁の物せられしふみにしあれば世のそしりもいさゝかすくなかるべくやかくいふは石見國濱田の殿の江戸の舘につかうまつる芦のかり菴のあるじ
                  藤原彦麻呂
 
(467)石上私淑言上巻
                本居宣長
 
ある人とひていはく哥とはいかなる物をいふぞやまろこたへていはくひろくいへば卅一字の哥のたぐひを始として神樂哥催馬樂連哥今様風俗平家物語猿樂のうたひ物今の世の狂哥俳諧小哥淨瑠理わらはべのうたふはやり哥木びき哥のたぐひ迄詞の程よくとゝのひあやありてうたはるゝ物はみな哥也この中に古今雅俗のけぢめはあれどもこと/\く哥にあらずといふ事なしされば今あやしきしづの女が口ずさびにうたふ物をも哥といふ是則まことの哥也かの卅一字の哥のたぐひはむかしの人の哥なり小哥はやり哥のたぐひは今の人の哥也これおなじ哥にして其さまはるかにことなるは古今のけぢめ也むかしの哥は詞も意もみやびやかにてめでたく今の小哥はやり哥は詞も意もいやしくきたなきは雅俗のけぢめ也かくの如く其さまは古今雅俗のけぢめはるかにたがひて同じ物といふべくもあらねどみなこと/\く哥にあらずといふ事なしこのゆゑにかのわらはべの口ずさびにうたふをも則哥といふなり是神代より今にいたるまであひつたはりておのづからその名義を失はぬもの也哥のさまは意も詞も世々にうつりかはりぬれども其おもむき心ばへは神代の哥も今のはやり小哥もひとつにしてかはる事なし猶下にくはしくいふべし人のみにもあらず禽獣に至るまで有情のものはみな其聲に哥ある也古今集の序に花になく鶯水にすむ蛙の聲をきけばいきとしいけるものいづれか哥をよまざりけるといへるをみるべし鳥虫なども其鳴聲の程よくとゝのひておのづからあやあるはみな哥也しかるを鶯蛙の哥とて卅一字の哥を傳へたるは古今の序の詞によりて好事の者の作りたる也禽獣はいかでか人の寄をよむことあらむ鶯は鶯蛙は蛙おのがじゝ鳴聲のあやあるをそれが哥とはいふ也されば此世にいきとしいける物はみなおの/\其哥ある也或説にいはく哥は天地のひらけしはじめより万の物におのづから其理そなはりて風の音水のひゞきにいたるまでこと/”\く聲ある物はみな哥(468)也といへるは事の心を深く考へて哥の心ばへをひろくいへるに似たれども返りて淺き説也その故は哥といふ物は程よくとゝのひてあやあるをいふ也されば鳥虫の聲すべて哥也といふにはあらず其嶋聲のあやある所を哥といふ也又人の詞もあや有てうたはるゝを哥といふ其外は哥にあらずたゞの詞也かく哥は有情の物にのみ有て非情の物には哥ある事なしこの故に古今序にもいきとしいける物とこそいへれよろづの物とはいはずおなじ眞名序に物皆有v之とかけるも生物をいふ也されば萬物の聲みな哥也といふは妄説也いける物はみな情有てみづから聲をいだすなれば其情より出てあやある聲則哥也非情の物はみづから聲を出す事なし外物にふれて聲ある也哥は情よりいづるものなれば非情の物に哥あるべきことわりなしされば金石絲竹のたへなる物の音さへ哥とはいはす是情有てみづから出す聲にあらざる故也かゝれば風の音水のひゞきはいかでか哥といはむたとひあや有ても非情の物の聲は哥にあらずましてあやなからむは哥といふべきことわりなし  問云詞のほどよくとゝのひてあやあるとはいかなるをいふぞ  答云うたふに詞のかず程よくてとゞこほらずおもしろく聞ゆる也あや有とは詞のよくとゝのひそろひてみだれぬ事也大方五言七言にとゝのひたるが古今雅俗にわたりて程よき也さればむかしの哥も今のはやり小哥もみな五言七言也是自然の妙也上代の哥は文字の數も定まらずといへるは誤也神代の哥といへども五言と七言とにもるゝ事なし其中にあるひは五言を四言又は三言によみ七言を六言八言によめる事もおほけれどそれもみなうたふ時はたらざるをば節を永くしてこれを足しあまれるをば節をつゞめてみじかくうたひてみな五言七言の調にかなへてうたへるものなれば三言四言六言八言もうたふ所はみな五言と七言の詞也何をもて是をしるといはゞ今の世に兒童の謡ふはやり小哥うすつき木びきの哥をきくにみな五言と七言也其中にあまるとたらぬとをば節の長短をもてのべしゞめて五言七言の調にかなふるにうたふ所をきけばみな五七の調也是自然の妙にして神代も今も異なる事なし然るに古今序の小註に下照姫の哥を文字の數も定まらず哥のやうにもあらぬといへるはこのことわりをしらずしてたゞ日本紀にかける所を見て後の世の心からいへる也神代の哥もみな程よくとゝのひてあや有也(469)五七の調にもれざるべしかの下照姫の哥は殊に其詞程よくとゝのひてうるはしくきこえたりもし其文字の數定まらざればうたふに其詞とゞこほりみだれて耳にさはりて聞よからぬ也今のはやり小哥のたぐひも又しか也これ人のよくしる所也上代の哥は其よめる時に即うたふ故にうたひて詞とゝのへば三言にもあれ四言六言八言にもあれみな五言七言の詞にさへうたへば字のたらぬとあまるとはかゝはらざりし也それもあまりてもよき所たらでもよき所あまりてはあしき所たらではあしき所あるべしみなうたふ時にしるゝ事也猶五言七言にとゝのふる事は下にくはしくいふべし詞の程よくとゝのひあやあるとはかくの如きをいふ也禽獣のなくこゑも是になぞらへてしるべし五言七言は人の詞の程よき也鳥虫などもそれ/\に其聲の程よき所の有ものにてそれが即その物の哥也  問云まへにいへる平家物語今の淨瑠理のたくひは哥にはあらじとおもふはいかに  答云これらはもと物語のたぐひなれ共節をつけてうたふ所は哥也物語のたぐひはもとうたふべき物にはあらねども平家物語にふしつけてうたふ事始りてより猿樂の謡物淨瑠理のたぐひ出來たり人の國にも詩と文とのわかち有て文はうたふ事なき物なるをちかき世になりては文の体なる物にもうたふが有とかや此方にても物語のたぐひは文也うたふべき物にはあらず哥と文とは其詞も異なる事おほし其さまことなる物なるを文の詞をもうたふ事になりぬるは末の代のわざなるべしされ共それを程よくうたはるゝやうにつくりてうたふ所は哥也たゞし平家はうたふとはいはず語るといふ是うたふべき物にあらず物語のたぐひなる故に其心ばへをしりていへる名目也されど名は語るなれ共實はうたふ也この故にこれらをもまづ哥のたぐひとする也  又問云此哥は何時より始りけるぞ  答云古今の序に此哥あめつちのひらけ始まりける時より出きにけりといへるを餘材抄に註して神代紀云開闢之初洲壌浮漂譬猶3游魚之浮2水上1也この時をいへるにあらず古語拾遺云一聞夫開闢之初伊弉諾伊弉册二神共爲2夫婦1生2二大八洲國及山川草木1この心也【以上餘材抄文】といへりある説に天地開闢の始より哥の理そなはるをいふとて陰陽五行の理をさま/\いへるは天地のひらけはじまりける時よりいでくといへるに強てかなへむとする説にしてひがこと也二神の時
 
〔頭注。彦麻呂云古今集眞字序に若d夫春鶯之囀2花中1秋蝉之吟c樹上u雖v無2曲折1各發2哥謡1物皆有v 之自然之理也云々とあるは實に曲折なきを云にはあらす人のうたふ哥にむかへみれは曲折なきか如きをいふ意なるべし鳥むしすらもほと/\につけて曲折ある物なり〕
 
(470)をも開闢のはじめといふ事をしらぬ故也よりて餘材抄に古語拾遺を引て二神の時をも開闢のはじめといへる事をしらせたり其時に哥の始ていできたる事は伊弉諾伊弉册二神※[石+殷]馭盧島に天降て共爲夫婦《ミトノマグハヒセム》とて天之御柱をめぐりてかたみに唱へ給へる辭をいふ也其詞は古事記云伊邪那岐命先言2阿那邇夜志愛袁登賣袁《アナニヤシエヲトメヲト》後妹伊邪那美命言2阿那邇夜志愛袁登古袁《アナニヤシエヲトコヲト》1とある是也かくのたまへる御詞の意は神代紀に妍哉可愛少男歟妍哉此云2阿那而惠夜《アナニヱヤ》1可愛此云v哀《エ》これにてしるべし古事記は古語のまゝを假字にてかき神代紀は文字に譯して其義をあらはしたる物也妍は字書に麗也《ウルハシ》とも好也《カホヨキ》とも註したりさればたがひに佳偶《ヨキタグヒ》をよろこび給へる御辞也猶くはしく解かは阿那は古語拾遺に古語事之甚切皆稱2阿那《アナ》1とあり【此事舊事記にもみえたれと僞書なれはひかす】万葉には痛と書りあなこひしあなたふとなどのあなに同じすべて阿那《アナ》阿夜《アヤ》阿々《アヽ》などみな歎ずる詞也|邇夜志《ニヤシ》は外にみあたらぬ詞なれども神代紀に妍哉と書たれば其意也其中に邇といふが言にして夜志《ヤシ》は助辞也|波斯祁夜斯《ハシケヤシ》などのやしに同じ又神代紀には而惠夜《ニヱヤ》とある是も惠夜《ヱヤ》は助辞也同じ妍哉を神武天皇紀には此云2鞅奈珥夜《アナニヤ》1とあれば惠《ヱ》も助辞なる事をしるべしかつ余志惠夜志《ヨシヱヤシ》といふも惠夜志《ヱヤシ》は助辞にてたゞ余志《ヨシ》といふ意也(武烈紀繼體紀の哥には誰人と云事を陀黎耶始比登とあり)万葉第五に古飛斯宜志惠夜《コヒシケシヱヤ》とよみ天智天皇紀の童謠に苦しを倶流之衛《クルシヱ》とあるこれらも同じ事也(万葉第四に吾者左夫思惠)愛袁登古《エヲトコ》はよきをとこといふに同じ神代紀に善哉善少男ともかけり佳吉を須美能愛《スミノエ》日吉を比愛《ヒエ》ていふたぐひよきをえといへる事多し古事記の愛は假字にて音をかる計にて字に意なし神代紀の可愛は文字の義をとる也混ずべからず又上の惠《ヱ》とこの愛《エ》とは義も音も別也是又混ずる事なかれ袁登古《ヲトコ》は少男|袁登賣《ヲトメ》は少女にてともに少壯をいふ也末代に老少をえらはず於登古《オトコ》といふは義も音もたがへり(彦麻呂云古今集今こそあれ我もむかしは男山さかゆく時も有こしものを)さて下の袁《ヲ》は助辞也今の世のてにをはの袁《ヲ》の意にはあらず上代の哥には詞の下に袁《ヲ》をおける事多し加賀那倍弖用邇波許々能用比邇彼登哀加袁《カヾナベテヨニハコヽノヨヒニハトヲカヲ・屈並而夜者九夜日者十日》の袁淤富佐迦邇阿布夜袁登賣袁美知斗閇波《ヲオホサカニアフヤヲトメヲミチトヘハ・大坂遇少女道問者》云(471)云の袁《ヲ》のたぐひ万葉にも多しみな助辭なるうちに余《ヨ》と呼にある也|袁登古余《ヲトコヨ》袁登賣余《ヲトメヨ》といはむやうの詞也それを神代紀には少男歟又少男乎とかけり歟乎は常には加《カ》とよみ又は夜《ヤ》とよみて疑辞なれども字書に語末之辞とも註し語之餘也共註したれば今の袁《ヲ》といへるにあたれば神代紀をも古事記のごとくよむべしさて此御詞は古事記日本紀ともに歌とはいはず又日本紀は哥をばみな假字にてかけるにこれは常の詞とひとしく漢文にかけりけにもたしかに哥といふべきほどの事にはあらずされども五言二句にとゝのひて其詞のやうもたゞの詞にあらずこの故に唱といひ和といふこれ常の詞にあらざる故也さればこの唱和をもて歌の始とする事いはれたりすべて何事も始は後々のやうにさだかにはあらぬ物也  問云此唱和の御辞は日本紀の神代卷に※[喜/心]哉遇2可美少男1焉※[喜/心]哉遇2可美少女1焉とあるを取らずして古事記をひけるはいかに  答云日本妃はすべて漢文をかざりてうるはしからむとかける故に古語にかゝはらずたゝ文章を主としてかける事多し古事記は文章にかゝはらず古語を主としてかける物也然るに末の代にはたゞ文章のうるはしき方にのみなづみて古語を考る事なしこのゆゑにもはら日本紀をのみ用ひて古事記ある事をしらずよりて古語は日々にうしなひゆく也詞は本にして文字は末なる事をしらずかなしき事也今この※[喜/心]哉云々といへるも文字を見れば其ことわりは聞えたれど其詞は考ふべきたよりなし其故は文字のかたはらにつけたる訓は後の人のしわざなれば信じがたきこと多しされば※[喜/心]哉の古語は何をもてしるべきぞや少男此云2烏等孤《ヲトコ》1と註し神武天皇紀に可美を于魔詩《ウマシ》と訓じたる事あれば可美少男をは宇摩志烏等孤《ウマシヲトコ》とも訓つべし※[喜/心]哉はおぼつかなししひてよまば古事記と一書とを據にて阿那邇夜志《アナニヤシ》または阿那而惠夜《アナニヱシ》などよむべし其故は妍哉をしか訓じたるは此※[喜/心]哉のちの美哉へもわたるべし又可愛を哀《エ》と訓じたるも爰の可美後の善の字へもわたるべければこゝも※[喜/心]哉遇可美少男《アナニヱヤエヲトコヲ》焉とよむべきにや遇の字はたゞ義理をもて書る字にて古語にはあるまじくや今の本の如くあなうれしやうましをとこにあひぬとょまむは唱和の詞とも聞えずとにかくにさだかならねばたゞ古事記のあきらかなる古語をもとゝして後に日本紀の文字によりて其義理を解すべき事也すべて何ごとも古事記を本文とし日本紀を註解として
 
〔頭注。万葉第三赤人富士長哥に天地之分時從といひ又第二人麿長哥に天地之初時之云々天照日女命天乎波所知食登といひ第十に乾坤之初時從天漢射向居而〕
〔頭注。續草庵集にきゝわたる天のうきはし遠けれと今も神代の道の殘れり〕
〔頭注。伊勢物語に云おにはやひとくちにくひてけりあなやといひけれと神なるさわきにえきかさりけり〕
〔頭注。万葉第八長哥に 櫻花能丹穗日波母安奈何と訓たれともいかゝアナニとよむへし何は荷也又一本爾に作り卷七二十丁にも何字をニとよめることあり〕
 
(472)みるべき事也殊に言の葉の道におきては古語をむねとして考ふべき事なれば古事記は又たぐひもなくめでたき書にて此道にこゝろざゝむ人はあけくれによみならふべき物也  又問て云たしかに哥といへる事の始はいかに  答て云古事記にも日本紀にも哥のはじめといふ事見えねばさだかならずといへども二記に始て記せる歌はかの八雲の神詠といふ哥也古事記曰作2須賀宮1之時自2其地1雲立騰爾作2御歌1其歌曰|夜久毛多郡伊豆毛夜幣賀岐都麻碁微爾夜幣賀岐都久流曾能夜幣賀岐袁《ヤクモタツイヅモヤヘガキツマゴミニヤヘガキツクルソノヤヘガキヲ》これ也日本紀には菟麻語昧爾《ツマゴメニ》とあり微《ミ》と昧《メ》と一字異也さて此御哥の意を解くに古來さま/\の附會の説多しみな古にくらき事にてさらに取にたらず必邪説にまよふべからす餘材抄云八雲とは八は數の多きにいへば八重雲也八重櫻八重山吹など必八重ならねど多くかさなれるをいひならへるが如し出雲とは國の名には此御哥によりて後につけたるなるべければ此時はまだいづもの枕詞に八雲立とのたまへるにはあるべからず土の八雲をかさねていづる雲とのたまへる詞也としるべし宣長按ずるに夜久毛多都はかの雲の立のぼるを見給ひて彌雲立とよみ給へる也|伊豆毛《イヅモ》は風土記にも此御哥によりて國の名となれるよしありされば爰は國の名をよみ給へるにはあらずたゞ出る雲也|伊豆毛《イツモ》を國名とし八雲立を枕詞とするはひが事也|八穗蓼乎穗積《ヤホタデヲホヅミ》摩蘇餓豫蘇餓《マソガヨソガ》などの例になつむべからす夜弊賀岐《ヤヘガキ》は彌重垣也これは須賀宮の實の垣にはあらずたゞ雲を垣といひなし給也やくもたちといはずしてたつといへるは見渡し給ふ所をのたまへる也いづもやへがきとは即そのみる所の雲を垣といひなし給ふ詞にていづる雲のやへがき也|都麻碁微爾夜幣賀岐郁久流《ツマコミニヤヘカキツクル》とは今わが妻と共に住べき料に雲もやへがきをつくるよとよみ給へる也雲の垣つくらむこといかゞと思ふ人あるべしこれは實に造るにはあらず立のぼる雲をみてやへがきを造るといひなし給ふ也雲霧はたちふさがりて物をへだつれば垣にいふ事後の世も同じ心ばへ也天雲垣其既立など人の國にもいへりこれを須賀宮の墻の事とするは誤也たゞ雲の事也|曾能夜弊賀岐乎《ソノヤヘカキヲ》とかさねていへるは上代の哥に多き事也謠ものは今の世の童部の口すさびも同じ事にて上の詞をかへして再いふ事おほし是哥謠の自然の事にて人の國のも同じ事也とまりの袁《ヲ》はかの二神の唱和の留りの袁《ヲ》と同じこの時須賀宮を造るをりふしな(473)れば立のぼる雲をみてかくやへがきにとりなしてよみ給へる也哥はすべて雲をよみ給へる也  問云古今序にひさ方のあめにしては下照姫にはじまるといへるに今八雲神詠をはじめとするはいかに  答云哥のいできにる時をもていへは八雲の御詠前也此序の詞は哥の前後をばさしおきて天地の次第にていへる也天上にてよめる事は下照姫の哥始也といふ也されど古事記日本紀ともに八雲の御哥は前にいできたるよしなれば是を始といふ也其上古事記には八雲の御歌の次に八千矛神の長哥二首沼河日賣の長哥須勢理毘賣の長哥など有て後にかの下照姫の長哥はのせたれば始といふべからず序などはたゞ文章をめでたくかゝむために天と地とを對していはむとてかくはかける也天上にてよめる歌は此下照姫のが始也とたしかにいへるにはあらず上文に世に傳はる事はといへるにてしるべし天上にてよめる歌とていひつたへかきつたはりてあるは是が始也といふ也然るに天上にてよめる哥といふはこの阿米那流夜《アメナルヤ》の哥と同時の阿磨佐箇屡避奈菟謎廼《アマサカルヒナツメノ》といへる哥と二首の外はみえす又此哥を天上にてよめる事もさだかならず其故は古事記にては全く天上にての事にあらず此國にてよめる也日本紀には將v枢上去而於v天作2喪屋1殯哭v之といひ登v天吊v喪とあれども下照姫の天へ登て此哥よめるよしはみえず其上作者は喪會者歌之曰或云味耜高彦根神之妹下照姫欲v令d衆人知c映2丘谷1者是味耜高彦根神u故歌之曰とあれば下照姫の哥といふは紀中の一説也其上今一首の哥も其時によせなく別の事をよめるやうに聞ゆればかれこれ日本紀はうたがひあればたゞ古事記のさだかなるにしたがふべし古事記にては此時の事すべて天上の事にはあらず此國にての事也作者は高比賣命とあり下照姫の別名也今一首の阿磨佐箇屡《アマサカル》の哥は見えずすべて古來日本紀をのみ用ひて古事記はうづもれて取見る人もなかりしかは古今の序もたゞ一わたり神代紀につきて此哥を天上にてよめる始とせられたる也其上まへにいへる如く序なれは文筆を對してめでたくかゝむとてすこしの據をもてかける物なればしひて事實の説とはすべからすくはしき事は二紀をひらきてしるべしまづ世に傳はりたる哥の始は八雲の御詠としるべし下照姫のは後の事也  問云三十一字の哥は八雲御詠を始とし長歌は下照姫のを始とすへきか  答云長哥短哥混本旋頭などい
 
〔頭注。前漢書天文志云陣雲如2立垣1 彦麿云垣ハ堺トスヘキカギリノ隔ヲ云也大和物語ニ呉竹ノヨフカキヲキリテカギリテ云々トアリ垣ハ限ノ義也〕
〔頭注。續日本後紀第十九興福寺法師長哥歌語に詠反志天とある反といふもうたふものは本へ反して再うたふ事多きゆゑの詞也〕
 
(474)ふ事は後につけたる名目にて神代にさやうのわかちはなければたゞ長短をいはず八雲御詠が哥の始也そのかみはたゞ五七言の調をとゝのへて句の數にはかゝはらず思ふ心のかぎりをいかほどにてもほどよくよみし物にて是は長哥ぞ是は短哥ぞといふ事はなかりし也されば別に長哥の始といふ事はなきことわり也たゞし後世の名目をもてしひて其始を一々にわけていはゞ卅一字の哥は八雲の御詠なり長哥の始は古事記にある八千矛神と沼河比賣とよみかはし給へる哥也旋頭哥混本哥は神代には見えず神武天皇の御時に至りても三句の哥四句の哥は見えたれどもまさしく旋頭混本といふ哥はなし其後三句四句の哥もあれど猶すこしたがへりまさしく旋頭哥の五七七五七七にとゝのへるは雄畧天皇紀の哥に|あたらしき《※[立心偏+(メ/宏の中)]》ゐなべのたくみ《猪名部之工》かけしすみなは《掛墨繩》しがなけは《爾之亡者》たれかかけむよ《誰掛》あたらすみなは《※[立心偏+(メ/宏の中)]墨繩》是也混本哥は古事記仁徳天皇の御哥に|めとりの《女鳥》わがおほきみの《吾大王》おろすはた《織機》たががねろかも《誰爲歟》是也たゞしこれらもおのづからかくとゝのひたる物にてたくみて此格をよめるにはあらず一字二字たらぬ哥又は五言七言のおき所のたがへるなとは此まへにもあればたゞしく是を始といふべきにはあらねどたま/\とゝのひて後の體に同じ哥の始て見えたるをあぐる也たゞ上古の哥は三句よりして句數はいくらと定まりたる事なければ長哥短哥といふわきまへなき事ぞ  問云人の世となりてすさのをの尊よりぞみそもじあまりひともじはよみけると古今序にあるはいかなる車ぞ地神五代をば人の世といへるか  答云餘材抄に云人の世となりて後すさのをの尊の御哥にならひて三十一字に定めてよむといへる心也と是にて心得べしたゞし此御哥にならひてよむといふはいかゞ也後世はもはら三十一字の哥のみ多くなりたる事はかの御哥にならひてよむとにはあらず人の世となりてもはらよむ所の卅一字の哥はすさのをの尊より始まるといふ意也それにならふにはあらねど自然に此體がすぐれてほどよくとゝのひてことにうるはしく聞ゆる故に後にはおのづから此體が多くなりゆく也是自然の事也神代に卅一字の哥は八雲の御詠の外に瓊々杵尊の御哥
 おきつもはへにはよれどもさねどこもあたはぬかもよはまつちどりよ
(475)豐玉姫命の御哥
 あかだまはをさへひかれどしら玉の君がよそひしたふとくありけり
彦火々出見尊の御かへし
 おきつどりかもづくしまにわがゐねしいもはわすれじよのこと/\に
右も古事記のまゝにしるす日本紀にすこし異なる所あり人の代となりては神武天皇の御哥に
 あし原のしけこきをやにすがだゝみいやさやしきてわがふたりねし
同じ頃伊須氣余理比賣の御哥に
 さゐ川よ雲たちわたりうねび山このはさやぎぬ風ふかむとす
また
 うねび山ひるは雲とゐ夕されば風ふかむとぞこのはさやげる
これら人の代となりて卅一言の哥の始まり也
又問て云連哥は日本武尊のにひばりつくばをすぎていくよかねつると問ひ給へるを御前にさふらふ人の中に秉燭者のかゞなべて夜にはこゝの夜日にはとをかをと申たる是が始也といふはまことに然る歟  答云是は日本紀に時有2秉v燭者1續2王歌之末1而歌曰とあれば後世の連哥の心ばへのやうに聞ゆれども實は續v末にはあらず三句の哥の贈答也三句の哥は日本紀に見えたるはこれが始なれども古事記には神武天皇の御哥に
 かつ/”\もいやさきだてるえをしまかむ
ともよみ給へり又贈答したる事は同じ御時に伊須氣余理比賣の御哥に
 あめつゝちどりましとゞなどさけるとめ
(476)大久米命のかへし
 をとめにたゞにあはむとわがさけるとめ
これらあれば日本武尊のを始といふべからず例の日本紀ばかりを見て古事記をしらぬ人のいひ出せる事也たゞしかれは續v末とある故に始也としひていはゞ古事記にも續2御敬1とありて大久米命のはさいはずたゞ答歌曰とあればかれを始とするもさも有ぬべき事ともいふぺけれ共哥のさま全く同じ事なれば前をさし置て後なるを始とはいふべからず續とある詞になづむべきにあらず其故は二記ともに地の詞は後にいひつたへ書つたへたるまゝを書る物なれば也後には三句の哥は絶てもはら五句六句の哥をのみよむ世になりてはかの三句の哥はみなれぬ故に六句の哥のかた/\のやうにみゆる故に其時の心をもて續とはいひつたへしなるべしはしけやしわぎへのかたよ雲ゐたちくもといふ哥を片歌也と有も此意にて後につけたる名目なるべしさて三句の哥は齋明天皇の御時の童謠にうつくしきあがわかきこをおきてかゆかむといふまで日本紀に見えたり其外上古には三句の哥もおほく見えたりそれを贈答したるを連哥の始とせばかの神武天皇の御世の贈答が始也たゞし是等はみな旋頭哥の上下なれば卅一字になる連歌にはあらず万葉第八に尼作2頭句1并大伴宿禰家持|所《ラレ》v誂《アトラヘ》v尼(ニ)續2末句1さほ河の水をせきあげてうゑし田を【尼作】かるわさいひはひとりなるべし【家持續】とあるは卅一字にて連哥のたぐひ也されど是は一首の哥を二人してよめる迄の事也拾遺集に内にさふらふ女をちぎりて侍ける夜おそくまうできける程にうしみつ時と申けるをきゝて女のいひつかはしける
 人ごゝろうしみつ今はたのまじよ
良岑宗貞
 夢にみゆやとねぞすぎにける
といひ伊勢物語に業平朝臣伊勢へかりの使にいきて齋宮にあひ奉りける朝女がたよりいだすさかづきのさらに哥を書て(477)出したりとりてみれば
 うち人のわたれどぬれぬえにしあれば
と書て末はなし其さかづきのさらについまつのすみして哥の末を書つぐ
 またあふ坂のせきはこえなむ
といへるこれらはまさしく後の連哥のさま也連哥といふ名目は金葉集に始て出たり下句をまづよみかけて上句を下てそれにつぐ事と拾遺集に兒えたり(連哥すると云こと詞花集卷九の詞かきに見ゆ)  又問云哥のはじまりはくはしくうけ給はりぬそも此哥てふ物はいかなる事によりていでくる物ぞ  答云歌は物のあはれをしるよりいでくるもの也  問云物のあはれをしるとはいかなる事ぞ  答云古今序にやまと哥はひとつ心をたねとして萬の言のはとぞなれりけるとある此心といふが則物のあはれをしる心也次に世中にある人ことわざしげき物なれば心に思ふ事をみる物聞物につけていひ出せる也とある此心に思ふ事といふも又則物のあはれをしる心也上のひとつ心をといへるは大綱をいひこゝは其いはれをのべたる也同眞名序に思慮易遷哀樂相變といへるも又物のあはれをしる也これらを物のあはれしる也といふいはれはすべて世中にいきとしいける物はみな情あり情あれは物にふれて必思ふ事ありこのゆゑにいきとしいけるものみな哥ある也其中にも人はことに萬の物よりすぐれて心もあきらかなれば思ふ事もしげく深し其上人は禽獣よりもことわざのしげき物にて事にふるゝ事多けれはいよ/\おもふ事多き也されば人は哥なくてかなはぬことわり也其思ふ事のしげく深きは何ゆゑぞといへば物のあはれをしる故也事わざしげき物なれば其事にふるゝごとに情はうごきてしづかならずうごくとはある時はうれしくある時は悲しく又ははらだゝしく又はよろこばしく或は樂しくおもしろく或はおそろしくうれはしく或はうつくしく或はにくましく或は戀しく或はいとはしくさま/\におもふ事のある是即物のあはれをしる故にうごく也しる故にうごくとはたとへばうれしかるべき事にあひてうれしく思ふは其うれしかるべき事の心
 
〔頭注。古事記下清寧天皇段云志毘臣歌曰オホミヤノヲトツハタデスミカタブケリ 如v此歌而乞2其哥末1之時袁祁命歌曰オホタクミヲヂナミコソスミカタブケム乞2歌末1とある續といふに似たり〕
〔頭注。後撰集六 秋のころほひある所に女とものあまたすのうちに侍けるに男の哥のもとをいひいれて侍けれは末は内よりよみ人不知しら露のおくにあまたの聲すれは花のいろいろ有としらなむ 是は時代しれす〕
〔頭注。彦麻呂云清少納言に蘭省花時錦帳下とかきて是か末はいかに/\とせむるをしりかほに眞名にてかゝむも見くるしなと思ひて其奥にすひつのきえたる炭の有しをして草のいほりを誰かたつねんとあり〕
〔頭注。拾玉集 うきもうしつらきもつらしとにかくにこゝろある身に何うまれけむ 白氏文集卷十五劉家墻上花還發李十門前草又春處々傷v心心始悟多v情不v及2少情人1〕
 
(478)をわきまへしる故にうれしき也又かなしかるべき事にあひてかなしく思ふは其悲しかるべき事の心を辨へしる故にかなしき也されば事にふれて其うれしくかなしき事の心をわきまへしるを物のあはれをしるといふなり其事の心をしらぬ時はうれしき事もなくかなしき事もなければ心に思ふ事なし思ふ事なくては哥はいでこぬ也しかるを生としいける物はみな程々につけて事の心をわきまへしる故にうれしき事も有かなしき事もある故に哥ある也其中にも事の心をわきまへしるに淺深のたがひ有て禽獣は淺ければ人にくらぶる時は物のわきまへなきが如し人は物にすぐれて事の心をよくわきまへて物のあはれをしる也其人の中にも淺深有てふかく物のあはれをしる人にくらぶる時はむげに物のあはれしらぬやうに思はるゝ人も有て大に異なる故に常には物のあはれしらぬといふ人も多き也是は誠にしらぬにはあらず深きと淺きとのけぢめ也さて哥は其物のあはれをしる事の深き中よりいでくる也物のあはれをしるといふ事は大畧かくの如し猶くはしくいはゞ物に感ずるが則物のあはれをしる也感ずるとは俗にはよき事にのみいへどもさにあらず感字は字書にも動也と註し感傷感慨などゝもいひてすべて何事にても事にふれて心のうごく事也然るに此方にては其中にてよき方につきて心にかなふ事をのみ感ずるといふ賣豆留《メヅル》といふに感の字をかくはよけれ共感の字をめづると訓ずるはあしき也其故はめづるも感ずる事の一つなれは感字をかきてもよし感字はめづる事ばかりにはかぎらねばめづると訓じては字義をつくさず何事にも心のうごきてうれしともかなしとも深く思ふはみな感ずるなれは是が即物のあはれをしる也物のあはれをしる事は紫文要領にもくはしくいへりさて阿波禮《アハレ》といふは深く心に感ずる辭也是も後世にはたゞかなしき事をのみいひて哀字をかけども哀はたゞ阿波禮《アハレ》の中の一つにて阿波禮《アハレ》は哀の心にはかぎらぬ也万葉には※[立心偏+可]怜などゝ書て阿波禮《アハレ》とよませたり是もたゞひとかたにつきて書る物にて阿波禮《アハレ》の義理はつくさゞる也|阿波禮《アハレ》はもと歎息の辞にて何事にても心に深く思ふ事をいひて上にても下にても歎ずる詞也|阿那《アナ》といひ阿夜《アヤ》といふと同じたぐひ也仁賢天皇紀吾夫※[立心偏+可]怜矣此云2阿我圖摩播耶《アガヅマハヤ》」とあり皇極天皇紀に咄嵯を阿夜《アナ》とよめるなどにてしるべし又漢文に鳴平于嗟猗などの字を阿々《アヽ》とよむ事多しこ(479)の阿々《アヽ》も同し歎詞なり古語拾遺云當2此之時1上天初晴衆倶相見而皆明白伸v手歌舞相共稱曰|阿波禮阿那於茂志呂阿那多能志阿那佐夜憩《アハレアナオモシロアナタノシアナサヤケ》云々此文うたがひ有といへども古語とみえたり是は天照大神天のいはやより出給ふ所の文也然るに阿波禮《アハレ》は言2天晴1也などゝある註は後人の臆説にして信ずるにたらず學者此文にまよひて阿波禮《アハレ》は天晴の意と思ふ故に今ここに辨ずる也こゝに阿波禮阿那《アハレアナ》と重ねていへるもみな歎辭也日本武尊の御歌に
 尾張ににゞにむかへるひとつ松あはれひとつまつ人にありせば衣きせましを大刀はけましを
 やつめさす出雲たけるがはけるたちつゞらさはまきさみなしにあはれ
此外思ひづまあはれ影姫あはれなどゝいふ哥有聖徳太子の御哥にもいひにゑてこやせるそのたびとあはれとよみ給へりこれらはあはれぶ事のやうに聞えてそれをあはれに思ふといふ意にみゆれどもそれは後世の意也上古の意はしからずこれらもみな歎辭にして影姫はや旅人はやといふに同し日本武尊の吾妻者耶とのたまひ允恭天皇紀にうねびやまみゝなし山を字泥※[口+羊]巴揶彌々巴揶《ウネメハヤミヽハヤ》と新羅人のいへるなど思ひあはせてしるべしさて阿波禮牟《アハレム》といふ詞はあはれと思ふ心也かなしと思ふをかなしむといふ格也されば是もすべて深く心に感ずる事をさしてなにをあはれむかをあはれむといふ也愛する事にはかぎらず然るをすべて詞の用ひかたも世々にうつりて本の心とはたがひゆく事多き物にて阿波禮《アハレ》といふ歎息の詞も後にはさま/\に用ひてすこしづゝは心もかはれる也万葉集に大伴坂上郎女
 早川のせにをる鳥のよしをなみ思ひてありしわが子はもあはれ
此あはれも古事記日本紀の哥共によめると同じいひやうなりまた作者未詳
 なごの海をあさこぎくれは海中にかこぞなくなるあはれそのかこ
 かききらし雨のふるよを郭公なきてゆくなりあはれそのとり
これは同じ意にていひかたすこし異也右いづれも文字は※[立心偏+可]怜とかけり此二字を仁賢天皇紀に播耶《ハヤ》と訓ればあはれは歎ず
 
〔頭注。源重之集あはれをはしらしとおもへと虫の音に心よわくもなりぬべきかな〕
〔頭注。古今集序に おにかみをもあはれとおもはせといへるを眞名序には感2鬼神1といへりこれ感するは則あはれと思ふこと也〕
 
(480)る辭なる事しるべし又万葉第十八ほとゝぎすのなくを聞てよめる長哥に家持卿
 うちなげきあはれの鳥といはぬときなし
これはすこし後のよみかたに似たりまへにひく哥共のいひかたとかはれり其故はまつ上代の哥によめるやうは一松あはれ旅人あはれあはれ其鳥などやうに其物々にふれて心の感《ウゴ》く時に某あはれと歎する詞也あはれ其鳥とよめるもあゝ其鳥といはむが如く是も同じく歎する詞也然るに今のあはれの鳥とよめるいひかたは少し變じてあはれと歎ずべき物をさしてあはれの鳥といへり其後にいたりては古今集に
 あれにけりあはれいくよの宿なれや住けむ人のおとづれもせぬ
 あはれむかしべ有きてふ人丸こそはうれしけれ
拾遺集に藤原長能
 東路の野路の雪間をわけてきてあはれみやこの花をみるかな
これらのあはれは全く歎息の詞にて後世迄この一格あり俗に天晴《アツハレ》といふ詞は此あはれをつめていふ也又古今集に
 とりとむる物にしあらねは年月をあはれあなうと過しつるかな
又長哥に
 すみぞめのゆふべになればひとりゐてあはれ/\となげきあまり云々
これらも歎息する事也又蜻蛉日記の詞に關の道あはれ/\と覺えてゆくさきを見やりたれは云々とあるも同じく心の内に歎ずる也又古今に
 あはれてふことをあまたにやらじとや春におくれてひとりさくらむ
 あはれてふことだになくば何をかは戀のみだれのつかねをにせむ
(481) あはれてふことこそうたて世中を思ひはなれぬほだし也けれ
 あはれてふことのはごとにおく露はむかしをこふる涙也けり
後撰集に
 ちることのうきもわすれてあはれてふことを櫻にやどしつるかな
 あはれてふことになぐさむ世の中をなどかかなしといひてすぐらむ
 きく人もあはれてふなるわかれにはいとゞなみだぞつきせざりける
これらの哥にあはれてふことゝあるはあはれといふ言なり事にあらずことの葉ごとに共云へるにてしるべしさてあはれといふ言とは心に深く感じてあはれ/\と歎ずる言也かの春におくれてといへる哥の如き人のみてあはれ/\と感ずる詞を他へやらず己ひとりいはれむとて春におくれてひとりさきたるかとよめる也餘は是になぞらへてしるべし万葉集作者未詳
 すみのえの岸にむかへるあはぢ嶋あはれと君をいはぬ日はなし
古今集
 世中にいつらわがみの有てなしあはれとやいはむあなうとやいはむ
後撰集
 あはれ共うしともいはじかげろふのあるかなきかにけぬる身なれば
拾遺集
 あはれとも君だにいはゞこひわびてしなむ命もをしからなくに
 あはれともいふべき人はおもほえでみのいたづらになりぬべきかな
(482) こぬ人をしたにまちつゝ久がたの月をあはれといはぬよぞなき
これらのあはれといふとよめるも心に感じてあはれ/\と歎ずるをあはれといふといへる也たとへば人をあはれといふは其人に感じて歎ずる也わが身をあはれといひ月をあはれといふもみな此意也又古今
 よそにのみあはれとぞみし梅の花あかぬ色香はをりてなりけり
 むらさきの一もとゆゑにむさし野の草はみながらあはれとぞみる
拾遺集
 山里は雪ふりしきて道もなしけふこむ人をあはれとはみむ
 月影をわがみにかふる物ならばおもはぬ人もあはれとやみむ
これらのあはれとみるも心にあはれと歎じてみる也また
 
これらあはれときくといへるも同じ心也又古今に
 色よりもかこそあはれとおもほゆれたがそでふれし宿の梅ぞも
 我のみやあはれとおもはむきり/\すなくゆふかげのやまとなでしこ
 たちかへりあはれとぞ思ふよそにても人に心をおきつしらなみ
 あはれともうしとも物を思ふ時などかなみだのいとなかるらむ
 ちはやぶるうぢの橋守なれをしぞあはれとはおもふとしのへぬれば
拾遺集
 身をつめば露をあはれとおもふかなあかつきことにいかでおくらむ
(483)これらにあはれとおもふとよめるも同じく心に感じて歎ずる義なりかくの如くあはれといふあはれとみるあはれときくあはれとおもふみな其物に心うごきて歎ずる事也さて又拾遺集に
 おもひでもなきふるさとの山なれどかくれゆくはたあはれなりけり
 年ごとにさきはかはれど梅の花あはれなるかはうせずぞ有ける
これらはかの家持卿の長哥にあはれと歎ぜらるゝ物をさしてあはれの鳥とよまれたる如くふるさとの山は心に感じてあはれと歎ぜらるゝといふ意又あはれなる香とはあはれと歎ぜらるゝ香といふ意也さて右の哥共によめるあはれはみな用の詞也それを體の詞にいへるもあり
後撰集
 あたらよの月と花とをおなじくばあはれしれらむ人にみせばや
拾遺集
 春はたゞ花のひとへにさくばかり物のあはれは秋ぞまされる
かやうに體にもいふ也さてかくの如く阿波禮といふ言葉はさま/\いひかたはかはりたれども其意はみな同じ事にて見る物聞事なすわざにふれて情の深く感ずる事をいふ也俗にはたゞ悲哀をのみあはれと心得たれ共さにあらずすべてうれし共おかし共たのし共かなし共戀し共情に感ずる事はみな阿波禮也さればおもしろき事おかしき事などをもあはれといへることおほし物語文などにもあはれにおかしうあはれにうれしくなどゝつゞけていへり伊勢物語に此男人の國より夜ごとにきつゝ笛をいとおもしろく吹て聲はおかしうてぞあはれにうたひけるとある笛を面白く吹てうたに聲のおかしきがあはれなる也蜻蛉日記につねはゆかぬこゝちもあはれにうれしう覺ゆることかぎりなし是又心ゆきて嬉しき事にあはれといへりたゞし源氏など其外も物語ぶみにはおかしきとあはれなるとを反對にしていへる事も多し是は總じていふと別し
 
〔頭注、校正者云。彦麿云 源氏横笛に 深き夜の哀斗は聞わけとことより外にえやはいひける〕
 
(484)ていふとのかはり也總じていへばおかしきもあはれの中にこもれること右にいへるが如し別していへば人の情のさま/\に感く中におかしき事うれしき事などには感く事淺しかなしき事こひしきことなどには感くこと深し故にその深く感ずるかたをとりわきてあはれといふ事ある也俗に悲哀をのみあはれといふもこの心ばへ也たとへばすべて木草の花は多かる中に櫻をとりわきて花といひて梅にも對するが如し源氏若菜卷に梅花を花のさかりにならべてみばやといへる是也又十二律といへば呂も其中にこもれ共わけていへば六律六呂と反對するに同しされば阿波禮といふ事を情の中の一つにしていふはとりわきていふ末の事也其本をいへばすべて人の情の事にふれて感くはみな阿波禮なり故に人の情の深く感ずべき事をすべて物のあはれとはいふ也さて其物のあはれをしるといひしらぬといふけぢめはたとへばめでたきを花を見さやかなる月にむかひてあはれと情の感く則是物のあはれをしるなり是其月花のあはれなるおもむきを心にわきまへしる故に感ずる也そのあはれなる趣をわきまへしらぬ情はいかにめでたき花見てもさやかなる月にむかひても感くことなし是即物のあはれをしらぬ也月花のみにあらずすへて世中にありとある事にふれて其おもむき心はへをわきまへしりてうれしかるへき事はうれしくおかしかるべき事はおかしくかなしかるべき事はかなしくこひしかるべき事はこひしくそれそれに情の感くが物のあはれをしる也それを何とも思はず情の感かぬが物のあはれをしらぬ也されば物のあはれしるを心ある人といひしらぬを心なき人といふなり西行法師の
 心なき身にもあはれはしられけり鴫たつ澤の秋のゆふぐれ
此上句にてしるべし伊勢物語にいはくむかし男有けり女をとかくいふ事月日へにけり岩木にしあらねば心ぐるしとや思ひけむやう/\あはれと思ひけり蜻蛉日記に云くいふかひなき心だにかく思へばましてこと人はあはれとなく也これらにて物のあはれをしるといふ味をしるべし猶くはしく紫文要領にもいへりさて物のあはれをしるより哥の出來る事は古今集第十九ふる哥奉りし時の目録の長哥貫之ちはやぶる神の御代より呉竹のよゝにも絶ずあま彦の音羽の山の春霞思ひ(485)みだれて五月雨の空もとゞろにさよふけて山時鳥なくごとに誰も寢覺て唐錦たつ田の山のもみぢ葉を見てのみ忍ぶ神な月しぐれ/\て冬の夜の庭もはたれにふる雪の猶きえかへり年毎に時につけつゝ阿波禮てふことをいひつゝ君をのみ千代にといはふ世の人の思ひするがのふじのねのもゆる思ひもあかずしてわかるゝなみだ藤衣おれる心もやちぐさの言のはごとに云々此奉るふる哥は貫之みづからよみおける哥といふ事にはあらず序に万葉集にいらぬふるき哥奉らしめ給ふとある其古哥の目録の心也神代よりよみ來れる四季戀雜のさま/\の哥はこと/\く一つの物のいはれよりいできたるといふ意にて此長哥の目録の中に四季と戀雜との間に年ごとに時につけつゝあはれてふことをいひつゝといはれたる其前後の四季戀雜の哥はみな時につけつゝ物のあはれにふれてあはれ/\と歎じつゝいできたる哥ども也といふ義也其物のあはれの品々を目録によみたる長哥也後撰集第十八に云ある所にてすの前にかれこれ物語し侍りけるをきゝて内より女の聲にてあやしく物のあはれしりがほなる翁かなといふをきゝて貫之
 あはれてふ言にしるしはなけれどもいはてはえこそあらぬ物なれ
哥は物のあはれよりいでくる故に哥仙とある人をさして物のあはれしりがほなるといへることおもしろし(山家集戀の哥の中に西行かきみたる心やすめのことくさはあはれ/\となけくはかりそ)さて返答にあはれてふことゝよまれたるは前にもいへる如く物に感じて歎息する詞也あはれ/\さいひて歎じたればとて何の益もあらねども物のあはれに堪ぬ時はいはではあられぬ物ぞと也さて此詞書にあやしく物のあはれしりがほなるといへるは貫之なる事をしりて哥よみ顔なるといふ事をおほめいていへる詞也返答も其意を得てよめり哥よみたりとて何の益もなけれど物のあはれに堪ぬ時はよまではあられぬ物ぞといふ下心也土佐日記にもろこしもこゝもおもふ事にたへぬ時のわざとかと哥よむ事をいへり又みやこのうれしきあまりに哥もあまりぞおほかるといへるも嬉しさのあまりに其情に堪ずしてよみ出る哥のおほかりしと也うれしと思ふも情の感くにて物のあはれ也榮華物語楚王の夢卷に哥は情をのぶといひてこそおかしきにもめでたき
 
〔頭注。新古今集清原深養父 うれしくは忘るゝことも有なましつらきそ長きかたみなりける是うれしきは情の淺きゆゑ也〕 
〔頭注。源氏松風卷に云むかしの人もあはれと云ける浦霧へたたりゆくまゝに云々此哥にあはれといふ詞はなけれとも此浦の朝霧のけしきに感して此哥をよめる事をさして即あはれといひけるとは書る也哥よむはあはれと云と同し意なるへし〕
 
(486)にもあはれなるにもさま/\の人のまづよみ給ふものなめれといへるはあはれを取分て一つの情にしていへる事前にいふが如しすべていふ時はおかしきもめでたきもみな物のあはれ也これらをもて哥は物のあはれより出來る事をしるべし  問云哥は物のあはれをしるよりいでくる事はうけ給はりぬさて其物のあはれに堪ぬ時はいかなる故にて哥のいでくるぞや  答云哥よむは物のあはれにたへぬ時のわざ也物のあはれにたへぬとはまづ物のあはれなる事にふれてもあはれをしらぬ人はあはれとも思はずあはれとおもはねば哥もいでこずたとへはおどろ/\しう神なりさわげども耳しひたる人はきこえねばなるともおもはずなるとおもはねばおそろしとも思はぬが如ししかるに物のあはれをしる人はあはれなる事にふれてはおもはじとすれどもあはれとおもはれてやみがたし耳よく聞人はおそれじとすれどもおそろしく鳴神を思ふが如しさてさやうにせむかたなく物のあはれなる事ふかき時はさてやみなむとすれども心のうちにこめてはやみがたくしのびがたしこれを物のあはれにたへぬとはいふ也さてさやうに堪がたき時はおのづから其おもひあまる事を言のはにいひいづる物也かくの如くあはれにたへずしておのづからほころび出ることばゝ必長く延《ヒ》きてあやある物也これやがて哥也なげくながむるなどいふも此時の事也【此事下にいふへし】さてかく詞にあやをなし聲を長く引ていひ出れはあはれ/\とおもひむすぼゝれたる情のはるゝ物也これいはむとせざれども自然にいはるゝ物也あはれにたへぬ時はいはじとしのべどもおのづから其おもむきのいはるゝ物也まへに貫之ぬしのいはではえこそあらぬ物なれとよまれたるが如しさればあはれにたへぬ時は必覺えず自然と哥はよみ出らるゝ物也  問云たへがたき時に其思ふすぢを覺えずいひ出るはさることなるべしそれはたゞの詞にても有ぬべき事なるを聲を長くし詞にあやをなすとは心得がたし此義いかゞ  答云今の人の心にては此疑さる事なりすべて万の事其本をたづねてよく/\そのあぢはひを考べし末の心をもて見ればうたがはしき事多き物なれば其本の心になりてあぢはふべしまづ哥といふ物のおこる所は右の如しそれをただの詞にいはずして聲を長くし詞にあやをなすこともたくみて然するにはあらずたへがたき事をいひ出るはおのづから(487)詞にあや有て長くひかるゝ物なりそれをたゞの詞にいふはあはれの淺き時の事也深き時は自然とあや有て長くいはるゝ也深きあはれはたゞの詞にいひてはあきたらず同じ一言も長くあやをなしていへば心はるゝ事こよなしたゞの詞にてはいかほど長くこま/\といひてもいひつくされぬ深き情も詞にあやをなして長くうたへば其詞のあや聲のあやによりて情の深さもあらはさるゝ物也されば其詞のほどよくあや有て長き所に無量無窮の深きあはれはこもりて有物也それを聞人もたゞの詞にていふをきゝてはいか程あはれなるすぢをきゝても感ずる事淺しそれを詞にあやなし聲を長くしてうたふ時はきく人のあはれと感ずる事こよなく深しこれみな哥の自然の妙也おに神のあはれと思ふ所もこゝにあるなりかやうにいひても猶物遠きこゝちして心得がたく思ふ人有べし今目にちかく有事を引ていはゞ今人せちに物のかなしき事有て堪がたからむに其かなしき筋をつぶ/\といひつゞけても猶たへがたさのやむべくもあらず又ひたぶるにかなし/\とたゞの詞にいひ出ても猶かなしさの忍びがたくたへがたき時は覺えずしらず聲をさゝげてあらかなしやなう/\と長くよばゝりてむねにせまるかなしきをはらす其時の詞はおのづからほどよくあや有て其聲長くうたふに似たる事有物也是則哥のかたち也たゞの詞とは必異なる物にして其自然の詞のあや聲の長き所にそこひなきあはれの深さはあらはるゝ也かくの如く物のあはれにたへぬところよりほころび出ておのづからあやある詞が哥の根本にして眞の哥也さて右のやうに覺えずしてふとほころび出るにはあらでよまむとおもひてよみ出る事もありそれも本は物のあはれにたへぬ時のわざ也其故はふかく物のあはれなること有て心のうちにこのしのびがたき時にたゞの詞にいひ出ては猶心ゆかぬ時其あはれなる趣を辭にあやをなし程よくつゞけて聲長くうたへばこよなくなぐさむもの也千言万語にもつくしがたく深き情もわづかに三句五句の言のはにあらはるゝ事は哥の妙也さて又右の如くあはれにたへぬ時にさやうにしても猶あはれのつくしがたくあらはれがたき時は耳にふるゝ風の音蟲のねに託てこれをのべ或は目にふるゝ花の匂ひ雪の色によそへて是をうたふ事あり古今序に心に思ふ事をみる物きく物につけていひ出すとあるは是也ありのまゝをいひてはいひつくされ
 
〔頭注、校正者云。神代紀に天照大御神天磐戸をさしてこもり給へる時に兒屋命廣ク厚キ稱辭して祈(ミ)啓(シ)給へる時に日神聞v之曰頃者人雖2多請1未v有2若v此言之麗美1者也乃細2開磐戸1而窺之云々これをもて神の言の麗美に感給ふ事をしるへし 源氏若菜下卷に明石入道の願文の事を云くたたはしりかきたるおもむきのさえさえしくはかはかしく佛神も聞いれ玉ふへきことのはあきらか也云々これも言葉にめて給ふよし也〕
 
(488)ずあらはしがたき物のあはれもさやうにみる物きく物につけていへばこよなく深き情もあらはれやすき物也さて其物に託てうたふといふは神武天皇の大御哥に
 みつ/\し粂のこらが垣下《カキモト》に植し|はじかみ《薑》口ひゞく我はわすれずうちてしやまむ
これは長髓彦をうち給ふ時の事也これよりさきに孔舍衛坂といふ所にて戰ひ給ひし時に御兄五瀬命ながれ矢に中られて神ざり給ひし事を天皇深くうらみいきどほりて今にわすれ給はぬといふ事を薑をくひて辛味のうせがたく口にのこりてひゞらくにたとへてよませ給へる也さて後にいたりては古今集に
 吾にのみきくのしら露よるはおきてひるは思ひにあへずけぬべし
物に託ておもふ心をのぶる事此たぐひむかしも今もかぞふるにたへずおほかり又ひとつのやうあり物のあはれにたへぬ時それをあらはにいひてもさはる所有ていひ出かたきを物に託していふことあり伊須氣余理比賣命の御哥に
 さゐ川よ雲たちわたりうねび山木の葉さやぎぬ風ふかむとす
 うねひ山ひるは雲とゐゆふされば風ふかむとぞ木の葉さやげる
此ふた哥は神武天皇崩じ給ひし時に手研耳命の弟皇子たちを殺さむと謀り給ふ事を皇子たちの御母后にてかなしび給ひて此事をしらせむために風雲に託てかくうたひ給へる也さて皇子たち此御哥を聞知て其よういし給へりとぞ手研耳は異母の皇子也けりくはしくは古事記にみえたり此外も多し又後々も猶此たぐひ多しこれら皆見る物きく物につけて物のあはれをいひのぶるなりさて此たぐひはことさらに其物をひきよせてよめるやうに聞ゆれど本をたづぬればさにあらずすべて心に深くおもふ事ある時は目にふれ耳にふるゝ物こと/\く其すぢに思ひよそへられてあはれなる物なればやがて其物に託ていひいだす哥なれば是又自然の事にして本はたくみたる事にはあらずさて又哥といふ物は物のあはれにたへぬ時よみいでゝおのづから心をのぶるのみにもあらずいたりてあはれの深き時はみづからよみ出たるばかりにては猶(489)心ゆかずあきたらねば人にきかせてなぐさむ物也人のこれを聞てあはれと思ふ時にいたく心のはるゝ物也是又自然の事也たとへば今人せちに思ひて心のうちにこめ忍びがたき事あらむに其事をひとり言につぶ/\といひつゞけても心のはれぬ物なればそれを人に語て聞すればやゝ心のはるゝ物也さて其きく人もげにと思ひてあはれがれはいよ/\こなたの心ははるゝ物也さればすべて心にふかく感ずる事は人にいひきかせではやみがたき物也あるひはめづらかなる事おそろしきことおかしき事なども見聞て心に感ずる時は必人にもいひきかせまほしくて心にこめがたしさていひきかせたりとても人にも我にも何の益もあらねどもいはではやみがたきは自然の事にして哥も此心ばへある物なれば人に聞する所もつとも哥の本義にして假令の事にあらず此ことわりをわきまへぬ人はたゞわが思ふ事をよくもあしくも有のまゝにいふこそ實の哥なれ人の聞所にかゝはるは眞實の哥にあらずといふ是ひとわたりはげにと聞ゆれ共哥といふ物の眞の義をしらぬ也かの愚問賢註の首の問答にいへる所は末の事なれ共猶其源をたづぬるにも哥といふ物は人の聞てあはれとおもふ所が大事なれば其詞にあやをなし聲を程よく長めてうたふが哥の本然にして神代よりしかある事也是を聞人あはれとおもへばこなたの心もはるゝ事こよなしきく人あはれと思はざればこなたの心のぶる事すくなし是自然の事也今世中にある事に引あてゝ心得べし心にあまる事を人にいひきかせても其人あはれとおもはざれば何のかひなしあはれときかるればこそ心はなぐさむわざなれされば哥は人のきゝてあはれと思ふ所が緊要也此故に神代の哥とても思ふ心のありのまゝにはよまず必ことばをあやなして聲おかしくあはれにうたへる物也妻といはむとてはまづ若草のといひ夜といはむとてはぬば玉のとうち出るたぐひなどみな詞をあやにして詞をほどよくとゝのへむためならずや後には
 敷嶋のやまとにはあらぬからごろもころもへずしてあふよしもがな
 みかのはらわきてながるゝいづみ川いつみきとてかこひしかるらむ
 よそにのみ見てややみなむかづらぎやたかまの山のみねのしら雪
 
〔頭注。彦麿云 古今集に貫之忍れと戀しき時はあし引の山より月の出てこそくれ 黒主思ひ出て戀しき時は初雁の鳴てわたると人しるらめやなとあるはこの心にかなへり貫之の哥の月の黒主の哥の初雁のともに此の文字はの如くといふ意にてたゝに其物を見聞て我身にたくへてよめる也]
〔頭注。慈鎭大僧正集 うれしかなし我思ふ事を誰にいひてさはさかとたに人にしられむ〕
 
(490)これらおもふ心をばたゞ二句にいひてのこり三句はみな詞のあや也さればいらぬ物のやうにおもふ人有べけれど無用の詞のあやによりて二句のあはれがこよなく深くなる也万葉集に此たぐひことに多しすべてたゞのことばと哥とのかはりはこれ也たゞの詞は其意をつぶ/\といひつゞけてことわりはこまかに聞ゆれども猶いふにいはれぬ情のあはれは哥ならではのべかたし其いふにいはれぬあはれの深きところの哥にのべあらはさるゝは何ゆゑぞといふに詞にあやをなす故也其あやによりてかぎりなきあはれもあらはるゝ也さて其哥といふ物はたゞの詞のやうに事の意をくはしくつまびらかにいひのぶる物にはあらず又其詞に深き義理のこもりたるにもあらずたゞ心にあはれとおもふ事をふといひ出てうち聞たるまでのわざなれども其中にそこひもなくかぎりもなきあはれのふくむ事は詞にあやある故也  又問云歌の字の義ならびに和訓に于多《ウタ》といふ意はいかゞ  答云とはるゝ所大にことわりにそむけり其故はまづはじめに哥の字の義をとひ又|于多《ウタ》を和訓といはるゝ事甚いはれなき事也|于多《ウタ》は神代よりいふ古言也歌の字ははるかに後に人の國より來れる物也されば于多といふ言に歌の字を借用るまでの事なれば于多《ウタ》といふ詞の意だにもしりなば歌の字の義はしらずとも有なむ物を歌の字の義を先にとはるゝ事いはれず又和訓といふ名目は人の國の書籍文字につきていふ事にてこそこゝのことをいふ時に古言を訓といふべきことわりなし于多《ウタ》は神代よりいひ來れる詞にてこそあれいかでか歌の字の訓ならむすべて此方の詞を和訓といふはあたらぬ事也于多といふが主にて歌の字は僕從なりすべてよろづみな此意にて言を主とし文字を僕從としてみるべき事也よく/\事の本と末とをわきまふべきこと也わきて哥の道におきては今にいたるまで神代よりいひ來れるふる言をたふとむ事なれば何事も詞の意をよく/\考ふべし文字は全く假の物にて其義をふかくいふにもおよぶまじき事也然るに人みな此ことわりをわきまへず文字を主として古言をば假の物のやうに心えてよろづをいふ故にひがこと多しかの和訓といふ名目も此故にもちひあやまれる也これかりそめの事に似たれ共學問の大なる害となることおほき故に今くはしく辨ずる也さればまづ于多《ウタ》といふ言の義をいふべき事也|于多《ウタ》は于多布《ウタフ》の體なり于多布《ウタフ》は于多《ウタ》の(491)用也すべて一つの言を體と用とにいふたぐひ多しそれに二つの分あり一つには體の言の下にはたらく言を加へて用とし省きて體とすたとへば宿といふは體也それに留を加へて耶杼留《ヤドル》といふは用也此|留《ル》は良利留禮《ラリツレ》とはたらきてやどらむともやどりて共やどれともいふ也|束《ツカ》は體|都加奴《ツカヌ》は用にて是又|奈禰《ナネ》などはたらく事上に同し綱と都奈具《ツナグ》腹と波良牟《ハラム》否と伊奈牟《イナム》段《キザ》で幾邪牟《キザム》などのたぐひみな同じ又|味《アヂ》と阿遲波布《アヂハフ》友と登毛奈布《トモナフ》幣《マヒ》と麻比奈布《マヒナフ》のたぐひは體の下に二言を加へて用となり下の一言にてはたらく也|于多《ウタ》は于多波牟《ウタハム》于多比天《ウタヒテ》于多布《ウタフ》于多倍《ウタヘ》などゝ用の時は下の一言|波比布倍《ハヒフヘ》とはたらき其一言をはぶきて體になる也さて二つには下のはたらく言をやがて體にしたる也たとへば思《オモヒ》といふ言は用にて於毛波牟《オモハム》於毛比天《オモヒテ》於毛布《オモフ》於毛倍《オモヘ》とはたらくを於毛比《オモヒ》といひて體にもなる也其時用にいふ於毛比《オモヒ》と體にいふ於毛比《オモヒとは其よぶ音かはるなり薫(ル)祭(ル)渡(ル)扇(グ)趣(ク)歎(ク)施(ス)勝(ツ)装(ホフ)疊(ム)なとのたぐひ同じ格にて下の一言を幾志知比実理《キシチヒミリ》などの第二の音にして體になる事|思《オモフ》に同じ今の世に謠《ウタヒ》といふ物は此格にて宇多布《ウタフ》を比《ヒ》といひて體になしたる詞也意は于多《ウタ》といふに同じ其例は上にいへる耶杼留《ヤドル》といふ用の詞|耶杼《ヤド》とも耶杼理《ヤドリ》とも體にいふが如し又延計世天禰幣米禮《エケセテネヘメレ》など弟四の音にて體になる有|榮《サカユル》といへば用にて佐加娃牟《サカエム》などゝもはたらくを佐加延《サカエ》といひて體にもなる也夕|助《タスクル》序《ツイヅル》調《シラブル》教《ヲシフル》など皆同格也かやうに體にも用にもいふ言どもは本は體の言なるを後にはたらかして用の言になしたるか又用の言を體になしたるかその本はわきまへがたしある人の云くいと上つ代には用の詞のみ多くて體の言はすくなしされば兩用の言はみな本は用の言なるを後に體にもいふ也とこれもさる事なれど詞によるべしよりて按ずるに上にあぐる二樣のうち下のはたらく言をやがて體になして薫《カヲリ》とも助《タスケ》ともいふやうなるは用の言が本なるべきか又|宿《ヤド》束《ツカ》のたぐひは體が本にしてそれに言を加へて用にもいふなるべし古語をよく考るにしかおもはるゝこと有也されば于多《ウタ》と于多布《ウタフ》もいづれか本ともたしかには定めがたけれど右の意にしたがはゞ于多《ウタ》といふが本にてそれに言をくはへて于多布《ウタフ》とも于多比天《ウタヒテ》とも于多波牟《ウタハム》とも于多倍《ウタヘ》とも用の言にもいふにやたゞし用にいへる事は古事記建内宿禰命の哥に宇多比都々麻比都々《ウタヒツヽマヒツヽ》といふ詞あり日本紀にも此哥見えたり體に于《ウ》
 
〔頭注。禮ヰヤハ體なり日本紀にヰヤフと訓す是用なり〕
 
(492)多《タ》といへる事は神武天皇紀に謠此云2字多預瀰《ウタヨミ》1とあり古語也されど是は地の詞にて後よりもいふべければたしかに其時の詞とはいはれず此外に于多《ウタ》といへる事見あたらずとまれかくまれ深く考へずともありぬべしたゞ于多は于多布の體于多布は子多の用と心得てありなむさて于多を于多布と體用かさねていふも常の事也是は後の事なるべしさて于多といひ于多布といふ言の意は一説にうつたふる也心のうちに思ふ事を告訴る意也といふ今按ずるに常にはうつたふといへども刑部省を和名抄に宇多倍多々須都加佐《ウタヘタヾスツカサ》とあれば于多布留《ウタフル》が本語にて于郡多布《ウツタフ》といふは俗語也されば于多布《ウタフ》と于多布留《ウタフル》と同じ意もあるぺければかれも一説には備ふべし此外いふべきこといまだ考へず推古天皇紀蘇我馬子大臣の哥に宇多豆紀摩都流《ウタヅキマツル》といふ言もあり  問云歌字の義はいかゞ  答云さきにいへるごとく字義は考るにたらぬ事也  問云|于多《ウタ》に歌字を用るはいかなる故ぞや  答云かやうにこそとはるべき事なれ于多に歌字かくゆゑはまづ于多と詩とこゝろばへ本同じ物也【此事後にいふへし】されば于多は此方の詩也万葉集第十七に倭詩といへる所あり又長哥を二上山賦立山賦などゝいひ短哥を並一絶並二絶短歌一絶などゝもかけり又第五にも于多を詩とかける所ありたゞし是は謌字を寫し誤れるにても有べし又續日本後紀にも詩といへる事ありさて詩はもろこしの于多也この故に古今序には加羅能于多《カラノウタ》といひ土佐日記には加羅于多《カラウタ》といひ源氏物語桐壺卷には毛呂許斯能于多《モロコシノウタ》といへりしかれば于多には詩字を書べき事なるに是をおきて歌字をかく事はいかにといふに尚書舜典に詩言v詩歌永v言とあるは詩と歌と二つあるにあらず歌《ウタフ》とは即詩を長くうたふ事也故禮樂記に詩言2其志1也歌咏2其聲1也といひまた歌之爲v言也長2言之1也といひ説文には詠也と註し漢書藝文志にも詠2其聲1謂2之哥1と有てもと歌字は用にのみいひてうたふ事也歌といふ物はなかりし也されどもそのうたふ言をさして則歌ともいひて體にもいふ事にて文選にも載せて歌といふ物も有也たゞしそれも體の別にあるにはあらず詩と同じ事也さて後世にいたりても歌字は體にも用にももちふる也體に哥といふ物を按ずるにその大抵をいはゞ正しく詩にはあらねども詩に似てうたふ物のたぐひをすべて歌といふ也さて詩字は古より後世にいたる迄體にのみもちひて(493)用にもちふる事なし歌字は右の如く體にも用にも通用して字義も聲を長くしてうたふ意なれば此方の于多布《ウタフ》といひ于多《ウタ》といふ言の意も體用にいふ所もよく相かなへる故に歌字を用る也又此方にてももろこしの書籍をつねに學び詩をも作れる故に于多に詩字を用ひては詩とまぎらはしくもあれば歌字を用る事かれこれいはれたる事也  問云釋名に人聲曰v歌歌柯也以v聲吟咏有2上下1如3艸木有2柯葉1也とあり此方の于多も此義なりや  答云あらず是は歌字の音につきていへる説なり文字の音は此方の言にあづかる事さらになし于多といふ言につきてこそ義理は註すべき事なれ歌字の音につきたる義をもて于多の義とせむ事大にいはれぬ事也それも于多と歌字とは義理よく相かなひたれば歌字の義にかなへる説ならば于多の義にもおのづからかなふまじき物にもあらねどかの柯也といふ説は歌字の義にもかなはず牽強の説也さればまして此方の于多にはさらにあたらぬ事也すべて是のみならず字音によりていへる字義は強たる事おほしなつむべからずまして此方の言を解するに文字の註ばかりを見て心得るは大なるひがこと也言の意と文字の意と相かなふやいなやを考て後に文字の義を考ふべしそれも言の意だにもあきらかならば文字は借物なれば深くいふべき事にもあらずしかるに文字の義理のみをくはしくいひてそれを此方の言の義とするははなはだ誤也  問云神武天皇紀に爲2御謠1之曰謠此云2宇多預瀰《ウタヨミ》1とあり謠字も于多にあたるか  答云歌謡といひて大かた歌も謠も同じ事也たゞし詩經の魏風の中の詩に我(レ)歌(ヒ)且(ツ)謠(フ)といふ言あり是は有2章曲1曰v歌無2章曲1曰v謡と有て説文にも謡(ハ)徒《タヾノ》歌也といへり分ていふときはかくの如くなれども紀に謠字をかけるは歌字と差別あるにあらずこの故にかの御謠といへる于多を是謂2來目歌1今樂府奏2此歌1者云々とあれば正しき歌也  問云謌哥などは歌字と差別あるや  答云みな同し事也  又問云哥を與牟《ヨム》といひ詠ずるといひ又詠字を那賀牟流《ナガムル》といふ是この義いかヾ  答云|于多余牟《ウタヨム》といふはやゝ後の事なるべし其故は于多布が于多の用語なれば根本の詞にはたゞ于多布といふべしこの故に古事記に哥を載るとて歌曰とかけるをみるに上の文章のつゞき樣|于多比天伊波久《ウタヒテイハク》とよむべき所おほしこれ古語には于多布といへる故にそのまゝに書る物なるべし余《ヨ》
 
〔頭注。續日本紀第三十歌垣の事をいへる所に哥二首をのせて其次に云く其餘四首並是古詩云々この詩字は謌字の寫誤なり〕
〔頭注。彦麿云説文に云引其聲以詠之也〕
〔頭注。詩に搖云作歌〕
 
(494)牟《ム》といふ事はやゝ後の事なるべしたゞし神武天皇紀に宇多預瀰《ウタヨミ》といふ言ありたゞし是は後よりいへる言なるべければたしかに其時の言とは定めがたけれど紀の出來たるより以前の古語にては有也しかるに余牟《ヨム》とはなくて預瀰《ヨミ》とある瀰《ミ》字は下によみつゞけむためのはたらく瀰《ミ》にはあらで體語と聞ゆる也故|美于多余美志天能多麻波久《ミウタヨミシテノタマハク》とよませたり後には枕草子にもうたよみしておこせたるといふ事二所あり今も女わらへの詞にもいふ也さてその于多余美といふも本うたをよむといふことある故の詞なるべければ余牟といふもいと古き言とみえたり于多布といひては古き哥を吟詠《ウタフ》にもまぎるゝ事あれば今あらたに製作する事をば余牟といひて新古をわきまふるためにても有べしすべて余牟といふ言の意を按ずるにまづ書をよむ經をよむなどいふ常の事なれどこれらは書籍わたりて後の事也もとはあるひは歌にもあれ祝詞のたぐひにもあれ本より定まりてある所の辭を今まねびて口にいふを余牟といふそれに聲を長めてうたふをば余牟とはいはずたゞよみにつぶ/\とまねびいふをしかいふ也後の世に經を誦《ヨム》陀羅尼を誦《ヨム》と同じ事なりさて後に書籍わたりてはそれにむかひて文の詞をまねびいふをも同じく余牟といふ也さて又物の數をかぞふるをも余牟といふ事古語也古事記上卷|稻羽之素菟《イナバノシロウサギ》の故事をかける所に見えたり神代の事也則讀字をかけりこれ字義にかゝはらずして古語のまゝにかける也万葉集にも月日余美都々《ツキヒヨミツヽ》なとよめる事多し又第四卷に月日乎|數《ヨミ》而第十一に打鳴皷數見者《ウチナラスツヽミヨミミバ》などもあり哥物語にもおほし今の俗語にもいふ事也されば本定まりてある辭を口にまねびていひつらぬるも物の數をかぞふるに似たればその意同じ事也是につきて哥を姶て製作するを余牟といふに二つの義有べし一つにはまづ余牟といふはもと右にいへる如く定りてある詞をたゞことばにつぶ/\とまねびいふ事也されば古き哥をも後にうたはずしてたゞよみにつぶ/\とまねひいふをば余牟といへるなるべし古事記に此二歌者讀歌也といへる事有これはすべて哥を載て次にあるひは夷振也宮人振也宇岐歌也などゝあるはみな後世に遺りて奏《ウタフ》につきてなづける目《ナ》也讀歌也とあるは此哥は他の哥のやうにうたはずして後世迄ただよみによむ哥なる故にかく稱ぜしなるべしされば始てあらたに製作したる哥をもうたはずしてたゞよみによみ聞せた(495)る事もおほくありけらしそれがならひになりておのづから製作することをも余牟といふやうになりけるなるべし于多布といひては古哥を吟詠にまがふ事もあり又かならずしもうたはぬ事も多かればすへて哥にもたゞよみによむもみな製作するをば余牟といふ事にはなれるなるべし今一つの義は哥は心にあはれと思ふ事共をいひつらぬること物をかぞふると同じ意にて余牟とはいふ也もろこしにて詩を作る事を賦するといふに此義かなへり釋名云敷2布其義1謂2之賦1とこれ物をかぞふるを余牟といふと其義同じこの故に此方にて哥を六くさにわかてる中に加叙幣于多《カゾヘウタ》といへるを詩の六義の中の賦にあてたり又漢書に班固がいはく不v歌而謠曰v賦とこれ又余牟といふにかなへり鄭玄が云賦者或造v篇肝謂v古とこれ又此方にて新哥を始て製作するをも古哥をたゞよみによむをも共に余牟といふに全くかなへり雄略天皇妃に詔2羣臣1曰d爲v朕讃2蜻蛉1歌賦之u群臣莫2能敢賦者1これすなはち賦字を余牟と訓せり万葉第二十にも賦v雪歌とかける所ありただしこれらは其言葉の義のかなへる故にかくかけるにはあらすたゞ賦v詩といふにならひてかける意也さて右二義のうち後の義はおのつから賦字の意と相かなひたるはさる事なれ共上古の言のやう事の心をつら/\思ふに猶前の義まさるべき也さてすべて余牟といふ言に讀誦などの字を用ふるなり讀字は大方書籍にむかひて余牟ことに書字也誦は周禮(ノ)春宮大司案山諷誦とある註に背v文曰v諷以v聲節v之曰v誦といへり此方の余牟といふ言にかなへり故に物語文などにも哥を誦《ズ》するといへる事多したゝし古哥をよみあぐる事也あらたによむ事には此字さらにかなはずあらたに製作する事をよむといふには賦字よくかなへる事右にいへるが如し日本紀にも余牟と訓じたる例あればいよ/\たしか也然るに後世には哥を製作するを余牟といふに詠字を用るはあたらぬ事也此字の義は下にくはしくいふべし又古事記に作2御歌1といひ日本紀にも作v歌などかきまた三代實録などにも作とかき万葉にもみな作とかけりこれらはみなもろこしに作v詩といふにならひてかける也大方漢文にかける物にはみな作とある也万葉も詞書はみな漢文なればしか書る也古言に哥を都久留《ツクル》といふ事は聞つかねば右の作字もみな余牟と訓すべき事也神代紀に爲歌之神武天皇紀に爲御謠之など爲字をかけるをも
 
〔頭注。後拾遺集卷三十俳諧哥に橘季道みちの國に下りて武隈の松を哥によみて侍りけるに二木の松を人とははみきとこたへむなとよみて侍りけるをつてに聞てよみ侍りける 僧正深覺武隈の松の二木をみきといふはよくよめるにはあらぬなるへし此下句哥を余牟と數を余牟とを兼たるを與にしたる也〕
〔頭注。万葉第十七に靡v堪v賦v歌又第二十に賦2和歌1〕
〔頭注。日本後記第八にも作2和歌1といふ事あり〕
 
(496)みな美宇多余美《ミウタヨミ》と訓じたるになぞらへて作字も余牟といふべし都久留といふ事はやゝ後の言也顯宗天皇紀に詞人に于多都久留比登《ウタツクルヒト》とし訓じたるは作歌といふ字をみてそれによりて後の人のしたる訓なるべし古言にあらじ是は于多毘登《ウタビト》とか于多余美比登《ウタヨミビト》とか訓ずべしすべて郡久留《ツクル》といふ言は體のある物にいふ言也哥は口にいひて其聲のみ有て形なき物なれば都久留とは云べからずすべて此方の言ともろこしの言と全く同じき事もあり又かはる事も有也もろこしにて作字は形有物を作るにも詩文などを作るにもわたる字也こゝにて都久留の言は哥などやうの事にはわたらず是文字の義と言の義と分別ある所也  問云新哥を製作するを余牟といふ故は聞えたり古き哥を今よむとはいかゞ  答云まへにもいへる如く余牟といふ言はもとより定まりてある詞を今まねびいふ事也されば人のよみおきたる哥を今まねびいふをも又余牟といふ也枕草子におかしと思ひし哥などをさうしに書置にるにげすのうちうたひたるこそこゝろうけれよみにもよむかしとある是也さて于多布は聲を長くしてうたふ事ろんなし余牟は聲を長くせずしてたゞ詞のやうにつぶ/\とよみあぐる事也万葉集第八に右二首若宮年魚麿誦v之第十六に謂2此歌1又第廿に右二首左大臣讀v之主人大原今城傳讀などゝあるみな古哥をよみあぐる事也  問云詠ずるといふはいかゞ  答云詠字は聲を長くしてうたふ事なりまへにひける尚書の舜典に歌永v言とある永字則咏詠に通じて歌字と同じ意也この故に説文に詠歌也また歌詠也とたがひに註せりされば此字を奈我牟流《ナガムル》とも于多布《ウタフ》ともよませて古哥にても新哥にても聲長くうたふ事也然るに後世にいたりて余牟といふに此字を用ひて哥を製作する事とするは字義かなはずたゞし哥は于多布といふが根本の稱呼なれは詠字かきて于多布と訓ぜばあらたに製作するにも用ふべし余牟といふに此字はあたらずされど中古以來おしなべて此字を余牟といふに用る事になれりいにしへはたゞ聲を長くしてうたふ事にのみもちひたり古事記に云此歌者國主等獻2大贄1之時恒至2于今1詠v之歌者也日本紀崇神天皇紀に乃(チ)重(テ)詠(フ)2先(ノ)歌(ヲ)1などゝ有万葉第十六にあさか山の哥を載たる所に詠2此歌1とあるはあらたによめる哥なれどもそれを則うたひたるといふ事を詠とかけるなり哥はもとうたふ物なれば新に製作するをも詠とかくは(497)うたふ義にてかく也それを余牟と訓ずる事はふるくはみえず又万葉第七第十に詠v天詠v月詠v鳥詠v霞などいふ事おほし是はうたひたるといふにはあらず詩に詠物とて草木禽獣其外何にても詠v某といふ事あるにならひてかける物也されと是は詩のひとつのやうにしておしなべていふ事にはあらずよりて万葉にも詠物にのみ書てなべての事にあらず詠v戀詠述懷などゝいふことはなき也とにかくに哥をよむといふにすべて詠字を用るはすこしあたらぬ事也同じ事ながら詠哥といふはよき也是は二字共に于多布といふ意にて哥を製作することの根本の義にかなへりそれも後世にはあしく心得て詠歌二字を哥をよむといふ義とおもふはたがへりもろこしにても詠歌するといひて二字ともにうたふ事也故に歌詠ともいふ也  問云|奈我牟流《ナガムル》と宇多布《ウタフ》と差別ありや  答云大かた同じ事なれどくはしく分ていはゞ奈我牟流《ナガムル》とは聲を長く引ていふ事をすべていふ也于多布とは其ながむる言の中にてほとよく調ひあやあるをいふ也さればすべて聲長く引ていふはみな奈我牟流也其聲にあやをなしてほどよくながむるが于多布也故に于多布をも通じて奈我牟流といへることはおほし奈我牟流をすべて于多布とはいひがたき事多しよりて文字も詠字は奈我牟流にも于多布にも用ひ歌字は于多布にのみ用て奈我牟流には用ひずもろこしにても此こゝろばへにて歌字と詠字と用ひかたに差別ある故也猶後にくはしくいふべし  問云奈我牟流とは物思ひしてなげく事又物をつく/”\見る事にこそ常にはいへ聲を長くひく事とはいかゞ  答云すべて一つ詞の後にはさま/\に意かはりてあらぬ事にも轉じ用る事多し奈我牟流の言も其定にて後にはさま/\の意に轉れる也其よしをくはしくいはゞまづ奈我牟流は長くする義地廣くするを比呂牟流《ヒロムル》といひ加多久須流《カタクスル》を加多牟流といふ格也されば奈我牟流はもと聲を長くする事也住吉物語に人ならばとふべき物をなどうちながめて云々又たづぬべき人もなきさの住のえにたれまつ風のたえず吹らむとうちながむるをきけば云々枕草子にもながやかにうちながめて云々狹衣におくより人より來て几帳のまへなる人にたゞうらみ哥をはゝとよみかけよとさゞめくなればわぎみぞながめごゑはよきまろはさらに/\とわらひぬれば云々などいへるは中ごろになりても猶其意也人の言のみにもあ
 
〔頭注。うつほ物語藤原君【四十一丁】に哥一首よむといふ事を比登都々久里天とあり〕
〔頭注。爲詠歌といふ事古事記中卷にみゆこれも宇多豫瀰須流とよむへきなり〕
〔頭注。夫木集十三建長八年百首哥合 信實朝臣月のよの聲もほそめに窓あけて心をやれるうたなかめかな〕
 
(498)らず蜻蛉日記にはさしはなれたる谷のかたよりいとうらわかき聲にはるかにながめなきたなりと鹿の聲をもいへりこれみな聲をながくする事也さて又物思ひしてなげくことを奈我牟流といへること哥にも物語ぶみにもおほしこれは奈宜久《ナゲク》といふ言と同じ事也其故は奈宜幾《ナゲキ》は長息《ナガイキ》といふ事也それを奈宜久ともはたらかしていふ事は息と生と同じ言也生と死とは一つの息によりて分るゝ物にて息すれば生也せねば死也されば生《イク》は息するといふ意にて本は息と生と同じ言なれば息も以久ともはたらく言也されば其息を長くするを奈我以久《ナガイク》といひそれをつゞめて奈宜久《ナゲク》ともいふなれば奈宜久はながいきするといふ事也万葉集に長氣所念鴨《ナガキケニオモホユルカモ》などゝよめる事數しらずさて何故に息を長くするぞといふにすべて情に感《アハレ》と深く思ふ事あれば必長き息をつく俗に是を多賣伊幾都久《タメイキツク》といふ漢文にも長大息などゝいへりその長く息をつくによりてむすぼゝれたる心のはるゝ故に心に深く感ずる事あればおのづから長息はする也万葉第八に波のうへゆみゆる小嶋の雲がくれあな氣衝之《イキヅカシ》あひわかれゆけばとよめる氣衝之は即なげかはしといはむが如し此外なげきいきづきなども多くよめりこれらをもて奈宜久は長息するといふ事をしるべしされば息を長くする事なれば奈宜久をも奈我牟流といふ也さて心に深く感《アハレ》と思ふ事あれば必長息をする故に其意より轉じて物に感ずる事をやがて奈宜久とも奈我牟流ともいふ也この故に奈宜久といふ詞はすべて情の感ずる事にはうれしきをもおもしろきをもたのしきをもみないふ言也然るに後にはうれはしくかなしき事にのみいふは深く感ずる情の一つをとり分ていふ也奈我牟流も其定也さて奈宜久には歎字をかく字書に歎吟也とも大息也とも注し常に歎息といふ此方の奈宜久によくかなへり又稱歎とも歎美ともつゞけいひて此字の義もかなしき事のみにはかぎらぬ也さて右の如く情に深くあはれと思ふ事ある時は必長き息をつく是則奈宜久也奈我牟流也其時は息のみにもあらず聲に出てもながむる物なり阿那《アナ》阿夜《アヤ》阿々《アヽ》阿波禮《アハレ》などゝいふ言はみな此長息と共に出る言にて其情感の深さにしたがひておのづから其聲長く出る物也これ又則|奈我牟流《ナガムル》也源氏標澪卷にあはれとながやかにひとりごち給ふとある是あはれといふ詞をながめていふ也古今の長哥にあはれ/\となげきあまりとよめる是長息と共に(499)阿波禮《アハレ》といふ詞のいはるゝ也さてかく長息をあはれ/\とながめても猶あかぬ時は其情に感ずるさまをうち長めていひつらぬる其詞の程よくとゝのひてあやある是則于多布也于多也【此事前にもくはしく云り】詩序に情動2於中1而|形《アラハル》2於言1言(トモ)v之不v足故|嗟歎之《ナカイキス》嗟歎之(トモ)不v足故|永歌之《ウタフ》といへるもろこしも同じこゝろばへ也息を長くするも阿波禮などゝいふ言を長くいふも于多布もみな通じて奈我牟流といふ是みな物のあはれにたへぬ時のわざなれば其あはれの深き事をさしてやがてそれをも奈我牟流といふ事まへにいへるが如し  問云物をつく/\とみるを奈我牟流といふはいかなる故ぞ  答云奈我牟流はもと聲を長くする事にてそれより轉りて物おもふ事にも言なる事まへにくはしくいへるが如し三代集の頃迄も猶此定也物語文などにも多くはこの二つの意にのみ用ひてみる事にいへるはまれ也然るを千載新古今のころよりしてもはら物を見る事にのみいへるは又其意を一轉せる物也(彦磨云千載集に時鳥嶋つる方をながむれは云々とあるは聲を長くするより轉してはるかに遠く見放る事にもなりたるなるべし)それにつきて二つの今按有一つにはまづ物思ふ時は常よりもみる物きく物に心のとまりてふと見出す雲霞木草にも目のつきてつく/\とみらるゝ物なればかの物思ふ事を奈我牟流といふよりして其時につく/\と物をみるをもやがて奈我牟流といへるより後には必しも物おもはねどもたゞ物をつく/\みるをもしかいふ事にはなれるなるべしされば中頃は物思ふ事とみる事とをかねていへるやうに聞ゆるが哥にも詞にも多しこれ物思ふ時は必物をつく/\とみる物故也蜻蛉日記によろづをながめおもふに又かゝる事をつきせずながむる程になどいへるはまさしくなげくといふに同じくして物思ふ事也又同日記に
 かひなくて年へにけりとながむればたもとも花の色にこそしめ
源氏手習卷に
 山のはにいるまで月をながめみむねやの板間もしるしありやと
これらは二かたをかねたるやうに聞ゆる也此たぐひ猶多し今一つには三代集の頃の哥にも詞にも物思ひなげく事を奈我
 
〔頭注。万葉第二夜者裳氣衝明之嘆友云々 又第十三吾嘆八尺 彦麿云万十四つくはねのねろに霞ゐ過かていきつく君をいねてやらさね 沖にすもをかものもころやさか鳥いきつく妹を置てきぬかも あちのすむすさの入江の隱沼のあないきつかしみすひさにして〕
〔頭注。古事記景行天皇段に長眼といふ事有宜考 六帖 めをさめてひまより月をなかむれはおもかけにのみ君はみえつる〕
〔頭注。新勅撰集戀五 道信朝臣物思ふに月みる事はたえねともなかめてのみ
 
(500)牟流といへるが物をみる事のやうにも聞えてまぎらはしきがおほかるを誤て物をみる事ぞと心得て後には其意に用る事になれる也さればむかしの哥に物思ふ事によめるをみる事と心得る事今もおほし此兩義をならべて按ずるに猶まへの義まさるべしとまれかくまれ物思ふ事より轉ぜしはたがはぬ也さて奈我牟流といふに眺字をかくはこの字は視也望也と註したれば後に物をみる事にいふこゝろ也言の義にはかなはず奈我牟流には詠字よくあたれりたゞし後の哥共に見る事を奈我牟流とよめるに詠字をかくは文字は借物とはいひながら目にたちてあしきものなり
 
〔頭注、もあかしつる哉
これみるとなかむるとたしかにわかれたり〕
 
(501) 石上私淑言下卷
           本居宣長
 
ある人又問けらくやまとうたといひ倭歌といふ事はいかゞ  まろ答云|夜麻登于多《ヤマトウタ》といふは古語にあらず倭歌とかく事出來て後にその文字につきていひいだせる言也  問云しからばまづ倭歌といふ事をうけ給らむ  答云倭歌といふ名目ふるくはいはぬ事にて古事記日本紀にはみえずたゞ歌とのみある也倭歌といふことはもろこしの書籍をもはら學ぶ世になりて詩をも作り又かの國にも哥といふ事もあればかれこれまぎらはしきによりて此方のをば倭哥とはよぶ也それにとりて二つの義有べし一つにはもろこしにて國々の哥を齊歌楚歌などゝわかちていふ義にならひて倭歌とかくか二つにはすべてもろこしの歌詩に對していふか大方和漢からやまと、何事にも對へていふ事おほければ後の義まさるべしいづれにもあれ同じやうなることながらすこしは其心ばへ異なる故に二義をあぐる也さて倭歌といふ事の始て物にみえたるは万葉集第五に書殿饌酒日倭歌四書【天平二年のことなり】又第二十に先太上天皇詔2陪從王臣1曰夫諸王卿等|宜《・ヘシ》(ク)d賦2和歌1而奏u云々これ也さて後には日本後紀よりして代々の國史そのほかにも漢文かける物には多くいへりこれはさもあるべし假字文にはかりそめにもかくまじき名目なれどもいひなれて後には物語文などにもまゝ見えたりさて漢文にても歌の事をのみいふ書にはたゞ哥とかくべきこと也この故に万葉集は詞書はみな漢文なれどもたゞ歌とのみかけり倭哥とかけるは右にひく二つのみなりかれも第五卷なるはその時に詩などをも作りけむゆゑにわけてかける事も有べし第廿卷なるは詔命の詞なれば是又詩にまぎるゝ事有ぬべき故也その外倭歌とかけることなし又ところ/\に和歌とあるは後の集に返しといへる物にて答哥也詩の和韻といふ事にならひてかける和字にてやまと哥の義にあらず又今の印本の外(502)題に萬葉和歌集とかけるは事をしらぬものゝみだりにかける事なればいふにたらず和歌集といふ題號は古今より始まる事也さて延喜の勅撰集を古今和哥集となづけ眞字序に夫和歌者とかき出し紀氏の新撰の序にも和哥といへるたぐひ哥の事のみいふ書に和哥といふはすこしいはれぬ事なれ共ふとおし出していふ時には必和歌といふがなべてのならひになりて後々はいよ/\さのみかきあふめり  問云倭歌とかく事はうけ給はりぬやまとうたといふはいかゞ  答云|夜麻登于多《ヤマトウタ》といふは古語にあらず倭歌といふ文字につきていひ出せる言也すべて詞にもとよりの古言と文字につきて出來たる詞と有也たとへば宗廟を久爾伊幣《クニイヘ》とよみ納言を毛能麻宇須都加佐《モノマウスツカサ》とよむたぐひ古語にあらず文字につきていひいだせる詞也夜麻登于多も此たぐひ也それにつきてことわりをもていはゞ唐にも歌といふ事有又詩にもまがへば倭歌とかゝむは猶ことわりなれど于多《ウタ》といふことは唐にはなければまぎるゝことなしされば夜麻登于多といふはわづらはしき事也しかはあれどおしなべて倭歌といふによりて其文字のまゝにやまとうたとよぶ事もあまねくなりて自然の古言のやうにおもふ人も有也されば今しかよぶを必あしゝとにはあらねど其本のおこりをよくわきまへおきて俗説にまよふべからず夜麻登于多といふ事の始て物に見えたるは伊勢物語にかりはねむごろにもせで酒をのみ飲つゝやまと哥にかゝれりけるとあるこれらなるべし是は詩などをも作るべきをりふしなる故にわきてかくもいふべし又源氏物語などにも詩をもつくりて混ずる時にはからのもやまとのもなどゝいへり常にはゞうたとのみ有也しかるに古今序の首にやまとうたはとかきいだされたるはすこしいはれぬ事也是はもはら哥の事をのみいふ書にて異に其根本をかきあらはす所なればたゞ于多とのみあらまほしき所也しかるに後世に是を釋するとて夜麻登といふにさま/\の義をつけてこと/\しくいひなすは甚いはれなくおろかなる事也夜麻登は哥につきた言にあらずたゞ倭歌といふこと出來て後に其文字につきていひならはせる言にて古語にもあらず其倭字はたゞ人の國の歌詩にわかたむ料にて此方の哥といへるまでの事也それも唐哥にまぎるゝ事なき時はたゞ歌とのみいふべき事なるを後には夜麻登于多といふをめでたき事のやうにさへおもひいふは(503)大なるひが事也あるは夷曲《ヒナフリ》といふ事のあるに對して京華《ミヤコ》の哥を大和歌といふなどゝいへるはとるにもたらぬ俗説也又大和歌とかきて哥は大きにやはらぐてふことわりなれば和《クワ》をもてむねとするなどいふはいよ/\論ずるにもたらぬ事也夜麻登はたゞ我國の名にて哥にあづかる事にあらぬを思ふべし  問云夜麻登といふに古來さま/\の説ありくはしくうけ給はらむ  答云夜麻登は哥にあづかれる事にもあらねばくはしくいはずとも有ぬべけれどやまとうたといふ事いできていひなれたる故に浮世には哥のことをいふとてはまづ論ずる事になりてさま/\の説ある故に人みなまよふ事なればよくわきまへおくべき也まづ夜麻登はもと一國の名にて則今もいふ大和國の事也さるを神武天皇はじめて此國の橿原《カシバラノ》宮に天の下しらしめしてより世々の皇都も皆此國の内なれば帝都の御國の名なる故に後にはおのづから天下の惣名にもなれる也  問云やまとの名はいつより始りけるぞ或説に神武天皇を神日本磐余彦尊《カムヤマトイハレヒコノミコト》と申奉る故に此御世の都の國なる故にしかなづくるといふはいかゞ  答云あらず夜麻登といふ事は八千矛神《ヤチボコノカミ》の御哥にもみえ又饒速日命《ニギハヤビノミコト》の天降り給ふ時に虚空見日本國《ソラミツヤマトノクニ》といふ古言も有て神代よりの名也神武天皇の御號は此國の名によりて後に申せる也神代紀に狹野尊《サヌノミコト》亦號2神日本磐余彦尊《カムヤマトイハレヒコノミコト》1所v稱2狹1者是年少時之號也後撥2平天下1奄2有八洲1故復加v號臼2神日本磐余彦尊1とある此文うたがひあれども始よりの御號にあらざる證にはなりぬべし本紀にも其おもむきみえたり又|磐余《イハレ》も大和の國の地名也されば此御號より出たる國の名にあらざる事あきらけし  問云或説にやまとはもとより天下の惣名なるを神武天皇以後皇都の國の別名にもなれるといふはいかゞ  答云大なるひが事也大かた地名といふ物は本は別名なるを後に惣名にも用る事はおほし本惣名なるを後に別名とする事は例なしたとへば駿河(ノ)國駿河(ノ)郡駿河(ノ)郷出雲(ノ)國出雲郡出雲(ノ)郷安藝(ノ)國安藝(ノ)郡安藝(ノ)郷大隅(ノ)國大隅(ノ)郡大隅(ノ)郷のたぐひもみなもとは郷の名なるを郡の名にもなし又其郡の名をつひに一國の惣名にもなしたる也又筑紫といふはもとは今の筑前筑後の事なるが後には九國の惣名にもなれり又陸奥をさき分て出羽を建らるゝ時も出羽といふ郡の名をとりて一國の惣名とし加賀の國も又然りいづれもみな別名よりおこりて後に惣名
 
〔頭注、總角卷云つくりけるふみ共のおもしろき所々うちずしやまとうたもことにつけておほかれと云々
椎木卷云からのもやまとのも哥ともおほかれと云々
うつほ物語藤原君卷云
よばひふみのやまと哥なきは人あなつらしむるものなり云々四十一丁〕
 
(504)にはなれる也これらの例を引までもなく夜麻登は神代のふる言にもたゞ一國の名にのみいひて神武天皇以後までも惣名にいへる事は見えず  問云神武天皇紀に皇與巡幸因登2學腋上※[口+兼]間丘《ワキガミノホヽマノヲカ》1而廻2望國状1曰妍哉乎國之獲矣雖2内木綿之眞※[しんにょう+乍]國《ウツユフノマサキグニ》1猶如2蜻蛉之臀※[口+占]《アキツノトナメセルガ》1焉由v是始有2秋津洲《アキツシマ》之號1也昔|伊弉諾尊《イザナギノミコト》目2此國1曰|日本者浦安國細曳千足國磯輪上秀眞國《ヤマトハウラヤスノクニホソボコノチタルグニシワカミノホツマクニ》云々とあるに日本者《ヤマトハ》と有て前後の諸名皆天下の惣名と聞えたりいかゞ  答云これみな一國の事也廻2望國状1といふにてもしるべし天下の廣大なる形状はいかでか一目にみゆべき又内木綿之眞※[しんにょう+乍]國とのたまへるも明らかに一國の事と聞えたり眞※[しんにょう+乍]國は眞狹國《マサキクニ》也是又天下をいかでかさはのたまふべきされば浦安國などもみな一國の事也然るに釋日本紀などにこれらを惣名にして註したるは大にあたらぬ事也大和國は海なければ浦安とはいふべからずと疑ふ人有べけれど是はうらなきうらがなしうらさびしなどのうらにて浦は借字也さて後に夜麻登が惣名になりては其外の秋津洲なども惣名になれるは後の事也  問云神代紀に廼生2大日本豐秋津洲1云々これは筑紫四國などのはなれたる國々はのぞきても猶惣名と聞えたりいかゞ  答曰まづ大八洲といふはその大小にかゝはらず海をへだてたる國を一洲《ヒトツノシマ》としてその數八つ也八つとは古事記には淡路之穗之狹別嶋《アハヂノホノサワケノシマ》伊豫之二名嶋《イヨノフタナノシマ》隱伎之三子嶋《オキノミツゴノシマ》筑紫嶋《ツクシノシマ》伊伎嶋《イキノシマ》津嶋《ツシマ》佐渡嶋《サドノシマ》大倭豐秋津嶋《オホヤマトトヨアキツシマ》也【日本紀一書同】日本紀には大日本豐秋津洲伊豫二名洲筑紫洲隱岐洲佐度洲越洲【うたかひ有】大洲吉備子洲これ也この中の大やまとは七洲をのぞきて地界のつゝきたる國々を一つにすべていへれは猶惣名也しかれどもこれは惣名にもなりて後の世よりいへることにて神代の古言にはあらずまへに引る神武天皇紀に始有2秋津洲之號1也とあるにてもしるべし神代よりいひ來れる天の下の惣名は葦原中國《アシハラナカツクニ》大八洲國《オホヤシマグニ》など也このうち神代のふる言をかむがふるに天上より此土をさしては葦原中つ國といひ此土にていふ時は大八洲國といへる也やまとゝ惣名にいへる事は見えず後の事也  問云しかあらば生2葦原中國1とか生2大八洲國1とか書つべき事なるを二紀ともに大やまとゝはなど書けむ  答云葦原中國はもとより天下の惣名なれば其中には餘の七洲もこもれりこゝは其七洲を除きていふ所なれば葦原中國とも大八洲國とも書がたし夜麻登はもと一國(505)の名にして他にわたらず又後には惣名にもなれゝばかの七洲を除きての惣名に借てかける物也さる例は伊豫も一國の名なるを四國の惣名にも借てかけり筑紫もその定也是らを思ひあはすべし  問云もと一國の名なる事は聞えたりそもそも惣名にはいつの頃よりなれるぞや  答云いつよりといふ事なくおのづからなれるなるべし惣名にいへる事の古言にたしかにみえたるは古事記に仁徳天皇|日女《ヒメ》嶋に幸《イデマシ》し時に其嶋にて雁卵を産りよりて建内宿禰命《タケウチノスクネノミコト》をめして此事をとはせ給へる御哥にたまきはる|うち《内》の|あそ《朝臣》な《汝》こそは世の長人空みつやまとの國に鴈|こ《卵》む《産》ときくや是にこたへ奉りし哥にもそらみつやまとの國に鴈こむといまだきかずとよまれたり日本紀には是を河内國天田堤に鴈産とありいづれにもあれ和州の内の事にあらず且鴈の産ことはすべて此方にてはめづらしき事なればこの夜麻登は惣名也虚空見の枕詞もやまとにつきたる詞なれど惣名の時にもいふべし日本紀にのせたるには二首共にあきつしまやまとゝ有同じ事也さて此御世にすでにかくよませ給へれば是よりさきにはやく惣名にもなれる事しられたり  間云本國の別名をもて天下の大號とする事はもろこしにて歴代の通例なれば此方もそれにならひて夜麻登を惣名にもちひらるゝか  答云仁徳天皇の御世にはや大御哥にもよませ給ふばかりいひなれたればいかでかはしからむかの御世には書籍はすでに渡りたれどまださる事はいさゝかもまじはらず神代の心ばへをうしなはぬ時也しかるにかの國の書籍をあまねく學びて何事も其かたをのみ效ことになれる後の世の心をもてみる故に神代よりある事共をもかれにならへるかとのみうたがふ也すべて万の事さかしらがる後の世になりてこそわがくに人の國たがふ事のみおほけれいと上つ代の有樣はいづくも/\同じ事にてこゝとかしことおのづから心ばへの相通ふ事もおほかりけりされば唐土の國號の例も夜麻登の惣名になれるやうとおのづから似かよひたりけむかし  問云やまとゝいふ名の意はいかゞ  答云此義つまびらかならず古來其説おほくあれどみなわろしちかき世にもいひ出たる説あれど是等もあたらぬこと也よりてつら/\おもひ求るに山處《ヤマト》の意なるべしさいふゆゑは神武天星紀の天皇の御言に聞2於鹽土老翁1曰東有2実地1青山四周云々これ大和國の事也古事記倭建命の御哥に夜麻登波久爾
 
〔頭注。神代紀上に三韓をさしても韓郷島《カラクニノシマ》とも云り]
〔頭注。崇神紀御哥にヤマトナスオホモノヌシノ云々このやまとも惣名か]
〔頭注。彦麿云師説の中にも國號考に山秀といはれたるよろし其よしはこゝにひかれたる古書ともによくかなへり猶諸國名義考にいへり]
 
(506)能麻本呂波多々那豆久阿袁加岐夜麻碁母禮流夜麻登志宇流波斯《ヤマトハクニノマホロハたヽナツクアヲカキヤマコモレルヤマトシウルハシ》これも思ひあはすべしたゞなづくは疊附《タヽナハリツク》也又神武天皇紀に大己貴命の玉牆内國《タマガキノウチツクニ》と目《ナヅ》け給へるとあるも青垣山ごもれる故の名也又古事記仁徳天皇の皇后石之日賣命の御哥に袁陀弖夜麻夜麻登《ヲタテヤマヤマト》これも楯を立たる如くに山のめぐれるよし也又神武天皇の内木綿眞※[しんにょう+乍]國《ウツユフノマサキクニ》のたまへるも万葉第九菟原處女墓の長哥に虚木綿乃※[穴/牛]而《ウツユフノコモリテ》とつゞけたると合せてみるべし右の古書共みな青山のめぐれる中にある國なる事をいへれば夜麻登といふも其意にて山處なる事明らけし大方ふる言に此國をば山のめぐれるよしをもていへることのみ見えたる事右の如く且其北なる國を山脊《ヤマシロ》といふをも思ふべしさて山處の義とするにつけて二つの取やう有べし一つには處の意なることを登《ト》といふ例は立所《タチド》伏所《フシド》祓所《ハラヒド》などいふ登《ト》はみな處のこゝろ也夜麻登の登はこれらとつゞきさまは異なれども義は同じ事也|宿《ヤド》里《サト》などの登《ト》も同じ意なるべし又止字を登とよむ事日本紀私記に古語謂2居住1爲v止と有字書にも居也とも住也とも註し説文に處字を止也と註し玉篇に處字を居也と註したる彼是あはせて考べし一つには夜麻都登許呂《ヤマツトコロ》のつづまりたる也都登《ツト》を切《ツヾ》むれば登《ト》也|登許《トコ》を切《ツヾ》めても登呂《トロ》を切《ツヾ》めても登《ト》となれば都登許呂《ツトコロ》の四言は登の一言につゞまりて夜麻登とはなれる也是も前の義とおのづから相通ふ也  問云私記に天地剖判泥濕未v乾是以栖v山徃來因多2蹤跡1故曰2山跡1山謂2之耶麻1跡謂2之止1又古語謂2居住1爲v止言止2住於山1也とあるはいかゞ  答云これはもとより天下の惣名としていへる説なれば誤也やまとはもと一國の名なる事前にいふが如し且たとひもとより惣名なるにもせよ此説うけがたし其故はまづ是は山跡と山止と二義にいへる共に泥濕未v乾栖v山ゆゑの義とする事いはれず神代紀に古國稚地稚などいへる事はあれどそれは二神よりも前の事にて人物はさらにもいはず大八洲國さへまだ出來ぬ時の事なれば栖v山などいかでかはいふべき其外に泥濕のかはかざりし事も山に住し事も物に見えたる事なく又さる事有べくもなしみな妄説也さて又一國の別名として見ればいよ/\あたらぬ事也契冲師の和州にかぎりて泥濕のかはかざるべきにあらねばとらずといはれしはさる事也たゞし冲師は猶山跡の義を用ひて和州は四面みな山なれば徃來の跡山におほかるべしといひ万葉に(507)もおほく山跡とかきことに第四卷には詞書にさへしか書たればと餘材抄にはしるされたれど予はとらず其故は往來の跡山におほければとて國の名になるべくもおぼえず栖v山の説を用るとならば猶さもいふべし栖山の義を用ひざるうへは跡の義いはれぬこと也大方泥濕未v乾栖v山多2蹤跡1といふ説はふるく山跡と書ならへる文字につきて思ひよれる事なるべし跡字につきて徃來の跡と思ひよりさて山にすむといひ山に住ゆゑをいはむとて泥海未乾といふ事を設いでたるなるべし冲師はそれをわろしと見ながら猶山跡とかけるになづまれたり万葉にこれを正字のやうに詞書に迄用ひられたるは古く書ならはしたる故也さて何故にしか書ならへるぞといふにもと借字也すべて古へは字義にかゝはらず本訓を借てかく事おほし跡は阿登《アト》なれ共|阿《ア》は言の中におく時は省く例おほく且上の麻《マ》に阿《ア》の韵あればかた/\山跡とかりてかくべき事也上つ代の文字のつかひやうみな然りかならずしも其義をとるにあらずさて近代先達みな此義を用ひて山跡の意とし古今序又は懷紙など披講するにもやまあとゝいふやうによむをならひとする事甚いはれなしたとひ山跡正説にもあれ上古より哥にも何にもたゞ夜麻登とのみいひて夜麻阿登《ヤマアト》といふ事はさらに見えずいにしへにくらき事也いはむや其義にはあらぬをやすべて今の代によみくせといふ物には此たぐひおほし事の本をばよくも考へずしていさゝかの事をとらへ所にして耳なれぬ言をみだりにいひて人の耳をおどろかしおろかなる人をまどはす也さて今山處の意とするにつきて山止の義は通ずれ共止2住於山1の説はとらず山のめぐれる中にある國といふ義にとる故也  問云山外山戸などの説はいかゞ  答云山外は前に引る古語共のおもむきにそむけばうけがたし又山戸の説もいにしへの名づけやうの心ばへにあらず  問云或説に二神大八洲を生給ふに大日本そのはじめ也されば八洲のもとつ國といふ意にて八洲元《ヤシマモト》の畧也といふはいかゞ  答云わろしさやうに理りめきたる名は古言のさまにたがへり山跡の説などはあたらぬながらも猶上古の意に近し此説のやうに事の道理をもて名づくるやうの事は後世學問沙汰のうへの事也すべてかやうにさかしだちたる説は後の世の意也さらに/\我神代の名義にあらず其うへ八洲の出來たる次第も古事記には淡道より初りて倭は
 
〔頭注。彦麿云鉤を知といへると同し格也]
〔頭注。彦麻呂云外國にて聖人宮室を造らさる以前はかゝる住處なる事周易なとに見ゆ]
 
(508)終り也されば其次第はたしかならぬ事也しかるに古質《スナホ》なる古事記にそむきて潤色多き日本紀をとらへてにはかに神代の古言を定めむこと甚いはれず  問云餘材抄に釋名に山産也産生物也といふを引て嘉號なる故に天下の惣名に用ひらるゝよしあるはいかゞ  答云心得ぬ事也惣名になれる事は前にいへる如く仁徳天皇より以前の事にて上代にさやうのこざかしき事はさらになき事也和銅の詔に著2好字1とある延喜の式に取2嘉名1とあるこれらはみな後世學問沙汰になりての事なれば上代の事にはあづからず其上これらも文字をよきに著よとにこそあれよび來れる名を改めよとにはあらず夜麻登も文字の沙汰は有しかど言につきて嘉號醜名の沙汰は用なき事也  問云やまとに倭字をかく事はいかゞ  答云倭字は唐よりつけたる名也その始て書にみえたるは前漢書地理志に東夷天性柔順異2於三方之外1故孔子悼2道不1v行設2浮(ヲ)於海1欲v居2九夷1有|以也《ユヱカナ》夫樂浪海中有2倭人1分爲2百餘國1以《モテ》2歳時1來献見云とある是也其後の書どもにもみなしかいひ常には畧して倭とのみいへりさてかくなづけたるよしは物にたしかに見えたる事なしよりて思ふに倭字の本義は説文などに順貌と註したると右の漢書の文を引合せて考ふるに東夷天性柔順なる故に倭人といふと心得て班固はかけるやうにみゆる也おぼつかなき事也又此方の舊説に此國之人昔到2彼國1而問云汝國之名稱如何答曰和奴國耶(ト云)和奴猶v言v吾也自後謂2之和奴國1也とあるよし元々集に載たれど是又|信《ウケ》がたき説也又一説に倭奴國を唐音によべは於能許《オノゴ》にて※[石+殷]馭盧嶋《オノゴロシマ》といふ事也といふは大にうけられず附會の言也すべて近世の神道家はみだりに空理を説て※[石+殷]馭盧嶋を吾御國の本號のやうにいひなせども此島はたゞ一つの小島にて八洲の數にさへいらず人の代になりても其名殘りて仁徳天皇の大御歌にもよみ給ひ私記にも今見在2淡路嶋西南角1小嶋是也と有て神代よりさらに我御國の名にいへることなく其よしも物にみえずされば八洲夜麻登などいふことを聞傳へて其音の文字をもて名づけむはさも有ぬべけれど此方の人の上代よりさらにいはぬ名を外國の人のしるべきことにあらず此説きはめてわろしされば倭となづけたるゆゑはさだかならぬ事なり  問云倭字を夜麻登とよむ事はいかゞ  答云もろこしの書どもに倭とあるをみてやがて其字を此方の號の(509)夜麻登に用てかける也さてそれは何れの時よりの事ぞと尋ぬるにいと古への事とみえて古事記にもやまとゝいふにはみな此字を用ひてふるくよりよみなれたる書さま也すべて此記は古語をむねとしてかける故にいさゝかも見なれぬ文字づかひの所には必註を加へて天之常立神とあるに訓v常云2登許1訓v立云2多知1とさへいへる程なるに倭とかきて云2夜麻登1と註せざれば世にあまねく書なれたる事しるべし此心ばへ序にも見えたりさて唐よりなづけたる所は惣名なれ共此方にては惣名のやまとにも別名のやまとにも用る也  問云倭を和ともかくはいかゞ  答云古來倭字を用ひ來しかども是もと異國より名づけたる字にて倭奴などゝもいひて美名にあらずとてにや後に此方にて和字に改められし也故に唐の書には後世迄も和字を用ひたる事はみえぬ也さて和字も國號にするによしある事かと尋るにたゞ倭と同音にて好字なるを取られたるまでの事なるべしそれも上古はたゞ夜麻登といふ言をむねとして文字は借物なれば其沙汰にも及ばずあるにまかせて倭字を用ひ來れるに後には文字の好惡を擇《ヱラフ》ことになりて好字には改められたる也然るに和字の義につきて大きにやはらぐは吾御國の風俗也などゝいふは又後の附會の一説也文字は借物也といふ事をしらぬ故にかゝる説はいでくる也たゞし前に引る漢書の文又順貌といへるなどに和順などゝもつゞくを思ひ合すれば和と倭と字義も相近きをも取れるかとみゆれどそれも猶後のおもひやり事なるべし又繼體天皇紀の詔に日本※[巛/邑]々《ヤマトヤハラギテ》名擅2天下1秋津赫々譽(レ)重(シ)2王畿《ウチツクニ》1とある※[巛/邑]は※[(巛/邑)+隹]と通して詩經大雅に※[(巛/邑)+隹]々といふ註に鳳凰鳴之和也とも和之至也ともあり又聖徳太子十七條憲法の首に以v和爲v貴とあり又もろこしにて雍州はもと帝都の國の名也故に此方にても後世これにならひて山城を雍州ともいふ此雍字も和也と註あり※[(巛/邑)+隹]と通ずる故也大方これらみな和字によしあればいづれにもあれ義をとられたる事もあるかとおもへど猶それまでもあるまじき也すべて後に考ればおのづから似よりたる事はおほくある物也又子華子に太和之國といふ事もあれどこれらはよりもつかぬ事也  問云和字に改られしは何れの御世の事ぞ  答云さだかに記せることなしよりて考るに古事記はさらにもいはず日本紀にも和字を用たる事いまだ見えず第五卷にたゞ一つあるは決して傳寫の
 
〔頭注、民部式云凡諸國部内郡里等名並用2二字1必取2嘉名1
〔頭注、釋日本紀曰師説此國之人昔到2彼國1唐人問云汝國之名稱2如何1自共2東方1答云和加國耶云々和奴猶v言2我國1自v其後謂2是和奴國1彦麿云後漢書に倭奴國は倭國之極南界也とあり唐書に倭と倭奴とひとつにしたるはみたり也〕
〔頭注、魏志に耶馬臺といひ隋書北史なとに邪摩堆と云るは即夜麻登と云名を聞てかけるもの也]
 
(510)誤也其故はもし既に和字を用る事ならば必それをかゝるべき事なるを紀中に數もしらずおほき夜麻登にみな日本倭とのみ書れたれば也後の世には通用してかく故にふと寫し誤れる物也さて續日本紀にいたりて始て此字見えたれ共改られたるよしは記されずよりて猶此紀のやうを考るに首は倭字をのみかきて元明天皇和銅六年五月甲子詔に幾内七道諸國郡郷名著2好字1ともあれど是は改められずとみえて其後も猶倭字也さて聖武天皇天平九年十二月丙寅改2大倭國1爲2大養徳國1同十九年三月辛卯改2大養徳國1俵v舊爲2大倭國1とあれば此前後も猶倭字なる事しられたりさて孝謙天皇天平勝寶四年十一月乙巳の文に以2從四位上藤原朝臣永手1爲2大倭守1とあるまではみな倭字にて其後天平寶字二年二月己巳の勅に大和國と始て見えたる後はみな和字を書れたりこれをもてみれは勝寶四年十一月より寶字二年二月迄の間に改められけらしそれも何となく和字を書出せるにはあるべからずかの養徳の例を思へば和字も必詔命にてたしかに改められたるなるべきを紀にはしるし漏せる也類聚國史などにも見えず拾芥抄に天平勝寶年中に改まるよしあるは據ありけるなるべしたゞし大倭宿禰といふ姓は養徳と改められたる時も其字にしたがひて大養徳宿禰と書たれは和字に改まりてもそれにしたがふべき事なるに寶字元年六月の文迄も猶倭字を書て同年十二月の文に始て大和宿禰と有是をみれば寶字元年六月より十二月迄の開に改まるかとも見えたれど又万葉集を考るに第十八卷までは哥にも詞にも倭字を用ひたる事多し第十九卷天平勝寶四年十一月廿五日新嘗會肆宴應v詔歌六首の中に右一首大和國守藤原永手朝臣とあるこれ和字をもちひたる始也第廿卷に先太上天皇詔2陪從王臣1曰夫諸王卿等宣d賦2和歌1而奏u云々右天平勝寶五年五月云々始て和歌とも書たり藤原永手朝臣を大倭守とするよしは十一月乙巳の日の事にて前に引り乙巳は前後を考るに二日也そこに猶倭字をかけるにこゝに和字をかければ此月の内に改られたるやうにも見えてかの姓のやうと相違せるやう也たゞし万葉は見聞にしたがひて次第に書る物なるにこゝに始て和字に書たるはさる事なれ共やゝ後に書れたることも有べし又たゞ二つのみなれば傳寫の誤もはかりがたしことに大和國も和哥も後の世には常にかきなれたる事なれば倭宇なりけむをふと寫し(511)たがへむ事は必有べきこと也又二日よりせ五日迄の間にかはりたるはあまり俄にも覺ゆる也さればかれこれ万葉にもかたよりがたし又紀は倭字のほどはみな倭と書和字を書始てはまたみな和とあれば書誤れるかの疑ひはなけれど姓の文字は心にまかせては書ざりし事なれば程へて後別に改られたるもしらねばこれもきはめたる證にはなりがたしたゞし國名より前に姓文字に用む事はあるましき事にて姓が必後の事なるべければ大和宿禰とかけるより前に國名は改まりたる事うたがひなしされば勝寶四年十一月より寶字元年十二月までの内をは出ざる事としられたりさて右にいふ所はみな畿内のやまと一國の名の文字の沙汰にて天下の號の事にはあらず惣名のやまとには日本紀よりして多くは日本の字を用て倭字をかく事はまれなる故に其沙汰にも及ぼざりしにや此後とても一國の名の時にこそ必大和とのみかけ共其外のことには倭字ををも捨ずして續日本妃にも其後の物にもなほ倭根子天皇などかき其外も多しされば後の世まで倭歌とも書事有也しかはあれど惣名も本は別名より出たる事にて其本を改られたるうへは何事もみな和字を用べき事也  問云年號に和銅あり又續日本紀第八に二處まで大和國とかき和琴ともかけり又万葉集第七にも和琴とかけり是らは勝寶より以前の事なるに和字はいかゞ  答云みな傳寫の誤也其よしは前にくはしくいへるが如し和銅の和は夜麻登の義にあらねば別の事也又万葉第五第十六の目録にも和字にかける所あれど目録は後の人の加へたる物なればいふべきかぎりにあらず其外何にても天平勝寶四年より前の事に和字をかけるは後のしわざとしるべし  問云日本といふ號はいかゞ  答云吾御國の本號は大八洲也日本はもと異國へしめさむ爲に作られたる後の號也この故に證命などにも常には大八洲天皇とまうし異國へしめさるゝ時に日本天皇とは申す也令にも此おもむきみえたりさて此號は何れの御時に出來たるぞといふにさだかに記せる事はなけれど日本紀を考るにまづ皇極天皇紀までに日本とあるはみな修撰の時に改めて書る物にていにしへの號にはあらず以前は異國へしめすにも倭字を用ひられしなるべしさて孝徳天皇即位大化元年秋七月丁卯朔丙子高麗百済新羅並遣v使進v調云云巨勢徳大臣詔2於高麗使1曰|明神《アラミカミト》御宇日本天皇|詔旨云云《オホミコトラマトノタマフ》又詔2於百済使1曰
 
〔頭注。拾芥抄中末卷云天平勝寶年月日改爲2大和國1神代卷口决云天平勝寶改爲2大和1]
〔頭注。公式令詔書式云明神御宇日本天皇詔旨義解云謂以2大事1宣2於蕃國使1之辭也明神御宇大八洲天皇詔旨義解云謂用2於朝廷大事1之辭云云〕
 
(512)明神御宇日本天皇詔旨云云これ始て日本といふ號を建てしめされたる書樣にて以前と異也同二年二月甲午朔戊申天皇幸2宮東門1使2蘇我右大臣1詔曰明神御宇日本倭根子天皇詔2於集侍卿等臣連國造伴造及諸百姓1云々これ異國へしめす詔ならざるに日本とあるは新に此號を始め給ふころなる故なるべし又倭字を重ねてかけるをもて日本といふ號の別に出來たることをしるべしかゝれば日本といふ事は孝徳天皇の御時に始給へる號也すべて此御世には新に定められたる事共おほく年號なども始りしかばいよ/\よし有ておぼゆる也さて是をもろこしの書と引合せて驗《コヽロム》るに隋代迄は倭とのみいひて日本といふ事は唐にいたりて始て見えたり唐書云日本古倭奴也云云咸亨元年遣v使賀v平2高麗1後稍習2夏音1惡2倭名1更號2日本1使者自言國近2日所1v出以爲v名この時に始て日本といふ事を聞たるか咸亨は高宗が年號其元年は天智天皇九年にあたる也されば此使者は天智天皇紀に八年是歳遣2小錦中河内直鯨等1使2於大唐1とある是なるべきかしからば大化元年より廿四年後也その間にも往來ありし事はこゝにもかしこにも見えたれども猶彼國へは聞えざりしなるべし又まさしく咸亨元年とも見えざる書榛なればそれより少し前にも聞けむかしいづれにまれ相違はなき也又三韓にはやがてしるべき事なるに東國通鑑に倭國更號2日本1自言近2日所1v出以爲v名とあるも新羅の文武王十年のころにて唐咸亨元年にあたれりされどこれは唐書によりてかける物と見えたり其故は年も文も同じければ也  問云日本となづけられたるゆゑはいかに  答云萬國こと/\く光を仰ぎてめぐみあまねき大御神の御國なる故に日の本つ國といふ意也又西蕃諸國よりみれば日の出る方にあるもおのづから其こゝろにかなへりさればむかしもろこしへ御使を遣はしゝ時に日出處天子致2書日没處天子1と書れたるよし隋書資治通鑑などに載たりこれ推古天皇の御世の事也又右に引る唐書のおもむきも同じ意也これらの事此方の史には見えず後の物にかけるはみな彼を見てかければ引べきにあらず大かたもろこしの書に此方の事をいへるはいづれも誤のみおほくてさらに證にひくべくもあらねど又ことによるべき也これらの事はもと此方よりいへる事を其まゝにかき傳へたる物にてたがふことなかるべしそれをかへりて此方には傳へうしなへる也さ(513)て右にひける唐書の文のつゞきに或云日本乃小國爲v倭所(ル)v并(セ)故|冒《オカス》2其號1これあとかたもなき事なれば此方の人のいふべきにあらず彼國にておしはかりの説なるべし又或説に日本は唐の武后が時にもろこしよりつけたる號也といふもひがこと也これはかの咸亨元年のころのはたゞ使者の語りしを聞るばかりにてまたたしかなる事はなかりしを文武天皇の御世に粟田眞人の渡りし時などにもや書翰などにも書れてたしかに日本といふ事をしりけむこれ武后が時にあたればかの國にても其ころより日本とはいひはじめたればそれを傳へ誤れるなるべし  問云ひのもとゝいふは古語か  答云前にいへる如くもとより其こゝろはある故に日のもとつ國の義にて日本ともつけられたれども比能毛登《ヒノモト》といふ名はなかりし事也この故に古き物に見えたる事もなし万葉にところ/\日本とかけるをしか訓じたるは後人のしわざにてしひて五言によまむとする故の誤也古哥には四言の句もおほかる事にてみな日本之《ヤマトノ》とよむべし第一卷に山上憶良臣が唐に在てよめる哥|去來子等早日本邊大伴乃御津乃濱松待戀奴良武《イザコドモハヤモヤマトヘオホトモノミツノハママツマチコヒヌラム》又第十一卷の哥に日本之室原乃毛桃本繁言大王物乎之成不止《ヤマトノムロフノケモヽモトシゲクイヒテシモノヲナラスハヤマシ》このほかもみなかくの如くよむべし比能毛登《ヒノモト》とよむべき所は第三卷不盡山の長哥に日本之山跡國乃《ヒノモトノヤマトノクニノ》云々續日本後紀第十九興福寺法師の長哥に日本乃野馬臺能國遠《ヒノモトノヤマトノクニヲ》また日本乃倭之國波《ヒノモトノヤマトノクニハ》云々これら計也たゞしこれらも國の名にいへるにはあらず下のやまとが即惣名のやまとなればわづらはしく國名を重ねていふべきにあらずこれは只やまとゝいはむとての枕詞也枕詞とするにつきて二つの意あり一には夜麻登《ヤマト》を常に日本と書ゆゑにその文字の本訓をやがて上におく事|春日之春日《ハルビノカスガ》飛鳥之飛鳥《トブトリノアスカ》などつゞくる格也二つには日の本つ國のやまとゝいふ心につゞくる也それならば日本《ニホム》と名づけられたる意をとりて名をはとらざ也とまれかくまれ枕言にまがひはなき也國號にいふは又後の事也日本紀にも日本とかゝれたるみな夜麻登《ヤマト》と訓せたり  問云やまとゝいふに日本を用るはいつのころよりぞ  答云日本といふ號は孝徳天皇の御時にはじまりたるにそれより七十年後の和銅五年に出來たる古事記にいまだ見えざるを思へば其ころもまだ夜麻登といふに用る事はなかりし也此記は推古天皇までを記したるに其御世にはいまた此號なき故に書ず惣名のやまとにも用ひなれた
 
〔頭注。月清集 我國は天てる神の末なれは日の本としもいふにそ有ける
 文選楊子雲長楊賦云西厭2月※[出+眉]1東震2日域1
 北史與隋書同
 彦麻呂云漢書に東北神明之舍とありて張晏註云神明日也とあり後漢書に莫v義向v化歸2日出主1なといへりおのつから皇國を日本といふへきゆゑよしもとよりそなはりてありけむかし〕
 
(514)るにまかせて倭字をのみ書て一つも日本といふ事は見えずこれ古語をむねとして文字にかゝはらぬ故也其後日本紀に始めて夜麻登を日本とかゝれたり此紀は文をかざり字をえらびて書れたる故にやまとの文字にもかの嘉號を取たる也神代紀に日本此云2耶麻騰《ヤマト》1下皆效v此世の人のいまだしらぬ事なる故に此註はある也さて紀中のやうを考るにおほく別名には倭を用ひ惣名には日本を用また別名ながらも公にかゝる所は日本と書りこと/\くしかるにはあらねど大かた此定也されば人の名も此心ばへにて天子には日本とかき他のには倭と書り神日本磐余彦《カムヤマトイハレヒコノ》天皇|倭姫命《ヤマトヒメノミコト》などのたぐひ猶ひらきみてわきまふべし日本武尊《ヤマトタケノミコト》は天子に准ずる故に尊とかき崩と記せりおよそこれらのたぐひ文字に心をつけてかゝれたる所也  問云吾御國の號はおほく有中にやまとをしも日本とかくはいかゞ  答云葦原中國は天上よりいへる名也大八洲國はひとりだちて海内をすぶる心にいふ號也秋津島は夜麻登につれて惣名にもなれる也さればこれらは日本といふ號を建られたる心ばへと異也夜麻登はもと一州の事にて餘州にならひし名なれば後に惣名になりてもおのづから其心ばへにて外國に對する時の號也さればかの仁徳天皇の大御哥も其心ばへある也又日本といふ號も紀にこそ何となく惣名に用ひられたれもとは異國へしめさむ料に建られて文字も其意なればとりわきて夜麻登といふに用ひらるゝ事よしある也【紀に何となく惣名に用とは題號などのたぐひ也】  問云大日本大和などかく大字はもろこしにて當代の國號をうやまひて大漢大唐などいふにならへるか  答云あらず懿徳天皇は大倭日子※[金+且]友命《オホヤマトヒコスキトモノミコト》孝安天皇は大倭帶日子國押人《オホヤマトタラシヒコクニオシヒトノ》命孝靈天皇は大倭根子日子賦斗邇《オホヤマトネコヒコフトニノ》命孝元天皇は大倭根子日子國玖琉《オホヤマトネコヒコクニクルノ》命と申せり又|意冨夜麻登玖邇阿禮比賣《オホヤマトクニアレヒメ》命と假字にてさへ書る名もあれは古語なること明らけし此時に異國のやうをいかでかしらむ又夜麻登のみならず意富《オホ》の言を冠せていふこと外にもあまた有古書をみるべし又|登與《トヨ》の言を冠せたるもおほく國號は八洲夜麻登には意富《オホ》を冠せて大八洲大夜麻登といひ葦原中國秋津洲には登與《トヨ》を冠せて豐葦原中國豐秋津洲といふこれ神代より定まれる古言なり豐を冠しむることは唐にはなき事也いづくよりならひけむおぼつかなし又唐國にては當代の國母を大后と稱ずるを此方にては當代(515)の嫡后を大后と申て古事記にしか書りこれ大の言の用ひやうかれにならはぬ證也然るを日本紀には古語を廢て國母を皇大后と書れたり是ぞ唐にならへるにては有けるかくさかしだちて何事も唐のやうをならへる事のみ見なれたる後の心から神代の古言をさへ疑ふはいとあぢきなきわざ也まことや夜麻登てふ言の心をいひそめてとかく問るゝまゝに哥の道にようなき事共を長々しういひつゞけたるうるさくこちたしと聞む人もあるべかめれど是はた大かたの事のこゝろをわきまへしらむ道のたづきともなりぬべければすゞろごといはむやうにもあらじをや  問云やまとみこと哥といふはいかなる事ぞ  答云ふるき物にはみえぬ事也千載集序にやまとみこと哥はとかき始められたり是は俊頼朝臣の無名抄序にやまとみことの哥はとあるなどやはじめならむ和御言哥の意にてほめていふ詞也  又問云敷嶋のやまと哥といふはいかなる事ぞ  答云これもふるくはみえぬ名目也後拾遺集の序に見えたりそれらや始めならむ志紀志麻《シキシマ》は和の枕詞にて万葉第十三人麻呂歌集哥に志貴島倭國《シキシマノヤマトノクニ》とよみ同卷に式島之山跡之土《シキシマノヤマトノクニ》また磯城島之日本國《シキシマノヤマトノクニ》又第九卷にもかく有貫之もしき島のやまとにはあらぬとよまれたりさてかくつゞくる故は古事記に天國押波流岐廣庭《アメクニオシハルキヒロニハノ》天皇坐2師木嶋《シキシマノ》大宮1治2天下1也これ欽明天皇の御事也又欽明天皇紀に元年秋七月丙子朔己丑遷2都倭國磯城郡磯城嶋1仍號爲2磯城島金刺宮1と有てもと地名也古事記に世々の帝都の中に大宮とあるは此都のみなるも故ある事にやめでたき御世にて御位年久しくたもたせ給へる都の名なる故におのづから大和國の一名のやうにもなりていひならへるを又枕詞ともなしてつゞけたる也其例は秋津島も大和の一名なるを秋津島倭國とつゞけていふが如しさて皇郡の名の一國の名にもなれる事は夜麻登は一國の名なるが天下の惣名ともなれると同じ心ばへ也さて磯城島を正しく大和の事にしていへる證は万葉十九卷大伴黒麿哥に立わかれ君がいまさば之奇嶋《シキシマ》の人はわれしくいはひてまたむとよめる是也又それをうちかへして一國の名をとりわきて都の事にしてもいへり仁徳天皇紀皇后の御哥に阿袁邇余志那良袁須疑袁陀弖夜麻夜麻登袁須疑《アヲニヨシナラヲスギヲダテヤマヤマトヲスギ》云々これ世々の都のわたりをさしてことにやまとゝよませ給へるなるべし万葉第一に太上天皇幸2于吉野宮1時高市連黒人作歌やまとには鳴
 
〔頭注。まさしく和州をさして大倭國と云へる事は古事記景行天皇の熊曾建か詞に云へり]
〔頭注。俊成卿の長哥にやまとみことのことのはを云云]
 
(516)てか來《ク》らむよぶこ鳥象の中山よびぞこゆなるとよめるは同じ大和國のうちにてもわきて都の方をやまとゝいへりさて磯城嶋といふ事和の枕詞となれるうへは別名惣名ともにつゞくる事右にひける哥どもの如くなれば和哥といふ時もつゞけて磯城島之和歌といふ也  問云或説に崇神天皇紀に三年秋九月遷2都於磯城1是謂2瑞籬宮1とあると欽明天皇の磯城嶋宮と二代を兼ていへるはいかゞ  答云然るべからず大かた古き事を考へ出ていふは學問沙汰の事也是は欽明天皇の御時より自然にいひならはしたる事とみゆればいにしへの事を思ひあはせていふべきにあらずたゞ當時の磯城島宮より出たる事也其うへ崇神天皇の宮は磯城とこそあれ嶋とはいはず又もし其時よりすでにいふとならばはるかに後の欽明天皇の宮の事をまちて引べきにあらずすべて何事にも二つながら得むとすれば一つをも得ぬ事おほき物ぞ  又問云歌道を敷島の道といふはいかに  答云これ又右の義より轉じていよ/\後の事也しき嶋は和歌にもつゞけていひなれては哥の枕詞のやうにも聞ゆればやがてそれをとりて敷嶋の道とはいふなるべしくはしくいへば磯城島之和歌之道といふ意也たとへばおしてる難波と常にいふ故に難波宮をやがておしてる宮とも家持はよまれあをによし奈良とつゞくるよりあをによしをやがて奈良の事にもよみ又あしひきの嵐あしひきの石根などよめるも山の嵐山のいはねといふ意なるを其枕詞のみをいへるが如し  問云おしてる宮などのたぐひといはゞしき嶋も和の枕詞なれば大和の道といふ意なるへきを和哥の道といふ義とはいかゞ  答云神道をこそは大和の道ともいふべけれ哥道をしもしかいはむ事はすこしまひろげたるこゝちしていふべくもおぼえずそれも後の世の事なれば事の心にたがひてもいひつべけれどすべて和の道といふ言はみえぬ事なればいづくよりも轉じ來るべき所なし哥道を和の道といふ事あらばさもいふべしさて右にひけるおしてるみやなどいへるたぐひはみな万葉集に見えてやゝふるき哥なるさへしか轉じてよめりましてしき嶋の道といふ事はいよ/\後の名目なればふたゝぴも轉じていふべければ猶やまと哥の道といふ意とおもはるゝ也桂の里を古今集の伊勢のごの哥には久かたの中なる里とよめりこれも久かたは天の枕詞なるを一たび轉じて月といふにもつゞくる(217)を又轉じて即それを月にして月の中なる桂の意にとりなせるを思ひあはすべし天の中なる桂といふ事はなき物をやしきしまの哥とつゞけたる例はなけれども和哥といふには常につゞくる故に和哥の枕詞と聞なして轉じたる物也  問云しきしまの正字はいづれぞや  答云さき/”\もいへる如く文字の沙汰はよしなけれど後世は何事ももはら文字の事のやうになりてそれにとりて言の義をも解する故に誤ることのみおほくされば一わたり心得置て俗説にまよふべからず大かた地名はおほくは借字にて正字にかくはすくなし本正字を書しをも改めて借字に書もおほく又正字のなきもあまた有也しきしまも本いかなる故の名ともさだかなる事はなけれど日本紀に磯城島《シキシマ》とかゝれたる字の意なるべきにや其故は磯《シ》は石《イシ》の伊《イ》をはぶける語也此例多し城《キ》を紀《キ》といふは古語にて磯の城といふ意になづけたる地名とおもはるれば也石《イシ》もて城《キ》を築くなどは近代のわざとのみ思ふ人もあるべけれど上古にも有し事にて物に見えたりさればこれぞ正字なるべき今おしなべて敷島とのみかくはもとより借字なる中に万葉などにも見えず後世にかきいだせること也かりそめにも敷字にこゝろある事と思ふべからず  問云磯城嶋といふ所はいづくぞ  答云前に引る如く欽明天皇紀に倭國磯城都と有もと神武天皇紀に倭國磯城邑云々又弟磯城名黒逮爲2磯城縣主1崇神天皇紀に遷2都於磯城1云々とある是みな同所にて郡名も邑名より出たる物也此郡後に上下に分れてしきの上しきの下といふ皇極天皇紀に志紀上郡見えたりさて後に諸國郡郷の名こと/”\く二字に定められしより磯字を省《ハブ》きて城上城下とは書け共それをも猶むかしのまゝに之岐乃加美《シキノカミ》之岐乃之毛《シキノシモ》といふ和名抄に見えたり今もしかよぶ也此たぐひ猶多し葛上葛下なども同じ事也さて磯城島は三輪より泊瀬へゆく間に今も猶その名を殘したる處ありとぞこれかの大宮の跡にやたづぬべし此わたり城上郡にはある也  又問云哥の道とは上古よりいふことか  答云まづ美知《ミチ》といふ言の意を辨へおくべし美知は御路《ミチ》にて知といふが本語也今も山路野路舟路通ひ路などは知とのみいふをもてしるべしそれに美《ミ》をそへて美知《ミチ》とはいふ也古事記に味御路《ウマシミチ》日本紀に可怜御路《ウマシミチ》とある是神代の古言也されば知といふも美知《ミチ》といふも同じ事にて共に通路の意のみにて其外の義は上古はさらに
 
〔頭注。玉葉集雜五
伊勢大輔しきしまの道もたえぬへき事なといひつかはして侍けれは赤染衛門八重葎たえぬる道とみえしかとかくれぬ人は猶たつねけり]
 
(518)なかりし也然るに外國より文字渡りては道は道路の意のみならず道徳道義天道人道心道道理など其外もさま/”\の意をかねたる文字なるを此方にて美知《ミチ》といふ言に用るによりて此字をばいづれの意に書たる處をもみな美知と訓ゆゑに後にはおのづから美知の言をも道の字の義ともにいづれにも用ることにはなれる也すべての言に此たぐひ多しされば道字にはさま/\の義をかねたれど美知の言は本は道路の外の意なし然るを後世の學者このわきまへなくして遺徳などの道字の義をもて美知の言の義をいふは大に牽強附會の事にていはれなし事の本末をよくわきまへおくべき也神道は吾御國の大道なれどもそれを道と名づくることは上代にはなかりし也文字わたりてかの國の道字の用ひやうを見ならひて後にこそは天照大御神より傳へまし/\て天日嗣《アマツヒツギ》しらしめす天皇の高御座《タカミクラ》の御業《ミワザ》をも神道とは名づけられたりけれさて後にはそれに準へてかの國にて道といふ事をば此方にても大小にかゝはらずよろづの事業を何の道くれのみちといひ雜藝のたぐひまでしかいふ事にはなれる也されば哥よむ事をも歌の道といひ後には音にて哥道ともよぶ也續日本紀卷十九に斯道と哥の事をさしていへり古今集眞字序にも斯道とも吾道ともありたゞし假字序にはしかいふべき所をも道とはかゝれざるを思へば其ころ迄も常にあまねくいふ事にてはあらざりしと見えたり  又問けらく詩と于多《ウタ》とは心ばへ同じ物にや  答云詩の事はしらねど古きふみどもにいへるをかたはしみればそのもとの心ばへはもはら于多と同じ物と聞えたりげに風雅【詩經】三百篇の詩をみるにことばこそ唐めきたれ心ばへは吾御國の哥といさゝかもかはる事なし人の心のゆくへはいづこも/\同じ事なるべければさも有ぬべきことなりかしされど世のくだるにつけては人の心も國のならはしもとり/\にうつりもて行ものにしあれば後の世にはこゝとかしこと何事もこよなうなりて詩と哥との趣もはるかに異なるやうになむなれりける  問云其おもむきはるかにことなるけぢめはいかさまにか  答云まづもろこしの詩もかの詩經のころのは猶上代のすなほなりし心ばへの殘りてあはれになつかしきふしおほかるをかしこの人心はすべてさかしげなる事をたふとびていさゝかなるわざにも人のよしあしをこちたく論らひ何事もわれがしこに物い(519)ふ國のならはしなるが周の代の中ごろよりこなたはいよ/\年月にそへてさのみなりもてきぬれば詩も其心より作りいづる程に人情のあはれなるすぢはうせていひといふ事こと/”\しくしたゝかなることのみ也さればかの詩經の詩と後の世のとをくらべみるに其心ばへさらに同じ物にはあらずしかるを詩の古今のけぢめは詞のみこそあれ意は上代も今もいさゝかかはらずといふ人もあれど心得ぬ事也意も詞もみなかはりにたりさて于多《ウタ》も世のうつるにしたがひて上れる代のさまとはこよなくかはり來つれど我御國の人心は人の國のやうにさかしだちたる事なくおほどかにやはらびたるならはしなれば今の世までよみ出る哥もおのづから其心ばへにて詩のやうにさかしだちたるすぢはさらにまじらずたゞ物はかなくあはれになつかしき事のみなるをいまめかしくめづらかにとりなしてよむとては詞のいひさまこそいにしへ今のにかはりにたれいふ事の心ばへは神代も今もたゞ同じ事ぞかしさればかの詩の變れるやうとは異なるにあらずや  問云もろこしにても詩は性情を吟詠する物とて温柔敦厚をむねとすれば後の世とても經學などのやうにこちたく我かしこに物いふすぢにはあらざるか  答云さる事也いはゆる經學などはかの國にてもことに所せくこちたき教へにていさゝかのみしろきもやすからずとにかくに人のよきあしき事をさがなくいひかゝづらふをのみいみじき事にしてたをやぎたる風雅のおもむきは露しらずそれにくらぶれば詩人の心ばへは優にあはれなるかたこよなしされど又此方の哥にならぶれば風椎也とおもへる事もおのづから國のならはしにひかれてさかしげにこと/”\しうのみ聞えてなつかしからずまれ/\物のあはれなるすぢをいひたるも猶ことさらめきてぞみゆめる  問云詩こそはむべ/\しくあざやかにうるはしき物にて男のかならずならひまねぶべき物なれ哥はひたすらに物はかなくあだ/\しう聞えてたゞ女童部のもてあそひなどにこそしつべけれまことしういみじき物と見えぬにや  答云實にさる事也さはあれどまことしくうるはしき事を尊ぶとならばかの經學などこそはさるすぢなれ詩はもとさやうにはか/”\しうしたゝかなるべき物にはあらずかの詩經のやうを見よたゞすなほにはかなだちて後の世のやうにさかしげなる心はみえずそここそは詩の本意なるべきをあ
 
〔頭注。彦麻呂云日本書紀神道又古道天道などいふ事あれど漢めきたる音讀也万葉集三に世間之遊道爾冷者云々とあり遊樂する事を遊の道とよめり]
 
(520)しう心得てかの經學の心ばへをもてとかくつき/”\しう説なす人のみ多く又此方の人はその詞のからめきたるにまどひてみな有々しき事ぞとのみおもふこれらはみな詩の義にもたがひ孔子の心にもそむけり其故は詩はもと人の性情を吟咏するわざなればたゞものはかなく女わらはべの言めきてあるべき也孔子家語に詩之失愚といへる言にて其心ばへをさとるべし唐のやうにさかしらをのみ常にいひありく國の人も詩にはいつはらぬ心のまことをいひいづればこそいみじき物にして孔子も六經の一つには備へ給へれ然るを後の世の詩はその本の意をばわすれはてゝたゞよろづにかど/\しくかしこからむとのみする程にかざるまじき性情をさへいたくつくろひかざりてむべ/\しう見せたる物なればまことの人情の有樣にはあらずみないつはれるうはべの情なればいかにめでたくうるはしとてもなにゝかはせむいと心づきなくうるさきわざにこそあめれ  問云道々しくうるはしきはみないつはれるうはべの事にて人のまことの情を吟咏したるはかならず物はかなかるべき故はいかに  答云おほかた人はいかにさかしきも心のおくをたづぬれば女わらはべなどにもことに異ならずすべて物はかなくめゝしき所多き物にてもろこしとても同じ事なめるをかの國は神の御國にあらぬけにやいと上代よりしてよからぬ人のみ多くてあぢきなきふるまひたへずともすれば民をそこなひ國をみだりて世中をだしからぬ折がちなればそれをしづめ治めむとてはよろづに心をくだき思ひをめぐらしつゝとにかくによからむ事をたどりもとむる程におのづから賢《サカシ》く智《サト》り深き人も出來《イデク》さるからいとゞ万の事にさるまじ古事にもいたく心を用ひてめにみえぬ深きことわりをもあながちに考つくしなどしつゝいさゝかのわざにも善さ惡さをわきまへあらそふをいみじき事にしておのづからさる國のならはしになりぬれば人ごとにおのれかしこからむとのみする故にかの實の情の物はかなくめゝしきをは恥かくして言にもあらはさずまして作りいづる書などはうるはしく道々しき事をのみ書すくめてかりにもはかなだちたる心はみえずなむあるげに國を治め人をみち引教へなどするにはさも有ぬべき事なれどこれみなつくりかされるうはべの情にて實の心の有樣にはあらざる也史記といふふみに箕子朝v周過2故殷|虚《アト》1感3宮室毀壞生2禾黍1箕子傷(521)v之欲v哭則不可欲v泣爲3其近2婦人1乃作2麥秀之詩1以歌詠之云云といへるをみよ箕子ばかりの人だに物のあはれにたへぬをりはかゝりけるを不可なり近婦人と思ひなほせるはまことにかしこけれどそはもてつけ用意したるうはべの事にてたゞ物はかなくめゝしう欲哭欲泣しぞまことの情には有けるさればこの心ばへをもて世の人のあるやうを思ひさとるべしすべてむべ/\しううるはしき事はみなかの不可也近婦人といへる心にてげにうちきくにはたれも/\さるべき事といみじく思へ共人情の眞實なる所にはあらずしかるをから人はいふ事なすわざすべてそれをのみよき事にして是は不可也それは近婦人《ヲンナノヤウナリ》とやうにのみ言痛《コチタ》くいひかゝづらひて物のあはれといふ事は忘れはてゝかへりもみぬやうになれるから物はかなくめゝしき事をば人わろくおろかには思ふぞかしされどさいふ人もみな心のおくは同じはかなさにてまぬかれがたき人情なれば常にこそさかしげに物をいひかしこくうちふるまふめれど深く哀しき事にあたりてはかならずめめしく人わろき情の出來てえおもひしづめず心まどひもしつべきをりもおほかる物也これぞまことの人情なればもとよりたれも/\さりぬべき事なるをさかしらがる世のならはしにはぢては人目をつゝみつれなしつくりて思ひいれぬさまにもてなしあるは天地の外までもくまなくさとりきはめたる顔つきして世にたかぶるよ見る人も又それをいみじき事に思ふはすべてわれも人もいつはれるうはべをのみよろこびてまことの心をわすれたるにはあらずやかなしき事もかなしからすうきわざもうからぬは岩木のたぐひにてはかなき鳥虫にもおとれるわざなるをいみじき事におもひてうらやみまねぶ人の心はいかにぞや  問云世の中にかなしき子をさきだてゝ思ひ歎く親の有樣をみるに父は猶のどやかに思ひしづめてさまよくみえ母はひたぶるにふししづみて涙にくれまどひかたくなしき事共をいひつゞけてなきさまよふを思へば猶はかなくめゝしきは女わらべのしわざならずや  答云さる事ぞかし父のさすがにさまよう思ひしづめたるはげに雄々しくいみじき事にはあめれどそは人めをつゝみ世にはづるゆゑにかなしき情をおさへてあながちにもてつけつくろひたるうはべ也又母の人めもおもはでひたぶるになきこがるゝさまはまことに女々しく人わろくはみゆれ
 
〔頭注。禮記經解孔子家語曰詩之失愚〕
 
(522)ど是ぞかざらぬ眞の情にては有けるさればさまよく堪忍ぶとしのびあへぬとのうはべのけぢめこそはあれ心のおくは父も母もかなしみの深さ淺さのかはるべうもあらねばまことにはいづれをかしこし共おろか也とも定むべき事にあらぬ中にも詩歌といふ物は思ひむすぼゝれて心にあまるすぢを詠め出るわざにてかの箕子てふ人のやうにかなしさを堪忍びてこれは不可これは近婦人などやうに心のうはべを用意するにせかれてはいよ/\かなしくむねにせまりて堪がたければこそ詩に詠め出て其かなしさをばはるけやれる物なれば其詩は必女々しからではかなはぬ事也もし雄々しくつくろひていひ出たらむには何によりてかは欲泣ばかりのかなしさははるくべきぞされば詩哥はこと書のやうにとあらむかくあらむとよろづにつくろひかまへていふべきならずたゞよくもあしくも思ふ心のありのまゝなるべきことなるを今の樣に是は不可それは近婦人といふ心ばへなるかしこき詩は詩の本意にあらずたゞ物はかなく女々しげなる此方の哥ぞ詩哥の本意なるとはいふ也  問云唐の詩は世のうつりかはるにしたがひて人の心と共にさかしくなりもてゆき又此方も万の事みな後の世になりてはさかしくのみなりぬるにたゞ哥のみはいかなれば今も猶上代にかはらず物はかなくて雄々しき事のまじらぬぞ  答云吾御國は天照大御神の御國としてあだし國々にすぐれめでたくたへなる御國なれば人の心もなすわざもいふ言の葉も只直くみやびやかなるまゝにて天の下は事なく穩《オダヒ》に治まり來ぬれば人の國のやうにこちたくむつかしげなる事はつゆまじらずなむ有ける然を海西の國より書といふ物わたりまうで來てそれをよみならひ學ぶことはじまりては其中に人の國のやうをかけるをみるに万の事さかしく心ふかげにみゆめるにめでゝ此方の人もそれをいみじき事に思ひそめてはいつとなく其心ばへをしたひならふやうにのみなりもてゆくほどにならの京のころほひになりてはつひに万の事みな唐國の如くになむなれりけるされど哥のみぞ其ころも猶万の事にたがひて意も言も吾御國のおのづからの神代の心ばへのまゝにては有けるそはいかなる故ぞと考るにかのから國のやうにさかしだちうるはしき事は詩に作るが似つかはしければ人みなそれにのみ心をよせて哥をばすてゝよまずされば古今集の眞字序に自3大津皇皇子之(523)初作2詩賦1詞人才子慕v風邪繼v塵移2彼漢家之字1化2我日域之俗1民業一改和歌漸衰といへる此時の事也和歌漸衰とはすべて世の風儀の唐めきたるゆゑ哥よむ人はすくなきをいふ也哥は神代よりおのづからの意言のみにてから國のやうをまじへぬゆゑにからめきさかしだちたる事をいはむとすればきたなくなりて優ならねば其ころの人のおほく好ましうする筋にうとくておのづからよむ人まれにはなりけらしかく哥の衰へたる事は深くなげくべき事也されど又今思へは深くよろこぶべき事にも有けり其故は其ころの人の好める筋にまかせて猶哥をもあまねくもてあそびたらましかばようせずはしひて唐めきたるこゝろことばにもぞよみなすらむさもあらましかばおのづから其体に變りて哥さへも唐やうに成行事も有なましを幸《ヨク》ぞさる人のこのまざりける故に哥は哥にて衰へながらも神代の心ばへのまゝにては傳はれりけるさて後の世にいたりてはいよ/\唐やうに何事もなりはてぬれど猶哥のみ今も神代のまゝに御國のおのづからの意詞にて露ばかりも異國のやうをまじへぬはいみじくめでたきわざならずや是何故ぞとなれば哥に彼異國のこちたくむつかしげなる心ことばをよみては似つかはしからずいちしるく耳にたちてあやしくまれ/\に文字の音ひとつもまじへてだにかならずきたなく聞ゆればぞかしこれはたもとより我御國の心詞の直くみやびやかにすぐれて妙なるしるし也これを思へば人ごとに唐を何事にも優《スグ》れたりとのみ思ふは猶末の世の思ひなし也けりされば此道をしも吾御國の大道といふ事の聞ゆるもさる事なりかしまことに大道といひつべき神道はかへりて世々の學者ども唐ぶみにまよひてひが/\しくよしもなき理をもてよこさまに強言《シヒゴト》しつゝもはら儒道にかはらぬさまに説なして明らけき大御神の光をけがし奉る故になほくみやびやかなる神の御國の心ばへはうせはてにたりなげかはしき事にはあらずやさるを此哥の道のみ神世の心を失はぬはよろこびても猶あまりある事になむ  問云哥にも人の國の詩の心ばへをうつしてよむ事むかしより多くことに白居易が詩などは常にとる事なるをいかでか人の國のやうをば露ばかりもまじへぬとはいふぞ  答云さも一偏に心得られたる物かな人の國とて物ごとに必ことなるべきかはすべて大方の世のたゝずまひはいづこも/\似かよひたる物にしあれ
 
〔頭注。彦麻呂云古事記いさなみの命のかくれさせ給ひし段に乃匍2匐御枕方1匍2匐御足1而哭云々〕
〔頭注。玉葉集雜五 前參議爲相 これのみそ人の國よりつたはらて神代をうけししき嶋の道〕
 
(524)ばもとよりこゝもとゝ只同じ事も多きぞかしことに哥と詩はもと同じ心ばへなるべき物なればこゝとかしことならはしこそはかはりたれおほかる中にはなどてかは同じ心ばへなる事もまじらざらむされば後の世のもおのづから其心ばへの哥にかはらぬもある事なればそこを取用むは只此方のふるき歌にならひてよむも同じ事にこそはあめれさりとていさゝかも此方の心ばへにかはりたる所をば露ばかりもまじへぬとはいふ也同じき所と異なる所のある事をわきまへてよ  問云ことさらにから國のやうをば學ばすともよのうつりかはるにしたがひては自然に哥のやうもかはりもてゆくらむをなどか此道のみ神代の心ばへのまゝなるとはいふぞ  答云まへにもいへるやうに哥とても其体は世々に變らぬにはあらねどそは只ことばのいひさまのかはりぬるのみにていふ事の心ばへは神代も今も同じ事也これはたかはれる所とかはらぬ所のある事をわきまへしるべき事也そのかはり來しやうは後にくはしくいふべし今そのかはらぬ故はいかにとならばさき/”\もいへるごとくわが御國はおほとかにやはらびたる人心にし有ければよみ出る歌もたゞ古への物はかなげなるまことの心ばへのまゝにしたがひ來てさらにわれかしこからむとさかしだつ事なき故に今迄も猶神代の心ばへはうしなはぬ也さるはならの京のころほひなどのやうにひたぶるにもろこしをしたひてよろづにさかしかる世も有しかどさる人々は深くもてあそばず又其ころとても哥よむ人の心は猶なつかしうやはらかになむ有ければおのづから哥は歌の心ばへをうしなはで後の世にも傳はりし物也さてさる物に定りてはからめきて詩作る人もよみけれど哥は歌にてすぢことにわかれ來ぬれば詩に妨げられて心ばへのかはる事はたなく又世の風儀にひかれて變る事もなかりけり  又問云戀の哥の世に多きはいかに  答云まづ古事記日本紀に見えたるいと上つ代の哥共をはじめて代々の集どもにも戀の歌のみことに多かる世にも万葉集には相聞とあるが戀にてすへての歌を雜歌相聞挽哥と三つに分ち八の巻十の巻などには四季雜歌四季相聞とわかてりかやうに他をばすべて雜といへるにて哥は戀をむねとすることをしるべし詩經にも戀の詩多しそもいかなればかくあるぞといふに戀は万のあはれにすぐれて深く人の心にしみていみじく堪がたきわざなる故(525)也さればすぐれてあはれなるすぢはつねに戀の哥におほかる事也  問云おほかた世の人ごとに常に深く願ひしのぶ事は色を思ふよりも身の榮えを願ひ財寶をもとむる心などこそはあながちにわりなくみゆめるになどてさるさまの事は哥によまぬぞ  答云情と欲とのわきまへ有先すべて人の心にさま/\思ふ思ひはみな情也その思ひの中にもとあらまほしかくあらまほしともとむる思ひは欲といふ物也されば此二つはあひはなれぬ物にてなべては欲も情の中の一くさなれば又とりわきては人をあはれとおもひかなしと思ひあるはうしともつらし共思ふやうのたぐひをなむ情とはいひけるさるは其情より出て欲にもわたり又欲より出て情にもわたりて一やうならずとり/”\なるがいかにもあれ哥は情の方より出來る物也これ情の方の思ひは物にも感じやすくあはれなる事こよなう深き故也欲の方の思ひは一すぢに願ひもとむる心のみにてさのみ身にしむばかりこまやかにはあらねばにやはかなき花鳥の色音にも涙のこぼるゝ事ふかゝらずかの財寶をむさぼるやうの思ひは此欲といふ物にて物のあはれなるすぢにはうときゆゑに哥はいでこぬなるべし色を思ふも本は欲より出れ共ことに情の方に深くかゝる思ひにていきとしいけるものゝまぬかれぬ所也まして人はすぐれて物のあはれをしる物にしあれば殊に深く心にそみてあはれにたえぬは此思ひ也其外もとにかくにつけて物のあはれなる事には哥は出來る物としるべしさはあれ共情のかたは前にいへるやうに心よわきをはづる後の世のならはしにつゝみ忍ぶ事おほき故にかへりて欲より淺くもみゆるなめりされど此哥のみは上つ代の心ばへをうしなはず人の心のまことのさまを有のまゝによみてめゝしく心よわき方をもさらにはづる事なければ後の世にいたりて優になまめかしくよまむとするにはいよ/\物のあはれなるかたをのみむねとしてかの欲のすぢはひたすらにうとみはてゝよまむ物とも思ひたらずまれ/\にもかの万葉集の三の卷に酒を讃たる哥のたぐひよ詩には常の事にてかゝるたぐひのみおほかれど哥にはいと心づきなくにくゝさへ思はれてさらになつかしからず何の見どころもなしかしこれ欲はきたなき思ひにてあはれならざる故也しかるを人の國にはあはれなる情をば恥かしくきたなき欲をしもいみじき物にいひあへるはいかなる事ぞや  又
 
〔頭注。彦麻呂云定家卿詠哥大概に雖v非2和哥之先達1時節之景氣世間之盛衰爲v知2物由1白氏文集常可2握翫1深通2和哥之心1云々〕
〔頭注。拾玉集七戀 こひといふ心の人になかりせはあるかひもあらし秋の夕くれ〕
〔頭注。壬二集上忍戀 身のうさを忍ひなれたる心さへこひには色にいてぬへきかな〕
 
(526)人問けらく上つ代には飲食財寶をむさぼる心の哥もまれにはみえたるに欲よりは哥のいでこぬといふはいかに  答云かの毛を吹てきずをもとむてふ世のたとひのやうに人のいふ事を強にもどかむとてまれ/\に見えたる事を固《カタ》く執《トラ》へてなべておほかる方をおしけたむとかまふるはあらそひといふ物にてわろ者の必有事也火を寒しとも水をあつしともいへばいはるゝ物ぞかしされど何事もこと/\く一やうにはあらぬ物なれば一つ二つのたがひはおのづからあれどもそはなだらかに見なしてたゞなべておほかる方をもていかにも/\物は定むる事ぞかしされば黄牛《アメウシ》もあれ共牛は黒き物にいはぬかは  問云戀はから書にも禮記には人の大欲といひすべて夫婦の情とて深き事にすめれどそれはおのれ/\が妻をこひ夫を思ふ事なればさも有ぬべき事也然るに哥の戀は定まりたる夫婦のなからひのみにはあらずあるはふかき窓のうちにかしづきて親もゆるさぬ女をけざうしあるはしたしき閨の内に居て人のかたらふ妻に心をかけなどすべてみだりがはしくよからぬ事のみなるにそれをしもいみじき事にいひ思ふはいかに  答云前にもいへるやうに此色にそむ心は人ごとにまぬかれがたき物にて此すぢにみだれそめては賢きも愚なるもおのづから道理にそむける事もおほくまじりて終には國をうしなひ身をいたづらになしなどして後の名をさへ朽しはつるためし昔も今も數しらずさるは誰も誰も惡しき事とはいとよくわきまへしる事なれば道ならぬけぞうなどはことに心から深くいましめつゝしむべき事なれども人みな聖人ならねば此思ひのみにもあらずすべて常になすわざも思ふ心もよき事ばかりは有がたき物にてとにかくにあしき事のみおほかる中にも戀といふ物はあながちに深く思ひかへしても猶しつめがたくみづからの心にもしたがはぬわざにしあればよからぬ事とはしりながらも猶忍びあへぬたぐひ世に多しまして人しれぬ心の内にはたれかは思ひかけざらむたとひうはべはさかしらがりて人をさへいみじく禁むるともがらも心のそこをさぐりてみればこの思ひはなき事かなはず殊に人のゆるさぬ事を思ひかけたるありなどよあるまじき事とみづからおさへ忍ぶにつけてはいよ/\心のうちはいぶせくむすぼゝれてわりなかるべきわざなればことにあはれ深き哥もさる時にこそはいでくべけれされば戀(527)の哥には道ならぬみだりがはしき事の常におほかるぞもとよりさるべきことわり也けるとまれかくまれ哥は物をあはれと思ふにしたがひてよき事もあしき事も只その心のまゝによみいづるわざにてこれは道ならぬ事それはあるまじき事と心にえりとゝのふるは本意にあらずすべてよからぬことをいさめとゞむるは國を治め人を教る道のつとめなればよこさまなる戀などはもとより深くいましむべき事也さはあれども哥はそのをしへの方にはさらにあづからず物のあはれをむねとしてすぢ異なる道なればいかにもあれ其事のよきあしきをばうちすてゝとかくいふべきにあらずさりとてそのあしきふるまひをよき事とてもてはやすにはあらずたゞ其よみいづる哥のあはれなるをいみじき物にはする也すべて物語文などもみな此心をもてよく/\あぢはひてそのむねとする心ばへをしるべしさればこの事は源氏の物語につきて卷卷の詞をひき譬をあげて別にくはしくいひおければあはせて見てかむがへてよ大かた此哥のみちの心ばへはかの物語のうへにてしらるべきことぞ  問云から國のは詩もさらぬ書も色このむすぢをいへる事いとまれなるにこゝの書どもには戀の事のみおほく見えて上も下もみだりがはしきこといとおほかるにそれをあしき事にもいはぬは國の風俗のすきずきしくあだなる故か  答云いろ好む事は昔も今もこゝもかしこも只同じ事といふ中に歴代のからぶみをみるにかの國は今すこしみだりがはしき事は多くみえたりしかるを前にもいへる如くかの國は萬のことに人の善惡をのみこちたくいひさばくならはしにて色このめる事などをばれいのさかしらする學者がつまはじきをしてあはめつゝいみじくにくくうとましげに書しるし又詩もおのづからさる國のならはしにひかれてたゞ大丈夫の雄々しき心ばへをのみ好みとゝのへて戀する情の女々しく人わろきさまなどをばはぢていはず是みなつくろひかざれるうはべの事にて人の心のまことにはあらざるを後にそれをよむ人は深くたどらでかの詩文のやうを實の情態と心得かの國の人は色にまよふふるまひすくなしと思ふはおろか也さて吾御國はよろづおほとかにてさかしだゝぬゆゑに人のよしあしをわづらはしくいひたつる事もなくたゞ有しまゝにいひつたへ書つたへたる中にも歌物語などはことに物のあはれなる方をむねとせる事なれば色こ(528)のめる人のさま/”\心々を有しまゝになだらかに書のせたる物也又同じ此方のふみも唐書をまねびてかける世々の國史などはもはらかの國のやうとかはるけぢめも見えずされば其書ざま作りやうによりていかにも/\みゆるわざなるをわきまへずして此國は殊に色にまよふならはしぞと思ふは國史などをば見ずわづかに哥物語のたぐひをのみ見る人のひがこゝろえ也信ずべき事にはあらねど魏志といふからぶみには此方の事を其風俗不v淫とさへいへるをやすべて戀のみにもあらず万の事に唐はよからぬ人ことに多しさばかりゆるしなくいましめてだになほ多かるはもとより國のわろきゆゑ也我御國はむかしより人のふるまひをとかくほめそしる事もせすたゞなだらかにおほとかなれ共あしき人のことに多くも聞えぬは神の御國の故ぞかし  問云法師の戀する事はいとあるまじきわざなるを哥の道にはとがめずして世々の集にもその哥共多く見え今もはゞからでよむはいかに  答云婬慾は佛のいみじき戒なれば法師の深くつゝしむべき事とはたれも/\いとよくしることにて今も猶このすぢにまよふをばよにあさましき事になむすめるしかはあれどさやうのよきあしきことのさだめはその道々にてこそともかくもいひあつかふべき事なれ哥はすぢことなる事にて必儒佛の教にそむかじとするわざにもあらねばそのしわざのよきあしきなどはとかくいふべきにあらずたゞ物のあはれをむねとして心に思ひあまる事はいかにも/\よみ出る道也法師は世をのがれて道に入ぬるうへはその教をおもくまもりてかりそめにもみだれたるふるまひはうちすまじきことなれ共それは猶しひてしのびつゝしむうはべの身のおこなひこそさもあらめ法師ならむからに俄に俗と人情のかはるべきものにあらずみな佛菩薩のへんぐゑにもあるまじければいまださとりをえざらむほどは心のそこまでいさぎよくすみはてむ事はえしもあるまじく猶此世の濁ものこりぬべきわざなれば色を思ふ心もなどかはなからむこれもとよりさるべきことわりなれば心におもはむ事は恥べきにもあらず又とがむべき事にもあらず又とりはづしてはあるまじきあやまちをしいづるも凡夫なる程はつねの事にてせむかたなしされば佛のいましめの重きも人ごとにまぬかれがたくまどひやすき故ぞかししかるを僧とだにいへば心のそこまで皆佛の如くなる(529)べき物と人もおもひみづからもさる顔つきはすめれどそは中々罪おもかるべきわざなり今その心ばへをまうけていはゞ世にたふときひじりのあらむにいみじく盛なる花紅葉の本にはしばし立よりてあなめでたといひ思ひ又道かひにておかしき女に行あひては目も見やらずして過行めりこの二つを思ふに花紅葉もおなじこのよの色香なれば心とむべきにはあらねども殊に執のとまるばかりはあるまじければ法師もすこしはめでたらむもさのみとがあるまじく女の色はことに人の心をまよはして必のちのよのさはりとなりぬべき物にて世すて人はさらに目にも觸まじき事にしあればこれ聖のふるまひはいとたふとしされど心のそこよりまことにしかりといはゞいみじき僞なるべし其故は花紅葉のいろかはめでたきも猶かぎり有て人の心にそむ事あさく人の色はそこひもなくかぎりもなき物にて心にそむ事こよなう深しさるをかぎりある花紅葉をさへめづる心にかぎりなき女の色をばいかでかめでたしとはおもはざるべきこはたとへば百兩のこがねは得まほし千兩の金は得まほしからずといはむが如くにてさることわりあるべくもなしよき女を見ていさゝかも心をうごかさゞらむはまことの佛なるべしさらずは鳥虫にもおとりてむげに情なき岩木のたぐひとやいはまし人とある中にも殊に法師は妻をももたらずこの欲を常につゝしむ物にていよ/\心には思ひのむすぼゝるべき事なれば俗よりもまさりて戀の哥は多くあはれにいでくべき事也かの志賀寺の上人の何がしの御息所の御手を給はりて玉はゞきの哥をうち誦したりとかいふ古ごとぞ法師の心ばへにかなひてあはれなるわざ也けるさやうに心のうちに深くつもれる妄念をもこの哥によみいでゝいさゝかも思ひはるかさむは發露懺悔の心にもかなひぬべくやよしかなはずとも哥は歌なればそのさだめはようなき事になむ
 
(530)神風の伊勢の海の磯もとゝろにきこえし老翁ありその老翁の學のすちは棟にみち牛に汗あゆはかりのふみともにときあらはされたる中に歌つくるこゝろはへをゝしへみちひかれしは石上私淑言になむいかてこの書ふるきうたよみわかき歌よみたちにふけらかさはやと村肝の心おこしてよみつゝかうかへつゝきよく紙にかゝせめてたく板にゑらせなといそしまるゝは石見のや濱田の殿のつかうまつり人とりかなく吾嬬のみやこのさゝら荻あしの假庵にかり居せるあるしにこそあるしかの老翁のなかれをくみてふることにくらからすものせらるなるはとし比おとにのみきゝわたりしをこのひとゝせ二年のほとよりそあま雲のへたてなくすかのねのねもころに語らひかはしていみしき心しりとはなれりける過にし日まろかまつの屋のかとおとなひふみつくゑのかたへに來いりましていてこのおく書をとありけるに中/\につたなきこと葉そへたらむはほとけの御くしのはことかいへるものわらへにもこそとちたひ八千度しゝまはれしをさりともとて禿さまなる筆とりもてはしりかきしつるは御世の名を文化とまをす十三年のふみ月はかりおほやけことのいとまあるゆふへひとまところのともし火かきあけつゝなんみぬま川の漕運主事たか田の與清     
                            藤原常彦書
 
(531)いてやこの二百年このかた吹なせる小角のひゝきとゝのふるつゝみのおとをきかすゆはすのさわきはたのてのなひきをもみすしほなわのとゝまるかきりたにくゝのさわたるきはみをさまりにをきまりゆきておのかしゝ心のゆくかきり花に月にあこかれあかし哥にふみにあそはひくらすことはあかりての世にもたちまさりたる大御世のたりみよにしあれはかれにつけこれにつけつゝ出くるものもいやたりにみちたらひぬれはおのつからみち/\にとりてもさえかしこきひと/\もいてきぬへきことわりになむ有けるしかあれは物まなふすちにたけたる人哥よむわさにすくれたる人野へにおふるかつらのはひゝろこり林にしけき木葉の如くとかいとさはにそなりにけるさはれそれか中にはふりにし世々のふみとくわさはあきらめても猶のちの世のならひにくらき又は後の世のはなやきたるかたにのみ心うつりていにしへの質なるすちはふつに忘れにたる或は哥よむかたはまさりたれとふみつくるわさにおとりたるあるは哥よみふみつくることはかとありてしいてたるも古ことのまなひにうとき或は古ことのまなひはえたるさまなからうたよむくちつきのむけにつたなきなといひもてゆけはかれも(532)これもえたりとおほゆるはよにかたくそ有けるさるをこれもかれもうちあひておくれたるかたなくえられしとおぼゆるはたゝ圓珠庵の阿闍梨と縣居の翁になむおはしけるさはいへこのふたりのひと/\もいまた哥といふことのわきよむといふことのあけつらひなとはつはらにしるされたるもの見およはさりきこゝに又鈴屋の本居のをちなむおはしける此老翁は縣居の翁のをしへこにしていにしへ今のふみらときあきらめられしことはまことにあかりての世にもならふへき人をさ/\あるましきまてになむおはしけるこは世に人のしれるところなれは更にことわらむもうひ/\しさていま此書はしも比をちのおはしゝよにものせられたるにて其哥といふことよむといふことよりはしめてものまなひせむ人のためにもはらえうあることゝもを人々のとふにまかせてこたへられたるか清きなきさの玉のかす/\つもりたるをいほつみすまるのすへつとへて石上私淑言とそなつけられたるされとこのふみいまた世にあまねくしるひとなきをおのかとちあかぬことにおもへりしをひと日蘆假庵のぬしかたられけらく我翁身まかられし後は手つからかゝれたるものとしいへはかりそめのゆきかひのすさひは(533)たてならひやうの物すらにえかたきものにもてはやしたふとむめるをこれはしもさるかりそめのすさひにはあらすいとも/\ありかたきまての書なりけりよりていま板にゑりて世におほやけにせむとすさるからは其よしひとことかいしるしてよとこはるおのれおもふに此ぬしはしもあまたとしかたみにとひとはれてまさしきはらからのやうにてさへあれは此ぬしのまなひのおやはやかておのかためにもおやなりけれはいかてかいなむへきとよろこほひうけひきてすなはちに筆とりてかいつくるはこのぬしのこゝろしりこのぬしのまなひをむへなへる郁子園のあるし片岡寛光なり
 
(534) 附録
古事記日本書紀萬葉集のふるき歌どもをおのが物として心のまゝによみ出せる人々はみづから哥のこと得たりと思ふめれど猶歌といふことよむといふことの意をも辨へしらぬぞおほかる其故はいにしへぶりの歌は眞心よりよみ出る物後の世ぶりの歌はたくみてつくれる物ぞとのみかたくなに思ひをるからに後の世ぶりの歌はよむべき物とも思ひたらずひたぶるにいにしへぶりをのみ好みて人の耳遠き言などあながちにもとめ出して殊更に四言六言八言などよみ出るを心とせりそはいたくうらうへの違ひになむあるにいにしへ人こそ眞心よりよみ出せれ今世の人のいにしへぶりの歌よめるはしひてつくれる物をや中々に後の世ぶりの哥にこそ眞心よりよみ出せるはあれそはいにしへと今とは時世も人もたがへる故ぞかしされどいにしへぶりの歌よめるをわろしといへるにはあらずあながちに異さまなる詞をえり出て殊さらに四言六言八言によめるをわろしとはいへる也やむ事を得ずしておのづからこそ四言六言八言にもなれ好みてよむべき事かはいにしへの歌は謡ひし物なれば或は聲を長くひき或は聲を短くしゞめて五言七言のしらべにとゝのへ謡ひし事既に師翁のいはれつるが如く也今の世にてはさる事もなく人につぶ/\としいひきかせ又は書てもくする事なれば四言六言八言などは口調もあしく聞ぐるしきもの也そが中にもやむ事をえずしておのづから四言六言八言になれるはよくとゝのひて口調あしからぬ物也それすち好みてよむべきにはあらぬをやそは年ごろいにしへぶりの歌あまたよみなれ人のよめるをもこゝらよしあしあげつらひたるうへにてはよくしらるゝ也古事記日本書紀万葉集の歌ども常によみなれて我物としたる人にてもみづからあまたもよまず人の哥をこゝらもあげつらはぬ人はこのさかひはしられぬ物になむ有ける
文化十三年七月      藤原彦麿
 
(535) 國歌八論同斥非評
 
 國歌八論
     歌源論
夫歌は言葉を永うして心をやるものなり、然るを心に思ふ事を、見る物聞く物につけていひ出せるなりとのみいひては未盡さず。古事記日本紀等に見えたる伊弉諾伊弉冉命の、あなにやしえ男をあなにやしえ少女をと唱へ給へるは、心に思ふ事を云出せるなり。されど是をば宣ふと云て歌といはざるは、たゞ唱へ給へるのみなればなり。
 二神ノ唱和ノコトハ此論未ダ盡サズ予別に考ル所アリ
須佐之男命の、八雲たついづも八重垣妻ごめに八重垣つくる其八重垣をと宣ひしも、同じく心に思ふ事をいひ出せるなれど、是をばまさしく歌といへるは歌ひ給へるなればなるべし。又味耜高彦根神の妹高姫命の、あめなるやおとたな機の、うながせる玉のみすまる、みすまるのあな玉はや、み谷二わたらず、あぢしき高彦根の神ぞやといへる歌も、高彦根神の名を、其時ありあふ人に顯はさとて、歌よみたるとみえたり。是もうたはざれば、ありあふ人の聞くべきにあらず。さればうたひたる事知るべし。
 アリアフ人ノキクキカヌマデモナクミナウタヒ給ヘルモノナリ
漢國の歌を見るに又同じく然り。
 漢國ノ詩モ本ハ皆ウタヒシナリ
 
  2008年5月29日(金)午前10時42分、入力終了。