萬葉集新釋
伊藤左千夫
底本:「左千夫全集第五・六・七巻」 岩波書店発行
1977年6月13日発行
萬葉通解著言
萬葉集は単に吾國の古代文學とのみ見るべからず、正に吾日本民族の趣味的思想の根源なれば、凡そ人間として必ず其祖先を知らざるべからざるが如く、日本人たるものは、如何なる種類の人と雖も、必ず萬葉集を知らざるべからざるなり、況や文學に志あるものに於てをや、一國の人民として自國の文學を知らず、自國思想の根源を知らざるは、其國民たるの資格なきものなり、単に人としての資格をも有せざるなり、吾人の先祖は如何なる詩を有し、如何なる趣味的思想を有したるか、是萬葉集を讀み萬葉を解して始めて知ることを得べきなり、
近くコ川時代にあつて古學と唱たる一派の學流大に興り、萬葉集に關する著書の如き又百を以て數ふるに至れり、是等の著書に依て專門的に萬葉集を解すること、最早何等の不足を見ず、只其餘りに專門的なると學者的なると、詩人としての見地を缺けるとは、今日の人をして、一般的に毫も萬葉集を知るに由なからしめ、詩的解釋の上よりも、毫も萬葉集の眞趣味を知ること能はざらしむ、萬葉集は詩人として深く其趣味を解せざるべからざるは勿論なれども、一般人としても苟も日本人たる以上は必ず普通的に知らざるべからざることは前に云へる如くなれども、今日其必要に應ずべき好著一も有ることなきは明治出版界の一大缺陷なりと云ふも可なり。
先師正岡氏國歌革新を唱へしより以来、吾人同志の士、萬葉研究に心を注ぐ最も深く、其根底を探り其趣味を咀嚼し、大に系統的製作に勉む、爾来窃に以謂く、萬葉集の趣味的解釋を爲し併せて詩人以外一般の士人をして容易に萬葉集を窺ふを得せしむるもの、實に吾を置て外にあるべからずと、昨年以來予は此重大なる責任を自覺すと雖も、先師の志を繼續して雜誌「馬醉木」を起さゞるを得ざるに當り、徒に志を抱いて今日に至れり、「馬醉木」の經營漸く端著を得たるに乘じて、今は其事に從はんと決心し、先づ順次毎月の雜誌に掲げつゝ、一面に全部の脱稿を急がむと欲す、されば全部脱稿の上は即馬醉木の掲載を廃して直に發刊すべし、先づ短歌通解を爲し、次に長歌の通解に移らむ、其如何なるものなるかは、諸君乞ふ二月發刊の「馬醉木」誌上に於て見よ、
甲辰一月十九日夜無一塵庵に於て記す。
明治37年2月『馬醉木』
署名 伊藤左千夫
萬葉集短歌通解
〔一〕
本集は開卷長歌であるので、順序よりいふと長歌から始むべきであれど、複雜な長歌よりは比較的簡單な短歌を先にやる方、讀者に便宜よからふかと思へるまゝに、途中から始める樣な奇觀を現ずるけれど、此短歌通解を先にしたのである。
長歌に附屬してある即反歌の短歌は、本歌の長歌を解する時一所にやる積りで、其分は此解に除く、それから歌の讀方に就きては、學者各異なつた訓をしてゐるのが多いけれど、それを一々彼是引合に出すは甚だ煩しひ、且つ右樣の事は本解の目的でないに依て、講者に異存のない限り萬葉集古義に依る。
又歌に附てある詞書や其作者の傳記なども、歌の講評上に必要がないと思ふ處は、多くは省く、本解の目的は何處までも詩趣を評するにあるので、考證めきたる繁雜は務めて避けねばならぬ。
明日香川原宮御宇天皇代《アスカノカハラノミヤニアメノシタシロシメシヽスメラミコトノミヨ》
天皇は皇極天皇のことである、御宇天皇代とある詞は此振假名の例により後は訓せぬ。
額 田 王 歌《ヌカタノオホキミノウタ》
此人は鏡王といふ人の女で鏡女王と云つた方の妹である。天智天皇にも天武天皇にも召されて夫人となつた人である。
〔七〕金野乃、美草苅葺、屋杼禮里之、兎道乃宮子能、借五百磯所思、
秋のぬの、み草かりふき、宿れりし、宇治の都の、假庵《カリイホ》しおもほゆ、とよむのである、
秋のぬは秋の野で、此時代には野を「ぬ」と云ひ、外にも「の」と云ふ處を多く「ぬ」と云ふた樣で「たの〔右○〕し」を「たぬ〔右○〕し」「しの〔右○〕ふ」を「しぬ〔右○〕ふ」と云ふ類である。み草かりふきはかやを苅つて屋根を葺くこと、集中には草と書いて直にかやとよませる處が多い、かやとは屋根をふく料の草をさすので、必ずしも薄に限らぬなれど、尤も薄がそれに適してゐるから、かやと云へば薄、薄と云へばかやの事の樣になつて居るのである、み草の「み」は飾詞、或る草を指定するよりは、此歌の如くみ草と大まかに云ふたが返つて面白い、宇治の宮子は、今の大和の宇治で此宮子は今世の都會の意ではない、宮の跡といふことである、假庵は上古の旅は必ず往く先々に假屋を作つて宿つた故、其假屋を云ふたのだ、草枕など云へる詞の起れるも、此假廬の形容から出たものと思はれる。
全首の意は、秋の野の草を苅葺いて假庵を作り旅宿した宇治の宮跡は今どむな風になつてゐるかしら、彼時の面白かつたことが、思ひ出さずにはゐられない、などいふのである、交通機關の不備な昔にあつては、旅といふは物憂く苦しき事に極つて居つた、殊に女などの旅をするといふは容易な事でなかつたらふ、併し此歌は全く普通の場合と異つて、寵幸を受けてゐる天皇の行幸に從つての旅行であるから、苦いことのあるべき筈がない、常には旅行など出來ない女の身で、此珍らしき假庵の宿りが非常に面白く感ぜられたのであらふ、殊に此王女は文學思想に富み趣味の感懷人に優れて居られたのであるから、此旅生括の假宿が如何にも愉快であつたことゝ思はれる、無造作に一直線に感懷を序し去つた處に樂しげの情が能く顯はれてゐる、以上は極大體からの評であるが、一歩進んで細評を試みると、缺點のある歌と云はねばならぬ、假庵しおもほゆの結句が、強過ぎるのである、此結句の意味であると單に其假庵即人工的の家のみに面白味を感じた如く聞えるのである、旅の面白味といふよりは、旅の内の或一物を詠める如く感ずるのである、それでもよからふと云ふ人もあるかも知れねど、單に假廬のみをさしたとすれば余りに平凡で、旅と云へば必ず爲る極切つた事を獨で面白がる樣に陷るのである、作者の意も決してそんな單純でないは明かだ、所は宇治で景色はよし、夫《オツト》天皇に從駕しての旅ではあり、女の出來難き旅の生活など、種々な愉快を集めて出來たものと見るが當然である、かく見て始めて此歌に云ひつくされぬ趣味が含まれるのだ、此時代の歌に全く戀を離れた歌は實に少ないことは云ふまでもない、且つ中二句に「み草苅ふき宿れりし」と云つてあるから殊更に結句で假庵とことわる必要はない、されば結句は「旅をしおもほゆ〔七字右○〕」とある方面白いと思ふ、調子の上に幾許か輕くなる樣であるけれど、旅をしおもほゆと云へば、あたりの光景も假庵も人事的情味も含まつてくるは無論である、萬葉の歌とて能く吟味して見ねばならぬ、蒼古な調子に惚れて其缺點を見免してはならぬ。
後崗本宮《ノチノヲカモトノミヤ》御宇天皇代
茲に天皇といふは齊明天皇のことである。
額田王歌
前の王女と同人である。
〔八〕 熱田津爾、船乘世武登、月待者、潮毛可奈比沼、今者許藝弖菜、
にきたづに、ふなのりせむと、月まては、潮もかなひぬ、今はこぎてな、とよむ。
「にきたづ」は伊豫の國の地名、「船のりせんと月まてば」解するに及ぶまい、「潮もかなひぬ」は船を出すに能き程に潮がさしてきたと云ふこと、「いまはこきてな」いまはもう船を漕出でよといふのである。
一首の意は、にき田津にゆくために船乘せんと月の出づるを待つてあれば潮もさしてきた月も出た今は船を漕出せよ、といふので、これも從駕の旅中船中の作、空は晴れてゐる、月は始めて東天に昇つてきた潮は滿てきた、行幸御供の船の今港を出でんとするさま光景目に見る如くで實に感じのよい歌である、月待てば潮も〔右○〕かなひぬといふ此「も」の一字非常に働いてゐる、月もまち潮もまつたのであるが、月も出た潮もかなつたといふ處を、潮も〔右○〕の「も」字で「月も」を顯はしてゐる、尤も巧妙な詞つきである、
行幸とは云へ其頃の船如何なるものなりしか、月を待ち潮を待て始めて漕出すと云ふより考へれば大抵推測も出來る、歴史的に見ても頗る興味のある歌ぢや、格調を以て勝れる萬葉集中にも、如此寫實的の歌あることは、尤も注意して置くべきであらふ、一見無造作で然も巧緻、目に觸れたまゝを詠める如くで然も極めて複雜な光景を畫いてゐる、寫實でなければ辿ても出來ない處を、ちやんとつかまへてやつてゐるは實に驚嘆の外ないのである、萬葉集を見て是等の歌を見殘す樣では、共に歌を談ずるに足らぬと云つてよからふ。
幸于紀温泉之時、額田王作歌
此行幸も齊明天皇である。
〔九〕 奠器圓隣之、大相土見乍湯気、吾瀬子之、射立爲兼、五可新何本、
みもろの、やま見つゝゆけ、吾せこか、いたゝしけむ、いづかしかもと、
古義は以上の如く訓してゐる、此歌古來難解を以て名高き歌である、古學者連が種々樣々に勝手なよみ方をやつてゐるが、解らぬものはどこまでも解らぬ、予は如斯歌に對し推測的に無理な解釋を試みるは、殆ど益なき業と信ずるが故に、異なつた讀方、二三種を擧げて責を塞ぐことゝする、
かくやまの、くに見さやけみ、吾背子か、い立たすかね、いつかあはなも、(久老) かまやまの、霜きえてゆけ、吾背子か、いたゝすがね、いつかしがもと、(宣長)
まがづりの、おほひなせめくも、吾背子が、いたゝしけむ、いつかしかもと、(水戸侯)
何れも歌の趣味といふものに頓着せぬ訓方である、猶何通かあるけれど、馬鹿らしければ省く。
中皇命《ナカチヒメノミコ》、往于紀温泉之時御歌
中皇命、命は女の誤にて、中皇女なるべしと古義之説、されば齊明天皇の皇女にて、後に孝コ天皇の皇后となられた方である、
〔一○〕 君之齒母、吾代毛所知武、磐代乃、岡之草根乎、去來結手名、
きみかよも、吾代も知らむ、磐代の、岡のくさねを、いさ結びてな、
「君かよも」君がよはひといふこと、此君とは、此皇女の御兄中大兄をさせるならんと古義には云ふてあるが、必ずさうとも決し難い、只温泉に在ませる時に同行せられた人があつて、其人をさして云へること勿論である、親げなる詞つきより見れば、古義の説の如く中大兄かも知れぬ、「吾代も知らむ」は吾齡も知るらむである、「磐代乃」磐代は紀伊の地名、「岡の草根を」くさねの「ね」は添詞で只草といふと同じ、草の根を云ふにはあらず、「いさ結びてな」はさあ結ばせられてである、草を結び松枝を結びなどして齡を契ること、上古の風習、集中其歌が處々にある、
一首の意、君が齡も私の齡も能く知つて居らん、岩代といふ目出度名の岡の草をさあ私も結びます君も一所に結てなと連なる人を誘なふた歌である、うら若き兄弟などの遊びごとらしき、何となく幼なく無邪氣な感じのある、和氣溢るゝような歌である、猶以下二首の歌と連關せる樣に思ふ故、終にまとめて細評する。
〔一一〕 吾勢子波、借廬作良須、草無者、小松下乃、草乎苅核、
吾せこは、かりほつくらす、かやなくは、小松かもとの、草をからさね、
「吾せこは」上古の風俗女が男に對し又は男どち互に云ふ場合に多く吾せこと云へるので、親み云ふ詞である、「かりほつくらす」は前に云へる如く、旅の假庵を云ふ、つくらすは作り給ふとの意、「草をからさね」は俗にいふ草を苅りなさいねと云ふ如き意、
一首の意、吾背子は假庵をつくりなさるか もし屋根をふくかやがなくば此小松が下にある草をおかりなさいね、と解く、全體の調子前歌と同じく、如何にも幼なく睦ましげに感ぜられる所が、非常に面白いのである、予は已に前に云へる如く、此二首は、御年極めて若くあらせらるゝ、御兄弟のマヽ事遊びの歌と思ふ、此歌に至つて益々然るを認めるのである、已に温泉に在りての歌であるから、假宮などは早く出來てあつた事云ふまでもない、殊に皇子皇女ともある方が、自ら假庵を作るといふ筈もない、若し從者などに作らせるならば、歌の調子も自然其ようでなければならぬ、小松がもとの草を苅れと云へる邊に注意せよ、其小さな所を指して云へる處、決して事實のかやを苅る事と思はれない、戯の遊事であること少しも疑ふに足らぬ、歌の趣味調子など解せぬ學者の氣がつかぬは無理がないけれど、幼遊の戲れを眞面目に解釋してゐるは聊か滑稽である、
うら若き御二人が、草を結び又は假庵を作る眞似事などやりつゝ遊ぶさま眼に見える樣で實に畫のような趣がある、其調子も又温潤玉の如き感じがする愛らしく罪のない面白い歌である。
〔一二〕 吾欲之、子島羽見遠、底深伎、阿胡根能浦乃、殊曾不拾、
あがほりし、こしまは見しを、底深き、阿胡根《アコネ》の浦の、珠そひりはぬ、
「あがほりし」あがは吾と同じ此時代の詞、ほりしは欲するでねがふことである、茲では見たく欲せしといふ心、子島は地名阿こねも地名、共に紀伊にあり、珠ぞひり〔右○〕はぬ、磯による珠などを拾はないとの意、「り」は「ろ」と同じひろはぬをひりはぬと云ふは古言の格。
一首の意、景色のよいと聞て見度と吾ねがひし、子島は遺憾なくこうして見しを、御身が拾はんとねがへる珠は阿胡根の浦の底深きに拾はれなかつたは殘念ぢや、と云ふ意である、此歌一見した處では以上の如く解すること無理なる樣なれど、篤と全體の詞つきを吟味すると、正しくそれに相違ないのである、前二首と所は違つてゐるは勿論なれど、同じ折の歌で、此歌は、前に吾背子と云はれた、男の方のよまれた歌に相違ない、即中皇女に對して詠まれたものである、前二首より此歌調子強く、何となくしまつてゐるは此作者中皇女より年上なることも知れる、御二人相談して茲に磯を見に來りしが、男の方は景色を見に女の方は珠を拾はんと談合して來たのに男の方は子島の景色を見て遺憾はないが、中皇女は珠を拾ふことが出來ない、そこで男の方が此歌を詠むで、中皇女を慰めた歌である、斯く解釋せねば此歌何所に面白味があるか判らぬ、事實を詠める歌には能く此歌の如きがある、一寸見ると判らぬ樣なれど、吟味して見れば餘情限りなきを發見するのである、萬葉の歌は、皆事實を詠めるのであるから、充分の注意を以て、前後の事實を考量せぬければ、あたら名玉の光を認め得ざることがある。
猶三句の「底深」の底は磯の誤で「磯深き」でないかと思ふ、底深きでも通ぜぬことはないが、つまり磯の深い意であるは勿論だ、潟のない磯ですぐ底の深くなつてゐる阿胡根の浦と解するのであらふ、此歌で尤も注意すべきは、初句「吾ほりし」の吾がといふ詞の使ひ方の巧みな事である、吾欲りしと云つて、君が欲りしといふ意を響かせた働きは、前の額田王の歌の、「潮もかなひぬ」の此も〔右○〕文字の使ひ方と同じである、即吾欲りし子島はみしを君がほりし珠を拾はぬは飽ぬことであるとの意、結句の「珠ぞ」のぞ文字も味ふべき文字である、一見完全な良歌よりか、此歌の如き幾分無理な所のある歌が、研究上には却て價値があるのである、後代歌人たるものゝ大なる注意を以て見るべき歌である。
〔二〕
中大兄《ナカチオホエノ》 天智天皇 三山御歌《ミツヤマノミウタ》
長歌一首と反歌一首は省きて、末の短歌一首を解く。
〔一五〕 渡津海乃、豐旗雲爾、伊理比沙之、今夜月夜、清明己曾。
わたつみのとよはた雲に入日さし〔右○〕今宵のつく夜清くてり〔右○〕こそ、「わたつみ」は海のことで、海神の名を綿津見神と云ふ所から、後には海を直に渡津見と云ふことになつたのである、「豐旗雲」とは旗の靡いたような雲といふ意にて豐とは美稱に用ゆる詞、豐葦原、豐御酒など云ふ豐と同義である、朝夕の海山などに能く見る長く布を引た如き雲を形容せる詞で、面白き詞である、旗雲と云ふさへあるに更に豐と美辭を冠した古人の用語に巧みな所、一語直に詩を爲してゐる、「今夜《コヨヒ》の月夜《ツクヨ》」此つくよと云ふ詞は此時代では只月と云ふことに用ふるが例である、
一首の義は、海の上の棚引てゐる天雲に、入日がさすは、さては今夜の月は清く照るに相違ない、どうか清くあらしたい、など云ふ意味で、結句の「照りこそ」は希望の意味も含み居るは勿論であるが、解者の多くが、希望の意に重きを置いて此歌は現在の景色を見て詠まれたではない樣に云ふてゐるは淺解と云はねはならぬ、それでは此歌の面白味の大部分を失ふて了ふ、上三句の形容詞で實景見るが如き所が非常に面白いのであるのに、それを全く希望の空想に解釋しては、調子もたるんでしまひ、景色の感じなどは起らぬのである。
實景に對して雲の有樣も目に留つてあればこそ、豐旗雲と云ふ樣な、面白き形容詞も出た譯なれ、和田津見の雲と云ふ如き詞も出來たのである、無造作な詞であるが、和田津見の雲とは實景でなくては一寸云へない詞であらう、要するに解者の惑といふも、第三句の「入日さし〔右○〕」の「し〔右○〕」文字が過去の詞で全く説明詞になつてゐるからであらう、勿論語格の上から云へば、「入日さす〔右○〕」でなければならぬ「入日さし〔右○〕」では此場合現在の意義にはとれない、されば例の誤寫か何かであらう、結句の「清明己曾」も古義は「キヨクテリコソ」と訓み他には「アキラケクコソ」「キヨクアリコソ」などあれども、予は「キヨクテル〔右○〕コソ」と訓みたい、即ち。
和田つみの豐旗雲に入日さす〔右○〕今夜の月夜清く照る〔右○〕こそ、
僅の相違であるが意味は大に異なつて來る、照ればよいがと希望するの意もないではないが、入日の實景から其夜の月明が想知されたので殊に悦んで詠まれた歌に相違ない、學者先生達は眼を歌全體の上に注がず、只管一局部の語句などにのみ屈托するから兎角正解を得ることが出來ぬらしい、眼前の實景を見ることが疎かで、徒らに空想を弄ぶ樣な詠方は、古今集以下の歌人に限つてゐる、萬葉時代の作家には餘り見受けないことである。心も晴れるような誠に感じのよい歌である、愉快な情もよく顯はれてゐる。
近江大津宮御宇天皇代
此に天皇と申すは天智天皇のことなり。
天皇遊獵蒲生野時、額田王作歌
蒲生野は近江國蒲生郡の野なり。
〔二○〕 茜草指、武良前野逝、標野行、野守者不見哉、君之袖布流。
あかねさす紫野ゆきしめ野ゆき野守は見すや君か袖振る。
「あかねさす」は紫の枕詞、「紫野ゆき」は柴草の生ひてある野をゆくと云ふこと、「しめ野ゆき」は天皇の御猟故標即しるしを立て置く野をゆくと云ふ意、「野守は見すや」野を守る人が見はせまいかなり、「君か袖振る」君とは皇太子大海人皇子をさせるのである。一首の義は、紫の生ひてある御獵場の標野をその樣にゆきゝなされて君が袖を振る心ありげなさまを野守の人が認めて咎めはせまいか、と云ふほどの意である、併しそれは表面の意味で、標野と云ふも事實の野をさすのではない、皇太子とある人が御獵場の何所をゆくとも咎められる理はない、故に是は比喩的に額田王自らの身の上を云ひ、野守とは天智天皇をさして云へるのである、誰れも知る如く、此女王は始め大海人皇子に召され御子一人ある程の間柄なるを、後天智天皇にも召されて夫人となつたのである、此歌に依て思へば、天皇の權威で天智天皇に召されては居れど心には大海人の皇子を慕ひ給へるらしく、大海人の方にても此女王に充分心殘し給へるものらしひ、細かく云はゞ女王既に宮中に召されて後は、大海人の皇子も相見るの機會を失ふたのであらう、然るに此御獵に兩人共に從ふて來りしものから、親しくにはあらざるべけれど、皇子と女王と面を合はす機會を得たのである、そこで皇子は女王の近くをゆきゝしつゝ袖を振つて窃に意中を女王に示した、女王は天皇に悟られる樣なことがありはせまいかと、暗に心を痛め、此歌を作つて大海人に贈つたものである。
聲調高雅であつて、さうして又光景と情致と共に至り盡してゐる、非常に複雜な意味を含蓄してゐてさうして、又語格は極めてなだらかである。
目に觸れた事物をとらへて直に紫野ゆきと云ひ下し、一轉して標野ゆきと比喩に入り、更に又平易な適切な比喩を重ねて、當下の感情主要點を描出した、枕詞さへ使用せる餘裕あるに至つては、其怪腕に驚くの外ない、當下の景物をつかまへて其位置を顯し無造作に比喩を驅使して、云ひがたき無限の情緒を少しの澁滯もなく序してゐる、何處迄も實際的で毫末空想を交えない所に却て眞情が見える、詞の上に戀ふるの意味がなくて却て想思の念禁じ難き趣がある、萬葉集中有數の傑作であること云ふまでもないことである。
皇太子答御歌
大海人皇子即天武天皇なり。
〔二一〕 柴草能、爾保敝類妹乎、爾苦久有者、人嬬故爾、吾戀目八方。
紫のにほへる妹をにくゝあらは人妻ゆゑに吾戀めやも。
「紫の」はにほへるの枕詞、此紫と云ふは今の世にいふ紫とは同しでない、所謂紫朱を奪ふの紫で赤みの強い色である、故に茜さす紫とも云ひ、紫のにほへるとも云ふのである、「にほへる妹」は女の紅顔の美しきを云ふ形容語、「にほひ」と「かをり」と混同したのは後世のことである、にほひとは色の方にいふ詞で赤みに艶ある色を云ふのである、妹とは女に對し親みいふ場合の用語、されば直ちに妻といふ意に用られること人の知る如くである、第三句は解するに及ばず、「人つま故に」は人のつまのためにといふ如き意、「吾戀めやも」こゝでは吾戀せ〔二字右○〕めやもと戀の字を名詞にして見れば解り易い、上の句「人妻故に」を受けては下句こひめ〔三字右○〕やもにては意味の接續穩當を欠く、此時代の詞使を悉く後世の語格に依て解せんとするも穩かでないは勿論であるが、戀せ〔二字右○〕めやもの意を戀ひめやもと云つて同じ意に通ずるや否、予は未だ其例を知らぬのである、併歌全體の意を解する上では戀せめやもと訓ねばならぬ。
一首の義は、うつくしくなづかしき御身を憎く思つてゐる位ならば已に人の妻になつてゐる人だのに、なんでこれ程に戀ひしてあるべきぞ、といふ如き意である、此歌上二句は殆ど意味はない、妹をと云はむための飾詞と見るをよしとする、此歌の中に尤も注意して見るべきは第三句の「にくゝあらは」の詞である、今の世に苟に愛憐することを憎からず思ふとか心憎く思ふとか云ふのであるが、此歌の「にくゝ」をそれと同意に解するは甚だ淺薄な解である、古義の説の如きは殆ど論ずるに足らぬ、こゝの憎くゝは正面の憎くゝで重い意味を持つてゐるのである。多くの解者が、此歌を以て直に前の額田王の歌に和したものとしてあるは眼識の至らぬのである、此集の例に、直に歌に答へたものには必ず和歌《コタヘウタ》と書いてある、茲にはそれが、答御歌〔三字右○〕と詞書があるは聊か證とするに足るのである、詞書などにそれほど重きを置けぬは勿論であれど、第一に此御歌は前の女王の歌に和したといふ點は何所にもないは見る通りであるから、此詞書に例に異つた答〔右○〕の字のあるは注目すべき價がある、予の考では此御歌は額田王の言傳か消息などに答へて詠まれたものとおもふ、從令へば、皇太子と女王と御獵の野に余所ながら相見るの機會を得たことは前の歌の所で云へる如くで、此時皇太子よりも身振りなどせられ女王も歌を贈つた位であるから、何かの傳手に依て女王は心の煩悶を皇太子に漏らされたに相違ない、女王の心情を少しく推測して見れば、心の内は少しも變りなく今天皇に召されて居るは全く余儀なき爲めとは云へ、眼の前にて人妻と他人にかしつき余所々々しくあひしらはれては、皇太子も定めて自分を憎く思召してあらう、歌にも云へる如く、「野守は見ずや」など頗る他を憚つた態度をしたようなことで、俗に云ふ、あれほど余所々々しくせなくともなど太子が思召しはせまいか、以上の如き意味で女王は必ず皇太子に對し、定めて憎く思召さむと云ひ送つたらうと思はれる、此歌に「憎くあらは」の詞の出たといふも、必然以上の如き女王の詞に對してゞあると云ふこと遠い推測ではあるまいと信ずる。「憎くあらは」の一句を以上の如き意味と解すれば、四句五句の詞が始めて活躍してくるのである、此女王は天智天皇崩御の後再度天武天皇に召されて夫人となつたのを見ても、大海人が如何に此女王に志の深かゝつたかも察しられる、此以前の天智天皇三山の御歌も此女王に關係ある歌で、又額田王下近江國時作歌の味酒三輪乃山と詠める長歌も、予の見る所では大海人に關しての歌であらうと思ふ。此女王と天智天武御兄弟との關係に就ては、歴史家の方面でも頗る注意すべき問題と聞てゐるが、是等の歌を解釋する上には猶極めて直接に悉知するの必要があるのである。
〔三〕
明日香清御原宮《アスカノキヨミノハラ》御宇天皇代
即天武天皇の御代で此明日香清御原宮といふは大和志に、高市郡上居村にありとある、上居はもと浄御を字音に呼びて書いたであらうとのことである、
十市皇女《トホチノヒメミコ》參赴於伊勢神宮時。見《ミテ》2波多横山巖《ハタノヨコヤマノイハホヲ》1。吹黄刀自《フキノトジノ》作《ヨメル》歌。
十市皇女は天武天皇の長女、彼の額田女王の生む所、即大友太子の妃である、吹黄刀自は皇女に仕た女で傳は詳でない、四卷にも此人の歌二首出てゐる、此刀自といふ詞、後世では女の尊稱の如くになつて居れど、茲では何の意味もない、只此人の名である、古は女の名に刀自と云ふが多い、何刀自何々刀自など多くある、
今の通用語では刀自と云へば老女か何かの如く思はれるが、古はさうでない此吹黄刀自なども此時に老女であつたのではなからう、勿論茲では單に此女の名であるとすれば、それらに何の關係もない譯であるけれど、茲に少しく刀自の語意に就て古の使ひ方を云ふて置かう。
四の卷に、吾兒乃刀自緒《アガコノトジヲ》。野干玉之《ヌバタマノ》、夜晝不言跡《ヨルヒルトイハズ》、云々、十六卷に、母爾奉都也《ハヽニマツリツヤ》、目豆兒乃負《メヅコノトジ》、父爾獻都也《チヽニマツリツヤ》、身女兒乃刀自《ミメヅコノトジ》、これらの使ひさまによると尊敬の意味は極めて少く單に親愛の意味にのみ解せられるのである、無論老女でなくて少女に對して云へる詞である、併しこれだけでは老女に對していふ詞でないといふ證にはならぬ、只古の刀自の使方を示せるのみである、猶詳には又云ふの折があるであらう。
〔二二〕 河上乃。湯都磐村二。草武左受。常丹毛冀名。常處女煮手。
かはのへのゆづいはむらに草むさず常にもがもなとこをとめにて。
「河上乃」はかはらと訓める本もあるが、河の邊と訓むが此集の例である、「ゆづいはむら」は五百箇磐石で即ちいほつ岩群といふ意、澤山に岩がつらなつてあるをいふのである、「苔むさず」苔が生えずである、「むす」とは生ずるの意で、むす女むす兒などの生《ムス》と同じ意だ、植物でいへばはえることである、後世苔の生ゆる時にのみ使ふ詞の如くなるは誤りである、「常にもがもな」はいつもかはらず常に同じ樣であれかしとの意である、「常處女《トコヲトメ》にて」はとこしへのとこと同じでいつもかはらぬ少女にてといふ意、即前句の上に反つて、いつまでもかはらず少女で常にありたいとの心である。
全首の意は、一二三句までは四句の常といふ詞の爲に序したので、河のべの多くの岩むらに苔も生えず常に同じさまである如く、人も何卒いつまでも常に若くてありたいなアと嘆息したのである、猶能く考てみると此歌詞書も只横山の巖を見てとあつて、歌の上にも前解の如くであるが、これは其波多の横山を見ない前に、此刀自といふ女は、何か吾身の上か人の上に就て失意のことあつて呼嗚年は取度くない、兎角若い方にのみ人は心を寄せて年を取つた女は自然人に忘れられる、女は年老て相當の配偶を得ることが六つかしひなどいふことを、深く心に感じつゝあつた際に、其横山の巖を見て即此歌を爲したのであらう、其岩を見てから始めて、若くて常にありたいなどいふ感念が突然に湧いたのではなかろう、何か憚る所があつてあらはにはさうと云はれずに、横山の巖を見てと云つて人に示したのであらう、こう思ふて此の歌を見ると其情の如何にも哀れなるを感ずるのである、末の一句余りに意義判然過ぎるために調子の上に却て索漠とした感あるは、此歌の欠點でもある歟、三句草むさず〔右◎〕を草むさじ〔右◎〕と云はないのは現在的に云ひあらはすためである、前に掲げた豐旗雲に入日刺し〔右◎〕の歌の解に云へるものと對照して見るべきである、歌の善惡は兎に角、句々の接續法は頗る注意すべき歌である、句の緊つた調子の強い歌を作る場合などには最も參考となる歌である。
麻績王《ヲミノオホキミ》、流於伊勢國|伊良虞島《イラコノシマ》之時、時人哀傷作歌、
〔二三〕 打麻乎、麻績王、白水郎有哉、射等籠荷四間乃、珠藻苅麻須、
うつそををみのおほきみあまなれやいらこが島のたまもかります、
「うつ麻《ソ》」は「をみの王」のを〔右◎〕にかゝつた枕詞である、麻績王は人の名、「あまなれや」こゝにては海士にあれやは〔右◎〕と解くべき詞で此句末のや〔右◎〕文字は疑の詞ではなく意味の反へる詞である、即やは〔右◎〕のは〔右◎〕を省いた詞である、「いらこの島」地名「珠藻かります」たまも苅りたまふとの意、珠藻は藻の形容美語。
全首の意は麻績の王は海士ではないぢやないかその王ともある方が海士のする業の玉藻を苅りたまふよといふのである、麻績王に深き同情を寄せたあはれな心が意味以外の調子に能く顯はれてゐる、歌はすべてかくありたい、あはれとも悲いとも云はないで、却て眞情の掩ふべからざるものがある、前の常處女煮手の歌の余韻なきものとは大なる差があるのである、麻績王之を聞き深く感動したといふも誠に然るべきことである。
例に依て古學先生達の解と予の解と大に相違して居るが今は一々反駁はしない。
麻績王|聞之感傷和歌《コノウタヲキカシテカナシミコタヘタマヘルウタ》
〔二四〕 空蝉之、命乎惜美。浪爾所濕、伊良虞能島之、玉藻苅食、
うつせみの命を惜み、浪にひで伊良このしまの玉藻かりはむ、
「うつせみ」は命の枕詞、「浪にひで」は浪にひぢてと同じで浪にひたされ濡れることである、「袖ひづて」のひづと同意である、「玉藻苅食む」は玉もを刈つて食するの意、食ふことを一にはむといふこと誰も知つて居ることである、
全首の意は前の時人の歌に和したのであるから、前の歌の意を受けて解せねばならぬ、如何にも吾は海士ではない王族ともあるものが、命の惜しさに海士のする樣な業をなし衣も浪に漬りなどわびしくも藻を苅り食ふて生きてゐる耻しさよとの意である、時人の同情を聞て身分に顧りみ深く自らの腑甲斐なきを耻ぢたのである、少しも修飾なき眞率な云ひよう最も人の同情を引く、聊かも理窟めきたことを云はず單に命を惜しみてこんなことをして居ると云ふ處、今人の迚ても出來ないことで、誠に上代の人の胸懷がかくも美しかつたかと思はれるのである。これらの歌決して上手な詠みようではないが、能く人を動すの力があるは眞情が溢れて居るからである、
〔四〕
天皇幸于吉野宮時御製歌
天武天皇の御事である、
〔二七〕 淑人乃、良跡吉見而、好常言師、吉野吉見與、良人四來三。
よき人のよしとよく見てよしと言ひし芳野よく見よよき人よく見
「淑人《ヨキヒト》」とは賢人とか貴人とか云ふ如き意である、「よしとよく見て」は茲はよい所とて意をつけてよく見てゞある、こゝの「よし」「よく」など云ふ語は今世に行はれる詞と大差ない、結句「よき人よく見」の「よくみ」矢張よく見よと同意で、今の世氣をつけイ能くみイなど云ふのと同じで氣をつけよよく見よの意である、
全首の意は、昔の賢しき人がよい所とて良く見てそして眞によい所と言ひし此芳野をよく見よ良人よよく見よと結句を繰返したのだ、句毎に「よき」「よく」などいふ詞を入れて綾をとつたのである、四の卷にも「來むちふも來ぬ時あるを來じちふを來むとは待たず來じちふものを」とある同じ作法である、これらの歌を一見すると、只詞の上の洒落に過ぎないように見えるので、時世の縁語を綾とり只管詞の巧を求めた弊害は或はこれらの歌が其因を爲したのではないかと思はれる、これらの歌を淺薄に模倣すれば詞の洒落に陷ることは明かである、さりとて其弊の素因を爲したらうとの推定を以て、此歌の價値を減ずることは出來ない、其弊に陷つたは後世歌人の見識至らなかつた罪と言はねばならぬ。
それで予は此歌の價値を定めむが爲めに、此歌の作者が意を注いだ要點は單に詞の上の巧のみに存じて居らぬことを説かねばならぬ、予はまづ前提として此歌の第一句の淑人と第五句の良人とは全く意義を異にして居つて、淑人は前に言へる如く賢人などをさして云つた詞で、下の良人は天皇の愛し給ふ婦人に對して云へる詞である、今の世坊間に云ふ所のよい人えい人などゝ云ふ詞と同意であらうと思ふ、此時代に情人をよい人と言つたような詞づかひが有つたか否かに就て予は未だ調べがないから例を擧ぐることは出來ないが、此歌の調子に依て予は其然ることを信じて疑はぬのである。
さすれば天皇愛姫を伴ひ給ひて吉野宮に幸した時、姫は吉野へ始めての人であつたらう、そこで天皇が姫に對して、吾愛する人よ吉野はよい處よく見よ吾愛する人よとある程の情緒を、吉野と云ふ詞に綾なしてよく見よよき人よく見よと歌はれたのである、
「よき」「よく」「よき」と同語を繰返し云ふは良き人と云ふ情意を強めんための趣向であつて穴勝に詞の上の綾とのみ見るは間違である、吾〔右◎〕妹子を吾〔右◎〕待居ればとか吾〔右◎〕背子に吾〔右◎〕戀ひ居ればとか、吾〔右◎〕といふ詞を重ね云ふは親みの意を強めんために自然に出でゝくる詞と殆ど同じ意味である、「來じちふを來むとは待たず」の歌も來ぬと云ふ恨みの情意を強く感ぜしめんとする所から來ぬ來じと繰返すのと皆同一筆法である、勿論吉野よく見よの歌は戀愛の歌である、予の解の如く見て始めて性命を得て景情共に動くを覺ゆるのであらう、古義の著者の解の如く第五句の良人が男か女か判らぬ樣な解では、それこそ淺薄な詞の上の洒落と云ふの外なくなる譯である、
以上の如き精神を能く解得して、これらの歌の句法を活用したならば、更に新しき面白き歌が出來るであらうと思ふ、古の歌は自然から巧みに入つてゐるが今の人の歌は巧にして益々自然に遠ざかつてゐる、此所一見相似て大に異なつてゐる所最も注意すべきである。 藤原宮御宇天皇代
持統天皇の御代である、
天皇御製歌
同じく持統天皇の御事である、
〔二八〕 春過而、夏來良之、白妙能、衣乾有、天之香來山、
春すぎてなつきたるらし白たへの衣ほしたりあめのかく山
詞の意義は別に解釋するまでもない、白妙は妙は借字で白布《シロタヘ》のこと白衣の義である、
一首の意も讀む通りで六つかしいことはない、春もいつしか過ぎて夏がきたらしひ天の香具山の里に白い衣などがほしてあるよといふのである、何等の巧みもないが能く自然の状景を寫して誠に感じのよい歌である、句法の整正調子の高朗、慥に萬葉中の優作であらう、猶一つ見のがすことの出來ぬは、此歌の繪がき出せる光景である、一見無造作に平易に詠み下せるようではあるが、作者が天皇であり然かも女帝にましますだけに此歌の光景は更に美觀を加ふるのである、
折節女帝端近に御出ましの時に、藤原の宮よりは東にあたる眞向の香來山に、麓からいくらか上つた程の里などに白衣の干されてあるを見給ふところ、云ふまでもなく此山は此下の御井の歌などに青香來山と歌ふてある位であれば、初夏の青葉の美しきも聯想せられる、青葉の間々に家里も見え衣をほしてある家も見えると云ふ光景、こなたは宮城の一端女帝の立ち給ふ所二三の臣《おみ》の少女もつき從ふさま、何等優美の好畫幅であらう、瞑目して歌境を想像すると眞に神仙境に遊ぶの思ひがするのである、作者はこれ程の景色を顯はすつもりではなかつたらうけれど、作者自らも、自個の作れる歌境中の人となれるは奇と云ふべきだ、勿論第三者の位置から見る故でもあるが、此歌の如く作者其人をまで讀者の想中に畫きうるものは稀であらう、予は先年筑波山に登つた時に、麓から十四五丁上に筑波の町があつて白い壁の倉などが、遠くから見えたのを、「衣ほしたり天の香來山」と歌へるもこいふ有樣の光景であつたらうなどゝ思つたのである。
高市連黒人感傷近江舊堵作歌《タケチノムラジクロヒトカナシミアフミノミヤコノアレタルヲヨメルウタ》
近江の奮堵とは天智天皇の都大津の宮の跡を云ふのである、
〔三二〕古、人爾和禮有哉、樂浪乃、故京乎、見者悲寸、
いにしへの人にわれあれやさゝ波のふるきみやこを見れは悲しき
「いにしへの人にわれあれや」は自分は古人であるかしらむといふ意、「ささ波」は地名で近江の志賀の郡あたり一體の地を古來狹々波と稱したのである、後世|細波《サヽナミ》と誤解し、大津や志賀の枕詞かのように使へるは全くの間違である、
一首の意は大津の宮の荒れた跡を見れば何となふ悲しひ さては自分は古人であるかしらむ、大津の宮に縁りなき自分がこのように悲しひは怪ひといふ程の意で、つまり歌の趣向上からわざとさういふたのである、懷古の詩や歌は澤山あるが、自分を昔の人であるか知らむと云つた樣なことはない、何でもないことであるが一寸巧みな云ひ方だ、單純な事を歌にしようと云ふ樣な場合には、此の如き働きが甚だ必要である。
〔三三〕 樂浪乃、國都美神乃、浦佐備而、荒有京、見者悲毛、
ささ波の國つみ神のうらさびて荒たる京見れば悲しも
「ささなみの國つみ神」はささ波の地を守護する御神と云ふこと、今の縣社とか御社と云ふのと相同じことであらう、しかし茲では社があつてのことではなく主觀的に此土地をうしはきいます神と云ふのである、「うらさびて」は「うら」は心といふ意「さび」はすさぶ即荒ぶことである、翁さび少女さび山さび神さびなどの「さび」とは語原は通ふてゐるであらうけれど、茲はそれとは少し違ひ「さびれる」で衰へるような意と解するがよいのである、土地の守護神も守護の心がさびれ衰へてといふ程の意、
一首の意は左々波の國土守護神も守護の御心さびれて此の樣に荒てある京を見れば嗚呼悲しひと嘆息したのである、此歌も作者の趣向で、「國つみ神のうらさびて」と云へるは作者がさう感じた主觀で、現在の眼には只敗都のさまを見たのである、前の歌も此歌も情意は同じである、單に作者の働きで趣向を換へ言ひ樣を異にしたまでゝ、予は此作者の手腕に敬服するのである、前の歌結句悲しきと云へるは第二句のわれあれやに返へる意味がある、此歌の結句悲しも〔右◎〕は悲しでとまつた詞で「も〔右◎〕」の嘆息語を添えたのだ「も」は此場合「かも」と同意である、
幸紀伊國時、川島皇子御作歌
此幸とあるは持統天皇のこと、川島皇子は天智天皇の皇子である、此歌註に或云山上臣憶良作とあるが憶良の歌の調子でない樣である。
〔三四〕 白浪乃、濱松之枝乃、手向草、幾代左右二賀、年乃經去良武、
白浪の濱松か枝の手むけくさいく代まてにか年のへぬらむ
白浪の濱とは一つの成語で、白菅の眞野、炎乃春《カキロヒノハル》、などゝ同格、白菅の生ふる眞野、炎のもゆる春と云ふより起つた語である、手向草とは何によらず神に奉つるもので、上古は旅などに必ず道々山に海に手向をして安全を祈つたものである、茲では松にかけてある故に松之枝の手向草と云ふのだ、
一首の意は、此濱松が枝の手向草は幾代と云ふまでに年の經しものであらうかとの意であるけれど、單にこれだけの意味では、此歌は少し解らぬのだ、旅の先などで苟且にすると云ふ樣な手向草其物が、幾代年を經るなど云ふべき筈がない、例の古學者達は文字の通りに解釋して濟して居るが、讀んだ通では通ぜぬ歌である、それで予の考へは、此手向草と云ふ一句を叙事的に見るのである、手向草と云ふ一個の物でなく手向草をする一つの人事と解するのだ、そして此歌主要點は實は松にあるのである、
さすればこういふことに解せられる、濱に添ふた道で通常な位置に一本か二本古い松がある、往來する旅人など必ず茲に手向草をかけてゆくから、此松には絶えず手向草が澤山かゝつてある、といふ樣を皇子が御覧になつた、御自分も手向をされたであらう、處も位置がよく松の有樣も人の注意を引くので、かく往來の人が必ず手向草をかけてゆく、此手向をすることが幾代までに年の經たことであらうかとの意味を歌はれたに相違ない、
此歌の詞續きで右樣の解釋を下すは無理であらうと云ふ疑が起るかも知れぬ、併し予は韻文である歌の解釋はそれで差支ないと信ずる、小六つかしい文法などには合はないであらうが、達意を目的とした文法を趣味を主とせる韻文に當てむとするは愚の至りであると信じて居る予は此歌を却て面白く感ずるのだ、兎に角歌人許りでない韻文家の注意に價する歌である。
〔五〕
越勢能山時。阿閇皇女御作歌
皇女は天智天皇の第四女、文武天皇の御生母で文武天皇崩御の後御即位あつた即元明天皇の御ことである。
〔三五〕 此也是。倭爾四手者。我戀流。木路爾有云。名二負勢能山。
これやこの大和にしては我戀ふる紀路にありちふ名におふ背の山
「これやこの」は是や彼のと云ふ意、「かの」といふべきことを「この」と言ふ例はいくらもある、それで「これや」は背の山を見てさし云へる詞である。「大和にしては」は大和にありてはと云ふ程の意、「紀路にありちふ」紀伊の國にありと云ふと云ふことなり、「ちふ」はといふと同意の古語中世にてふと云ふも同じ「名におふ背の山」は今世の詞と同じで名高い其背の山と云ふ意である。
全首の意は、これが彼の大和にて我常に戀しく思つてゐる、紀の國にありと云つて名高い其背の山かと嘆息せられたのである、さて此皇女が何故に背の山を戀しく思はれたかと云ふことを知るには、皇女の御身上の歴史を知らねばならぬ、皇女は文武天皇の御生母で、天武天皇の皇太子日並知皇子尊の妃である、未だ御年若きに夫《オツト》皇太子日並知皇子がおかくれあつたので、此時寡居の御身の上であるから、常々背の君の背といふ名のある山を、おのづから戀しく思はれたのであらう、これはさもありさうなことである、さういふ名の山が紀路にありとつね/”\何となし戀ひ思へる山を、今其紀路に來て、これが背の山ぞと御供の人などより聞れて、ひたすら亡き人を戀ふるあまりに、背と云ふ名におへる山をまで何となくなづかしく思はれて居た、其紀路の背の山とはあはれこれかやとの意で、餘音限りなく情の籠つた如何にも女子の歌らしひ可憐な歌である、此歌の中の「我戀ふる」と云ふ一句古學者達は皆背の君を戀ふる直接の意に解しあるは大なる誤である、茲では背と云ふ名に依つて其山を戀しく思はれたのであるから、我戀ふるの詞は背の山に對しての詞であるは勿論である、其戀想が直接の叙情でない所に却て此歌の妙味を感ずるのだ、餘情無限の感じがあるのも打つけでなく露骨でないためである、何故に山を戀ふるかと云へば、背の君を思ふの極 背と云ふ名をなつかしく思ひ其名をなつかしく思つては山其物を戀ふたのである、それで背と云ふ名の山を戀ふと云ふ所に背の君を思ふの情が溢れてゐるのである。
これやこのと直ちに浮むだ感想を其儘言ひ出でた所に最も天眞を見るのである、此歌は一見した所甚だ巧みな詠みやうに見ゆるが其實思想發動の序順は極めて自然で少しも無理のない言ひ樣である、多くの解者は矢張り一樣に詞使ひの巧みな歌の如くのみ見てゐるので、少しも此歌の眞趣を解得ない、
幸于伊勢國時歌
これは持統天皇伊勢に行幸の時人丸は都にあつて從駕の情人などを思ひて作つた歌である。
〔四〇〕 嗚呼兒之浦爾。船乘爲良武。※[女+感]嬬等之。珠裳乃須十二。四寶三都良武香。
あこの浦に船のりすらむをとめらが玉裳の裾にしほみつらむか
上三句は詞の解を要せぬ、「玉裳の裾に」は玉は美稱の詞で美しい裳の裾といふことである、裳は今日で云へば袴にあたる服裝で、胴より上につけるものを衣と云ひ胴より以下につけるものを裳と云ふのである、和名でそれを「も」といふらしい。今日にはない服裝だ、赤裳裾引くなど云ふのは殆ど今の緋の袴の如きものであらう、併し裳と袴との差別は詳らかに知ることが出來ぬ、兎に角腰以下に着した服であるは間違ない。
歌の一通りの意は伊勢のあこの浦に船乘などするらむ少女らが其美しい玉裳の裾も潮にぬれしほたれてゐるならんと云ふだけで人丸が都に居て伊勢の從駕の人の上を推測したのである。併しそれだけの解釋では此歌の眞意味は判らぬ、面白からうと思ふて詠んだか、つらいことであらうと思つて詠んだのか作者の心が更らに判然せぬ、勿論古來の解者は兩樣に解してゐる、歌の上に面白からうと云ふか樂しからうと云ふか、又は悲しからうと云ふかつらからうと云ふかの感じが判らねば文學として價値はないのである、此歌はそんな價値のないものであらうか、否々決してさうではない、一見判らぬは前後を想像して考へぬからであつて、能く考へて見ると決して解らぬ歌でもなく、美しひ可憐な光景と美しひ戀情とを含んでゐる歌である、大體の心は屡船などに御供して汐風の浪のしぶきに臣の少女の中にも相思ふ人などは美しひ裳の裾に潮がみちてさだめてわびしく苦しひことであらう、あはれなさまが眼に見えるやうぢやといふ如き意で痛く情人を憐れがつた歌である、潮みつらむかの一句に充分わびしい感じが見えてゐる、
女帝の御遊幸に供奉して景色のよい濱邊などに船遊をして居るならば面白く樂くありさうなものを何故にわびしからう苦しからうと推測するのであるかと云ふは、此歌に對する一つの疑問であるが、これも人丸の位置を思ふて見ると直ぐに判ることである、六位か七位の舍人の情人であれば、矢張それ相當の位置の女子であらう、それは高位の女官などには随分珍らしく面白い供奉であらうけれど、賤しき位置の女房などにては、長き間邊鄙の地に御供して居ることは面白いこと許りはあるまい、殊に次の歌にある如く此御遊幸は隨分と長かつたらしく、露骨に云へば上の人々は兎に角賤しき女房などには長い間の供奉は隨分わびしからんとの心に戀の意味が含まれ可憐な少女の姿も眼に浮んで居るのである。「をとめらが」といふ「ら」の字は必ずしも多くの人をさした場合に限らぬ、一人の人に對しても「ら」と云ふは此時代の詞である、それで人丸の此歌も供奉の女房達多くに對しての歌ではない、吾情人一人に對しての歌と解するがよいのである、誠に穩かな叙事の間に深き思が包まれて品格のよい歌である。
〔四一〕 釵著。手節乃崎二。今毛可母。大宮人之。玉藻苅良武。
くしろまく手ぶしの崎に今もかも大宮人の玉藻かるらむ
「くしろまく」はくしろつくと讀むでも惡いことはなからうが古義の鹿持は卷くと云ふが例に協つてゐると云ふてゐるがよいやうである。釧は今の世に云ふ腕環の如きものならむ、古代の服飾品で手に卷いたものらしひ、茲では手に卷くと云ふ意味から、手節の崎の手にかゝつた枕詞である、「今もかも」は別に意味はないけれど今もかもと嘆息した所にまだ居るのか知らんと云ふやうな意が含まれて長いこと哉との心があるのである、玉藻は例の美稱で藻に對しては能く云ふ詞である、玉藻苅ると云ふは船遊びなどをしてゐるを形容して云つたのである、
全首の意は手節の崎に今もまだ大宮人の玉藻を苅つて遊んで居るのかさても氣の長い人々かなとの意であるが、此歌も只一通り表面の詞の意味だけでは妙味が充分でない、前の歌と次の歌と相關連してゐる歌であるから、能く前後の歌の情意を參酌して見ねばならぬ、
人丸の當時の心持は一つには情人が長い間の供奉の苦をあはれがり一つには情人の歸を待遠しがり、早く歸つてくれゝばよいが、どうしてこんなに長く歸らぬのか知らと云ふやうなもどかしさの意味が充分にあるのである、そこで、此歌も裏面に情人を待焦れてゐる情味が含まれてあるのである、今でも手節の崎に大宮人は心長く船遊をやつて居るのか、さても待遠しいことや、いつになつたら還幸があつて、思ふ人の歸へらるゝことにやとの意味が言外にあるのである、「大宮人之」此「之」の一字如何に働いてゐるかに注意せよ、「大宮人は〔右○〕」と云へば大宮人を主とさして言へることになる「大宮人の〔右○〕」と言ふたので全く大宮人を余所に言ふた情味が充分に顯はれて居る、さすがに人丸である能く一字の働に依て極めて細微な感じを叙し得て居る、艶曲温柔少しも圭角なき詞の中に限りなき情趣が動いてゐる、如此作意は人丸にして始めて能すべきことで又實情に於て始めてなし得べきことだ、無量無限の蘊蓄ある大歌聖の面目を窺ふに足るものがある。
〔四二〕 潮左爲二。五十等兒乃島邊。榜船荷。妹乘良六鹿。荒島回乎。
しほさゐに伊良兒の島邊こぐ船に妹乘るらむか荒き島みを
「しほさゐに」は古義に潮のさはぐと云ふなるべしとある、潮の出花に海の鳴ることある時などの事であらう、「荒らき島回を」海の荒き島の周圍を云ふこと、島回を「シマワ」と讀める本もあるやうぢやが、十七卷に之麻未《シマミ》五卷に久麻尾《クマミ》などあるを見れば、すべて何々回とある所は「ミ」と讀むこと穩當なやうである。
全首の意も詞の上では明かである、潮の頃合に伊良兒の島べを漕ぐ船に吾情人も乘るのであらう海の荒い島のめぐりを乘るのか知らむ年若き女などには隨分とわびしいのであらうといふ程の意で、先の潮みつらんかの歌と同情同趣の歌である、此歌を見ると人丸が其情人である供奉の女の苦艱をあはれがつて詠めることが判然として居るのである、大宮人の乘るほどの船であればたとへ荒き島のめぐりを漕いだ所がそれはど恐しく悲しいこともあるまじきなれど、前にも言へる如く人丸の情人である女房は貴き人でない故、外まはりなど立働くの苦境を思ひやつた歌であること明かである、かく其苦境をあはれがる所には歸るを待ちわぶる心が言外に響いてゐるのである、荒き島回をの一句最も情の切なるを感ずるのである、今の人であるならば、か弱き女の身にて荒き島べを漕ぎめぐるはいかにわびしかるらむなどあからさまに言ふ所なれど、人丸ともある歌聖はそんな淺薄な云ひやうはしない、妹が乘るらんか荒き島回をと云つて説明臭い事は少しも云はぬ、餘情限りなきものあるのも此邊の用意に依るのである、人丸の歌を見るもの殊に注意を要すべきぢや。
尤も以上三首の歌は御遊幸の供奉をしてゐる女に對しての歌であるから、殊に露骨を忌むの傾きあるは勿論であれど、大君の御供であるから苦しいなど思ふべきでないとか、女帝の御遊幸に供奉しての舟遊びなど必ず面白いに違ひないとか、云ふ如き淺薄な形式思想や小理窟などに拘泥せず、天眞の誠情を歌ふてゐるのである、これでなければ人を動すことは出來ぬ、眞の歌とも云へぬ。要するに此三首の歌は相關連して見ねばならぬ歌で今日の所謂連作の一種である、連作の歌と云ふものが如何に連想を助けて趣味を深くするかを察すべきである。
明治37年2月・5月・7月・8月・11月『馬醉木』
署名 伊藤左千夫
萬葉集短歌私考
〔六〕
予は改題の理由を説明せねばならぬ、予は始は萬葉集を成るべく一般人にまで解せしめんと思つたのである、稍歩を進めて見るに及び、迚てもさういふ事の出來ないことを覺つた、且つ予が作家の見地よりの講評は、到底通解的のやり方とは云はれない、そこで予は通解の名を私考と改題し縱横に予の考を述ぶる積である、
〔四三〕 吾勢枯波、何所行良武、己津物、隱乃山乎、今日香越等六、
吾背子はいづくゆくらむおきつものなばりの山をけふか越らむ
第一句第二句の詞は解に及ばぬ、「おきつもの」は奥津藻之といふ説よし、即水底の藻草の意である、古は水の底も「おき」と云へるのである、隱乃山のなばりの詞に就いた枕詞ぢや、伊賀の國名張の郡にある山といふ説よろし、古語隱れて居ることを、「なばり」又は「なまり」て居ると云ふたらしひ、十六卷に、難波乃小江爾廬作難麻理弖居葦河爾乎《ナニハノヲエニイホツクリナマリテヲルアシカニヲ》云々、これ其證である、第五句は今日越ゆらむかで、けふ越えなさるか知らむとの意。
これは當麻眞人《タギマノマヒト》といふ人が行幸の供奉をして伊勢へ行かれた時に、妻なる人が家に在りて夫の君の旅の樣を思ひやつて詠まれた歌である、吾夫の君はいづくを行きつゝあるか知らむ名張の山を今日越しなさるか知らむ、日取から思ふと今日あたり名張にかゝる頃ぢやがと深く夫を案じて詠める歌である、一通の意味はさうであれど、予は以上の如き詞の表面だけの解ばかりでは滿足が出來ない、此歌は萬葉集中にもよい歌として多くの人に知られてゐる歌であるが、皆よい加減の解許りだ、折骨優れた歌を見たならば、少しく精密な注意を以て見て貰いたいのである、此歌の作者はどういふ動機から此歌を詠まれたか、何故に推想して云ふのに「今日〔二字右○〕」と判然いふたか、かく疑問を起してくると、此歌は詞の表面だけに依て見ると如何にも漠然として居るやうに思はれる、古來多くの歌學者などと云ふものは極めて推想力の乏しひものであるから、何れの歌も充分には解し得て居ない、
そこで予の考はこうである、此歌に就ては「今日か越らん〔六字右○〕」の此今日〔二字右○〕といふ詞を最もよく注意して見ねばならぬ、此歌の『今日』は「今日頃」「今日あたり」と云ふやうな弱い意味ではなく、「此日」「こんな日」といふやうに判然と云ふ時の詞と見ねばならぬ、そこで其今日と作者の叫だ日はどんな日であつたかといふことを推想せねばならぬ、こう考へてくると、今日と云つた其日は、必ず作者なる留守居の妻女に在外の夫を殊に深く案じさせた日であるといふことになる、これは決して無理な推想ではない、其詞つきを能く注意して見れば解ることである、此時の行幸は三月とあるから、時に依てはまだ寒いこともある、嵐でもあつたか、雨まじりに雪といふやうな惡い日でゞもあつたか、此の如き場合に女の情として殊に人を案ずるやうな事は有勝の事ぢや、況してや夫を旅にやつて家を守る女にありては、天氣の惡いに就け殊に夫を想ふは自然の情である、要するに此歌を只漠然と、名張の山を今日あたり越ゆるかしらんといふやうな余所々々しひ意味に解するは自然の情を得ないと云はねばならぬ、さればあア惡るい日になつた今時分どの邊を行きつゝあるか 丁度山にかゝる日取だが此惡い日に名張の山を越えるのかしらむ、と解するがよいのであらう、今日かの一句最も力あるを思ふべしぢや、つまる所解らぬことはないが詞書のあつてほしひ歌である。
着想が自然であれば詞も自然に調ふてゐる、落着いた調子にやさしみが見えて云ふまでもなく感じのよい歌である、
〔四四〕 吾妹子乎、去來見乃山乎、高三香裳、日本能不所見、國遠見可聞、
わきもこをいざみの山を高みかもやまとの見えぬ國遠みかも
わきもこは吾妹子《ワガイモコ》で「ガイ」の切「ギ」となる 子と云へるは親みて云ふ詞である、吾背子の子も同じである、こゝにてはいざ見の詞に就いた枕詞ぢや、吾妹子をいざ見むと意をつゞけたのである、いざみの山は伊勢國にあるとのこと、佐見の山と云ふ説といざみの山との説と二つあれど判然せぬ、佐見の山ならば「イ」は發語である、何れにしても伊勢の國にある山に相違ない、此吾妹子をいざ見とつゞいた詞は枕詞には相違ないが、妻を見たいとの意味も併せ含めてあるは勿論である、此集中には此の如き意味の枕詞が能く使つてある、
一首の詞の心は妻があたりを見たさに眺めて見るが、佐見の山の高い故か、大和は見えない 蓋しは國の遠い故かとの意で、佐見の山の高いためか國の遠いためか戀しひ人の居る大和は見えないと云ふに過ぎぬのである、これは石上大臣といふ人が行幸の供奉にあつて詠むだものぢや、此歌も矢張只詞の上で見た許りでは取止めがつかない、伊勢の國から大和の見えないは極り切つた事である、之れを詞の通りに眞面目に解釋したらば實に愚な歌であるが、作者の作意はそういふ眞面目な意味を以ていふたのではあるまい、如何に詞の綾を弄ぶとて、山の高い故か國の遠い故か大和が見えないなどとそむな愚なことを眞面目に云ふ譯がない、
予の考へでは、これは洒落の歌で人にからかつて作つたものと思ふ、此時代で行幸に供奉すると云ふ事頗る苦かつたものと見え、從駕の時の歌といふもの澤山あるが、皆同じ樣にわびしひことや家戀ひしい妻戀ひしいを云ふてゐる、それで此石上大臣などは大臣ともある位であるから、苦しひといふ程の事もなく不自由なこともなかつたらうが、之れ以下の人々では皆例の通り、妻戀ひしい家戀ひしいの泣言が盛であつたに違ひない、山へ登つて妹があたりを眺めては歌などひねくつた數寄者もあつたろう、洒落な大臣どのそんな話を聞かれて、早速一首出來たがどうぢやとか何とかいふて、からかはれた歌が即、吾妹子をいざ見の山をの作であらう、おれも吾妹見たさに堪えられないで毎日眺めるが、佐美の山は高いし國は遠いしどうも大和は見えむよなどゝ笑はれたのであるらしひ、國遠みかもなどゝ眞面目くさつて云ふてる所になか/\をかしみがあるのである、
とりとめのないことを如何にも調子面白く眞面目なおももちでやつてのけた所、滑稽歌の上乘と云ふべしぢや、此前の名張の山の歌といひ此歌といひ内容の趣味は別として其音調の面白味實に何とも云へない趣がある、是等の歌から見ると今世人の歌の音調の蕪雜なる情ない有樣と云はねばならぬ、内容の趣味優れて居つても、音調が整はなければ、從令へば繪畫の圖案がよくとも彩色の惡いのと同じく、觀者にそれほどの趣味感を與へることが出來ぬのである、歌人は必ず此消息を悟つて居らねばならぬ、
從明日香宮、遷居藤原宮之後、志貴皇子御作歌
明日香宮は天武天皇の皇居で持統天皇も引績き此宮に在らせられ後藤原の地に宮營あつて御遷りになつたのである、志貴皇子は天智天皇の皇子で持統天皇とも御兄弟である、
〔五一〕 ※[女+采]女乃、袖吹反、明日香風、京都乎遠見、無用爾布久、
たわやめの袖吹きかへすあすか風みやこを遠みいたづらに吹く
※[女+采]女は※[女+委]の誤りといふ説よろし、一説には※[女+采]は媛の誤寫にて「ヲトメ」と讀むべしとあれど、予は手弱女説をとる、明日香風は明日香に吹く風といふ意、外にも伊香保風佐保風などあり皆同じ心である、
全首の意は、明日香の地に都があれは貴人の袖を吹き返す其明日香の風も今は都に遠くなつて吹きがひもなくいたづらに吹いて居るといふ程の意である、帝城をとり去つた明日香の地の淋しくなつた光景を巧に云ひ顯はして居る、都がなくなつて貴人も居なくなる、從て手弱女の途上風に吹かれて逍遙する美觀も見られなくなつたといふ趣、遺憾なく寫し出された何とも云ひやうない巧妙な歌である、要するに多くの官人は、皆宮遷と共に藤原に移つたけれども志貴皇子は暫く明日香の地に居られたのであらう、そこで何となし明日香の地に同情をよせ、呼嗚明日香も淋しくなつた春風も吹きがひなく空しく吹いてゐるはと嘆息されたのである、舊都の荒寥を歌つた詩歌大抵は哀怨の音調を帶びてゐるが、此歌にはそれが少しもないは最も※[口+喜]しひ、
袖吹きかへせる〔四字右○〕と云へば過去になつて説明になるのである、それを手弱女の袖吹きかへす〔三字右○〕明日香風と現實的に寫した此作者の手腕驚くべき者がある、上三句は風と美人と配合して都でありし時の明日香の美觀を叙して三句四句に至つて今の明日香即都でなくなつた明日香の靜に淋しくなつた樣を繪がいたのであるが、僅々三十一文字にして然かも苦もなく、是だけの感じを顯はしたと云ふは不思議と思ふ程である、つまり捕へ所がよいのであらう、正面から明日香の寂寥を寫さず美人の袖を吹く風をかりて側面から間接に明日香の變化を叙した所がうまいのである、詩作家の最も大なる注意を以て見るべき歌である。
太上天皇、幸于難波宮時歌
太上天皇とは持統天皇位を文武天皇に讓らせ給ひて後の尊號である、太上天皇の始めぢや、〔六六〕 大伴乃、高師能濱乃、松之根乎、枕宿杼、家之所偲由、
おほともの高師のはまの松かねをまきてぬる夜は家ししぬばゆ
大伴乃は高師の枕詞である、大伴氏の代々武勇の譽れある家柄であるから、大伴のたけし〔三字右・〕と云ふ意にて高師の枕詞になつたのぢや、高師之濱は和泉の國に高石村といふ所ありそこなるべしとの事、「まきてぬる夜」は枕にしてねる夜はである、「家ししぬばゆ」國元の家が思ひ出されて戀しひとの意、偲《シヌブ》といふ語意此時代には思ふといふことにも戀ふといふことにも思ひ出すといふことにも使はれてある、
全首の意は詞の通で解つてゐるが、行幸の供奉で露宿の警護、海風に波の音などする濱邊の松を枕にねる夜などはたまらなく家が戀しひとの作意であるが、少し解らぬ所のある歌ぢや、松が根を枕に海邊に露宿をするといふやうな場合ならば、高師の濱に限らぬ譯ぢや、此歌の詞つきで見ると外ではさうでもなかつたが高師の濱の松が根をまいてねた時はひどく家が戀しひといふやうに聞えるのである、なぜ高師の濱にねた時は殊に家が戀ひしいか、高師の濱に極つたやうに云へるが解らぬのである、つまり高師といふ地名の詞が働き過ぎたのであらう、「波風の荒き濱邊の松が根を」などゝ云はゞよいのかと思ふ、併し別の方面から考へて見ると、作者置始東人《オキソメノアヅマヒト》自身に何か歴史的の關係でもあつて、外ではさうでもないが此高師の濱の松の下に居ると、殊に家が戀ひしくてならぬといふやうな譯があるのかも知れぬ、さうみれば高師の濱といふ詞が働かねばならぬのであるが、此歌を以上の如く見ての解釋は余り推想に過ぐるの感がある、詞書があつたらばと思ふ歌である、併調子の上には一寸注意すべき點がある、上二句には「の」文字が三字まであつて一本調子に讀下し下三句には「の」文字一字もなく屈節して居る 從て尻に重みがある、全體に緊りがあつて何となく据りのよいは、それが爲めであらう、予は平生此「の」の字の使ひ方に倔托する僻があるので、此歌に就て聊か注意を引いた譯である。
〔七〕
〔六七〕 旅爾之而、物戀之伎乃〔右◎〕、鳴事毛〔右◎〕、不所聞有世者、孤悲而死萬思、
此歌は疑問のある歌である、古義は、第二句を物戀之伎爾〔右◎〕とよみ第三句を家〔右◎〕事毛とよみて、
旅にして物こほしきに家ごとも聞えざりせば戀ひて死なまし
となつて居る、他は多く字の通によみて、第二句の「之伎乃」を鷸《シギ》のとなし從て第三句は「鳴くことも」としてある、併し此歌のさまにては「鷸の鳴くことも」と見ては解しようがない、其誤字あることは勿論であらう、さりとて全然古義の通りであらうとも信じ難い、古義は、三卷の歌に客爲而物戀數爾山下赤乃曾保船奥榜所見《タビニシテモノコホシキニヤマシタノアケノソボフネオキニコグミユ》、二十卷の歌に伊倍加是波比爾比爾布氣等和伎母古賀伊倍其登母遲弖久流比等母奈之《イヘカゼハヒニヒニフケドワキモコガイヘコトモチテクルヒトモナシ》などの歌に依て證して居れど、猶不審を感じない譯にはゆかぬ、第二句の「之伎乃」が鷸で無いは勿論であれど「乃」の字が果して「爾」の誤であるか否かは判らぬ、要するに此歌で疑問になるは第三句の「鳴」の字である 古義の如く、「家事毛」と訓たいが、之れに相違なからうとも思へぬ、假りに古義の如く訓みて解するならば、
旅にあつて何となく物こひしく家のことなど思はれてならぬのにその上家からのたよりでもなかつたらば、いよ/\たまらなく戀死してしまうのであらうとの意である、其詞以外には、それが戀死もせず命のたすかつてゐるも全く※[口+喜]しい家のたよりのためであると、其家からの消息を非常に喜んだ意味を含み居るのである、一通りはこれで解つて居る樣であるが、猶よく吟味して見ると、結句「戀て死なまし」の句が非常に強い意であるに上四句が割合に弱い、戀ひて死ましと感じた動因が上四句の内に充分顯はれて居らぬ作者の心持が判然せぬならば、却て疑も起らぬ譯であるが、此歌は兎に角に詞に判らぬ所があつても、歌全躰の意味は畧解し得るので、今少し面白い詞であつたのぢやないかと思はれるのである、
現に今も戰地にある人は郷里の消息が最も樂しひとは事實である、此歌も其心持を咏めるに相違ない、新しき妻など置いてある人は殊に家の消息に深き樂みを感ずるのであらう、此歌なども結句に戀て死ましとまで云へるは決して尋常の家思ひではない、されば此歌の作者の衷情を推測して見れば、苦しい長の旅でもう/\家が戀しくなつて堪らぬ、妻戀しひの思で殆ど死にさうである、そこへ家の消息が來るばかりで僅に命が助かる、※[口+喜]しき人のたより、其たよりを見た計りでも命の生きかへるほどに戀しき人よ、今の吾心を察してよとの切なる思であらう、それを詞の上に、反對に述べて、家の※[口+喜]しい消息でもないならば迚ても切な思ひに堪えられないで戀死に死ぬのであらう、といふのぢや、故に此心を歌に咏むならば、家戀ひしの堪がたく切なる點を尤も強く顯はさねばならぬ、さうでなくは、戀ひて死ましの詞が一向きかぬのぢや、されば古義の訓解でも少しく滿足が出來ぬのである、つまる所旅が苦いために一層妻思ひに堪えられぬ、御身が戀しひ御身の消息許で命が助つて居るとの歌意に相違ないが、以上の詞ではそれだけの情趣が充分には顯れて居らぬといふに過ぎない、萬葉の作家とて皆々上手とも限らぬから、或は從來の訓が眞か古義の訓が眞か固より確言は出來ない 只誤字があつたとすれば種々な考も浮ぶ譯である。
〔六八〕 大伴乃、美津能濱爾有、忘貝、家爾有妹乎、忘而念哉、
おほとものみ津の濱なる忘れ貝家なる妹を忘れて思へや
「大伴の」はみ津の濱の「みつ」にかゝる枕詞である、み津の濱は諸書に難波の三津とあつて攝津の國にある古の名所、「忘貝」は三津の濱にある忘貝と呼びかけて結句の忘れて思へやの「忘れ」と云ふ詞へ音調の上にかゝつた叙詞ぢや、集中例多き序歌の態である、
歌の心は、第三句迄は序で意義はない、家にある妻を決して忘れて居りはせぬ、忘れてゐる所ぢやない、戀ひ思つて居るのぢやといふのである、詞の上の意味はそれだけであれど、此歌の作られた情因を考へて見ると例に依て興味がある、予は前にも云ふて置いたが、此時代に聖駕の供奉は身分低き人などには余程若しかつたと思はれる、人が律義であるだけに殊に苦痛であつたらうと信ずる、これまでの歌に見ても身分低き人の歌は皆痛切な情を叙してある、前の戀ひて死なましの歌などもさうである、作者未詳或云高安大島と傳の判らぬは卑しき人であるは知れて居る、妻なる人も充分夫の慘苦を察して慰藉の消息をしたことが前解の歌に依て知れるであらう、此忘貝の歌は全く其反對である、卑官のものゝ辛苦はなくて、諸王諸大臣などは滯留の地にて夫々女を召したものらしひ、次の長皇子と清江娘子などに見ても判る、此歌主身人部王なども、矢張女を召したらしく旅にして物戀しきになどといふ方ではない、前の戀ひて死なましの歌とは反對に家なる妻女からの消息には多少の厭味も云ふてあらう、そちらで美しひ人があれば余り御不自由もあるまじ、こなたは一人さびしく御歸りの程を待ちこがれてなどゝ、必ず云ふてきたらう、此身人部王の歌は即それに答へた歌である、家なる妹といふ詞の反面には外に女のあることが充分に見えて居る、
此三津の濱に忘貝があるが吾は決して御身を忘れて居りはせぬ、故に假の契りはあつても家なる人を忘れるやうな自分ではない、苟且にもそんなこといふてくれるな、御身にさういはれると吾は一層物悲しくなつてならぬ、
かういふ意味の歌である、單に詞の上で見ると實情の乏しひ感じもするが、其調子の哀々たる、如何にも物悲しく思つて云ふた詞らしく見える、今世人の得手勝手なことをしながら、程よく妻女を欺き表面を繕ふものとは、殆ど根本を異にして居る、眞に本氣になつて寧ろ泣顔をして妻女の誤解を云ひとかんとせる趣が能く一首の調子の上に顯はれて居る、意味はそれほど働いて居らぬが、調子の上にそれが見える、決して心浮いて居る人の歌でない、萬葉集の歌の最も味ふべき點である、此歌も別によい歌とは云へないが注意すべき價のある歌である、三津の濱なる〔二字右○〕と云ひ又家なる〔二字右○〕妹と云ひ一首の中に同語二つある、調子に締りがない、併しながら眞情流露した歌には其取整はぬ所に味ふべき點の存することを注意せねばならぬ、今の人は只々詞調の整はんことにのみ力を入れて此眞情の溢るゝ自然の發動をおろそかにして居る、俳人などには到底解せしむることの出來ぬことである、
〔六九〕 草枕、客去君跡、知麻世婆、岸之埴布爾、仁寶播散麻思乎、
草枕旅ゆく君と知らませば岸の埴生ににほはさましを
第一句二句三句とも詞の解を要せぬ、「岸の埴生」とは歌の作者が住吉の人であるから即住吉の岸で、埴は土黄にして細密なるを云ふとある、染料になる土であらう、今日の世にも土にて物を染むることは聞く所で、住吉の埴生とは當時名高き物らしひ、埴の下に生といへるは茅生粟生豆生などの同種の用語只埴といふと同じ意である、六卷に白浪之千重來緑流住吉能岸乃黄土粉二々寶比天由香名《シラナミノチヘニキヨスルスミノエノキシノハニフニニホヒテユカナ》、馬之歩押止駐余住吉之岸乃黄土爾保比而將去《ウマノアユミオシテトヽメヨスミノエノキシノハニフニニホヒテユカン》などある歌にて住吉の黄土といふものを知れ、「にほはさましを」は色をつけて染めましものをである、今の詞は「にほふ」を香に云ふが古は色に云ふたのである、勿論色にいふ「にほはす」は今の染物とは少し違ふてほんのり色のつく位をいふのであらう、
歌全首の意は、今旅立し給ふ君と知つたならば、住吉の名高き黄土に御衣をにほはして差上げたかつたものを、只別れてしまうは何となく飽かぬ心地に殘惜しいとの意である、
此歌長皇子が供奉の先で召した娘子の歌ゆへ、皇子の方からは都に還るのである、然るに草枕旅ゆく君と歌つたは、詞藻の働き余程面白い詠振りである、もうお歸りになるならばとの心を如斯綾なして云ふたは手柄である、作詩家は此用意がなければならぬ、下の二句只黄土生ににほはさましをと云ふて、何をにほはすとも誰のをにほはすとも云はず、云ひ足らぬようぢやが、さて一讀すればそれは皇子の衣をにほはさんとの心であることが解る、頗る働いた詞の使方である、實際でなければ詠めない歌で、女でなければ思ひつかぬ趣向である、
併し此時代に、衣を黄土ににほはすといふこと實際如何なることをせるものにや、「にほはしゆかむ旅のしるしに」などいふ所を見ると衣全體を染めるのではなく袖や袂の一端を色に摺るにやとも思はれる、さういふことが一般の風習であつたらしひ、此娘子の歌なども其時の風習がよくわからねば、ほんとうの趣味は解らぬ、
〔八〕
大寶元年辛丑。太上天皇幸于吉野宮時歌。
大寶元年は文武天皇即位五年にあたる年で、太上天皇とは持統天皇の御事である、
〔七〇〕 倭爾者、鳴而歟來良武、呼兒鳥、象乃中山、呼曾越奈流、
やまとには鳴きてかくらむ呼ぶことりきさのなか山呼びぞこゆなる
此歌詞には解らぬ所はない、きさの中山は所の名で藤原の都より吉野の蜻蛉宮にゆく途中であらう、吉野も大和である、藤原も大和であるに、こゝに殊に「やまとには」と云へるは外より都をさしていふ時に多くは「やまと」と云ふた當時の風習であるらしひ、格別の意味はなく只都にはといふのと殆ど同じである、交通極めて不便なる時代には少し遠方へ出れば、直ぐ國外へ出でし如く思ふので、自然詞つかひも余所國に居つて都を思ふ如くに出づるものらしひ、感じの通りに詞に顯はれるのが却て趣味深いのぢや、そこで此「やまとには〔二字右○〕」の「には」の詞は茲とそことを相對しいふ場合に働く詞である、從令へば、此所ではこれほど雨がふるが、山の向には〔二字右○〕降らないかしらなどいふ如き場合に用られるのである、
呼兒鳥に就ては古來判らぬ鳥としてある、俳句などにはカンコ鳥と書いて頻りに俳句になつて居るが、皆眞に其鳥が判つてゐて作つたものでない、多くは深山に居つて淋しひ聲で鳴く鳥といふ心で作られてある、信州の山奥などには今も「かつこう」鳥といふ小鳥が居つて、鳴聲が非常に淋しひ、これが呼兒鳥といふものに違ひないといふ説もあるが、萬葉中の呼兒鳥は、殊に淋しく鳴くとりとも思へぬ、信州ですら里には居らぬといふほどの「かつこう」鳥とは違つて萬葉の呼兒鳥は、やまとには鳴きてか來らんなどゝ無造作に都近く鳴く樣に詠れてある、且つ卷十に、
こたへぬにな呼びどよめぞ〔四字右○〕呼子鳥佐保の山邊をのほりくだりに
朝きりにしぬゝにぬれて呼子鳥三船の山よ鳴渡る見ゆ
等其他多くの歌を見るに殊に淋しく鳴くものとは思へぬ 殊に「呼びどよむ」などゝ云へる所を見ても淋しひ感じでないことは明かである、猶多くの歌に皆鳴渡る心を詠むであるところを見ると、一つの小鳥が淋しく鳴くのでなく、數多の渡鳥が且つ鳴き且つ渡りつゝ木から木と移りゆく鳥と思はれる、
されば呼子鳥は今日は判らぬ鳥で、かつこう鳥ではなく又後世の歌人俳人から、只管淋しひ鳥と思はれて居つたものとは大に違つて居る鳥であらうと思ふ、
偖此歌全首の意は詞つき判然せぬ所があつて、二樣に解せられるのである、一は、やまとをばもう鳴過て來たか呼子鳥此象の中山を今頻りと鳴いて奥へ越へゆくはと解するのである、自分が都を立つ時には未だ鳴かなかつたに、今此象の中山を呼越へてゆくを見ると、最早都をば鳴き通つて來たのかしらんといふ意味である、予は勿論此解の如く考へて居る、渡鳥の感じが能く顯はれて面白いと思ふのである、
今一つの解は、やまとではもう呼子鳥が來て鳴いてゐるか知らむ、多分都では鳴いて居らう呼子鳥が此象の中山を頻りと呼び越てゆくはと解するのである、古義などは此解をよしとしてある、要するに其呼子鳥が判然解らぬので趣味の上から、明かに判ずる事は出來ない、只注意して置くは前者の解は、都で鳴いた鳥であらふ此象山を越へる鳥はとの意で、二ケ所の鳥に連絡がある、後解であると、此象山を呼越へて鳴から、都でも來て鳴く事であらうとの意であるから、二ケ所の鳥に連絡がない、從て前者の趣味は鳥を主としてあるが、後者の趣味には懷郷的主觀が加味されて居る、旅に出づれば直ぐ家を思ふといふも如何である 且つ旅中家を思ふの想は極めて陳腐である、故に予は斷然前解に相違なく信ずるなれど、詞つき明瞭を欠き、確と定め難いので暫く疑を存して置く、猶一言添へて置きたいは、「呼びぞ越ゆなる」の詞は、鳥が一つであるか數多の鳥であるかの疑問である、これは單に感じの上に判斷するの外ないが、呼子鳥の名から察すれば大きい鳥でないは明である、小さい鳥として考へて見ると此呼越ゆると云ふ詞は決して一つの鳥ではないと思ふ、若しこれを一つの小鳥が呼越えたとすれば余りに瞬間の光景で際どい趣味である、從て「やまとには鳴きてかくらむ」のゆるやかな趣味と一致せぬ、重ねて云ふ予は呼子鳥は渡鳥の一種であらうと信ずる、
〔五四〕 巨勢山乃、列列椿、都良都良爾、見乍思奈、許湍乃春野乎、
こせ山のつらつら椿つらつらに見つゝしぬばなこせの春野を
こせ山は大和高市郡古瀬村にあるとの事なり、つらつら椿は連り連り數多並びある椿といふ意である、次の句の「つらつらに」の詞に音調の上からかけ合せた叙の詞である、そこに眼に見えた物に就きて取り合せた序詞を作るは萬葉作家の常である、併し此つらつらの詞も椿の「つ」といふ音に響いて最も働くのである、つらつら柳では響きがない、椿であるからよいのぢや 其作者の用意を知らねばならぬ、椿の葉といひ花といひ萬葉時代の人の悦びさうな樹である、「つらつらに」は熟視でつくづくと見る意、「見つゝ偲《シヌ》ばな」は見つゝ愛賞せんとの意を少し強く云へる詞である、「しぬぶ」は此時代種々の意に用られてあるが、此では愛する即めづるの意、
一首の意は甚だ簡單で、よくよく見て樂まう誠に面白い此のこせの春の野をといふまでゝある、併し此巨勢の野に椿が多く花も咲いてゐて、其椿が第一に作者の眼にとまつたのである故に辭の上には「つらつら椿」は單に序になつて居れど、其「見つゝしぬばな」といふ感興の中心は椿にあるのである、後世人の口眞似にやる序歌とは大に異なつて居る、
感興まづ湧いて眼に映じた重な事物を取つて直に詞に綴る、如何にも無造作な調子に出でゝくる故想と詞との區別を感ずる暇がない、古人のうまい所がそこに在るのである、序歌と雖も決して拵へ物の感じがない、想と詞と自然的に融合して居るからである、後世の序歌は強いて拵へた作り物で然かも謎的なのが多い 内容の趣味と關係のない詞が綴られてゐる 一見しては其意を解するに六づかしひ、如此ものは序歌として殆ど價値はない、序歌を作るもの、宜しく此歌などに就き其精神を察すべきである、只口眞似することは返す/”\も卑しむべきことぢや、
三野連入唐時。春日藏首老作歌
續日本紀に大寶元年正月丁酉守民部尚書直大貮粟田朝臣眞人を以て遣唐執節使と爲し云々、此時の事なるべけれど、其人名中に三野連の名がない、思ふに續紀は誤り脱したるならんとの事ぢや、
〔六二〕 在根良、對馬乃渡、渡中爾、幣取向而、早還許年、
おほふねのつしまの渡り渡なかにぬさとりむけてはや歸りこね
漢字の「在根良」は「大夫根之」の誤であらうとの事ぢや、草書に書いたらば大夫〔二字右◎〕は在〔右◎〕と見えるかも知れぬ、本居宣長は、「在根良」は「布根竟」の誤りでフネハツルなるべしとの説なれど、同じく誤字なりとせば古義の説に從ふ方調子がよい、
大船は對島の「つ」といふ詞にかゝる枕詞、船のはつる津といふ意に依てなれる詞である、對島の渡は對島へ渡る海といふ意、和田津味などいふ詞も船の渡るの意に依て云へる詞である、茲では渡唐の人が果して對島を通るか否かに關係なく上二句は第三句の「渡中に」といふ詞にかゝる序と見るべきである、「ぬさとりむけて」は前に云へる如く此時代の風習で海をゆくにも山をゆくにも、それ/”\の神に幣をさゝげて行途の安全を祈るのである、
一首の意は、途中海神に手向をよくさゝげて海上安全に早く歸り來よとの意で、意味は頗る平凡で簡單である、併し前の歌にも云へる如く、趣味に適切な序詞を巧みに綴つて、然も緩やかにのび/\とした調子で淀みなく詠み下して居るので、何となく音調に響きがある、遣唐使であるから船でゆくは勿論ぢや、其船といふ實用語を此歌では「大船の」と枕詞の飾り詞できかして居る、裝飾が實用をかねて居る、意味單純だけ調子が暢達して一讀快活を感ずる、平凡なことも云ひ樣で活きて來る 却て韻文の眞價値は如此點に存するのであるまいかと思はれる、詩人たるものゝ沈思して一考すべき歌であらう、
明治38年1月・5月・7月『馬醉木』
署名 伊藤左千夫
萬菓集新釋 私考改題
〔九〕
山上臣憶良在大唐時《ヤマノヘノオミオクラガモロコシニアリシトキ》、憶本郷作《クニヲシヌヒテヨメル》歌
憶良の履歴は和銅七年正月甲子、正六位下山上臣憶良に從五位下を授く、靈龜二年四月壬申伯耆守と爲すなどあり、おほ方は人の知る所である。
〔六三〕 去來子等、早日本邊、大伴乃、御津乃濱松、待戀奴良武、
いざこどもはや日本《ヤマト》べにおほとものみつの濱松まちこひぬらむ、
去來子等《イサコドモ》は、いざは今の詞のサアと誘ひ立て言ふこと、これは「いざや子ら」など讀みたいやうなれど、古事記中卷應神天皇の御歌に、伊邪古杼母《イザコトモ》、怒毘流都美爾《ヌヒルツミニ》云々、萬葉二十卷に伊射子等毛《イサコトモ》、多波和射奈世曾云々等の例に依りいざ子どもと讀む、早日本邊は、「ハヤヒノモトヘ」「ハヤクヤマトヘ」「ハヤモヤマトヘ」など種々の訓方がある、是等はいづれにてもよからむが、古義は「邊」の一字に「ニ」を付けよむ例を澤山に擧げてある、三の卷「燒津邊吾去鹿齒《ヤキツヘニアガユキシカハ》」「春日之野邊粟種益乎《カスガノヌヘニアハマカマシヲ》」四の卷「山跡邊君之立日乃《ヤマトヘニキミカタツヒノ》」など猶多くある樣なれど、それに拘泥する必要もない、三の卷に去來兒等倭部早白菅乃《イサコトモヤマトヘハヤクシラシゲノ》云々と言ふ歌もあるから、眞淵の訓みで「ハヤクヤマトヘ」とあるが寧ろよいかも知ぬ、古義は又此歌の「日本」を大和の國をいふのだと決めてあるが、是れも憶良が唐で詠める歌であるから、日本即吾國といふ意にとるべきである「大伴乃」は御津乃濱松の「みつ」へかゝつた枕詞である、それで此「大伴乃御津乃濱松」の二句は、結句の「待ち戀ひぬらむ」に就て音調上の序詞である、尤も御津乃濱は難波の御津であるから、歸國の船は必ず茲に上陸する所から、其濱松を呼びかけて「待ち」の序を起したのである、古歌の常法である、なほ子等母といふ詞は茲には從者を指すのである。
全首の心は、サア皆々使の用は濟だに早く歸らうぞ 國の人々も待遠に待戀ひて居やうサア/\と言ふ意である、かく意味簡單であつて、詞も趣向も別に優れた點のない歌であるが、作者の感情が實に能く調子の上に顯はれて居るは、見のがすことの出來ない處である、重い公事も事なく濟むだ嬉さや、國なる人達の心配を思ひやつて歸りを急ぐ情緒が、あり/\と調子にあらはれてゐる、作者内心の感情が詞也調子を驅使して、意味が調以外にまで溢れてゐる、今の人の歌を見よ、内心の感情を餘所にして、調子をコネクリ詞をヒネクリするから、感じといふものが顯はれて居らない、寧ろ不自然な詞や調子のために、歌の本尊たる感じといふものが、いつも掻き乱されて居る、主觀でも客觀でも、作者の心が動いて湧き起つた感情が〔十六字右○〕、如何なる場合にも詩作の中心として顯はれて居らなければ、詞が面白いの調子がをかしひの言ふても、詩としての眞性命はないと云はねばならぬ、作歌の心得として此點は最も至要のものである、
太上天皇幸于紀伊國時、調首淡海作《ツキノオヒトアフミガヨメル》歌、
太上天皇は持統天皇のこと、九の卷に大寶元年辛丑冬十月、太上天皇大行天皇、幸紀伊國時歌云々、大行天皇は文武天皇を指す、されば此時兩天皇の御幸である、淡海は續紀に、和銅二年正月丙寅正六位上調連淡海授從五位下云々、
〔五五〕 朝毛吉、木人乏母、亦打山、行來跡見良武、樹人友師母、
あさもよし紀人ともしもまつち山行きくと見らむ紀人ともしも
朝毛よしは枕詞、あさもは麻裳にて麻の衣の意「よし」は助辭、麻裳を着とつゞけ、「紀ひとともしも」の「き」にかゝるのである、「ともしも」はともしは羨まし「も」は歎息の意味ある助語である、紀の國の人は羨しいなアの意、「ま土山ゆきくと見らむ」こんな面白い眞土山を行き來に見るらむかである、これは作者の眼の前に紀人が居るのではなく、紀伊の人の通るべき所であるから、紀人は能く茲を通るであらうが、行くとては來るとては、此面白い山を見るであらうが、眞に羨しいことぢやとの意である、全首の意味それに過ぎないから別に言はぬ、「紀人ともしも」を繰返したは、其句が此歌の感情の主點であるからだ、古歌にも多くある 後人も能く眞似て居るが、作者の感情が或一點に集注された時、一句に言ひ去つては飽き足らず思ふ場合に、用らるべき句法である、然るに今の人此句法を模して其意を悟らず、往々文字の都合や調子とりに繰返しの句を用う、精神を失う所以である、
萬葉の作者は今日の人の思ひつかぬところに興味を持つてゐるらしい、此歌の詞つきを見よ、キヒトトモシモといひマツチヤマといひユキクトミランといふ皆同調類音で一貫して居る、吶吃な物言ひ振りで一種の趣味を構成して居る、暢びた調子ならば總て暢びねばならぬ、寛やかな調子ならば矢張ゆるやかで一貫してゐねば感じが惡い、此歌の如き、詰つた調子もそれで一貫して居るから、實に面白く感ずる、殊に流暢な中に交つて居ると一層眼に立つて、別種の興味を感ずる、山は骨々《コツ/\》し人は吶々して居たのであらうと迄思はれる、人丸の歌などは、殊に其邊の注意が見える。
二年壬寅、太上天皇幸于參河國時歌、
二年とは大寶二年のこと太上天皇は持統天皇、
〔五七〕 引馬野爾、仁保布榛原、入亂、衣爾保波勢、多鼻能知師爾、
ひくま野に匂ふはりはらいりみだり衣にほはせ旅のしるしに
引馬野は遠江の國である、今の三方が原あたりであるとのこと、詞書には三河に御幸とあれど、隣國で近いから、從篤の人など遊びに行つたのであらう、にほふは色の映えて見える光景である、榛原は松原萩原菅原など言ふ詞と同じく、榛の群生のさまを言へるのである、古義の説によれば、萩も古はハギともハリとも言ふて居る、榛も同じくハリと言ふので後世同種の如くまぎらはしひが、榛は榛萩は萩で明かに判つて居るとある、榛は今のハンの木即ちハリの木に相違あるまい、只此歌の丹保布榛原の「ハリ」が今の世に言ふハンの木なりや否やは判然せぬ、例の趣味方面に暢氣な古義の著者は、ハンの木と此歌の趣味と一致し難き點には氣がつかずに榛原はハンの木原として居る。にほふはり原といふ形容は色の美しひ映あるさまである、萩ならば無論適當な形容であるが、榛即ハンの木としては、解釋のしやうがない、秋のハンの木には少しでも目につく色はない、此歌が春ならば、ハンの木にも極めてジミな花があつて松の花に似た黄粉が落るがそれにしてもにほふ榛原とは仰山すぎる、況や此歌は秋の歌である以上は、此歌の榛原は決してハンの木原ではない、古義の解の笑ふべきは、榛の木は染料になるといふてゐることである、榛の皮を煮て其汁を以て物を染めるは今もすることであれど、此歌はそんな場合とは丸切り違ふのである、「入りみだり衣にほはせ」と云へば其榛原に入りみだれて衣に花の色をうつらせよとの意で、皮を煮て糸を染めるなどゝは大違である、入亂り衣にほはせといへば背の高くない花であることも解る、されば此歌の榛原は萩原の間違ひに相違あるまい、ハリ原と詞で聞いた時榛の字を當違へたのであらう、此時代萩もハリと云へるは前にも言へる通りであるから、趣味に關係なく口傳へにすれは間違ふ譯である、總て本集の歌を解釋するに文字に拘泥してはならぬ、去來子等早日本邊の歌はおほまかで暢びて居る、朝毛吉木人乏母の歌は佶倔して居る、此引馬野の歌は緩やかで各特調を持てゐる 此引馬野の歌は少女の長袖をゆらがすやうな趣で何とも云へぬ優美な感じである、一首中ににほふにほはせと同語があつても少しも耳立たぬは、作者の感情が能く詞調を驅使してゐるからである、以上何れの歌も詞や調子が皆其趣味と相協ふて居る點は歌人の切に注意すべき點である、ハヒフヘホの音調は輕い、ラリルレロの音調は柔かい、タチツチトカキクケコは皆音調が堅い、此引馬野の歌の輕く緩かな感じのあるは、ハヒフヘホラリルレロの字音が多いからである萬葉の歌が、そこ迄注意してあるとは一般文人は勿論歌人も音楽家も氣がついてゐないらしい、多くの文學者なども萬葉の歌と言へば只古代の文學であるとのみ思ふて、眞價値の如何に進歩して居るものなるかを知るものなきは慨嘆に堪えぬ次第である、
〔十〕
〔五八〕 何所爾可、舶泊爲良武、安禮乃崎、榜多味行之、棚無小舟
いつくにか舟はてすらんあれの崎こぎたみゆきし棚なし小舟
舟泊《フナハテ》は舟のゆきとまるを云ふ、「あれの崎」は地名なれどいづくか詳ならず、一説に美濃の國に「荒崎」といふ所あればそこにやなどいへど歌に協はぬ、「榜たみ」こぎめぐるの意、「棚なし小舟」は和名抄に竄ヘ大船の旁板也|不奈太那《フナタナ》とあり、小舟には其舟棚がない故に棚なし小舟といふ、一首の意味は殆ど解釋する必要はない、今日で見れば棚なし小舟などは陳腐な詞であるが、始めてかういふ詞を作つたとせば面白きいひ方である、
さて調子の上に就て少しく云ふならば、此歌は一句一句に切れた詞で組織されて居る、云はゞ悉く一句獨立せる詞で成立つてある、故に音調が接續的でない、始から終りまでそれで一貫して居る、「いづくにか」と云ひ、「あれの崎」と云ひ、「棚なし小舟」と云ひ皆ボツリボツリ留つて居る點に注意を要す、韻を蹈むといふこと無き國歌は音調の接續には最も注意せねばならぬ、
直接に續かぬ詞にて組織されたといふことが、此歌の趣味と如何なる關係があるか、それが一考すべき問題である、趣味と交渉なき句法や音調は、縱令それに面白味があつたにせよ、到底枝葉の技巧に過ぎぬのである、今日の人は、無雜作に造語を云々し音調を云々すれど、多くは其趣味と詩形との交渉を疎にして、單に造語を云ひ音調を云ふから結局空談に歸するのである、今熟々此歌を見るに、一讀して遠く遙かに小舟の漕ぎゆく景色を感ずるのは、全く句法と音調との働きに依ることが知れる、遠いの遙かのと一語も云はずに却て能く其感じが顯はれて居るは敬服に堪えない次第である、一首の上に少しも際立つた手際を認めないが、三誦四誦すれば漸く凡手にあらざることを感じてくる、
先づ眼にとまつた舟に直覺的感じを述べ、どこまで往つて舟泊りするつもりか、今あれの崎を漕ぎめぐつて往つたあの棚なし小舟よと嘆じたのであるが、「漕ぎたみゆきし」とあれの崎を過去にして居るのでいよ/\舟が遠くへ漕ぎゆくさまが顯はれて居る、感想の順序も自然である、抒景の順序も自然である、一句一句詰つた詞で組立てあれど、少しも澁苦の態なきは、全く其自然な作意に依るのである、これを陳腐な抒景と思ふやうな人あらば、詩の性命といふことを知らぬ人である、能く其神を得れば如何なる題目にても陳腐を感ずることはない。
右一首高市連黒人
〔五九〕 流經、妻吹風之、寒夜爾、吾勢能君者、獨香宿良武、
ながらふる雪吹く風の塞き夜に吾背の君は獨か寢らむ
「ながらふる」は流るゝの伸ばりしものである「ラフ」の切「ル」となる、流るとは降ると同じく雨雪などの降るを古は「なかる」とも云へるのである、十卷に卷向之檜原毛未雲居者子松之末由沫雪流《マキムクノヒハラモイマタクモヰネバコマツカウレユアハユキナガル》などある、又「ながる」が伸ばりて「なからふ」ともある、漢字の「妻吹風」の妻は雪の誤字であるとの説がよいやうである、猶此「流經る妻吹く風」といふ詞には古人に種々の説あれど、別に詮義の必要はない。
一首の意は簡單である、「雪は降り風も吹く此寒き夜に吾背の君はお一人でおやすみなさるか」と云ふので女の歌として見ると感じの深い歌である、此歌は能く人の注意を引いた歌であるが、萬葉中に在て別に優れてよい歌といふ譯ではないが、「流ら降る雪吹く風」と詠めるところなどは一寸面白い變つた詞つきである、
「ながらふる〔右◎〕雪吹く風の〔右◎〕寒き夜に〔右◎〕吾背の君は〔右◎〕」と皆一句の末が接續詞になつて居る、爲に音調なだらかで自然戀々たる感情を抒するに適して居る點は注意して置くべきである、
右一首譽謝女王
〔六〇〕 暮相而、朝面無美、隱爾加、氣長妹之、廬利爲里計武
宵にあひて朝た面なみ名張にかけなかき妹かいほりせりけむ
「宵にあひてあした面なみ」はよんべねた翌朝夫に逢ふてきまりの惡い女の感じである、「面なみ」は面目ないとの意であれど、それほどに強い意味ではない、これまでは三の句の「なばり」にかゝる序詞である、隱るゝことを古言に那婆流《ナバル》とも奈麻流《ナマル》とも云ふ、されば女の面隱《オモカクシ》するさまにかけて、此序詞が出來たのである、名張は伊賀の國名張郡、此行幸伊賀國を經られた事は續日本紀にある、「氣ながき」は月日久しき意味、「けなかき妹」逢はで久しき妹と解するをよしとす、「いほりせりけむ」はやどりしたのか知らむとの意である、此「氣なかき」は今の俗言の氣のながい人などいふ詞とは違ふ。
一首の意は簡單で、行幸の御供に伊賀の名張などにか久しく相見ぬ吾妹子が宿りしけむといふのである、詞の上の意味はそれだけであれど、此歌に含まれてある感情は決して單純でない、新に契を結んで、未だいくばくも立たず、其所謂朝面なみの情緒ある新妻を、行幸の供奉とて余儀なく手離した戀人であらう、思ひ深ければ月日も長く、たま/\名張といふ語を聞いて、おゝ其名張に彼の面隱して耻ぢらふたいとしの妻が其名張にか宿りけむと悶々の情を抒したのである、されば朝面無みの詞は、一首の上には單に名張の序になつて居れど、感情の動機は其面無みにあるのであらう、かく解すれば其女子の俤も浮び來るの感があつて、一層戀情の堪え難きを感ずるのである、
「宵にあひて」など隨分露骨な猥りがましき詞であれど、此時代の人の飽まで眞面目な態度は、能く調子の上にも顯はれて、此の如き露骨な詞も讀者に少しも淫冶の感じを與へない、毫末も輕薄の調子を認めないは、殊に注意を要する點である、八卷は暮相而朝面羞隱野乃芽子者散去寸黄葉早續也《ヨヒニアヒテアシタオモナミナハリヌノハギハチリニキモミヂハヤツゲ》といふ歌あれど、これは殆ど口眞似である、萬葉集中にも既に詞の曲を弄ぶ弊が始まつたのである。
右一首長皇子
〔六一〕 大夫之、得物矢手插、立向、射流圓方波、見爾清潔之、
ますら夫がさつ矢たはさみ立向ひいるまと形は見るにさやけし
「さつ矢」は海にも山にも獲物をあさる矢といふことである、「さつ」は「さち」「さき」と同じ意と見て差支ない、古義にはくど/\しき解釋あれど略す、「手插み」は持つ意と見て差支ない、古義にほ、「ダハサミ」と上字濁音に讀むべき由説けど、現に十六卷に梓弓八多婆佐彌《アツサユミヤツタバサミ》云々とあれば「タバサミ」と讀むとも差支ない、此歌も例の序歌にて三の句立向ひまでは、射流圓方波の射るにかゝる序である、増荒夫がさつ矢を手插み立ち向つて射ると掛けた詞である、いる的形の浦は伊勢の地名とのこと。一首の意は只、射るまと形の浦は見るにさやけく美しいの意であるが、詞つきも如何にもさつぱりとして、此清潔な感じに能く適ふてゐる、此の如き歌二つあつては最早駄目なれど、兎に角一種の歌として面白い、殊に女の歌にして此調子の凛々しさ、全首に渡り毛ほどのたるみもないは、作者の氣質も思ひやられて驚かれるのである、
石一首|舍人娘子《トネリノイラツメ》從駕作
此娘子の傳明ならず、郎子《イラツコ》郎女《イラツメ》皆親みていふ詞である、此娘子の詞、地名を冠した時は、珠名娘子《タマナヲトメ》眞間娘子《ママヲトメ》などの如く娘子と讀む例であるとの事
慶雲三年丙午、幸于難波宮時歌
これは續日本紀に、慶雲三年九月丙寅行幸難波十月壬午還宮とある、
〔六四〕葦邊行、鴨之羽我比爾、霜零而、寒暮者、倭之所念、
あしへゆく鴨の羽がひに霜ふりて寒きゆふべはやまとしおもほゆ
「鴨の羽がひ」は鴨之|羽交《ハガヒ》にて、羽を打交はしてゐるさまを云ふのである、古義の解では、こゝは只羽翼をいふとあれど從ひ難い、
一首の意は、難波江の葦邊を歩行きゐる鴨の羽がひにも霜がふつて白く見える さても寒くなつた それにつけても都がおもはれ家が戀しひとのこゝろである、
古義のは例の如く怪き解をして居る、葦方《アシヘ》をさして飛び渡る鴨の羽翼にさへ霜が置いて云々、大變な違である、空を飛ぶ鴨の翅に霜が置くなど云ふやうなことを云ふ後世の歌に限ることである、
此歌は、月の夜などにて實際に鴨が葦邊を行きつゝあるが見え、然も霜の降つたかのやうに白く鴨の羽交が見えたのであらう、如何にも寒い感じが顯はれて居る、あア寒くなつたなと思ふて、一層獨寢の淋しみを感じ都こひしくなつたのであらう、面白い歌である、四の句に「ゆふべ」とあるは夕べ即日暮のことではない夜のことである、
右一首志貴皇子
〔六五〕 霞打、安良禮松原、住吉之、弟日娘與、見禮常不飽香聞、
あられ打つあられ松原住の江のおとひ少女と見れど飽かぬかも
あられ松原は地の名とあるが、或は此歌に依て後世人の名つけたのかも知れぬ、「あられ打つ」は霰の降る形容詞である、實際に霰が降つてゐる光景にて、無雜作に霰打つあられ松原と詠めるものであらう、實に面白い詞つきである、あられといふ詞が重ねてあるので、如何にも霰の降るさまが強く感ずる、弟日少女は住吉に居た遊女などで、長皇子の愛された人であらう、此歌古義の解や眞淵の解や、例に依て苦度々々しいが予は一切採らぬ、これらは打見た詞の上に解り切つて居る、餘計な詮義をするから却て其歌の眞意を失ふてしまう、萬葉の歌は大抵無雜作に詠んだ歌であるから、成るべく無難作に解釋するがよいのである、長皇子が旅のなぐさに、美人弟日娘を携へて住吉のとある松原に散策を試みた、折柄霰が降つてきた、それも一しきりはら/\とやつた位であらう、そこで其景色を興がり給ひ、あられ打つあられ松原其面白き松原を美人弟日と興じて見ればいくら見ても飽かぬとあつたのである、
いつもながら萬葉の歌は、作者の感興が能く調子の上に顯はれて居るから、詞以外に深き興味を讀者に與へるのである、此歌なども皇子が、こりや面白い、どうぢや面白いぢやないかと、興がり給へるさまが、調子と共に躍つて見える、實に活々とした歌である。
右一首長皇子
明治39年2月・3月『馬醉木』
署名 伊藤左千夫
萬葉集新釋 私考改題
〔十一〕
大行天皇《サキノスメラミコト》。幸于難波宮時歌
文武天皇の御事 大行とは天皇崩御して未だ謚を奉らぬ間に申すことである、されば大行天皇の行幸といふことがをかしいけれど、これは天皇崩御間もなく、記した文であつて、かう書いたものであらう。
〔七一〕 倭戀。寐之不所宿爾。情無。此渚崎爾。多津鳴倍思哉。
やまとこひいのねらえぬに心なく此のすの崎にたづ鳴くべしや
「やまと戀」は、例の大和の都即ち吾家をこひてである、「いのねらえぬ」は「い」は寐《イ》で朝寐《アサイ》安寐《ヤスイ》などの「い」と同じ ねても寐入られぬの意、三句四句は解釋に及ばず、「たづ鳴くべしや」は鶴鳴くべしやである、此の鳴くべしやの解は人々種々に解き居れど、予の考は鳴く勿れと命ずるやうな意義に解するのである、
此詞使は萬葉集以外には見當らぬ、古義の解のやうに、鳴くべき事かやと云ふては何の意か判らぬ、これは此「べし」といふ詞を後世の語意に見たからである、前にも額田王の歌に、三輪山をしかも隱すか雲だに心あらなん隱さふべしや。といふのがあるが其歌で見ると解し易い、前句に心あらなんと希望して、次の句即ち「隱さふべしや」隱すといふことがあるか隱してはならぬと命令的に希望を強めたのである 即ち此歌の鳴くべしやは鳴てはならぬとの意に解すべきだ、此「渚崎爾」とはつきり強く云ふた詞に注意せねばならぬ、心なくも此のすの崎に鳴いてはならぬ。おれが茲で寐らえずに居るからといふのが歌全躰の意味である、
「べし」を命令の意に用ゆる場合は、從令へば、汝花を折れと命ずる時に、汝花を折るべしと云ふ事があらう、汝花を折つてはならぬと云ふ時にも、花を折るべからずと云ふの例があるであらう、此歌の「べし」は其例に同じである 又取ることが出來るといふ場合に「取るべし」といひ、取ることが出來ないとの場合に「取るべからず」とも云ふが、以上二樣の使ひ樣があるのである。さて此歌は今日から見ると着想も寧ろ古く思はれるが今人の口振に似ず、意志に強みがある、今の人ならば必ず「そこに鳴くなかれ」とやうにノロ臭く云ふところを萬葉歌人は、「鳴いてはならぬ鳴くといふことがあるか」とやうに強く云ふのである、神經衰弱的歌人は見て反省すべきぢや。
次に調子の点に注意を要する、初句に「やまとこひ」と切れた句で起してあるから、次の句も其次の句も切れた句で受けて居る、「いのねらえぬに」と云ひ「心なく」といひ、皆上へも下へも直接に續かぬ句である、如斯全首悉く切れた句を以て組織されて居る、それであるから調子の上に一貫した趣きがあるのである、初句を接續的句法で起せば一首を皆同句法を以て組織せねばならぬ、古人の用意を察すべきである。返す/”\も此歌にしては、此渚崎爾の此の一字非常に働き居るに注意してほしい。
右一首。忍坂部乙麻呂。 此人の傳不明との事なり。
〔七二〕 玉藻苅。奥敝波不榜。敷妙之。枕之邊。忘可禰津藻。
たま藻苅る沖へは漕かずしきたへの枕のほとり忘れかねつも
一句二句は解を要せぬ、「志き妙」は枕に對する枕詞、即|敷布《シキタヘ》である、床などに敷く布の意で多く寢所の物にいひかけてある。敷妙の袖とも敷妙の床ともある能く使はれる詞である、忘れかねつもは忘れられないとの意を強く嘆息した詞で、「も」には嘆息の意を含んでゐるのである。此歌句法は前の歌と同じ、
一首の意義に就ては又種々異つた解がある、古義の解などは云ふに足らない、例に依て予は獨斷的に解を下す、見る通り詞の上には少しも解らぬ處はないが、此作者の心が一寸解らぬので人々さまざまに解が出る譯だ 只無造作に解釋すれば却て能く解るのである、先づ玉藻といふものが、此時代に盛に行はれた形容語で、玉藻なすなびき寢し兒などゝ云つたやうに集中能く見る詞であることを、心に置いて此歌を見ねばならぬ、それで此歌の詞には「おきへは漕かず」とあるが實際は舟に乘つて詠んだ歌である 舟に乘らない人が沖邊は漕がずなどゝ云ふべき筈がない、多くの解者がそこに氣がつかないから、解し得ないのであらう。浦人などが玉藻を苅るが面白さに舟を漕いで徃つて見ると、波の上に打ちなびいて浮いてゐる玉藻が丁度女の黒髮を床などへ靡かし居るさまに見えたのであらう。玉藻と云へばすぐ女の事を連想する當時の人の眼には、如何にもさう見えたらう、そこで此歌が出來たのだ、
もう/\玉藻苅る沖へはこない、此玉藻のさまを見ると家にあつて戀しき人が枕のあたりへ黒髮打靡けてねて居られたさまが愈忘れられない、呼嗚家がこいしい、こういふものを見ては堪らない思がする玉藻かるところなどへはもう、來るこつちやない、かういふ心の歌であらう、決して無理な解釋でない、一種美妙な強い刺激を持つてゐる面白い歌である、作者の心的状態及び其客觀的詩境も能く顯はれて居て景情ともに活々とした感じのある佳作である、見るもの聞くものに就きての古人の感覺が或点に於て今世の人よりも余程鋭敏であつた事が、能く此歌などにあらはれて居る。
それから此のおほまかな措辭や少しもこせつかない詞つきや、一首の歌に深みのある處など大に參考として注意すべきである、今の人の歌は句々の接續が密着して材料の配置も似寄つたものが多いにかゝはらず、大抵の歌は句を插替へることも出來、材料を動かすことも出來る、一口に云ふと一首の組織が甚だ不完全であるが試に此歌を見よ、第一句第二句は玉藻や舟やのことを叙して三句以下には丸きり變つた枕などを持だしてきて居る、かく材料の組み合せも句の接續も離れて居ながら、此歌を作り替へることは到底出來ない、どの句も動かすことは出來ない、どの材料も插替へることは出來ない、これが拵へた歌でないといふ好個の標本である、併しながら大抵の人はかういふ歌を輕く視過してしまうのであらう。
今一つ云ふて置くことがある、今の人の作歌は多くは、眼に見た事實を其儘直ちに歌に作つて居る、それであるから報告になり紹介になるのである、此歌などは、眼に見た事實に就て作者の頭に湧いた感懷を基礎として一首を詠み出て居る、それが眞正の詩といふものである、今世の人は文學美術の上に今は大に論理が進んで居る樣に思ふて居るが、なか/\論理の上にも古人の方が深いから驚くのである、
右一首。式部卿藤原宇合
附言。紙數に制限ありて久振りでの此稿も責を塞ぐに過ぎざるは遺憾なれど、今後は成べく毎號出さん考なり
明治40年5月『馬醉木』
署名 伊藤左千夫
萬葉集新釋 一卷上
〔十二〕
雜 歌
泊瀬朝倉宮御宇天皇代
泊瀬朝倉宮に天の下を統治せられた天皇の代といふことで即雄畧天皇の御代である、
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天皇御製歌
〔一〕 籠毛與、美籠母乳、布久思毛與、美夫君志持、此岳爾、菜採須兒、家告閑、名告沙根、虚見津、山跡乃國者、押奈戸手、吾許曾居、師吉名倍手、吾己曾座、我許曾者、背跡齒告目、家乎毛名雄母、
こもよ、みこもち、ふくしもよ、みふくしもち、このをかに、なつますこ、家のらせ、名のらさね、そらみつ、やまとの國は、おしなべて、あれこそ居れ、しきなべて、吾れこそませ、あれこそは、せとはのらめ、家をも名をも、
『こもよ』の『こ』は竹籠である今の世に云ふ割籠《わりご》刺籠《さしこ》駕籠《かご》などの『籠』である、茲では菜を入れる入物なり、『もよ』はもやと同じにて助辭である、『我はもや』などいふと同詞、韻文の心から云へば『こもよ』と云ふもよの調子から次の『みこもち』の句を呼び起すのである、『みこもち』はみ籠持ちである、『み』は『み雲』『み山』などの『み』と同く飾りの詞である、『ふくしもよ』『みふくしもち』ふくしは物の名、掘串であるとの事、物など掘る『ヘラ』の如き物なるか、鐵にて作れるを金ふくしと云ふとぞ、只のふくしは竹などにて作れるならん、
『このをかに』『菜つます兒』菜をつます兒は、菜をつみいます兒で丁寧な詞使になるのである、兒といふは多くの塲合女に對し親みの心で呼掛ける詞である、あの兒がとか此の兒がとか今の世にも云ふのと同意、
『家のらせ』末の文字『閑』とあるは誤字であるとの説がよい、猶種々の説あれど、『家のらせ』と訓むのがよい、家をつげよとの意、『名のらさね』は名をつげなさいなと云ふ如き意味で、家をつげなさい、さあ名をおつげなさいねと少しく促し云ふ意を含んでるのである、かゝる僅かな所にも韻文の精神が現はれてる、家を告げよ名をつげよと云ふ内にも次の一句は前の句よりも意味が強くなつて居る 聊か急き立てるやうな詞になつてる、其の心の動きを見逃してはならぬ、家をつげる名を告げると云ふは、吾邦の上古、男女相許す時に必ず、自分の本名と家柄とを告合ふ風習である、殊に女の兒は、垂乳根の母の呼ぶ名といふ詞がある位であるから、平日は本名を人中で呼ばなかつたものであらふ、それで殊につま定めといふやうな塲合に本名を名のる必要があつたものと見える、そこで直に家をのれと云はないで、告《の》らせと伸ばし云ふのは丁寧な詞使である、家を告げよといふのも、御身は何所の家のものかと問ふのではない、御身の家※[手偏+丙]はと問ふのである、天皇の身を以てしても、吾嬬にと思ふ程の女であるから、正しき敬語を用て居るらしい、且つ菜をつみ居る女と云つても、賤しい女ではないのであらふ、仁コ天皇の思ひ人、吉備の黒姫なども手づから菜を採て天皇を饗したといふ位であるから、雄略天皇の此歌などもそれに近い逸話があつての事であらふ、
『そらみつ』『やまとの國は』そらみつは大和の枕詞である、饒速日命が天の磐船に乘りて大虚を翔行し時に大和の空に船を泊め、茲は空の津である、空の御津大和ぢやと言はれたに起つた詞であらふと云ふ古義の解が面白い、それで此に云ふ『やまと』は大和であれど心は天の下といふ意味である、『押しなべて』『吾れこそ居れ』此やまとの國は押しなびけて吾れこそ居れとの意である、總てを領有して居るの意『しきなべて』『吾れこそませ』しきは太敷坐すの敷と同じ天の下を押し平げの心である、此二句は云ふまでもなく前二句の意を繰返したものであれど、前にも云へる如く後の二句は意味が一層強まつて、吾れこそ坐《ま》せなど、天皇といふことを更に具体的に云ひ現して居る、如此稍同意義の詞を繰返すのは、感情の興奮から、自然に出てくる詞で、決して詞を綾なした、輕薄な飾りではない、心に溢れる興奮を強く云ひ現さんとする自然の動きである、歌を作る人々は心を潛めて考ふべき点である、餘計な飾り詞は飾れば飾る程歌の力が拔けるのである、後世長歌を作つた人達が、皆此精神を知らずに、詞飾りの眞似許りして居るから駄目なのである、
『あれこそは』『背とはのらめ』あれこそはの一句は種々の訓方と書方とがあつて、諸説紛々として居るが、予は斷然、吾許曾者の書方を採つて、あれこそはと訓む、元來此句は、一本には吾許者とあり一本には吾許曾者とある、古義の著者は『者』は誤字であるとして、『吾』の下に『乎』の一字を插入して『吾れをこそ』と讀んであるが勝手な訓方である、有る字を消して無い字を入れるなどは、寧無法と云はねばならぬ、一本にある通り、『吾許曾者』は最も面白いのである、少しも差支ないのみならず、却て其方が意味が面白いのに、勝手に字を入れたり字を削つたりするのは甚だ宜敷くない、殊に此一句は此歌の全精神の集中した句である、『吾れこそは』と云つた一語が此歌の性命であるのだ、『吾をこそ』と『吾れこそは』とは自他の差別がある、丸で意味が反對になるのだ、それを自分一個の考で手を入れるとは以ての外の話である、能く能く解らぬ塲合は別として、出來る限りは有る儘の文字で訓むべきは云ふまでもない、殊に此句或一本に正しく『吾許曾者』とあるからは其の通りに訓むが當前の話である、古義の著者は傑いだけに徃々小癪なことをして困る、以上二句の心は、吾れこそは御身の夫と名るべきものなれとの意である、
『家をも名をも』これは前二句の餘意を受けて、吾れはかう家をも名をも告ぐるぞ、御身は速に御身の家と名とを告げて吾れに從ひませとの心である、此一句は作者自己の心を述て、始めの家告らせ名告らさねの句に照應したのである、
予が此歌を説つゝあるの時、春靄ほのかに庭をこめ鶯の聲頻りに庭の彼邊に聞ゆ、予は感奮して愉悦の心抑えきれないのである、如斯大なる歌尊い歌赫灼たる歌何とも稱贊の詞がないのである、年代から見れば雄略天皇より古い歌があるのに、殊に此歌を拔き出でゝ卷頭に出せる編者は、必ず此歌を讚美したものに違いない、予は此活眼ありし編者の話を直接に聞いて見たくて溜らない、此集あつて以來此歌の眞價を評した者が殆どないからである、いざ予をして肆に讚嘆の聲を放たしめよ、
品格ある詩韻に最も忌むべきは、露骨の殺風景にある、此歌まづ少女の手に持てる籠や布久志より、其少女の無邪氣な風姿に心動き、次で感情の動きが、温麗なる波を起し、菜をつみいますなづかしき兒よと親みの思ひを強め、更に感情の浪が動きを早め、家をつげよさあ名は何といふぞ吾れは御身を愛するぞとの意を打出て、猶豫もあらぬ感情の興奮は直に自己の家と身分とを打明け、此やまとの國は吾こそ領有して居れ、此國を統べ平げて吾れこそ天皇の位にいませ、此國に二人となき吾こそは、美しきなつかしき少女御身が背と名のる資格のあるものぞよ、嗚呼なつかしき少女、吾れはかく家をも名をも御身に名のりしぞ、速に御身も家をつげ名をつげて吾れに從へよとの情緒が春の高潮の漲るさまに動いて居る、菜を採む一少女に對し直に天子の身分を明す眞に愛的興奮の極である、それで吾こそは御身の背と名のるべきものぞと云へる、實に無上の尊敬と無上の愛情とを菜をつむ一少女の前に捧げたのである、何といふ尊い詩ぞ何といふ美しい詩ぞ、人世に此上の尊敬があらふか、此上の愛情があらふか、大熱情的大猛斷的の御性格ある雄略天皇にして始めて、此歌があるのである、詩としての形式と内容と實に美を盡し善を盡して居る、
作者の個性が又如何にも明かに全篇に漲つて居る点に注意せねばならぬ、み籠やみ布久志や丘に菜を採む少女やと言ふかと思へば、直に吾こそは天か下を統治するものぞと、名のり出る其猛斷勇邁の御氣性でなければ有得べからざる事である、一轉して其吾れこそは背とは告らめと、如何にも如何にもきびきびと、思ひきりて云ひ出でたる、此帝ならでは決して爲し得ない事である、
されば予は先に吾れこそはの一語此歌の性命であると斷じたのである、のみならず吾れこそはの一語は如何にも能く、雄畧天皇の御性格を現はして居るのである、三輪王が突然穴穗の天皇を弑し奉るや、御兄弟多き中に、猛然吾こそ天が下を安ずるものなれと蹶起せる御氣象より、後年天皇御遊獵の際、猛猪鳳駕を犯さんとせる時にも、帝御手づから猛猪を打伏せ給ひ、舍人の士の怯儒を御怒りありし際にも、直に皇后の諌言を入れ給ひて、人は獲を得吾こそは善言を得たれと悦ばれ給へるなどに照し合せて見るも、此歌の吾こそはの一語に如何に多大の意義あるかを發見することが出來やう、予の知れる言語は迚ても此歌の尊とさを云ひ盡すことは出來ない、
〔十三〕
高市崗本宮御宇天皇代
高市はタケチと訓み大和國高知郡なり、崗本は飛鳥の地にあり、即此御代は舒明天皇である。
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天皇登香具山望國之時御製歌
〔二〕 山常庭、村山有等、取與呂布、天乃香具山、騰立、國見乎爲者、國原波、煙立龍、海原波、加萬目立多都、※[立心偏+可]怜國曾、蜻島、八間跡能國者。
やまとには、むら山あれと、とりよろふ、あめのかぐ山、のぼり立ち、國見をすれは、くにはらは、けふり立ち立つ、海原は、かまめたちたつ、うまし國ぞ、あきつしま、山との國は、
「村山有等」は群がりて山はあれどなり、「取與呂布」とりは殆ど意義のない詞で、打見る、物打語る、などのうちと同じく、詞をいひ起す調子の詞である、よろふは形の足り整つてる意である、鎧などの詞も此よろふの詞と同意義から起つた名であらふ、されば茲にいふよろふも、單に山の形がよろしいと云ふ許りでなく、樹木も繁つて居て見るから山として總てが具足して居るといふ意味に見ておかねばならぬ、「天乃香具山騰立」香具山は太古の時には天上にあつた山であるといふ神話的傳説から出て天の香具山と云ふと説かれてある、外にも天降付《あもりつく》天之芳來山《あめのかぐやま》などある處を見ると、さう見て置く外はあるまい、其語原は兎に角、久方の天の香具山と云ふは實に詩的な詞である、「騰立」は香具山に登り立つの意であるが、引きしまつた働きのある詞である、「國見乎爲者」は詞の通りで高所から四方の郷國を見ることである、「國原波」國はらとは人の住む國を廣く見渡した形容語、「煙立龍」龍は假字で立つである、けぶり立ち立つは人煙の頻りに立ちのぼつてるさまを云ふたのである、「加萬目立多都」かまめは今の「かもめ」である、立ち立つは前と同じく數多く飛び居るさまを云へるのだ、此歌に海原と云へるは埴安の池の事なり、海原とか鴎立ち立つとか少し仰山なる云ひ樣に見ゆれど、埴安の池は其時代には隨分盛なもので、三卷に鴨君足人の香具山の歌にも埴安の池は大宮人の舟遊せる事や鴨やあぢむらなどの盛に居たるやう歌ひから、此歌に云へる海原は矢張り埴安の池に相違ない、此時代池や湖を海と云へるは珍らしい事ではない、契沖は香具山の頂より難波の海が見ゆるにやなど云へど、よし難波の海が見えたにせよ、水禽の立つさまなどが見える筈なし、「※[立心偏+可]怜國曾」は善美な國ぞとの意に解く、近代では「うまし」は美味の事のみに云へど、上古は何事にも美しく快く感ずることを總じて「うまし」と云つた、「蜻島八間跡能國者」解くまでもなく、あきつ島は大和の國の形容語で、やがて吾日本國の別名稱ともなつたのである、
一首全體の意義は詞の通にて殊に解くの必要はない、乍併作品の價値と云ふ上から見ると頗る注意するに足るべき歌である、一言にして御製を概評すれは、平穩明快の中に無限の味ひを含み居ると云ふべきか、天皇の御性質が此歌に依て隈なく窺ひ得らるゝ心地するのである、御製の最も特色とする點は、叙景的描寫の上にある、本集中叙景に於てこれだけ成功した歌は殆どない、盛に客觀的趣味を鼓吹した明治の歌壇に於ても、これだけの成功を示した歌は容易に見ることが出來ぬ、
作法は極めて平凡な極めて自然な躰をとつて何等の用意も工風もない、勿論それが最も叙景に適した作法ではあれど、苟も一作物を構成せんとするに當つて、これほど平易に自然に叙し去ることは、作者の天質の然らしむる外、容易に出來ない事である、然らば淡として水の如く作歌に味ひなきかと云ふに、決してさうでないから問題になるのである、初句より數て第六句まで、即「國見乎爲者」までを序としてこれが一段である、こゝまでは殆ど説明的記述で何の見るべき點もない、「國原は煙たちたつ海原はかまめ立ち立つ」の四句が此作の主脳であつて此歌の生命も第二段の此四句にある、極めて簡單な叙法なれども、一語一句悉く有意味の働きあることを吟味し見るべきである、「國原は煙立ちたつ」「海原はかまめ立ち立つ」絶對に現在的で眞に見たまゝを毛程の私意も交へずに、殆ど兒供が自分の好きな物を見つけた時の如き、態度で云ふて居る處が、却て自然にして妙味があるのである、若し此四句を、國原に煙は立てり、海原に鴎は飛べり、など云はゞ全くの説明になつて終うのである、國原は〔右◎〕と云つた此のは〔右◎〕の一語の其現在的用語に注意せねばならぬ、それを受けて又更に「立ち立つ」と極めて現在的に云ふたのが甚だよいのである、煙立ち立つかまめたちたつの語、眞に描寫の妙を盡して居る、如此光景に對したる時、吾々はこれ以上の描寫を爲すこと、到底不可能の感あらしむ、
力を入れて作られた歌でない事は一讀して判るに係らず、千歳の下人の模倣を許さぬは、實に景仰すべき作品と云はねばならぬ、
御製に依て讀者が得る處の印象如何と見れば、此作の季は慥かに秋の半ばである、氣澄み風明かに、田園漸く黄熟せんとする頃らしく、遠く人煙の立ち立つさま、近く埴安の池に水白く水禽の立ち舞ふさまが、如何にも朗かに眼に入るの趣きである、わがしろしめす國は眞にうまし國ぞと宣らし給ふ御悦のさまが、あり/\と思ひやられて、太平の天子といふ感が溢れる、末三句の下段は只結びをつけたまでゝあるが、是等の作を見ても、大體に於て成功して居れば、局部の隅々まで、作意を弄するの必要なきことが解る、
天皇遊獵内野之時中皇命。使間人連老獻歌
中皇命は中皇女命で間人の皇后の事なりと眞淵の云へるがよし、間人連老は間人皇后の乳母の夫であらふ、皇后が間人皇女と云へるも乳母の姓に依て申されたらしい、此時代皇子皇女の、乳母の姓を呼名とせる例多しとの事である、歌は即間人の老が作れるのであらふ、間人はハシヒトと訓む、
〔三〕 八隅知之、我大王乃、朝庭、取撫賜、夕庭、伊縁立之、御執乃、梓弓之、奈加弭乃、音爲奈利、朝獵爾、今立須良思、暮獵爾、今他田渚良之、御執能、梓弓之、奈加弭乃、普爲奈里、
やすみしゝ、わが大君の、あしたには、取り撫てたまひ、夕べには、いより立たしゝ、御とらしの、梓の弓の、なりはずの、音すなり、朝かりに、今立たすらし、ゆふかりに、今立たすらし、御とらしの、梓の弓の、なり弭の、音すなり。
「八隅知之」は枕詞である、「朝庭取撫賜」「夕庭伊縁立之」は「庭」は假字で只「ニハ」といふ語尾である、此四句は朝夕愛撫し給ふといふ程の意である、句を對にして似寄つた詞を繰返すのは、單に詞藻的に詞の飾りを綾なすのではない、感情の動きが自然に要求して、只一通りの意思を述べたゞけでは滿足が出來ないのである、つまり心の感じを強く云ひ現はさうとする自然の發作である、手輕く云へば、大へんにお愛しになるそれは一通ならず、お愛しになるなと意味を強めいふのと同じである、對句の要は自然の發作であると云ふことを忘れてはならぬ、此精神に依らず只徒らに飾つた對句は輕薄を免れ得ない、「御執能梓弓之」は御佩かしの太刀といふ詞と心が同じで、天皇の御とらし給ふ弓といふ意で梓弓は梓は弓の好材であるから、御弓は上古から梓の弓と極つて居るらしい、「奈加弭乃音爲奈利」は奈加の加〔右◎〕は利〔右◎〕の誤字であつて奈利と訓むと宣長などの説がよいやうである、弭は「ゆみはず」と云つて弓の末に射る時に音の爲るやうな拵へがしてある弓で、上古の弓には多く糸があつたのであらふ。
「朝獵爾今立須良思暮獵爾今他田渚良之」はこれも對句の法で、是れは單に御獵に今立ち給ふらしとの意であつて、朝とか夕とか云ふ語には對句の爲めといふ外に意味はないのである、朝獵に立ち給ふにしても、今立たすらしといふに、朝とか夕とかを定め云ふ必要はない、故に茲では朝夕の語は全く飾詞である、人丸の長歌にも、朝羽振夕羽振などいふ語がある、次の四句は彼の聞覺えのある御執らしの梓の弓の音がする、今しお立ちになり給ふらしいと前句を繰返したのである。
此歌に就て殊に注意して見るべき點は、内容極めて單純な割合に詞の量が多くて音調の賑かなのと、直接に情緒を云ひ現はした詞は殆どないに係らず、趣味の總てが情緒的である點である。
先づ歌の体から云ふて見ると、大體に前段後段と別れてそれが對を爲して居る、前段にも對句があり後段にも對句があり、さうして後段の結句で前段の結句を繰返して居る、此叙法が一讀非常に詞の賑かな感じを起させる、此歌が含んでる内容は、御執らしの梓の弓の音がする其鳴弭の音がする今御獵に立たすらしと云ふに過ぎぬ、只之れだけの意味である、故に此歌に就て其意味だけを見るならば、殆ど一個の作物とする程の容積はない、乍併此歌は思想の歌でもなく描寫の歌でもなく、叙情詩としても一種變つた歌の体であつて、感情の表現が詞の意味に依てゞなく、其の繰返す詞の調子に依て現はれて居るのである、
衝動を受けた感情の動きは、自然に繰返さるべき詞の繰返さるゝ働きや自然に緩急あるべき詞の調子等、其詞に含める意味以外の表現に明かに讀者に感ぜられる、
今此歌の前段を吟味して見るに、前段は後段に比して調子が緩かである、人の心を引立たせるやうな弓弭の音が初めて皇女の内庭に聞え出した、其音は皇女が常々耳に聞覺えのある、天皇の御愛撫ある梓の弓の音であつた、作歌の衝動はそこに起つて居るのであれど、まだ感情の動きは緩かである、されば御とらしの弓の音を聞ても猶過去を思ひ、朝には取撫で給ひ、夕にはいより立たしゝなどゝ詞の調子にも余程、ゆつくりした處がある、前段の二章はそれで出來た、それから其弓弭の音も屡繰返され御獵の用意物々しくなつて大殿の有樣愈賑かになるにつれ、そが物の音を聞く皇女の感情自然浮立つて來て、興奮せる心の動きは漸く急調なるべきである、後段の一章はそれである、朝獵に今立たすらし夕獵に今立たすらしの兩句が如何にも急調を帶びて又何となく賑かなるさまをも現はして居る、最後に前段の結句を受けて再び梓の弓の鳴弭の音すなりと繰返すのは、極めて自然なる發作と云はねばならぬ、鳴弭の音すなりと繰返すこと只二回なれども、其弓の音の如何にも賑かにして、皇女の御心がそれに引立てられ一種の興味にいたく感動された、其情的趣きが遺憾なく現はれて居る、其心の動きの順次に増し加はる趣きの表現が此歌の眞價である、間人連が作つたものであらふとの説なれど、如何にも能く皇女が其折の心情を呑込みそれを斯くも能く自然に現はし得たものである、或は大體を皇女が作つて間人連は修正を加へたものかも知れぬ。
概して萬葉の歌は、淺々しく見て終つては到底其眞味を味ひ得ることが出來ぬ、内容と詩形との關係が極めて自然であるから内容の動きは必ず調子の上に現はれて居る、喩へば内心に喜ある人と内心に悲みある人とは直ぐ其顏色に依て知らるゝ如くである、兎角眞似事を好む後世の人は、此の自然の尊ぶべきを解せず、技巧を弄したいたづらごとを悦ぶのは嘆ずべきである。
反 歌
〔四〕 玉刻春、内乃大野爾、馬數而、朝布麻須等六、其草深野
たまきはるうちの大野に馬なめて朝ふますらむその草深野
「玉刻春」は枕詞、内乃大野は大和の宇知郡、「朝布麻須等六」は朝の御獵に馬を並べて野を蹈みわけ給ふらんの意、「朝蹈ますらん」は面白い詞である、
鷹揚にのび/\とした感じのよい歌である、雲の如く水の如く其動きに少しの澁滯もなく、尊とき自然と評するの外はない、然も「朝ふますらん」と云つて、其時刻を知らし、草深野と云ふて季を知らして居る、不用意の間にしまりがついて居る、學ぶべき點であらふ。猶見免してならない點は、長歌の後段は極めて急調的に心の動きを認めたれど、反歌に入つては漸く落つき來つて、緩かな靜かな精神状態に一首が出來て居る、御獵といふ事件と自分との區別が明かになつて、他の樂しみを余所に見る靜かさに返つたのである。
朝ふますらんと云ひ、其草深野と云ふ、詞つきは事件を余所にせる長閑さを充分に現はして居る。
「今立たすらし」と「朝ふますらん」との語調の相違に注意すべきである、此の如く急に此の如く緩かに語調の出來る心裏の状態を察して見るやうでなければ生命ある歌の眞味は解らぬのであらう。
〔十四〕
幸讚岐國|安益郡《あやのこほり》之時軍王見山作歌
舒明天皇十一年十二月天皇伊豫の温泉宮に行幸の折讚岐へも幸ありしことゝ思はる、軍王はどういふ人か判らぬ。
〔五〕 霞立、長春日乃、晩家流、和豆[□で囲む]肝之良受、村肝乃、心乎痛見、奴要子鳥、卜歎居着、珠手次、懸乃宜久、遠神、吾大王乃、行幸能、山越風乃、獨座、吾衣手爾、朝夕爾、還比奴禮婆、大夫登、念有我母、草枕、客爾之有者、思遣、鶴寸乎白土、綱能浦之、海處女等之、燒鹽乃、念曾所燒、吾下情。
かすみたつ、長き春日の、くれにける、わきも知らず、むらきもの、心をいたみ、ぬゑことり、うらなげ居れば、たまたすき、懸けのよろしく、遠つかみ、吾か大王の、いでましの、山越のかぜの、ひとり居る、吾が衣手に、あさよひに、かへらひぬれは、ますらをと、思へるあれも、草枕、たびにしあれば、思ひやる、たづきを知らに、綱の浦の、あまをとめらが、燒く鹽の、おもひぞやくる、吾がしたごゝろ。
和豆[□で囲む]肝之良受文字の上で見ると「わづきも知らず」と訓まねばならぬ譯なれど、「わづきも知らず」と云ふ詞の例はない、然らば上の字「和」が手の誤にて「たつきも知らず」と訓むべきかと見れば、それでは前後の句と意味が接續しない、それで「豆」の一字は誤入したものと見るの外はない即ち「わきも知らず」と訓むのである、十二の卷に、「なか/\に死なば安けむ出づる日の入るわき知らず〔五字右○〕吾れし苦しも」などある例に依て、長き春日のくれにけるわきも知らずと解するのがよいやうである、「村肝」は心の枕詞である、「心を痛み」は家を思ふ情に堪がたく心が痛いとの意、「奴要子鳥」は鳥の名、これは「うら嘆く」へかゝる枕詞である、鳴くさまなどから起つた詞であらう、「卜歎居者」うらなげき居ればなり、「珠手次」は手すきを掛けると云ふ意から、次の句の「懸け」にかゝる枕詞、「懸乃宜久」は詞にかけて云ふのもよろしいと云ふことにて、下の句の朝よひにかへらひ〔四字右○〕ぬればといふかへらひの詞にかゝるのである、家に歸りたくてならないから、かへらひ即かへりといふ詞はかけて言ふにもよいとの意である、「遠神」は天皇は神にていますといふ心で、普通の人間には遠い神との事で云ふのである、「吾大王《わかおほきみ》乃行幸能」は解に及ぶまい、「山越風乃」これは山を越してくる風といふ意であるが、前の句を受け行幸のある山の其の山越の風と解すべきである、「獨座吾衣手爾」は詞の通りである、「朝夕爾還比奴禮婆《あさよひにかへらひぬれば》」は朝に夕に山越の風が吹きかへり吹きかへりすればである、かへらひはかへりの詞の伸たので即「らひ」の切「り」となる、かへらふと云へばかへるの意と同樣である、只此塲合かへらひなど云へば風も緩かなことを意味して居る、緩かな風が却てうら淋しく感ずるのであらう 只朝夕風が吹くといふ事をかへらひぬればと云ふのは面白い云ひ方である、「大夫登念有我母」解に及ばず、「草枕客之有者」草枕は旅の枕詞、「思遣鶴寸乎白土《おもひやるたつきをしらに》」思ひやるは切ない思ひを外へ遣放すの心で即思ひを無くするの意、今の世で互に思ひやるとか、思ひやりがあるとかいふ詞とは全く意味が違ふのである、二句の意は家を思ふ情の切なさを無くすすべを知らずにとの心である、「綱能浦之海處女等之燒鹽之」これは次の句の「思ひぞ燒くる」の燒くるといふ詞へかゝつた序の詞である、「吾下情」は下思ひなどと同意で腹の中でのみ思ひ居る心である、
全首の意は詞の通りであるが、行幸に從つて久しく旅に居れば、家戀しさの情堪がたく、春の長い日のくれたもくれないの別ちも知らず、心痛く嘆いて居れば、詞にかけて云ふにもよろしい、行幸のある山越の風が朝宵にかへりかへり吹く、其風のかへり吹くにも一層家に歸りたさの思ひがまさる、大丈夫と思つて居る自分ながら、旅に居れば其の堪難き思を打消す術も知らなく、あまをとめ等が燒く鹽の、其燒くやうに吾が下心は燒けるといふのである、
句句の接續に少しの巧みがなく、思ひ浮ぶまゝを粒々に言つて、切れては又言ひ起し切れては又言ひ起す、訥辨な人の物言ふ如き句法が、能く此歌の男性的重厚な趣味を現はして居る、後世の長歌が多くは、繩の如くに詞が接續し只細く長くなつて殆ど調子を持つた散文の如くなるに比較して見ると、此歌の形式が能く團塊的にまとまり居ることが著しく目に立つのである、人丸の長歌などは、外觀の句法整然として居つて、内容は却て不自然な感じをさせる歌が多いが此歌の如きは一見した所句法亂雜頗るやりつぱなしの觀があれど、能く一首の全體を達觀して見ると内容も形式も却て能く自然に協つて居る、日本民族が先天的に持つて居る、詞の綾は、勞せずして無造作に自由に使はれて居るけれど、本來素朴な古人の重苦しい詞使が、有の儘に出て居る、うらなげ居ればと云ひさして置いて外の事を十句も云ふて居る、さうして、かへらひぬればと云ひさして置いて又外の事を云つて居る、更らに無頓着に旅にしあればと云ひさして置て次を云ふて居る、最後に六七句漸くに滑かになつて居るが、其の言ひ廻しの拙なこと夥しいに係らず、全體の上から見れば、能く思想を綜合して遺憾がない許りでなく、却て其拙ない言ひ廻しに他に見難き味がある、本集中多くの長歌中に於て色合の變つた調子を持つて居る長歌である、取立てゝ面白いと云ふ程のもので無い樣であつて、なか/\一種の親みある朴直な味のあるよい歌である。
反 歌
〔六〕 山越の、風乎時自見、寐夜不落、家在妹乎、懸而小竹櫃、
山こしの、風を時じみ、ぬる夜落ちず、家なる妹を、かけてしぬびつ、
「風乎時自見」風が止む時もなく吹くの意、時じくは時ならずであれど、時ならずはやがて止まず吹くの意になるのである、「寐夜不落」夜毎々々といふ心で、一晩も休みなくといふ程の意である、「懸而小竹櫃」は心に懸け戀ひ思つて居るのである、長歌にある懸けのよろしきの懸けと此短歌の「懸て」とは少し意味を異にして居る、茲にては人に思を懸けなどいふ詞の「かけ」である、「しぬび」は或塲合には只思ひ出してといふ位の意味に用らるゝこともあるが、茲にはもつと強ひ意味で戀ひつゝあるの意味を持つて居る、
毎日同じやうな調子に山越の風がうら淋しく吹いて毎夜毎夜家なる妻のこと思はぬことはなかつた、との歌意、長歌では、「思ひぞ燒くる吾が下心」と直に現在を歌つて居るが、反歌の方は、「懸けてしぬびつ」と聊か過去の情を歌つて居る、乍併これは別に深い意味があるのではない、長歌では「朝夕にかへらひぬれば」などと刻限に定めを置かぬ詠方であるに短歌は寐る夜落ちずと夜に定まつて居る、それに毎夜毎夜と云へ一昨夜も昨夜もといふことになる、それで結句が自然過去を現はした詞で結ばれたのである、此の何でもない所にも正しき自然が現はれて居る、聊か注意せねばならぬ、
歌は誠に平凡至極なものであるが、二の句「風を時じみ」と切り、三の句「ぬる夜落ず」と切り、五の句「かけてしぬびつ」と切つてある、句々の間にかく切れ/\になつて居つても、全體の上には能く其切れた響が綜合して、遺憾なく感情は統一されて居る、決して時間的に意義を記述せぬのは、韻文製作上大に注意を要すべき點である、
今の多くの詩作家は、輕々しく古歌の舊形式を侮蔑し、何等の研究もなく無雜作に棄去らんとするやうなれど、其の自己等の作れる歌を見れは只雜然として不完全極まる詩形に過ぎず、變化と混亂との識別さへなきものゝ如きは實に嘆ずべきである、本集の歌などが、形式の上に於ても、如何に変化に富み其形式が如何に能く、内容の表現を助けたりしやを研究せるものは無いやうである、相當の形式を借りるにあらざれは、如何なる表情も不可能であることは云ふまでもない、今の詩を説くもの、詩形とし云へば只十七文字、三十一文字、若くは長歌新體詩等の五七とか七五とか七七とか八六とかいふ以上に説がないのは、其淺薄驚くの外はない、内容の表現を全からしむべき、詩形の變化は單に三十一文字内に於ても變化極りなきものである、言換ふれば詩人の天品と性格とに依て詩形は何れにも自のづから成立し來るべき筈であるが、自己の思想感情を具體的作物とせんとするに當ては、詩形と内容との關係が、如何に相影響するかを研究し置くの主要なることを考へねばならぬ 此の反歌の如きは詩形上頗る研究に値するものである。
猶以上の長短歌に就て少く趣味以外の事も一言して置きたい、此集中行幸に供奉した歌が、隨分少くないが、何れも同じやうに、旅が淋しい家が戀しいと云はない歌はない、暗に供奉の苦しい事が現はれて居ない歌は殆ど無い位である、誠實朴直な古人にしては、聊かをかしく思はれる、今の世の人であつたらば、必ず盛コをたゝへ君恩に泣き、供奉の難有さに家を忘るゝなど云ふに極つて居るが、古人は只々旅を淋しがり家を戀しがつて居る、一寸と妙な對照を感ぜられる、乍併一歩立入つて考へれば、古人はどこまでも誠實に正直に供奉するのであるから行幸が長くでもなると實際非常に苦しかつたものであらう、正直の爲に供奉が苦しい、實際苦しいからそれを又正直に告白したのが此時代の歌である、當世の人の表面を實にして、蔭に横着を極め居るものとは非常な相違がある譯である、軍王といふ人如何なる位置の人か知れねど、朝夕に吹返す風にさへ、懸けのよろしくと云つて、抑へ切れない歸りたさを、ほのめかして居る、此正直な僞らぬ告白あつて始めて眞の歌が出來る 此集の佳作が永久に生氣ある所以も後世人の如き虚情といふものが殆ど無いからである、されば行幸の供奉者が、どれもどれも、家の戀しい事許り歌つて居るにも、頗る意味のあることであると思はれる、一言注意して置く所以である。
〔十五〕
中大兄三山御歌
中大兄は天智天皇が皇子でありし時の御名で、ナカチオホヱと讀む、此の如き題詞を置いたのは、此歌が即位以前の作であるからであらう。
〔一三] 高山波、雲根火雄男志等、耳梨與、相諍競伎、神代從、如此爾有良之、古昔母、然爾有許曾、虚蝉毛、嬬乎、相格良思吉、
かぐ山は、うねびををしと、耳なしと、相あらそひき、神代より、かくなるらし、いにしへも、しかなれこそ、うつせみも、つまを、あらそふらしき。
第二句『雲根火雄男志等《うねびををしと》』のをし〔二字右◎〕はえしでなければならぬ、されば『男志』の男は曳の誤字であらうとの説あれど、『をし』は愛《を》し惜《を》しの意にて少しも差支ない、畝火山は女山で香具山耳梨山の二つの男山が、畝火の女山を爭うたといふ神話が此歌の心であるが、何故に畝火が女山で香具山耳梨山が男山であるかは、只古來神話に言ひ傳つた外に何の理由もない、古事記安寧天皇の所に畝火山之|美富登《みほと》云々といふ詞がある、美富登は御女陰《みほと》であるから、上代に於て早く畝火山を女の山と云へるものらしい、山の形状等の感じから、おのづから女山男山など云出したのであらう、上古の民の詩想が窺れて面白い。
一首全體の意は、香具山は女山の畝火を愛し惜んで耳梨山と相爭ひき、男女の關係は神代から斯くあるらしい、神代のいにしへもさうであれこそ、今の現世《うつしよ》も男どもはつま爭ひをするらしき、と嘆じたのである。
『評』此御歌、其意義を解すれは、以上の通りであつて頗る平凡な内容であるが、仔細に詞の調子を吟味して見ると、作者がつく/”\と溜息をついて嘆息したさまが能く現はれて居るのである、『神代よりかくなるらし』の二句の如き極めて自然に前の句を受けて自のづから嘆聲の漏れ出でたるさまを充分に認め得られる、嗚呼神代からかうあるらしいと嘆ずるのは、作者の内心に深く共鳴する處があるからである、かくなるらしと句を切つた嘆じの響きから直ちに次の句を云ひ起すのは、感情の連續からくる自然の詞である、古へもさうなればこそ現世も女を爭ふらしきと如何にも思ひのまゝを飾らず作らず、卒直簡明に叙し去つて嘆聲の餘韻限り無きを感ずるのである、『虚蝉毛《うつせみも》』と今の自分を意識しては、知らず知らず世を憚る心の動き、『嬬乎《つまを》』の一句元來は七言なるべき處に三言の句となれるも、何となく低聲にひそやかな感あるも注意すべきである、思想は固より單純である詞藻も取立て云ふべき佳句もない 然かも、深き嘆息響きが音調の上に溢れて居る、直接には、胸中の總べてを云はないで情調のみが簡單な詞に現はれて居るのは、叙情詩の上乘なるものと云はねばならぬ。
此歌に就いて返復其情調を味ひ見ると、如何にも眞面目に如何にも痛切に、詞藻を弄ぶの感情を飾るのといふ處が、針の先程もない、抑へ難き苦悶が自然に漏らす嘆息は、良心の懺悔を偲ばせて最も強く讀者を動かすのである。
額田王が天智天武兩帝の相爭ひし玉なりしことは何人も知る處であるが、此御歌を見るも中大兄が如何程額田王女の爲に煩悶苦脳されたかを察することが出來る、中大兄は表面戀の勝利者であつたが、それに就ては兄の權威皇太子の勢力大勲功者の重望等を以てして、隨分無理を犯しての勝利であつたに違ひない、無理な勝利それが、益々良心の懺悔と苦悶とを多からしめたのであらう、それ程の裏面を有した御歌であるから、詞調の上に溢るゝ情調が尋常でないのである。
反 歌
〔一四〕 高山與、耳梨山與、相之時、立見爾來之、伊奈美國波良、
かぐ山と耳なし山とあひし時立て見に來しいなみくにはら、
第三の句『あひし時』のあひしは會戰などの會の意で相戰ひし時の意である、此歌は播磨風土記に、出雲國阿菩大神、聞大和國畝火香具耳梨三山相闘、以此欲諌山上來時、到於此處、乃聞闘止云々、此古事を想像して詠めるものにて、歌の意は詞の通りである、阿菩大神があはれこゝまで見にこし、其のいなみ國原と云ふのである、神話其まゝを歌の調子にしたまでであるが、其大まかな叙し方と寛潤な調子とが能く神話にかなつて居つて何となく面白い、阿菩大神の事は少しも云つてないが、香具山と耳梨山と會ひし時見に來たものは阿菩大神より外にないから云はなくとも判るのである、後人の歌は云はなくつても判つてる事を事々しく云ふ爲に自然を失ふことが多い、此歌の作法の如き其點に於て注意し置くべきである。
『評』此反歌と長歌との關係に就て少し言うて置かねはならぬ、長歌の方には前にも云へる如く、皇子内心の情緒が詞調の上に溢れて居るが、此反歌に至つてそれが少しも無く消えて終つて、單に神話其物の興味を歌つたものになつて居る、注意すべきはそこである、長歌の方とて表面は神話より今の世もさして神世に變らぬとの意味であるが、作者内心の苦悶と神話の事件と思はず共鳴を起したので、長歌には覺えず情調が現はれたのである、元來が世にあらはに云ひ難き内心の情緒であるから、反歌に及びてはわざとでなく再び神話に戻つて、内面の露れを掩うた趣きである、いづれかと云へば長歌に於て、あれ程嘆聲を漏らしたのも、内心に包める實情から我知らず、事に逢うて嘆聲を發したのであらう、されば此御歌はそれだけ自然の響きがあるとも云へる。
〔十六〕
近江大津宮御宇天皇代
大津宮御宇は天智天皇の御代である。
天皇詔内大臣藤原朝臣。競燐春山萬花之艶。秋山千葉之彩時。額田王以歌判之歌。
内大臣藤原朝臣とは鎌足公のことである、此詞書の意は、天皇内大臣に詔して、春の花と秋の紅葉といづれか面白きと人々に云ひ爭はしめた時に、例の才女額田王が歌を以て判じたといふのである、春がよいか秋がよいかなどいふこと隨分古くより言ひ爭うたものらしい、無邪氣ぢやと云へば云へるが、要するに幼稚な物爭ひであらう。
〔一六〕 冬木成。春去來者。不喧有之。鳥毛來鳴奴。不開有之。花毛佐家禮杼。山乎茂。入而毛不取。草深。執手母不見。秋山乃。木葉乎見而者。黄葉乎婆。取而曾思奴布。青乎者。置而曾歎久。曾許之恨之。秋山吾者。
冬ごもり、春さりくれば、鳴かざりし、鳥も來鳴きぬ、さかざりし、花も咲けれど、山をしみ、入りても取らず、草深み、とりても見ず、秋山の、木の葉を見ては、もみぢをば、とりてぞしぬぶ、青きをば、置てぞ嘆く、そこしたぬし、秋山吾れは。
『冬木成《ふゆこもり》』成は盛の略字であらうとの説がよろしい。『入而毛不取《いりてもとらず》」取は聽の誤字で「入りても聽かず」と訓むべしとの説が多いけれど、それは宜しくない、予は斷じて此句、「取らず」でなければならぬと信ずる。(趣味の上より考へたことは後に云ふ)上の句に「鳥も來鳴ぬ」といふ句があるから、此句をそれに續けて「聽かず」と訓まうとするは、甚だ淺い考である、古代の長歌の句法は前句の意義を次々と直接に續けないで、粒々と云ひ置いて全体にまとめるのが慣用手段でそれが面白いのである。前に中皇女の歌、「朝獵に今立たすらし夕獵に今立たすらし」などに見るも、一句は全く飾句である、今〔右・〕といふ詞さへ入れて朝夕と云うて居る、此長歌でも「鳴かざりし鳥も來鳴きぬ」の二句は只花の句を起さんが爲めの序詞であるから、鳥の句の意を前々の句へ續けては一篇のまとまりがつかなくなるのである、原來花と紅葉との對照であるから、鳥が働き過ぎては花と紅葉との對照がとれなくなる、況や此歌紅葉を主とせるをや、鳥を聽くと花を採るとは趣きが大に異なつて居る、鳥を聽くに茂みへ足を蹈み入れて聽くなど云ふことがあらうか、此作者の趣味感覺はそんな迂愚なものではない、『取而曾思奴布《とりてぞしぬぶ》』「しぬぶ」といふ詞には幾通りの意味があれど、茲では愛し賞するの意である、『曾許之恨之』恨は怜の誤字であるとの説をとる 併し「おもしろし」と訓むはよろしくない、三卷贊酒歌に世間之遊道爾怜者《よのなかのあそびのみちにたぬしきは》云々とある如く「たぬし」と訓むべしとの古義の説がよろしい。
全篇の意は、春なれば、鳥も來鳴く、花も咲いてあれど、茂みに蹈込んでまで手折りもせぬ、草の深みへ入つて手にとつても見ないが、秋山の黄葉となると、茂みに這入つて手にとつて愛玩せねばゐられぬ、それで青いのを採れば、これは未だ青いと云つて置くが、そこに春の花よりも黄葉の方が強く感ぜられて樂しい、されば秋山がたのしい吾れはと云ふのである。評し云へば、此作全体に意義の面白味と文藻的技巧とで持つて居る。此時代の他の長歌に比べると、情調の味ひがなく從て含蓄に乏しい、一言にして云へば、淺薄な感じを免れない歌である。尤も其筈であらう、裏面に深い事實を持つて居る歌と、此作の如き題詠的作物とは比較にならぬが當前である。爭はれぬは、才氣と技巧とで成立つた作は、材料が多く文字が花やかで理智が勝れて居つても、奧行がなく、讀者を引入れる力がない、反復賞味する深みがない。
かういふ作意が一歩を出れば遊戲に落るのである。春を歌つて春の感じが充分でない、秋を賞して秋の要概を盡し得ない、只これだけの短い詞で兩者を巧みに對照比較せる技巧で物にした歌であるから淺いのである。萬葉集第一の女詩人と思ふ此作者であつても技巧を宗と作つた歌は此通りであるから眞の歌は得難いのである。そこで予は一言斷はつて置く 最高の理想を以て見るから此歌に對しても非難を云ふものゝ決して此歌を駄作と云ふのではない、技巧と云つても其技巧に厭味があるのでも何でもない 理智と云つても其理智が趣味を傷ふ程働いてるのではない。詞を巧みに章なした中にも悠揚迫らず俗氣などは少しもない 此集中にも此歌より劣つた作はいくらもあるのである。
此歌能々吟味して見れば深みのない歌であることは以上云うた通りであるが技巧と目立たずして頗る技巧の勝れて居る處は注意して參考に供すべきである。此の如き作意の歌は、どうしても説明になり易く唱呼が虚詞になり易いが常であれど、此歌の措辭悉く現在的實躰的になつて居る。或は作者は茲に深き用意があつたのかしらと思はれる。第二句「春さりくれば」は春にしあればで、春がくればの説明ではない。鳥も來鳴ぬ、も現在的である。普通の句法で行けば、春がくれば鳥も鳴きてと後の句へ接續すべきを、「來鳴ぬ」と切つて現在的にしたのは決して考なしにした事ではない。
「花も咲けれど」は花も咲くけれどではなく、花も咲いてあれどである。以下悉く現在的な詞である。「山をしみ入りても取らず」山の茂みを厭はずに入りても取らずで、此二句の間に省略があるから平坦な記述に陷らないのである。「草深みとりても見ず」も同樣である。全篇十八句より成立つた短篇であれど、第四句で切れ、第八句で切れ、第十句で切れ、第十四句で切れ、第十六句で切れ、最後の二句又共に一句獨立の句で結んで居る、十八句中七個所に切句を使つて居る。句法の變化此類の如きは少なからう。大抵の人は此歌を平坦に讀去つて深き注意を留めないのであらう。さうして句法の曲折變化に妙を盡して居るに氣付かないのであらう。此作者の凡手にあらざるを證するのである。根柢に理智の多い歌にして、これだけ説明を脱して實躰的に表現し得たのは以上に云へる句法の妙技に依るのである。記述的作意の作でありながら、能く文章に陷いるの弊を免れ得て聚團的表現を成し得たのも全く深き技巧上の用意に依るのであることを察せねぱならぬ。
春を歌うて充分春を捕へ得なく、秋を歌うても充分に秋の要を拔き得ないにせよ、僅に十八句の短文字を運用して、春に對し秋に對する自家の實行爲を具体的に描寫し比較し去つて、猶悠揚迫らず、兩者に趣味上の決定を下すに只二句を以てせるなど實に妙技絶倫と云はねばならぬ。技巧の上の成功斯の如く大なるに係らず、作物としての成功をそれほどに認め難きは、實際的感興を基礎とせざる作物の免れ得ざる弊であらう。實に詩人の秒時も忘れてならぬは、歌は作つてはならぬ出てこねばならぬといふ根本理想である〔歌は〜右○〕。
猶言殘した點を云へば、第八句の「入りても取らず」は大まかに枝を手折るといふ意味に感じ、第十句「とりても見ず」は稍繊細に指頭に弄ぶものゝ如く感ぜらる、「とる」の詞は同じであれど感じは明かに二樣に感受することが出來る、これが韻文の妙用である 輕く讀去つてはならない。春の花は茂みに入つてまでは採らない 紅葉を見れば採らずに居られないといへるも、理屈を離れた感じであるが、實際花の色よりは紅葉の色は感じが強く刺戟が多い。千年前の人も今日の人も此點に相違はない。花も隨分手に取つて遊ぶが常であれど、紅葉と對照した時に手に取つて愛賞したき感じは、慥に紅葉に強い。此の細微な感じの差違を比べ擧げて、春秋の好みを判つた此作者は實に趣味感覺の極度に發達せるを察することが出來る。千年後の今日の詩人が、猶趣味感覺遲鈍を極め居るを見ては、只々嘆息に堪へないのである。
明治42年4月・9月〜12月『アララギ』
署名 伊藤左千夫
萬菓集新釋 一卷上
〔十七〕
額田王。下近江國時作歌。
此女王が近江國に下つたといふ事を、古義には、天智天皇紀に、「六年三月辛酉朔己卯、遷都于近江」とあれど、それより以前に故ありて、近江へ下り給へる時に作られたものであらふと云ふてあるが、此説は何の據る處もない説である。此歌が已に、近江大津宮御宇天皇代といへる欄内にあるにても、此歌は決して遷都以前の作でない事が解る。額田の女王が近江へ下つたのは(此作歌の時)既に遷都せられた天智天皇より召されて下つたものと見ねばならぬ。近江に都が遷つた以上は、近江に下ると云はず近江に上ると云ふべき樣なれど、此詞書は額田王が書かれたものではなく、此集の選者が後より書いたもの故、近江へ下ると書かれたものであるらしい。「下る」といふ一字あるために遷都以前の歌と思ふのは、餘り文字に拘泥した考である。此事は歌の解釋上に關係があるから云ふて置くのである。
〔一七〕 味酒。三輪乃山。青丹吉。奈良能山乃。山際。伊隱萬代。道隈。伊積流萬代爾。委曲毛。見管行武雄。數々毛。見放武八萬雄。情無。雲乃。隱障倍之也。
うまさけ、みわの山、青丹よし、奈良の山の、山の間ゆ、いかくるまで、道のくま、いつもるまでに、つばらかにも、見つゝゆかむを、しば/\も、見さかむ山を、心なく、雲乃、隱さふべしや。
「うま酒」は枕詞なり、三輪へかゝる。「三輪の山」は三室の山〔四字右○〕とも云ひ、神奈備山〔四字右○〕とも云ひ、大和の名山で奈良より四里程隔りたる山なれど、奈良坂よりは能く見ゆる山なりとの事である。「青丹よし」枕詞。「山際」は「山際從」で「從」の字脱したるらし、故に「山のまゆ」と訓む。「いかくるまで」の「い」はそへ字。「いつもる」の「い」も同じ。「道の隈」は道の曲りと云ふ程の意で、道のくまがつもると云へば、道の曲り曲りが重りつもるの意で段々離れてゆくありさまである。「委曲毛」は「毛」の字は「爾」の誤にて「つばらかに」と讀むとあれども、予は寧ろ「曲毛」の間に爾の字を脱したるもので「つばらかにも」と六言の詞に讀みたい。「見さかん山を」は見さかりつゝ見て行かん山をと云ふ意である。「雲のかくさふべしや」は「かくすべしや」である、かくすべし即ち隱くせの反對であつて隱すなかれ、隱してはならぬ、隱すと云ふ事があるかといふ樣な意味である。前の詞からつゞけて、心なく雲の隱すべしや、隱すといふことはあるまい隱すなよと、強く希望する意味である。古義に云ふ樣に、隱すべしやは、かくしてあるべしやは、と云ふては少しく解りかねる。心なく雲の隱しはせまいと樣に弱い意でなく、命令の意を含んだ強い希望である。茲の「や」は今日の「てには」の「やは」とは聊さか違ふ樣である。さう解して見ねば、前の句々の熱烈な感情と一致のないのである。猶反歌の處にて云ふべし。
歌の意は、三輪の山嗚呼三輪の山よ、奈良の山の山の間から、かくれて見えなくなるまで、道のくまくま重なつて遠くなるまでも、つばらかに見つゝ行きたい山を、しば/”\も振さけ見さけして見つゝ行きたい山を、心なくも雲の隱すといふことがあるか。嗚呼三輪の山といふ樣に絶叫的に嘆じたのである。
評。苟も萬葉集を讀むもの、苟も我國上代の詩を知らんとするもの、否眞の詩といふものゝ味ひを解せんとするものゝ、假初にも見過す事の出來ない歌である。作者は云ふまでもなく、我國上代に於ける唯一の女詩聖であつて、限りなき戀の悲痛を深く胸底に包みつゝ、現はには泣くことも出來ない境遇に懊惱した時に、其遣瀬なき思を僅に漏らされた歌が、即此歌であるのだ。
此歌を充分に味はうとするには、先づ此歌が如何なる背景を有するかを考へてかゝらねばならぬ。詞書の項にて一寸言ひ置いた如く、此歌は、天智天皇が都を大津に遷された時、直に其愛する處の額田女王を大津に召寄せたものらしい、女王は召さるゝまゝに近江へ行かんとして三輪山を顧みつゝ悲痛の情遣瀬なく、此歌を作られたのである。これだけでは固より此歌は解らぬが、三輪山は當時の皇太弟大海人の皇子の居所であることを注意して置かねばならぬ。
みもろの山見つゝゆけ吾背子がいたゝしけむ嚴橿がもと(前にある歌)
此歌に見るも女王が三室即三輪山に如何に執着されたかが判るであらふ。大海人の皇子は 紫の匂へる妹を憎くゝあらば人妻故に吾れ戀ひめやも
の作者で、女王が天智天皇の夫人と召されない以前の戀人である。然かも女王の長歌や此短歌のある處より察すれば、女王が天智帝に召されたる後にも皇太弟との相思の情は爭まなかつたに相違ない、即女王の眞の戀人は皇太弟であつた事勿論であらふ。
天皇は神にしませばと歌はれた時代であるから、天皇の召命は即ち神の召命で、女王も天智天皇の召命に違ふ事が出來なかつたのだ。眞の戀人を棄てさせられて天皇の夫人とせられたのである。愈大津の都へ召寄せらるゝ事になつて、奈良を出づるに臨み、戀人の宮地なる三輪山を望見すれば、雲は山を掩ふて山も見えない、感情の熾烈なる詩聖女王が、茲で其堪へ難き懊惱を漏らさずに居られる譯がない、此長歌は即それである。
詩聖女王の一身は、一は現帝、一は皇太弟との間に戀の爭点であつたのである。然かも女王は眞の戀人たる皇太弟に別るゝをかなしみ、遙かに三輪山を見て悲泣の聲を呑んだ。現はにさうとも云ひかねての此長歌は、一言一句悉く其音底に燃ゆるが如き熱情を藏め居るのである。
柿本の人麿は近江の朝廷を去ること僅かに數十年であるのに猶人麿が大津の宮址を悲むの歌には、「如何さまにおもほしけめか」云々とあるのであつて、天智帝が中年にして俄かに近江に遷都せられたるは、當時に於て既に其理由を疑はれたることは其人麿の歌に見ても知ることが出來る。予は早くより大津遷都の深因は詩聖女王の一身に關係あるにあらずやと思へり。人或は云はん賢明なる中興の天子が一婦人の爲に遷都を敢てせんと、予は又賢明なる中興の天子すら、皇太弟たる人の戀人を奪ふことを敢てする程戀は恐るべきものであると思ふのである。凡そ人生に罪深きこと戀を奪ふより、罪の深きことはあるまい。近江の朝廷が忽ちにして荒廢の運を免れなかつたも、帝が逆戀の非行之を然らしめたるにあらずやと思はれないでもないのである。
詩聖女王は、此の如き境遇にありし人々で、此歌は其内面の消息を傳へた歌である、十六七句に過ぎない短篇の詩章なれども、大なる歴史を背景とせる實に多大なる含蓄を有する此歌は、一字も忽に見ることは出來ないのである。
女王は内に熱烈なる感情を有しながらも、能く其情を抑ゆることの出來る意志力があつて、常に前後を考ふるの思慮を缺かなかつた事が、此歌によつて知ることが出來る。當時にあつて、若しも女王が只管感情に熱して、一身の處置に思慮を缺いたならば、天皇と皇太弟との間に、如何なる事變を引起すか判らないのである。女王は能くそれを考へて吾が一身を處置したらしい。或は女王が身を全ふして天智天皇の夫人となられたは、皇太弟の旨を受けての分別であつたらふかとも思はれるが、此歌に見て、女王の性格は情に熱しつゝも猶能く自ら戒めて取亂さない人であつた事が判るのである。
此歌の如き内容の塲合なれば大抵の人は初句より絶叫的語調を以て起し來るが普通であるに、第一句に枕詞を置き第三句に枕詞を置き第一句より第四句までに二句の枕詞を使用した爲に、初め四句は如何にも悠揚たる語調になつて、奔らんとする思ひを差扣へて靜にして居る趣きがある。然も二の句直ちに「三輪山の」と急呼せずして、「三輪の〔右○〕山の」と「の」の一語を插入した爲に、語調を荘重にし、後に奔放なるべき勢を、茲に貯へてある感がある。四の句に至つても猶「奈良の〔右○〕山の」と奔放を抑へて放たない。此邊の用意は作者が自然的に爲し得たるものと思はるれど、此詩を味ふものゝ見殘してはならぬ點である。第五句以下は層々として寄せ返す波の如くに、情緒の波動を勢に任せて、一句は一句より強く「心無く」「雲の隱さふべしや」と熱情の極、雲にも山にも命令せん許りに※[口+斗]破して居るのである。極度に強く云ひ放つて多くを云はざる處に、限りなき哀情の動揺は餘韻に現はれ居るのである。後世人の拵歌には、對句は殆ど情調に關係なき飾詞である。此歌の、「委曲爾毛《つばらかにも》見つゝゆかんを」「しば/\も見さかん山を」などの對句は、情緒の動きから自然にかうならねばならないのであつて、少しも粧飾らしい感じはないのである。
第一句二句で、荘重に三輪の山と呼掛け、一篇の燒點たる三輪の山を眼目に据ゑ置き更に向きを變て熱烈な思ひを云ひ出して來る句法は、此歌の他に變つて居る處である。猶最も注意すべきは、「見さかん山を」「隱さふべしや」等の句が、殆ど獨創的の句であつて、無論此作者の造語であるらしい。此萬葉集中五千の歌中にも此の如き詞はない、後世にも今後にも恐らくは、此詞を此歌の如く適切に使用したることは出來なからふと思ふ。適切な言語は只一度でなければならぬと云ふた人もありしと聞いたが、詩聖の造語に至つては眞に然りである。哀情の溢るゝ處、言語が自然に湧來つて、無造作に出來た歌らしいが、誠に永久不滅の性命ある詩と云はゞ、此歌の如きがそれであらふ。面白いと云ふよりは、直ちに感情の生動に觸るゝ樣な歌である。前の「秋山我れは」の長歌は作り歌の巧妙なるものであるが、此歌は感情の漲溢から動く自然の妙趣である。
反 歌
〔一八〕 三輪山乎。然毛隱賀。雲谷裳。情有南畝。可苦佐布倍思哉。
みわ山を、しかもかくすか、雲だにも、こゝろあらなむ、かくさふべしや、
詞は解釋するに及ばぬ。歌の意は、自分がこれほど戀しく見たく思ふ、三輪山をしかもそのやうに隱すのか、雲のやうなものなりとも心はあれ、わがこれほどに見たく思ふ山を隱すといふことがあるか。われに三輪山をかくすなといふのである。猶「べしや」に就て一言して置く「べし」といふ詞は二樣に使はれて居る、例へば「隱すべし」と云ふにも隱くせと命令する意になる塲合と、隱すことが出來るといふ意になる塲合とがある 何々を取るべしと云ふにも、取り得るといふ意と、取れよと命ずる意とあるが如く、此歌の「隱さふべしや」は隱すべしと命ずる意の反對になるのである、それで「隱さふべしや」は隱すといふことはない隱しちやならぬと云ふ意になるのである、猶前にも云へる如く、此詞は此作者の造語であるらしいから、此詞を此歌に於て適切なる如く、他に於て適切に用ゆることは容易に出來ない。
胸に溢るゝ無量の思ひを、意義に於て一語も漏さず、只三輪山の見えない事許りを嘆じて居る。少しも餘計な事を云はないで、同じ事を又短歌で繰返して居る。此の如き作法も又參考として注意を拂ひ置くべきである。乍併予の見る處では、此反歌は無くもがなの感がある。長歌で既に充分である、多く云はない處に餘韻が籠る質の歌であるから、長歌だけにして置く方が奧ゆかしいのである、此長歌の如き極めて眞面目な精神の籠つてる歌に、少しでも云ひ過しては、實意が減ずることになる。「心無く雲の隱さふべしや」とつゝましやかに云ひ留めて置く處に奧ゆかしい味ひがあるのを、反歌の如くに、「三輪山を然かも隱すか」既に才走つた詞つきである、「雲だにも心あらなん」愈才走つて居る、長歌に寄せた同情が反歌になつて大に滅し去つた どうしても此反歌は無い方がよい。
井戸王即和歌
井戸王はどういふ人か判らぬ。
〔一九〕 綜麻形乃。林始乃。狹野榛能。衣爾著成。目爾都久和我背
へそかたの、はやしのさきの、さぬはりの、きぬにつくなす、目につく吾か背。「へそかた」は地名であらう。「さぬばり」は「さ」はそへ詞でさ〔右○〕走るさ〔右○〕渡るのさ〔右○〕と同じである。「野はり」は能く判らぬ「岸のぬはり」とか「土はり」とか「住吉の岸の埴生」など皆似寄つたもので、衣などを染められるものであるらしい。「衣につくなす」は衣につく如である。
此歌四句までは序である。目につくと云はん爲に上四句は作爲したものである。歌の意は、へそ方の林の前にある野はりの衣につく如くにつき易く目につく吾背と云ふまでで、親しい人の中でも殊に目につきてなつかしいと云ふのである。
評、此歌は古くより、和ふる歌に似ずなど云ふて、解者皆が、此短歌は額田王に和した歌であらうと云ふて居れど、予は無論長歌に和した歌と信ずるのである、此短歌の結句「目につく我背」の我が背とは、大海人の皇子を指すのである、此井戸王なる人は大海人の皇子にも親しく、額田王にも親しい人であつたらふ。額田王の精神を能く解して居るから、額田王が今大海人の皇子を戀悲み、三輪山を見るに事寄せて詠める歌に和して、王女が戀悲むのに同情したものに相違ない、王女の嘆くも無理はない、自分等にも、野はりの衣につく如く、つき易く目につく我が背と大海人の皇子も親しい人であるから、我が背と云つたのであらふ。かう云ふ風な和し方が、ほんとに和する歌になるのである、單に詞の上にのみ、調子を合せる和《こた》へ方は、戲れであるのだ、此歌只無造作に詠み下した歌のやうなれど上三句の間に「の」の字が四つ使つてあるが、其使方が何となく語調をなして居る、下二句も二句共に語音の屈折が、上の「の」字の使方と調和して、音節に愉快を感じさせる歌である。
此歌を多くの人々に充分解し得られなかつたのは、額田王の長歌を、只一通りに、三輪山をなつかしがつて作つたものとのみ思つて居つたから、此歌の和意も解らなかつたのである、額田王の長歌は、世間の聞えもあるから、三輪山に事寄せて、大海人の皇子に別るゝを悲んだものと、氣がつけば、此短歌に云へる、目につく我が背の何人なるかも譯もなく判るのである、何時もながら、國學者先生達の解釋は暢氣なものである。
〔十八〕
明日香清御原宮御宇天皇代
是は天武天皇の御世である。
天皇御製歌
〔二五〕 三吉野之。耳我嶺爾。時無曾。雪者落家留。間無曾。雨者零計類。其雪乃。時無如。其雨乃。間無如。隈毛不落。思乍叙來。其山道乎。
みよしぬの、みかねのたけに、時なくぞ、雪はふりける、まなくぞ、雨はふりける、其雪の、時無きがごと、其雨の、まなきがごと、隈も落ちず、思ひつゝぞ來る、其の山道を、
『耳我嶺』は『ミカネノタケ』と古義に訓じたのがよろしい。即ち今の金峰山の事ぢや。金の嶽と古來稱し居る山である。加茂眞淵が『ミヽカノタケ』と訓んでるのは、殆ど據る所のない説である。『ミ』はみ吉野のみと同じく美稱で御金である。『時無曾』は時じくなど云ふ詞と同じである。御歌の大意は、吉野の御金の嶽に、始終雪は降つてる、間斷なく雨は降つてる(大和の金峯山は頗る高山であるから、他の平凡な山とは大に違つてるのである)其雪の時無く降るやうに其雨の間なく降るやうに。其の山道を隈も落ちず思ひつゝ來るといふのである。云ふまでもなく詞の裏には苦悶の情抑へ難いものがあるのである。何の事をそのやうに思ひつゝ來るのかは詞の上には示されてないけれど、或る心に苦しい事を、一筋に其事許りを強く思ひつゝくるとの意である。
評。先づ形式の上から吟味して見る。此長歌を輕く見ると、時無くぞ雪は降りける、間無くぞ雨は降りける、其雪の云々其雨の云々と、如何にも句法の上に技巧を弄して、詞の綾を飾つたものゝ如く見えるのであるが、此時代の長歌をさういふ風に見るのは甚だ淺い見方である。彼の橘守部が、長歌格などいふものを唱へ、長歌には必ず對句が無ければならないやうに云へるは、實に愚を極めた話である。恐らく守部許りではない大抵の歌人はそれ位の考しかなからう。尤も弟子取りをして初進の者に教へるにはそんな事の必要もあるかも知れないが、さういふ淺薄な見地で、作歌も爲し古歌をも解するのであるから、悉く外面の形許りを弄んで居る樣になつたのである。乍併初進の人が歌に入らうとするには習學の必要上初めは幾分古歌若くは先輩の作を摸倣せねばならぬ事情もある樣なれど、此摸倣といふことはどうしても形を摸することになるものであるから、自然詞の綾を悦ぶの弊に陷り易い。後世の歌が墮落を極めた理由には種々の原因もあるけれども、此詞の綾を悦ぶの弊が尤も禍を爲したのであるから、人を教ふるものは深く茲に注意せねばならぬ。一度言語の綾を悦ぶの弊に陷れば、自己の作物には拵物を作り、古歌を解するには其内容を味ふことが出來なくなる。古來幾百の歌人等が、遂に其蒙を脱することを得ざりしもの、唯一詩作上内容と表現との關係、言語と思想との關係を能く考ふることが出來なかつた爲めである。
談枝葉に渡つたやうなれど、此長歌の如きは最も言語の綾を旨く作られた如く見える歌であるから殊に茲に一言した譯である。そこで篤と此長歌を讀み味うて見ると、此歌に用ゐられた對句は決して詞の綾の爲に云うたのではなく、此の如く云はなければ、 天皇當時の御心持に滿足が出來なかつたからである。言換て見ると、知識的にはそれほど六つかしい事ではなく、只情的にどうしても懊惱が去らないと云ふやうな塲合には、自分ながら馬鹿々々しいと思ひながら猶其事許り思はれて仕方の無いのが常である。それであるから其考へられて仕方の無い事も實は極めて單純な事でぐる/\廻りに同じ事を千百度も繰返して考へるといふ、云はゞ愚痴の状態になるのである。かういふ塲合に自己の内面を發表すれば、必ず同じ事を繰返すことになるのである、冷淡に一言云うたゞけではどうしても感情上それでは氣が濟まないのである。思想の表現上對句の起るのは、斯る自然的心理の發作より出たものである。此長歌の對句も即ちそれであることは、全首の詞さまが極めて眞面目に、只一心に思ひ詰めて居る情態が、調子の上に感取せらるゝのに察すべきである。心理の自然から出た繰返しの對句か、詞の綾に拵らへた對句かを、感別することは一に讀者の詩的敏感に待つの外なく、知識的論理的には説明し得られない問題であるから、言語の調子に傳はつて現はれ來る細微なる作者心裏の動きを、感取して味ふべきである。飾り過ぎた對句の無要なる響きは、作者心裏の表現を撹亂する外何の働きも無いものである。此一句が面白いなどいふ樣な一句特別に部分的趣味を持てば、必ず一首全體の調子を破ること、自然の發作に反した對句が内容の表現を妨げるのと同じ意義に於て避けねばならぬのである。
猶一言して置かねばならぬは、如何に作者の自然的心理の發作を重んずるにしても、此長歌の如き著しき形式に近い詩形を、無頓着に借りて來るが如きことは、詩の創作的生命の要求から、大に考慮を要すべきことである。既に本集十三の卷に大體此長歌の詩形を借り、巧に換骨を試みて居るけれど、さういふ事は要するに、遊戲的に陷り、詞は僅かの相違ながら調子が自然輕浮に流るゝを免れないのである。
それから此歌の内容はと見ると、吉野の山道を間なく時なく思ひつゝぞ來ると云ふだけであつて、其他の意味は少しも示されてないのである。それで此長歌は古來種々の意味に解されて居る。單に吉野の景色を愛して詠まれた樣に解した淺薄の解もある。大津の朝廷の仕打を憤られ將に蹶起せんとする前の決心を詠まれたといふ説もあるやうである。古義だけは戀の歌と説いてある。予もそれには同意である。先にも云へる如く、愚痴に近い情緒を含める此長歌は、決して天下の大事に就て思ひ悔むといふやうな、壯烈な感情を歌うたものでない事は勿論である。日本書紀には及壯雄拔神武などあり、其吉野に入らるゝや虎を山に放つと謳はれた程の天皇が、大事を思ひ立つて此長歌のやうな、繊弱な情緒に惱みさうに思はれない。
それでどうしても予の考は矢張り戀の歌と解するのである。背景の多い戀の歌であることを疑はないのである。原來詞書のあるべき歌であるのに、詞書が無いので一寸と解釋に苦むけれど、弄びに歌を作るやうな事の殆ど無い時代で、殊に此天皇の御製として見れば、御一代中殊に強く感動あらせられた時の御製に違ひないと斷ずることが出來る 古來此道許りはと云はるゝ戀にかけては、 天皇皇太弟とある方々にも、或は儘ならぬ戀を嘆ずることが無いとは限らぬけれど、雄拔神武と稱せられた 天皇に此御製あらしめた女子は當時如何なる人なりしか、 天皇御位に即かれた時御年五十を過ぐ、而して雄拔神武の天資と至尊の御位にあつて、此御製の如き戀歌あらしめた女子は抑々如何なる人ぞ。史乘又何の傳ふる處ないのである。斯う考へてくると、御年五十の老天子が御一代只一度の長歌の御製を、名も無き一女子の爲に後世に傳へた事を疑はぬ譯に行かないのである。此の如き事に餘り想像を働すは危險の感なきにあらざるも、此の天皇をして此御製あらしめたもの例の額田王女の外無しと思はれるのである。額田王女が近江へ下る時の長歌にも、何の爲に三輪山をそれ程に戀ひしかと思はしめ、此御製又何事をその樣に思ひつゝ來るかと思はしめるなど甚だ相似て居る。予の見る處額田王女の長歌も此御製もいづれも當時に於ては、明さまに作歌の原因を公表し難き事情ありしを思せるのである。只文書の上に明示されざるも、是等の歌は其當時に有つては、其如何なる塲合に作られたかを殆ど知らぬ者は無いといふ有樣で有つたのでは無いかと思はれるのである。
かう考へて見ると、此御製は 天皇御製とあれど實に皇太弟の時の御作であつて、御即位の後朕にも、此の樣な御製があるなどゝ御示しあつたのを物の本には御製と記されたもので、此天皇御製の文字に餘り拘泥は出來ないと思ふ。されば想像次手に想像を許すならば、此御製は、天智天皇七年蒲生野に遊獵の時皇太弟(即ち天武天皇)も御狩に從ひ、額田王女の『紫野行きしめ野ゆき』の歌に和して『人妻故に我れ戀ひめやも』の御歌ありし後、奪ひたる戀人を目前に見せつけた兄天皇の無法に、さすがに天皇も怨恨と煩悶とに堪へなかつた頃、御製ありしものと思はれるのである。額田王三輪山の歌の所にても云ひたる事故重ねて云ふの必要なけれど、今は所謂人妻となつて居つても猶思ひ絶たれない程の戀人を權威の爲に奪ひ去られ、然かも目前に其人妻たるの有樣を見るさへあるに女は猶自分を思ふて居ると知つた時は、如何に意志の強い人と雖も懊惱せぬ譯にはゆくまい 此御製は即ち其抑へ難き懊惱からなつたものであるまいか。
予は種々な點から考へて此御製はどうしても額田王女に對する懊惱を御製ありしものに相違ないと斷ずるのである。因に云ふ。蒲生野遊獵の時の贈答があつてより、三年にして壬申の亂があり、其翌年天皇御位に即いたのである。
明治43年1月・3月『アララギ』
署名 伊藤左千夫
柿本人麿論 萬葉新釋一卷中
〔十九〕
始めて人麿の作歌を評釋するに就て、序論的に少しく人麿の作歌全體を論じ置く必要があるので、今回の評釋は一作歌を評する傍、廣く人麿の全體を論じた點が多いから、茲に掲ぐる體裁上敢て人麿論と名けたのである。
藤原宮御宇天皇代
藤原宮御宇は持統天皇の御世である。
過近江荒都時。柿本朝臣人麿作歌。
天智天皇六年、飛鳥崗本の宮より、近江の大津宮に遷都せられ、僅に五年にして天皇崩御、翌年五月大海人大友二皇子の軍平ぎ、大海人皇子は飛鳥清見原宮に即位せられたので、やがて大津宮は舊都と荒敗したのである、
〔二九〕 玉手次。畝火之山乃。橿原乃。日知之御世從。阿禮座師。神之盡。穆木乃。彌繼嗣爾。天下。所知食來。虚見。倭乎置而。青丹吉。平山乎越。何方。所念計米可。天離。夷者雖有。石走。淡海國乃。樂浪乃。大津宮爾。天下。所知食兼。天皇之。神之御言能。大宮者。此間等雖聞。大殿者。此間等雖云。春草之。茂生有。霞立。春日之霧流。百磯城之。大宮處。見者悲毛。
たまたすき、畝火の山の、橿原の、ひじりの御世よ、あれましゝ、神のことごと、つがの木の、いやつきつきに、天の下、しろしめしける、虚みつ、大和を置て、青丹よし、奈良山を越え、いかさまに、おもほしけめか、天さかる、ひなにはあれど、石走る、近江の國の、さゝなみの、大津の宮に、天の下、知ろしめしけむ、すめろぎの、神のみことの、大宮は、こゝと聞けども、大殿は、こゝと云へども、春草し、茂く生たり、霞立つ、春日のきれる、百敷の、大宮ところ、見れは悲しも、
此歌許りではない、萬葉の歌を解釋するには、先づ其文字と訓方とを正してかゝらねばならぬ。此長歌は殊に甲本と乙本との差が甚しい。何れを正しいと容易に定めかねるのであるが其歌柄に適ふべく考へ定める外はない。聊か異同を示すならば、『天下所知食來』一本には『天下所知食之乎』とある。古義などは此方を宜しいとしてある。併しこれは『所知食來』が宜いのである。神武天皇此方代々の天皇が悉く天下を知ろしめしてきた、其大和を置きて云々との歌意であるから『知ろしめしける』と有たいのだ。『青丹吉平山乎越』一本には『平山越而』とあるが、『奈良山越而』といふは調子が餘りに輕るい、少しの差であるが、『奈良山を越え』といふ方が詞に重みがあつてよろしいのである。『天離|夷者雖有《ひなにはあれど》』古義は、雖有の間に『不』の一字落ちたるものとして、『夷者雖不[□で圍む]有《ひなにはあらねど》』であるとしてあるが覺束ない手入れである。元來此二句はあつても無くてもよい詞である。『ひなにはあれど』と云つても『ひなにはあらねど』と云つても、作者の心持次第で、何と云つても差支のない處であるから殊更に落字があるなどゝ詮義する必要はないのである。『春草之茂生有《はるくさししげくおいたり》。霞立春日之霧流《かすみたつはるひのきれる》』、の四句別本には、『霞立春日香霧流夏草香繁成奴留』とある。古義は後のをよしとし、宣長の小琴には前のをよしとしてある。予は宣長の説をとつた。それで茲に少しく考へねばならぬは、他所の相違は大抵、寫誤りの爲に文字の違つたものと思へるが、此四句の相違は、決して寫誤りでは無いから、必ず二樣に傳つたものと見るの外は無い。作者が始め『春草之茂生有』と作つて後に『霞立春日香霧流』と訂正したものか、或は始め『霞立春日香霧流』と作つて後に『春草之茂生有』と訂正したものかは、今判定する由がない。予の私見を以て見れば、人麿の作風は頗る言語の綾を弄んだ跡があるから、或は『春草之茂生有』の句を平凡なりとして、『霞立春日香霧流』と後で直したのかも知れない。評して云へば『霞立つ春日か霧れる夏草か繁くなりぬる』などは、頗る淺薄なひねくりと云はねばならぬ。要するに何れを人麿の本意と輕々しく決定することは出來ないのである、けれど、二樣の傳はりがある以上は、自分の宜しいと信ずる方を採るの外はない、從て評釋も予の良いと思つた方に就てするの外はないのである。
此長歌の大意は、畝火山の橿原に都を定め給へる皇祖の御世より、現れましし神のことごとくが、次々と天下を治め來れる、其大和を置きて、奈良の山を越え、如何なる思召にか、近江の國の大津に御遷りありて、ひなではあるがそこに天下を治め給ひけん、神の尊の大宮は、茲と聞くけれど、見れば春草がいたく茂りつゝ荒れて居る、霞立つ春の日のうすけぶり居る、大宮の跡處を見れば悲しいと云ふのである。
評論 予が人麿の作歌につき、多くの不滿を感ずる樣になつたは、余程以前よりの事である。子規子世を去りて後間もなき程の頃からと記憶する。爾來人麿の作歌に注意を絶たないのである。考究熟察如何に考へても、人麿の作歌は世に買過されて居るとの念が去らないのである。予は必ず一度大に人麿の作歌に就て論ずる所あらんとの覺悟ありしも、予の境遇を以て人麿の作歌を論ずるは、其責任の極めて大なるを感ずるものから、容易に筆を下し得なかつたのである。然るにたま/\萬葉新釋の稿を進めて、人麿の作歌に到着したのである。予は今此稿に臨んで、愈多年胸中に蓄積せる問題を解決せねばならぬことの容易ならざるを思うて、覺えず戰慄したのである。此長歌を評すれば、自然人麿を論ぜざるを得ない。歌人が人麿を難ずるは、宗教家が宗祖を難ずるの感がある。
予は稿に對して十數日猶一行を綴ること能はず、毎日萬葉集を手にして、復讀幾十回漸く意決し心定まるを得たのである。
加茂眞淵も晩年に及びては「上つ代の歌を味ひ見れば、人麿の歌も巧を用ゐたる所、猶後につく方なり」云々と云はれ、人麿の歌にも猶飽足らなかつた意を明にして居る。さすがは眞淵翁である。其高懷や詩情や察するに難からざるも、最も惜かつたは、翁自ら選べる晩年の歌稿は、火災に遇うて失うた事である。從て現存の遺稿中には、其見識に伴うた作歌がない。爲に高邁な翁の意見も多く世に知られずに終つた。千蔭春海の徒は固より凡庸で、老師の高懷を窺ひ得るに至らなかつたのが遺憾と云はねばならぬ。
予が人麿の歌に對する不滿の要點を云へば、
(一)文彩餘りあつて質是れに伴はざるもの多き事
(二)言語の働きが往々内容に一致せざる事
(三)内容の自然的發現を重んぜずして形式に偏した格調を悦べるの風ある事
(四)技巧的作爲に往々匠氣を認め得ること
如此題目の下に人麿の作歌を詳論するとなると、萬葉新釋としては餘りに横道に入るの恐れがあるから、以上の考を以て此長歌を評することゝする。猶一言して置きたきは人麿の歌に不滿があると云うても、人麿の歌悉くが面白くないと云ふのでは勿論無いのである。人麿の歌にも隨分飽足らぬ歌があると云ふに外ならぬのである。
此長歌を篤と熟讀吟味して見ると、言語が徒に豐富で、内容は甚だ貧弱なものである。暗雲と枕詞を使用して居るが、其枕詞が殆ど虚飾的に配列されてある感がある。虚飾的言語が多過ぎる爲に、作者の嘆息した情意の動きを感ずること甚だかすかなのである。
此評釋を始めてから、長歌六七編あつたが、此歌程實質の乏しい歌はない。額田王の、春山の花と秋山の紅葉とを判じた、長歌は其折已に云へる如く、最も作爲を以て勝れた歌で、實質的内容の無い作であるがそれでも、言語の飾りが少く、一貫せる意義は全篇に充實して居るから、少しも讀者に空虚の感を起させない。然るに此長歌は、第一に意義の統制が充分でないのに、虚飾的枕詞が亂用されて居るから、殆ど内面空虚の感がある。情調の弛緩甚しく、熟讀して漸く其意義を解し得る程であるから、迚ても一讀して刺撃を得られるやうな纏つた情調は現れて居ないのである。
第一皇祖の事蹟を歌ひ起すに、畝火の山の橿原の日知りの御世云々とは餘り餘所々々しく餘りすら/\と叙し過ぎて重みが無い、從て語調にも又少しも力といふものが無い。其次の、あれましし神のことごと樛木のいやつき/\云々も餘り引き延し過ぎて冗漫に陷つて居る。詞を綾なした技巧許り耳立つて、皇祖より歴代の神々が次ぎ/\天下を治めるといふが如き、尊く嚴々しき感じは少しも現れて居ない。くど/\しい飾詞を交へて事細かく云ふから、調子が繊弱になるのである、卷首にある雄略天皇の御製中、
虚見津《そらみつ》山跡乃國者《やまとのくには》。押奈戸手《おしなへて》吾許曾居《あれこそおれ》。師吉名倍手《しきなへて》吾己曾座《あれこそませ》。云々
其語調の重々しく然かも強き彈力あるを見よ。試みに比較せば、あれましし神のこと/”\樛の木のいや次き/\云々、如何に語調の細く弱きかを知ることが出來やう。樛の木のなどいふ詞此塲合實に無要なる贅語ではないか。歴代の御門を神と云へる詞の次へ、樛の木のいやつき/\とは、實に荘嚴な意義と之れを表示せんとする言語との關係を無視した詞使と云はねばならぬ。作者が自ら歌はんとする感情には何の頓着もなく、只其詞の口音に調子を取つて、つがの木のいや次き/\と綴去つた人麿の考が解らない。枕詞は即飾詞で直接に意義の働かぬが常であれど、さりとて飾詞であるからとて、漫に亂用すべき筈のものではないこと云ふまでも無い事である。從令へば『虚見津山跡乃國者』と云ふ塲合には、虚見津と云ふ枕詞が甚だ適当せるを感ずるのは、詞の意義が大和を主とせるに依るものか、詞は少しの相違なれど、『虚見津大和乎置而』と云ふ時には、虚見津なる飾詞の感じが著しく前とは變つて居る。思ふに大和を置てといふ詞の意義は大和を主と云へる詞ではない。即大和を置て云々と云へる其置てと云へる意義が主である實用語であるから、そこに飾詞を用ゆるのが已に無意味な事であるのだ。されば、虚見津なる詞が、前者に適して後者に適せぬのであらうと思はれる。
此長歌前大半の意は、皇祖神武天皇以來歴代の天皇悉くが、天下を知ろしめした其大和の國を置いて、如何なる思召で大津宮へ遷らし給へるのか、との意であるから、此意味をもつと刺撃強く簡潔に云へばよいのである。然るに其意味とは寧間接な、玉手次畝火之山とか橿原乃日知之御世とか冗漫に締りなく言語を配列するから、調子に勢も響も無いのである。
『大和乎置而』といふ詞は、前十句の意を此一句に受た程の重い詞であるのに、それと對句的に『平山乎越』の一句を置いたは何の爲か、此一句は全く孤立の一句であるのを、茲へ插入した作者の考が解らない。此長歌の内容から云へば、『平山乎越』など必要は少しも無いのだ。強て無理に拵へた對句の、寧内容の統制を妨げるものなることは前に屡云うてある事である。
『天離夷者雖有』も前にも云へる如く、殆ど茲に無要な詞である。八隅知之大皇又は現津神大皇、神ながら神さびいますなど歌はるゝ天子が大和より隣境近江位へ遷都せられたとて、天離鄙であるのないのといふ事前後つり合のとれない云ひ方である。要するに贅語に過ぎない。以下石走近江だの樂浪の大津だのと、何でもない事を物珍らしさうに、長々と平凡な言語を列べてゆく作者の精神が甚だ解らない。作者の造語でゞもあれは兎に角、斯る平凡陳腐な詞を列べたのでは、詞の綾にもならない。
試みに無要に感ずる詞と、無要に見えて却て働く詞との差別を云ふならば、中皇命使間人連老獻歌の内、『朝獵爾今立須良思《あさかりにいまたたすらし》、暮獵爾今他田渚良之《ゆふかりにいまたゝすらし》』これらの詞、今〔右◎〕立たすらしと云ふ意味の上に朝獵暮獵などいふ詞を用ゐるは、全く無要の詞に似て居るが、此歌の解の所に云へる如く、天皇の御獵に立ち給ふさまの物音、頻り聞えきて心せはくしく浮立つさまが、此無要に似た詞の調子に依て現はれて居るのである。されば一見無駄詞に見えても決して無駄詞でなく生々と働いて居る詞である。これに比べると、『石走淡海國乃樂浪乃大津宮《いはばしるあふみのくにのさゝなみのおほつのみや》』云々の如きは、一見した處では、有要な詞の如く見えるが、詞書で已に大津の宮といふ事は判つて居る。大津と云へば近江といふ事も判り切つて居る。この判り切つてる事を、事々しく飾詞まで添て述べ立てるのは全く無要の贅語で、冗漫ならざるを得ないのである。猶言へば近江の國の大津の宮といふ詞には其地名を説明した外に何等の詩趣の容積はないのである。容積のない言語即虚詞である。其虚詞に冠するに一々枕詞を以てする、それでは内容の充實しやうもなく、調子の緊張しやうもない。是れを以て見るも人麿は慥に歌を拵へた弊に陷つた人である。『大宮者此間等雖聞大殿者此間等雖云』の句は作者は正しく其地を蹈んで親しく宮地の跡を見て居るさまである。然るにも係らず、石走る近江云々さざ波の大津云々と如何にも、餘所々々しい詞つきではないか。意義の脉絡も言語の調子も甚だ亂雜である。『春草之茂生有霞立春日之霧流』も荒都の形容として餘りに平凡である。『百磯城之大宮處見者悲毛』此句の塲合に百磯城之大宮など云ふは矢張枕詞の亂用であらう。大宮といふ實体的の塲合にこそ、百敷といふ枕詞もきくのである。荒都に歸した大宮の跡處といふ所にまで、百敷などゝ飾詞を用ゐる必要はあるまい。枕詞も此の如く塲合嫌はず用ゐては全く無要の長物となるの外はない。
人麿は言語の綾を悦ぶの弊に陷り、淺薄な形式趣味に憧憬した跡があると見ては居つたが、是程に言語を亂用して居るとは思はなかつた。つまり言語を綾なす技巧が其弊を導いたのである。
更に翻て此長歌の大體に就て評するならば、前年に天智天皇が、何故に神武天皇以來歴代都された大和を置いて近江へ遷都されたのか、如何なるお考でありしかと怪み、後半は其大津の宮に天下を知ろしめした大宮の跡は春草が茂り日光もうすぐもつて見るに悲しいといふのであるが、此前半と後半との關係が融合して居ない。歴代天皇の定めに背いて遷都された故に大津の宮も早く滅びたとの意であるならば、却て前後の脉絡は通ずるけれど此詞さまではさうとは取れない。さすれば荒都を見て遷都の思召を怪んだ意味が解らない。中興の天子たる天智天皇の事業經歴は、隨分讚すべき點も多いのである。近江の都の荒敗を悲しみ同情したものならば、只大津の宮に天下知ろしめしけむ天皇の神の尊の大宮云々と淺々しく云つて終はなくとも、何とか具體的に云ひ樣が有さうなものと思はる。前半は只如何なる思召で歴代の宮を遷されたかを怪む、後半では只天下を知ろしめした跡が春草茂つて荒たといふだけでは、感慨の動因が餘りに平凡過ぎる。人麿の識力も疑はれるのである。全篇を通して理想の見るべきなく、感情の表現も甚だかすかである。從て首尾一貫せる強い調子がない。無駄な飾詞が多くて精神が乏しい。前に云へるが如く、文彩餘りありて質是れに伴はざるの感あるものである。然かも此一篇の如きは、其文彩も趣味的成功したものではない。
反 歌
〔三〇〕 樂浪之。思賀乃辛崎。雖幸有。大宮人之。船麻知兼津。
さゝなみの、しがの辛崎、さきくあれど、大宮人の、船まちかねつ、
一首の大意は、しがの辛崎かはりなく都のあつた昔のまゝであるとも、都の無い今は大宮人の舟遊びすることもないとの意で、それを擬人法にかく歌つたのである。
〔三一〕 左散難彌乃。志我能大和太。與杼六友。昔人二。亦母相目八毛。
さゝなみの、しかの大わだ、淀むとも、昔の人に、又も逢はめやも、
一首の意は、志賀の大曲《おほわた》(わだは水の流の曲りとを云ふ)物淋しげに淀むとも已に都のない今となりては大宮人の昔の人に又逢はれることはないといふのである、此歌も前の歌と句法は同樣の擬人法で、辛崎や大曲を心のある人のつもりにして、榮えた昔を戀ひしがる心を詠んだものである。
二首同巧同題の歌であるから合せて批評して置く。此短歌二首はさすがに人麿の詩想を思はせる歌である。詞も整ひ内容も充分纏つて居る 作者の情調が能く整つた詞の上に現はれて居る。二首の短歌は決して長歌の比ではない。
擬人法の作物は、多くは才氣が目立つて拵物の厭味に陷るのが常であるが、此二首の如きは才藻と情調と能く一致して、一首の全體は何處となく、作者の感動せる心のさまが現はれて居る。擬人法だからとて、作者の胸に動いた心の調子が自然に現はれて居れば、決して拵物の感じは起らぬ。此二首の如きは能く擬人法の成功したものである。長歌の稍理智を含めるに反し反歌の二首は、全く理智を離れて、現在の光景が感慨の主因となつて居るから感じの纏りもよいのである。技巧の上にも表現の上にも遺憾なく成功せる二首の如きは、正しく人麿の人麿たることを思はせるのである。乍併此の如く極端に巧者な作法は、其弊を釀し易く人麿其人の如きも、此上手な手際が災して、其作風に幾分の匠氣を脱し得ざりしことを注意して置かねばならぬ。
陳謝 本號の遲刊したのは、予が此稿を後らせた爲に外ならず遲刊の罪全く予一人にあり讀者諸君に陳謝する 左千夫記 明治43年4月『アララギ』
署名 伊藤左千夫
萬葉集新釋 一卷中
〔二十〕
幸于吉野宮之時、柿本朝臣人麿作歌、
幸吉野宮は、持統天皇の事である、持統天皇吉野宮行幸は數々あつた事だ。
〔三六〕 八隅知之、吾大王之、所聞食、天下爾、國者思毛、澤二雖有、山川之、清河内跡、御心乎、吉野乃國之、花散相、秋津乃野邊爾、宮柱、太敷座波、百磯城乃、大宮人者、船並※[氏/一]、且川渡、舟競、夕河渡、此川乃、絶事奈久、此山乃、彌高良之、珠水激、瀧之宮子波、見禮跡不飽可聞
八隅しゝ、吾が大きみの、きこしをす、天下に、國はしも、澤にあれども、山川の、清きかふちと、御心を、吉野の國の、花散らふ、あきつの野べに、宮柱、太しきませば、百しきの、大宮人は、船並めて、朝川渡り、舟競ひ、夕河渡る、此川の、絶ゆることなく、此山乃、いや高からし、おち激きつ、瀧の都は、見れど飽かぬかも。
釋。詞に解を要する處は少ない。『山川之清河内跡』は山川相纏うた、清い土地の意。河内は字の如く『カハウチ』である、『ハウ』の切『フ』となるから『カフチ』と讀む。『御心乎吉野云々』御心乎は枕詞としての用語である。御心廣田國、御心長田國、など例がある。古義には、『御心乎』の乎は余の語意にて、大御心よ善しと稱奉れるにてあらんとあれど、之れほど詮索の要なかるべし。『花散相』は例の花散るを延ばしたのである。此の詞を延ばすといふことは、單に語音の調子をとる爲め許りではない。散るといふのみでは稍説明に近いが、散らふと云へば幾分か形容の意味にもなつてくる。詞柄が悠長に品良くなる。何となく花が散りつゝあるさまが現はれて時間のある感があるのである。茲では次の句、『秋津乃野邊』の枕詞として用ゐられたのだ。秋津野は吉野にある蜻蛉野であるから、吉野の花の縁に依りて、此の枕詞を作つたものであらう。併吉野の地名であれば、何所へも『花散らふ』の枕詞を使つてもよいかと云ふに、必しもさうとも云へない。であるから此の枕詞も幾分形容の意味が加はつて居ると見る方がよい。所謂瀧の都のあたりに殊に櫻が多かつたものであらう。一説此花散らふの一句は單に、秋津野といふ詞の枕詞に過ぎない。此時の御幸を此の一句の爲め春と定めることは覺束ないといふのであるが成程春の意を含んだ詞は一篇中に此一句だけである。それに使方も枕詞體に使つてあるから、それだけで直に春の歌と定め難いといふも一應の理窟であるけれど、其反對の証據も無いのであるから、矢張春の御幸の折の歌として差支ない。元來此長歌は季節の趣味に關係を持つて居ない作であるから、強て季の問題を詮索する必要は無いのだ。『船並※[氏/一]云々』『舟競云々』御所のあるために賑かに榮ゆるさまを形容したのである。『此川乃絶事奈久』此吉野川の永久なるが如く、繁榮は永久に絶ゆることなく『此山乃彌高良之』と此の山のいや高きが如く永久に隆盛にあるらしとの意である。『高良之』の『良』は『有』の誤であらうといふ説よろし。他には皆|高有之深有之《タカカラシフカカラシ》とある。猶茲で『高』といふ詞は宮殿の高いといふ意に、隆盛といふ意味が加はつて居るのである。いや廣にいや高に天乃日繼をなどある如く、多く主觀的の意義を有して居るのである『珠水激』は『イハハシル』と讀める本もあるけれど珠の字は隕の誤にて『オチタギツ』と讀むべしといふ古義説をとる。瀧の都といふ、瀧にかゝつた枕詞である、一篇の意義は最早解釋するの必要は無い。
評。幾度讀返しても飽かない歌である。感嘆の至情が自然に漲り溢れて、想は秀句に依て活躍し、詞は妙想に依て光彩を増す。流に任せて下る舟の如く風に從て飛ぶ雲の如く、聊かの滯りも障りも無い無限の味ひを感ずるは、品質と調理と兩善相和して融合を極め居るからである。
貴族的文彩的詩人たる人麿の最も得意とする好詩題であるから、精神自のづから奮ひ、妙想靈技、意のまゝに動いたのであらう。蓋し此長歌及び次の長歌と二篇の如きは、人麿の作品中最も優秀なるものである。如何なる天才と雖も其天才の適する所に向つた時に、始めて遺憾なく天才の光が現はれるのだ。人麿の天才は泰平を歌ふに適した積極的詩人の方であつたらしい。
例の如く八隅知之吾大王之云々と、極り切つた形式で云ひ起し、國者思毛澤二雖有まで如何にも暢氣に平凡な句を續けて居るが、斯の如き句法は一見殆ど無意義に近き觀あれど、一篇全體を玩味熟讀して見ると、此の殆ど無意義な形式に近い平凡なる句法にも、深き意義あることを發見することが出來る。人麿の天才が表面的才氣の、容易に人の目に留まる樣な淺いものでなく、尋常平凡なるものゝ幾重かの奧に、深く籠つて居る處の英靈であることを感ぜられる。尋常平凡から出發して讀者を一歩々々光彩塲裏に引入れて來る。非常に六つかしく複雜な事柄でも、先に尋常に接し平凡に觸れてからも次に進んで非常事に臨めばそこに必ず調和を得られるのである。如何なる塲合と雖も詩は絶對に調和を要求するのである。平凡なる句法の應用は調和の要求から起つてくるのである。平凡な句が何等の目的もなく平凡に用ゐられたらば、詩の靈魂は直に消去つて終ふは勿論である。鄭重な料理にも是非平凡な材料を必要とする如くに優秀な製作にも凡句或は無意義な詞句を必要とするのである。只凡句を如何に用ゐるかゞ問題になるのである。此長歌の如きは實に能く凡句を活用したのである。長歌を試みんとするものは是等の歌に就て充分に凡句活用の消息を解せられたいのである。
山川之清河内跡御心乎吉野乃國之花散相云々と次第々々に光彩を發露し來り百磯城乃大宮人者船並※[氏/一]旦川渡舟競夕河渡の六句を以て、神の如き女帝に從へる大宮人等が盛世を悦ぶの状を寫して居る。此六句は此製作の中心である、泰平の天子に奉仕する、行宮の諸官人等が往來頻繁、輯睦歡呼の状を只此六句に歌ひ得て居る。複雜な内容を藏せる含蓄深い句と平淡無味な句との鹽梅配合が實に其宜しきを得て、繁簡相和し濃淡照應して、絶對に調和し融合し、詩品の上に於ても精神の上に於ても毫末の遺憾がない。
さうして已に中心を過ぎた餘勢は一轉して、次の四句を容易に呼起し、意義は一轉しながら猶前句の川といふ詞に聊かの關係を保ち、所謂不即不離の間に作意を進めて居る。泰平の氣象を目睹して其繁榮を歌ふものゝ自然の情緒は、其繁榮の永久に變はることなきを祝ふに至る。此川乃絶事奈久此山乃彌高有之と切つて此長歌作意の大體を盡したのである。更に轉じて瀧之宮子波見禮跡不飽可聞と作者自身の渇仰讚嘆に歸して一篇の結末に入つた。見れど飽かぬかもの結句は又實に平凡であるが、此優秀な長歌の結末として何等の不足を感じないのである、これは何ぜかと云ふならば、調和の一語只これを説明し得る許りである。一篇僅に二十七句の短篇であるが、多大の含蓄を藏へて居る それにも係はらず、全篇の調子は氣暢び心豐かに悠揚迫らずの風が眞に泰平の氣象である。句法から云へば前にも云ふた如く、意味の少ない働きの少ない凡句の活用宜しきを得たるが爲に、斯く鷹揚に品格高くなつたのであらう。氣の利いたこせついた風の人達には到底解り得ぬ處である。
猶詞の運用に就て評するならば、初句から宮柱太敷座波までは、只坦々として順序よく想を運んで居る、是れまでの句法は極めて尋常であるが、太敷座波の一句に、前を結び後を起すの用意があつて、それから想も句法も共に發展して印象又現實に移り極めて複雜な光景を描きつゝ盛世の氣分を現して居る『夕河渡』で再び句は結ばれ、客觀的の叙述は連接を保ちながら内容は主觀に變して居る。此巧妙な轉換は人麿の好んで慣用する句法であつて、此篇の如きは最も其妙を極めたものである。乍然詞句の妙用も茲まで來れば最早頂上である。此上聊かたりとも巧を求むれば、言語の遊技に落ちるは必定である。彌高有之と手に持つてた物を放した樣に思切能く切つて終つて、作者の自身の讚嘆に移つて終つたのは、結末の句法實に高手と云はねばならぬ。最も華麗な巧妙な詞が出るかとすれば、漸く三四句で早く他へ轉じて終ふ、決して苦度々々しくうるさい引延をやらない そこに高手の高手たる處があるのである。
反 歌
〔三七〕 雖見飽奴、吉野乃河之、常滑乃、絶事無久、復還見牟、
見れとあかぬ、吉野の河の、とこなめの、絶ゆることなく、又かへりみむ、
『常滑』は河の底に岩石などについてるものであるとのこと、『コケ』か『ノリ』の類であらう。一首の意は、みれども/\飽かない瀧の都をば、常滑の絶ゆるといふこと無いやうに、絶ず又見に來やうといふのであらう。見れど飽かぬの初句は、長歌の結句を呼返して云つたのである。長歌の結句で只一句見れど飽かぬかもと云ふたゞけでは、未だ感激の情を遣るに飽き足らぬ。どうしても一言云つたぎりでは物足らない。そこで反歌に其余情を移して、更に見れど飽かぬと云ひ次いだのである。其飽かない都を人も又も絶ゆることなく見に來やうといふのである。叙情的の長歌にかういふ詠方は、自然で面白い。又絶ゆることなくの句、長歌中の句意を受けて、御世をことぶき合せて自分を祝するの意も含まれて居る樣である。例に依て調子の豐かに暢びやかなのは頗る感じがよい。
『絶ゆることなく』といふ詞に續いて、『又返り見む』とあるのは、今の世の詞でゆくと無理であるが、絶ゆること無く又返り見むと云ふ詞は、此集中何個所もあるから、當時は是れで差支無かつたものと思はれる。尤も人麿が先にかういふ詞を使つて後人は襲用したのかも知れぬ。併し『絶ゆること無く』を絶えず來て見るといふ意味でなく、自らを祝して我幸福の絶ゆることなく、又返り來て見やうと解する方がよいかも知れぬ。さう見れば少しも無理の無い事になる。兎に角此詞は集中澤山ある詞であるから疑うて見ても仕方がない。
要するに此短歌は、此長歌の反歌としては無論有つた方が面白いけれど、長歌から引離して一首の短歌として見ると余り價値のある歌では無い。着想に何等の實質が無く、只常滑の絶ゆることなくと、巧に詞を綾なしたゞけだ、殊に此の反歌で又『吉野の川の』と事新しく云ふのは少しうるさい。絶ゆること無くといふ詞を強て使つた趣もある。讀返して見れば見る程、内容の乏しい歌である。併し是れが人麿の歌であるから注文も高く非難も出るのであるは勿論だ。
〔二十一〕
〔三八〕 安見知之、吾大王、神長柄、神佐備世須登、芳野川、多藝津河内爾、高殿乎、高知座而、上立、國見乎爲波、疊有、青垣山、山神乃、奉御調等、春部者、花插頭持、秋立者、黄葉加射之、遊副川之、神母、大御食爾、仕奉等、上瀬爾、鵜川乎立、下瀬爾、小網刺渡、山川母、依※[氏/一]奉流、神乃御代鴨、
八隅しし、わかおほきみ、神ながら、神さびせすと、芳野川、たきつかうちに、高殿を、高知りまして、のぼり立ち、國見をすれば、たゝなつく、青垣山、山つみの、まつるみつきと、春べは、花かさしもち、秋立ては、もみぢばかざし、ゆふ川の、神も、大みけに、仕へまつると、上つ瀬に、鵜川を立て、下つせに、さでさし渡し、山川も、依りてつかふる、神のみよかも、
釋。『神長柄』文字は假字で「かむながら」とよむ、さながら神其儘といふ意、即天皇は神にしませば神なるまゝにの意味である『神佐備世須登』神らしくあり給ふの意『世須《セス》』は『ス』の伸びた語で給ふの意、前の句から續けて神なるまゝに神らしくありたまふ事とてと解すべきである、神さびせすとの『と』の働きを普通に見る時は、天皇の御自身に神らしく振舞ひ給ふとてと樣に解される恐れがある。けれど此二句は全く余所から見て稱した詞であるから、此『セスト』の『ト』は神らしくあり給ふ事とてと云ふ如き意になるのである、些細の事であるが、かういふ處は正しく解して置かなければ、其趣味を解する上に大に間違を生ずるのである、天皇御自身から神らしく振舞ひ給ふと云ふのと、天皇はおのづから神らしくあり給ふと云ふのとは大へんな相違である事を注意して置かねばならぬ『疊有』舊訓に『タヽナハル』とあれど、『有』は著字の誤にて『タヽナツク』とあるべきぢやと古義に云ふのがよいやうである、夜麻登波《ヤマトハ》、久爾能麻本呂波《クニノマホロハ》、多々那豆久阿袁加伎夜麻《タヽナツクアヲカキヤマ》(古事記)高知爲芳野離宮者《タカシラスヨシノヽミヤハ》、立名附青垣隱《タヽナツクアヲカキコモリ》(萬葉六卷)等に見るも『タヽナツク』がよいやうであると云はれて居る、『青垣山』は山の連並み居る形容語である、『春部者』は春方《ハルヘ》の意で、河の邊山の邊の『ホドリ』といふ語意とは少し違ふ、往方《イニシヘ》行方《ユクヘ》などの『方』と同意、併し春にのみ此語ありて、冬方夏方など云ふ語なきは、語調の自然から出來たゞけで別に意味のある事ではあるまい。み冬と云ふてもみ春とは云はない類であらう、初春初秋と云ふ語は昔から使はれてゐるが、初冬初夏などいふ語は近頃から見える語であるが、これらも予は『初冬』『初夏』と音讀に讀みたいと思ふ、韻文家は以上の如き日本語の慣用には聊か注意すべきであらう、
『鵜川乎立』は鵜を使ふて鮎をとる總ての所作と云ふ詞であるが、實に巧妙な面白い造語である、萬葉集を讀む人は、含蓄あつて然かも能く意を盡せる此の如き用語の趣味に注意すべきである、
一篇の大意は、八隅知し大王が、神さながらに神らしくあり給ふ事とて、芳野川たぎつ河内のほとりに高殿に高しきいましつゝあれば、山祇の神達は、大王に仕へまつる貢ぎとて春は花を咲かせ秋は黄葉を匂はせ、ゆふ河の河神達は、鵜川を立て或は小網さし渡して、大御食に仕へまつる尊とさ、かく山の神も河の神も相依りて大王に仕ふる、眞に尊き神の御代やとの意である、讚仰嘆美も此上は無いと思はれる、
評。前篇は人事を旨とし、此篇は天然を主と歌うて居るのだが、天然を歌ふにしても、時代の思想殊に特種なる我邦の古代思想を以て見た天然は、山も河も皆心靈ある神として歌ふてあるから、前篇は盛世の人事方面を歌ひ後篇は盛世の神靈的方面を歌ふたとも見られる、一は現實を歌ふたもの、一は理想を歌ふたとも見られるのである、
前篇に於ても極力稱讚した如く、此二篇は實に人麿一代の傑作である、思ふに人麿の一生中最も得意の時期で而かも年齒猶壯にして、從て意氣旺なりしものありしか、一篇の落想用語頗る放膽である、些末の點には一向注意せざるものゝ如きも、全篇の上には却て自然の統一を見るのである、思想格調が悉く興國の氣泰平の象である、室内に坐し机邊にあつて詠唱すべき歌ではない、高天の下に立ち大地を蹈み靜かに朗誦幾遍せば、何人と雖も、云ふに云はれぬ尊い感に打たれて、神の御世と云ふことを思はずには居られまい、山河も依りて仕ふる神の御代かもの嘆唱はどうしても神の聲である、全く人間を超絶した響である、
此長歌を熟讀吟味深く其内容を窺ふて見ると、人麿の目に映じた當時の靖和にして豐明な御代の尊さと其尊さに感激興奮した詩人の得意とが、有々と想像され得るのである、是れを今日の、理智片重せる浮薄な文明に比べて考へて見ると、殆ど人間界の事とは思はれぬ、其當時に神の御代かもと歌ふて居るのであるから、云ふまでも無い事であるが、後世此集を讀む者殆ど皆が、只人麿が歌聖なる爲に、かういふ歌があるとのみ思つて居る樣であるから、一言せねばならないのである、勿論人麿の如き詩人でなければかういふ歌は出來ないには相違ないが、一方から見れば、其時代の如き御世に逢はねば、人麿の如き作家と雖も決して此の如き優篇を作ることは出來ないのである、作者の思想力と詞句上の技巧のみでは到底此長歌の如き神篇の出來得べき筈は無いのである、時代は詩人を得、詩人時に逢ひ兩々相得て萬世不朽の詩章が生れたのである、
靖和な豐明な其内面的文明の、所謂神の御代なるものがあつて始めて後に天平の隆盛を見得るのである、文筆隆盛の極なる天平時代が偶然に起るものではないのである、『青丹よし寧樂の都は咲く花の匂ふか如く』と云ひ、『天地の榮ゆる御世に逢へらく思へば』と歌へる時代と、所謂『山河もよりて仕ふる神の御代かも』と歌へる時代とを、つぶさに比較して考へ見れば、天平文筆の隆興が決して偶然でないことが判ると同時に神の御代なる聖世の内容如何も一層明かに推想し得らるゝのである、人麿の歌聖を以てしていづれの詩華にも、猶壯大雄渾の氣象を欠いて居るのは全く時代の反映と見るべく、當時の文華の未だ内面的含蓄的なりしに依れるを察するに足るのである、
人麿が貴族的文彩的詩人であつても、壯大雄渾を感ぜざれば、壯大雄渾の詞章は作れないが當然である、若し人麿が天平時代の人であつたらば、當時を神の御代とは歌はないに極つて居る替りに、必ず雄大壯麗な作があつたに違ひないのである、
持統天皇御製
春過ぎて夏來るらし白妙の衣ほしたり天の香具山
此御製を見ても其超絶的神韻に富める殆ど下界のものにあらざるを見るのである、所謂神の御世なる時代の風韻髣髴として一首の上に匂ふて居るに比すれば、
聖武天皇御製
大丈夫の行くちふ道ぞおほろかに思ひて行くな大丈夫の伴
氣宇の高壯は固より前者の比では無いけれど、遂に人間の聲であることは爭はれないのである、聊か兩時代の内容を窺ふことが出來やう、されば漫に人麿の歌が百世に超絶して居ると思はゞ間違である、人麿の時代が其精神に於て百世に超絶して居るのである、であるから、神ながら神さびいますとか、山河も依りて仕ふるとか云ふ事を、單に人麿一流の思想とのみ思はゞ誤つて居ると云はねばならぬ、此長歌が歌へる事實のそれを如何と見れば、天皇屡芳野の離宮に行幸せられ、春は山々の花秋は山々の黄葉が美しく、目の下の川には鵜川がある小網さし渡す漁師も見えると云ふに過ぎない、それが人麿の目には神の御代と映じたのである、併し光景はそれだけであるけれど、神の御代であるから、それだけの光景にも神の御代と感ぜぬ譯にゆかなかつたのであらう 猶人麿の長歌二篇の外にも、『營藤原宮之役民作歌』並に『藤原宮御井歌』等皆相異れる思想を以て此御代の尊とさを歌はれて居りいづれも傑作である處を見れば、益此時代の尊さが窺はれるのみでなく、優秀なる詞章は必ずしも歌聖をのみ待つものでなく、時代も又能く優れた詞章を生むものであることが知れるのである。さらば持統天皇の御代はどうしてそれ程に尊い御代でありしか、百世に超絶した多くの詞章を生める神の御代とは、どんな時代であつたかを考へて見るのも文學の研究上穴勝無益の業ではあるまい、
持統天皇の御代には、歴史的の問題は殆ど無いから歴史に趣味を有する人と雖も、此時代に注意を拂ふ樣な事は殆ど無いであらう、況や普通なる讀史者などの目に何等映ずる所なきは當前の事であるが、政事上の無事寧靖は内面種々の發展を意味するものであることを忘れてはならぬ、思ふに大化革政の實蹟は、壬申の變亂にもさまで影響を受けなかつたらしく、繼ぐに天武帝の英主を以てしたのであるから、文物典章の益整ふと同時に國民の幸福も漸く増進し來たりしは云ふまでも無いことであらう、乍併天武帝在位僅に十年、壬申の亂に動搖した人心は未だ全く鎭靜したとは云へない、窃に中興の明天子たる天智帝のコ澤を思ひ居る者の少なからざりしは察するに余りあるのである、然るに持統天皇に至つては天武帝の皇后とは云へ實に天智帝の皇女であるから、天皇の登極は民心の融和に大なる善蹟を與へたのであらう、それに敗帝大友の子葛野王の如きも、朝廷に立たれて居つた程であるから、民心益靖く悦服和樂の状は思遣るに足るのである、明天子の皇女で前帝の皇后と云へる御資格を以て寧靖和樂なる國民の上に立たれた女帝であるから、何人の目にも神々しく神さびて拜せられたに相違ないのである、天皇を現神と云ふこと古代思想の常であれど、此時代の作歌に最も能く其思想の發揮せられた感あるも、注意して置くべき事である、かう考へて此時代の歌を讀み、此時代の有樣を想像し神々しき女帝の御俤を推想して見ればいづれの歌にも無限の味がある、所謂寧樂朝文明の泉源がいかに尊いものであつたかが知れるのである、
一篇簡單の詞章と雖も仔細に味ひくれば、一代の文華の跡が歴々目に浮でくるのは愉快である、
余りに長くなるけれど、詞句上にも聊か云ふて置かねばならぬ、予は從來、詞句の組織が完全して始めて表現に遺憾なきを得べきものと固く信じて居つた處が今此長歌を讀んで見ると、一篇全體の氣分が我れを掩ふて、言語上句法上の些細な欠點は余り目障りにも成らぬのである、それは此長歌は最も優れた特別の歌であるからであらうが、是れで見ると全篇を通じて氣分が強く漲つて居さへすれは、少位の欠點が其中にあつたにせよ一篇の融合統一は自然に渾然として來るに相違ないのであらう、かう一度び思ひ返して見ると、余り細密な注意の目立つ作風よりは多少言語句法に不熟な處があつても遣放しに作つた樣な作風の方が、寧ろ自然で感じがよいかと思はれる、元來言語句法の上に些々たる欠點が著しく目につくといふのは、其作一篇の精神が充實して居ない爲であるとも云へるのである、思想の力と詞句上の技巧と許りでは、生きた作物は出來ないと云ふのと稍同意味になるのであるが、這般の消息は廣く深く充分に考へて置くべき問題であらう、
それで此長歌に無理な句と云ふのは、『上立《ノホリタチ》、國見乎爲波《クニミヲスレハ》』と云へば現在的の云ひ方で、今立つて見てるといふ詞の意であるに係らず、『春部者』云々『秋立者』云々と云ふ長い時間を概叙した詞である、これで見ると春から秋へ立通しにせぬばならぬ譯である、本來此二句は無くて少しも差支はない、寧ろ此二句を省いた方が、歌に無理が無くなつて大へん良いのである、『高知座而』を『高知りませば』と直して『疊者青垣山』云々へ續く方が慥に良いのである、隨分大きい疵である、今日からいふ詞使をしては通らぬのである、此の如き欠點があつても歌の生命に何の影響もないから驚くのである、併し河に鵜を使ふてる漁師や小網をさして漁りしてる者どもを、何の遲疑する處もなく、直ちに河の神の仕業と云つて終ふてるなどは實に放膽な云方で面白い、河の神が鵜川を立てると云ふのか、河の神が鵜川を立てさせるといふのか甚だぼんやりして居る、そんな些細な事には一向頓着なく、直ちに一氣に云ひ下して終つてるのは用意が無いやうで、却て用意の存するかを思はせる、目に見えない神の事を云ふのであるから、立てると見るも立てさせると見るも結句同じである、元來ハツキリせぬ事を明瞭に云ふのが寧ろ自然でないのだ、直に感情を叙し去つて理路をたどらぬのが却て面白いのである。 反 歌
〔三九〕 山川毛、因而奉流、神長柄、多藝津河内爾、船出爲加母
やまかはもよりてつかふる神なからたきつ河内に船出せすかも
『船出爲加母《フナテセスカモ》』船遊びさせ給ふの意である、長歌の方には天皇御身船遊びし給ふさまは歌ふて無い、反歌にそれを云ふてあるのである、神も人も相和して遊ぶ尊とき御代の有樣である、現實を能く理想化し、理想中に能く現實的光景を點じて來るのは、何時も人麿の慣用手段である、神の御代かもと遠く遙けく云ふかとすれば、反歌に至つて忽ちたぎつ河内に船出せすかもと神々しい女帝の御振舞も目に見ゆる如く歌ふのが即それである。
〔二十二〕
輕皇子、宿于安騎野時、柿本朝臣人麿作歌
輕皇子は文武天皇の若き時の御名で、即河瑠皇子は天武天皇の御孫にあたるのである、皇太子草壁皇子即|日並所知《ヒナミシラスノ》皇子の御子である。
〔四五〕 八隅知之、吾大王、高照、日之皇子、神長柄、神佐備世須登、太敷爲、京乎置而、隱口乃、泊瀬山者、眞木立、荒山路乎、石根、禁樹押靡、坂鳥乃、朝越座而、玉限、有去來者、三雪落、阿騎乃大野爾、旗須爲寸、四能乎押靡、草枕、多日夜取世須、古昔御念而、
やすみしゝ。わが大君《おほぎみ》。高《たか》ひかる。日のみこ。神ながら。神さびせすと。ふとしかす。都を置て。こもりくの。はつせの山は。眞木《まき》立つ。荒山道を。いはがねの。しもと押《おし》なべ。坂鳥《さかとり》の。朝こえまして。かぎろひの。ゆふさりくれば。み雪ふる。阿騎《あき》の大野《おほぬ》に。旗《はた》すゝき。しぬに押なべ。草枕。たびやどりせす。いにしへおもほして。
釋。『太敷爲京乎置而《ふとしかすみやこをおきて》』の句までの詞は皆前に解した詞である。『隱口乃《こもりくの》』は泊瀬の枕詞で、其語解には種々説がある。『隱來』『隱久』『隱國』等此集中に幾通にも書いてある。眞淵は隱國が正しい書きやうで、即ち籠り國の意、大和の『はつせ』は山のおくのふところにあるから、籠り國の長谷と云つたのであると云うて居る。此意味でゆくと、山奧の里は何所でも『こもりく』と云へる譯である。尤もらしい説であるが、必ずしもさうとも極め難い 古義には、隱《こもり》と書いたのは、皆例の借字で、木盛處《こもりく》の長谷と云へるのであらう。長谷《はつせ》には木立が盛にあつたこと、三諸就三輪山見者隱口乃檜原《みむろつくみわやまみればこもりくのひはら》云々ともあり、又此歌にも眞木立荒山道乎云々とある等にても木立の繁盛であつた事は判るから、『隱口』は木盛處であらうと云うてある。今の世にも木森《きもり》など一つの成語に使つてるところもある位であるから、古義の説も至極尤もの樣に聞えるけれど、此説も聊か信じ難い點がある。古義の説の如くであるならば、集中多く使つてある内、どこかに一ケ所位は、木盛の意を寄せた書方がありさうなものだが、悉く隱の字が書いてある。これは一考して置かねはならぬ事であらう。古義がそれは皆借字であると云つて少しも顧みないのは、注意を缺いて居ると云はねばならぬ。
要するに二者の説は餘り一方に極め過ぎた弊がある。予は兩説の意を半分づゝ取りたいと思ふのである。長谷は山のおくではあり、且つ樹木が盛に繁茂して居るから、打見た感じが、外からは中の判らぬ樣な、世とかけ離れた暗い趣があるので、此枕詞が無造作に出來たのであらう。
理知の上から考へて作つた詞でなく、打見た感じから湧いた詞であらう。内密の妻を『隱妻《こもりつま》』といふ處を見ても、此時代の『こもり』の意は必ずしも籠りの意と同じでは無い、『こもり』には世と隔つた感じがあるのである。『こもりく』の『く』を國と見るも處と見るも別に論ずる必要はない、何國も『いづく』何處も『いづく』と云つて少しも差支ないのである。
兩説とも理知一遍な考へで、眞淵は長谷は山の奧といふこと許りを考へて、樹木の繁りは見ない。古義は長谷は木立の繁盛といふ事許りを考へて山のおくといふことは考へない。兩説共に當を得ない所以である。それにしても、『こもり』を『木盛』と解したのは、眞淵説よりは、こじつけが非度い。
『眞木立《まきたつ》』眞木とは檜のことである『禁樹押靡《しもとおしなべ》』禁は楚樹の誤りであらう、樹の※[木+若]枝を云ふ即シモトである、茲のシモトは細い雜木の枝などを云ふのであらう、『玉限《かぎろひ》』は限は蜻の誤りであらうとの説、蜻※[虫+廷]の古名カギロヒと云ふまゝに、玉蜻蜻※[虫+廷]などゝ借り用ひたのである。燎ゆる火にも陽炎にも云ふ詞である、茲では夕の枕詞であるがかぎろひの燎ゆる夕べとつゞくのである。『四能乎押靡《しぬにおしなべ》』『能乎』は『奴爾』の誤りであらうとの説である。十卷にも『秋穗乎之努押靡』云々とある、四努《しぬ》は下へ繁けく押伏せるの意である、『心もしぬに』などいふも下心に繁く思ふの意である、『多日夜取世須《たびやどりせす》』は旅やどりしたまふの意、『古昔御念而《いにしへおもほして》』は父皇子の獵し給ひし其昔を思召しての意である。
一篇の大意。神さびいます尊き御身でありながら、都の榮華を置き、長谷の荒山道を石が根の繁りを押靡け、み雪ふる安騎の大野に旅やどりしたまふ、父皇子の御獵の古昔を思ひ慕ひ給ひてといふのである。
評。人麿が例の自在な詞使と詠みこなしのうまい句調で、無造作に詠まれた作である。初め五六句までは、何時もの形式的句法であるから云ふ處はないが、其次ぎ/\事實を歌うた句も、思想に於ても詞藻に於ても、別に勝れた點もない。一氣呵成に、句法何となく勢のある處が注意すべき點である。理知に訴へて一句一句を吟味して見ると、茲が優れて居る茲が面白いと思ふ個處もないのであるが、全篇を通讀し反復吟誦して見ると、どうしても面白くない歌であるとは思へない、相並んだ句々が皆一調子に強い響きを持つて、全篇に一種物を押分けて行くやうな勢を現はして居る。張りつめた調子が全體を纏めて響いて居る、『八隅知之』の初句から『京を置て』の句までの八句の如きは、此歌の内容の上から見て殆ど無要の詞である、且つ前にも屡見た詞であるから、一種の飾詞に過ぎない、『坂鳥の朝越まして』の句も、『かぎろひの夕さりくれば』の句も、等しく無要に近い詞である、内容の稀薄な事此位の歌は少ないと思ふ程であるに係らず、何回讀んでも厭にならない。人を飽かせない刺撃が何處とも知らず籠つて居る。平凡な詞を平凡に感ぜしめない生氣がある。かういふ意味に於て集中に珍らしい歌である。『眞木立つ荒山道を石が根のしもと押靡べ』と云ひ、『旗すゝきしぬに押靡べ』と云へる六句が、此歌に於ける内容の實質であるが、是を詩的容積から見ても、詩的言語と云ふ點から見ても、格別に面白いとは思はれないが、是等の句々が有する響きには、慥かに皇子及び從者の一群が、勢込んで其み雪ふる大野に練行く有樣が充分現はれて居る、茲が此歌の永久的生命であらう。此の活きたる響きが讀者をして飽かしめないのであらう。多くの平凡な詞も其活きた響から生命を與へられて居るらしい。要するに此歌から引離して見れは悉く平凡な句であれど、此歌の組織中に有ると、其平凡な句が一齊に活きてくるのである、韻文家の殊に潛思して最も注意すべき點である。
我々は常に稱して居る、材料の如何言語句法の如何は、決して詩の第一義ではない、生きて居るか否かが即詩の第一義であると稱して居る、此歌の如きは、最も能く這般の消息を語つて居ると云はねばならぬ。
皇子が尊き身を以て、父尊の舊事を深く慕ひ偲ばし、寒風に荒山道を蹈別け行く精神と、其皇子の精神を心にしめた從者どもの、意氣と云ふ樣な内面の動きが、此歌の一篇の上に響いてる調子に現はれて居るところを味うて見るべきである。予も始め二三讀しては此歌は一氣呵成に無造作に作つた淺い歌であると思つたのである。歌を解するといふことは充分に味ひ見て決すべき事である。
短 歌
〔四六〕 阿騎乃野爾、宿旅人、打靡、寐毛宿良目八方、古部念爾、
あきの野《ぬ》にやどれる旅人《たびゝと》うちなびきいも寐《ぬ》らめやもいにしへ思《おも》ふに
『寐毛宿良目八方《いもぬらめやも》』は寐てもねられんやねられはせぬと嘆じた詞である。打靡き即ち横になつて寐るやうな事は出來やせぬの意であるが、此塲合打靡きは、寢臥の形容語と輕く見るべきである、旅人を古義には『タビト』と訓んであるが、是れは必ず『タビヒト』と讀まねばならぬ調子である。
評、長歌に充分の精神を注がれた餘勢で、短歌は苦も無く出來てくる事、長歌の創作に經験あるものゝ能く知る處である。此短歌及び以下の三首などもそれで如何にも易々と詠まれて居る。從て餘り優れた歌はない。此短歌などもいづれかと云へば凡歌である。第三句『打靡《うちなびき》』の句などは云ひ過ぎて居る。寢る形容詞と見るにしても、此塲合無要な形容の感がある。此歌の内容から考へると、第二句の『宿旅人《やどれるたびゝと》』も餘り餘所々々しい云方で面白くない。要するに一首全體が輪廓的になり過ぎて居る。感情の現はれと云ふよりは他の感情を餘所から説明したに過ぎない感がある。
先考の舊事を思うて寐られまいと思ふ人に、深く同情した心が、第四句以下に幾分現はれてゐない事はないが、宿れる旅人といふ餘所々々しい詞があつたり、打靡きなどいふ、此塲合に必要のない飾詞などのある爲に、作者の同情的感情の表現が餘程妨げられて居るのである。人麿の歌には往々其技倆に任せて詠みなぐつた爲に失敗した歌がある、以下數首の短歌の如きは慥にそれである。
〔四七〕 眞草苅、荒野二者雖有、黄葉、過去君之、形見跡曾來師、
まくさ苅る荒野にはあれどもみぢ葉《ば》の過ぎにし君が形見とぞこし
『黄葉過去君之《モミヂハノスギニシキミガ》』黄葉は過ぎにしと云はん爲めの枕詞である。
評、筆を採る直ぐに詠み得たと見ゆる淺薄な凡歌である。無くもがなの感に堪へない、前歌に比して一層感情に乏しく、全首の語句を通じて何等の響も無い、淡なる概叙の説明である、只さすがに句詞が整うて居る爲に、讀者に厭はしの感を起さしめない、それが僅に此歌の價値であらうか、かういふ歌も佳い歌とあると後進の人が、先入主となる習ひに囚はれると、大に人を誤るの恐れがあるのである。
〔四八〕 東、野炎、立所見而、反見爲者、月西渡、
ひむがしの野《ぬ》にかぎろひの立つ見えて顧《かへり》みすれは月|傾《かたぶ》きぬ
詞に解釋を要する所はない 野にかぎろひの立つは野のはての空に陽炎《ひのひかり》の映ゆる樣を云うたのである、
評、客觀的叙景の歌として、兎も角も成功した歌であらう。仔細に詮索して見れば飽足らず感ずるところがあるけれど、さう細かしい事は云はずとするも、第四の句『顧みすれば』の一句は、俳優の身振めいて、此歌の如き漠然たる大きな景色を描く句法としては、甚だ拙と云はねばならぬ。
今一つ此歌の大なる缺點は、作者の懷想の不明な點である、大野の曉天を眺めて其光景に憧憬したのか、或目的を有した此旅寢に時間の推移を嘆息したのであるか、主なる感じの判然せぬのが、讀者の感興を惑はせるのである。卓拔した詩才で一氣呵成に詠まれた歌であるから、大抵の讀者は先づ其外形に眩惑されて終ふのであらうが、能く心を落つけて味うて見ると、話の意味は解つても話す人の心持は判らぬといふ樣な感ある歌である。餘りに文章的に平面に記述されてあつて、作者の感情が、どの句の隅にも現はれて居ない。故に讀去つて、言語の意味を解する外に、何物をも感ずることが出來ない。要するに凡作とは云へないが、内部の組織に缺點が多く、稚氣を脱せぬ歌と云はねばならぬ。
〔四九〕 日雙斯、皇子命、馬副而、御獵立師斯、時者來向、
ひなみの皇子《みこ》の命《みこと》の馬《うま》なめて御獵《みかり》たゝしゝ時は來向ふ
『日雙斯《ひなみの》』斯〔右○〕は能〔右○〕の誤であらうとの説をとる、『時者來向《ときはきむかふ》』其時が最早來るとの意で面白い詞である 外にも『春過ぎて夏來向へば』などとある、當時に慣用された詞であらう。
評、四首の短歌中此一首最も優れて居る。同じく一氣呵成になつた作であるけれど、一首に背景も含まれ、時は來向ふの一句に、作者及び同じ境遇に居る人々と、時間との關係に、感情の動きが含まれて居る。
皇子の此旅行が、原來先考の舊事を慕ひ、其感懷を滿さんとの希望から、人里遠き荒野に草枕の旅をせられたのであつて見ると、大野の曉天明け離れて、今に先考が馬を並べて茲に御獵立たした時になると、皇子を始め、附從の人々まで、深き感懷に打たれたものと思はれる、此歌は其情緒を直截に歌うたものである。文章的叙述ではあるが、以上の如き大なる背景を有して居るから、少しも淺い平淡な感じがない。
實に痛切にして壯快な感じの歌である、かういふ歌を無造作に作つて居るから、人麿は矢張り人麿であると云はねばならぬ。
次手に一言いうて置たい、萬葉集の研究者が、最も注意して見て置ねばならぬ事は、萬葉當時にあつては、等しく讀者に活生命を感ぜしめたらうと思ふ歌も、千有餘年後の今日の我々の眼には、已に生命の枯渇し盡した歌や、さなくとも、其活力甚だかすかにして、新しい刺撃を與へ得ない歌や、猶依然として新なる生命を有し、強烈なる刺撃の力を感ずる歌とがある、是れは長い時代の推移に伴ふ自然の變化で、當然然るべき筈である、されば萬葉集の歌を悉く良いものと思ふと、そこに大なる誤解が起るから、注意せねばならぬのである。
即ち以上四首の短歌の中、『眞草苅る荒野にはあれど』の歌の如き今日に於ては殆ど活きた力がないと云つてよい、『安騎の野に宿れる旅人』及び『東の野にかぎろひ』の二首の如きも、生命甚だ弱く、我々の今日の感懷に滿足を與ふる力は無い歌である、最後の一首は前三首と選を異にして居ること先に云うた通りである。萬葉を尊びて萬葉の精神を得んとするものゝ、返す/\も注意を怠つてはならぬ點である。其死活の感別が明瞭を缺いて居ると、自己が作る處の歌にも生命の有無を少しも知ることが出來ないといふ樣な事になるのである。
明治43年6月・8月・12月『アララギ』
署名 伊藤左千夫
萬葉集新釋 一卷下
〔二十三〕
營藤原宮之役民作歌
藤原宮は持統天皇四年の頃から計畫があつて、同八年の冬頃から遷宮せられた皇居である。『役民』は『タテルタミ』と訓み、又『エダチノタミ』と訓むといふ説もある。古義には兩訓いづれでもよいと云ふて居る。いづれでもよいと云ふのは如何はしけれど、次手に記して置く。十四卷東歌。『於保伎美乃美己等可思古美可奈之伊毛我多麻久良波奈禮欲太知伎努可母《おほきみのみことかしこみかなしいもがたまくらはなれよたちきぬかも》』、此の『欲太知《よたち》』は役《エダチ》のなまれる東語であるといふは宣長の説である。
猶宣長云。此歌の總ての趣きは、近江の田上山から伐出した宮材を宇治川へ流して、それを又泉川に持越て筏に作り、其川から難波の海へ出し、海から更に紀の川をのぼせて、巨勢の道より藤原の宮地へ運び來つて、宮造りに用られたのである。其役に使はれた民の作つた歌であるから、其大體を心得置いて、歌のさまを味ふべきである。
〔五〇〕 八隅知之。吾大王。高照。日之皇子。荒妙乃。藤原我宇倍爾。食國乎。賣之賜牟登。都宮者。高所知武等。神長柄。所念奈登二。天地毛。縁而有許曾。磐走。淡海乃國之。衣手能。田上山之。眞木佐苦。檜嬬手乎。物乃布能。八十氏河爾。玉藻成。浮倍流禮。其乎取登。散和久御民毛。家忘。身毛多奈不知。鴨自物。水爾浮居而。吾作。日之御門爾。不知國。依巨勢道從。我國者。常世爾成牟。圖負留。神龜毛。新代登。泉乃河爾。持越流。眞木乃都麻手乎。百不足。五十日太爾作。泝須良牟。伊蘇波久見者。神隨爾有之。
八隅《やすみ》しし。わがおほぎみ。高ひかる。日のみこ。あらたへの。藤原がうへに。食《を》すくにを。めしたまはんと。おほみやは。高知らさんと。神ながら。おもほすなべに。天地も。よりてあれこそ。磐走《いはばし》る。近江の國の。衣手の。たなかみ山の。まきさく。檜のつまてを。物の夫の。八十宇治川に。玉藻なす。浮べ流せれ。そをとると。さわぐ御民も。家忘れ。身もたな知らに。鴨じもの。水に浮居て。吾が作る。日の御門に。知らぬくに。よりこせ道より。我國は。常世にならん。ふみ負へる。あやしき龜も。あたら代と。泉の河に。持越《もちこ》せる。眞木のつまてを。百たらず。いかたに作り。泝《のぼ》すらん。いそはく見れは。神ながらならし。
『荒妙《あらたへ》』は藤原の藤に對する枕詞である。荒き布の意。即|白布《しろたへ》、和布《にきたへ》と同系の詞。『藤原我宇倍《ふじはらがうへ》』は藤原の地稍高き原であつたので、普通には其のほとりと云ふべきを、聊か高い所だけに『上』と云つたのであらう。單に藤原の地の邊と云ふよりは、『上』と云ふ方が、地形もいくらか現はれて面白く詞も自然である。『食國《をすくに》』は早く云へば天《あめ》か下《した》との意である。『賣之賜《めしたまふ》』は治めたまふの意、以下四句にかけて、藤原に遷りまして天下を治め賜はんとて、大宮を高く御營みあらんと、神にてあるまゝに思召すにつれてゞある。『天地毛縁而有許曾《あめつちもよりてあれこそ》』天の神も地の神も、相依つてたすくる有ればこそあれの意で、前なる人丸の歌にも、山河も依〔右○〕りてつかふる云云の『依る』と同義である。茲までは此歌の一篇の序とも見るべき起しの句である。『磐走』は前にある。『衣手能』は田上《たなかみ》の枕詞、『眞木佐苦《まきさく》』檜の枕詞。眞木とは檜の美稱である 語例集中に多い。『佐苦《さく》』は幸《さく》にて、眞木幸はふの意となる。つまり檜に對する美稱の形式語と見るべきだ。『嬬手《つまて》』嬬は借字。物のつまといふ事と同意。手は衣手などいふ手と同じく物に添へいふ辭で意義のない語だ。『玉藻成《たまもなす》』は『浮べ流せれ』の語につく枕詞。『散和久御民毛《さわくみたみも》』散和久は音聲について云ふよりも廣い意義に見るべく、大衆が混雜して働く形容である。御民は國民を大御寶と云へる意と同じ心に尊み云ふ語である。殊に天皇に對し云ふ塲合に用ゐる詞であるらしい。天皇の御民といふ心であらう。『身毛多奈不知《みもたなしらに》』自分の身の事は知らずにの意、『鴨自物《かもじもの》』水に浮居てと云ふへの枕詞である。『吾作《あがつくる》』これは此歌の作者自身の事である。此詞に依て見ると、役民と詞書にあるけれど、只の人夫ではなく此歌の作者は宮造りに就て相等の位置に居つた人らしく思はれる。今世の所謂|棟梁《とうりよう》など云ふ資格の者で、殊に其新宮殿を造る職工の長といふべきものであらう。さうでなければ、吾作るなどゝ無造作に出てくる筈がない。『不知國依巨勢道從《しらぬくによりこせぢより》』知らぬ國とは外つ國との意であらう。外つ國の民も皇化を慕ひて依り來ると祝ひの意を兼て、巨勢の道へかけた枕詞である。巨勢は大和南高市郡にある地名、宇治川の或地點から泉川へ出る道筋であらう。『常世爾成牟《とこよにならむ》』常世といふ詞三種の差別あるよし、茲では昌平無事の世といふ樣なる意の今少し強い意義を持つてるのであらう。
『圖負神龜毛新代登泉乃河爾《ふみおへるあやしきかめもあたらよといづみのかはに》』神龜の事は漢土禹王の故事から思ひついた祝言であらう。天智帝九年にも神龜の出た事を書紀に記してあるが、是れも漢土思想から出た詞である。これも前の句の、知らぬ國依り巨勢道の句法と同じく、世を祝ふ詞を序として泉の河の『いづ』へかけた枕詞である。詞の綾が思切て飛び離れて居る處非常に面白い。『百不足』は筏の『い』にかゝる枕詞、百に足らぬ五十《いそ》で無造作な枕詞である。『伊蘇波久見者《いそはくみれば》』御民等のつとめ働くさまを見ればの意、前の句『泝須良牟《のぼすらん》』までは想像した状況であるが、いそはく見ればの一句は實見した御民らのいそしむ状態を云ふたのである。『神隨爾有之《かんながらならし》』神なるまゝにあるらし、如何にも尊い御世ぢやとの餘韻を殘した嘆息の詞である。
一篇の大意は、八隅知ろしめす我がおほぎみ高光る日の神の御子なる天皇命《すめらみこと》が、藤原の勝地に大宮を遷して天が下を知ろしめさんと、神ながら思召すからに、天神地祇も相依つてたすけつゝあれこそ、近江の田上山から多くの檜を伐出し、山城の宇治川を下し途中より取上げ陸路泉川に持越して筏に作り、一旦海へ出し更に紀の川を溯つて巨勢道を經て、吾が造營に任ずる日の御門に持運んで來る。それが爲に多くの人々が家も身も忘れて、其容易ならぬ苦勞を、寧ろ喜び樂んで仕へ奉る有樣を見れば、如何にも吾がおほぎみは神其まゝであるらしいと云ふのである。言語の斡旋實に巧妙を極めて、一篇に含まれ居るだけの意味を悉く説明することは到底出來ない。
評 前篇人麿の長歌に於て已に反復此御代の文明が極めて含蓄に富めることを繰返し云ふたのであるが、山河の神も依りて仕ふるとか、神ながらとか神の御代とか云ふことが、當時に於て決して一二詩人の感想から出た事では無く、國民一般に押並べてさう思つて居られたらしい事は、無名の作者に依て作られた此一篇に依て充分に知ることが出來る。
前二篇の人麿の作歌は、自然の材料も人事の材料も殆ど皇室を離れないで、直接に皇コを讚美したのであるから其趣味感情は遠く人間を離れて居る。勿論そこに人麿の歌の神韻は存するのであるが、又一面から見ると、所謂神の御世なる時代の上部のみを見て、下部を盡し得ざるの恨みがある。それで此長歌の方になると、宮城造營に就て歌はれたので、等しく皇室に近い事ではあるが一篇の精神は人民の方を主題として歌つてあるから、當時の人民といふ側の消息を窺ふことが出來る、即ち神の御代の下部が現はれて居ると云ふ點が非常に嬉しい。
一篇の情調を一渡り味うて見ると、此歌の作者が、身親しく神聖なる御代の生氣を呼吸しつゝ、滿目の事實が悉く御代の尊ときを思はせるので、感激に堪へなく其感情が抑え切れないで作歌したものらしく味はれる。それから是れを作るに就ては、何と云うたら思ふだけが現せるか、如何に云うても其感激を滿足させ得ないもどかしさの状態で作られた趣きが充分に味はれるのである、言語を四方に放散して感《おも》ふ所を盡したくあせつても、どの方面でも、思ふ所まで言語がとゞかない感じで出來上がつて居る。そしてそこが溜らなく味のある所である、人麿や赤人や家持やが有餘る詩材を振つて、容易に作り得た作歌とは、頗る趣きを異にして居る點に注意して見るべき歌である。
さうかと云つて、此歌には言語句法の無理な所は少しもないのである。前にも時々云つた如く、人麿の歌などには却て無理な言語句法が少くないのだ。由來大才は能く無理な事をするものであるから、敢て、咎むる必要も無いけれど、此歌の如き眞面目な努力の、自然的成功を最も尊重せねばならぬ。
此歌の作風は、上卷の始めにある、軍王の長歌に近い。此作者も軍王も、共に集中に一首しかない作者である。詩人など云ふ側の人では無く、歌に就ては寧ろ門外の人であつたらうと思ふ。兩者共に訥辨者が思ひをこめて物を云ふ如き趣きのある作風が、自ら醇朴な調子をなして居るのである。訥辨者が洒落を云ふと、又一種の可笑みがある如く、軍王の歌にも此歌にも、廻らぬ舌で云はないでもよい事を云ふて居て、それが又不思議に成功して一篇の色彩を爲して居る。
此歌の、『知らぬ國依り〔六字右○〕巨勢道』と云ひ『吾國は常世にならんふみ負へる神しき龜を新代と泉の河』云々と云へるなどは、此歌の趣向に於て、寧ろ餘計な洒落に近いのであるが、極めて眞面目な醇正な感情から作られた此歌にあつて、之れがよく一篇の色彩になつて居る。かういふやり方は大抵の塲合に、極めて厭味か拵物に落ちて終うのが當前である なぜ此歌に於て、それが厭味にならぬかと云へば、作者の側から考へると、其胸に溢るゝ感激を、せめてかうも云つたらとのもがきの結果から産みだしたものであつて、此塲合決して餘計な洒落を弄したのではなく、其精神がどこまでも眞面目であるから、自然作者の氣分が、底にほのめいて居つて讀者を引きつけるからであらう。
予は茲に聲を高めて云つて置きたい。眞面目な氣分の現はれといふ事は、詩作上其作物の生命に關する重要な事件である〔眞面目な〜右○〕。さうして眞面目な氣分の現はれといふ事が決して拵へごとで出來ることではない。必ず正しき詩作的態度に依て始てし得べき事である。
一篇の詩作は、一面に必ず意義の爲纏りを要求するのであるから、感想胸に溢れて居つても、其の感想悉くを漫に配列することは出來ない、それで此長歌の作者も、『不知國』云々『圖負留神龜』云々の如き、世を祝するの意味ある言語を序辭的枕詞に使つたのであらう。されば以上の如き裝飾的言語であるけれど、單に裝飾的序詞と見らるゝ事は作者の本意では無からう。本文に盡くせない事を序辭に偶した作風を見るべきであらう。以上の序辭が插入された爲に、此歌の内容を奧深く複雜に感ぜしめて居ることも注意すべき一つである。
猶此歌に見過すことの出來ない點は、主題の範圍が廣く内容も頗る複雜であるから、前にも云つた通り、作者は前後左右に言語が間に合はない心持で作つて居る。故に幾通にも放散した言語は、先々で皆切れて居る。それにも係らず、最後に至つて、極めて自然に極めて無難に纏《まとま》りがついて居る。言語が廻り足らぬ樣な中に於て、表面少しも齷※[齒+足]たる趣きが見えない。一讀して苦も無く作れた樣に見えてる。此作者の天分の尋常ならぬを知り得らるるのである。
常に云ふて居る事であるが、歌の形式が後世になればなるほど、一本調子になつてくる。人麿赤人の歌にも、繩の如き形の、文章に近い歌が少くない。長歌は殊に文章的形式になり易い。人麿の長歌が言語の賑かな割合に、内容の單純なのが多いのもそれである。後世の長歌の殆見るに堪へないのは、云ふに及ばない次第だ。
此長歌が、其文章に近い弊を極端に破つて居るのが嬉しい。試に少しく此長歌の句法を吟味して見るならば、『をす國をめしたまはんと、おほみやは高知らさんと』、共に接續せぬ二句を並べてある。『天地も依りてあれこそ』、で切り、『玉藻なす浮べ流せれ』、で切り、『鴨じもの水に浮き居て』、で切り、殊に此句の切りなどは、隨分思ひ切つた遣放しな切り方である。此句の下へ續く意味を考へると、人々が宇治川の水に浮き居て、多くの木材を再度陸に引上げそれを巨勢道より泉川へ持越すへ續くのである、それを『水に浮き居て』、と切つて終つて『知らぬ國依り巨勢道』などゝ云つて居る。さうして更に其續きがらなどを一向苦にせぬ有樣で、『我國は常世にならむ、圖負へる神しき龜』云々と云つて居る。其言語の放散も極度に達して居る。言語の放散と云ふことは、予は此長歌から氣づかせられた。恐らく又予以外に言語の放散など云ふ語を用ゐた人もあるまい。
次に、『筏につくり泝《のぼ》すらん』、と切つて終つて居つて何處からのぼすのか、少しも判らぬのであるが、宇治川から泉川へ持越した木材は、どうしても一旦海へ下してから、紀の川へのぼせて巨勢道へかゝる順序である。であるから、『知らぬ國依り巨勢道より』、の一句は矢張り茲で切れる句である。巨勢道から泉川へ持越すことは出來ないのであるから、其詞も巨勢道よりの句が泉の川へ接續は出來ない。
思想の順序から云ふと、宇治川より泉川へ持越し、泉川より海へ下し、海から紀の川を泝《のぼ》す事になるのである。さういふ事實上地形の順序などを一向苦にせず、只感激した情緒を出來る限り歌ひおうせんとしたのである。此歌の作意が木材を運ぶ事件を目的とせぬものであるといふことを注意して置かねばならぬ。『いかだにつくり泝すらん』と、云ひ捨てゝ置て、直に、『いそはく見れば』、と結末に入つた句法は最も味ふて見ねばならぬ。
此の如く言語句法の操縱は、放散的にゴタゴタして居るけれど、再讀三讀して味ふ内に、作者の感激した事件と情緒とは、殆ど遺憾なき迄に現はれて居る。
是等の歌を見ると、思想の爲に言語が迫ひ廻されてまごついて居る趣きがある。後世の歌は多くは其の反對で、言語の爲に思想が緊縛されて居る〔十五字右◎〕。故に一讀して先づ言語の物々しきを感ずることが多い。思想から受くる感じは寧ろ物一重を隔てた、間接な感受しか得られない。
古歌を褒め過ぎると思ふ勿れ。此の言語と内容との關係を會得しない以上は、決して生命ある歌を作り得らるゝものでない。
〔二十四〕
藤原宮御井歌
〔五二〕 八隅知之。和期大王。高照。日之皇子。麁妙乃。藤井我原爾。大御門。始賜而。埴安乃。堤上爾。在立之。見之賜者。日本乃。青香具山者。日經乃。大御門爾。青山跡。之美佐備立有。畝火乃。此美豆山者。日經能。大御門爾。彌豆山跡。山佐備伊座。耳無之。青菅山者。背友乃。大御門爾。宜名倍。神佐備立有。名細。吉野乃山者。影友乃。大御門從。雲井爾曾。遠久有家留。高知也。天乃御蔭。天知也。日之御影乃。水許曾波。常磐爾有米。御井之清水。
八隅しゝ、わご大君、たか光る、日のみこ、あらたへの、藤井が原に、大みかど、始めたまひて、はにやすの、つゝみの上に、在立たし、めしたまへば、やまとの、青かぐ山は、日の經の、大御門に、青山と、しみさび立てり、うねびの、此のみづ山は、日の緯の、大御門に、みづやまと、山さびいます、耳無の、青すがやまは、そともの、大御門に、宜しなべ、神さび立てり、名くはし、吉野のやまは、かけともの、大御門よ、雲居にぞ、遠くありける、高知るや、天のみかげ、天知るや、日の御かけの、水こそは、ときはにあらめ、御井のましみづ、
藤井が原は藤原なる地内の一區の地名であらうか、それとも藤井が原といふのが本名で、藤原と云ふのは、藤井が原の略された呼び名であらうか。さうでないとすれば藤原の内の藤井が原と云ふのは聊か疑はしく思はれる 原來所謂藤原の地は周圍餘り廣いところでないのであるから、藤井が原は即ち藤原の別稱であるまいかと思はれる。
兎に角其御井のある爲に藤井が原なる地名も起つたものらしいから、其御井なるものは、名高い清水であつたに相違ない。今も其香具山の麓に清水があつて、古の所謂藤井であらうといふ事である。
『埴安乃堤上爾《はにやすのつゝみのうへに》』香具山の麓に埴安の池と云ふがある、其周圍の土堤を埴安の堤と云つたのである。『在立之見之賜者《ありたゝしめしたまへば》』在は在通《ありかよ》ふ在待《ありま》つなどの在と同じ詞、即ち在々で常にといふ樣な意味だ、俗に有來《ありきたり》など.云ふ有と稍似た詞である。立之《たゝし》は立ちの伸びた詞で外にも例が多い。敬意を含んだ詞で立ち給ふといふに同じである。見之《めし》は見《み》る敬語、『み』を伸せば『めし』となる 即『メシ』の切『ミ』となるのである。此等の『見之』の語を『みし』とよめば語意過去の辭となるから、どうしても『メシ』と讀まねばならぬ、外にも多くある語であるから注意し置くべきである。只『昔見之《むかしみし》』などある塲合には語意過去になるから、『みし』と讀むこと勿論である。『日本乃《ひのもとの》』は假字で大和のである。大和の國の内でも殊に香具山の周圍を『やまと』と云つたらしい幸吉野宮時の歌にも『倭爾者鳴而歟來良武《やまとにはなきてかくらん》』などである 吉野も大和の内なれど、吉野から香具山あたりをさして猶『やまと』と云つてる處を見ると、當時の稀呼は殊に此香具山あたりを『やまと』と云つたのか知らと思はれる。さうでないと、茲で只香具山にのみ、大和云々と云へる意義が解らない。『青香具山《あをかぐやま》』は只青い香具山と云ふに過ぎぬ。併し何でもない事であるが、青香具山とは無雜作で働いた詞使である。『日經乃《ひのたての》』は東西を日の縱と云ひ南北を日の横と云ふのが古言であれど、此歌では『影面《かげとも》』を直に南とし『背面《そとも》』を北として作られたから、日の縱を東とし日の横を西として讀まれたのである。古言の例には無い事であるが、一篇讀了の上どうしてもさう見られる以上は少しも差支無いのみならず、寧ろ作者が大膽に自ら先例を爲して、新用語を定めたのを稱すべきである。『青山跡之美佐備立有《あをやまとしみさびたてり》』青々と繁《し》み立てりの意、之美佐備《しみさび》は繁げみを強めた意。佐備は神さびの『さび』と同じ『此美豆山《このみづやま》』美豆《みづ》は瑞穗瑞垣の『みづ』と同じく美稱の詞。『山佐備伊座《やまさびいます》』山を尊敬して云ふた詞である。『青菅山者《あをすがやまは》』宣長は菅は假字にて清々しき意、即ち青清山《あをすがやま》と云ふのであらうと云はれて居る。併し前に香具山を繁みさびと云つた語には樹木の繁つた形容と感ぜられるに對して、青菅山は單に清《すが》しき山と云ふよりは、草の青々とした形容の感じがある。
『高知也』『天知也』高く知ます天を知ますで、主觀的に天を形容し日を形容した詞である。此詞古く祝詞などに見えた詞で、此作者の創造した詞では無いが、高華壯麗何とも云へぬ詩美を含んだ詞である。さうして此作者が又最も巧妙に自己の作中に活用して居る、古語若くは已に世に行はれ居る言語も之を巧みに活用して自己の作物に有力な働きを爲させるのは、作家たる者の、一つの最も重んずべき技倆である。『日之御影乃云々』日の御影の映る水こそはと續くのである。清い清い井水に空の色がうつり日の影がうつるの意で、つまり清水の美しい形容に過ぎないのであるが、それを、高知るや天知るや云々と華麗無比の言語を最も巧みに綾なした技巧を見るべきである。
一篇大體の意は、解釋を要するまでも無いと思ふから省くが此歌の作意のある處は、藤原宮の結構を頌し御井の清水を讚するに偶して聖世を謳歌したのである。
評。此歌の内容を檢して見ると、頗る單純なもので、思想も又平凡極つたものである。新たに造られた藤原の宮は、四門の前それ/”\と宜しき程に名山が立つてる、天のみ影日のみ影を映して清く美しい御井の眞清水は、永久無限にかはるといふ事は無いのであらうと且つ讚し且つ祝したのであるが、思想に伴うて使用された言語も作者の創造にかゝるものは殆ど無いと云つてよい、『青香具山は』云々『青山と之美佐備立てり』、は未だよいけれど、『此の美豆山は』と云つてそうして『みづ山と山さびいます』、などあるは、隨分の拙劣である、『耳無山』を又『青菅山』と云つて、『宜しなべ神さび立てり』など云へる何等の平凡ぞ。『高知や天の御影』『天知るや日の御影の』、なる詞を茲に巧みに插入した働きは勿論稱すべきであるが、けれども要するに從來有ふれた言語の借用に過ぎない、かう貶し去つて終へば、此歌の價値は甚だ少くなる譯であるけれど、一面から見ると、此歌は萬葉集幾百篇の長歌中に於て、只一つしか無い形と着想とを持つた歌である。多くの詩篇中に異彩を有して居るとも云へるのである。
子規先生の存生中予は一夜先生と此歌に就て話合うた事があつた、予は此歌の内容が甚だ單純なものであるのに、餘りに形容が事々しいのが厭だと云ひしに、先生は萬葉集中に只一つかういふのがあるのは面白いと云はれた。當時の予は予の批評眼其物が此歌よりも更に單純であつたのである。先生は別に考ふる處あつたのであらうけれど其後予は先生より聞くところ無くて終つた。
其時代の思想感情と深き關係を有して居る作物は單に作物其物の一面にのみ依て評定し難き塲合が多い。此歌の如き只作者の技倆のみに就て見るならば、人麿の吉野の歌は勿論前の、役民の歌とは殆ど比較にならぬ程幼穉である。乍併人麿の歌は當時の詩聖の雅頌として其價値を有し、役民の歌は國民の感情を表明した詞頌として尊といものである。此長歌に至つては句法用語の幼穉なるものあるにしても宮中に近い或は皇族などの作らしく前二者の感情とは頗る其趣きを異にして居る、前二者が神ながらとか、神の御代とか、又は山川も寄りてつかふるとか、皆直接に世を頌し帝を祝するに反し、此歌は專ら周圍の天然を讚美し、少しも直接に世を頌するの語辭を漏して居ない、聊か注意して見るべき點であらう。
此作者が皇位に親しい人であるとすれば、世を頌するは自ら頌するに近いといふ樣な感情もあるべきである、されば聖世を樂む作者内心の愉悦は、一篇の内に溢れて居るに係らず、祝頌の意が直接に語辭に現はれてゐない處を能く味うて見ると、天子に對すると云ふよりは、寧ろ天子の側に居る者の感情を窺ふことが出來るのである。此歌の作者をさういふ人と見て來ると詞つきの幼穉な然かもどこまでも形式的な伸びやかな處に、却て悠揚とした作者の人柄を偲び得る心地がする。味ふべき點である。又此歌の樣に極端に形式的な作風も集中には只此一篇である。詩才少しく働ける作者であるならば、斯の如き單純に形式的な歌は作れまい。是れは必ず萬事おほまかに泰平を樂める高貴の人の作であること疑ふ餘地もない。人麿の歌役民の歌は、神ながらなる天子、神の御代なる聖世を客觀した作意であるが、此歌は聖世其物の内面が響いて居る。寧ろ自ら聖世其物に近いから單に周圍の天然に對して聖世の音をなして居る。されば此歌は聖世其物と云ふよりは、聖世の空氣を傳へて居ると云ひたい。
茲で一寸斷つて置きたい、此歌の如き句法のわざとらしきに極めて淺薄な粧飾的言語の配列。是れを今日の標準から單にそれだけを見るならば、到底此歌の價値を認めることは出來ないのであるが、此歌の價値はさう云ふ章句の末にあるのではない。一篇全對の上に現はれて居る處の感想のにほひから、作者其人の人柄を偲び得ると同時に、當時の人の天然に對する時代的思想感情が窺はれ得る處に、此歌の價値を發見し得るのである。
前々來屡繰返すところであるが、藤原宮時代即此持統天皇の御世は、普通なる歴史家の嘗て注意せざりし、從て世に知られざりし、多くの光明を包んだ御世であるらしいのである。此集に傳へられた、各種類を異にせる數篇の長短歌に、其時代的光明のにほひを明かに見ることが出來るのである。
此長歌の如きも、其時代の光明を認め得る有力な一篇であるから、其の點に於て此歌の上に大なる意義を發見し得るのである。
神ながら神さびいますと歌はれ、山河も寄りて仕ふるといひ、天地も寄てあれこそと云はれた、神の御代である。新宮造營の事あれば四方の民家も身も忘れ、去來していそはく有樣はどうしても神代ながらの御代である。是れが當時國民の上に行き渡つてゐた信仰的感情であつたらしい。さうして此の如き信仰的感情を與ふべき事實を有して居つた時代であることは前にも云うた事である。
それで此の如き信仰的感情を國民に與へつゝ、有ゆる方面から無限の感情と讚仰とを受けた宮中の感情はどうであつたらう。
藤原の宮新に成りて、所謂埴安の堤の上に在立たし新宮四圍の天然現象を見そなはした感情はどうであつたらう。天地山河の神々から擁護を受けつゝあるとの信仰的感情を以て、新宮の四圍に立てる山々を見そなはされたとすればそこに大なる意義と深き感情の湧溢とを現ずるに至るは極めて自然な事である。天然現象に對し何等信仰的感情も無い今日の我々から見れば四門の前に名山を見るの感じ、只景色的美感の外に何物もないのであるが、此歌の當時にありては、御井の清水に天の清が映り、日の光の影が映つると云ふ事にも深大な意義を感じた程であるから、此歌に於ける、『之美佐備立有』とか『山佐備伊座』とか『神佐備立有』とかいふ詞も決して、形式的粧飾語ではないのである。大なる意義と深い感情とを云ひ現さんとする、極力的發語であるのであらう。此作者の感情は未だこれでも、云ひつくされなく思はれたのであらう。最も強く深い作者の信仰的感情の背景を認めて此歌を味ふ時始めて此歌の眞價を認め得らるゝのである。かう考へてくると此歌の如きも、其藤原の宮の時代で無くては現はれ得ない歌であると云へるのである。
今日往つて、香具山畝火山耳無山を見よ、平凡驚く許り、單に山として見るならば、何の見どころも無い山である、其平凡なる三山に對し當時の人が、深大な意義と感情とを持つて居つたのは、全く信仰的感情を以て對したからである。
信仰家の所謂、信仰の力は天地間の總ての物に意義を附與すと云ふもそれである。藤原宮の御井なるものも只普通の觀念を以て見たらば、無雜作な、清水であつたかも知れぬ。それを山川も寄りてつかふる神の御代なる信仰的感情の目を以て見れは、高知るや天のみかげ天知るや日のみ影の水こそはと云ふまでに尊く美く感じて來るのである。かうなつてくると句法の幼穉とか、言語の拙劣とか云ふことは問題にならなくなつて來る。小石一つは只の人の目から見れば、何の價値も無いものであるが、獨逸の詩聖が云はれた如く、小石一つにも神の存在を信じ得る感情を以て對するならば其小石一つにも深大な意義と感情と以て對することが出來るのである。
此歌の如きもそれと稍同意義を以て解することが出來るのである、歌其物の價と云ふよりは、作者が有する信仰的感情の價値と其の神聖な時代が多くの人をして善美な思想感情を抱かしめた價値とに依て、此作物に大なる價値を附與されて居るのである。
それで終に斷つて置かねばならぬ、此長歌の如き歌は其の時代に逢うて其信仰的感情あつて、始めて作り得べき歌であるから、其作意句法言語共に少しも今日の作物に資する處は無いのである、役民の歌の如きは前に言へる如く、句法の精神言語の驅使等採つて直に今日の範とすべきものであるに反し、此歌の如きは何れの部分も今日に範とすることは出來ないのである。
短 歌
〔五三〕 藤原之。大宮都加倍。安禮衝哉。處女之友者。乏吉呂賀聞。
ふぢ原の大宮つかへあれつぐや處女がともはともしきろかも
『大宮都加倍《おほみやつかへ》』は宮仕などの『つかへ』ではなく大宮を造り奉りの意である。十九の卷に天地と相榮えんと大宮を都可倍麻都禮婆。貴久宇禮之伎。遷奉太神宮祝詞に、『二十年爾一遍比大宮新仕奉《はたとせにひとたびおほみやあらたにつかへまつり》』云々等に見るべきである、『安禮衝哉』は諸説あるやうなれど、衝は齋の借字で、顯齋《あれつく》であらうとの古義の説をとる。齋《つく》はかしづくなどの『つく』同じく敬ひ仕ふるの意で、あれつぐは現はにつかへるの義である。神に仕ふるは幽なる事であるから、忌齋《いつく》と云へるに對し、朝廷に現實に奉仕するのを『顯れつぐ』と云ふのであらう。『乏吉呂賀聞《ともしきろかも》』は例多し、羨《うらやま》しい哉の意である。
一首の意は、藤原の大宮つくり奉りさうしてそこに宮仕するかの女達は羨しいとの意である、女帝の事であるから、宮中に仕ふるもの多くは女であつたらう。此作者が從令帝に親しい身分にしても男子であれは其新宮にいつも仕へ奉ることは出來ない。女どもは羨しい哉と云ふ詞の内に新宮の尊とげな有樣や、御世のなづかしい情緒が現はれて居る。平易に無雜作に詠まれた内に又何とも云へない品格の高い處がある 眞淵は此短歌は、前の長歌に就いた反歌で無いなど云はれたのは、眞淵はそれ程歌が解らなかつたかと思はれて口惜しい。長歌と短歌との差はあつても此短歌の平易に伸びやかなところは長歌と如何にもよく好對をなして居る。此短歌もどうしても貴人の歌である。
〔二十五〕
大行天皇幸于難波宮時歌の三首目から始まる、茲までの短歌は『馬醉木』で解釋してある、『馬醉木』の短歌釋と『アラヽギ』の長歌釋と茲で出合うたのである、是よりは短歌も長歌も順次のまゝにやつて行くつもりである。
○
〔七三〕 吾妹子乎〔五字右・〕。早見濱風〔四字右・〕。倭有〔二字右・〕。吾松椿〔三字右・〕。不吹有勿勤〔五字右・〕。
わきもこをはやみはまかぜやまとなるあをまつゝばきふかざるなゆめ
『吾妹子乎《わきもこを》』は下の句の『早見清風《はやみはやかぜ》』へかゝつた枕詞で、妹を早く見むの意につゞけたのである。併し此の枕詞此の歌では、作者の心が枕詞でほのめかされて居るのである。かういふ風な枕詞の使方は集中外にもかつがつある。營藤原宮役民作歌にも序辭中に本意を示してあるのがある。旅中家にある妻などを思うて作られた歌であるが、本文には直接に其意味がなくて、枕詞で間接に其意を云うてあるのである『早見濱風』は古義は早見濱即攝津の地名であらう(併しさういふ地は未詳)と云うてゐる。宣長は見濱《みはま》は即ち御濱《みはま》で地の名では無からう、御津《みつ》御浦《みうら》など云ふから御濱とも云ふであらうと云つてる。これはどの説が良いとも云へない『吾松椿』椿の字樹の誤りで『あをまつのきに』と訓むべきで、さういふ詞の例も多いといふ説を古義でも取つてるが、予は〔二字傍点〕『吾をまつつばき〔七字右○〕』で差支なく、却てそれが面白いと思ふのである〔二十字傍点〕、誤字とか脱字とかいふことを輕輕しく云ふのは甚だ危險である。明瞭にかう記載してある以上は、猶更先づそれを充分重く見てかゝるべきである。詞つき多少無理なやうでもあるが、第五句を第三句に置換て見れば猶解り易いのである。且つ此の難波行幸は、正月より二月へかけての事であるから、椿の季にも當つて居るのである。『不吹有勿勤《ふかざるなゆめ》』はゆめ吹かずある勿れ、必ず吹けよとの意である。
一首の意は、海上から都の方向へあゝ心地よく吹く濱風よ、我を吹くやうに、大和にあつて我れを待つ吾家の松椿に吹けゆめ吹かずある勿れとの意である、松椿は勿論指す人があつて云うたもので、只松椿其物と云うたのでない。我れを吹いた濱風は必ず又我れを待つてゐる大和の人を吹いて我此の思ひを傳へよとの意が籠つてゐるのである。
評。一讀氣持の良い面白い歌である。かけ詞もかういふ風に、感情の含まれた無邪氣な詞であると厭味の無い許りでなく、當時の作者の情緒が、直接の、説明に依らないで、わざとでなく匂ふやうに現はれてゐるのが面白い。
一寸と見て拵へ歌のやうに思はれながら、言語の組織は却て自然である。此歌なども言語の響きが著しく融合統一して、内容も外形も完全な組織となつて居る。始めに早見濱風と云つたゞけで、外に之れに響き應ずる詞がないと、初句の枕詞も枕詞以外には働かないけれども、第四句に『吾松椿』の句があつて、能くそれに應じて居るから、掛詞の運用が一層有効になつてるのである。
此歌は掛詞それが既に表情的の詞であつて、其上意義が極めて平易であるから、讀者は何等の思考力も待たないで、其言語が含む感情を攝取することが出來るのである。
能く考へなけれは解らないやうな、意味の深い掛詞は、會得に知識を要するだけ、それだけ感情は消て終ふのである。更に趣味の見當違に、掛詞の意義に興味を持つやうになれば謎《なぞ》の愚に陷り厭味の俗に墮するのである。
されば掛詞は必ず、表情的の詞でなければならぬ事、平易無邪氣な用語であるべき事。此の二個の用意が無く掛詞を使ふなら必ず失敗するであらう。
『吾を松椿』がよいか『吾を松の木に』と云つたが良いか。それは前にも一寸と云つたが、此歌の内容から見るならば『松の木に』とまで一局部の材料に力を入れる必要はない、寧ろ松の木にと松に重い意味を持たせ過ぐれば、一首全體に含まれたふはりとした内容の統一を損ふのである。されば此の塲合大まかに概括的に松椿と云つた方が、詞の裏にこもつてる意味を感じ易いのである。且つ『吾を松椿』と云へば其指す人は一人でなく正妃女房などの上をかね云ふ詞に取られるから。意味も漠然として來るだけ廣くなるのである。此歌の塲合には意味の漠然とするのが良いのである。僅かの相違であれど前者と後者とで一句の讀みやうの爲に、歌の性質が著しく變つてくるのである。
○
大行天皇幸于吉野宮時歌
茲も前と同しく大行天皇とは文武天皇である。
〔七四〕 見吉野乃〔四字右・〕。山下風之〔四字右・〕。寒久爾〔三字右・〕。爲當也今夜毛〔六字右・〕。我獨宿牟〔四字右・〕。
みよしぬの山のあらしの寒むけくにはたや今宵もわが一人ねむ。
『山下風之《やまのあらしの》』集中の例に依り『山のあらし』と訓む、『爲當也今夜毛《はたやこよひも》』の『はたや』は嘆息の意の籠つた詞で、好まないけれど止む無せねばならぬ時の心を云ふ詞である。『痩々母生有者將在乎波多也波多武奈伎乎漁取跡河爾流勿《やす/\もいけらばあらんをはたやはたむなきをとるとかはにながるな》』、など讀みて波多也《はたや》の意を知るべきである。一首の意は、み吉野の嵐が此のやうに寒いのに今夜も又一人で寢る事かい、堪らなく淋しいなアと云ふほどの意である。
評、先づ言語の自然といふ事から押して見ると、『はたや今宵も〔右◎〕』『はたや今宵は〔右◎〕』との相違が事實の上にどういふ差があるか、此歌のやうに今夜も〔右◎〕獨りで寢るかと云へば昨夜も獨りで寢た事が判る、今宵は〔右◎〕獨りで寢るかなと云へば、前の夜までは相手があつて獨で寢なかつた事が自然に判つてる。『も』と『は』との相違にはこれだけ事實の相違がある 從て感情の相違がある。
『我獨宿牟《わがひとりねむ》』と『獨鴨宿牟《ひとりかもねむ》』との差はどうであるか。漠然と讀んだら、此二句に格別の相違を感ずることは出來ないであらう。併し此時代の殊に用語の自然な歌には以上二句が現はして居る意義に差別の明瞭を欠く樣に粗笨な用語はない筈だ。獨と云ふ詞は獨ならざる塲合に對した、相對の意義を持つてること勿論である、而して我獨と云へば、より多く相對の意味あること云ふまでもない。此二句が意味の上にそれだけの相違があつて、事實と感情にはどれだけの差があるかを考へて見るべきである、それでなければ此歌の解釋は充分に出來ないのである。
『獨鴨宿牟《ひとりかもねむ》』にも相手のあること勿論なれど、相手が猶遠くて稍漠然として居る『我獨宿牟《わがひとりねむ》』は相手がより近くて頗る明瞭して居る。
此歌にあつて最も重要な二句の意味を以上の如く解して後此歌を味うて見ると、次に右一首或云天皇御製歌とあるのが事實であらうと思はれるのである。何ぜなれは、此歌は從駕の人などが、只家戀しさに嵐の寒い夜を獨寢するを漠然淋しがつて詠んだ歌ではない。はたや今宵も我が濁り寢むの詞には、後から來る筈の人が(【無論女】)あつて、それを待ちこがれて居つたが、遂に昨日も來ず今日も來ない。そこで今夜毛〔右◎〕の『も〔右◎〕』の詞が出たのである、如何なる事情にか豫期が昨夜も今夜も違つて、しかも吉野の嵐の寒いのに、今夜も〔右◎〕待つた彼〔右◎〕と寢ることが出來ずに、我〔右◎〕が獨りで寢ることかいとの情意が歌はれてあるのである、作者の胸中に彼〔右◎〕と寢ることが出來ずにと云ふ心があるから『我〔右◎〕が獨寢む』の我〔右◎〕と云ふ相對の語が茲に出たのである。如斯微妙なる自然的用語の働きを疎かにしては、生命ある詩を味ふことは出來ないのである。
それで此歌が吉野行幸の時の歌として、歌の内容以上所解の如くとすれば、天皇御自らの歌と云ふ外はない。從駕の臣などが、縱令皇族にせよ恐くは戀人を携ふことは出來ない筈であるからである。故に予は此の歌の内容を吟味して、御製に相違ないと見るのである。さう思ふと古人が此歌に或云御製歌と書添へた有難さを深く感ずるのである。
予は猶此歌を萬葉中の有數な佳作と信ずるのである、言語が實に能く表情に協つて、一句一句に感情の響きがあらはれて、如何にも寒い淋しい人戀しい心持を飽まで讀者に傳へるのである、何等巧む處もなく少しも言語にわざとらしい處がない。幾度吟誦しても、愈新しい味を感ずる許りである。
如斯明晰な自然な言語で、千年後の讀者に限りなく深い情味を示して居るのに、明治の歌人はやゝもすると自分の友人にすら解し得ないやうな、六つかしい歌を作つて居るが如何なる考にや解し難い。恐くは其當時に於て我れと我が歌を解釋して置かなかつたらば、自分にも解らなくなるであらう、一般の人にまで解るやうにとは云はず、共に研究しつゝある友人に三人三樣に解されるやうな歌を作つて後世何人に見せんとするにや。
〔二十六〕
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〔七五〕 宇治間山〔四字右・〕。朝風寒之〔四字右・〕。旅爾師手〔四字右・〕。衣應借〔三字右・〕。妹毛有勿久爾〔六字右・〕。
うぢま山あさ風さむし旅にしてころもかすべきいもゝあらなくに
『宇治間山』は、大和の吉野郡池田|千股《ちまた》村にありとの事である。『衣應借』は、上古の風俗男女の契りは必ず男が女の家に通つたものであるから、それで朝になつて女のもとから別れて出る時、寒いやうな塲合には、自然女が衣を借して男を歸すといふやうなことがあるべきである。されば女が男に衣を借すといふやうな事は此時代に於てありふれた事であるのだ。ありふれた事ではあれど、愛する或は愛せらるゝ女から、外はさぞ寒からむなど云ふ優しい詞と共に衣を借されて朝歸るといふ、情味の籠つた事柄は、必ず當時の情話に繰返されたものであらう。それを無造作にとつて歌にしたのが此歌である。
一首の意は解を要するまでもなく、宇治間山の朝風の寒いことよ旅であるから衣借すべき女も無い、と云ふのである。
評 事柄もありふれた事である、感情も有ふれた感情である、其點に於て此歌は實に平凡極つた歌である、されど反復熟讀して見ると、何となし捨て難い幽かな味を感ずるのはどういふ譯か。
要するに此歌の聲調が慥かに淋しい作者の心持を響せて居る、それが人をして此歌を捨てしめない生きた力であるのだ。佳作の何のと云ふのはをかしいだらうが、極めて無難な感じの良い歌であるとは云へるだらう。
何等の趣向もなく何等の巧も無い處に却て自然な響きが聞かれる。
終りに注意して置くのは、此歌詞の表で見ると、朝風の寒いのを苦んでの歌のやうに聞えるが、歌の本旨は矢張り戀の歌である。家を離れた旅の淋しさを歌つたものとして味はねば、此歌の面白味は解らないのである。猶朝風寒しと云ふから、衣借すべき妹もあらなくにの句があるのである。で前の句は夕風寒しでも山風寒しでもいけないのである。かういふ全體に平凡な歌には、殊に極めて些細な詞の働きを注意せねば、微妙な響きの綾を聞くことは到底出來ないのである。
右一首長屋王。
長屋王は高市《たけち》親王の子、天武天皇の孫である、正二位左大臣にまでなられた人であるが、讒せられて死を賜ふといふ終であつた。
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寧樂宮御宇天皇代。
和銅元年戊申、天皇御製歌。
天皇は元明天皇である、天智の皇女、日並知皇子の妃文武天皇の母である、文武天皇崩じて御位に即かれたのである。
〔七六〕 大夫之〔三字右・〕。鞆乃音爲奈利〔六字右・〕。物部乃〔三字右・〕。大臣〔二字右・〕。楯立良思母〔五字右・〕。
ますらをのとものとすなり物の夫のおほまへつきみ楯たつらしも
『鞆乃音爲奈利』鞆といふもの詞の上には誰も知れるものであるが、能くは判らぬものである。古事記に、伊都之竹鞆《いづのたかとも》(竹《たか》は高《たか》の假字であらう)書紀に稜威之高鞆《いつのたかとも》などある、和名抄に、蒋魴切韻云、※[旱+皮](は)在v臂(に)避v弦具也、和名|止毛《とも》。鞆は日本の文字にて漢字には無しとの事である、要するに後世には絶たもので弓と關係のある上代の武具である。さうしてそれがどうかする拍子に鳴るものと見える、形丸く中は空虚にて鞠の如く革にて縫括つた物との事である。諸説はいろ/\あれど今の世の鞆絵といふ紋樣は、昔の俤を殘したものではあるまいか、『大臣』茲では物部の大臣である、大前津公《おほまへつきみ》は天皇の大前《おほまへ》に候《さぶら》ふ公《きみ》との意である。世多くは大臣をのみおほまへつきみと云ふ樣に云へるは間違て居るのである。『楯立良思母《たてたつらしも》』は楯立《たてた》てなどして武事を習はすらしとの意である。『母《も》』は嘆息の詞で此歌に殊に重い一字である。軍の用意が頻りにあるらしい呼嗚と天皇の歎息なされた一首の響きが『も』の一字に依て明かにされてあると云つてもよい位である。
一首の大意は、武士どもの鞆の音頻りに聞ゆるは物部大臣が楯立てなどして軍事を習はすらしい愈軍をせねばならぬ事かと歎じたのである。
評 此歌を解釋するには、次なる御名部皇女奉和御歌と併せ考へて充分に其精神を心得べきである。詞の表面のみで見ると、只ますら夫の鞆の音がする物部の大臣が軍を習はすらしいと云ふに過ぎねど、女帝始めて御位に即かせられて、天下に軍事の起れるを深く歎息せられての御製であるから、聲調自のづから哀音を含んでることを注意せねはならぬ、古歌の持前として、露骨に意味の上には云はない處に却て深い感情は籠つて居る。
續日本紀に見ると、陸奧越後の蝦夷が叛て和銅二年三月。巨勢麻呂佐伯石湯二人大將軍として遣はされた位であるから、元年から軍の騷ぎは無論あつたのであらう。文武天皇崩御皇太子猶幼少故に母皇老躯を以て御位に即かれたと云ふ際であるから、殊に深く天下の禍亂を御心に掛けられたのである。
此歌も前の歌と略同じで、詞の表面では事柄も感情も如何にも平凡である。けれども此歌の聲調は、決して憂の無い人の發すべき、音聲ではない點を能く味うて見るべきである。今日の人であつたらば、苦しい事悲しい事憂ふべき事等、それを殊更に誇張して意義の上に於て苦度/\しく、痛切がるのが普通であるが、さういふ點に於て上代の歌は如何にも高尚である。天下の禍亂を非常に憂慮しての歌でありながら、おほまへつきみ楯立つらしもと云ふたきりそれ以上を詞の上に表はさないのである、只其沈痛な哀音ある聲調が、僅に作者内心の憂苦を傳へて居るのみである。併し眞の韻文の味は彼にあらずして是にあること云ふまでも無い事である。聲調の上から熟々御製を味うて見ると、實に尊く大きい感じのする歌である。此の御製のある御心は取もなほさず、天皇としての御精神から、殆ど信仰的に天下を憂ひ諸氏を憐れます御心であることが、詞の意義の上でなく、直接に御聲の響きに表はれて居る、所謂寧樂の盛代が是等の御製の精神から發して居ると云つても決して溢美では無い。凛として沈痛な聲詞の奧に無限の嘆きが籠つて居る、其御嘆きは即帝位の上から、ひたすら天下を嘆く御嘆きである。國を憂ふとか民を嘆くとか詞のこと/”\しい歌はいくらもあるけれど、此御製の如く沈痛に眞實な響を感ずる歌はない。帝國の文明史に至大な關係のある歌として此歌を尊重せねばならぬ。
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御名部皇女奉和御歌
皇女は天皇と御同母の姉、即天智天皇の皇女である。
〔七七〕 吾大王〔三字右・〕。物莫御念〔四字右・〕。須賣神乃〔四字右・〕。嗣而賜流〔四字右・〕。吾莫勿久爾〔五字右・〕。
わがおほぎみ物なおもほしすめがみのつぎてたまへる君なけなくに
『須賣神乃《すめかみの》、嗣而賜流《つきてたまへる》』すめ神は廣く皇祖をさして云へるなれど、こゝでは天照大御神高御産巣日神の事である、嗣而賜へるは皇統相繼で言依さし賜ふである。『吾莫勿久爾《きみなけなくに》』は『吾』は君の誤であると云ふ宣長の説がよいやうである。それできみなけなくにと讀むのである。即君にてあらぬことはなきにとの意である。
一首の意は我が大きみさやうに御心いため給ふな、皇祖の御嗣によりて帝位にいます君なれば、自のづから御コ備れるものを必ず災亂もさしたることなく治まるべし 御心にかけ給ふなと天皇を慰め奉らんとの心から詠まれた歌である。
評 この歌は天皇の御嘆きを慰めんとの心から詠めるものであるから、作者自身の感情を直接に歌うたものとは違つて、其詞の云へる意味以外には、格別味ふべき情味は無い。寧ろ形式的感じの勝つた歌である。
併し此歌は前の御製と相並んで、御製があらはには云はざりし内心の嘆きを、此歌に依て顯著に感じ得る處に注意すべきである、一對の贈答歌として、以上の如き相對する兩首の關係は、文學上注意すべき價値があると思ふ。唱和の歌は兩作の意義が接近して居るだけそれだけ、唱和の歌の面白味は少くなるのである。
前の御製の如きも、一首の歌として、其聲調に哀音を聞くことが出來ないことは無いが、此奉和の一首があつて、容易に御製に包まれた感情に觸れることが出來るのである。それを此歌の價値と云ふは少しく妙なれど、一は内面に籠つた味が多く一は之れに共鳴した受動の響きの決して無意味で無いことを注意して置くべきであらう。
明治44年2月・4月・7月・9月『アララギ』
署名 伊藤左千夫
入力:米田進 短歌の部追加入力、2003年7月21日(月)終了 校正 2003.12.23(火)18時16分終了 再校正 2005.9.21(水)午後7時54分終了