出雲國造神壽後釋序
 
神壽後釋序
 
古之御々代々爾。吾世々乃遠租之。内日刺於京師參上而。伊刀毛可畏天皇尊之大前爾白祁流。此家之神壽者志母。延喜式仁毛載良禮※[氏/一]。伊刀佐陀迦爾傳波埋※[氏/一]波有祁禮杼母。乎々佐々取見人毛無久。世々之物識人等母。唯奈保左里爾看過志來奴留乎。知可伎許呂吾嬬之國仁。賀茂眞淵登云祁流翁之。始而是乎賣傳尊美天。古文乃有之中爾毛。婦流久貴九。賣傳多伎物曾登。其著勢留祝詞考爾。返々賛揚都流余里。稍世人毛。此文有事乎知而。心留而讀事登波成奴。爰仁神風廼伊勢國爾。本居宣長云翁有。彼眞淵翁之教乎受嗣而。今美佐加利邇。古學乎於世間弘牟奈流。此翁亦。此神壽乃後釋云書一卷乎作有乎。予之弟奈留俊信之。其翁爾書通志※[氏/一]。教乎受留手依爾屬而。令見而有乎。此處繭母寫留而。倭文手卷久里復志讀味布仁。解難古之詞等乎毛。遺隈奈久。淺茅原委曲爾説顯世留状。甚母賣傳多玖。自今後。伊豫與此神壽。世中爾廣萬里天。吾家之古乃神事乎。人皆知乍。許禮廼出雲之大神之。於世多布斗伎由縁乎母。彌益々可仰基爾社登。歡保比思余志乎。伊左々可書都々理※[氏/一]奈毛。
 
寛政五年九月
        出雲國造出雲宿禰俊秀 花押
 
出雲國造神壽後釋上
           伊勢國人 本居宣長釋
 
出雲國造神賀詞《イヅモノクニノミヤツコノカムヨゴト》【出雲(ノ)國(ノ)造(ハ)穗日(ノ)命(ノ)之後也
 
考の頭書に云、こゝに國造の祖を注したるは、式の例にたがへれば、後の人のしわざなり、
〇後釋、考とは、吾師賀茂(ノ)縣主眞淵(ノ)大人の祝詞考を云、次々みな然り、今其書、頭書までももらさず、悉くあぐ、神賀詞は、本に加牟本岐乃許登婆《カムホギノコトバ》と訓(ミ)、人もみな然唱ふめれども、出雲風土記に、國(ノ)造(ノ)神吉詞とも、神吉事とも書たれば、加牟余碁登《カムヨゴト》と訓べきなり、此文の中に、神賀吉詞とあるをば、迦牟本岐乃余碁登《カムホギノヨゴト》と訓べし、よごとは、萬葉廿に、餘其騰《ヨゴト》と見え、書紀(ノ)持統天皇(ノ)御卷に、天神壽詞《アマツカムヨゴト》とも見え、此詞をも、續紀に神賀事《カムヨゴト》、神賀辭《カムヨゴト》、神齋賀事《カムイハヒノヨゴト》、神吉事《カムヨゴト》、續後紀には、神壽《カムヨゴト》など書れたり、出雲(ノ)國造は、古事記に、天菩比《アメノホヒノ》命(ノ)之子|建比良鳥《タケヒラトリノ》命、此(ハ)出雲(ノ)國(ノ)造|等《ラガ》之|祖也《オヤナリ》、書紀に、天(ノ)穂日(ノ)命(ハ)是出雲(ノ)臣《オミ》土師《ハニシノ》連|等《ラガ》祖也と見ゆ、建比良鳥(ノ)命は、諸書に武夷鳥《タケヒナトリ》とも、天夷鳥《アメヒナトリ》とも、天日照《アメヒナテリ》ともある、皆同神なり、なほ此神の事も、此國造の事も、古事記傳七の卷に委くいへり、貞觀儀式に、太政官(ノ)曹司廳(ニシテ)、任2出雲(ノ)國造(ヲ)1儀、當日(ノ)早旦(ニ)、掃部寮設(ク)v座(ヲ)、【辨大夫(ハ)西廳、式部(ハ)東處(ノ)西廂、】式部(ノ)録率2史生省掌等(ヲ)1、進(テ)置(ク)2版三枚(ヲ)於中庭(ニ)1、【自2尋常(ノ)阪1南(ニ)去(ルコト)五尺(ニ)、置2宣名(ノ)版(ヲ)1、南(ニ)去(ルコト)四許丈、更(ニ)東(ニ)折(ルルコト)一許丈(ニ)、置2國司(ノ)阪(ヲ)1、自v此西(ニ)去(ルコト)一丈、當(テ)2宣命(ノ)版(ノ)南(ニ)1、置く2國造(ノ)版(ヲ)1、】訖(テ)參議已上就(ク)v座(ニ)、大臣喚(フ)2召使(ヲ)1、召使|稱唯《ヲヲトマヲシテ》、就(ク)2尋常(ノ)版(ニ)1、大臣宣(ル)v喚(ヘト)2式部(ノ)省(ヲ)1、召使稱唯(テ)、出(テ)而喚(フ)v之(ヲ)、輔稱唯(テ)、丞代(リテ)進(テ)就(ク)v版(ニ)、大臣宣(ル)2參來《マウコト》1、丞稱唯(テ)而上(リテ)、至(ル)2大臣(ノ)座(ノ)前(ニ)1、大臣賜(フ)2國造(ノ)名簿(ヲ)1、丞受(テ)退出、訖(テ)輔丞各一人録三人、入(テ)就v座(ニ)、訖(テ)國守入(テ)就(ク)v版(ニ)、次(ニ)省掌引(テ)2任人(ヲ)1參入、【任人就(ク)v版(ニ)、省掌着(テ)v南(ニ)而立、】參議已上辨大夫降(リ)立(チ)、及(テ)2式部起(チ)v座(ヲ)立(チ)定(ルニ)1、辨大夫一人就(テ)v版(ニ)、宣制(シテ)曰(ク)、天皇 我 詔旨 良麻止《スメラガオホミコトラマト》 宣(ハク)、某(ノ)位某、出雲(ノ)國(ノ)造 爾《ニ》 任賜 天《ナシタマヒテ》、冠(リ)位上(ゲ)賜(ヒ)、御手物《ミテツモノ》賜(ハ) 久止《クト》 宣(ル)、國司任人共(ニ)稱唯(テ)、再拜兩段、拍(ツコト)v手(ヲ)四段、參議已上、及(ビ)辨大夫以下、還(テ)就(ク)2本(ノ)座(ニ)1、掃部(ノ)寮進(テ)敷(ク)2簀(ヲ)中庭(ニ)1、式部(ノ)史生置(ク)2位記(ノ)筥(ヲ)1、録一人進(テ)就(テ)v簀(ニ)賜(フ)2位記(ヲ)1、録一1人留2位記(ヲ)1、史生進(テ)撤(ス)2位記(ノ)筥(ヲ)1、次(ニ)掃部寮撒(ス)v簀(ヲ)、次(ニ)録一人進(テ)2禄(ノ)所(ニ)1、唱(ヘテ)賜(フ)、毎(ニ)v賜2一物(ヲ)1、拍(ツ)v手(ヲ)、【大蔵(ノ)省豫(メ)積(ム)2禄(ヲ)庭中(ニ)1、※[糸+施の旁]十匹、絲二十※[糸+句]、布二十端、】任人持(テ)2※[糸+施の旁]十匹(ヲ)1退(リ)出(ヅ)、絲布(ハ)藏部相隨(テ)持出(ヅ)、訖(テ)各退出(ヅ)と有て、其次に、紀伊(ノ)國造を任ずる儀も有(ル)、おほよそは右とひとしくて、それには、參議已上(ハ)在(テ)v座(ニ)不v下(ラ)と見え、又|御手物《ミテツモノ》を賜ふことなし、これらにても、出雲(ノ)國造の殊にまされるほどしられたり、さて臨時祭式に、賜(フ)2出雲(ノ)國造(ニ)負幸物(ヲ)1、金裝(ノ)横刀《タチ》一口、絲廿※[糸+句]、絹十匹、調布廿端、鍬廿口、右(ハ)任(ジ)2國造(ヲ)1訖(テ)、辨一人史一人、就(ク)2神祇官(ノ)廳(ニ)1、次(ニ)伯已下拓已上、以v次(ヲ)就(ク)v座(ニ)、史一人大藏(ノ)録一人、入(テ)v自2南門1就(ク)v座(ニ)、史喚(テ)2官掌(ヲ)1仰(セテ)云(ク)、喚《メセ》2出雲(ノ)國司并(ニ)國造(ヲ)1、官掌率(テ)2國司國造(ヲ)1、就(カシム)2版位(ニ)1、【國造(ハ)就2版位(ニ)1、國司(ハ)次(ニ)立(ツ)、官掌(ハ)立(ツ)v西(ニ)、若(シ)國司五位(ナレバ)者就v座(ニ)、】史亦喚(フ)2神部(ヲ)1、一人進(テ)就(テ)2大刀(ノ)案下(ニ)1跪(ク)之、于v時辨宣(テ)云(ク)、出雲(ノ)之國(ノ)造 止《ト》 今定(メ)給 幣留《ヘル》 姓名 |爾《ニ》、賜(ハ)2負幸(ノ)之物1 |久止《クト》 宣(ル)、國造稱唯(テ)、再拜兩段、拍(ツコト)v手(ヲ)兩段、訖(テ)進(テ)2大刀(ノ)案下(ニ)1跪(ク)之、神部取(テ)2大刀(ヲ)1授(ク)之、拍(テ)v手(ヲ)賜(ハル)之、【拍v手兩段、】退(テ)授(テ)2後取《シドリノ》之人(ニ)1、即就(ク)2版位(ニ)1、次(ニ)大藏(ノ)録喚(フ)2國造(ヲ)1、國造就(テ)2跪(ク)禄(ノ)下《モトニ》1、後取一人進(テ)、先(ヅ)取(テ)v絲(ヲ)給(フ)、國造拍(ツコト)v手(ヲ)一度、賜(ハリテ)而授(ク)2於後取(ニ)1、後取退(テ)立(ツ)2本列(ニ)1、絹布鍬(モ)亦如(シ)v之(ノ)、國造退(テ)就(キ)2版位(ニ)1、更(ニ)取(テ)2大刀(ヲ)1出(ヅ)、【後取(ハ)前(ニ)立(ツ)、國造(ハ)後(ニ)立(ツ)、其國造(ハ)者、喚(ヒ)v名(ヲ)及給v禄(ヲ)之時、毎(ニ)v度稱唯、】次(ニ)録、次(ニ)本官、次(ニ)史、次(ニ)辨退出と見え、次に國造奏(ス)2神壽詞《カムヨゴトヲ》1、玉六十八枚【赤水精八枚、白水精十六枚、青石玉四十四枚、】金銀裝(ノ)横刀《タチ》一口、【長二尺六寸五分、】鏡一面、【徑七寸八分、】倭文《シヅ》二端、【長(サ)各一丈四尺、廣(サ)二尺二寸、并(ニ)置v案(ニ)、】白眼※[牟+鳥]毛《サメツキゲノ》馬一疋、白鵠二翼、【乘v軒(ニ)】御贄《ミニヘ》五十舁【舁別(ニ)盛(ル)2十籠(ニ)1、】右(ハ)國造賜(ハリ)2負幸(ノ)物(ヲ)1、還(テ)v國(ニ)潔齋(スルコト)一年、【齋(ノ)内不v決2重罪(ヲ)1、若(シ)當(ラバ)v校(ニ)2班田(ヲ)1者、亦停(ム)、】訖(テ)即國司率(テ)2國造諸(ノ)祝部并(ニ)子弟等(ヲ)1入朝(ス)、即於(テ)2京外(ノ)便處(ニ)1、修2餝獻物(ヲ)1、神祇官(ノ)長自(ラ)監視(ス)、豫(メ)卜2吉日(ヲ)1、申(シ)v官(ニ)奏聞(シ)、宣2示所司(ニ)1、又後齋一年、更(ニ)入朝(シ)、奏2神壽詞(ヲ)1、如(シ)2初(ノ)儀(ノ)1、【事(ハ)見2儀式(ニ)1、】凡國造奏(ス)2神壽詞(ヲ)1日(ノ)平旦(ニ)、神祇官試2國造(ノ)奏事(ヲ)1給2座(ノ)料(ノ)調(ノ)薦五枚(ヲ)1、奏2神賀(ヲ)1齋一日、在(テ)v前(ニ)申(ス)v官(ニ)、國造已下祝神部郡司子弟五色人等(ニ)給(フ)v禄(ヲ)、但(シ)其人數(ハ)、臨時(ニ)所v申(ス)、無(シ)v有(ルコト)2定額1、禄法(ハ)國造(ニ)絹廿疋、調布六十端、綿五十屯、祝神部(ニ)不v論2有位無位(ヲ)1、各調布一端、郡司(ニ)各二端、子弟(ニ)各1端、と見えたり、此初(メ)に、賜2出雲(ノ)國造(ニ)負幸物(ヲ)1云々とあるは、神祇官(ノ)廳にての儀にて、是はかの貞觀儀式に、太政官(ノ)曹司(ノ)廳にて、國造に任じたる、次の事なり、任(ジ)2國造(ヲ)1訖(テ)と有(ル)にて知べし、次に國造奏(ス)2神壽詞(ヲ)1とあるは、又標題にて、玉六十八枚云々は、獻物の色目なり、さて右(ハ)國造といふより下、其事の次第なり、抑此次第の記しざま、國造二度の入朝に、先(キ)の度には、獻物を餝る事のみ見えて、壽詞を奏《マヲ》す事見えず、後の度には、獻物の事見えざるは、互《タガヒ》に略ける文にて、先(ノ)度も後(ノ)度も、事は同くて、獻物も毒詞を奏(ス)も、二度共にあるなり、如(シ)2初(ノ)儀(ノ)1とあるにて、先(ノ)度にも壽詞を奏す事あるを知(ル)べく、又此壽詞、二度共に、獻物の品々を以て賀《ホギ》申せる詞同きを以て、二度共に獻物も同じき事を知べし、かくて此事の、紀どもに見えたるは、續紀七に、靈龜二年二月丁巳、出雲(ノ)國(ノ)國造外正七位上出雲(ノ)臣|果安《ハタヤス》、齋竟(テ)奏(ス)2神賀事《カムヨゴトヲ》1、神祇(ノ)大副中臣(ノ)朝臣人足、以2其詞(ヲ)1奏聞(ス)、是(ノ)日百官齋(ス)焉、自2果安1至2祝部(ニ)1、一百一十餘人、進v位(ヲ)賜v禄(ヲ)、各有v差、九に、神龜元年正月戊子、出雲(ノ)國造外從七位下出雲(ノ)臣廣嶋、奏(ス)2神賀辭(ヲ)1、己丑、廣嶋及祝神部等(ニ)、授v位(ヲ)賜v禄(ヲ)、各有v差、同三年二月辛亥、出雲(ノ)國造從六位上出雲(ノ)臣廣嶋、齋(ノ)事畢(テ)、獻2神社(ノ)劔鏡并(ニ)白馬鵠等(ヲ)1、廣嶋并(ニ)祝二人、並(ニ)進2位二階(ヲ)1、賜2廣嶋(ニ)※[糸+施の旁]二十疋、綿五十屯、布六十端、自餘(ノ)祝部一百九十四人(ニ)録(ヲ)1、各有v差、十六に、天平十人年三月、外從七位下出雲(ノ)臣|弟山《オトヤマニ》、授2外從六位下(ヲ)1、爲2出雲(ノ)國造(ト)1、十八ニ、天平勝寶二年二月癸亥、天皇御2大安殿《オホヤスミトノニ》1、出雲(ノ)國造外正六位上出雲(ノ)臣弟山、奏2神齋(ノ)賀事(ヲ)1、授2弟山(ニ)外從五位下(ヲ)1、自餘の祝部叙v位、有v差、並(ニ)賜2※[糸+施の旁]綿(ヲ)1亦各有v差、廿五に、天平寶字八年正月戊午、以2外從七位下出雲(ノ)臣盆方(ヲ)1、爲2國造(ト)1、廿八に、神護景雲元年二月甲午、幸2東院(ニ)1、出雲(ノ)國造外從六位下出雲(ノ)臣益方、奏2神事《カムゴトヲ》1、仍授2益方(ニ)外從五位下(ヲ)1、自餘ノ祝部等叙v位賜v物(ヲ)、有v差、卅二に、寶龜四年九月、以2外從五位下出雲(ノ)國上(ヲ)1爲2國造(ト)1、卅八に、延暦四年二月癸未、出雲(ノ)國(ノ)國造外正八位上出雲(ノ)臣國成等、奏2神吉事(ヲ)1、其儀如(シ)v常(ノ)、授2國成(ニ)外從五位下(ヲ)1、自外(ノ)祝等進v階(ヲ)、各有v差、卅九に、同五年二月己巳、出雲(ノ)國(ノ)國造出雲(ノ)臣國成、奏2神吉事(ヲ)1、其儀如(シ)v常(ノ)、賜2國成及祝部(ニ)物(ヲ)1、各有v差、四十に、同九年四月、以2從六位下出雲(ノ)臣人長(ヲ)1爲2出雲(ノ)國造(ト)1、 類聚國史に、延暦十四年二月甲子、出雲(ノ)國(ノ)國造外正六位上出雲(ノ)臣人長、特(ニ)授2外從五位下(ヲ)1、以(テナリ)d緑(テ)2遷都(ニ)1奏(スヲ)c神賀事(ヲ)u也、弘仁三年三月癸酉、御2大極殿《オホヤスミトノニ》1、出雲(ノ)國造外從五位下出雲(ノ)臣旅人、奏2神賀辭(ヲ)1、并(ニ)有2獻物1、賜(フ)v禄(ヲ)如(シ)v常(ノ)、天長七年四月乙巳、皇帝御2大極殿(ニ)1、覽2出雲(ノ)國(ノ)國造出雲臣豐持(ガ)所(ノ)v獻五種(ノ)神寶、兼(テ)所(ノ)v出(ル)雜物(ヲ)1、還(テ)v宮(ニ)授2豐持(ニ)從六位下(ヲ)1、 續後紀一に、天長十年四月壬午、出雲(ノ)國司、率2國造出雲(ノ)豐持等(ヲ)1、奏2神壽(ヲ)1并(ニ)獻2白馬一疋、生鵠一翼、高机四前、倉代(ノ)物五十荷(ヲ)1、天皇御2大極殿(ニ)1、受2其神壽(ヲ)1、授2國造豐持(ニ)外從五位下(ヲ)1かくの如し、かの臨時祭式に、任2國造(ヲ)1訖(テ)云々とあるを以てみれば、此事は、國造の初めて任じて、やがてある事と聞えたるに、右の紀どもを見れば、又然定まりたることとも聞えず、又國造一世に一度かと思へば、さもあらざるにや、廣嶋豐持などは二度仕奉れり、國成が、延暦四年五年と仕奉(リ)しは、一度の先度後度を記されたりと見ゆ、さて此事、右の天長十年の後は見えざるは、紀に漏《モレ》たるなるべし、延喜の式に委く載られたるを思へば、其ころまでも、絶ず仕奉りけむを、いつのほどよりか絶にけむ、さだかならず、
〇考(ニ)云(ク)、神代紀(ノ)一書に、高皇産靈(ノ)尊勅2大己貴神(ニ)1曰(ク)云々、當2主《ナサム》汝(ノ)祭祀《マツリヲ》1者(ハ)、天(ノ)穂日(ノ)命(ナリ)是也と見ゆ、穗日(ノ)命は、須佐之男(ノ)命の御子、大名持(ノ)命は、須佐之男(ノ)命の六代の孫なれども、大名持(ノ)命は、須佐之男(ノ)大神の詔を受得て、天下を平け、諸の國を作(リ)成して、大國主におはすれば、天つ|神王《カムロギ》といへども、遂には媚たまひて、言治め成(シ)給へり、然れば穗日(ノ)命の天降(リ)て、三年になるまでに、漸に媚和し、宜き時を以て、天に復命申(シ)て、つひに天夷鳥(ノ)命布都奴志(ノ)命を天降し、建き稜威《イツ》と、和し治むると二(ツ)を以て、大名持(ノ)命の日隅(ノ)宮をば、天津神の御巣如《ミスナシ》て、崇み齋祭(ラ)むといふ契(リ)して、避《サリ》ひそまりまさしめたるは、もはら此穗日(ノ)命の思兼によれり、故《カレ》終の祭をば、此命のなさむ物とは詔へるなりけり、此事、古事記日本紀の一わたりの趣の如くなるのみならば、此命罪有(ル)べきを、さはあらで、大名持(ノ)神の祭をなさむものとしも詔ひ、又此命天へ還(リ)まさずは、此|神王《カミロギ》の詔もあるまじく、末にも下つ國に此命のますよしも有(ル)べきをや、又天(ノ)夷鳥(ノ)命の、父の命に順(フ)とあるも、かく媚ずは、治むべからぬによりてのわざとしられたり、此神賀詞の古き傳へをもて、古事記と紀とにはもれたる事を、思ひはかるべきなり、又此神賀詞の凡の意にて、神代の事をも、うかがふべし、
〇同頭書(ニ)云(ク)、日隅《ヒスミノ》宮は、比曾萬里の宮なり、曾萬の約|佐《サ》なるを、須《ス》と轉し、萬里の約|美《ミ》なれば、かくいへり、日隅は借(リ)字なり、さて此ひそまりませる宮に獻る御食などの事、櫛入玉(ノ)命の調奉れる事など、古事記に見ゆ、
〇後釋、日隅宮は、比須乃宮《ヒスノミヤ》と訓べし、これを風土記には日栖《ヒスノ》宮と書て、栖は、古書に必(ズ)須《ス》とよむ字なればなり、隅を須《ス》とのみもいふことは、古事記傳七の卷、根之堅洲國《ネノカタスクニ》の下にいへるが如し、さて日隅は借(リ)字なることもとよりなり、かくて比須《ヒス》の須《ス》は、古事記に、天之|御巣《ミス》とある巣《ス》なり、御巣《ミス》の事は、傳十四の卷にいへり、
〇考(ニ)云(ク)、此詞に、天(ノ)穗日(ノ)命を、國造が天つ神祖と申(シ)ながら、此命は、始め天降給ひて、かへりこと申て後は、其御子熊野(ノ)命を降し給ひて、終に大名持(ノ)命の祭をば、其熊野(ノ)命の傳へ申せしより國造に至て、專ら此熊野(ノ)命を崇み齋ひ、杵築(ノ)大神より前に擧たるは、すべて先(ヅ)熊野を祭りて、後(チ)杵築を祭る故ならむ、伊勢外宮賀茂の糺を、先(ノヅ祭る類ならむか、
〇後釋、考に、熊野(ノ)命といはれたるは、天(ノ)夷鳥(ノ)命の事と聞ゆ、そは書紀に、大背飯三熊大人《オホセヒミクマノウシ》、また武三熊之大人《タケミクマノウシ》と見え、神名帳又遷却祟神祝詞などにも、健三熊《タケミクマノ》命とこそあれ、熊野《クマヌノ》命といふ名は、すべて古書に見えたることなし、然るを此(ノ)三熊《ミクマ》といふ名によりて、意宇(ノ)郡の熊野(ノ)神社を此神とし、おして此神の名をも、熊野(ノ)命といはれたるは、此考の第一のひがことなり、天(ノ)夷鳥(ノ)命に、熊野(ノ)命といふ名もあることなく、又熊野(ノ)神社も、此神にあらざること、下に委く辨るがごとし、
〇考(ニ)云(ク)、國造《クニツコ》とは、久爾都久里《クニツクリ》といふことにて、久里の約|幾《キ》なるを、古《コ》に轉していふなり、又造とのみ書てみやつこといふは、宮造(リ)に功ある人をいへり、此分ちをしらで、國造をくにのみやつこと訓(ム)はひがことなり、宮造(リ)の功、古(ヘ)多く有べき事なり、後にも宮殿門棲を造るは、國司の功にて、美福門は壬生氏、達智門は多治氏の建し故の名なるが如し、さて其一國を始めて開き治めたるを、久爾都古《クニツコ》といひ、一縣を作り治めたるを、縣主といひ、天下を造(リ)治めたるを、大國主といへり、大小あれど皆同じ意なり、神武天皇功臣を縣主とし給ひしもあれど、こゝは物の始めをいふなり、其國の新墾《アラキハリ》して、主となり傳へしを、神武天皇始め天の下を治め給ひし時は、先(ヅ)まつろふにまかせて、本のまゝに治め給ひしなり、さて出雲(ノ)國造は、其後崇神天皇の御時、穗日(ノ)命(ノ)十一世(ノ)孫|宇迦都久慈《ウカツクシヲ》定(メ)2賜(フ)國造(ニ)1と、姓氏録に見ゆ、此國造は、これ始(メ)ならむか、さて天皇の御稜威《ミイツ》いや盛(リ)になりて、成務天皇の御代に、天下諸國すべて、御食國《ミヲスクニ》となりしかば、國造の勢おとろへて、其國の内の一所を給はり傳へて、國の神事のみ預ることとなりぬ、かくて仁徳天皇の御代に、縣を郡として、郡司をおかれしに、國造を即郡司とせられしかば、神事に預ることなかりけむ、文武天皇慶雲三年に、是に神事をも兼行はせられたり、かくて後神事に言よせて、公事を闕《カク》こと有しかば、桓武天皇延暦十七年より、又國造は神事のみにて、郡司をば、別におかれしなり、
〇同頭書(ニ)云(ク)、成務天皇紀に、國郡(ニ)立2造長(ヲ)1、縣邑(ニ)置2稻置(ヲ)1とあるは、から文體に字を置むとして、皇朝の實にたがへり、古事記は、此所に郡といはず、縣とあり、郡は仁徳天皇の御時に始れること、類聚國史に見えたる、それぞまことなりける、
〇又云、郡領國造の事、大寶二年慶雲三年の紀、又奈良(ノ)朝の紀、又類聚三代格などに出たるを、略きてこゝにはいへり、
〇後釋、考に國造をくにつこと訓て、國つくりのよしに解れたるは違へり、又たゞ造《ミヤツコ》といふを、宮造りの功によれりといはれたるも、ひがことなり、國造は久爾乃美夜都古《クニノミヤツコ》と訓て、國々にある御臣《ミヤツコ》のよしなり、たゞ造《ミヤツコ》は、伴造《トモノミヤツコ》ともいひて、諸の部《トモ》の御臣《ミヤツコ》なり、これらの事、委くは古事記傳七の卷の末にいへり、又考に、穗日命(ノ)十一世(ノ)孫云々を、姓氏録に見ゆとあるも違へり、こは舊事記の國造本紀に見えたる事にて、姓氏録には見えず、又|宇迦都久慈《ウカツクシ》の慈(ノ)字は、怒《ヌ》の誤にて、舊事紀延佳本には、怒とあり、此人は、書紀(ノ)崇神(ノ)卷に、※[盧+鳥]濡渟《ウカヅクヌ》と見え、姓氏録にも、天(ノ)穗日(ノ)命(ノ)十二世(ノ)孫|宇賀都久野《ウカツクヌノ》命とある人なり、又成務天皇の御世より、國造の勢(ヒ)おとろへて、たゞ神事のみ預ることとなれりとあるも、古事記書紀のかの御卷を、見誤られたる物なり、國造のたゞ神事にのみ預るものとなれるは、はるかに後の事にこそあれ、又仁徳天皇の御代に云々もいたく違へり、こは類聚國史に、昔難波(ノ)朝廷始(メテ)置(ク)2諸郡(ヲ)1云々と有て、孝徳天皇の御代の事なるを、仁徳天皇の都も難波なるを以て、ゆくりなく心得たがへられたる物なり、縣を郡として、郡司を置れし事などみな、孝徳紀にこそ見えたれ、仁徳の御世にはさることなし、又郡司とせられしかば、神事に預ることなかりけむとあるも違へり、まづ古(ヘ)は凡て國造の家は、某氏の首たる人を国造といひしは、もとよりにて、其氏の尸《カバネ》をも、即(チ)國(ノ)造といひしかば、同氏族の人はみな同じく、某(ノ)國(ノ)造となのりしを、其中にてえらびて、郡司にも任ぜられたるなれば、其郡司になれる人のみこそ、神事に預らざらめ、同氏の内、郡司ならぬ人は、みな神事を主れるなり、孝徳紀に、其(ノ)郡司、並(ニ)取(テ)d國(ノ)造(ノ)性識清廉(ニシテ)、堪(ヘタル)2時務(ニ)1者(ヲ)u、爲《セヨ》2大領少領(ト)1、とあるを以て、其一氏の人をば、皆國造といひしことを知べし、もし國造といふは、たゞ一人ならむには、大領と少領とに任ずべき人はなからむをや、凡て古書に、國造といへるに、首たる一人をさしていふと、其一氏の人をすべていふと、二つあることをわきまへずは、必まぎるゝこと有べし、さて慶雲三年云々、延暦十七年云々のことは、類聚三代格に、昔者國造郡領、職員有v別、各守(ル)2其(ノ)任(ヲ)1云々とある、こはかの孝徳天皇の御世よりの御定めのごとく、國造の氏族のうち、えらばれて、郡司になれる者は神事には預らず、神事は、郡司にあらざる者の、職り來りしを、此慶雲三年よりは、郡司になれる者も、神事をも兼職れるなり、然るを又延暦十七年の格に、自v今以後、宜《ベシ》d改(メテ)2舊例(ヲ)1、國造(ト)郡領(ト)、分(テ)v職(ヲ)任(ズ)uv之(ヲ)と有て、慶雲の舊例を改めて、孝徳の御世の御定めに復《カヘ》されしなり、
〇考(ニ)云(ク)、此神賀詞を奉る事は、紀には元正天皇靈龜二年二月に云々と有て、是より後絶ず見えたり、然るを日本紀に見えざるは、すべて日本紀は、これのみならず、上つ代より有(リ)來れりし神事どもの、漏《モレ》たること甚多し、されば此事、上つ代より有しことは、右の靈龜二年の紀をおしても知られ、又此詞の、式に載たる祝詞どもの中に、たぐひなく古き文なるを思ふに、舒明天皇の飛鳥(ノ)岡本(ノ)宮のころの文にやあらむ、清御原(ノ)宮まではくだらず、
〇同頭書(ニ)云、類聚國史に、弘仁三年三月御2大極殿(ニ)1、出雲(ノ)國(ノ)造外從五位下出雲(ノ)臣旅人、奏2神賀辭(ヲ)1一とあり、此外にも此詞は、國造みづから讀(ミ)申すと聞えたるを、靈龜二年の度には、故有て、神祇(ノ)大副の奏聞せしならむ、
〇後釋、此國造の、此詞を奏する事の、紀に見えたる始めは、靈龜二年のなり、然れどもそは上つ代よりの例なりけむこと、考にいはれたるが如し、さて考に、かの文を引れたれど、そは前に引出つれば、こゝには略きつるなり、かくて靈龜二年には、故有て、神祇(ノ)大副の奏せしならむとあるはいかゞ、此時も國造みづから讀申せしは論なし、神祇(ノ)大副の奏聞せしとは、此詞を書(キ)たる文を、別に奏覽せしをいふなり、以2其詞(ヲ)1奏聞とある、以(ノ)字聞(ノ)字にて、然ることを知(ル)べし、もし國造は故有て、代りて讀(ム)ならば、其由をも記さるべく、又たゞ奏とこそ有べけれ、其うへ此詞は國造ならで、他氏の人の奏すべきよしなきをや、抑神祇(ノ)大副の奏聞の事、靈龜の度にのみ見えて、他時のには、其事見えざるは、略て記せるのみなり、いづれのをりも、別に物に書ても奏聞せし事は有つらむ、さて考に此文を、舒明天皇の云々清御原(ノ)宮までは下らじとあれども、さるたしかなることは知(リ)がたし、たゞもろ/\の祝詞の中にも、古き文とは見えたるなり、
〇考(ニ)云、出雲(ノ)國造を任じ給ふこと、臨時祭式に、此時辨史伯以下、神祇官(ノ)聽に就(キ)、出雲(ノ)國司國造版に就(ク)、かくて金裝(ノ)太刀絲絹調(ノ)布鍬等を、國造に給ふ、是を負幸物《サチオホセノモノ》といふ、かくて國に歸りて、又齋すること一年畢(リ)て、二度國司國造諸(ノ)祝部|子弟《ヤカラ》等を率て入朝《マヰル》、此度は京外の便(リ)有(ル)所にして、獻物を餝(リ)なす、神祇官(ノ)長みづからこれを監《ミ》る、かねて吉日を卜《ウラ》へ、官に申(シ)奏聞して、所司に宣あり、此度は物を獻り、神賀詞を申(ス)なり、さて國にかへりて、後齋一年して、さらに入朝《マヰリ》て、神賀詞を申すこと、前のごとし、【同詞を讀】貞觀の儀式にも、此ごとく見ゆ、獻物は、玉六十八枚云々、これらの物を、賀の文に擧たり、さて此獻物は、崇神天皇の御時、此神宮の神寶を召て、見そなはせし事有し、【日照(ノ)命の自v天持降(リ)しといふ寶なり、】其後丹波(ノ)國の人の兒のいへるは、玉※[草がんむり/妾]鎭石出雲人祭、眞種之甘美鏡押羽振、甘美御神底寶御寶主、山河之水泳御魂靜掛、甘美御神底寶御寶主也、【※[草がんむり/妾]此云毛】是|非《ズ》v似《ニ》2小兒之言(ニ)1、若(シ)有(ル)2託言1乎《カ》、於是皇太子奏2于天皇1、則勅之使v祭、とある中には、玉鏡などの事もあれば、この古(ヘ)の神寶にかたどりて、此度の獻物も有(ル)なるべし、又此祭の事は、上つ代より絶ず有けむこと、右の紀の趣にてもしらる、神賀詞も、上つ代より口づから唱へ傳へし文の有しを、世うつり人の心薄くなりて、違ひ行つらむを、岡本(ノ)宮のころに、今の如くは書つらむ、其時古(ヘ)の言に、其時の言もまじりつらむとおぼゆるよしもあり、
〇同頭書(ニ)云、天長七年四月(ノ)紀に、此神賀を申(ス)時、獻2五種(ノ)神寶、兼(テ)所出雜物(ヲ)1とある、五種は、右の鏡横刀倭文玉にて、二種とするか、此外は神寶といふべき物なし、もしは馬を一種とせしか、〇又云、甘美の甘は、可の誤(リ)か、甘にても聞えはす、玉※[草がんむり/妾]鎭石は、玉藻沈しにて、いづもといはむ冠辭なり、萬葉に、川上のいつもの花とよみたれば、いつもといふ藻の名になして、いひかけたるなり、此初旬冠辭ならでは、出雲人といふこと、次に有べからず、
〇後釋、考に出雲(ノ)國造を任じ給ふこと、臨時祭式に云々とあるは違へり、國造を任ぜらるゝ事は、貞觀儀式にこそ見えたれ、臨時祭式には、其式は見えず、こゝに臨時祭式を略して記されたる式は、國造に任じ畢て、次の事にて、上に引るが如し、さて考に、國司國造版に就(ク)とあるは違へり、國造は版に就(キ)、國司は次(ニ)立(ツ)とこそあれ、また國に歸りて、又齋すること一年とある、又(ノ)字も誤りなり、これより前には、齋する事はなければなり、また貞觀儀式にも此ごとく見ゆとあるもたがへり、貞觀儀式には、國造を任ぜらるゝ儀こそ見えたれ、右の式は見えず、頭書に、五種は云々、倭文玉にて二種とするかとあるは、玉にてといふ下に、倭文二端をといふ言の有しを、寫し脱《オト》したるなるべし、崇神天皇の御世の、丹波(ノ)國の小兒のいひし詞は、訓も義も、己(レ)別に考(ヘ)あり、事長ければ、こゝにはもらせり、
〇考云、大名持命を、始めてこゝに齋鎭めし時の文は、古事記にあり、其文【大名持命の二神に答給はく】僕子等《アガコドモ》二神(ノ)隋白《マヲスマニマニ》、僕之不違《アレモタガヒマツラジ》、此(ノ)葦原(ノ)中國(ハ)者、隋命既獻《ミコトノマニマニタテマツラム》也、唯僕住所《タダアガスミカハ》者、如《ナシテ》2天神(ノ)御子(ノ)之天津日繼|所知之《シラスル》、登陀流天之|御巣《ミス》1而、於《ニ》2底津石根1宮柱布斗斯理、於《ニ》2高天原1垂木《チギ》多迦斯理而、治(メ)賜(ハバ)者、僕《アハ》者|於《ニ》2百不足八十|※[土+回の下の一なし]手《クマデ》1隱(リテ)而侍(ラム)、亦僕(ガ)子等百八十神者、即八重車代主(ノ)神爲2神(ノ)之御尾前(ト)1而仕奉(ラバ)者、違(フ)神(ハ)者|非《アラジ》也、如此《カク》之白(シテ)而、於《ニ》2出雲(ノ)國(ノ)之|多藝志《タギシノ》之小濱1、造(テ)2天(ノ)之|御舍《ミアラカヲ》1而、水戸《ミナトノ》神之孫櫛八玉(ノ)神爲(リ)2膳夫《カシハデト》1、獻(ル)2天(ノ)御饗《ミアヘ》1之時(ニ)、祷白《ホギマヲシテ》而、櫛八玉(ノ)神|化《ナリ》v鵜《ウト》、入1海底《ワタノソコニ》1、咋2出(シ)底(ノ)之|波邇《ハニヲ》1、作(リテ)2天(ノ)八十毘良迦(ヲ)1而、鎌《カリテ》2海布《メノ》之|柄《カラヲ》1、作2燧臼《ヒキリウスニ》1、以2海蓴《コモノ》之|柄《カラヲ》1、作2燧杵《ヒキリギネニ》1而、鑽2出《キリイダシテ》火(ヲ)1云(ク)、是(ノ)我(ガ)所燧《キレル》火(ハ)者、高天原(ハ)者、神産巣日御祖命(ノ)之、登陀流天(ノ)之|新巣《ニヒスノ》之|凝烟《ススノ》【訓洲須】之|八拳垂摩弖燒擧《ヤツカタルマデタキアゲ》地下《ツチノシタハ》者|於《ニ》2底津石根1燒凝而《タキコラシテ》栲繩《タクナハノ》之千尋繩打|延《ハヘ》爲釣海人《ツリスルアマノ》之|口太《クチブトノ》之|尾翼鱸《ヲヒレスズキ》【訓須受岐】佐々和々邇控依騰《サワサワニヒキヲセアゲテ》而打竹(ノ)之|登々遠々登々遠々邇《トヲヲトヲヲニ》獻2天(ノ)之|眞魚咋《マナグヒ》1也、故(レ)建御雷(ノ)神返(リ)參上《マヰノポリテマ》復d奏《マヲシキ》言2向《コトムケ》和3平《ヤハシタヒラゲタル》葦原(ノ)中國(ヲ)1之状(ヲ)uと見えたり、この獻2天之眞魚咋1といふまでの詞は、いと/\上つ代に、出雲(ノ)社に稱《タタヘ》申せし文なり、かくて此神賀は、此式に載れる中には、古くみやびかに巧に聞ゆれど、右の古事記の文の、いとも古くみやびかに妙なるには及ばず、かく古(ヘ)の文どもをたくらべ見る時は、時世の事も明らかにしるし、
〇同頭書(ニ)云、水戸(ノ)神は、古事記に、伊邪那岐(ノ)命の、大綿津鬼(ノ)神の次に生給へる神也、櫛八玉の八は、入の字の誤にて、くしりたまと訓べきか、
〇又云、登々遠々登々遠々と書てとをゝ/\くと訓(ム)は、古(ヘ)の重字を書(ク)例也、或人これをしらで、改めしはひがことぞ、
〇後釋、右の古事記に、多藝志《タギシノ》小濱に御舍《ミアラカ》を造るとある、これ杵築(ノ)大社の始め也、考に、古事記の氷木《ヒギ》とある字を改めて、垂木《チギ》とせられたるは、中々にひがこと也、又とをゝ/\は、登々遠々遠々《トヲヲトヲヲ》とこそ書べけれ、考に登々遠々登々遠々と書れたるはひがこと也、さてはとを/\とを/\にて、登々の二字あまれるをや、又櫛八玉の八も、本のまゝにてよろし、
 
八十日日 波 在 止毛 今日 能 生曰 能 足曰 爾《ヤソカビハアレドモケフノイクヒノタリヒ》
 
考(ニ)云、生日《イクヒ》は、物の生《イキ》榮る日、足日《タリヒ》は、事の足滿《タリミツ》る日也、生魂足魂生弓足幣《イクムスビタルムスビイクユミタルミテグラ》などの生足と同じ、
〇後釋、日は多くあれども、其中に今日ぞ吉日《ヨキヒ》と、ほぎ稱《タタ》へてかく申す也、足日爾《タリヒニ》の爾(ノ)字、本には無きを、考(ノ)本にあるは、補はれたる也、此字は必(ズ)有べきなり、
 
出雲哭國造姓名《イヅモノクニノクニノミヤツコナハナニガシ》
 
後釋、姓名と書るは、此詞を奏す國造の、みづからの姓名を申すところなり、
恐 美 恐 美毛 申賜 久 掛 麻久毛 畏 岐《カシコミカシコミモマヲシタマハクカケマクモカシコキ》
 
考(ニ)云、言にかけて申すもかしこきなり、
 
明御神 止《アキツミカミト》
 
考云、これをあらみかみと訓(ム)はわろし、言もよくもとゝのはず、公式令に、明神御宇大八洲天皇、宣命に顯御神とあるたぐひ、みなあきつみかみあきつかみと訓(ミ)申すべし、萬葉に明津神吾王《アキツカミワガオホキミ》とあるは、あきつかみと訓(ム)外なければ也、さてこは、天皇は今明らかに世におはします御神と、崇み畏みて申す言なり、
〇同頭書云、あらみかみと訓(ム)こと、神代紀に、顯露此云2阿羅播貳《アラガニト》1とあるをより所とせむも、一わたり聞えたれど、なほ萬葉に依て、あきつ神と申すぞ、言も調ひて穩なる、又萬葉巻六に、住吉乃荒人神とあるは、神功皇后紀に、荒魂《アラミタマ》爲(テ)2先鉾(ト)1而導(ム)2師船(ヲ)1とある是にて、此荒は、荒和《アラニギ》の荒なれば、言異也、そのうへかれは、荒大神なるを、大の字を後に人に誤れるなり、古(ヘ)あら人神といへること、此外になく、又かの大神を、人と申すべきよしもなく、すべてことわりなきこと也、
〇後釋、萬葉に明津神吾皇とは、六の卷に見えたり、これまことにあきつかみと訓べき明らかなる證也、考頭書に、萬葉の荒人神《アラヒトガミ》を、荒大神の誤也として、あら人神といふこと、此外になしとあるは、いかにぞや、書紀の景行(ノ)卷、又雄略(ノ)卷にも、天皇をしも現人神《アラヒトガミ》とある物をや、これ現《アラハ》なる人にてまします神と申すことなり、住吉(ノ)大神を現人《アラヒト》と申せるも、由ある事也、そは古事記傳にいへり、然るを荒魂《アラミタマ》のこととせられたるは、心得ず、たとひ荒魂ならむにても、そを荒大神とは申すべきにあらず、すべて荒大神といふことこそ、返て古書に見えぬことには有けれ、
 
大八嶋國所知食 須《オホヤシマクニシロシメス》
 
考云、大八洲國の事、神代紀に見ゆ、
 
天皇命 乃《スメラミコト》
 
考云、續日本紀の宣命にも、天皇命と有(リ)、故《カレ》思ふに、萬葉に日並斯皇子尊《ヒナメシノミコノミコト》高市皇子《タケチノミコノ》尊と、下にみことてふ言を添て申せるが如く、天皇の下にも添るは、崇《タフトミ》の言也、こはみことのりのよしにはあらず、
〇後釋、天皇を天皇命とも書ることは、古事記(ノ)上卷にもあり、こは須賣良《スメラ》とのみも申すことある故に、美許登《ミコト》と云に、命(ノ)字は添て書るのみ也、古書にはかゝるたぐひ多し、然るを考に、すめらみことのみことと訓て、其意に解《トカ》れたるは、ひがこと也、かの皇子命《ミコノミコト》と申せるとは異也、皇子は御子の義にて、父命母命《チチノミコトハハノミコト》などもいふたぐひと同じければこそ、下に尊《ミコト》とは添て申せれ、みことのみこととは重ねて申(ス)べきよしもなく、例もなきことなるをや、
 
大御世 乎《オホミヨヲ》
 
考云、此四字、本に落たり、こゝに此言なくては、次の言をさまらず、上なる祈年祭の大御巫の詞にも、皇御孫(ノ)命(ノ)御世|乎《ヲ》手長(ノ)御世|登《ト》と有を見べし、此賀詞は、殊に古く傳はり來つれば、言も落(チ)、字も誤れる多し、
〇後釋、此四字は、考に補はれたる、まことになくてかなはぬ言也、月次祭(ノ)詞にも、皇御孫(ノ)命(ノ)御世|乎《ヲ》長御世登云々ともあり、こは長の上に手(ノ)字おちたるなるべし、
 
手長 能 大御世 止《タナガノオホミヨト》
 
祈年祭(ノ)詞の考(ニ)云、手《タ》は發言也、下なる神嘗祭の文に、御壽乎手長乃御壽止《ミイノチヲタナガノミイノチト》云々ともあり、
〇後釋、手《タ》は足《タリ》の意にてもあらむか、萬葉二に、大王乃御壽者長久天足有《オホキミノミイノチハナガクアマタラシタリ》、
 
齋 止《イハフト》 【若(シ)後(ノ)齋(ノ)時(ナラバ)者《バ》加(フ)2後(ノ)齋(ノ)字(ヲ)1】 爲 ※[氏/一]《して》
 
考云、後齋の時には、手長能大御世登齋後齋登爲※[氏/一]《タナガノオホミヨトイハフノチノイハヒトシテ》と有べき也、然れば小書に、加(フ)2後齋(ノ)字(ヲ)1と有けむを、是も本には、齋(ノ)字落たる也、故(レ)今補ひつ、
〇後釋、考に齋(ノ)字を補はれたる、まことにさること也、今(ノ)本は、後(ノ)人の、齋(ノ)字わづらはしく重なれりと思ひて、さかしらに削りつるなるべし、下文にも、こゝと同じ小書ある、そこはもとより齋(ノ)字はあるまじきことわり也、こゝは考にいはれたるごとくならでは、語とゝのはず、
出雲國 乃 青垣山内 爾《イヅモノクニノアヲカキヤマノチニ》
 
考云、青垣山とは、垣の如く山の囘《メグ》り立《タテ》るをいふ、古事記景行(ノ)段に、多々那豆久阿袁加伎夜麻碁母禮流夜麻登志宇流波斯《タタナヅクアヲカキヤマゴモレルヤマトシウルハシ》、また三室山をもいひ、萬葉には、吉野山をもよみたれば、いづこにても、山をば青垣といふ也、
 
下津石根 爾 宮柱太敷立 ※[氏/一] 高天原 爾 千木高知坐 須《シタツイハネニミヤバシラフトシキタテタカマノハラニチギタカッリマス》
 
考云、熊野(ノ)大神と大名持(ノ)命と二神の宮をいへり、古事記須佐之男(ノ)大神の詔に、於《ニ》2宇迦能《ウカノ》山(ノ)之山本1於《ニ》2底津石根1宮柱|布刀斯理《フトシリ》於《ニ》2高天(ノ)原1垂椽多迦斯理而居《チギタカシリテヲレ》とあるは、大名持(ノ)命にのたまひし也、熊野(ノ)大神は、大名持(ノ)神の祭を主(ドル)べきものと、天つ皇祖(ノ)神の詔ひし、天(ノ)穗日(ノ)命の御子也、此大神を先(ヅ)挙ることは、上にいへるがごとし、
〇後釋、こはまづは熊野と杵築と二社をいへりと聞ゆ、然るに考に、於《ニ》2宇迦能山(ノ)之山本1云々といへるを引れたるは、詞の例にはさることなれども、宇迦之山本の宮は、杵築とは別なれば、こゝをその宮と心得むはひがこと也、かの宮の事は、古事記傳に委くいへり、杵築と思ひまがふべからず、又古事記に氷椽《ヒギ》とあるを垂椽と改めて引れたるもひがこと也、さて杵築は、古事記に多藝志《タギシ》の小濱に天の御舍《ミアラカ》造(リ)とある宮なるべければ、海邊に近くて、青垣山(ノ)内とはいひがたき地《トコロ》ならむか、風土記には、御崎《ミサキ》山の西の麓なるよし見えたり、己(レ)いまだ其あたりの地《トコロ》のさまをしらねば、たしかにはいひがたし、又思ふに、青垣山(ノ)内とは、必しも其地のさまにはかゝはらず、たゞ大かたにいへるにもあるべし、
 
伊射那伎 乃 日眞名子《イザナギノヒマナゴ》
 
考云、神代紀に、大背飯三熊大人《オホセヒミクマノウシ》は穗日(ノ)命の御子と見ゆ、然れば伊射那伎(ノ)命の曾孫にあたれり、同紀に、御子と御孫とを分ちて申せるによらば、ひまごといふことも、上つ代より有しか、然れども出雲風土記【於宇郡のところ】に、伊射奈枳乃麻奈子坐熊野加武呂《イザナギノマナゴニマスクマヌカムロノ》命といひ、此詞に、天照大御神の御孫(ノ)命の御事を、高御魂神魂(ノ)命|能《ノ》皇御孫(ノ)命ともいひ、又萬葉に、父母爾吾者眞名子曾《チチハハニワレハマナゴゾ》といふを、愛子《マナゴ》とも書たる、これとこゝの言の同じきを思へば、孫曾孫を分《ワケ》いふは後のことにて、上代には、子をも孫をも曾孫をも、事によりては、共に眞名子《マナゴ》といひつらむ、されば眞名子とは、愛《ウツクシ》みの殊なるよしにて、眞之子《マノコ》と親《シタシ》み愛《ウツクシ》む詞、日《ヒ》は日子《ヒコ》の日と同じく、崇む言也、こゝもこれによるぞ上つ代ならむ、〇後釋、これを大背飯三熊(ノ)大人をいへりと思はれたるは、上にもいへる如く、考の第一のひがこと也、まづ古(ヘ)は、子をも孫をも曾孫をも、猶末々をも、すべて子といひしは、さることなれども、眞名子《マナゴ》といへるは、子に限れることにて、孫曾孫などをいへることなし、其上(ヘ)もしこれかの三熊(ノ)大人のことをいへるならば、穗日(ノ)命の日眞名子などとこそはいふべけれ、その父の穗日(ノ)命、祖父の須佐之男(ノ)大神などをおきて、伊射那伎乃《イザナギノ》といはむは、いと物|遠《ドホ》し、又たとひ曾孫をも、日眞名子とはいふとも、三熊(ノ)大人は、伊射那岐(ノ)命には、何のよしにか分て日眞名子とはいはむ、熊野(ノ)宮は、須佐之男(ノ)大神に坐(ス)こと論なし、此事は古事記傳九の卷にもいへるを、なほいはば、此大神は、伊邪那岐(ノ)命の御子たち多《サハ》なる中に、天照大御神月讀(ノ)命須佐之男(ノ)命は、殊に三貴子《ミハシラウヅノミコ》と古事記にも見え、書紀にも珍子《ウヅミコ》と有て、殊にすぐれたる御子なるが故に、眞名子とは申せる也、こゝにかく申せるにても、熊野は須佐之男(ノ)大神に坐(ス)ことを思ひ定むべし、風土記に、伊弉奈枳乃麻奈子(ニ)坐(ス)熊野加武呂乃命とあるも、もとより須佐之男(ノ)命也、さて熊野(ノ)社の今の説には、上(ノ)宮三社は、中、伊邪那岐(ノ)命伊邪那美(ノ)命、左、早玉(ノ)男、右、事解(ノ)男なり、下(ノ)宮は、天照大神須佐之男(ノ)命也といふなれども、神名帳にたゞ、熊野(ニ)坐(ス)神社とのみ有て、幾《イク》座といふことなければ、官(ノ)帳に入て、式に載れるは、主として祭る須佐之男(ノ)命一座のみ也、其餘はみな、添(ヘ)て祭る神にて、官帳には入(ラ)ざる神也、すべて神名帳の例、いづれの神社にても、幾《イク》座といふことなきは、みな一座也と知べし、
加夫呂伎熊野大神櫛御氣野命《カブロギクマヌノオホカミクシミケヌノミコト》
 
考云、加夫呂伎は神漏伎《カムロギ》と同じ、仁明天皇紀の歌に、少彦名(ノ)命をも、崇みて加夫呂岐と申せり、出雲風土記に、加武呂(ノ)命とあるも是にて、そは伎を略きて命といへり、伎は君《キミ》の略也、さてすべて神は、上《カミ》といふ言にて、その上《カミ》を、音の通ふまゝに、加武《カム》とも加夫《カブ》ともいへり、古事記神武(ノ)段に、久夫都々伊《クブツツイ》とあると、神代紀に頭槌《カブツチ》とあると、同じく大刀の頭をいひ、又古事記應神天皇の大御歌に、加夫都久麻肥邇波阿弖受《カブツクマヒニハアテズ》とよみ給へるは、上着眞日《カミツクマヒ》には當《アテ》ずといふ意なる、これらを合せて、言の本を知り、又萬(ヅ)の事に上《カミ》といふは、崇む言なるを思ふべし、後世人は、神と上と字を分て用るから、文字にのみ目なれて、古言の意を忘れて、字につきて、別の事とのみ思ひ、附會理窟を以て解むとするは、をぢなし、
〇同頭書云、皇朝には、一言を轉して、あまたの事にいふ也、たゞ一言を一事とするは、からざま也、
〇又云、式に出雲(ノ)國意宇(ノ)郡熊野(ニ)坐(ス)神社、【名神大】〇後釋、加夫呂伎《カブロギ》は神祖《カムロギ》也、須佐之男(ノ)大神は、大名持(ノ)命の祖神に坐(ス)が故に、出雲(ノ)國にては殊にかく申す也、かの少彦那(ノ)命をもかく申せる事は論あり、そは下にいふべし、さてこゝに杵築より先(キ)に熊野をまづ第一に擧る事も、須佐之男(ノ)大神に坐(ス)が故なり、此詞のみならず、何れの古書にても、此次第、熊野は先(キ)にて、杵築は次也、かの考の説のごとく、熊野もし三熊(ノ)大人ならむには、いかでか杵築より先(キ)には擧む、國造とても、大名持(ノ)命を次にして、己が祖神を先(キ)にすべきにあらず、たとひ私の詞ならむにても、さはあるまじきことなるに、これはまして公に奏す詞なるに、さることあらむやは、よく思ふべし、又公に申す詞に、私の祖神を、うち出して加夫呂伎とはいかでかいふべき、又考に、神は上也といふことを、くれぐれと論ぜられたれど、こゝにはさのみ用なきこと也、此事なほ論あれど、もらしつ、櫛御氣野《クシミケヌノ》命と申すは、即(チ)須佐之男(ノ)大神の、此熊野(ノ)宮に鎭(リ)座(ス)御靈《ミタマ》を、稱《タタヘ》奉れる御名也、大名持(ノ)命をも、倭の大三輪に祭る御名をば、別に大物主|櫛〓玉《クシミカタマノ》命と下にあるたぐひにて、同神も、其社々に祭る御名の別にある例、なほ他《ホカ》にも有(リ)、神名帳に熊野の同郡に、別に久志美氣濃《クシミケヌノ》神社といふもあるは、此熊野(ノ)大神を、又別に祠れる社なるべし、此御名を、別に一神と心得むは、ひがことなり、此熊野の櫛御氣野(ノ)命の御事、大社にては、別に傳へたる説ありとぞ、
 
國作坐 志 大穴持命二桂神 乎 始 天《クニツクリマシシオホナモチノミコトフタバシラノカミヲハジメテ》
 
考云、此命は、須佐之男(ノ)命の五世(ノ)孫、冬衣(ノ)神の御子にて、須佐之男(ノ)大神の御女|須勢理毘賣《スセリビメノ》命を適妻《ムカヒメ》とし、又其大神の天詔琴《アメノノリコト》生《イク》弓矢|生《イク》太刀を得給ひつれば、荒ぶる八十神を平《ムケ》て、大國主となれといふ、大神の御讓(リ)の詔を奉《ウケタマハリ》て、諸國をうしはきたまひ、遂に其國を皇孫にゆづり奉て、日隅(ノ)宮に隱れましぬ、其宮即此杵築(ノ)宮也、故(レ)出雲はもとよりにて、天の下に此神を齋ひ奉らぬ國縣もなく、天皇も、天照大御神に並べて、いはひ奉り給ひし也、さて御名は、古事記に、云々生2大國主(ノ)神(ヲ)1、亦(ノ)名(ハ)謂2大穴牟遲(ノ)神(ト)1、亦(ノ)名(ハ)葦原色許男(ノ)神、亦(ノ)名(ハ)八千矛(ノ)神、亦(ノ)名(ハ)宇都志國玉(ノ)神、並(サテ)有2五名1といへり、此外に大物主(ノ)神、又大國御魂(ノ)神とも申て、合せて七名ともいへり、その大穴牟遲は、穴は那《ナ》の借字、牟遲は毛知の轉にて、こゝに持と書る如くにて、大名持といふこと也、さて古(ヘ)名の弘く長く聞ゆるを、譽としつれば、天皇は宮所を遷し給ひ、御子なき后又御子たちは、御名代《ミナシロ》の氏を定められ、又|名兄《ナセ》名根《ナネ》名妹《ナニモ》などいふも、名高きよしのほめことば、人をよびてなんぢといふも、名持といふ言にて、ほむる言也、かくて此命は、天の下を作り治め知(リ)たまへる御名の、世にことなるを以て、大名持とはほめ申せる也、さて此御名、古き書どもにさま/”\書るは、古(ヘ)時々の唱へにて、他の神の御名にもさること多し、然るに後の書ながら文徳實録に、大奈母知《オホナモチ》と見え、三代實録に大名持御魂(ノ)神とある、これらぞ御名の意いちじろく、理(リ)聞えやすければ、此考には、皆これによりて書つ、
〇同頭書云、紀一書に、大己貴此云2於褒婀娜武智《オホアナムチト》1とあるは、儀式などに、誰を阿誰といへる類にて、阿は添(ヘ)たる辭か、又あなたふとのあなとして、崇み歎く辭とせるか、又牟智に貴(ノ)字を書るも、言の本をば思はで、大國主におはすれば、大にあなたふとといふこととして、例のから文のさまにかなふをむねとせるひがことならむ、大日※[靈の巫が女]貴と書る御名も、貴(ノ)字にてはかなひがたし、大|日賣《ヒルメ》の賣《メ》は、美《ミ》に通ひて、美《ミ》は母智《モチ》の約なること、相對(ヒ)給へる神|月與美《ツキヨミ》の、月夜持の意なるをもて知(ル)べし、其外も、わたつみは海《ワタ》つ持、山つみは山つ持、野つちは野つ持にて、皆各その事をたもつよしの御名なること、古事記の海神の次に見えたる語にて明らか也、さればこれも貴(ノ)字を書るは、から文にかゝづらひて、こゝの言を失へるわざ也、
〇又云、式に出雲國出雲郡杵築(ノ)大社、【名神大】此外風土記に委し、
〇後釋、考に、日隅(ノ)宮に隱れましぬ、其宮即此杵築(ノ)宮也とある、日隅(ノ)宮の杵築(ノ)宮なる事は、さることなれども、此宮に隱れますとあるは違へり、大名持命、現御身《ウツシミミ》は八十隈手に隱れまして、此|顯國《ウツシクニ》には留まり給はず、日隅(ノ)宮に鎭(リ)座(ス)は、御魂《ミタマ》也、すべて何れの神にても、現御身《ウツシミミ》と御靈《ミタマ》との差別をしらずはあるべからず、もし現御身杵築(ノ)宮に坐むには、いかでか八十隈手に隱るとはいはむ、八十隈手に隱るとは、此世を去(ル)をこそいへれ、又此神を大物主と申すは、倭の三輪に限りて申す御名也、其よし古事記傳に委くいへり、又|大國御魂《オホクニミタマノ》神と申すは、大年(ノ)神の御子にて、古事記に見えたり、大名持(ノ)神とは別神なるを、一(ツ)に心得たる説は、いみしきみだりごとなるを、師もふと其説にまどはれたる也、又頭書に、大日女《オホヒルメ》の女《メ》を、美《ミ》に通ひて、持《モチ》の約也といはれたるは、強言《シヒゴト》なり、こはいづれ
の書にも、大日女(ノ)命と書て、女《メ》は即女の意なるをや、
 
百八十六社坐皇神等 乎《モモヤソマリムヤシロニマススメカミタチヲ》
 
考云、出雲風土記に、合(セテ)神社參佰玖拾玖所(ナリ)、一百八十四所(ハ)在2神祇官(ニ)1、二百十五所(ハ)不v在2神祇官(ニ)1とあり、抑風土記は、此詞より後、和銅六年の命にて奉りしなれば、神社の數、増(シ)はすとも減《ヘリ》はせじを、今ある風土記は、字誤りつらむ、又式には、合せて百八十七社あるは、後に加《クハ》へられしにやあらむ、
〇後釋、皇神《スメカミ》とは、いづれの神をも、尊みてかく申す也、乎《ヲ》といふ辭は、下に志都宮爾志靜米《シヅミヤニシヅメ》と有(ル)所へ係《カカ》れり、
 
某甲 我《ソレガシガ》
 
考云、國造なり、
〇後釋、姓名とかゝずして、かく書るは、こゝにては、姓をば申さず、たゞ名ばかり申すを、名我《ナガ》とは書がたき故に、かくは書るか、又甲(ノ)字をも添(ヘ)て書るを思へは、それがしと唱るにてもあらむか、己がことをそれがしといふも、やゝ古く見えたり、
 
弱眉 爾 太襷取掛 天 伊都幣 能 緒結《ヨワカタニフトダスキトリカケテイヅヌサノヲムスビ》
 
考云、大神に奉る種々の物を、作り調るをいふ、伊都《イヅ》は、嚴瓮《イヅベ》嚴橿《イヅカシ》などの嚴《イヅ》厳にて、齋清《イミキヨ》まはりて、畏しきいきほひ有よしの辭也、
〇後釋、肩を弱肩といふゆゑは、肩は身と手とのつがひめにて、屈伸《ノビカガミ》して折《ヲ》るゝ所なる故に、弱《ヨワ》といふ也、俗言に弱腰《ヨワゴシ》ともいふ、それも同じ意の稱也、伊都《イヅ》は、何にまれ齋清《イミキヨ》めたる物にいふ言也、考に畏しき勢あるよしの辭也とあるは、書紀に嚴(ノ)字を書れたるに強《シヒ》てかなへむとての説と聞えたり、かの字は、齋《イミ》清めて嚴重にする意を以てかかれたりとこそ見ゆれ、畏しき意にはあらじ、猶古事記傳にいへり、幣は奴佐《ヌサ》と訓(ム)べし、萬葉などに、奴佐《ヌサ》を幣とも幣帛とも多く書り、さてこゝは木綿《ユフ》をいへるなるべし、又木綿と麻とにても有(ル)べし、緒《ヲ》とは、結《ムスビ》といふからいへるにて、即(チ)木綿麻也、つねにも麻をばをといへり、結《ムスビ》とは、國造の頭の髪にゆひ着《ツク》るをいへるにて、いはゆる木綿鬘《ユフカヅラ》なるを、かくいひなせるは、古(ヘ)の文也、これを考に、種々の物を作り調るをいふとあるは違へり、遠所に遣《マダ》す幣などならばこそ、荷にして、その緒を結ぶともいはめ、たゞに獻る幣には、何の緒をかむすばむ、似つかはしからぬこと也、そのうへ幣物を調る事ならば、下なる天の〓和爾云々の次などにこそ有べけれ、こゝにいふべき事に非ず、
 
天 乃 美賀秘冠 利天《アメノミカゲトカガフリテ》
 
考云、天は崇みの言、美《ミ》は眞《マ》に同じくてほむる言、加秘《カビ》は加夫利《カブリ》也、夫利《ブリ》の約|備《ビ》なる故に、かくもいへり、秘は濁りて訓(ム)べし、冠《カカブリ》は、その冠を冠《カブ》るといふ用辭《ワザコトバ》也、さて冠は、頭にかぶれば、本|加々夫利《カカブリ》といふ言なるを、平《ツネ》言には、加牟々利《カンムリ》とも加宇牟利《カウムリ》ともいへり、然いふは言便にて、本語にはあらず、
〇同頭書云、常《ツネ》言にかうむりといふを、又かうふりとも書(ク)は、布《フ》の濁(リ)は牟《ム》に通へば也、然るを後世人の、かうふりと書てかうむりとよめといふはひがこと也、ふを濁らではむに通はず、
〇後釋、こは天之御蔭登冠理弖《アメノミカゲトカガフリテ》なるを、氣《ケノ》字を秘に誤れる也、氣と秘とは、字のすべての形は似ざれども、畫ニ似たる所々あるによりて、誤れるなるべし、さて氣《ケ》の下に、登《ト》といふ辭をよみ着《ツク》べし、古書どもに、てにをはの字をも添て書る文にも、登《ト》の字をば省《ハブ》きて、よみつけたる例多し、此詞の中にも、皇御孫の命|乃靜坐牟《シヅマリマサム》大倭(ノ)國(ト)申(シ)天《テ》とあるが如し、又假字の下にも、てにをははよみつくる例なきにあらず、さてかくいへるは、即かの木綿《ユフ》を頭につくる事也、そは御殿《ミアラカ》のことを、天の御蔭《ミカゲ》日の御蔭と隱《カクリ》ましますといへる如く、空《ソタ》に覆《オホ》ふよしにて、頭に蒙る物をも、文にかくはいへる也、日影の蘰《カヅラ》といふも、日の光を覆《オホ》ひへだつるよしの名なること、古事記傳にいへるがごとし、考へて思ひ合すべし、考に美賀秘を、御冠の約とせられたるは、夫理《ブリ》をつゞめて傭《ビ》といはむは、さることなれども、なほ冠をつゞめて加備《カビ》とはいふべくもあらず、例もなきこと也、そのうへ古(ヘ)の語に、神事にも餘の事にも、冠をかぶる事をいへる例もなし、たとひ冠をいふことは有とも、こゝは神事に用る殊なる品の冠ならばこそ、いひもせめ、たゞ何となく、天の冠とはいふべきにあらず、又衣をおきて、冠のみをいはむも事たがへり、さて又此|齋《イミ》ごもりの時の種々の事を、こゝに擧たる文、一(ツ)事毎に、天《テ》といふ辭を置て界とせり、取掛|天《テ》、冠|利天《リテ》、苅敷|支天《キテ》などのごとし、然るに緒結《ヲムスビ》の下には、天《テノ》字のなきは、次へつゞきて一(ツ)事なるが故也、よく/\心を付べし、冠は、加賀布理《カガフリ》と、賀《ガ》を濁り布《ス》を清《スミ》てよむべし、萬葉は假字の清濁を正して書るに、五の卷に可賀布利《カガフリ》、二十の卷に加我布理《カガフリ》などあれば也、然るを考に、加々《カカ》を清て、夫《ブ》を濁るべきさまにいはれたるは、つねに加夫流《カブル》といふに依てなるべけれど、古言に違へり、かうぶりかんむりなどいふは、後の音便にくづれたる言なれば、とかく論ずるまでもなし、俗にかぶるといふは、かのかうぶりの略なれば、此濁りによるべきことにあらず、萬葉に依て正すべし、
 
伊豆 能 眞屋 爾《イヅノマヤニ》
 
考云、伊豆も眞《マ》も、右にいへるがごとし、齋屋《イミヤ》なればかくいへり、こゝは兩阿を眞屋《マヤ》といふとは異也、
〇後釋、齋《イミ》清まはれるにつきて、眞屋といはむは、さることなれども、然いへる例なきを思へば、もしくは眞(ノ)字は直の誤(リ)にて、宿直の意にて、登能爲屋《トノヰヤ》にはあらざるか、もし然らば、熊野にまれ杵築にまれ、つねに宿直《トノヰ》する屋を清めて、齋《イミ》こもるなり、こは心見にいふのみなり、
 
麁草 乎《アラクサヲ》
 
考云、人氣に穢れぬ、遠き野山の草を用る故に、あら草といふ也、すべて此類のあらは、うまれながらの意也、
〇後釋、今も神事などに用る薦《コモ》をば、あらこもといへり、
 
伊豆能 席 登 苅敷 支天 伊都閇黒益 之《イヅノムシロトカリシキテイヅヘクロマシ》
 
考云、古(ヘ)は堝缶※[瓦+肆の左]などをみな閇《ヘ》といへり、こゝは飯など燒《タク》堝也、奈閇《ナベ》といふは、金鍋《カナベ》の略也、古(ヘ)はなべて土器なりしかば、たゞ閇《ヘ》とのみぞいへる、黒益は、益は借字にて、辭也、薪して燒(ケ)ば、黒くなる故に、飯など燒《タク》事をかくいへる也、田舍人などの、鍋のしり黒ますといふ是也、さてこは、神御食又は吾齋食をもいふべし、
〇同頭書云、閇《ヘ》てふ名を、物によりて心得分るは、皇朝のならひ也、
〇後釋、伊豆閇《イヅヘ》は、書紀神武(ノ)卷に、嚴瓮此(ヲ)云2恰途背《イヅヘト》1とみえ、又古事記書紀萬葉などに、忌瓮《イハヒベ》ともあり、其外も古(ヘ)に瓮《ヘ》といへる多し、奈閇《ナベ》は魚菜瓮《ナベ》也、古(ヘ)魚をも莱をも奈《ナ》といへる、それを煮《ニ》る器をいへり、考に金鍋《カナベ》の略也といはれたるはいかゞ、和名抄に、釜(ハ)賀奈閇《カナヘ》とある、これこそ金堝《カナヘ》のよしの名にはあれ、又鍋(ハ)賀奈々閇《カナナベ》とある、これ金魚菜堝《カナナベ》のよし也、これらを以て、奈閇《ナベ》といふは金鍋《カナベ》の略にはあらざることを知べし、又古(ヘ)は土器なりしかば、たゞ閇《ヘ》とのみいへりといはれつれど、書紀仲哀(ノ)卷に、云々(ヲ)爲(ス)2御※[扁+瓦]《ミナベト》1、此(ヲ)云2彌那倍《ミナベト》1とあれは、古(ヘ)より奈閇《ナベ》といふ名も有し也、黒益之《クロマシ》は、考の説のごとく、黒くするをいふ、さてこゝも黒ましの下に、天《テ》といはざるは、次へつゞきて一(ツ)事なり、
 
天 能 ※[瓦+肆の左]和 爾 齋許母利 ※[氏/一]《アメノミカワニイミコモリテ》
 
考云、天はほむる言、※[瓦+肆の左]は酒を釀《カメ》る器也、和は借字にて囘なり、囘は其ほとりをいひて、萬葉に浦囘《ウラワ》礒囘《イソワ》などある囘に同じ、さて神に奉る御酒は、我(ガ)こもり居る齋屋の床の邊にて造る故に、此言は有也、萬葉祭神歌に、齋戸《イハヒベ》を前に坐置《スヱオキ》、また齋戸を《イハヒベ》忌穿居《イハヒホリスヱ》、また忌瓮《イハヒベ》を床邊にすゑて、などよめるをもて知べし、
〇後釋、和名抄に、本朝式(ニ)云、※[瓦+肆の左]|美加《ミカ》、辨色立成云、大甕、和名同v上(ニ)と見え、古書に、美加《ミカ》にはつねに甕(ノ)字をも用ひたり、諸の祝詞に、御酒者甕上高知甕腹滿並弖《ミキハミカノヘタカシリミカノハラミテナラベテ》などあり、さて※[瓦+肆の左]和《ミカワ》といふも、たゞ※[瓦+肆の左]《ミカ》にて、和《ワ》に別に意あるにあらず、三輪の輪と同じ、三輪も御酒をかめる※[瓦+肆の左]のこと也、萬葉二に、哭澤之神社爾三輪須惠《ナキサハノモリニミワスヱ》とあるにて知(ル)べし、されば美和《ミワ》といふも、即|※[瓦+肆の左]和《ミカワ》の略にても有べし、又今の世に、一斗ばかり入(ル)大鍋を、斗那和《トナワ》といふ、その和《ワ》も同じく聞ゆれば、和《ワ》は※[瓦+肆の左]又大鍋などの類の器の惣名なるべし、さてこゝは、御酒の※[瓦+肆の左]一(ツ)をいひて、其餘の種々の御食《ミケ》つ物をもかねたる文也、伊豆閇黒《イヅヘクロマ》ましといふは、御酒のみの用にあらず、御食物など煮炊《ニカシ》くをいへる、それより一(ト)つづきの文なるをもて知べし、さて爾齋許母利※[氏/一]《ニイミコモリテ》といへる爾《ニ》は、其※[瓦+肆の左]のあたりにといふ意にはあらず、御食御酒などを調へなどして、其事に齋《イミ》こもるといふ也、こもるところはいづの眞屋也、考に、和《ワ》を囘として、※[瓦+肆の左]のほとりに齋こもり居ることに注せられたるは、あたらず、萬葉の浦囘磯囘などを例に引れたれども、萬葉の浦囘礒囘などは、うらまいそまと訓(ム)ことにて、昔よりうらわいそわと訓るは誤也、これらを和《ワ》といふは、古今集よりこなたのことにこそあれ、そのうへ浦礒里などにこそ囘とはいひたれ、器物などに、其ほとりを囘といへる例なきをや、
 
志都宮 爾 志靜 米 仕奉 ※[氏/一]《シヅミヤニシヅメツカヘマツリテ》
 
考云、志都宮は、本よりも騷《サワ》がしからぬ神宮なるを、右のごとく忌清まはりて、殊更に皇神をしづめ奉る宮也、さて今本に志靜とある、志は、國造が志《ココロ》と聞ゆるを、さらば上のごとく、眞屋《マヤ》などこそいふべけれ、宮とはいふべからず、又神の御事にてもわがうへにても、こゝは心とこそいはめ、志とは書(ク)べくもあらず、故(レ)思ふに此字は、忌を後に誤れることしるければ、改めつ、
〇同頭書云、忌も齋も通はし用る例也、
〇後釋、考に、志都宮を、本よりも騷がしからぬ神宮とあるは、閑《シヅカ》なる宮といふことに心得られたるにや、そはひがこと也、志都宮とは、神を鎭《シヅメ》奉る宮といふこと也、又|伊都《イヅ》宮を誤れるにも有べし、さて此宮は、上に云々|皇神等乎《スメカミタチヲ》とあるよりつゞきて、出雲一國の神々を、請《マセ》奉る宮也、されば此宮は、常の宮にはあらで、此|齋《イハヒ》のために、新に造るなるべし、志靜米は、或人、志都米を誤れる也といへり、然るべし、
 
朝日 能 豐榮登 爾 伊波比 乃 返事 能 神賀吉詞奏賜 波久登 奏《アサヒノトヨサカノボリニイハヒノカヘリコトノカムホギノヨゴトマヲシタマハクトマヲス》
 
考云、こは初めに朝廷に召上せられて、位又負幸物を賜はり、大神たちを齋奉りて、天皇の御代を賀《ホギ》奉れといふ大命《オホミコト》をうけ給はりて、其齋の事竟りつれば、かの大命《オホミコト》の復命《カヘリコト》として、神賀詞を申すといふ也、かくて此神賀詞は、其大神たちの御詞に、國造が言をとり合せて申す也、されば上の文、靜宮に忌靜といはではかなはず、下に神の禮代《ヰヤジリ》臣の禮代《ヰヤジ》とある是也、さてこゝまでは、此申事の初(メ)の段《キザ》也、
〇同頭書云、とよさかのぼりを、此詞に豐榮登と書るにて、此言の意を知(ル)べし、
〇後釋、祈年祭(ノ)祝詞の考(ニ)云、豐はほめいふ辭、逆登《サカノボリ》は榮えのぼる也、古事記歌に、朝日のゑみさかえ來てともあるが如し、さて日の出る時は、其日の佳《ヨキ》時なる故に、此時を用る也、神たちの御詞に、國造が言をとり合せて申(ス)也、とあるはひがこと也、此|吉詞《ヨゴト》はたゞ國造の申すにこそあれ、神たちの申(シ)給ふ意はなし、かの志都宮に鎭奉るは、此詞を此神たちの申給ふ故の事にはあらず、此齋は、朝廷の重き御祈を申す、國造の世のかぎりの重き齋なるが故に、國中の神たちをば、請《マセ》奉る也、さて下に神の禮《ヰヤ》じりとあるは、そこの考にいはれたる如く、穗日(ノ)命より次々、國造の先祖の神たちより、奉り給ふ禮代なれば、此|吉詞《ヨゴト》も、穗日(ノ)命より代々の出雲氏の神たちの、申給ふ意をかねたりとは、いひもすべきを、かの志都宮に鎭(メ)祭るは、出雲一國の神たちなれば、かの神の禮じりとあるには、あづからぬ事なるをや、これまでは、此|吉詞《ヨゴト》の序のごとし、
 
高天 能 神王《タカマノカムロギ》
 
考云、これよりまさしく神賀詞也、神王《カミロギ》は、本(ト)神皇君といふこと也、故(レ)神王と書り、此字もて此言の意を知べし、さて上に加夫呂伎とあるは、國造が祖神を崇みていひ、こゝは天總知《アメスベシ》ます加夫呂伎を申す也、
〇同頭書云、加夫《カブ》は上也、神も上と云こと也、其よし上にいへるがごとし、然らば國造の神祖熊野(ノ)大神にもいへるを、疑ふ人有べけれど、上にも引る仁明天皇紀(ノ)歌に、少彦名(ノ)神をも、加夫呂伎と崇み申せり、
〇後釋、高天は高天(ノ)原也、但し原を省《ハブ》きて、高天とのみはいへる例なければ、疑ひなきにあらず、されど原(ノ)字の脱《オチ》たる物とも聞えず、又ことわりは、原を省きてもいひつべき也、加牟漏岐《カムロギ》を神王と書るは、後の寫誤(リ)なるべし、そはもと神祖とありけむ、祖(ノ)字を神に誤れるを、又後に神々と書る、々を、王(ノ)字の草書の〓と見まがへて、つひに神王とは書るなるべし、神王と書ては、ことわりも違ひ、例もなきこと也、崇峻紀に大神王といふことあれど、そは佛書の言にて由なし、或人は、こゝの神王を、王の下に父(ノ)字の落たるならむといへれども、王父など書むこと、此文の書(キ)ざまにたがへり、加牟漏岐《カムロギ》は神生祖君(キカムアレオヤギミ)といふことにて、禮於《レオ》の約まりて漏《ロ》とはなれる也、故(レ)古書に神祖と書て、みな皇祖神を申せり、考の説の如く、たゞ神皇君の意としては、祖の意なければ、かなはず、頭書に、かの少彦名(ノ)神をも、加夫呂岐とよめることを引れたれど、かの歌は、今の京になりての世の歌なれば、やゝ古(ヘ)にたがへる事どもこれかれあれば、これらの證には立がたし、又天(ノ)夷鳥(ノ)命は國造の祖神なれば、其家にて私には、神祖《カムロギ》ともいふべけれど、公にてさはいふべきにあらず、此上文に出たる加夫呂伎は、其神にはあらず、須佐之男(ノ)大神なること、上にいへるが如し、
 
高御魂神魂命 能 皇御孫命 爾 天下大八嶋國 乎 事避奉 之 時《タカミムスビカミムスビノミコトノスメミマノミコトニアメノシタオホヤシマクニヲコトヨサシマツラシシトキニ》
 
考云、皇御孫(ノ)命とは、天照大御神の御子の御子を申せる御稱にて、高御魂(ノ)神よりは、いと遠けれど、後世の天皇をも、御孫(ノ)命と申すが如く、かく廣くいふぞ古(ノ)意なりける、又云、事避《コトサリ》は、大名持(ノ)命の避《サリ》奉りしなるを、其事は次にいへば、こゝには其御名をば略ける也、さてこゝは、少《スコ》しはかりの語に、多くの事をこめたれど、理りたらはずとも聞えざるは、古文の妙なる也、上に出たる後世の文ども【諸の祝詞の中の文】の、略樣《ハブキザマ》あしくて、理り明らかならざる、その所々に、其よしをいへるとむかへ見よ、
〇後釋、高御魂神魂(ノ)命|能《ノ》といふ所にて、句をきりて心得べし、此|能《ノ》は、次なる事避《コトヨサシ》奉へ係《カカ》れる辭にして、皇御孫(ノ)命へつゞけいふ能《ノ》にはあらず、なほ次にいふことをまちて、其由を知べし、考に、この能《ノ》を、皇御孫(ノ)命へ係《カケ》て心得られたるは、いみしき誤也、事廣くいふは、古意にはあれども、某《ソノ》神の皇御孫(ノ)命と申せることは、すべて例なきこと也、事避は、決《キハ》めて後の誤(リ)にて、事依《コトヨサシ》なるべし、かならず事依《コトヨサシ》といはではかなはぬ所也、其故は、こゝの文は、高御魂神魂(ノ)命|能《ノ》、天(ノ)下大八嶋哭|乎《ヲ》、皇御孫(ノ)命|爾《ニ》事依奉之時《コトヨサシマツラシシトキニ》といふことなれば也、故(レ)上の能《ノ》てふ辭は、こゝへかゝれりとはいふ也、よく/\味ひて知べし、もしこれを事避《コトサリ》とするときは、高御魂神魂(ノ)命の避《サリ》給ふになる也、然るを考に、大名持(ノ)命の避《サリ》給ふ事にいはれたるは、いみしき強言《シヒゴト》也、大名持(ノ)命の避《サリ》給ひし事は、次にあれば、こゝにはいふべきにあらず、たとひ後の事の大よそを、初めにまづいひおくとも、然らば上に大名持(ノ)命之といはでは、ことわり聞えがたし、此御名は次にいへば、こゝには略けりといはれたるも強説《シヒゴト》也、次にいへばとて、こゝにもいはでは、事避《コトサリ》は誰《タ》が避《サ》れりとかせむ、さらに聞えぬこと也、然るを埋りたらはずとも聞えざるは、古文の妙なる也とは、いかなることぞや、
 
出雲臣等 我《イヅモノオミラガ》
 
考云、此|臣《オミ》は加婆禰《カバネ》なり、
〇後釋、出雲氏の、臣《オミ》の尸《カバネ》なりし事、古事記傳七(ノ)卷にいへるがごとし、
 
遠祖《トホツオヤ》
 
考云、遠神祖《トホツカムオヤ》、これを今(ノ)本に遠神とあるは、後に祖(ノ)字を落せる也、萬葉に遠神《トホツカミ》我大君とあるは、天皇は即(チ)神におはしまして、人に遠きよしにてこそいへれ、こゝには遠神はよしなし、遠き神祖のことをば、遠つ神祖と歌にもよめれば、こゝも遠神祖也、
〇後釋、今(ノ)本に遠神とあるは、祖(ノ)字を神に誤れる也、祖(ノ)字の落たるにはあらず、遠神祖《トホツカムオヤ》といふことも、萬葉の歌には見えたれども、こゝはたゞ遠祖《トホツオヤ》といはむぞ穩《オダヤカ》なる、
 
天穗比命 乎《アメノホヒノミコトヲ》。國體見 爾 遣時 爾《クニカタミニツカハツシトキニ》。
 
考云、下つ國の有(リ)さまを見に降し給ふにて、そはむねとは、大國主神のさまを見、又すべて荒び猛ぶ諸(ノ)神の樣を見て、治めしたがへつべしやいなやを見とりて、事をなさむため也、故(レ)國體と書り、
〇同頭書云、景行天皇紀に地形《クニカタ》とあるは、地の嶮易などを見るなり、事によりて心得べし、
〇後釋、すべて事のありさまをも、加多《カタ》といひ、阿理加多《アリカタ》とも加多知《カタチ》ともいふは古言也、
 
天 能 八重雲 乎 押別 ※[氏/一]《アメノヤヘグモヲオシワケテ》。天翔國翔 ※[氏/一]《アマカケリクニカケリテ》。天下 乎 見※[しんにょう+回] ※[氏/一]《アメノシタヲミメグリテ》。返事申給 久《カヘリコトマヲシタマハク》。
 
考云、古事記日本紀などに、穗日(ノ)命は、大名持(ノ)神に媚附《コヒツキ》て、三年まで復命《カヘリコト》申さずと有(ル)を、今かくいへるは、國造己が祖神なる故に、宜きさまにいひなせるかと思ふ人も有なむ、されども事もこそあれ、大極殿につかさ/\をつらねて、天皇の聞(シ)食す此神賀詞に、私の説を擧申すべきにあらず、それひがことならば、神祇官より太政官に申て、正すべき也、故(レ)思ふに、此傳へは、かの記どもには漏《モレ》て、これに有(ル)なりけり、上にもいへる如く、つひに復命申さずは、天稚彦に次たる罪も有べきに、さはあらで、天つ神王《カムロギ》の詔に、大名持(ノ)命の祭をなさむは、穗日(ノ)命とのたまへるは、よく媚和《コビヤハ》し給ひし故也、又出雲にて、穗日(ノ)命をむねとは祭らぬも、かへりて天にとゞまり給へるが故也、これらをもて、復命まうし給ひし事の實なるを知べし、かくて鳥船(ノ)命布都奴志(ノ)命の降りても、猶たやすくは平がず、かの天つ神の御子の宮の如き宮を建(テ)、又海川に遊ぶべき具などをもなし、遂に後の祭をなすべき神をも定め給ひて、漸に媚和し治め給へるを思へば、始めに穗日(ノ)命も、あまたの年を經て、事なし給ひしほどしられたり、古書をかたへ見て、事は定めがたきものぞ、
〇同頭書云、崇神天皇紀に、詔曰(ク)武日照《タケヒナテリノ》命(ノ)從(リ)v天|將來《モテキツル》神寶藏(レリ)2于出雲(ノ)大神(ノ)宮(ニ)1是欲v見云々とある、抑此(ノ)命、始め國平《クニムケ》に天降り給ふ時には、神寶を持て降り給ふべきならねば、こは後に大名持(ノ)命を祭らむために天降り給へる度の事なるべし、かゝれば此命も、一度(ビ)天に復命申給ひしこと知らる、神代紀に見えたる如くのみならぬこと、同じ紀の内にても、かくの如くなれば、こゝの文を疑ふことなかれ、又穗日(ノ)命は、高祖神の命は有しかども、此祭をとらで、御子|日照《ヒナテリノ》命を天降して、其事をとらしめ給へりしこともしられたり、故(レ)後まで國造も、此日照(ノ)命をむねとは崇み祭るなり、
〇後釋、考に、國造の、天日照(ノ)命をむねと崇み祭るといはれたるは、かの熊野(ノ)大神の心得たがへによりて也、國造の家に、此日照(ノ)命を、穗日(ノ)命よりまさりて、むねと祭ることは、いまだ聞ず、但し古事記に、出雲氏の祖を、天(ノ)菩比《ホヒノ》命、此(ハ)出雲(ノ)國の造等之祖とは記さずして、天(ノ)菩比(ノ)命(ノ)之子|建比良鳥《タケヒラトリノ》命、此(ハ)出雲(ノ)國(ノ)造等之祖と記したるは、考にいはれたる如くなる故なり、
 
豐葦原 乃 水穗國 波 晝 波 如五月蠅水沸 支《トヨアシハラノミヅホノクニハヒルハサバヘナスミナワキ》
 
考云、さばへなすといふ言は、古事記日本紀又萬葉などにも見えて、上にも出たり、水沸は、水は添(ヘ)て書るにて、たゞわきのぼるよし也、二字を和伎《ワキ》と訓べし、今本にみづわきと訓るは聞えず、
〇同頭書云、遠江人は、蟲などの多く出來聚れるを、うじわくうじたかるなどいひ、又蠅にもたかるわくといへり、此わくてふ言は、もと水より出て、何にもたとへいふ也、
〇後釋 水沸は、みなわきと訓べし、皆沸也、古事記に、惡神之音如2狹蠅1皆涌《アラブルカミノオトナヒナスサバヘミナワキ》、萬(ノ)物(ノ)之妖悉(ニ)發(ル)とあるにて知べし、水は借字にて、上の黒盆之《クロマシ》の益(ノ)字のごとし、
 
夜 波 如火瓮光神在 利《ヨルハホベノゴトカガヤクカミアリ》
 
考云、火瓮は、瓮の内にて燒《タ》く猛火の光(リ)をいふ、かの猿田彦(ノ)神の、面の照(リ)尾に光の有といひ、星神|香々背男《カガセヲ》といふも、香々《カガ》は照R《テリカガヤ》く意の名也、後世に、天狗の身には、ほのほ有といふ類なるべし、
〇同頭書云、こゝは、神代紀に、螢火|光《カガヤク》神とあると、火の大小は異なれど、意は同じ、又かの紀に、夜(ハ)者|若《ゴト》とあるは、邪神の騷ぐを、猛火のもゆる音にたとへていへるにて、こゝとは異なり、
〇後釋、火瓮《ホベ》は、此字の如く、瓮の内に燒《タ》く火なること、考にもいはれたるがごとし、然るを神代紀に、夜(ハ)者若2※[火+票]火《ホベノ》1而|喧響《オトナヒ》之、※[火+票]火此(ヲ)云2褒倍《ホベト》1とあるは、心得ぬこと也、其故は、※[火+票]は、字書に火飛也と注したれば、火瓮《ホベ》にはかなはず、又|喧響《オトナヒ》も、火瓮によしなければ也、故(レ)つら/\思ふに、かの紀の文は、もと事のまぎれたる傳への有しを其まゝに心得て書れたる物也、そのまぎれといふほ、まづ古事記に、惡神之音《アラブルカミノオトナヒ》、如《ナス》2狹蠅《サバヘ》1皆涌《ミナワキ》、萬(ノ)物(ノ)之妖悉(ニ)發(ル)とある音《オトナヒ》は、狹蠅《サバヘ》の如く沸音《ワクオト》なるを、又一(ツ)の傳へに、これを晝と夜とに分て、二(ツノ)物にたとへていへるが、まぎれて、かの音《オトナヒ》を夜の方の火瓮に屬《ツケ》ていへるなり、さてかくまぎれて、音《オトナヒ》とあるから、書紀の撰者の心に、音ある火は、飛火ならむと心得て、火瓮《ホベ》に※[火+票](ノ)字を當て書れたる物なり、かの紀の文字には、かゝるたぐひ猶多し、心して見べし、然れども火瓮は、然たとへにいふばかりの音はあるべくもあらず、又晝にむかへて夜をいはむには、光こそ似つかはしけれ、喧響《オトナヒ》は、夜にかぎらぬ事なれば、似つかはしからず、又の一書に、螢火光《ホタルナスカガヤク》神とあると、同意のたとへなるにても、必(ズ)光なるべき事しるければ、こは此詞に光《カガヤク》神とあるぞ正しかりける、考に、火瓮の火を、猛火といはれたるは、書紀に喧響《オトナヒ》とあるにつきてなれども、かれは事のまがひたる物なること、右にいへるが如くなれば、かゝはるべきにあらず、火瓮は、猛火と云べからず、その光も、かの螢火のたとへと合せて、甚しからざることを知べし、神在《カミアリ》は、晝|波《ハ》如《ナス》2五月蠅《サバヘ》1水沸《ミナワキ》へも係《カカ》れり、さて次なる荒國在の在は、考にいはれたるごとく、爾阿理《ニアリ》の約りたるにて、那理《ナリ》と訓べきを、こゝの在は、かれとは異にて、有(リ)v神の意なれば、阿理《アリ》と訓べし、
 
石根木立青水沫 毛 事間 天 荒國在 利《イハネキネタチアヲミナワモコトトヒテアラブルクニナリ》
 
大祓(ノ)詞の考(ニ)云、磐根樹立は、上の大殿祭(ノ)詞に、磐禰木根乃立《イハネコノネノタチ》とあるにて、樹立は許乃多知《コノタチ》と訓べく、そは木の伐杭《キリクヒ》なること知べし、全(キ)木は本よりにて、伐杭《キリクヒ》まで物いふといへる也、事は言也、水沫は美奈和《ミナワ》と訓(ム)、水乃阿和《ミノアワ》の乃阿《ノア》の約|奈《ナ》なれば也、荒《アラ》ぶるのぶるは、其さまをいふ辭也、國在は久爾奈利《クニナリ》と訓べし、爾阿理《ニアリ》の約|奈理《ナリ》なり、こゝは阿理《アリ》と訓ては、荒びぬ國もある如く聞えてかなはず、木立《キネタチ》の事、大祓(ノ)詞(ノ)後釋に云り、
 
然 毛 鎭平 天 皇御孫命 爾 安國 止 平 久 所知坐 之米牟止 申 ※[氏/一]《シカレドモシヅメムケテスメミマノミコトニヤスクニトタヒラケクシロシマサシメマヲシテ》
 
考云、三年餘の間に、大名持(ノ)神を漸に媚和して、つひに時をはかりて、天にかへり上りて、かく復命《カヘリコトマヲ》し給ひしなり、
 
己命兒天夷鳥命 爾 布都怒志命 乎 副 天 天降遣 天《オノレミコトノミコアメノヒナトリノミコトニフツヌシノミコトヲソヘテアマクダシツカハシテ》
 
考云、古事記に、天(ノ)菩比(ノ)命(ノ)之子建比奈鳥(ノ)命、云々等之祖也、また天(ノ)鳥船(ノ)神(ヲ)副(テ)2建御雷(ノ)神(ニ)1而遣と有(ル)と、こゝを合せ見れば、夷鳥《ヒナトリ》鳥船《トリフネ》同神也、さて事代主(ノ)神を、よくいひ解(キ)得て治めしは、此鳥船(ノ)神の大功也き、然れば布都奴志(ノ)神建御雷(ノ)神は、建き事|勝《スグ》れ、建夷鳥(ノ)神は、建《タケ》といへば、雄々《ヲヲ》しくもあり、且(ツ)思兼のすぐれたる神なりけり、此度は、大きなる御使なれば、此二(ツ)をそなへずは有べからず、
〇同頭書云、此神たち、こゝには天(ノ)夷鳥布都怒志とあり、古事記には、建御雷天(ノ)鳥船とあり、日本紀には、經津主建甕槌と有て、各異なるは、傳へのさま/”\なりし也、今何れを必ともいふべからず、
〇後釋、古事記の天(ノ)鳥船(ノ)神は、考にいはれたる如く、即天(ノ)夷鳥(ノ)命也、さてそは夷《ヒナ》と船《フナ》と通ふ音にて、もと船鳥《フナトリ》なりけむが、まがひて鳥船とはなれるなるべし、然まがひつるよしは、此神の事を、書紀に、以(テ)2熊野(ノ)諸手船(ヲ)1【亦(ノ)名(ハ)天(ノ)鳩船】載(テ)2使者稻背脛(ヲ)1遣(ス)之と見え、又伊邪那岐(ノ)命の御子に、天(ノ)鳥船といふ有(リ)、かれこれを以て也、さて又書紀一書に、大名持(ノ)神の事避(リ)坐むとする時に、岐《フナドノ》神を經津主(ノ)神に薦《スス》めて、郷導《ミチビキ》とすとあるも、布那登理《フナトリ》にて、同神なりけむ、そは一(ツ)の傳へに、此神既に降りて、大名持(ノ)神の御許に坐けるを、薦《スス》め給へる也、然るに郷導といふからまがひて、布郡登理《フナトリ》を岐《フナトノ》神とはいひ傳へたるなるべし、又經津主と建御雷とは、實は一神なるが、これもまがひて、書紀には二神の如く記されたる、此事古事記傳に委く辨へたるがごとし、
 
荒 布留 神等 乎 撥平 気《アラブルカミドモヲハラヒタヒラゲ》
 
考云、萬葉に、不仕奉國乎拂《マツロハヌクニヲハラフ》といへり、
〇後釋、古事記に、大名持(ノ)命の、八十神を、毎(ニ)2河(ノ)瀬1追撥《オヒハラヒ》、また神武(ノ)段に、退2撥《ハラヒタヒラゲ》不伏人等《マツロハヌヒトドモヲ》(萬葉十九に掃平《ハラヒタヒラゲ》などあり、
 
國作 之 大神 乎毛 媚鎭 天《クニツクラシシオホカミヲモコビシヅメテ》
 
考云、風土記に此大神を、所作國大神とあるをば、くにつくらせる大神とも、くにつくらしし大神とも訓べし、ここは之(ノ)字あれば、くにつくらししと訓べし、之は、上に黒益 之《クロマシ》とある之のごとく、傍に書る假字也、媚鎭の事は上にいへり、
 
大八嶋國現事顯事令事避 支《オホヤシマクニウツツコトアラハニコトコトサラシメキ》
 
考云、紀一書に、吾所知顯露事者《アガシレルアラハニノコトハ》、皇孫|當知《シロシメセ》、吾將退《アハマカリテ》治《ヲサメム》2幽事《ヒスミノコト》1云々、顯露此云2阿羅播貳《アラハニト》1とある、貳《ニ》は利《リ》に通ひて、あらはりの事也、こゝに現と顯と分ちたるは、現《アキツ》は、萬葉に、明神《アキツカミ》吾大君、又|見明《ミアキラ》めなどいへる如く、世(ノ)中の事をいひ、顯《ウツシ》は、紀に顯國玉《ウツシクニタマ》顯見蒼生《ウツシキアヲヒトクサ》、萬葉に顯《ウツ》し身などいへれば、其身の事にかゝるべし、
〇後釋、現事は宇都志許登《ウツシコト》、顯事は阿羅波爾許登《アラハニコト》と訓べし、同意なる事を、かくさまに二(ツ)重ねていふは、古文のつね也、然るを考に、現と顯とを分てとかれたるは、強言《シヒゴト》にて、いとくだ/\し、分ては説《トカ》れたれども、其説も、つひに一(ツ)意なるをや、又書紀の幽事を、ひすみの事と訓れたるは、かの日隅宮をひそまりの宮の意とせられ、又同紀に幽宮といふもあるを合せてなるべけれど、猶此訓はいかゞ也、幽事は加微碁登《カミゴト》と訓べし、同段に神事とも書ると、一(ツ)事なればなり、
 
出雲國造神壽後釋下
          伊勢國人 本居宣長釋
 
乃大穴持命 乃 申給 久 皇御孫命 乃 靜坐 牟 大倭國申 天《スナハチオホナモチノミコトノマヲシタマハクスメミマノミコトノシヅマリマサムオホヤマトノクニトマヲシテ》
 
考云、こゝは天孫いまだ天降まさぬほどなる故に、靜めまさむ大倭といへり、さてかく申(シ)給ふは、古事記を考るに、大名持(ノ)命は、天下を作(リ)治め給ひて後には、やまとの國に坐(シ)し故に、吾は今世を避て、荒魂は出雲へ去(リ)、和魂は三輪に鎭り、天孫は即此やまとに宮敷まさむと也、此次に、其御子たちを、同じやまとの國の所々にまさせて、御孫(ノ)命の近き守とし給ふとあるを、合せ見るべし、さればこゝは、其いはれをいひて、且(ツ)後の天皇の御嗣々、此やまとに宮敷まさむ、前《サキ》つ祥とも聞ゆるが如くいへるは、妙なる文といふべし、
〇同頭書云、古(ヘ)やまとといへるは、今の大和國也、然るに上(ツ)代の天皇、みな此大和國に坐て、天下をしろしめしつれば、大和をしろしめすといひて、即天下を知(リ)坐(ス)こととなりぬ、萬葉卷一の初(メ)の大御歌など、皆此意也、かくて天下の惣名を大倭といふは、いと後のことなり、又云、古事記に、其神(ノ)之|嫡后《ムカヒメ》須勢理毘賣(ノ)命、甚|爲嫉妬《モノネタミシタマフ》、故其(ノ)日子遲(ノ)神|和備弖《ワビテ》、自2出雲(ノ)國1、將《シテ》v上(リ)2坐(ムト)倭(ノ)國(ニ)1而と有(リ)て、其時の歌に、夜麻登能《ヤマトノ》、比登母登須々岐《ヒトモトススキ》、宇那加夫斯《ウナカブシ》云々、如是歌(ヒテ)、爲(テ)2宇岐由比《ウキユヒ》1、而|宇那賀氣理※[氏/一]《ウナガケリテ》、至v今鎭坐也とあるは、御むかひ妻もおはすれば、倭を宮所として、出雲へも通ひ住給ひしに、つひに倭に鎭(リ)ませるをいへり、
〇後釋、靜坐牟は、しづまりまさむにて、大宮造りして、今より住給はむ事をいふ也、然るを考に、しづめまさむと訓れたるは、あらず、靜《シヅ》むるは、是までの事にこそあれ、こゝは既にしづまりたるうへなれば、然いふべきにあらず、こゝの文は、皇御孫(ノ)命|波《ハ》、大倭(ノ)國|爾《ニ》靜(マリ)坐|牟止《ムト》申(シ)天《テ》、と有べきを、いさゝか詞のいひざま違へり、其故は、是は大名持(ノ)命の出雲(ノ)國にて申(シ)給ふ語なるに、靜(マリ)坐|牟《ム》大倭(ノ)國|止《ト》申(シ)天《テ》といひては、すなはち其大倭(ノ)國にて申(シ)給ふ語となれば也、故(レ)思ふに、大名持(ノ)命の語にては、かなはざれども、こは後に國造の倭(ノ)京に參りて、其倭に在(リ)て奏《マヲ》す詞なれば、おのづからかく申せるにもあるべし、そはたとへば、此(ノ)大倭(ノ)國を、皇御孫(ノ)命の靜(マリ)坐む大倭(ノ)國と申(シ)てといふ意也、又思ふに、大倭を天下の惣名にいふは、後のことながら、仁徳天皇のころなどは、はやくさもいひしとおぼしきよしあれば、こゝも天下の惣名にいへるにもあらむか、神代の語をも、後の名を以て語り傳ふるは、つねのことなれば、妨なし、然れども、靜(マリ)坐むといふも、惣名にてはいかゞ也、又次の詞に、もはら畿内の大和國の事を申(シ)給へるなどを思ふにも、なほ惣名にはあらず、畿内の大和國をいへる也、考に、大名持(ノ)命は、天下を作(リ)治め給ひて後には、やまとの國にまししといひて、こゝの語をも、倭にて申(シ)給ふよしに説《トカ》れたるは、いみしきひがことなり、そも/\此神の天下避(リ)奉り給ひし時の事共は、みな出雲國にての事にして、其趣古事記書紀の文、いさゝかもまぎらはしきことなく、いちじるければ、こゝの詞も、出雲國にて申(シ)給へることは、論なきを、いかに心得て、大和國にての事とは思はれけむ、いと/\いふかし、そのうへこゝの次の文に、貢置天《タテマツリオキテ》とあるは、出雲より倭へ貢《タテマツ》る也、八百丹杵築(ノ)宮|爾《ニ》靜(マリ)坐とは、即もとよりの出雲に鎭(リ)坐(ス)にて、其趣おのづからあらはなるを、引たがへて、荒魂は出雲へ去(リ)、和魂は三輪に鎭(リ)などいはれたるは、かへざま也、もし其意ならば、右の貢置天《タテマツリオキテ》を、鎭(リ)坐(サ)せとし、杵築(ノ)宮には、去(リ)坐支《マシキ》とか、退坐支《マカリマシキ》とかいはざればかなはぬことなるをや、又頭書に引れたる古事記の、嫡后云々の事も、もとより出雲國にての事にて、宇岐由比《ウキユヒ》して至(マデ)v今(ニ)鎭坐といふも、倭へ上《ノボ》り給ふことをおぼしとゞまりて、つひに出雲にとゞまり住給へるにて、記の文いちじるきを、これ又いかに見まがへられけむ、かへす/\いふかし、又荒魂は出雲へ去(リ)、和魂は三輪に鎭(リ)といはれたる、去(リ)と鎭(リ)とも、かへさまにてたがへること、右にいへるがごとし、こは和魂を倭の三輪に遣(ハ)して、出雲國に鎭坐といはざれば、こゝの次の文にかなはず、又出雲の杵築に鎭座すを、此神の荒魂とせられたるも、ひがこと也、そは三輪の和魂なるに對へて、おして荒魂とはせるなれども、杵築を荒魂也といふことは、いづれの古書にも見えず、理(リ)もあたらぬこと也、杵築(ノ)宮に鎭座(ス)は、大名持(ノ)命のすべての御魂也、ゆめ/\荒魂とな思ひ誤りそ、すべて一方和魂もしくは荒魂なればとて、それに對へて今一方を、おして荒魂とも和魂とも定むるは、皆ひがこと也、荒魂とも和魂ともいはざるは、たゞ御魂にこそあれ、なほ和魂荒魂の事は、別に委き考(ヘ)ありていへり、
 
己命和魂 乎《オノレミコトノニギミタマヲ》
 
考云、命《ミコト》とは國造が言也、荒魂は出雲に坐、
〇後釋、考に、命とは國造が言也とあるは、いかなる意ぞや、大名持(ノ)神の御事は、國造ならずとも、などか尊みて命《ミコト》といはざらむ、
 
八咫鏡 爾 取託 天《ヤタカガミニトリツケテ》
 
考云、古事記に、有2光v海依來(ル)之神1云々、吾(ヲバ)者伊2都岐奉(レ)于倭(ノ)之青垣山(ノ)上(ニ)1、此(ハ)者坐2御諸山(ノ)上(ニ)1神也、神代紀に、云々大己貴(ノ)命問曰云々、汝(ハ)是吾(ガ)之幸魂奇魂、今欲2何(ノ)處(ニ)住(ムト)1耶、對曰吾欲v住2於日本(ノ)之三輪山(ニ)1、故即營2宮(ヲ)彼處(ニ)1、使2就而居1、此大三輪之神也、といへり、今とことなることもあれど、大かたは同じ事に落めり、
 
倭大物主櫛※[瓦+肆の左]玉命 登 名 乎 稱 天《ヤマトノオホモノヌシクシミカタマノミコトトナヲタタヘテ》
 
考云、此御名は、奇大魂《クシオホミタマ》といふことにて、即和魂也、※[瓦+肆の左]は借字にて、大きなることをいふ、甕栗《ミカクリ》甕蜂《ミカバチ》などの甕と同じ、
〇後釋、大物主と申すは、三輪に限りたる御名也、大名持命の一名にはあらず、櫛〓玉(ノ)命も、三輪に鎭坐(ス)御魂を稱《タタヘ》たる御名にて、同じことぞ、〓《ミカ》は伊加《イカ》と同じくて、嚴《イカ》く健《タケ》きよし也、凡て神(ノ)名人(ノ)名に、美加《ミカ》といふ、みな同じ、大きなる意にはあらず、
 
大御和 乃 神奈備 爾 坐《オホミワノカミナビニマセ》
 
考云、神奈備《カミナビ》といふこと、心得がたかりしを、此ごろ思ふに、神の毛理《モリ》なり、毛理の約|美《ミ》にて、神奈美《カミナミ》なるを、通はして備《ビ》ともいへり、萬葉に、毛理《モリ》を神社《モリ》とも書つれば、こゝも大三輪の神社といふ意也、今(ノ)京このかたの歌には、神なびのもりとよめれば、さては言重なると思ふ人有べけれど、古(ヘ)は萬葉に、神なび山の歌、三十首餘りある中に、神なびのもりとよめるは、一(ツ)もなし、今(ノ)京こなたには、物の實をばわすれて、たゞ歌をつくらむとして、違ふこと多《オホ》ければ、論にたらず、
〇同頭書云、さきには、神奈備は、神の戸《ヘ》にて、上つ代より、其神社に寄られたる、神戸田《ミトシロ》の地に、即其神室もある故に、しかいふかと思ひしかど、神戸は其民の戸をいふなれば、かなはず、
〇後稱、神なびのもりといふこと、今(ノ)京となりてのころは、神なびは、地名となれるうへなれば、そこの森といはむ、ひがことにはあらず、萬葉のころすら、既に神なび山とて、地名の如くなりしをや、近江は淡海《アハウミ》といふことなれども、既に国(ノ)名となりたるうへにては、その海をば、あふみの海と、古(ヘ)の歌にもよめるにあらずや、
 
己命 乃 御子阿遲須伎高孫根 乃 命 乃 御魂 乎 葛木 乃 鴨 能 神奈備爾 坐《ォノレミコトノミコアヂスキタカヒコネノミコトノミタマヲカヅラキノカモノカミナビニマセ》
 
考云、此大神の事は、記どもに見えて明らか也、此社は、葛木山の東南の麓の、鴨といふ所に在て、他より高き所なれば、高鴨の社ともいふ也、さて今(ノ)本、こゝの坐の下に須(ノ)字あるは、上の御魂乎《ミタマヲ》とある辭にかなはざれば、今除きつ、此文はいと古く巧なるに、誤字落字衍字など多きは、昔よりよく讀たる人なく、後人のなまじひにさかしらして、小字を書そへなどしたるによりて、いよゝ理(リ)くらくなれる所ある也、
〇後釋、御子《ミコ》といふは、次々三柱にわたれり、坐(ノ)字、前後ともに四(ツ)、みな麻勢《マセ》と訓べし、書紀の訓に多く見えたり、令《セ》v坐《マサ》をつゞめたる言なり、神名帳に、大和(ノ)國城上(ノ)郡、大神《オホミワ》大物主(ノ)神社、【名神、大、月次相嘗新嘗、】葛上(ノ)郡、高鴨|阿治須岐託彦根《アヂスキタカヒコネノ》命(ノ)神社四産、【並名神、大、月次相嘗新嘗、】
 
事代主命 能 御魂 乎 宇奈提 爾 坐《コトシロヌシノミコトノミタマヲウナデニマセ》
 
考云、今本には、宇奈提 爾 坐とあれども、かく同じ事をならべいふ中に、是のみ違ひては、文をなさず、故(レ)今、乃神奈備《ノカミナビ》といふ四字を補ひつ、宇奈提は、和名抄に、雲梯【宇奈天】と有、畝火山の西北に、今も雲梯《ウナデ》村とてあり、そこなるべし、かくて車代主(ノ)命の社は、高市葛城二所に見えたり、天武天皇紀に、此大神、高市(ノ)郡の大領に依まして、吾(ハ)者高市(ノ)社(ニ)所居《ヲル》名(ハ)車代主(ノ)神(ナリ)云々と告《ノリ》給ひ、式高市(ノ)郡に、高市(ノ)御縣(ニ)坐(ス)鴨事代主(ノ)神社、【大、月次新嘗、】又葛上(ノ)郡に、鴨都波八重事代主(ノ)命(ノ)神社二座、【名神、大、月次相嘗新嘗、】と有て、今も森も社も大き也、こゝは右の高市(ノ)郡なるをいふと聞えたり、さて萬葉十二に、不想乎想常云者眞鳥住卯名手乃杜之神思將御知《オモハヌヲオモフトイハバマトリスムウナデノモリノカミシシラサム》とよめるは、古(ヘ)いたく神稜威《カムイツ》おはしまして、崇みし神社と聞ゆるを、今はその雲梯村の社は、國人もさだかにしらずなりぬ、此うなでの社の事は、なほ、よく問(ヒ)も考へもすべし、
 
賀夜奈流美命 能 御魂 乎《カヤナルミノミコトノミタマヲ》
 
考云、式に高市(ノ)郡に、加夜奈留美(ノ)命(ノ)神社と見えたり、貞觀元年(ノ)紀に、此大神に授2正四位下(ヲ)1と見ゆ、
〇後釋、加夜奈流美(ノ)命と申す神は、古事記にも書紀にも見えず、古事記に、鳥鳴海《トリナルミノ》神といふあり、大名持(ノ)命の御子也、これと同神なるべし、
 
飛鳥 乃 神奈備 爾 坐 天《アスカノカミナビニマセテ》
 
考云、此神社は、式に高市郡と見え、こゝに飛鳥の神なびとあるにつきて、今尋ぬるに、知れる人なし、飛鳥に名高かりし神奈備の御室の山は、すなはち此賀夜奈流美(ノ)命の御社なりけむを、その神奈備山も、今はしれる人なし、今飛鳥の岡の里より西六七町ばかりの所に、雷村といふ有て、ひきゝ岡のあるを、これや古(ヘ)の雷岳ならむといふ也、雷岳といひしは、印神奈備山のことなり、さしも音に聞えし神社の、かくまどはしくさへなりぬるは、あさましともあさまし、さてこゝに至りて、坐|天《テ》とあるからは、上なる坐は、皆|麻佐世《マサセ》と訓べきことしるし、今本に麻須《マス》と訓るは誤也、
〇同頭書云、國人に問(フ)に、賀夜奈流美(ノ)神社は、右の雲梯《ウナデ》村に在(リ)といふは、こゝに飛鳥の神なびとあるに違へり、又今飛鳥(ノ)神社といふも、事代主(ノ)大神をむねとして、四十餘の神社ありといへり、もしかの古(ヘ)に雷岳といひしも、此社の地にはあらざるか、
〇後釋、飛鳥の神奈備は、神名帳に、高市(ノ)郡飛鳥(ニ)坐(ス)神社四座、【並名神、大、月次相嘗新嘗、】とある是也、此社の古(ヘ)の地は、今雷村といふ所にて、そのあたりにひきゝ山のある、これ即神奈備山也、雷(ノ)岳といひしも此山也、然るに天長六年三月に、神の託宣によりて、此社を、同郡|鳥形《トリカタ》山といふに遷されしよし、日本紀略に見えたり、然れば今の飛鳥(ノ)社の地は、鳥形山にて、古の神なび山にはあらず、神なび山は、雷村の山なること疑ひなし、然るを世の人、これをさだかならざるがごとく思ひ、考にもうたがはしげにいはれたるは、今の社の地は、かの天長に遷されたる所なることを、考へもらされたる故ぞかし、さて此飛鳥(ノ)神社は、事代主(ノ)神を主《ムネ》と祀《マツ》れり、賀夜奈流美(ノ)命を祭れる社にはあらず、加夜奈留美(ノ)命(ノ)神社は、式に同郡に別に有て、弘仁十三年の官符にも、賀産鳴比女《カヤナルヒメノ》社とありて、飛鳥(ノ)神の裔神と見えたり、又事代主(ノ)命の神社は、此飛鳥の外にも、高市(ノ)御縣葛城(ノ)鴨などにはあれども、宇奈提《ウナデ》にあることは、物に見えたることなし、然るをこゝに事代主(ノ)命を宇奈提といひ、賀夜奈流美(ノ)命を飛鳥といへるは、二方ともに所たがへり、故(レ)つら/\思ふに、こゝの文は、事代主(ノ)命|能《ノ》御魂|乎《ヲ》飛鳥|乃《ノ》神奈備|爾《ニ》坐《マセ》、賀夜奈流芙(ノ)命|能《ノ》御魂|乎《ヲ》宇奈提|爾《ニ》坐天《マセテ》と、有けるが、中ごろ誤りて、飛鳥と宇奈提と入(リ)まがひたるものなりけり、右の如くなるときは、いづれもよくかなひて、二方ともに、いさゝかも疑はしきことなきを、されば宇奈提は、即(チ)式の加夜奈留美(ノ)命(ノ)神社にて、萬葉に卯名手《ウナデ》の杜とよめるも是也、今の雲梯《ウナデ》村のあたりなるべし、然るを或説に、此社を、今|栢森《カヤモリ》村に在(リ)といへるは、いかゞあらむ、所たがひておぼゆ、さてこゝに、宇奈提の下にのみ、神奈備てふことのなきは、落たるにはあらず、此社は、かの高鴨又飛鳥などの如き大社にあらざる故に、神奈備とはいはざりしなるべし、萬葉の歌などにも、神なびとは、もはら飛鳥にこそよめれ、他《コト》社によめるは見えず、そも/\かの阿遲須伎高彦根(ノ)命、事代主(ノ)命は、大名持(ノ)命の多くの御子たちの中にも、殊に名高くして、勢ひすぐれ給へる神なりし故に、倭(ノ)國にてその御社も、皆名神大社にて、月次相嘗新嘗にも預り給ふを、賀夜奈流姜(ノ)命は、さしも聞えぬ神なる故に、式にも小社の列也、これらを以ても、こゝの文は、入(リ)まがひの誤りなることいちじるし、
 
皇御孫命 能 近守神 登 貢置 天《スメミマノミコトノチカキマモリガミトタテマツリオキテ》
 
考云、今本には、御(ノ)字を落せり、今補ひつ、さて此文、こゝに近き守とて、三輪葛城宇奈提飛鳥を擧たるに、すべての文の體を合せて思ふに、いよゝ上にもいへる如く、飛鳥岡本(ノ)宮のころ書るならむとおぼゆ、其中に文の意よりは、文字のいさゝか後ならむと見ゆるがあるは、もとは多く假字なりしを、後に書かへたるか、
〇後釋、近守とは、皇京の同じ大倭の國内なるを以て也、然るを考に、これを飛鳥岡本宮のころの文なる證にいはれたるは、さらにあたらぬこと也、同じ倭の國内にて、いさゝかの遠き近きをもていふべきにあらず、もししひてしかいはば、葛城などは、さしも飛鳥に近き所にはあらざるをや、
 
八百丹杵築宮 爾 靜坐 支《ヤホニキヅキノミヤニシヅマリマシキ》
 
考云、大名持(ノ)命の荒御魂の、出雲國の杵築(ノ)宮に靜(リ)坐せる事は、他書どもにも見えたるがごとし、八百丹とは、多くの土をいひ、そを杵して築くといひかけたる冠辭也、是まで一段なり、
〇後釋、此宮に鎭(リ)座(ス)が、荒御魂也といふことは、いづれの書にも見えたることなし、杵築といふ名のよしは、風土記に、八束水臣津野《ヤツカミヅオミツヌノ》命(ノ)之、國引《クニヒキ》給(ヘル)之後、所2造《ツクラシシ》天(ノ)下1大神(ノ)之宮|將《シ》v奉《ツカヘマツラムト》弖《テ》、諸(ノ)皇神等參集(リテ)、宮處|杵築《キツキタマヒキ》、故(レ)云2寸付《キヅキト》1、神龜元年改(ム)2字(ヲ)杵築(ト)1と有(リ)、
 
是 爾 親神魯伎神魯美命宣 久《ココニムツカムロギカムロミノミコトノノリタマハク》
 
考云、例にもより、唱への調(ベ)にもよるに、こゝは親の上に皇の字の落たる也、故(レ)今補ふ、
〇後釋、考に、皇(ノ)字を補はれたるはわろし、こゝは皇親といひては、中々によろしからず、皇といはぬも、例あること也、孝徳紀に、今我親神祖之《イマアガムツカムロギノ》とも見えたり、
 
汝天穗比命 波 天皇命 能 手長大御世 乎 堅石 爾 常石 爾 伊波比奉伊賀志 乃 御世 爾 佐伎波閇奉 登 仰賜 志 次 乃 髓 爾《イマシアメノホヒノミコトハスメラミコトノタナガノオホミヨヲカキハニトキハニイハヒマツリイカシノミヨニサキハヘマツレトオホセタマヒシツイデノマニマニ》
 
考云、かの大名持(ノ)命の祭をなさむ者は、穗日(ノ)命と詔ひしは、大名持(ノ)命をいつき祭り、且(ツ)御孫(ノ)命の御代をも、速く祈奉らしめむためなること、こゝにてしらる、仰《オホセ》は命に同じ、次《ツイデ》は、穗日(ノ)命熊野(ノ)命より次々の國造也、
〇後釋、仰《オホセ》は、負せと同言にして、其事を負持《オヒモタ》しむるよし也、此言すべて其意なり、
 
供齋《イハヒコト》【若(シ)後(ノ)齋(ノ)時(ナラ)者《バ》加(フ)2後(ノ)字(ヲ)1】 仕奉 ※[氏/一] 朝日 乃 豐榮登 爾 神 乃 禮自利臣 能 禮自 登《ツカヘマツリテアサヒノトヨサカノボリニカミノヰヤジリオミノヰヤジト》
 
考云、神乃禮自利は、穗日(ノ)命より次々の神たちの禮代也、臣能禮自は、國造が禮代也、利《リ》を略けるは、唱ふる調《シラベ》のためなるべし、
〇同頭書云、禮自利は、上に禮代《ヰヤジロ》と書るにて、およそは聞ゆ、そを自利《ジリ》といふは、留志《ルシ》の約|利《リ》にて、禮の志留志《シルシ》といふこと也
〇遣唐使(ノ)時奉幣(ノ)祝詞の考(ニ)云、禮代は、次の神賀詞に、神(ノ)禮自利臣(ノ)禮自と見え、續日本紀の、伊勢大神宮に奉り給ふ御詞にも、禮代の大幣《オホミテグラ》と有、其外にも見ゆ、爲夜《ヰヤ》は、ゐやまひかへり申すこと、代は、その奉る物資《モノシロ》也、古事記安康(ノ)段に、盗2取其(ノ)禮物(ノ)之玉(ヲ)1、崇神天皇紀に、取(テ)2倭(ノ)香山(ノ)土(ヲ)1裹(テ)2領巾頭一《ヒレノハシニノ》1祈《ノミテ》曰(テ)2是《コハ》倭(ノ)國(ノ)|物實《モノシロ》1反之《カヘリヌ》、物録此云2望能志呂《モノシロト》1とあり、さて此紀の訓注よりも此詞は古(ル)ければ、自利とあるに依て訓べし、自《ジ》を濁るは言便也、
〇後釋、こゝの禮自利は、穗日(ノ)命より始めて、次々の出雲氏の神たち、又國造の、皇朝に獻る禮代なり、
 
御祷 乃 神寶獻 良久登 奏《ミホギノカムタカラタテマツラクトマヲス》
 
考云、かく申(シ)て、次々に其獻物をたとへとして、御賀《ミホギコト》を申す也、文の次第のよろしきこと、心をつくべし、さて此獻物の品々は、日照(ノ)命の天より持降(リ)來し神寶をうつせるにて、又かの丹波の兒のいへる詞と、おぼろ/\かなふこともあらむかとおぼしきによりて、其事も上に引たるなり、
 
白玉 能 大御白髪坐《シラタマノオホミシラガマシ》
 
考云、御年いと高き時の御白髪を先(ヅ)いひて、次に御若《ミワカ》え坐(シ)といふに合せたり、
〇後釋、考の説ほ事過て、中々にたがへり、こはたゞ御白髪|生《オヒ》給ふまで、御命長くましまさむといふのみ也、御若《ミワカ》えに合せたる意はなし、
 
赤玉 能 御阿加良毘坐《アカダマノミアカラヒマシ》
 
考云、御病などおはしまさず、大御顔の榮えます色をたとへたり、上の水分の祭(ノ)詞に、赤丹穗《アカニノホ》に聞し食といへると同じ、
〇後釋、他の祝詞などに、豐明爾明坐《トヲノアカリニアカリマサム》とあるも、明は借字にて、同意也、あからひは、あかりを延たる詞にて、赤《アカ》らむといふに同じ、
 
青玉 能 水江玉 乃 行相 爾《アヲタマノミヅノエタマノユキアヒニ》
 
考云、水江は借字にて、稚枝也、萬葉十三に、五十槻枝丹水枝指《イツキノエダニミヅエサシ》とあり、此外若きをみづといふこと、冠辭考にいへるが如し、江は枝(ノ)字を誤れるにも有べし、さてこゝの意は、かの式にいへる四十四の青玉を、緒に貫連ねたらむは、木の稚枝の如く、青くみづ/\しくみゆべし、又そをわがねたるをもて、行相といひて、天皇の天の下をすべめぐらして、しろしめすにたとへたり、仲哀天皇紀に、筑紫の五十迹手《イトテ》が、物を賢木の枝につけて獻る所に、上枝(ニ)挂《カケ》2八尺瓊(ヲ)1、中枝(ニ)瓊2白銅鏡(ヲ)1、下枝(ニ)挂2十握劔(ヲ)1云々、奏云、臣所3以(ハ)獻(ル)2此物(ヲ)1者、天皇如2八尺瓊(ノ)之|勾《マガレル》1、以|曲妙御宇《ツバラカニアメノシタシロシメシ》、且《マタ》如2白銅鏡1、以|分明《マサヤカニ》看2行《ミソナハシ》山川海原(ヲ)1、乃|提《トリマシテ》2是(ノ)八握劔(ヲ)1、平(ゲタマヘ)2天(ノ)下(ヲ)1矣、とある語のひとしきを思ふに、ともに、いと上つ代より傳はれる稱辭《タタヘコト》の有しをとりて、事につけてかくさまにいへるなるべし、
〇同頭書云、八尺(ノ)勾瓊とは、彌十量《イヤソバカリ》の長き緒に、多くの玉を貫て、輪になせるをいへること、此仲哀紀と、こゝの詞とを合せてしらる、一玉の勾れるをいふにあらず、然るを近年諸國に古き墓をひらきて、いさゝか勾れる玉を得ること有(リ)、そを勾玉と思へる人あれど、こゝに行相にといひ、仲哀紀に如2八尺瓊(ノ)之勾(ルル)1といへる、共に天下をすべめぐらし知しめす譬(ヘ)なるに、一玉の勾れるにてはかなはず、かのいさゝか勾れる玉は、長さ曲尺の一寸ばかり、太《フト》き所のわたり三分ばかりあり、又管にしたる有、そは長さ六分ばかり、口のわたり二分あまりあり、何れも自赤青あり、その勾れるは、刀して作り、管なるは、吹たる物也、これらも古しといへども、天皇の用ひ給ひしは眞玉にて、是とは異なるべし、又神代に、彦火々出見(ノ)命の御裝の玉は白玉也けむ、御衣より始めて玉も、白きを用ひ給ふが古(ヘ)也、然ればこゝに白赤青と三色を獻るは、御料にはあらじ、〇後釋、水は考の説の如し、江は借字にて、可愛玉《エタマ》也、行相とは、緒に貫たる玉と玉と、相並び着《ツキ》たる所をいふ、鵲《カサギ》の行相の間などいふと同じ、たとへたる意は、此玉どもの相つらなりて、並び着《ツキ》たるさまの、よくとゝのひて、亂れざるが如くに、天の下をとゝのへ治め給ふよしなり、考に、木のみづ枝のごとく見ゆるよしにいはれたれど、然見えむからに、おしてみづ枝といはむこといかゞ、又行相を、わがねたるを以ていふとあるもかなはず、行相とは、必しも行めぐりてあふことにはあらず、かの鵲にても知べし、さればたとへたる意も、天下をすべめぐらしてといはれたるは、あたらぬこと也、仲哀紀にいへるも、其意の譬(ヘ)にはあらず、かれは勾玉の形の妙《タヘ》なるが如く、妙《タヘ》に天下をしろしめせといふこと也、妙を曲妙と書れたるは、撰者の例のさかしらにて、たゞ上の勾(ノ)字と相照したる、文字のうへの事のみにこそあれ、曲妙といふに、まがれる意はなきことぞ、此字などに惑《マド》ふことなかれ、又頭書に、八尺勾玉《ヤサカノマガタマ》といふことを、多くの玉を緒に貫て、輪にしたるをいふ名也といひて、こゝに引合されたるもかなはず、八尺の勾玉といふは、多くの玉をすべたるうへの名にはあらず、一玉のうへの名也、書紀の垂仁(ノ)卷に、狢《ムジナ》の腹に、八尺瓊(ノ)曲玉の有しこと見えたり、緒に貫て輪にしたる玉は、獣の腹(ノ)内に有べきよしなし、これにても一玉をいふことしるし、そのうへ緒に貫たる玉は、いつも必(ズ)輸にするに定まりたることも有まじきに、たま/\輪にしたる所を以て名《ナヅ》けむは、いと物遠し、天照大御神の御鬘《ミカヅラ》などにも、八尺(ノ)勾玉を纏《マカ》せるよしある、これらは長く垂《タレ》給へりとこそ聞えたれ、御頭の餝《カザリ》を、輪にはし給ふべきにあらず、さて八尺八坂など書るはみな借字にて、八は彌の意、尺《サカ》は佐明《サアカ》也、まづ玉に明《アカ》といふことは、いふもさらなれど、羽明玉《ハアカルタマ》櫛明玉《クシアカルタマ》などいふ神(ノ)名も、玉によれること、神代紀を見て知べし、佐《サ》は、佐夜中《サヨナカ》、佐寐《サヌ》る、佐青《サヲ》、佐衣《サゴロモ》、佐莚《サムシロ》などの類の佐《サ》にて、こは佐禰《サネ》の略にて、眞《マ》といふと同じ、さ夜中は眞《マ》夜中、さ寐《ヌ》るは眞寐《マヌ》るにて、餘も皆同じ、これらを狹《サ》又|小《サ》の意と心得來れるは、ひがこと也、又|佐霧《サギリ》を、大祓(ノ)詞には御霧《ミギリ》とある御《ミ》はもとより眞《マ》と通へるを以て、佐《サ》も然ることを知べし、又|佐檜隈《サヒノクマ》といふも、眞熊野御吉野などいふと同例也、又|佐男鹿《サヲシカ》を、古事記には眞男鹿とあり、これらを以て、眞と同じきことを思ひ定むべし、さて勾玉《マガタマ》といふ名は、横井(ノ)千秋の考(ヘ)に、勾曲など書るは、例の借字にて、目赫玉《マカガタマ》也、古事記仲哀天皇(ノ)段に、目之炎耀種々珍賓《メノカガヤククサグサノタカラ》、書紀(ノ)同段にも、眼炎之金銀彩色《マカガヤクコガネシロカネウルハシキイロ》と見えたるに同じ、さればこは玉の世にうるはしきを、稱美《ホメタタヘ》たる名にて、まばゆきまで照(リ)かゞやくよし也、然るを昔よりたゞ、其形の曲れる故の名と心得來れるは、ひがこと也、形の曲りたるは、何のさばかりめでたきことかあらんといへり、此考へいと宜し、猶其説の委き事は、古事記傳十五の卷の追考に出せり、されば八尺(ノ)勾玉とは、彌眞明《イヤサアカ》の目赫玉《マカガタマ》といふことにて、一玉のうへの名也、かくて五百箇御統《イホツノミスマル》といへるぞ、それを多く貫連ねたるうへの名には有ける、
 
明御神 登 大八嶋國所知食天皇命 能 手長大御世 乎 御横刀廣 爾 誅堅 米《アキツミカミトオホヤシマクニシロシメススメラミコトノタナガノオホミヨヲミハカシヒロラニウチカタメ》
 
考云、右の提(テ)2十握劔(ヲ)1平2天下(ヲ)1といへると同じ、さてこは、御横刀の威をもて、廣誅堅といへる意は聞えたれど、いさゝか言たらはず聞ゆるは、廣の上に、眞の字落たるか、さらずとも、眞《マ》と御《ミ》は上によみつくる、常の事なれば、眞比呂《マヒロ》と訓べし、又かの押羽振可美御神は、此劔をいふならむか、
〇後釋、前後に擧たる種々の物、一(ツ)ごとにみな能《ノ》てふ辭あるを、こゝにのみなきは、刀の下に其字落たるか、又廣といふこと、大刀にも物遠く、打堅めにも似つかはしからざるはいかゞ、誤字ならむか、誅(ノ)字もいかゞなれど、こはさても有べし、こゝの詞は、かにかくに誤字脱字など有べくおぼゆ、かれつら/\考るに、御横刀 能 廉堅 爾 誅堅 米《ミハカシノカドカタラカニウチカタメ》など有けむを、廉を廣に誤り、堅(ノ)字を一(ツ)落せるにやあらむ、然いふ據は、萬葉六に、祈酒《サカホガヒノ》歌、燒大刀之加度打放大夫之祷豐御酒爾吾醉爾家里《ヤキダチノカドウチハナチマスヲヲノホグトヨミキニアレヱヒニケリ》、此初二句は、壽事《ホギコト》にするわざと聞えたれば、放は必(ズ)はなちと訓べし、今(ノ)本にはなつと訓るはひがこと也、猶思ふには、放は誤字にて、收《ヲサメ》なるべきか、さて此歌と、こゝの詞とを合せて思ふに、古(ヘ)壽事《ホヒコト》にかくの如くせしならひの有しならむ、されど大刀に加度《カド》といふ物は、何ならむ、もしは今いふ目釘《メクギ》などの事にもやあらむ、詳ならざれば、今廣を廉の誤とも、決てはいひがたし、故(レ)しばらく本のまゝにて有也、又打堅めとは、鍛冶《カヌチ》の大刀を打て、作る事をいへるかとも思へど、さてもなほ廣といふこといかゞ也、なほよく考へて定むべし、廣は比呂良爾《ヒロラニ》と訓べし、考にまひろと訓れたるはわろし、又かの提(テ)2十握劔(ヲ)1平2天(ノ)下(ヲ)1といへると、同じさまに解《トカ》れたるもたがへり、こゝは御横刀を用ひてといふ意はなし、手長(ノ)大御世を打堅めといふ語のつゞき也、又かの押羽振云々は、こゝにはさらに由なきこと也、
 
白御馬 能 前足爪後足爪蹈立事 波 大宮 能 内外御門柱 乎 上津石根 爾 踏堅 米 下津石根 爾 踏凝立《シロミマノマヘアシノツメシリヘアシノツメフミタツルコトハオホミヤノウチトノミカドノハシラヲウハツイハネニフミカタメシタツイハネニフミコラシ》
 
考云、下は底に同じ、
〇後釋、凝立の立(ノ)字は、志の誤りにて、小字なるべし、其故は、こゝの文は、馬の爪して、地をふむを以て、柱の根を蹈堅《フミカタ》むるよしにいへるにこそあれ、柱を立る事をいへるにあらず、柱立(ツ)るは、馬(ノ)爪にあづかることなければ、立《タテ》といふべきよしなければ也、上に柱をとはあれども文の意はたゞ柱根の地をふみ堅むるよしのみ也、さて上の堅《カタメ》にも、米《メノ》字を添たれば、凝《コラシ》にも、必(ズ)志(ノ)字あるべきこと也、
 
振立 流 事 波《フリタツルコトハ》
 
考云、耳をなり、
〇後釋、耳といはざるは、やがて次に耳能《ミミノ》とある故也、然るを或人、上の立(ノ)字を、耳の誤(リ)として、此上へ屬《ツケ》たるはひがこと也、さては言重なりて、中々につたなし、次なる耳能《ミミノ》は、此馬(ノ)之耳の如くといふ意也、
 
耳 能 爾高 爾 天下 乎 所知食 左牟 事志太米《ミミノイヤタカニアメノシタヲシロシメサムコトノシタメ》
 
考云、大祓に馬を引立るは、天地の神たちの、耳|疾《ト》く祓の詞を聞給ふに取(リ)、こゝは天皇の、天(ノ)下の事を、御耳はやく聞しめすべき物實《モノシロ》とせり、馬は勝《スグ》れて耳とき物なれば也、さてその耳疾きを、耳高といへり、目の疾きを、目高しといふに同じ、志は誌なり、志留志《シルシ》と訓べし、こは上の禮自利《ヰヤジリ》の所にいへる如くにて、代實などの字をも書べけれど、しるしと訓むために、志(ノ)字は書るか、又|留志《ルシ》の二字の落たるにも有べし、
〇後釋、馬の耳は、高く立(テ)る物なる故に、彌高《イヤタカ》といふ也、大祓(ノ)詞に、高天(ノ)原|爾《ニ》耳振立とあるも、高天(ノ)原爾千木高知といふと同じくて、高きよし也、さてかの大祓にては、神たちの疾《ト》く聞給ふ表《シルシ》にいへるを、こゝは疾《ト》く聞しめすよしにはあらず、たゞ彌高《イヤタカ》といはむ料のみにて、此馬の耳の高きが如くにといへる也、さて天皇の天の下しろしめすを彌高《イヤタカ》にといふは 御代のいやます/\に隆盛《サカリ》なるよし也、萬葉に、高殿|乎《ヲ》高知|座而《マシテ》など多くあるも、宮殿にかけて、盛《サカリ》にしろしめす事をいへる也、六の卷に、吾大王|乃高敷爲日本國者《ノタカシカスヤマトノクニハ》など、宮といはでもいへるにて知べし、もし考の説の如く、御耳とく聞しめす意ならば、かの大祓詞に、聞物止《キクモノト》とあるごとく、こゝも天(ノ)下|乎所聞食牟《ヲキコシメサム》とこそ有べけれ、所知食《シロシメサ》むにてはかなはず、志太米《シタメ》は、下見《シタミ》えにて、その下形《シタカタ》の顯はれ見えたるをいふ、今(ノ)世の言にも、下地下づくろひなど、すべて物の基、かねてのまうけを、下某《シタナニ》また某下《ナニシタ》といふこと多し、下形《シタカタ》とは雅言にもいへり、さて見えを米《メ》といふはつね也、考に、志の下に、小字の乃《ノ》を加へて、しるしのためと訓れたれど、しるしに志(ノ)字を書べくもあらず、此文の字の書ざまに違へり、又しるしのためとはいふべき語にあらず、しるしならばただしるしにてこそあらめ、ためはいと拙し、
 
白鵠 乃 生御調 能 玩物 登《シラトリノイキミツギノモテアソビモノト》
 
考云、鵠は、古(ヘ)は久々比《クグヒ》といひ、後(ノ)世には白鳥《ハクテウ》といひて、白く大きなる水鳥也、さてこゝは、志呂伎久々比《シロキクグヒ》とも訓べけれど、すべて他色《アダシイロ》なるもあるをこそ、しろき何とはいへ、たゞ白きのみなるをば、しら鷺しら雪などいふ例也、されどしらくゞひと訓むもいかゞ也、又白の字を捨て、たゞくゞひとよまむも、此文の字を用ひたる例に違へり、然るに紀に白鳥《シラトリ》とあるは、皆此くゞひの事とおばしきよし有(ル)を、後世にも白鳥《ハクテウ》といふは是なれば、こゝも志良登利《シラトリ》と訓べき也、そを後世の俗は、字音にはくてうと呼(ブ)也、かくて久々比《クグヒ》に鵠(ノ)字はあたらず、鸛(ノ)字ぞあたれる、然るに古(ヘ)より鵠(ノ)字を用ひ來れるに依て、くゞひは白鳥《ハクテウ》にはあらず、古布《コフ》といふ鳥の事也と思ふ人あれど、古き神樂歌に、美奈止太爾久々比也門乎利止呂知奈也《ミナトヨリクグヒヤツヲリトロチナヤ》といへり、古布《コフ》の鳥は、たゞ雌雄のみ居る物なればかなはず、くゞひは群居る故に、八(ツ)をりといへり、又|止呂知奈也《トロチナヤ》は、鳥を取る黐《モチ》なしといへる也、古布《コフ》は、食ふべからず、玩ぶべからぬ鳥なれば、黐《モチ》して取(ル)ことをいふべきにあらず、然ればかの久々比も、白鳥《ハクテウ》なること知べし、出雲風土記に恵曇《ヱトモ》池に、白鵠鴻雁と、水鳥の類に擧たるをも思ふべし、さて鵠(ノ)字はあたらざれども、此字には意をよせず、言をむねとしてとくべき也、生とは、生《イキ》ながら籠にこめて、御玩に獻る故にいへり、故(レ)儀式にも、式にも、垂v軒と注せり、さて伊久《イク》と訓(ム)は、伊氣留《イケル》の氣留《ケル》を約めて久《ク》といふ也、
〇同頭書云、和名抄に、鵠(ハ)古布《コフ》私記(ニ))久々比《クグヒ》とあるは、字音に依て古布《コフ》といひ又久々比ともいへるは、分ちなし、此二(ツ)をえわきまへざりしならむ、又云、生を今本になまと訓たり、物のいまだよく熟《ナラ》ぬをこそなまとはいへ、こゝをいかに心得つらむ、
〇後釋、鵠(ノ)字を、本に鵲とあるは誤也、考に改めて書れたるよろし、此鳥の事、すべて考の説のごとし、但し鵠(ノ)字は久々比にあたらず、鸛(ノ)字あたれりといはれたるは、返てたがへり、鵠(ノ)字、即今いふ白鳥《ハクテウ》にて、久々比によくあたれり、鸛は古布《コフ》にて、今も古布《コフ》といふ鳥也、此事昔よりまぎれつること多し、和名抄に、鸛を於保止利《オホトリ》とあるはあたれるを、鵠を古布《コフ》とあるはあたらず、生は、伊伎《イキ》と訓べし、伊久《イク》といひては事たがへり、かの生日《イクヒ》生《イク》弓矢などの生は、生《イク》べき意なる故に、伊久《イク》なるを、こゝは其意にはあらず、生《イキ》たるをいふなれば伊伎《イキ》也、すべて生《イキ》たる物をば皆、伊伎某《イキナニ》といふ例なるぞかし、然るを考に、伊久と訓て、伊氣留《イケル》の約也といはれたるは、いと/\みだり也、言の延約《ノベツヅメ》も事にこそよれ、伊氣流《イケル》を約めて伊久《イク》といふことはなし、伊久《イク》といふと、伊氣流《イケル》といふとは、意異なるを、然一(ツ)になしては、すべて言のはたらきのわいためなく、言靈《コトタマ》の徳《ヒカリ》をうしなふわざぞかし、そのうへこゝは、伊久とは訓まじきこと、右にいへるがごとし、式に垂軒と注したる垂(ノ)字は、乘の誤にて、輿《コシ》の如き物に乘《ノ》するをいふ、軒は車なれども、これは輪ありて挽《ヒ》く車にはあらじ、舁《カク》物なるべし、さてこの鵠を獻る事は、本牟智別《ホムチワケノ》命の故事に依て也と、或人のいへる、さもあるべきこと也、かの命は、垂仁天皇の御子にて、鵠の事、古事記書紀の其御段に見えたり、
 
倭文 能 大御心 毛 多親 爾《シヅノオホミココロモタシニ》
 
考云、多(ノ)字は、必(ズ)誤なるを、其字年ごろ思ひ得がたかりしを、今思ふに、皇の字を草にかけるを誤れるにて、皇親《スメムツ》なりけり、しかいふ意は、倭文を下の意にとりて、靜《シヅ》まりませる下つ御心に、天(ノ)下の貴き賤き人どもを、なべて御むつましくおぼすしるしといへる也、こはかの靜挂甘美御魂といへるによしあるか、さて倭文《シヅ》は、皇朝の上つ代の布にて、式のころまでも有し物也、青筋のある麻布なりけむ事など、冠辭考にくはしくいへり、
〇同頭書云、今本に多親爾と書て、たしにと訓るは、何の心とも聞えず、親(ノ)字も、假字に用ふべくもあらず、例もなし、
〇後釋、倭文能《シヅノ》は、白玉|能《ノ》赤玉|能《ノ》耳能《ミミノ》などいへると同じ例にて、倭文の如くといふ意也、倭文の大御心とつゞく語にはあらず、多親爾は、親(ノ)字を假字に用ひたることは、例もなくいかゞに聞ゆれども、多志爾《タシニ》といふ言古く有て、こゝによく叶へり、古事記允恭(ノ)段の歌に、佐々婆爾宇都夜阿良禮能多志陀志爾韋泥弖牟《ササバニウツヤアラレノタシダシニヰネテム》云々、雄略(ノ)段の歌に、多斯美陀氣多斯爾波葦泥受《タシミダケタシニハヰネズ》、出雲風土記嶋根(ノ)郡|手染《タシミノ》郷の下に、此(ノ)國(ハ)者|丁寧所造國在《タシニツクレルクニナリト》詔(ヒキ)、而故(レ)丁寧《タシト》負(セ)給(ヒキ)、而今(ノ)人誤(テ)手染《タシミト》云(フ)耳、この丁寧も、たしにと訓べし、然らざれば手染《タシミ》に縁なし、萬葉十二に、慥使乎《タシカナルツカヒヲ》云々などあり、多志爾《タシニ》は慥《タシカ》に也、さて倭文にいへる意は、かの布の筋の、鮮《アザヤカ》に慥《タシカ》に、分れとほりたる如くに、天皇の大御心、たしやかにましませとなり、又一(ツ)思ふに、多(ノ)字は、和の誤(リ)ならむか、〓《ワ》と〓《タ》と草書よく似たり、萬葉一にも、多豆伎《タヅキ》を和豆伎《ワヅキ》と誤れる例あり、さて和親は那碁夜《ナゴヤ》と訓べし、夜《ヤ》に親(ノ)字を書るは、かの黒益《クロマシ》の益のたぐひの借字にて、於夜《オヤ》の訓をとれる、その於《オ》は、那碁《ナゴ》の碁《ゴ》のひゞきにあるなり、そは麻都羅《マツラ》を松浦と書(ク)たぐひにて、猶例多し、さて茄碁夜《ナゴヤ》)には、和《ナゴ》やかに也、古事記上卷(ノ)歌に、牟斯夫須麻爾古夜賀斯多爾《ムシブスマニコヤガシタニ》、萬葉四に、蒸被奈胡也我下丹《ムシブスマナゴヤガシタニ》などあり、かくて倭文《シヅ》は、古(ヘ)によき布なる故に、和《ナゴ》やかなる事にいへる也、さて思ふに、上の鵠を、玩物|登《ト》といひさして、其語を竟《ヲヘ》ざるは、こゝまで意つゞきて、かの鵠を玩び給ひて、大御心をも和《ナグ》さめませといへるにぞあらむ、倭文は、冠辭考にいはれたるごとく、古(ヘ)のよき布にて、筋を織たる物也、志豆《シヅ》とは、即|須遲《スヂ》といふことなるべし、今いふ嶋織也、これを鳴といふは、狹間《セマ》也、然いふ意は、古(ヘ)のは、筋の間の大にあらかりけむを、後には、そを細くこまかに織たるも出來て、それを分て狹間織《セマオリ》といひしが、又後には、古(ヘ)のあらきはすたれて、その狹間織のみひろまれるから、つひに筋繊の惣名とはなれるなるべし、考に倭文を青筋ある布といはれたれど、筋の色は、青にはかぎるべからず、かの釋日本紀にいへるは、たま/\青筋なるがのこれりしなるべし、考に、多親を皇親とせられたるは、むげに聞えぬこと也、皇親といふことを、いかに心得られたるにか、かへす/\心得ず、天下の人をむつましくおぼしめす事を、皇現《スメムツ》にとはいかでかいふべき、又たしにと訓るを、何の心とも聞えずとは、右の古事記の歌どもなどをば、わすれられたるにや、又倭文|能《ノ》を、大御心といふへつゞけて、靜まりませる下つ御心といはれたる、一(ツ)の志豆《シヅ》てふ言を、靜まりと下《シタ》と二(ツ)意に用ひられたるもいかゞ、右にいへるごとく、倭文|能《ノ》は、倭文の如くといふ意なるを、大御心へつゞけて、靜《シヅ》まれる大御心下つ御心などいひては、他の白玉|能《ノ》赤玉|能《ノ》などの例にも違ひ、又天下の人を親《ムツマ》しくおぼす事をいはむには、たゞ大御心にてこそよからめ、靜まりませる下つ御心は用なきをや、又靜挂甘美御魂も、こゝにはさらに由なし、
 
彼方 能 古川席此万 能 古川席 爾 生立《ヲチノフルカハギシコチノフルカハギシニオヒタテル》
 
考云、今本に、二(ツ)ながら古川席とあるは、何の事とも聞えず、席の字は、原を誤れることしるけれは、然改めつ、又生立と有て、おひたてると訓るも誤也、下に生《イフ》るといふべき物も、立るといふべき物もなければ也、然れば生は那利《ナリ》と訓て、水底にこりなれる土也、立は出の誤にて、出《イヅル》は、生《ナル》といふにつきて、おのづから添たる言也、
〇同頭書云、紀に川上をかはらとも訓たれば、こゝの川原は、たゞ川といふことなり、
〇後釋、本に彼方《ヲチ》の下の能(ノ)字はなきを、今は考の本に加へられたるに依れり、此方《コチ》の下には此字あれば也、さて考に、席(ノ)字を誤(リ)として、改められたる、原もさることなれども、猶思ふに、岸の誤(リ)ならむとぞおぼゆる、字の形も、原よりは今少しよく似たり、又|彼方此方《ヲチコチ》といへるも、川原にては、少し用なく聞ゆるを、岸にてよくかなへり、古川の彼方此方《アナタコナタ》の岸といふことなるを、文に、古川を二(ツ)に分てはいへる也、生立《オヒタテル》をも、考には生出《ナリイヅル》と改められたれど、こは本のまゝよろしかるべし、これらの事、猶次に委くいふべし、
 
若水沼間 能《ワカクルスノ》
 
考云、こは川の底に凝《コリ》なれる泥をいへる也、何ぞといはば、古事記の、大名持命を媚敬ひて、御饗奉る語の中に、水戸(ノ)神(ノ)之孫|櫛入玉《クシリタマノ》神爲2膳夫《カシハデト》1云々、化《ナリテ》v鵜(ト)入(リ)2海(ノ)底(ニ)1咋2出《クヒイダシ》底之(ノ)波邇《ハニヲ》1作(リテ)2八十|毘良迦《ビラカヲ》1而云々、出雲風土記仁多(ノ)郡|御津《ミツノ》郷の所に、大名持命の御子あぢすき高彦(ノ)命、晝夜|哭坐辭不通《ネナキマシコトトヒタマハザル》ときに、夢の告によりて、御津川へおはせし事有て、其(ノ)津(ノ)水泥祓而御身沐浴坐《ミヌマハラヘテミミソギシマシキ》、故(レ)國造(ガ)神(ノ)吉事奏《ヨゴトマヲシニ》參2向《マヰルトキ》朝廷(ニ)1、取(テ)2其水海(ノ)士《ハニヲ》1而用2土物《ハジモノニ》1也といへり、此二(ツ)を合せみるに、こゝは御贄の具の瓮坏〓などの類の土物《ハジモノ》を造る泥を、かく若水沼間《ワカミヌマ》といひて、御若《ミワカ》やぎますといふ賀言《ホギコト》に用(ヒ)たる也、若《ワカ》とは、古(ヘ)物をほめいふ言にて、稚室《ワカムロ》ともいへれば、土《ハニ》にもいひつべきなり、
〇後釋、この水沼間《ミヌマ》は、いと/\心得ず、其故は、生立《オヒタテル》といひ、若《ワカ》といひ、彌若叡《イヤワカエ》といへるは、必(ズ)草木とこそ聞えたれ、沼間《ヌマ》は若叡《ワカエ》といふべき物にあらず、たとひ若水沼間《ワカミヌマ》とはいふとも、その若《ワカ》は、たゞほめて添(ヘ)たるのみにこそあれ、然添(ヘ)たるのみの言にかゝりて御若叡坐《ミワカエマス》の譬(ヘ)には取(リ)がたし、必(ズ)まことに若《ワカ》ゆる物ならでは、かなはぬ事也、上に擧たる種々の物の例をも思ふべし、いづれも皆、其物の色形、あるは其事を取てこそ、たとへとはしたれ、さればこゝは必(ズ)川のべに生《オフ》る草木の名にて、獻る御贄《ミニヘ》の中の物なるべきを、其字の誤れるか、文の亂れたるなどなるべし、故(レ)思ふに、もしくは若久留須 能《ワカクルスノ》なりけむを、久《ク》を水に、留《ル》を間に、須《ス》を沼《ス》に誤れるを、後に又さかしらに、その間沼を下上に置かへて、水沼間とはなせる歟、かく云故は、語のつゞき、古事記の雄略天皇の大御歌に、比氣多能《ヒケタノ》、和加久流須婆良《ワカクルスバラ》、和加久閇爾《ワカクヘニ》、とよませ給へる例あり、さて獻る御贅の中に、栗もあるにつきての祝詞《ホギコト》ならむかと思へば也、栗楢《クルス》は栗林也、右のごとく思ひよれるまゝに、姑く久留須《クルス》と訓つ、されど定めてはいひがたし、なほよく考ふべき也、考に、古事記風土記を引て、土物を造る泥也とせられたれど、もし然らば、埴《ハニ》などこそいふべけれ、沼間《ヌマ》とはいかでかいはむ、そのうへ御贄の器ならば、たゞにその器をこそいひもすべけれ、それ造る土の事のみをいふべきにはあらず、そはいと物遠きこと也、又引れたる風土記の文も、いたく違へり、かの文には、水泥祓といふことも、水海(ノ)土といふことも、土物といふことも見えず、すべて泥の事は見えたることなし、然るをこゝの詞を、土物の泥也といふに、強《シヒ》てかなへむとて、字を多く改められたるは、いかにぞや、今數本を考るに、かの文は、爾《ソノ》時(ニ)其(ノ)津の水|治出而御身沐浴坐《クミイデテミミソギマシキ》故(レ)國(ノ)造(ノ)神吉事奏《カムヨゴトマヲシニ》參2向《マヰル》朝廷(ニ)1時其(ノ)水|治出《クミイデテ》而用(ヒ)初也《ソムルナリ》とこそあれ、このうち、治出の治(ノ)字は、一本に活ともあれば、泥の誤(リ)ともいふべけれど、さては文の意聞えず、又御身沐浴とあるにも、泥はかなはず、水なることしるし、されば治(ノ)字は、二(ツ)ともに汲《クミオ》の誤也、次なるは其水の上に、取(ノ)字一本にあれども、なき本多し、又初(ノ)字は、一本に物ともあれど、さては聞えず、土物とある本はなし、其(ノ)水を用(ヒ)初《ソム》といふことは、今の世に至るまでも、國造(ノ)家に、神火神水といふことあるなどをも思ふべし、かゝれば右の文、さらに土泥の事にあらず、たゞ水の事也、さて此水の事は、猶次にいふべし、
 
彌若叡 爾 御若叡坐《イヤワカエニミワカエマシ》
 
考云、わかえとは、和加也伎《ワカヤギ》の約|伊《イ》なるを、衣《エ》に轉しいふ也、
〇後釋、わかえは、若《ワカ》やぎの古言也、古(ヘ)はわかえとのみいへり、それをわかやぎといふは、中昔よりの言也、然るを考に、わかやぎより轉りて、わかえといふごとく解《トカ》れたるは、本末たがへり、
 
須々伎振遠止美 乃 水 乃《ススギフルヲドミノミヅノ》
 
考云、須々伎振遠 登《ススギフリサクト》は、萬(ヅ)の惡き事を滌《スス》ぎて、放《サケ》やるをいふ、振《フリ》は辭也、美 乃は可美《ウマシ》といふと同じく、ほむる言也、
〇後釋、すゝぎふるは滌振《ススギフル》にて、振滌《フリススグ》といふに同じ、其内こゝは振《フル》といふ事重き故に、下におけり、振《フル》は動《ウゴ》かすをいひて、滌《スス》ぐさま也、遠止美《ヲドミ》は淀《ヨド》み也、今も此伊勢人などは、水のよどむをも、又事の盛りなるが弛《ユル》び靜まるをも、をどむといへり、さてかの出雲風土記なる、仁多(ノ)郡|三《ミ》津の水は、神代にめでたき由縁のある水なる故に、國造の此(ノ)齋《イハヒ》にも用ひ初ることなれば、御贄五十舁の内にもまじへて、此水を獻るなるべし、さる故に此言はあるならむ、かの三津は、斐《ヒ》の川に傍《ソヒ》たる郷にて、津はその河門《カハド》也、かくて滌《スス》ぎ振《フル》といふは、かの神代に、阿遲須伎《アヂスキ》高日子(ノ)命の御身|沐浴坐《ソソギマス》とあるにつきていへるにて、をどみの水とは、川にて、身にまれ物にまれ滌ぎ振れば、その勢ひにて、流るゝ水の淀《ヨド》みて、やゝ上《カミ》ざまへもさかのぼる故にいへり、又一(ツ)思ふに、美乃《ミノ》は、乃美《ノミ》を下上に誤れるにて、遠止乃芙水 乃《ヲドノミモヒノ》にてもあらむか、遠止《ヲド》は小門にて、かの三津の川|門《ド》をいふ、橘(ノ)小門などのごとし、もしかくの如く訓(ム)ときは、水を母比《モヒ》と訓べし、すべて水は、汲取《クミトリ》て物に用るをば、古(ヘ)は母比《モヒ》御母比《ミモヒ》といへり、主水《モヒトリ》御《ミ》もひも寒しなどの如し、但し何となき小門《ヲド》の水は、母比《モヒ》とはいふまじけれども、これは汲《クミ》取て、朝廷に獻るにつきてなれは、然いふべき也、右二(ツ)のうち、好む方をとるべし、
 
彌乎知 爾 御哀知坐《イヤヲチニミヲチマシ》
 
考云、水 之 禰 乎 知 爾《ミヅノネヲシルニ》とは、紀に根(ノ)國底(ノ)國といへる如、禰《ネ》は底と同じ、かくてこゝは、右に引る御津の水海(ニ)祓(ヘシテ)而御身|沐浴坐《ソソギマシ》しに依て、高彦(ノ)命の哭《ネナキ》も止《ヤ》み辭《ミコト》もとひ給ひし例によりて、獻る御贄物の中に、其所《ソコ》の水菜などもあるにつきて、此言はあるか、さて此上下皆獻物をもて賀《ホギ》申す中に、他《アダシ》物をまじへいふべからねば、古川といふよりこゝまでは、獻る御贄に依(リ)たる土物と水とを以て、その御贄物の凡を擧たるなるべし、然るに云々を知 爾《シルニ》といひて、次に其つゞきの言なきは、詞の落たる物也、そは次なる御表知坐《ミウヘシリマス》と、水 乃 禰 乎 知 爾《ミヅノネヲシルニ》と、事の對《ムカ》へれば、地の底より天の上までを、のこさずといふ意にやとも、助くべけれど、さても上の言ををへずては有べからず、
〇同頭書云、後世初春に若水といふことは、古(ヘ)は聞えず、又云、御贄五十舁【舁別十籠】とある、多くの中には、こゝによしある物あるべけれど、今知(リ)がたし、
〇後釋、こゝは本に、禰 乎 知 爾 御表知坐《ネヲシルニミウヘシリマス》とあるは、決て誤也、然るを考に、上なる美 乃 水 乃を、此上に屬《ツケ》、御表知坐を、次なる鏡へ屬《ツケ》て、本のまゝに訓れたる故に、言たらざれば、言の落たる也といはれたり、こは己(ル)もいと心得がたかりしを、猶よく思へば、言の落たるにはあらず、字の誤れるにて、禰は爾也、表は袁也けり、これらの字は、相誤れる例常に多し、かくの如くたゞ二字を改むれば、いとよく聞えて、語もよくとゝのへり、かくて乎知《ヲチ》とは、何《ナニ》にまれ初(メ)のかたへかへるをいふ言にて、老たる人の若《ワカ》がへるをもいへり、こゝはかの川水の、滌《スス》ぎ振《フ》る勢ひにて、淀《ヨド》みつゝ、上の方へやゝかへり/\するを、彌乎知《イヤヲチ》といひて、天皇のいやましに若《ワカ》がへり坐むことに申せる也、遠止《ヲド》を小門と見ても、此意は同じ事也、川水は、上より流れ來る物なる故に、上の方へかへるを、乎知《ヲチ》といへり、さて乎知《ヲチ》といへる言の例は、萬葉十七鷹の歌に、手放毛乎知母可夜須伎《タバナレモヲチカモヤスキ》、これは本の手へ歸るをいへり、同廿に、和我夜度爾佐家流奈弖之故麻比波勢牟由米波奈知流奈伊也乎知爾左家《ワガヤドニサケルナデシコマヒハセムユメハナチルナイヤヲチニサケ》、これは又はじめへかへり/\して咲《サ》けといへる也、又郭公などの歌に、をちかへり鳴(ク)とつねによむも、はじめ鳴し所へ、又かへり來て鳴(ク)をいふ也、さて又人の若《ワカ》がへることによめるは、萬葉五に、和我佐可理伊多久々多知奴久毛爾得夫久須利波武等母麻多遠知米也母《ワガサカリイタククダチヌクモニトブクスリハムトモマタヲチメヤモ》、いにしへのから國の仙藥を服《ハム》とも、又|若《ワカ》がへることはえあらじと也、久母爾得夫久須利波牟用波美也古彌婆伊夜之吉阿何微麻多越知奴倍之《クモニトブクスリハムヨハミヤコミバイヤシキアガミマタヲチヌベシ》、京を見たらば、又わかがへらむと也、又十三に、天橋文長雲鴨月夜見乃持有越水伊取來而公奉而越得之牟物《アマハシモナガクモガモツキヨミノモテルヲチミヅイトリキテキミニマツリテヲチエシムモノ》、こは己《オノ》が乎知《ヲチ》の考へに依て、或人のかく訓る也、此歌昔よりよく訓得たる人なかりしを、右の如くにていとよく聞えたり、越水《ヲチミヅ》は、人の飲て、若がへる水也、越(ノ)字は、音を借りて書るのみぞ、越得之牟物《ヲチエシムモノ》は、わかがへることを得さしめむ物をといふこと也、右の反歌に、云々|公之日異老落惜毛《キミガヒニケニオユラクヲシモ》とあるにて、越《ヲチ》は若がへるをいふこと、いよゝ明らけし、右の歌は、殊にこゝによくかなへる事也、さて年の始に若水とて汲《クム》も、飲て若がへるべき水と、祝へる名也、是も古(ヘ)より有し事なるべし、
 
麻蘇比 乃 大御鏡 乃 面 乎 意志波留志 天 見行事 能 己登 久《マソヒノオホミカガミノオモヲオシハルシテミソナハスコトノゴトク》
 
考云、麻蘇比《マソヒ》の蘇《ソ》は、須実《スミ》の約|志《シ》なるを、轉したるにて、眞澄日《マスミヒ》の鏡也、こは大日女(ノ)命の御像をうつせる物なれば、日といへり、又これは、かの出雲人の祭る、眞種之可美鏡といふに本づけるにや、さてこゝの鏡は、天つ日の御面の、天下を照すに譬《タト》へいひて、即今の天皇の御事にいひつけたる也、おしはるしは、押晴《オシハル》かし也、
〇後釋、鏡は、獻物の中の一種なる故に、譬へにいへるにて、おしはるして見そなはすことの如くとは、曇《クモリ》なき鏡の面を見給ふがごとくといへるにて、そのごとくに、天の下を明らかに看《ミ》そなはししろしめさむと也、考に、天つ日の御面の、天下を照すに譬ふといはれたるは、面乎《オモヲ》とあるにかなはず、右の説の如くならは、面乃《オモノ》といはでは聞えぬ言なり、こは上なる御表知坐《ミウヘシリマス》は、字の誤(リ)なるを、本のまゝに見て、天つ日の事と心得られたるから、そを此鏡へ係《カケ》て、しひてかくむつかしき説の出來たる也、天つ日にたとへたる意は、いさゝかもなし、たゞこの鏡を見給ふごとくと申せるのみなるをや、
 
明御神 能 大八嶋國 乎 天地日月 等 共 爾 安 久 平 久 知行 牟 事 能 志太米 止 御祷神寶 乎 ※[敬/手]持 ※[氏/一] 神禮自利臣禮自 登 恐 彌 恐 彌毛 天津次 能 神賀吉詞白賜 久登 奏《アキツミカミノオホヤシマクニヲアメツチツキヒトトモニヤスケクタヒラケクシロシメサムコトノシタメトミホギノカムタカラヲササゲモチテカミノイヤジリオミノイヤジトカシコミカシコミモアマツツイデノカムホギノヨゴトマヲシタマハクトマヲス》
 
考云、天津次《アマツツイデ》とは、穗日(ノ)命より始めて、次々に絶せず賀《ホギ》申すよし也、其賀詞、いと上つ代よりありけむを、上にもいへるごとく、今の此詞は、飛鳥(ノ)宮より上にあらず、見ゆるは、上つ代より唱へ來しが、違ひ失ぬる事も有しを、正し補ひて、岡本(ノ)宮の御時に、書つゞりつるならむ、其時のは、仮字書なりけむを、又後に字どもは、書政めなどぞしたりけむ、さて又今は、字誤り言落などして、解《トキ》がたき事多かるを、あまたの年月に考へて、かくまではしるせる也、いかでふるくよろしき本を得たらむ人あらば、猶よく正し給へ、これをかゞみとしてぞのりとごとを始めて、よろづの文をも書つべければ、よにたふとしともたふとき詞なりけり、
〇後釋、此詞は、まことにいと古くたふとく、古語《イニシヘコトバ》のいともめでたき物なるを、近きころまでは、世にとり見る人も、をさ/\なかりしを、吾師の大人の、殊にかくめでたふとはれしによりてぞ、世にあらはれて、人みなもたふとき物にはすなる、これも又いとたふとき功《イサヲ》にぞ有ける、
 
大前爾今母請弖奏賜倍《オホマヘニイマモマフシテマヲシタベ》
綾爾貴伎許禮乃吉詞乎《アヤニタフトキコレノヨゴトヲ》
 
       寛政八丙辰歳初秋
 
        尾張名古屋玉屋町
  書林      永楽屋東四郎
 
 
 大祓詞後釋
 
大祓詞後釋序
 
おほほらひは神代のふることを傳へて、天の下の青人草の罪けがれのまが事をはらひ清めて、世中の幸ひをもとむるおほやけの重きみわざにして、事とあるおりは四方の國にもおふせ給ひ、朝廷にしては年ごとに二たび百の官の大祓おこなはれきぬるを、今はその祝詞のみ世にのこりて、神わざにつかふまつれる家々のわざとなり、或は其詞のこゝろをとけるも、あだし國の道々の意をとりまじへて、あらぬさまにときなしつゝ、神代のたへなる心はうづもれはてぬるこそいとほいなけれ、こゝに伊勢國に本居宣長といふ翁有て、ふかくわが國の道を尊み、さる後の世のわたくしの説どもをすてて、もはらいにしへのふみのこゝろを尋ねあかし、數々の書をあらはし、此大祓の詞の註解をもなせるは、まことに國の名におふ神風の雲霧をいぶき拂ふ事のごとく、山/\の末よりさくなだりに落くだる瀧の如く、直くきよき神世のこゝろをときあらはして、あまねく諸人に神の道のたぐひなくたふときことをも此祓のたへなるむねをもさとらしむる梯となさんとして、同じくは此道のつかさうけ給はれるわが一言をそへんことをこふまゝに、かゝるめでたき大君の御世いやましにさかへましまさんことをあけくれにこひねぐこゝろは、もろともによろこびうべなひつゝ、みづから筆とりてはしがきを物しつ、
 
寛政七年十一月
                神祇伯資廷王 花押
 
大祓詞後釋上卷
                       本居宣長釋
 
此(ノ)祝詞《ノリト》は、あるが中にたふとく、古くめでたき文にしあれば、世の人みなの、尊み重《オモ》みして、もてあがめあふからに、註釋もいとあまた有なるを、おの/\いさゝかづゝの異《カハリ》はあれども、いづれも/\、いにしへのしわざ意詞をばしらずて、たゞ例の漢意《カラゴコロ》になづみ惑《マド》へる、己が心もて、みだりにときたる物なれば、一(ツ)も、古(ヘ)のまことにかなへるはなくなむ有ける、こゝに吾(ガ)師《マナビノオヤ》なりし縣居(ノ)大人は、いにしへを深く考へて、よの中のからごゝろのみだりごとを、よくわきまへ、古(ヘ)學をはじめいざなひ給へる、それよりぞ、世の物まなび人、やゝ後(ノ)世人の漢意の、古(ヘ)にかなはざることをば、さとりはじめける、かくてこの大人の、祝詞考とて、延喜式の八の卷なる、もろ/\ののりとごとを解《トカ》れたる、その中に、此大祓の祝詞の考(ヘ)もある、これぞまことに、古(ヘ)意にかなへる註さくには有ける、然れども此大人は、始めて古(ヘ)學の道は、開かれたることにしあれば、いまだ考(ヘ)の及ばざることも多く、なほ誤られたる事どもはたなきにあらず、故(レ)今おのれ、かの考を本として、その説をこと/”\く擧て、考(ニ))(ク)云といひ、頭書に至るまで、もらさず引出て、次におのが思ひとれる事どもをしるし、かの考の違へるふし/”\をも論ひて、後釋となづけつ、かの餘《ホカ》のもろ/\の注釋どもは、みないふにもたらぬことのみ多かれば、そのよきあしきは、ひたぶるにすてて、あげつらふことなし、もはら吾大人の考を、つぎひろむるものぞ、そも/\師とある人のあやまちをあぐることは、いともかしこく、罪さりどころなけれども、今いはざらむには、世(ノ)人ながく誤(リ)を傳へて、さとるよなく、猶いにしへごゝろの、明らかならざらむことの、うれたさに、えしももださざるになむ、
〇考云、祓とは、古事記に、伊邪那岐(ノ)命、黄泉《ヨミ》に到(リ)坐て、穢れ給へるを、清め給はむとて、筑紫の橘(ノ)小門にして、大御身に着坐る物を、こと/”\くぬぎ棄《ステ》給ふをいふ、穢れたるを、拂ひやらふよし也、次に海潮に浸て、大御身を滌《ソソ》き給ふ、これを身滌《ミソギ》といふ、身の穢を洗ひ滌くよし也、此二つぞ、祓|身滌《ミソギ》の本なりける、又須佐之男(ノ)命、惡事《サガナキコト》轉《ウタテ》ありしによりて、贖物《アガモノ》を責(メ)はたりて、祓具《ハラヘツモノ》として、出(ダ)させ奉りて、やらひける、かの伊邪那岐(ノ)命の、御自《ミミヅカラ》捨《ステ》給へりしも、他より責(メ)て出させしも、事の意はひとしかれば、此二(タ)大御神の御事共を合せて、祓身滌の法として、人の代に至りても行へる也、その伊邪那岐(ノ)命は、祓身滌をし給へるによりて、貴き大御神たちを生《ウマ》し給ひ、須佐之男(ノ)命は、祓(ツ)物を出し、御身|逐《ヤラ》はれ給ひて後、清き神御心になり給へるを以て、此わざの大き功あることを知(ル)べし、かかれば人の代となりても、右の三つの事を行ふよしなるを、後には、中の祓一つをいひて、其事をしらする也、かれ紀にも式にも祓とのみ書たり、〇同頭書云、みそぎは身滌《ミソソギ》なること、こゝに引る古事記の言にて知(ル)べし、然るを後の記に、東河西河の御禊など書るを見て、美《ミ》を御の意と思ふは、ひがこと也、御禊とかくは、天皇の御事なる故に、御とは云にこそあれ、又そを禊と書(ク)は、からぶみざまの略也、大御身滌《オホミミソギ》といふべきこと也、出雲風土記の、御津(ノ)郷の處に、御身沐浴《ミミソソキ》とあるを思ふべし、
〇後釋、考にいはれたる事ぞ、凡て祓といふものの、ゆゑよし始(メ)なりける、中の祓一(ツ)をいひて、其事をしらする也とは、穢れたる物をすて、又祓(ツ)物を出すは祓、身を滌くはみそぎなるを、後に至りては、此中の祓といふ名を以て、三つの事にかねいふといふことなるべし、然れども波良比《ハラヒ》といふ名は、廣くして、もとよりかの三(ツ)の事にわたりて、身滌《ミソギ》をも、祓ともいひしなるべし、身を滌くも、穢をはらひすつるわざなれば也、なほ祓みそぎの事、おのがいはまほしきかぎりは、古事記傳六の卷、かの伊邪那岐(ノ)命の御身滌段《ミミソギノクダリ》、また九の卷、須佐之男(ノ)命に千座置戸を負せたる段《クダリ》に、委(ク)云り、
 
六月晦大祓《ミナヅキツモゴリノヒノオホバラヒ》十二月《シハス》准《ナヅラフ》v之《コレニ》
 
考云、大祓の事の、上代に見えたるは、古事記の仲哀天皇(ノ)段に、天皇既崩訖、爾驚懼(テ)而|坐《マサセ》2殯(ノ)宮(ニ)1、更(ニ)取(テ)2國(ノ)之|大奴佐《オホヌサヲ》1而、種2々求(テ)生剥逆剥阿離溝埋屎戸、上通婚下通婚、馬婚牛婚鷄婚犬婚之罪(ノ)類(ヲ)1、爲2國(ノ)之大祓(ヲ)1而、とある是也、かゝれば此事、神代より傳はりて、橿原(ノ)宮に初國《ハツクニ》しらしし御世、其後にも、つぎ/\絶ず行はれけむを、上(ツ)代の書に、右の外には見えたることなきは、もれたる也、後に天武天皇紀に至りて、五年八月、詔曰、四方|爲《ナセ》2大解除《オホハラヘヲ》1、用(ヒム)物(ハ)、則國|別《ゴトニ》國(ノ)造|輪《イタセ》2祓柱《ハラヘツモノ》馬一匹布一常(ヲ)1、以外郡司(ハ)、各刀一口、鹿(ノ)皮一張、钁一口、刀子一口、鎌一口、矢一具、稻一束、且毎(ニ)v戸《イヘ》麻一條と見ゆ、此大祓は、今年旱異星疫など有しに依て、行はれたる也、又同紀に、七月卅日、令(シテ)2天(ノ)下(ニ)1悉(ク)大解除《オホハラヘセシム》、當(テ)2此時(ニ)1國(ノ)造等、各出(シテ)2祓柱《ハラヘツモノ》奴婢一口(ヲ)1、而|解除《ハラヒス》、同紀、朱鳥元年七月三日、詔(シテ)2諸國(ニ)1大解除《オホバラヘ》、さて持統天皇紀に、すべて見えぬは、又もれたるならむ、文武天皇紀御代始(メ)に、二年十一月七日、臨時の大祓見ゆ、大寶元年に至りて、六月十二月晦日の大祓の事、令條に擧られたり、かく定例としもなりたるを思へば、此二度の晦日の大祓も、はやくより有しことか、されど天武天皇の御時、八月にも、七月の始(メ)にも有しと、文武天皇の御代始にも、此六月十二月晦日の事は見えざるとを思へば、是は大寶元年の御定めとぞいふべき、さて後の紀どもには、定例なれば、しるされざる也、他事も、令に出たるは、紀には記されず、さて大寶二年十二月晦の紀に、廢《ヤム》2大祓(ヲ)1、但(シ)東西(ノ)文部(ノ)解除(ハ)如(シ)v常(ノ)とあるは、此月太上天皇崩(リ)ましし故に、停められたる也、これにても、年年絶ず行はれたりしことを知べし、〇同頭書云、文部が解除は、から國の流にて、皇朝の神事にあらざれば、諒闇《ミモ》のほどにも、せさせられしなり、
〇後釋、祓の中に、ことに大祓といふ名は、古書どもに此事の出たる例を以て考るに、一人の祓に非ず、廣く諸人の祓なるが故に、大《オホ》とはいふ也、なほ大祓の、おのがいはまほしき事どもは、古事記傳卅の卷、神功皇后(ノ)段、國之大祓の處に委(ク)云り、さて古語拾遺神武天皇(ノ)段に、令(ム)3天(ノ)兒屋(ノ)命(ノ)之孫天(ノ)種子(ノ)命(ヲシテ)、解2除《ハラヘ》天(ツ)罪國(ツ)罪事(ヲ)1とあれば、考に云れたる如く、かの大御世にも此事有し也、考に、諸國の大祓と、朝廷の大祓との別《ワキ》をいはず、一つにいはれたるは、精《クハ》しからず、同じ大祓ながら、諸國に令《ミコトノリ》して、せしめ給ふと、朝廷のとは別《コト》也、右の天武天皇の御世に記されたるなどは、皆諸國の大祓也、文武天皇二年のも、遣(ハシテ)2使(ヲ)諸國(ニ)1大祓(セシム)とあれば、是も同じ、神祇令に、凡諸國|須《ベクハ》2大祓(ス)1者、毎(ニ)v郡出(ス)2刀一口、皮一張、鍬一口、及(ビ)雜物等(ヲ)1、戸別《イヘゴトニハ》麻一條、其(ノ)國造(ハ)出(ス)2馬一匹(ヲ)1と、六月十二月晦の大祓(ノ)條の次に、別に擧られたり、さて是は、上代よりの諸國の大祓のさま也、今(ノ)京となりても、大嘗會の時など、其八月上旬に、左右京五畿内七道に使を遣(ハ)して、大祓せしめ給ひ、又悠紀主基の二國の齋《イミ》郡に於ても、大祓あり、その祓(ツ)物のくさ/”\、當郡より出すよし見え、又郷|別《ゴト》にも出す物あり、又齋内親王伊勢に趣き給はむとする時も、同じく諸國に使を遣して、大祓あるよし、延喜式に見えたり、これらみな國の大祓なり、さて六月十二月晦のは、朝廷百官の祓にして、諸國のにはあらず、さる故に右の大嘗會、又齋王の伊勢に趣き冶ふ時などの、臨時のも、諸國に使を遣(ハ)す事と、百官の大祓とは、別に擧られたり、此事猶下にいへり、考(ヘ)合すべし、さて此二季の大祓は、いづれの御代よりか始まりけむ、詳《サダカ》ならず、天武天皇紀、文武天皇の始(メ)などまでに、此大祓の見えざるを以て、大寶の御定めなりとは決《サダ》めがたし、是は年毎に定まれる事なる故に、記されざりしにも有べし、猶百官の大祓も、ふるきこととおぼしきよしあり、下に云べし、
〇考云、神祇令に、凡六月十二月晦日(ノ)大祓、【謂祓(ハ)者、解2除(スル)不祥(ヲ)1也、】東西《ヤマトカフチノ》文部、【謂東(ハ)漢(ノ)文(ノ)直、西(ハ)漢(ノ)文(ノ)首、】上(リテ)2祓(ノ)刀(ヲ)1、讀(ム)2祓(ノ)詞(ヲ)1、【文部(ノ)漢音(ニ)所(ノ)v讀(ム)者也、】訖(テ)百官男女聚2集祓(ノ)所(ニ)1、中臣|宣《ノル》2祓(ノ)詞(ヲ)1、卜部|爲《ナス》2解除(ヲ)1とあり、其後元正天皇養老五年七月の紀に、始(メテ)令(ム)d文武百官(ヲシテ)、率(テ)2妻女姉妹(ヲ)1、會c於六月十二月晦(ノ)大祓(ノ)之處(ニ)uと見ゆ、既に令の定(メ)はありつれども、妻女姉妹まで集ふは、此時より也、〇同頭書云、卜部爲(ス)2解除(ヲ)1は、上つ代よりの事にはあらず、たゞ令のころの定め也、其事、大祓の末の詞の所に論あり、
○後釋、令に百官男女とあるは、女は、女の官人をいへるにて、官人の妻女などをいへるにはあらじ、然るに養老の定(メ)の後の、延喜の式にも、たゞ百官男女とのみあるは、妻女《メムスメ》姉妹などをもこめたるか、又思ふに、今の令に、百官男女とあるは、かの養老五年の時に、改められたる文にて、これも妻女姉妹をもこめたるにも有べし、
〇考云、太政官式に、几六月十二月晦日、於(テ)2宮城(ノ)南(ノ)路(ニ)1大祓(ス)、大臣以下、五位以上、就2朱雀門(ニ)1、辨史各一人、率(テ)2中務式部兵部等(ノ)省(ヲ)1、申(シ)2見參(ノ)人數(ヲ)1、百官男女、悉(ク)會(シテ)祓(ス)之、臨時(ノ)大祓亦同云々、此儀貞觀儀式に委く見ゆ、臨時(ノ)大祓は、建禮門にてあること、三代實録に見えたり、
〇後釋、貞觀儀式に、大祓(ノ)儀、【六月十二月並同云々、】其日午(ノ)四剋、神祇宮内縫殿等(ノ)官省寮、候(フ)2延政門(ノ)外(ニ)1、百官會2集祓(ノ)處(ニ)1、先(キニ)v此(ヨリ)神祇官陳(ス)2祓(ツ)物(ヲ)於朱雀門(ノ)前(ノ)路(ノ)南(ニ)1、【分2置(ク)六處(ニ)1、但(シ)馬(ハ)在2其南(ノ)方(ニ)1、北(ニ)向(ク)、】所司設(ク)2座(ヲ)於朱雀門并(ニ)東西(ノ)仗舎(ニ)1、大臣以下、五位以上(ハ)、壇上(ノ)東方、西面北上重行、南階(ノ)東(ノ)第一(ノ)間(ヲ)、爲2四位以下(ノ)階(ト)1、第二(ノ)間(ヲ)、爲2參議以上(ノ)階(ト)1、其女官(モ)、亦在2同壇上(ノ)西方(ニ)1、隔(ツルニ)以(ス)2斑幔(ヲ)1、【開(テ)2西(ノ)一(ノ)扉(ヲ)1、從(リ)v北出入(ル)、】外記官(ノ)史中務式部兵部三省(ハ)、東仗舎、西南北上、弾正(ハ)西仗舎、東面北上、祝詞(ノ)座(ハ)、在2路(ノ)南西(ニ)1、座(ノ)前(ニ)置(ク)2軾(ノ)布(ヲ)1、未(ノ)一剋、外記以下各就(ク)v座(ニ)、自餘(ノ)諸司(ハ)、屯2立(ツ)東仗舎(ノ)東頭(ニ)1云々、外記以下起v座(ヲ)、降(テ)立2束舎(ノ)南頭(ニ)1、式兵二省(ノ)丞録、引(テ)2文武(ノ)刀禰(ヲ)1、列立、【西面北上】彈正(ノ)忠疏、降(テ)立2西舎(ノ)南頭(ニ)1、【東面北上】立(チ)定(マリテ)、神祇官頒(ツ)2切麻《キリヌサヲ》1、【參議以上(ニハ)史、五位以上(ニハ)史生、女官并(ニ)諸司(ニハ)神部、】訖(テ)中臣※[走+多](テ)就(テ)v座(ニ)讀(ム)2祝詞(ヲ)1、稱《イヘバ》2聞(シ)食(セト)1、刀禰皆|稱唯《ヲオトマヲス》、祓畢(テ)行2大麻(ヲ)1、次(ニ)撒(ス)2五位以上(ノ)切麻(ヲ)1、既(ニシテ)而散去とあり、刀禰《トネ》とは、王臣百官をすべていふ、讀(ム)2祝詞(ヲ)1は、すなはち此大祓(ノ)詞なり、さて頒(ツ)2切麻(ヲ)1、また行2大麻(ヲ)1などは、上代より有しわざか、何とかや後の事めきておぼゆ、そも/\祓は、其人々より、祓物《ハラヘツモノ》を出さしむるわざなるに、後には、延喜式などにも、さる事は見えず、二季の大祓の料物は擧られたれども、それはたゞ司《ツカサ》より設(ケ)置(ク)ことにて、百官人の身より、おの/\物を出せしことは聞えず、式部省式にも、たゞ其日所司陳2列(ス)祓(ツ)物(ヲ)1とのみ見え、祓(ノ)馬も、たゞ馬寮より出せり、すべて祓のさま、令の時すら、既に文部が漢文の詞をよむ事、卜部の解除することなど、古(ヘ)にあらざりし儀どものまじりつれば、まして其後、世々にうつりかはりぬること、おしはからる、かくて中昔よりこなたは、大かた祓は、陰陽師の職《ワザ》のごとなりて、江次第などに、六月十二月晦日にも、禁中の儀、陰陽家のさま/”\のわざあり、まして私の祓は、すべて陰陽師にせさすることとなれりき、又近き世に、神道者といふともがらの、こと/”\しく祓の作法《サハフ》といひて、くさ/”\行ふたぐひも、みな近き世のつくり事にて、いふにもたらず、さて小右記に、天元五年、六月廿九日、今日大祓(ノ)所、公卿一人(モ)不v參(ラ)、仍(テ)以2右少辨惟成(ヲ)1、爲(テ)2上代(ト)1、被《ル》v行(ハ)v之(ヲ)、内侍等稱(テ)v障(ヲ)、不v向(ハ)2祓(ノ)所(ニ)1、仍(テ)以2女史(ヲ)1爲2内侍代(ト)1とある、天元は、圓融天皇の御世也、これを見れば、そのかみ既に、大祓のいたく衰へたりしほどしられて、いとかなし、かくて參らぬを、咎め給ひしことも聞えぬは、すべて神事のなほざりになれりしからなるべし、あなかしこ/\、さて二季(ノ)大祓の儀、西宮記北山抄江家次第などを考(ヘ)合するに、貞觀儀式と、大かたは同(ジ)けれども、易《カハ》れる事共も見えたり、また祓(ノ)馬は、六匹と見え、又積2置(ク)稻四五束許(リヲ)1と見え、また行(フ)2大麻(ヲ)1とある分注に、神祇(ノ)官人以下執(テ)v之(ヲ)、上卿以下(ノ)座(ノ)前(ニ)引(ク)v之(ヲ)、上卿辨大夫諸司(ノ)料、各異(ナリ)と見えたる、これらは、儀式には記されざること也、また路(ノ)南(ニ)設(ク)2祝師《ノリトシノ》座(ヲ)1とある分注に、西面、雨儀(ニハ)、敷(ク)2門(ノ)南(ノ)中央(ノ)壇上(ニ)1、とあるを思へば、儀式に在2路(ノ)南西(ニ)1とあるは、西の下に、面(ノ)字の脱《オチ》たるにて、此(ノ)二字は分注なるべし、また近例參議一人行(フ)v事(ヲ)、或(ハ)納言參着、希有(ノ)例(ナリ)也、とあるを以て見れば、其ころに至りては、大臣などの參(リ)會(フ)ことは、ひたぶるに絶て、なかりしと見えたり、さて百官の大祓も、二季の晦のみならず、臨時にも有しこと也、大嘗祭式に、凡大祓(ノ)使(ハ)者云々と、諸國の使を遣(ハ)す事をあげて、次に、在(ル)v京(ニ)諸司、晦日(ニ)集(ヒテ)祓(スルコト)、如(シ)2二季(ノ)儀(ノ)1と見え、齋宮式に、内親王卜定ありて後に、擇(テ)2日時(ヲ)1、百官爲(ス)2大祓(ヲ)1、【同(ジ)2尋常(ノ)二季(ノ)儀(ニ)1、】とあり、其外神事のをり、内裏に穢事有て、大祓を行はれたりしことなども、古記に見えたり、考に、臨時の大祓は、建禮門にてあること、三代實録に見えたりといはれたるは、貞觀七年七月廿九日、先v是武徳殿(ノ)前、有2人死1、仍(テ)大2祓(ス)於建禮門(ノ)前(ニ)1、とあるを見て云れたる也、是は内裏の穢なる故に、殊に建禮門にて行はれたるにこそあれ、おしなべては、臨時のも、朱雀門にて有しなり、文徳實録に、嘉祥三年四月辛亥、爲(メニ)v除(カム)2凶服(ヲ)1、先(ヅ)遣2大中臣氏人(ヲ)於五畿内七道諸國(ニ)1、以修2大祓(ヲ)1、癸丑帝吉服(シタマフ)、大2祓(ス)於朱雀門前(ニ)1と見え、右に引る太政官式にも、臨時(ノ)大祓亦同と見え、大嘗會の時のなども、如(シ)2二季(ノ)儀(ノ)1とのみ有て、其處も擧られざるにても、朱雀門前なることはしられたり、但し大藏省式に、凡臨時(ノ)大祓(ノ)所(ニハ)、立(ツ)2五丈(ノ)幄二宇、七丈(ノ)幄一宇(ヲ)1とあるは、他《コト》所にて行はることもあるにや、朱
雀門の時は、幄を立ることはなき也、
〇考云、此詞を、式には大祓(ノ)詞とあるを、古語拾遺には、中臣(ノ)之|禊《ハラヘノ》詞といひ、朝野僉載には、中臣(ノ)祭文とあり、これらは理(リ)あり、祝詞は中臣氏の宣る詞なれば也、然るを今(ノ)世(ノ)人の、中臣祓とのみいふは、ひがこと也、中臣は祝詞を宣(リ)、祓は卜部のするわざにて別也、中臣の祓(ノ)詞といはでは、祓も中臣のわざの如く聞えて、ことわりなし、さればたゞ式のごとく、大祓の詞といふべきこと也、
〇後釋、此詞は、神祇令に、中臣讀(ム)2祓(ノ)詞(ヲ)1と見え、貞觀儀式にも、祓(ノ)詞(ニ)所云《イハユル》云々などもあれは、大祓(ノ)詞といふべきこと、論なし、但し式にも何にも、大祓(ノ)詞とつゞけていへることは見あたらず、祝詞式にも、六月晦(ノ)大祓とこそ標《アゲ》られたれ、詞といふ字はなし、そは卷(ノ)首《ハジメ》に、祝詞と標《アゲ》られたれば、おの/\其祝詞の所には、たゞ某(ノ)祭とのみ有て、某祭(ノ)祝詞とはなき例なれば、是も詞といふ字は、もとよりあるまじきことわり也、然るを考に、式には大祓(ノ)詞と有といはれたるは、ふとおぼしたがへられたるなり、されどことわりは違へることなし、さて又これを大祓(ノ)祝詞《ノリト》ともいふべし、貞觀儀式にも、四時祭式にもこれを、讀(ム)2祝詞(ヲ)1とあれば也、これも神に申す詞なれば、然云べきこと也、萬葉十七(ノ)歌に、中臣の太祝詞言《フトノリトゴト》いひはらへ、ともよめり、こは太祝詞言《フトノリトゴト》を、中臣がいひはらへといふ意かとも聞ゆれど、然にはあらじ、祓(ノ)詞をさして、中臣のふとのりと言といへる也、考に、朝野僉載といはれたるは、書(ノ)名たがへり、朝野群載也、僉載といふは、からぶみにあるを、思ひまがへられたるなり、さて此詞は、西宮記左經記などにも、中臣(ノ)禊(ノ)詞と見え、大神宮年中行事には、中臣祓(ノ)祭文とあり、祭文とは、中昔に、かくさまに讀(ミ)唱ふる詞のたぐひをば、すべて然いひしとおぼしくて、枕册子に、大殿祭(ノ)祝詞をも、宮の女《メ》の祭文といへり、かの祭を宮之賣《ミヤノメノ》祭といふ故なり、拾芥抄に、宮※[口+羊]《ミヤノメノ》祭文とて載れるは、後世のいと拙き物也、さて此詞を、たゞ中臣祓とのみいへるは、光明峯寺殿の玉蘂に、國通讀(ミ)2申(ス)中臣祓(ヲ)1とあり、其ころはやくいひしことなりけり、そも/\かくさまに省《ハブ》きいふも、よろづに例多かることなれども、これは、考にいはれたる如く、理りたがひて、世(ノ)人のいたく思ひあやまること也、考に、祓は卜部のするわざにて、中臣のわざにあらざるよしをのみいはれたるは、なほことたらず、世(ノ)人の中臣祓とのみいふは、此詞を、すなはち祓と心得たるひがこと也、其事猶下にいふべし、
〇考云、此大祓(ノ)詞は、近江(ノ)大津(ノ)宮の末より、清御原(ノ)宮のころまでの間に書つらむよし、既にいへるが如し、然るに是を、神代の言として、天(ノ)岩門の前にして、天(ノ)兒屋(ノ)命の唱へ給へりし神語ぞといひ、あるは橿原(ノ)宮の御代に、天(ノ)種子(ノ)命の作り給へりなどいふは、古言古文に、時代/\のさまあることをもわかずしていへる、みだり言也、續日本紀に、此詞をさして、神語といへることあるをもて、神の語也といふ人もあらむか、凡神の事をいへるをば、神の語ならねども、神語といへるにて、その例外にもあり、又萬葉十九に、住吉爾《スミノエニ》、伊都久祝之《イツクハフリガ》、神言等《カミゴトト》云々、これらの神言も、祝部が作れる文なれども、その本は、神の命によれる故に、神言とはいふ也、神代のこと書るを、神書といひ、佛の事書るを、佛語といふ類なるを、もし神語とあるによりて、必(ズ)神の語とせば、神書はみな、神の書給へる書、佛語はみな、佛のいへる言とせむや、
〇祝詞考(ノ)自(ノ)序(ニ)云(ク)、出雲(ノ)國造が神賀(ノ)詞は、飛鳥(ノ)岡本(ノ)宮の御代の言なるべし、ことばまさしくしてみやび、心たくみにしてゆたか也、巧のこまやけきは、いさゝか後によれれど、しらべのゆたなるぞ、上つ代ののこれるなる、次に六月十二月の大祓の詞は、大津清御原の御世のことばなり、言おもしろく雄々しく、心たくみにしてとゝのへるものの、ゆたならず、かたらに聞ゆるは、つとめていにしへをうつせれば也、そが次に、祟神を却、大殿祭の詞は、藤原(ノ)宮の末に作れるならむ、今一きざみおとりにたり、祈年廣瀬立田らの祭の詞は、奈良(ノ)宮の始つころにいへるにて、同じ古ことばもてすれど、ふみちふ物を心に得ずて、いひなせしなれば、又一きざみおとりにたり、そのが次々のことばゝ、いやくだちにくだち、まよわらに弱らひつゝ、さらにあげつらふべくもあらずなもある云々、
〇後釋、右考の序に、此大祓(ノ)詞を論はれたる趣、先(キ)の本には、こゝに一條に書れたるを、後にそをばのぞきて、序にいはれたる也、宣長今此考の論につきて、猶つら/\かむかふるに、祝詞式に出たるもろ/\の祝詞どもの文、おの/\まさりおとり見えて、まことにふるきと後なるとのけぢめあり、そが中に、出雲の神賀詞と、この大祓のとを、ふるしと云れたるなども、まことにさることと見えて、此大人にあらずは、たれかはかゝる古(ヘ)文の、さるけぢめをばよく見わかむと、いとたふとくぞおぼゆる、然れども、これはかれよりおとれり、それはこれより後也など、一つごとに、品を定めていはれたるは、信《ウケ》られず、すべて古(ヘ)の事、さばかりこまかに、けぢめの見え分るゝ物にはあらず、又出雲の神賀詞と、此大祓のとを、中にすぐれたりとして、そのさまを評《サダ》めいはれたることどもも、あたれりとも聞えず、今よく味はひ見るに、たゞそのいへる事のさまによりて、おのづからさも聞ゆるにこそあらめ、さらに造れる時代によりてにもあらず、又其人のたくみによれるにもあらざるをや、次に祟(ル)神大殿は云々、祈年廣瀬立田は云々、これらの評《サダメ》も、おのれはみな然らじとこそ思へ、さて餘《ホカ》のは、とるにたらざるごといはれたるも、心得ず、かの祝詞どもをおきて、外にもなほふるくめでたく見ゆるはある也、又それは其御代に作れりと、さだめられたるも皆うけられぬこと也、これはた然明らかに見え分るゝものにはあらず、そも/\もろ/\のふるき祝詞のたぐひ、其始めをつら/\思ひはかるに、まづいと上つ代には、それとつゞりおきて、定めたるはあるべからず、たゞ其時にのぞみて、其事の趣をもて、そを申す人の、いかにも/\、よろしきさまにこそ申しつらめ、然るを年々定まれる事などは、その年々のおもむき同じければ、申す詞も、さき/”\の例によりて、大かたいつも同じさまなるべければ、おのづから定まれるやうになり來にけむ、さてそれを書(キ)記しおきて、年々用(フ)ることは、いつのころより始まりけむ、それもさだかにはしりがたきこと也、さればもろ/\の祭の中の、ふるき祝詞は、おほかたは、いと上代より、申しならへるまゝにて、いと/\ふるきを、そのつゞりざまいひざまなど、いさゝかづゝは、世々にうつりかはり來ぬることも、おのづから有(リ)と見え、又後に加《クハ》はりもし省《ハブ》かりもし、かはりもしたることなども、すこしづゝはまじれるも有(リ)と見えたり、かく有て、全く今式にのれる如く定まりたるは、大寶令のころならむか、はたそれよりやゝ前《サキ》つかた、天智天武の御世のほどなどより定まれるも有(リ)やしけむ、それはたたしかにはいひがたし、又後に始まれる祭の、又祭はふるけれど、その祝詞は、古のはうせたるにや、やゝ後に作れりと見ゆるなど、作りざまはつたなく、とゝのはぬことあるも、猶ふるき他《アダシ》例にならひたる、ふるき詞はまじれり、かゝればすべてふるき祝詞は、漢國人のよゝの文章、又こゝのも、後の物語序文などを、論《サダメ》いふごとくに、其代に其人の作れりなどは、いふべき物にあらず、そのおほかたは、上つ代より、つぎ/\例によりて、申しならへる詞によりて、つゞれる物なれば也、されば此大祓の詞も、大かたいと上つ代の詞どもにて、中には、皇御孫(ノ)命の天降(リ)坐(シ)し御代のほどより、傳はりけむまゝとおぼしき所も多く見え、又げに大津清御原藤原などのころにやくはゝりけむ、と見ゆる詞もまじれる也、されどその、後の詞のまれにまじれるをとらへて、すべてを、其代に作れりとせむは、いとあたらぬさだめにぞ有ける、
〇考云、此詞に、今の人の、度會(ノ)神宮の本といふと、卜部氏の本といふと有(リ)、朝野僉載にのせたるも、右の本どもに似たり、然ればかの本共も、今にしては、古(ヘ)といふべけれど、凡承平天暦などのころよりして、古言はみなうしなひつれば、まして其後は、いふにたらず、かくてかの本どもに、初(メ)の宣《ノリ》のなきは、諸社にてはさも有べけれど、伊勢の大神宮にては、いさゝか言をかへて、ありぬべきこと也、又皇御孫(ノ)尊於以とある尊(ノ)字は、日本紀撰の時、あらためられたる、さかしらなれば、それより古き世の此詞に、書(ク)べくもあらず、又辭の乎《ヲ》)に、於(ノ)字を書ること、すべて古書になし、さればこれらは、古書を見ぬもののわたくし也、又馬を祓に用るは、馬は耳《ミミ》の獣にて、耳とき物なる故に、その申す詞を、神たちの速に聞給ふべきよしなること、出雲(ノ)神賀(ノ)詞に馬を擧て、耳《ミミ》の爾高《イヤタカ》に云々、とあるを合せても知べく、天武天皇紀よりこなた、祓柱《ハラヘツモノ》に必(ズ)馬あるをも思ふべし、然るに其馬をおきて、佐男鹿|能《ノ》八(ツノ)御耳を振(リ)立(テ)といへるは、何事ぞや、鹿は角《ツノ》の獣にこそあれ、耳をいふべきよしなし、或人、こは春日(ノ)社にして、事好むものゝ、かの八耳(ノ)太子といふことを思ひて、鹿の多き所なれば、ゆくりなくいひ初(メ)たるにやといへり、されど春日にても、此詞に鹿をいはむは、ひがことなるを、まして他社にて、用ふべきことかは、其外訓のたがひ、言の清濁など、誤(リ)多きをも、此度みな改めつ、式にのれる本は、大かた古(ヘ)のまゝにて、殊に公のなれば、必(ズ)これによるべき也、但し後に書誤れりと見ゆることなどあるをば、他の多くの祝詞の例、又古き書ふるき言などを照して正しつ、そは古(ヘ)ざまの文を、みづからよくかゝむ人は、よくしるべきなり、
〇後釋、凡て祝詞のたぐひは、神に申す詞なれば、つとめてその言をうるはしくすべきわざ也、故(レ)ふるき祝詞ども、いづれも皆言にいみしく文《アヤ》をなして、めでたくうるはしくつゞりたり、そはいかなる故ぞといふに、大かた人も神も、同じく申す事も、其詞の美麗《ウルハシ》きに感《メデ》ては、受(ケ)給ふ御心こよなければ也、よき歌に神のめで給ふも、言葉のうるはしきによりてぞかし、されば情《ココロ》はいかに深きも、わろき歌には、めで給ふことなし、然るを後(ノ)世人は、から心さかりにして、たゞ理をのみ思ふから、神に申すことも、詞をばえらばむものとも思ひたらず、なほざりにのみぞすめる、神代紀に、天照大御神の、天(ノ)石屋にさし隱坐《コモリマシ》し時、諸の神たち云々して、中臣(ノ)連の祖天(ノ)兒屋(ノ)命、廣厚稱辭《ヒロクアツクタタヘコトシテ》、所啓焉《ノミマヲシキ》、于時《コノトキ》日(ノ)神|聞之《ソヲキコシメシテ》、曰(ヒテ)d頃者《コノゴロ》人|雖《ドモ》2多請《サハニマヲセ》1、未《イマダ》uv有(ラ)2若此言之麗美者《カクコトノウルハシキハ》1也、乃(チ)細2開《ホソメニアケテ》磐戸《イハヤドヲ》1而|窺之《ミソナハシキ》、とあるをおもふべし、これ申す詞の美麗《ウルハシ》きに感賞《メデ》給へるにあらずや、されば今時、みづから新《アラタ》につゞりて白《マヲ》す詞のみならず、古(ヘ)の祝詞を讀《ヨミ》申すとても、古(ヒ)の言をあやまたず、つとめてその讀《ヨミ》を正しくして、かりにも後の音便に頽《クヅ》れたる言などをまじへず、清(ミ)濁(リ)などをも嚴《オゴソカ》に守りて、ゆめ/\なほざりに讀《ヨム》べきにあらず、然るに此大祓(ノ)祝詞も、諸の祝詞も、今の本は、訓を誤れることいと/\多し、古言をしらざる後(ノ)世人のしわざなれば也、師の祝詞考の訓は、すべて古言に依(リ)て、改められたれば、こよなく宜きを、なほわろきことも多ければ、今又皆正しつ、又清濁は、祝詞考は、古書の假字にたがへることいと多くして、殊にわろし、此大人はすべて、濁るまじき言を、好みて濁られたること多く、又後の音便よみを好まれたることも多し、そのこゝろすべし、さて此大祓(ノ)祝詞、今世にこれかれとある私の本どもは、後の人のさかしらにて、改めつる所々は、考にいはれたる如く、ひがこと多く、語のとゝのはぬところ/”\もあり、訓のわろきはさら也、そも/\大祓は、公事にて、此祝詞も公ざまなれば、私の祓には、かなはぬことあるによりて、世間《ヨノナカ》に、或は言をはぶきもし、かへもしてよむなるも、一わたりはことわりあるに似たれども、もし公と私と異なるを以て、然改めむには、猶も改むべき言はおほかるべく、又|惣《スベ》ても、公の祝詞を、私の祓に用ひむは、いかゞなれば、みながら作りかへずは有べからず、然るを既にその公のを用ふるうへは、よし私のには、かなはぬことのまじれりとても、そのまゝによまむに、なでふことかあらむ、中々のさかしらせむよりは、本のまゝに讀たらむこそ、まさりたらめ、さばかり古くめでたくたふとき公の祝詞を、私にたやすく改めむことは、いさゝかにても、いとかしこきわざ也かし、考に、初の宣なきは、諸社にては、さも有べけれど、伊勢大神宮にては云々、といはれたるは、心得ず、これは祭の祝詞にはあらず、祓のなれば、諸社も大神宮も、差別あるべきにあらざるをや、又みことに尊(ノ)字を書ることを、あるまじきわざのごといはるゝも、あぢきなき論(ヒ)也、いにしへ此字を用ることなかりし程こそあれ、既に書紀に書《カカ》れたるうへは、後の人は、それによらむは、何事かあらむ、もし古意古言にたがへることあらむにこそ、したがふまじきよしもあらめ、此尊(ノ)字などは、何のそこなひかあらむ、但し古書の語を、そのまゝに寫さむには、一字といふとも、たがふべきにはあらざるを、此祝詞の私の本どもは、多く詞をさへに替(ヘ)たる物なれば、此尊(ノ)字を、とりわきてとがむべき事にはあらずかし、
〇考頭書云、承平天暦のころに至りて、古意皆うせて、文はさらにもいはず、歌なども、ひがこと多く出來つ、又そのころより、事好むもの出來て、舊事紀など、其外も僞書を作りて、世(ノ)人をまどはせり、古書の言などを改めたるも、此ころ也、又云、古事記には、みことはみな命と書るを、日本紀に、命と尊と分て書る、かく種々の字を用ひて、目じるしとするは、からざま也、皇朝の古(ヘ)は、字は假《カリ》として、言をこそ本とはしたれ、又古書は、假字すべて嚴にして、たがへることなし、後の物は、違(ヒ)多し、されば古き假字を鏡として、書の眞僞をもしるべく、古言をも解(キ)分(ク)べき也、又云、春日(ノ)社に、鹿を神の御乘(リ)物なりといふは、縁起といふ物の説也、此縁起にいへるも、奈良(ノ)朝のほどのことにこそあれ、此古き世の文に、入べきにあらず、古き歌に、此春日山に、鹿の鳴(ク)ことはよみたれども、殊に多きさまにいへることもなし、又さを鹿の八つの御耳といふ言、古言のさまにあらず、後の世の言なるを、きゝわく人のよになきは、いかにぞや、
〇考云、祓は、地をも家をも人の身をも、清むるわざなるを、今(ノ)世人の、佛に向ひて、その經といふ物をよむごとく心得て、神の御前に向ひて、其詞を唱ふるはいかにぞや、又よむ數も、大やけの大祓にも、たゞ一度なるを、後世に、あまたたび重ねてよむは、これも佛の經をよむにならへるにや、又よむさまも、古(ヘ)のよみざまをば尋ねず、たゞみだりによめり、又江次第などに、祓の法とてある中には、後の陰陽家卜部などのわざとおぼしきこと多し、又もろ/\の社の祝部など、此詞をひが心得して、それにくさ/”\つけたるわざをもすることあり、こゝろすべし、
〇後釋、すべて近(キ)世に神道者といふもののしわざを見るに、法師の佛をいつくわざを、うらやみならひて、行ふ事のみ多し、其中に此大祓の祝詞をよむことも、かの佛の經陀羅尼などいふ物をよむにならひて、或は神の御前に向ひてよみ、或は數百遍もよみ、或は五千度一萬度の祓などいふこと有て、これをよむを、祓修行といひ、又此詞を、常に中臣祓といひならへるから、祓といふ物を、即(チ)此詞の事と心得、又それにならひて、外にも某《ナニ》の祓|某《クレ》の祓とて、よむ文の世にこれかれあるは、みな祓といふことのさまをもわきまへざる、後(ノ)世人の造れる物にて、たゞ例のからめきたることをのみいひて、古(ヘ)の意詞にあらず、祓には殊によしなきことのみ也、さて又右にいへる如く、直《タダ》に此詞を祓とこゝろえ、是をよむを、祓修行とするは、いみしきひがことなり、此詞は、祓のわざを行ひて、其よしを神に申す詞なるに、その祓のわざをばせずして、此詞をのみよまむは、祓をせずして、するよしを申すにて、神を欺き奉るに似たれば、此詞いかにめでたくとも、たゞ讀たらむばかりにては、罪穢の清まらむこと、おぼつかなし、此詞は、祓にはあらず、祓の祝詞也、又これをよむも、祓にはあらず、祓は、祓のわざをして、其時に此詞はよむ
物也と心得べし、然はあれども、上(ノ)件のごとく、心得誤り來れるも、久しきことにて、世にあまねくよむならひとなれることなれば、今これをよむを、あしとは咎むべきにあらず、祓と祓詞とのけぢめを、心得わきまへゐて、よむことは、世のならひにしたがひたらむも、よろしかりぬべくこそ、
 
集侍親王諸王《ウコナハレルミコタチオホキミタチ》。諸臣百官人等諸《オミタチモモノツカサノヒトタチモロモロ》。聞食 止 宣《キコシメセトノル》。
 
考祈年祭の處に云(ク)、集侍の訓、儀式に、大祓(ノ)處 爾 参集【讀(テ)曰2末爲宇古那波禮留《マヰウコナハレルト》1、】とあるを思ふに、こゝは集侍と書たれば、宇其那波里波牟倍留《ウゴナハリハムベル》と訓べし、宇其那波里《ウゴナハリ》は、宇都久萬里《ウヅクマリ》といふ言の、都《ツ》を略き、久《ク》を其《ゴ》に轉したるにて、宇都蟲《ウヅムシ》禹都萬佐《ウヅマサ》などの宇都に同じ、那波里《ナハリ》は、曾那波里《ソナハリ》清萬波里《キヨマハリ》などの萬波里の類にて、延ていふ辭也、波牟倍留《ハムベル》は、佐夫良布《サブラフ》と同じくて、共に侍(ノ)字を用ふ、さればこは、諸國の神主祝部等の、神祇官の庭に、恐み敬ひて、蹲居《ウヅクマリヰ》るさまをいふ也、然るに集(ノ)字は、たゞつどふことなれば、こゝによくもかなはず、うごなはりといふ言は、古(ヘ)よりいへる言なるに、集(ノ)字は、後にあてたるにて、かなはざるなり、
〇後釋、集侍は、右の儀式の訓注に依て、二字を宇古那波禮流《ウコナハレル》と訓べし、古《コ》の清濁は、いかゞあらむ、詳ならず、古(ノ)宇は清音なれども、今(ノ)京になりての書の假字は、清濁は分らざれば、依(リ)がたし、然れども今は姑(ク)清音に讀(ム)べし、凡ていづれの言も、清濁の詳ならざるは、姑(ク)清(ミ)てよむべき也、古言は濁音すくなければ也、さて宇古那波流《ウコナハル》は、此集侍(ノ)字の意の古言と聞えたり、考に、うこなはるを、うづくまると同じ言にいはれたるは、たがへり、その略き轉しも、穩ならず、そも/\かの祈年祭などの祝詞は、諸社の神主祝部等によみ聞するなれば、うづくまりともいふまじきにあらざれども、此大祓(ノ)詞は、親王大臣なども集《ツド》ひ給へるに、そを指《サシ》て、中臣が言に、うづくまり侍るとはいかでかいふべき、そのうへうづくまるとは、其|状貌《サマ》をいふ言なるを、かゝる所に、其|状貌《サマ》をいはむは、何の用ぞや、さればこはたゞ、集侍の字にあたれる言とこそ聞えたるに、集(ノ)字をかなはずといはれたるも、中々にあたらぬこと也、何を證として、かなはざることをは知(ル)べきぞ、侍を波牟倍流と訓れたるも、後世の音便言也、侍は、匍在《ハヘル》といふことなれば、波閇流《ハヘル》と訓(ム)べく、閇《ヘ》は清音也、然るを濁音にいふは、後に音便にんを添ていふから也、凡て音便のんの下は、皆濁る例也、なほ侍《ハヘル》の事は、古事記傳十四の卷に委(ク)云り、こゝは侍(ノ)字は、別には讀(ム)べからず、親王云々、すべてかくさまにつらね擧ること、上代には、臣連國造伴造百八十部《オミムラジクニノミヤツコトモノミヤツコモモヤソノトモノヲ》などいへりき、諸王諸臣《ミコタチオミタチ》とつらねいへる事は、書紀の推古(ノ)卷にはじめて見えたり、そのころよりのことなるべし、さて天武(ノ)卷に至りて、親王諸王及諸臣とも、親王諸王及群卿とも、親王諸臣及百寮人とも、親王諸王諸臣及百官人等とも見えたり、古(ヘ)は皇子諸王男女ともに、すべて美古《ミコ》と申(シ)て、王(ノ)字を通はし書つれば、諸王といふに、皇子もこもれり、さて後に親王といふ號の出來ては、親王を美古《ミコ》と申し、諸王を意富伎美《オホキミ》といふなれど、古(ヘ)はおほきみと申すは、天皇を始め奉りて、皇子諸王までにわたれる號也き、さて百官といふことは、いつのころより云そめけむ、いとふるくして、古事記にも見えたり、されどこはもとは、から書にならへることなるべし、諸《モロモロ》は、上に屬《ツケ》て讀(ム)べし、古事記に、天神諸《アマツカミモロモロ》などあるが如し、此事そこに委く云り、宣は能流《ノル》と訓べし、のたまふと訓るはひがこと也、こゝは中臣のみづから云ことにて、俗言に申(シ)聞(ケ)ますといふ意也、此祝詞の中にある宣みな、中臣の此祝詞を、諸《モロモロ》にいひ聞するよし也、神祇令に、中臣|宣《ノル》2祓(ノ)詞(ヲ)1と見え、同令に、中臣宣(ル)2祝詞(ヲ)1とある、義解に、謂宣(ハ)者布也、祝(ハ)者賛辭也、言以(テ)2告(ル)v神(ニ)祝詞(ヲ)1、宜《ノリ》2聞(スル)百官(ニ)1、故(ニ)曰(フ)v宣《ノルト》2祝詞(ヲ)1、とあるにて心得べし、凡て天皇の詔勅を宣《ノル》といふなども、詔勅を受たる人の、下へ云(ヒ)聞(カ)すことにて、宣旨宣命などいふ類も、旨《ムネ》を宣《ノ》る、命《ミコト》を宣《ノ》るといふことにて、宣(ノ)字は、そのいひ聞(カ)す人に係《カカ》れる言也、此宣(ノ)字を、あしく心得る人多き故に、今くはしくいへり、
〇考云、こゝにして、公卿と五位までは揖し、六位より下百官人は、稱唯《ヲオトマヲス》べし、此分ち、神樂《カミアソビ》次第抄に見えたり、
〇後釋、上に引る貞觀儀式に、稱《イヘバ》2聞(シ)食(セト)1、刀禰皆|稱唯《ヲオトマヲス》とあれば、考にいはれたる如き差別はなき也、此下に、聞(シ)食(セ) 止 宣《トノル》とあるところ、みな同じ、
 
天皇朝廷 爾 仕奉 留《スメラガミカドニツカヘマツル》。
後釋、天皇朝廷は、須賣良我美加度《スメラガミカド》と訓べし、此末に、天皇 我 朝廷《スメラガミカド》、鎮御魂齋戸(ノ)祭(ノ)祝詞に、皇 良我《スメラガ》 朝廷 |乎《ヲ》 など見え、又續紀の詔に、天皇何大御命《スメラガオホミコト》、天皇羅我命《スメラガオホミコト》、などある例を以て知(ル)べし、かく云ぞ古言なる、師は、すめらとのみいふは、ふるからぬごと、いはれつることもあれど、萬葉廿にも、須米良美久佐《スメラミクサ》とあるなども、ふるくきこゆるをや、天皇を須賣《スメ》と申すことは、下にいふべし、
 
比禮挂伴男《ヒレカクルトモノヲ》。
 
考云、領巾《ヒレ》は、女の掛る物也、古(ヘ)は女のすべてかけたりし事、紀にも萬葉にも見えたれど、こゝは手襁《タスキ》掛る男と對へ、其外も宮中に仕るわざある人共をいへれば、大御食《オホミケ》に仕る采女を專(ラ)指(シ)て云也、男は借字なり、古事記又他の祝詞にも、伴(ノ)緒と書るを正しとす、緒尾男雄など、假字同じければ、たがひに借用るぞ、いにしへの常なる、〇同頭書云、領巾は女のすべてかくる中にも殊に御食に仕る采女の領巾の事は天武天皇紀よりして、諸書に多く見えたり、又云、古事記に、皇孫(ノ)命の天降坐時、五伴(ノ)緒|矣《ヲ》支加而天降也とある、五伴(ノ)緒の中に、二柱は女神也、又紀に、取(テ)2婦人(ヲ)1爲2乳母(ト)1云々、凡諸(ノ)部備(ヘ)行(テ)奉v養、とある諸部をも、もろ/\のとものをと訓るも、同じく其中に婦人有(リ)、
〇後釋、とものをのをは、長《ヲサ》にて、もと其(ノ)部《トモ》の長を、とものをとはいへる也、此事は、古事記傳十五の卷に委(ク)云り、考に、緒と書るを正しとせられたるは、とらず、緒も借字也、
 
手襁挂伴男《タスキカクルトノモノヲ》。
 
考云、たすきを掛て仕奉るは、忌部などもあれども、こゝは大御食造(リ)仕奉る、膳部《カシハデ》をさすと見ゆ、然ればこれらは男《ヲ》といはむもさることなれど、すべて伴(ノ)緒なるからは、是も男はなほ借字也、次々も同じ、すべて部類あるを、伴(ノ)緒とはいふなり、
 
〇後釋、大殿祭(ノ)祝詞に、皇御孫(ノ)命(ノ)|朝 乃 御膳夕 乃 御膳供奉 流《アシタノミケユフベノミケツカヘマツル》、比禮懸《ヒレカクル》伴(ノ)緒、襁懸《タスキカクル》伴(ノ)緒 |乎《ヲ》云々とあり、こゝもこれに同じ、
 
靫負伴男《ユギオフトモノヲ》。劔佩伴男《タチハクトモノヲ》。
 
考云、外(ノ)重中(ノ)重近衛を守る、百千の人よりして、内舎人大舎人、その外の武官をもかねたり、
〇後釋、後世の六衛府のたぐひの武官をいふ也、考に、近衛を守るとあるは、言違ひなるべし、近衛とは、内(ノ)重といふこと歟、さてこの負佩は、おふはくと訓べし、おへるはけると訓ては、言のいひざまたがへり、此いひざまのけぢめは、すべての詞にわたりて、人のよく誤ること也、さてこゝに四つの伴長《トモノヲ》を擧たるは、多くの中にて、いさゝか摘《ツミ》出ていふ古文の例にて、是に諸の伴長《トモノヲ》をこめたり、次の文にて知(ル)べし、凡て古文は、種々事多き中に、わづかに一つ二つを云て、餘《ホカ》をばそれにふくめたることおほし、祈年祭(ノ)祝詞に、手肱 爾 水沫畫垂《タナヒヂニミナワカキタレ》、向股 爾 泥畫寄 弖《ムカモモニヒヂカキヨセテ》と、たゞ二つ事をいひて、田を佃《ツク》る始終の種々のわざ共を、皆これにこめたるが如し、此例なほ下にもいふべし、
 
伴男 能 八十伴男 乎 姶 ※[氏/一]《トモノヲノヤソトモノヲヲハジメテ》。
 
考云、右の言を猶ひろめて、宮城の内に仕奉る官人を、すべいふ也、
〇後釋、八十伴とは、百官をすべいふ也、考に、宮城の内に仕奉るといはれたるはいかゞ、宮城の内の官人に限れることにはあらず、さて後(ノ)世の文の格を以て思へば、こゝは伴男能《トモノヲノ》といふこと、あまりて聞ゆれども、すべてかくさまに、言を重《カサ》ねいふぞ、古(ヘ)の文のあやなりける、乎始弖《ヲハジメテ》とは、上にいへる如く、とものをは、もと部《トモ》の長をいふ稱なる故に、其|部々《トモトモ》の長々《ヲサヲサ》を始(メ)として、其下々までといふ也、此詞にてもをは長《ヲサ》なることを知(ル)べし、
 
官々 爾 仕奉 留 人等 乃《ツカサヅカサニツカヘマツルヒトドモノ》。
 
考云、官省寮司の下にある、諸部の者どもまでをいふ、
〇後釋、官々《ツカサヅカサ》は、すなはち上の八十伴なり、仕奉る人は、その長々《ヲサヲサ》の下に屬《ツキ》て、仕奉る官人どもなり、
 
過犯 家牟 雜々罪 乎《アヤマチヲカシケムクサグサノツミヲ》。
 
考云、天(ツ)罪國(ツ)罪をはじめて、雜々の罪をこめたり、
〇後釋、過《アヤマツ》とは、ことさらに心もてなすにはあらで、おぼえず犯すをいふ、凡て罪とある事を知(リ)ながら、ことさらに心もて犯すことは、うちまかせては、あるまじきことなれば、なだらかにたゞ、過《アヤマツ》といへるは、おもしろきこと也、犯《オカス》とは、愼《ツツシ》みて、すまじき事を、つゝしまず、なほざりに大《オホ》ろかにするをいひて、大《オホ》かす也、大はおほよその意也、されば假字も、淤《オ》なるべし、考の言違へり、雜々の罪、即(チ)天(ツ)罪國(ツ)罪の種々也、さて是は、去年の十二月晦の大祓の後より、今年の六月晦迄に、犯(シ)たる罪共也、
 
今年六月晦之大祓 爾《コトシノミナヅキノツゴモリノヒノオホバラヒニ》。
 
考云、晦朔を、雅言には、つごもりの日、ついたちの日といふべし、月隱の日、月立の日といふこと也、そをたゞつごもりついたちといふは、常言也、
 
祓給 比 清給事 乎《ハラヒタマヒキヨメタマフコトヲ》。
 
考頭書云、いにしへはらへといふは、はらはへを約めたる也、はらひといひては、體の言にて、下へつゞかず、
 
〇後釋、波良比《ハラヒ》は、みづからするにいふ言、波良閇《ハラヘ》は、令《セ》v祓《ハラハ》のづゞまりたるにて、人にせしむるをいふ言にて、自他の差別也、集《ツド》ひ集《ツド》へ、宰《サキハ》ひ幸《サキハ》へなどの例の如し、然るを師の、體用の差別のごといはれたるは、違へり、體用の差別にはあらず、波良比《ハラヒ》波良閇《ハラヘ》ともに、體にも用にもいふ言也、又はらへは、はらはへを約めたる也といはれたるも、心得ず、はらはへとは、いかなる言にか、古(ヘ)も今も、いまだ聞ぬこと也、さてこゝは、上に大祓爾《オホバラヒニ》とある祓は、體にいへる言也、祓給比《ハラヒタマヒ》といふは、用言なることもとより也、かくて二つともに、波良比と訓(マ)むか、波良閇と訓(マ)むか、百官男女に物を出させて、罪をはらはしむる方を以ていはば、波良閇と訓べし、又百官男女の、おのおの罪をはらふわざなれば、廣くいふときは、波良比と訓べし、今は廣くいふかたにつきて、波良比と訓つ、祓(ヒ)給(フ)は、朝廷より、此わざをして、百官の罪をはらひ給ふなり、
 
諸間食 止 宣《モロモロキコシメセトノル》。
 
考云、此宣の文、左の文とはいたく異にして、後のさま也、又親王また諸王といふこと、天武天皇紀にもいさゝか出たれど、さだかに親王諸王と立ていふは、大寶令の時より也、これらを思ふに、此宣の文は、奈良(ノ)朝に至りての事なり、〇同頭書云、親王といふは、令のころよりのことなるに、天武持統の紀にも見えたるは、凡日本紀も、本は古事記の如く、推古天皇の御時までを記されけむを、それより次下の卷々は、後に書(キ)繼たる物也、持統紀は、又後に如へたる物なること、其文と、事の意とを以て知べし、然れば後の事も入たる也、此論猶有、
〇後釋、諸《モロモロ》とは、上に擧云る、比禮挂(ル)伴(ノ)男云々、官々 爾 仕奉人等を、すべてさす也、さて大祓(ノ)詞は、此次高天(ノ)原 爾といふよりぞ初(メ)にて、是迄の二段は、祓の詞にはあらず、百官の大祓の時、別に加へて、まづ初(メ)に宣《ノル》詞也、此二段には、たゞ官々《ツカサヅカサ》の事をのみいひて、天(ノ)下四方(ノ)國などいふ詞なければ、別に百官の大祓の時の詞なることしるし、かくて此二段のうちに、天皇朝廷 爾《スメラガミカドニ》といふより一段は、文殊に古く、いと/\めでたし、これ上代に、百官の大祓の時、加へて宣《ノリ》たりし詞なるべし、されば此段の文の古きを以て、百官の大祓も、上代より有けむことを知るべき也、但し今年六月晦之といふ言は、後に二季の大祓の定まりたりし時に、加へたるなるべし、さて又集侍親王云々、諸聞食止宣とある、初(メ)の一段も、其時に加へたる詞なるべし、そも/\此段と初(メ)の段とは、たゞ文詞の異なるのみにして、官々《ツカサヅカサ》をすべ擧たるは、同じ事也、かく同じさまの事の重なりて、其文のいたく異なるは、此段は、上代よりの詞を、そのまゝに用ひ、初(メ)の段は、又後に加へたる物なるが故なり、さて高天(ノ)原 爾といふより下、祓詞は、諸國の大祓の祝詞なるを、朝廷百官の大祓にも、兼用ひられたるもの也、其よしは猶下にいふべし、考に、此段の文を、後のさまなりといはれたるは、初(メノ)段と一つにつゞけて見られたる故に、親王諸王などあるにのみ心つきて、此段は、かの初段とは、別なることをも忘れ、又此段は、殊に文のめでたきにも、心のつかれざりしなるべし、もし同時に一つに作りたらむには、同じ官々の事を、かく文をかへて、二度いふべきかは、又頭書にいはれたる事も、猶論あれど、こゝにはさしも用なければ、もらしつ、
 
高天原 爾 神留坐《タカマノハラニカムヅマリマス》。
 
祈年(ノ)祭(ノ)詞の考(ニ)云、神留を或説に、下つ國に降(リ)坐さずして、天つ宮にとゞまり坐て、天知しめすを申すといへり、今考るに、下つ國に降り坐さぬを、天に留り坐(ス)といはむは、雅言とも聞えず、又却祟神詞に、高天(ノ)原 爾 神留(マリ)坐 弖、事始(メ)給 志 神漏伎云々とあるは、とゞまりと訓ては、聞えざる也、續日本紀の宣命に、神積とあるに依て、かんつまりと訓べし、積は、あを略きたる借字にて、あつまり也、高御魂神御魂より、天照大御神まで、多くの皇祖神たちの集りて、事定め給へる命といふにて、理(リ)明らけく、言雅なり、神といふは、崇めたる辭也、上聲に加牟《カム》と唱ふ、萬葉に可武佐備以萬須《カムサビイマス》などあり、〇同頭書云、神留神集など、其事を尊みて、神云々といふ神は、加牟とはねて唱ふ、下皆然心得よ、云々神と、下にいふ神を、云々かんとよむはひがこと也、此事上にもいひしかど此祝詞は常によむことなる故に、更にいへり、此外にも、更にいへる事多し、
〇後釋、高天(ノ)原の事は、古事記傳にいへれば、こゝにはもらせり、留は考に訓れたる如く、豆麻理《スマリ》と訓べし、さて都麻流《ツマル》は、即(チ)とゞまる也、今の俗言にも、物の滯りてゆきとほらぬ事を、つまるといふも、とゞまる意にて同じ、又萬葉五に、宇奈原能《ウナハラノ》、邊爾母奥爾母《ヘニモオキニモ》、神豆麻利《カムヅマリ》、宇志播吉伊麻須《ウシハキイマス》、諸能《モロモロノ》、大御神等《オホミカミタチ》とよめるは、其時の舶路の、海邊又|奥《オキ》なる嶋々などに、鎭(リ)座(ス)神たちを申せるにて、これ鎭(リ)座(ス)事を、神豆麻利《カムヅマリ》といへり、凡て神の鎭(リ)座(ス)と常にいふも、其所に留坐《トドマリマス》意也、猶これらの事、古事記傳十一の卷に委(ク)いへり、又神祇官に坐(ス)八産の中の、玉留魂《タマツメムスビ》と申す神(ノ)名を、たまるむすびと訓るは、いみしきひがことにて、是も多麻都米牟須毘《タマツメムスビ》にて、都米《ツメ》はとゞめ也、うかれゆく魂《タマ》を、留《トド》め給ふ靈《ミタマ》にます神也、これをも神名帳には、玉積産靈《タマツメムスビ》と書れたるを以て、たまると訓(ム)ことの誤(リ)をも知(ル)べく、又此神名にて、神留《カムヅマリ》は、即(チ)留《トド》まる意なることをもさとるべし、さて留《ツマリ》と申すよしは、皇御孫(ノ)命の、高天(ノ)原を離れて、此國に降(リ)坐るに對へて、降(リ)坐(サ)ぬ神を、留(リ)坐(ス)とは申せる也、世間に、旅路に出立(チ)行(ク)人の、其國人をさして、國にとゞまれる人といふと、同じこゝろばへなり、されば此言は、御孫(ノ)命の新《アラタ》に天降(リ)坐つるころ申せし言の傳はりたる物也、神《カム》とは、神集《カムツドヒ》神議《カムハカリ》などの類にて、凡て神の御うへの事にいふ言也、さて古(ヘ)は凡て加牟《カム》と、牟《ム》を慥に唱へしことなるを、かんとはねてよむは、音便にくづれたる後の言にて、正しからず、すべてんとはぬることは、上代にはなかりし也、此事は、猶別に委(ク)云り、又神を加牟《カム》といふは、音便にはあらず、木を許某《コナニ》、稻を伊那某《イナナニ》、船を布那某《フナナニ》といふ類にて、上にある時音の轉《カハ》る格也、考に、下つ國に降(リ)坐ぬを、天にとゞまり坐(ス)といはむは、雅言とも聞えずといはれたるは、心得ず、かゝることに、雅言不雅言のあるべきにあらず、祟神を却祝詞を引て、とゞまるにあらざるよしをいはれたれど、かれも御孫(ノ)命の天降坐る事をいふ始(メ)なれば、とゞまるといはむこと、何か妨(ゲ)あらむ、留坐而事始(メ)給 志といふ、語のつゞきになづむべきにあらず、既に御孫(ノ)命の此國に降(リ)坐て、後よりいふ詞なれは、なでふことかあらむ、又つまるを、集《アツマ》ることとせられたるもたがへり、すべて神たちの集り給ふをば、神(ム)つどひといふこそ、古語の例なれ、神(ム)あつまりといふことは、いまだ聞ず、さてもし集り給ふことならば、神漏岐神漏美 乃 高天原 爾 神|留《ヅマリ》坐 弖といはでは、穩ならず、そのうへ高天(ノ)原に集(リ)坐(ス)といひては、高天原ならぬ他所より來て集(リ)坐(ス)になる也、天(ノ)高市天(ノ)安(ノ)河などあらばこそ、集るとはいはめ、又此神(ム)づまりには、みな留(ノ)字積(ノ)字などをのみ書て、集と書るは一つもなし、積は借字、留は正字也、もし集る意ならむには、つまるの借字には、留(ノ)字を書べきよしなし、又右に引る玉留産靈《タマツメムスビ》も、とゞむる意ならでは聞えず、魂《タマ》を集《アツ》むとは、いふべくもあらぬをや、つめとめ、つまりとまり、通音にて同言也、
 
皇親神漏岐神漏美 乃 命以 ※[氏/一]《スメラガムツカムロギカムロミノミコトモチテ》。
 
考云、この命は、みことのりをいふ、祈年祭(ノ)詞の考(ニ)云、皇《スメ》は統《スベ》といふことにて、天を統知《スベシリ》坐(ス)を皇大御神、國を統(ベ)知(リ)坐(ス)を皇大君と申す、尊言也、睦《ムツ》は、天皇の皇祖神たちなれば、御親みのよし也、神漏岐は、神須倍良袁岐美《カムスベラヲギミ》、神漏美は、神須倍良米岐美《カムスベラメギミ》にて、皇祖の男女の神たち也、伊邪那岐伊邪那美と申すも、男《ヲ》君|女《メ》君の言の略き是に同じ、さて出雲(ノ)國造が神賀に、高天 |能 神王《ノカムロギ》、高御魂神魂(ノ)命 能 皇御孫(ノ)命とある、神王は、始(メ)の神祖のみをさして申せるを、他の詔刀言《ノリトゴト》には、高御魂神魂より始めて、伊邪那岐伊邪那美(ノ)命、天照大御神まで、惣てを申せるぞ多き、故に男女の皇租神也とは云也、〇同頭書云、須米《スメ》は、須米良《スメラ》を略ける也、萬葉に須米良朕《スメラワガ》ともあれば、こゝも須米良牟都《スメラムツ》ともよむべし、さて須米良《スメラ》とも、須倍良《スベラ》とも申すは、倍《ベ》の濁は、米《メ》の清音にていふ例なれば、音便のまゝに、何れにもいへり、言の意は、天にても國にても、須倍留《スベル》御主と申すことなるによりて、留《ル》を良《ラ》とも呂《ロ》とも轉し申すなり、須米良美御登《スメラミゴト》と申す時は、米《メ》といひ、須倍良岐《スベラギ》と申す時は、倍《ベ》といふも、唱へのよろしきにしたがふ也、
〇後釋、皇は須賣良賀《スメラガ》と訓べし、其例は、上の天皇朝廷《スメラガミカド》の所にいへるが如し、親《ムツ》は、牟都《ムツ》云々と、下につく言也、是を昔より皇現とつゞけて、すめむつと訓來れるは、あるべき語にあらず、古言をわきまへざるみだりよみ也、祈年祭(ノ)詞に、皇吾睦神漏伎《スメラワガムツカムロギノ》命|神漏彌《カムロミノ》命 |止《ト》云々、出雲神賀詞に、親神魯伎《ムツカムロギ》云々、孝徳紀に、今我親神祖之所知穴戸國中《イマワガムツカムロギノシラスアナドノクヌチニ》云々、これらを以て、親《ムツ》は下に屬《ツケ》てよむべきことを知(ル)べし、須賣《スメ》と申す御號は、神をも、尊みていづれの神に
も皇神《スメカミ》と申すを思へば、もとはたゞ尊む言なるべし、然るをたれも皆、統《スブ》る意と心得て、師も、國を統知《スベシリ》坐(ス)よしにいはれたれども、よく思ふに、統る意とは聞えず、たゞたふとむ言にて、言の意は別に有べし、又すめらともすべらとも、いづれにもいへりといはれたれども、古書には、假字書(キ)には、須賣《スメ》とのみこそあれ、須倍《スベ》と書るは、いまだ見ず、又假字を須米と書れたるも、例にたがへり、皇《スメ》の假字に、米《メ》を用ひたること、古書になし、みな賣《メ》※[口+羊]《メ》を用ひたり、是も心得おくべきこと也、よくわきまへたるうへより見れば、例にたがひたる假字を書たるは、つたなく見ゆる物ぞかし、此外頭書にいはれたることどもも、よろしからず、又神ろぎは、神すめら男君、神ろみは、神すめら女君と説れたるもいかゞ、すめらのすめを略きていふべきにあらず、己が考へは別にあり、古事記傳に云り、男女の皇祖神也とあるは然也、命(ノ)字、朝野群載には、御命《ミコト》と書たり、命以 弖《ミコトモチテ》とは、詔命を以て、仰せつけらるゝをいふ、此言、下の 止 事依奉 岐《トコトヨサシマツリキ》といふへかゝれり、
 
八百萬神等 乎《ヤホヨロヅノカミタチヲ》。神集々賜 比《カムツドヘツドヘタマヒ》。神議々賜 ※[氏/一]《カムハカリハカリタマヒテ》。
 
考云、古事記に、訓(テ)v集(ヲ)云2都度比《ツドヒト》1とあるは、言の本を注せるなり、こゝは用の言に都度倍《ツドヘ》と訓(ム)ことなり、
〇後釋、都度比《ツドヒ》と都度閇《ツドヘ》とは、自他の差《タガヒ》にて、都度比《ツドヒ》は自集《ミヅカラツド》ふなり、古事記に都度比と注したるも、八百萬(ノ)神みづから集へるを云所なれば也、都度閇《ツドヘ》は、令《セ》v集《ツドハ》の約まりたるにて、他を集《ツド》はしむるなり、こゝは詔命を以て、つどはしむるをいへは、都度閇《ツドヘ》也、考に、つどへを分て用の言といはれたるは、違へり、つどひも共に用の言にて、こは體用の差《タガヒ》にはあらず、もしこゝの文に、體用をいはむには、神集《カムツドヘ》神議《カムハカリ》は、體言になる也、集賜《ツドヘタマヒ》議賜《ハカリタマヒ》は用言なり、
 
我皇御孫之命 波《アガスメミマノミコトハ》。
 
後釋、我《アガ》は、皇祖神たちの我也、御孫を、美麻《ミマ》とよむことは、續紀十五の歌に、美麻乃彌己止《ミマノミコト》とあり、さてこゝの御孫(ノ)命は、邇々藝(ノ)命をさして詔ふ也、これよりして、御代々々の天皇いづれをも、かく申(シ)奉る御事にて、龍田(ノ)風神祭(ノ)詞には、崇神天皇をも、皇御孫(ノ)命とあり、
 
豐葦原 乃 水穗之國 乎《トヨアシハラノミヅホノクニヲ》。安國 止 平 久 所知食 止《ヤスクニトタヒラケクシロシメセト》。事依奉 岐《コトヨサシマツリキ》。
 
考云、事《コト》は言なり、依《ヨサシ》は、いひ寄《ヨ》せさづくる也、上にも出(ヅ)、
〇後釋、豐葦原、又水穗之國などの事は、古事記傳にいへり、安國は、神武天皇紀に、浦安國とあると同じく、たゞ安き國と心得てもあるべけれど、なほいさゝかことなるべし、安見《ヤスミ》し給ふ國といふこと也、安見し給ふとは、安見《ヤスミ》しし吾天皇《ワガオホキミ》といへる是也、此言の意は、師の冠辭考にいはれたるがごとし、八隅知といふことにはあらず、事依は、字のごとく、事を寄《ヨサ》す也、言にはあらず、もし言ならは、必(ズ)御《ミ》ことよさしと、御《ミ》を添ていふべきに、然云ることなし、
 
如此依 志 奉 志 國中 爾《カクヨサシマツリシクヌチニ》。
 
後釋、此祝詞の内に、國中といへるに二つ有(リ)、一つは、俗言にも國中《コクチウ》といふ意にて、こゝはそれ也、久奴知《クヌチ》と訓べし、萬葉五又十七に、久奴知許等其等《クヌチコトゴト》とあるによれり、今一つは、四方之國中とある、そは四方の國の中央《マナカ》の意也、その事は、そこにいふべし、
 
荒振神等 乎波《アラブルカミドモヲバ》。
 
考云、荒《アラ》びいちはやびて、惡き神たち也、振《ブル》は、夫留《ブル》の約|備《ビ》なれば、夫留《ブル》とも備《ビ》ともいひて、その有(リ)さまをいふ辭
〇後釋、考に、夫留《ブル》の約|備《ビ》なればといはれたるは、聞えず、こは夫理《ブリ》の約|備《ビ》也とのことなるべし、然れども此言は、あらびあらぶあらぶるとこそ活用《ハタラ》け、あらぶりとははたらかず、落は、おちおつおつるとはたらきて、おつりとは活用《ハタラ》かず、往は、いにいぬいぬるとはたらきて、いぬりとははたらかず、あらぶるも、これらと同じ活用《ハタラ》きの言なるをや、
 
神問 志爾 問 志 賜《カムトハシニトハシタマヒ》。
 
考云、問をとはしといふは、とはしめを約めたるにて、あがめ辭なり、萬葉に、見し賜(フ)聞し賜(フ)とある類也、
〇後釋、問《トヒ》をとはしといふ類は、延たる言にて、古言の常也、凡てかく延ていふは、もとは必しもあがめ言にもあらざりしにや、賤き者のうへの事にも、多くいへる例有(リ)、然れどもおのづから、あがむる言にもなれる也、考に、とはしめを約めたる也とあるは、違へり、後世記録文などに、あがめていふとて、令(メ)v問(ハ)給(フ)令(メ)v行(カ)給(フ)などあるは、もと假字文には、とはせ給ふゆかせ給ふなどやうにいへるを、眞字に然書なせるなり、そのとはせ給ふゆかせ給ふは、古の延(ベ)言の、とはし給ふゆかし給ふの轉れるにて、令《シメ》の意にはあらず、此格いづれの詞も同じ、
神掃 爾 掃賜 比※[氏/一]《カムハラヒニハラヒタマヒテ》。
                  考云、此事どもの凡は、神代紀に、經津主神武甕槌(ノ)神を、天降し給ひて、大名持神に問せ給へる、天津神の御言に、高皇産靈(ノ)尊、欲d降(テ)2皇孫(ヲ)1君c臨《シロシメサセムト》此|地《クニヲ》u、故(レ)先(ヅ)遣(ハシテ)2我二神(ヲ)1、駈除平定《ハラヒムケシム》、汝(ガ)意|如何《イカニ》、當須避不《サリマツラムヤ》、とある是也、かくて大名持(ノ)神事代主(ノ)神、此國を、皇御孫(ノ)命に避奉給ひしかば、天の下の荒ぶる惡き神を、悉く拂平て、右の二神天にかへりこと申(シ)奉れり、下つ國は、はじめ皇祖神の命に依て、伊邪那岐伊邪那美二大御神の、生給ひ作り給ひて、さて日(ノ)神月(ノ)神は、天にのぼせ奉りて、須佐之男(ノ)命の知(リ)給ふべき國なるを、此命は、皇祖の命に背き給ひしかば、底つ國に逐《ヤラ》はれ給へり、これに依て、御孫(ノ)命に依《ヨサ》し奉り給へる也、かゝれば此國は、御孫(ノ)命のしろしめすべきことわり也、
〇後釋、爾(ノ)字、本にはなきを、考に加へられたるに依れり、上の神問 志爾の所に、此字あれば也、此所、神掃云々は、荒振神に係《カカ》り、神問云々は、むねと大名持(ノ)神に係れり、然れは云々《シカシカノ》神 乎波 神問 志爾 云々、荒振神等 乎波 神掃云々と、分てあるべきことなるに、たゞ荒振神等とのみあるは、大名持(ノ)神もあらび給へるごと聞えて、いかゞなれども、語を省《ハブ》きて、かくもいふべきにや、又思ふに、こゝに荒振神といへるは、書紀にいはゆる、殘賊強暴横惡之神のたぐひのみにはあらず、凡て天つ神にまつろひ依(リ)來ずして、疎々《ウトウト》しき神を、ひろくいへるか、そのかみ大名持(ノ)神も、いまだ天(ツ)神に歸順《マツロヒ》給はざりしほどなれば、然いふべし、さて依(リ)來ずして、うと/\しきを、荒ぶといへる例は、萬葉二に、云々|住鳥毛荒備勿行《スムトリモアラビナユキソ》、四に、筑紫船未毛不來者豫荒振公乎見之悲左《ツクシブネイマダモコネバアラカジメアラブルキミヲミルガカナシサ》、十一に、白濱浪乃不肯緑荒振妹爾懸乍曾居《シラハマナミノヨリモアヘズアラブルイモニコヒツツゾヲル》、この外にも猶多し、古今集にも、故郷にあらぬ物から我ために人の心のあれて見ゆらむ、
〇考頭書云、萬葉人まろ歌に、ちはやぶる人を和《ヤハ》すと、まつろはぬ國を拂ふととよめり、かく古歌共に、神代のふることをよめる、すべて意ひとし、然ればいと/\上代には、いひ傳へしことのひとしかりしを、古事記日本紀にも書る也、
 
語問 志 磐根樹立《コトトヒシイハネキネタチ》。
 
考云、ものいふことを、古はこととふといへり、萬葉の歌に多くある言なり、上なる神問《カムトハシ》とは異也、樹立は、大殿祭(ノ)詞に、磐根木根 乃 立 知とあるによりて、こゝもこのたちと訓べし、木の杠《キリクヒ》の事也、新撰字鏡に、杠(ハ)支利久比《キリクヒ》とある是也、出雲(ノ)神賀詞には、石根木立青水沫 毛 事問 天とあり、然るを後世人、立を下につけて、たち草のとよむはひがこと也、上に木 乃といひて、其|乃《ノ》の辭を終(ヘ)ずして、他をいふことやは有べき、かくて木の立といへるは、全き木はさらにもいはず、伐杭《きりくひ》などまで物いふとなり、草の片葉に對へいへるにてもこゝろうべし、
〇後釋、磐根はたゞ磐にて、根は添ていふ言也、屋《ヤ》を屋根、羽《ハ》を羽根、杵《キ》を杵根、矛を矛根、嶋を嶋根といふ類也、考の大殿祭の下に、岩の高く顯れたるを、いはほといひ、深く土にあるを、岩根といふといはれたるは、わろし、樹立は、紀禰多知《キネタチ》と訓べし、大殿祭(ノ)祝詞に、木根 乃 立 知とある乃(ノ)字は、決て衍なるべし、乃といふ辭有ては、調《シラベ》もいとあしきうへに、乃《ノ》といふべき詞にあらず、きねたち也、さて他の祝詞にはみな木立とあれども、こだちと訓ては叶はず、これはつねいふ木立の事にはあらず、考の説の如く、杠《キリクヒ》なれば、根(ノ)字あるに依りて訓べき也、書紀に木株と書れたるも、其意也、株は、字書に木根也と注せり、然らばたゞ樹立木立など書るはいかにといふに、かの岩根屋根などの例のごとく、たゞ木の事をも、根を添て、木根《キネ》ともいふ故也、されば木立など書るは、木の一字を、きねに用ひて書るにて、屋の一字をもやね、羽の一字をもはねと訓(ム)が如し、さて意は木根立《キネタチ》にて、是は根に意ある也、さてたゞ木をきねといへるは、古今集神樂のとり物の歌に、霜やたびおけど枯せぬ榊葉のたち榮ゆべき神の木根かも、此きねは、即(チ)上の榊をさしていへるにて、神の木かもといへる也、然るを後に是をあしく心得てよめる歌ありて、人皆覡巫のことと心得たるは、いみしきひがこと也、榊の歌に、覡巫をよむべきよしなく、又覡巫を立榮ゆとはいふべき物かは、萬葉一に、岡の草根《クサネ》をいざむすびてな、十四に、久佐禰可利曾氣《クサネカリソケ》、これらもむすぶといひ苅といへれば、たゞ草を、草根とよめる也、木を木根といふことも、准へて思ひ定むべし、又思ふに、大殿祭(ノ)詞の、木根の根(ノ)字は、上の磐根の根より紛ひたるにて、衍にて、木 乃 立歟とも思へど、きのたち、このたちなどいふ言は、あるべくもおぼえず、なほきねたちなるべし、
 
草之垣葉 乎毛《クサノカキハヲモ》。語止 ※[氏/一]《コトヤメテ》。
 
考云、垣は借字也、大殿祭(ノ)詞には、可岐葉《カキハ》と書り、然るを龍田祭(ノ)詞には、理(リ)を以て片葉と書たり、相照して訓をも意をも知(ル)べし、さてかくいふは、よろづを平げて、此國の内に、いさゝかのあやしげもなくなして、天降し奉りしよし也、
〇後釋、垣(ノ)字、朝野群載には、破と書り、此破(ノ)字と、又片とも書るとを合せて思ふに、かき葉とは、まづ凡て草は、大かた三葉五葉づゝなど、並びて生る物なるに、それを闕取《カキトリ》て、たゞ一葉など殘りてあるさまを以ていふ詞にて、意はたゞいさゝかの草の一葉までといふなるべし、書紀には、たゞ草葉とあれども、そは例の漢文ざまに、約めてかゝれたる也、此草を、かやとよむはひがことなり、かやとは、屋根をふく草をこそいへ、さて止弖《ヤマテ》といへるは、今の世の心を以て思へば、みづから止《ヤメ》たる如く聞えて、乎毛《ヲモ》といふにかなはぬごと聞ゆめれど、然らず、夜米《ヤメ》は、令《セ》v止《ヤマ》のつゞまりたるなれば、他をして止《ヤマ》しむる意也、されば自身のうへにいふ時も、おのづから止《ヤ》む事には、夜美《ヤミ》といひて、夜米《ヤメ》とはいはず、夜米《ヤメ》はことさらにやめむと思ひて止《ヤム》る事にいへり、さてこれらのくはしき事は、古事記書紀に見えたる也、
 
天之磐座放《アメノイハクラハナレ》。
 
考云、御孫(ノ)命の天におはしましし御座を、離ち奉りて也、磐とは、堅くして常なるよしにいふ也、古事記に、離2天(ノ)之石位(ヲ)1、押2分天(ノ)之八重多那雲(ヲ)1而、伊都能知和岐爾知和岐弖云々とあり、
〇後釋、すべて皇御孫(ノ)命の御天降《ミアモリ》の時の、これらの語をよむ事、心得あり、御孫命の御みづからの御うへよりいふ時は、放ははなれ、天降はあまくだりと訓べし、然るにこゝは、下に依 志 奉 支《ヨサシマツリキ》と有て、皇祖神の詔命を以て、天降らしむる方よりいふなれば、天降はあまくだしと訓べし、然れば放も、はなちと訓べきが如くなれども、次の天之八重雲 乎云々は、御孫(ノ)命の御うへを直《タダ》にいふ語なれば、それと同く、放をもはなれとよむかた、穩なるべし、さて下に、天降しといふにて、凡ては皇祖神の詔命もて、然せしめ給ふになる也、漢文にていはば、令《シメ》d皇御孫(ノ)命(ヲシテ)、放《ハナレ》2天(ノ)磐座(ヲ)1、云々(シテ)而天降(ラ)uとかく意なれば也、天降しの志《シ》は、令《シメ》の意なれば、その令《シメ》を天(ノ)磐座までへ係《カケ》て見れば、放ははなれと訓て、こともなし、
 
天之八重雲 乎《アメノヤヘクモヲ》。伊頭 乃 千別 爾 千別 ※[氏/一]《イツノチワキニチワキテ》。
 
考云、伊頭《イツ》は、息出るといふことより出たる言にて、勢ひをいへり、是によりて稜威又嚴などの字を書たり、八重雲は、やへぐもといふも常なれど、こゝは古事記に依て、やへたなぐもと訓べし、調(ベ)もよろしく、言も雅なれば也、千別の千は借字にて、道別《ミチワキ》の略也、紀に道別と書り、神武天皇紀に、披(テ)2雲路(ヲ)1駈山蹕《ミサキハラヒ》、とかゝれたる是也、
〇後釋、伊頭《イツ》は稜威なり、此(ノ)つは清音にて、古事記又書紀の訓注などみな、清音の都(ノ)字をのみ書て、濁音の假字を書ることなし、然るをこゝに、濁音の頭(ノ)字を書るは、既に假字の清濁混じたる也、考に、嚴《イヅ》と稜威《イツ》とを一(ツ)に心得られたるは誤也、書紀に嚴(ノ)字を書れたるは、忌清《イミキヨ》めたる意にて、古事記に伊豆《イヅ》と書る言にて、豆は濁音なり、そは稜威《イツ》とはもとより別にして、清濁も異に、言の意も異にして、相あづからざることなるを、稜威《イツ》のつをも、訛りて濁るから、混じて、皆人一(ツ)言と思ひ誤れり、此事猶古事記傳に委くわきまへたり、又此いつを、息出ととかれたるも、いとくうけられぬ説也、又八重雲を、古事記によりて、やへたなぐもと訓れたるも、言の雅《ミヤ》びたるは、さることなれども、こゝには多那《タナ》の字なければ、さは訓がたし、すべて祝詞の書ざまは、たゞ讀(ム)べきまゝに書たる物なれば、書紀萬葉などを訓(ム)ごとく、文字をはなれて、異《コト》さまには訓べきにあらず、
 
天降依 左志 奉 支《アマクダシヨサシマツリキ》。
如此 久 依 左志 奉 志 四方之國中 登《カクヨサシマツリシヨモノクニナカト》。
 
考云、國中は、上なるとは異にして、こゝは眞中《ミナカ》といはでは、たらはず、又くにのまほらとも訓べきか、さてこれよりは、神武天皇この方の御世を申せり、下の條々も皆然り、萬葉巻二の、人麻呂の長歌に、神代よりの事共を、いたく略きて、いひつゞけたるさま、これに相似たり、かれは歌これは文なれど、古(ヘ)の巧にいへるは、ひとしかりき、〇同頭書云、景行天皇紀の大御歌に、やまとは國のまほらま云々とあるを、神武天皇紀に、國之奥區とも書るを思ふに、國中の字も、同意なれば、くにのまほらまと訓(ム)ぞまさりなむ、
〇後釋、四方之國中は、天(ノ)下四方の國の中央也、考に、國中を、くにのみなか、又くにのまほらま、など訓(ム)べくいはれたるも、意はさることなれども、さは訓がたし、字のまゝに、久爾那加《クニナカ》と訓て、國の中央と聞ゆる也、几此祝詞など、其字の定まれる訓をはなれては訓(ム)べからざること、上にいへるがごとし、此詞、次へかけて、遷却祟神祝詞にもあり、
 
大倭日高見之國 乎《オホヤマトヒタカミノクニヲ》。
 
考云、大倭は、今の大和(ノ)國にて、古(ヘ)の天皇の御代/\、此國を宮所とし給へることを云也、さて夜萬登《ヤマト》といふ名は、もと此國の山(ノ)邊(ノ)郡の夜萬登《ヤマトノ》郷より起りて、後に一國の名とはなれりと見ゆ、其郷(ノ)名は、山門《ヤマト》といふ意也、これらの事、古き由を引て、萬葉考卷一の別記に委くいへれば、こゝには略けり、此國の名の事、くさ/”\の説あれど、かなへるはなし、日高見之國とは、夜萬登(ノ)國は、四方の眞秀《マホ》なるをほめて、天つ日の、空の眞秀に、高くあるほどにたとへいへるなり、常に、日の空の眞中《ミナカ》にあるを、日高しといふは、古(ヘ)よりいひならへる言と聞ゆ、火々出見(ノ)命を、海神の、空津《ソラツ》日高と申せしをも、思ひ合すべし、又紀に、陸奥に日高見(ノ)國、紀(ノ)國に日高(ノ)郡あるは、私記にいへる如く、四方の望高く遠き故にてや名けけむ、こゝに夜萬登をいへるは、さる意のみとは聞えず、〇同頭書云、やまとを大和と書(ク)は、奈良(ノ)朝よりの事也、それより前に、倭と書るも、飛鳥(ノ)宮などのころよりや始まりけむ、そのころより前にはあらじ、さて倭(ノ)字は、から人の、他國をいやしむることを好むならひにて、書る字なるを、こゝにかの國文字を借(リ)てかくとて、心もせず、そのまゝにかけりし也、又云、紀に倭を國之奥區と書るは、漢文によりて、ことの意偏也、應神天皇紀に國のほ、又萬葉に國のまほらとある、即(チ)是にて、まほらまは眞秀《マホ》にて、らまは助のみ也、又云、景行天皇紀に、東夷(ノ)之中(ニ)、有2日高見(ノ)國1、同紀に、從2上總1轉2陸奥(ニ)1云々、蝦夷既(ニ)平(テ)、自2日高見(ノ)國1還(テ)、西南歴(テ)2常陸(ヲ)1、至2甲斐(ニ)1、式に、陸奥(ノ)國桃生(ノ)郡日高見(ノ)神社ともあり、こは其國の秀《ホ》のよしと見ゆ、又云、或説に、日高を高日と改めて、風土記に、日向(ノ)國に高日村といふ有(ル)をもていふは、こゝの文を、邇々藝(ノ)命の御世の事と思へる故の誤(リ)なり、
〇後釋、夜麻登《ヤマト》の事、おのが考へは、國號考に委くいへり、日高見(ノ)國とは、山遠くして打はれて、平(ラ)に廣き地をいふ也、山の近き地にては、山と空の日との間(ダ)近く見えて、日を見る事|低《ヒキ》きを、うちはれて廣き地は、山の遠き故に、山と空の日とのあひだ遠くして、日の高く見ゆる物なれは也、大和(ノ)國の中央は、廣く平(ラ)なる地なるを以て、かくいへり、いづれの國にいへるも、皆同じこと也、
 
安國 止 定奉 ※[氏/一]《ヤスクニトサダメマツリテ》。
 
後釋、この安國は、殊に畿内の大和をいひて、大宮敷いまして、安見《ヤスミ》し給ふ國と定むる也、上に廣く天(ノ)下をしろしめすをいへると、宮敷いますと、さすところは異なれども、安見し給ふ意はひとし、さてこは、神武天皇よりの御事なれば、すなはち其御世より、大祓にいひならへる詞にても有べし、
 
下津磐根 爾《シタツイハネニ》。宮柱大敷立《ミヤバシラフトシキタテ》。高天原 爾《タカマノハラニ》。千木高知 ※[氏/一]《チギタカシリテ》。
 
考、大殿祭(ノ)詞の處(ニ)云、太敷は、柱を太《フト》く繁《シゲ》く立るよし也、敷は繁なること、上の※[瓦+肆の左]閇高知《ミカノヘタカシリ》の下にいへるが如し、高天(ノ)原 爾とは、空に高きをいふのみ也、大祓(ノ)詞には、馬の耳の高きにさへいひたり、古(ヘ)の文也、知《シリ》は敷と同くて、繁きをいふ、千木《チギ》は垂木《タリキ》なり、多利《タリ》を約めて千といへり、是を古事記の今の本に、一所は氷木、一所は氷椽と書り、氷(ノ)字は、垂の草書を見まがへて、誤れるなるべし、顯宗天皇紀の室賀《ムロホギ》の御詞に、取(リ)置(ル)椽※[木+燎の旁]《チギハ》、此(ノ)家長《イヘキミ》之御心之|齊也《トトノヒナリ》とある、椽※[木+燎の旁]これ垂椽也、多くの垂椽を以て、屋ばらを平らかにする物なる故に、齊《トトノヒ》とも詔へるを思ふべし、かくて古(ヘ)の家の屋の樣は、今も田舍にのこれるを、今※[木+叉]首といふ物、これ垂木《チギ》にて、其末を棟の上にて組《クミ》て、本は軒の端まで、多く並べ垂て、屋ばらをも軒をも持する也、其組たる末端の、棟の上に繁く並出てあるを、垂木高知《チギタカシリ》とはいへる也、此事くさ/”\説あれど、皆古(ヘ)の屋にかなはず、己(レ)年月に思ひて、やゝ得たり、さてこの下津岩根 爾より下の言は、いと上つ代の妙なる言にて、古事記には、神代の宮造(リ)にもいへり、〇同頭書云、神武天皇紀に、千木を搏風と書るは、文をからに似せむとてのわざにして、垂椽には遠くして、當りがたし、紀には、かく人のまどふべき文字の多き也、又云、今は田舍にても、※[木+叉]首の末端をばきり去て、茅などをおほひて、雨包《アマヅツミ》とし、又よろしき家は、垂木の本をも、桁までにして切て、軒をば、別に細木を並べ置て、そを垂木といふことになりぬ、されど田舍には、今も稀には、古(ヘ)の家作も有、又秋の穗屋といふ物は、みなかの千木の端の上へ出たるを、別に藁《ワラ》など以てつゝめる、これぞいにしへおぼゆるものなりける、
〇後釋、これは神武天皇よりこなた、大和(ノ)國に敷坐る、皇大宮《スメラオホミヤ》を申せる也、太敷立、又高知の事、千木の事など、己が考へは、古事記傳十の卷に委くいへれば、こゝにはもらしつ、考に、敷《シキ》をも知《シリ》をも、繁也と云れたるは、ひがこと也、さてはかなはぬこと多し、記傳に引たる事共を見て知べし、さて知《シリ》といふ言は、柱にも千木にも殿にも國にも、通はしいへれども、敷《シキ》といふ言は、千木には云ることなし、千木には、高知(リ)とのみいへり、さて千木高知(リ)、※[瓦+肆の左](ノ)閇《ヘ》高知(リ)などの知《シリ》の意は、猶よく考ふべきこと也、又考に、千木を、垂木の事とせられたるも、違へり、千木は、屋の兩方の端にのみ有(ル)物にして、繁く有(ル)物にあらず、顯宗紀の椽※[木+燎の旁]を引れたるは、さらに當らず、
 
皇御孫之命 乃 芙頭 乃 御舍仕奉 ※[氏/一]《スメミマノミコトノミヅノミアラカツカヘマツリテ》。
 
考、祈年祭(ノ)詞の處(ニ)云、美頭《ミヅ》は、萬の物の稚《ワカ》くすくよかなるをいふ、神武天皇紀に、みづ/\し久米の子ら、萬葉に、若枝のことを、みづえさしといへるが如し、今(ノ)人の語に、みづ/\しといふも是なり、みづほの國、又みづのみあらかなどいふ、皆其意のほめ言也、顯宗天皇紀の室賀の御詞に、稚室《ワカムロ》とのたまへると合せて知べし、瑞(ノ)字を書(ク)は遠し、
〇後釋、美頭《ミヅ》は、物のうるはしきをほめいふ言也、御舎《ミアラカ》は御殿也、仕奉《ツカヘマツル》とは、こゝは造(リ)奉るをいふ、凡て下なる者の、上のためにする事をば、何わざにても、仕奉《ツカヘマツ》るといふ也、今俗言に仕《ツカマツ》るといふは、即(チ)仕奉るを訛れるにて、其つかまつるも、物を造ることにもいふ、こゝの仕奉るもそれに同じ、さて御舍の下に、爾《ニ》とよみつくるは、ひがこと也、祈年祭(ノ)詞には、御舍乎《ミアラカヲ》とある、こゝも其意也、但しこゝには、乎(ノ)字なければ、乎《ヲ》とはよむべからず、乎《ヲ》は省《ハブ》きていふも常也、考に、美頭《ミヅ》の注に、すくよかなるといはれたるはたがへり、そはみつ/\し久米のこらを思はれたるから也、かのみつ/\しは、古事記にも書紀にも、美都《ミツ》と清音の都《ツ》の假字を書て、みづの御舍などの美頭《ミヅ》とは、別言也、みづの御舍などいふみづには、古書に多く水(ノ)字を借(リ)て書て、豆《ヅ》濁音なり、此|美頭《ミヅ》には、すくよかなる意はかつてなし、
 
天之御蔭日之御蔭 止 隱坐 ※[氏/一]《アメノミカゲヒノミカゲトカクリマシテ》。
 
考、所年祭(ノ)詞の下(ニ)云、屋は、天を覆ひ、日を覆ふためのかまへなることを、文にかくいひなせること、中つ世又後の人の、及ばぬこと也、
〇後釋、隱は加久理《カクリ》と訓べし、古言には多く然云り、さて隱《カクル》とは、御殿《ミアラカ》の蔭に覆はれて、其内にましますをいへり、人に見えじとかくるゝにはあらず、中昔までも、雨によりたみのの嶋をけふゆけど名にはかくれぬ物にぞ有ける、我門に千尋ある蔭をうゑつれば夏冬たれかかくれざるべき、などいへる、皆その蔭におほはるゝよしなり、
 
安國 止 平 氣久 所知食 武 國中 爾《ヤスクニトタヒラケクシロシメサムクヌチニ》。
 
考云、この國中は、惣て國中をいふ也、
〇後釋、こは上に、水穗(ノ)國 乎 安國 止 平 久 所知|食《セ》 止 事依奉 伎とある、その天(ノ)下四方の國々の内になり、
 
成出 武 天之益人等 我《ナリイデムアメノマスヒトラガ》。
 
考云、古事記に、伊邪那美(ノ)命、人草一日(ニ)絞(リ)2殺(サム)千頭1、とのたまへれば、伊邪那岐(ノ)命、吾(ハ)一日(ニ)立(テム)2千五百産屋1、とのたまへり、これによりて、世の人は、死ぬるより、生るゝが多ければ、益人といふといへり、さて此人は、此國の人をいふなれど、そのもと天の神の生給ふよしなれば、天之とほめいふ也、此類下におほし、
〇後釋、かの伊邪那岐(ノ)命の詔ひしまゝに、世(ノ)中の人は、やう/\に多くなりもてゆく中に、或は國の亂(レ)によりて、戰(ヒ)にこゝら亡《ウセ》、或は疫病など、又もろ/\のわざはひなどにて、俄に多く亡《ウス》る事などもあれば、少《スクナ》くなるをりもあれども、古(ヘ)より永くわたして見るときは、やう/\に多くなりゆくこと也、さて凡て天之|某《ナニ》といふは、もと邇々藝(ノ)命の天降ましし始(メ)、天より持(チ)來つる物を云(ヒ)、又天の物にならひて造れる物、ならひてする事にいへるが、廣くなりて、必しも然らぬ物にも事にも、たゞほめていふこととなれる也、天之益人も然也、又思ふに、もと高天原の人草、漸に多くなるを、此國のも、多くなることの、高天原と同じけれは、いふにもあらむか、考に、そのもと天(ツ)神の生給ふよしなればといはれたるは、心得がたし、
 
過犯 家牟《アヤマチオカシケム》。
 
考云、けんは、けるらんの略なり、
〇後釋、もろ/\の罪條の中には、おのづからなる穢、又おのづからある災などもある、そは過(チ)犯(ス)とはいふべからざるに似たれども、こゝは、然くはしく事を分ていふべき所にはあらざれば、姑く過犯(ス)罪につきてもいふべく、又おのづからなる穢災なども、其身にこそ過犯したるにはあらね、他よりいへば、それも同く過犯せる也、上に所知食武《シロシメサム》云々、成出武《ナリイデム》云々 といへる、武《ム》は、後をかけたる辭なるに、こゝには家牟《ケム》といへる、家牟《ケム》は、過去《スギニ》し事をいふ辭なれば、かの武《ム》と相叶はぬが如くなれど、然らず、必かくあるべき語也、其故は、こゝはまづすべては、後の御世/\までをかけていへるなれば、牟《ム》といふべし、其中に此罪を過犯(ス)は、其間大祓の時々にあたりてその時迄に既に過犯したる罪をいふなれば、ゆくさきをかけていふ中ながらも、これは必(ズ)家牟《ケム》といふべきことわり也、但し祁流多流《ケルタル》などはいはずして、家牟《ケム》と疑ふは、すべては行さきをあらかじめいふ中なれば也、凡て古(ヘ)は、かゝる詞づかひも、くはしく分れてみだりならざりきかし、考に、けんを、けるらんの略也といはれたるは、意は違へるにもあらざれども、言は然らず、凡てけるけんらんなんなどの類、みなもとより別にして、各其意かはること也、然るをけんはけるらんの略也、きはけりの約也などいふたぐひ、たま/\叶へるが如くなれども、實は然らず、もしすべての辭を、かくさまに解《トカ》むとせむには、らんなんなどは、又何の略とかせん、けりけるは、又何の意とかせん、されば多くの中に、たま/\一つ二つとき得て、あたれる如く聞ゆるがありとて、何の益かあらむ、實はあたれるにはあらず、かくさまの辭、すべておの/\別にして、各其意あるこそ、言靈《コトタマ》の活用《ハタラキ》の妙なるにはあれ、
 
雜々罪事 波《クサグサノツミコトハ》。
 
後釋、罪《ツミ》は都々美《ツツミ》なれば、罪事《ツミコト》はつゝみ事也、猶此事、下に委く云べし、雜々は、種々《クサグサ》にて、即(チ)次なる天(ツ)罪國(ツ)罪を、まづ一つに合せて云也、
 
天津罪 止《アマツツミト》。
 
考云、次なる七つの罪は、須佐之男(ノ)命の、天にして犯し給ひし罪なる故に、此類の罪をば、後に此國人の犯せるをも、天津罪といふなり、
〇後釋、止《ト》は登弖《トテ》といふ意也、こゝは常にいひならへるよしを以ていふ故に、とてといふ也、といひてといはむが如し、考には、國津罪 止八とあるにならひて、こゝにも、止の下に八(ノ)字を加へられたれど、さては中々に意たがへり、本のまゝにてよろし、朝野群載なるにも、八(ノ)字はなし、
 
畔放《アハナチ》。
 
考云、阿《ア》はあぜの略也、そは田と田との間の界とし、又水を貯《タクハ》ふる料なるを、取放ちて、界をみだし、水をも湛《タタ》へしめぬ也、
〇後釋、考に、阿はあぜの略といはれたるは、本末たがへり、阿《ア》といふぞ本の名にて、あぜといふは、畔背《アゼ》なり、
 
溝埋《ミゾウメ》。
 
考云、溝は、遠く水を引て、田にかけむ料なるを、埋めて、水を引べきよしなからしむる也、うめは、うづめの略也、
 
樋放《ヒハナチ》。
 
考云、樋は、溝又池より水を引(キ)、或は溢るゝ時、もらさん料なるを、とり放ちて、旱にも溢にも、すべなからしむる也、
〇後釋、此樋は、溝にまれ池にまれ構へて、常には、板もて塞《セキ》て、水をたくはへ置て、其水を、田に引用ふべき時に、かの板のせきをば放つ事なるに、水の用なき時に、はなちもらして、田に水をあふれしめ、且(ツ)用ある時のたくはへを、失はしむるなり、
 
頻蒔《シキマキ》。
 
考云、しきは重也繁也、神代紀に是を、重播種子《シキマキ》と書り、垂仁天皇紀には、重波をしきなみと訓り、かくて物の種《タネ》をまくには、量あるを、重々《シキシキ》まくときは、たとひ生出ても、繁きに過て、實《ミ》ならざる也、
〇後釋、しきを、考に、繁也といはれたるはわろし、繁き意はなし、されば量あるをといはれたるも、かなはず、此しきは、たゞ重《カサ》なる意のみにて、一度まきおきたるうへへ、又重ねてまくをいふ也、
 
串刺《クシサシ》。
 
考云、神代紀に、素盞烏(ノ)尊(ノ)之田、亦有2三處1、號曰2天(ノ)※[木+織の旁]田《クヒダ》天(ノ)川依田《カハソヒダ》天(ノ)口鋭田《クチトダト》(此(レ)皆磽地、雨(フレバ)則|流《ナガレ》之、旱(ニハ)則焦(ル)之とあり、すさのをの尊の御田、かくある故に、大御神の御田をも、しからしめむとて、串を多く隱《カク》し刺《サシ》て、下立《オリタチ》がたからしむる也、※[木+織の旁]串同じこと也、泥中に※[木+織の旁]串の多くある田におりたてば、足を害《ソコナ》ふこと也、今も、某《ソコ》の田には、杭串ある也といひて、田人は心すれど、猶あやまりて、なやむたぐひ多し、〇同頭書云、神代紀一書に、素盞烏(ノ)尊、妬(テ)害2姉(ノ)田1、春(ハ)則廢2渠槽1、及埋v溝毀v畔、又|重播種子《シキマキシ》、秋(ハ)則|挿《サシ》v籤《クシ》伏v馬云々、これに挿《サシ》v籤《クシ》を、秋につけていへるは、文に春と秋とを對へていへるのみ也、古事記にも紀の本書にも、春秋分ていへることなし、又古語拾遺に、竊(ニ)往2其田(ニ)1、刺(テ)v串(ヲ)相爭(フ)、といへるも誤也、大御神の御田と、須佐之男(ノ)命の御田とは、異處なること、紀にその在所をしるせるにて、明らかなれば、※[木+織の旁]を立(テ)分て、界を爭ひ給ふべきよしなく、又紀に※[木+織の旁]田《クヒダ》とあるも、本より※[木+織の旁]ある田をいふ名にこそあれ、さらに※[木+織の旁]を刺(シ)て、爭ふをいふにあらず、
 
生剥逆剥《イキハギサカハギ》。
 
考云、古事記に、穿(テ)2其|服屋《ハタヤノ》之|頂《ムネヲ》1、逆2剥(ニ)天(ノ)斑馬(ヲ)1剥(テ)而|所墮《オトシ》入(ル)、とある是也、生剥とは、生ながら其皮を剥(グ)をいふ、逆剥も一つ事なるを、文の勢ひに、重ねいへる也、生剥の逆剥と心得ば、疑あらじ、然るを或人、逆剥を、死たる皮をはぐことといへるは、いかにぞや、凡古今、死たる獣の皮をはぐは常にて、罪とすることなければ、此罪の條には、いかでかいらむ、神代紀の本書には、たゞ剥2天斑馬(ヲ)1といひ、一書には生剥、一書には、古事記と同じく、逆剥とのみあり、逆剥もし死皮の事ならむには、いかでか生剥をもいはざらん、すなはち生剥を逆剥ともいふことしるし、然るに仲哀天皇記を始め、此大祓(ノ)詞、貞觀儀式などに、二つにいへるは、古文の常なる中に、此祝詞には殊に多く、末にも相似たる重ね言どもあるぞかし、
〇後釋、生剥を、世に伊氣波岐《イケハギ》とよむ、それもあしくもあらねど、なほ伊伎波岐《イキハギ》とよまむぞ、まさりたるべき、いけはぎといふときは、令《セ》v生《イカ》おきて剥(グ)意也、いけは、いかせの約まりたるなれば也、いきはぎといふときは、生《イキ》てあるを剥(グ)意也、いさゝか心ばへかはれり、逆剥とは、凡て獣の皮をはぐは、尻の方より、さかさまに頭の方へて剥(ギ)もてゆくゆゑにいふなり、
 
屎戸《クソヘ》。
 
考云、古事記に、於《ニ》d聞(シ)2看(ス)大嘗1殿《ミアラカ》u屎麻理《クゾマリ》散、とある是也、戸とは、家を惣ていへは、其齋殿を、屎屋にしたるよしにて、戸といへるか、されど戸は、借字に用ひたる例多ければ、屎處《クゾド》の意とすべし、虚をととのみいふことも、
多けれは也、〇同頭書云、詔戸《ノリト》置戸《オキド》などのたぐひも、たゞとと訓べき借字なり、
〇後釋、戸は借字也、久曾閇《クソヘ》と訓べし、閇《ヘ》は閇理《ヘリ》の理《リ》を省ける言也、かくさまの理《リ》は、省く例多し、日並知と申す御名を、ひなめしと申すがごとし、さて屎閇理《クソヘリ》とは、古事記に屎麻理《クソマリ》とあると同事にて、屎をするをいふ、和名抄に、痢(ハ)久曾比理乃夜萬比《クソヒリノヤマヒ》、また放屁(ハ)倍比流《ヘヒル》とある、比理《ヒリ》と閇理《ヘリ》と通音にて同言也、今の俗言にも、小き蟲などの、卵を生《ウミ》出して、物につけおくを、へりつくるといふも是也、さてこはもと、須佐之男(ノ)命の犯し給へるは、大嘗の殿を穢し給へるによりての罪なれば、此國土にして、人のうへにても、穢すまじき所を、此わざをして穢すを、罪とはするなるべし、此戸(ノ)字を、斗《ト》と訓て、古語拾遺をはじめ、みな其意に解《トケ》るは、ひがこと也、又考に、處の意とせられたるもわろし、罪の目《ナ》に、屎戸《クソド》屎處《クソドコロ》などのみいひては、聞えぬこと也、天(ツ)罪七つを擧たる、六つはみな放《ハナチ》埋《ウメ》蒔《マキ》刺《サシ》剥《ハギ》と、其なせるわざの言をあげて、罪の名とせれば、これも閇理《ヘリ》といふ、わざの言をいひてこそ、餘の例の如くにはあれ、又屎を久志《クシ》と訓るは、久曾《クソ》といふ言の俚《イヤシ》きを避《サケ》たるなれど、そは後の事也、古書には、久曾といふ言多く見えて、嫌ひたることなし、萬葉の歌にもあり、又師の、曾《ソ》を濁音によまれたるも、よしなきこと也、さて右七條の内、頻蒔《シキマキ》より下四條は、もとより體言に讀て、罪(ノ)名なれば、其例の如く、はじめの畔放《アハナチ》溝埋《ミゾウメ》樋放《ヒハナチ》の三條をも、體言によみて、罪(ノ)名とすべし、凡て用言にても、罪の名にいふときは、體言にいひなす例也、たとへば今の世にも、人ごろし火つけ關所やぶり、などいふいひざまのごとし、
 
許々太久 乃 罪 乎《ココダクノツミヲ》。
 
考云、右の七つの罪は凡にて、それのみならねば、こゝだくといふ也、此言は、仁徳天皇紀、太子(ノ)御歌に、伊羅那鷄區《イラナケク》、曾虚珥於望比傳《ソコニオモヒデ》、加那志鷄區《カナシケク》、虚々珥於望比傳《ココニオモヒデ》、萬葉に、許々婆久毛《ココバクモ》云々、曾許婆久毛《ソコバクモ》云々など、連ねいひて、此所其所《ココソコ》といふこと也、こゝそこといひて、物の多きことになるを、其一方を略きてもいへること、萬葉などにも多し、さて婆久《バク》は、婆加里《バカリ》の里《リ》を略き、加《カ》を久《ク》に通はせたるにて、其所許《ソコバカリ》此所許《ココバカリ》也、物を量り數ふる言には添いふこと、幾婆久《イクバク》苅婆加《カリバカ》などの類多し、さて婆久《バク》太久《ダク》音通へば、こゝだくともいへり、又こゝらそこらともいふ、らは等にて、是も數のおほきことをいふこと、右とひとし、さて又ばくだくと濁るは、言便也、
〇後釋、此言は、古書共に、こきだ、こきだく、こきばく、こきし、こゝば、こゝばく、こゝだ、こゝだく、又そきだく、そこば、そこらく、などさま/”\にいへるを、萬葉に字は、多く幾許と書り、物の數の多かるを、計《ハカ》らずして大よそにいふ言也、考にいはれたる説ども、あたれりやあたらずや、許《コ》とも曾《ソ》ともいへるは、此所其所《ココソコ》の意のごとくにも聞ゆれど、いかゞあらむ、又ばくは許《バカリ》とせられたる、是もさも聞ゆる如くなれど、古くこきし共見え、又だくとも多くいへれば、いかゞあらむ、さて又こゝばくとそこばくとを、萬葉につらねいへりといはれたるも、おぼえたがへられたる也、萬葉廿の卷に、そきだくとこきばくと、並べいへることはあれど、そこばくといふことは、凡て古書には見えず、そこばく、こゝら、などいへるは、今京になりての書ならでは見えず、さてこゝにここだくの罪といふは、大祓の時に求るに、右の類の罪共を、萬民の犯したるが多くあるをいふ也、天つ罪の條目の、なほ外にも多しといふにはあらず、さてこゝは、委くいはば、云々こゝだくの罪|出武《イデム》、それをば天津罪と宣別弖《ノリワケテ》、といふ意なるを、出武《イデム》といふ言をば、こゝには省ける也、國津罪のところに、出武とあるに准へて心得べし、
 
天津罪 止 法別 氣※[氏/一]《アマツツミトノリワケテ》。
 
考云、天皇の宣命して定め給ふを、のりといへり、
〇後釋、法は借字にて、宣別《ノリワケ》也、大祓の時に、民どもの犯したる罪どもを求めて、多く出たる中に、右の類の罪共をば、別にして、これ/\は天つ罪といひて分(ク)るをいふ、古事記に、神代に天照大御神の、某々は吾(ガ)子也、某々は汝(ガ)子也と、分(ケ)給へるをも、詔別《ノリワケ》給ふとあると同じ、考に、天皇の云々といはれたるは、法(ノ)字にはかなへれど、こゝにはいと疎《ウト》くして、かなひがたし、こゝはたゞ此事を行ふ者の、言《イヒ》て別《ワク》るにこそあれ、凡て人にいひきかするを、のるとはいふ也、さて天つ罪國つ罪と別ることは、實は一つにて、差別あるまじきことなれども、かの須佐之男(ノ)命に、祓を負せたるぞ、祓の起(リ)にてあれば、かの神の、そのかみ天にて犯し給ひし類の罪をば、此國にても、天つ罪と名けて、別(ケ)云(フ)也、さる故に國つ罪の方には、此|法別《ノリワケ》)といふ詞なし、心をつくべし、後世の私の本共には、國つ罪の方にも、宣別弖とあるは、事のこゝろをもわきまへざるみだりごとなり、
 
國津罪 止八《クニツツミトハ》。
 
考云、下つ國人の犯せるを別いふ也、
〇後釋、こは此國にしていふ言なれば、天つ罪をば別(ケ)云(フ)とも、國つ罪とはいふまじきことわりなれども、天つ罪を別(ケ)云(フ)につきて、それに對へて、其外の罪どもを、國つ罪とは姑くいふ也、止八《トハ》は、天つ罪の方には、止《ト》とのみい
ひて、こゝにはかくいへるは、まづ天つ罪を宣別《ノリワケ》て、さて國つ罪といふは、某々《コレコレ》といふなり、
    
生膚斷死膚斷《イキハダタチシニハダタチ》。
 
考云、生ながらこゝかしこに疵をつけて、人を殺し、又死たる人の體を傷ふをも、罪とせり、さて上の生剥逆剥は、こゝの言に對へて、文をなすとて、二つにいへるを、こゝは實に二つにて、かれとは異なり、〇同頭書云、賊盗律に、支2解(セル)人(ヲ)1者(ハ)、皆斬、子(ハ)徒三年、義解に、殺(ス)時(ニ)即支解(シ)、或(ハ)支解(シテ)而後(ニ)殺(ス)v之、皆同(ジ)、支解(ハ)入(ル)2不道(ニ)1、また同律に、判殘2害(シ)死屍(ヲ)1、【本注】燒焚支解(ノ)之類也とあり、右の中、尊長に於ては、惡逆に入る、
〇後釋、伊伎波陀多知《イキハダタチ》、斯爾波陀多知《シニハダタチ》と訓べし、生死を、いきのしのとよむは、言のさましらぬ謬訓《ヒガヨミ》也、又死を、なほしのと訓るは、しぬは、忌詞なる故なれども、もし此祝詞にても忌(ム)べくは、那保志乃《ナホシノ》と書べきに、たゞ死と書るは、これをよむには、忌(マ)ざりしことしるし、さて二つの斷《タチ》は、用言なれども、體言にして、罪(ノ)名として讀べきこと、既に天つ罪の處にいへる、畔放《アハナチ》などの例のごとし、さてこは、生《イケル》人にもあれ、死屍《シニカガネ》にもあれ、其|膚《ハダ》に疵をつくる穢(レ)を以て、罪とする也、穢を罪とすること、次に委(ク)云べし、人の身を傷《ソコナ》ふ惡行の方を以て、罪とするにはあらず、其疵を穢とする也、されば他《ヒト》に疵つくるのみならず、己が身に疵つくるも、同じ事也、又人に疵をつけたる者も、人につけられたる者も、共に穢なるべし、斷《タチ》とは、切るをいふ、今の世にも、いさゝかにても疵つくることを、手をきる、足をきるなどいふ、是なり、必しも切離《キリハナ》つことのみにはあらず、
 
白人胡久美《シロビトコクミ》。
 
考云、荷田(ノ)宇志【東麻呂】の、新羅人高麗人なり、といはれたるに依(ル)べし、故今本の美(ノ)字を、麗に改めつ、麗と美とは、草書の似たれば、後に誤れる也、又高麗を高句麗《コクリ》といへることは、古書に多し、さてこは、次の母子相※[(女/女)+干]事へ係ていへる也、皇朝には、母子相※[(女/女)+干]せし事などは、かりにも聞えぬを、古(ヘ)新羅高麗人の、多く參來て、住居(リ)し中には、さる※[(女/女)+干]おほかりけんこと、かの國人の、よろづにいやしく、わろかりしよし、紀などに見えたるを以て、思ふべし、されば仲哀天皇の崩(リ)ましし時の大祓にも、此罪を求められ、此祝詞にも擧たるなるべし、或説に、推古天皇紀に、百濟人の、面身斑白なるが、來しよし見え、和名抄に、白※[病垂/殿](ハ)、之良波太《シラハタ》、※[病垂/息]肉(ハ)、古久美《コクミ》とあれば、惡疾也、さて疾も罪より起るよしなる故に、こゝに擧(グ)といへり、此説、さもあるまじきにもあらねど、次の犯2己母1云々の事ども、皇朝人にはなきこと也、他の罪は、皆皇朝に有(ル)事なるに、是のみなき事を擧むや、さればこは、新羅高麗人の參來居たるがなせる罪とせんこそ、穩には有けれ、〇同頭書云、令(ノ)集解に云々、又云、仲哀天皇の御時、いまだ韓國に通はねば、いかゞと思ふは、なづめり、既に須佐之男(ノ)命、かの國に渡り給ひ、崇神天皇の御時も、異國人のまう來し事見えたれば、紀を偏に思ふべきにあらず、ましてかの仲哀天皇の御時に見えたるは、後を以てさかのぼらせて書るものとこそおばゆれ、又云、皇朝には、母をたふとむこと、他國と異也、故同母を兄弟《ハラカラ》とし、異母をば兄弟とせず、輕(ノ)太子の、同母兄弟《ハラカラ》に通《タハケ》給ひしを、いみしき罪として、太子を廢して、嶋に放ち奉られしばかりのことなるを、まして母子相※[(女/女)+干]事は、いかでかあらむ、すべて皇朝の古書には、事を忌(ミ)隱せることはなきに、母を※[(女/女)+干]せしといふことは、かりにも見えざるを、よくおもへ、
〇後釋、白人は、和名抄に、白※[病垂/殿](ハ)、人(ノ)面及身頸皮肉、色變(ル)v白(ニ)云々者也、之良波太《シラハダ》、とある物の類、其外世に白子《シロコ》といふ物などのたぐひをいふべし、胡久美《コクミ》は、同書に、※[病垂/息]、寄肉也、※[病垂/息]肉和名|阿萬之々《アマシシ》、一云|古久美《コクミ》、とある是也、阿萬之々《アマシシ》は贅肉《アマリシシ》也、又其次に擧たる、附贅懸《フスベサガリ》疣《フスベ》なども、同じ類也、かくて此類は共に、きたなき物なる故に、穢を以て罪とする也、かの推古天皇の御世に參來たりし、百濟人の斑白なりしも、白人のたぐひなるを、そこに惡(ミテ)3其(ノ)異(ナルヲ)2於人(ニ)1、欲(ス)v棄(ムト)2海中(ノ)嶋(ニ)1、とある如く、さる類は、きたなき物にて、世の人も惡み、まして神はにくみきたなみ給ふ也、書紀履中(ノ)卷に見えたる、淡路嶋に坐(シ)ます伊弉諾(ノ)神の、飼部《ウマカヒベ》の黥《メサキ》の疵の※[自/死]氣《クサキ》を、惡み給ひし事などをも思ふべし、さて祓によりて、白人胡久美の類の、直るにはあらざれども、祓つ物を出して祓へば、その穢の清まる也、考に美(ノ)字を麗と改めて、新羅高麗の人とし、次の己母犯罪云々へ係て解れたるは、いみしきひがこと也、まづ貞觀儀式には、故求彌《コクミ》と書れたる此彌(ノ)字をも、共に麗の誤とはいひがたかるべし、そのうへ大神宮延暦(ノ)儀式帳には、生秦斷《イキハダタチ》、死膚斷《シニハダタチ》、己(ガ)母犯(セル)罪、己(ガ)子犯(セル)罪、畜犯(セル)罪、白人古久彌《シロビトコクミ》、川入火燒《カハイリホヤケノ》罪|乎《ヲ》、國|都《ツ》罪|止《ト》定(メ)弖《テ》と、己(ガ)母犯云々は、別に上にあるを、かの説の如くにては、いかに解(ク)べきぞ、己(ガ)母犯罪云々は、白人胡久美に關《アヅカ》らざること明らけきをや、皇朝に母子相※[(女/女)+干]せる事は、かりにも聞えずといはれたるも、いはれぬこと也、下ざまの者の中に、さる事有(リ)とても、ついでなきに、ことさらにさる民間《シモジモ》の細事までを、公の紀にしるさるべきにあらざれば、紀などに見えずとて、世にさる事なしとは、いかでか定めむ、中昔などにも、己が女子《ムスメ》を犯せし事なども見え、今の世にも、まれ/\には、さるわざする者も、なきにはあらず、上代にも有けむこと、此罪條に擧られたるにて知べし、又頭書に、輕(ノ)太子の御事を引て、いはれたるも、中々の事たがひ也、其故は、そのかみ太子とまします御身にすら、さる犯し有しには、まして民間《シモザマ》には、さるたぐひの犯し、くさ/”\有けむこと、おしはかるべし、又仲哀天皇の御時云々は、古事記に、其時の大祓の所に、上通下通婚《オヤコタハケ》云々、と見えたること也、そのかみ新羅高麗人は、參居るべき世にあらぬを、とかくたすけていはれたるは、いたくしひごと也、さて右に引たる儀式帳に出たる、川入火燒《カハイリホヤケノ》罪も、穢なり、或人は是をも、川いれ火やきと訓て、人を川に入れ、火に燒て殺す、惡行の事に解るは、例のしひごと也、
 
己母犯罪《オノガハハオカセルツミ》。己子犯罪《オノガコオカセルツミ》。
 
考云、上を※[(女/女)+干]し、下を※[(女/女)+干]すなり、
〇後釋、古事記仲哀天皇(ノ)御段、大祓の所に、上通下通婚《オヤコタハケ》とある是也、さてたゞ母たゞ子といはずして、二つ共に、己《オノガ》といふは、次の母(ト)與《ト》v子犯罪云々の母子とは、同じからざることを顯はせる也、さて女に婚《アフ》ことを、犯すといふは、皇國言とも聞えず、から書によれる言なるべきに、こゝにかくいへるはいかゞと、一わたりは思はるれども、猶よく思ふに、然らず、こゝの五つの犯し共は皆、つゝしみて爲《ス》まじきわざなるを、つゝしまず大よそにするなれば、もとより犯すといふべきことなり、つねにすべて婦人にあふことをいふとは、こゝろばへことなり、
 
母與子犯罪《ハハトコトオカセルツミ》。
 
考云、他人の母を※[(女/女)+干]し、又それが子を※[(女/女)+干]す也、
〇後釋、先(ヅ)一人の女に娶《アヒ》て、又其女の、さきに他人に嫁《アヒ》て、生《ウミ》たる女子のあるをも、後に犯す也、母とは、其女子に對へていひ、子とは、其母に對へていへるにて、己が母己が子にはあらず、上條に己《オノガ》といへるにて、是は己がにはあらざることあらは也、さて其母にまれ子にまれ、一方に娶《アフ》は、常なるを、母と子とつらねて娶《アフ》ぞ、犯しなる、考に、他人の母といはれたるは、己が母と別《ワカ》むとてなるべけれど、まぎらはしきいひざまなり、他人の母といひては、人の母たる婦人に娶《アフ》を、罪とする如く聞ゆる也、外に子ある婦人に娶《アフ》は、常に多き事なるを、何かそれを罪とはせむ、又その意にては、又それが子を犯すも、事重なりて、二つの罪となる也、
 
子與母犯罪《コトハハトオカセルツミ》。
 
考云、先(ヅ)或女子を※[(女/女)+干]て、又其女子の母を※[(女/女)+干](ス)也、上なるとは、上下のたがひ也、さてこゝの犯(ノ)字、式の今(ノ)本には、何れもみな、子(ノ)字母(ノ)字畜(ノ)字の下にあるは、理(リ)なし、貞觀儀式大嘗祭(ノ)卷に依て、改めつ、
〇後釋、こは考にいはれたるが如し、さて上なるは、先(ヅ)母に娶《ア》へるは、犯(シ)にあらずして、後に其子をもつらねて※[(女/女)+干]《タハク》るが犯(シ)也、こゝは、先(ヅ)子に娶《ア》へるは、犯にあらずして、後に其母にも※[(女/女)+干]るが犯也、されば此二條は、たゞ母と子と、先後のたがひのみなれば、合せて、母與子犯とのみ、一(ツ)いひても有べきを、かく分ていへるは、古文のあやにて、母と子とを、下と上とにおきかへたるのみにて、其事の、二つによく分れて聞ゆるは、後(ノ)世の人の及ばざる文也、心をつくべし、儀式帳には、此二條は省《ハブ》けり、考に、犯(ノ)字を、皆上へうつされたるは、あぢきなし、貞觀儀式に、上にあるは、漢文ざまに書れたる也、此祝詞に下にあるは、皇國言のまゝに書れたる也、そをいかでか理(リ)なしとはいはむ、古事記にも、某婚と、婚(ノ)字は皆下に書き、此祝詞の中にも、畔放《アハナチ》溝埋《ミゾウメ》など、放(ノ)字埋(ノ)字、皆下にあるを、これらには心つかれざりしにや、もし犯(ノ)字を改(メ)てうつさば、かの放(ノ)字埋(ノ)字などをも、皆下上にせずは有べからず、
 
畜犯罪《ケモノオカセルツミ》。
 
考云、古事記には、馬婚牛婿鶏婿犬婚などあるを、こゝには略きていへるか、右の犯己母罪云々の文についでては、こゝも、此罪たゞ一ついひては、ことたらはず聞ゆれば、今一つ犯v禽罪などの有しが、落たるなるべし、
〇後釋、畜は氣母能《ケモノ》と訓べし、和名抄に、獣(ハ)和名|介毛乃《ケモノ》、畜(ハ)和名|介太毛乃《ケダモノ》とあるは、相誤れるなるべし、書紀神代(ノ)卷に、同じつゞきの文に、畜産とあるを、けものと訓(ミ)、獣とあるを、けだものと訓るぞ、正しかるべき、皇極(ノ)卷又天武(ノ)卷に、六畜とあるをも、むくさのけものと訓り、されば畜はけもの、獣はけだもの也、後ながら源氏物語帚木(ノ)卷に、から國のはげしきけだものとあるも、虎にて獣也、古今集長歌に、藥けがせるけだもののとよめるは、實は鷄犬なれども、雲にほえけむとよめれば、此歌にては犬也、然れば畜ながら、是も獣の方にとりてぞけだものとはよみけむ、さてけだものは、毛津物《ケツモノ》の意なるべし、古書に毛《ケ》の和物《ニコモノ》毛《ケ》の麁物《アラモノ》ともいへり、けものは、飼物《カヒモノ》の加比《カヒ》をつゞめて伎《キ》なるを、氣《ケ》といへる也、伎《キ》と氣《ケ》とは、殊に親しくて、常に通ふ音也、毛物《ケモノ》の意にはあらじ、六畜は、人の家に飼《カヒ》おく物なれは、飼物といふ也、然るにけだものとけものと、似たる名なる故に、まぎらはしきぞかし、さて此犯しも、上代より有しなるべし、中昔にも、應和二年、橘(ノ)泰胤といひし人の家に、下男の犬を犯せし事、日本紀略に見えたり、此外にも此類の事、何れの書にか有しやうにおぼゆ、から書にもある也、考に、此罪一ついひては、ことたらはず聞ゆ、といはれたるも、一わたりはさも聞ゆれど、前後の罪條、かならずしもこと/”\く二つづゝ對あるにもあらざれば、こゝも一つ落たるにはあるべからず、儀式に出たるも、こゝと同じこと也、犯禽罪など落たるなるべし、といはれたるも、わろし、畜《ケモノ》といふ内に、鷄もあれば也、
 
昆蟲 乃 災《ハフムシノワザハヒ》。
 
考云、こは犯罪の條なれば、蛇を祝て災をなす類をいふなるべし、後世にも、さる事有(リ)といふ也、然れば下なる畜仆の上についづべきを、こゝにあるは、文の亂れたる也、右に引る貞觀儀式に、高津神高津鳥の二つはなくて、此昆蟲の災より、畜仆とつゞきたれば、此詞は、上の白人胡久麗よりこなた、亂れて、或は文前後になり、或は字誤り、或は落などせしを、後によくも考へずして、かくは書るなるべし、神代紀一書に、爲(メニ)v攘(ハム)2鳥獣昆蟲(ノ)之災異(ヲ)1、則定2其禁厭之法(ヲ)1といひ、大殿祭(ノ)詞にも、波府《ハフ》蟲|能《ノ》禍といひ、古事記に、大蛇の比禮、蜂の比禮などもあれど、それは皆おのづからある事なれば、こゝの犯罪にはかなはず、
〇後釋、昆蟲は、波布牟志《ハフムシ》と訓(ム)、雄略天皇の御歌にも、波布牟志母《ハフムシモ》とあり、蟲ははふ物なる故に、すべて蟲を然云也、鳥を飛(ブ)鳥といふに同じ、なほ又、雨をふる雨、花をさく花といふ類も、同じこと也、さて是より三條は、災を以て罪とする也、其よしは下に云べし、さて此蟲の災の事は、書紀神代(ノ)卷に、昆蟲の災異を禁厭《マジナヒヤム》といふ事見え、大殿祭(ノ)詞にも、はふ蟲の禍なくと見え、十種の神寶の中に、蛇(ノ)比禮蜂(ノ)比禮などのあるも、それを拂はむ料也、上代には、民のすみか、野山にまじりて、かりそめなるかまへなりしかば、蟲の害多かりしなるべし、又大殿祭の祝詞にしも、擧られたるを思へば、上代には、たゞなべて此害の多かりしにも有べし、今の世とても、蝮蜈蚣蜂などにさゝれて、なやむ事無きにはあらず、考の説は、かなはず、もし蟲を以て、人のために災をなす事ならば、云々《シカシカ》せる罪といはでは、聞えず、たゞ某《ソレ》の災といふは、その災にあふことをいへる詞にこそあれ、そも/\世々の物しり人、たれもみな、罪(ノ)字になづみて、都美《ツミ》といふことを、たゞ惡行とのみ心得るから、此罪の條々の中に、解得《トキエ》がたき事共有て、くさ/”\の強説《シヒゴト》の出來る也、此あたりを、文の亂れたるといはれたるも、あらず、亂れたることもなく、誤れることもなく、落たる事もなし、都美《ツミ》といふは、惡行のみにはあらず、穢も災も都美《ツミ》なることをさとるときは、いさゝかも疑なく、皆よくきこえたることなるをや、
 
高津神 乃 災《タカツカミノワザハヒ》。
      
考云、履中天皇紀に、有(リ)d如(ク)2風(ノ)之聲(ノ)1呼(ハルコト)c於大虚(ニ)u曰(ク)、劔刀太子王《ツルギダチヒツギノミコヤ》也、亦呼曰(ク)、鳥往來羽田之汝妹《トリカヨフハダノナニモ》者、羽狹丹葬立往《ハサニハフリタチイヌ》、亦曰(ク)、狹名來田蒋津之命《サナクタコモツノミコト》、羽狹丹葬立往《ハサニハフリタチイヌト》也、俄(ニ)而使者忽來(テ)、曰(ス)2皇妃薨《ミメスギマシヌト》1云々、天皇悔(テ)d之不(シテ)v治2神(ノ)祟崇(ヲ)1、而亡c皇妃(ヲ)u、更(ニ)求(メタマフ)2其咎(ヲ)1、或(ル)者(ノ)曰(ス)d車持(ノ)君行(テ)2於筑紫(ノ)國(ニ)1、而悉校2車持部(ヲ)1、兼2取(レリ)充v神(ニ)者(ヲ)1必是(ノ)罪(ナラムト)u矣、天皇則喚2車持(ノ)君(ヲ)1、以推問(タマフニ)之、事既實焉、因以數2之罪(ヲ)1曰、爾《イマシ》雖2車持(ノ)君(ト)1、縱(ニ)檢2校天子(ノ)之百姓(ヲ)1、罪一也、既(ニ)分2寄(タル)于神祇(ニ)1車持部(ヲ)、兼(テ)奪取之罪二也、則負2惡解除善解除《アシハラヒヨシハラヒヲ》1、而出(テ)2於|長渚《ナガスノ》崎(ニ)1而令2祓禊1云々、これこゝに合たり、此類なほ有べし、〇同頭書云、舒明天皇紀に、大星從v東流v西(ニ)、有v音似v雷(ニ)、時人曰(ク)流星(ノ)之音(ナリ)、亦曰(ク)地雷(ナリ)、於是僧旻(ガ)曰(ク)、非2流星(ニ)1、是(レ)天狗也、其(ノ)吠(ル)聲似v雷(ニ)耳、これらは高都鳥といふべきか、
〇後釋、高《タカ》とは空をいふ、古事記に、高往鵠高行《タカユクタヅタカユク》や隼《ハヤブサ》、萬葉四に高飛鳥《タカトブトリ》、などいへる皆、そらゆくそらとぶといふことにて、たゞに高くといふにはあらず、次なる高津鳥の高も同じ、さて高津神とは、雷をいふなるべし、又世俗に天狗といふ物にとらるゝなども、高津神の災といふべし、虚空《ソラ》を飛(ビ)ありく物なれば也、此條も、これらの災にあふを罪とする也、考に、履中紀の事を引れたるは、さらにあたらぬこと也、これこゝに合たりといはれたるは、解除《ハラヒ》を負せたるによりてなるべけれど、それも心得たがひ也、かの車持(ノ)君に、解除を負せ給ひしは、縱(ニ)檢校云々、既(ニ)分寄云々の、二(ツ)の罪に因(リ)てにこそあれ、それを高津神の災とすべきよしさらになし、かの大虚《オホソラ》に云々と呼ひしは、たゞ皇妃《キサキ》の薨給ふことの、さとしのみにこそあれ、此事によりて、薨給へるにはあらざるをや、そも/\其時の事は、事持(ノ)君がしわざによりて、筑紫なる神の祟《タタ》り給ひて、皇妃の薨給へるこそは災なれ、高津神にはいさゝかもよしなき事也、又頭書に引れたる事も、さらにあたらず、
 
高津鳥 乃 災《タカツトリノワザハヒ》。
 
考云、却2祟神1祭(ノ)詞に、天稚彦 毛、反言《カヘリコト》不v申 弖、高津鳥(ノ)殃《ワザハヒ》 爾 依 弖、立處《タチドコロニ》身亡 支とある是にて、かの天稚彦も、みづからの罪によりて、かくの如し、然れども此類の怪は、それと定めてはいふべからず、されば大殿祭(ノ)詞に、天乃血垂飛鳥などもいへるぞ、事の意を得たる、古人の文なる、惣ていはば、仲哀天皇の崩給ふは、神の詔に隨ひ給はぬのみならず、民の罪より起れりとして、其罪を求出して、大祓せさせ給ひ、天武天皇紀などに、怪異に依て、大祓有し、などを以て心得ば、たりなむ、
〇後釋、高つ鳥は、右にいへる如く、空飛(ブ)鳥といふ意にて、たゞ鳥の事也、さて此災は、大殿祭(ノ)詞に、天 乃 血垂《アマノチダリ》、飛鳥 乃 禍無 久《トブトリノワザハヒナク》とある、即(チ)是にて、血垂《チダリ》は、應神天皇の御歌に、もゝちだる家庭《ヤニハ》とよませ給へる、ちだると、一(ツ)にて、古事記上卷には、登陀流《トダル》と有(リ)、そは上代人の家の屋根の、竈處《カマド》の上の、煙を出す處の名也、されば其上(ヘ)を飛(ビ)渡る諸の鳥の、毒などある糞、又さらでも毒《アシキ》物など咋《クヒ》來て、竈の上へ落す事などありて、其毒にあたるたぐひ、これ高浮鳥の災也、血垂《チダリ》の事、猶委くは、古事記傳十四の卷にいへり、考(ヘ)見て、上代のさまを知べし、後世の心をもて、疑ふことなかれ、考の説、趣意たしかに聞取(リ)がたし、かの天若彦の事にあてて説(キ)ては、かなひがたくは思はれながらも、高津鳥といふにつきては、かの故事も、捨《ステ》がたく思ひて、引出られたるなれど、これは其事をさしていふにはあらず、かの天若彦の身亡《ミウセ》たるも、高津鳥の災とはいふべけれど、かの類は、世(ノ)中にはかつて無き事なれは、こゝの罪條に擧べき事にあらず、天つ罪とは趣ことなれば也、又かの天若彦は、みづからの罪によりて、此災にあへれば、こゝによくかなへりと思ふは、例の罪(ノ)字になづみて、必(ズ)惡行と心得るからのひがこと也、さて又高津鳥といふは、たゞなべて空をとぶ鳥のことなるを、後世には聞なれぬ稱なる故に、たれもかの神代の無名雉に限れる名のごとく思ふめり、かの雉も、鳥なる故に、高津鳥(ノ)殃《ワザハヒ》とはいへるにこそあれ、又考に、怪異によりて大祓有し事などを引れたるも、たがへり、そはこゝにはよしなき事也、其故は、こゝは罪の條目にこそあれ、怪異の條目にはあらず、怪異は、罪によりておこるとはいへども、その罪は罪、怪異は怪異にて、別なるに、其起りの罪を求る祓の條目に、その罪をは擧ずして、末の怪異を擧(グ)べきよしなければ也、
 
畜仆 志《ケモノタフシ》。
 
後釋、畜などの死ぬるを、多布流《タフル》といふ、斃殪※[殪の壹が僵の旁]などの字を書り、多布志《タフシ》は令《シ》v斃《タフ》にて、殺すをいふ、さてこれは、其罪の目《ナ》にいへるなれば、世に人を殺したる者を、人ごろしといふたぐひに、體言によむべきこと、上にいへる例の如し、こはいかなるわざにか、さだかならねど、思ふに、上代人の家に養《カ》へる、牛馬などを、忽(チ)に斃《タフ》れしむる術など有て、おこなひし事ぞありけん、そは其|主《ヌシ》を、恨みいきどほる事など有て、仇《アタ》なふしわざ也、さればこは、次の蠱物と同じ類の罪とすべし、書紀神代(ノ)卷に、大國主(ノ)神と少彦名(ノ)神と、爲(メニ)2顯見蒼生及畜産《ウツシキアヲヒトクサマタケモノノ》1、則定(メタマフ)2其|療《ナホス》v病(ヲ)之方(ヲ)1とも見えて、上代には、畜をも、重くせしこと也、或説に、これを鬼魅魍魎の類、人家の畜を、忽に病斃《ヤミタフ》れしむる事有(リ)、土俗これを牛馬の疫神といふといへり、これもさもあるべきことなれども、もし然らば、民家の災にて、上なる災の類なるを、さは聞えず、これは次なる蠱物と、一つたぐひと聞えたれば、人のなすわざとこそおぼゆれ、
 
蠱物爲罪《マジモノセルツミ》。
 
考云、畜仆志より、引つゞけて心得べし、後世もある、狗神《イヌガミ》といふまじ物なるべし、筑紫又四國などには、今も有といへり、こは皇朝にはなかりしわざにて、本外蕃より來れる故に、西南の國に有也、是も此詞の、いと上代の文にはあらざる、一の證なり、〇同頭書云、飢たる犬をつなぎおきて、味物を見せながら、喰はしめずして、せちに欲する時に、其首を斬れば、たちまち其首とびて、その食物をはむ、その首をいそぎ取て、器にいれて、祝るといへり、蛇をも然すと也、土佐(ノ)國にては鼬鼠《イタチ》をも爲《ス》とぞ、
〇後釋、字鏡に、蠱(ハ)萬自物《マジモノ》とあり、まじなひ物の意にて、人をのろひ詛《トコ》ふとて、構ふるわざ也、中昔の書どもにも、此まじわざの事、をり/\見えたり、上代より有し事なるべし、からぶみにも、蠱毒の事、多く見えて、その造方などをもしるせり、まじ物の罪といはずして、これにのみ、爲《セル》といふ言を加へていへる故は、たゞまじ物の罪とのみにては、人にまじ物せられたるも、災にて、罪なるに、まがふが故也、さて畜仆志とこれと、一類にして、此二つは、上なる※[(女/女)+干]《タハケ》の類とは、罪のさま異なるが故に、中間に災の類の罪をへだてて、こゝには擧たる也、考に、畜仆志よりつゞけて、一つにせられたる、己もさきには、然思ひつれど、よく思へば、かれは別に一つ也、その故は、罪の名を擧るに、其|爲方《シザマ》までを、擧(グ)べきにあらず、其|爲方《シザマ》はいかにもあれ、蠱物爲《マジモノセル》にて、こと足《タリ》ぬべし、又かの畜仆志、もし此まじ物に係《カカ》れる事ならば、獣とこそいふべきに、畜といへるも、別事とこそ聞ゆれ、さて又此わざを、犬神の事ならんといはれたる、それらもまじ物の類の一つにはあれど、必しもそれにはかぎるべからず、然れば皇朝になかりし事といはれたるも、然らず、まじわざは、こゝにも上代より有し事なるべし、されば此罪條のあるを、此祝詞の、上代の文にあらざる、一(ツ)の證也といはれたるも、あたらぬこと也、
 
許々太久 乃 罪出 武《ココダクノツミイデム》。
 
考云、おのづからも顕れ出(デ)、又古事記にいへるごとく、求め出すも有べし、
〇後釋、こは上にもいへる如く、罪の條目の多きをいふにはあらず、大祓の時、國民共の犯したるが、多く出むといふ也、出武《イデム》とは、古事記に、種々求《クサグサマギテ》とあるごとく、大祓を行はれんとして、まづ國人どもの犯したる罪を、探り求るまゝに、多くの罪共の、顯はれ出來むといふ也、今の俗語に、吟味すれば、段々出《デ》てくるといふ心ばへ也、古(ヘ)人は、心|直《ナホ》かりしかば、身に犯しある者は、問はるれば、大かた隱さずして、顯はし申(シ)けむ、然顯はし申(シ)て、祓つ物を出して、大祓にあへば、其罪は除《ノゾ》こり清まりし也、こは上代の祓のまことの趣也、然るをやゝ後になりては、犯しの有(リ)無(シ)を問《トフ》ことはなくて、たゞおしなべて、各皆祓つ物を出させて、其中に犯しある者も、それにて清まりしなり、然るをいよ/\後に至りては、然祓(ツ)物をおの/\出す事も、やみぬと見えて、たゞそのまねびのかたばかりになれりし也、
上件國つ罪どもの條々、中むかしよりこなた、世々の物しり人たち、古(ヘ)のこゝろことばを得ざる故に、あらぬすぢに、解《トキ》たがへたることのみおほし、故(レ)今わきまへ云べきこと、種々有(リ)、まづ都美《ツミ》といふは、都々美《ツツミ》の約まりたる言にて、もと都々牟《ツツム》といふ用言なり、都々牟《ツツム》とは、何事にもあれ、わろき事のあるをいふを、體言になして、都々美《ツツミ》とも都美《ツミ》ともいふ也、されは都美《ツミ》といふは、もと人の惡行《アシキワザ》のみにはかぎらず、病(ヒ)もろ/\の禍(ヒ)、又|穢《キタナ》きこと、醜《ミニク》きことなど、其外も、すべて世に人のわろしとして、にくみきらふ事は、みな都美《ツミ》也、萬葉の歌に、人の身のうへに、諸のわろき事のなきを、つゝみなくとも、つゝむことなくとも、つゝまはずともいへるは、今の世の俗言に、無事《ブジ》にて無難《ブナン》にてといふ意にて、即(チ)都美《ツミ》なくといふこと也、中昔の物語書などに、人のかたち、又心ばへなどの、わろきところなきを、つみなしといひ、又萬の事の、わろきながらも、さてゆるさるゝを、つみゆるさるといへるなども、惡行にはあらぬことを、都美《ツミ》といへるは、古意の殘れりし也、又せまほしく、いはまほしき事を、はゞかりて、えせずえいはぬを、つゝむとも、つゝしむともいふ、是も、然すればわろく、いへばわろき事として、つゝみはゞかるなれば、もと同意也、但しこれは、轉《ウツ》りたる末の意にて、本はわろき事のあるをいふより出たり、つゝみはゞかるを本の意として、つゝみはゞかるべき事なる故に、わろき事をも、つゝみといふと心得むは、本末たがふべし、さて右のごとくにて、都美《ツミ》といふは、惡行のみにはかぎらざるを、罪(ノ)字は、惡行一つにつきて、あてたる字なれば、都美《ツミ》てふ言の、すべての意にはあたらざる也、されば此祝詞にあげられたる條々も、罪(ノ)字には、かゝはるまじきことなるに、世々の物しり、たゞ此字にのみなづみて、都美《ツミ》てふ言の本の意を考へず、ひたすら惡行とのみ心得たるから、解得《トキエ》ざること多くして、くさ/”\強《シヒ》たることをのみいひあへる也、さて右のごとく、世に人のわろき事として、にくみいとふたぐひは、みな都美なれば、これに擧たる條々にも、穢(レ)と※[(女/女)+干]《タハケ》と災と惡行と、種々の都美あり、其中に、穢災などは、おのづから有(ル)事にて、ことさらに犯す罪にはあらざれども、世ににくみきらひて、わろき事なれば、これらも罪也、然るに諸の注釋どもに、此意をえしらずして、白人胡久美など、又くさ/”\の災にあふなども、みな惡行をなせるむくひ也と解《トキ》なせるは、いと物遠《モノトホ》くして、いみしき強説《シヒゴト》也、さて此國つ罪の條々、生膚斷より、胡久美までは、穢を以て罪とする也、己母犯より五條は、※[(女/女)+干]《タハケ》也、昆蟲の災より三條は、災にあふを以て罪とする也、末二條は、惡行也、かくの如く類を分て、次第に擧たり、さてかく四種ある中に、祓の要は、惡行をば主とせず、穢をもて第一の罪とす、神祇令に、凡散齋(ノ)之内云々、不(レ)v得2弔(ヒ)v喪(ヲ)問(ヒ)v病(ヲ)、食(フコトヲ)1v宍(ヲ)、亦不(レ)v判(セ)2刑殺(ヲ)1、不(レ)v決2罸(セ)罪人(ヲ)1、不(レ)v作(サ)2音樂(ヲ)1、不(レ)v預(ラ)2穢惡(ノ)之事(ニ)1、また貞觀儀式(ノ)大嘗(ノ)卷にも、可(キ)v忌(ム)事六條、弔(ヒ)v喪(ヲ)問(ヒ)v疾(ヲ)、判(シ)2刑殺(ヲ)1決2罸(シ)罪人(ヲ)1咋(ス)2音樂(ヲ)1事云々、言語(ノ)事、【死(ヲ)稱2奈保留(ト)1云々、】預(リ)2喪産(ニ)1、并(ニ)觸(ル)2雜畜(ノ)死産(ニ)1事云々、預(ル)2穢惡(ニ)1事、行(フ)2佛(ノ)法(ヲ)1事、擧哀并(ニ)改葬(スル)事、とあるを以て思ふべし、此中(チ)おほくは穢にて、惡行は一つもなし、又右の預(ル)2穢惡(ニ)1事の本注に、祓(ノ)詞(ニ)所云《イハユル》、天(ツ)罪國(ツ)罪(ノ)之類(ハ)、皆神(ノ)之所v穢(トスル)所v惡《ニクム》也とある、これにて穢の都美《ツミ》を主《ムネ》とすることを、思ひ定めてさとるべし、又かく穢を罪とするに准へて、おのづからある災も、又罪なることをもさとるべし、又|※[(女/女)+干]《タハケ》の類をば、下なる畜仆(シ)蠱物と、つゞけては擧ずして、中に災の類をへだてて別に擧たるを思ふに、こはひたぶるに惡行の方をとるにはあらで、別に故有て、祓ひ清むべき罪ならん、もしくは是も、穢となるにはあらざるか、そも/\惡行の罪を擧むには、猶外に重き罪はあまた有(ル)事なるに、わづかに十條あまりの中に、※[(女/女)+干]の類ばかりを五つ擧(ゲ)、古事記の仲哀天皇の段に見えたるにも、國つ罪五條を擧たる、皆※[(女/女)+干]にして、他罪はなく、又※[(女/女)+干]の類にては、人の妻を犯したらむなどは、殊に重き罪なるべきに、かれにも是にも、そをば擧ざるなどを以て思ふにも、かにかくに惡行のかたをとるにはあらざるにや、又畜仆蠱物は、まさしく惡行をとれりとは聞ゆれど、これはた別に故あるにや、又人を傷《ソコナ》ふ罪は、猶外にも、くさ/”\重きが有べきに、殊に畜仆蠱物をしも擧たるも、故あるべきにや、されは祓に擧(グ)る罪の條目どもは、後(ノ)世の心を以て、ゆくりなくたゞ惡行とのみ心得ては、たがふこと也、上(ノ)件のおもむきどもをもて、つら/\考ふるに、まづ上代に、もろ/\の罪を治むるに、刑と祓と有て、刑《ツミナ》ふべき罪と、祓を負すべき罪との異《カハリ》ありけむか、その異《カハリ》は、或は重きは刑、輕きは祓にやと見ゆる事もあり、又その重くて刑《ツミナ》ふべきを、宥《ナダ》めて、重き祓を負せられたりと見ゆるも有(リ)、また輕き重きにはかゝはらず、罪の色《シナ》によりて、或は刑ひ、或は祓を負せたりと見ゆることもあり、又|神事《カムワザ》にかゝれる罪は、重きにも祓を負せ、又神事ならねど、神の祟《タタリ》などによりても、其罪をば、祓を負せられたりと見ゆ、これらの事、史に見えたる上代の跡どもを、考へわたして、知(ル)べき也、然れば此大祓に擧られたる條目どもも、諸の罪の中にて、刑《ツミナ》ふべき罪にはあらで、必(ズ)祓ひ清むべき罪のしな/”\にぞありけんかし、然るにやゝ世くだるまゝに、刑のかたしげくなりて、祓を負することは、漸にすくなくなりもてゆきて、中昔に至りては、祓の法は、たゞ神事に預れることにのみ用ひられ、又いよ/\世くだりては、その神事にすら、祓を負する法は絶たる也、さて又古文の常として、すべて何事にまれ、擧べき事は、數多くあるをも、こと/”\くは擧ず、たゞ其中の一(ツ)二(ツ)をつみ出擧《イデアゲ》て、餘《ホカ》をばそれにこめたること多し、祈年(ノ)祭(ノ)詞に、民の田をつくる事をいふとて、手肱 爾 水沫畫垂《タナヒヂニミナワカキタレ》、向股 爾 泥畫寄 弖《ムカモモニヒヂカキヨセテ》、とのみいひて、春より、秋稻を取(リ)收《ヲサ》むる迄の、くさ/”\のわざをば、是にこめたる、すべて此類也、然れば大祓にはらひ清むべき罪も、猶數多く、種々あるべき中に、これにはただ十條あまりを擧て、餘は此内にこめたる物也、必(ズ)これらに限れるごと思ふは、古文の例をしらざる物也、但し中昔となりては、此祓の詞に出たる條々の罪を、むねとして、神事には忌《イミ》たる也、大神宮儀式帳に、亦祓 乃 法定給 支《マタハラヒノノリサダメタマヒキ》、天津罪 止 所始 志 罪波《アマツツミトハジマリシツミハ》、敷蒔《シキマキ》、畔放《アハナチ》、溝埋《ミゾウメ》、樋放《ヒハナチ》、串刺《クシサシ》、生剥逆剥《イキハギサカハギ》、屎戸《クソヘ》、許々太久 乃 罪 乎《ココダクノツミヲ》、天津罪 止 告分《アマツツミトノリワケ》、國津罪 止 所始 志 罪 波《クニツツミトハジマリシツミハ》、生秦斷《イキハダタチ》、死膚斷《シニハダタチ》、己母犯罪《オノガハハオカセルツミ》、己子犯罪《オノガコオカセルツミ》、畜犯罪《ケモノオカセルツミ》、白人古久彌《シロビトコクミ》、川入火燒罪 乎《カハイリホヤケノツミヲ》、國津罪 止 定給 弖《クニツツミトサダメタマヒテ》、犯過人 爾《オカシアヤマテルヒトニ》、種々 乃《クサグサノ》 令《シメ》2祓物出《ハラヘツモノイダサ》1 天《テ》、祓清 止 定給 支《ハラヒキヨメヨトサダメタマヒキ》と見えたる、天津罪 止 所始 志 罪《アマツツミトハジマリシツミ》とは、天にして、須佐之男(ノ)命の、犯し始め給ひしをいへり、さてこれに對へて思へば、國津罪 止 所始 志 罪《クニツツミトハジマリシツミ》といへるも、皇御孫(ノ)命の、此御國に天降坐て、始めて大祓の有し時に、此條々の罪共の出たりしなるべし、さて後々まで、其時の條目に依て、是を擧(ゲ)云(フ)故に、所始志罪《ハジマリシツミ》とはいふなるべし、心をつくべきこと也、儀式帳は、延暦に出來て、古き書なり、
 
大祓詞後稱下卷
              本居宣長 釋
 
如此出 波《カクイデバ》。天津宮事以 ※[氏/一]《アマツミヤコトモテ》。
 
考云、皇祖神《スメロギ》の御詔を奉(リ)て宣《ノル》のりと言也、神代紀に、科《オフセテ》2素盞烏(ノ)尊(ニ)千座置戸(ノ)之|解除《ハラヘヲ》1、以2手爪1爲2吉爪棄物《ヨシキラヒモノト》1、以2足爪1爲(チ)2凶爪棄物《アシキラヒモノト》1、乃使天(ノ)兒屋(ノ)命(ニ)掌《トラセテ》2其(ノ)解除《ハラヘノ》之|太諄辭《フトノリトヲ》1、而|宣之焉《ノラセタマフ》、とある是也、こゝの詞の前後にも、これを本にて書ることあり、○同頭書云、宣事《ノリコト》を、今本に宮事、 一本に官事とある、ともに古(ヘ)に例なき言也、ことわりをいふ人あれど、いかゞ也、宣(ノ)字を誤れること明らけし、
〇後釋、天津宮事とは、高天(ノ)原なる天照大御神の朝廷にして、行はせ給ふ儀式にならひて、その如く行ひ給ふ事をいふ、凡て此御國にして、皇御孫(ノ)命の朝廷の儀式も何も、皆かの天上《アメ》の朝廷のにならひて、行はせ給ひしこと也、此祝詞に、天津菅曾《アマツスガソ》、天津祝詞な《アマツノリト》どあるも、かゝるくさ/”\の物も、天津宮にて用ひらるゝ物に、なすらへよるよし也、考に、宮(ノ)字を、宣に改めて説れたれども、皇祖神の御詔を奉(リ)て宣《ノル》のりと言也、といはれたるは、宣事は、皇祖神の詔《ノリ》事といふことか、又うけ給はりてのる人の宣《ノリ》事か、いとまぎらはしくして、何方とも分りがたし、もし皇祖神の詔ならば、其御名を擧べきに、たゞ天津宣事といひては、さは聞えがたく、例もなきこと也、そのうへ皇祖神の詔によりてする事は、云々の命以《ミコトモテ》とこそいへれ、宣事以《ノリコトモテ》といへるは、例なきこと也、もし又うけたまはりてのる人の宣事とするときは、下に天津祝詞 乃 太祝詞事 乎 |宣 禮《ノレ》とあると、同じことの、拙《ツタナ》く重なりて、文理《フミノスヂ》とゝのはず、然ればいづれにしても、宣事にては、あたりがたし、又天津宮事といふを、例なきことといはれたれども、などか然いはざるべき、聖武天皇の大御母命の御諡を、千尋葛藤高知天宮姫《チヒロツナタカシルアマツミヤヒメノ》命と稱《タタヘ》申(シ)給へるも、天津宮といふことのあるを以てなり、
 
大中臣《オホナカトミ》。
 
考云、天(ノ)兒屋(ノ)命より始めて、神事を掌る官を、中津臣といふ、その津於《ツオ》を約めて、奈如登美《ナカトミ》といふ也、これ神と君との中を取て、宜《ヨロシ》く申請(フ)よし也、齋《イツキ》のみこを奉入詞に、御杖代 |止 進《タテマツリ》給 |布《フ》 御命 |乎《ヲ》、大中臣|茂桙《イカシホコ》中取(リ)持(チ) 弖《テ》、とある是也、又舒明天皇紀に、大臣(ノ)所遣群卿者《ツカハセルマチキミタチハ》、如(ク)2嚴矛《イカシホコ》取(ル)v中事(ノ)1、奏請《マヲシコフ》人|等《タチ》也とあるも、事は同じ、さて大中臣といふは、すべて天皇の大御事にかゝるをば、大某《オホナニ》といふ例にて、御巫をも、神祇官なるをば、大宮主御巫といふと同くて、なべてたゞ諸の神に仕奉るにはあらで、神祇官にして直に神と君との御中を奏請《マヲシコフ》が故に、大中臣とはいふ也、古(ヘ)大政をすべ掌れる人の、連《ムラジ》の加婆禰《カバネ》なるをば大連、臣《オミ》のかばねなるをば大臣《オホオミ》といへりしも、大といふこと相似たり、但し大連大臣は、かばねにつきていひ、大中臣は、わざにつきていふ也、〇同頭書云、此中津臣の職、天(ノ)兒屋(ノ)命の子孫相傳(ヘ)來て、つひに中臣氏となりたり、此詞又かの齋王奉入時詞なる大中臣は、古(ヘ)のごとく、神事を掌る職につきていへる也、中臣氏といふにはあらず、〇又云、中臣氏となりて、又後に神護景雲三年の詔に、因(テ)3神語(ニ)有(ルニ)2大中臣(ト)1、而中臣(ノ)朝臣清麻呂云々、賜2姓大中臣(ノ)朝臣(ヲ)1と、續日本紀に見えて、大中臣氏といふは、これより也、かくて後までもなほ、官の中臣と、氏の中臣との分(キ)あり、さて右の詔に神語とあるは、即(チ)此大祓(ノ)詞のこと也、是を神語といへるよしは、上に委(ク)云るがごとし、
〇後釋、中臣といふ職のよしは、考にいはれたるが如し、但し此名は、中津臣のいひにはあらず、中取臣《ナカトリオミ》のつゞまりたる也、さて考にいはれたるごとく、後まで、職をいふと、姓をいふとの分ち有(リ)、然れども中臣氏の人は、即(チ)皆中臣の職にて、とり分てそれとておかるゝことはなし、故(レ)職員令の神祇官の下にも、神部三十人、卜部二十人などはあれども、中臣といふ者は、擧られず、式にも、卜部をおく事は見えたれども、中臣をおくといふことは見えず、中臣|女《メ》といふ職も、即(チ)中臣氏の女也、又中臣(ノ)官といへることあり、そは中臣氏の中に、神祇の副祐史などの官にてある人をいふ也、さて又大をそへて、大中臣といふことも、考にいはれたる心ばへなり、もろ/\の巫《ミカムノコ》の中に、神祇官の八神を祭るをば、殊に御巫《オホミカムノコ》といふと同じ、祈年祭(ノ)祝詞に、除《ホカ》の座摩御門生嶋などの巫をば、御巫《ミカムノコ》と書(キ)、神祇官
のをば、大御巫と書る是也、さて考に、大宮主の御巫といはれたるは、續紀に、大宮主御巫とつゞきたる文のある、そは大宮主と御巫と二つをいへるなるを、一つに心得誤られたるなり、大宮主の御巫といふものは、あることなし、
 
天津金木 乎(アマツカナキヲ)。
 
考云、天津とは、其本天つ神事なれば、崇みていへり、金は借字にて、金木は、齊明天皇紀に、兵盡2前(ノ)役(ニ)1以(テ)v※[木+倍ノ旁]《ツカナキヲ》戰(フ)とある、※[木+倍ノ旁]は若木《シモト》を棒としたるにて、握之木《ツカノキ》といふ意也、大きならで、手に取(ル)ばかりなる木のよし也、此つかなきのつを略きて、かなきといふ、孝徳天皇の御歌に、舸娜紀都該《カナキツケ》、阿我柯賦古麻播《アガカフコマハ》、比枳※[さんずい+捏の旁]世儒《ヒキデセズ》、とよませ給へる是也、小木を馬の足に結付て、ほだしとするをいふ、ひきでせずは、引出不v爲也、萬葉五に、※[木+巨]※[木+若]越爾《マセゴシニ》、麥咋駒乃《ムギクフコマノ》と、ませを※[木+巨]※[木+若]と書るもひとし、或人、今も東の國人は、小木の枝を、かな木といふといへり、又遠江人の諺に、やしむかなめに目つくといふも、小《チヒサ》しと賤しむ若木《カナギ》の芽《メ》に、目を衝《ツク》といふこと也、さてその若木の本末を切(リ)たるを集めて、中を結て、物の置座《オキクラ》とする也、〇同頭書云、和名抄刑具部に、鉗(ハ)【加奈岐】以v綴(ヲ)束v頸(ヲ)也、又云※[金+犬](ハ)【和名同上】※[月+豆]沓也、こは後のから文字を擧たるにこそあれ、こゝの古(ヘ)は、ほだしにも、小木を用ひたりし故に、加奈紀《カナキ》てふ名はある也、然るを此和名抄に依て、こゝをも、刑具として、本末をきるは、其刑具を破りて、今より用ひざるを示すといひ、菅曾《スガソ》を割《サク》も、解てすつることといふは、からに依たるひがことにて、聞(ク)も穢らはし、刑具を祓柱の置座にしたりし事、何にも見えず、もとよりさ穢れたる物を、用ふべきことにあらず、
〇後釋、金木の事、考の説の如し、文選東方朔が文にも、以v※[竹/廷]《カナキヲ》撞(ク)v鐘(ヲ)と有て、注に、※[竹/廷](ハ)小木枝也といへり、さて考に、つかなきのつを略きて、かなきといふといはれたるは、本末たがへり、孝徳天皇の大御歌、又此祝詞にいへるなども、みな加那紀《カナキ》なれば、これぞ本よりの名にて、かの齊明紀に、※[木+倍の旁]を都加那木《ツカナキ》と訓るは握加那木《ツカカナナキ》といふことにて、手に取(リ)持(チ)て戰ひなどする、今(ノ)世の棒也、神名帳に、大和(ノ)國宇陀(ノ)郡、都賀那木《ツカナキノ》神社といふあるも、此物によれる神(ノ)名にこそ、加那紀は、細(キ)木のすべての名なるを、其中に手に取(リ)持(ツ)かなきを、握かなきの意にて、つかなきとは云也、さてかの大御歌に、きをば紀《キ》と書たれば、清音也、濁るべきにあらず、さて又和名抄に、刑具の鉗※[金+犬]を、かなきとしたるは、考にいはれたるごとく、もとは小木を用ひたりしが、後に鐵にかはりても、名は古(ヘ)のまゝなりし也、然るにこゝの金木を、刑具と心得たるは、末の物によりて、本の名を誤れるなり、
 
本打切《モトウチキリ》。末打斷 ※[氏/一]《スヱウチタチテ》。
 
考云、本末をは切捨て、中らのよき所を、物の置座とするをいへり、こは次の天浄菅曾|乎《ヲ》云々と、對へていへる文也、古事記清寧天皇(ノ)段に、五十隱山三尾之竹《イカクルヤマノミヲノタケヲ》、本訶岐苅《モトカキカリ》、末押磨《スヱオシスリ》云々、弘計(ノ)天皇紀に、石(ノ)上|振之《フルノ》神|※[木+褞の旁]《スギ》、伐本《モトウチキリ》截末《スヱウチタチ》など、古文の例也、
〇後釋、切《キリ》も斷《タチ》も、同じことなるを、言をかへていふは、文なり、さて此次に、置座に造る事をいはでは、言たらぬ如くなれども、造るといはずして、たゞに千座(ノ)置座に云々、といひつゞけたるは、古文のさまにて、かくさまにいへる例多し、
 
千座置座 爾《チクラノオキクラニ》。置足 波志※[氏/一]《オキタラハシテ》。
 
考云、置座は、右の加奈伎《カナキ》也、木工寮式の、八座置四座置(ノ)條に、以v木(ヲ)爲v之、長(キ)者(ノ)二尺四寸、短(キ)者(ノ)一尺二寸、各以2八枚(ヲ)1爲(ルヲv束(ト)、名(ケテ)稱2八座置(ト)1、長短各以2四枚(ヲ)1爲(ルヲ)v束(ト)、名(ケテ)稱2四座置(ト)1とあるは、其ころは、割木を用ひたるか、上代には※[木+若]木を用ひたりし故に、かな木とはいへり、されど此式に依て、上代の置座の形を知(ル)べき也、置足(ラ)はしとは、贖物をいと多く置(ク)をいふ、神代紀に、科(スニ)v之(ニ)以2千座置戸(ヲ)1、逐(ニ)促徴《セメハタル》矣云々 とある是也、後世には、罪の重き輕きによりて、祓柱を出さするに、上つ祓下つ祓などいひて、贖物の數に、多少のしなあり、くはしくは格式に見えたり、
〇後釋、置座は、人々の出したる祓(ツ)物を、取集めて居置《スヱオク》臺也、其形は、木工寮式に依れば、考にいはれたるごとく、細き木の本末を切去(リ)たるを、束ねて結《ユヒ》たる物と聞ゆれど、さてはさる物をいくつもつらねならべずは、物を置《オク》臺《ダイ》にはなしがたかるべし、故(レ)思ふに、木工式に記されたるは、後のことにて、たゞそのかたばかりを殘せる物なるべし、上代の置座は、別に造りざま有けむ、そは思ふに、細き木をならべ編《アミ》て、机などの如く造りたる物にや有けむ、くはしきことは知がたし、千座とは、その置座の數の多きをいふ、置足波志《オキタラハシ》とは、置滿《オキミツ》るをいふ、さて祓物といはざれば、置(ク)は何物をおくにか、聞えがたしと思ふ人あるべけれど、上に許々太久乃罪出武《ココダクノツミイデム》とあるにて、おの/\その祓物を出す事は、いはでも聞えたれば、こゝもおのづから其祓物を置(ク)事と聞ゆるは、古文也、さて此置といふ言、たゞ居置《スヱオク》にてもよろしけれど、萬葉十一の卷に、あはなくに夕けをとふと、幣《ヌサ》に置《オキ》に、吾衣手は又ぞつぐべきとある、結句は、又つゞきて幣《ヌサ》に置(ク)べしといへるにて、此置(ク)といふこと、今の世に、物を質《シチ》に渡すを、質に置(ク)といふ置(ク)に似て、同三の卷に、奈良の手向に置幣者《オクヌサハ》、などある類も、幣に奉ることを、置(ク)とはいへりと聞えたれば、置座の置も、物を祓(ツ)物に出すを、置(ク)とはいふなるべし、
 
天津菅曾 乎《アマツスガソヲ》。
 
考云、菅は、笠にもする菅也、此物を祓に用ひしことは、萬葉卷十四に木綿手次《ユフダスキ》、可比奈爾懸而《カヒナニカケテ》、在天《アメナル》、左佐羅能小野之《ササラノヲノノ》、七相菅《ナナマスゲ》、手取持而《テニトリモチテ》、久堅乃《ヒサカタノ》、天川原爾《アマノカハラニ》、出立而《イデタチテ》、潔身而麻之乎《ミソギテマシヲ》、また卷十五に、其佐保川丹《ソノサホガハニ》、石爾生《イソニオフル》、菅根取而《スガノネトリテ》、之努布草《シヌフクサ》、解除而益乎《ハラヘテマシヲ》、また神樂《カミアソビノ》歌に、奈加止美乃《ナカトミノ》、古須氣乎《コスゲヲ》、佐紀波良比《サキハラヒ》、伊能利志古登波《イノリシコトハ》、などある是也、古(ヘ)の祓には、割《サキ》たる菅を、手に取持て、塵などを拂ふが如きわざをせしなりけり、かの萬葉十四の歌の詞、祓するさま見るがごとし、さて此草を須氣《スゲ》といふは、穢を拂ひ放《ソケ》る故の名也、萬葉に、眞菅よし曾我《ソガ》の川原、山菅のそがひなどつゞけたるは、すげとそげと、同じければ也、さて菅曾《スガソ》の曾《ソ》は、すべて割《サキ》て作る物の名にて、佐伎《サキ》の約|志《シ》なるを、曾《ソ》と轉しいふ也、木綿も、栲《ユフ》の皮を割作る故に、萬葉二に、眞蘇木綿《マソユフ》といひ、麻《アサ》の佐《サ》も、曾《ソ》に通ひて同言也、菅も、常にはたゞ菅とのみいふを、祓には、割て用る故に、菅曾《スガソ》といへる也、さて古書共に、祓物くさぐさ載たる中に、菅は見えねば、これを祓に用ふといふを、疑ふ人有べけれど、祓柱は、國の郡領以下戸々より出す物也、又式に、大祓に用る物共をば皆擧て、祝詞(ノ)料の布(ノ)短帖までも見えたるに、詞を書(ク)紙筆をのせざるが如く、菅は、祓奉仕る官人一人の手にとる物にて、又齋て作る物にもあれば、其人のみづからなす故に、擧ざる也、〇同頭書云、古に祓に菅を用ひたりしよし、右のごとく萬葉などの歌を引て、あかしたるを、或人の難じて、歌は用ひがたしといへるは、いかにぞや、古(ヘ)の歌は、後世のとは異にして、ことさらに設《マウケ》てよむことなければ、いと正しき物也、たゞの書は、或は傳へを誤り、或は言を加へなどもしたること有て疑ふべきこともあるを、たゞ古(ヘ)のまことをしるべき物は、歌にこそ有けれ、〇又云、麻《アサ》は青割《アヲサキ》にて、白栲《シラユフ》に對へたる名なり、栲《ユフ》を白幣《シラニギテ》、麻《アサ》を青幣《アヲニギテ》といふにてもしるべし、
〇後釋、祓に菅を用ること、考にいはれたるがごとし、須宜《スゲ》須賀《スガ》といふ名は、此草、もとより清淨《キヨ》きよし有て負《オヘ》る歟、さる故に祓にも用るにや、又は清《スガ》と言の通ふ故歟、いづれにまれ、清き意に取て用る也、考に、穢を拂ひ放《ソケ》る故の名といはれたるは、ひがこと也、證に引れたる萬葉の歌の、曾我《ソガ》背向《ソガヒ》などは、賀《ガ》濁音にて、須賀《スガ》と音の通ふを以てこそつゞけたれ、放《ソケ》の氣《ケ》は、清音なれば、通ふよしなきをや、菅曾《スガソ》の曾《ソ》は、佐乎《サヲ》のつゞまりたるにて、緒《ヲ》なる物を、何にまれいふ名也、その佐《サ》は、眞《マ》に通ひて、眞緒《マヲ》の意也、かくさまにいふ佐《サ》の、眞《マ》に通ふよしは、別に委(ク)云り、さて麻《アサ》をも曾《ソ》といひて、即(チ)某麻《ナニソ》とも書(ク)は、麻《アサ》はむねと緒《ヲ》に用る物にて、即(チ)乎《ヲ》ともいふと同じ、是にても、曾《ソ》は佐緒《サヲ》なることをさとるべし、萬葉九に即(チ)、直佐麻《ヒタサヲ》ともあるは、直麻《ヒタソ》なり、菅《スガ》曾といふも、菅を細くさきて、緒《ヲ》にしたる物なる故に、菅眞緒《スガサヲ》の意也、考に、割《サキ》の約|志《シ》なるを、曾《ソ》と轉しいふといはれたるはいと物|遠《ドホ》し、引れたる萬葉の眞蘇木綿《マソユフ》も、眞佐緒木綿《マサヲユフ》也、割《サキ》たるよしにはあらず、然らば、佐《サ》を眞《マ》の意とする時は、眞佐と同じことの重なるはいかゞ、と思ふ人あるべけれど、眞と佐とは、意は通ひて同じけれども、言は異なる故に、同意の言を重ねてもいふこと、萬葉に、さはに多《オホ》みとなどもあるが如し、正《マサ》しといふ言も、眞佐《マサ》しにて、是を重ねたる言ぞかし、麻《アサ》を、青割《アヲサキ》といはれたるも、信《ウケ》がたし、阿佐《アサ》は、青曾《アヲソ》の意にてもあらむか、さて又式に、大祓の用物を擧たる中に、此大中臣の取(リ)持(ツ)菅曾も、必あるべきに、無きは、此祝詞は古(ヘ)の文のまゝなる故に、此事あるを、今(ノ)京となりてのころは、この菅曾をとり持(ツ)事は、既《ハヤ》く止《ヤミ》て、なかりしにもあるべし、此外にも、祓のわざ、古(ヘ)とかはりし事多きぞかし、もし古(ヘ)のごとく用ひたらむには、必(ズ)式に擧らるべきこと也、考に、此物は、其人のみづからなす故に、擧ざる也といはれたるは、いはれず、此物きはめてみづから作るべき事にあらず、又詞を書(ク)紙筆とは、同じ例にいふべき事にあらず、
 
本苅斷《モトカリタチ》。末苅切 ※[氏/一]《スヱカリキリテ》。
 
考云、金木と言を對へていへり、
 
八針 邇 取辟 ※[氏/一]《ヤハリニトリサキテ》。
 
考云、八《ヤツ》は彌《イヤ》つにて、菅をこまかに割《サク》をいふ、そは針にてさくものなる故に、八針とはいへり、刀を用る物を、いく刀に切(ル)といふと同じ、〇同頭書云、これを或は麻を八方に引て、天の四方八面にたとふといひ、或は刑の繩を解(キ)捨《スツ》るたとへ也などいふは、から國の意に依て、陰陽師などのせしわざなるべし、然るを後には、實にさることとや思ひけむ、江家次第などにもさるわざの見ゆるは、いかにぞや、
〇後釋、大神宮儀式帳に、百張蘇我乃國《モモハリソガノクニ》、五百※[束+支]刺《イホエサス》竹田乃國と見え、熱田(ノ)社(ノ)寛平(ノ)縁起に、倭建(ノ)命の御歌に、麻蘇義乎波理乃夜麻《マソゲヲハリノヤマト》等云々、これを合せて思ふに、蘇我《ソガ》は、菅《スガ》の意につゞけたること、眞菅よしそがの川原などのごとし、麻蘇義《マソゲ》も員菅《マスゲ》也、さて百張といひ、尾張《ヲハリ》とつゞけるは、ともに菅につきたること也、されば張とは、菅の茂く生たるをいひ、それより轉《ウツ》りて、その葉|一條二條《ヒトスヂフタスヂ》を、一張《ヒトハリ》二張などいひしにこそ、そは菅のみにも限らずいへるにや、書紀(ノ)天武(ノ)卷に、麻一條《アサヒッタバリ》とあるも、多は添(ヒ)たれども、同じ張《ハリ》歟、これらを以て思へば、こゝも針は借(リ)字にて、菅の葉を細く數條《ヤスヂ》に割《サク》よしならむか、針もて割(ク)を、八針爾といひては、言たがへり、又いく刀に切(ル)といふとは、事異也、もし其例とするときは、針を八度用ひてさく事になる也、さて此次に、此菅をとりもつ事をいふべきに、略けるは、例の古文にて、上の金木を置座に造ることをはぶけると同じ、
〇考云、或人のいはく、祓には、一撫一吻の事有、解繩のわざあれば、それに依てぞ、伊吹放佐須良比、舳綱解放、天津金木、八針などいふ言は有けむと、眞淵云、既にいへるごとく、祓身滌のはじまりは、神代にあるを、右にいふが如きわざは、古書にいさゝかも見えたることなければ、後に添(ヘ)たるわざ也、大御手もて撫給ひ、大御息を吹かけ給ふ事は、古(ヘ)より有もしけむ、されどさすらひを、摩《ナヅ》ることには取べきにあらず、又金木を刑具とするも、ひがことなるよし、上にいへるが如し、江家次第に、八省東廊の大祓に、祝師着v座(ニ)、臨(テ)3禊(ノ)詞及(ブニ)2八張(ニ)1、解(キ)v繩(ヲ)了(テ)、禊了(テ)云々、又平野祭に、宮主奉2仕(ル)祓(ノ)詞(ヲ)1といふ所の細書に、到2祓(ヒ)清(メトイフ)之處(ニ)1、以2人形1令v吻給、到(テ)2中臣(ノ)祓【詞(ノ)字落】八張(ニ)取(リ)割(キトイフ)之處(ニ)1、解(キ)v繩(ヲ)給畢、宮主退出とある、これらは中ごろ陰陽師などの、附(ケ)そへたる事と見えたり、凡後代の人、皇朝の古書をばよくも見ず、なまじひにから國の書を見て、みだりにわざを附會《ツケアハ》せ、私の説をなして、古(ヘ)を強《シフ》めり、から書をわすれて、古(ヘ)をよく學ぶべきにこそあれ、
 
天津祝詞 乃 太祝詞事 乎 宜 禮《アマツノリトノフトノリトゴトヲノレ》。
 
考云、事は言也、古書には、言(ノ)字と事(ノ)字と、相通はし書る、つねのこと也、さて此大祓(ノ)詞は、既にいへる如く、清御原(ノ)宮などのころ作れれども、神代の事をむねと擧いひたれば、天の岩戸の前にて、兒屋(ノ)命の宣《ノリ》し詔賜言《ノリタベゴト》に准へて、天つのりととはいふ也、かの神護景雲三年の詔に、神語とあるは、即(チ)此詞をさし、道饗鎭火の祭など、卜部の申す詞も、文は後なれど、事は神代の傳(ヘ)のまゝなれば、天津祝詞の太祝詞事とあるにて知べし、さてこゝに大中臣といひて、置座菅曾の事を擧て、祝詞を宣とあるは、其中に、大中臣の下に在て、祓のわざをする卜部などをば、こめたる文と思ふ人あらむか、然らず、そも/\卜部の卜をなし、祓をなすことは、大寶令にこそ定められたれ、上代にはあることなし、古事記日本紀に見えたる如く、萬の神事は、皆中臣と忌部の神祖たちぞ、執行ひける、されば此文も、上代のさまを以て書たれば、たとひ當時《ソノカミ》は中臣の人貴くて、下司にわざはせさすとも、なほ大中臣のするさまにこそはいふべけれ、後の事はいふべきにあらず、〇同頭書云、初の條にいへるごとく、のりとに祝詞の字は、よくもかなはず、清御原(ノ)宮の御時などは、既に此字を書けんか、なほ後にぞかくから風には書なしつらむ、古事記の如く、天津詔戸の布刀詔戸言とこそ書べきわざなれ、又云、或人、祝詞は神に告る言也、是は人の身滌祓の事なれば、祝詞とはいはず、たゞ詞とのみいへり、さればこゝに天津祝詞とあるは、別に神代より傳はれる言あるならん、といへるはひがこと也、此文上に、皇祖神の詔を擧て、こゝに至りて、ふとのりとといへる、いかでか詔詞《ノリコト》ならざらむ、かの祝詞の字、又賛辭と注したるなどをのみ守りて、詔賜言《ノリタベゴト》の意なることを心得ざるは、いかにぞや、
〇後釋、能理斗碁登《ノリトゴト》は、宣説言《ノリトキゴト》也、其由古事記傳に委(ク)云り、すべて能流《ノル》といふ言は、廣くして、上へ申すにも、下へいひ聞すにも、つかふ言なるを、詔(ノ)字宣(ノ)字などは、上より下へいひきかす方につきて當たる物也、凡て皇国言と漢字と、全くは合(ハ)ざるを、かたへの合へるところにつきて、當たる多し、必詔宣などの字にのみ泥むべからず、萬葉に、告(ノ)字をも謂(ノ)字をも、能流《ノル》に用ひたるを思ふべし、斗久《トク》も、同じことにて、上へ申すにも、下へいひきかすにも用ふる言也、是も説(ノ)字には泥《ナヅ》むべからず、かくてのりとごとは、神に申す詞也、言を省きて能理登《ノリト》とのみもいふ、天津は、天津金木、天津菅曾などの例のごとし、太《フト》は、めでたきを美稱《ホメ》いふ詞也、太占《フトマニ》太玉串《フトタマクシ》太玉(ノ)命など、皆其意なり、多布斗《タフト》といふ言も、尊貴などの字を當《アテ》たるは、例のかたへの意にて、もと太《フト》に多《タ》を添たるにて、同意也、故(レ)萬葉歌には、めでたきことを、たふとしとよめる多し、さて神は、詞のうるはしきをめで給ふことなる故に、凡て祝詞は、詞を美麗《ウルハシ》くつゞる物なれば、ふとのりとごとといふ也、さてこゝにいへる太祝詞事は、即(チ)大祓に、中臣の宣《ノル》此詞を指《サセ》る也、さて考に上に引れたる如く、神代紀に、須佐之男(ノ)命に、解除《ハラヘ》を科せたる處に、乃使(ム)d天(ノ)兒屋(ノ)命(ヲシテ)、掌(テ)2其解除(ノ)之|太諄辭《フトノリトコトヲ》而宣之《ノラ》u焉、これ祓の祝詞を中臣の宣《ノル》ことの本也、四時祭式に、六月晦日(ノ)大祓云々、右晦日(ノ)申(ノ)時以前(ニ)、親王以下百官、會2集(シ)朱雀門(ニ)1、卜部讀(ム)2祝詞(ヲ)1【事(ハ)見2儀式(ニ)1、】とある、卜部は、決《キハ》めて中臣と有しを、後(ノ)人思ふところ有て、私に卜部と改め書たるにて、いみしきそらごと也、事(ハ)見(ユ)2儀式(ニ)1とある、儀式にも、中臣讀(ム)とこそ見えたれ、其外神祇令にも何にも見えて、中臣の讀(ム)ことは、まがひもなし、これを卜部の讀(ム)といふこと、さらになし、さて宣禮《ノレ》といふは、仰《オホ》する言なれども、こゝは仰するにはあらず、然れどもかならずかくいふべき語のはこび也、考の初(メ)に云(ク)、乃里刀其登《ノリトゴト》といふ言の意は、神皇祖《カムロギ》高木(ノ)神の詔賜《ノリタベ》し御言を承て、兒屋(ノ)命の、天(ノ)岩門の前にて、宣《ノリ》申せしなれば、古事記に、詔戸言《ノリトゴト》と書たり、然れは乃里《ノリ》は、皇祖神の美古刀乃里《ミコトノリ》也、戸は借字にて、賜《タベ》と崇る辭なり、その多倍《タベ》を約れば弖《テ》なるを刀《ト》と轉しいふは、言便の常也、といはれたるは、いと/\信《ウケ》がたし、これ能理《ノリ》といふ言を、必(ズ)詔(ノ)字などの意と、思ひ泥まれたる物也、能理《ノリ》は、右に云るごとく、上へ申すにもいふ言にて、告(ノ)字をも多く書、即(チ)告刀《ノリト》とも古書に書て、祝詞の能理《ノリ》は、神に申すよしの言也、決《キハメ》て詔命の意にはあらず、古事記は、殊に文字の意に拘らず書る書なれば、詔戸と書るに、拘《カカ》はるべきにあらず、そのうへかの天(ノ)兒屋(ノ)命の、天(ノ)石屋戸(ノ)前にて、宣《ノリ》給ひし祝詞も、皇祖神の詔命を承たるといふこと、古事記にも書紀の傳へどもにも、見えたることなし、すべて彼(ノ)時の事共は、皇祖神の詔命によれることなし、皆八百萬(ノ)神の會集て、相議りてなしたる事也、古事記書紀を見て知べし、其外諸の祝詞、皇祖神の詔を承て宣《ノル》といふこと、物に見えたることなし、又皇祖神の詔命にて物する事をば、某の命以とこそいへれ、そをのりとごとといへる例もなきこと也、たとひ皇祖神の詔をうけて宣《ノ》ればとて、其(ノ)奉れる人の宣《ノル》詞を、直《タダ》に詔賜言《ノリタベゴト》とはいかでかいはむ、もし是を皇祖神の詔賜言とするときは、こゝの語、皇祖神の詔し御言のまゝを、口うつしにそのまゝまねびいふこととなるをや、かくのごとく考には、のりとごとの本の意を、思ひ誤りて、皇祖神の詔賜言と定めて説れたる故に、すべてあたらぬこと多くして、祝詞の字をも、かなはずといはれたれども、此字は、のりとごとによくかなへる字也、書紀に又、大諄辭《フトノリト》とも書れたる、諄(ノ)字は、告曉《ツゲサトス》之熟也と注せり、これにても、詔賜言《ノリタベゴト》の意にあらざることを知べく、又此同じ事を、神祝《カムホザキ》ともある、それにも、祝(ノ)字を書たるにても、祝詞の字のかなへることをしるべし、そも/\文字に泥《ナヅ》むまじきは、もとよりのことながら、又書紀などは、文字によりて、其言の意をしるべきも、おほきぞかし、
 
如此 久 乃良 波《カクノラバ》。天津神 波《アマツカミハ》。天磐門 乎 推披 ※[氏/一]《アメノイハトヲオシヒラキテ》。天之八重雲 乎《アメノヤヘクモヲ》。伊頭 乃千別 爾 千別 ※[氏/一]《イツノチワキニチワキテ》。所聞食 武《キコシメサム》。
 
後釋、天(ノ)磐門は、たゞ天津神のまします殿の門也、磐といふは、上文なる天(ノ)磐座の類にて、堅固《カタ》きよしの祝言也、御門(ノ)神の御名を、石眞門《イハマド》と申すも此意也、伊頭乃千別爾云々は、下なる伊穂理乎掻別《イボリヲカキワケ》と、同じ心ばへなり、但し千別《チワキ》は、こゝにはいさゝか心得ぬ詞也、所聞食武は、大中臣の宣《ノリ》申す、此祓の祝詞を、きこしめしいれむといふ也、
 
國津神 波《クニツカミハ》。高山之末《タカヤマノスヱ》。短山之末 爾 上坐 ※[氏/一]《ミジカヤマノスヱニノボリマシテ》。
 
考云、短山を、みじか山と訓(ム)は、よろしからずと、荷田(ノ)大人のいはれし、まことにみじか山といふ言はなし、故(レ)考るに、古事記に、迦具士(ノ)神の殺されし身、八つの山つみとなる、其頭になれるは、正鹿山つみの神、次に胸になれるは、淤騰《オト》山つみの神云々と見ゆ、然れば短山は、淤騰山にあたれば、然訓べし、末は山の上也、麓を山本といふに對へり、〇同頭書云、高は低きに對ひ、短は長きに對ふ言なるを、こゝに高山に對へて、短山と書るは、みじかとはよまぬことをしれる、古人の筆也、
〇後釋、短山は、字のまゝに美自加夜麻《ミジカヤマ》と訓べし、高きに對へて、みじかといふこと、中昔の言に、貴賤を高きみじかきといへることおほく、源氏物語に、位みじかくてとある注に、河海抄に、位卑《クラヰミジカク》選叙令としるされたり、令の昔の本に、然ぞ訓りけん、又書紀天智(ノ)卷に、卑地をみじかきところと訓り、これらを以て見れば、古より、低《ヒキ》きをみじかしといへる也、考の説あたらず、もし古(ヘ)に低きをみじかしといふことなくは、何のよしにか短山とは書(ク)べき、漢文に高と短と對へいへる例もなきに、短と書るは、古言みじかやまなりしが故也、然るを短山とかけるは、みじかとはよまぬことをしれる筆也とは、うらうへの違ひ也、凡て祝詞の文字は、大かた訓べきまゝに書る物にて、萬葉書紀などのごとく、むつかしく義理を以て、あらぬ字を書ることはなし、さればもし淤騰山ならんには、必(ズ)短とは書まじき例也、淤騰山の事は、古事記傳五の卷にいへり、もとより短山にはあたらぬこと也、なほいはば、高きに對へてみじかといふことなしとならば、高きに對へて、淤騰《オド》といへる例もかつてなきことなるをや、
 
高山之伊穂理《タカヤマノイボリ》。短山之伊穂理 乎 掻別 ※[氏/一]《ミジカヤマノイボリヲカキワケテ》。所聞食 武《キコシメサム》。
 
考云、伊穂理は、雲霧をいふ、そは其山の氣ののぼるなれば、氣騰《イキノボリ》といふを、略きたる言也、常に煙にいぶりといひ、物のいきぼりあがるなどいふも、皆氣のおこり立をいひて、同じ古言也、さて此穂は、もと濁言なるを、後世|伊乎利《イヲリ》の如く唱るは、言便也、保の濁を乎といふ類あること也、又思ふに、五百霧《イホキリ》を略きて云るにも有べし、いづれにても聞ゆ、〇同頭書云、一本に伊惠理とあるは、理なし、穂の偏の落たるなるべし、廬の意として、神社をいふといへるは、あらぬこと也、廬も神社も、掻別といふべきよしなければ、古言をとく道にたがへり、
〇後釋、伊穂理《イボリ》は、考に云れたる如くにて、雲霧の類をいへる也、但し氣騰《イキノボリ》の略といはれたるは、ひがこと也、又五百霧と見られたるも、いとわろし、たゞ俗言にも、煙などのいぶるといふと同くて、凡て物のおぼろにして、明らかならざるをいふ言也、いふかしおばろなども、伊煩《イボ》伊夫《イブ》淤煩《オボ》みな通音にて、本同言也、萬葉に、おほゝしくいふせしいふかしなどいふ言に、鬱とも鬱悒とも書る、こゝは雲霧などの立へだゝりて、鬱《オホホ》しきをいふ也、萬葉四の卷に、朝居雲乃鬱《アサヰルクモノオホホシク》、十の卷に、春霞山棚引鬱《ハルガスミヤマニタナビキオホホシク》、などあるを以て心得べし、さて穂《ホ》の唱(ヘ)の清濁の事、おほろおほほしいふかしいふせしなどの、保《ホ》も布《フ》も、今はみな濁りて唱ふれども、古は皆|清《スミ》しにや、萬葉に、多くは清音の假字を用ひたり、然れば此伊穂理の穂も、清てよむべきか、されど濁るもあしからじ、さて上に八重雲を別(ケ)といひ、こゝにかくいへる、ともにかゝる類の物の立へだてて障るを、わけはるかして、さだかに聞しめさむといふなり、又山に上(リ)坐てといふも、高き處にては、物のよく聞ゆるが故なり、又高山とのみにても足れるを、短山ともいへるは、古語の文《アヤ》なり、下なるも同じ、
 
如此所聞食 ※[氏/一]波《カクキコシメシテバ》。     
後釋、※[氏/一]波は、而有者《テアラバ》の意にて、波《バ》は濁音也、下なるも皆同じ、此辭萬葉に多くして、濁音の婆(ノ)字を書り、然るを後世には、※[氏/一]婆《テバ》といふことを、聞なれぬ故に、皆|婆《バ》を清(ミ)て、而者《テハ》と一つに混じたり、はを清(ム)ときは、而者《テハ》の意、濁るときは、而有者《テアラバ》の意にて、差別ある辭ぞかし、
 
皇御孫之命 乃 朝廷 乎 始 ※[氏/一]《スメミマノミコトノミカドヲハジメテ》。
 
考云、みかどとは、先(ヅ)は宮城門の内をいへど、こゝは京城門の内までを、兼云(フ)とすべし、次に四方(ノ)國をいへればなり
〇後釋、朝廷は、たゞ朝廷なり、考の宮城門京城門のさだは、かなはず、凡て美加度《ミカド》といふ名は、其本は大宮の御門より出たることなれども、古(ヘ)よりたゞ朝廷の字の意にいふは、常の事にて、必しも御門にはかゝはらず、もし御門の意とせば、こゝは朝廷 乃 内 乎《ミカドノウチヲ》 始(メ) ※[氏/一]《テ》といはざれば聞えず、御門 乎《ミカドヲ》といひては、たゞ御門のみの事になりて、其内のことにはなりがたきをや、
 
天下四方國 爾波《アメノシタヨモノクニニハ》。罪 止 云 布 罪 波 不在 止《ツミトイフツミハアラジト》。
 
考云、諸人の罪の多少にしたがひて、祓柱を出させて、天つ傳へのまゝに、太詔戸言を宣《ノ》らば、天地の萬の神たち明らかに聞し給ひ、うづなひ給はむ、然らば其罪は、祓ひて捨《ステ》、身滌《ミソギ》して、流す物と共に、みな失《ウセ》て、今より後、天の下に、遺《ノコ》れる罪はあらじと也、
〇後釋、罪 止 云 布 罪 波とは、罪と云かぎりの罪は、一つものこさず悉《コトゴト》くといふ意也、不在《アラジ》は、皆消失て、のこりあらじ也、さて此大祓は、百官のなれば、天(ノ)下までは、いふべきにあらざるに、天(ノ)下四方(ノ)國までをいへるは、上にもいへるごとく、此祝詞は、天下の大祓の祝詞なるを、百官の大祓にも、そのまゝ兼用ひらるゝ故也、上に、成出 武 天之益人等 我 云々とあるも、天下の萬の民をいへり、
 
科戸之風 乃《シナトノカゼノ》。
 
考云、紀に、伊弉諾尊(ノ)尊曰(ヒテ)2我(ガ)所生之國《ワガウメリシクニ》、唯有朝霧而薫滿之哉《タダアサギリノミカヲリミテルカモト》1、乃|吹撥之氣化爲神號《フキハラハセルミイキニナレルカミノナヲ》、曰2級長戸邊(ノ)命(ト)1、」亦曰2級長津彦(ノ)命(ト)1、是(レ)風神也、とあるを以て、後にしなとの風とはいふ也、〇同頭書云、事を略きて、科戸之風といふは、必(ズ)上(ツ)代の言ならぬ、一つの證也、
〇後釋、考頭書にいはれたること、あたらず、事を略くとは、かの神(ノ)御名の邊《ベ》、もしくは彦といふことを、略けりとにや、凡て神の御名も、ことによりて、省きて申すも、上代よりあること也、少名毘古那(ノ)神を、神功皇后の御歌には、須久那美迦微《スクナミカミ》とよみ給へるがごとし、そのうへ是は、科戸もとより風のことにて、そを其神の御名に負せまつりしも知がたし、そも/\此神(ノ)名、古事記には、志那都比古《シナツヒコ》とあれば、級長は志那《シナ》と訓べく、戸邊《トベ》は女の名に例多し、さて此祝詞に、科戸とあるに合せて思へば、神名も志那斗々辨《シナトトベ》なるを、同音の重なる言は、一つ省く例多ければ、斗《ト》を一つはぶきて、志那斗辨《シナトベ》とは云なるべし、されば級長津彦《シナツヒコ》の津も、之《ノ》に通ふ津にはあらで、斗《ト》の通ひなるべし、かゝれば科戸といふも、必しも略ける言ともいひがたきを、いかでか上つ代の言にあらずとは定めむ、
天之八重雲 乎《アメノヤヘクモヲ》。吹放事之如 久《フキハナツコトノゴトク》。朝之御霧夕之御霧 乎《アシタノミギリユフベノミギリヲ》。朝風夕風 乃《アサカゼユフカゼノ》。吹掃事之如 久《フキハラフコトノゴトク》。
 
考云、御《ミ》は、或ほほむる辭、或は強くいふ辭也、御霧は、深き霧のよしにて、強くいふ也、〇同頭書云、御《ミ》を深きことに云(フ)は、轉したる用ひざまなるを、後世に、御《ミ》山を深山と雷(ク)などは、古(ヘ)になきことにて、行過たる書ざまにて、言の本をしらざる、後(ノ)人のしわざなり、
〇後釋、御霧は眞霧にて、さ霧といふと同じ、さ衣さ夜さ筵などのさは、みな眞と同じきこと、是にてもさとるべし、朝風夕風は、あさかぜゆふかぜと訓べし、之《ノノ》字のなきは其故也、
 
大津邊 爾 居大船 乎《オホツベニヲルオホブネヲ》。舳解放《ヘトキハナチ》。艫解放 ※[氏/一]《トモトキハナチテ》。
 
考云、大津は、八百の船の泊る湊也、舳の下艫の下に、綱(ノ)字のなきは、落たる也、
〇後釋、大津邊は、おほつのべと訓(マ)むも、あしからねど、猶おほつべと訓べし、居《ヲル》は、泊り居(ル)をいふ、萬葉十四に、佐吉多萬能《サキタマノ》、津爾乎流布禰乃《ツニヲルフネノ》、可是乎伊多美《カゼヲイタミ》、都奈波多由登母《ツナハタユトモ》、許登奈多廷曾禰《コトナタエソネ》、舳解放《ヘトキハナチ》云々とは、泊(リ)居たるほどは、舳艫《ヘトモ》を繋《ツナ》ぎおきたるを、解放《トキハナ》つ也、考に、舳綱《ヘヅナ》艫綱《トモヅナ》と、綱(ノ)字を補ひて、此字のなきは、落たる也、といはれたれど、式の本にも、朝野群載に出たるにも、綱(ノ)字はなし、私の本共に、此字のあるは、後の人の、さかしらに加へたるものなり、こは綱《ツナ》とはいはでも、よく聞ゆることなるをや、
 
大海原 爾 押放事之如 久《オホウミノハラニオシハナツコトノゴトク》。
後釋、萬葉六に、大海乃原《オホウミノハラ》、とあるに依て訓べし、押放《オシハナツ》は、おしはなち出すなり、
 
彼方之繁木本 乎《ヲチカタノシゲキガキトヲ》。
 
考云、繁木は、山に有て、山は都より必(ズ)遠《ヲチ》なるよしにて、彼方之《ヲチカタノ》といへる文、めでたし、萬葉に、山遠き京爾志有者《ミヤコニシアレバ》とよみ、又|彼方《ヲチカタ》の赤土少星《ハニフノコヤ》とよめるも、都はなれたる山里の意也、〇同頭書云、或人、此|彼方《ヲチカタ》を、地の名といひ、又遠きをいひて、近きを兼たりなどいふは、ともに文をこゝろえぬ説なり、
〇後釋、彼方《ヲチカタ》は、俗言にあなたといふこと也、凡てをちこちは、あちこちといふことにて、もと彼此の意なるを、遠近とも書(ク)は末也、さてこゝに彼方之といへるは、たゞ打見渡したるところをいひて、あなたのといふこと也、齊明紀の童謠に、烏智可※[手偏+施の旁]能《ヲチカタノ》、阿婆努能枳々始《アハヌノキキシ》云々、萬葉二に、大名兒《オホナコ》、彼方野邊爾《ヲチカタヌベニ》、苅草乃《カルクサノ》、束間毛《ツカノアヒダモ》、吾忘目八《ワガワスレメヤ》、また十一に、彼方之《ヲチカタノ》、赤土少屋爾《ハニフノヲヤニ》、※[雨/脉]※[雨/沐]零床共新沾《コサメフリトコサヘヌレヌ》、於身副我妹《ミニソヘワギモ》、古今集に、うち渡すをち方人に物申す我云々、などあるみな然り、萬葉十一なるは、上(ノ)句は、四の句をいはむための序のみ也、思ひまがふべからず、さて又かの岡に草かるわらは云々といへるも、かの岡は、あの岡といふことにて、をち方のといふも、是に同じ、又萬葉七に、眞玉付《マタマツク》、越能菅原《ヲチノスガハラ》、十三に、息長之《オキナガノ》、遠智能小菅《ヲチノコスゲ》なども、をちは、地名にはあらず、彼方《ヲチカタノ》の也、さてこゝは、たゞ繁木が本にて事たれるを、彼方之といへるは、いたづらなるごと聞ゆれども、かくいふぞ古語の文《アヤ》にて、右の齊明紀、又萬葉の歌どもなるも、皆同じ、考へ合せてしるべし、考に都より遠《ヲチ》なるよし也といはれたるは、右の古歌どもの例を、考へ合されざる物也、繁木が本の本は、末に對へていふ本とは、いさゝか異にして、たゞ木立をいふ也、師の説に、木立を本といふ、木の數をいく本といふも是也、※[木+若]《シモト》も繁本也、孝徳天皇紀に、模騰渠登爾《モトゴトニ》、播那波左該騰模《ハナハサケドモ》、萬葉十四に、於布之毛等《オフシモト》、許之母登夜麻乃《コノモトヤマノ》、これらみな本とは木をいへりといはれたるがごとし、
 
燒鎌 乃 敏鎌以 ※[氏/一] 打掃事之如 久《ヤキカマノトカマモテウチハラフコトノゴトク》。
 
考云、燒鎌とは燒て刃をなす故にいふ、萬葉十八に、夜伎多知遠刀奈美乃勢伎《ヤキタチヲトナミノセキ》ともあり、さて燒は此萬葉によりて夜伎と訓べし、夜以《ヤイ》とよむはわろし、すべてかくさまの伎を以《イ》といふは、平言《ツネコト》にて雅言にあらず、敏《ト》は利《ト》き也、砥にあらず、さて古事記倭建命の御歌に、比佐迦多能《ヒサカタノ》、阿米能迦具夜麻《アメノカグヤマ》、斗迦麻邇佐和多流久毘《トカマニサワタルクヒ》、比波煩曾《ヒハボソ》云々とあれば、こゝも古言を用ひたる物也、
〇後釋、燒《ヤキ》などの類の伎《キ》を伊《イ》といふは、音便にくづれたる、後世の言なれば、古書をよむには、すべて用ふまじきこと也、さて物の譬をいふに、後世にはたゞ云々《シカシカ》の如くといふを、こゝに擧たる四つの譬(ヘ)みな、云々の事の如くと、事之といふことを添ていへる、これ古語の例也、古書どもに、物のたとへをいへる所々を見渡して知べし、さてこゝに、かくのごとく大かた同じさまなるたとへを、四つまで重ねて擧たることは、祓によりて、罪穢ののぞこり清まることの、すみやかにのこりなきことを、たしかに顯はさんために、かへす/”\いへるにや、又思ふに、此次次、瀬織津比※[口+羊]云々より、速佐須良比※[口+羊]云々までの、四つの事共に、配當《ワカチアテ》たるにもあらむか、そは科戸の風の云々は、大海(ノ)原に持出るをたとへ、朝之御霧云々は、持可々呑をたとへ、大船云々は、根國に氣吹放をたとへ、繁木が本を云々は、さすらひ失ふをたとへたる歟、かくいふは、あまりくだくしけれど、かの次第も四つなるに、此譬(ヘ)も四つあれば、こゝろみにおどろかしおく也、
 
遺罪 波 不在 止《ノコルツミハアラジト》。
 
後釋、遺は、能許流《ノコル》と訓べし、のこれるとよむはわろし、上に罪 止 云罪 波 |不在 止《アラジト》といひて、又こゝにかくいへるは、不在 止《アラジト》といふこと重なりて、つたなく、語とゝのはぬ如くなれど然らず、かく同じ言を又いふぞ、古語の例なる、又上には、罪といふ罪はといひ、こゝには遺《ノコ》る罪はといへる、上は神たちの聞しめし入るゝによりて、失《ウス》るをいひ、こゝは、のこりなくなる譬(ヘ)より、つゞけていふ故に、遺《ノコル》罪はと云なり、
 
祓給 比 清給事 乎《ハラヒタマヒキヨメタマフコトヲ》。
 
考云、物をよくなし得るを、給(フ)といふ、
〇後釋、考に、物をよくなし得るを給(フ)といふといひ、又他に、給(フ)はたねらふ也ともいはれたる、ともに心得ぬ説也、これらの給(フ)といふ言のつかひざまは、猶よく考へて定むべし、こゝなどは、公事なれば、上より祓ひ清め給ふと見れば、聞ゆるを、さはあらで、聞えがたき所ある也、事 |乎《ヲ》、この事は、諸人の犯したる罪事《ツミコト》をさしていふ也、つねにたゞ輕く添ていふ事にはあらず、是を罪事と見ざれば、下の大海(ノ)原 爾 持出|奈武《ナム》、また可々呑※[氏/一]牟《カカノミテム》などいへるにかなはず、心をつけて見べし、
 
高山未短山之末 與理《タカヤマノスヱミジカヤマノスエヨリ》。
 
考云、二たびかくいひて、事を轉せるは文の例也、
〇後釋、考の説たがへり、こは言は同じけれど、同じ事を二たびいへる例にはあらず、上なるとは異《コト》事にて、いささかもあひあづからぬことなるをや、
 
佐久那太理 爾《サクナダリニ》。
 
考云、廣瀬祭(ノ)詞の下にもいへるごとく、久那の約加なれば、逆垂《サカダリ》也、
〇後釋、廣瀬祭(ノ)祝詞にも、山々 乃 自《ヨリ》v口《クチ》、狹久那多利 爾 下賜《サクナダリニクダシタマフ》水 |乎《ヲ》とあり、佐は例の眞《マ》にて、眞下垂《マクダタリ》也、川水の山より落るさまをいへり、さて然水の落る所を、久良《クラ》とも多爾ともいふ、久良は久那、多爾は多理にて、共にくなだりより出たる名也、谷を久良ともいへること、古事記傳五、闇淤加美《クラオカミノ》神の處に、委(ク)云るがごとし、萬葉十七に久良多爾《クラタニ》とあるも、久那多理《クナタリ》と通ひてたゞ谷のこと也、又神名帳なる、近江(ノ)國栗太(ノ)郡|佐久奈度《サクナドノ》神社を、櫻谷といふを以ても、久那と久良と同じきことを知べく、又此社は、勢多より二里ばかり下、鹿飛《シシトビ》といふ所の、瀧の落口の東の岸にあり、是にても、さくなだりの意をさとるべし、されば多爾といふも久良といふも、本(ト)水の下り落るより出たる名也、考に、逆垂といはれたるは心得ず、水はもとより下る物なる故に、のぼるをこそ逆登《サカノボ》るといへ、下るをば、いかでか逆《サカ》といはん、そのうへ佐加《サカ》を延て、佐久那《サクナ》とはいふべくもあらず、
 
落多支 都 速川 能 瀬坐 須《》オチタギツハヤカハノセニマス。
 
考云、落多岐《オチタギ》は、落沸《オチタギリ》也、萬葉に、瀧を沸とも書り、又假字も、必(ズ)多藝《タギ》と濁る字を用ひたり、速川は、萬葉に、墮多藝知瀧津速河《オチタギチタキツハヤカハ》と多くよめり、
〇後釋、支(ノ)字を、きの假字に用るは、伎もしは岐(ノ)字の、偏《ヘン》を省ける物也、偏を省きて書る例、古書に多し、さて此|支《キ》の下に、都(ノ)字落たり、こゝは多支都《タギツ》といはでは、下へ語つゞかず、故今補へり、私の本共には、瀧津と書り、萬葉九に、落多藝知流水之《オチタギチナガルルミヅノ》などあり、知《チ》といひ都《ツ》といふ差《ケヂメ》は、用言へつゞく時は、たぎちといひ、體言へつゞくときは、たぎつといふ、こゝは速川《ハヤカハ》體言なれば、たぎつといふべき例也、さて此ところ、文いとめでたく、まことにいさぎよきこゝちす、考に、おちたぎち瀧つ速川と、萬葉によめりといはれたれど、かくつゞけ云ることは見えず、
 
瀬織津比※[口+羊] 止 云神《セオリツヒメトイフカミ》。
 
考云、織は借字にて、瀬於呂志《セオロシ》の呂志を約めて、於利《オリ》といふ也、川水の下る瀬に坐(ス)故の御名なれば也、こは古事記に、伊邪那岐(ノ)命の御子、湊(ノ)神速秋津日子速秋津日賣二柱(ノ)神、因(テ)2河海(ニ)1持(チ)別(テ)生(ミタマフ)神の中の、水分《ミクマリノ》神を申すか、其故は、こゝに高山短山の末より云々とあると、廣瀬祭(ノ)詞に、六(ノ)御縣 |乃《ノ》 山(ノ)口 |爾《ニ》 坐(ス)云々、山々 |乃《ノ》 自(リ)v口狹久那多利 爾 下(シ)賜(フ)水 |乎《ヲ》、とあるとを合せて思ふべく、又此次の二神も、同大御神の、河海につけて生ませる神に坐(セ)ば也、〇同頭書云、或説に、此神を、天照大御神の荒御魂也といふは、よしなし、必よることなかれ、
〇後釋、此段は、古事記傳にも云るごとく、すべて伊邪那岐(ノ)命の御禊の段と、合せて説(ク)べし、まづ此神の御名の瀬織は、瀬下《セオリ》にて、かの大御神の、於《ニ》2中(ツ)瀬1降迦豆伎《オリカヅキ》たまふ、とある意の御名也、かくて此神すなはち禍津日《マガツヒノ》神也、倭姫(ノ)命(ノ)世記に、荒祭(ノ)宮一座、皇大神(ノ)荒|魂《ミタマ》、伊弉那伎(ノ)大神(ノ)所生《ウミマセル》神、名(ハ)八十枉津日(ノ)神也、一名(ハ)瀬織津比※[口+羊](ノ)神是也といへり、此書は、後世人の集めなせる書にて、凡ては信《ウケ》がたき事のみ多けれども、古書によれりとおぼしき事も又多し、今こゝに引る説も、さらに後世人の思ひよるまじきことなれば、必(ズ)古傳説有しことと聞えて、禍津日神を、瀬織津姫と申すは、かのはじめて中つ瀬に降《オリ》かづき給ふ時に、生《ナリ》坐る故にて、こゝによくかなへり、さてこゝは、祓(ツ)物に負せて、流しやりたる罪穢を、先(ヅ)受(ケ)取(リ)給ふ神なれば、かの中(ツ)瀬に下《オリ》て、よみの國の穢を、先(ヅ)滌《ソソ》きはじめ給へるに、よく當れり、そも/\禍津日(ノ)神は、世(ノ)中の凶事《マガコト》を生《ナ》し行ふ神なるに、是は罪穢をはらひ滅《ホロボ》す始(メ)なれば、生《ナ》ると滅ると、表裏《ウラウヘ》の違ひなるが如くなれども、これぞ祓の主意《ミネ》にて、深き理(リ)ある事なりける、そはまづ祓を行ひて、罪穢を清め流すは、よみの國の穢より起れる、禍津日の凶事《マガコト》を、又本のよみの國へ、返しやるしわざにて、それを先(ヅ)此神の、大海(ノ)原に持出給ひて、さて此次に見えたる如く、次第におくりやりて、終《ツヒ》に根(ノ)國に至るは、これ罪穢の、其本にかへるなれば、此神の生《ナ》し行ひ給へる凶事《マガコト》を、又此神の受取(リ)て、本へかへし給ふにて、表裏《ウラウヘ》のたがひの如くなるは、同事の、來ると往(ク)とのけぢめにぞ有ける、こをよく味ひて、祓のことわりの、深く妙《タヘ》なることをさとるべし、さて御門(ノ)祭(ノ)祝詞に、四方四角與利《ヨモヨスミヨリ》、疎備荒備來武《ウトビアラビコム》、天能麻我都比登云神乃言武惡事爾《アメノマガツヒトイフカミノイハムマガコトニ》、相麻自許利《アヒマジコリ》、相口會賜事無久《アヒクチアヘタマフコトナク》、道饗(ノ)祭(ノ)祝詞に、根國底國與里《ネノクニソコノクニヨリ》、麁備疎備來物爾《アラビウトビコムモノニ》、相率《アヒマジコリ》、相口會事無弖《アヒクチアフコトナクテ》とある、此二つと、かの伊邪那岐(ノ)命の、御禊の段とを合せて、凶事《マガコト》は、黄泉《ヨミノ》國より起り來ることを知(ル)べく、又此大祓(ノ)詞と、これらとを合せて、祓は、その凶事《マガコト》を、本のよみの國へ、かへし遣《ヤ》るしわざなることをも知(ル)べき也、此瀬織津姫云々より次々は、祓の主《ムネ》とあるところなれば、なほざりに見過(グ)すべからず、殊に心をとゞめて、深く味ふべき也、考に、織《オリ》を於呂志《オロシ》の約と説れたるは、自他の違ひあり、於理《オリ》は自《ミヅカラ》下《オ》るゝこと、於呂志《オロシ》は物を下《オロ》す事也、すべて此類を、言の延約《ノベツヾメ》を以て、通はし解《とく
》ときは、自と他と混淆して、言霊《コトタマ》の妙用《タヘナルハタラキ》を失ふこと也、又こゝを、水分(ノ)神を以てとかれたるも違へり、水分(ノ)神は、水を下《クダ》し施し給ふ神にこそあれ、罪穢を流しやる祓には、さらによしなきこと也、すべて此あたり、考の説、いまだくはしからざること多し、又此神を、大御神の荒御魂也とあるを、よしなしといはれたれど、禍津日(ノ)神を、天照大御神の荒御魂とあること、よしなきにあらず、その事は、古事記傳六の卷にいへり、
 
大海原 爾 持出 奈武《オホウミノハラニモチイデナム》。
 
考云、祓(ツ)物を流しやるを、此神の、澳《オキ》へもち出たまふなり、
 
如此持出往 波《カクモチイデイナバ》。荒鹽之鹽 乃 八百道 乃《アラシホノシホノヤホヂノ》。八鹽道之鹽 乃 八百會 爾 座 須《ヤシホヂノシホノヤホアヒニマス》。
 
考云、大海のはるかの澳に、潮道といふ有て、瀧よりも疾《トク》て、東へのみ流るといへり、そは何方にも有べけれど、其八百會までは、知(ル)べからぬを、播磨なると、豐後日向なる潮道の行會を以て、他をも思ひはかるべき也、會はあひと訓べし、後(ノ)人ゑとよむは、字音にて、ひがこと也、〇同頭書云、荒《アラ》とは、荒山荒野なども同じく、世ばなれて、生《アレ》なからある物をいふ也、鹽は潮也、字にかゝはらず、八《ヤ》は、二つ共に彌の意也、そも/\南海の潮道へ落たる船は、留るよしなくて、つひにかへらず、此道八丈が嶋に當れば、たま/\此嶋によるときは、命|生《イク》る者も有と、此難に逢たりし船人語りき、
〇後釋、八百道とは、潮道の多くあるをいふ、四方の海の内には、こゝにもかしこにも、許多《ココラ》の潮道有べし、現に聞及ぶ潮道も、國々の海に、これかれある中に、伊豆(ノ)國より、八丈嶋へ渡る海中《ワタナカ》にある潮道、廣さ廿町ばかりがほど、いみしく早く、東へ流るとぞ、又紀(ノ)國熊野の南の澳にも有て、東へ流るといふは、かの八丈の道なると、同じすぢにやあらん、八鹽道とは、上の鹽乃八百道を、うけ重ねていへる也、上には八百といひて、これにたゞ八《ヤ》とのみいへるは、こと違へる如く聞ゆめれども、八とのみいふときは、八十にも、八百にも、八千にもわたりて、廣ければ、八百鹽道といふに同じき也、八百會《ヤホアヒ》とは、八百の鹽道の集り會《アフ》所をいふ、方々の潮道より流れ來る潮の、一つ處に集(マリ)會(ヒ)て、海の底へ卷没《マキイ》る所也、さてこゝの文、かく同じさまなることを、重ねつゞけて、長々しくいへる、殊にめでたく、上つ代の文にて、さらに後世人の、かけても及ばぬさまにて、いとも/\雅《ミヤビ》たり、これらをよく味ひて、古文のみやびやかなるほどを、さとるべし、古今集に、わたつみの、おきつしほあひに、うかぶ沫の云々、
 
速開都比呼 止 云神《ハヤアキヅヒメトイフカミ》。
 
考云、古事記に、伊邪那岐(ノ)命の祓し給ふ時、御冠を棄《ステ》給ふに、所生《ナリマセル》神(ノ)名は飽咋《アキグヒ》のうしの神、とあるも似たれど、それにはあらじ、同大神、生(タマフ)2水戸《ミナトノ》神(ヲ)1、名(ハ)速秋津日子《ハヤアキツヒコノ》神、次(ニ)速秋津比賣(ノ)神とある、是なるべし、水戸《ミナト》は、水の門《ト》にて、川の海へ入て、開く所なる故に、開《アキ》といふ御名はあるならむ、さてその川水と共に流れ下る物を、潮道のまに/\ゐて行て、潮の往會《ユキアヒ》の所にて、底へまきいるゝを、此神の呑《ノム》といふ也、然れば此神は、水門《ミナト》の水の往(キ)至る限(リ)知(リ)坐(ス)よしにて、鹽の八百會に坐(ス)ともいへる也、
〇後釋、こはかの御禊(ノ)段に生《ナリ》坐る、伊豆能賣《イヅノメノ》神也、その伊豆《イヅ》は、阿伎豆《アキヅ》の切《ツヅ》まりたる御名にて、即(チ)かの速秋津日子(ノ)神、速秋津日女(ノ)神と同神也、秋は借字にて、明《アキ》づの意にて、明《アキ》とは、御禊によりて、清《キヨ》らかに清まりたるよしの御名也、これらの猶委き專は、古事記傳五の卷六の卷にいへれば、こゝにはもらせり、さて速秋津日子日女二柱(ノ)神は、古事記に、水戸《ミナトノ》神とあるを、こゝに鹽の八百會に坐(ス)といへるは、いたく處たがひたれども、是に深きよし有(リ)、そは潮の八百會は、此|顯國《ウツシクニ》の海上の堺にて、根(ノ)國の方へ、潮の没往《イリユク》門口《トグチ》なれば、これ又|彼方《カナタ》の水戸《ミナト》也、常にいふ水戸は、川より海へ水の出る口、鹽の八百會は、海より入て、根(ノ)國の方へ、水の出る口なれば、此方《コナタ》にて川より出る所と、彼方《カナタ》へ出る所との差《タガヒ》こそあれ、共に同じく水戸《ミナト》なる、古傳の趣の妙なること、かくのごとし、よく/\味ふべシ、考に水門《ミナト》は、川の海へ入て開く所、といはれたるは、いかゞ、開はたゞ借字にて、明《アキ》の意なるをや、又潮のまに/\ゐて行てといひ、水門《ミナト》の水の行(キ)至る限(リ)知(リ)坐(ス)、などいはれたるは、水戸(ノ)神とあると、鹽の八百會に坐(ス)あると、いたく其處の異なるを、強《シヒ》て一つに説(キ)合さんとてのしひごと也、さては水戸(ノ)神にはあらず、たゞ海(ノ)神也、又八百會に坐(ス)とある、坐(ス)にもかなはざることなるをや、さて此神の御名、式の本には、比(ノ)字なし、かの伊豆能賣《イヅノメ》も、たゞ賣《メ》なればこゝもたゞ※[口+羊]《メ》にてもあるべけれど、秋津比賣とある所は、比賣也、そのうへこゝも、前後の瀬織津比※[口+羊]佐須良比※[口+羊]、みな比※[口+羊]なれば、是も考の本に、比※[口+羊]とせられたるに依れり、私の本どもにも、ひめとあり、
 
持可可呑 ※[氏/一]武《モチカカノミテム》。
 
考云、持は、輕く添たる言也、神代紀などに例多し、可々《カカ》は、水を呑《ノム》音也、すべて物を呑(ミ)、物をかむ音を、かふ/\とのむ、かり/\とかむなどいふ、此類多し、萬葉に、筑波嶺に加々鳴鷲《カカナクワシ》とよめるも、鳴(ク)聲の、かゞ/\と聞ゆればいへり、然るを本に、哥と書るによりて、或人の、言發す辭にして、萬葉に、香青《カアヲ》香黒《カグロ》など見え、催馬樂に、かよりあひ、後の物語書にも、かよれるなどいへる加《カ》に同じといへる、さては雅にはあれど、發言は、上にこそおけ、持といふ下には有べくもあらず、なは可々二字とせるに依べし、〇同頭書云、又|哥《カ》として、助辭也ともいはんか、可《カ》を助辭における例なし、次の如此《カク》といふ下には、殊に發言も助辭も有べきにあらず、可々として、呑(ム)音也といふを、俗言と思ふ人も有べけれど、すべて物のなる音をいふに、雅俗はなし、つよく泣(ク)とき、喉のなるを、よゝとなくといひ、高くさやかに笑ふを、から/\とわらふといひ、とゞ/\となる、ひし/\となるなどいふ、其外も猶此類いとおほし、
〇後釋、可々は、朝野群載に、客々と書き、次なるをも、加々と書り、式の本に、哥とあるは、後に寫(シ)誤れるもの也、さて可々《カカ》の意は、考の説の如し、殊に入聲(ノ)字をしも用ひて、客々とも書るも、呑(ム)音にて、かく/\に近きが故也、さて祓(ツ)物を、潮とともに、海の底へまきいるゝは、實に此神の呑給ふ也、然るを漢籍のいはゆる寓言の如く心得むは、やまとたましひにあらず、そは例のなまさかしきから心也、さて然呑(ミ)給ひて、顯《ウツシ》國の罪穢の、除《ノゾ》こり清まる、これ伊豆能賣(ノ)神に正《マサ》しく當《アタ》れり、なほ古事記傳六の卷、此神の下を考へて、其理(リ)をしるべし、
 
如此 久 可可呑 ※[氏/一]波《カクカカノミテバ》。氣吹戸坐 須《イブキドニマス》。
 
考云、物を呑ては、必(ズ)息吹《イキブキ》するものなる故に、かくいへり、此言は、かの橘の小門にして、入(テ)v水(ニ)吹2生《フキナシタマフ》磐土(ノ)命(ヲ)1、とあるなどより出けん、
〇後釋、戸は處也、處を斗《ト》と云例多し、さて氣吹戸《イブキド》とは、此氣吹戸主(ノ)神の、諸の罪穢を、いぶき放《ハナ》ちやり給ふ處のかぎりを、ひろくいへるにて、はじめ祓つ物を、川に流し棄《スツ》る所よりして、終り根(ノ)國に至るまでの間に、ひろくわたる名也、坐《マス》といへるは、氣吹戸といふ所の、一つあるごと聞ゆめれども、然らず、たゞ上の二つの例のまゝに、坐(ス)とはいへるにて、別に然云(フ)所の、一つあるにはあらず、そはかの早川の瀬、鹽の八百會、根(ノ)國などいふとは、名のさま異にして、氣吹戸といふべき所は、いづくにもなきを以ても知べし、なほ次に委くいふを合せて、心得べき也、考に、物を呑ては、必息吹するものなどいはれたるは、かなはぬこと也、こゝは呑(ム)は速開津姫の事、氣吹放(ツ)は、いぶきど主(ノ)神の事にて、別なるをや、但し語のつゞきの、さるさまに聞ゆるは、おのづからより來たる、文のあやのみなり、磐土(ノ)命の事を引れたるも、吹生とある言は、よしあれど、かの神にはあづからぬことなり、おもひまがふべからず、
 
氣吹戸主 止 云神《イブキドヌシトイフカミ》。
 
後釋、此神は、倭姫(ノ)命(ノ)世記に、多賀《タカノ》宮一座、豐受(ノ)荒魂也、伊弉邪伎(ノ)神(ノ)所生《ウミマセル》神、名(ハ)伊吹戸主、亦(ノ)名(ハ)曰2神直日大直日《カムナホビオホナホビノ》神(ト)1と見えたり、多賀(ノ)宮は、伊勢(ノ)外宮の別宮、高(ノ)宮也、是を豐受(ノ)荒魂といへるは、心得ねど、伊吹戸主を、直毘《ナホビノ》神也といへるは、後(ノ)世人はさらに思ひよるまじき事なれば、こは必(ズ)古き傳説なるべし、こゝに正しくかなひて、いとたふとし、そも/\直毘(ノ)神の御事は、古事記傳六の卷、御禊(ノ)段に委く云(ヘ)れば、考へて知べし、さて此御名、氣吹主といはずして、氣吹戸主と申すは、上に早川の瀬に坐(ス)云々、鹽の八首會に坐(ス)云々、といへる例のまに/\、これも氣吹戸に坐(ス)といふから、戸てふ言をも添て、稱《タタヘ》奉れるなるべし、或人問、かの伊邪那岐(ノ)大神の御禊に、此神たちの生《ナリ》坐るは、先(ヅ)禍津日、次に直毘(ノ)神、次に伊豆能賣にて、其次第、事の趣によくかなへり、然ればこゝも、氣吹戸主もし直毘(ノ)神ならば、瀬織津比※[口+羊]の次に、氣吹戸主、次に速開津比※[口+羊]なるべきに、此二柱(ノ)神の御事の次第の、かへさまなるはいかに、答、まづ祓にて罪穢(レ)の除《ノゾ》こり清まる次第、初(メ)に瀬織津姫、早川の瀬より、大海(ノ)原に持出給ひ、次に大海(ノ)原を經《ヘ》て、鹽の八百會まで至るは、此氣吹戸主(ノ)神の、いぶき放ちて、おくりやり給ふにて、次に速開津姫の呑給ふ也、然れはかの御禊に生坐る次第と、違へることなし、然るに氣吹戸主の事を、瀬織津姫の次に云(ハ)ざるは、後にこゝにいふ故に、略けるもの也、もし然らずは、大海原の間を、はる/”\と經《ヘ》て、鹽の八百會までは、何れの神のおくりやり給ふとかせむ、上文に、持出奈武《モチイデナム》といひて、次には如此持出往波《カクモチイデイナバ》と、往《イヌ》てふ言を加《クハ》へていへるに、心をつくべし、瀬織津姫の事は、持出るまでなる故に、そこには、往《イヌ》といはず、往《イヌ》るは、持出たるうへの事にて、大海原を經て往《イヌ》るにて、此一言に、氣吹戸主の御しわざの、此間にもあることを、思はせたる、上つ代の文、妙也とも妙也、なほざりに見過すべきにあらず、さて其事を、そこにはいはずして、こゝにしも云る故は、伊豆能賣の呑給ひて、さてその鹽の八百會より、又根(ノ)國まで、おくりやり給ふも、同じ此直毘(ノ)神の御しわざなる故に、こゝにいひて、かしこをもかねたり、そは此神は、すべて萬の凶事《マガコト》を、直《ナホ》し清め給ふ御靈《ミタマ》の神に坐せば、廣くいふ時は、早川の瀬に流れ出るより、根(ノ)國に到りて、さすらひ失《ウス》るまで、始め終りすべて、此神の御靈《ミタマ》にあらざることなければ也、然るにもしこれを、滞織津姫の次にいふときは、其|御靈《ミタマ》の、始終にわたること、あらはれがたく、又鹽の八百會より、根(ノ)國までの間の事も、闕《カク》れば、かれこれを以て、こゝには擧たるもの也、なほいはば、罪穢の、鹽の八百會に没亡《イリウス》るまでは、顯國《ウツシクニ》の事なるを、又それより更に根(ノ)國の方に就《ツキ》て云(フ)ときは、かの鹽會に没《イリ》ゆくは、彼方《カナタ》にては、出來るにて、水門《ミナト》なれば、上にもいへるごとく、伊豆能賣(ノ)神は、水戸《ミナトノ》神とあるにもかなひたれば、顯國《ウツシクニ》にて、早川より水門《ミナト》を經《ヘ》て、海に出る處にも、此神の御靈《ミタマ》あるべく、又かの八百會より、彼方《カナタ》へ流れ出る處にも、顯國のごとく、瀬織津姫の御靈あるべきこと、互《タガヒ》に相准へて知(ル)べし、かくてそを根(ノ)國までおくりやるは、又顯國にて大海(ノ)原を經《ヘ》て、八百會までおくりやると同じければ、直毘の神をこゝに擧ること、又其よし有(リ)、かくして根(ノ)國に至(リ)て、さすらひ失ふは、又顯國にて、いづのめの神の呑給ふと同じければ、速佐須良姫の御しわざにも、伊豆能賣の御靈あるべし、かくのごとく此神たち、たがひに御靈《ミタマ》幸《チハ》ひて、祓の功《イサヲ》を相成し給ふもの也、考に、此神の説なし、上に物を呑ては云々とある、これ此神の解也、そも/\此段は、祓の主《ムネ》とある所なるに、考の説、すべてかく輕忽《タヤス》くなほざりにて、かの寓言といふ物のごと見られたる如く聞ゆるは、いかにぞや、
 
根國底之國 爾《ネノクニソコノクニニ》。氣吹放 ※[氏/一]牟《イブキハナチテム》。
 
考云、根と底とは同じきを、二ついふは、文也、古事記に、須佐之男(ノ)命云々、僕《アハ》者欲v罷2妣(ノ)國根(ノ)之堅洲國(ニ)1、また神代紀一書に、同神の事を、汝(ガ)所行甚無頼《シワザイトアヂキナシ》云々、宜《ベシ》3急《トク》適《ユク》2於底(ツ)根(ノ)國(ニ)1、乃共(ニ)逐降去《ヤラヒクダシキ》矣、
〇後釋、之國の下なる爾(ノ)字は、式の本に、上の神(ノ)字の下にあるは、錯《ミダ》れたる也、根(ノ)國底之國は、即(チ)黄泉《ヨミノ》國也、古事記傳に委くいへり、そも/\世中の凶事《マガコト》は、皆もと黄泉《ヨミノ》國より起り來る事なるを、祓禊は、その罪穢の凶事《マガコト》を、本の黄泉の國へ、かへしやるしわざにて、此祓禊する事を、天津神國津神の聞食《キコシメ》し納《イ》るれば、此段の神たち、其祓ひすてたる罪穢(レ)の凶事《マガコト》を、次第《ツギツギ》によみの國へおくりかへしやり給ひて、世(ノ)中の罪穢、除《ノゾ》こり清まりて、凶事《マガコト》無《ナ》き、これぞ祓禊の旨趣《オモムキ》なりける、氣吹《イブキ》は、息以(テ)吹(ク)也、放《ハナチ》)ははなちやる也、さて速開津比※[口+羊]には、呑《ノム》といひ、此神には、氣吹放といへるも、實に此|異《カハリ》あり、かの呑給ふは、顯國《ウツシクニ》の罪穢の、除《ノゾ》こり亡《ウス》るなれば、呑(ミ)没《イレ》失ふ也、此氣吹放(チ)給ふは、既に根(ノ)國の方に移りたるを、受て根(ノ)國までやり給ふなれば、其物を、御息もて吹やり給ふ也、此二つのこゝろばへ、直毘の神と伊豆の賣(ノ)神とに、よくあたれり、古事記傳御禊(ノ)段を、考へ合せて知べし、さて上にいへるごとく、はじめ川瀬に流し棄るより、終り根の國に至りてさすらひ失ふまでを、一つに合せていふときは、皆これ凶《マガ》を吉《ヨキ》に直す直毘(ノ)神の御靈《ミタマ》なれば、此氣吹放といふことも、同じく始(メ)終(リ)にわたりて、祓禊する處よりはじめて、根國にて、さすらひうしなふ處まで、すべて氣吹戸《イブキド》にして、其間の事は、みな此神のいぶきはなち給ふにぞ有ける、
 
如此 久 氣吹放 ※[氏/一]波《カクイブキハナチテバ》。根國底之國 爾 坐《ネノクニソコノクニニマス》。速佐須良比※[口+羊] 登云神《ハヤサスラヒメトイフカミ》。
 
考云、此神名は、次の言をもて思ふに、佐須良比《サスラヒ》といふ言なれば、今一つ比(ノ)字有(リ)けんが、落たるなるべし、又良比の約|里《リ》なれば、もしは佐須里なりしを、後(ノ)人さかしらに、良とは改めたるか、〇後釋、佐須良比比※[口+羊]《サスラヒヒメ》といふべきを、比《ヒ》一つたらざるは、凡て古言に、かく同音の重なるをば、一つ省《ハブ》く例あり、旅人を多毘登《タビト》といひ、留《トドマル》を登麻流《トマル》ともいふが如し、此類なほ有(リ)、されば比《ヒ》の落たるにもあらず、里《リ》を誤れるにもあらず、此神は、古事記に、須佐之男(ノ)大神の御|女《ムスメ》に、須勢理毘賣《スセリビメノ》命と申て、黄泉《ヨミノ》國に坐(ス)神おはします、是也、須《ス》と佐《サ》、勢《セ》と須《ス》、通ふ音にて、良比《ラヒ》は理《リ》と切《ツヅマ》れば、さすらひと、すせりと、御名通へり、
 
持佐須良比矢 ※[氏/一]牟《モチサスラヒウシナヒテム》。
 
考云、底が底にして、さすらひ失ふ也、崇神天皇紀に、百姓流離とあるを、おほみたからさすらへぬと訓たり、さてこの瀬織津氣吹戸主速佐須良、などいふ神の御名は、物に見えざれども、處として、神のまさぬ處なく、功として、神の爲《ナシ》給はぬ功はなき意を得て、その處其功によりて、かく名け申せるぞ、古意を得たる文なる、文といふ物を意得ぬ人、くさ/”\惑へる説ある也、
〇後釋、さすらひうしなふは、行方もしられずなして、亡《ウシ》なひ給ふなり、流離などの字を訓(ム)、其意也、伶※[聘の耳が人偏]をも訓り、但し此言のつかひざま、こゝとかの崇神紀の流離とは、自他の違ひあるを、此祝詞は古文なれば、こゝを正しとすべし、此(ノ)佐須良比※[口+羊]は、須勢理毘賣にて、其神は、祓には由縁なきが如くなれども、これに深きゆゑよしある事也、そはまづ、氣吹戸主の、根(ノ)國にいぶき放(チ)やり給ふ迄にて、祓の事は竟《ヲハリ》て、此比※[口+羊]神の、さすらひ失ひ給ふは、その祓の驗《シルシ》を立給ふ御しわざなり、故(レ)こゝの四柱の神の中に、此神のみは、かの伊邪那岐(ノ)大神の御禊に生《ナリ》坐る神にあらずして、其禊の驗《シルシ》に生《ナリ》坐る、貴御子《ウヅノミコ》須佐之男(ノ)大神の御女也、これ又深き理(リ)也けり、さてはじめ其御父須佐之男(ノ)大神、又祓によりて、罪穢(レ)清まりて、世に大功《イミシキイサヲ》を立(テ)給ひ、其|御末《ミコ》大國主(ノ)神、はじめしば/\、八十神《ヤソカミ》の禍事《マガコト》に遇《アヒ》給ひしを、根(ノ)國に至(リ)坐て、此須勢埋毘賣(ノ)命に娶坐《ミアヒマシ》、此比賣神の御はからひによりて、顯國《ウツシクニ》にかへり、世にたぐひなき大功を立給へる、これ此ひめ神の、人民の罪穢を、さすらひ失ひ給ひて、福《サチ》を得ると、事のおもむき運び、全く同じきを思ふべし、大國主(ノ)神と此ひめ神と共に、御禊に生坐る須佐之男(ノ)大神の御後《ミスヱ》にして、夫婦《メヲ》となりて、此功を立給へる事、又深きことわり有べし、さてすべて世(ノ)中の凶事《マガコト》は、其はじめよみの國より起るを、此大国主(ノ)神の、禍事《マガコト》によりて、黄泉《ヨミノ》國に至りませるはそのまが事の、初(メ)のよみの國に還《カヘ》れるにて、祓の趣と同じ、さてそれを、すせりびめの命の、さすらひうしなひて、功をたてしめ給へる、これらの次第、はじめかの黄泉《ヨミノ》段、御禊(ノ)段より、大國主(ノ)神の、よみの國に至り、顯國《ウツシクニ》にかへり給ひて、功を立(テ)給へるまでの、神代の段々を、引合せ見て、祓のむねの、妙なることをさとるべし、考に、右の神たちの御名の、古書に見えざるにつきて、いはれたる説は、精《クハ》しからず、處として、神のまさぬ處なく、功として、神のなし給はぬ功なきは、これ各其神坐(ス)なれば、其神はいづれの神と、考への及ぶかぎりは、尋ねずは有べからず、既に速開津比※[口+羊]は、古事記にも書紀にも見えたる神にあらずや、これに准へて、餘の三柱(ノ)神も、たゞ後に名をまうけたるのみにはあらず、必(ズ)たしかに、神代の書に見えたる神たちなるべきことをさとるべし、すべて古(ヘ)の文に、意を得て書く人の、新に神(ノ)名を造りいへること、かつてなし、若《モシ》さもあらば、中々に古意を得ざる後(ノ)世人の、例のから心のさかしら文にこそあれ、すべて此段は、然なほざりに見べきわざにはあらず、
 
如此 久 失 ※[氏/一]波《カクウシナヒテバ》。天皇 我 朝廷 爾 仕奉 留《スメラガミカドニツカヘマツル》。官官人等 乎 始 ※[氏/一]《ツカサヅカサノヒトドモヲハジメテ》。天下四方 爾波《アメノシタヨモニハ》。自今日始 ※[氏/一]《ケフヨリハジメテ》。罪 止 云 布 罪 波 不在 止《ツミトイフツミハアラジト》。
 
後釋、不在 止《アラジト》、祓給 比 清給事 乎《ハラヒタマヒキヨメタマフコトヲ》と、次の語どもをへだてて、つゞく詞也、さて上に、皇御孫之命 乃 朝廷 乎 始 ※[氏/一]云々、罪 止 云 布 罪 波 不在 止といひ、また云々(ノ)事之如 久、遺(ル)罪 波 不在 止といひて、又こゝにもかくいへるは、同じことの、いたづらに重なりて、拙きが如くなれど、これ古文のつねにして、よく語の條理《スヂ》をたゞして見れば、拙からず、條理《スヂ》よくとほりて聞ゆる也、すべて同詞の重なるには、一もじにても、つたなくなることもあれど、又さまによりては、いくつ重なりても、よろしきを、今の人は、つとめて同詞を重ねじとかまふるから、中々に拙くなること多し、中昔の文にも、殊にいせ物語などには、ことさらに同詞をいくつもかさねいひて、にほひとせることも、多きぞかし、
 
高天原 爾 耳振立聞物 止《タカマノハラニミミフリタテキクモノト》。馬牽立 ※[氏/一]《ウマヒキタテテ》。
 
考云、馬は、耳|疾《ト》き獣なる故に、天つ神國つ神の、此申す祓の詞を、とく聞(シ)食(ス)にたとへて、祓物とする也、出雲(ノ)國造が神賀詞にも、馬を獻る事を、振立 流 事 波《フリタツルコトハ》、耳 能 彌高 爾《ミミノイヤタカニ》、天(ノ)下|所知食 牟 事志太米《シロシメサムコトノシタメ》、といへるを以て知べし、〇同頭書云、後(ノ)世(ノ)本にこゝを、さを鹿の八(ツ)の御耳を振立といへるは、ひがことなること、上にいへるがごとし、
〇後釋、高天原 爾とは、殿造りをいふとて、高天原に千木高知といふと同意にて、たゞ高くといふこと也、必しも高天原まで至るよしにはあらず、此言を、高天原に坐(ス)神たちに、聞食せといふ意也、といふ説は、いとつたなし、牽立 ※[氏/一] 祓給 比、とつゞくてにをは也、大祓に馬を引立る事は、上にいへり、さて自(リ)2今日1始(メ) ※[氏/一]といふより下、朝野群載にのせたるには、自(リ)v今|以後《ノチ》、遺(ル)罪 止 云罪、咎 止 云咎 八 不《ジ》v有 止、祓給 比 清(メ)給事 ヲ、祓戸 乃 八百萬 乃 御神|達《タチ》 八、佐乎志加 乃 御耳 乎 振立 天、聞(シ)食(セ) 止 申(ス)とあるは、中昔の人の、古(ヘ)の事をも意をもしらで、みだりに詞をかへたるもの也、ひがことなること、考のはじめにいはれたるが如し、紫式部が日記に、陰陽師ども、世にあるかぎりめしあつめて、八百萬の神も、耳ふりたてぬはあらじと見え聞ゆ、といへるは、そのころはやく、世にかくもてひがめて物せし也、
 
今年六月晦日《コトシノミナヅキノツゴモリノヒノ》。夕日之降 乃 大祓 爾《ユフヒノクダチノオホハラヒニ》。
 
後釋、夕日之降とは、夕つ方を云、降は、久陀知《クダチ》とよむ、古言也、朝に爲《ス》る事には、朝日之豐榮登爾《アサヒノトヨサカノボリニ》といふ、朝夕のことを、かくいふは、古(ヘ)の雅言《ミヤビゴト》也、
 
祓給 比 清給事 乎《ハラヒタマヒキヨメタマフコトヲ》。諸聞食 止 宣《モロキロキコシメセトノル》。
 
考云、これにて祓(ノ)詞終る、百官|稱唯《ヲオトマヲス》、
〇後釋、諸《モロキロ》とは、はじめに、集侍親王云々等諸、とある諸をさすなり、宣《ノル》とは、中臣みづからいふなること、はじめと同じ、
 
四《ヨ》 毛※[□で囲む] |國卜部等《クニノウラベドモ》。大川道 爾 持退出 ※[氏/一]《オホカハヂニモテマカリデテ》。祓却 止 宣《ハラヒヤレトノル》。
 
後釋、此一段は、祓の詞|宣訖《ノリヲハリ》て、別に卜部に仰する詞也、これをも、引つゞけて中臣の宣《ノル》也、
〇考云、卜部は、解除の事をとるなれば、祓詞終りて後、其はらへつ物を、川邊に持出て、流しやれと、仰せ給ふ也、さて此文に、疑ひども有(リ)、まづ四毛と、假字に書(ク)時は、乃《ノノ》字を添ざれば、與毛具爾《ヨモグニ》とよまれて、古言の例に違へり、然れば毛(ノ)字は、方を誤れるか、はた下に乃(ノ)字を落せるにもあらん、又川道の道は、用なし、邊の誤ならんか、又卜部は、職員令(ノ)神祇官(ノ)下に、卜部二十人と見え、廷喜臨時祭式に、卜部(ハ)、取(ル)2三國(ノ)卜術|優長《スグレタル》者(ヲ)1、【伊豆五人、壹岐五人、對馬十人、】と有(リ)、これ神祇官の卜部也、員《カズ》も令式ひとし、然るをこゝに四方(ノ)國(ノ)卜部等といへるはいかに、ただ卜部等、もしは三國(ノ)卜部などこそ有(ル)べけれ、伊豆壹岐對馬をいふとたすくとも、そをいかでか四方(ノ)國とはいふべき、又諸國を兼云といはんか、此大祓は、たゞ朝廷百官の大祓にこそあれ、諸國の大祓にはあらねば、さも助けがたし、又此詞、もし藤原(ノ)朝の末にかきたらば、卜部の事もいふべけれど、飛鳥(ノ)朝近江(ノ)大津(ノ)朝などにかきたらむには、卜部の事は、いふべくもあらず、惣て此詞はめでたきに、こゝに至りて、文のつたなく、又疑はしき事どもあるは、後に加へたる物とこそおぼゆれ、〇同頭書云、諸國とても、卜部を用ひらるゝこと見えず、太宰府にも、令に陰陽はあれども、卜部は見えず、然ればかにかくに、四方國(ノ)卜部といふこと、有べくもあらず、
〇後釋、四 毛 國とある毛(ノ)字は、後(ノ)世人の、なまさかしらに加《クハ》へたるもの也、よもの國ならんには、たゞに四方とも、四面《ヨモ》とも書(ク)こそ、古書の例なれ、毛(ノ)字を書る例もなく、いとつたなきこと也、又卜部は、考に云れたるごとく、三國よりこそ出れ、諸国より出たることなし、さればこれは、四國《ヨクニ》にて、四簡國の卜部也、四時祭式、大祓御贖(ノ)條に、召(ス)2中臣(ヲ)1、稱唯率(テ)2文部四國(ノ)卜部(ヲ)1入(ル)云々、宮内省式に、四國 乃《ヨクニノ》 卜部等云々、台記(ノ)別記、大嘗會(ノ)中臣(ノ)壽詞にも、四國(ノ)卜部等云々などあるを以てしるべし、さるにては、伊豆壹岐對馬に、今一國はいづれぞといふに、京に在(ル)を加へていふなるべし、臨時祭式に、其(ノ)卜部(ハ)、取(ル)2三國(ニ)1云々、若(シ)取(ラバ)2在(ル)v都(ニ)之人(ヲ)1云々、これにて、在京の卜部もあることを知(ル)べし、京ならば、國とはいふべからざる例なれども、三國并在京卜部などいはむは、煩はしければ、三國に合せて、四國とはいふなるべし、川道《カハヂ》とは、祓(ツ)物を流しすてて、海原へやるに、川は其道なる故に、殊に道とはいへる也、さて此流しやる川は、其時々の京にょりて、何れの川にても有べし、今(ノ)京にては、鴨川へぞ流しけむ、退《マカリ》とは、京より外へゆくをいふ、祓却《ハラヒヤレ》は、神祇令に、卜部|爲《ナス》2解除(ヲ)1とある是也、考に、四毛國とある事を、くさ/”\いはれたるは、四國《ヨクニノ》卜部といふことのあるを、考へもらされたる故也、又川道の道を、用なしといはれたるも、なほざり也、用あること、右に云が如し、又こゝに至て文つたなしとあるも、いはれず、毛(ノ)字を除きては、何の拙きことかあらん、さて此段は、初(メ)なる集侍親王云々の段と共に、二季の大祓の定まりし時に、加《クハ》へられたる文なること、論なし、されは、此詞もし藤原(ノ)朝の末に書たらは云々の論は、こゝに用なきこと也、
        大祓詞をはりぬ
 
つけそへぶみ
 
 大祓の祝詞を解ることのついでに、あだしもろ/\の祝詞の中にも、思ひよれる事どものあるを、いさゝかこゝにしるしつく、
 
〇祈年祭
 
皇睦神漏伎命神漏彌命以《スメラガムツカムロギノミコトカムロミノミコトモテ》、
 
上なる命(ノ)字は、後(ノ)人の、さかしらに加へたるなるべし、こゝの命は、詔命をいへるなれば、二ついふべきにあらず、下文に、幸 閇《サキハヘ》 奉(ルガ)故(ニ)皇吾《スメラワガ》睦神漏伎(ノ)命、神漏彌(ノ)命 登云々、とある命とは、異なるをや、もしこゝも、二つながら命といふ言を添ていはば、以(ノ)字の上に今一つ、之《ノ》命といふことなくては、たらはず、されど然いへる例はなし、
 
稱辭竟奉《タタヘコトヲヘマツル》、
 
多々閇《タタヘ》は、水を湛《タタフ》ると同言にて、滿足《ミチタラ》はす意也、今(ノ)世の言に、海潮の滿《ミチ》きはまれるを、しほのたゝへと云も、同じ、凡て神を祭るには、事をも物をも、滿足《ミチタラ》はし、つくし究《キハ》めて、そのよしを申すことにて、即(チ)祝詞の語是也、此祝詞 にていはば、千穎八百穎 爾《チカヒヤホカヒニ》云々、※[瓦+肆の左]閇《ミカノヘ》云々、大野原 爾云々などやうに、ことをつくしきはめて申す、これたゝへことをへ奉る也、竟《ヲヘ》も、きはめつくす意也、さて神を祭るには、必(ズ)然することなる故に、多々閇辭竟奉《タタヘコトヲヘマツル》といへば、やがて、祭祀《マツ》ることになりて、こゝも天(ツ)社國(ツ)社 |登 伊都伎祭皇神等《トイツキマツルスメカミタチ》といふ意也、餘も准へて心得べし、
 
初穗 乎波《ハツホヲバ》、 千穎八百穎 爾 奉置 ※[氏/一]《チカヒヤホカヒニタテマツリオキテ》、※[瓦+肆の左]閇高知《ミカノヘタカシリ》、※[瓦+肆の左]腹滿雙 ※[氏/一]《ミカノハラミチナバテ》、汁 爾母 穎 爾母《シルニモカヒニモ》、 稱辭竟奉 牟《タタヘコトヲヘマツラム》、
 
汁とは、酒をいひて、即(チ)上の※[瓦+肆の左]云々これ也、穎は、上の千穎八百穎これ也、然れば、汁にも穎にもとは、上の二種をさしていへる也、さて此語、もろ/\の祝詞に、多くある中に、こゝなるは、語とゝのひて、理(リ)よく聞えたるを、他《アダシ》祝詞なるは、皆いひざまあしくてことわり聞えがたし、そを今こゝに集めて論はむ、まづ次なる水分(ノ)神(ノ)祭(ノ)詞に、初穗 波、穎 爾母 汁 爾母 ※[瓦+肆の左]閇云々、六月月次水分(ノ)神祭(ノ)詞も是に同じ、これは穎にも汁にもといひながら、次にその汁の事のみをいひて、穎のことなきは、語とゝのはず、又廣瀬(ノ)大忌(ノ)祭(ノ)詞に、初穗|者《ハ》、汁 爾母 穎 爾母、千稻八千稻《チシネヤチシネ》 爾 引居 ※[氏/一]、これも次に穎の方をのみいひて、汁の方なきは、とゝのはず、又遷却祟神詞に、御酒者※[瓦+肆の左]閇云々、米 爾毛 穎 爾毛とある、米は例なし、汁(ノ)字を寫(シ)誤れる也、さて此一句、はなれ物にて、穩ならず、又廣瀬(ノ)大忌、六(ノ)御縣、山口等(ノ)神(ノ)祭(ノ)詞に、初穗者、汁 爾母 穎 爾毛、※[瓦+肆の左] 乃 閇云々 ※[氏/一]、如《ゴト》2横山(ノ)1打積置 ※[氏/一]、こは御酒は、如2横山(ノ)1とはいふべくもあらねばいかゞ、稻のことならむには、稻といはでは聞えず、又龍田(ノ)祭(ノ)詞に、初穗者、※[瓦+肆の左] 乃 閇云々 ※[氏/一]、汁 爾母 穎 爾母、八百稻千稻 爾 引居置 ※[氏/一]、これは汁にも穎にもといふこと、酒と稻との中間に在ていかゞ、かくのごとくいづれの祝詞なるも、此事、いひざまのととのはざるは、いかなることにか、すべて奈良(ノ)朝などのころになりては、世(ノ)人なべて、から學(ビ)をのみもはらとして、皇朝の古意古言をば、をさ/\さだすることもなくて、祝詞の語などもなほざりになりて、古きにはよりながら、略くまじきことをも、みだりにはぶきなどせしから、かゝるにやあらむ、又後につぎ/\寫す時に、心もなくはぶけるなども有べし、廣瀬(ノ)大忌(ノ)祭(ノ)詞に、御酒者、※[瓦+肆の左] 能 閇云々 ※[氏/一]、和稻荒稻 爾、これはことわりは聞えたれど、文のしらべあしく、拙し、鎮火(ノ)祭(ノ)詞に、御酒者、※[瓦+肆の左](ノ)邊《ヘ》云々 ※[氏/一]、和稻荒稻 爾 至 萬※[氏/一]爾、如2横山(ノ)1置高成 ※[氏/一]、これは文のてりあひしらべもよろしき也、考に、稻とあるをば、汁と穎との惣名也といはれたるは、かなはず、
 
御年(ノ)皇神は、神名帳に、大和(ノ)國葛上郡、葛木(ノ)御歳(ノ)神社、【名神大月次相嘗新嘗】とある是也、貞觀元年に、從一位を授(ケ)奉(リ)給へる事も、三代實録に見えたり、然るを考に、高市(ノ)郡なる御歳(ノ)神社大歳(ノ)神社を出していはれたるは、違へり、高市(ノ)郡なるは、小社の列にて、さばかり重く祭り給ふべき神にはあらず、又御歳(ノ)神と大歳(ノ)神とは別なるに、同神におはすべしといはれたるも、たがへり、御年(ノ)神は、大年(ノ)神の御子と、古事記に見えたり、
 
大御巫 能 稱辞竟奉皇神等《オホミカムノコノタタヘコトヲヘマツルスメカミタチ》、此八柱(ノ)神は、天皇の御守護《ミマモリ》のために、齋祭《イハヒマツ》り給ふ神たち也、そのよしは、古事記傳に委(ク)云り、考の説は、多くたがへり、神の御名共の訓もわろし、神魂は如微牟須毘《カミムスビ》、高御魂は多加美牟須毘《タカミムスビ》、生魂は伊久牟須毘《イクムスビ》、足魂は多流牟須毘《タルムスビ》、玉留魂は多麻都米牟須毘《タマツメムスビ》、大御膳都神は意富美氣都加微《オホミケツカミ》と訓べし、すべて御食神《ミケツカミ》を、みけつのかみと、之《ノ》を添てよむは、ひがこと也、
手長御世《タナガノミヨ》は、足長《タリナガ》の御世也、萬葉二に、御壽者長久《ミイノチハナガク》、天足有《アマタラシタリ》、皇吾睦神漏伎《スメラワガムツカムロギノ》命、神漏彌《カムロミノ》命 登《ト》云々、
こは皇祖神ならぬ神たちもあれども、厚く尊み給ひて、みな皇祖神として祭り給ふよし也、登《ト》といふ辭是也、萬葉十四に、信濃なる、ちぐまの川の、さゞれしも、君しふみてば、玉とひろはむ、此玉との登《ト》に同じ、玉ならぬ石を、玉としてひろはむ也、是にて心得べし、
 
宇豆 乃 幣帛 乎 稱辭竟奉、
考に、此語を、略に過たりといはれたれど、然らず、奉《マツル》は、獻る意、又祭る意ある言なれば、稱辭を竟《ヲヘ》て、獻るといふ意になる也、
 
谷蟆 能 狹度極《タニグクノサワタルキハミ》、狹は借字にて、眞渡る也、此物は、いづくまでも、靈《アヤシ》く行通《ユキトホ》る物なる故にいへり、考の説たがへり、狹《スバ》き極《キハミ》をいふべきよしなし、
 
國 能 退立限《クニノソキタツカギリ》、こゝは天に對へて、地を國といへり、立《タツ》とは、大海をはるかに見渡せば、あなたは高く見ゆるをいふ、
青雲《アヲクモ》とは、青き空をいふ、考に、白と通はしいふとあるは、たがへり、白雲は、次にいへり、
 
履佐久彌《フミサクミ》とは、岩根木の根にて、凸凹《タカヒク》ある道を、ふみゆくをいへり、裂《サク》也といふ説は、よしなし、
 
辭別《コトワケテ》、伊勢 爾《ニ》 坐(ス)云々の條に、皇(ラ)吾(ガ)睦神漏伎神漏彌(ノ)命 登云々、こは天照大御神は、比賣神に坐せば、神漏彌《カムロミ》なるを、神漏伎《カムロギ》とも崇奉り給ふよし也、登《ト》とへる、上の八神の例のごとし、
 
御縣《ミアガタ》の事、古事記傳廿九の卷に、くはしくいへり、
 
山口坐云々、石寸は、石村《イハレ》なるを、村(ノ)字の偏を省きて書る也、大和(ノ)國に、石寸《イハキ》といふ所はなし、神名帳の石寸も、同く石村也、是を四時祭式臨時祭式などに、石根とあるも、村(ノ)字を根に誤れるなり、三代實録三には、石村(ノ)山口(ノ)神とあり、
 
遠山近山とは、たゞ山を、文にかくいへるのみにて、大祓(ノ)詞に、高山短山といへる類也、遠山を、諸國の山と見んは、あしけむ、
 
朝御食夕御食 能 加牟加比 爾《アシタノミケユフベノミケノカムカヒニ》は、加《カ》は、宇加之御魂《ウカノミタマ》などいふ宇加の宇を省けるにて、食《ケ》也、食《ケ》も、宇氣《ウケ》の宇を省けるにて、加《カ》と氣《ケ》とは一つ也、酒を佐加、竹を多加ともいふ如く、宇氣も、上にある時は、宇加ともいへり、牟加比《ムカヒ》は、萬葉の歌に、御食向《ミケムカフ》とよめる向(フ)にて、神に物を手向(ク)と云も同言也、牟久流《ムクル》といふは、令《スル》v向《ムカ》にて、奉る方よりいふ詞、牟加布《ムカフ》は、そを受給ふ方より云詞なれば、加牟加比は、食向《ケムカヒ》にて、御膳《ミケ》につき給ふをいふ也、されば爾《ニ》てふ辭は、下の聞(シ)食へかけていへり、
 
弱肩《ヨワガタ》とは、肩は、つがひめにて、折(レ)屈む所なる故に、弱《ヨワ》とは云也、今世言に、腰を弱腰と云も肩と同く、腰もつがひめにて、折(レ)屈む故にいふこと同じ、
 
神主疏部等|受賜 ※[氏/一]《ウケタマハリテ》、賜《タマハル》は、朝廷より出し給ふ幣帛を、受取(ル)を云、
 
宣《ノル》は、いづれもその祝詞をよむ者の宣聞《ノリキカ》する也、天皇の詔ふよしに非ず、
 
〇春日祭
天皇 我 大命 爾《スメラガオホミコトニ》 坐 世、この世《セ》は、心得がたきいひざまなれども、續紀の宣命にも、例有しごとおぼゆ、たやすく改めがたし、比賣《ヒメ》神は、枚岡《ヒラヲカ》四座の内也、兒屋根(ノ)命の后神などにやおはすらん、續後紀に、承和三年五月、奉v授2云々河内(ノ)國河内(ノ)郡、從三位勲二等天兒屋根(ノ)命(ニ)正三位、從四位下比賣神(ニ)從四位上(ヲ)1、其詔(ニ)曰(ク)云々、同六年十月、奉v授d云々坐(ス)2河内(ノ)國河内郡(ニ)1、正三位勲三等天兒屋根(ノ)命(ニ)從二位從四位上比賣神(ニ)正四位下(ヲ)u、三代實録に、貞觀元年正月奉v授2云々河内國從一位勲二等枚岡(ノ)天(ノ)子屋根(ノ)命(ニ)正一位、云々、正四位上勲六等、枚岡(ノ)比※[口+羊]神(ニ)從三位(ヲ)1、などあるを以てしるべし、然るを世に天照大御神ぞ、萬幡姫(ノ)命ぞなど申すは、正史をも考へざる、みだりこと也、
 
廣前《ヒロマヘ》といふこと、古くは見えず、古(ヘ)は大前といへるを、今(ノ)京となりては、すべて廣前とのみいへり、さてついでにいふ、大前は、おほまへと訓べし、ふとまへと訓は、ひがことなり、
 
〇廣瀬(ノ)大忌(ノ)祭
御膳持 須留《ミケモタスル》、この留(ノ)字いかゞ、持《モツ》を母多須《モタス》といふは、古(ヘ)の延(ベ)言の例にて、もたさむ、もたし、もたす、もたせと活用《ジャタラキ》て、もたするとははたらかぬ言也、此格の言いづれも、須留《スル》とはたらくことなし、
 
此皇神(ノ)御前 爾、此《コノ》といふこといかゞ、
 
毛 能 和 支 物《ケノニコキモノ》云々、鰭 能 廣 支 物《ハタノヒロキモノ》云々、この和 支 荒 支 廣 支 狹 支《ニコキアラキヒロキサキ》の四(ツ)の支(ノ)字は、後(ノ)人の加へたるか、たとひ本より有とも、ひがこと也、こはかならず、にご物あらものひろものさものといはむこそ、雅言と聞えたれ、支《キ》といふべき言のさまにあらず、故(レ)他《アダシ》祝詞に、此字あるはなし、然るをこゝを證として、他《ホカ》に此語の出たるをも、みな支《キ》とよむべきことと心得たるは、中々に古言を思はざる也、
 
御刀代《ミトシロ》は、御年代也と、或人のいへる、よろし、年は稻にて、神の御稻を作る田をいふ也、
 
皇御孫(ノ)命 |能 長御膳 能《ノナガミケノ》といふより、王臣等といふまでの文、みだりがはしく、入まじりて、とゝのはず、又取(リ)作(ル)奥都《オクツ》御歳|者《ハ》の七字は、除(キ)去(リ)てよろし、此言こゝに有ては、いと/\つたなし、又|引居 ※[氏/一]《ヒキスヱテ》といひて、又如2横山(ノ)1打積置といへるも、いとつたなし、
 
倭國 能 六御縣 乃 山口 爾 坐(ス)皇神等云々、此段殊ニつたなく、いみしきひがことのみ也、まづ六(ノ)御縣(ノ)神社と、處々の山口(ノ)神社とは、皆|別《コト》所にして、祈年祭(ノ)詞にも出たるが如し、然るに御縣 |乃《ノ》 山口とは何事ぞや、そのうへ所々の山口(ノ)神は、宮材の事につきてこそ、祭り給へ、水のために祭り給ふこと、よしなし、水の御祈には、水分《ミクマリ》神をこそ祭り給ふ事なれ、又惡風荒水 爾 不2相賜1といふことも、御縣(ノ)神山口(ノ)神には、似つかぬこと也、又王臣百官人等云々、參出來 ※[氏/一]といへるも、心得ず、此祭に、廣瀬(ノ)社には、百官人諸の詣る事もあらんか、それすらおぼつかなきを、御縣又山口(ノ)神社へのみ百官人等の詣むこと、あるべくもあらず、そも/\此大忌祭は、ふるき祭なれは、古き祝詞の有けんを、そははやくうせたりしにや、こゝに載れる祝詞は、考にもいはれたるごとく、とゝのはぬ事共多き中に、此段の、殊にかくのごとくみだりなるを以て思へば、もとより此祭に、御縣(ノ)神又山口(ノ)神又水分(ノ)神などをも、祭り給ふこと有しにつきて、此祝詞は、かの祈年祭に、御縣(ニ)坐(ス)神、山口(ニ)坐神、水分(ニ)坐神と、おの/\別に其祝詞のあるを見て、後(ノ)人、其事の意をも辨へず、其三つを一つに混じて、本より古語に闇《クラ》けれは、かくみだりなることを、造りなせるにぞあらん、さて惡風荒水 爾 不2相賜1といふと、百官人等云々とは、又龍田祭(ノ)詞を取て書りと見えて、是又みだりなること也、
 
〇龍田(ノ)風(ノ)神(ノ)祭
草 乃 片葉 爾 至 萬※[氏/一] 不成、不成は、那佐受《ナサズ》と訓べし、神の御心にて、傷《ソコナ》ひて成し給はざる也、ならずと訓ては、上の作(ル)物 |乎《ヲ》の乎《ヲ》にかなはず、
 
歳眞尼久《トシマネク》は、幾《イク》年も重なること也、萬葉に多き言にて、みな度《タビ》しげく重なるをいへり、無間《マナク》の意にはあらず、
此龍田(ノ)神を、崇神天皇(ノ)御世に、祭り給へること、分ては見えざれども、古事記(ノ)彼(ノ)御段に、云々及河(ノ)瀬又|於《ニ》2坂(ノ)之御尾(ノ)神1、無2遺忘1以奉2幣帛(ヲ)1也と見え、書紀にも、便別祭2八十萬群神(ヲ)1云々とあれば、風(ノ)神(ノ)祭も、此内にありけむこと、論なし、
 
百 能 物知人《モモノモノシリビト》とは、多くの物しり人といふことにて、百は、物知人の數をいへる也、百の事を知れる人といふにはあらず、考たがへり、
 
聞食、考の此言の論、こゝには用なきこと也、
 
思 志 行 波須乎《オモホシオコナハスヲ》、こはよむべきまゝに、くはしく書たるなれば、字のまゝに、おもほしおこなはすをと訓べし、これ古言也、見給ふことを、古言に見そなはすといふ、それをも古事記書紀續紀などに、看行《ミソナハス》と書て、これも見しおこなはすといふ言の、つゞまりたる也、志淤許《シオコ》を切《ツヅ》むれば、曾《ソ》となる、猶委き事は、古事記傳廿七にいへり、
 
此 乃 皇神 能 前 爾、釋辭竟奉(リ) 爾《ニ》、この奉 爾は、麻都理爾《マツリニ》と訓べし、たゝへことをへ奉りに、王臣等を遣すといふ語也、考に、この爾(ノ)字を、止に改めて、まつらくとと訓れたるは、ひがこと也、然云ては、下(ノ)文にかなはず、
 
雜幣帛奉 ※[氏/一]《クサグサノミテグラタテマツリテ》、御酒者《ミキハ》云々、御酒者といふより下は、みな比古神比賣神合せて、一つに奉る物ども也、
 
被賜 ※[氏/一]は、たまはりてと訓べし、幣帛を受取(ル)をいへり、凡てたまはるといふは、受る方につきていふ言なる故に、古書には多く、被《ハル》v賜《タマ》と書り、そをたゞ賜《タマハル》と書るは、略也、
 
〇平野祭
考に、此社の始の事は、光仁天皇いまだ大炊(ノ)王と聞えて、奈良の田村におはしたるを、天平勝寶元年四月に、皇太子に立給へり、といはれたるは、ふと思ひまがへられたる物にて、御名も年も違へり、大炊(ノ)王は、廢帝にて、その皇太子に立給へりしは、天平寶字元年の四月也、それは光仁天皇にあらざれば、こゝに用なし、光仁天皇は、白壁(ノ)王と申(シ)て、神護景雲四年八月に、皇太子に立給へり、
 
神財 波 御弓御大刀御鏡鈴衣笠御馬 乎 引並 ※[氏/一]
此文、衣笠《キヌガサ》の下に、爾《ニノ》字|脱《オチ》たるなるべし、其故は、御馬は、神財とはいふまじければ、神財 波といふは、衣笠までなるべきに、御馬へつゞけていひてはいかゞ、そのうへ引並といふは、御馬のみの事なるに、上よりつゞけていひては、引といふ言、すべてにかゝりていかゞ、神財は、引とはいひがたし、さればかならず、某々 爾 御馬 乎 引並 ※[氏/一]《ソソレニミウマヲヒキナラベテ》とあるべき文也、
 
置高成 ※[氏/一]《オキタカナシテ》、高成《タカナシ》も古言めきて聞ゆる詞也、鎭火祭齋戸祭などの祝詞にも見ゆ、
 
〇六月月次祭
此祭に預り給ふ神は、諸國合せて、三百四座にして、みな大社にて、案上の官幣に預り給ふ也、神名帳にも、此祭に預り給ふ神社には、おの/\月次と記されたり、其外は預り給ふことなし、然るを考に、こは祈年とひとしく、京畿諸國を合せて、三千百三十二座の神たちへ云々、といはれたるは、四時祭式の此祭(ノ)條に、右所(ノ)v祭(ル)神並(ニ)同(ジ)2祈年(ニ)1とあるを、ふと思ひ誤られたる物也、同(ジ)2祈年(ニ)1とは、此祭に預り給ふ神たちも、祈年祭に、幣を案上に奠《オク》、三百四座(ノ)神と、同じ神たち也といふこと也、そこの上(ノ)文を見て知るべし、
 
〇大殿祭
考頭書に、神今食と相嘗とを、同じことといひて、即(チ)神今食を、あひなめと訓れたるは、いかなる心得たがひぞや、神今食は、六月と十二月の十一日にあり、相嘗は、十一月の上(ノ)卯(ノ)日に有て、別なること、いふもさら也、そのうへ此二(ツ)の祭、その意趣も異なること也、なほ神今食の委き事は、己(レ)考へ有て、玉かつまの韓藍(ノ)卷にいへり、
 
天津璽 乃 鏡劔 乎、この己が説は、古事記傳十五の卷に、くはしくいへり、考の説とは、いたくことなり、
 
此 乃 天津高御座 爾 |坐《マシ》 ※[氏/一]とあるを、考に、いかゞと疑はれたれど、よく聞えたること也、まづ此祭は、大殿の祭なる故に、殊にかく高御座の事の詔命あるは、うべなること也、かくて此乃《コレノ》とは、即(チ)上に天津高御座 |爾 坐 ※[氏/一]《ニマセテ》、とある御座を指(シ)て詔ふ也、そは上(ノ)文を味ふに、其高御座を、高天(ノ)原より降して、此御國にても、即(チ)その天より持降れる高御座を用ひ給ふよし也、かの天の磐座を離れとあるとは、事の趣異にして、是は持て降り給ふべき御料に、設けられたる御座と聞えたり、故(レ)此 乃 高御座 爾 |坐《マシ》 ※[氏/一]とは詔へる也、もし然らざれば、はじめに天津高御座 爾 |坐《マセ》 ※[氏/一]といふこと、用なし、よく味ふべし、
 
言壽|鎭《イハヒ》白 久、鎭は、伊波比《イハヒ》と訓べし、此字はたゞ、しづめと訓こととのみ、世(ノ)人思ひためれど、然らず、古書共の中に、かならずいはひと訓べきも多し、こゝも祝《イハヒ》申す也、考の説わろし、
 
血垂《チダリ》の事、大祓(ノ)詞高津鳥(ノ)災の下にいへるがごとし、
 
御床都比 能 佐夜伎とは、いかなるさまの事をいへるにか、いまだ考へ得ず、考の説、かなへりとも聞えず、
 
夜女 能 伊須々伎、夜女《ヨメ》は、夜目にて、夜(ル)眠れるほどをいふ、朝に目の覺たるを、朝目《アサメ》といふに對へる言也、いすゝきは、考の説のごとし、さればこは、夜(ル)ねぶれるほどに、物におそはれなどして、驚くたぐひをいふ也、考に、夜女を、童女の事にいはれたるは、あたらず、又齋鋤のことは、いよ/\よしなし、
 
伊豆都志伎事無 久は、考に云れたる如くにて、つゝみなくといふに同じ、さてこゝは、上の御床つひのさやぎと、よめのいすゝぎと、二つを受て、さるたぐひのいづゝしき事なくといふ也、
 
宇氣《ウケ》を、考頭書に、飢食《ウヱケ》の略といはれたるは、いと/\わろし、宇氣《ウケ》宇迦《ウカ》は、食《ケ》の本語にて、氣《ケ》とのみいふは、その宇《ウ》を省けるにこそあれ、
此祭に、久々能遲《ククノチノ》命と、豐宇氣比賣(ノ)命とを、殊に祭(リ)給ふは、辟木束稻の事によりてか、はた辟木束稻は、此神たちを祭るにょりての事か、其本末もいかならん、詳ならず、又いづれにしても、そのゆゑよし、いかなる事にか、たしかに心得がたし、久々能遲(ノ)命は、木(ノ)神なれば、殿の材につきて祭るともすべけれど、豐宇氣姫(ノ)命と並べて祭るは、さるよしにもあらざるか、又屋船と名くる事も、猶いふかしく、又殊に珠をかくる事も、いかなるよしにか、詳ならず、考にいはれたる事ども、いづれも猶物遠きこゝちして、たしかに大殿に由有べき事共聞えず、
 
五十橿《イカシ》御世 乃 |足《タ》 良志 御世 爾、|田永《タナガ》 能 御世 止、
此文、言の重なりざまつたなく、わづらはし、
 
齋玉作《イミタマツクリ》は、齋《イミ》て玉を作る人也、齋《イミ》は、作る人に係《カカ》れる稱也、考の説、違へり、
 
八尺瓊《ヤサカニ》、八尺の事、古事記傳十五の卷に、己(レ)考へあり、
 
詞別《コトワケテ》白 久、大宮(ノ)賣の命 登 御名 乎 申(ス)事 波、此文、言足らはで、理(リ)とゝのはず、詞別 ※[氏/一] 大宮(ノ)賣(ノ)命 乃 前 爾 白 久、大宮(ノ)賣(ノ)命 登 御名 乎 申(ス)事 波、とあるべき也、もとは如此《カク》有しを、後(ノ)人のさかしらに、同じことの重なりて、わづらはしと思ひて、省きたるにやあらむ、
比禮懸(ル)伴(ノ)緒、比禮は、女の禮服にてかくる也、考に、これを以て袖をあぐるなりといはれたるは、いみしきひがこと也、
 
手躓《テノマガヒ》は、御膳物をとりはづし、あやまつ如き事也、
 
宮進 米 進《ミヤススメススメ》、宮勤々《ミヤツトメツトメ》 志米※[氏/一]、宮進(メ)とは、百官人の、大宮に參入《マヰリ》仕奉ることを、此神のすゝめはげまし給ふをいふなるべし、考に、進 米爾また勤 爾と、爾(ノ)字を二つ補はれたれど、此|爾《ニ》は、無くても同じ事也、例は神集集《カムツドヒツドヒ》神議(リ)々(リ)、伊都乃道別道別、などの如くにて、これらも、爾《ニ》はあるもなきもあれば也、然るを同頭書に、彌高爾彌廣爾《イヤタカニイヤヒロニ》といふを、例に引れたるは、たがへり、又勤を、つかへと訓れたるもわろし、字のまゝに、つとめと訓べし、
 
〇御門祭
はじめに、御門 乃 皇神等 乃 前 爾 白 久、櫛磐※[片+(戸/甫)]云々とあらでは、詞たらざること、右の大殿祭の詞別《コトワケ》の處にいへるがごとし、
 
内外(ノ)御門とは、内(ノ)重《ヘ》中(ノ)重外(ノ)重をかねていふ也、考に、内は中(ノ)重の諸門といはれたるはいかゞ、
 
惡事《マガコト》、考に、まがことに、惡事と書るは、却て遠し、枉事と書て、直ならぬこと也、といはれたるは、中々にせばし、凡て麻賀《マガ》とは、もろ/\の凶事惡事をいへば、惡事と書る、あたれり、猶古事記傳禍津日(ノ)神の下に委(ク)云り、
 
相麻自許 利、相口會賜事無 久、
まじこりは、神代紀に、當遭害《マジコレナム》とあり、まじなはるゝなり、相口會《アヒクチアヘ》とは、かの惡言《マガコト》を、諾《ウネ》なふをいふ、さてその惡言《マガコト》を諾《ウベ》なふぞ、即(チ)まじこるなれば、まじこりてといふ意に見べし、まじこると相口會と、二つにはあらず、さてそれは、百官人等の事なるを、こゝは此神の守り坐て、さる事なからしめ給ふをいふ故に、賜《タマフ》事無とはいへる也、賜《タマフ》は、此神に係《カカ》れる言也、されば會は、阿閇《アヘ》と訓べし、阿閇は、考にいはれたるごとく、阿波世《アハセ》のつゞまりたるにて、令《シメ》v會《アハ》の意なれば也、考に此事を、かれが言を、相|諾《ウベ》なひ給はざる也と、此神のみづからの御うへのことにいはれたるは、違へり、此神の諾《ウベ》なひ給ふことなくといふにはあらず、百官人等をして、相まじこり、相口あふことなからしめ給ふ也、
 
拂却《ハラヒタリ》、言排《イヒソケ》坐 ※[氏/一]、拂却は、禍津日(ノ)神の來るを、はらひやる也、言排は、其まがことをいひて、人をまじこらむとするを、此御門(ノ)神の、言退《イヒソ》けて、まじこれしめざる也、排(ノ)字は、いかに訓べきにか、たしかに思ひ得ねど、字書に、推也とも、斥也とも注したれは、曾氣《ソケ》と訓つ、考には、ことひらきと訓れたれど、いかゞ、いひひらくなどのひらくは、雅言ともおぼえず、
 
〇道饗祭
高天原 爾 云々、稱辭竟奉、大八衢 爾、此文、むげに聞えぬこと也、後に多く脱《オチ》うせたるにや、考に補はれたる如くにても、猶聞えがたし、
 
根(ノ)國底(ノ)國 與利云々、御門祭(ノ)詞にはこれを、天 能 麻我都比 止 云神《アメノマガツヒトイフカミ》とあり、それと同じことにて、此禍津日(ノ)神は、世(ノ)中の凶事《マガコト》をなし給ふ神にて、黄泉《ヨミノ》國の穢より成(リ)坐る神也、故(レ)根(ノ)國底(ノ)國よりとは云也、
 
相口會事、此會は、阿布《アフ》と訓て、阿布流《アフル》といふ意也、阿布流は、阿波須流《アハスル》の切《ツヅ》まれるにて、令《シムル》v會《アハ》の意なること、御門祭(ノ)詞なる會《アヘ》と同じ、
 
下行者云々、上行者云々、下上は、たゞ下(ノ)方上(ノ)方といへるのみ也、考に、下は地底、上は天つ空也といはれたるはいかゞ、
 
茂御世 爾 幸 閇 奉(リ)給(ヘ) 止 申、すべてかくのごとく奉(ル)と給(フ)とを重ねていふこと、中昔の文には、常の事にて、これ兩方を尊みていふ言也、こゝの文にていはば、奉(リ)は、天皇の御方を尊める言、給(フ)は、神の御方を尊める言也、こはまことにかく云べきことわりに聞ゆるを、いかなればにか、古文には是を重ねていへることなく、たゞ奉とのみいへり、たとへば祈年祭(ノ)詞の詞別《コトワケ》に、天照大御神に申す詞にすら、云々(ノ)如(ク)v事(ノ)、皇大御神 能 寄《ヨサシ》奉(ラ) 波《バ》、また皇御孫(ノ)命(ノ)御世 乎、云々幸 閇 奉(ル)故(ニ)、などあるが如し、かゝるたぐひ、かならず寄(シ)奉(リ)給(ハ) 波《バ》、また幸 閇 奉(リ)給(フ)故(ニ)、とあるべく聞ゆる言なるを、さはいはぬぞ、古文の例なる、然るに此祝詞、又平野祭齋戸祭などに、かくあるは、後の文なるが故也、此祝詞にも、上文には、守(リ)奉(リ)齋《イハヒ》奉 禮止《レト》 進《タテマツレル》幣帛者(ハ)云々とあるは、古文の例也、
此祝詞は、考に疑はれたるごとく、道饗祭にはかなはず、今思ふに、これは、臨時祭式に、八衢(ノ)祭といふ見えたれば、其祝詞なりけむを、とりまぎらはして、道饗のとせる也、さて遷却祟神と題《シル》したるぞ、道饗祭の祝詞には有ける、そは彼處《ソコ》にいふを、考へ見てしるべし、
 
〇鎭火祭
天都詞太詞事《アマツノリトノフトノリトゴト》、こはのりとといふに、祝(ノ)字なきは、省き過たる書ざま也、然るを考に、祝詞と書むよりは、中々によしといはれたるは、心得ず、かくひたすらに、祝詞の字をいたく嫌はるゝは、のりとごとを、詔賜言《ノリタベゴト》也といふ、みづからの説を立(テ)むとての、かたおちごと也、
 
火結《ホムスビノ》神の御名の意、考の説うけがたし、
 
夜七日、此日(ノ)宇、考に夜に改められたる、さること也、元々集に引れたるにも、夜とあり、
 
吾奈※[女+夫] 乃《アガナセノ》 命、伊邪那岐(ノ)命伊邪那美(ノ)命を、御兄弟と心得るは、俗《ツタナ》し、たゞ男女と並びて成(リ)坐るのみにこそあれ、御兄弟にはましまさざるをや、さればこゝに※[女+夫]《セ》とのたまへるは、御夫のよし也、御兄のよしにはあらず、考の説あたらず、※[女+夫](ノ)字(ノ)事、別に考へ有、
 
此七日 爾波、考の説いかゞ、こゝはたゞ日の數をいふなれば、もとよりなぬかのひとは云べくもあらざるをや、
 
吾 乎 見給 布 奈 止 申(ス) 乎、考に、此語は、吾を勿《ナ》見給ひそといふをのみ、古言の定まりのごといはれたるは、かたおち也、凡て古言にても、其さまにしたがひて、勿《ナ》を上にもいひ、下にもいふことにて、必しも上にいふのみに定まれることにはあらず、此祝詞の内にても、上文には吾 乎 奈見給 比曾といひ、こゝにはかくいへるは、上とこゝとは、いさゝか異《コト》にて、こゝは勿《ナ》見給ひそといひては、よろしからざる所なれば也、これらを以ても、古文には、今(ノ)人の思ひ及ばぬところあることをしるべし、上とこゝと異なるよしは、上は、其申(シ)給へる御言を、直《タダ》に擧たるところ、こゝは、前《サキ》に申(シ)給ひし事を申(シ)給ふをいふところなれば也、
 
心惡子は、こゝろあしきこと訓べし、
 
云々四種(ノ)物 乎 生給 ※[氏/一]、考に、此事をいたく疑はれたれども、さはかりうたがふべきことにもあらず、是をさしも疑はば、古事記書紀の神代の事共の中にも、疑ふべき事のみ多からん、されば頭書にいはれたる事共、いづれもあたれりとも聞えず、今そを論はむには、事長ければ、もらしつ、
此祝詞の事、考に、上件の文のごとくならば、水(ノ)神又埴山姫などをも、祭り給ふべきことなるに、たゞ火(ノ)神のみを祭り給ふと聞えたるはいかゞ、とやうに疑はれたるは、まことにさること也、四種(ノ)物をむねと祭らでは、文にかなはざるがごとし、されど又思ふに、伊邪那美(ノ)命も、後の世の火の災を、いみしく心ぐるしくおもほして、そを鎭むべき物を生給ひて、これを以てしづめよと、ねもころに教へおき給ふほどの事なれば、火(ノ)神も、御|妣《ハハ》命の、其御心をおぼして、荒び給ふなといふ意とせば、かなはずしもあらじか、
此祝詞は、考には、右の疑ひどものあるによりて、ほめられざりしかども、すべての文いとふるく、めでたくこそ聞ゆれ、大かた事を記す古文の手本ともしつべきは、此祝詞、さては龍田祭の祝詞など也、
 
〇大嘗《オホニヘノ》祭
此祭の事、考にいはれたるがごとし、こゝは毎年の祭の内なれば、毎年の新嘗なることは、論なきを、新嘗と題《シル》さずして、大嘗と題されたるも、古(ヘ)の唱(ヘ)なれば、難はなし、
 
豐(ノ)明 爾 明(リ)坐 牟、豐明《トヨノアカリ》といふも、即(チ)明《アカリ》坐(ス)をいふ也、かく同じことを重ねいふは、古語の常にて、神功皇后の御歌に、豐壽々《トヨホギホギ》もとほしともあるが如し、なほ伊都乃千別爾千別《イツノチワキニチワキ》、神集爾集《カムツドヒニツドヒ》などのたぐひも、同じ格の語ぞかし、考、明《アカリ》の説はよろしきを、この豐(ノ)明をば、冠辭といひ、豐明(ノ)節會といふを、夜宴の火の光のことといはれたるは、いたく違へり、夜宴を豐(ノ)明といふも、大御酒を食《メシ》て、大御顔《オホミカホ》のてり赤《アカ》らひ坐(ス)よりいふ名なるをや、なほ古事記傳卅二の卷に、くはしくいへり、
此祝詞に、新穀を、たゞ皇御孫(ノ)命の聞(シ)食(ス)事をのみいひて、神に奉り給ふことのなきを、考に疑はれたるは、いまだ古意を得られざる也、すべて大嘗新嘗は、天皇の間(シ)食(ス)を主《ムネ》とする事にて、神に奉り給ふも、天皇の間(シ)食(サ)むとするにつきて、先(ヅ)奉り給ふ也、故(レ)古書に大嘗をば、聞(シ)食(ス)とのみいへり、これ天皇のきこしめすをむねとする故也、されば神々に幣帛を奉り給ふも、天皇の、大嘗を聞(シ)食(サ)むとするによりて、奉り給ふにて、此祝詞は、其祝詞にこそあれ、神に大嘗を奉(リ)給ふ祝詞にはあらず、故(レ)大嘗(ノ)祭と題《シル》されたる、祭(ノ)字も、たゞに大嘗を指ていふにはあらず、大嘗によりて、幣帛を奉り給ふ祭といふこと也、そも/\世(ノ)人、大嘗新嘗は、たゞ神に奉り給ふをのみ主《ムネ》と心得たるは、古意にあらず、古書共に、此事をいへる詞を、心をつけて、よく見ばさとるべし、すなはち此祝詞に、皇御孫(ノ)命 乃 大嘗聞(シ)食(サ) 牟 爲故 爾《ムタメノユヱニ》、とあるにてもしるべし、
 
〇鎮御魂|齋戸《イハヒドノ》祭
齋戸は、伊波比度《イハヒド》と訓べし、戸は借字にて、處の意也、こは神祇官の齋院のことにて、八柱(ノ)神たちを齋《イハヒ》祭る處なる故に、齋戸《イハヒド》といふ也、かくて此祭は、彼處《ソコ》にて行はるゝ故に、齋戸(ノ)祭といふ、そも/\此祭にかぎりて、その行ふ處を以て、祭の名とすることは、かの十一月に、宮内省にて行はるゝ、鎭魂祭ある故に、それと分むために、處の名をもていふなるべし、さてその十一月の鎭魂もあるうへに、又此祭のある故は、此祭は、御座所に平らかにまし坐むことを祈り給ふを主《ムネ》とする祭にて、鎭御魂といふも、御座所に鎭むるよし也、されば此祝詞はじめに大殿の事をいひ、終りに平 久 御座所 爾 《タヒラケクオホマシドコロニ》令《シメ》2御坐《オホマサ》1給 止《タマヘト》云々といへり、考に、御魂といふことをいはざるは、題にかなはず、文の拙きごといはれたるは、さることなれども、もはら御魂を鎭むるは、かの十一月の鎭魂のわざにして、此齋戸祭は、御座所をむねとする故に、御魂を鎭むることは、分てはいはざれども、御座所 爾 云々といへるに、其意も含みて、たりなむか、
 
皇 良我 朝廷 乎、考に、皇良我《スメラガ》といふことを、略に過たり、といはれたるは、中々に古言をよく考へられざる也、すめらが某《ナニ》といふこそ古言にて、例多けれ、すめらみことがといふことは、古言にあることなし、
 
○伊勢大神宮
此所に、考にいはれたることどもの中に、誤(リ)いと多けれど今はいはず、
〇豐受宮
考の説|信《ウケ》がたし、
 
○四月神衣祭、考の説かなはず、四月九月の神衣祭は、大神宮にのみ有て、外宮には、此祭はなきことなるを、考へもらされたり、
 
〇六月月次祭
 
作食 留は、都久理多夫留《ツクリタブル》と訓べし、故(レ)留(ノ)字ある也、たぶるといふ言、續紀の宣命などにも有て、古言也、今(ノ)世の言にも、たべるといふ是なり、
 
海山、考に、山海と改められたるは、あぢきなし、かゝるたぐひは、皇國の言のまゝに書るも、例多きこと也かし、
 
置足成 天、こは心得ぬ書ざま也、足《タラ》 波志とあると、高成《タカナシ》とあるとを合せて書るなるべし、たらなしといふ言は、有べくもあらず、
太玉串、すべて玉串といふ玉は、借字にて、手向串といふことなり、太玉(ノ)命といふ名も、手向の物を執持給ふ神なるを以て、負給へるにて、太手向(ノ)命也、多牟氣《タムケ》をつゞむれば、多米《タメ》なるが、おのづから多麻《タマ》とは聞ゆる也、榮樹《サカキ》を玉串といふも、手向る木綿麻などを着《ツク》るを以て也、隱《カクル》とは、捧(ゲ)持て、其枝におほはれたるさまをもていふ也、笠を着《キ》るをも、笠にかくるといふにて心得べし、
 
〇同神嘗祭
 
護惠 美 幸 比 給(ヘ) 止、比(ノ)字はひがこと也、倍《ヘ》とあるべき也、比《ヒ》にては、自他のたがひあり、上の六月月次祭(ノ)詞に、倍《ヘ》とあるぞ正しき、
 
懸税云々、考の、税の説、論あれどもらしつ、
 
○齋内親王奉入時
 
齋内親王 波《イツキノヒメミコハ》、此|波《ハ》てふ辭は、かならず乎《ヲ》とあるべきこと也、齋内親王|乎《ヲ》云々、御杖代 止 定 ※[氏/一]とつゞく語也、波《ハ》にてはかなはず、
 
御座坐 志米牟止《オホマシマサシメムト》は、おほましまさしめむとと訓べし、大坐々《オホマシマス》といふ言、古書に多く例あることなるを、考に、座(ノ)字あまれりといはれたるは、いかにぞや、頭書の説も、いたくたがへり、中昔よりの言に、おはしますといふも、大坐々《オホマシマス》のつゞまりたる也、保麻《ホマ》は波《ハ》とつゞまる也、古今集のはしの詞には、おまし/\ともある、それもおほましまし也、
 
皇御孫之尊、みことに、尊(ノ)字を書(ク)ことは、古はなかりしことなれども、書紀に書始められてより後は、これをかくも、常の事にて、それも何かくるしからん、然るを考に、此字あるたびごとに、とがめらるゝは、あぢきなき論也、
 
〇遷奉大神宮祝詞
これにのみ、こゝに祝詞とあるは、他の例にたがへり、
 
皇御孫 能 御命 乎 以、
こは孫の下に、今一つ命(ノ)字あるべきを、落たるか、
此祝詞の文は、たゞ御装束神寶を進り給ふ時の祝詞にして、遷宮の文にあらず、いかゞ、題を書誤れるなるべし、
 
〇遷却祟神
考に、祭詞(ノ)二字を補はれたる、祭(ノ)字は然るべし、詞(ノ)字は、例にたがへり、さて是は、上にもいへるごとく、道饗(ノ)祭の祝詞なるを、まぎれて此題はある也、臨時祭式にも、他の書共にも、遷2却祟神(ヲ)1祭といふ祭は、あることなし、
 
神留坐 ※[氏/一]、考の説、一わたりは、いはれたるが如くなれども、こは御孫(ノ)命を、天降し奉り給ふ事につきて、云(ヒ)出る語なれば、神留坐 ※[氏/一]と、姑《シバラ》く語を絶《キリ》て、下文の、天降(シ)所寄《ヨサシ》奉 志 時 爾と云(フ)へ係《カケ》て見れば留《トドマ》り給ふ意として、何の妨《サマタゲ》かあらむ、又事始給といふも、御孫(ノ)命を天降し奉(リ)給ふ事をさしていふなれば、直《タダ》につゞけても、留《トドマル》意にて聞ゆること也、
 
誰《イヅレノ》神 乎 先(ヅ)遣 波《ツカハサバ》※[□ノ中に志]、一本、又元々集ニ引れたるにも、共に志(ノ)字は無し、つかはさばと訓べき也、志(ノ)字は、後(ノ)人の、さかしらに加へたるなるべし、もし遣波志《ツカハシ》ならば、※[氏/一]《テ》といはでは、言|浮《ウキ》たり、
 
立處 ※[氏/一]《タチドコロニ》、※[氏/一](ノ)字は、尓《ニ》を誤れるなり、
 
天(ノ)御舍之《ミアラカノ》内 仁 坐 須 皇神等、こは坐の上に、入來(ノ)二字ありて、入來坐《イリキマス》など有けんが、其字の脱《オチ》たるなるべし、其故は、御殿の内に、もとより惡神の坐(ス)べきにあらず、もし又惡神にはあらざれども、時として、祟り給ふならば、たとひ祟り給ふ事ありとも、もとより坐(ス)神ならば、和《ナゴ》め奉るのみにこそ有べけれ、他所へ遷(シ)却ることは、あるべくもあらず、さる事は、もろ/\の書に見えたることなく、御世/\にかつて聞えぬこと也、なほ又此祝詞は、道饗祭のと見えたるに、こゝの文のみ、其祭にかなはず、かれこれを合せて思ふに、こゝはかならず、天(ノ)御舍之内|仁入來坐《ニイリキマス》皇神等とありて、道饗祭(ノ)祝詞なること、いよゝ明らけし、さて道饗(ノ)祭は、京城四隅(ノ)道上にして行ふよしなれば、都之《ミヤコノ》内 爾などいふべきを、御舍之内にといへるは、いさゝかたがへるに似たれども、みやこといふ名も、もと宮所といふことなれば、かくいはむも、なでふことかあらむ、
 
八物 爾、八(ノ)字は、几を誤れる也、几物《ツクヱモノ》は、机代物《ツクヱシロノモノ》といふと同じ、考に、八をやとりと訓て、古事記にも紀にも有といはれたれど、八取《ハトリ》といふことは、物に見えたることなし、百取《モモトリ》とこそあれ、そのうへ八取机《ヤトリノツクヱ》にとこそはいひもすべけれ、八取(ノ)物にといひては、ことわり聞えず、やつものはさら也、
 
〇遣唐使時奉幣
 
使遣 佐牟止 爲《スル》 爾云々、船乘《フナノリ》 ※[□に止] |爲 弖 使者遣 佐牟止《シテツカヒハツカハサムト》云々、
乘の下なる止(ノ)字は、後(ノ)人の、さかしらに如へたる物にして、船乘爲※[氏/一]《フナノリシテ》なり、使者の者は、はといふてにをは也、されば此使も、上にいへる使と一つにて、遣唐使をいふ也、考に、使者(ノ)二字を、つかひと見て是にならひて、上なる使の下にも、者(ノ)字落たらむといひ、乘止の止といふ辭につきて、下なる使者《ツカヒ》は、船居の所への御使也といはれたるは、皆たがへり、船乘止といふ語、穩ならず、もし考の説のごとくは、船乘爲 牟止 爲 ※[氏/一]《フナノリセムトシテ》、などこそ有べけれ、そのうへもしその播磨(ノ)國の船居の事ならば、たゞに播磨(ノ)國 與理 |船乘爲※[氏/一]《フナノリセ》 志米牟止 |所念行間 爾《オモホシメスアヒダニ》、などこそ云べけれ、それをはいはずして、其所へ御使遣さむとする事のみを、くだ/\しくいふべくもあらぬを思ふべし、さて後(ノ)世の心もて思へは、同じ遣唐使の事を、二度いはむは、煩はしきやうなれども、かくいふぞ、返りて古(ヘ)の語のさまには有ける、さて此祝詞は、語よくとゝのひて、古(ル)し、こは古(ヘ)の御代に、此云々の事の有し時に、作れりし祝詞なるを、後まで用ひられしにや、考に、みことに尊(ノ)字を書るによりて、奈良(ノ)朝こなたの文也といはれたるは、かたおちなり、一字二字などは、後に書かへたることも、などかなからん、すべての文字よく見てこそ、古き近きをも定むべきわざなれ、
 
上の件もろ/\の祝詞は、すでに師の考有て、くはしく解《トカ》れたり、今はたゞ、それにもれたる事、又たがへりとおぼしきことなどを、いさゝかつみ出てしるせり、なほいはまほしき事どもは、おほかれど、いとまなくて、さしもくはしくはえ物せず、多くはもらしつ、
           鈴乃屋藏板
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寛政八年丙辰之春發行
 
製本弘所書林
 
勢州松坂日野町
  柏屋兵助
京都二條通柳馬場東江入ル町
  林伊兵衛
同三條通寺町西江入ル町
  正本屋吉兵衛
同寺町通佛光寺下ル町
  錢屋利兵衛
〔2023年11月7日(火)午前11時13分、入力終了〕