風土の万葉

  赤人の飛鳥旧都の歌の神岳――ミハ山説批判――   米田進(こめだすすむ)

 

 3-324、    登神岳山部宿禰赤人作歌一首

みもろの 神なび山に 五百枝さし しじに生ひたる 栂の木の いや繼ぎ繼ぎに 玉葛 絶ゆることなく ありつつも やまず通はむ 明日香の 古き都は 山高み 川とほしろし 春の日は 山し見がほし 秋の夜は 川しさやけし 朝雲に 鶴は亂れ 夕霧に かはづは騒く 見るごとに 音のみし泣かゆ いにしへ思へば

 325    反歌

明日香河川淀さらず立つ霧の思ひ過ぐべき恋にあらなくに

 

 この歌の神岳について、古くから雷岳(いかずちのおか)のこととされ、その後それを現在の明日香村雷にある小丘に比定したのが通説として支持されてきたが、近代になって、現地の地理的な状況から、雷岳とは飛鳥川を挟んで対面する甘橿丘(あまかしのおか)のこととする説が二、三現れたが、たいした根拠も示されなかったたために、ほとんど支持されなかった。そんなときに突如としてというべきか、ミハ山説という今までだれも考えつかなかった説が、古代史学者の岸俊男氏から提示され(『文学』「万葉歌の歴史的背景」1971.9)、有力な最近の注釈書類に注目され支持されもした(西宮全注、金井全注、曾倉全注、伊藤釋注、稲岡和歌大系、土橋「万葉開眼(上)」、なお、阿蘇全歌講義、多田全解は説の存在を指摘、ついでに言うと、注釈書類で甘橿岡説をいうものはない、折口の萬葉集辞典、北島葭江氏「萬葉集大和地誌」(後出)、山田弘通氏『万葉』六五号論文(後出)などが具体的に甘橿岡説を論じた数少ないものである)。しかし改めて考えてみると、岸説には納得のいかない説明が多い。岸説が出てから51年以上たったが、特に批判もされていないようだし(私が知らないだけなのだろうが)、支持する注釈書にしても、なぜそれを支持するのか根拠をいわない。西宮氏全注によると西宮氏の補強説があるそうだが未見である。

 雷丘説、甘橿岡説といっても根拠が少ないなかで、岸説は突出して多くの根拠をあげている。しかし数打ちゃ当たるとはいかない。以下岸説を批判して、歌の鑑賞上、甘橿岡説が最適だということを言ってみたい。

 

 岸説は『文学』1971年のものによって発言する人が多い(それを収録した『宮都と木簡』吉川弘文館2011年のもの(1977年版の復刊)もある)。初出から40年たっているが、追記も変更もない。『古代史から見た万葉歌』学生社1991年にもほぼ同じ文章があり、そちらのほうが詳しく少し違うところもあるので、それによった。

 まず氏が強調るのは、中ツ道の存在と、その南の突き当たりにある橘寺東門の南東の高取山からの尾根の先端の山の頂上に「ミハ山」という小字があると言うことである。中ツ道については氏はよほど自信があるようでいろんな論文で触れているが、「ミハ山」を先に検討したい。というのもこれが決め手となって、明日香の神岳は「ミハ山」だという説を強く支持する学者たちがあり、通説のようになっているからである。岸氏は「かなり広い範囲にわたってミハ山と称していますが、ミハ山はミワ山、つまり神山です。標高は二〇〇メートルちょっとですが、」という。「ミハ山」は「ミワ山」だと論証ぬきに言うが、なぜそれが「ミワ山」と読め、「神山」の意味になるのか不明である。周知のように旧仮名遣いの「ミハ」は「ミワ」とも読めるが、それは本来ハ行であったものが語中にあり、さらに独立性が薄れたために「ワ」に転じたからである。ところが、本来ハ行で、神を意味する「ミハ」という言葉などありえない。神どころか「ミハ」などという言葉もありそうもなく、意味不明である。だから小字としての「ミハ山」の意味もわからない。だいたい小字というのは、幕末から明治初期にかけて記録されたものだが、当時は、ハ行、ワ行、ヤ行、ア行などの表記は相当混乱していたから、「ミワ(三輪)山」のつもりで「ミハ山」と書いた可能性はある。ただし、奈良盆地中南部では三輪山はあまりに有名であり、その「輪」が「ハ」ではなくて「ワ」だということは誰でもわかるし、三輪に縁がありそうな全国の「ミワ」にしても「三和」「美和」「箕輪」などで、「ハ」の字を使ったものはない。いくらうっかりミスでも「三輪」のつもりで「ミハ」と表記するなどあり得ない。『大和名所図絵』のふりがなも「みわ」である。わずかな可能性によって「ミワ」のつもりで「ミハ」と書いたとしても「ミワ」がなぜ「神」の意味になるのかわからない。岩波古語辞典では「神に供える酒」という意味だけを載せるが、時代別国語大辞典では、その意味以外に、「神」という意味も載せている。「みわ[三輪・神](名)神。」とあるので三輪という表記も神の意味のようにとれるが、【考】の説明によると「ミワ」という地名の当て字に「神」という漢字が使われただけで、「ミワ」という地名に神の意味があるとは言っていない。それなら語義を「神」とするのは紛らわしい、というより間違いである。岩波古語辞典のようにそういう項目を立てないのがよい。その「ミワ(三輪)」の語源は不明である。蛇に関係した語源説があるようだが、おそらく地形によるもので、山容か川の形かだろう。したがって飛鳥の「ミハ山」を神山とするのは根拠がない。それに橘寺あたりに三輪の大物主の神の信仰があったようでもない。あったとしても、それは三輪山の神であって、飛鳥の神奈備とは無縁であろう。

 次に「中ツ道」だが、『文学』掲載の方では「目立たない香具山がとくに国見の場所として選ばれた背景には、……、香具山が大和を南北に縦貫する古道中ツ道の線上にまさに正しく位置するという事実を深く考慮する必要があると思うのである。」「この三道はいずれも現在もその大部分が道路として遣存している…」「三道が香具山を中心とし、中ツ道の線がほぼその頂点を通るように設定されている…」と、岸氏にしてはずいぶん踏み込んだ言い方である。下ツ道、横大路は大部分が現存し、今も盛んに使われているが、中ツ道は田んぼのあぜ道程度のところが多く、それすらないところもある。『古代史から見た万葉集』39頁の地図でも横大路に接続する部分までは実線だが、以南は点線である。だから中ツ道は香具山の頂上を通るというのは推測に過ぎないし、「三道が香具山を中心とし、中ツ道の線がほぼその頂点を通るように設定されている…」などというのもちょっとありそうにない。飛鳥時代にそんな都市計画など考えられないのである(将来、平城京や久邇京が造られるとは夢にも思わないだろう)。そのせいか、『古代史から見た万葉集』の方では「私が中ツ道と称している道は、香久山の頂上付近をその延長線が通りますが、それをまっすぐ南にのばすとミハ山の最高点あたりにぶち当たり、飛鳥川が北に流れているわけです。」というように「延長線」と言い、表現が弱くなっている。それに幹線道路が香具山の頂上を通るというのは異常であり、実際そんな道路があった痕跡もない。そこからミハ山への線もほとんど空想に近い。中ツ道といっても、まず下つ道が整備され、それを幹線として等距離に中ツ道、上ツ道と出来たのだろう(1)。中ツ道の延長線が香具山の頂上を通るように見えるのは偶然に過ぎないだろう。だから初めから横大路が起点で、そこから北へのばしたのであり、以南は計画すら無かったもので、たまたま藤原京の条坊設計に当たって、その延長線が一部利用されたと言うことだろう。もちろん香具山の部分は迂回する。ところで香具山以南にしてもまっすぐ南進するのは障害物が多すぎる。まず大官大寺の東(かすりそうだ)、ついで小治田の宮の西面と明日香川の間(狭すぎるし湿地だ、石神遺跡もある)、ついで飛鳥寺の西面(寺の西になにかの施設があれば通れない)、板蓋の宮と飛鳥川の間(園池の遺跡と当たる可能性がある)、ついで飛鳥川を渡る必要がある、渡るとすぐ川原寺の東面に接触するかもしれない、それでようやく橘寺の東門前に出るが、その線を延ばしたところにミハ山の頂上はない、尾根も長いが支尾根も長く、明瞭な頂上もなく、近くで見ると山の形もはっきりしない、国営公園祝戸地区に泊まって尾根を歩き回ったが、畑のあるところもあったりして迷路のようで、ただ、飛鳥の平地部の眺めがよいところを頂上としている程度だ。更に、中ツ道の延長線をそのまま行けば自然に島の宮や吉野への道になると言うが、橘寺東門前からは、東へ曲がって飛鳥川を渡らないとだめで、こんなものは中ツ道の延長とはいえない。要するに初めから幹線道路としての中ツ道の延長線の機能など存在しないし、香具山とミハ山とを結ぶと中ツ道だというのも地図を見ての思いつきのようである。だいたい中ツ道というが、藤原京以北ならともかく、香具山以南では上ツ道も下ツ道もないのだから「中」とは呼べない。飛鳥からは、山田道を通って、現在の橿原神宮前の丈六に出て下ツ道に合流するか、山田道を通って上ツ道に合流するかで、中ツ道を経由して盆地中心部の村落と交流するようなことはほとんど無かったであろう。それでも香具山の真南にミハ山があるのは(実際には上述のようにずれており、そのずれは約200メートルある)意味ありげだが(ミハ山からは見下ろす感じであり、香具山が目立つので北方正面に見える)、飛鳥座神社の岡や甘橿の岡などによって両山の間の平地は分割されており(だから小治田の宮以北は飛鳥の区域ではない、これは岸氏も主張していることなのに、ミハ山から香具山までの一帯は飛鳥だと言われるのは矛盾している)、両山は南北に相対するという関連づけは実感がない。いずれにしても、中ツ道の起点にあり、大和の中心である香具山の頂上を経て来るのだから、その起点にある山(ミハ山)は飛鳥の神奈備山だというのは、証拠となる材料がみなあやふやなもので、説得力がない。

 次に氏が神奈備山が飛鳥川を帯にすると詠んでいる巻十三の二首の歌はミハ山の地理に合うと言われるのを点検しよう。

 13-3227 葦原の 瑞穗の国に 手向けすと 天降りましけむ 五百萬 千萬神の 神代より 言ひ繼ぎ來る 神なびの みもろの山は 春されば 春霞立つ 秋行けば 紅にほふ 神なびの みもろの神の 帯ばせる 明日香の川の 水脈早み 生しためかたき 石枕 苔生すまでに 新夜の 幸く通はむ 事計り 夢に見せこそ 剣太刀 齋ひ祭れる 神にしませば

 13-3266 春されば 花咲ををり 秋づけば 丹のほにもみつ 味酒を 神奈備山の 帯にせる 明日香の川の 早き瀬に 生ふる玉藻の うち靡き 心は寄りて 朝露の 消なば消ぬべく 恋ひしくも しるくも逢へる 隱り妻かも

 「神なびの みもろの神の 帯ばせる 明日香の川」については注釈類は「神奈備の三諸の神が帯になさっている」(新編全集の訳)、などとするだけでミハ山の実地において飛鳥川はどのように流れているかをを説明しない。だいたい帯にするといっても歌の実例を見ると、三笠の山とか、三輪山とか、差が大きく、大きな川もあれば、細谷川もあり、帯のように湾曲しているのもあれば、ほとんどまっすぐなのもある。だから大概は当てはまるわけで、判断も主観的だ。これは仕方がない。飛鳥の場合、ミハ山も甘橿岡も雷岳もみな飛鳥川の傍にあり、どれにでもいえるから、あとはどれだけ実感が湧くかの優劣に過ぎない。ミハ山の場合頂上が200メートルそこそこなのに、支尾根が長く、飛鳥川が一番折れ曲がっている東の祝戸まで約450メートルあり、北東方向や南東方向でも400メートル近くある。これは離れすぎている。ミハ山といっても稜線一帯を呼ぶ名で山全体の名ではないようだ。それに祝戸から橘あたりまで川幅が大変狭く、山沿いでは樹木などが覆い被さって川の水面が見えない。その点甘橿岡は北東面の傾斜がきつく、眼下に飛鳥川を見、また川幅もかなりあるし、南から西北西へL字を時計回りに180度まわしたように回り込んで流れるから最も適している。これは対岸の雷岳も飛鳥川の曲がるのが少し違うだけでほぼ同じだが、他の条件で劣る。

 13-3303 里人の 我れに告ぐらく 汝が恋ふる うつくし夫は 黄葉の 散り亂ひたる 神なびの この山辺から ぬばたまの 黒馬に乘りて 川の瀬を 七瀬渡りて うらぶれて 夫は逢ひきと 人ぞ告げつる

について「七瀬の渡りと呼ばれているものが出てきます。…、飛鳥川にそいながら、稲淵のほうに行くようになっていたわけです。…黄葉の散り乱れる神奈備の山の麓を、馬に乗って飛鳥川を渡っていくという風景です。」と言うが、上述のように橘(もっと手前の川原寺あたり)から上流は大変川幅が狭く、細い急流が流れているだけで瀬と言うほどのものはない。甘橿岡なら飛鳥寺あたりから川原寺方面へ行くなら、ちょっと大げさだが、歌のような感じになるだろう。なお岸氏はあげていないが、神奈備の瀬のことをいうなら、大伴旅人の

 6-969 しましくも 行きて見てしか 神奈備の 淵は浅せにて 瀬にかなるらむ

をあげるべきだろう。旅人は神奈備の淵を見ていたようだが、それならミハ山の飛鳥川には存在しない。なお吉井氏は全注で「旅人の故郷の場所が以上のように推定できるとすれば、神奈備はおそらく明日香川のめぐる雷丘と考えるのが適切ではあるまいか。明日香の神奈備は中ツ道の南端、橘寺後方のミハ山があるが、それは本拠と離れすぎており、…、やはり藤原京域に近い雷丘とすべきであろう。」と言うが、雷丘とするぐらいなら甘橿岡とすべきだろう。

 7-1125 清き瀬に千鳥妻よび山の際に霞立つらむ甘南備の里

「「山の際に霞立つらむ甘南備の里」が、もし雷丘のあたりであるとすると、どうもそういう情景はそぐいません。雷丘では規模、風景が小さすぎるように思います。」と岸氏はいうが、川についてはミハ山のほうが小さすぎるのは上述した。霞の立つ山の際はどうだろうか。確かに祝戸、石舞台、阪田、稲淵あたりは山の際といえるが、細川が合流することもあり、どうも開けすぎた感じで間が抜けている。甘橿岡と川原寺背後の岡との間を、小山田、明日香養護学校、野口の方へ抜ける道は、結構大きく、しかも人家が全くなくて、霞のこめる山の際としての風情がすばらしい。

 次に

 9-1761     鳴鹿を詠める歌一首并に短歌

  三諸の 神奈備山に 立ち向ふ 三垣の山に 秋萩の 妻をまかむと 朝月夜 明けまく惜しみ あしひきの 山びことよめ よび立て鳴くも

を引用して、

 秋の萩があって、鹿を詠んでいますから、神奈備山はかなり山深いところです。ですから、雷丘、あるいは甘檮岡のあたりは、飛鳥寺などいろいろなお寺があるので、いくら文学的な表現とはいっても、ちょっと無理なように思います。

 また、「神奈備山に立ち向ふ 三垣の山に」とありますが、三垣の山は御垣の山ということで、垣のようにめぐっている山、ととったらいいのではないかと思います。

 飛鳥寺のあたりから南を向いてミハ山をご覧になっていただくと、ぐるりに山があるわけです。うしろのほうに、ちょうどバックのようなかたちでもう一つ高い山があって、こちらに岡寺のほうの山も出てまいりますので、取り囲むようなかたちで山がみられる、という情景が想定されますが、これは「三諸の 神奈備山に 立ち向ふ 三垣の山に」という状況にも合ってくるように思います。

という。長い引用で申し訳ないが我田引水的な主張がわかると思う。

 金井氏担当の全注の訳では「神います神なび山に 向き合って立つみ垣の山で、 妻なるはぎを抱いて寝ようと 残んの月の夜明けを惜しみ (足ひきの)山彦ひびかせ 妻呼び鳴くよ。」とあり、「取り囲むような山」ではなくて、「向き合って立つみ垣の山」である。また「神奈備山はかなり山深い」というが、鹿が鳴くのは神奈備山ではなく、み垣の山である。ミハ山に向き合って立つ山などはないのである。また、後ろの一段高い山というのは、高取山や吉野堺のかなり高い山々に続く尾根などを指すのだろうが、これは立ち向かう垣でないばかりでなく背後にそびえる高い壁のようなものだ。立ち向かう垣としては甘橿岡から見た岡から酒船石まで、少し飛んで飛鳥座神社の低い丘陵が適当である。岡本の宮の岡であり、当時から有名であった。それが甘橿岡からは立ち向かう垣のように見えるわけである。

 次に、

 13-3269 三諸の 神奈備山ゆ との曇り 雨は降り来ぬ 雨霧らひ 風さへ吹きぬ 大口の 真神の原ゆ 思ひつつ 還りにし人 家に到りきや

の歌について、

 天武を葬ったところが真神の原だ、ととるのが正しいと思います(「万葉歌の歴史的背景」では通説通り飛鳥寺のあたりだと断定している)。天武がいた浄御原宮が真神の原にあったということではなく…したがって、「三諸の…雨は降り来ぬ」という歌は、気象は西のほうから急に変わってくるので、私のいう神奈備のあたりに雨雲が押し寄せてきて、雨が降ってきたということになるわけです。…おそらく飛鳥の地にいて、歌っているのだと思います。…甘檮岡にしても地理的に合いません。

という。これは今の学会ではほとんど支持されない天武持統陵真神の原説を前提にしているので、すでにその点から成り立たない説であるが、それを前提にして甘橿岡をミハ山にすると地理的に合わないというのは変な論理である。甘橿岡から曇って雨が降ってきて、まだ降っていないはずの天武持統陵のあたりを通る人は雨に濡れないだろうかというのはたしかにちょっと理屈が合わないが、真神の原が浄御原の宮のあったところなら全然問題ないということを考えるべきだろう。それに西から天気が変わるのなら真神の原をぬらした雨がミハ山にかかり、それから急角度に北に折れて飛鳥を濡らすとなるが、ちょっとありそうもない気象だ。通説通り、浄御原の宮のあったところが真神の原なら、作者が飛鳥にいたとして、北西正面の甘橿岡から雨風が吹き出して(つまり北西方向大和平野の方から雨雲が押し寄せてきて飛鳥盆地にかかるわけである、秋から冬ならよくある気象だ)、そして真神の原が浄御原あたりだとすると、飛鳥川を越えた甘橿岡の山麓と川原寺とのあいだの無人の田野も真神の原であろうから(北西方の豊浦、雷方面へ帰ると見てもよい)、そこを通って野口方面へ帰る人なら雨風にぬれる可能性は高いということになり、それを心配する作者の気持ちもよくわかるのである。

 次に

 甘檮岡と称しているものは、明らかに「記紀」の伝承に甘檮岡として出てくるものとみて、まずまちがいはありません。そうすると、同じ神奈備を、別にまた甘檮岡と呼ぶのは少しふさわしくないと思います。

というが、これは証拠能力がない。言うまでもなく「神奈備」というのは普通名詞で、別に固有名詞があるが、普通名詞で呼んでも近所の人には通じるので、固有名詞の代わりに使われるだけである。三輪の三諸の山が額田王によって奈良からは「三輪山」と呼ばれていることがはっきりと証明している。

 次に、

 また、甘檮岡の頂上からかつて須恵製の骨蔵器が出土して、その中に和銅銭が入っていました。ですから、墳墓としてかなり早い時期に祭られていた可能性があるので、そこを神奈備山にあてるのはやや疑問に思われます。

という。墳墓として使われたのは確かに神奈備としてふさわしくない。しかし早い時期に使われた証拠もない(氏も可能性と言っているが)。和銅銭なら、奈良遷都直前だから甘橿岡も飛鳥の神奈備としてはやくも尊敬されなくなっていたのかもしれない。かなり広い岡だから管理も届かなかったのだろう。それが平安時代の現在の飛鳥座神社への移転(829年・天長六年)につながったのであろう。赤人が登ったときは、神奈備という名前だけが元のままだったのかもしれない。

 次に

 2-159    天皇崩りましし時、太后の作りませる御歌一首

  やすみしし わが大君の 夕されば 見し賜ふらし 明け来れば 問ひ賜ふらし 神岳の 山のもみちを 今日もかも 問ひ給はまし 明日もかも 見し賜はまし その山を ふりさけ見つつ 夕されば あやにかなしみ 明けくれば うらさび暮し あらたへの 衣の袖は 乾る時もなし

を引用し、

 この歌の中に「神岳の 山のもみちを」というのが出てまいりますが…。この歌は、おそらく天武天皇は浄御原宮からながめていたと思われますが、雷丘であるとすると、浄御原宮はそれより北になければいけません。だいたい天皇の御殿は、南がオープンになっておりますから、南の正面にそういう景色があって、はじめて朝夕にそれをながめることが可能です。

という。病床にあっては山など見えないだろうから朝夕尋ね、黄葉していたら、外へ出て見たのであろう。寝室から南方に見えるのなら尋ねる必要はない。天皇は南面するが、それは政治上のことであって、臣下を謁見したり庭に使者を迎えたりする時であり建物もそのようにできている。しかし黄葉を見るのに南方しか見られないなどというおかしなことはあるはずがない。飛鳥の宮殿には園地があったということだから、そこから周囲の自然を見たのだろう。浄御原の宮からミハ山まで約1.1キロ、甘橿岡はその約半分の5~600メートル、明らかに甘橿岡の黄葉の方が鮮やかに見えるだろう。

 次に

 2-161 向南山にたなびく雲の青雲の星離りゆき月も離りて

を引用し、一句目の通説の読みの「きたやま」を否定して、

  神奈備にたなびく雲の青雲の星離りゆき月も離りて

としているが、以前の真神の原で旧説の野口説によったのと同程度の根拠の薄い説で検討する価値がない。「きたやま」と読んで甘橿の岡に比定するのがよい。

 次に

 13-3230 みてぐらを 奈良より出でて 水蓼 穂積に至り 鳥網張る 坂手を過ぎ 石走る 甘南備山に 朝宮に 仕へ奉りて 吉野へと 入ります見れば いにしへ思ほゆ      反歌

 13-3231 月日はかはり行けども久にふる三諸の山の離宮地

を引用し、次のように言う。

 そこに地名が出てまいりますが、…、このコースは奈良から中ツ道を、ずっとまっすぐ南下していくコースです。さらに、反歌に「三諸の山の離宮地」とあるので、三諸の神奈備山の麓に離宮があることがわかります。…離宮地というのは、あるいは島宮の後身である、と考えていいのではないかと思います。

つまり、この歌の神奈備とか三諸の山とか言うのはミハ山のことで、その近くの島の宮のあったところがこの歌の「離宮地」だというのだが、この『古代史から見た万葉歌』の説明はかなり簡単なので「万葉歌の歴史的背景」の方を見ておきたい。

 そこには

   奈良時代になお飛鳥に存した宮としては小治田宮と嶋宮が記録にみえる。小治田宮はまた小治田岡本宮ともみえ、淳仁天皇は天平宝字四年(七六〇)八月から翌年正月までしばらくの間、大史局の奏言によって平城宮を出て、ここに留まっていたが、その間新京とも称されている。また天平神護元年(七六五)十月には称徳天皇が紀伊国行幸の途次、まずこの小治田宮に入り、翌日は大原長岡を巡歴し、明日香川に臨んで宮に還り、つぎの日草壁親王の檀山陵に詣でて巨勢道から紀伊に向かっている。この小治田宮はまた甘檮宮ともあり、いまの甘檮丘に近いとみるべきであろうが、この小治田宮とは別に、なお嶋宮が少なくとも天平勝宝年間まで飛鳥に存したことは確実である。

とあって、小治田宮というのが奈良時代にもあり別名「甘檮宮」とも呼ばれたとある。此が何故か『古代史から見た万葉歌』の方では完全に無視されている。甘橿岡を神奈備山としたとき、離宮地がその北東側飛鳥寺の北向かいの小治田宮であることは明瞭(2)で、位置も確定していない島の宮よりも遙かに有力である。なぜ一言も触れなかったのか疑問である。また、「石走る」について、全釈が「甘南備山の麓を流れる飛鳥川がここで滝をなしてゐることを述べたので、この山からその情景が見えるから、かく続けたものに違ひない。」とする。これは今もよく知られた雷丘の前と甘橿岡の前との間のちょっとした滝のことのようで(3)、ミハ山山麓の飛鳥川にそんなところはなく、川そのものが山の上から見えない。更に岸氏は中ツ道と決め込んでいるようだが、穂積こそ、いろんな候補地があるけれど、阪手は田原本町の下ツ道沿いでほぼ決定であり、なにも東竹田あたりに持って行く必要はない。だから小治田宮で何の支障もないのである。

 だいたい以上で岸説への批判は終わる。次に岸説では触れていないことで、岸説を否定する材料になることを述べよう。

 岸氏はしばしば、香具山から橘寺までの飛鳥というがこれは岸氏の説明と矛盾するもので、直ぐには納得できない。『宮都と木簡』で、推古朝から文武朝までの宮の表記を調べ、

 推古朝  豊浦宮 耳成行宮 小墾田宮

 舒明朝  飛鳥岡本宮(飛鳥岡傍) 田中宮 厩坂宮 百済宮

 皇極朝  小墾田宮 飛鳥板蓋新宮

 孝徳朝  飛鳥河辺行宮

 斉明朝  飛鳥板蓋宮 飛鳥川原宮 後飛鳥岡本宮(飛鳥岡本) 両槻宮

 天武朝  嶋宮 岡本宮 飛鳥浄御原宮(岡本宮南)

 持統朝  藤原宮

 文武朝  藤原宮

のように表にしたあと、「今日の地域的概念からすれば、明らかに明日香の範囲に含まれると思われる豊浦宮・小墾田宮、あるいは嶋宮に対しては「飛鳥」を冠していないという事実であり、…、以上の「飛鳥」を冠した諸宮を含む地域を考定すると、それは香久山以南、橘寺以北のおもに飛鳥川右岸一帯の地域となり、そのほぼ中心に飛鳥寺が位置するということになる。往時の「明日香」とは本来このような範囲を指したものではなかろうか。そうしたとき、小墾田宮や豊浦宮、そして嶋宮はその近接地ではあるが、明日香ではなかったということになる。」という。何とも奇妙なことである。小治田宮は香具山よりかなり南、飛鳥寺の北向かいである。橘寺は島の一部でもある。そこから以北が飛鳥なら島の宮は飛鳥に含まれると思うのだが、含まれないという。ところが氏は香具山から橘寺までが当時の飛鳥だという(どちらも飛鳥を冠した地名がないのに)。訳のわからないことである。当時の飛鳥は、飛鳥寺から川原寺前の東西道路(そのまま東へ直進すれば岡寺に出る)までであろう。島の宮はその東西道路(和田氏の言う「飛鳥横大路」)から更に南方吉野への道を進んだところにある。だから、島の宮や、ミハ山、橘寺は飛鳥ではないのである。なお氏は飛鳥川右岸一帯と言ったが、表の中に「飛鳥川原宮」がある(別の所ではこの宮のあるところも飛鳥だと言っている)。これは飛鳥川左岸であろう。以前、甘橿岡と川原寺の間(和田氏の言う「飛鳥斜向道路」があったところ)も真神の原であろうと言ったが、それは飛鳥川左岸も飛鳥だから、飛鳥の真神の原といえるわけである。なおそのとき氏が天武持統陵のあたりを真神の原とする旧説を主張したのを批判したが、天武持統陵は正式には檜隈大内陵というので、明らかに飛鳥ではなく檜隈である(すでに以前から指摘されいる)。地図を見ても檜隈の平田地区にある(野口だが雰囲気としては平田)。川原寺前の東西道路より南にあるのだから飛鳥ではないのはあきらかであり、真神の原でないことも明瞭で、こんなことは岸氏なら直ぐわかるはずである。

 そして、飛鳥の神奈備というのだから、その神奈備は当然飛鳥に無ければならない。ミハ山は飛鳥ではないのだからこれで失格である。ついでに言えば雷丘は注(2)のように小治田地区であって飛鳥ではない。だからこれも失格である。よって甘橿岡が飛鳥の神奈備ということになる。

 和田氏の細かい考証を読んでいると参考になることが多い。326頁~「槻樹広場と甘樫丘」の章を読むと、

 飛鳥寺の西に立ってみると、その理由は氷解する〔聖なる槻の木が枯れたあとも山田道と斜向道路のちまたである飛鳥寺西広場が尊重された理由、筆者注〕。飛鳥川をへだててすぐ目の前に甘樫丘があり、東北に伸びる尾根は允恭朝にクガタチ(盟神探湯)が行なわれたと伝承されている所だからである。すなわち飛鳥寺西の広場が誓約や服属の場所たりえたのは、この広場に神聖な槻樹があったことにもまして、クガタチの行なわれた甘樫丘を望む所だったからである。…。沐浴斎戒とは、飛鳥川でのミソギをさすかと思われる。

 応神紀九年四月条には、武内宿禰と弟の甘美内宿禰が磯城川(初瀬川)のほとりでクガタチを行なったことを伝える。磯城川でミソギをした後、クガタチを行なったという伝承であったかと思われる。三輪山の西麓から広く祭祀遺跡が発見されている事実に基づけば、応神紀のクガタチの伝承の背後にはさらに、三輪山の神がそのクガタチを照覧し、正邪を判断するとの観念さえうかがえる。

とある。つまり甘橿岡の麓では三輪と同じようなミソギやクガタチがおこなわれたのであり、それは三輪山がミモロでありカンナビであったように、甘橿岡が飛鳥の神奈備であったからだといえよう。少し後世になるが(古今集にある)、竜田で禊ぎが行われたのもそこが神奈備であったからだろう。なお飛鳥川の禊ぎは万葉巻4-626に歌があり木下氏全注四で、「ミソギは川中の岩群のある所が選ばれやすかったとして、豊浦の少し上手のあたりでないかとする説がある(山田弘通氏万葉六五号(4))。」と述べている。

 ここでようやく冒頭に出した赤人の歌に戻る。ただし岸氏も飛鳥の全景を詠んだ歌とするだけで、飛鳥の神奈備に比定する根拠としては重きを置いていない。しかし、「明日香の 古き都は 山高み 川とほしろし 春の日は 山し見がほし 秋の夜は 川しさやけし」といった描写はミハ山ではとても無理で、やはり甘橿岡からの景観がもっともふさわしい。ミハ山から飛鳥を俯瞰すると、多武峰や高取山の高峰郡が横や背後になり、しかもミハ山自身それらの山の一部ともいえるので、山が高いという印象がない。甘橿岡の場合、それらが、まさに飛鳥古京の背後を屏風のように取り巻くわけで、見上げる角度もちょうど良い。ここで今までの小論文でも何度か言及してきた犬養氏の写真の欠点に触れないわけにはいかない。あの甘橿丘から飛鳥座神社を見下ろした写真は大きく拡大したもので、見栄えが良くいろいろと引用されたりするが、赤人などの万葉歌人たちの見た景観とは大きく違う、よって赤人の歌を理解するには役に立たない。まるでドローンで空中から撮影したようである。大きな傾斜を作って高く盛り上がっていく多武峰の山容が全く感じられない。折口全集第六巻(萬葉集辭典)の口絵の方が遙かによい。ついで「川とほしろし」だが、ミハ山からは小さい川が甘橿丘あたりまで流れているのが見える程度である。しかし甘橿岡からは、畝傍山方面からさらに遠く、広大な大和平野の彼方に流れていくのが見えて、まさに「とほしろし」である。春の山、秋の川については、どちらもたいした差はないが、新緑に燃えていく大きな多武峰を正面にする方がみごとであり、鶴にしてもかわずにしても、ミハ山あたりの小さい谷川よりかなりの川幅を持つ甘橿岡以北の飛鳥川のほうがふさわしい。長歌で大きな景観をパノラマ的に描写し短歌で部分的な特に取り上げたい景観を描写するのは赤人歌特有の構造でもあった(富士山、吉野、伊予の温泉など)。ここの反歌は飛鳥川の川淀の霧であったが、やはりそれが一番心を引くものであったのだろう。ミハ山あたりの飛鳥川に淀といえる所はない。

 雷岳については全く触れなかったので、ここで一言。まずあの低さを否定の根拠にする人が多い。確かにその通りだが、実際に登ったことがあるような口ぶりではない。あれに登るには北の香具山に向かう一本道を少し行かなければならず、一般の観光ルートではないし、登っておもしろいものでもない。私はもう50年以上もまえに登った。頂上はあるが一面の雑木と背丈より高い笹の密生で周囲は何も見えない(今はかなり変わったようだ)。田圃の中のちょっとした土饅頭のようである。万葉の時代には見晴らしがあったのかもしれないが、低すぎて高い山々はあまり見えず(パノラマ的でない)、飛鳥川は目の前で、俯瞰するほどの角度もないだろうから、赤人の長歌には全く似合わない(5)。

 以上、赤人の歌の神岳は甘橿岡であると断定して拙い文を閉じる。

 

(1)「藤原京の条坊制‐その実像と意義‐」林部均、『都城制研究(1)』2007年。46頁「藤原京の造営にあたっては、都の中央をとおる 「朱雀大路」ではなく、大和の古道である横大路、下ツ道がその基準となって設計がなされた可能性が強い23)。」「23)藤原京の条坊施工の原理については、発掘調査の成果を集成し、ひとつひとつの坊を復元し、実際に条坊復元したうえで、それらを貫いて、条坊施工にあたっての、なんらかの共通の原理がないのかを導き出す必要がある。これは、平城京についても同じである。安易に条坊の計画線を設定し、それに検出された遺構が整合するのか、しないのかを検討しても、どれだけの意味をもつのであろうか。」などとある。中ツ道は横大路から以南も藤原京の条坊の一道路として飛鳥寺当たりまで線が引かれているが、それはあくまでも仮説だということである。この林部説に従えば、中ツ道は飛鳥時代の大和の中心ともいえる香具山と南北に正面対応するミハ山を起点として設計されたものだという岸説の疑わしさも浮かんでくる。

(2)小治田宮の位置については、『ここまでわかった飛鳥・藤原京』豊島直博・木下正史編、吉川弘文館、2016.8、所収の相原嘉之氏の論文による。山田道は実在するが、雷あたりでの東西直線道路は七世紀中頃以降の新山田道というもので、それ以前は雷南東方の湿地状の地形に影響されて大きく南方に迂回したもので古山田道と呼べるものだという。その結果、飛鳥寺域北辺が古山田道に接するように区画されていて、古山田道を境に南が「飛鳥」北が「小墾田」と理解できることになったという。つまり雷丘などは完全に小治田の域内になって、飛鳥の神奈備とは呼べないということが再確認される。豊浦は山田道に沿うようにあって、資料などから小治田の域内であるが、多分甘橿岡の北西側は小治田域で、南東側は飛鳥域なのだろう。稜線によって所属区域が分かれるのはよくある。三輪山などもちょっと南東へ廻ればもう初瀬朝倉域であり、北西に廻れば巻向域である。

(3)和田萃『日本古代の儀礼と祭祀・信仰 中』塙書房1995.3.28に、「また飛鳥川が西へ大きく屈曲した所が滝となっている。落差は三mほどだが、飛鳥川では唯一の滝である。」とある。

(4)山田氏の論文「岩瀬の禊ぎと明日香の禊ぎ」(1967.10)では、岩瀬を根拠に竜田の神奈備でも禊ぎが行われ、同じ条件下で飛鳥の禊ぎの場所も豊浦の上流甘橿丘の麓だと結論し、各地の神奈備の山容に似た点も考慮して、甘橿岡こそが飛鳥の神奈備だという。そして初瀬川での禊ぎについて和田氏のと同じ資料を提示している。ほぼこれだけで岸氏のミハ山説は否定されるであろう。岸氏は中ツ道やミハ山の小字にはこだわったが、飛鳥川の禊ぎには全く言及しなかった。

(5)雷丘を飛鳥の神奈備に比定する注釈書類が大変多いが、歌に現れた風土や地理的な条件を考慮せず、ただ日本霊異記に載った説話をもとに、古代から雷岳というのがあり、それは今の雷岳に比定され、また雷はカミであるから、神岳であるというだけのことである。これについては北島氏が批判している。『萬葉集大和地誌』「雷岳」の項で「雷のことは神ともいったが、神が凡て雷のことを意味したとは誰が見ても承引出來ない説である。」と簡明に真淵の神岳雷丘説を否定している。また氏は真神の原の歌の神奈備山は甘橿岡であるとしている。

        〔2024年2月18日成稿〕