金子元臣著 萬葉集評釋 第一冊 明治書院 1935.11.7發行(底本は1943.4.20.7刷、初版とは小異有り)
 
(圖版三葉、地圖一枚省略)
 
(1)萬葉集評釋序
 
 私はもと/\奈良の風光が大好きである。况や楢の葉の名に負ふ宮の古言研究を始めてからは、長い期間、おもにこの故京の訪問を仕事にしてゐた。處でその訪問の度毎に、必ず果さなければ氣の濟まぬ事が二つあつた。それは春日野の鹿の人なつこい眼に向きあふことと、千年の昔に響く東大寺の洪鐘を撞くこととであつた。
 東大寺の洪鐘、私はその撞木綱を執つて、滿身の力で一打二打三打した。と響は氤※[氤の因が慍の旁]として鐘孔におこり、鐘樓をゆすり、漸く林木を振ひ、山谷に谺し、虚空に遍滿する。かくして大いなる滿足のもとに窃に得意の笑みを私は洩らした。
(2) 立ち代つて或力者が撞いた。すると流石の洪鐘もそれ自體に震動し、大地は轟き、行雲は停まり、餘音は遠く生駒連山に及んで反響をおこした。
 鐘はおなじ鐘、只撞き手の力量如何によつて、その結果にかくまでの差違を生ずる。もし南大門の執金剛をおこして撞かしめたらば、どうであらう。定めし鯨音は無上法悦の妙樂を奏でて一天は金色の天華を雨らし、地は紺瑠璃の地果を生らしめるであらう。
 萬葉集はわが歌集中における無二の洪鐘であ。梨壺の五人以來、これに對つて撞打を試みた者は全く無數である。その中にも仙覺といひ、契沖といひ、眞淵といひ、宣長といひ、千蔭といひ、雅澄といひ、いづれも究竟なる斯道の俊傑である。然しその人達の打鳴らしてくれた音質と音量とを、篤と試聽してみると、素より立派なるものには違ひない(3)が、大局からいへば、その傾向が偏倚してゐる。撞木の當りがらが片ずんでゐるからだ。これでは執金剛の妙音聲はさておき、その本音すら完全に打出し得まい。偏に遺憾の極みである。
 茲に私は考へた。即ち撞き方の手法を改め、先人の遺した足蹤を踐み易へ、新規の試として、評と釋との二本の撞木を、かはる/”\に揮つて見た。古人いふ「評することは易し、よく評することは即ち難し」と。私は大膽にもこの難しとする方面に向つて好んで突進して、「鐘と撞木のあひが鳴る」玄妙の扉を開かうと試みた。勿論懸命の努力は拂つたものの、自分ながら昨非を悟ることのみで、何時まで經つても雌黄の筆を擱くことが出來ない。假にもその成績が、嘗てお前が東大寺の洪鐘にその得意を誇つた程度のものだと他から認められたら、それこそ私に取つては望外の幸で、愛する野鹿の顔をも潰さずに濟むであらう。
(4) たゞ私はまさに來たるべき、萬葉の洪鐘を思ふさま撞きまくる金剛力土の出現に先立つて、只その露拂ひの役目を勤めるに過ぎないと思つてゐる。
 
  昭和十年十月                   金子元臣しるす
 
〔萬葉集評釋第一冊總目次省略〕
 
(5)凡例
 
一、本評釋第一冊には萬葉集の卷一及び卷二を收めた。
一、本書は寛永板本を以て底本とし、更に他の諸本を參訂した。文中に原本とあるは寛永本のことである。
一、本書は、釋、歌意、評の三大綱を以て組織した。
一、釋は、語釋、訓讀、考異とから成立し、評は背景説明と作歌鑑賞とから成立する。但、各説及び評の標中に分繋して一々に目を設けない。
一、釋は、つとめて詳細と精確とを期して、本文及び題詞、左註にあらはれた事實典故を説明し、辭句を解釋した。
一、評は、先づその語句の大意をあげ、次にその一語一語について精細な考異及び論斷を試みた。前賢の説は一々擧げないが、その大醇なものと大疵のものとに限つて殊更に擧げ、その是非を論及した。
一、又本文の記録文字に就いて深い注意を拂つたことは勿論、音借字の如きも現代發音と異なるものは、一々説明の勞を執つた。
(6)一、歌意は、歌意をそこね調をあやまることを恐れて、逐字譯の方法を採り、一語一字もゆるがせにせず、且省畧の字句ある時は、文意を明確にする程度にこれを補足した。
一、評は、嚴正な史實の上に立ち、その當時の時代精神、社會風潮及び作者の環境等を考察することを怠らず、最後に眼を鑑賞に轉じて、詩昧の如何、評價の如何、格調、修辭上の考究等を純然たる歌人の立場から論評した。  
一、釋、評の既出のものは再掲することを避けた故に、精粗は時に一致せず、又、結論及び論斷ばかりあつて理由の前提を怠つた觀のあるものもあるが、これは學者に最初から秩序だつて通讀されんことを希望したからである。
一、本書の難解なる原因の一は、用語、文法及び省筆法の古代的なること、文字に訛舛、脱漏のあること等にある。因つて、この點を特に明瞭ならしめる爲に心を用ゐた。
一、省筆の箇處を補ふ場合には「何々の畧」或は「何々を補ふ」などと明記したが、以上の注意のないものも、○點を字旁に附したのは悉く補足の語である。
一、訓讀に異説ある場合は、本文に採用した訓を除き、他のものには悉く――線を字旁に附した。
一、文字に異同の論のある場合は、その論爭の中心たる字の旁に、即ち本文に於ては左に、釋文に於ては右に、△印を附して一目瞭然たらしめた。
(7)一、文字の異同の論ぜられる場合、稀に確定的と認められるものは、これに依つて原本を改正したが、尚、字旁に△印を施しておいた。
一、釋及び評の文中に本文を引用することのある場合は、引用された本文の上下に「 」印を附して地の文との混同を避けた。
一、釋及び評の文中に於いて特に注意を要する文字の旁には、※[黒ごま]點を附して見易くした。
一、語釋の既出に屬するものは、なるべくその重複することを避けて、その語の下に既出の頁數を括弧を以て標出した。但、單に既出とのみ記してあるもの、及び語釋の簡單に過ぎてゐるものは、卷尾の索引によつで檢出の上參照することを望む。
一、本文の下に記した亞刺此亞數字は、國歌大觀に從つて歌の順序を示したものである。一、長文に亙る考證等、釋及び評の文中に叙述し難いものは、「雜考」として、別に本評釋の最後に附掲する心組である。
一、繪畫は、古文學研究上缺くべからざる重要のものであり、且、萬葉の如き廣汎なる範圍を有するものにあつては、地圖及び古蹟、動植物、器具、鑛物等の寫眞も亦、必須のものであることは言を俟たぬところである。この點に深く留意した著者は、多きに過ぎると思はれる程、必要に應じて評釋文中に採用した。就中、古蹟風景の寫眞に至つては、悉く著者みづから實地に踏査し撮影(8)したものであることを一言附記する。
一、概觀的總地圖は、この第一卷には近畿の部を二葉卷頭に掲げた。詳密なる部分的な地圖は、卷中各處に必要に應じて分掲した。
一、目次、索引の學者に必須なることは論を俟たない。よつて初二句索引、解釋索引、評文索引の三種の表を作成して、卷尾に收めた。
一、初二句目次は、本文の歌の初二句を順序のまゝに掲げその頁數を示した。
一、解釋索引は、語釋、本文及び附圖、挿繪等を檢索するに便ならしめる爲である。評文索引は、批評文中、特に注意すべき重要なる項目を抽出して、參照に便ならしめた。
一、最後に臨んで、先人に對して附する筈の敬語敬辭を便宜上から省畧したことを、茲に深く陳謝する。
一、尚、私の萬葉集研究に關する主義方針來由等に就いては、卷首の「著者のことば」と題する數篇、及び卷尾の跋文を是非一讀されたい。
   昭和十年九月三十日 
                       著者記す
 
(9)    著者のことば
 
  一、私の研究態度
 
 萬葉集は疑もない國歌の結集である。隨つてその本體は歌そのものである。さては歌を對象として研究することが、眞の萬葉の研究であらねばならぬ。然るにこの最重要なる目的に向つて、眞劍に克明に萬葉の本質を研究したものとては、從來殆どないといつてよい。
 古來多數の學者は、訓詁を以てその萬葉學とした。天徳の梨壺の五人以來近世の鹿持木村の諸家に至るまで、大抵がそれである。訓詁は内容研究の基礎を成す大事なものではあるが、もと/\皮相形骸に屬した部分的研究である。今日はもう訓詁時代でないことは、私が古今集評釋を作つた三昔も前に、唱道しておいたことである。
 現代に至つては、盛に種々な方面から萬葉研究の叫聲があけられてゐる。即ち學者はその專門の立場から或は特殊の立場から萬葉を透見しようとしてゐる。或は史的方面から、或は伝説的方面から、或は言語方面から、或は文化方面から、或は部分的な思想方面から、或は地理的方面から、或は博物方面から考察する。いづれも洵に結構な有益な研究ではあるものゝ、いづれもその視野の狹い天地に跼蹐してゐて、是等相互間の學的連繋の必要なることを忘れてゐる。况やその最も重要なる本質即ち歌集としての萬葉は、殆ど度外視されてゐるといつてよい。萬葉そのものからいへば旁系的研究に過ぎない。耳を執り足を捉らへ、腹を撫でて各それが鼎だと主張するのはその人達の勝手だが、これは哲人の既に嘲笑して置いたことである。鼎の本體は別に嚴として存在してゐる。
(10) 私の主張に稍近いものは、一派の歌人に依つて作された萬葉の扱ひ方である。然しこれは又前者と反對に、學術的基礎を全然考慮しない得手勝手な自己陶醉の所説に蔽はれてゐるものが多い。且悉く片々たる抄出物で、萬葉の全面目を認知することは絶對に出來ない。その他通解的のもの、又は書誌的のものは、茲に云爲する價値をもたない。
 かくて、この鼎の本體とも見るべき、歌としての萬葉集は、千古依然として凡俗の汚染を許さない、之れを仰けば愈よ高く、之れを鑽れば愈よ堅い。
 然るに私は永い歳月を費して自分の非力をはからず、萬葉の本體に向つて正攻法に出で、内容を如實に握んで本質を明らめ、その眞價値を紹介すべく、それは全く蟷螂の斧ではあるが、多少の手答へを感ずるまで鞠躬力を盡して已まぬといふ決心を持つて臨んだのである。成敗利鈍は古聖將と雖も逆賭し難いもの、ましてや隨處に自分ながら不滿の點を發見する本著の如きは、天下後世に對して頗る忸怩たる感が深いが、とにかく前人未踏のこの處女地に向つて第一の鍬を入れたことだけでも、幾分の貢獻を萬葉學の爲に輸したことゝ確信するものである。
 
  二、文獻的物的根據の尊重
 
 既に述べた如く、確乎たる實相の上に立つた研究をモツトーとする以上は、第一に歴史を輕視することは絶對に出來ない。
 私は自分の力の及ぶかぎり、この方面の探究に盡した。即ち國史律令の類は勿論、風土記、靈異記、神樂催馬樂類の歌謠、古社寺の文書その他平安朝の史料等を渉獵し參考した。
 往古からのわが傳銃に培はれた古代人の生活と思想、及び外來の新生活と新思想の檢討、政治上の經緯、經濟上(11)の状態に亙る史實の調査に力め、その他零碎なる資料にまで細心の注意を拂ひ、時代精神、社会風潮、時代文化を如實に考察した。蓋しあらゆる文藝は時代を反映して居るといはれるからは、まづ時代を理解することが何よりも最先でなければならぬ。
 又作家の箇人的性格とその境遇とその作歌の産出された特殊の機会とを多方面から考察し、その事相の要領を把握することに努力したことはいふまでもない。
 又地理的研究は歌によつては非常な重要性を帶ぶることがある。疊水練は實際の役に立たぬ。よつて諷詠にのぼつた歌枕の實地踏査を日本中に試みた。そして時代と時代の變遷とによる地理的状態を觀察し、人文的交渉を考慮した。
 正倉院御物や東大寺寶物や法隆寺その他の寺社に屬する建築物件の實檢は素より、埴輪や彫塑の作品や器財布帛の類に至るまで、出來得るだけ參考資料に採用し、別に考證すべきは考證した。
 又動物植物鑛物類の研究は比較的重要性は少いが、尚その採集とその實査とを怠らなかつた。
 かくの如くにして、各種各樣の知識をこゝに綜合し歸納して、その詠作に對するバツクを作成し、さて作家の環境をそこに關係づけて、その感情の動向を仔細に翫味し、考察することを力めた。
 
  三、私の批評鑑賞の方針
 
 私達は事實上現代的存在である。現代の空氣を呼吸し、その雰圍氣に浮沈してゐる人間である。現代人の知情意を以つて萬葉人の知情意を忖度する。圓鑿方柄、そこに大いなる矛盾がおこり無理が生ずる。况やおなじ時代人で(12)も渾べてが一樣でない、心々である。かく時代的にも大きな逕庭があり、箇人的にも分寸の差違がある。それを自己標準の定規を當てがつて、得手勝手に剪裁する。危險この上もない。大抵は偏見僻見愚見に終始してしまふ。
 近來の人達の古文學に關する批評鑑賞には、動もすれば變態的幻想に耽り、根據の乏しい又は全くない場面を描いて、自己陶醉に陷る嫌がある。私は小説は好きだが、研究と小説とは別物だ。故に力めてこれらの弊から遠ざかつて、眞實なる率直なる紹介者でありたい、説明者でありたい、鑑賞者でありたいと心掛けてゐる。
 私の性格は、よくいへば責任感が強いのであるし、惡くいへば臆病なのである。思ひ切り嘘が吐けない。同じ想像を描くにしてからが、「らむ」の組ではなくて、「らし」の組である。されば私の研究の迹を顧みると、宙を浮くやうな愉快さや不思議さはない。何處までも足が大地に着いてゐる。固く實相に根張らうとしてゐる。あるべかしき事をあるべきやうにいふのだから、一面から見れば常識的である。然しこの常識は、出來得るだけ研究の絹篩を通しての常識であることを理想としてゐる。
 私の歌に對して試みる批評鑑賞の方法には、自家獨特の順序を立ててゐる。
 第一次、直覺的の印象を握む。一唱再唱その諷誦の間ににじみ出る不言の詩味を、如實に感得することに努力する。そこには大いなる同情を以て同化し共鳴し、陶醉することを辭せぬ。
 第二次、はじめて研究の圏内に立入る。まづその時代の史的考察に力め、次に作家の個性、境遇、詠作の機会に就いて檢討し、網の目を張る如く、その背景を作る。
 第三次、解剖的に内容を檢討する。その作家の心的状態を剔抉し、暴露し、その事相を闡明し、説明してみる。それには既成の背景を按排し、投影し、映射させてゆく。
(13) 第四次、歌の外型に就いて吟味する。即ち修辭の如何、構成の如何を考察する。
 第五次、最後に至つて如上の諸研究を打つて一丸となして、集大成の味讀を試み、歌としての鑑賞三昧に入る。
 但この順序は、本書の批評欄においては、あながちに墨守しない。實は執筆に臨んでの感興の奔馳が、かゝる規則的の拘泥を肯んじないので、縱横に我儘に揮灑してゐる。これは求めざる變化とでもいはうか。かくて、平板の弊に墮し易い文字も、少しは興味がもたれるであらう。
 
  四、訓詁と解釋
 
 訓詁は萬葉研究の眞目的から見れば、根幹の學といはれぬことは既に論述した。その本質研究に先立つ、稍こみ入つた準備工作に過ぎない。然しこれが確定せぬ以上は、本質研究に相當の支障を來たすことは又いふまでもない。
 梨壺の五人の古點以來、次點、新點、仙覺點、契沖點、眞淵點、宣長點、略解點、古義點等の外、諸家の訓點は斗を以て量るとも盡きまい。現代においては、古義點が比較的信用あるものとして、一般的に採用されてゐる。
 古義點は後出のものだけに、流石に優れた處が多々あるが、強ひて非難すれば、わざと異説を樹てようと試みた傾向が強い。殊に餘に尚古の癖に偏し、言語の活動を無視し、時代的變化を諦視することを忘れてゐる。畢竟訓詁は更に還元して再吟味する必要がある。私はこの意見から出發して、あながちに古義の訓法に據らない。
 用字の異同は成るべく原文を重視する方針を執り、誤字落字説を力めて避けたいと念願したが、その實現不可能の場合の多かつたことを遺憾に思つてゐる。一時の快を取る大膽な改易は花やかで面白いものゝ、結果は徒らに學(14)者を誤るに過ぎないから、私は小心翼々として穩健の主義を執つた。
 萬葉の歌四千五百首、訓詁の如何、使用文字の如何によつて歌意の左右される程のものは、殆どその二十分一の量もあるまい。されば大局から透觀すると、訓詁の陷穽に墮して狹い青空ばかり覗いてゐることは、何としても達者の仕事でない。かう承知しながらも尚私のこの著書が訓詁に多言を費してゐることは、聊か矛盾のやうだが、これは「評釋」と題した本書の性質上、その責任を感ずるからである。
 解釋は、單語の解説考證に至つては古義の精進につく/”\敬意を拂ふ。歌意を釋するに至つては、諸家各一長一短があり、完全に近いものが少ない。餘説に至つては眞淵の「考」に折々面白いものを發見するが、極めて局部的である。私は前人の遺された數多の業蹟を基礎として、或は整理し、或は訂正し、或は補足し、或は新考を加へ、極力微細に亙つて注解を施さうと試みた。
 訓詁解釋の間には、私の發見に成る新しい所説も相應にある。私は昔から一部の人のする、僅か一二の考説を鬼の首でも取つた如く、新發見と誇稱する態度を喜ばない。故に新説と雖もあながちに特筆してないから、よく文意を注意して讀んで貰ひたいと思ふ。又本書には見えて前人の著書に無い文字は皆私の新研であることを茲に斷つておく。
 
  五、實地踏査と寫眞撮影
 
 苟も萬葉の古香に觸れた者で、身親ら大和故京の土を踏んで、回顧の想念に耽りたいと望まぬ者はないであらう。况や眞の研究に没頭する人達は、特にその地理的考査を必要の急務と感ずるであらう。
(15) 私もやはりその例に漏れず、何回となく訪問の旅を續けたものあつた。が時日が經つと記憶が段々とぼやけて、折角の印象が鮮明を缺いてくる。これではならぬと、永久的參考材料としての寫眞撮影の大願を起した。
 然るに當時は機未だ熟せずで、荏苒日を送つてゐるうち、大正十一年、私が御歌所寄人を仰せ付けられた祝賀記念といふ名目で、門人達から携帶用寫眞機の寄贈に與かつた。喜んで早速撮影に出掛けたが、何がさて伎倆未熟の爲、およそ三年ばかりの業蹟は、全く無効に近いものであつた。
 といふのは、この貴重な材料を自分一人が使用しただけで、そのまゝ秘藏するのもいかゞと感じ、それを圖版にして著書中に挿入する計畫を樹てたからだ。するとこんな藝術寫眞では製版に困るといふ抗議が出、一遍に失望してしまつた。が思ひ返して、よしそれなら本職の技術者を頼んで一緒に往つて貰ふまでのことゝ、伺處までも素志貫徹の一點張で、經費の事などは考へず、豫ての方針に隨つて、改めて寫眞師帶同の旅行を續け、その實現を期した。
 かくして大和は勿論、日本國中に散在する萬葉の遺蹟調査を試みる旁ら、一々これを撮影して歩いた。だがやはり日本は廣い。容易な事では仕事が完了しさうもない。莫大な經費倒れで大いに弱つたが、さりとて乘り懸かつた船、中途で抛棄するのも今更殘念なので、痩我慢に痩我慢を重ね、春風秋雨こゝに十餘年、漸くの事でほゞ成功の運びに近づいた。
 實をいへば、この撮影ばかりでも相應の大事業であつたと思ふ。眞の※[齋の上/非]身粉骨で、それに關しての内外の苦心と困難とは、とても局外者の想像の外である。本書中に挿入の風景寫眞は、その一部に過ぎないが、一枚も他から流用したものはない。これだけが私のせめてもの慰藉である。又莫大な經費を一文も他人の補助に仰がなかつたこと(16)も私の誇である。
 尚この寫眞原板は悉く手許に保存してあるから、他日機を見て、萬葉寫眞帖を作つて、一般學会界に寄与したいと思つてゐる。
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終に臨んで寫眞師三好玉藻君の勞苦を深謝せざるを得ない。長年の旅行にキヤビネ形原板を大抵六七ダース多い時は八ダース位、器械とと共に背負ひ、そして山野を跋渉してくれた。君は若くもあり身體も丈夫だから出來たとはいふものゝ、特別の好意と趣味とがなければ續くものではない。又奈良では多く松岡光夢君を煩はしたことを多謝する。その他各地方で隨時に同行を依頼した寫眞師は澤山あつた。中には大變な仕事ですなといつて、一日で逃げ出してしまつたのさへある。思へばそれも無理はないと、今では笑ひ話しにするものゝ、その際は一寸途方に暮れたものだ。
 
(この間目次、目録あり、省略)
 
(7) 萬葉集卷一
 
    雜歌《くさ/”\のうた》
 
○雜歌 音讀して、ザフノウタ〔五字傍線〕と訓んでもよい。「くさ/”\」は種々の意。この題下には、行幸、遊宴、覊旅、問答の歌があり、その他、相聞、挽歌、譬喩の部に屬け難いものを收めてある。稀にはその例外もある。古今集以降の勅撰歌集に立てた雜歌〔二字傍点〕の目に比較すると、その範圍が頗る廣汎雜駁である。
 この集の部立即ち分類に、大凡六種の綱目を立てゝある。いはく雜歌、相聞、挽歌、譬喩歌、四季雜歌、四季相聞である。この他便宜によつて、又覊旅、悲別、東歌、有由縁歌等の目がある。
 この集の題詞は、漢文體のものゆゑ、悉く國風に訓みつけるのもいかゞと思はれるが、古人訓讀の勞を徒らにするのも本意でないから、多くその訓に從つた。
 
泊瀬朝倉宮御宇天皇代《はつせのあさくらのみやにあめのしたしろしめすすめらみことのみよ》 大泊瀬稚武《オホハツセワカタケノ》天皇
 
泊瀬の朝倉の宮で天下を統治遊ばされた天子の御代との意。これは雄略天皇の御代のこと。まづかく榜標を立てゝおいてその御代の歌を輯めた。卷一卷二及び卷三はこの形式に依つて歌が排列してある。
 天皇の御代の標出が、かく宮名を以て純國風に書かれてあるのは、本集の編纂された頃には、まだ歴代天皇に支那風の謚號が定められてゐなかつた故である。――桓武天皇の延暦四年に至つて、淡海三船が勅を奉じて列聖の謚を撰定して獻つたといはれてゐる。――尤も下注の如く天皇の純國風の禮讃的謚號はもとからあつたけれども、こゝには用ゐなかつたのである。
○はつせ 大和國|磯城《シキ》郡。初瀬川の南岸に沿うた地域の稱で、古への初瀬《ハツセ》國、また初瀬《ハツセノ》郷である。この泊瀬朝倉宮の名稱を見ても、川の南部朝倉村一帶の丘陵地にまでかけて汎く呼んでゐたことがわかる。長谷の字を用ゐるのは、この地が金谷《カナヤ》邊から東の方へ延びて峽谷の形を成し、延長二里にも及んでゐる故であらう。後に中略してハセ〔二字傍線〕と呼ぶ。その名義、川には一の瀬二の瀬の名稱がある如く、川の上つ瀬、即ち初瀬の意とする説もあるが、又|終《ハテ》瀬の義とする説も捨て難い。これは舟運上から出來た語で、この川は大和平原を貫流する諸川の幹線で一番舟漕に適した處から、舟行の利かぬ最上流の地點に終瀬の名が與へられ、遂にそれがその邊の地名と轉じたとも考へられる。先出の字面は多く泊瀬〔二字傍点〕と書かれ(9)てあるのでも、終《ハテ》の義も有力である。○あさくらのみや 雄略天皇の都の稱。その宮址は舊都址要覽にいふ、「今磯城郡朝倉村大字黒崎の東北|字《アザ》天《テン》の森これ皇居の一部なり」と。帝王編年記には、磯城郡朝倉村の磐坂谷《イハサカダニ》の南方二十町ばかりの處とある。新撰姓氏録、秦忌寸《ハタノイミキ》の條に、「大泊瀬稚武天皇御代云々、役2諸(ノ)秦氏(ヲ)1構(ヘ)2八丈《ヤツエノ》藏(ヲ)於宮(ノ)側(ニ)1納(ル)2其貢物(ヲ)1、故(ニ)名(ケテ)2其地(ヲ)1曰(フ)2長谷朝倉(ノ)宮(ト)1」とある。朝倉の名は所所にあつて、校倉《アセクラ》の轉語である。○あめのしたしろしめしし 古義に「現報善惡靈異記に、「御」はヲサメタビシ、「宇」はアメノシタと訓めるが、卷一人麻呂の歌に「ささ浪の大津の宮に天の下|所知食《シロシメシ》けむすめらぎの」とあるが古語と思はるゝ故、シロシメシシと訓めり」とあるに從つた。
 標記の下の「大泊瀬稚武天皇」の七字は雄畧天皇の御稱へ名である。以下標下の天皇の御名の文字は、形式上附註の如き觀があり、且本によつて字に大小があつて統一せず、まさに後人の記入と考へられる
 
天皇御製歌《すめらみことのよみませるおほみうた》
 
天皇即ち雄略天皇のお詠みなされた御歌との意。○おほみうた 「おほみ」は大御の義で最敬語。「御製」は天子の御勞作を稱する漢語。
 
籠毛與《こもよ》 美籠母乳《みこもち》 布久思毛與《ふくしもよ》 美夫君志持《みふくしもち》 此岳爾《このをかに》 菜採須兒《なつますこ》 家吉閑《いへきかな》 名告沙根《なのらさね》 虚見津《そらみつ》 山跡乃國者《やままとのくには》 押奈戸手《おしなべて》 吾許曾居《あこそをれ》 師吉名倍手《しきなべて》
(10)吾已曾座《あこそませ》 我許曾〔左△〕者《あこそは》 背齒〔左△〕告目《せとはのらめ》 家乎毛名雄毛《いへをもなをも》    1
 
〔釋〕 ○こ 和名妙に「籠、竹器也、古《コ》」とある。契沖が、日本紀神代卷の無目竪間《マナシカツマ》を、マナシカタマ〔三字傍点〕と訓み、ここの「籠」をもカタマ〔三字傍線〕と訓んだことに就いて、古義にいふ「※[竹/會]※[竹/青]を古へはカツマ、後に訛りカタミとこそ言ひたれ、カタマは更に聞き及ばず」と。蓋し初二句は三音四音の古調の組織で、神武天皇の御製に、「宇陀能《ウダノ》(3)多加紀爾《タカキニ》(4)志義和難波留《シギワナハル》(6)云々」などの例もあり、強ひて五七調に訓みつける必要はない。○もよ 「も」は歎辭。「よ」は呼格の辭。もや〔二字傍点〕といふに同じく古調の助辭で、平安期には殆ど死語となつた。この集卷二に「我者《アハ》毛也〔二字右○〕安見兒得《ヤスミコエ》たり」、また顯宗紀の「於岐母慕與《オキメモヨ》」を、古事記に「意岐米母夜《オキメモヤ》」とある。「母」の字をモ〔傍点〕と讀むは次音。○みこ いゝ籠。「み」は美稱、眞《マ》に同じい。○ふくし 土を掘る小道具で篦《ヘラ》の類。竹木又は鐵にて作る。フグシ、ホゴシ(以上土佐)フグセ(北越の海人の用具)亦ホグセともいふ。掘串《ホリグシ》を中略した轉語。和名抄に「※[金+纔の旁]、犂※[金+截]又土具也、漢語抄(ニ)云(フ)、加奈布久之《カナフクシ》」とある。これは通常の掘串《フクシ》の木竹などで作るのと區別した名である。「君」の字クの假名に用ゐた。以下かく漢字の長音が短音に使用されたものは一々に註しない。○もち 持ちて〔三字傍点〕のて〔右○〕の辭をわざと略いた。○をか 「岳」は丘と同じい。字鏡に小陵(ヲ)曰(フ)v岳(ト)、乎加《ヲカ》とある。○に 「爾」をニ〔傍点〕に讀むは呉音。○なつますこ 菜を摘まれる娘よ。「菜」は食料と(11)するに足る菜蔬の總稱。海のをも山のをもいふ。「摘ます」は摘む〔二字傍点〕の動詞の第一變化摘ま〔二字傍点〕が再び左行四段に活いたもので、敬意又は親愛の意を表はす古代の語法。「兒」は若い女を信愛して呼ぶ語。古義に「男女にわたりていふ語なれど、女兒は殊に父母に愛せらるゝ情深きものなれば、おのづから女兒をさしていへるが多くなれり。縵兒《カツラコ》、櫻兒、安見《ヤスミ》兒など、やがて女の名につきたり」と。○いへ こゝの家は家名即ち氏の類をさしたもの。住家ではない。先註みな誤まる。○きかな 聞かむ。「な」は未來の助辭でむ〔傍点〕と同じだが、む〔傍点〕は弘く自他にかけていひ、な〔傍点〕は自分の上にのみ用ゐる。集中に「梅の花さきたる園の青柳をかづらにしつつ遊び暮らさな」(卷五)「山おろし風な吹きそとうちこえて名におへる森に風祭せな」(卷九)など例が多い。「吉」の字はキ〔傍点〕の假名に用ゐた。「閑」の音カン〔二字傍点〕をカナと訓むは信《シン》をシナ〔二字傍点〕と讀むの類で、語尾がn韻だからである。又「吉」を一本に告〔右△〕とあるのによつて、考には「閑」を閇〔右△〕の誤として、告閇をノラヘと訓み、亦古義に、「閑」は無論誤字にて告勢《ノラセ》ならむといつたのは、いづれも牽強である。○なのらさね 名|告《ノ》りなさいな。「のらさ」は告《ノ》るの第一變化の「告ら」を再び四段に活す古代の語法で、敬意又は親愛の意を表はすこと、上の「摘ます」と同じい。「ね」は命令ながら希望に近い意の助辭。「小松が下の草を刈《カラ》さね」(卷一)「情《コヽロ》示《シメ》さね」(卷四)「なが名|告《ノ》らさね」(卷九)等用例が多い。略解に「のらさね〔四字傍線〕を約むればノレとなる、名告れといふに同じ」とあるは、甚しい反切の濫用である。○そらみつ 大和《ヤマト》にかゝる枕詞。神武紀に「及(デ)v至(ルニ)d饒速日命(ノ)乘(リテ)2天(ノ)磐船(ニ)1而翔2行《メグリテ》大虚《オホゾラ》1也|睨《オセルニ》c是|郷《クニヲ》u而|降之《アマクダリタマフ》、故《カレ》因(リテ)目(ケテ)之曰(フ)2虚空見日本國《ソラミツヤマトノクニト》1矣」とある。虚空から見たのなら虚從見津《ソラユミツ》でなければならぬ。然し言語は意義の当否を超越して變化して行くもの故、永い傳承の間に、虚從見津が虚見津と略されてしまひ、それが記録されたと考へれば何でもない。古義の「虚御津ならむ。御は美辭、津は饒速日命大空を榜ぎ廻らしゝ時こ(12)の山跡を見つけて天降りまし、その磐船を泊め給ひし津なる由にて大和國といひ續くるか」とあるは、神武時代としては天地の差別が分明でない。○やまと 大和。こゝは狹義の用法で、日本のことではなく、手近い大和國だけを指した。尚次の歌「やまとには」の條(二○頁)を參照ありたい。「やまと」の語義については諸説あるが、こゝには直接の關係がないから略く。「跡」をトと訓むはアト〔二字傍点〕の上略。○おしなべて 押靡かせて。後撰集冬「薄おしなみ降れる白雪」のおしなみ〔四字傍点〕もオシナベの轉語である。「押し」は多く廣くかけ渡す意。○あこそをれ 大和國中人の多い中に、吾こそこゝの主として大坐《オハ》すとの意。他は然らずとの餘意を含む。「あ」はわ〔傍点〕(吾)の古言。これ及び次の二つの「あ」はワ又はアレ、ワレと訓んでもよいが、成るべく古言に訓んだ。「許」をコ〔傍点〕と讀むは呉音。○しきなべて 押竝べて領《シ》ること。「しき」はしりの轉語。山振を山ぶきといひ、又羽振りをを羽ぶきといふ如く、リ〔傍点〕とキ〔傍点〕とは相通である。「しり」は領知する、支配するなどの意。「敷坐《シキマス》國《クニ》」「太敷坐《フトシキマス》」などの敷《シ》き〔傍点〕も同意で、「敷」と書くは借字。玉の小琴に「師の字を上句へ付けて居師《ヲラシ》と訓むは誤。「吉」の字舊本に告〔傍点〕とあるによりて、ノリナベテ〔五字傍線〕と訓むもいかゞ」とある。○あこそませ 「座」の字「ませ」と訓む宣長説による。自分に敬語を使ふことは昔の貴人には多い。即ち須佐之男命が「御《ミ》心すがすがし」と詔ひ、八千矛神が「八千矛の神の命《ミコト》は云々」と詠み、この天皇亦「あぐらゐの神の御手もち、ひく琴に」と詠まれてゐる。考はヲレと訓んだ。○あこそは 考に上例に依つて曾〔右△〕の字を補ふとあるに據る。紀州本には曾者〔二字右△〕とあるよし。宣長は「我許者」をワヲコソ〔四字傍線〕と訓み、「者」を曾〔右△〕の誤とした。然しを〔右△〕の辭があつては次句の意と扞格が生ずる。○せとはのらめ 汝の〔二字右○〕夫とは宣言しよう。「せ」は夫で、せな〔二字傍点〕ともいふ。妹《イモ》に對した語。もと女性より呼ぶ男性の總稱。「背」は借字。「のらめ」はいひ出でよう〔六字傍点〕の意。上に「こそ」と係つたからむの助動詞が(13)已然形のメ〔傍点〕となつた。考は「齒」を齡の同字としてトシ〔二字傍線〕と訓んだ。木村正辭いふ「こゝの本文、もと止〔右△〕の字ありけるが、下の齒の字の上部と同じきが爲に、同字の書損と心得て省きたるならむ。されば止齒《トハ》と訓むべし」と。今は正辭の説に從つた。紀州本、六條本は「背」の下に爾〔右△〕の字がある。古義に「跡の字の扁滅せて遂に爾と誤れるなるべし。故に跡〔右△〕の字を補ひて跡齒《トハ》と訓むべきか」とあるは甚だ煩しい。尚「あこそは」以下の二句の本文は、諸本異同があり、元暦校本、類聚古集、古葉略類聚抄等に「我許背齒告目」とあるにより、これをアレコソハノラメ〔八字傍線〕と一句に訓む説もあるが、歌意に大きな矛盾を生ずるので肯け難い。又「告目」が類聚古集には告自〔右△〕とあるので、ノラジ〔三字傍線〕と否定に訓む人も最近あるが、恐らく意義をなさぬであらう。○いへをもなをも 汝の〔二字右○〕の家をも名をも告れ〔二字右○〕の略。「あこそ」以下の意を宣長、雅澄が、我をこそ夫として家をも名をも告げよと解したのは、甚しく本文の意に齟齬する。これは上にアヲ〔二字傍線〕と訓んだ結果である。「乎」をヲ〔傍点〕の假字に用ゐるのは呉音ウ〔傍点〕の轉訛である。
 
【歌意】 籠よ、その見事な籠を持ち、掘串よ、その結構な掘串を持つて、この岡で若菜を摘んで居られる娘さん、そなたの家名を聞きたい、そなたの名を仰しやい。抑もこの大和の國は、押靡けて自分が治めて居るのです、敷きならして自分が支配して居るのです。かう身分を明した以上は、自分こそそなたの夫とはいひ張らうよ。さあ、そなたも早く、自分の家名をも名前をもお打明けなさい。
 
〔評〕 全篇の結構が同語の重疊、同一語形の排對を以て始終してゐる。これは同じ音調の繰り返しに基いた辭樣であつて、この種の修辭は何れの國にあつても、文學のさ程發達せぬ時代かち行はれてゐる。蓋し人間の肉體に(14)既に一定のリズムを有することは生理學上認められる所で、隨つて五官四肢の活動にも同調のリズムが生じて來る。されば内生活を表現する言語にも亦リズムあるは當然で、それが五七調或は七五の音となつて反覆され、一の詩形を成す所以は、精神から始めて唇舌の末に至るまで、皆リズムの諧和を以て安定を得るからである。さればこれを聽く者も亦聽覺の自然に協つて、快感を起すこととなるのである。
 かく同音調の繰り返しは人間の本能に原づいた律的運動の一つといふべきものであると考へると、その原始時代から發生してゐたことは全く爭ふ餘地はない。さればいづれの民族の歌謠を檢しても、まづこの形式がその先驅を成してゐることを發見する。かくて一音の操り返しから二音三音四音五音などの各自の繰り返し、又は七音の繰り返し、更に五音七音を成句としての繰り返しとなり、遂に一節の繰り返し、二節の繰り返しと擴大され、尚この他にも各種各樣の反復樣式を建立するに至つたものである。短歌の成立もこの根本原理から出發し、長歌は更に、その延長によつて成立し、旋頭歌とは別種の構成であるものゝ、反覆樣式を基礎とすることは勿論である。
 初頭まづ極めて無造作に出て、何でもない籠や掘串を擧げて讃美してゐるのは、それだけでもかやうにめでたい以上は、少女の容姿はどれ程であらうかとの好奇の眼を※[奇+支]てしめ、讀者の心を力強く捉へてしまふ。固より「この岳に菜摘ます兒」の一句を下すのが目的であるが、冒頭からこの句を著けるのは唐突の嫌があるので、先づ女兒の携帶品を捉へて讃美した。所謂「人を射るに先づ馬を射る」の筆法で、猶豫低徊の味ひを深からしめる。「この」は近稱の指示であるから、天皇と女兒との距離は、極めて相接近してゐたと見られる。さてこそ下の、家をも名をも聞かうとのお言葉をいひ懸けられるのに、最も好都合な位置であらう。平安時代になる(15)と、上流婦人は滅多に外出せぬ風習を作つたが、上古では、野邊に遊行して菜など摘むことは、必ずしも賤女に限らなかつた。神武天皇の御時、伊須氣餘理比賣《イスケヨリヒメ》が七人の處女達と共に、高佐士野《タカサジヌ》に逍遙なされたことなどを思ひ合はせるがよい。尤も上流婦人の野遊は比較的少なからうから、こゝはまづ普通の良家の處女位の見當に見て間違はなからう。「家聞かな」と家名を御承知なりたいやうに仰せられたのでも、それが全くの賤女でないと推斷してもよからう。
 「家聞かな名告らさね」の二句は一篇の眼目である。一節幾多の語言を費して來たのも、歸する所は只この眼目を點出する爲の前提に外ならない。そして「聞かな」は我れを本としていひ、「告らさね」は彼れを基準として出た語で、自他の應接に頗る姿致がある。後世の軍記物語などに、陣頭に馬を進めて、「こゝに寄するは何人ぞ、名告れ聞かむ〔六字傍点〕」といふのと同一筆法である。
 次に「虚見つ」の枕詞によつて端を起し、風調こゝに一變して頗る莊重の趣を成し、帝王の氣象さながら天地に※[石+旁]※[石+薄]する概がある。誠に前節の風流情痴とよき對映である。下の四句一對は、聊か詞を易へたのみの疊語である。變態的反覆である。尚注意すべきは、かく我れは大和の國の君ぞと仰せられたのは、御自身の身分を先に明して、間接に家をも名をもお告げになつたものである。詰りは女兒の家名を強ひても告らせようとの御手段である。
 前段の二つの「吾《ア》」と、二つの「こそ」とを承けて、さて「吾こそは」と應接した姿致には、不言の妙味がある。又かく「吾こそ」の三疊をまで試みたのは、重きを御自身に歸して、注意を此方へ傾けさせよう引き付けようとの御努力であらう。結句は第一段の「家聞かな名告らさね」の首尾であつて、一句に二句の意を籠めた(16)のであるから、委しくは「家をも聞かな、名をも告らさね」とあるべきであるが、然しそれでは冗長でもあり、又變化を求める爲にも、わざと前段の句意に讓つて簡略にいひさしたのである。反覆の結果はその意が強調されるから、家と名とを聞かむと望むその熱心さが等閑でない趣も見えるではないか。然るにこの結句を、天皇御自身で家をも名をも告げるぞとの意に解する説もあるが、諾けられない。
 古へは女が諾けひいて夫と思ひ許す人の外は、家をも名をも顯はさないのが例であつた。神代紀一書に、皇孫瓊瓊杵尊が、
  遊2幸《イデマシテ》海濱《ウミベタニ》1、見《ミソナハス》2一(リノ)美人《ヲトメヲ》1。皇孫《スメミマ》問(ヒテ)曰(ハク)、汝(ハ)是(レ)誰(ガ)之|子耶《ムスメゾ》。對(ヘテ)曰(ハク)、妾《ヤツコハ》是(レ)大山祇神之子《オホヤマツミノムスメ》、名(ハ)神吾田鹿葦津《カムアダカアシツ》姫、亦(ノ)名(ハ)木花開耶《コノハナサクヤ》媛云々。  (日本紀、卷二)
とあるのを始として、本集中にも、
  みさごゐる磯みに生ふるなのりその名は告らしてよ親は知るとも (卷三―362)
  住の江の敷津の浦のなのりその名は告りてしを逢はなくも怪し  (卷十二―3076)
  たらちねの母が呼ぶ名をまをさめど道ゆく人を誰れと知りてか  (卷十二―3102)など多くその證がある。娉《ツマド》ひするには又、まづその氏名を問ふのが一般の古代風習だつたのである。
 更にいふ、上古では婦人達が野外の遊を好んでしたらしいので、隨つてそこは又絶好の見合場所でもあつたに相違ない。神武天皇は、高佐士野に樂しく遊行すを七人の處女達を御覽になつて、その中の伊須氣余理比賣を皇后にお求めになつた。その時媒人役の大久米《オホクメノ》命が、
  やまとの高佐士野を、七ゆく少女ども、誰をしまかむ   (古事記中、神武記)
(17)と、まづ思召を伺ふと、天皇は、先頭に立てるのが姫であることをお知りになつて、
  かつがつもいや先立てる、えをしまかむ (同上)
と仰せられたので、大久米命は思召の趣を傳へ、姫はこれを諾して、仕へまつるべき旨を申された話がある。然るにこの御製は形式的に多少の潤飾はあるが、内容は情熱の炎々たる迹が見えない。只國の主權者であるぞといふ宣言で押附けてゆかうとなさる傾向が著く目立つてるる。却つて記にある、丸邇佐都紀臣《ワニノサツキノオミ》の女|袁杼《ヲド》姫を婚《ヨバ》ひに春日に幸し給うた時、誰れとも知らぬ少女が、行幸の列を見て岡邊に避け隱れたのに、
  をとめのい隱る岡を 金※[金+且]《カナスキ》も五百箇《イホチ》もがも ※[金+且]き撥《ハ》ねるもの  (古事記下、雄略卷)
とお詠みになつた御製の如き、その情熱の爆發に、五百箇の金※[金+且]を以て岡を鋤き平げて、少女の姿をあらはしてやらうとまで仰せられたのには、遙に劣つてゐる。金※[金+且]の御製は實に人麻呂の「妹が門見むなびけこの山」、業平の「山の端にげて入れずもあらなむ」などと同調の快語で、豪宕千古に絶するものである。尚思ふに、籠毛與の御製と金※[金+且]の御製とは、或は同時の御作でもあらうか。場所といひ、人物といひ、事情といひ、すべてが殆ど合致してゐるではないか。さては、春日あたりを遊幸なされた時に、岡の邊に籠や掘串などを持つて摘草してゐる少女にお遭ひになり、先づ籠毛與の御歌を以てその意を通じようとなされたのに、少女は恥ぢ恐れて岡邊に逃け隱れたので、天皇は思慕の御心がいやが上に高まつて、遂に金※[金+且]の御歌となつたのではあるまいか。籠と掘串とから、おのづから金※[金+且]が御聯想に上つたらしく思はれる。但これは試みにいふのみで、敢て斷言する論據はまだ無い。
 この御製は、起首から古調で、音數の長短が等しくなく、あながちに五七調の定型を追はないところが、お(18)のづから奈良時代には見られぬ體裁で、一層素朴の味ひを深めてゐる所以である。
 
高市崗本宮御宇天皇代《たけちのをかもとのみやにあめのしたしろしめししすめらみことのみよ》       息長足廣額《オキナガタラシヒヒロヌカノ》天皇
 
高市の飛鳥の岡本の宮で世を治められた天皇の御代との意。これは舒明天皇の御代のこと。○高市 大和國高市郡。大和平原の南端に當り、地勢漸く南に高く、遂に高取、多武、音羽の山岳となる。飛鳥《アスカ》、藤原、檜隈《ヒノクマ》、越智《ヲチ》、巨勢《コセ》などの地方を包有する。○崗本宮 舒明紀に「二年冬十月壬辰朔癸卯、天皇遷(リマス)2於飛鳥(ノ)岡(ノ)傍(ニ)1、是(ヲ)謂(フ)2岡本(ノ)宮(ト)1」とあつて、飛鳥《アスカノ》岡の麓にある皇居なので名づけられた。飛鳥の岡は今の岡の街地の東に接して南北に連亙した岡で、逝囘《ユキヽ》の岡とも長岡ともいふ。宮址は多分今の岡の市街地の邊であらうと考へられる。喜田貞吉氏が雷(ノ)岡の麓と推定したのは賛成し難い。尚下の「明日香(ノ)清御原(ノ)宮」の條(九九頁)を參照。又飛鳥のことは本卷「飛ぶ鳥の(19)あすかの里を云々」の歌(二六八頁)の條を參照ありたい。「崗」は岡の俗字といひ又正字ともいふ。○息長足日廣額天皇 これは舒明天皇の御稱へ名である。
 
天皇登2香具山1望國之時《すめらみことのかぐやまにのぼりましてくにみしたまへるとき》、御製歌《みよみませるおほみうた》
 
舒明天皇が香具山に登つて國見をなされた時お詠みなされた御歌との意。○香具山 大和磯城郡(もと高市郡)香山村大字|戒外《カイゲ》にある。神武紀に「香山|此《コヽニ》云(フ)2介遇夜摩《カグヤマト》1」とある。土人は「具」を清んで唱ふる。この山及び畝火、耳無《ミヽナシ》を、古くから大和の三山として並び稱へた。蓋し大和平原の南部に鼎立して、卑いながら目につく故であらう。この山西方より見れば丸い形をしてゐるが、北面より望んだ處はやゝ扁平な稻塚形で、山脚廣く盤踞し樹木が蓊欝として、歌には「取よろふ天の香山」と詠まれてある。高さは大約百四十八米突、四町或は五町餘で山顛に達することが出來よう。神武紀にこの山の土を取つて平※[公/瓦]《ヒラカ》を作つたことが見える。尚次の「あめのかぐ山」の項を(20)參照(二一頁)。○望國 國見《クニミ》の語を強ひて漢字に充てたもの。「國見」は、春高い處に上り一國の形勢を觀望すること。これには軍事的のもあらう、政治的經濟的に屬するのもあらう、單に探勝的なのもあらう。前二者は治者の所爲であるから、天皇及び牧民の官吏の國見は重にこの種のものである。神武紀に「陟《ノボリ》2彼(ノ)菟田《ウダノ》高倉山(ノ)嶺(ニ)1瞻2望《ミソナハシタマフ》城(ノ)中(ヲ)云々」、又「因《カレ》登(リ)2腋上※[口+兼]間丘《ワキガミノホヽマノヲカニ》1而廻2望《ミワタシメタマヒ》國状(ヲ)1」などあるのは、皆國状の如何、民戸の盛衰如何を察するのである。集中「神代より人の言ひ繼ぎ國見する筑羽の山を」(卷三)「雨間《アママ》あけて國見もせむを故郷の花橘は散りにけるかも」(卷十)などあるのは常人の國見である。すべて國見の稱のある處は、丘にせよ山にせよ遠望の利く處である。
 
山常庭《やまとには》 村山有等《むらやまあれど》 取與呂布《とりよろふ》 天乃香具山《あめのかぐやま》 騰立《のぼりたち》 國見乎爲者《くにみをすれば》 國原波《くにはらは》 煙立龍《けぶりたちたつ》 海原波《うなはらは》 加萬目立多津《かまめたちたつ》 ※[立心偏+可]怜〔二字左△〕國曾《うましくにぞ》 蜻島《あきつしま》 八間跡能國者《やまとのくには》     2
 
〔釋〕 ○やまとには 「やまと」は今都のある大和(ノ)國を指す。尚「やまと」には三種の用法がある。(1)は大和の國稱、(2)は大和の京師の地及びその附近の稱、(3)は日本の國號である。「には」は大和に限つて特に表出した辭法だか(21)ら、他の國に對へた意となる。「常」をト〔傍点〕の假名に用ゐた例は、集中、「在常《アリト》いはなくに」(卷二)「あふや常《ト》念《モ》ひて」(同上)「春雨をまつ常《ト》にしあらし」(卷四)など多く、山の常陰《トカゲ》の常《ト》の字と同じくトハ〔二字傍点〕の下略。然し唐棣《タウテイ》花を常棣花とも書くから、常の字にタウの音の存在したことがわかる。七陽の韻字が三冬の韻に轉じた例はまゝあるから、タウ〔二字傍点〕がトウ〔二字傍点〕に轉じ、その短音のト〔傍点〕がこれに充てられたと見られぬこともない。「庭」は借字。○むらやまあれど 群山はあるが。「村」は借字。燈に「有等」を清んでアリト〔三字傍線〕と訓んだのは意を成さない。「等」は清音であるが、今はド〔傍点〕の濁音に假用した。○とりよろふ 「とり」は動詞の意を強める接頭語。「よろふ」は完備すること。こゝは山の形の具足して足り整つてゐるのを稱めた。鎧《ヨロヒ》の語も隙間なしに足り整はせて覆ふからの名である。○あめのかぐやま 記の倭建命の御歌にも「久方のあめのかぐ山」と見えて、「天」はアメ〔二字傍点〕といふのが古言で、アマは轉語である。紀記の所載によれば、神代に高天原にこの山があり、天照大神が岩戸にお籠りなされた時、大神の御心をお取り申す爲に、八百萬の神達が神議りに議つて、香具山の五百箇《イホツ》の眞賢木《マサカキ》を根こじにこじ、又この山の鹿の肩骨、波々迦《ハヽカ》、日蔭蔓《ヒカゲノカヅラ》、小竹(ノ)葉を取つて祭祀の用に供したことが見え、(22)又神代紀に伊邪那美(ノ)神の神去ります條に「御涙に成りませる神は香山の畝尾《ウネヲ》の木の本にいます云々」と見え、神武紀に「宜(シク)取(リテ)2天(ノ)香《カグ》山(ノ)社《ヤシロノ》中(ノ)土《ハニヲ》1以造(リ)2天平※[公/瓦]《アメノヒラカ》八十枚《ヤソキヲ》1云々」と天つ神が神武天皇にお命じになり、遂にこの山の土を潜に採り得られたことが見えてゐる。この香山は大和國のである。眞淵いふ「天上の迦具《カグ》山に擬へて崇み給ふ故に天乃ともいふ」と。伊余國風土記《イヨノクニノフドキ》に「伊豫(ノ)郡自(リ)2郡家《グウケ》1以東北(ニ)在(リ)2天山1、所《ユヱ》v名(クル)2天山(ト)1由|者《ハ》、倭(ニ)在(リ)2天(ノ)加具《カグ》山1、自(リ)v天|天降《アモル》時二(ツニ)分(レ)、而以(テ)2片端(ヲ)1者天2降(シ)於倭(ノ)國(ニ)1、以(テ)2片端(ヲ)1者天2降(シキ)於此土(ニ)1、因(レ)謂(フ)2天山(ト)1本也」とある。――仙覺抄所引の阿波風土記にも同樣のことが出てゐる。――この傳説によれば、天上の香山がこの國土に降りても元の稱を存して「天の」といはれたとなる。集中「天降付《アモリツク》天の芳來《カグ》山」(卷三)と詠んだのもこの典故によつたのである。上古の傳説神話の類、妄誕不稽なものですらも、その時代には相當の存在價値を有して居て信憑されてゐたものだから、後世の見から一概に抹殺してしまふべきではない。况や高天原の香山とこの國土の香山とを混一に扱つたのは頗る詩的で、趣味の饒い物語である。この説を一歩進めて學術的に論じたのが高天原即大和國説になる。さてこゝの「あめの」は單に美稱として慣用せられた語と見るのが至當であらう。○のぼりたち 山の上に登り立ち。「騰」は借字。○くにはら 「國」は大小に關はらず、凡て人の境を立てゝ住む處の稱。「原」は平にうち開いた處をいふ。人體の腹ももとは同意味から出た語。○けぶりたちたつ 人家の炊煙が立ちに立つ。「煙」は仁徳紀に煙氣《ケブリ》(23)とあるもので竈の煙のこと。煙はまた霞や靄のことをもいふが、それが立ちに立つとするとぼやけて何も見えないから、下に「うまし國」と稱へる理由にならない。「立龍」の龍〔傍点〕は借字。舊本に籠〔右△〕とあるのに據つて、略解はコメ〔二字傍線〕と訓んだが、舊本はそれを尚タツ〔二字傍線〕と訓んであるから、古寫本、拾穗本、類聚抄等に「龍」とあるのが正しいのであらう。○うなはら 海《ウミ》の原の略轉。多く波良〔二字傍点〕と書いてあるから清んで訓んだ方がよい。この海原は香山の北麓にあつた埴安の池を斥す。古へは池も海も湖も皆海といつたのである。その例は枚擧に遑がない。契沖がこの海を難波の海としたのは甚しい失考である。埴安の池のことは、下の藤原宮御井歌の條、「埴安のつつみ」を參照(二〇五頁)。○かまめ 鴎。平安朝後にはカモメ〔三字傍点〕といふ。これに大小二種あり、陸地深く來るのは小さい方である。その聲猫に似てゐる。水禽類中の長翼類。○うましくにぞ 結構な國であるぞ。「國」と「ぞ」との間になる〔二字右○〕の助動詞が含まれてゐる。「うまし」は心にも耳にも口にも感じのよく美しいのを讚めていふ語。故にたぬし〔三字傍点〕、面白し〔三字傍点〕、あはれ〔三字傍点〕などいふ意の處に用ゐられる。「ぞ」は押し強むる意の辭。「※[立心偏+可]怜」は可怜〔二字右△〕と書くが正しいが、下の怜の扁を上の可にも加へたのである。かういふ事例は誹諧、爛※[火+曼]の類、書寫字には珍しくない。さて「可怜」は神代紀に可怜小汀をウマシヲバマと訓んだ例によつて、ウマシと訓む。舊訓はオモシロキ〔五字傍線〕とある。又原本に怜※[立心偏+可]〔二字右△〕とあるは轉倒の誤。○あきつしま 神武紀に「三十有一年夏四月、皇輿《スメラミコト》巡幸《メグリイデマシテ》因(ツテ)登《ノボリマシテ》2腋上※[口+兼]間丘《ワキガミノホヽマノヲカニ》1而|廻2望《メグラシオセリテ》國状《クニノサマヲ》1曰(ハク)、妍哉《アナニヱヤ》、國之《クニミテ》獲(ツ)矣。雖(ドモ)2内木綿之眞※[しんにょう+乍]國《ウツユフノマサキクニト》1、猶2如《ゴトクモアルガ》蜻蛉之臀※[口+占]《アキツノトナメノ》1焉。由(テ)v是(ニ)始(テ)有2秋津洲《アキツシマ》之|號《ナ》1也」とあり。もと葛上郡に廣く亘つた地名と思はれるが、孝安天皇がそこに秋津島の宮を立てられてから以後、百年餘も代々宮居なされたので、逐には汎く蜻島倭〔三字傍点〕といひ續けるやうになつた。
【歌意】 大和の國には多くの山があるけれども、中でも足り整うて立派なのはこの天の香山だ。この香山に登攀(24)して國見をすると、平野には炊煙が賑はしく立ちに立ち騰り、埴安の池には鴎が盛に舞ひ上り舞ひ上りしてゐる。まことに我が治める大和の國は結構な國ぢやなあ。
 
〔評〕 突如「大和には」と劈頭第一に喝破してゐる。普通ならば枕詞でも置くべき場合であるが、體製短小であつて、さういふ餘地が無い故であらう。さてこの初句は、結末の「大和の國は」に呼応してゐる。「むら山」は例の耳無、畝火は勿論、三輪山もあらう、初瀬山もあらう、高圓山、春日山もあらう。それらの中に、「取りよろふ天の香具山」と飽くまで讃美したのは、この山に國見する理由をまづ宣言したのであつて、それは又間接に大和國の讃美にもなるのであるから、おのづから結句への匂をもつた筆法でめでたい。次に、「國見をすれば」の一句は、實に第二段に轉捩する楔子である。
 第二段、「國原は煙立ち立つ」の前對は、帝王としての立場からの御觀察であつて、仁徳紀に、
  四年春二月己未朔甲子、詔(シテ)2群臣1曰(ハク)、朕《ワレ》登(リテ)2高臺《タカドノニ》1以遠(カニ)望(ムニ)之、煙氣《ケブリ》不v起《タヽ》2於|城《クニノ》中(ニ)1、以爲《オモフニ》百姓《オホミタカラ》既(ニ)貧(クシテ)而家(ニ)無(ケン)2炊(グ)者(ト)1。  (日本書紀、卷十一)
  七年夏四月辛未朔、天皇|居《マシテ》2臺上《タカドノニ》1而遠(カニ)望(ムニ)之、煙氣《ケブリ》多《サハニ》起《タツ》。是日語(リテ)2皇后(ニ)1曰(ハク)、朕《ワレハ》既《ハヤ》富(メリ)矣、豈有(ラン)v愁乎(ト)。 (同上)
とある當時の趣が聯想される。かく平野に煙の賑はしげに立つのを御覽になつて、國民の生活の豐かさを察せられ、それを深くお喜び遊ばされた御樣子は、御詞の上に強く現はされてゐる。又、「海原はかまめ立ち立つ」の後對は探勝的の立場からの御觀光である。埴安の池ばかりでなく、すべての造り池は即ち貯水池で、平生は物寂しい處であるが、丁度この度供奉の官人達が物珍しげに舟遊を試みたので、圖らず白鴎の閑眠を驚かしもし(25)たらう。この池が常に賑つたのは、この時代より少し後れた藤原宮時代であつたらしく、大宮人達は朝夕に舟遊びなどもしたやうである。鴨(ノ)君足人の香具山の歌に、
  あもりつく天の香具山 霞立つ春に至れば 松風に池浪立ちて 櫻花木のくれしげに 奥《オキ》邊は鴨つま喚ばひ 邊津べに味村《アヂムラ》さわぎ 百磯城の大宮人の 退《マカ》り出で遊ぶ船には 梶棹もなくてさぶしも 漕ぐ人なしに
    反歌
  人漕がずあらくもしるしかづきする鴛とたかべと船のうへに住む   (卷三―257.258)
と詠んだのは、藤原宮時代、高市皇子御在世の折の殷盛を偲んだものである。〔頭注、支那では現在も池を海と稱し、北京など宮苑からはじめて、數多ある池を、北海中海南海什刹海後海などいつてゐる。〕
 さて里の賑ひを煙を以て象徴し、海の賑ひを鴎を假りて表現したのは、巧な叙述といへる。里ばかりでなく水上までも賑はつてゐることは、畢竟大和のうまし國たる具象的説明ともなつてゐるのである。然しその國原といひ、海原といふものが、實は極めて狹隘な地域内であることを思ふと、甚しい誇張の感を與へられるやうでもあるが、それは現代人の考で、古代にあつては、これはかゝる場合普通に行はれた用語である。只「煙立ち立つ」と人煙の盛なること、「かまめ立ち立つ」と鴎の盛に遊翔することを叙した趣に、わづかな誇張があると察せられる。
 末段は「蛉島大和の國はうまし國ぞ」といふを倒装して、6、5、7音の組織で、意調を強め諧へたのである。「大和の國は」の一句は、第一段の起句「大和には」とある首尾で、又全篇の眼目である。香具山の取りよろうてめでたいのも、煙立つ里の榮えも、鴎舞ふ海の賑ひも、畢竟「大和の國はうまし國ぞ」の結論を求める爲の襯染に外ならない。
(26) 芳樹は、山國の大和に鴎の棲む筈が無いから、埴安の池にゐたのは鴨であつて、「かまめ」は鴨群《カモムレ》の約轉だと釋した。一往尤なやうだが、然し當時の地理的状勢を考案すると、あながちさうでないらしい。昔の難波の浦は現今よりもずつと奥深く灣入して八十島を作つてゐたことは周知の事實で、その上に河内の北部、即ち生駒山の麓には、南北に長い草香江《クサカエ》が大きく横はり、大小の河川沼澤で難波の浦に連絡してゐた。されば草香江のあたりには鴎は常にゐたであらうことは當然想像される。その鴎が、程近い二上山と立田山との間の大和川の水を慕つて溯ると、もう直に大和平原は展開して、香具山の麓なる埴安の池の水光がまづ眼に入るので、そこに暫しの安住を求めて游弋を試みたであらうことは、決して無理な臆測ではあるまい。いや臆測どころかそれは全く事實といつてよく、現に山國の信濃の諏訪湖あたりでも鴎が來てゐることがある。
 舒明天皇の御代には蘇我|蝦夷《エミシ》が執政の大臣であつた。蝦夷の權勢は極めて強大であつたけれども、何の衝突をも惹き起さなかつたのは、畢竟この天皇の御性質が温順にましましたからであらう。否一歩進めて考察すれば、温順の御性格なればこそ、狡猾な蝦夷が利用し奉らうとした所で、推古天皇崩御の後、山背大兄王の御懇嘱を拒んだ上、山背王を奉じようとした一族|境部摩理勢《サカヒベノマリセ》を殺してまでも、遂に田村皇子即ちこの天皇を擁立し奉つた最大理由は、恐らくこゝに在つたものであらう。又天皇は御病弱で、有馬温泉、道後温泉等に湯治の爲屡ば行幸遊ばされたが、その御健康状態も勿論御性格に影響したに相違ない。この御製の風調氣格を味ふと、何となく重厚温雅で、前の雄略天皇の御製と頗る面目を異にしてゐるのは、單に時代の相違といふはかりではなく、全く御性格の反映に外ならないと拜察される。
 さて香具山は岡本宮からは正北三十町の地點にある。さほど高くはないが、四方打晴れて國見をするには恰(27)好の山である。麓に横はる埴安の池は瀲波萬傾の鏡を展べ、白鴎は山色水光共に碧なる中に点綴しつゝ去來の舟に上下し、紫煙は依稀として遠近幾處の籬落に搖曳する。かゝる繁華の氣象と明媚の風光とに對せられ、思はず、「うまし國ぞ大和國は」と詠歎しつゝ、香具山の鉾※[木+温の旁]の下でその御|廣額《ひろぬか》を撫でてお悦びになつて居られたであらう帝の御面影が、この御製を通して今も眼に見ゆる心地がする。
 飜つてこの御製を一首の體裁から拜し奉れば、第一段は頭、第二段は腹、第三段は尾〔右○〕である。腹は宜しく甕の腹の如く膨脹すべきである。然るにこれは頭尾の割合には、腹部の狹窄な感が無いでもない。鼓や手杵のやうに中央部の括れ窄まつた程のことは無いにしても、やゝ棒を延べたやうな傾がある。さはいへその篇法を觀る時は、結構布置の井然たること、多くその匹儔を見ないい。即ち第一段は事を叙し、第二段は景を寫し、しかもその景は一は人事に屬し、一は自然に屬してゐ、第三段は一途に情を抒べて結收してゐるのである。
                    △埴安池考(雜考―1參照)
 
天皇遊2獵内野1之時、中皇命〔左△〕使2間人連老獻1歌《すめらみことのうちぬにみかりしたまへるときなかちひめのみこのはしひとのむらじおゆをしてたてまつらしめたまへるみうた》
 
舒明天皇が字智野に獵しに行幸せられた時、中皇女が間人連老を便にして、帝に獻らしめられた歌との意。
○遊獵 鳥獣の狩にも五月五日の藥狩にも通じていつた。「獵」は舊本及び類聚本に※[獣偏+葛]〔右△〕とある。俗字とも通用字ともいひ、古へは多く※[獣偏+葛]の字を用ゐた。字畫が幾分か少くて書寫に樂な爲であらう。○内野 また有智野。大和宇智郡宇智村の野。吉野川沿岸より西方葛城山麓へと展開した廣野である。今はその一部に宇智町がある。○中皇命 古義にいふ「命は女〔右△〕の寫誤なるべし、皇后皇女の類に某(ノ)尊と記せる例なし」と。中皇女をナカチヒ(28)メノミコと訓む、ナカチは中つ〔右○〕の轉。古へ兄弟の次第をいふ時、母の異同に關らず二番目を中《ナカ》と申した。中つ天皇(元明)中(ノ)大兄、(天智)仲滿、(藤原)中の君の類その例が多い。されば中皇女は第二皇女の意である。こゝでは舒明帝の女|間人《ハシヒトノ》皇女のこと。舒明紀に「二年春正月立(テ)2寶(ノ)皇女(ヲ)1爲(ス)2皇后(ト)1、后生(マセリ)2二男一女(ヲ)1、一(ヲ)曰(ス)2葛城(ノ)皇子(ト)1(天智)二(ヲ)曰(ス)2間人(ノ)皇女(ト)1、三(ヲ)曰(ス)2大海(ノ)皇子(ト)1(天武)」とある。すべて次第名は男女を別々に數へるが例だから、異母の布敷押坂、錦間、箭田《ヤタ》の三皇女中に、姉君に當る方が一人あつて、間人皇女は第二皇女であらせられたと見える。孝徳天皇の皇后となり、天智帝の四年春二月薨逝された。○間人連老 間人は氏、連《ムラジ》は姓、老《オユ》は名である。孝徳紀に五年二月の遣唐使の制度の中に、小乙下|中臣《ナカツオミノ》間人(ノ)連老とある。昔は御乳母の姓を御子《ミコ》に名づける習慣があつた。文徳實録に「先朝之制毎(ニ)2皇子(ノ)生(ルヽ)1以(テ)2乳母(ノ)姓(ヲ)1爲(ス)2之(ガ)名(ト)1焉」とあり、乳母の姓|神野《カムヌ》を嵯峨天皇の諱となされた事も見えてゐる。されば皇女の間人の御名は乳母の氏で、老はその乳母の夫か兄弟かなどで、親昵な關係があるので、この老を以て歌を奉らしめられたものであらう。
(29) 又いふ、この歌の作者が疑問になつてゐる。それは中皇女御自身の作とする説があるからである。契沖は間人連老の作として、中皇女の作なら御〔右△〕歌と敬語を添ふべきであるといひ、古義もこの説に據つて、御歌とすれば傳奏せしめた人名まで事々しく載せるのもいかゞである故、尚老が皇女の仰に依つて作つて獻つたのだらうと。處で自分は事實上からこの兩説を判定して見たい。
 この御獵を假に舒明天皇御在位の最末年と見てからが、その崩御は十月朔日だから、弓矢を用ゐる狩獵は冬季に入つての行事ゆゑ、御獵はその年にはなかつたものと見てよい。で崩御の前年(即位第十二年)の御獵とすると、皇女の御兄葛城皇子(天智帝)はその十五歳に當るから、皇女は十四歳か又はそれ以下であるべき筈、隨分世には早慧の人もあるが、普通にして考へると、十四や十三の御年配としては、この歌が餘り器用に上手に出來過ぎてゐる感がある。よつてこれを老の代作と斷じたい。詰り御年少だから、御自身の詠作がおぼつかないので、乳母の身内である老その人に代作をお命じになつたものと見るのが至當であらう。
 
八隅知之《やすみしし》 我大王乃《あがおほきみの》 朝庭《あしたには》 取撫賜《とりなでたまひ》 夕庭《ゆふべには》 伊縁立之《いよせたててし》 御執乃《みとらしの》 梓弓之《あづさのゆみの》 奈加弭乃《ながはずの》 音爲奈利《おとすなり》 朝獵爾《あさがりに》 今立須良思《いまたたすらし》 暮獵爾《ゆふがりに》 今他田渚良之《いまたたすらし》 御執《みとらしの》 梓能弓之《あづさのゆみの》 奈加弭之《ながはずの》 音爲奈里《おとすなり》    3
 
(30)〔釋〕 ○やすみしし 「大王」にかゝる枕詞。安み知らすの意で、安らかに世を知しめすこと。「安み」はマ行四段の第二變化の居體言で、サ行變格に移しては安んず〔三字傍点〕と音便にしてもいふ語。「しし」は古義に「知る〔二字傍点〕の敬語たる知らす〔三字傍点〕の第二變化知らしのら〔傍点〕の略かれたる語。足らしを足し、減らしを滅し、餘らしを餘しなどいふはこの例なり。さて知之《シシ》の中止法より大王に係かるは、鯨魚《イサナ》取り海〔三字傍点〕の續きと同じく、枕詞の接續法の變格なり」と。紀の通釋には、「知《シル》をシ〔傍点〕とのみいへること日雙斯《ヒナメシ》と申す御名も日並知《ヒナミシ》の義なると同じ、下のシ〔傍点〕は助辭なり」とある。「八隅知之」の字面は、漢文に八紘を統治すなどあるのを下に思うた書方で、「八隅」は借字。○あがおほきみ 「あが」は親んでいふ語。我妹子《ワギモコ》、我背子《ワガセコ》、我が佛など皆この例である。「おほきみ」は大君の意で、おもに天皇を斥し奉るのであるが、又皇子以下皇族の方々にまで及んで稱する。こゝは天皇。「大王」をオホキミと訓むは義訓。○あした 明時《アクシタ》の略。朝のさ〔傍点〕も時《シタ》の約語だから「あした」も朝も同意である。往くさ來《ク》さのさ〔傍点〕も時《シタ》の約である。時《シタ》の語は集中清濁二樣に安之多《アシタ》、安志太《アシダ》と書いてある。往きしな歸りしな〔八字傍線〕(土佐の方言、往きしだ歸りしだ)のしな〔二字傍点〕も時《シタ》の義。○とりなでたまひ 取撫で給ひし〔右○〕と過去にいふべきを、次句の「立てしし」のし〔傍点〕に讓つて略した。「とり」は接頭語。○ゆふべ 夕方《ユフベ》。○いよせたててし そばに引寄せてお立てなされた。「い」は發語。「てし」の「し」は過去の助動詞。この訓に敬語がないから上の「取撫給」に對しないやうだが、對句に敬語の不揃な例は集中に數多見える。正辭の訓イヨリタタシシ〔七字傍線〕は敬語は揃うが、その意は不妥当になる。○みとらしの お持料の。雄略紀(31)に用(ヰル)v弓《ミタラシヲ》とあるはこの意から出た轉用である。トラシ〔三字傍点〕、タラシ〔三字傍点〕は相通の同語。「み」は敬語。「とらし」は取り〔二字傍点〕の敬相執らす〔三字傍点〕の第二變化の居體言。○あづさのゆみ 梓の木で造つた弓。その頃の弓は丸木弓である。梓に就いては古來諸説あり、小野蘭山の本草綱目啓蒙や畔田翠山の古名録等にはアカメガシハの事とし、伊勢貞丈の弓材考などには、和名抄に「梓(ハ)木名、楸之屬也」とあるによつてキササゲの事としてあり、後の學者は多くこれらの説を繼承してゐるが、いづれも弓材としては脆弱で、專門學術の立場から首肯し難い。理學博士白井光太郎氏は種々考證の結果、ミヅメ一名ヨグソミネバリと稱する樹がそれであるといつてゐる。而してこの木を秩父三峰地方では今もアヅサ又はミヅメアヅサ、ヨグソアヅサと呼び、加賀の白山ではハンサ、大和吉野ではハヅサ、紀州ではハンシヤと呼んでゐるとのことである。樺科の喬木。○ながはず 長弭。弭は弓筈《ユハズ》で、弓の弦掛けの部分の稱。上を末《ウラ》弭、下を本弭といふ。その末弭が特別に余計に長いのを長弭といふのである。正倉院御物の彈弓の弭の如きはその一例であらう。後世の半弓にも末弭の長い製がある。玉函叢説には、「音あらしめん爲に玉鈴など掛くる料にその弭を長くしたるか」といつて、長弭説を主張してゐる。然るにこれを中弭と解して、弓柄の握りの上側に矢止めの※[金+丸]打つたのをいふとする説や、彈弓の弦の中央に環状の(32)彈受《タマウケ》あるを見てそれかといふ説などは、肯き難い。又「奈加」を奈利〔右△〕の誤寫として鳴弭の意とする古義の説も臆斷である。○おとすなり 「長弭の音」は即ち弓の弦音《ツルネ》である。「なり」は詠歎の助動詞。○たたすらし お出掛けなさるらしい。「たたす」は立つの敬相。「渚」は小さをな洲をいふ。故にスと訓む。「田渚」は戲書。
【歌意】 わが天子樣が朝方には御愛撫なされ、夕方には引寄せてお立てなされた御持弓の、梓弓の長弭の音がすることわい。天子樣は朝獵に今しもお出掛け遊ばすらしい、夕獵に今しも御出掛け遊ばすらしい。御持弓の梓弓の長弭の音がすることわい。
 
〔評〕 この歌篇法が頗る奇體である。音數の排列も五七の定形を破つてゐる箇處がある。假にこれを圖式に現してみると、
 安見しし《5》〔四字傍線〕あが大王の《7》〔五字傍線〕
   あしたには《5》〔五字傍線〕取撫で給ひ《7》〔五字傍線〕
   ゆふべには《5》〔五字傍線〕い寄せ立てゝし《7》〔七字傍線〕
        御執の《5》〔三字傍線〕梓の弓の《7》〔四字傍線〕長弭の《5》〔三字傍線〕音すなり《5》〔四字傍線〕(前段)
   朝狩に《5》〔三字傍線〕今立たすらし《7》〔六字傍線〕
   夕狩に《5》〔三字傍線〕今立たすらし《7》〔六字傍線〕
        御執の《5》〔三字傍線〕梓の弓の《7》〔四字傍線〕 長弭の《5》〔三字傍線〕音すなり《5》〔四字傍線〕(後段)
となつて、單頭複式の雙腹雙尾といふ形式の構成になる。頭句「安見しし吾が大王」は前後兩段にかゝる主格であつて、腹句は聯對の形を成して反覆してゐるが、前段と後段と各詞意を殊にして居り、尾句に至つては全然同一の長句を反覆してゐる。概していへば後段は前段を更に歌ひ返して自然的對偶を形作つてゐるものである。而して尾句は圖に示す如く、5、7、5、5の音數の變つた組織を持つてゐる。此の如く變つた音數と反(33)覆的組織とは、實に歌謠的本質を示すものであつて、作者は勇壯活發な狩獵の状况を遙に想像によつて叙すると共に、今現に山野に活躍しつゝある益良雄達が、これを諷誦して以て一層士氣を奮起する料にもとの用意で詠んだものではあるまいかとも思はれる。
 前段「朝には」は詰り平常の意を分解したのである。もしこれを「常に」などいふ抽象的微温的の語を用ゐたとすると、その愛撫の感じが強く表現されぬので、かくは具對的辭句を以て反覆強調したのである。又「取撫で給ひ」「い寄せ立ててし」などと、御持弓を持主たる天皇の御態度からして形容してかゝつたのは、重きをその長弭の響に歸する手段で、頗る効果的である。但これには立派な粉本がある。即ち雄略天皇に袁杼比賣《ヲドヒメ》が獻つた歌に、
  安見ししわが大君の、朝けにはい寄り立たし、夕けにはい寄り立たす〔安見〜傍線〕、脇机《ワキヅキ》が下の、云々。(古事記下、雄略記)
とあるのを思ふと、一寸闇い心持にもなるが、然もそれは部分的の踏襲で、一篇の主想は別に嚴乎として存在してゐるのだから、大目に看過してよからう。
 後段「朝獵」「夕獵」の朝夕〔二字傍線〕は事實上の朝夕を斥すものであつて、野鳥などの草に伏す時刻であり、そこを窺つて踏み立てゝ或は射取り、或は鷹を放つてかける。で朝には朝獵が今行はれるらしい、夕には夕獵が今行はれるらしいと想像して、更に長弭の響を囘護したのである。「長弭の音すなり」は現在的叙法であるが、實際は皇女の描かれた想像を現實的に扱つたもので、語句を強調し印象を明瞭ならしめる手段である。皇都川原宮から字智野は數里離れた場所であるから、長弭の音などの聞えよう道理は、はじめから無いのである。
 亦思ふに、間人皇女は父帝が字智野の獵に出立せられたあとの寂寞から、深く父帝を思慕し奉り、それで御(34)獵場の勇ましい光景が御執の梓弓に※[炙の上/寅]縁して、縱横にその聯想に上つたのであらう。而して間人連老は皇女の仰を畏み、その御意中を限なく忖度し盡して、殆ど遺憾ないまでに歌ひ得た。即ちまづ「朝には」「夕には」とその父帝の日常の御起居から叙して、次に御獵場の状况に及び、「朝夕」の連發、「今」の語の反覆で、その時々刻々も父帝の御身の上を去らぬ皇女の迫り切つた御愛情の閃きを巧に表現した、いみじき完作である。
 この作者老は、後に遣唐の判官に任ぜられた(孝徳天皇の五年)程の漢學者であつたが、國歌に於ても、奔放周密の構想と臨機自在の篇法と洗煉し切つた修辭とを竝行せしめて、此の如き成功をしてゐる處、決して山上憶良の獨歩を許さぬ概があるといふべきであらう。
反歌《かへしうた》
 
集中長歌に添うた短歌を「反歌」と記してある。反歌の用は長歌の意を總べ、或は長歌に言ひ殘した事柄をも叙べ、又長歌の一節をも反覆する。大體の構成が長歌に對しての反覆樣式てあるから、カヘシウタと訓むがよい。然るに應酬の作即ちこの集でいふ和歌《コタフルウタ》を、平安期に入つては返歌《カヘシウタ》と呼ぶので、それに紛らはしいから面白くないといふ説が有力だが、言語は活き物で、同じ詞でも時代によつて意味の變化する例は無數だから、難者の説は成り立たない。學者は場合によつては末梢に衝き入る必要もあるが、まづ大處高處から透觀することを忘れてはならぬ。
 「反」は荀子に反辭〔二字傍点〕とあり、楚辭の離騷には亂〔傍点〕とあるもので、荀子の注に「反辭(ハ)反覆叙説(ノ)辭、猶(シ)2楚詞(ノ)亂(ニ)曰(クノ)1、亂(ハ)總2理(ス)一賦之終(ヲ)1也」とある。長歌は殆んど漢文の賦體の如き觀があるので、長歌に添へた短歌を賦に添へた(35)反(即ち亂)に擬へて反歌と書いたのである。(以上代匠記、古義、美夫君志參取)卷十九に短歌を反詠〔二字傍点〕と書き、卷十七には短歌二首を二絶〔二字傍点〕とも書いてある。かく反歌、反詠、絶などの文字を用ゐることは、支那文學流行の結果と見られるから、まだこの舒明天皇時代には反歌の語は用ゐられなかつたらうと想像される。當時大學寮の建設などもなく、さう支那文學が普遍的になつてゐたらしくもないから、文字遊戲に入り込むほどの餘裕はまだあるまい。只歌の記録者が遡らせてその時代の歌にまで、反歌の語を記したまでゝあらう。
 抑も反歌の形式的發生はその萌芽が遠く上代にある。古事記神武卷の「忍坂《オサカ》の大室屋《オホムロヤ》に」の歌の附詠「みづみづし久米《クメ》の子らが云々」、同允恭記の「隱《コモ》りくの初瀬の山の」の歌の附詠「槻《ツク》弓のこやるこやりも云々」の如きがそれである。この附詠は形式がもと一定してゐなかつたが、やう/\短歌の優勢な力に包容されて、必ず短歌と限られるやうになつたのである。
 反歌の解義の一説に、短は段と音が通ふので借用し、而も段の草を古書に※[草書]と書いたのが多い、その※[草書]が反の字に似てゐる處から、遂に反歌と書くやうになつたと(以上芳樹説)。又の一説に短反は音通である。反にタンの音のある證は、卷十一に「人ごとの繁き間もりてあへりとも八反《ハタ》わが上に事の繁けむ」の八反が將《ハタ》に借りてあるのでもわかる。されば反歌は音に讀めばタンカ〔三字傍線〕、訓によめばミジカウタ〔五字傍線〕であると(以上龍草廬説)。而して兩説とも古今集の眞字序の「始(メテ)有(リ)2三十一字之詠1、今(ノ)反歌之作也」は、正しく短歌を反歌といつた證據であると論じてゐる。集中の題詞を檢するに、反歌と記したのは一つもない。多くは短歌とある。さて長歌を擧げた後に、或は反歌或は短歌と題し、或は何ともなしに短歌が擧げられ、一向統一がない。これに就いて私説がある。              △反歌考 (雜考−2參照)
 
(36)玉刻春《たまきはる》 内乃大野爾《うちのおほぬに》 馬數而《うまなめて》 朝布麻須等六《あさふますらむ》 其草深野《そのくさふかぬ》 4
 
〔釋〕 ○たまきはる 内又は命、世、などの枕詞。古義は「手纏佩腕《タマキハクウデ》の意より内にいひかく。又|現《ウチ》(ウツの轉)に續けては、現《ウチ》は現し世の事なれば命又は世と續く、手纏は腕輪、佩《ハク》は着くる事にて、轉じてはる〔二字傍点〕といふ」といひ、荒木田久老は「新程來經《アラタマキフ》るの約にて、それを現《ウツ》に續けたり」といひ、正辭は「環《タマキ》張る美《ウツク》しの意より現《ウツ》にかけて、さて内、命、世とも續く」といつた。魂極現《タマキハマルウツ》の意とする舊説は、父帝への詠進にそんな不吉らしい意の枕詞を用ゐるもいかゞと思はれるから從へない。尚諸説ある。「刻」をキと訓むはキダ〔二字傍点〕の意。○なめて 「なめ」は竝べの古言。「數」をナメと訓むは意訓。○ふます 踏む〔二字傍点〕の敬相。○ふかぬ 草の深い野。野を古言にヌといふ。略解にはフケヌ〔三字傍線〕と訓み、泥深き田をふけ田といふとあるが、ふけ田は疲瘠の田をいふので、意がちがふ。
【歌意】 あの宇智の廣々とした野原に、父みかど樣が御近侍達と馬を竝べて朝狩にお踏み立てなさるであらうその草の深い野原よ。まあ懷かしいことわ。
 
〔評〕 抑も字智の御狩野は、皇女の御身にとつては平生何の交渉も無い場所であるが、只今父帝の御遊獵によつ(37)て、こゝに始めて深い因縁を生じた。かくてその宇智の草深野に深い懷かしみを感じ、女の身ならずば飛んでも往つて見たいほどに思召すのである。「馬なめて朝踏ます」は、大御供仕へまつる侍臣等と共に、馬上颯爽として草伏の鳥や獣を踏み立て給ふ父帝の御英姿を、丁寧に思惟し想像されたもので、そこに父帝を慕はれる皇女の優しく濃やかな御情緒が、如實に動いてゐる。長歌の後段の前對「朝獵に今立たすらし」の意を更に敷衍する間に、又別樣の姿致を生ぜしめた手腕は、頗る自在を得たものといへる。そして後對の「夕獵に今立たすらし」の句意は省略法を取つて讀者の聯想にうち任せたことは、頗る氣の利いた遣り方であるが、一面には短歌の小詩形には全部を攝取しかねた結果でもある。四五の句は倒装ではなくて平叙である。倒装とすると「その」の語が無意味に陷つてしまふ。「草深野」の下には「よ」の歎辭を含めて聞くべきである。
 
幸《いでませる》2讃岐(の)國|安益郡《あやのこほりに》1之|時《とき》、軍王《いくさのおほきみの》見v山《やまをみて》作歌《よめるうた》
 
舒明天皇が讃岐國安益郡に行幸遊ばされた時に、軍王が山を見て詠んだ歌との意。○幸讃岐國 この事記紀の舒明帝の條に見えない。但紀に「十一年十二月己巳朔壬午幸(ス)2伊豫(ノ)温湯《ユノ》宮(ニ)1」、「十二年夏四月丁卯朔壬午天皇|至《イタリマシテ》v自(リ)2伊豫1便(チ)居《タマフ》2厩坂(ノ)宮(ニ)1」とあつて、伊豫へは行幸の事實があつた。大和伊豫間の往來には讃岐沿岸の海なり陸なりを行くのが順路だから、讃岐國を御通過なされたと見て差支ない。○安益郡 「安益」は阿野とも書く。今は鵜足郡と合併して綾歌郡となつた。○軍王 どんな人か、御系譜に所見がない。燈には供奉の軍を司る人であらうとあるが、只、供奉の員にあつた王氏の人と見る方が穩かであらう。「王」をオホキミ〔四字傍線〕と訓むことはこの(38)集の例である。○見山 「山」は何山か判明しない。いづれ安益郡の山であらう。なほ評語の末章を參照。
 
霞立《かすみたつ》 長春日乃《ながきはるびの》 晩家流《くれにける》 和豆肝之良受《わづきもしらず》 村肝乃《むらぎもの》 心乎痛《こころをいたみ》 奴要子鳥《ぬえこどり》 卜歎居者《うらなげをれば》 殊手次《たまたすき》 懸乃宜久《かけのよろしく》 遠神《とほつかみ》 吾大王乃《あがおほきみの》 行幸能《いでましの》 山越風乃《やまこすかぜの》 獨座《ひとりをる》 吾衣手爾《あがころもでに》 朝夕爾《あさよひに》 還此奴禮婆《かひらひぬれば》 大夫登《ますらをと》 念有我母《おもへるあれも》 草枕《くさまくら》 客爾之有者《たびにしあれば》 思遣《おもひやる》 鶴寸乎白土《たづきをしらに》 綱能浦之《つぬのうらの》 海處女等之《あまをとめらが》 燒鹽乃《やくしほの》 念曾燒《おもひぞやくる》 吾下情《あがしたごころ》    5
 
〔釋〕 ○かすみたつ 「霞立つ」は春日の麗かな状をいはうとして置いた有心の序詞。蛙鳴く〔三字右○〕神南備川、千鳥鳴く〔四字右○〕佐保の川原、春霞〔二字右○〕立田の山といひ連ねて、山吹、紅葉、鶯を詠み合はせた例と同じい。○ながきはるびのくれにける 九十の春光の盡きた意にも解せられるが、尚春の日暮の意と見たい。春日を長いとは古から和漢共にいひ來つた事で、事實上長いのは夏の日であるが、冬の日の短いのに慣れてゐる心から、冬至に一陽來復して日(39)一日一線の長きを添へる春の日は、非常に長くなつたといふ印象を受けるからである。○わづきもしらず 辨別も知らず。「わづき」は燈は分き著き〔四字傍点〕の意といひ、略解はこれに從つて、手著《タヅキ》に少し異なりといつた。代匠記には「分きも知らず〔六字傍点〕といふに、中に豆《ツ》もじの添はれるにや」とある。集中「夜晝《ヨルヒル》といふ別《ワキ》知らに」(卷四)「年月の往くらむ別《ワキ》も念ほえぬかも」(卷十一)「出づる日の入るわき知らず」(卷十二)など多く散見してゐるので、古義は豆を衍字と見てワキモシラズ〔六字傍線〕と訓んだ。その他の誤字説は皆略く。「受」の字ズ〔傍点〕の轉音をもつてゐる。「肝」は借字。○むらぎもの 心にかゝる枕詞。醫術の開けなかつた頃は、臓腑の差別なく悉く肝といつた。さて肝即ち臓腑の錯雜した形から、群肝《ムラキモ》の凝《コヽ》るといふを心にいひ續けた。心をココロ〔三字傍点〕と名づけたのも、もとこの意味からである。「村」は群の借字。○こころをいたみ 情の迫つて痛み苦しむを心痛しといふ。「を」歎辭。「み」はサニ〔二字傍点〕或はクテ〔二字傍点〕と解すべき接尾の助辭で、苫を荒み〔四字傍点〕、瀬を早み〔四字傍点〕は皆この例である。○ぬえこどり 歎《ナゲ》にかゝる枕詞。奴要子鳥の如く〔三字傍点〕歎くといふ譬喩の續きである。また奴要《ヌエ》鳥ともいふを見れば、子《コ》は或は名詞に附屬させて用ゐる意味をもたぬ接尾語か。「ぬえ」は萎《ナ》えの轉語で、萎えたやうな力弱い聲に鳴くので附いた名といはれる。よつてぬえ聲鳥〔四字傍点〕の略といふ説もある。※[空+鳥]、鵺など書き、和名抄に「漢語抄云、沼江、恠鳥也」とあるので考へると、夜鳴く鳥に違ひない。貝原篤信は「※[空+鳥]は鬼つぐみといふ常の鶫《ツグミ》に三倍ほど大なり。星多し。山中にあり」といつた。古事記にも見え、集中にも澤山詠まれてある。世間で猿虎蛇の怪物を※[空+鳥]としたのは、盛衰記の本文を見謬つたものである。○うらなげ 心歎で、心中に歎くこと。眞淵いふ、「※[空+鳥]の鳴音は恨み哭《オラ》ぶが如し、然れば※[空+鳥]の恨鳴《ウラナ》くに人の心《ウラ》歎くを掛けたり」と。心をウラ〔二字傍点〕といふことは、表に現れぬもの故、裏の意である。「卜」は借字。○たまたすき 懸け〔二字傍点〕にかゝる枕詞。「たま」は美稱。「たすき」は手助《タスケ》の義で、袖を掲げる襷(40)のことである。「次」は借字で、古言に次《ツギ》をスキといつた。古義には「把手次《タバタスキ》の轉ならむ。左石の袖口より脊へ貫通して、後の方に引締めて把《タバ》ね結ぶを、今俗にマヽダスキ〔五字傍点〕といへると同じからむ」とあるが、語義はやゝ穿鑿に過ぎるやうだ。○かけのよろしく 懸合の宜しく。意譯すれば丁度ヨク〔四字傍点〕に當る。古人皆、言に懸けていふも宜しくの意としたのは迂遠である。祝詞に多い「懸卷くも畏し」の語も、宣長が言にかけて云はんも畏しの意に解いてから、學者は皆それに追隨してゐるが、これも我々風情の身分で懸け合するも畏れ多いの意と思ふ。○とほつかみ 大王にかゝる枕詞。凡人に遠い神の意で、古代人の天皇を尊敬した形容の語。○いでまし 出座の義。行幸をミユキといふが、古くはイデマシといつた。但集中に既に、君之三行者《キミガミユキハ》(卷九)ともある。○やまこすかぜの 山を吹き越す風が。古今集に「甲斐が根を嶺越し山越し吹く風を」とあるに同じい。吹き越すは、山のいづれの方からでもいはれるが、茲では、山の向ふから吹き越して此方に來る風である。訓は燈の説に從つた。舊訓はヤマゴシノカゼノ〔八字傍線〕。今の温泉郡の御幸村山越は、村名も小字もこの歌に據つて作つたものと考へられる。○をる 考の訓はヰル〔二字傍点〕。○ころもで 袖《ソデ》と同じい。コロモ〔三字傍点〕とソ〔傍点〕とは同物異名である。○あさよひに 「朝」はこゝでは熟語として添へたまでゝ、意に與らない。「夕」が主意であることは、上の「春日の晩れにける」に引合せてわかる。「夕」はヨヒと訓むが古言。○かへらひぬれば 頻に通うてくるので。「還らひ」は還り〔二字傍点〕の延言であるが、かく伸びた爲に時間をもち、その動作が繼續することになる。單に還り〔二字傍点〕と云ふのとはおのづから違ふ。花散《ハナチラ》ふ、天霧《アマキラ》ふなどの意も皆さうである。○ますらを 男子の讃稱。優《マサ》り男《ヲ》の義。眞淵はいふ正荒雄の意と。「大夫」は即ち丈夫のこと。丈夫の誤寫でも、大丈夫の略でもない。紀にも見えた字面。○くさまくら 旅にかゝる枕詞。菰菅の類は勿論、すべて草でもつて作つた枕をいふ。古の行旅には、旅店の設備がな(41)かつたから、何處であらうと日が暮れゝば露宿して、草を引結んで枕としたから、草枕する旅の意で續けた。古義はいふ「草を把《タバ》ね結びて造る故に、草枕|把《タバ》ぬといふ意を旅にいひかけたるなり」と。○たびにしあれば 旅中であるので。「し」は強辭。「客」は旅と同意。○おもひややる 「思」は愁緒、心配をいふ。「遣る」は遣り失ふこと。されば思ひ遣るは氣晴し、排悶、遣欝の意と同じい。又想像の意に用ゐることもある。○たづき 便り。手著きの義。「鶴寸」は借字。キは古への尺度の名で寸に當るので、「寸」の字を充てた。○しらに 知らないで。「に」は古くジ〔傍線〕の助動詞と同じに未來の否定に用ゐたが、一轉しては、かやうに現在の否定に用ゐ、否定の助動詞のズ〔傍点〕の中止法の如くに用ゐられた。知ラズシテ〔五字傍点〕、知ラズニ〔四字傍点〕、知ラヌノデ〔五字傍点〕などといふ意と見れば大差はなからう。「白土」は借字。「土」を古語にニ〔傍点〕といふ。赤土《アカニ》、青土《アヲニ》、初土《ハツニ》など例が多い。「白土」は今磨粉などに使ふ白土のこと。集中又白粉をシラニに充てたのもある。○つぬのうら 讚岐國鵜足郡の津野《ツヌノ》郷の浦。今の宇多津の海邊。「綱」はツナ〔二字傍点〕、ツヌ〔二字傍点〕相通なので津野《ツヌ》に通用させて用ゐた。僻案抄及び略解のツノ〔二字傍線〕、古義のツナ〔二字傍線〕、いづれも非。一本に「網《アミ》」とあるは采らない。○あまをとめ 海士の若い女。「海士」は男女に關はらず海邊に生業を營む者の總稱。「處女」は若い女の稱。集中又「未通女」ともあるが、あながちに漢字に拘つて、男せぬ女にいふとばかり心得てはならぬ。○やくしほの 燒(42)く鹽の如く。「綱の浦の」からこの句までは、次の「燒くる」にかゝる序詞である。○おもひぞやくる 心の燃える、思の焦るゝ、などいふと同意の語。○したごころ 下に籠めて表面に現さぬ情をいふ。眞淵がシヅココロ〔五字傍線〕と訓んだのは失考である。
【歌意】 のどかな長い春の日が暮れてしまつたその辨別さへもなく、故郷を思ふ胸痛さに、只管うら歎いて居ると、丁度そこに打合つて、天子樣のいらせられる山の、彼方から吹き越す風が、獨居の私の袖に往來するので、あつぱれ男一匹と思つて居る私も、如何にせん、旅の空に出て居ること故、故郷戀しい思を晴らす術を知らないので、この綱の浦の海士の少女等が燒く鹽の燒けるやうに、自分の胸の思が焦れることわ。
 
〔評〕舒明天皇はその御代の十一年の十二月に御發輦になつて伊豫の温湯宮に行幸遊ばされ、翌年四月に還幸あらせられた。だからこの歌の出來たのは、恐らく還幸の途次讃岐に御滯留になつた折で、暮春三月の頃でもあつたらう。去年の十二月から殆ど五閲月、從駕の人々は懷土望郷の情念に堪へず、うら/\と長閑な遲日の暮れたのも知らないで煩悶する。我れ供奉の員でなかつたならば、直ちに飛んでも還らうものをと焦慮するのも無理ではあるまい。けれども卜歎《ウラナゲ》いてのみゐて表面に露はさぬのは、供奉員としての遠慮ばかりではない。かゝる場合の人情としては皆さうしたものである。
 「春日の晩れにける」は、遠く第二段の末の「朝夕に」の句に呼應してゐる。第二段の初の「玉襷かけの宜しく」からは、前段の意を承けて專ら事を叙した。而して「獨座る」の句は全篇の主眼である。いとしい妻と二人して共寢をしたならば、この時じみの山越の風も敢へて問題にならぬのを、日は暮れ夕闇は薄る空窓の下で、孤(43)影悄然として郷愁の情に悶々たる折柄、冷い客枕を山越の風は拂ふ。どうして斷腸の思に堪へられよう。さてこそ次の第三段を胚胎して來るのである。
 第三段では、我ながら女々しく遣る瀬ない旅恨を抒べようとしては、先づ「ますらをと念へる我も」と昂然として揚言したものである。「我も」のもは、強い意義で、口語のサヘモ〔三字傍点〕に當る。この抑揚の筆法は頗る留意すべきで、
  ますらをや片戀せむと歎けども醜《シコ》の益荒雄なほ戀ひにけり   (卷二、舍人親王―117)
  ますらをと思へる吾や水莖の水城《ミヅキ》のうへに涙のごはむ    (卷六、旅人―968)
  ますらをと思へる吾をかくばかり窶《ヤツ》れに窶れ片思《カタモヒ》をせむ (卷四、家持―719)
など皆これと同意同調で、我は苟も一箇の男兒である、何ぞや區々たる一婦人の爲にかくも煩悶すると、腕を扼し地團駄を跨むそばから、「思ふには忍ぶることぞ負けにける」で、はや戀の奴となつてゆくのだ。ましてこれは草枕旅にゐての事ではないか。
 末段を考察するに、客旅の途上に見た綱の浦の海人處女等が製鹽作業は、都人である作者の眼には、餘程物珍しく印象されたのであらう。そこでこれを借りて序の材料とした。抑も瀬戸内海の南北沿岸地方は昔から製鹽が盛で、鹽屋の地名が須磨附近にも、備中にも、この宇多津の東南にもある。結末は「わが下情、念ひぞ燒くる」とあるべきを倒装したので、その爲に上の序詞からの聯絡が明確適切となり、燒くるの意が愈よ力強く印象される。又燒く鹽の〔四字傍点〕、燒くる〔三字傍点〕と係る同語の反覆も、聲調が諧つて快い響を持つ。
 飜つてこの歌の組織を見れば、第二段は腹部に當り、情景いづれにしても十分にその所思を展開伸張すべき(44)であるのに、僅に前段に次ぐ事實の推移經行を叙するのみに止まつたのは、少し變體である。第三段になつて始めて本題に入つてゐるのは、徐々に用意して叙述を愼重にし、以て一篇の主想を強く重からしめようとする一種の手法であらうが、これは一歩を誤れば、讀者の倦怠を將來し注意を散漫ならしめて、却つて反對の結果に陷ることがあり、こゝも聊かその嫌がある。且各節の轉換に「卜歎けをれば」「還らひぬれば」「客にしあれば」と、何時も同態の接續法を用ゐたが爲に、潔淨を缺き、辭樣に變化乏しく平板に墮してゐる。又枕詞と序詞との濫用が、餘に煩冗な感を與へる。試にそれらを省いて正味だけを擧げて見ると、
  長き春日の暮れにける別も知らず、心を痛みうら歎げをれば、かけの宜しく、大王の行幸の山越風の、獨居る衣手に還らひぬれば、丈夫と思へる我も、旅にしあれば思ひやるたづきも知らに、思ひぞ燒くる下情。
此の如く短小なものになつてしまふ。且「我」といふ語が五つもあるのは、多くは不用意の重複で、洗煉を缺くことも甚しい。然しかく疎笨な所に又、その眞實味と素朴な古風とを斟酌し得るので、憖ひに修辭の巧に墮して、眞摯な情の籠らぬ娼婦の態でないのが喜ばしい。
 なほ、題詞に「見山」とあるが、歌の内容に相應しない。蓋し記録者の不注意であらう。又題詞に「安益郡に幸す」とあるのに、綱の浦が鵜足郡であることに疑を懷いた人もあるが、それはついこの程見て通つた隣郡の綱の浦の光景を聯想したまでゝ、何の不合理もない。されば山の所在を必ずしも海岸に求めるにも及ばぬことになる。寧ろ宇多津から四里弱東方の國府(今の府中)あたりに、帝は御泊りなされ、軍王は後れて國府宇多津間の某地點に宿つたものと見る方がましな位である。
                      △枕詞の本質とその運命(雜考―3參照)
(45)反歌
 
山越乃《やまごしの》 風乎時自見《かぜをときじみ》 寢夜不落《ぬるよおちず》 家在妹乎《いへなるいもを》 懸而小竹櫃《かけてしぬびつ》   6
 
〔釋〕 ○かぜをときじみ 風がまあ何時も吹くので。「を」は歎辭。「時じみ」は時じく〔三字傍点〕といふ形容詞の「時じ」に、「み」の助辭の添つた語。時じくは常《トコ》じくの義で、何時もその時であるの意。垂仁紀に橘を「時じくの香《カグ》の木の實」といひ、富士の山に、「時じくぞ雪は降りける」(卷三)と詠んだ。この語を誇張に用ゐた場合にはその結果から見て、時ならずの意となる。集中に「非時」の字面を充てたのは、それである。○ぬるよおちず 寢るほどの夜が殘らず。「落ちず」は殘らず、漏れず、缺けずなどの意。上の「時じみ」もこの「落ちず」の用法も、平安胡には滅びた。○いへなる 家にあ〔二字傍点〕るの約。○いも 「いも」は男に對へて女をさしていふ時に用ゐる稱呼。これは廣義である。又夫より妻をいひ、兄弟の間の女性をさしてもいふ。但こゝの「妹」は妻を指した。○かけて 向ふへ懸けて。この「懸け」は兩方に亙るをいふ。兼をカケ〔二字傍点〕と訓むも同意。心に懸けてと解くはいまだしい。○しぬびつ 慕《シヌ》びつ。戀ひ慕ふことを古言ではシヌブといふ。「つ」は現在完了の助動詞。古義に慕《シヌ》ぶを清音としたのは穩かでない。「小竹櫃」は借字だが、當時の家財に小竹《シヌ》即ち篠で編んだ櫃《ヒツ》があつたので、戲に當てたものだらう。
【歌意】 山越の風が、やたらと吹くので、いつもいつも寢る夜といふ程の夜は殘らず、故郷の家に置いてきたいと(46)しい妻を、遠く懸けて慕はしく思ふことわ。
 
〔評〕 長歌の意を、旨く一首のうちに摘み取つていひ盡してある。されば長歌の評語をこゝに移して、大體の鑑賞を了ることが出來よう。寢る夜落ちず妹を慕ぶは、結局連夜ろくに眠らずに妻を思つたことである。素朴のうちにこの婉曲味をもつた措辭は頗る自然で、決して覓めて成つたものでない。郷愁に神經過敏になつた作者が愛妻を思ふ情味を、太い線で力強く眞劍に表現してゐる。長歌の疵だらけなのに似ず、この反歌は完璧である。
 古義が、「反歌には連夜のさまをいひて」といつたのは宜いが、「長歌には朝暮のさまをいひ」といつたのは誤解である。長歌に「朝夕爾」とあるが「朝」は熟語として添へたまでなことは、既に上にいつた。富士谷御杖も同じ謬に陷つて、「長歌には朝夕とありて、夜の事なければ」などといつた。「長き春日の晩れにける云々」とあるのを見ても、長歌は夕方から、夜にわたつた趣である事が知られるではないか。
 
右檢(スルニ)2日本書紀(ヲ)1無(シ)v幸(スルコト)2於讃岐(ノ)國(ニ)1、亦軍王(モ)未(ル)v詳(カナラ)也。但|山上憶良《ヤマノヘノオクラノ》大夫(ノ)類聚歌林(ニ)曰(ク)、「記(ニ)曰(ク)天皇十一年己亥冬十二月己巳朔壬午、幸(ス)2于伊豫(ノ)温湯宮(ニ)1云々。一書(ニ)云(ク)、是(ノ)時宮(ノ)前(ニ)在(リ)2二(ノ)樹木1、此之二(ノ)樹(ニ)班鳩《イカルガ》此米《シメノ》二(ノ)鳥大(ニ)集(ル)、時(ニ)勅(シテ)多(ク)掛(ケ)2稻穗(ヲ)1而養(フ)v之(ヲ)、乃(テ)作歌云々」。若(シ)疑(ラクハ)從(テ)2此便(ニ)1幸(セル)v之(ニ)歟。
 
 右日本紀をしらべて見ると讃岐行幸の記事がない、軍王も傳がわからない、但山上憶良の著である類聚歌林に、紀の文を引いて「舒明天皇がその十一年十二月に伊豫温泉宮に幸す。或書に、この時宮前の二樹に斑鳩と此米とが澤山集つたので、勅命で稻穗を掛けて飼はれた。よつて歌を詠んだ」とあるから、若しやこの伊豫行(47)幸の序に讃岐へは行かれたのかとの意。
 山上憶良は本集中の代表的作家の一人、大夫は五位の稱である。類聚歌林は憶良の撰として古來名高いものであり、平安朝の末まで存したことは袋草子の記載などによつても想像されるが、今は佚亡して傳はらない。蓋し憶良が古今の歌を分類蒐聚したものであらう。「記曰」の記は實は日本書紀であるから「紀」とすべきである。舒明紀の本文をその儘引いたもので、伊豫の温湯は今の道後温泉である。一書とあるは伊豫風土記か。仙覺抄に引いた伊豫風土記にこの文と同じ意のことが載つてゐる。然し文章は同じでないから、或は他の書かも知れない。班鳩は斑鳩と書くが正しく、鵤とも書く。和名鈔に鵤の注に、和名|伊加流加《イカルカ》とし、斑鳩も和名同上としてある。今イカル、又はマメマハシと呼ぶ鳥である。此米は今もシメと呼ぶ鳥で、和名鈔には、※[旨+鳥]と書いて和名|之女《シメ》と注してゐる。伊豫風土記に比米鳥とあるは此米鳥の誤であらう。
 
明日香川原《あすかのかはらの》宮(に)御宇天皇代《あめがしたしろしめししすめらみことのみよ》  天豐財重日足《アメトヨタカライカシヒタラシ》姫(ノ)天皇
 
皇極天皇の御代とのこと。天皇は舒明天皇の皇后であらせられた。陵式に飛鳥(ノ)川原(ノ)宮(ニ)御宇皇極天皇とあり、その他皇代記をはじめ、如是院年代紀、皇年代略記等にも、皇極天皇が川原宮にまし/\た事が見えてゐる。但皇極紀には小墾田《ヲハリダノ》宮、板蓋《イタブキノ》宮におはしました事のみ出てゐる。恐らく紀の脱文であらう。又齊明(皇極重祚の帝號)紀に天皇が御即位の年の冬、飛鳥坂蓋宮が燒けたので俄に川原宮に遷り、その明年また岡本(ノ)宮に還られた事が見えてゐるが、その時の川原宮は、一時的の御動座に過ぎない。齊明の御代は次にも後(ノ)岡本(ノ)宮(ニ)御宇天皇(48)と標してある。○明日香 高市郡飛鳥村、高市村の地。なほ「飛ぶ鳥の明月香の里を」の歌の題詞の解(二六八頁)を參照)。○川原宮 河邊(ノ)宮ともいふ、飛鳥川の西岸なる高市村大字川原の川原寺即ち弘福《クフク》寺の地が、その宮址といはれてゐる。橘寺の北、島(ノ)庄の西に當り、その有名なる大理石(瑠璃と稱する)の礎石は川原宮の遺物かと思はれる。○天豐財重日足姫 皇極天皇の御稱へ名。
 
額田王《ぬかたのおほきみの》歌
 
○額田王 女王か。天武紀に「天皇初(メ)娶(ヒテ)2鏡(ノ)王(ノ)女額田(ノ)姫王(ヲ)1生(メリ)2十市(ノ)皇女(ヲ)1」とあつて、鏡(ノ)王の女で、鏡(ノ)女王の妹。父王は近江國野洲郡の鏡の里に居て鏡王と呼ばれ、この王は姉の鏡女王と共に、のち大和國平群郡の額田郷に住んで額田王と呼ばれた。宣長いふ「古へは女王をも男王と同じく只某(ノ)王といへり。萬葉の頃に至りては女王をば皆女王と記せるに、この額田王に女の字なきは、古き物に記せりしまゝに記ししなるべし。鏡女王は父の名と紛るゝ故に、古くも女王と記せるなるべし」と。卷四に「額田王思2(49)近江天皇1作歌」とある額田王も、歌の趣は婦人の作である。この王、始め天武天皇の皇子時代に召されて十市皇女を生み、のち天智天皇に召されて御兄弟の不仲を招き、天智天皇崩後また天武天皇の後宮に復歸し、天武天皇の崩後まで生存してゐた人である。
 こゝに額田王を男性とする一説がある。嚶々筆話所載の加納諸平の説に「額田王は鏡王の一名にて、大和國平群郡の額田に住まれたるから、世には額田王と稱ふれども、本名は鏡王なるべし。女君二人もち、一人は居處によりて額田姫王といひ、一人は諱によりて鏡女王といへり」と。但、額田王は鏡王の一名とある前提が頗る獨斷的のものであつて、何人をも首肯させにくい。
 
金野乃《あきのぬの》 美草刈葺《をばなかりふき》 屋杼禮里之《やどれりし》 兎道乃宮子能《うぢのみやこの》 借五百磯所念《かりほしおもほゆ》     7
 
〔釋〕 ○あきのぬ 「金」をアキと訓む。支那で讖緯家が五行の土を中央に配し、木を春、火を夏、金を秋、水を冬に配して、金を秋の義に用ゐた。集中|金芽子《アキハギ》、金風《アキカゼ》など例が多い。○をばな 尾花。薄の穗の出たものの稱。穗花の轉語といひ、又その形物の尾に似た故の名ともいふ。訓は元暦本に從つた。舊訓はミクサ〔三字傍線〕。貞觀儀式に「以(テ)2美草(ヲ)1飾v之(ヲ)」とあるは、次に「以(テ)2美木(ヲ)1爲(ス)v軸(ト)」とあるので見ると、只の褒辭としてもよいが、「秋の野の」とある初句からの續きでは、尾花《ヲバナ》と意訓によむが當然である。○かりふき 苅つて屋根に葺いて。○やどれりし 宿つたことであつた。〇うぢのみやこ 山城國宇治郡宇治に造られた行宮。宇治はまた「兎道」の字を用ゐる。大和から近江にゆく道筋なので、こゝに行宮を造り、近江への行幸の都度宿られたものであらう。(50)その證史上に散見してゐる。「みやこ」は宮處《ミヤト》の義で、行宮離宮などをも稱する語。「子」は借字。○かりほしおもほゆ 「かりほ」は假廬《カリイホ》の略。假屋に同じい。こゝは從駕の人々の假廬である。「し」は強辭。「おもほゆ」は思はるの意。訓は考に從ふ。舊訓はカリホシゾオモフ〔八字傍線〕。「ほ」に「五百」を充てたのはイホの上略。
【歌意】 宇治に行幸のあつた時、尾花を刈つて假屋に葺いて旅やどりをした事であつた、その面白い假廬をサ今に思ひ出すわ。
 
〔評〕 假廬の風情を詠んだものは、集中この外にも、
  はたすゝき尾花さかふき黒木もて造れる家はよろづ代までも  (卷八―1637)
  あきつ野《ヌ》の尾花刈りそへ秋はぎの花を葺かさね君が借廬に  (卷十―2292)  秋田刈る借廬のやどり匂ふまで咲ける秋萩見れどあかぬかも  (卷十―2100)
など少くない。いづれも所謂掘立小屋の類で、「尾花刈り葺き」の具象的描寫は、殊にその津々たる野趣を漂はしめる。貴族の方々にはこれが又、どんなにか珍しく面白い感興を催したことであらう。富貴な複雜な生活者は、反對に簡素の生活に興味をもつものである。かく一途に假廬の風情を注意深く囘想したことは、間接に當時の遊行の何時も記憶に蘇つてくる程面白くもゆかしくもあつたことを推想せしめる手段で、婉曲の味ひが永い。王はこの御代には多くとも十五六歳の芳紀に過ぎまいと思はれるのに、なか/\立派な老成の口吻である。歌壇の女王として活躍された未來は、既にこの歌に依つて卜せられるのである。御杖いふ、
  この女王、天智天武二帝の御思ひ人なれば、もしこの行幸の時、この二帝のうち御從駕せさせ給ひ、共に御やどりまし(51)て、この夜あひ初めましゝことを思ひ給へるにや。その折の忘られぬ由を詠みて、人は忘るゝやを試み給ひしか、又はつれなかりしを怨み給へるなるべし。行幸の御供にて、さるたはれたる事あるまじきことなれば、憚りて倒語し給ひしにこそ。又は餘人にや、定かに知られぬは倒語の故ぞかし。
この説は一寸面白いが、只進んで賛成し難いのは、この歌のうへだけではまだ/\その根據が薄弱で、空想に走り過ぎる嫌があるからである。
 
右檢(ルニ)2山(ノ)上(ノ)憶良(ノ)大夫(ノ)類聚歌林(ヲ)1曰(フ)、一書(ニ)戊申(ノ)年幸(セル)2比良(ノ)宮(ニ)1大御歌。但紀(ニ)曰(フ)、五年春正月己卯朔辛巳、天皇至(リマス)2自紀(ノ)温湯(ヨリ)1。三月戊寅天皇幸(シテ)2吉野(ノ)宮(ニ)1而|肆宴《トヨノアカリキコシメス》焉。庚辰(ノ)日天皇幸(ス)2近江之|平《ヒラノ》浦(ニ)1。
 
 この左注の一書にある「戊申」は孝徳天皇の大化四年で、「紀曰五年」とあるは齊明天皇の五年である。いづれにしても、皇極天皇の御代より後に當るから、注は誤である。且、紀の近江の平浦への行幸は三月だから、歌に「金野乃」とあるにも出會はない。これも紀の脱漏か。
 
後崗本宮御宇天皇代《のちのをかもとのみやにあめのしたしろしめししすめらみことのみよ》
 
この御代は皇極天皇の重祚の御時で、即ち齊明天皇と謚號のあつた御代のこと。○後崗本宮 舒明天皇の舊によつて崗本宮に都されたので、「後」の字を冠らせて別つた。齊明紀の二年に「是歳於(テ)2飛鳥(ノ)岡本(ニ)1更(ニ)定(メ)2宮地(ヲ)1云々、遂(ニ)起(シ)2宮室(ヲ)1天皇乃(チ)遷(リタマフ)、號(ケテ)曰(フ)2後(ノ)飛鳥(ノ)岡本(ノ)宮(ト)1」見えた。岡本宮のことは既出(一八頁)。
 
(52)額田王《ぬかたのおほきみの》歌
 
※[就/火]田津爾《にぎたづに》 船乘世武登《ふなのりせむと》 月待者《つきまてば》 潮毛可奈比沼《しほもかなひぬ》 今者許藝乞菜《いまはこぎいでな》   8
 
〔釋〕 ○にぎたづに ※[就/火]田津は伊豫温泉郡|三津濱《ミツハマ》の舊名で、おなじ灣内も北寄りの古三津《フルミツ》と稱する處といふ。「※[就/火]」は熟の字とおなじい。齊明紀に「伊豫國云々、熟田津、此(ニ)云(フ)2爾枳陀豆《ニギタヅト》1」とある。「枳」の音濁つて讀む。「に」はにて〔二字傍点〕の意。これを「へ」の意に解した古今諸家の説は不當。○ふなのりせむと 「ふなのり」は船に乘ることを體言にしてい(53)つたのである。「せむと」は爲《セ》むとての意。とて〔二字傍点〕を「と」といふは古格。○潮もかなひぬ 「かなひぬ」は應ひぬ、適ひぬの意で、船出すべきよき潮合になつたのをいふ。「も」は含める意の助辭ゆゑ、月の出を主として、潮を副へていつたもの。○こぎいでな 漕き出でむの意。「な」はむ〔傍点〕の古格。上の「きかな」(一一頁)を見よ。「許藝乞菜」は舊訓にコギコナ〔四字傍線〕とあるが心得がたい。「乞」を※[氏/一]〔右△〕又は天〔右△〕又は手〔右△〕の誤としてコギテナ〔四字傍線〕と訓む由中道麿、宣長、御杖等の説もいかゞ。「乞はイデ〔二字傍点〕といふ挿頭《カザシ》に常に用ゐられたる字なれば、出《イデ》の假名にや」とある御杖の一説がよい。「藝」をギの音にあてることは、本音は魚祭《ギヨセイ》又|擬袂《ギベイ》の反だから、その頭音の轉用である。「菜」は借字。
【歌意】 この曉こそ月の出るのを待つて乘船しようと、熟田津の濱邊に月を待つてをれば、恰もよし、月のみならず潮廻りさへも具合が好い、今は猶豫なしに漕ぎ出さうね。
 
〔評〕 この女王は中大兄(ノ)皇子(天智天皇)の妾であらせられたので、共に齊明天皇の親征に從つて伊豫にも往かれたのであらう。齊明紀に、
  七年春正月丁酉朔壬寅、御船西(ニ)征(キ)、始(メテ)就(ク)2海路(ニ)1、甲辰御舶到(ル)2大伯《オホクノ》海(ニ)1(備前)、庚戌御船舶(ツ)2伊豫(ノ)熟田津(ノ)石湯《イハユノ》行宮(ニ)1。 (紀卷二十六) 
と見えて、韓地の亂を御鎭めの爲に、天皇御親ら筑紫に御親征の途次、(この熱田津即ち三津濱から奥へ這入つた道後温泉即ち石湯の行宮に御逗留あらせられ、熱田津出帆の時期を待機せられたのである。尚紀の文を按ずるに、七年の正月の六日に御船西征の途につき、同月の八日に備前の大伯の海に到り、同月十四日に伊豫の熟(54)田津の行宮に船は泊てられたのである。さてこの日から以降五十餘日の間は、紀に何の記載もなく、三月十三日に至つて始めて、
  庚申、御船還(リテ)至(リ)2娜《ナノ》大津(ニ)1、居(タマフ)2于磐瀬行宮(ニ)1。 (紀、卷二十六)
と見えてゐる。娜(ノ)大津は今の筑前の博多の津のことである。抑も伊豫を出離れては、關門海峽最寄りまで寄航の足溜りが殆ど無いのだから、餘程の準備と決心とを要する。軍事上の都合もどんなにか、その御進發を妨げたものだらう。隨つて少くともその、十四日から十日間位は石湯行宮に逗留なされる必要がある。
 然るに今や待ちに待つたその時は來た、月は美しく昇つた、潮の具合もすつかり注文通りだ、いざ錨を上げて艪聲勇ましく漕ぎ出さうといふ、この漸層的に律を打つた※[足+勇]躍的の調子には、歡喜に滿ちた朗かな旅情が生ま/\しく出てゐる。「今は」の一語は殊にこの突きつめた喜びの氣持を如實に表現してゐる。
 「月待てば」の月は夕月ではない。昔の航海に夜船は絶對不可能であるから、先づ曉起して支度を調へ早朝出帆の豫定であつたと見てよい。さればこの月は曉月であらねばならぬ。想ふに一月は下旬の廿五六日の頃であつたに違ひない。その「船乘せむ」とて月の出を待つ所以は、船支度に都合がよいからであらう。
 「潮もかなひぬ」は殊に大事な條件である。瀬戸内海は潮の干滿の差が非常に高い。三津濱あたりでは殆ど五六尺にも及ばうか。その際は潮流が頗る速く、而も潮先が※[螢の虫が糸]廻したりして、航路の順逆が顛倒する。されば征旅の實際に於いては潮が主で月は客であるのを、月を主として潮を輕く客位に置いて、表裏に扱つたことは、實務的觀念から遠ざかつて自然に傾倒する、風流な情懷を物語るものである。何となれば「潮もかなひぬ」といへば、月は既に東嶺に出でて在明の影を投げてゐることが暗示されてゐるからである。要するに景を抒べ興(55)を託し、風趣絶だ面白く、而も高渾な調子に終始してゐる。
  百しきのおほみや人の飽田津に船乘しけむ年の知らなく  (卷三―323)
は、疑もなくこの時の旅情を後人の追懷した作である。
 尚橘守部が初二句を「熟田津に向つて」の意に見、隨つてこの歌を備前の大伯に於いての作だと解して以來、それに同意する人々もあるが、紀の文を精讀さへすれば、その非なることは速に了承されるであらう。
 
右檢(ルニ)2山上(ノ)憶良(ノ)大夫(ノ)類聚歌林(ヲ)1、飛鳥(ノ)岡本(ノ)宮(ニ)御宇天皇(ノ)元年己丑、九年丁酉十二月己巳朔壬午、天皇大后幸(ス)2于伊豫(ノ)湯(ノ)宮(ニ)1、後(ノ)岡本(ノ)宮(ニ)馭宇(ス)天皇七年辛酉春正月丁酉朔壬寅、御船西(ニ)征(ク)、始(メテ)、就(ク)2于海路(ニ)1、庚戌、御船泊(ツ)2于伊豫(ノ)熟田津(ノ)石湯(ノ)行宮(ニ)1、天皇|御2覽《ミソナハシ》昔日(ノ)猶|存《ノコレル》之物(ヲ)1、當時《ソノトキ》忽(ニ)起(ス)2感愛之情《メデノコロヲ》1、所以(ニ)因(リテ)製(リ)2歌詠(ヲ)1爲(ニ)v之(ガ)哀傷(ム)也、即(チ)此(ノ)歌者天皇(ノ)御製焉、額田王(ノ)歌者別(ニ)有(リ)2四首1。
 
 右山上憶良大夫の類聚歌林を檢すると、飛鳥岡本宮にまし/\た舒明天皇の元年と九年とに、天皇皇后兩陛下が伊豫の湯宮に行幸あり、齊明天皇の七年正月壬寅に、天皇西征の爲出帆、庚戌に御船は伊豫の熟田津の石湯行宮に泊《ハ》て、そこで天皇は昔行幸のあつた時の遺物を御覽ぜられて、忽ち物めでの情を動かされ、因つて歌詠みして哀まれた、故にこの歌は天皇の御製である、額田王の歌はこれではなくて別に四首あるとの意。
 「飛鳥岡本宮」より「伊豫湯宮」までの三十五字は、舒明天皇の時の事で、「大后」とあるは、當時の皇后天豐財重日足姫、即ち今の齊明天皇の御事である。舒明天皇の御代に、百濟の福信が援兵を乞ひ奉つた事があるか(56)ら、紀にこそ見えぬが、その時百濟の爲に新羅征伐を思し立たれ、皇后と共に筑紫へ御發向の途次、この熟田津あたりを御通過なされたのであらう。然し二回の伊豫行幸はおぼつかない事で、伊豫風土記に「岡本天皇竝(ニ)皇后、二躯爲(リ)2一度1」ともある。又齊明天皇の筑紫御親征は、紀にたしかに載つてゐる。そこで齊明天皇は熟田津訪問が二回目となるので、先度夫帝(舒明天皇)と行幸の折の物が昔のまゝに遺つて居たのを見て、深く感傷に陷られたのである。
 石湯は延喜式に伊豫國温泉郡湯(ノ)神社と載つてゐる道後温泉のことで、熟田津からは一里餘も奥になる。それを熟田津に續けていふ所以は、古への熟田津は今よりは深く灣入してゐて、道後温泉との距離が現在よりは稍近かつた爲もあり、且人烟稀少な田舍だから、頗る大まかな呼方をされたものと見てよい。
 さてこの左註はこゝに入るべきものでない。註家は皆これを「熟田津」の歌の左註とのみ信じて、「天皇昔日猶存云々」以下の文意に疑義を挿んだりしてゐるが、實は錯簡で、歌と左註とが何の交渉もないのはその筈である。自分の所見ではこの左註は次の「莫囂圓隣之」の歌に屬すべきもので、その歌とその左註とが前後に誤寫された爲、遂に「熟田津」の歌の左註となつたものと考へる。なほ次の條に説かう。
 
幸《いでませる》2于|紀温泉《きのゆに》1之時、額田王《ぬかたのおほぎみの》作歌《よみませるうた》
 
天皇が紀伊の湯に行幸された時、額田王が詠まれた歌との意。○紀温泉 紀伊國西|牟婁《ムロ》郡の湯の崎温泉のこと。牟婁には温泉が多いが、湯の崎の湯は海に瀕した最も形勝の地で、有馬皇子の言に符合する。齊明紀に「三(57)年九月、有馬(ノ)皇子往(ク)2牟婁(ノ)温湯(ニ)1、僞《マネシテ》v療(ル)v病(ヲ)來(リテ)、讃(メテ)2國體勢《クニガタヲ》1曰(フ)、纔(ニ)觀(ルニ)2彼(ノ)地(ヲ)1病自(ラ)※[益+蜀]消《ノゾコリヌト》、天皇聞(シメシ)悦(ビ)、思2欲《オボス》往2觀《ミソナハサント》彼(ノ)地(ヲ)1、四年冬十月庚戌朔甲子、幸(ス)2紀(ノ)温湯(ニ)1」とある。この行幸に皇太子中大兄の供奉されたことも紀にあるから、額田王は皇太子の愛人として一行に加はつたものか。但この題詞は後述の如く、この歌の題詞とは認め難い。
 
莫囂圓隣之 大相土兄爪謁氣 吾瀬子之 射立爲兼 五可新何本      9
 
〔釋〕 この歌、仙覺律師が訓點した時に訓み殘した百五十二首のうちの一つで、古點にはユフヅキノアフギテトヒシ〔十二字傍線〕とある。
 初句、古本には「莫囂國隣之」、古葉略要集には、「奠器國隣之」とある。二句、古本には「大相云兄爪謁氣」、古葉略要には「大相土兄爪湯氣」、又一本には「大相七咒竭氣」とある。なほ、異本あることは、下の諸家の説中に就いて見るがよい。
 西山公釋にいふ「莫囂圓隣之の圓の字は、圖とある本に從ひてマガヅリノ〔五字傍線〕と訓むべく、義は曲釣《マガリヅリ》にて初月を喩へたる名なり。大相七兄爪謁氣の謁の字は靄の誤なるべく、靄氣の二字を雲の義訓としてオホヒナセソクモ〔八字傍線〕と訓む。覆莫爲雲の意なり。末句はイタタセリケムイツカシガモト〔十四字傍線〕と訓むべし」と。(契沖同説)
 荷田東滿はいふ「古本、古葉略要、一本等を合はせ考ふるに、莫囂國隣之は、神武紀に依るに今の大和の國を内つ國といへり。その内つ國をこゝには、囂《サヤギ》なき國と書けり。同紀に、「雖2邊土末清妖尚梗1而中洲之地無2風塵1」の十七字を、「トツクニハナホサヤゲリトイヘドモウチツクニハヤスラケシ」と訓めるを以て、さやぎなき國は大和なれば、其の隣とはこゝには紀伊をさせり。されば、初句はキノクニノ〔五字傍線〕と訓まる、二句は、七は古を(58)誤り、爪は※[氏/一]を誤り、謁は湯を誤れるなるべし。大相古兄※[氏/一]湯氣の七字、ヤマコエテユケ〔七字傍線〕と訓むべし」と。下句は、西山公釋の訓に從つてゐる。(眞淵同説)
 村田春海は東滿、眞淵の説を補つていふ「大相土の三字にて、ヤマ〔二字傍線〕と訓むべし。一本に兄を見に作りたるもあれば、爪を乍の誤として、大相土見乍湯氣にてヤマミツツユケ〔七字傍線〕と訓まむか」と。
 本居宣長はいふ「莫囂圓隣之はカマヤマノ〔五字傍線〕と訓むべし。莫囂をカマ〔二字傍線〕と訓む故は、古へに、人の物言ふを刺して、「あなかま」と言へること、多く見ゆ。されば、カマ〔二字傍線〕とばかりいひて、莫囂といふ意なり。國隣は、山は隣國との堺にあるものなれば、かくも訓むべし。大相は霜の字の誤、七は木の誤、爪は※[氏/一]の誤、謁は湯とある本に據りて、シモキエテユケ〔七字傍線〕と訓むべし。この幸は、十月にて十一月までも、彼の國に留り坐る趣なれば、霜の深くおく頃なり。吾背子は、天智天皇をさし奉る、この時皇太子にて供奉し給へる趣、紀に見えたり。射立爲兼は、イタタスガネ〔六字傍線〕と訓むべし。五可新何本は、即ち紀伊なる竈山《カマヤマ》神社の嚴橿之本なり。この女王も、皆太子に從ひ奉りて行き給へるにて、竈山に詣で給はむとする日の朝など、霜の深くおけるにつきて詠み給へるさまなり」と。
 田中道麻呂はいふ「莫囂圓隣之の之を爾の誤とし、姑く舊訓に據つてユフヅキニ〔五字傍線〕と訓むべし。その謂は、晝にくらぶれば夜は靜かなる意にて、莫囂と書けるなり。圓は滿月の形、その隣は夕月の意なり。二句は支太相古曾湯氣《キホヒコソユケ》とありしなるべし」と。
 荒木田久老はいふ「囂しきことなきは耳無《ミミナシ》なり。圓は山の形にて、倭世紀に「圓奈流《ツブラナル》有(リ)2小山1支《キ》、其所|乎《ヲ》都不良止《ツブラト》號(ケ)支《キ》」と見えたり。されば、莫囂圓は耳無山なり。耳無山に隣れるは香久山なれば、莫囂圓隣之にて、(59)カグヤマノ〔五字傍線〕と訓むべし。大相土は、續紀四の卷に、相《ミテ》v土(ヲ)建(ツ)2帝王之邑(ヲ)1とあるによるに、大に土を相るは國見なるべし。兄は一本无に作れば、爪謁の二字は靄の一字を誤れるものにて、无2靄氣1はさやけきなれば、二句はクニミサヤケミ〔七字傍線〕と訓むべきなり。四句は、本居氏が訓に從ひてイタタスガネ〔六字傍線〕と訓むべし。五句は、古字の一本に五可期何本とあれば、イツカアハナモ〔七字傍線〕と訓むべし」と。
 橘守部はいふ、「莫囂國《サヤギナキクニ》即ち大和の隣の大相《ヤマ》土〔左△〕は、紀伊の眞土《マツチ》山なれば、こゝまでをマツチヤマ〔五字傍線〕と訓む。兄爪△△謁氣をミツツコソユケ〔七字傍線〕と訓み、兄は見、△△は落字、謁は湯の誤とす」と。
 古義はいふ「古葉略要に莫器國隣之とある、國の字を舊本の圓とあるに從ひ改めて、ミモロノ〔四字傍線〕と訓むべし。ミモロ〔三字傍線〕は御室にて、神祇を安置し奉る室をいふ。さて、神の御室の近隣には、常に奠器を置きめぐらしてあれば、其の義もて、奠(ノ)器|圓《メグラス》v隣(ニ)と書きて、ミモロ〔三字傍線〕とは訓ませたるなるべし。或は、圓は圍の字の誤にてもあらむか。圍隣とある時はいよいよたしかなり。かくて、このミモロ〔三字傍線〕は三輪山のことなり。三輪山を三室山とすることは、集中にも古事記にも往々見えたり。末句の嚴橿が本も三輪山に縁あり。二三の句は春海の訓に從ふべし。四句はイタタシケム〔六字傍線〕と訓むべし」と。
 この外異訓が盛に製造されてゐるが、畢竟無用の辯である。前掲の説中では、比較的久老の説が優つてゐるやうである。その「圓」を山と訓んだのを、「山の形は悉く圓ならんや、倭世紀の圓奈流《ツブラナル》小山といへるは、尋常なる山の形と異りて圓形なればこそ、しか斷りたれ」と古義は難じたが、耳無山は特に圓い形の山だから異議には及ぶまい。元來この卷には眞の戲書と目すべき書式は一首も無いのだから、諸家の初句の訓も、皆根本的に見方が間違つてゐるかも知れない。まして二句は全く句讀すべからざるものを、強ひて訓まうとした爲煩瑣(60)に堪へない。されば諸説を彼此參酌して、假にかうも訓まうか。
  香久山の國見さやけみあが背子《セコ》がい立たせりけむ嚴橿《イツカシ》がもと
 處がこの假定の訓を更に覆さねばならぬ理由が生じた。それは外でもない、上の熟田津の歌の左註は錯簡で、實はこの歌の左註なのである。「吾がせこがい立たせりけむ嚴橿がもと」は、いかにも懷舊意識が著しいから、註の「昔日猶存之物云々」によく當てはまり、而も齊明天皇御製として事情もふさはしい。紀の温泉行幸では有馬皇子の外は誰も初見の筈だから、懷舊の情を動かすべき理由がない。されば「幸于紀温泉之時額田王作歌」といふ題詞は全然削るべく、すると「紀の國の山越えてゆけ」の、「香久山の國見さやけみ」のと訓んでは、熟田津の石湯即ち道後温泉行幸の時の作にはならないから、從へない。只初二句において下句の意を活かすに足る適當の訓方があればよいのである。但自分には今それを穿鑿する勇氣がない。
 
○歌意及び評は、訓がかく確定的のものでないから略く。
 
中皇命《なかちひめみこの》往2于紀伊温泉《きのゆにいでませる》1之時御歌《ときのみうた》
 
中皇女が紀伊國の牟婁《ムロノ》温泉に往かれた時の御歌との意。中皇女の紀伊温泉行は何時の事やら不明である。題詞の意によれば單獨の御旅行であるらしいが、歌には「君が代」をかけ、殊に「吾勢子」を稱へてゐる。目上の同行者のあつた(61)ことは推察に難くない。すると齊明天皇の四年の行幸の際の作と見たい。或は題詞がもとは幸于紀温泉之時〔七字右○〕中皇女御作歌とあつたのはあるまいか。○中皇女は(二七頁)に、紀温泉は(五六頁)に既出。
  
君之齒母《きみがよも》 吾代毛所知哉《あがよもしれや》 磐代乃《いはしろの》 岡之草根乎《をかのくさねを》 去來結手名《いざむすびてな》    10
 
〔釋〕 ○きみがよも 「よ」は齡《ヨハヒ》の意。故に「齒」の字を用ゐた。齒に齡の義がある。○しれや 「しれ」は領《シ》るの命令格。「や」は歎辭。高田與清はシルヤ〔三字傍線〕と訓んだ。宣長はいふ「哉は武〔右△〕の誤にて、シラム〔三字傍線〕なるべくや」と。然し元のまゝで聞えてゐる。○いはしろ 紀伊國日高郡。東西磐代に分つ。濱や野や岡などある。○くさね、「ね」(根)は熟して添うたまでゝ意は輕い。月とのみいふべき所を月夜といふに同じい。「草」はクサと訓む。カヤ〔二字傍線〕と訓むはわるい。次の歌を參照。○いざむすびてな 「いざ」は誘ふ意の副詞。率なふのイザ〔二字傍点〕に同(62)じい。「てな」はてむ〔二字傍点〕といふに同じい。この「な」の解は「きかな」の項に既出(一一頁)。「去來」をイザと訓むは意訓。
【歌意】 君の御齡も、ついでに私の齡も、幾久しくとどうか守つてくれよ。ではこの磐代の岡の草を、どりや結びませうわ。
 
〔評〕 「君」とは誰れをさしたものか。齊明天皇の御代には、作者中皇女(間人皇后)は既に背の君孝徳天皇におくれ奉つて寡居して居られた。故にこの度の紀温泉行には、兄君なる皇太子中大兄と共に母帝に供奉されたものとすると、「君」は母帝を斥し奉つたことゝなり、次の歌にある「吾が背子」は御兄中大兄をお斥し申したことになる。
 磐代の岡は西磐代にあり、熊野路の交通路に當つた海沿ひの長い岡である。磐代の地名の縁由する磐石堆は少し離れた東岩代にある。かくて作者は、岩代の地名とそこの磐石堆の現状とを見聞して、まづ母帝の御齡長久咒願を懸けられた序に、一寸吾が齡も打添へて、この岡の草根を結ばうとの希望と拜察される。もとより作者御自身はまだ三十を一つ越したばかりの女盛りであらせられるが、母帝の寶算は六十五、既に頽齡にあらせられる。子としては何はさし置いても、その延命の法を講じ(63)たいは人情で、「知れや」と草結びの咒術行爲に嚴命したその情願の切なさに、いひ知らぬ御親子愛のあはれさが籠つてゐる。線のやはらかな趣をもつた歌である。    △物結びの咒術に就いて(雜考―4參照)
 
吾勢子波《あがせこは》 借廬作良須《かりほつくらす》 草無者《かやなくば》 小松下乃《こまつがしたの》 草乎苅核《くさをからさね》        11
 
〔釋〕 ○せ 「勢」は借字。○かりほつくらす 假廬をお造りなさる。「つくらす」は「菜摘ます」(一○頁)と同じ語法で、敬意又は親愛の意をあらはす。「借」は假の借字。○かや 「草」の字、屋根に葺く料としてはカヤと訓むがよい。○こまつ 萬葉人のいふ小松は可成り生長した若松にまで及んでゐる。卷十に「子松がうれゆ沫雪流る」ともある。○した 元暦本の朱書の訓に從ふ。元暦本の訓はモト〔二字傍線〕。○くさを この「草」はカヤ〔二字傍線〕と訓んでは面白くない(宜長説)。○からさね 刈りなさいな。上の「名のらさね」を參照(一一頁)。「核」は借字。
【歌意】 わが兄君は假廬をお作りになるわ。若し屋根の茅がないなら、あの小松の蔭の草をお刈りなさいませ。
 
〔評〕 齊明天皇の御代には中大兄皇子が太子で、しかも監國であつた。この紀伊行幸にあたつても、皇子が行宮造營から始めて萬事をお指圖なされたことは勿論であらねばならぬ。これが「吾背子は假廬つくらす」所以である。作者は固より婦人の事とて、それ等の※[公/心]劇を餘所に、小松まじりに薄尾花の靡くを入興して居られたが、聯想は端なく工事中の假廬の屋茅に及び、「かやなくば」の一波瀾を平地に起して、小松が下の草をば推擧された。「刈らさね」とはいつても、それは決して事務的要求ではなく、只茅野の風光に陶醉した餘の發語である。
(64)  あきつ野の尾花刈りそへ秋萩の花をふかさね君が借廬に  (卷十―2292)
とあるのも、これとその逸興を同じうするものである。
 
吾欲之《あがほりし》 野島波見世追《ぬじまはみせつ》 底深伎《そこふかき》 阿胡根能浦乃《あこねのうらの》 珠曾不拾《たまぞひりはぬ》     12
   或頭(ニ)云(フ)、我欲子島羽見遠《あがほりしこじまはみしを》
 
〔釋〕 ○ほりし 見まく〔三字右○〕ほりしの略。見たく思つた。○ぬじま 記載の順序のまゝに推すと、淡路の野島ではない。紀伊國日高郡鹽屋浦の南に野島の里がある、御坊町から南へ二里ほどの地で、島は今ない。淡路の野島に島がないのと同樣の地理的變化によるものと思ふ。○みせつ 兄皇子〔三字右○〕が見せた。正辭は、「世」に、シの音あり、「追」は遠〔右△〕の誤にて、ミシヲ〔三字傍線〕ならむといつた。○あこねのうら 西牟婁郡|粉白《コシロ》町の西の玉の浦の一名ともいふ。序にいふ、「あこ」は頤と同義で、崖地や陸地の斗出した處の稱であらう。阿胡《アコ》の海、英虞《アコ》の浦の名義もこれに由ると思ふ。「ね」はそこの岩礁をいふか。薩摩の阿久根もこれと同語らしい。山形の阿古屋も屋は叢澤の義の谷で、崖麓の濕地の稱である。○たま 眞珠のこと。石の透明なもの、或は光澤あるものをも稱するが、こゝには不當。○ひりはぬ 古義の訓に從つた。舊訓ヒロハヌ〔四字傍線〕。「ひりふ」はひろふの古言で、集中に屡ば見える。但ひろふ〔三字傍点〕と詠んだ歌が東歌に一首あるが、本文の歌は時代が古いから、やはり古言がふさはしからう。○或頭云々 「頭」は頭句の意で一二の句を指したもの。子島の所在は明かでない。
【歌意】 かねて私が見たく思つた野島を、兄君は見せてくれました。があの深淵の阿胡根の浦の珠はまだ手にし(65)ませんわ。
 
〔評〕 この歌には對象の人物がゐる。初二句はそれに向つて感謝滿足の意を表し、三句以下は更に欲求の不滿を表した。隴を得て蜀、人欲には限はないが、これは自然愛好の事柄だけに、欲求が強ければ強いほど、餘計に作者の優しいみやびな心持が強調されて面白い。「珠ぞ拾はぬ」はその好風光に接せぬことを、婉曲に表現したのである。すべて甘えたやうな我儘のやうな、情愛の籠つたこの口振は、よほど親密な間柄の人でなければいひ出せない。さればこれも上の歌と同時の詠で、對象人物は御兄中大兄と見てまづ間違ひはなからう。遊覽の作として佳品に屬する。
 野島は平凡な海村で形勝の取るべきものがない。「あがほりし」と見たがつたのが不審である。いや話や噂に聞いたのでは、飛んだ間違ひや思違ひがある。見ては幻滅の感に打たれたので、更に阿胡根の浦の珠を要求したのではあるまいか。第三句「底ふかき」は、いはゆる「深淵の珠」の語から來てゐる。底清き〔三字傍線〕の意をわざといひ換へたのではない。支那でいふ珠は海南に産する眞珠即ち鮑玉で、鮫人の涙が殊になるといひ、合浦に産し日南に生ずるといつた。今も場所が紀州の南海であるので、すぐにかの典故を踏んで「珠ぞ拾はぬ」と歌つたのである。而もこれは既定の事實で、
  木の國の濱に寄るといふ、鰒珠拾はむといひて、云々。 (卷十三―3318)
ともある。されば記録者もこの意を體して、わざと「珠」の字を書いて、「玉」の字を書かない。珠は水に産す(66)るのをいひ、玉は山に産するのを稱する語である。茲に至つて作者が漢文に相當知識をもつてゐたことが窺はれ、又以て當時の漢文學流布の状態の一端をも瞥見することが出來て面白い。
 
右檢(スルニ)2山上(ノ)憶良(ノ)大夫(ノ)類聚歌林(ヲ)1曰(ク)天皇(ノ)御製(ト)、云々。
 
 この左註によれば、この歌は齊明天皇の御製とする傳があつたものと思はれる。然し「右」といふのはおもに上の一首を斥す例ではあるが、前三首悉くを指すものと見られぬでもない。この點分明を缺く。
 
中大兄三山御〔左△〕歌《なかちおほえのみつやまのみうた》
 
○中大兄 天智天皇の皇子時代の敬稱。實の御名は葛城《カツラギノ》皇子である。舒明天皇の御子で、古人《フルヒトノ》皇子の弟、大海人《オホアマノ》皇子の兄である。第二皇子たる故に中と稱した。なほ「中《ナカチ》皇命」を參照(二七頁)。紀の私記に、昔稱(ヘテ)2皇子(ヲ)1爲2大兄《オホエト》1、又稱(ヘテ)2近臣(ヲ)1爲2少兄《スクナエト》1也とあり、大兄は大禰《オホネ》、少兄は宿禰《スクネ》と轉じいふ。古義は既に大兄といはゞ皇子、あるは尊の稱號を用ゐるべきにあらず、却りて中大兄皇子など紀に見えたるがあるは疑ふべしといつた。原本、中大兄の下、「近江宮御宇天皇」の七字が註されてゐる。〇三山 大和國の香山《カグヤマ》、畝火山、耳無山をさす。この三山は大和平原の南部において鼎足の勢を成し、その三角形の一點を耳無とすれば、右の角が香山、左の角が畝火である。山形は耳無は小高い圓巒で八方無碍、畝傍は西北から香山は西方から見ると、ほほ耳無に似て丸い。○御歌 原本「御」の字がない。補つた。
(67)この端詞は「三山御歌」とあるが、三山を現に御覽になつて詠まれたのではない。反歌に「立ちて見に來しいなみ國原」とあるによれば、播磨で詠まれたものと思はれる。三山相闘ふ原因は御歌のうちに盡されてゐる。
 
高山波《かぐやまは》 雪根火雄男志等《うねびををしと》 耳無與《みみなしと》 相諍競伎《あひあらそひき》 神代從《かみよより》 如此爾有良之《かくなるらし》 古昔母《いにしへも》 然爾有許曾《しかなれこそ》 虚蝉毛《うつせみも》 嬬乎相格良思吉《つまをあらそふらしき》    13
 
〔釋〕 ○かぐやま また香山とも書く。「高」「香」の二字は借字で、カグ〔二字傍線〕の音を表した。「香」の本音はKang(カング)であるから、これを中略して充てたのは理由あることであるが、「高」は六豪の韻でKao(カオ)であるからカグの音になる由もなく思はれるが、美夫君志にいふ如く、カガ(68)ミに高見〔二字傍点〕と書いた例が書紀に見えるので、古音ではカガ又はカグとなる理由かあつたものと思はれる。大和の國中で高い山であるからと云つた御杖の説は誤つてゐる。「香」の下には、時に具〔右△〕又は來〔右△〕の字を更に添へても書く。かゝる添字は萬葉書式中の一形式で、他にも例は多い。故に香山を香具山の中略とする説も誤である。尚「あめのかぐやま」を參照(二一頁)。○うねび 畝傍山。また畝火とも書く。高市郡白橿村の中央に突起し、八木町の南に當る。山の高さ一九九米突餘。神武天皇の橿原の宮址はこの東南麓らしい。今はそこに地を相して橿原神宮を建ててある。○うねびを 畝傍山をば〔右△〕の意。○をしと 愛《ヲ》しとての意。「をし」は古言ヱシ〔二字傍点〕の相通で、愛すること。然し古義に「男志」の男を曳〔右△〕の誤としてヱシ〔二字傍線〕と訓んだのは專斷である。○みみなし 耳無山。磯城郡(もと十市部)耳成《ミヽナシ》村にある。平野の間に突起した圓巒で、八木町の東北、香山の北に位する。高さ一三九米突強。西麓に耳無の池がある。大和志に「山中梔樹多(シ)矣、因(ツテ)呼(ブ)2梔子《クチナシ》山(ト)1」とある。○あひあらそひき 相闘爭した。僻案抄の訓アヒタタカ(69)ヒキ〔七字傍線〕も惡くはない。「諍競」は競爭と同意、「諍」は爭〔傍点〕に通ずる。畝火は古事記に、「畝火山之|美富登《ミホト》」、延喜式に「畝傍(ノ)西南(ノ)美富登之埃《エノ》宮(ノ)陵」など見えて、山の凹所を女陰即ち美富登に擬へて、古くから女山と傳へたらしい。隨つて畝火を獲ようと相爭ふ香具山と耳無山とは、共に男山でなければならぬ。古來の註者は畝火山を男山、香山と耳無とを女山として、「畝火ををしと」を畝火雄々しとの意に見て、男山の畝火山をば女山の香山と耳無とが獲ようとして互に爭ふ趣に釋いたが、木下幸文が始めてその誤を發見し、亮々《サヤ/\》草紙に畝火の女山なることを論じ、香川景樹、谷眞潮またこの説を稱へてゐる。ホトは秀處の義で男女陰相通の語といふ説もあるが、この歌では尚女山と見たい。○かみよより 神代よりの意で、必ず人の世に對していふ。こゝの神代は、播磨風土記に記された故事のあつた時を指すのである。○いにしへもしかなれこそ 古へも然なれば〔右○〕こそ。上代文法には動詞の已然形の接續にば〔右○〕の助詞のない場合がある。「歎きつゝ丈夫《マスラヲノコ》の戀ふれこそ」(卷二)、「思へかも胸安からず、戀ふれかも心の痛き」(卷六)など、集中にその例が多い。○うつせみも 現在の身(70)もの意。こゝは弘くかけての詞だから、現在の人の〔二字右○〕身もと譯するのが當る。「うつせみ」は現《ウツ》し身の轉語で、「虚蝉」又は「空蝉」と書くのは、同音の響と、脆いといふ觀念の類似とから來た借字。「も」は妻爭をした古代の三山に對していふ。○つま 「嬬」の字は、妻又は下妻《ソバメ》の義。○あらそふらしき 爭ふのらしい。舊訓のアヒウツラシキ〔七字傍線〕は「相格」の字に拘泥したもので、爭ふと義訓に訓むがよい。「こそ」の係を「らしき」と二段の結詞で應じたのは上古文に多い例で、決して誤格ではない。仁徳紀の皇后の御歌「衣こそ二重もよき」、天智紀の童謠「鮎こそは島邊も吉《エ》き」などの外、この集中にも「おのが妻こそ常《トコ》めづらしき」(卷五)など散見してゐる。
【歌意】 香具山(男)は、あの畝火山(女)をかはゆいと思つて、耳梨山(男)と奪ひ合うたことであつた。神代から、女故にはさうしたものだつたらしい。昔だつてさうであつたればこそ、今の世の人々もやはり妻爭をするものらしい。
 
〔評〕 この歌は、本文に「後岡本宮御宇」(齊明天皇)の標下に收められてゐるので見ると、齊明天皇御治世の間の皇太子中大兄の御作と見るが當然であらう。この御代に(71)播磨方面へ行幸啓のあつた事は紀に見えないが、この歌に據れば、中大兄の播磨行啓は事實で、恐らく紀の方の脱漏だらう。印南郡の加古《カコ》川から一里ばかりの西に神爪《カツメ》(古くは神詰)といふ處があり、出雲の阿菩《アホノ》大神が迹を留められた傳説地となつてゐる。中大兄はこの邊に行啓せられ、阿菩大神の垂迹の來由から溯つて、大和三山妻爭ひの傳説を、土地の故老などから御聽取になり、どうして無關心であり得よう。といふのは、その御胸中を常に往來して御煩悶の種子を蒔いてゐる或事件に、料らずそれが偶合して、大きな衝動を與へたからである。その或事件とは何か、それは外でもない、當時額田女王を中心として中大兄、大海人の御兄弟が、三角關係にあられた事である。二雄山が一雌山を爭つたといふ故事は、全く中大兄御自身の現境と符合する。そこで「神代よりかくなるらし」「古へも然なれこそ」と反覆して、かうした醜い關係でも、なほ一往の道理があるやうに、自己に有利に解釋し囘護しようとあせられた御努力は、如何に自責の念に悩まされ給うたかを思はせる。「うつせみも嬬をあらそふらしき」は何たる餘所々々しい口調であらう。只一般世人の妻爭を傍觀的に歌つたもののやうな態度である。然し實はこれを御自身の事としては發表に苦むほど、深い悔恨と慙愧とに打たれて居られたのであらう。齊明天皇の御治世は、中大兄の三十歳から三十六歳に亙る七年間で、漸く分別のつくべき御年配であらせられたことを思ふと、切々たる哀音の遠長く搖曳する心地がする。
 この歌前段は故事を叙し、後段は現在のわが境遇を比興した感懷を抒べてゐる。古今の對照、區劃が極めて判然として、映對に頗る妙味をもつ。
 だが全體から見ると、まことに無造作な卒直な叙述で、修辭上の粉飾が少なく、簡淨この上もない。殊に異樣に感ずるのは、長歌製作上の常套手段たる枕詞の使用を全然忘れてゐる事である。それは感情が昂奮し過ぎ(72)て餘裕がないせゐだといへようが、元來帝王の尊貴にあらせられる御氣象と專門歌人であらせられぬ點と時代のもつ傾向とが、大に與かつてゐると思ふ。上の舒明天皇の御製でも下の天武天皇の御製でも、長歌となるとほゞ共通した一致點がそこに見出せる。それは餘り飾り立てず一本調子に堂々と屬吐し、帝王の氣象が颯爽としてゐる事である。
 なほ中大兄、大海人御兄弟、對額田女王の關係は、上の額田王傳、及び、下の「茜さす紫野ゆき云々」の歌の條などを參看ありたい。かうした御境地と御感慨とによつて考へると、御兄弟仲の疎隔した事情も察せられ、かの不祥事壬申の亂の遠因の潜む處も自ら頷かれるのである。
 
反歌
 
高山與《かぐやまと》 耳梨山與《みみなしやまと》 相之時《あひしとき》 立見爾來之《たちてみにこし》 伊奈美國波良《いなみくにばら》         14
 
〔釋〕 ○あひしとき 闘つた時。「あひ」は立合ふなどいふ意のあふ〔二字傍点〕である。紀(卷九)に「いざ遇《ア》はなわれは」とある遇はな〔三字傍点〕も同意。古く婚合をもアフ〔二字傍点〕といつたのに據つて、こゝもその義に解するのは惡い。「相」は借字。○たちてみにこし 阿菩大神が出雲の國を立つて、大和三山の闘爭を扱はうとして來たの意。「見」は世話燒くこと、扱ふこと。眼で見ることではない。○いなみくにばら 印南國の國原。印南は伊奈毘《イナビ》ともいつて播磨の郡名。それを國といひ續けたのは、初瀬國、難波國、吉野國の類である。「くにばら」は既出(二二頁)。
 仙覺の註に、播磨風土記を引いて「揖保《イヒホ》郡|神阜《カミヲカ》、出雲國阿菩(ノ)大神、聞(シメシテ)2大和(ノ)國(ノ)畝火香山耳梨(ノ)三山(ノ)相闘(フヲ)1、此(ニ)欲(リシ)2(73)諫止(メンコトヲ)1上來(リマス)時、到(リ)2於此處(ニ)1乃(チ)聞(キ)2闘(ノ)止(ルヲ)1、覆(ヒテ)2其所v乘(ル)之船(ヲ)1而坐(シキ)v之(ニ)、故(レ)號(ク)2神阜(ト)1、阜(ノ)形似(タリ)v覆(スニ)v船(ヲ)」とある。この神阜は今の印南郡|神爪《カヅメ》の北岡のこととなつてゐる。突起が三つあつて一寸畸形の觀を成してゐる丘陵である。一説には神爪の少し西に當る生石《イクイシ》神社(石の寶殿)の山がそれかともいふ。
【歌意】 畝火の女山を得ようとして、男山である耳梨山、香山が相闘つた時に、阿菩大神がわざ/\出雲の國を立つて、扱ひにいらつしやつたが、既にその爭の止んだと聞いて、お留りになつた印南の國原は即ち此處であるわ。
 
〔評〕 この歌、表面は印南野に於ける懷古の御作である。「印南國原」といひ捨てた調子は懷古の外に他意ないやうであるが、然し阿菩大神の出自を考へると、なほ暗に寓意の存することが察せられるであらう。即ち三山の妻爭には、阿菩大神といふ立派な調停者が出現した。然るに御自身の兄弟仲の妻爭には、今にその調停者が出ない。「仲裁は時の氏神」といふ諺の如く、當世向の阿菩大神の出現を期待し翹望して居られるお心持が、言外に動いて見える。この反歌を長歌と連絡させて味つてみると、悔恨のお心持が全幅を覆うてゐるやう(74)に思はれるのである。
 さてこの歌は主語が缺けてゐるので、一寸明瞭を缺く憾が無いでもない。二三句の間に阿菩大神の〔五字右○〕といふ語を補つて解すべきである。又木下幸文は、長歌もこの反歌も、大和國で三山を望み見てお詠みになつたものだと論じた。然し反歌の「いなみ國ばら」といひ捨てた調は、これがその印南國原なのだ!との強い感銘を吐露したものであつて、實際その場所にあつての作でなければ妥當でない。
 更に又この歌調を按ずるに、初句から三句までその語意が連絡して、初、二、三を合して一句を構成してゐる。故に五七を以て斷節とする古調には逆らつて、五七五と延びたのは、夙くも胚胎してゐた七五の調に追從したものといふべきである。次の「渡つみの」の歌も同調である。奈良朝以前に既にこの調のあつたことを思へば、この集中に七五調に流れたものが多く散見するのも、決して偶然ではない。まづ奈良時代は五七、七五、兩調の過渡期と見て差支あるまい。平安朝に至つては全く七五調となり切つてしまつてゐるのに、尚往々にして五七の調を存してゐるものがあるのは、五七の調に制限された詩形を執る慣習に押されたまでゝある。
 
    ○
 
渡津海乃《わたつみの》 豐旗雲爾《とよはたぐもに》 伊理此沙之《いりひさし》 今夜乃月夜《こよひのつくよ》 清明己曾《あきらけくこそ》    15
 
〔評〕 ○わたつみ 海のこと。もと海神の名で山祇《ヤマツミ》に對する稱。渡《ワタ》つ靈《ビ》の義。「み」は靈《ビ》の轉語。○とよはたぐも 「とよ」は美稱で、大きくゆたかなる貌をいふ。「はたぐも」は長く横に引いた雲の稱。「はた」は長く巾ある(75)物にいふ。旗、鰭、機などみな同義。○いりひさし 入日の光が射し。夕燒のさまをいふ。「さし」の中止を、新考にさしぬ〔三字傍点〕とあるべき處をかくいふは古格なりとて、古今集の「狩りくらし〔五字傍点〕棚機つ女《メ》に宿からむ」(※[羈の馬が奇]旅)を例に引いたのは宜しい。下への接續上、この句の下にかくては〔四字右○〕などの詞を補うて聞く。○つくよ 月のこと。「夜」は輕く添へて使ふ例が多い。○あきらけくこそ 舊訓スミアカクコソは直譯的で古語のやうでもない。古義に「明」を照〔右△〕の誤寫としてキヨクテリコソ〔七字傍線〕と訓んだのは我儘である。今は考の訓に據つた。「こそ」は三段の係辭。依つて下にあらめ〔三字右○〕の語を略いたものとする。願望の辭とする説は取らない。(評語參照)
【歌意】 大海のおほ横雲に入日がさしたわい。この夕燒では今夜の月は正にいゝ光でサあらう。
 
〔評〕 左註にいふ如く、この歌は三山歌の反歌ではない。二首以上反歌がある時は、題詞に何首〔二字傍点〕と記すのがこの集の書式である。然るに「三山歌」とのみあつて何首とも記してないから、反歌は「高山と」の一首だけと見てよい。すると、この歌には別に詞書のあつたのが脱ちたものと思はれる。隨つて作者も詠作の場處も不明である。のみならず歌意にも異説があつて、上句を海邊で入日の曇つたのに對した趣と見、
  かくては今宵の月もさやかならじを、いかでかの入日の快く照りて雲も晴れ、今宵の月のさやかにあれかし。 (燈、古義、野雁新考、美夫君志)
と要求したのだとする説も多い。
 然し「豐旗雲に入日さし」は飽くまで晴れた日の日没にのみ見得る實景である。その海晩の景象が非常に力強く實際に喰ひ入つて叙されて居り、一誦極めて鮮明にその景觀を讀者の胸裏に映寫させるところ、決して想(76)像から抽出した叙述ではない。かく現實感の強さを考察してゆくと、下句は上句の事實に立脚した單なる想像で、希望にはならぬことになる。
 「夕燒は天氣」とは昔もいひならはした事であらう。着想においては何等の特色もないが、格調堂々雄風四邊を拂ふ概があり、まさに王者の氣象が漲つてゐる。中大兄(天智)の御屬吐としてなら誠にふさはしい。或は三山歌と同時に、印南の海邊においての御詠懷と見ることが、寧ろ當つてゐるかも知れない。
 
右一首(ノ)歌今案(フルニ)不(ル)v似2反歌(ニ)1也。但舊本以(テ)2此歌(ヲ)1載(ス)2於反歌(ニ)1、故(レ)今猶載(スル)v此(ニ)歟。亦紀(ニ)曰(フ)、天豐財重日足姫《アメトヨタカライカシヒタラシヒメ》天皇先四年乙巳、立(テヽ)2爲〔□で圍む〕天皇(ヲ)1爲(ス)2皇太子(ト)1。
 
 右の「渡津海乃」の歌は反歌のやうでない、但舊本が反歌として載せてあるから、今もやはり茲に載せておくかとの意。「紀曰」以下、「重日足姫天皇」は皇極齊明天皇の御こと。この帝は重祚なされたので、「先四年」とは皇極と申した前期の御在位の四年といふこと。「立天皇」の天皇は天智天皇即ち中大兄の御こと。
 
近江(の)大津宮御宇《おほつのみやにあめのしたしろしめしゝ》天皇代  天命開別《アメミコトヒラカスワケノ》天皇
 
天智天皇の御代とのこと。天皇は孝徳天皇即位の時より御母齊明天皇の御代を通じて、皇太子であらせられ、母帝崩後即位、御在位十年にして大津宮に崩御あらせられた。なほ「中大兄」の項を參照(六六頁)。○大津宮 近江滋賀郡南|滋賀《シガ》の地で、崇福《スフク》寺(志賀寺のこと)舊址より東南十町の臺地に、その推定舊址がある。桓武天皇、(77)の代に宮址に就いて梵釋寺が建てられ、平安末期に及んでこれも廢寺となつた。出土物に確かな大津朝時代の物がない。その正東に當る淡水《アフミ》の海(琵琶湖)の湖畔、唐崎より起つて南方に一入灣を成した地點が、當時のいはゆる大津で、宮號にも負せられたもである。「近江大津」は委しくは近江の狹々浪《サヽナミ》の滋賀《シガ》の大津といふべきであるが、略しては樣々にいつてゐる。「大津」は官船の發着する渡津をいふ。大は美稱、津は船の發著處。天智紀に、その六年三月朔近江に遷都すとあつて、約五年間の帝都である。今の大津市は平安京以後この大津の稱を移して呼んだものである。○天命開別天皇 大智の御稱へ名。
 
天皇詔(らして)2内(の)大臣《おほおみ》藤原(の)朝臣〔二字左△〕《あそみに》1競2憐《あらそはしめたまへる》春山(の)萬花之艶《はなのいろ》、秋山(の)千葉之彩《もみぢのにほひを》1時、額田王《ぬかたのおほぎみ》以(て)v歌(を)判《ことはれる》v之|歌《そのうた》
 
天智帝が内大臣藤原(ノ)朝臣鎌足に詔して群臣を集め、春山の花と秋山の紅葉との優劣論を闘はしめられた時、額田(78)王が歌で優劣を判じたその歌との意。守部は天皇が藤原朝臣と春花秋葉の優劣を爭はれた意であると主張した。天子の宣言を大事には詔といふのだから、弘く群臣に仰せられたものと見るが至當であらう。○内大臣 後世のとは違つて地位が高く、殆ど後世の攝關にひとしい。鎌足は孝徳帝の御即位の年に既に内臣《ウチノオミ》となつた。天智天皇八年その臨終に當り、内大臣《ウチツオホオミ》に任ぜられ藤原の氏と朝臣の姓とを賜はつた。こゝは無論それより以前の事だから、内(ノ)臣中臣(ノ)連《ムラジ》と書くべきだが、後の記録者が、その極官なり賜姓なりを溯らせてかく記したもの。○藤原(ノ)朝臣 藤原(ノ)卿と書くが至當である。内臣、内大臣、大納言等の高級官吏は尊貴に憚つて、名も姓も書かぬのを定式とすることが、大寶の公式令に見えてゐる。鎌足傳は著名な人ゆゑ略く。○春山萬花之艶秋山千葉之彩 春山の花の色秋山の紅葉の匂といふ程のことを、漢風に潤色して書いた。○判之 他の諸臣の意見を裁判する意ではない。諸臣は口頭でその優劣をわけたのを、額田王は歌を以て判つたといふに過ぎない。
 
冬木成《ふゆごもり》 春去來者《はるさりくれば》 不喧有之《なかざりし》 鳥毛來鳴奴《とりもきなきぬ》 不開有之《さかざりし》 花毛佐家禮杼《はなもさけれど》 山乎茂《やまをしみ》 入而毛不取〔左△〕《いりてもきかず》 草深《くさふかみ》 執手母不見《とりてもみず》 秋山乃《あきやまの》 木葉乎見而者《このはをみては》 黄葉乎婆《もみぢをば》 取而曾思奴布《とりてぞしぬぶ》 青乎者《あをきをば》 置而曾歎久《おきてぞなけく》 曾許之恨〔左△〕之《そこしうらめし》 秋山吾者《あきやまあれは》    16
 
〔釋〕 ○ふゆごもり 冬籠り。春にかゝる枕詞。草木の冬籠りして發《ハ》るといふに春をいひかけた。春をハル〔二字傍点〕といふ(79)も草木の發《ハ》り出づる義である。「木成」は籠の借字で、釋名に「成(ハ)盛也」とある。○はるさりくれば 春になつて來るとの意。「さり」に「去」の字を充てゝあるが、普通にいふ去る〔二字傍点〕の意とはやゝ異る。蓋し「さる」に二義あつたと考へられる。(1)は空間にいふもので、去るの意となり、(2)は時間にいふもので、その推移を表する意となる。春さり、夕さりのさり〔二字傍点〕は皆この第二の意義の語である。眞淵のシアリ〔三字傍点〕の約との説明は、語態の接續上にも無理があつて諾へない。獨立の四段活用動詞と見るべきである。○なかざりし 「喧」はかまびすし〔五字傍点〕の意で、鳥の囀るをも形容する。故にナクと訓む。○さけれど 咲きてあれどの意。「れ」は完了の助動詞「り」の第五變化。「杼」は呉音ト〔傍線〕であるのを濁音に使用した。○やまをしみ 山がまあ茂さに。「を」は歎辭。「しみ」の「し」はシキ〔二字傍点〕の語根。繁《シゲ》きを古言にシキ〔二字傍点〕といひ、古事記にも繁の字を醜《シキ》の借字に用ゐて、繁國《シキクニ》と書いてある。「み」は上の「を」の歎辭を承けた接尾語。尤も本文にこれに當る字はないが、文法の形態上からさう訓み付けられる。なほ下の「草深」を草探ミ〔右○〕と訓むに同じい。○きかず 聽かれず。本文「不取」とあるは鳥を取られずと解すべきだが、次句に又「取りても」とあるのでさし合ふ。古義に大神景井説として「取は聽〔右△〕の字の誤にて、キカズ〔三字傍線〕と訓むべし」とあるに從つた。○とりても 花を手に執つても。○もみぢ 古義はモミツ〔三字傍線〕と訓んだ。この語は赤くなるをいふ四段の動詞の第四變化で、次句の「青き」の語形にはよく對照するが、對語はあながち同形語を必要としない。而も「黄葉」の字面をモミツと動詞に訓むことは他に例がない。「黄葉」は紅葉と通じて用ゐ、易林に「桑葉將v落(チント)隕(ス)2其葉〔二字傍点〕(ヲ)1」、漢武帝の詩に「木葉黄〔二字傍点〕落雁南(ニ)歸(ル)」など見え、古文にはおもに黄葉〔二字傍点〕と書いてある。紅葉〔二字傍点〕は酉陽雜俎以下の書に見えるが、この集はその古に從つてゐる。○とりてぞしぬぶ 手に取つて愛でうつくしむ。「しぬぶ」は(1)慕ふ、(2)愛づる、(3)忍び隱るゝ、(4)堪へ忍ぶの四義があり、處によ(80)つてその意かはる。○おきて さし置いて。木に置いてではない。○そこしうらめし 「し」は強辭。「そこ」は上の句を直ちに承けたのではない。前に立返つて春山の事をさしたのである。(評語參看)。宣長は「恨」を怜〔右△〕の誤字としてオモシロシ〔五字傍線〕と訓み、古義はそれに依つてタヌシ〔三字傍線〕と訓んだ。○あきやまあれは 吾は秋山なるぞ〔三字右○〕の意の倒装。舊訓はアキヤマゾ〔五字傍線〕と、ゾ〔右○〕の辭をよみ添へてあるが、歌意と語勢とを味へばその必要を認めなくなる。秋山そのものが吾といつたやうに聞えるといふ説は、斷章的に拘泥した見方である。
【歌意】 春になつてくれば、山にはこれまで鳴かなかつた鳥も來て鳴く、咲いてゐなかつた花も美しく咲いてはゐるが、然し山の木が繁さに、分け入つてその鳥は聽かれもせぬし、草が深さに、その花は手に取つて見られもせぬ。それに引換へ、秋の山の木の葉を見ては、その色づいたのを手に持つて愛賞するし、その青いのはそのまゝで色づきの遲いのを歎く。春山は〔三字右○〕あの點が恨めしい、だから秋山の方に團扇を上げますわ、私は。
 
〔評〕 この歌の叙述の推移を檢するに、まづ春山の長所を叙し、次いで「咲けれど」の一句に轉捩してその短所に及び、更に秋山の好所を力説し、遂にこれに左祖したのは、取らんとする者は先づ與へよの筆法である。當時の春山禮讚黨は、恐らく口々に花光鳥語の明朗さを以て大いなるその特色として、高唱したものであらう。そこで作者は單刀直入相手の牙城に突進して鋭くこれを撃破して置き、次に從容と自説を主張したのである。その撃破とその主張とを貫く唯一の要點は、つまり愛賞の機會の自由さと不自由さとに歸着してゐる。元來春秋の優劣論は、その齎す興趣の深淺多少を比較商量するのが本旨であるが、然しそれは各人主觀上の問題であり、畢竟は好惡によつて決する性質のものであるから、汝は汝我れは我れで、いつまで經つても結論は求められない(81)のが當然である。さればこそ巧慧なる作者は、他の客觀的方面から論陣を布き、愛賞の機會如何を云爲して反對論者の虚を衝いたのである。固より作者は秋山の美景を眼前にして感興の昂騰を歌つたのではなく、冷靜な理智判斷に出發して自己の嗜好を主張したものであるから、眞に歌としての味ひに稍缺ける所のあるのも已むを得ない歸結であらう。「秋山あれは」の倒装は頗る力強い表現であり、これは他の春山禮讃黨に對する強い反駁を意味するもので、實に鐵椎一撃の概がある。
 寵臣鎌足を右に、嬖幸額田王を左に、その他多くの侍臣等を集めて、春山(ノ)霞男、秋山(ノ)下部男以來の懸案たる、春花秋葉の風流論爭を聽かれた當時の天智天皇の御得意は、蓋し想像に餘がある。殊に額田王が婦人の身を以て有髯男子の間に伍して、この長篇を屬吐して、秋山千葉の爲に大いに氣を吐いたことは、春山萬花の月竝人士をして唖然たらしめたものがあつたらう。又「閨女春を憐む」の定型を破つて秋に固執んただけでも、額田王が特異性に富む婦人であつたことが容易に推測される。而して後世の春秋優劣の論爭が多くは秋の勝に歸する傾向をもつ所以は、蓋しこの一篇がその素因を作してゐること疑ふべくもないのである。
 さてこの歌は、篇法から見れば三段から成り立つてゐる。即ち第一段は「冬ごもり」から「執りても見ず」まで、一に春山に關していひ、第二段は「秋山の」から「おきてぞ歎く」まで、專ら秋山に就いて述べ、互に對蹠的に合拍させてゐる。而して三段に至り、こゝに裁斷の語を下し、「そこし恨し秋山われは」と前に立返つて、春山を抑へ秋山を揚げたのである。故に秋山の相對上、「そこし恨めし」の上に春山は〔三字右○〕の主語が自然潜在することはいふまでも無い。
 又「鳴かざりし」「咲かざりし」は、わざと正反對の過去の事相を修飾に置いて、「鳴く」「咲く」の意を強調(82)させ、以て春の特徴を宣揚したのである。而して本來の主旨が春山には万花之艶、秋山には千葉之彩を叙するにあるから、春の鳥は畢竟ずるに陪客で、只伴奏の役目を勤めてゐる状態である。「山を茂み入りても聽かず」「草深み執りても見ず」は、いかにも婦人らしい情致が動いて見える。春の叙述には山〔右○〕の字こそ下してないが、すべてが春山の景致で、下聯の「秋山の」とあるに確かな對照を作つてゐる。
 
額田(の)王(の)下(れる)2近江(の)國(に)1時(に)作《よめる》歌、井戸〔二字左△〕王《ゐどのおほきみの》即(ち)和歌《こたふるうた》
 
額田王が都から近江國に往かれた時に詠んだ歌、井戸王が即座にそれに應じて詠んだ返歌との意。○井戸王云々 井戸王は傳未詳。「井戸王」を并女〔二字右△〕王の誤とし、額田王を父王、女王をその王女と見る説もあるが、とにかく次の「綜麻形」の歌はこの和歌とは見難い。○和歌 下の一〇七頁を見よ。
 
味酒《うまざけ》 三輪乃山《みわのやま》 青丹吉《あをによし》 奈良能山乃《ならのやまの》 山際《やまのまゆ》 伊隱萬代《いかくるまで》 道隈《みちのくま》 伊積流萬代爾《いつもるまでに》 委曲毛《つばらにも》 見管行武雄《みつつゆかむを》 數數毛《しばしばも》 見放武八萬雄《みさけむやまを》 情無《こころなく》 雲乃《くもの》 隱障倍之也《かくさふべしや》    17
 
(83)〔釋〕 ○うまざけ 三輪にかゝる枕辭。四音の句である。「うまざけ」は旨い酒で、酒を褒めていふ。酒を釀すとまづ發酵する、それが實涌《ミワ》くで、その實涌《ミワ》を三輪にかけた。實は諸實《モロミ》などの實と同じく、その材質《モト》をいふ。さて酒の發酵即ち實涌《ミワ》く加減は頗るむづかしいものなので、古人はこれを神業と考へ、神を祀つてその成功を祈り、初穗は神に捧げてその恩頼《ミタマノフユ》を謝したもので、今でも酒造家はこれを實行してゐる。實涌《ミワ》を神酒と書くもこの理由からである。舒明紀やこの集やに、既に神酒をミワ〔二字傍点〕と訓ませてあるから、こゝも味酒|神酒《ミワ》を三輪にかけたとする古義説も根據はあるが、味酒神酒の助辭なしの續きも面白くないから、尚その原義に溯つて實涌くと説明する方がよい。○みわのやま 大和城上郡三輪山。(標高四六七米突)北及び東は卷向山に接し、西麓に大物主《オホモノヌシノ》神を祀る三輪神社がある。この句は下には〔右○〕の辭を含めた格。○あ(84)をによし 奈良にかゝる枕詞。「あをに」は青士の義で、青紺の色をした土の稱。「丹」は借字。昔は種々の顔料にこれを用ゐた。常陸風土記の久慈郡の條に「河内(ノ)里云々、所有《ソコナル》土(ノ)色如(ク)2青紺(ノ)1、用(ヰルニ)v畫(ニ)麗《ウルハシ》之、俗(ニ)云(フ)2阿乎爾《アヲニト》1、或(ハ)云(フ)2加支津爾《カキツニト》1」とある。加支津爾は畫著土《カキツクニ》の義である。緑青《ロクシヤウ》をこの集にも和名抄にもアヲニ〔三字傍点〕と訓んであるが、同名異物と心得てよい。さて青土はよく水に浸透させて和熟《ナラ》して使用するものだから、青土《アヲニ》熟《ナラ》すを奈良《ナラ》にいひかけた枕詞である。「よし」の「よ」は呼格の辭。「し」は問投の強辭で、青土よと呼びかけたに過ぎない。この形式を執つた枕詞の用例は、麻裳よし〔二字傍点〕紀(着)人、眞菅よし〔二字傍点〕宗我《ソガ》(スゲ、ソガの通音)、玉藻よし〔二字傍点〕讚岐(さ貫《ヌ》き)など多い。「吉」は借字であるのを字義通りに解して、青土の良い奈良と説くは未だしいが、奈良山に青土は産出するので、この枕詞も生れたのである。著者の探檢した處では、歌姫越の北峠附近に大分發見した。また古義に、青土黏《アヲニネヤ》しのニネ〔二字傍点〕を約めてニ〔傍点〕といひ、ヤ〔傍点〕をヨ〔傍点〕に通はせ、青土|黏《ヨ》し熱《ナラ》すに奈良をかけたと解したのは、稍繁瑣で迂遠である。○ならのやま 大和添上郡。東佐保山に起つて西高野の邊に及ぶ岡陵の總稱。「なら」は奈良、寧樂、那羅など書く。崇神紀に「復遣(リ)2大彦(ト)與|和珥臣《ワニノオミノ》遠祖彦國|葺《フキトヲ》1、向(ヒテ)2山背(ニ)1撃(ツ)2埴安《ハニヤス》彦(ヲ)1――則率(ヰテ)2精兵(ヲ)1進(ンデ)登(リ)2那羅《ナラ》山(ニ)1、――時(ニ)官軍屯聚(リ)而※[足+滴の旁]2※[足+且]《フミナラシキ》草木(ヲ)1、因(テ)v此(ニ)號(ケテ)2此山(ヲ)1曰(フ)2那羅山(ト)1云々」とあるのは、例の民間語原説で、この種の説明は記紀に多く見えるが、信を置き難いものが多い。恐らく楢林の山なので附いた(85)稱であらう。○やまのまに 「ま」はその字の示す如く際《キハ》である。間《アヒダ》ではない。「に」の辭は讀み添へたもの。眞淵はユ〔傍線〕と讀み添へたが、この集の書式から見ると、ユ〔傍線〕と讀む場合には必ず從〔右○〕の字がある。但眞淵は脱字かといつてゐる。○いかくるまで 「い」は發語。「代」は呉音テイ。よつてテの音にあて、又デの濁音にも用ゐる。○みちのくま 道の曲り角。○いつもる 荷田東滿の訓イサカル〔四字傍線〕は無理である。「い」は發語。○つばらにも つまびらかにも。「も」は歎辭。○みつつ 「つつ」は乍の意、「管」は借字。○ゆかむを 行かむもの〔二字右○〕を。○みさけむやまを 見渡さう山なる〔二字右○〕を。「見放く」は遠く眼を放つこと。放《サ》け見れば〔四字傍点〕と上下してもいふ。平安期には死語となつた。○こころなく 思ひ遣りなく。同情なく。○くもの これは三音の獨立句。○かくさふべしや 「かくさふ」は隱すの延音。「や」は反語。「隱障」の「障」は意をむかへて書き添へたもの。
【歌意】 あの三輪山は、この奈良の山あひにその影が隱れるまでに、道の限々も重なるまでに、念入りにも見ながら行かう山なのを、度々も見渡したい山なのを、その思ひ遣りもなく、雲が隱してもよいものかい。
 
(86)〔評〕 この歌冒頭を見るに、「味酒三輪の山」「青丹吉奈良の山」と相對的の構成であるが、それは單に形式上のことであつて、三輪の山が全篇の主格に立ち、「情《コヽロ》なく雲の隱さふべしや」と結收してゐる。「つばらにも」「しば/\も」見たいものよと、漸層的に反復強調して、三輪山への執着を叫んでゐるその語氣は、あからさまにこの山影を隱蔽する雲の無情さを怨み且難詰してゐる。「隱さふべしや」と強い反語の表現がそれである。いかに作者が深い執心、強い愛着を三輪山にもつてゐたかが窺はれるではないか。「雲の」の三音は、上下の五七音の問に介在して獨立した一句で、この變態的句法が、力強く雲その物を捉へてゐる。
 抑も三輪山は大和平原の東南隅に峙ち、海拔僅に五百米突に足らないが、欝蒼たる原生林に蔽はれたその和やかな山容は、四方何れから望んでも一種いひ知れぬ懷かし味があり、古くから香具山や耳梨山などと同じく注目された名山である。しかも大物主の神の靈威によつて、歴史的傳説的に囘顧を餘儀なくされる靈山である。作者は今しも住み馴れた飛鳥京を辭して近江に赴かうとする。この時に當つて、飛鳥京の名殘惜しさは勿論ながら、朝夕親しく見馴れたこの山の孱顔にさへ別れて遠く去りゆくことが、如何に堪へ難い感傷を催したであらう。乃ち「道の隈いつもるまで」、いとしい戀人にでも別れるやうな心持で、この山を願望したのであつた。
 尤も初頭から「見さけむ山を」までは希望であり豫期であり、それを雲に裏切られた遺恨を歌つたのだから、作者は何處にゐても差支ないやうなものゝ、尚奈良山近くまでも既に來たうへの感想とするのが、この場合最も至當な見方であらう。
(87) さて額田王の近江下向は何時頃の事とも判明しない。題詞に只「下近江」とある所から見ると、或は近江國にまだ大津京が出來ない前の事であらうか。尤もこの題詞といふものは、必しも絶對的信憑の置けるものばかりではなく、萬葉の記者が前人の記録をそのまゝ踏襲したのもあり、或は後から追記したものもあり、創作當時の記述と思はれるものは寧ろ少いやうに思はれるので、隨つて誤謬も當然あらうし、輕々しい斷定は出來ない。奈良時代になつてからの意識でいへば、近江に往くのは下る〔二字傍点〕のである。だから或は天智天皇の近江遷都に際し、額田王も近江に往かれたその途上の作を、奈良人がかう書いたのかも知れない。左註に引いた類聚歌林に、近江遷都の時の御歌としてあるのは、相當理由のあることゝ思ふ。その甚しく三輪山に執着したことは、さうした際の作として考へると特にふさはしい感がある。然し人は箇人的に特殊の境遇が生ずるものであるから、何かの事情で一旦飛鳥京を引拂つて近江の故郷に蟄居しようとする際の途上の感懷と見られぬこともない。近江は額田王に取つては、父君鏡王から始めてその本居であつたのであるから。
 
反歌
 
三輸山乎《みわやまを》 然毛隱賀《しかもかくすか》 雲谷裳《くもだにも》 情有南畝《こころあらなむ》 可苦佐布倍思哉《かくさふべしや》    18
 
〔釋〕 ○しかも さうまあ。「しか」は雲の隱した状態をさす。○か 歎辭。○くもだにも 「谷」は借字。「雲谷」は詩の字面で「見(ル)2月(ヲ)溪下(ノ)雲谷(ニ)1」(孟郊)、「雲谷空(シク)澹蕩」、(皮日休)「暖(ニ)辭(シテ)2雲谷(ヲ)1背(ク)2殘陽(ニ)1」(羅※[業+おおざと])など、中唐以後の詩に見えるが、その字面は夙くから存在してゐたに相違なく、それを借用したと思はれる。○なむ 希望(88)の助動詞。「南畝」は詩經幽〔幺が琢の旁〕風の※[食+(去/皿)]《カレヒス》2彼(ノ)南畝(ニ)1の字面を借用した。「畝」は呉音ム〔傍点〕である。一本には「畝」を武〔右△〕に作る。
【歌意】 三輪山をあゝも雲が隱すことかまあ、せめてその雲なりとも思ひやりがあつてほしい。そんなに隱してよいものかい。
 
〔評〕 眼前に雲が三輪山を蔽へるを見て「しかも隱すか」と嗟歎し、さて「雲だにも」と縋り掛けた。懷かしの目標たる三輪の山色の有無は、搖曳する雲意の如何によるからの事である。四句で一旦切れて歌意は既に完了したものを、更に蒸し返して「隱さふべしや」と丁寧に力強く雲に對して切言に及んだ。蓋し雲の本來無情のものたることを忘れたいひ方で、全く理路を没却してゐる。いかに三輪山に深い執着をとゞめてゐるかゞ窺はれよう。即ち半面にその故郷に戀々たる情味の切にして盡きぬものゝあることが認められる。
 長歌の末章を引取つて多少の潤飾を施したものゝ、詰る所はその反覆に過ぎない。然しさうまで諄くいひ返した所以を思ふと、無心の雲も流石に同情の念に禁へぬものがあるだらう。
 「雲谷」及び「南畝」の漢熟字を應用したことは、歌の記録者の遊戲に出たものである。それがこの集編者の所爲か、はた亦以前からさう記録さわてゐたものかは不明であるが、とにかく漢文學の影響の著しいことが、躊躇なく承認さわるであらう。
 
右二首(ノ)歌、檢〔左△〕2山(ノ)上(ノ)憶良(ノ)大夫(ノ)類聚歌林(ヲ)1曰(フ)、遷(サルヽ)2都(ヲ)近江(ノ)國(ニ)1時、御2覽《ミソナハセル》三輪山(ヲ)1御歌(ト)焉。日本書紀(ニ)曰(フ)、六年丙寅春三月辛酉朔己卯遷(ス)2都(ヲ)于近江(ニ)1。(他の書例に從つて檢の字を補ふ)
 
(89) 右の長歌及び反歌は類聚歌林によれば、近江國に遷都の時三輪山を御覽じての御歌との意。御覽及び御歌とある以上は、天皇か皇太子などの御製作となる。當時の天皇は天智天皇、皇太子は大海人皇子である。但萬葉を談ずる時には、明白なる理由ある場合を除くの外は、左註よりも本文を執するが至當と思ふ。よつて尚これを額田王の作とする。
 
    ○
 
この歌は左註にいふが如くで、上の歌の和歌ではない。されば上の歌の題詞「井戸王即和歌」はこゝには移し難い。上の歌は三輪山に惜別の情を運んだ作、これは「目につくわがせ」とあつて戀歌であるから、兩者の交渉は絶對にない。さりとて次に掲げた「茜草さす」の歌とは時季が一致せぬから、その題詞「天皇遊2獵蒲生野1時云々」の條下に收むべきものでも決してない。この前後が額田王の歌である處から推すと、これも同王の作かも知れないが、かく事情が違つてゐるから、別な題詞のあつたものが書寫の際に脱落したものと斷ずるより外はない。
 
綜麻形乃《へそがたの》 林始乃《はやしのさきの》 狹野榛能《さぬはりの》 衣爾著成《きぬにつくなす》 目爾都久和我勢《めにつくわがせ》      19
 
〔釋〕 ○へそがた 綣縣《ヘソアガタ》の略。近江國栗生郡守山驛から約三十町ほど南の綣村《ヘソムラ》(今は大寶村の内の小名)といふ處が、古への綜麻縣の地と思はれる。綣は卷子とも書く。即ち綜麻《ヘソ》の義で、績麻《ウミヲ》を球の如く絡ひ附けたる物の稱。古事記に、以(テ)2閇蘇《ヘソ》1紡麻《ウミヲヲ》貫(キ)v針(ニ)云々、又土佐風土記に、以(テ)2綜麻《ヘソヲ》1貫(ク)v針(ニ)とある。縣《アガタ》をカタと上略した例は河内の(90)大縣《オホガタ》、美濃の方縣《カタガタ》、山縣、信濃の小縣《チヒサガタ》の類極めて多い。舊訓のソマガタ〔四字傍線〕に從つて杣縣と解し、近江國甲賀郡杣村の事としても通ずるが、その地が額田王の本居からは遠く又邊僻でもあるから、いかゞと思ふ。古事記崇神記(卷中)に「活玉依《イクタマヨリ》姫が竊び通ふ男の居處を知る爲に、絲を針でその衣の襴《スソ》につけたのを、男は知らずに引いて歸ると、卷子の紡紵《ウミヲ》の只|三勾《ミワゲ》殘つたので、その絲筋を辿つてゆくと御室山に來た、そこでその地を三輪といふ」とある故事に據つて、東滿が「三勾殘れる形により、綜麻形と書きて三輪山と訓ませたり」といふ説は、一寸面白いが牽強である。又|紗寐形《サヌカタ》の誤字とする久老説は愈よ非。○はやしのさき 林のはづれ。「さき」は突端。「始」をサキと訓むは意訓。眞淵はシゲキガモト〔六字傍線〕と訓んだが附會過ぎる。○さぬはり 野萩。「さ」は接頭の美稱。「はり」は萩のこと。榛の字に從つてハンの木とする説もある。尚委しくは下出「はりはら」(二二一頁)及び榛原考(雜考−5)を參照。○きぬにつく 衣に染み着く。萩の花の汁は物に染み易い。○なす 如く〔二字傍点〕の意。その如き働きをするをいふ。似す〔二字傍点〕の轉語といふ。神代紀に如五月蠅をサバヘナス〔五字傍点〕と訓んである。「成」は借字。○めにつく 見る目に立つをいふ。○わがせ 「せ」はこゝは夫又は情人を稱する。「わが」は懷かしむ意で添へた語。この句の下によ〔右○〕の歎辭を含む。△地圖 挿圖28を參照(九三頁)。
【歌意】 この綣縣の林はづれの野萩の花が、人の衣に染まり付く如く、私の目に著くそれは/\いとしいあの方よ。
 
〔評〕 綣村附近は概して平地で、何かの疎林がそこにあつたと見える。その林端は幾群の野萩が秋芳を競ひ、徂徠の人の袖袂を匂はせてゐる。作者は即ちこの背景を序詞に轉用し、「つく」の語を反復してその連鎖とした。(91)然し「衣に著くなす」が譬喩の形式だから、萩の花が衣に染み著くその具合なり状態なりが、著想の根幹を成してゐることを忘れてはならぬ。萩の花を物に摺ると實にあざやかな紫色に染まる。紫の色相は絢爛で眩惑的であるから、古今を通じて一般に喜ばれ、集中にも紫色を盛に讃歎してゐる。故に萩の花摺《ハナズリ》は人の心目を悦ばしむる程綺麗に染み着くものといふ先入觀から、林の始の狹野萩を見るや、眼前幾ばくの遊行者中に在つて、殊に優れて懷かしの人たるかの背の君に準擬したことは、折柄物柄に最も適應した措辭といはねばなるまい。かくて「目に着く」が一往も二往も強調され、隨つてその戀心の熾烈さがさもと思ひ遣られる。
 元來綣村は草津から北、守山へ通ずる琵琶湖東の舊い街道の中途にあつて、古代には綣縣の名で著れた相當な場處と見える。そこから四里半北に鏡の宿がある。そこは額田王の御父鏡王(又額田王)の御名の本據と考へられる。更に北方坂田郡筑摩郷の内に都久麻佐野方《ツクマサヌカタ》(卷十三)と續けた佐野方がある。「佐」は接頭語で、野方は即ち額田だから、こゝも王父子の名に所縁がある。かうなると、この歌はやはり額田王(女)の作ではあるまいかとも思はれる。况や近江朝廷となつては、天智帝や大海人の皇太弟がこの邊を遊幸されたことは、紀の記載以外にも多少あらうから、この「わが背」はそのいづれかを斥したものと見ても惡くはあるまい。
 又いふ、榛をハンの木とすると、その皮の煎汁で染めれば黒褐又は茶褐色になる、黒褐や茶褐色などは全然不意氣な澁い色相であり、又或人のいふやうに、その若葉が假に衣に染み著くものとしてからが、その色相ははしきわが背を連想させる程の懷かしみが淺い。萩の花であつてこそ始めてその紫の色相がふさはしいのだと思ふ。
                       △榛原考(雜考−5參照)
 
(92)右一首(ノ)歌。今案(フルニ)不v似2和歌(ニ)1。但舊本載(ス)2于此(ノ)次《ツイデニ》1。故(レ)以(テ)猶載(ス)焉。
 
 右の歌一首は和歌のやうでない。但舊本がこの順序に記載してあるのでそのまゝにしたとの意。三輪山の歌に和へた歌でないことは、前に述べた如くである。
 
天皇遊2獵《みかりしたまへる》蒲生野《かまふぬに》1時、額田(の)王(の)作歌《よめるうた》
 
天智天皇が近江の蒲生野に狩せられた時、額田王が詠んだ歌との意。この遊獵は左註にもある如く、天智天皇の七年夏五月五日の事である。○蒲生野 近江國蒲生郡の觀音寺山太郎坊山の南に横はる平野。○遊獵 こゝでは夏五月五日の事だから藥獵《クスリガリ》である。鹿茸《ロクジヨウ》、(鹿の若角で、本草に主(ル)v益(スコトヲ)v氣(ヲ)とある)及び藥草などを採ることを主とした行遊。抑も藥獵は卷十六に「四月《ウヅキ》と五月《サツキ》のほどに藥獵つかふる時に」などあつて、夏四五月の際の行事であつた。推古紀に十九年夏五月五日藥2獵(ス)兎田野(ニ)1とあるを史の初見とする。
 
茜草指《あかねさす》 武良前野逝《むらさきぬゆき》 標野行《しめぬゆき》 野守者不見哉《ぬもりはみずや》 君之袖布流《きみがそでふる》    20
 
〔釋〕 ○あかねさす 紫にかゝる枕詞で、茜色《アカネ》に匂ふの意か。古への紫は赤色が勝つて(93)ゐるのがその本色だから、茜色に近いのである。「茜」は山野に自生する蔓性宿根の草本。その根は太い髯状をなして、緋赤色の染料とする。名稱は赤根《アカネ》の義におこる。「さす」は發《タ》つことで、日影さす月影のさすのさす〔二字傍点〕もこの意。仙覺抄には赤根生《アカネサ》すの意で、紫草の根の赤く生えたる貌とした。古義に「赤さす紫といふ續きにて、ね〔傍点〕は島根草根眉根などの根に同じく、意味をもたぬ添言なり」とあるはいかゞ。島根草根眉根は皆本あり根のあるもので、場合によつて根の語が輕く使はれたに過ぎない。赤は色相で本も根もはじめからないから、一列には論じ難い。又|赤丹《アカニ》さすの義とする説もあるが迂遠である。「指」は借字。○むらさきぬ 紫野。紫草の生ふる野をいふ。固有名詞ではない。紫草のことは次の歌の條を參照。○ゆき 「逝」は借字。○しめぬ 標野とは禁野のこと。標《シメ》を立てゝ占め置かれた御料の野である。「標」はしるしの物、又表出することにいふ。○ぬもり 野の番人。古へ御料の野にはその監守を置かれたもの。山守橋守などもこの例。○見ずや 「や」は反語。○そでふる 袖を打振る。この句の下、を〔右○〕の助辭を略いてある。
【歌意】 この紫草の生えた野を行き、この御料の禁野を行きつゝ、貴方樣が私への合圖に袖をお振りになるのを、あの野守が見付けずに居ませうことかい。御注意なさいませ。
 
(94)〔評〕 蒲生野は東近江における好箇の狩場で、近江朝廷隨一の禁野であつた。――西近江には禁野たるべき野がない。――紫草は山野自生の草で、昔は何處の野にでも生えてゐた。おなじ蒲生野のことを紫野とも又標野とも呼び換へて、排對の間に姿致を求め、更に「行き」の語の反復が、その一行の行進曲を吹奏する。即ち行きつゝ〔四字傍点〕の意味を成す。しかもこの二つの「行き」がいづれも結句の「袖振る」に係るので、隨つて袖振ることも亦繼續的に行はれてゐることを表現してゐる。
 すべて他に認められようが爲に物を提擧することは或意志の表示である。手を擧げて合圖をし、領布《ヒレ》を振つて別を惜み、手巾を振り袖を振つてわが存在を示し、思慕の情を寄せる。茲に註脚を要することは、古への袖は筒袖に近いもので、後世の振袖のやうに縱に長い物ではない。横即ち裄丈の長い袖、それを打振つたものである。(95)勿論舞踊などには別裁がある。
 鳥狩鹿狩藥狩、遊獵は上代の貴族階級の人達の唯一の行樂で、特に帝王の御出獵には前躯後從にその行粧を引繕ひ、華美の限を競うた。只この行列を見物するだけでも面白いものとされた。天武紀に
  是月(九年冬十月)天皇將(ニ)v蒐《カリセムト》2於廣瀬野(ニ)1、而行宮|構訖《ツクリヲハリ》、装束既(ニ)備(ハレリ)、然(ルニ)車駕遂(ニ)不v幸(シタマハ)矣、唯親王以下及(ビ)群卿皆居(リ)2于輕(ノ)市(ニ)1、而檢2校(シ)装束(セル)鞍馬(ヲ)1、小錦以上(ノ)大夫皆列(ミ)2座(キ)樹下(ニ)1、大山位以下(ノ)者(ハ)皆親(ラ)乘(レリ)v之(ニ)、共(ニ)隨《マヽニ》大路(ノ)1自v南行(ク)v北(ニ)。(卷二十九)
その出獵の路次の行粧がいかにきら/\しいものであつたかが想像される。この蒲生野の遊幸は、去年三月の遷都後始めての試で、東近江の風光を觀賞かた/”\、皇太弟大海人皇子、諸王及び内臣中臣鎌足以下の群臣が列次を作つて群行した事を思ふと、それは/\すぐれた盛儀であつたらしい。况や五月の藥狩は冬季の鳥狩と違ひ、鹿茸を採ることの外は、折柄茂生した藥草などを抽いたり引いたりするのだから、婦人の行樂には最もふさはしい。で嬖人たる額田王をはじめ女官達も數多供奉したものであらう。――紀に婦人扈從の所見がないからとて、この事實を無視する事は出來まい。――とすると上下男女打混つた賑やかな大行進であつた。假令紫野ゆき標野ゆき狩野に入立つてからが、さう多い人目の中で一再ならず袖打振ることは、それが皇太弟對額田王であるだけ餘計に、危險な行爲といはねばならぬ。野守は嚴かにその眼を光らせてゐるではないか。
 野守を譬喩とすることは衆口の一致する處であるが、それに就いて左の數説がある。
 (1)現在の嬖主たる天智帝をさす。(守部説)
  (2) 警衛扈從の士等をきす。(古義説)
 (3) 作者自身をさす。(正辭説)
  (4) 相手の大海人皇子をさす。(契沖説)
(96)(3)(4)の説は殆ど要領を得難い。(2)はさういへぬ事もないが、切實味を缺いてゐる。で(1)が一番事情に適してゐると信ずる。既に三山(ノ)歌の條下に詳説した如く、天智天皇、皇太弟大海人の御兄弟對額田王の御關係は甚だ面倒な經緯となつて居り、天智天皇の猜疑の御眼は何時も兩者のうへに濺がれてゐたものであらう。かうした伏在的事情の上に立つて考へると、野守は天智天皇を擬へ奉つたと解するのが、極めて至當であり自然である。况や皇太弟の返歌に「人妻ゆゑに」とあるは、正に野守は天智天皇をお斥してある點から出發したお詞ではないか。
 嗚呼野守は嚴かにその眼を光らせてゐる。處が男はとかく大まかで思はぬ失策を釀し易い。大膽にも人中で袖など振つてお見せになる。それが危險さに「野守は見ずや」の警告を發したものである。婦人はやはり細心だ。
 更にこの作者の心理状態を觀察すると、かく警告を與へたことは、皇太弟の御身の上をかばふ情合から出たことで、決してその懸想を卻けてゐるのではない。却つて纏綿たる情致が隱約の間に搖曳して、涯ない柔韻を具へてゐる。然るに作者はまた天智を慕ひ奉つて、
  君まつとわが戀ひをればわが宿のすだれ動かし秋の風ふく (卷四―488)
など吟じてゐる。かうなつては、かの二人の懸想人に對して斷然|生田《イクタ》川に投身した菟原處女《ウバラヲトメ》の貞烈に劣ることも亦甚しいといへよう。が本木《モトキ》にまさる未木《ウラキ》なし、天智天皇崩じて皇太弟即位となるや、作者は直ちに入つて飛鳥(ノ)淨見原の宮人となつた。
 
皇太子《ひつぎのみこの》答(へたまへる)御歌《みうた》   明日香《アスカノ》宮(ニ)御宇天皇
 
皇太子大海人皇子の御返歌との意。大海人皇子は天武天皇の御諱。當時御兄天智天皇の皇太子であつた。○御(97)歌 とある下に天皇の御稱を注するのは、全く意義を成さない。
 
柴草能《むらさきの》 爾保敝類妹乎《にほへるいもを》 爾苦久有者《にくくあらば》 人嬬故爾《ひとづまゆゑに》 吾戀目八方《あれこひめやも》    21
 
○むらさきの 紫色のやうに。「の」はの如く〔三字傍点〕といふ意。紫はもと赤みの勝つた紅藍の間色で、紫根《シコン》色を主色とし、その濃いものは杜若などの花色から遂には黒に近いものに至る。この紫草は紫草科の山野に自生する宿根草で、高さ二尺ばかり、莖直立して技葉叢生し、葉は旋覆《ヲグルマ》花の葉に似て、梢に小白花を開く、根は牛蒡根で朝鮮人參に類似し、紫赤色の染料となる。名義は叢咲《ムラサキ》の義、その花の形状からついた名。○にほへる 美しく光澤《ツヤ》あるをいふ。○いも 額田王をさす。○ひとづまゆゑに 人妻の爲に。早くいへば、人妻なるものをの意となる。「人妻」とは他人の妻のこと。○こひめやも 戀ひむやはと同じい。「め」は推量の助動詞む〔傍点〕の第五變化。「やも」は反語。
【歌意】 紫色のやうに美しい貴女を、もし憎いと思ふなら、既に人妻であるものを、私がかうも戀ひ焦がれようことかい。
 
〔評〕 紫色はその色相が絢爛で、人目を眩燿する挑發的光彩を有する。支那でも古代から推重され服色に用ゐられ(98)た。かの惡(ム)2紫之奪(フコトヲ)1v朱(ヲ)(論語)といふものは、類似色の混亂を以て利口の邦家を覆す譬喩に用ゐたまでゝ、紫そのものを惡んだのではない。わが邦では推古時代から平安期を通じて服色の上位に置かれた。そしてその染料はすべて紫草によるのであつた。令や式に諸國から澤山の紫草を貢物とすることが見えてゐる。
 今日は外ならぬ藥狩の當日である。然し採藥はいはゞ看板で、緑陰幽草の夏野に行樂を恣にしたいのが、その本願であつたらう。この蒲生野は禁野ではあるしするから、「紫野」と呼ばれた通り、殊に紫草は澤山自生してゐたのである。藥狩と紫草、そも什麼の因縁あるかと考へてみると、紫草は一面藥草だつたのである。煎服して胃腸を整へ、貼用して腫物を解消し、今も地方により頭痛に特効があると稱してゐる。故に從駕の人達は見つけ次第手に手に曳いたもので、その上懷かしい紫色の原料だから、紫の根摺の衣などと洒落れて、打興じもしたものだらう。こゝに端なく紫草――紫色――美し妹との聯想が辿られて、「紫の匂へる妹」と擬へられるのは當然の歸結ではないか。
 貴女が紫色のやうに美しいのでとても憎いと思へず、で人妻であることも忘れて戀ひ焦がれるといふ。作者の御性格の通り、一本氣の力強い熱情が著く露出してゐる。我れから認めた理性を壓し付けて、盲押しに戀路に猛進しようとしてゐる。「妹」と「あれ」との對照も頗る要領を得た辭樣で、左右顧眄を許さないといつた調子である。それは額田王も美人ではあつたらうが、かうさし迫つた戀心が、當年もはや四十六歳の老境に臨まれた作者の心頭に往來されたことを想ふと、實に若々しいその御氣持に驚かざるを得ない。さればこそ壬申の大業も成就したのだとまで感心されるのである。尤も額田王とは既に子(十市皇女)まで生した御仲だから、餘計に反動的になられたせゐもあらう。十市皇女の年齡から逆算すると、額田王はこの時少くとも三十歳位で(99)あつたらしい。
 額田王を男王とする諸平説に從つて、芳樹がこの歌は額田王(男王)がわが娘の額田姫王と大海人皇子との關係を熟知し、皇子を諫める爲に、御獵の時に臨み密かに詠んで皇子の心を驚したもので、若しも他人が聞いても差支ないやうに、紫野標野に寄せて當日の事の如く詠んではあるが、蒲生野における實景の作ではないと。かうまでくると餘に想像が勝ち過ぎて、男王説は却つて採用しにくゝなる。
 
紀(ニ)曰(ク)、天皇七年丁卯夏五月五日、縱2獵《ミカリシタマフ》於蒲生野(ニ)1、于v時|大皇弟《ヒツギノミコ》、諸王《オホキミタチ》内(ノ)臣《オミ》及《マタ》群臣《マウチギミタチ》皆悉(ニ)從《オホムトモナリ》焉。
 
 この左註は天智紀の文を蒲生野の御獵の證に引いたのである。大皇弟は皇太弟と同じい。諸王のうちには額田王も含まれてゐるものと見てよい。内臣は中臣(ノ)鎌足のこと。
 
明日香清御原《あすかのきよみはらの》宮(に)御宇天皇代《あめのしたしろしめしゝすめらみことのみよ》
           天渟中原瀛眞人《アメノヌナハラオキノマヒトノ》天皇
 
天武天皇の御代とのこと。○清御原宮 「清」は多く淨〔右△〕の字(100)を填てゝある。天武紀の十五年夏七月に「戊午改(メテ)v元(ヲ)曰(フ)2朱鳥元年(ト)1、仍(テ)名(ケテ)v宮(ヲ)曰(フ)2飛鳥淨御《トブトリノキヨミ》原(ノ)宮1」とある。この宮號は天武の六年に小野(ノ)毛人(ノ)朝臣の墓誌や采女(ノ)竹良(ノ)卿の碑に見えるから、十五年より以前に既に用ゐて居たものである。淨御は讃稱で、御《ミ》は接尾辭である。宮址は高市郡飛鳥村飛鳥小學校の敷地附近がその宮地の一部と思はれ、小字にミカドと呼ぶ處もあり、近年石葺《イシブキ》を畑から發掘した。紀にいはゆる宮の東岳は長岡(逝回の岡)の最北端か、或はその北に接して突起してゐる鳥形山(飛鳥神社社地の岡)を斥したものと斷ずる。卷二の長歌に、天皇が朝夕雷(ノ)岡を叡覽せられたことを歌つてある點から見ても動きがないと思ふ。抑も飛鳥京の地域を按ずるに、雷(ノ)岡の南邊をその西北隅の起點として、東は逝回《ユキヽ》の岡沿ひの路線に及び、西は飛鳥川を隔てゝ、雷(ノ)岡及び豐浦の丘陵で局られ、南は岡の街地(もとの岡本(ノ)宮の地)邊まで展開したらしく、即ち大口(ノ)眞神(ノ)原の全部を包容したものと見たい。大和志や紀の通證に、高市村の上居《ジヤウゴ》を宮址とし、上居は淨御の改作であると稱したのは諾ひ難い。淨御原の京は相當大規模のものだつたから、上居の如き狹隘の地でない事は明かである。又この上居の西南に隣接した祝戸の地とする説もあるが、とにかく上居でも祝戸でも雷岡に餘り遠いから問題にならない。只困ることは紀に「營(ミ)2宮室(ヲ)於崗本宮(ノ)南〔四字傍点〕1――是謂(フ)2飛鳥(ノ)淨御原(ノ)宮(ト)1」とある事である。岡本宮を今の岡の街地だとすると、上戸や祝戸なら紀のいふ通り南に當るが、前説では西に當ることになる。然し事實の立證する處によつて、南〔傍点〕の字は西〔右△〕の誤寫と見たい。○天渟中原瀛眞人 天武天皇の御稱へ名。
 
十市皇女《とをちのひめみこの》參2赴《まゐりたまへる》伊勢(の)神宮《おほみかみのみやに》1時、見(て)2波多横山巖《はたのよこやまのいはほを》1、吹黄刀自《ふきのとじが》作歌
 
十市皇女が伊勢神宮に參詣の時、波多の横山の巖を見て吹黄の刀自が詠んだ歌との意。○十市皇女 天武天皇(101)の長女にましまし、御從兄なる弘文天皇の妃となられた。その伊勢神宮御參詣は、歌の左註には、天武天皇の四年春二月、阿閉《アベノ》皇女と御同道の由に見える。○波多横山 伊勢國一志郡八太(ノ)郷なる家城《イヘキ》川古名|廬城《イホキ》川(雲出川の上流)の傍に連亙してゐる岡山で、南北|家城《イヘキ》村に屬する。巖は南家城村の迫門《セト》が淵、眞見《マミ》の邊より上流に亙つて澤山ある。宣長の川合村としたのは誤。○吹黄刀自 傳未詳。刀自は戸主《トジ》の義で、主婦、老女などを呼ぶ稱である。この時代には、刀自賣《トジメ》などいふ婦人の名も多いが、こゝはなほ老女の稱で、人名ではあるまい。「吹黄」の「黄」は添字。元暦校本を始め古寫本に、多くは吹※[草冠/欠]〔二字右△〕とある。※[草冠/欠]は蕗《フキ》に同じで、二字でフキ〔二字傍線〕と訓む。續紀の天平七年の條に富紀《フキ》朝臣がある。同氏であらう。卷四にもこの人の歌がある。
 
河上乃《かはのへの》 湯都盤村二《ゆついはむらに》 草武左受《くさむさず》 常丹毛冀名《つねにもがもな》 常處女煮手《とこをとめにて》    22
 
〔釋〕 ○かはのへ 「へ」は邊りの古言で、野上《ヌノヘ》、山上《ヤマノヘ》、藤原がうへ、高野原のうへなど、集中に多くある「へ」「うへ」と同義。川は家城川である。古訓カハカミノ〔五字傍線〕も惡くない。○ゆついはむら 五百箇岩群《イホツイハムラ》の義。數多の岩の集團をいふ。「ゆ」はイホの約のヨ〔傍点〕の轉じた語。「湯」は借字。「つ」は數目の接尾語。「盤」は磐の通用。「村」は群の借字。○くさむさず 草が生えずの意。草でも苔でも生えることを蒸すといふ。蒸すは産の義。さてここは、草蒸さずある如く〔四字右○〕の略で、上句は譬喩である。○つねにもがもな 常にてあれかし。「常に」「も」「がも」「な」の四語から構成され、「も」は歎辭、「がも」は願望の辭、「な」は歎辭。「冀」の字をガモと讀むは意訓。○とこをとめにて 常處女は何時も若々しい女をいふ。俗の萬年新造に同じい。「とこ」は常しへの意。この(102)句は四句の上に廻らして解する。
【歌意】 この川の邊に群り立つてゐる數多の巖石のどれも/\、草が生えず古びずしてあるが如くに、何時までも變らず若い娘さんでありたいものぢやなあ。
 
〔評〕 作者は十市皇女の伊勢詣に御供して、都の飛鳥から初瀬路にかゝり、山粕《ヤマカス》菅野を經て、伊勢の家城川の波多の横山の巖を見たのである。この道は當時の神宮參詣の大道の一つであつて、史的事實の紀記に載つたものが多い。さてこの川原に群り立つてゐる巖石が、途上これまで見馴れて來た岩とは趣を異にし、皆草も生えぬ肌滑かな川石であることが、作者の眼に頗る珍しく映じたのであつて、この歌の感興の起點は全くこゝに在る。題詞に「見v巖」とあるのも、この意を認めた書振と思はれる。古義に、巖に草の生えぬ理なしとして、「初二句は蒸す〔二字傍点〕にのみかゝる序詞にて、ず〔傍点〕にまでは及ばず」(103)といつたのは甚だ迂闊で、事實を無視し義理を混雜せしめた。家城川の湯津岩群は悉く花崗岩だから、草は蒸さない。
 抑も婦人がその容姿にうき身を窶すことは先天的習性であり、「面影のかはらで年の積れかし」と願つたのも、單に浮氣な欲求とのみは見られない。眞に盛り過ぎた婦人の胸の奥底から滲み出た涙の響であらう。さればはかない川邊の頑石に對しても、それを我が身に引較べて無限の感愴に堪へ得ないのであらう。此に至つて作者吹黄刀自の身分を闡明する必要を生ずる。芳樹は、「この作者は額田王の妾にて、額田女王、鏡女王の母なり。額田女王は十市皇女の御母なれば、作者の爲には皇女は孫の列に當り給ふ」といつてゐる。然しこの説はその根據が明かでないので、なほ正辭の「乳母にてもあるべし」といつたのに姑く從つて置かう。
 作者を皇女の御乳母とする時は、「常にもがもな」の希望は無論自身の事ではなくて、養君たる皇女の御上にかゝることになる。この伊勢詣の折は、皇女は二十二歳程におはしたやうである。往古の早婚時代では、十四五歳は若くきびわなる程度、十七八歳は若盛り、二十歳前後は既に年増盛りとしたのである。然るに皇女は御輕率にもかの壬申の亂に口火を點じ、その結果夙く背の君弘文天皇に別れ給ひ、孤閨を守らるゝこと茲に四年、當帝(104)の第一皇女にまし/\ながらかくの如く不遇で、はや女盛りも過ぎようとする。乳母たる作者の心には、いかばかり情なくお痛はしくお思ひ申し上げたことであらう。そのうちには再び花咲く春もめぐり來ようかと、はかない一縷のあいな頼みも懸けてゐたであらう。伊勢詣の御本意にも或はさうした祈念が加はつてゐたかも知れない。然るに今眼前に、この川邊の巖群の肌滑かに何時も若々しくて、皇女の御身とは正反對な有樣を見せつけてゐるのを眺めては、作者は端なく茲に羨望の念を生じ、おいとしい皇女の御身の上を巖群によそへてお祝ひ申さずにゐられなかつたものと思はれる。作者の立場としては、それは誠に自然の過程である。その深い懇情のあはれさは、眞に同情に堪へない。
 然るに悲しいかな、天は常に佳人に幸せず、この後三年を經て身まかられた。天武紀に、「七年夏四月、十市皇女卒然病發(リ)、薨(リタマフ)2於宮中(ニ)1」と見えてゐる。折角の作者のこの咒願の言葉も空しかつたことを豫想に置いてこの歌を見る時は、愈よ哀韻の切なるものがある。
 
吹黄(ノ)刀自未(ル)v詳(ナラ)也。但紀(ニ)曰(フ)、天皇四年乙亥春二月乙亥朔丁亥、十市皇女、阿閇《アベ》皇女參2赴《マヰデマス》於伊勢(ノ)神宮(ニ)1。
 
 吹黄刀自の傳は不明だと註し、又作者の伊勢行を紀の文によつて證したのである。「阿閇皇女」は天智天皇の第四皇女で、草壁皇子(日竝知皇子)の妃、文武天皇の御母、後に即位して元明天皇と申す。
 
麻續《をみの》王(の)流(されたる)2於伊勢(の)國|伊良虞《いらごの》島(に)1之時、時〔左△〕(の)人(の)哀傷《かなしみて》作歌
 
麻績王が伊勢の伊良虞島に流された時、時人が哀んで詠んだ歌との意。○麻續王 傳未詳。天武紀の四年四月(105)に「三位麻續王罪あつて因幡に流さる云々」とある。尚左註の條下を參照。○伊良虞島 三河國渥美半島の突端たる伊良湖崎のこと。志摩の答志《タフシ》崎と相對して伊勢灣の海口を扼してゐる。或はその海口に散在してゐる神島、大鼓、小鼓などいふ島を、伊良湖崎續きだから伊良虞の島といつたともいへるが、實は半島を古へは皆島と稱し、伊豆國をば伊豆の島といつた例があるのみならず、伊良湖崎は志摩の鳥羽灣から見渡すと、神島と竝んで同じやうな島形に見えるので、かく稱へたと思はれる。或は殊によると往昔は伊良湖崎も獨立した島であつたかも知れない。ここに「伊勢國伊良虞島」とあるは、伊勢は古國で神宮所在の要地なので、その附近の地は伊勢を中心として呼ばれるに至つたからである。下にも題詞に「幸(セル)2伊勢(ノ)國(ニ)1時」とあつて、歌には三河の伊良虞島や志摩の英虞《アゴ》浦を詠んでゐる。考などの説は非。○時人 「人」の上時〔右△〕の一字を補ふ。もとのまゝでは文を成さない。
 
打麻乎《うちそを》 麻續王《をみのおほきみ》 白水郎有哉《あまなれや》 射等籠荷四間乃《いらこがしまの》 珠藻苅麻須《たまもかります》    23
 
(106)〔釋〕 ○うちそを 麻《ヲ》にかゝる枕詞。「打十八爲《ウチソヤシ》麻續《ヲミ》の兒等」(卷十六)の類例で、「打麻」とは麻の皮を打つて繊維とした物の稱。「を」は歎辭。打麻《ウチソ》の用は即ち麻《ヲ》(緒)であるから、打麻よ麻續《ヲミ》といひ續けたのである。なほ「八穗蓼を〔傍点〕穗積」(卷十六)とあるに同じい。考に美しき麻《ヲ》を紡《ウ》むとかゝるといひ、古義に全麻《ウツソ》の義に解し、「を」をの〔傍点〕に通ふ言としたのも、迂遠過ぎて諾き難い。この句は四言の句。○をみ 麻續《ヲウミ》の略。續〔傍点〕をこの集その他の古書に多く「績」の字に書くは通用である。○あまなれや 海人であればかして。「なれ」は指定助動詞の第五變化。「や」は疑辭。「なれや」は上古文の語法で、中古となつてはなればや〔四字傍点〕といふ。「白水郎」は日本紀、和名抄等に見え、アマと訓んである。白水は地名、郎は男で、※[王+郎]※[王+耶]代醉篇に「白水郎は漁郎の如し、崑崙奴の類にてよく水に沈む」と。白水を合字にして泉とも書く。○たまも 「たま」は美稱。「も」は水草の總稱。
【歌意】 あの麻續王は貴人かと思つたが、實は海人であればか、この伊良虞の島の海藻を刈つて入らつしやるわ。
 
〔評〕 麻續王に「打麻を」の枕詞まで冠せての呼び掛けは聊か皮肉である。かく堂々とさも勿體らしく高貴の身分たることを極力主張したことは、却つて下の「海人なれやの」反語を力強く活かす襯染となつてゐる。
 抑も珠藻を刈つて食料とするのは賤しい海人の子の生活で、假にも王族たる、而も三位の高位にある貴人のなさるゝ生活ではない。然るに麻續王その人が珠藻を刈つての生活は眼前の事實である。茲に至つて「海人なれや」の一不審を投げ掛けざるを得なくなる。それは罪あつての流謫といふ一大事實の存在を全く忘れ切つたいひ方で、そんな内面の理由にこだはらず、ひたすら表面に現れた麻續王の境遇の激しい變化にのみ着目して、その詠歎を恣にした。そこに無限の感愴が動き、無量の同情が反映さわてきて面白い。
(107) 既に麻續王が海人の生活して居るのは眼前の事實だといつた。だがこれは作者の勝手な認定で、假令流人だからといつて、さう虐待を受ける筈のものではない。國司から衣食は支給されるのである。――稀には内々に死を強要されたり、國司が怨家だつたりする場合には、故意に慘《ミジメ》な目に遭はされることもないではなかつたが――されば「珠藻刈ります」には事實の誇張があることが知られる。詩人の狡猾手段にはいつもして遣られる。
 「伊良虞が島の」の地名の指摘は、上に「麻續王」と人名を提擧したのに相對的の姿致をもち、上下句の均衡をたもつ。そして作者が海人では勿論なく、又土着人でもない他郷人たることが推想される。恐らく三河の國衙に赴任してゐる官吏で、地方巡回の途次、流人の動靜など視察に伊良湖崎にまで來た人などの作であらう。
 
麻續《をみの》王(が)聞《ききて》之|感傷《かなしみて》和歌《こたふるうた》
 
麻續王が前の歌を聞いて傷んで和へた歌との意。○聞之 「之」は上の歌をさす。○和歌 「和」は唱和ともいひ、應《コタ》ふる意である。後世にいふ返歌のことで、上に「皇太子答御歌」とある答歌に同じい。ヤマトウタの義ではない。  
 
空蝉之《うつせみの》 命乎惜美《いのちををしみ》 浪爾所濕《なみにぬれ》 伊艮虞能島之《いらこのしまの》 玉藻苅食《たまもかりはむ》    24
 
〔釋〕 ○うつせみの 命にかゝる枕詞。「うつせみ」は現在の生身《ナマミ》をいふ。それは生命があるものなので、命に續ける。「うつせみも」を參照(六九頁)。○をしみ 惜しさに。○ぬれ 元暦本にはヒヂ〔二字傍線〕と訓んであるが、上に(108)「所」の字のあるを思へば、ヌレと訓む方がよい。○はむ 舊訓はヲス〔二字傍線〕。「をす」は食《ハム》の敬語だから、一般には自らの所作をいふ語としては面白くない。寧ろ現實的に露骨にハムといふ方がよい。
【歌意】 そんなにいつてくれるなよ、只一つの命が惜しさに、波に濡れ難儀な目を見つゝ、この伊良虞の島の海藻を刈つて食ひますわ。
 
〔評〕 「空蝉の」の枕詞は命そのものを強く表現する効果をもつてゐる。生の執着、それは當面の眞劍問題である。皮肉や揶揄で翻弄されてすむ譯のものでない。命一つは何としても棄てかねる。波に濡れ海藻を刈る。それがいかに賤者の生活であつても難儀な仕事であつても、もはや問ふ處でない。昔は昔今は今、石にかぶりついても生きねばならぬ。嗚呼何と悲しい慘ましい血の出るやうな叫ではないか。一誦實に腸がちぎれる。かうなると「海人なれや」の懸歌の、やはり冷淡な他人らしい態度であることが憎らしくなる。「浪に濡れ」の具象的表現は、玉藻刈る勞働の辛苦を切實に物語るものである。
 
右案(フルニ)2日本紀(ヲ)1曰(ク)、天皇四年乙亥夏四月戊戌朔乙卯、三位(品)麻續(ノ)王有(リテ)v罪流(サル)2因幡(ニ)1、一子流(サル)2伊豆(ノ)島(ニ)1、一子流(サル)2血鹿《チカノ》島(ニ)1也、是(ニ)配(ル)2于伊勢(ノ)國伊良虞(ノ)島(ニ)1者《トイフハ》、若(シ)疑(ラクハ)後人縁(ツテ)2歌(ノ)辭(ニ)1而誤(ツテ)記(ス)乎《カ》。
 
 右日本紀を案ずると、天武天皇の四年夏四月に三位麻續王が罪によつて因幡に流され、一子は伊豆島に流され、一子は血鹿島に流さるとある、茲に配伊勢國伊良虞島とあるは、若し後人が歌辭によつて誤記したものかとの意。「三位」を原本三品〔右△〕とある。麻續王は親王でないから品位はない。紀には麻續王の因幡配流の事があつて、三河に配流とはない。想ふにこれは最初因幡に流され、後三河に配流替になつたものであらう。紀にその(109)記載がないのは脱漏と見てよい。又常陸風土記には「此(ヲ)謂(フ)2板來《イタク》驛(ト)1、其西榎木成(ス)v林(ヲ)、飛鳥淨御原天皇之世遣(ハサル)2麻續王(ヲ)1之居處」とあつて、麻續王の潮來《イタコ》(板來)配流の記事が出てをる。因幡も三河も近流であるが、常陸では遠流である。さては三河配流中又何か仔細があつて、更に罪一等を重加されたものと見られぬでもない。又左註が伊勢國伊良虞島を誤記かと疑つたのは失考である。
 
天皇(の)御製歌《みよみませるおほみうた》
 
天皇 天武天皇である。○御製歌 この御製は天皇が天智帝の十年十月に東宮の位を辭退し吉野入をなされての翌年五月、決然蹶起いはゆる壬申の亂の開戰に及び、吉野を御親發せらるゝ途上の御作である。これを吉野入の際の御作と唱へ、或は壬申即位後、吉野を再訪なされての懷舊の御作とする説は、いかゞと思ふ。(委しくは釋及び評語を參照)。されば本來ならばこの御製は次代の弘文天皇の標下に隷すべき性質のものだが、弘文は淨見原方の敵人として、全然紀には皇代から削除された結果として、天皇御即位前の吉野時代の御作は、尚天皇御自身の標下に收めるより外、方法がなかつたのである。
 
三吉野之《みよしぬの》 耳我嶺爾《みかねに》 時無曾《ときなくぞ》 雪者降家留《ゆきはふりける》 間無曾《まなくぞ》 雨者零計類《あめはふりける》 其雪乃《そのゆきの》 時無如《ときなきがごと》 其雨乃《そのあめの》 間無如《まなきがごと》 隈毛不落《くまもおちず》 思乍叙來《おもひつつぞくる》 其山道乎《そのやまみちを》    25
 
(110) ○みよしぬ 大和國吉野郡の吉野。古稱|曳之努《エシヌ》。又芳野、好野とも書く。嘗て吉野(ノ)國とも稱し、元正天皇の時、監《ゲン》を置いて離宮の事を管せしめた。「み」は美稱。「三」は借字である。○みかねに 原本はミカノミネニ〔六字傍線〕、元暦校本、神田本等にはミヽガノミネとあるが、吉野連山中にかゝる名の山は無い。然るに卷十三にこの歌と字句僅に異なるものが出て居り、それには第二句「御金高爾《ミカネノタケニ》」とあるので、今は四言にかく訓んでおく。古義は耳我嶺嶽〔右△〕爾の誤とし、ミカネノタケニと訓んだ。御金の高《タケ》は吉野山の最高峯で、金《カネ》の御嶽《ミタケ》即ち金峯山のこと。吉野町にある藏王堂の奥の院と稱する。地理上から見れば金峯山を歌つたものとして至當である。○ときなくぞゆきはふりける 絶えず雪が降るの意。これは高山の常である。「時無く」は不時《トキジク》とは意やゝ異なる。混じてはいけない。○まなくぞあめはふりける 絶えず雨が降るの意。これも高山の常態で、「伊夜彦《イヤヒコ》のおのれ神《カム》さび青雲《アヲグモ》のたなびく日すら霖《コサメ》そぼふる」(卷十六)の彌彦山なども同樣である。「ま」の訓古義に從ふ。舊訓はヒマ〔二字傍線〕。○くまもおちず 道の曲り角を一つも洩さず。即ち曲り角ごとにの意。「ぬるよおちず」を參照(四五頁)。○おもひつつぞくる 物思ひをしつつ來ることよの意。「くる」は往くと同じい。「叙」は次音ゾ。「來」を元暦本の附訓にコシ〔二字傍線〕とあるので、これに追從する説もあるが、然らばシ〔傍点〕に當るべき字を記す(111)が至當である。只一字の有無で過去現在を異にし、全く別樣の意趣を成すやうな場合に、それを缺くことはまづ無いことゝ見てよい。○そのやまみちを その吉野の〔三字右○〕山路を。「その」は吉野をさす。
【歌意】 吉野の耳我の嶺に、何時も何時も雪は降つてゐる、絶間なく雨は降つてゐる。その雪のいつといふこともないやうに、又その雨の絶間もないやうに、夥しい山路の曲り角ごとに、絶えず物を思ひ續けて來ることだ。その吉野の山路をさ。
 
〔評〕 即位前の天武天皇の吉野入は、御兄の天智帝に對して皇太弟の位を辭し佛道を修業せんとの事で、孝徳天皇の時|古人《フルヒトノ》大兄が帝位辭讓の爲出家、吉野入を宣し、法興寺で落飾された例に倣ひ、※[髪の友が兵]髪を削つて僧形とはなつたものの、立派に皇妃(のちの持統帝)を携へ、既に蒐道《ウヂ》を越える時分は、東宮舍人を多人數從へてゐたものである。實に豪勢なもので、普通の隱遁者の山籠りとは譯が違ふ。虎は翼をつけて野に放たれた、鮎はその島邊に跳つた。
(112) 吉野は古へ吉野國ともいつたことのある今の吉野郡の汎稱である。吉野川沿線を溯つてゆくと、まづ眼につくは河南遙かに聳立する百戒嶽、次に金峯の山塊で、いはゆる吉野山はおもに金峯の中腹以下を稱する。
 天武天皇が吉野における一時的御隱棲地は何處であつたか。五節傳説(本朝月令所載)では、「或時離宮に琴を彈じて居らせられると、袖振山の方に當つて天女が空中に現じ、五度その袖を翻した」とある。今も袖振山(吉野山中勝手明神の山)の西北方位の田疇間に、その離宮址と稱してゐる處がある。假にこゝをその御隱棲地だとすると、金峯との關係は世話なしに解決される。
 「時なくぞ雪は降りける、間なくぞ雨は降りける」は眼前の光景を描寫したのではない。芳樹が「麓の方は時雨の雨間なく降り、奥の方は深山のしるしと雪の時なく降る」と解いたのは強辯である。かく雪と雨とが同時に降るやうに心得た人も多いが、それはこれを吉野入の當日の御製とのみ速斷した結果である。抑もこの「時なく」「間なく」とあるは、天武天皇が吉野の宮に隱棲中、その雨勝であり又雪勝であつた過去の御體驗を喚び起して下された語である。紀に據れば、冬十月十九日(今の十一月下旬)に吉野の宮に到着とある。場所が假令山陰の北向きであるにせよ、大和南部の氣象としては、そんなに澤山雪の降るには、時季その物が早過ぎる。天武天皇は翌年の六月朔日まで殆ど半歳以上、この吉野山中に籠居してゐられたのだから、山地に通有の雨雪の多量だつたこの期間の認識から出發したもので、只次句の「その雪の時なきが如、その雨の間なきが如」の前提的叙述たるに過ぎない。
 次に「思ひつつ」の思は、そも/\如何なるものであつたか。この歌ではそれに何等の説明が與へてないから、内容を攫むに苦むが、時なき間なき思は、決して尋常一樣なものではあるまい。まして上來の修飾が、間(113)斷なき雪や雨を譬喩に用ゐている爲に、頗る陰慘な氣分が往來し横溢してゐるから、愈よ以てこの思は、或物暗い感慨を寓してゐると見るが至當である。
 既にこの譬喩に用ゐた雨雪は、その體驗の語だといつた。するとこの歌の製作時期は、必ず吉野籠居以後と見なければならぬことになる。然も壬申戰後の天武天皇は得意の頂点に立たれてゐた筈だから、こんな陰慘な氣分は、その現在の御生活には略ないと假定してよからう。さればこの作を、天武天皇が吉野隱棲半歳ののち、擧兵出發の際の御作としたい。その理由は「思ひつつぞくる其の山路を」の一句にある。
 道の隈々思ひ殘す處のない心勞を重ねながら、吉野の山路を踏破する。これはそも何事を意味するものであらうか。當時皇太弟に對して近江方の壓迫は日一日とその度を加へ、政敵の魔手は既にその背後に伸びた。悲憤と危惧との混線は、端なく反噬的の態度に皇太弟を導いた。乃ち蹶然起つて擧兵を謀り、六月十二日吉野の宮を棄て、東國に發向された。吉野の里傳によれば、皇太弟はこの時吉野の宮から峯傳ひに五社峠を越え、吉野山の沿岸|國栖《クズ》の天皇淵を通過して、更に北に向つて蒐田(宇陀)の阿紀(今の松山)に出られたとなつてゐる。信にこれ嶮峻なる山路で、倉卒の際困憊を窮められたに違ひなく、のみならず兵事に就いての畫策謀籌は、一事も忽せにし難く、内外の心勞は眞にその頂點に達したと推測される。これ天武紀の明かに證する處。いはく、
  今聞(ク)。近江(ノ)朝廷之臣等爲(メニ)v朕(ガ)謀(ル)v害(ヲ)。是(ヲ)以(テ)汝等三人急(ニ)往(テ)2美濃國(ニ)1。告(ゲテ)2安八磨《アハツマノ》郡(ノ)湯沐令《ユノウナガシ》多(ノ)臣|品治《ホムヂニ》1。宜(ベ)2示(シテ)機要(ヲ)1。而先(ヅ)發(セヨ)2當郡(ノ)兵(ヲ)1。仍(テ)經《フレテ》2國司等(ニ)1。差2發(シテ)諸(ノ)軍(ヲ)1。急(ニ)塞(ゲ)2不破(ノ)道(ヲ)1。朕今|發路《イデタタム》。甲申。將(ニ)v入(ラント)v東《アヅマニ》。時(ニ)有(テ)2一(ノ)臣1。奏(テ)曰(ク)。近江(ノ)群臣無(ケムヤ)v有(ルモノ)2諜(ノ)心1。必(ズ)告(ゲバ)2天下(ニ)1則(チ)道路難(カラム)v通(ヒ)。何(ゾ)無(クテ)2一人(ノ)兵1。徒手《タムナテ》入(ラム)v東《アヅマニ》。臣恐(ル)2事(ノ)不1v就《ナラ》矣。天皇從(ヒテ)之。思3慾《オモホシ》返(シ)2召(サムト)男依等(ヲ)1。則(チ)遣(テ)d大分《オホキタノ》君|惠尺《ヱサカ》。黄書《キブミノ》造大伴。逢《アフノ》臣志摩(ヲ)。于|留守司《トマリヅカサ》高坂(ノ)王(ノモトニ)u。而令(ム)v乞(ハ)2驛鈴(ヲ)1。因(テ)以(テ)謂(テ)2惠尺等(ニ)1。曰(ク)。若(シ)不(ハ)v得v鈴(ヲ)1。廼(チ)志摩(ハ)還(テ)而復奏(セヨ)。(114)惠尺(ハ)馳(テ)之往(テ)2於近江(ニ)1。喚(テ)2高市皇子。大津皇子(ヲ)1逢(ヘ)2於伊勢(ニ)1。既(ニシテ)而惠尺等至(テ)2留守司(ニ)1。擧(ゲテ)2東宮之命(ヲ)1。乞(フ)2驛鈴於高坂之王(ニ)1。然(ニ)不v聽(サレ)矣。時(ニ)惠尺往(ク)2近江(ニ)1。志摩乃(チ)還(テ)之復奏(テ)曰(ク)。不v得v鈴(ヲ)也。是(ノ)日。發途《タチテ》入(リタマフ)2東(ノ)國(ニ)1。事急(ニシテ)不(テ)v待(タ)v駕《オホムマヲ》而行(キヌ)之。※[人偏+黨]《ニハカニ》遇(ヒ)2縣犬養(ノ)連大伴(ガ)鞍馬《クラオヘルムマニ》1。因(テ)以(テ)御駕《ミノリス》。乃(チ)皇后(ハ)載(テ)v輿(ニ)從(ヒタマフ)之。逮(テ)2于|津振《ツフリ》川(ニ)1。車駕始(テ)至(リ)。便(チ)乘《ミノリス》焉。是時(ニ)。元(ヨリ)從(ヘル)者草壁(ノ)皇子。忍壁(ノ)皇子。及(ビ)舍人朴(ノ)井(ノ)連雄君――之|類《トモガラ》。二十有餘人。女孺《メノワラハ》十有餘人也。即日。到(ル)2蒐田(ノ)吾城《アキニ》1。 (卷二十九)
これによると、犬養連大伴の馬を得るまでは、畏くも徒歩で約四里の山越をなされ、それからは馬上で、行程すべて八里を日のうちに踏破されたのであつた。
 耳我嶺の雨雪は單に譬喩の役目を果すのみではない、傍ら天皇の隱棲中の物暗い御生活を間接に語るもので、今また路といふ路の全部を「思ひつつぞくる」のでは、過去も現在もおしなべて、只これ一道の暗雲下に置かれた、頗る慘めなお氣の毒な尊いお方をそこに發見する。
 この長歌は組織上から見ると、一種の異體に屬する。冒頭「三芳野の耳我嶺に」は、その詠作の場所を限定する名には役立つてゐるが、畢竟ずるにこの句から「その雨の間なきが如」までの數句は、只「隈も落ちず」に對する修飾である。詰り末段の「隈も落ちず思ひつゝぞ來る、その山道を」の三句だけが、この歌の主要句で一篇の根幹を成して、他はその枝葉である。かういふ形式は、短歌にはよくある例で、それを序歌と呼んでゐるが、長歌としては珍しい。假に序體の長歌〔五字二重丸傍点〕といふ名稱を與へて置かう。
 
或本歌《あるほんのうた》
 
右の御製が萬葉の或本には次の如く傳はつてゐるとの意。この御製は盛に傳誦されたと見えて、卷十三にも雪(115)と雨との句が前後し、結句が全く變つた戀歌となつて、「作者不詳」として重出してゐる。蓋し盛に傳誦されゝばされる程、樣々の異傳を生ずるに至るは當然である。
 
三芳野之《みよしぬの》 耳我山爾《みかのやまに》 時自久曾《ときじくぞ》 雪者落等言《ゆきはふるといふ》 無間曾《まなくぞ》 雨者落等言《あめはふるといふ》 其雪《そのゆきの》 不時如《ときじきがごと》 其雨《そのあめの》 無間如《まなきがごと》 隈毛不墮《くまもおちず》 思乍叙來《もひつつぞくる》 其山道乎《そのやまみちを》    26
 
〔釋〕 ○ときじくぞ 季節はづれに、不時に。「山越しの風を時じみ」を參照。(四五頁)○ゆきはふるといふ 次の句「あめはふるといふ」も、何れも傳聞を記する趣であつて面白くない。本行の「ふりける」といふ直叙の方がふさはしい。又古葉略類聚鈔には「言」を二つとも之〔右△〕に作り、フルラシ〔四字傍線〕と訓んでゐるが、これも推量の語で面白くない。○ときじきがごと 舊訓にトキナラヌゴト〔七字傍線〕、又古寫本にトキナキガゴト〔七字傍線〕とあるが、トキジキと訓む御杖説がよい。○くる この歌では、上の雨雪の喩が「落等言」とあつて直叙でないから、「來」を現在にかく訓むは勿論である。歌意及び評語は大體において重複するから略く。
 
右句々相換(ル)、因(リテ)v此(ニ)重(ネテ)載(ス)焉。
 
 右は句々本文と相違があるから重ねて出すとの意。これも後人の註。
 
(116)天皇|幸《いでませる》2于|吉野《よしぬ》宮(に)1時|御製歌《みよみませるおほみうた》
 
天武天皇の吉野行幸の時の御作との意。紀に天皇の八年五月五日吉野行幸の記事がある。 
淑人乃《よきひとの》 良跡吉見而《よしとよくみて》 好常言師《よしといひし》 芳野吉見與《よしぬよくみよ》 良人四來三《よきひとよくみつ》    27
 
〔釋〕 ○よきひと 優れた人をいふ。「淑人」は詩經にも見えた語で、淑は善良なる意。○よしと 「と」はとて〔二字傍点〕の意。○よくみて 篤とみて。この「よく」は委曲の意。○よくみつ 「いひし」とある過去の辭法への應接には、こゝもミ〔傍点〕キ〔右△〕と過去に訓みたいが、「三」の一字をさう訓むことは穩かでない。で上の「よき人」は古へのよき人、下の「よき人」は當代のよき人と解して、ミツと現在完了態に訓む。
【歌意】 昔のよき人がこれはよい處だと篤と見て、あゝいゝといつた吉野を、お前達篤と見なさいよ、今のよき人も篤と見たことわ。
 
〔評〕 記紀ともに神武天皇の章に、吉野の地名が始めて著れてゐる。それはそれとして、吉野の地方的傳説に、古への淑人がよしと讃め稱へたのでその名が附いたといふやうな話が存在してゐたのだらう。
  妹が紐ゆふは河内《カフチ》といにしへのよき人見きとこを誰れか知る  (卷七−1115)
  いにしへの賢き人の遊びけむよし野の河原見れど飽かぬかも  (卷九−1725)
そのよき人といひ賢き人といふ、いづれも同じ傳説に本づいた吟咏と思はれる。懷風藻に、
(117) 「靈仙駕(リテ)v鶴(ニ)去(リヌ)」(藤原不比等)。「欲(ス)v訪(ネント)2神仙(ノ)迹(ヲ)1」(大伴王)。「此(ノ)地靈仙(ノ)宅」(紀男人)
などあるこの仙人も、よき人賢き人の事ではあるまいか。但|柘《ツミ》の枝の仙媛の如きは全くこゝには與らない。
 吉野は歴史的由緒の地であり、又山水形勝の地たるが爲に、大和朝廷時代には歴世離宮を置かれ、君臣上下非常のあこがれを以て、四時遊覽の訪問を絶たなかつた。記紀の記事、又はこの集及び懷風藻に見えた數多の詩歌が、これを立證してゐる。而もこの天皇は潜龍の際吉野の萬千の景勝を知悉して居られたのである。
 御製は「よき人」「よしといひし」「よし野」などの同語の重疊が、測らず文字遊戲の感興を唆つたので、遂に「よく見て」の一案を添加し、下句に於て更に反復し再唱して、頭韻を押してゐる。一首のうちに「よし」及びその變北の「よき」の語が八回まで繰り返されてあつて、しかも一向に猥雜煩瑣の感を與へないどころか、却つて芳野の形勝を認識すべく、古今の淑人のよく見た例によつて、侍臣等に諄々として訓誨されてゐる、その丁寧親切な情味は流れて盡きぬものがあり、而してそれが又間接には芳野形勝の禮讃となつてゐる。後世この種の遊戲文字は續出してゐるが、いづれも隣女の顰で、これに及ぶものは一つもない。
  ○なほ卷二「わがさとに大雪ふれり」の歌(三三三賞)の評語を參照。
 
紀(ニ)曰(ク)、八年己卯五月庚辰朔甲申、幸(ス)2于吉野(ノ)宮(ニ)1。
 
藤原宮御宇天皇代《ふぢはらのみやにあめのしたしろしめししすめらみことのみよ》 高天原廣野姫《タカマノハラヒロヌヒメノ》天皇
 
藤原(ノ)宮に天下を知し召した天皇の御代は持統文武の二代であるが、こゝは持統天皇の御治世のみをいふ。これに就いて別に私考がある。○藤原(ノ)宮 大和國高市郡|鴨公《カモキミ》村鴨公の森が、その大極殿の遺址といはれてゐる。從(118)來易世遷宮の遺制を破つて、奈良の京を創設する一段階となつたのはこの宮であつて、その都市は、北は耳無山に迫り、東は香久山に接し、南は豐浦五條野、西は八木小房から輕の大路までも展開したものと想定される。尚藤原の名義その他の委しいことは、下の「藤原宮御井歌」の條を參照(二〇四頁)。○高天原廣野姫天皇 持統天皇の御稱へ名。
△地圖 挿圖70を參照。
 
天皇(の)御製歌《よみませるおほみうた》
 
天皇は即ち持統天皇。
 
春過而《はるすぎて》 夏來良之《なつきたるらし》 白妙能《しろたへの》 衣乾有《ころもほしたり》 天之香來山《あめのかぐやま》    28
 
〔釋〕 ○なつきたるらし 夏が來たらしい。こゝの「らし」は衣の乾してあるといふ根據に基いての推量である。然し根據はなくても確實的推量の辭としても用ゐる場合がある。集中既にその例が多い。○しろたへ 白い布帛のこと。「たへ」は栲で、楮(穀《カヂ》)の皮の繊維を晒して織つた布をいふ。染めないのは(119)その色が白いので、白栲といふ。「妙」は借字。又「しろたへの」は衣又は袖の枕詞にも用ゐられるが、こゝは枕詞ではない。○ほしたり サラセリ〔四字傍線〕と訓むのも惡くはない。○あめのかぐやま 既出(二一、六七頁)。「かぐ山」の下に〔右○〕の助辭を略いてゐる。
【歌意】 春は既に過ぎて、早くも夏が來たらしい、向ふの香具山の里あたりに、あんなにちら/\と白い衣が乾してあるわ。
 
〔評〕 この歌初二句は、餘りにも當然過ぎて平凡なやうに思はれるが、然しそれは詞の表面のみを理智的に解釋するが故である。かく「春過ぎて」「夏きたる」と相對的にその經過を叙した間に、節物風光の須臾に改まつたのを驚嘆した趣が現じて來るのである。集中、「寒《フユ》過ぎて暖《ハル》きたるらし」(卷十)、「み冬すぎ春はきたれど」(卷十七)、「春すぎて夏來むかへば」(卷十九)など見えるのは、皆この趣である。されば、なほ暮れずと思へる〔九字右○〕春は過ぎて、未だ來らじと思へる〔九字右○〕夏はきたるらしと、詞を補足して見る時は、その詩意の浮動するを覺えるであらう。
 白たへの衣は、「夏來たるらし」の推定の根據となるものであるから、これに由つて當時の民庶の夏服は白衣であつたと想はれる。藤井高尚は四時白服であつたやうに論じてゐるが、さうとすれば白衣を乾してあつたからとて、特に「夏來たるらし」と推定すべき理由があるまい。持統記に、
  七年春正月辛卯(ノ)朔、壬辰――是日詔(シテ)令(ム)d天下(ノ)百姓(ヲシテ)1服c黄色(ノ)衣、奴(ハ)※[白/七]衣《クリゾメヲ》u
(120)とあるが、未だその實現に及ばぬ頃の御製であらう。
 さて「衣乾したり天の香具山」は、如何に香具山の小なるかを間接に語つてゐるものである。試に結句を葛城の山〔四字傍点〕又は生駒高嶺〔四字傍点〕にといふやうに置き換へて見たら、忽ちその權衡の不調和に氣付くであらう。實際香具山は登り四町にも足らぬ小山で、只その畝尾の三方に長く引延へてゐるに過ぎない。白衣を乾した民家の位置は山上ではない。山上から俯瞰すれば藤原の皇宮は目の下であるから、其處に民家を置かれる筈もない。况や山上には昔は櫛眞智《クシマチ》の社があつたといふから、民家は必ず山麓一帶の地と想定されるのである。
 鴨公の森の東に今も高殿《タカドノ》と稱する地がある。これが當時の藤原宮の西の高殿を建てられた遺址であらう。此處からとしても香具山は東の方五六町の距離に過ぎない。天皇一日東西いづれかの高殿にお昇りになつて、遠く四方を眺め給ふに、ふと香具山の畝尾にあたつて新緑の雜木の間に、白衣の隱見するのを發見せられ、それは去年の夏衣を取出して着ようとて、日光に晒してゐるものと御覽なされて、この御詠が洩れたものであらう。その取材に於いて、おのづから女帝としての御面影を浮べ奉ることが出來る。又色相の映對もあざやかな初夏氣分を漲らせて、極めて印象的である。
 
過(ぐる)2近江(の)荒都《あれたるみやこを》1時、柿本朝臣人麻呂《かきもとのあそみひとまろが》作《よめる》歌
 
近江の荒廢した大津京を過ぎた時、人麿が詠んだ歌との意。○近江荒都 天智天皇弘文天皇二代の帝都たる滋賀の大津宮の廢墟をさしたのである。天智天皇はその六年、大和の飛鳥(ノ)後(ノ)岡本宮から此處に遷都し給ひ、十年(121)十二月に崩ぜられたが、この宮はその崩御の直前に炎上し、加ふるに翌年七月、壬申の亂によつて御子弘文天皇亦俄に崩ぜられ、次の天武天皇は又大和の飛鳥淨御原に奠都し給うたので、大津宮は忽荒廢に歸レたのである。なほ上の「近江大津宮御宇天皇代」の條下を參照(七六頁)。
○柿本朝臣人麻呂 啻に本集第一の作家といふのみでなく千古の歌聖で、持統文武の兩朝に仕へたことは本集によつて知られるが、その傳は詳かでない。柿本氏は孝昭天皇の皇子天(ノ)押日子《オシヒコノ》命の後裔といはれる。人麻呂ははじめ東宮(ノ)大舍人として草壁、高市の諸皇子に歴仕し、又新田部皇子に仕へ、近江筑紫に來往し、晩年石見の國衙の官吏となり、遂にその地に歿した。眞淵は享年四十六七と斷じたが、或は六十歳近くに及んだかも知れない。紀には五位以上の薨卒は記載する例であるのに、人麻呂の事は全然出てゐない。又死歿の書例、四五位には卒〔傍点〕、六位以下には死〔傍点〕の字を用ゐるが令の規定だのに、集中卷二の題詞に「在(リテ)2石見國(ニ)1臨(メル)v死(ニ)時自(ラ)傷《カナシミテ》作歌」と書かれてある。この二つは人麻呂が六位以下であつたことを、如實に證するものゝ如くである。處が本集の題詞に、どの湯合でも、柿本朝臣人麻呂と記書されてある。これは普通五位の人の書式である。さあこの矛盾はどう解決してよいか。
 公式令に據ると、寮司の長官は位階に關はらず、大夫と稱して姓名を記し、次位の人は隨つて氏姓名を記すことになる。然し人麻呂は地位卑くその資格がない。或は尊敬の意から出たものか。山部赤人が人麻呂よりも一層微官で終つたらしいのに、尚山部宿禰赤人〔七字傍点〕と集中には記署されてある。但その他微官らしい人で姓を并記したのが澤山ある。この題詞はさう公式の書式にのみ據らず、嚴格なる統一はないものと見てよい。
 集中「人麻呂作歌」と署名のある歌は、長歌十七首短歌六十九首を算する。その他左註に「人麻呂歌集中出」(122)と記した歌が多數にあるが、それは大抵歌聖の歌風でなく、而も風調から見て時代が後れてゐるから、それらを歌聖の製作の一部として扱ふことは妥當でない。               △人麻呂總考(雜考―6參照)
 
玉手次《たまたすき》 畝火之山乃《うねびのやまの》 橿原乃《かしはらの》 日知之御世從《ひじりのみよゆ》【或云|自宮《ミヤユ》】 阿禮座師《あれましし》 神之盡〔左△〕《かみのことごと》 樛木乃《つがのきの》 彌繼嗣爾《いやつぎつぎに》 天下《あめのした》 所知食之乎《しらしめししを》【或云|食來《めしける》】 天爾滿《そらにみつ》 倭乎置而《やまとをおきて》 青丹吉《あをによし》 平山乎越《ならやまをこえ》【或云|虚見倭乎置青丹吉平山越而《ソラミツヤマトヲオキアヲニヨシナラヤマコエテ》】 何方《いかさまに》 御念食可《おもほしめせか》【或云|所念計米可《オモホシケメカ》】 天離《あまさかる》 夷者雖有《ひなにはあれど》 石走《いはばしる》 淡海國乃《あふみのくにの》 樂浪乃《ささなみの》 大津宮爾《おほつのみやに》 天下《あめのした》 所知食兼《しらしめしけむ》 天皇之《すめろぎの》 神之御言能《かみのみことの》 大宮者《おほみやは》 此間等雖聞《ここときけども》 大殿者《おほとのは》 此間等雖云《ここといへども》 春草之《はるぐさの》 茂生有《しげくおひたる》 霞立《かすみたつ》 春日之霧流《はるびのきれる》【或云 霞立春日香霧流《カスミタツハルビカキレル》、夏草香繁成奴留《ナツクサカシゲクナリヌル》】 百磯城之《ももしきの》 大宮處《おほみやどころ》 見者悲毛《みればかなしも》【或云|見者左夫思母《ミレバサブシモ》】    29
 
(123)〔釋〕 ○たまたすき 畝火に係る枕詞。「其頸所v嬰五百箇御統之瓊《ソノミウナジニウナゲルユツミスマルノタマ》云々」(神代紀)の如く、頸《ウナジ》に掛くるを古語で「うなぐ」といひ、襷は肩から頸の邊にかけてうなぐものであるから、その音の類似によつて畝傍に係けたと解く在滿の説がよい。尚既出「たまたすき」を參照(三九頁)。○うねびのやま 既出(六八頁)。○かしはら 高市郡白橿村、畝傍山の東南麓で、神武天皇の都し給うた地。今の橿原神宮はその舊址の一部である。○ひじりのみよゆ 天皇(神武)の御代から。「ひじり」は即ち「日知」で、日の御子として世を知らしめすこと。眞淵の解に「日之|食國《ヲスクニ》を知りますは大日女《オホヒルメ》の命なり。これよりして天つ日嗣しろしをす御孫《スメミマ》の命を日知《ヒジリ》と申し奉れり」とある。「ゆ」は助辭で、より〔二字傍点〕の古言。さてこの句の割註「自宮」はミヤユと訓み、或本にはかくある旨を示したのであるが、歌意から考へると、時間的繼續をいふのであるから、やはり本文の「御代ゆ」の方に從ふべきである。○あれましし 生むれ給うた。「あれ」は現れる、生まれるの義で、下二段活用の動詞。○かみのことごと 天子樣の皆悉くが。「かみ」は現《アキツ》神即ち現人神《アラヒトガミ》で、天皇を斥し奉る。「盡」を原本に書〔右△〕に作るは誤。今は元暦校本、類聚古集等に從つた。○つがのきの 「繼ぎ」との發音の類似から「つぎ/\」に冠した枕詞。「つが」は松柏類の針葉樹でトガ〔二字傍点〕ともいひ、普通に栂と書く。○いやつぎつぎに 「いや」はいよ/\、ます/\などの意。○しらしめししを 「しらし」は舊(124)訓に從つた。元暦校本、古葉略類聚抄等にはシロシ〔三字傍線〕とあり、僻案抄以來學者皆これに從つて來たが、然し本集中この語の假名書きの處を見ると、悉く「之良志賣之家流《シラシメシケル》」(卷十八)、「志良之賣師家類《シラシメシケル》」(同)、「之良志賣之祁流《シラシメシケル》」(卷二十)、「之良志賣之伎等《シラシメシキト》」(同)の如くなつてゐる。この句の割註「食來」はメシケルと訓むべく、即ち或本にはこの句がシラシメシケル〔七字傍線〕となれる由を示したものであり、眞淵はこれを可としてゐる。○そらにみつ 大和の枕詞。但この語は「虚見津」「虚見都」など書いてソラミツ〔四字傍点〕といふのが普通で、ソラニミツは他に類例が無い。ニ〔傍点〕を衍とする説もあるが、諸本皆かくあるので、姑く疑を存しておく。尚「そらみつ」を參照(一一頁)。○やまとをおきて 帝都たる大和の國をさしおいて。○あをによし 奈良の枕詞。既出(八三頁)。○ならやま 奈良山。「ならのやま」を見よ(八四頁)。○いかさまに いかやうに。○おもほしめせか 思召せばかの意。動詞の已然形から直に「こそ」「か」「や」等に續けるは古格である。「古への人にわれあれや」(卷一)、「歎きつつますらをのこの戀ふれこそ」(卷二)、「吾妹子がいかに思へか」(卷十五)など用例頗る多い。この句に對する割註のオモホシメセカ〔七字傍線〕に從へば、思召したのだらうかの意となり、時の表現は正格となる。然し本文の如く、かゝる場合は現在法を以て代用しても差支はないのである。この句は下の「知らしめしけむ」に遙に應ずる。○あまさかる 鄙に係る枕詞。大空遠く隔たる意で、鄙の國々は空の果に隔つて(125)ゐる故にいふ。○ひなにはあれど 邊鄙の地ではあるが。「鄙」は日下《ヒシタ》の義といふ。この句を古義が不の字の脱としてヒナニハアラネド〔八字傍線〕と訓んだのは頗る理由の無い説で、歌意の誤解に出たのである。○いはばしる 近江の枕詞。石の上を走る「溢水《アフミ》」の義で、同音の近江に係けたものといふ。、冠辭考はイハハシノ〔五字傍線〕と訓むべしと主張し、イハハシは石梁のことで、川の所々に石を置き竝べて飛び渡るものゆゑ「間《アヒ》」の義から近江《アフミ》に係けたといふ。集中には、「石走《イハバシリ》たぎち流るゝ泊瀬河《ハツセガハ》」(卷六)、「明日香河湍瀬由渡《アスカガハセゼユワタ》しゝ石走《イハハシ》もなし」(卷七)と兩方の訓例があるので、この「石走」も何れに訓むべきかは尚考究の餘地がある。○あふみのくに 「淡海」は即ち淡水湖《アハウミ》の義で、近江の琵琶湖のこと。「近江」の字面は「遠《トホ》つ淡海《アフミ》」(遠江)に對する「近《チカ》つ淡海《アフミ》」の義である。○ささなみ 既に古事記に、沙々那美《サヽナミ》、佐々那美遲《サヽナミヂ》、狹々浪《サヽナミノ》栗林、狹々波《サヽナミノ》山、孝徳紀に狹々浪(ノ)合坂《アフサカ》山など見え、湖西の比良山下明神崎以南の地の稱で、ほゞ今の滋賀郡全體に當る名であつた。語義は小波〔二字傍点〕の義で、淡海の湖から起つたもの。「樂浪」の字面は「神樂聲浪《ササナミ》」(卷七)とあるが元で、「神樂浪」(卷二)とも略し、更に「樂浪」と略したのである。ササ〔二字傍点〕を「神樂聲」と書くのは所謂戲書で、古へ神樂の囃しをササ〔二字傍点〕といつたからである。○おほつのみや 上の「近江大津宮御宇天皇代」の條を參照(七六頁)。〇しらしめしけむ この「けむ」は上の「いかさまに思ほしめせか」の係を承けての結辭となり、兼ねて直ちに次句へ接續してゐる併用格である。口譯には「けむ」の下に假にその〔二字右○〕の語を補足して意味を徹した。「兼」は音借字。○すめろぎのかみのみこと 天皇を直(126)ちに神として申上げる尊稱。こゝは天智天皇を指し奉る。「すめろぎ」は統《スベ》ら君《ギ》の義で、天子にいふ。○ここ 「此間」を意訓に讀んだ。○はるぐさの 舊訓ワカクサノ〔五字傍線〕とあるが、次の「茂く生ひたる」に合せて思へば妥當でない。元暦本、冷泉本その他の訓に從つた。○かすみたつはるびのきれる 霞たなびく春の日のぼんやりとしてゐる樣をいふ。「きれる」は四段活用の動詞「きる」の已然形に完了の助動辭「る」が添うたのである。「きる」は曇つて模糊たる状態を表すにいふ語。「秋の田の穗の上にきらふ朝霞」(卷二)、「目もきりて」(源氏物語)、「天きる雪」(古今集)の類その例が多い。この語が居體言となつて或水蒸氣の名となつたのが霧である。されば本文「霧流」の「霧」は借字である。さてこの二句の「生ひたる」「きれる」は次の「大宮處」へ係る格である。眞淵、千蔭等は割註のカスミタツハルビカキレル〔十二字傍線〕、ナツグサカシゲクナリヌル〔十二字傍線〕を可としてゐる。○ももしきの 宮に係る枕詞。「ももしき」は百石城《モヽイシキ》の義で、多くの石でその地盤の周圍を堅固に築きなした城《キ》だといふ。かうした立派な地域を構へての建築は、皇居などに於いて始めて見られるので、百磯城の宮と續け(127)いふことゝなつた。伊勢の内外宮の敷地の構成は、即ちその樣式を傳へたものである。「磯」をシと訓むは石《イシ》の上略。「城」は區劃を形作つた場處の稱。○おほみやどころ 皇居の地域。「おほ」は美稱。「みや」は御屋《ミヤ》の義。宮の字を常用とする。○みればかなしも 「も」は歎辭。割註のミレバサブシモ〔七字傍線〕も惡くはないが、本文のまゝでよい。「サブシ」は心の樂まぬ貌。
【歌意】 畝傍山の麓橿原の宮に御即位ましました神武天皇の御代以來、お生まれ遊ばされた歴代天子樣のすべてが、次々に同じ大和で〔五字右○〕天下をお治めなされたのに、その大和の國を棄てゝ奈良山を越え、どんな風に思召してか、當時邊鄙な田舍ではあつたが、近江の國の小波の大津宮を奠めて、天下をお治め遊ばされたことであつた、その天智天皇の皇居は此處だと聞くけれども、その殿舍は此處だといふけれども、今見れば春草の萋々と生ひ茂つてゐる有樣といひ、霞たなびく春の日の薄ぼやけてゐる有樣といひ、荒れ果てたこの皇居の廢址を見れば、昔榮えた面影もなく、誠に懷古の悲みに堪へられぬことではある。
 
〔評〕 第一段は、まづ神武天皇以來皇統連綿として繼承し四海を統治し來つた趣を叙べた。この事實は近江遷都を擧行された天皇の御宇だとて依然渝りはない。隨つて「知らしめししを」と抑へたのが無用で、意味が透徹しない。止むを得ず意釋には、倭において〔五字右○〕の語を補足した。尤も作者もその心持で、冒頭から「畝火の山」の「橿原の聖の御世」のと、大和といふ意識を強く匂はせてゐるが、修辭的には不完である。蓋し大和人たる時代意識に囚はれ過ぎた結果であらう。割註の「知らしめしける〔二字右△〕」は、第二段において「虚に見つ」の枕詞を隔てゝ「倭」に係る修飾句となるから、條理が立ち意味は疏通するが、句法が伸び過ぎて、だらけて面白くないことも事(128)實である。
 第二段「倭をおきて」と切る時は、下の「淡海の國云々」と遙に跨續る事になり、割註の「倭をおき」は直ちに次句の「平《ナラ》山を越えて」に對偶的關係をもつ。何れがこの場合尤も妥當かと考察するに、まづこの二句は「倭を」「平山を」の辭樣から推して、大體において排對的性質の組織である事を、誰れも認識するであらう。然るに「倭をおきて」と切れば、この句は上段に連繋する形式となり、聯對の意義を失つてしまひ、組織が亂れて不快を感ずる。よつて割註の方に從つて「て」の辭をこの聯句の最末に廻して置く方が穩かである。
 「思ほしめせか」は文法上にも非難がないのみならず、或本の「思ほしけめか」よりは力強い意調を感ずるから、本文に據りたい。
 第三段「霞立つ春日の霧れる、春草の繁く生ひたる」はその憑弔の時季が春季と一定する。割註の「霞立つ春日か霧れる、夏草か繁く成りぬる」は春夏の二季に亙つてゐる。どちらでも意味は通ずるが、本文の方は措辭がやゝ猥雜の感があり、割註のは對偶が比較的井整で的確である。その代り割註のはその叙景が想像から出發した總括的思索の句となり、本文は現前の光景の直叙となる。上來の「大宮は云々、大殿は云々」の句から推せば、こゝは現實の叙景であつてこそ、餘計に感愴が深まつて來ようといふものである。やはり本文に從つておきたい。
 前半歴代帝王の京は神聖なる傳承的約束があつて、輕卒に改易すべきものでない所以を闡明し、暗に「いかさまに思ほしめせか」の一句を以て天智天皇の近江遷都を非難してゐる。然しこれは一往の論であつて、既に大和國以外に遷都された先例がある。即ち
(129)  近江――志賀高穴穗《シガノタカアナホノ》宮(景行)
越前――角鹿笥飯《ツノガケヒノ》宮 (仲哀)
  長門――豐浦《トヨラノ》宮(仲哀)
  筑前――香椎《カシヒノ》宮(仲哀)
  山城――筒城《ツヽキノ》宮(繼體)
近江――志賀高穴穗《シガノタカアナホノ》宮(成務)
  攝津――長柄豐崎《ナガラトヨサキノ》宮(孝徳)
  河内――丹比柴籬《タヂヒノシバガキノ》宮(反正)
の如く澤山ある。わが大君〔四字傍点〕を絶叫する作者人麻呂にして、これらの史實を知らぬとは決していはれぬ。それを尚大まかに看過したことは、さし當つた遷都に就いての不滿と感慨とを叙するに急なるが爲であらう。作者は實に大和人で、而も大和朝廷の空氣を呼吸して生活する官吏である立場から出たものであることは勿論だが、元來作者は頗る保守的氣分に富んだ性格の持主であることが、その主因をなしてゐるやうに思ふ。
 「倭をおきて――淡海國の大津宮に天が下知らしめしけむ」、かう取捨得喪の相反する事相を對比させ、そこに「いかさまに思ほしめせか」の評語を挿んで、叡慮はとても凡慮の忖度し難いものゝやうに反らしてゐるが、實は娩曲な非難であり、却つては辛辣な皮肉とも聽かれる。かく叙事中議論をまじへる樣式は、漢詩にはその例多々であるが、わが長歌には實に珍しい。尤も議論は即ち議論で歌ではないが、歌意の平板に墮するを避ける一手段として、又健剛な※[しんにょう+猶の旁]勁な氣分と節奏とを釀成する一方法として、これを使用することも亦決して惡いことではない。
 後半いよ/\本題に入つて憑弔の意を叙べた。
 天智天皇は成務天皇の高穴穗宮の遺址から約二十五町ほど南方の坡上(南滋賀里)に皇居を奠め、諸官廳を(130)造り、大内裏を結構せられたのである。然るに天皇崩御の前月、大藏省の倉庫から火を失して皇居は全燒し、天皇はその後二旬を出でずして新宮に於いて崩ぜられた由、紀に見える、この新宮は皇居の炎上するや否や、即時御造營に着手されたのであらうが、續いて起つた壬申の亂までの間、僅か半歳ほどの間に竣工しさうな筈が無いから、全體に亙つて未完成のまゝ、或は一部分位急造の假普請のまゝであつたと推測される。されば天武天皇の飛鳥復都と共に、極めて短時日の間に大津宮が頽廢に歸した事情が、よく首肯されるのである。
 「大宮はここといへども、大殿はここと聞けども」は單なる反復の爲の反復でない。この一節はこの歌の中心點なので、最も力強い印象を與へる叙述の必要があるからである。まづ大宮と大體を提擧し、次にはその主殿たる大殿を指示した。大より細に、麁より精に入る筆法で、語に次第がある。「ここといへども」「ここと聞けども」は、舊都憑弔の作者が茫々たる草野に立つて、低囘躊躇して去りあへぬ光景が映出されて面白い。
 ※[(日+句)/列火]々たる春日は空しく山色水光を霞めて前朝を夢と隔て、※[草冠/妻]々たる芳草は徒らに閑花を著けて古宮の斷礎を埋めてゐる。この無情なる自然に對して、有情の作者はいよ/\斷腸の念に禁へなくなる。恰も詩聖杜甫の「國破(レテ)山河在(リ)、城春(ニシテ)草木深(シ)」の句とその軌を同じうし、その感をひとしうするものがある。これ「見れば悲しも」と結收された所以である。
 抑もこの歌、第一段の叙述がやゝ不完で、明晰を缺いてゐる。又「天離る夷にはあれど」の一句は全くの冗語で、こんな小理窟を挿む必要がないどころか、却つてこれあるが爲に、折角昂進して來た讀者の感情を冷却させてしまふ。隨分輪廓は立派な作だのに惜しい事である。割註が多分の異同を示したことを思ふと、尚それらの外に幾多の訛誤が潜んで居ることが想像される。
 
(131)反歌
 
樂浪之《ささなみの》 思賀乃辛崎《しがのからさき》 雖有幸《さきくあれど》 大宮人之《おほみやびとの》 船麻知兼津《ふねまちかねつ》    30
 
〔釋〕 ○ささなみの 志賀に冠せた汎稱。上の「ささなみ」を參照(一二五頁)。○しが 滋賀、志我、などの字も充てゝある。樂浪《サヽナミ》地方は殆どこれに屬して滋賀郡を立てられた。「しが」はスカ〔二字傍点〕と同じく水邊の砂地を稱する。洲處《スカ》の義。○からさき 辛崎は普通に唐崎と書く。今の唐崎とほゞ同位置と考へられる。○さきくあれど 恙なくあれどの意。「さきく」はその異状無きを喜んでいふ。○おほみやびと 大宮に仕へ奉る人。官人。○ふねまちかねつ 待てども待てども船を待ちつけ得ないとの意で、實は船の決して來ることのないことを婉曲にいつた。「かね」は「かぬ」の第二變化。この語はもとかつ〔二字傍点〕(難)から出た語。「兼」は借字。
【歌意】 志賀の辛崎は、昔のまゝに恙なく、依然として明媚な風光を展開してゐるけれども、大宮人達の美しい舟遊の船は、いくら待つても待ちつけ得ない。鳴呼もう決して來ることはないのだと思へば悲しい。
 
〔評〕 大津の宮の荒廢して麥秀離々たる情景は、既に長歌に於いていひ盡した。反歌は乃ち一轉して琵琶湖上の舟遊に及んだ。
 抑も帝都を變更することは、人心の一新を圖る政治家の秘策である。天智天皇は英明の君、この秘策を執り、不便な飛鳥の邊隅を棄て、東西交通の咽喉を扼する大津の地を選んで、帝業を弘めようとなされたのであ(132)る。而してこれはその外面的理由であり、他に内面的には、萬頃の小波瀲※[さんずい+艶]たる湖上の勝景によつて、その遊樂の欲求を充たさうとの御目的もあつたやうである。乃ち湖畔には濱樓を設けて、常にこゝで置酒高會し給ひ、月卿雲客も亦時に扁舟を操つて煙波の興を擅にし、時に遊屐をかりて邱壑の勝を探つた。而して湖上の舟遊は殊に上下を通じての歡娯であつた。されば天皇の崩御を嘆き悲しんだ歌に、額田王は、
  かゝらむとかねて知りせば大御船はてし泊《トマリ》にしめ結はましを(卷二―151)といひ、又倭(ノ)大后は、
  いさなとり近江の海を、沖さけて漕ぎくる船、へづきて漕ぎくる船、沖つ櫂いたくなはねそ、邊つ櫂いたくなはねそ、若草のつまの念ふ鳥立つ (卷二―153)
と詠まれた。蓋し近江朝廷懷古の作としては、湖上の舟遊は逸すべからざる重要題材であると思はれる。作者は即ちこゝに着眼して一吟を試みた。
 辛崎は岩石の斗出ではない。單なる沙嘴で、地質的に變形し易い場處である。それすら大津宮時代のまゝに依然として存在してゐるがと喝破した。無心の辛崎に對して、その存在を「幸くあれど」と有情に扱ふ、そこに作者の辛崎に寄せた懷(133)かしい情味の搖曳が認められる。作者は今この砂嘴に立て、嘗てよりその脳裏に描いてゐた當時の大宮人の舟遊の幻影を追うてみた。が徒らに萬疊の漣※[さんずい+獣偏+奇]の天を浸し岸に※[口+耳]くのみで、低囘良久しうするけれども、懷かしい遊舫の影は杳としてその消息を知らない。「舟待ちかねつ」は實はこれ作者の當面の感情なのを、すべて辛崎の上に寄托した擬人の修辭は、この際頗る娩曲味と含蓄味とを饒からしめる。
 語を換へていへば、辛崎の有に對する大宮人の舟の無であつて、有無正反對の現象の交錯から生ずる感愴が基礎となつてゐる。それに擬人の衣をかけて諷託寄興したのだから、内に藏した無量の慨歎と外に流れる温籍な情味とが一體に融合して、一唱三歎の味ひが生じてくる。「幸くあれど――待ちかねつ」とは一往の理窟であるが、これは既に辛崎を人格視した詩的著想の上に築かれた空中樓閣だから、さのみ感興の昂揚を妨げる程の影響を齎さないどころか、却つて感興を反撥する力強さがある。
 かくはいふものゝ舍人吉年の作に、
  八隅如しわご大君のおほみ船待ちか戀ふらむ志賀のから崎 (卷二―152)
と先鞭をつけた歌あるを如何。然し作者は歌聖である、流石に點化の術を見出すに難くなかつた。乃ち大御船を大宮人の舟に取成し、さて「待ちか戀ふらむ」の想像を「待ちかねつ」と決定的に現在に仕立てたのは、甚だ力強い印象を與へる辭樣であつて、原作に比べると更に一段の巧緻と、一層の洗煉とを加へたものといへる。况や「八隅知しわご大君」の語は長歌に用ゐる套語で、短歌には餘に莊重に過ぎ、※[奚+隹]を割くに牛刀を以てする觀があるのを、この「ささ波の志賀の辛崎」の平叙と「辛崎さきく」の疊音の諧調とは相俟つて、まづ打上ぐるより頗る優麗に聞える特色がある。
 
(134)左散難彌乃《ささなみの》 志賀能《しがの》【一云|比良乃《ヒラノ》】大和太《おほわだ》 與杼六友《よどむとも》 昔人二《むかしのひとに》 亦母相目八毛《またもあはめやも》【一云|將會跡母戸八《アハムトモヘヤ》】    31
 
〔釋〕 〇しがの 割註の「比良の」は事實に合はぬ誤傳。○おほわだ 大いなる曲《ワダ》。「わだ」は水の灣入した處をいふ。○よどむとも たとひ淀むともの意。今は淀んで居らぬ場合においてのみいふ詞。「淀む」は水の停滯すること。前註者は皆これを昔のまゝに〔五字右○〕淀むともといふ意に解してゐる。これは大曲の水だから既に淀んでゐるものと速斷して、事實を疎略にした謬見である。琵琶湖は流石に大湖で、岸邊の波は常に動搖して決して淀まない。「友」は借字。○むかしのひと 昔在りし人。大津宮當時の大宮人達をさす。○あはめやも 逢はむやはに同じい。「やも」は反辭。「相」はアヒの訓を轉用した借字。
【歌意】 志賀の大曲よ、それが假令淀むとしてからが、こゝに樂しく舟を泛べたあの當時の大津宮の官人達に、また再び逢はれうことかい。
 
〔評〕 志賀の大曲は即ち辛崎から南へ灣入した曲浦をいふのである。大津宮の頃は大宮人達の擧つて舟遊に出入した船着場であつた。今大和國から遙々と來て見ると、縹渺たる烟波は舊態依然として春光の浦に横はり、水は昔ながらにさゆらいで、汀沙を?んで折れ返つてゐる。が星霜茲に幾春秋、また大宮人の隻影をだに認め得ない。これ舊都憑弔の客の眼底に、まづ第一に映じ來つた印象であつたらう。この哀愁の意を直叙しても、なほ歌として相應の收穫があつたに相違ない。しかも人麻呂はそれだけに滿足するを得なかつた。更に一段の詩想(135)を高揚し、今眼前に漾々たる大曲の水の動きにわが感興の焦點を置き、そこに假想を描いて「淀むとも」の空中樓閣を出現せしめた幻化の手段は眞に絶妙である。現實においても昔の人に逢ふよしがない。幻化の假想世界においても亦逢ふよしは絶對にないと力んでゐる。これは前朝の繁華の尋ぬる處もない幻滅の失望を暗映させたもので、誠に老巧の構想といふべく、憑弔の哀感がおのづからその中に搖曳してゐる。
 割註に「比良乃《ヒラノ》」とあるが、比良は大津から餘に遠いので、本文の方が勿論よい。「將會跡母戸八《あはむともへや》」も惡くないが、なほ本文の思ひ入つた強い調子の方が痛切である。
 
高市古人《たけちのふるひとが》感2傷《かなしみて》近江(の)舊堵《ふるきみさとを》1作《よめる》歌  或書(ニ)云(フ) 高市連黒人《タケチノムラジクロヒト》
 
高市古人が近江の大津の舊郡を訪うて悲んで詠んだ歌との意。○古人 如何なる人物か詳でない。註の或書にいふ「黒人」も傳は不明である。但黒人の作は集中他にも散見するので、これをも黒人の作と臆斷して、高市黒人と書くべき處を歌の初句の「古人」とあるに紛はれて、高市古人と書いたのだらうと定めて、考や古義などに、題までを黒人と改めたのは私妄である。且黒人には必ず連《ムラジ》の姓が并記してあるが、この古人にはそれがない。黒人よりは身分の卑い別人であらう。又卷三に黒人の近江旅行の歌が別に出てゐるのは、いよ/\その別人である證左の一とも見られる。○近江舊堵 近江の大津の〔三字右○〕舊都。「堵」は都〔右△〕に通じて用ゐる。○或書云高市連黒人 これは例の後人の書入ながら、或歌書にはさうあつたのだらう。この「或書」は萬葉集の一本のことではない。一本の時には或本〔二字傍点〕と書くのが、この集の書例である。
 
(136)古《いにしへの》 人爾和禮有哉《ひとにわれあれや》 樂浪乃《ささなみの》 故京乎《ふるきみやこを》 見者悲寸《みればかなしき》    32
 
〔釋〕 ○いにしへのひと 古への大津宮當時の〔六字右○〕人。○われあれや 自分があるのかしての意。「あれや」は、あればやの意に當る古言の辭樣である。「あまなれや」を參照(一〇六頁)。○ささなみの 京《ミヤコ》にかゝる詞。委しくは「ささなみの志賀の京〔四字右○〕」といふべきであるが、「ささなみ」はこの地方の汎稱であるから、かうも用ゐる。○ふるきみやこ 廢都。
【歌意】 自分は今の世の人だと思つてゐたが、それともこの大津宮の盛であつた當時の人なのかして、今こゝに來て荒廢したこの都を見ると實に悲しいわ。
 
〔評〕 この作者は、全く大津宮の頃には居合はせなかつた人と思はれる。まづこの前提を置いて後、この歌を味讀することを要する。たま/\舊都を慕つて來て見ると、山水草木は舊に依つて榮えてゐるのに、廢垣破瓦は前朝の宮址に狼籍として横はつてゐる。かくの如く、大自然の威力の前には、人間の功業の轉た塵の如く煙の如く物はかない樣を、まざ/\と見せつけてゐるのに對しては、何人と雖も大いなる悲愁の情の動くに禁へないであらう。
 多感の作者は茲に於いて飜つて一轉捩を試みた。それは即ち、自分があまりな憑弔の涙にくれたことを自覺して、更に一往の思索に訴へて、自身の行爲を訝つたことである。その思索といふは、この京の盛時を實地に(137)見た人こそ今昔の感にも打たるべきであらうが、實見せぬ後人はそんな筈はないといふことで、その論理には固より非常な不備缺陷があるけれども、それらには一向頓着しないのである。即ち不完全な理性、否詩的な感情を透して、われと我が身の來歴を疑ひ、存在の時代を訝るに至つては、その癡や及ぶべからず。蓋し悲傷の餘に出た矯語である。
 更に一説を提供する。それは「古への人に」は作者自身の名を詠み入れたのではあるまいかといふことである。自他の姓名を歌謠に取込むことは、記紀ともにその例が多々あり、又「高行くや隼別《ハヤブサワケ》、鷦鷯《サヽキ》取らさね」(記―仁徳)の如く、譬喩に活用した例もある。こゝは「若しかしたら、自分は名詮自稱、古への人であるかして」とまで、わが名の古人〔二字傍点〕を活用したのではあるまいか。
 
樂浪乃《ささなみの》 國都美神乃《くにつみかみの》 浦佐備而《うらさびて》 荒有京《あれたるみやこ》 見者悲毛《みればかなしも》    33
 
〔釋〕 ○ささなみのくにつみかみ ささなみの國の國都美神といふべきを略したもの。「ささなみの國」は、國とはいつても、吉野《ヨシヌ》の國、泊瀬《ハツセ》の國の類で、狹い範圍に用ゐられた稱で、滋賀郡の地をさす。○くにつみかみ 國つ御神。但|天神《アマツカミ》に對していふ地祇《クニツカミ》とはその意を異にし、土地の神をいうたので、こ>は佐々那美《サヽナミ》の國を敷きます神をさす。「美」は借字。○うらさびて 「うら」は心のこと。「さび}は下二段の動詞「さぶ」の第二變化で、慰まず冷《スサ》まじき意。集中「不樂」「不怜」な」どをサブシと訓んである。動詞と形容詞との差はあるが、もとは同語。宣長、御杖、雅澄等は、心の荒れすさみてと解したけれども、井上氏の新考に、その非なる由を論じ(138)てゐる。「浦」は借字。○あれたるみやこ 大津の京をさす。
【歌意】 土地を守り給ふ樂波の邦の邦つ御神の御心が、樂まず氣が進まずおなりなされて、その爲かくも大津の京は荒れはてたが、この荒れた京を見ればまことに悲しいことだわい。
 
〔評〕 佛教思想は、當時上流紳士の信仰を基礎として一般に弘通せられたけれども、畢竟如來はその理想の象徴であり、佛像は更にそれを偶像化しただけに過ぎない。凡百の事物を直ちに佛とし、如來として崇拜するといふことは殆どなかつた。然るに獨りわが民族固有の信念は、森羅万象事々物々に神の存在を認め、宇宙より始めて生物は勿論、山河草木に至るまで、苟も特異の事相を有する場合には、悉くこれを神として視、且崇拜し、遂に八百萬の神あるに至つたのである。茲に於いてか土地には國つ神があり、この國つ神の心のなしにより、加護不加護によつて、その土地は或は榮え或は衰へるものと考へたのである。集中に散見する、
  山祇《ヤマツミ》のまつる貢と、春べは花かざし持ち、秋立てばもみぢ葉かざし、夕川の神も、大御食に仕へまつると、上つ瀬に鵜川をたち、下つ瀬にさでさし渡し、山川もよりて仕ふる云々。 (卷一―38)
  三芳野の秋津の宮は、神がらか尊かるらむ云々。 (卷六―907)
の類は、本文と共に以上の説に確證を與へるものである。されば作者古人も、大津京の荒廢は遷都の結果であつて、固より人爲的なのを、それも國つ御神の御心變りに由るものと觀じたのである。人に見限られたのは猶忍ぶことが出來よう、神に見放されては更に取付く島も無い。「見れば悲しも」は眞に同情のあまりに出た語であらう。
 
(139)幸《いでませる》2于|紀伊《きの》國(に)1時、川島|皇子《みこの》御作《よみませる》歌    或云 山上臣憶良《ヤマノウヘノオミオクラノ》作
 
持統天皇が紀伊行幸の時、川島皇子の詠んだ歌との意。○幸于紀伊國 持統紀に、「四年九月丁亥天皇幸(ス)2紀伊(ニ)1、戊戌天皇至(マス)v自(リ)2紀伊1」とある時のことであらう。○川島皇子 持統天皇には異母弟に當られる。位淨大參に至り、持統天皇の五年九月薨ず。御年三十五。この歌は姉帝の御供で紀伊へ往かれた時の御作である。なほ「河島皇子」を參照(五〇五頁)。○或云山上臣憶良作 後人の書入れ。憶良の傳は(四六、二三四頁)を參照。
 
白浪乃《しらなみの》 濱松之枝乃《はままつがえの》 手向草《たむけぐさ》 幾代左右二賀《いくよまでにか》 年乃經去良武《としのへぬらむ》 【一云、年者經爾計武《トシハヘニケム》】    34
 
〔釋〕 ○しらなみのはま 白波の立つ〔二字右○〕濱の意。固より完語ではないが、かゝる類例は當時は少くない。然るに眞淵が「浪は良の誤にて、シラヽノ〔四字傍線〕と訓むか、さらずばシラカミノ〔五字傍線〕の誤ならん」といつたのは獨斷であらう。○はままつがえのたむけぐさ 濱松の枝に懸かつてゐる手向種《タムケグサ》。手向種は手向の具をいふ。「手向」は神などに物を獻ること。古義には取向《トリムケ》の約と説いてゐる。「草」は借字。○いくよまでに 幾年ほどにの意。「左右」をマデと訓むは、古へ手の左右揃つたのを褒めて、眞手《マテ》と呼んだ。眞は美稱である。集中なほ、左右手、諸手、兩手、二手をマデの助辭に充てゝゐる。又二梶をマカヂと訓むも、櫓の二つ揃ふからの稱である。
【歌意】 この濱松が枝に懸かつてゐる手向種は、古への旅人が行旅の平安を祈つた物だらうが、この手向種はそも/\の昔から、もはやどの位までに年經たことであらう。隨分久しいものだらうなあ。
 
(140)〔評〕 仙覺の註に、「神に奉る物を松にかけおきたれば、濱松か枝の手向草とよめる也」とあるので、後世の註家は皆これを準據として説を立て、殊に古義に、「齊明天皇、中皇女などの紀の温泉行の折、松が枝にかけた手向草の、なほ殘れるものの如くに見做して詠めり」とまでいつてゐるが、三十餘年も以前の手向草がいまだに枝上に朽ち殘つてゐると觀ずることは、ちと考物ではなからうか。これは只誰れの捧物だかわからぬが、風雨に晒れた木綿《ユフ》などが松が枝にふら/\してゐるのを見ての詠懷としたい。松に木綿《ユフ》懸けることは、常陸風土記に「小松に木綿しでて」とも見えて、今も榊に御幣を付けて捧げるのと同じ仕業である。
 古へは道路の重要地點に岐《フナドノ》神を祀り、旅人はこれに行旅の無事平安を祈つたものである。作者川島皇子も、今紀の路の或叢祠の前に立つて、普通旅客のする如く、その幣を手向けようとしたのである。處がそこには既に舊い手向種が松が枝にしで懸けられてあつた。で一寸躊躇しつゝあるうちに、端なく「幾代までにか」といふ閑想像を馳せて、輕い追懷に耽つた。着想としては大した事もないが、かやうに疑問を投げ懸けた結果、そこに多少の姿致を生じ、纔に平凡から穎脱してゐる。卷九に再出したのには、
  白那彌之《シラナミノ》濱松の木〔右○〕の手むけ草、いく世までにか年は〔右○〕經ぬらむ  (―1716)
とある。
 さてこの歌は皇子薨去の前年の作であることを思ふと、?ひにこの歌が時間の經過を主想としただけに、何だか物はかない哀愁を感じられてならない。割註「年者經爾計武《トシハヘニケム》」とあるは純過去の語法である。現に濱松が枝を眼前に置いての作としては、當然本文の如く完了態にすべきである。
 
(141)日本紀(ニ)曰(ク)、朱鳥四年庚寅秋九月、天皇幸(ス)2紀伊(ノ)國(ニ)1也。
 
 紀の今本には持統天皇の四年に紀伊行幸の記載がある。而して朱鳥改元は持統天皇御即位の前年、天武天皇の御時の事であるから、持統天皇四年は實は朱鳥五年になる譯である。干支も丁度庚寅に相當する。さればこの左註「朱鳥」の二字は衍として削るべく、若しこれを生かせば、「四」を當然五〔右△〕に改めねばならぬ。尚日本靈異記には朱鳥九年まである。(この年紀の支吾に就いては木村氏の日本紀年紀考がある。)
 
越(えます)2勢能《せの》山(を)1時、阿閇皇女《あべのひめみこの》御作歌
 
○勢能山 紀伊國伊都郡笠田村にあり、背の山、兄の山など書く。紀の川の北岸に立つ百六十米突ほどの小山。對岸の澁田村なる小山を妹山と呼んで、古來、妹背即ち夫婦の義に取成して詠んだ歌が多い。大和國吉野郡の妹背山は後世の假託。○越 今は紀の川と背の山との間に坦路が通じてゐるので、越ゆる必要もないが、昔は山根まで川が廣がつてゐたので、山越をしたのである。○阿閇皇女 天智天皇の第四皇女で、草壁皇太子(天武天皇の皇子)の妃となり、文武天皇を誕み給ひ、後に御即位あつて元明天皇と申し奉る。
 
此也是能《これやこの》 倭爾四手者《やまとにしては》 我戀流《わがこふる》 木路爾有云《きぢにありとふ》 名二負勢能山《なにおふせのやま》    35
 
〔釋〕 ○これやこの これがあのの意。「や」は疑問の係辭で、結句「せのやま」の終に含む補語で結ぶ格である。蝉丸の「これやこの往くも歸るも」の歌で思ひ合はせるがよい。○やまとにしては 大和にあつてはの意。こ(142)の「は」の辭は、紀路に對して差別の意をなす強い用法なることに注意すべきである。○きぢにありとふ 紀路に在りといふの意。この何路〔二字傍点〕といふに二義ある。(1)はその地その所に向ふ路の意。宮路家路などがその例である。(2)はその地その所の路をいふ。こゝは(2)の意。〔この「何路〜」が、初版では、「「紀路」は正しくは紀州に向ふ路の義で、宮路、家路など皆同じい。故にその國の眞中に在つては言ひ難い語であるが、時に互用してゐる。」となつていて、底本の七版の方が詳しい。SK〕「とふ」はトイフ〔三字傍点〕の約で、更に轉訛してチフ〔二字傍点〕ともなり、後世はテフ〔二字傍点〕となつた。「木路」の木は紀伊の國稱の本義で、紀の國は木の國である。森林が多くて材木に富んでゐたからの稱。○なにおふせのやま 名に負ひ持てる夫《セ》といふ山の意。「山」の下、なる〔二字右○〕の助動詞を略いてある。
【歌意】 これがあの、紀州路にあると豫て聞き及んでゐた、そして大和に在つてはわが戀ひ奉る夫《セ》の君の、そのセ〔傍点〕といふ語を名に負ひ持つ山なのかまあ。懷かしい山よ。
 
〔評〕 「大和にしてはわが戀ふる」は、元來|夫《セ》にかゝる修飾の語であるが、一首の死命を制する底の、動かすべからざる要素をなしてゐる。即ち試にこの句を省いて見る時は、
 これやこの………紀路にありといふ背の山ナル〔二字右○〕となつて、その意こそ明かであるが、詩味は索然としてしまふ。それは單なる名勝讃歎の趣に過ぎない故であ(143)る。これは恰も蝉丸の歌の
 これやこの………逢阪の關ナル
とだけでは、何等の興趣をも齎さないのと同樣である。「往くも歸るも別れては知るも知らぬも逢ふ」と、關路往來の織るが如き光景を表はした一句を挿むに至つて、始めて一段の詩趣の油然として湧く感がするであらう。この歌も「大和にしてはわが戀ふる夫《セ》」と、遣る瀬ない思慕の念をいひかけた、女らしさの情味ある句が挿入された爲に、如何にも懷かしい情緒の動きが認められるのである。
 抑も作者阿閇皇女は、この朱鳥五年の御姉君持統天皇の紀伊行幸の折は、三十七歳であらせられた。行幸の御供をなされて、端なく紀州路の背の山に行かれた。背の山は※[草冠/最]爾たる小山でこそあれ、當時畿内の南限として著名であつた。故に「紀路にありとふ」ことは、皇女は夙くより御記憶なされてゐたと思はれる。即ち孝徳紀に、
  天皇二年正月詔(シテ)曰(ク)、凡(ソ)畿内(ハ)東(ハ)自(リ)2名墾《ナバリノ》横河1以來、南(ハ)自(リ)2紀伊(ノ)兄《セノ》山1以來、西(ハ)自(リ)2赤石(ノ)櫛淵1以來、北(ハ)自(リ)2近江(ノ)狹々波(ノ)合坂《アフサカ》山1以來、爲(ス)2畿内(ノ)國(ト)1。  (卷二十五)
と見えてゐる。况や皇女は草壁皇子に嫁せられてからは、その山名の「せ」といふに就いて、常に夫君の皇子を御聯想遊ばされたであらう。今端なくこの背の山を目のあたり越えますに及んでは、これがまあ、あの懷かしい背の山かと、思はず渇仰讃歎せられたのも偶然ではない。
(144) かくて更に一考すれば、茲に一新事實を發見する。それは外でもない、背の君草壁皇子が既にこの前年の四月に薨去されてゐたことである。さては「大和にしてはわが戀ふる」は、尋常一樣の相愛の情の表現ではなく、更に一層悲慘な死別の御追懷なのであつた。いかに戀ひ慕つても再び相見る由もない。纔に「紀路にありとふ背の山」に對して、その大和に於ける平生の思慕の情を慰めて居られる。あはれとも悲しいとも申し奉るに言葉が無い。まことに御名作といふべきである。
 
幸《いでませる》2吉野《よしぬの》宮(に)1之時、柿本朝臣《かきもとのあそみ》人麻呂(の)作歌〔左△〕
 
持統天皇の吉野離宮行幸に際し、柿本人麿が詠んだ歌との意。その年月は詳かでない旨は、左註にも記してある。原本には「作」の下歌〔右△〕を脱してゐるが、古本、古寫本に據つて補ふ。○吉野宮 この時代以後では、今の吉野郡中莊村のいはゆる宮瀧の地點を、その遺址と認定したい。△地圖 挿圖35を參照(一一〇頁)。
 
八隅知之《やすみしし》 吾大王之《わがおほきみの》 所聞食《きこしをす》 天下爾《あめのしたに》 國者思毛《くにはしも》 澤二雖有《さはにあれど》 山川之《やまかはの》 清河内跡《きよきかふちと》 御心乎《みこころを》 吉野乃國之《よしぬのくにの》 花散相《はなちらふ》 秋津乃野邊爾《あきつのぬべに》 宮柱〔左△〕《みやばしら》 太敷座波《ふとしきませば》 百磯城乃《ももしきの》 大宮人者《おほみやびとは》 船竝※[氏/一]《ふねなめて》 旦川渡《あさがはわたり》 舟競《ふなぎほひ》 (145)夕河渡《ゆふがはわたる》 此川乃《このかはの》 絶事奈久《たゆることなく》 此山乃《このやまの》 彌高良之《いやたかからし》 珠水激《いはばしる》 瀧之宮子波《たぎのみやこは》 見禮跡不飽可聞《みれどあかぬかも》    36
 
〔釋〕 ○やすみしし 大王に係る枕詞。既出(三〇頁)。○きこしをす お治め遊ばされる。舊訓キコシメス〔五字傍線〕とあるが、眞淵の訓に從つた。○くにはしも 「しも」は強辭。○さはに 澤山に。「澤」は潤澤の意を採る。○やまかはの 「やまかは」は山及び川の意であるから清音に讀む。○かふち かはうちの約で、河流に抱へ込まれた地をいふ。「かふちと」は下の「ふとしきませば」に係る。「と」はとて〔二字傍点〕の意。○みこころをよしぬのくに 御心よ善《ヨ》しといふを吉野國に係けた修飾語で、いはゆる有心の序詞。「を」は歎辭。以上は古義の説である。神功紀の御《ミ》心廣田之國、御心|長《ナガ》田(ノ)國の例から推して面白いと思ふ。舊解では御心を寄すに吉野を係けたものとしてゐる。○よしぬのくに 今の吉野郡の地をい(146)ふ。こゝの「國」は狹義。「いなみ國原」を參照(七二頁)。○はなちらふ 「秋津の野邊」の修飾語。枕詞といふよりも事實に即した描寫で、こゝには春秋色々の花が咲いては散つたものと思はれる。「ちらふ」は散るの延言で、その反復繼續の意を表はす。「相」はアヒの訓からの轉借字。○あきつのぬべ 吉野離宮の所在地の稱。今は中莊村吉野川南岸の少し西寄り、御園村の中に秋戸、下津野等の地名が殘つてゐるが、地形上から考へて蜻蛉野の本據は吉野川の北岸宮瀧の地にあるべきである。これより上流なる川上村西河の大瀧附近にも同名の傳説地があり、大瀧を一名セイメイ瀧といふは蜻蛉《アキツ》の字音によるものといひ、又近頃小川の小村の地を蜻蛉離宮址と主張する異説もあるが、今は採らない。○みやばしらふとしきませば 宮殿の柱を太くしつかりと建てれば。即ち堅固な宮造をしたればの意。「太敷《フトシキ》」は太知《フトシリ》と同語。雄略天皇御製の「しきなべて」の項參照(一二頁)。大祓の枕詞に「下津磐根爾宮柱太敷立《シタツイハネニミヤバシラフトシキタテ》」、祈年祭の祝詞に「宮柱太知立《ミヤバシラフトシリタテ》」、その他の祝詞にも古事記中にも多く見える慣用語である。古義に宮柱は「ふと」にのみ係る枕詞と解(147)して、柱に敷くといふ理なしとあるが、然らば上の大祓の句を何と解するか。總べて言語は時代により時と場合に依り、種々にその語形もその意も常に變化されてゆくことを念はねばならぬ。膠柱の論には困る。「柱」を原本に桂〔右△〕とあるは誤。○ふねなめて 舟を竝べて。「なめて」は既出(三六頁)。○あさがはゆふがは 朝方の川を朝川、夕方の川を夕川といふ。朝夕で切るのではない。「旦」を原本に且〔右△〕とあるは誤。○ふなぎほひ 舟を競うて漕ぐこと。○ゆふがはわたる 諸本ワタリ〔三字傍線〕とある。古義の訓に從つた。○このかはのたゆることなく この川の如く〔二字右○〕離宮はいつまでも絶えることなく。「この川」は吉野川をさす。○このやまのいやたかからし この山の如く〔二字右○〕離宮は巍然と聳えていつまでも榮えるらしい。「この山」は離宮を取圍んでゐる山々をいふ。「いや」はいよ/\、ます/\。「たかからし」は高くある〔三字傍点〕らしの約。○いはばしる 岩石の上を水の迸り流れる。舊本には「珠水」をタマミヅノ〔五字傍線〕、「激瀧」の二字をタギ〔二字傍線〕と訓んで居り、或は古葉略類聚抄には「珠水激」をミヅタヽ(148)ク〔五字傍線〕と訓んでゐる。疑問ある字面であるが、姑く眞淵説に從つておく。古義の誤字説は采らない。○たぎのみやこ 激流に臨んだ離宮をかく稱した。「たぎ」は動詞のたぎつ〔三字傍点〕から生まれた名詞で、瀑布ではなく奔湍をいふ。「宮子」の子〔傍点〕は借字。○みれど 見れど/\といふ程の力強い調子の語。
【歌意】 わが天子樣のお治め遊ばされる天下中に、國はさあ澤山あるけれども、特に山や川の景色の清くすぐれた川添ひのよい所だと、御心がまあ快くなられるこの吉野の國の、花が咲いては散る秋津野のあたりに、宮柱を太くしつかりと立てゝ、離宮を御造營遊ばされたので、供奉の官人達は舟を竝べて朝も川を渡り、舟を競うて夕も川を渡つて、遊賞に耽つてゐる。あゝこの吉野川の流のいつまでも絶えることないのと同樣に、この宮居は〔三字右○〕永久不變に、又この周圍の山々のいよ/\高く聳えるやうに、この宮居は〔三字右○〕巍々として動きなく榮えるらしい、さてもこの急瀬激湍に臨む宮居の景色の面白さは、見ても/\飽きぬことだわい。
 
〔評〕 普天率土、國こそ處こそおほけれ、天子が特に山水秀麗の地とこの吉野を卜して、外《ト》つ宮造を剏められたのだと、徐々に口を開いて遂に重きをこの吉野に歸したのは、主題たる吉野離宮讃美の意をしかと攫んで、その體を得たものである。「よき人のよしとよく見てよしといひし」吉野の國、しかもその花木に富んだ秋津野は、清き河門あり河原あり、清き山岳がある。この申分のない勝地に離宮を建てゝの行幸、供奉の官人等は暇あるままに、扁舟を浮べて朝夕に競渡を試みる。興會想ふべしである。これ即ち半面において、天子はその高殿にその大宮柱の下に、飽くまで山水の勝を嘉賞せしめ給ふ趣を反映してゐる。君臣偕に樂しむ、禮儀三百威儀三千の皇居においては、とてもかういふ寛ぎは見られぬ圖である。でこの川渡りを契沖や雅澄が「人々が朝夕にい(149)そしく仕へ奉れるさま」と解したのは賛成し難い。
 さてかゝる結構な離宮は虧けず崩れず、永久に巍々然として存在するらしいと、山河によそへて祝福した。この手段は後來、
  芳野の離宮《ミヤ》は――その山の彌ます/\に、この河の絶ゆることなく、百敷の大宮人は常に通はむ (卷六、赤人―923)
  芳野の宮は――この山の盡きばのみこそ、この河の絶えばのみこそ、百敷の大宮所やむ時もあらめ(同上、同人―1005)
と赤人にも踏襲されたが、その原は恐らく支那の古代の盟誓語たる山脂ヘ帶〔四字傍点〕から生まれて來たものだらう。
 末節「瀧の都は見れど飽かぬかも」は上の「彌高からし」の意を承けてゐる。句法は既に切れてしまつたものゝ、底意に連絡がある。所謂藕絶えて絲絶えざる筆法とでもいはう。かくて瀧の都、即ち吉野離宮そのものの讚美は、遙に冒頭に呼應してくる。但「見れど飽かぬ」の句のみに就いていへば、集中無數に散見する。蓋し萬葉人の套語である。
 すべて詩歌では祝賀讚稱の作はむづかしいから、あながちこの歌のみを咎めるにも及ぶまいが、忌憚なく評すれば、徒らに形式美に墮して、高渾な格調ではあるが内容がやゝ空疎で、纔に大宮人の川渡りに變化を求めて、その實感の喚起を要求するに過ぎない。
 起筆より「太敷きませば」までは殆ど、舒明天皇の御製「やまとには群山あれど取|具《ヨロ》ふ天の香具山のぼり立ち國見をすれば」の詞意を敷演したやうな形である。更に句法を點檢すると「太敷きませば」の一句が次節を胚胎發生してゐる。「この川の」は直接には前句の「朝川」「夕川」を承けたのだが、次の「この山の」と共に、遙か上の「山川の清き」の山川から生まれ出て分岐してきたものである。又「絶ゆることなく」(前)「高から(150)し」(後)は何を譬喩したものかゞ甚だ的確でない。でその主格を補ふに當つても、
    前對(絶ゆることなく)        後對(高からし)
  臣下の奉仕が……(契沖)      君の高御座にましますことが……(契沖)
  行幸が……………(眞淵)      離宮が……………………(眞淵、千蔭、雅澄)  離宮が……………(雅澄)
の如く諸説がそれ/”\齟齬してゐる。詰り叙述がそれだけ不完の證據である。さりとて誤脱がこゝにあるとまでは斷言しにくい。恐らく當時にあつては本文のまゝで慣習的に領會が出來て、異議なく承認されてゐたものではあるまいか。
 從來の註家は悉く、人麻呂が吉野行幸に直接扈從したものゝ如くに考へて疑はない。然し彼れの身分は東宮舍人だから、さう行幸供奉の出來る筈がない。これは必ず、御主人の東宮(高市皇子?)が從駕せられたので、彼れは又々に供奉したものである。それを恰も文筆を載せて從駕したやうに買ひ冠つて、彼を宮廷詩人などと稱する者のあるのは笑ふべきである。
 
反歌
 
雖見飽奴《みれどあかぬ》 吉野乃河之《よしぬのかはの》 常滑乃《とこなめの》 絶事無久《たゆることなく》 復還見牟《またかへりみむ》    37
 
〔釋〕 ○とこなめ 河床の岩石を稱する。床列《トコナミ》の義。今も淡路などでは赤色の砂岩の河床をなしたものをしか呼(151)ぶ。契沖、眞淵は、石に苔の生えて滑らかになつたもの、千蔭は、いつも滑らかな石、古義は、底滑《ソコナメ》の義で水底に生える苔類だといつてゐる。苔類をいふはその苔が床列に生ずるからの稱であらう。○またかへりみむ 二度見ようとの意であるが、上の「絶ゆることなく」に呼應するので、「また」が幾度もの意に聞えるのである。
【歌意】 いくら見ても見飽きないこの吉野の河の床列の石のやうに、絶える事なしに、この吉野の景色を何遍となく來て見よう。
 
〔評〕 初句の「見れど飽かぬ」は、長歌の結末の「瀧のみやこは見れど飽かぬかも」を反覆したもので、長歌から反歌へと連環の體をなしてゐる。これは作者の新しい試であるらしい。これで、朗誦してゆく際には、環の端なき趣があつて、頗る流麗な諧調をなすのである。「絶ゆることなく」はこの時代の套語で、平安時代の歌人なら絶えず〔三字傍点〕とのみいふ所である。「復かへりみむ」は集中に十數首もあるが、中にも、
(152)  三吉野のあきつの川のよろづ代に絶ゆることなく復かへりみむ  (卷六―911)
  まきむくのあなしの川ゆ往く水の絶ゆることなく復かへりみむ   (卷七―1100)
などは、着想から修辭から全く同調同型であり、殊に下句は一字の出入もない。卷七の歌は、人麿集に出てゐる由の左註はあるけれども、標題には作者未詳とあるが、卷六のは、笠朝臣金村が養老七年元正天皇の吉野行幸に供奉した際の作となつてゐる。金村は人麻呂と同時代の人で、只後輩といふまでゝある。多少の年月は隔つてゐるとはいへ、歌聖の作が既に儼として存してゐるのに、その踏襲をやつた金村の所爲は、甚だ面白くない。「常滑」を絶えぬことの比喩に用ゐたのは、既に古史古文に「常磐堅磐」を長久不變の意に用ゐたのと同じく、別に新意は無いが、「復かへりみむ」は作者の創語であるかも知れないが、惜しいかな、後人がやたらと眞似て舊臭くしてしまつた。
 この作、長歌の方では專ら天皇の御上を歌ひ、反歌の方では自身の事を歌つて、多少の變北を求めてゐる。歌は全體から評すれば穩健な作だが、概念的で餘り面白くないやうである。
                      △吉野離宮址考 (雜考―7參照)
 
安見知之《やすみしし》 吾大王《わがおほきみの》 神長柄《かむながら》 神佐備世須登《かむさびせすと》 芳野川《よしぬがは》 多藝津河内爾《たぎつかふちに》 高殿乎《たかどのを》 高知座而《たかしりまして》 上立《のぼりたち》 國見乎爲波《くにみをすれば》 疊有〔左△〕《たたなづく》 青垣山《あをがきやま》 山神乃《やまつみの》(153) 奉御調等《まつるみつきと》 春部者《はるべは》 花挿頭持《はなかざしもち》 秋立者《あきたてば》 黄葉頭刺理《もみぢかざせり》【一云|黄葉加射少《モミヂバカザシ》】 遊副川之神母《ゆふかはのかみも》 大御食爾《おほみけに》 仕奉等《つかへまつると》 上瀬爾《かみつせに》 鵜川乎立《うがはをたち》 下瀬爾《しもつせに》 小網刺渡《さでさしわたし》 山川母《やまかはも》 依※[氏/一]奉流《よりてつかふる》 神乃御代鴨《かみのみよかも》    38
 
〔釋〕 ○かむながら 神でいらせられるまゝにの意で、即ち天皇を神と見奉つての語。「惟神」又は「隨神」の文字を充てる。古事記(雄略)に「奴にあれば奴ながら覺らずて過ち作れり」とあるナガラ〔三字傍点〕もこゝと同じ用法。「長柄」は借字。○かむさびせすと 神としてふさはしい御行動をなさるとての意。「さび」はすさび〔三字傍点〕が上略されて接尾語となつたもので、男さび、少女《ヲトメ》さびなど用例多く、その者がその者相應に振舞ふ意を表はす語。「せす」は「爲《ス》」の敬相。○たぎつかふち 激流の取廻した地をいふ。この「たぎつ」はたぎる〔三字傍点〕といふ動詞の連體形でなく、既に名詞となつた「たぎ」に領格の「つ」が添うたものと見るべきである。○たかどの 樓閣。二階屋。○たかしりまして 御領知なされて。「たか」は美稱。古事記(上)にも「高天原に氷椽多迦斯理《ヒギタカシリ》」の語が疊見し、大厦を建造されたことを婉曲にいふ古來からの辭樣。○のぼりたち 高殿に〔三字右○〕上り立ちの意。こゝは山の上に登るのではない。古義の説は非。○くにみをすれば 國見をし給へば。「こゝは天皇の國見し給ふを他よりいふ場合ゆゑ、敬ひて國見|勢爲波《セスレバ》などあるべし」との古義の論は一往尤もだが、文章と違ひ、歌謠の類は、さう几帳面にばかりは敬語を使つて居ない。意の通ずるを限度として、詳略を自由にしてゐる。「くにみ」は既出の「望國《クニミ》」を參(154)照(二○頁)。○たたなづく 原本の「疊有」はタタナハル〔五字傍線〕と訓む。眞淵、宣長は「有」を付〔右△〕の誤として、タタナヅクと訓んだ。古事記(中卷)に「多々那豆久《タタナヅク》青垣山」、集中にも「立名附青墻隱《タタナヅクアヲガキゴモリ》」(卷六)、「田立名付青垣山之《タタナヅクアヲガキヤマノ》」(卷十二)などあつて、タタナハルは後にも先にも見當らない。恐らく字形の類似からの、誤寫であらう。「たたなづく」は疊《タヽナ》はること。「つく」はその樣子を表はす意の接尾語で、輕い添語である。疊懷《タヽナツ》く(宣長)疊靡付《タヽナビキツ》く(古義)などの説は餘にうるさい。○あをがきやま 青々と樹木が密生して四周に峙つ山の垣の如くなるをいふので、山名ではない。この句の下の〔右△〕を讀み添へぬがよい。○やまつみ 山神。「わたつみ」を參照(七四頁)。○まつるみつきと 獻上する貢物として。「つき」は清んで讀む。○はるべは 春になればといふ程の意。四言の句。「べ」は方《ヘ》の義で、いにしへ、夕べ、などの「べ」に同じく、時間的推移を表はす。その清濁は語によつて、慣習的に既に異つてゐたと見てよい。舊訓はハルベニハ〔五字傍線〕とあるが、眞淵訓に從つた。「部」は借字。○はなかざしもち 花を頭に挿し。「もち」は輕く使つてある。山に花の咲いてゐるのを、山神が天皇への貢物として頭に挿してゐると形容したもの。次の「もみぢかざせり」も同樣。○もみぢかざせり 割註の「もみぢ葉かざし〔右△〕」がよい。これは下の「小網さし渡し」に對するもので、結節の「山川も云々」へ遠く係る句である。「せり」と切つては脈絡が亂れる。「かざし」は髪挿《カミサ》しの略。○ゆふのかはのかみも 誤字落字説を立てずにかく訓んでみた。舊訓はユフガハノカミモ〔八字傍線〕と五音三音に讀んだが、調ひがわるい。「ゆふのかは」は或は宮瀧の末にユガハ〔三字傍点〕の稱があるといひ、或は「妹が髪|結八川内《ユフハカフチ》」(卷八)を引いて吉野川の別名だともいふ。もし落字説を立てれば、遊副八〔右△〕川之神母と八の字を補つてユフハノカハノカミモ〔十字傍線〕と訓み、卷八の歌をその據としたい。芳樹は「川之」の之〔傍点〕は々〔右△〕の誤で遊副川々神母《ユフガハカハノカミモ》であらうといひ、香川景樹は遊副川之|川門〔二字右△〕《・カハト》神とあつたかと疑つた。元暦本(155)に「遊」を逝〔右△〕に作つてあるので、ユキソフカハノ〔七字傍線〕と訓んで、離宮に副ひ流れる川の意に見る人もあるが、それも無理な辭樣である。○おほみけにつかへまつると 天皇の御食膳の料に奉仕しようとての意。○うがはをたち 川で鵜飼を催すをいふ。鵜川は鵜の鳥で川狩すること。「たち」はその業を營むこと。集中「清き瀬毎に鵜川たち〔二字傍点〕」(卷十七)、「八十伴男《ヤソトモノヲ》は鵜川たち〔二字傍点〕けり」(同卷)、「鵜川たた〔二字傍点〕さね」(卷十九)などの語例がある。新考にいふ、この「たち」は四段活の他動詞と。こゝは天子の御遊興として鵜飼を催さるゝを、川の神が天子の爲にするやうに見立てゝいふ。○さでさしわたし 小網を瀬に張り渡して。この小網《サデ》は今の刺網《サシアミ》だらう。平たい細長い網で兩端に材を打つて川瀬に張り渡して、魚が網目に首を突き込んだのを捕へる。卷四に「小網|延《ハ》えし」とあるも、張り渡すをいふのである。「さし」は接頭語と見てよい。神樂歌|薦枕《コモマクラ》の「網おろしさでさしのぼる」は刺網を瀬に當てがふことをさし〔二字傍点〕といつたので、全然別義である。但和名妙に「※[糸+麗]【佐天、】網如(ク)2箕形(ノ)1狹(クシ)後(ヲ)廣(クシタル)v前(ヲ)名也」とあるは、一寸|箕《ミ》のやうな恰好をした今の待網《マチアミ》の事で、これは張り渡しも延べもすることは出來ない。同名異物である。○やまかはも 山の神も川の神も。臣民はもとより〔七字右○〕の餘意を含む。「やまかは」は山と川の意だから「かは」は清んで讀む。「も」は強い調子に使はれ、サヘモ〔三字傍点〕の意に聞かれる。○よりてつかふる 天皇の方へと寄りきて奉仕する。「より」は歸順の意。○かも 「鴨」は借字。
【歌意】 安らかに天下をお治め遊ばす天子樣が、神樣でいらせられるまゝに神樣としての御行動をなさらうと、吉野川の激流の行きめぐる流域に、巍然たる高樓をお建てになつ(156)て、それに登り立ち國見をなさると、重疊として垣根のやうに峙つ四圍の青山には、山神が天子樣に奉獻する貢物として、春になると美しい花を頭挿のやうに一面に咲かせるし、秋になると又同樣に美しい紅葉を飾つてゐる。さうして遊副《ユフ》川の河(ノ)伯《カミ》も天子樣の食膳《ミケ》の御用を勤めようと、上流に鵜飼を催し、下流の方に小網を張り渡してゐる。かうして山神も河伯も歸順してお仕へ申し上げるわが現人神《アラヒトガミ》天子樣の御代は、まことに尊いことではあるわい。
 
〔評〕 抑も吉野離宮は何時の頃からの設置か。
  神代よりよ〔五字傍点〕し野の宮に在りかよひ高知らするは山川をよみ  (卷六、赤人―1006)
  三芳野の蜻蛉の宮は――山川を清みさやけみ、諾《ウベ》し神代ゆ〔三字傍点〕定めけらしも  (卷六、笠金村―907)
とあるこの神代は大昔といふ程の意味で、歴史的神代の意ではあるまい。神武天皇はこの地を往來せられ「島つ鳥鵜飼が伴《トモ》」(古事記中)と阿太人《アタヒト》に馴染をもたれたとはいへ、離宮までは御手を屆かせる遑がなかつたであらう。應神雄略の二朝に吉野宮の記事が記に見えるが、その宮の所在地は分明でない。雄略天皇はそこから蜻蛉野《アキツヌ》にいでまして、蜻蛉の奇瑞に値はれたのだから、その頃の宮地が蜻蛉野でなかつたことは明白である。多分蜻蛉野より下流の然るべき或地點にあつたものと見てよからう。天武天皇潜龍の時出家して吉野宮に入られたことは有名な事實であるが、宮の所在は、吉野山中勝手明神即ち袖振山の西北方位と考へられる五節傳説をのぞくと、他に確説がない。
 されば從來の吉野離宮地は時代によつて轉々したものらしい。想ふに秋津野の離宮は持統天皇の朝に至つて(157)創建せられたものであらう。人麻呂がかく口を極めて讃美の語を盡した所以も、これが爲であはあるまいか。その前首に日本中で一番すぐれて「山川の清き河内と――秋津の野べに宮柱太敷きませば」といふものは、その創剏の事實を物語つてゐると思はれる。後首の「芳野川瀧つ河内に高殿を高知りまして」もおなじ意味を含んでゐるやうに思はれる。新離宮の讃美が目的、かうこの前後の二什を見てゆくと、作者の意の在る處がほゞ領會される。懷風藻に見えた遊2吉野宮1の詩、
  仁山狎(レ)2鳳闕(ニ)1、智水啓(ク)2龍樓(ヲ)1、(中臣人足)
の後對も、或はその邊の意味をもつかのやうに思はれる。
 「安見しし吾大王」は勿論のこと、「神ながら神さびせすと」も古來からの常套語、「高殿を高知りまして」は諧調の爲に同語の反復を帶用したもので、「高天の原に氷木《ヒギ》高知り」と同式の古い修辭、「のぼり立ち國見をすれば」は上出の舒明天皇御製中にもある語、「疊なづく青垣山」は古事記の倭建《ヤマトダケ》命の御歌の語、前半のみでもかく古典的色彩に富んだ字句の集積から成り立つたことを、明かに指摘することが出來る。斷章的に見れば後半と雖も來歴をもつた語があらう。新離宮讃美の如き作には莊重典雅の樣式を必要とする。それには來歴ある古語の起用が大切である。古語を剪裁して新樣を成すことは、大手腕のある者にして始めて出來得る藝當である。實に人麻呂は古歌、及び古文は殊に祝詞(158)宣命の精神辭章を雜揉融冶して長歌の鑄形に流し込んで、崇高典雅な格調を製り出したものゝ如くである。
 森羅萬象それ/”\に神の存在を認めることは、わが古代人の思想であつた。よき神あり惡しき神あり、無數の神には無數の神格と階級とが、自然に備はつてくる。そしてそれ等の神々は悉く現つ神とます天皇に統治されてゐると見る。しかも天皇は日の御子たる點において、天祖天照大神に歸一すると觀ずる。そこにわが建國精神と國體とが炳乎として著く現れてゐる。
 人麻呂は如上の思想を基礎として、離宮に幸す天子の御爲には、山神は百姓《オホミタカラ》の弓弭手末《ユハヅタナスヱ》の調を献るなして、春秋の花紅葉を挿頭して大御心を慰め奉り、河伯は膳夫《カシハデ》の如くに、平瀬高瀬に鵜や小網で魚を捕つて供御に奉仕すると、具象的の叙法を用ゐた。その空中に樓閣を現じ夢中に花を發かしむる構想は、頗る効果的に吉野離宮讃美の實を擧げ、秋津新宮の景象は興趣は、全くこの一節のうちに悉されてある。象《キサ》の中山、象谷、その奥なる芳野山、又|御《ミ》船の山、船張山に亙る春花秋葉の美觀、また宮瀧の上下流に於ける漁獵は、とても飛鳥藤原の京では夢想だも出來難い面白い遊樂であらねばならぬ。文字亦潤飾の精を盡して讀者の眼を眩惑せしめる。
 末段前段を結收して、流石の山神河伯さへも臣僚百姓の如くに來歸して奉仕するわが現つ神の大御代ぞとの詠歎に筆を措いたのは、起句に呼應して掉尾千鈞の力をもつ。
 組織上から全篇を見渡すと、起句より「國見をすれば」までは一意到底の直叙である。長歌は元來その構成上からして後半に重心が置かれ、一首の主脳を成す場合が多い。これもこの國見の一句から後半の全部が胚胎され展開されて、層々の波瀾を描き、以下正對偏對の變化こそあれ、句法井整を極めて排對的に分派し、その末又合流して一途に歸してゐる。これを圖式によつて示すと、
(159)        疊なづく青垣山山神のまつる調と
 國見をすれば         春べは花かざしもち
                秋立てばもみぢ葉かざし
         遊副の川の神も大御食に仕へまつると    山川もよりて仕ふる神の御代かも
                上瀬に鵜川をたち
                下瀬に小網さし渡し 
の如くで、實にその部伍整然たる編制であることが知られる。
 後年神龜二年聖武天皇の吉野行幸の時、諸家の離宮讃歌がある。中に山部赤人のいはく、  八隅しし我ご大王の 高知らす芳野の宮は たたなづく青垣ごもり 河なみの清き河内ぞ 春べは花咲きををり 秋されば霧たち渡る その山のいやます/\に この河の絶ゆることなく 百敷の大宮人は常に通はむ  (卷六―923)
人麻呂の作に比較すると餘にその生彩の乏しさに驚かされる。枯淡な赤人の性格が影響してゐるかも知れないが、見た處、こゝの前後二首の意を撮合して、漸く一首を構成した如き觀がある。その他の諸家も笠金村《カサノカナムラ》の作を除いては、大抵人麻呂を歩襲するに過ぎない。尤もかういふ題詠は多く先鞭者が勝を占める。詩仙李白が黄鶴樓を去つて金陵の鳳凰臺に題した所以も、實にこの間の消息を語つてゐるものである。
 持統天皇の吉野行幸は、紀によればその三年正月が最初である。蜻蛉離宮はその頃の新造とすれば、作者人麻呂は三十を越すこと二三歳の時分らしい。歌人としては最も新鋭の氣に富んだ情熱の燃え盛る時期である。
 
(160)反歌
 
山川毛《やまかはも》 因而奉流《よりてつかふる》 神長柄《かむながら》 多藝津河内爾《たぎつかふちに》 船出爲加母《ふなでせすかも》    39
 
〔釋〕 ○よりて 「因」は借字。○かふちに 「に」はにての意。○せすかも 「せす」は敬語で、し給ふ〔三字傍点〕に同じい。「かも」は歎辭。
【歌意】 臣民達ばかりか、山河の神樣も皆寄り集まつて來られて、天子樣に奉仕する。そこでこの瀧つ河内で、わが天子樣は神さながらの御樣で、大御船のお乘出しをなさることよ。
 
〔評〕 河内は陸についての名稱であると同時に、又水を除外することの出來ぬ名稱である。されば瀧つ河内で船出するといへば、河に船を乘り出すことになるのである。この吉野川の清流に、かく山河の神の特別な奉仕のもとに、神ながら舟遊をなさることは、どんなにお樂しいことだらうと想像し奉つた餘意がある。この歌の氣魄を察すると、起句から始めて堂々として宇宙を狹しとする概がある。即ち山神河伯もなほ首を俛して奉仕するといふ所に、天威の尊嚴が讀者を壓する。さやうな瀧つ河内に船出し給ふわが大君は、まさに神にましまさねばならぬ。恰も、
  大君は神にしませばあま雲のいかづちの上にいほりせすかも  (卷三―235)
(161)と同調の歌で、崇高雄偉の感を基調とした作である。
 尚構成上から見ると、「山川もよりて仕ふる」の初句は、長歌の末句の「山川もよりて仕ふる神の御代かも」とあるのを反覆したもので、前首と同じ形式を執つてゐる。又二句の叙述を、古義に二句は四句へかゝり、一句は結句へかゝるやうに解したのは鑿である。
 
右日本紀(ニ)曰(ク)、三年己丑正月天皇幸(ス)2吉野宮(ニ)1、八月幸(ス)2吉野宮(ニ)1、四年庚寅二月幸(ス)2吉野宮(ニ)1、五月幸(ス)2吉野宮に1、五年辛卯正月幸(ス)2吉野宮(ニ)1、四月幸(ス)2吉野宮(ニ)1者《トイヘレバ》、未v詳(カニ)2知(ラ)何月(ノ)從駕《ミトモニテ》作歌(ナルカ)1。
 
 持統天皇の吉野行幸はかくの如く囘數が多いので、この作は何時の行幸の時のとも知り難い由の註である。但こゝには只六囘の行幸を擧げたのみであるが、書紀の記載によれば、この外六年から十一年までの吉野行幸は實に二十九囘の夥しい數に上つてゐるのである。
 
幸《いでませる》2于伊勢(の)國(に)時、留(れる)v京(に)柿本(の)朝臣人麻呂(が)作歌
 
持統天皇が伊勢國に行幸の時、お供せずして藤原京に居殘つてゐた柿本人麻呂の詠んだ歌との意。○幸于伊勢國 これも同天皇の六年三月の伊勢行幸である。書紀のこの時の記事中に「甲申賜(フ)2所過《スギマス》志摩(ノ)國(ノ)百姓男女八十以上(ニ)稻人(ゴトニ)五十束(ヲ)1」とあれば、序に志摩國へも行幸があつたものと見える。志摩に於ける行宮は英虞《アゴ》の浦附近にあつたらしい。左註に阿胡《アゴノ》行宮とある。
 
(162)嗚呼兒〔左△〕乃浦爾《あごのうらに》 船乘爲良武《ふなのりすらむ》 ※[女+感]嬬等之《をとめらが》 珠裳乃須十二《たまものすそに》 四寶三都良武香《しほみつらむか》    40
 
〔釋〕 ○あごのうら 志摩の國のもとの英虞《アゴ》郡の海邊で、今の的矢灣の附近ではあるまいか。――今の英虞灣は舊稱|御座《ゴザ》灣のことで違ふ。――養老三年志摩の答志郡の五郷を割いて佐藝《サギ》郡が置かれ、その佐藝郡が英虞郡と後に改められた。和名抄によれば甲賀郷の外七郷がある。三國地志に阿胡《アコ》(英虞)山の稱は甲賀村に存すといひ、國郡考は阿胡行宮につき英虞の國府は定めたるならんといつた。國府の址は的矢灣の南岬|安乘《アノリ》の一里南の國府村にあり、英虞の松原もそこにある。隨つて英虞の浦もその邊と見てよい。鳥羽灣の坂手《サカテ》島を以て佐※[氏/一]《サテ》の崎に充て、よつて英虞の浦を鳥羽港のこととする説は甚しい牽強で、且、鳥羽灣は答志郡であることを忘れたものである。舊本は皆「兒」を見〔右△〕に作り、アミノウラ〔五字傍線〕と訓んでゐるが、見を兒の誤とした僻案抄の説がよい。○ふなのりすらむ 今丁度船遊をしてゐるであらうの意。「ふなのり」は既出(五二頁)。○をとめら 處女等の意で、こゝは從駕の女官等をさす。「※[女+感]嬬」は集中に散見する熟字でヲトメと訓むが、「※[女+感]」は字書には見えぬ文字である。○たまも 珠は美稱、衣服の上下を別裁して、上部のを衣といひ、下部のを裳といふ。裳は腰部以下を纏(163)ふ服の總稱。もし裙の上に褶《シビラ》を纏ふ時は、褶は上裳《ウハモ》、裙は下裳《シタモ》である。催馬樂に「上裳の裙ぬれ、下裳の裙ぬれ」といふものはこれである。又和名抄に「釋名(ニ)云(フ)上(ヲ)曰(ヒ)v裙(ト)、下(ヲ)曰(フ)v裳(ト)、和名|毛《モ》」ともある。「か」は疑辭。「十二」及び字對の「四寶三都」は、各戲書である。
【歌意】 風光明媚な英虞の浦で、今頃は丁度舟に乘らうとするであらう若い女官達の、あの美しい裳裾に、定めて潮が滿ちて、女官達は賑かに周章て騷ぎもしてゐろだらうか。
 
〔評〕 題詞に由つて見ると、人麻呂は今囘の行幸のお供に立たぬ殘念さに、從駕の男女の行動を想像に描いて、その詩興を逞うしたものである。
 志摩の國は即ち島の國〔三字傍点〕で、全體が半島形を成して海岸線の屈曲が多いので、或は灣を擁し、或は港を成し、波は極めて平穩で湖水のやうな感じのする處が多い。中にも的矢灣は海水深く灣入し、渡鹿野《ワタカノ》島を抱いて眞に奥深く屈折し伊雜潟《イサハガタ》を作り、風光もなか/\明媚で、婦人達が舟遊などするには誂向の處だ。この婦人達は從駕の女官であつて、都を立つ時から、伊勢大廟參拜を終へての志摩行幸には、英虞の島遊が、豫定の行動として、そのプログラムの上に載つてゐたものであらう。
 そこで人麻呂はこの事實を構想の基礎に置いて、岸邊に滿ち來る波、船にさし來る潮を更に一歩進めて、船乘すらむ處女等の赤裳裾に湊合させたことは、如何にも豐かな聯想であつて、流石に敬服に値する。さて「船(164)乘すらむ」の語に、平生奥深い殿舍の帳裏にのみ引籠つてゐる女達だから、海珍しさに渚近く立出て船に乘り爭ふ光景が想像され、「潮滿つらむか」に、その美しい長裾をぞろ/\引摺つて、滿潮にあわてゝゐる、賑かな、しかも樂しけな樣子が躍動して見える。「をとめ等」を、燈や古義などが、「數人をさしていふ如くなれども、猶心にさす女ありけるなるべし」といつたのは穿ち過ぎた見解である。殊に古義に、「荒き島囘に裳裾ぬらして、馴れぬ旅路に苦むを憐みたる也」とあるのは、志摩の島遊が豫期せられた旅中行樂の一つであることに心付かない迂闊論である。
 尚いふ、この歌は第二句と第三句との緊密さを見ると、五七調が七五調に推移してゆく道程中にあるものと思はれる。
 又いふ、天皇の行幸には假令御遊覽が眞の目的であつても、一面には政治的意味が附帶してくる。實は一擧兩得といへよう。紀の文に、
  賜(フ)2所過《スギマス》志摩(ノ)國(ノ)百姓(ノ)男女八十以上(ニ)、稻人(ゴトニ)五十束(ヲ)1。 
とあるを見れば、多くは志摩國の政治中心地に逗留せられた事實を語るものである。政治中心地といへば、後にも國府を置かれた的矢灣の南方國府村邊を限度として、的矢灣の周圍にその地を求めねばならぬ。而も灣内御遊覽に適するやうに見立てられた英虞行宮を考へなければならぬ。恐らく渡鹿野島を抱いた南部の入江(165)に近い地點にその行宮は建てられたものであらう。
 
※[金+刃]〔左△〕著《くしろつく》 手節乃崎二《たふしのさきに》 今毛可毛《いまもかも》 大宮人之《おほみやびとの》 玉藻刈良武《たまもかるらむ》    41
 
〔釋〕 ○くしろつく 手節に係る枕詞。「くしろ」は腕首に著ける飾で、貝玉石などで製する。字は釧と書く。「※[金+刃]」は多くの古寫本にかくあるが、劔〔右△〕に作つた本は、※[金+刃]を劔の俗字と見て書き改めたもので、僻案抄がこれを釧〔右△〕の誤としたのは卓見である。然し釧〔右△〕と書いたのは一本も無いが、これは古寫本には色々異體の字を書いた結果混雜して、※[金+刃]と釧とを同字として用ゐたものと見るが至當であると、種種考證してゐる山田孝雄氏の説がよいと思はれる。釧は字書に臂環とあり、和名抄に比知萬伎《ヒヂマキ》とある。手の臂にはめる飾の環で、所謂|手纏《タマキ》である。臂は手の節の一つ、手首もおなじ手節であるから、「釧着く手節」と續ける。古義に、古へは釧には纏《マ》くといふ例だから、本文の「著」は卷〔右△〕の誤だらうとあるのは一往の理があるが、言語は時代の經つに隨ひ意味も用法も變るものだから、手に著ける物を「著く」にいふに何の仔細も無い。○たふしのさき 志摩國※[草冠/合〕志《タフシ》郡※[草冠/合〕志郷の※[草冠/合〕志の崎のこと。鳥羽灣の灣口を扼してゐる答志島の出鼻で、今黒崎と稱する處である。答(166)志は即ち手節《タフシ》の義。手首のやうな斗出した岬だからである。下總の銚子岬もやはり手節の轉語である。「ふし」は清音に讀む。○いまもかも 今かの意。「か」は疑辭、二つの「も」は歎辭。○おほみやびと 既出。(一三一頁)。○たまも 既出(一〇六頁)。△地圖 挿圖34を參照(一〇五頁)。
【歌意】 めづらしい旅の御供をして、あの答志の崎あたりで、丁度今時分はまあ、大宮人達が慰みがてらに、玉藻刈りなどして遊んでゐることだらうか。羨ましいことではある。
 
〔評〕 海藻などを刈るのは、元來漁夫の生業で、餘所目には風流でもあらうが、當人達にとつては苦しい勞働である。供奉の人々は假令下級の官人達にしてからが、本氣になつて波に濡れて玉藻など刈りはしない。作者は漫然とはじめは、人々が定めし物珍しげに海邊に遊び戲れて、興を遣つてゐることだらうと想像したのであらうが、その想像は段々に深入りするに隨ひ具體化され、逐に玉藻刈る海人の仕業を拉し來つて、それを大宮人の仕業に結び付けた。この手段が明瞭な印象を呼んで、無限の面白味を生ずるのである。殊に「今もかも」の一句は、その事相を眼前に描かせ、最も強い投影を與へる。畢竟欽羨の情に勝へぬ餘の作で、遠人を思ふ優しい情味も暗にほのめいてゐる。
 さて、をとめ等の船乘するも、珠裳の裾に汐の滿つるも、大宮人の珠藻を刈るも、そこに大きな背景を成す(167)事實のあることを深く牢記すべきである。既に志摩の島遊はそのプログラムの上に豫定された事であるといつた。然し何故にかく豫定されたかと考へると、只その明媚な風光にあくがれたばかりではないことを發見する。この度の行幸は三月(今の四月)である。三月は所謂大潮まはりで、汐干の好時期である。丁度島遊には絶好の機會ではないか。即ち作者は從駕の男女の汐干遊の状態にその神思を馳せて、種々さま/”\にその想像を描いたものである。
   
潮左爲二《しほさゐに》 五十良兒乃島邊《いらごのしまべ》 榜船荷《こぐふねに》 妹乘良六鹿《いものるらむか》 荒島囘乎《あらきしまわを》    42
 
〔釋〕 ○しほさゐ 潮の滿ち來る時に波の鳴り騷ぐをいふ。「さゐ」は躁《さわ》ぎの約で、形相についても音響についてもいふ。山百合を佐爲《サヰ》といふはその搖れ騷ぐ貌から名づけ、「珠衣のさゐさゐしづみ」(卷四)はそのサワ/\と鳴る音をいつた。○いらごのしま 伊良虞島のこと。既出(一〇五頁)。「五十」を古言にイ〔傍点〕と訓む。五十鈴《イスヾ》、五十槻《イツキ》の類常のことである。○いも 汎く女性をさした語と見ても通ずるが、こゝは狹義に妻又は情人をさしての稱としたい。○のるらむか (168)「鹿」はカ〔傍点〕が本訓。○しまわを 「しまわ」は島のめぐりの意。古義は卷十七の志麻未《シマミ》の語を引いて、こゝをもシマミ〔三字傍線〕と訓んだが、之麻未は島邊《シマベ》の轉語で、「島囘」には與らない。讀萬葉古義既にこれを論じた。「を」はなる〔二字右○〕をの意。
【歌意】 伊良子の島のあたりは、平素でも波の騷がしい處だと聞いてゐるが、まして潮さゐの時に何の辨へもなく、只海珍しさの氣持からその邊を漕ぐ船に、あの女は乘つてゐることだらうか、實に荒い島のめぐりだのにさ。
 
〔評〕 前の二首は、岸邊に近い浦遊び磯遊びの樂しい旅興を思ひ遣り、この一首は、興に任せて海上遠く漕ぎ出した島めぐりの危險さを思ひ遣つた。汐干汐干といつて、婦人だてらに若しかしてそんな沖合まで乘り出して、定めし難儀してはゐまいかと、餘計な想像を描いて、いらぬ取越苦勞をする。况や女官達の中に作者その人の情人でもあつて、それを暗に「妹」とさしたものとすれば、いよいよその眞劍味が加はる。「潮さゐに」「荒き島わ」と、危險律を誇大に想像すればする程心配の度が昂騰し、そこに遠人を懷ふ美しい情味が滂※[さんずい+專]する。「島わを」の抑揚の辭法も、實にこの情味を強調するものである。
 更に委しくいふと、おなじ供奉の人達の行動を想像するにしても、端のは英虞の浦邊における女官達の行動、中のは答志崎における男官等の行動、終は伊良虞の海上における吾妹子の行動である。その秩序次第の整々たることは、聯作としてその體を得たものである。
 
(169)當麻眞人麻呂妻《たぎまのまひとまろがめの》作歌
 
○當麻眞人麻呂 傳未詳。麻呂は上に掲ぐる持統天皇の伊勢行幸に陪從した人で、この歌は留守居のその妻が旅中の夫を思つて詠んだもの。
 
吾勢枯波《わがせこは》 何所行良武《いづくゆくらむ》 己津物《おきつもの》 隱乃山乎《なばりのやまを》 今日香越等六《けふかこゆらむ》    43
 
〔釋〕 ○せこ 「せ」は一般に女から男を親しんでいふ語であるが、殊に背、夫、兄等の字を充てゝ、兄や夫をいふ。こゝは夫子《セコ》、即ち夫をさす。「こ」は更に親しんで添へた語。今日でも奥羽地方では、人のみならす物品にまでこれを添へて、親愛の心持を表はしてゐる。○おきつもの 沖つ藻ので、「なばり」に係る枕詞。沖つ藻は、邊《へ》つ藻に對する語。邊つ藻は岸近い水上に漂ふ海草をいひ、沖つ藻は岸を離れた深みにある藻をいふ。沖は奥と同語で、深みにある藻は水面に隱れて見えぬので、「なばり」に續けた。「なばり」は隱《カク》るの古言で、ラ行四段の動詞「なばる」の第二變化の體言化したもの。なまり〔三字傍点〕とも轉じいふ。「己」は玉篇に起也と見え、起と同字で、こゝは沖の借字である。「物」も借字。○なばりのやま 伊賀名張郡名張町の附近をいふ。伊勢へ越える通路に當る。△地圖 挿圖33を參照(一〇三頁)。
【歌意】 戀しいわが夫は、どこらあたりを歩いて居られることだらうか、あの國境の名張の山を、今日あたり越えて居られることか知らん。
 
(170)〔評〕 この歌は初二句を第一節とし、三四五句を第二節とした篇法である。そして第一節にはまづ汎く夫君の行旅を思ひやり、第二節には更に一歩を進め、細やかにその經路を測り行程を數へて、やゝ具象的に、場所には「名張の山」をさし、時には「今日か」と懇に思念してゐる。この精粗二樣の想像を反復して、夫君の行働を丁寧に意中に描いたことは、即ち夫君を反復思念した所以である。その孤影悄然として空閨を守り、徒然寂寥に悶々としてゐる情緒が、滿幅に往來してゐる。殊に「けふか」の疑問によつた一語は、待ちあぐんだ切羽詰つた氣持を、力強く表現してゐる。
 飛鳥藤原宮時代において、大和伊勢間の通路は幾筋もあつた。そのうち大和の榛原から伊賀の名張を經るのが一番の本道であつた。そこでこの歌にいふ名張越は、行幸の往路か復路かといふ間題が起る。藤原宮から名張までは約十一里、往路では遲くとも出發の翌日にはそこを通過する。然るに歌の趣は可なり長い間を思慕に耽つた状態だから、必ず復路と見るべきである。この行幸は三月三日の御發輦で、その二十日に御還幸であつた。多分三月は十八九日頃の歸期の最も近づいてきた時分の感懷であらう。
 「わがせこ」のわが〔二字傍点〕は、單なる添詞と見てはならぬ。「わぎもこ」「わが佛」などの類、かう身近く引付けてい(171)ふのは、皆取分けてその物を親切に思ふ情合を表はしたものである。「らむ」の反復も諧調を成してゐる。
  ○尚卷二「二人ゆけどゆき過ぎがたき秋山をいかでか君が獨こゆらむ」(106)の評語を參照。
 
石上大臣從駕《いそのかみのおほまへつぎみがみともつかへまつりて》作歌
 
○石上大臣 石上(ノ)朝臣|麻呂《マロ》のこと。麻呂は文武天皇の御代の四年筑紫總領となり、大寶元年從二位中納言から正々三位大納言、同二年太宰帥、慶雲元年右大臣に任ぜられ、元明天皇の御代和銅元年に正二位左大臣に昇り、元正天皇の御代の養老元年三月薨去、從一位を贈られた。持統天皇の朝にはまだ中納言であつたと推測される。然るにこゝに大臣と書いたのは、記録者がその極官を記したもので、珍しからぬ例である。又大臣や公卿は名を記さぬのが例であつた。○從駕 車駕に陪從するをいふ。車駕は天子の乘である。こゝの從駕は上の持統天皇の伊勢行幸のお供である。
 
吾妹子乎《わぎもこを》 去來見乃山乎《いざみのやまを》 高三香裳《たかみかも》 日本能不所見《やまとのみえぬ》 國遠見可聞《くにとほみかも》    44
 
〔釋〕 ○わぎもこ 吾妹《ワガイモ》の約が「わぎも」である。「いも」は「せ」に對し、男から女を親しみ呼ぶ語であるが、殊に妻や女弟にいふことが多い。こゝは妻をさす。「こ」は子で、例の親愛の語。この初句を「去來見の山」の序詞と解する説もあるが從ひ難い。○いざみのやま 「いざ見む」といふを山名にいひ懸けたので、その山名は必ずイサミであらう。但サの音の清濁は不明であるが、初句のいひ懸けの意を完全にする爲に濁音に讀みたい。伊勢(172)名勝志(宮内黙藏著)には、飯高郡の西端、大和宇陀郡との境なる高見山の一名を去來見《イザミノ》山とし、倭訓栞に、イサミノ山を飯高郡にありといふのに符合する。山の高さ八百八十米突。久老は「い」を發語として、伊勢國二見の浦に臨む佐見《サミ》の山としたが、そんな鼻の先の小山では實際に適はぬ。「去來」をイザと訓むは意訓。○やまを 「を」は歎辭。○たかみかも 高いゆゑにかの意。「かも」は疑問的詠歎の辭で、下の「見えぬ」で結んでゐる。結句の「かも」も同意の辭。○やまと この大和は狹義の使ひ方で、作者の家郷をさす。「日本」の字面はわが國の總名であるが、かく狹義の大和にも借り用ゐた。神代紀に「日本國之三諸山《ヤマトノクニノミモロヤマ》」とある。○くにとほみかも 國が遠いせゐかしらの意。「國」は場處の意。國偲びの國で、行政區劃による地理的名稱の國ではない。「聞」をモ〔傍点〕と讀むは呉音。△地圖 挿圖33を參照(一〇三頁)。
【歌意】 わが愛妻のゐる家郷の方を、さあ見ようと思ふが、あの伊佐見の山が高いせゐかして、それが見えない。いやそれとも、見えないのは國が遠いせゐなのかな。
 
(173)〔釋〕 この度の伊勢行幸も、その往路の御道筋を、嘗て十市皇女が取られた曾爾《ソニ》線でとすると、去來見の山即ち高見山は、伊勢大和の國界をなす高山であるが、街道からは山峽續きなので全く見えない。只山粕峠の一里東に當る鞍取峠の上からは、南方に望見し得るが、この歌は伊勢から大和方面を遠望しての作だから、方角が合はない。よつて高見の南路を行く線を取られたものと假定する。この線は京から宇陀を經、高見を越え、櫛田川の流に沿ううて田丸から山田に着く。これはその途上における述作である。
 僅に一夜の隔てでも、吾妹子の上を戀しまずには居られぬのは人情、ましてやこれは私ならぬ從駕の旅で、心任せに歸京も出來ぬ。妹が居る京の空は何處やらと囘顧して見ても、恨めしや山岳重疊の間に去來見の山が國境を塞いでゐる。そこでかく京の見えぬのは去來見の山の高い爲か、それとも國の隔つた爲かと、兩端を叩いて足摺しつゝ歎いてゐる。さればこの句法は、
 山を高みかも大和の見えぬ。――國遠みかも大和の見えぬ〔六字右○〕。
とあるべきを、下のを略いて、上の意を廻らしたものである。かく頻に反復して大和の見えぬのを殘念がるのは、間接に吾妹子を思慕する情の搖曳を思はしめるもので、重ねかけて疑問の「かも」を投げ附けた辭樣は、いかにも効果的な表現である。作者はこの時既に五十二歳の老境に臨んでゐた。而も尚かくの如く高い情熱を藏してゐることに感心させられる。
 從來の註家この歌を鳥羽|英虞《アゴ》遊行の際の作中のものとし、高見山が其の邊からは全然見えぬことを忘却してゐる。或はそれを想像に描いて詠んだものと抗辯する者もあらうが、なほ
 かり高の高圓《タカマト》山を高みかも出でこむ月のおそく照るらむ (卷六、阪上郎女―981)
(174)の例によつても解ることで、必ず去來見の山なり高圓山なりを、眼前に諦視して始めて生まるべき構想であると思ふ。
 
右日本紀(ニ)曰(ク)、朱鳥六年壬辰春三月丙寅朔戊辰、以(テ)2淨廣肆廣瀬(ノ)王等(ヲ)1爲(ス)2留守(ノ)官(ト)1。於(テ)v是(ニ)、中納言三輪(ノ)朝臣高市麿、脱(ギテ)2其冠位(ヲ)1フ(ゲ)2上(リ)於朝(ニ)1重(ネテ)諫(メテ)曰(ク)、農作之前、車駕未(ト)v可(ラ)2以(テ)動(カス)1。辛未天皇不v從(ヒタマハ)v諫(ニ)、遂(ニ)幸(マス)2伊勢(ニ)1。五月乙丑朔庚午|御《オハシマス》2阿胡行宮《アコノカリミヤニ》1。
 
 右は日本紀に、朱鳥六年春三月朔日に淨廣肆廣瀬王等を藤原の京の留守居役とした――これは伊勢行幸の爲――そこで中納言三輪朝臣高市麿がその官位を賭して、農繁期を前に控へての行幸は然るべきでない旨を、又も諫奏したが用ゐられず、遂に伊勢に行幸があつたとあるとの意。こゝに朱鳥六年とあるは、持統天皇六年、又は朱鳥七〔左△〕年とすべきを誤つたのである。淨廣肆は天武天皇の十四年に改定された位階十二階中の最下位である。即ち「明位二階、淨位四階、毎階有(リ)2大廣1、併(セテ)十二階」とある。「肆」は四〔右○〕である。舊本津〔右△〕に作るは誤。
 「五月乙丑云々」の文は註者の誤で、これは書紀に、三月の行幸に際し、英虞の行宮御逗留の折獻上物をした人々に、五月乙丑朔庚午(六日)種々の御賞賜があつた由の記載があるのを誤讀した結果である。この時の行幸は三月三日御發程、六日に伊勢行幸、二十日に還幸遊ばされたので、五月には既に藤原宮にましましたのである。
 
(175)輕皇子《かるのみこの》宿《やどりませる》2于|安騎野《あきのぬに》1時、柿本(の)朝臣人麻呂(が)作歌
 
輕皇子が安騎野に出遊御一泊なされた時、お供の人數中にある人麻呂が詠んだ歌との意。
○輕(また珂瑠)皇子 文武天皇のこと。この頃はまだ皇太子に立ち給はぬ時で輕(ノ)王と稱せられた。御父は天武天皇の皇子|日竝知《ヒナメシ》皇子即ち草壁(ノ)皇太子で、御母は元明天皇にまします。草壁皇太子の薨去によつて高市皇子が皇太子に立たれたが、高市皇子も亦薨ぜられたので、この皇子が持統天皇十一年二月皇太子となり、その年八月受禅御即位になつた。○安騎野 大和國宇陀郡で、今の松山町附近を中心とした大野。西は椋橋《クラハシ》山(音羽山)に接し、東は字賀志《ウガシ》、北は榛原《ハイバラ》に臨み、南は遠く吉野の龍門諸山を望んでゐる。紀には吾城、延喜式には安貴とも書かれ、又阿紀、阿騎、阿貴、明、秋に作る。○作歌 の下、并短歌四首〔五字右○〕の五字を補ひたい。次の「短歌」の條參照(一八一頁)。
 
八隅知之《やすみしし》 吾大王《わがおほきみ》 高照《たかてらす》 日之皇子《ひのみこ》 神長柄《かむながら》 神佐備世須登《かむさびせすと》 太敷爲《ふとしかす》 京乎置而《みやこをおきて》 隱口乃《こもりくの》 泊瀬山者《はつせのやまは》 眞木立《まきたつ》 荒山道乎《あらやまみちを》 石根《いはがねの》 楚〔左△〕樹押靡《しもとおしなべ》 坂鳥乃《さかとりの》 朝越座而《あさこえまして》 玉限《たまかぎる》 夕去來者《ゆふさりくれば》 三雪落《みゆきふる》 (176)阿騎乃大野爾《あきのおほぬに》 旗須爲寸《はたすすき》 四能乎押靡《しのをおしなべ》 草枕《くさまくら》 多日夜取世須《たびやどりせす》 古昔念而《いにしへおもひて》    45
 
〔釋〕 ○やすみしし 枕詞。既出(三〇頁)。○たかてらす 天照大神のアマテラスと類似の語で、高く空を照らす意から、日の枕詞に用ゐられる。この語、春滿がタカヒカルと訓み改めて以來これに從ふ人も多いが、尚舊訓のまゝがよい。但集中「高光」と書いた所もある、これは勿論タカヒカルと訓むべきで、兩語竝存したものと思はれる。○ひのみこ 日嗣の御子の義。四音の句である。さて冒頭からこゝまでの四句、輕(ノ)皇子をさし奉る。「やすみししわが大君」も「高照す日の御子」も天皇をさし奉るが常であるが、かく皇子にも申上けた例がある。○かむながらかむさびせすと 既出(一五三頁)。○ふとしかす 「ふとしく」の敬語。「みやばしらふとしきませば」を參照(一四六頁)。○みやこをおきて 都をあとにして。「おきて」は輕く解する。さし置いて〔五字傍点〕ではない。○こもりくの 泊瀬に係る枕詞。その解説は種々ある。(1)泊瀬の地は兩山迫つて初瀬川を夾み長い峽谷をなしてゐるので、隱《コモ》り國の義で、「こもりくに泊瀬」と續け、更にそれを「こもりくの泊瀬」と略した(古義)。(2)古へこの地は葬所であつたから、「隱城《コモリキ》の終《ハツ》」を泊瀬に續けた(久老)。(3)木盛處《コモリク》の義で、泊瀬は樹(177)木の繁茂してゐた處ゆゑにいひ續けた(古義)。このうち地勢上から見て第一説が最も穩かであらう。泊瀬國を直ちに葬所と見る第二説は特に不可。○はつせのやま こゝでは初瀬川の南部朝倉村一帶の山地を斥してゐる。○まきたつ 常緑木の林立をいふ。四音の句。「まき」は眞淵はいふ檜を褒めて眞木と稱したと。いはゆる※[木+皮](高野槙)のこととする説はよくない。こゝは何の木と狹義に見るよりも、寧ろ林木の鬱蒼と繁茂した状と見るが自然である。舊訓はマキタテル〔五字傍線〕、春滿の訓はマキノタツ〔五字傍線〕であるが、眞淵訓に從つた。○あらやまみちを 荒凉たる山道なる〔二字右○〕を。○いはがねの 岩の本の。○しもとおしなべ 楚樹を靡け押伏せて。「しもと」は枝の叢生した若木をいふ。「楚」は原本禁〔右△〕とある。禁〔右△〕は明かに「楚」の誤で、眞淵訓のシモトとあるに從つた。○さかとりの 朝越の枕詞と從來説いてゐるが、坂鳥の如く〔二字右○〕の意の譬喩と見るべきである。「坂鳥」は朝早く巣を立つて山坂など飛び越す鳥をいふ。○たまかぎる 玉|燿《カギロ》ふの義で、ろふ〔二字傍点〕の約ルとなる。夕日の光り輝くを形容して「夕」の枕詞とした。この語舊訓はタマキハル〔五字傍線〕とあるが、それは「命」又は「内」の枕詞でこゝには用を成さぬ。長流はカゲロフノ〔五字傍線〕とし、眞淵は文字を玉蜻〔右△〕と改めてカギロヒノ〔五字傍線〕と訓んだが、伴信友、雅澄、正辭等の精細な研究によつてタマカギル〔五字傍線〕の訓が定説となつた。即ち同一の歌が、「朝(178)影《アサカゲ》に吾が身はなりぬ玉垣入〔三字傍点〕風《ホノカ》に見えて去にし子故に」(卷十一)、「朝影に吾が身はなりぬ玉蜻〔二字傍点〕髣髴《ホノカ》に見えて往にし兒故《コユヱ》に」(卷十二)と重出してゐるのを見れば「玉垣入」はタマカギルと訓むべきこと疑なく、隨つて「玉蜻」も當然同訓の筈である。傍證として靈異記に「多摩可妓留波呂可邇美縁而《タマカギルハロカニミエテ》」の語もある以上、「玉限」がタマカギルであることは動かせない。○ゆふさりくれば 夕方になつて來ればの意。「春さりくれば」を參照(七九頁)。○みゆきふる 「み」は美辭で、「三」は借字。後世「みゆき」に深雪〔二字右○〕の字を宛て、深い雪のことゝするは意義の轉化である。さてこの語は枕詞ではなく、この季節が恰も雪の降る折だつたと思はれる。○はたすすき (1)穗に出た薄の靡くさまを旗の靡くに譬へたとする舊説と、(2)皮《ハタ》薄で、薄の穗は皮に籠つて開き出すもの故いふとする眞淵説とある。集中ハタに皮の字を充てた例が多い。(1)に從へば皮が借字、(2)に從へば旗が借字となる。平易なのは(1)であるが、適用の自由なのは(2)である。○はたすすきしのを (1)旗薄と小竹《シノ》とをと解する説(御杖)、(2)旗薄のしなひをと解する説(眞淵)、(3)旗薄の幹《シノ》と解する説(宜長)、(4)旗薄を幹《シノ》に係る枕辭と解する説(芳樹)、(5)旗薄をシノに押なむるとする説(契沖)がある。(1)は「白眞弓靱取りおひて」(卷九)の例もあつて、比較的勝れてゐる。(3)も聞かれる説である。(2)はやゝ迂遠、(4)(5)は無理である。古義は契沖説によつて四努〔左△〕爾《シヌニ》の誤寫説を立てた。「四能」はシノと讀むより外はないが、古言にはシヌ〔二字傍点〕といふが通例。然し人麻呂の頃には轉語のシノがもう發生してゐたと見ても宜しい。猥に誤寫説を主張するは危險である。○くさまくら 枕詞。既出(四〇頁)。○たびやどりせす 旅の宿りをなさる。「せす」は「爲《ス》」の敬相。○いにしへおもひて 過去を思ひ出して。古義はオモホシテ〔五字傍線〕と訓んだが、この句は「いにしへ思ひて旅やどりせす」と上に反へるのだから、さう二重に敬語を使ふに及ばない。
(179)〔歌意〕 わが御仕へ申す輕皇子樣、天津日嗣の皇子樣は神樣でいらせられるまゝに、神樣としての御振舞をなさるとて、立派にお住ひ遊ばすその飛鳥の京をあとにして、泊瀬山の杉檜の森立した荒凉たる山路なのを、岩石道の簇生した雜木の枝などを押靡け踏み分けて、朝早く山越をなされ、夕方になると雪のちらつく廣い安騎野で、昔御父草壁皇太子樣が同じこの野に狩にお出で遊ばした事など御囘想なされつゝ、薄や篠などを押分けて、此處に感慨深い旅寢をなさることであるわい。
 
〔評〕 飛鳥淨見原の京から安騎野へゆくには、まづ磐余《イハレ》に下り忍坂《オサカ》に迂囘して投田《ナゲタ》、女寄《メヨリ》の線を經、麻生田から南して阿騎野へ來たものである。この間約七里。忍坂から先は音羽山(八百五十二米突)の北麓を横過るもので、左は朝倉村の丘陵地(最高三百二十八米突)だから、丁度藥研の底を歩くやうな具合。それが女寄峠にかゝつて一遍に急峻なる上り坂となり、安騎野の入口ではもう三百三十九米突の高さに地盤がなつてゐる。千三百年もの昔を、この歌によつて囘顧すると實に面白い。
 この初瀬の山は即ち朝倉一帶の丘陵を斥したものらしく、――泊瀬(ノ)朝倉(ノ)宮の稱がある――その邊は杉檜の生茂つた荒山路であつたと見える。「石がねのしもと押靡べ」に、いかにその崎嶇崔嵬の間に纔に一逕を通じてゐたかゞ窺はれ、「坂鳥の朝越えまして」に、いかに嶮峻なる坂路がその前途を扼してゐたかゞ知られる。朝飛鳥京を出立しても、季節が初冬で日が短いから、七里の難路を踏破して安騎野につけば、無論玉限る夕方になる。しかも高原地における霜枯の草原、吹き上げ吹きおろす山風山おろしに凍雲漸く凝つて、白い物がちらちらする。なれどもどうしても三雪ふるこの大野に一宿せねば歸られない。いづれ父尊(草壁)の御出遊の時にも(180)必ず信宿されたに相違ないから、御狩屋の設備はありもしたらうが、それは尾花刈り葺きの掘立小屋で、疊代りに旗薄四能を押靡けての草枕、而もさばかりの初冬の寒夜ときては、何と辛苦な旅寢ではあるまいか。
 辱くも金枝玉葉の御身たる輕皇子が、こんな憂いつらい目を強ひてもなさるとまで煎じ詰めて來て、これは外でもない、父尊の御在世當時この野に遊獵されたその「古へ思ひて」の事といひ放した。
 元來安騎野は御獵場である。しかも御出遊の時季が冬であるとしたら、誰れでもその目的が狩獵にあることを無造作に斷定するであらう。然しそれが父尊の「古へ思ひて」の御所爲と聞いたら、意外の感に打たれて、輕皇子の御孝心の篤さに涙を墮さぬ者はないだらう。その實をいへば第一目的は狩獵にあることは明らかであるが、第二目的たる「古へ思ひ」を誇張して、第一目的に置き換へたことは、いはゆる詩人幻化の手段で、讀者の眼を旨く眩耀して容易にその看破を許さない點は、流石に老巧である。
 又御出遊途上の光景から安騎野假寢のあわただしい動靜まで、力めて具象的表現を用ゐたことは、頗る眞實味を饒からしめ、讀者の心胸に深く喰ひ入るものがある。天に參する老檜古杉の眞木の林立、岩石磊※[石+可]たる荒山路、路を塞ぐ荊楚、雲は馬頭より生こる峻坂、人に驚いて朝飛び越ゆる一点の影、夕づく大野、降雪、旗薄四能おしなべての草枕、かく數へ來れば割合に名詞の多い歌である。
 そして起首から「旅宿りせす」までは、單なる安騎野出遊の記述としか思はれぬ處へ、最後に突然と「古へ思ひて」との一轉語を下し、一遍に大きな叙情の波紋を投げかけた。殆ど讀者は背負投を食はされた形で、變化の面白さは實に息も吐かれぬ。茲に至つて「旅宿りせす古へ思ひて」の倒装は非常な効果を齎すもので、もしこれを直叙したら全く何の生彩もあるまい。
(181) この篇一氣に揮灑して歌ひ了つてゐる。その勢破竹の如しで些の停頓もなく澁滯もない。起首こそ莊重な排對的調子で整へてゐるが、その外は「坂鳥の朝越えまして」「玉限る夕去り來れば」の二句のみが偏對をなすに過ぎず、暢達の快さは他に比類がない。「古へ思ひて」の掉尾の一句、全鱗皆立つの概がある。但「しもと押靡」「しのを押靡」と、「押靡」の語の再現は甚だ面白くない。傳誦或は筆寫の誤でもあるかと思はれる。
 輕皇子今度の御出遊は、恐らく父尊に對する三年の喪が濟んで――現に父尊は御父天武帝の爲に三年の服喪中に薨逝――の始めての冬の狩獵期であつたらう。父尊は持統天皇の三年夏四月の薨逝だから、同天皇の六年五月には既に忌服明けになる。でその年の冬の出獵には、取敢へず父尊が御生前再三出遊せられた安騎野へと、古へを慕ひがてら往かれたものであらう。人麻呂は東宮舍人で父尊に奉仕してゐた關係上、御子の輕皇子の安騎野出遊の御供に立つて、この傑作を獲たものである。當時人麻呂は三十一歳位と假定する。
 
短歌《みじかうた》
 
○短歌 長歌と同じ題詞のもとに攝せらるべきもので、長歌は專ら輕皇子の御上に就いて歌ひ、短歌の方は作者自身及び供奉諸員の上にかけて歌つてゐる。故にこれは長歌とは即不即の間にあるもので、「短」は反〔右△〕の誤かなどの説は全然不必要である。
 
阿騎乃野〔左△〕爾《あきのぬに》 宿旅人《やどれるたびと》 打靡《うちなびき》 寢毛宿良目八方《いもぬらめやも》 古部念爾《いにしへおもふに》    46
 
(182)〔釋〕 ○あきのぬに 諸本多くは「野」の字を脱してゐるが、田本によつて補ふ。○やどれるたびと 皇子の御供して野邊の假庵に宿つてゐる官人達をいふ。訓は古義に從つた。舊訓はヤドルタビビト〔七字傍線〕である。かゝる場合の存續態を現在法で代用するのは普通の事であるが、語調が促つて力強く聞える方に從つた。○うちなびき 手足を伸ばして安寢《ヤスイ》した形容。これに草や藻を冠して譬喩に用ゐるのは第二用法である。○いもぬらめやも 寢ても寢入られようか、とても寢入られはすまい。「い」は名詞で睡眠の意。「ぬ」は動詞で寢の意。「らめ」は現在推量の助動詞「らむ」の第五變化。「やも」は反辭。○いにしへ 「古部」の部〔傍点〕は、古の字を必ずイニシヘと訓ませる爲に添へたもの。
【歌意】 輕の皇子の御供で遊獵に來て、この安騎野にとまつてゐる旅人達は、手足を伸ばしてうち解けても寢られうことか、皆まんじりともせぬ一夜を明かすことであらうよ。嘗て皇子の父君日竝皇子樣がこの野に遊獵なされた古へをお慕ひ申し上けるのでね。
 
〔評〕 藤原京から阿騎野までの道程は僅々七里には過ぎないと既にいつた。たゞ信宿して歸るほどのこの遊行に、「旅人」とはいかにも仰山らしいが、往時は假令一夜でも、我が家以外に宿泊するのを旅といつたもので、後のものながら源氏物語帚木の卷雨夜の品定の條に、「内裏《うち》わたりの旅寢もすさまじかるべく」など書いてあるのは、即ち禁中に於ける一夜の宿直をいつたのである。
 狩獵はこの時代にあつては、最も男性的遊樂の一に數へられたので、天子を始め奉り王族貴顯の間には、隨分屡々これが行はれた。今作者は輕皇子の安騎野の狩獵に供奉したにつけて、嘗てその父尊(日竝知《ヒナミシ》)に供奉し(183)て、同じこの野の遊獵に侍つた當時の盛事をを追憶した。素より狩野の草舍のわびしさは旅人の安眠を許すべくもない上に、かく今昔の感慨がその旨を掻※[手偏+劣]るとなつては、一夜を輾轉反側に明かすことは必然である。
 歌は以上の説明順序を倒叙してゐる。即ち初句から四句まで一氣に勁健な調子をもつて行叙し、その間「うち靡き」の安臥状態の形容をさへ取入れ、極めて現實に即した描寫によつて「いもぬらめやも」の眞實味を強調すべく努力した。而も何故にさ程まで昂奮したかはまだ説破しない。飽くまで聽者の心を引摺つて置いて、結句に至り、始めてそれが懷舊の爲であると喝破した。一首の主要點を最後に置く表現方法は、かくの如き場合において、最も有效に使用されたものといへる。
 但懷舊の昂奮に安眠もせぬは、實は多感な作者獨自の心境である。從駕の人達の中には、各人各樣の事情から、或はさまでの感傷を起さぬ人もあつたらうが、それらに委細構はず、輕皇子から始めて從駕の人達全部の氣持であるが如くに「やどれる旅人」と叫んだのは一種の誇張で、詩人の慣手段である。詰り昂奮の押賣をした形だが、それだけ如何に作者自身が劇しい力強い昂奮に囚はれて居たかゞわかる。
 歌聖の所作は表面上何の奇もなぃ、只熱情そのものといふ風に見えて、仔細に吟味すると、奥底の測られぬ程の巧緻を藏してゐる。他作家の到底企及し難い點はそこにある。――宿る旅人を輕王を擬へ奉つたものゝ如く解した説も多いが、やゝ牽強の感がある。
 以下數首は全く聯作の體を成してゐる。そして專ら作者自身の感想や動靜ばかりを叙して、一言も輕皇子の御上に言及したものがない。陪從者の立湯としてその體を得ぬことのやうに訝つたが、果然その理由を發見した。輕皇子はこの秋は僅に十歳の御幼年であらせられたのだ。長歌の末句に「古へ思ひて」の一語を著けたの(184)みで了つた事は決して偶然でない。
 
眞草刈《まぐさかる》 荒野者雖有《あらぬにはあれど》 黄〔左△〕葉《もみぢばの》 過去君之《すぎにしきみが》 形見跡曾來師《かたみとぞこし》    47
 
〔釋〕 ○まぐさ 「ま」は美辭。檜の木を眞木といふ如く、眞草は薄茅などの高萱をいふ。○あらぬにはあれど 「あらぬ」は人氣遠い野。和名抄に、曠野を阿良乃良《アラノラ》と訓んである。本文、略解及び古義は一本に據るとして「野」の下に二〔右△〕を補つてゐるが、現存の諸本にはそんなのは無い。「念《オモ》へりし妹者《イモニハ》あれど」(卷二)その他、「者」をニハ〔二字傍点〕と訓んだ例は少くないから、この儘でよい。○もみぢばの 「過ぎ」にかゝる修飾語。木の葉の色づいたのは、すぐ散り過ぎるからいふ。原本は「葉」の上に黄〔右△〕の字がない。契沖が補つて、かく訓んだのは至當である。○すぎにし 逝つた。人の死を過ぐ〔二字傍点〕といふは古代語。過ぐは行き失せてしまふ意。○君 きみは日竝《ヒナミシノ》皇子(草壁皇太子)をさす。○かたみとぞ 形見とて〔右○〕ぞの意。
 
〔評〕 作者は公用、即ち輕皇子の供奉の一員として安騎野に來たのであつて、勝手な私的旅行ではない。それを自分が日竝知皇子の形見とて慕はしさに來たといひなしたのは、所謂空裏に樓閣を現ずる幻手段である。はじめ(185)に「眞草刈る荒野」と安騎野のすさまじげな一面を強調し、さて、とても足踏みもされぬ處だがと轉捩して、「形見とぞこし」と對映させたので、胸臆の問題は既に實行の事件と移つて、如何なる障碍も困難も、その思慕の熱情の前には全く空しい趣が歴然としてゐる。即ち故皇子を追慕し奉る情味が言外に躍動してくる。
  鹽氣たつ荒磯にはあれどゆく水の過ぎにし妹が形見とぞ來し (卷九―1797)
は同じ詩境、おなじ叙法である。
 
東《ひむがしの》  野炎《ぬにかぎろひの》 立所見而《たつみえて》 反見爲者《かへりみすれば》 月西渡《つきかたぶきぬ》    48
 
〔釋〕 ○ひむがし 日向《ヒムカ》しの義で、東をいふ。○かぎろひ 陽炎《カゲロフ》の古言。但こゝは薄く立つ靄《モヤ》の稱と思はれる。この作者の歌に又「蜻火《カギロヒ》のもゆる荒野」(卷二)の句がある。その時季は暮秋だから丁度この歌の季節と合ふ。さればこゝの陽炎《カゲロフ》は春の遊絲の事ではない。眞淵は明くる空の光と解したが、それでは野に立つとはいはれなくなる。○かへりみすれば 顧みれば〔四字傍点〕に同じい。動詞を一旦體言格にいひ据ゑて更にサ變に活かせる特殊語法で、欲りす、盡せず、消えせぬ、絶えせじ、などは皆この例。○かたぶきぬ 「西渡」をかく訓むは意訓。初句の「東」に對せしめて作爲的にかく書いた。
【歌意】 夜の引明けに狩屋を出て見渡すと、東の方には野に薄靄の立つのが見えて、さて振返つて見ると、在明の月はもう西の空低く傾いてしまつてゐる。
 
(186)〔評〕 これは前後の歌とは懸け離れた内容のもので、單純な狩獵氣分本位の作である。朝獵には鳥のまだ草伏の頃を踏み立てゝ射取るのである。隨つて霜を拂つて早起する。安騎野の一宿、夜のしら/\明に作者は狩屋から立出て、この大野をまづ望一望すると、東雲の光に薄靄めいたものが野末を低く這つてゐる。首を囘して見ると、山の端近く殘月は夢の如く淡い光を投げてゐる。東は野のかぎろひ、西は空の殘月、この兩者の對照の間にいかにも廣々とした天空と曠野の趣が現はれ、さてその大野の中央に立つて左顧右眄、狩野の朝氣分に浸つてゐる作者自身の姿が、「見えて」と「顧みすれば」との語によつて、いかにも鮮かに點出されてゐる。こゝが單なる叙景歌と違つた味のある所で、結構雄大、情景兼ね備つて、容易に後人の追隨し難い高調である。しかし歌聖は大きい。まだ/\幾多の神品絶品を所持してゐることを忘れてはならぬ。
 この歌三句までを一氣にいひ下してゐる。即ち七五調に流れてゐる。藤原宮時代において、人麻呂の作において、夙くもこの後世調を發見することは、律調の變化に留意する者の記憶すべき事であらう。
 
 
(187)日雙斯《ひなみしの》 皇子命乃《みこのみことの》 馬副而《うまなめて》 御獵立師斯《みかりたたしし》 時者來向《ときはきむかふ》    49
 
〔釋〕 ○ひなみしの 輕皇子の御父草壁皇太子の謚號で、天つ日嗣の代並《ヨナミ》を知ろし召す義。續紀に「日竝知《ヒナミシラス》皇子」とある。略して日並知《ヒナミシノ》皇子、尚略して日竝《ヒナミノ》皇子ともいふ。この句契沖はヒナメシ〔四字傍線〕、千蔭はヒナメシノ〔五字傍線〕、古義は「斯」を能〔右△〕の誤として、ヒナミノ〔四字傍線〕と訓んだ。草壁皇太子は天武天皇の皇子で、御母は持統天皇。天智天皇の元年に大津宮に生まれ、天武天皇十年二月皇太子となり、萬機を攝らしめられ、十四年春正月淨廣壹の位に上り、持統天皇三年四月薨去。御年二十八。淳仁天皇の天平寶字二年に追尊して、岡宮御宇天皇と稱し奉つた。〇みかりたたしし 御獵を催されたの意。「たたし」は立ちの敬相。この立ちは催す〔二字傍点〕こと。出で立ちの意ではない。○ときはきむかふ その季節がやつて來るの意。
【歌意】 日竝知の皇子樣が、嘗てこの阿騎野で、侍臣等と馬を乘り竝べて御獵をお催し遊ばされたが、今やその季節がまたやつて來る。それにつけてもあの當時が懷かしく思ひ出されることだ。
 
〔評〕 日竝放知皇子の安騎野御遊獵は一再に止らなかつたであらう。然しその時期は何時もきまつて、初冬から早春までの期間であつた。東宮舍人等の悼歌にも、
  毛衣を冬かたまけていでましゝ宇陀の大野はおもほえむかも  (卷二―191)
とある。「時は來向ふ」は季節の初めにいふべき言葉だから、この歌は初冬の頃の作であることは明白である。
 作者は今輕皇子の御獵の御供申して、端なくその父君たる日竝知皇子の御獵當時を聯想し、追想し、次いで(188)その季節に想到した。蓋し作者は嘗て日竝知皇子の舍人であるから、御獵の御供でこの安騎野にも再々來たに相違ない。さては今また同じ野に立ち同じ季節に値つて、今昔の感は尋常一樣のものでなかつたことも推量される。初頭から御稱へ名を取入れての「來向ふ」のいひ棄ては、實に武歩堂々たる高調で、裏に千萬無量の感愴を寓し、尋常歌人の到底夢想だもし難い表現である。あゝ御獵立たしゝ時は再び來向ふ、しかも皇子の御面影は再び見ん由も無い。對映の間にその思慕追懷の至情が躍動して、幽怨の意が言外に見はれてゐる。
 
藤原(の)宮|之《の》役《えだちの》民(の)作歌
 
藤原宮の造營に徴發されて從事した民の詠んだ歌との意。持統天皇は天武天皇の次に御即位あり、飛鳥淨御原宮にましましたが、六年五月藤原の宮地の地鎭祭を行つて、造營に御着手あり、八年十二月に遷都あらせられた。藤原宮のことは既出(一一七頁)。古義は一書によつて營〔右△〕の字を藤原宮の上に補つたが、却つて漢文の調を成さない。○役民 御造營の工事に從事する民で、この歌はそれら役民中の一人が詠んだものとの題意であるが、詠風の雄偉莊重にして頗る老巧なことを考へると、或は相當力量ある歌人が役民の心になつて詠んだものと見るのが寧ろ眞に近いであらう。宣長は人麻呂の作だらうと揣摩し、守部はさう斷定してゐるが、さう簡單に片附けるのは危險である。
 
八隅知之《やすみしし》 吾大王《わがおほきみ》 高照《たかてらす》 日之皇子《ひのみこ》 荒妙乃《あらたへの》 藤原我宇倍爾《ふぢはらがうへに》 (189)食國乎《をすくにを》 賣之賜牟登《めしたまはむと》 都〔左△〕宮者《みあらかは》 高所知武〔左△〕等《たかしらさむと》 神長柄《かむながら》 所念奈戸二《おもほすなべに》 天地毛《あめつちも》 縁而有許曾《よりてあれこそ》 磐走《いはばしる》 淡海乃國之《あふみのくにの》 衣手能《ころもでの》 田上山之《たながみやまの》 眞木佐苦《まきさく》 檜乃嬬手乎《ひのつまでを》 物之布能《もののふの》 八十氏河爾《やそうぢがはに》 玉藻成《たまもなす》 浮流禮《うかべながせれ》 其乎取登《そをとると》 散和久御民毛《さわぐみたみも》 家忘《いへわすれ》 身毛多奈不知《みもたなしらず》 鴨自物《かもじもの》 水爾浮居而《みづにうきゐて》 吾作《わがつくる》 日之御門爾《ひのみかどに》 不知國《しらぬくに》 依巨勢路從《よりこせぢより》 我國者《わがくには》 常世爾成牟《とこよにならむと》 圖負留《ふみおへる》 神龜毛《あやしきかめも》 新代登《あらたよと》 泉乃河爾《いづみのかはに》 持越流《もちこせる》 眞木乃都麻手乎《まきのつまでを》 百不足《ももたらず》 五十日太爾作《いかだにつくり》 泝須良武《のぼすらむ》 伊蘇波久見者《いそはくみれば》 神隨爾有之《かむながらならし》    50
 
〔釋〕 ○やすみししわがおほきみ 既出(三〇頁)。○たかてらすひのみこ 上の輕皇子安騎野御遊獵の所に出たが、こゝは持統天皇をさし奉る。○あらたへの 藤に係る枕詞。栲《タヘ》は布帛の總稱、荒栲は麁い布で和栲《ニギタヘ》(絹)に(190)對した語。藤蔓の繊維で織つたものなどは實に麁布である。當時|木綿《モメン》はなかつた。「妙」は借字。○ふぢはらがうへ 藤原のあたり。藤原のことは既出(一一七頁)。「うへ」は「高野原《タカヌハラ》の宇倍《ウヘ》」(卷一)「多可麻刀《タカマド》の秋野《アキヌ》の宇倍《ウヘ》」(卷二十)などの場合と同じく、あたり、ほとりの意。○をすくに 天皇の治め保ち給ふ國。上に「所聞食《キコシメス》天の下に」とあるのも同じい。訓は「乎須久爾能許等《ヲスクニノコト》とりもちて」(卷二十)の例による。○めしたまはむと 御覽にならうとて。「めし」は「見し」の敬語。委しくは下の「めしたまへば」を參照(二〇六頁)。「賣」をメと讀むは呉音。○みあらかは 宮殿をばの意。「あらか」は在處《アリカ》の義で、宮殿をいふ古語。或はいふ蒙古語の房舍をバラグワ(Baragha)と稱すると同語かと。「都宮」をミアラカと讀むは意訓。ミヤコ〔三字傍線〕と訓むは面白くない。次に「高知る」とあるを見れば必ず宮殿である。「御在香乎高知《ミアラカヲタカシ》りまして」(卷二)の例による。「都」は或は御〔右△〕の誤寫かも知れない。○たかしらさむと 立派にお營み遊ばさうとて。「武」の字原本にない。假に補つた。○かむながら 既出(一五三頁)。○なべに 共に、つけてなどの意。竝《ナメ》にの轉で、事柄の同時に起る意を表はす接尾辭。○あめつちも 天神地祇(191)もの意。「天地《あめつち》を歎き乞ひ祷《ノ》み」(卷十三)の天地に同じい。○よりてあれこそ 寄りきてあれば〔右○〕こその意。動詞の已然形と「こそ」との間に「ば」の助辭のないのは古格。「いにしへもしかなれこそ」を參照(六九頁)。○いはばしる 近江に係る枕詞。既出(一二五頁)。○ころもでの 枕詞。(1)は「ころもで」は袖といふに同じく、「で」は料の意で、デはタ〔傍点〕と通音の故に田上《タナガミ》山に冠したものといひ、(2)は袖は手先にかゝるから手之上《タナカミ》とまで懸けたものともいふ。後説やゝ勝つてゐる。○たなかみやま 近江國栗太郡に盤踞し、その西端は勢田川に臨む。○まきさく 檜の枕詞。この用例繼體紀、雄略記などにある。語義については契沖以下の學者多くは「まき」を檜、「さく」を拆き割るの意としたが、それを更に檜に繋けるのは重複である。古義は眞木幸檜《マキサクヒ》にて、眞木の功用を成し幸《サキ》はふ檜《ヒ》の意と解したが、幸〔右○〕は體言としてはサキ、サチで、サクといふ用例も無いし、而も迂遠である。思ふに眞木拆く火といふを檜《ヒ》にいひかけたもので、雷火の喬木などを打拆くよりいふか。神代紀に裂雷の語例がある。「まきたつ」を參照(一七七頁)。○ひのつま(192)で 檜の角材をいふ。眞淵説に「まづ麁木《アラキ》造りしたる材は、角※[手偏+爪]《カドツマ》あればいふなり」とあるがよい。「嬬」は借字、「手」は助辭と眞淵は見てゐるが、料〔傍点〕の意であらう。○もののふのやそうぢがは 物部《モノノフ》は武人の族をいふが、元は朝廷に仕へ奉る人等すべてを稱した語と思はれる。さてその物部には澤山の氏《ウヂ》があるので、「物部《モノノフ》の八十氏《ヤソウヂ》」といひ、同音の關係で宇治川に係けたのである。「さざれ波磯|巨勢路《コセヂ》」(卷三)、「わが紐を妹が手もちて結八《ユフヤ》川」(卷七)などと同じ修辭である。○うぢがは 近江の琵琶湖の下流、近江にては勢田川、山城宇治郡に入つては宇治川と稱する。下流を淀川といふ。○たまもなす 玉藻の如くにの意。「なす」は似すの轉語。こゝは材木の次々と流れゆく樣を藻の靡くに譬へたのである。○うかべながせれ 皇居御造營に奉仕の爲、天地の神々〔五字右○〕が材木を河に浮べ流してゐると見立てゝいふ。「流せれ」は「流せり」の已然形で、上の「よりてあれこそ」に對する結詞である。古義は流せれ〔三字傍点〕ば〔右○〕の意として、次句へ續けて解し、ば〔右○〕の辭の略かれる一格と見たが、諾き難い。○そをとると その流れて來た材木を取上げようとして。○さわぐ いそがしく立働くの意。「さわぐ」は匆忙なるをいふ。○みたみ 民は至尊の領し給ふ所謂|大御寶《オホミタカラ》であ(193)るから敬稱を付ける。民そのものを敬するのでなく、領者を敬するのである。○みもたなしらず わが身の事も一向構はず。春滿いふ「たなしる」は直《タヾ》知るの轉語にて、ひたすらに知る意と。「しらず」は口語の構ハヌ〔三字傍点〕に當る意で、中古文にはいくらも見える。「身は田菜《タナ》知らず出でぞあひくる」(卷九)「何すとか身乎田名《ミヲタナ》知りて」(卷九)「人にな告げそ事は棚《タナ》知れ」(卷十三)など用例は多い。○かもじもの 鴨そのまゝの物の意。從來枕詞と見られてゐるが、物を形容する語である。「鴨じもの」「鹿《シシ》じもの」「男じもの」などの類語が集中に多い。○みづにうきゐて 水中に浸つてゐる樣をいふ。これは流れて來た材木を宇治川の川尻で一且拾收する役民の状を叙したと同時に、持ち越した材木を泉川で筏に作る時の有樣をも兼ね叙した句と見るべきである。文脈は勿論この句から「泉乃河爾」へ續くのである。○わがつくるひのみかどに 我等役民が今工事に從つてゐるこの立派な皇居にの意。この句以下「新代登」までは挿入句で、御代の榮を讃美して泉川の序詞としたもの。○しらぬくによりこせぢより 今まで無關係の異國も歸服する即ち寄り來《コ》すといふを、地名の巨勢《コセ》に係けた。即ち「わが作る日の御門に知らぬ國寄り」は巨勢の序詞。○こせぢ 「巨勢」は南葛城郡|古瀬《コセ》。そこを通過する道が巨勢路である。巨勢路より出づ〔二字傍点〕といふを、次の「泉の川」にいひかけた。「依」は借字。○わがくにはとこよにならむ わが日の本はめでたい蓬莱國になるであらうとの意。「常世」は(1)永久變らぬ世界の稱。(2)遠方にある理想國の稱。こゝは(2)の意で、蓬莱國のことに用ゐた。雄畧紀に「水江(ノ)浦島(ノ)子乘(リテ)v船(ニ)而釣(ス)、逐(ニ)得(タリ)2大龜(ヲ)1云々、入(リテ)v海(ニ)到(ル)2蓬莱山(ニ)1」。この蓬莱山をトコヨノクニと訓んである。集中常世(ノ)國を蓬莱山の稱に用ゐた例は、卷の四、五、九などに見える。古事記傳に常世を蓬莱國とするは漢意だとあるが、大化以來盛に漢意を奨勵してゐたのだから、この時代になつては當り前の使ひ方である。蓬莱山は支那でいふ東海中にある仙山の一つである。この句も祝意を(194)表したもので、靈龜の出現に對する感想である。○ふみおへるあやしきかめ その甲にめでたい文字の表れた靈妙不思議な龜。「あやし」は奇しきことの甚しきにいふ。支那で洛書とて、禹の水を治むる時、洛水より文を背にした神龜が出たといふ故事による。爾來祥瑞とされ、易の繋辭傳に「河(ハ)出(シ)v圖(ヲ)洛(ハ)出(ス)v書(ヲ)、聖人則(ル)v之(ニ)」と見え、我が國でも、この類の神龜が屡ば出たことが記録に見える。即ち天智紀の九年六月に、「邑中獲(タリ)v龜(ヲ)、背(ニ)書(ケリ)2甲字(ヲ)1、上黄下玄、長六寸許」とあり、又續紀によれば神龜、靈龜などの年號もこの類の龜の祥瑞に因し、天平の改元は「天王貴平如百年」の背文ある龜の出現により、神龜六年の詔には「藤原朝臣麻呂等い、圖《フミ負へる龜一つ獻らくと奏し賜ふ、云々」とある。持統天皇の御代に巨勢路から神龜を獻じた事があつたのだらう。紀の文に見えぬのはその遺脱と見てよい。○あらたよと この御代は新《アラタ》しい希望に滿ちた〔六字右○〕御代としての意。「あらた」といふ副詞は、新の意で、刊本に「年月《トシツキ》は安多良安多良爾《アタラアタラニ》あひ見れどわが思ふ君は飽き足らぬかも」(卷二十)とあるが、古寫本多く「安良多安良多《アラタアラタ》」とあるので、刊本の誤なることが知られる。今現に副詞の場合は「あらたに」といふが、古くは形容詞も「あらたし」であつたのを、平安期に入つて形容詞の方は「あたらし」と轉倒せられて、惜むべき意の「あたらし」と同形になつた。さて「書《ふみ》負へる奇《アヤ》しき龜もあらた代と出づ〔二字傍点〕」をいひ掛けて、「泉の川」の序としたのは、「妹が門入りいづ〔二字傍点〕み川」(卷九)と同工である。○いづみのかは 木津川の古名で、山城國相樂郡にあり、伊賀では名張川といひ、笠置山の麓を過ぎ、甕の原木津を經て、末は淀川に合流する。○もちこせる 宇治川から泉川の落合に持ち來したの意。○ももたらず 百に滿たない意で、八十《ヤソ》又は五十《イ》にかゝる枕(195)詞。こゝは筏《イカダ》のイにかけた。○いかだにつくり 筏に組んで。○のぼすらむ 泉川を泝らせるのであらう。これは木津まで筏を泝せ、そこで陸揚して藤原の地へ陸路を運搬するのである。「らむ」は現在推量の助動詞で、作者が現にその光景を目撃しつゝ叙したのである。この句の下、しか〔二字右○〕の語を補つて聞く。○いそはくみれば 競うて働くのを見れば。皇極紀に爭陳〔二字傍点〕をイソヒテマウスと訓み、伊呂波字類抄に爭、競、角の三字、何れもイソフと訓んである。即ちいそふ〔三字傍点〕は競ひ爭ふ意で、四段活用の動詞であるが、體言格にする爲に「いそはく」と延ばしたので、思はく、曰はく、願はく、隱らく、などと同樣の語法である。○かむながらならし まことに天皇は神樣でいらせられる故らしいの意。
【歌意】 安らかに天下を知し召す天子樣、天津日嗣を承けられた天子樣が、この度藤原のほとりに於いて、國家をお治め遊ばさうが爲に、宮殿を立派に御造營なさらうと、神であらせられるまゝに神々しく思し召し立たれると、それにつけて、天地の神々も相寄りお援け申せばこそ、あの近江の田上山から伐り出した檜の木材を、宇治川に次から次と玉藻の靡くやうに浮べ流してゐる。川下でその材木を取上げようと忙しく立働く役民達も、わが身の事も一向構はず、まるで鴨の浮ぶやうに水に浸つて働き、自分等の造營しつゝあるあの莊麗な皇居に、知らぬ異國も歸服して來ることの聯想される巨勢路〔三字傍点〕から、この日本は蓬莱國になるに違ひないといふ祥瑞の文字を背に表した靈龜までも、この御代を新しい希望に滿ちた御代として出づ〔二字右○〕るが、その出づ〔二字傍点〕といふ語に縁ある泉〔傍点〕川の川合に持つて來た檜の木材を、此處で筏に組み、川を泝つて運ぶのであらう。かうして天神地祇も役民達も一所懸命に奉仕するのを見れば、あゝやはりわが天子樣は神でいらせられるからであるらしい。
 
(196)〔評〕 飛鳥藤原附近の山々にはその頃森林が多かつた。南淵《ミナブチ》の細川山あたりは伐採を禁じた事、坂田の尼寺は密林の爲に腐朽の甚しかつた事などが史に見え、朝倉の初瀬川は眞木たつ荒山であり、殊に三輪の檜原、卷向の檜原、初瀬の檜原、檜林も亦多かつた。祝詞(祈年祭)によれば、飛鳥、石村《イハレ》、忍坂、長谷、畝火、耳無の山々から宮材を求めて居つた。然し大規模の藤原宮建築には、もう間に合はなくなつたので、遠く近江の田上山に宮材を求めたのであらう。
 田上山は今こそ多く草山で碌な森林もないが、この時代には結構な材木の出た場處と見える。運搬の便は勢田川(宇治川の上流)に臨んでゐるから始末がよい。山から切り出して木取つた材木即ち嬬手を、そばから川へ投げ込む、材木から材木と恰も藻が浮いたやうに盛に流れ/\て、ぶか/\と、九里から十里に及ぶ長距離を木津川との合流點まで自然に流れ着くではないか。實にたゞ事とは思はれない。人力の及ばぬ不思議さ、全く天地の神の大君に仕へまつる御所作と感ずるより外はない。
 だがこの材木がその合流點から、ずん/\淀川へと流れ下つてしまつては大變だ。何でもかでも喰ひとめなければならぬ。仕方ないから役民等は鴨のやうに水中に漬つて、その流材を取上げる。「家忘れ身もたな知らず」は誇張の語には違ひないが、實に一所懸命な難儀な大仕事であつたらう。
 「持ち越せる」はどういふ風に持ち越したか。宇治川からすぐに木津川口へと、水續きに材木を引つ張つて來たか、或は一且陸揚して木津川岸へ轉ばし込んだか、それはどちらでもよい。とにかく木津川口で筏に組んだものとしてさて、筏は普通流に隨つてさし下すものであるのに、こゝには「泝すらむ」とあるので一寸困るが、これは筏に綱を付けて引舟のやうな具合に、川上へと引いたものだらう。木津川は頗る緩い流だから、こんな仕事(197)は爲《シ》易い。そして六里強も來て、今の木津邊で陸揚したのを、力車で藤原の宮地まで運搬したものと見てよい。
 抑も藤原新京の開設は、あの大規模な奈良京の先驅を成すもので、當時にあつては實に前代未聞の大工事であつた。持統天皇の御氣性は御婦人に似ず、雄邁果敢にあらせられたから、易世遷都の舊慣を打破して、支那の長安洛陽式の都城を造り、中興の偉業を示して大に外部に誇燿せんとの御心組で、その目的の爲には何物をも犠牲にして憚らなかつたであらう。この前古にない自然の力人の力のありたけを用ゐ盡した、大がかりの宮材運搬の作業は、時人の視聽を飽くまでも聳てしめたものらしい。
 作者は今二川合流の川俣に立つて、これらの光景に對して無限の感懷に耽つたのである。
 大寶の制、民の庸として夫役に服するは、正丁は歳に十日次丁は五日の規定であつた。處がかういふ臨時徴發の公用には十日も五日もない。役後にこそ一年の調役を免されるやうな特典も與へられるには決まつてゐるが、さし當つて稼穡の仕事を放擲せねばならず、中には遠く家郷を離れて勞役するものもある。濟まぬ事ながら迷惑な話である。彼の奈良造都の際における勅(元明天皇四年九月)に
  頃(ロ)聞(ク)諸國(ノ)役民〔二字傍点〕勞(レ)2於造都(ニ)1、奔亡(ルモノ)猶(シ)v多(キガ)、雖(モ)v禁(ズト)不v止(マ)、云々。 (續日本紀卷五)
とある。逃亡者が多くていくら止めてもその效がないといふ。如何に役民等が勞苦を厭つてゐたかゞわからう。しかも眞面目に勤め上げた役夫等は、更に又歸郷の際に、慘憺たる目を見せられるのである。和銅五年正月の詔に、
  諸國(ノ)役民〔二字傍点〕還(ル)v郷(ニ)日、食糧絶乏(シ)、多(ク)饉(ヱ)2道(ニ)1、轉2填(ス)溝壑(ニ)1其類不v少(カラ)、云々。 (同上)
とある。これでは踏んだり蹴たりで、怨嗟の聲は必ず揚がつてゐた事だらう。藤原造都の時とてもさう事情に(198)大差はあるまい。
 然るに作者はこれを逆説して、形式的の服從ではなく、王事の爲にはどんな無理な仕事にも、天地の神すらも靡いて奉仕し、人民も心から喜んで勞役に服する趣に歌ひなし、かく神人共に感銘するのも天子の神とます故らしいと、重きを帝徳の高きに歸して、聖代の禮讃に筆を擱いた。詞人の態度おのづから然るべきであるが、又この作者の利口なのに驚く。
 「吾が作る日の御門」以下「新代と出づ」を泉川にいひかけたまでの一齣は挿入句で、聖代を謳歌する爲の讃辭になつてゐる。抑も外蕃來附と祥瑞出現とは、當時の主權者及び爲政者のあこがれで、天武紀十二年春、三足の雀が獻せられる時の詔に「天瑞者行(フ)v政(ヲ)之理、協(ヘバ)2天道(ニ)1則應(フ)v之(ニ)、是今當(リ)2朕(ガ)世(ニ)1毎(ニ)v年重(ネ)至(ル)、一(ハ)則(チ)以(テ)懼(レ)、一(ハ)則(チ)以(テ)喜(ブ)、云々。」と仰せられた。――令にもその法文が見える――もとが支那思想のかぶれで、別に外藩の來附がなくても、靈龜の出現がなくても、時代の流行的思想によつて祝福の意を叙べたまでのものと解しても差支はないものの、それが事實であつたとしたら、その眞實味の爲に愈よ印象が強まるであらう。三韓の來貢は齊明朝に終を告げたが、以後もその投化者が續々あり、耽羅が又來附し、持統天皇二年八月にも「耽羅王遣(シテ)2佐平加羅(ヲ)1來(リテ)獻(ル)2方物(ヲ)1」とある。耽羅は高が朝鮮の一島に過ぎないが、その頃は歴とした獨立國だつたのだから、立派な外蕃の來附といへよう。又靈龜の出現は「巨勢路より」と特に地名を提擧した點からしても、それを事實と見るが至當で、紀の脱漏などと氣にするまでもない。いづれ能登瀬《ノトセ》川あたりで捉まへた龜の子の背に、おめでたい文字を彫り付けて獻上したものだらう。「不v得d苟(モ)陳(ベ)2虚餝(ヲ)1徒(ニ)事(トスルヲ)c浮詞(ヲ)u」(令)と小言をいひつゝも、爲政家は「新代」の象徴として方便的に取上け、聖代謳歌の用に供したと見られる。
(199) かくこの一齣は挿入句であるのに心付かなかつた古人は、非常に苦しい解説を與へた。いはく、
  田上の宮材を宇治川へくだし、そを又泉川に持越して筏に作りて、その川より難波海に出し、海より又紀の川を泝せて、巨勢の道より藤原宮地に運び來るよし也。――(宜長説――古義も)
これではまるで地理的關係を無視したもので、失笑に値する。幸に近藤芳樹によつて是正せられて事理が明確になつたのは、作者の爲に大に慶すべきである。
 この篇頗る堂々たる雄篇大作である。第一段は全く人麿の詩作に散見する如き崇高森嚴なる形式美を以て尊王的思想を包容し、第二段は帝意のある處に天神地祇も同和して、宮材切り流しに奇蹟を演じたと見、第三段は役民も心力の限を盡して運漕に奉仕する状態を細叙して、民意も亦帝意に順應したものだと觀じ、第四段はそれら神意民意の交流は、蓋し天子の神とます故であると歸納した。頗る結構雄偉秩序井整しかも活殺自在な筆法は老將の兵を遣るが如くである。
 然してこの作の重心は第三段にあるが、作者は單なる叙述や描寫だけでは何だか物足らなく感じ、そこに特殊な道樂をしたものだ。それが挿入句の一節である。これで内容も豐富に重みも付くが、一面餘り饒舌過ぎるわざとらしさが伴うて、長處短處の感を免れない。「知らぬ國よりこせ〔二字傍点〕路」、「新代といづ〔二字傍点〕みの川」などのいひ掛けも厭味であり、うるさくもある。又全體に接續辭の「と」の多いことが耳障りである。「めし給はむと」、「高知らさむと」、「そを取ると」、「新代と」の類、おなじ語法は自然おなじ句法を生ずることになるから、叙法に變化の乏しい憾がないでもない。「眞木さく檜の嬬手」といひ、又「眞木の嬬手」といふ、さし合ふやうだが、これは叙述上到底避け難い文字で、寧ろ詳畧その宜しきに適うたことを稱へたい。形容の妙としては、(200)次から次への流材を「玉藻なす浮べ流せれ」も惡くないが、殊に「鴨自物水に浮き居て」には、役民等が赤裸裸で水上に浮動する光景が如實に表現されて面白い。
 さて題に役民の作歌とあるが、當時の上下層の文化程度は天と地との如くに懸隔してゐたので、特殊の者を除く外、一般人民は全く無學で、只忠實なる番犬、從順なる小羊に過ぎなかつた。それに引換へ官僚級の生活者は高級の教養を施され、いづれも漢文といふ外國語に堪能な人達であつた。この篇の作者がわが古典に通曉し、漢土の典故を諳んじてゐる點から見れば、尋常一樣の役民ではない。芳樹はいふ、宮財の運送を掌る小吏などの名を隱して役民の作となせるものかと。或はその邊であらう。
 
從《より》2明日香宮《あすかのみや》1遷2居《うつりましし》藤原(の)宮(に)1之後、志貴皇子《しきのみこの》御作歌
 
明日香淨御原宮から藤原宮に遷都のあとで、志貴皇子が詠まれた御歌との意。○明日香宮 飛鳥の淨見原の宮をさす。既出(九九頁)。○遷居藤原宮 持統天皇がその即位八年十二月六日に、明日香宮から藤原宮に御移轉なされたのをいふ。紀にも「乙卯遷2藤原宮1」と見えてゐる。志貴皇子の御遷居ではない。○志貴皇子 天智天皇の第七皇子で、光仁天皇の御父。施基、磯城とも書く。地名の磯城を御名に負はれたもの。大寶三年四品、靈龜元年には二品となり、同二年八月薨じた。光仁帝即位に及び、追尊して春日宮天皇と稱し奉つた。
 
(201)※[女+采]女《たわやめの》 袖吹反《そでふきかへす》 明日香風《あすかかぜ》 京都乎遠見《みやこをとほみ》 無用爾布久《いたづらにふく》    51
 
〔釋〕 〇たわやめ 「たをやめ」の古言で、※[女+單]]娟《タヲヤカ》なる女をいふ。「※[女+采]」は采女の合字で、更に「女」の字を書き添へた。采女はウネメと訓む。古くにも采女の稱が見えてゐるが、當時の制は支那に則つたので、孝徳天皇の大化の詔勅に「郡領以上の姉妹子女の形容端正なるを貢せしめ、年十六以上三十以下を限る」とあるから、何れも年若い美人だつたのである。故に「※[女+采]女」をタワヤメと意訓に訓む。「※[女+采]」を眞淵が※[女+委]〔右△〕の誤寫とし、古義が媛〔右△〕の誤としてヲトメ〔三字傍線〕と訓んだのは皆よくない。元暦本の附訓にウネメノ〔四字傍線〕とあるに從ふ人も多いが、歌としては稍事が狹い。○そでふきかへす 略解、古義には吹き反しゝ〔二字傍点〕と過去の意に聞くべしといひ、宣長、正辭は、反すべき〔二字傍点〕の意とした。然し「吹き反す」はやはり吹き反すで、元より吹き反すものと定めた辭樣である。ここは「明日香風」の修飾として用ゐた。○あすかかぜ 飛鳥の地に吹く風をいふ。佐保風《サホカゼ》(卷六)、泊瀬風《ハツセカゼ》(卷十)、伊香保可是《イカホカゼ》(卷十四)など皆その地に吹く風である。○みやこをとほみ 藤原(202)の都が遠さに。○いたづらにふく 何の詮もなくむだに吹く。△地圖 挿圖70を參照(二〇五頁)。
【歌意】 若い美人の袖を吹き飜すものとなつてゐる飛鳥風も、既に飛鳥が古里となつてしまつた今日では、藤原の新都が遠さに、美人の袖を吹き反すといふこともなく、只空しく何の詮もなく吹くことだわい。
 
〔評〕 舊部飛鳥の宮の所在地は豐浦、雷岡の東に隣接した處である。そこから新都藤原の宮は、正南わづかに半里許を距るのみである。さすれば「都を遠み」とはいひ難いやうであるが、近代多く岡本の附近にのみ宮造りされた習慣から見れば、また遠みと思はれぬでもない。且「いたづらに吹く」の襯染として、誇張の筆法を用ゐたものとも見られよう。
 皇居の移轉と共に古宮は廢せられて、その榮華も一旦に盡きた。志貴皇子は常にこの宮中に出入して居られたので、今この落寞たる光景に對しては多少の感愴無き(203)を得ないのは當然である。そこで宮中に於いて最も懷かしい印象を留めてゐる「たわやめ」の花の袖をやとひ來り、飛鳥風に託してその懷抱を吐露したのである。
 更にこの「たわやめ」には一つの脚註を要する。それは外でもない、この「たわやめ」が、決して庶人の家の兒女をさしたのでないことである。芳樹の説に、
  持統天皇は天武帝の皇后にて、共に明日香宮にましまし、天の下知しめしゝに、天武の崩後は女帝にてましゝ故、下の歌にも「藤原の大宮仕へあれつげやをとめが伴はともしきろかも」とある、これは藤原宮にての事なれど、いまだ藤原宮に移り給はぬ程も、なほ召使はるゝ官女多かりし故、かく「※[女+采]女の袖吹き反す」と殊更によみ給へるにて云々。
とあるやうに、まことにこのたわやめは、朝廷奉仕の采女《ウネメ》等をさしたもので、記録者が、わざわざ「※[女+采]女」の字面を擇んで、「たわやめ」に宛てたのも、この底の意を考へたからであらう。
 なほ飛鳥風は飛鳥の地に吹く風をいふのは勿論であるが、抑もかくの如く何風といふことは、專ら風|勝《ガチ》の場所について生まれた語なることを記憶すべきである。佐保風、伊香保風、筑波ならひ、赤城おろしなどの類例が悉くさうである。さて飛鳥は北さがりの山陰で、大和平原を吹きまくる北西風は、皆こゝに集中する。これ飛鳥風の稱の起る所以である。然しその名物の風も、たわやめの袖に縁が切れて只いたづらに吹くに至つて、その對映上まことに蕭條寂寞を極めたものといへる。
 「吹きかへす」「いたづらに吹く」と、吹く〔二字傍点〕の語が重複してゐるが、古歌にはこの種の類例が多く、却つてそこに無技巧の素朴さが窺はれるのである。
 
(204)藤原(の)宮(の)御井《みゐの》歌
 
○藤原宮御井 歌によれば、藤原宮に藤井と稱する清列な水を湛へた井があつたものであらう。宮城内の井であるから「御井」と尊稱を添へて呼んだ。今はそれを主として宮地の景勝を叙し、間接に御代を言《コト》ほいだ歌である。
 
八隅知之《やすみしし》 和期大王《わごおほきみ》 高照《たかてらす》 日之皇子《ひのみこ》 麁妙乃《あらたへの》 藤井我原爾《ふぢゐがはらに》 大御門《おほみかど》 始賜而《はじめたまひて》 埴安乃《はにやすの》 堤上爾《つつみのうへに》 在立之《ありたたし》 見之賜者《めしたまへば》 日本乃《やまとの》 青香具山者《あをかぐやまは》 日經乃《ひのたての》 大御門爾《おほみかどに》 春山跡〔左△〕《はるやまと》 之美佐備立有《しみさびたてり》 畝火乃《うねびの》 此美豆山者《このみづやまは》 日緯能《ひのよこの》 大御門爾《おほみかどに》 彌豆山跡《みづやまと》 山佐備伊座《やまさびいます》 耳成〔左△〕之《みみなしの》 青菅山者《あをすがやまは》 背友乃《そともの》 大御門爾《おほみかどに》 宜名倍《よろしなべ》 神佐備立有《かむさびたてり》 名細《なぐはし》 吉野乃山者《よしぬのやまは》 影友乃《かげともの》 大御門從《おほみかどゆ》 雲居爾曾《くもゐにぞ》 遠久有家留《とほくありける》 高知也《たかしるや》 (205)天之御蔭《あめのみかげ》 天知也《あめしるや》 日之御影乃《ひのみかげの》 水許曾波《みづこそは》 常爾有米《とこしへならめ》 御井之清水《みゐのましみづ》    52
 
〔釋〕 〇やすみしし 既出(三〇頁)。○わごおほきみ 「わが」のガ〔傍点〕が、「おほきみ」のオ〔傍点〕の音に同化されて「ゴ」となつたものである。これを根據として「吾大王」は皆ワゴオホキミと訓むべしとの説もあるが、それは牽強で、ワガともワゴとも兩樣に發音され、ワゴの時には特に「和期」と書いたものであらう。○たかてらすひのみこ 既出(一七六頁)。こゝは持統天皇をさし奉る。○あらたへの 藤に係る枕詞。既出(一八九頁)。○ふぢゐがはら 藤原とはこの藤井が原の略稱で、古くから此處に藤井と呼ばれる名高い清水があつて、遂に原の名にまで及ぼしたものであらう。この歌にいふ御井《ミヰ》は即ち藤井である。○おほみかどはじめたまひて 皇居を御創造遊ばされての意。大御門は皇居の御門のこと、これを以て皇居の代表とする。○はにやすのつつみ 埴安の池の塘《ツヽミ》。埴安の池は香具山の北麓に横はつてあつた大池。岡勢を利用し塘を築いて作つた貯水池である。眞淵の香具山の南麓南浦の邊と考へたのは誤。埴安の地稱は埴黏《ハニネヤス》の義で、その來由は神武紀に見えた。「香山《カグヤマ》」の項を參照(一九、二一頁)。池は可成り廣い面積に亙つたものらしく、今も池尻、池の内の地名が遺つてゐる。その邊は磐余の地に屬するから、(206)古への磐余(ノ)市磯《イチシノ》池はこの池の事であらう。履中紀に兩枝《フタマタ》舟を浮べた記事がある。○ありたたし お立ちになつての意。「たたし」はたゝすの連用形で、立ちの敬相。「あり」はあり〔二字傍点〕經る、あり〔二字傍点〕通ふ、あり〔二字傍点〕待つ、などのあり〔二字傍点〕と同じく在〔傍点〕の義であるが、かく接頭辭的に用ゐた易合は、その動作の連續又は反覆の意を表すことが多い。○めしたまへば 御覽になればの意。「めし」はめす〔二字傍点〕の連用形。めす〔二字傍点〕は「見る」を敬語とする爲に、その未然形を更に佐行四段に活用させ、立タス、行カスなどの如く見《ミ》すとしたのが、又轉じて「めす」となつたのである。見《ミ》すは他動詞と混同の虞がある爲に、自然かく變つたのであらう。○やまと こゝのは最狹義のやまと〔三字傍点〕である(一二頁參照)。よつて「日本」の字は借用に過ぎない。○あをかぐやま 香山は青々と樹木が繁茂してゐるので、讃美的に「青」と冠したのである。○ひのたて こゝは東の意に用ゐた。成務紀に「因(リテ)以(テ)2東西(ヲ)1爲(シ)2日(ノ)縱(ト)1、南北(ヲ)爲(シ)2日(ノ)横(ト)1、山(ノ)陽《ミナミヲ》曰(ヒ)2影面《カゲトモト》1、山(ノ)陰《キタヲ》曰(フ)2背面《ソトモト》1」とあるに從へば、日の縱は東西を連ぬる線で、日の横は南北を貫く線となり、漢語の經緯〔二字傍点〕と反對になる。然るに本朝月令に引用した高橋氏(ノ)文に「日(ノ)竪《タテ》、日(ノ)横、陰面《カゲトモ》、背面《ソトモ》乃|諸國人《クニグニビト》乎云々」とあるのは、東西南北の國々の人の意と思はれ、この用法に從へば今この歌に用ゐられた「ひのたて」以下の四語も、地理上から難なく説明が出來る。〇はるやまと 春山として。「跡」は原本に路〔右△〕とあるは誤。古葉略類聚鈔に「跡」の草體が書かれてある。○しみさびたてり 「しみ」は繁き意の副詞で、「うめの花みやまと之美爾《シミニ》」(卷十七)の用例がある。「さび」はこの歌の中にも「山佐備」「神佐備」とある。「かむさびせすと」を參照(一五三頁)。○このみづやま この瑞々《ミヅ/\》しい山はの意。畝傍山を讚めていふ。○ひのよこ 舊訓ヒノヌキ〔四字傍線〕とあり、和名鈔に「緯、おと韋、和名|沼岐《ヌキ》」とあるから舊訓のまゝでもよい譯であるが、上に引用した成務紀及び高橋氏文等によればヒノヨコと訓むべきである。こゝは西の意なることは上に述べた。○やまさびいます いか(207)にも山らしい威容を具へてゐるの意。「います」と敬語を用ゐたのは山神を敬うたのである。○みみなしの 原本古寫本共に耳高〔右△〕之に作り、ミヽタカノ〔五字傍線〕と訓んであるが、地理上から藤原宮の北方に青菅山と形容すべき山は耳成山の外に無いから、これはたしかに「耳成」の誤寫である。○あをすがやま 青く菅の茂つてゐる山。菅には種々あるがこゝは山菅即ち麦門冬(龍の鬚)であらうと。宣長は菅を清《スガ》の借字として、青くすが/\しい山と解した。○そとも 北の稱。背《ソ》つ面《オモ》の約。成務紀に山陽を影面、山陰を背面とあれば、山を中心として、影面は日光《ヒカゲ》の當る南面の意、背面は日光の當らない即ちそれに背く半面なる北方の意であるのを、いつかたゞ南北の方位をさす語となつた。「友」は借字。○よろしなべ 程よい工合にの意。「よろし」は形容詞の終止言、それに「なべ」の接尾語を添へた。「なべ」は竝《ナミ》の義で、こゝは諸事兼ね備はる意に用ゐた輕い用法。○かむさびたてり いかにも神々しくして立つてゐるの意。○なぐはし 吉野に係る枕詞。名のよろしい、名の立派ななどいふ意。吉野《ヨシヌ》といふその名がよいのである。「くはし」は精妙の義。こゝは四音の句。○かげとも 南の稱。影《カゲ》つ面《オモ》の約。○おほみかどゆ 吉野は御門から遠く離れてゐるのでかくいふ。○くもゐにぞとほくありける 空のあなたに遠く峙つてゐるよの意。「くもゐ」は雲の在る所の義で、空又は天をいふ。○たかしるや 天に係る枕詞。高く覆うてゐるをいふ。又「たか」は美稱としても用ゐる。「しる」は領し治むる意。「や」は間投の歎辭。○あめのみかげ 天空の影。「み」は敬語。○あめしるや 日に係る枕詞。天を領し治むるの意。「や」は間投の歎辭。○ひのみかげのみづ 「天の御蔭、日の御影の水」は天の影日の影のうつる〔三字右○〕水の意。うつるは契沖説によつて補入した。千蔭もいふ、「御影といふにやがて映ろふ意はこもれり」と。祈年祭の枕詞に、「皇御孫命乃瑞能御舍乎仕奉※[氏/一]天之御蔭日之御蔭登隱坐※[氏/一]四方國乎安國登平久知食故爾《スメミマノミコトノミヅノミアラカヲツカヘマツリテアメノミカゲヒノミカゲトカクリマシテヨモノクニヲヤスクニトタヒラケクシロシメスガユヱニ》云々」とあるは天日を避けて蔭を作る義で、(208)御蔭が即ち殿舍なのではない。故にこゝを殿舍の水と解する古義の説は誤つてゐる。祝詞では蔭の意であるのをこゝでは影の意に取成して「御影の水」といふ。それに依つて眞淵は、天の御影日の御影にて湧く〔二字右○〕水と解したが、少し鑿に近い。○みづこそはとこしへならめ この御井の水は永久であるであらう。何時までも涸れぬをいふ。○みゐのましみづ 御井の結構な水。「ま」は美稱、「しみづ」は澄水《スミミヅ》の約。
【歌意】 安らかに天下を知し召すわが天子樣、天津日嗣を承けられた天子樣が、この藤井が原に皇居をお作り遊ばされ、埴安の池の堤の上に時々お立ちになつて御覽なさると、京地の青々と繁つた香具山は、東の御門に當つていかにも春の山らしく美しく茂り立つてゐる。又あの瑞々しい畝傍山は、西の御門に當つていかにも生き/\と山らしく鎭まつてゐる。又耳成の青い菅山は、北の御門に當つて誠に程よい形に神々しく立つてゐる。さて又名も麗はしい吉野山は、南の御門からずつと空のあなたに遠く聳つてゐる。このやうに四山に守護されつゝ形勝の地に位してゐるこの皇居に、天日の影の映射を受ける水こそは、永久變らず美しく澄み湛へるであらう。あゝ結構な御井の清水よ。
 
 
〔評〕 初頭枕詞を連用した莊重な調子、いかにも堂々たる叙出である。「麁妙の藤井が原云々」「埴安の堤の上にあり立たし」の二句は、叙事の進行を掌りながら自然對を成してゐる。「めし賜へば」の一句は第二段を展開する大事な楔子である。
 次に皇居を中心にして四山の形勝を説くに、四方の大御門に四つの名山を配屬させたその構想は面白いともいへる。尤も古代人はかく山を以て圍繞された土地を以て山靈の加護あるものと信じ、皇居としての理想地と(209)考へたらしい。鹽土翁が大和國をさして「東(ニ)有(リ)2美地《ヨキクニ》1、青山四(ニ)周(レリ)」と、神武天皇に御報告申し上けたのはそれで、疊名付青垣《タヽナヅクアヲガキ》山があれば吉野はよき國であり、山|竝《ナミ》のよろしければ甕《ミカ》の原|恭仁《クニ》の京が建てられ、奈良の京は四禽圖に叶ひ三山鎭を作して、大きい意味での山に抱かれた土地である。平安京も四神相應のかどで創始された。でこの藤原京も山で取圍まねば十分な讃美にならない譯だ。實は藤原の地は南こそ音羽《オトハ》多武《タム》高取の連山が聳えてゐるが、他の三方は吹き晒しの高地である。いはゆる大和三山は京の北東西三方に存在するものゝ、僅な平野の突起に過ぎず、圍繞の實を擧げ得ないが、流石に詞人の筆は靈妙で、青香具山、瑞山、青菅山などその自然美を推賞し形容して、一かどの山らしい山のやうに誇張し、三山鎭を作し一山遠く護る青山四周の形式美を完備させた。今日藤原京の故址に立つて顧望したら、世の俗士は實に詞人の虚誕に喫驚するであらう。
 上古から既に東西南北などの方位を示す語が存在してゐる。けれども日の經、日の緯、影面、背面の語はそれが具象的であるだけ、詩味がゆたかに、歌語としてはふさはしい。而も雄大なる自然の聯想を伴ふこれらの語を、一々大御門に結びつけて反覆したことは、上の「大御門はじめ給ひて」に呼應して、極めて有効に皇居の宏壯を強調する。
 この中腹の一段は一節三句より成り、それが四節聯對の形式を執つてゐる。試に書き分けてみると、
   やまとの青香具山は
      日のたて〔四字傍点〕の大御門に〔四字右○〕
                 春山としみさび立てり
   畝火のこの瑞山は
      日のよこ〔四字傍点〕の大御門に〔四字右○〕
(210)                瑞山と山さびいます
   耳無の青菅山は
      そとも〔三字傍点〕の大御門に〔四字右○〕
                よろしなへ神さび立てり
   名くはし吉野の山は
      影とも〔三字傍点〕の大御門ゆ〔四字右○〕
                雲居にぞ遠くありける
となり、その排偶が節々句々字々井整を極めてゐることは一目瞭然であらう。香具山を叙するに、その山色が蒼蒼としてゐるのでまづ「青香具」といひ、次に方角が東に當る處から、易理によつて「春山」といひ、木繁きがその特徴なので「しみさび」といふ。畝火山を叙するに、蒼欝としてゐるその感じに因つて「瑞山」といふ。耳無山を叙するに、その草山である處から「青菅山」といひ、山容の和やかに美しいので「よろしなへ」といふ。實におのおの形容の切實を盡してゐる。そして三山それ/”\を神格視した叙法は、勿論その時代思想のあらはれである。
 獨吉野山のみは前三節とは句法を換へて、いとも率直に「雲居にぞ遠くありける」と叙し去つた。これは駢儷の羈絆から脱して平板に陷る弊を避けたもので、その變化に規矩から解放された面白さがある。但實際からいふと、南の大御門から吉野山は絶對に見えない。それは南面に高市郡を劃する、三山などよりずつと高い音羽多武の連山が壁立してゐるからである。近いそれらの山々をさし置いて、見えもせぬ遠くの吉野山を擧げたその理由は如何。
 吉野は神武天皇以來皇室に由緒深い土地で、代々皇居の出張所たる觀をなしてゐた。「淑人のよしとよく見(211)てよしといひし」大和隨一の名勝である。殊に持統天皇には皇居と吉野離宮とを常に懸持で往來がなされてゐたから、苟も山といへば吉野を除外することの出來ないのが、その時代人の心理であつた。かう考へると、他の三山も地理的關係の外に、そのもつ三山傳説が重要なる役目を以て、こゝに登場したことゝ首肯される。
 又四山排列の順序もその用意の周到さに敬服する。即ち宮地に一番近い香具山を初頭に擧げ、最も遠い吉野山を最後に置いた。些細な事のやうだけれど、聯想の順序は自然かうあるべきである。
 末段、天といひ日といふ、それは常に高處に在つて人類に服從を強ふる。仰望は出來ても瞰下は許されない。そこに崇高森嚴なる神秘的想念を自然に發酵せしむる。而もその天の影日の影の映射を受くれば、森羅萬象一旦に光彩を生ずるので、常に驚喜と感謝とを伴ふ。吾人の先祖がこれを以て屡山岡を形容し、殿舍を形容して、その雄偉宏壯を稱へる賀頌の語とした所以もそこにある。その例にいはく、
  纏向《マキムク》の日代の宮は朝日の日照る宮、夕日の日かげる宮、云々。  (古事記、雄畧記)
  瑞のみあらかを仕へまつりて、天の御蔭日の御蔭と隱りまして。   (祈年祭祝詞)  わが宮は朝日の日向ふ處、夕日のかげる處の龍田の立野《タチヌ》の小野に、わが宮は定めまつりて。  (龍田風神祭祝詞)
 藤井の水はかく天日の影の常に照映する水であるといふ以上は、天の榮寵を蒙つた結構な水であらねばならぬ。隨つてその水が頗る清例で、天日の影を浮べてきらめいてゐることを帶映してゐる。「常へならめ」の讚語のおこるのは決して偶然でない。かく眞清水の永久を祝福した眞意は、間接に藤原新宮の永久を祝福するにある。「高知るや天の御蔭」「天知るや日の御影」の音律的交錯は朗かな諧調をなしてゐる。これは作者の創造ではないが、應用が適切なのである。結句反覆叙法によつての「御井の眞清水」のいひ捨ては頗る力強い表現で、創作の動機たる目的物象を最々後に据ゑて、がつしりと抑へた手際は、尋常一樣のものでは斷じてない。
(212) この篇分段的に見てゆくと、各立派な完成である。然し前二段と末段との交渉に想ひ到ると、殆どその連絡が付かない程にぼやけてゐる。第三段が餘に唐突な出現の如くに感ずる。雅澄は天皇が四方を眺望せらるゝを山を以て表はし、次に清きを求むる意にて水を叙べたりといひ、芳樹は山の環れる處は水清き故にまづ山をいひて水を稱ふる下組としたるなりと説いた。(野雁同説)雅澄の清きを求むる意とあるは全然附會であり、芳樹の説も殆ど謎のやうである。
 抑も宮地の所在地は藤井によつて呼ばれた原で、それが藤原とも略稱されてゐる以上は、藤原の新京當時にあつては、藤原宮と藤井とが殆ど不可分のやうに關係づけて考へられてゐたに違ひあるまい。藤井はその稱の如く藤葛の蔓延した下蔭の井で、井は人類生活の源泉だから、それが眞澄の水であつたら特に尊重せらるゝ筈で、古くからその周圍には多少の聚落が形作られてゐただらう。藤原の宮地を點定せらるゝに及んで、それらの人家は立退を命ぜられ、――文武の慶雲元年十一月、始(メテ)定(ム)2藤原宮(ノ)地(ヲ)1、宅入(ル)2宮中(ニ)1百姓一千五百五烟、賜(フコト)v布(ヲ)有(リ)v差(紀)――藤井ばかり由緒ありけに新宮内に取遺されたものであらう。これが即ち題にも「藤原(ノ)宮の御井」と特記せらるゝ所以である。新宮内の藤井の水、かく考へると、まづ皇居の壯を叙して、次に目的たるこの水の詠歎に及ぶことは決して不自然でない。况や上に「藤井が原に」と特に藤井を提唱して伏線を張つてあるではないか。
 徹頭徹尾、光彩陸離絢爛眼を奪ふの修辭と、重疊反覆した間に生ずる快い節奏とで終始してゐる。外相のもつ明るさと花やかさと滑らかさとは、紫氣天に沖する如き豪壯雄渾なる内容と相俟つて、一唱三歎、神氣は遠く藤原の宮の大御門に馳せ、藤井の水に影を鑑みする思あらしめる。
 作者は恐らく埴安池の行幸に供奉した官人の一人であらう。その東(日のたて)に就いて青色をいひ春をい(213)ふ、易や※[糸+讖の旁]緯學ぐらゐは覗いた漢學者であることが推想される。
 
短歌
 
○短歌 この「短」は反〔右△〕の誤かといふ説もあるが、目録には「藤原宮御井歌一首并短歌」とあり、このまゝで差支ないのである。
 
藤原之《ふぢはらの》 大宮都加倍《おほみやづかへ》 安禮衝哉〔左△〕《あれつくや》 處女之友者《をとめがともは》 乏〔左△〕吉呂〔左△〕賀聞《ともしきろかも》    53
 
〔釋〕 ○おほみやづかへ 大宮即ち禁中に奉仕すること。○あれつくや 在付《アリツ》くよの意。勤務することをいふ。「在り」をアレといふは古言。契沖の「生《ア》れ繼ぐ」の説は浮泛である。宣長は「哉」を武〔右△〕の誤として、アレツガム〔五字傍線〕と訓んだ。○ともしきろかも 「ともし」は羨ましの古言。「ろ」は接尾語で、「嶺《ネ》ろ」「子ろ」など集中に用例が多い。「かも」は歎辭。この句原本には「之吉召賀聞」とあつて、シキメサルカモ〔七字傍線〕など訓まれてゐるが、意義通ぜず、田中道麻呂が之〔傍点〕は乏〔右△〕の誤、召〔傍点〕は呂〔右△〕の誤として、トモシキロカモ〔七字傍線〕と訓んで以來、學者皆これに從つてゐる。果して「呂」に作つた古寫本は元暦校本以下數本ある。然し「乏」と書いた本はまだ發見されない。
【歌意】 この新しいめでたい藤原の大宮の御奉仕に、在りついてお勤め申すよ、その少女達はまことに羨ましいことだなあ。
 
〔評〕 長歌の方では、藤原の新しい宮居を、端嚴崇高な詞句の限を盡して讃歎した。さてこれは趣向を一轉して、(214)かゝるめでたい大宮に、幾久しく在り/\て仕へまつる少女達の幸福と光榮とを欽羨してゐる。蓋し持統天皇は女帝にましますので、それは上の「たわやめの袖吹き返す飛鳥風」の條で評した如く、女官女童の類が多く奉仕したらしいから、新しい御殿に花のやうに美しい影の往返※[行人偏+且]徠するのが頗る目について、ほゝ笑ましい感興を牽いた爲であらう。そしてかう少女達の大宮仕を羨むことが、側面からこの藤原の新宮を禮讃したことになるのである。詩人の老獪手段にはいつも乘せられる。
 
右(ノ)歌、作者未v詳(カナラ)。
 
 眞淵もこの短歌は長歌の反歌でなく別箇のものだと論じてゐる。勿論御井の歌ではないが、藤原宮禮讚の意は長歌と共通してゐるので、全く不可分の作である。從つて左註の「作者未詳」は長歌にまで溯らせて見るべきであらう。又守部がこの短歌をも人麻呂の作としたのは、確定の無い單なる臆測に過ぎない。
 
大寶元年(の)辛丑(の)秋九月、太上天皇《おほきすめらみこと》幸(せる)2于紀伊(の)國(に)1時(の)歌
 
文武天皇の大寶元年の秋九月、持統上皇が紀伊國に御幸があつた時の歌との意。○太上天皇 上皇の尊號。「太上」は禮記の「太上(ハ)尚(ブ)v徳(ヲ)」の語から出た。わが邦では持統上皇がこの尊號の始。○幸于紀伊國 續紀に「大寶元年九月丁亥、天皇(文武)幸(ス)2紀伊國(ニ)1、冬十月戊午、車駕自(リ)2紀伊1至(リマス)」とあつて、本文と違やうであるが、これは太上天皇と天皇と御同列であつたことが、卷九に「大寶元年辛丑冬十月太上天皇(持統)大行天皇(文武)幸(セル)2紀伊國(ニ)1時(ノ)歌」とあるので立證される。△地圖 挿圖66を參照(一九二頁)。
 
(215)巨勢山乃《こせやまの》 列列椿《つらつらつばき》 都良都良爾《つらつらに》 見乍思奈《みつつしぬばな》 許湍乃春野乎《こせのはるぬを》    54
 
〔釋〕 ○こせやま 大和南葛城郡|古瀬《コセ》村巨瀬驛の西に連亙する小山。和名鈔に高市郡、藻鹽草に葛上郡とあるのは、郡の地域の變遷による。「巨」をコと讀むは呉昔。○つらつらつばき 生ひ列なつた椿。この「つらつら」を三句にいひ重ねて序とした。○つらつらに 熟々《ツク/”\》との意。「見つつ」に係る副詞。○しぬばな 愛で思はう。「な」は未來の助辭。舊訓はオモフナ〔四字傍線〕であるが、彦麿はオモハナ〔四字傍線〕、古義はシヌバナ〔四字傍線〕と訓んだ。○こせのはるぬ 巨勢野は巨勢山の麓に沿うた南北に長い野で、そこを能登瀬《ノトセ》川(曾我川の上流)が北へと貫流してゐる。「許湍」は巨勢の字面を換へたもので、音訓の交錯。「湍」は激瀬だからセ〔傍点〕と訓ませた。
【歌意】 あの巨勢山には美しい花椿がつら/\と咲き列なつてゐる、そのつら/\と巨勢の春野の景色を見い見いして、面白くめで思はうよ。
 
〔評〕 初二句は眼前の事象を捉へて、三句の序詞としたのである。然しそれは單なる發音の類似といふやうな字句上の技巧にとゞまらず、いはゆる有心の序であつて、内容的にも一首の上にめぐつた句となり、頗る巧妙な修辭である。「つら/\」の反復は、ツラ〔二字傍点〕の音の四疊となつて、頗る流滑な諧調をなしてゐる。
 藤原の宮から紀伊へ行くには、必ず巨勢路を通るのであるが、その右方の山が巨勢山で、そこには椿並木があつたと見える。昔から椿はわざ/\栽培したもので、有名な金谷の海石榴市《ツバイチ》も、椿の實の取引市場であつたことを明示してゐる。椿はその果實から油を搾るのが目的で、遠く支那まで輸出したことが紀に見える。
(216) 今巨勢路にさしかゝると、眼前に忽ち滿幅春光の活畫圖が展開された。山縣づいた列々椿は眞紅の花を着けて咲き亂れ、麓の野邊の若草は美しい花模樣入のなごやかな緑の筵を敷き渡してゐる。乃ち山の列々椿を序詞に運用して、山花に映發する野邊の春色に、留連去る能はざる興會を叙べた。
 既に巨勢山といひ、又重ねて巨勢野といふ、一寸煩しいやうだが、山野の春色が對立的に互に映發しあつてゐる趣が言外に搖曳して、却つて面白い。而も極めてその山も低くその野も狹い場處であることが、兩者を撮合してかく一括的に歌ひ去るに、最も適應してゐることを忘れてはならぬ。いかにもやは/\とした手ざはりのする明妙《アカルタヘ》のやうな作である。
 この歌を解するに、契沖を始め古今の學者、多くは題詞に絶對信用を置き、秋日にあつて春野の樣を想像した趣としてゐるが、下の「河のへのつらつら椿云々」の歌が正に春の歌ではないか。この二首は必ず一首が兩樣に傳誦されたものに相違ないと信ずる。古義はこの題詞を誤と見て、大寶元年春二月、吉野宮行幸の時の歌とし(217)た。從ふべき説と思ふのである。
 
右一首、坂門人足《サカトノヒトタリ》
 
 これは從駕の一人であらうが、傳未詳。恐らく卑い身分の人と思はれる。
 
朝毛吉《あさもよし》 木人乏母《きびとともしも》 亦打山《まつちやま》 行來跡見良武《ゆきくとみらむ》 樹人友師母《きびとともしも》    55
 
〔釋〕 ○あさもよし 麻裳よしの意で、「朝毛」は借字。「よし」は詠歎の助語、「惡し」に對する「善し」ではない。奈良の枕詞の「青丹よし」や、讃岐の枕詞の「玉藻よし」と同格で、「よし」を隔てゝ麻裳着ると續いて、紀の枕詞に用ゐる。○きびと 紀の國人。紀國は本義が木の國であるから、「木人」「樹人」など書いた。○ともしも 羨ましいことよ。「も」は歎辭。「友」は借字。○まつち山 眞士山。大和國字智郡|坂合部《サカヒベ》村から紀伊國伊都郡隅田村へ越える峠。眞土山とは眞土即ち赤土の露出が目についた故の名と思はれる。「亦打」は借字。マタウ〔二字傍点〕チの約はマツチである。尚「亦打」のことは卷六「古ごろも亦打山」の條參照。○ゆきくとみらむ 往くと見、來《ク》と見らむの略で、往き來《キ》に常に見るだらうの意。「らむ」は動詞の第三變化を受けて、見るらむ〔四字傍点〕といふが普通であるが、かく第二變化を承けて「見らむ」といふは古格である。「人皆の(218)見らむ松浦の玉島を」(卷五)の用例もある。△地圖 挿圖46を參照(一四三頁)。
【歌意】 紀の國人は羨ましいことだなあ。この美しい姿の眞土山を、往くにも來るにも道すがら常に眺めてゐるだらうと思はれる紀の國人は、ほんに羨ましいことだなあ。
 
〔釋〕 眞土山は籍こそ大和の方にあるが、實は國境にあつて、紀伊への往還の峠になつてゐる。だから大和の都人たる作者よりは紀の國人の方が、この山には不斷馴染が深い譯である。そこでこの山を往きにも歸りにも不斷に見馴らしてゐる紀の國人は、全く果報者で羨ましい限りだと、表面は單に羨望の情を叙べてゐるのみであるが、これ老巧詩人の動もすれば試みる例の側面描寫であつて、かく羨ましいことを二度も反復したのは、實は眞土山を甚しく愛賞する意を娩曲に叙したもので、その含蓄の味ひがまことに而白い。
 只一つ困つた事は、眞土山は字智平野の南邊を遮つて、目に立つ岡勢ではあるが、碌に圭角も特徴もなく、讃歎される程のいゝ山とも思へない。樹木が欝蒼としてゐてその日受の南面は美しいともいへようが、その位の景色は月竝である。こゝに至つて一旦は作者の心境を疑つてみたが、忽にその理由(219)が判明した。
 それは外でもない、眞土山が國境の峠であることに起因してゐる。現今の如く交通機關の便利な時代では、小區劃の國境などには全然深い執着をとめ得ないが、五寸の草鞋に山河の跋渉を事とした古代では、國境といふことが、如何に旅情を刺戟し覊愁を唆つたことであらう。平凡な川一つの隔てでも「限なく遠くも來にけるかな」と都鳥に寄懷し(伊勢物語)おなじこの峠を越す情人を想起しては黄葉の飄零に詠歎を永うした(本集卷四)例がある。豫て國境にその存在を知悉してゐる眞土峠を、今目のあたり踏破する旅人の瞬間の感激、それがこの歌の主想である。而もその一向旅愁に囚はれた形迹の認められぬのは、微臣ながらも行幸の大御供仕へまつる歡喜と光榮とに醉うてゐた爲であらう。
 第二句を第五句に反復するは古體の一つで、類歌が可なり多い。
  つるはしとさ寢しさ寢てば〔七字傍点〕刈薦の亂れば亂れさ寢しさ寢てば〔七字傍点〕  (古事記下履中記)
  平潟ゆ笛吹きのぼる〔六字傍点〕近江のや毛野《ケナ》のわく子が笛吹きのぼる〔六字傍点〕  (繼體紀)
  さくら田へたづ鳴き渡る〔六字傍点〕あゆち潟汐干にけらしたづ鳴き渡る〔六字傍点〕  (卷三、黒人―271)
まづ第一印象を直叙して初句二句を構成し、更に第二印象から得た説明語を三四句に填充して、二句と結句と同一の詞形を反復する。詰り漸層的に感激を反復する、かうした表現法は讀者においては同情を強制的に催促される。
 
右一首、調首淡海《ツキノオヒトアハウミ》
 
 この人の名は天武紀に見えて居り、又續紀に、和銅二年正月に正六位上|調連《ツキノムラジ》淡海に從五位下を授けられ、(220)同六年四月に從五位上、慶雲七年五月に正五位上に昇進した由見えてゐるが、その事蹟は詳でない。初は首姓で後に連姓を賜はつたものと見える。
 
或本(の)歌
 
河上乃《かはのへの》 列列椿《つらつらつばき》 都良都良爾《つらつらに》 雖見安可受《みれどもあかず》 巨勢能春野者《こせのはるぬは》    56
 
〔釋〕 ○かはのへの 河のほとりの。この川は巨勢山下を流れる能登瀬《ノトセ》川をいふ。
【歌意】 この川のほとりの美しい花椿は、つら/\に咲き列なつてゐるが、實に巨勢野の春景色は、そのつらつらに眺めても少しも眺め飽きない、實によい景色だ。
 
〔評〕 この歌は「或本(ノ)歌」と題してあるのを見ると、上の坂門人足の作「巨勢山のつら/\椿」の評の項にも述べた如く、同じ歌の異傳であつて、別箇の作ではない。只何れが原作であるかは輕々には速斷し難いけれども、姑く、この本文記載の形式に從つて、人足の方を原作と定める外はあるまい。而して兩者の間には大した根本的差異がないから、改めてこゝに評しない。たゞ四の句は人足の作の方がふつくりして趣がある。
 
右一首、春日(ノ)藏首《クラヒト》老《オユ》
 
 この人の傳は後出「三野連入唐時云々」の條を見よ(二三一頁)。
(221) 藏首は姓であるが、これは倉を掌る官のやがて姓となつたものである。尚このこの人の歌は、法師名のも俗名のも本集中他の卷に散見してゐる。
 
二年(の)壬寅、太上天皇《おほきすめらみことの》幸(せる)2于|參河國《みかはのくにに》1時(の)歌
 
大寶二年持統上皇が參河國に御幸あらせられた時の歌との意。續紀に「大寶二年冬十月甲辰、太上天皇幸(シ)2參河國(ニ)1、行(ク)々所(ノ)2徑過《スグル》1尾張美濃伊勢伊賀等(ノ)國(ノ)郡司及百姓、叙(シ)v位(ニ)賜(フコト)v禄(ヲ)各有(リ)v差。十一月丙子朔戊子、車駕至(リマス)v自2參河(ノ)國1。」とある。
 
引馬野爾《ひくまぬに》 仁保布榛原《にほふはりはら》 入亂《いりみだり》 衣爾保波勢《ころもにほはせ》 多鼻能知師爾《たびのしるしに》    57
 
〔釋〕 ○ひくまぬ 遠江國敷智郡にある。今の濱松附近の原野。引馬は驛の名。○はりはら 萩原である。ハリ、ハギは音通であることは、集中、ヤマブキに「山振」の字を充てゝあるのでも證せられる。芳樹は、「榛」は蓁と通ずる字で、ハリが本名で、ハギはハリ木の略だといつてゐる。契沖、宣長、枝直等はこれをハンノ木のこととし、その樹皮は染料となる物ゆゑ、「衣匂はせ」とも詠むのだと論じてゐるのは無理である。この句の下、に〔右○〕の辭を含む。尚委しくは榛原考(雜考―5)を參照。○ころもにほはせ 衣を花に染めよの意。萩の花摺衣をつくるをいふ。「にほはせ」は命令格。○たびのしるしに 旅の記念に。
【歌意】 この引馬野に咲き匂ふ萩の原、さあ皆の人々よ、そこに入り込んで、花を亂して遊びつゝ、衣を花の色(222)に摺り匂はせるがよい、折角此處まで來た旅の記念にさ。
 
〔釋〕 持統上皇の今回の御幸は、題詞には「幸于參阿國」とあるが、それは大凡を擧げたもので、實際はかく遠江までも御巡幸になつたのであつた。想ふにこの御幸は、御遜位の後の事だから、勿論多少は政治的意味も伏在してゐるにはゐたらうが、主としては遠つ淡海の名の由來する濱名湖の風光を御覽なさる爲であつたと拜察される。
 引馬はその名の明示してゐる通り、驛の所在地であるから、此處に御駐輦遊ばされたことゝ思はれる。所謂引馬野はその附近に展開する原野である。時はこれ十月(今の十一月に當る)、萩の花の季節は過ぎてはゐるもの、又おくれ咲のめでたいのも混つて、その娟姿を競うてゐたに違ひない。但これは作者が實際引馬野に立ち入つての作ではない。只萩原に入り亂れて遊びつゝ衣を匂はす面白げな懷かしげな行爲を胸中に描いて、その實行を同行の誰れ彼れに慫慂したもので、全く旅中の逸興が主である。だからあながち萩の花盛りでなくとも、大體そんな見當であれはよいのである。かく考へて更に「入り亂り衣匂はせ旅のしるしに」の語調を諦視すると、畢竟供奉の官人等に、誰れも引馬野の野遊を試み(223)なかつた事を反證するものであることが看取されよう。即ち作者一人が大いに浮かれ立つて、いゝ氣分になつてゐる樣子があり/\と見えるのである。
 「入り亂り」は働いた表現で、人達の萩原に群遊する光景がこの一語に躍如とする。四五句の倒装は單に諧調の快感が湧くのみではない、「旅のしるし」を強く欲求する旅人の氣分がそこに流動してゐる。
 昔は植物の花や葉で、いきなり布帛に摺り付ける原始的の染法が行はれ、「杜若衣に摺りつけ」(卷七)の「月草の移ろひ易く」(卷四)のと、歌にも詠まれた。萩の花は染料としては月草に劣るが、その摺り付けた紫色はまた何ともいへない美しい明るさと懷かしさとがあり、面白い亂れ模樣が出來る。が、所詮實用的の物ではなく、只風流なる一時の興趣を弄ぶのである。
 尚この歌、第二句に「匂ふ」といひ、第四句に又「句はせ」といふ、不用意の重複としか見えない。但古人は餘りこんな點に拘泥しなかつた。      △榛原考 (雜考―5參照)
 
右一首、長忌寸奥麿《ナガノイミキオキマロ》
 
 奥麿の傳は詳かでないが、卷三にも歌が出て居り、又卷二、卷九、卷十六等に長忌寸|意吉《オキ》麿とあるのも、恐らく同一人であらう。書紀などに所見が無いが、相當な歌人と思はれる。長は氏、忌寸は姓。
 
何所爾可《いづくにか》 船泊爲良武《ふなはてすらむ》 安禮乃崎《あれのきき》 榜多味行之《こぎたみゆきし》 棚無小舟《たななしをぶね》    58
 
(224)〔釋〕 ○ふなはて 船が着いて泊るをいふ。○あれのさき 濱名湖岸の地名であらう。「あれ」は荒の義か。地名辭書には、遠江濱名郡新居の地をこれに宛てゝゐる。今の新居は陸であるが、この邊は地形の甚しく變化した處で、もとは湖水續きの水であつた。美濃、三河などいふ説は無論承け難い。○こぎたみ 漕ぎまはつて。「たみ」は「岡前《ヲカザキ》のたみ〔二字傍点〕たる道を」(卷十一)、「奥つ島こぎたむ〔二字傍点〕船は」(卷三)、「みぬめの崎を漕ぎため〔二字傍点〕ば」(卷三)などの用例から推せば四段活用の動詞であり、又多く「囘」「廻」などの字を宛てゝゐる所から見れば、曲り入りめぐる意の古言である。○たななしをぶね 「たな」は船棚で、波を防ぎ、又は舟人の舷側を往來するに便せんが爲に船の縁に渡す板である。和名妙に、「※[木+世](ハ)大船(ノ)旁板也。不奈太那《フナダナ》」とある。※[木+世]を又セガイともいふ。小舟にはその※[木+世]が無いから、棚なし小舟といふのである。
【歌意】 何處にまあ今夜は船泊りをすることだらうか、目路《メヂ》遙かな安禮の崎を漕ぎめぐつて往つた、あの棚なし小舟はさ。
〔評〕 煙波縹渺として際涯も無い太湖の水、岸を?む白波より外は、視線を遮る物は何も無い。たま/\一葉の舟が出崎の安禮《アレ》を漕ぎめぐつて、影を煙波の間に沒し去つた。あとは又もとのやうに見渡す限り微茫蒼然たる光景に返つて、物心細い不安な氣分にひし/\と襲はれる。あゝあの小舟は今夜は一體どこに船はてすることだらうかと、その行方が氣にかゝる。そこに懷かしい作者の同情の閃きが見える。
 こゝに至つて作者の立場を考察する必要を生じた。作者は行幸供奉の一旅人であつた。旅中夕暮の物心細く、郷思頻に催して堪へ難い折柄、湖上の葉舟に對して「いづくにか舟はてすらむ」と思ひ遣るは、即ちわが(225)心境のわびしさをそれに諷託寄興したものである。
 「漕ぎたみゆきし」と過去になつてゐるので、現在に漕ぎ囘つてゆくのよりは、その不安さが一倍深く印象され、從つて「船はてすらむ」の想像に愈よ強さが加はつてくるのである。
 
右一首、高市連黒人《タケチノムラジクロヒト》
 
 高市連黒人は相當の歌人で、本集中に多く歌を遺してゐるが、その傳は明かでない。然し連の姓を記した點から見ると、微官ながらも六位程度には昇進した人だらう。
 
譽謝女王《よさのひめみこが》作歌
 
題詞の書式を異にする點から見ると、この歌は上掲二首の歌と違ふ場合の作かとも思はれるが、歌の内容及び次に出づる二首の書式に照して見れば、尚同じ御幸の際、京に留つた作者が、從駕の夫君を思つての作と見るべきである。○譽謝女王 續紀慶雲三年の條に「六月癸酉朔丙申從四位下譽謝女王卒(リヌ)」とあり、この作者と同一人と思はれるが、傳は明かでなく、その夫君の名も知られない。
    
流經《ながらふる》 雪〔左△〕吹風之《ゆきふくかぜの》 寒夜爾《さむきよに》 吾勢能君者《わがせのきみは》 獨香宿良武《ひとりかぬらむ》    59
 
(226)〔釋〕 ○ながらふる 「らふ」はル〔傍点〕の延言で、流るゝに同じい。雪に流るゝ〔三字傍点〕といふは、その續けて降るをいふ。「天《アメ》の時雨のながらふ見れば」(卷一)、「小松がうれゆ沫雪ながる」(卷十)などの例がある。「經」は借字。〇ゆき 諸本皆妻〔右△〕となつてゐるので、諸註これを衣の褄〔傍点〕の借字となし、從つて初句を、夜の衣の裾長く引延へた意に解したが、これは久老が雪〔右△〕の誤寫とした説が勝つてゐる。○さむきよに 寒き夜なる〔二字右○〕に。○わがせのきみ 從駕の夫君をさす。
【歌意】 ひつきりなしに降り續く雪を吹く風の寒いこの夜だのに、自分の大事な夫の君は、旅の空で自分と同樣に、今宵も獨りわびしく御寢なつて居られることだらうか。おいとしいこと。
 
〔評〕 書紀所載の干支を繰つて見ると、この參河御幸は、十月十日の御發輦、十一月二十五日の御還幸であつた。殆ど三十五日の間、從駕の夫君を戀ひながら、女王は大和の京に留守居されてゐたのである。十一月も下旬となると冬のさ中で山縣近い北受けの藤原の京では、もう雪がちらつき木枯が叫ぶ。獨寢の夜床の冴えは愈よ甚しい。それにつけても悶々の焦心は頻に旅中の夫君の方へ飛ぶ。
 乃ち旅中における夫君の生活状態を想像に描き、自分が今直面してゐる夜寒の苦も弧閨の無聊も、皆夫君の上に押付けて、これを自分と同じ境地に落着させて、さて「獨かぬらむ」と、飽くまでその覊中の苦に同情を寄せたことは、即ちその綿々として盡きぬ情緒の濃やかさを語るものに外ならぬのである。「獨」の語が眼目である。三句まで一氣に流れた調子は、なだらかさに伴ふ女らしいやさしさをもつ。
 
(227)長皇子《ながのみこの》御歌
 
○長皇子 續紀靈龜元年六月の條下に「甲寅一品長(ノ)親王薨(ス)、天武天皇(ノ)第四之皇子也」と見えてゐる。御母は大江(ノ)皇女。目録にはこの題詞の下に更に「從駕作歌」の四字があるが、歌の内容を察するに、京にゐて、從駕の愛人などの上を思ひやつた趣であるから、契沖の説の如く、目録のこの四字は衍として削るがよい。
 
暮相而《よひにあひて》 朝面無美《あしたおもなみ》 隱爾加《なばりにか》 氣長妹之《けながきいもが》 盧利爲里計武《いほりせりけむ》    60
 
〔釋〕 ○よひ 夜の意に解するのが本義であるが、もうこの時代には初夜〔二字傍点〕の意が生じてゐたと見えて、「暮」の字を宛てゝゐる。「よひ」は最初からの訓で、これに異説は無い。○おもなみ 面目無さに。女が男に逢つたその翌朝、羞らつてきまりわるげに面《オモ》隱しする趣を取つて、「なばり」の序とした。「なばり」は四段活用動詞の第二變化。隱る〔二字傍点〕の古言である。それを伊賀の地名名張〔二字傍点〕にいひ懸けた。○なばり 「なばりのやま」を參照(一六九頁)。○けながきいも 月日が隔つて久しく逢ひ見ぬ妹の意。「け」は來經《キヘ》の約で、「け長き」は月日の久しき間をいふ(宜長説)。○いほり 盧入《イホイリ》の義。假屋。「いほりす」といへば(1)假屋を造ること。(2)假屋に宿泊すること。○せりけむ 「せり」はしてあり〔四字傍点〕の變形で體言を承ける助動詞。「けむ」は過去推量の助動詞であるから、こゝはシテヲツタヾラウと譯すべきであるが、それでは意味が通じない。してゐるだらう〔七字傍点〕の意に見ねばならぬ變態である。△地圖 挿圖33を參照(一〇三頁)。
(228)【歌意】 御幸のお供に仕へて隨分久しくなつたわが愛する妹は、もう段々都に近づいて、今夜あたりは伊賀の名張の里で旅の假廬に宿つてゐることであらうか。早く逢ひたいものだ。
 
〔評〕 作者の愛人は三河御幸の御供で往つてゐたものと見える。續紀によつて按ずると、十一月には、十一日尾張、十七日美濃、二十二日伊勢、二十四日伊賀、二十五日御歸京といふ日取になつてゐる。二十二日伊勢まで御還幸の報は、既に早馬で京には齎されてゐたであらう。すると「名張にか廬せりけむ」の想像も相當根據ある譯になる。そこでこの歌は十一月二十三四日頃の作と見て誤はあるまい。懷かしい人の行程を、かく仔細に測定したことは、一日千秋と待ち焦れる思慕の情の濃かさを思はせる。そして待ちに待つて、もう兩三日で逢はれるといふ希望の輝を、下に力強く感じさせる。上出、
  わが背子はいづくゆくらむ沖つ藻の名張の山をけふか越ゆらむ (當麻眞人麿妻)
と殆ど相似た着想である。
 さてこの歌の構成を見るに初二句は序詞である。序歌の性質として、その修飾は成るべく懸け離れた構想を上乘とする。それは被序語から意趣が急に轉換するので、そこに豫想を裏切る好奇の感と興味とが發生するからである。然るにこの初二句は、會合の朝の婦人の嬌態を叙したものであるから、四句の「妹」とあるに混線して、歌意が煩冗と不透明との憾を招く。然し又思ふに、卷八、縁達師の、
  よひにあひてあした面無みなばり野の萩はちりにき黄葉《モミヂ》はや續げ (―1536)
も全く同一序詞である。時代はこの歌の方が或は早いらしい。すると當時「なばり」の修飾として、こんな成(229)語が一般に流布してゐたのではあるまいか。それをこの作者も縁達師もそのまゝ流用したので、同じ上句が出來たものとする方が、穩かな見解であらう。かく作者獨創の句でない常套文句とすれば、後世の我々が考へる程、この序詞は重い意味を持たなくなり、隨つて餘り大した差合もない譯である。とはいふものゝ、綺靡艶冶の弊に墮することは勿論である。
       △枕詞及び序歌の本質(雜考―6參照)
 
舍人娘子從駕《とねりのいらつめがみともつかへまつりて》作歌
 
○舍人娘子 「舍人」は氏である。「娘子」は若い婦人の敬稱で、郎子《イラツコ》の對稱。平民の場合ではこの文字をヲトメ〔三字傍線〕と訓んだ。さてこの人、名も傳も詳かでない。然し從駕の文字を使つた點から察すると、この娘子は公卿の位置に匹敵する程の身分の人と思はれる。多分女帝持統の側近奉仕の女官中の長上たる人であらう。
 
大夫之《ますらをが》 得物矢手挿《さつやたばさみ》 立向《たちむかひ》 射流圓方波《いるまとかたは》 見爾清潔之《みるにさやけし》    61
 
〔釋〕 ○ますらを 「ますらを」及び「大夫」のことは既出(四〇頁)。○さつや 幸矢《サチヤ》の轉。獵に用ゐる矢をいふ。幸は海幸山幸のさちで、獵に仕合せのある矢の意である。故に「得物矢」と書いた。但「射る的形」と續けてあることから考へると、こゝの幸矢は的射《マトイ》に用ゐたもので、その本義は轉つて、「さつ」は只美稱に添へた語と見るがよい。○たばさみ 手に挿み、即ち持ちの意。古義にダハサミ〔四字傍線〕と清濁を顛倒すべしと論じてゐるが、(230)奇怪な説である。この語をさう讀まねばならぬ理由も無く、又さう讀んだ例證も無い。しかもこの集に用ゐた漢字は、清濁が便宜次第で變化し、確定的でない。○たちむかひ 的に對するをいふ。仙覺抄に「弓射る時二人立向ひて矢を指に挿みて射る」とあるが、射禮の方式はさることながら、こゝには無用の沙汰である。○いる こゝまで序で、地名の的形にいひ懸けた。的形は普通名詞としては、弓射る時の標的をいふ。○まとかた 伊勢國多氣郡東黒部の浦の故名であるが、地形變化して今は陸地。同國風土記に「的形(ノ)浦此浦(ノ)地形似(タル)v的(ニ)故(ニ)以(テ)爲(ス)v名(ト)、今已(ニ)跡絶(エテ)成(ル)2江湖(ト)1」とある。播磨の的形はこゝには與らない。「圓方」は戲書。○さやけし 「潔」にも清の意がある。
【歌意】 的形の浦は、かうして來て見るに、それは/\明媚で氣持がよいわ。
 
〔評〕 序歌は、その主となる句意は極めて簡單なのであるから、序詞を除いて見れば一向つまらないものになる。たゞ長々と歌ひおろして、遙かにその目的語まで持つてゆく道程の間に、叙述上の面白味が湧き、悠揚迫らざる氣分が搖曳する。そして序詞で修飾された目的語の名詞なり動詞なりが、殊に力強く印象づけられるのである。この悠々緩々たるのどやかな氣分は、後世に至るほど減少して、遂に序歌の面白味が理解されなくなつて(231)しまつた。
 芳樹がこの歌を、詞が足りないから序詞で補足したのだと説いたのは、本末顛倒のいみじき妄説であつて、これは最初から序歌の組織でゆくつもりで歌つたものである。的に向つて弓場に立つてゐる丈夫の樣子はよく出てゐる。優しい婦人の口からも、こんな太い線でこんな事が歌はれたことを思ふと、一般に奈良朝人の氣象の剛健さが推測されるのである。
 
三野連《みぬのむらじの》名闕 入唐《もろこしにゆく》時、春日(の)藏首老《くらびとおゆが》作歌
 
三野連が唐土に往つた時、春日(ノ)老が詠んだ歌との意。〇三野連 三野《ミヌ》は氏で、美努とも書く。連は姓。「名闕」とあるは後人の註であらうが、官本などの勘物に、「國史(ニ)云(フ)、大寶元年正月遣唐使民部卿粟田(ノ)眞人(ノ)朝臣以下百六十人、乘(リ)2船五艘(ニ)1、小商監從七位下中宮少進美努連岡麻呂〔六字傍点〕云々」とあるから、名は岡麿であることが分る。尤もこの國史とは何を指すか明かでない。續紀には粟田眞人以下の遣唐の事はあるが、岡麿の名は見えない。然し明治五年に大和國平群郡萩原付から發掘された美努(ノ)岡|萬《マロ》の墓志に、「大寶元年歳次辛丑五月使(ス)2乎唐國(ニ)1」とあるから、岡麿の入唐は疑もない。○入唐 唐土に往くをいふ。眞淵がこれは唐土を本としたいひ方で顛倒であると論じたのは尤もである。昔から邦人は外國文化の崇拜狂であつた。○春日藏首老 春日は氏、藏首は姓で、倉人とも書く。老は名、もと辨基といつた僧である。續紀の大寶元年三月の條に「令(メ)2僧辨紀〔二字傍点〕(ヲ)還俗(セ)1――賜(フ)2姓(ヲ)春日倉首、名(ヲ)老(ト)1、授(ク)2追大壹(ヲ)1」と見えた。辨基と辨記とは同人である。和銅七年正六位上より從五位下となる。懷風藻に、(232)從五位下常陸介、年五十一とある。〔頭注、なほ、墓志によれば、岡麻呂は靈龜二年正月從五位下主殿頭、過〔二字右○〕、神龜五年十月二十日卒、年六十七であつた。〕
 
在根良《あれねらの》〔良の左に「よし」、七版にはない〕 對馬乃渡《つしまのわたり》 渡中爾《わたなかに》 幣取向而《ぬさとりむけて》 早還許年《はやかへりこね》    62
 
〔釋〕 ○あれねらの 對馬の修飾で、明礁暗礁の散在状態をいつた。「あれねら」は荒根らで、荒根は荒い磯根をいふ。「ら」は接尾語。この詞の構成は嚴秀《イカホ》(伊香保)呂《ロ》と稍同じい。而も「あれ」は固有名詞となり、對馬の地名に阿禮の濱があり、濱名湖にも阿禮の崎があつた。阿禮の濱には阿連《アレ》村が立てちれ、西は對馬の西水道に面してゐる。日本後紀に「延暦二十四年遣唐便(ノ)船、五月十八日於(テ)2明州下※[賛+おおざと]縣(ニ)1兩船解纜、六月五日一船到(ル)2對馬島下縣郡阿禮〔二字傍点〕村(ニ)1」とある。正辭は荒嶺《アラネ》よとの意で、青土よし奈良、麻裳よし紀に類する辭樣の枕詞としたが、奈良は青土に、紀は麻裳に、おの/\縁語のいひかけ詞態になつてゐるのに、荒嶺と津とは何の交渉もないから、その構成が無理になる。他は皆誤字説で終始してゐる。即ち眞淵は布根盡《フネハツル》、百船能《モヽフネノ》、百都舟《モヽツフネ》など、宣長は布根竟《フネハツル》、古義は大夫根之《オホブネノ》の誤とした。以上は何れも津にいひかけた對馬の枕詞と解した。○つしまのわたり 當時唐土三韓へ渡るには、對馬が足溜りの船着き即ち津であつた。「つしま」は津島の義で、この島の東西水道を、對馬の渡といつた。○わたなか 海上をいふ。「渡」は借字。○ぬさとりむけ 「ぬさ」は祷總《ネギフサ》の義で、幣又は麻の字を宛てる。何でも神に捧げるが本で、主と(233)してその布帛の稱となつた。「とりむけ」は手向けること。○こね 「こ」は加變の動詞の命令形、「ね」は懇な意味をもつた命令の助辭。「許」をコと訓むは呉音。
【歌意】 遙々と唐土に行かれるあなたは、あの恐ろしい荒磯の根張つた對馬水道の海上で、海神に幣を手向けて、どうか無事に早く歸つていらつしやいませよ。
 
〔評〕 海中に幣取向けるのは、航路の安全を祈る爲である。蓋し當時では、風波の荒い日本海渤海灣の横斷は、頗る冒險な航海であつたことはいふまでもない。往くもいや還るもいやな、命賭けの旅に相違なかつた。けれども王事は如何ともし難い。絶體絶命の場合は、最早神佛を頼むより外に致し方がない。こゝに至つて海中に幣取向けることが、最も有意味になつて來るのである。當時はわが國内の浦傳ひ、磯傳ひの舟行ですら、わたつみの道觸《チブリ》の神に手向せざるを得ない程、海に對しては恐怖を抱いてゐた時代であつた。否、恐怖を抱かざるを得ない程、舟楫の幼稚な時代だつたのである。
 當時の支那は唐の時代であつた。その首府たる長安は今の西安府であるから、幸に決死的航海を終へて後も、陸路の旅がまた雲山萬里で、大變な苦勞であつた。だから只往つて歸つて來るだけでも早くて一年だ。無事に御用を果して歸れる者は仕合せ者である。この時の渡唐も大寶二年六月に出發、慶雲元年七月に歸朝したので、足掛三年かゝつた。かういふ事情であることを基礎としてこの歌を吟味すると、「はや歸りこね」の一語が、如何に大事な語であるかが分る。渡唐の三野連に對する送別の詞としては、これに上越す懇情の贐はなかつたであらう。
(234)  あら津海に吾が幣まつり齋《イハ》ひてむ早還りませ面《オモ》がはりせず (卷十二―3217)
は全くこれと同一の境地に置かれた感想である。この他遣唐使等の出發に臨んで、「早還りませ」と呼び掛けた作が、集中三首まである。
 
山上臣憶良在2大唐1《やまのうへのおみおくらがもろこしにありし》時、憶2本郷1《くにをおもへる》歌
 
山上憶良が唐土に在留してゐた時、故國の日本を憶うて詠んだ歌との意。○山上臣憶良 山上は氏、臣は姓、憶良は名である。次に擧げた如く大寶元年に無位から遣唐少録となりて渡唐し、和銅七年正月正六位下から從五位下に進み、靈龜二年四月伯耆守となり、養老五年正月の詔に「從五位下山上憶良等退朝之後|令(メヨ)v侍(ラハ)2東宮(ニ)1焉」とある。憶良の名義は前人に所見がない。思ふに大倉《オホクラ》の意で、その約オクラ〔三字傍点〕に充てたものだらう。續日本紀卷十七に尾張宿禰小倉〔二字傍点〕といふ人が見える。○在大唐時 憶良の在唐は、上の三野連岡麿と同時のことである。續紀に、「大寶元年正月、以(テ)2守民部尚書直大貮粟田朝臣眞人(ヲ)1爲(シ)2遣唐執節使(ト)1、左大辨直廣參高橋(ノ)朝臣笠間(ヲ)爲(シ)2大使(ト)1、右兵衛率直廣肆坂合(ノ)宿禰大分(ヲ)爲(シ)2副使(ト)1、參河守務大肆許勢(ノ)朝臣祖父(ヲ)爲(シ)2大佑(ト)1、刑部判事進大壹鴨(ノ)朝臣吉備麻呂(ヲ)爲(シ)2中佑(ト)1、山代國相樂郡令追廣肆掃守(ノ)宿禰阿賀流(ヲ)爲(シ)2小佑(ト)1、進大參錦部(ノ)連道麻呂(ヲ)爲(シ)2大録(ト)1進大肆白猪(ノ)史阿麻留、无位〔二字傍点〕山於億良爲2小録〔七字傍点〕1云々」と見えて、この大寶の遣唐に、憶良は年若で官吏の最末位で渡航した。山於の於はうへ(上)の意で用ゐたもの。○大唐 「大」の美稱は日本人として書くべき辭樣でない。奈良時代の人が支那に對して強い崇拜の念を抱いてゐたことが、こゝにも裏書されてゐる譯である。
 
(235)去來子等《いざこども》 早日本邊《はやくやまとへ》 大伴乃《おほともの》 御津乃濱松《みつのはままつ》 待戀奴良武《まちこひぬらむ》    63
 
〔釋〕 いざ 人を誘ひ促す意の發語。「去來」をイザと訓むは意訓。○こども 子供。こゝは同行せる目下の若い人達を親しみ呼んだ語。○はやくやまとへ 早く大倭〔日本〕へ歸らむ〔三字右○〕の略。この訓は官本及び僻案抄等に從つた。舊訓はハヤヒノモトヘ〔七字傍線〕、略解はハヤモヤマトヘ〔七字傍線〕、古義はハヤヤマトベニ〔七字傍線〕と訓んだ。とにかく、打任せてヒノモトとわが國を呼ぶことは上代には無い。卷三の「日の本〔三字傍点〕の大和」、公式令の「明神御守日本〔二字傍点〕天皇詔旨」などは、修辭も場合もこゝの場合とは違ふのである。○おほともの 御津にかゝる枕詞。「伴」は鞆の借字で、大きな鞆は嚴《イツ》かしい物だから、大鞆の嚴《イツ》(稜威)といふを類音の御津にかけたものとする。冠辭考は「大伴氏の祖道臣(ノ)命の部下たる久米部は、神武紀にみづ/\し久米の子等と歌はれたれば、その首將道臣命をかけて、大件のみづみづしてふ意にて御津に冠らせたるにや」といひ、古義もこれに從つて、みつ〔二字傍点〕は才徳勇威《イキホヒカド》ある意と解した。又冠辭考續貂に「大伴氏昔大連の職に居り、難波河内を食地にやせられけむ、欽明紀に大伴(ノ)金村居2于住吉(ノ)宅1、又靈異紀に推古の御時、大伴(ノ)野栖古居2于難波(ノ)宅(ニ)1と見ゆ」とあるに從へば、大伴氏の食邑であるから、氏名の大伴が地名となつて、大伴の御津と呼ばれた事になる。が前説も後説も下出の「大伴の高師の濱」(二四二頁)の解には通用しない。○みつのはま 「みつ」は御津で、官津の義。この津の正稱は難波の津である。大阪市内東區の高津《カウヅ》の西に當るといふ。今も同市南區に御津寺町がある、そこが古への三津寺の舊地とすれば、大抵難波の津の所在が推定出來よう。その出崎を記に三津(ノ)前《サキ》とある。又記の御綱柏《ミツナガシハ》の故事から出た名とするのは、顛倒の傳説である。○はままつまち 濱松が我れを〔四字右○〕待つと續けた。濱松を「待つ」の序と見た舊説はわる(236)い
【歌意】 さあ/\お前方よ、早く懷かしい故郷日本へ歸らうではないか。定めしあの御津の濱松が、我れ/\どもを戀しがつて待つてゐるだらうのにさ。
 
〔評〕 自分の歸思の痛切なことをさしおき、却つて指折り數へて遠人の歸朝を待つ故郷人の心情の側から逆叙したのは、面白い構想である。御津の濱の船出はこの遣唐旅行のそも/\の第一歩なので、岸に佇んで袖打振る見送りの人影、さては濱松影の見えずなるまで名殘を惜んだ樣が、今なほ記憶に新しく烙きつけられてゐる。そこでその濱松をやとひ來つて故郷人に擬へ、「待ち戀ひぬらむ」と、懷土望郷の念を寓せたその婉曲味には、不盡の妙がある。松に人格を與へた點も頗る詩趣を煽揚する。又「いざ子ども」と呼び掛け、「早くやまとへ」といひさした、是等のひどく切迫した調子が、下句を引き出す素地を作るに最もふさはしい。そして同行の下輩に對して、「子ども」と呼び掛けて、極めて親愛な情味を見せたのも懷かしい感じがする。又「はままつまち」の同音同調の反復は滑らかな快い諧調を成して、吾人の鼓膜を打つ。
 以上はこの歌を正面から考察したのであるが、更に内面に立入つて一考して見よう。今囘の遣唐は、使以下の人選のきまつたのは大寶元年正月であつたが、いよ/\難波の御津の崎をこの一行が出帆したのは、翌二年六月であつた。かうも準備に時日を要したことは、即ちその大難旅行であることを證明するものに外ならない。さて足掛三年目の慶雲元年七月に、一行はやつと歸朝した。往復の日子を一年として差引くと、唐郡長安の滯在は滿一年ぐらゐと見てよい。その間、公用やら見學やらで東西してゐるうち、何時か盛唐時代の芳烈なる文(237)化の美酒に心醉してしまつて、留連歸を忘れるの状態でゐた者も、可なり多かつたのではあるまいか。後の遣唐使藤原清河や、留學生阿倍仲麿などは、そのいゝ證人である。大便粟田眞人は、唐人から讃め立てられる程のモダン振を發揮したのであるから、下僚や下衆の連中となつては、一向埒は無かつたらうと想像される。憶良はこれを慨して、人情の常道からこの人達に覺醒の警鐘を鳴らしたのではあるまいか。
 
慶雲三年、丙午|幸《いでませる》2于|難波《なにはの》宮(に)1時(の)歌〔左△〕 
これは文武天皇の難波行幸で、續紀に「慶雲三年九月丙寅|行2幸《イデマス》難波(ニ)1、十月壬午還(リマス)v宮(ニ)」とある。ゆゑに「丙午」の下秋九月〔三字右○〕の三字があつたのであらう。尚この題詞の書式は不完で、「時」の下に歌〔右△〕の字がない。補つた。他の例によれば歌二首〔三字右○〕とあるべき筈、目録には果してそれがある。○難波宮 孝徳天皇の御造營なされた長柄《ナガラノ》豐崎(ノ)宮のことで、今の大坂城址の地である。標高百二三十米突からあつて、古へはこの岡地の三面は海水に浸され、まさに豐崎と稱すべき地形である。眼下には所在に洲渚が散布して、いはゆる八十島を成し、そこには蘆荻の叢生があり、頗る眺望がよいので、、遷都後も離宮として永く保存され、さてこの度も行幸があつたのである。攝津志に、豐崎宮の舊址を長柄本莊(西成郡豐崎村)に求めたのは從ひ難い。そこは卑濕の地で、とても豐崎の稱を與へられない。
(238) 又いふ、大寶以後即ち文武天皇御治世以後は、年號で區別を立て、御代の標を擧げぬのが例になつてゐる。
 
志貴《しきの》皇子(の)御作〔左△〕歌
 
○志貴皇子 既出(二〇〇頁)。皇子はこの度の行幸に供奉されたと見える。○御作歌 次に「長皇子御歌」とある書例に從へば、「作」の字不用となる。
 
葦邊行《あしべゆく》 鴨之羽我此爾《かものはがひに》 霜零而《しもふりて》 寒暮夕《さむきゆふべは》 和之所念《やまとしおもほゆ》    64
 
〔釋〕 ○あしべゆく 葦の叢生したあたりを游ぐこと。古義に「邊」を清みて讀めとあるは拘泥。○はがひ 羽交《ハガヒ》の義で、羽の打違ひになる所をいふが、轉じては單に羽をもいふ。こゝもその意。○ゆふべは 略解は「夕」を者〔右△〕の誤とし、その他この字から次の句にかけて誤字ありとして、諸家種々の案を出してゐるが、何れも無用の強辯である。國語の一語に宛るに、語義の近似する二箇の漢字を以てすることは、落ち〔二字傍点〕を落墮(卷九)ことに〔三字傍点〕を殊異(卷十二)と書く類で、極めて普通であるから、「暮夕」でユフベハはと訓むに何の差支もない。○やまと これは狹義の用法で、大和の藤原京又は京附近の地帶をさしていつた。「和」を倭〔右△〕の誤とする説もあるが、これは相通字で、續紀などには用例が多い。
【歌意】 枯葦の蕭條として群り立つあたりを游いでゆく鴨の羽根に霜が降つて、ひどく寒いわびしい夕方は、かうして旅にゐる身は、殊にしみ/”\と家郷大和のことがサ思ひ出されるわ。
 
(239) 〔評〕陰暦九月十月の交は、どうかすると隨分寒い日が時折ある。その寒さから聯想して、目撃してゐる葦邊の鴨の羽がひに霜を降らせたものだ。寒さは現實であるが、羽がひの霜は畢竟作者のトリツクであり、誇張の想像に過ぎない。然し場處は葦邊であり、葦叢には夕霜はさやくのであるから、その聯想には根據がある。とにかくこの誇張が時と場合とにうまく適合して、聊かも破綻を見せてゐないので、一層効果的に讀者の感愴を惹くのである。季節は陰鬱な薄暗さを感ずる初冬、時はそこはかとない暗愁の催され勝な夕暮、場所は寂しい枯蘆の叢生した海邊である。かう三拍子揃つては、何の物思もない者でも堪へられるものではない。况や作者は多感な若い旅人である。難波宮は、當時の藤原の京からはさして遠くない處ではあるが、一月も家庭の暖味から遠離つてゐる心からは、かゝる場合、頻と人戀しさの念が湧き立つて、大和に殘して來た家人の上の憶はれるのは當然である。それが憖ひに尊貴の御身で、大した公用もなく身に暇が多いだけに、餘計に堪へ難いことも容易く推量される。
 かくの如く遣る瀬なく戀しく懷かしい對象を叙するに、家とも妹ともいはず、「大和し念ほゆ」と、極めて大まかにいつてのけたその大膽な表現は、全く驚歎に値する老手である。すべて情景相叶つて神韻の高い御作といふべく、
  若の浦にしら浪立ちて沖つ風さむきゆふべは大和しおもほゆ 〔卷七―1219)
はこれと同想同型ではあるが、しかも上句の叙景が大まかで、本文のほど下句の感愴にぴつたりと來ず、この皇子の御作に劣るかのやうである。
 
(240)長皇子《ながのみこの》御歌
 
○長皇子 既出(二二七頁)。これもやはり上の難波宮行幸に供奉されての御作である。 
霞打《あられうち》 安良禮松原《あられまつばら》 住吉之《すみのえの》 弟日娘與《おとひをとめと》 見禮常不飽香聞《みれどあかぬかも》    65
 
〔釋〕 ○あられうち アラレ〔三字傍点〕の音を重ねて、「あられ松原」の序とした。「打」は霰の降るのが物に當るやうなのでいふ。古事記、輕太子の御歌にも「佐々婆爾宇都夜阿良禮能《ササバニウツヤアラレノ》云々」とある。契沖はウツ〔二字傍線〕と訓んだが、枕詞の類は、動詞の第二變北(連用言)を用ゐる例が多く、殊にこゝは打つ安良禮〔五字傍点〕と續く意ではないから、ウチと中止法に訓むがよい。○あられまつばら 疎らな松林をいふ普通名詞。神功紀にも「をち方のあらゝ松原」と、宇治の松林を詠んである。住吉のあらゝ松原は今の安立《アリフ》町がその遺地といはれる。「あられ」はあらゝの轉語で、あらゝは疎々《アラ/\》の略語である。○すみのえ 住江。清之江《スミノエ》の義。「吉」は江の借字である。攝津國住吉郡。平安期になつてはスミヨシと呼んだ。今は大阪市に編入されてゐる。○おとひをとめ 「おとひ」は娘子の名であらう。持統紀に弟日〔二字傍点〕といふ名の男も見える。○と この助辭を契沖は、と共に〔三字右○〕の意とし、眞淵は、松原と娘子と〔六字右○〕の意とした。前説は、婦人と一緒に見れば飽きるものとの通則の前提が無ければ意味が成立しない。仍つて眞淵の説に從ふべきである。○みれど 「常《ト》」をこゝでは濁音に充てゝある。
【歌意】 この風光明媚な住吉のあられ松原と、こゝに住む可憐な弟日娘とは、いくら見ても見ても、少しも見飽きのせぬことだなあ。
 
(241)〔評〕 時は陰暦九十月の交ではあるが、「霰うち」を霰の降る實景から來た有心の序と見るのは當らない。それは「見れど」が、見れども/\といふ位の力強い時間のある辭樣だから、瞬間的に降る霰では打合はないからである。風光明媚なあられ松原を主とし、※[女+單]娟たる娘子を客として、間接に住吉の懷かしさが鮮かに歌はれてある。弟日娘子は住吉の渡津に巣を構へてゐた遊行婦の類ででもあらうか。昔はこの種の身分賤しい者でも、尊貴の御前に出ることは珍しくなかつた。所謂「遊びものの推參は世の常」であつた。
 さて皇子は、行幸に扈從して難波滯在の一日、旅情の單調を破る爲に、この住吉の濱に出遊されたものであらう。左に弟日娘子あり、右にあられ松原あり、人の美と自然の美とを雙手に併せ收め得た長皇子の住吉情調は、頗る艶羨に禁へないものであつた。「飽かぬかも」は甚だ抽象的に流れた泛語であるが、割合にこゝにはよく利いてゐるのは手柄である。仁徳天皇がその愛人たる黒日賣《クロヒメ》の菘摘む處に到りまして、
  山|縣《ガタ》につめる菘菜《アヲナ》も吉備人《キビビト》と共にし摘めばたぬしくもあるか (古事記下)
(242)と詠まれた御製は、一寸この作に類似してゐるやうだが、着想の基點に相違がある。 
太上天皇《おほきすめらみことの》幸(せる)2于灘波(の)宮(に)1時(の)歌
 
持統上皇が難波宮に御幸せられた時の歌との意。○歌 の下、目録に從へば四首〔二字右○〕の字があるべきである。
 さて歌の排列の順序に就いて疑問がある。上に文武天皇の慶雲三年の難波行幸が既に掲げられてあるのに、その四年前の大寶二年に崩御になつてゐる持統上皇の難波御幸の時の歌をこゝに擧げたことは、後先を誤つたものゝ如き觀がある。で古義は英斷的にこの條の歌を一括して繰り上げて、上の「藤原宮御井歌」の次に排次した。だがそれは考慮が足りなかつた。
 抑もこの條は、上來屡見える「或書曰」又は「或本歌」の追記と同じ性質のもので、本文ではなく後からの補入である。今文武天皇の難波行幸の歌があるに就いて、持統上皇御在世の折の難波行事の際の歌どもを想ひ出して、同じ條下に書き入れたものである。蓋し或書曰〔三字傍点〕、或本曰〔三字傍点〕などの語を冠するか、さもなくば一字下りにでもなつて居れば、混線の患がないのであつた。
 
大伴乃《おほともの》 高師能濱乃《たかしのはまの》 松之根乎《まつがねを》 枕宿杼《まくらにぬれど》 家之所偲由《いへししぬばゆ》    66
 
〔釋〕 ○おほともの 高師にかゝる枕詞。この語は三津に懸けるのが普通である。「伴」は鞆の借字で、鞆の大き(243)いのは張りが高いから「大鞆の高し」といひ懸けたのではあるまいか。神代紀に嚴《イツ》の高鞆《タカトモ》の語がある。從來の説は「大伴の威《タケ》し」を高師に懸けたと解いてゐる。大伴氏は神武天皇の時の開國の功臣道臣(ノ)命の裔で、世々武を以て奉仕してゐた。故に威しいのである。尚「大伴のみつ」を參照(二三五頁)。○たかしのはま 和泉國大鳥郡。古く高脚《タカシ》の濱、高脚の海の稱がある。今の高石村高石神社の邊から濱寺の海岸線をいふ。○まくらにぬれど 「まくらに」は枕にしての意。枕することを古言卷く〔二字傍点〕といふにより、眞淵はマキテシヌレド〔七字傍線〕と訓んだが、テシに當る字が無いから無理。宣長が「杼」を夜〔右△〕の誤として、マキテヌルヨハ〔七字傍線〕と訓んだのも妄である。○しぬばゆ しのばる即ち思ひ出されるの意。「偲」は思と同意に用ゐて、シヌブの義とする。字の本義は全く別意である。「由」は例の添字。「所偲」で既にシヌバユと讀める。
【歌意】 こんなに景色のいゝ高師の濱に來て、面白い濱の松が根を枕にして寢るやうな、樂しい筈の旅であるけれども、やはり故郷の家のことが思ひ出されてならぬわ。
 
〔評〕 外ならぬ風光明媚な高師の濱に遊び暮して一夜を明したことを、そこの松が根枕に寢たと轉義したのは、(244)さも面白さに遂に野宿をした趣となつて、甚だ詩趣に富んだ所作と感ぜられる。「大伴の高師の濱の松が根を」との上來の調が、たゞの松が根枕の旅の苦患を訴へたものとは違ふ。さてかう面白さを極力誇張したのは、畢竟忽然として轉捩し來る結句の意を、より強く印象させる爲の猾手段である。藤原の京を離れて僅に一兩月、けれども家郷を憶ふ情懷は、殊に古人に於て深い。只供奉の公程にはその期があつて如何ともし難いので、樂みながら悲み、笑ひながら泣く。その衷心の葛藤がこの歌の覘ひ處である。
 
右一首、置始東人《オキソメノアヅマビト》
 
 この人は如何なる經歴の人とも知り難い。從駕の卑官であらう
 
旅爾之而《たびにして》 物戀之伎乃《ものこぼしきの》 鳴事毛《なくこゑも》 不所聞有世者《きこえざりせば》 孤悲而死萬思《こひてしなまし》    67
 
〔釋〕 ○ものこほしき 「こほし」は戀《コヒ》しの古語。契沖、眞淵の説では、「物戀しき」に鷸《シギ》をいひ懸けたのだといふ。若し本文に誤が無いとすれば、さう解する外はない。○なくこゑも 上を鷸とすれば、こゝは「鳴く聲も」でなくては、次句への續きが穩かでない。よつて假に「事」は聲〔右△〕の誤寫としておく。古義はこの二三句中の「乃鳴」を爾家〔二字右△〕の誤とし、「物こほしきに家事《イヘゴト》も」と訓んだ。家事は家言の義で、家人よりの音信をいふ。○こひて 「孤悲」は一種の戲書。○まし この助動詞は、事實に反することを假想するに用ゐるのが本格用法である。こゝもそれで、即ち聞えたから戀ひて死ななかつたのが事實なのに、その反對の場合を假想して強く詠歎(245)したのである。「萬思」は戲書の一種。「孤悲」と對語を成してゐる。
〔歌意〕 さびしい旅中にあつて、物戀しさに堪へかねてゐるのに、若し鷸の鳴く聲でも聞えなかつたら、こがれ死にに死にもせうものを、幸にあの聲を聞き得て嬉しいことよ。
 
〔評〕 僅々一月か一月半ほどの旅寢に、「戀ひて死なまし」は、餘り大仰過ぎる感がしないでもない。がかう誇張を思ひ切つてしなければ、鷸の聲が活きない。後世は鷸の聲を以て、秋の愁思をそゝる好箇の材料として扱つてゐる所から、鷸の聲がそれ程旅愁を慰めてくれるといふことは、可成り首肯しにくい慣習になつて居り、又それが常識的であるが、さりとて箇人のもつ特殊の感興を認めず、一概に抹殺してしまふことは危險であり、無謀でもある。
 これは旅中の無聊から湧き出して迫つてくる戀心をもて餘してゐる折柄、測らず物珍しい鷸の聲を聞き得た刹那の感懷である。永い間の獨坐無聊は、さま/”\の妄想を生じ、物戀し人戀しの念に悩殺させられるものである。昔獨房に監禁された囚人が僅か一匹の鼠にその寂寥を慰めて、無上の悦喜に浸つたといふ話がある。溺れた者は藁でも攫む、ましてやこれは難波潟の蘆間をわたる鷸の聲である。とゞの詰まりまで押詰められたわびしい氣持が、一遍にこの聲に依つて解放され、ほつと息を吐いたのである。さてその救はれた感謝の聲を鷸に向つて捧げたのがこの歌なのである。
 「物戀しぎ」のいひ懸けは後世風の修辭ではあるが、奈良時代のものでないと斷ずるのは固陋である。寧ろ萬葉集は後世の各樣各種の辭樣が發生した母胎であると考へる方が至當だらう。古義の解は常識的のもので、(246)而も本文を多分に改易したのは不賛成である。
 
右一首、高安(ノ)大島
 
 この歌は目録には「作主未詳(ノ)歌 高安大島」とある。だから高安大島の作とするのは一説であつて、確定的ではない。高安大島は傳未詳。
 
大伴乃《おほともの》 美津能濱爾有《みつのはまなる》 忘貝《わすれがひ》 家爾有妹乎《いへなるいもを》 忘而念哉《わすれておもへや》    68
 
〔釋〕 ○はまなる 濱に在る。○わすれがひ 片貝のことであらう。貝の一扇が無いのを、置き忘れでもしたやうに見立てた稱と思はれる。だから鮑〔傍点〕をも忘貝と集中に詠んだのもある。舊説は小貝の稱とし、古義は一種の小貝の名としたが、忘れの義が解かれてゐない。○いへなる 家に居る。○わすれておもへや 思ひ忘れむや〔六字傍点〕の古格で、後世と語法が前後してゐる。かく時によつて複合動詞の組立の順序が顛倒することは、往々例がある。「思へ」は思はめの約で、「や」は反語。
【歌意】 御津の濱邊に打寄せられてゐる忘貝のやうに、故郷の家に一人さびしく留守居をしてゐるいとしいお前を、何の忘れてよいものか、忘れるどころでなく絶えず私は思ひ續けてゐるよ。
 
〔評〕 作者|身人部《ムトベノ》王は、この御幸から十二年目の和銅三年正月の叙位に、無位から一躍して從四位下を授けられ、(247)天平元年に卒した。和銅三年を假に三十歳と見れば、卒年には四十九歳、この御幸當時は十九歳となる。よし違つたにしてもさう大した誤差は無いものと見てよい。御遊幸の供奉となれば奉仕の御用も大したことなく、若い人は愈よ暢氣で、忘貝拾ふ御津の濱遊びに、つい家書を裁することも忘れてゐたのを、ふと家信に驚かされてこの歌は出來たのではあるまいか。そこで先づ大いに辯疏これ努めて、「家なる妹」の御機嫌を取結んだといふ口吻が、あり/\と看取される。
 この「家なる妹」を、この集卷八の目録に「笠縫(ノ)女王、六人部《ムトベ》親王之女、母(ヲ)曰(フ)2田形《タカタノ》皇女(ト)1」とあるに據つて、田形皇女を斥したのだらうと、紀の通釋にあるのは誤である。續紀にこの難波御幸と同年の八月に「遣(テ)2三品田形(ノ)内親王(ヲ)1侍(ラシム)2伊勢大神宮(ニ)1」とある。これは齋宮に立てられたもので、齋宮は童女に限る嚴かな規定だから、作者とはまだ情的關係のなかつた筈、然し同年十二月には早くも多紀(ノ)内親王と交代した。これはその間に作者との秘密關係が生じて、それが露顯した爲と解せられぬ事もない。永い間作者が無位で沈淪してゐたのも、或はそんな事情が伏在してゐたからかも知れない。とはいへ密通はやはり密通で、妻女として家に居たのではないから、「家なる妹」と斥しては決していはれない。必ず別人である。
 上句は序詞であるが、結句の字眼なる「忘れて」を修飾するに、眼前なる御津の濱の忘貝を取合はせたことは、作者自身の消息を傳へた外に、その地方色が現はれて面白く、所謂有心の序の上乘と稱すべきものである。「濱なる」「家なる」は同語法の重複ではあるが、茲では却つて「忘貝」「忘れて」の反復と相俟つて、一種の諧調をなして目立たぬからよい。然し平安朝以後の撰者なら承知しかねて、濱べの忘貝〔五字傍点〕など引直すところであらう。
 
(248)右一首、身人部《ムトベノ》王
 
 この王の父祖は詳かでない。目録には六人部《ムトベノ》親王とあるが、官途の次第を見ても、親王階級とは思はれない。和銅三年に從四位下に初叙されて後は、養老五年に從四位上、同七年に正四位下、神龜元年に正四位上で、天平元年正月に卒去。
 
草枕《くさまくら》 客去君跡《たびゆくきみと》 知麻世婆《しらませば》 岸之埴布爾《きしのはにふに》 仁寶播散麻思乎《にほはさましを》    69
 
〔釋〕 ○くさまくら 旅にかゝる枕詞。既出(四〇頁)。○たびゆくきみ 旅にお出なさるお方の意。○しらませば 若しも知つてゐることだつたらの意。「ませば」は假設の助動詞。○きしの 住吉の岸をさす。○はにふ 埴生〔二字傍点〕の字を宛て、埴の在る處をいふ。但こゝは單に埴の意に用ゐた。埴は和名抄に「埴土、黄而細密(ナルヲ)曰(フ)v埴(ト)、和名|波爾《ハニ》」と見えて、黄色の粘土をいふ。一寸見は赤土のやうで、今も壁などに使つて黄色を出すが、古くは衣服の染料にも用ゐた。「和」は借字。○にほはさましを 衣を美しく染めようものをなあの意で、その隙もないのが殘念な〔十一字右○〕の意を、下に含むのは「まし」の作用である。「匂はす」は美しく色を映えさすの意で、こゝは衣を染めるにいふ。
【歌意】 かねて皇子樣を旅立つて往かれるお方と知つてゐたら、この住吉の岸の美しい黄土で御召物を染めて差上けて、私の形見ともして置かうものを、さうとは知らずにゐて、今となつてはその隙もないのが殘念なこと(249)よ。
 
〔評〕 この難波行幸はもとが御保養の爲であるから、供奉の諸員も甚だ暇が多い。隨つて附近での形勝の地たる住吉が長(ノ)皇子の訪問を辱うし、さてそこで皇子と清江(ノ)娘子との關係が成立したことも、想像に難くない。然るに皇子の歸期は忽に迫つて、娘子ははかない戀を恨まなければならなかつた。
 「旅ゆく君」は長皇子をさしたので、皇子が本來旅の人であることを忘れたいひ方である。「知らませば」は、眼前の甘い戀に醉うて、皇子に歸期のある必然の事實をすら、まるで念頭に置いてゐなかつた口吻である。これら理路を没却した感情の動きが頗る面白い。即ち既定の別離を倉卒な意外の別離に取扱つた點に、窮りない哀怨の情が躍つて見えるし、又別離の心やりには形見に上越すものは無いのに、それすら調へる隙もないと、深い惜別の情を岸の埴生を借りて具象的に述べたところに、綿々の恨は盡きない。
 住吉の岸は沖の白波の打寄せる砂地であるが、住吉神社の北方若干の地に多少の丘陵があり、そこに黄土層が露出してゐて、姫松や忘草忘貝と共に、住吉情調をそゝつてゐたものである。久保之取蛇尾(入江昌喜著)に、
  住吉の北なる岸の額に塚の侍るを、世に手塚又帝塚といふ。攝津志に大玉手塚小玉手塚と録す。今はその南なる大手塚は黄土宜しきにより土人に崩され、小手塚のみ殘る。云々。
と見え、自然又は人爲の力で、名處も名物も片はし破壞されてゆくのは歎かはしい事である。さて、
  しら浪の千重に來よする住の江の岸の埴生に匂ひてゆかな (卷六、車持千年―932)  馬のあゆみおしてとゞめよ住の江の岸の埴生に匂ひてゆかな (同 安倍豐繼―1002)
(250)などはこれと同調であつて、何れも目的格なる「衣を」を略いたのは、當時は布帛の染料に黄土を使ふことが一般的常習なので、殊更に明言する必要がなかつたのである。又「埴生に匂はす」は生〔傍点〕が冗語で理を妨げるやうでもあるが、恐らく當時「埴」といふも同意に用ゐた通語であらう。
 清江(ノ)娘子は住吉にゐた女性で、八年後の慶雲三年の難波行幸の折に於ける長皇子の詠に見えた弟日娘《オトヒヲトメ》と、同人か別人かは分らない。とにかくこの二人を堅氣ではないと自分は睨んでゐる。今の住吉は甚しく地形が變化したが、昔は難波以南の渡津で、船舶の輻輳した繁華な土地であつた。隨つてこの邊は娼家軒を列ねて、遊女が群を成してゐたのである。平安期の作ではあるが、大江匡房の遊女記に、
  上自2卿相1下及(ビ)2黎庶(ニ)1、莫(シ)v不(ル)d接(ヘ)2牀第(ヲ)1施(サ)c慈愛(ヲ)u、又爲(リ)2妻妾(ト)1歿(フルマデ)v身(ヲ)被(ル)v寵(セ)、雖(モ)2賢人君子(ト)1不v免(カレ)2此行(ヲ)1、南(ハ)則(チ)住吉、西(ハ)則(チ)廣田、以(テ)v之(ヲ)爲(ス)d祈(ル)2徴嬖(ヲ)1之處(ト)u。
とある。奈良平安兩時代を通じて、住吉を何かゆかしげな懷かしい場所のやうにもて囃したことは、あながち住吉の神の神威にあこがれたのみではなく、かうした有頂天になるべき他の大きな原因があつたのである。前掲卷六の二首などは、この意味から見れば頗る寓意のあることを發見するであらう。そこで古來諷詠の材料とした岸の姫松も埴生も、忘草忘貝も、特殊な比興があり諷示があることに氣がつく。すると清江娘子も弟日娘も、たま/\長皇子の寵を辱くした遊女と見ることが寧ろ至當で、又その稱呼の異なる點から、おの/\別人とする方が有力らしく思はれる。
 
右一首、清江娘子《スミノエノヲトメ》進《テテマツル》2長(ノ)皇子(ニ)1。 姓氏未v詳
 
(251) これは清江娘子が長皇子にお上げしたものとのこと。清江は即ち住吉の本義。清江娘子は住吉にゐた少婦の意で、勿論名ではない。名ははやく未詳と註してある程で、今知らるべくもない。
 
太上天皇(の)幸(せる)2吉野(の)宮(に)1時、高市連《たけちのむらじ》黒人(が)作歌
 
持統上皇が吉野離宮に御幸の時、お供の黒人の詠んだ歌との意。○太上天皇幸于吉野宮云々 續紀に「大寶元年六月庚午太上天皇幸(ス)2吉野(ノ)離宮(ニ)1、秋七月辛巳車駕至(リマス)v自2吉野離宮1」とあり、類聚國史にも同文が見える。古義に、これを當今文武天皇の行幸と見たのは諾け難い。○黒人 既出(二二五頁)。△地圖 挿圖35を參照(一一○頁)。
 
倭爾者《やまとには》 鳴而歟來良武《なきてかくらむ》 呼兒鳥《よぶこどり》 象乃中山《きさのなかやま》 呼曾越奈流《よびぞこゆなる》    70
 
〔釋〕 ○やまと こゝは狹義で、藤原の京を中心にその附近をさしてゐる。○なきてかくらむ 鳴いて來るだらうかしら。平安時代なら、來てや鳴くらむといふ所である。諸註或は「來《ク》」は行くの意といひ、或は大和の京を本にして「來《ク》」といつたなど、無用の鑿説が多い。○よぶこどり 古歌に詠まれた多くの例によると、春の半から秋の末まで鳴く鳥で、その聲は悲しげなものらしい。眞淵はカツポ鳥即ち郭公鳥のことゝし、清水光房は「年寄來い」と鳴く鳩の一種たる閑古鳥のことゝもいひ〔十字傍点〕、諸説區々にして確かでない。○きさのなかやま 大和(252)國吉野郡|喜佐谷《キサダニ》村にある。宮瀧の吉野川の南岸の山で、御船の山の西に竝ぶ。中山とは國郡郷里のその中部に介在する山をいふ。
【歌意】 今この吉野の象《キサ》の中山を、呼子鳥が悲しげな聲で呼び立てつゝ越えて來る。あゝ倭の京では、此處と同じやうに、この鳥が來て鳴くことだらうか。
 
〔釋〕 作者黒人は御幸のお供で、六七月の交をこの吉野に暮した。この点は、「よの常にきくは苦しき呼子鳥」(卷八)など詠まれ、何となく物寂しいあはれげな調子で鳴くものと見える。山深い幽寂な境でこんな聲を聞いた時、旅人は弧獨の悲哀をしみじみと味はせられ、端なく本郷の大和の京を思ひ浮べて、そこにも呼子鳥の來訪を想像したのは、わが家人も自分と同じ境地に置かれ、同じ感懷をもつべきものと假定しての事で、即ちそれが家人を思慕する情味の發露である。
 この歌は初二句を結句の下に廻して見ればよく意が分る。叙述が轉倒してゐるやうに見えるが、一首の重心をなすところの感興を先にして、その基礎たる事相を後にすることは、極めて自然の叙法である。又「よぶ〔二字傍点〕こ鳥よび〔二字傍点〕ぞ(253)越ゆなる」の疊語は、快い諧調を成すことの外に、そのよぶ〔二字傍点〕といふ擬人語が、呼子鳥と作者との關係を親密にして、ひたと動きの取れないものとする上に、頗る有力な役割を勤めてゐるのである。
 
大行天皇《さきのすめらみことの》幸(せる)2于難波(の)宮(に)1時(の)歌
 
○大行天皇 大行は天子崩ぜられて未だ謚號を奉らぬ間の稱と、漢書意義に見える。大行とは天命終り、往いて還らぬの義である。こゝでは文武天皇をさし奉つたもので、即ち文武天皇崩後間も無い頃、或人が、御生前難波行幸の際の諸家の歌を記銘して置いたのを、その端詞のまゝにこゝに採録したものと思はれる。○幸于難波宮 文武天皇の難波宮の行幸は、續紀によれば御代に二囘あつたが、これは前にも見えた慶雲三年九月の行幸であらう。
 
倭戀《やまとこひ》 寢之不所宿爾《いのねらえぬに》 情無《こころなく》 此渚崎爾《このすのさきに》 多津鳴倍思哉《たづなくべしや》    71
 
〔釋〕 〇やまとこひ 故卿の大和を戀しく思つて。「やまと」は、上の「倭爾者」の歌に於けると同じく狹義でいふ。○いのねらえぬに 寢ても眠れないのにの意。「い」は寢入ることで名詞。「ね」は眠ると否とに論なく只ひろく横臥するをいふ動詞。「え」は可能の意を表はす助動詞で、今の「れ」に當る古言。○こころなく 思ひやりもなく。用捨なく。この句は結句の上にまはして見ると分りよい。○このすのさき 難波の浦の洲崎をさ(254)す。○たづなくべしや 「たづ」は鶴の古言。「や」は反語。
【歌意】 自分はかうして旅中にあつて、大和の戀しさにゆつくり眠ることも出來ないでゐるのに、この洲崎に鶴が寂しげに鳴くが、そんなに思ひやりもなく鳴くべきことかい。 
〔評〕 鶴は渡り鳥で、暮秋から冬期を主として内地に棲息し、その頃は琵琶湖の沿岸でさへ「さはに鳴いて」ゐたのだから、難波や住吉などの海岸となると、勿論澤山棲んでゐた。然し大和人としてはやはり珍しいので、洲崎の蘆原などに、高い鋭いこの聲を聞くと、しみ/”\旅に出てゐるなといふ感じを唆られたのである。况や既に郷愁に堪へかねて夢も結ばれぬ遊子の身では、たまつたものではない。そこで、作者は勝手に因縁をつけて、抗議を申込んだ所が面白い。しかも鶴に對して「心なし」呼ばはりをするのは、動物と人間との區別を忘れてしまつた言ひ草で、情の趣く所理性はそこに消滅してしまつて、痴愚の態に返つてゐるのが、寧ろ自然の人情である。「この洲の崎に」は作者の位置を指示し、秋は九月の蕭條たる海邊の光景を聯想せしめて、鶴との交渉を親貼ならしめた好句である。 
右一首、忍坂部乙麻呂《オサカベノオトマロ》
 
 この人の傳未詳。
 
玉藻苅《たまもかる》 奥敝〔左△〕波不榜《おきべはこがじ》 敷妙之《しきたへの》 枕之邊《まくらのあたり》 忘可禰津藻《わすれかねつも》    72
 
(255)〔釋〕 ○たまもかる 沖の修飾語、即ち序である。「刈」るは藻を採る方法の一つである。○おきべ 沖邊である。本文「敝」は原本には敞とある。古寫本に由つて改めた。○しきたへの 「枕」にかゝる枕詞。布栲《シキタヘ》の義であるから敷衾をいふのが本で、枕、床、家の枕詞に用ゐ、更に袖、袂、衣手などの枕詞とした。又|繁栲《シキタヘ》の義で織目の細かい良布をいふ説もあるが、事が狹い。○まくらのあたり 寢所のあたりの意。枕を把るのは寢る時の所作であるから、轉義して用ゐる。
【歌意】 遠く沖の方へ漕ぎ出しての舟遊はしまい、自分はこの寢所のあたりが、離れられない程戀しく懷かしく忘れかねてゐるのだからなあ。
 
〔評〕 この歌は、人から遠出の舟遊に誘はれての挨拶であらう。都人としては殊に興味をそゝられる筈の舟遊を、一も二もなく「漕がじ」と斷つたその訝しさが、まづこの歌の山である。さてこの一見甚だ不自然なやうな結論に對する事由の説明が、どんな退《ノ》つぴきならぬ故障かと思へば、これは又案外な、「枕のあたり忘れかねつも」だからたまらない。この枕の陰には無論女がゐるので、自分にはかういふ面白い事が別にあるのだから、結構な舟遊もまづ御免だといふ。全くの手放しで相手はひどく中てられたものだ。女は例の遊行婦ででもあらう。
 從來の諸註、多くは眞意を捉へかねてゐる。即ち下句を手近の浦邊の景色の方が好いから沖へは出ないとか、故郷の妻が戀しくてとか、律義一遍に解してゐるのは、甚だ融通のきかぬ話である。且「忘れかねつも」がそれでは利かない。
 
(256)右一首、式部卿藤原(ノ)宇合《ウマカヒ》
 
 作者は目録には「作主未詳」とある。宇合は不比等の三男で、式家《シキケ》の祖となつた人、天平九年八月薨じた。公卿補任には齡四十四歳とあるから、逆算すると、この慶雲三年には
まだ十三歳にしかならぬから、こんな歌の出來よう筈がない。されば目録の「作主未詳」とあるに隨ひたい。懷風藻には年三十四とある。これは愈よ年齡が不當になる。
 
長(の)皇子(の)御歌
 
この題詞の書き方では、何れの折の作とも判明しない。古義は、前に續けてやはり難波行幸の際の作となし、且この題語を左註に移した。蓋し正當な見解であらう。○長皇子 既出(二二七頁)。
     
吾妹子乎《わぎもこを》 早見濱風《はやみはまかぜ》 倭有《やまとなる》 吾松椿《わをまつつばき》 不吹有勿勤《ふかざるなめめ》    73
 
〔釋〕 ○はやみはまかぜ 「妹を早見む」といふに、濱の名の「早見」をいひ懸けた。契沖は、「早き速瀬を、早み速瀬といふ類にて、はやみ〔三字傍点〕は地名にあらず」といつた。これも一説ではあるが却つて面白くない。すべていひ懸けは語質の違つたもの程その妙味を増して、しかも簡明になるもので、こゝも地名と「早見む」の語意とを抱合させたのである。さて早見の濱は豐後の速見郡か、或は難波附近にあつたものか。然し長皇子が豐後地方(257)に行かれた記録も見えないし、殊にこれを難波行幸の際の作とすれば、その附近の地名と見るがよい。後世改稱されてその故地を失うたものだらう。○やまと 例の狹義の用法で大和の京をいひ、更にわが家を暗に指してゐる。○わをまつつばき 「吾を待つ」に松をかけ、さて椿と續けた。いづれも故郷の家の庭にある樹木。古義に「椿」を樹〔右△〕の誤とし、尚下に爾〔右△〕の脱字ありとして、アヲマツノキニ〔七字傍線〕と訓んだのは却つて非。○ふかざるなゆめ 必ず吹かずにゐるな、即ちきつと吹けよの意。「ゆめ」は忌むの轉靴ゆむ〔二字傍点〕の命令形が副詞となつたもので、努力して、謹んで、構へて、必ず、などの意を表はす。されば本集中にもこれに、勤、努、謹などの文字を充てゝゐる。實際使用例では禁止の語句に屬く場合が多いが、「ゆめ」その語が禁止を表はすのではないことを記憶すべきである。
【歌意】 大和に歸つて戀しい妻の顔を早く見たいと思ふが、そのはやみといふ懷かしい名の早見の濱風よ、故郷の家で、旅にゐる自分の歸りを待つ松や椿を、お前は忘れても音づれずにゐるなよ、可愛さうだからさ。
 
〔評〕 眼前の物寂しい濱風、しかも濱の名が生憎や早く逢ひたいといふ早見では、いよ/\旅愁をそゝられて、國を懷ひ家を思ひ、妻を戀ひ、遂に情は餘つて庭上の松椿にまでも及んだ。その低徊の情の濃やかなことよ。さて濱風に誂へて松椿を吹けといふは、實は自分の不斷の戀心を、可憐な妻に知つて貰ひたさである。吾を待つ者をあらはに指摘せず、松椿の上でいひ果てたのは、頗る娩曲の味ひがある。されば諸註に、妻が〔二字右○〕吾を待つ松椿と解したのは、最初から底を割つたもので、折角の興味が索然としてしまふ。而もそれは詞の上にも見えぬことである。「吹かざるなゆめ」の否定に禁止を重ねた紆餘曲折の辭樣は、作者の心持の動搖を如實に表現(258)してゐる。只五音二音の組織が嚴しい迫つた語調なので、命令が殆ど強制的となり、そこに深く強く思ひ込んだ情緒の動きが見える。「吾妹子をはや見」「吾をまつ椿」のいひ懸けは上下に均衡を得て、一首の安定がよいとはいふものゝ、戲謔の藥が稍強過ぎて面白くない點がある。そのうへ松椿と竝べ立てたのは、聊か調子に乘つた形である。さりとて古義の「わを松の樹」の改竄には斷じて賛成出來ない。只作者はわざとかうした弄意を試みたものと見るが至當であらう。
 
大行天皇(の)幸(せる)2于吉野(の)宮(に)1時(の)歌
 
○大行天皇 これも文武天皇の御事。「大行」の解は上出(二五三頁)。○幸于吉野宮 いつの事か年時が明かでない。續紀に慶雲三年九月の難波行幸の記事はあるが、吉野行幸の事は見えない。蓋し續紀の脱漏であらう。
 
見吉野乃《みよしぬの》 山下風之《やまのあらしの》 寒久爾《さむけくに》 爲當也今夜毛《はたやこよひも》 我獨宿牟《わがひとりねむ》    74
 
〔釋〕 ○やまのあらし 「山下風」を舊訓はヤマシタカゼとしてゐる。古今集にも「三吉野の山したかぜに」(賀)と詠んだ歌がある。然しこゝは意訓で、本集卷十一に「佐保のうちゆ下風之《アラシ》ふければ」「あしひきの下風《アラシ》ふく夜は」などの用例があるし、和名抄にも「嵐、山下(ヨリ)出(ル)風也。和名|阿良之《アラシ》」とあるので、これらに據るがよい。○さむけくに 寒けくある〔二字右○〕にの略。○はたや 「はた」はもと擬聲語で、物と物との打合つた音であるから、「打合つ(259)て」、「さし當つて」の意に用ゐられる。「も亦」の意に用ゐられるのはその轉義である。「爲當」は漢土の俗語で、「も亦」の意に當るが、こゝは通用で填てたまでゝある。「や」は歎辭。○わがひとりねむ 舊訓にはワレヒトリネム〔七字傍線〕とある。かゝる場合の「我」「吾」は集中でも、或はワレ〔二字傍点〕と訓み或はワガ〔二字傍点〕と訓み、必しも一定して居らぬが、こゝは語調の緊密といふ點から見て、ワガの方が勝れてゐる。現に冷泉本にはワガとあり、眞淵もさう訓んでゐる。
【歌意】 吉野の山風がこんなに寒く冴えてゐるのに、旅にある身は、さてまあ今夜も私が寂しく獨りで寢ることかいなあ。
 
〔釋〕 この吉野行幸は、想ふに晩秋初冬の頃ででもあつたらう。勿論山水の勝を御賞翫の爲なのである。離宮の所在地、蜻蛉《アキツ》の宮附近は都の藤原邊とは違ひ、深い山峽なので一層山風は身にしみる。「こよひも」は昨夜〔二字傍点〕を映帶した叙法であるから、供奉して到着の第一夜に測らず嘗めた體驗を、今夜も亦繰り返して、つめたい旅宿の獨寢を重ねることかと歎息したのである。ちよつと考へると、僅に三日四日の別れなのに、如何にも大仰過ぎるやうであるが、この僅かの孤獨にも堪へられないのは、即ちその愛妻との交情の綿密さを説明するものであり、一面に又山の嵐のたまらなく寒いことを立證するものである。この孤獨の怨と寒楚の苦と旅愁とを、こきまぜに一度に味はせられては、流石の盆良雄も泣かずには居られぬ。「はたやこよひも」の語、實に千丈の堤を一度に決して、感情の激浪を澎湃として逆流させる概があり、一讀何ともいへぬ凄慘の感に打たれる。殊に「はたや」の三音、その聲響が腸を掻き毟るやうで、聲調上一首の司命となつてゐる。
 
(260)右一首、或(ヒト)云(フ) 天皇(ノ)御製歌《ミヨミマセルミウタ》
 
 一説に文武天皇の御製と傳へる旨を註したものであるが、歌の趣から察すると決して至尊の御歌ではなく、從駕の人の心情を吐露したものなること疑がない。新勅撰集にこの歌を持統天皇御製として採録したのは輕卒である。
 
宇治間山《うぢまやま》 朝風寒之《あさかぜさむし》 旅爾師手《たびにして》 衣應借《ころもかすべき》 妹毛有勿久爾《いももあらなくに》    75
 
〔釋〕 ○うぢまやま 大和國吉野郡千俣村にある。○たびにして 旅中に在つての意。○ころもかすべき この訓には古來異論が無かつたが、岸本由豆流が一石を投じて、コロモカルベキ〔七字傍線〕の異訓を主張した。「借」は元來カルが本義であるから一往尤もの説であるが、然しこの字を貸スの意に轉用した例は本家の支那にも多く、本集中にも珍しくないので、本義のみを楯に取つて訓ずるわけにはいかぬ。さて意義の上から考へると、衣ヲ借リヨウト思フ妻ガ居ナイと自己を主としていふよりも、衣ヲ借シテクレル妻ガ居ナイと妻を主としていふ方が痛切の響がある。やはり舊訓の方がよい。○いももあらなくに 妻も居ないのにの意。「なく」は否定の「ぬ」の延言。△地圖 挿圖35を參照(一一〇頁)。
【歌意】 宇治間山のこの朝風は、まことに身にしみてひどく寒いことだ。自分は今わびしい旅先にゐて、衣を貸してくれる筈の、あの懷かしい妻も居ないのにさ。
 
(261)〔評〕 宇治間山は飛鳥から吉野へ越える通路の山で、上市の北に當る。長屋王は、或はこの山附近に假寓して、一里ばかり川上なる蜻蛉の宮に伺候したものであらうか。どうもさう見なければこの歌は解けない。吉野峽谷の夜は明けて、宇治間山から吹き下す北風は、都の風よりも遙に寒い。あゝ妹が家ならこんなに朝風の寒い時は自分の衣を融通しても貸してくれように、此處は旅先でどうにもならぬ。朝風の寒さにつけては家なる妹が慕はれ、妹が慕はれるにつけては朝風の寒さが愈よ怨めしい。この幽婉哀切の情を託するに極めて率直の表現を以てしたことは、一首を全く浮華誇張の嫌味から遠ざからしめ、讀者の感銘を深からしめる上に頗る効果があつた。
 さてこの衣を貸すといふことに就いて、他の註家は皆男女互に衣を貸しあつたものだと、簡單に片付けてゐるが、事實は男が女の着物を借りる場合が多い。古歌に詠まれたのも大抵その趣である。その理由は如何。由來昔の婚嫁は後世と違ひ、假令後には本妻として北の方として自宅に迎へ取るにしても、初めの程は男が女の家に通ふのが定例であつた。だから女の家に泊つた時、もし陽氣でも寒いと、自宅から衣服を取寄せるので(262)は間に合はない。又人情の常として女の方でも知らぬ顔は出來ない。早速あり合せの自分の着物を出して、一時凌ぎに着せてくれる。それが又男の方では頗る嬉しく有り難いことだつたのである。さればこの情合の暖かさが忘られかねて、旅先などで寒い思をすると、忽ち衣の貸借を云々することにもなるのである。
 
右一首、長屋王《ナガヤノオホキミ》
 
 長屋王は高市皇子の御子にして、天武天皇の御孫に當る。慶雲元年に正四位上に叙し、その後宮内卿、式部卿、大納言、右大臣等に歴任し、神龜元年に正二位左大臣に進んだが、天平元年二月、私かに左道を學び國家を傾けむとすと讒する者があつて、逐に自盡を命ぜられた。年四十六とも或は五十四ともいひ、確かでない。漢學を好み、文藝の士を愛し、その詩作は懷風藻に出てゐる。
 
和銅元年戊申、天皇(の)御製歌
 
○天皇 和銅は元明天皇の年號であるから、天皇は元明天皇の御事である。天皇御諱は阿閇《アベノ》皇女と申された。前々の書例によれば、「和銅云々」の題詞の前に、「寧樂宮御宇天皇代《ナラノミヤニテアメノシタシロシメシヽスメラミコトノミヨ》」の標目があるべき筈である。尤も奈良遷都は和銅三年三月の事であるから、元年にはまだ藤原の宮にましましたのである。
 
大夫之《ますらをの》 鞆乃音爲奈利《とものおとすなり》 物部乃《もののふの》 大臣《おほまへつぎみ》 楯立良思母《たてたつらしも》    76
 
(263)〔釋〕 ○ますらを 男子の讃稱。こゝは兵士等をさしていふ。既出(四〇頁)。○とも 鞆。音物《おともの》の義といふ。皮革製の巴状中高の物で、内に獣毛を藏め、高い方を内側にして左の臂に着ける。昔の射法には弓反《ユガヘリ》が無いから、弓弦が腕を拂ふ、それを避ける爲に着けたので、弦は鞆に當るから音が立つのである。和名抄に、「※[旱+皮]、和名|止毛《トモ》。楊氏漢語抄、日本紀等用(フ)2鞆(ノ)字(ヲ)1、在(リテ)v臂(ニ)避(クル)v弦(ヲ)具也」とある。音を立てゝ敵を威す爲の具とか、袖をまくつて留める物とかいふのは笑ふべき空疎な説である。○もののふ 物の具を執つて奉仕する武人の稱。もと物部の義である。物部氏をいふのでない。「もののふのやそうちがは」を參照(一九二頁)。○おほまへつぎみ 大前つ君で、即ち天皇の大前に侍する君の意。文官なら大臣に當るが、こゝは「物部の大前つ君」であるから、大將軍のことである。○たて 楯。矢を禦ぐ具。この楯は「立つ」とあるからは楯板である。これを大楯といつた。紀に持統天皇即位の時、物部麻呂朝臣が大楯を立てた事が見える。又鐵盾も仁徳紀に見えるが、それは歩盾《テダテ》即ち持盾の類で、小さな物であるらしい。○らしも 「らし」は推量の助動詞。「も」は歎辭。
【歌意】 兵士等の弓弦の解れて鳴る鞆の音が、あれあのやうに盛にすることわ。さては大將軍が出場して、その陣屋に楯を立てるらしいな。
 
〔評〕 この御製については、眞淵の推斷がよく事情を穿つてゐる。それは、
  陸奥越後の蝦夷の叛きしかば、和銅二年三月、遠江駿河甲斐信濃上野越前越中等の諸國の兵士を徴發し、巨勢(ノ)麻呂(264)(陸奥鎭東將軍)、佐伯(ノ)石湯(征越後蝦夷將軍)二人を大將軍にて遣はされし事、續紀に見ゆ。然れば前年の冬、軍の調練ありしにて、北國は雪國なれば冬の戰はなし難ければ、明年三月に立たせられしなり。云々。
とある。先づさうした事情であつたらう。蝦夷の叛いたのは實際は和銅元年のうちで、諸國の徴募兵はその便宜のまゝに直接戰地に出征したと思はれるし、この御製の趣とても大部隊の演習の樣子とも受け取りにくいから、かうして京で調練したのは、大將軍直屬の兵隊に限つたことゝ思はれる。
 當時天皇はまだ藤原の宮にあらせられた。兵士の調練は恰もその大宮近い廣場で行はれたのであらう。さて平時の演習と違ひ、命を的にしてゆく出征の豫習とあつては鞆の響も自然殺氣立つ。あながちそれは思ひなしばかりではあるまい。大宮の内にましましてこの物騷がしさを聞し召された時、御即位後まだ間もない兵革沙汰に、女帝の御胸はどんなにか苦痛を感ぜられたことであらう。御耳にとまつた益良雄の鞆の音から、楯立つる大將軍出陣の樣を、眼前に彷彿と描き給うたことは、女帝にましますだけに、勇壯な武張つた男性的御想像ではなくて、實は深い御不安の念を寓せられたものである。されば御姉君御名部皇女は、「あが大君物なおもほし云々」(次出の歌)と歌つて慰め奉つたものである。
 さて「楯立つ」とあるからは掻楯《カイダテ》であらうが、楯は元來敵の矢石を防ぐ爲の道具である。ところが調練の場合では實際に敵もゐないし、身方が矢石を被る筈もないから、楯の必要があらうとも思はれない。にも拘はらず、鞆の音からかくの如く大將軍の楯板を御聯想遊ばされたことは、ちよつと解し難いことであるが、前人が一向こゝに論及してゐないのは不思議である。想ふに實戰では大將軍の陣營附近には掻楯を立てる習慣なので、かく假戰の場合でも、大將軍の陣營に掻楯を突立てゝ、大いに軍容をすぐつたものであらう。それでかう(265)した御想像も生まれたものと考へられるのである。
 
御名部《みなべの》皇女(の)奉v和《こたへまつれる》御歌
 
○御名部皇女 天智天皇の皇女で、元明天皇の同母の御姉君にまし/\た。これは前掲の御製に對し、叡慮を慰め奉らんが爲にお答へ申された御歌である。○奉和御歌 「和歌」を見よ(一〇七頁)。
 
吾大王《わがおほきみ》 物莫御念《ものなおもほし》 須賣神乃《すめがみの》 嗣而賜流《つぎてたまへる》 吾莫勿久爾《われなけなくに》    77
 
〔釋〕 ○わがおほきみ 元明天皇をさし奉る。○ものなおもほし 物思ほすなに同じい。即ち御心配遊ばしますなの意。禁止格の「な……そ」は、元來禁止の意は「な」の方にのみ存するもので、「そ」は其で強辭に過ぎない。故に「そ」を略くことは古言の一格であつた。○すめがみ 皇祖を統《ス》め給ふ神の義。廣く皇祖の神々をさし奉るが中に、こゝは天照大神、高御産靈神を申し上げる。○つぎてたまへる 君に〔二字右○〕繼いで生を〔二字右○〕賜うたの意。姉君ながら帝たる妹君を立てゝ謙遜した詞。新考は、君に嗣ぎて蒼生《タミ》に賜へるの意とした。宣長は、皇統の繼嗣に嗣いで言依《コトヨサ》し賜へるの意として、次句の「吾」を君〔右△〕の誤字と定めた。○われなけなくに 吾なきにあらぬに、即ち私が居ないのではありませんのにの意。「なけ」はなき〔二字傍点〕の轉。
【歌意】 わが畏れ多くも尊い天子樣よ、そんなにくよ/\と御心配遊ばしますな。御先祖の神樣が、あなた樣に(266)さし次いで生をお與へなされた、この私がお附き申して居りますのにさ。
 
〔評〕 御即位早々の世の擾亂を慨かれた御製に對して、なに、御姉妹と生まれたこの私がお附き申してゐますからと、お慰め申し力づけ奉つた作である。開口一番、「わが大王」と呼び掛け、「皇神の嗣ぎて賜へる」と御自身を名告り出された應接の間に、頗る嚴肅な氣分が漂うてゐる。すべて皇胤に關することを皇神の思召に歸することは、續紀の詔にも、
  天皇御子之阿禮坐牟彌繼繼爾大八嶋國將知次止天都神乃御子隨爾天坐神之依之奉之隨此天津日嗣高御座之業止《スメラガミコノアレマサムイヤツギツギニオホヤシマクニシラサムツギテトアマツカミノミコナガラニアメニマスカミノヨサシマツリシママニコノアマツヒツギタカミクラノワザト》、(文武紀)
  高天原神積坐須皇親神魯岐神魯彌命乃定賜來流天日嗣高御座次乎《タカマノハラニカムツマリマススメラガミオヤカムロギカムロミノミコトノサダメタマヒケル》云々。(稱徳紀、大殿祭祝詞同文)
とあつて、上世からの傳統的信念であることを味ふべきである。
 さてかく嚴かな修飾語で、われと御自身の存在に重味をつけられたことは、反比例に帝の御心痛の度を輕減し奉る結果になるではないか。全く巧語言である。帝の御姉君としての立場から、かうした發言はその動機に極めて美しい友愛の御情緒が閃いて見える。あの富士の卷狩に曾我兄弟が討ち入つて大騷ぎとなつた際、範頼が兄の妻政子に向つて、「御心配御無用、某が居り候」といつたのとよく似たお心持である。
 
三年庚戌春三月、從《より》2藤原(の)宮1遷《うつりませる》2于|寧樂《ならの》宮(に)1時、御輿《みこしを》停《とどめ》2長屋原《ながやのはらに》1※[しんにょう+向]2望《さけみたまひて》古郷(を)1御作《よみませる》歌
 
元明天皇が三年春三月藤原宮から奈良へ遷都行幸のあつた途中、長屋の原に御休憩があつて、古京の方を回顧(267)遊ばされての御製との意。○三年 元明天皇の三年で即ち和銅三年である。續紀にも「和銅三年始(メテ)遷2都于平城(ニ)1」と見える。○※[しんにょう+向]望  ※[しんにょう+向]は廻の俗字で遙かの意。字書に寥遠也とある。一本廻〔右△〕、囘〔右△〕など書す。囘望は見まはすこと。○古郷 舊都を斥す。○遷于寧樂宮 本文に「明日香の里をおきていなば」とあるので、「飛鳥《アスカ》と藤原とは場處が違ふから、一書に飛鳥宮から藤原宮への遷都の時とあるのが正しい」といふやうに、宣長などもいつてゐるが、よく考へない説である。それは後世こそ飛鳥は一地方の小名に過ぎないが、當時の飛鳥は廣狹二樣の範圍に用ゐられてゐたのである。即ち狹義には今いふ飛鳥地方の稱で、廣義は畝傍耳無二山以南の地の總稱であつた。この事は喜田貞吉氏の「帝都」にも論じてある。○長屋の原 大和國山邊郡長屋(ノ)郷で、今の朝和《アサワ》村|永原《ナガハラ》の地である。△地圖 挿圖66を參照(一九二頁)。
 
一書(ニ)云(フ)、太上天皇(ノ)御製(ト)
 
 この註は作者についての異傳であるが、目録には無い。且和銅三年には持統天皇は既に崩御後であるから、太上天皇と申上ぐべき方はおはしまさぬのである。宣長が「和銅の頃は持統天皇既に崩じ給へども、文武の御時に申しならへるまゝに太上(268)天皇と書けるなり」といつたのは、一往尤ものやうであるが、それはこの御歌を飛鳥から藤原へ遷都の際のものと見た先入見に支配されての上の論であるから、不可である。この註は當然削除せねばならぬ。
 
飛鳥《とぶとりの》 明日香能里乎《あすかのさとを》 置而伊奈婆《おきていなば》 君之當者《きみがあたりは》 不所見香聞安良武《みえずかもあらむ》    78
 一(ニ)云(フ) 君之當乎《キミガアタリヲ》 不見而香毛安良牟《ミズテカモアラム》
 
〔釋〕 ○とぶとりの 明日香の枕詞。天武紀十五年に「改(メテ)v元(ヲ)曰(フ)2朱鳥《アカミドリ》元年(ト)1、仍(テ)名(ケテ)v宮(ヲ)曰(フ)2飛鳥淨御原《トブトリノキヨミハラノ》宮(ト)1」とあるに據れば、當時朱い鳥が群り飛んだのを愛で珍しがつて朱鳥の年號を建て、宮號の淨御原にも宮地の明日香にも「飛鳥《トブトリ》の」の語を冠したことは明かである。然るに朱鳥は※[易+鳥]《イスカ》で、その古名アスカに地名をいひ懸けたとする眞淵、信友の説、又飛ぶ鳥の足輕《アシカル》に地名をいひ懸けたとする古義の説、又飛ぶ鳥の幽《カスカ》を地名にいひ懸けたとする詞章小苑の説は、いづれも附會である。又アスカを飛鳥〔二字傍点〕と書くのは、枕詞にその修飾の目的語の訓を移したもので、恰も春日《ハルビ》のカスガ〔三字傍点〕と續けて、枕詞であつた春日を直ちにカスガと訓ませるに至つたのと同じである。○あすかのさと こゝは廣義にいふ飛鳥の地であるから、藤原の宮地方をも含めていふ。○おきていなば さし置いて去つたならば。○きみがあたり 「君」とは藤原京に殘り留つてゐる或人を指されたお詞であるが、その何人かは明かでない。恐らく御兄弟或は御尊親の方々と思はれる。「當」は借字。○みえずかもあらむ 見えずあらむかも〔八字傍点〕に同じい。「か」は疑辭。「も」は歎辭である。
(269)【歌意】 かやうに飛鳥《アスカ》の里をうち置いて、奈良の方へ往つてしまつたら、懷かしい貴方の住まれるあたりは多分見えなくなることでせうかまあ。心細いことです。
 
〔評〕 翠華搖々として朝に藤原の宮を御發輦あらせられたが、飛鳥地方はすべて高地であるから、大和平原から行く/\顧望すると、その村落里坊が明かに指點し得られる。帝の懷かしと思召す「君があたり」も認められる。途中御休憩の爲に長屋の原に御駐輦遊ばされたが、こゝは藤原の宮から正北約二里、奈良の新都へはなほ三里の中間地點である。「おきていなば」の口氣は、此處まではほのかながらも君があたりの見えることを反證してゐる。然し一足でも此處を遠ざかつたら最早見えなからうと、豫想的に疑惧の念に驅られ、それを見限つては容易に御出發なされかねた、その低徊の情、去るに忍びぬ※[足+知]※[足+厨]の趣は、即ち思慕の情を間接に頗る強く映出せるものであり、一見平淡なやうで底に斷腸の響を藏する御作である。新京へは遠く故京へは近いこの長屋の原は、かうした悲劇には誠に恰當な舞臺であつた。
 尚思ふに、かく飛鳥を廣義に扱つて解したのは、題詞を正面から見てのことである。或はこれを普通の狹義に扱つても、或人の居る飛鳥は藤原の隣接地であるから、藤原の宮を出立して二里も來ての長屋の原あたりでは、飛鳥の里を置いて往くといつても差支は無いと思はれる。
 又異傳の「君があたりを見ずてかもあらむ」は、内容の事實に於て異なる所は無いが、歌としては拙である。かゝる場合かく能動的にいつたのでは、見るとか見えぬとかいふ作者の動作その物が主となり、君があたりといふ觀念が、まるで餘處事のやうに稀薄になつてしまひ、頗る不自然な表現となるのである。
 
(270)  或本、
從(り)2藤原(の)京1遷《うつりませる》2于|寧樂《ならの》宮(に)1時(の)歌
 
○或本 他の書式によれば或本(ノ)歌〔右△〕とあるべきである。萬葉集の他の一本に據つて、何時の頃か或人が補つたものと思はれる。正辭は、村上天皇の時かの梨壺でこの集を讀み解いた折、異本を校合して加へたものであらうと論じてゐる。○從藤原宮云云 天皇が藤原宮から奈良に遷都された時、或人の詠んだ歌で、古葉略類聚鈔ではこの題詞の下に小字で「作者未詳」とあり、眞淵は「時」の下姓名を脱せるかといつてゐる。○寧樂宮 元明天皇の和銅元年二月奈良に遷都を布告し、九月造平城宮司を置き、落成遷都せられたのは三年三月であつた。奈良を寧樂《ネイラク》と書くは好字を撰んで充てたもの。尚「ならのやま」を參照(八四頁)。
 
天皇乃《おほきみの》 御命畏美《みことかしこみ》 柔備爾之《にぎびににし》 家乎擇《いへをさかり》 隱國乃《こもりくの》 泊瀬乃川爾《はつせのかはに》 ※[舟+共]浮而《ふねうけて》 吾行河乃《わがゆくかはの》 川隈之《かはくまの》 八十阿不落《やそくまおちず》 萬段《よろづたび》 顧爲乍《かへりみしつつ》(271) 玉桙乃《たまぼこの》 道行晩《みちゆきくらし》 青丹吉《あをによし》 楢乃京師乃《ならのみやこの》 佐保川爾《さほがはに》 伊去至而《いゆきいたりて》 我宿《わがねぬる》 有衣乃上從《ありそのうへゆ》 朝月夜《あさづくよ》 清爾見者《さやにみゆれば》 栲乃穗爾《たへのほに》 夜之霜落《よるのしもふり》 磐床等《いはどこと》 川之永凝〔左△〕《かはのひこごり》 冷夜乎《さむきよを》 息言無久《やすむことなく》 通乍《かよひつつ》 作家爾《つくれるいへに》 千代二手《ちよまでに》 來座多公與《きまさむきみと》 吾毛通武《われもかよはむ》    79
 
〔釋〕 ○おほきみの 舊訓スメロギノ〔五字傍線〕又スベラギノ〔五字傍線〕とあるが、久老が「すめろぎとは遠組の天皇を申し奉るが本義で、皇祖より受繼ぎませる大御位につきては當代をも申すことがあるのを、後人が一つに心得て讀み誤つたもの」といひ、道麿、宣長もオホキミノと訓むべきを論じてゐるので、學者皆これに從つてゐる。○みことかしこみ 勅命を畏み承つて。○にぎびにしいへをさかり 平和な故郷の家を離れて。「和《ニギ》び」は荒びの反對で、融合調和する意にいふ。古義にニキビ〔三字傍線〕と清みて讀むべしとあるは例の拘泥。「家」は家庭の意。建物ではない。「さかり」は遠放《トホザカ》ること、離るゝこと。「擇」は字書に放也とあるからサカリと訓む。眞淵、千蔭はいふ、放〔右△〕の字を擇の略字なる択に書き誤りしものかと。春滿はいふ釋〔右△〕の誤と。訓もイヘヲモサカリ〔七字傍線〕(眞淵)イヘヲサカリテ〔七字傍線〕(御杖)イヘヲモオキテ〔七字傍線〕(春滿。眞淵一訓)イヘヲオキ〔五字傍線〕(雅澄)イヘヲステテ〔六字傍線〕(芳樹)などさま/”\である。(272)○こもりくの 泊瀬の枕詞。既出(一七六頁)。○はつせのかは 山邊郡並松村に發源し、初瀬の峽谷を過ぎ、三輪山の麓をめぐつて西北に向ひ、佐保川と合流して大和川となる。○ふねうけて 舟を浮べて。「※[舟+共」は小舟で高瀬舟のこと。○かはくま 川の灣曲した處。道の隈〔三字傍点〕の對語。○やそくまおちず 澤山ある曲り角ごとに洩れなく。「やそ」は多數を意義する。「おちず」は「ぬるよおちず」を見よ(四五頁)。○かへりみしつつ 振り返り/\して。○たまぼこの 道にかゝる枕詞。その意は(1)玉桙の身を道《ミチ》にいひかけたもの(冠辭考)、(2)古への桙は木製だから別に身と名づくべき物がない。玉桙は頭を圓くした桙で、玉桙の圓《マト》を道に通音でいひ寄せたもの(古義)、(3)昔の桙には引上げるに乳《チ》を附けたものだらう、玉桙の乳を御《ミ》の美稱を隔てゝ道《チ》にいひかたけもの(國號考)。など諸説まち/\で一定しない。以上の他更に一説を提供する。桙は柄が長いから、古へ道行く時、錫杖を突き立てるやうに、鉾を突き立てゝ歩いた故に、玉鉾の道と續けていふか。(2)の外は「玉」は美稱として解する。「桙」は漢字は鉾〔右△〕であるが、上古木鉾を多く用ゐたので、和字では木偏としたもので、古書にも本集にも、その例が多(273)い。○みちゆきくらし この「みち」は舟路。○あをによし 奈良にかゝる枕詞。既出(八三頁)。○ならのみやこ 普通奈良とのみ書くので、「楢」は借字の如く見られてゐる。「ならのやま」を參照(八四頁)。○さほがは 源を春日山の裏、鴬瀧の邊に發し、今の奈良市の北(古への佐保の郷)を西流して更に南に向ひ、古への平城京を貫流し、初瀬川を合せて末は大和川となる。故に舟行初瀬川を下つて合流點から佐保川を泝れば、平城京に着くのである。○いゆきいたりて 到着して。「い」は發語で殆ど意味なく、只語調を整へる爲である。い積もる〔四字傍点〕、い向ひ〔三字傍点〕、い群る〔三字傍点〕など例が多い。○わがねぬる 舊訓はワガネタル〔五字傍線〕。下の「ありその云々」を見よ。○ありそのうへゆ 荒磯の邊から。「ありそ」は荒磯《アライソ》の約で、こゝは川岸をいふ。芳樹の註疏に引いた上野常朝の説に「我宿有衣之上從とある有の字は下句につけて、ワガイネシアリソノウヘユ〔十二字傍線〕と訓むべし」と。今はこれに從つたが、イネシ〔三字傍点〕の過去はいかゞと思はれるので、ネヌルと現在法に訓んだ。眞淵は「衣」を床〔右△〕の誤としてトコノウヘヨリ〔七字傍線〕(274)と訓んだ。舊訓ワガネタルコロモノウヘユ〔十二字傍線〕は事理が通じない。○あさづくよ 朝方まである月をいふ。月を月夜といふ例は珍しくない。○さやにみゆれば あざやかに見えるので。眞淵の訓に從つた。舊訓はサヤカニミレバ〔七字傍線〕とある。これは上の「朝月夜」が序詞となる。○たへのほに 白布の色あざやかなる如くに。「たへ」は白布のこと。楮の繊維を取つて晒したのが木綿《ユフ》で、木綿で織つた布が即ち栲《タヘ》である。時に帛《キヌ》を含めてもいふ。「ほ」は秀《ホ》の義で、すべて物のそれとあらはれて見ゆること。「丹穗面《ニノホノオモワ》」(卷十)も同じ用例である。「に」は何々にそのまゝなる〔六字右○〕何といふを略して早くいつた語態。故にの如く〔三字傍点〕と譯する。「赤丹の穗に〔傍点〕聞しめす」(祈年祭祝詞)「秋津羽に〔傍点〕句へる衣」(卷十)「白木綿花に〔傍点〕波立渡る」(卷十三)などのに〔傍点〕に同じい。○よるのしもふり 正辭いふ「夜のほどに降れる霜を朝に見ていへるなり」と。○いはどこと 磐床のやうに。磐床は磐石の平かな處の稱。古義に磐を以て臥具の床に作れるをいふと解したのは鑿も甚しい。「と」はの如く〔三字傍点〕の意の辭。○かはのひこごり 「ひ」は氷の古名。「こごり」は凝り固まること。舊訓はコリテ〔三字傍線〕。古義はコホリ〔三字傍線〕と訓んで、「佐保川にこほり渡れる薄氷の」(卷二十)を例に引いた。假令こほり〔三字傍線〕の語があつたからとて、「凝」をわざ/\さう訓む必要はない。「凝」は原本に疑〔右△〕とあるが、古葉略類聚鈔、神田本その他に據つて改めた。○さむきよを 舊訓サユルヨヲ〔五字傍線〕とあり、意は通ずるが「冷」をさう訓んだ例はない。眞淵の訓に從ふ。○やすむことなく 缺勤することなく。息ふ意ではない。○かよひつつつくれるいへに 舊都から新京に絶えず通ひ/\して、やつと作り上げた家にの意。○ちよまでに いつまでも/\。「二手」をマデと訓むは意訓。「いくよまで」を參照(一三九頁)。○きまさむきみと 眞淵は「來」は爾〔右△〕の誤で上の句の末につくニ〔傍線〕であり、「多」は牟〔右△〕の誤で、この句はイマサムキミト〔七字傍線〕と訓むべしといひ、御杖は只「多」を牟〔右△〕の誤としてキマサムキミト〔七字傍線〕と訓んだ。極めて難讀難(275)解の句であるが、今姑く御杖説に從ふ。いづれにしてもこの家は作者自身の住宅ではなく、主人筋か尊長の爲にした家作りと解せられる。○われもかよはむ 私も舊都から折々通つて來て奉仕致しませう。
【歌意】 天子樣の勅命を畏み奉り、平和であつた藤原京の家から群れ、初瀬川に舟を浮べて漕いでゆくが、その川の澤山の曲り角ごとに必ず、幾度も/\振返り/\して故郷の方を見やり、かくて舟路の途中に日を暮し、新京奈良の地を流れる佐保川まで行き着いて、自分の寢てゐる荒磯の邊から、明方の月のさやかな光に見ると、まるで白布のあざやかなやうに、前夜からの霜がそこら一面に降つて居り、川岸の氷は平磐のやうに凝結して誠に寒い。かういふ寒い夜をも厭はず度々通ひ、丹精してあなた樣の爲に造つたこの新京の家に、千代八千代までも來てはお住みになるあなた樣故、私も舊郡から〔四字右○〕通うてお仕へ申しませう。
 
 
〔評〕 「天皇の御命」とは何をさしたものか。遷都の詔勅の如き一般的のものでは決してなく、
  晝見れどあかぬ田子の浦大きみの御こと畏みよる見つるかも(卷三、田口益人―297)
とある類の大君の御命で、官吏として奉ずる上命をさすのである。「にぎびにし家」は大いに有意味の語で、平和な暖い家庭を斥す。それでも公命には是非なく、屡ば留守にしなければならぬ。「八十阿落ちず、よろづたび顧みしつつ」と、藤原京を囘顧瞻望する所以はそこにある。尤も長時間の舟中は無聊極まるから、愈よわが家戀しさの念がふんだんに湧きもするだらう。「泊瀬の川に船うけて、吾がゆく川の川隈の」と「川」の語の三復「隈」の語の再復は、如何にもゆくら/\と屈曲の多い川筋にこだはつて行く川舟氣分がよく出てゐる。
 奈良遷都は春の三月、頗る陽氣のいゝ時であつたから、その以前において諸王諸臣も家地を相し、邸宅を造(276)るとすると、丁度前年の冬から懸けて建築は眞最中と見なければならぬ。
 藤原京から奈良、一口に奈良といつても、その時代の奈良は規模廣大で、北は佐保から西大寺の一線、南は辰の市村九條から郡山までの一線に劃られ、南北の距離約一里十町許に亙るが、その間を佐保川は東北から西南へと貫流してゐる。藤原から奈良までは直徑がざつと五里半、あるけば一日仕事だが、草臥れては明日の役に立たない。そこで甚だ迂遠ながら川舟利用の策を取つたものらしい。丁度今の人が寢臺車で出掛けて翌日用足しをするのと同格である。
 藤原から初瀬河畔の金谷邊へ出るこれが一里、乘船して川を下ること約五里で、佐保川との會湊點に着く。佐保川に入つてからは、棹を捨てゝ綱を付けての曳舟と早變り、もそろ/\と流に溯るのである。奈良の家の建築場はどの邊であつたか不明であるが、成たけ皇居に近い場處と假定して、舟着場まで約四里。合計九里の道程である。
 時季が冬だから、朝八時に家を立つたとして、初瀬川の乘船が九時見當、流に隨つて下るのだから割合に早いと見てもまづ四時間で、午後一時には川合に着く。さて休息が半時間、それから佐保川に溯ること四時間と假定すると、夕刻五六時の間に目的地に到着する。五時といへば冬はもう眞闇である。で泊るとなると、舟中か岸邊の假屋か、これが自然問題になつてくる。
 一日中寒い川風に吹かれ拔いた擧句、栲の樣に霜がふり磐床に氷が張る夜を、千鳥鳴く川原のしかもそんな小舟――餘程小さい舟でなければ佐保川など上れない――の中に明かされたものだらうか。それが一時的の試煉などではない。何遍も/\建築中に泊るのである。いはずと知れた事、これは岸邊の某家御用の札位打つた(277)假小屋に一泊するのであらう。然しその岸邊は川の荒磯に接續してゐるのだから、「わが寢ぬる荒磯」の誇張には決して無理がない。自然である。さうした寒夜を獨寢の床に呻吟する現實は、上の「にぎびにし家を離りて」に遙に呼應して、その勞苦を一層深刻ならしめる。「朝月夜さやに見ゆれば」は、川を前にして殘月に對した光景を想はせる。
 「通ひつつ」は最も大事な句である。初頭「天皇の」より「寒き夜を」までは、只一日一夜の經過を縷説したもの、それだけでも隨分苦難には相違ないが、更にそれを初冬から嚴寒餘寒をかけて、息むことなく通ひつゝ反復連續するに至つてはどうか。頗る慘憺を極めたものではあるまいか。
 かくの如く自分の勞苦を極力強調した目的は、その「作れる家」に重きを歸して價値づける爲で、それは見事な成功であつた。工事監督者としての立場ではおのづからかくもあるべきだ。
 「千代までに來まさむ公」に新築の賀意が兼ね表はされてある。「來まさむ」はその新邸が本宅でない事を反證する。さてはこの主人公は遷都の後も藤原の舊京にとゞまつて、只公用その他の折節だけに奈良に上京、新邸に宿泊する計畫のものであつたらしい。後代から見れば、藤原だらうが奈良だらうが何の頓着もないから、億劫な事をしたものと腑に落ちまいが、當時においては無理のない咄で、舊を戀うて新に趨りかねる、そこに人情の篤さが見える。丁度明治維新の際に、堂上の諸家が多く舊京に留まつてゐたと同じ心理である。方丈記の福原遷都の條に、
  世に仕ふる程の人誰か一人故里に殘りをらん。官位に思をかけ、主君の蔭を頼む程の人は、一日なりとも疾く移ろはんと勵みあへり。時を失ひ世に餘されて期《ゴ》する處なきものは、愁へながらとまりをれり。
(278) 何時の世だつて事情にさう大した變りはない。この主人公は、政務などには關係なしの閑散な境遇の人と想はれる。然し上命によつて新邸建築の工事監督が付く位だから、某親王家といふ程度の御身分であらせられるお方であらう。
 茲に至つて作者の身柄を闡明する必要がおこる。といふのは「われも通はむ」の一語の解決がつかないからである。從來諸註家のいふやうに造平城宮司の役人だとすると、何も出來上がつた後まで、その新邸に通ふ必要もない。又上長官なら知らず下役人などは、執務上一番掛けに新京に移居して、往復の勞を省くのが當り前で、舊京から通勤するのは事情に適はぬ。
 そこでこの作者は某親王家の上家司《カミケイシ》、今なら某宮家の別當といふ地位の人と見たい。上命によつて奈良の新京に御新邸の工事を起し、その監督を承つてはゐるものゝ、親王家の常の御用はこれ亦缺かす譯には往かぬ。止むを得ず、藤原奈良の新舊兩京間を懸持で奔走したものと見られる。主人公が何時までも藤原舊京に永住、奈良の新邸には折々御出勤の御豫定だから、自分も扈從して永久に往來奉仕しようとの宣言であらう。
 初頭より「作れる家に」までは一意到底、章段を分つべくもない。末尾一轉語を下して、新邸の落成を慶し主公の將來を賀し、序に自己をもその慶賀の雰圍氣内に浸らしめた。
 
反歌
 
青丹吉《あをによし》 寧樂乃家爾者《ならのいへには》 萬代爾《よろづよに》 吾母將通《われもかよはむ》 忘跡思勿《わするとおもふな》    80
 
(279)〔釋〕 ○あをによしなら 既出(八三頁)。○わすると この「忘る」は強い使ひ方で、見棄てる、見限るなどの意と聞える。
【歌意】 この奈良の屋敷には、永久に主公ばかりか私も通つて來ませう。假令途絶えがあつたとしても、何も見限つたと決して思ひなさるなよ。
 
〔評〕 長歌の末節を抄して、更に「忘るとおもふな」の一轉語を下した。既に「家には」とあるから、この警告は或はその「家」に對してなされたとも見られるが、實はこの新邸に住む留守居の人達に、必ず豫期せらるべき徒然に對する慰安の詞であらう。一體に語調にやわらか味があつて流滑である。流石に職分柄氣分の練れ切つた、温厚な能吏といつた調子の作者の人柄の反映であらう。
 
和銅五年王子夏四月、遣(さるゝ)2長田《ながたの》王(を)于伊勢(の)齊宮《いつきのみやに》1時、山(の)邊(の)御井(にて)作歌
 
和銅五年四月長田王を伊勢の齋宮に勅使として立てられた時、山邊の御井で詠まれた歌との意。○長田王 天武天皇の皇孫で、前に出た長皇子の御子である。和銅四年四月に從五位上より正五位下、荐に累進して衛門督、攝津大夫となり、天平九年六月正四位下にて卒した。○伊勢齋宮 未婚の内親王で伊勢神宮に奉仕される御方の御所をいひ、又その内親王をも申し上げる。伊勢の齋宮御所は渡會の竹田に在つた。「齊」は、齋〔右△〕の通用で誤ではない。○山邊御井 卷十三には「山邊の五十師の御井」とある。尚歌の解を見よ。 
(280)山邊乃《やまのべの》 御井乎見我※[氏/一]利《みゐをみがてり》 神風乃《かむかぜの》 伊勢處女等《いせをとめども》 相見鶴鴨《あひみつるかも》    81
 
〔釋〕 ○やまのべのみゐ 伊勢國川曲郡(今安藝郡)山邊《ヤマベ》村大井神社(式内)の岡の北麓に、流さ四間ほどの丸井戸がある。大井の稱もこれに本づいたものか。こゝから西に亘つた上方の原野が五十師《イシ》の原である。但こゝはその周圍の總括的地名として用ゐられ、御井その物には關係がない。山田氏の壹志郡新家村説は採らない。古義は山邊《ヤマベ》の村名によつてヤマヘノ〔四字傍線〕と四音に而も清んで訓んでゐるが、川邊を川の邊、池邊を池の邊など常に通用してゐる上に、邊を清むなどは拘泥も亦甚しい。○みがてり 見がてら〔四字傍点〕に同じい。「り」と「ら」とは通音。○かむかぜの 伊勢の枕詞。神武紀にも帝の御製に「神風の伊勢の海の大石にや云々」とある。守部いふ「大御歌にかく詠ませ給ふからは神代より由縁ありけらし。仙覺抄に引ける風土記に、伊勢國者云々、有(リ)v神曰(フ)2伊勢津彦(ト)1云々とて、その神天(ノ)日別(ノ)命の爲に大風を起せる事見え、又倭姫世記に、(281)豐蘆原瑞穗國之|内仁《ウチニ》、伊勢加佐波夜國波《イセカザハヤノクニハ》云々と見え、その國に風神鎭り座して靈驗あらたなり。この故に神風の伊勢と續くる也」と。まづこの説に從つておかう。又眞淵は「神風の息《イキ》といふべきを略きて、伊《イ》の一語にいひ懸けたり。風は神の御息なること神代紀に見ゆ」といつてゐる。古義の説は事々しくて牽強である。○いせをとめ 伊勢の國の少女。かく地名から續けて何々少女と呼ぶは、當時の語法で、集中に、菟原處女《ウナヒヲトメ》、泊瀬處女《ハツセヲトメ》などもあり、又|飛鳥壯《アスカヲトコ》、泊瀬女《ハツセメ》などの語も見える。○ども どもに〔右○〕の意。○つるかも 「鶴鴨」は戲書である。
【歌意】 景色のよい山邊の御井を見がてら、はからずも可愛い伊勢少女達に出合つたことよなあ。
 
〔評〕 卷十三の長歌「山邊の五十師《イシ》の原に内日刺す大宮仕へ云々」の反歌に
  山邊の五十師《イシ》の御井はおのづから成れる錦を張れる山かも(―3235)
とある。この反歌の御井は地名として見なければ解釋しにくい。想ふにもと神の御井の名から起つて、遂に五十一師《イシ》の原全部にまで廣被する地名となつたものと斷ずる。
 五十師の原は長歌(卷十三)の趣によれば、其處に行宮があつたらしく、それは季節柄、持統上皇の大寶二年十月の參河行幸の途次の御駐輦と察せられる。この地は南に鈴鹿川を控へ、東は遙に伊勢灣を望み、西は遠く鈴鹿山脈近く錨嶽の連峰に對する廣い丘陵地で、當時と雖も形勝を以て聞えたものだらう。
(282) 長田王は今齋宮行の序、わざとの寄路で、此處に先帝の遺蹟を偲び、又その風光を耽賞し、十分にその平素の渇望を醫せられた。况やそこには意外のお景物、即ち美しい伊勢處女等の出現まであつた。國司の指圖か郡司の氣轉かは知らぬが、皇子※[疑の左+欠]待の爲であつたらう。王はやつと去年正五位下に叙せられたばかりの若いお方である。定めて殊更に驚異の目を見張つて、この可憐の處女達を眺められたであらうことは、容易に想像される。王は後年も歌垣の頭となつて風流を盡したほどの才人である。
 「御井を見がてり」と、肝腎の公用を私的の伊勢處女等の邂逅と、殆ど同程度に扱つたことは、即ち伊勢處女等の邂逅を頗る有意味に映出させるもので、そこにこの邂逅に對しての作者の一段の歡喜と一層の逸興とが活躍するのである。
 
    ○
 
浦佐夫流《うらさぶる》 情佐麻禰之《こころさまねし》 久堅乃《ひさかたの》 天之四具禮能《あめのしぐれの》 流相見者《ながらふみれば》    82
 
〔釋〕 ○うらさぶる 上に「ささ波の國津御神のうらさびて」とある「うらさび」と同語で、何となく心慰まずさびしく思はるゝ意(一三七頁參照)。「うら」は心の裏《ウチ》をいふ。○さまねし 「さ」は接頭語、「まねし」は間無《マナ》し、の義から、遍し、繁しの意に轉つた。こゝは繁しの意。「禰」は原本に彌〔右△〕とある。ではサマミシと訓まれて意が通じないので、契沖の説によつて改めた。○ひさかたの 天に係る枕詞で、轉じてあらゆる天象の物にも冠す(283)るに至つた。その意義については、(1)「久堅」の義で、日本開闢説の天まづ固まつて形を成したによる(古説)。(2)「久方」の義で、同じ開闢説によつて天が地よりも舊き方の意とする(同上)。(3)「久方」で遠方のの義とする。(千引)(4)※[誇の旁+包]形《ヒサゴガタ》」の略で、天は圓形に見えて恰も※[誇の旁+包]の圓いのに似てゐるから(冠辭)。(5)「日放《ヒサ》す方」の略で、日光のさす方とする(久老)。(6)「提《ヒサ》げ勝間《カタマ》」の略で、提《ヒサ》げる勝間《カタマ》即ち籠の意から、その「編目《アミメ》」を類似音の天《アメ》にいひ懸ける(古義)。その他尚諸説あるが、(3)及び(5)の説が比較的簡明で自然と思はれる。(6)の説の如きは餘に牽強で問題にならない。○あめのしぐれ 空より降り來る時雨の意。時雨は晩秋から初冬にかけて降る雨の稱。○ながらふ 流る〔二字傍点〕の延言で但「流らふ」は流るゝ動作が繼續的に時間をもつことになる。すべて動詞の語尾の延言となつたものは皆さうである。さて「時雨の流らふ」とは、時雨の絶えず降ること。古へは雨雪の類の降るのを流る〔二字傍点〕といつたことは「小松がうれゆ沫雪流る」(卷十)の例によつても分る。古義には、「後世は水にのみいへど、古へは竪にも横にも長く續くことは流るといへり」といつてゐる。まことに「春霞流るゝなべに」(卷十)などの例もある。さて「流らふ見れば」は流らふ〔右○〕を見ればで、連體言の下のを〔右○〕の助辭の略かれた格。「相」は借字。
【歌意】 つめたい時雨が蕭々と絶えず降りそゝいで來るのを見てゐると、何となく寂しい慰み難い心持が、ひしひしと胸に湧いて來ることだわい。
 
〔評〕 この歌も次の歌も御井の歌ではないから、上の題詞を係けて見るべきではないが、この歌の方はやはり長皇子の伊勢旅行中の作として解けぬこともない。然し次の歌が全く關係無いもののやうに思はれる點から推す(284)と、これも長皇子の作でなく、或人の或時の作と見るが穩かであらう。
 さて何等の背景もなしにこの歌を見ると、その内容は平安朝歌人の作と大差は無い。その高古らしく聞えるのは、全く五七調の成立であることと、結句が四三音の組織で、反倒の叙法であることと、用語が古僻で、「うらさぶる」「さまねし」「あめのしぐれ」「しぐれの流らふ」など、時代色が極めて鮮明なことなどに依るのである。まづ銅鐵器や陶器などに現はれる古雅な味に似たものといへよう。
 
海底《わたのそこ》 奥津白浪《おきつしらなみ》 立田山《たつたやま》 何時鹿越奈武《いつかこえなむ》 妹之當見武《いもがあたりみむ》    83
 
〔釋〕 ○わたのそこ 海の彼方。奥《オキ》にかゝる枕詞。卷五にも「和多能曾許《ワタノソコ》おきつ深江」と續けてある。抑も「そこ」は退《ソキ》の轉語であらう。退《ソキ》は物の遠放るをいひ、又その極みをいふ。「山のそき野《ヌ》のそき」(卷六)「根の國そきの國」(牛祭の文)のそき〔二字傍点〕は皆遠放る極みの意である。されば「そこ」は縱の空間の場合には底の意となりもするが、こゝでは「底」の字は借用と見るべきである。古義引用の宮地氏説は學的根據がない。○おきつしらなみ 立田山の「立つ」にかゝる序詞である。「つ」はの〔傍点〕に同じく領格の助辭。○たつたやま 大和國平群郡。山は河内との國境にあり、大和川の龜の瀬の北岸に當る。平城京から河内攝津以西の國々へ通ずる要路に當つてゐたので、古へは關が置かれてあつた。峠村はその故地であらう。○いつかこえなむ 何時まあ越えて往かれようか。「な」は完了の助動詞ぬ〔傍点〕の第一變化、「む」は未來推量の助動詞。○あたり 「當」は借字。
(285)〔歌意〕 あゝ懷かしい故郷への通路にあるあの立田山を、いつ頃越えて往かれるのであらうか。あの山の上から、わが愛妻の住むあたりを早く見ようものを。
 
〔評〕 初二句は序詞である。然し立田山に對して、「海の底沖つ白浪」は、「立つ」の秀句でこそあれ、實質上からは餘りに縁が遠い。この歌から胚胎した例の伊勢物語及び古今集の
  風ふけば沖つ白波立田山よはにや君がひとり越ゆらむ
の一解に、「沖つ白波」を後漢書の白波緑林の故事に據つて、盗人の出ることとしたのは、古來の笑柄にはなつてゐるが、さうした附會談の起るといふも、畢竟この序詞が立田山に實質的交渉が薄くて、寧ろ突飛に感ぜられる所以に歸せねばならぬ。
 茲に於て自分は一説を立てたい。それは西國航路から久々で大和の京に歸つて來る或旅人の船中作と見るのである。船が明石海峽を通過すると、まづ戀しい故郷の生駒葛城の連山が目に入る。人麻呂が、
  あまさかる鄙の長路《ナガヂ》ゆこひ來れば明石の門《ト》より倭島《ヤマトジマ》見ゆ (卷三―255)
(286)と歌つたのは即ちそれで、更に茅渟《チヌ》の海に入ると觀察も思索も一層精細となつて、まづその倭島の一部たる立田山に想到する。この山は難波の津から大和の京への通路に當る唯一の峠で、そこに立てば、大和平原の中央部から飛鳥地方も奈良地方も一望の下にあり、作者の愛妻の住む家も無論指顧の間にある筈である。かうした印象深い立田山なので、今作者は眼前舷頭に起伏する沖つ白波を序詞として、それに呼び懸けたのである。
 かくの如く「海の底沖つ白波」が海路の即興であるとすれば、山と白波との對比も何の不自然もなく、「立田山いつか越えなむ」といひ、更に「妹があたり見む」とうち出した漸層の辭樣は、抑へ難い郷愁と旅情とを、つゝましやかに遠慮勝に歌つたものであることが領かれよう。長の旅路に何の他念なく、ひたすら故郷の愛妻の上ばかりを思念し來つた趣が、いかにも力強く動いて面白い。
 
右二首、今案(ズルニ)不v似2御井(ニテ)所1v作《ヨメル》。若(シ)疑(ラクハ)當時|誦《クチズサミタマヒシ》之古歌歟。
 
 如何にもこの左註の如く、上掲二首は山邊御井での御作とは思はれないが、然し當時長田王の口誦された古歌かといふこの推測は餘に根據がない。これは全く他に題詞のあつたのが、傳寫の際に書き落されたものに相違ない。すると作者も果して長田王かどうか、疑問の餘地が生ずることになる。
 
(287)寧樂《ならの》宮
 
長(の)皇子《みこ》與《と》2志貴皇子《しきのみこと》1於2佐紀《さきの》宮(に)1倶宴《うたげしたまふ》歌
 
寧樂宮 この三字は目録にも此處にも題詞の上に冠してあるが、下の文と續かぬので誤であることは著しい。削るべきである。但卷二の卷尾の書式に例を採れば、この三字は別行として存してもよいやうであるが、それにしても上掲「和銅五年壬子云々」とある前に、一行として挿入すべきで、此處に入るべき理由はない。
 
○長皇子 既出(二二七頁)。○志貴皇子、天智天皇の皇子、光仁天皇の御父。長皇子とは從兄弟の御仲である。既出(二〇〇頁)。○佐紀宮 大和國生駒郡佐紀村高野にあつた長皇子の御邸。○うたげ 饗宴。打上《ウチアゲ》の約で、酒宴の折には樂んで手を拍ち上げるから出た語といふ。
 
秋去者《あきさらば》 今毛見如《いまもみるごと》 妻戀爾《つまごひに》 鹿將嶋山曾《かなかむやまぞ》 高野原之宇倍《たかぬはらのうへ》    84
 
〔釋〕 ○あきさらば 秋にならばの意。「さらば」はシアラバ〔四字傍点〕の約と舊説ではいふが、これは「去る」といふ動詞の活用と見るべきである。「春さりくれば」の條を參照(七九頁)。○いまもみるごと 今眼前に見てゐる通りの意。「も」は歎辭。「ごと」は如くの意。この語はかく語根のみを以て中止形に用ゐるのが古語の常であつた。終止に用ゐるは誤。○つまごひ 牝《メ》を戀ふること。○かなかむやまぞ 鹿の鳴くべき山なる〔二字右○〕ぞの意。「か」は鹿をいふ。(288)この語は場合によつてカともシカともいふが、本集の用字例では、シカと訓むべき場合は勝牡鹿乃《カツシカノ》、小牡鹿乃角乃《ヲシカノツヌノ》、棹牡鹿鳴母《サヲシカナクモ》、妻呼雄鹿之《ツマヨブシカノ》、住云男鹿之《スムチフシカノ》など書くが普通で、稀には例外もあるが、單獨に用ゐた「鹿」の字は多くはカと訓んでゐるから、こゝもそれに從ふがよい。○たかぬはらのうへ 高野原は佐紀村の内なる高野山の原野をいふ。西方の一端に孝謙天皇の御陵があり、高野(ノ)山陵と稱する。「高野」は高原の義である。この高野山は「春日なる三笠の山に月も出でぬかも佐貴《サキ》山に咲ける櫻の花の見ゆべく」(卷十)とある佐貴山と同處である。「うへ」はあたり、ほとりなどの意。上下の上ではない。
【歌意】 追つ付け秋になりませうならば、只今まあ見えます通りに姿を見せて〔五字右○〕、妻戀して鹿が鳴きます山ですよ、この高野原のあたりはさ。何と面白い處ではございませんか。
 
〔評〕 高野山は奈良の京の北境を劃つてゐる奈良山の西に特立し、南になだれて京の一條北路に續てゐる。その(289)奥は北へ延びて深い森林であつたらしい。鹿は今も春日神社には飼養されてゐて、奈良情調を味はせてくれるものゝ最たるものであるが、往古は奈良の京の周圍の山野には、野生のが澤山棲んでゐたものである。
 佐紀の宮はこの高野山の一角形勝の地を卜して建てた御別莊と思はれる。主人長皇子と客人の志貴皇子とが對酌して、山地の風光を賞美してゐると、愛らしげな姿の鹿が林木の間を逍遙してゐる。これに愈よ興趣をそゝられて、主人の皇子は透かさず、「どうです、秋は秋であの鹿は鳴きませうぜ、私の處では」と自慢かた/”\、「ですからこの秋は聽きにお出下さい」と、暗に客人の皇子に再遊を促したその即興の面白さ、主人の皇子の誇りがな樣子が彷彿として眼前に浮んで來る。この歌の製作時季は「秋さらば」の句意によつて考察すると、夏もむしろ秋近い夏であらう。隨つてこの山莊の會合が納涼の宴であつたかも知れない。
 鹿の妻戀して鳴くのは秋の半ばからである。然るにこの歌を直譯的に解すると夏鹿が鳴くやうにも聞え、辻褄が合はぬ。故に二句の下に姿を見せて〔五字右○〕とか、來て〔二字右○〕とかいふ語を補足して詞意を完了せしめる。實詠には眼前の事相に多くを讓つて、さう絮説せぬ場合がある。これもその儔である。
 序にいふ。文武紀慶雲三年の詔に、
  頃者王公諸臣、多(ク)占(メ)2山澤(ヲ)1、不v事(トセ)2耕種(ヲ)1、競(ウテ)懷(ヒ)2貪婪(ヲ)1、空(ク)妨(ゲ)2地利(ヲ)1、若(シ)有(レバ)d百姓(ノ)採(ル)2柴草(ヲ)1者u、仍(チ)奪(ヒ)2其器(ヲ)1、令(ム)2大(ニ)辛苦(セ)1、加以被(ルコト)v賜(ハ)v地(ヲ)實(ニ)有(レバ)2一二畝1、由(テ)v是(ニ)踰(エ)v峰(ヲ)跨(リ)v谷(ニ)浪(ニ)爲(ル)2境界(ヲ)1、自今以後不(レ)v得2更(ニ)然(ルコトヲ)1。
(290) 又元明紀(續紀)和銅四年十二月の詔に、
  親王以下及(ビ)豪強之家、多(ク)占(メ)2山野(ヲ)1妨(グ)1百姓(ノ)業(ヲ)1、自今以來嚴(カニ)加(ヘヨ)2禁斷(ヲ)1。
と仰せ出さられてある。長皇子の佐紀宮も、多分高野原深く侵入して地利を占めた宏壯なものだつたらう。
 
右一首、長《ナガノ》皇子
 
 この書式は、次に志貴皇子の御答歌のあつたことを推測させる。又實際的事情から想像して見ても、志貴皇子ほどの練達堪能を以てして、かゝる場合御答歌の無い筈は無さゝうだ。恐らく書き落されたものであらう。もしそれがあつたら、一層興趣を増したらうに。
 
                2005年1月3日、午後1時50分、入力終了。
                2007年10月20日(日)午後12時55分、校正終了
 
(二九一頁より二九六頁マデ目録、省略)
 
(297) 萬葉集卷二
 
    相聞
 
○相聞 サウモンと音讀しておく。眞淵はアヒギコエ〔五字傍線〕、士清はアヒギキ〔四字傍線〕、古義はシタシミウタ〔六字傍線〕と訓んだが、或は私意に過ぎ、或はわざとらしい。宣長は「強ひて訓まばコヒ〔二字傍線〕とあるべし」といつた。○この部に收めた歌を見ると、普通の戀歌の外に、親子兄弟朋友の相思の情や存問の意を歌つたのもある。さればこの相聞は廣義の戀の意に使用されてゐる。語は文選卷九の曹植が呉季重に與へた書に「適(マ)對(シテ)2嘉賓(ニ)1口授不v悉(サ)、往來數(バ)相聞〔二字傍点〕(フ)」とある註に、「聞(ハ)問(フ)也」とあるから、相聞はもと相問ふの義である。 
難波高津宮御宇天皇代《なにはのたかつのみやにあめのしたしろしめししすめらみことのみよ》  大鷦鷯《オホサヽキノ》天皇
 
○難波 今の大阪地方の舊稱。高津(ノ)宮の所在地は今の安國寺阪の北に當る。その邊まで古へは海で、切岸になつた船着場であつたから、高津の名があつた。この宮で天下を知し召したのは仁徳天皇であらせられる。こゝにはその御代の歌を收めた。○大鷦鷯天皇 仁徳天皇の御諱である。
 
(298)盤姫《いはのひめの》皇后(の)思《しぬびたまひて》2天皇(を)1御作歌《よみませるみうた》四首
 
盤姫皇后が仁徳天皇をお慕ひなされて詠まれた御歌との意。○盤姫 葛城襲津彦《カツラキノソツヒコ》の女で、仁徳天皇の妃にましました。「盤姫皇后」の書式に就いて、皇后には御名を顯はして書く例が無いから、盤姫の二字を省くが至當であるといひ、又當時は皇族以外から皇后の立つ例が無いのに、臣下の女たる盤姫をこゝに皇后と書いたのは、履中、反正、允恭三帝の御生母であらせられた處から、後に追尊した書紀の書例に隨つたもので、便宜上折衷した書法だらうともいふ。紀には磐|之媛《ノヒメ》、記には石之日賣《イハノヒメ》とある。「盤」は磐の通用字。
 
君之行《きみがゆき》 氣長成奴《けながくなりぬ》 山多都禰《やまたづね》 迎加將行《むかへかゆか》 待爾可將待《まちにかまたむ》    85
 
〔釋〕 ○きみがゆき 君の行幸。「ゆき」は行くの居體言。○けながく 月日久しくの意。「け」は來經《キヘ》の約で、月日の程經るをいふ。これは宣長説。○やまたづね 山路を尋ねての意。○むかへかゆかむ 迎へに往かうかの意。「むかへ」の下、に〔右○〕の助詞が下の「まちにか」のに〔傍点〕に讓つて略かれてゐる。○まちにかまたむ ただ此處にゐて待ちに待たうかの意。
【歌意】 背の君の行幸は、もう大分月日久しくなつた。いつそあの山路を尋ねてお迎へに往かうか、それとも此處にじつとしてゐて、只御還幸を待ちに待たうか。どうも待つてばかりは居られぬ程戀しいわ。
 
(299)〔評〕 盤姫の命の御存生中、天皇の餘所に久しく行幸遊ばされたことは史に見えない。のみならず、この歌は下に衣通《ソトホシノ》王の歌として出てゐる。
  君がゆきけ長くなりぬ山たづの迎へを往かむ待つには待たじ   (古事記、允恭記)
の異傳であることは明かである。然し萬葉としてはこちらが本文であるから、こゝで評語を下すことゝする。
 初二句は君の歸來を既に待ちに待つて、待ちあぐんだ歎の聲である。もうとゞの詰りまで押詰めて待ち切れない場合にあることが想像される。遂にその隱忍は破裂したといつても、愛想をつかすのでない。どこまでも作者は貞實である。貞實だけに餘計に戀の試煉は切ない。この際唯一の策としては只「迎へか往かむ」である。向うから來なければこちらから往くより外はないではないか。然しそこに世間がある。御身分柄といひ女性といひ、さう容易くは往かれぬといふ事實の存在を、理性が心の隅で※[口+耳]いてゐる。で又あと戻をして「待ちにか待たむ」となる。何時まで經つても首鼠兩端で、どう/\廻りをして果てしがつかない。なまじ理性のある者は却つてつらい。苦悩煩悶の問題が課し放しにされてゐる態《カタチ》では、餘に慘酷である。殊に作者は古事記の所傳によれば、御性格が可なり我儘な嫉妬の強いお方と思はれるから、これらの苦患は人一倍甚しくあらせられたと見て、違ひあるまい。
 三句「山尋ね」は語を成さない。必ず評語中に掲出の歌の如く「山たづの」の枕詞が置かれてあつたものだらう。
 
(300)右一首(ノ)歌、山上(ノ)憶良(ノ)臣《オミノ》類聚歌林(ニ)載(ス)v焉(ヲ)。
 
 憶良及び類聚歌林のことは既出(四六頁、二三四頁)。
 
如此許《かくばかり》 戀乍不有者《こひつつあらずは》 高山之《たかやまの》 磐根四卷手《いはねしまきて》 死奈麻思物乎《しなましものを》    86
 
〔釋〕 ○こひつつあらずは 戀ひつつあらむよりはの意。古代文法で、集中他にも澤山用例がある。○いはねしまきて 岩根を枕にして寢て。「いは」は石《イシ》の意で、「ね」は輕い接尾語。「し」は強辭。「まく」は枕す〔二字傍点〕の意の古言で、加行四段活用の動詞の卷く〔二字傍点〕と同語。「四」は借字。
【歌意】 このやうにまあ戀ひどほしに苦まうよりは、いつそのこと、高山の岩を枕にして死なうものをさ、それが又さうもなりかねて、尚更苦しいことよ。
 
〔評〕 凡そ生きとし生けるものに取つて、生の價値は絶對である。然るに戀の苦悩を遁れ得るならば、その生をすら犠牲にしようといふのは、これ熱愛の極ふら/\と魔がさしたやうなもので、一切の理智を飛び超えてゐるのである。「高山の岩根し枕きて」は後にも、
  鴨山の岩根しまけるわれをかも知らにと妹が待ちつつあらむ  (卷二、人麿―223)
とあつて、死者の山郊に葬られた状態である。この意味に於ける巖穴の語は支那にも見えるが、大和人の觀念から出たこの「高山」は、現代人の考へてゐるやうな雄峯峻嶺では勿論ない。大和地方に散布してゐる陵墓を(301)見れば忽ち解ることで、大抵が皆丘陵か小山である。がこゝは殊に誇張の必要から、「高」の一語を形容に點じたものである。畢竟四句は「死なまし」の修飾には違ひないが、家にゐて徒らに戀の煉獄に責め苛まれようよりは、あくがれ出て磐が根枕に死んだがましといふ相對的の意味が生じてゐる。されば「高山の磐根」の誇張によつて死の深刻さが強調されてくるので、それでも尚死を擇びたいとの絶叫には、その戀心が愈よ強く反撥されるのである。「死なましものを」の抑揚の辭樣も深い餘情を傳へる。戀の苦患は死にたい程切ないが、思ふ君はまた見棄て難い。こゝに大いなる矛盾があり撞着がある。この矛盾撞着が基調となつて、頗る高い強い奔放な愛の響を傳へてゐる。切迫した内容に相應して辭句に寸毫の弛緩もなく、深く讀者の胸に喰ひ入るのは、抑へ難い實感の迸出なるが故である。
 
在管裳《ありつつも》 君乎者將待《きみをばまたむ》 打靡《うちなびく》 吾黒髪爾《あがくろかみに》 霜乃置萬代日《しものおくまでに》    87
 
〔釋〕 ○ありつつも 在り/\てまあ。いつまでも存在するをいふ。「管」は借字。○うちなびく 女の髪の長いさまを形容していふ。○しものおく 次第に白髪になりゆくを譬へていふ。こゝでは實際の霜と見るのはわるい。「代」はその漢音テイをテの假字に借り、「日」はその次音ニチをニの假字に借りた。「萬代」は戲書。
【歌意】 いつまでも生き永らへて、私は君のお出をお待ち申しませう。長い美しいこの黒髪が、次第に白髪になつてゆく時分までも、じつと辛抱いたしましてさ。
 
(302)〔評〕 白髪の生えるのを色相上の聯想から「霜のおく」と轉義したことは、漢詩に於ける「霜鬢」の語と同趣である。「打靡く黒髪」の語には、若々しい瑞々しい髪の樣子がよく描き出されてゐる。その美しい黒髪の次第に白髪に變ずるまでには、可なりの歳月を要する。即ちこゝは時間の長いことを婉曲に誇張したもので、いつまでも/\お婆さんになるまでも辛抱して、君のお出を待ちませうとは、眞實その物の聲である。「霜のおくまでに」の字餘りの調子強さに、その力強い決意のほどが窺はれる。まことに婦人として、空閨を守る間にその若い誇を失つてゆくことは、堪へ難い苦痛であらう。然るにそれをも尚犠牲にしてお待ちするといふことであるから、頗る尊い堅い優しい操心の現はれであるが、かく將來に唯一の希望を置いたことは、即ち現在に失望した悲痛の聲であると思ふと、そゞろ御同情に堪へぬ次第である。眞淵が、
  下句は、古歌のきまよく心得ぬ人の書き誤れる也。古歌に譬言は多かれど、かくふと「霜のおく」といひて白髪の事を思はする如きこと上代にはなし。
といつてゐるのは一隻眼を具へたもので、全くこれは上代の辭樣ではない。然し書き誤りとするのは、何でもこれを磐姫皇后の御作と信じた先入見に由來した謬説である。又後の註家が、下に出た或本の「居明而」の歌、及び
  君待つと庭にし居ればうちなびくあが黒髪に霜ぞおきける  (卷十二―3044)
などの趣に引付けて、霜を實在の物とし、甚しいのは初句の「ありつつも」を一夜の間の事としたのは、眞淵の書き誤り説に牽かれた誤解である。
 
(303)秋之田《あきのたの》 穗上爾霧相《ほのへにきらふ》 朝霞《あさがすみ》 何時邊乃方二《いづへのかたに》 我戀將息《あがこひやまむ》    88
 
〔釋〕 ○ほのへ 「ほ」は上に「秋の田の」とあるから、無論稻穗である。「へ」は上《ウヘ》の上略。但ホトリといふ程の廣い意に用ゐられる。○きらふ 水蒸氣のボツと立つをいふ。四段活用の動詞なる霧《キ》るの延言。○あさがすみ 霞を春のもの、霧を秋のものと定めたのは平安朝以後のことで、古くは秋の靄《モヤ》をも霞と詠んだ。こゝの霞も無論今いふ靄《モヤ》である。○いづへのかたに 「いづへ」は何方《イヅヘ》の義。それを「方《カタ》」に續けていふのは重複であるが、同意の語を重ねて使ふことは、奥邊之方《オキベノカタ》、荒風乃風《アラシノカゼ》の類、歌には殊に多い。「かた」を縣《アガタ》の略言とする説は採らない。○やまむ やすまらうかの意。
【歌意】 秋の田の稻穗の上に一面に立ちふさがつてゐる朝靄、まるで方角も分らぬが、そのやうに私の戀心は止まう見當もつかない。
 
〔評〕 「朝」の一字で靄の深さが點出され、その晴間もなく秋田の上に霧らふ光景が想像される。上句を背景に置いてそれを譬喩に使ひ、下句に戀の感傷を叙したのは、ちよつと形式が變つて居り、この情景二面の合拍の具合は、恰も後世の連俳の附合の氣分に似たものがある。さて戀の苦悩は我れと自ら四面に墻を結ひ廻らしたやうなもので、どちらを向いても自由に息がつけない。「いづへの方に」の一句、まことに心中の欝結を吐露し得て痛切であり、實際塞がつた胸の鼓動が聞えるやうな感がある。
 
(304)或本(の)歌(に)曰(く)、
 
これは上の「在管裳」の歌が、或本にはかう出てゐるといふ註記であるから、勿論「在管裳」の歌の次に置くべきであるが、總べて同一系統の歌はまづ連記した上で、異傳はその後に附記するのが、この集の事例である。
 
居明而《ゐあかして》 君者乎將待《きみをばまたむ》 奴婆珠乃《ぬばたまの》 吾黒髪爾《あがくろかみに》 霜者零騰文《しもはふるとも》    89
 
〔釋〕 ○ゐあかして 起き居明しての意。契沖は卷十八に「乎里安加之《ヲリアカアシ》」とあるに據つてヲリアカシテ〔六字傍線〕とも訓むべきかといひ、芳樹はヲリアカシ〔五字傍線〕と訓んで「而」の字があるのにこれを訓まない。ヰアカシテで惡い理由は少しも無い。抑も言語は活物で、同時代でも同意の異語が竝行して行はれる例が多い。それを何でも一方に片付けようどするのが、萬葉學者の通弊である。况やこれは古調の歌であり、卷十八のは大伴家持作だから、時代においても非常の懸隔をもつてゐる筈、後例に囚はれて先迹を訂さうとするのは妄である。○ぬばたまの 黒にかゝる枕詞。野羽《ヌバ》玉の義といふ。野羽《ヌバ》は烏扇《カラスアフギ》即ち射干のことで、今は檜扇《ヒアフギ》ど呼ぶ鳶尾科の草であるが、觀賞用として栽培される。葉の重なり具合が羽にも檜扇にも似てゐるからの稱。玉はその實をさしていふ。實の色は黒いので、黒、髪、暗、夜などの枕詞に用ゐられる。久老は寐程《ヌルタマ》の轉語で、まづ夜に續けたと解いたのは苦しい。「奴」をヌと讀むは呉音。なほ烏玉、黒玉、夜干玉などの字面を充てた。
(305)【歌意】今宵一夜はこのまゝ起き明して、君のお出を待ちませう。よし私の黒髪の上に霜が置くにしても、そんな事は構はずにさ。
 
〔評〕 結婚に於けるわが國上古の習慣は、嫁入でなくて婿入であり、男は女の家に夜な/\通ふのであつた。だから若し男が來なくなれば縁は切れたので、甚だ簡單な、又心細いものであつた。されば來べき宵過ぎても男が來ないとなると、忽ち一大事の豫感に打たれる。不安な念に襲はれる。いよ/\眞劔に待たずにはゐられぬ。否待つ爲に起きてゐるのではなくて、實は寢ようにも寢られぬ爲に待つてゐるのである。この歌に於けるその本末顛倒の言は頗る詩趣が深い。一體命についで愛惜する黒髪を霜に打たせるといふことは、婦人としては忍び難いあたらしい事に相違ないが、それをも尚忍んで待たうといふ處に、その深い情味が搖曳して、傷ましくも美しい作である。
 
右一首、古歌集中(ニ)出(ヅ)。
 
 「古歌集」といふ名稱は集中處々に出てゐるが、それが悉く同一本か又は異種のものかは明かでない。ともかく何人かが古傳の歌を輯録して置いたものに相違ない。
 
古事記(ニ)曰(ク)、輕(ノ)太子|奸《タハク》2輕(ノ)太郎女《オホイラツメニ》1、故《カレ》其(ノ)太子(ハ)流(サル)2於伊豫(ノ)湯(ニ)1也。此(ノ)時、衣通《ソトホシノ》王不v堪(ヘ)2戀慕(ニ)1而追(ヒ)往(ク)時(ノ)歌(ニ)曰(ク)、 
 
(306)これは卷首磐姫皇后の御歌に就いて、別傳異説を考證したのだから、實はその御歌の次に置くべきであるが、かく別記するのが又この集の書例でもある。「古事記(ニ)曰(ク)」とあるけれども、この文は古事記の原文そのまゝでなく、大意を攝取したものである。尚この文意は次の左註に委しいから、解説はその方に讓る。衣通(ノ)王は輕(ノ)大郎女の別名であつて、日本紀(卷第十三)所載の有名なる、「わがせこが來べき宵なりさゝがにの蜘蛛のおこなひこよひしるしも」と詠まれた允恭天皇の妃なる衣通姫とは全く別人である。
 
君之行《きみがゆき》 氣長久成奴《けながくなりぬ》 山多豆乃《やまたづの》 迎乎將往《むかへをゆかむ》 待爾者不待《まつにはまたじ》 【此(ニ)云(ヘル)2山多豆(ト)1者、是(レ)今(ノ)造木《ミヤツコギトイフ》者也。】    90
 
〔釋〕 ○やまたづの 「迎へ」に冠する枕詞。「やまたづ」は原註にあるが如く、ミヤツコギと稱した樹で、轉訛して今はニハトコ(接骨木)といふ。忍冬科の植物で、葉が對生してゐるので「むかへ」の枕詞に用ゐられるのである。宣長は「造木を建〔右△〕木の誤としてタツゲ〔三字傍線〕と訓み、立削《タツケ》の義で手斧のこととなし、山多豆は即ち山※[金+斤]《ヤマタツケ》であり、手斧の刃はこちらに向いてゐるから迎の冠詞となる」と説いてゐるが、頗る牽強である。○むかへをゆかむ 迎へにまあ往つたものだらうかの意。「を」は歎辭。○まつにはまたじ 待つてゐようにはとても待つて居り切れまいの意。「またじ」は待たれまいの意で、待つまいではない。
(307)【歌意】 君のお出かけになつて後、もう隨分月日久しくなつてしまつた。今はお迎へにまあ往つたものだらうか、此處にじつとしてお待ちして居らうには、とても待ち切れさうにもないことよ。
 
〔評〕 些細な差異はあるけれども、もと同一の歌と認められるものが、類聚歌林から援いて本集に載せたものには盤姫皇后の作とあるのに、古事記には衣通王の歌とあるので、この歌は恐らくそれを怪んだ後人が、かく考證を試みて書き入れたのが、後に書寫の際本文に紛れ込んだものであらう。然し上にも述べた如く、仁徳天皇が皇后を遺して長く他に行幸せられたといふことは史に見えず、却つて記紀共に皇后の遊行を記してゐる點から考へても、亦歌の風調から推しても、類聚歌林の所傳は容易に諾けられない。寧ろ古事記の所傳の方が信じ易いやうに思はれる。然し左註にいふやうに普通の古事記にはこの歌は載つてゐない。
 
右一首(ノ)歌(ハ)古事記(ト)與2類聚歌林1所v説(ク)不v同(カラ)、歌(ノ)主亦異(ル)焉。因(リテ)※[手偏+檢の旁](スルニ)2日本紀(ヲ)1、曰(ク)、難波(ノ)高津(ノ)宮(ノ)御宇大鷦鷯天皇(ノ)廿二年春正月、天皇語(リテ)2皇后(ニ)1納《イレテ》2八田(ノ)皇女(ヲ)1將v爲(サント)v妃(ト)。時(ニ)皇后不v聽(サ)。爰(ニ)天皇歌(ヲ)以(テ)乞(ヒタマフ)2於皇后(ニ)1云々。三十年秋九月乙卯(ノ)朔乙丑、皇后|遊2行《イデマシテ》紀伊國(ニ)1到(リ)2熊野(ノ)岬(ニ)1、取(リテ)2其處之|御綱葉《ミツナカシハヲ》1而還(リタマフ)。於是《コヽニ》天皇、伺(ヒ)2皇后(ノ)不(ルヲ)1v在(マサ)而娶(リテ)2八田皇女(ヲ)1納(レタマフ)2於宮中(ニ)1。時(ニ)皇后到(リマシテ)2難波(ノ)濟《ワタリニ》1聞(キテ)3天皇合(ヒマスト)2八田(ノ)皇女(ニ)1大(ニ)恨(ミタマフ)之、云々。
亦曰(ク)、遠(ツ)飛鳥(ノ)宮御宇|雄朝嬬稚子宿禰《ヲアサヅマワクコノスクネ》天皇(ノ)廿三年春正月甲午(ノ)朔庚子、木梨輕《キナシノカルノ》皇子、爲(ル)2太子(ト)1、容姿佳麗《カホキラ/\シ》、見(ル)者自(ラ)感《メヅ》。同(ジ)母妹《ハラノイロト》輕(ノ)太娘《オホイラツメノ》皇女亦|艶妙《カホヨシ》也、云々。遂(ニ)竊(ニ)通《タハケテ》、乃(チ)悒懷《イキドホリオモフコト》少(ク)息(ム)。廿四年夏六月、御羮汁《オモノノシル》凝(リテ)以作(ル)v氷(ト)。天皇|異《アヤシミ》v之(ヲ)卜(ス)2其(ノ)所由《ユヱヲ》1。卜《ウラヘノ》者曰(ク)、有2内亂《ウチノツミ》1、蓋|親親《ハラカラドモ》相|姦乎《タハケタルヲヤ》、云々。仍(リテ)移(ス)2太娘(ノ)皇女(ヲ)於伊與(ニ)1者《テヘリ》。(308)今案(ズルニ)二代二時不v見2此歌(ヲ)1也。
 大鷦鷯天皇は仁徳天皇、皇后は即ち盤姫皇后をさし奉る。八田皇女は莵道稚郎子の同母妹で、仁徳天皇には異母妹に當られるが、上古は異母の兄妹は婚姻が普通として認められたのである。御綱葉は御津野柏、或は御角柏とも書き、ミツノガシハと訓むものに同じい。古へ宮中の御宴の時、御酒を受けて飲む用に供した木葉である。雄朝嬬稚子宿禰は允恭天皇の御諱、木梨輕皇子は允恭天皇の皇子で、輕大娘皇女はその同母妹である。「二代二時不v見2此歌1也」とは、日本紀の記事では仁徳天皇の御代にも、允恭天皇の御代にも、共にこの歌は見えないといふのである。この左註は磐媛皇后御歌の左註に屬する又の左註で、恐らく村上天皇の御時、梨壺の五人達がこの集に所謂古點を施した折の記入であらうと正辭はいつてゐる。
 
近江(の)大津(の)宮(に)御宇天皇代《あめのしたしろしめししすめらみことのみよ》  天命開別《アメミコトヒラカスワケノ》天皇
 
解は卷一に既出(七六頁)。尚多くの古寫本に、天命開別天皇の下に續けて、小字で「謚曰2天智天皇1」とあるのも後人の註である。
 
天皇(の)賜(へる)2鏡(の)女王《ひめみこに》1御歌《おほみうた》一首
 
天智天皇が鏡女王に下された御歌との意。古義にいふ、この集には天皇作〔三字傍点〕とあるべき場合には「天皇御製」と(309)書き、天皇賜2云々1〔五字傍点〕など事情を述べた末には「御歌」と書くと。
○鏡女王 額田王即ち鏡王の娘で、額田(ノ)女王の御姉にまします。鏡も額田も父王の御名であつたのを、姉妹の王女に分けて名づけられたのである。この鏡女王はのちに藤原鎌足の嫡妻となられた。但この贈答は鏡女王がまだ鎌足に嫁せぬ以前、天皇も女王もうら若い頃の事と思はれる。天皇とあるのに拘泥して、大津の宮に御即位後の御作と解するのは誤である。
 
妹之家毛《いもがいへも》 繼而見麻思乎《つぎてみましを》 山跡有《やまとなる》 大島嶺爾《おほしまのねに》 家母有猿尾《いへもあらましを》    91
  一云、妹之當繼而毛見武爾《イモガアタリツギテモミムニ》 一云、家居麻之乎《イヘヲラマシヲ》
 
〔釋〕 ○いもがいへもつぎてみましを 一本の「妹があたり繼ぎても見むに」の方が「家」及び「まし」の語の重複も避けられ、すべてに於いて穩かである。「いもがあたり」は妹が家の〔二字右○〕あたりの意。「つぎてみましを」は續いて見たいものをの意で、見られぬのが殘念だの餘意を含み、「つぎてもみむに」は續いても見ようが爲にの意である。「つぎて」は間斷なくの意に近い。○やまとなる 大和にある。○おほしまのね 大島の嶺は平群郡(今の生駒郡)の神南備《カミナヒ》山(神南山とも三室山ともいふ)であらう。立田川(大和川)がその三面を廻り、そこに南から寺川が會湊して、島山のやうな地形であるので、その名を負うて一般にさうも呼ばれたものか。日本後紀、卷十七、(310)平群(ノ)朝臣|賀是《カゼ》麻呂の歌に「いかに吹く風にあればか大島の〔三字傍点〕尾花の末を吹き結びたる」と見えて、平群人が大島を詠み、又平群大島と名告つた人さへある。これを同郡の額田部《ヌカタベ》即ち古への額田郷に求めるのは歌の趣に出合はない。而も額田の地は大むね平野である。○いへもあらましを わが家があればよいものをなあの意であるが、一本の「家居麻之乎」が穩かである。「いへをらましを」は家造して居らうものをの意。「猿」をマシと訓むは梵語|麻斯咤《マシタ》の略。古義の猿《マシラ》等の説は非。「猿尾」は戲書。
【歌意】 懷かしい妹が家のあたりを、いつも常に見たい爲に、あの大島の嶺に家造して居らうものを、かう遠ざかつてゐるのが、さてつらいことよ。
 
〔評〕 天智天皇は近江の大津宮に天下を知召したが、その皇子時代は飛鳥京、又は難波京にましました。「大和なる」の語調は他國人の口吻であるから、これは孝徳天皇の難波豐埼《ナニハノトヨサキノ》宮時代のお作と思はれる。その頃皇子は二十三歳から三十歳までの御壯年時代であつたから、鏡女王との戀も頗る熱烈なものであつたらうと想像される。鏡女王は父王の居處即ち平群の額田に住まれたとすると、皇子は難波から遠く立田越をしてその家に通はれたの(311)であらう。
 額田はやゝ高地で、大島の嶺は其處を西へ距ること約一里の立田越の街道に近い小山である。こゝの兩地の間は全くの平野であるから、大島の嶺に立てば額田の妹が家は指顧の間にある。皇子は遙々と來て暫くの逢瀬を樂んだが、今又妹が懷を離れて遠く難波の京へ歸らうとなさる。戀戀の情は身を焦すばかりで、ひたすら顧み勝に來ると、たま/\大島の嶺が眼前に峙つてゐる。あゝあそこに家でもあつたら妹が住むあたりを見渡して、切ないこの戀心を慰められもしようにと、せめて思ひ入つた感懷から、「家居らましを」と絶叫なされたのである。
 皇子とはいへ、當時の政權をその掌中に握つて居られた方であるから、そんなに妹が家の見たくば、大島の嶺に別莊《ナリドコロ》ぐらゐ造るのは何でもあるまいが、もと/\これは諷託寄興の語で、實際に大島の嶺に家造しようといふのではない。その眞意は他に存するのである。實は何時も何時も逢つてゐたいのが本意であるが、それは實行し難いことなので、第二義に就いて姑く云爲したものである。餘り遠方なので、たまさかならでは愛人に逢はれぬ懸想人の心持がよく出てゐる。
 
(312)鏡(の)女王(の)奉v和《こたへまつれる》歌一首
 
板本の註に「鏡王女(ハ)又曰(フ)2額田(ノ)姫王(ト)1」とあるのは後人の加筆で、姉妹を混淆した誤である。○和歌 応酬唱和した歌即ち返歌の意で、ヤマトウタの義ではない。
 
秋山之《あきやまの》 樹下隱《このしたがくり》 逝水乃《ゆくみづの》 吾許曾益目《あれこそまさめ》 御念從者《みおもひよりは》    92
 
〔釋〕 ○このしたがくり 木の下隱れといふに同じい。「隱る」に古くは四段活があつた。○ゆくみづの 逝く水の如く〔二字右○〕の意。上三句は「まさめ」に係る直喩的序詞。秋は殊に水が落つるゆゑ、山下水の増るにつけていふ。○あれこそまさめ 吾が思〔右○〕こそ優《マ》さめの意。「まさめ」はまさらめに同じく、「め」は助動詞む〔傍点〕の第五變化。○みおもひ 私を慕つて下さるあなたのお心持。古義は四五句をアコソマスラメ〔七字傍線〕、オモホサムヨハ〔七字傍線〕と訓んだ。四句はともかくもであるが、結句は頗る牽強の感がある。
【歌意】 私を思つて下さる御心持の深さはしみ/”\嬉しう存じますが、秋山の木々の下ゆく水の、いつもより増るやうに、私があなたをお慕ひ申す心持の方が、尚一層まさつて居りませうよ。
 
〔評〕 上句の序は當季の景物を使つてゐる。しかもそれが懸歌の大島の嶺から聯想を辿つて來た、秋山の木の下水(313)であることを思ふがよい。すると皇子のお言葉につけお振舞につけ寸毫も脇見をしない、一心不亂なこの作者の戀心が認められる。さてこそ「吾こそまさめ」も、しかと利いて來るのである。懸歌が、せめてお前の家のあたりでも見たいからと、遣る瀬ない眞情を吐露して來たに對して、いえ私の方があなたよりはと逆に出て應じたのは、贈答の常套ではあるが、單に口頭で所謂うまい事をいつて、互に競うて感情を弄んだ後世の遊戲的戀愛とは全く面目を異にし、贈答共に眞實の哀音が切々として人に迫つて來る。秋山の木の下水を譬喩に引いたのは、「まさめ」の印象に力強さを與へるものであり、四五句の轉倒もこの歌としての叙法が自然で、思ひ入つた深刻味が漂つてゐる。
 
内(の)大臣藤原(の)卿《まへつぎみ》娉《つまどひする》2鏡女王(を)1時、鏡(の)女王(の)贈(れる)2内(の)大臣(に)1歌
 
内大臣藤原鎌足が鏡女王を懸想して通はれた時に、鏡女王が鎌足に贈られた歌との意。○内大臣藤原卿 鎌足が内(ノ)大臣になされたのはその死の直前のことで、それまでは内(ノ)臣であつたが、これは遡らせてその最極官を記したもの。卿はマヘツギミ〔五字傍線〕と訓み、前つ君〔三字傍点〕の義で、天皇侍弼の臣をいふ。尚記名のことは「内大臣」の項を見よ(七八頁)。○娉 ツマドフとも、ヨバフとも訓む。女を挑むこと、慇懃を通ずることにいふ。
 
玉匣《たまくしげ》 覆乎安美《かへりをやすみ》 開而行者《あけてゆかば》 君名者雖有《きみがなはあれど》 吾名之惜毛《あがなしをしも》    93
 
(314)〔釋〕 ○たまくしけ 「たま」は美稱。「くしげ」、は櫛笥で、化粧道具を入れる筥をいふが、櫛は化粧道具中の主たる物ゆゑに代表させたものである。さてこの句は二句を隔てゝ三句の「あけて」に係る枕詞。匣筥笥の類は皆、蓋と身とあつて、開けも覆ひもするからである。○かへりをやすみ 歸りが容易《タヤス》さにの意。「覆」をカヘリと訓むのは、卷四に「覆者覆《カヘラバカヘレ》」とある例に從ふ。古義は「安」の上に不〔右△〕を脱したものとしてカヘルヲイナミ〔七字傍線〕と訓んだが、脱字説は俄に諾けられない。又舊譯はオホフヲヤスミ〔七字傍線〕とあつて、櫛笥の蓋は覆ひ易いので開けるといふ意だといふが、道理《スヂ》が一向成つてゐない。○あけて 夜が明けてから。○きみがなはあれど 貴方のお名は潰れもせねどの意。男子の貞操の大目に見られるをいふ。○あがなしをしも 私の名の潰れることがつらい。「し」は強辭。「も」は歎辭。この四五句の「君」と「吾」とを、契沖や千蔭が轉倒と見て、ワガナハアレドキミガナシヲシモ〔十五字傍線〕と訓んだのは、一往道理があるやうに見えて、實は考慮が足らなかつた。
【歌意】 歸り道が樂《ラク》だからといつて、夜が明けてから貴方がお歸りなされては、人に見付かつて、その場合貴方は男ゆゑ浮名が立たうと構ひませんが、私の名の潰れるのが口惜しいのですわ。
 
〔評〕 娉ふといふ行爲は古代の婚姻風習に於ける普通の過程であつて、男が女の家に往つてその慇懃の情を通ず(315)るをいふ。女の家では勿論初から男を家内には入れぬので、男は庭や墻の外をうろ/\して、出入する家人を捉へて消息を頼んだり、今少し傳《ツテ》があつて立入ると、簾の外や何かに陣取つて、召仕の女中に取次をして貰つたりして、執念くせがむのである。その場合男は決して一人ではなかつた。集中にも、
  いにしへのますらをの子の、相きほひ妻どひしけむ、蘆の屋のうなひ處女の…………(卷九―1801)
と歌はれた菟原處女《ウナヒヲトメ》や、
  夏蟲の火に入るがごと、湊入に船漕ぐごとく、ゆきかくれ人のいふとき……………(卷九―1807)
の眞間の手兒奈などのやうな具合に、又は竹取物語にあるやうに、女の家の周圍に色々の男が寄り集つて、我勝に女の氣に入られようと競爭するのである。勿論晝間は銘々公私の用もあるので、夕暮頃から訪問に取懸かる。こゝも鎌足が鏡女王を聘ふとて、その家の簀子即ち縁側に居明したのであつて、つまり居催促の體である。この居催促は、源氏物語を始め平安時代の物語や隨筆やを見るとすぐ了解される。
 さてその熱心さは憎くもないが、夜が明けてから歸られたのでは、恰も鎌足にその一泊を許したやうな形に見えて、痛くもない腹を世間からは探られる譯だから迷惑千萬、そこで「あが名し惜しも」と、鏡女王は歎聲を洩した次第である。
 思ふに、この頃はまだ鏡女王は中大兄(天智天皇)との手が切れずに居られたのではあるまいか。さすれば猶(316)更名の立つのを迷惑がらずには居られないことになる。「君が名はあれど」の反撥の一句を合拍的に冠せたことは、吾が名の惜しさを一層強く映出させる手段で面白い。
 往時の男子は一人で澤山の女を持つたものである。だから曉方に歩きまはつてゐたところで、それは當然の事で、誰れも見咎める人もない。然し婦人となると、さう色々な男を朝歸りさせる譯にはいかぬ。貞操觀念は後代よりも自由であつたとはいへ、尚社會はその實行を強要したものである。こゝが「君が名はあれどあが名し惜しも」と、つけ/\といつて退けた所以である。
 
内(の)大臣藤原(の)卿(の)報2贈《こたふる》鏡(の)女王(に)1歌一首
 
○報贈歌 後世にいふ返歌である。
 
玉匣《たまくしげ》 將見圓山乃《みむろのやまの》 狹名葛《さなかづら》 佐不寐者遂爾《さねずばつひに》 有勝麻之自〔左△〕《ありかつましじ》    94
 或本(ノ)歌(ニ)云(フ)、玉匣|三室戸《ミムロド》山乃
 
〔釋〕 ○たまくしげ 解は前出。蓋《フタ》、實《ミ》、懸子《カケゴ》など、匣のうへでは常にいふ語で、こゝは「玉匣|實《ミ》」に「三室の山」を係けた。○みむろのやま 三室(ノ)山。上の天智天皇の御作にある「大島の嶺」即ち神南備山のことである。諸註に三輪山としたのはこゝに適はない。「將v見圓山」は書方が珍しい。「圓」をロの假字に用ゐたのは、マロ〔二字傍点〕のマ〔傍点〕の音が上のミム〔二字傍点〕のム〔傍点〕の音に包(317)まれて省かれたもの。○みむろとやま 或本の「三室戸山」は山城國宇治郡宇治。高さ約三五〇米突。その東山に三室戸寺がある。備中にも同名の山があるが、こゝに交渉はない。○さなかづら サネカヅラのこと。蔦葛の類で、その材から出る粘液は製紙又は鬢附油の用に供せられ、又その材を薄く削つたものは水に浸して調髪用とする。よつて美男葛《ビナンカヅラ》の名がある。漢名南五味子。「さ」は美將。「な」は古義説に、萎《ナエ》の義で、この葛は葛類の中で最も萎々《ナエ/\》としてゐるからの稱といふに從ふ。さて「さな」の響を疊んで下句の「さねずば」を呼び出した。つまり上句は序詞である。○さねずば 「さね」は「寢」に接頭語の「さ」を冠したもの。こゝは男女相寢る意。「ずば」のば〔傍点〕は濁る。○ありかつましじ 居るにも居られまいの意。「かつ」は下二段活の動詞で、次の歌「得がてにすとふ安見兒得たり」のかて〔二字傍点〕の終止形であり、堪ふ、敢ふ、などの意。古來これを難しの意としたのは穩かでない。「ましじ」は推量否定の助動詞で、これが約つてまじ〔二字傍点〕となつたと思はれる。さればまじ〔二字傍点〕と全く同意と見てよい。この句は諸本に最後の字が目〔左△〕となつてゐるので、從來アリガテマシモ〔七字傍線〕と訓んでゐたが、「ましじ」は記紀、宣命等にも見え、この集中にもさう訓むべき場所が數箇所あり、且元暦校本、類聚略古葉集などには明かに「自」となつてゐるので、橋本進吉氏説を斟酌してこれに從ふ。
【歌意】 あなたは名の立つのが苦しいとて、「早く歸れ」と仰しやるが、どうしてまあ、私はあなたと共寢をしないでは、あるにもあられぬ遣る瀬ない思がしませうものをさ。
 
(318) △額田王家の王女達
        鎌 足
         ‖
      ― 鏡女王
     |    ‖
 額田王―   天智帝
     |    ‖
      ― 額田女王
         ‖
        天武帝
 
〔評〕 上句は「さねずば」の序とのみ解しておけば、至極簡單で世話はないが、それでは見方が甚だ麁漏である。この三室の山は鏡女王の額田の家に近い山であることは上に述べた。のみならず作者鎌足も難波往還の途次、常に見馴れてゐた山である。又狹名葛は野生の植物で、その用途が直接調髪に關係があるからは、作者もそれを使つてゐるものと見てよい。以上二つの理由からして、遂に三室の山の狹名葛がこの歌の序として取出されたのであらう。
 この歌は枕詞や序詞によつて修飾も加へてあるが、全體としては隨分露骨であり、ぶつきら捧である。然し又その點に上代の素朴さが窺はれ、傍目もふらない熱情が看取される。たま/\中大兄皇子の御寵は妹の額田王の方に移られたりなどして、鏡女王は閨怨に堪へないでゐられた際ででもあつたとすれば、この新しい懸想人の切なる戀情には動かされずにゐられぬはめ〔二字傍点〕になる。果然その後鏡女王は遂に鎌足の本妻となられたのである。
 
内(の)大臣藤原(の)卿(が)娶《えたる》2采女安見兒《うねめやすみこを》1時(に)作歌一首
 
内大臣藤原鎌足が采女安見兒を手に入れた時に詠んだ歌との意。○采女 主上の飯饌に奉仕する役で、宣長説に、項《うなじ》に領巾《ヒレ》を掛ける故に嬰部《ウナゲベ》の意であるといふ。采女と書くは采擇によつて宮掖に入るからの稱。古くからあつたものだが、紀の孝徳天皇大化二年の條下に、「凡(ソ)采女(ハ)者貢(セシム)2郡(ノ)少領以上(ノ)姉妹及(ビ)子女(ノ)形容端正者〔五字右○〕(ヲ)1」とある(319)のが近江朝廷時代の釆女で、年は十六以上三十以下と定められてある。○安見兒 安《ヤスミ》といふ名の婦人で、「見」は只ミ〔傍点〕の音を表はしたのみ、「兒」は婦人を親愛して呼ぶ語。
 
吾者毛也《あれはもや》 安見兒得有《やすみこえたり》 皆人乃《みなひとの》 得難爾爲云《えかてにすとふ》 安見兒衣多利《やすみこえたり》    95
 
〔釋〕 ○あれはもや 「吾は」に歎辭の「も」と、呼辭の「や」とが添うた合成語。古義は古事記の須勢理姫の御歌に「阿波母與《アハモヨ》、賣邇斯阿禮婆《メニシアレバ》」とあるによつて、アハモヤ〔四字傍線〕と訓んだが、拘はつた説で、時代の變遷を考へないものである。○えたり 手に入れたの意。○みなひとの 當時は「皆人」「人皆」竝び用ゐられてゐる。「人皆乃」の轉倒ではない。○えかてにすとふ 「かて」は上の「ありかつましじ」の「かつ」の第二變化で、「堪へ」「敢へ」などと同義である。「に」は否定の助動詞「ず」の第二變化で、後世は餘り用ゐられないが、「多杼伎乎之良爾《タドキヲシラニ》」(卷二)「田度伎乎不知《タドキヲシラニ》」(卷十三)「去方乎不知《ユクヘヲシラニ》」(卷二)「爲便乎不知跡《スベヲシラニト」(卷四)など、集中にも多くの用例がある。從來「得難爾」といふ借字に累せられ、且音の類似によつて、「かて」を「難し」の語根の轉とし、これに助詞の「に」を添へたものと解したのは誤である。「とふ」はといふ〔三字傍点〕の約語。○衣 エと讀むは呉音。△采女の像 挿圖69を參照(二〇二頁)。
【歌意】 私はこの美しい安見兒を手に入れたのだ。さうだ、皆が手に入れにくい入れにくいと評判してゐるあの美しい安見兒を、この通り手に入れたのだ。
 
(320)〔評〕 采女といへば妙齡の美人にきまつてたのである。田舍にゐれば郡領階級の、それ/”\相應な大家のお孃さんである。それが一旦采女に選ばれて、遠く家庭を離れて宮仕をするとなつては、うら若い女心では寂しさ心細さに、石にも木にもかぶり付きたい程であらう。固よりその行動を檢束する近親もなく、誘惑は盛に八方から來るといふ調子では、身はあまり持てない。昔から采女に關する艶話の多い所以は、こゝにある。然しそれに一寸脚註を要するのは、采女は主上のお側に奉仕する役だけあつて、その姦犯については法令を立てゝ、往古からやかましく規定した。で「皆人のえかてにすとふ」のである。けれども何時如何なる場合にも物には表があれば裏がある。相手次第事情次第では多少の除外例もあつたらしい。作者對安見兒の關係は現にその實證を示してゐる。
 人の意地は妙なもので、禁斷の果は食べて見たい。身分の懸隔などは、てんで問題でなくなる。意地づくが嵩じては、安見兒を手にさへ入るれば、大した功名手柄をした氣持になる。それが既に彼の女と了解がつき、お負に特別公認となつたではないか。「安見兒得たり」を反復高唱した所以は、全くこの心理から出發したのである。高が采女の一人ぐらゐと理窟をいふのは野暮である。これは他の競爭者を尻目にかけての勝鬨で、無上の誇と喜とを、極めて放膽率直にさらけ出した歡聲である。
 
久米禅師《くめのぜんじが》娉《つまどふ》2石川(の)郎女《いらつめを》1時(の)歌五首
 
(321)久米禅師が石川郎女を懸想した時の歌との意。○久米禅師 傳未詳。久米は古來から著はれた氏、禅師はその名で、法師ではない。後にも三方(ノ)沙彌があり、その他小僧だの阿彌陀だの釋迦だのと、突飛な名を付けることが當時流行してゐた。蓋し佛教全盛の影響である。支那にも既に、玉臺新詠に葛沙門〔三字傍点〕の名が見え、その他呂羅漢周羅※[目+侯]などいふ名がある。勿論これも僧ではない。○石川郎女 これ亦傳未詳。郎女は郎子《イラツコ》の對稱。色《イロ》つ女《メ》の義で、色は親愛の意を表する語であるが、後には專ら貴女の稱に用ゐられた。後出の山田女郎の石川郎女、大名兒の石川郎女とは時代が違ふ。
 
水薦苅《みすずかる》 信濃乃眞弓《しなぬのまゆみ》 吾引者《わがひかば》 宇眞人佐備而《うまびとさびて》 不欲〔左△〕常將言可聞《いなといはむかも》 禅 師    96
 
〔釋〕 ○みすずかる 眞小竹刈《ミスズカル》の義で、野にかゝる枕詞。「み」は美稱。「すず」は今も信濃地方で、節高の紫色を帶びた細竹を、しか稱してゐる。「薦」をスズと訓むのは、神代紀に野薦《ヌスヾ》とあるによる。正辭は眞淵が「薦」を篶〔右△〕に改めたのは私妄で、篶は後出の字であると考證してゐる。又古義は舊訓のまゝにミコモカル〔五字傍線〕と訓み、信濃に裏沼《シナヌ》の意をもたせたものと力説してゐるが、牽強も甚しい。「水」は借字。○しなぬ 信濃と書くのは音借字で、記紀には科野とある。名義は(1)山國にて級坂《シナサカ》ある故と。(冠辭考)(2)その野に科《シナ》の木(菩提樹の一種)多き故と。(紀通證、國名風土記)(3)篠野《シヌヌ》の轉と。(諸國名義考)の諸説がある。科の木は通證に「科(ノ)木出(ヅ)2於此國(ニ)1、其薄皮甚(ダ)靱強、今用(ヰテ)以(テ)飾(リ)v馬(ヲ)綴(ヅ)v鎧(ヲ)、蓋(シ)楮穀《カヂ》之類也」と見え、神樂歌に「木綿《ユフ》つくるしな〔二字傍点〕の原」と(322)歌つてあるので見ると、上古から存在して野に因縁をもつてゐる。又篠即ち小竹説は信濃は所在にそれが多く、或は「刈りばねに足踏ましむな」ともいつた如き邊僻の荒野だから、相當の理由がある。だが科《シナ》の木説が人文的に見てやゝ優れてゐるかと思ふ。○まゆみ 「ま」は美稱。弓は信濃の産物であつた。當時の弓は丸木弓であるから、信濃や甲斐の如き山國は弓材が多いので、それを貢進した。續紀に大寶二年信濃國から梓弓千二百張を獻じ、景雲元年千四百張を獻じた事が見え、又臨時祭式には、甲斐信濃兩國から祈年祭に梓弓百八十張を進じた事が見える。以上初二の句は三句の「引かば」にかゝる序詞。○わがひかば 私が引き試みたならば。○うまびとさびて 貴人ぶつて。「うまびと」は可美《ウマ》人の義で貴人。「さびて」は進《スサ》びての義で、その物がその物らしい樣子をするをいふ。即ち貴人が貴人らしく振舞ふのを「うま人さび」といひ、神が神としての意義を現ずるのを「神さぶ」といふ。「翁さび」「處女さび」なども同樣の義で、この動詞は上二段活用。○いなと 否《イヤ》だと。「不欲」をイナと訓むは意訓である。この字は原本に「不言」とあるが、元暦校本その他多くの古寫本に據つて改めた。○かも 「聞」は呉音モンの短音。
【歌意】 私が貴女に心を寄せて引き試みたならば、貴女は御身分柄貴人ぶつて、お前のやうなものはいやだ、と仰しやるでせうかねえ。
 
(323)〔評〕 石川郎女はすべての事情から推して、京人で貴女であることが斷定される。久米禅師は自分の推測では、國衙の掾か何かで信濃に赴任してゐたひとではあるまいかと思ふ。何となれば、その歌に「みすす刈る信濃の眞弓」をいひ、又「東人の荷前《ノサキ》の筥の荷《ニ》の緒」をいうてゐる。これは決して空想から出發した尋常一樣の文飾とは思はれず、實生活の體驗を背景とした辭樣と考へられるからである。
 とにかく署名に姓《カバネ》を書いてない所を見ると、彼れは六位以下の微官と思れる。然るに女の方は身分が高いので、それ故さし控へて居りましたと、彼れはその戀に遠慮をもつた。けれども戀は決して理性で抑へ切れるものではない。常識的には「否といはむかも」は知れきつた當然の歸結ではあるが、然し又あながちさうばかりとも限らない、戀は水物、意外の收穫もないではない。それが「否といはむかも」といひつゝも尚、この歌を思ひ切つて郎女に贈つた所以である。その恐る/\つゝましやかに打出した彼れの態度が、如何にも戀する人の心持を如實に穿つて、今も目に見るやうに表現されてゐる。げにも戀は人を臆病にする、さうして又この上なく大膽にもするのである。
 
三薦苅《みすずかる》 信濃乃眞弓《しなぬのまゆみ》 不引爲而《ひかずして》 弦〔左△〕作留行事乎《をはくるわざを》 知跡言莫君二《しるといはなくに》  郎女    97
 
〔釋〕 ○みすず 「三」は借字。○をはくるわざ 弦を懸ける仕業。「を」は弦《ツル》のこと。下に「都良絃《ツラヲ》」とあり、「絃」「弦」相通じて用ゐる。但古寫本にも原本にも皆強〔右△〕とあり、古葉略聚抄だけが濕〔右△〕の行體になつて居り、シヒザルコトヲ〔七字傍線〕と訓んであるが意義不通である。これは契沖が強〔右△〕を「弦」の誤としたのが卓見で、後の學者皆(324)これに從つてゐる。尤も契沖はツルハクルワザヲ〔八字傍線〕と訓んで居る。「弦」をヲと訓むのは眞淵説である。芳樹はなほツラ〔二字傍線〕と訓んで、「都良絃」のヲ〔傍線〕は添言だから、獨立してを〔傍線〕とのみはいはれないといつた。「はくる」は弦を弓に懸けること、即ち張ることで、下二段活用の動詞。「行事」をワザと訓むは意訓。○いはなくに いはれないのにの意。
【歌意】 弓も引いて見ないで、弦を懸けることを知つてゐるとはいはれませんものを、貴方だつて、私を引いて見ないで、私の心に否と思つてゐるかどうかが分るものですか。
 
〔評〕 何をうぢ/\していらつしやる、殿方のやうでもないと逆襲したのである。いざといふ土壇場になると、女は頗る大膽になるものである。弓に※[夕/寅]縁した譬喩のしつくり打合つた點は、あまり口達者で、寧ろ「うまびとさび」ない、稍蓮葉らしい事を思はせる。「いはなくに」の歇後の辭樣も、人柄事柄折柄ふさはしい表現である。ツラハクルコトヲ〔八字傍線〕と訓む説に從はなかつたのは、字餘りになるのみならず、語調が聊か強過ぎて、女らしい氣分を殺ぐからである。
 
梓弓《あづさゆみ》 引者隨意《ひかばまにまに》 依目友《よらめども》 後心乎《のちのこころを》 知勝奴鴨《しりかてぬかも》  郎女    98
 
〔釋〕 ○あづさゆみ 卷一に既出(三一頁)。○ひかばまにまに 引かば引くが〔三字右○〕まゝに。○よらめども 弓は引絞るに隨つて、本末が手前の方に寄つてくるのでいふ。古今集戀二にも「梓弓ひけば本末わが方によるこそまさ(325)れ云々」とある。上句は譬喩である。○のちのこころ 將來の貴方の〔三字右○〕お心。○しりかてぬ 知り得ないの意。「かて」は上の「玉くしげ三室の山の」の歌の「ありかつましじ」(三一六頁)及び「あれはもや安見兒《ヤスミコ》得たり」の歌の「えかてに」の項(三一九頁)に委しく述べた。「ぬ」は否定の助動詞。
【歌意】 弓を引くとその本末が寄つて來るやうな具合に、貴方が私を愛して引くとならば、貴方に依りついて靡きもしませうが、將來の貴方のお心がどうなるやら測りかねることですわ。それが只心配でねえ。
 
〔評〕 一旦は情の感激に任せて、無條件に肯諾の意を表したものの、さて又退いて思ひ直して見ると、うかと男の言葉には乘られない。自然的理法によつて、貞操觀念は男子より婦人の方が遙に強い。從つて一時の氣まぐれ業や慰み者ではと、二の足が踏まれるのも道理である。故に卷の十二の歌にも、
  あづさ弓末はも知らず然れどもまさかは君に縁りにしものを  (―2985)
とも見え、異性の誘惑に對しての婦人の第一に感ずろ疑惧は、全く後の心を知りかぬる一點に存してゐる。人情は古今を通じて少しの變りも無い。上の返歌と相俟つて、まことにその心理の推移が興深く眺められる歌である。
 
梓弓《あづさゆみ》 都良絃取波氣《つらをとりはけ》 引人者《ひくひとは》 後心乎《のちのこころを》 知人〔左△〕曾引《しるひとぞひく》  禅師    99
 
〔釋〕 ○つらを 蔓緒の義。蔓《ツラ》は即ち弦のこと。後にはツル〔二字傍点〕と轉じていふ。緒は長く續く物の稱。「絃」は弦の通(326)用。○とりはけ 取り懸けて。「はけ」は古義説の如く令(セ)v佩(カ)の意である。以上初二句は「引く」に係る序詞。○ひくひとは 下にこの句を承ける詞が無いので落着しない。この句に誤が無いとすれば、結句に必ず誤が無ければならぬ。然し三句以下諸本悉くかうなつてゐるのを以て見れば、餘程古くから誤り傳へられたのであらう。○しるひとぞひく この句或は「人」は訛誤で、シリテコソヒケ〔七字傍線〕などあつたのではあるまいか。假に今それに從つて解する。
【歌意】 なに貴方を引く人即ち私は、行末までもと思ひ定めて引くのです。決して一時の浮氣心からではございませんよ。
 
〔評〕 郎女の言葉について調子のいゝ事をいつたので、こんな嬉しがらせは紋切型であり、それだけに眞劔味が稀薄で、聊か文字的遊戲に感情を弄んだ傾向が見える。この歌のみではない、上の二首も少し口舌の末に墮した嫌がある。
 
東人之《あづまびとの》 荷向※[しんにょう+(竹/夾)]乃《のさきのはこの》 荷乃緒爾毛《にのをにも》 妹情爾《いもがこころに》 乘爾家留香聞《のりにけるかも》 禅師    100
 
〔釋〕 ○あづまびと 「あづま」は記紀に見えた日本武尊の吾嬬者耶《アヅマハヤ》の傳説によつて、後世はいはゆる坂東八箇國の稱呼に限られたが、實際にはもつと廣範圍に亙つたものらしい。本集中の東歌には、阪東八箇國の外、遠江、駿河、伊豆、甲斐、信濃、陸奥の歌が收められてある。「東人」はアツマンド〔五字傍線〕、アヅマド〔四字傍線〕、アヅマヅ〔四字傍線〕など(327)何れにも訓まれるが、時代が古いから正しい訓に從ふがよい。○のさき 荷のはじめの義で、荷先《ニサキ》の轉語。「向」は借字。その年に作つた穀物絹布麻等を朝廷に貢するをいふ。さてこの荷前《ノサキ》の初穗を取つて神前に捧げるので、その初穗をも荷前といふに至つた。こゝは前者の意。○はこ この「はこ」は馬背の高荷で、什行李のやうな物らしい。「※[しんにょう+(竹/夾)]」の字は字書に無いが、これは篋〔右△〕の外邊を筆寫の際に書き僻めて※[しんにょうの旧字體、ちゃく]にしたもので、古寫本では異體字として通用する。○にのをにも 荷の緒の如くもの意。「も」は歎辭。この「に」は「栲《タヘ》の穗に」を參照(二七四頁)。○いもがこころにのりにけるかも わが心の上に妹が乘つてゐることよの意。「のる」は添ひ付いてあることをいふ當時の通用語。
【歌意】 東國人が都へ運ぶあの荷前の箱の荷の紐が、しつかりと箱に結び付いてゐるやうに、私の心の中にいつも貴方が添ひ付いていらつしやることよなあ。
 
〔評〕 中山嚴水の説に「荷前は國々より奉る中に、中國北國四國西國は皆船にて難波に着き、又それより舶にて大和まで持運びゆくを、東國は皆馬にて夥しきまで多く引續くれば、殊に『東人の云々』といへるなるべし」と。尤もな説である。但東以外の地方でも、遠隔の陸路は、すべて馬背で荷前を運搬したことは、祈年祭の祝詞の文でも知られるが、こゝに特に東人の荷前に就いて注視したその理由如何と考へると、尚作者が東地方に格別の關心をもつて居たことを認めざるを得ない。作者は素より京人で、信濃の任中などに上京の際、この石川郎女との交渉が起つたと見たい。
 「東人の荷前の筥の荷の緒」、かく特殊な材料を拉し來つて譬喩修飾としたのは、その筥の荷の緒が、朝貢の御(328)用である爲に格別立派に飾り立てられ、可なり人目を惹いたものではあるまいか。江戸期でも、年々の出來秋に貢を積み出すには、馬までお化粧をして、これを飾馬といつたものである。すると驛路《ハユマヂ》を曳き續ける馬子達が訛《タミ》聲の風俗歌《クニブリウタ》も耳につくやうで、往時の在郷氣分が躍如として、この歌の背景を形づくるのである。即ち祈年祭の祝詞に、
  陸《クガ》より往く道は荷の緒|縛《ユ》ひ堅めて、磐根木根踏みさくみて、馬の爪のとゞまる限り、長道《ナガヂ》ひまなく立ち續けて、狹《サ》き國は廣く、峻《サカ》しき國は平らけく、遠き國は八十綱《ヤソヅナ》うち挂《カ》けて引き寄することの如く、――荷前は皇大御神の大前に横山の如くうち積み置きて、云々。 (延喜式の祝詞式)
とあるに符合する情景である。
 下句はあながち珍しい措辭ではない。
  春さればしだるやなぎのとをゝにも妹が心に乘りにけるかも  (卷十――1896)
  この川の瀬々にしく波しく/\に妹が心に乘りにけるかも  (卷十一――2427)
  いさりする海人の楫《カヂ》の音ゆくらかに妹が心に乘りにけるかも  (卷十二―3174)
の如く、當時の常套語であつても、この歌が何となく人を引き付けきる力があるのは、全くこの上句の特異性に由つてであらう。
 以上の禅師と郎女との贈答は、形式が一寸變つてゐる。即ち最初禅師の懸歌一首に始つて、郎女がその返歌を詠み、直ちに又追ひかけて懸歌を詠む。そこで禅師はその返歌を詠み、又更に懸歌となるべきを詠んで居る。かの有名な唐の韓愈と孟郊との城南聯句を見ると、
(329)  竹影金鎖碎(ケ)(孟) 泉音玉淙※[玉+爭](韓) 瑠璃剪(リ)2木葉(ヲ)1(韓) 翡翠開(ク)2園英(ヲ)1(孟) 流滑隨(ヒ)2仄歩(ニ)1(孟) 捜尋得(タリ)2深行(ヲ)1(韓) 遙岑出(シ)2寸碧(ヲ)1(韓) 遠目増(ス)2雙明(ヲ)1(孟)
と連續百餘句に及んでゐる。長短の差こそあれ、この贈答歌は頗るこれに似た形式である。
 尤も天智天皇時代は唐の高宗の末年に當り、韓愈の時代よりは百四十年も前であるから、彼れを學んだのでは勿論ないが、或は聯句の詩體は六朝頃から既にあつて、それを擬したのではあるまいか。唐の太宗と柳公權との聯句は、これと形式こそ違へ有名なものである。但おとなしくいへば和漢偶合と見て置いてよからう。
 
大伴(の)宿禰(が)娉《つまどへる》2巨勢郎女《こせのいらつめを》1時(の)歌一首
 
○大伴宿禰 大伴は氏、宿禰は姓、この人名を安麻呂といふ。難波朝(孝徳天皇の御代)の右大臣大紫大伴|長徳《ナガトコ》の第六子。壬申の役に功あり、大寶三年從三位式部卿となり朝政に參議す、慶雲二年大納言兼太宰帥、和銅七年五月大將軍を兼ね、正三位で薨じ、從二位を追贈された。こゝに名を署せぬのは、この集の書式が大納言以上の人には諱んで書かぬ令制による。○巨勢郎女 この人のことは次の歌の條に述べる。
 
玉葛《たまかづら》 實不成樹爾波《みならぬきには》 千磐破《ちはやぶる》 神曾著常云《かみぞつくとふ》 不成樹別爾《ならぬきごとに》    101
 
〔釋〕 ○たまかづら 玉は美稱。葛《カツラ》は蔓生の灌木類の總稱。但こゝの玉葛は蔦類の一種に屬する物をおもに斥した。挿圖に示したのはそれで、葉は厚く、常緑で、春小花を開き、秋紫黒色の實を鈴成につける。さればこの(330)句は二句の「實《ミ》」にのみかゝる序詞で、「ならぬ」にまではかゝらない。○ちはやぶる 神にかゝる枕詞。眞淵の説に、「ち」はいち〔二字傍点〕の略にて、いち〔二字傍点〕はいつ〔二字傍点〕と通ひて、稜威《イツ》、嚴《イツ》などの意、「はや」は隼《ハヤ》る意、「ぶる」は形容の接尾語とある。強く鋭いその威靈を形容した語であるから、神の善惡に關はらず通じて用ゐるが本義に協ふが、古へは多く、隼《ハヤ》り猛る神や人にいひ續けた。古義は「ち」はタギ〔二字傍点〕の約にて瀧、激《タギ》るなどの如く、猛く烈しき意と解いた。「千磐破」は借字。○かみぞつくとふ 神が取り憑《ツ》くといふの意。「とふ」はといふ〔三字傍点〕の音便約。○ならぬきごとに 實の〔二字右○〕生《ナ》らぬ樹毎にどれにもの意。
【歌意】 實のならぬ樹には、その樹にもすべて變な神樣が取り憑くといふことですぜ。だから貴方も早く身のきまりを付けたらどんなものです。魔がさしますよ。
 
〔評〕 草木崇拜の思想は神代からあつて、久々能智《ククノチ》は木の神、草野《カヤヌ》姫は(野椎《ノヅチ》)草の神であり、柏木には葉守《ハモリ》の神が宿ると信じたのである。で果樹など實の結らぬのを見ては邪神がついたものと感じ、次いでは邪神は實の結らぬ樹につくとも逆説し、時代相応の迷信を作つた。作者はこれを借り來つて、未婚婦人の身上に譬喩し、やゝ脅威的に暗に自分に靡いてくるやうに催促した諷託の手際は、誠に鮮かなものである。結句は二句を反復(331)する形式の偏格で、全然同一の句を用ゐず、多少の變化を求めた處に手腕がある。
 
巨勢(の)郎女(が)報贈《こたふる》歌一首
 
○巨勢郎女 近江朝即ち天智天皇の御代の大納言巨勢(ノ)朝臣|人《ヒト》の女で、後に大伴(ノ)安麿の妻となつた人。安麿の次子|田主《タヌシ》はこの腹である。
 
玉葛《たまかづら》 花耳開而《はなのみさきて》 不成有者《ならざるは》 誰戀爾有目《たがこひならめ》 吾孤悲念乎《わはこひもふを》    102
 
〔釋〕 ○ならざるは 實のならざるはの略。元暦校本その他にミナラズハ〔五字傍線〕と訓んだ本もあるが從ひ難い。○たがこひならめ 誰れの戀でせう、君の戀ではありませんかの意。こそ〔二字傍点〕の係辭が無くて、「め」「らめ」「けめ」など結ぶのは、古代の語法の一格であつて、誤ではない。契沖が「目」をモと訓み、歎辭としたのは鑿説である。○こひもふを 戀ひ思ふもの〔二字右○〕をの意。「もふ」はおもふ〔三字傍点〕の上略。
【歌意】 玉葛が花ばかり咲いて實がならぬと仰しやるのは不思議、そんなはかない戀は一體誰れの戀なのでせう、或は貴方の戀ではありますまいか。私は心から貴方を思つて居りますのにさ。
 
〔評〕 懸歌が皮肉に出て來たので、恐らくそんな輕薄な戀は誰れのでもない、即ち貴方の戀でせうと、此方からも(332)逆襲して當てこすつた鋭鋒は、十分に手答があつた。四五句の對比は餘り親貼に過ぎて、蘊含の味ひが乏しい嫌がある。然し一面から考へると、この場合曖昧模糊の返辭が許されぬ作者の心境であつたかも知れない。即ち判然と眞實を打明けて、決定的に早くこの戀を成立させたい意志が強かつたに違ひない。懸歌の「玉葛」は序詞であるのを、これは直ちに譬喩の材料に轉用した。そこにも作者の才慧を發見し得るであらう。
 近江朝時代に於ては、安麿も郎女も共に若盛りであつたらう。ところが忽ちかの壬申の亂が勃發して、安麿の大伴一家は飛鳥方の御方に參ずるし、郎女の父|人《ヒト》は近江方の闘將として奮戰し、軍敗れて配流に處せられた。新婚後まだ間もない郎女は板挾みの境遇に立つて、定めし苦悶したことであつたらうと、同情に堪へない。
 
明日香(の)清御《きよみ》原(の)宮(に)御宇《あめのしたしろしめしし》天皇代  天渟名原瀛眞人《アメノヌナハラオキノマヒト》天皇
 
天武天皇の御代である。委しくは卷一に既出(九九頁)。
 
天皇(の)賜(へる)2藤原(の)夫人《おほとじに》1御歌《おほみうた》一首
 
天武天皇が藤原(ノ)夫人|五百重娘《イホヘノイラツメ》に下された御歌との意。○藤原夫人 集中にかく書かれた人が二人ある。何れも内大臣鎌足の女で、天武天皇の夫人《キサキ》となられた。姉を氷上娘《ヒガミノイラツメ》、妹を五百重《イホヘノ》娘といふ。こゝは五百重娘のことで、大和の高市の大原に居られたゆゑ、大原大刀自《オホハラノオホトジ》と呼ばれた。新田部皇子《ニタベノミコ》の御母である。○夫人 大寶令の制で(333)は皇后の下に妃二員、夫人三員、嬪四員と見えて、妃は皇族方の女、夫人は三位以上の公卿の女をば擇ばれた。天武天皇の御代は大寶以前ではあるが、紀にも夫人と書いてある。
 
吾里爾《わがさとに》 大雪落有《おほゆきふれり》 大原乃《おほはらの》 古爾之郷爾《ふりにしさとに》 落卷者後《ふらまくはのち》    103
 
〔釋〕 ○わがさと 天皇御自身の御在處の意で、飛鳥の淨見原をいふ。○おほはら 大和國高市郡大原。今小原と稱する。淨御原宮より僅に十餘町の東南で、岡寺の北に當り藤原鎌足の舊居といはれてゐる。大原を藤原京の一稱とする上宮帝王世説の説もあるが、それは誤で、續紀天平神護元年十月の條に「辛未到(ル)2大和高市|小治田《ヲハリダノ》宮(ニ)1、壬申車駕巡2歴(シ)大原長岡(ヲ)1、臨(ミテ)2明日香川(ニ)1而還(ル)」と見えて、その道筋を考へるに、大原と藤原宮とは明かに別處である。○ふりにしさと 舊くなつた里。古里は當時は專ら舊都の地をさしていつた。大原は舊都の飛鳥岡本邊か(334)ら三四町東方に隣接してゐるので、かくいつたらしい。○ふらまくはのち 降らむことは後なるぞ〔三字右○〕の意。「まく」は舊説では未來の助動詞む〔傍点〕の延言とのみいつてゐたが、實はムコト〔三字傍点〕の意で、必ず體言格になるのである。「卷」は借字。
【歌意】 私のゐる飛鳥の里には、こんなに大雪が降つてまことに綺麗です。貴方の住んでゐる大原の古い里などに降るのは、お氣の毒ながらこれから後のことですぞ。
 
〔評〕 ごく親昵の間柄では、一寸いたづらに惡まれ口や、冷かしや、皮肉などをもいひ合ふものである。この御製もさうした遊戲的の輕い御心持である。「大雪」といつたところで、高が大和地方での事だから、草木の風情を面白く見せる程度の深さであらう。それも二三寸降れば大雪である。まづこの實際的事相を掴んでおかないと、この歌の誇張の程度が分らないし、從つて作者の感興の分量が測られない。
 さて今藤原夫人が何かの御事情で、大原のお里に下りて居られたとすれば、天皇はこの折角の雪景色をも一緒に見はやさないでと、殘念なお感じと思慕のお心持とが、混線してお湧きになることは自然であらう。それにつけては、折も折里下りして居られる夫人が聊か癪にお障りになる。癪にお障りなさるにつけては、そのお里の大原を腐《クサ》して、そんな「ふりにし里」などには、結構な雪の降るのは何時の事やらと、厭味を仰しやつて調戲《カラカ》つて見たくもおなりなさる。これらの御心境の推移に頗る興味があり、又その御間柄の御親密さが窺はれ(335)て微笑されるのである。淨見原宮と大原とは大した距離ではないから、雪も降るとすれば一列一帶に降るのは勿論だが、そんなへぼ理屈は一切捨てゝしまつた戲謔的弄意が、却つて桁がはづれて面白いのである。
 天皇の御氣性を書紀には雄拔神武と書いてあるが、既に卷一に「淑き人のよしとよく見て云々」の疊語にもよる諧意の作が見え、茲にまたこの作がある。又紀の朱鳥元年春正月の條に、
  癸卯(二日)。御(シテ)2大極殿(ニ)1而賜(フ)2宴(ヲ)於諸(ノ)王卿(ニ)1、是(ノ)日詔(シテ)曰(ク)、朕問(フニ)2王卿(ニ)1以(テス)2無端事《アトナシコトヲ》1、仍(テ)對言(ニ)得(バ)v實(ヲ)必(ズ)有(ラムト)v賜、於(テ)v是(ニ)高市皇子被(テ)v問(ハ)以(テ)v實(ヲ)對(フ)、賜(フ)2蓁摺《ハリスリノ》御衣三|具《ヨソヒ》、錦(ノ)袴二具、并(ニ)※[糸+施の旁]二十疋、絲五十斤、緜首斤、布一百端(ヲ)1、伊勢王亦得v實(ヲ)、即(チ)賜(フ)2皀《フクリソメノ》御衣三具、紫袴二具、※[糸+施の旁]七疋、絲二十斤、布四十端(ヲ)1。(紀―卷二十九)
  丁巳(十六日)是日問(フニ)2群臣(ニ)1以(テシ)2無端事(ヲ)1、則(チ)當時(ニ)得(バ)v實重(ネテ)給(フ)2綿※[糸+施の旁](ヲ)1。(同上)
など見え、無端事を以て屡ば群臣を試みられた。無端事は釋紀の解によれば何曾《ナゾ》(謎)の類だとある。すると、天皇の強い御氣質の半面には、かうしたユーモアを愛好する餘裕のあらせられた事も認められるので、頗る興味ある史實である。
 
藤原(の)夫人(の)奉(れる)v和《こたへ》歌一首
 
○和歌 既出(一〇七頁)。
 
吾崗之《わがおかの》 於可美爾言而《おかみにいひて》 令落《ふらしめし》 雪之摧之《ゆきのくだけし》 彼所爾塵家武《そこにちりけむ》    104
 
〔釋〕 ○わがをか 我が住む大原の里の岡。○おかみ 大神《オホカミ》の義で、雨雪を掌る龍神である。神代紀に「(伊弉諾(336)尊)斬(リテ)2軻遇突智《カグツチヲ》1爲(ス)2三段《ミキダト》1云々、一段(ヲ)爲(ス)2高※[雨/龍](ト)1」とあつて、その註に※[雨/龍]此(ニ)云(フ)2於箇美《オカミト》1とある。○いひて 言ひ付けての意。「言」を古義に乞〔右△〕と改めたは妄である。○ふらしめし フラセタル〔五字傍線〕と完了態に訓むは非で、こゝは當然過去に訓まねばならぬ。○くだけし 「くだけ」は破片をいふ。「し」は強辭。これを過去の助動詞と見てはならぬ。○そこに 飛鳥の淨見原をさす。○ちり 「塵」は借字。
【歌意】 陛下が飛鳥の里に降つた/\と大層御自慢遊ばす大雪も、實はこの頃わが大原の里の岡に棲む※[雨/龍]《オカミ》に申し付けて、私が降らせましたその雪の破片が、ほんの少しばかり、そちちに散つたので御座いませう。
 
〔評〕 懸歌は「わが里」をいひ、返歌は「わが岡」をいふ。互に在所自慢で張り合はれてゐる。私が神樣に申し付けて降らせたとは、勿體ない言葉のやうであるが、かく常識はづれの點で、狂意が一層強く印象されるのである。「大雪降れり」と威張つて來られたのに對して、「おゝ可笑し、それは此方で降らせた雪のかけらでせう、此方がほん元で」と揶揄一番、巧に先方の鋭鋒をかはしたのみならず、逆に十分打込んで成功した。作者は實に才女であられる。然しながら情味の饒かな點に於ては、懸歌に遠く及ばないやうだ。
 
藤原(ノ)宮(ニ)御宇天皇代《あめのしたしろしめししすめらみことのみよ》 天皇謚(シテ)曰(フ)2持統天皇(ト)1
 
持統文武兩朝の標である。この事既出(一一七頁〕。但次の二首は評語に闡明した如く、天武天皇の御代に屬すべきものであるが、眞淵が、「大津皇子の謀反は天武崩後に露はれた故に、持統の朝に入れたものであらう」と(337)いつたのはよい。○標題の下の細註は例の後人の筆である。
 
大津(の)皇子《みこの》竊《しぬびに》下(りて)2伊勢(の)神宮(に)1上(り)來《きます》時、大伯皇女《おほくのひめみこの》御作《よみませる》歌二首
 
大津皇子が内々に都を拔け出して姉君の居る伊勢神宮に來られて、更に都に上られる際に、姉君大伯皇女の詠まれた御歌との意。○大津皇子 天武天皇の第三子、御母は天智天皇の皇女で、持統天皇の御姉なる大田(ノ)皇女である。天武天皇の十二年二月に始めて朝政を聽き、十四年正淨大貮の位を受け、翌朱鳥元年九月天皇崩じて持統天皇即位し給ふや、十月二日その謀反露はれて囚はれ、翌日|譯語田舍《ヲサダノヤドリ》に死を賜うた。年二十四。紀(卷三十)に「皇子大津(ハ)、天渟原瀛(ノ)眞人天皇(ノ)第三子也。容止墻岸、音辭俊朗、爲(ニ)2天命開別(ノ)天皇(ノ)1所(ル)v愛(セ)、及(ビ)v長(クル)辨《ワキテ》有(リ)2才學1、尤(モ)愛(ム)2文筆(ヲ)1、詩賦之興(ルハ)自(リ)2大津1始(ル)也。」と見え、又懷風藻には「幼年(ヨリ)好(ミ)v學(ヲ)、博覽(ニシテ)而能(ク)屬(ル)v文(ヲ)、及(ビ)v壯(ナルニ)愛(シ)v武(ヲ)、多力能(ク)撃(ツ)v劍(ヲ)、性頗(ル)放蕩、不v拘(ハラ)2法度(ニ)1、降(シテ)v節禮(ス)v士(ヲ)、由(テ)v之(ニ)人多(ク)附託(ス)。云々」とあるのを以て、その風※[三に縱棒]を察することが出來る。
○大伯皇女 大津皇子と同母の姉君で、天武天皇の二年四月、十四歳で齋宮に立たれ、三年十月伊勢に赴任、朱鳥元年十一月罷め、大寶元年十二月薨ぜられた。御四十二。大伯は大來〔二字傍点〕にも作る。
 
吾勢枯乎《わがせこを》 倭邊遣登《やまとへやると》 佐夜深而《さよふけて》 ※[奚+隹]鳴露爾《あかときづゆに》 吾立所霑之《われたちぬれし》     105
 
〔釋〕 ○わがせこ 「せこ」は背子の義で、女から廣く男をさして「せ」といふ。仁賢紀に「古昔(ハ)不v言(ハ)2兄弟長幼(ヲ)1、(338)女(ハ)以(テ)v男(ヲ)稱(ヘ)v兄(ト)、男(ハ)以(テ)v女(ヲ)稱(フ)v妹(イモト)」とある如く、大津皇子は弟ではあるが、なほ兄《セ》といふ。「こ」は親しみ呼ぶ接尾辭。尚「わがせ」を參照(九〇頁)。○やまとへやると 都へ歸してやるとての意。○あかときづゆ 曉露。即ち明時露〔三字傍点〕の連合名詞である。卷十一には「旭時《アカトキ》と鷄は鳴くなり」とあつて、「あかとき」は明るくなる時をさす。平安期には轉じてアカツキといふ。「鷄鳴」は鷄鳴時〔右○〕の意。時の字がなくても、なほ意訓にしかよむ。○し の下、歎辭を含む。
【歌意】 わが愛弟を大和へ歸しやるとて、別れの惜しさに夜が更けて、その出立を見おくりつゝ立つてゐると、曉の露に我が身はひどく濡れてしまつたことよ。
 
〔評〕 この歌の題詞に「竊」とあるの、大津皇子の異圖に關したものであることを物語つてゐる。思ふに大津皇子の逆謀は可なり久しい以前からではあるまいか。紀によれば、天武天皇はその八年五月吉野に行幸の序、皇后(持統天皇)及び草壁、大津、高市、河島、忍壁、志貴の諸皇子達と誓をなされ、諸皇子達は、
 倶|隨《マヽニ》2天皇(ノ)勅(ノ)1而相扶(ケテ)無(カラム)v忤(フコト)、若(シ)自(リ)白v今以後不(ル)v如(クナラ)2此(ノ)盟(ノ)1者(ハ)、身命亡(ビ)之、子孫絶(エム)之。云々。(日本紀卷二十九)
とお答へ申し上げたとある。蓋しかうした誓盟を必要とせられたことは、天皇が何か變亂の豫感を持たれた故に相違ないと思はれる。而してその十二月に草壁皇子が皇太子となられた。當時大津皇子は寵遇威力兩つながら他の諸皇子に超え、もし皇后と草壁皇子との兩宮がおはさぬとしたら、當然皇位繼承の資格を獲得される地位にあつたのである。―高市皇子は長子だけれど母が卑しい―されば草壁皇子の立太子については、心中頗る平かならざるものがあつたに相違あるまい。けれども父帝の嚴としてまします以上は、如何とも策の施しやうもな(339)い。ところが父帝は十四年九月から御不例となられた。この不祥事こそは大津皇子にとつては、素願成就の好機会到來が期待されたことと思はれる。大津皇子の人となりを想見するに、
(イ)天稟が頗る他に優越してゐた。(紀、懷風藻)  
(ロ)文武兩道の達人であつた。(懷)
(ハ)伯父天智天皇に既に鍾愛された。(紀)
(ニ)皇后(持統天皇)の姉君の御子であつた。(紀)
(ホ)謙讓よく人望を吸收した。(懷)
(ヘ)放蕩で法度に拘らなかつた。(懷)
(ト)皇太子よりは年長であつた。(紀、懷)
(チ)既に特に朝政を聽いてゐた。(紀)
条件かう具足しては、久しく人の下に屈してゐるものではない。况やこの火に油を濺いだ人相見の惡戲があつたのだものを。懷風藻に、
  新羅僧行心、解(ス)2天文卜筮(ヲ)1、相(テ)2大津(ヲ)1曰(ク)、皇子(ノ)骨法非(ズ)2人臣之相(ニ)1、久(シク)居(ラバ)2下位(ニ)1恐(ラクハ)不(ラン)v全(ウセ)v身(ヲ)、因(テ)勸(ム)2逆謀(ヲ)1、由(テ)v是(ニ)竊(ニ)蓄(フ)2異心(ヲ)1。
とあるので消息の一半は解せられよう。即ち、貴方は王者の相がある、ぐづ/\して臣節を守つてゐると、却つて禍が身に降りかゝるといふのである。當時人相學は神秘的な外來科學として頗る尊信された時代であるからたまらない。大津皇子非望の決意は愈よこれで固められた次第である。
(340) さて皇子の伊勢下向はどういふ用件であつたか。無論姉君大伯皇女を黨中の人として語らふ必要からであつたらう。一寸考へると、こんな逆謀に婦人は寧ろ邪魔者のやうにも思はれるが、これは皇女の齋宮といふ地位が然せしめたのであらう。元來皇位繼承に就いては當時の信念として、是非とも皇祖皇宗の神靈にまづ了解を得なければならぬとしたことは、疑を容れない。然るに偶ま姉君が齋宮なので、大願成就の祈を秘密に依囑するには、誂向の好都合だつた譯である。
 而して皇子の伊勢下向は何時であつたか。これはこの歌の背景を決定する上に、大事なことである。思ふにそれは必ず事態不穩で、時期が頗る切迫した際と見なければならぬ。とすると、やはり父帝崩御の九月九日前後と見るが至當であらう。否崩御後では必ずあるまいと信ずる。崩御後では大事發覺までの日子が餘りに少いし、殊に觸穢忌服の事によつて神宮參拜が不可能となり、大伯皇女も同樣に祭事に携はれない筈である。故にそれは九月九日以前、天武天皇御大漸の頃ほひと斷ずる。
 さて旅は朝立つのが通例であるのに、この歸路、皇子は何故に曉露に霑れ/\急いで立たれたか。これはその出入を秘密にした故もあらう。又短い日子で往復しようとした故もあらう。蓋し天皇の御重態に朝野擧つて深い愁雲に鎖されてゐる折柄とて、皇子はそつと拔け出して往かれたものと見える。このあわたゞしい、而も一大事を齎しての弟宮の來訪に對して、大伯皇女が滿腔の同情を以て迎へられたことは、こゝの歌二首によつて十分に想像される。この時姉皇女は御年二十六、弟皇子は二十四であらせられた。
 「わがせこを倭へやると」は、姉が弟に對する、極めて打解けきつた親愛の心持から迸つた口氣である。「小夜更けてあかとき露」と稍重複らしくもあるが、その夜深も曉露も、仲秋の夜寒の冷まじい頃であることを思へ(341)ば、そんな夜深に見送りに出、そんな冷い夥しい露に霑れたことは、いかに難儀なことであつたらう。まして尊貴の、而も婦人の御身であるから、愈よこの感じが強まるのである。又「立ち霑れ」が時間をもつので、皇子の歸りゆく後影をやゝ暫く見送つて佇み、衣の霑れるのも忘れて名殘を惜んで居られた、姉弟別離の悲しい場面が歴々として見える。これら情合の温さから出た動作は極めて美しいもので、それをその儘表現されたこの歌は、實に醇の醇なるものである。
 
二人行杼《ふたりゆけど》 去過難寸《ゆきすぎがたき》 秋山乎《あきやまを》 如何君之《いかにかきみが》 獨越武《ひとりこゆらむ》    106
 
〔釋〕 ○ふたりゆけど 私と二人して行つてもの意。○あきやまを 秋山なるをの意。○いかにか どんな風にして。この句舊訓はイカデカ〔四字傍線〕とあるが、さうすると結句は、ヒトリハコエム〔四字傍線〕と訓まなくては調はない。然し奈良時代にはまだ、イカデカといふ語法は行はれてゐなかつた。○こゆらむ 舊訓はコエナム〔四字傍線〕。
【歌意】 姉弟二人で仲よく連れ立つて行つてすらも、物寂しくて往きにくい秋の山路だのに、どんな風にしてまあ、貴方はたつた一人で越えて行かれることであらうかしら。
 
〔評〕 二人に一人を掛け合せて、理詰めにした構想は、一見餘蘊に乏しいやうでもあるが、然し全體の情趣から見ると、いひ知らぬ味ひがある。契沖がこの歌を許して、
  睦ましき御はらからの珍しき御對面にて、程もなく歸らせ給ふ御別には、かくも詠ませ給ふべき事ながら、身に沁むや(342)うに聞ゆるは、謀反のことを聞召して、事のなりもならずも覺束なければ、又の對面もいかならんと思しける御胸より出づればなるべし。
といつたのは、頗る正鵠に中つてゐる。
 飛鳥の都と伊勢神宮との間の道程は、片道が二日路強であるのみか、岩が根のこゞしき山又山で、まことに旅は難澁であつた。それが八月下旬九月初旬の交だとすると、秋の氣分はもう頗る濃厚で、露の繁さや風の冷さや、或は枯れ初めた草木やが、どんなにか旅行く人に苦患と哀愁とを齎したものであつたらう。假令皇子自身は、大事決行の意志に熱し切つて萬事を忘れて居られたとしても、婦人の身たる姉宮としては、どうしてその旅の空を氣遣はずに居られよう。「二人ゆけど」といひ、「いかにか君がひとり越ゆらむ」といふ、何處までも自分と弟皇子とを引離さないで對蹠的に考へ續けて居られる所に、その纏綿たる情緒が見られる。これと類想的の歌で、
  玉かつま島くま山のゆふぐれに獨か君がやま路越ゆらむ  (卷十二―3193)
は理詰めの難がないから優つてゐるかといふと、さうは往かぬ。といふのは肝腎の迫眞力が乏しい。これは絶大なる氣魄を以つて、ひし/\と聽者の心胸に衝撃を與へて止まない。
 さてこの二首を通じて見ると、前のは見送りに出た御自身の上を叙し、後のは旅ゆく弟皇子の上を叙してある。この御姉弟のかくまで親密であつたのは、勿論御同腹の故もあつたが、又對持統天皇、草壁太子の關係にも由つたものと思はれる。御姉弟の御母たる大田皇女は持統天皇の姉君で、早く天武天皇の妃となられたの(343)に、却つて妹君の持統天皇に越えられて正妃になれなかつたその不滿が、この一流の方々の胸中に常に往來してゐたであらう。隨つて持統天皇一派に對する嫉視の結果が、かうした騷動をも生む一因子をなしたらしく思はれるのである。
 
大津(の)皇子(の)贈(れる)2石川(の)郎女《いらつめに》1御歌一首
 
○石川郎女 傳未詳。郎女とは婦人の美稱である。この人或は草壁(ノ)太子(日竝皇子)の後宮の人ではあるまいか、これに就いては、下の「大船の津守がうらに」の歌の評語中に愚考を述べよう。本卷の下に「大津皇子(ノ)宮侍石川女郎云々」とある題詞の下に、元暦校本その他に「女郎字(ヲ)曰(フ)2山田(ノ)郎女(ト)1也」と註してあるのによつて、古義にこゝのをも山田(ノ)郎女であらうと想定したのは粗漏である。あれは宮侍《マカタチ》即ち平安時代にいふ女房のことで、大津皇子の邸の女中だから、わざ/\野中でなど會合するに及ばぬ。
 
足日木乃《あしひきの》 山之四付二《やまのしづくに》 妹待跡《いもまつと》 吾立所沾《われたちぬれぬ》 山之四附二《やまのしづくに》    107 
 
〔釋〕 ○あしひきの 山にかゝる枕詞。(1)古説に、山の脚《アシ》を引くこと裾を曳くが如きよりいふとあるに從ひたい。(2)眞淵は青繁木《アオシミキ》の義、古義は茂檜木《イカシヒキ》の義と解したが、甚だ煩しい。集中に足日木、足日木、惡氷木、足檜木、足檜、足病、足引、足曳、足比奇、蘆檜木、足比木、安思必寄、安之比紀など、記に阿志比紀、紀に脚日木など書かれ(344)てある。(3)或人の説にアシビの木の義で、大和の山にはこの木が多い故に山の枕に用ゐたものとあるが、アシビと馬醉木《アセミ》とは別種の物である。アシビは集中安志批、安之婢と書かれてあるのに、アシヒキの多樣なる書方に、この字面が全然見えないのを見ても、その非なることが頷かれよう。○やまのしづく 山の草木から滴る露をいふ。「しづく」は繁漬《シヅ》くの義。「四附」は借字。○いもまつと 愛人を待つとての意。
【歌意】 もう來るか來るかと焦れつゝ貴女を立ち待つとて、私は山の草木の雫にひどく濡れましたよ。雫にさ。
 
〔釋〕 戀々の情が募つて來ては宮の内にも待ちあへず、あくがれて宮外に出で野外に出で、遂には戀人の辿り來る道を慕つて、もしや逢へるかと山路の繁みにまで彷徨する。けれども詰りは自らに對する氣安めで草臥儲けに終り、只徒らに衣袂を草木の滴露に霑すに過ぎない。まことに戀する人の遣る瀬ない諦め難い胸の悩が、脈打つて聞えるやうな歌である。もしその時刻が露のおく夕暮頃であつたら、いよ/\悲傷の思が深かつたらう。あの桑間濮上の詩と一脈相通ずる響がある。ひたすら「山の雫」を反復強調した所以は、貴女故にはこんな辛苦もして居りますと、恩に著せてその同情を強請したのである。男は強い、然し戀する男は寧ろ女よりも弱いのが常である。
 この歌の體製は、第二句「山のしづくに」が第四句の「立ち沾れぬ」に係るのである。畢竟、妹待つと山の雫に我れ立ち沾れぬの意を、枕詞や反復の辭樣を以て潤色したものであるが、「山のしづくに」を再唱したことは、頗る雫の落つる印象を深からしめる表現法で、その效果的確である。そして音律的諧調をもつた古調に屬する。
 
(345)石川(の)郎女(の)奉(れる)v和《こたへ》歌一首
 
吾乎待跡《わをまつと》 君之沾計武《きみがぬれけむ》 足日木能《あしひきの》 山之四附二《やまのしづくに》 成益物乎《ならましものを》    108
 
〔釋〕 ○わをまつと 私をお待ち下さるとての意。○ならましものを なりたかつたものをの意。「まし」には「時」の制限なく、過去現在未來を通じて用ゐられるが、こゝは「沾れけむ」と過去に聯關して用ゐられてゐるので、やはり過去時に使はれてゐるのである。「益物」は借字。
【歌意】 そんな事と知りましたら、私を待つとて貴方のお濡れなされたでせう、その山の雫になりたかつたものを、さうしたら貴方の御身に親しく附き添ふことが出來ましたのにねえ。
 
〔評〕 貴方の太刀になりたい、帶になりたい、何々になりたいなど、かうした對者の身體に接觸することを目的とする希望は、非常に打解けた親密な心持を表現するものである。その例歌は枚擧に遑ない。それが極端に赴くと、「願(クハ)作(ツテ)2輕羅(ト)1著(カン)2細腰(ニ)1、願(クハ)爲(リテ)2明鏡(ト)1分(タン)2嬌面(ヲ)1」(劉延芝、公子行)などのやうに、綺靡艶冶なものとなる。この歌では、懸歌の「山の雫に立ち沾れぬ」とあるを承けて、貴方の衣の袂に透るその雫になりたいものでしたと、山の雫を欽羨してゐる所、極端に濃厚な嫌味に墮せずして、却つて戀々の情味が深く、且會合の機を失つた怨意が言外に隱然として窺はれる。
 
(346)大津(の)皇子(の)竊2婚《しぬびにあへる》石川(の)女郎《いらつめに》1時、津守連通《つもりのむらじとほるが》占2露《うらへあらはせれば》其(の)事(を)1、皇子(の)御作歌一首
 
大津皇子が石川郎女に密通した時に、津守連通が占を以てその秘密を見あらはしたので、皇子の詠まれた歌との意。〇女郎 金澤本に「郎女」とあるが、畢竟同意の美稱である。○津守連通 津守は氏、連は姓《カバネ》、通は名。この人は續紀に、和銅七年正月、正七位上から從五位下に越階し、その十月美作守となつた由見え、又養老五年正月の詔に、「宜(シク)d優2遊(シ)進學業(ニ)1堪(タル)v爲(ルニ)2師範(ト)1者(ニ)、特(ニ)加(ヘテ)2賞賜(ヲ)1勤(メ)c勵(マス)後生(ヲ)u」とあつて、陰陽頭であつたこの人に、※[糸+施ノ旁]十疋、糸十絢、布二十端、鍬二十口を賜ひ、養老七年には從五位上となつたとある。當時の卜占の名手と見えた。
 
大船之《おほぶねの》 津守之占爾《つもりがうらに》 將告登波《のらむとは》 益爲爾知而《まさしにしりて》 我二人宿之《わがふたりねし》    109
 
〔釋〕 ○おほぶねの 津にかゝる枕詞。大船の泊《ハ》つる津と續ける。泊つるは船の碇泊すること。○つもり 津を掌る者の稱であるが、こゝは氏である。即ち津守連通をさす。○うらにのらむ 占《ウラナ》ひに顯れるをいふ。卷十一に「占正《ウラマサ》にのれ」とあるも同じ語法。「うら」は卜、占、筮などを訓む。うらなひ〔四字傍点〕のこと。○まさしに 正しにの意。形容詞複活用の名詞法に「に」の辭を添へて副詞とした語。「正に」と同じで、卜占上の術語。宣長はこの訓を、卷十四に「武藏野のうらへ肩燒きまさで〔三字傍点〕にも」とあるに據つて、こゝもマサデニ〔四字傍線〕と訓み、「爲」(347)を※[氏/一]〔右△〕の誤としたのは却つて附會である。マサデは正出で、素よりそれも卜占上の述語。「益」は借字。
【歌意】 あの津守奴が占ひに、かういひ顯はされやうとは、豫てからちやんと覺悟の前で、自分達二人は一緒に寢たのであつた。今更何を恐れようぞい。
 
〔評〕 津守通は、續紀によれば卜占の名人と見えた。養老七年までは確實に生存した人であるから、その頃を七十歳と假定すれば、大津皇子の榮えた頃は、彼は三十歳前後の油の乘り切つた時代で、定めしその占ひがよく中りもしたらうから、神占の名聲は一時に高かつたものであらう。で遂に大津皇子と石川郎女との秘密關係をもいひ顯はしたのであらう。然し通常の男女關係ならば、何もわざ/\これを發き立てる無粹を敢てする必要もあるまい。まして皇族方の事であるから、寧ろ憚つて伏せておいて然るべきである。それをしも忍んで通が摘發したといふのは、太だ奇怪である。茲に至つて、相手の石川女郎に就いて、何か黙過し難い理由が存したのではあるまいかと考へさせられる。
 そこで自分は、この次に載つてゐる日竝皇子即ち草壁皇太子の石川女郎に贈られた歌のことを思はずにゐられない。先賢は大津皇子の愛せられた石川郎女と、草壁太子の關係された石川女郎とを、同名異人と解してゐる。その理由は次の歌の題詞の下に、「女郎字(ヲ)曰(フ)2大名兒(ト)1」と細註があるのに、こゝには何も無いからといふのである。けれども次の歌には「大名兒《オホナコ》ををちかた野邊に云々」と、名前が詠み込んであるので、必要上それは石川女郎の字《ナ》であることを説明したに過ぎない。とすると、最早これを異人と斷ずる論據が無くなつてしま(348)ふ。そこで愈よ同人だとすると、この歌がずつと活きて來る、隨つて津守の摘發も大に有意味になつて來るのである。 
 蓋し石川郎女は元から草壁太子の嬖人であつたと思はれる。「束のあひだも我れ忘れめや」と仰せられた程の愛人であつた。然るに郎女はそれを裏切つて竊に大津皇子に走り、「足引の山の雫に」沾れ/\も會合した。ところで草壁太子と大津皇子との御間柄はもとより圓滑でなかつことは、既に上の大伯皇女の歌の條で委しく説明した如くで、頗る面白くない經緯になつてゐた。さうした事情の上に搗てゝ加へて、異母弟ながら皇太子である方の愛人を大津皇子が奪つたとなつては、愈よ事は面倒になつて來る。然し大津皇子は最初からそれも覺悟せぬではなかつた。が戀は盲目で、况やわが才氣に傲つた放縱氣分も手傳つてしまつたのである。題詞の「竊婚」の二字はこれらの消息を語るものと思ふ。津守通はよくいへば正直、惡くいへば便佞阿附の輩で、この秘密を知るや否や、職業の卜占に託して當路に密告したものと想像される。
 かうなると大津皇子の御氣質としては、反抗的氣分になつてやゝ捨鉢的に、そんな事はとつくの昔承知の上でした事だと公言するを憚らなくなる。この歌の露骨な所以も、かうした心理状態から生まれてゐる。懷風藻などに「放蕩不(ニシテ)v拘(ラ)2法度(ニ)1」と書かれたのも、畢竟この事件などがその素因を成してゐるらしく思はれる。
 
日竝《ひなみしの》皇子尊(の)贈(り)2賜(へる)石川(の)女郎(に)1御歌一首  【女郎(ノ)字(ヲ)曰(フ)2大名兒(ト)1也】
 
○日竝皇子 草壁太子の尊稱。傳は卷一に既出(一八七頁)。○石川女郎 上の大津皇子の歌にある石川女郎と(349)必ず同人である。その理由は上に述べた。細註は、石川女郎は大名兒《オホナコ》といふ名であると、歌の初句の爲に説明を與へたのである。「字」は名と同義に用ゐてある。古義には長々しい考説を費してあるが、畢竟無用の辯である。但「大名兒也」の四字、原本に無いのは疑もなく誤脱で、元暦校本その他の古寫本によつて補つた。
 
大名兒《おほなこを》 彼方野邊爾《をちかたぬべに》 刈草乃《かるかやの》 束間毛《つかのあひだも》 吾忘目八《われわすれめや》    110
 
〔釋〕 ○おほなこを この句は二三四の句を隔てゝ、五句の「忘れめや」に續く。○をちかたぬべ 彼方の野邊の意。○かるかやの 刈り取る草の意。「かや」は芒などすべて屋根に葺く料の草を稱する。苅萱《カルカヤ》といふ草の名は後世に生じたものである。さて「をち方野邊に刈る草《カヤ》の」は「束《ツカ》」にかゝる序詞である。茅草など刈るに片手に握んで刈るので、「刈る草の束の間」と續けたのである。〇つかのあひだ、一束《ヒトツカ》の間で、時間の短いのを喩へた。
【歌意】 あすこの野邊で草を握んで刈つてゐるが、その一束といふほんの暫しの間でも、大名兒、お前を私は忘れようか忘れはせぬ。その爲たゆみない苦みに堪へられぬわ。
 
〔評〕 戀人の上が束の間も忘れられぬのは眞實であるが、極めて平凡な類型的の思想である。只この歌の特徴は「大名兒を」の初句に存する。懷かしい戀しい人の名をまづ呼びかけて、縋りつきたい程の遣る瀬ない心持を吐露してゐられるのである。實際戀しさの迫つた場合には、その名を呼んだ瞬間だけでも、多少の慰藉を感ず(350)るものである。然しながら尚序詞など挿入して、迂餘曲折の寄り路をしてゐる點は、明かに作者の御性格のあらはれで、極めて温順な悠長な御氣質であらせられたと想察する。これが政治的にも他の御兄弟即ち高市、大津、新田部皇子達のやうな、花々しい活躍の迹を遺されなかつた所以でもあらう。
 「をち方野べに刈る草の」は單なる序に過ぎないと見ればそれまでだが、何となく野草の狼藉として靡き亂れるやさしい氣分があるので、戀の歌には調和がよいやうに思はれる。必ず皇子が御遊行の際の屬吐で、不用意の間に、當時の都人士の生活が山野に親しみ深いものであつたことを物語つてゐる。
 
幸《いでませる》2于吉野(の)宮(に)1時、弓削《ゆげの》皇子(の)贈2與《おくりたまへる》額田(の)王(に)1御歌一首
 
持統天皇が吉野離宮に行幸の時、弓削皇子が額田王に贈られた歌との意。○幸于吉野宮時 持統天皇の夏の吉野行幸は、その四年五月と五年四月との兩度が紀に見えてゐる。こゝのはその何れとも判定し難いが、成るべくは前度と解したい。時季を夏と斷じたのは、額田王の返歌に時鳥が詠んであるからである。○弓削皇子 天武天皇の第六皇子で、紀に「次(ノ)妃大江(ノ)皇女生(ム)2長(ノ)皇子(ト)與弓削皇子(トヲ)1」とある。持統天皇の七年に淨廣貮の位を授けられ、文武天皇の三年七月薨ぜられた。○額田王 既出(四八頁)。
 
古爾《いにしへに》 戀流鳥鴨《こふるとりかも》 弓絃葉乃《ゆづるはの》 三井能上從《みゐのうへより》 鳴渡遊久《なきわたりゆく》    111
 
(351)〔釋〕 ○いにしへにこふる 昔に戀するの意。古へを〔三字傍点〕といふべき處をかくいふは古文法。○とりかも 鳥なのかしてまあ。この「かも」は疑問的詠歎である。○ゆづるはのみゐ 「ゆづるは」は楪葉《ユヅリハ》の古言。この御井は普通には吉野郡大瀧村|弓絃葉《ユツハ》の峯の麓としてあるが、大和志料には吉野村六田ともある。六田は天武天皇の行在所想定地に近いから、縁由がありげである。「弓絃」及び「三」は借字。○うへより 「うへ」はあたりの意に近く、「より」はをの意に近い。 △地圖 挿圖35を參照(一一〇頁)。
【歌意】 あの鳥は昔にあこがれる鳥なのかしてまあ、處も多いに、この思出深い楪葉の御井の邊かけて鳴き渡つてゆくわ。
 
〔釋〕 作者は今上(持統天皇)の供奉で、秋津離宮に參つたのである。或時父帝(天武天皇)行幸の當時が偲ばれ、楪葉の御井のあたりを徘徊佇立してゐると、何鳥とも知れず、丁度その眞上をかけて鳴き渡つてゆくのを見て、乃ちあれは「古へに戀ふる鳥」との想像を投げた。それは自分が既に懷舊の情に泣きたくなつてゐた折柄を鳴かれたからである。「鳴き」の語が、作者と鳥とを結びつける連鎖即ち字眼となつてゐる。この幽婉な哀感は、全く水淨く山靜かな背景によつて愈よ痛切にされる。もと楪葉の御井が父帝と特別な因縁でもあれば、着想の起因に一層の確實性を帶びる。
 上出の藤原の御井でも山(ノ)邊の御井でも、皆神か皇室かに關係があるので、御井の讃稱が用ひられてゐることを思ふと、この楪葉の御井も天武天皇の吉野行在に何か特殊の由緒があつたに相違あるまい。
 額田王にこの歌を贈つたわけは、王は父帝の嬖人であり、父帝時代の吉野行幸には供奉されたであらうし、(352)かた/”\最もよく今の作者の深い氣持に共鳴し同情し得る人と見られたからであらう。勿論この度の行幸には王は京に留つて居られたのである。前朝追憶の情は、今囘のお供に外れた額田王によつて、一層餘計にあふられる感がある。
 
額田(の)王(の)奉《まつれる》v和《こたへ》謌一首   從(リ)2倭京《ミヤコ》1進入《マヰラス》
 
○從倭京進入 この細註も後人の所爲だが、元暦校本、金澤本その他多くの古寫本に見える。意は、弓削皇子の吉野からの贈歌に、額田王は藤原京から返歌を差上けられたといふこと。
 
古爾《いにしへに》 戀良武鳥者《こふらむとりは》 霍公鳥《ほととぎす》 蓋哉鳴之《けだしやなきし》 吾戀流其騰《わがこふるごと》    112
 
〔釋〕 ○いにしへにこふらむとりは 皇子の聞かれし〔七字右○〕の語を、上に補つて見るがよい。○ほととぎす 時鳥にしてその時鳥が〔八字右○〕の意。時鳥は本集中その鳴聲を擬音的に種々な文字で書き表はしてゐる。茲には「霍公鳥」とあるが、これも鳴聲を以て表した名稱とすると、郭公と同一物になる。ホトトギスとカクコウとは全然鳴聲が違ひ、隨つて別な物である。然し古人が誤つて霍公鳥を時鳥に充てたのだから、矢張ホトトギスと訓むより外はない。時鳥は成郡記(紫桃軒雜綴所引)に「杜宇――從(リ)v天而降(リ)、好(ンデ)2稼穡(ヲ)1、教(ユ)2人(ニ)務(ムルコトヲ)1v農(ヲ)、號(ク)2望帝(ト)1、死(シテ)其魂化(シテ)爲(リ)v鳥(ト)名(ヅケテ)曰(フ)2之(ヲ)子規(ト)1」など見え、その他末説の派生が多い。○けだし(353)やなきし 蓋し古へに戀ひあこがれて鳴いたのかの意。「や」は疑辭。○わがこふるごと 私が昔を戀ひ慕ふのと同じやうにの意。「ごと」は如く〔二字傍点〕の中止形だから、「吾が戀ふる如《ゴト》蓋しや鳴きし」と、上に反つて續く格である。「其」にゴの音は今はないが、期《ゴ》の字の呉音がゴであるから、「其」にもゴの音があつたのであらう。
【歌意】 貴方がお聞きなされたといふ、昔にあこがれて鳴くその鳥は時鳥で、大かた私が昔を戀ひ偲ぶやうに、やはり昔にあこがれて鳴いたのかと思はれます。
 
〔評〕 贈歌の「古へに戀ふる鳥」を答歌で時鳥としたのは、季節相應の面白い推斷である。この行幸は前述の推測にして誤なくんば丁度五月で、おのがさつき〔六字傍点〕と呼ばれるほど、時鳥の鳴きさかる時期である。しか昔を戀ひ啼く鳥は時鳥の外にはないからである。支那の傳説では蜀の望帝(杜宇)の魂魄がこの鳥と化し、生前の故郷を偲んで不如歸と啼くといはれてゐる。これ即ち古へに戀ふる鳥である。古今集の、
  むかしへや今も戀しきほとゝぎす故里にしも鳴きて來つらむ  (夏部)
も同一の典故から生まれた双生兒である。かうした本據があるからこそ、作者は一向猶豫なしに「古へに戀ふらむ鳥」は時鳥だと、決定的に力強く叫んだものである。然し最後に至つて「わが戀ふるごと」の一句を敢然と下して、急角度の轉囘を試み、昔を戀ひ啼くのは自分の方が本家であるやうに取成した、その口吻の自在さ狡猾さ、實に驚くべき奇手を出したものである。
 作者は天武天皇の後宮諸嬖人の中で最も年嵩で、久しい關係を持續された方と思はれるから、先帝を戀ひ偲ぶことに就いては、決して一歩も他に遜るものではない。されば若い弓削皇子に對して、それは時鳥ぞと教(354)へ、私のやうにその鳥は啼いたのでせうと、うけばつて主張するところが、作者自身の地歩を占め得て、頗る面白いと思はれる。
 「蓋し」の語は平安朝以後は歌語から排斥されて、文語としてのみ存在した。多くの場合平凡なる説明的想像に墮し勝なのと、音調のドギツイ爲とで、自然に淘汰されたものであらう。
 
從《より》2吉野1折(り)2取(りて)蘿生《こけむせる》松(が)柯《えを》1遣《おくりたまへる》時、額田(の)王(の)奉入《たてまつれる》歌一首
 
弓削皇子〔四字右○〕が吉野から蘿の生えた松の枝を折り取つて額田王に贈られた時、額田王が上げられた歌との意。○蘿 和名抄に「松蘿、一名女蘿、和名|萬豆乃古介《マツノコケ》一(ニ)云(フ)佐流乎加世《サルヲカセ》」と見え、又|垂苔《サガリゴケ》ともいふ。○遣時 弓削皇子〔四字右○〕の遣り給へる時で、上の題詞を承けてこゝは主格の語を略いたのである。「奉入」の入〔傍点〕は添字で讀まぬ例である。
 
三吉野乃《みよしぬの》 玉〔左△〕松之枝者《やままつがえは》 波思吉香聞《はしきかも》 君之御言乎《きみがみことを》 持而加欲波久《もちてかよはく》    113
 
〔釋〕 ○やままつ 「玉松」の字に從へばタママツ〔四字傍線〕と訓むべきであるが、宣長説に「玉は山〔右△〕の誤、草書にては山と玉とよく似たる故なり。玉松といふ語あることなし。後世のにはあれど、さはこの歌に據れるにて誤なり」と(355)あるのは妥当と思はれるので、證本も一つも無いが、姑くヤママツと訓んでおく。○はしきかも 愛《ハ》しきことよ。「はし」は可愛いの意。○かよはく 通ふ〔傍線〕の延言で、體言格である。「知らなく」を見よ(四四五頁)。
【歌意】 さてもこの吉野の山松の枝は、かはゆいことよ。懷かしい弓削皇子樣のお言葉を持つて、私の處へ通うて來ることわ。
 
〔評〕 小さな贈遣の物を草木の枝葉に附けて持たせやることは、わが舊い習俗であつた。「みことを持ちて通はく」とあるので見ると、弓削皇子は垂苔の附いた松の枝に書簡を結ひ附けて、使を以て出先の吉野から京にゐる額田王に贈られたのである。額田王はこれを受け取ると、直ちにこの歌を詠んで返辭がはりに送つた。歌は松が枝を擬人して、懷かしの君の文使を勤めて來た松が枝は頗るうい奴だ、と褒め立てたのである。かういふ意味での山苞の賞翫は、間接に弓削皇子の御言を珍重したことに當る。洵に折柄にふさはしいその體を得た取成し方で、才慧驚くべきではないか。非情の物をも有情に扱ふことからして、優しい情合の籠つた、婦人らしい情緒がほの見えて、ゆかしい感じがする。上句の意を下句で解説した體で、三句切れの二段構成は、この時代に於いては異體に屬する。
(356)但馬皇女《たじまのひめみこの》在《いませる》2高市《たけちの》皇子(の)宮(に)1時、思《おぼして》2穗積《ほづみの》皇子(を)1御作歌一首
 
但馬皇女が御兄高市皇子の宮人で居られた時、おなじ御兄の穗積皇子を慕うて詠まれた歌との意。○但馬皇女 天武天皇の皇女で、母は夫人|氷上娘《ヒガミノイラツメ》(藤原不比等の女)であつた。位三品に至り、和銅元年六月に薨ぜられた。○高市皇子 天武天皇の皇子で、草壁皇子の御兄、母は尼子(ノ)娘《イラツメ》。壬申の戰役に大功あり、持統天皇の四年七月太政大臣となり、後封戸五千戸を賜ひ、淨廣壹に叙せられ、十年七月薨ぜられた。卷末の題詞に「高市皇子尊殯宮之時」とあつて「尊」の敬稱を用ゐてあり、紀にも「後(ノ)皇子(ノ)尊薨(レヌ)」と見え、又その「殯宮之時歌」の作者人麻呂の歌意を討ねると、かた/”\皇太子に立たれたことが頷かれる。但こゝの題詞には尊の字がない。これは高市皇子がまだ皇太子に立たぬ頃の出來事と思はれる。○穗積皇子 天武天皇の皇子、母は大〓《オホヌノ》娘(蘇我赤兄の女)である。慶雲二年九月知太政官事、靈龜元年一品に叙せられ、同七月薨去。以上お三方皆異腹の御兄弟である。
 
秋田之《あきのたの》 穗向乃所縁《ほむきのよれる》 異所縁《かたよりに》 君爾因奈名《きみによりなな》 事痛有登母《こちたかりとも》    114
 
〔釋〕 ○ほむきのよれる 穗向の寄れるの意。稻の穗の向は一方に寄り靡くものゆゑ「片寄り」にかゝる序詞に用ゐた。「縁」は借字。○かたより 片寄る、即ち偏すること。「異」をカタと訓むは意訓。○きみによりなな 君に依りなむといふに同じい。「む」の助動詞を「な」と轉じいふ例は、「家聞かな〔傍点〕名のらさね」(卷一)「潮もか(357)なひぬ今は漕ぎ出でな〔傍点〕」(卷一)「岡の草根をいざ結びてな〔傍点〕」(卷一)など、本集中には頗る多い。「因」は借字。○こちたかりとも うるさく人にいひ騷がれようともの意。「こちたかり」は言痛《コトイタ》くあり〔三字傍点〕の約。物いひの甚しきをいふ。「事」は借字。
【歌意】 秋田の稻穗の一方にのみ片寄り靡くやうに、私も一途にもうあの方にたよりませう、たとひ世間の人にうるさくいひ騷がれようとも、そんな事は構はずにさ。
 
〔評〕 作者は最初から世間といふものを一切無視してかゝつてゐる。何が何でも構はずに猪突して君に憑らうといふ、恐ろしい戀である。茲に至つて但馬皇女對高市、穗積兩皇子の三角關係を思はざるを得ない。このお三人は母君が各違ふのである。既に前にも述べた如く、古へは異腹の兄妹の結婚は許されてゐた。それで但馬皇女は夙く高市皇子の宮人となつて居られたのである。その事は題詞に「在高市皇子宮時」と特記してあるのが十分證明してゐる。單に但馬皇女と穗積皇子との關係をいふのみならば、この一句は全く不用で、只但馬皇女思(シテ)2穗積皇子(ヲ)1御作歌とあれば澤山である。尚次々の歌の題詞にも、「竊接……事既形而……」(358)などある書體を併せ考へれば、自らこの間の消息が想察されよう。さてさうとすれば、但馬皇女は高市皇子宮人でゐながら、更に若い穗積皇子に通じたわけで、「こちたかりとも」が、普通あり觸れた情事關係から蒙る漫然たる世上の非難ぐらゐな、そんな生やさしい人言でないことは、勿論皇女は十分に豫想されてゐる。然しそれらの激しい非難も危惧も顧慮してゐられぬやうな熱烈な戀は、感情に根強い婦人にして特によく出來るのである。尚「穗向のよれる」の序は暗に穗積皇子のお名から聯想したらしい。何でもかでもあの人でなくてはといふやうな、作者の一本氣の眞劍さが、この一句でもよく想像されるではないか。しかも寄り〔二字傍点〕の語の三疊は、この意味において最も効果的な表現である。この歌卷十に再出してゐる。
 
勅(りて)2穗積(の)皇子(に)1、遣〔左△〕(はさるゝ)2近江(の)志賀山寺《しがやまでらに》1時、但馬(の)皇女(の)御作歌
 
穗積皇子に勅があつて、近江の志賀山寺に蟄居を命ぜられた時、但馬皇女の詠まれた歌との意。○志賀山寺 近江國滋賀郡南滋賀村の崇福《スフク》寺のこと。天智天皇の勅願によつて、その大津宮の所在地の西北十町の地に建てられたのである。志賀山脈の最北、山中越の東口の谷に、今も金堂その他の遺址が存在してゐる。○遣 原本に遺に作るは誤で、元暦校本その他多くの古寫本によつて訂した。
 
遺居而《おくれゐて》 戀管不有者《こひつつあらずは》 追及武《おひしかむ》 道之阿曲爾《みちのくまわに》 標結吾勢《しめゆへわがせ》    115
 
(359)〔釋〕 おくれゐて 貴方に立ち後れてゐての意。○つつ 「管」は借字。○あらずは あらむよりはの意。「ず」は否定ではなく、佐變動詞の「す」の音便で濁つたもの。○おひしかむ 追ひ付かう。「しく」は及ぶの意。○くまわ 曲り角をいふ。古義の訓はクマミ〔三字傍線〕。「しまわ」を參照(一六八頁)。○しめゆへ しるしを付けよの意。「しめ」は占《シメ》の義で、その占領の印たる標、又は標記の類をいふのが本で、一寸した印物《シルシ》をもいふ。標に結ふといふ故は、もと物を結んで印《シルシ》としたからのこと。
【歌意】 私一人あとに殘つてゐて、戀しさにくよ/\してゐようよりは、いつそ君のおあとを慕つて追ひ付きませう。だから道の曲り角毎に、しるしを付けて置いて下さいませ。
 
〔釋〕 穗積皇子が志賀山寺に放たれたことは、但馬皇女との關係が暴露した爲、兄君たる高市皇子のお怒に觸れ、一まづ蟄居を命ぜられたものである。それには二人の御仲を割く目的もあらうし、場合によつて事が嵩じると、或は出家を命じようといふ下組もないではなかつたらう。かうなると片相手たる皇女は針の筵に坐する心地で、終に來たるべき暗い運命を豫想し、頗る危惧の念に驅られたらう。さうして一面に又思慕戀々の情は、堰かれる程餘計に昂進する。さあ居ても起つても居られなくなる。これ穗積皇子の後を追つて家出をしようかといふ考も起された動機である。
 野山などに分け入るのに、道のわからぬ處は、先行者が草木を結び或は枝などに印をつけて行く、これが所謂「標ゆふ」で、平安時代にいふ栞《シヲリ》である。「道のくまわに標ゆへ」はいかにも婦人らしい口吻である。穗積皇子はいづれ公道を護送されたものと思はれるが、それを皇女は遊山の折などに經驗した「標」を聯想して、嫌(360)疑の罪人には出來もせぬ「標ゆへ」を希望し要求したことは、もう現實も理性も忘れて、感情一偏に走つてゐるものである。その上「わがせ」の呼びかけに、只管他に縋らう寄りかゝらうとする婦人の特性がまざ/\と見えて、戀にこそ強けれ、事には弱い作者の性格をよく暴露してゐる。結句の四音三音の構成も、この急迫した場合によく適應した調子である。
 さて穗積皇子も但馬皇女も、かうした苦患の道を一度は通つたけれども、紀によつて見ると再び榮えて、皇子は知太政官事にまで昇つて居られる。蓋し高市皇子は持統天皇の十年に薨去されたので、自然餘温がさめてお咎めがゆりたものと思はれる。
 
但馬(の)皇女(の)在《いませる》2高市(の)皇子(の)宮(に)1時、竊《しぬびに》接《あひたまへる》2穗積(の)皇子(に)1事|既形而後《あらはれてのち》、御作歌一首
 
但馬皇女が高市皇子の宮に居られた時、穗積皇子に密通された事が露顯してから詠まれた歌との意。○竊接 この事實は、上掲二首の歌の趣によつて明かである。
 
人事乎《ひとごとを》 繁美許知痛美《しげみこちたみ》 己母〔左△〕世爾《おのがよに》 未渡《いまだわたらぬ》 朝川渡《あさがはわたる》    116
 
〔釋〕 ○ひとごと 人言、即ち世間の人の取沙汰をいふ。「事」は借字。○しげみこちたみ 繁さにうるささにの意。かく形容詞の語根に「み」を添へると、何々の故に、何々さに等の意を表はす。○おのがよに 自分の一生に。類聚古集、元暦校本その他の古寫本に、多くは「母」の字が無いので、それに從つた。○あさがは 朝(361)の川。淺川と解する説はわるい
【歌意】 穗積皇子との關係について、世間の人の取沙汰のやかましさうるささに、かうして逃げ出して、自分のこれまでの生涯に嘗て經驗のない、こんな朝川を渡ることよ。あゝつらいこと。
 
〔評〕 「しげみこちたみ」といつた漸層の辭樣は、ひどく情感の激した、いらだたしさを表現してゐる。世間の非難などは最初から覺悟の前で、「君によりなゝこちたかりとも」など放言はしてみても、愈よそれが實際となると、とても我慢はならぬ。既に「おくれゐて戀ひつつあらずは追ひ及かむ」と浮腰で熱狂してゐる所へ、世間からはわい/\いひ騷がれ、戀しい寂しいつらい悲しいの混線となつては、もうぐづ/\しては居られぬ。希望は實行に轉ずるより外はない。そこで高市皇子の後宮を脱け出して、やむごとない御身に、いまだ經驗せぬ朝川を渡ることゝなる。「いまだ渡らぬを渡る」とは、そのよく/\なことを象徴した辭樣で、物馴れぬ辛苦さを力強く表現してゐる。然しそれ程の苦しさわびしさの中にありながら、思ふ人の爲には聊かもそれを悔とせぬ心持が、言外に強く動いてゐるのは、眞劔な戀に直進する人の本當の姿である。
 
舍人《とねりの》皇子(の)御歌一首
 
○舍人皇子 天武天皇の皇子で、淳仁天皇の御父にまします。御母は新田部皇女。一品知太政官事となり、天平元年十一月薨去された。日本紀編輯の總裁。古義は「御歌」の上に贈(リタマヘル)2舍人(ノ)娘子(ニ)〔四字右○〕1の五字を脱として補つた(362)が、次の返歌と對照して察すれば、首肯すべきである。
 
大夫哉《ますらをや》 片戀將爲跡《かたごひせむと》 嘆友《なげけども》 鬼乃益卜雄《しこのますらを》 尚戀二家里《なほこひにけり》    117
 
〔釋〕 ○ますらをや 「や」は反動辭。「大夫」は丈夫のこと。既出(四〇頁)。○かたごひ 片思ひ。○なげけども 「友」は借字。○しこのますらを この厄介な益良雄めといふ程の意で、自嘲の激語である。「しこ」は惡み嫌つて罵る詞で、醜女《シコメ》、醜時鳥《シコホトヽギス》など用例がある。「鬼」は醜〔傍点〕の寫字上の略字である。「卜」は借字。「家里」は戲書。
【歌意】 あつ晴れ男一匹、何の意氣地のない片思などをしようか、決してそんな間拔な眞似はすまいと慨歎してみるが、さてこの厄介な盆良雄《ヲトコ》めは、やはり貴女に對して片思をして居りますわい。
 
〔評〕 戀心のたゆみは、折々反省することがある。それも相思の戀ならともかく、片思ではまことに詰らない。やめにしようと理性は抑へる。けれどもさう考へる傍から戀しさはひし/\と迫つて來て、折角醒ましかけた理性を破壞してしまふ。かうなると自分ながら自分に愛想が盡きる。「しこのますらを」と罵倒してみても、畢竟それは天に向つて唾吐くと同樣だから、實に笑止千萬である。
 さてこれは娘子に贈つた歌であるから、私はか程に貴女を慕つてゐますものを、可愛さうと思つて下さいとの餘意を自然含むのである。苟も男一匹、これ程までに自己を投げ出して屈辱を甘んじての絶叫も、戀なれば(363)こそで、痴情と嘲るにはすごいまでの眞劍さである。荒削りの力作。
 
舍人(の)娘子(の)奉v和《こたへまつれる》歌一首
 
○舍人娘子 傳未詳。「舍人は氏ならむ」と古義はいつた。或は舍人皇子と關係があつたので、さう呼びなされたものかも知れない。
 
歎管《なげきつつ》 大夫之《ますらをのこの》 戀禮〔左△〕許曾《こふれこそ》 吾髪結乃《わがもとゆひの》 漬而奴禮計禮《ひぢてぬれけれ》    118
 
〔釋〕 ○こふれこそ 戀ふれば〔右○〕こその意。かくいふは古代の文法。「戀禮」は原本に戀亂〔右△〕とあつて、二句からマスラヲノコヒミダレコソ〔十二字傍線〕と契沖は訓んだが、金澤本、温故堂本、その他の古寫本に「戀禮」とあるに從つて、本文の如く訓むべきである。○もとゆひ 髪の本取を結《ユ》ふ紐。紫などの打紐を用ゐる。契沖は髪の事としたが當らない。「髪」は或は髻〔右△〕の字の誤で、髻結をモトユヒと訓ませたのではあるまいか。○ひぢてぬれけれ 漬ぢて濡れたの意。又「濡れひづ」(卷三)ともいふ。「ひぢ」は上二段活用動詞「ひづ」の第二變化で、水浸しになること。「ぬれ」は一解に、和らかにくた/\となることをもいふ。これによつて三句以下をワガユフカミノツキテヌレケレ〔十四字傍線〕と訓んで、髪を取上けて結へども結へども、ぬれ/\と締りのなくなる意とする説もあるが、「髪結」をユフカミと轉倒(364)に訓むことは無理であらう。
【歌意】 いかにも立派なますらをの貴方が、溜息つき/\戀ひ慕つて下さるからこそ、私の元結がひた/\に濡れました。あり難い事と思ひますわ。
 
〔評〕 「人に戀ひ慕はれると元結が濕《シメ》る」などいふ諺が、當時あつたのを、更に誇張して「漬ぢて濡れ」たといつたものだ。これは只元結の濡れたといふ報告ではない。かうした返歌をしたことは、即ち舍人皇子の戀を感謝し、それに理解と同情とをもつた結果であることいふまでもない。更に立入つて想像を逞しうすると、皇子と娘子との戀は、實は既に疾くより成立してゐたのではあるまいか。皇子はその遣る瀬ない戀心から、娘子の態度を頗る冷淡だといふ風に思ひ込み、只自分一人だけが熱烈に思つてゐるかのやうに感じて、當てつけの氣持で片戀といはれたのではあるまいか。それは戀する人には常にあり勝な愚癡である。
 
弓削《ゆげの》皇子(の)思《しぬびて》2紀《きの》皇女(を)1御作歌四首
 
弓削皇子が紀皇女を戀うて詠まれた歌との意。弓削皇子の傳は既出(三五〇頁)。○紀皇女 積穗皇子の同母妹で、弓削皇子には異母妹に當られる。何れも天武天皇の御子達である。
 
芳野河《よしぬがは》 逝瀬之〔左△〕早見《ゆくせをはやみ》 須臾毛《しましくも》 不通事無《よどむことなく》 有去勢濃香毛《ありこせぬかも》    119
 
(365)〔釋〕 ゆくせをはやみ 水の瀬が走る早さに。「はやみ」の語に對しては「ゆく瀬を〔右△〕」と係るのが正しい。現存の古寫本以下悉く「之」となつてゐるが、橘守部のいふ如く、乎〔右△〕の誤寫と見たい。「見」は借字。○しましくも シマラクモ〔五字傍線〕と訓んだ由豆流《ユヅル》の説も惡くないが、尚「之麻思久母《シマシクモ》獨ありうる」(卷十五)「思末志久母《シマシクモ》見ねば戀しき」(卷十五)などの用例があるので、これもさう訓むがよい。○よどむ 「不通」を意訓によむ。○ありこせぬかも 「こせ」を下二段活用の動詞こす〔二字傍点〕の第一變化とし、「ぬ」を否定の助動詞として、アツテクレヌカナアと譯した新考の説に姑く從ふ。古義は「こせ」をこそ〔二字傍点〕と同語で希望の辭、「ぬ」を命令辭のね〔傍点〕の轉語と説いたが、「秋の夜の百夜《モヽヨ》の長くありこせぬかも」(卷四)「朝ごとに見るわが宿の撫子の花にも君はありこせぬかも」(卷八)「言《コト》とくは中はよどませ水無河絶ゆちふことをありこすなゆめ」(卷十一)などの例から類推して、新考の説を妥當と見る。「巨勢」は地名を借用したので、「芳野河」に對へた戲書。「濃」は呉音ノウ〔二字傍点〕の轉音で、ヌの音に用ゐた。
【歌意】 吉野川の川瀬の早さに、寸時も水の淀むことのないやうに、わがこの戀が少しも障ることなくあつてくれないものかなあ、どうかさう都合よく運んでほしいものだ。
 
〔評〕 この歌を釋して代匠記には、「吉野川の水は瀬の早きに依りて、暫くも絶ゆる事なき如く、我が人を思ふ心も波の早瀬に劣らぬを、など逢ふことのよどみ勝なるらむ。あはれ彼の水の流れつゞくやうに、逢ひ見ることも繼ぎてあらばやとなり」とあり、古義の解も大體同樣であるが、かく會合を主とするやうな解は妥當を缺いてゐる。作者が既に皇女に逢つたのならば、成程この場合「ありこせぬ」は會合その事が主となるであらうが、(366)後々の諸作から兩者の關係を推斷すると、この兩人は遂に相逢ふに至らなかつたと思はれる。(大船のはつる泊の歌の評下參照)。して見ると當然これは、皇子御自身の戀々の情そのものが主とならざるを得ない。即ちとんとん拍子に事がうまく運んで、あの懷かしい皇女に逢ひたいものだなあと、熱望されたものと見ねばならぬのである。その吉野川を拉し來つて譬喩に用ゐたのは、作者が常に吉野通ひに眼馴れて印象深いからの事で、實感を出す上に頗る効果がある。
 
吾味兒爾《わぎもこに》 戀乍不有者《こひつつあらずは》 秋芽之《あきはぎの》 咲而散去流《さきてちりぬる》 花爾有猿尾《はなならましを》     120
 
〔釋〕 ○こひつつあらずは 戀ひつゝあらむよりはの意。既出(三五九頁)。○あきはぎ 萩は秋咲く花であるからいふ。○さきてちりぬる 「散りぬる」が主で、「咲きて」は極めて輕い意で添へた。○はなならましを 花でありたいものを、花でないのが口惜しいとの意。即ち「まし」の本格的用法で、事實に反したことを假設想像するので、從つて遺憾の心持が生じて來るのである。「猿」をマシと訓むことは既出(三一〇頁)。
【歌意】 あの皇女にかう戀ひ焦がれて苦しみ通さうよりは、自分はいつその事、咲いてすぐ散つてしまふこの萩の花でありたいものを、さうはかなく散りも失せぬのが却つて口惜しいことだ。
 
〔評〕 この歌は、本卷々首なる磐姫皇后のお作と傳へらるゝ、
     かくばかり戀ひつゝあらずは高山の磐根しまきて死なましものを   (一86)
(367)とその歸趨を同じうしてゐる。たゞ、「高山の磐根」は甚だ矯激であるが、これは幽恨の情味が頗る濃厚に漂うてゐる。蓋しこれは譬喩の叙法を執つたことが、その因を成したのである。否かうした叙法を執るといふことからして、既に多少のゆとりの存することが看取されるのである。即ち戀の爲に頗る感傷氣分になつてゐる折も折、ほろ/\と散る萩の花を見て、直覺的に死の暗示を得たやうな氣がして、かく歌つたのである。「高山の」は自發的に死を欲し、これは誘發的に死を懷つた。そこに兩者緩急の差を生じてくる。然しいづれにせよ死にたいといふ者は、却つて生に甚しい執着をもつもので、飽くまで戀を棄て得ない矛盾が、窮りない煩悶の響を傳へてゐる。
 
暮去者《ゆふさらば》 鹽滿來奈武《しほみちきなむ》 住吉乃《すみのえの》 淺香乃浦爾《あさかのうらに》 玉藻苅手奈《たまもかりてな》    121
 
〔釋〕 ○ゆふさらば 夕にならばの意。舊訓のユフサレバ〔五字傍線〕では、二句の「來なむ」に對して文法上の時が合はない。「ゆふさりくれば」を參照(一七八頁)。○しほ 潮のこと。「鹽」は借字。○あさかのうら 攝津志に、住吉郡船堂村に淺香(ノ)丘《ヲカ》を出してある。その西方前面の海濱が淺香の浦なので、今は盡く陸地となつて、その西端に堺市がある。○かりてな 「てな」はてむ〔二字傍点〕にほゞ同じい。この「な」の解は既出(一一頁)。△地圖 挿圖78を參照(二四一頁)。
【歌意】 夕方になつたら汐がさして來るだらう、だから今汐の干てゐるうちに、早くこの住吉の淺香の浦で玉藻を刈らうよ。逡巡してゐると意外な障碍が起らう、だから早くあの懷かしい人を手に入れたいな。
 
(368)〔評〕 當時の淺香の浦は遠淺の入江であつたらしい。この歌は單なる遊覽の作とも見れば見られるが、汐干の潟に玉藻を刈ることは海人の所作で、この作者のやうな貴人のなさる事ではないし、殊に題詞に照し合はせて見ても、そこに譬喩の意が認められるのである。即ち紀皇女を玉藻に、事の障礙の生ずるのを夕汐の滿ち來るに喩へて、藻は汐のこぬうちに刈る如く、邪魔の入らぬうち一刻も早く手に入れたいものとの意で、諷託に生ずる蘊含幽婉の味ひに不可説の妙がある。かく皇子の焦慮されたことは、他に有力な競爭者の現はれて來る豫感、否既にその競爭者の出現があつたからだと思はれる。この皇女は由來艶聞が絶えない方であつたらしい。
 前に芳野川をひき、こゝに淺香の浦の玉藻を諦視してゐる。それが決して想像からの修飾とのみは思はれない程の切實味に終始してゐる。恐らく東西行旅の間にも尚忘れ難い力強い、戀の焦燥を物語るものであらう。
 
大船之《おほふねの》 泊流登麻里能《はつるとまりの》 絶多日二《たゆたひに》 物念痩奴《ものおもひやせぬ》 人能兒故爾《ひとのこゆゑに》      122
 
〔釋〕 ○はつるとまり 船の往きついて碇泊する處の意。船泊《フナドマリ》は船が風波の難を避け得るやうに灣入した場處であるから、船は穩かにのたり/\と動く。○たゆたひに 「たゆたひ」は躊躇する、グズグズする意。舟や波の上では靜に動搖するにいふ。「に」はの如く〔三字傍点〕の意。「栲《タヘ》のほに」を參照(二七四頁)。「絶」は借字。○ひとのこゆゑに 他人の愛人ゆゑにの意。こゝの「ひとの」は人の親、人の子の類の輕い詞ではない。「兒」の解は既出(一○頁)。
【歌意】 大船が船《フナ》がかりする泊でゆた/\するやうに、自分はこの頃ふら/\と人妻ゆゑに物思を續けて、身も(369)痩せ細つてしまつたことよ。
 
〔評〕 片思に思ひ續けてゐた女に夫が出來ても、尚その妻戀を棄てかねて、身も痩せる程煩悶する。その愚さ未練さは自分でも知らぬではない。然しそれをどうすることも出來ぬのが、戀する人の弱味である。「人の兒ゆゑに」の語は實に沈痛血を吐く底の一語である。卷三に「紀(ノ)皇女(ノ)薨後、山前(ノ)王代(リテ)2石田(ノ)王(ニ)1作《ヨメル》之」の歌によれば、石田王が紀皇女の夫であつたらしい。いや/\さう速斷は出來ぬ。卷十二の歌、
  おのれ故|詈《ノ》らえてをればあしげ馬の面高夫駄《オモタカブチ》に乘りて來べしや  (―3098)
の左註に「右一首、平群《ヘグリノ》文屋《フミヤノ》益人《ヤスヒト》傳(ヘテ)云(フ)、昔聞(キヽ)紀(ノ)皇女|竊2嫁《シヌビニアヒマシテ》高安(ノ)王(ニ)1被(ルヽ)v責時御2作此歌(ヲ)1、但高安(ノ)王(ハ)左降《オトシテ》任(ケラル)2之伊與(ノ)國(ノ)守(ニ)1」とある。すると石田王より先に高安王が紀皇女の情人で、既に社會問題を惹き起した程である。
 「大船」を序詞に用ゐたことは、尚上の歌と同じく、住の江邊における感懷ではあるまいか。
 
三方沙彌《みかたのさみの》娶《あひて》2園臣生羽之女《そののおみいくはがむすめに》1未經幾時《いくだもあらず》、臥《こやして》v病(に)作歌
 
三方沙彌が園臣生羽の娘を娶つて、間もなく病床に臥して詠んだ歌との意。〇三方沙彌 三方は氏、沙彌は名と見るが當然である。沙彌は梵語で僧道の稱であるが、俗人がこんな變つた名を附けることは、古へは珍しくなかつたことで、上にも久米(ノ)禅師の例がある。但持統紀に「六年十月、授(ク)2山田(ノ)史《フヒト》御形《ミカタニ》務廣肆(ヲ)1、前(ニ)爲(リ)2沙門(ト)1學2問《モノナラヘリ》新羅(ニ)1と見えた山田(ノ)史御形(又御方とも書く)が僧でゐた頃をいふとの契沖や眞淵の説もある。○園臣生羽之(370)女 園は氏、臣は姓《カバネ》生羽は名である。生羽之女をイクハノメ〔五字傍線〕と讀めば、その婦人の名となる。
 
多氣婆奴禮《たけばぬれ》 多香根者長寸《たかねばながき》 妹之髪《いもがかみ》 此來不見爾《このごろみぬに》 掻入津良武香《かきれつらむか》 三方沙禰    123
 
〔釋〕 ○たけば 眞淵は、綰《タガ》ぬればの約といつたが、この二句に「多香根者」とあり、卷十に「手寸十名相殖《タキソナヘウ》ゑしもしるく」、卷十一に「青草《ワカクサ》を髪《カミ》に多久《タク》らむ、卷九に「小放《ヲハナリ》に髪多久《カミタク》までに」、又この次に「多計登雖言《タケトイヘド》」などある用例から歸納すると、「たく」といふ四段活の獨立動詞の第五變化なることは明瞭である。さて「たく」は手操《タグ》る義で、從つて髪などを掻き上げる、束ねる、又は手綱などを掻い操る意に用ゐられる。○ぬれ 下二段活用動詞「ぬる」の第二變化。ヌメる、ヌラ/\する、スベ/\などと同意。○たかねば長き 掻き上げなければ長過ぎるの意。○みぬに 見ない間に。○かきれ 掻き入れの略。
【歌意】 掻き上げようとすれば短くてぬる/\と滑り落ちて解け、掻き上けなければ長過ぎるわが妻の髪は、この頃自分が病み臥して往つて見ぬ間に、いゝ加減に伸びて、もう掻き入れたであらうかしら。
 
〔評〕 古への婦人は童のうちは垂髪で、成人すると髪を取上けたものである。さうして成人の第一のしるしは夫を持つことであつた。さてこの生羽の娘子は既に三方沙彌を夫に持つたし、その上、「未經幾時」は初會後いくらかの時日のあつた事を反證してゐるから、髪上はもう濟んでゐたと斷じてよい。只まだ年弱《トシワカ》なので、伸びきらぬ額や鬢も毛などのさがつてゐたのを沙彌は記憶してゐて、可なり長い自分の病中の徒然から閑想像を馳(371)せ、あの後れ毛さへもう伸びて、既に上げた髪の中に掻き入れたらうかと、自分の見ぬ間に若妻の器量のますます整つて、女振が一段上がつたであらう面影を、幻に描いて見たものである。そこに窮りない愛慕の情が漂うてゐる。「かきれつらむか」は必ずかく解すべきである。
  楠の寺の長屋にわがゐねしうなゐはなりは髪上げつらむか (卷十六―3822)
と同調の柔語で、その多情多恨は、かの佳人をしてその眉を※[手偏+賛]めて酸涕せしむるに足りる。
 然るに近來の諸註この意を得かねて、恣に結句を「掻上《カヽゲ》つらむか」の誤とし、わが病中この頃他に男が出來て、その男が髪を上げてやりもしたらうかと、嫉妬氣味に疑つたものと釋いたのがある。これも面白いやうではあるが、然し髪上は男がして遣るものといふ前提の事實が不確かであり、よし假にさうとしても、沙彌の時には上げずに他の男の時には上げるといふ點に矛盾があるので、從ふべきではない。
 さて初二句は過去の事實であるから、返歌にも「見し髪」とあるが如く、正しくは「たかねば長かりし」とあるべきであるが、音數の制限の爲に現在法を用ゐたのである。さうしてこれが却つて印象を深刻ならしめる効果を奏してゐるのである。
 
人皆者《ひとみなは》 今波長跡《いまはながしと》 多計登雖言《たけといへど》 君之見師髪《きみがみしかみ》 亂有等母《みだれたりとも》 娘子    124
 
〔釋〕 ○いまはながしと 今はもう長くなつたとての意。古義がイマハナガミト〔七字傍線〕と訓んだのは強ひてゐる。○たけといへど 掻き上げよと私に申しますがの意。「たけ」は上述の動詞「たく」の命令形である。○みだれた(372)りとも この下にたけじ〔三字右○〕の語を略いてゐる。古義はミダリタリトモ〔七字傍線〕と訓んである。ミダリは古い活用で、ラ行四段の自他通用の動詞。
【歌意】 もう後れ髪が伸び過ぎて長いといふので、人が皆束ね上げなさいと申しますが、貴方のお目にとまつたこの髪は、よしや亂れてゐても貴方に斷りなしには上げますまい。
 
〔釋〕 懸歌の「かきれつらむか」を承けて、貴方の御想像なさるやうに、皆樣ももう結ひ直して上げたがよいと仰しやるのですけれどねえ――と、今なほ片意地らしく振りかぶつてゐるのも、全く主への心中立といふのだから誠に尊い。齒を染めたり、眉を剃つたりして、男への貞操を表示する習俗と同じ心持なのである。「今は」の一語がいかにもよく利いて居り、もう伸びに伸びて、どうにか處分せねばならぬ最後の時機にまで往き詰めてゐることを思はせる。又「亂れたりとも」の歇後の辭樣は、流石に斷言を憚る、オボコらしい婦人らしい優しい情味が出て居り、頗る餘情が饒かに汲み取られる。大禮服や餘所行の晴着を着たやうな立派な作よりも、まざ/\と性靈の眞の聲に接し得るかうした歌の方が、自分には餘程嬉しく思はれる。面白い贈答である。
 
橘之《たちばなの》 蔭履路乃《かげふむみちの》 八衢爾《やちまたに》 物乎曾念《ものをぞおもふ》 妹爾不相而《いもにあはずて》 三方沙彌    125
 
〔釋〕 ○たちばなのかげふむみち この橘は街路樹の橘であるから、その下蔭を行くことを「蔭躇む」といつたのである。○たちばな 橘は柑子《カウジ》の類。天智紀十年の童謠に「橘はおのが枝々なれゝども玉にぬく時おやじ緒に(373)ぬく」と見え、今の蜜柑より粒の小さな物である。葉の常磐をめで、花の色香をめで、實の黄色をめでて、葉と花と實とを一時に賞翫し得るを以て、古來非常に珍重され、庭前路旁に好んでこれを栽ゑた。垂仁天皇の代|田道間守《タヂマモリ》を常世《トコヨ》の國に遣りて非時香菓《トキジクノカグノコノミ》を求めしめ、その名に因つてこれをタチバナと稱したことが、記紀に見えてゐる。○やちまたに 八衢の如く〔三字傍点〕にの意。「やちまた」は彌路岐《イヤチマタ》の義で、多き岐路をいふ。「に」は譬喩の意をもつ辭。この句上から續けては、縱横に通じた道にの意であるが、これは直喩的序詞で、眞意はさま/”\にの意である。
【歌意】 この頃私は病に臥してゐて、貴女に逢ふこともないので、戀しさのあまり、道の八衢の彼方此方に分れてゐるやうに、あれやこれやとさま/”\に物を思ふことよ。
 
〔評〕 垂仁天皇の勅命を承つて田道間守が橘を常世國から覓め歸つて以來、これを果實の長上として賞翫し、道旁にまでこれを植ゑたことは、雄略紀に「餌香《エカノ》市(ノ)邊(ノ)橘(ノ)本」とあるのでも知られるし、なほ後にも天平寶字三年六月の官符(類聚三代格に出づ)に、
  應(キ)3畿内七道(ノ)諸國(ノ)驛路(ノ)兩邊、遍(ク)種(ウ)2果樹(ヲ)1事。右東大寺普照法師(ノ)奏状(ニ)稱(ク)、道路(ノ)百姓來去不v絶(エ)、樹在(レバ)2其旁(ニ)1足(ル)v息(ムルニ)2疲乏(ヲ)1、夏(ハ)則就(イテ)v蔭(ニ)避(ク)v熱(ヲ)、飢(レバ)則(チ)摘(ンデ)v子(ヲ)※[口+敢](フ)v之(ヲ)、伏(シテ)願(フ)城外道路(ノ)兩邊(ニ)栽2種(セヨ)果子樹木(ヲ)1者(ヘレバ)、奉勅依奏。
など見えて、橘を植ゑたのは市路やその他の幹線道路を主としたことが推定され、隨つて岐路も八衢であるこ(374)とが想像される。その八衢にこの木が蔭を垂れて行人の爲に夏日を蔽ふ。これ蔭橘〔二字傍点〕の稱ある所以、その道は即ち「橘の蔭ふむ道」である。三方沙彌が娘子の家に通つた道は、やはりさうした往還であつたらしい。病中娘子を戀ふる餘り、その通ひ路を思ひ、橘の蔭さす八衢を思ふ、乃ちこの聯想を一括して序詞としたので、決して無關係な事を漫然と羅列したものではない。そこに切實の響がこもり、「妹に逢はずて」の卒直さと相俟つて、娘子に對するその濃到懇切の意が認められる。姿も詞も立派に諧つて完璧の作といつてよい。
  橘のもとに道|履《フ》みやちまたに物をぞおもふ人に知らえず  (卷六―1027)
の左註に、「或本(ニ)云(ク)三方沙彌(ガ)戀(ヒテ)2妻|苑《ソノノ》臣(ヲ)1作歌也」とある。歌はこの誤傳である。
 
石川(の)女郎(の)贈(れる)2大件(の)宿禰|田主《たぬしに》1歌一首
 
○石川女郎 傳不明。前出の石川郎女(大名兒)と同人か別人かは不明。但後出の大津皇子宮侍石川郎女(山田女郎)とは別人である。○田主 佐保大納言大將軍大伴安麻呂の次男で、旅人《タビト》卿の弟。母は巨勢(ノ)郎女。
 
遊士跡《みやびをと》 吾者聞流乎《われはきけるを》 屋戸不借《やどかさず》 吾乎還利《われをかへせり》 於曾能風流士《おそのみやびを》    126
 
〔釋〕 ○みやびを 所謂粹人、譯知りなどいふに當る。舊訓はタハレヲ〔四字傍線〕、眞淵はミヤビト〔四字傍線〕と訓んだが、宣長が、「遊士は集中何處にありてもミヤビヲと訓む。又ミヤビト〔四字傍線〕は宮人に混じて穩かならず」といつたのがよい。○やど(375)かさず 私を泊めてくれないでの意。「かさず」は終始法でなく、かさずして〔五字傍点〕の意。○おそ 遲鈍《オソ》の義で、敏速の反對。氣の利かない、間の拔けたなどの意。
【歌意】 私はかねて貴方を粹人と聞き及んでましたのに、噂とは違つて、折角往つた私を泊めてもくれずに、愛想もなくお戻しなされたことよ、伺の貴方は間拔な粹人さねえ。 
大伴(ノ)田主字(ヲ)曰(フ)2仲郎《ナカチコト》1、容姿佳麗、風流秀絶、見(ル)者聞(ク)者靡(シ)v不(ル)2歎息(セ)1也。時有2石川(ノ)女郎(トイフ)1、自(ラ)成(シ)2雙棲(ノ)感(ヲ)1、恒(ニ)悲(ミ)2獨守之難(キヲ)1、意(ニ)欲(リシ)v寄(セント)v書(ヲ)、未(ダ)v逢(ハ)2良信(ニ)1、爰(ニ)作(リテ)2方便(ヲ)1而似(セ)2賤(シキ)嫗(ニ)1、己(レ)提(ゲテ)2鍋子(ヲ)1而到(リ)2寢側(ニ)1、※[口+更](メ)v音(ヲ)跼(テ)v足(ヲ)、叩(キ)v戸(ヲ)諮(ウテ)曰(ク)、東隣(ノ)女郎將(ニ)2取(リ)v火(ヲ)來(ラント)1矣。於是《コヽニ》仲郎、暗裏非(レドモ)v識(ルニ)2冒隱之形(ヲ)1、慮外不v堪(ヘ)2拘接之計(ニ)1、任(セテ)v念(ニ)取(リ)v火(ヲ)就(イテ)v跡(ニ)歸(リ)去(ラシム)也。明(クル)後女郎、既(ニ)恥(ヂ)2自媒之可(キヲ)1v愧(ヅ)、復恨(ミ)2心契之弗(ルヲ)1v果(サ)、因(リテ)作(リ)2斯(ノ)歌(ヲ)1以(テ)贈(リテ)諺戲(ブル)焉。
  (左註は評語の次に掲げる例であるが、この條に限り便宜上こゝに引上げた)
 贈答の歌は本人同士には無條件で分つても、第三者には事情を説明せねば、十分意味の徹しないことが多い。この註も本文の歌を解するに、必要缺くべからざるものである。意は大伴田主は呼名を仲郎《ナカチコ》といつた。姿形うるはしくみやびかに勝れ、見聞く者感歎せぬは無かつた。時に石川女郎といふ女があつて、田主に添ひたく思ひ、獨住のつらさを歎いたが、手紙を贈らうと思つても良い媒が無いので、そこで一計を案じ、賤しい嫗の風に變装して、自分に鍋をさげて田主の寢間に近づき、聲を細め足をかゞめて戸を叩いて案内していふ、「私は東隣に住む女ですが、火を頂かして下さいませ」と。田主は眞闇なのでその假装であることは分らないが、やり取りの世話をするのも面倒臭くて、勝手に火を取らせて元の道から歸らせた。翌朝女郎は押懸け業のきまり(376)惡さを恥ぢ、且もくろみの外れたことを口惜がつて、この歌を贈つて破れかぶれに揶揄一番したといふ。 
〔評〕 門閥家の大伴氏の二男坊に生まれた田主、しかも美男で風流男の評判を取つた田主である。石川女郎ならずとも、奈良の都中の女が血道を上けて大騷をしたものであらう。田主は若し父の家にゐたとすれば、邸は都はづれの佐保である。されば附近に貧家も散在したに違ひない。昔に遡るほど社會の生活状態は單純であるから、隣家の貧女が押懸けて來て、「一寸火を頂かせて………」位なことを、お邸の御二男樣に斷つて貰つてゆくなどは、必ずしも無いことではあるまい。
 石川女郎は大膽にも一狂言書いて、直接談判の機會を作らうとしたが、あまり假装や作り聲が上手に往き過ぎて、田主の注意を惹きそこねたことば實に千載の恨事であつた。「おそのみやびを」と罵つたのは、その心持をあからさまに表現して居り、どうせもう破れかぶれだといふ捨鉢な態度が躍如として示されてゐる。梢の葡萄を取らうと骨折つて遂に及ばなかつたので、何だこの青葡萄めと罵つたイソツプの狐にも似て、笑止にも氣の毒である。
 「われは聞けるを」の「を」の辭を轉捩の楔子として、上下に反對の事相を按排した所に、反照の妙があり、「みやびを」「われ」の語の反復も、その表現の率直さを語つてゐる。
 
(377)大伴(の)宿禰田主(の)報贈《こたふる》歌一首
 
遊士爾《みやびをに》 吾者有家里《われはありけり》 屋戸不借《やどかさず》 令還吾曾《かへししわれぞ》 風流士者〔左△〕有《みやびをにある》    127
 
〔釋〕 ○みやびをにわれはありけり 「われはみやびをにありけり」の倒装である。「に」はにて〔二字傍点〕の意。「家里」は戲書。○やど 「戸」は借字。○みやびをにある 略解はミヤビヲニハアル〔八字傍線〕と訓んだが、「者」を煮〔右△〕の誤とする古義説に從つた。
【歌意】 貴女はさう仰しやるが、私は實に我れながちあつぱれ粹人でしたよ。貴女を泊めないで還した私こそ、本當の粹人なのです。
 
〔評〕 女の來たのを還したのが眞の風流男たる所以だと、作者は遣り返してゐるが、何でそれが風流男となるのか、一寸了解しにくい。古義は、「卑しき老女にまがへて謀らるゝを、うちつけに宿借さむはいと淺はかなるあだ者のすることなれば、たゞに還しゝこそ風流男ぞ」と釋いたが、甚だむづかしく、しつくりと腑に落ちかねる。孔子家語に、
  魯人有(リ)2獨處(ル)v室(ニ)者1、隣之?婦(モ)亦獨處(ル)。夜暴(カニ)風雨至(ル)。〓婦(ノ)室壞(レ)趨(ツテ)託(ス)v焉(ニ)。魯人閉(ヂテ)v戸(ヲ)不v納(レ)。〓婦自v※[片+(戸/甫)]與v之言(フ)、何(ゾ)不仁(ニシテ)而不(ル)v納(レ)v我(ヲ)乎、子(ハ)不(ト)v如(カ)2柳下惠(ニ)1。魯人曰(ク)、柳下惠(ハ)則(チ)可(ナルモ)吾(ハ)固(ヨリ)不可(ナリ)、吾(ハ)以(テ)2吾之不可(ヲ)1學(バンヤト)2柳下惠之可(ヲ)1。
(378)とある。魯人は隣の寡婦の來たのを泊めなかつたけれども、彼れには彼れの主張があつて、筋の通つた譯知りである。それ故田主は、この魯人を風流男と許して、田主自身の石川女郎を泊めなかつた事情は固より違ふが、結果は同じな處から、私はその風流男であると誇稱したのではあるまいか。然し何れにせよ、この處田主の方が立合ひ負けの氣味で、口先では威勢を張つてみたものゝ、實は理由薄弱でしどろもどろの體なのである。
 反復することには丁寧の意が存する。故にその際「宿借さずかへしし」の詳叙が附加されてくる。はじめには「みやびをに吾は」といひ、後には「吾はみやびをに」と襷掛けに顛倒の辭樣を用ゐたことは、反復體中の異製に屬する。
 
石川(の)女郎(の)更(に)贈(れる)2大伴(の)宿禰田主(に)1歌一首
 
石川女郎がまた押返して田主に贈つた歌といふこと。
 
吾聞之《わがききし》 耳爾好似《みみによくにつ》 葦若末乃《あしのうれの》 足痛吾勢《あなへくわせが》 勤多扶倍思《つとめたぶべし》    128
 
〔釋〕 ○みみによくにつ 話によく似た、噂に違はぬなどの意。耳は噂又は話の轉義。「につ」は舊訓ニバ〔二字傍線〕とあるが、古義に從ふ。○あしのうれの 葦の末葉《ウラハ》はヘナ/\してゐるので、下の「なへく」に係る序に用ゐた。「うれ」は末の意。舊訓アシカビノ〔五字傍線〕とあるが、アシカビは紀に蘆芽〔二字傍点〕を訓んである。蘆芽は蘆の初生の牙形を成した(379)ものゝ稱で、決して「なへく」ものでない。「若末乃」(末を原本に未に作るは誤)は、「卷十に小松之若末爾をコマツガウレ〔二字傍点〕ニと訓める例に從つて、ウレノと訓むべし」といふ宣長説がよい。○あなへく 足の萎《ナ》えること。「あ」は足《アシ》の下略。「なへく」は萎くの意で四段活の動詞。この句眞淵はアシナヘ〔四字傍線〕、宣長はアシナヘク〔五字傍線〕、古義はアナヤム〔四字傍線〕、官本はアシヒク〔四字傍線〕と訓み、その他種々の訓があるが、原本に從ふ。「痛」は借字。○つとめたぶべし 自愛なさるがよろしいの意。「たぶ」は給ふ〔二字傍点〕の古語。
【歌意】 ほんに私のかねて聞いた噂にそつくりですよ、全く貴方は足萎えでいらつしやるから、せい/”\御自愛なさいませ。
 
右依(リテ)2中郎(ノ)足(ノ)疾《ケニ》1問訊《トブラヘル》也
 
 中郎は二番息子の稱で田主のこと。足疾は和名妙に「脚氣一(ニ)云脚病、俗(ニ)云(フ)阿之乃介《アシノケ》」とある。但この左註は不完全である。その理由は次の評語を參看。
 
〔評〕 古來この歌の眞意を掴み得た解は一つも見當らない。いづれも皆本當に田王が當時脚病でゐて、女郎がそれを見舞つて詠んだやうに思つてゐる。尤も左註もわるい。
 抑もこの歌は前の贈答二首に聯絡したもので、決して別時の作ではない。初二句から考へれば成程、田主が一時脚氣でも病んで困つてゐるといふ噂はありもしたらう。然しそれは何も常住の脚病といふのではなく、この時分にはもうピン/\してゐたのだと見たい。只女郎が忍んで訪れた時に、田主は無精らしくおのが部屋か(380)らも出て來ず、勝手に「任v念就v跡歸去也」で、一向構ひつけなかつた。その上「おその風流男」と嘲つてやると「宿かさず還ししわれぞ風流士」などと減らず口を叩くので、女郎は忌々しさに、一時の噂をこれ幸ひと利用して大いに誇張し、成程あの時出ていらつしやらなかつた事を思ふと、貴方は全く噂通りの足萎えなのですね、折角御療養なさるがよいと飜弄したのである。男に振られたくやしさの嬌瞋が、そこにあり/\と見える。假装をして男の家に押懸ける、失敗の腹癒せに皮肉な冷かしをいふ、この女郎は隨分の刎つ返りである。が、こんな事を何時までも捏ね返してゐることは、女郎の下心に尚未練のあることを思はせる。
 
大津(の)皇子(の)宮侍《まかたち》石川(の)女郎《いらつめ》(の)贈(れる)2大伴(の)宿禰|宿奈《すくな》麻呂(に)1歌一首 【女郎字(ヲ)曰(フ)2山田(ノ)女郎(ト)1】
 
大津皇子のお邸の女房石川女郎が大伴宿奈麻呂に贈つた歌との意。○大津皇子宮侍石川女郎 かく特記したのは、前掲の石川女郎と別人なことを示す爲である。題下の註は元暦校本その他の古寫本に據つて補つた。○侍 古くマカタチと訓んでゐる。前子等達《マヘコラタチ》の約轉か。從婢、腰元、女房、お許人《モトビト》などに同じい。○宿奈麻呂 大伴安麻呂の第三子で田主の弟、和銅元年に從五位下、靈龜元年に左衛士(ノ)督、養老二年に安藝周防(ノ)按察使となり、神龜元年に從四位下に至つた。宿奈は少《スクナ》の義。
 
古之《ふりにし》 嫗爾然而也《おみなにしてや》 如此許《かくばかり》 戀爾將沈《こひにしづまむ》 如手童兒《たわらはのごと》    129
(381)   一(ニ)云(ク)、戀乎太爾忍金手武《コヒヲダニシヌビカネテム》 多和良波乃如《タワラハノゴト》
 
〔釋〕 ○ふりにし 舊訓イニシヘノ〔五字傍線〕とあるは協はない。古義の訓に從ふ。○おみな 老女のこと。翁《オキナ》の對稱。男《ヲトコ》の對稱なるをみな〔三字傍点〕ではない。○してや 「や」は反動辭。○たわらは こゝは童女をいふ。契沖は「母、乳母などの手を離れぬ童をいふか」といつたが、「た」は接頭語として輕く見るがよい。○左註の異傳は甚だよくない、捨てるがよい。
【歌意】 私はまあ、いゝお姿さんの身でもつて、かうも一途に戀に打込まうことかい、まるで若い娘つ兒のやうにさ。
 
〔評〕 この歌を味ふ上に於て、石川女郎對宿奈麻呂の年齡問題は、頗る興味あるものである。女郎自ら「ふりにしおみな」と稱したのは、餘程な老女らしくもあるが、然しそれは「たわらはのごと」に對して最も効果的の素地を作る爲、大きな誇張を用ゐたものと思はれる。かくの如きは作家の常套手段なるを知らねばならぬ。さて宿奈麻呂は和銅元年に五位に出身したが、名家の子弟としてはその若さを語るもので、當時二十五六歳位と見てほゞ誤りあるまい。又女郎は大津皇子の女房であるから、大津皇子が二十四歳にして叛死された頃は、最も若く見て十七八歳位と假定すると、同じ和銅元年には三十九か四十歳になる譯である。
 宿奈麻呂は只若いばかりでなく、あの器量よしの田主の弟であつた點から察しても、かく年上の女に思はれる點から見ても、やはり美男であつたらしい。一體安麻呂の血統は大抵美男系と見えて、田主兄弟の甥に當る(382)家持も、盛に婦人達に騷がれた美男であつた。戀には身分の隔や年齡の差別がないとはいへ、もう縮緬皺も本物の皺になる四十女が、十五六も違ふ年下の美男を追ひまはすといふのは、餘り見よい圖ではない。女郎は十分それを自覺して、「ふりにしおみなにしてや」と、その不倫さを暗に悲んでゐるのである。けれども「たわらはの如」く戀ゆゑには思ひ亂れてしまふ。戀を戀として無分別に勇往直進して憚らない若人は幸福で、かやうに多少の分別と顧慮とのあるだけ、年配者殊に老女の戀は理性と情熱との葛藤が甚しいので、一層みじめであり哀れである。
 
長《ながの》皇子(の)與《おくりたまへる》2皇弟《いろとのみこに》1御歌一首
 
○皇弟 長皇子の御弟をいふ。御兄弟が、澤山ましますので確定はされないが、歌の趣から見ると、成るべく近い親しい御兄弟の方がふさはしいから、天武紀に「次妃大江(ノ)皇女生(ム)3長(ノ)皇子(ト)與2弓削皇子1」とある御同腹の弓削皇子と見たい。
丹生乃河《にふのかは》 瀬者不渡而《せはわたらずて》 由久悠久登《ゆくゆくと》 戀痛苦弟《こひたむわがせ》 乞通來禰《いでかよひこね》    130
 
〔釋〕 ○にふのかは 丹生川。大和では吉野宇陀宇智三郡に亙つて同名の場處があるが、こゝは宇陀郡榛原町大字雨師の丹生社の社頭を流れる宇陀川、即ち神武天皇祈祷の遺蹟たる丹生川の事としたい。藤原京から東初瀬(383)を經て約六里。吉野離宮址を鷲家の小川の小村に求むる論者の、これを小村の丹生川としたのは、根本的に諾き難い。ましてこの歌を從駕の作などいふのは無稽である。○わたらずて 渡られないでの意。○ゆくゆくと 滯なく一途にの意。「ゆくらか」の意ではない。源氏賢木の卷に「何事をかは滯り給はむ、ゆく/\と宮にも愁へ聞え給ふ」のゆく/\と〔五字傍点〕もこれである。この句を結句に續けて解いた古義説はわるい。又「遊」を流布本に「※[竹冠/しんにょう+夾]」に作るのは誤で、今元暦校本、類聚古集その他多くの古寫本によつて正した。○こひたむ 甚しく戀ふる意。「たむ」は痛《イタ》むの上略。○わがせ 下に「よ」の呼格の助辭を含んでゐる。「せ」は兄弟相通じて互に稱する親愛語で、必ずしも長幼の序に拘はらない。古義の訓アオト〔三字傍線〕は却つて穿鑿に過ぎる。○いで 誘ひ立てる意の發語。舊訓コチ〔二字傍線〕はわるい。○こね 「ね」は丁寧に命ずる意の辭。
【歌意】 私自身ではこの丹生川の川瀬は渡りもえせずに、只一途に逢ひたいと戀ひ慕つてゐる最愛の弟皇子よ、さあそちらから通つて逢ひに來て下さいな。
 
〔評〕 字陀川の沿岸は小じんまりした幽遠の場處が多く、別莊の好適地である。而も道は大抵伊勢街道を行くので極めて出入に樂である。長皇子は今の萩原町からさう遠くもない都合のよい地點に、その別莊を置かれ、休沐の暇には馬を走らして此處に通はれたものであらう。別業としてはやゝ遠過ぎるなど疑つてはならぬ。平安時代ですら宇治川附近に貴紳の別莊が澤山あつて、京都から約九里の(384)遠路を往來してゐたことを思ふがよい。
 さてこの歌は、長皇子が丹生の別莊に何かの事情で逼息して居られた折の作と思はれる。人寰を絶したかゝる山莊では、只さへ物寂しい。それが自由に出入もならぬとなつては、愈よ孤獨の感がひし/\と胸に迫つて來る。さうした場合、骨肉の兄弟弓削皇子こそは、まづ第一に思ひ出される戀人であらねばならぬ。「丹生の川瀬は渡らずて」、つく/”\と弟宮戀しさが身に沁み渡る。たまらなくなつて「どうぞ來て下さい」と悲鳴を上げられたものである。四句まで一意到底にいひ下して、忽として結句で一轉換したことは、そのさし迫つた情緒を表現するに、最も印象深い手法である。この歌を得た弓削皇子は、何はさしおいても一散に丹生まで驅け付けられたことであらう。
 
柿本(の)朝臣人麻呂(の)從(り)2石見國1別(れて)v妻《めに》上(り)來(る)時(の)歌二首竝短歌
 
人麻呂が石見國から妻に別れて上京する時詠んだ歌との意。○從石見國 人麻呂が石見國にゐたのは、地方官で赴任してゐたものと思はれる。紀にもその薨卒の事が見えず、又六位以下庶人までに死〔傍点〕と書くは令の規定であるから、この集の書式もそれに隨つたに違ひないのに、彼の妻がその死を悲んだ歌の題詞に「柿本朝臣人麻呂死(ニシ)時云々」とあるので見ると、いづれ六位以下の判任と見てよい。「上來」を眞淵はいふ、「任の間に上れるは、朝集使税帳使などにて假に上りしなり。此使にはもろ/\の國の司《ツカサ》一人づつ、九十月に上りて十一月一日の官會にあふ也。その上る時の秋にもみぢ葉を詠める是れ也。石見へ歸りて彼處にて身まかりたる也」と。(385)○妻 昔は妻妾の別なくすべて一樣にメと呼んだ。こゝの妻は名は未詳。石見で新に儲けた妾であらう。
 從來諸家の研究では、人麻呂は六位以下で石見國には掾か目などで赴任したものだらうと、漫然たる想像を下してゐる。人麻呂が草壁皇太子(日竝皇子)の舍人であつた事は衆口の一致する處、恐らく天武天皇の九年草壁皇子の立太子の時に始めて奉仕したものであらう。持統天皇の三年に草壁太子は御薨去になつたが、尋いで御兄高市皇子が皇太子となられたので、人麻呂は引續いて高市太子に奉仕したものらしい。然るに高市太子が又その十年七月に薨去になつた。この年草壁太子の御子輕皇子(この集には輕(ノ)王)皇孫を以て太子に立ち、明年八月御即位。この間の一年を加へて、天武天皇九年から持統天皇十一年まで十七年間、彼は東宮舍人であつたらしい。延喜式の式部式に「凡大舍人(ノ)勞廿年(ヲ)爲(ス)v限(ト)、毎年一人任(ズ)2諸國(ノ)史|生《シヤウニ》1」とある。これは平安朝の規定だが、奈良時代に溯らせても大した相違はあるまいと思はれる。彼れの東宮舍人の勞十七年では、諸國の史生に任ずる資格が不足だが、種々の情状から、特別拔擢に與つたとしてからが、まづ筑紫の國衙の史生として赴任、その間に十年以上を經過し、遂に石見國の掾か目ぐらゐに勤め上げたものと見てよからう。草壁皇子の立太子の時、彼れは二十五歳で舍人に出身したと假定すると、この石見の任は年配五十餘見當の處であらう。
 
石見乃海《いはみのうみ》 角乃浦囘乎《つぬのうらわを》 浦無等《うらなしと》 人社見良目《ひとこそみらめ》 滷無等《かたなしと》 人社見良目《ひとこそみらめ》 能咲八師《よしゑやし》 浦者無友《うらはなくとも》 縱畫屋師《よしゑやし》 滷者無鞆《かたはなくとも》 鯨魚取《いさなとり》 海邊乎指而《うみべをさして》 (386)和多豆乃《わたづの》 荒磯乃上爾《ありそのうへに》 香青生《かあをなる》 玉藻息津藻《たまもおきつも》 朝羽振《あさはふる》 風社依米〔二字左△〕《かぜこそきよせ》 夕羽振流《ゆふはふる》 浪社來縁《なみこそきよせ》 浪之共《なみのむた》 彼縁此依《かよりかくよる》 玉藻成《たまもなす》 依宿之妹乎《よりねしいもを》【一云|波之伎余思妹乃手本乎《はしきよしいもがたもとを》】 露霜乃《つゆじもの》 置而之來者《おきてしくれば》 此道乃《このみちの》 八十隈毎《やそくまごとに》 萬段《よろづたび》 顧爲騰《かへりみすれど》 禰遠爾《いやとほに》 里者放奴《さとはさかりぬ》 益高爾《いやたかに》 山毛越來奴《やまもこえきぬ》 夏草乃《なつぐさの》 念之奈要而《おもひしなえて》 志怒布良武《しぬぶらむ》 妹之門將見《いもがかどみむ》 靡此山《なびけこのやま》    131
 
〔釋〕 ○いはみのうみ 石見國の邊海をすべていふ。○つぬのうらわ 石見國那賀郡|都濃《ツヌ》の浦。今の都野津《ツノヅ》の海邊のこと。古義の訓はツヌノウラミ〔六字傍線〕。○うらなしと 浦らしい〔四字右○〕浦がないと。浦は海裏《ウラ》の義で湖海の水の灣入した處の稱。○ひとこそみらめ この「こそ」は正格の用払で、下に反對の事相を呼び起し、又含蓄する。「み」の第二變化に「らめ」の想像の助動詞が接續するは古格。「こそ」に「社」を當てるは、此事を欲得《コソ》と社に祈願する意から戲書したもの。○かたなしと 面白かるべき潟もないと。潟は潮水の滿干に隨つて出沒する鹹地。「滷」は塩土の義。○よしゑやし よしやよし。よし/\。まゝよ。「よし」は不充分なるものを可《ヨ》しと縱《ユル》す(387)意。「ゑ」は古い歎辭。「やし」はよし〔二字傍点〕の轉語。「縱」をヨシと訓むは意訓。○なくとも この語前後いづれも、宣長はナケドモ〔四字傍線〕と訓んだ。「友」「鞆」は借字。○いさなとり 海、濱、灘にかゝる枕詞。いさなを取る海といふ續きで、取る〔二字傍点〕を「取り」と體言格にいふは枕詞の辭法の一つで、ひな曇り〔傍点〕碓氷《ウヒ》、妻隱り〔傍点〕矢野《ヤヌ》など例は多い。詞意は(1)勇魚《イサナ》(鯨のこと)取(古説)、(2)い漁《スナド》りの轉(冠辭考一説)、(3)磯菜取の轉(大石千引説)。(1)は地方的に偏局した漁業であるが、(2)(3)は一般的である。○うみべ 舊訓ウナビ〔三字傍線〕はいはれぬ語ではないが、他に例がない。卷十四の「夏|麻《ソ》ひく宇奈比《ウナビ》をさして」の宇奈比は地名である。○わたづの 渡津の。渡津は石見國那賀郡渡津村。村は江川《ゴウガハ》東岸に位し、その江川の河口港を渡津と稱したのである。こゝは四言の句。○ありそ アライソの約。○かあをなる 「か」は接頭語。か黒し、か易し、か弱しなど例が多い。「香」「生」は借字。○おきつも 沖の藻、「息」は借字で、息《イキ》の古言のオキを充てた。○あさはふる 「はふる」は口語の、アフル〔三字傍点〕(扇、翻)に當る。振動すること。「羽振」は借字なるを、これによつて鳥の羽を振るに譬へたとするは妄である。○かぜこそきよせ 「依米」はヨセメ〔三字傍線〕と訓むより外はないが、こゝは現在叙法を採る方が優つてをり、次句との對偶も整ふから、古義に「もと來依〔二字右△〕とありしを顛倒し、來を米〔右△〕に誤りしなるべし、さらばキヨセと訓むべし」とあるに據りたい。これは後掲の或本ノ歌にも「來依《キヨセ》」とあるから、尤もと思ふ。「依《ヨセ》」はサ行四段活の古言で、寄すれの意。○ゆふはる 「羽振流」の流〔傍点〕の字、上のにはない。讀萬葉古義にいふ「箇樣の所書くも書かぬも自由、虎か叫吼(388)登《ホユルト》――※[立心偏+協ノ旁]流《オビユル》までに(卷二)など、久も流も添へ添へず云々」。○なみこそきよせ 波がが藻を寄せてくる。舊訓のキヨレは自動詞だからこゝには適はぬ。○なみのむた 波のまゝに。「むた」はまゝにの意の古言。「共」の字は意を以て充てたもの。「天壤のむた無窮者矣」(古事記)「降りおける雪し風のむた〔二字傍点〕こゝに散るらし」(卷十)「君がむた〔二字傍点〕ゆかましむのを」(卷十五)など皆その意。○かよりかくよる あゝ寄りかう寄る。彼方此方に寄るをいふ。彼《カ》と此《カク》と言を隔てゝいふは、かにかくに〔五字傍点〕、かにもかくにも〔七字傍点〕の類である。舊訓カクヨリ〔四字傍線〕とあるは非。かく寄る玉藻〔六字傍点〕と續く句である。こゝは吾妹子が自分に寄り副ふ貌を、玉藻が水のまに/\靡いて片寄る趣に譬へた。○たまもなす 既出(一九二頁)。○よりねし 自分に倚り添うて寢た。割注の「はしきよし妹が手本を」は下への續きが不調。これは後掲の或本の句を誤載したものだらう。○つゆじもの 露霜の如くの意で、「置き」に係る序詞。「つゆじも」は露の霜に凝つた時の稱。集中の用例を見渡すに、專ら寒さをはじめて意識する對象になつてゐる。露と霜との二物でもなく、單なる霜の事でもない。又露霜の消《ケ》と續く場合には單なる序詞で、季候には與らない。○おきて うち置いて。さし置いて。○やそくま 「やそくまおちず」を見よ(二七二頁)○さかりぬ 遠ざかつた。○いやたかに 「益」は(389)イヤと訓むがこの集の例である。舊訓のマシ〔二字傍線〕は非。○やまも 「里は」に對していつた。○なつぐさの 「萎《シナ》え」にかゝる枕詞。夏の草は烈日の爲に萎れ返る故にいふ。○おもひしなえて 念ひ入つて萎れて。○しぬぶ 卷一に既出(七九頁)。○なびけ 平らかになれといふに同じい。「なびく」は萎え延くの義。
【歌意】 石見の海の角の浦囘を、よい浦もなく面白い潟もない詰らぬ處と、人は侮り見るであらう。まゝよ、よい浦はなくとも面白い潟はなくとも、自分に取つては大事な土地で〔一三字右○〕、沖から海|邊《ベタ》をさして、渡津の荒磯の上に眞青な藻や沖の藻を、朝のあふる風が寄せて來、夕べのあふる波が寄せてくる、その波のまゝに彼方に寄り此方に寄る藻のやうに、自分に寄り添うて寢た愛妻を家に置いて來たので、今行く道の多くの隈々毎に、何遍となく振返つて見はするけれど、そのうちに次第に遠く人里は遠ざかり、次第に高く山は越えて來た、それでもう見えない〔九字右○〕。定めてこの離別の爲に念ひ入つて萎れて、自分の事を慕つてをらうその妻の家の門を見ようわ。えゝ平になれ、目障りのこの山は。
 
〔評〕 開口一番「石見の海角の浦囘」と歌ひ出した。どこまでも他郷人の漂泊觀念からの叫である。案ずるに石見國は山陰道の果なる遠遐の僻地で、その等位は中國に屬するものゝ、田(390)畝の收穫も道中の少額に位する貧弱國で、况やそこなる角の浦など誰れも問題にして注意を拂ひもしない。
 抑も「浦なし」「潟なし」とは何の意か。浦とは湖海の水の灣入した處をいひ、潟とは鹵斥の地を稱する。萬葉人の自然鑑賞の標準は、さうした柔か味に富んだ明媚の風光にあつた。八十島の點在する難波の浦は蘆の名所の難波潟であり、見れども飽かぬ玉津島を擁する若の浦には鶴鳴き渡る汐干潟があり、その他|香椎《カシヒ》潟汐干の浦、意宇《オウ》の海汐干の潟、住吉の淺香潟、明石潟など、彼等の歌詠に上つた潟も亦多いことである。角の浦は如何なる處ぞ、その海岸は殆ど直線に近い砂濱が遠長く續き、汐干潟などには乏しい荒寥たるものである。されば「浦なし潟なし」はその殺風景な場處であることを如實に説示したものである。然し一旦かう抑へて置いて、一轉「浦はなくとも潟はなくとも」と揚げたのは、作者に取つては、その風景は如何にもあれ、特に閑却し難いあこがれの場處であるやうな口振である。それは即ち下の「置きてしくれば」に呼應するものであつて、角の浦の角の里が、外ならぬその愛妻の住居地であることを想起せしめる。
 沖つ藻でも邊つ藻でも皆一樣に玉藻である。されば「玉藻おきつ藻」は一物を二樣にいひ分けて、一句のうちに字對をなしたものには違ひないが、特に沖つ藻を擧げた理由(391)は、實は「海邊」に對へたもので、おのづから「海邊をさして」に、沖より〔三字右○〕の語が略かれてあることが暗示されてゐる。渡津は角の浦の最東端なる江の川の河口の渡津で、そこに散在する磯岩には沖つ藻邊つ藻が打寄せられ、波風に飜轉漂蕩されてゐる。今その光景を描寫するに、或時は直説し、或時は對偶の字法句法を以て反復し、極力玉藻の動的状態を細叙して、眞に形容の妙を曲盡した。朝夕風浪〔四字傍点〕の四字は便宜に割り振つて字對を成したものだが、「朝夕」は常に不斷にの意を具象的に代表させたまでゝ、事實上の時ではない。又風は輕く客位に置かれ、浪は重く主位に立つてゐる。「香青なる」は實に生々しいその色相と感じとを放散するものてある。
 作者は實にこの玉藻の動きに測らずその心胸を打たれた。それは聯想が刹那にかの懷しい我妹子の動作に及んだからである。この聯想は下の「獻泊瀬部皇女」の歌に、
  上つ瀬に生ふる玉藻は、下つ瀬に流れ觸らばへ、玉藻なすか寄りかく寄り、靡かひし嬬《ツマ》の命の、云々。
又「明日香皇女|木※[瓦+缶]《キノベノ》殯宮之時」の歌に、
  石《イハ》橋に生ひ靡ける 玉藻ぞ絶ゆれば生ふる 打橋に生ひををれる 川藻もぞ枯るればはゆる――立たせば玉藻のもころ臥《コヤ》せば川藻の如く 靡かひし宜しき君が、云々。 (卷二―196)
又「妻死之後泣血哀慟作歌」に、
  奥津藻のなびきし妹は、云々。 (卷二―207)
など見えて、この作者の好んで用ゐた修辭である。尤もこの作者以外にも
  さぬかには誰れともねめど奥《オキ》つ藻のなびきし君が言《コト》待つ吾を  (卷十一―2782)
があり、又靡くの語を連鎖として玉藻と情人とを結び付けた作が集中に多い。いづれ人麻呂のが先鞭を著けて(392)影響を與へたものであらうが、萬葉人は藻に就いて深い執著をもつてゐた。
 さて「鯨魚取」より以下「玉藻なす」までの十數句は、「依り寐し妹」にかゝる大がかりの序詞である。この序詞から愈よ本題に轉入した趣は、武夷九曲溪窮まり路轉じて眼界更に豁然として開くが如き感がある。「露霜の」は單なる序詞ではない。即ち時季が暮秋であることを表示してゐる。鐵石の心腸でも秋は悲しい。「置きてしくれば」は次の二節を展開する大切な楔子で、別離を意味する。而もその對象は最愛の我妹子である。唐詩の「悲(シキハ)莫(シ)v悲(シキハ)2兮生別離(ヨリ)1」(武昌妓)は千古の鐵案、况や今は征旅の途上にある。かう三拍子攻道具が揃つては、心一つを何ともしやうがあるまい。定めて作者の胸中は血湧き肉慄ひ、情火身を※[火+毀]くばかりに熱したものであらう。
 事茲に至つては、作者は幾ら益良男ぶつても、名殘惜しさに道々振返りつゝ躊躇低囘せざるを得なくなる。「この道」の「この」は作者の今現に踏破しつゝある道を斥すもので、切實味をしかと掟へてゐる。前對は歩の轉るに隨ひ妹の住む里は益す遠ざかつたと、顧望も尚及ぶ處ある趣であり、後對は高々と山も越え來たといひ、遂に顧望の及ばなくなつた趣である。層一層その哀切な旅愁をそゝり、その本意ない歎の息づきが耳について聞えるやうである。詰り「放りぬ」「越え來ぬ」は、上の「顧みすれど」に顧應して、その間に最も大切な或事實を暗示してゐる。即ち讀者に或想像の餘地を與へてゐる。それは外でもない、段々と妹が里は見えなくなつたといふ現實である。これがこの一節に於ける總括的主眼で、もしこの意味がないとしたら、結節の大文字は全然生まれてくる事が不可能であつたらう。
 「いや遠に云々」「いや高に云々」は勿論排對であり、「八十隈」に「萬段」は交錯の對語、「山も」のも〔傍点〕は「里」(393)に對した辭である。尚「里」は妹の住む角の里で、「山」は高角山であることを特に注記する。
 末段はかく自分が戀しく思ふ如く、妹も亦萎れ返つて自分を慕ふだらうとの想像は少し甘いが、かう甘いから情味が深く搖曳するのである。「妹が門見む」は門が必要なのではない。眞意は妹を見るにあるが、「靡けこの山」に映對上の釣合を考慮したのである。とにかく妹が影、妹が袖、妹が門、妹が里は漸々に遠放りはてて、今はいや高に越え來た高角山が眼前を遮蔽してゐるのみである。茲に至つて勵声一番、「靡けこの山」と疾呼した。動かぬものと決まつた山を靡けといふ、非常識も亦甚しい。これその胸裏に欝結した熾烈な情火が測らず破裂した爆音である。ぢれにぢれて覺えず迸つた叫声である。「この」の一語また眼前の山を指斥して、切實な力をもつ。
 何はしかれこれ程大膽な無遠慮な句は、作者人麻呂にして始めていひ得るもので、樣に依つて胡蘆を畫く凡手の夢にも思ひ寄らぬ筋である。集中、
  あしき山梢こぞりて明日よりは靡きたれこそ妹があたり見む  〔卷十二―3155)
  (上略)わが通ひ路のおきそ山美濃の山、靡かすと人は踏めども、かく寄れと人は衝《ツ》けども、云々。(卷十三、長歌―3242)
などあるも、恐らくこの句を摸倣したものではあるまいか。唐の李長吉の句に「黒風吹(イテ)v山(ヲ)作(ス)2平地(ト)1」とあるは聊か似た點があるやうだが、それは奇怪を弄して徒らに人耳を聳かしめたまでゝ、到底鬼詩たるを免れないが、これは眞情から發した自然の聲だから、更に同日の論でない。只後世在原業平の、
  飽かなくにまだきも月の隱るゝか山の端逃げて入れずもあらなむ  (古今集雜上)
の作はよく實情を失はず、稍繊弱ながらもこれと同巧異曲の妙ありと推奨して置かう。殊に「靡けこの山」と(394)ある倒装の辭樣の力強さ、その勢は實に山をも平地となすに足りる。一結、龍尾一たび掉へば全鱗盡く竪つの概がある。
 この歌第一段第二段は海、第三段は里、第四段は山と次第して叙し來つた。これ作者の通過して來た道筋のあらましであらう。かくて「海邊をさして」「里は放りぬ」「靡けこの山」が自然に全篇の首尾をなし、照應となつてゐる。愛妻と別れて躊躇去るに忍びぬ意を骨子とし、耳目に觸れて感哀を動かす周圍の事相を皮肉として採用した。小心なる時は玉藻の漂蕩する樣を形容して微細を穿ち、放膽なる時は山岳をも平地たれと命令して粗宕を極めてゐる。自由と褒めても自在と稱へても尚物足らなさを感ずる。眞淵が人麿の歌は「勢ひはみ空ゆく龍の如く、詞は海潮の湧くが如く、調は葛城の襲津彦眞弓を引きたらむが如し」と評したのは、眞に肯綮に中つた名言である。但強ひて白璧の微瑕をあなぐれば、「夏草の」の一句が間題である。もとより純然たる枕詞だから、極めて輕い意味のものには相違ないが、時季の暮秋たるに抵觸し、上に「露霜の」とあるに扞格して多少混亂の感じを與へるから、面白くないと思ふ。
 
反歌
 
石見乃也《いはみのや》 高角山之《たかつぬやまの》 木際從《このまより》 我振袖乎《わがふるそでを》 妹見都良武香《いもみつらむか》    132
 
〔釋〕 ○いはみのやたかつぬやま 石見國の高角山。「や」は間投の歎辭で、卷七に「淡海のや〔傍点〕八橋《ヤバセ》」、(卷七)、「近江のや〔傍点〕けなのわく子い」(繼體紀)など例は多い。高角山の所在は明かではないが、今人麻呂を祀つた高角神社のあ(395)る美濃郡高津村はまるで方角違ひで問題にならない。人麻呂は國府の所在地(今の那賀郡國分村又は上下府村)から東北へと進行して、都濃《ツヌ》から渡《ワタリ》へとかゝつたのである。然るに高津村は國府よりは逆に、十五里も西に當るので、その津は今の都農津《ツノヅ》で、それから南方に展開する砂原砂山がその野に當る。又この野から東して江の川河岸に出ようとする道に當る丘陵が即ち都農の山で、その最高處に特に「高」の字を冠せて高角山と呼んだものであらう。今渡津村人丸神社の東北にある高さ五六十米突の山がそれであらう。こゝから都濃の或地點までは眺望を阻害する何物もない。武津之身命(八咫烏)を祀つた處に、高角〔二字傍点〕の稱を見るが、それは京畿地方のことで、山陰地方にはあり得まいと思ふ。○このまより 「より」はニ又はニテの意に通ふ辭と見る。この用法集中に散見する。○わがふるそで 袖を打振るは惜別の情を人に示す爲の所作で、當時の風習である。卷一「茜さす紫野ゆきしめ野ゆき」の評語參看(九四頁)。○か 疑辭。
【歌意】 この石見國の高角山の森の木の間で、自分が戀しさに堪へかねて打振る袖を、可愛い妻はそれと認めたことであらうか。
 
〔評〕 前後の作、極力角の里を問題にしてゐる點から考へると、人麻呂の妻は角の里人であつたらしい。國衙の官人たる人麿は、國府から二里半の道を折々通つて往つたものであらう。それが今公務を帶びて上京の途次、妻のもと角の里を辭して愈よ高角山の木緊き山路にかゝつた。泣きの涙で別れて來た妻の居村はわづか一里足らずであるから、指顧の間に髣髴としてゐる。それが憖ひに未練の愛着を惹いて堪へ難い。まして「さ寢し夜は(396)いくだもあらず」別れたとあつては、その生々しい戀の※[火+陷の旁]は、殆ど身を燒き盡すばかりであつたらう。この遣る瀬ない作者の情感は、山岨の木々の間から袖打振つて見せた、その狂氣じみた態度に遺憾なく表現されてゐる。「妹見つらむか」は、かうして、袖打振るのを妻が知る筈もなし、又見えもせぬことは萬々承知しながら、もしやとはかない希望をかけたもので、流石の益良男も愚癡に返つた女々しさが、大きな同情と共鳴とを我々に要求する。さうして「石見のや」と端的に叫び上げたところに、作者が他國異郷にあるといふ漂泊觀念が閃いてゐる。
 この歌の一解に、初二句を結句に續けて、「わが振る袖を高角山の木の間より妹見つらむか」の意とする諸家の説は、頗る事情に暗い迂説である。袖を振るのは直接に見える場合か、或は見えもしようかの場合にすることで、既に高角山を打越えて妻の里は全く見えないのに、當てなしに袖を振る馬鹿はない。又この妻を高角山に上らせたのも無理な見解で、それなら妻の方で袖を振るのが順當である。松浦佐用媛は領巾振山に上つて、その領巾を振つて夫狹手彦に別れを惜んだではないか。次の長歌の「妹が袖さやにも見えず」とあるその袖は、渡の山での詩的想像に過ぎない。
 
小竹之葉者《ささのはは》 三山毛清爾《みやまもさやに》 亂友《みだれども》 吾者妹思《われはいもおもふ》 別來禮婆《わかれきぬれば》    133
 
〔釋〕 ○ささのは 笹の葉。古義は「佐左賀波乃《ササガハノ》さやぐ霜夜に」(卷二十)を例に取つて、こゝもササガハ〔四字傍線〕と訓むべしと主張したが、それは明かに「賀」の字を書いてあるから、こゝと同一に見ることは出來ない。これは文(397)字通りササノハで差支ない。○みやまも 「み」は美稱で、「三」と書いたのは借字である。尚後世はミヤマに深山《ミヤマ》の文字を宛てゝゐる。○さやに 擬声語で、さや/\との意。そよ/\、さわ/\なども元は同語。「清」は借字。○みだれども この「みだれ」はラ行四段活の自動詞(古言)。眞淵はサワゲドモ〔五字傍線〕、正辭はサヤゲドモ〔五字傍線〕と訓んだ。
【歌意】 笹の葉は山一面にさわ/\と騷ぎ立つてゐるが、その物音にも紛れず、自分はたゞ一途に妻のことを思ひ續けることわ。かうして飽かぬ別れをして來たのでさ。
 
〔評〕 山路は物さびしい。心細い。それに滿山の熊笹などが風に搖れて鳴る音は、騷がしいのみでなく、物恐ろしい感じさへする。がそれさへ戀の一念を妨げることは出來ない。旅情は離愁に蔽はれてしまつたといふのは、なほ旅情が離愁の背景となつて動いてゐることを語るものである。これは
  高島のあどかは波はさわげどもわれは家思ふやどり悲しみ  (卷九―1690〕
とあるのとその揆を一にしてゐる。かく笹葉の音を飽くまで誇張して、張り切つた思慕の情を反映させた手際は、流石である。只五句が稍説明的に墮してゐることは爭へない。がそれも尚「妹」と「我れ」と懸け合はせて、卒直に「思ふ」といつて退けた四句の力強さに救はれてゐる。
 
或本(の)反歌
 
「石見乃也」の反歌が、或本の傳では次の如くなつてゐるといふのである。
(398)この題詞と歌とは上の「石見乃也」の歌の次に入るべきであるが、こゝに掲出するがこの集の書例。
 
石見爾有《いはみなる》 高角山乃《たかつぬやまの》 木間從文《このまよも》 吾袂振乎《わがそでふるを》 妹見監鴨《いもみけむかも》    134
 
〔釋〕 ○このまよも 木々の間からまあの意。「よ」はより〔二字傍点〕の古言、「も」は歎辭。ユモ〔二字傍線〕と訓んでもよい。「監」をケムと讀むは呉音。
【歌意】 石見の國の高角山の木々の間からまあ、妻戀しさに私が袖を打振るのを、私の妻は遙に認めたことだらうかなあ。
 
〔評〕 別傳のこの歌よりも上掲本傳の歌の方が、初句四句共に緊密にして優れてゐる。結句も完了態にいつた方が無論よい。但正辭説に「見監鴨の見監は過去なれば、此に叶はず」とあるのは當を失してゐる。妻が認めたにせよ認めぬにせよ、その事は作者がこの歌を詠じた時からすれば過去に屬する事實であるから、「見けむ」と過去にいつて少しも差支ない。只過去になると、その間に時間を多く置くことになるから、それよりも生々しい事實として完了態で表現した方が、印象深いといふまでゝある。
     ○
角※[章+おおざと]經《つぬさはふ》 石見之海乃《いはみのうみの》 言佐敝久《ことさへく》 辛乃埼有《からのさきなる》 伊久里曾《いくりにぞ》 深海松生流《ふかみるおふる》 (399)荒磯爾曾《ありそにぞ》 玉藻者流《たまもはおふる》 玉藻成《たまもなす》 靡寐之兒乎《なびきねしこを》 深海松乃《ふかみるの》 深目手思騰《ふかめてもへど》 左宿夜者《さねしよは》 幾毛不有《いくだもあらず》 延都多乃《はふつたの》 別之來者《わかれしくれば》 肝向《きもむかふ》 心乎痛《こころをいたみ》 念乍《おもひつつ》 顧爲騰《かへりみすれど》 大舟之《おぼぶねの》 渡乃山之《わたりのやまの》 黄葉乃《もみぢばの》 散之亂爾《ちりのみだりに》 妹袖《いもがそで》 清爾毛不見《さやにもみえず》 嬬隱有《つまごもり》 屋上乃《やがみの》【一云|室《ヤ》上山】山乃《やまの》 自雲間《くもまより》 渡相月乃《わたらふつきの》 雖惜《をしけども》 隱此來者《かくろひくれば》 天傳《あまづたふ》 入日刺奴禮《いりひさしぬれ》 大夫跡《ますらをと》 念有吾毛《おもへるわれも》 敷妙乃《しきたへの》 衣袖者《ころものそでは》 通而所沾奴《とほりてぬれぬ》    135
 
〔釋〕 ○つぬさはふ 石にかゝる枕詞。絡石《ツヌ》さ延《ハフ》の義。「つぬ」は蔦《ツタ》の古言。地錦類の總稱で、石などに絡《カラ》んで多く蔓延するので、石に續けたもの。古註は「絡石」に定家葛《テイカカツラ》を當てゝあるが、それは石に絡ふにふさはしくない。「さはふ」はさ渡る、さ迷ふなどの類語で、「さ」は接頭語。久老の絡石多蔓《ツヌサハハフ》の約とする説はやゝ煩しい。「角※[章+おおざと]經」は借字。「※[章+おおざと]」はサハルの訓を用ゐたので障〔右△〕と同字。卷三には「角障經」とある。○ことさへく カラ(400)(韓、辛)の枕詞。下にも「言さへく百濟《クダラ》の原」ともある。韓《カラ》といひ百濟といひ、異國人の詞はカヤ/\と鳥の囀るやうなので、言《こと》さへくといふ。「さへく」のさへ〔二字傍点〕は囀るのさへ〔二字傍点〕に同じい。さて韓と同音なる辛の枕詞にも用ゐる。○からのさき 石見の邇摩《ニマ》郡|託農《タクノ》浦にある。今は宅野《タクノ》と書く。浦は小さいが北に韓島家島が斗出して岩礁が多い。その韓島が辛の崎である。渡の山より約九里の東北に當る。「埼」は崎と同字。○いくり 「い」は接頭語。「くり」は石のこと。應神紀に「由羅《ユラ》の門《ト》の川中の異句離《イクリ》」とある釋に「句離(ハ)謂(フ)v石(ヲ)也、異(ハ)助語也」とある。多く海中の石を稱する。今陸上の石にいふ栗石、割栗などもこの語の遺つたもの。○ふかみる 海松《ミル》は海松|總《ブサ》ともいひ、海松|布《メ》ともいふ。海中の石に生ずる水草で、徑二分許の丸い棒状の物が多く枝を打つて恰も棒蘭の如く色は深緑である。宮内式の諸國の貢に深海松、長海松の二つがある。深海松は海底の深處に生ずるからいふ。○なびきねし 上の「依り寐し」に同じい。○ふかめて 心を深く籠めて。○もへど 「もへ」はおもへ〔三字傍点〕の上畧。「騰」は呉音ではドウ、故に短音はドである。○さねしよ 舊訓はサヌルヨ〔四字傍線〕。古義の過去に訓んだのに從ふ。○いくだもあらず 幾らもなくて。卷十に「さ寐し夜の伊久陀母《イクダモ》あらねば」とある。「いくだ」は奈良末期には既にイクラ〔三字傍点〕と轉じた。○はふつたの 別れにかゝる枕詞。蔦(401)は先から先へと枝を打つて蔓ひ別れてゆくので、人の別に喩へて續けた。○きもむかふ 心にかゝる枕詞。「肝向ふ」は腹中の臓腑が向き合つて寄り固まつて居る状をいふ。「むらぎもの心を」を參照(三九頁)。○おほぶねの 渡《ワタリ》にかゝる序詞。○わたりのやま 江川の東岸なる渡津の甘南寺の山をいふ。○ちりのみだりに 散り亂れの爲にの意。この「みだり」はラ行四段の自動詞を假體言にした語法。ミダレニ〔四字傍線〕と訓んでも宜しい。允恭記の歌に「亂れば亂れ」とあり、下二段に使用することも古い。舊訓チリノマガヒニ〔七字傍線〕とあるが、當時散のまがひ〔五字傍点〕と散の亂り〔四字傍点〕とは、もみち葉の知里能麻我比《チリノマガヒ》は(卷十五)春花の知里能麻可比に(卷十七)又秋萩の落乃亂《チリノミダレ》に(卷八)の如く竝び行はれてゐた。故に「亂」の字は必ずマガヒ〔三字傍点〕とは訓まぬ。○いもがそで 妹が振る〔二字右○〕袖。○さやにも あざやかにも。明らかにも。○つまごもり 屋にかゝる枕詞。妻の籠る屋とは妻の住む部屋即ち妻屋《ツマヤ》のことで、古へは新婦の爲に別に屋を建てもした。「妻隱有」はツマゴモリと訓まする爲に有〔傍点〕の字を加へたので、卷十にも、「妻隱矢野《ツマゴモリヤヌ》の神山」と訓んである。ひな曇り〔傍点〕碓氷、いさな取り〔傍点〕海の類、枕詞にはその例が多い。諸家ツマゴモル〔五字傍線〕と連體言に訓んでゐる。○やかみのやまの 屋上の山が。この山は那賀郡淺利村の屋上《ヤカミ》山一稱|小富士《コフジ》のこと。(402)標高二百四十五米突。この山の附近に、今も八神《ヤカミ》の地名が存してゐる。これを島星山とする古義の説は妄である。○くもまよりわたらふつきの 「惜しけども」にかゝる序詞。雲間の月は見るほどもなく隱れるので惜まれる故にいふ。この「より」はを〔傍点〕の辭に近い。「わたらふ」は渡る〔傍点〕の延言で、通過すること。「相」は借字。○をしけども 惜しけれ〔二字傍点〕ども。けれ〔二字傍点〕を「け」と約めてかくいふは古代語法。○かくろひくれば 「かくろひ」は隱《カク》り〔傍点〕の延言。この「隱ろひ」は八上の山が隱ろふのである。月でも妹が袖でもない。古義の「者」を乍〔右△〕の誤としてカクロヒキツヽ〔七字傍線〕と訓んだのは非。○あまづたふ 日にかゝる枕詞。天路《アマヂ》を傳ひゆく日といふ續き。○さしぬれ さしぬれば〔右○〕の意。かく「ば」の接續辭を略くは古代語法で、長歌における一格。○しきたへの 衣にかゝる枕詞。既出(二五五頁)。○とほりて 浸透して。「通」は借字。
【歌意】 石見の海の辛の崎にある岩礁には深海松が生え、荒磯には玉藻が生える。その玉藻のやうに自分に靡いて寢た女を、その深梅松の深くと思ひ入れるが、抑も共寐した夜とては幾らもなく別れてくるので、胸痛さに道々振返り/\するが、渡の山の紅葉の散り亂れる紛れに、かの女の自分を戀しがつて振る(403)袖も分明には見えず、屋上の山が雲間ゆく月のやうに惜しいながら見えなくなると、早もう夕日がさして暮れるので、大丈夫と思ひ誇つてゐる自分さへも、著物の袖は裏まで透して涙に濡れることよ。
 
〔評〕 作者は小役人ながらも石見の國衙の官吏として、職分柄國産の貢物などは勿論知悉してゐた事であらう。のみならず國内は大方巡檢し歩いて、石見の海では託農《タクノ》浦の辛の崎に岩礁が多く、海松や玉藻の産出に富んでゐること位は實見した事であらう。延喜式に據ると、交易雜物として石見の産物では、綿の外は海産物が多く、青|苔《ノリ》、海松〔二字傍点〕〕、海藻根〔三字傍点〕、鳥坂苔《トサカノリ》などの目が擧げてある。これらは食料品だから、特にその記憶が深い譯で、即ちまづ辛の崎の海松と玉藻との發生状態を叙して、次節の形容材料に使用する素地を作つた。故に辛の崎は只海松と玉藻とに關係をもつまでゝ、この歌には直接の地理的關係はない。
 「靡き寐し兒を深めて思ふ」は、そのいはゆる妹が、假令客中の無聯を慰めるだけの暫定的の妻であるにせよ、情合は又格別なものである。しかも作者の石見在任はもうその晩年で、五十歳以上と想定されるのに、相手の妹はいづれ若い女と思はれるから、愈よその愛顧眷戀の情は濃厚な譯になる。それが通婚後間もないにせよ、公務上京の命を受けたとすれば、「さ寐し夜は幾だもあらず」でも、私情を擲つてこゝに生別の袂を絞らねばならぬ。
 行々又行々、顧み勝に既に都農の高角山を打越えて、今の郷津《ガウツ》の江川《コウガハ》河畔に出た。この川は山陰道中の大河(404)で、昔の河口港即ち渡津《ワタツ》は、現在よりも上流の山根に接した場處と思はれ、街道はそこを渡船で連絡し、對岸の渡の山の眞下に着く。たま/\海船が河口に碇泊してゐるのを望見して、早速に渡の山の序詞に「大船の」と置いた手際などは流石にあざやかである。時秋にして、山おろしの風に紛々たる落葉はまゝ眺望を遮る。即ち「妹が袖さやにも見えず」と歎く。國府を距ること早くも六里、妹が振る袖は、落葉の有無に關らず見ゆべくもない。されども熾烈な戀の情念はそれらの理路に拘泥してゐるものではない。いや既に忘却してゐる。自分は既に高角山で妹が爲に袖を振つた、その體驗から、妹も亦おなじ心に、何處かの高みで自分の爲に袖を振つてゐるものと假定した。これは見やうに依つては根もない痴想とも思はれるが、元來が當事者のみ相知る情交の秘密に屬することだから、當人のいふまゝに信じて、頗る濃厚な情愛の結果と見るがよい。とにかく妹の態度をかく丁寧に胸裏に描くといふ事が、抑へても抑へ切れない思慕の情の發露である。
 屋上の山は從來作者に何の交渉もなかつた。只道中行摺りに仰望したに過ぎない。然るに「惜しけども隱ろひくれば」の句は、單なる行程の經過を叙したものでは決してなく、この山に對する深い執着を語つてゐる。これはこの山が附近第一の高山で、しかも土俗小富士と稱するほど、恰好よく目に著いて特立した山であることを考慮せねばならぬ。行くまゝに歩の轉ずるまゝに、やう/\懷かしいその山影を没してくるのを惜み/\する間に、早くも落日はそのうそ寒い秋の光を虚空に投げた。旅人の感傷は日暮人無き時に至つて極まる。恐らく江川に沿うて今の淺利《アサリ》附近を通過した頃の情景であらう。朝國府を出發してこの邊までは約八里、丁度一日の行程としてふさはしいものがある。
 作者の國府出發は九月下旬だとすると、上京して十一月一日の官會に出頭、それが濟むと始めて公務から解(405)放されて、打寛いでの都見物やら故舊親戚の存問やら、本妻への慰藉やらで、少くも一週日は費すことだらう。さて歸路に就くとして十一月一杯には石見に歸任出來る。多く見積つても七十日ばかりの留守、それにしては離別の悲哀が大仰過ぎる。
 尤も旅愁といふ重荷が小附けにされてゐることを見遁してはならぬ。即ち「嬬籠り屋上の山の」より「入日さしぬれ」までの一小節がそれである。離愁と旅愁、この二つが綯ひまぜになつて、作者の心胸を飽くまでもゆすぶるのである。「丈夫と思へる吾も」と一往は理性で抑へて見ても、それは畢竟體面的の閑思案で、結局情には負ける、古人は殊に情味に篤いのであつた。「衣の袖はとほりて沾れぬ」は多少誇張はあるにしてからが、隨分相應に泣いたものであらう。集中、
  天傳ふ日の暮れぬれば 白木綿の吾がころも手も、とほりて沾れぬ  (卷十三、長歌―3258)
は全くこの踏襲である。
 「大夫と思へる吾も」、この句は集中に多く散見する。軍王でも舍人親王でも大伴旅人でも家持でもこの作者でも、上代人は皆みづから自分が男である事を意識し強調しようとしてゐるのが面白い。
 「つぬさはふ」より「玉藻は生ふる」までは第一段、「玉藻なす」より「別れし來れば」までは第二段、「肝向ふ」より「入日さしぬれ」までは第三段、「ますらをと」より「沾れぬ」までは第四段である。
 第一段は全部が第二段の玉藻、深海松を呼び出す純然たる序詞で、對偶の辭樣を以て進行し、同語の反復を以て流麗の調を成してゐる。第二段は專ら事件の經過を説明したもので、前段の玉藻の語を直ちに承けてまづ「玉藻なす」といひ、次に「深海松の」と續けて、前節とその順序を逆にして所謂襷附けになつてゐる。この手(406)法はなか/\古い事で、古事記下(允恭)の長歌「隱國《コモリク》の初瀬の川の」の一節に、
  いくひには鏡を懸け、 まくひには眞玉を懸け、
    眞玉なすあが思ふ妹、 鏡なすあが思ふ妻、 (衣通王)
とあるはこの藍本である。
 第三段は一篇の重心をなすもので、專ら現在の旅境に伴ふ各樣の感想と實景描寫とに終始してるる。「肝向ふ心を痛み、念ひつゝ顧みすれど」は決前生後の句である。次の長句の排對的辭樣は殊に面白い。
  大舟の渡の山の、もみぢ葉の散りの亂りに、妹が袖さやにも見えず、 (前)
  嬬ごもり屋上の(【雲間より渡らふ月の、惜しけども隱ろひくれば】)天傳ふ入日さしぬれ、(後)
と句數に長短の差こそあれ、全然意對を成してをり、前對は景を借りて情を陳べ、後對は專ら景を叙してゐる。第四段はその男泣を以て、極めて手輕にしかも力強く以上を結收してゐる。
 これも前篇に劣らぬ大作で、その充實した内的の力は澎湃として楮表に横溢し、その嗚咽の聲は惻々として人の心胸を打つ。吹毛の難をいへば、「深めて思へど」「顧みすれど」、又「別れしくれば」「隱ろひくれば」の如く、同一の接續辭樣が各段に重複してゐることと「思へど」「念ひつゝ」「念へる」の三出とが、稍不快を感ずるやうに思ふ。
 
反歌二首
 
青駒之《あをごまの》 足掻乎速《あがきをはやみ》 雲居曾《くもゐにぞ》 妹之當乎《いもがあたりを》 過而來計類【一云、當者隱來計類《アタリハカクレキニケル》】 136
 
(407)〔釋〕 ○あをごま 黒に青味を帶びた毛色の馬をいふ。和名抄に「※[馬+總の旁](ハ)青馬也」とある。○あがきをはやみ 足の運びが早さに。「あがき」はアシ掻《カキ》の略。○いもがあたりを 妻が住んでゐる里の邊をの意。「當」は借字。
【歌意】 わが乘つた青駒の歩みが早いので、何時の間にか戀しい妻が住む里のあたりを、雲居遙になるまで通り過ぎて來たことよ。あゝ名殘惜しいことだ。
 
〔評〕 作者は朝の間に國府を出立して、晝頃には都濃の妻の里を別れ、高角山を打越して渡津の渡を經、屋上の山にさす夕日を眺めた。これが「妹があたりを過ぎて來にける」所以である。妻の里からはほんの二三里位しか來たに過ぎぬのであらうが、その後髪を牽かれる心からは、野山かけていくら振返つても見えないとなると、大層な遠方に來たといふ感じがふと起つて來る。「雲居にぞ」は遠方の轉義であるが、そこに大きな誇張の意をもつので、「青駒の足掻をはやみ」の前提が生きて來る。實はともすれば征馬踟躊して頗るのろ/\してゐたらしいのを、只妹があたりを遠ざかりかねた心から、かう雲居にまで隔つたと揚言して、罪を馬の足掻の早さにおふせた。そこに窮りない怨意と別恨とを湛へてゐる。そしてかく本末顛倒の痴呆の想は、頗る遠長い詩味を搖曳させるのである。歌聖ならでは到底なし得ぬ天外の落想である。
 註の異傳では「妹があたりは隱れ來にける」とあつて、愛妻の住む里の邊はすつかり見えぬ程來てしまつたことよとの意になつてゐるが、意味に大差はないにしても、本文の妥當なのに若かない。
 
(408)秋山爾《あきやまに》 落黄葉《おつるもみぢば》 須臾者《しましくは》 勿散亂曾《なちりみだりそ》 妹之當將見《いもがあたりみむ》 【一云|知里勿亂曾《チリナミダレソ》】    137
 
〔釋〕 ○おつる 古義は、花黄葉の類に「おつる」といふは古言でないといつて、チラフ〔三字傍線〕と訓んだが、獨斷一偏の説である。○もみぢば 「黄葉」は「もみぢ」の條に既出(七九頁)。○しましくは シマラクハ〔五字傍線〕と訓むもよい。「しましくも」を參照(三六五頁)。
【歌意】 向ふも見えぬほどにこの秋山に散る黄葉よ、暫くの間はどうかそんなに散り亂れずにゐてくれ、戀しい妻の居るあたりを見遣らうと思ふのに。
 
〔評〕 長歌の第三段の一章を取つて「見えず」とあるのを「見む」と希望の意にいひ換へてゐる。盛に木の葉の散り亂れるのを誇張しては、先も見えぬとは、よく用ゐる形容である。ところがこゝは形容を通り越して、木の葉が散るので本當に妻の里が見えぬと固信したのが一の痴、散るのがやめば見えると考へたのが二の痴、無心の木の葉に散るなと命令した無理解が三の痴、これが「妹があたり見む」の熱望を核心として、秋闌けた物さびた山路を背景に働いてゐるのである。「しましくは」と極めて控へ目な態度に出たことは、成るべく實現の出來さうな最低限度に於いて要求したので、そこに多少の理性がほのめいてはゐるものゝ、尚思ひ迫つた高い情熱が迸つてゐる。この構想とこの叙法とは頗る効果的であるので、後世歌人のよく踏襲する所となつた。
 註の異傳では「散りな亂れそ」とあつて、意は全く同じいが、本文の方が古い語法であるから從ふべきである。
 
(409)或本(の)歌一首并短歌
 
石見之海《いはみのうみ》 津野〔左△〕乃浦囘〔左△〕乎《つぬのうらわを》 無美〔二字□で圍む〕浦無跡《うらなしと》 人社見良目《ひとこそみらめ》 滷無跡《かたなしと》 人社見良目《ひとこそみらめ》 吉咲八師《よしゑやし》 浦者雖無《うらはなくとも》 縱惠夜思《よしゑやし》 滷者雖無《かたはなくとも》 勇魚取《いさなとり》 海邊乎指而《うみべをさして》 柔田津乃《にぎたづの》 荒磯之上爾《ありそのうへに》 蚊青生《かあをなる》 玉藻息都藻《たまもたきつも》 明來者《あけくれば》 浪己曾來依《なみこそきよせ》 夕去者《ゆふされば》 風己曾來依《かぜこそきよせ》 浪之共《なみのむた》 彼依此依《かよりかくよる》 玉藻成《たまもなす》 靡吾宿之《なびきわがねし》 敷妙之《しきたへの》 妹之手本乎《いもがたもとを》 露霜乃《つゆじもの》 置而之來者《おきてしくれば》 此道之《このみちの》 八十隈毎《やそくまごとに》 萬段《よろづたび》 顧雖爲《かへりみすれど》 彌遠爾《いやとほに》 里放來奴《さとさかりきぬ》 益高爾《いやたかに》 山毛越來奴《やまもこえきぬ》 早敷屋師《はしきやし》 吾嬬乃兒我《わがつまのこが》 夏草乃《なつくさの》 思志萎而《おもひしなえて》 將嘆《なげくらむ》 角里將見《つぬのさとみむ》 靡此山《なびけこのやま》    138
 
(410)〔釋〕 ○つぬのうらわ 原本「津」の下野〔右△〕の字を脱した。「乃」をヌ〔右△〕に充てた例は全然ない。又「浦」の下囘〔右△〕の字を脱した。次の「無美」は誤入で削るがよい。○いさなとり 鯨魚取と同じい。鯨魚をイサナと訓むは勇魚の義である。○にぎたづ 本文の和多豆《ワタヅ》の「和」をニギ〔二字傍線〕と誤訓して「柔」の字を充てたもの。○かあを 「蚊」は借字。 ○なびきわがねし これは作者が妹に依り添つて寢たのである。○しきたへの 「妹が」を隔てゝ袂(手本)にかかる枕詞。○はしきやし 「嬬」にかゝる枕詞。愛《ハ》しきよの意。「や」は歎辭、「し」は強辭。○おもひしなえて 「志」は不用ではあるが、萎《シナ》えての頭音のシ〔傍点〕を喚び出す爲にわざと添へて書いたもの。○つぬのさと 那賀郡都野津の邊か。
【歌意】 前掲の長歌と大體似たものであるから略する。隨つて評語も略く。
 
反歌
 
石見之海《いはみのうみ》 打歌角《たかつぬ・ウツタノ△》山乃《やまの》 木際從《このまより》 吾振袖乎《わがふるそでを》 妹將見香《いもみつらむか》    139
 
〔釋〕 ○いはみのうみ 石見國の海邊なるの意。○たかつぬやま 諸本すべて「角」の字がない。眞淵説に從つて補つた。「うつたの山」は所在不明。古義のいふ竹綱〔二字右△〕の誤字説は牽強である。
【歌意】 前掲「石見乃也」の歌と殆ど同じい。但「石見の海」と起句にいひおこして、「打歌角山」と續けたのは、打合ひがよくない。「海」は誤である。
 
(411)右歌體雖(モ)v同(ジト)、句句相替(ル)、因(テ)此(ニ)重(ネテ)載(ス)。
 
 右の歌は長歌も反歌も大體同じであるが、部分的に句に異同があるから、ともかく茲に重ねて載せるとの意。
 
柿本(の)朝臣人麻呂(が)妻《め》依羅娘子《よさみのいらつめが》與《と》2人麻呂1相|別《わかるゝ》歌一首
 
人麻呂の妻の依羅娘子が人麻呂と別れる時に詠んだ歌との意。○依羅娘子 傳は明かでない。依羅は氏で大和人である。眞淵は、「この娘子は人麻呂の嫡妻なるべし。但嫡妻に前後二人ありと見えたり。前妻は人麻呂に先だちて身まかれること、この卷末に見えたり。この依羅娘子は後妻にて、人麻呂の死に後れたること又末に見ゆ」といつた。○相別 人麻呂の石見へ赴任の時か、又は公用で上京して再び石見へ下る時かのことであらう。
 
勿念跡《なおもひと》 君者雖言《きみはいへども》 相時《あはむとき》 何時跡知而加《いつとしりてか》 吾不戀有牟《わがこひざらむ》    140
 
〔釋〕 ○なおもひと 物思ふなとの意。「な」は禁止の辭。「おもひ」の下にそ〔傍点〕を添へぬのは古格。眞淵はナモヒソト〔五字傍線〕と訓み、舊訓はオモフナト〔五字傍線〕とある。「念《オモ》ひ」をモヒ〔二字傍線〕と上略することは、獨出の場合にないことと古義は難じた。○あはむとき 正辭はアフトキヲ〔五字傍線〕と訓んだが從ひ難い。 
【歌意】 さうくよ/\するなと、貴方は仰しやるけれども、またお目にかゝる日をいつの事と知つてか、戀しく(412)思はずに居られませうぞ。
 
〔評〕 往く人は思ふなと慰め、留る者は思はずに居られないと歎く。氣強く見える男、心弱く見える女、離愁に對する兩者の態度が、如何にもよくクツキリと描き出されてゐる。「逢はむ時いつと知りてか」は、殆ど再會の期の測られないやうな口吻であるが、事實からいふと、地方官は一定の任期があるから必ず歸期があり、又期限中でも公務出京の折もあるから、再會はさう遠いことではない。然し情からいふと、今直面した別離そのものがつらいのである。別れると同時にすぐ逢ひたいのである。このさし迫つた心からは、幾年といふ氣長な先の事は問題でなくなる。まして絡石這《ツヌサハ》ふ石見の國などいふ僻遠の地に思ふ夫を遣ることは、當時の都女の心地では實に堪へられない悲痛事で、殆ど再會の期が測られなく感じたのは事實であらう。「わが戀ひざらむ」の逆叙も殊に幽婉の味ひを深くする。既に「君は」といひ、對へて「わが」といふ、一寸も脇目を振らぬ迫り切つた心持である。すべて女の一筋心のやさしい情緒が言々語々に滲み出てゐて、流石は歌聖人麻呂の妻の歌だなと感ぜられる。
 
挽歌
 
○挽歌 バンカと音讀しておかう。中古以來の哀傷歌と同じ性質のもので、それ故古義はカナシミウタ〔六字傍線〕と訓んでゐる。「挽」は柩車を挽く意で、支那では葬送の際、車の※[糸+弗]《ツナ》を執る者が唱へる哀歌を挽歌といつたが、こゝで(413)はその字義には拘はらない。
 
後(の)崗本宮御宇天皇代《をかもとのみやにあめのしたしろしめしゝすめらみことのみよ》  天豐財足姫天皇
 
齊明天皇の御治世とのこと。この標目のことは卷一に既出(五一頁)。
 
有馬(の)皇子(が)自傷《みづからかなしみて》結(べる)2松(が)枝(を)1御歌二首
 
有馬皇子がわが身を歎いて松の枝を結んだ時の御歌との意。○有馬皇子 孝徳天皇の皇子で、紀に、「元(ノ)妃阿倍(ノ)倉梯《クラハシ》麻呂(ノ)大臣(ノ)女(ヲ)曰(フ)2小足媛《ヲタラシヒメト》1、生(ム)2有馬(ノ)皇子(ヲ)1」とある。齊明天皇四年十月、天皇紀伊の湯に行幸遊ばされた折、謀反の罪でその十一月死刑に處せられた。御年二十一。
 抑も皇極天皇が孝徳天皇に御讓位なされたことは、蘇我氏誅滅の反動運動を緩和される爲の一時の權變に過ぎない。だから實際の權力は皇極天皇の御子、即ち舒明天皇系の皇太子中大兄(天智天皇)の御手に握られ、家格も低かつた孝徳天皇側はともすれば抑壓を受け、甚だ面白からぬ軋轢が續いたのである。孝徳天皇の崩後、齊明天皇(皇極天皇重祚)の御代に及んでも、孝徳天皇の遺子たる有馬皇子は、皇太子派とは相容れなかつたことは、想像に餘りある。當時有馬皇子は成年になつたばかりの血氣盛りだつたので、まんまと左大臣蘇我赤兄の反間策にかゝつて、拔きさしならぬ謀反の罪におとされ給うたのである。
 
(414)磐白乃《いはしろの》 濱松之枝乎《はままつがえを》 引結《ひきむすぶ》 眞幸有者《まさきくあらば》 亦還見武《またかへりみむ》    141
 
〔釋〕 ○いはしろのはま 磐代の岡續きの濱。「いはしろ」を參照(六一頁)。○ひきむすぶ 諸本皆ヒキムスビ〔五字傍線〕と訓んであるが、かく中止法に訓んでは意が疏通しにくい。故に卷十二の「妹が門ゆきすぎかねて草結ぶ〔三字傍点〕風吹きとくな又かへりみむ」の例に※[人偏+効]つて終止法に訓んだ。物を結ぶことは一種の禁厭呪術で、この事は卷一「君が代もわが代もしれや磐白の」の條下に詳記した(六二頁)。○まさきくあらば 恙なくあらば、平安ならばの意。「ま」は美稱。 △地圖 挿圖16、17を參照(六〇、六一頁)。
【歌意】 わが身の無事を祈る爲に、この磐代の濱松の枝を結び合はせておく。が若し申し開きが立ち罪がゆりて無事であつたら、復立返つてこの松を見ようわ。
 
〔評〕 皇子は十一月五日に平群郡の市經《イチフ》の家で捕はれ、その九日上命に依つて齊明天皇の紀伊の牟婁《ムロ》の湯の行在さして護送され、磐代まで來て、そこで皇太子(中大兄)の御前で檢問がすむや否や、藤白坂まで送り還されて絞殺された。市經から磐代まで約五十里、そこを二日間に乘り立て、翌十一日十五里も後戻して、その夕刻藤白で刑せられたことは、驚くべき高速度で、政策上疾風迅雷的の處置に出たものである。十日の夜は無論徹夜の審問で、濱松が枝を結ぶ機會もあるまいから、この歌は十一日の朝磐代出發の際の詠と斷ずるが至當であらう。かうした大辟の罪人には、その間際まで死の豫告がないから、皇子の一身は生死の境に彷徨してゐる譯(415)で、尤も嫌疑が嫌疑だけに、九分通り死は豫測してはゐるものゝ、そこがそれ人間の弱さで、未練らしく濱松の枝を結び合わせて、又も立返つて見るべき呪術を行つたことは、一面迷信の深い古代人としては無理もない事で、頗る根強い生の執着を語つてゐる。そして「まさきくあらば」と、なほ一縷のはかない望を繋いでゐたのは、檢問に對しての「天(ト)與2赤兄1知(レリ)、吾全(ク)不解《シラズ》」(紀の文)の辯明が、或は首尾よく通過したかも知れぬ、といふ夢のやうな事を當てにした爲で、死の魔手が既に自分の運命を攫んでしまつたことを知らなかつたのが見じめである。されば長(ノ)忌寸《イミキ》麻呂や山上(ノ)憶良などの後人が、擧つてこの結松に對して追懷の涙をとゞめ得なかつた。
  大日本史に有馬皇子の年齡を十九〔二字傍点〕とあるは、日本紀の註を見誤つたので、註には十九に陰謀の計畫をはじめ、成年になつたのでいよ/\事を起したと書いてある。今有馬の名によつて紀を檢すると、舒明天皇の十年冬十月に有馬温泉に行幸の事が見える。輕《カルノ》皇子(のち孝徳)は折しも御伴の列にあつて、その際生まれた御子に有馬の名を付けられたに違ひない。すると歿年は二十一歳になり、註の成人云々とあるに吻合する。
 
家有者《いへにあれば》 笥爾盛飯乎《けにもるいひを》 草枕《くさまくら》 旅爾之有者《たびにしあれば》 椎之葉爾盛《しひのはにもる》    142
 
〔釋〕 ○あれば 居ればの意。○け 飯笥《イヒケ》である。飯笥は和名抄に、「笥、禮記(ノ)註(ニ)盛(ル)v飯(ヲ)也、和名|計《ケ》」とある。内匠寮式に「銀器、御飯《オモノノ》笥一合、徑《ワタリ》六寸、深(サ)一寸七分」とあるので、大概の大さがわかる。○いひを 飯なるもの〔四字右○〕をの略。○たびにし 「し」は強辭。○しひ 殻斗科の常緑木。
【歌意】 わが家に居れば、ちやんと飯笥に盛つて食べる飯だのに、今はかうした侘しい旅にあることとて、情な(416)くも椎の葉に盛つて食べることぢやなあ。
 
〔釋〕 この歌はよく往古の行旅の艱苦を語る場合に例證に引かれてゐる。成程普通人の作なら、さう解しても仔細ないのであるが、かく作者の身分が高いとなると、自ら事情が違つて來る。假令旅中にもせよ、これが甚しい邊僻の地でもあることか、京から牟婁の湯かけての紀伊路は、飛鳥朝時代には屡ば行幸もあり、既に交通の立派に開けた街道で、文化も立派に發達した時代だから、事實その道中に椎の木があつたにしたところで、まさか皇子ともある御方に、椎の葉飯を差上ける筈がない。
 こゝに至つて即ち皇子の身の罪囚たることに想到せざるを得ない。上に述べたやうに皇子は大逆の罪人であり、最高速度を以て護送された爲、驛々での待遇も頗る無造作極まつたもので、椎の葉の上に飯を打あけ、二本の折箸を添へた程度の食事であつたらうと想像される。傲り切つた貴人の心には、見るから甚しい屈辱を感じて、つひ昨日まで銀の飯笥を用ゐたものをとの感慨が、ひし/\と込み上げて來る。けれども、今は幽囚の身の悲しさ、強ひて我慢して「旅にしあれば」と、一切を物不足勝な旅のせゐに託して解決を試み、纔に眼前の不滿を癒さうと努力なされた、その衷情の悲痛さを察すると、そぞろ同情の念に禁へない。かく味ひ來れば非常に含蓄に富んだ沈痛極まる作である。初二句と三四五句との對映も隨つて平板でなくなる。單なる事實の報告に近い平面的描寫でないことを、特に注意すべきである。
 
(417)長《ながの》忌寸《いみき》意吉《おき》麻呂(が)見(て)2結松《むすびまつを》1哀咽《かなしみて》作歌二首
 
長意吉麻呂が有馬皇子の結松を見て歎いて詠んだ歌との意。○意吉麻呂  卷一に奥《オキ》麻呂とあつたのと同一人である。文武天皇の朝の人であるが、傳は未詳(二二三頁參照)。○結松 その遺蹟は東磐代の岡の西坂の上にあつた。
 この歌二首及び次の「山上臣憶良追和歌一首」は、齊明天皇時代のものではないが、有馬皇子の結松の歌の次に類を以て附記したのである。
 
磐代乃《いはしろの》 岸之松枝《きしのまつがえ》 將結《むすびけむ》 人者反而《ひとはかへりて》 復將見鴨《またみけむかも》    143
 
〔釋〕 ○きし 崖になつてゐる處をいふ。こゝは磐代の岡の海に臨んだ處をさす。○むすびけむ この「けむ」は連體で、下の「人」にかゝる。○ひと 有馬皇子をさす。○みけむかも 見たであらうかまあ。かう問ひ懸けて、見なかつたことを反映させた叙法である。「かも」に反動の意があるのではない。
【歌意】 この磐代の海岸の松が枝を結んで身の無事を祈つたといふ人、即ち有馬皇子は、再び立返つて復この松を見られたであらうかなあ。いや皇子はそのまゝ落命なされて、再び返り見ることが出來なかつたのに、今なほ結ばれながらあるその松を見るのが悲しい。
 
(418)〔評〕 東磐代の岡は海際の長い岡で、岡の上が街道である。「草根を結ぶ」も「松を結ぶ」も皆その路傍の物なのである。岸といひ野といふもやはり、岡の岸であり岡の野である。
 結松と呼ばれて來たのは、嘗て有馬皇子の結んだまゝ、年經ても枝が交叉してゐたので、何だか皇子の呪願を裏切つたやうな無情さが、後人の心に深く彫り付けられた結果であらう。「また見けむかも」は、讀者にさう疑問を投げ懸けておいて、さて讀者自身に事實の反證を辿つて、復と見なかつたとの結論を見出させた面白い叙法で、懷古の歎、追憶の情を、おほく讀者の心胸から抽き出さうと試みた狡猾手段である。
 意吉麻呂は大寶二年の參河行幸に供奉して「引馬野に匂ふはり原」(卷一)の歌を詠んだ人で、これも或は大寶元年の紀伊行幸の供奉の途中の作かと思はれる。後にもこの折の結松の歌がある。果して然りとすれば、有馬皇子の歿後四十年のことである。結んだ枝も相應に太つて昔のまゝに交叉してゐたことも、一つの奇蹟であらねばならぬ。この結松が殊に感傷の題目となつた所以もそこにある。
 
盤代乃《いはしろの》 野中爾立有《ぬなかにたてる》 給松《むすびまつ》 情毛不解《こころもとけず》 古所念《いにしへおもほゆ》 未詳    144
 
〔釋〕 ○ぬなか 磐代の岡邊の野中である。○こころもとけず 心も結ぼれての意。○いにしへ 有馬皇子の古へをさす。○未詳 作者未詳の意だらう。元暦校本その他多くの古寫本及び舊刊本等に皆かくあるけれども、固より後人の筆たることは明かである。尚上と同じく意吉麻呂の作と見てよい。
【歌意】 磐代の野中に立つてゐるこの結松を見ると、松ばかりか心も結ぼれてしまつて、昔の有馬皇子の悲しい(419)御最期が思ひ出されてならない。
 
〔評〕 立意は極めて平坦である。「心も解けず」の逆寫を用ゐて、結松の「結び」と闘はせたことは、低級な修辭の巧に囚はれたものであり、且描寫としてもこの四句は餘に説明に墮してゐる。
 
山(の)上《への》臣《おみ》憶良《おくらが》追(ひて)和歌一首
 
○憶良 傳は既出(二三四頁)。○追和 あとから意吉麿の歌意に擬へて詠んだとの意。古義はオヒテナゾラフ〔七字傍線〕と訓んだ。
 
鳥翔成《つばさなす》 有我欲比管《ありがよひつつ》 見良目杼母《みらめども》 人社不知《ひとこそしらね》 松者知良武《まつはしるらむ》    145
 
〔釋〕 ○つばさなす 鳥の如くの意。眞淵いふ、羽して飛ぶものをツバサといふと。「なす」は「玉藻なす」(一九二頁)及び「もころ」(五一五頁)を見よ。「翔」の字は翅〔右△〕の誤だとは略解の説である。舊訓トリハナス〔五字傍線〕はわるい。○ありがよひ 現在に通ふの意。「欲」はその音尾を略してヨ〔傍点〕の音に充てたもの。
【歌意】 空飛ぶ鳥の如く、有馬皇子の御魂《ミタマ》は現在に通ひ/\して、この結松を見られるであらうけれども、この世の人の目には見えないから、さうとも人こそ知らないが、松はよく知つてゐるであらう。
 
(420)〔評〕 この追和といふは、上の長忌寸意吉麻呂の作二首の中、最初の「磐代の岸の松が枝」の歌に和したものなることは勿論である。皇子が二度と立返つては結松を見られなかつたと、意吉麻呂が詠じたのに對して、憶良は別に一解を下したのである。
 作者はまづ、皇子の御魂が飛ぶ鳥の如く天翔りつゝ結松のあたり去らずさまよふの想像を脳裏に描いた上で、松に活喩を用ゐて、知らぬ人を抑へ、知る松を揚げたのである。この對照はかく露骨であればあるほど、効果が有効になることを知らねばならぬ。
 上に意吉麻呂はひたすら現世的觀念に終始して憑弔の意を寄せたのに、作者は靈的觀念の立場からまた異なる天地を拓いて、おなじ憑弔の意を叙べた。それは儒佛思想の影響を受けること多く、比較的に思想上の深みを持つといはれるこの作者として、當に然るべき行き方でなければならない。但亡魂の天翔りは和漢とも古來傳承した一般的信念で、歌の上には主格たる皇子の御魂は〔六字右○〕といふ詞がなくても通ずる程の時代だから、この點には新意は無いが、然しこれを結松に湊合することによつて、頗る悲傷な感じを印象させたのは、作者の手腕である。
 
右件(ノ)歌|等《ドモ》、雖(モ)v不(レ)2挽(ク)v柩之時(ニ)所1v作《ヨメルニ》、唯擬(フル)2歌意(ニ)1故(ニ)、以(テ)載(ス)2挽歌(ノ)類(ニ)1焉。
 
 前掲三首の歌は葬送の時の作ではないが、有間皇子の歌に擬へたのであるから、挽歌の類に載せたとの意。この左註は、萬葉の編者が用ゐた「挽歌」の字面が、廣範な意味での哀傷歌であることに氣附かなかつた註者(421)のさかしらである。
 
大寶元年辛丑幸(せる)2于紀伊(の)國(に)1時、見(る)2結松(を)1歌一首
 
大寶元年に文武天皇が紀伊に行幸された時、或人が結松を見て詠んだ歌との意。文意が不完全である。假に或人が〔三字右○〕を補つた。○幸于紀伊國 文武紀に、大寶元年九月十八日紀伊に行幸、十月八日|武漏温泉《ムロノユ》に至り、同十九日京に還幸とある。
 
後將見跡《のちみむと》 君之結有《きみがむすべる》 盤代乃《いはしろの》 子松之宇禮乎《こまつがうれを》 又將見香聞《またみけむかも》    146
 
〔釋〕 ○きみ 有馬皇子のこと。○こまつがうれ 小松の梢。「うれ」はウラ(末)と同語。物の先をいふ。尚「こまつ」を參照(六三頁)。「子」は借字。
【歌意】 あとで復見ようと、君 有馬皇子が結んだその岩代の小松の秀《ホ》つ枝《エ》を、皇子が二度と見たであらうことかまあ。遂に見なかつたことが悲しい。
 
〔評〕 上の意吉麻呂の作の異傳であらう。さればこの題詞から推想すると、意吉麻呂が結松を見たのは、大寶元年九月の文武行幸の供奉によつての事と斷じてよい。
 
(422)近江(の)大津(の)宮(に)御宇天皇(の)代《みよ》   天命開別天皇
 
天智天皇の御治世とのこと。卷一に既出(七六頁)。
 
天皇(の)聖躬不豫《おほみやまひ》之時、大后奉御歌《おほぎさいのたてまつれるみうた》一首
 
天智天皇の御不例の時に、皇后の詠んで奉られた御歌との意。○不豫 不悦の義で、書經から出た語。病氣のこと。○大后 皇后の御事。天智天皇の皇后は、皇庶兄|古人大兄《フルヒトオホエ》の御女、倭姫王《ヤマトノヒメミコ》である。「后」は后妃の汎稱で、特に嫡后を大后と稱する。太〔右△〕后とある本は誤。この時太后はおはさなかつた。
 この御歌は實は挽歌ではないが、御大漸の折の作であるから、こゝに收めたものと思はれる。
 
天原《あまのはら》 振放見者《ふりさけみれば》 大王乃《おほきみの》 御壽者長久《みいのちはながく》 天足有《あまたらしたり》    147
 
〔釋〕 ○あまのはら 廣々とした空の意。「はら」は打開いた處の稱。○ふりさけみれば 「ふり」は接頭語。「さけみる」は見放《ミサ》くるの倒語で、遙に見遣ること。○あまたらしたり 天の遠長く悠久なるが如く滿ち足りて缺く(423)ることのないのをいふ。「足らし」は敬相。
【歌意】 大空をふり仰いで遠く見やると、天は無際限に廣がり悠久に續いてゐます。丁度その如くに、天皇陛下の御壽命も滿ち足りて無限でおありなされます。御柄氣などが何で御座いませう。
 
〔評〕 天智天皇の御悩は可なりお長い事で、紀によると、その十年九月に御發病、遂に十二月三日崩御となつた。夙くその十月十七日に東宮(皇弟大海人皇子)を御病床に引見し給ひ、「朕疾甚(シ)、以(テ)2後事(ヲ)1屬《ツク》v汝(ニ)」(天智紀)と仰せられたので見ると、不起の重患であることを御自覺遊ばされたに相違なく、皇后にもさやうな不吉なお言葉を洩されたものと拜察される。そこで皇后はこの御歌を奉つて、聖壽の萬歳を言賀ぎ、御病苦を慰め奉つたものである。考に、
  推古紀に、「安みしゝ吾大君の、隱ります天の八十蔭、出で立たすみ空を見れば、萬代にかくしもがも云々」てふ歌をむかへ思ふに、天を御室とします天つ御孫命におはせば、御命も長へに天足しなむと、天を仰いで言賀ぎ給ふなり。
とあるが如く、記紀人は神を絶對なる信仰の對象として、その八百萬の神の中の最高位を天つ神とし、更に天即神〔三字傍点〕といふ信仰をもつてゐた。されば天つ日嗣たる天皇の御息災を天に向つて祈ることは、最も適切な所爲であらねばならぬ。况や乞ひ求むる態度は仰ぐのである。換言すれば仰ぐのは乞ひ求むる人類自然の態度である。冤を得ては庶女天を仰いで訴へ、不平に當つて將軍咄々怪事を空に書く。天皇の御重病に際して大后のまづ「天の原」と叫ばれたことは、遣る瀬ない心の痛みから天を仰いだものである。天を仰いでさて思惟した。水に臨んでは流轉を感ずる如く、天を仰いでは悠遠を感ずるも自然の情懷である。茲に記紀人がもつた信仰は(424)涌然として起つて、この兩者がしかと結び付けられ、天はかく悠久である、天つ日嗣たる天皇の聖壽も隨つて悠遠で天足してあると、推理的に斷定された。かく斷定することに何等の躊躇をも置かれなかつた大后の突き詰めたお心持には、誠に同情に値する深い哀れさが籠つてゐる。實をいへば聖壽は殆ど絶望の境にあつた。それにも拘はらず尚萬壽を斷言したことは、大后の優しい貞淑な御氣質と、深い愛着の御情緒とを語るものに外ならない。
 一切の小細工から超越して、天馬空を行く底の堂々たる雄渾の調は、中興の英主たる天皇の御配偶の御作として頗るふさはしい。大海人皇子が「請(フ)奉《アゲテ》2洪業(ヲ)1付2屬《ツケマツリ》大后(ニ)1云々」と申上げて東宮を辭せられた結果、大后攝政といふ一大事の場合であつたので、頗る緊張した御心境であられたことも、この高調を成す一因ではなかつたかと推想される。
 二句「ふりさけ見れば」の下には、「天は悠遠である、恰もその如くに」の意の詞が當然來るべきであるが、結局「天足らし」の語に讓つてこれを省略したのである。四句の字餘り、その力強い意氣組を見るべく、初句結句にその大部分を占めてゐるア列音は、頗る快調をなして、大いにその壯語を助けてゐる。
 正辭はこの歌に就いて一異説を提供した。いはく、
  宮殿の上を振放け見れば、殿の柱など結びたる綱長くさがりたるを見て詠めるならむ。昔は結びて家を建てたり。長きほどめでたし。
聊かこれは力負の形で、祝詞にこそ見えるが、そんな事はずつと古代の話で、この歌に何の交渉もない。
 
(425)一書(ニ)曰(フ)、近江(ノ)天皇聖體不豫、御病|急時《セマレルトキ》、大后(ノ)奉獻《タテマツレル》御歌一首
 
 この一行については古來種々の異説があり、眞淵はこれは左註でなく獨立の題詞であるが歌が落ちたものだと見た。然し思ふに、これはやはり左註で、一書に見えたこの歌の題詞を、後人がこゝに追録したものに相違ない。「御病急時」の四字は、一層よくこの際の事情を説明してゐる。
      ○
この歌は内容を檢すると、天智天皇崩御後のものであることは明白である。故に必ず次の歌の題詞のうちに攝せらるべきものと思ふ。
 
青旗乃《あをはたの》 木旗能上乎《こはたのうへを》 賀欲布跡羽《かよふとは》 目爾者雖視《めにはみれども》 直爾不相香裳《ただにあはぬかも》    148
 
〔釋〕 ○あをはたのこはた 青い小旗の意。「木旗」の木は借字である。古へは殯葬の際、數多の白旗の外に青旗をも樹てたのである。考に「青旗は白旗の事にて、青白通はしいふこと、白馬節會をアヲウマの節會と讀むにても知らる」とあるのは拘はつた説である。○うへ あたりの意。○ただに まともに。一向に。○あはぬ 逢はれぬの意。「相」は借字。
【歌意】 殯宮に樹てた青い小旗のあたりを、天皇の大御魂が天翔つて通つていらつしやるとは、面影には見えるけれど、直接にはお逢ひ申すことが出來ませぬわ。まことに悲しいことではある。
 
(426)〔評〕 これは殯宮に御參拜遊ばされた折の大后の御感懷であらう。靈魂の天翔りといふ觀念は、上の山上憶良の「つばさなすあり通ひつつ」の作と同じい。「青旗の小旗」と、眼前實在の物を捉へて來たのが、一層實感を強く印象させるに好都合である。幻影目にあり、而もその人なし、かゝる感傷は悼亡の際誰もが實驗する處で、平凡に近いが、その率直な叙述は、作者の御人柄も偲ばれて畏い。
 尚再考するに「木旗」は、卷十一に「山科の木幡の山に馬はあれど」とある山科の木幡のことかとも思はれる。天智天皇の御陵はおなじ山科の鏡山にある。今こそ木幡は山科の最南部の一地名となつてゐるが、當時は大津街道まで進出してゐた汎い名稱であつたかも知れない。さうすると天智天皇の御葬列は大津宮から逢阪を越え、山科の木幡を左に見て鏡山の御陵に到達されたわけであるから、「こはたのうへ」は木幡のあたり〔六字傍点〕の意と解せられるし、「青旗の」はハタ疊音によつて木幡の枕詞として用ゐたとも見るべく。又「青旗乃葛木山《アヲハタノカヅラキヤマ》」(卷四)「青幡之忍阪山《アヲハタノオサカノヤマ》」(卷十三)などの例もあるから、青々と繁つた木幡の山を青旗の靡いたやうに見立てゝの形容語とも見られよう。かく考へ來ればこの御歌は、大后が鏡山御陵參拜の途次の御口占と解してもよくはないか。
 
(427)天皇(の)崩御《かむあがりませる》之時、倭《やまとの》大后(の)御作歌一首
 
○天皇崩御 この事は上に述べた。○倭大后 上の「大后」に同じく倭(ノ)女王であるが、書式が異例であるから「倭」の字は削るべきである。尚この題詞は、「一首」を二首と改めて、上の「青旗の」の歌の前に置くべきものと思はれるが、諸本皆かうなつてゐるので、姑くこのまゝとする。
 
人者縱《ひとはよし》 念息登母《おもひやむとも》 玉※[草冠/縵]《たまかづら》 影爾見乍《かげにみえつつ》 不所忘鴨《わすらえぬかも》    149
 
〔釋〕 ○おもひやむとも 斷念しようとも。あきらめようとも。○たまかづら 影にかゝる枕詞。※[草冠/縵]《カツラ》は頭髪の飾で、多く玉を貫いて作るので玉※[草冠/縵]といふ。玉葛《タマカヅラ》と混同してはならぬ。玉葛は植物である。玉※[草冠/縵]は玉の光の耀《カヾヨ》ふものゆゑ、映《カゲ》の意より續けて影の枕詞に用ゐると、古義は説いてゐる。○かげ ここは面影の意。
【歌意】 天皇崩御の御事を、他人は縱令仕方のないこととして思ひあきらめるにしても、自分だけは天皇の御面影が目の前に見え見えして、どうしても忘れることが出來ませんわ。 
(428)〔評〕 この御歌は、他人の思ひやむことあるを假想して、到底思ひやまぬ御自分に對比し、追慕の情を力強く表現されたもので、これは詩人の慣手段である。三句以下は、思ひやまれぬの意を只詞をかへて叙したに過ぎないけれども、「影に見えつつ」の具象的表現が多少の姿致をなしてゐる。枕詞に用ゐた玉※[草冠/縵]も富貴相が點出されて、流石に御身分柄が想はれる。――高貴の婦人の頭飾として玉※[草冠/縵]が上代に使用せられたことは、繪畫彫刻の類に證せられ、正倉院御物の中にも、それらの殘片と思はれる物がある。
 思ふにこれは天皇崩御の後相當の日子を經た頃、何かの衝動があつての御感想かと察せられる。或はあの僧正遍昭が深草の帝の諒闇の果に「人皆は花の衣になりぬなり苔の衣よ乾きだにせよ」(古今集、大和物語)と諷したと同一の御事情で、御一周忌の過ぎる頃とまでゝなくとも、相當の日子を經過した時分、周圍の男官女房等がやうやく樂しさうに嬉戲するのを御覽なされて、反感又は不快といふ程の事は無いにしても、多少の焦燥や羨望を感ぜられての御作ではあるまいか。
 
天皇(の)崩《かむあがりませる》時、婦人《をみなの》作歌一首   姓氏未詳
 
○天皇崩時 上に「天皇崩御之時」とあるに同じい。○婦人 必ず後宮に奉仕の人だらう。婦人とのみでは意が通じにくい。落字か誤寫か。○姓氏未詳 後人の註語。
 
空蝉師《うつせみし》 神爾不勝者《かみにあへねば》 離居而《さかりゐて》 朝嘆君《あさなげくきみ》 放居而《はなれゐて》 吾〔左△〕戀君《ゆふこふるきみ》 玉有者《たまならば》 (429)手爾卷持而《てにまきもちて》 衣有者《きぬならば》 脱時毛無《ぬぐときもなく》 吾戀《あがこひむ》 君曾伎賊乃夜《きみぞきそのよ》 夢所見鶴《いめにみえつる》    150
 
〔釋〕 ○うつせみし 「うつせみ」は現し身。「うつせみも」を參照(六九頁〕。「し」は強辭。○かみにあへねば 神に立合ひ得ねば。「あへ」は敢への意。この訓新考に據る。舊訓はタヘネバ〔四字傍線〕とある。○あさなげくきみ 朝において歎くその君。○ゆふこふるきみ 「吾」は暮〔右△〕の誤寫と思ふ。「吾」に從へば、アガコフルキミと訓む。○まき 纏ひの意。「いはねしまきて」を見よ(三〇〇頁)。○こひむ 賞《メ》で美しまんの意。古義に、この戀は卷三「石竹のその花にもが朝なさな手に取持ちて戀ひぬ日なけむ」とある戀と同意にて、賞で美まんの意なりと。訓は宣長のによる。舊訓コフル〔三字傍線〕は上のと重複する。○きそのよ 昨夜。「きそ」はこぞ〔二字傍点〕(去年)と同語で、昨日、又は昨夜の意に用ゐる。紀にはキス〔二字傍点〕とある。「賊」は漢音ソク、故にソの音に當てた。呉音はゾク。○いめ ゆめ〔二字傍点〕の古言。寢所見《イミエ》の義と。○つる 「鶴」は借字。
【歌意】 天皇は既に天翔ります神であるに、自分は現し身の人で、神には伴ひ得ぬから、徒らに離れ居て朝に歎き夕に戀ひ奉るその君、物に例へれば、玉なら手に卷き着けて持つて放たず、衣なら着た切りにして居るやうに愛さうと思ふその君樣が、ゆふべ私の夢にお見えなさいましたよ。
 
(430)〔評〕 一朝神去りまして幽顯境を隔てては、凡夫は神に追隨し難い。空しく離《サカ》り放れて朝夕に歎き戀ふるわが君と呼び掛けて、第一段を終へ、次に玉と衣とに假托して親愛の情味を表して、その君こそ夢中に現じたれと、第二段に高唱した。
 夢より外には再び逢ひ奉る機會はない。が追慕の涙に夢も亦結び難い。その結び難い夢を結んで、しかも君王を見奉り得たことは珍しい收穫で、大いに他に誇耀するに足りる。六宮の粉黛等の羨望の的となるに十分である。「君」の語がこの歌の字眼となつてをり、一篇の主意は最後の「君ぞきその夜夢に見えつる」にある。大作ではないが、眞實性に富んでゐる點において泣かされる。
 玉や衣やは婦人の最も愛好する装飾物だから、これに假托することは、婦人の作者としては自然である。然しこの趣向は上代人の常套手段で、さう珍とするには足らない。
 この歌、原本に從へば、同語形なる「吾戀ふる君」が重複する。不用意の底に素朴さがあると助けても見られぬ事もないが、必ず語釋にある如く、もとは「暮〔左△〕《ユフ》戀ふる君」とあつて、「朝歎く君」と扇對を作つてゐたものであらう。
 
天皇(の)大殯《おほあらき》之時(の)歌二首
 
天智天皇の葬斂《カリモガリ》の時の歌との意。○大殯之時 紀に「十年十二月癸亥乙丑天皇崩(ズ)2于近江(ノ)宮(ニ)1、癸酉殯(ス)2于新(431)宮(ニ)1」とある時をさし、その期間の歌をこゝに載せた。○大殯 アラは新、キは奥津城《オクツキ》の城で、天皇崩後、山陵を造營する間假に斂めるをいふ。その宮は即ち殯宮《アラキノミヤ》である。又オホアガリ〔五字傍線〕と訓でもよい。
 
如是有刀《かからむと》 豫知勢婆《かねてしりせば》 大御船《おほみふね》 泊之登萬里人《はてしとまりに》 標結麻思乎《しめゆはましを》 額田王    151
 
〔釋〕 ○かからむと こんな事であらうと。即ち天皇の神去りましたのを斥す。○しりせば 若しも知つてゐたことなら。○おほみふね 嘗て天皇のお乘り遊ばした御船をいふ。○しめ 「しめゆへ」を見よ(三五九頁)。○額田王 この三字は數種の古寫本によつて補ふ。
【歌意】 このやうに天子樣が崩御遊ばさうと、かねて知つたら、あのいつぞやの御舟遊の折、お召船の着いた泊に標繩《シメナハ》を張つて、おとゞめ申すのであつたものを、實に殘念なことではある。
 
〔評〕 近江朝廷での行樂は蒲生野の藥狩などもあつたが、場所柄何といつても湖上の舟遊がその隨一であつた。それは卷一、「ささ波の志賀の辛崎さきくあれど」の歌評の處にも述べたが、天智天皇の大御船は常に八十の湊の烟波に親しんで、志賀の辛崎がその發着の要津だつたのである。さうして或時の御舟遊は傷ましくもその御遊幸の最後となつてしまつた。天皇の殊寵を受けて、出入共に形影の相伴ふ如く追從し奉つた作者は、亡き帝を偲び參らすると同時に、樂しかつた當時の舟遊を囘想し、又舟遊を囘想すると同時に、若しあの時お召船の泊てた辛崎に標結ひでもしたら、あの世への行幸はありもすまいとの痴想を描いて、崩御を豫知しなかつた(432)悔しさを歌つてゐる。場所を占め、道を遮るに標結ふことは、神代から今に行はれてゐる事で別に珍しくもないが、泊に標結ふの甚しい痴呆さは、暗に追慕の甚しい悲みを映出してゐる。
 さてかく崩御を舟遊に結び付けたことは、近江朝廷としてはふさはしいことには違ひないが、今一歩深く考へて見れば、これは單に場所柄のふさはしいといふのみでなく、何か今一層緊切な事情が見遺されてゐるのではあるまいか。恐らく天皇の御發病が湖上の舟遊直後の事か、又は舟遊に起因した事かを物語るものであらうと考へられる。
  
八隅知之《やすみしし》 吾期大王之《あごおほきみの》 大御船《おほみふね》 待可將戀《まちかこふらむ》 四賀乃辛崎《しがのからさき》   舍人吉年    152
 
〔釋〕  ○やすみしし 大君にかゝる枕詞。既出(三○頁)。○あごおほきみ アガオホキミのガ〔傍点〕の母韻が次の音オ〔傍点〕に同化されてゴ〔傍点〕となつたものである。但いつでも必ずさう發表さ(433)れたのではない。集中にも「和我於保伎美《ワガオホキミ》かも」など、明かにガ〔傍点〕と書いてある。故に「吾期」と明記したものの外は、「吾王」「吾大王」「吾皇」「吾大皇」などあるのは、普通にアガオホキミ〔六字傍線〕、又はワガオホキミ〔六字傍線〕と訓むへきである。○まちか 「か」は疑辭。○こふらむ 舊訓はコヒナム〔四字傍線〕。○舍人吉年 この四字は金澤本、神田本、温故堂本その他多くの寫本によつて補ふ。舍人吉年は如何なる人か詳かでないが、卷四に田部《タノベノ》忌寸《イミキ》櫟子《イチヒコ》が太宰に任ぜられた時の歌四首ある中に「衣手《コロモデ》に取りとゞこほり云々」の歌の作者を、類聚古集、西本願寺本、温故堂本等に、舍人吉年〔四字傍点〕と註してある。
【歌意】 これまで度々行幸のあつた志賀の辛崎は、今も定めてわが大君のお召船の御到着を待ち焦れてゐることであらうか。如何に待ち焦れても再びお出ましはないものをさ。 
〔評〕 辛崎の待ち戀ふといふ擬人法の表現は、即ち作者自身の追慕の遣る瀬なさを託した寓言である。大御船を待つとは行幸を待ち奉ることを曲叙し、しかもその待ち戀ふるは、今後の行幸の絶無であることを暗示し、崩御の永い憾を傷んだもので、含蓄の味ひが永い。初二句は他の長歌の冒頭にも屡ば見え、元來が一つの成句として往古から既に慣用されてゐたものである。これをかく短歌に取り入れたのでは頗る莊重に過ぎ、頭勝な嫌があるが、纔に「志賀の辛崎」の體言止めによつて、その力量の平衡を保たせ、がつしりと踏みこたへてゐる。人麻呂が「ささ波の志賀の辛崎さきくあれど」の詠は、この歌を藍本として、更に一歩の工を進めたものか。相對比してその特長を味ふべきである。
 
(434)大后《おほきさきの》御歌一首
 
○大后 上出。上の額田王、舍人吉年の注記の書式と異つて、これ及び次の石川夫人を上掲したことは、その后妃であるが爲の敬意に出たものである。その例は集中に多い。
 
鯨魚取《いさなとり》 淡海之海乎《あふみのうみを》 奥放而《おきさけて》 榜來船《こぎくるふね》 邊附而《へつきて》 榜來船《こぎくるふね》 奥津加伊《おきつかい》 痛勿波禰曾《いたくなはねそ》 邊津加伊《へつかい》 痛莫波禰曾《いたくなはねそ》 若草乃《わかぐさの》 嬬之《つまの》 念鳥立《おもふとりたつ》    153
 
〔釋〕 ○いさなとり 「淡海の」を隔てゝ「海」にかゝる枕詞。既出(三八七頁)。○おきさけて 沖の方へ遠く放《サカ》つて。○こぎくる 漕ぎ行く。「くる」は往くと同意に用ゐられる場合が多い。○へつきて 岸邊に付いて。○おきつかい 沖の櫂。沖の舟の〔二字右○〕櫂を略して早くいつた。「かい」は舟を遣る具。和名妙に「※[楫+戈]、使2v舟捷疾1也、和名|加遲《カヂ》、在(リテ)v旁(ニ)撥(ヌルヲ)v水(ヲ)曰(フ)v櫂(ト)、字(モ)亦作(ル)v棹(ニ)、漢語抄(ニ)云(フ)加伊《カイ》」とあり、※[楫+戈]《カヂ》は舟を遣る具の總稱。櫂《カイ》はそのうちの一種の器物の稱である。○いたくなはねそ 甚しく撥ねて漕ぐな。○わかぐさの 夫《ツマ》又は嬬《ツマ》の枕詞。若草はめづらしく美しきもの故に譬へていふ。仁賢紀の「弱草吾夫※[立心偏+可]怜《ワカクサノアガツマハヤ》」の注に、古者以(テ)2弱草(ヲ)1喩(フ)2夫婦(ニ)1とある。こゝは夫の意だから「嬬」は借字。○おもふとり 愛した鳥。念ひし〔右○〕鳥とあるべきを、現在格にかくいふも一つの格である。
(435)【歌意】 この淡海の海を沖へ遠く漕いで行く舟よ、岸邊に近く漕いでくる舟よ、その沖の舟の櫂をつよく刎ねあげるな、その岸の舟の櫂をつよく刎ねあげるな、わが夫の君の愛でうつくしむ水鳥が驚いて起つことわよ。
 
〔評〕 天智帝はその湖濱の遊幸に紫鴛白鴎の游浴するを、如何に愛賞せられた事であつたらう。作者は今眼前來去の舟から、端なく御生前の事相に想到し、奥つ櫂邊つ櫂に喚びかけて、彼等の閑眠を驚かすなと懇請した。この懇請は何もその結果の實現を強要するものでもなく、又出來るものでもない。只やみ難い心中の欝結がこれによつて爆發したに過ぎない。執は遺愛の物にまで及ぶ。如何に哀慕追懷の念が昂ぶつてゐたかゞわからう。斷腸の極である。「念ふ鳥」を考や古義に、帝の崩後その御飼鳥を湖水に放つたものとしたのは、拘泥の見である。
 開口一番その場處を限定し、次に對偶的に紆餘曲折して、まづ遠近する舟の來去を詠め、さてその櫂の波を撥ねるを厭ふ。こゝまではその主意は那邊にあるか、殆ど模索し難い。而して結局「嬬のおもふ鳥立つ」に落着し、覺えず讀者をして拍案の妙を叫ばしめる。作者の手腕は實に侮り難いものがある。
 結節、宣長が「嬬之」の下、命之〔二字右△〕の落字ありとして、ツマノミコトノ〔七字傍線〕と訓んだのは謬つてゐる。これは五、三、七音の組織から成立する一體で、卷一の「三輪山」の長歌の末節、「心なく(5)雲の(3)隱さふべしや(7)」とあると同一格である。
 
(436)石川(の)夫人《きさきの》歌一首
 
○石川夫人 天智天皇の夫人、蘇我(ノ)遠智媛《ヲチノイラツメ》のこと。天智紀七年二月の條下に「逐(ニ)納(ル)2四嬪(ヲ)1、有(リ)3蘇我(ノ)山田(ノ)石川(ノ)麻呂(ノ)大臣女、曰(フ)2遠智(ノ)媛(ト)1、生(メリ)2一男二女(ヲ)1、一(ヲ)曰(フ)2大田(ノ)皇女(ト)1、一(ヲ)曰(フ)2※[廬+鳥]野《ウヌノ》皇女(ト)1」とある。※[廬+鳥]野皇女は持統天皇である。石川は父大臣の稱名であるのを、媛の字《ナ》としたもの。令制には皇后の外に、妃、夫人、嬪の三階級のキサキがあつた。遠智媛は初め嬪で、後に夫人に陞つたので、かく呼ばれた。
 
神樂浪乃《ささなみの》 大山守者《おほやまもりは》 爲誰可《たがためか》 山爾標結《やまにしめゆふ》 君毛不有國《きみもまさなくに》    155
 
〔釋〕 ○ささなみ 既出(一二五頁)。○おほやまもり 御料地の山番をいふ。「おほ」は敬稱。すべて山守は都附近ばかりでなく、諸國にも置かれたものである。○きみ (437)天智天皇をさす。○しめゆふ 「しめゆへ」を見よ(三五九頁)。○なくに 「國」は借字。
【歌意】 もう今となつては、この山を見そなはすべき帝もいらつしやらないのに、大山守は一體誰の爲に標示を立てて、かうして山を守つてゐるのであらうか。
 
〔評〕 さゝ浪山即ち滋賀山は、大津宮の西面に連亙して、雜人の出入採樵を禁じたお止め山であつた。それは皇居俯瞰の虞れもあり、又春花秋葉の御遊覽の場所でもあつたからである。されば山守は標結ひまはして監視してゐたのであるが、今はそれを見そなはすべき大君は既に神去りましていらつしやるではないか。乃ち自然に對してはその存在の無意味なことを喝破し、人間に對してはその努力の無用なことを疾呼するのは、詩人の慣手段で、また當然の感懷でもある。大山守の標結ふのは大君の御爲であることはいふまでもないが、しかも尚「誰が爲か」の一不審を提唱したことは、この感懷を一骨強める表現である。况や御一代毎に帝都の移されるのが普通であつた當時では、この大津宮も結局廢墟に歸すべき運命が豫知されるので、愈よこの感が深かつたのであらう。
 
從(り)2山科御陵《やましなのみはか》1退散《あかるゝ》之時、額田(の)王(の)作歌一首
 
山科の御陵からその宿侍の時期が終つて人達が退散する時に、額田王が詠んだ歌との意。〇山科御陵 山城宇治郡山科の鏡山の御陵のこと。御陵は延喜式に「兆域、東西十四町南北十四町」とある。○退散 古へは墓側に死者の親戚故舊が假廬を結んで宿直する習慣があり、一周忌又は中陰の果に各退散する。舒明紀にも「蘇我氏(ノ)(438)諸(ノ)族等、悉(ク)集(リテ)爲(ニ)2島(ノ)大臣(ノ)1造(リテ)v墓(ヲ)而|次《ヤドレリ》2于墓所(ニ)1〔七字傍点〕、爰(ニ)摩理勢(ノ)臣壞(リテ)2墓所之廬(ヲ)1〔五字傍点〕退(リテ)2蘇我(ノ)田家《ナリドコロニ》1而不v仕(ヘ)〔二字傍点〕」とある。
 
八隅知之《やすみしし》 和期大王之《わごおほきみの》 恐也《かしこきや》 御陵奉仕流《みはかつかふる》 山科乃《やましなの》 鏡山爾《かがみのやまに》 夜者毛《よるはも》 夜之盡《よのことごと》 晝者母《ひるはも》 日之盡《ひのことごと》 哭耳呼《ねのみを》 泣乍在而哉《なきつつありてや》 百磯城乃《ももしきの》 大宮人者《おほみやびとは》 去別南《ゆきあかれなむ》    155
 
〔釋〕 ○やすみしし 枕詞。既出(三〇頁)。○わごおほきみ 既出(二〇五頁)。○かしこきや 「や」は歎辭で、恐き御陵〔四字傍点〕と續く。○みはかつかふる 御陵《ミハカ》造りを臣下達が〔四字右○〕する。古へは帝王の陵墓をミハカ〔三字傍点〕といひ、後世はミサヽギ〔四字傍点〕と呼んだ。○かがみのやま 山科御陵の後山の稱。鏡山は諸國にあり、多くは陵墓に所縁がある。尚卷三「梓弓ひき豐國の鏡山」の歌の條下を參照。○よるはも 「も」は歎辭。○よのことごと 夜の全部即ち終夜のこと。○ひのことごと 日の全部即ち終日。○ねのみをなき 音を揚げてばかり泣き。「呼」は乎〔右△〕と同じくヲ〔傍点〕の音に用ゐる。○ありてや 「や」は疑辭。○ももしきの 枕詞。既出(一二六頁)。○なむ 「南」は借字。
【歌意】 わが帝樣の恐れ多い御陵をお造り申す山科の鏡山に、晝は終日、夜は終夜、宿直の官人達はひたすら聲を立てゝ泣きに泣いてゐて、いよ/\の忌明に退散する事であらうか。思へば情なく悲しい。
 
(439)〔評〕 鏡山の南麓に方十四町に亙る御陵造り、完成までには相當の日子を費した事であらう。尤もその未完成のうちに、まづ殯宮から移靈し奉るは例の事で、故に歌には「御陵仕ふる」と現在法で叙してゐる。帝王の儀禮は重きに從ふが常だから、一周年間は陵側の假廬に侍臣から始めて舍人等に至るまでの宿衛があつた事であらう。涙ながらに日夜を思慕したことはいふまでもない。が「夜はも云々」「晝はも云々」の對句は當時の常套語で、
  晝はも日のこと/”\、夜はも夜のこと/”\、
  臥し居歎けど、       (本卷、東人―204)
  晝はも日のこと/”\、夜はも夜のこと/”\、
  立ちて居て念ひ、      (卷三、赤人―372)
の如き珍しからぬ表現である。その他「晝は」「夜は」の對偶的修辭は可成り澤山ある。さて徒然草に、
  中陰の頃山里などに移ろひて、便あしくせばき處に數多あひ居て、後の事ども營みあへる、いとあわただし。日數の早く過ぐる程ぞ物にも似ぬ。はての日は互にいふこともなく、我れかしこげに物引きしたためて、散り/”\に行きあかれぬ。云々。(三十段)(440)とあるは、まさにこの歌の事態全部を裏書するものといつてもよい。但單に大宮人の退散の光景を叙するが目的ならば、徒然草に行きあかれぬ〔六字傍点〕とある筆法の如く、行き別れける〔六字右△〕と現在的詠歎で了るべきを、「行き別れなむ」と、さもよそ/\しげに他の行動を眺めてゐるやうな態度に出られたことは、實は作者自身が躊躇低囘、その陵側から立去り得ぬ心状から出發したものと見られる。こゝに至つて「大宮人は」の語が力強い差別的の意味を成してゐることが諾かれ、對映的にそこに故帝追慕の情味が搖曳してゐるものゝ、惜しい事に迫眞力が薄いので、讀者に十分の眞實感を與へ得ない。
 帝はその十年十二月六日に崩御、而して壬申の亂はその翌年六月即ち約半歳の後に起つたのだから、十分大葬執行の餘日がある。略解に「亂有つて天武三年に至つてこの陵は造らせ給へり、御葬御陵仕へもこの時ありしなるべし」とあるは考へ違ひである。
          △鏡山考(雜考―8參照)
 
明日香(の)淨御原(の)宮(に)御字《あめのしたしろしめしゝ》天皇(の)代《みよ》    天渟中原瀛眞人天皇
 
天武天皇の御治世とのこと。卷一に既出(九九頁)。
 
十市皇女《とをちのひめみこの》薨《すぎませる》時、高市皇子尊《たけちのみこのみことの》御作歌三首
 
○十市皇女薨時 十市皇女のことは既出(一〇〇頁)。天武紀六年の條下に「夏四月丁亥朔、……癸巳十市皇女(441)|卒然《ニハカニ》病發(リテ)薨(キマシヌ)2於宮(ノ)中(ニ)1、……庚子葬(ル)2十市(ノ)皇女(ヲ)於赤穗(ニ)1、天皇臨(ミテ)v之、降(シ)v恩(ヲ)發(ス)v哀(ヲ)」と見える。赤穗は十市郡|外山《トビ》の赤尾か。この邊舒明陵、大津皇女墓など皇族の陵墓が多い。大和志に廣瀬郡仁基墓、十市皇女云々と見えて、馬見村赤部の地としてゐる。然し馬見村赤部では歌に「三諸の」、「神山の」などあるに合はない。○高市皇子尊 皇女の異母兄に當り、この時はまだ皇太子でなかつたが、後に皇太子となられたので、尊稱を以て「尊」と追記したのである。傳は既出(三五六頁)。
 
三諸之《みもろの》 神之神須疑《かみのかみすぎ》 巳具〔左△〕耳矣自《いめにをし》 得〔左△〕見監乍〔二字左△〕共《みむとすれども》 不寢夜叙多《いねぬよぞおぼき》    156
 
〔釋〕 ○みもろのかみ こゝは三輪山の神こと。大物主神が祀られてある。○かみすぎ 神杉。神木の杉をいふ。○いめにをしみむとすれども この三四句の本文はこのまゝでは訓み難いので、誤脱のあることは明かである。現に古寫本を見ると、類聚古集には「具」を貝〔右△〕に作つて、「共」の字無く、古葉略類聚抄には「監」の右に覽〔右△〕があり、京都大學本には「矣」が讀み難い異體の文字になつてゐるなど、種々の異同がある。眞淵、信友、守部、雅澄、通泰等の説もあるが、今姑く正辭の説に從つて、本文を「巳目耳矣自將見爲共」の誤とし、上の如く訓んで置く。「いめ」は夢の古言で、神杉は齋《イ》めるものゆゑ、夢《イメ》にいひかけて序とした。「を」は歎辭、「し」は強辭である。
(442)【歌意】 死なれたあの懷かしい皇女を、せめて夢にでもまあ見ようとするけれども、悲しさに寢られぬ夜が多くて、それすら叶はぬことだ。
 
〔評〕 三四の句の訓が決定的のものでないから、姑く評語を略く。
 
神山之《みわやまの》 山邊眞蘇木綿《やまべまそゆふ》 短木綿《みじかゆふ》 如此耳故爾《かくのみゆゑに》 長等思伎《ながくとおもひき》     156
 
〔釋〕 ○みわやまの 舊訓に從つた。新訓は大抵カミヤマ〔四字傍線〕であるが、大神をオホミワ、神之埼をミワガサキと訓む例があるのみならず、上の歌の「三諸」も三輪山とすれば、こゝもミワヤマと訓むべきであり、その葬處から考へても三輪山でなければ協はない。○やまべまそゆふ 山邊に生ふる〔四字右○〕まそゆふは〔右○〕の意。夕浪の上に飛ぶ千鳥を「夕浪千鳥」と、人麻呂が詠んだのと同じ造語法で、古代に例が多い。「まそゆふ」は山楮《マソ》で製した木綿《ユフ》。「木綿」は楮又は時に麻の樹皮の繊維で造つた苧や布の稱。新釋に「阿波の山間部にては、山楮《やまかぢ》のことをまそ〔二字傍点〕と呼べり。山楮は山中に自生するが爲、普通の楮に此して發育惡く、その繊維短ければ、短木綿と續けたるならん」とあるに從ふ。舊説では眞麻《マソ》木綿、又は眞割《マサキ》木綿など解して、良い麻のこととした。○みじかゆふ 短い木綿ぞ〔右○〕の意。○かくのみゆゑに かうであるものをの意。「人妻ゆゑ〔二字傍点〕にあれ戀ひめやも」(卷一)の語法に同じい。舊訓はカクノミカラニ〔七字傍線〕。
【歌意】 三輪山の山邊の山楮木綿《マソユフ》は短い木綿である。その如くに皇女のお命は短かつたものを、長く御存命のこ(443)ととのみ思つてゐたことだ。殘念なことではある。
 
〔評〕 皇女の御葬處たる赤穗は三輪山の南麓に近く、その頃の皇族御陵地であつた。それ故三輪山附近に自生してゐる山楮の短木綿を借り來つて、不幸二十四歳で盛の花を散らした皇女の短命に譬へたので、取材がいかにも恰當である。短いものを長くと思つたとは、その薨逝の眞に意外であつたことに、頗る慌て惑うた御心持を遺憾なく表はして居り、そこに生前その懇情を盡し果てなかつた悔恨があらはされ、哀悼の意が躍々としてゐる。親身の御兄妹としては當にかくあるべきことと思はれる。
 なほこの歌に就いては、まづ皇子と皇女との關係を一往考慮したい。共に天武天皇の御子ではあるが、皇子の母は尼子娘《あまこのいらつめ》、皇女の母は問題の人額田王である。古へは異母の兄妹間では結婚を認めてゐたから、この皇子が戀人の立場にあつたものとして見ると、そこに劇的シーンが展開されるので、話も面白く隨つて一般に承認され易い。然し實際はこの御兄妹の從來の行懸りは、殆どかたき同士であられた。皇女は夙に大友皇子(弘文天皇)の妃となつて葛野《カドノ》皇子をさへ儲けられたが、壬申の亂の時、近江方の御計畫を、淨見原方にいち早く内通されたことは、全く御父皇子(天武天皇)の焦眉の(444)急を救はうとの御誠意からであつて、決して夫帝に對しての裏切ではなかつたと見るのが、最も事情に協つた穩當な推斷と信ずる。然るに結果は不幸にも豫想外の珍事となつて、反對に夫帝は崩ぜられ、皇女は全く申譯のない立場に置かれたのである。爾來居常鬱々、七箇年の星霜を空閨の裡に歎き明かされたのである。嘗て乳母の吹※[草冠/欠]刀自が、
  河のへのゆついはむらに苔むさず常にもがもなとこ處女にて  (卷一−22)
と御祝福申し上げたことは、餘りの物思に憔悴し切つて居られたので、これをお慰め申す意圖からではなかつたらうか。
 然るに高市皇子は、近江朝廷轉覆、淨見原朝廷建設の大功績者であられた。隨つてその公的生活は皇女と正反對の地位にあつたのである。これは御父天武天皇とても御同樣であつた。父帝も兄皇子もかやうな立場ではあつたが、然し情の上からは皇女の薄命に對して、どんなにか氣の毒とも可憐とも思召されたことであつたらう。今皇女の薨去に際して、皇子が一途に哀悼痛惜する眞意は、實にこゝに存するのかと思ふ。父帝が皇女の葬に臨んで、降恩發哀の儀を擧げられたといふ特別待遇も、この間の事情を説明してゐる。これを普通の御愛情から出た哀傷とのみ見るのは、短見ではあるまいか。
 
山振之《やまぶきの》 立儀足《たちよそひたるる》 山清水《やましみづ》 酌爾雖行《くみにゆかめど》 道之白鳴《みちのしらなく》    158
 
〔釋〕 ○やまぶき 山吹の花である。振《フリ》をフキといふのは古語で、古事記(上)にも「十拳《とつか》の劔を拔きて於後手布伎(445)都々《シリヘデニフキツツ》逃げ來ませるを」といふ用例があり、フキツヽは即ち振りつゝ〔四字傍点〕の意である。故に「振」をフキと訓むは當然である。○たちよそひたる 咲き飾つてゐるの意。「たち」は接頭語。この句の「儀」の字を、宣長や雅澄等は誤字として勝手な訓を與へてゐる。集中の用字例では、この字は皆スガタと訓んで他の訓は無いが、名詞にスガタと訓むなら、動詞としてヨソフと訓むことも無理ではあるまい。舊訓では二三の句をサキタルヤマノシミヅヲバ〔十二字傍線〕あるが、無理な訓である。「立儀」をこのまゝでサキ〔二字傍線〕と訓むべき理由は無い。「立」を左〔右△〕の誤字と見たものだらう。「足」は借字。○くみにゆかめど 汲みに往かうと思ふけれどの意。○しらなく 知られぬことだわいの意。「なく」は古くは否定の助動詞ぬ〔傍点〕の延言とのみ解いたが、下に感歎的語氣をもつてゐるのである。「白」も「鳴」も借字。
【歌意】 山吹の花の美しく吹き飾つてゐる皇女のお墓邊の山清水を、私は汲みに往きたく思ふけれども、道がわからないわい。はて殘念な。
 
〔評〕 時は正に初夏に入つて、山邊は山吹の花盛りである。皇女の墓邊も恐らく山清水に美しい山吹の花影を宿してゐたであらう。さればその山清水を「汲みに往かめど」とは、皇女の葬儀の供に立つて送りたいがの意を、婉曲に取成したものと見るべきである。然るに「道の知らなく」は聊か訝しい。固より御陵墓地などは、道の分らぬ筈がない。これは四句の作意を承けた寄託の言で、その葬儀の供に立つすべの無い遺恨を暗示したものと考へられる。その事情は當時目下の者の斂葬には尊長たる者は見送りせぬ習慣が存在してゐたからであらう。――是等の不文律は勿論例外はあるが――譬喩がしつくり當て嵌まつて、いかにも技巧的表現に富んでゐ(446)る。然し尚眞摯の情が如實に動いて、妹君を愛惜する悲悼の啜り泣きが耳に聞えるやうである。「たちよそひたる」とまで極力形容を盡したことは、愈よその行き得ざる遺憾を反映させる表現である。
 伴信友、橘守部、齋藤彦麿三家が、上句「山吹のたちよそひたる山清水」を、黄泉の暗喩であると解したのは頗る面白いには違ひないが、實情には疎いといはねばならぬ。他の諸家の説も擧示するほどの價値が無い。
 
天皇(の)崩之《かむあがりませる》時、大后《おほきさきの》御作歌
 
天武天皇の御崩御の時、皇后の詠まれた御歌との意。○大后 皇后の意でこゝは後の持統天皇の御こと。天武紀に「朱鳥元年九月丙午、天皇|病《ミヤマヒ》不v差《イエズ》、崩(リタマフ)2于正宮(ニ)1」とある。
 
八隅知之《やすみしし》 我大王之《わがおほきみの》 暮去者〔三字左△〕《ゆふされば》 召賜良之《めしたまへらし》 明來者〔三字左△〕《あけくれば》 問賜良之《とひたまへらし》 神岳乃《かみをかの》 山之黄葉乎《やまのもみぢを》 今日毛鴨《けふもかも》 問給麻思《とひたまはまし》 明日毛鴨《あすもかも》 召賜萬旨《めしたまはまし》 其山乎《そのやまを》 振放見乍《ふりさけみつつ》 暮去者《ゆふされば》 綾哀《あやにかなしみ》 明來者《あけくれば》 裏佐備晩《うらさびくらし》 (447) 荒妙乃《あらたへの》 衣之袖者《ころものそでは》 乾時文無《ひるときもなし》    159
 
〔釋〕 ○おほきみの の下、御生前秋毎に〔六字右○〕の語を補足して解する。○ゆふされば、あけくれば この兩句は恐らく書寫の際に誤つた顛倒であらう。故に歌意には順序を改めて解した。○めし 見し〔二字傍点〕の轉語で敬相。「めし給へば」を參照(二〇六頁)。「召」は借字。○たまへらし 仙覺抄の訓に據つた。賜へり〔傍点〕しの轉語か。「し」は過去の助動詞。この訓他に語例は見當らないが、さう訓むより外に方法がない。古點及び諸訓にはタマフラシ〔五字傍線〕と、現在的想像の意に讀んであるが、それでは、下への續きが面白くない。宣長は、らし〔二字傍点〕の一用法に過去の意あるものありとして、本集中の歌を二三例に引いたが、それは誤解で從へない。○とひ 字の如く問ふ意。○かみをか 高市郡飛鳥の神名火《カミナヒ》山のこと。もと三諸《ミモロノ》岳といつたのを、紀に雄畧天皇の時|雷岳《イカヅチノヲカ》と改めたことが見える。雷を古へカミ〔二字傍点〕と稱したので神岳ともいふ。○もみぢを の下、御存生ならば〔六字右○〕の語を補足して解する。かくて下の假設の意を承くる「まし」の辭に應ずる。○あやに 古義は奇異《アヤ》にの義とし、宣長は神代紀に「あなにえや」とある、あなに〔三字傍点〕と同語とした。古義説がよい。「綾」は借字。○うらさびくらし 心|不樂《サビ》しく日を暮し。「さび」は「うらさびて」を參照(一三七頁)。○あらたへのころも 粗布の衣。喪服をいふ。喪服は粗末な物を用ゐるが本旨で、古へは葛《フヂ》布で製した。令(ノ)集解に諒闇の時は皇后に細布を奉るとあるが、細布でも皇后の尊貴では尚粗服だから、荒妙の衣なのである。故に「あらたへの」はこゝでは枕詞ではない。「妙」は栲の借字。△地圖 挿圖−105を參照(三三四頁)。
【歌意】 わが陛下が御生前、秋毎に夜が明けるとは御覽になつて居つた、日が暮れるとはお尋ねになつて居つた(448)その神岳の山の黄葉を、御存生ならば〔六字右○〕今日もお尋ねなされうか、明日も御覽なされうか。そこで自分はその山を見渡し見渡しして、日が暮れるとは妙に悲しみ、夜が明けるとは面白からず暮して、喪服の袖は涙に乾く時とてはないわ。
 
〔評〕 「夕さればめし賜良之」は夕暮が紅葉の觀賞時ときまつてゐるやうな口氣である。集中の
  夕されば鴈の越えゆく龍田山時雨にきほひ色付きにけり (卷十−2214)
は單なる客觀の叙述に過ぎない。却つて、この時代には朝の紅葉が餘計に諷詠されてゐる。さればこゝは朝を先にして「明けくればめ〔六字傍点〕し賜良之、暮されば問〔五字傍点〕ひ賜良之」とあるのが、寧ろ順當らしい。又叙法の上から見ても、初めから朝暮の次第を顛倒することは、甚だ不自然な感じを抱かせる。それを反復した次段の「暮されば」「明けくれば」はわざと錯綜させて變化を求めた手法だから、これは論はない。
 又神岳即ち雷岡は、雷が棲んだの大蛇が居たのと、傳説は大分凄いが、高さ十米突、南北數丁に過ぎない小岡であ(449)る。但雜木が鬱蒼と茂つて居て、秋は紅葉したことが思ひ遣られる。淨見原の宮を上居《ジヤウゴ》とする從來の諸家の言に從へば、上居からは雷岡は直徑二十町ばかりの西北方位にあたり、宮地の方は高地で間に障碍物がないから、低い岡の割にはよく見えるが、その黄葉を翫賞するには餘り距離があり過ぎる。無論宮址は既に「清御原宮」の項(99)に詳説した如く、飛鳥小學校敷地附近で、それは雷の岡との距離が二三町に過ぎない。
 抑も天武天皇の崩御は九月九日で、大和地方では黄葉期に向つてはゐる。然し天皇は既にその五月から御不例だから、神岳の紅葉など「見し」も「問ふ」もあることではない。これは必ず過去の秋に於いて雷岡の紅葉を愛賞せられ、朝夕の談柄になされたといふ事實があつて、そこに立脚して、概念的に囘想し敷演せられたものであることは、疑ふべき餘地もない。
 この御歌は夫帝崩後から翌十月一杯までの雷岡の紅葉期に於いて成つたもので、今その山を振放け見るにつけても、そこに深く執著をとゞめられた故帝御生前の御動靜が囘想され、さてそれを現在に延長し再現して、(450)「今日もかも」、「明日もかも」と丁寧に想像し思惟した。これ即ち故帝に對する愛慕纏綿の情緒の深刻さを間接に物語るものである。
 詰り上來費された幾多の語言は、結章の爲の大事な素地襯染を成すもので、これに依つて結章の作者御自身の極度の悲悼が尤もであり無理のない事になり、他の同情を自然に吸收し得る結果になる。そして首尾一貫雷岡に※[夕/寅]縁し寄懷して終始してゐることを忘れてはならない。
 この御歌は前後二段に大別される。前段は專ら故帝の御上に關した事の叙述で、それが又二小節に分れ、御生前の事が第一小節、御崩後の事が第二小節になつてゐる。後段は御自身に關する事で、一意到底に叙説してゐる。「その山を」の句は前後の二段を連繋する鎖、換言すれば枢機の役目を果してゐる。
 
一書(に)曰(く)、天皇|崩之《かむあがりましし》時、太上天皇(の)御製歌《みよみませるおほみうた》二首
 
或歌書に、天武天皇崩御の時持統帝の詠まれた御歌だとあつて、この二首が載せてあるとの意。これは勿論後人の補入。○太上天皇 持統天皇を申し上げる。持統天皇は天武天皇崩後四年に御即位、十一年八月に文武天皇に御讓位あつて、太上天皇となられた。然し淨御原の御宇の標内では、持統天皇の御事を太上天皇とは書くべくもない。全く文武天皇時代の人の記録したものによつて、更にそのまゝ後人が轉載したものと思はれる。
 
燃火物《もゆるひも》 取而裹而《とりてつつみて》 福路庭《ふくろには》 入登〔左▲〕不言八面《いるといはずやも》 智〔左▲〕男雲《しるといはなくも》    160
 
(451)〔釋〕 ○もゆるひも 「も」はサヘモ〔三字傍点〕の意。「燃火」を古寫本舊本等に、トモシビ〔四字傍線〕と訓んだのは非。「物」は呉音モチ〔二字傍点〕だからモ〔傍点〕の音に充てた。○ふくろには 袋にはの意。「福路」は福園の類語とも貧道の對語とも考へられ、戲書である。「路庭」と續けたのも、やはり戲意があるらしい。○いるといはずやも 入れるといふのではないかまあの意。「登」は諸本多くは澄〔右△〕とあるは誤で、古葉略類聚抄によつて改めた。○しるといはなくも この句もとのまゝでは訓み難い。眞淵は「智」を剖いて知曰〔二字右△〕の二字とし、「シルトイハナクモ〔八字傍線〕と訓むべし。さるあやしき業をだにすめるを、崩《カムアガ》りませし君に逢ひ奉らむ術を知るといはぬが甲斐なしと歎き給へる也」といつた。假にこれに從つた。又四句の「面」を結句につけて、契沖は「智」を知〔右△〕の誤とし、「オモシルナクモ〔七字傍線〕と訓むか、面知るは卷十二に、面知君《オモシルキミ》、面知子等《オモシルコラ》など見ゆ。寶算限りましましてとゞめ奉るべき由なく、見馴れ奉りたる面わの見え給はぬを戀ひ奉り給へる也」といひ、守部は「智」を知日〔二字右△〕の誤として、アハンヒナクモ〔七字傍線〕と訓んだ。「面」を結句に廻はすことは、頗る四句の階調を破るもので、契沖、守部の説は根本からして不同意である。
【歌意】 幻術士は燃える火さへも、手に取つて裹んで袋に入れるといふのではないか。そんな奇蹟でも出來るのに、馴れ親しみ奉つたわが大君の蘇生の術は、誰れも知るといふ者が無いことよ。ほんにまあ悲しいこと。
 
〔評〕 燃え上る烈火さへも手に取つて袋に入れる、こんな幻術は莊子や列子などに類似した記述が澤山あり、列子には幻術士の事が出てゐる。もとは西域殊に印度方面から來歸したものだらう。日本には多く支那朝鮮の文明の輸入に伴つて將來されたものと思はれる。皇極紀、四年夏四月の條に、
(452)  高麗(ノ)學問僧等言(サク)、同學鞍作(ノ)得志、以(テ)v虎(ヲ)爲(テ)v友(ト)學(ビ)2取(レリ)其術(ヲ)1、或(ハ)使3枯山(ヲシテ)變(テ)爲(シ)2青山(ト)1、或(ハ)使2黄地(ヲシテ)變(テ)爲(ラ)1v泉(ニ)、種々(ノ)奇術不v可(ラ)2※[殃の左+單](シ)究(ム)1、云々。
そしてそれには例の役小角一流の仙術もあつたらうし、又正倉院御物の散樂の圖にあるやうな手品師放下師一流の魔術もあつたらう。
 死別の悲しさに思ひ餘つては、かうしたはかない幻術をすら聯想して空想に走り、起死囘生の術なき世を怨むのは、弱い人間の常情である。「いはずやも」の反語は眞に思ひ餘つた激切の調で、失望のあまり、少し焦《ヂ》れ氣味に一人でいら/\してゐる氣分が遺憾なくあらはされてゐる。これらの愚痴は即ち大きな悲みを反映させる所以である。
 
向南山《かつらきに》 陣雲之《たなびくくもの》 青雲之《あをぐもの》 星〔左△〕離去《ひもさかりゆき》 月牟〔左△〕離而《つきもさかりて》    161
 
〔釋〕 ○かつらきに 「向南山」を向ひの南の山の義とする時は、藤原の宮からは葛城や高鞭(今の高取)山が南方に聳えてゐるので、選要妙にカツラキニとあるに從ひたい。向(フ)v南(ニ)山の義として北山〔二字傍点〕と訓むことは殆ど定説のやうになつてゐるが、その事態に適せぬことは評中に論じよう。○たなびく 「陣」は金澤本、類聚古集、古葉略類聚抄、神田本、その他多くの古寫本に陳〔左△〕とあるが、陣陳は古來からの通用字である。列《ツラナ》るの義。タナビクと訓むは意訓で、青雲にはこの方がふさはしい。○あをぐもの 青雲は青空のこと。空を雲居といふに近い。初句からこの三句までは、次の日及び月にかゝる序詞である。○ひもさかりゆき 日數も積りゆきの意。「さ(453)かり」は遠ざかること。「星」は日毛〔二字右△〕の二字を一字に誤寫したものとする新考の説に從ふ。○つきもさかりて 月數も積り隔つての意。「牟」は莫浮の切で漢音ボウ、呉音ム〔傍点〕だから、モ〔傍点〕の音はあるが、集中には用例が無い。古葉略類聚妙に毛〔右△〕とあるに據らう。
【歌意】 大葬の後、いつしか日も月も次第々々に積つて遠ざかり隔つてゆく、しかも我が悲しみお慕ひ申す心持は、いよ/\堪へ難い。
 
〔評〕 上句の調子は、二句で切らずに三句までいひ下した詞態と見るが自然であらう。すると「草香江の入江のはちす花はちす」(古事記下卷)と同じ反覆の叙法となり、日及び月にかゝる序歌の形式を具備する。かく月日がたつて〔六字傍点〕の意を分解して具象的に排對した表現は、時間經過の觀念を漸層的連續的に印象させる効果がある。
 又この上句の序は、方位の關係上北山の雲を眺めたのでは、假令光陰の轉義にもせよ、日月を聯想して呼應させることは不自然である。况や今一段深い寓意を發見することによつて、必ず南山の葛城の雲でなくてはならぬことを知るであらう。その理由は、この下句が光陰の經過以外に、「日の離る」は天武天皇の崩御を、「月の離る」は草壁皇太子の薨逝を擬へてゐると見られるからである。下に見える、
  あかねさす日は照らせれどぬば玉の夜わたる月の隱らく惜しも  (人麿―169)
と構想の起點を同じうするものである。紀によると、朱鳥元年九月に天皇崩じ給ひ、越えて同三年四月に太子が薨じて居られる。僅々四年間に夫帝と太子とにお別れになつた持統天皇の御衷心の悲は、どんなであつたらう。日夕思慕して哀悼の情に勝へぬ餘り、その御陵たる檜隈の大内陵、及び阪合の眞弓丘陵の方向に對つて、(454)數行の暗涙に咽ばれたに相違ない。藤原宮からはこの兩陵共にほゞ南方に當り、遠く葛城山の雲を望む位置にある。こゝに於て葛城山の雲は所謂有心の序で、下句が暗に夫帝の崩御及び太子の薨逝を擬へた意味であることの有力な證左になるのである。假に方位關係を示すと、左のやうになる。
  ○藤原宮         ○檜隈大内陵
               ○阪合眞弓丘陵              ←―
                 ○葛城山〔藤原宮から葛城山へ斜線〕
眞淵及び雅澄が單なる臆説で、持統天皇の御製でないと斷じたのは從へない。又題詞に「天皇崩之時」とあるのは、この歌に取つては詞が完全でない。
 
天皇(の)崩之後《かむあがりましゝのち》、八年九月九日|奉2爲《つかへまつりし》御齊會《おほをがみ》1之|夜夢裏習《よのいめのうちに》賜(へる)御歌一首
 
天武天皇崩御の後、朱鳥の八年九月九日御齋會を行はせられた夜の夢中に詠まれた大后(のちの持統帝)の御歌との意。〇八年朱鳥八年と思はれる。さらばこの御歌は既に大后御即位後の作であるから、次の「藤原宮御宇天皇代」の標中に收むべきである。然し上に「天皇(天武)崩之時大后御作歌」があるので、年序に拘はらず、類を以て、後人のこゝに記入したものであらう。○御齋會 宮中大極殿において、金光明經即ち最勝王經を讀誦せしめる法會。天武天皇の九年五月に始められたことが紀に見える。「齊」は齋と同字。○夢裏習賜 夢中に詠んだ歌を覺めて御誦習なされた意と思はれるが不完である。卷十六「荒城田《アラキダ》の子師田《コシダ》の云々」の歌の左註に(455)「右一首(ハ)黒麿夢(ノ)裡《ウチニ》作(リテ)2此戀歌(ヲ)1贈(ル)v友(ニ)、覺而令2誦習〔五字傍点〕1如(シ)v前(ノ)」とあるを參考すれば、略その意がわからう。
 
明日香能《あすかの》 清御原乃宮爾《きよみばらのみやに》 天下《あめのした》 所知食《しろしめしし》 八隅知之《やすみしし》 吾大王《わがおほきみ》 高照《たかてらす》 日之皇子《ひのみこ》 何方爾《いかさまに》 所念食可《おもほしめせか》 神風乃《かむかぜの》 伊勢能國者《いせのくには》 奥津藻毛《おきつもも》 靡足波爾《なびけるなみに》 鹽氣能味《しほけのみ》 香乎禮流國爾《かをれるくにに》 味凝《うまごり》 文爾乏寸《あやにともしき》 高照日之御子《たかてらすひのみこ》    162
 
〔釋〕 ○わがおほきみ この句も次の「日のみこ」も天武天皇を斥す。○たかてらす 既出(一七六頁)。○ひのみこ 既出(一七六頁)。○かむかぜの 枕詞。既出(二八〇頁)。○おきつもも 沖の藻も。「も」は邊つ藻を含めていふ。○なびける 「靡足」は靡キタルだから、約めてかく訓む。他訓悉く非。○なみに 次の「かをれる」に係る。○しほけのみかをれる 潮の氣の漲ること、即ち潮曇《シホグモリ》するをいふ、神代紀に「我《アガ》所v生《ウメル》之國(モ)唯|有2朝霧《サギリノミアリテ》1而|薫滿之哉《カヲリミテルカナ》」とある。○くにに 國なる〔二字右○〕にの意。この下に出でましき〔五字右○〕の五字を假に補つて解する。上の「いかさまにおもほしめせか」の句に應ずる詞が無いから。恐らくこの種の説明が二句程脱落したものと思ふ。○うまごり 美《ウマ》き織《オリ》の約。美き織物は文《アヤ》あるものだから、「あやに」に係かる枕詞に用ゐた。「味凝」は借字。○あやに 既出(四四七頁)。○ともしき 稀にしてよき意。
(456)【歌意】 飛鳥の淨御原の宮に天下を御統治なされたわが天皇樣はよ、何と思召されてかしら、あの伊勢の國は沖や岸やに藻の靡いてゐる波に潮曇してゐる國だのに、お出ましになりまた〔十字右○〕、そのお立派な天皇樣はよ。
 
〔評〕 九月九日は天武天皇崩御の日である。持統紀二年二月の詔に「自今以後毎(ニ)取(リテ)2國忌(ノ)日(ヲ)1要《カナラズ》須(シ)v齋《ヲガミス》也」と見えて、朱鳥の二年以來は、夫帝の毎年の御忌日に御齋會が行はれたのである。故にその夜の夢に夫帝のありし昔を偲び奉る詠作も、自然御出來になつた譯である。
 抑も壬申の亂に、夫帝が大和の吉野を出て、伊勢に赴かれたのは、軍事上豫定の御行動で、しかも作者御自身それらの謀議に與つて居られたことは、紀の文の暗證する處である。それを何ぞや「いかさまに思ほしめせか」とある、餘に空々しく聞えはせぬか。
 いや詩歌の語はさう眞ともに聞いてはならぬ。理窟ではない情味である。夫帝崩後八年、今の大平無事なる世相からは、過去の非常時の經緯葛藤を一切忘却して、只尊貴の大御身にしてさる荒海の邊に彷徨なされたことに就いてのみ怪訝し、さて恐懼する。傾倒し盡した夫帝思慕の情と、一分尊貴に對する敬愛の念とが、かくて十分に強調されるのである。詰りは例の詞人慣用の猾手段である。集中この語を使用したものは、人麻呂の近江の舊堵憑弔の作以外六首にまで及んでゐる。
 夫帝の擧兵せられたのはその年の六月廿四日で、廿六日には伊勢の桑名の郡家《グウケ》に留宿、翌廿七日には夫帝だけ美濃に赴かれ、亂鎭つて九月八日夫帝は再び桑名に至り御一宿、相伴うて大和へ御還幸なされた。事實はかくの如くであるのに、御自身の滿三月に亙つた鹽氣のみかをれる國の桑名滯在の勞苦をさし置かれ、僅々一二(457)泊に過ぎない夫帝の御上のみ云爲してゐる。苟も夫帝の御事とあれば御自身の全部を忘れておしまひになるといふその美しい御情合には、讀者としてその胸を打たれぬ者はなからう。
 思ふにこの篇は前後の二分段から成つたもので、段末にいづれも「高照す日の御子」の句を据ゑて節奏を調へたものと見たい。前段は天威讃歎の常套語で充たされて何の奇もなく、一首の重心は後段におかれてある。夢中感得の作としては、これ程の長篇は、古今東西を通じて殆ど絶無の事であらう。
 
藤原(の)宮(に)御宇天皇(の)代   高天原廣野姫《タカマノハラヒロヌヒメノ》天皇
 
この標は持統文武二朝に亙つてゐる。この標下に持統天皇の御名(高天原廣野姫天皇)をのみ記してゐるのは不完である。
 
大津皇子(の)薨之後、大來皇女《おほくのひめみこの》從(り)2伊勢(の)|齋《いつき》宮1上京《のぼりたまへる》時御作歌二首
 
大津皇子が薨じた後、姉君の大來皇女が伊勢の齋宮から飛鳥に歸京の時詠まれた歌との意。○大津皇子及び大來皇女 のことは、上の「わがせこを倭へやると云々」の歌の題詞の條に既出(三三七頁)。「大來」は大伯とも書く。○伊勢齋宮 皇大神の御杖代として奉仕する皇女の潔齊して住まれる處で、伊勢多氣郡竹川にあつた。その役所を齋宮寮といふ。序にいふ、齋宮の字面は史記滑稽列傳に見え、「間居齋戒(ス)、爲(ニ)治(メ)2齋宮(ヲ)河上(ニ)1、張(リ)2※[糸+峰の旁]帷(ヲ)1、女居(ル)2其中(ニ)1」とあり、神の爲に河上に齋戒することも和漢相似てゐるのは、何等かの説明を要すべきものであらう。○上京之時 持統紀に「朱鳥元年十一月丁酉朔壬子、奉(スル)2伊勢神祠(ニ)1皇女大來、還(テ)至(ル)2京師(ニ)1」とあ(458)る。これは御弟大津皇子の忌穢がかゝつて、大來皇女は齋宮を罷めて歸京されたのである。
 
神風之《かむかぜの》 伊勢能國爾母《いせのくににも》 有益乎《あらましを》 奈何可來計武《なにしかきけむ》 君毛不有爾《きみもあらなくに》    163
 
〔釋〕 ○かむかぜの 枕詞。既出(二八〇頁)。○なにしか 眞淵説に從つて一般にかく訓むが、舊訓のまゝにナニニカ〔四字傍線〕と訓むもよい。○あらなくに 古義はマサナクニ〔五字傍線〕と訓んだ。「有」は在に通用。
【歌意】 かういふ事なら、やはり私は伊勢の國に居らうものを。何しにまあ遙々と出て來たことだらうか。今は懷かしい弟皇子もゐなくなつてしまはれたのにさ。
 
〔評〕 鑑賞に先立つて、皇女が皇子の死を既に知つて居られたか否かを査定する必要がある。大津皇子の誅は十月二日で、皇女が齋宮を罷めての歸京は十一月四日であるから、この間三十餘日に及んでゐる。いくら秘密にしたところで、伊勢と大和とは隣國、知れぬ筈はあるまい。况や御姉弟の關係者も多からうから、知らせぬ譯もあるまい。又重い忌服のある者は神宮奉仕は絶對出來ない習慣であるから、皇子誅死と共に、忌服の報知は即刻伊勢に發せられねばならぬ筈である。既に前々月皇子が竊に伊勢に下つて、ほゞその大望を皇女が承知して居られたといふ事實がある以上は、この突然の忌服報知によつても、大概皇弟の誅死を感付かれる筈である。或はもつと露骨に齋宮の罷免歸京を命ぜられたかも知れない。故に皇女は歸京に先だつて皇子の死を知つて居られたと見るが至當である。
(459) 抑も齋宮の御身上は、神聖の上にも神聖が要求せられ、その行動は甚だ不自由なものであつた。ましてこの場合の皇女はむづかしい事情の下にお引上げであるから、その伊勢出發も京への歸着も、可なり面倒な監視があつたに相違ない。然るに「何しか來けむ」といひ、「伊勢の國にもあらましを」といひ、その居るも往くも恰も御自身の意思通り、自由に行動が出來るもののやうな口吻を用ゐられたことは、全く理路を歿了したもので、そこに弟宮の死に對する悲痛の情の深刻さが滲み出てゐる。
 一體この御姉弟の友愛は、上の「あがせこを倭へやると」及び「二人ゆけどゆき過ぎがたき」の歌の條でも述べた如く、餘程親密なものであらせられた。思ふにこれは單に同胞の御間柄といふだけではあるまい。齋宮は獨身生活を條件としたから、皇女は十四歳から今年二十八歳に至る十五年間、花の盛を不犯で過されたので、苟も異性に對する愛情は盡く弟宮御一人の上に濺がれてゐたと察せられる。思へば思はるゝ、そこで皇子も姉宮に對して尋常以上の愛を寄せてゐられたに違ひない。すると、「何しか來けむ」と、弟宮が既にこの世の人でないことを歎かれたその哀怨は、ます/\深く大きいものに聞き取られるのである。
    
欲見《みまくほり》 吾爲君毛《わがするきみも》 不在爾《あらなくに》 奈何可來計武《なにしかきけむ》 馬疲爾《うまつからしに》     164
 
〔釋〕 ○みまくほりわがする 「吾が見まく欲りする」を倒装法でいつたもの。○きみ 弟宮大津皇子をさす。○うまつからしに 宣長の訓ウマツカルヽニ〔七字傍線〕は語調が弛んで、こゝには協はない。やはり舊訓通り積極的にいつた方がよい。
(460)【歌意】 私が逢ひたいと息ふ弟宮は、もうこの世に居られもせぬのに、何でまあ遙々伊勢から上つて來たことであらうか、むだに馬を疲らせにさ。
 
〔評〕 懷かしい京に歸りはしたものゝ、愛する弟宮には再び逢ふ由もない、こんな事ならいつそ來ぬがましだつたと悔恨めいた口振に、やる瀬ない寂しい孤獨のお氣持がよく出てゐる。初二句は音數に制限された結果の倒装ではあるが、然しこの場合、この特殊な語法が頗る強く響いて、何はさしおいても一番に逢ひたく思ふ心持を表現するには、大切な効果を擧げ得てゐる。結句も面白い。何の無駄骨折リニ〔八字傍点〕、草臥レ儲ケニ〔六字傍点〕とでもいふ意を、馬に寓せて表現したところに、鮮明な時代色が見られる。即ち當時の行旅の乘物は輿又は馬であつたのだ。さうして伊勢大和間には可なり嶮峻な山路がある。天武天皇十一年の制に、「婦人乘(ルコト)v馬(ニ)如(クセヨ)2男夫(ノ)1」とあるから、この時も皇女こそ輿でもあつたらうが、從者の一行は男女とも騎馬が多かつたであらう。皇女はそれらを見そなはして、詩材に攝取されたもので、その邊にも皇女の敏慧さが窺はれると思ふ。
 尚この二首は體制から見ても、頗る整備した連環反復の體を成してゐる。郎ち上の歌の結句をこの二三句に反復し、四句はそのまゝ反復し、又結尾に同意の「に」の助辭を配して韻脚を整へた手法は、實に老練で、諷誦上流麗微妙な階調を成してゐるのである。しかも輕浮に流れた點が微塵も無い。
 
移2葬《うつしはふる》大津(の)皇子(の)屍(を)於|葛城二上《かつらぎのふたがみ》山(に)1之時、大來《おほくの》皇女(の)哀傷《かなしみて》御作歌二首
 
大津皇子の遺骸を二上山に移葬した時、大來皇女の詠まれた歌との意。○移葬 皇子の最初の葬地は明かでな(461)いが、謀反の事露はれ、譯語田舍《ヲサダノイヘ》(磯城郡)で死を賜はつた。多分その附近に埋葬されたものと思はれる。その改葬の理由も判然しない。○二上山 フタガミヤマ。音讀してニジヤウセンともいふ。大和河内の國境を走る葛城連山の最北端の山で、大和北葛城郡に屬し、頂上は雄嶽雌嶽の二峯に分れ、頗る特殊な山容を示してゐる。標高四百七十餘米突、その麓に有名な當麻寺がある。
 
宇都曾見乃《うつそみの》 人爾有吾哉《ひとなるわれや》 從明日者《あすよりは》 二上山乎《ふたがみやまを》 弟世登吾將見《いろせとわがみむ》     165
 
〔釋〕 ○うつそみ 現し身の轉で、生身をいふ。うつせみ〔四字傍点〕と同語。「人」「命」などの枕詞ともなるが、こゝは枕詞と見るべきではない。○われや 「や」は疑辭。○いろせ 古事記に素盞鳴(ノ)命の詞に「吾者天照大神之|伊呂勢《イロセノ》者也」と見え、同母の兄弟をいふ。「いろ」は親愛の意を表する語。「弟」の字はイロセ、イロトなど訓むから、こゝは必ずイロセと訓ませる爲に「世」の字を添へたのである。舊訓はイモセ〔三字傍線〕、眞淵はナセ〔二字傍線〕、古義は「弟」を吾〔右△〕の誤としてアガセ〔三字傍線〕と訓んだが、何れも牽強である。
【歌意】 生身の人間であるこの私としたことが、明日からは、物もいはぬこの二上山を弟皇子として見ることかまあ。
 
(462)〔評〕 大津皇子の最初の御墓はその刑死の際の假埋葬に過ぎず、約半歳の後、馬醉木花咲く頃に至つて漸く移葬を許されたものらしい。
 この歌初二句は理路に亙つた語のやうであるが、これが却つて四五句の非論理の矯語に力ある反映を齎して、深刻な哀悼の意を格段に強調してゐる。又移葬の日の作であるから「明日よりは」と置いたものではあるが、この一語によつて、昨日までは埋捨《ウメズテ》にされてゐたことの感傷が暗示され、今日の移葬に眞に悲を新にした趣が見えてあはれである。何にしても「二上山をいろせと見る」とは恐ろしい聯想階段の跳躍であつて、熱烈な弟宮戀しさの發露が認められ、眞に凡常を脱してゐる。殊に注意すべきは、皇子の墓を二上山の頂上雄嶽に築いた事である。二上山は大和平原を壓して西方に屹立する畸形の面白い山である。その絶巓にある皇子の墓は、當然大和の如何なる方面からも展望されることゝなる。だから姉宮皇女のお心持には、目前に見上げた皇子の墓から、皇子が甦つて、皇子と二上山とが固く結びつけられ、遂に二上山を「いろせとわが見む」の結果に到達したのである。若しその墓が山麓などにあつたとしたら、決してこの着想の深刻な主成氣分は動いて來ないで、も少し生温いものになるに違ひない。
(463)  うつせみの世の事なればよそに見て山をや今はよすがと思はむ (卷三―482)
などと比較して見たら、直に了倒されよう。この歌はかうした地理的考慮を忘れては、その妙味の一半を減じてしまふのである。但かくの如く結構な作ではあるが、「われ」と「わが」と主格が重複してゐるのは惜しいことで、正に白璧の微瑕といふべきである。
 
礒之於爾《いそのうへに》 生流馬醉木乎《おふるあせみを》 手折目杼《たをらめど》 令視倍吉君之《みすべききみが》 在常不言爾《ありといはなくに》     166
 
〔釋〕 ○いそのうへ 「いそ」は石處の義で、水濱の石ある處をいふ。新考に岸とのみ解いたのは當らない。「うへ」はほとりの意。○あせみ 漢名は※[木+浸の旁]木。山茶科の灌木で高さ五六尺より丈餘に及ぶ、實はヒサカキ〔四字傍点〕の木の如く冬枯れず、春、枝の先に三寸ばかりの穗を垂れ小白花群がり咲くが、未開のうちは稍薄赤く見える。今も大和には春日野を始め澤山ある。關東では箱根の奥に非常に多い。有毒で馬が食へば醉ふといふ。アセミと訓むは六帖の訓に據つたが、東京では今普通アセビ〔三字傍点〕と呼んでゐる。眞淵や雅澄は集中「安之婢」「安志妣」などあるのと同じに見てアシビ〔三字傍線〕と訓み、眞淵は今の木瓜《ボケ》とし、雅澄は本文の如く※[木+浸の旁]木とした。然しアシビ〔三字傍線〕は漢名櫨子、即ち木瓜で、※[木+浸の旁]木の馬醉木とは別である。舊訓にはツゝジ〔三字傍線〕とあるが實際上從ひ難い。○ありといはなくに 在るといふ譯でもないのにの意。いふ〔二字傍点〕の語は極めて輕く使はれてゐる。
【歌意】 磯際に生えてゐる馬醉木の、折から美しい花を着けてゐるのを、一枝手折らうと思ふけれども、あゝ然し、肝腎の見せたい人が、今はこの世に居るといふ譯でもないのにさ、手折つても何にしようぞ。
 
(464)〔評〕 大來皇女が移葬の見送りに立たれての途上、又は葬處附近での所見に基いた作であらう。まことにその折の皇女の胸中は、弟皇子の追憶で一杯になつてゐる。偶ま溪間などに咲いてゐる馬醉木の花の明るさに打たれて、一枝欲しとの詩興が動くと、聯想は直ちに又弟皇子の上に立返つて、あゝこの美しい花をあの人に見せたらと思ふ。が生憎現實は一瞬時の空想をも假借しない。皇子は既に隔世の人である。さては誰が爲にか花折る勞をも取らうぞと、躊躇低徊の間に無量の感愴を寄せたのである。但「手折らめど」は卒直の語ではあるが稍理窟めく。又「ありといはなくに」は現代人は耳馴れないから陳腐を感じないが、實はその當時としては新味ある表現とはいひ難い。
 
右一首今案(フルニ)不v似2移葬之歌(ニ)1、蓋(シ)疑(フラクハ)從(リ)2伊勢神宮1還(ル)v京(ニ)之時、路上(ニ)見(テ)v花(ヲ)感傷哀咽《カナシミテ》作(メル)2此歌(ヲ)1乎。
 
 この左註は甚しい誤解である。成程この一首は移葬を主として歌つたものではないが、やはりその際に於ける口吟である。皇女が神宮から歸京途上の作とする想像は全く無稽で、皇女の歸京は十一月であるから、馬醉木の花の咲く筈がない。
 
日並皇子尊殯宮之時《ひなみしのみことのあらきのみやのとき》、柿本(の)朝臣人麻呂(の)作歌一首并短歌
 
(465)日並皇子尊の御葬送の時、人麻呂の詠んだ歌との意。○日並皇子尊 草壁皇太子の尊號。卷一「日雙斯皇子《ヒナミシノミコノ》命の」を參照(一八七頁)。○殯宮 孝徳紀の制に「凡(ソ)王以下及(ビ)至(ルマデ)2庶人(ニ)1不v得v營(ムヲ)v殯(ヲ)」と見えて、殯處を造ることの出來るのは天皇及び親王に限り、そこを殯宮と稱した。但孝徳天皇の制は何時まで嚴守されたものか。天武紀(八年)には少納言舍人王の死に「因(テ)以(テ)臨《ミソナハシ》v殯(ヲ)哭之《ネツカフ》」とある。天武天皇の頃には諸王までは殯を營むことを許されたらしい。又別に宮舍を建てず、閑處を利用して殯處に充てることもある。又殯の意を延長して葬と同意に用ゐることもある。船(ノ)首(ノ)王後墓志に(天智帝七年)戊辰十二月殯(ス)2葬松岳(ノ)山上(ニ)1とあるを、藤井貞幹の釋に「此版以(テ)v殯(ヲ)爲(ス)v葬(ト)、伊福部氏(ノ)墓志(ニ)云火葬(シテ)即(チ)殯(スト)、此處及(ビ)萬葉集(ニ)以(テ)2眞弓(ノ)岡陵(ヲ)1爲(スモ)2日並知(ノ)皇子(ノ)殯宮(ト)1亦同(ジ)、禮記檀弓楊※[人偏+京](ノ)注(ニ)云(フ)此殯(ハ)謂(フ)v葬(ムルヲ)之也」と見え、こゝ及び以下の題詞にある「殯宮之時」は御送葬之時といふに同じである。更にその意を擴張しては、御墓仕をする一周の間を斥していふやうにもなつた。尚「大殯」を見よ(四三〇頁)。
      
天地之《あめつちの》 初時之《はじめのときし》 久堅之《ひさかたの》 天河原爾《あまのかはらに》 八百萬《やほよろづ》 千萬神之《ちよろづがみの》 神集《かむづとひ》 集座而《つどひいまして》 神分《かむはかり》 分之時爾《はかりしときに》 天照《あまてらす》 日女之命《ひるめのみこと》【一云 指上《サシノボル》、日女之命《ヒルメノミコト》】 天乎波《あめをば》 所知食登《しろしめすと》 葦原乃《あしはらの》 水穗之國乎《みづほのくにを》 天地之《あめつちの》 依相之極《よりあひのきはみ》 所知行《しろしめす》 神之命等《かみのみことと》 天雲之《あまぐもの》 八重掻別而《やへかきわけて》【一云|天雲之八重雲別而《アマグモノヤヘグモワケテ》】 神下《かむくだし》 座奉之《いませまつりし》 高照《たかてらす》 日之(466)皇子波《ひのみこは》 飛鳥之《あすかの》 淨之宮爾《きよみのみやに》 神隨《かむながら》 太布座而《ふとしきまして》 天皇之《すめろぎの》 敷座國等《しきますくにと》 天原《あまのはら》 石門乎開《いはとをひらき》 神上《かむあがり》 上座奴《あがりいましぬ》【一云、神登座※[人偏+尓]之可婆《カムノボリイマシニシカバ》】 吾王《わがおほきみ》 皇子之命乃《みこのみことの》 天下《あめのした》 所知食世者《しろしめしせば》 春花之《はるばなの》 貴在等《たふとからむと》 望月乃《もちづきの》 滿波之計武跡《たたはしけむと》 天下《あめのした》【一云|食國《ヲスクニハ》】 四方之人乃《よものひとの》 大船之《おほふねの》 思憑而《おもひたのみて》 天水《あまつみづ》 仰而待爾《あふぎてまつに》 何方爾《いかさまに》 御念食可《おもほしめせか》 由縁母無《つれもなき》 眞弓乃崗爾《まゆみのをかに》 宮柱《みやばしら》 太布座《ふとしきいまし》 御在香乎《みあらかを》 高知座而《たかしりまして》 明言爾《あさごとに》 御言不御問《みこととはさず》 日月之《つきひの》 數多成塗《まねくなりぬる》 其故《そこゆゑに》 皇子之宮人《みこのみやびと》 行方不知毛《ゆくへしらずも》【一云、刺竹之皇子宮人《サスダケノミコノミヤビト》、歸邊不知爾爲《ユクヘシラニス》】
 
〔釋〕 ○あめつちのはじめのとき 記上に「天地初發之時《アメツチノハジメノトキ》」とある語を襲うてゐるが、記のは天地開闢の初めを斥し、これは神代の上世を廣く斥していつた。八百萬の神の天の河原に神集ひをした事は、初發の時ではない。(467)それより後である。○ひさかたの 天《アマ》にかゝる枕詞。既出(二八三頁)。○あまのかはら 天《アメ》の安河《ヤスガハ》のこと。記上に「於《ニ》2天(ノ)安河《ヤスガハ》之|河原《カハラ》1神2集《カムツドヘ》八百萬(ノ)神(ヲ)1」とある。○かむづとひ その集ひが神の御所爲ゆゑ「神」の語を冠せていふ古代の修辭。○かむはかり 神々の相談をいふ。大祓の祝詞に神議《カムハカリ》の語がある。「分」をハカルと訓む證は、正辭はいふ字鏡集にありと。これを信友のカムクバリ〔五字傍線〕(又カムクマリ)古義のカムアガチ〔五字傍線〕と訓む説は、神代事實を枉げる恐がある。さう訓むと、諸神が相談の上、日神は高天原、その御子孫は葦原の瑞穗の國と分配したことゝなる。諸神の相談は日神の岩門に隱《コモ》られたのを出し奉る爲の神議で、國土分配の爲ではないことは記紀に明かである。絶對なる日神の權限に消長を來たすことだから、うかと訓んではならぬ、○ひるめのみこと 天照大御神のこと。「ひる」は晝の義。「め」は尊稱のむち〔二字傍点〕の約み〔傍点〕の轉語で、なほ尊稱であるから、晝を支配する神をいふ。月夜見《ツキヨミノ》命の名義に對してゐる。或はいふ「め」は見え〔二字傍点〕の約と。割註「さしのぼる日女」は本文の「天照す日女」に比して劣る。○あめをばしろしめすと 御自身は〔四字右○〕高天原を治め給ふとて〔右○〕。○あしはらのみづほのくに 委しくは豐葦原|之《ノ》千秋之長五百秋之水穗國《チアキノナガイホアキノミヅホグニ》といひ、わが日本帝國の美稱。「みづほ」は瑞々しき稻穗。稻を褒めていふ。「水」は借字。○あめつちのよりあひのきはみ 天と地との接する果。その果は遙に遠いものだから、これを轉義して極めて久しい意に用ゐた。天地の初めて判れたのに對へて、判れた天地のまた寄り合ふ限までと解した芳樹説は牽強である。「相」は借字。○かみのみことと 神の命として〔二字右○〕。○あまぐも 天にある雲。○やへかきわけて 幾重なるを〔三字右○〕掻き分けて。これは皇孫の命が高天原より日向の高千穗の峯に下り給ふ道の状で、記紀に委しく出てゐる。割註「天空の八重雲わけて」は、本文と優劣がない。○かむくだしいませまつりし 天照大神が〔五字字右○〕天降してこの國に住まはしめられたの意。それは皇孫|邇々藝《ニゝギノ》命を斥す。「神下」は一般にカ(468)ムクダリ〔五字傍線〕と訓んであるが、こゝは他動に訓む方が、次の「座《イマ》せまつりし」の他動詞に打合つて宜しい。○たかてらすひのみこ 下の句意によれば、「日の皇子」は天武天皇を斥してゐる。然るに「いませまつりし」は皇孫の命の事だから、絶對にこの句には連續しない。必ず誤脱がある。試に「座奉之|皇孫《・スメミマ》の神の子とます〔九字右○〕高照日皇子波」とでも補つて置かう。○きよみのみや 淨御原宮のこと。「きよみ」はその宮地の稱で、淨み原、淨みの宮、淨みの川など續けていふ。「明日香淨御原宮御宇天皇代」を參照(九九頁)。○かむながら 既出(一九五頁)。「神隨」と書くは語義に從つたもの。○ふとしきまして 「ふと」は讃稱。「しき」は統治すること。既出(一七六頁)。「まして」の下、續きが不完である。假にさて〔二字右○〕の語を補つて解する。○すめろぎのしきますくにと この瑞穗の國は〔五字右○〕天皇の統治される國として。「すめろぎ」は天皇の御位を斥していふ。單に天子を斥す場合には、大王《オホキミ》といふが例である。故にこれを天武天皇の御事とするは非。○あまのはら 天上の〔右○〕。○いはとをひらき 高天が原とこの國との通路にある石門を押|排《ヒラ》いての意。宣長が「開」を閉〔右△〕の誤としてタテヽ〔三字傍線〕と訓んだのは却つて非。○かむあがり 天に上るをいふ。「崩」の字をわが國振にカムアガリと訓んだ。○あがりいましぬ 割註の「神登り(469)いましにしかば」は文脈が亂れて意味が徹らない。體製の上からも、茲で切れて段をなす方がよい。○わがおほきみみこのみこと これは日並皇子(ノ)尊のこと。○しろしめしせば 知し召さばと同意。「しろしめし」は體言格で、かく動詞を一旦體言格にして、更にそれをサ變に活用せしめる例は、欲りす〔三字傍点〕、盡き〔二字傍点〕せず、絶え〔二字傍点〕せぬ、老い〔二字傍点〕するなど多い。○はるばなの 春の花の如く。「貴し」に係る枕詞。○たふとからむと 國家が〔三字右○〕めでたく榮えようと。次の對句もおの/\補語を要する。「たふと」は極めてめでたきをいふ。こゝでは階級的の意義はもたない。○もちづきの 望月の如く。「たたはし」に係る枕詞。「もち」は滿《ミチ》の義。「望」は滿月の夜の稱。○たたはしけむと 大御惠は〔四字右○〕滿ち足らはむとの意。湛ふ〔二字傍点〕の形容詞格で、たゝはしくあらむの變形語だから「けむ」は過去の助動詞ではない。「と」は二句ながらとて〔二字傍点〕の意。○おほふねの 大船の如く。「思ひたのむ」の枕詞。航海上大船に乘るは力強きものなる故にいふ。○あまつみづ 雨のこと。「仰ぎて待つ」にかゝる枕詞。旱天に雨を待つ趣にていふ。卷十八にもこの語がある。後世テンスヰと音讀して雨の事に用ゐた。○いかさまにおもほしめせか 既出(一二四頁)。「か」は下の「まねくなりぬる」の「ぬる」で結ぶ。○つれもなき ゆかりもない。ユカリ〔三字傍点〕は新語で、奈良時代にはそれを「つれ」といつたのである。「都禮《ツレ》もなき左保《サホ》の山べに」(卷三)「津禮《ツレ》もなき城上《キノヘノ》宮に」(卷十三)などの用例がある。「つれ」の原義は連れ〔二字傍点〕である。舊訓はヨシモナキ。○まゆみのをか 高市郡佐田の森にある。諸陵式に眞弓丘《マユミノヲカノ》陵、岡宮御宇天皇、在(リ)2大和高市郡(ニ)1、兆城東西二町南北二町、陵戸六烟とある。岡宮天皇の稱は淳仁天皇の天平寶字二年八月の追尊で、日並皇子の御事。○みやばしら 「みあらか」に對した實在の柱で、「ふと」に係る枕詞ではない。○ふとしきいまし 立派にお立てなされ。新考はいふ「座」は立〔右△〕の誤にてフトシキタテ〔六字傍線〕なりと。それも一理あるが、かうした辭樣も轉つて出來たものと見てよい。(470)膠柱の論は賛成しない。○みあらか 御殿。既出(一九〇頁)。○たかしりまして 既出(一五三頁)。○あさごとに 朝毎にの意。毎日といふは早い。芳樹が貴人の許には朝參るものなればといへるは當つてゐる。「明言」は借字。○みこととはさず 何も仰せられず。言問ふ〔三字傍点〕を否定した言問はず〔四字傍点〕の敬相なる言問はさず〔五字傍点〕に「み」の敬語を添へたもの。「言問ふ」は物云ふこと。「ま言問はさず」(崇神紀)「言問はぬ木すら」(卷四)など例は多い。○つきひの 四言の句。「日月」を顛倒してツキヒと訓む。○まねく 數多きこと。「さまねし」を參照(二八二頁)。舊訓はアマタニ〔四字傍線〕。○なりぬる 「ぬる」で句は切れる。古義はヌレ〔二字傍線〕と訓んだが、これはヌレバ〔三字傍点〕の意の接續の詞形だから、それを又「そこ故に」と承けると、意が重複するので從へない。「塗」は借字。○そこゆゑに それ故にといふに同じい。この接續詞がない爲に、割註「刺竹《サスダケ》の皇子の宮人行方知らにす」は上への續きが唐突で、木に竹の憾がある。「刺竹」は宮、皇子《ミコ》、君などに係る枕詞。卷六「刺竹の大宮人の」の條參照。「知らにす」は知らぬ思するの意で、「に」は否定のず〔傍点〕の辭に近い。「不知爾」の不は否定の意をたしかにする爲に添へた。○みやびと 宮に奉仕する人。官人。○ゆくへしらずも 途方に暮れることよ。即ち行くべき方の知られぬ意である。諸註、退散して行方が分からぬと解いてゐるが、一周の御喪の間は舍人はなほ分番宿直して退散などしない。
【歌意】 天地のはじめの時、高天の原の天の安河原に八百萬の神々がお集りなされて、神心に御相談なされた時に、天照大神は天上をば御自身領知なさるとて、この葦原の瑞穗の國を皇孫瓊々杵(ノ)命の永久にお治めなさるべき國とお定めなされて、天の叢雲《ムラクモ》を掻別けてお降し遊ばされた、その皇孫の御子孫とある〔十一字右○〕日の御子天武天皇は、飛鳥の淨御原(ノ)宮でこの世をお治めなされ、さてこの國は次代の〔三字右○〕天皇の御領の國とお定めなされて、御自身は天の石門を押開いて、神として天上に上つておしまひになつた。そこでわが皇太子日並知皇子が、やがて御即位(471)遊ばされて、その御代にもならば、天下はめでたく榮え、大御惠は天下に滿ち足る事だらうと、天下四方の人が頼みにして仰ぎ待つた甲斐もなく、皇子は何と思し召したか、縁もない眞弓の岡に宮柱を占め立て、御殿をお造りなされてお住ひになり、自分達が朝毎に參りはするが、何の仰も下さらずに月日が數多積つたことわい、それ故にわれら東宮奉仕の職員達は途方に暮れることよ。
 
〔評〕 この篇長い割合に組織は單純で、前後二大段に區分される。前段は天地の開闢から皇統の經緯を叙し、天武天皇の崩御に至つて終つた、一意到底の叙出である。後段は專ら草壁皇太子の御身上を主として終始し、生前の輿望と薨去の事相とを丁寧反復し、結局は終に作者の自己身上に落着してその筆を擱いた。
 開口一番天地を絶叫し、高天原對瑞穗國、皇祖對天皇、幽冥の神對現神の觀念のもとに、皇位繼承の次第を正々堂々と詳説し、高古雄渾莊重典雅、恰も記紀の文を讀むが如く、又祝詞を聞いてゐる如き心地がする。勿論古代傳説の口吻を瀉瓶して傳へたものだから、同一の古代傳説を基本として記録された記紀と相通符合の點のあるのは、蓋し當然の事であらう。
 然し古事記の撰に先立つ二十二年前に於いてこの種の文字を見得たことは、實に驚異であらねばならぬ。天武紀の九年に皇子諸臣に詔して「令(メタマフ)v記(シ)2定(メ)帝紀及(ビ)上古(ノ)諸事(ヲ)1」といふ記事が出てゐる。草壁皇子の薨去はそれより九年後の事だから、或はそれ等の記録の内容を拉し來つたものか。否々日本紀の「一書(ニ)曰(ハク)」の旁書を見ても知られる通り、諸の氏の文や諸家の口傳が澤山に存在してゐた時代だから、既に大同小異の口碑や文字が世間一般に流布して、皇室を中心とした建國觀念が、國民の胸臆に纏まつて築き上けられてゐたと見てよい。さ(472)てはこの作者は實にその代辯者である。
 天武御治世の一齣は後段の前提で、草壁皇太子出現の關鍵をなす役目を勤めてゐる。即ち天武帝が日嗣の皇子に御讓國遊ばされて神上りましたと、その御登遐を深い思召からのやうに有意味に取成し、おのづから重きを皇太子の御上に歸した。
 「天の原石門を開き」は聊か首を傾けざるを得ない。高天の原と現世との交通路に石門のあることは、如何なる記録傳説にもない。伊邪那岐命が夜見の國より逃げ還り給うた時、千引石《チビキイハ》を黄泉比良《ヨモツヒラ》坂に引塞《ヒキフタ》がれた話はあるが、それは高天原の事ではない。又天照大神が天(ノ)石屋戸《イハヤト》を閉て、さし籠り給うた故事はあるが、それは高天原においての出來事で、現世との交通路での事ではない。かうした特殊の傳説が當時存在してゐたものか、或は又作者が詩人的空想に任せて、如上二つの石戸を撮合して空中樓閣を茲に現ぜしめたものかは不明である。
 「吾王皇子の命の」以下、まづ皇太子の御治世に對する豫望と期待とを極力誇大に主張して、天下萬民が――「貴からむと――たたはしけむと――思ひ憑みて――仰ぎて待つ」とまでその深い信頼を捧げた。これは或は天子の治世を讃する紋切型の平語かも知れない。然しそれに一々「春花の」「望月の」「大船の」「天つ水」等の枕詞を冠するに至つて、詞意が甚しく強調され、作者獨自の感懷がそこに往來し躍動してくる。况やこの四句の枕詞が或は快美な、或は豪壯な、或は崇高な、いづれも陽性を帶びた本質をもつ成語であるので、いかにも瑰麗絢爛人目を眩耀せしめる。これでこそ前節の立派な格調に對應が保たれ、斤量相當ることが出來、又その期待が水泡に歸し豫望が裏切られた失望と悲痛とを力強く反撥し得る、一石二鳥の効果を擧げてゐる。
 「春花の云々」「望月の云々」の前後對、ついで「大船の云々」「天つ水云々」の前後對の間に「天下四方の人(473)の」の單句を挿入したことは、作者の修辭上の用意が窺はれる。齊整の弊は單調に陷る。わざと句法を交錯して變化を求め、それがおのづから前段の無變化に反映を成してゐることが面白い。
 「天つ水仰ぎて待つ」は輕々に看過し難い句である。それは天武天皇の朱鳥元年九月に崩御あらせられるや、皇太子は直ちに踐祚せず、以後諒闇三年の喪に服された。唐風模倣の時世相が然らしめたものである。天下の臣民は、一日も早くその九五の位を踐ませられる事を熱望し、又それを必然の結果と思惟して居たのである。豈に料らんや、諒闇ももうあと僅か五箇月で果てようとする朱鳥四年五月に至つて、梁木一朝に摧け、太子は父帝の御後を追はれた。待ちに待つてこの始末、こんな大きな失望を國民一般に齎した例は恐らくあるまい。况や朝な夕なに大御身近く侍ひ、尊き御言を平生承つてゐた東宮舍人たる作者達の與へられた衝動は、どんなものであつたらう。
 これ「皇子の命の天の下知ろし召しせば」とはかない繰言も繰り返されて、黄金世界を夢想的に描がいた所以で、思へば眞に氣の毒にも亦哀である。
 「いか樣に念しめせか」は作者が近江舊都憑弔の歌にも使用した常套句である。平地に波瀾を起す慣手段として止むを得まい。
 「つれもなき」以下「まねくなりぬる」までは、皇太子の薨去後の特異な條件や事態を捉へて描寫し、一向にその薨逝を道破せぬ點、頗る婉曲味があつて面白いと思ふ。偏に如在の觀を成し、只その御住居の島(ノ)宮が眞弓の岡に變り、朝毎にあつた御用命が「御言問はさず」で、連日に及んでもない事を思ひ疑つたその痴呆の作意は、下の
(474)  東の瀧の御門にさもらへど昨日も今日も召すこともなし  (卷二−184)
と全く同規で、詩人の慣手段である。
 眞弓の岡は皇太子の御葬處である。「宮柱太しきいまし、御在香《ミアラカ》を高知りまして」とはいふものゝ、それは作意の爲に驅られた誇張の修辭で、事實は靈壙の前に建てられた假の御靈屋《オタマヤ》に過ぎまい。又「御言問はさず」と御言の有無を問題にした事は、作者の身分を物語つてゐるもので、作者は實に東宮舍人であつた。舍人は側近の雜務に奉仕する役目(紀に出づ)だから、朝參毎にまづその日/\の御用命を承はつたものである。
 最後の一章、月日は經てど何等の御用命もないとなつては、舍人としては途方に暮れる譯である。「行方知らずも」と戞然響を收め、餘韻をいよ/\遠く永からしめてゐる。
 要するに堂々たる大作、作者の精神氣魄が字々句々に充實して、一條の煉鐵を延べた如き觀がある。若し他人をして作らしめたなら、萎靡振はざるものになり勝であらう。といふのは、草壁皇子は皇太子でこそあれ、赫々たる事迹を遺さぬお方で、尤も壬申の亂の時はまだ御年が僅に十一歳だから、御兄君、高市皇子の如き功績を樹てぬのは無理はないとしても、廿八歳御薨去までの間にも、史に特異の記事が一向に見えない。只温順一方の君であつたらしい。さうなると殆ど諷詠の題材に窮してしまふ。流石に人麻呂は歌聖である。忽ち皇太子としての薨去といふポイントを掟へて、縱横無碍に揮灑し去つた。さうして、全然その薨去と葬送とには一言も陽に觸れる事なしに、又それに對する哀悼悲痛の鋭い刺戟、深い大きい情の動搖を直叙する事なしに終つてゐる。まことに珍しい體である。かくてこそ含蓄の味ひが非常に深く永く、いはゆる長歌の哀は慟哭よりも甚しきものがあるのである。只憾むらくは前段中に、辭意の不完と思はれる一二の點が白璧の瑕をなしてゐる(475)事である。
 
反歌二首
 
久堅乃《ひさかたの》 天見如久《あめみるごとく》 仰見之《あふぎみし》 皇子乃御門之《みこのみかどの》 荒卷惜毛《あれまくをしも》     168
 
〔釋〕 ○あふぎみし この句は皇子にのみ係るもので、御門までは係らない。○みこのみかど 皇子の御所をいふ。島の宮のこと。「みかど」は御門の義であるが、こゝは全體的に御所の代表語となつてゐる。芳樹が、大殿のことに解したのはやゝ狹い。まして文字通りに門とのみ見るのは尚狹い。この島の宮の所在地は、今の高市郡高市村大字|島庄《シマノシヤウ》と思はれる。○あれまく 荒れてゆかうことがの意。「まく」はむ〔傍点〕の延言で、ムコト〔三字傍点〕の意。○をしも 「も」は歎辭。
【歌意】 天を見上げるやうに、今まで尊く長く仰いでお見上げ申した皇子樣の、その御所が次第に荒れてゆかうことが實に惜しいことではあるわい。
 
〔評〕 この歌立意は極めて單純で、東宮御所の主人たる皇子の薨逝に會つて、殿舍林苑の荒れゆく豫感に打たれた詠歎である。「天見る如く」はこの作者の套語で、長皇子の獵路《カリヂノ》池に遊獵し給ふに扈從した時の歌にも、
  ……久方の天見る如く ます鏡仰ぎて見れど 春草のいや珍しき 吾が大王かも (卷三―239)
(476)と、その景仰の態度を譬喩してゐる。三句の「仰ぎ見し」が「御門」には係らず、直ちに「皇子」に續く修飾語であるといふことも、この用例によつて明かである。さて「天」は空とほゞ同意であるが、この語に崇高な神秘的觀念が必ず附隨してゐた上代思潮から見れば、この譬喩は皇子に對する絶對禮讃で、この禮讃は間接に御門の荒廢に對する感傷の情緒を、強く搖曳せしめる。又「見し」の過去は皇子の薨逝を暗示してゐる。下句「御門の荒れまく」の一轉語を下して眼前の事象に注目したことは、概念的に墮つる弊から脱して殊によい。而して作者がかくの如くに皇子をながめ、かくの如くに御門に執着をもつ所以は、この宮の舍人として誠心誠意奉仕してゐたからであつて、決して通り一遍の儀禮的哀詞ではない。
 修辭の上からいふと「見る」「見し」の二語は互にさし合ふので、平安人なら避けて、三句を仰ぎてし〔四字傍点〕とでもいふであらう。
 
茜刺《あかねさす》 日者雖照有《ひはてらせれど》 烏玉之《ぬばたまの》 夜渡月之《よわたるつきの》 隱良久惜毛《かくらくをしも》    169          
〔釋〕 ○あかねさす 日にかゝる枕詞。既出(九二頁)。○てらせれど 照らしてゐるけれどの意。「てらせ」は照らす〔三字傍点〕の已然形で、「れ」は完了の助動詞り〔傍点〕の已然形。○ぬばたまの 夜にかゝる枕詞。「烏玉」は烏扇《ヌバタマ》の實《ミ》の稱。既出(三〇四頁)。○よわたる 夜の間に峯を經行くの意を、抽象的にかくいつた。○かくらく 隱るゝことの意。「君が御言《ミコト》を持ちて通はく〔三字傍点〕」(卷二)、「清き瀬の音《ト》を聞かく〔三字傍点〕しよしも」(卷十)、「兒ろが金門に行かく〔三字傍点〕しえしも」(卷十四)など皆同例である。
(477)【歌意】 太陽こそ晝を照してゐるけれども、夜空を經行く月の隱れることが誠に惜しいことだわい。―天子樣はましますが、太子樣のお薨れが、ほんに口惜しいことではあるよ。
 
〔評〕 表面は落月に對する愛着を歌つたもので、「日は照らせれど」の確定的前提は、その主想を強める爲にした對照である。單なる叙景として見ると、月夜に日が出てゐるやうに聞え、甚しい天變ともなるが、これは主感を歌つての譬喩だから仔細はない。元來が悼歌で、月の沒するのは皇子御薨逝の譬喩であるから、隨つて初二句も必ず寄託が無くてはならぬ。するとそれは皇子の御母持統天皇を擬へ奉つたものであることが頷かれよう。持統天皇は即位の大禮こそその四年に擧げ給うたが、天武天皇崩後は制を稱して既に三年の御治世を見た。即ち日は照してゐたのである。照れる日、隱るゝ月の合拍は、この場合比興が頗る事體にあてはまつてゐる。唐の詩仙李白が上皇西巡の歌に、玄宗(上皇)、肅宗(今上)のことを「竝(ベ)2懸(ケテ)日月(ヲ)1照(ス)2乾坤(ヲ)1」と作つたのも、譬喩の基點が同一であつて面白い。しかし人麻呂の作は李白のよりも約七十年の先出であることは、大いに愉快な次第である。風調氣格の高い作で、「茜さす」「烏玉の」の枕詞も色相上の映對をもつ。
 
或本(ニ)云(フ)、以(テ)2件(ノ)歌(ヲ)1爲(セリ)2後(ノ)皇子(ノ)尊(ノ)殯宮之時(ノ)反歌(ト)1也
 
 或本にはこの歌を、高市《タケチ》皇子の殯官の時、人麻呂が詠じた長歌の反歌だとしてあるとの意。高市皇子も日並皇子の薨後、皇太子に立つてやはり薨去されたから、後皇子尊と申し上げるのである。その殯宮の時の人麻呂の作は下に(五二五頁)出てゐる。成程その反歌の一として見ても事情は適合するので、行文は拙いがこれも一(478)の異傳として、必しも斥けるべきものではあるまい。
 
或本歌(の)一首
 
これは必ず次の「皇子(ノ)尊(ノ)舍人等(ガ)慟傷《カナシミテ》作歌」の中の「島宮池上有放鳥云々」の歌の左註たるべきものが、こゝに紛れ込んだに相違ないが、姑く舊本の位置のまゝに、こゝで釋することゝする。
   
島宮《しまのみや》 勾乃池之《まがりのいけの》 放鳥《はなちどり》 人目爾戀而《ひとめにこひて》 池爾不潜《いけにかづかず》    170
 
〔釋〕 ○しまのみや 日並皇子の御所の稱。委しくは下出の同項を參照(四八〇頁)。○まがりのいけ 勾玉などのやうに池の形の彎曲してゐた故の名で、心字他のことゝ思はれる。庭中の池だから地名ではない。○はなちどり 放し飼にしてある鳥。追善の爲の放し鳥ではない。○ひとめにこひて 皇子の御生前賑かであつた人目を戀しがつての意。○かづかず 水中に潜(479)らない。「かづく」は潜ること。
【歌意】 島の宮の心字池にゐる放し飼の水鳥は、今の寂しさに堪へず、皇子樣御在世の頃の賑かな人目を戀しがつて、一向池にもぐり込みはせぬわい。
 
〔評〕 たま/\池邊にゐる水鳥に對して、作者の感懷を寓せたものである。相變らず自分は御門には侍うてはゐるものゝ、御主人の君はましまさず、御喪中のことゝて、碌に庭上に逍遙する人影もない。御生前の繁華が實に慕はしくなる。かうした心境から眺めると、水鳥の池に潜らぬのも人戀しさのやうに思へるのである。「人目に戀ひて」は人目の無いことを反證してゐる。かく主觀の色眼鏡から何もかも一色に見てしまふ、その痴愚な點があはれである。しかも水鳥の心理をいふに、斷言の叙法を採つたことも全く理性を没却したもので、一段の詩味をそゝる。同じ放鳥でも、下の「島の宮池の上なる放鳥云々」の歌よりも一層立優つた佳作である。
 
皇子(の)尊(の)宮(の)舍人《とねり》等(が)慟傷作《かなしみてよめる》歌二十三首
 
日並皇子の殯宮の時の舍人等の悼歌である。題詞は上に讓つて省略して書いたもの。○舍人 こゝのは東宮舍人である。大寶の職員令に、舍人監といふのがあつて、舍人六百人とある。職務は分番宿直、假使容儀と見えて、分番宿直したり、使に出たり、管鑰を掌つたり、行啓に供奉したりするのである。以下の歌、何れも作者は明かでない。
 
(480)高光《たかひかる》 我日皇子乃《わがひのみこの》 萬代爾《よろづよに》 國所知麻之《くにしらさまし》 島宮波母《しまのみやはも》    171
 
〔釋〕 ○たかひかる 日に係る枕詞。「高照らす」といふに同じい。「高照らす」を見よ(一七六頁)。○わがひのみこ 日並皇子を申す。○くにしらさまし 天下をお治めなされようの意。「まし」はこゝは連體形で、直に「島宮」に續くのである。終止ではない。○しまのみや 高市郡高市村字島ノ庄にあつた。もと天武天皇の別宮で、屡ば行幸があり、次いで日並皇子の御所となり、皇子はこゝで薨ぜられた。契沖は高市郡橘寺の地として、「橘の島にし居れば」(本卷所載)を引證したが、橘寺の地は島の宮とは十餘町離れてゐる。但橘の名稱は汎く飛鳥川の南岸に亙つて、橘寺の地にも島の宮の地にも及んだものであらう。下の「橘の島の宮には」の條參照。「島」は作庭上の名稱で、推古紀三十四年に、「蘇我(ノ)馬子(ノ)大臣薨(リヌ)、家(ヅクリス)2於飛鳥河之傍(ニ)1、仍(テ)庭中(ニ)開(リ)2小池(ヲ)1、乃(チ)興(ス)2小島(ヲ)於池中(ニ)1、故《カレ》時(ノ)人曰(フ)2島(ノ)大臣(ト)1」とある。この馬子の宅址が蘇我氏滅亡の後、官に沒入されて、遂に天武天皇の別宮となつたものだらうと思はれる。○はも 歎辭。
(481)【歌意】 こんな不祥事さへ無かつたら〔十三字右○〕、わが皇子樣が皇居として、千萬年も天下をお治めなされる筈のこの島の宮であるがまあ。
 
〔評〕 島の宮の將來皇居たるべき豫想が裏切られた遺憾さを歌つてゐる。これ間接には皇子の薨逝を悼惜する所以ともなるのである。わが國古來の慣習として、當帝の皇居と太子の御所とはいつも別で、太子の踐祚と同時に、その御所が皇居即ち都となるのであつた。――藤原京建設の意旨は別として――故に今も日並皇子御即位の曉は、當然島の宮は萬代に國|領《し》らすべき皇居なのである。かうした事情からこの歌を味ふと、意外な皇子の薨逝に會つて、島の宮が皇居どころか主人なき廢宅となつてしまふ幻滅の悲哀が、しみ/”\感ぜられるのである。况や作者は東宮舍人として平生親しく出入してゐた執着があり、その上、皇子を將來は天皇陛下として奉戴すべき光榮をさへ當然豫期してゐたとすれば、その失望落膽はどの位であつたらう。「わが日の皇子」を絶叫して、死兒の歳を數へるに等しい繰言を、島の宮の上に云爲したことは、頗る悲痛である。この歌は皇子薨逝といふ眼前の事相の上に立つて、突如とそこに生じた感想だけを歌つたので、詞の上のみでは意味が完全しない。文法上から見ても「まし」は上に假設語の存するのが正格であるから、かゝる〔三字右○〕不祥事《マガゴト》なかりせば〔五字右○〕といふ前提を補足して聞くべきである。
 以下二十餘首の詠作、或は奉仕をいひ、或はお召をいひ參入をいひ、或は鳥飼をいひ、或は宮出をいひ、或は侍宿をいふ。舍人たる作者達の身分が躍如としてゐる。而もその小心翼々奉公の忠を致し精勤を抽んづる作者達の精神と態度とが、克明によく出てゐる。大寶の考課令に、舍人の服務規程を示して、
(482)  凡分番者(ハ)――小心謹卓〔四字傍点〕、執當幹〔三字傍点〕了(スル)者(ヲ)爲v上〔右●〕(ト)、番上〔二字傍点〕无(ク)v違(フコト)、供承〔二字傍点〕得(ル)v濟(ヲ)者(ヲ)爲(ス)v中〔右●〕(ト)、逋違不v上(ラ)、執幹不當虧失(アル)者(ヲ)爲(ス)v下〔右●〕(ト)。
とある上中の考課に、極めてよく合格する人達である。彼等六百人は各自に上直して分番したものである。又令の規定によれば、舍人出身に二樣の別がある。一を蔭子出身とし、一を帳内出身とする。蔭子出身は年齡廿一歳以上で父の位の五位以上なるを要し、帳内出身は庶人の帳内に出仕したもので、年齡廿五歳以上を要する事とした。この作者達はそのいづれの出身かは不明であるが、料らざる皇太子の御薨逝に、その素志一旦に違うたことは皆一樣で、失望と落膽と悲哀とが混線して、陰慘な雰圍氣を釀成してゐる。
 
島宮《しまのみや》 池〔左△〕上有《いけのうへなる》 放鳥《はなちどり》 荒備勿行《あらびなゆきそ》 君不座十方《きみまさずとも》     172
 
〔釋〕 ○いけのうへなる 池は島の宮の勾の池である。「うへ」は邊の意。原本に「上池有」とあるので、正辭はウヘノイケナル〔七字傍線〕と訓んで島の宮の山上の池のこととし、古義は勾池之〔三字右△〕の誤としてマガリノイケノ〔七字傍線〕と訓んだが、何れも穩かでない。本行のは神田本に從つた。○あらびなゆきそ 荒れてしまふなの意。「あらぶ」は、すさぶこと、變ることをいふ。下にも「あらびなゆきそ年かはるまで」とあり、尚「栲領巾《タクヒレ》の白濱浪のよりもあへず荒ぶる妹に戀ひつゝぞ居る」(卷十一)などあるのも同樣である。○とも 「十方」は戲書。
【歌意】 この島の宮の池のほとりにゐる放し飼の水鳥よ、よし御主人たる皇子樣はお薨れなされたにしても、散り/”\ばら/\になつてしまふなよ。
 
(483)〔評〕 愛育して下された御主人なき後は、水鳥どもも自然の結果として荒びゆくであらうことを豫斷して、さて「荒びなゆきそ」と懇願する。はかない何の機心もない鳥類に對してさへ、かういはずには居られぬその心持が悲しい。それは自分達の身の上の不安や退散や、島の宮の寂寥や荒廢やの悲觀的豫感が、皇子の薨逝に伴つて、ひし/\と舍人等の心を取卷くからである。
 
高光《たかひかる》 吾日皇子乃《わがひのみこの》 伊座世者《いましせば》 島御門者《しまのみかどは》 不荒有益乎《あれざらましを》     173
 
〔釋〕 ○いましせば 座《イマ》さばと同意。「いまし」はいます〔三字傍点〕の體言格で、それをサ變に活用した。上の長歌「しろしめせば」を參照(四六九頁)。○しまのみかど 島の宮に同じい。上の「みこのみかど」を參照(四七五頁)。
【歌意】わが日並皇子樣が今もいらつしやるならば、この島の御所はかうも荒れずにあらうものをなあ。
 
〔評〕 眼前の寂しさ、すさまじさは漸く頽廢に入る第一歩で、御生前の繁華を見た舍人達の目には、事々物々すべて傷心の種となつたであらう。今に御存命ならと、返らぬ愚痴も出て來るのは無理もない。その愚痴の陰には、皇子追慕の熱情が漲つて見える。「高光る日皇子」の最大敬語を用ゐた形容は、結句の意を最高限度に強調する表現で、「ましを」の歇後の叙法は、この種の内容にふさはしい形式である。
    
外爾見之《よそにみし》 檀乃岡毛《まゆみのをかも》 君座者《きみませば》 常都御門跡《とこつみかどと》 侍宿爲鴨《とのゐするかも》     174
 
(484)〔釋〕 ○よそにみし 無關係のものとして見てゐたの意。○まゆみのをかも 檀の岡は即ち眞弓の岡と同じで、上出。「も」はサヘモの意。○とこつみかどと 永久の御所としての意。○とのゐ 宿直《トノヰ》。殿居の義。
【歌意】 今までは何等關係の無い處として見過してゐたこの檀の岡でさへも、かうして皇子樣が入らつしやるので、永久の御所だと思つて宿直することではあるわい。
 
〔評〕 これから檀の岡を常つ御門として宿直するといふことによつて、つひ昨日までは常つ御門として仰いでゐなかつたことが反映されてゐる。そして餘所に見た檀の岡に君のましますことは、皇子の御魂のそこの御陵に鎭りましたことを暗示してゐる。但これは何處までも暗示であつて、明示ではない。然るに註者の多くが、三句を、斂葬し奉ればと解いてゐるのは、底を割つたいひ方で興味が索きてしまふ。この歌の妙は皇子の薨逝を全く忘れ果てた痴呆の點にあるのである。かく皇子が檀の岡に今も在すが如き口吻は、上出の長歌、
   いかさまに思ほしめせか、つれもなき眞弓の岡に、宮柱太しきいまし、みあらかを高知りまして、
と歌つたのと同工異曲である。只それのみではない、いかなる山でも岡でも、君さへましませば常つ御門と宿直《トノヰ》するといふ、そこに作者の強い忠誠の情味や思慕の心が著しく躍動して、貰ひ泣きがされる。この宿直は一面作者の身分を語るもので、蓋し一周忌間は御陵の假廬に交代侍宿するのである。
 
夢爾谷《いめにだに》 不見在之物乎《みざりしものを》 欝悒《おほほしく》 宮出毛爲鹿《みやでもするか》 佐田〔左△〕之隈囘乎《さたのくまわを》     175
 
(485)〔釋〕 ○いめ 寢《イ》見えの義で、夢《ユメ》の古言。イとユとは相通で、往く〔二字傍点〕の語は今でもイクともユクともいふ。○みざりし 思はざりし〔五字傍点〕といふに同じい。○おほほしく 氣が塞がつて、心が結ばれてなどの意。これは動詞のおほふ〔三字傍点〕から來た形容詞である。動詞を形容詞化するに、その未然形に「し」の語尾を加へて、例へば勇まし、懷かし、慕はし、などの如くするのが一形式であるが、更にその未然形のaの母韻が0に變つて、例へば頼も〔傍点〕し、好も〔傍点〕し、狂ほ〔傍点〕し、などの如くなることもある。「おほほし」もその例である。○みやで 宮に出仕すること。退出の意ではない。○か 歎辭。○さたのくまわ 佐田は高市郡檜隈郷の内で、次々の歌に眞弓の岡に宿直するとも、佐田の岡に宿直するともあるから、佐田も眞弓も同地である。皇子の御陵墓地は越智岡村大字森|字王塚《アザワウヅカ》と稱する處で、眞弓の岡より西南數町に佐田の稱が遺つてゐるが、古への佐田は大字《オホナ》で、眞弓から今の佐田にまで及ぼした稱、眞弓はその内の小字《コナ》であつたらしい。「くまわ」は上出(三五九頁)。普通本には「作日〔左△〕之隈囘《サヒノクマワ》」とあるが、今は水戸本に據つた。「作檜乃熊檜隈川《サヒノクマヒノクマガハ》の」(卷七)の用例もあり、こゝも作《サ》を美稱として檜隈の隈囘の意にも取られるが、なほ佐田に從ひたい。蓋し檜隈は御陵には遠い。○を 早く解すればより〔二字傍点〕の意。
【歌意】 かういふ事にならうとは夢にさへも思はなかつたものを、今は心さみしく佐田の隈囘を通《カヨ》つて、皇子樣の宮に出仕をすることかまあ。
 
〔評〕 佐田眞弓の附近は、岡陵が盛んに起伏してゐて、道の隈囘が頗る多い。その隈囘を來往して御陵に宮仕しに行くやうな事件が突發しようとは、誰れしも思ひもかけなかつたであらう。朝夕歡び進んで仕へ來つた島の宮の宮出に引換へ、おほゝしくする御陵の宮出に至つては、まことに斷腸の極みであらねばならぬ。さては(486)「おほほしく」の一語、輕々しく看過し難いものとなるのである。
 
天地與《あめつちと》 共將終登《ともにをへむと》 念乍《おもひつつ》 奉仕之《つかへまつりし》 情違奴《こころたがひぬ》     176
 
〔釋〕 ○あめつちとともに 天地の長久なのと共にの意。○をへむと 宮仕をなし果てようとの意。○こころ 思ハク。
【歌意】 天地のあらむ限り、いつまでもいつまでも御宮仕をしようと思ひながら、今までお仕へ申してゐた心持が、すつかり裏切られて、まるで思はくが外れてしまつたわい。 
〔評〕 天は長く地は久しく、終るべき時とては無い。それを「天地と共に終へむ」といふは、つまり終極の無いことを逆叙したもので、かく具象的に誇張したことは、皇子の薨逝の匆々であつたことを強く反映させてゐる。そこに舍人等が奉公の思はくの狂つた、即ち頼みの綱の切れた失望の氣持が強調され、眞に同情に堪へない。「仕へまつりし情たがひぬ」の率直な力強い表現は、せつぱ詰つたこの内容にいかにも適應して、線の太い作である。又叙法から見ると、たゞ結句の「情たがひぬ」の一轉語のみがその主要句をなしてゐることが、頗る蘊含の味を多からしめてゐる。
 
(487)朝日弖流《あさひてる》 佐太乃岡邊爾《さたのをかべに》 群居乍《むれゐつつ》 吾等哭涙《われらがなみだ》 息時毛無《やむときもなし》     177
 
〔釋〕 ○あさひてる 佐由の岡にかゝる修飾語。○われらがなみだ 諸本ワガナクナミダ〔七字傍線〕と訓んであるが、「吾等」をワガ〔二字傍線〕と訓むは不當である。「群れゐつつ」の語に對しても、こゝは複數にしてワレラと訓むがふさはしい。「哭涙」をナミダ〔三字傍線〕と訓むは、意訓として聊かも差支ない。
【歌意】 この佐田の岡邊に宿直の同僚が大勢が群つてゐて、皇子樣の薨去を歎いてゐるが、我等の泣く涙はいつになつたら歇むことやら、實にとめどもないことだわい。
 
〔評〕 佐田の岡に「朝日照る」の形容を以てしたのは、皇子の御陵地ゆゑの讃語である。後世の土謠にも、
  朝日さす夕日かゞやくその下に、金千兩漆千杯。
などこの種のものが各地に多い。抑も太陽の照映は朝日夕日につけ、地上物件の高い物の讃歎的形容にふさはしい。それは山岳よりは岡陵、岡陵よりは建築であるほど、形容の意義が有效になる。本來は既に朝日をいつた以上は、夕日をも擧ぐべきで
  朝日の日照る宮、夕日のかげる宮、(古事記下、三重采女)
  朝日の來向ふ國、夕日の來向ふ國、(太神宮儀式帳、倭姫世記)
などの如く、扇對法を用ゐるのが正格であるのに、この歌に夕日の方を略いてあるのは、形の小さな短歌として已むを得ぬのである。古今集には、「夕月夜さすや岡邊の」(戀一)と、朝日の方を略いた例もある。但この歌(488)では同じ事なら夕日を省くべき理由が、別に存在してゐる。それは佐田の岡が東向に連亙した朝日受けの地勢だからである。 
 同僚舍人六百人からの交代宿直は、まさに「群れ居つつ」である。かく寄り擧つて無際限に泣く、そこに皇子哀慕の情態が遺憾なく出てゐる。二句以下一意到底の、技巧を一切離れた率直極まる叙法は、實に眞實そのものである。
 
御立爲之《みたたしし》 島乎見時《しまをみるとき》 庭多泉《にはたづみ》 流涙《ながるるなみだ》 止曾金鶴《とめぞかねつる》    178
 
〔釋〕 ○みたたしし 「み」は接頭の敬語。「たたし」は立ちの敬相。「し」は過去の助動詞。○しま 庭といふほどの意。池の中島に限るは狹い。上の「しまの宮」を參照。○にはたづみ にはたづみの如く〔三字右○〕の略。涙の流るゝにのみ用ゐる枕詞。「にはたづみ」とは地上の雨水の稱で、俄泉《ニハカイヅミ》の義。和名抄に「潦(ハ)雨水也、爾八太豆美《ニハタヅミ》」とある。古義は庭※[さんずい+樣の旁]水《ニハタゞヨフミヅ》の約轉と説いたが煩はしい。○かねつる 「金鶴」は戲書。
【歌意】 嘗て皇子樣が御遊覽の爲お立ちなされた島を見ると、御生前のことがいろ/\と思ひ出されて、流れる涙は、ほんにまあ止めかねることではあるわ。
 
〔評〕 一木一草、盡く皇子の御心の留まつた御記念である庭園に對すると、胸が一遍にこみ上げ、涙が無意識にこぼれる。詩境は平凡であるが、その體驗は頗る眞實なものである。「にはたづみ流るる」は、
(489)  ……にはたづみ流るゝ涙とゞめかねつも   (卷十九―4160)
  ……にはたづみ流るゝ涙とゞめかねつも   (同、大伴家持―4214)
など集中に二首までもある。然しこれは句としては寧ろ一般的套語であるから、必しも家持等が踏襲したものともいはれまい。
 
橘之《たちばなの》 島宮爾者《しまのみやには》 不飽鴨《あかねかも》 佐田乃岡邊爾《さたのをかべに》 侍宿爲爾往《とのゐしにゆく》    179
 
〔釋〕 ○たちばな 今の高市郡高市村大字橘の地。もとは飛鳥川の南岸に亙つて、橘寺の地も島の宮の地も含んだ大字であつたらしい。上の「しまの宮」を參照。○あかねかも 飽かねばかもの意。「おもほしめせか」を參照(一二四頁)。「か」は疑辭。
【歌意】橘の島の宮には宿直しても、皇子樣が御不在なので物足らず思ふせゐかして、佐田の岡邊に宿直をしにまあ往くことだわい。人達がさ。
 
〔評〕 皇子御生前の御所であつた島の宮と、薨後の御陵たる佐田の岡とを相對的に拉して來て、島の宮の舍人等が分番交代で、佐田の岡に宿直に出かけるのを、「島の宮には飽かねかも」と、人々の心證に疑を投げけ懸けた。蓋し作者自身の心が既に飽かぬことに感じてゐるので、同情に想像を描いてみたものである。それは島の宮は何といつても主なき空御殿、佐田の岡は皇子の神さびいます御陵だからである。實は島の宮にせよ、佐田の岡(490)にせよ、宿直は何れも公務で、飽く飽かぬの問題ではないのを、感情一つでどうでも自分の自由に行動されるものゝやうにいひなした點が、愚痴に返つた幼さで、そこに限ない哀愁の氣味が漂ふのである。
 
御立爲之《みたたしし》 島乎母家跡《しまをもいへと》 住鳥毛《すむとりも》 荒備勿行《あらびなゆきそ》 年替左右《としかはるまで》   180
 
〔釋〕 ○しまをもいへと 島をさへ家としての意。水の上はもとよりその住處なるをいふ。○あらび 上出。○としかはるまで 一周忌の終るまでの意。新年になるまでの意ではない。「左右」をマデと訓むのは、片手に對する眞手〔二字傍点〕の義。「幾代までに」を參照(一三九頁)。
【歌意】 皇子樣が立つて御逍遙なされた島をさへ、おのが住處としてゐる水鳥らよ、お前達も我々と同じやうに、せめて來年四月の御一周忌までは、かうして退散せずにゐてくれい。
 
〔評〕 漸くさびれゆく島の宮の將來は、もう豫想に難くない。御遺愛の放ち鳥の運命も知れたものだ。いや放ち鳥どころか、春宮舍人たる自分達の運命も目に見えてゐる。轉任か退任か、いづれその一つであらねばならぬ。然し皇子の御一周忌までは、御在世の如く奉仕したいのが人情であり、又さうするのが規則でもあつたから、放ち鳥にのみ先に退散されては、職掌柄御庭に出入して強い親しみを持つてゐるだけ、餘計に取殘された憾みと寂しさとに堪へられない。でせめて自分達が退散の折までは、附き合つて居れと要請したのである。それはすべて皇子薨去後の寂寞から發した感懷で、窮りなき哀調を帶びてゐる。 
(491)御立爲之《みたたしし》 島之荒礒乎《しまのありそを》 今見者《いまみれば》 不生有草《おひざりしくさ》 生爾來鴨《おひにけるかも》    181
 
〔釋〕 ○ありそ アライソの約。造庭に荒磯は少しく誇大に過ぎるやうであるが、池畔のさまが荒磯らしく、石など疊んであつたのであらう。「礒」は磯の俗字、本集には皆かう書いてある。
【歌意】 皇子樣がお立ちなされた池の中島の荒磯を、久しぶりに今見ると、あの當時生えてゐなかつた草が、段々生えて來たことよ。
 
〔評〕 「今見れば」の口氣は暫く經つてから見た趣である。御葬儀もあら方濟んで、やつと少しは落着いたと思ふ頃の御庭内の所見であらう。一寸洒掃が怠られてゐた間に、池には水草がもう青々と生えてゐる。「生ひざりし」は皇子御在世、「生ひにける」は皇子薨後の光景で、草一つに今昔の感慨を取扱つた點は頗る手が利いてゐる。「生ひにける」に「生ひざりし」と冠せて、草の生えた感じを強く印象させたのも、感愴を深める手段である。唐の※[穴/賣]※[恐の上/革]の姑蘇臺の詩に、「日暮東風春草緑(ナリ)、※[庶+鳥]※[古+鳥]飛(ビ)上(ル)越王(ノ)臺」とあるのと同一の感慨である。 
鳥※[土+(一/皿)]立《とぐらたて》 飼之鴈〔左△〕乃兒《かひしたかのこ》 栖立去者《すだちなば》 檀崗爾《まゆみのをかに》 飛反來年《とびかへりこね》     182
 
〔釋〕 ○とぐらたて 塒《ネグラ》を造つての意。「とぐら」は鳥座《トリクラ》の略。「※[土+(一/皿)]」は塒〔右△〕の俗字で、類聚古集、神田本その他に「垣」に作るは誤。和名抄には「塒、和名|止久良《トグラ》」字鏡に「※[奚+隹]栖、※[木+戈]、止久良《トグラ》」とある。○たかのこ 鴈は雁と同字でカ(492)リであり、諸本皆さう訓んでゐるが、代匠記の一説に「鴈の字はもと鷹の古字たる※[應の上]〔右△〕の雁に誤れるを更に鴈に書けるか。さらば※[應の上]乃兒《タカノコ》なるべし」とある。まことに鷹ならばこの歌の趣にもふさはしいので、今これに從ふ。若し鴈を正しいとすれば、かる鴨(鳧)又は鶩《アヒル》と見るべきである。○すだちなば 雛が始めて巣離れするを巣立つ〔三字傍点〕といふ。○とびかへり 巣立して空に飛んだのが、再び地上に返り降りるをいふ。古義が、反るは幾度もの意であるとしたのは牽強。○こね 來よの意。「ね」は命令に附する助辭。
【歌意】 島の宮で塒を造つて我々が世話し育てゝゐたあの鷹の兒も、巣立をして飛んだらば、この眞弓の岡に飛び返つて來いよ。皇子樣は實際こちらにいらつしやるわ。
 
〔評〕 鷹狩はもと支那から學んだモダンな贅澤な遊技で、當時一般には禁ぜられ、貴紳の間にのみ盛に行はれた。日並皇子は大層狩獵がお好きであつたらしく、人麻呂の作にも、
  日並の皇子の尊の馬なめて御狩立たしゝ時は來向ふ (卷一―49)
の追懷がある程で、御狩の料に、島の宮には鷹の兒を飼ひ立てゝ置かれたと見える。舍人等は端なくも皇子のお薨れにあひ、交代宿直で眞弓の御陵に詰め切つてゐると、今は御遺愛となつたお鷹の兒がふと氣に懸る。蓋し鷹の事は舍人等の擔任で、鳥座の世話からはじめて、面倒を見てゐたからである。想像は遂に鷹の兒の巣立(493)にまで及んで、そしたらわが皇子樣の神隱りいますこの眞弓の岡の方に飛び返つて來いよと、丁寧に皇子の舊情を忘れぬことを鷹の兒に要望してゐる。これはつまり皇子の舊情を忘れかねてゐる人の作で、御陵仕への徒然から生まれた感想である。
 
吾御門《わがみかど》 千代常登婆爾《ちよとことはに》 將榮等《さかえむと》 念而有之《おもひてありし》 吾志悲毛《われしかなしも》    183
 
〔釋〕 ○わがみかど 吾が仕へまつりし御所の意で、即ち島の宮をさす。○とことはに 常磐に。永久に。
【歌意】 自分の奉仕してゐる御所は千秋萬歳、幾久しく榮えるだらう、とさう信じ切つてゐた自分はさ、その豫期が今はまるで相違して悲しいことだわい。
 
〔評〕 この歌の着想の基礎は、皇子の御所に將來は皇居としての隆昌を夢みてゐたことが、突如として裏切られた感傷にあるので、上の
  高ひかるわが日の皇子のよろづ代に國しらさまし島の宮はも
と同想の屬吐である。又叙述の形式は、上の
  あめ地とともにをへむと思ひつつ仕へまつりし心たがひぬ
と同作である。只「われし悲しも」と説破したことは、蘊含の味を著しく殺いで、前の二作に數籌を輸するものといはねばならぬ。「わが」といひ、「われ」といふ、力強い自己中心の感傷である。
 
(494)東乃《ひむがしの》 多藝能御門爾《たぎのみかどに》 雖伺侍《さもらへど》 昨日毛今日毛《きのふもけふも》 召言毛無《めすこともなし》     184
 
〔釋〕 ○ひむがしのたぎのみかど 御苑の東方なる瀧口の御門である。この「たぎ」は水のたぎつて流れる處の稱。「みかど」は文字通りの門で、こゝは御所や御殿の意ではない。○さもらへど 伺候してゐるけれど「さもらふ」は、さむらふ〔四字傍点〕、さぶらふ〔四字傍点〕の古言。○めすこと 皇子のお召しをいふ。「言」は借字。
【歌意】 御苑の東方の瀧口の御門に、自分は從前通りに伺候してゐるけれども、以前と違つて昨日も今日も、さつぱり皇子樣はお召しになることもないわ。
 
〔評〕 この「東の瀧の御門」は御内苑の東門で、勾の池の水の落口に當り、その門外に舍人等の詰所があつたのであらう。御生前の頃は「一日には千度參りし」程、その御門を出入して御用繁く召使はれただけに、今は餘計に寂莫無聊を感ずる。玉音なほ耳にのこり、玉容なほ眼前に彷彿してゐる。忘れては尚この世におはしますことゝ思ふ。即ち皇子の薨逝といふ問題には絶對に觸れず、なほ如在の觀を作して、昔日の如く「侍らへど」と抑へ、然るに今は「召すこともなし」と慨歎した合拍の叙法に、千萬無量の哀怨が躍動してくる。それも「きのふもけふも」と打續いてお召が無いに至つては、その甚しいお見限をいよ/\痛歎せざるを得ない。素朴率直のやうで、しかも含蓄の味が頗る深く、この一聯二十餘首の悼歌中、白眉と評すべきであらう。「も」の辭の三疊の諧調を成すことは勿論である。
(495) 但卷十三に、これと同時の作と思はれる長歌の一節に、
  ……遣はしゝ舍人の子等は、ゆく鳥の群がりて待ち、有り待てど召し賜はねば……(卷十三―3326)
とあるは全く同胤の双生兒であるが、彼れは更に進んで一層の感傷を絮説した爲に、却つて蘊合の餘味に乏しくなつた。
 
水傳《みづつたふ》 礒乃浦囘乃《いそのうらわの》 石乍自《いはつつじ》 木丘開道乎《もくさくみちを》 又將見鴨《またみなむかも》     185
 
〔釋〕 ○みづつたふ 磯の枕詞。「水傳ふ」は水の磯に沿うて流れる樣をいふ。この磯は上に「み立たしし島の荒磯」とある磯である。○いはつつじ 石南科の灌木。多く岩石などに根ざして深紅の花咲くもので、和名妙に「羊躑躅、和名|以波豆々之《イハツヽジ》、一名|毛知豆々之《モチツヽジ》」とある。毛知《モチ》躑躅のこと。羊躑躅の字面は、もと動物がこれを食ふと躑躅する蓮華躑躅からおこつた稱で、その花は黄色である。和名抄に丹《ニ》豆々之の目を別に擧げてあるので、古義に以波豆々之即ち毛知豆々之の花を白色としたのは拘泥の見である。○もくさく 茂く咲くの意。「もく」は草木の繁き貌にいふ古語で、應神紀には薈〔傍点〕を、遊仙窟には蓊〔傍点〕をいづれもモクと訓んである。ク活用〔三字傍点〕の形容詞である。信友はムク〔二字傍線〕と訓んだが、ム、モは元來通音であるから、強ひて改めるに及ばない。「木丘」は音借字。○みなむかも 見ようことかなあの意。「か」は疑辭で、反語ではない。
【歌意】 この勾の池の水磯の浦まはりの、岩躑躅が茂く咲くこの道を、今までは常に見馴れてゐたが、これから二度と見られようかなあ。
 
(496)〔評〕 勾の池の岸邊の丹躑躅が盛に花を着けたのは、ちやうど皇子薨逝の四月末から五月にかけてのことであらう。水に照映する花紅の影はまさに美觀である。然しこの景色は來年またも見られるかは疑問である。否御一周忌のはてには、その大部分は退散に運命づけられてゐる舍人の身の上である。だがそれでも尚「また見なむかも」と、殆ど絶望の事實の奥底にかすかな一縷の望を繋いでゐるやうな口吻は、作者の未練らしい執着を語るもので、低徊去るに忍びぬやさしい情懷が搖曳し、作者の人となりを懷かしく思はせる。「もくさく道」の道〔傍点〕の一字は、この庭園を徘徊してゐる作者の立場から生まれた緊切な語で、いゝ背景を成してゐる。
 
一日者《ひとひには》 千遍參入之《ちたびまゐりし》 東乃《ひむがしの》 大寸御門乎《たぎのみかどを》 入不勝鴨《いりかてぬかも》     186
 
〔釋〕 ○たぎのみかど 眞淵は「大寸」の下乃〔右○〕の字なき故、オホキミカド〔六字傍線〕と訓むべしといつたが、それでは大御門即ち表御門のやうで、事實に協はない。正辭はいふ、地名人名の下にはの〔右○〕を略く例多しと。○いりかてぬかも 入りかねることよの意。「かてぬ」は敢へぬこと、堪へぬこと。「かて」は「ありかつ」を參照(三一七頁)。
【歌意】 嘗ては皇子樣のお召で、一日中には何遍も/\あがつた東の瀧の御門を、今は御召が無くて這入りかねることよ。
 
〔評〕 「一日」に「千度」を闘はせて、御用繁多に出入した過去を力強く表現したことは、「入りがてぬ」の反映をなすもので、かくて瀧の御門をろくに出入し得ぬ現境を嗟歎する意を強調したのである。そして「御門を入り(497)かてぬ」その原由に溯ると、皇子のお薨れでお召しが無いゆゑであることは勿論、又御陵たる佐田の岡邊の宿直などで、出入の機會の少いゆいゑでもあるから、間接には皇子の薨逝を悲傷してゐることになる。意詞婉曲で、惆悵たる怨意が頗る深い。「入りかてぬ」を、眞淵が皇子の薨後御門を閉ぢた爲に〔八字傍点〕と解いたのは誤解で、而もそれでは折角のこの歌の妙味が殺がれてしまふことになる。
 
所由無《つれもなき》 佐太乃岡邊爾《さだのをかべに》 反〔左△〕居者《きみませば》 島御橋爾《しまのみはしに》 誰加住舞無《たれかすまはむ》     187
 
〔釋〕 つれもなき 既出(四六九頁)。○きみませば 「反居者」を舊訓はカヘリヰバ〔五字傍線〕と訓み、「反」を正辭は變〔右△〕の誤寫としてウツリヰバ〔五字傍線〕と訓み、古義は君〔右△〕の誤としてキミマセバ〔五字傍線〕と訓んだ。今は古義説に從ふ。君とは日竝皇子をさす。○しまのみはし 中島の御橋をいふ。この中島は勾の池のである。新考の説に、「契沖以降みはしを御階の意と解するが多けれど、島の宮の御階を打任せてシマノミハシとはいふべからず」とあるのは、肯綮に中つてゐる。○たれか 「か」は反語。○すまはむ 止まらむの意。「舞」は借字。
【歌意】 これまで何の由縁もなかつた佐田の岡邊に皇子樣は入らつしやるので、あの面白い勾の池の中島の橋にも、誰れがまあとゞまらうかい。
 
〔評〕 分番交代で皇子の御陵に侍うた舍人の作であるが、上の
  よそに見し眞弓の岡も君ませばとこつ御門と殿居するかも
(498)と着想の出發點が同じで、これは佐田の岡の方から想像を島の宮の方へ馳せたのである。島の宮の代表的特徴は、その名の示す如く島の美、水石の勝にあるから、その「島の御橋」を以て、「つれもなき佐太の岡」に對揚し、いかに結構な場處でも皇子のましまさぬ以上は、全然無價値であるやうに取成してゐる。かく重きを皇子に歸して何の猶豫も疑ももたない作者の情懷は、洵に忠誠の尊い懷かしい心状の發露である。「つれもなき」は上の人麻呂の長歌にも、
  由縁もなき眞弓の岡に 宮柱太しきいまし云々  (四六六頁)
と見えて、套句として使用されてゐる。「君ませば」の措辭に就いては「よそに見し」の歌評を參看されたい。
    
旦覆《あさぐもり》 日之入去者《ひのいりぬれば》 御立之《みたたしし》 島爾下座而《しまにおりゐて》 歎鶴鴨《なげきつるかも》     188
 
〔釋〕 ○あさぐもり 朝曇して〔二字右○〕。「覆」をクモリと讀むは意訓。「旦」は音タンであるからタナグモリ〔五字傍線〕(棚曇)と訓むべしといふは正辭説。又眞淵の天靄《アマグモリ》、雅澄の茜指《アカネサス》などの誤字説はいづれも從へない。或人の日一日復〔四字右△〕の※[言+爲]でケフモマタ〔五字傍線〕かといふ説、又旦覆は旦《アサ》の裏返ることゆゑユフサリテ〔五字傍線〕と訓むといふ説などは煩しい。○いりぬれば 舊訓はイリユケバ〔五字傍線〕とあるが、古義の訓に從ふ。○おりゐて 庭から池の中島に打出づるをいふ。階段などから下りるのではない。庭は殿前の廣場で、下級官吏等の拜趨する所である。○つるかも 「鶴鴨」は戲書。
【歌意】 朝曇して俄に日の陰るやうに、時ならず急に皇子樣がお薨れになつたので、御生前常にお立ちなされた(499)池の中島に私達は下り立つて、お慕ひ申し歎き悲しむことではある。
 
〔評〕 太子たる皇子の薨逝は、恰も朝日の天に冲らぬうちに浮雲に蔽はれたに等しい。この歌の譬喩はまことによく當つて巧妙な表現である。しかもこの眞意を解し得ぬ曲解臆説は澤山あるが、それらはすべて一笑に附してよい。身命を捧げて頼み奉つた皇子のゆくりもない御夭折には、舍人等は茫然自失、只亡き御面影を偲び參らせつゝ歎くより外、何の術をも知らなかつたのである。但その場所を、皇子が水石の興を翫ばれた「み立たしし島」に求めたことは、その切ないせめてもの心遣りであることを表現し、かねて作者の身分を語つてゐることによつて、よくその實感を出してゐる。
 
旦日照《あさひてる》 島乃御門爾《しまのみかどに》 欝悒《おほほしく》 人音毛不爲者《ひとおともせねば》 眞浦悲毛《まうらがなしも》     189
 
〔釋〕 ○あさひてる 上出。○みかど こゝは門そのものでなく御殿の意である。○おほほしく 上出。こゝは陰欝の意。○ひとおと 人の聲|氣《ケ》けはひをいふ。○まうらがなしも 「ま」は接頭の美稱。「うらがなし」は心《ウラ》悲しの義。「浦」は借字。
【歌意】 朝日照る島の御殿に、今は陰氣臭く、人聲も氣はひもしないので、ほんに心悲しいことだなあ。
 
〔評〕 まづ島の宮の地相を讃め、つひ昨日まで花やかに賑はつてゐた島の宮が、忽ち打つて變つて悲哀の沈黙に(500)鎖された相反的事相を闘はせて、詠歎してゐる。その「人音もせぬ」のは、勿論皇子の薨去によつて、御門出入の物騷がしさもなく、又群下の鳴を鎭めて悼意を表する爲でもあるが、これらの主因には一切觸れず、只その結果のみを云爲して、半ば懷疑の心持であることは、痴呆の意を伴つて一層含蓄の味ひを多からしめる。 
眞木柱《まきばしら》 太心者《ふときこころは》 有之香杼《ありしかど》 此吾心《このわがこころ》 鎭目金津毛《しづめかねつも》     190
 
〔釋〕 ○まきばしら 眞木の柱の意で、「太き」にかゝる枕詞。柱の太いのは高く大きく堅牢なる建築を意味するので、「太き」は柱の讃語として常に用ゐられた。「眞木」は「まきたつ」を見よ(一七七頁)。○ふときこころ 逞ましい丈夫心をいふ。
【歌意】 自分は苟も一箇の男子として雄々しい心は持つてゐたけれども、皇子樣のお薨れによつて、この心を取鎭めかねたことよ。
 
〔評〕 この歌は「大夫と思へる我も――思ひやるたづきをしらに」(卷一、軍王)、「大夫や片戀せむと歎けども」(卷二、舍人親王)、「大夫と思へる我や水莖の水城の上に涙のごはむ」(卷六、大伴旅人)などの類想で、當時としては清新とはいひ難いものであるが、奈良人がいかに男さびしてゐたかを、如實に物語つてゐる。「鎭め」は柱の縁語である。然し既に「太き心」といひ、次いで「わが心」といつた不用意の重複は、意味の混線を來す恐れがないでもない。率直そのものではあるが、理路に渉つてゐる。
 
(501)毛許呂裳遠《けごろもを》 春〔左△〕冬片設而《ふゆかたまけて》 幸之《いでましし》 宇陀乃大野者《うだのおほぬは》 所念武鴨《おもほえむかも》     191
〔釋〕 ○けごろもを 「毛衣を」は「片設け」に續く。「春」にかゝる枕詞ではない。毛衣は毛付の皮衣で、これは狩獵服としたもの。冬の寒い頃がおもな獵期だからである。○ふゆかたまけて 冬を時として支度して。「かたまけて」は時に當つての設をなすをいふ。「片」は方〔傍点〕の借字と思はれる。「春冬片設而」は後人が一本により春〔右△〕の字を「冬」の字の傍に書いて異傳を示したのが本行に入つたもの。新考もこの説である。○うだのおほぬ 宇陀郡の安騎野のこと。今いふ宇陀郡の大野〔二字傍点〕と稱する地ではない。「安騎野《アキヌ》」を見よ(一七五頁)。
【歌意】 毛衣を冬の季節に支度をしておいて、皇子樣が獵にお出になつた宇陀の大野は、この後も皇子樣ゆゑに思ひ出されようかまあ。
 
〔評〕 皇子の狩獵好きであらせられたことは、卷一の「輕皇子宿安騎野云々」の條の長短歌、及び上出の「とぐらたて」の條でも一寸説明しておいた如くで、宇陀野の獵は不斷の事であつた。然るに料らずも皇子の薨逝となつては、冬にならうが春が來ようが、御獵の御用はもう無いのだ。されば舍人としては御供に奉仕した宇陀野が、今は唯一の思出ぐさでなければならぬ。「おもほえむかも」と豫想などしてゐる豫裕のある態度は、四月のお薨れ後、まだその年の冬の狩獵期の來ぬ期間の作なることを示すものではあるまいか。「毛衣を」など、皇子出獵の御身装から丁寧に同顧したのは、故皇子を慕ふ濃到親切な情味の發露である。毛衣は富貴相を現してゐる。當時|黒※[豸+占]《フルキ》の皮衣などは舶來品の殊に貴重な物として、貴人の贅澤を誇耀する材料であつた。狩獵も亦貴(502)紳にのみ許された遊樂であつた。毛衣を用意して狩獵に往く、まさに皇太子草壁の君にして始めてふさはしい行爲である。
 
朝日照《あさひてる》 佐太乃岡邊爾《さだのをかべに》 鳴鳥之《なくとりの》 夜鳴變布《よなきかへらふ》 此年己呂乎《このとしごろを》     192
 
〔釋〕 ○なくとりの 鳴く鳥の如くの意。○よなきかへらふ 夜はひどく泣きに泣くの意。「かへらふ」は反《カヘ》るの延言。「なきかへる」とは甚しく泣くをいふ。もと反る〔二字傍点〕は動作の反覆をいふ語であるが、轉つては結果から解して甚しいの意に用ゐられる。咽せかへる、冴えかへる、など同じ例である。眞淵はカハラフ〔四字傍線〕と訓んで代るの意とし、侍宿の舍人の夜半に泣きつゝ交代することと解したが、それにはやゝ詞の足らぬ憾がある。又宣長は結句の「を」を歎辭と見て、鳥の夜鳴きの聲が變るこの年頃よの意としたが、これも切實味を缺く。「伊往變良比《イユキカヘラヒ》」(卷七)「見變將何《ミテカヘリコム》」(卷九)などの用字例によつても、カヘラフと訓むべきことは知られる。「變」は借字。○このとしごろを この句は四句の上に廻はして解する。
【歌意】 佐田の岡附近に頻に鳴く鳥のやうに、自分はこの御墓仕への足掛け二年間を、晝間はとにかく、夜になると堪へかねて、ひた泣きに泣くことよ。
 
〔評〕 佐田の岡はいづれも木繁き場所だから、春三四月の候となつては、いよ/\盛に百鳥の朝鳴く聲が聞かれたであらう。その「鳴く」の語から、端なくも作者自身の皇子追慕の夜泣を聯想し來つたのである。即ち「鳴く(503)鳥の」までの上句を「夜」を隔てゝ「鳴きかへらふ」の序詞に用ゐた。夜に係らぬ所以は、普通の鳥は夜は鳴かぬからである。流石に人の見る目もあり、晝間こそ益良雄振つて怺へもしようが、夜の暗黒と靜寂とに對しては、とても情を僞りえない。夜々まことに故皇子の爲に泣いた。それが年頃であつては、とても堪へられるものでない。四月のお薨れだから御一週忌は二年に渉る。二年でも「年頃」といふは當時の通語ではあるが、誇張の意を伴はぬではない。かくて、皇子追慕の悲がいよ/\大きく強調されてくる。「朝日てる」の修飾は、この歌ではあまり重要な役目をつとめてゐないやうだが「鳴く鳥」には間接に響があり、上句は序詞の役目の外に、百鳥の朝囀りに自分の夜泣を對照させた形式を成してゐる。
 
八多籠良家《やたこらが》 夜晝登不云《よるひるといはず》 行路乎《ゆくみちを》 吾者皆悉《われはみながら》 宮道叙爲《みやぢにぞする》     193
 
〔釋〕 ○やたこらが 「やたこ」は奴《ヤツコ》の轉語。召使の賤人をいふ。代匠記には、ハタコラガ〔五字傍線〕と訓み、「放籠《ハタゴ》は和名鈔に、飼(フ)v馬(ヲ)器、籠也とあれば、その旅籠をもつ馬追ふ男の稱にもうつしていふか」とある。宣長は「良」を馬〔右△〕の誤としてハタゴウマ〔五字傍線〕と訓んだ。契沖説もいかゞであるし、宣長の誤字説も例の從へない。「家」は清音の字であるが、清濁通用は集中珍しくない。尤も類聚古集、古葉略類聚抄、金澤本などには「我」とある。○みながら 全部。皆《ミナ》ながらの略。眞淵はコトゴト〔四字傍線〕と訓んだが、この歌意からするとミナガラの方がふさはしい。○みやぢ 宮へ行き通ふ路の意。
【歌意】 賤しい召使らが夜晝なしに通ふ路を、自分はそれをそつくり、佐田の宮の侍宿の爲に通ふ路に用ゐるこ(504)とよ。
 
〔評〕 この歌は頗る強い階級觀念が基調をなしてゐる。奈良時代には今人の我々の想像以上に、良賤民の區別が非常にやかましかつた。令に良賤もし通婚する時は、良民も賤民に編入されてしまふ事となつてゐた。奴脾は即ちこの賤民階級である。この奴等が夜晝となく往く道は何處か。「宮路にぞする」とあるので考へると、やはり佐田の岡の御陵へ行く道でなければならぬ。奴は何でこの道を夜晝なしに行くのか、これは或目的の爲に行動するのである。この目的とは何か、こゝに至つて舍人たる作者とこの奴等との關係を説かねばならぬ。この奴等は舍人達の私の召使である。舍人は相當身分ある五六位以下の有位の子弟もあるから、家にはおの/\奴婢を使つてゐる。六百人からの皇子附の舍人は、交代で御陵に宿直する際に、主人の弓矢から宿直物雜具を持つて奴等が出入するとなると、實に多人數が晝夜となく混雜したであらう。さやうに彼等の踏みならした道を、勿體なくもそつくり、わが皇子樣に仕へまつる宮出の道として、自分は踏みならすことよとの感傷、そこに深い階級意識が動いて見えるが、又さうまでもして奉仕するといふところに、愈よ皇子追慕の深切な情味が看取されるのである。又かうした階級意識的の眼から見たら、いかに佐田の岡の御陵參道に、平生とは違つて奴等の姿が數多目立つて異樣に映じたことであつたらう。
 
右日本紀(ニ)曰(フ)、三年己丑夏四月癸未朔乙未(ニ)薨(ズ)。
 
 これは日本書紀の記載によつて、日並皇子薨逝の日時を註したのである。三年は持統天皇の三年、乙未は十(505)三日である。
 
柿本(の)朝臣人麻呂(の)葬(りまつれる)2河島(の)皇子(を)越智野《をちぬに》1之〔九字左△〕時、獻(れる)2泊瀬部皇女《はせべのひめみこに》1歌一首并短歌
 
河島皇子を越智野に葬り奉つた時に、その妃泊瀬部(長谷部)皇女に、人麻呂が詠んで獻つた歌との意。もとの題詞は「柿本朝臣人麻呂(ノ)獻2泊瀬部皇女|忍坂部《オサカベノ》皇子〔五字左△〕(ニ)1歌」とある。忍坂部皇子は泊瀬部皇女の御兄である。然るに長歌の内容は專ら夫婦間の交情を歌つてゐて、決して御兄の皇子に兼ね獻る趣のものでない。故に左註の意を酌んで假にかく改めた。○河島皇子 天智天皇の第二子、弘文天皇の異母弟で、天智紀に「又有(リ)2宮女1、生(メリ)2一男二女(ヲ)1、其一(ヲ)曰(ヒ)2大江(ノ)皇女(ト)1、其二(ヲ)曰(ヒ)2川島(ノ)皇子(ト)1、其三(ヲ)曰(フ)2泉(ノ)皇女(ト)1」とある。天武天皇十四年に淨大參の位を授けられ、持統天皇五年九月に薨ぜられた。懷風藻によれば時に年三十五。○越智野 高市郡越智。今の越智岡村のうち。〇泊瀬部皇女 天武天皇の皇女で天平九年三品を授けられ、同十三年三月薨ぜられた。河島皇子の妃。
 
飛鳥《とぶとりの》 明日香乃河之《あすかのかはの》 上瀬爾《かみつせに》 生玉藻者《おふるたまもは》 下瀬爾《しもつせに》 流觸經《ながれふらばふ》 玉藻成《たまもなす》 彼依此依《かよりかくより》 靡相之《なびかひし》 嬬乃命乃《つまのみことの》 多田名附《たたなつく》 柔膚尚乎《にぎはだすらを》 (506)劔刀《つるぎたち》 於身副不寐者《みにそへねねば》 烏玉乃《ぬばたまの》 夜床母荒良無《よどこもあるらむ》【一云|阿禮奈牟《アレナム》】 所虚故《そこゆゑに》 名具鮫魚〔左△〕天《なぐさめかねて》 氣留〔左△〕藻《けだしくも》 相屋常念而《あふやとおもひて》【一云|公毛相哉登《キミモアフヤト》】 玉垂乃《たまだれの》 越乃大野之《をちのおほぬの》 旦露爾《あさつゆに》 玉藻者※[泥/土]打《たまもはひづち》 夕霧爾《ゆふぎりに》 衣者沾而《ころもはぬれて》 草枕《くさまくら》 旅宿鴨爲留《たびねかもする》 不相君故《あはぬきみゆゑ》     194
 
〔釋〕 ○とぶとりのあすか 既出(二六八頁)。○あすかのかは 飛鳥川は源を高市郡の南淵山に發し、細川の水を并せ北流して橘、飛鳥より磯城郡に入り、初瀬川と合して大川となる。長さ凡八里。○ながれふらばふ 靡いて觸れつゝある。「ふらばふ」は觸《フラ》ふの延言。宣長が古事記(雄略)の歌に「中つ枝《エ》に落ち布良姿閉《フラバヘ》」とあるによつてフラバヘ〔四字傍線〕と訓んだのは、よき氣付であるが、こゝはフラバフ〔右△〕と終止法に訓むがよい。古義の訓フラフ〔三字傍線〕は頑なである。○たまもなすかよりかくより 既出(三八八頁)。○なびかひし 狎《ナ》れ馴染み合つた。「靡かひ」は靡きの延言で、意は重く強まる。○つま 夫。「嬬」は借字。○たたなつく 既出(一五五頁)。○にぎはだ 柔かいはだへ。ニギ、ニゴ、ナギ、ナゴは皆古調の同語。舊訓のヤハハダは古調の語でない。○すらを 口語のサへモに當る。○つるぎたち 劔太刀の如く。身に副ふと續く序詞。「劔刀身に副へ〔四字傍点〕寐けむ若草のその嬬の子は」(下出)「劔太刀身に取副ふ〔五字傍点〕と夢に見つ」(卷四)「劔刀身に〔二字傍点〕佩きそふる〔三字傍点〕大夫や」(卷十一)「劔刀身に副ふ〔四字傍点〕妹が」(同上)など例が多い。舊説は身〔傍点〕に係る枕詞と解したが、今は古義説によつた。○よどこ 夜の寢處。○あ(507)るらむ 荒《スサ》まじからうの意。作者が皇女の閨中を想像しての詞。一本の「あれなむ」は荒れてしまはうの意。○そこ 「所」をソ「虚」をコと讀むは呉音。○なぐさめかねてけだしくも 久老の「魚」は兼〔右△〕、「留」は多〔右△〕の誤にてかく訓むべしといふに從つた。他訓はすべて意義を成さない。○けだしくも 「蓋し」の副詞はかく形容詞格の語尾を有つてゐたのであるが、平安朝以後は活用を有たなくなり、而も文語として存在し、歌には使用されなくなつた。「敷藻」は借字。○あふやと 逢はれるかどうかと。割註「きみもあふやと」は煩褥の感がする。「も」の辭が不快なうへ、下に又「君ゆゑ」とあるから。「相」は借字。○たまだれの 玉垂の緒といふを越智《ヲチ》の越《ヲ》にいひかけた枕詞。玉垂の緒に二説ある。(1)玉は垂れ懸けて飾とするに緒に貫く故である。(考)(2)「簾《スダレ》」(508)は緒で編(508)む故に、玉簾の緒といふを略したもの(舊説)。○たまも 玉裳。「藻」は借字。○ひづち ひどく濡れること。沾漬《ヒヂツキ》の略轉。「※[泥/土]打《ヒヂウチ》」は泥と同字。「打」は借字。○あはぬきみゆゑ 逢はれぬ君なるものをの意。
【歌意】 明日香川の上の瀬に生える玉藻は、下の瀬に靡いて觸れてゐる。その玉藻のやうに、あちらに依り、こちちに依り、靡き合つて睦まじくなされた夫の命(川島皇子)の柔かな膚さへを、お薨れの後は〔六字右○〕身に引添へて寐ないので、夜の御床も荒まじいことであらう。それ故に皇女はお心を慰めかねて、若しや逢ふ事もあらうかと思つて、皇子の御墓處なる越智の大野の朝露に玉裳をしめらせ、夕霧に衣を濡らして、そこに旅宿りをなさる事かよ。現在には逢はれぬ君(皇子)樣故にさ。
 
〔評〕 前段の第一節は川瀬の玉藻に終始した。飛鳥川は概して急流であるが、飛騨の細江あたりは緩流である。上の瀬の藻草が下の瀬かけてふら/\してゐるのは緩流の状態である。その藻草の靡きを夫妻の纏綿の状態に聯想して結び付けることは、この作者の慣用手段で、さのみ珍しくもないが、作者が玉藻の生成状態をそれ程までに丹念に觀察し思惟してゐたかと思ふと、可笑しくもなり、又肅然として覺えず襟を正されもする。
 第二節は一轉して夫妻綢膠の状態描寫に入つた。大分實感的な傾向ではあるが、古事記(上)所載の八千矛《ヤチホコノ》神に關係した沼河比賣《ヌナカハヒメ》の歌の句中に、
    栲綱《たくつぬ》の白きたゞむき 沫雪のわかやる胸を そだたき手《た》だきまながり 眞玉手玉手さし纏《ま》き 股長に寢《い》はなさむを……   (須勢理毘賣ノ作ニモ同句アリ)
 とある露骨さに比すれば、比較にならない程微温的である。尤も當事者でもない作者が、而も先樣はやむごと(509)ない御身分の方とすると、さう立入つた描寫は遠慮すべき筈のものであり、又それだけの必要はこの弔歌の性質上認められない。只皇子が男盛りの三十五歳を一期として、夫婦愛の最高潮期に薨去された事が、皇女の爲に控自ながらもかく言及せざるを得ないのであつた。「劍刀」は身に副ふの慣語ではあるが、女人の感傷を主とした布叙には、その物柄が、聊か哀婉味を殺ぐ感じがせぬでもない。蓋し男性たる作者自身の生活がそこに露出したものと思ふ。「身に添へ寢ねば――夜床もあるらむ」に至つて、始めてその死別問題に觸れ、後段を起す伏線を張つた。
 後段死生の既に相隔れることを忘れて「蓋しくも逢ふやと思ひて」と如在の觀をなすは、人情の自然の露れである。然し現代人の如く理性に富んで居ては、靈魂不滅論者ですら眞の信仰はもちかねる。で死者を何處までも死者として追悼する。古人は其處へゆくと情味が木地丸出しに流露してゐる。といふのは、現に上にも再三評論した通り、彼等は靈魂不滅に就いては、それを理窟からではなく、全く盲目的にさう信じてゐた。否それ處か死者の復活をさへ信じてゐた。故に事實は何時も裏切るけれど、何か心の底には、あはよくば死者に出合へるといふ漫然たる希望が、潜行的に流れて働いてゐるらしい。いや、らしい處かそれは事實であつた。下にも人麻呂は「大鳥の羽易の山に妹はいますと人のいへば」と歌つた。その外集中の作にその例證が澤山ある。
 かくて死別を生別に振替へ、越の大野に御墓仕の處の日夕の御參詣を、夫君に逢はんが爲の御訪問の如くに準擬し去つた。露を踏み霧を犯し、衣も裳も濡れ/\大野に旅宿する。辛苦は無上だ。しかも酬ゆる處は絶對にない。即ち「逢はぬ君」なのである。この結句は非常に力強い表現で、沈痛骨を刺すものである。隨つて反(510)撥的に同情は皇女の上に落下して來る。信に悲しい哀れな御身の上、お氣の毒にもとなつて來る。かくて讀者はすつかり作者の幻化手段に乘せられてしまふ。
 修辭上面白いのは、「上つ瀬に生ふる玉藻は、下つ瀬に流れふらばふ」が、一意到底の描寫でありながら、自然對を成してゐる事である。そして玉藻は全部皇子の上に關係づけられた叙述であり、「朝露に玉裳はひづち」「夕霧に衣は沾れて」は皇女の上に關係づけた排對で、前後相對映して、旨く兩々均衡がたもたれてゐる。
 取材といひ、修辭といひ、形式といひ、作者の習癖が著しく現れて、他の所作に共通點が非常に多い。同一人の製作だから據ないとはいへ、少し範疇に墮してゐるではないかとも考へられる。この作者としてはさう上乘のものではあるまい。限なく行き屆いていひおほせて居る點は流石である。
 
反歌一首
 
敷妙乃《しきたへの》 袖易之君《そでかへしきみ》 玉垂之《たまだれの》 越堅〔臣が田〕過去《をちぬすぎゆく》 亦毛將相八方《またもあはめやも》【一云|乎知野爾過奴《ヲチヌニスギヌ》】     195
 
〔釋〕 ○しきたへの 袖、袂、衣手、枕、床、家などに係る枕詞。既出(二五五頁)。○かへし 交《カハ》したの意「易」は借字。○をちぬすぎゆく 割註の「をちぬにすぎぬ」がよい。恐らく本行のもさう訓ませる積りであつたらう。「すぎぬ」は死ぬることであるが、こゝは葬送にまでかけていつた。「越野すぎゆく」では越野を通り過ぎることになつて、理が立たない。
〔歌意〕 貴女樣の袖さし交して寢られた大事な皇子樣は、越智野に斂《ヲサ》まつてしまひました。とても二度とお會ひ(511)になれませうかい。まことにお痛はしいことで御座います。
 
〔評〕 この着想とこの形式の叙述とは集中に澤山散見して、敢て珍しいものでもないが、全篇の氣分から見て高邁な處が見える。枕かはしゝ〔五字傍点〕を「袖かへし」、死ぬる〔三字傍点〕を「過ぎ」と露骨を嫌つた叙法は、當時にあつては常套語であるが、現代で聞くと頗る婉曲の感じが起る。長歌には「逢ふやと」思つて尋ね來たといひ、反歌には「またも逢はめやも」と、逢ふことは絶對に無いと痛歎してゐる。これ等の應接は互に相俟つて、はじめてその妙味を發揮するものである。初二の句と三四の句とは、おの/\枕詞を用ひた扇對で、結句が獨立してゐる。この體は平安朝以後の近體のものには類が少ない。それは一首の中に於ける枕詞の疊用を嫌つたものである。
 
右或本(ニ)曰(ク)、葬(ル)2河島皇子(ヲ)越智堅〔臣が田〕(ニ)1之時、獻(レル)2泊瀬部〔左△〕皇女(ニ)1歌也。日本紀(ニ)曰(ク)、朱鳥五年辛卯秋九月己巳朔丁丑 淨大參皇子川島薨(ス)。
 
 右の歌は河島皇子を越智堅〔臣が田〕に葬つた時に泊瀬部皇女に獻つた歌との意。これはもとの題詞に「獻泊瀬部皇女忍坂部皇子歌」とあるに對してその異傳を註したので、この異傳の方が正しい。舊本「泊瀬」の下に部〔右△〕が落ちてゐるが、古葉略類聚鈔、神田本等によつて補つた。朱鳥五年とあるは誤で、持統天皇五年とすべきである。丁丑は九日である。
 
明日香《あすかの》皇女(の)木※[瓦+缶]殯《きのへのあらきの》宮(の)之時、柿本朝臣人麻呂作歌一首并短歌
 
(512)〔釋〕 ○明日香皇女 天智天皇の御女。天智紀に「次(ニ)有(リ)2阿部|倉梯《クラハシ》麻呂(ノ)女1、曰(フ)2橘(ノ)娘《イラツメト》1、生(メリ)3飛鳥(ノ)皇女(ト)與(ヲ)2新田部(ノ)皇女1」と見え、文武紀に「四年夏四月癸未、淨廣肆明日香皇女薨(ズ)、遣(リテ)v使(ヲ)弔2賻之(ヲ)1」とある。忍壁皇子の妃。○木※[瓦+缶] 正しくは城上《キノヘ》。大和北葛城郡(舊廣瀬郡)大塚村|馬見《マミ》の大塚のことで、又木上、木於、於城戸などとも書いた。武烈紀に「三年十一月詔(リ)2大伴(ノ)室屋大連《ムロヤノホムラジニ》1發2信濃(ノ)國(ノ)男丁(ヲ)1作(ラシム)城(ノ)像《カタヲ》水派邑《ミナマタノムラニ》1仍(ツテ)曰(フ)2城(ノ)上(ト)1」とある。岡中、今も於《ウヘノ》社がある。なほ下の「高市皇子尊(ノ)城上殯宮之時」の條參照(五二五頁)。眞淵はいふ、「この歌は皇女の夫君|忍坂部《オサカベノ》皇子に獻れるものならむ、故に「人麻呂」の下、獻〔右△〕(ル)2忍坂部皇子〔五字右△〕1歌〔右△〕とありしが、上の歌の題詞に混入せしなるべし、又「短歌」の下二首〔二字右△〕の字脱ちたり」と
 
(513)飛鳥《とぶとりの》 明日香乃河之《あすかのかはの》 上瀬《かみつせに》 石橋渡《いははしわたし》【一云|石浪《イハナミ》】 下瀬《しもつせに》 打橋渡《うちはしわたす》 石橋《いははしに》【一云石浪】 生靡留【おひなびける】 玉藻毛叙《たまももぞ》 絶者生流《たゆればおふる》 打橋《うちはしに》 生乎爲爲禮流《おひををれる》 川藻毛叙《かはももぞ》 干者波由流《かるればはゆる》 何然毛《なにしかも》 吾王乃《わがおほきみの》 立者《たたせば》 玉藻之如許呂〔三字左△〕《たまものもころ》 臥者《こやせば》 川藻之如久《かはものごとく》 靡之相《なびかひし》 宜君之《よろしききみの》 朝宮乎《あさみやを》 忘賜哉《わすれたまふや》 夕宮乎《ゆふみやを》 背賜哉《そむきたまふや》 宇都曾臣跡《うつそみと》 念之時《おもひしときに》 春部者《はるべは》 花折挿頭《はなをりかざし》 秋立者《あきたてば》 黄葉挿頭《もみぢばかざし》 敷妙之《しきたへの》 袖携《そでたづさはり》 鏡成《かがみなす》 雖見不厭〔まだれなし〕《みれどもあかず》 三五月之《もちづきの》 益目頬染《いやめづらしみ》 所念之《おもほしし》 君與時時《きみとときどき》 幸而《いでまして》 遊賜之《あそびたまひし》 御食向《みけむかふ》 木※[瓦+缶]之宮乎《きのへのみやを》 常宮跡《とこみやと》 賜定《さだめたまひて》 味澤相《あぢさはふ》 目辭毛絶奴《めごともたえぬ》 然有鴨《しかれかも》【一云|所己乎之毛《ソコヲシモ》】 綾爾憐《あやにかなしみ》 宿兄鳥之《ぬえどりの》 嬬片戀〔三字左△〕《つまをかたごひ》【一云|爲乍《シツヽ》】 朝(514)鳥《あさどりの》【一云朝露】 往來爲君之《かよはすきみが》 夏草乃《なつぐさの》 念之萎而《おもひしなえて》 夕星之《ゆふづつの》 彼往此去《かゆきかくゆき》 大船《おほぶねの》 猶預不定見者《たゆたふみれば》 遣悶流《なぐさむる》 情毛不在《こころもあらず》 其故《そこゆゑに》 爲便知之也〔左△〕《せむすべしらに》 音耳母《おとのみも》 名耳毛不絶《なのみもたえず》 天地之《あめつちの》 彌遠長久《いやとほながく》 思將往《しぬびゆかむ》 御名爾懸世流《みなにかかせる》 明日香河《あすかがは》 及萬代《よろづよまでに》 早布屋師《はしきやし》 吾王乃《わがおほきみの》 形見何此焉〔左△〕《かたみにここを》     196
 
〔釋〕 ○いははし 石梁。水中に置き並べて蹈み渡る飛石のこと。和名抄に「石橋、※[石+工]、以之波之《イシハシ》」とあるが、奈良時代の古言でないから、舊訓イシハシ〔四字傍線〕は采らない。割註「石浪」の浪は並《ナミ》の借字。○うちはし 板などを渡りとした假橋。「うち」は打開などの打〔傍点〕である。移し橋〔三字傍点〕の約とする宣長説は煩しい。神代紀に「於天(ノ)安河原(ニ)亦造(ラシム)2打橋(ヲ)1、」源氏桐壺に「打橋渡殿こゝかしこの道に」とある。「わたす」は景樹、古義などの訓による。他訓のワタシ〔三字傍線〕と中止形にしたのは非。○もぞ 單にぞ〔傍点〕といふに同じい輕い使ひ方で、「も」は歎辭。反りて〔三字傍点〕の意を含む重い格ではない。○ををれる 「ををる」はラ行四段活の語で、フサ/\と撓むをいふ。「春部は花咲き乎遠里《ヲヲリ》」(卷六)、「春されば乎呼理爾乎呼理《ヲヲリニヲヲリ》」(同上)の類皆その意。「爲」は考の説に烏〔右△〕の誤とあるに從つた。○かはも 川に生ずる藻、上の玉藻と同一物。固有名詞ではない。○なにしかも 下の二つの「賜ふ」に係る。「然」は借(515)字。○わがおほきみ 皇女をも尚かく稱した。こゝは明日香皇女をさす。○たたせば 立て〔二字傍点〕ばの延語で敬相。○もころ 如くの意の古言。神代紀に「若《モコロニ》2※[火+票]火(ノ)1云々」と訓み、卷二十に「松の木《ケ》の並みたる見れば家人のわれを見送るとたゝりし母己呂《モコロ》」とある。平田篤胤いふ、「凡、若、如などの意の言、御國に三あり、一は那須《ナス》、二は碁登久《ゴトク》、三は母許呂《モコロ》なり、那須は似《ニ》すなるべく、碁登久は事を活かしたる言なるべく、母許呂は母〔傍点〕は添言にて比なるべし」と。金澤本に「母許呂」とあるに據つて、本文の「如」を母〔右△〕の誤とした山田氏の説による。從來の訓は、立タセバ玉藻ノゴトク〔十字傍線〕、コロフセバ川藻ノゴトク〔十一字傍線〕。○こやせば 「こやす」はこやる〔三字傍点〕とも活き、展《ノ》び臥すをいふ古言。集中に展《コイ》(卷十二)反側《コイマロビ》(卷三)など見える。○なびかひし 上出(五〇六頁)。上の「もころ」もこの句に係る。○よろしき 「よろし」は宜《ヨ》しと同意。可成《カナリ》といふ轉意は平安期の發生。○きみの 「君の朝宮」と續く意である。君は夫君忍壁皇子を斥す。下の二つの「君」も皇子を斥してゐる。他訓に皆キミガ〔三字傍線〕とあるは非。○あさみや――ゆふみや 朝夕おはします御殿といふことを、二つにいひ分けた。○たまふや――たまふや 上の「何にしかも」を承けて、この二つの「賜ふ」で結んだ。故に「や」はいづれも歎辭。○うつそみとおもひしときに 皇女が現在の人であつた時に。「念《オモ》ひ」は輕く使つた語で、古代の辭樣。「うつそみ」は現し身の轉語。「うつせみ」に同じい。「うつせみも」を參照(六九頁)。「臣」の訓はオミだから「み」の音に略用した。○しきたへの 袖に係る枕詞。既出(二五五頁)。○そでたづさはり 手を携へてといふに同じい。この句次の挿入句を隔てゝ「幸而《イデマシテ》」に係る。○かがみなす 鏡その物の如く。「見れども飽かず」の「見」に係る枕詞。「飽(516)かず」までには及ばぬことは、「鏡なすみ津《ツ》の濱邊に」(卷四、卷五)の例によつても知られる。○あかず 「おもほしし」に係る。「不」はズと訓むが一般的である。こゝは古言の否定辭のニ〔傍点〕に訓む必要はない。「厭〔まだれなし〕」は厭〔右△〕、※[日/厭]〔右△〕など書いた本もある。○もちづきの 望月の如く。「珍し」に係る枕詞に用ゐた。「三五月」は十五夜の月の義で、滿月をいふ「もち」はミチ(滿)の轉。○めづらしみ 愛《メ》でたく。「めづらし」は愛づら〔三字傍点〕の語が形容詞格になつたもので、こゝはその本義に就いて愛《メデ》たしと同意に用ゐた。「み」はサニ又はクテと譯すべき接尾語だが、ここのはそれでは解しにくい。古義のこれを古語の一格とする説に從ひ、「めづらしみ」を愛《メ》づらしと同意に解した。なほ本卷、及び四、十一、十六の卷々にその類例がある。新考にこの「み」をガリ〔二字傍線〕と解したが時に牴觸の湯合がある。「目頬」は戲書。「染」は借字。○きみと 君は忍壁皇子をさす。○ときどき 眞淵はヲリヲリ〔四字傍線〕と訓んだが、ヲリヲリは平安期に發生の語である。○みけむかふ 御食《ミケ》に供ふる酒《キ》といふことを木※[瓦+缶]《キノヘ》にいひかけた枕詞。久老いふ「食《ケ》は飯又はひろく食物をかけても稱す。向ふは供具の意にて、手向のムケに同じ。酒《キ》はサケの古名クシの約」と。古義には「葱《キ》にいひかけたるか、又は葱《キ》の※[齋の上/韮の下]《アヘ》とまでかけたるか」とあるが、食膳の供には葱よりは酒の方が遙に普遍性が多い。○きのへ 「木※[瓦+缶]」は借字。○とこみや 常住の御殿。この宮に萬代も御魂の鎭まりますをいふ。○あぢさはふ 目《メ》に係る枕詞。「あぢ」は味鳧《アヂガモ》のこと。水禽類中扁嘴類に屬し、鴨に似て小さく頭は黄赤を帶びた青緑色、翅は灰色、胸は黄赤色に小黒點を混へ、腹は灰白の中に赤黒き羽毛雜る。數百群を成して棲息し飛翔するので、味鳧多經群《アヂサハフムレ》といひ、その群《ムレ》の約メ〔傍点〕を目にいひかけた。「さはふ」は多《サハ》のハの延言と見て味鳧多群《アヂサハフメ》の義としても解される。古義の味粟生《ウマサハフ》の説は牽強である。「味」も「相」も借字。○めごとも 會ふことさへも。「めごと」は見《ミ》え事の意。ミエの約はメである。卷四にも「海山も隔たらなくに(517)奈何鴨目言乎《イカニカモメコトヲ》だにもこゝだ戀しき」とある。「辭」「言」は借字。古義は「目」と「辭」とを引離して、逢ふこと及び物言ふことの意とし、メコト〔三字傍線〕と清んで訓んだ。○しかれかも そのせゐかまあ。割註の「所己乎之毛《ソコヲシモ》」も惡くない。眞淵以來の諸家は多く割註に從つてゐるが、既に意味の通ずるものは、成るべく本行のに據りたいと思ふ。○あやにかなしみ 甚しく悲しみ。「憐」をカナシと訓むは契沖説による。「綾」は借字。○ぬえどりの ※[空+鳥]鳥の如く。片戀に係る枕詞。※[空+鳥]鳥の聲は歎き悲しむやうに聞えるので、それを片戀に歎くものと聞き做した。卷三に容鳥《カホドリ》にも片戀を詠んである。「宿兄」は借字。※[空+鳥]鳥のことは卷一「ぬえこどり」を參照(三九頁)。○つまをかたごひ 皇女は死にて皇子のみ戀ひ歎くをいふ。「かたごひ」は片思ひで、相思《アヒオモヒ》の反。諸本には「片戀嬬《カタゴヒツマ》」とあるので、その難解の爲、註者は皆割註を採つてゐる。然しこれは嬬片戀〔三字右△〕の顛倒であることは明らかなので正した。割註の「爲乍《シツヽ》」は簡明。○あさどりの 朝鳥の如く。往來《カヨフ》に係る枕詞。朝立つ鳥は遠く飛び通ふものなればいふ。割註の「朝露」は不通。神田本その他には朝霧〔二字傍点〕とある。○かよはすきみ 御墓に〔三字右○〕通はるゝ皇子が。「通はす」は通ふの敬相。○なつぐさのおもひしなえて 既出(三八九頁)。○ゆふづつの 夕星の如く。夕星は宵の明星、即ち金星のこと。この星或は東に(明《アケ》の明星《ミヤウジヤウ》)或は西に(宵《ヨヒ》の明星)見ゆる故に「かゆきかくゆき」に係る枕詞とした。和名抄に「太白星、一名長庚、暮(ニ)見(ハル)2西方(ニ)1爲(ス)2長庚(ト)1、此間《コヽニ》云(フ)由不豆々《ユフヅツ》」とある。「ゆふづつ」は夕續《ユフツヾク》の義で、その明さ夕に續く故の稱と。○かゆきかくゆき 彼方へ往き此方へ往き。○おほぶねの 大船の如く。「たゆたふ」に係る枕詞。大船は小舟と違つて大樣にゆた/\と躊躇《タユタ》ふもの故にいふ。上に「大船のはつる泊《トマリ》のたゆたひに」(三六八頁)、古今集に「大船のゆたのたゆたに物思ふ」(戀一)など同例。○たゆたふ 「たゆたひに」を參照(三六八頁)。これを「猶預不定」と書いたのは、上の句の「彼往此去」に對した作意に出づるもの。○(518)みれば これは作者が見るのである。○なぐさむる 「遣悶」をかく讀むは意訓。舊訓はオモヒヤル〔五字傍線〕。○こころもあらず 心持もない。○せむすべしらに 手の施しやうもなさに。「也」を土〔右△〕の誤字として解する。眞淵はスベシラマシヤ〔七字傍線〕と訓み、宣長は「この句誤字あるべし、セムスベヲナミ〔七字傍線〕、セムスベシラニ〔七字傍線〕など訓むべき處」といつた。○おとのみもなのみも せめて皇女のお名だけでも。音も名も同じことを詞を換へて叙べた。○あめつちの 天地の如く。○いやとほながく 極めて永久に。○しぬびゆかむ 「思」をシヌブと訓むこと、集中にその例頗る多い。○みなにかかせる 皇女の明日香といふ御名に繋け給へる。「かかせる」は繋く〔二字傍点〕の敬相たる繋かす〔三字傍点〕の延言。卷十六にも櫻兒の名によつて「妹が名に繋有《カヽセル》櫻花さかば」とある。平安以後には名に負ふ〔四字傍点〕といひ、古語には名に繋く〔四字傍点〕といふ。○はしきやし 愛《ハ》しき。「やし」は歎辭。この語記紀に見えて、はしけやし、はしきよしなど轉じいふ。「早」の訓ハはハヤの下略。○かたみに 「何」をニと訓む。何、荷は通用。毛詩に百禄是|何《ニナフ》とある。○ここを 此處《ココ》をせむ〔二字右○〕の略。宣長、景樹が「を」を歎辭と見たのは意がたじろぐ。「焉」にヲの音はあるが、或は烏〔右△〕の誤か。
【歌意】 飛鳥川の上の瀬には石橋を置き渡し、下の瀬には假橋を架け渡してある。その石橋に生ひ靡いてゐる玉藻はさ、絶えれば生える、又假橋に生ひ茂つてゐる川藻はさ、枯れゝば生えるよ。何の故にわが明日香皇女樣は、晝は玉藻の如く、夜は川藻の如く靡き合ひ、御夫婦中睦じかつた立派な皇子(忍坂皇子)樣の朝夕御住ひの御殿を、玉藻川藻の復と生ふるにも似ず〔十四字右○〕、全くお忘れなされたのかえ、お背きなされたのかえ。皇女の御在世の折は、春になると花を折り挿頭《カザ》し、秋が來ると黄葉を挿頭して、袖を連ねて、見ても見厭かず愈よ珍しくお思ひなされた皇子樣と、折々お出掛けになつてお遊になつた木※[瓦+缶]の宮を、永久の御殿とお定めになつて、夫君とお逢(519)ひになる事も絶えてしまつた。それ故か、ひどく悲しがり、亡き妻皇女を片戀しつゝ、皇女の御墓にお通ひになる夫君皇子樣には、思ひしをれて、あちらへ往きこちらへ往き、うろ/\してゐるのを拜見すると、私も心の慰めやうもなく、どう仕樣もないので、せめて皇女の御名なりとも絶やさず、天地と共に永く久しく慕ひ奉つて往かうと思ふ〔三字右○〕、幸ひ〔二字右○〕その御名に掛けてお持ちなされる明日香川、此處をば萬代の後までもあの愛でたい皇女樣の御記念に致しませう。
 
〔評〕 初頭排對的の參差交錯の句法は長歌における慣手法、上代既にその類例のあることは、上の人麻呂の「從石見國別妻上京時」の長歌の第二篇の評語中において叙べた。
 狹く淺かるべき上つ瀬には石橋、やゝ廣く深かるべき下つ瀬には打橋、かう考へると、橋そのものがおのおのその處を得た配置といふべく、たゞ漫然たる排對の如く見えながら、その實周到なる用意のある事が窺はれる。
 「石橋」「打橋」は玉藻川藻を拈出する素地を作し、その玉藻川藻は「靡かひし」の直接譬喩を成してゐる。但「絶ゆれば生ゆる、干るれば生ふる」は、緊切なる當前の交渉をもたない。無用の弄語の如く見える。然しこの生々復活の意義は、何等かの暗示を與へる役目を持つものではあるまいか。果然下に「朝宮を忘れ給ふ――夕宮を背き給ふ」とある、皇女の逝いて復返らぬ現實に對しての反映を成すもので、そこにいひ知らぬ感傷を寓することになる。「立たせば」は晝の動作、「こやせば」は夜の行爲、よつて晝夜を象徴してゐる。
 「朝宮云々」「夕宮云々」の句はその御薨逝といふ意外な衝動に驅られた慨歎の餘りの反覆で、遂に「何にしか(520)も――忘れ給ふ」の難詰約言辭が激發するに至つた。死生命あり、もとより無理と知りつゝも、尚かく怨嗟の聲を立てずには居られぬ處に、痛惜の情の最も極まつたものがある。その薨逝を直接に説破せずして「宮を忘れ給ふ――背き給ふ」といふ、かゝる暗示に類した間接的叙法は、常に婉曲味を活動せしむるのみならず、傍ら後段の爲にその叙述の餘地を遺したもので、初頭よりこゝまでは、先づ總序といつた形式である。
 さて方向を轉換していよ/\本題に入り、目的たる皇女の薨逝に對する悼意を叙さうとする。然しまだ早い。それは順序として、皇女が木※[瓦+缶]の宮に斂葬せられた事實に、一往言及せねばならぬ。第三段は即ちこの必要から成立つた叙事である。だが作者はそれを極めて簡單に、「御食向ふ」から「目辭も絶えぬ」の數句を以て片付けてゐながら、「木※[瓦+缶]」そのものゝ修飾には、極力多量の筆を吝まなかつた。
 まづ夫婦間のむつびに想到し、春秋の花紅葉にも何時も御一緒で、最愛の夫君とこゝに出遊せられた行實を叙して、木※[瓦+缶]の岡に重要性をもたせた。一は以て末段の夫君皇子の悼亡の情緒を激揚せしむる手段である。
 木※[瓦+缶]の岡は東面に高田川を帶び、高さ十五米突ほどの根張つた岡が集簇して一團の丘陵を成してゐる。麓は低濕の地で、今も潴水があちこちにある。村の古名|水派《ミナマタ》から想像すれば、昔は高田川の水が岡に近く、蜘蛛手に流れ分れてゐたらしい。紀に據れば、武烈天皇の時に信濃人を徴發して城像《キノカタ》を作つたとあるが、それはもとからある丘陵を整理して、城地に築き上けられたのであらう。爾來星霜約二百年、岡は古り水は碧に、樹林欝蒼として、春花秋葉の觀賞に値するものがあつたのであらう。「花折り挿頭し――黄葉挿頭し――君と時々|幸《イデマ》して遊び給ひし」とあるは即ちそれで、藤原京からは約三里、日歸りの行樂には好適地であつたと思はれる。然るに木※[瓦+缶]の岡勢といひ地相といひ、古代の陵制に相應してゐる處から、こゝに皇女の殯宮を建てられることに(521)なつた。夫君としては、曾遊歡樂の郷は忽ち當面傷心の地と變じた譯である。
 「嬬を片戀ひ」「往來《カヨ》はす」「思ひ萎えて」「かゆきかくゆき」「たゆたふ」と、殆ど狂するが如き夫君悲悼の態度を形状して、餘蘊がない。句々一々枕詞を据ゑてあるのは、單なる文飾とのみ考へてはならぬ。これは毎句層一層力強い印象を與へつゝ叙事を進行させてゆく手段で、この場合最も適當なる表現法である。かくて上に理由なくして夫君を見棄てたやうにいひなした皇女の無情と、その無情なる皇女をも尚熱烈に戀ひ慕ふ夫君の有情とが暗々裏に映對して、一段悲痛の情意を激成する。「見れば慰むる情もあらず」は、作者自身の動作とそれに伴ふ同情的感想で、漸く前段の叙事から立返つて、次段への轉捩を成す枢機である。
 作者は既に貰ひ泣きに泣いた。然し、散る花を追ふは愚と悟つて、別に慰籍の方法に焦慮した。即ち皇女の御名に因んだ明日香川の存在を想起して、此處をこそ終世末代皇女の記念と見たいと提唱した。これは一面、間接に悲哀の底に坤吟してゐる夫君への慰籍の詞になつてゐる。否實はそれが作者本來の眞目的なので、蘊含の妙味洵に測るべからざるものがある。かくて明日香川が初頭の句に顧應して、餘韻が全面に流動する。
 明日香川を斥して「御名にかかせる」といひ「形見にここを」といふ。人名と地名との交渉は、上代にあつては頗る緊密なる關係をもつてゐた。人名に地名を用ゐた例は枚擧に遑がない。もとより邦俗名を重んじた習慣から、高貴の子の無いお方は、御名代の土地を置かれた程だから、こゝに「天地のいや遠長くしぬびゆかむ御名にかかせる明日香川」といふものは、作者の當座の思付ではなく、深く歴史に根柢した有意味の措辭である。かくてこそ「形見にここを」も最も至當に力強く理由づけられる。
 夫君忍壁皇子は、壬申の戰時において五六歳と假定すると、妃明日香皇女薨逝の時は、ほゞ三十四五歳とな(522)る。今が盛りの御齡に、若い最愛の妃子に死別せられたその御悲は、非常であつたに違ない。作者はこの悲劇の當事者ではない。局外の他人である。しかも尚よくかゝる悽婉なる哀詞を裁し得たことは、深い同情心の衝動から生まれたのであることは勿論ながら、作者は或はこの皇子皇女の御夫妻に對して、特殊の關係をもつてゐたのではあるまいかとも疑はれる。試にいはゞ、作者は高市皇太子薨後は、一時忍壁皇子の舍人として奉仕して居たのかも知れない。
 通篇※[糸+周]繆宛轉の情緒を叙するに、綿々密々肺腑の語を屬吐し、依々脈々よく情意の動向を悉し、人をして感傷無聊に禁へざらしめる。而も死の一字を着けずして、渾べてを讀者の胸臆中に打委せてゐる。その結構布置は極めて井然として、而も波瀾重疊變化の妙に富み、字々句々凄婉、千古薄命の因を怨まずには居られぬ。
 この篇初頭より「干るれば生ゆる」までが第一段、「夕宮を背き給ふや」までが第二段、「日辭も絶えぬ」までが第三段、「情もあらず」までが第四段、「形見にここを」までが第五段、かく區分して見ると、この體制が一目瞭然となる。「三五月」の隱語「彼往此去」「猶預不定」の對語、その他「往來」「遣悶」「及萬代」等の漢熟語を盛に使用してあることは、記録者が意識しての所爲と考へられる。
 
短歌二首
 
 「短歌」は反〔右△〕歌と題した方がふさはしいやうである。
 
明日香川《あすかがは》 四賀良美渡之《しがらみわたし》 塞益者《せかませば》 進留水母《ながるるみづも》 能杼爾賀有萬思《のどにかあらまし》【一云|水乃與杼爾加有益《ミヅノヨドニカアラマシ》】     197
 
(523)〔釋〕 ○しがらみわたし 柵をかけ渡しての意。柵は河中に材を打ち、竹木を絡んで水を堰くもの。繁絡《シカラミ》の義。○せかませば もし堰かうならばの意。「ませ」は假設の助動詞「まし」の未然形である。「益」は借字。○ながるるみづも 「も」は口語のサヘモの意。「進」は意借字。○のどに のどかにと同じい。割註の「水の」はその意不通。
【歌意】 あの急流の飛鳥川でも柵をかけて堰きとめようなら、流れる水でも、ゆつたりとならうものを、この川の名を負ひ給へる皇女の御命をとゞめることの出來なかつたのは、いかにも殘念の至です。
 
〔評〕 既に長歌に皇女の御名に※[夕/寅]縁して飛鳥川を拈出した關係上、更にこれに託して皇女哀悼の誠意を反覆したのである。飛鳥川は幅は廣くないが、大和では佐保、初瀬と竝んで三大川に數へられ、その山地間にあつては約一里間に八十米突の落差をもつ急流である。だから大和人殊に飛鳥人は常にこの激湍が目についてゐた。それ故よしや至難な事でも、すれば出來るといふ引例に、あの飛鳥川でも堰けば堰かれると叫んだことは、成程と當時の人達を頷かせ得る力を持つてゐたに相違ない。そして(524)餘意に皇女の御死別ばかりは人力ではどうともならなかつたことを反映させて、悼意を婉曲に叙べたのは、實に大手腕である。古今集の壬生忠岑が、
  瀬をせけば淵となりても淀みけり別れをとむる柵ぞなき(哀傷)
の歌は主意が全くこれと同一である。只人麻呂の作の言外に含蓄させた餘意を、これは下句に明白に叙べてしまつた。哀傷の歌は必しも幽婉の體ばかりを尚ぶものでもない。時に率直な言辭が却つて強い衝動を聽者の胸に與へるから、忠岑の作も決してわるいものではない。而して忠岑のは肉親の姉の死に際しての作で、その切迫高潮した情緒は、自然かうした突き詰めた調を成すものである。然し何といつても人麻呂のは線が太い。大きい、高い、深い。調の悠揚として迫らぬのは、時代氣分に原因することは勿論であるが、又皇女と作者とが親身な直接關係に居らぬことも考慮に入れなければならぬ。同じ哀傷とはいへ、そこに多少の餘裕のあるのは當然である。
 
明日香川《あすかがは》 明日谷《あすだに》【一云|佐倍《サヘ》】將見等《みむと》 念八方《おもへやも》【一云|香毛《カモ》】 吾王《わがおほきみの》 御名忘世奴《みなわすれせぬ》【一云|御名不所忘《ミナワスラエヌ》】     198
 
〔釋〕 ○あすかがは 明日《アス》に係る序詞。アスの音を疊用した。○あすだに せめて明日でもの意。割註の「さへ」は、昨日まで見てゐたが尚明日もの意。こゝは「だに」の方がよい。○おもへやも 思へばかまあ。「や」は疑辭。「も」は歎辭。割註の「かも」も意は全く同じい。○わすれせぬ 忘れ〔二字傍点〕ぬに同じい。忘れ〔二字傍点〕を體言化して、そ(525)れをサ變に活かした語法で、「いましせば」と同例。その項參照(四八三頁)。「ぬ」は否定の助動詞。割註「みなわすらえぬ」は御名が忘れられぬの意。結局同一意に歸するけれども、本文の方が語調が強い。
【歌意】 せめては明日なりとも又お目にかゝらうと思ふせゐかして、皇女樣の明日香といふお名前が、どうしても忘れることが出來ませぬわ。
 
〔評〕 皇女の薨逝はもはや決定事實と現じ、面謁の期は全く絶えてしまつた今、泣く/\そこにあきらめをつけて、更に一縷の望を將來に繋けた。この趣が「明日だに見む」の句に躍如として窺はれる。「明日」は將來の意を強調して、最も近い時間で表現したのである。もと/\死別に再會の期は事實上あり得ない。作者もそれを意識しながら、なほ皇女の御上の忘れかねる現在の情意に惹かれ、「明日だに見む」といふ頼もしげな想像の空中樓閣を描いて、みづから慰めたものである。さうして御名を忘れぬは皇女を忘れぬことを間接に映出せしめたものである。又「御名忘れせぬ」とあつても、明日香〔三字傍点〕の御名は序詞に所縁があるだけで、「明日だに」の明日〔二字傍点〕に響をもつものと見るのはわるい。
 以上の長篇短篇三首を通じ、明日香の地名に因縁して想を構へてゐる。皇女に直接親交をもたぬ作者の立場としては、蓋し止むを得ないことであらう。
 
高市皇子尊《たけちのみこのみことの》城上殯宮之《きのへのあらきのみやの》時、柿本(の)朝臣人麻呂作歌一首并短歌
 
(526)高市皇子尊の靈柩を城上に御送葬の時、人麻呂の詠んだ歌との意。○高市皇子 傳は既出(三五六頁)。○城上殯宮 皇子の御墓は延喜式に、三立《ミタチノ》岡、高市皇子、在(リ)2廣瀬郡(ニ)1、兆城東西六町、南北四町とある。「城上」は木※[瓦+缶]に同じい。木※[瓦+缶]は上に北葛城郡(もと廣瀬郡)大塚村|馬見《マミ》の大塚に充てた。三立岡はその大塚よりは西北二十町に當り、同じ馬見村の大|垣内《カイト》にある。城上は和名抄に城上(ノ)郷と見えて、古へは廣被した地名と思はれるから、三立岡の殯宮をも城上殯官と稱するのである。尚上の「明日香皇女木※[瓦+缶]殯宮之時」を參照(五一二頁)。○殯宮之時 高市皇子の逝去は、持統天皇の十年七月庚戌である。芳樹いはく、
  壬申の亂を鎭め給へるは、皆この高市皇子にて、皇太子の草壁も壬申の年は未だ十一歳にて、この皇子はやゝ長《オトナ》にておはしましゝなり。さらばこの皇子こそまづ皇太子たるベく思はるれど、草壁は皇后の御腹にて、高市は天皇(天武)の未だ皇子にておはしゝ程、胸形君徳善の女|尼子娘《アマコノイラツメ》に産ませ給へる劣り腹なれば、儲君には立て給はざりしなるべし。されどもこの後太政大臣の官淨廣壹の位になり給へるは、皆壬申の御功によれるなり。
と。さてこゝに「皇子(ノ)尊」と記し、持統紀には、「後(ノ)皇子(ノ)尊」と記してある。これは草壁皇太子(日並皇子)の薨後を承けて皇太子となられたので、後〔傍点〕の字、尊〔傍点〕の字が加へられたと見える。上の題詞に、「但馬皇女在高市皇子宮時」とあるのは、まだ皇太子とならぬ以前ゆゑ、尊の字を附けなかつたのであらう。
 
挂文《かけまくも》 忌之伎鴨《ゆゆしきかも》【一云|由遊志計禮杼母《ユユシケレドモ》】 言久母《いはまくも》 綾爾畏伎〔左△〕《あやにかしこし》 明日香乃《あすかの》 眞神之原爾《まかみのはらに》 (527)久堅能《ひさかたの》 天津御門乎《あまつみかどを》 懼母《かしこくも》 定賜而《さだめたまひて》 神佐扶跡《かむさぶと》 磐隱座《いはがくります》 八隅知之《やすみしし》 吾王乃《わがおほきみの》 所聞見爲《きこしめす》 背友國之《そとものくにの》 眞木立《まきたつ》 不破山越而《ふはやまこえて》 狛劔《こまつるぎ》 和射見我原乃《わざみがはらの》 行宮爾《かりみやに》 安母理座而《あもりいまして》 天下《あめのした》 治賜《をさめたまひ》【一云|拂賜而《ハラヒタマヒテ》】 食國乎《をすくにを》 定賜等《さだめたまふと》 鳥之鳴《とりがなく》 吾妻乃國之《あづまのくにの》 御軍士乎《みいくさを》 喚賜而《めしたまひて》 千磐破《ちはやぶる》 人乎和爲跡《ひとをやはせと》 不奉仕《まつろはぬ》 國乎治跡《くにををさめと》【一云|掃部等《ハラヘト》】 皇子隨《みこながら》 任賜者《まけたまへば》 大御身爾《おほみみに》 大刀取帶之《たちとりはかし》 大御手爾《おほみてに》 弓取持之《ゆみとりもたし》 御軍土乎《みいくさを》 安騰毛比賜《あともひたまひ》 齊流《ととのふる》 鼓之音者《つづみのおとは》 雷之《いかづちの》 聲登聞麻低《こゑときくまで》 吹響流《ふきなせる》 小角乃音母〔左△〕《くだのおとは》【一云|笛之音波《フエノオトハ》】 敵見有《あたみたる》 虎可※[口+立刀]吼登《とらかほゆると》 諸人之《もろひとの》 協流麻低爾《おびゆるまでに》【一云|聞迷麻低《キキマヨフマデ》】 指擧有《ささげたる》 幡之靡者《はたのなびきは》 (528)冬木成《ふゆごもり》 春去來者《はるさりくれば》 野毎《ぬごとに》 著而有火之《つきてあるひの》【一云|冬木成春野燒火乃《フユゴモリハルヌヤクヒノ》】 風之共《かぜのむた》 靡如久《なびくがごとく》 取持流《とりもたる》 弓波受乃驟《ゆはずのさわぎ》 三雪落《みゆきふる》 冬乃林爾《ふゆのはやしに》【一云|由布乃林《ユフノハヤシ》】 飄可毛《つむじかも》 伊卷渡等《いまきわたると》 念麻低《おもふまで》 聞之恐久《ききのかしこく》【一云|諸人見惑麻低爾《モロヒトノミマドフマデニ》】 引放《ひきはなつ》 箭繁計久《やのしげけく》 大雪乃《おほゆきの》 亂而來禮《みだれてきたれ》【一云|霰成曾知余里久禮婆《アラレナスソチヨリクレバ》】 不奉仕《まつろはず》 立向之毛《たちむかひしも》 露霜之《つゆじもの》 消者消倍久《けなばけぬべく》 去鳥乃《ゆくとりの》 相競端爾《あらそふはしに》【一云|朝霰之消者《アサシモノケナバ》消言爾|打蝉等安良蘇布波之爾《ウツセミトアラソフハシニ》】 渡會乃《わたらひの》 齋宮從《いはひのみやゆ》 神風爾《かむかぜに》 伊吹惑之《いふきまどはし》 天雲乎《あまぐもを》 日之目毛不令見《ひのめもみせず》 常闇爾《とこやみに》 覆賜而《おほひたまひて》 定之《さだめてし》 水穗之國乎《みづほのくにを》 神隨《かむながら》 太敷座而《ふとしきまして》 八隅知之《やすみしし》 吾大王之《わがおほきみの》 天下《あめのした》 申賜者《まをしたまへば》 萬代《よろづよに》 然之毛將有登《しかしもあらむと》【一云|如是毛安良無等《カクモアラムト》】 木綿花乃《ゆふばなの》 榮時爾《さかゆるときに》 吾大王《わがおほきみ》 (529)皇子之御門乎《みこのみかどを》【一云|刺竹皇子御門乎《サスタケノミコノミカドヲ》】 神宮爾《かむみやに》 装束奉而《よそひまつりて》 遣使《つかはしし》 御門之人毛《みかどのひとも》 白妙乃《しろたへの》 麻衣著《あさごろもきて》 埴安乃《はにやすの》 御門之原爾《みかどのはらに》 赤根刺《あかねさす》 日之盡《ひのことごと》 鹿自物《ししじもの》 伊波此伏管《いはひふしつつ》 烏玉能《ぬばたまの》 暮爾至者《ゆふべになれば》 大殿乎《おほとのを》 振放見乍《ふりさけみつつ》 鶉成《うづらなす》 伊波比廻《いはひもとほり》 雖侍侯《さもらへど》 佐母良比不得者〔左△〕《さもらひかねて》 春鳥之《はるとりの》 佐麻欲比奴禮者《さまよひぬれば》 嘆毛《なげきも》 未過爾《いまだすぎぬに》 憶毛《おもひも》 未盡者《いまだつきねば》 言左敝久《ことさへく》 百濟之原從《くだらのはらゆ》 神葬《かむはふり》 葬伊座而《はふりいませて》 朝毛吉《あさもよし》 木上宮乎《きのへのみやを》 常宮等《とこみやと》 高之〔二字左△〕奉而《さだめまつりて》 神隨《かむながら》 安定座奴《しづまりましぬ》 雖然《しかれども》 吾大王之《わがおほきみの》 萬代跡《よろづよと》 所念食而《おもほしめして》 作良志之《つくらしし》 香來山之宮《かぐやまのみや》 萬代爾《よろづよに》 過牟登念哉《すぎむともへや》 天之如《あめのごと》 振放見乍《ふりさけみつつ》 玉手次《たまたすき》 (530)懸而將偲《かけてしぬばむ》 恐有騰文《かしこかれども》     199
 
〔釋〕 ○かけまくも 自分を〔三字右○〕懸け合はせようことも。「かけ」は此方かち向うへと及ぼす意。又相互にあひ及ぼす意。されば懸けが本義で、時間においては豫《カネ》の意をもち、空間においては兼《カネ》の意をもつ。その他種々の轉意が派生してゐる。故に宣長の言にかけていはむも〔九字傍点〕といふ説、眞淵の心にかくるも〔六字傍点〕といふ説は共に採り難い。殊にこゝは次句「言はまくも」とあれば、宣長説では重複になる。古義に同意を反覆するは古歌の例とあるが、他の數多の用例から推しても、本文の如く釋することが最も妥當である。「かけのよろしく」を參照(四〇頁)。○ゆゆし 齋《イ》み/\しの約で、忌み憚らるゝ意。但更に分義して、(1)は本文の如く、恐さに忌み憚らるゝ意、(2)は「ゆゆしくも吾《ワ》は歎きつるかも」(卷十二)「獨ねて絶えにし紐をゆゆしみと」(卷四)の如く、嫌はしさに忌み憚らるゝ意となる。○いはまくも 自分が〔三字右○〕言はうことも。○あやに 奇《アヤ》しきまでに。「綾」は借字。○かしこし 原本「畏伎《カシコキ》」と連體言になつてゐるが、この語の係る詞が下にない。必ずかしこし〔右△〕といひ切るべき處である。「伎」を假に支〔右△〕の誤寫としておく。○まかみのはら 大和高市郡飛鳥。又|大口《オホクチ》の眞神の原とも續けていふ。雷の岡と飛鳥の岡との中間の平野の總稱。飛鳥(ノ)淨見原(ノ)宮もその一部に建てられ、今ある飛鳥大佛の寺も古への法興寺の遺址で、即ち眞神の原の一部にある。崇峻紀に「始(メ)作(ル)2法興寺(ヲ)此地(ニ)1、名(ク)2飛鳥(ノ)眞神(ノ)原(ト)1云々」。地圖挿圖105(三三四頁)參照。○あまつみかど 皇居を讃めて「天つ」の語を冠した。○さだめたまひて 「明日香の」以下こゝまでは、天武天皇がその皇居飛鳥(ノ)淨見原宮を雷の岡の東、眞神の原に奠められたことをいふ。次句「神さぶと磐隱ります」は、その崩御のことを述べたので、又別意である。然るを先註は全部を一聯のものと(531)見て、眞神の原に御陵を定めて磐隱りました天武天皇がと解したのは、甚しい誤解である。「天つ御門」を御陵の事として、天武陵は式に檜隈《ヒノクマ》大内(ノ)陵と見え、明かに檜隈郷に屬して明日香ではないのに、明日香の眞神紳の原を檜隈郷にまで廣被させて、「大内は眞神の原の小名と聞ゆ」など古義にもあるは、牽強も亦甚しい。必竟天武皇居の淨見原(ノ)宮所在地に關して上居《ジタウゴ》村説を信ずる餘り、眞神の原説を全然忘れた結果である。「明日香淨見原(ノ)宮」の條參照(九九頁)。○かむさぶと 「と」はとて〔二字傍点〕の意。卷一「神さびせすと」を參照(一五三頁)。○いはがくり 山間の岩窟などに埋葬する習慣から起つた語で、それを死者自身の意志から岩戸に立籠る趣にいひなした。鎭火《ヒシヅメノ》祭(ノ)祝詞に「伊佐奈美乃《イザナミノ》命――みほど燒かえて石隱《イハガク》りまして」、倭姫世記に「自ら尾上の山の峯に退《シリゾ》き石隱《イハガク》りましき」、卷三に「豐國の鏡の山の岩戸たて隱《コモ》りにけらし云々」などある。こゝは天武天皇が大内(ノ)御陵に斂められたのをいふ。天武天皇の崩御は高市皇子の薨逝よりは十年も前のことゆゑ、岩隱りまし〔五字傍点〕し〔右△〕と過去の叙法を用ゐるべきであるが、かく現在格にいひなす例は歌文に多い。○わがおほきみ 天武天皇を斥す。○そとものくに 北方の國。皇居の大和を本として、こゝでは東山道地方をさした。「友」は借字。卷一「そとも」を參照(二〇七頁)。○まきたつ 既出(一七七頁)。○ふはやま 美濃國不破郡の山。東海道線關が原驛より西に當る藤川を中心にして、その東西に連亙した山脈の總稱、即ち西は伊増《イマス》峠に起つて、東は松尾山に及ぶものとする。一般には藤川の西岸から伊増峠までの稱とされてゐるが。それでは此處の地理に出會はない。○こまつるぎ 和射見《ワザミ》にかゝる枕詞。狛は即ち高麗で、朝鮮の一地方の稱だけれど、又朝鮮の總名に用ゐもしたので、朝鮮の劍(532)にはその※[木+覇]《ツカ》頭に鐶《クワン》即ち輪《ワ》があつたので和射見にいひかけた。但※[木+覇]頭の鐶は朝鮮文化の源泉たる支那の劔にも、古樂府の「何(レノ)日(カ)大刀(ノ)頭」の註に、大刀(ノ)頭有v鐶、鐶借(リテ)爲(ス)v還(ト)と見えて、※[木+覇]頭に鐶のあつたことが知られる。その鐶の圏内に多く透しの板金を容れ、柄長く、大抵|無反《ムゾリ》の長物《ナガモノ》である。○わざみがはら 美濃國不破郡。今の關が原の古名。又|和射見野《ワザミヌ》ともいふ。その南邊の山は所謂和射見|嶺《ネ》である。松尾山これに當るか。關が原の稱はこの原の西端に不破の關を立てられたのに起る。○わざみがはらのかりみや 野上《ヌガミ》の行宮のこと。野上は關が原の東偏なる鷄籠山の麓に當る。野上の稱は和射見野の上といふ意。「かりみや」は假の皇居。「行宮」の行は羈旅の意。○あもりいまして 「あもり」は天降《アマオ》の約で、天上よりこの國土に降るをいふ。茲は天(533)子の御出動遊ばされたのを、高天の原より降りますに擬へたもの。○をさめたまひ 眞淵が割註の「拂ひ賜ひて」をよいとしたのは非。○をすくに 統治せらるゝ國。卷一「聞《キコ》し食《ヲ》す國はしも」を參照(一四五頁)。○さだめたまふと 「と」はとて〔二字傍点〕の意。○とりがなく 東《アヅマ》にかゝる枕詞。古義にいふ「鷄《トリ》が啼くぞ起きよ我夫《アヅマ》といふ意の續きにて、東といふも吾妻《アヅマ》といふより起れること記紀に見えて人の知る處、神樂歌に、庭鳥はかけろと鳴きぬ起きよ/\わが一夜妻人もこそ見れ、又この集にも、吾が門に千鳥しば鳴く起きよ/\(卷十六)といへるなど思ひ合はすべし」と。冠辭考の「鳥が鳴く明《アカ》に吾妻《アガツマ》のアガを係けたるにて、明は晨明《アカトキ》をいふ。さてアガツマの省かれたるアヅマへも係けたり」といふ説は、古義説より劣つてゐる。○あづまのくに (1)關東地方の稱。(2)上の範圍より擴く、信濃遠江陸奥にまで及ぶ地方の稱。日本武尊の吾嬬者耶《アヅマハヤ》と宣へる御詞に本づいて遂に坂東地方の總稱となつたとする説は、記紀に見えた地名傳説で、著名なことだから委しくはいはぬ。松岡氏はアヅマ族の居住する國と解した。○みいくさ 官軍。「み」は敬稱。「いくさ」は軍卒をいふ。征《イ》くさの義。征く〔二字傍点〕はゆく〔二字傍点〕と同語である。征旅にのぼるをいひ、轉じてはその人をいふやうにもなつた語と思ふ。眞淵が射合箭《イクサ》の義と解したのは、戰を俗にイクサ〔三字傍点〕といふに本づ(534)いた謬説で、戰はタゝカヒ〔四字傍点〕である。○めし 天皇が〔三字右○〕。○ちはやぶるひと 甚しく荒ぶる人。この「ちはやぶる」は枕詞ではない。仁徳紀に「ちはやびと」の語が見える。「千磐破」と書くは借字。「ちはやぶる」を參照(三三〇頁)。○やはせと 令(シメヨ)v和よと。「やはせ」は和《ヤハラ》ぐの他動詞なる和《ヤハ》すの第五變化で、命令格。○まつろはぬ 歸順せぬ。「まつろふ」は奉《マツ》るの延言で、奉仕すること。○をさめと 「をさめ」は命令格。割註の「掃へと」はよくない。「人をやはせと」「國を治めと」の二句は天皇の御命令。「と」はいづれもとての意。○みこながら 高市皇子は〔五字右○〕御子であるがまゝに。「みこ」は高市皇子をさす。「神ながら」を參照(一五三頁)。○まけ 罷らせの意で、派遣するをいひ、轉じては委任の意にも用ゐる。こゝは後の意。○おほみみに この句以下は專ら高市皇子の御上の事を叙した。○とりはかし 「とり」は接頭語。「はかし」は佩《ハ》きの敬相。この訓は正辭説による。舊訓はトリオバシ〔五字傍線〕であるが、太刀は佩くといふが通語である。○とりもたし 「もたし」は持ちの敬相。○あともひ 率ゐること。卷三に「召集聚率比賜比《メシツドヘアトモヒタマヒ》」と見え、聚率の字を訓んである。大將が士卒を引率するにいふ語。守部いふ、後伴《アトトモナ》ひの義と。○ととのふる 軍卒を整ふる。この語は多人數を調整するにいふ。卷三に「網子《アコ》ととのふる」とあり、字鏡に「※[口+律](ハ)調(ヘ)v人(ヲ)率(ヰル)2下人(ヲ)1也、止々乃布《トトノフ》」と見えた。宣長の呼び集むると解したのは聊か語弊がある。呼ぶの意はこの語にない。○つづみ 當時軍中に大鼓を用ゐた。和名抄の征戰具に角はあるが鼓はない。平安初期にはもはや用ゐなかつたものか。○ふきなせる 吹き鳴らせる。鳴らすを古く鳴《ナ》す〔傍点〕といふ。「響流」をナセルと訓むは意訓。「流」を衍字としてナス〔二字傍線〕と現在格に訓む説もあるが、それは詩歌の自由律を認めぬものである。○くだ 管の義。「小角」を訓ませてある。天武紀に大角小角をハラ、クダと訓み、和名抄に「大角【波良乃布江《ハラノフエ》】、小角【久太《クダ》布江】、本(ト)出(ヅ)2胡中(ニ)1、或(ヒト)云(フ)出(ヅト)2呉越(ニ)1以(テ)象(ル)2龍吟(ヲ)1也」と見え、いはゆる夷狄の樂(535)器で、獣角で造つたから角と稱するのである。もとは羊角などを吹いたのであらうが、後には便宜上金屬などで似せて造りもしたであらう。喇叭の類と見てよい。字鏡には※[竹/秋]字を擧げて「去(リテ)v節(ヲ)吹(ク)、波良布《ハラフ》又|九太《クダ》」と見え、大小の別を混一にして居り、且※[竹/秋]字を用ゐ、去v節吹とあるに據れば竹製の物で、これは蕭の笛の類らしい。兩端の竹管の先が突出して獣角のやうであるので角と稀したとの説もある。軍中の樂器としては無論前説の方がよい。○おとは 原本はオトモ〔三字傍線〕である。前後の句「鼓の音は」「幡の靡きは」の如く、皆「は」の辭を以てその主格を提擧した中に、これのみ「も」とあるは面白くない。必ずは〔右△〕と對蹠的に調ふべきである。割註の「笛|之音波《ノオトハ》」とある「は」の辭は、正に當を得たものである。然し「笛の音」よりは本文の「小角《クダ》の音」の方が語調が力強くて、この場合遙に優つてゐる。○あたみたる 敵《アタ》見《ミ》たる。「あたみ」をマ行四段の動詞として、敵《アタ》するの意と解するも一説であるが、敵對の意の力強く表現される方がよいから、敵を見たと解する。○とら 虎。朝鮮の屬島に※[身+耽の旁]羅《トラ》(今の濟州島)がある。※[身+耽の旁]羅人が始めてこれを將來したのでトラと稱したものらしい。尤も紀にも虎は欽明朝が初出であり、※[身+耽の旁]羅の初出は繼體朝であるが、日本への入貢は齊明朝だからいかゞとの疑もあらうが、私には以前から※[身+耽の旁]羅人が往來してゐたと見れば、何の差支もない。但、通證及び倭名抄の掖齋箋註には、左傳の「楚人謂(フ)2虎(ヲ)於菟(ト)1」、を引いて、江淮南楚の間〔日が月〕方言に於※[虎+免]《オト》といひ、今は江南山邊たゞ※[虎+免]《ト》と呼ぶ。故に於は發語にて、※[虎+免]《ト》が本體の語なるべく、日本にてはこれに良《ラ》の接尾語を添へたる也と解してある。「とらか」の「か」は疑辭。○ほゆる 「※[口+立刀]吼」を訓む。「※[口+立刀]」はわが造字で叫〔右△〕の通用。○おびゆる 「恊」の字は※[立心偏+脅]〔右△〕の通用で、オビヤカスと訓む他動詞であるが、こゝは自動詞に充てた。割註「聞きまよふまで」は卑弱な調であるばかりか、上の「聞くまで」に造句が類似して面白くない。「低」の字は次の本文にも「念麻低《オモフマデ》」とあつて、(536)濁音に假用されてゐる。○ささげ 指擧《サシアゲ》の約。○なびき 靡くの體言格。○ふゆごもり 春に係る枕詞。卷一に既出(七八頁)。○ぬごとにつきてあるひの 春は畠を作る爲に野を燒くことは、古へよりの慣習。支那の火田といふもこれ。割註「冬ごもり春野燒く火の」の二句は、本文の「冬木成」以下の四句を約めた貌である。○かぜのむた 風のまゝに。○なびくが 眞淵の訓ナビケル〔四字傍線〕は語調が弱い。○とりもたる 眞淵訓はトリモテル〔五字傍線〕。○ゆはずのさわぎ 弓弭の繁き動は。句の下、は〔右○〕の辭を含む。弓弭は和名抄に「弓(ノ)末(ヲ)曰(フ)v※[弓+肅](ト)、和名|由美波數《ユミハズ》」とある。尚「ながはず」を見よ(三一頁)。「さわぎ」は形象と音響とに亙つて用ゐられるが、こゝは形象の騷と見たい。○みゆきふる 冬に係る序詞。卷十三、十八、二十にもこの用例がある。「み」は美稱。「三」は借字。○ふゆのはやし 割註の「由布《ユフ》の林」は布由〔二字傍点〕の轉倒。○つむじ つむじ風。略してつじ風ともいふ。旋風のこと。「飄」は風の字を添へても書き、いづれもツムジ又ツムジカゼと、紀その他に訓んである。古義に「し」は風の古言なれば濁るべからずとあるは膠柱の論で、神名帳に都武自《ツムジ》の神名が見える。「かも」の「か」は疑辭、「も」は歎辭。○いまき 「い」は發語。○ききのかしこく 眞淵は上の「さわぎ」を形象の騷と見て、「聞」を見〔右△〕の誤とした。いはく「雷虎には聞恊《キヽオビ》え、幡弓には見|恐《カシコ》む趣なめれば、彼此を通じて改めたり」と。尤も割註に「諸人《モロビト》の見惑ふまでに」とあるに據れば、さう見てもよい理由がある。自分は寧ろ割註を採りたい。他の註家は上の「さわぎ」を音響の騷と見て、本文のまゝに解した。○しげけく 繁き状をいふ形容詞。寒しを寒けし〔二字傍点〕と轉用すると同例。○おほゆきの 「の」はの如くの意。○みだれてきたれ 亂れて來たれば〔右○〕の意。「きたれ」とのみで、ば〔右○〕の助辭なしに接續の意をもつことは古代文法の定格。抑も「き(537)たれ」は自他を明らかにいへば往きたれ〔四字傍点〕であるが、往きと來るとは相互共通して慣用してゐるのみならず、此處は敵方の叙述に人る前提としても、わざと自他を轉じたこのいひ方が面白い。割註の「霰なすそちよりくれば」は甚だ拙劣である。そち〔二字傍点〕は其方か。○たちむかひしも 敵對した者〔右○〕も亦。○つゆじもの 「消《ケ》」に係る序詞。露霜の如く消えと續く。「つゆじも」の解は既出(三八八頁)。○けなばけぬべく 消えるなら消えもせうと。死なば死ぬべくの意を喩へた。「け」は消え〔二字傍点〕の約。○ゆくとりの 「爭ふ」に係る枕詞。群れゆく鳥は先を爭うて飛ぶと見ゆる故にいふ。○あらそふ 「相競」をかく讀むは意訓。○はしに 「間」を古言にハシ〔二字傍点〕と訓む。口語のトタンに當る。割註の「消者消言爾」はケナバケヌカニ〔七字傍線〕で、言は香〔右△〕の誤らしい。「打蝉と爭ふ」は意を成さない。○わたらひの 伊勢國渡會郡渡會。○いはひのみやゆ 皇大神宮から。「いはひのみや」は皇大神を齋く宮の意。「いはひ」は忌《イミ》の延言。垂仁紀にもさう訓んである。舊訓はイツキノミヤ〔六字傍線〕。宣長いふ「イツキの宮と訓みては齋内親王《イツキノミコ》の宮と紛るれば、イハヒの宮なるべし。大神宮の御事なり」と。○かむかぜに 皇大神が〔四字右○〕神風に。「かむかぜ」は既出(二八〇頁)。○いふきまどはし 敵を吹き惑はし。「い」は發語。諸註共に「いふき」を息吹《イキフ》きの略とするも、息をイとのみいふは諾ひ難い。今は契沖説に從ふ。○あまぐもを 大空をといふに同じい。雲を空と同意に用ゐる。原本「天」は大〔右△〕とある。○ひのめ 「め」は所見《ミエ》の約。○とこやみ 眞暗《マツクラ》といふ程の意。正しくは常《トハ》に暗いこと。神代紀に「六合之内常闇而《クニノウチトコヤミニシテ》、不v知(ラ)2晝夜之相代《ヨルヒルノワキモ》1」とある。○さだめてし 皇大神の定めた。○みづほのくに 豐蘆原(ノ)瑞穗之國。「水」は借字。○かむながらふとしきまして 天武持統〔四字右○〕二帝相繼いで神隨太敷座而の意。但詞が稍いひ足りない。古義に「而」の字を衍としてフトシキイマス〔七字傍線〕と訓み、「吾大王」にまで續けて天武天皇の御事としたのは誤。「ふとしき」は既出(一四六頁)。○やすみししわがおほきみの 高市皇子(538)を斥す。以下この君の御上を敍べた。皇子を大王《オホキミ》といふ例は卷一「輕皇子阿騎野遊獵」の長歌に既出(一七五頁)。○あめのしたまをしたまへば 皇子が〔三字右○〕天下を事執り給へば。持統天皇の四年七月に高市皇子の太政大臣となれるをいふ。「まをし」は言上するの意だが、茲は執行の意に用ゐた。○しかしもあらむと さもあらうと。皇子の現况をさしていふ。「し」は強辭、「も」は歎辭。割註の「かくもあらむと」も惡くない。○ゆふばなの 木綿花の如く。「榮ゆる」に係る枕詞。「ゆふばな」は晒した木綿《ユフ》で拵へた造花。鮮やかで立派な處から、榮ゆるの聯想をもつのである。「白木綿花に波たち渡る」(卷二)「白木綿花におちたぎつ」(卷六)によれば白い物で、「初瀬|女《メ》の作る木綿花」(卷六)とあるによれば、初瀬がその製造地であり、又木綿の生産地でもあつたらしい。これを草綿の花とする説もあるが、この頃はまだ草綿は輸入されてゐない。而も榮ゆる〔三字傍点〕などいふべき花の樣でもない。「木綿」のことは「まそゆふ」を見よ(四四二頁)。○さかゆるときに 「榮ゆる」は皇子の御上のこと。「ときに」は時なる〔二字右○〕にの意。○みこのみかど 「御門」は直に指斥するのを憚つた語で、實は皇子の御殿たる香山《カグヤマ》の宮をさす。○かむみやによそひまつりて 宮殿を神宮として装飾し奉つての意。これは皇子の宮殿内にその殯宮を建てられたことをいふ。往時死を神去るといひ、死者を神となつたものと見る故に、葬送を神葬《カミハフ》るといひ、こゝには殯宮を神宮と見たのである。「よそひまつりて」は、こゝでは白帛の帳帷などで殯宮の室内装飾するをいふ。卷十三に「大殿を振|放《サ》け見れば白細布《シロタヘ》によそひまつりて」ともある。○つかはしし お使ひなされた。これを派遣の意とする解は誤。「つかはし」は使ふ〔二字傍点〕の敬相。「し」は過去の助動詞。○みかどのひと 御門の人は御子の宮人即ち東宮職の役人をいふ。○しろたへの こゝは白色の〔三字傍点〕の意に用ゐた。既出(一一八頁)。○あさごろも 麻布で制した服。麻は一年生の桑科に屬する草。その莖皮の繊緯は即ち苧《ヲ》で、古へはこれをも木綿《ユフ》(539)といつた。苧を絲にして織つたのが麻布である。この「白妙の麻衣着て」は素服を着てといふに同じい。素服は疎末な白衣で、神葬の際に着る習慣であつた。喪服としては別に黒色の衣を看た。この差別に就いては芳樹の註疏に委しく論じてある。○はにやすのみかど 皇子の香山の宮は埴安の池邊に接してあつたのでかくいふ。「埴安のつつみ」を參照(二〇五頁)。○みかどのはら 宮前の廣場。○あかねさす 日に係る枕詞。茜は緋色を染める原料である。その緋を日にいひ懸けた。尚卷一「茜さす紫野」の條を參照(九二頁)。○ひのことごと 既出(四三八頁)。舊訓ヒノクルゝマデ〔七字傍線〕は、下の「夕べになれば」とさし合つて惡い。○ししじもの 鹿《シシ》その物なしての意。鹿猪の類膝を折つて伏すので、「這ひ」「這ひ伏し」「膝折り伏せ」などの枕詞とする。「しし」は鹿猪の總稱で、卷三に「朝獵に鹿猪《シシ》踐《フ》みおこし」とある。但その本義は肉をいふ。肉は獣肉を最とし、中にも鹿猪を主として往時は食用としたので、遂に鹿猪をシヽといふやうになつた。尚「鴨じもの」を參照(一九三頁。)○いはひふし 這ひ伏し。「い」は發語。○ぬばたまの 夕べに係る枕詞。既出(三〇四頁)。○おほとの 香山宮の殯宮をいふ。○ふりさけ 既出(四二二頁)。○うづらなす 鶉そつくり、鶉の如くなどの意。「這ひもとほり」の枕詞。鶉は鶉鷄類の小鳥。原野に棲んで草間に潜行する。その状態が這ひもとほり〔六字傍点〕である。○いはひもとほり 這ひまはり。「い」は發語。「もとほり」は徘徊の意。集中(卷十九)「囘」の字をしか訓ませてある。た〔傍点〕の發語を添へてタモトホリ〔五字傍点〕ともいひ、記にはモトホロフ〔五字傍点〕の語がある。惇《モト》る、戻《モド》るなど清濁の差はあるが、元來、囘の意から轉じたものであらう。○さもらへど さもらふ〔四字傍点〕はサムラフの古言。「侯」は候〔右△〕と同意に用ゐる。○かねて 「不得者」はエネバ〔三字傍線〕と訓むべきだが、下の各句が同じ接續詞態の連續で不快であるのみならず、句意も面白くないので、宣長説に從ひ「者」は天〔右△〕又は弖〔右△〕の誤としてカネテと訓んだ。○はるとりの 「さまよひ」(540)に係る枕詞。春の百千鳥の鳴く音を歎きの聲に聞きなして「さまよひ」へ續けた。○さまよひ 呻吟の意。字鏡に「呻(ハ)歎也、左萬與不《サマヨフ》、又|奈介久《ナゲク》」とある。「さまよふ」は即ち歎くことで、音に立てゝ息づくをいふ。卷二十にも「春鳥の聲のさまよひ」とある。○おもひ 哀傷の意。「憶」は借字。○いまだつきねば まだ盡きぬにの意。「ねば」をヌニ〔二字傍点〕の意に用ゐる例は古への歌文に多い。○ことさへく 百濟《クダラ》に係る枕詞。既出(三九九頁)。○くだらのはら 大和廣瀬郡百濟村大字百濟。又百濟野とも卷八の歌に見える。○かむはふり 「はふり」は葬送の儀全部をいふ。今いふハウムル〔四字傍点〕はこの轉語である。死者は神となる故、その葬儀を神葬といふ。上の「神宮に」を參照。○はふりいませて 葬り申上げて。「い」は座《マス》に冠せた發語。眞淵の去にまして〔五字傍点〕の説は非。○あさもよし 「麻裳よ着」を木上《キノヘ》の木にいひかけた枕詞。卷一に既出(二一七頁)。○きのへのみや 題詞にある城上の靈屋《タマヤ》のこと。「木上」の木は借字。○とこみや 既出(五一六頁)。○さだめまつりて 原本「高之〔二字傍点〕奉而」とあつて訓み難い。よつて「高之の二字は定〔右△〕の草書より誤れるならん」との宣長説に從ふ。○しづまりましぬ 「しづまり」は他處に移らず留まる意。古事記神代(ノ)卷に鎭座〔二字傍点〕とあるがそれである。故にこゝには「安定」の字を充て、祝詞には「高天原に神留座《カムツマリマス》」と留〔傍点〕の字を充てゝある。卷五に「海原の邊《ヘ》にも奥《オキ》にも神豆麻利《カムヅマリ》うしはきいます諸々《モロモロ》の大|御神《ミカミ》たち云々」と見え、神豆麻利は即ち神鎭《カミシヅ》まりの略である。出雲風土記や出雲國造の神賀(ノ)詞に靜坐《シヅマリマス》とあるも同意。眞淵がシヅモリ〔四字傍線〕と訓んだが、この語はシヅマリの轉訛で、殆ど普通には用ゐぬ僻語である。――自分は嘗て神事關係の書で只一囘この語に出合つた記憶があるが、大言海にこれを擧げてないのは賛成である。雅言集覽には出典が記してない。――假令用例が一二あつたにせよ、それは神の鎭坐を意味するもので、靜寂などいふ意味では全然ない。然るに近來の歌に靜寂の意をもつたシヅモリの濫用を見ることは(541)甚だ不快で諾ひかねる。○しかれども 上の「鎭りましぬ」を承けていふ。○よろづよと この句は「香來山の宮」に係けていふ。○かぐやまのみや 高市皇子の御所で、香山の北邊、埴安の池附近にあつたと見える。上にも「埴安の御門の原」とある。○よろづよにすぎむともへや 萬代までも無くならうと思はれうかい。「すぎ」は行き失せてしまうをいふ。「もへ」はオモへの上略。「や」は反語。○たまたすき 「懸け」に係る枕詞。既出(三九頁)。○かしこかれども 「恐《カシコ》かれども懸けて偲ばむ」を、調に隨つて上下にいひなした。「騰」は清音トに充てる例であるが、こゝは濁音に用ゐた。△地圖 「木上」は挿圖141(五一二頁)を、「埴安」は挿圖6(二二頁)を參照。
【歌意】 思ひ懸けるにも憚あり、口に言はうことも恐れ多いわい。あの明日香の眞神の原に、皇居を畏れ多くもお定めになつて、更に〔二字右○〕神業をなさらうとて、お隱れになつた吾が大君(天武天皇)が、甞て〔二字右○〕お治めになる國の〔二字右○〕北方の不破山を越えて、和射見《ワザミ》が原の行宮に御出動遊ばされて、天下を治め、領國を定められようとして、東國の兵士を徴《メ》され、「荒ぶる人を和げよ、服せぬ國を治めよ」と、皇子高市は御子であるがまゝに、軍事をお委せなされたので、高市皇子は御身に太刀をお佩きになり、御手に弓をお執りになつて、總軍を統率され、兵士を調整される鼓の音は雷の聲と聞くほど、吹き鳴らす小角《クダ》の音は敵を見た虎が吼えるかと、人々の脅える程に、指し擧げた赤幡の動きは春になると野毎に燃えてをる火が風につれて靡くがやうに、取持つてをる弓餌の騷ぎは雪の降る冬の林に廻風《ツムジ》が卷き渡るかと思ふ程に、見る目の恐ろしく、引放つ矢の繁く大雪のやうに飛んでくるので、服從せずに敵對した者も、死ぬなら死ねと闘ふトタンに、渡會の伊勢神宮から神風に敵勢を〔三字右○〕吹き惑はし、天雲を日の光を見せす眞闇に覆はれて」大神の〔三字右○〕お定めになつたこの瑞穗の國を、天武持統二帝と〔七字右○〕相繼いで(542)神とましてお治めになり、吾が大君(高市皇子)が天下の政をお執りなされた故に、萬代もこのまゝにあらうと、お榮えになつてゐる折も折、大君と仰ぎまつる皇子の御殿を殯宮として装ひ飾つて、これまでお使ひなされた宮人達も、白色の麻衣を着て、埴安のこの御所の空地に、日のうちは鹿の如くに這ひ伏しつゝ、暮になると御殿を打眺めて鶉のやうに這ひ廻り、勤に出ても居たゝまれず泣き呻《ウメ》いて居れば、歎もまだ果てぬのに、哀みもまだ盡きぬのに、早くも御葬儀は埴安の宮を出て〔十四字右○〕百濟の原から通過、木※[瓦+缶]の靈屋を永久のお住ひと定めて、皇子はお鎭りになつた。然しこんな情ない事にはなつたが、吾が大王(高市皇子)が萬代までもと思召してお造りになつた香山の宮(埴安の御門)は、永久に滅び亡せると思はれうかい。天の如くそれを打仰ぎ、恐れ多くはあるが一心にかけて慕ひ奉りませう。
 
〔評〕 起句一聯莊重なる敬詞を冠した。體は祝詞に近い。次いで、「明日香の眞神の原に」から「磐隱ります」までは、天武天皇が眞神の原の一部に淨見原宮を創められてからの御一代を略叙して、「吾大王」を修飾した。この吾大王は即ち天武天皇にまします。「八隅しし吾大王」以下は壬申戰役の詳叙である。この役は淨見原方(天武天皇)と近江方(弘文天皇)との叔姪の御爭で、結果は遂に淨見原方の勝利に歸した。その際功を樹てた猛將勇士は數あるが、特に高市皇子の勲業はその首功に居るべきもの。何となれば天皇に代つて諸軍事を總管し、籌謀畫策よく大事を決した。天武紀にこの時の事を記していふ。
  元年六月辛酉朔甲申、先遣(シテ)2高市(ノ)皇子(ヲ)於不破(ニ)1令v藍2軍事(ヲ)1、云々。丁亥、高市(ノ)皇子遣(シテ)2使(ヲ)於桑名(ノ)郡家(ニ)1以奏言《マヲシケラク》、遠2(543)居(カリ)御所(ニ)1、行(フニ)v政(ヲ)不v便《ヨカラ》、宜(シトマヲセリ)v御(ス)2近(キ)所(ニ)1。即日天皇留(メテ)2皇后(ヲ)1而入(リタマフ)2不破(ニ)1、云々。到(マスニ)2于野上(ニ)1、高市(ノ)皇子自2和暫《ワザミ》1參(リ)迎(ヘテ)以便奏言《マヲサク》、云々。既而《カクテ》天皇|謂《ノタマハク》2高市(ノ)皇子(ニ)1曰(ク)、其(ノ)近江(ノ)朝(ニハ)、左右(ノ)大臣及(ビ)智謀《サカシキ》群臣共(ニ)定議《ハカリゴテリ》、今朕無(ク)2與(ニ)計事《ハカリゴツ》者1、唯有(ル)2幼小(ノ)孺子1耳(リ)、奈之何《イカニスベキトノタマヘレバ》、皇子|攘《カキナデ》v臂(ヲ)按《トリシバリテ》v劔《ツルギノタカミヲ》奏言《マヲサク》、近江(ノ)群臣雖(モ)v多(ケレ)、何(ゾ)敢(テ)逆(キマツラムヤ)2天皇之靈(ニ)1哉、天皇雖(モ)v獨(ニマスト)、則臣高市、頼(リ)2神祇之靈(ニ)1、請(ヒ)2天皇之命(ヲ)1引2卒(テ)諸將(ヲ)2而征討《ウタムニ》豈有(ランヤ)v距(グモノ)乎。爰(ニ)天皇誉(メテ)之、携(ヘ)v手(ヲ)撫(テ)v背(ヲ)曰、愼不可怠《ユメナオコタリソト》、因(リテ)賜(ヒ)2鞍馬(ヲ)1、悉(ニ)授(ク)2軍事(ヲ)1。皇子則還(リ)2和暫(ニ)1、天皇(ハ)於茲行宮(ヲ)興(シテ)2野上(ニ)1而|居《マシ/\キ》焉。此夜|雷電雨甚《カミナリアメイタクフレリキ》。則(チ)天皇|祈之曰《ウケヒタマハク》、天神地祇扶(ケタマハヾ)v朕(ヲ)者雷雨|息《ヤマムト》矣、言訖(リテ)即雷(モ)雨(モ)止之。戌子、天皇往(キテ)2於和暫(ニ)1※[手偏+僉]2※[手偏+交]《カムガヘテ》軍事(ヲ)1而還(リマシキ)。己丑、天皇往(キテ)2和暫(ニ)1命(テ)2高市皇子(ニ)1號2令《ノリゴタシム》軍衆(ニ)1。亦還(リテ)2于野上(ニ)1而|居《マシ/\キ》之。(卷二十七)
天武天皇の大事を擧ぐるや、急遽吉野を遁れ、宇陀より名張を經て伊勢に入り、桑名の郡家に逗留せられたが、美濃の不破に先着の高市皇子の奏に依つて、一路北上、不破山を越えて和射見が原(今の關が原)の東端なる野上の行宮に駐蹕せられ、本陣はその西端なる不破に立てられ、そこには高市皇子がまし/\して、野上と不破との間を交互に往來して軍事を打合はせられた。手近の美濃尾張の軍勢の外に、更に東海東山兩道の兵士を徴發せられたことを、こゝには「吾妻の國のみいくさを喚《メ》し給ひ」と歌つてある。かくて軍備は調つた。近江方との戰闘は開始せられた。
 蓋し勝敗の數は未知數だ。近江方は既成の政府と澤山の常備軍とを有してゐる。追隨者も亦多い。天武天皇はこれを心配された。處が高市皇子は臂をかき撫で、劔のたかみ取りしばつて、
  近江の群臣多けれども、何ぞ敢へて天皇の靈に逆きまつらむや、天皇獨にますと雖も、則ち臣高市、神祇の靈に頼り、天皇の命を請け、諸將を引きゐて征たむに、豈に距ぐものあらむや。(紀二十七)
(544)と絶叫された。實に雄武絶倫、戰はざる前に既に百萬の強敵を壓倒する概がある。天武天皇は我が御子ながらもその元氣に御感佩なされて、手を執り背を撫でて、「ゆめな怠りそ」と仰せられ、軍事統轄の大任を委託された。かくて高市皇子は「大御身に太刀取帶ばし、大御手に弓取持たし、御軍をあともひ給ひ」、愈よ出陣するのであつた。當時十四五歳の瑞々しい若武者、智勇兼備の御大將、いみじくも亦悲壯なものがあつた。「齊ふる鼓の音は」以下三十句は、當然叙述すべき順序にある戰闘光景であるが、それを軍用器具の活動状態を以て代表させた趣向は面白い。鼓四句、角六句、幡八句、弓八句、矢四句で成立してゐる。弓矢は別として、鼓角幡の如きは、支那の戰爭道具をそのまゝ用ゐたもので、無暗と鳴物や道具立で虚勢を張つて威嚇し、實質の貧弱を糊塗するは、支那人の常習である。尤も本文のは詩文の常套たる誇張法であることも忘れてはならぬ。が紀にも左の如く記してゐる。
  時(ニ)大友皇子(弘文)及(ビ)群臣等、共(ニ)營(リテ)2於橋(ノ)西(ニ)1、而成(シ)v陣(ヲ)、不v見2其後(ヲ)1、旗幟蔽(シ)v野(ノ)埃塵連(ル)v天(ニ)、鉦鼓之聲聞(エ)2數千里(ニ)1、列弩亂(レ)發(チテ)、矢(ノ)下(ルコト)如(シ)v雨(ノ)云々。(卷二十七)
鼓聲を雷と聞くは殆どお約束の聯想で、何の奇もない。小角の響を虎の怒號に比したのは、抑も作者自身が虎の咆哮を聞いたかゞ疑問である。とはいへ、雷虎相對してその凄味を發揮してゐることは爭はれぬ。幡の靡きは漢文では征旗野を蔽ふなど誇張するが、こゝには枯草を拂ふ處々の野火が風にめら/\と燃え立つに譬へた。そこにその活動状態が歴々と映寫された。なか/\奇拔な面白い形容で、他に類想がない。但野火の譬喩は、恐らく當時の天武天皇方は、赤色がその標識であつたからではあるまいか。否それは事實であつた。紀に近江方の本軍と會戰する條に、その事が明示されてある。いはく、
(545)  自(リ)2不破1出(テ)、直(ニ)入(ラシム)2近江(ニ)1、恐(レテ)d其衆(ト)與2近江(ノ)師1難(キコトヲ)uv別(ケ)、以(テ)2赤色(ヲ)1著(ク)2衣(ノ)上(ニ)1〔六字傍点〕。
皆赤印を著けた赤備へであつた。そして幡まで赤色を用ゐた。古事記の上表にこの亂の顛末を叙して、
  曁(ビ)d飛鳥(ノ)清原(ノ)大宮(ニ)御《シロシメシヽ》2大八嶋洲1天皇(ノ)御世(ニ)u、――然天(ノ)時未(ダ)v臻(ラ)、蝉2蛻(シタマヒ)於南山(ニ)1、人事共(ニ)洽(クシテ)、虎2歩(シタマヒキ)於東國(ニ)1、皇輿忽(ニ)駕(シテ)凌(ギ)2渡(リ)山川(ヲ)1、六師雷(ノゴトク)震(ヒ)、三軍電(ノゴトク)逝(ク)。杖矛擧(ゲ)v威(ヲ)、猛士煙(ノゴトク)起(リ)、絳旗〔二字傍点〕耀(シテ)v兵(ヲ)、凶徒瓦解(ス)。云々。
と見え、絳旗即ち赤幡が軍容をすぐつたとある。これに對して近江方はもとより白旗であつたらう、白は軍旗の當色なので、天武天皇方はそれと區別の必要上から、赤色をその標識としたものと見える。
 弓弭の騷ぎを凍風の枯林を拂ふに譬ふるに至つては、愈よ新硯を發したもので、數多の軍士の切つては引放つその弓の、一樣にあわたゞしく起伏動搖する状態が、如實に描寫し盡され、形容の妙いふべからざるものがある。羽箭の亂飛するを大雪の舞ひ墜つると見た譬喩も、いかにも恰當と感ぜられる。特に幡と弓との句は出色の文字で、凡常を絶した聯對である。概括していへば、或は耳に訴へ或は目に訴へ或は耳目に兼ね訴へて、壯烈なる戰爭状態を間接に曲盡した雄渾無比の大文字である。
 けれども近江方も懸命の戰だ。瀬田の橋板を引いての將軍智尊の「消なば消ぬべく」の奮闘は目覺しいものがあつた。其處へ伊勢からの神風が襲來して天地晦冥、近江方の運命茲に窮つて天武天皇統一の業は成つたといふ。これは七月廿二日の瀬田口の決戰を叙したものと思はれるが、紀にはかゝる奇蹟の事は全然載つてゐない。只前月の野上の行宮における記事に、
  此夜雷電雨甚、則(チ)天皇祈(リテ)之曰(タマハク)、天神地祇扶(ケタマハバ)v朕(ヲ)者、雷雨息(マムト)矣、言訖即(チ)雨雷止(ミヌ)之。
とある。或はこの事實を便宜上、戰爭の終幕を花やかにする爲に撮合した、詩人幻化の手段と見られぬことも(546)ないが、紀にこそ洩れたれ、尚これはその際における眞事實と見たい。陰暦の七月下旬は颱風襲來の最大時季であることは、今日でも同じだ。偶ま戰爭當時暴風の襲來したのを、伊勢の神風と解釋して、奇蹟的に受け取つたに過ぎまい。特に天下二分して皇位繼承を爭ふ非常時には、皇祖の神意が唯一の頼みの綱であつた。紀にこの種の奇蹟的記事が、この外にもまだ出てゐる。
 高市皇子の功績はこればかりではない。風雲兒大伴|吹負《フケヒ》は、「高市皇子不破より來れり」と詐稱して、大和地方※[甚+戈]定の功を奏した。高市皇子は丁度建武中興の大業に與かつた大塔宮護良親王の地位に居り、それ以上に偉勲を樹てられた。
 「渡會の齋の宮ゆ」以下「神ながら太敷きいます」までの十二句は、枕詞を用ゐず、極めて質實に眞摯に叙事を運んだ。
 かくて天武天皇の御世は過ぎて、持統天皇の四年に草壁皇太子薨去の後、高市皇子は太政大臣となつて太政を執奏され、次いで皇太子となり、九五の位は豫約され、輿望の歸する所高市皇子萬歳の觀ある趣を「萬代も――榮ゆる時に」と歌つた。この句で忽ち一頓挫して、以下高市皇子薨逝の悲劇の一場面が展開されてゆく。そこに抑揚があり、力強い對映がある。
 皇子の薨逝が突然で世間の驚異であつた事は、「榮ゆる時に――皇子の御門を神宮に装ひまつりて」の應接の間に、遺憾なく發揮されてゐる。それは持統天皇の十年秋七月の事であつた。
 高市皇子の香山の宮は、そもどの邊にあつたものか。埴安の社は香山の北面にあり、隨つてその附近の地を埴安と汎稱したものらしい。故に池を埴安の池といひ、香山の宮を又埴安の御門と稱へた。或書の反歌に哭澤(547)女杜《ナキサハメノモリ》に祈つた事が見えるから、宮地は南は哭澤女杜に近く、西は藤原の宮地に對し、東は埴安の池に臨んでゐたと考へられる。その御門内の空地は即ち「御門の原」である。
 かくてその大殿に殯宮即ち神宮を起し、殿内は華美なる一切の装飾を撤し、白一色の帳帷深く垂れ込めて、高級官吏が交代侍候するのであつた。「遣はしし御門の人」は東宮所屬の職員達である。おの/\萬歳と頼んだ主君を失つて茫然自失、白紵姿で御門の原に日夕或は鹿見たやうに這ひ伏し、或は殯宮たる大殿を望んで鶉めいて這ひまはり、そして呻吟する。これ悲痛の極、身を大地に擲つて號哭したものといふべきだが、古代に跪禮《ヒザマヅクイヤ》及び匍匐禮《ハフイヤ》といふ最敬禮の樣式のあつた事を知らなければならぬ。尤もこの二禮は天武天皇の十年に立禮に易へられたが、尚朝廷に跪禮が存してゐたのは事實で、(持統紀秋七月の詔)――私には匍匐禮も跪禮に伴つて行はれてゐた事を考慮におくべきである。この二禮の状態を「膝折り伏せ」「い這ひもとほり」など形容したのである。
 「赤根さす」「烏玉の」の枕詞が、自然色相上に對映をもつことは、上の「茜さす日は照らせれど」の歌の條下に評した如くである。以下の二聯は次聯に「大殿を振放け見つつ」の二句を剰して、長短の偏對體を形作つてゐる。「侍ひかねて」に「侍へど」と、同語の既然の接續詞形を冠した表現は常套ではあるが、この際大いに強調の効果を擧げてゐる。
 あゝ奉仕者は頼む木蔭に雨が漏り、的なき弓を放つ心地、哀痛の涙尚新しきに、早くも陵墓功成つて、愈よ御葬儀は執行の運びになる。藤原京の香山の宮から靈柩は發して、北百濟の原を通過し、木※[瓦+缶]の岡に斂葬、ここ遂に皇子が尊靈の常宮となつたといふ。この項は只事實を叙べて筋を通しただけの事で何の奇もないが、又有用缺くべからざる大事の文句である。葬送の道筋に百濟の原をのみ擧げたのは、省筆法で、百濟の原は墓地(548)たる木※[瓦+缶]にも近く、又百濟宮、百濟寺など建てられた著名の地なので代表させたものと思はれる。
 「萬代とおもほしめして造らしし」は、もとより作者が誇張を混へた忖度の語ではあるが、皇子の御意中とても必ずや同じ事であつたらう。隨つて理詰めに「萬代に過ぎむと念へや」の結論を將來し、「萬代」の再現は不用意の重複ではなく有意味の反覆となる。「天のごと」は勿論譬喩であるが、「振放け見つつ」とある作者の態度と相俟つて、香山の宮の結構の雄偉さを聯想させる重大な役目を勤めてゐる。かくこの宮が萬代不易に嚴として存在する以上は、皇子追憶の情を寄するに、これに越した記念はあるまい。作者は既に明日香皇女の悼歌には明日香川を提擧して「記念にここを」と絶叫した。これこゝにも香山の宮を「懸けてしぬばむ」といふ所以である。「恐かれども」の一結は、遙に初頭の句に應ずるものゝ如くである。
 この篇前後二段で構成されてゐる。冒頭から「大敷きいます」までを前段、以下を後段として、いづれも非常の長叙述である。前段はおもに壬申の亂に於ける皇子の功績を讃へ、後段は皇子薨逝の哀慕痛惜の情を陳べ、暗裏に對映を試みさせたもので、畢竟ずるに後段が主役で、前段はそれを引立てる脇役である。惜しいかな、仔細に視ると、前段の前半は稍洗煉が足りない。「神さぶと岩隱ります――聞し召すそともの國の云々」及び「瑞穗の國を神ながら大敷きまして」の兩齣が叙述簡略に過ぎたる爲、晦澁の憾を遺し、又「吾大君」の三出、それが或は天武天皇を斥し或は高市皇子を斥す場合があるので、主格に統一を缺き、「定め」の四出、「かしこし」の三出、「振放け見つつ」の再出、「まつろはぬ」「まつろはず」の重複や、「幡の靡き」といひ、更に「靡ける如く」とあるなど、頗る煩冗の感を懷かせる。長篇だから據ないともいへるが、聊かその語彙の乏しさを疑ふ。然し全體から概觀すれば、やはり白璧の微瑕たるに過ぎまい。
(549) 本篇は本集を代表すべき雄篇大作たるのみでなく、わが國歌中、古往今來これにまさる程の大規模の作を見ない。この努力だけでも大いに推賞せねばならぬ。况やその内容の事相が史的大英雄高市皇子の薨逝に關し、その背景として劃期的の大動亂壬申の戰役をあしらつたもので、而も作者が當時に生存した、否それ處か高市皇子の御息のかゝつた大歌人東宮舍人人麻呂である。隨つて事と時と人と三事相應した絶品と稱すべく、その體格風調は高古雄渾、その結構布置は雄偉莊大、その措辭は巧緻典雅、實に堂々たる輪奐の美を極めた大建築の觀がある。契沖はいはく、
  この長歌反歌は人麻呂の獨歩の英才を以て皇子の大功を叙べ、薨去を悼み奉れる、誠に不朽を日月と爭ふもの。
と評した。要するにこの篇の風調は天籟ではなくて、人籟の極を窮めたものである。淵明や青蓮ではなくて杜子美である。情と力と、更にいひ換へれば熱と血との二重奏で、この交錯によつて渾成した生彩ある妙曲は、天地を震撼する。信に作者の特色と力量とを如實に實現し得た傑作といはずはなるまい。
 
短歌二首
 
久堅之《ひさかたの》 天所知流《あめしらしぬる》 君故爾《きみゆゑに》 日月毛不知《つきひもしらに》 戀渡鴨《こひわたるかも》     200
 
〔釋〕 ○ひさかたの 既出(二八二頁)。○あめしらしぬる 天を支配される。靈魂が高夫原に上つて神となることをいふ。「しらし」は領《シ》るの敬語。○きみゆゑに 君なるものをの意。○つきひもしらに 日月の遷る〔二字右○〕も知ら(550)ず。時の經つをも知らぬこと。「に」は否定の古辭で、ず〔傍点〕の連用形の古格。「日月」は漢熟語。訓では顛倒させて訓む。
【歌意】 既に天上にお上りになつた皇子樣なのを、自分は月日の經つのをも知らず戀ひ續けることよ。
 
〔評〕 口を開けば天をいひ日月をいひ、神をいひ大王をいふ。作者の信仰の何處にあるかゞ明らかに窺はれる。然しこの高天原思想と敬神尊王の念とは、上代に流れてゐた頗る一般的のものであつて、記紀祝詞の全部は勿論、他にもこの種の着想のものが幾らもある。只作者人麻呂に依つて最も多量にそれが號呼され紹介されてゐることを、特に考慮におけばよい。
 されば貴人の薨逝を「天しらす」と轉義するは、當時にあつては頗る平語に屬する。否餘に常習的になり過ぎて、多くの場合この語の表面的意義は忘られ勝であつたと思ふ。作者はこの内面的意義に耳を塞ぎ、わざとその表面的意義を捉へて、天しらしぬる君なることを忘れて、徒らに御あとを追慕するよと、その愚さを、自嘲して詠歎してゐる。これらの構想はよく腐を化して新となすもので、作者の手腕の凡ならぬを見るに足りる。「月日」は「あめ」の縁語としてのみ聞けば陳語であるが、崇高の觀念を與へるにはよき修飾である。とにかく堂々たる線の太い渾厚な作である。この二首は反歌であらう。
 
埴安乃《はにやすの》 池之堤之《いけのつつみの》 隱沼之《こもりぬの》 去方乎不知《ゆくへをしらに》 舍人者迷惑《とねりはまどふ》     201
 
(551)〔釋〕 ○はにやすのいけ 「埴安《はにやす》のつつみ」を見よ(二〇五頁)。○つつみ この池は岡陵を利用した造り池なので、一方は堤防なのである。○こもりぬ 草などに籠つて水のよく見えぬ沼のこと。「こもりぬの」は隱沼の水の如くの意で、「ゆくへをしらに」の序とした。○ゆくへをしらに 爲すべき術を知らずの意。
【歌意】 埴安の池の堤のその隱沼のはてのわからぬ水のやうに、皇子樣のお薨《カク》れにあつた自分等舍人は、どうしてよいか途方にくれることよ。
 
〔評〕 埴安の池も隱沼も同一の池なのである。只池の一部の塘際が汀も見えぬ程、草に籠つて沼を成してゐるゆゑ、池の堤のその隱沼〔八字傍点〕と反覆したに過ぎない。歌は感興のまゝに、かくの如く表現され且味はるべき性質のものである。「堤の」がこの序詞の中心點をなしてゐる。さて隱沼の水は草などに蔽はれて水先の見えぬもの故、「ゆくへを知らに」といひ續けたのである。然るに文字の表面に拘泥して埴安の池と隱沼とを切り離して、堤防外の潴溜と解した芳樹等の説は、理窟を先として歌の趣を辨へぬものである。
 作者は皇子の薨後、香山の宮に接した埴安の堤上に立つて、こゝに感懷を寓せたものである。前には日並皇子、今はこの高市皇子と、再度まで奉仕の、主君を失つた作者は、重ね/”\の失望落膽に、殆ど木から落ちた猿の感じがしたらう。「舍人はまどふ」は弘く一般舍人等の態度の如くに叙してゐるが、實は作者自身の心況から出發したものであるから、つまり作者の遣る瀬ない悲痛の叫である。
 
或書(の)反歌一首
 
(552)この題詞によれば、この歌はなほ前と同じ反歌の一つで、人麻呂の作となる。然るにこの歌の左註には類聚歌林を引いて檜隈女王の作としてある。眞淵は、これは人麻呂の歌體でない、左註を信ずると斷じた。私は眞淵の達眼に敬服するものである。〔初版には続けて「○檜隈女王 傳未詳。」がある〕
 
哭澤之《なきさはの》 神社爾三輪須惠《もりにみわすゑ》 雖祷祈《いのれども》 我王者《わがおほきみは》 高日所知奴《たかひしらしぬ》     202
 
〔釋〕 ○なきさはのもり 高市郡香具山の西麓にあり、泣澤女《ナキサハメノ》神を祀る。記(上)に、伊邪那岐命が女神伊邪那美命の逝去を悲まれた條に、「哭(ク)時於2御涙(ニ)1所成《ナリマセル》神座(ス)2香山(ノ)畝尾《ウネヲノ》木(ノ)本(ニ)1、名(ハ)泣澤女《ナキサハメノ》神」と見える。「神社」をモリと訓むは社には林叢《モリ》がある故のこと。○みわ 神酒をいふのが本で、轉じては神酒を入れる※[瓦+肆の左]《ミカ》の稱ともなり、「みわすゑ」ともいはれるのである。眞淵及び古義の説はいづれも隨ひ難い。○いのれども 古義はノマメドモ〔五字傍線〕と訓むべきを主張してゐるが、拘泥の説である。○たかひ 日を形容して「高」の美稱を添へた。「高日知らす」は天を支配なさる意で、その薨逝(553)を直接にいはず、昇天と見ていふのである。△挿圖6を見よ(二二頁)。
【歌意】 泣澤女の神のまします杜《モリ》に神酒※[瓦+缶]《ミワ》を据ゑて、皇子樣の御壽命長久をお祈りするけれども、その驗もなく、わが皇子樣は昇天なさいましたよ。 
〔評〕 香具山の宮近くに泣澤の杜があるので、皇子の御病氣平癒をこの神に祈つたのである。元來この神は陽神が陰神の逝去を悲しまれた涙が落ちて生じた神であるから、人の生壽を守らせ給ふものと信ぜられたらしい。「杜にみわ据ゑ」は頗る疎い叙法のやうであるが、實はさうでない。古へは神供の酒甕を社前の土に埋けて据ゑたので、かういへるのである。かく祭事の所作を特に叙したことは、「祈れども」の意を強調するもので、愈よその頼みがひ無い失望と怨意とを力強く反撥する譯である。天知らす〔四字傍点〕は尊貴の薨逝を譬へいふ套語であるので、「高日しらしぬ」の轉義を用ゐたことは、頗る賢い手法で、多少の新味を齎すものではあるまいか。檜隈女王はその傳詳かでないが、想像をめぐらすならば、恐らく高市皇子後宮の婦人であらう。故にこの香具山の宮近い泣澤の杜に所願を掛けたものかと考へられる。
 
右一首、類聚歌林(ニ)曰(ク)、檜隈女王(ノ)怨(メル)2泣澤(ノ)神社(ヲ)1之歌也。案(フルニ)日本紀(ニ)曰(フ)、持統天皇十年丙申秋七月辛丑朔庚戌、(554)後(ノ)皇子(ノ)尊薨(ズ)。
 
 山上憶良の編んだ類聚歌林によれば、この歌は檜隈女王が泣澤神社に祈つたに靈驗が無かつたので、怨んで、詠んだとの意。紀の後(ノ)皇子(ノ)尊とは、前(ノ)皇太子日並皇子に對しての稱で、高市皇子を申す。庚戌は十日に當る。
 
但馬(の)皇女(の)薨《すぎませる》後、穗積(の)皇子(の)冬(の)日雪(の)落《ふるに》、遙2望《みさけて》御墓《みはかを》1、悲流涕《カナシミテ》御作歌一首
 
但馬皇女がお薨れの後、夫君穗積皇子が冬季雪の降る日、皇女の御墓の方角を眺めて悲んで詠まれた歌との意。○但馬皇女、穗積皇子 傳は既出(三五六頁)。
  但馬皇女の薨は元明天皇の和銅元年六月である。然るにこの次の歌の「弓削皇子薨時」は、皇女の薨より九年前の文武天皇の三年の事である。故に古義はこの題詞及び歌を末の「寧樂宮」の標下に移掲したが、今は原本の體に從つておく。
 
零雪者《ふるゆきは》 安幡爾勿落《あはになふりそ》 吉隱之《よなばりの》 猪養乃岡之《ゐかひのをかの》 塞爲卷爾《せきなさまくに》     203
 
〔釋〕 ○あはに 近江では高い積雪のことを、越後及び近江の一部では雪頽《ナダレ》のことを、アハといひ、飛騨では雪の落つることをアホ〔二字傍点〕といふ由。「あはに」をあはの如く〔三字傍点〕の意に解すれば、これら越後飛騨のアハ〔二字傍点〕、アホ〔二字傍点〕を當て嵌めて意が通じないでもない。田中大秀は、「アヲ」は猶アハと同語にて凍雪の稱、凍雪はさら/\としたるものゆ(555)ゑ、義は淡《アハ》なりといつてゐる。眞淵は「安幡」を左幡《サハ》の誤として、澤山にの意に解した。新考その意を承けてサ〔傍点〕の接頭語を添へたるサアハ〔三字傍点〕の約がサハ〔二字傍点〕だと説明してゐる。○よなばり 大和磯城郡初瀬町の東方半里にある。今の吉隱町。○ゐかひのをか 卷八に猪養の山とあるも同所で、吉隱町の北方に當る岡山。但馬皇女の葬處であるが、遺蹟は所在不明。○せきなさまくに 塞《セキ》をなすであらうによつての意。「せき」の下、を〔右○〕の助辭が略されてゐる。塞《セキ》は道塞げをなすものをいふ。關と同語。「まく」は未來の助動詞む〔傍点〕の延言。眞淵はセキナラマクニ〔七字傍線〕と訓んだが、今は古義の訓に從ふ。
【歌意】 この降る雪は澤山降つてくれるなよ、皇女のお墓のある吉隱の猪養の岡の道塞げをなさうによつてさ。
 
〔評〕 作者穗積皇子とこの皇女との開係は頗る波瀾に富んだものであつた。皇女は御兄高市皇子の宮人であつた時、穗積皇子と通じ、事露れて皇子は志賀寺に遣られ、皇女は後を慕うて出奔されたことは、既に上の「秋の田の穗向のよれる片寄りに」の歌に見えてゐる。その後高市皇子の薨逝にあひ、幸に二人は天下晴れて御夫婦となられたのであるが、然るに天公無常、端なくも皇子の手から皇女を奪ひ去つてしまつた。尤ももう十年以上も連れ添うて、愛の美酒に醉ふことは十分出來たわけであつたが、然し互に苦勞し拔いた間柄を思ふと、その悲歎は格別であつたらう。六月に皇女を失はれてからこゝに始めての冬、その間(556)半歳の日子は穗積皇子に取つては慌しいものであつた。常ならば「雪はだらなる朝たぬし」く、宴《ウタゲ》など催すべき雪の日にも、まづその墓地猪養の岡を思ひやらずには居られない。一周年の間は近親眷屬どもは墓側に宿する習慣であるから、まづ何はさしおいても墓邊の交通杜絶を氣遣うて、無心の雪に對してなほ「あはにな降りそ」と懇請した。それは皇子自身が今でも猪養の岡に參拜して、追憶の涙を濺ぎたい下心のあらはれである。初二句の「降る」の重複はもとより問題ではない。題詞の「遙望2御墓1」は、まだ平城遷都以前の事とて、藤原の都から皇女の葬處吉隱の猪養の岡を遠望したもので、地理的關係もよく出會つてゐる。
 
弓削《ゆげの》皇子(の)薨時、置始東人《おきそめのあづまびとが》作歌一首并短歌
 
○弓削皇子 續紀に文武天皇の三年秋七月癸酉淨廣貮弓削皇子薨とある。傳既出(三五〇頁)。○置始東人 既出(二四四頁)。
 
(557)安見知之《やすみしし》 吾王《わがおほきみ》 高光《たかひかる》 日之皇子《ひのみこ》 久堅乃《ひさかたの》 天宮爾《あまつみやに》 神隨《かむながら》 神等座者《かみといませば》 其乎霜《そをしも》 文爾恐美《あやにかしこみ》 晝波毛《ひるはも》 日之盡《ひのことごと》 夜羽毛《よるはも》 夜之盡《よのことごと》 臥居雖嘆《ふしゐなげけど》 飽不足香裳《あきたらぬかも》     204
 
〔釋〕 ○やすみしし 既出(三〇頁)。○わがおほきみ 「あがおほきみ」を見よ(三〇頁)。○たかひかる 既出(四八〇頁)。○ひのみこ 既出(一七六頁)。○ひさかたの 既出(二八二頁)。○あまつみやに 高天が原のお住ひに。神さりましては靈魂《ミタマ》は天上の宮におはす趣。天武天皇の崩御を上に「天皇の敷きます國と天の原|石門《イハト》を排《ヒラ》き神|上《ノボ》り上りいましぬ」と叙したるに同じい。○かみといませば 神となりて座せば。○そをしも 略解以來の訓は皆ソコヲシモ〔五字傍線〕であるが、無理である。舊訓はソレヲシモ〔五字傍線〕。「霜」は借字。○あやに 既出(五三〇頁)。「文」は借字。○ふしゐなげけど 臥して歎き居て歎けど。○あきたらぬ 滿足せぬ。
【歌意】 恐れ多い皇子樣は、この世を棄てゝ高天が原の御殿に、神となつてお住ひなさるので、それをばひどく畏み、日は終日夜は終夜、臥しても居ても歎きはするけれど、まだ悲歎の情は滿足せぬことよ。
 
〔評〕 「安見しし云々」「高光る云々」の聯對は天皇を稱へ奉る套語であるが、轉つては、皇子の上にも使用し、(558)既に卷一「輕皇子宿于安騎野云々」の人麻呂の詠にも見えてゐる。
 前半莊重、後半の平易は稍その均衡を缺いてゐるかのやうであるが、四音又六音の句の交錯の爲に、節奏緊迫して、その躍動の力強さに救はれてゐる。「臥居歎けど飽き足らぬかも」の表現は、いかにも卒直にその感情を披瀝したもので、そこにこの歌の生命がある。要するに、萬葉人としての常識的着想であることは免かれぬ。
 
反歌一首
 
王者《おほきみは》 神西座者《かみにしませば》 天雲之《あまぐもの》 五百重之下爾《いほへがしたに》 隱賜奴《かくりたまひぬ》     205
 
〔釋〕 ○あまぐも 既出(五三七頁)。○いほへがした 「五百重《イホヘ》」は千重《チヘ》、百重《モヽヘ》などいふも同じく、物の多い重疊を表はす語。「した」はうちの意。宣長は、裏《シタ》にてうら〔二字傍点〕といふに同じといつた。眞淵は「下」は上〔右△〕の誤寫かといつてゐるが、下で通じてゐる。○かくり「隱る」は古くは四段活用。
【歌意】 皇子樣は神樣であらせられるので、天雲の幾重ともなく重疊してゐる中にお隱れなされましたよ。
 
〔評〕 「雪隱る」といふ詞は、靈魂の天翔り思想から出て貴人の死を意味する常套語である。今は弓削皇子の薨逝に際して當然想起されるこの「雲隱る」を敷演して、「天雲の五百重が下に隱り」と續けたのであるが、わざと寓意の用法を採らず、表面上の叙述通りに、その雲隱りを現前の事實として扱つたのである。さうなると、こんな不思議な行動は全くの神業に屬するので、これ上句に、「大君は神にしませば」の前提が置かれた所以(559)である。故にこの前提は實在的のいひ方である。さうしてこの初二句は、
             天雲の雷のうへにいほりせすかも(卷三―235)
  大君は神にしませば  赤駒のはらばふ田居を都となしつ(卷十九―4260)
             水鳥のすだくみぬまを都となしつ(卷十九―4216)
の如き類型的の作を出し、特に「天雲の雷のうへ」の如きは、極めて近い類想的の作である。只彼れは行宮建設であるのに、此れは薨逝をしかく取成したことが、婉曲味をもつといへるのである。但引例の三首は天子の御上だから「大君は神にしませば」も論はないが、皇子では聊か諛辭に墮するやうな感がないでもない。
 
又短歌一首
 
これは前と同時の作である。然し初から獨立した短歌で、「又」の字は上の長歌及び反歌に對して下した語である。眞淵が別に題詞のあるのを落したものと見、又古義が心得難しとして削つたのは甚しい妄である。
 
神樂波之《ささなみの》 志賀左射禮浪《しがさざれなみ》 敷布爾《しくしくに》 常丹跡君之《つねにときみが》 所念有計類《おもへたりける》     206
 
〔釋〕 ○ささなみのしが ※[竹/(脩−月)]並《サヽナミ》は大|名《ナ》、志賀はその中の小|名《ナ》である。既出(一三一頁)。○しがさざれなみ 志賀の小波の意で、作者の造語。「ささ」は細小《サヽ》の義、「れ」は接尾語。初句からこゝまでは「しくしくに」に係る序詞である。「神樂」をサヽと訓む故は「樂浪」を見よ(一二五頁)。○しくしくに 重々《シキリ/\》にで、物の程度の頻繁(560)なのをいふ。「おもへ」に係る副詞。○つねにと 永久御存命であると。○おもへたりける 「おもへ」は思はれ〔二字傍点〕の約。「ける」の下、よ〔右○〕の歎辭を含めてゐる。舊訓はオモホセリケル〔七字傍線〕とあるが、今は古義の訓に據る。
【歌意】 ※[竹/(脩−月)]並の志賀の浦に寄る小波が頻るやうに、何時も/\皇子樣は永久お變りなく入らせられるとばかり思はれてゐたわい。それにまあこんな事にならうとは意外千萬ではある。
 
〔評〕 序詞を用ゐて「しくしくに」を強調したことは、一旦にして平生の豫想を裏切られた遺憾さを表示し、その薨去の意外であつたことを言外に嗟歎してゐる。いつも健在だとばかり思ひ込んでゐた人の家から、突然死亡通知に接して呆氣に取られることが往々にしてある。况や弓削皇子は三十前後の壯年での薨去と思はれるから、いよ/\この感が深かつたのであらう。「志賀さざれ波」は人麻呂の「夕浪千鳥」の儔の頗る放膽な造句で、まことに面白い。この初二句、地名が剪裁されてゐるので見ると、普通の序詞として輕く見過してしまふ譯にゆかない。必ず皇子か作者か何れかに所縁のある土地と思はれる。思ふに弓削皇子は天武天皇の第六皇子で、御兄高市、草壁、新田部諸皇子の御年齡から推算すると、天智天皇の大津宮時代の末年に生まれた方らしい。隨つてこの序詞もその邊に※[夕/寅]縁してゐると見られぬこともないが、これは聊かおぼつかない。
 
柿本(の)朝臣人麻呂(が)妻(の)死《みまかれる》之後、泣血哀慟《カナシミテ》作歌二首并短歌
 
人麻呂が妻が死んだ後で、血の涙をこぼして悲しんで詠んだ歌との意。この二首の長歌及び短歌は同じ題詞中に攝せられてはあるが、内容から見て前後首は各別のものであり、妻も隨つて前のと後のとは別人である。さ(561)れば眞淵は、こゝには新に「柿本朝臣人麻呂(ガ)所竊通娘子死之時《シヌビカヨヘルヲトメガミマカレルトキ》、悲傷《カナシミテ》作歌」といふ題詞を作つて充てた。○妻 古へは嫡妻をも妾をも通じて妻《メ》と稱した。但こゝの婦人は勿論嫡妻ではなく、又妾でもない。その理由は評語を參照。○泣血哀慟 甚しく悲しむの意を、漢語で表はしたもの。
 
天飛也《あまとぶや》 輕路者《かるのみちは》 吾妹兒之《わぎもこが》 里爾思有者《さとにしあれば》 懃《ねもころに》 欲見騰《みまくほしけど》 不止行者《やまずゆかば》 人目乎多見《ひとめをおほみ》 眞根久往者《まねくゆかば》 人應知見《ひとしりぬべみ》 狹根葛《さねかづら》 後毛相等《のちもあはむと》 大船之《おほぶねの》 思憑而《おもひたのみて》 玉蜻《たまかぎる》 磐垣淵之《いはがきぶちの》 隱耳《こもりのみ》 戀管有爾《こひつつあるに》 度日乃《わたるひの》 晩去之如《くれゆくがごと》 照月乃《てるつきの》 雪隱如《くもがくるごと》 奥津藻之《おきつもの》 名延之妹者《なびきしいもは》 黄葉乃《もみぢばの》 過伊去等《すぎていにきと》 玉梓之《たまづさの》 使乃言者《つかひのいへば》 梓弓《あづさゆみ》 聲爾聞而《おとにききて》【一云|聲耳聞而《オトノミキヽテ》】 將言爲便《いはんすべ》 世武爲便不知《せむすべしらに》 聲耳乎《おとのみを》 聞而有不得者《ききてありえねは》 吾戀《わがこひの》 千重之一隔毛《ちへのひとへも》 遣悶流《なぐさむる》 情毛有八等《こころもありやと》 (562)吾妹子之《わぎもこが》 不止出見之《やまずいでみし》 輕市爾《かるのいちに》 吾立聞者《わがたちきけば》 玉手次《たまたすき》 畝火乃山爾《うねびのやまに》 喧鳥之《なくとりの》 音母不所聞《こゑもきこえず》 玉桙《たまぼこの》 道行人毛《みちゆくひとも》 獨谷《ひとりだに》 似之不去者《にてしゆかねば》 爲便乎無見《すべをなみ》 妹之名喚而《いもがなよびて》 袖曾振鶴《そでぞふりつる》     207
 
  或本、有2謂之〔二字左△〕|名耳聞而有不得者《ナノミキヽテアリエネバ》(ノ)句1。
 
〔釋〕 ○あまとぶや 輕《カル》に係る枕詞。天《アマ》飛ぶ雁《カリ》を輕《カル》にいひかけた。古事記(下)には「天だむ〔二字傍点〕輕の少女」と續けて、や〔傍点〕の辭がない。「や」は間投の歎辭。雁《カリ》、輕《カル》は相通の音。姓氏録に「獻(ル)2加里《カリヲ》1乃(ツテ)賜(フ)2姓(ヲ)輕部《カルベノ》君(ト)1」とあるはその一例。○かるのみち 輕といふ處の道路。宮路、都路の例を推して輕に通ふ路と解するは當らない。總べてこの何路といふ語は、慣習に依つてその意が左右され、更に一定してゐない。例へば山路は山の路、海路は海の路で、山へ通ふ路、海へ通ふ路ではない如くである。况やこゝは輕の路と、領格の「の」の辭が挿まつてゐることを考へるがよい。尚この句は次の「吾妹子が里にしあれば懇《ネモゴロ》に見まくほしけど」の句を隔てゝ、「やまず行かば云々」「まねく往かば云々」の二句に係る。○かる 輕は大和高市郡白橿村に大輕《オホカル》の名が存してゐる。但輕の路は相當の道路といふよりは寧ろ當時の幹線道路であつたらしく、今の白橿村|木殿《キドノ》から大輕《オホカル》に通ず(563)る南北の路線が、昔は廣くてそれに當つたものか、或は木殿の西|小房《ヲブサ》から見瀬《ミセ》(身狹《ムサ》)に通ずる今の國道がそれであるかは不明である。孝元天皇の輕の境原《サカヒバラ》の宮地は見瀬の西に當る――紀通證の説――のだから、輕は見瀬の東西に亙つた稍廣汎なる地名であつた事は疑もない。○わぎもこがさとにしあれば 輕が〔二字右○〕我妹子の住む〔二字右○〕里であるから。輕が〔二字右○〕の語を補足しないと、その意分明を缺く。○ねもころに 懇《ネンゴロ》にの古言。「懃」は鄭重なること、懇なること。○ほしけど 望ましいけれど。ほしけれどの略で、古代語法。○ひとめをおほみ 「止まず行かば」とある將然法を「おほみ」と現在格で承けた。かく未來格で承けぬのも常の事で、未來の事を現在格で斷定することは、意志の表現上必ずあり得べき語法である。但次句が「往かば――知りぬべみ」と未來格で承けてゐるのに釣り合はぬが、これはわざと叙法を參差させたと見るか。否語そのものに備はる獨自の調子と慣習とが、さう表現させたものと見たい。○まねく 間なしに。繁多なるをいふ。「さまねし」を參照(二八二頁)。○しりぬべみ べき故にの意。「ぬ」は現在完了の助動詞。「べみ」はべし〔二字傍点〕の語根に接尾語の「み」の添つた語。○さねかづら 狹根葛《サネカヅラ》の如く〔三字右○〕。「後もあはむ」に係る序詞。葛《カヅラ》は這ひ別れて又末の行き合ふものなればいふ。狹根葛《サネカヅラ》は狹名葛《サナカヅラ》の(564)轉。「さなかつら」を見よ(三一七頁)。○あはむと 「相」は借字。○おほぶねの 大船の如く。「思ひ憑みて」に係る枕詞。既出(四六九頁)。○たまかぎる 玉|耀《カギロフ》の約。こゝは「磐垣淵」に係けた枕詞。その意は磐淵の水は碧玉の如き光をもつので續けた。「蜻」はカギロフ、又カゲロヒの訓があるので借りたもの。既出(一七七頁)。○いはがきぶちの 磐垣淵の如く。磐垣淵は岩に圍まれた淵。故に「隱《コモ》り」の序詞に用ゐた。○こもりのみ 心に秘めてのみ。○わたるひ 大空を經行く日。以下「雲がくる如」までの四句は、「靡きし妹は」の下に移して解すべき句。○くれゆく 次の「雲隱る」の對語。眞淵の訓クレヌル〔四字傍線〕は面白くない。○おきつもの 沖の藻の如く。「靡き」に係る枕詞。○なびきしいも 慕ひ寄つた彼の女。○もみぢばの 「すぎ」に係る枕詞。既出(一八四頁)。○すぎていにきと 死んでしまうたと。「伊」は「去」を必ずイニと訓ましむる爲の添字。「すぎにし」を見よ(一八四頁)。○たまづさの 使《ツカヒ》に係る枕詞。「たまづさ」はタマヂサ〔四字傍線〕の轉語で、玉齊※[土+敦]《タマチサ》樹の坏《ツキ》といふを類音の使《ツカヒ》にいひかけたものか。玉は美稱。[土+敦]《チサノ》樹はケサノキ、又ツサノキといひ、又エゴノキともいふ。安息香斜の落葉喬木で、葉は卵圓形で鋸齒が少しあり、初夏白色の五裂せる合瓣花を開き、芳香を放ち、果實は褐色の種子を藏す。その材は粗脆で多く細工物に使はれ、傘の轆轤にも盛に用ゐるのでロクロ木の稱さへある。往時土器の坏の代りにこの材を以て木の坏を作ることが行はれ、遂に玉齊[土+敦]樹の坏《ツキ》の語を成すに至つたと見たい。いづれ推古朝以後挽物細工が行はれてから發生したもので、飛鳥朝以前には未見の語である。されば「梓」は借字と斷ずる。宣(565)長の上代には梓の木に玉を著けたる使の印に持てありきしなるべしといふ説は、全くの想像説、略解の春海説は本末の前後したもので、共に採るに足らぬ。又玉梓は玉を飾れる梓弓の略にて、射遣《イヤ》る意にて使《ツカヒ》と續けたとする説もあるが、梓弓を只梓とのみいつては意義を成さぬ。○あづさゆみ 音《オト》に係る枕詞。弓は弦昔の立つもの故にいふ。「あづさの弓」を見よ。既出(三一頁)。○おとにききて 噂に聞いて。割註の「おとのみききて」は、下の「おとのみをききてありえねば」の句に抵触する。「聲」をオトと訓むは義訓。○わがこひの 眞淵の訓はワガコフル〔四字傍線〕。○ちへのひとへも 千の一つも。千重は繁きことにいふ。「一隔」は「千重」の對語。○なぐさむる 既出(五一八頁)。○こころもありやと 心なりともあるかと。「ありや」は舊訓アレヤ〔三字傍線〕、眞淵訓アルヤ〔三字傍線〕。○やまずいでみし 何時も立ち彷徨《サマヨ》うた。○かるのいち 輕市は輕の大輕の地に求むべきか。帝王編年記に「應紳天皇十年始(メテ)立(ツ)2輕(ノ)市(ヲ)1」とも見え、推古紀に輕(ノ)衢《チマタ》の名が見える。○たまたすき――うねびのやま 既出(一二三頁)。○なくとりのこゑ 「玉だすき」より「鳴く鳥の」までは「こゑ」に係る序詞。「音」をコエと讀むは意訓。舊訓はオト〔二字傍線〕。鳥の聲を音《オト》といふは古言で、鶯にも時鳥にもいつた例が集中に彼れ此れあるが、こゝは妹の聲にかけていふのだから、必ずコヱと訓む。○たまほこの 既出(二七二頁)。○ひとりだに 「谷」は借字。○そでぞふりつる 袖振ることは卷一「茜さす紫野ゆき」の歌の評語を參照(九四頁)。「鶴」は借字。○或本云々 これは本文の「聲耳乎聞而有不得者」の一傳を註したのだが、「名耳」は不妥當。謂之〔二字傍点〕は衍文。
【歌意】 抑も輕は〔二字右○〕あの兒の里であるから、よく/\見たいと思ふけれど、輕の路は止まず往かうならば人目が多さに、たび/\往かうならば人が知るであらう故に、それらがうるさいので〔十字右○〕、又そのうちに逢はうと頼みにして、磐垣淵の水の籠つてあるやうに、心の中にばかり戀ひ續けてゐるのに、自分に馴染んだあの兒は、日の暮(566)れてゆくやうに月の雲に隱れるやうになくなつたと、使が來ていふので、その話を聞いて、何ともいひやうも仕《シ》やうも知らず、とても話のみを聞いてをられないので、自分の戀の千が一つも慰められることも出きよと、あの兒が自分を待つとて、何時も出て見た輕の市に立つて聞くと、その懷かしい聲も聞えず、路を行く人も一人だつてそれに似た者が通らないから、仕方がなしに、あの兒の名を呼んで、こゝに私が居るよと〔九字右○〕袖を打振つたよ。
 
〔評〕 冒頭に何時も型にはまつたやうな大袈裟なる叙述を用ゐ、時に鬼面に人を威すかの感を抱かしめるこの作者が、「天飛ぶや輕の路は吾妹兒が里にしあれば」と、いとも卒易に輕快に、容赦なく直ちにその目的の内容に觸れて進行して往つたことは、頗る驚異に値する。蓋し作者の感情が高潮し切つて、全く左顧右眄の餘裕を存する遑がなかつた爲ともいへる。
 當時の作者は草壁(日並皇子尊)皇太子の舍人として奉仕してゐた、いづれまだ壯年期の血氣盛りの頃ほひらしい。藤原京からこの輕の路を往來して、輕の里の女の許に通つたもので、この女は内證の女であつた。
 輕の路は、天武紀十年十月の條に、
  是月將v蒐(ント)2廣瀬野(ニ)1、而行宮構(ヘ)訖(ル)、装束既(ニ)備(ハル)、然(レドモ)車駕不v幸矣、唯親王以下及(ビ)群卿、皆居(リ)2于輕(ノ)市(ニ)1、而檢2校(シ)装束鞍馬(ヲ)1、少錦以上大夫、皆列2坐(シ)於樹下(ニ)1、大山位以下者皆親(ラ)乘(ル)v之(ニ)、共(ニ)隨《ヨリ》2大路1自v南行v(ク)北(ニ)、云々。
とあるによれば、その路は大路であつた。大路といつた處で、精々三間道路位の事と思はれるが、人口の少い昔の事だから、不斷さう大した雜沓はあるまい。そのうへ土地は狹い。それだけ餘計に出這入が却つて人目に(567)も立つ。立てば噂の種となり導機となつて、戀の破滅にならぬとも限らぬ。で逢ひたい見たいの念をぢつと抑ヘ、空しく懷かしいその里その人を心に描いて、只家籠《ヒタヤゴモリ》りに戀の重壓に對抗してゐる。この辛抱の代償は只後の逢ふ瀬であつた。末長い契であつた。
 處へ注進の密使が來た。これは兩者の秘密に係り合つてゐる婢僕などであらう。「とう/\あのお方樣もお隱れで」と嘘のやうな本當の咄。突如と起つた意外の激しい衝動に姑く呆然となつたが、戀の焦燥は時に事實をさへ否定する。况や人傳の話では、おいさうかと濟ましてのみは居られぬ筈だ。乃ち直接的行動に出た。
 茲に至つて、作者と輕の女との關係状態をつぶさに探査せねばならぬ。從來の註者は忍び妻の一語に片付けて、輕の女を多くは作者の愛妾か圍ひ者位の程度にしか見て居ない。これは「妻死」の題詞にこだはつたもので、甚だ眼先が利かない。兩者の關係はもつと秘密な情交であつたと考へられる。男は休沐の暇を偸んでの輕路《カルヂ》通ひ、女は又その市路に立つて「やまず出て見し」で、來るか/\と待ちあぐむ。やがて眼と眠が會ふと點頭きかはして忽ち雲隱れするといふやうな寸法、いはゆる期(シ)2我(ヲ)乎桑中(ニ)1、要(シ)2我(ヲ)乎上宮(ニ)1、送(ル)2我(ヲ)乎湛之|上《ホトリニ》1矣(詩の※[庸+おおざと]風)底のものである。「人目を多み」「人知りぬべみ」と、無上に人の見る目を恐れたのもこの故で、遂には或故障の爲に暫く逢引を中止せねばならぬ事情のもとに置かれたものらしい。逢ひ初めてから約一年――反歌の趣による――あぶない橋を渡り/\して來た。想像を逞しうすれば、その女は作者とは餘程身分のかけ違つた權家の娘か、さもなければ有夫の婦人かも知れない。
 殊に作者が輕の女の死の報告を受けてからが、その家の弔問すらも出來ず、その死顔も見られないで、纔に嘗ての逢引の場處を往訪して、戀々悶々の情を醫するに過ぎないといふ事は、兩者の關係が秘中の秘であつた(568)事を如實に裏書するものである。
 さて直接的行動といつた處が、甚だ張合ひのない詰まらぬものであつた。既にいふが如く、逢引の場所を訪問して、既往の追憶に耽るに過ぎない。畝火の山の鳥の声は聞えても、その人の嬌音は聞く由もなく、温容は眼にあれども、實在の艶姿はもう接し得ない。市路に徂徠する澤山の女も畢竟これ赤の他人で、似た顔一つ見付からない。失望の果、落膽の極、死生の分別を忘れ、如在の人に對する態度で、その女の名を喚び掛け、「ここに私がゐます」と、袖打振つてわが存在を示し、その遣る瀬ない戀心を表示する。冷眼に見れば殆ど狂人の所爲に近いが、それ程までの極度の昂奮は、必ず極度の眞劍味から※[酉+温の旁]釀さるべきものであることを思へば、却つて眞實そのものゝ尊嚴におのづから頭がさがる。社會的制裁のもとに忍從の苦味を嘗めさせられた懊悩と、死別の痛楚と愛人を失うた落膽とが、三つ撚りに綯ひ交ぜになつて、他の窮りない同情を力強く引き摺つてゆく。畝火山は輕の路の西方に當り、輕の里からもさう遠くない。卷四に
  あま飛ぶや輕の路より 玉だすき畝火を見つゝ 云々。 (笠金村―543)
とも詠まれた。作者は輕の路の行き摺りに屡ばその山の鳥の聲を耳にしたものだらう。
 要するにこの歌は、首尾一貫、輕の路を舞臺として展開された一場の悲劇であることを、特に記憶すべきである。
 全篇の構成を便宜上「天飛ぶや」より「籠りのみ戀ひつつあるに」までを第一段、「渡る日の」より「使のいへば」までを第二段、「梓弓」より「吾立ち聞けば」までを第三段、「玉だすき」より終句までを第四段と假定して見る。
(569) 第一段「輕の路は吾妹兒が里にしあれば」は、辭句に稍不完らしく見える點もあるが、歌謠上には論理から外れた叙述が、尚想像の補足語によつて許容される場合が多いから、大目に見ておかう。「玉かぎる磐垣淵の――戀ひつつあるに」の長句は、前後の排對句の間に介在して、單調を破る効果がある。第二段は無難によく委曲を盡してゐる。構成上からは、「渡る日の晩れゆくが如」以下、「過ぎていにきと」までは、吾妹兒の訃報を齎した使者の詞であるが、素より作者の感想を混へた行叙で、使者の語そのまゝでは勿論ない。「渡る日」「照る月」の對揚は頗る常套的であるが、この際止むを得まい。第三段は大分ごた/\して面白くない。寧ろ、「梓弓おとに聞きて」の句を削つた方が重複の煩はしさもなくなり、簡明を得るであらう。又「せむすべしらに」も第四句の「すべをなみ」にさし合つて、又かの感じが起る。古歌は素朴で、重複など厭はないのだといふ説も一往は諾はれるが、反對に考へて、重複を整理するまでの餘裕を持たなかつたといふ方が至當であらう。第四段はこの歌の生命の殆ど全部が注ぎ込まれたタンクで、一首の重點は實にこゝに存する。「こゑも聞えず」は上の「立ち聞けば」を直ちに承けて聽覺から叙し、「道行く人も一人だに似てしゆかねば」は視覺から叙して排對し、作者の前から、一切空に彼の女が抹消された事相に依つて、「妹が名喚びて袖ぞ振りつる」の素地を作してゐる。是等の語はわが歌聖人麻呂にあらずんば、到底一語も下し得まいと思ふ。
 
短歌二首
    
秋山之《あきやまの》 黄葉乎茂《もみぢをしげみ》 迷流《まよはせる》 妹乎將求《いもをもとめむ》 山道不知母《やまぢしらずも》【一云|道不知而《ミチシラズシテ》】     208
 
(570)〔釋〕 ○もみぢをしげみ 紅葉が茂さにの意。○まよはせる 「迷へる」の敬相。眞淵は見失へると解したが從ひ難い。舊訓はマドハセル〔五字傍線〕。○しらずも 「しらず」は知られずの意。
【歌意】 秋山の紅葉が茂さに、分け入つたまゝ行方のわからない吾妹兒を、私は捜したいと思ふが、捜さうにもその山道が知れぬわい。
 
〔評〕 既に吾妹兒は秋山に葬送されてしまつた。その葬處位はいづれ人傳に聞きもしたらう。乃ち暮秋黄葉の道をたどつてその奥津城の露を拂ふ。したがまだ全く死んだ者の氣がしない。その紅葉の蔭にさ迷つてでも居るかの如くに思ふ。殆ど幻想に近いが、それが又人情の歸趨で、靈魂の天翔りや幽靈存在説の大きな根柢をなすものである。とにかく何としても會はれぬは事實である。途方にくれて山路に佇んで、良久しく躊躇低徊してゐる作者の悄然たる孤影が、目に見えるやうで、その眞實感には泣かされる。卷七の
  秋山の紅葉あはれみうらぶれて入りにし妹は待てど來まさず  (―1409)
と同想同型であるが、これは遙に簡淨で、餘韻も頗る永い。「山」の語の重複の如きは問題とするに足りない。一本の結句「路知らずして」は重複の嫌は避け得るが、調が繊弱で面白くない。
 
黄葉之《もみぢばの》 落去奈倍爾《ちりぬるなべに》 玉梓之《たまづさの》 使乎見者《つかひをみれば》 相日所念《あひしひおもほゆ》     209
                                        〔釋〕 ○ちりぬるなべに 散るにつれて、散ると同時になどの意。「なべ」は並《ナ》めの轉語で、動作の起る一面に又他の動作の起る意を示す。○たまづさの 上出。○あひしひ 昔その女と逢ひ初めた日。
(571)【歌意】 黄葉の散るのにつれて、妻の家から來た死亡通知の使を見ると、昔逢ひ初めた日もこんなに黄葉の散る頃であつたと思ひ出されて、まことに悲しいことだ。
 
〔釋〕 暮秋葉落の心細い折も折、愛人永眠の悲報を齎した使が來た。悼惜痛恨のあまり、綿々として盡きぬ日頃の綢繆たる情緒を追懷し、眼前の情景は忽ち鸞盟鳳結の當時を聯想させるに至つて、信に斷腸の悲みを見る。戀の序幕と切幕とが、かくも一轉瞬に囘想されるほど、二人の交情は短くはかないものであつた。恐らく去年暮秋の頃に逢ひ初めたものであらう。交合が短ければ短いほど追憶の哀愁は却つて長いのは、自然の情である。結句唐突のやうで唐突でない。それは黄葉の落葉が過去への絲を曳いてゐるからである。
 この短歌二首、内容の順序から推せば、記載が前後してゐるやうである。
 
打蝉等《うつせみと》【一云|宇都曾臣等《ウツソミト》】 念之時爾《おもひしときに》 取持而《たづさひて》 吾二人見之《わがふたりみし》 ※[走+多]出之《わしりでの》 堤爾立有《つつみにたてる》 槻木之《つきのきの》 己知碁智乃枝之《こちごちのえの》 春葉之《はるのはの》 茂之如久《しげきがごとく》 念有之《おもへりし》 妹者雖有《いもにはあれど》 憑有之《たのめりし》 兒等爾者雖有《こらにはあれど》 世間乎《よのなかを》 背之不得者《そむきしえねば》 蜻火之《かぎろひの》 燎荒野爾《もゆるあらぬに》 白妙之《しろたへの》 (572)天領巾隱《あまひれがくり》 鳥自物《とりじもの》 朝立伊麻之弖《あさたちいまして》 入日成《いりひなす》 隱去之鹿齒《かくりにしかば》 吾妹子之《わぎもこが》 形見爾置《かたみにおける》 若兒乃《みどりごの》 乞泣毎《こひなくごとに》 取與《とりあたふ》 物之無者《ものしなければ》 鳥穗〔二字左△〕自物《をとこじもの》 腋挾持《わきばさみもち》 吾妹子與《わぎもこと》 二人吾宿之《ふたりわがねし》 枕付《まくらづく》 嬬屋之内爾《つまやのうちに》 晝羽裳《ひるはも》 浦不樂晩之《うらさびくらし》 夜者裳《よるはも》 氣衝明之《いきづきあかし》 嘆友《なけけども》 世武爲便不知爾《せむすべしらに》 戀友《こふれども》 相因乎無見《あふよしをなみ》 大鳥《おほとりの》 羽易乃山爾《はがひのやまに》 吾戀流《わがこふる》 妹者伊座等《いもはいますと》 人之云者《ひとのいへば》 石根左久見手《いはねさくみて》 名積來之《なづみこし》 吉雲曾無寸《よけくもぞなき》 打蝉跡《うつせみと》 念之妹之《おもひしいもが》 珠蜻《たまかぎる》 髣髴谷裳《ほのかにだにも》 不見思者《みえぬおもへば》     210
 
〔釋〕 ○うつせみとおもひしときに わが妻が〔四字右○〕生きの身であつた時にの意。「うつせみも」(六九頁)、及び「うつそみと思ひしとき」を參照(五一五頁)。「打蝉」は借字。○たづさひて 手を取合つて。連れ立つて。次に擧げた或本(ノ)歌、即ちこの歌の別傳には「携手」とあるによつて、「取持而」をかく訓む。正辭いふ、タヅサヘテ〔五字傍線〕と他動に訓むは非と。○わがふたり わが妻と〔二字右○〕二人して〔二字右○〕。○わしりで 一寸驅け出した處。出立つた處。家の(573)近間《チカマ》をいふ。雄略紀の御製に「こもりくの泊瀬の山は――和斯里底《ワシリデ》のよろしき山」とある。ハシリデと訓むもよい。記紀に走水《ハシリミヅ》の稱が見え、ハシル〔三字傍点〕はワシルよりも語が古い。萬葉時代は兩語竝行して使はれてゐたものらしい。○つつみ 池の塘。○つきのき 欅《ケヤキ》のこと。楡科の喬木。實は櫻に似て小さく、その末梢極めて茂く、天を刺してゐる。古へは弓材に用られて、槻弓の稱がある。伊勢貞丈の冬草に、欅と甚だ相似て、葉の刻缺多く細かく、木理縱横にして欅の木理の縱なると異なりと見えて、欅の別種としたが、記紀萬葉に槻は盛に出るが、欅はない。欅ほどの目に立つ大木が閑却されて、全然記述がないのも可笑しい。これは欅を古へは槻と稱したから欅の語が出ないのである。冬草にいふ木理の事は挽き割つてから後にわかるべき事で、いかがと思ふ。○こちごち 此方此方《コチゴチ》の意。守部いふ、この語はヲチコチ〔四字傍点〕とは別にて、上に物二つを先づいひてその一つをコチと指し、今一つをコチと指していふ詞なり、ヲチコチは打付けにも詠み出だせるを、コチ/”\は一首の初めに打出せる例なしと。とはいへ譯語はアチコチといふより外はない。雄略記に「平群の山のこち/”\の山の峽《カヒ》に」、集中卷三に「なまよみの甲斐國うちよする駿河國とこち/”\の國の御中ゆ」、卷九に「こち/”\の花の盛りに」などある。○おもへりし 繁く〔二字右○〕思つてゐた。○よのなかをそむきしえねば 無常なる世間の定則を免れ得ぬから。生ある者は必ず死ある現世なの(574)でいふ。○かぎろひのもゆる 靄の立つをいふ。野を燒く火といふ説は見當違ひ。「かぎろひ」を見よ(一八五頁)。「蜻」は借字。「火」は添字。○しろたへの 白布の領巾《ヒレ》と續く。既出(一一八頁)。○あまひれがくり 芳樹いふ、「白き幡を柩の四方に樹てゝ持ち行くをいふ。喪葬令に親王大臣以下數百竿の幡を用ゐる制あり、卑官の人の妻などさばかり多くは用ゐるべきにあらねど、樣々につけて樹てたるが靡くを、天領巾といへるなるべし」と。「あま」は死を神去ると見ての敬語。古義に天人の天路を往來ふ領巾の由なればとあるは鑿に過ぎる。○ひれ 領巾。上古女子が頭上より肩に挂けて装飾とした巾。今のスカーフのやうな物、錦、羅、紗などにて製する。歴世女装考に振手《フリテ》の約かとある。蛇の比禮、蜂の比禮など、その用に從つて振りもするが、もと正装の時の装飾である。記載では崇神紀を初見とする。後世には采女女官など服用した。○とりじもの 鳥そつくりのもの。鳥は朝塒を飛び立つもの故「朝立つ」にかゝる序とする。「阪鳥の朝越えまして」(卷一)と似た造語。「かもじもの」を參照(一九三頁)。○あさたちいまして 葬送の門出するをいふ。朝鳥の立ちいましてとあるべきを、音數の制限上から、「朝」を下の句に付けた。「い」は接頭語。○いりひなす「なす」を見よ(九〇頁)。○かくりにしかば 埋葬の終れるをいふ。○かたみにおける 形見として殘して置いた。○みどりご 異傳に「緑兒」とあるによつて、姑く舊訓に從ふ。和名抄にも嬰孩兒《アカゴ》をミドリゴと訓んであり、緑は髪の色から出たとしてあ(575)るが、黒を緑といふことは漢土の慣習だから、漢學隆盛期に生まれた語と思はれる。するとそれ以前に嬰孩兒《アカゴ》を何と稱したか、古語拾遺に「天照大神育(クミ)2吾勝《アカツノ》尊(ヲ)1、特甚鐘愛《イトイタクイツクシミ》、常(ニ)懷(ク)2腋(ノ)下(ニ)1、稱(ケテ)曰(フ)2腋子《ワキゴト》l云々」とあつて、註に今俗(ニ)號(ケテ)2稚子(ヲ)1謂(フハ)2和可古《ワカコト》1是其轉語(ト)と見えた。故にこゝを契沖はワカゴノ〔四字傍線〕と訓み、古義はワカキコノ〔五字傍線〕と訓んだ。○こひなく 乳を〔二字右○〕乞ひ泣く。集中卷十八にも「禰騰里兒《ミドリゴ》の乳《チ》乞ふが如く」とある。○とりあたふ 「とり」は接頭語。この「あたふ」は四段の活用で古語。○をとこじもの 男でありながら。この「じもの」は上の「鳥じもの」とは用法が異例である。これ及び雄自物《ヲジモノ》負ひ抱きみ(卷三)男士《ヲノコジ》物や戀ひつゝをらむ(卷十一)などは、男のすまじき業をする意にいふ。「鳥穗」は異傳には「男」とあれば、烏徳〔二字左△〕《ヲトコ》の誤とした眞淵説に從ふ。又「鳥利〔右△〕」の誤として、鳥が羽交ひに雛をくゝむる貌に喩へたものと解しても通ずるが、訓の確定された名詞に添字を付することは快くない。○わきばさみもち 兒を腋に抱くことは古代の慣習で、「みどりご」の項に引いた古語拾遺の文にも見え、又卷三の高橋朝臣の歌にも「腋挾む子の泣く毎に男じもの負ひみうだきみ」とある。○まくらづく 嬬屋《ツマヤ》に係る枕詞。嬬屋には夫妻枕を並べ付くるよりいふ。○つまや 嬬の部屋で、寢室のこと。○うらさび 既出(一三七頁)。「浦」は借字。「不樂」をサビと訓むは意訓。○いきづき 息を吐《ツ》くこと、即ち歎息すること。○しらに 既出(四一頁)。○おほとりの 羽《ハ》に係る枕詞。大鳥は鷲又鸛をいふが、こゝは只大きなる鳥と解するがよい。○はがひのやま 大和添下郡春日(ノ)郷にある。羽易の山は卷十に「春日なる羽買《ハガヒ》の山ゆ狹帆《サホ》の内《ウチ》へ鳴きゆくなるは誰れ喚子鳥」と(576)ある羽買の山のことで、羽易は羽交《ハカヒ》の義、狹帆は佐保である。羽易の山から佐保の内へ喚子鳥が飛び通ふとあるによつて考へると、佐保の内に向き合つた山は春日の山塊より外はない。地名辭書に、羽易(羽買)は翼の義なれば春日山左右の一峯なるべしとあるは、尤なる推斷と思ふ。さて春日山塊の左は高圓山で、佐保とはかけ離れてゐるから關係はない。右の一峯こそはこゝにいふ羽易の山で、まさに佐保の郷に臨んでゐる。この山平安期より鶯山、又若草山(俗に三笠山)といひ、遂に羽易の山の古名を失つたものと考へられる。卷六の悲寧樂故京郷作歌の一節に「射鉤《イコマ》(駒)山|飛火賀塊爾《トブヒガヲカニ》」とある射鉤を、宣長は羽買の誤として、伊駒の烽火《トブヒ》(高安の烽火のこと)を高圓《タカマト》の烽火に振替へ、羽買山を高圓山と同處の如くに解したが、抑も射鉤を羽買と改めたことが、甚しい私妄である。○わがこふる 「吾」を異傳に「汝」とあるによつて、ナガコフル〔五字傍線〕と改むる眞淵説に從ふ人も多いが、作者みづから吾《ワガ》といつたと見れば改むるに及ばぬ。○ひとの 或〔右○〕人の。○いはねさくみて 岩根を踏み通つて。「さくみて」は凸凹《サクミ》ある上を歩くをいふ。祝詞式に「磐根木根|履佐久彌《フミサクミ》」、また卷六に、「五百重《イホヘ》山いゆき割見《サクミ》」などある。○なづみこし 澁り悩んで來たことであつた。「こし」の下、が〔右○〕の辭を補つて聞く。○よけくもぞなき 一向〔二字右○〕良くもない。「よけく」はよきの延言。こゝの「もぞ」は、却りて〔三字傍点〕の餘意の生ずる用法ではない。この一句は下の「見えぬ思へば」の次に廻(577)して解する。○たまかぎる ほのかに係る枕詞。既出(一七七頁)。
【歌意】 わが妻の在世中には、手をつないで二人で見た、つひそこの堤に立つて居る槻の木の、あちらこちらの枝の春の葉の茂つてゐるやうに、繁く念つた妻でもあり、頼みにしてゐた妻でもあるが、人間世の無常の道理を背くことが出來ないから、あの蜻火のもえる荒野に、葬送の白旗に蔽はれて、朝鳥のやうに家を立出て、入日のやうに影を隱したので、妻の形見に殘して置いた緑兒が物乞うて泣くたびに、呉れて遣る物がないから、男ながらも兒を腋の下に抱き、妻と二人で私が寢た寢室の内に、晝は心さびしく暮し、夜はうめき明し、歎きに歎いても仕やうもなく、戀ひに戀うても逢ふことも出來なさに、たま/\春日の羽易の山に私の戀しい妻は居ると人がいふので、岩を踏み分けて泥みつゝ來たが、何の詰らないこと、この世の人であつた妻が、ほのかにすらもその姿の見えないことを思へばさ。
 
〔評〕 本篇は上の長歌と共に金ピカ的御家物ではなくて、家庭的世話物である。大序から切まで何段もある通し狂言ではなくて、上中下三卷で、チヨツピリ正味だけをフンダンに利かせる悲劇である。
 この篇の妻は前篇のと違ひ、家に同棲してゐたのだから、まづ正妻であつたと見るが至當であらう。
 人麻呂の門前は池の塘であり、夫婦水入らずの逍遙にはもつて來いの處であつた。そこには槻の大木が盛※[直が三つ]立し、その千枝萬葉は天を蔽ふのであつた。「春の葉」は繁茂の感じを具象した語である。槻のもとの逍遙は作者が終生忘れ得ぬ樂しい記憶で、今この記憶を反復して、亡妻追憶の情懷に耽り、初頭より「茂きが如く」までを「念へりし」に係けて修飾とし、序詞の形式を取つたその運用に、自然の妙がある。さやうに繁く念へり(278)し妹、憑みにした兒等、とある相對的辭樣の反復は、戀慕の情味を力強く表現した手法で、後段悼亡の悲傷を十分に反撥せしむる素地を作してゐる。こゝまでは前段の第一節で次いで第二節に轉移してゆく。
 「世の中を背きし得ねば」の分別臭い理性的措辭は、折角煮立てた湯に冷水をさすものゝやうであるが、これはわざと逆手を使つたもので、そこに心頭の葛藤も見られて、却つて抑揚の味ひを生ずる。かくて又有識階級者としての作者が、當時流行の佛教の無常思想に信仰をもつてゐた點が著く示されてゐる。葬送の場處は、短歌によれば衾路《フスマヂ》の引手《ヒキテ》の山で、今の龍王山の山麓地帶が、即ち「蜻火のもゆる荒野」であつた。抑も春日山以南三輪山に至る山脈の西麓一帶の地は、往時は草樹が盛に繁茂してゐた荒地だつたので、墳塋の現存するものの多いのもこの故であつた。その荒野に「――天領巾隱り――立ちまして、――隱りにしかば」と、葬儀事をはつて、我妹子は全くあの世の人となつたといふ。畢竟この一節は後段の爲に事件の推移を叙して筋を運んだ幕である。
 後段第一節、いよ/\世話場だ。母親は死んで慘めにも赤坊が取殘された。それが乳を欲しがつて泣く。貰ひ乳か、さもなければ乳代りの米の粉か、どれも急な間に合はない。焦り付くやうに泣き立てられては、男手ではどうにもならぬ。據なく片手抱きに抱き込んで、ホイ/\あやしながら、主なき閨の内で、夜晝心さびしくフウ/\吐息を吐いて明し暮し、幾ら困る弱ると歎いても仕樣もなく、さあ女房生き返つてくれと戀しがつても、二度とこの世では逢ひやうがない。と叙事から漸く叙情に移つてきた。死んだので始めて女房の有難味を痛感する、世間によくある例である。隨つて愈よ逢ひたさ見たさの念が募る。「戀ふれども逢ふ由をなみ」の句は、實に第二節を展開する楔子である。「晝はも――」「夜はも――」の對偶は例の一連の事相を夜晝に分隷(579)して合拍させた手法である。
 第二節は實に夢幻的神秘的な事件を扱つた幕である。「羽易の山に――妹はいます」と人が告げたといふ。頗る怪異な事ではないか。葬送したのは衾路の引手の山、然るに引手の山より四里も北の春日の羽易の山に妹が居るとなつては、眞鞆に聞いて居ては話がわからぬ。で從來の註者は、引手の山も春日(ノ)郷に屬する山で羽易の山と同處だらうと臆斷してゐる。さらば「衾路を」とある地理的證文をどうするか。
 茲に至つて、吾人の祖先がもつてゐた靈魂不滅の信念を囘顧し、進んではその靈魂の活動とその活動樣式とを考察し、遂に靈魂の具象化された幽靈亡靈の存在から、時には死者の復活さへ信じてゐた時代である事を認識する必要がある。――更に顧みて神代の岩戸傳説を思ふがよい。
 されば死者に行き合へるとか、死者の幻影が見られるとかいふ迷信は、當然起り得る筈のものであつて、
  もゝ足らず八十のくまぢ〔三字傍点〕に手向せば過ぎにし人に蓋しあはむかも (卷三、刑部垂麿―427)
も、この思想を如實に裏書するものである。この迷信は後世でも各時代にそれ/”\存在し、その形式や方法や場處やが、多種多樣に指示されてある。
 人麻呂の妻君は既に衾路の引手の山の地下の人となつた。然しそれが遠く羽易の山に居るとすると、幽靈かさなくば、その復活でなくて何であらう。告げた人は抑も何者か。それは卜占者か、陰陽師か、仙釋道の術士か、或は梓御巫《アヅサミコ》のやうな者か、まじ者使ひの妖蠱者か。時代は稍後れるが、續紀天平二年の詔に、
  安藝周防(ノ)人等妄(リニ)説(イテ)2禍福(ヲ)1多(ク)集(メ)2人數(ヲ)1妖2祠(シテ)死魂(ヲ)1云(フ)v有v所v祈(ル)、又近(キ)v京(ニ)左側(ノ)山原(ニ)聚2集(シテ)多人(ヲ)1妖言(シテ)惑(ハス)v衆(ヲ)多(キハ)萬人少(キハ)數千。
と見え、京の左側の山原即ち春日附近には怪行者が跳梁し、中には死魂を妖祠する者などもあつたらう。
(580) 苦しい時の神頼み、流石のインテリ人麻呂も嬬戀ひの奴となつては、只これ一箇の痴呆者である。何かの術者の示唆の詞に乘つて、もしかしたら再び妻に逢へようの一念に驅られ、遙々四里の道を春日の羽易の山まで出掛けたものと考へられる。羽易の山即ち若草山は、多分その頃は樹林蓊欝として、水谷川(吉城川)の水源あたりは頗る物凄いものであつたらう。隨つて夜見の國への出入口、亡魂亡靈のすだく魔處といつたやうな具合に信ぜられて居たかも知れない。
 だが、それは無用の骨折に過ぎなかつた。岩が根道を息せき切つて上つては來たものゝ、ほのかなその幻影さへも捉へられなかつた。幻滅の悲哀、失望落膽の極、「よけくもぞなき」と?んで吐き出したやうな一句を吐いて、緜々として盡きざる長い恨を搖曳させてゐる。「よけくもぞなき――見えぬ思へば」の倒装は、例の長歌の結收に必要なる叙法で、それは千斤の重量を結句に集中させて、上來の語勢の迫力とその均衡を保たしめる爲である。
 この前後二篇は人麻呂その人が赤裸々に暴露された作で、歌聖の生活を考察する好資料であるのみならず、眞情激越、その嗚咽の音なほ耳に響き、酸苦の態今も眼に映ずるを覺える。蓋しその壯年血性の發する處で、泣く〔二字傍点〕の語、涙〔傍点〕の語を一切著下せず、しかも沈痛一にこゝに至るは靈妙の筆である。前篇は情界の天地を震撼する激語をもつてその末節を昂揚し、後篇は各節平均に高いレベルを終始歩んでゐる。
                 △靈魂と復活(雜考−9參照)
 
短歌二首
 
(581)去年見而之《こぞみてし》 秋乃月夜者《あきのつくよは》 雖照《てらせれど》 相見之妹者《あひみしいもは》 彌年放《いやとしさかる》     211
 
〔釋〕 ○つくよ 「夜」は單に輕く添へた接尾語で、月その物をいふ。この用例は、「こよひの月夜《ツクヨ》あきらけくこそ」(卷一)、「わが宿の毛桃の下に月夜さし」(卷十)、「燈火を月夜になぞへ」(卷十八)など集中に多い。○いやとしさかる いよ/\年が遠ざかつてゆくの意。
【歌意】 去年見たことであつた秋の月は、相變らず今年も照つてゐるが、連れ添うてゐた妻は、死後いよ/\ます/\年が經つてゆくのみで、再び相見ることも出來ぬのが悲しいことだ。
 
〔評〕 疊出の「見」の語、その意はおの/\別に使はれてゐるが、元來が同語である爲、通じて主眼の語たる立場に置かれ、おなじ嘗て見たものでも、月はもとのまゝに存在し、人は逝いて昔となつてゐることを感傷した趣に聞き取られる。かうした互に相乖離した事相の合拍から起る感懷は、誰れも抱き易いものであつて、それだけ平凡化する嫌が無いでもない。詩にも
  同(ジク)來(ツテ)翫(ビシ)v月(ヲ)人何(レノ)處(ゾ)、風景依稀(トシテ)似(タリ)2去年(ニ)1。(唐、趙※[古+瑕の旁])
の如き類想は頗る多い。
 「照らせれど」は理路に著して詩味の一半を殺ぐ。「見てし秋の月夜は」と「あひ見し妹は」と、同形の對語になつてゐるのは平板ではあるが、一面また率直味があるともいへよう。後世ならばこれを避ける處である。「いや年さかる」は誇張で、上句の趣によれば、去年の秋に死んだ妻の一周年に當つての作である。
 
(582)衾道乎《ふすまぢを》 引手乃山爾《ひきてのやまに》 妹乎置而《いもをおきて》 山徑往者《やまぢをゆけば》 生跡毛無《いけりともなし》     212
 
〔釋〕 ○ふすまぢを 諸陵式に、山邊郡に衾田《フスマダノ》墓がある。衾は地名で、そこの田が衾田、そこへ通ふ路が衾路《フスマヂ》である。「を」は古言の用法で、領格の「の」に通ふ。「みはかしを劔の池」(卷十三)の類で、衾路の引手の山の意である。眞淵、雅澄は、衾の乳《チ》(耳)を引くといひ懸けた枕詞と見たが牽強であらう。○ひきてのやま 衾田から東方に當る龍王山をいふか。山邊郡朝和村に屬する。この山の西麓釜口と稱するあたり冢墓が頗る多い。○いもをおきて 妻を墓處に葬つたのをいふ。○いけりともなし 宣長は卷十九に「生家流等毛奈之《イケルトモナシ》」とあるを證として、こゝもイケルトモナシ〔七字傍線〕と訓み、ト〔傍点〕は利心《トゴヽロ》の利《ト》で助辭の「と」でないといつたが、利心を利とのみいつては語を成さない。卷十九の方は或は誤寫かも知れないし、さうでなくとも又他に解しやうもある。
【歌意】 引手の山の寂しい墓の中にいとしい妻を葬つて置いて、山路を歸つて來れば、悲しくて自分までがまる(583)で生きてゐる氣はしない。
 
〔評〕 衾路を引手の山は當時の共同基地であつたらしい。現在でも千年以上の冢墓が累々として相望んでゐる。いづれ樹木も所在に欝蒼とした、いかにも氣疎い山中であつたらう。そんな處に假令亡骸にせよ、たつた一人愛妻を棄てゝ來ることは、人情忍び難い。けれども蘋藻禮をはれば、いやでも墓前を辭しなければならぬ。「妹をおきて山路をゆけば」、限ない哀愁に囚はれて、後髪を牽かれる思に、自分まで生きてゐる空はなくなるのである。「生けり」の一語、戀人の死を映帶して一首の眼目となつてゐる。「妹をおきて云々」を、戀人の家から辭去する生前の趣に取成したといふ説は、あまりに穿ち過ぎてゐる。「路」及び「山」の語の重複も、この時代の率直な粗派の構成と見れば、さのみ苦にならない。
或本(の)歌
 
字都曾臣等《うつそみと》 念之時《おもひしときに》 携手《てたづさひ》 吾二見之《わがふたりみし》 出立《いでたちの》 百兄槻木《ももえつきのき》 虚知期知繭《こちごちに》 枝刺有如《えださせるごと》 春葉《はるのはの》 茂如《しげきがごとく》 念有之《おもへりし》 妹庭雖在《いもにはあれど》 恃有之《たのめりし》 妹庭雖有《いもにはあれど》 世中《よのなかを》 背不得者《そむきしえねば》 香切火之《かぎろひの》 燎流荒野爾《もゆるあらぬに》 白栲《しろたへの》 天(584)領巾隱《あまひれがくり》 鳥自物《とりじもの》 朝立伊行而《あさたちいゆきて》 入日成《いりひなす》 隱西加婆《かくりにしかば》 吾妹子之《わぎもこが》 形見爾置有《かたみにおける》 緑兒之《みどりこの》 乞哭別《こひなくごとに》 取委《とりまかす》 物之無者《ものしなければ》 男自物《をとこじもの》 脅挿持《わきばさみもち》 吾妹子與《わぎもこと》 二吾宿之《ふたりわがねし》 枕附《まくらづく》 嬬屋内爾《つまやのうちに》 旦者《ひるは》 浦不怜晩之《うらさびくらし》 夜者《よるは》 息衝明之《いきづきあかし》 雖嘆《なげけども》 爲便不知《せむすべしらに》 雖戀《こふれども》 相縁無《あふよしをなみ》 大鳥《おほとりの》 羽易山爾《はかひのやまに》 汝戀《ながこふる》 妹座等《いもはいますと》 人云者《ひとのいへば》 石根割見而《いはねさくみて》 奈積來之《なづみこし》 好雲叙無《よけくもぞなき》 宇都曾臣等《うつそみと》 念之妹我《おもひしいもが》 灰而座者     213
 
〔釋〕 ○てたづさひ 手たづさはり〔二字傍点〕の約。卷五に「手さづさはり」、「手をたづさはり」などある。○いでたち 一寸出た場所をいふ。「はしり出」といふに近い。○ももえ 澤山の枝。記に「長谷《ハツセ》の百枝槻《モヽエツキ》の下」(雄略記)などある。「兄」借字。○とりまかす 小兒に與へ持たせる。○せむすべ 「爲便」をかく訓むは卷十二に「爲便《セムスベ》もなし」の例による。○ながこふる お前が慕ふ。○灰而座者 字の如くハヒニテマセバ〔七字傍線〕と訓んで、火葬の灰に(585)なつたと解せられぬでもないが、餘に唐突で穩かでない。仄〔右△〕の誤字と見て、ホノニテマセバ〔七字傍線〕と訓む時は意が愈よ通じにくい。必ず訛誤があらう。
短歌三首
 
上出の長歌には反歌は二首であつたが、この別傳の方には三首の短歌が附屬してゐるのである。さうしてその内最後の一首だけが全く別裁で、初の二首は本傳の方の短歌と微細な字句の相違のみである。
去年見而之《こぞみてし》 秋月夜《あきのつくよは》 雖度《わたれども》 相見之妹者《あひみしいもは》 益年離《いやとしさかる》     214
 
〔釋〕 ○わたれども 去年と變らず空を渡つてゆくけれどもの意。
 
衾路《ふすまぢを》 引出山《ひきてのやまに》 妹置《いもをおきて》 山路念邇《やまぢおもふに》 生刀毛無《いけりともなし》     215
 
〔釋〕 ○ひきてのやま 「引出山」は引手の山に同じい。○やまぢおもふに 妻の亡骸を置いてあるその山の寂しい道を思ひやるにつけての意。
 
〔評〕 右二首とも歌意に大差ないが、何れも前出のに及ばない。
 
(586)家來而《いへにきて》 吾〔左△〕屋乎見者《つまやをみれば》 玉床之《たまどこの》 外向來《とにむかひけり》 妹木枕《いもがこまくら》     216
 
〔釋〕 ○つまや 妻の部屋をいふ。上にも「枕付嬬屋《マクラツクツマヤ》」とあつた。但「吾屋」のまゝではワガヤ〔三字傍線〕と訓む外はないが、こゝは眞淵が妻〔右▲〕の誤寫として、ツマヤ〔三字傍線〕と訓んだのに從ふ。○たまどこ 「たま」は美稱。「とこ」は寢所。卷十の七夕歌に「あすよりはわが玉床を打拂ひ」とある。眞淵は靈床〔二字傍点〕の義としたが、靈床は神座で、枕など附近にあるべくもない。○とにむかひけり 古義の訓に從ふ。舊訓はソトニムキケリ〔七字傍線〕であるが、「外」をソトといふは古語でない。○こまくら 木製の枕である。
【歌意】 葬處からわが家に歸つて來て、妻の閨を覗くと、寢床の外に、嬬のした木枕が向いてゐるわい、あゝ今は主もないこの木枕がなあ。
 
〔評〕 長歌の趣から察すると、この妻は同棲してゐた人と思はれるのに、こゝには「家に來て」とある。この口吻は久し振に歸宅した趣に聞き取られる。然し旅行歸りでもあるまい。この際の事情から揣摩すると、妻の墓側に假庵して、相應の日子を喪に籠つて後、家に歸つた折の感想と見るのが一番至當であらう。たま/\家に來てみると、主なき閨は空洞のやうな靜さと寂しさとを湛へたのみならず、ありし空床の上に、妹が用ゐた木枕がひとり物寂しげに横はつて、その主を待つものゝ如くである。夫たり伴侶たる作者としては、最も追憶の聯想の強い物だけに、その荒涼たる感愴が無際限に波打つて襲ひ來るのである。
 嘗て自分は『歌がたり』(明治三十五年版)中に於いてかういつたことがある。
(587)  婦人葛生の地に永畢の志あるを誓ひて歌うて曰く、
   角枕粲(タリ)兮、錦衾爛(タリ)兮、予(ノ)美亡(シ)v此(ニ)、誰(ト)與(ニ)獨|且《アカサン》。(詩、唐風)
  君子歸期無し、得て見るべからず、凄慘の情※[立心偏+則]々の思、字句に溢れて悲し、歌聖人麻呂の悼亡の作に、
   家に來てつま屋を見れば玉床の外に向ひけり妹が木枕
  渠れや三百篇の詩を讀みしか、讀みてそを飜案せしか、はた知らざりしか、知らずして一致せしか、恐らくは後者。若し山上憶良ならむには前者の疑は遁るべからじ。
 
吉備〔二字左△〕津釆女死《きびつのうねめがみまかれる》時、柿本(の)朝臣人麻呂(が)作歌一首并短歌
 
○吉備津采女 吉備出身の采女の稱。然し短歌には樂浪之志我津《サヽナミノシガツノ》子、凡津《オホツノ》子などある。この長歌と短歌との中間に何の誤脱もないとすれば、「吉備」は志我〔二字右△〕の誤寫と見るより外はない。よつて「志我津《シガツノ》采女(ガ)死時」として解する。「志我〔二字右△〕津采女」は近江の滋賀の郡領の女で采女に出た人の稱。「釆女」の解は既出(三一八頁)。
 
秋山《あきやまの》 下部留妹《したぶるいも》 奈用竹乃《なよたけの》 騰遠依子等者《とをよるこらは》 何方爾《いかさまに》 念居可《おもひませか》 栲紲乃《たくなはの》 長命乎《ながきいのちを》 露己曾波《つゆこそは》 朝爾置而《あしたにおきて》 夕者《ゆふべは》 消等言《きゆといへ》 霧己曾婆《きりこそは》 夕立而《ゆふべにたちて》 明者《あしたは》 失等言《うすといへ》 梓弓《あづさゆみ》 音聞吾母《おときくわれも》 髣髴見之《ほのにみし》 事悔乎《ことくやしきを》 布栲乃《しきたへの》 (588)手枕纏而《たまくらまきて》 劔刀《つるぎたち》 身二副寐價牟《みにそへねけむ》 若草《わかぐさの》 其嬬子者《そのつまのこは》 不怜彌可《さぶしみか》 念而寐良武《おもひてぬらむ》 悔彌可〔三字左△〕《くやしみか》 念戀良武〔四字左△〕《おもひこふらむ》 時不在《ときならず》 過去子等我〔左△〕《すきにしこらが》 朝露乃如也《あさつゆのごと》 夕霧乃如也《ゆふぎりのごと》     217
 
〔釋〕 ○したぶる ハ行上二段の動詞。その解に(1)は萎《シナ》ぶの古語にて紅葉して匂ふをいふと(冠辭考)。(2)は朝《アシタ》びの上略にて赤根さす朝の天の色の如く美しきをいふと(記傳)。こゝは(1)の説がよい。秋山の色づいた美しさを妹の紅顔に擬へていつたもの。記に秋山之|下氷壯夫《シタビヲトコ》(中卷)、集中に秋山(ノ)舌日下《シタビガシタ》(卷十)などある。舊訓シタベル〔四字傍線〕は非。○いも この妹は女性を親んでいつた語。○なよたけの 「とをよる」に係る枕詞。「なよたけ」は嫋《ナヨ》竹の義で、皮竹即ち女竹のこと。なよ/\と撓み靡く意を以て、下にいひ續けた。卷三に「名湯《ナユ》竹のとをよる皇子《ミコ》」とあるに思へば、こゝもナユタケで、「用」は由〔右△〕の誤ではあるまいか。然し集中他に用例がないから決定し難い。まづ兩語竝行して存在したものとする。「奈」は次音ナイ、那と同意にも用ゐる。○とをよる 撓依《トヲヨル》の義。しなやかに靡くをいふ。「とを」はたわ〔二字傍点〕の通語で、トヲヽ〔三字傍点〕、又タワヽ〔三字傍点〕ともいひ、撓む貌にいふ。○こら 「ら」は本來複數語だが、單なる添辭として用ゐる。こゝもその意。「こ」は「なつますこ」を見よ〔初版は、「「なつますこ」を見よ」→「既出」〕(一〇頁)。○おもひませか の下ならむ〔三字右○〕の語を補うて聞く。「おもほしめせか」を參照(一二四頁)。訓は古義に從つた。舊訓はオモヒヲリテカ〔七字傍線〕、眞淵(589)訓はオモヒヲレカ〔六字傍線〕。○たくなはの 「長き」に係る枕詞。栲紲《タクハナ》は楮皮の麻《ヲ》を縒つた繩。繩は長いのを用とするから、長きに續けた。「たく」は栲《タヘ》に同じい。「しろたへ」を見よ(一一八頁)。「紲」は動物のはづなのことだが、こゝは繩と同意に用ゐた。眞淵のタクヅヌ〔四字傍線〕の訓は非。○ながきいのちを 長い命であるものを。「を」の辭を受ける辭が下にないと見て、景樹はこの下一二句落ちたる也といつたが、これは速斷の過ちで、この「を」は遠く末節の「時ならず過ぎにし」に係るのである。○ゆふべは――あしたは 古義の訓による。舊訓はユフベニハ〔五字傍線〕――アシタニハ〔五字傍線〕。○きゆといへ――うすといへ 略解の訓による、舊訓はキエヌトイヘ〔六字傍線〕――ウセヌトイヘ。○あづさゆみおと 既出(三一頁)。○ほのにみしことくやしきを 仄かながら見たことが悔しいのを。裏に※[(來+力)/心]じ見なければこんな感傷はもつまいにと悔しまれるとの意がある。「ほのに」を眞淵は短歌に「於保《オホ》に見しかば」とあるを移して、こゝをもオホニ〔三字傍線〕と訓んだが、「髣髴」はホノカの意に訓むが至當で、卷七にもさう訓んである。○しきたへの 「手枕」の枕に係る枕詞。「布」に敷くの意がある。既出(二五五頁)。○まきて 「いはねしまきて」を見よ(三〇〇頁)。○つるぎたち 「身に副ふ」と係る枕詞。既出(五〇六頁)。○ねけむ 「價」をケに充つるは呉音。○わかぐさの 夫(妻)に係る枕詞。既出(四三四頁)。○つまのこ 夫《ツマ》の子。「子」は親愛の語。「嬬」は借字。○さぶしみ さぶしがりの意。「さぶし」は「うらさびて」を參照(一三七頁)。○くやしみ 悔しがりの意。「悔彌可念戀良武」の二句は原本にないが、古寫本の多くにあるので、補入した。後世の萬葉熱旺盛時代と違ひ、恣に創作の辭句など弄ばぬ時代の記載だから、信ずべきものと思ふ。○ときならずすぎにし 死ぬる時ならずして死んだ。自殺したのをいふ。新考もこの説である。卷三長屋王賜死之後|倉橋部《クラハシベノ》女王(ノ)歌に「大君のみこと畏み大あらきの時にはあらねど〔七字傍点〕雲隱ります」、同卷|丈部《ハセツカベノ》龍麿(ガ)自縊《クビレテ》死之時大伴三中の長歌(590)に「空蝉のをしきこの世を露霜のおきていにけむ時にあらずして〔七字傍点〕」などの例を參照。○こらか 「我」を香〔右△〕の誤とした古義説に從つた。「か」は歎辭。○あさつゆのごとゆふぎりのごと 如《ゴト》は中止形の語だから、この二句は上へ返る格である。「如也」を舊訓にはゴトヤ〔三字傍線〕と訓んであるが、この二つの「也」は焉の字の如き添字。
【歌意】 秋山の色のやうに美しいかの女、女竹のやうにすんなりとしたあの子は、何と思つたかして、本來人は長い命なものを、それは露は朝に置いて夕方には消え、霧は夕方に立つて朝には失せるといふが、思ひがけなくあの子は死んだよ〔十四字右○〕、それを話で聞く私でさへ、生前一寸でも會つたことが思出の種で悔しいのを、まして手枕交はして添寢《ソヒネ》をしたであらうその夫君は、くよ/\と念ひ寢をするであらうか、なまじ狎れ馴染んだことを殘念がつて戀ひ念ふであらうか。全くはかない朝露のやうに、夕霧のやうに、思ひがけなく死んだあの子かいな。
 
〔評〕 作者人麻呂がこの薄命美人采女に對しての親昵程度は、極めて淺いものであつた。いはゞ「ほのに見し事悔しきを」の程度である。又その夫君との交際程度はどうかといふに、第一その有無さへも判然しない位のものであつた。只采女との極めて淺い交情から出發した淡い感想、それは川向ふの火事に對するやうな力弱い衝動を基礎として、推理的に夫君に同情を寄せたに過ぎない。然るに尚且この一篇の弔歌を物して捧げねばならぬ理由は何か。
 抑もこれは事件中心の作である。若い采女の不慮の死、而もその死が天命ではなくて自殺といふのなら、當時の社會人を刺戟するに、十分有力な條件を具へたものといつてよい。苟も一面の識ある歌人人麻呂にして默(591)過することの出來ぬのは、又當然であらう。
 一篇の主意は末段の「時ならず過ぎにし子らか、朝露の如夕霧の如」の五句に盡きてゐる。上の各段は或はその前景であり、或は背景である。更に委しくいへば、「秋山の」より「失すといへ」までは左右の前景、「梓弓」より「念ひ戀ふらむ」までは背景に屬する。この背景を成す作者自身と夫君とに關する直接の悼意は、この歌では殆ど挿話の如き位置に立たされてゐる。故にこの一段を除いて、前後の二段を一連に引續けて見ると、一篇の意が極めて明確に疏通する。
 人世を露に喩へ霧に擬へなどして無常を觀ずることは、既に金剛經の十喩にも見えた事で、佛教東漸以來、漢土でもわが邦でも一般社會に瀰漫してゐた思想であつた。あながち作者の新研ではない。只この露や霧を反復して、讀者に向つて無常的感傷を強要した點が、對象たる「したぶる妹、とを依る子等」の美人采女に纏綿して、効果的に哀惜の情味を唆り、同情の涙を墮さしめる。
 序にいふ、采女の姦犯の禁が嚴しかつた時代に、采女に夫のあるといふ事實は、何としても解し難い。故に眞淵は前の采女であらうと推定した。或は殊によると、この夫は公然たる資格者ではなくて、情人だつたかも知れない。采女が自殺したのは、その姦犯に就いての捌きの前の戰慄から遁れる爲の餘儀ない手段ででもあつたかも知れない。
 この篇頗る音律的諧調に富んでゐる。はじめ双頭對を以て起り、次に露霧、朝夕の錯綜的對偶を用ゐ、次に「梓弓」より「事悔しき」の四句に對した「布栲の」より「念ひ戀ふらむ」の十句は偏對を成すもので、而もその中に「さぶしみか――」「悔しみか――」と、偏對中更に小對を成してゐる。又終りの「朝露の如、夕霧の如」(592)の合拍は、前段中の露霧の反復で、聲響相應じて※[金+將]然たるものがある。結果から見れば、餘り一篇の構成が排對に過ぎて造意に墮する嫌もあらうが、恰も襷模樣の浮織のやうな感じがする。
 結末、普通の長歌とその形式を殊にしてゐる。普通は三句577音の構成であるが、これは四句5777音の構成で、一句7音だけが餘計に附加されてゐることを記憶すべきである。 
反歌
 
樂浪之《ささなみの》 志我津子等何《しがつのこらが》【一云|志我津之子我《シガツノコガ》】 罷道之《まかりぢの》 川瀬道《かはせのみちを》 見者不怜毛《みればさぶしも》     218
 
〔釋〕 ○まかりぢ 現世を退る路の義で、黄泉路《ヨミヂ》をいひ、又葬迭の路をもいふ。續紀寶龜二年の宣命に「美麻之《ミマシ》大臣の罷道《マカリヂ》も」と見えた。宣長は「道」を邇〔右△〕の誤とし、拾遺集卷二十にこの歌の上句を「小波《サヽナミ》やしがのてこらがまかりにし」とあるに據つて、マカリニシ〔五字傍線〕と訓んだが、拾遺集のは準據にはならぬ。○かはせのみち 川の渡り瀬の道。
【歌意】 志賀津の采女が葬送の路の、その川瀬の路を見ると、何がなしに氣が塞いで面白くないことよ。
 
〔評〕 川瀬の路は特定の地名でないから、大和の何處であるかはわからないが、一團の葬送の群が肅々と山川の渡り瀬を練つて往つたものであらう。荒涼たる實景に配する物寂しい葬列と傷ましい麗人の死とは、作者の心に滅入るやうな暗影を投げ懸けてゐる。「まかり路〔傍点〕の川瀬の路〔傍点〕」と、路に對する印象を強調させた疊語の表現(593)は、この場合わるくない。但この反歌二首は歌聖の作として、さう優れたものではない。
 
天數《そらかぞへ》 凡津子之《おほつのこが》 相日《あひしひに》 於保爾見敷者《おほにみしかば》 今叙悔《いまぞくやしき》     219
 
〔釋〕 ○そらかぞへ 眞淵はいふソラカゾフ〔五字傍線〕と訓んで、暗推《オシアテ》に數ふる意にて、それは大凡のことなれば、大津のオホにかけて枕詞とせりと。但枕詞としては第二變化の中止法を用ゐる例に從つて、カゾヘと訓んだ。古義には「天」は左々〔二字右△〕の誤にて「數」はナメとも訓む故、サヽナミノ〔五字傍線〕ならむとある。舊訓のアマカゾフ〔五字傍線〕は義を成さない。○おほつのこが 凡津の子にといふに同じい。この「が」の辭の用法は古文の一格。凡津の子は志賀津の兒のことで、志賀津は即ち大津なのである。「凡」は大の借字。○おほに 大凡にの意。
【歌意】 嘗てあの采女の大津の兒が自分に出合つた頃、自分はいゝ加減にして見てゐたので、死なれた今になつてみると、なぜもつと親しくしなかつたかと實に口惜しい。
 
〔評〕 かう早世されることならと、取返しのつかぬ後悔を歎いたのである。抑も麗人は天下の公寶である。采女の妖折は佳人薄命の適例として天下の人の痛惜する所、况やなまじひに一見の知遇をもつ作者として見れば、その際懇情を盡さなかつた遺憾さが、いよ/\甚しく高潮される譯である。しかもその情感を訴へるに「死」の一語を囘避した叙法は、娩曲といつてよからう。「今ぞ」は放漫に等閑だつた過去に對して、頗る緊切な對照をなしてゐる。而してこの一首、大體は長歌の、「おほに見しことぞ悔しきを」の句を更に反覆したものであ(594)る。二句は上の歌の例に倣つて、等〔右△〕を補ひ、オホツノコラガと訓んでもよからう。
 
讃岐(の)狹岑《さみねの》島(に)視(て)2石中死人《いはまのしにびとを》1柿本朝臣人麻呂(が)作歌一首并短歌
 
讃岐國の狹岑島で岩の間の死骸を見て、人麻呂の詠んだ歌との意。○狹岑島 反歌には佐美乃《サミノ》山とある。サミネ、サミ、當時兩樣に稱へてゐたものと見たい。今は沙美島《サミシマ》といつてゐる。是非に稱呼を一定する必要はない。但一言すれば「佐美乃山」は、なほサミネヤマ〔五字傍線〕と訓んでもよい。「乃」は呉音ナイだから、ネ〔傍点〕の音に充てられぬこともない。この島は讃岐那珂郡(今仲多度郡)に屬し、中の水門(金倉)よりは東北二里餘、坂出よりは北一里の海中にあり、長さ十町横三町ばかりの小島である。島中の高處は僅に二十九米突弱で、それがいはゆる佐美乃山である。サミを本名として、ネを或は峯《ミネ》の義と解し、或は島の義と解する説など、詰り無用の辯である。○石中 岩の間の意。岩穴の中の意ではない。
 
玉藻吉《たまもよし》 讃岐國者《さぬきのくには》 國柄加《くにからか》 雖見不飽《みれどもあかぬ》 神柄加《かみからか》 幾許貴寸《ここだたふとき》 天地《あめつち》 日月與共《ひつきとともに》 滿將行《たりゆかむ》 神乃御面跡《かみのみおもと》 次來《つがひくる》 中乃水門從《なかのみなとゆ》 船浮而《ふねうけて》 吾※[手偏+旁]來者《わがこぎくれば》 時風《ときつかぜ》 雲居爾吹爾《くもゐにふくに》 奥見者《おきみれば》 跡位浪立《しきなみたち》 邊見者《へみれば》 白浪散動《しらなみさわぐ》 鯨魚取《いさなとり》 (595)海乎恐《うみをかしこみ》 行船乃《ゆくふねの》 梶引折而《かぢひきをりて》 彼此之《をちこちの》 島者雖多《しまはおほけど》 名細之《なぐはし》 狹岑之島乃《さみねのしまの》 荒磯面〔左△〕爾《ありそわに》 廬作而見者《いほりてみれば》 浪音乃《なみのとの》 茂濱邊乎《しげきはまべを》 敷妙乃《しきたへの》 枕爾爲而《まくらにして》 荒床《あらどこに》 自伏君之《ころふすきみが》 家知者《いへしらば》 往而毛將告《ゆきてもつげむ》 妻知者《つましらば》 來毛問益乎《きもとはましを》 玉桙之《たまほこの》 道太爾不知《みちだにしらず》 欝悒久《おほほしく》 待加戀良武《まちかこふらむ》 愛伎妻等者《はしきつまらは》     220
 
〔釋〕 ○たまもよし 玉藻よの意。この句の構成は「あをによし」を參照(八三頁)。讃岐に係る枕詞。意は玉藻よ佐貫《サヌキ》と續けて、國名の讃岐にいひかけたものか。佐貫《サヌキ》とは藻の實は玉を貫き列ねたやうに結《ナ》るのをいふ。佐は美稱。この藻はホンダワラ〔五字傍点〕と呼ぶ藻。讃岐の沿岸は平夷卑濕の地が海に接し、藻草の發生が多い(596)ので、自然この枕詞も起つた。また簡單に、玉藻が叢生する國だから玉藻よし讃岐と續けたものとしてもよい。尚奈良に青土の産出があるから、青土よし奈良と續けた(あをによしの一解)のと同例である。古義の一解に、玉藻寄す讃岐にて、三教指歸に讃岐の事を玉藻|所歸《ヨスル》之島と見え、寄すを寄しと轉じ續くるは、鯨魚取海の如く枕詞の一格なりとあるも、相當の理由がある。○くにからか――かみからか 勝れた〔三字右○〕國故か――勝れた〔三字右○〕神故かの意。「から」は故《ユヱ》といふに同じい。清んで讀む。集中、故《ユヱ》の意味にカラを用ゐた例が多い。「か」は疑辭。○ここだ 許多。ここだく〔四字傍点〕ともいふ。○たりゆかむ 滿ち足りゆかう。立派になるをいふ。「滿」をタリと訓むは意訓。○かみのみおもと 神の御面として〔二字右○〕。記の上、二神國生みの條に「生(ミマス)2伊預之二名《イヨノフタナノ》島(ヲ)1、此島者(ハ)身一(ツニシテ)有(リ)2面《オモテ》四(ツ)1、毎(ニ)v面有(リ)v名」と見え、二名島は即ち四國のことで、尚この四つの面に伊豫讃岐阿波土佐の國名があり、國それ/”\に神名があつて、讃岐國は飯依比古《イヒヨリヒコ》と稱することが見えてゐる。これ「神の御面《ミオモ》と」いふ所以である。新考に中の水門を神の御面と稱へたとあるは牽強である。○つがひくる 今の世にまで傳承してゐるその讃岐國の〔六字右○〕の意。舊訓はツギテクル〔五字傍線〕であるが、今訓み改めた。古義は上に云〔右△〕の字を脱したものとして、イヒツゲル〔五字傍線〕と訓み、傳誦し來つたの意に解した。○なかのみなとゆ 「なかのみなと」は讃岐那珂郡(今は仲多度部)の湊。西讃府志に「中津は丸龜市の西南櫛無川の東畔にあり、下金倉を中津とも稱す。謂はゆる中(ノ)水門《ミナト》なるべし」と。現今ではさのみ好錨地でもないが、昔は相當の(597)港と見えた。「ゆ」を古義にニの意と解したのは非。○ときつかぜ 潮のさす時に發つ風の稱。卷六及び卷七の「時つ風」も同意である。五風十雨の五風をいふは後世のこと。○しきなみ 重浪。「しき」は繁き、しば/\などの意。「跡位」をシキと訓む。この「跡」の意は動詞で、循ふの意。前漢書平當傳に「深(ク)迹《シタガヒ》2其道(ニ)1而務(メテ)修(ム)2其本(ヲ)1」とある。跡《シタガフ》v位(ニ)は座次のまゝに席に即くことで、敷くの意に通ふ。卷十三の「跡座浪《シキナミ》」の跡《シタガフ》v座(ニ)も同意である。「跡」は迹の俗字。○ふくに 吹くによつて。○へみれば 「へ」は岸の方をいふ。考、略解などの訓は、ヘタミレバ〔五字傍線〕とあるが、それは「淡海の海|邊多波《ヘタハ》人知る」(卷十二)の如く、邊多〔二字傍点〕と書かれてある場合にのみ限ることである。今は檜の嬬手の説に從ふ。○さわぐ 「散動」をかく訓むは意訓。サワギ〔三字傍線〕と中止法に訓むは面白くない。舊訓はトヨミ〔三字傍線〕。○いさなとり 枕詞(三八七頁)。○うみをかしこみ この句は下の「狹岑の島の荒磯わに廬りて見れば」に係る。○かぢひきをり 櫓を引き撓めの意。「かぢ」は專ら櫓をいひ、又時に船を遣る具の總稱ともする。「ひきをり」は櫓を強く引撓むる態の折るやうに見ゆる故にいふ。新考に「海を恐み」がこの句に係るものと見たのは非。「梶」は字書に木※[木+少]と見えた。これを「かぢ」に充てたのは、古への櫓が木梢を適當に打切(598)つて造つた物であることを語つてゐる。○なぐはしさみねのしま 狹岑の名稱が眞見《サミ》即ち逢ふの意、又は眞見《サミ》ね即ち逢への意に通ずるので、名|細《グハ》しく懷かしく感ぜられたものと思はれる。「なぐはし」は 既出(二〇七頁)。○ありそわに 荒磯の隈に。「面」を囘の誤とする契沖説に從つてかく訓んだ。舊訓はアリソモユ〔五字傍線〕。古義の訓はアリソミ〔四字傍線〕。「しまわ」を參照(一六八頁)。○いほりて 廬作りするより宿るまでをいふ。「廬作」は意を以て書いたもの。○しげき 「茂」は借字。○はまべ ハマビ〔三字傍線〕と訓む説は鑿。○まくらにして 舊訓マクラニナシテ〔七字傍線〕。○あらどこ 荒/\しい寢床。荒磯に打伏せる故にいふ。○ころふす 轉び臥す。「自伏」は自動詞の轉がる〔三字傍点〕の意によつて「自」の字を添へたもの。○告げむ 告げむを〔右○〕の意。次の「問はましを」の「を」の辭が囘顧してゐる。○きもとはましを この句の下、かゝる事とも露知らず〔十字右○〕の語を補つて聞く。○たまほこの 道の枕詞。既出(二七二頁)。○みちだにしらず 夫の旅の道すら何處とも辨へず。○おほほしく 既出(四八五頁)。「欝悒」の字面のまゝに見るがよい。おぼつかなく〔六字傍点〕と解するは横入である。○はしき 既出(三五五頁)。○つまら 妻といふに同じい。「ら」は複數語だが、複數語は時に單なる添辭に過ぎない場合がある。兒等、人等、子どもなどの用例を參考すれば明らかである。
【歌意】 讃岐國は國|體《カラ》かして見ても/\飽きない。神|體《カラ》かしてえらく尊い。天地日月と共に益す立派になるべき神の御面として傳承してゐる、その讃岐國の中心たる〔十字右○〕中の水門から、船を浮べて沖へと漕いでゆくと、折しも潮時の風が虚空に吹き渡るので、沖を見ると幾重もの波が立ち、岸邊を見ると白波が騷いでゐる。この〔二字右○〕海上がま(599)あ恐ろしさに、船の櫓を引き撓ませて力漕して〔四字右○〕、あちこちの島は多いが、第一名がうるはしいこの狹岑の島の荒磯の隈に船を寄せて〔五字右○〕、廬作りして宿つて見ると、浪の音の絶間ない濱邊を枕にして、荒々しい床に轉がつて臥てゐる、――即ち磯邊に行倒れの死骸となつてゐる――その君の家を知らうならば、往つても家人に〔三字右○〕告げようものを、君の妻君が知らうならば、來ても尋ねようものを、素より旅にある夫の消息は全く不明なので〔十九字右○〕、尋ねゆく道すらわからず、只くよ/\と案じて、君を待ちあぐみ戀しがつて居るであらうか、いとしい妻君はさ。
 
〔評〕 冒頭口を極めての讃岐國の禮讃。抑も讃岐はその國形《クニガタ》が頗る秀異である。海に續いた平野の間に、飯の山をはじめ弧形の山が多く散在して和やかに美しく、まことに「見れども飽かぬ」感じを抱かしめる。隨つてそれに伴ふ聯想は「神からかここだ尊き」その崇高さにまで到達せねば已まぬ。神は即ち讃岐國を神格視したもので、飯依比古《イヒヨリヒコ》の威靈である。渾べて記紀に見えた古代傳説に準據して、天地日月と共に悠久に圓滿に榮ゆべき神の御面として現代に存する讃岐國ぞと讃美した。
 前人はこの讃美を讃岐國だけにかゝるものと見て、輕く聞き流してゐるが、作者の眞意は決してさうでない。これは「中の水門」の中を目的としたもので、かゝる立派なる國の、而もその結構なる中心地たる「中の水門」といつたもので、上來幾多の言説は詰り「中の水門」の讃美に歸するのである。
 中の水門から船浮けて狹岑島に寄港したことを、地理的に考察すると、作者が上京の途次であらうことが想像される。針路を東北方に取つて、瀬戸内海は鹽飽《シアク》七島の最南を通過し、恐らく備前の兒島方面に駛走の豫定であつたものだらう。折しも天候急に險惡になつて、潮風荒く虚鳴《ソラナリ》がし、沖合は層々の狂瀾行手を遮り、島々(600)の岸の波は銀龍白馬を跳らせてゐる。とてもこの海上は乘切れぬと見切つて、※[楫+戈]取等は梶引折つて漕ぎ返し、この狹岑島に假泊して風待をしたものである。「島は多けど名ぐはし狹岑島に云々」は、實は只風波の關係上地勢上、偶ま船を寄せたに過ぎないのを、多島中特に狹岑島に芳心をもつてゐたらしく取成し、狹岑島に相當の重みと、地歩とを占めさせたものだ。寄港の場所は不明であるが、多分今も唯一の船着場である、島の東南の細長い灣部であつたらう。
 さてその際、一寸でも航海苦から脱れたい爲に、陸上に一夜の假廬を作つて、丁度今のキャンプ生活のやうな事をやつたものだ。偶ま一行中の誰かが食料の野菜などを摘みに(反歌の意による)狹岑の野邊を打越して、島の東北邊の磯濱、それは花崗岩の磊※[石+可]たるあたりに打出た。處が意外にもそこに死人を發見したのである。
 この島は今こそ一村落を成してゐるが、その時代には無人島であつたらしい。この死人はその荒磯にぢかに伸びてゐた。それを「浪の音の繁き濱邊を敷妙の枕にして荒床にころ伏す」とは、叙事の巧妙筆に神ありといつてよい。この死人も作者自身と同じ逆旅の人の成れの果かと思へば、同情の念の惻々として起るは、又當然の次第であらう。即ち「家知らば往きても告げむ、妻知らば來も訪はましを」と、我が境遇から聯想を馳せて、死者とその家郷及びその家事とを結び付け、弔慰の情を高く昂揚せしめてゐる。而もその漸層の辭樣はその意を強調せしむるに、大いに効果的である。
 「玉桙の道だに知らず」は直ちに前節に續かず、さりとて即不即の間に詞意は聯絡を保つてゐる。所謂「藕絶えて絲なほ絶えざる」もので、家妻の遠人を懷ふ事態の叙述である。交通通信の不便だつた當時は、永い間一(601)片の消息にだも接することが出來ず、徒らに彼れは遠く家卿の天を望んで惆悵し、此れは朝雲暮月を軒端に仰いで、寤寐これを思ふに過ぎない。「可(シ)v憐(ム)無定河邊(ノ)骨、猶是(レ)春閨夢裏(ノ)人」(唐、陳陶の句)は、あながち征戰の際の事ばかりではなかつた。今もこれ「野の邊のうはぎ過ぎにける」晩春の候、別離の怨緜々として盡きず、既に夫君は海中の一孤島に冷たい亡骸《ムクロ》と横はつたのも知らずに、「おほほしく待ちか戀ふらむ」に至つては、その凄、その慘、その酷、殆ど言語に絶してゐる。實に作者の手筆は人の肉を刻み、骨を刺すもので、無情も亦甚しいと恨まざるを得ない。
 案ずるに、初頭の讃岐國禮讃は、この歌の主調とは緊密の交渉がなく、只中の水門を呼び出す莊重なる序詞の役目をつとめて居るに過ぎない。そこで餘り頭勝な不釣合な感じがおこる。然しかういふ樣式の詞章はわが邦古來からの常套語で、特に萬葉人に依つて盛に使用され、就中この作者の如きはその尤なる者であることを思ふと、大いにその價値を割引して聞く必要がある。案外作者は我れ我れの今聞く感じよりはもつと輕い氣持で使つてゐたかも知れない。他郷人としての作者が讃岐國に對しての行き摺りの辭令位と見ても、さのみ大過はなからう。
 「中の水門」以下「廬りて見れば」までは、只大筋を無難に運んだ點を賞揚しよう。「浪の音のしげき濱邊」以下結收の句までは、この歌作成の根本目的をよく達成して、委曲を盡した大文字である。概括していへば、比較的無疵の佳作として推賞に値する。
 
反歌二首
 
(602)妻毛有者《つまもあらば》 採而多宜麻之《つみてたげまし》 佐美乃山《さみのやま》 野上乃宇波疑《ぬのへのうはぎ》 過去計良受也《すぎにけらずや》     221
 
〔釋〕 ○あらば そこに〔三字右○〕居らばの意。○つみてたげまし 摘んで食べさせようものをの意。「たぐ」は食ふの意の古言。雄略紀に、「欲(ス)v設《マケント》2呉(ノ)人(ニ)1、歴2問(シテ)群臣(ニ)1曰(ク)、其《ソノ》共食者《アヒタゲヒトハ》誰(カ)好(キ)乎(ト)」、又皇極紀の童謠に「米だにも多礙底《タゲテ》とほらせ」などある用例から察すると、下二段活用である。但こゝの「たげ」はその未然形でなく、使役相「たがせ」の約である。宣長が「死屍を取上ぐること、たげ〔二字傍点〕は髪たぐなどのたぐ〔二字傍点〕也」といつたのは非。「つみて」は舊訓はトリテ〔三字傍線〕であるが、今は眞淵の訓によつた。○さみのやま 狹岑の島山をいふ。「乃」を禰〔右△〕の誤字としてサミネヤマ〔五字傍線〕と訓む古義の説は從ひ難い。○ぬのへ 野のほとり。○うはぎ 又おはぎ。嫁菜即ち莪蒿のこと。菊科の草で秋淡紫色の花が咲く。野菊。○すぎにけらずや 過ぎないことか否過ぎてしまつたではないかの意。「や」は反語。
【歌意】 狹岑島のこの死人が、もし妻でも此處に居合せたならば、この野べの嫁菜を摘んでも食はせようものを、生憎その妻(603)が居合はせないので、かう死んでしまつて、徒らに嫁菜のみは、誰れも摘むことなしに、盛りを過ぎてしまつたではないか。
 
〔評〕 岩※[石+罅の旁]の死人に對して、まづ食料問題から聯想を馳せて、「妻もあらば」と、その細君に言及したことは、若 菜摘みは專ら婦人の行事だからである。親切なそんな介抱者がゐたら、嫁菜を摘んでも餓死はさせまいにと、丁寧に思料したことは、死者哀悼の情の濃かなことを思はせると同時に、作者自身も亦温い妻の手を離れた同じ旅人として、つく/”\寂莫に堪へぬ餘りの溜息とも聞かれる。「野の邊のうはぎ過ぎにけらずや」と、專ら嫁菜のうへに詠歎の聲を永うしたことは、間接に哀悼の情意を遠長く搖曳せしむる手段で、婉曲の妙いふべからざるものがある。
 狹岑島は海中の孤島とはいへ、島の南北は瀬戸通ひの航路に當つて居り、坂出からは一里に過ぎない處だから、舶の往來は頻繁だらうし、磯邊には海藻や魚貝があり、島中にはうはぎを始め植物が多いから、さう/\易々と餓死する筈もなく、又それまでには疾うに救はれてよい筈である。さればこの死人は信仰上か何かは知らぬが、素より覺悟の絶食者か、或は殊によると、漂着の死人を餓死者と見做した作者の幻化手段かも知れない。
 
(604)奥波《おきつなみ》 來依荒磯乎《きよるありそを》 色妙乃《しきたへの》 枕等卷而《まくらとまきて》 奈世流君香聞《なせるきみかも》     222
 
〔釋〕 ○しきたへの 枕にかゝる枕詞。既出(二五五頁)。「色」は借字で、呉音シキ。○まくらとまきて 枕として纏《マ》いての意。「と」はと〔傍点〕爲《シ》て〔傍点〕の意。「まく」は纏ふこと、枕とすることの古言。○なせる 寢給へるの意。「なせ」はなす〔二字傍点〕が下の「る」に連る爲に已然形となつたもの。而してなす〔二字傍点〕は寢《ヌ》の敬相を表はす古言で四段活用である。行かす〔三字傍点〕、取らす〔三字傍点〕などと同性質の語であつて、もと「寢《ネ》す」が母韻變化をしたに過ぎない。「なすらむ妹を逢ひて早見む」(卷十七)などの用例がある。「る」は完了の助動詞り〔傍点〕の連體形。古義がこの語に對する解説は頗る非科學的で從へない。
【歌意】 沖の白浪が寄つて來るこの寂しい荒磯を枕として、一人寢て居られるお方かいな。
 
〔評〕 尋常の死には荒山中に葬られるのが普通で、それを詩的に誇張し修飾して、歌人は「高山の岩根を纏く」などいつたものである(本卷、かくばかり戀ひつゝあらずはの條參照)。然るにこの變死者は形容でも誇張でもなく、實際に沖つ浪來寄る荒磯を枕にして横はつてゐるのである。處もあらうに、物もあらうに、何たる悲慘事であらう。かうした感情から出發して、この變死者を哀悼詠歎したのであるから、さて/\傷ましいことよの餘意が、おのづから發生してくる。抽象的な哀悼の語を下さないで、却つて無限の悲痛な弔意を藏してゐるところ、作者の手腕は流石である。
 
(605) 柿本(の)朝臣人麻呂(の)在(りて)2石見國(に)1臨v死時《みまからんとするとき》、自(ら)傷《かなしみて》作歌一首
 
人麻呂が石見國に居て死なうとする時、自分から悲しんで詠んだ歌との意。○臨死 人麻呂は石見の國衙の屬官として赴任中、彼の地で歿したのであるが、その年時は明かでない。當時の制で「死」と書くは六位以下の人であるから、人麻呂が卑官で終つたことが察せられる。
 
鴨山之《かもやまの》 磐根之卷有《いはねしまける》 吾乎鴨《われをかも》 不知等妹之《しらにといもが》 待乍將有《まちつつあらむ》     223
 
〔釋〕 ○かもやま 石見國那賀郡|都農《ツヌ》の神村《カムラ》の山であらうと地名辭書の説。神《カミ》鴨《カモ》古へは通用した。今の高津浦の鴨島とする説は信用し難い。尚下の「いしかは」を見よ。○いはねし 「し」は強辭。○しらにと 宣長がかく訓んで以來殆ど定訓となつた。「に」は否定の助動詞ず〔傍点〕の變化で古語。「と」は助辭で意には關は(606)らぬと宣長はいつた。舊訓はシラズト〔四字傍線〕。△地圖 挿圖既出(三七八頁)。
【歌意】 この鴨山の岩が根を枕として死んでゐる私をまあ、さうとも知らずに故郷の妻は、定めて待ちに待つてゐることであらうかいなあ、可愛さうに。
 
〔釋〕 既に叙べたやうに、死を稱して岩根を纏くといふのは當時の常套語であるから、別に珍しくはないが、「纏ける」と既に自分を死んだものとして、故郷の大和にゐる妻の行動と情合とを想像してみた點が、頗る悲痛なのである。永い間雲山萬里を隔てゝ邊陬の異郷に老い、遂に鴨山の客舍で最後の病苦に臨んでしまつた。再び咲く花の匂ふが如く榮える都に還ることも出來ず、懷かしい妻に死水を取つて貰ふことも叶はぬ羽目に立至つた今、死んでも死にきれぬ妻への愛着が、卒讀に堪へぬまで遺憾なく表現されてゐる。情の人人麻呂が、その不遇な一生の最後の嗟歎と思へば、愈よ悲愴である。鴨山は作者が部内巡檢の出張先か又は上京の途上かに通過したらしく、測らずその終焉の場處となつたが、その葬處と斷定することは出來ない。
 
柿本(の)朝臣人麻呂(が)死時《みまかれるとき》、妻《め》依羅娘子《よさみのいらつめが》作歌二首
 
○依羅娘子 既出(四一一頁)。大和にゐた人麻呂の嫡妻と思はれる。又これを石見に於ての妻として、人麻呂はこの妻の許から稍離れた場處で死んだのであらうと見る説もあるが、歌の趣から考へて諾へない。
 
且今且今日《けふけふと》 吾待君者《わがまつきみは》 石水《いしかはの》 貝尓《かひに》【一云|谷爾《タニニ》】交而《まじりて》 有登不言八方《ありといはずやも》     224
 
(607)〔釋〕 ○けふけふと まづ今日はまづ今日はと。「且」は未定の意を表はす辭。○いしかは 今の神村の山附近には小川はあるが、石川と名づくべき程の砂利川はない。齋藤茂吉氏は鴨山を江《コウノ》川のやゝ上流の龜山にあて、石川を江川にあてた。これも一説である。「水」は川の借字。○かひにまじりて 峽《カヒ》に入りまじつての意。峽とは山と山との間の狹くなつた處をいふ。「貝」は借字。「貝」を文字のまゝに心得て、火葬の骨の川貝にまじる趣に久老が解して以來、これに從ふ人も多いのは以ての外である。細註の異傳に「谷爾」とあるのを見ても、これが峽〔右△〕の借字であることは疑を容れる餘地はあるまい。○ありと 居ると。
【歌意】 今日はお歸りか今日はお歸りかと、私の待ち焦れてゐる夫君は、あの旅先の鴨山の石川の山峽に葬られてゐると、人がいふではないかい。あゝ情ない。
 
〔評〕 死んだと石見からの使者は傳へるけれども、猶半信半疑の間に彷徨してゐながら、しかも現前の事態はどうしても「ありといはずやも」と、不性無性にその死を承認しなければならないのである。それが今日は今日はと、毎日待ちに待つてゐただけに、意外で餘計悲しいわけである。「石川の峽にまじりてあり」は、「高山の岩根をまく」と同じく、死んで葬送されたことの具象的轉義で、沈痛骨を刺すもの。
 上の作といひ又この作といひ、大和と石見と天涯相望んで、容易に相互の消息を知り難い交通不便な當時の状况を根本事實として、邊境に客死する旅人の悲哀と、孤閨に遠人を憶ふ佳人の愁緒とが、傷ましいまで如實に歌はれてゐる。
 又いふ、石川は歌聖の遺骸の火葬場で、墓處も必ずそこである。荼毘處即葬處、これが當時否後世までの一(608)般的慣習であつた。その終焉の場處鴨山も、多分石川に遠からぬ處と見てよい。
 
直相者《ただのあひは》 相不勝《あひもかねてむ》 石川爾《いしかはに》 雲立渡禮《くもたちわたれ》 見乍將偲《みつつしぬばむ》     225
 
〔釋〕 ○ただのあひは 直接の面會はの意。「ただ」は直ちの意。舊訓のタヾニアハヾ〔六字傍線〕は意義を成さない。宣長の訓に從つた。○あひもかねてむ 會ふことも難からうの意。アヒカツマシジ〔七字傍線〕の訓を主張する人が近來多いが、却つて事好みの弊に墮する。舊訓のまゝでよい。
【歌意】 直接の面會は今はもう到底出來ないであらう。さればあの石見の石川に雪が立ち渡つてくれ、せめてはそれを記念と見い/\して亡き夫を慕はうわ。
 
〔評〕 初二句は頗る冷靜な分別らしい語と見えるが、これは三句以下の無分別の着想に強い對照を成し、好い前景を作つてゐる。「石川に雲立ち渡れ見つゝしぬばむ」、何たる熱烈の語であらう。大和の娘子の家からは數百里先の石見國、その石川がどういふ場處やらも皆目知らず、假令そこに雲が立ち騰つたとしても見える筈もないのに、そんな一切の分別を排して、頗る大膽に放言してしまつたことは、流石に歌聖人麻呂の妻たるに愧ぢない口吻である。又この石川の雲は火葬の烟を擬へたものであることを忘れてはならぬ。
  こもりくの泊瀬の山の山のまにいさよふ雲は妹にかもあらむ (卷三、人麻呂―428)など、集中に類想の作が多い。古義が「これは死を聞いて石見國に下りしにや」と疑つたのは頗る不解人の言(609)で、却つて作者娘子の笑を招くに過ぎまい。更に又或人の説に、この下句から推測して娘子を石見の人と見、石川と娘子の居處とは相望み得る程度の、あまり遠からぬ位置でなければならぬとしたのは、古義に一歩を進めた謬見である。
 
丹比眞人《たぢひのまひとが》擬(へて)2柿本(の)朝臣人麻呂之意(に)1報《こたふる》歌一首
 
丹比眞人が人麻呂の歌の意に依り擬作した返歌との意。○丹比眞人 丹比は多治比《タヂヒ》の略で氏、眞人は姓《カバネ》。名が闕けてゐるので、人麻呂と交遊のあつた人か、それとも後人で只擬作を試みただけなのか、いづれとも分らない。當時丹比縣守、同笠麿などいふ人があつた。笠麿は本集の作者である。○擬人麻呂之意 人麻呂の歌意に和するの意。○報 いひ返すの意。眞淵がこの字を削つたのは非。
 この歌は依羅娘子の悼歌の直後にあるので、丹比眞人が人麻呂の辭世鴨山の詠の歌意を汲んだ擬作と見られるが、内容を檢すると全く違つて、これは上に人麻呂が讃岐狹岑島の死人を詠んだ反歌の
  沖つ波來よる荒磯をしきたへの枕とまきてなせる君かも
の意に本づき、その死人の臨終の作に擬して人麻呂に應へたものである。且人麻呂の死處鴨山は海邊ではないから、「荒波により來る玉を枕に置き」とは絶對にいひ難い。故にこの「荒浪に」の歌と次の「天離る」の歌とは、上の「讃岐狹岑島視石中死人柿本朝臣人麻呂作歌」の長短歌の次に掲ぐべきもので、記載の順序がいつか前後したものである。眞淵は、守部はこれに言及し、各新に題詞を試作してゐるが、それは無用の勞で、この不完全らしい題詞は、前の題詞から直ちに引續けて簡にして要を得るやうにした、本集の書式である。
 
(610)荒浪爾《あらなみに》 縁來玉乎《よりくるたまを》 枕爾置《まくらにおき》 吾此間有跡《われここにありと》 誰將告《たれかつげなむ》     226
 
〔釋〕 ○よりくるたま 古へは石をも貝殻をも美しきにつけて玉といつた。○まくらにおき 頭に置いての意。眞淵は「置」を卷〔右△〕に改めてマクラニマキ〔六字傍線〕と訓んだ。○つげなむ 「なむ」は未來推量の助動詞。
【歌意】 荒波につれて寄つて來る玉を頭邊に置き、こんな處にかうして私が斃れてゐると、誰れが故郷の妻に知らせてくれようか。誰れも知らせてくれるものも無いのが悲しい。 
〔評〕 漂流者として海中の孤島に客死する人のその悲慘さは、全く筆舌の外である。かゝる荒磯に今の今斃死しようとも、家人は知る由もない。嗚呼どうかしてこの境遇を知らせたい。死に直面しての願望は、淨土でもなく高天原でもない、只この一念のみである。けれども「誰か告げなむ」、當時の狹岑島はまこと無人の境であつた。絶望は彼れを取卷いた。かやうに見てゆくと、作者は如何にもよく死者の境遇に同情し得たといはねばなるまい。
 
或本(の)歌(に)曰(く)、
 
これはこの歌が或本に出てゐると、脱漏を補つたもの。よつて上の題詞のもとに攝せらるべきもの。
 
天離《あまさかる》 夷之荒野爾《ひなのあらぬに》 君乎置而《きみをおきて》 念乍有者《おもひつつあれば》 生刀毛無《いけりともなし》     227
 
(611)〔釋〕 ○あまさかる 鄙にかゝる枕詞。既出(一二四頁)。○おもひつつあれば 君が上を思ひ續けてゐればの意。
【歌意】 遠い邊鄙の荒野に夫君を打置いて 只君が上を戀しく思ひつゞけてのみ居ると、私は更に生きてゐるやうな氣もしないわ。
 
〔評〕 これも人麻呂の狹岑島で石中死人を弔うた歌意に本づいた擬作である。上の「荒浪により來る玉を」の歌は死者の意中を、この「天さかるひなの荒野に」の歌は、死の報知に接した妻女の意中を忖度して歌つたもの。原作に「妻もあらば摘みてたげまし」とあり「野のべのうはぎ」とあるので、妻女の立場から「荒野に君をおきて」と死を曲叙した。然しこの語は當時の套語である。上の人麻呂の
  衾路を引手の上に妹をおきて山路をゆけば生けりともなし (卷二―212)
と同想同型で、さう新味は無い。
 
右一首(ノ)歌(ノ)作者未詳。但古本以(テ)2此歌(ヲ)1載(ス)2於|此次《コノナミニ》1也。
 
 古本にこの歌を「荒浪に」の歌の次に載せたのは正しい。既に評語にもある如く、無論この二首は聯絡すべきもので、これも或は丹比眞人の擬作であらう。
 
寧樂宮
 
この標識の書式は前例に從へば「寧樂宮御宇天皇代」と改むべきである。こゝには、元明天皇の和銅元年から靈(612)龜元年九月御位を元正天皇に禅り給ふまでの間の歌を載せたものらしい。「寧樂宮」のことは既出(二七〇頁)。
 
和銅四年|歳次《としなみ》辛亥《かのとのゐ》、河邊(の)宮人《みやびとが》姫島(の)松原(に)見(て)2孃子屍《をとめのしかばねを》1悲歎《かなしみて》作歌
 
元明天皇の和銅四年、河邊宮人が姫島の松原で若い娘の屍を見て悲んで詠んだ歌との意。○河邊宮人 傳未詳。○姫島 攝津三島郡今の稗島村。地名辭書に中津神崎二川の間に横はり、南なる傳法《デンバウ》、西なる大和田は今に海口たりとある。一説には今の大阪の崇禅寺馬場の邊とある。仁徳紀に「天皇|將豐樂《トヨノアカリシニ》而|幸2行《イデマス》日女《ヒメ》島(ニ)1之時、於其島(ニテ)雁生(ム)v卵《コヲ》」、又安閑紀に「放(ツ)2牛(ヲ)於難波(ノ)大隅島(ト)、與媛島(ノ)松原(トニ)1」など見えた處。○屍 水死のであらう。
 
妹之名者《いもがなは》 千代爾將流《ちよにながれむ》 姫島之《ひめしまの》 子松之末爾《こまつがうれに》 蘿生萬代爾《こけむすまでに》     228
 
〔釋〕 ○いも 既出(四五頁)。○ながれむ 傳はらうの意。○こまつ 既出(六三頁)。○うれ こゝは梢をいふ。○こけむす 「蘿」は上にも「蘿生松柯《コケムセルマツガエ》」(三五四頁)とあつて、さがり苔、即ち女蘿のこと。「むす」は草や苔の生えることをいふ古語。
【歌意】 この美しい婦人の名は永代に亡びず傳はるであらう、この姫島の小松が老樹となつて、梢に蘿が生える(613)やうになる頃までもさ。
 
〔評〕 姫島の老松林には小松も叢生してゐたのであらう。「千代」は長い年月の轉義、「流れむ」は傳らむの轉義で、その「千代に」の意を更に具象的に「小松がうれに蘿むすまで」と反覆再説した。この叙法は古今集の
  わが君は千代に八千代にさゞれ石のいはほとなりて苔のむすまで(賀)
の粉本をなすもので、いづれも第二句の意がそれが爲に強調されてゐる。小松が老松となり、さてその梢に蘿がむすといふのが聯想の順序であるが、それを「小松がうれに蘿むす」と、一足飛びに頗る簡淨な辭樣を取つたのも面白い。又蘿即ちさがり苔は、老木でなければ生えない。されば普通の苔よりも時間の久しい經過を表現する上に於いて、殊に有効である。
 この歌の主想は水死の孃子の名の後世に流傳することにある。然し普通の水死者としたら、假令それは弔慰の詞としても、その當を得ないと思ふ。次の歌に「沈みにし」とあるので見ると、投身らしい。さてはその死因には何か歎賞讃美すべき事情が存在してゐたのであらう。題詞の記述が不十分な爲に、憾むらくはその意を盡してゐない。
 
難波方《なにはがた》 鹽干勿有曾禰《しほひなありそね》 沈之《しづみにし》 妹之光儀乎《いもがすがたを》 見卷苦流思母《みまくくるしも》     229
 
〔釋〕 ○なにはがた 「方」は潟の借字。○なありそね 有つてくれるなの意。「ね」は懇に命ずる意の助辭。○しづみにし 能動的の語法であるから、恐らく自ら身を投じた意に見るべきであらう。只沈没してゐるのなら、(614)沈ミタルとやうに、情態的語法を用ゐるのが自然である。○すがた 「光儀」を意訓によむ。
【歌意】 この難波の潟には、いつも潮干があつてくれるなよ、潮が干ると投身したあの美人の屍體が露はれ出て、その姿を見ることが實にたまらぬわい。
 
〔評〕 干潮につれて干潟の泥にへばり着いた妙齡婦人の水死體を見せつけられるのは、實に無慙そのものである。それで潮の干滿の事實を知りつゝも、尚「潮干なありそね」と無理な注文をせずにはゐられなくなる。死者に對する同情の深さが、かくて十分に表現される。又前の歌もさうであるが、ほんの行きずりのこの水死女を「妹」と呼んだことも、懷かしい心状の露はれである。
 さて二句はとはに潮滿て〔六字傍点〕とやうにいつても筋の通ることは同じであるが、かく逆叙して否定の辭樣を用ゐた方が、更に印象が強まる。
 
靈龜元年歳次|乙卯《きのとのう》秋九月、志貴親王薨《しきのみこのみまかりたまへる》時、作歌一首并短歌
 
(615)○志貴親王 天武天皇の御子に磯城《シキノ》皇子がある。然るに天智天皇の御子にも芝基《シキ》(施基、志貴、志紀とも)皇子があり、それは續紀に靈龜二年八月に薨逝の事が見え、薨年月が違ふ。よつてこゝの志貴親王は磯城皇子の事とする。磯城島を志貴島とも書く當時では、磯城、志貴は通用であつた。故にこの集では差別的にこゝには「親王」の稱を特に用ゐたと考へられる。天武紀に朱鳥元年八月芝基(ノ)皇子、磯城(ノ)皇子、各封加(フ)2二百戸(ヲ)1とある。正辭は紀は故ありて延期したる薨奏の年月を記したるなりとて、ここをも芝基皇子の事としたのは、強辯かと思ふ。○并短歌 長歌は薨葬の事を歌つてあるのに、短歌の内容は薨後の追懷であるから、この三字は削るがよいといふ説もあるが、餘り拘泥し過ぎてゐる。
 
梓弓《あづさゆみ》 手取持而《てにとりもちて》 大夫之《ますらをが》 得物矢手挿《さつやたばさみ》 立向《たちむかふ》 高圓山爾《たかまとやまに》 春野燒《はるぬやく》 野火登見左右《ぬびとみるまで》 燎火乎《もゆるひを》 何如(616)間者《いかにととへば》 玉桙之《たまほこの》 道來人乃《みちくるひとの》 泣涙《なくなみだ》 ※[雨/沛]霖爾落者《ひさめにふれば》 白妙之《しろたへの》 衣※[泥/土]漬而《ころもひづちて》 立留《たちとまり》 吾爾語久《われにかたらく》 何鴨《なにしかも》 本名言《もとないふ》 聞者《きけば》 泣耳師所哭《ねのみしなかゆ》 語者《かたれば》 心曾痛《こころぞいたき》 天皇乃《すめろぎの》 神之御子之《かみのみこの》 御駕之《いでましの》 手火之光曾《たびのひかりぞ》 幾許照而有《ここだてりたる》     230
 
〔釋〕 ○たちむかふ、「梓弓」からこゝまでは高|圓《マト》山に係る序詞。立ち向ふ的《マト》といひかけた。卷一にも「ますらをが得物矢《サツヤ》たばさみ立ち向ひ射る圓方《マトカタ》は」とある。○たかまとやま 大和添上郡。奈良市の東方に峙ち、北は一溪を隔てゝ春日山に接し、その裾野の東市村(古市)の上方に當る處を※[草冠/(獣偏+曷)]高《カリタカ》の野といふ。山の高さ約四百三十二米突。○はるぬやく 上の「ぬごとにつきてある火」を見よ(五三六頁)。○ぬび 野に燃える火。○たまほこの 道の枕詞。既出(二七二頁)。○みちくる 道往くに同じい。○ひさめにふれば 大雨《ヒサメ》のやうに降れば。「ひさめ」は二義ある。(1)はひたさめ〔四字傍点〕の約なるヒサメにて、大雨をいひ、(2)は氷雨《ヒサメ》にて雹雨をいふ。「※[雨/沛]霖」の※[雨/沛]は大雨、霖は長雨の意。「に」は如くの意をもつ古辭。「たへのほに」を見よ(二七四頁)。○しろたへの 衣の枕詞。既出(一一八頁)。こゝを素服の事とする芳樹説は非。○ひづちて 甚しく濡れるをいふ。泥漬《ヒヂツ》きの略轉。「※[泥/土]は泥土の合字。○かたらく 語るの延言。○もとないふ 新考の訓に從ふ。他はモトナイヘル〔六字傍線〕。○もとな 集中に語例は頗る多いが、難語である。(1)おぼつかなきをいふ。今俗に心もとなといへるは心のもとなき(617)なり(楢の落葉)。(2)メタニ、ムチヤニ、猥ニなどの意。黒白の別ちなき貌(宣長、古義)。(3)縁《ヨシ》なきなり(和訓栞)。この語記紀に全く所見がない。萬葉に至つて多い。その時代の新語であらう。或はムナシ(空)をムタナシと活かせ、それをムタナと體言格に變じたのが「もとな」と轉訛したものか。すると俗のムダ〔二字傍点〕といふ意に當る。○すめろぎのかみのみこ 神とます天子樣の御子。志貴親王をさす。「神の」は上へつけて見る。○いでまし こゝは葬送の門出をいふ。「御駕」を意訓にかくよむ。○たび 手に執る火をいふ。松火《タイマツ》のこと。神代紀に秉矩、此(ニ)云(フ)2多批《タビト》1と見えた。○てりたる の下、と語りぬ〔四字右○〕の語を補うて聞く。
【歌意】 あの高圓山に春の野を燒く火と見える程燎える火を、何かと問ふと、道を來る人が、その泣く涙は大雨のやうに降るので着物はびしよ/\に濡れつゝ立止まつて、私に話すには「貴方は何で分らぬ事を仰しやる。その事を聞けば聲に立てゝ泣かれ、その事を話せ(618)ば胸が痛い、あれは外でもない、天子樣の御子志貴親王樣の御葬送の御行列の松火の光が夥しく照つてゐるのだ。」といつた〔四字右○〕。
 
〔評〕 高圓山はその裾野が昔の奈良京の東邊に廣被して、北は春日野に續いてゐる。志貴親王の歸葬の地は何處であるか一向不明だが、その御葬列は高圓の裾野のお邸から出發して、時季はまさに八月仲秋、野萩の花を踏みしだきつゝ練つて往つたものだらう。往時の葬斂は大抵夜分に執行された。故に野邊送の人達は手に/\松明を執つて隨行する。高貴の方ほど見送人も多いから、火の數も亦隨つて多いのであつた。で、何時もは眞闇な裾野を燒いて、突如として花やかな火線が蜿蜒と出現する。野燒の行はれる春なら知らず、時ならぬ野火に、膽を潰して狐火か何ぞのやうに眼を瞠り、道行く人にあれは何かと尋ねるのであつた。新聞もラヂヲも無い時代は道聽塗説、それで噂は傳播してゆく。「いかにと問へば」の一句は、後段を展開し來る枢機である。
 さてその道行人は親切にも立ちどまつて話相手となつてくれた。相手は涙を袖にポタ/\墮して、この作者がこの事件に全然無知な事を心外に感じて、「何しかももとないふ」と、一番に叱り付けて置いて、極度の昂奮に口も利かれぬと、説明の前に自己の苦悩をまづ訴へ、それから、志貴親王樣の御葬列の手火の光が、ああも澤山耀くのですと教へてくれたといふ。
 對者の態度に就いて仔細の描寫を費したことは、それがこの作の色彩を煥發せしむる大切なバツクとなつてゐる。「聞けば」は三音、「語れば」は四音の句で、句々の詞足らずが、劇しい衝動に取|逆上《ノボ》せて口強ばり(619)舌澁る、切迫し切つた調子を如實に表現し、頗る自然の律調に協うた措辭である。「すめらぎの神の御子」と、志貴親王に拂つた最大限度の崇敬的言辭は、その「いでまし」が非常に重大性をもつ事を暗示し、隨つて悲哀の尋常一樣のものでない所以を間接に物語つてゐる。
 この篇は問答の形式によつて構成され、後段は殆ど對者の言辭のみから成り立つてゐる。 以上は表面から見た解説であり、批評であり鑑賞である。然しそれだけで終つたなら、まんまと作者の老獪手段に乘ぜられた結果にならう。更に裏面から觀察すると、この一問一答は總べて作者の空中に構成した樓閣である。
 元來この作者の何者であるかは記載がないが、これ程の歌を作成する手腕から察すると、多分當時の知識階級たる官吏であつたらう。葬列にこそ立たないが、職として皇族方の勢望家たる志貴親王の薨葬日位は心得て居る筈だ。たま/\高圓山麓の火光を望見した瞬間には、何の火かとの疑を一寸もちもしたらうが、忽ちそれは志貴親王の葬送の手火と領會して、一段の哀愁に打たれたのであつた。この心境推移の經過を、假に自分と對者との一問一答の形式に依つて發表を試みたのである。されば「泣く涙ひさめにふれば白栲の衣ひづちて」も、盡くこれ實は作者自身の心境であり態度なので、對者は全く烏有先生なのである。假託なのである。かう見ると、實に奇作妙作といはねばならぬ。集に作者の名を逸したことは信に殘念至極である。
 
(620)高圓之《たかまとの》 野邊乃秋芽子《ぬべのあきはぎ》  徒《いたづらに》  開香將散《さきかちるらむ》 見人無爾《みるひとなしに》     231
 
〔釋〕 ○たかまとのぬべ 高圓山の裾野一帶をいふ。○いたづらに 折角咲いた甲斐もなくむだにの意。○さきかちるらむ 咲いては散つてゐることだらうかの意。「か」は疑辭。「香」は借字。
【歌意】 高圓の野邊の秋萩の花は、今は皇子もお薨れなので、折角美しく咲いた甲斐もなく、見る人もなしに徒らに咲いては散つてゐることだらうか
 
〔評〕 皇子の薨逝と共に、從來伺候の客も一旦にして迹を絶つた寂寞の光景に直面して、野萩の花に托してその感懷を洩したのである。一體萬葉人は萩を非常に愛翫したもので、集中に詠まれた花卉中その第一位を占めてゐる點から見ても、その嗜好程度は察せられよう。それは大和朝廷は山野に近いので、長い間の慣習から、野樹徑草に深い馴染をもつに至つた故であらう。殊に奈良京となつては、その東偏を局る高圓山の裾野は、※[草冠/(獣偏+曷)]高《カリタカ》の野と呼ばれて、京の市中何處からでも仰望される高い廣い臺地で、其處には盛に萩の花が叢生してゐたことは、集中多くの證歌が語つてゐる。然るに今その愛賞措か(621)ぬ萩の開落さへも人の關知せぬに至つては、特に遺憾に堪へぬところであらねばならぬ。而も「見る人」は作者の眞意では、特に志貴皇子を指示してゐることが看取される。かくて間接に皇子の薨逝を哀悼痛惜した幽婉の情緒が躍如として、さゝやかな珠玉の宛轉するが如くである。
 
御笠山《みかさやま》 野邊往道者《ぬべゆくみちは》 己伎太雲《こきだくも》 繁荒有可《しげくあれたるか》 久爾有勿爾《ひさにあらなくに》     232
 
〔釋〕 ○みかさやま 集中には御笠、三笠、御蓋など種々に書かれてゐるが、要するに、春日の神の御蓋《ミカサ》なす山の義で、狹い意では春日神社の後方の蓋《キヌガサ》の形をした山をいひ、廣い意では更に後方に聳えてゐる春日山の一稱とする。嫩草山の一名を三笠山といふのは俗稱で、それは羽買の峯である。○こきだくも 「こきだく」は、こゝだく、こゝだ、などと同じで、巨多の意。「も」は歎辭。「雲」は借字。○しげく 眞淵はシジニ〔三字傍線〕と訓んだが、猶舊訓の方が率直でよい。○あれたるか 「か」は歎辭。疑問ではない。○ひさにあらなくに 久しいことでもないのにの意。
【歌意】 御笠山の裾野をゆく道は大層しげく荒れたことだなあ、皇子のお薨れ後、そんなに永い時日が經つた譯でもないのにさ。
 
〔評〕 野路は暫く踏まないと直ぐ草が生ひ繁つて荒れる。然しその踏まぬといふことが、皇子の薨逝後、往來の人の足跡の絶えた爲だと氣付くと、無窮の感愴に打たれる。即ちこの歌では、皇子御生前は拜趨參候の人の繁か(622)つた趣が反映され、一轉瞬の間に繁華と寂寞とがその地を換へたことが、強く印象させられるのである。皇子の高圓の邸へ參る人々は、奈良の宮を出て、御笠山の裾野即ち春日野の野邊を分けて往つたものと思はれる。四句はやゝ猥雜の感がないでもない。卷十七の「こゝだくも繁き戀かも」と同調のやうではあるが、彼れは戀といふ名詞を點綴したので、その難を免れてゐる。「久にあらなくに」も、やゝ道理をいひ詰めた嫌があると思ふ。
 
右(ノ)歌(ハ)、笠(ノ)朝臣金村(ノ)歌集(ニ)出(ヅ)。
 
 左註の「右」は上の長歌と短歌二首とを斥すものか、又短歌二首を斥すか、又短歌の最後の什のみを斥すか、甚だ明噺を缺いてゐる。短歌の後の方はさ程でないにしても、長歌は傑作、初の短歌は佳作であるし、且その内容の趣から見ても、無名の野人などでなく、相當身分ある、皇子に關係深い人の詠と思はれ、且長短歌の記載の形式が、全く一聯の作の如くであるから、全部を金村の作と見られぬこともない。
 
或本(の)歌
 
上の二首の短歌が、他の或本には次の如く出てゐるといふので、異傳を註したもの。
 
高圓之《たかまとの》 野邊乃秋芽子《ぬべのあきはぎ》 勿散禰《なちりそね》 君之形見爾《きみがかたみに》 見管思奴幡武《みつつしぬばむ》     233
 
(623)〔釋〕 ○なちりそね 上の「潮干なありそね」と同じ語法で、散つてくれるなの意。○かたみに 記念としての意。
【歌意】 高圓の野邊に美しく咲き亂れてゐる萩の花は、どうか散つてくれるなよ、亡き皇子樣の記念として見つつ、皇子樣をお偲び申さうわ。
 
〔評〕 皇子の高圓邸附近は殊に萩が盛であつたらしい。皇子といへば萩、萩といへば皇子が聯想されたものであらう。だから皇子の記念としては、これに越すものは無い。この意味において、はかない萩の花に對してもなほ懇に散るなと要求せざるを得ない程の作者の心持に同情される。
 上の「高圓の野べの秋萩いたづらに」の歌と、初二句こそ同じであるが、これは全然別裁を成してゐる。兩者を比較すれば絶對價値は無論前者に認めねばならぬ。その立派な三句切であることは、この時代の歌として特に注意すべき點である。
 
三笠山《みかさやま》 野邊從遊久道《ぬべゆゆくみち》 己伎太久母《こきだくも》 荒爾計類鴨《あれにけるかも》 久爾有名國《ひさにあらなくに》     234
                                        〔釋〕 ○ぬべゆゆくみち 野邊からゆく通路の意。
 
〔評〕 これは上の「御笠山野べゆく道は」と二四の句が聊か違ふだけで、全くその異傳である。二句の名詞でいひ切つた調子は力強い。四句も「繁く」などの説明的語句が無いだけうるさくない。
 
(語釋索引、省略) 
 
(25)歌のさまのよしあしを定むるは海山のけしきの人によりて心の惹く方異なるが如し。そは見る人の心の高きと卑きとによりてしもぞ異なる。萬葉集に載りたる藤原奈良の頃の人々の優れたる歌どもは、富士の嶺の雲に聳えて高く、熊野の海の底ひも知らず深きが、見るも恐ろしく臨むもあやしきが如し。古今集の頃なる歌は、須磨明石のゆほびかなる海づら、嵐山小倉の峯の花紅葉の折にあひて目もあやなるが如し。(村田春海―歌がたり) 
(27)評文索引 
△本索引は、評文中特に説明の勞を執つた事項を大略的に類聚した。
△本索引は、その項目を、體製修辭、言語、思想信仰、社會情勢、歴史、軍事、風俗、服飾、居處、慶弔、戀愛、娯樂、行旅、交通、地理、博物、雜の諸類に分ち、各所に散在してゐる同類事項を一項の下に收めて、檢索の便を計つた。
△本索引には、普通なる鑑賞批評の語、又は碎瑣なる事項は採録することを避けた。それらは一々その歌の條下に就いて、檢討せられたい。
 
(28)  體製修辭
 
リズムは内的生活の現れ              一三
疊語の文字遊戲                 一一七
辛崎の擬人法の先鞭           一三三・四三三
その名を歌謠に讀み込む             一三七
古語を起用して新樣を成す            一五七
七五調の先驅               七四・一八六
弟一目的をぼかした詩人幻化の手段    一八〇・一八四
昂奮の押賣                   一八三
羽がひの霜はトリツク              二三九
萬葉集は後世の辭樣の發生母胎          二四五
聲響の効果                   二五九
結句に急轉囘                  三五三
木未轉倒の痴態                 四〇七
首尾の均衡                   四三三
過去の動靜を現在に延長             四四九
夢中感得の長篇                 四五五
聯想の跳躍               四六一・六一三
現實は空想を容れない              四六四
主觀の色眼鏡                  四七九
一意到底の自然對                五一〇
相反的事相の合拍                五八一
序幕と切幕が一轉瞬               五七一
頭勝な冒頭句                  六〇一
長歌における叙事中の議論            一二九
長歌の特殊形式                  三二
枕詞のない長歌                  七一
序體の長歌                   一一四
人麻呂の吉野の長歌の不完            一五〇
初頭排對的の交錯句法は長歌の慣手法   四〇六・五一九
長歌から反歌への連環              一五一
冒頭なしの長歌                 五六六
結末一句七音が長い異體の長歌          五九二
問答體假托の長歌                六一八
五七三七音の變態的句法          八六・四三五
連環體                     一六一
四節聯體の形式の歌               二〇九
第二句を第五句に反覆する古體の例        二一九
弄意の過ぎた歌                 二五八
連俳の附合氣分に似た短歌            三〇三
三句切れの二段構成               三五五
反覆體中の異製                 三七八
連環反覆の體                  四六〇
結句の獨立した歌                五一一
有心の序            二一五・二四七・五〇一
序歌の本質               二二八・二三〇
海底の歌の初二句は序詞             二八五
「穗向」の序は人名から聯想           三五八
大がかりの序詞                 三九五
長歌に莊重な序詞を用ゐるは常套         六〇一
枕詞の濫用                    四四
陽性の枕詞                   四七三
初二句と三四句とに枕詞を用ゐる扇對       五一一
眞實味のある贈答                三一三
戲謔の贈答                   三三六
自己を投げ出した歌               三六二
英虞行遊の聯作                 一六八
安騎野の短歌は聯作               一八三
久米禅師と石川郎女との贈答(29)歌は聯句の詩體   三二九
益良雄の強調                   四三
春秋の優劣爭ひ                  八〇
襷附けの手法                  四〇六
讃歎的扇對法                  四八七
「夜は」「晝は」の對隅的修辭は常套       四三九
「天見る如く」は人麻呂の常套旬         四七五
誇張と時との調和した歌             二三九
足なへの翻弄                  三七九
莫囂圓隣之の歌は紀温泉行の作でない        六〇
渡津海の歌の上旬は實寫              七五
綜麻形の歌の作者                 九一
麻續王の珠藻は誇張               一〇七
「衣ほしたり」は女帝の取材           一二〇
「これやこの」の類型              一四二
背の山と故人                  一四四
吉野讃美の歌の多くは人麻呂の歌の後塵      一五九
「吾が作る日の御門」以下は挿入句        一九八
役民の歌の作者             二〇〇・二一二
從藤原遷奈良歌の作者の身分           二七八
御製と御歌との差違               三〇八
桑間の詩と共通                 三四四
「鳴き」が字眼                 三五一
楪葉の三井の歌と額田王の關係          三五一
「高山」の歌と「吾妹兒に」の歌との死の觀念の差 三六七
「暮去らば」の歌は比喩             三六八
「秋山に落つるもみぢば」の歌の三痴       四五五
「いかさまに恩ほしめせか」の類例        四五五
日並皇子殯宮歌のポイント            四七四
日月の比喩と李白の詩              四七七
今昔の感を草一つに               四九一
玉藻の生々復活は暗映がある           五一九
哀悼の作は露骨を忌まぬ             五二四
高市皇子殯宮の作は三事相應           五四九
人麻呂の悲嬬死歌二首は世話物          五七七
志賀津采女の歌は事件中心            五九〇
死の語を囘避した叙法              五九三
うはぎの詠歎                  六〇三
 
  言語
 
野守の諸説                    九五
「復かへりみむ」                一五一
「みれども飽かぬ」               一五一
「わがせこ」の「わが」             一七〇
「たわやめ」の説                二〇三
「なばり」の修飾語               二二八
娘子は若い婦人の敬稱              二二九
大和人の「高山」の語              三〇〇
白髪を霜に譬へることは上代の辭樣ならず     三〇二
親密心の表現語                 五四五
「雲隱る」は貴人の死を意味する         五五八
「大君は神にしませば」の前提          五五九
「志賀さゞれ波」の造句             五六〇
歌語としての「蓋し」              三五四
(30)「標ゆふ」                 三五九
「元結が濕める」の諺              三六四
風流男の詭辯                  三七七
「靡けこの山」の快語              三九三
ア列音の多い快調                四二四
「木幡のうへ」                 四二六
「道の知らなく」の不審             四四五
「日月の離る」は比喩              四五三
「天の原岩戸を開き」の疑義           四七二
「君ませば」の暗示               四八四
 
  思想信仰
 
萬有は神                    一三八
古代人の有する神の觀念             一三八
天つ日信仰の諸例                二一一
天皇の命令は絶對                二七五
天則神の信仰                  四二三
高天原思想と敬神尊王              五五〇
建國理想                    一五八
皇胤は皇神の命による              二六六
皇室を中心の建國思想              四七一
亡魂天翔りの信仰            四二〇・四二六
靈魂不滅                四二〇・五〇九
亡魂説の根柢                  五七〇
靈魂と復活                   五七九
草結びの咒願               六二・四一五
草木崇拜の思想                 三三〇
常處女の祝福                  一〇三
外蕃來附と祥瑞出現               一九八
幻術、仙術の信仰                四五一
無常思想                    五九一
手向草の咒願                  一四〇
箇人のもつ特殊感                二四五
 
  社會情勢
 
上代の女子の貞操            三二五・三一六
簡易な上古の生活状態              三七六
上古の階級觀念                 五〇四
益良雄意識の強調             四三・四〇五
奈良朝人の氣風                 二三一
役民の情態                   一九七
舍人の服務規程と身分年齡            四八一
鳥座の世話は舍人の役              四九二
來年の躑躅時には舍人は退散           四九六
 
  歴史
 
日本開闢説最古の文獻              四七一
盤姫の性格                   二九九
舒明帝の國見                   二四
舒明帝の御性格                  二六
舒明帝讃岐行幸の有無               四六
皇極帝御讓位の事情               四一三
有間皇子の異圖                 四一四
有間皇子の處刑は高速度             四一四
大日本史の有間皇子の年紀の誤          四一五
有間皇子護送中の薄遇              四一六
天智帝の御悩                  四二三
太后の緊張                   四二四
大津遷都の二目的                一三一
大津宮の荒廢                  一三○
額田王男性説                四九・九九
額田王の名の縁由                 九一
蒲生野の行遊には皇太弟は四(31)十六歳       九八
天武帝の好謔              一一七・三三五
高市皇子の雄武                 五四三
忍壁皇子は壯年で妃を失はれた          五二一
大津皇子異圖の一原因              三四二
大津皇子の異圖                 三三八
大津皇子伊勢下向の用件と時期          三四〇
大津皇子の死と大來皇女             四五八
津守連が卜占の事情               三四七
穗積皇子の寺入の事情              三五九
草壁皇子の御性格                三五○
日並皇子薨去事情                四七三
大津皇子の關係した石川郎女は草壁太子の嬖人か  三四八
藤原新京の開設                 一九七
持統帝の吉野離宮は新創             一五七
川嶋皇子は若死                 五〇九
輕皇子の安騎野出獵は父尊の忌明後        一八一
五十師の行宮                  二八一
去來子等の歌の内面事情             二三六
間人連老は漢學者                 三四
田主は美男                   三七六
宿奈麻呂は美男                 三八一
人麻呂の石見の妻                三九六
人麻呂の石見在任は五十歳以上          四〇三
人麻呂は再度奉仕の東宮を失ふ          五五一
人麻呂の生活を知る好資料            五八〇
上代に於ける大和以外の帝都           一二八
遣唐の旅苦                   二三三
鞆の音に兵革の憂慮               二六四
采女と艶話                   三二〇
采女の夫                    五九一
久米禅師は信濃の官吏か             三二三
 
  軍事
 
天武帝の吉野蟄居は冬から夏           一一二
天武帝の擧兵                  一一三
壬申の亂                    五四二
壬申の戰闘光景                 五四四
壬申の亂は颱風期                五四五
近江方は白旗飛鳥方は赤旗            五四四
和銅元年蝦夷の叛                二六四
 
  風俗
 
婦人の化粧                   一〇三
狹名葛は調髪用                 三一八
成人と女の髪上げ                三七〇
領布振りの習慣          九四・二三六・三九六
衣貸しの風習                  二六一
贈遣の物を草木の枝葉につける風習        三五五
跪禮匍匐禮                   五四七
 
  服飾
 
古代の袖                     九四
たわやめの袖              二〇三・二一四
毛衣の獵服                   五〇一
植物の摺染                   二二三
珠                        六五
  居處
 
(32)皇居の理想地                二〇八
淨見原の宮と雷岡との關係            四四八
皇居と東宮御所とは古來から別          四八一
香具山の民家                  一二〇
邸宅敷地の制限令                二八九
上代に於ける大和以外の帝都           一二八
新舊二京の邸宅                 二七七
五十師の行宮                  二八一
人麻呂の門前近くは池塘             五七七
 
  慶弔
 
獻瑞とその禁令                 一九八
謚號撰定                      八
殯宮風景                    五四七
殯即葬の場合                  四六五
上古の葬斂                   六一九
葬列の手火                   六一九
火葬の烟を雲                  六〇八
一周年間の陵側侍宿           四三九・五五六
二上山々頂の造墓                四六二
放ち鳥と一周忌                 四九〇
引手の山は墓地                 五八三
狹岑の山野と死人                六〇〇
 
  戀愛
 
上古の結婚習慣             三〇五・三一四
許婚と名告り                   一四
天智天武兩帝と額田王               九六
天智天皇と鏡女王                三一〇
鎌足と鏡女王              三一五・三一八
十市皇女と高市皇子との關係           四四三
大津皇子と石川郎女の邂逅            三四七
大伯皇女と大津皇子との友愛       三四〇・四五九
但馬皇女對高市穗積兩皇子との關係    三五七・五五五
紀皇女の艶聞              三六八・三六九
人麻呂と輕の里の女との秘密關係         五六七
身人王の對手は田形皇女でない          二四七
安麻呂と巨勢部女                三三二
戀人の名を呼びかける          三四九・五六八
貞操の表示                   三七二
四十女の戀                   三八一
別離の情緒                   四一二
執は遺愛の物に及ぶ               四三五
 
  娯樂
 
上古婦人と野遊                  一四
上代貴人の行樂              九五・一八二
朝狩は草伏をとる                一八六
安騎野の出獵は初冬               一八七
上代の鷹狩                   四九二
藥狩                       九八
近江朝廷の船遊び                四三一
志摩の島遊びは豫定の番組            一六三
英虞の島遊びは汐千狩              一六七
 
  行旅
 
旅の語                     一八二
旅と岐神                    一四〇
(33)旅情と離愁の交錯              三九七
往時の旅况                   六〇〇
假廬の風情                    五〇
熟田津の解纜事情                 五四
當麻の妻の歌は復路               一七〇
路次の行粧                    九五
手向草の風習                  一四〇
遣唐の旅苦                   二三三
松が根枕は樂しい旅寢              二四三
「標ゆふ」こと                 三五九
「椎の葉」の歌は普通の旅情でない        四一六
風浪による狹岑島の假泊             五九六
 
  交通
 
上古の航海苦                  六〇〇
上古行旅の乘物                 四六〇
伊勢參宮道                   一〇二
石見より上京道                 四〇三
輕の路                     五六六
藤原奈良間の水路交通              二七六
 
  地理
 
淨見原宮地                   一〇〇
吉野離宮址                   一一二
吉野と淑人傳説                 一一六
吉野離宮の讃美                 一四八
吉野離宮の地鮎                 一五六
持統帝の吉野離宮は新設             一五七
吉野山                     二一〇
三輪山の威容                   八六
背の山                     一四三
高見山                     一七三
田上山                     一九六
高野原と鹿                   二八八
立田山と白波                  二八五
大島の嶺                    三一一
高角山の袖振り                 三九六
屋上の山                    四〇四
小波山の大山守                 四三七
木※[瓦+缶]の岡の地形            五二〇
引手の山                    五七八
引手の山は墓地                 五八三
羽易の山は亡魂の棲處              五八〇
鴨山は人麻呂の最期の地             六〇六
高圓の裾野の萩                 六二〇
安騎野の地勢                  一七九
藤井と藤原宮                  二一二
巨勢野の地形                  二一六
引馬野の萩                   二二二
地名としての御井                二八一
當の狹岑島は無人島               六一〇
狹岑の山野と死人                六〇〇
青山四周の藤原京                二〇八
長屋の原の位置は悲劇の好舞台          二六九
※[糸+卷]村                  九一
海南と珠                     六五
明白香の地名の聯想               五二五
飛鳥風                     二〇三
國境踏破の感激                 二二〇
角の浦は殺風景                 三九〇
辛の崎の海松                  四〇三
飛鳥川の緩流                  五〇八
飛鳥川の落差                  五二三
(34)石川は人麻呂の火葬の地、葬處もその附近   六〇七
英虞行宮の地點                 一六四
住吉情調                    二五〇
住吉の埴生                   二四九
 
  博物
 
埴安の池と鴎                   二六
鶴は冬期内地に多かつた             二五四
時鳥傳説                    三五三
萩                九一・二二二・六二〇
榛                        九一
紫について                    九七
狹名葛は調髪用                 三一八
玉※[草冠/縵]の富貴相            四二八
街路樹としての橘                三七三
結松の存在                   四一八
玉藻と婦人               三六八・三九一
梅松                      四〇三
 
  雜
 
富者と簡素趣味                  五〇
阿菩大神                  七一・七三
上代姓名の書式             一二一・三二三
人名と地名との交渉               五二一
文武帝以後は御代の標をあげぬ          二三八
左註「古歌集」の語               三〇五
左註の左註                   三〇八
熟田津の歌の左註錯簡               五六
弟日娘子は遊行婦か               二四一
伊勢處女は國司の款待か             二八二
二人の衣通姫                  三〇六
荷前の荷の緒                  三二七
夢の收穫                    四三〇
杜に酒甕据ゑ                  五五三
男の乳貰ひの世話場               五七八
枕と閨情                    五八六
姫島孃子の屍は投身               六一三
 
(1)    おくがき
 
 私が萬葉集に親炙し始めたのは、明治二十三年頃※[木+觀]齋木村正辭先生の講義を聽いた時であつた。その頃鹿持氏の古義を見ようと思つたが、活版物で手輕に見られる現代とは違つて、それが木板本百數十冊といふのだから、到底貧書生の手に合はない。據なく圖書館通ひをして書入をしたものだ。爾來研究を怠らなかつたが、確か明治の三十年頃かと思ふ。後には新潮社を創めた佐藤義亮君が國文國歌の講義録を出した折、頼まれて萬葉の評釋を寄稿したり、次いで「人麻呂歌集」を作つたりしたことが、私の本腰にこの集の研究に入る段階となつた。明治四十年私の出世作といはれる「古今集評釋」の完成を見た。私は自己宣傳と鳴物入の前觸れとを絶對に忌避する。で一遍も口外こそしないが、内心にはそれも萬葉の評釋を作る前提として作つたものであつた。そして漸く蔗境に入る樂みを獨ひそかに味つてゐた。
 時世の變轉ぐらゐ面白いものはない。私が「人麻呂歌集」を著した時の目的は、有數なる萬葉歌人の家集を繼續的に刊行して、萬葉そのものの價値を、一般讀書界に知らしめたい爲であつた。然るに當時は機運いまだ熟せず、その成績は餘り芳ばしくなかつたので、折角の計畫も遂に抛棄のやむなきに至つた。
 處が近來の萬葉熟はどうだ。萬葉とさへいへば一知半解の徒さへ、無條件にその國寶的歌集であることを肯諾する世の中ではないか。隨つて總括的、部分的、斷片的の差はあるが、各種各樣の研究や編纂物が續々として起り、その發表は日もこれ足らずの有樣である。私からいへば聊か後の雁が先に立つた貌で、つく/”\私の怠慢を責めずには居られぬ。(2) いや實は怠慢ではない。私の性質として片々たる小著や小發表を好まぬからである。私の仕事はすべて氣が長い。尤もこの間に國文方面に進出して、難解として前人の餘り觸れなかつた枕草子の研究を了つて、その「評釋」を完成し、次いで「源氏物語新解」を作つた。のみならず、永い間萬葉關係の地理踏査の爲全國を周遊してゐたことを一言茲に附記して置きたい。
 愈よ筺底に山積してゐる舊稿の整理に取懸つて見ると、殆ど亂麻の如き有樣で、或ははじめから脱漏してゐたり、或は散逸したり、且長年月に亙つての起稿である爲、その時々に依つて樣式や繁簡の程度が相違して居り、前期間のは全部文語で書かれ、後期のは大抵口語で書かれた。文語の分は口語に譯して見ても、もと/\文致が異つてゐるので、とても調和が取れない。これでは全部書き直すより外に方法がないといふことに結着した。
 茲に舊稿を基礎として新稿を作つた。然し妙なもので、舊稿の遺傳が折々邪魔をして尻尾の取れぬ蛙の如く、不徹底な箇處が隨處にあつた。乃ち橘宗利君を煩して、一應整理して貰つた。かくて評釋の第一卷は略完成と見えたが、尚愼重の態度を取つて、訂正又訂正、全く完膚なきまでに點竄の筆を加へ、漸くにして脱稿、印刷に附することとなつた。
 本卷の校正は昭和八年の七月に始まり、爾來三年の日子を費した。甚しい訂正の爲、時には七八校に至るものもあつた。學問的良心が私を驅つた止むに止まれぬ結果であつた。且挿入の圖版の多い爲に愈よ組み直しに困難を來し、豫想外の日子と手數とを掛けたことを我れながら、當事者に深謝する。
 
   昭和十年十月
                     金子元臣しるす
 
 昭和十年十一月三日印刷          定價 停〔○で圍む〕四圓五十錢
 昭和十年十一月七日發行                    合計四圓八拾錢
 昭和十八年四月二十日七版發行  【特別行爲税相當額】金參拾錢
  
     東京市小石川區白山御殿町百十番地
 著者   金子 元臣
     東京市神田區錦町一丁目十六番地
 發行者  三樹 彰
     東京市下谷區二長町一番地
 印刷者  山田 三郎太
     東京市下谷區二長町一番地
 印刷所  凸版印刷株式会社
           東京一二二
發行所 【東京市神田區錦町一丁目【振替貯金口座東京四九九一番】】明治書院
          電話神田(25)二一四七番
                  二一四八番
                  二一四九番
 配給元  東京市神田區淡路町二丁目九番地 日本出版配給株式會社
         不許複製〔金子元臣の印あり〕(出版協承認あ420475號)
    (日本出版文化協會會員番號134008番)
 
            2005年4月3日(日)午前9時10分、入力終了、
            2007年1月13日(日)午後1時2分、校正終了
 
 
金子元臣著 萬葉集評釋 第二冊 明治書院 1938.6.15發行
 
(圖版二葉、地圖一枚省略)
(總目次、凡例、目次、圖版目録、卷三目録省略)
 
(635)  萬葉集卷三
 
この卷は雜歌、譬喩歌、挽歌の三部から成り、一二の卷と同じく時代も歌人も判然としてゐる。譬喩歌及び挽歌の末尾には、大件氏一家の作が分載されてある。
 
雜歌《くさぐさのうた》
 
種々の事相に關する歌の意。こゝには遊覽、旅行、憑弔、宴遊等の作を採録した。
 
天皇《すめらみこと》御2遊《いでませる》雷岳《いかづちのをかに》1之時、柿(の)本(の)朝臣人麻呂(が)作《よめる》歌一首
 
○天皇 持統天皇。○雷岳 又|神岳《カミヲカ》といふ。大和高市郡雷村にある飛鳥の神奈備《カムナヒ》の三諸《ミモロ》山のこと。これを雷(ノ)岳といふ故は、紀の雄略天皇七年秋七月の條に、「天皇詔(セテ)2少子※[虫+果]羸《チヒサコベノスガルニ》1曰《ノタマフ》、朕欲(フ)v見(ムト)2三諸岳《ミモロノヲカノ》神(ノ)之形(ヲ)1、汝|膂力《チカラ》過(ル)v人(ニ)、自(ラ)行(キテ)捉(ヘ)來(ヨト)、※[虫+果]羸答(ヘテ)曰(ス)、試(ニ)往(イテ)捉(ヘムト)之、乃(チ)登(リ)2三諸(ノ)岳(ニ)1捉(ヘテ)2大蛇(ヲ)1奉(ル)v示(セ)2天皇(ニ)1、天皇不2齋戒(シタマハ)1、其雷※[兀+虫]々《ヒカリテ》、目精《マナコ》赫赫《カヾヤキヌ》、天皇畏(レテ)蔽(ヒテ)v目(ヲ)不v見(タマハ)、却(キ)2入(リマシ)殿(ノ)中(ニ)1、使(メタマヒキ)v放(タ)2於岳(ニ)1、仍《カレ》改2賜(ヘテ)名(ヲ)爲(ス)v雷(ト)」とある。尚「かみをか」を見よ(四四七頁)。
△寫眞 挿圖130を參照(四四八頁)。
 
(636)皇者《おほきみは》 神二四座者《かみにしませば》 天雲之《あまぐもの》 雷之上爾《いかづちのへに》 廬爲流鴨《いほりせるかも》     235
 
〔釋〕 ○あまぐもの 雷にかゝる枕詞で空のこと。「あまぐも」は(1)天の雲。(2)は(1)の轉用で、空をいふ。雨《アマ》雲の意に用ゐるのは後世のこと。○いかづちのへ 雷の邊り。「へ」は上の上略であたり〔三字傍点〕の意。先賢の多くは、「上」を山〔右△〕の誤寫としたが、こゝは雷岳を直ちに雷に取成しての作である。○いほりせる 庵造をしてゐる。古義に「流」を須〔右△〕の誤寫として、イホリセス〔五字傍線〕と訓んだのは一應の理由はあるが、歌に敬語を略くは例の多いことで、下にも「皇は神にしませば――荒山中に海をなすかも」とある。
【歌意】 流石に天子樣は現人神であらせられるので、あの恐ろしい雷樣のあたりに、行宮《カリミヤ》住まひななされてゐることよ。
 
〔評〕 雷山の御登臨は、想ふに天皇がまだ先帝の故宮淨見原(ノ)宮にあらせられた頃、即ち藤原(ノ)宮遷都以前の事であらう。この山は一堆の丘陵に過ぎないが、飛鳥地方の眺望を一望のもとに收め得る形勝の地である。
 天皇を現神《アキツカミ》(明神)と稱へ奉ることは公式令にも規定され、わが國民古來の信念を表した當時の常套語だから、何の奇もない。只この普遍想を前提として、雷山の宮造を御神業の發露であると、聊かの躊躇なしにいひ切つてしまつた。そこに雄渾なる風調と豪宕警拔なる著意とが認められる。
 抑も雷山の雷神は、かの少子部※[虫+果]羸《チヒサコベノスガル》の事迹によつて、大和人は誰れしも知り拔いてゐるから、雷山といへば端的に雷神を意識する。處で雷霆を神格視して恐懼したことは、古代ほど甚しいので、記の黄泉國傳説に依つ(637)ても十分に證する事が出來る。然るにその雷の上に庵することは、即ち雷神を拆伏した英雄的行爲である、超人的行爲である、全く神の行爲である。されば大君の神とます所以を反説的に證明したもので、要は帝威の禮讃に歸する。「天雲の」は枕詞ではあるが、雷を莊嚴に崇高に神秘的に形容し表現する上において、立派な役目を勤めてゐる。
 又この種の類想類型をもつた作は集中に、
  大君は神にしませば天雲の五百重がしたに隱り給ひぬ (卷一、置始東人―205)
  大君は神にしませば眞木のたつ荒山中に海をなすかも (本卷―241)
  大君は神にしませば赤駒のはらばふ田居を都となしつ (卷十九、大伴卿―4260)
  大君は神にしませば水鳥のすだく水沼を都となしつ  (同卷―4261)
 など見え、次にも或本の「雲隱るいかづち山に」の詠がある。
 
右、或本(に)云(ふ)、獻(れる)2忍壁皇子《おさかべのみこに》1也、其歌(に)曰(ふ)
 
一本には、人麻呂が忍壁皇子に獻つたものだとしてあると、その異傳を注した。○忍壁皇子 天武天皇の第九子。天武天皇十年に帝紀及び上古の諸事の記定を、文武天皇三年に律令撰定を命ぜられた。大寶三年に知太政官事となり、同二年五月三品で薨ぜられた。
 
王《おほきみは》 神座者《かみにましませば》 雲隱《くもがくる》 伊加土山爾《いかづちやまに》 宮敷座《みやしきいます》
 
(638)〔釋〕 ○くもがくる 雷の形容。雷の鳴る時は雲の起るゆゑにいふ。○しき 「しぎなべて」を見よ(一二頁)。
【歌意】 皇子樣は現人神であらせられるので、あの恐ろしい雷山に、お住居を建てゝ入らつしやいますことよ。
 
〔評〕 天皇即神の義を擴張して皇太子即神はまだ尤であるが、これを皇子級にまで延長することは、少し諛言に近いやうだが、用例は無論ある。この歌は忍壁皇子に果して獻つたものか、そこに疑問なきを得ない。「雲隱る」の序詞はこの場合妥當な修辭とは思はれぬ。  
 
天皇(の)賜(へる)2志斐嫗《しひのおむなに》1御歌一首
 
○御歌 眞淵は御製〔右○〕歌の脱とした。○志斐嫗 志斐は氏で、連《ムラジ》姓である。嫗は老女の意。この嫗の名は未詳。
 
不聽跡雖云《いなといへど》 強流志斐能我《しふるしひのが》 強語《しひがたり》 比〔左△〕者不聞而《このごろきかずて》 朕戀爾家里《われこひにけり》     236
 
〔釋〕 ○いな 「不聽」の意訓。○しひの 「の」は背な〔傍点〕、妹なね〔二字傍点〕などのナ及びネと相通の語で、親睨の意を表示する接尾語。○しひがたり 無理じひにする物語。○このごろ 「比」原本に此〔右△〕とあるは誤。「比」は頃と同意。
【歌意】 いやもう澤山だと斷つても、何でも強ひ聞かせる志斐のが、その名の通りの強ひ物語を、この頃さつぱり聞かないので、變なもので、わたしは何だかお前が戀しくなつてきたよ。
 
(639)〔評〕 頗る率直なありのまゝの表現である。とはいへ「しふるしひ〔五字傍点〕のがしひ〔二字傍点〕がたり」の動詞名詞人名をうち込めてのシヒの音の三疊は、最も輕快な響を聽者に與へる。そして強ひ〔二字傍点〕の意がどぎつく印象されるので、いかに嫗が名詮自稱のお喋舌であつたかが窺はれる。いや實はかくわざと耳喧しいやうに誇張したのであつて、それは「戀ひにけり」を強く反映せしめる手段であつた。かういふ輕い戲謔的のお詞に、君臣間の閾を撤しての打解けた御間柄であることが想像される。
 強語りについては、古義に引いた中山嚴水説に、これはたゞの會話ではなく、大嘗會などにもある語部《カタリベ》の舊記を語る類で、志斐の嫗は何かの傳説や一部の話説を語る者であつたらうと。
 
志斐(の)嫗(が)奉和《こたへまつれる》歌一首  嫗(の)名未詳
 
不聽雖謂《いなといへど》 話禮話禮常《かたれかたれと》 詔許曾《のらせこそ》 志斐伊波奏《しひいはまをせ》 強話登言《しひがたりとのる》     237
 
〔釋〕 ○のらせこそ 宣へば〔右○〕こそ。「ば」の接續辭のないのは古文法。○しひい 「い」は名詞の接尾語。關守|伊《イ》、麿伊、紀伊の伊、これに同じい。○しひがたり 「話」を語〔右△〕と改めて、シヒゴト〔四字傍線〕と訓むはわるい。○のる 言ふ〔二字傍点〕の敬相。「言」を古義に告〔右△〕の誤かとあるは不用。
【歌意】 もういやですと申しても、なほ話せ/\と仰しやるからこそ、私志斐伊は申すのです、それを帝樣は私の強物語だと仰しやいます。あまりおひどい。
 
(640)〔釋〕 御製の初句をそのまゝ承けて、意は正反對に飜轉した。もと/\應酬の作で?みしめるやうな深味はないが、怨みつぽく輕く拗ねたその口吻が、會話そのまゝのやうで、そこに又いひ知らぬ親しい情味が鈍染み出してくる。君臣水魚の歡會といつてしまへばそれ迄だが、かやうな親褻な語は、特に婦人同士の間柄に於いて著く認められるものである。四五の句間、藕斷えて絲絶えざる、有餘不盡の姿致がある。
 
長忌寸意吉麻呂《ながのいみきおきまろが》應v詔《うけたまはりてよめる》歌一首
 
○長忌寸意吉麻呂 傳は既出(二二三頁)。○應詔歌 歌詠めとの天皇の仰によつて詠んだ歌との意。天皇は持統天皇。
 
大宮之《おほみやの》 内二手所聞《うちまできこゆ》 網引爲跡《あびきすと》 網子調流《あごととのふる》 海人之呼聲《あまのよびこゑ》     238
 
〔釋〕 おほみや こゝでは難波の豐崎の離宮を斥した。今の大阪城址の地である。○まで 「二手」は及《マデ》の借用字。「いくよまでに」を參照(一三九頁)。舊訓ニテ〔二字傍線〕は非。○すと 爲《ス》とて〔右○〕。○あごととのふる 網子《アゴ》を集めそろへる。「あご」は網子《アミコ》の略で、網を曳く者の稱。田子《タゴ》、船子《フナコ》、馬子《マゴ》の類語である。△地圖 挿圖77を參照(二三七頁)。
【歌意】 大宮の内まで聞えますよ、濱邊で網を曳くとて、網子を呼び集める海人の呼聲がさ。
 
〔評〕 持統天皇が難波の離宮に行幸遊ばされた折、意吉麻呂に即興の口吟を獻らしめられたものと思はれる。この宮は三面海に瀕うた出崎に建てられたので、時をり地引網など曳くとて、網子を催す漁師の聲高い訛《タミ》聲が響いてくる。平生大和の飛鳥藤原の山間地にのみ生活してゐる都人士の耳には、いかにもそれが物珍しく、しみじみ興を唆られるのであつた。作者は只ありのまゝにその即興を叙したに過ぎないやうだが、大宮の内と網引する濱邊と、又網子とゝのふる海人と、それを興ぜられる天皇及び大宮人とが暗裏に對映されて、それ等が「まで聞ゆ」の一語で結び付けられ、物珍しい感じを力強く表現してゐる。叙景の上乘。
 
右一首
 
「右一首」の下闕文になつてゐる。恐らく持統天皇の難波行幸に就いての但書でもあつたのであらう。蓋し持統天皇紀には難波行幸の事がない。紀の脱漏と思はれる。
 
長皇子《ながのみこの》遊2獵〔左○〕《みかりしたまへる》獵路野〔左△〕《かりぢぬに》1之時、柿本(の)朝臣人麻呂作歌一首并短歌
 
○長皇子 天武天皇の皇子。既出(二二七頁)。○遊獵 「獵」の字は原本にない。補つた。○獵路野 高市郡|大輕《オホカル》附近。獵《カリ》路は輕《カル》路のことで、音通である。「かるのみち」を見よ(五六二頁)。これを高市郡の鹿路村に充てる説、又城上郡榛原の地に求める説には尚考慮の餘地がある。「野」原本に池〔右△〕とあるが、歌の趣によつて改めた。△地圖及寫眞 挿圖155(五六四頁)154(五六三頁)を參照。
 
(642)八隅知之《やすみしし》 吾大王《わがおほきみ》 高光《たかひかる》 吾日乃皇子乃《わがひのみこの》 馬並而《うまなめて》 三獵立流《みかりたたせる》 弱薦乎《わかごもを》 獵路乃小野爾《かりぢのをぬに》 十六社者《ししこそは》 伊波此拜目《いはひをろがめ》 鶉己曾《うづらこそ》 伊波此囘禮《いはひもとほれ》 四時自物《ししじもの》 伊波比拜《いはひをろがみ》 鶉成《うづらなす》 伊浪比毛等保理《いはひもとほり》 恐等《かしこみと》 仕奉而《つかへまつりて》 久堅乃《ひさかたの》 天見如久《あめみるごとく》 眞十鏡《まそかがみ》 仰而雖見《あふぎてみれど》 春草之《はるぐさの》 益目頬四寸《いやめづらしき》 吾於富吉美可聞《わがおほきみかも》     239
 
〔釋〕 ○やすみししわがおほきみ 既出(三〇頁)。○たかひかるひのみこ 既出(四八〇頁)。○なめて 既出(三六頁)。○みかりたたせる 御獵をなさる。「み」は敬稱。「たたせる」はたつ〔二字傍点〕の敬稱たるタタスの現在完了格。たつ〔二字傍点〕はその事をなす働をいふ。出立《イデタ》つの意ではない。○わかごもを 弱薦よ刈る〔五字傍点〕を獵路にいひかけた枕詞。「を」は歎辭。「うちそを」を參照(一〇六頁)。「弱」は若の意で美稱。「薦」は眞(643)菰《マコモ》のこと。禾本科の宿根水草で、高さ四五尺に達する。秋一尺餘の穗を抽き、多く分岐して淡緑の小花を著ける。○ししこそは 「しし」は「ししじもの」を見よ(五三九頁)。「十六」は四四の乘數からの戲書。「社」をコソと訓むは、古語に願望の意に用ゐるコソがあり、乞の字を充てもした。社に向つては乞祷《コヒノ》むから、遂にコソに社の字を充てるやうになつた。○いはひをろがめ 「いはひ」は這ひ〔二字傍点〕にい〔傍点〕の接頭語を添へた語。「をろがむ」は折れ屈《カヾ》むの約轉。最敬禮の拜は折れ屈むにより、一般に拜することをもいふやうになつた。○いはひもとほれ 既出(五三九頁)。○ししじもの 既出(五三九頁)。「四時」は戲書。○うづらなす 「うづら」は既出(五三九頁)。「なす」は既出(九〇頁)。○かしこみと 上に皇子を〔三字右○〕補うて聞く。○ひさかたの 天の枕詞。既出(二八二頁)。○まそかがみ 見に係る枕詞。眞澄《マスミ》鏡の意。スミを約めてます〔二字傍点〕鏡といひ、又轉じてまそ鏡といふ。「十」は借字。○はるぐさの 春草の如く〔二字右○〕。珍しに係る枕詞。春草は僅に生ひ出て珍しいのでいふ。舊訓はワカグサノ〔五字傍線〕であるが、上の若薦《ワカゴモ》にさし合ふから、古本の訓に據つた。○めづらしき 愛《メ》づ、愛づらの形容詞格で、愛賞の意。「目頬四寸」は戲書。△挿圖 挿圖11(三六頁)137(四九二頁)を參照。
【歌意】 私の立派な皇子樣、日繼の皇子樣が、御付きの人達と馬を乘り竝べて、御狩獵をなさる獵路の小野に、鹿はさ伏して膝折り屈めようし、鶉はさ伏して這ひまはる、私達は鹿その物の如く伏して拜み、鶉の如く伏して這ひまはり、皇子樣を恐懼してお仕へ申して、恰もあの天を見るやうに仰いで、見ても/\尚飽かず珍しい、私の皇子樣であらつしやることよ。
 
(644)〔評〕 「安みししわが大王」「高光る日の御子」は、頗る崇高莊重を極めた讃語であるが、かく皇子又は皇族の御上にも、一再ならず襲用するやうになつては、漸くその特殊性を失ひ、普遍的な妥協的なものに過ぎなくなる。隨つて今日我々が想像する價値よりは、幾分の割引を必要とするのではあるまいか。
 天武天皇の御代の殺生禁斷の令は時に弛張があるが、狩獵は貴人の野外遊戲として、その特權のもとに常に行はれた。同じ扮装の同行二三、弓箭を帶し鷹犬を曳かせ、前驅後從その員を盡して、狩野に馳驅する豪快さは、蓋し溌刺たる男性的氣分を放散する。
 鹿と鶉とは主要なる鳥獣兩方面の代表的獲物である。而もその草伏し状態をうつして、奉仕者の跪禮匍匐禮を執る形容に用ゐ、丁寧反復、極力「恐みと仕へまつる」自分達の態度を叙した。この形容法は作者獨得の創語であるらしい。人麻呂以前の歌には聞かない。 抑もこの二禮は、弱者が強者を仰いでその哀憐を乞ふ態度から始まつて、最敬禮の作法とまでなつた。かくて自分達の拜伏態度を印象深く強調したことは、下に景仰の態度をいひ出す爲の伏線であつた。乃ち「久堅の天見る如く、眞十鏡仰ぎて見れど」と恭敬の限を盡して、首を擧げて拜眉し奉るのであつた。天と鏡とに關する我々祖先のもつた觀念は實に崇高嚴肅を極めたもので、今も長皇子に對して亦、この觀念から仰ぎ奉つたのである。而して天見る如く仰ぎて見れどの意を二分して、枕詞を藉つて對句とし、「見る」「見れ」の重複も却て皇子景仰の意を強調する効果を奏し、爲に「見れど」が見れど/\〔五字傍点〕といふ程の力強い感じをもつに至つたことを忘れてはならぬ。
 上來の波瀾ある叙述は、畢竟ずるに只「珍しきわが大王」の結論に到着する道程に過ぎない。見ても/\見(645)飽かぬ君、これが長皇子に作者の捧げた最大の尊敬と讃歎とであつた。
 更にいふ、作者はいづれ舍人の職で、長皇子の御出獵に追從したものと思はれる。皇子は天武天皇の第三皇子にましますので、第二皇子たる草壁皇子が天智天皇の元年の御生誕である事から考へて、少くも一年は御年下と假定して推算すると、持統天皇の御代の元年には二十二歳、その最後の七年には二十八歳であらせらるゝ事になる。獵路野の狩の年時は判明しないが、まづその中間としてからが、二十四五歳の若盛であらせられた。
 「仰ぎて見れど春草のいや珍しき」といふ所以は、全くその瑞々しい血氣旺んな大君振を、惚れ/”\と仰ぎ奉つての詠歎である。
 「春草の」は枕詞ではあるものゝ、秋の狩獵時季の作には聊かどうかと思ふ。この作者は時にかういふ事を遣る。「從石見上京」の作(卷二)にも、秋季に「夏草の思ひ萎えて」と平然と使つてゐる。
 第一段、例の双頭格の莊重なる起筆を用ゐ、以下「獵路の小野に」までは叙事を以て進行し、第二段、「鹿こそは――鶉こそは――」を前聯、「鹿じもの――鶉なす――」を後聯として相排對せしめ、さて「恐みと仕へまつりて」の單句で一旦結收した。第三段は「久堅の」より結尾までを含んで、一篇の主要なる重點を構成した。
 
反歌一首
 
久堅乃《ひさかたの》 天歸月乎《あめゆくつきを》 綱〔左△〕爾刺《つなにさし》 我大王者《わがおほきみは》 蓋爾爲有《きぬがさにせり》     240
 
(646)〔釋〕 ○あめゆく 空を渡るをいふ。「歸」の字は趨くの義ゆゑ、ユクと訓む。○つなにさし 綱にて〔右○〕刺し通し。綱は紐のこと。「綱」諸本に網〔右△〕とあるは誤。○きぬがさ 帛笠《キヌガサ》。長柄をつけて貴人の頭上に覆ふ天蓋《テンガイ》のこと。一は正式の四角の物で、儀制令に「凡蓋(ハ)皇太子(ハ)紫(ノ)表、蘇芳(ノ)裏、頂及(ビ)四角(ニ)覆(ヒ)v錦(ヲ)垂(ル)v總(ヲ)、親王(ハ)紫(ノ)大纈《ユハタ》、一位(ハ)深緑、三位已上(ハ)紺、四位(ハ)縹《ハナダ》、四品以上及(ビ)一位(ハ)頂角覆(ヒ)v錦(ヲ)垂(ル)v總(ヲ)、二位以下(ハ)覆(フ)v錦(ヲ)、大納言以上(ハ)垂(レ)v總(ヲ)竝(ニ)朱(ノ)裏、總(ハ)用(ヰル)2同色(ヲ)1」とある。二は略式の圓形の物で、帛張《キヌバリ》もあり菅茅を編んだのもある。蓋は何れも縁に綱を著けて、使人がそれを執つて動搖を調節する。
【歌意】 恰も空に出た圓い月、わが皇子樣は、その月を紐で通して、蓋にしてあらつしやるわい。
 
〔評〕 親王大官の行粧には蓋をさし掛けさせる。今長皇子は狩獵に出られたのだから、肥馬輕裘の扮装で、蓋など用ゐては居ない。輕路野の夕狩果てゝの御歸還に、恰も眞丸な大月が皇子の頭上を照射してゐる。でその圓月から忽ち圓形の蓋を聯想し、聯想は直ちに無差別の斷定にまで進んで、あはれ皇子樣は月を蓋にして居られると、躊躇なしに斷言した。不可能な事を敢へてなす、即ち奇迹を現ずることは、神の仕業でなければならぬ。そこで皇子を人間以上に禮讃したことに(647)なる。結局は上の「雷の上にいほりせる」と同趣に落ちる。然しこゝは「神にしませば」の説明的前提がないだけ、一面妄想に近くも見えるほど奇拔放膽な着想で、人麻呂その人でなければ、とてもいひ得ない語と思ふ。格調また雄渾で、語力勁健である。「綱にさし」は蓋には紐が附物なので、「蓋にせり」といふ印象を強める爲に使つた幻化手段に過ぎない。
 
或本(の)反〔左△〕歌一首
 
 この歌は「獵路野遊獵」の長歌の反歌では決してない。歌に池造りの事が見えるが、これは天子の御所作で、歌の本行にも「皇」の字が書いてある。然るに長歌の「おほきみ」は長皇子を斥してゐる。同一の場合に長歌と反歌とで、斥すところが一致しない筈がない。故にこれは獨立した別の歌と見るがよい。又この歌の體製から考へると、上出の「天雲の雷の上」「雲がくる雷山に」の又の異傳を註したものと思はれる。さては其處に引上げて、或本歌〔三字右△〕と題すべきである。略解はいふ、池を掘らせ給ひて行幸ありし時の歌にて、前に端詞ありしが落ちしなるべしと。
 
皇者《おほきみは》 神爾之坐者《かみにしませば》 眞木之立《まきのたつ》 荒山中爾《あらやまなかに》 海成可聞《うみをなすかも》     241
 
〔釋〕 ○まきのたつ 「まきたつ」を見よ(一七七頁)。〇うみをなす 海を作《ナ》す、即ち海を造ること。こゝは池を造つたのである。池を海といふ。「うなはら」を見よ(二三頁)。芳樹はウミナサス〔五字傍線〕と訓んだ。
(648)【歌意】 流石に天子樣は親人神で入らつしやるので、眞木の茂り立つ恐ろしい山の中に、海をお造りになつたことよ。
 
〔釋〕 海即ち池を造ることはもと灌漑の爲で、平地の田畝に近い丘陵に倚つて塘を築いて、天水や湧水を湛へておくのが通例である。然るにこれは眞木の立つ荒山中に造られたので、他の樣式と一寸相違してゐる。池のありさうも無い場處に池を造つたことは正に意外で、神業といはねばならぬ。集中眞木立つ荒山〔六字傍点〕と續けたのは、吉野山、不破山、初瀬山などであるが、「神にしませば」の前提を活かす爲には、却てそれほどの荒山でもないのをさやうに誇張した方が、趣があり味ひがある。それと同じ意味で、池を海といひなしたことも、その前提を活かして、大王讃歌の意を強める。面白い歌である。但この時代に池を造つたことは紀に所見がない。
 
弓削《ゆげの》皇子(の)遊《いでませる》2吉野《よしぬに》1時御歌一首
 
○弓削皇子 傳は既出(三五〇頁)。
 
瀧上之《たぎのへの》 三船乃山爾《みふねのやまに》 居雲乃《ゐるくもの》 常將有等《つねにあらむと》 和我不念久爾《わがおもはなくに》     242
 
〔釋〕 ○たぎのへ 瀧の上方。瀧は吉野郡吉野川の宮瀧の激湍。その北岸に吉野離宮があつたので宮瀧と稱する。(649)「吉野宮」を見よ(一四四頁)。○みふねのやま 吉野離宮の南、吉野川の對岸にある小山。○ゐるくもの 上句は譬喩であるが、それを「常にあらむと」にかけて、雲の聚散常なきが如くと解する説と、下句全部にまで及ぼして、雲の常にあるが如くと解する説との二つに分れてるる。略解には卷六「人皆の命もわれもみよし野の瀧のとこはの常《トコ》ならぬかも」を、この後説の旁證としてあるが、本來瀧は常磐の物、雲は常磐ならぬ物だから、出自がはじめから違ふ。前説によりたい。 ○あらむ 存在しよう。△地圖及寫眞 挿圖35(一一〇頁)47(一四五頁)を參照。
【歌意】 宮瀧の上方に見える、あの三船の山に雲がかゝつてゐる。その雲の忽ち變幻するやうに、自分がこの世に、何時までも住み果てようとは、思はれないになあ。
 
〔評〕 宮瀧の南岸に三船山(左)と象の中山(右)とが對立し、その奥に天滿の小山があり、その狹い谷を象谷といひ、その溪流を象の小川といふ。谿谷が幽遠なので、常に雲霧の集散がある。
 吉野離宮附近で三船の山を望むと、たま/\白雲が搖曳してゐる。その聚散常なき状態を目撃して、こゝに人世の無常を聯想し、いや人事ではない、自分とてもいつ死ぬかわからぬと痛感した。つまり型通りの佛教思想の聲聞觀で、珍しいものではない。只かうした高貴の御身分で、こんな事を思惟されたことに、何等かの因縁が潜んでゐさうに想はれる。作者は文武天皇の三年に、漸う三十歳を越したか位で早逝されたことを思ふと、この悲觀はその御健康上から生まれてきたのではあるまいか。「瀧のへの三船の山」の續きは類例が集中に多いが、この歌が初見である。
 
(650)春日王奉v和《かすがのおほきみがこたへまつれる》歌一首
 
○春日王 志貴皇子の子で、天智天皇の皇孫。續紀の文武天皇、大寶三年六月の條に、淨大肆春日王卒とある。○奉和歌 既出(二六五頁)。
 
王者《おほきみは》 千歳爾麻佐武《ちとせにまさむ》 白雲毛《しらくもも》 三船乃山爾《みふねのやまに》 絶日安良米也《たゆるひあらめや》     243
 
〔釋〕 ○たゆるひ 絶える時。
【歌意】 いつまでも生きられぬとは以ての外、貴王は千萬年も榮えられませう。あの貴王が定めないと仰しやる雲でも、三船山におりてゐない日がありませうかい、何時でもあるではありませんか。
 
〔評〕 そんな縁喜のわるいことを仰しやるものではありませんの餘意がある。原歌とおなじ三船の山の雲を主題に捉へて、その意を飜轉して祝ひ直して慰めたもの。口達者らしい作である。弓削皇子を「おほきみ」と稱したのは、この作者の身分柄では少し諛言に近いかと思はれる。お世辭はお互にいひ合ふものだが、弓削皇子は天武天皇の直宮《ヂキミヤ》、作者は天智天皇系の孫王で、官位も淺く身分に懸隔があるので、天武天皇系全盛時代では無理のないことかも知れない。この歌が雲を常住の意に取成したのを見ても、上の弓削皇子の歌は、雲を無常の物と觀じての作であることが證明される。
 
(651)或本(の)歌一首
 
 上出の弓削皇子の作の異傳を擧げたのである。
 
三吉野之《みよしぬの》 御船乃山爾《みふねのやまに》 立雲之《たつくもの》 常將在跡《つねにあらむと》 我思莫苦二《わがもはなくに》     244
 
〔評〕 「三吉野の」よりは「瀧のへの」の方が面白い。吉野にゐて漠然と吉野といふよりは、もつと範圍を狹めて、「瀧のへ」と局つた方が、實際感が出て印象が鮮明になるから。
 
右一首、柿本朝臣人麻呂之歌集(ニ)出(ヅ)。
 
左註の人麻呂歌集なるものは絶對信憑の價値あるものとは思はれない。或は稀に人麻呂の作もあらうが、又他人の作がいくらも混つてゐる。歌の風調も人麻呂時代より降つたものが多い。おもふに雜駁に古歌を採録したものに、この名稱を冠せたものらしい。集中に於けるこの左註を通觀すると、かうした感じが浮いてくる。なほ後世の卅六人集中の人丸集が杜撰であるが如くである。されば眞に人麻呂の歌を檢べようとするには、題詞に「人麻呂作歌」の標記ある歌による外はない。「人麻呂之歌集出」の左註ある歌は危險である。 
長田《ながたの》王(の)被(れて)v遣(は)2筑紫(に)1渡(れる)2水島《みづしまに》1之時(の)歌二首
 
(652)長田王が筑紫に派遣されて、水島に渡航する時の歌との意。○長田王 長皇子の孫、粟田王の子で、續紀に天平九年六月卒とある。この王の筑紫に遣はさるゝこと、史に所見がない。○水島 肥後國八代部で、球磨《クマ》河の一支南川の河口にあたり、今は殆ど陸續きになつてゐる。周圍一町二十五間、泉石の隙から清列な水が湧いてゐる。水島といふ故は、景行天皇紀に「十八年夏四月、自2海路1泊(リテ)2於葦北(ノ)小島(ニ)1而|進食《ミヲシス》、時(ニ)召(シテ)2山部(ノ)阿弭古《アビコ》之|祖《オヤ》小左《ヲヒダリヲ》1令(ム)v進(ラ)2冷水《ミモヒヲ》1、適(マ)此時島中(ニ)無(シ)v水、不(ニ)v知(ラ)2所爲《セムスベヲ》1、則(チ)仰(イデ)之|祈《コヒノム》2于天神地祇(ヲ)1、忽(チ)寒泉(シミヅ)從(リ)2崖(ノ)旁1涌(キ)出(ヅ)、乃酌(ミテ)以獻(リキ)焉、故號(ケテ)2其(ノ)島(ヲ)1曰(フ)2水島(ト)1也、其泉猶今(ニ)在(リ)2水島(ノ)崖(ニ)1也」とある。
 
如聞《ききしごと》 眞貴久《まことたふとく》 奇母《くすしくも》 神左備居賀《かむさびますか》 許禮能水島《これのみづしま》     245
 
〔釋〕 ○ききしごと 景行天皇紀にある水島の靈泉を(653)噴出した傳説をさす。○まこと まことに。副詞挌である。○くすしくも 靈妙にも。○ますか 「か」は歎辭。「居」の字、舊訓にはヲル〔二字傍線〕とあるが、「神さび」にはマスの敬語の方がふさはしい。○これの この。「れ」は添語。
【歌意】 豫て噂に聞き及んだ如く、ほんに尊くあやしく不思議に、神々しくてあらせられることよ、この水島はさ。
 
〔評〕 水島は世間いくらもある磯際の小島で、景行天皇紀の記述がないと、永久問題にはなりさうもない島である。靈泉噴出の奇蹟、あれは海岸だから、丁度その水が潮の干滿に隨つて増減進退したに過ぎまい。古人はすべて迷信深いうへに、皇祖の御遺蹟といふので、長田王は特殊の信仰をもつて、かねて水島に敬慕の念を懷いてゐたと見える。さればこれを實見するに當つて、遂にこの禮讃的言辭を放つに至つたのである。「神さびますか」の神格視は、水島そのものを躍動させて、掲焉の靈威を想はしめる。但この手法は上代には敢へて珍しくない。四句の句末に置いた「か」の聲響は、金磬一打全山の雲悉く動くの感がある。
 
葦北乃《あしきたの》 野坂乃浦從《ぬさかのうらゆ》 船出爲而《ふなでして》 水島爾將去《みづしまにゆかむ》 浪立莫勤《なみたつなゆめ》     246
 
〔釋〕 ○あしきた 肥後國葦北郡。○ぬさかのうら 今の葦北郡の田(ノ)浦の地。○ゆめ 禁止の辭。
(654)【歌意】 自分は今葦北の野坂の浦から出帆して、遙な水島に往かうとするのだ。浪よ決して立つてはならぬぞ。
 
〔評〕 野坂の浦を今の田ノ浦とすると、こゝから本道は山越(三太郎峠)に北へ走つてゐる。作者は陸行七八里の難路を厭うて、北方五里の水島さして、一直線に球磨海岸に渡らうと、船出を試みたと想はれる。球磨河口は土砂堆積の爲延長したり分流したりして、現在の水島は殆ど陸續きであるが、この時代は全く陸地と絶縁した孤島であつたに違ひない。海は即ち葦北の海で内海だが、荒れでもすると當時の小舟ではとても溜るまい。船の恐怖は人々の特質によつて、大きな差違があるものながら、「波立つなゆめ」の切願は頗る眞劍のものらしい。それが海馴れぬ都人であり、且やごとない貴人であることを思ふと、益すその感が深い。「葦北の野坂の浦」と打出した委しい地理的叙述も、まさに他郷人の心持を表現してゐるもので、草枕時代の困難な旅情があざやかに出てゐる。
 初句以下四句まで平叙を用ゐ、落句に至つて突如として轉換する、即ち第五句に主要の語を置いて一首の司命とする格法は、古代に於いて多い。集中にはこの歌の外その例證枚擧に遑がない。
 上の歌は水島での作、これは水島に往かうとする時の作だから、排列が前後してゐるが、次にすぐこの歌の和歌を掲げる便宜上、わざと順序を易へたものと思はれる。
 
石川(の)大夫《まうちぎみが》和《こたふる》歌一首 名闕
 
〇石川大夫 石川は氏、作者の名が記してないが、類聚抄には「從四位下石川朝臣宮麻呂朝臣和歌」として、(655)この歌がある。○大夫 令制に四五位の人の稱とある。古義はいふ、氏の下に附けていへるは皆五位の人なりと。○和歌 既出(一〇七頁)。こゝは長田王の歌の作意に應へて詠んだのである。
 
奥浪《おきつなみ》 邊波雖立《へつなみたつと》 和我世故我《わがせこが》 三船乃登麻里《みふねのとまり》 瀾立目八方《なみたためやも》     247
 
〔釋〕 ○おきつなみ 沖の波。尚「おきつしらなみ」を見よ(二八四頁)。○へつなみ 岸邊の波。沖つ彼の對語だから「つ」の連辭は必ずあるがよい。卷六にも「沖つ浪邊つ浪やすみ」とある。舊訓はヘナミ〔三字傍線〕。○たつと 「と」はとも〔二字傍点〕の意。○わがせこ こゝは男性同士の呼稱に用ゐた。既出(一六九頁)、及び「わがせ」(九〇頁)を見よ。○みふね 「み」は敬稱。「三」は借字。
【歌意】 よし沖も岸邊も波は立つとも、貴方樣の御乘船の泊に、波が立たうことかい。 
〔評〕 長田王が「波立つなゆめ」と、波を氣にして取越苦勞をさせられたので、地方官吏としての御案内役たる石川大夫は、餘所に波は立つても、王樣の船泊には決して立ちません、御安心下さいと、御慰安を申上けた。もともと辭令の作だから、大した内容はもたぬが、知れ切つた矛盾の事實を、躊躇なしに受け合つて退けたその心持に、嬉しい深い情合が見える。皇子樣に對して、「わがせこ」と呼び掛けたのも、打解け切つた懇情を表してゐる。「波」の三疊は、波を事件の中心に扱つた結果である。けれども「邊つ波立つと」「波立ためやも」の重複したいひ方は、洗煉したものとはいひ惡い。もとより咄嗟の應酬で據なかつたのであらう。平安人なら、(656)「沖に邊に風は吹くとも」など避けて詠む所である。
 
右今案(フルニ)、從四位下石川(ノ)宮麻呂(ノ)朝臣、慶雲年中任(ズ)2大貮(ニ)1、又正五位下石川(ノ)朝臣|吉美侯《キミコ》、神龜中任(ズ)2少貮(ニ)1、不v知(ラ)兩人誰(カ)作(メルヲ)2此(ノ)歌(ヲ)1焉。
 
長田王は和銅四年に始めて正五位下を授けられた。これは成年後數年を經ての事であらう。王の筑紫派遣は無論その以後と見ることが至當である。左註の説及び類聚抄の石川宮麻呂の太宰大貮たることは、和銅より以前であるから問題にならない。さればこの作者は、神龜中の少貮石川(ノ)吉美侯、及び同五年の少貮石川(ノ)足人の二人の中であらう。(卷四に神龜五年太宰(ノ)少貮石川(ノ)足人(ノ)朝臣(ノ)遷任(ニ)、餞(スル)2於筑前(ノ)國蘆城(ノ)驛(ニ)1歌三首がある)
 
又、長田王(の)作歌一首
 
隼人乃《はやひとの》 薩摩之迫門乎《さつまのせとを》 雲居奈須《くもゐなす》 遠毛吾者《とほくもわれは》 今日見鶴鴨《けふみつるかも》     248
 
(657)〔釋〕 ○はやひとの 隼人《ハヤヒト》は國名。當時薩摩は隼人の國のうちの地名であつた。隼人は逸《ハヤ》り人の義、薩摩は幸島《サチシマ》の義といふ。○さつまのせと 八代灣の南端の出入口で、薩摩の出水郡の下出水村と、その西なる長島との間の海峽をいふ。長さ五海里ほど、潮流急激なので黒瀬戸の稱がある。○くもゐなす 雲の如く。「居」に意はない。
【歌意】 かねて聞き及んだ薩摩の迫門を、雲のやうに遠くも、よそながら今日見たことよな、私は。
 
〔評〕 わが大御國の最南のはての隼人の國、しかも恐ろしい航海上の魔處たる薩摩の迫門、そこにこそ往かぬが、葦北の野坂の浦まで來た長田王は、八代灣の海上十數里をとほしての南方に、あの邊がそれよと案内者から教へられた、その刹那の感じを(658)歌つたものである。「隼人の薩摩の迫門」とうち出したのからして、遠い旅人の驚異の眼を瞠つた氣分が出てゐる。「雲居なす」の譬喩は地理的關係からしても相當な表現で、初二句の調の莊重さにもふさはしい。「今日見つる」に、從來その迫門を噂にばかり聞き及んで居た趣が映帶されて、「雲居なす」ではあるものゝ、それを眼前に見識り得た今日の珍しい喜に滿ちた氣分が現れ、「われは」の自稱もこの幸を誇耀した樣子が見える。
 
柿本(の)朝臣人麻呂(が)※[覊の馬が奇〕旅《たびの》歌八首
 
三津崎《みつのさき》 浪矣恐《なみをかしこみ》 隱江乃《こもりえの》 舟公 宣奴島爾     249
 
〔釋〕 ○みつのさき 難波の御津の崎である。御津は官津の稱で、大伴の御津、住吉の御津の御津も同意である。なほ「みつのはままつ」を見よ(二三五頁)。「三」は借字。○なみなかしこみ 浪が恐しさにの意。○こもりえ 風隱りする入江の意か。〇舟公宣奴島爾 舊訓は船コグキミガユクカヌジマニ〔十三字傍線〕とある。宣長は船ハモイツカヨセム奴島ニ〔十二字傍線〕(公は八毛の誤、何時の二字は脱、宣は寄の誤)、久老は舟ハモコガズ奴島の埼ニ〔十一字傍線〕(舟八毛不榜奴島埼爾)、略解は舟ハヨセナムミヌメノ埼ニ〔十二字傍線〕(舟令寄敏馬埼爾)、古義は舟ヨセカネツ奴島の埼に〔十一字傍線〕(舟寄金津奴島埼爾)など訓んでゐる。いづれも牽強で諾きがたい。元來が誤寫で不完全なものと思はれるから解釋しない。
 
玉藻苅《たまもかる》 敏馬乎過《みぬめをすぎて》 夏草之《なつぐさの》 野島之埼爾《ぬじまがさきに》 舟近著奴《ふねちかづきぬ》     250
 
〔釋〕 ○たまもかる 藻を判ることは海人の營なので、敏馬《ミヌメ》の浦の修飾に用ゐた。「たま」は美稱。○みぬめ 攝(659)津國菟原郡(今武庫郡)岩屋の海濱に亘つた浦の名。敏馬神社の岡は古への敏馬の埼で、今は汀線より百※[間の日が月〕餘も離れてゐる、地形變化の爲錨地に適しない。「敏馬」は敏の音ビンは唇内音なのでミヌに充てた。馬をメと讀むは呉音。○すぎて 古義はスギ〔二字傍線〕とのみ讀んだ。「て」に當る字はなくても添へて讀む例は集中に多い。○なつぐさの 野に係る枕詞。古義の説に、夏草の萎《ヌ》を野にいひかけたるにて萎《ヌ》はナユの約と。夏草の生ふる野の意で直ちに續けた詞としてもよいが、これは使用範圍が狹くなる。集中の例、時季に關らず枕詞として用ゐた。○ぬじまがさき 淡路國津名郡野島村。明石海峽の南方で瀬戸内海に面した地。今の蟇《ヒキ》浦邊か。土人はいふ地盤陷落の爲故形を失つたものだと。△地圖 卷頭總圖を參照。
【歌意】 自分の船は、もう敏馬の浦を通り過ぎて、今日の豫定錨地野島が崎に、近づいたことよ。
 
〔評〕 攝津から淡路へおし渡つた時の作である。「敏馬を過ぎ」とあるから、敏馬の浦から出船したのではない。前の歌にも現に「三津の崎」とある。即ち難波の御津から船(660)出して、敏馬の浦にかゝり、さて明石海峽を經て野島へと志したのである。「過ぎ」の一語でこれだけの道行を聞かせたのは、流石に簡淨な叙法である。特に敏馬の浦を取出したのは、この航路における重要な錨地だつたからで、それは左の歌に見ても領會されよう。
  八千桙の神の御世より、百船のはつる泊と、八島國もゝ船人の、定めてし敏馬の浦は――(卷五−1065)
 「船近づきぬ」に今日一日の航海に倦み切つて、漸う今夜の錨地を目前に認め得た、嬉しさの限りない氣分が現れてゐる。然しこれはまだ「近づきぬ」であつて、既に到着したのではない。そこに一分の不安と倦怠とが殘つてゐて、有餘不盡の味ひがある。その明石湊に寄港しないで、淡路の野島に碇泊したことは、時間や風又は潮流の都合などが關係してゐると考へられる。
 敏馬には「珠藻刈る」、野島には「夏草の」と修飾句を冠せて、一首が對句で合掌してゐるのも面白い。歌聖の口吻の自由自在なのには驚く。又思ふに「夏草の」は假令修飾語にせよ、或はその時季を表してゐるのではあるまいか。とすると「珠藻刈る」も單なる修飾でなく、敏馬の浦で海人の藻刈するのを目撃しての、いはゆる有心の序と見られる。かうした背景を(661)ながめると、いよ/\事實に即した當時の實况が面白く印象されてくるやうに思ふ。
 
一本(に)云(ふ)
 
珠藻苅《たまもかる》 處女乎過而《をとめをすぎて》 夏草乃《なつぐさの》 野島我埼爾《ぬじまがさきに》 伊保里爲吾者《いほりすわれは》     
 
以下「稻日野毛」の歌を除いた他の四首左註は、卷十五の「誦2詠(ス)古歌(ヲ)1」と題した中の歌によつて、後人の異同を註したものと思はれる。
 
〔釋〕 二句以下の異同を擧げた。○處女 攝津國菟原郡(今武庫那)御影の西、有名な菟原處女《ウバラヲトメ》の塚の所在地であるので地名となり、更にその海邊の稱呼にも用ゐられたものであらう。新拾遺集には「豐島《テシマ》をすぎて」とある。○いほりす 假庵して泊る。△地圖 卷頭總圖を參照。
 
〔評〕 大體は本行のと趣が同じい。「庵すわれは」は一日の行程を終つた時の、重荷をおろしたやうな安心と滿足とを語つてゐるので、それだけ「近づきぬ」とあるに比べると別な味ひになる。行旅者の物珍しい心持と勞苦とが間接に表現されて、やはり面白い。
 
粟路之《あはぢの》 野島之前乃《ぬじまがさきの》 濱風爾《はまかぜに》 妹之結《いもがむすびし》 紐吹返《ひもふきかへす》     251
 
(662)〔釋〕 ○あはぢの 四言の句。「あはぢ」は淡路國のことで、粟(阿波)の國へゆく路なればいふ。○さき 「前」は國語では崎と同語なので、借用した。○はまかぜに 「に」の辭、結句の「吹き返す」が他動詞である爲、意が齟齬して通じない。宣長は特殊の用法と見、義門法師も同意見でノ爲ニ〔三字傍点〕と譯したが、落著がわるい。私はこれを普通の用法と見て、結句の「吹き返す」の解釋を異にする説である。○むすびし 古義はムスベル〔四字傍線〕と詠んだが、前後の關係上、結ぶの動作を過去にいふのがよろしい。○ふきかへす 吹き返さ〔右○〕すの意とし、使相の用法と見る。すると上の「に」の辭がよく落著する。かく使相に用ゐることは、類例が後世ほど多い。
【歌意】 自分は淡路の野島が崎に立つて、可愛い妻が、出立の際結んでくれた著物の紐を、その濱風に、吹き返させるわ。
 
〔評〕 場處は岬角、時節は秋、紐吹き返すぼど風の動く所以である。そこに立てば勢ひ故郷の天を遠く顧望せざるを得ない。蓋しその家を懷ひ妻女を思ふ旅愁が、湧然として生ずるからである。その間にも絶えずはた/\と濱風が上裳の紐を吹き返す、あゝこの紐とても、門出の際可愛の妻がその柔手で結んでくれた紐だわいと思ふと、ひし/\とその懷かしさが胸に取詰めてくる。以上が作者の眞懷であり、本音である。然るに殊更に紐を吹返させると、故意に濱風になぶらせるものゝ如くいひ放した。そこに男兒の通有性なる空威張の強がりが見える。外面的矜持と内面的哀愁とが綯ひ交ぜに絡み合つて、幾多の葛藤を野島の岬頭で演出してゐる。
 紐は袴の紐と假定する。記(中)に、垂仁天皇がその后に、汝所堅之美豆能小佩者誰解《イマシノカタメシミヅノヲヒモハタレカモトカム》と宣ひ、又卷九「吾妹子が結《ユ》ひてし紐を解かめやも云々」と詠んだ紐を、宣長が「古は夫婦互に下紐を結び交して又逢ふまでは他人には解かせじと契り固めしなり」といつた。但下紐では「風吹き返す」譯にゆかない。或は旅衣の肩に付け(663)た紐とする説もあるが、こゝは上裳即ち袴の紐と見てよからう。旅行の際などには妻が男の装束を手傳つて、袴の紐を結んでやる位の事は、今でもする事である。
 
荒栲《あらたへの》 藤江之浦爾《ふぢえのうらに》 鈴寸釣《すずきつる》 白水郎跡香將見《あまとかみらむ》 旅去吾乎《たびゆくわれを》     252
 
〔釋〕 ○あらたへの 藤の枕詞。既出(一八九頁)。○ふぢえのうら 播磨國明石郡藤江(今の林崎村の内)。○すずき 鱸。硬鰓類。口巨きく鱗細かく、背は淡蒼色にして腹は淡白色。大なるは二尺餘に達する。夏期は海より河にのぼり、冬期は河より海に出る。「鈴寸」は借字。○あま 既出(一〇六頁)。「白水郎」も同處を見よ。○みらむ 既出(二一七頁)。△地圖 卷頭總圖を參照。
【歌意】 世の人は、この藤江の浦に鱸を釣る、海人と思はうかい、かう旅行してゐる私なのを。
 
〔評〕 藤江の浦は明石海峽に面した小漁村で、折柄海人の釣舟が海上に浮んでゐたと見える。作者の船は丁度そこにさし懸かつたので、人が見たら海人のお仲間と思はうかと打(664)興じた。「鱸釣る」の具象的の現在描寫は、その旅行の季節と海人の行動とを明示するものであつて、この場合頗る切實である。鱸の特性として針に懸かると、必ず水面高く一旦飛躍する。海上各處に巨口細鱗の飛白を看る風景は、都人士の目に忘れ難い印象を遺す。それで「海人とか見らむ」の想像の根柢には、作者自身が可なり長時間、海人等の生活に見入つてゐた趣が暗示されてゐる。この種の類歌は集中に大分ある。
  うち麻ををみの大王あまなれやいらごが島の玉藻刈ります (卷一−23)
  網引するあまとや見らむ飽浦のきよき荒磯を見に來しわれを  (卷七−−1187)
  濱きよみ磯にわがをれば見る人は海人とか見らむ釣もせなくに  (同上−1204)
  しほ早み磯みにをればかづきする海人とや見らむ旅ゆくわれを (同上−1234)
 「うち麻を」の歌は天武天皇五年の作だから、或は歌聖のより早いかも知れず、内容も違ふが、あと三首は全くこの踏襲である。殊に最後のなどはその主要句まで符合してゐる。
 わざ/\「白水郎」の字面を使つたことは、上の藤江の藤花と色相上の對映を思はせる。 
一本(ニ)云(フ)、白栲乃《シロタヘノ》 藤江能浦爾 伊射利爲流《イサリスル》
 
上句の異同を擧げた。「いさりする」は、本文の「鱸釣る」には遙に劣つて平凡である。又卷十五の再出には、四句「安麻等也《アマトヤ》」とある。
 
(665)稻日野毛《いなびぬも》 去過勝爾《ゆきすぎかてに》 思有者《おもへれば》 心戀敷《こころこほしき》 可古能島所見《かこのしまみゆ》     253
 
〔釋〕 ○いなびぬ 印南野《イナミヌ》のこと。播磨國印南郡から加古郡に廣く及んだ、東西に非常に長い野の稱で、南は海に瀕してゐた。尚「いなみくにばら」を參照(七二頁)。○ゆきすぎかてに 「かてに」は敢へずにの意。○おもへれば 思ひてあれ〔二字傍点〕ばの約。今はこの「れ」を現在完了挌の助動詞としてゐる。○こほしき 戀《こひ》しきの轉。古語。○かこのしま 今の加古郡高砂町の地か。古への鹿子《カコ》の水門《ミナト》の地點。△寫眞 挿圖 22 を參照(七三頁)。
【歌意】 稻日野も面白さに、往き過ぎにくゝ思うてゐると、又豫て聞き及んでゐて戀しく思ふ可古の島が、ま近く見えるわい。
 
〔評〕 上句は陸路の感想らしい。作者は何かの都合で船を棄てゝ、印南野を陸行したと見える。印南野は海沿ひの野で、それを中斷してゐる加古川の附近には加古の松原があり、その他にも白砂青松の海岸などがあり、遠山の紫、近巒の翠と相俟つて、その風光の面白さに見惚れつゝ行くと、漸く前方の海邊に加古の島影を認めるのであつた。それが又豫てあくがれてゐる名所であるから、印南野をよく見ようとすれば先に心が急がれ、加古の島に早く往かうとすれば後に心が惹かれると、前後應接に遑ない趣である。可古の島が何故かく心こほしく思はれたか。應神天皇紀に、
(666) 一(ニ)云、日向(ノ)諸縣(ノ)君牛、云々、始(テ)至(レル)2播磨(ニ)1時、天皇幸(シテ)2淡路嶋(ニ)1而|遊獵《ミカリシタマフ》之、於是《コヽニ》天皇、西(ノカタヲ)望《ミサケタママヘバ》之、數十《アマタノ》糜鹿《オホシカ》浮v海(ヨリ)來《マヰキテ》之、便(チ)入(リヌ)2于播磨(ノ)鹿子《カコノ》水門(ニ)1、天皇謂2左右(ニ)1曰(ク)、其《カレ》何《イカナル》糜鹿|也《ゾヤ》、泛(リ)2巨海《オホウミ》1多(ニ)來(レル)、爰(ニ)左右共(ニ)視而|奇《アヤシム》、則(チ)遣(シテ)v使(ヲ)令v察、使者至(リ)見(ルニ)皆人也、唯以(テ)2著角《ツヌツケル》鹿皮(ヲ)1爲(セル)2衣服《キモノト》1耳、問(ウテ)曰(フ)誰人(ゾ)也、對(ヘテ)曰(フ)、諸縣(ノ)君牛、是年耆之|雖《ドモ》2致仕《マカリスレ》1、不(ルガ)得v忘《ワスレ》v朝(ヲ)故(ニ)、以(テ)2己(カ)女髪長媛(ヲ)1而貢上(ルトマヲシキ)矣、天皇悦(ンデ)之、即|喚《メシテ》令(ム)v從《ツカヘマツラ》2御船(ニ)1、是以時(ノ)人、號(ケテ)2其着(シ)v岸(ニ)之處(ニ)曰(フ)2鹿子水門《カコノミナトト》1也。
と見えた地名傳説は、確かに心|戀《こほ》しき一因を成すに足りる。
 然し別に一考察を下すと、可古の水門は明石の湊から室津に到るまでの第一の中間港であつた。今は加古川の流沙が堆積して地形が陸續きと變化し、可古の島は遂に高砂町を形成してしまつたが、往時は今の周圍の低地は深く入込んだ海灣で、そこに造つた船瀬は風待汐待に最も好都合な錨地であつたらしい。作者には作者のみの知る特殊の事情も存在するから、あながちさうと斷定は出來ないが、作者の上陸の際棄てた船は、この水門に先著して一行を待ち受ける手筈があつたので、そんな意味も手傳つて、殊に心戀しく可古の島を感じたと見られぬ事もない。左註の「湖見《ミナトミユ》」は、愈よ中心を湊の假泊に置いたことを證據だてる。
 
一(ニ)云(フ)、湖見《ミナトミユ》
 
○みなとみゆ 一本に、結句が可古能《カコノ》湖見とあるとの註。「湖」は一本に潮〔右△〕とあるのは誤。湖はこの他にもミナトと訓んである。
 
蜀火之《ともしびの》 明大門爾《あかしおほとに》 入日哉《いらむひや》 榜將別《こぎわかれなむ》 家當不見《いへのあたりみず》     254
 
(667)〔釋〕 ○ともしびの 燈火の明《アカ》しを明石《アカシ》の地名にかけた枕詞。「蜀」は原本に留〔右△〕とあるは誤。蜀火は燭の拆字。拆字は支那では古くから行はれた文字遊戲である。○あかしおほと 明石海峽の稱。「おほと」は大きな迫門《セト》。「明石大門」の續きは引佐細江《イナサホソエ》、伊駒高嶺《イコマタカネ》、夕浪千鳥の儔で、連辭のの〔右○〕を略いてある。この訓は久老説によつた。アカシノオド〔六字傍線〕と訓むは非。○いらむひや 入らむ時にや。○こぎわかれ 故郷の倭島に漕ぎ別れるのをいふ。○みず 芳樹訓ミエズ〔三字傍線〕は他に例はあつても、こゝの調子には叶はぬ。古義所引の嚴水説に「不」を所〔右△〕の誤としてミユ〔二字傍線〕と訓んだのは非。△地圖 卷頭總圖を參照。
【歌意】 この船が〔四字右○〕、あの明石海峽に進入しよう時にさ、わが家のあたりも見ず、愈よ故郷の倭島に〔六字右○〕、漕ぎ別れようことかなあ。
 
〔評〕 明石海峽に船が漕ぎ入つてしまふと、これまでの茅渟灣上の眺望に、わが家のあたりの目標としてきた生駒葛城の連山、いはゆる倭島とは絶縁してしまふ。これが「漕ぎ別れなむ」である。それは作者が嘗ての旅行に體驗したことか、或は人から聞き及んだことかは不明であるが、とにかく事實で、國しぬびの種《クサ》はひの明日はなくなることを豫想して、不安らしく危惧してゐる。まことの旅心地にまだなり切らぬ、初ひ/\しい行人の氣持が、如實に躍動してゐる。「入らむ日」と、明石海峽通過には相應の時間をもつたやうな表現によつて見ると、恐らく難波出帆から敏馬あたりの假泊までの途上における感懷であらう。
 「見ず」は歌聖にして始めて下し得る快語である。本來なら自動の否定を用ゐる場合だが、斷然他動的否定に見ず〔二字傍点〕といつて退けた。胸中の欝結が無理やりに※[口+罅の旁]隙を求めて、一旦に爆發した貌である。
(668) この歌三句まで一氣に調べおろしてある。即ち歌聖當時の現代調である。四五句はその倒装によつて危く繊弱の弊套から逸脱し、而も結句の五音三音の促調も相扶けて、巨岩の押懸るやうな上句の力量と、その斤衡を保ち得た。
 要するに結構雄偉、格調高渾、左右顧慮する處なくその眞懷を吐露し來つて、無限の底力を示してゐる。實に歌聖の代表作の一で、又藤原朝期の代表作の一である。
 
天離《あまさかる》 夷之長道從《ひなのながぢゆ》 戀來者《こひくれば》 自明門《あかしのとより》 倭島所見《やまとじまみゆ》     255
 
〔釋〕 ○あまさかる 鄙《ヒナ》の枕詞。既出(一二四頁)。○ひなのながぢ 長い田舍道。○ゆ 助辭で、ヨリの古言。又よ〔傍点〕とも轉じていふ。何れもリ〔傍点〕の尾音を添へて、ユリ、ヨリともいふ。この語は又ニ、ニテ、或はヲなどの意にも使はれた例が集中に散見してるる。こゝは本義に解してよい。○あかしのと 上の「明石大門」を見よ。(669)○やまとじま 茅渟灣を隔てゝ見た生駒葛城を主峯とした一帶の陸地(大和地方)の呼稱。
【歌意】 田舍のそれは/\長道中から、家戀ひつゝくると、やれ嬉しや、明石海峽から故郷の倭島が見えるわい。
 
〔評〕 上の五首は京から下る時の作、これは京に上る時の作である。「鄙の長道」は海陸いづれにも通用するから、作者の出發地の推定がつかない。假に筑紫から上京とすると、――作者人麻呂は筑紫に居たことがある――在國幾年、歸心の矢は切つてこゝに放された。然し公程は約廿餘日、その間行旅の艱險のあればある程、望郷の念は倍加してくる。「戀ひくれば――みゆ」の口調に、長い航海苦の後漸く、明石の門から故郷の山を認め得た歡喜の情が躍つて脈打つてゐる。僅に倭島の山影を望んだばかりでさへ、かうである、いかに甚しい郷愁に囚れてゐたかと、作者胸中の苦悩が想像されて、同情に禁へない。こゝに至つて「天離る」も單なる枕詞としてのみ見遁すことが出來ない。その出發地の「ひな」の頗る遠方であることが囘顧される。
 
一本(ニ)云(フ)、家門當所見《イヘノアタリミユ》
 
○いへのあたり 「家門」をイヘと訓む。「門」を、契沖は乃〔右△〕の誤とした。西本その他にヤドノ〔三字傍線〕の訓もある。夷の長道を戀ひ來る對象としての家のあたりは、やはり倭島である。但莊重な上來の調子によると、大やうに「倭島見ゆ」と結收した方がふさはしい。
 
飼飯海乃《けひのうみの》 庭好有之《にはよくあらし》 苅薦乃《かりごもの》 亂出所見《みだれいづみゆ》 海人釣船《あまのつりぶね》     256
 
(670)〔釋〕 ○けひのうみ 淡路國津名郡松帆村|笥飯《ケヒ》野に沿うた海の稱。松帆の浦のこと。越前にも笥飯《ケヒ》の浦があるが、上のが皆播攝附近の作だから、これも淡路と見るがよい。「飼」をケと訓むことは、食(ケ)の義に通はしたのである。笥《ケ》の通用でも誤寫(契沖説)でもない。又カヒ(飼)の約のキがケに轉じた(古義説)のでもない。○には 海面。船の航行する處の稱。○あらし ある〔右○〕らしの略。○かりごもの 「亂れ」にかゝる枕詞。刈り取つた薦の亂れ藉《シ》いた態を譬へていふ。「薦」は眞菰のこと。前出(六四二頁)。○いづみゆ 終止の「出づ」から「見ゆ」の動詞に續けるは古挌。△地圖 卷頭總圖を參照。
【歌意】 あの飼飯の海上は、和《ナギ》であるらしいわ、數多の海人の釣舟が、散り亂れて漕ぎ出すのが見える。
 
〔評〕 明石邊からの眺望であらう。海上に撒いたやうに舟が出てゐるのを見ての、「庭よくあらし」の推定は、結果を擧げてその原因を訊ねる手法で、とかく平凡に墮し易いものだ。けれども作の動機に立入つて考へると、あまり海馴れぬ旅人がその驚異の眼を瞠つたもので、そこに感哀がある。「亂れいづ」は澤山の舟が前後を爭つて活動する光景に對し、簡にして要を得た表現である。(671)すべて風調がさはやかで、快い響をもつてゐる。
 以上七首(三津崎を除く)の歌、挌調は高古、氣象は雄渾で、天馬の空を行くにも譬ふべく、又よく離人の愁緒を※[聲の耳が缶]して、その景を叙するや清光朗徹、その情を叙するや感哀無量、神あつてその筆端に繚繞してゐるやうである。わが歌聖人麻呂にして始めて可能なる傑作佳作である。
 
一本(に)云(ふ)、
 
武庫乃海《むこのうみの》 舶〔左△〕爾波余久〔二字左○〕有之《にはよくあらし》 伊射里爲流《いさりする》 海部乃釣船《あまのつりぶね》 浪上從所見《なみのへゆみゆ》
 
〔釋〕 ○むこのうみ 攝津國武庫郡の海。○にはよくあらし 卷十五の再出に、「爾波余久安良之《ニハヨクアラシ》」とあるに從ひ、舶〔右△〕を除き、余久〔二字右○〕を補つた。元のまゝでは解し難い。宣長はフナニハ(船庭)ナラシ〔九字傍線〕と訓んで、船出によい日和らしいと解し、古義はフネニハアラジ〔七字傍線〕と訓んで、武庫の海の舟ではあるまいの意としたが、何れも妥當でない。○なみのへゆ この「ゆ」は輕い用法で〔傍点〕、ニの助辭に近い。「上」はウヘ〔二字傍線〕と訓むもよい。
【歌意】 あの武庫の海上は、和《ナギ》であるらしいわ、漁りする海人の釣舟が、波のあたりに見える。
 
〔評〕 上の歌に比べると、遙に生彩がない。「浪のへゆ見ゆ」などの凡句が、その因を成してゐると思ふ。
 
鴨《かもの》君|足人《たりひとが》香具《かぐ》山(の)歌一首并短歌
 
(672) 〇鴨君足人 傳未詳。鴨は氏、君は姓、足人は名。續紀の天平寶字三年十月の條に、天下(ノ)諸姓著(クル)2君(ノ)字(ヲ)1者《ハ》換(フルニ)以(テセヨ)2公(ノ)字(ヲ)1とある。こゝに君の字を書いてあるのは、この法令の出ぬ以前に書き留めて置いたものを、そのまゝ載せたのであらう。○香具山歌 委しくは高市(ノ)皇子(ノ)薨後《カクリマセルノチ》於香具山(ニテ)作歌と書くべきを略筆した爲、意が不完になつた。高市皇子の香具山(ノ)宮のことは、卷二「高市(ノ)皇子(ノ)尊(ノ)城(ノ)上(ノ)殯宮之時」と題する人麻呂の挽歌に「わが大王の萬代と思ほしめして造らしし香具山の宮」とある。尚「かぐやまのみや」を見よ(五四一頁)。△地圖及寫眞 挿圖6(二二頁)21(七〇頁)及び4(一九頁)を參照。
 
天降付《あもりつく》 天之芳來山《あめのかぐやま》 霞立《かすみたつ》 春爾至婆《はるにいたれば》 松風爾《まつかぜに》 池浪立而《いけなみたちて》 櫻花《さくらばな》 木晩茂爾《このくれしげに》 奥邊波《おきへには》 鴨妻喚《かもつまよばひ》 邊津方爾《へつへに》 味村左和伎《あぢむらさわぎ》 百磯之《ももしきの》 大宮人乃《おほみやびとの》 退出而《まかりいでて》 遊船爾波《あそぶふねには》 梶棹毛《かぢさをも》 無而不樂毛《なくてさぶしも》 己具人奈四二《こぐひとなしに》     257
 
〔釋〕 ○あもりつく 天降著《アマオリツ》くの約。「あもりいまして」を見よ(五三二頁)。香具山(芳來山)は天から降つてこの土(673)に著いたといふ傳説によつて、香久山の枕詞とする。○かぐやま 既出(一九頁)。尚「あめのかぐ山」(二一頁)を參照。「芳來」は芳をカグと訓む、芳《カグハ》しの意。來は添字。この添字の書例は集中に多い。〇かすみたつ 舊訓カスミタチ〔五字傍線〕。○いけなみたちて 池は埴安《ハニヤス》の池。「埴安のつつみ」を見よ(二〇五頁)。○このくれしげに 樹蔭小暗く咲き〔二字右○〕たるにの意。上の櫻花を承けた。「このくれ」は水闇《コグラ》いこと、又木闇い處をいふ。「しげに」は茂《シゲ》なる〔二字右○〕にの略。この解諸註悉く誤つてゐる。古義の「爾」を彌〔右△〕の誤としてシゲミ〔三字傍線〕と訓んだのは非。○おきへ 奥の方。岸より遠い方を、海にても河にても池にても沖(奥)といつた。○かもつまよばひ 鴨がその雌を呼び。「よばひ」は呼ぶ〔傍点〕の延言。舊訓はカモメヨバヒテ〔七字傍線〕。鴎は卷一に「かまめ」とあり、降つてこの時代にはカモメと轉稱したかも知れぬが、「鴨妻」をカモメと訓むことは牽強に近い。○へつへに 岸の方に。上の「おきへには」に對して、こゝも邊つへに〔四字傍点〕は〔右○〕とあるがよい。恐らくは脱字。○あぢむら 味鳧《アヂカモ》の群。「あぢさはふ」を見よ(五一六頁)。○ももしきの 宮の枕詞。○おほみやびと 既出(一三一頁)。なほ「おほみや處」を參照(一二七頁)。○まかりいでて 既出(一二六頁)。皇子の宮より〔六字右○〕退出して。○あそぶふね 遊びし船〔四字傍点〕と過去にいふべきを現在法で叙した。「たわやめの袖吹き返〔傍四字点〕す飛鳥風」(卷一)と同格。○さぶしも 「さぶし」は「うらさびて」を見よ(一三七頁)。「も」は歎辭。
【歌意】 天の香具山が霞の立つ春になると、松風にその麓の池の浪が立つて、櫻の花が木闇く一杯に咲き、池の沖の方には鴨がおのが妻を喚び立て、岸の方には味鳧の群が立ち騷ぎ、何時も〔三字右○〕大宮人が皇子の御所から退出して遊ぶその船には、今は梶さへも棹さへもなくて詰らないことよ、漕ぐ人とても無しでさ。
 
(674)〔評〕 高市皇子の香山の宮は香山の北邊埴安池の附近にあつた。卷二に「埴安の御門の原」の語もある。高市皇子は持統天皇の十年七月に薨逝されたのだから、この歌は恐らくその翌年の春の作であらう。
 香具山の北麓には、作池としては廣大なる埴安の池が、漫々としてその碧を湛へてゐた。それが春になると山の松風が吹きおろして、池のさゝ浪は萬疊の皺を寄せ、山の櫻は爛漫と咲いて木蔭を澤山作る。然るに皇子御在世の時と違ひ、今は徒らに池の遠近は鴨や味鳧が盛に活躍して、おのが棲處を得顔に跋扈してをり、大宮人も香具山の宮から退出がけに、よく舟遊をしたことであつたが、その薨後は船漕ぎめぐる人とてもなく、無論梶棹さへもなくなつて、空船ばかり依然として洲渚に横はつてゐる。繁華寂寥、一旦に處を換へた感愴は、實に「さぶしも」の一句に盡きてゐる。結末の倒装は、殊に人影もない物寂しさを強調するに役立つてゐる。
 水鳥の來集するのは冬から春へかけてゞある。されば皇子薨逝の七月頃には鳰(ムグリ)位が常棲してゐるのであつたのが、翌年の花の頃には澤山の水鳥が喧噪してゐる。その喧噪が却て皇子逝後の荒廢の光景と寂寥感とに反映して、愈よ悲哀の情を唆るのであつた。
 この篇小じんまりと纏まつてゐる。香具山及び埴安の池の景象は、舒明天皇の御製(卷一)と相俟つて、ほぼ彷彿することが出來よう。「木のくれ茂に」は、上來の陽和駘蕩たる春色の叙事から、後來の荒涼たる光景の細叙に入る轉捩の句である。下の或本歌の「茂み」は平叙になるので、對映の妙味を缺いてゐる。
 
反歌二首
 
(675)人不※[手偏+旁]《ひとこがず》 有雲知之《あらくもしるし》 潜爲《かづきする》 鴦與高部共《をしとたかべと》 船上住《ふねのへにすむ》     258
 
〔釋〕 ○こがず 「※[手偏+旁]」は楫で漕ぐこと。榜も通用。○あらく ある〔二字傍点〕の延言。「雲」は借字。○かづきする 潜き業をするの意で、修飾語。今潜きするのではない。「かづき」は潜《モグ》ること。舊訓イサリスル〔五字傍線〕。○をし 鴛鴦。游水類の鳥。雌雄常に偶居し、その雄は鮮麗なる羽毛を有する。○たかべ 小鴨の古稱。和名妙に、※[爾+鳥]、多加閉《タカベ》、一名沈鳧、貌似v(テ)鴨(ニ)而小(ク)、背(ノ)上(ニ)有(リ)v文とある。掖齋いふ、俗にタカフ、又タカホなど呼ぶ鴨と。「高部」は借字。○すむ 居ること。
【歌意】 あの舟は〔四字右○〕、人が漕ぎもせず捨てゝあることは明らかだ、水鳥の鴦と高部とが、その上にゐるよ。
 
〔評〕 長歌の末節の餘響を繼いで、池中の捨小舟によつて再びその詠歎を繰り返した。冷熱忽に處を換へて、宮人の參退はその跡を絶ち、朱のそば舟は徒らに空渚に横はつて、只水鳥達に休憩處を供するに至つては、實に凄愴の極みである。「※[廬+鳥]※[茲+鳥]飛(ビ)上(ル)越王臺」(竇鞏)「只今惟有(リ)2※[庶+鳥]※[古+鳥](ノ)飛(ブ)1」(李白)の唐賢の諸作に彷彿してゐる。只惜しいことには初二句が、説明であること、三句の「潜きする」がさう深い意味で置かれたのでもあるまいが、「舟の上に住む」に對映してゐる結果、自然にそこに多少の理趣を存してゐることである。
 
(676)何時間毛《いつのまも》 神左備祁留鹿《かみさびけるか》 香山乃《かぐやまの》 鉾椙之本爾《ほこすぎのもとに》 ※[草冠+辟]生左右二《こけむすまでに》     259
 
〔釋〕 ○いつのまも 何時の間に〔右○〕もの意。「も」は歎辭。○かみさび 上すさびの意で、物舊ること。○けるか 「か」は疑辭。「祁」の字は漢音キ、呉音ギであるが、當時ケの音が存在してゐたものと思はれる。○ほこすぎ 杉は鉾の如き姿に生ひ立つので譬へていふ。若木の杉に限るといふ説は採らない。「椙」は日本の創字で杉のこと。○もとに 「もと」は根本で、蔭といふに同じい。
【歌意】 皇子の薨後まだ幾らも經たぬのに、何時の間にまあ物舊りたものか、この香具山の鉾杉の蔭に、※[草冠/辟]が生えるほどにさ。
 
〔評〕 皇子御生前は日夕の清掃に、鉾杉の蔭まで繊塵も留めなかつたものであらう。然るに殿守の伴の御奴餘所にして、今は※[草冠/辟]苔の自由に犯すに任せてある。作者は曾て逍遙した鉾杉の蔭に立つて、その荒廢の意想外なのに愕き、「何時の間も」の疑問を投げ懸けた。今昔の感はこの語によつて昂揚される。その「鉾杉のもと」にかうした感懷のある所以は、杉蔭などの濕潤な處には、殊に早く苔や草の生えるからである。
 
或本(の)歌(に)云(ふ)、
 
天降就《あもりつく》 神乃香山《かみのかぐやま》 打靡《うちなびく》 春去來者《はるさりくれば》 櫻花《さくらばな》 木晩茂《このくれしげみ》 (677)松風丹《まつかぜに》 池浪※[風+犬三つ]《いけなみたちて》 邊都返者《へつへには》 阿遲村動《あぢむらさわぎ》 奥邊者《おきへには》 鴨妻喚《かもつまよばひ》 百式乃《ももしきの》 大宮人乃《おほみやびとの》 去出《まかりでて》 榜來〔左▲〕舟者《こぎにしふねは》 竿梶母《さをかぢも》 無而佐夫之毛《なくてさぶしも》 榜與雖思《こがむとおもへど》     260
 
〔釋〕 ○かみのかぐやま 香具山を神格視していふ。○うちなびく 若い草木のしなやかに靡く春と續けて、春の枕詞とした。卷二十に「うち奈婢久《ナビク》春を近みか」とある。舊訓ウチナビキ〔五字傍線〕は非。○はるさりくれば 既出(七九頁)。○このくれしげみ 木蔭の闇が繁くて。○なみたち 「※[風+犬三つ]」は大風暴風などをいふ。風|立《ダ》つの意でタチと訓んだ。○さわぎ 舊訓トヨミ〔三字傍線〕は味村には打合はぬ。○まかりでて 舊訓ユキイデテ〔五字傍線〕は語を成さない。○こぎにし 「來」を去〔右△〕の誤と見た久老訓によつた。舊訓コギコシ〔四字傍線〕は非。【歌意】及び【評】は大體上のと同じなので略く。
 
右今案(フルニ)、遷(セル)2都(ヲ)寧樂1之後、怜(ミテ)v舊(ヲ)作(メル)2此歌(ヲ)1歟。
 
この註は後人の所爲で、高市皇子の宮が香具山にあつたことを遺れたいひ方である。「怜舊」の舊は藤原の舊都をさしたらしいが、歌は專ら香具山(ノ)宮懷古の作である。
 
柿本(の)朝臣人麻呂(が)獻(れる)2新田部《にたべの》皇子(に)1歌一首并短歌
 
(678)○新田部皇子 天武天皇の第七皇子。續紀によれば、母は内大臣藤原鎌足の女|五百重娘《イホヘノイラツメ》。文武天皇の四年淨廣貮、慶雲元年には三品、同二年には二品、養老三年十月内舍人二人大舍人四人衛士二十人を賜はり、同四年八月知五衛及授刀舍人事となり、神龜元年二月一品、同五年七月大將軍明一品、天平三年十一月畿内諸道に總管撫使を置かれた時、その大總督に任ぜられた。同七年九月薨去。
 
八隅知之《やすみしし》 吾大王《わがおほきみ》 高輝《たかてらす》 日之皇子《ひのみこ》 茂座《しきいます》 大殿於《おほとののへに》 久方《ひさかたの》 天傳來《あまづたひくる》 白〔左△〕雪仕物《ゆきじもの》 往來乍《ゆきかよひつつ》 益及座〔左△〕世《いやしきいませ》     261
 
〔釋〕 ○たかてらす 契沖及び古義のタカヒカル〔五字傍線〕の訓は拘つてゐる。輝又は照とある時はタカテラス、光とある時はタカヒカルと訓むがよい。既出(一七六頁)。○しきいます 敷き坐す。「敷きなべて」を見よ、(一二頁)「茂」は借字。茂及び繁にシキの古訓がある。○おほとののへに 「於」に上《ウヘ》の意がある。よつて邊《ヘ》の借字に用ゐた。○あまづたひくる 天を傳うてくる。「久方の」より「雪じもの」までの三句は「往き」に係る序詞。舊訓「白雪」までを句として、クルをコシ〔二字傍線〕と訓んだのは非。○ゆきじものゆきかよひつつ 雪その物のやうに間なく往來して。雪の降る動きを思うて「雪じもの」と序に置いた。ユ(679)キの音を疊んだのではない。「白」原本に自〔右△〕とある。白雪をユキと訓む眞淵説に從つて改めた。○いやしきいませ 彌|繁《シ》き坐せ。「及」は借字。「座」原本に常〔右△〕とある。久老説によつて改めた。眞淵は「常」を萬〔右△〕の誤としてヨロヅヨマデニ〔七字傍線〕と訓んだ。舊訓トコヨナルマデ〔七字傍線〕は意が通じない。
【歌意】 私の大王樣、日の皇子樣、貴方樣が占めて入らつしやる大殿のあたりに、天を傳うて降つてくる、あの雪その物のやうに、間斷なしに往來しつゝ、この八釣の御別莊に〔九字右○〕、この上にも繁く入らつしやいませ。
 
〔評〕 反歌に八(矢)釣山を歌つてあるので思ふと、新田部親王の別莊がそこにあつたらしい。八釣は藤原宮からは南、飛鳥からは東に當つた岡陵で、殊に上八釣は急峻に狹く屈折した迂路を有し、林木が今でも叢生して、まことに別莊向の幽邃さがある。親王は藤原京から往來して、休沐の暇こゝにその浩然の氣を養はれた。時はこれ冬、たま/\雪は鵞毛の如く紛々としてその大殿の邊に散落する。恪勤者人麻呂は忽ちこの雪の降下状態から聯想を馳せて、これを序詞に運用し、この大殿に足繁く親王の安息せられんことを冀ひ、親王永久の御榮を祝福した。間接には、親王が世事多端で御來莊の稀なる事を語つてゐる。
 この篇長歌としては頗る小形なもので、小長歌〔三字右○〕と稱する。而もその中問長句の序詞を挿入して、恰も小座敷で長槍を揮ふに似た特殊の至藝を見せてくれた。さりとて技巧の末に墮せず、莊重典雅、その體時宜に適つたものである。要するに小にして大なるものか、歌聖の擅場。
 
反歌一首
 
(680)矢釣山《やつりやま》 木立不見《こだちもみえず》 落亂《ふりまがふ》 雪驪〔左△〕《ゆきにさわげる》 朝樂毛《まゐりたぬしも》     262
 
〔釋〕 ○やつりやま 大和高市郡飛鳥村大字八釣にある。○ふりまがふ 「亂」をマガフと訓むは意訓。舊訓チリマガフ〔五字傍線〕、略解訓フリミダル〔五字傍線〕。○ゆきにさわげる 「驪」の字、類葉抄に、驟〔右△〕とあるに從つて訓んだ。古義は※[足+麗]をサワギテ〔四字傍線〕と訓んだ。眞淵は※[足+鹿]〔右△〕の誤としてキホヒテ〔四字傍線〕と訓んだが、これは字書に舞ひ履む、又は歩むの義とあるから、アユメル〔四字傍線〕(芳樹説)と訓む方がよい。舊訓にはユキハダラナル〔七字傍線〕とあるが、驪にハダラ(まだら〔三字傍点〕の古言)の意はない。○まゐりたぬしも 久老の訓によつた。アシタタヌシモ〔七字傍線〕(舊訓)もわるくもない。マヰテクラクモ〔七字傍線〕(仙覺その他の訓)は「朝」の下に來〔右○〕の字がなくては無理である。マヰラクヨシモ〔七字傍線〕(古義)は、「樂」の下、吉〔右○〕を脱したとする説である。
【歌意】 八釣山のその木立も見えず、盛に降る雪に、きほひたつての御所への出仕は、面白いことよ。
 
(681)〔評〕 八釣山は雜木に蔽はれた小山の連續に過ぎないが、「木立も見えず」と歌はれたので見ると、昔も頻る木茂き處であつたらしい。大和は元來雪が少い。それだのに或朝八釣の木立も見えぬほど降つたではないか。物珍しさに別莊參進の官人達は苦勞も何も忘れて、悉く悦に入つて興じた。板で押したやうな日々の出仕に一味の生氣を與へて、今日しも「樂しも」と叫ばせるのは、この雪といふ剽輕者の仕業である。
 作者人麻呂がこの新田部親王家に出仕する事となつたのは、恐らく養老三年に親王の賜はつた大舍人四人の内の一人であつたのであらう。嘗て奉仕した草壁(日竝皇子)高市の二皇太子の薨後は、一時地方の小吏をも勤めた外は久しく家居してゐたのを、この時三たび出仕したと見てよからう。拾芥抄に「天智天皇の時の人なり」とあるを假に助けてその出生の時とすると、この養老三年には五十八歳ほどになる。長く沈淪してゐた前後の勤勞で、間もなく地方官に轉任、遂に石見で勤務中に卒した。本朝通紀、國史實録の記事を信ずれば、神龜元年の死去になつてゐるから、通算六十三歳ほどで卒したことになる。
 
從《より》2近江(の)國1上來《まゐのぼる》時、刑部垂麻呂《おさかべのたりまろが》作歌一首
 
○從近江國云々 刑部垂麻呂の五字を上に置くが正しい。然し集の書式は統一してゐない。○刑部垂麻呂 刑部は氏、大和城上郡|忍坂《オサカノ》郷の人が刑部の職に勤務したので、遂に刑部をオサカベと唱へるやうになつた。垂麻呂は名。傳は未詳。
 
馬莫〔左△〕疾《うまいたく》 打莫行《うちてなゆきそ》 氣竝而《けならべて》 見※[氏/一]毛和我歸《みてもわがゆく》 志賀爾安良七國《しがにあらなくに》     263
 
(682)〔釋〕 〇うまいたく 「馬莫疾」の莫は、次の「打莫」と重複する故削るがよい。古義に吾馬疾《アガウマイタク》の誤とあるは、輕尻馬に乘せて貰つて行く人のやうに聞えて可笑しい。○うちて 鞭〔右○〕打つて。○けならべて 略解に、日竝べて〔四字傍点〕といふに同じく日數重ねることゝある。語例が少いので假にこの解に從つておく。「け」は宣長いふ來經《キヘ》の約と。○みてもわがゆく 見てゆくと續く。「も」は歎辭。○しが 既出(一三一頁)。△地圖及寫眞 挿圖28(九三頁)124(四三二頁)を參照。
【歌意】 馬をさう急がせて、鞭をあてゝ行きなさるなよ、日數重ねて我等が愛賞して行かれる、この志賀でもないのにさ。まあ/\ゆるりと見物しませう。
 
〔評〕 作者がその同人等と西近江の北部から上京の途次、志賀を通過しての作である。それは北偏の海津《カイヅ》にせよ今津にせよ勝野《カチヌ》にせよ、湖上の風景は決して惡いものではない。然し湖北は水面が餘に廣いので景に締りがない。湖南となると對岸の山々又は島々の風色も掬すべき程の近距離に蹙まつて、山水明媚の境となる。かく見ると、こゝに特に志賀を推賞してゐる所以もおのづから明瞭する。二度も三度も見られる譯でないから、せめて今でもゆるりとして行かうとは、疑もない旅人の感懷で、而も日程に制限をもつ官人の口吻である。「打ちてな行きそ」と同人への呼び掛け、「あらなくに」のいひさしの抑揚、この場合における自然憧憬の氣分を如實に表現し得て面白い。馬は當時の旅行にはこの背を※[人偏+就]るのが通例であつた。
 
柿本(の)朝臣人麻呂(が)從(り)2近江(の)國1上來《まゐのぼる》時、至(りて)2宇治河(の)邊(に)1作歌一首
 
(683)人麻呂が近江から上京の時、宇治川の邊にきて詠んだとの意。これは卷一に見えた近江の舊都を訪うて憑弔の長歌を作つた時の歸路ではあるまいか。あれから宇治に出て、飛鳥京か藤原京かに歸涼したものであらう。○宇治河 既出(一九二頁)。△地圖 挿圖66を參照(一九二頁)。
 
物乃部能《もののふの》 八十氏河乃《やそうぢがはの》 阿白木爾《あじろぎに》 不知代經浪乃《いさよふなみの》 去邊白不母《ゆくへしらずも》     264
 
〔釋〕 ○もののふのやそうぢ 宇治にいひかけた序體の枕詞。古事記傳に「物部《モノノベ》はすべて、武事を以て仕へ奉る建雄《タケヲ》の稱なるが、廣き義には朝廷に仕へ奉るすべての官人をもいへるは、上代武勇を主とせられしによる。さればその氏々の數多き意にて、武夫《モノノフ》の八十氏《ヤソウヂ》、武夫の八十件《ヤソトモ》の緒《ヲ》と續け、遂には八十の枕詞の如くにも用ゐたり」とある。既出(一九二頁)。○あじろぎ 網代木。川上を廣く川下を狹く、網を引いた形に川中に※[木+戈]を打つて、それに竹木を編んだ網代簀《アジロス》といふ簀の床を拵へて、そこに堰かれた水は床(684)の簀を漏れて流れ、あとに魚ばかりが聚るのを、夜々篝火をともして捕るのである。網の代であるによつて網代といふ。その※[木+戈]か網代木《アジロギ》である。「阿白」は借字。○いさよふ 休らひとゞこほる貌をいふ。猶豫、躊躇などの意。「不知」をイサと訓むは意訓。○しらずも 「しらず」は知られ〔右○〕ずの意。「も」は歎辭。「白」は借字。
【歌意】 この宇治川の網代木に堰かれて、暫時ためらふ浪の、つひの行方はわからぬことよなあ。
 
〔評〕 宇治の網代は古くから有名なものである。何を捕へたかといふと、氷魚《ヒヲ》といつて、近江の湖水から落ちてくる白魚のやうな小魚を捕つたので、延喜式の内膳式に、
  山城近江(ノ)國(ノ)氷魚(ノ)網代各一所、其氷魚始(リ)2九月(ニ)1迄(リ)2十二月三十日(ニ)1貢(ス)v之(ヲ)。
とあるから、人麻呂時代とても決して民間營業ではなく、所謂宮中のお止め川であつたらう。宇治は瀬が速い、隨つて一時網代木に堰かれて白波が立ちもするが、その末はまた汪洋たる大河の水で、波一つ揚らない。これが「行方知らずも」の語の生まれる所以である。いやかういつては餘り「波」の字に執着し過ぎた見方である。作者の意は波は水を代表させたに過ぎないので、孔子が河水に臨んで「逝(ク)者(ハ)如(キ)v斯(ノ)乎、混々(トシテ)不v舍(カ)2晝夜(ヲ)1」といはれた如く、逝く水に對した不盡不窮永遠などの哲理觀を含んだ意が歌はれてゐるのであらう。僅に「知(685)らずも」の單句を以て一首を靈動させた、この手法には敬服する。つまり一意到底の長高體で、調が高く想は平凡の大いなるものといつてよい。「八十氏河」の仕立は袖布留山《ソデフルヤマ》、衣春雨《コロモハルサメ》の類語で、いひかけが動詞でないだけに品がよく聞える。「も」の歎辭も非常に力強く響いてゐる。
 この歌が近江舊都を訪うた歸路の作とすれば、あの長歌に見えた如く時季は春であらねばならぬ。氷魚の季節は專ら冬であるが、その季節以外の春季とすると、もう竹や柴の柵《シガラミ》は取去つて、網代木ばかりが河瀬に林立し、それに白波が激してゐる光景は、清少納言がすさまじき〔五字傍点〕物と評した如くで、その索莫たる風趣に伴ふ感哀は、逝く水に對する哲理觀を生むによき媒介である。
 
長(の)忌寸|奥《おき》麻呂(が)歌一首
 
○長忌寸奥麻呂 意吉《オキ》麻呂のこと。傳は既出(二二三頁)。
 
苦毛《くるしくも》 零來雨可《ふりくるあめか》 神之埼《みわがさき》 狹野乃渡爾《さぬのわたりに》 家裳不有國《いへもあらなくに》     265
 
〔釋〕 ○あめか 「か」は歎辭。○みわがさき 紀伊國東牟婁郡三輪崎村(今新宮市内)の岬角。「神」の字を「ミワ」と訓むは大神をオホミワ〔四字傍点〕と訓む例による。古義は字のまゝにカミノサキと訓み、神をミワと訓むは大神に限つた事と斷じた。けれどもこの歌の記録者は種々(686)な假借を自由に驅使してゐるから、これもその一つと見れば異論を挾むにも及ぶまい。○さぬのわたり 三輪が埼から北西に連亙する岡陵に沿うた細長い海岸の平野。狹野の稱もこの地形から起つた。佐野と書くはあて字。「わたり」は渡津。邊の意のワタリは奈良朝時代にはないとの古義説に假に從つた。○いへも この「も」は強く響くので、サヘモの意になる。
【歌意】 わびしくも降つてくる雨よ、この三輪が埼や狹野のわたりに、宿るべき家さへもありはせぬのにさ。
 
〔評〕 旅中雨に遇つた位みじめな情けないものはない。それも雨宿りの木蔭があるとか家があるとかなればまだしも、岡と海とに挾まれた二十餘町に亙る、潮風すさぶ無人境三輪が埼狹野のわたりでは、全く立場がない。一體作者はもうこゝに來るまでに十分旅の苦患に悩み拔いてゐる。そこへさしてこの雨だ。「苦しくも」は怺え/\た擧句に、覺えず發した自然の呻きである。形容詞の使用はとかく歌の味ひを索莫たらしめるが、この初句は却て人の肺腑に深く喰ひ入る感がある。而も「か」の歎辭のもつ強い響は、その主觀の歎意(687)を的確に裏付けてゐる。また三輪が埼狹野と續けて、その場處や地形に現實性を附與し、さて「家もあらなくに」といひさした詠歎の味ひの遠長さ、部分的にいへばかうであるが、概觀すると一旅人の曠野の雨に遇つた困惑の眞情が如實によく出てゐる。
 
柿本(の)朝臣人麻呂(の)歌一首
 
上に、近江國より上る歌がある。或はそれと同時の作か。素より近江は大和からさう遠方でもないから、再三作者は往復したものと見てもよい。卷一にも「過2近江荒都1」の作がある。
 
淡海乃海《あふみのみ》 夕浪千鳥《ゆふなみちどり》 汝鳴者《ながなけば》 情毛思努爾《こころもしぬに》 古所念《いにしへおもほゆ》     266
 
〔釋〕 ○あふみのみ 神功皇后紀に「阿布彌能彌《アフミノミ》」とあるから、アフミノウ〔右○〕ミと讀むにも及ばぬ。近江の湖水のこと。○ゆふなみちどり 夕浪に立ちゐる〔四字右○〕千鳥の略。「あかしおほと」を參照(六六七頁)。○ちどり 千鳥。渉水類の小鳥で尾短く背部は青黒色、頬腹は白、頭觜は蒼黒色、冬の頃をおもに水邊に群れ(688)飛ぶ。故に千鳥の稱がある。乳鳥と書くは借字。○なが お前が。○しぬに 萎《シヌ》にて。「しぬ」は萎《シナ》ぶの語根シナの轉じたもの。「努」をヌと讀むは呉音。○おもほゆ 思はれる。
【歌意】 近江の湖水の、夕浪に立居する〔四字右○〕千鳥よ、お前が鳴くと、私の心も萎れ返つて、昔が思ひ出されるわ。
 
〔評〕 大津の宮の懷古の作である。壞宮の芳草徒らに長じて、太湖の水再び昔の俤を浮べず、空しく寄せては浪の返るばかりである。まして日暮物思のおほい時、浪の音の殊に高く聞える時、自分憑弔の客は低徊俯仰して去るに忍びない。それを何ぞや夕浪千鳥聲もしげけく鳴くではないか。切々と懷古の情を促し來つて、殆ど腸も寸斷する。千鳥が鳴くと昔が偲はれるといつたものゝ、實は千鳥の鳴かぬ以前から泣いてゐる人の作である。
 「汝が」と對稱に呼びかけて、自分と千鳥とを近く親しく關係づけておいたことは、「鳴けば」の語が有効に活躍する素地を成してゐる。かくて「鳴けば」が眼目の語となつた。この手法は集中、
  おうの海の川原の千鳥汝がなけば〔五字傍点〕わが佐保川のおもほゆらくに  (卷三、門部王―371)
  あし引の山ほとゝぎす汝がなけば〔五字傍点〕家なる妹し常におもほゆ  (卷八、沙彌―1469)
  ほとゝぎすあひだしましおけ汝がなけば〔五字傍点〕あが思ふ心いたもすべなし  (卷十五―3785)
など例が多い。「夕浪千鳥」の造語は他にも類例はあるが、それは大抵地名から普通名詞に接續の際、連辭のの〔傍点〕を略したもので、かくの如く上下とも普通名詞の場合に、助辭又は動詞の略かれたのは珍しい。實に大膽な(689)る造語である。東坡が江※[王+搖の旁]柱は天下の珍味但多食は不可といつたやうな趣である。まづ歌聖人麻呂にして始めて可なるものであらう。
 
志貴《しきの》皇子(の)御歌一首
 
〇志貴皇子 これは天智天皇の御子で、天武天皇の御子の磯城《シキ》皇子ではあるまい。傳は既出(二〇〇頁)。
 
牟佐佐婢波《むささびは》 木末求跡《こぬれもとむと》 足日木乃《あしひきの》 山能佐都雄爾《やまのさつおに》 相爾來鴨《あひにけるかも》     267
 
〔釋〕 ○むささび ※[鼠+吾]鼠。栗鼠科の動物。栗鼠より大きく、前後兩肢間に膜があつて樹上を飛ぶ。夜間その洞穴より出て果實を食ひ、鳴く聲小兒に似てゐる。古名もみ。俗にモヽガ、モヽングワ。○こぬれ 木末《コノウレ》の約。後世はこずゑ(梢)とのみいふ。○もとむと 「と」はとての意。○あしひきの 山の枕詞。既出(三四三頁)。○やまのさつを 山の獵師。「さつを」は幸雄《サチヲ》の轉で、山|幸《サチ》をあさる男の稱。
【歌意】 ※[鼠+吾]鼠は住むべき梢を求めるとて、飛びあるいた爲、つひ山獵師に出會つてしまつたことよ。
 
(690)〔評〕 聖武天皇が高圓山に獵をなされた時、※[鼠+吾]鼠が里まで飛び出してつかまへられ、坂上(ノ)郎女が、
  ますらをの高圓山にせめたれば里におりくるむさゝびぞこれ  (卷六―1028)
と詠んだことがある。然しこの作者は元明天皇の御世に薨じてゐるから、こゝの※[鼠+吾]鼠はそれとは關係の無いものである。事相が極めて單純なのに合はせて、詠歎が少し永過ぎる。で寓意の作と斷ずる。略解は、
  物慾しみして身を亡すを譬へ給へるに、大友大津の皇子たちの御事などを目のあたり見給ひて、しか思せるなるべし。
と評した。まづその邊の處と見てよからう。
 
長屋《ながやの》王(の)故郷《ふるさとの》歌一首
 
○故郷 故京の意で、歌に「古家《フルヘ》の里の飛鳥」とあるから、飛鳥京をさしたもの。尚後出の「ふるさと」を見よ(一二四九頁)。○長屋王 傳は既出(二六二頁)。
 
吾背子我《わがせこが》 古家乃里之《ふるへのさとの》 明日香庭《あすかには》 乳鳥鳴成《ちどりなくなり》 君〔左△〕待不得而《きみまちかねて》     268
 
〔釋〕 ○わがせこ この「せこ」は夫の稱ではなくて、男性間の呼稱に用ゐた。そして男兄弟をも殊に呼ぶことがある。○ふるへのさと 古家のある〔二字右○〕里。「ふるへ」はふるいへ〔四字傍点〕の略。○あすかには 外の場處は知らずこの飛鳥にはの意。「は」の辭法がおもいので、かく差別の意を生ずる。「あすか」は既出(四八頁)。○なくなり 「なり」は決定の助動詞。○きみ「君」原本に島〔右△〕とある。眞淵説によつて改めた。○かねて 「不得」をカネと訓むは意訓。△地圖及寫眞 挿圖21(七〇頁)68(二〇一頁)を參照。
(691)【歌意】 貴方の住捨ての舊家のある飛鳥の里では、貴方のお歸を待ちかねて、千鳥が頻に鳴いて居りますわい。
 
〔評〕 飛鳥の故京を訪うた作者がかく詠んで、「わが背子」とさした人に贈つた歌である。飛鳥京時代には定めてその附近に皇族方が卜居されてゐた事であらう。が藤原京に遷都後は、又競うて新都に移住するのも當然の成行である。遷都後間も無い頃、たま/\舊京の飛鳥を訪問したものは、まだ取拂に及ばぬ舊亭樹を、必ずそこ此處に見出だしたであらう。全く迹形もない荒廢ならともかく、このなまなかの存在が却て深い感傷の因を殘すのを如何ともし難い。作者の呼び掛けた「わが背子」は誰れか。親しい皇族か、殊によると或は御弟の鈴鹿王かも知れない。自分はかうして自分の舊家を音づれた、然るに他の舊家は寂しいを通り越して殆ど死の影を引いてゐる、只飛鳥の川原千鳥の哀音が僅に生物の消息を傳へて、訪ねても來ぬ舊家の主人を待ちかねて居るといふ。有情の千鳥と無情の主人とを暗に對照させ、その間に切々たる哀韻を漂はせてゐる、蘊含の味ゆたかな表現は、洵に凡手ではない。
 
右今案(フルニ)、從(リ)2明日香1遷(レル)2藤原(ノ)宮(ニ)1之後作(メル)2此歌(ヲ)1歟。
 
題詞に「故郷」と既にあるから、この註は無用である。
 
阿倍女郎《あべのいらつめが》屋部坂《やべざかの》歌一首
 
○阿倍女郎 阿倍氏の女であらうが傳は未詳。○屋部坂歌 屋部坂を詠じた歌の意とも、屋部坂で詠んだ歌の(692)意とも聞かれる。○屋部坂 三代實録元慶四年の條に、百濟《クダラノ》大寺を高市郡夜部村に移すとある。夜部は今の多村字矢部であるが、坂はなくなつた。
 
人不見者《ひとみずば》 我袖用手《わがそでもちて》 將隱乎《かくさむを》 所燒乍可將有《やけつつかあらむ》 不服而來來《けさずてきけり》     269
 
〔釋〕 ○ひとみずば 考(眞淵)の一説に人爾有者《ヒトナラバ》の誤かとあるは私に過ぎる。○やけつつかあらむ 燒かれ〔三字傍点〕つつあるのであらうか。「やけ」は燒かえ〔三字傍点〕の約。故にわざと「所燒」と書いて、その他動詞であることを示した。新考は「乍」を手〔右△〕の誤としてヤカレテ〔四字傍線〕と訓んだ。○けさずてきけり 著せないで來た。「けさ」は四段活用の著《ケ》すの將然態。著《ケ》スは著ルの古言。眞淵が「來來」を坐〔右△〕來の誤としてヲリケリ〔四字傍線〕と訓み、久老もそれによつてマシケリ〔四字傍線〕と訓んだ。以上の如く誤字説が盛であるが、その歌意を解くに至つては皆不明確であるから、一切私意による改竄を避けた。
【歌意】 この山坂の醜い赤膚を、人が知らずば、私の著物でもつて隱してやらうと思ふのを、かう赤いのは〔六字右○〕、或は誰れかに燒き立てられてゐるのであらうから、人目にかゝるも嫌と、著物も著せないで來たわい。
 
〔評〕 赤膚山に對つて袖で隱してやらう、即ち著物を著せてやらうとは、既に女らしい優しい同情であるのに、「人見ずば」が愈よ女のもつつゝましやかな氣持を出してゐる。そして人目を憚つた爲にその同情を實行し得なかつたことを、深く歎息してゐる。伺處までも婦人らしい情味に富んでゐる。「燒けつつかあらむ」は赤膚の(693)色相から火を聯想してのことであらうが、假令これが戲謔の作としても、うまい落想ではない。
 
高市《たけちの》連《むらじ》黒人(が)覊〔馬が奇〕旅《たびの》歌八首
 
○高市連黒人 傳は既出(二二五頁)。
 
この覊〔馬が奇〕旅歌八首は三河尾張の作、山城攝津の作と大體が區分され、その相互間の連絡の有無は判明しない。とにかく全部が同時の聯作でないことは確かである。
 
客爲而《たびにして》 物戀敷爾《ものこほしきに》 山下《やましたの》 赤乃曾保船《あけのそほふね》 奥※[手偏+旁]所見《おきにこぐみゆ》     270
 
〔釋〕 ○たびにして 旅中にあつて。○ものこほしきに 何がなし戀しいのに。「物」は弘くさしていふ詞。卷一の「ものこほしき」を參照(二四四頁)。〇やましたの 赤《アケ》に係る枕詞。「やました」はビ〔傍点〕の形容尾語を添へても用ゐ、山の日に句ふ耀きを意味する。故に「山したの」は赤《アケ》に續く。○あけのそほふね 赤い赤土塗《ニヌリ》の船。集中「引きのぼる赤の曾朋《ソホ》舟」(卷十三)「挾丹塗《サニヌリ》の小舟」(卷九)「左丹漆《サニヌリ》の小舟」(卷十三)「赤羅《アカラ》小船に」(卷十六)などある。「あけ」は赤《アカ》の轉。古義に朱映《アカハエ》の約とあるは煩はしい。「そほ」はそふ〔二字傍点〕ともいひ赤土のこと。卷十四に「眞金ふく丹生《ニフ》の麻曾保《マソホ》の」とある。○おきにこぐ 沖にて〔右○〕漕く。これを沖に漕ぎ出づる趣に、古義などに解したのは古代の辭樣を辨へぬもの。又新考のオキヲコグ〔五字傍線〕の訓は穿鑿である。△寫眞 挿圖125を參照(四三五頁)。
(694)【歌意】 旅の空とて何がなしに物戀しいのに、赤塗の官船が沖で漕ぐのが見える。とても懷かしいなあ。
 
〔評〕 令の集解の古記に「公船者以(テ)v朱|漆《ヌル》v之(ヲ)」(久老引用の文)とあるによれば、官船は丹朱に彩色して、その標識としたものである。作者は今都からこの海邊にさすらひ、輕い郷愁に打たれてゐる時、たま/\海上通過の官船を、その朱色によつて認めたのである。但これだけでは、主意がどう落着したのかわからない。こゝに至つて、作者の身分を一往檢討する必要がある。作者はとにかく官吏であつた。公役には官船に乘つて往來し得る資格者である。從前とても或はそれに乘つた經驗をもつてゐたらう。で官船を認めるや否や、ひし/\と何といふ事なしに、懷かしい親しい感じに打たれたものと思はれる。その官船がもし都行きのものであつたら、愈よその懷かしさが溜らなかつたであらう。作者は既に旅中の孤獨感に打たれて、物戀しき感懷に囚はれてゐた人である。
 古への船舶は多くの場合岸近に航行したのだから、沖とはいつても岸に近い。されば沖に漕ぐ船が「あけのそぼ船」たることも識別される譯で、それが碧の波に映じて蕩漾する趣は頗る印象的である。
 
櫻田部《さくらだへ》 鶴鳴渡《たづなきわたる》 年魚方《あゆちがた》 鹽干二家良進《しほひにけらし》 鶴喝渡《たづなきわたる》     271
 
〔釋〕 ○さくらだ 和名抄に尾張國愛知郡に作良(ノ)郷がある。作良は櫻の義。今も愛知郡笠寺の北に櫻といふ部落がある。天白川の流域で、その西北に當る山崎から始めて笠寺、鳴海などの線が、當時の作良卿の海岸線であ(695)つたらう。櫻田はその海岸に接する田の稱。○へ 方向を指示する辭。「部」は借字。○あゆちがた 年魚市潟。作良郷前面の海の總稱で、その一部を後世のものに鳴海潟と出てゐる。平安期にはあゆち〔三字傍点〕を阿伊智《アイチ》(愛知)と訛つた。潟は潮水の干滿する滷潟の地を稱する。潮干れば水鳥の下り立つて餌をあさるに適する。「方」は借字。○けらし 「進」類聚古集その他に之〔右△〕とある。
【歌意】 櫻田の方へ、あれ鶴が鳴いて行くわ、多分年魚市潟は汐が干たらしい、櫻田の方へ、あれ鶴が鳴いて行くわ。
 
〔評〕 潮の滿干によつて鶴が去來する。即ち干潮時には海に往き、滿潮時には陸に還る。赤人の若の浦一詠、
  わかの浦に潮みちくれば潟をなみ蘆邊をさして鶴鳴きわたる  (卷六―919)
は滿潮時の作で、これは反對の干潮時なのである。櫻田は年魚市の海に連續した潟田であつたと見える。鶴は水邊の高地などの樹林に巣喰ふから、其處から櫻田さして鳴きゆくのを見た作者は、まづ即興的に「櫻田へ鶴鳴き渡る」と歌ひ、更に一分の思索を加へて年魚市潟の潮干を推想した。この推想はほんの説明と修飾とを兼帶の脇役に過ぎず、主役はやはり碧空に羽搏つて飛ぶ白鶴の影とその清唳の聲とである。で再び立返つて、「鶴鳴き渡る」と反復して結收したものである。ごく太い線で力づよく二刷毛ばかりに掃いてのけた簡朴な素描を見るやうで、極めて清素な感じの靈動する、氣品高い作である。
(696) 第二句を第五句に反復するは古體の一格である。なほ「麻裳よし紀人ともしも」(二一九頁)の評語を參照。
 
四極山《しはつやま》 打越見者《うちこえみれば》 笠縫之《かさぬひの》 島榜隱《しまこぎかくる》 棚無小舟《たななしをぶね》     272
 
〔釋〕 ○しはつやま 雄略天皇紀、十四年|呉人《クレビト》參朝の條に、泊(ル)2住吉(ノ)津(ニ)1、是月爲(ニ)2呉客《クレビト》1通《ヒラキ》2磯齒津《シハツ》路(ヲ)1、名(ク)2呉坂(ト)1と見え、卷六に四八津《シハツ》の泉郎《アマ》を茅渟《チヌ》の海に詠み合せてある。また記傳に、難波の古圖を見るに住吉社の北方に四八津山と記せりとある。されば四極山は住吉丘陵の一部で、今の帝塚山附近の稱と見たい。攝津の喜連《キレ》(今大阪市内)は呉《クレ》の訛ではあるが、それは呉人の郷で四極山には關係なく、且住吉喜連間は地勢平坦で山も坂もない。○かさぬひのしま 攝津國東成郡深江村(今大阪市内)の古稱と傳へられてゐる。菅田が多くて菅の質が優れ、里人は昔からそれを採つて笠を縫ふことを生業としてゐた。素より寄洲の浮島で、その周圍は廣い沼江であつたらしい。笠を製るには、先づ骨組を立てそれに菅や布帛を縫ひ著けるので、縫ふ〔二字傍点〕の語がある。○たななしをぶね 小さい舟にば船棚がないのでいふ。船棚とは、和名抄に、※[木+世]、和名|不奈太那《フナダナ》、大船(ノ)旁坂也とある。舟の小縁板で、舷のこと。
【歌意】 四極山を打越して見渡すと、遙かの笠縫島に漕ぎつゝ隱れてしまふ、あの柵無しの小舟はよ。
 
(697)〔評〕 この人また住吉で、
  住の江のえな津に立ちて見わたせば武庫の泊ゆいづる舟人 (卷三―283)
と詠んでゐる。同時の作であらう。舟の出入こそあれ、いづれも跳望の叙景で、同趣同調のものである。抑も古へは淀川の下流は縱横に分派し、大和川百濟川も會湊して沼澤を作り、今の大阪附近は多くは洲嶼を成してゐた。住吉から鼻の支へたやうな四極の山路を越えると、眼界頓に豁然として一幅の活畫圖が展開され、萬頃の蒼波、幾處の蜑村島嶼が、歴々と指點される。かくてはかない棚なし小舟も、端なく詞人の一顧を得て、笠縫島に漕ぎ隱れるまで、その行方の諦視されたのは幸である。靜中の動、その景致が想ひやられる。
 この歌四極山振〔四字傍点〕として後世にまで傳誦され、古今集(卷二十)大歌所御歌の部に收められてある。それに二句「うち出でて見れば」、三句「笠ゆひの」とあるは、自然に謠ひひがめられたものである。
 
磯前《いそのさき》 榜手囘行者《こぎたみゆけば》 近江海《あふみのみ》 八十之湊爾《やそのみなとに》 鵠佐波二鳴《たづさはになく》 未詳     273
 
〔釋〕 ○いそのさき 磯の出崎。作者は固有名詞として詠んだのでないが、多分は近江國坂田郡の磯前神社の附近の地であらう。訓は考によつた。舊訓はイソザキヲ〔五字傍線〕。○こぎたみゆけば 漕ぎ廻つてゆけば。「囘」はタミと訓む。そのタの頭音を明示する爲に、タの訓ある「手」を書き添へた。頭尾の添字はこの集の書式の一である。古義の「手向」の二字をタミ〔二字傍線〕と訓むとする説は採らない。玉葉集その他の訓にコギテメグレバ〔七字傍線〕とあるは非。○やそのみなと 數々の湊。卷十三に「近江の海|泊《トマリ》八十あり」とも見えて、「やそ」は多數の轉義。これを近江國犬上(698)郡の八坂《ハツサカ》村に充てる説は附曾。○たづ 「鶴」はくゞひ〔三字傍点〕即ち白鳥の事であるが、鶴の通用字。漢代既に黄鵠を黄鶴と歌つてある。この通用を以て誤とするは、支那でも後世の議論である。神本には鶴の字になつてゐる。○未詳 これは作者の未詳ではなくて、第二句の「手囘」の訓に就いての後人の爪印かと思はれる。
【歌意】 近江の湖の、磯の出崎を漕ぎ廻つてゆくと、あちこちの湊々で、鶴が盛んに鳴くわ。
 
〔評〕 磯崎は洲崎ではない。湖岸の磯崎は北部に多いが「八十の湊」とある地形上、坂田の黒崎が最もこの歌にふさはしく考へられる。その磯の出鼻を漕ぎめぐると、忽ち前面に展開する長汀短汀が隨處に灣を成して、ひたひた波の寄る處は即ち鶴の遊息場であり、附近の樹林はその安眠の床であつた。澤山の湊に澤山に鳴くとある表現は、もとより多少の誇張を含んでもゐようが、その群居し群飛する光景までが聯想される。大和人たる作者としては、その詩情を惹くに十分な興趣であることは、「近江の海」と打上げたのでもわかる。但この窮りない逸興のうちに、輕い哀愁の旅情を蔽ふものがあることは爭はれない。萬葉人はこの鶴の聲によつて、多くの旅愁を唆られたことを忘れてはならぬ。
 
吾船者《わがふねは》 枚乃湖爾《ひらのみなとに》 榜將泊《こぎはてむ》 奥部莫避《おきへなさかり》 左夜深去來《さよふけにけり》     274
 
〔釋〕 ○ひらのみなと 比良の浦のこと。近江國滋賀郡の北比良南比良の湖岸。「枚」は片《ヒラ》の義があるので充てた。「湖」は、この集の例ミナトと訓む。○おきへなさかり 沖の方へ遠離《トホザカ》る勿《ナ》。「へ」は方向を示す辭。動詞に冠(699)した「な」の禁止の辭をそ〔傍点〕と承けぬのは古格。「部」は借字。○さよ 「さ」は美稱。
【歌意】 私のこの船は比良の湊に漕ぎ着けよう。船頭よ、さう沖の方へ出てくれるなよ、もう夜が更けてしまつたわい。
 
〔評〕 作者は粟津か今の大津邊から湖上に乘り出したと思はれる。比良の湊は大津から勝野の津にわたる途中の要津で、直徑約八里の航路である。これは陸路を往つてもいゝが、船の方が日和さへ好ければ氣持もよく、殊に同行者のある場合には何かと好都合である。然るに今作者黒人の船は、思の外豫定が狂つて航行中に日が暮れ、蒼凉たる夜色のうちに、只一隻湖上に取殘されてしまつた。その心細さは船に馴れぬ殊に夜船に馴れぬ旅人の堪へられぬ處である。けれど船頭は一向そんな事には無頓着で船を遣る。ある時は岸が近く、ある時は岸が(700)遠い。然し、航路は一直線に針路を取つてゐるので、岸の近い時にはやゝ安心し、遠くなると大變な沖へ出たやうに思はれて「沖へなさかり」とその不安さに焦燥する。况や段々と夜が更けてくる。層一層恐怖が甚しくなる。とても溜つた譯のものではない。卷七の
  吾が船は明石のうらに漕ぎはてむ沖へなさかり小夜ふけにけり(―1229)
はこの歌を歌ひ換へたものである。
 
何處《いづくにか》 吾將宿《われはやどらむ》 高島乃《たかしまの》 勝野原爾《かちぬのはらに》 此日暮去者《このひくれなば》     275
 
〔釋〕 ○いづくにか 「か」の辭は訓み添へたもの。久老はイヅクニ〔四字傍線〕と四言に訓んだ。○いづく 何處《イヅコ》を古代にはかくいつた。○たかしまのかちぬのはら 近江國高島郡大溝(もと三尾《ミヲ》の郷)即ち高島津から北西方に開いた曠野の稱。
【歌意】 何處に私は宿を取らうかい、高島の勝野の原で、今日のこの日が暮れてしまふなら。
 
(701)〔評〕 黒人のこの旅行は、越前か若狹に出る目的であつたらしい。前夜比良の湊に船を捨てゝ一泊し、今朝から陸路に就いたのであらう。比良の湊から勝野までは僅々四里ほどの道程に過ぎない。が種々の事情で勝野に著いた頃はもう羊のさがり。勝野の北はいはゆる勝野の原で、今でも曠漠たる平野が續き、古への郡家の地たる田中まではまだ一里強もある。日影は漸く西に傾くが、一行の歩速は頗るにぶい。黒人一人やきもき氣を揉んでも、どうにもならない。そこで旅人の常に懷く日暮れて道遠き歎聲を洩らしたのである。「この日」と指示代名詞を用ゐたさし迫つた表現が、この際の氣分を如實に出してゐる。殊に古へは旅宿に大きな不便を感じてゐたので、人烟の稀な曠野などにかゝつては、これが全く厄介な、しかも大切な問題であつた。前程の不安は遂に「いづくにかわれは宿らむ」と叫ばざるな得なくなつたのである。
 
妹母我母《いももわれも》 一有加母《ひとつなれかも》 三河有《みかはなる》 二見自道《ふたみのみちゆ》 別不勝鶴《わかれかねつる》     276
 
〔釋〕 ○ひとつなれかも 一體であれば〔右○〕か。「か」は疑辭。「も」は歎辭。○ふたみのみちゆ 二見の道で。「二見の道」とは三河の豐橋にある道の稱で、二見は豐橋の古稱であらう。(この私考は別にある)。こゝより道は二つに分岐し、その東北に走り本坂《ホンサカ》越(三遠の國境)をして、濱名湖の北岸を濱松(曳馬野)に出るを姫街道と呼ぶ。(702)蓋し婦人は海道筋の風浪の嶮を避けて、專らこの道を取つた故の稱である。その南して高師山より、濱名湖の南邊、海の中道を濱松に出るのを海《ウミ》街道と稱し、これを本街道とする。こ「ゆ」は殆どにて〔二字傍点〕の意に近い。より〔二字傍点〕の意としては、結句の「別れかねつる」の解が迂遠になる。「ゆ」は前出(六六八頁)。○わかれかねつる 妹に〔右○〕別れかねた。二見の路から別れかねるのではない。「一」「二」「三」は殆ど戲意的と思はれる程に數目の語が疊出した。
【歌意】 家内も私も一體であるせゐかしてまあ、この三河の二見の路で、どうにも別れて去なれぬわ。
 
〔評〕 作者は遠江以東の國衙の官吏としての赴任の途上であつたらう。「三河なる」はもとより他郷人の口吻である。三河の國府からの追分路、妻君は安きに就いて姫街道にかゝるが、自分はやはり官吏の公定道路たる海道筋にかゝらねばならぬ。なまじひに夫婦一緒にこゝまで長旅をかさねて來た爲、一時的のことにしろ忽に袂を分つことは、何としても情に忍びない。二岐路に何時までも佇立して、別を惜む綢繆纏綿の情致がよく現れてゐる。かくてその別れかぬる所以を思索して、「妹も我も一つなれかも」と、唯物的の推想を尤らしく下したことは、頗る天外の奇想で、その痴呆の妙は及び難いものがある。今この二見の路で一旦手を別つたとしても、末は必ず一つに曳馬野附近で出會ふのだから、僅か二日路ほどの(703)假の別れに過ぎない。それでもなほかく歎ぜざるを得ない所以は、その對象がうら寂しい心細い旅人の慰さの唯一の伴侶であり、片時でも離れ難い最愛の妻だからである。           △二見の道考(雜考―11參照)
 
一本(に)云(ふ)、黒人(の)妻《めが》答(ふる)歌〔五字左○〕
 
○黒人妻答歌 原本「一本云」の下、闕文になつてゐる。歌は前の黒人の作の答歌だから、必ずその妻女の作である。依つてこの五字を補つた。素より後の校勘者の記入で、題詞にいふ八首の數に入らぬものである。
 
水河乃《みかはの》 二見之自道《ふたみのみちゆ》 別者《わかれなば》 吾勢毛吾毛《わがせもわれも》 獨可毛將去《ひとりかもゆかむ》
 
〔釋〕 ○みかはの 四言の句。「水」は借字。古義に「水河乃の乃は有〔右△〕の草字からの誤にて、黒人の歌にミカハナルとあるからは、ミカハノと四字に詠む理なし」とあるは、膠柱の論である。○わがせ 既出(九〇頁)。「勢毛吾毛」を古葉その他に勢文〔右△〕吾文〔右△〕とある。○ひとりかも 「か」は疑辭。
【歌意】 ほんに仰しやるとほり〔十字右○〕、この二見路で一旦お別するならば、これからは吾が夫《セ》も私も、銘々一人ぼつちで行くのでせうかまあ。心細いこと。
 
〔評〕 上句はわざと黒人の詞をそのまゝ反復して使つた。「わがせもわれも」と等分にいつてはあるが、主となる處はやはり作者自身で、婦人としての立場から、これまで經驗しない獨旅を、危惧の豫想に驅られて、憂愁に耽つてゐる。この夫唱へ婦和する黒人夫妻の蜜の如き交情は、聽者をして愈よその暫時の別離にも深い同情の(704)涙を禁めざらしめる。
 
速來而母《とくきても》 見手益物乎《みてましものを》 山背《やましろの》 高槻村《たかのつきむら》 散去奚留鴨《ちりにけるかも》     277
 
〔釋〕 ○やましろ 「山背」は山城と改めた延暦十三年以前の書法。○たかのつきむら 「たか」は山城國綴喜郡多賀村及び井手村の稱。和名妙に多河《タカノ》郷とある。「つきむら」は槻群。「村」は借字。「つきのき」を見よ(五七三頁)。舊訓タカツキノムラ〔七字傍線〕、又タカツキムラノ〔七字傍線〕は攝津の高槻村(今は高槻町)の事となつて、山|背《シロ》ではない。
【歌意】 もつと早く來て見ようものを、殘念にも山城の高の槻林は、散つてしまうたことよ。
 
〔評〕 高(多賀)にその昔槻の林立があつたと見える。槻は即ち欅で、暮秋には悉く黄葉する。殊に水村山郭などの烟霧の發つ處ではあか/\と色づいて、その美しさは楓樹に劣らぬ。
 作者は素より官人だから、さう自由の體ではない。何かの機會でふと京北五里の高の郷を訪うて、その槻群(705)に出會つた。が惜しい事に、千葉の紅黄は早くも泥土に委して、うそ寒い風が徒らに空林を渡るに過ぎない。散り立つたら待て暫しのないのが槻の落葉の特徴である。餘りの事に「とく來ても見てましものを」と、死兒の齡を敷へるに等しい愚痴を溢して、「散りにけるかも」の詠歎を永うしてゐる。
 この歌大和と山城と國こそ異なれ、遊覽の作で獨旅の意は淺い。但類を以てこゝに攝したものと思ふ。
 序にいふ「高槻の村散りにけるかも」の一訓は不完の辭句のやうだが、古代にはかうした省筆法があつて、
  山しろの久世の鷺坂神代より春は發《ハ》りつゝ秋は散りけり   (卷九−1707)  能登河の水底さへに照るまでに三笠の山は咲きにけるかも   (卷十−1861)
の類、咲き〔二字傍点〕又は散る〔二字傍点〕といへば、花が咲き紅葉が散ることに領承されたのである。只地理的に齟齬があるので、この訓は探り難い。
 以上の諸作はいづれも粒揃ひの神品佳品で、風調體挌敢へて人麻呂の覊旅作に遜らず、或は平々景を叙して悽其人に迫り、或は情景交錯して萬端の愁緒を抽出し、或は眞率相話するものゝ如く、或は蒼凉悽婉、或は典雅流麗、その變化自在を極めた大手腕には實に敬服する。作者黒人は實に本集に於ける一方の覇主として推尊すべき歌人である。
 
石川(の)女〔左△〕郎《いらつめが》歌一首
 
○石川女郎 「女」原本に少〔右△〕とある。類聚抄によつて改めた。左註に、「今案(フルニ)石川(ノ)朝臣|君子《キミコ》號(ンデ)曰(フ)2少郎子《ワカイラツコト》1」とあるは、誤文の少郎〔二字傍点〕に就いて注したもので無用。再考するに、この石川女郎は太宰(ノ)帥大伴(ノ)旅人卿の母石川命婦(706)(邑婆《オホバ》)の事であらう。この人は大納言安麻呂の妻で、息旅人の筑紫行に隨伴して來たらしい。旅人の薨後までも長命してゐた事は、本卷の挽歌の天平七年坂上郎女(旅人の妹)が詠んだ長歌の左註に「大家石川(ノ)命婦依(ツテ)2藥餌(ノ)事(ニ)1、往(ク)2有馬(ノ)温泉(ニ)1」と見えたのでも明らかである。△地圖 下の挿圖 217 を參照(七四四頁)。
 
然之海人者《しかのあまは》 軍布苅鹽燒《めかりしほやき》 無暇《いとまなみ》 髪梳乃少櫛《くしげのをぐし》 取毛不見久爾《とりもみなくに》     278
 
〔釋〕 ○しか 筑前國糟屋郡志賀村。志賀島、志賀の濱あり、博多灣口を扼する。「しか」は洲處《スカ》の義で、沙洲をいふ。「然」は借字。筑前風土記に「この島(志賀島)近く打昇《ウチノボリノ》濱と連接して殆ど同地、よつて近《チカノ》島といふ、今訛つて資※[言+可]《シカノ》島といふ」とあるは、例の地名傳説に過ぎない。打昇濱は志賀の濱のこと。○め 和布《ニギメ》、荒布《アラメ》の海藻類の總稱。「軍布」の軍は昆と相通。昆布はヒロメと訓んで若布のこと。所謂コンブではないらしい。○いとまなみ 暇がなさに。〇くしげ 櫛笥。既出(三一四頁)。(707)「梳」はケヅルの意で、ケの假字に充てた。これは契沖訓による。舊訓はツゲノヲグシヲ〔七字傍線〕。○をぐし 「を」は接頭の美稱。○とりもみなくに 手に執つても見ぬに。△挿畫 挿圖99を參照(三一四頁)。
【歌意】 志賀の海人は海藻を刈つたり、鹽を燒いたりして、暇といふものが無さに、櫛筥の櫛さへも、手に觸れても見ぬのになあ。
 
〔評〕 婦人の作らしいことは衆口の一致する處である。まして題詞の條で解説した如く石川(ノ)命婦の作となると、愈よ面白い。
 往時の海人の生活は現代ほど分業的でないから、撈漁をはじめ海藻を刈る、鹽を燒くなど、極めて多端であつた。殊にその女達は布刈、鹽燒がふさはしい仕事とされ、毎日/\波に濡れ砂に塗れて働く。何時櫛の齒を入れたとも思はれぬ蓬頭亂髪である。
 石川命婦は累世の名家大伴家の大母(邑婆)で、太宰の長官たる旅人卿を御子息にもつた貴婦人中の貴婦人である。一日宰府から出遊して志賀の長濱、志賀の島の勝を訪ひ、始めて下賤なる海人の生活に接して、物珍しくその眼を瞠つた。命婦は勿論老年ではあるけれど高貴のこととて、日髪日化粧の、揃笥の小櫛を手から放さぬお方である。始めこそ全然懸け違つたこの同性者達の状態に奇異を感じたらうが、普通婦人の身嗜とする櫛梳さへえせぬ生活に追はれる見じめさ、一旦そこに想ひ到ると、同情の聲を放たざるを得なくなつたのである。「志賀の海人は」は他の一般婦人に對しての揚言である。
 「布刈り鹽燒き」の漸層的表現は、その促調と共に「いとまなみ」に力強い根柢を與へてゐる。四句の「櫛笥(708)の少櫛」の疊言も、二句の漸層に對應して面白い。但それらは細節のことで、全體に格調が高渾で、而も深い感愴に滿たされてゐる。
 
右今案(フルニ)、石川(ノ)朝臣|君子《キミコ》、號(ンデ)曰(フ)2少郎子《ワカイラツコト》1也。
 
この今案の從ひ難いことは、題詞の條に説明した。
 
高市(の)連黒人(の)歌二首
 
吾妹兒二《わぎもこに》 猪名野者令見都《ゐなぬはみせつ》 名次山《なすぎやま》 角松原《つぬのまつばら》 何時可將示《いつかしめさむ》     279
 
〔釋〕 ○ゐなぬ 攝津國武庫郡。古への川邊豐島二郡にわたつた野の稱。猪名川その間を流れ、北に猪名山があり、南に猪名の湊があつた。○なすぎやま 武庫郡。廣田神社の西の岡陵。○つぬのまつばら 武庫郡今津村に津門《ツト》の名がある。その津に接續した野に津野《ツヌ》の稱が與へられたのであらう。「角」は借字。
【歌意】 かねて妻に見せたいと思つて居た、猪名野はもう見せた。まだこの行先の面白い名次山や角の松原は、何時まあ見せてやれようことか。
 
(709)〔評〕 この歌の樣式は、
  あがほりし野鳥はみせつ底深きあこねのうらの珠ぞひりはぬ   (卷一―12)
と同型であるが、あれは作者自身だけの風流韻事で、これは愛他的の情味を主としてゐる。妻君に未見の地を案内して喜ばせようとする、然も一つ見せてもまだ物足らぬ、どうかしてより以上にその滿足を買はうとする努力に、限りない温情が籠つて嬉しい。殊に「示さむ」の一語に丁寧親切な氣持が表現されて居る。猪名野も名次山角の松原も、作者が曾遊の際、尤も心の惹かれた形勝の地であることが、かく歌はれた所以である。既に作者が曾遊の地といつた。かく猪名野附近に陸路の旅を取る事は、作者が中國筋の地方官として赴任してゐたのではあるまいか。もつと遠方なら海路につくのが當時は至當であつた。作者の官等は高くないと見られるから、朝集使或は他の臨時の公用で上京し、歸國には妻を伴うたその折の詠作と見たい。
 又いふ、猪名野から名次、角の道順は、古への攝津街道で、而もその下向道である事を示してゐる。これに就いては下出「むこのとまり」(七一四頁)を參照ありたい。
 
去來兒等《いざこども》 倭部早《やまとへはやく》 白菅乃《しらすげの》 眞野乃榛原《まぬのはりはら》 手折而將歸《たをりてゆかむ》     280
 
(710)〔釋〕 ○こども こゝの兒は婦人をさした稱で、「ども」と複數にはいつてあるが、妻君をのみ呼んだものと思はれる。○やまとへはやく の下、往かむ〔三字右○〕を略いた。この「やまと」は都をさした。既出(二〇頁)。○しらすげの 序詞で、白菅の生ふる〔三字右○〕眞野といふべきを早くいつた。「白菅」は莎草科の草本で水邊濕地に自生する、莖葉蚊屋釣草の如く、淡緑色にて稍白色を帶ぶ。夏莖上に穗を抽き、上部に雄花を立て下部に雌花を垂れる。○まぬ 攝津國八田部郡眞野。今の紳戸市内といふ。○はりはら 萩原。「榛」は借字。既出(二二一頁)。
【歌意】 さあ女房ども、いゝ加減にして早く京へ急がうぜ、でこの面白い眞野の萩原の花は、手折つて、持つて往かうよ。
 
〔評〕 任國から妻君を帶同して、歸京の途上にある作者であつた。忙しい旅の道行ずりにも、眞野の萩原の秋色の面白さはまた格別で、妻君なか/\その御神輿を擧げない。乃ち「倭へ早く」と催促して、その歸思を驚したのである。さりとて萩原に對しての愛着は決して妻君に劣るものではない。「手折りてゆかむ」が即ちそれで、風流情味の饒かな作である。
 「萩原手折りて」は頗る疎宕な辭法で、この類例は集中に多い。後世毛を吹いて庇を求むる習慣から、修辭が微々細々を極め、大まかで味のあるものがなくなつた。「白菅」の序詞は實在の萩原と混線を招ぎ易くて面白くないが、古代にはさのみ嫌はなかつた。
 又いふ「榛原」は必ず萩原であらねばならぬ事は、この歌の趣でも證明される。假令榛の木の皮や實が染料になるからとて、榛の林など何處に立去りかねる程の風情があり、手折つてゆく程の愛賞價値があるか。
(711) この歌と上の歌とは同時の作でない。
 
黒人(の)妻《めの》答(ふる)歌一首
 
白菅乃《しらすげの》 眞野之榛原《まぬのはりはら》 往左來左《ゆくさくさ》 君社見良目《きみこそみらめ》 眞野之榛原《まぬのはりはら》     281
 
〔釋〕 ○ゆくさくさ 往きしな歸りしな。「さ」は接尾辭でシタの約。古言に時、折、場合などの意を、シタ又はサタともいふ。俗のシナ〔二字傍点〕はこの轉語。
【歌意】 この面白い眞野の萩原を、任國へ往來の都度、貴君樣こそ度々御覽にもなりませう。私は女の事でまたとも見られますまいから、さうお急ぎなさいますなよ。
 
〔評〕 黒人が「倭へ早く」と行先を急ぐと、「貴方こそ厭になる程御覽でせうが」といひさして、拗ねたやうな口吻には、えいはぬ味ひがある。力強い「こそ」の辭から生ずる半面の情意は、婦人の境涯として又と愛賞の機會のない事を辭柄に、飽くまで萩原に深い愛着を示してゐる。かやうに言外の餘意を遺した手法は、含蓄を強要される感じも起るが、やはり面白い。咄嗟の應酬として實に達者なものである。卷七の覊旅の歌に、
  いにしへにありけむ人のもとめつゝ衣に摺りけむ眞野のはり原   (―1166)
昔から餘程聞えた萩の名所であつたと見え、黒人夫妻の唱和もこれがその素地を成してゐるものと思ふ。二句を結句に反復したのは古調の常套。
 作者黒人は頗るの愛妻家であつたと考へられる。地方官がその赴任歸任に妻子を携へることは通例である(712)が、只その諷詠に現れた膠漆の情味に至つては一方ならぬものがある。上の「妹もわれも一つなれかも」の如く、「我妹子に猪名野は見せつ」の如きを見れば、何人もこの認定に異議を唱ふる者はあるまい。妻君亦夫君と趣味を同じうした歌人で、琴瑟相和する點は、餘所目にも羨ましい。
 
春日藏首老《かすがのくらびとおゆの》歌一首
 
○春日藏首老 既出(二三一頁)。
 
角障經《つぬさはふ》 石村毛不過《いはれもすぎず》 泊瀬山《はつせやま》 何時毛將超《いつかもこえむ》 夜者深去通都《よはふけにつつ》     282
 
〔釋〕 ○つぬさはふ 石にかゝる枕詞。既出(三九九頁)。○いはれ 磐余。大和十市郡。香具山の北、安倍《アベ》の西方に當る。「村」は群の借字で、石群《イハムレ》の語の轉じてイハレとなつたのに充てたもの。景行天皇紀に「豐村」をフヽレと訓じてある。これもフムレの轉語と思はれる。或はムレは韓語の混入か。○はつせやま 「はつせの山」を見よ(一七七頁)。○ふけにつつ 「に」は去《イ》にの動詞の上略。現在完了の助動辭のニ〔傍点〕も、その語源はおなじであるが、動詞と助動詞とにその語性が別れてゐる。
【歌意】 この分では初瀬山は何時越えられうことか、まだ磐余村も過ぎぬうちに、夜は更けに更けてしまつてさ。
 
(713)〔評〕 作者が僧の辨基から春日老と還俗したのは大寶元年だから、この歌は藤原宮時代の作と見る。藤原の地から出發して磐余あたりで夜が深けるといふのは、隨分遲い門出である。何かの事情で出發が遲れたので、こんな處でかうも更けてはと、深く前程を氣遣うて、やきもき氣を揉んだものである。餘程の急用を抱へた旅人のあわたゞしい、而も不安な氣分がよく出てゐる。初瀬の山越はその道中に於ける最難路であるので、目標として取扱はれた。
 さてこの初瀬山は何處を斥したものか。初瀬南部の朝倉丘陵か、それとも榛原道の普通いふ初瀬山か、いづれとも判明しないのは殘念である。
 「過ぎず」は三四の句を隔てゝ結句の「夜は更けにつつ」へかかる。かうした變つた叙法を取つたことは、五七の格調を守つた結果である。
 
高市(の)連黒人(が)歌一首
 
墨吉乃《すみのえの》 得名津爾立而《えなつにたちて》 見渡者《みわたせば》 六兒乃泊從《むこのとまりゆ》 出流船人《いづるふなびと》     283
 
(714)〔釋〕 ○えなつ 江の〔傍点〕津の轉。即ち住の江の津のこと。和名抄には榎《エノ》津とある。住吉郡墨江村|安立《アリウ》町(今大阪市住吉區)の線で、昔は住吉の海灣を形成してゐたのである。○むこのとまり 攝津武庫郡武庫の湊。今の西宮より津門《ツト》、廣田、瓦林、富松、長洲、尼ケ崎の線が、古への海岸線で、その灣の西南端に武庫の泊があり、その奥區に猪名の湊があつた。「泊」は船どまり。△地圖 挿圖78を參照(二四一頁)。
【歌意】 住吉の攝津の岸に立つて、海上を見渡すと、あれ/\あの武庫の泊から、船頭が漕ぎ出したわ。
 
〔評〕 平淡な叙景、この種の體製は集中に充滿してゐる。けれども住吉の榎津と武庫の泊とに擁せられた一大海灣に、一葉舟の遙に點在する外は何物もなく、而もその葉舟が靜中の動致を表してゐる光景は惡くない。勿論榎津の里人なら見馴れて何でもない景色であらうが、作者は海のない大和の國人である。で物珍しさうに眺めて、「住の江のえな津に立ちて」と、先づ一番に地理的叙述を取つた。遊覽の作自然かうあるべきである。但嚴しくいふと、住吉の榎津からは、武庫の泊を出る小舟などは、遠過ぎてわかる筈がない。蓋し武庫の泊は對岸での著名な錨地である處から、たま/\海上遙に現じてきた舟影を見て、大まかに湊合したもので、そこに詩人の幻化手段を見る。
 
春日(の)藏首老(が)歌一首
    
燒津邊《やきつへ》 吾去鹿齒《わがゆきしかば》 駿河奈流《するがなる》 阿倍乃市道爾《あべのいちぢに》 相之兒等羽裳《あひしこらはも》     284
 
(715)〔釋〕 ○やきつへ 四言の句。「やきつ」は駿河國益頭郡(今の志太郡燒津)。「へ」は指示代名詞。古葉その他契沖眞淵の訓にはヤキヅヘニ〔五字傍線〕とニを訓み添へた。○ゆきしかば、往きければといふに同じい。この詞形は集中のなほ散見する。○するがなる 駿河にある。「するが」は後出(七七一頁)。○あべのいちぢに 「あべ」は駿河國安倍郡の安倍。當時國府の所在地で、今の靜岡の地に當る。「いちぢ」は市の道。こゝは市に向ふ道ではない。「に」はにて〔二字傍点〕の意。○あひし 會つたことであつた。○こら 若い女の呼稱。既出(五八八頁)。○はも 名詞に附屬する歎辭。餘意は場合によつて適當に釋する。委しくいへば、この「は」は名詞を提擧する助辭だから、隨つて「も」の歎辭の下に説明語を含む格である。古義の解は膠柱の説である。
【歌意】 燒津へ私が出掛けた爲、その折駿河の安倍の市路で出會つた、あの兒はまあ。今に忘られない。
 
〔評〕 國府の所在地は即ち貨物聚散地で、いろ/\な市が立つ。その市へ買物に人が澤山集まる。それは而も婦人が多い。この歌の趣によると、國府附近の燒津街道に市は立つたらしい。何の所用かわからぬが、作者は燒津行の途中阿倍の市路で、物買に出かけた衣被きか何かの美人を見掛けたのである。それが伺處の女とも知れぬ、娘とも人妻ともわからぬのに、今にその俤が幻にはつきりと映る。こんな馬鹿げた便りないはかない戀はありはしない。それを「逢ひし兒らはも」と、何等の感想も批評も挿まず詠歎の態度を取つたことが、頗る餘(716)情おほく味ひの永い所以である。そして下には聊か自嘲の心持が動いてゐるやうである。
 「駿河なる」はもとより他郷人の立場から出た語とは思はれるが、燒津も亦駿河の國内だから、阿倍にのみこの語を冠するのは、偏頗になつて面白くない。尤もこれは駿河を國號としての論である。或は駿河の稱はもと安倍郡地方に限局して使はれてゐたものが、後に全部の國稱と擴がつたもので、當時廣狹二樣の稱呼が存在してゐたのではあるまいか。 
丹比《たじひの》眞人《まひと》笠《かさ》麻呂(が)往(き)2紀伊(の)國(に)1超(ゆる)2勢能《せの》山(を)1時(に)作歌一首
 
○丹比眞人笠麻呂 傳は未詳。尚「丹比眞人」を見よ(六〇九頁)。○勢能山 背《セ》の山のこと。既出(一四一頁)。  △地圖及寫眞 挿圖 46(一四三頁)45(一四二頁)を參照。
 
栲領巾乃《たくひれの》 栲卷慾寸《かけまくほしき》 妹名乎《いものなを》 此勢能山爾《このせのやまに》 懸者奈何將有《かけばいかにあらむ》     285
  一云、可倍波伊香爾安良牟《カヘバイカニアラム》。
 
〔釋〕 ○たくひれの 「かけ」に係る枕詞。「たく」は又タへといふ。「しろたへ」を見よ(一一八頁)。「ひれ」は領巾の字義どほり、上代の婦人が襟へ懸けて前方に垂れた布帛である。故に「懸けまく」といひ續けた。○かけまくほしき 懸け合せていひたい。枕詞に懸卷毛畏伎《カケマクモカシコキ》とある。既出(五三〇頁)。○いものな 妹といふ稱。イモガ〔三字傍線〕の訓は當らない。○かけばいかにあらむ 「かけ」の語が重複して面白くない。左註に擧げた「かへばいかにあらむ」がよい。取換へたらどうあらうの意○。久老は左註を結句の一傳とせずして、結句の反復と見た。これは(717)佛足石の歌體と見たものであらうが、疑問である。△挿畫 挿圖 158を參照(五七五頁)。
【歌意】 何時も自分に懸け合せたい妹といふ名を、この背の山にもたせて、妹の山と呼び換へようなら、どんなであらう。定めし旅心地も慰まうに。
 
〔評〕 背の山は當時の畿内の南限で、全く紀州行の第一歩を印したに過ぎない。が圖らずその山の名が、相對的に家にある最愛の妹を聯想させ、爲に入らぬ旅愁を釀させられたのである。依つて山の名が妹山と代つたらどんなものかと、一寸空想を描いて、自分自身に疑問を投げかけた。それは定めし旅情も慰むことであらうの答案が、初めからちやんと胸の中に出來て居ての事である。或考に、この歌はまだ妹山の稱なかりし證とすべしとあるは即斷の誤で、作者は左右顧眄の猶豫なしに、當面の背の山に對しての感想を歌つたものだ。
 
春日(の)藏首老(が)即(ち)和(ふる)歌一首
 
宜奈倍《よろしなべ》 吾背乃君之《わがせのきみが》 負來爾之《おひきにし》 此勢能山乎《このせのやまを》 妹者不喚《いもとはよばじ》     286
 
〔釋〕 ○よろしなべ 宜しきにつけて。「なべ」は竝の意。○わがせ 「せ」は兄の意。前出(六九〇頁)。○きみが 舊訓キミノ〔三字傍線〕。
【歌意】 至極結構な爲に、從來わが兄《セ》の貴方が負ひ持つて來た、その背といふ名の山を、今更いひ換へて、妹山と私は決して呼ぶまいよ。
 
(718)〔評〕 例の應酬の作、掛歌の意を水火に取成した常型の小理窟である。尤もそれが笠麻呂を慰藉する友情のあらはれからであるので、そこにわづかに感激の流が潜んでゐる。この二人の紀州行、歌人だけに、他に面白い作も多くあつたらうと思ふに。
 
幸〔左△〕《いでませる》2志賀〔二字左△〕(に)1之時、石上卿《いそのかみのまへつぎみの》作歌一首 名闕
 
○幸志賀之時 この五字は削るべきである。次の歌の左註に「右今案(フルニ)不v審(ニセ)2幸行(ノ)年月(ヲ)1」と記したのもその筈、全然行幸には無關係の歌で、この石上卿及び次の穗積朝臣老の歌の内容を檢討すると、いづれも邊地流謫の途上に於ける感懷である事は分明である。○石上卿 石上家は累世の名家で、卿と敬稱すべき人は多いが、流罪になつたのは石上朝臣乙麻呂一人である。故にこの歌を乙麻呂の作と斷ずる。流人に卿はいかゞであるが、後に赦に遇つて復職、遂に上達部になつたので、かく書いた。卷六にも「石上乙麻呂卿配2土佐國1之時歌」とある。○石上朝臣乙麻呂 左大臣麻呂の子。續紀によれば、神龜元年二月正六位下より從五位下、天平十年從四位下左大辨、同十一年三月久米(ノ)連《ムラジ》若賣《ワクメ》に奸け土佐に流罪、同十三年九月の大赦には洩れたが、召還前位に復されたらしい。同十五年五月從四位上、同十六年西海道巡察使、同十八年治部卿常陸守、正四位下右大辨、同廿二年從三位、勝寶元年中務卿、中納言となり、同二年九月現職で薨じた。〔頭注に石上朝臣乙麻呂土佐配流の時の漢詩あり、省略、入力者注〕
 
此間爲而《ここにして》 家八方何處《いへやもいづく》 白雲乃《しらくもの》 棚引山乎《たなびくやまを》 超而來二家里《こえてきにけり》     287
 
(719)〔釋〕 ここにして 此處に在りてと同意。下に、見れば〔三字右○〕を補うて聞く。○やも 「や」は疑辭。○いづく この語の下、なるの助動詞を略いた。舊訓イヅコ〔三字傍線〕。
【歌意】 此處で以て見ると、懷かしい奈良の故郷の家は何處だかなあ。自分は遙にも、あの白雲のかゝつた山を、打越して來たことではあるわい。
 
〔評〕 續紀天平十一年三月の條に、
   石上朝臣乙麻呂坐(シテ)v奸(スニ)2久米(ノ)連《ムラジ》若賣《ワクメ》1配2流《ナガサレ》土佐(ノ)國(ニ)1、若賣(ハ)配2流(サル)下總(ノ)國(ニ)1。
と見え、作者は女難によつて、官位を捧に振つて土佐への流人となつた。奈良京から難波までは陸路、それから土佐までは海路である。「ここにして」の此處は何處であつたか判然しないが、多分難波を解纜してから相當の距離を來た、或地點に於いての囘顧であらう。
 遙に故郷の天を瞻望すると、白雲搖曳して生駒連山の翠を出頭没頭させてゐる。その連山の一端立田山は今囘の旅行に踏破した處である。これ「白雲の棚引く山を越えて來にけり」といふ所以で、間接に故郷の遠放つたことを暗示してゐる。となると層一層に郷思は湧き立つて、「家やもいづく」と絶叫せざるを得なくなつた。蓋し流謫の身はその歸期は何時と測られないからである。
 「ここ」と「家」との對照が望郷の念を強め、「家やもいづく」の疑問が、いかにも便りないさし迫つた心持を深く印象させる。そして多數音少數音の倒置が、その歇後の辭樣と相侯つて、こゝの調子を如實に出してゐる。遠征に家郷を憶ふことは頗る平凡の感懷であるが、特に下句の表現が婉味を帶びてゐるので、縹渺たる情(720)緒を漂はせてゐる。
  こゝにありて筑紫やいづく白雲のたなびく山の方にしあるらし(卷四、大伴卿―574)これは天平三年以前の作で先出になるが、感哀はこの歌の方が深げである。
 
穗積《ほづみの》朝臣|老《おゆが》歌一首
 
○穗積朝臣老 續紀によれば、大寶三年正月正八位、和銅三年正月左副將軍從五位下、養老元年三月正五位下、同六年正月正五位上であつたが、乘輿を指斥したかどで斬罪になる處を、皇太子の奏によつて死一等を減じ、佐渡に流され、天平十二年六月に召還された。その時前位に復されたらしい。同十六年二月正五位上で、恭仁《クニノ》宮(ノ)留守を命ぜら